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2017/01/17

北條九代記 卷第十一 蒙古襲來付神風賊船を破る

 

鎌倉 北條九代記卷第十一

 

      ○蒙古襲來神風賊船を破る

 

弘安四年正月、蒙古大元の軍艦、阿刺罕(あしかん)、范文虎(はんぶんこ)、忻都(きんと)、洪茶丘(こうさきう)、十萬人を率して、兵船六萬艘に取乘(とりの)り、纜(ともづな)を解きて海に浮ぶ。阿刺罕は船中にして病に罹り、范文虎等(ら)、軍(いくさ)評定、區々(まちまち)なりければ、軍法令命(れいめい)一決し難し。同七月に蒙古の兵船(ひやうせん)、既に日本の平壺島(ひらどしま)に著きて、人數の手分(てわけ)を相(あひ)定め、其よりして五龍山(ごりうさん)に推移(おしうつ)る。日本にも豫(かね)て用意せし事なれば、筑紫九州の武士等(ら)、是を待掛(まちかけ)けて、蒙古を陸地(くがち)に上立(あげたて)じと、海岸に柵(さく)を振(ふ)り、その上に櫓(やぐら)、搔楯(かいだて)、隙(ひま)なく搔竝(かきなら)べ、鏃(やじり)を揃へて射(い)出しければ、蒙古の舟には掛金(かけがね)を掛けて組合(くみあは)せ、其上に板を敷きたれば、海上、宛然(さながら)、陸地(くがち)になり、馬を走(はしらか)して危(あやふ)からず、鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)るに、櫓に燃付(もえつ)き、搔楯(かいだて)、燒上る。是を打消すに遑(いとま)なく、迸(ほとばし)る焰(ほのほ)に手足を燒かれ、日本の軍兵、是に僻易し、中々厭(あぐ)みてぞ覺えける。蒙古、勝(かつ)に乘(のつ)て、一同に攻掛(せめかゝ)る。打(うた)るれども顧(かへりみ)ず、倒(たふ)るれども引退(ひきの)けず。乘越(のりこえ)々々飽(いや)が上に、詰掛(つめか)けたり。日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて、菊池、原田、松浦黨(まつらたう)、手負ひ討たる〻者、數知らず。此由、京都に告げたりければ、兩六波羅、初(はじめ)て加勢の軍兵を指下(さしくだ)すべき評定あり。禁裡、仙洞には大に驚かせ給ひ、諸寺、諸山に仰せて大法(だいほふ)を執行(とりおこな)ひ、護摩の煙(けぶ)り立休(たちやす)む隙なく、振鈴(しんれい)の音、響(ひゞき)の絶(たゆ)る時なし。伊勢、石淸水(いはしみづ)、賀茂、春日、平野、松尾を初て、二十一社の御神は申すに及ばず、小社、禿倉(ほこら)に至るまで、諸方の神社に勅使を立てられ、奉幣祈願に叡信を傾(かたぶ)けられ、宸禁(しんきん)、更に安からず。斯る所に、諸社の神殿或は鳴動し、神馬(しんめ)に汗を綴(つゞ)るもあり。或は瑞籬(みづがき)の本より神鹿(しんろく)掛出でて、雲路(くもぢ)を分けて入(い)るもあり。或は寶殿(はうでん)の御戸(みと)、開(ひら)けて、白雲(しらくも)靉靆(たなび)き、虛空(こくう)の間に亙(わた)るもあり。或は末社の扉(とびら)の内より、白羽(しらは)の矢の出づるもあり。その神々の使者と云ふもの、狗(いぬ)、庭鳥の親(たぐひ)まで、皆、悉く西に向ひ、諸神、各(おのおの)鎭西(ちんぜい)の方に赴き給ふ。粧(よそほひ)は歷然として疑(うたがひ)なし。宜禰(きね)が鼓(つゞみ)の音、少女(をとめ)の舞の袖、鈴(すゞ)の聲に相(あひ)和して、 如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじと賴(たのも)しくこそ思ひけれ。斯(かく)て八月一日の午刻(うまのこく)計(ばかり)に、俄(にはか)に大風吹起(ふきおこ)り、大木(たいぼく)を掘(ねこぎ)にし、岩石(がんせき)を飛(とば)せ、海中、怒浪(ぬらう)を揚げしかば、蒙古數萬艘(すまんぞう)の舟共(ども)、組合(くみあはせ)たる掛金、一同に斷離(ちぎ)れて、右往左往に吹亂(ふきみだ)れ、岩に當り浪に打(うた)れ、皆、悉く沈みければ、異國十萬人の軍勢、底(そこ)の水屑(みづく)となりて、僅(わづか)に三萬人、張百戸(ちやうびやくこ)といふ者を首魁(しゆくわい)とし、博多の浦に漂ひける所を、同七日に日本の軍兵、押掛(おしか〻)り、一人も殘らず打殺(うちころ)す。その中に干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)とて、三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける。是(これ)、偏(ひとへ)に本朝三千七百餘杜の靈神(れいじん)の擁護(おうご)に依て、不日(ふじつ)に異賊を退治し給ふ、神力(しんりき)の程こそ有難けれとて、上(かみ)は主上を初め奉り、仙院、攝家より、京、鎌倉の貴賤上下、頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、この神德をぞ仰がれける。宇都宮貞綱は、六波羅の仰(おほせ)に依て大將を承り、中國の勢を集めて、筑紫に赴きける所に、備後(びんご)にして、蒙古、既に討亡(うちほろぼ)されぬと聞えしかども、貞綱は押(おし)て九州に下りて、彌(いよいよ)異賊襲來の備(そなへ)を致し、其より京都に凱陣(がいぢん)す。世は末代と云ひながら、日月、未だ地に落ち給はず。本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)とて、伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる。その外、諸神(しよじん)勳一等の賞を行はる。我が國の古(いにしへ)より伊勢の神風(かみかぜ)や吹き治まれる世の例(ためし)、久方の天津空(あまつそら)、新金(あらかね)の國津巖(くについはほ)の動(うごき)なき御代こそ目出度けれ。

 

[やぶちゃん注:弘安四(一二八一)年の弘安の役のシークエンス。ウィキの「元寇」の「弘安の役」によれば、元・高麗軍を主力とした東路軍は総勢約四万から五万七千人に軍船数九百艘、それに旧南宋軍を主力とした江南軍約十万人及び江南軍水夫(人数不詳)に軍船三千五百艘で、両軍の合計は約十四万から~十五万七千人(プラス人員不詳の江南軍水夫)と軍船四千四百艘もの軍が日本に向けて出撃した。『日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった』とさえある。「弘安四年正月」とあるが、現在は東路軍の朝鮮半島の合浦(がっぽ)からの出航は五月三日(その内訳は東征都元帥ヒンドゥ(忻都)・洪茶丘率いるモンゴル人・漢人などから成る蒙古・漢軍三万と征日本都元帥金方慶率いる高麗軍約一万)であった。

 同軍は十八日後の五月二十一日に対馬沖に到着、対馬の大明浦に上陸したが、『日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死し』ている。

 次いで、五月二十六日には壱岐を襲った(『なお、東路軍は壱岐』『に向かう途中、暴風雨に遭遇』、兵士百十三人、水夫三十六人の『行方不明者を出』している)。その後、『東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来』しているらしい。

 六月上旬、『対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側はすでに防衛体制を整えており、博多湾岸に』約二十キロメートルにも『及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念』、六月六日、『陸繋島である志賀島』(しかのしま:現在の福岡県福岡市東区にある島。博多湾の北部にあって海の中道と陸続き)『に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした』ものの、六月九日の戦闘でも敗戦を重ね、『東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つこと』となった。

 『ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である』六月十五日を過ぎても現れず、『さらに東路軍内で疫病が蔓延して』三千余人もの『死者を出すなどして進退極まった』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」』『と漢詩に詠んでいる』とある。ここに至って『戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した』が、結局、『江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った』。

 『一方、江南軍は、当初の作戦計画と異なって東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した』。『江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである』。この江南軍は六月下旬に出撃(慶元(寧波)・定海等)江南軍の主力部隊は七昼夜かけて平戸島と鷹島に到着、『平戸島に上陸した都元帥・張禧率いる』四千人の『軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた』。

 一方、日本軍は六月二十九日、『壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始』、七月二日、『肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された』『龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦』した。

 『壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と』、『江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより』『壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している』。

 七月中下旬、『平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢』四千人に『守らせ』つつ、『鷹島へと主力を移動させた』が、これは『新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画』『を実行に移すための行動と思われる』。ここでようやく『東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了』している。

 七月二十七日、『鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げてい』る。

 元軍はここまでの戦闘により、『招討使・クドゥハス(忽都哈思)が戦死するなどの損害を出していた』。『そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止し』てしまう。また、「張氏墓誌銘」によると、『鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことができない状況だったと』もいう。

 『一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる』六万余騎と『もいわれる大軍が北九州の戦場目指して進軍中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった』(これは本章でも語られている)。『さらに幕府は、同年』六月二十八日には、九州及び『中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の』四ヶ国に於ける『幕府の権限の直接及ばない荘園領主が治める荘園領の年貢を兵粮米として徴収することを朝廷に申し入れ、さらなる戦時動員体制を敷い』ていた。

 ところが七月三十日の夜半、台風が襲来、『元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被』るという事態が出来した。これは『東路軍が日本を目指して出航してから』約三ヶ月後、博多湾に侵攻して戦闘が始まってから約二ヶ月後のことであった。「張氏墓誌銘」によれば、『台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという』。また、元朝の文人周密の「癸辛雑識」によると、『元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け』、約四千隻の『軍船のうち残存艦船は』、たった二百隻であったとも言う。但し、『江淮戦艦数百艘や諸将によっては台風の被害を免れており、また、東路軍の高麗船』九百艘の『台風による損害も軽微であったことから』、「癸辛雑識」の『残存艦船』二百というのは『誇張である可能性もある』とある。事実、『東路軍も台風により損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった』。『その理由を弘安の役から』十一年後の『第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者が、クビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」』『と発言しており、高麗で造船された戦艦に比べて、江南船は脆弱であったとしている。また、元朝の官吏・王惲もまた「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師(軍)を西還す」』『と述べており、高麗船が頑丈だったことが分かる。それを裏付けるように、捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と東路軍水夫の生還者は』七割を超えていたという。

 閏七月五日、『江南軍総司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するか』という軍議があり、そこで張禧が『「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」』と続行論を唱えたものの、范文虎は『「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」』と述べ、『結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした』。『その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒』十余万を『見捨てて逃亡した』。『平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬』七十頭を『降ろして、これを平戸島に棄てると』、その代わりに軍勢四千人を『軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった』 という。『この時の元軍諸将の逃亡の様子』は、「蒙古襲来絵詞」の閏七月五日の『記事の肥前国御家人・某の言葉』として『「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」と』記している。

 この後、諸将に見捨てられた兵士たちが日本軍によって掃討された。

 閏七月五日、『日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始』、午後六時頃、『御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け』、『筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船』三艘の内の大船一艘を追い掛け、『乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵と共に海中に没した』。『また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した』。『日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃し』ている。

 『御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍』十余万と『鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した』。『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した。しかし閏七月七日、『日本軍は鷹島への総攻撃を開始』、『文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した』。『上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を』二人『生け捕るなどした』。『また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦』、活躍している。『一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払っ』ている。『これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により』十余万の『元軍は壊滅』、日本軍は二万〜三万人の『元の兵士を捕虜とした』。『現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、』十万の『江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」』『と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」』『とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」』『と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している』。「元史」によると、「十万の『衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の』三人のみで『あったという』。他方、「高麗史」では、『鷹島に取り残された江南軍の管軍捴把・沈聰ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる』。『南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる』。「辛巳六月の『半ば、元賊は四明より海に出る』。大舩七千隻、七月半ば頃、『倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日』『に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか』四百餘隻のみ廻る。二十万人は『白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」』とある。『戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた』のであった。

 

 以下、本文語注に移る。

 

「阿刺罕(あしかん)」元の司令官(日本行省右丞相)の名。現行では原音に近い「アラハン」で読まれている。但し、本文に出るように彼は途中で急病を発し、阿塔海(アタハイ)が交代している。

「范文虎」(?~一三〇一年)は南宋や元に仕えた政治家・軍人。南宋の宰相賈似道の娘婿であった。ウィキの「范文虎」によれば、『当初は南宋の武将として夏貴とともに、元と対峙する戦争に従事していた』が『その後、元に投降した(間もなく岳父の賈似道は福建に左遷され、亡父に関して恨みがあった鄭虎臣によって殺害された)』。弘安の役では先に示した通り、台風が襲来、波状的な日本軍の攻撃に『慌てた范文虎は生き残った手勢を見捨てて、わずかの腹心とともに逸早く帰国した』。帰国後、一二八四年に『中書左丞を経て、枢密院事を歴任した』が、『クビライの逝去を経て』、一三〇一年になって、『生き残って帰還することができたわずかの将兵が、自分たちを放置して勝手に帰還した范文虎をはじめ、将校の厲徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を告訴した。このことを耳にしたクビライの孫の成宗(テムル)は激怒し、皇后ブルガンとともに徹底的な調査を厳命させた揚句に、范文虎らが白状したため、范文虎は妻の賈氏と側室の陳氏をはじめ家族とともに斬首に処された。同時に厲徳彪、王国佐、陸文政らも自分たちだけではなく、一家も皆殺しの刑に処された』。

「忻都(きんと)」(生没年不詳)は元のモンゴル人武将。日本行省右丞。名前の原音は「ヒンドゥー」が近いという。暴風後は辛うじて高麗へ逃れている。

「洪茶丘(こうさきう)」既出既注。

「平壺島(ひらどしま)」現在の長崎県北部の北松浦半島の西海上にある平戸島。平戸市内。平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された水軍松浦党(まつらとう)の根拠地として知られる。

「五龍山(ごりうさん)」九州北西部の伊万里湾口にある長崎県松浦市に所属する鷹島のこと。

「陸地(くがち)に上立(あえたて)じ」上陸させまい。

「搔楯(かいだて)」「かきだて」の転訛。原義は垣根のように楯を立て並べることであるが、特にここでは小形の持ち楯(手楯)に対して、大形の楯(厚板二枚を縦に並べて接(は)ぎ、表には紋を描いて裏に支柱をつけて地面に立てるようにしたもの)を指す。それをバリケードのようにみっちりと立てたのである。

「鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)る」ウィキの「元寇」の「てつはう」によれば、『正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で』直径一六~二〇センチメートル、総重量は四~一〇キログラム(約六〇%が容器の重量で残りが火薬)。二〇〇一年に長崎県の鷹島の海底から「てつはう」の実物が二つほど『発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径』四センチメートルの孔が空いた直径一四センチメートルの素焼物の容器で重さは約四キログラムあった。『なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は』約四キログラムもあり、手投げする場合、腕力があるもので二二〇~三〇メートルしか『飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている』。『「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石機がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い』一・二キログラムの弾を八〇メートル飛ばすのに四十一人(一人は指揮官)も要した。従って、組立式にし、『日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている』とある。リンク先に弾丸の実物写真がある。

「是を打消すに遑(いとま)なく」教育社の増淵勝一氏の訳ではその理由として『(次ぎ次ぎと打ちこまれて来るので)』という補助訳を添えておられる。

「乘越(のりこえ)々々」元軍の兵士たちが同胞の遺体を踏み越えて攻めてくるのである。

「日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて」「軍旗色(いくさはたいろ)」で一語。日本軍の旗色が悪くなって。

「菊池」菊池一族。本姓藤原氏を称し、九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を本拠としていた。文永・弘安の役では第十代当主菊池武房(寛元三(一二四五)年~弘安八(一二八五)年)の活躍が「蒙古襲来絵詞」にも描かれている。

「原田」建長元(一二四九)年、原田種継・種頼父子が現在の福岡県糸島市にあった日本の古代の山城土(いと)城の遺構を利用して高祖山に高祖城を築城、元寇の際はその直系の種照・種房兄弟が奮戦している。

「禁裡」後宇多天皇。

「仙洞」後深草上皇と亀山上皇。

「大法(だいほふ)」戦勝祈願の修法(ずほう)。

「平野」二十二社(国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた神社)の一社である、現在の京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。

「松尾」同じく二十二社の一社である、現在の京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。

「禿倉(ほこら)」石製の禿倉(ほくら)と呼ばれるごく小規模な小石祠。祠(ほこら)。

「宸禁(しんきん)」広義の禁中。宮廷。

「瑞籬(みづがき)」《古くは「みづかき」と清音。神社や神霊の宿るとされた山・森・木などの周囲の周囲に設けた垣根。玉垣。斎垣 (いがき) 。神域の結界を示す。

「本」「もと」。結界を神獣が破って出るのは神威の発現と捉えられた。

「雲路(くもぢ)」雲の棚引いている山道。同前。

「開(ひら)けて」自然に開いて。同前。

「白羽(しらは)の矢の出づる」これも誰も射てなどいないのに、突如、放たれるのである。同前。

「庭鳥」「鷄」。

「宜禰(きね)」「禰宜」。

「少女(をとめ)」巫女。

「如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじ」どう考えても、神威のあらたかなそれは、空しい者となるなどと言うことはあるはずがない。

「八月一日」誤り。颱風の襲来は、冒頭の引用で見たように旧暦七月三十日(当月は小の月でこの日が晦日)で(ユリウス暦八月十五日でグレゴリオ暦換算で八月二十二日相当)、しかも弘安四年は閏月が七月の後に入っているので、この翌日は八月一日ではなく、閏七月一日(ユリウス暦八月十六日でグレゴリオ暦換算で八月二十三日相当)である。

「午刻(うまのこく)」正午であるが、諸記録からはおかしい気がする。颱風が彼らを襲ったのは「夜」である(ウィキの「元寇」の注記の「鎌倉年代記裏書」を見ると、「同卅日夜、閏七月一日大風」とする)とあるから、これは「午」ではなく、日付の変わる子の刻が正しいのではなかろうか?

「張百戸(ちやうびやくこ)」先のウィキの引用に『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した(下線太字やぶちゃん)という人物であろう。

「干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)」孰れも不詳。ただ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、前の「張百戸」やここに出る三名の『蒙古人の名』は「日本王代一覧」に拠るとある。従って『三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける』という事実があったのか、なかったのかも、私は知らぬ。

「不日(ふじつ)に」間もなく。

「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は幕府御家人。ウィキの「宇都宮貞綱によれば、宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘。後の北条氏得宗家の第九代執権北条貞時(北条時宗嫡男)の偏諱を受けて貞綱と名乗った。この弘安の役では第九代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六万に及ぶ『御家人を率いて総大将として九州に出陣し』、『その功績により戦後、引付衆の一人に任』ぜられている。後の嘉元三(一三〇五)年の嘉元の乱では、「凱陣(がいぢん)す」ここの「凱陣」は底本では「歸陣」とありながら、ルビで「がいじん」とする。「歸陣」で読みを附さないという法もあるとは思ったが、かく本文を訂した。

「世は末代」これは筆者の時制から見た鎌倉時代の「末代」(後末期)と読むべきであろう。直後「日月未だ地に落ち給はず」以下は、神道の神観念に基づく天照大神等を意識した(本地垂迹を逆手にとった逆本地垂迹説をさえ感じさせる)謂いとしか思えず、さすれば、平安末期の末法思想の「末法」なんぞではないのは明白だからである。

「本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)」増淵氏は『わが国に仏が衆生済度のために仮に神となって現われた天照大神の穏やかな威光の輝きは、やはり新しく、そのおぼしめしはいちじるしいことだ』と訳しておられる。こういう謂いであったとしても、江戸期の神道観からは私は前注の謂いを改める気は全くないと言っておく。

「伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる」これは現在の三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮の二つの正宮(しょうぐう)の内の一つである、豊受(とようけ)大神宮の、境内別宮である風宮(かぜのみや)のこと。ウィキの「風宮によれば、『風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。祭神は内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ級長津彦命・級長戸辺命で、外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある亀石を渡った左側に風宮がある。亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられている』。『別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる。外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが、風宮が別宮となったのは』正応六(一二九三)年。『古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)であったが』、この弘安の役で『神風を起こし』、『日本を守ったとして別宮に昇格した』ものである。『風宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)である。本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となった』とある。古くは『風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され』弘安の役で『朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と風社で祈祷を行なった。日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利とし』、正応六(一二九三)年に『風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となった』とある。]

柴田宵曲 妖異博物館 「大猫」

 

 大猫

 

 土井山城守の刈谷の城に小犬ほどの猫が居つた。大猫と名付けて、折々番人の目に觸れることはあつたが、別に仇をするやうなことはなかつた。或年の春、櫻がいつもより見事に咲いて、日もすぐれて長閑なことがあつたので、御番の侍達が申合せ、花を見ながら辨當を使はうと、外庭の芝原へ出た。その時どこから來たか、えもいはれぬ可愛らしい小猫が、赤い首輪を懸けて走り𢌞り、蝶と戲れ狂つてゐる。あまり美しい猫なので、暫く皆見惚れて居つたが、首輪をしてゐる以上は飼猫であらう、それにしてもこんな小さい猫が、どうして城内まで迷つて來たらうか、不思議だ不思議だと云ひながら、馴らすつもりで燒飯を一つ投げてやつた。小猫は直ちに走つて來て、その燒飯をくはへたかと思ふと、昔から住む例の大猫になつた。何だ、大猫の化けたのか、と云はれて逃げて行つたが、その後は遂に番人の目にもかゝらなくなつた。

[やぶちゃん注:「土井山城守の刈谷の城」三河国刈谷(かりや)藩藩庁。現在の愛知県刈谷市城町にあった。別名を「亀城」と称した。「土井山城守」は、出典(後述)の既注の上流作家只野眞葛(ただのまくず 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)との共時性から考えると、第四代藩主土井利謙(としかた 天明七(一七八八)年~文化一〇(一八一三)年)であろう。]

 澤口忠太夫が細橫町に化物が出ると聞いて、今夜是非一人で行つて見たい、大勢連れ立つて行けば、化物の方でも用心するでせうから、失禮ながら皆樣はこゝからお歸り下さい、と云ひ出した。望みに任せて一人やることにしたが、連れの人々もそこを立ち去らず、忠太夫の後姿を見守つてゐると、中程まで行つたと思ふ頃、ちょつと跼んで何かして居り、步き出したかと思へば、また跼むといふ風で手間取つて居る。そのうちに月の光りに、刀の閃くのが見えた。たしかに刀を拔いたに相違ないから、皆が駈け寄つて尋ねたら、今夜のやうな忌々しいことはない、今朝おろしたばかりのガンヂキの緒が、片足づつ二度切れた、やうやう繕つて穿いてゐると、うしろから押す者がある、引外して投げ斬りにしたが、そこの土橋の下に隱れた、搜して下さい、といふ。彼の云ふ通り、小犬ほどある大猫が、腹から咽喉まで斬られてゐた。この猫は菰にくるんで持ち歸つたが、首と尾とは外に垂れて出たさうである。

[やぶちゃん注:「細橫町」後の雪上歩行用の「ガンヂキ」が出ること、筆者只野眞葛(後掲)の経歴から考えて、これは現在の仙台市中心部を南北に走る幹線道路「晩翠通り(ばんすいどおり)」であろう。古く子の通りは「細横丁(ほそよこちょう)」と呼ばれていた(ウィキの「晩翠通を参照されたい)。]

 この二つの話は只野眞葛の「むかしばなし」に出てゐる。いづれも大猫と書いてあるが、可愛い小猫に化ける前の話が、長閑でありながら妙に無氣味である。後の話は電光石火の裡に斬られてしまふので、猫の妖味が十分にわからぬのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:これは仙台藩医の娘で女流文学者・国学者であった只野真葛の「むかしばなし」の「五」に別々に載る話である。所持する国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。一部、編者が訂正注した誤字は訂正されたものに入れ替えてある。【 】は底本で『原頭注』とあるもの。

   *

一、土井山城守樣の御國、刈屋の城に、小犬ほどの猫有。大ねこと名付て、折々番人見る事あれども、あだせし事なしとぞ。いつの比よりすむといふ事もしらずといふ事は、折々山城守樣の御はなしも有し由、父樣猫のはなしなどいでし時、度々はなしにも聞しが、數年をへてある春のことなりしが、花の盛いつよりも出來よく、日もすぐれて長閑のこと有しに、御番の侍申合せ、「餘りすぐれてよき天氣なり。花見ながら外庭の芝原にて辨當をつかわん」とていで居しに、いづくよりか來たりけん、えもいはれず愛らしき小猫の、毛色みごとにふちたるが、紅の首たが懸てはしりめぐり、胡蝶に戲れ遊び狂ふさま、あまり美くしかりし故、何れも見とれてゐたりしが、「首たが懸しはかい猫なるべし。かゝる小猫のいかにして城内までまどひ來にけん、あやしく」と云つゝ、手ならさんと思ひて、燒飯を一ッなげてあたへしかば、かの小猫はしり來りて、其やき飯をくはゆるとひとしく、古來よりすむ大猫と成しとぞ。「それ、大猫のばけしよ」といはれて、にげさりしが、其後番人たえて形を見ずとぞ。不思議のこととて御じきはなしにうかゞひしと、父樣被ㇾ仰し。

   *

一、覺左衞門養父澤口忠太夫と云し人も、勝たる氣丈ものなりし。十亥の年、かの細横丁の化物をしきりにゆかしがりて、いつぞ行てためさんと願て有しが、冬の夜やゝ更けて外より歸るに、雪後うす月の影すこしみゆるに、其橫丁を見通す所に至り、連も四人ありしを、つれの人にむかい、「扨私も他日此細橫町の化物出るといふを、行てためし見たく思しが、今夜願に叶ひし夜なり。何卒一人行て見たし。失禮ながら皆樣は是より御歸り被ㇾ下べし。打連行ば化物もおそるべし」と云しとぞ。望にまかせて壱人やりしが、連の人もゆかしければ、其所をさらで、忠太夫が後ろ姿を守り居しとぞ。中比にも行きらんとおもふに、下に居て少し隙どり又あゆみしが、又下にゐて何か際どり、二三間も行しとおもふと、又下に居しが、月影にひらりと刀の光見えたり。たしかに刀を拔しにたがはず、いざ行て容子を問んと、足をはやめて何れも來りしとぞ。「いかゞ仕たる」と故をといば、「扨今夜のやうなけちな目に逢し事なし。今朝おろしたるがんぢき【がんぢきははき物の名なり。】の緒が、かたしづゝ二度にきれしを、やうく繕ひてはきしに、爰にて兩方一度に又きれし故、つくろわんと思ひてゐし内、肩に掛りておすもの有しを、引はづしてなげ切にしたりしが、そこの土橋の下へ入しと見たり。尋ねて呉れ」といひし故、人々行て見たれば、小犬ほどの大猫の腹より咽まで切れて有しが、息はたえざりしを、引出したり。忠太夫かしらをおさへて、「誰ぞとゞめをさしてくれ」と云しを、うろたへて忠太夫が手をしたゝかさしたりとぞ。其さゝれたる跡は後までも有しとぞ。取返して忠太夫とゞめさしたり。薦にくるみて持歸りしが、首と尾は垂て出たりしとぞ。忠太夫は鐵砲の上手なりし。【猫の勝て大きなるは、いづくにて聞し咄しも、敷物などにくるめば首と尾の後先より出るほどか、狐か、ときこえたり。】

   *]

 加藤明成の家來に武藤小兵衞といふ二百石取りの士があつた。東澤田村といふところから、美女を召抱へて寵愛してゐたが、伊東三四郎といふ二百石取りの娘と婚約が出來たので、母の勸めに從ひ、前の女には暇を出した。然るにその女が澤田村から毎晩通つて來る。澤田村との間には鶴沼川、大川といふ二つの大河が流れてゐるのを、女の身で夜通つて來るのだから、その大膽に驚いたが、或冬の夜、小兵衞が夜咄に行つて遲く歸り、女の來るのを待つうちに、恐ろしい大雪になつた。小兵衞がとろとろとしたかと思ふと、女はその雪の中をやつて來て、障子を靜かに明け、枕許に佇むと思ふ間もなく、忽ち虎毛の大猫となり、小兵衞に飛びかゝつた。目を覺まして脇差を拔き、二刀刺したけれども、障子を破つて外へ出る。追ひついて斬り殺して見たら、太田又左衞門といふ鄰りの家に、年久しく飼はれた猫であつた。

「老媼茶話」にあるこの話は紛れもない化け猫である。もし小兵衞との情交が更に居いたら、猶は更に魔力を發揮し、種々の災禍を與へるところだつたらうが、事を急いだ爲に猫が先づ斬られ、武藤家は事なきを得た。

[やぶちゃん注:「加藤明成」(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は江戸前期の会津藩第二代藩主。ウィキの「加藤明成によれば、寛永八(一六三一)年の父加藤嘉明の死後、家督と会津藩四十万石の所領を相続した。慶長一六(一六一一)年の会津地震で倒壊して『傾いたままであった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改め、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築いた』。『堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易された。その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し』た。『長男(庶子)の明友は、はじめ家臣に養われていたが取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って加藤家を継』ぎ、天和二(一六八二)年に近江国水口藩二万石に『加増転封され、加藤家は幕末まで存続した』とある。

「東澤田村」「澤田村」不詳であるが、以下の同定からその辺りの旧村名と思われる。

「鶴沼川」「大川」現在、福島県会津若松市大戸町大川と南会津郡下郷町大字小沼崎に跨る、阿賀野川上流部に建設された「大川ダム」があるが、その南方の河川の分岐附近に「鶴沼発電所」があり、そこから東に流れるのが「鶴沼川」であるから、南下する川が「大川」であろう。会津地方でじゃ阿賀川は別に「大川」とも呼ばれる。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は既注の三坂春編(みさかはるよし)の「老媼茶話」の「卷之弐」の「猫魔怪(ねこまのかい)」の冒頭の一話。後も猫の怪であるから、序でに総て電子化する。所持する国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。編者が補正注したものはそちらを本文採用した。ルビはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附し、一部本文や読みを濁音化した。【 】は底本では二行割注。カタカナの読みは原典のもの。

   *

 

     猫魔怪

 

加藤明成の士、武藤小兵衞と云て、弐百石領、壱の町に住す。此小兵衞東澤田村といふ所より美女を召抱(めしかかへ)寵愛する。其先(そのさき)小兵衞妻に、伊藤三四郎と云(いひ)て【弐百石取三の町住(ずみ)】その娘を約(やく)せり。此故に母進めて其女暇(いとま)を出し家へ歸しけるに、其女澤田村より鶴沼川・大川とて二ッの大河を越て夜每に來り、枕をならべ契りを結ふ事、前のごとし。ある夜、冬の事なりしに、小兵衞夜咄しに行、夜更て歸り、女を待中(まつうち)に至て大雪崩すがごとく降(ふり)、其刻いつとなく小兵衞ねふりける。此折女雪もいとはず來りて障子を靜に明け、小兵衝が枕元に彳(タヽズミ)けるか、たちまち虎毛(とらげ)の大猫となり飛懸りけるを、小兵衞目を覺し脇差を拔(ぬき)突(つき)とめけるに、二刀(ふたかたな)差(ささ)れて障子を破り外へ出るを追續(おひつづけ)、切殺し、見るに隣の太田文左衞門と云ものゝ家に年久敷(ひさしく)飼(かひ)ける猫にて有けると也。

 著聞集(チヨフンシウ)に、觀教法印嵯峨のゝ山莊にてから猫を飼しに、能(よく)玉を取ければ、祕藏の守刀(まもりがたな)を取出し、玉に取らせけるに、件(くだん)の刀をくわへて何地(いづち)へやらん逃失(にげうせ)ぬ。人人尋求れとも行方知れず成りにき。猫またの所爲なりと記せり。猫年經て飼時は必ず災をなすもの也。

 加藤明成の侍に平田庄五郎【知行五百石馬場口に住ム】と云ものの老母、至て猫を祕藏し孫子といへども其(その)愛に不及(およばず)。

 ある年、諏訪の社(やしろ)へ詣(まうで)て閻魔堂の松原にて赤毛の猫を拾ひ大きに悦び、宿へ歸り祕藏して飼ける。其猫いつくともなく失(うせ)ける。まもなく庄五郎母目を煩ひあかるき所を嫌ひ、いつも闇(くら)き所にすむ。庄五郎、「目醫者に見せ療治をせん」といへとも、老母用ひず。老母そばつかひの女打つゞき弐人迄行衞なく失(うせ)て、行方を尋ぬれども見へず。或時、下男うらの畑を打(うち)けるに土底(つちそこ)より衣裳のすその見へけるまト、ふし義におもひふかく掘(ほり)て見るに、缺落(かけおち)せしといひける女弐人の衣裳朱(あけ)に染(そみ)たるを寸々(すんずん)にくらゐさき埋め置(おき)ける。生(ナマ)しき骸骨も有ける。大きに驚き、急此(いそぎ)衣裳を取持(とりもち)、主人庄五郎に告(つげ)んと内へ入らんとする折、老母いづくともなく駈來(かけきた)り、件の衣裳をもぎ取(とり)、「己(ヲノレ)、此衣裳・がい骨(コツ)の事庄五郎につげば忽(たちまち)喰殺(くひころ)すべし」と大きにいかりし面付(つらつき)、眼大きく口廣く、さもすさまじき氣色(けしき)なりしかは、下男ふるひわななき、それより虛病(きよびやう)して庄五郎方暇(いとま)を取(とり)ける。其後誰いふともなく、「庄五郎母は猫また也」と專ら沙汰する。

 庄五郎隣に梶川市之丞といふ侍、或時曉(あかつき)かけ遠乘(とほのり)に出(いで)んとして表を見るに、庄五郎老母口のうち血みどろにして、門未だ明(あか)ざるにひらりと塀を躍(ヲドリ)こへ、表に出、前の流れ水にて口をすゝぎける。興德寺前の山高忠左衞門が黑犬、一さんに飛來(とびきた)り、老母の左の腕にくらゐ付けるを、老母犬を振はなち、又高塀をおどり越(こえ)、内入(いる)。梶川見て、「扨は猫また、老母に化たるに疑ひなし」と思ひ、其夕べ庄五郎を呼び、今朝見し有樣細かに語りければ、庄五郎聞て、「扨は疑もなく、猫我母を喰殺し老母に變化(へんげ)たる物也。我母常々後生願(ごしやうねがひ)にて朝夕佛勤(つとめ)をなしけるが、去夏より佛に香花(かうげ)たむくる事なく、目に煩ひ有て、日の光りを見る事をいとひ闇き所にありて、終(つひ)に我にも對面(たいめ)せず。今おもふに猫は目の玉十二時に替(かは)る。此故にわれに對面する事をいとふ物ならん。さらば犬を懸(かけ)て見ん」とて、逸物(いつぶつ)の犬四五疋借りあつめ、老母の住める部屋へ放(はなち)て入れければ、犬ども老母をみて吠怒(ほえいか)り、四五疋の犬ども飛懸(とびかか)り、首骨・手足・腰・腹へおもひおもひにくらゐつく。老母正體をあらはし、さしもしたゝか成(なる)赤猫と也(なり)、四疋の犬どもと暫くかみ合けるが、四五疋の犬飛懸り飛懸り、散々に喰殺しける。是は去年、庄五郎母諏訪詣でける折、閻魔堂の邊よりひろひ來る猫老母をくひ殺し、己(おのれ)母に變化(へんげ)たるものなり。金花猫(きんくわねこ)とて、赤猫は年久敷(ひさしく)はかわぬもの也。

   *]

小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」 ~「二つの繪」パート了

 

      芥川の死

 

 芥川が僕に死ぬ話をしはじめてから、死ぬ話の片手間 ? に書いてゐた仕事の表をみると、

[やぶちゃん注:以下、私のオリジナル電子テクストのあるものは、本文そのものにリンクを張った。リンクのないものは「青空文庫」のこちらで一部を除いて概ね読める。但し、そちらは新字体である。]

 

大正十五年四月

 病中雜記      文藝春秋

[やぶちゃん注:このクレジットで『文藝春秋』に発表された表記の作品は存在しない。あるいはこれは、前年大正一四(一九二五)年十月発行の『文藝春秋』に「侏儒の言葉――病牀雜記――」(リンク先は私の電子テクスト)として発表したものを小穴隆一が誤認しているものかとも思われる。]

 追憶(大正十五年五月―昭和二年二月)文藝春秋

[やぶちゃん注:丸括弧内は底本では二行ポイント落ちの割注。「五月」は「四月」の誤り。]

 病中雜記      文藝春秋

[やぶちゃん注:正確には「病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」で、発表を「四月」とするが、事実は同年二月及び三月である。]

 東西問答      時事新報

 須賀小景     驢馬

大正十五年六月

 囈語        隨筆

[やぶちゃん注:「囈語」は「うはごと(うわごと)」と読む。「六月」は「八月」の誤り。]

大正十五年七月

 カルメン      文藝春秋

 近松さんの本格小説 不同調

 又一説?      改造

大正十五年九月

 春の夜       文藝春秋

大正十五年十月

 鬼簿       改造

 島木赤彦氏     アララギ

大正十五年十一月

 君の新秋     中央公論

 夢         婦人公論

 句私見      ホトトギス

 鴉片        世界

 槐         藝術新論

昭和二年一月

 貝殼        文藝春秋

 玄鶴山      中央公論

 蜃氣樓       婦人公論

[やぶちゃん注:『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』は同年「三月」の誤り。]

 悠々莊       サンデー毎日

 鬼ごつこ      苦樂

[やぶちゃん注:「鬼ごつこ」は同年「二月」の誤り。]

 僕は        驢馬

[やぶちゃん注:「僕は」は同年「二月」の誤り。]

 萩原朔太郎君    近代風景

 拊掌談       文藝時報

[やぶちゃん注:「拊掌談」は「ふしやうだん(ふしょうだん)」と読む。これは大正一四(一九二五)年十二月から翌一五年二月まで、四回にわたって『文藝時報』に掲載されたもの(一部、初出不詳)。]

昭和二年二月

 玄鶴山       中央公論

[やぶちゃん注:前とダブっているのは大正一六(一九二七)一月一日発行の雑誌『中央公論』]に「一」「二」が掲載され、昭和二(一九二七)二月一日の同誌に「一」「二」も再録して全篇掲載されたことによるもので、小穴隆一の誤記ではない。]

 都會で        手帖

[やぶちゃん注:正しくは「都會で――或は千九百十六年の東京――」で、発表は二月ではなく、同年「三月」「四月」「五月」発行のそれに三回で連載されたもの。]

 その頃の赤門生活   東京帝國大學新聞

 藤森君「馬の足」のことを話せと言ふから

            文藝春秋

昭和二年三月

 小説の讀者      文藝時報

 井澤で       文藝春秋

 都會        手帖

[やぶちゃん注:先行注参照。ダブではなく連載を記したものだが、本来はここから後にでなくてはおかしい。]

 春の夜は       中央公論

[やぶちゃん注:「春の夜は」は「三月」ではなく「四月」の誤り。]

 芝居漫談       演劇新潮

昭和二年四月

 「庭苔」讀後     アララギ

 都會で        手帖

[やぶちゃん注:先行注参照。]

 河童         改造

 藝的な餘りに文藝的な(四―七月) 改造

[やぶちゃん注:「(四―七月)」は底本では二行ポイント落ちの割注。正しくは「文藝的な、餘りに文藝的な」であり、連載も八月まで(四、五、六月と飛んで八月)。リンク先は後に出る「續文藝的な、餘りに文藝的な」を私がカップリングした「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」。]

 三つのなぜ      サンデー毎日

 淺草公園       文藝春秋

[やぶちゃん注:正しくは「淺草公園――或シナリオ――」。]

 食物として      文藝時報

昭和二年五月

 今昔物語に就いて   日本文學講座(新潮社刊)

[やぶちゃん注:これは「今昔物語鑑賞」の誤り。しかも正確には「五月」ではなく「四月」(四月三十日刊)。新潮社発行の『日本文學講座』第六卷の「(鑑賞)」欄に表記の題で収録されたものである。リンク先は私の草稿附き電子テクスト。]

         文藝時代

 素描三題       サンデー毎日

 たね子の憂鬱     新潮

 本所       東京日日新聞

 僕の友だち二三人   文章倶樂部

 「道芝の序」     文藝春秋

昭和二年六月

 古千屋        サンデー毎日

 晩春賣文日記     新潮

 囈語         隨筆

[やぶちゃん注:これは明らかに先の「大正十五年六月」のダブりで誤り。]

 「我が日我が夢」の序 文藝春秋

 二人の紅毛畫家    文藝春秋

 女仙         譚海

[やぶちゃん注:これは新全集でも初出誌が確認されていない推定比定である。因みに「によせん(にょせん)」と読むものと思われる。]

 講演軍記       文藝時報

昭和二年七月

 機關車を見ながら   サンデー毎日

[やぶちゃん注:これは遺稿で昭和二(一九二七)年九月十五日発行の雑誌『サンデー毎日』秋季特別号に発表されたものであるが、芥川龍之介自死の直前に執筆されたものと推定されている。リンク先の私の冒頭注を参照されたい。]

 三つの窓       改造

 冬と手紙と      中央公論

[やぶちゃん注:本篇はネット上のある記載で、後に「冬」と「手紙」に改題されたとあり、青空文庫版テクストでもそのように分割して公開されているが、そのような記載は旧全集注記にはない。また、これを後に芥川が分割して改題した可能性は私は極めて低いと考えている。リンク先の私のそれは分割されていない原型である。]

 〔續〕文藝的な餘りに文藝的な 文藝春秋

[やぶちゃん注:「續文藝的な、餘りに文藝的な」は元は、昭和二年四月一日及び七月一日発行(小穴隆一がここに配したのはそれに拠る)の『文藝春秋』に、先行する『改造』発表の「文藝的な、餘りに文藝的な」と全く同じ「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載されたものである。これらは後の龍之介の死後(同年十二月)に刊行された単行本『侏儒の言葉』に「續文藝的な、餘りに文藝的な」として所収された。小穴の「〔續〕」とするのはそれに基づくものである。リンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」である。]

 内田百間氏      文藝時報

[やぶちゃん注:発表自体は死後の八月一日。]

昭和二年八月

 西方の人       改造

[やぶちゃん注:リンク先は私の「西方の人(正續完全版)」。言わずもがなであるが、これ以降は遺稿である。]

 北・北海道・新潟  改造

 芭蕉雜記      文藝春秋

[やぶちゃん注:正編「芭蕉雜記」は遡る大正一二(一九二三)年十一月及び十三年五月と同年七月の雑誌『新潮』の各号にそれぞれ「一」から「九」を「芭蕉雜記」、「十」から「十一」を「續芭蕉雜記」(但し、これは現在の「續芭蕉雜記」ではない)、「十二」から「十三」を「續々芭蕉雜記」(同前)として掲載、後に『梅・馬・鶯』に「一」から「十三」を纏めて「芭蕉雜記」として所収した。一方、「續芭蕉雜記」は昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載されたものである。リンク先はそれらを一括した私の「芭蕉雜記・續芭蕉雜記 附草稿」である。]

 風琴         手帖

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介の詩で「風琴」で「オルガン」と読む。以下。

   *

 

   風琴

 

風きほふ夕べをちかみ、

戸のかげに身をひそめつつ、

(いかばかりわれは羞ぢけむ。)

風琴(オルガン)をとどろとひける

女(め)わらべの君こそ見しか。

とし月の流るるままに

男(を)わらべのわれをも名をも

いまははた知りたまはずや。

いまもなほ知りたまへりや。

 

   *

「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を参照されたい。]

昭和二年九月

 西方の人      改造

[やぶちゃん注:リンク先は私の「西方の人(正續完全版)」。]

 侏儒の言葉(遺稿)  文藝春秋

[やぶちゃん注:リンク先は先行作及び遺稿分や草稿類・類似アフォリズムを含む『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』。]

 十本の針(遺稿   文藝春秋

 闇中問答(遺稿)   文藝春秋

昭和二年十月

 或阿呆の一生(遺稿 改造

 齒車(遺稿     文藝春秋

 小説作法(遺稿   新潮

[やぶちゃん注:「小説作法(遺稿)」は「小説作法十則」の誤りで、遺稿公開も「九月」の誤り。]

昭和三年一月

 僕の瑞威から(遺稿) 驢馬

[やぶちゃん注:「僕の瑞威(スヰツツル)から」と読む。これは「信條」「レニン第一」「レニン第二」「レニン第三」「カイゼル第一」「カイゼル第二」「手」「生存競爭」「立ち見」の九篇からなる詩篇群。「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を参照されたい。「瑞威(スヰツツル)」はスイスのこと。]

昭和三年五月

 空虛(遺稿)     創作月刊

[やぶちゃん注:これは大正一四(一九二五)年一月発行の『中央公論』に掲載された「大導寺信輔の半生」の未使用の草稿である。私の大導寺信輔の半生 附草稿で電子化してある。]

昭和三年七月

 文壇小言(遺稿)   創作月刊

[やぶちゃん注:旧全集で末尾に『(大正十四年八月)』とクレジットするアフォリズム草稿。]

となるが、僕はよくあの體で頑張れたものだと思ふ。やつれて支那から歸つてきたときの芥川が、中西屋の風呂場の貫かんで計つたときの目方は十二貫五百であつたが、腦味噌一貫五百、體十一貫と稱する元氣はあつた。しかしこれは、重くうなだれきつてしまつたときの芥川の仕事であつて、人の死力(しにぢから)といつたものをしみじみと考へさせる。

[やぶちゃん注:中国特派旅行から帰った(大正一〇(一九二一)年七月下旬帰国)芥川龍之介は体調がすこぶる勝れず、年内発表の原稿を断わり、十月一日から二十日頃まで、湯河原の中西屋旅館で静養した。この時、四日から暫く小穴隆一と小沢碧童が合流していることは以前にも書かれていた。

「貫かん」台秤(だいばかり)のこととは判るが、読み不詳。

「一貫五百」匁(もんめ)は五キロ六百二十五グラム。

「十一貫」四十一キロ二百五十グラム。]

 

 鵠沼で、さるすべりの樹があつた。二度目に越した家の二階でも、いくつかの詩をみせたあとの芥川にはぞつとした。七月二十二日の夜にも芥川が默つてゐるだけで、こちらは大聲で叫びたい恐ろしさを感じた。二十三日の僕は、もう芥川は助からぬ、芥川は死ぬものとして僕自身のことも考へてゆかなければならぬ、もう一度芥川に會つておきたいと一日中考へてゐたが、怖くて自分の部屋を一と足もでられなかつた。とても芥川のところに顏がだせなかつた。さうして二十三日の夜は寢ぐるしい眠れない夜であつた。藤澤の町で買つた目醒時計は何時なのであつたか、さういふ習慣のなかつた僕が、まだ夜明け前かと窓を開けてしまつたままで、また布團の上に寢てしまつてて、誰かが呼んでゐるやうな聲に目をさますと、障子に手をかけたまま低い聲で「なんだか變なのです、どうもやつたらしいのです、」と言つて廊下に葛卷が立つてゐた。僕はそのとき、「なに? けふは日曜ぢやないか、」と言つてゐる。芥川はかつては日曜日を面會日にしてゐたが、さういつたこともいつかなくなつてゐたのに、けふは日曜ではないかと言つてゐるのは、よほどくたびれてゐたか、ねぼけてゐたとみえる。僕はそれまでに、芥川が日曜日には自殺をしないとか、人騷がせをするやうな事はしないであらうと思つたことなど、一度もなかつたのにさういふことを言つてゐた。

「とにかくすぐ一緒にきて下さい、」と言つてゐて葛卷は部屋にはいらなかつた。

「ほんたうにやつたのか、」

「どうもさうらしいのです、」

 葛卷と僕は下宿のそとで顏を見合せてまたさう繰返してゐた。

 葛卷の話では、伯母が下島老人へ、葛卷が僕のところへ知らせにきたといふが、僕が義足をつけたりなにかしてゐるだけ下島老人のほうが早かつたのであらう。

「たうとうやつてしまひましたなあ、」

 二本目の注射をすませたあと、ちやうど、注射器をとりかたづけてゐた下島老人はつつ立つたままの僕にさういつた。

 茶を運んできた芥川家の人は取りみだした姿ではなかつた。いつかは死ぬ、芥川はさういつた豫告 ? のやうな月日がながすぎた。皆の神經をくたびれさせきつてゐた。芥川は「自分が死んでも、すぐ知らせると小穴はあわてるから、なるたけゆつくり知らせろ、」よ言つてゐたと葛卷が言つてゐる。

[やぶちゃん注:「鵠沼で、さるすべりの樹があつた」とあるのは「二度目に越した家」のこと。「鵠沼」に書かれた小穴隆一の手書きの図にも、入口と思しいところの内側の右手に「百日紅」と記されてある。しかし小穴隆一、何故、この冒頭でそれを言ったのだろう? 小穴隆一の例の意味深な厭なところである。「七月二十二日の夜にも」以降は田端の終焉の時制描写なので読み違えぬように注意されたい。

「日曜日」芥川龍之介が自死した昭和二(一九二七)年七月二十四日は日曜日であったが、これは実は家人や女中が平日よりも朝寝をすることを見越した、即ち、発見が遅れて自死が完遂されることを計算した上での選択であったと考えられる。]

 

「どうしたものでせう、」

「どちらでもよろしいやうに私はします。」

と、醫者の下島老人が言つた。〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕といふ家人宛の遺書があつたからである。(もし芥川が意識して病殺と書いてゐたものとすれば、これはもつとも芥川らしい表現である。)僕は「どちらでも」と言ふよりほかなかつたが、「ありのままがいいでせう、」と言添へてゐた。そこへわりかた近所の久保田万太郎の顏がみえた。

[やぶちゃん注:「(死)」は、底本では「殺」の右にルビ状に附された小穴隆一の補正注である。]

 

 僕はF十號の畫布に木炭で芥川の死顏の下圖をつけてゐた。

「繪具をつけるの?」

「つけないの?」

 比呂志君がさう心配して畫架のまはりをうろついてゐた。雜記帳と鉛筆を持ちだしてきて、自分でも僕のやうに爲したかつたのであらう、芥川の枕もとに立つてうろうろとしてゐた。

[やぶちゃん注:「F十號」のFは一般に人物用キャンバスで五百三十×四百五十五。]

 

 檢屍官の一行が芥川の枕邊にきた頃には、「死んだあと、もし口を開いてゐるやうであつたら、なるべく開いてゐないやうに賴むよ」といつてゐた日頃の芥川の言葉を勘考して、その顏の構造をじつくりみなほして寫せる餘裕が持てた。「出つ齒でせう、だから眠つてゐると口をあいてゐるんです、」と葛卷があとで言つてゐた。芥川は昔、僕が二科會に出品した「白衣」の時には、西洋の文人、自分の一家一族の人達の寫眞まで持ちだしてきて、「やつぱり、立派に畫いておくれ」と言つてゐたが、「白衣」とは彼が名づけた題で處士といふ意があると教へてくれた。

[やぶちゃん注:既注であるが、「處士」(しよし(しょし))とは「在野の人」の意である。]

 そのままにと言つて警察の人は畫いてゐる僕の邪魔をしなかつた。

 一應は點檢されてゐる芥川の體は固まりかけたと僕は橫目でみてゐた。芥川が死ぬために建増しをした書齋兼寢室は、晴天であつても明るくはなかつたが、雨氣で一層暗かつた。芥川は首を北にして寢てゐたやうである。

「幸に、けふは日曜で夕刊は休みだし、新聞には明日になるだらう、」さう言ひながら、僕らは芥川の友達が集まるのを待つてゐたが、文壇の人が三、四人みえた頃には意外に速く新聞社の人がきた。警視廰に遊びに出かけていつた者が偶然に變死人としての芥川を知つたとは、日日の記者(沖本)が言つてゐたと思ふ。後に愛宕山に關係した久保田万太郎はじめ誰もラジオに思ひつかなかつた時代で、僕は東北にゐてラジオで芥川の死を知つたといふ人の話に感心したものだ。

[やぶちゃん注:「愛宕山」現在の日本放送協会(NHK)の前身である東京中央放送局のこと。現在、NHK放送博物館のある東京都港区愛宕の丘陵愛宕山に局があった。小穴は「後に」と言っているが、ウィキの「久保田万太郎によれば、芥川龍之介の生前の大正一五(一九二六)年に久保田は『慶應義塾大学講師を辞して』後、『前年から放送を開始した東京中央放送局(後の日本放送協会)嘱託となり、以後演劇科長兼音楽課長を経て文芸課長として』七『年間常勤し、ラジオドラマなどを手がけた』とあるから、龍之介自死の折りにすでに関係者であった。以下、最後に本章に挿入された芥川龍之介葬儀場の配置図と(近代文学展の配置図かと見紛う錚々たる面子である)、この時、小穴隆一が描いたデスマスクの配された表紙を再掲しておく。これを以って「二つの繪」パートは終わっている。

 

Akusougi

 

Hutaunoe

小穴隆一 「二つの繪」(24) 「最後の會話」

 

    最後の會話

 

「君、金はいらないかねえ、」

 ぶらつと僕の部屋に顏をだした芥川はさう言つてにやにやしながら突つたつてゐた。

「口止料みたいな金は俺はいらないや、」

「死ぬんなら死ぬで俺はいいよ、」

 やるな、と思つた僕はさう吐きだした。

「まあいいや、」

 芥川は顏を顰めてかなしい顏で笑つて僕の前に坐つた。てれてにやにやしてゐる。

「僕は、――君は僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ、」

 ――何秒か默つてゐた僕をみて芥川はかういつて、義足をはづして坐つてゐた僕の膝に手をかけた。芥川が女であるならば、かう言つて彼女は縋りついたと僕は書くであらうが、縋られて僕は困つた。(僕の生まれた日は芥川の母の命日に當るといふ、言葉を繰返してゐた。)

「ここにかうやつてゐると氣がしづまるよ、」

 さう言つて汚ない疊の上に仰のけにころげてゐた芥川は

「ちよつとでいいから觸らせておくれよ、」

 芥川は鵠沼でも幾度かこの

「たのむから僕にその足を撫でさせておくれよ、」

と體をのばして僕の切斷されたはうの足に手をかけ、「君の暮しは羨ましいなあ、」とため息をしてゐた。僕は芥川にさう言はれるといつもかなしかつた。

[やぶちゃん注:以下でも記されるが、昭和二(一九二七)年七月二十一日のことである。宮坂覺年譜によれば、この日は午後に、内田百閒と一緒に自宅を出て、入院中の宇野浩二の留守宅を訪問して見舞いの品を届けている。その帰り、内田と別れた後に小穴の下宿を訪ねた。なお、当日の夜には前に注したように、以前から誘っていた佐多稲子が当時の夫窪川鶴次郎と来訪し、自殺体験を子細に龍之介から問われている。]

 二十四日の朝に芥川は冷たくなつてしまつた。芥川が僕の足を撫でて歸つたのは二十一日、十八日にもきて、五十圓の金を座布團の下にいれて歸つていつてる。金の事では決して人に頭をさげるなと言つて僕の不足を補つてくれてゐた芥川であつたから、十八日の五十圓には變と思はなかつたが、僅か二、三日しかたつてゐない二十一日にまた金をくれようでその瞬間芥川の死を感じた。僕は帝國ホテルのときの小穴隆一君へと封筒に書いてあつた「或阿呆の一生」の原稿のことと、ホテルで、「ここに二百圓ばかり持つてゐる。この金のなかの半分を封筒にいれて、それと、なほ手紙を書いて君に言渡しておかうと思つて、ちやうどそれを書きかけてゐたところだつた。麻素子さんがこなければこないでいい、一人で死なうと思つてゐたよ。」と言つてゐたことを思ひあはせて、まとまつた金を持つてきてゐるらしい芥川に僕は芥川の死を感じてしまつた。

[やぶちゃん注:「僅か二、三日しかたつてゐない二十一日にまた金をくれようでその瞬間芥川の死を感じた。」言葉足らずの謂いであるが、原型の「鯨のお詣り」の「最後の會話」では、『變、と感じたのは、二三日前に呉れておいてまた更にまた呉れやうとする事であつた。』(「やう」はママ)で達意である。小穴隆一の本書での改稿は表現上は改悪を感じさせる箇所が多いように感ずる。

「帝國ホテルのとき」昭和二(一九二七)年四月七日一度目の帝国ホテルでの心中未遂事件のこと。「帝國ホテル」の章を参照。]

「僕はほんとに君が羨ましいよ。」

 芥川はまた仰のけになつてひとりごとのやうに言つてゐた。

「死ぬといふことは君はどう思つてゐるのかねえ、」

「腹の中のほんたうのことを言つてくれないか、」

「生きてゐてたのしい事もなからうし、いつしよに死んでしまつたらどうかねえ、」

 芥川は今度は起きなほつて坐りなほしてからさう言つてゐた。

「俺は死ぬのはいやだよ、生きてゐることが死ぬことよりも恥辱の場合であれば死ぬさ、僕の場合では死ぬほうが生きてゐることよりはまだ恥だ。俺はまだこのままで死ぬのはいやだよ、」

 ぶつきらぼうに僕は言つてしまつた。

「ああ! それはほんたうの事だ、生きてることが、死ぬことよりも恥である場合は――ほんたうだ。」

「ほんたうだ、ほんたうだ、確かに君の言ふそれはほんたうだよ。」

 さう言つて頭を抱へてころぶ目の前の芥川を、かなしく冷やかに僕はみてゐた。僕はそのときの非人情な僕の言葉を、なぜさう言つてしまつたかと今日でも申譯なく思つてゐる。

 

 七月二十二日、金曜日である。

 不幸があつて大阪から上京してゐた水上の兄が晝間きて、弟が世話になつた禮を芥川によろしく言つてくれと言つてゐた。僕は田端驛の崖上にあつた「藪」で蕎麥を食つて水上の兄と別れて、夕日があたつてゐる芥川の家に立寄ると、先客に下島がゐた。この二十二日のことは下島の「芥川龍之介氏終焉の前後」昭和二年の文藝春秋九月號に載つてゐるが、芥川が僕には、どうせ西の方だと言つてゐるのに、下島へは明日か明後日頃鵠沼へと言つてゐる。下島が書いてゐるものだとその日の氣温は、華氏の九十五度といふ本夏最高のレコードを示した實に暑苦しい日であつた、となつてゐるが、下島が歸つたあとの芥川は、「また、死ぬ話にしようや、」のひそひそ話になつた芥川であつた。毎日のやうに會つてゐて、おなじ話になる、その話も途絶えたときに、僕は冷たい部屋をしみじみみまはした。さうしていま、華氏九十五度といふ日の夜とどう思ひすましてみても思へない、さぶさぶとしたぞつとしたものを感じてきて、僕は四、五尺離れて坐りなほした芥川の顏をまともにみることができなくなつてしまつてた。

[やぶちゃん注:「水上」水上温泉郷で知られる現在の群馬県利根郡みなかみ町(まち)でとっておく。

「どうせ西の方」(章題)に既出既注であるが、再掲しておくと、宮坂年譜によれば、死の四日前の七月二十日の条に、八月に『開講予定だった改造社主催の民衆夏期大学の講師を依頼され、電報で「ユク」と返事をする』とあり、旧全集書簡番号一六一九にも、改造社宛電報として、『ユク」アクタガ ハ』と掲げられてあるものを指すのであるが、しかし私はここでの芥川龍之介の謂い、そしてそれを聴きここに記した小穴隆一の真意は、正直――西方浄土――あの世へ行く――の謂いとしか思えないでいるのである。

「華氏九十五度」摂氏三十五度。]

 芥川がなにか聞えぬことを口をもごもご動かして言つて僕に笑ひかけた、それで僕は「わつ!」といひ、「俺はもうだめだ、」と言つて立上つてしまつた。僕が芥川の手をふりはらつて梯子段に足をかけたとき、芥川は引き戾さうと無言で肩に手をかけた。僕がまたその手のしたをすりぬけて梯子段の踏板を摑んだときには、「こどもを賴むよ、」と輕く肩を抑へてから、身をひるがへして部屋に戾つた。ばちんと電氣を消す音を聞きながら僕は梯子段をすべり落ちるやうにおりてしまつた。出合頭に唐紙が開いて芥川の家族達の顏をみたが、「もうだめです、」「僕はもうだめです、」と僕は顏で二階のはうをさして夢中で下宿に歸つて布團のなかにもぐりこんでしまつて「なに、いつものなんで、大丈夫ですよ、」と言つてゐた芥川夫人と葛卷の聲をたよりに、明日またのぞいてみようと思ひながら、二十三日はこはくてどうしてもゆけず一日宿にころがつてゐた。

[やぶちゃん注:シチュエーションからも判るが、小穴隆一が芥川邸を出たのは午前零時頃であったらしい(宮坂年譜に拠る)。これが小穴隆一が生前の芥川龍之介に逢って語り合った最後となった(翌二十三日は小穴も述べている通り、芥川邸を訪ねていない。自死のための薬物服用は翌二十四日に日付が変わった午前二時過ぎと推定されている。]

 僕はいつきに梯子段を飛びおりたと前には書いてゐたが、義足では實際にさうはならず、そのとき「もうだめです、」と大きい聲で言つたつもりの僕の言葉もただ、わあ、わあいふ聲に家の人には聞えてゐたのかも知れない。芥川は電氣を消した暗いなかで泣いてゐたのであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:以上で注していない箇所でも、今までの私の注で既に注している。過去章を検索されたい。]

 

2017/01/16

柴田宵曲 妖異博物館 「地上の龍」

 

妖異博物館 Ⅱ

 

 地上の龍

 

 雲中の龍の姿は捉へにくい。地上に現れた龍の話を少し拾つて見る。

 明和元年の大火の後、堀大和守の家來川手九郎兵衞といふ人が、堀家の庫の燒け殘りに庇を掛けて、そこに住んで居つた。たまたま大風雨があり、夜中燈燭も吹き消されてしまつたので、燧箱を搜さうとして戸外を見たところ、屋敷の北の方から、小挑燈のやうな火が二つ雙(なら)んでやつて來る。深夜の事といひ、この風雨の烈しいのに、人の來る筈はないと怪しみながら、火を打つてゐると、やがて九郎兵衞の前を通過する時、火は一つしかない。愈々不審に思ふうち、あとから松の大木を橫たへたやうなものが、地上四尺餘りのところを行くのが見えた。その大木のやうなものの中よりも、折々石火の如き光りを放ち、それが通行する際は、特に風雨が烈しかつた。前に挑燈と見えたのは兩眼、近くなれば一方だけ見えるから一になつたので、大木の如きは龍の身體であらう、といふことであつた(甲子夜話)。――「近代異妖篇」(岡本綺堂)の中の「龍を見た話」はこれに基づくものと思はれる。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全篇を持っているが、探すのが大変。発見したら原典を追記する。悪しからず。

『「近代異妖篇」(岡本綺堂)の中の「龍を見た話」』大正一三(一九二四)年十月発行の『週刊朝日』初出。「青空文庫」のこちらで読める。]

「蕉齋筆記」にあるのは姫路の話で、土用干をしたところ、夕立の來さうなけはひになつて來た。干したものは皆取り入れたが、屋敷裏の畠の方に、赤くひらめくものが見える。あまり急ぎ過ぎて、毛氈を取り落したかと思ひ、畠の方へ行つた途端、何かぴつかりしたものがある。毛氈と見えたのは赤い舌で、光つたのは雙眼であつたから、びつくり仰天して駈け込んで來た。そのうちに風雨烈しく、畠の脇から龍が天上した。よくよく強い風だつたらしく、吹き外した雨戸を皆塀際へ吹き付け、それが殘らず立て掛けたやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。所持しないので原典は電子化出来ない。]

「甲子夜話」には白龍を視るの記がある。これは松浦靜山侯が親しく龍を見たわけではない。寛政三年の夏、長崎から來た客があつて、自分の知つてゐる僧が先年白龍を見た、噓をつくやうな男ではないから、本當の話だと思ふ、と云つた。それではその事實を書き留めようと云つたら、已に僧自身書いて居ります、と示したのが漢文の「視白龍記」なのである。龍を見たのは肥前の武雄で、温泉に一浴してから、驛の西にある山に登つて見た。山の中腹ぐらゐのところに池があり、水が極めて淸冷であつたので、同行の數人が皆掬つて飮む。恰も一番最後に飮まうとして、水中に異物の蟠るのを認めた。まさしく龍である。角あり、髮あり、髯あり、氷雪の如く純白であるが、瞳だけが淺黑い。頭の長さ七八寸、太さは手で拱するぐらゐ、上體二尋ばかりは見えるけれど、下體は洞穴の中にでも在るか、よく見えぬ。顏つきは寧ろ端嚴で、恐ろしくはなかつた。同行者を呼んで來て見ろと云つたところ、誰も來ぬうちに龍は姿を隱してしまつた。旅宿に歸つて亭主にこの話をしたら、それは多分あの山の神樣でございませう、まだ誰も見たといふ話を聞いて居りません、と云つた。寶暦十三年七月二十一日の事とあるから、長崎の客は二十八年後にこれを語つたわけである。「甲子夜話」はこゝに洞穴から上體を現してゐる龍の畫を插んでゐるが、この龍は全く地中の物なので、雲を呼び雨を降らす一般の話とは大分距離がある。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話卷三十四」の「白龍の事」と判った。東洋文庫本を参考に、正字化して図(非常に薄いので見難いのは悪しからず)とともに以下に示す。漢文は返り点のみを附し、後で訓点に従いつつも、自在勝手に書き下したものをオリジナルに附した。底本の「竜」は私が嫌いな字体なので総て「龍」とした。

   *

Hakuryuu

 去し寛政辛亥の夏、長崎より一客來れり。一夕これと對話せしときの話に、客所識の僧、先年白龍を見たり。その僧妄言する者にあらず。眞實語なり。予輙(すなはち)其ことを記せんとす。客曰。僧已に其ことを記せりと。後にその記事を得たり。

   觀自龍

余到肥之武雄驛。日既在桑楡。就旅舍温泉、而閑行逍遙焉。驛西之山、高百餘仭。松杉雜ㇾ翠、磴道馮ㇾ虛。其巓巖石相倚而立、陰宕鬱無ㇾ所ㇾ依。因振ㇾ衣而下。山半一逕左轉、地狹平坦、峭壁峙列。有池水。極淸冷。同行數子各掬以飮、散步于縹之間。余獨盤桓池頭、殿數子。而偃飮。水中有ㇾ物、磷々乎。熟視則純白之龍也。雙角競起、纖毛被ㇾ首。頤連蝟鬚。鱗鬣相映、皎潔甚於氷雪。但瞳子淺黑、大如豆實。兩足跨池底、擧ㇾ首正面。顏長七八寸、身圍可ㇾ拱腹心。而上凡二尋、下體則不ㇾ見。蓋在于穴𥕕乎。貌不激烈。端嚴且懿。配諸乾爻、則膺九三乾乾惕若之象邪。余與ㇾ之隔數尺。相對斯須。而余不驚悸者、以彼貌不激烈乎。乃呼數子而曰。玆有二靈物、可來而視。數子未ㇾ到。龍俄然隱矣。下ㇾ山還驛舍。以ㇾ事語ㇾ主。主異ㇾ之曰。恐彼山之神也乎。末ㇾ聞有ㇾ觀ㇾ焉者也。實寶曆癸未秋七月廿一日也。長崎白龍大壽撰、幷書。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

白龍山人、於ㇾ予有通家之誼。嘗爲ㇾ予談其觀白龍之事。予聞ㇾ之以爲ㇾ奇矣。蓋山人以白龍自稱者、據ㇾ之也。今及ㇾ讀記文、竊謂如ㇾ斯之奇、可以不一ㇾ傳乎。予遂請山人命ㇾ工。倂ㇾ圖剞劂焉。天明戊申夏五月、北島長孝識。

○やぶちゃんの書き下し文

   觀二自龍一記

余、肥の武雄驛に到る。日、既に桑楡(さうゆ)に在り。旅舍に就き、温泉に浴して、閑行逍遙す。驛西の山、高きこと、百餘仭(じん)。松杉(しやうさん)、翠(みどり)を雜(まぢ)へ、磴道(たうだう)、虛ろに馮(へう)す。其の巓巖(てんぐわん)、石、相ひ倚りて立ち、陰宕鬱(いんとううつるい)、依る所、無し。因りて衣を振るひて下る。山半ばの一逕、左に轉じて、地、狹くして平坦、峭壁(しやうへき)、峙列(じれつ)す。池水、有り。極めて淸冷。同行の數子(すうし)、各々、掬(きく)して以つて飮し、縹(へう)の間に散步す。余、獨り、池頭に盤桓(ばんくわん)して、數子、殿(のぼ)る。而して偃(ふ)して飮す。水中、物、有り、磷々(りんりん)たり。熟視すれば、則ち、純白の龍なり。雙角、競ひ起こり、纖毛、首に被(かぶ)さる。頤(おとがひ)、蝟鬚(いしゆ)、連なる。鱗・鬣(たてがみ)、相ひ映(て)り、皎潔(かうけつ)、氷雪より甚だし。但だし、瞳子(とうし)、淺黑にして、大きなること、豆の實(み)のごとし。兩足、池底に跨(またが)り、首を擧げて正面(せいめん)す。顏の長さ、七、八寸、身の圍(まはり)、腹心を拱(こまね)くべし。而して上は凡そ二尋(ひろ)、下體は、則ち、見えず。蓋し、穴𥕕(けつか)の中に在るか。貌、激烈ならず。端嚴にして、且つ、懿(うるは)し。諸々を乾爻(けんけい)して配すれば、則ち、九三の乾乾惕若(けんけんえきじやく)の象(かたち)を膺(よう)すか。余、之れと隔つること數尺。相ひ對すること、斯須(しばらく)。而して余、驚悸(きやうき)せざるは、彼(か)の貌の激烈ならざるを以つてするものか。乃(すなは)ち、數子を呼びて曰ふ。玆(ここ)に靈物有り、來りて視るべしと。數子、未だ到らず。龍、俄然として隱る。山を下りて驛舍に還る。事、以つて主(あるじ)に語る。主、之れを異にして曰く。恐らくは彼(か)の山の神なるか。末だ焉(これ)を觀る者有るを聞かざるなりと。實(まこと)に寶曆癸未(みずのえひつじ)秋七月廿一日なり。長崎白龍大壽、撰し、幷びに書す。

白龍山人、予に於いて通家の誼(ぎ)、有り。嘗つて予をして其の白觀龍の事を談ず。予、之れを聞き、以つて奇と爲(す)。蓋し、山人、白龍を以つて自稱するは、之れに據るなり。今、記文を讀むに及びて、竊(ひそか)に謂ふ、斯くのごときの奇、以つて傳へざるべけんや。予、遂に山人に請ひて工を命ず。圖を倂(なら)べて剞劂(きけつ)す。天明戊申(つちのえさる)夏五月、北島長孝、識(しき)。

   *                                                      

・「寛政辛亥」寛政三年。一七九二年。

・「肥の武雄驛」現在の佐賀県武雄市武雄町。武雄温泉がある。

・「桑楡」クワとニレであるが、広く樹木を指し、ここはそうした木の茂る山に夕日がかかることから、夕方の謂い。

・「仭」中国古代の高さの単位。八尺・七尺・四尺・五尺六寸など諸説がある。

・「磴道」石の坂。

・「虛ろに馮馮す」ただ我武者羅に登って行くの謂いか。

・「陰宕鬱」暗い岩が積み重なっていることか。

・「縹」縹渺で広いことを指すか。

・「盤桓」うろうろと歩き回ること。

・「磷々」美しく輝くさま。

・「皎潔」白く清らかで汚れのないさま。「きやうけつ(きょうけつ)」とも読む。

・「七、八寸」二十一~二十四センチメートルほど。

・「腹心を拱(こまね)くべし」「拱く」は両手で抱えるほどの太さを指す。

・「二尋」「尋」(ひろ)は本邦では五尺或いは六尺であるから、三メートルから三メートル六十四センチメートルほど。

・「穴𥕕」穴の裂けた割れ目のことか。

・「諸々を(けんけい)して配すれば、則ち、九三の乾乾惕若(けんけんえきじやく)の象(かたち)を膺(よう)すか」よく判らぬが、易に基づく八卦から諸相を判断した、相を述べているのであろう。

・「主」宿屋の主人。

・「異にして」如何にも稀な神意と称して。

・「寶曆癸未秋七月廿一日」宝暦十三年。グレゴリオ暦では一七六三年八月二十九日。

なり。長崎白龍大壽、撰し、幷びに書す。

・「通家」「つうか」「つうけ」で昔から親しく交わってきた家。

・「工を命ず」ちゃんと板行することを指示したの謂いか。

・「剞劂」版木を彫ること。

・「天明戊申夏」天明一三(一七八八)年。

・「北島長孝」不詳。識者の御教授を乞う。

 但馬の四箇の山の麓鵜繩村の女が、童を連れて谷筋に入ると、橋の下に長さ七尺ばかりの恐ろしいものがゐる。肝を潰して逃げ歸り、この話をしたところ、この邊の人々は猛獸などは何とも思はぬ手合だから、手に手に得物を携へて出かけた。その者は依然もとの場所に居つて、驚く氣色もなければ、怒つた樣子もない。つくづく見れば、獨角にして手足あり、身體は木の葉の色に金の光りを帶び、畫にかいた靑龍のやうに美しかつたので、思はず手を延べて角を撫でたら、喜ぶやうな風情であつた。その後少し奧の谷川を隔てたところに、凡そ八間ばかりもある白い皮で、金色の光りあるものが脱ぎ捨ててあつた。多分前の咬み龍のものであらうと「閑田次筆」は記してゐる。龍がもし神威を具へてゐるならば、まさに斯の如き者でなければなるまい。單に眼を怒らし、火を吐き、迅雷風烈を放ち出すだけならば、猛虎の好敵手として畫圖の裡に老ゆるより仕方がなからう。見る者に恐怖を感ぜしめぬこの二つの話は、僅かに神龍の名に恥ぢぬものがある。

 

[やぶちゃん注:「但馬の四箇の山の麓鵜繩村」現在の兵庫県養父(やぶ)市鵜縄(うなわ)。(グーグル・マップ・データ)。

「八間」十四メートル五十四センチメートル。

「閑田次筆」伴蒿蹊の「閑田耕筆」に続く作(分化元(一八〇四)年序)。「卷之四 雜話」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。注は附さぬ。

   *

○但馬豐岡の人鷺橋おくれる文に曰、某國氷(ヒ)の山といふは、播磨、美作、因幡に根張ゆゑに、四箇の山ともいへり。登ること五拾丁にして、六十六體の地藏尊あり。靈驗の地といふ。其麓鵜繩(ウナハ)村といふところの女と童二人つれて、草籠負て谷筋に入しが、橋の下に長さ七尺斗のおぞきもの居たれば、魂を消(ケシ)て迯歸り。しかじかのよしを語るに、もとより其邊のものは、猛獸を捉(トル)ことを常とすれば、手ごとに獲物を携へて至るに、彼者驚くけしきもなく、又怒れるさまもなければ、つくづく窺ふに、角一つ手足有て、身は木の葉の色に金の光を帶び、うつしゑの青龍のごとくうつくしければ、橋より下角を撫たるに、喜ぶ風情なりしとなん。此後また少し奧の(タニ)に河を隔(ヘダテ)て、凡八間斗の白き皮に金色あるが脱捨ありし。これもさきの神龍の所爲成べしといひき。惡龍、毒虵の類ひにあらず。治る御代の瑞なるべし。まさにことしの秋の實のりよきも、思ひ合されてたうとしといへり。

   *

柴田が記していない原典の末尾がまさに祝祭の予兆となっているのが、まことに清々しいではないか。柴田は何でこれを記さなかったのかと私はすこぶる不審である。]

小穴隆一 「二つの繪」(23) 「養家」

 

     養家

 

 芥川が芥川家にあづけられ、その父親がさて返して欲しいと引きとりにきた時には、養父は、たつてこの子を連れ戾すと言ふのならば、自分は腹を切つてしまふと言つて芥川を貰つたものだといふ。養父の道章は東京市の土木局長まで勤めた人、芥川が機關學校の職を抛うつて作家としてたつ、そのことには誰の反對もなく、就中伯母富貴のごときはまつさきに喜んで賛成し、(この伯母、紫田是眞に畫を學んだといふやうに聞いた。)作家としてたつ、そこにあらう不安な收入に對しての考へも、うやむやにすぎてゐたといふのが芥川の話である。

[やぶちゃん注:「養父の道章」芥川龍之介の誕生から八ヶ月或いは十一ヶ月後に実母フクが突如、重い精神疾患を発症したために龍之介はフクの実家である芥川家に引き取られた。当時の当主が芥川道章(嘉永二(一八四九)年~昭和三(一九二八)年)で妻をトモといい、道章の妹(龍之介からは伯母)で生涯独身であったフキがおり、龍之介はこの三人によって養育された。芥川家は代々江戸城内に於いて茶道を掌った御数寄屋坊主(すきやぼうず)を勤めた由緒ある家柄であった。道章は俳句の趣味があり、養母となったトモは幕末の大通(だいつう)で森鷗外の史伝でも知られる細木香以(さいきこうい)の姪、フキは一中節(いちゅぶし:江戸浄瑠璃系三味線音楽の源流)の名取であった。所謂、江戸以来の文人趣味が横溢した家庭で龍之介は育ったのであり、それが彼の精神や小説に色濃い影響を与えているのである。私の芥川龍之介「文學好きの家庭から」の本文及び私の注も参照されたい。

「養父は、たつてこの子を連れ戾すと言ふのならば、自分は腹を切つてしまふと言つて芥川を貰つたもの」これは事実のようである。その結果として芥川龍之介は十二歳の時(江東小学校高等科三年生)、明治三八(一九〇四)年に民事裁判の被告となり、五月四日に東京地方裁判所民事部タ号法廷に出廷、裁判長の訊問を受け、同月十日、推定家督相続人廃除の判決を受けた。正式に新原龍之介から芥川龍之介となったのは同年八月三十日のことであった(この日に戸籍謄本から除籍され、芥川道章と養子縁組を本所区役所に提出、養嗣子となった)。それまで、実父敏三が龍之介を芥川家から小賢しい策を弄して取り戻そうとしたことは、芥川龍之介の「點鬼簿」の父の章にも出る。以下に引く。

   *

 

   三

 

 僕は母の發狂した爲に生まれるが早いか養家に來たから、(養家は母かたの伯父の家だつた。)僕の父にも冷淡だつた。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた。僕に當時新らしかつた果物や飮料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだその外にもあつたかも知れない。僕は當時新宿にあつた牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飮んだことを覺えてゐる。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黃色を帶びた飮料だつた。[やぶちゃん注:「槲」は「かし」。樫の木。]

 僕の父は幼い僕にかう云ふ珍らしいものを勸め、養家から僕を取り戾さうとした。僕は一夜大森の魚榮でアイスクリイムを勸められながら、露骨に實家へ逃げて來いと口説かれたことを覺えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎その勸誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。

 僕の父は又短氣だつたから、度々誰とでも喧嘩をした。僕は中學の三年生の時に僕の父と相撲をとり、僕の得意の大外刈りを使つて見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上つたと思ふと、「もう一番」と言つて僕に向つて來た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言ひながら、血相を變へて飛びかかつて來た。この相撲を見てゐた僕の叔母――僕の母の妹であり、僕の父の後妻だつた叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と揉み合つた後、わざと仰向けに倒れてしまつた。が、もしあの時に負けなかつたとすれば、僕の父は必ず僕にも摑みかからずにはゐなかつたであらう。

 僕は二十八になつた時、――まだ教師をしてゐた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向つた。僕の父はインフルエンザの爲に東京病院にはひつてゐた。僕は彼是三日ばかり、養家の伯母や實家の叔母と病室の隅に寢泊りしてゐた。そのうちにそろそろ退屈し出した。そこへ僕の懇意にしてゐた或愛蘭土の新聞記者が一人、築地の或待合へ飯を食ひに來ないかと云ふ電話をかけた。僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた。

 僕等は四五人の藝者と一しよに愉快に日本風の食事をした。食事は確か十時頃に終つた。僕はその新聞記者を殘したまま、狹い段梯子を下つて行つた。すると誰か後ろから「ああさん」と僕に聲をかけた。僕は中段に足をとめながら、段梯子の上をふり返つた。そこには來合せてゐた藝者が一人、ぢつと僕を見下ろしてゐた。僕は默つて段梯子を下り、玄關の外のタクシイに乘つた。タクシイはすぐに動き出した。が、僕は僕の父よりも水々しい西洋髮に結つた彼女の顏を、――殊に彼女の目を考えてゐた。

 僕が病院へ歸つて來ると、僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚折の屛風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した當時のことを話し出した。それは僕の母と二人で簞笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末な話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつか眶(まぶた)が熱くなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり淚を流してゐた。

 僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭も狂つたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が來た。みんな萬歳を唱へろ」などと言つた。僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覺えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から實家へ運ぶ時、大きい春の月が一つ、僕の父の柩車の上を照らしてゐたことを覺えてゐる。

 

   *

因みに私は芥川龍之介の名篇と言われたら、まず、真っ先にこの「點鬼簿」を挙げたくなる人種である。ここには多様な演技とポーズで読者を翻弄した芥川龍之介の、極めて素直な〈詩と真実〉が感じられるからである。従ってここで龍之介が伯母フキ(小穴隆一の本文の「富貴」)を「殊に」「愛してゐた」という言は真実である。なお、写真を見ると、芥川龍之介の親族の中では、この芥川フキが実母フクを除いて(彼女の写真は赤ん坊の龍之介を抱いた一枚しか知らぬが、龍之介似でしかも細面の優れて美形の女性である)最も龍之介の顔立ちと似ていると私は思う。]

 岩波の新書判の芥川龍之介全集は二十卷の豫定であつたのが、奇怪にも葛卷義敏のために十九卷で終つてゐる。僕は葛卷退治の烽火をあげて、芥川の未發表のものの提出を求めてゐるが、現在葛卷が提出する意志を多少示しての證據としてであらうか、時を稼ぐために送つてきてゐるものの中に、昭和十八年八月四日、病歿大伯母富貴の形見タンス中より種々の古文書と共に發見されたものと誌して、ロール半紙に毛筆で書いた作文、(一枚で前後の連絡が無い、)半紙を橫にして書いてゐる明治四十年九月十六日第三學年乙組芥川龍之介稽習の、新年之御慶謹申納候云々のもの、(赤インキで美とついてゐる、)どうさ半紙に畫手本で畫いた毛筆畫のたうもろこし(朱で甲下とついてゐる、この畫の署名は龍之助、龍之助の上に芥川と鉛筆で書加へてある、)があり、この伯母が芥川に持つてゐた愛情といふものをいまさらに偲ばされた。

[やぶちゃん注:太字「どうさ」は底本では傍点「ヽ」。但し、「どうさ」は歴史的仮名遣では「だうさ」が正しい。「どうさ」は「礬水」「礬砂」「陶砂」などと漢字表記し、膠(にかわ)と明礬(みょうばん)を溶かした水のことを指し、これを紙などに引いておいて乾かすと、墨・インク・絵の具の滲み止めとなる。

 前章の注で述べたが再掲しておくと、ここは(小穴隆一に言わせると)第三次全集(新書版。中村真一郎他編。昭和二九(一九五四)年十一月から刊行され、翌年の八月に刊行を終えた全十九巻・別巻一)が全二十巻の予定が十九巻となったのは(後に別冊一巻が加わって全二十巻体裁にはなった)、葛巻義敏が、その所持する多量の未定稿の提出を土壇場になって渋ったせいだった、と読める。葛巻は実際、芥川龍之介の未定稿等を小出しに提示して(悪意を以って言うなら「食い潰しながら」)後代を生きた観があり、芥川龍之介研究家の間では「頗る」附きで評判が悪い。岩波書店刊の「芥川龍之介未定稿集」も、断片を恣意的に繋げたり、義敏が手を加えて辻褄を合わせたと疑われる箇所が散見するもので、一次資料としては甚だ心もとない疑惑のある一冊である。

「ロール半紙に毛筆で書いた作文、(一枚で前後の連絡が無い、)」不詳であるが、岩波編集部宛で送っているのであろうと思われ、小穴隆一も実見している以上、岩波旧全集の初期文章の小学生時代のものの一部であろう。毛筆の作文という叙述からは「大海賊」(明治三五(一九〇二)年四月(推定)。十歳。江東小学校高等科一年)の一部である可能性が高い。新全集後記に同作は『半紙に墨書きである』とあるからである。

「明治四十年九月十六日第三學年」東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の第三学年であり、芥川龍之介十五歳の時である。なお、この年に後に妻となる塚本文と出逢っている。

「稽習」「けいしゆう」で手習い(書道)の稽古のことか。見かけない熟語である。

「新年之御慶謹申納候」「しんねんのごけいきんまうしをさめさふらふ」と読む。年賀状の常套句。「新年の目出度さや慶賀の気持ちをこの書状を以って貴方様に申し納め致しまする」の意。

「畫手本」「ゑてほん」。

「毛筆畫」の「畫」は「ぐわ(が)」。

「この畫」「このゑ」。]

 芥川の養母については、その特色とか話とかいつたものをたえて聞いてはゐないので、僕にはなんとも言へないが、ただ誰とでも融和できる人であつたらうことだけは、生涯嫁にゆかなかつた良人の妹と同居をつづけられてゐたことでも察せられる。

[やぶちゃん注:「良人の妹」夫道章の妹である芥川フキ。]

 僕は昔、月に百何十圓かの金を、自分と妻子の食扶持として養父にいれてゐると芥川から聞いて、腹を切ると、まあ命に賭けて貰つたその芥川から、食扶持をとるといふ養父のことがちよつとのみこめずに、父に話すと、「いちがいに惡くは言へない。年寄といふものは、自分のものを一錢でも餘計に子に殘したい、それで食扶持をとらなければおぢいさんのものが、その儘そつくり子に傳へることができないといふわけで、おぢいさんは食扶持をとつてゐるのではないかね、まあ、年寄といふものはさういつたものだ。」と微笑して言はれたので赤面したが、芥川の死後、芥川の養父が、芥川が使ひ殘りと言つて都度に預けてゐた金が六千圓ぢかくなつてゐた事、深川にあつた土地の價格などを谷口に言つてゐるのを聞いて、またなるほどと慮つたものである。芥川には、てんしんやうしん流の按摩で毎晩三十分伯母の肩を揉むと言つてゐた時代がある。芥川は年寄の皆からも、比呂志君からも、龍ちやん龍ちやんと言はれてゐたので、芥川家ははたからみれば誰の目にも羨しいものにみえてゐた。しかし、僕は芥川が死ぬ話をするやうになつてから聞かせてゐた話で、芥川家が芥川にとつて幸福であつたかといふ疑ひをもつた。芥川の伯母は僕には片目とはみえず、少し眇目だとばかり思つてゐたのだが、芥川の話だと、伯母は兄(道章)に鉛筆と言つたか? なんであつたか、片目をつぶされて嫁にゆかないでゐるうちに、をぢと間違ひを起し、それを恥ぢて生涯よそにゆかずに芥川家に留まつてゐるのだといふことであつた。その話をしてゐたときの芥川には少しも伯母を賤しめてゐる樣子はなかつた。僕は、それではじめて芥川が、「藤村はいやな奴だ、」と言つてゐたその言葉が身にしみた。僕は僕も芥川のやうに芥川の伯母に對しての敬意は持つてゐるが、不幸な生涯を持つた伯母が主になつてゐた芥川家といふものは、(兄である養父より妹の伯母のはうの存在が目だつた芥川家である。)芥川にあつては僕らの想像以上のものであつたらう。芥川はこの伯母に「龍ちやん、おまへは何をしてもいいが、人樣のものに手をだす泥棒猫の眞似だけは決してしておくれでないよ、」と言はれてゐる、つらいことである。芥川の「養父に先きに死なれては、自分にはもう自殺ができなくなる、」と言ふ言葉にも考へさせられる。伯母は芥川の死後に發表された芥川の伯母に對する不滿のものに、口惜し顏をこぼしたであらうが、芥川がこぼしてゐる淚にもこれまた共に泣くよりほかはない。芥川は死ぬとき二度もこの伯母の枕もとにいつてゐる。

[やぶちゃん注:太字「をぢ」は底本では傍点「ヽ」。

「てんしんやうしん流」按摩の流派名らしい。「てんしん流」や「うしん流」か? 「天心」「有心」か? 但し、このような按摩の旧流派は知らない(「旧」としたのは、ウィキの「按摩」によれば、現在は按摩師が流派を名乗ることは各種法令で禁止されているらしいからである)。

「をぢと間違ひを起し」この「をぢ」とは誰なのか? 素直に読むならフキから見た「おぢ」、則ち、道章やフキの父である芥川俊清、或いは、母フデの兄弟ということになるのであるが、これは私の所持する系図資料では全く遡れない。しかし、小穴の悪文はより忌まわしい憶測の読みをも可能にしてしまう。私は敢えてそのトラップは避けて通ることとする。それはあまりにも忌まわしく、考え難いことだからである。

『芥川が、「藤村はいやな奴だ、」と言つてゐた』芥川龍之介が「侏儒の言葉」の遺稿分の一節、『「新生」讀後』で(リンク先は昨年私がブログで完遂した、「侏儒の言葉(やぶちゃん合成完全版)」の各個分割・附やぶちゃん注釈の一本)

   *

 

       「新生」讀後

 

 果して「新生」はあつたであらうか?

 

   *

とあっけなく突き放していることは、頓に知られたことである。私も人間としての藤村は大々大嫌いである。

「芥川は死ぬとき二度もこの伯母の枕もとにいつてゐる」二十四日の午前一時頃に伯母フキに下島宛の例の辞世の句の短冊を預けに行っており、芥川龍之介が意識のある状態で最後に逢って言葉を交わしたのは恐らく彼女であったと考えてよい。二度というのは小穴のみの証言であるが、これは先の「Ⅳ」(章名)の中の「Ⅳ」(章内見出し)の冒頭の、

   *

 七月二十三日、芥川の伯母さんの考へでは午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた。

「――タバコヲトリニキタ、」

   *

で、これはそちらでも注したが、よく考えると、リアルで自然で腑に落ちる。事実であろう。]

 芥川はまた實家の姉と弟、葛卷ひさと新原得二とは義絶をせよと妻子に書置してゐる。芥川は兄弟との間にもめぐまれてゐなかつた。姉はともかくとして新原のことは、「弟は上野の圖書館に道鏡のことが書いてある本がある、それで不敬罪だと言つて宮内大臣を訴へてゐる。僕の弟はさういふことばかりしてゐて困るのだ。」などとこぼしてゐる。芥川夫人の叔父である山本喜譽司さんの手紙によると、

〔小生と芥川とは中學、高等學校の頃の友達で芥川と私と、そしてもう一人平塚(これは〝吾が舊友〟と題した雜文中で出て來ます)が中學校で友達で、この三人が各々發狂した母を持つたと言つた奇緣で一つのグループを成しておりまして、この三人の間の話や手紙は鬼氣を帶びてをりました〕(岩波新書判十卷二〇七頁、學校友だち參照)といふ。芥川がどれだけ不幸な星の下に生まれた人間であるか、またそのために出來あがつた芥川の性格といふものがここにも考へられるといふものである。

[やぶちゃん注:冒頭部分は 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の芥川文宛遺書を参照されたいが、現存しない失われた指示の恐らくは第三番目の条である。

「〝吾が舊友〟と題した雜文」大正一四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に掲載された「學校友だち ――わが交友錄――」の誤り。以下に山本と平塚の部分(繋がってはいない)のみを引く。底本は岩波旧全集を用いた。

   *

 山本喜譽司 これも中學以來の友だちなり。同時に又姻戚の一なり。東京の農科大學を出、今は北京の三菱に在り。重大ならざる戀愛上のセンティメンタリスト。鈴木三重吉、久保田万太郎の愛讀者なれども、近頃は餘り讀まざるべし。風采瀟洒たるにも關らず、存外喧嘩には負けぬ所あり。支那に棉か何か植ゑてゐるよし。

   *

 平塚逸郎 これは中學時代の友だちなり。屢僕と見違へられしと言へば、長面瘦軀なることは明らかなるべし。ロマンティツクなる秀才なりしが、岡山の高等學校へはひりし後、腎臟結核に罹りて死せり。平塚の父は畫家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅の地藏尊を見しことあり。病と共に失戀もし、千葉の大原の病院にたつた一人絶命せし故、最も氣の毒なる友だちなるべし。一時中學の書記となり、自炊生活を營みし時、「夕月に鰺買ふ書記の細さかな」と自みづから病軀を嘲りしことあり。失戀せる相手も見しことあれども、今は如何になりしや知らず。

   *

夭折した友人「平塚逸郎」(ひらつかいつらう(いつろう) 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)の条は同作の掉尾に置かれてある。一読忘れ難い名品「彼」の主人公こそはこの平塚逸郎である(リンク先は私の注附きテクスト)。

「この三人が各々發狂した母を持つた」私はこの記事で山本と平塚の母のそれが、芥川龍之介を含めた三人を結びつけたということを初めて知った。]

 臍の緒の包であるかなにか、芥川夫人の手で棺にいれられたものには橫尾龍之助と書いてあつた。幸か不幸かあれだけの大勢の人達が集つてゐたなかで、僕一人がそれをみた。僕は芥川龍之介が橫尾龍之助でもなんでも、とにかく僕の知つてゐる、僕と言葉をまじへてゐたその人間が死んで腐りかけてゐるのは確かに見た。それで滿足してゐる。橫尾そのといふ婦人の詮議は、東京新聞の田中君から聞いた。

 

 僕はここで一寸芥川の出生に關した種々の傳説に就いて、一應僕の腹の中にあることを正直に言つておきたい。(田中君は芥川の生母は橫尾そのといふ説を持つてゐて、十月六日の東京新聞に我社の調べるところによればと書くべきところを、僕の名を利用し、僕の説として書いてゐる。東京のまん中にある新聞社の記者にあるまじき行爲である。田中君は、八月七日の芥川龍之介の遺書モメるの記事の取扱ひかたの失敗のあせりから、社には御奉公、僕には、「私が書けば先生の本の廣告にもなりませう、」と言ふをかしな考へで、十月六日に馬鹿げた記事を載せ、さうして、その記事によつてあちこちに迷論を書いてゐる諸先生の記事を、また丹念に大學ノートに貼りあつめて、それを僕のところに持つてきて、其後ニュースはありませんかと來てゐるといつた、未ださういふ若い記者である。田中説またこの同類の説に對する僕の意見はこの章の終りに述べる。)

[やぶちゃん注:「十月六日」本書刊行の前年の昭和三〇(一九五五)年十月六日。以前に注したが、同日附『東京新聞』が(記者の田中義郎が、というべきか)、『芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表』『母親は横尾その、実家新原牧場の女中』というフライング記事を出したことを指す。

「八月七日の芥川龍之介の遺書モメる」当然、文脈から言えば同じ昭和三十年としか読めないがこういう『東京新聞』の記事は私は未見である。識者の御教授を乞う。]

 僕は靑池がをぢと姪との間にできた子で、靑池はその母親を姉さんと言つてゐるといふことを芥川から聞いてゐたが、(「手帖にあつたメモ」參照)畫を畫いてゐて僕のところに出入りしてゐたその靑池とは、一度もさういふことの話をしたことはなかつた。この靑池は芥川が死んだ時に芥川のところで、弔問にきてゐたその母を「姉です、」と言つて一度僕に紹介した。

[やぶちゃん注:「靑池」「手帖にあつたメモ」で小穴隆一は「靑池は芥川の親戚、をぢと姪との間に生れて、生母を姉さんと言つてゐた男、畫かき志望であつたが若くて死ぬ。」と書いている人物であるが、そこで注した通り、不詳。再度言っておくと、旧全集の宮坂覺氏の人名索引にも新全集の人名索引にも出ない。ここに書かれた内容からも、この芥川龍之介の親戚の「靑池」なる謎の人物、かなり、相当に、気になる存在である。何か情報をお持ちの方は是非、御教授を願う。

 僕は芥川から、伯母がをぢとの間でをかしたその過失を聞かされたときに、靑池のこともあり、あちこちの話に全くしゆんとなつてしまつた。

 僕は棺の蓋に釘をうつ眞際に、芥川夫人がさしいれたものの上書にあつた橫尾龍之助といふ文字をみて、芥川が〔僕等人間は一事の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。〕〔僕はこの養父母に對する、「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。今、僕が自殺るのも一生に一度の我儘かも知れない。〕と言つてゐたそれにはなんの誇張もなかつたのだといふことをはじめて知つた。僕が芥川に芥川の伯母の祕密をうちあけられた時の狼狽、また、芥川の棺の中にはいつた紙包の上書に、橫尾龍之助といふ文字を突然に見た、この重なる驚きといふものを誰れが知らう。

[やぶちゃん注:以上の引用は遺書の小穴隆一宛のそれからの抜粋であるが、「一事」は「一事件」の誤りで、「僕はこの養父母に對する」の後の読点はない。リンク先の私の復元版で確認されたい。]

 僕には芥川が健在の時から、なぜ芥川は長男でありながら芥川家へ入籍してゐるか、といふ疑問があつた。僕は昭和八年に(「二つの繪」昭和七年十二月號、八年一月號、中央公論掲載)葛卷から「年寄に聞いたら橫尾といふ、さういふ女中が昔ゐたことはあるにはあるといつてゐましたが、よくわからないさうです、」とただそれだけは聞かされてゐる。その後今是至るまでには、世間の人達からの橫尾説、松村説も耳にしてはゐるが、僕の目は耳は嗅覺は、捨子の形式をとつたとか、芥川は女中の子であるとかいふ話などは受けつけてはゐなかつた。僕は芥川の母は、新原敏三の妻となつた芥川フクか、その姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキか、この二人のうちのいづれかであらうとみこんでゐる。僕がみてゐるかぎり芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない。新原敬三がもし芥川家以外の女に生ませた子であるならば、芥川はあの芥川といふやうな人間とはちがつた人間であつたらうと思ふ。芥川の弟の得二は、判で押したやうに新原敏三に似てゐるが、芥川のはうは、これはまた、判で押したやうに芥川家の娘フク、フキに似てゐるのだ。同じく疑ふにせよ、僕の疑ひかたは全然人とは違つてゐるのである。

[やぶちゃん注:「松村説」不詳であるが、これは芥川龍之介の誕生した折り、実父新原敏三が後厄(数え四十三)、実母フクは前厄(数え三十三)であったことから、「大厄の子」とされ、旧習に倣って家の筋向かいにあった教会に捨て子する形式を採っているのであるが、その〈拾い親〉の役を演したのが、当時の敏三の部下で耕牧舎日暮里支店の経営者であった「松村」浅次郎であったことから生じた誤認ではあるまいか?

「僕は芥川の母は、新原敏三の妻となつた芥川フクか、その姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキか、この二人のうちのいづれかであらうとみこんでゐる。僕がみてゐるかぎり芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない」ここでも小穴隆一はまたまたトンデモないことを言い出していることに気づかれたい。「芥川の風貌骨格は、芥川家の風貌骨格性格で新原家のそれではない」ということは芥川フクが生んだとしてもそれは新原敏三のタネではないということである。「姉のフキ、芥川が伯母と言つてゐたそのフキ」が芥川龍之介の実母だとしたら、父は誰なのか? ここまでの小穴隆一の意味深な叙述からは近親相姦まで仄かに匂わせてきたりしているわけで、開いた口が塞がらぬ。そうした肝心の部分をブラック・ボックスにしておいて、こんなゆゆしきことを平気で書いてしまってしかも平然としていられる小穴隆一というのは、やはり芸術家にありがちな、かなりアブナい非社会的性格の持ち主であると言わざるを得ないのである。]

 芥川は「新生」を書いてゐる藤村を輕蔑してゐた。さうして「暗夜行路」を書いた時任謙作の志賀直哉には頭を垂れてゐる。麻素子さんと帝國ホテルで死ぬはずであつた芥川が、驅けつけた僕に聞かせてゐた志賀禮讃の長時間にわたる壯烈で血を吐くやうな言葉の數かずは、僅かに、「或阿呆の一生」のなかの「家」に、

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

としか書けなかつた芥川の言葉とあはせて考へると、芥川の志賀跪拜は單に文學上のことだけと解してゐるわけにはゆかない。芥川は小説家としてすごすには義理人情に脆すぎた。芥川は志賀に對して天衣無縫といふ言葉を使つてゐた。しかし、その天衣無縫といふことばを言つてゐる芥川の悲しさを僕は思ふのだ。

[やぶちゃん注:『「或阿呆の一生」のなかの「家」』の引用は正確。私の古い電子テクスト「或阿呆の一生」の「三 家」を参照されたい。]

〔今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。〕はまこと哀れな芥川のレジスタンスである。

 僕は、芥川が死んでから三十年にならうとする今日まで、芥川といふものを一人で嚙みしめてゐるが、歸するところは、僕には、芥川といふああいふ人間を産める女は、芥川が伯母と言つてゐたその人以外とは到底考へられないのだ。

[やぶちゃん注:断定ときたもんだ! こりゃ、酷い!

 山本喜譽司さんの手紙の續きは、

 

(平家は高等學校の時死去しました)その間で私と芥川とは又性生活の點でお互に祕密を知り合つていたと言ふ特殊事情がありました。こんな具合でしたから芥川の手紙を特に保存してあつた事も芥川の文名に影響された譯では無く、自分と言ふものがいとしい爲にいつとは無し、破り去る可きものを破らずに來たものです。今はとうに灰に致す可きものでしよう。氣がおちついている時にその擧に出る積りでおります、御承知の樣に當時私と一緒に住まつていた未亡人文子が現存している事も發表えの一つの障得であります。一つ飛び越えれば何でも無い事でしようが氣の弱い私には堪え難い事です。(以下略、原文のま寫)[やぶちゃん字注:私の電子化も表記は底本のママ。]

 

となつてゐる。山本さんは、若き日の芥川から、出生についての話を聞いてゐるのかも知れない。僕は僕の意見をもつと具體的に述べてみるべきかも知れないが、畢竟これはどこまでも僕一個の意見であるにすぎない。さうして、この僕の考へもまた多くの人の考へかたと同樣に正しくないのかも知れない。芥川は死んでゐる。が、芥川の書いたものは今日なほ多くの人に讀まれてゐる。芥川を輕蔑する人もあらうが、愛着を感じてゐる人もあらう、僕にはただそれでよいのだ。ただ僕が芥川のために淚をそそぐのは、芥川が西歐の文明に目ざめながら、多分にもつてゐた古い東洋の人間の殼を尻からとれずに、吹ききれる壁が吹ききれなかつた點である。「河童」などといつたものは屁のかつぱでゆけなかつた事である。

[やぶちゃん注:「私と芥川とは又性生活の點でお互に祕密を知り合つていたと言ふ特殊事情」これまた小穴隆一張りの意味深長な謂いである。後で「未亡人文子が現存している事も發表」へ「の一つの障得であ」ると言っている点では、一見、大正三(一九一四)年の大学一年の時に恋し、芥川家の総反対によって失恋した吉田弥生のことのようにも読めるが、そうではなく、私はこれは、もう少し前からの山本喜誉司と芥川龍之介の二人の同性愛傾向、更に言えば、両者の個人的同性愛関係を指すと断定出来ると考えている。いや、私は芥川龍之介の同性愛傾向はこの筆者小穴隆一にも向けられていると考えているのである(前にも出た彼の切断した足を龍之介がフェティシュに撫でたがるシーンを想起されたい)。だからこそ、それを認識していた小穴隆一は敢えてその内実に踏み込めなかった、だから本作がこんな朦朧文体となった(小穴の悪文性とは別に、である)とも言えるように感ずるのである。]

 

 帝京新聞の田中君には家ダニ(奇怪な家ダニ參照、)を扱ひかねた。それで話を中途から橫道に持つてゆき、橫道義郎となつて、はじめ持つてゐたその女中説を僕の名を利用して、十月六日の記事にする馬鹿な眞似をした。田中君はそれまでに十囘も僕のところに來てて、僕の考へを充分に知つてゐながら「さういふ眞似をした。さういふ眞似をせざるを得なくなつたのであらう。僕は新聞記者としての若い田中君の立場には同情するが、田中君が種本に使つた福田恆存の「作家論」、田中君が眞新しい本を持つてきて、手にとらうともしない僕に頁を繰つて、ここを讀んで下さいと勢こみ指でちよんちよんとさしてゐた「作家論」を手を觸れずに持つてゐる。僕には中途から田中君のたくらみがわかつてゐたので、頑強に手にとらず、田中君が充分面白い指紋のつけかたをしてくれてゐるのを見てゐたのである。田中君には僕のその腹がわからなかつたのであらう。田中君が「作家論」を僕に呉れていつたことの證人は、僕の女房のほかにもあることは田中君が知つてゐる。僕はなほこれ以上の面白いことを書いて、田中君及び東京新聞の名譽を傷けようとも思はない。田中君は田中君の記事によつてあちこちの人に儲けさせた人である。但し、僕はさういふただ儲けさせて貰つた人達の記事について何か書けといはれても、田中君は根が正直な人だから、田中君に賴むがよからうと返事をしてゐるのである。

[やぶちゃん注:「家ダニ(奇怪な家ダニ參照、)」「奇怪な家ダニ」は本書の最終パート。「家ダニ」=「奇怪な家ダニ」とは芥川龍之介の甥葛巻義敏のことである。

『田中君が種本に使つた福田恆存の「作家論」』私は福田のそれを所持せず、読んだこともないので、どこをどう、この芥川龍之介私生児説に使ったのか判らぬ。識者の御教授を乞う。]

柴田宵曲 妖異博物館 「狸の火」 パート「Ⅰ」~了

 

 狸の火

 

 刊本「想山著聞奇集」の外に「想山奇著聞集」といふ紛らはしい書名のものがあつて、寫本のまゝで傳はつてゐる。提燈小僧の話はこの中に出て來るのである。

[やぶちゃん注:「想山著聞奇集」は現代仮名遣で「しょうざんちょもんきしゅう」と読み、江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作。動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年の板行。将来的に電子化注を試みたい作品である。

「想山奇著聞集」余りにも似過ぎており、別本とは思われないので調べて見たところ、所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)の「想山著聞奇集」の方の織茂三郎氏の解説に、『写本には、ほかに『想山奇著聞集』と題する一冊本が、無窮図書館(東京都町田市)にあるとのこと。しかし、まだ管見に入っていない』とあるのを見出した。活字化しようという編者が見てないくらいだから、見られないし、活字にもなっていないのであろう。ネット検索でも掛かってこない。柴田の言うように「想山著聞奇集」の方にはそれらしいものはない。]

 何故これを小僧といふのかわからない。本所の石原邊から割下水邊まで、十餘町四方のところに出る化物で、小田原提燈が一つ、自分の前三四尺乃至一二間のところを行く。追へば忽ち消え、振返るともとの通りうしろに在る。此方が歩き出せば、またついて來る。前後左右、自在に出沒するので、正體は結局不明である。本所の七不思議の一つである送り提燈と同じものであらう。

[やぶちゃん注:「石原」「いしはら」。但し、現在の東京都墨田区石原は「いしわら」と読むここ(グーグル・マップ・データ)。

「割下水」南割下水。個人サイト「夢酔獨言」の「本所割下水」が判り易い。前の地図と以下のスケールを援用すると、提灯小僧の出没する大まかな地域が判る。

「十餘町四方」十町は千九十メートルであるから、最大でも千七百四十五メートル四方ほどになるが、現在の石原の長辺が千四十メートルほどであるから、千百メートル四方で採るのが無難か。そうすると柴田の言に従うなら、北の春日通り、南の総武本線をそれぞれの一辺とする正方形の地域を提灯小僧出現領域と考えてよいのではあるまいか?]

 かういふ化物は本所だけには限らなかつた。能登の七尾には燐火の話がいろいろあつて、闇夜茸といふ茸などは、二三本提げて歩くと、三四尺四方は晝のやうに明るい。提燈代用になる便利なものであるが、煮て食へば多く吐瀉するといふ。夜網を打ちに出た人が、水面に落ちた鬼火にざぶと打ちかけると、忽ちに數千萬の小さな光り物となり、網の目を洩れて空へ飛び出した。その樣恰も螢の散亂するやうであつたが、二三丈上つてまた固まり、一團の火となつて飛び去る、といふやうな氣味の惡い話もある。「三州奇談」はこの話に次いで、すゝけ行燈の事を述べてゐる。

[やぶちゃん注:「闇夜茸」は「やみよたけ」と訓じておく。発光性を持つキノコとしては、一般に目にすることの多いものでは、かなり強い毒性を持つ月夜茸(つきよたけ:菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱ハラタケ目ホウライタケ科ツキヨタケ属ツキヨタケ Omphalotus japonicus があるが、本種が発光するのは傘の裏側の襞部分だけで、無論、言わずもがな、「三四尺四方」(九十一センチから一メートル二十一センチ)も明るくなることなどは絶対にあり得ない。後者の生物はもっと判らない。空中に上る以上、ウミホタルなどではないし、原典の筆者がわざわざ「螢」を出している以上(後注の国立国会図書館デジタルコレクションのリンクを参照されたい)、ホタルではないということなのだが、交尾行動をとる際の♂ホタルは想像を絶する群れを成して発光し、活発な飛翔を行うので、ここはそれで解釈は可能のようにも思われる。但し、原典では「汀」「鰡魚」(ぼら)(同前参照)とあるから、海浜或いは河口附近で、これだと、ホタルへの同定はちと苦しくなる

「その樣恰も」「そのさま、あたかも」。

「二三丈」約六・一~九・一メートル。

「三州奇談」これは残念ながら、「續三州奇談」の「六之卷」の「七尾網ㇾ燐」(七尾に燐を網す)に出るもので、私は正編しか持たないのだが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で次の「すゝけ行燈」も含め、全条を視認出来る。思ったより、かなり長い記載である。]

 これは安樂寺といふ寺の前から、寺町へかけて出るもので、毎年四五度は驚かされる人がある。煤びた角行燈の如き灯で、地上五七尺より高くは上らぬ。人が行き違ふ時は暫く消え、去ればまた灯る。また人によつては火が飛び越すこともある。先づ提燈小僧の同類と見てよからう。多くは雨夜に現れるので、「狸貉の類の火と覺ゆ」とある。

[やぶちゃん注:「狸貉」「たぬき、むじな」。]

 七尾の大野といふ家は、怪しい燈が出るので化物屋敷と云はれた。影のやうな人が怪しい燈をともして、屋敷の中を通るので、それを目撃した下女は、庭藏の前で氣絶した。四角な提燈のやうな火が、地上一尺ばかりのところを行くと思つたら、靑い顏をした四角な人が、積んである薪の中に入りました、多分まだあの中に跼んでゐるでせう、といふのである。下男が力を合せて薪を取り除き、家の中隈なく搜したが、何も見當らなかつた。この家は火災の後に建てたので、大野の主人が鄰人の言を聞いて、古木古石の類を取り寄せ、邸内を古めかしいものにしたら、化物も住みよくなつた爲か、その後は怪しい灯も出沒せず、化物屋敷の噂も自然消滅した。

[やぶちゃん注:以上はやはり「續三州奇談」の「六之卷」の「怪飜銷ㇾ怪」(怪、飜りて怪を銷(け)す」の一節。同じく、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

 

「跼んでゐる」「かがんでゐる」。]

 狐火の話は多いが、狸火の方はあまり聞かない。「諸國里人談」や「攝陽落穗集」に見えた攝津國東多村鱣畷(うなぎなはて)の燐火は、人の形を現し、時には牛を牽き火を携へて行くこともある。これを人間と心得て、その火を乞うて煙草をのみ、話しながら行つたりするのに、尋常の人と變ることなく、人に害を與へるといふ噂もなかつた。多くは雨の夜に出るので、土地の人は狸火と解してゐるさうである。

[やぶちゃん注:「攝陽落穗集」江戸後期の浮世絵師で作家でもあった浜松歌国(安永五(一七七六)年~文政一〇(一八二七)年)の地誌風随筆。文化五(一八二二)年自序。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典籍総合データベース」のここで全巻読めるが、影印。労多くして読む人も少なかろうから、当該項を捜すのは諦めた。御自身でどうぞ。

「東多村鱣畷」現在の兵庫県川西(かわにし)市東多田(ひがしただ)附近らしい。

「諸國里人談」前の「怪火」で引いた「卷之三」の怪火条々の中に現われる「狸火」である。同じく吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○狸火

攝津國川邊郡東多田村の鱣畷に燐あり。此火、人の容あらはし、ある時は牛を牽て火を携へ行なり。これをしらぬ人、其火を乞て煙草をのみて相語るに、尋常のごとし。曾て害をなさず。おほくは雨夜に出るなり。所の人は狸火なりと云。

   *]

「兎園小説」に擧げた小右衞門火は大和の話で、百濟の奧壺といふ墓所から、新堂村の小山の墓へ通ふ。大きさは提燈ほどで、地を離るゝこと三尺ばかり、雨のそぼ降る夜は別して多いといふのだから、先づ似たものであらう。奧壺と小山との距離は四十町ばかりであるが、松塚村の小右衞門といふ百姓、この火を見屆けようとしてやつて來ると、火は北から南をさして飛んで行く。小右衞門は南から北へ向いて歩いて來たので、火は小右衞門の前まで來ると同時に、急に高く上つて小右衞門の頭の上を飛び越した。その時流星のやうな音が聞えたが、頭の上を飛び越すと、また以前の如く、地上三尺ばかりのところを飛んで行つた。

 一説によれば、この時小右衞門が杖で打つたので、數百の火となつて小右衞門を取り卷いた。漸く枚で打ち拂つて歸つたが、その夜から小右衞門は病氣になつて死んだ。よつて小右衞門火と名付くとある。「この事凡そ百年ばかり以前にもなるべし」はいさゝか漠然としてゐるが、兎園會の催された文政八年から逆算すると、享保年間の話らしい。その後年を經るに從つて、火の大きさも稍々減じ、出ることもだんだん稀になつた。小右衞門が死んでから、人が恐れて近寄らぬためであらうか、今は遠くからでは見えぬ。もしたまたま見える事があつても、螢火ぐらゐの大きさで、それかあらぬかといふほどになつた、といふ後日譚まで書いてある。小右衞門が杖で打ち、それより病を獲て死んだから、小右衞門の名を負ふやうになつたが、火は無論それ以前からあつたので、恐らく名なしの怪火だつたのであらう。

 本所の提燈小僧以下、列擧したこの類の灯を、全部狸の所爲と片付けていゝかどうか、固より疑問に屬する。暗闇の中にぽつんと現れ、生物の如く自在に動いて、且つ高く上らぬあたり、何となく狸らしいところもある。

   こがらしや宙にぶらりと狸の火 隨古

といふ句は場合がはつきりせぬが、上來の例に照らして考へれば、或點までわかりさうな氣がする。

[やぶちゃん注:「兎園小説」(とゑんせうせつ(とえんしょうせつ))は江戸後期の曲亭馬琴らの編になる好事家の集会「兎園会」の記録や考証を集録した一種の随筆アンソロジー。正編は十二巻であるが、好評につき、他に外集・別集・余録など九巻が続く。文政八(一八二五)年成立。

「小右衞門火」は「兎園小説 第八集」(乙酉(文政八(一八二五)年)秋八月の会合記録)の「竜珠館」(「りょうしゅかん」と読むか。本所三つ目通り富川町に屋敷を持つ禄高千二百石の旗本桑名修理の雅号)の報告記録計三本の内の二番目。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。

   *

   ○小右衞門火

大和國葛下郡松塚村は東西に川あり。西を大山川といふ。此堤に陰火出づ。【出でし初は、いつの頃よりといふを知らず。】土俗は小右衞門火といふ。百濟の奧壺といふ墓所より、新堂村の小山の墓といふへ通ふ火なり。雨のそぼふる夜は分けて出づ。大さ提燈程にて地をはなるゝ事三尺計といふ。奧壺より小山迄は四十町計にて、松塚の面の端は其やしきなり。同村に小右衞門といへる百姓、此火を見とゞけんとて彼所に至りけるに、火は北より南をさして飛び行く。小右衞門は南より北に向ひて步みよりたれば、此火、小右衞門が前に來るとひとしく、急に高くあがり、小右衞門が頭の上を飛び越ゆるに、流星の如き音きこえたり。頭を越ゆると、又以前の如く地を去る事三尺計にて行き過ぎぬ。一説に、此時小右衞門、杖にて打ちければ、數百の火となりて、小右衞門を取り卷きけるを、漸杖にて打ち拂ひ歸りたりといふ。其夜より小右衞門病を發して死す。因りて小右衞門火と名づく。此事凡百年計以前にもなるべし。

此火、年をふるにしたがひて、火の大さもやゝ減じ。出づる事も次第に稀になりたり。小右衞門死してより、人恐れて近く寄らざる故にや。今は遠望にては見るものなし。若たまたま見ゆる時は、螢火計の大さにて、夫かあらぬかといはん程なりといへり。

  此松塚村は、我食邑ゆゑ土俗の物語を能々尋ねきゝたるまゝに書せり。

   *

末尾の二字下げはママ。以下、オリジナルに語注を附す。

・「大和國葛下郡松塚村」「葛下」は「かつげ」と読む。明治後期に北葛城(きたかつらぎ)郡となった。現在の奈良県大和高田市北部の葛城川右岸の大字松塚地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「東西に川あり。西を大山川といふ」遙か北方で分流した曽我川で、現在は東のそれを曽我川、西側のそれは葛城川と呼称しているようである。

・「百濟の奧壺」「くだらのおくつぼ」であろう。不詳であるが、現在の松塚の北の端から約一・四キロメートルの直近の北葛城郡広陵町百済に三重塔で知られる百済寺があるから、この近辺の旧地名であろう。識者の御教授を乞う。

・「新堂村」不詳。ただ、旧葛下郡には「新庄村」「笛堂村」があった。この孰れかの原典の誤記ではあるまいか? 以下の不祥の「小山の墓」が同定出来れば、この疑問も解消する。やはり識者の御教授を乞うものである。後の「松塚の面の端は其やしきなり」とは、松坂村の恐らく南面(みなみおもて)の端の部分は小山村の屋敷森と接している、というような意味ではあるまいか? とすれば「新堂村の小山の墓」なるものは、旧松村の南方(現在は橿原市曲川町)に存在したという一つの仮定は出来そうに思われる。また、別に「小山の墓」という呼称は何らかの古墳の呼称のようにも思われる。奈良は私のテリトリーではないので、ここまでである。やはり識者の御教授を乞うものである。

・「分けて」特に。

・「三尺」約九十一センチメートル。

・「四十町」約四・四キロメートル弱。

・「百年計」(ばかり)「以前」。柴田も計算しているが、報告が文政八(一八二五)年であるからその百年前は一七二六年で、享保十一年頃ということになる。

・「我食邑」「わがじきいふ(ゆう)」と読んでおく。報告者桑名修理が年貢を受ける知行所(村)のことである。

・「獲て」ママ。「えて」(得て)。死んだから、小右衞門の名を負ふやうになつたが、火は無論それ以前からあつたので、恐らく名なしの怪火だつたのであらう。

 

「こがらしや宙にぶらりと狸の火 隨古」作者は湯浅長松庵随古(ずいこ:享保五(一七二〇)年~安永元・明和九(一七七三)年)は京の俳人で与謝蕪村の師であった早野巴人(はじん 延宝四(一六七六)年~寛保二(一七四二)年)の門下。明和六(一七六九)年には明和三~四年に京で巻かれた連句集「平安二十歌仙」(かの江戸の炭太祇(たんたいぎ)及び京の三宅嘯山(しょうざん)との三吟。蕪村が序を書いている)を板行している。この句は同じ柴田宵曲の「俳諧博物誌」(昭和五六(一九八一)年日本古書通信社刊)にも出る。一九九九年岩波文庫刊のそれから評釈とともに引いておく(新字新仮名)。

   *

 

  こがらしや宙にぶらりと狸の火   随古

 

 狐火はいろいろなものに出て来るが、狸の火はあまり聞いたことがない。『古今著聞集』に、水無瀬(みなせ)の山に古池があって、そこでしばしば人が取られる。北面(ほくめん)の武士(ぶし)薩摩守仲俊なる者が、小冠者(こかんじゃ)一人に弓矢を持たせ、自分は太刀だけ携えて闇夜にそこへ出かけると、池の中が光って何者か松の上に飛び移る。弓を引こうとすれば池に飛び返り、弓を外すとまた松に移る。近づいたのを見たら、その光の中に老婆の笑顔がある。この光物の正体が狸であったという話が書いてある。久米邦武博士の「狸絡同異の弁」の中にも、初(はじめ)は糸車を廻す音が聞えるだけであったのが、後には薄ぼんやりした灯のところに誰かがおって、糸車を廻すという話になったと見えている。「宙にぶらり」と現れる狸の火は、恐らく前の光物の類であろうが薄ぼんやりしたものであったろう。この特異な句を以て狸の打止(うちどめ)とする。

   *

 なお、以上の「狸の火」を以って「妖異博物館」のパート「Ⅰ」は終わっている。]

2017/01/15

小穴隆一 「二つの繪」(22) 「橫尾龍之助」

 

     橫尾龍之助

 

[やぶちゃん注:以下、次章「養家」とともにある意味本書のハイライトの、芥川龍之介を私生児或いは呪われた不義密通の子とすることを濃厚に匂わせた実名暴露のスキャンダラスな記事である。現在ではこの説は否定されており、顧みる研究者はおらず、また、小穴隆一はこれによって決定的に芥川家との関係が疎遠となり(但し、本文注で述べたが、姓を伏せた状態で先行する昭和一五(一九四〇)年刊の「鯨のお詣り」にも同内容のことを書いてはいるから、その辺りから既に芥川家とは上手く行っていなかったと思われる)、芥川龍之介研究者からも黙殺されるようになってしまったイワクツキの二章である。この説の顛末は本文内の注で示す。]

 

〔夏の日四日も棺のなかにおかれた人の顏を、永遠に形を失ふ前の彼の顏を見たいといふのか。死體から立つ臭氣と撒かれた香水のにほひに、〕といふ描寫があるが、谷口(喜作)が「ことによると目玉が暑さで流れてゐるかも知れない、」と言つて家族がおわかれをするその前に、僕と竹内仙治郎(芥川家の親戚)が棺のなかを改めることになり、谷口が立つて頭のほうへまはり、南無妙法蓮華經と大聲で唱へながら蓋に手をかけて、「あ! だめだ。」とわめいたときに茶間から廊下づたひに急ぎ足できた夫人が、「忘れもの、」といつてすうつとさしいれた(谷口は蓋の頭のはうを一尺ばかり持ちあげてゐた、その間にいれたのでさしこんだといふよりなげこんだといふかたちであつた。)臍緒の包に(臍緒の包であらう)一字一寸角もあらうかとみえた橫尾龍之助といふ文字をみた。――僕は昭和十五年に『鯨のお詣り』を刊行してゐるが「二つの繪」のところは目にすることもいやであつた。さうして今日になつて、〔彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之助、〕と書いてあるその誤りに驚いてゐる。このまちがひは昭和七年に、中央公論に書いてゐた當時の、僕の精神の硬直からきてゐたもので、本のときにそのまま橋本(政德)君まかせで訂正しておかなかつた。――

[やぶちゃん注:「谷口(喜作)」既出既注の和菓子屋「うさぎや」と当時の主人。一説に芥川龍之介の葬儀を取り仕切ったともされるが、このシークエンスを見るとそれも腑に落ちる。

「竹内仙治郎」芥川龍之介の伯父(実母フクの兄)で、養父芥川道章の弟(その関係では龍之介の叔父に相当する)であった芥川顯二(大正一三(一九二四)年に死去している)の養子であった竹内仙次郎のことと思われる。因みに彼は芥川の実家であった新原家の女中であった吉村ちよ(明治二九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年:長崎県五島の生まれ)と結婚している(大正一一(一九二二)年四月。但し、たった四ヶ月で離婚し、龍之介の義兄西川家(龍之介の実姉ヒサの二番目の夫で例の鉄道自殺した弁護士)の女中となった。何で、場違いなこんなことを書くか? だって、何を隠そう、この吉村ちよこそが芥川龍之介の初恋の相手であったからである。

「臍緒」「へそのを」。

「『鯨のお詣り』の『「二つの繪」のところ』とは「二つの繪」パートの『彼に傳はる血』という章を指す。ここでは当篇で「橫尾龍之助」とある箇所が、総て『○○龍之助』と伏字となっている。例によって小穴特有の妙に勿体ぶった表現でちょっとわかり難い方もあろうが、要は小穴隆一は、初出の昭和七(一九三二)年の『中央公論』に書いたまま、即ち、『○○龍之助』という意味深長な伏字のままで、単行本化したのは「誤り」であり、「まちがひ」であった、「訂正して」正しく「橫尾」と伏字を正字に直して刊行すべきであった、と言っているのである。

「橋本(政德)」不詳。中央公論社の編集者であろう。]

 芥川夫人はさしいれたと言ふであらうが、なげこんだとしかみえなかつたとつさに、被せられた白い布がにじみだした人間の膏で赫土色に染まつて、ぐつしより濡れて顏にひつついてる、それだけになま暖く瞼の輪廓をみせて、生きたままに埋められてゆく恰好の芥川と、橫尾龍之助となつて死んでゐる芥川をみて僕は唾をのんだ。

[やぶちゃん注:「膏」「あぶら」。]

 橫尾龍之助が芥川龍之介となつて死んでゐる。芥川はその間の消息を僕に一度も言はずに死んでゐる。僕は僕の知つてゐる芥川が確に死んだことは僕の目でみた。しかし、橫尾龍之助が芥川龍之介になつたその間の、正確な安心して聞ける事情といつたものは今日に至るも知つてゐない。

 東京新聞社社會部の田中義郎君は岩波の新書判の全集二十卷が一卷滅つて十九卷になつたその間の事情を知つて芥川の家のこと、葛卷のことを、足掛三ケ月かかつて穿鑿してゐた。その彼が最近僕に報告してゐるところによると、東大の卒業者名簿にも芥川は龍之介でなく、龍之助となつてゐるといふ。

[やぶちゃん注:「田中義郎」不詳。

「岩波の新書判の全集二十卷が一卷滅つて十九卷になつたその間の事情」この「事情」とは次の章「養家」によって、葛巻義敏が、その所持する多量の未定稿の提出を土壇場になって渋ったせいであると読める。この第三次新書版全集は昭和二九(一九五四)年十一月から刊行され、翌年の八月に刊行を終えている。確かに一見、半端な巻数に見えるが、実際には別巻一冊が加わって、全二十巻である。「その間の事情」を明記しないのは、小穴隆一お得意のいやらしい後出し記述である。こういうところが私には生理的に頗る嫌なところである。なお、葛巻は実際、芥川龍之介の未定稿等を小出しに提示して(悪意を以って言うなら「食い潰しながら」)後代を生きた観があり、芥川龍之介研究家の間では「頗る」附きで評判が悪い。岩波書店刊の「芥川龍之介未定稿集」も、断片を恣意的に繋げたり、義敏が手を加えて辻褄を合わせたと疑われる箇所が散見するもので、一次資料としては甚だ心もとない疑惑のある一冊である。

「東大の卒業者名簿にも芥川は龍之介でなく、龍之助となつてゐる」私は知らない。現行の年譜類でも「龍之介」の名が実は「龍之助」であったという記載はなく、宮坂年譜の初めに掲げられている文との縁談契約書や、何より、公文書である養子騒動の際の「家督相続人廃除判決書」の名も「芥川龍之介」「新原龍之介」となっている。寧ろ私などは、芥川龍之介は一時期、「龍之助」の「助」の字を生理的に激しく嫌悪し、自分宛ての手紙で宛名が「芥川龍之助」となっているものは開きもせずに捨てた、というエピソードをどこかで読んだ記憶があるくらいである。但し、後に出るように芥川龍之介自身が幼少期に「芥川龍之助」と署名していた事実はある。

 僕は芥川の年譜は、芥川自身の筆である年譜をしか信用してゐない。大正十四年四月新潮社發行、現代小説全集の芥川龍之介年譜である。

 明治二十五年三月一日、東京市京橋區入船町に生まる。新原敏三の長男なり。辰年辰月辰日辰刻の出生なるを以て龍之介と命名す。生後母の病の爲、又母方に子無かりし爲當時本所區小泉町十五番地の芥川家に入る。養父道草(みちあき)は母の實兄なり。

 三十一年本所區元町江東小學校に入學。成績善し。

 三十五年實母を失ふ。――

[やぶちゃん注:以上は大正一四(一九二五)年四月一日新潮社刊行の『現代小説全集』第一巻の「芥川龍之介集」の巻末に載る自作年譜の冒頭部のみ。正確には「又母方に子無かりし爲」の後には読点が入り、」三十一年」の後は一字字空けで、「三十五年實母を失ふ。」の後は、『此頃より、英語と漢學とを學ぶ。英語はナシヨナル・リイダアより始め、漢學は日本外史より始む。』で条が終わっているのをカットしてある。]

 しかし、僕はこの芥川が書いてゐる年譜にさへ芥川が何か書落してゐるといふ疑ひを持つてゐる。芥川の小學生時代の作文は芥川龍之助といふ署名である。

[やぶちゃん注:事実、現在知られている芥川龍之介の初期文章の内、「海賊」(明治三五(一九〇二)年四月(推定)。十歳。江東小学校高等科一年)・「實話 昆蟲採集記」(明治三五(一九〇二)年五月)・「彰仁親王薨ず」(明治三十六年二月二十五日)・「つきぬながめ」(同前)・「新コロンブス」(筆録時期不詳)では署名を「芥川龍之助」としている(ここは初期文章・草稿を載せる新全集第二十一巻の後記を参考にしたが、標題は恣意的に正字化した。ただ、小穴隆一の本書刊行時には以上の幾つかは知られていない)。但し、私は思うに、「介」は画数が少ない割に、左右に広がった字体が、実は見た目綺麗に書くには非常書きにくい字であると思う(特に子どもには。実際、旧全集の芥川也寸志の書いた字から拾って構成された背文字の字の「介」の字は記号のように見える。しかし、可愛い)。また、姓の「芥川」の「芥」の中に既にこの字が含まれていることから、書いた際になおのこと、書き損じるとバランスが一層悪くなるのである。さればこそ、子どもが五字の名前をどっしりと落ち着かせて書くには「助」の方が遙かに書き易いのではあるまいか? 因みに私の「藪野直史」は縦書すると、極端な頭でっかちの妖怪見たようなもので、字が下手であるのに輪をかけて、上手く書けたためしがない。いや――実は私は小学校六年まで「藪」の字が書けず、「薮」と書き、しかも今も残る書き初めなどを見ると、筆ではこの「薮」さえも書けずに、「やぶ野」と記している為体(ていたらく)であったことを告白しておく。]

 自己紹介によれば、田中義郎君もまた芥川の愛讀者だといふが、岩波が刊行中の全集の一册と、筑摩の文學全集に插んであつたといふ月報、社名を書いた大學ノートを持つて僕の前に坐ったのは七月二十五日の朝であつた。田中君の調べでは、葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ、その西川氏ともまた死にわかれとなつてゐたので、僕は、葛卷氏とは離婚、その後西川氏にかたづいたが、その西川氏が自殺、つづいて芥川の自殺で、それで北海道に行つて、またもとの葛卷氏といつしよになつたので、今日、葛卷氏に死にわかれでもして、鵠沼にゐるのであるかどうかはそれは知らぬが、芥川の實家は、新宿に牧場を持つてゐたので、獸醫の葛卷氏と結婚した次第だが、その葛卷氏は牧場で牛を購ふその金をごまかしたといふので離婚になつた人と聞いてゐると、葛卷義敏が自分の系圖まで立派にしてあるのを感心しながら説明しておいた。それに吉田精一といふ男は、葛卷の手さきででもあるのか、昔、空谷老人が何か雜誌で僕をやつつけてゐる、それに返事も書けなかつたのではないかと得意氣に僕を嘲けつてゐるが、芥川の遺書に(新書判十五卷百七十七頁參照)〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕[やぶちゃん字注:「(死)」は「殺」の右にルビ状に附された小穴隆一の補正注様のものである。]といふのがあつたから、先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて私はどちらにでもしますがといつたもので、それをそのままに僕が「二つの繪」に書いた。ところが、醫者であつた老人のはうの身になつてみれば、たまつたものではなかつたらう、たちまち事實無根と僕に吠えついてゐたので、吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりでと、あと四百二十字分を聞かせて、事情はよく調べてくれと田中君に言つたが、田中君はその後かなり丹念に調べてゐて、僕に言はせれば橫道の話の橫尾そのといふ女のことをいま問題としてゐる。僕は漫然と芥川の家の人の言ふことだからとか、芥川の甥の言ふことだからといつて、安心してものを書いてゐる解説家の頭といふものはをかしいと思ふ。(吉田精一は田中君のくはしい話でいろいろを知つて、それでは自分も考へなほさなくてはいけないと言つた由、無論さうあるべきだ。)僕には穿鑿は僕の目で見てゐた芥川、芥川に聞いたことだけでたくさんである。

[やぶちゃん注:「七月二十五日」これは本書の刊行が昭和三一(一九五六)年一月であること、「岩波が刊行中の全集の一册」という叙述から、昭和三十年の七月二十五日と比定出来るように思われる。

「筑摩の文學全集」不詳。筑摩書房の吉田精一編の全集類聚版芥川龍之介全集ではない(あれは本書刊行の二年後の昭和三十三年二月から刊行開始)。筑摩が当時出していた全集類の「芥川龍之介集」かも知れぬ。昭和三十年十二月に、まさに葛巻義敏編の『日本文学アルバム6芥川龍之介』が刊行されているが、これは先の日程と齟齬し、翌年一月刊行の本書を考えると、到底あり得ず、残念ながら違う。

「葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから」小穴隆一は直後に「またもとの葛卷氏といつしよになつた」と、自分がおかしなことを言っていることに気づいていない。芥川龍之介の姉ヒサは葛巻義定とは死別していない。ただの離婚である(離婚理由は不詳であるが、小穴隆一の息子葛巻義敏がこれ(業務上横領)に反論していないとすれば(反論したかしなかったかは私は確認はしていない)、事実なのかも知れぬ)そうして、西川が鉄道自殺し、芥川龍之介が自死した後、また前夫葛巻義定と再々婚したのである。

「葛卷義敏が自分の系圖まで立派にしてあるのを感心しながら説明しておいた」この文も判ったようで、判らぬ。「葛卷義敏が」怪しげに「自分の系圖まで立派にしてあるのを」皮肉を込めて「感心し」たような振りをし「ながら」私(小穴隆一)は田中義郎に「説明しておいた」と読むしかない。私が、小穴隆一の文が捩じれている、というのは、こういうのを指す。気持ちが悪い文である。なお、この章辺りから小穴の激しい葛巻批判が始まる。

「空谷老人」下島勲。「空谷」は彼の俳号。

「〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕[やぶちゃん字注:「(死)」は「殺」の右にルビ状に附された小穴隆一の補正注様のものである。]」芥川龍之介の遺書の内の、芥川文宛遺書の第四項、

 

 四、 下島先生と御相談の上、 自殺とするも病殺とするも可。 若し自殺と定まりし時は遺書(菊地宛)を菊地に与ふべし。 然らざれば燒き棄てよ。 他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、 出來るだけ遺志に從ふやうにせよ。

 

を指す。「病殺」は芥川龍之介自筆のママである。リンク先の私の原稿復元を確認されたい。

「先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて私はどちらにでもしますがといつた」私は小穴隆一のこの証言は真実だと考える。

「吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりでと、あと四百二十字分を聞かせて、事情はよく調べてくれと田中君に」私(小穴隆一)は「言つた」のである。「あと四百二十字分を聞かせて」という謂い方も、奇体である。こんな言い方・書き方をする人間には私はちょっと逢ったことがなく、そういう風に記す文筆家も不学にして知らぬ。小穴隆一は、ともかくも、かなりの変人であるように私には思われる。

「橫尾その」芥川龍之介の実家である新原敏三の家の女中とされる女性とする以外の情報はない。ここで小穴隆一はほぼはっきりと、芥川龍之介は実母とされるフクの子ではなく、新原敏三が自分の家(牧場を経営していた)の女中であった橫尾そのに手をつけて生まれた私生児であると主張していると言ってよい。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「小穴隆一」(栗栖真人氏執筆)の項や「家族の回想」(笠井秋生氏執筆)の項で軽く触れられているだけで、それを見てもこの小穴の描写や私生児説を含むこの章全体が完全な虚偽として、既にほぼ非研究対象として退けられ、ある意味でタブー視されていることが判る。「芥川龍之介新辞典」によれば、この小穴の主張は実は本書の刊行前に、昭和三〇(一九五五)年十月六日附『東京新聞』が、『芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表』『母親は横尾その、実家新原牧場の女中』というフライング記事を出してしまったため、まず「ふたつの繪」刊行の前月、芥川龍之介の長男芥川也寸志が「父芥川龍之介出生の謎―『新事実』は事実ではない」(昭和三〇(一九五五)年十二月・『文藝春秋』)が先制攻撃の釘を刺した。その後、龍之介の実姉ヒサが、「私の立場から訂したいこと」(昭和三一(一九五六)年二月・『新潮』)などの近親者からの否定反論があり、研究者山本健吉氏の「芥川私生児説の余波」(昭和三十年一月・『三田文学』)、吉田精一氏の「芥川私生児問題について」(昭和三十一年二月・『近代文学』)、荒正人氏の「芥川龍之介の出生をめぐって」(昭和三十一年二月・『近代文学』)等で論議されたものの、昭和四九(一九七四)年の森啓祐氏の「芥川龍之介の父」(桜楓社刊)や沖本常吉氏の「芥川龍之介以前―本是山中人―]などによって否定されており、最早、問題にする研究者は皆無と言ってよい。なお、小穴隆一は本書刊行三年後の昭和三四(一九五九)年頃から中風を患い、絵筆も執れなくなるという不遇な晩年を送り、昭和四一(一九六六)年四月二十四日に逝去している。ただ、「芥川龍之介新辞典」の「家族の回想」の下部の記事「母フクの発病の原因」の項に、『葛巻義敏が「新しく興る実業家としての実父敏三が、かなり放蕩したらしく、龍之介と同年の庶子があることが伝えられている」(『日本文学アルバム6芥川龍之介』)と発言し、これに注目した森啓祐は、「龍之介に、ハツ、ヒサ、得二の姉弟のほか、もう一人、敏二という名の弟が出生している事実」をつきとめ、以下のごとく説いた。「こうして龍之介の生母フクの発狂は、さまざまな不孝な出来事が重なり』(「不孝」はママ)あって『誘発したとみられるが、その原因の一つに「龍之介と同年の庶子」出生の事実があったことは間違いなさそうである(『芥川龍之介の父』』(データは前掲)と記しており、『実母フクの発病の最大の原因は「龍之介と同年の庶子」出生にあったとしてよかろう。つまり敏三の放蕩がフクを発狂へと追いやったのである』とあるのが非常に目を惹くのである。私はこのフクの発病原因に庶子誕生があるというのに強く共感する(私はフクの精神疾患は以前から心因性であろうと考えている)し、この名も生死も知れぬ今一人の芥川龍之介の影のような庶子の行方を「誰も知らない」のが、これ、妙に変に思われるのである。……この庶子の母親こそ……実はこの「橫尾その」その人だったのではあるまいか?……その生まれ落ちた彼はどうなったのか?……その臍の緒は?…………

  史蹟

 齋藤鶴磯の墓

 司馬江漢の墓   慈眼寺

 芥川龍之助の墓

  昭和二十七年四月 建之

    豐島區役所

 芥川の墓のある慈眼寺の入口にかういふ札が建つてゐる。この立札には齋藤鶴磯名は政夫、司馬江漢名は峻、といつたやうに、芥川龍之助 束京の人、大正昭和の代表的小説家、新技巧派の作家としてその理智的作風は一世に風靡す、昭和二年七月自ら生命を斷つ、行年三十八歳、といふ小傳が誌してある。

[やぶちゃん注:現在は「芥川龍之介」となっている。二度墓参したが、三十八年前も「芥川龍之介」だったように記憶する。

「齋藤鶴磯」(さいとうかくき 宝暦二(一七五二)年~文政一一(一八二八)年)は儒者で考証家。江戸生まれで武蔵所沢(現在の埼玉県所沢市)に住み、武蔵野の歴史・地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」を著わしたことで知られる。なお、彼が葬られた時はこの慈眼寺は深川猿江町にあった。移転して改葬されたものである。次の本邦初期の洋風画の旗手として知られた蘭学者司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)の墓も同じである。]

 戸籍面などのことはどうにでも都合のつけられることだが、ごまかせないのがその人の性根だ。芥川と僕ばかりではなく芥川と親しかつた人達は、既に今日までに、新原家のいやな血を芥川の死後の葛卷といふ見本で充分にみせられてゐるのだ。田中君は知れば知るほど世間の人がみてゐるのとは反對に、芥川家の人は皆(葛卷もふくむ)氣の毒な人達ばかりで、なにも書けなくなりますとしみじみとして言つてゐたので、それがほんたうだと僕は言つた。芥川は、母親が晩年しよんぼり二階に一人で暮してゐて、人が紙を渡しさへすれば、それにお稻荷樣ばかり書いてたと言ひ、芥川も恐るおそる二階に首をだしてお稻荷樣を書いて貰つたことがあると言つてゐたが、僕は晩年人が紙を渡しさへすれば河童を書いてゐたその芥川の心中を思ふとひとりでに淚がわいてくる。

[やぶちゃん注:私の偏愛する「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載)から冒頭の実母フクの章を私の電子テクストから引く。

   *

 

   一

 

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。

 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。

 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。

 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絶えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。

 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絶たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。

 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。

 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。

 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

 

   *]

 燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つてはゐたが、今日芥川の墓のある染井の慈眼寺に區で建てた立札はこれまた芥川龍之助の墓となつてゐる。龍之介は戸籍面ではどこまでも龍之助であつたのかも知れない。

 

 芥川の二階の書齋は、地袋の上にも本がのせてあつたが、小さい額緣に入つた五寸五分に七寸位の、ヰリアム・ブレークの受胎告知の複製があつたので、僕がそれをみてゐると、芥川は、「それは神田の地球堂で三圓で買つたのだが、歸りの電車賃がなくて新宿まで步いて歸つた。」(當時、高等學校の生徒、實家の牧場のほうにゐた、)當時の三圓といふ値段は額緣付きの値段と思ふが、芥川はその受胎告知の畫を、晩年わざわざ給具屋に卓上畫架を誂らへてこしらへさせ、その上にのせてゐた。部屋の隅で、暗いところにあつたから、ちよつと氣がつかなかつた人があるかもしれない。部屋にかける壁がなかつたからといへばそれまでであるが、わざわざその畫のために、卓上畫架を註文して造らせてその上にのせてゐた芥川の氣持を思ふと、芥川の淋しさといふものが何か考へさせられる。

[やぶちゃん注:「當時、高等學校の生徒、實家の牧場のほうにゐた」明治末から大正初期に当るが養子家芥川家が本所小泉町(現在尾墨田区両国三丁目)から東京府下の豊多摩郡内藤新宿(現在の新宿二丁目)にあった父新原敏三の経営する耕牧舎牧場の脇にあった敏三の持ち家に転居したのは明治四四(一九一〇)年十月で、その前の九月十三日に成績優秀者に与えられた推薦制度で第一高等学校一部乙類(文科)に無試験入学している(卒業は大正二(一九一三)年七月一日)。

「五寸五分に七寸位」縦十七センチメートル弱、横約二十一センチメートル。

「ヰリアム・ブレークの受胎告知」芥川龍之介が好んだ(詩も絵も)、イギリスの詩人で画家のウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)で、彼の絵は私もすこぶる好きなのだが、どの絵を指しているか、不詳。これかと思うものは絵の縦横比が合わない。識者の御教授を乞う。

「三圓」当時の一円は現在の千円強に相当する。]

 

2017/01/14

少女   リルケ 茅野蕭々譯

 

 少女

           リルケ 茅野蕭々譯

 

他の人々は長い路を

ほの暗い詩人の許へ行かなくてはならない。

人の歌ふのを、

弦の上に手を置くのを見なかつたかと、

常に誰かに問(き)かなくてはならない。

ただ少女ばかりは問(き)かない、

どの橋が形象に通ずるかとは。

白銀の皿につける眞珠の紐よりも

なほ明るく微笑むだけだ。

 

少女等の生活からは、どの扉も

詩人に通ずる。

それから世界へ。

 

柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」

 

 怪火

 

 惡路王といふのは何人であるか。水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を神體としてゐる。これが惡路王の髑髏だといふのであるが、伊勢の唐子谷にはまた惡路神の火といふものがある。水戸でも已に神に祭られてゐるのだから、惡路王即惡路神と見ていゝかも知れぬが、さう手つ取り早く斷じ得るかどうかわからない。唐子谷の猪草が淵といふのは大難所で、幅十間ばかりの川に杉丸太が渡してある。この橋の高さは水際より十間餘りあり、危險千萬な上に、山蛭が澤山ゐて人を惱ます。こゝに生れて他所に出ぬ人は、老年になるまで米を見たことがないといふ、大變な土地であつた。惡路神の火はこの邊に燃えるので、雨の夜は殊に多く、挑燈のやうに往來する。この火に行き會つた者は、速かに俯伏して身を縮め、火の通り過ぎるのを待つて逃げ出さなければならぬ。さうせずに火に近付けば、忽ちに病を發し、煩ふこと甚しいといふ。髑髏の事を傳へた「一話一言」と、火の事を傳へた「閑窓瑣談」との間には何の連絡もないのだから、倂記して疑問を存するにとゞめる。

[やぶちゃん注:「惡路王」ウィキの「悪路王」によれば、『平安時代初期の蝦夷の首長。文献によっては盗賊の首領や、鬼とされることもある』。しばしばアテルイ(?~延暦二一(八〇二)年:平安初期の蝦夷の軍事指導者。延暦八(七八九)年に胆沢(いさわ:現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された)と『同一視されるが、ほかにも異称は多く存在し、それらのどこまでが同じ人物でどこまでが別人なのかは、史料によって異なる。また、伝承が残るのは主に岩手県や宮城県だが、奥羽山脈を越えた秋田県や北関東の栃木県、さらに蝦夷とは何の関係もない滋賀県にもゆかりの地とされる旧跡が存在する』。『どの伝説においても、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物によって討たれるところは共通している』とある。

「水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を神體としてゐる」これは現在の水戸市の西北の、茨城県東茨城郡城里町(しろさとまち)高久にある鹿嶋神社のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「悪路王」によれば、この神社には『悪路王面形彫刻が伝わる。坂上田村麻呂は下野達谷窟で討った悪路王(阿弖流為)の首級を当社に納めた。ミイラ化した首は次第に傷みがひどくなったので、木製の首をつくったという』。『達谷窟の所在地が陸奥国ではなく下野国とされているところが他の伝承と異なる』とある。また、個人サイト「300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」の「鹿嶋神社」の詳しい解説と画像の載るページも是非、参照されたい。

「伊勢の唐子谷」「猪草が淵」ウィキの「悪路神の火」(あくろじんのひ)によれば、現在の三重県度会郡玉城町の内と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。川が特定出来ない。地域の識者の御教授を乞う。

「十間」約十八メートル。

「閑窓瑣談」これは同書「後編」の「第三十四 惡路神(あくろじん)の火(ひ)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示し、挿絵も挿入した。

   *

Akurojinnohi

   ○第三十四 惡路神の火

伊勢國紀州御領(ごりりやう)の内にて、田丸(たまる)領間弓(まゆみ)村の唐子谷(からこだに)といふ所に、猪草(ゐくさ)が淵(ふち)といふ大難所あり。常の道路(みち)巾十間計(ばかり)の川あり。其河に杉丸太を渡して往來とせり。此丸太橋の高サ水際より十間余有。是を渡る時は甚(はなはだ)危怖(あやうくおそろ)しき事言語に絶(たえ)たり。橋の下は靑々(あをあを)たる水の面(おもて)其底を知らず。此邊(このへん)山蛭(やまひる)といふ蟲多く、手足に取付(とりつき)て人を悩(なやま)す。寔(まこと)に下品(げひん)の地(ち)にして、男女(なんによ)の形狀(かたち)見分(みわけ)がたき程の所なり。此地に生れて他へ出(いで)ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。又此邊に惡路神の火と號(なづけ)て、雨夜には殊に多く燃(もえ)て、挑灯(てうちん)のごとくに往來す。此(この)火に行合(ゆきあふ)者は、速(すみやか)に地に俯(うつむき)に伏(ふし)て身を縮(ちぢ)む。其時火は其人の上を通路(つうろ)するなり。火の通り過(すぐ)るを待(まち)て迯出(にげいだ)す。然(さ)も爲(せ)ざる時は、彼(か)火に近付(ちかづき)て忽ちに病(やまひ)を發し煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名醫、採藥の爲に經歷(けいれき)して彼(かの)地にいたり、眼前に見聞(けんもん)し、歸府の後(のち)諸國の奇事を上書(じやうしよ)せし採藥記にあり。

   *]

 惡路王の正體がはつきりせぬ以上、惡路神の火の由來もわからない。享保年間に阿部友之進といふ醫師がこの地を經歷して、「採藥記」といふものを書いてゐるさうだが、これは未見の書である。惡路神の火が猪草が淵の邊に現れ、出逢つた人を惱ますには、何か然るべき理由があるに相違ないが、肝腎の點の書いてないのが物足らぬ。そこへ往くと大津の油盜みの火などは至つて明白である。志賀の都に油を賣る商人が、大津の辻の地藏の燈明に上げる油を毎晩盜んだ。その男の死後、迷ひの火となつて、今の世までも消えぬといふ。倂し松明のやうな火が飛び囘るだけで、人に害を與へることはなかつたらしい(本朝故事因緣集)。

[やぶちゃん注:「採藥記」前注で引いた「閑窓瑣談後編」の「第三十四 惡路神の火」には確かにそう書いてあるのであるが、ウィキの「悪路神の火」によれば、「閑窓瑣談」は『この話の典拠として、享保年間に幕府の採薬使として諸国を巡った阿部友之進(照任)の採薬記を挙げ、友之進が「眼前に見聞し」たものと記している。阿部照任の著述としては、松井重康とともに口述した』「採藥使記」なる書があるものの、『この書に悪路神の火の記載はない』。一方、享保五(一七二〇)年から宝暦四(一七五四)年まで採薬使の職にあった植村政勝の著した「諸州採藥記抄錄」の「伊勢國」の項には、「閑窓瑣談」と『ほぼ同様の記述が見られる』とある。但し、「諸州採藥記抄錄」では、『「猪草淵」の次に続けて「悪路神の火」を記すものの、この怪火を猪草淵に現れるものとしているわけではない』とある。以下、「諸州採藥記抄錄」の「猪草淵」の記述を略したものが掲げられてあるので、恣意的に正字化して示しておく。一部の読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附したもの。

   *

又同國にて惡路神の火とて雨夜には多く挑灯(てうちん)のことく往來をなす、此火に行逢(ゆきあ)ふ時は流行病(はやりやまひ)を受(うけ)て煩ふよし、依之(これによつて)此(この)火に行逢ふときは早速(すみやか)に地に伏す、彼(かの)火其(その)上を通(とほ)すへるによつて此(この)病(やまひ)難を逃るゝといへり、

   *

文中の「通すへる」は「通(とほ)す經(へ)る」か。

「本朝故事因緣集」作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。]

 同じ近江の話ではあるが、少し違ふのが「百物語評判」にある。叡山全盛の時代に、中堂の油料として一萬石ばかり知行があり、東近江の住人がこの油料を司つて、家富み榮えて居つた。その後時代の變遷に伴ひ、この知行がなくなつたのを、本意なく思つた東近江の住人が、その事を思(おも)ひ死(じに)に死んだ。爾來この者の在所から夜每に光り物が飛び出し、中堂の方へ來て、例の油火の方へ行くので、別に油を盜むわけではないが、皆油盜人と名付けた。これはその者の執念が油火を離れぬため、今以て來るのだらう、仕留めようと云ひ出した者があつて、弓矢域砲を持ち出し、衆を恃む鵺退治のやうな形勢になつた。案の如くその時間になると、黑雲一むら出る中に光り物があり、瞬く間に若者どもの頭上に來て、弓矢も全く手につかぬ。その時光り物をよく見屆けた者の説によれば、怒る坊主首が火焰を吹いて來る姿がありありと見えたさうである。今から百年ほど以前の話であつたが、次第に絶え絶えになつた。現在でも雨の夜などには時々この光り物が出る、湖水邊の在所の者はよく見るとある。「百物語評判」といふ書物は、山岡元鄰の宅で百物語を催した時、元鄰がその話每に和漢の故事を引いて評したのを、沒後貞享三年に至つて刊行されたものである。元鄰の沒したのは寛文十二年だから、その存生時代に百年以前といふと、どうしても元龜天正前後まで遡らなければならぬ。江戸時代の話ではない。

[やぶちゃん注:「古今百物語評判」(既出既注)のそれは、同書「卷之三」の「第七 叡山中堂(ちうだう)油盜人(あぶらぬすびと)と云ふばけ物靑鷺(あをさぎ)の事」である。国書刊行会江戸文庫版を参考に、例の仕儀で加工して同条全文を示す。挿絵も挿入しておく。

   *

Aburanusubito

     第七 叡山中堂油盜人と云ふばけ物靑鷺の事

 

 かたへの人の云はく、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云へる人の物語に、そのかみ叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壱万石ばかり知行ありしを、東近江の住人此油料を司りて家富みけるに、其後世かはり時移りて、此知行退転せしかば、此東近江の住人世にほいなき事に思ひ、明けくれ嘆きかなしみしが、終に此事を思ひ死ににして死ににけり。其後夜每(よごと)に此者の在所よりひかり物出でて、中堂の方へ來たりて、彼の油火のかたへ行くとみえしが、其さますさまじかりし故、あながち油を盜むにもあらざれど、皆人油盜人と名付けたり。はやりおの若者ども、是れを聞きて、如何樣にも其者の執心油にはなれざる故、今に來たるなるべし。しとめて見ばやとて、弓矢鐡砲をもちて飛び來たる火の玉を待ちかけたり。あんのごとく其時節になりて、黑雲一叢出づると見えし。その中に彼の光り物あり。すはやといふ内に、其若者どもの上へ來たりしかば、何れもあつといふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にもたしかなる者ありて見とめしかば、怒れる坊主(なうず)の首(くび)、火焰(くわゑん)吹きて來たれる姿ありありと見えたり。是れ百年ばかり以前の事にてさふらひしが、その後は絶え絶えに來たりて、只今も雨夜などには其光物折々出で申し候ふを、湖水辺の在所の者は坂本の者にかぎらず、何れも見申し候ふ。此事かくあるべきにや」と問ひければ、先生答へていはく、「人の怨靈の來たる事、何かの事に付けて申すごとく、邂逅(たまさか)にはあるべき道理にて侍る故、其油盜人もあるまじきにあらず。しかしながら年經て消ゆる道理は、うぶめの下にてくはしく申せし通りなり。其死ぬる人の精魂の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近のたがひあるべし。また只今にいたりて、其物に似たりし光り物あるは、疑ふらくは靑鷺なるべし。其子細は江州高島の郡(こほり)などに別してあるよしを申し侍る。靑鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひかり候ふ故、目のひかりと相応じ、くちばしとがりてすさまじく見ゆる事度々なりと申しき。されば其ひかり物も今に至りて見ゆるは、靑鷺にや侍らん」。

 

   *

元鄰センセ、何で「靑鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひか」るんでしょうか? 理を尽くして私に判るように説明して下され!

「鵺」「ぬえ」。一般には猿の顔・狸の胴体・虎の手足・尾は蛇などとされる本邦では最初期のハイブリッド妖怪である。

「貞享三年」一六八六年。

「寛文十二年」一六七二年

「元龜天正」「元龜」は一五七〇年から一五七三年、「天正」は一五七三年から一五九三年。]

 河内國平岡には一尺ばかりの火の玉が飛ぶ。昔平岡社の油を盜んだ姥が死後に燐火になつたので、叡山の西の麓の油坊、七條朱雀の道元の火、皆似たものと「諸國里人談」にある。平岡の姥火の正體は五位鷺で、遠くからは圓い火に見えるのだといふ説もあるが、五位鷺の羽は慥かに光るらしい。山岡元鄰も油盜人の火に就いて、靑鷺説を持ち出して居つた。油盜人と油坊は同一であるかどうか、よくわからぬ。

[やぶちゃん注:「河内國平岡」は枚岡(ひらおか)が正しく、現在の大阪府東大阪市東部の汎称地名である。

「平岡社」現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡神社であろう。

「諸國里人談」は江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の寛保三(一七四三)年刊の随筆。同話は「卷之三」にある「油盜火」(「あぶらぬすみび」と訓ずるか)。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。

   *

    ○油盜火

近江國大津の八町に、玉のごとくの火、竪橫に飛行(ひぎやう)す。雨中にはかならずあり。土人の云(いはく)、むかし志賀の里に油を賣ものあり。夜每(よごと)に大津辻の地藏の油をぬすみけるが、その者死て魂魄、炎となりて迷ひの火、今に消(きえ)ずとなり。

○又叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因緣右に同じ。七條朱雀(しざく)の道元(だうげん)が火、みな此(この)類ひなり。これ諸國に多くあり。

   *]

 攝津の高槻には二恨坊の火といふのがあつた。本人は山伏で、生涯に二つの恨みあるにより二恨坊と名付ける。「本朝故事因緣集」に從へば、曇る夜は必ず鳥のやうに飛び、竹木や屋の棟などにとまる、近寄つて見れば火の中に眼耳鼻舌唇を具へ、恰も人面の如くである。男女多く集り見るときは、恐れ辱ぢて飛び去るといふのだから始末がいゝが、何の恨みがあつたかは書いてない。「諸國里人談」は山伏の名を日光坊とし、行力他にすぐれて居つた。村長(むらをさ)の妻が病に臥した時、この山伏に加持を賴んだら、閨に入つて祈ること一七日、病は平癒したが、後に至り密通の名を負はせ、平癒の恩も謝せずに殺害した。この恨み妄火となつて長の家の棟に飛び來り、長を取り殺すとある。これだと恨みの點はよくわかるが、恨みが一つしかない。日光坊訛つて二恨坊となるならば、強ひて二の字に拘泥する必要はないかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「攝津の高槻」現在の大阪府高槻(たかつき)市。

「本朝故事因緣集」本話は「卷之四」「九十一 攝津高槻二恨坊(にこんばう)之火」。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。

「諸國里人談」のそれは以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。

   *

    〇二恨坊火

摂津國高槻庄二階堂村に火あり。三月の頃より六七月までいづる。大さ一尺ばかり、家の棟(むね)或は諸木(しよぼく)の枝梢(ゑだこずゑ)にとゞまる。近く見れば眼耳鼻口のかたちありて、さながら人の面(おもて)のごとし。讐(あだ)をなす事あらねば、人民さしておそれず。むかし此所に日光坊(につかうばう)といふ山伏あり。修法(ずはう)、他にこえたり。村長(むらをさ)が妻、病(やまひ)に臥す。日光坊に加持(かぢ)をさせけるが、閨(ねや)に入(いり)て一七日(ひとなぬか)祈るに、則(すなはち)病(やまひ)癒(いえ)たり。後に山伏と女密通なりといふによつて、山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず。そのうへ殺害す。二(ふたつ)の恨(ふらみ)、妄火と成りて、かの家の棟に每夜飛來(とびきたり)て、長(をさ)をとり殺しけるなり。日光坊の火というを、二恨坊(につこんばう)といふなり。

  *

柴田の「日光坊訛つて二恨坊とな」ったとするのは、すこぶる腑に落ちる解釈である。]

「諸國里人談」はこの種の火が諸國に多くあると云ひ、千方の火、虎宮の火、分部の火、鬼の鹽屋の火、などを擧げた。千方の火は藤原千方の因緣で、伊勢の川俣川の水上より、挑燈ほどの火が、川の流に沿うて下る事、水より早いといふ。逆臣として誅せられた千方の怨恨であらう。分部の火は同じく伊勢の話で、分部山より小さい挑燈ほどの火が五十も百も現れ、縱橫に飛び𢌞つた後、五六尺ほど一團となり、塔世川を下る事、水より早しといふのだから、先づ大同小異である。然るに塔世が浦には鬼の鹽屋の火といふのがあり、この火の中には老媼の顏が見える。そこらは二恨坊の火に似てゐるが、これが川上の火と行き合ひ、入れ違ひ飛び返りして戰ふ。やゝあつて一つになり、また分れて、一方は沖へ飛び、一方は川上へ奔るといふのを見れば、山伏の恨みなどとは比較にならぬ問題が含まれてゐるらしく思はれる。火が一團となつて動くのは、大きな爭鬪なり、戰ひなりがあつたものでなければならぬが、その事は亡びて口碑の上にも存せず、火のみ昔の恨みを傳へてゐるのが却つて哀れ深い。

[やぶちゃん注:「千方の火」「ちかたのひ」。後注参照。以下、妖怪(怪火)の固有名にルビを振らない柴田は極めて不親切である。

「虎宮の火」「とらのみやのひ」或いは「こきう(こきゅう)のくわ」。古い地神か。Bittercup氏のブログ「続・竹林の愚人」の虎宮火によれば、現在の摂津市の旧味舌(ました)下浜、現在の浜町にあった。今は大阪府摂津市三島の味舌(ました)天満宮に合祀されているという。

「分部の火」「わけべのひ」。「分部」は後に出る通り、山名で、伊勢国安濃津(あのうつ/あのつ/あののつ:現在の三重県津市)にある安濃(あのう)川(本文の「塔世(とうせ)川」はその別称)川上にある。

「鬼の鹽屋の火」「おにのしほやのひ」。

「藤原千方」「ふじはらのちかた」。ウィキの「藤原千方の四鬼」(ふじわらのちかたのよんき)によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』。『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』で、『その話によると、平安時代、時の豪族「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。

「川俣川」「かばたがは」と読むものと思われる。三重県中部の中央構造線沿いを西から東に流れ伊勢湾に注ぐ櫛田(くしだ)川上流の支流。恐らくは附近にあるはずである(グーグル・マップ・データ)。

「五六尺」一・五~一・八メートルほど。

「塔世が浦」現在の櫛田川河口の吹井ノ浦のことか。

「川上の火」先の分部(わけべ)の火のこと。

 どうしようかと思ったが、禁欲注ではあるが、原典紹介をせめての旨としてきた以上、やったろうじゃ、ねえか! 「諸國里人談」の「千方の火」・「虎宮の火」・「分部の火」・「鬼の鹽屋の火」(これは前の「分部火」の別名)を以下の挙げる。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。以下は「卷之三」の条々であるが、必ずしも順に並んではいないので、「*」で別個に示した。どれをどう表記挿絵したものかは判然とせぬが、挿絵も入れた。面倒なので、注は附さぬ。


Syokokurijindaikaika

   *

   ○千万火

勢州壱志郡家城の里川俣川の水上より、挑燈ほどなる火、川の流にそいてくだる事、水よりはやし。これを千方の火といふ。むかし藤原の千方は此所に任しけるとなり。大手の門の礎の跡今に存せり。それより旗屋村、的場村、丸之内村、三之丸、二の丸、本丸といふ村々あり。今凡七千石程の所なり。千方は今見大明神【と云、則此所のうぶすななり】。

   *

   ○虎宮火

攝津國島下郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜にかならずいづるなり。これに逢ふ人、こなたの火を火繩などにつけてむかへば、其まゝ消ゆるなり。虎の宮又奈豆岐宮ともいふ。是則前にいふ所の日光坊の一族、其腦(なつき)を祭る神といひつたへたる俗説あり。又云、延喜式に、攝州武庫郡名次神を祭る歟。

   *

   ○分部火

伊勢國安濃津塔世の川上分部山より、小き挑燈ほどなる火、五十も百も一面に出て縦橫に飛めぐりて後、五六尺ほど一かたまりになりて、塔世川をくだる事水よりはやし。又塔世が浦に鬼の鹽屋の火といふあり。此火中には老媼の顏のかたちありける。かの川上の火と行合、入ちがひ飛かえりなどして、相鬪ふ風情なり。少時して又ひとつにかたまり。そのゝちまたわかれて、ひとつは沖のかたへ飛、一つは川上へ奔るなり。[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。]

   *

「分部山」は恐らく「わけべやま」と訓じ(位置不詳)、「塔世の川」は恐らく「とうせのかは」で現在の三重県津市を流れて伊勢湾に注ぐ安濃川(あのうがわ)の部分旧称か支流と思われる。郷土史研究家の御教授を乞うものである。]

 この種の火はとかく恨みに結び付くので、あまり愉快なものではないが、こゝに恨みなどには全然縁のない、天神の火といふのがある。伊勢國雲津川のほとりに天神山といふ山があつて、夏秋のころ日が暮れると、この山の茂みに火が見える。然も戲れに人が呼べば、直ぐその前に飛んで來るのである。里から山まで二里以上も距離があるのに、呼ぶが早いか、矢のやうに飛んで來る。火の大きさは傘ぐらゐで、地上を離れ步くこと一二尺に過ぎぬ。火の中にうめくやうな聲がして、人の步くに從つて迫つて來るだけで、別に怪しい事もなく、害をなす事もない。人は見馴れて怪しまず、子供などは火の中に入つて戲れるほどで、熱氣はなく、普通の火のやうな色をしてゐるが、臭氣があるため、久しく傍にはゐにくい。人が家へ歸れば、この火はそこまでついて來て、一晩中去らず、うめくやうな聲を立ててゐる。誰かまた火を呼んだなと云つて、戸外に出て草の葉を一つ摘み取り、それを額に戴く時は、火は忽ち飛び去つて見えなくなる。必ずしも草の葉には限らぬ、何でも地上にあるものを戴いて見せれば、火はこれを避けて行つてしまふ。「いかなる物といふ事を知らず」と「譚海」は書いてゐるが、これなどは多くの怪火の中に在つて、先づ親しみ易いものと云へるであらう。

[やぶちゃん注:「譚海」「卷之八」の「勢州雲津天神の火の事」。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

○勢州雲津川上に天神山といふあり、その山に火あり。里人天神の火といひならはしたり。夏秋のころ日くるれば、天神の山のしげみに此火みゆるを、戲(たはむれ)に人よぶときは其前に飛とび)いたる。里より山までは二里あまりをへだてたるところを、よぶ聲につきてそのまゝ來(きた)る事、端的にして矢よりも早(はや)飛至(とびいた)る。此火からかさの大さほどありて、地上をはなれてありく事一二尺に過(すぎ)ず。火の中にうめく聲のやう成(なる)もの聞えて、人のありくに隨つて追來(おひきた)る、あやしき事なし、害をなす事もなき故、常に人見なれて子供などは火の中に入(いり)て、かぶりたはぶるゝ事をなす。熱氣なくして色は常の火のごとし、ただ臭氣ありて久しく褻(なれ)がたし。家へ歸行(かへりゆく)に、火も人に隨ひ來りて、終夜戸外(こがい)に有(あり)てうめく聲有(あり)てさらず。里人例の戲(たはむれ)に火を呼(よび)たるよとて、戸外に出て草の葉をひとつ摘(つみ)とり額に戴(いただく)時は、此火たちまちに飛(とび)さりてうするなり。地上にあるもの何にてもいたゞきて見する時は、火避(さけ)て飛(とび)さる事すみやかなり、いか成(なる)物といふ事をしらず。

   *

「天神山」不詳。現在の三重県津市を流れる雲出(くもず)川の上流かと思われるが、山の位置を特定出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも、これは実に面白い現実現象であるように思われる。何だろう?]

小穴隆一 「二つの繪」(21) 「芥川夫人」

 

     芥川夫人

 

 秋の夕日を浴びながら海岸のはうに僕ら二人は歩いてゐた。

「わたしははやくに父をなくしてゐたから、どんなのんだくれでもいい、お父さんがあつたはうがよいと思つてゐた、それだのにと言つて泣かれた時は僕は實際、……」

と、芥川は夫人が言つたそのことをいつて、「俺は實際女房にすまない。」「いくぢがないんだ。」とこみあげてしまつて路に立ちどまつたまま淚を拭いてゐた。どこまでも淋しい鵠沼の思出である。

 芥川夫人は芥川の話では餘りに非のうちどころのない女、……芥川は「僕の女房は自分には過ぎた女房だ。」と口ぐせに言つてゐたが、「僕らには姉さん女房でなければいけない、」といふことも言つてゐた。夫人はその父を、芥川はその母を、二人とも幼い時になくしてゐる。

「姉さん女房でなくてはいけない、」これが存外芥川の天壽を全うし得なかつたことの一つになつてゐるのかも知れない。

 

 めづらしく芥川夫婦といつしよに鵠沼から東京に出た時、晩飯を食べるのに新橋でおりた。驛前の薄暗い有樂軒? で大きいテーブルを挾んで僕らはならんだ。夫人が眠つてゐる也ちやんを抱いたまま椅子に腰をかけてゐる。僕はテーブルの上に也ちやんを寢かしておいたらどうと言つた。芥川は着てゐた外套を脱いで敷物のやうにした。也ちやんはその上にねんねこに包まれたまま眠りつづけてゐた。僕らの前に幾皿かの皿がならび、それを食べてゐる間、也ちやんは寢かされてゐた。僕はその日、藤澤で汽車を待つてゐる間、奧さんが茶店のほばかりを借りにはいつたときに、也ちやんを抱かされて大變嬉しかつた。僕は前々から重さうな也ちやんを一度抱いてみたかつたが、白分が義足だから落してはいけないと思つて默つてゐたところであつた。(これは鵠沼生活のなかでうれしかつたたつた一つのことかも知れない。)

[やぶちゃん注:芥川龍之介の三男也寸志の生年月日は大正一二(一九二三)年七月十二日で、これは小穴隆一転居後の鵠沼生活中のことであるから、大正一五(一九二六)年八月以降で満三歳である。]

 

 帝國ホテルの事があつてから一度、芥川は夫人を連れて下宿にきて、「けふはなんだか女房が君にお詑びをしたいと言ふのできたのだ。」「君を疑つてゐてすまなかつたといふのだがね、」と少々てれた笑顏で言つた。(夫人の誤解といふのは、僕が芥川の「死ねる藥」の話相手をしてゐたことかも知れない、)

 その日僕らは淺草に行つてジョン・バリモアの「我若し王者たりせば」を見た。芥川夫妻と三人で東京の街を步いたことははじめてであつた。バスター・キートンのものもあつて、キートンには芥川と僕も、夫人から貰つた板チョコをしやぶりながら、ほかの見物人といつしよになつて相當笑はされてゐた。文藝春秋に書いてゐた芥川の、「若し王者たりせば」はその日、歸宅後に書いてゐたものであらうか。

 

〔僕はこの映畫を見ながらヴィヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺の後」などと言ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし、何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯、「幸福なる少數」だけである。のみならずヴィヨンなどは一面には愛國者兼「民衆の味かた」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるのではないか?〕

 

 僕がここに芥川の「若し王者たりせば」を引用したのはほかでもない。「自分達二人が何か爭つたとする。あとで自分が惡かつたと思つて、詑びようとして二階から下におりてゆく。すると矢張り女房のはうも謝りにこようとして、廊下で鉢合せする。よくそんな事がある。」と芥川が言つてゐたそんな實例のやうなものの感じを、その日の芥川夫婦から受けてて、なほ「神化か獸化(?)か」の芥川を想ふからである。

[やぶちゃん注:ここに一部を引いているのは、昭和二(一九二七)年の自死の月である七月の一日に発行された『文藝春秋』に、『改造』と同じく「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載されたものの掉尾の一章『九 「若し王者たりせば」』のこと。これは後の龍之介の死後(同年十二月)に刊行された単行本『侏儒の言葉』で「續文藝的な、餘りに文藝的な」として所収されたものの最終章である。文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)を参照されたい。当該章全文を以下に引いておく。

   *

 

       九 「若し王者たりせば」

 

 「我若し王者たりせば」と云ふ映畫によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛國者に變じてゐる。

 それから又シヤロツト姫に對する純一無雜の戀人に變じてゐる。最後に市民の人氣を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歷史上の人物はこの映畫の中のヴイヨンのやうに何度も轉身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は實にアメリカの生んだ映畫だつた。

 僕はこの映畫を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯「幸福なる少數」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛國者兼「民衆の味方」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるではないか?

 しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」

 

   *

「ジョン・バリモア」(John Barrymore 本名 John Sidney Blyth 一八八二年~一九四二年)はアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の、サイレント期から活躍した映画俳優。

「我若し王者たりせば」アラン・クロスランド(Alan Crosland)監督の一九二七年の映画The Beloved Rogue(「愛すべき悪党」)で主人公で実在した十五世紀中葉のフランスのピカレスク詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon)をジョン・バリモアが演じた。]

 

 芥川は「君もさうだらうが、僕なぞのやうな人間は姉さん女房を持たなかつたのが不幸だ、」といつたことも言つていた。

 

「女房の弟はね、僕のところへきて、女房の前で僕のものを讀みながら、ここがいいところだ、と聲をだして讀んで女房に教へてゐるんで困るんだ。」と八洲(やしま)さんのことを話してゐた時の(大正十年)芥川には、ほのぼのとした暖かさに包まれてゐる芥川を感じた。

 芥川は八洲さんの學校のできが非常にいいと言つてゐたが、八洲さんは胸を患つて大學にはいつた年から寢こんでしまつた。僕は八洲さんが健在であつたならばと、芥川夫人のために惜んでゐる。

[やぶちゃん注:「女房の弟」「八洲(やしま)さん」既注であるが、再掲しておくと、文の実弟塚本八洲(明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)。長崎県生まれ。一高に入学し、将来を期待されたが、結核を患い、没年まで闘病生活を送った。本書刊行時(昭和三一(一九五六)年)には既に鬼籍に入っていた。]

「家中の者が朝めしをたべてゐた時に、君の足を切る知らせを聞いた。さうしたら女房が箸をおいて、いきなりわつと泣きだしたものだから、皆がいつしよにおいおい泣きだしたものだよ。」

と芥川は僕に言つてゐた。僕はそんな話も憶えてゐる。

[やぶちゃん注:小穴隆一は脱疽のために大正一一(一九二二)年十二月十八日に順天堂病院で右足第四指を切断する手術を受けたが、既に手遅れで、翌年一月四日に同病院で再手術を行い、右足首を切断した。ここは後者であるから、恐らく、この報知は(正月の雰囲気はしないし、四日の術式というのは、三が日空けで予定されていたもの(既に述べたが、事実、両手術ともに芥川龍之介が立ち会っているのである)と読めるから)十二月末のことではあるまいか。]

 

小穴隆一 「二つの繪」(20) 「女人たち」

 

     女人たち

 

 芥川は六月の二十五日には「晩飯を食ひにゆかうや、」といつて、まだ晝をすませて間もないときに、僕を下宿から伴れだし、谷中の墓詣りをすませ、(芥川の實家新原家の墓)その足で淺草の春日にいつて小かめに別れをつげてゐる。芥川はその日、小かめに別れをつげてしまふまでは全く僕と口をきかなかつた。もつとも、僕のはうもいつもとはちがつた芥川の顏つきをみてて口をきかずにゐたのだが、小かめに別れをつげてしまふまでに、芥川が口をきいたといへば、氷川神社のところで「久保田万太郎」と顎で久保田の家を教へ、谷中の基地のまん中の通りにでるその角の墓の低い圍ひの鎖り? を、すばやくひよいと跨いで墓石の橫から正面へ、さうしてそのまま左から石のまはりをぐるつとまはつてまた正面に向つて立つてて、今度はぴよこんとお時儀をしてから僕をふりかへり「僕の家の墓」と教へたときの、二度ともせかせかとして言つてゐたそれだけのことである。僕がなんだかけふは步かせるなと思つてゐると、淺草にでて名前だけは聞いてゐた春日にはいつた。

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年六月二十五日土曜。]

 芥川はつる助(女將の藝者のときの名、)に、「小かめに出の着物のでなくともいいすぐ」と言つて飯をたのんだ。(まだ夕飯にははやい時刻でなにを食べたのか記憶はない。)飯を食べかけた頃かに小かめがきて茶を貰つた覺えはあるが、食べをはるとすぐ僕らは小かめといつしよにおもてにでてしまつた。春日から十二階のところまで步いて(まだ十二階がとり片づけられてゐなかつた)そこで右左りに、小かめとは別れたのだが、大柄の小かめと芥川が寄添つて步きながら話をしてゐるのを、うしろからみてゐるとなにか兄と妹の親しさといつたものにみえてゐて似合だと思つた。

 つる助は芥川が僕を紹介すると、「へえ、これがいい男?」といつて僕の顏をみては、「へえ、」をばかり繰返してゐた。宇野の名も言つてゐたから、芥川と宇野がなにかつる助に冗談を言つてゐたことがあるのだらう。つる助のほうはいい男を美男と考へこんでたとみえるのだが、芥川のはうはつる助にただ「うむ――」と言つてるだけであつた。

[やぶちゃん注:宇野浩二の「芥川龍之介 上巻には待合「春日」のことは出てくるが、「つる助」(鶴助)のことは出ない(リンク先は私の注附き電子テクスト)。]

 

 小かめに別れてもまだ日は暮れのこり、人の別れといふものをみてゐていささか感慨にしづんでゐると、芥川は、

「あの爪を見たか?」

と言つた。磨きのかかつた冷たい黑色の魅力――

「爪いろ?」「見た、」

と僕は答へた。すると芥川はたちまち能辯に小かめが母親三代の藝妓であること、それによる氣質、顏つき、皮膚のいろなどをいつて、小かめなどは江戸の名殘りを傳へた最も藝者らしい藝者だとタクシーを拾ふ間言つてゐた。

 小かめは告別式のとき谷中にきたがちよつと人々の目をそばたたせた立派な女であつた。

 僕に小かめを見せる前、ホテル事件の後いくらもたたないときに、少し步かうと芥川は僕を誘ひだして、「もうこれで自分の知つてゐる女の、ひととはりは君にも紹介してしまつたし、もう言つておくこともないし、すると……」

と、片山さん、ささき・ふさ、(ふさ子さんの養父は自殺した人のやうに聞いてゐた。佐多稻子は自殺しようとした。芥川はさういふ人達には自分の氣持がわかつて貰へると思つたのか? せい子、小町園のおかみさんといつたやうな芥川のいふ賢い女人の名をあげてゐた。

[やぶちゃん注:「ささき・ふさ」「ふさ子さんの養父は自殺した」既注であるが、「ささき・ふさ」は佐佐木茂索の妻で作家であった佐佐木(旧姓・大橋)房子のペン・ネーム。「養父」とあるのは「實父」の誤りである(二〇〇三年翰林書房刊・関口安義編「芥川龍之介新辞典」に拠る)。佐佐木茂索とは大正十四(一九二五)年三月に芥川龍之介を媒酌人として結婚したが、翌年一月に房子の実父が自殺している。この時、芥川龍之介は一月一五日附山本有三宛の書簡で(旧全集書簡番号一四二三)、『今日夕刊でにて大橋さんの變死を知り、なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した』と記している。

「佐多稻子」(明治三七(一九〇四)年~平成一〇(一九九八)年:本名は佐多イネ)。長崎市生まれ。複雑で貧困な家庭に生まれ、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務した(この時の経験が後、昭和三(一九二八)年発表の「キャラメル工場から」に纏められて彼女の出世作となった)。後、上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になったが、この時、芥川龍之介や菊池寛など著名な作家たちと知り合いになった(当時は田島姓)。参照したウィキの「佐多稲子」によれば、その後、『丸善の店員になり、資産家の息子である慶應大学の学生と結婚するが、夫の親に反対され、二人で自殺を図る。未遂で終わったが』、その後、『離婚し、夫との子を生んで一人で育て』、『最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめ』、大正一五(一九二六)年に『驢馬』同人の一人で『貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚』した、とある(窪川とは戦後に離婚し、それ以後、筆名を「佐多稲子」と名乗った)。龍之介は死の三日前の昭和二(一九五七)年七月二十一二位に彼女と面会している。宮坂年譜より引く。同日『夜、偶然近くに住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていた』(芥川龍之介が、である)『佐多稲子が、窪川鶴次郎とともに来訪し、七年ぶりに再会する。自殺未遂の経験を持つ佐多に、自殺について詳しく尋ねた』とある。前掲の「芥川龍之介新辞典」の「佐多稲子」の項によれば、この時龍之介は稲子に文学の話ではなく、専ら彼女の自殺経験について、「何を飲みましたか」「また死にたいとは思いませんか」とい意外にして奇体な質問を受けたとあり、『後に彼女は「芥川さんは、自殺をし損じた人間の顔も、見ておこうとされたようにおもう」』(「年譜の行間」昭和五八(一九八三)年中央公論社刊)『と記している』とある。

「せい子」谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹小林勢以子(明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)のこと。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。ここで芥川龍之介が彼女の名を「賢い女」の一人として挙げたのは事実であろうが、彼女と龍之介のゴシップを未だに云々する記載を見受けるが、私はそれは全くなかったと考えている。

「小町園のおかみさん」野々口豊。以前、この自死の年の前年から年初にかけての「小町園」への〈プチ家出〉についての注で述べた通り、彼女は明らかに芥川龍之介の秘かな愛人(不倫関係)の一人であった。]

 僕は手のつけられない病人、芥川の腦神經は棕櫚の葉つぱの裂けたやうなものだと思ひながら、聞いてゐたが、支那旅行の中途上海で風邪で入院してゐて譫語に「おつかさん。」と言つて看護婦に笑はれた芥川に母親があり、妹があつたのならば、と僕は今日でも思つてゐる。

[やぶちゃん注:「譫語」「うはごと」。]

 芥川が僕に芥川の言ふ賢い女人たちの名をあげてゐるので、僕は麻素子さん以外のまたほかの女人たちに縋らうとする芥川の氣持を感じた。さうして芥川は依然として片山さんを第一に頭のなかにいれてゐると見てゐた。片山さん、またはその他の女人たちのだれにもせよ、ホテルの繰返しをされるやうでは、芥川のためにも、僕自身もたまらんと思つたので、

「相談するなら小町園のおかみさんがいい。小町園のおかみさんなら大丈夫後日のまちがひもないし、ことによるとあの人ならいい智惠があるかも知れない、」と言ふと、

「ほんとに君もさう思ふかね、」

と言ふので、

「ほんたうだよ。ほかの人ではだめだよ。」

と言つたら、

「ほんとに君もさう思ふのかえ、」と急ににこにこして僕の顏をみてた芥川は、芥川を知らない人からみれば全くもつて糞味噌な芥川であつたらう。

 芥川は汽車に乘つて(湘南電車といふものはまだなかつた)鎌倉の小町園のおかみさんに會ひにいつてゐる。おかみさんも突然のことで驚いたのは事實であらうが、困つたといふより仕方のない困つた芥川の話をおかみさんは笑つてもゐなかつたやうであつた。落ちこまず落ちついた注意を芥川の身に配つたことも疑へない。しかし、一と月、二た月の間に芥川は既に死體となつてしまつてゐた。

[やぶちゃん注:小穴隆一はちゃんとした時系列で叙述することが出来ないタイプの人間である。冒頭の昭和二(一九二七)年六月二十五日からなら、まさに自死の「一と月」前であるが、この日以降、芥川龍之介が「小町園」へ出向いた痕跡はない。実際、激しい下痢や睡眠薬の多量服用による身体上の不具合で行こうにも行けなかったと私は思う。但し、自死の二ヶ月前に遡った謂いならば、あり得る。実際、宮坂年譜を見ると、この六月二十五日の十日前の六月十五日には鎌倉に住んでいた佐佐木茂索を訪ねている。]

 昔、僕のところでジュオルジュ・リヴエールのルノワール・ヱ・セザミーの中の SUR LA TERRASSE をみてゐて、「僕はかういふ顏の婦人が好きなのだ。この本が古本屋にあつたら是非買つておいておくれ、」と言つてゐた頃の芥川はよかつた。芥川はまだ死ぬ話などをもちださなかつたから――

[やぶちゃん注:「ジュオルジュ・リヴエール」ジョルジュ・リヴィエール(Georges Rivière 一八五五年~一九四三年)はフランスの美術批評家。ルノワールとは親友で、印象派を擁護した。

「ルノワール・ヱ・セザミー」リヴィエールのルノワール及び印象派論Renoir et ses amis(「ルノワールと彼の友だち」。パリ・一九二一年刊)。

SUR LA TERRASSE」ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 一八四一年~一九一九年)の一八八一年の作「テラスにて」。

Sur_la_terrasse


以上は仏語版ウィキ「
Pierre-Auguste Renoir」の画像。]

 芥川は精力絶倫ではなかつたか? 三宅やす子、九條武子と芥川との關係は? といふことを昔、僕は人に聞かれたものであるが、いづれも僕と芥川との間になにも話のなかつたことなので、なにも知らない。

[やぶちゃん注:「三宅やす子」(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家・評論家。京都市生まれ。京都師範学校校長加藤正矩の娘。本名は安子。お茶の水高等女学校卒業。夏目漱石・小宮豊隆に師事し、昆虫学者三宅恒方と結婚、大正一〇(一九二一)年の夫の逝去後に文筆活動に入り、大正一二(一九二三)年に雑誌『ウーマン・カレント』を創刊した。宇野千代と親しかった。以上はウィキの「三宅やす子に拠る。芥川龍之介の女性関係に就いて、私はかなり永く追跡してきているが、彼女は私の俎上にさえ上ったことがない。

「九條武子」(明治二〇(一八八七)年~昭和三(一九二八)年)は教育者で歌人。才色兼備として持て囃され、柳原白蓮(次注参照)・江木欣々(えぎきんきん:芸妓)とともに「大正三美人」と称された。仏教系の京都女子専門学校(現在の京都女子学園、京都女子大学)の創立者としても知られる。芥川龍之介より五つ年上。彼女と龍之介との関係を噂した記載を読んだことはあるが、流言飛語の類いとして無視してよい。]

小穴隆一 「二つの繪」(19) 「麻素子さん」

 

     麻素子さん

 

 芥川は「或阿呆の一生」の中に、(四十七火あそび、四十八死、參照、)麻素子さんを書いてゐる。

「火あそび」の中に、

 

「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかういふ問答から一しょに死ぬことを約束した。

「プラトニック・スウイサイドですね。」

「ダブル・プラトニック・スウイサイド。」

 

「死」の中に、

 

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に唯一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。

 

と述べてゐる。

[やぶちゃん注:私の「或阿呆の一生」から連続するそれを引いておく。

   *

 

       四十七 火あそび

 

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

 

       四十八 死

 

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

 

   *

但し――私は現在――この前者「四十七 火あそび」の彼女を――平松麻素子ではなく、片山廣子である――と考えている。それを私は『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』で検証しているので参照されたい。]

 麻素子さんと芥川夫人、僕と芥川といつた間柄が、芥川にとつて、ほんの僅かの間の氣休めにもなつてゐたことではあらうが、ホテルのこと以來、麻素子さんと白蓮(柳原)さんとの間柄から、自然白蓮さんといふ客が、お互ひの神經の中にはいつてきた。この客が加はつたことは、芥川の足掻きを結果としてはまた大きくしてしまつたのではないかと僕は思つてゐる。

「白蓮さんは束京驛から麻素子さんの電話で、何事が起つたのかと、家中の有金を全部持つて駈けつけてきたさうだ。」

「麻素子さんといつしよにしばらく暮すことが、自分の生活を生かすといふのならば、支那なら自分がいくらでも紹介して、隱家の世話をすると白蓮さんは言ふんだが、君はどう思ふね。」

と芥川は言つてゐた。芥川は僕がホテルを出て、夫人もまた歸つたあとのことであらうが、麻素子さんと白蓮さんとにどこかで會つてゐてさういふことを言つてゐた。

「芥川龍之介はお坊ちやんだ。」

 白蓮さんがさう言つたといふ。僕は芥川と麻素子さんとから聞いてゐる。

[やぶちゃん注:以上は前章「帝國ホテル」の末の注に附した、第一回帝国ホテル自殺未遂事件の翌日である昭和二(一九二七)年四月八日、芥川龍之介が、平松麻素子と彼女の私淑していた歌人柳原白蓮とともに星ケ岡茶寮で昼食を摂ったシークエンスに基づくものと、一応は考えられる。

「芥川龍之介はお坊ちやんだ。」お前に言われたくないよ、柳原燁子(あきこ:白蓮の本名)!]

 芥川の讀者は、芥川が麻素子さんに、と書いてゐた數篇の詩を讀んでゐるはずであるが、芥川は僕に、

「白分が麻素子さんと死なうとしたのは麻素子さんにお乳がないので、(乳房が小さいといふ意、)さういふ婦人となら、いくら世間の者でも麻素子さんと自分とは關係があつたと言はぬであらうし、また自分も全然肉體關係がなしに、芥川龍之介はさういふ婦人と死んでゐたといふことを人に見せてやりたかつたのだ。よしんば世間の人が疑つたところで、自分はさういふ婦人と何ら關係もなしに死んでゆくのは愉快だ。」

と言つてゐた。麻素子さんにお乳がないといふことは、芥川夫人が女學校時代の體格檢査のときに、麻素子さんの胸をみてゐてて芥川に話してゐたことであり、芥川はそのことを僕に話してゐた。僕は女房に、ふだんは乳房がなくて、赤坊ができると充分に乳房が張り、赤坊が乳を離れるとまた乳房がひつこんでしまふといふ、特異質であらうかと思へるその知人の話を最近に聞いたが、この芥川の言ひひらきは? この芥川文學? は到底人を納得させるものではない。かういつたところに芥川のものが敗北の文學といはれる點があればあるのであらう。もつとも、芥川が麻素子さんといつしよに警察の醫者の手で解剖されることも覺悟して言つてゐたといふのならば話はまた別である。

[やぶちゃん注:「芥川が麻素子さんに、と書いてゐた數篇の詩を讀んでゐる」恐らくは、岩波旧全集の「詩歌 二」に載る(この配列は昭和九(一九三四)年の岩波普及版全集のそれ以来、踏襲されている)以下の三篇(及びその前後や、間に入る「莟」「鏡」。「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で確認されたい)を指すものであろうが、私はこれらの内、「臘梅」を除いては、平松麻素子に捧げられたものではなく、片山廣子に捧げられたもの(或いは麻素子に仮託した廣子の面影を読んだもの)と読み、小穴隆一の謂いには従えない

   *

 

   冬

 

まばゆしや君をし見れば

薄ら氷に朝日かがよふ

 

えふれじや君としをれば

臘梅の花ぞふるへる

 

冬こそはここにありけめ

 

 

   手袋

 

あなたはけふは鼠いろの

羊の皮の手袋をしてゐますね、

いつもほつそりとしなつた手に。

わたしはあなたの手袋の上に

針のやうに尖つた峯を見ました。

その峯は何かわたしの額(ひたひ)に

きらきらする雪(ゆき)を感じさせるのです。

どうか手袋をとらずに下さい。

わたしはここに腰かけたまま

ぢつとひとり感じてゐたいのです、

まつ直に天を指してゐる雪(ゆき)を。

 

 

   臘梅

 

臘梅の匀を知つてゐますか?

あの冷やかにしみ透る匀を。

わたしは――実に妙ですね、――

あの臘梅の匀さへかげば

あなたの黑子を思ひ出すのです。

 

   *

最初に掲載された元版全集では、文末総てに「(昭和二年)」とある。「臘梅」に「黑子」(ほくろ)と出るが、色白であった麻素子は鼻の左に大きな黒子があった(二〇〇三年翰林書房刊・関口安義編「芥川龍之介新辞典」の「平松麻素子」の項に、『ます子の妹たよ子の長男斉藤理一郎の直話』として出る)。

「芥川夫人が女學校時代の體格檢査のときに、麻素子さんの胸をみてゐて」この小穴隆一の証言には疑問がある。芥川(塚本)文と平松麻素子は若き日に文が平松の豪邸の近くであった芝区高輪町の東漸寺脇に住んで居て家が近かったことから幼馴染であったのであるが、年齢で二歳、学年で一つ、平松の方が上であり、しかも文は跡見女学校、麻素子は東京女学館出であり、女学校は違うからである。可能性としては同じ尋常小学校当時(推定であり、二人が同じ小学校出でることは私は確認していない)のそれと考えるしかないからである。こういう事実齟齬や小穴隆一のもって回った意味深で読み難い文体が証言全体の信憑性を著しく損ねているのである。

「かういつたところに芥川のものが敗北の文學といはれる點があればあるのであらう」たぁ、小穴先生よぅ! あっしは思わんが、ねぇ。宮本顕治も微苦笑すんべぇ(宮本は東京帝国大学経済学部在学中の二十歳の昭和四(一九二九)年八月、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文學」で雑誌『改造』の懸賞論文に当選している。知られたことだが、同懸賞の次席は小林秀雄の「樣々なる意匠」であった)。]

 芥川は前に麻素子さんを貰へと言つてゐたことがあつたが、ホテル以來、僕に遊びをすすめる傾向があつたのはみのがせない。面白いと思つてゐる。

 何年か前の(終戰後)「主婦之友」に麻素子さんと芥川のことが載つてゐて、めづらしくすなほな記事であつたのには感心した。それが麻素子さんの人柄からきたことかどうかと考へてゐるが、多分さうなのであらうと思つてゐる。麻素子さんは療養所にはいつてゐると書いてあつた。薄命の人ではあらうが、麻素子さんのタイプは片山さん(松村みね子)に似てゐるのではなからうか。

[やぶちゃん注:『何年か前の(終戰後)「主婦之友」に麻素子さんと芥川のことが載つてゐて』不詳。識者の御教授を乞う。

「麻素子さんは療養所にはいつてゐると書いてあつた」先に示した「芥川龍之介新辞典」の「平松麻素子」の項に、龍之介没後二十五年ほど後(昭和二七(一九五二)年頃?)、『ます子は持病の結核が悪化したため、国立武蔵療養所に入院』したが、それからも芥川文との親しい書簡のやりとりがあり、昭和二十八年一月二日に亡くなった麻素子の葬儀には文も列席している、とある。]

 芥川の弟の新原得二は、遺書で義絶を計つた芥川を金輪際認めずに、麻素子さんを兄の敵、僕と谷口喜作(故人)などをおのれの敵としてみてゐたやうである。

 僕はホテル以來麻素子さんを黃泉の女王と言つてゐた。芥川と僕との間では平松さんとか麻素子さんとか言ふよりは、黃泉の女王といつたはうが言ひやすかつた。別に白蓮さんの筑紫の女王に對してあはせ奉つた次第ではない。

 白蓮さんの旦那さんの父親は支那浪人として名のあつた宮崎滔天。

[やぶちゃん注:「筑紫の女王」柳原燁子は三度結婚しているが、二度目の相手は九州の炭鉱王伊藤伝右衛門であったことから(明治四三(一九一〇)年十一月挙式。伝衛門は五十で(先妻とは死別)、二十五も年下であった)、彼女は「筑紫の女王」と呼ばれた。彼女の事蹟はウィキの「柳原白蓮」を参照されたい。

「白蓮さんの旦那さんの父親は支那浪人として名のあつた宮崎滔天」柳原燁子が伝衛門を捨てて駆け落ちした三度目の夫で弁護士・社会運動家の宮崎龍介(明治二五(一八九二)年~昭和四六(一九七一)年)は、孫文の盟友として辛亥革命を蔭で支えた大陸浪人宮崎滔天(とうてん 明治三(一八七一)年~大正一一(一九二二)年)の長男であった。]

2017/01/13

柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ猫」

 

 ものいふ猫

 

 猫がものを言ふ話は「耳囊」の中に二つある。緣側の端にゐた雀に飛びかゝつて逃した時、殘念だといふのを聞いて、びつくりした主人が早速捕へ、おのれ畜類の身として、ものを言ふこと奇怪である、と既に殺さうとする。猫再び聲を出して、ものを言つたことはありません、と云ひ、主人が驚きの餘り、手をゆるめた際に飛び上つて、遂に行方不明になる。爾來その家では猫を飼はぬことにしたといふのが一つ。

[やぶちゃん注:私の原文と訳注「耳囊 卷之六 猫の怪異の事」を参照されたい。]

 もう一つは寺の猫で、庭に下りた鳩を狙ふので、和尚が追ひ逃すと、これも同じく殘念だと云つた。和尚これを捕へて手に小柄を持ち、人語をなしたことを責める。猫答へて、猫のものを言ふのは私に限りません、十年も生きれば皆申しますので、更に十四五年もたてば、神變を得るのですが、それだけ命を保つた猫がないのです、といふ。それでものを言ふわけはわかつたが、お前はまだ十年にならぬぢやないか、と詰ると、狐との間に生れた猫は、その年功がなくても、ものが言へるのです、と答へた。よしよし、今日ものを言つたことは、わしの外に聞いた者がない、今まで通りこゝに居つてよろしい、と和尚が云ふのを聞いて、猫は三拜して出て行つたが、それきり歸つて來なかつた。この話は寛政七年の春、牛込山伏町の某寺院と明記してある。

[やぶちゃん注:同じく私の「耳囊 卷之四 猫物をいふ事」を参照されたい。

「小柄」「こづか」。雑用に用いる小刀。

「寛政七年」一七九五年。]

 やはり寺院の猫の話ではあるが、「新著聞集」にあるのは、もう少し複雜になつてゐる。淀の城下の淸養院の住持が、天和三年の夏痢病を煩ひ、夕方便所へ行つたところ、緣の切戸を敲いて、これこれと呼ぶ聲がする。七八年も飼ひ馴らした猫が、それまで火燵の上に居つたが、走り出て戸を明け、聲の主である大猫を火燵の上まで連れて來た。今夜納屋町に踊りがある、一緒に行かう、といふのは外から來た猫で、生憎この頃御住持が御病氣で、お側に居らねばならぬから、わしは行かれぬ、といふのが寺の猫である。それでは手拭を貸せ、といふ賴みに對しても、御住持が始終使つていらつしやるから駄目だ、と斷つて送り出した。住持はこの顚末を見屆けて病床に戾り、猫の頭を撫でて、わしの側に居らんでも大事ないから、誘はれたところへ早く行け、手拭もやるぞ、と云ひ聞かすと、猫は早速走り出て、遂に歸つて來なかつた。――この場合猫同士の會話は、ゴロニヤンで差支ないが、住持にわかつたところを見れば、どうしても人語でなければならぬ。「新著聞集」の著者は、この事實に重きを置いて、もの言ふ方は深く問はなかつた。

[やぶちゃん注:「新著聞集」(しんちよもんじふ)は、寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる(以上はウィキの「新著聞集」に拠った)。当話は同「第十 奇怪篇」の四話目。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣に誤りがあるが、そのまま引いた。

   *

   ○妖猫友をいざなふ

淀の城下の淸養院の住持、天和三年の夏、痢病わづらゐ、晩方に便にゆかれけるに、緣の切戸をたゝき、これこれと呼こゑきこへしに、七八年も飼(かひ)をきし猫、火燵(こたつ)の上にありしが、頓(やが)てはしり出て、鎰(かぎ)をはづしけるに、外より、大猫一匹來りしを内に入れ、鎰をかけ、火燵の上に伴ひしに、外の猫がいはく、今夜納屋町に踊(をどり)あり。いざ行(ゆか)んと有(あり)ければ、されば此ごろ、住持の病みたまふて、伽(とぎ)をするまゝ、行(ゆく)事は成(なり)がたしといへば、しからば、手拭(てぬぐひ)を借(か)せ、それも住持のひまなく遣ひたまふて、叶(かな)はじとておくりかへし、本のごとくに鎰かけたり。住持、件(くだん)のあらましをうかゞひ見たまふて、立(たち)かへり猫をなで、我(わが)伽はせぬとてもくるしからず、誘ひに來(きた)る所へはやく行け。手拭も得さするぞと云(いひ)れしかば、猫はしり出て、後又も歸らざりしと也。

   *

「淀の城」現在の京都府京都市伏見区淀本町にあった江戸時代の山城淀藩の淀(よど)城。話柄内時制では第二代藩主石川義孝が城主。

「淸養院」白犬ぴーたろー氏のブログ「義犬、忠犬の伝説・墓碑・銅像・史跡を巡る旅〈ワン旅〉」の「にゃん旅 Vol.45 清養院の妖猫(京都府京都市伏見区)」によれば、廃寺で詳細不明であるが、京阪「淀」駅の北にあった寺で、浄土宗系と推測されるらしい。

「納屋町」京阪「淀」駅の二つ隣りの京阪「伏見桃山」駅の西側で、「淸養院」跡辺りからは約五キロメートルほどの場所である。ここ(グーグル・マップ・データ)。中央下方が淀城跡。

「天和三年」一六八三年。まさに「生類憐みの令」の徳川綱吉の治世。]

 日本の猫が人語をなす以上、妖怪の本場たる支那の猫がものを言はぬ筈がない。「夜譚隨錄」の傳ふるところは、たまたま人語をなした猫が、飼主に縛られ打たれる。この場合の飼主の言草は、畜生の分際でもの言ふのは奇怪千萬、といふに在る如くである。その時猫は答へて、猫だからとてものが言へぬわけはありません、禁を犯して敢てせぬまでです、今うつかり口をすべらしてしまつて、後悔しても及ばぬのですが、牝の中にはよく言へぬ者があります、と云つた。その家の人々はこれを信ぜず、更に他の牡猫を縛し、打つてものを言へと命ずる。この猫はニヤアニヤア云ふだけであつたが、前の猫が、わしですらものを言はざるを得なくなつたのだ、お前は無論の事だ、と云つたので、遂に人語を發して、許して下さい、と歎じた。乃ち兩猫ともに之を縱(はな)ち、後また不祥多し、とある。

[やぶちゃん注:「夜譚隨錄」は清の和邦額(一七三六年~?)の小説集。以上は「第二卷」の「貓怪三則」の中の以下。中文サイトより一部の表記や記号を変更して引用する。

   *

永野亭黃門爲予言、其一親戚家、喜畜貓。忽有作人言者、察之、貓也。大駭、縛而撻之、求其故、貓曰、「無有不能言者、但犯忌、故不敢耳。今偶脱於口、駟不及舌、悔亦何及。若牝貓則未有不能言者矣」。其家不之信、令再縛一牝者、撻而求其語、初但嗷嗷、以目視前貓、前貓曰、「我且不得不言、況汝耶」。於是亦作人言求免、其家始信而縱之、後亦多不祥。予聞其説、愈謂「太平廣記」所載、貓言「莫如此、莫如此」之事、爲不誑也。

蘭岩曰、「以言遭楚、貓應自悔、然猶以駟不及舌、痛自懲責、乃人也、每以多言取禍、反怨天尤人、不克自省、誠此貓之不若矣」。

   *]

 以上の諸例は和漢を問はず、たまたま人語をなして人に怪しまれるまでであるが、「夜譚隨錄」にある某公子の話は、著しく妖氣を加へてゐる。太平無事の家で、十數疋の猫を飼ふ。或日の食後、家族閑談の際、召仕が一人も側に居らぬので、夫人が侍女を呼ぶこと三四囘、答へがないのを怪しんでゐると、窓外に當り妙な聲で、同じやうに呼ぶ者がある。公子が簾を挑げて見ても、あたりは寂として誰もゐない。たゞ一匹の猫が窓の上にうづくまつて居り、公子の方を振向いて笑ふやうな表情をした。公子は大いに驚き、皆と共に出て見たが、笑談半分に、今人を呼んでゐたのはお前かと問へば、さうですと答へる。公子の父は甚だ不祥とし、猫を捉へよと命ずると、猫は「わしをつかまへるな、わしをつかまへるな」と繰返し、一躍して屋根へ飛び上つてしまつた。數日間その姿は見えなかつたが、或日小婢が猫に飯を與へる時、ふと氣が付いたら、例の猫が中にまじつて何か食つてゐる。急いで家人に報じ、猫は捉へられて縛られた。鞭打たれること數十度に及んでも、たゞ唸るだけである。公子の父は皆の殺さうといふのを制し、かういふものは棄てた方がいゝと云つたので、米囊に入れて川に投ずることにした。然るにこれを運ぶ二僕が、途中で囊の輕くなつたのに驚き、空しく歸つて來たら、猫は已に家に居つた。それからこの猫が胡牀に登つて、大いに公子の父を罵殺する一條があるが、これはもの言ふ域を遙かに通り越し、演説に類する嫌ひがあるので、こゝには省略する。この猫の妖味は、公子を顧みた時、「面に笑容あり」といふのが頂點であらう。

[やぶちゃん注:これはやはり「夜譚隨錄」の「第二卷」の前に引用した直前にある「貓怪三則」の第一話。但し、全体の話柄の初めの三分の一しか訳出していない。同前の仕儀で、柴田がカットした後半の部分(公子一党の殆んどが滅亡してゆく)も全部含めて、引いておく。

   *

某公子爲筆帖式、家頗饒裕、父母俱存、兄弟無故、得人生之一樂焉。上下食指甚繁、而猶喜畜貓、白老烏員、何止十數。每食則群集案前、嗷嗷聒耳、飯鮮眠毯、習以爲恒。適飯後閒話、家人咸不在側、夫人呼丫環、數四不應、忽聞窗外、有代喚者、聲甚異。公子簾視之、寂無人、唯一貓奴踞窗臺上、囘首向公子、面有笑容。公子大駭、入告夫人。諸昆弟聞之,同出視貓、戲問曰、「適間喚人者、其汝也耶。」貓曰、「然」、眾大嘩。其父以爲不祥、亟命捉之、貓曰、「莫拏我,莫拏我!」。言訖一躍、徑上屋簷而逝、數日不復來。舉室惶然、談論不已。

一日、小婢方餉貓、此貓複雜群中來就食。急走入房、潛告諸公子。諸公子復大擾、同出捉之、縛而鞭之數十。貓但嗷嗷、倔強之態可惡。欲殺之、其父止之曰、「彼能作妖、殺之恐不利、不如舍之」。公子陰命二僕、盛以米囊、負而投諸河。甫出城、囊驟穴、臨河而返、貓已先歸。直至寢室、簾而入、公子兄弟方咸集父母側論貓事、瞥見貓來、胥發怔。

貓登踞胡床、怒視其父、目眥欲裂、張須切齒、厲聲而罵曰、「何物老奴。屍諸餘氣、乃欲謀溺殺我耶。在汝家、自當推汝爲翁、若在我家、雲乃輩猶可耳孫、汝奈何喪心至此。且汝家禍在蕭牆、不旋踵而至、不自驚怕、而謀殺我、豈非大謬。汝盍亦自省平日之所爲乎。生具蚓蟻之材、夤緣得祿。初仕刑部、以距得上官心。出知二州、愈事貪酷。桁楊斧鑕、威福自詡。作官二十年、草菅人命者、不知凡幾。尚思恬退林泉、正命牖下、妄想極矣。所謂獸心人面、汝實人中妖孽、乃反以我言爲怪、真怪事也」。遂大罵不已、辱及所生。舉室紛拏、莫不搶攘。或揮古劍、或擲銅瓶、茗碗香爐、盡作攻擊之具。貓哂笑而起曰、「我去、我去、汝不久敗壞之家、我不謀與汝輩爭也」。亟出戸、緣樹而逝、至此不復再至。

半年後、其家大疫、死者日以三四。公子坐爭地免官、父母憂鬱相繼死。二年之内、諸昆弟・姊妹・妯娌・子姪・奴仆死者、幾無孑遺。唯公子夫婦及一老僕一婢僅存、一寒如范叔也。

閒齋曰、妖由人作、見以爲怪、斯怪作也。唐魏元忠謂、「見怪不怪、其怪自滅」。非見理明晰、不能作是語。雖然、内省多疚、亦不易作坦率漢。

   *

「續墨客揮犀」に某家に衆妖競ひ作(おこ)ることを記して、牝雞は晨(あした)を告げ、犬は頭を裹(つゝ)んで步き、鼠は白晝群がり出で、道具類も勝手に不斷の場所から動く、とある。その家でも閉口の末、徐といふ老巫女に妖を除くことを賴んだ。徐姥がやつて來て、爐に對坐した時、一匹の猫がそこに寢て居つた。家人が現狀を説明して、うちの中で怪をなさぬのはこの猫ばかりです、と云ふと、猫は人のやうに立つて手を拱き、敢てせずと一言云つたので、徐姥は手を下す能はずして逃げ去つた。この「不敢」の一語は、「夜譚隨錄」の「不敢耳」と同義であらう。この猫は幾分ユーモラスな點もあるが、實際この事に直面したら、徐姥と同じく走り去る外はあるまい。

[やぶちゃん注:「續墨客揮犀」(ぞくぼくかくきせい)は宋代の彭乗の小説集。本話は「卷一」の「妖異未必盡爲禍」。中文ウィキソースの同書の電子テクストを参考に、表記の一部を変更して示す。

   *

鄱陽龔冕仲自言其祖紀與族人同應進士舉、唱名日其家眾妖競作、牝雞或晨雊、犬或巾幟而行、鼠或白晝群出、至於器皿服用之物、悉自變易其常處。家人驚懼不知所爲、乃召女巫徐姥者使治之。時尚寒、與姥對爐而坐、有一貓正臥其側、家人指貓謂姥曰、「吾家百物皆爲異、不爲異者獨此貓耳」。於是人立拱手而言曰、「不敢」。姥大駭而去。後數日捷音至、二子皆高第矣、乃知妖異未必盡爲禍也。

   *

「徐姥」の音は「ジヨモ」或いは「ジヨボ」。]

小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」

 

     帝國ホテル

 

「どうもやうすが變です、」

 春の一日(昭和二年)下宿のはやい夕飯を食べ終るところに、いつもとちがつたやうすで一人で廊下に立つて、さう言つてゐる芥川夫人をみた。

「夕方どこにゆくとも言はずにぶらつと出かけていつたのですが、どこにいつたのかわからないのです、」

 少しせきこみがちに言ひながら夫人が坐つた。

「まあ、」と僕が膳をさげさせようとしたそのときに、開いてゐた入口の障子のところに麻素子さんの顏がのぞいた。

「まあ、」

「まあ、」

「いまお宅にあがらうと思つてゐたのですが、」

「わたしもいまお宅にあがらうと思つてゐたところなんです、」

と、言つてゐる麻素子さんと芥川夫人をみて、僕はそのやうすにとまどつた。麻素子さんは僕を下宿に訪ねてきたことのない人であるし用件がわからない。芥川夫人は「どこにいつたんだかわからないんですよ、」と麻素子さんに言つてゐる。

「心あたりもありますから搜しに出かけてみませう、」と僕が芥川夫人に言ふと、

「では、どうかよろしく、」

と言つて、夫人はそのままいそいで歸つていつてしまつた。

 僕の心あたりといふのは、帝國ホテルと淺草の待合春日(春日とよが女將であつた)の二ケ所であつた。(芥川は時には、このニケ所で原稿を書いてゐた。)

 

 麻素子さんと僕は芥川夫人に一ト足後れて下宿を出た。

 雨があがつてゐたのか降つてゐたのか、麻素子さんは傘を持つてゐた。十五六間ほど步いたところで麻素子さんは、文子さん(芥川夫人)にはただ一人の友達である立場、その人の夫の芥川に困惑してゐるいまの氣持がわかるかといふことを言ひだした。(その時、僕は麻素子さんに、あなたでなくとも、どの婦人にでも取縋らうとするのが、いまの芥川ではなからうか、と言つたと憶えてゐる。)

 僕は麻素子さんにさういふことを言ひだされても、格別驚きはしなかつたので、田端の驛の裏出口、芥川の家、さうしてまた近くと開いてゐる麻素子さんの家、それぞれの丁度なかばあたりで、「あなたは、」と麻素子さんに聞いてゐた。

「わたし……」と麻素子さんは一寸立止つて、

「わたしも今日は有樂町の家に行きます、」と言つた。

 

 驛に下りる石段で、霞に烟る三河島の一帶、(數ヶ月後に、死體となつた芥川を燒いた火葬場の烟突が三本見える。)淺草方面のほんのりと見える灯、それを見たら、心あたりとしてゐる春日、帝國ホテル、もし、この二ケ所のうちで芥川を捉へられないとすると、鎌倉の小町園まで行つて(ここの女將のことは宇野の書いた「芥川龍之介」にでてくる)きつと捉へるが、十二時までに間に合ふか(僕は、芥川が十二時までは生きてゐると考へてゐた、)一寸考へさせられた。

「さつき、文子さんの前では言へなかつたのですが、芥川さんの行つたさき、ほんとはわたし知つてます、帝國ホテルにゐます、……」

と麻素子さんが言つてくれた、(麻素子さんは落ちついた人である。僕にそこまでとは氣づかせてゐなかつた。)その麻素子さんをたよりにして僕は、有樂町までの切符を買つた。麻素子さんは、省線のなかでまた麻素子さんの立場を言つてゐた。さうして有樂町の驛で降りると、有樂町の家に辟らずに、僕を案内して、正面の入口からでなく、側面の小さい出入口をえらんでそこから僕をホテルに導いていれた。(僕はよく勝手を知つてゐる麻素子さんを一寸疑つたが、あとで芥川から彼女の父がホテルの支配人とは知合ひであると説明された。)帳場のところまで麻素子さんに案内されて、僕がその場の人に芥川が泊つてゐるかどうかと聞くと、

「さきほどおみえになりまして、また、どちらかへお出かけになりました。」「お歸りになるにはなります。」と帳場の人が言つた。

 僕は麻素子さんを信用し、帳場の人の言ふことを信用して、麻素子さんとホテルのそとにでた。

 麻素子さんは僕と歩いてゐる、芥川といつしよに死にはしない。僕はそこらで時間をつぶしませうと麻素子さんとそとにでたが、芥川はいづれ麻素子さんと死ぬつもりで戾つてくるであらうが、もう見こしがついた芥川の居どころを一刻もはやく、芥川の家に知らせたくなつてきて、時間は大丈夫だから、僕はひとまづ田端に知らせにゆくが、あなたは、と、ホテルの近邊と聞いてゐた彼女の兩親の家のことを考へて言つた。

「それぢやあ、わたしもいつしよにまゐりませう。」

と、急に麻素子さんも僕といつしよに田端に逆戾りした。

 芥川の門を潛つて、夫人、伯母、養母、義ちやんの顏をみた。僕はその人達よりも一と足さきに階段をのぼつていつた。僕は二階の芥川の書齋の隅によせられてしまつてゐる机の上の袋にはいつた部厚な物、ただそれだけがのせてあつたその机の上の物に注目した。

(芥川夫人は忙しく書齋の隅々に目をつけてゐたやうすであつた。といふのは、芥川はいつも遺書のやうなものを書いてゐて、夫人が、やたらそこらへんにおいておくので、女中達が掃除のときに讀んでしまつてゐるらしく、ほんとに因つてしまふんです、と言つてたやうに、さういふ物を書物の間に挾むとか、道具の蔭に隱しておくなぞはよくあつたことであるから、)

 僕は机の上のハトロン封筒の表に思ひがけなく、小穴隆一君へ、と書いてあるのを手にとつて中をみた。封筒の中には「或阿呆の一生」の原稿だけであつた。「或阿呆の一生」は、後に、〔僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしてもインデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。僕は今最も不幸な幸福の中に暮してゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯、僕の如き惡夫、惡子、惡親をもつたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。ではさやうなら、僕はこの原稿の中で少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。最後に僕のこの原稿を特に君に托するものは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と言ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。昭和二年六月二十日 芥川龍之介 久米正雄君 となつてゐたものだが、僕がここに久米宛の手紙まで引用したのは、芥川が闇中問答を葛卷に與へてゐたとおなじやうな目的で、はじめは僕に「或阿呆の一生」の原稿を渡さうとしてゐたことを言つておきたいからだ。おなじやうな目的、「最後の會話」の章參照〕[やぶちゃん字注:太字「意識的」は底本では傍点「ヽ」。以下の二ヶ所の「ば」も同じ。]

 僕は芥川の書齋で、夫人に、芥川が帝國ホテルに宿をとつてゐたこと、十二時頃ホテルに歸つてなにか書置を書くとして二時頃自殺を決行、僕のこの推察には誤まりはなからうこと、時間はまだ間にあふ點、さうして、芥川の身をほんたうに不安に考へてゐるならば、芥川を自分のものだと思ふのなら、とにかくホテルに僕とまたいつしよにいつてみないかと言つた。僕は麻素子さんの前で、とにかく自分のものと思ふならに力をいれてゐたやうだ。(芥川はあとで僕に、女房にでも自分のものだと、さういつた考へを持たれて生きてゐるのは、自分はいやなんだ。と言つてゐた、)

 が、夫人は返事をしなかつたのである。

 僕は鵠沼にゐるとき、「子供の着物を買ひに行くが、いつしよに散步に横濱に行かないか、」「束京だと年寄がやかましくて、女中にやる盆暮の安反物さへなかなかの面倒だ。」と言つてゐた芥川夫妻を知つてゐるので、夫人を默らせてゐる年寄達に憤慨した。

「では、下で年寄達がなんと申しますか、一應年寄にたづねてみます、」

 僕が義ちやんと三人でゆきませうといつたときに、夫人ははじめて口をきつてさう言つた。が、夫人が下にいつてから相當待たされたので、僕は、その間二階で、死にたがつてゐる芥川を日頃よろしくと言つてをりながら年寄達は何事だと腹を立ててゐた。

 ――やうやく僕達三人は坂を下つて動坂の電車通りにタクシを拾ひに出た。

 麻素子さんは芥川の家に近い彼女の兄の家に泊つた。

 街も既に寢靜つてゐた。

 

 ――號室、3の字があつた室であつた。

「おはいり、」

と、大きな聲で呶鳴つたのは芥川である。

 僕達はドアを開けて、ベッドの上に一人ふてくされてゐる芥川をみた。

「なんだ、お前まできたのか、歸れ――」

 三人が三人ともまだ全部室のなかにはいらないうちに、芥川は「おはいり、」と言つたその時よりも大き聲で義ちやんに呶鳴つた。

「歸れといふなら歸りますよ、」

「そんなら、なぜまた自分がこんな人騷がせをするんです、」

と、こみあげて泣きだしてゐた義ちやんは、つづけてさう呶鳴り返すと、一歩足を室に踏みいれただけで、田端に戾つて行つた。

 

 芥川と芥川夫人、僕の三人になつた。

「麻素子さんは死ぬのが怖くなつたのだ。約束を破つたのは死ぬのが怖くなつたのだ。」

 ベッドに仰向けになつたままの芥川は呶鳴るやうなうつたへるやうな調子で起きあがつた。

(一寸、舞臺を眺めてゐるやうな思ひででもある。)

 もう夜中である。

 三人のこころが迷つたとき、(夫人が泊つてゆくか、僕が歸るか、別の室をとるかと思つてゐるとき、)

「わたしは歸ります。」

と言つて、芥川夫人が廊下へ消えていつた。

 

 芥川と二人になつた僕は、ただ眠かつた。喉がかわいて無性に水が飮みたくなつてしまつた。僕は空いてゐるはうのベッドへはいつて、義足をはづして仰向けになつた。スチームが強かつたので、毒がはいつてゐて明日の朝は芥川といつしよに冷たくなつてゐても、もう仕方がないとあきらめて、枕もとの水壜を手にとつた。水はごくんと音をたてて喉にはいつた。

 

「もつと早くホテルに來て早く死んでしまふつもりであつたが、家を出るとき堀辰雄がきて、いま東京中を自動車で乘廻す小説を書いてゐるのだが、金がなくて車を乘りまはせないと言つてゐたから、ついでだからいつしよに東京中乘りまはしてゐて遲くなつた。」

「眠れないなら藥をやらうか、」

 僕はうとうとしてて芥川がさう言つてるのを聞いた。

 

 芥川は、帝國ホテルは、種々の國際的人物が宿泊する關係上、時たま自殺者があつても、表沙汰にならないといふことを關係者側の人からの又聞きの又聞きで聞いたといふ。それで帝國ホテルで死ぬことにしたといつてゐた。麻素子さんが教へたと言つてゐた。

 

 ベッドのなかで義足をはづして橫になつたときに、睡眠藥をのんで向ふむきになつて毛布をかぶつた芥川をみた。しかし僕はただもう眠つてしまつてゐた。目がさめたときに、芥川のかぶつてゐる毛布が動いた。僕は救はれた氣がした。僕らは何時間眠つてゐたのだらうか、

「おはいり、」

 芥川の聲でボーイがはいつてきた。ボーイの顏をみたら、朝だ、といふ氣が急にした。ボーイは見慣れざる客の僕をみたやうである。ボーイが立去ると芥川は小さい聲で、「僕は食堂に出る着物ぢあないんだ。」と言つた。僕は、父が何年か着ふるした服を着てゐるので、夜でなければ堂々と室外に出てゆけぬだらうと息苦しくなつてきた。

 

 けふもまた逃れられない僕だと觀念した。窓の向側(現在、東京寶塚劇場の側)の建物には陽があたつてゐる。金目のかかつた建物かは知らないが、薄暗い室で、朝餐か晝食かわからない物を食べ終ると、芥川はカフエをすすりながら向側の建物に目をやつて、

「向ふのあの室ではもう、阿部章藏が僕らがここにかうしてゐる事をなにも知らず働いてゐるだらう。」(阿部章藏は水上瀧太郎のこと、)

と言つた。僕は窓の下を歩いてゐる人達がただ羨しかつた。たばこに火をつけると芥川は、

「日本の文壇を根本的に批評していくには、どうしても日本にゐては自分には出來ない。(この言葉は「饒舌錄」による谷崎潤一郎との間の論戰によるものか、但しこの論戰は僕には、芥川が單に谷崎との舊交の思出に親しんでゐたといふやうに思はれる。芥川はよく谷崎の逞しさをいつて、芥川流に僕を勵ましてゐたものである。)巴里の魔窟のなかに暮してでなければ駄目だ。(巴里の魔窟に住むで亂倫不逞の生活をして、弱い性格をくろがねのやうにたたきあげるといふ言葉は、幾度か彼の口からでた。彼は彼の顏を寫眞になどしない國で、無賴の徒の間に伍して暮さうといふのである。)谷崎は今日既に駑馬として終り、佐藤春夫はこれまた過渡期の人間である。自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた。自分は仕事の上では今日までは如何なる人々をも恐れてはゐなかつた。また、さうしてやつてきた。智惠では決して人に負けないと信じてきてゐたが、ここに唯一人自分にとつて恐るべきは志賀直哉の存在だ。恐るべき存在は志賀直哉であつた。志賀直哉一人だ。志賀直哉の藝術といふものは、これは智惠とかなんとかいふものではなく、天衣無縫の藝術である。自分は天下唯一人志賀直哉に立ち向ふ時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事も唯一人志賀直哉の仕事には全くかなはない、」とゐずまひをただして暗然たるかと思ふと、かつて、かたはらの雜誌をとつて、「この小説の冒頭の會話だけでも、既に僕らにはかういふ新時代の會話が書けない。」と僕に言つてゐたその作者の、佐佐木茂索がその後なにも書いてゐないのを嘆いてゐた。

 芥川は夫人が迎へにきた時まで、何時間かの時間を、すさまじい必死で一人でしやべりつづけてゐた。夫人とかはつて、すぐホテルを出た僕の顏をあたためてくれたのは午後の遲い日ざしであつた。

[やぶちゃん注:既に注した昭和二(一九二七)年四月七日の平松麻素子との帝国ホテルでの心中未遂の小穴証言による顚末である。この事件は不明な点も多く、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)では、この日付を四月十六日としつつ、『七日とする説もある』とするが、実は

現行では、この帝国ホテルでの心中或いは自殺未遂は――実に二回もあった――と考えられている

現在の最新の宮坂覺氏の新全集の年譜では

第一回目を七日に断定

しており、これはそれである。宮坂によれば、この七日、『「歯車」の最終章「六 飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻素子と心中を計画していたとされる』。『但し、平松は芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものとも考えられ』、『平松が、小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻魏義敏の三人が駆けつけ、未遂に終わる、この日は、そのまま小穴と二人で帝国ホテルに宿泊』と記す。但し、この記載の主要部分はこの小穴隆一の記載と、芥川文述・中野妙子記「追想 芥川龍之介」(一九七五年筑摩書房刊)に依拠するものである点には注意しておく必要がある。

二回目の帝国ホテルでの心中未遂について宮坂は五月上旬或いは下旬としている

以下、宮坂年譜。『再び帝国ホテルでの自殺を計画したが、未遂に終わる』。この時もやはり『平松麻素子の知らせで文たちがホテルに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが、手当てが早かったため、覚醒』したとし、『文は「後にも、先にも、私が本当に怒ったのはその時だけ」とし、この時の芥川が珍しく涙を見せたことを』「追想 芥川龍之介」の中で『回想している』とある(下線はやぶちゃん)。

 なお、平松麻素子(明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)について少しここで述べておくと、戸籍上の名は「ます」で高輪の生まれ。文の幼馴染みで、文より二歳年下、龍之介より六歳年下であった父平松福三郎は弁護士・公証人で、有楽町に法律事務所兼ねた公証人役場を営業していたが、大正八(一九一九)年に職を投げ打ち、出口王仁三郎の大本教に入信、東京支部長となった。麻素子は若くして結核に罹患、東京女学館を卒業後は家事手伝いをし、病気もあって婚期を逸していた。当初は、大正九(一九二〇)年に発表する「秋」の執筆に際して、当時の女性の風俗を龍之介に解説して貰うために文自身が龍之介に紹介したものである(前記「追想 芥川龍之介」)。関東大震災で高輪に家を焼け出された平松一家は、一時、福三郎の長兄の住む田端に身を寄せたことなどから、近くの芥川家との訪問が頻繁となり、龍之介の晩年には文が龍之介の疲弊した神経を慰めて呉れるであろうこと、及び、彼の自殺を監視させる目的をも暗に含んで、龍之介との交際を文も勧めていたようである。ここで小穴が述べるように、父の縁で晩年の芥川の仕事場として、帝国ホテルを斡旋したのも彼女とされる。戦後になって結核が悪化、国立武蔵療養所に入院したが、ほどなく逝去し、本書刊行時(昭和三一(一九五六)年)には既に鬼籍に入っていた。

「淺草の待合春日(春日とよが女將であつた)」既出既注

「十五六間」二十七~二十九メートル。

「鎌倉の小町園まで行つて(ここの女將のことは宇野の書いた「芥川龍之介」にでてくる)」「女將」は芥川龍之介の愛人の一人と目される野々口豊(既婚者)。括弧書きの部分は、私の宇野浩二「芥川龍之介」の上巻下巻を「野々口豊」で検索されたい(私の注で掛かる)。但し、宇野は上巻で『小町園』の女将(『お上』『おかみさん』)として出しているだけで、「野々口豊」の名は出してはいない。

「僕は、芥川が十二時までは生きてゐると考へてゐた」何だか、予言めいて意味深長だ。直後に麻素子にも「時間は大丈夫だから」とまで断言しているのだが、要は後で出るように、「芥川が帝國ホテルに宿をとつてゐたこと、十二時頃ホテルに歸つてなにか書置を書くとして二時頃自殺を決行」という「僕のこの推察には誤まりはなからう」と踏んだからに過ぎないことが判る。或いは、この帝国ホテル自殺未遂第一回の時は、麻素子が行かない限り、龍之介は心中が失敗したと理解して、独りで自殺はしないと踏んだものでもあろうかとは思われる。こうした隔靴掻痒が小穴の謂い方にはしばしば現われる。私は何となく芸術家肌の人間にありがちな、クソ霊感みたようで気分が悪くなる部分ではある。

『「或阿呆の一生」の原稿だけであつた。「或阿呆の一生」は、後に、……』決定稿は芥川龍之介の死後、昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載されている。しかし私の或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」の冒頭注で私が述べた通り、この叙述に従うならば、「或阿呆の一生」は当初は小穴隆一に託すつもりであったことになり、私は、旧友久米正雄よりも遙かに、この小穴隆一こそ、「君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう」「この原稿を特に君に托するものは君の恐らくは誰よりも僕」「都會人と言ふ僕の皮を剝」いだ僕「を知つてゐると思ふからだ」と龍之介から言われてしかるべき人物であると考えている。或いは、まさにこの帝国ホテル事件に於いて、自殺を邪魔した結果となった小穴隆一に対する、ある種の失望感こそが、「或阿呆の一生」を渡す相手を久米に変更する動機となったのではないかとも推理するのである。以下の、現行の「或阿呆の一生」冒頭久米正雄宛の前書きは読点や表記の一部の違いを除けば、特に引用に問題はない(上記リンク先で対照されたい)。なお、『改造』に発表された折りには、この芥川龍之介の前書きに続いて、実は久米正雄の識文が附加されてある。これは、まず、現行の「或阿呆の一生」とセットで読まれることがなく、未知の方も多いと思われるので、やや場違いとは思うが、ここでそれを以下に電子化しておくこととする。底本は岩波旧全集の後記にある者を用いた。なお、久米は既にパブリック・ドメインである。

   *

 右の遺志に依り、私は此處に此の原稿を發表する。時期も場所も、最も自然な狀態だと信じて。――が、其點に就て、幾らかの粗洩があるとすれば、遺靈に對して詫びる外はない。

 云ふ迄もなく、是は故人の「自傳的エスキス」である。(原稿にはさう割註がしてあつて、抹消されてある。消してある文句を、玆に發表するのも如何かとは思はれるが、幾らかでもさう云ふ割註をしたい意志があつたやうに思ふので、玆に敢て補註して置く。)が、更に云ふ迄もなく、是は一個の「作品」である。私は此の發表に際して、故人が私に囑した如く、私から讀者に、此の中に出て來る人物に對して、ヂヤーナリスティツクな、乃至はゴシップ的な、違ふ形式の「インデツクス」は付けずに置いて貰ひたいと思ふ。

 それから原稿には、左の脱字乃至は誤字と目さるべきものがある。もつとあるかも知れないが、氣付いたものだけを記して置く。明に誤字だと分つては居ても、訂正する事が出來ないのは悲しい。

 以上、遺文を汚す恐れを抱き乍ら、敢て數行のプレフェースを付ける。インデックスでないから故人も許して呉れるだらう。(久米正雄識)

   *

「粗洩」はママ「粗漏」の誤記或いは久米の癖か。また、この第三段落の叙述については、旧全集後記に、同初出の篇末には『「或阿呆の一生」中語句の誤りであらうと思はれるところを久米さんが左の如く指摘して下さいました(記者)」として』『正誤表が付されている。なお疑念部分は訂正することなく本文に傍點を付し、そのまま組まれている』とある。

 

「芥川が闇中問答を葛卷に與へてゐた」「闇中問答」は昭和二(一九二七)年九月発行の雑誌『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に「闇中問答(遺稿)」の題で掲載されたもの(リンク先は私の古い電子テクスト)。芥川龍之介が「闇中問答」の原稿を無言で葛巻義敏の部屋に投げ込んでいったという記事をどこかで読んだ記憶があるのであるが、捜し得ない。見つかり次第、追記する。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の「闇中問答」の項(今野哲氏執筆)によれば、「闇中問答」の執筆時期については、初出誌の「編集後記」で菊地寛が『「昨年末若しくは今年初のもの」と推定している』とある。

「最後の會話」後掲される章。

「年寄達」芥川道章と妻トモ及び龍之介の伯母フキの三人。

「タクシ」ママ。

「毒がはいつてゐて明日の朝は芥川といつしよに冷たくなつてゐても、もう仕方がないとあきらめて、枕もとの水壜を手にとつた。水はごくんと音をたてて喉にはいつた」小穴隆一には悪いが、これこそ芝居染みた謂いである。

「堀辰雄がきて、いま東京中を自動車で乘廻す小説を書いてゐるのだが、金がなくて車を乘りまはせないと言つてゐたから、ついでだからいつしよに東京中乘りまはしてゐて遲くなつた」このような事実は年譜上は記されていない。「堀辰雄」の「東京中を自動車で乘廻す小説」は完成されたものかどうかも不詳。識者の御教授を乞う。

「東京寶塚劇場」現在も帝国ホテルの道を隔てた北東側にある。阪急電鉄の小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場(現在の東宝)によって、昭和九(一九三四)年に開館した(本「二つの繪」は昭和三一(一九五六)年刊)。ウィキの「東京宝塚劇場」によれば、『第二次世界大戦中は、日本劇場とともに風船爆弾工場として使用された。一方で、戦争が終わるとGHQにより接収され』(昭和二〇(一九四五)年十二月二十四日から昭和三〇(一九五五)年一月二十七日まで)、『異文化の国に駐留する兵士達の慰問を目的としたアーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre)と改称、日本人は観客としての立入が禁止された』(アーニー・パイルという名は昭和二〇(一九四五)年四月十八日に『沖縄県伊江島の戦闘で殉職した従軍記者に因んだもの』)。接収解除後、宝塚の『星組公演『虞美人』で公演が再開された』。この時、芥川龍之介や小穴隆一が眺めた『開場以来使われてきた旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため』、平成九(一九九七)年十二月二十九日に一旦、閉場して翌年一月から建替え工事が開始され、二〇〇一年一月一日に新築オープンしたものが現在のそれである。

「阿部章藏」「水上瀧太郎」「阿部章藏」は小説家・劇作家・評論家の水上瀧太郎(明治二〇(一八八七)年~昭和一五(一九四〇)年)の本名(泉鏡花に傾倒し、「水上」及び「瀧太郎」は孰れも鏡花の作品からとったペン・ネームである)。慶應義塾普通部から慶應義塾大学に進み、大学では永井荷風の教えを受けた。明治四四(一九一一)年から『三田文学』に短編を発表し、芥川龍之介とは大正六~七(一九一七~一九一八年)頃に新詩社の短歌会の席上で知り合い、水上の小説「紐育―リヴアプウル」(『新小説』大正八(一九一九)年六月発表)を高く評価し、大正一四(一九二五)年三月以降には鏡花を敬愛していた芥川及び谷崎潤一郎・里見弴・久保田万太郎らとともに「鏡花全集」の校訂・編集に当たっており、また、同年十一月に興文社から出版された芥川龍之介の渾身の編集になる「近代日本文芸読本」(全五集。著作権等のトラブル続きで龍之介を精神的に痛めつけた)の第五集には、水上の「昼―祭りの日―」が収録されている。

「饒舌錄」昭和二(一九二七)年三月号の『改造』に発表された谷崎潤一郎の評論。これは同年二月號の『新潮』に載った座談会の中で、芥川龍之介が谷崎の作品に触れて〈「話の筋」の芸術性〉を疑問視する発言をし、それが谷崎の癇に障って反論したもの。

「谷崎潤一郎との間の論戰」芥川はその「饒舌錄」に対して、「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年四月一日及び五月一日及び六月一日、八月一日発行の『改造』に掲載)、及び、『文藝春秋』に『改造』と同じく「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載(同年四月一日及び七月一日発行。こちらは没後に「續文藝的な、餘りに文藝的な」と改題された)した論文で反論した。私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介」を参照されたい。この芥川龍之介の最晩年に文学論争は、ある意味、棲む世界の違う作家同士の平行世界の無益な議論であって、芥川龍之介をダメ押しで精神的に疲弊させた元凶の一つであったと言ってよい。少なくとも小穴の言うような「芥川が單に谷崎との舊交の思出に親しんでゐた」というレベルの問題では、ない。

「芥川はよく谷崎の逞しさをいつて、芥川流に僕を勵ましてゐたものである。)巴里の魔窟のなかに暮してでなければ駄目だ。(巴里の魔窟に住むで亂倫不逞の生活をして、弱い性格をくろがねのやうにたたきあげるといふ言葉は、幾度か彼の口からでた。彼は彼の顏を寫眞になどしない國で、無賴の徒の間に伍して暮さうといふのである。)谷崎は今日既に駑馬として終り、佐藤春夫はこれまた過渡期の人間である。自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた。自分は仕事の上では今日までは如何なる人々をも恐れてはゐなかつた。また、さうしてやつてきた。智惠では決して人に負けないと信じてきてゐたが、ここに唯一人自分にとつて恐るべきは志賀直哉の存在だ。恐るべき存在は志賀直哉であつた。志賀直哉一人だ。志賀直哉の藝術といふものは、これは智惠とかなんとかいふものではなく、天衣無縫の藝術である。自分は天下唯一人志賀直哉に立ち向ふ時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事も唯一人志賀直哉の仕事には全くかなはない」この小穴隆一によって採録された発言は、私はストリー・テラーとして行き詰った芥川龍之介の末期(まつご)の本音として信じ得るものと心得る。

『「この小説の冒頭の會話だけでも、既に僕らにはかういふ新時代の會話が書けない。」と僕に言つてゐた』「その作者」「佐佐木茂索」私はこれが佐佐木茂索の何という小説の冒頭なのか分らぬ(というか、佐佐木の小説を不学な私は多分、一篇も読んだことがないのである)。識者の御教授を乞う。

「芥川は夫人が迎へにきた時まで」宮坂年譜によれば、この昭和二(一九二七)年四月八日は長男比呂志の小学校の始業式(二年のそれ)で、文はそれに出席した後に帝国ホテルに龍之介を迎えに来たのであった。だから「午後の遲い日ざし」なのである。但し、宮坂年譜はこれに続けて、この日、平松麻素子の私淑していた歌人『柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で』、『麻素子、白蓮と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが、』文は行かなかった、とあり(先の「追想 芥川龍之介」に拠る記載)、この「遲い日ざし」というのは、或いはやや小穴の脚色が入っている可能性が疑われないではない。この、この日の柳原白蓮とのことは次の「麻素子さん」の章に出る。]

2017/01/12

柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ人形」

 

 ものいふ人形

 

 人形がもの言ふ話は「男色大鑑」にある。人形作りが一心こめて作つた人形を、店の看板に立てて置いたところ、時々身を動かすのみならず、芝居歸りの太夫達に目を付け、夜每にその名を呼ぶやうになつた。自分の作つたものながら恐ろしく、河原に流したことも二三度あつたが、いつの間にか歸つて來る。この事を手紙に書いて若衆の集まつた宿へ持たせてやると、成程夜中に役者の名を呼ぶ。箱から出して言葉をかければうなづき、捨盃を與へた後、諸見物の思ひ入れ數多で、そなたの願ひは叶はぬと諭したら、それきり目もやらなくなつた。

[やぶちゃん注:「男色大鑑」(なんしよくおほかがみ)は井原西鶴の男色を題材とした浮世草子。貞享四(一六八七)年板行。全八巻(各巻五章で計四十章)。ウィキの「男色大鑑のから見ると、「卷七」の「三 執念(しふしん)は箱入りの男」がそれか。但し、そこだとすると、柴田の梗概は分り易いものの、整序されてしまっていることになる。

「見物」「けんぶつ」で贔屓客。]

「佛作つて魂を入れず」といふ諺は人口に膾炙してゐるが、この魂が入ると入らぬとは、細工人の精神の問題だと「宮川舍漫筆」などは云つてゐる。或人が人形遣ひから人形の一箱を預かつて置いたのに、夜更け人しづまつてから、箱の中で物音がする。鼠でも入つたかと調べて見ても、そんな樣子はない。寢床に入つて寢ようとすると、また箱の中で打合ふやうな音がする。こんな事が度々あつたので、持主に話したところ、遣ひ手の精神が籠つた人形ですから、さういふ事は珍しくありません、敵役の人形と實役の人形とを一つ箱に入れて置けば、人形同士食ひ合つて微塵になります、といふことであつた。この話では作り手よりも遣ひ手の魂になつて來るが、「半七捕物帳」の「人形使ひ」はこの方の話を使つたのである。

[やぶちゃん注:「宮川舍漫筆」(きうせんしやまんひつ)は安政五(一八五八)年序の宮川政運(幕府詰めの儒者として知られた志賀理斎の次男)の見聞奇談集。当該条は「卷之四」の「精心(せいしん)込(こむ)れば魂(たましひ)入(いる)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工してしめす。

   *

   ○精心込れば魂入

諺に佛造りて魂入れずとは、物の成就せざる譬(たとへ)なり。扨(さて)魂の入と入らざるとは、細工人の精心にあり。都(すべ)て佛師なり、畫工なり、一心に精心を込れば、其靈をあらはす事、擧(あげ)て算(かぞ)ふべからず。既に上野鐘樓堂の彫物の龍は、夜な夜な出て池水を飮(のむ)、淺草の繪馬出て田畝(たんぼ)の草を喰ふといふ事、むかしがたりなれども、僞(いつはり)にてはよもあるべからず。予愚息の友なる下河邊(しもかうべ)氏、ある人形遣(にんぎやうつかひ)の人形を一箱預り置し處、其夜人靜まりし頃、其箱の内冷(すさま)じくなりしかば、鼠にても入りしなるべしとて、燈火(ともしび)を點じ改め見しところ、ねづみのいりし樣子もなき故、臥床(ふしど)に戾りいねんとせしに、又々箱の中にて打合(うちあふ)音など再々ありしかば、其事を持主にはなせし處、夫(それ)は遣ひ人の精心籠りし人形ゆへ、いつとても左の如く珍しからず。右故若(もし)敵役(かたきやく)の人形と實役(じつやく)の人形をひとつに入置(いれおく)時は、其人形喰合(くひあ)ふて微塵になるといえり。實(じつ)に精心のこもりし處なるべし。されば人は萬物(ばんもつ)の靈(れい)なれば、何事も精心のいらざることなし。其譯(わけ)は佛師有(あつ)て、子安(こやす)の觀音を彫刻せば、子育(こそだて)を守(まもり)に驗(しるし)あり。又雷除(らいよけ)の觀音を彫刻せば、雷落(おち)ざる守に驗あり。是觀音は一躰(たい)なれども、其守る處は別にして、ともに利益(りやく)驗然(げんぜん)たるを見るべし。其利益は佛師の精心の凝(こ)る處にして、觀世音も利益を授(さづけ)給ふなるべし。佛師なり、畫工なり、其精心の入るといふは、唯(たゞ)無欲にして利に走らず。只々一心に利益あらん事を祈りて彫刻なすゆえ、其靈(れい)も格別なり。今時の職人は、其精心入(いる)ことなきにも、又餘義(よぎ)なき謂れあり。只(たゞ)今日の暮し方にのみ氣を奪はれ、細工は早く仕あげ、其手間代(てまだい)にて鹽(しほ)噌(みそ)薪(たきゞ)に充(あて)るものから、細工のよしあしに拘らず、手を拔く事のみを手柄(てがら)と心得居(こゝおろえゐ)る故、他(た)に見えざる處なれば、頭もなく、手足もなき、不具の人物生物(せいぶつ)のみ多し。是にて何ぞ魂の入べきいはれ更になし。我(われ)昔彫物師埋忠(うめたゞ)嘉次右衞門が噺(はなし)を聞(きゝ)し事あり。埋忠が云、當時は人間の性(せい)日々わるかしこく成(なり)し故、何職(なにしよく)も細工の早上(はやあが)りのみ工夫なせば、むかしの細工のかたは少(すこし)もなき故、いかなるものも皆死物のみ多し。昔の細工は金錢にかゝはらず、おのれがちから一ぱいに彫ほり)し故、靈(れい)もあり、妙(めう)も有(あり)といへり。埋忠持傳(もちつたへ)の品に、むかし笄(かうがい)あり、至(いたつ)て麁末(そまつ)なれども、細工は妙なり。其彫は編笠被りし人物なりしが、年代ものゆゑ自然と編笠すれし處、下に顏あり、眼口あざやかに彫(ほり)ありしといふ。中々當時なぞは見へもせぬ處なれば、誰々(たれたれ)も彫らず、是(これ)魂入(たましひい)らぬ處なりといえり。

 因(ちなみ)にいふ、一昨年中(いつさくねんぢう)淺草奧山(おくやま)にて生(いき)人形といえる見世物あり。評判高きゆへ、老弱男女(らうにやくなんによ)此見世物見ざれば恥のごとく思ひなし、日々群集(ぐんじゆ)なす事實(じつ)に珍らし。此作人(さくにん)は肥後の生れにして、喜三郎といえり。其生(せい)質朴至(いたつ)て孝心厚きものゝよし噂なり。此者の細工自然と妙を得る事、既に大坂にて薪を荷(にな)いし人形口を利(きゝ)て、アヽ重いといひし由、予も見し處、いづれも今にも言葉をいださん有樣、感ずるに餘りあり。ある人、此者人形拵居(こしらへゐ)しを見しに、其念の入りし事は、人形にほりものある人形は殘りなくほりあげ、其上へ衣服を着せしよし、是外へは見へぬ處なれば、餘り念過たりと笑ひし者あれども、これ前にしるせし編笠の下に顏を彫し細工と同日(どうじつ)にして、實(じつ)に感ずべき事なり。されば口きゝしといふも尤(もつとも)なるべしとは思はれける。

   *

「喜三郎」は本作でも次に出る「松本喜三郎」(文政八(一八二五)年~明治二四(一八九一)年)で、肥後国(現在の熊本県)の商家に生まれた、稀代の人形師。彼の作品は本物の人間と見紛うところから「生人形(いきにんぎょう)」と称された。グーグル画像検索「松本喜三郎」を是非、見られたい。]

 幕末から明治へかけて評判だつた松本喜三郎の生人形にも、薪を負つた人形が「あゝ重い」と云つた話が傳はつてゐる。これなどは多分喜三郎の技術を賞讚するため、誰かが作つた話であらう。

 製作者が精魂を打込んだ結果でもなし、人形遣ひの氣持が自ら乘り移るといふでもないのは、「大和怪談頃日全書」に見えた一話である。大御番組で四百石取りの菅谷次郎八なる者が、新吉原の遊女白梅に深く馴染み、御番の間は大方吉原通ひといふ有樣であつた。或年二條城の在番に當り、暫く江戸を離れることになつたが、時折江戸往來の者に托して文を寄せ、返事を貰ふだけでは滿足出來ず、竹田山本の細工人に賴んで白梅の人形を作らせた。この人形は等身大で、その腹中に湯を注ぎ込み、人肌の暖味になつたのを抱いて寢るといふ念入りのものである。次郎八はこの人形に向ひ、白梅と話すやうな氣持になつて、いかに白梅、そなたはわしを可愛く思ふか、と話しかけると、人形も口を動かして、いかにもいとしうござんす、と答へた。これは勿論細工人の工夫の外の事だから、次郎八も不審に堪へず、狐狸の魂が人形に乘り移つたものと疑ひ、即座に枕許の脇差を拔いて、人形を眞二つに斬り捨てた。さすがに次郎八は武士の本心を失はなかつたといふのであるが、この人形を斬つたのと同日同刻、即ち延享巳年七月五日の八ツ時に、白梅は初會客に胸を刺されて死んだ。男も自殺した。無理心中の道連れにされたわけである。尤も延享年間に巳年はない。寛延二年を筆者が書き誤つたのかも知れぬ。これらは次郎八の愛慕の情が、人形の上に怪を生ぜしめたと見るべきであらう。人形を斬つたのと、白梅の刺されたのとが同日同刻であつたといふのは、この種の話によくある筋で、怪は人形のもの言ふ一點に在る。

[やぶちゃん注:「大和怪談頃日全書」既出既注。私は所持しないので原文を確認出来ない。

「竹田山本」当時、大坂でも知られた人形店。

「延享年間」一七四四年~一七四七年。

「八ツ時」定時法なら、午前二時頃。

「寛延二年」一七四九年。]

 齋藤綠雨は好んで怪を談ずる流儀の人でなかつたが、「おぼえ帳」の中にこの話を書いてゐる。白梅は山谷邊に葬られたのを、次郎八が本所の本行寺に移し、深教院妙香白梅信女として、跡懇ろに弔つたといふ一條は、何に接つたものか、「大和怪談頃日全書」にこの事はない。

[やぶちゃん注:「おぼえ帳」作家斎藤緑雨(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年:本名・賢(まさる))が明治三〇(一九九七)年に『太陽』で連載を始めた短文形式の随筆。私は所持しないので原文を確認出来ない。]

小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」

 

     手帖にあつたメモ

 

 古い手帖のなかの芥川に關するものを拾つてみる、

 

 大正十五年四月十一日、日

 八百屋ノ店サキニモハヤ夏ミカンヲミル

 ――十八日、日、雨

 夜、田端

 蒔淸ノ壺ノナホシヲ田端ニ渡ス

 蒔淸へノ禮ヲアヅカル

 六月六日、日、朝 雨 午後ハフラズ

 蒔淸ト田端ニユク

 ――八日

 春陽堂ノ番頭「芋粥」「戯作三昧」ノ裝幀ノ用デキタル

 龍之介先生、義チヤン鵠沼行ハガキ

 五月三日

「アグニノ神」ノサシヱ二枚渡ス。

 

改造改版「三つの寶」の進行遲々たるさまがわかる。

[やぶちゃん注:「大正十五年四月」以前にも注したが、この頃(四月上旬)、芥川龍之介は不眠症状が昂じ、多種の睡眠薬の濫用(多量服用等)が始まっており、やはり何度も述べた通り、この四月十五日に小穴隆一によれば、芥川龍之介は来訪した小穴に自殺の決意を告白している。四月二十二日から鵠沼生活が始まった。

「蒔淸へノ禮」「その前後」に既出。小穴曰く、「鈴木春信の祕戲册」である。

「六月六日」宮坂覺年譜によれば、この日の訪問客は多く、佐佐木茂索・小穴隆一・遠藤古原草(「蒔淸」)・堀辰雄に加え、夜には下島勲も来て、皆で夜十時頃まで談笑している。

「――八日」順列から六月八日とすれば、この日か前の日、芥川龍之介は例の自死用毒物スパニッシュ・フライの見本を東京(田端)の家の方『へとどけてくれ給へ』と小穴隆一に依頼し、『今度は一週間――長くとも二週間位にはかへつて來る故』と記している(旧全集書簡番号一四八四)。田端発信(消印八日)であるが、この八日の夕刻には芥川は田端から鵠沼に戻っている。

『春陽堂ノ番頭「芋粥」「戯作三昧」ノ裝幀ノ用デキタル』「戯」はママ。芥川龍之介の単行本に春陽堂刊の単行本『芋粥』や『戲作三昧』というのは、私は知らない。この頃、そういう話があって、小穴隆一が装幀を予定されていたものか? 識者の御教授を乞う。

「五月三日」月が戻っており、不審。或いは六月の誤りかと思ったが、「鯨のお詣り」ではこの同内容が( )に入っているので、五月で正しいようである。

「改造改版「三つの寶」の進行遲々たるさまがわかる」前の出る「アグニの神」は結局、没後出版となる「三つの寶」に入っており、同作品集の装幀と挿絵は小穴隆一が担当している。「サシヱ二枚渡ス」とは芥川龍之介にか? それとも改造社にか? 後者か。これは芥川龍之介絡みではあるものの、芥川に直接渡したものではないから、( )で後に回したとすれば、時系列の齟齬も、ごく腑に落ちるからである。]

 

 ――十八日

東洋文庫ニきりしたん本ヲ調べニユク。

 

 きりしたん物を和本で出版するといふ話があり、石田幹之助を東洋文庫に訪ねて、慶長版のものを參考にみせてもらつた。

[やぶちゃん注:これは「鯨のお詣り」では前の条と一緒に( )で入り、『同十八日』とするので五月十八日のことであり、芥川龍之介は同道していないと考えてよい。即ち、これも「鯨のお詣り」の記載から、結局、未刊に終わった某出版社の芥川龍之介切支丹物を集録した単行本企画の装幀を、小穴隆一が予定担当しており、その参考に供するため、小穴が単独で東洋文庫に赴いたことを指している。

「石田幹之助」(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四))は芥川や井川(恒藤)恭の一高時代の同級生で、当時、東京帝国大学文科大学史学研究室の後身である財団法人「東洋文庫」の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。]

 

 六月二十二日、火、曇

 龍之介先生ヨリ手紙(鵠沼)

 

 あづまやに一人で滯在してゐた芥川が、クソ蠅を何匹か呑下してゐた頃である。

[やぶちゃん注:「クソ蠅を何匹か呑下してゐた」「死ねる物」の本文及び私の注を参照。この大正一五(一九二六)年六月上旬には、執筆のために暫く止めていた睡眠薬の服用をまたぞろ始め、半覚醒時に『いろいろの友だち皆顏ばかり大きく體は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より兩眼の間へ駈け來るに少々悸えたり』などという強い幻視を見たりし(六月十一日齋藤茂吉宛旧書簡番号一四八五)、中旬には下痢が続き、月末まで悩まされ(後にこれは大腸カタルと診断されている)、痔も悪化し、文の母塚本鈴の配慮で義弟八洲附きの看護婦に来て貰ったりもしている(六月二十日附小穴隆一宛旧全集書簡番号一四八八で、これは消印が二十一日であるから、この小穴隆一のメモはこの書簡のことを指していると考えてよい。激しい下痢症状を訴え、といとう地元の富士山(ふじ たかし)という名の医師に診て貰ったと述べ、看護婦のことを記し、『下痢のとまり次第歸京したい。一人で茫漠の海景を見ながら 橫になつてゐるのは實に淋しい。以上』と擱筆している)。この二十二日は下痢がひどいために予定していた文藝春秋社の講演会を断念、佐佐木茂索に代演を頼んで、夜十時頃に鵠沼から田端に戻っている。]

 

 七月二十六日、月、暗

 改造高平キタル リンカク校正ツタシ

 

「三つの寶」の本文のメーク・アップのこと。

 芥川僕ともに風雨樓に滿つるの趣があつて、金の必要を大いに感じてた。鵠沼へ移轉するために、僕にできるかぎりの前借貮官圍を改造高平に賴んでて受取つた。

[やぶちゃん注:この七月六日に東屋旅館から同旅館の貸別荘「イの四号」へ転居して所謂、〈二度目の結婚〉の生活に入ったが、既に見たように、同十三日には秘かに小穴隆一からスパニッシュ・フライを受け取っている。また丁度、この頃に芥川龍之介の元には下島の元に編集者(と思われる。既出)高平の来訪に応じるように、改造社社長山本実彦自らが来訪している。]

 

 十二月三十一日、日

 鵠沼ヨリ上京東片町ニ來タル 三十日尚子死ス。年十三

 昭和二年一月四日、火

 告別式 火葬

 田端泊

 平松サンヲミル

 

芥川に平松麻素子さんを紹介された日。

[やぶちゃん注:「十二月三十一日、日」とあるが、これは誤りで、この日は金曜日である。なお、この六日前の一九二六年十二月二十五日に大正天皇崩御により大正十五年は昭和元年に改元している。この時期の芥川龍之介の心底は、「侏儒の言葉」の遺稿掉尾によく示されている(リンク先は私の『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』)。妹の死に動顚したための誤記であろう。後の「昭和二年一月四日、火」は正しいからである。更に言っておくと、この日、小穴の不在が芥川龍之介に大きな不安を齎したか、龍之介はこの日から、一種の〈プチ家出〉をする。宮坂覺年譜より引く。『鎌倉の小町園へ静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられて』おり、小穴の妹の逝去や年末のこととて、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受けたが、結局、翌年二日まで滞在した』。この時、野々口に心中を持ちかけ、拒絶されたとする説もある。

   *

 

       民  衆

 

 シエクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衞門も滅びるであらう。しかし藝術は民衆の中に必ず種子を殘してゐる。わたしは大正十二年に「たとひ玉は碎けても、瓦は碎けない」と云ふことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも搖がずにゐる。

 

       又

 

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、藝術は永遠に滅びないであらう。 (昭和改元の第一日)

 

      又

 

 わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

 

       或夜の感想

 

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

 

   *

「尚子」既出の小穴隆一の妹。

「昭和二年一月四日」この日には別の厄介な事件が出来している。やはり宮坂年譜より引く。姉ヒサの再婚相手の、義兄の弁護士西川豊(明治一八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年:芥川龍之介より七つ年上)宅が『全焼する。直前に多額の保険がかえられていたため、西川には放火の嫌疑がかかった』(この嫌疑は殆んど即日のことだったらしい)。『午後、前月』三十日に『死去した小穴隆一の妹の告別式に参列する。』午後八時頃、『小穴、下島勲が来訪する。居合わせた平松麻素子と文を交え、』午後十時頃まで『カルタなどをして過ごした。この時、初めて小穴に平松を紹介する』とある。これは本書以外に下島勲の「芥川龍之介氏終焉の前後」(昭和二(一九二七)年九月『文藝春秋』でも確認出来る旨の注記がある。]

 

 

 ――一月五日、骨アゲ

 ヒル田端ニ寄リ ヨル鵠沼ニカヘル

 ――六日、夜藤澤ノ花屋ニ義チヤンユキバラ十五本三圓

 芥川はずるずるに東京になつてしまつてゐた。僕はもう一晩泊れといふ芥川に別れて鵠沼に歸つた。鵠沼の芥川の家には葛卷が一人で留守番をしてゐるといふやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:以前に注した通り、これを以って芥川龍之介に晩年の鵠沼生活は終りを告げた。]

 

 ――七日、金、雨

 四號ばらに着手

 ヨツチヤン歸京

 塚本サンノオツカサン

 夜時事ノ記者、西川氏ノ件。

 

 芥川の姉、葛卷の母の夫、西川豐護士の鐡道自殺で葛卷と新原とは朝のうちに上京、塚本のオツカサンは芥川夫人の母、多分、夕飯の菜を持つてきてくれたのであらう。

 人力車に乘つた時事の記者は、芥川のところが女中一人の留守番であつたので立寄つた。

[やぶちゃん注:「四號ばらに着手」「四號」はキャンバス・サイズで、薔薇の絵に着手したのであろう。さすれば、前日に夜、葛巻義敏に頼んで藤沢の花屋から十五本に薔薇を入手したという記載が腑に落ちる。思えば、尚子危篤の報に小穴が藤沢を発った際、龍之介が駅で彼に薔薇の花を一束買って渡したシーン(「降靈術」)などを考えると、この薔薇の絵は兄隆一の亡き妹尚子への悼亡作ででもあったように思われる。

「西川豐護士の鐡道自殺」西川豊の鉄道自殺は自宅の二日後の一月六日午後六時五十分頃と推定されている。宮坂年譜によれば、『千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル付近』(この附近(グーグル・マップ・データ)。現在の千葉県千葉市緑区土気町附近。外房線である)での飛び込み自殺で、以後、芥川龍之介は三月頃まで、『遺された高利(年三割)の借金』、『生命保険や火災保険の問題で、東奔西走を余儀なくされた』とある。]

 

 一月三十日、日

 芥川サンノ原稿「なぜ?」ハ奧サンニオ渡シシタ

 

 芥川夫人は鵠沼に置いてあつた荷の中から差當つて必要な品物、子供の着物かなにか、それを取りに田端から一寸見えた。

[やぶちゃん注:「なぜ?」昭和二(一九二七)年四月発行の『サンデー毎日』(春季特別号)に掲載されることになる、「三つのなぜ」の決定稿(リンク先は私の古い電子テクスト)。脱稿日は前年の七月十五日(発表時の末尾クレジット)。]

 

 二月六日  雪ドケ

 御大葬

 寫生ハダメ、夕方雪モヤウ

[やぶちゃん注:宮坂年譜によれば、芥川龍之介の方はこの大正天皇「御大葬」翌日の七日までに、自殺した『義兄の家の問題に忙殺されながらも』、「河童」(六十枚)、「輕井澤で――「追憶」の代はりに――」(三枚)などを執筆しているとある。リンク先は私の電子テクスト。後者は特に私の偏愛する掌品である。]

 

 二月十三日、日

 田端、遠藤二人ヨリ手紙

 月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク

 ――十七日、くもり 寫生休

 田端、入谷ヨリ手紙

 

 入谷といふは小澤碧童のこと。

[やぶちゃん注:「田端」芥川龍之介のこと。これは二月十二日附のそれ(旧全集書簡番号一五七四)で、西川家のことでごたごたしていることを記し、どんどん尺が長くなった「河童」は『明日中には脱稿するつもり』(事実翌十三日に脱稿している)とある。

「遠藤」既出既注の遠藤古原草清兵衛(蒔清)。

「月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク」芥川龍之介が鵠沼生活を終わらせたことによる。小穴隆一と芥川龍之介の親密性が窺われる。]

 

 ――二十日 田端

 二十一日、月、ユキ、田端泊

 二十二日、火、田端泊 雪、雪 ホンブリ。

 二十三日 クゲヌマ。コノ四日間寫生休ミ。

[やぶちゃん注:以上は底本では一行連続であるが、底本がメモ記載を一字下げにしている関係上、以上のように表記した。次の日記本文も同じく底本では実際にはべったりとくっ付いた表記であるが、ブラウザの関係上、かく改行した。そのように脳内で復元して読まれたい。]

 五月二十一日

 新聞ノ差畫ハハジメテナリ

 東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ

 「本所兩國」芥川龍之介十五日分 余ノ

 差畫、今日掲載ノブンニテ終ル 畫料百

 五十圓

 

 僕は百五十圓を受取つたもののその金をなにに使ふかも考へないでゐた。といふのは、その金は僕としてはめづらしく、さしあたり金を考へないでゐてよかつたときにはいつてたらしいが、芥川は僕にその金で大阪に行つて、「ダンス場をみてこないか、ああいふものをみておかないと時勢に遲れるよ、」としきりにすすめた。芥川は大阪で谷崎(潤一郎)に案内されてみてきたと言ふのであるが、(東京にはまだダンス場はなく、僕が大阪で見物して歸つてくるとぢき大阪では禁止となり、東京ではじまるといつた時代であつた。書翰集をみると、三月一日大阪から芥川文宛のものに〔まだ二三日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎佐藤(春夫)兩先生と文樂座へ參る筈、〕といふのがあり、谷崎の「いたましき人」をみると、〔ちようど根津さんの奧さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと云ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを嵌めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた。〕といふ一節がある。いま死なうといふ人が時勢に遲れるもないものだが、とにかく片足は義足で踊れもしない僕に、ウエストミンスター百本入りの鑵をくれて否應なしに大阪へ立たせた。僕は留守に死なれるのではないかと氣にかけながら、京都にゐた遠藤(淸兵衞)を訪ねて一泊、翌日遠藤と大阪に出て(遠藤はペルーで踊りをおぼえてきた、)水上(茂)の兄に案内してもらつて、まあ、時勢に遲れぬための見學はすませた。關西は十年ぶりであつたので少しは肩のこりもほぐれて歸つてきたものだが、留守に死なれたら大變であつた。

「本所南國」のさしゑでは、「富士見の渡し」のところであつたらう、「渡し場は何處にも見えない。」と書いてあるのに、わたし舟あり〼といふ畫を書いてゐたので、東北・北海道・新潟から歸つた早々の芥川に、「君、困るよ、」と言はれたが、僕は、「いやあ、」と言つて笑つてすませてもらつた。僕は忠實に步きまはつてゐるうちにわたし舟あり〼をみつけてうれしくなり、うつかり本文のはうを忘れてしまつてゐたのである。芥川はさういつたやうな一寸困るときの僕の笑ひを早春の笑ひと言つた。

[やぶちゃん注:『東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ「本所兩國」芥川龍之介』芥川龍之介の名随筆「本所兩國」(リンク先は私の草稿及び注附きの電子テクスト)は『東京日日新聞』夕刊に、昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(二回休載)に渡って、新聞社側の『東京繁昌記』という連載標題の四十六回から六十回分に掲載されたものであった。これは挿絵入りであったが、実は新聞社側は当初、挿絵も芥川龍之介に依頼していたことが、彼の「晩春賣文日記」で判る(リンク先は、ネット上には存在しないようなので本注のために急遽、私が電子化したものである)。御存じの通り、芥川龍之介は画才もあったが、この要請には困ったことがそこでよく判る。

「三月一日大阪から芥川文宛のものに〔まだ二三日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎佐藤(春夫)兩先生と文樂座へ參る筈、〕といふのがあり」旧全集書簡番号一六八三。正確には『拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首』/『龍之介』が全文。

『谷崎の「いたましき人」』『文藝春秋』昭和四(一九二九)年九月に載った谷崎潤一郎の芥川龍之介の追悼記。私は谷崎が嫌いなので未読。なお、ふと気が付いたが、偶然であるが、芥川龍之介の自死した七月二十四日は谷崎の誕生日であった。

「根津さんの奧さん」根津松子、後の、谷崎潤一郎の三人目にして最後の妻となる谷崎松子(明治三六(一九〇三)年~平成三(一九九一)年)。ウィキの「谷崎松子」によれば、二十歳で根津清太郎と結婚したが、清太郎は根津商店という大阪の綿布問屋の御曹司で、『彼とのあいだに一男一女をもうけたものの』、『夫は末の妹と駆け落ちするなど素行が悪』く、まさにこのシークエンスで谷崎と知り合い(清太郎とは昭和九(一九三四)年に離婚)、後に結婚した。「細雪」の「幸子」のモデルである。

「ウエストミンスター」英国王室御用達の巻煙草“Westminster”(ウエストミンスター)。

「水上(茂)」新全集書簡一通に出るらしいが(私は新字採用の新全集を認めないので一部とコピーしか所持しない)、同人名索引でも『未詳』とする。]

 

 六月九日

 塚本サンヨリ菓子

 ――十七日

 「三つの寶」サシヱ全部渡シズミ

 ――二十日

 「湖南の扇」ノ裝幀仕事全部渡シズミ

 ――二十五日

 春日ニテつる助、小かめヲミル

 芥川方泊リ、

 

 つる助は春日の女將、小唄の春日とよ、小かめは芥川の書いたものに出てくる親子三代の藝者、芥川はこの日僕を伴れて谷中の畫家の墓に詣で、その足で小かめと別れを惜んでゐる。

[やぶちゃん注:「春日とよ」(明治一四(一八八一)年~昭和三七(一九六二)年)はイギリス人を父として函館に生まれた小唄の演奏家で作曲家。本名は柏原トヨ。三歳の時に母に連れられて上京し、十六歳で浅草の芸妓「鶴助」を名乗った。一時、結婚したが破れ、大正一〇(一九二一)年に料亭「春日」の女将となった。幼少の頃から清元・長唄を習熟、離婚後には常磐津を修め、この後の昭和三(一九二八)年に小唄春日派を起こして家元となった。谷崎潤一郎・吉井勇・久保田万太郎・伊東深水などの文化人との親交も深かった。

「小かめは芥川の書いたものに出てくる親子三代の藝者」「小かめ」は芥川龍之介の可愛がった馴染みの芸妓(彼女との関係を疑う向きもある)であるが、小穴隆一の言う「芥川の書いたものに出てくる」というのは、ちょっと浮かばぬ。分かったら追記する。]

 

 ――二十六日

 三時ニ歸宿

 夜、義チヤント散步

 

 三時ニ歸宿とあるのは芥川のところから下宿に戾つたことをいつてゐる。

 

 七月十三日

 芥川方泊リ

 ――十五日

 夜、かめ井戸見物、我鬼先生、永見、沖本四人ヅレ、

 

 芥川は廣津和郎に案内されて龜井戸をはじめて知つたと言つて、待合遊びとちがつたその面白さを言つてゐたが、この日の暮れどきに、永見と沖本を伴れて紙ほないかと言つて僕の下宿にきて一筆書いたものを永見に渡し、それから三人を伴れて龜井戸に案内した。それで僕ははじめて龜井戸の一廓なるものを知つた。故永見德太郎は日向の「新らしき村」を見物に行き肉なしのカレーをだされたので、くそおもしろくもないと三皿平らげたといふ豪傑、沖本常吉は「本所兩國」擔當の記者、現在島根縣津和野に在任、芥川龍之介句集印譜付の印譜のはうを芥川に賴まれてゐた男である。

 芥川の死後、下島空谷は芥川が淋病をもつてゐたことを人に言つてゐるが、多分それは龜井戸土産のものであらう。

[やぶちゃん注:「永見德太郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は 劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。

「沖本常吉」(明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)島根県生まれ。小説家教会・劇作家協会の書記を経て、この前年の大正一五(一九二六)年に東京日日新聞社に入社していた。後、昭和一〇(一九三五)年に郷里津和野に戻り、郷土史研究や民俗学研究に取り組み、昭和四四(一九六九)年には柳田國男賞を受賞している。]

 

 ――十八日

 我鬼先生來ル

 本郷デ岡ニ會フ

 

 岡とは同榮一郎のこと。

[やぶちゃん注:「岡」「榮一郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は芥川龍之介の友人の一高・帝大の同級生で、漱石門下の劇作家。彼の結婚(大正一三(一九二四)年六月二十五日)では芥川龍之介夫妻が初めて仲人をしたが、一年しないうちに一女誕生直後に離婚となり(妻(旧姓の野口)綾子と姑との確執が原因)、龍之介を精神的に大いに悩ませた。]

 

 ――十九日

 朝、芥川夫人

 午後芥川方ニヨバレテコク

 ――二十日

 夜、靑池ト大塚 靑池ニノマス

 

 靑池は芥川の親戚、をぢと姪との間に生れて、生母を姉さんと言つてゐた男、畫かき志望であつたが若くて死ぬ。

[やぶちゃん注:「靑池」不詳。旧全集の宮坂覺氏の人名索引にも新全集の人名索引にも出ない。ここに書かれた内容から、かなり気になる存在である。何か情報をお持ちの方は是非、御教授を願う。

 

 ――二十二日

 宇野浩二ヲ訪ネタ由

 田端ニ寄ル

 ――二十四日

 龍之介先生ミゴト自殺

 ――二十六日

 通夜

 

 犬養健の「通夜の記」は(昭和二年九月の改造掲載)よく當夜の模樣を傳へてゐる。

[やぶちゃん注:『犬養健の「通夜の記」』犬養健(たける 明治二九(一八九六)年~昭和三五(一九六〇)年)は小説家・政治家。暗殺された首相犬養毅の三男。ウィキの「犬養健」によれば、昭和二七(一九五二)年に首相吉田茂の引きで法務大臣に就任したが、『造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対し、重要法案審議中を理由に指揮権を発動して、逮捕の無期限延期と任意捜査に切り替えさせた。指揮権発動の翌日に法務大臣を辞任したが、この指揮権発動のために犬養は事実上』、『政治生命を絶たれた(佐藤は政治資金規正法で在宅起訴されたが、国連恩赦で免訴となった)』とある。「通夜の記」は昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収。]

 

 ――二十七日

 告別式

 ――二十九日

 香典帳二册一號ト二號うさぎやニ屆ケル事、菓子ノコトハツキリコトハリ

 ――八月七日

 大草實、小峰八郎來ル

 芥川サンノ伯母來訪

 夜伯母サンニツイテうさぎやニ禮ヲノベニユク

 ――十日

 墓ヲ見ニユク

 

 芥川の家の墓地の檢分のことである。

[やぶちゃん注:「うさぎや」現在も東京都台東区上野広小路に営業する大正二(一九一三)年創業の和菓子屋。岩波新全集に人名索引によれば、東京生まれの当主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は『俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに「海紅」「碧」などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた』とし、『甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった』とある。これはかなり有名な話で、日経の「Bunjin東京グルメ」の第三回、我妻ヒロタカ氏の記事「『うさぎや』~喜作最中がつむいだ"思い"~(前編)」同(後編)でどうぞ、ご賞味あれかし! なお、実は芥川龍之介の全集版の遺書の「芥川文あて」には(リンク先は私の旧全集版の方の遺書電子テクスト)、自作の出版権の下りで謎の『谷口氏』なる人物が登場するのであるが、比定候補の一人が、なんと! この店主なのである(後の注でその部分を引用する)。

「菓子ノコトハツキリコトハリ」或いは葬式用のそれを「うさぎや」は自前で出すと言ったものかも知れぬ。前の注の我妻氏の後編の記事の中に、現在の四代目主人谷口拓也氏の言葉として、『芥川さんが亡くなるときに喜作へ手紙を宛てたのが縁で、葬儀を取り仕切ったという話を伝え聞いたことがあります。ですが、実際のところは私たちにも分からないんですよね』ともある。

「芥川の家の墓地」豊島区巣鴨の染井霊園の西に接している日蓮宗正寿山慈眼(じげん)寺にある。私は二度、墓参し、最初の時(私が大学を卒業した二十二歳の三月)には、墓を洗ったのを覚えている。それと、同寺内の墓地のそれもすぐ近くに、おぞましくも、かの谷崎潤一郎の墓があるのを見出し、激しく嫌悪したことも謂い添えておこう。]

 

 ――十四日

 カヘシノ校正

 平松女史へ返書

 

 カヘシノ校正といふのは、澄江堂句集印譜付の校正のこと、この句集は生前に芥川から賴まれてゐたので指圖に從つてつくつたが、香典がへしに使つたのは僕の考へ。平松さんには「三つの寶」の表紙の女の子に困つて世話になつた。平松さんの話で、下宿に白蓮さんが姪をもでるに連れてきたことがあつたがそのことであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「白蓮」歌人柳原白蓮(びゃくれん 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)のこと。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、恋に生きた女として有名。芥川龍之介の妻文が晩年、龍之介の自殺願望を知り、監視を兼ねて依頼して近づけさせた幼馴染み平松麻素子(ますこ)の師で、自死の年の四月、龍之介がこの平松と心中を帝国ホテルで企てた際(但し、これは龍之介の自棄的発作的企画であり、私は龍之介は平松を必ずしも愛していなかったのではないとさえ考えている。実は私は平松を芥川龍之介の〈月光に女〉の一人として数えるのさえ、やや躊躇を感じるぐらいである)、白蓮が止めに入って事なきを得たことを、白蓮自身が龍之介の死後に回想している。芥川龍之介より七つ年上。因みに、私は柳原白蓮を生理的に受けつけない人間である。

「印譜」編者の小穴隆一もパブリック・ドメインとなったのだから、持っている復刻版のそれを、そのうちに画像で公開しようと思っている。]

 

 ――十九日

 岩波ノ主人ト芥川サンノ家ニテ會フ

 岩波「全集」引受承諾

 

 岩波ノ主人とは故茂雄氏のこと、芥川の遺書に全集は岩波で出して貰ひたいとあつたが、皆が岩波とは關係もなく、果して岩波が引受けてくれるものかどうかといふことが一寸氣になつてゐた。芥川と岩波とは僕の知る限りでは、岩波が西田幾多郎に賴まれて芥川に僕のことを聞きにきて一度會つてゐる、それがただ一度のことであらう。その岩波に、あなたを代理人として全集を引受けると言はれたときには、僕は内心てれくさかつたし、その後も岩波と會ふ度にてれくさかつた。

[やぶちゃん注:芥川龍之介はその遺書の「芥川文宛遺書」(断片)の中で、

   *

4 僕の作品の出版權は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に讓與すべし。(僕の新潮社に對する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す。但し裝幀は小穴隆一氏を煩はすことを條件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。

   *

と記している。龍之介や周囲は新潮社からの抗議を危惧したが、岩波書店への全集出版移譲は事もなく、すんなりと行われた。龍之介が覚悟の自死であったこと、遺書その他で抗議を予測して、幾つもの予防線を張っていたことなどから、新潮社もことを荒立てるのは得策でないと踏んだのであろう。]

 

 ――二十日

 岩波ノ小林來ル

 〇 二十日マヂニ石ノ大サキメルコト、

 

 岩波ノ小林は小林勇のこと、二十日豫定の石ノ大サとは芥川の墓石の寸法のことである。

[やぶちゃん注:「小林勇」(いさむ 明治三六(一九〇三)年~昭和五六(一九八一)年)は、編集者。岩波書店創業者岩波茂雄の娘婿であり、後に同社の会長を務めた。ウィキの「小林勇」によれば、『野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)の農家の五男として生まれ』、『実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが』、大正九(一九二〇)年、十七歳で『上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受け』た。『岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが』、この翌昭和三(一九二八)年に『独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院』、『新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり』、昭和九(一九三四)年に岩波書店に復帰した。翌年の五月には『治安維持法違反の嫌疑で逮捕され』、拷問を受けた(横浜事件)が、同年八月二十九日に釈放されている。戦後の昭和二一(一九四六)年には岩波書店支配人となり、「波映画を興し、後、岩波書店代表取締役となった、とある。

「芥川の墓石の寸法」芥川龍之介の墓は芥川家の墓群の中に独立して建てられており、遺志により、縦横は生前愛用した座布団と同じ寸法で拵えられてある。]

 

 九月一日

 永見ヨリ手紙「長崎條約書」ノ件、返書ヲ出ス

 芥川龍之介全集編纂打合セノ集リ、

 菊地、久保田、久米、佐藤、室生、宛、佐佐木、小島、葛卷、谷口、岩波植村、

 

 

 永見は新書判の全集第十八卷に使つた河郎之圖と長崎條約書我鬼國提案の寫眞を、全集に使つてくれと送つてきてた。集りは芥川家。

[やぶちゃん注:「新書判の全集」はこれよりずっと後、戦後の第三次新書版全集。昭和二九(一九五四)年十一月から刊行され、翌年の八月に刊行を終えている。全十九巻・別巻一。

「長崎條約書我鬼國提案」私はこのような名の芥川龍之介自筆の河童図はおろか、そういう画題も聴いたことがない。識者の御教授を乞うものである。なお、永見徳太郎は芥川龍之介から「河童」に決定稿原稿を贈られており、それを私が電子化復元したものが、芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史である。]

 

 ――二日

 石屋カラ電話、發クツ立會ノ件

 阿呆ノ一生ノ原稿

 全集事務所開キ出勤

 

 發クツノ件、墓地が狹いのでそこに芥川の墓を建てるのには、先祖の墓を少々移動させなければならなかつた。全集事務所には當時小賣店の二階にあつた岩波の社長室を提供してくれた。疊敷きの質素な部屋であつたが、ロダンのほんものの素描着彩がかかつてゐた。

 

 ――三日

 岩波ヨリ編輯費ノウチカラ三百圓受取、

 出勤

 

 岩波は編輯費として三千圓を提供してくれた。そのなかからまづ三百圓を受取つて、佐佐木茂索、小島政二郎、堀辰雄、葛卷義敏、僕五人が分けた。

 

 ――四日

 伊上、小峰

 岩波へ出勤

 

 遺言によつて岩波で全集を出版して貰ふについては、芥川が生前新潮社にいれてあつた契約書はまいて貰つた。新潮社は快よく承知してはくれたが、そのかはりに芥川龍之介集を出させてくれと言ひ、その本の表紙のことで伊上凡骨がきてゐるのである。小峰八郎は、春陽堂をやめて前の年から文藝春秋社出版部の人となつてゐた。

[やぶちゃん注:「まいて貰つた」巻き納める、契約を破棄してもらったことを指す。

「芥川龍之介集」これは九月四日のことであるが、速攻で九月十二日に新潮社は「芥川龍之介集」を刊行している。

「伊上凡骨」「いがみぼんこつ」と読む。木版画彫師。本名は純蔵。徳島県生まれで、浮世絵版画の彫師大倉半兵衛の弟子。明治時代に於ける新聞・雑誌の挿絵は原画の複製木版画であったが、凡骨は洋画の筆触・質感を彫刀で巧みに表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、美事な複製版画を作った(以上は「百科事典マイペディア」に拠った)。

「小峰八郎」詳細事蹟不詳であるが、ネット上の記載を見ると、「文藝春秋社出版部」は菊地寛が、春陽堂から移籍した彼に貸与した部局であったと書かれてある。とすれば、当時の実質的な出版部の重責を、この人物は担っていたことになる。]

 

 三七日 八月十三日

 四七日 八月二十日

 五七日 八月二十七日

 六七日 九月三日

 七七日 九月十日

 百ケ日 十月三十一日

 

 これは當時谷口が僕に書いて渡しておいてくれた紙ぎれの寫しである。

 香典といへば、山本實彦が僕を廊下の隅に引張つて、「うちの香典はよそのより少くはないか、少ければまた持つてくる」と言ふので、香典の追加はをかしいと思つたが、階下におりて香典帳を一寸のぞかせて貰ふと、あまり關係のない社までが一列に五百圓であつた。當時の五百圓を時價に換算してみれば、人々の芥川に封する愛惜の情がどの程度のものであつたか推しはかることができよう。

[やぶちゃん注:「谷口」先の和菓子屋「うさぎや」店主谷口喜作。菓子類は慶弔事に欠かせぬから、このような意気消沈した遺族や友人らに、かくも細かな配慮が出来たのであろう。

「五百圓」ネット上のQ&Aサイトの答えによれば、昭和初期の一円は二、三千円とあるから、百万円から百五十万円相当となる。私はさる姻族の葬儀で香典を担当したが、その時、百万円の香典というのを一度だけ、体験したことがある。弔問者は故人の親族の仏壇屋の主人であった。]

 

晩春賣文日記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)

晩春賣文日記   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年六月発行の『新潮』の『ある日の日記』欄に掲載された。今のところ、ネット上では電子化されておらず、現在進行中の私の小穴隆一「二つの繪」の必要上から(本所兩國」関連。リンク先は私の草稿・オリジナル注附きテクスト)、急遽、電子化することとした。その関係上、注は今は附さない。

 底本は岩波旧全集に拠った。

 一つだけ言っておくと、五月二日の条の「妻也寸志と鵠沼へ行く」というのは文の実母塚本鈴と肺結核を病んでいた塚本八洲(やしま)のいた鵠沼の家である。芥川龍之介が借りていた鵠沼の借家は三月中には引き払っているからである。

 また、「日記」とあるものの、これに相当するプライベートな日記は現存せず、書き振りから見ても私はこれは何らかの日記風のメモ(現存はしない)を元にした、「日記」風に書かれた小品と踏んでいる。

 末尾の夢が何とも言えず鬼趣である。【2017年1月12日 藪野直史】]

 

  晩春賣文日記

 

 四月三十日。土曜。晴。

 題未定の短篇をつづける。藤澤古實氏來る。「大東京繁昌記」の插し畫の件なり。それから關口廣庵老に療治をして貰ふ。平松ます子さん來る。けふは平松さんの引越しなり。いつか八疊の床の間に五月人形が飾つてある。夕がた、「東日」の沖本常吉君來る。插し畫の件につき、小穴君を尋ねる。生憎留守なれば、勝手に押入れより花札を出し、沖本君と六百ケンをする。小穴君、義敏(甥)と一しよに歸る。

何とか云ふ劍劇の映畫を見に行つてゐたよし。十一時頃、家へ歸り、又藤澤氏や沖本君と插し畫の件を相談し、とうとう午前三時に至る。この分にては插し畫も作者自身描かなければならず。十五囘も插し畫を作ることはどう考へても難澁なり。沖本君曰、「それでもやつて頂く外はないのであります。」

 五月一日。日曜。晴。

 堀辰雄、堀川寛一、小穴隆一等の諸君、お客に來る。堀君に出來かけの短篇を讀んで貰ふ。夜、小穴君や義敏と展覽會論を鬪はし、とうとう小穴君は泊ることになる。

 五月二日。月曜。曇。

妻也寸志と鵠沼へ行く。「大東京繁昌記」の插し畫も描かなければならぬ羽目になりたる爲に久しぶりに窮技(?)を試む。師匠番は小穴君。沖本君來る。やつと第一囘、第二囘の插し畫を作り、沖本君に渡す。午後二時頃、小穴君歸る。今日は春陽會の晩餐會のよし。沖本君、四時頃に又來り、插し畫は小穴君に賴んでもよろしと言ふ。雲霧破れて靑天を見るの感あり。吉報とは正にこの事なるべし。藤澤古實、薄田淳介等の諸氏より手紙來る。「メイデイ」の檢束者百四十餘名。「繁昌記」第七囘脱稿。

     こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

 五月三日。雨。

題未定の小説を一二枚書いて見る。小穴君「繁昌記」の第一囘の插し畫を見せに來る。若侍が一人新徴組の侍の一人に鞘當てをしかけられし所なり。沖本君、内田百間君、前後して來る。沖本君に待つてゐて貰ひ、内田君と自笑軒にて食ふ。ランケの小説にべツトを共にしたる亭主の魂鼠となりて水を飮みに行くを細君の目擊する小説あるよし。

 繁昌記第八囘脱稿。疲るること甚し。ホミカ、カスカラ錠、ヴェロナアル等を服用。

 五月四日。晴。

 妻鵠沼より歸る。小穴君義敏をモデルにして土左衞門の圖を作る。終日怏々。

 宮地嘉六君より「累」、宇野浩二君より「高天ケ原」を磨られる。來書五六通。

 五月五日。晴。

 内田百間君來る。内田君と一しよに興文政に至る。二月ぶりなり。やつと内田君の爲に用談をすまし、偶々玄關を出でんとすれば活動寫眞を映さんとするが如し。脱兎の如くタクシイに乘りて遁走す。帝國ホテルの新潮座談會に至る。德田、近松、佐藤、久米等の諸氏、並びに下村、太田、鈴木等の諸氏に會す。晩來雨あり。中村武羅夫氏に引率せられ、前掲の作家諸氏と銀座のカッフエ・タイガアに至る。これも亦二月ぶりなり。歸り來つて明日の講演の艸稿を作り、更に又「文藝的な、餘りに文藝的な」を脱稿す。深夜に至つて瀉す。柱時計の三時を打つを聞けども、便門痛んで眠ること能はず。ヴェロナアル二囘量を用ふ。夢に一匹の虎あり、塀の上を通ふを見る。

2017/01/11

小穴隆一 「二つの繪」(16) 「交靈術」

 

     交靈術

 

 藤澤劇場に奇術、交靈術、オペラコミックの一座が掛つたをり、芥川は田端から使ひも兼ねてきたのであらう蒲原(春夫)と僕とを伴れて見物に行つたが、交靈術なるものをはじめる前に、逞しい猛獸面らの座長が靈魂の不滅を説いて、演じまする交靈術が、如何に高遠な道に根ざしてゐるものなるかをながながと演説をした。それが死にたい芥川をなにか説諭でもしてゐるやうな調子に聞えてたので、ひどく芥川の癇をたかぶらせてしまつたものである。

[やぶちゃん注:この降霊術を含む一座を芥川龍之介が観た事実(それも以下に見るように二回も)は、私は他の文書では見たことがない(年譜に載らず、書簡にも出ないものと思う)が、この時の体験が或いは翌年の「河童」(昭和二年二月十三日脱稿・三月一日『改造』発表)の「十五」に出る、詩人トツクの怪しげな降霊会のヒントとなったとも言えるのかも知れぬ。なお、この当時の心霊学を巡る動向については、私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』の「十五 注」を是非、参照されたい。また、この一座について何らかの情報をお持ちの方は、是非、御教授戴きたい。

「オペラコミック」“opéra-comique”は本来はフランス語。狭義には普通の台詞を交えた「カルメン」に代表される本格的な歌劇の一種を指すが、ここは浅草オペラのような滑稽を旨とする大衆歌劇と考えてよかろう。

「藤澤劇場」不詳。但し、ウィキの「藤沢市」によれば、明治四一(一九〇八)年四月一日に藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併して高座郡藤沢町が発足、その後の昭和一五(一九四〇)年十月一日に藤沢町が市制を施行して藤沢市が発足する間に、大きな町域変更がないことと、わたなべけんじ氏の「テストブログ」の「我がまち湘南藤沢」の中に、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災の為(同ページ記事内には当時、藤澤町域内では四千余戸が倒壊したとある)、藤澤警察の『廰舎倒潰シ一時藤澤町藤澤劇場ニ於テ事務ヲ執』ったという文書が示されていることから考えると(倒壊した警察庁舎から著しく離れた場所にあったのでは執務が困難を極めるであろうという推定から)、劇場名で「藤澤」を冠している以上、現在の藤沢駅周辺域にあった劇場と考えてよいであろう。

「蒲原(春夫)」(かもはらはるお 明治三三(一九〇〇)年~昭和三五(一九六〇)年)は長崎の郷土史家。長崎市生まれで長崎中学卒(大正七(一九一八)年)。大正八年に芥川が五月に芥川が菊地寛とともに最初に長崎に遊んだ折り、面識を得、大正十一年にやはり芥川龍之介の弟子となる同級の渡辺庫輔(くらすけ)とともに上京して、ともに芥川龍之介に師事、創作を指南されるとともに、『近代日本文芸読本』の編集を始め、龍之介の多くの仕事を手伝った。芥川の没後は長崎へ戻り、雑貨商や古本屋を営みつつ、長崎市史の研究に取り組み、『長崎文学』を創刊して長崎ペンクラブ会長としても尽力した。小穴隆一が以下で言うように市会議員を務めたこともあるが、それは佐賀市ではなく、長崎市会議員の誤りである。芥川より八つ年下。]

 芥川は座長が交靈術にとりかかるのにいるさくらを客席からよびだしてゐるのをみると、「歸りに酒をのませるから君が出ろ、」と蒲原が尻ごみするのを叱りつけて無理無理舞臺に追ひあげてしまつた。(蒲原は終戰後であらう、比呂志君から佐賀の市會議員になつてゐると聞いた、)蒲原はてれきつてても張りきつてる顛なので、どうなることかとみてゐると、心理状態が適さぬ者と言はれて舞臺から追ひかへされてきた。(これこそ心靈術だと僕は思つてた。)芥川は歸りに蒲原を遊廓に伴れこんで女郎屋におしあがり、宿泊帳に假名で、かまはら、と書いて金を拂つておいて、びつくりしてゐる蒲原二人殘しておいて歸つたものだが、蒲原はその日の芥川に全然おびえてたらしい。

[やぶちゃん注:「かまはら」蒲原(かもはら)春夫の姓は「かんばら」とする人名事典もあるが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項のそれ「かもはら」を正しいものとして採用した。]

 靈魂不滅を信じないと言ふ芥川でさへ家人に、「俺が死んだら大雨を降らせてやる。」僕に、「俺が死んだらあの世で君を護つてゐてやるよ。」などと言つてゐるのである。

 芥川はあくる晩にまた、夫人と僕とを伴れてその一座をみに行つてゐる。

「沙羅の花」以來「支那游記」「三つの寶」に至るまでの芥川の本の表紙の字を書いてゐた、(「三つの寶」は、芥川が死ぬと言ひだしてから、僕も鵠沼、田端と轉居、仕事があちらで少し、こちらで少しとなつてゐたので出版が死後となる、)僕の一番下の尚子が危篤で一寸東京へ行くのを、芥川は藤澤の驛までと言つて送つてきて、町で尚子にと言つて紅いばらを一束買つてくれた。どういふものかその日二人ともホームで別れるときに淚をうかべてしまつてた。東京に向つて動きだし車内でほつと一と息して、ふと前の方をみると、向ふの車から見覺えある顏が僕に近づいてくる。(ただ顏しか僕は感じなかつた、)みてゐるとそれがいま別れたばかりの芥川であつたので、丁度空いてゐた僕の前の席にそのまま腰をおろした芥川に、奧さんに心配かけるのは申譯がないから、すぐ降りて鵠沼へ戾つてくれ、それでなければ僕も降りて鵠沼に戾るからと言つて賴んだが、芥川は「一と晩でも君と離れるのはいやだ、」といつたままで動かず、日は暮れてしまひさうになつてゐるし、汽車はどんどん鵠沼を離れてしまふ、芥川は座席に橫になつてしまつて動かない、あんな困りかたもなかつた。大船でなくどこの驛であつたのであらうか、やうやく痔が痛むと言つて芥川は降りてくれたが、着ながしで麻裏をはいたままの、鵠沼で家のまはりを步いてゐるときの恰好の芥川が、薄暗いホームに立つたままこちらを見送つてゐるのをみたらまた淚がでた。一見颯颯とした趣きのあつた芥川のああいつたあまえつ兒のやうなところは、生れるときにもつてついた宿命のやうなものによるのか、芥川にはやはり芥川が言つてゐた姉さん女房いつた女房がよかつたのであらうか、麻素子さんあたりには、僕に夫人をベタぼめにほめてゐたやうにほめてゐたものか、多分多少のちがひもあらうかと思はれる。

[やぶちゃん注:以前にも注したが、これは大正一五(一九二六)年の十二月九日(芥川龍之介が自死実行日として拘った漱石の祥月命日)の出来事である。

「沙羅の花」大正一一(一九二二)年八月十三日に改造社から刊行した芥川龍之介の作品集。

「支那游記」大正一四(一九二五)年十一月三日改造社刊。

「三つの寶」既出既注の童話集。芥川龍之介一周忌直前、昭和六(一九三一)年六月改造社刊。]

 

 芥川が家人に義絶をせよと遺書にしたためてゐたその弟の新原得二は、僕と前後して鵠沼に住み、芥川が田端に戾ると田端に戾つてゐた。同じく義絶せよの姉のその當時の夫であつた西川辯護士の鐡道自殺も、僕の鵠沼のなかには忘れられない。

 僕は西川氏の死はかへつて、いろいろに芥川を頑張らせ、芥川の死を多少のばしてはゐないかと思つてゐる。

[やぶちゃん注:「新原得二」(にいはらとくじ 明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)は芥川の実父新原敏三と実母フクの後に、敏三の妻となったフクの妹フユとの間に生まれた芥川の異母弟。上智大学中退。新全集人名索引には、『父に似た野性的な激しい性格で、岡本綺堂について戯曲「虚無の実」を書いたりしたが、文筆に満足しなかった。のち日蓮宗に入り、早逝した』とある。私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』を参照されたいが、芥川文子宛遺書の廃棄されたと思われる一部には、ここに書かれているように、自死の年の年初一月三日に鉄道自殺した義兄西川豊の妻で龍之介の実姉ヒサ(龍之介より十二歳年上。前夫葛巻義定とは離婚していたが、芥川龍之介の自死後に西川との間に出来た子を連れて義定と復縁している)及び異母弟新原得二との義絶、並びに葛巻義敏の扶養の指示があったものと推定されている。]

柴田宵曲 妖異博物館 「深夜の訪問」

 

  深夜の訪問

 

 泉鏡花は子供の時以來愛讀した草雙紙の世界から云つて、江戸時代を舞臺に取つた作品がいくらもありさうに思はれるが、意外にそれが少い。その中で「妖劔紀聞」は寛政五年卯月七日の事とはつきり書いてある。然もそのはじめに登場する一人が、「十方菴遊歷雜記」の著者で、大鉛盤(すりばち)小鉛盤といふ關口の瀧を背景に使つたのは、「遊歷雜記」からヒントを得たに相違あるまい。但「妖劔紀聞」の筋そのものは作者の想像の産物で、「遊歷雜記」の記事とは沒交渉である。

[やぶちゃん注:「草雙紙」(くさざうし(くさぞうし))は江戸中期から明治初めにかけて作られた挿絵主体の仮名書きの読み物。子供向けの絵解き本に始まって次第に大人向けのものとなり、浄瑠璃を素材にしたり、遊里に題材を取って、洒落・滑稽を交えるものが出、その後、教訓物や敵討物が流行した。「絵双紙」も同じ。

「妖劔紀聞」(やうけんきぶん(ようけんきぶん))は、大正九(一九二〇)年一月に本作現行の「前篇」部を「江戸土産」という標題で『新小説』に発表、次いで「後篇」部を四月に「新江戸土産」の標題で同誌に載せて完結させた。翌大正十年の作品集『蜻蛉集』(国文堂書店刊)に収録するに際して「妖劔紀聞」前・後篇と改題したもの。岩波版全集では別巻に所収する。人死にが続く小石川関口の大瀧の底から発見される妖刀が、三度に渡って厨子から逃げ出す怪談めいた話から、一転、鳥追いのお町と美少年清三郎の悲恋の物語へと展開する時代物情話譚で、鏡花四十七歳の折りの小品である。時経たエンディングの、夢幻能の如き映像が哀しく美しい。古くからお世話になっている優れた鏡花サイト「鏡の花」のこちらに前・後篇PDF縦書版がある。

「寛政五年卯月七日」グレゴリオ暦一七九三年五月十六日。

『「十方菴遊歷雜記」の著者』隠居した食通の僧釈十方庵敬順(しゃくじっぽうあんけいじゅん)が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に江戸及びその周辺域を歩いて書き溜めた地誌的な匂いもある紀行。ロケーションは確かに同書の「三編 卷之上 第三十八 大洗堰下垢離場瀧本院」である。国立国会図書館デジタルコレクションのここで画像で読める。そこに柴田の言う「大鉛盤(すりばち)小鉛盤」が瀧の少し下方の水底にある『大鉛播(ヲヽホスリバチ)小鉛播(コスリバチ)』」という甌穴(おうけつ)の名称であることが判り、そこには『水虎(カツパ)の棲家と稱して人皆恐怖す、此魔處を能』(よく)『しりて人その邊に遊ばずといへども、かならず年々彼穴へ引込れて命を失ふもの大旨(ムネ)五七人づゝあり、是にようつて寛政年間切支丹やしき破壞(ハヱ)し賜ひける砌、夥しき御捨石を車數輛に積て彼魔穴を埋め賜ひしかど、兩三日の後彼砂石何方へ運び廢せん、貮ツの穴中元の如し』『是奇怪といふべし、今年乙亥』(きのゐ)『初夏より八月に至るまで、能泳ぐもの都合六人亡命せり、但し垢離』(こり)『をとる者に限りて此災害なし』とあるのが、確かに鏡花の創案の根にある(というより、完全にここは食っている)。ネタバレになるので言わんとこ。まあ、お読みなされ。]

「妖魔の辻占」には「甲子夜話」の記事が使はれてゐる。江戸城の大手の石垣から大きな蛇が首を出してゐるのを、鳶が攫んで飛び去らうとし、蛇は鳶を呑まうとする。やゝ久しく爭ふうちに、鳶は次第に石の間に引き込まれ、遂に身體が見えるばかりになつた。その時これを見てゐた人が「やあゝ」と聲を立て、それが御勘定所まで聞えた。――「甲子夜話」の記載はこれだけであるが、「妖魔の辻占」では、その鳶が後に山伏になつて、自らこの顚末を話すことになつてゐる。鳶は人間の氣を奪ふため、殊更に引込まれて見せたのだといふのである。更にそのあとに記された、薩摩の少年が鷲に攫まれ、木曾の山中まで運ばれた話も「甲子夜話續篇」に記されてゐるので、作者がかういふものに目を通してゐた消息はよくわかるが、「妖魔の辻占」全體から云へば、插話として巧みに使はれたに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:「妖魔の辻占」大正一一(一九二二)年一月の『新小説』に発表された、途中に天狗と魔界の行者が絡む時代物怪奇綺想小説。比野大納言の隅田川の都鳥所望など、浄瑠璃のような仕掛けが施されてある。先のサイト「鏡の花」のPDF縦書版をリンクさせておく。なお、柴田は「甲子夜話」の二記事をただ小道具に使ったに過ぎぬと言っているが、柴田が指摘する以外にも「甲子夜話」の別話柄が組み込まれてあり、幕府と京の対立構造など、筋や主題に関わる部分の関係性も極めて濃厚である(例えば、殆ど後半のメインと言ってよい都鳥の箇所ははまさに「甲子夜話卷之四十九」の「都鳥の沙汰」に拠っている)。実は「甲子夜話」は鏡花の愛読書だったのである。但し、「妖魔の辻占」が「甲子夜話」を素材としていうことに最初に着目したのは柴田であり、その功は高く評価されなければならぬ(以上は手塚昌行氏の論文「『妖魔の辻占』成立考――泉鏡花と『甲子夜話』」(『日本近代文学』第二十八集所収)をかなり参考にさせて戴いた。ここに御礼申し上げる)。

『「甲子夜話」の記事』これは「甲子夜話 卷之二十一」の「大城の大手にて蛇、鳶を取る事」である。東洋文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

當三月のこととぞ。大城大手の石垣にて、蛇の石垣の間より出たるを、鳶、摯(とら)んとす。蛇は鳶を呑まんとす。鳶、飛(とべ)ば、蛇、逐(おふ)こと能はず。蛇、石間に入れば、鳶、取(とる)こと能はず。かくすること、良(やや)久(ひさしく)なりしを、何(い)かにしてか鳶、遂に蛇にとられて、石間は引入れらる。立(たち)てこれを見るもの、殊に多し。然るに、やゝ引込れて後は、其體(たい)、纔(わづか)ばかりになりたり。人、愈(いよいよ)見ゐたる中に、其身を没しぬ。このとき衆人、同音にやあゝと云たり。その声下御勘定所に聞へて、皆々驚き何の聲なるやとて、出(いで)てこのことを聞知りぬと云。予嘗て登城せしとき、鍮鉐(あかがね)御門を入らんとするに、數人立停(たちとどま)り仰ぎ見る體(てい)ゆゑ、予も見たれば、石垣の間より蛇出ゐたり。その腹の囘り、九寸餘とも覺(おぼえ)しかりし。去れども、高き所を遠目に見れば、實はいまだ大(おほき)くや有(あり)けん。且(かつ)、その首尾は石間に入りて見へず。卑賤の諸人は止(とま)りて見ゐたれど、予は立留(たちとどま)るべくもあらざれば、看過して行(ゆき)ぬ。大手の蛇も此類(たぐひ)なるべし。

   *

『薩摩の少年が鷲に攫まれ、木曾の山中まで運ばれた話も「甲子夜話續篇」に記されてゐる』これは「甲子夜話篇卷之九十二」の「薩摩領にて十四歳なる子鷲に摑れし事膳所にて少年の馬上なるを摑し事」を指す。東洋文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した(カタカナのそれは原典のもの)。歴史的仮名遣の誤りはママ。踊り字「〱」は正字化した。

   *

印宗和尚詰る。天保壬辰(みづのえたつ)の夏のこととよ。薩摩領にて、小給の士の子、年十四なるが、父の便(たより)として、書通(しよつう)を持(もち)て、朝五ツ頃と覺(おぼえ)きに、近邊に行(ゆき)けるが、ある坂を越しゆくとき、大なる鷲、空より飛下り、かの悴を摑(つかん)で飛去りぬ。悴は驚きたれど、はや空中のことなれば爲(せ)ん方もなく、始(はじめ)は遙に村里も見へたるが、暫くして見へずなるまゝに、能く見れば渺海の上を行くなり。悴も恐しながら、爲すべきことも無ければ、兩手を懷に入(いれ)て、運命に任せ行くほどに、果しもなければ、片手をそと出(いだ)し見るに、自由なれば、鷲を刺さんと思ひしに、折ふし鷲は大なる木の梢に羽を休めたり。悴は指(さし)たる脇刀(ワキサシ)に手をかけ見しに、殊に高き木末(こずへ)なれば、鷲を殺さば、己(おのれ)は墜(おち)て微塵に成(なる)らんと思ひ、姑(シバ)し猶豫せし中(うち)、鷲、復(また)、飛行(とびゆ)く。やゝ有りて悴、其下を臨むに、程近くして且(かつ)、平地なるを見て、頃(ころ)よしと、脇刀を拔(ぬき)て、胸と思ふ所を後ろさまに突(つき)たれば、鷲、よはるとおぼしきを、二刀(ふたかたな)三刀刺通(さしとほ)せば、鷲、死で、地に落たり。この處、山中なれば、二町許(ばかり)を下りたれど、方角を辨ぜず。又、ふと思ひつきて、立戾り、彼(か)の鷲の首と片翅(かたはね)とを切落し、打負(うちカツギ)て、麓を、と志つゝ下りしに、樵夫(きこり)に行逢(ゆきあひ)たり。樵(きこり)、何方(イヅカタ)の人ぞと云(いふ)ゆゑ、悴、城下へ往く者なり。導(アンナイ)しくれよと賴めば、城下とは何(イヅ)れのことぞと云ゆゑ、城下を知らずやと云へば、曾て知らずと答(こたふ)るゆゑ、悴、立腹して、鹿子嶋(かごしま)のことよ、と云へば、鹿子嶋とは何れの所やと云ゆゑ、悴、心づきて、薩摩鹿子嶋なるが、汝居ながら辨ぜざるか、と云へば、樵、あきれて、薩摩とはこゝより何百里なるや、と云ゆゑ、されば、この處は何處(イヅク)かと問へば、こゝは木曾の山中なり。何(い)かにしてかく分らざることを云やと云ゆゑ、我は薩摩の者なり。鷲に捕(トラ)はれ、かくかくと言て、證(シルシ)にかの首と翅とを出したれば、樵も疑はず、麓に連れ下り、庄屋に此由を訴へたれば、陣屋へ達したるに、人々驚き、醫者など呼(よび)て見せたれど、少しも替ることも無りければ、夫(それ)より件(きだん)の遍歷を問(とひ)たるに、薩州にて鷲に摑れしは朝五ツ過(すぎ)にて、木曾の山中にて鷲の手を離れしは夕七ツ過なりしと。されども暫時と覺へたれば、空腹とも知らずと云ふ體(てい)にて、歸へさんには數百里の處なれば、まづ江都の薩摩屋鋪(やしき)へ送りとゞけたれば、老侯、聽(きき)給ひて、殊に賞感せられしと云。計(はか)るに信濃より薩摩へは、殆ど四百里なるべし。かゝる遼遠を、僅に五時に到りしも、鷲の猛きか、其人の暗勇か。奇事耳(のみ)。

又先年のことにて、江州膳所(ぜぜ)にても、少年の馬に乘りゐしを、鷲摑て空中に飛行(とびゆき)たり。少年、捕はれながら、下を見るに、湖上を飛行(とびゆく)ゆゑ、爲ん方もなくする中(うち)、兩刀、邪魔になるまゝに、刀は脱(ぬぎ)て湖水に投じ、脇指(わきざし)は指(さし)てありしが、後(のち)は陸地の方へ飛行て、鷲も羽や疲れけん、摑し足をゆるめければ、少年は濱邊と覺しき所に墜たり。鷲は其邊りの巖上に飛下り、翅を休むる體(てい)なり。少年も幸(さひはひ)に恙(つつが)なければ、起揚(おきあが)り、鷲を切らんと思ひしが、斯くせば、忽ち、鷲に害せらるべしと、臥たるまゝ、動かず。鷲は動かざるを見て、頓(やが)て少年に飛移り、その面皮を摑み食はんとするを、少年、即(すなはち)、脇指にて切(きり)つけたれば、鷺は切られて斃(たふ)れた り。少年も辛き命を助かり、あたりの人を尋(たづね)て、ここは何れの所なりやと聞けば、若狹の海邊なりしと。是等は近國のことなれど、何れ廿餘里もや往(ゆき)つらん。大鳥の人を捕(とらへ)しは同(おなじ)一事なり。

 予、右の兩事に據(より)て考(かんがふ)るに、驚の摑むは帶の後(うしろ)を摑むなるべし。薩兒、江少年の狀態(かたち)、皆、こゝに止(とどま)る。

   *]

 たゞ唯一の例外として、江戸時代の文獻により、一篇の小説に作り上げたと見られるのは「遊行車」である。この原話は「一話一言」に出てゐる。

[やぶちゃん注:「遊行車」(ゆぎやうぐるま(ゆぎょううるま))は大正二(一九一三)年一月発行の『文藝俱樂部』に発表された女怪時代物怪談。「二た面(ふたおもて)」の後日譚の体裁であるが、「二た面」はこれより後の同年九月の同誌に発表された悪行実録風のもの(黒猫を用いた怪奇趣向はある)で、時系列逆転の公開である(なお、「二た面」自体は「片しぐれ」(明治四五(一九三九)年一月発行の『日本及日本人』で発表された旧作)の改作である)。「遊行車」はネット上では未電子化である。

「一話一言」大田南畝 著になる五十六巻の大著随筆。安永四(一七七五)年頃から文政五(一八二二)年頃までの、筆者が見聞した風俗・流行・事件・天災・幕府の文書などを書き留めたもの。私は所持しないが、以下は同書の「卷十四の」「四谷大番町平岡氏奴僕怪事」を指す。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める。原典は実録上申書の体裁で面白い。こちら。怪奇談現代語訳の老舗の個人サイト「座敷浪人の壺蔵」のこちらで現代語訳が読める。]

 この話は四谷大番町に住む平岡家の僕吉平なる者が、雨の晩に使に出て、美しい女に逢つた事からはじまる。最初は女から呼び止めて、自分は大名小路邊まで行くのであるが、傘がないので難儀して居る。もし出來る事ならば、あなたの傘に入れては下さるまいか、といふことだつたので、吉平は承知して一緒に話しながら步いた。女は吉平を恐れる樣子もなく、あなたは御奉公の身分で、夜出かけることもなるまい、自分もちやんとした家の娘であるから、住家は申上げられぬ、これから毎晩八ツの鐘を相圖に、人目にかゝらぬやうに忍んで參りませう、と約束し、門のところで別れた。その夜八ツ半頃(午前三時)に戸の外で源次殿々々々と呼ぶ者がある。源次といふのは在所にゐた時の名で、奉公先では誰も知らぬ筈だから、不審に思つて戸を明けて見たが、一向人影はなかつた。毎晩さういふ事が續いて、二三日たつと八ツの鐘が鳴ると同時に、締めて置いた戸がすらすらと明いて、女が内へ入つて來た。倂し上り端に腰掛けて、いくら勸めても上らうともせぬ。いろいろな事を尋ねても答へず、七ツの鐘が鳴つたら、暇乞ひもせずに歸つて行つた。戸口は宵に掛けた通り、掛金がおりてゐる。それから二三目して漸く上るやうになつたが、親許や家の事を尋ねると、不機嫌で話を外らしてしまふ。行燈をつけて置けば來ず、消して置けば來る。それでも著物の縞柄や顏色まではつきりわかる。晝間御使に出て留守の時など、あたりを綺麗に片付け、圍爐裏には薪を積んで、直ぐ火が付けられるやうになつてゐる。脱ぎ捨てた衣類は袖疊みにしてあるし、草履なども直ぐ穿けるやうに直してある。或晩來た時、溜塗りの箱に上等の煙草を一斤入れたのをくれた。部屋の棚の上にあつた硯箱をおろし、新しい筆を取り出して、卷紙に何か書いてゐたが、これは引き裂いて持つて行つてしまつた。翌朝見れば埃だらけの硯に新しい水が入れてあり、一度も使はぬ筆に墨が付いてゐた。餠菓子を少しづつ買つて置いて食べさせると、殊の外喜んで、明日はお蕎麥でも持つて參りませう、と云つてゐたが、果して約束通り蕎麥を持つて來て、自分も食べ、吉平にも振舞つてくれた。あまり世話になるので、何でも欲しいものがあつたら拵へて上げよう、と云つたところ、簪が欲しいと云ふ。定紋の鎧蝶の付いたのを拵へてやつたら、大變よろこんで居つた。

[やぶちゃん注:「八ツ」定時法で午前二時。少なくとも柴田はそれで計算している。

「七ツ」定時法で午前四時。

「袖疊み」(そでだたみ)は和服の簡易的な畳み方。左右の肩山・袖山を合わせて両袖を重ねて一方に折り、身頃(みごろ)を二つか三つに折る畳み方。袵(おくみ)を中に入れて背縫(せぬい)を外にして両脇縫目を折り重ね、更に両袖を身頃の外側に折り重ねて、最後に身丈を中央から折り重ねる「本畳み」の対語。

「溜塗り」漆の塗りでも最も丁寧な深みのある技法を指す。木地に下地塗りを施した後、朱に染め、その上に透明な漆を厚く塗る。漆の色が濃く、しかも深みのある仕上がりとなる。

「一斤」(いつきん)は六百グラム。

「鎧蝶」(よろいてふ(よろいちょう))は家紋で知られる蝶を図形化した紋様。これ。]

 中間部屋に毎晩夜中に女が尋ねて來るといふ評判が立つたので、平岡家の主人は自分を育てた乳母に命じて吉平を詮議させた。それに對する吉平の申し條が右のやうなものなのである。けれども本人の云ふところだけでは信用がならぬ。平岡家の親類に榎本久次なる者が居つて、是非眞相を見屆けたいといふので、連れ歸つて吉平の傍に寢かせることにした。丑三ツ頃、吉平がびどくうなされて大聲を揚げたから、驚いて呼び起したが、一向氣が付かない。火を打つて行燈ともして見れば、吉平は大汗になつてゐる。水を飮ませて漸く正氣付いたので、どうしたかと尋ねると、惜しい事をなさいました。只今例の女が戸を明けて上り口まで參りましたのに、あまりお騷ぎなさるものですから、歸つてしまひました、と云ふ。女の來る時はいつもそんな風かと尋ねたところ、女が戸を明けますと、ぞつと寒氣がして苦しくなりますが、傍へ參ればこはい事も忘れて、いつもの通り話します、といふことであつた。それからまた灯を治して睡つたが、半時ばかりすると、吉平は前よりも烈しくうなされ、大聲で泣き出した。こゝだと思つて隱し持つた一刀で切り拂つたら、猫ぐらゐの黑いものが上り口から飛び下りて、緣の下へ逃げ込んだ。灯をつけて見ると、上り口に今までなかつた菖蒲革染の手拭が落ちてゐる。吉平を起して尋ねれば、これは自分の手拭で、一昨日女に貸したのです、今夜來た時この手拭を肩に掛けて居りました、と云ふ。やがて七ツの鐘が鳴つたので、女はもう現れなかつた。榎本久次は一睡もせずにゐたが、何分暗い中の事なので、萬一吉平に怪我でもさせてはならぬと思ひ、蹈み込んで働き得なかつたことを殘念がつた。

[やぶちゃん注:「丑三ツ頃」定時法の午前二時頃。先の定時法での「八ツ」に同じい。

「半時」現在の一時間相当。

「菖蒲革染」(しやうぶがはぞめ(しょうぶがわぞめ))本来は型染めの藍革(あいがわ:藍色に染めたなめし革)の一つ。地を藍で染め、ショウブの葉や花の文様を白く染め抜いた鹿のなめし革。「菖蒲」の音が「尚武」に通じるところから、多く武具に用いたが、後にはそれに似せて染めた布地を指すようになった。]

 かういふ夜中の訪問者は、「牡丹燈籠」のお露のやうな幽靈か、さもなければ狐狸の類と相場がきまつてゐる。女の來はじめたのは三月二十九日からで、吉平自身も多少怪しく思つたか、四月八日頃、この長屋に女の方のお亡くなりになつたことがございますか、と乳母に尋ねたさうである。平岡家では對策として、鎭守八幡のお札、大山石尊のお太刀、嘗て御鹿狩の時に使つた竹槍などを貸與したら、その晩女は現れなかつた。倂し鄰りの明長屋へ來て殊の外恨み、取り殺しもしかねまじき樣子であつたので、お札、お太刀、竹槍の類は、主人に知れぬやうにどこかへ隱してしまつた。隱せば女はやつて來る。平岡家の主人は、打ち解けたやうに見せて、細引で女を縛れと命じたが、たとひ御主人のお云ひつけでも、縛ることは出來ません、と吉平は答へた。最後の手段として出入りの山伏を賴み、加持させて見たら、その夜は夜明けまで無事であつた。たゞ吉平があとで傍輩の女に話したところによれば、加持の間、女は自分の傍に坐つてゐたが、大分苦しいらしく、顏から汗を流して折々恨めしげに睨んでゐたさうである。だから吉平は加持祈禱をよろこばぬ。この調子ではなかなか本心に立ち還るまいと思はれるので、平岡家では四月二十日に暇を出した。その朝請人に引き渡したのに、晝頃また飛び出して、それきり消息は不明になつた。

「一話一言」の記載はほゞ右の通りである。「遊行車」の作者は豐富な想像を縱橫に驅使してゐるが、大體の筋は「一語一言」に據つたのみならず、取り入れて然るべき小道具は悉く活用してゐる。この中間の到達點が死であることは論ずるまでもないとして、鏡花は最後に墓穴の中で祝言しようといふ一趣向を持ち出した。中間の運命は萩原新三郎と似たものである。「一語一言」の女は狐狸か妖怪變化としか考へられぬのに、鏡花は「遊行車」の結末を「なよやかな片手で、おくれ毛を搔きながら、悠然と手を曳かれて。――この邊の寮の女であつたとも言ひ傳へる」といふ一句で結んだ。怪を好む作者が意表に出たのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「萩原新三郎」言わずもがな、「牡丹燈籠」の主人公。]

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(23) 禮拜と淨めの式(Ⅰ)

 

  禮拜と淨めの式

 

 吾々は舊日本に於て、生者の世界が到る處、死者の世界に依つて支配されて居た事―-個人はその生存の各瞬時、亡靈の監視の下にあつた事を見た。家にあつては、個人はその父の靈に依つて見護られ、外にあつてはその地方の神に依つて支配されて居た。その周圍にも、その上にも、下にも、生と死との、目に見えない力があつた。自然に就いてのその考へに依ると、萬物は死者に依つて、その順序が定められて居た――光明と暗黑、天候と四季、風と潮、霧と雨、生長と枯死、病氣と健康等悉く。目に見えない大氣は靈の海、亡靈の大海であつた。人の耕す地は靈の氣に依つて透徹されて居た。樹木にも靈が居てそれは神聖にされて居た。岩石すら、自覺ある生命を附與されて居た……。この見るべからざるものの、限りなき集合に對して、人は如何にしてその義務を果たし得たであらう。

 

 學者と雖も、小さい神々の名は別として、大きい神々の名だけでも、記憶し得る人はあるまい。また如何なる人でも、日々の祈禱の内に、その大きい神々の名をあげて、言葉をそれに言ひかけるだけの時間をもつては居まい。後年の神道の教師は、一般の神々に筒單な日々の祈禱を、それから特殊な二三の神々に特殊な祈禱を定めで捧げる事に依り、信仰の務を單純化しようとした。そして斯くして彼等は、必要の上から既に確立して居た慣習を、尤も都合よく確實に守り得るやうにした。平田は恁う言つた、『いろいろな働きをもつた神々の數は澤山にあるので、只だ尤も重要な神を名指して禮拜し、其他を一般の祈禱の内に收めるのが便宜であると考へられる』と。平田は時間のある人々に向つて十種の祈禱を定めたが、忙しい人のためには、その義務を輕くし――恁う言つて居る、『日々の用務が多端で、すべての祈禱をのべる時間をもつて居ない人々は、第一に天皇の皇居を拜し、第二に家の神の棚――神棚を、第三に祖先の靈を、第四に地方の守り神――氏神を、第五に自分の特別な職業の神を拜して、滿足して居て然るべきである』と。彼は次の祈禱の日々『神棚』の前で讀まれるべき事を言つて聞かした――

 

[やぶちゃん注:以下、底本では二つの原注を含め、三字下げポイント落ち。]

 

『第一に恭しく伊勢の兩宮の大神を拜し――八百萬の天の神々――八百萬の地の神々――諸諸の地方、島々、八島の大地のあらゆる場所に於ける大小の神社の捧げ奉られたる百五十萬の神々、人々の爲めに務を爲す百五十萬の神々、離宮、支社の神々――。この聖い神棚に私がその神殿を建てさした、そして私の日々讃辭をあげる曾富騰の神註一を拜し、私は嚴かに、その神々が私の故意てなく犯したる過失を矯正し、それぞれに用ひ給ふ力に從つて、私を惠みまた愛しみ、その聖い例にならひ、道に從ひ善事を爲すやう、私を導き給はん事を願ふ註二

 

註一 曾富神の神は案山子の神で、田野の保護者である。

註二 サトウ氏の飜譯。

[やぶちゃん注:「曾富騰」は「そほど」と読む。後の平田の原文で見るように「曾富登」とも書く。注にある通り、所謂、山田(やまだ)の「案山子」(かかし)であり、「古事記」では少彦名神(すくなびこなのかみ)を名指した神、久延毘古(くえびこ)とする。これは田の神や地神の表象や依代(よりしろ)と考えられる案山子を神格化したものが久延毘古であるととれる。

 平井呈一氏はここに訳者注の形で、平田篤胤の原文を掲げておられる。恣意的に正字化して孫引きさせて戴く。前の二つの引用の読みは振れると判断したもののみに附し、読み易さを考え、送り仮名として振られた一部のカタカナを本文に入れ込み、漢文脈の箇所には返り点のみとして送り仮名を除去し、その代わりに〔 〕で訓読文を附した。( )が平仮名である読みは私が附したものである。なお、後の二つでは踊り字「〱」「〲」を正字化した。一部のカタカナの歴史的仮名遣の誤りはママである。

 まず、戸川が『いろいろな働きをもつた神々の數は澤山にあるので、只だ尤も重要な神を名指して禮拜し、其他を一般の祈禱の内に收めるのが便宜であると考へられる』と訳した箇所。「玉襷」の「三之卷」からの引用。

   *

その八百萬(ヤホヨロズ)の神々を。逐一に拜禮せむには。終日(ヒネモス)夜もすがら。神拜のみして居(ヲラ)ねばならぬ事ゆゑに。然(サ)は行ひ難(ガタ)ければ。其の中にかならず拜み奉らでは。叶はぬ神等(カミタチ)をのみ。御名(ミナ)を申して拜禮し。その餘(ホカ)は一ヒトツ)にこめて拜せむこと簡易なるべし。

   *

 次に『日々の用務が多端で、すべての祈禱をのべる時間をもつて居ない人々は、第一に天皇の皇居を拜し、第二に家の神の棚――神棚を、第三に祖先の靈を、第四に地方の守り神――氏神を、第五に自分の特別な職業の神を拜して、滿足して居て然るべきである』の箇所。「每朝神拜詞記(まいちょうじんぱいしき)」からの引用。

   *

また家業(イヘノナリ)のいと閙(イソガ)しくて。許多(ココタ)の神々を拜み奉るとしては。暇(イトマ)いる事に思はむ人は。第十四なる拜家之神棚詞〔家の神棚を拜む詞(ことば)〕と。第二十五なる拜先祖靈屋詞〔先祖靈屋(せんぞみたまや)を拜む詞〕とを。其の前々(マヘマヘ)に白(まを)して拜むべし。其(ソ)は第十四の詞に伊勢兩宮大神等乎始奉里(イセノフタミヤノオホカミタチヲハジメタテマツリ)云々と云へるに。有(アラ)ゆる神等(ミタマ)を拜み奉る心はこもり。第二十五の詞に。遠都御祖乃御靈(トホツミオヤノミクマ)。代々乃祖等(ヨヨノオヤタチ)云々と云へるに。家にて祭る有(アラ)ゆる靈神(ミタマ)を拜む心を籠(コメ)たればなり。猶これに記せる外(ホカ)に。各々其々の氏神。またその職業の神を。かならず拜むべし。

   *

 次に、最後の引用。「玉襷」の「六之卷」より。これは万葉仮名で総てが漢字表記である。読みは読み易さを考えて私が一部に恣意的に半角空隙を設けた。

   *

此乃神牀爾(コレノ カムトコ ニ)。神籬立氐招奉里令坐奉里氐(ヒモロギタチテ サキマツリマセマツリテ)。日爾異爾稱辭竟奉留(ヒニケニ タタヘゴト ヲヘマツル)。伊勢兩宮大神等乎始奉里(イセフタミヤノ オホカミタチヲ ハジメタテツリ)。天御神八百万(アマツミカミ ヤホヨロズ)。国御神八百万能神等(クニツミカミ ヤホヨロズノカミタチ)。大八嶋之國々島々所々之(オホヤシマノクニグニ シマジマ トコロドコロノ)。大小社々爾鎭座坐須千五百万乃神等(オホキ チヒサキ ヤシロヤシロニ シズマリマシマステ イホヨロヅノカミタチ)。其從幣給布百千萬之神等(ソノ シタガヘタマフ モモチヨロズノカミタチ)。枝宮枝社之神等(エダミヤエダヤシロノカミタチ)。曾富登神之御前乎毛愼美敬比(ソホドノカミノミマヘヲモ ツツシミ ヰヤマヒ)。過犯須事乃有乎婆(アヤマチオカスコトノアルヲバ)。見直志聞直志坐氐(ミナオシキキナホシマシテ)。各々掌分坐須御功德乃隨爾(オノモオノモ シリワケマシマス ミイサホノ マニマニ)。惠給比幸幣賜比氐(メグミタマヒ サキハヘタマヒテ)。神習波志米(カミ ナラハシメ)。道爾功績乎令立賜閉止(ミチニ イサヲヲ タテシメタマヘ ト)。畏美畏美毛拜美奉留(カシコミカシコミモ オガミタテマツル)。

   *]

 

 この文字は神道の最大の註釋者が、神道の祈禱の如何なるものであるべきかを考へた、その一例として興味あるものである。そして曾富騰の神に關する事を除いては、その實質は今日なほ日本の家に於て毎朝の祈禱にのべらて居る處のものである。併し近代の祈禱は遙かに短くなつて居る……。量古の神道の地方なる出雲に於ては、慣習的に行ふ朝の禮拜が、祈願の古い規定の最上の例を示して居る。則ち朝起きるとすぐに禮拜する人は、沐浴をなし、顏を洗ひ、口を漱ぎ、日に向ひ、兩手を合はせてたたき、恭しく頭を下げて、筒單な挨拶をする『嚴かなる神よ、よくこそ、今日來られし』と。斯く日を拜するのは、また臣民としてのその本分をつくす所以である。則ちそれに依つて皇室の祖先への忠順を爲すのてある。これは戸外て行はれるのであつて、跪く事なく立ちながら爲されるが、この筒單な禮拜の光景は感動を與へる事夥しい。

 私は追憶の内に、――何年も以前に、隱岐の海岸て實見した通りに、明瞭に今でもその光景を眼の前に浮かべる事が出來る、――若い漁夫が裸體で小船の船首に直立し、昇る旭日を迎へるために、兩手を合はせてたたいて居ると、日のあかあかと照らす光は、その男を靑銅の立像のやうに見せた其光景を。また私は富士山の絶頂なる岩の尖端に身の平衡を保つて立ち、東に向つて兩手をたたいて居た順禮の生き生きとした追想をもつて居る……。恐らく一萬年――二萬年前、すべての人はかくして日の君を禮拜したのであらう……。

[やぶちゃん注:隠岐でのこの感動は残念ながら語られていないけれども、私は既にブログカテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の落合貞三郎他訳「知られぬ日本の面影」の電子化注を終えており、同「第二十三章 伯耆から隱岐ヘ」は以下から全三十五回に分けて配してある。彼は隠岐を愛した。また、小泉八雲の富士山登頂は明治三一(一八九八)年八月(曇っていたが、日の出を見たのは二十六日早朝)、満四十八歳の時であった。登山に体力を消耗し、その印象記FujinoYama(「富士の山」では、富士山頂の景観を“No spot in this world can be more horrible, more atrociously dismal, than the cindered tip of the Lotus as you stand upon it.”『まずこんな恐ろしい、不気味な、凶々(まがまが)しい、凄惨な場所が、またと世にあろうとは考えられもしない』(訳は一九七五年恒文社刊小泉八雲著平井呈一訳「仏の畑の落穂他」の「富士の山」より)と評しながら、そのコーダでは確かに、

   *

“But the view ― the view for a hundred leagues ― and the light of the far faint dreamy world ― and the fairy vapors of morning ― and the marvelous wreathings of cloud: all this, and only this, consoles me for the labor and the pain. . . . Other pilgrims, earlier climbers, ― poised upon the highest crag, with faces turned to the tremendous East, ― are clapping their hands in Shintō prayer, saluting the mighty Day. . . . The immense poetry of the moment enters into me with a thrill. I know that the colossal vision before me has already become a memory ineffaceable, ― a memory of which no luminous detail can fade till the hour when thought itself must fade, and the dust of these eyes be mingled with the dust of the myriad million eyes that also have looked in ages forgotten before my birth, from the summit supreme of Fuji to the Rising of the Sun.”

   *

先の平井呈一訳より当該箇所を引く。

   《引用開始》

 しかしながら、この景――百里も見はるかすこの眺望、遠く微かな夢幻の世界の光、この世ならぬ仙界の朝の霧、巻き去り巻き来たる雲のあやしい姿――なべてこの景、いや、この景だけが、自分の労苦を慰め医してくれる。‥‥自分よりも先にお頂上をした巡礼達が、一ばん高い岩の上によじ登って、東の空に顔を向け、雄大な朝日を拝んで、神道流に柏手(かしわで)を打っている。‥‥この瞬間の詩情、大いなるこの詩情は、自分の心魂に深く沁みとおった。つまり、自分の目の前にあるこの雄大な光景は、もはや消しも拭いもされぬ記憶となったのである。自分の知性が消滅し、眼が土と化してしまったのち、わが未生の遠い遠い昔に、同じく富士の頂上から朝日を拝んだ幾億の人々の眼が土に化したのと相交わるまで、この記憶は、一々その零細な点まで、けっして消滅することはあるまい。

   《引用終了》

という実に印象的な感懐で作品を閉じている。]

 太陽を拜した後、禮拜者は家に歸り、神棚の前竝びに祖先の位牌の前で祈禱を上げる。跪いて禮拜者は伊勢或は出雲の大神、その地方の主なる神社の神々、教區の神(氏神)を呼び、最後に神道の無數の神々を呼び起こす。斯樣な祈禱は聲をあげて稱へるのではない。祖先には家の基礎を置いたとして感謝を表し、高い神々は助力と守護とのために呼び求められる……。天皇の皇居の方に向つて、頭を下げる事に就いては、それがどれほど遠隔の地方にまで行はれて居るのか、私には言ひ得ない、併し私はその敬意の行はれて居るのを屢〻實見した。また一度私は田舍の人達が首府を見物に來て、東京の宮殿のすぐ門前で、その敬意を表したのを見た事もある。私は度々その人達の村に逗留して居た事があつたので、その人達は私を知り、東京に來るや私の家を探しあて、遇ひに來た。私はその人達を宮殿へと連れて行つた、そして宮殿の正門の前に來るや、その人達は帽を脱ぎ、お辭儀をして拍手をうつた――丁度神々や旭日を迎へる時にしたやうに――筒單にしてまた威嚴ある敬意を以て爲されたこの一事は、少からず私の心を動かした。

2017/01/10

小さい眼   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年一月号『新潮』に発表。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻に拠った。

 文中に出る「厚司」はアイヌ語語源で、平織り又は綾織りの厚い木綿織物。紺無地或いは単純な縞柄で仕事着として用いる。冬の季語である。]

 

 小さい眼

 

 初めに誤解があった。思い違いをしたのは、おれじゃない。相手の方だ。相手の思い違いが判った時、おれはすぐ訂正すればよかったのだ。

「そうじゃないんだ」

 しかし、おれはしなかった。これはまあ気合のもので、一瞬の機を失すると、もうどうにもならない。強いてやると、たいへん具合の悪いことになる。おれは対人関係で、具合の悪いところに落ちるのはイヤだ。自分が落ちるのもイヤだけど、相手が落ちるとそのはねっかえりで、なおのことイヤになるのだ。

 相手というのは、婆さんだ。婆さんと言っては悪いかも知れないが、その頃はおれも若かったからそう見えた。地味な着物をきちっと着て、白い上っ張りをつけ、その上に襟巻を巻いている。小肥りに肥っていて、したがって顔も丸くつやつやしていて、よく熟(う)れたドングリの実のような感じがする。そのドングリ顔についた小さな眼がおれを見て、それからちらと時計を見上げた。時計は九時五分を指していた。

「まあまあ、お気の毒に」

 婆さんは視線を戻してそう言った。何が気の毒なのか、とっさにはおれに判らなかったが、あわれまれているのが自分だということだけは、ぼんやりと判った。そういう不安定な事態に時々遭遇するが、その時のふるまいかたがむつかしい。まだ平衡を保っているから、こちらからぶち破ることはない。そんな気の弱さが、いつもおれにはある。おれは自分の衣服をしらべ(裏返しに着てやしないか)また鏡にそっと顔をうつした。丁度都合よくそのミルクホールには、壁に鏡が帯状にはめこまれていて、そこにうつったおれの顔は、不精髭こそ生えていたけれども、とくに汚れていたり、またへんなものがくっついていもしなかった。顔や身なりで気の毒がられているのではない。素早くそのことをたしかめて、おれは何気ないような歩き方で、あやふやに椅子に腰をおろした。せまい店だから、婆さんに遠く離れるというわけにはいかない。一卓をへだてて、婆さんに背を向ける椅子をえらんだ。おれはミルクコーヒーを飲もうと思っていたのだ。

「ミルクコーヒー」

 おれが声に出してそう注文する前に、背後で婆さんががたがたと立ち上った。傍を通り抜けて、そのまま店を出て行くのかと思ったら、ゆっくりと身体を回して、おれの前の椅子に腰をおろす。椅子がぎゅうとふやけたような音を立てた。

「あんたったら、運が悪いねえ」

 おれは顔を上げたまま黙っていた。返事しようにも、しようがなかった。

「あんた、学生さんかい?」

 おれはうなずいた。すると婆さんは腰を浮かし、手を伸ばしておれの肩にふれようとした。婆さんの手は短いし、おれが肩を引いたものだから、ついに接することはなかったけれども。

「うちにおいで!」

 婆さんはそのままの姿勢で、言葉に力をこめた。力をこめても怒っているわけじゃない。小さな眠が善意と憐憫(れんびん)のようなものにあふれて、おれをじっと見入っている。

「うちにおいで。うちに来ればどうにかなるよ!」

 事情が判らないまま、その語調につられて、おれは何ということなく立ち上った。まだためらうものがあって、おれは立ったまませまい店中を(未練げに?)見回した。客はおれたち二人だけで、あとはがらんとしている。各卓の上には空のコップや空の皿。空の皿には赤いものがくっついている。ジャムだ。

「あ。ここではジャムトーストを食わせたんだな」

 とおれは思った。その頃、というともうずいぶん昔になるが、戦争でそろそろ物が窮屈になって来て、配給制度が強化され、切符なしで食べられるものが底をつきかけていた時分なのだ。婆さんが坐っていた卓にも、その空皿が三つ並んでいた。婆さん一人で三つ食べたのか、三人で食べて二人は出て行き、婆さんだけ残っていたのか、それは知らない。婆さんがガラス扉をがたがたと引きあけて、じれったそうに振り返ってさしまねいた。

「何してんだよ。もうおしまいだよ。おいでったらおいで!」

 婆さんの眼がも少し大きかったら、普通の眼の大きさだったら、おれはそこで踏みとどまったかも知れない。おれはもともと小さな眼に弱いのだ。なぜ小さな眼に弱いのか、それはこの話と特に関係がないから省略するけれども、ついおれはふらふらと婆さんについて行く気になった。おれは血のめぐりはいい方じゃないが、婆さんが何か思い違いをしていること、その思い違いがジャムトーストに関係あるらしいことは、うすうす判っている。だからおれはここで訂正すべきだったのだ。婆さんの丸い顔、その両側についた小さな双の眼が、おれにその機会を失わせた。おれが店の外に出ると、婆さんがガラス扉をしめた。つまりおれは手を使わずに、ふところ手のまま、店の外に出たことになるのだ。大切にされているみたいだ。外ではかすかにつめたい風が吹いていて、日曜日の朝だから、あまり人通りはなかった。扉をしめると婆さんはおれを見上げた。おれは背が高いが、婆さんは肥っていても五尺そこそこだ。人は見上げる時、ふつう視線をしゃくり上げるようにするものだが、この婆さんはそうでなかった。

「ここはね、九時までに来なきゃ、トーストは出ないんだよ」

 婆さんはまっすぐな視線で、おれに説明した。近くで見ると、婆さんの顔の皮はとても厚ぼったい感じがする。俗に面の皮が厚いということとは違う。皮膚そのものが分厚くて丈夫そうだという意味だ。動物でも、眼が小さいのや細いのは、皮が厚いのが多い。象もそうだし、河馬(かば)なんかもそうだ。皮膚が厚いからその末端が盛り上って、眼の領域をせばめて来るのだろうか。

「はあ」

「あんた、日曜だから、朝寝坊したんだね、きっと」

 しだいに事情が判って来る。別段トーストを食べに来たんじゃない。しかし店の中でならそうことわれたけれど、ふところ手で外に出た今は、そうは言えないのだ。何のために外に出たのか説明出来なくなるし、婆さんの思い違いをここまで引き延ばして、それでぴしゃりとさえぎれば、とたんに向うは具合悪くなり、それがたちまちおれにはねかえって来るにきまっている。

「寝坊したわけじゃないですけどね」

 おれは口の中でもごもごと抗弁した。

「ここはいつでも、九時までに来れば、トーストが食えるんですか?」

「毎日じゃないよ。ある日とない日があるんだよ。知ってるくせに」

 婆さんは慣れ慣れしくおれの腕をひっぱたいた。

「だからあんたは、あわててたじゃないか。ちゃんと知ってるよ」

 あわててた? おれが?

 今日はトーストが出る。九時前に来た運のいい奴たちがそれにありついて、食べ終ると満足して、ぞろぞろと出て行ってしまう。婆さんは年寄りだから食べるのが遅い。一人残ってやっと食べ終った時に、くたびれた着物を着た不精髭の若者が、血走ったような眼付きで、せかせかと入って来る。その時の婆さんの気持の動きや変化。自分は食べて満足した。この若者は食いはぐれた。湧然(ゆうぜん)とわき上って来る憐憫、同情、側隠の情、そう言ったもの。同一の地平での共感でなく、高みから見おろしたようなその感情群。

「どうして妙な顔をするんだい?」

 婆さんの手がおれのたもとを頼む。

「恥かしがらなくてもいいんだよ。こんなことは、よろずお互いさまなんだから」

 かさねがさね誤解されている。おれは当惑する。その当惑を顔に出せば、婆さんは更に誤解するだろう。おれは出来るだけの無表情を保ちながら、婆さんを見おろしていた。婆さんの眼の中に、やがてある過剰な色があふれて来る。――

 

 あの男の眼も、そうだった。

 浅草の飲み屋で、おれは友達と酒を飲んでいたのだ。寄宿舎の食堂にあるような細長い木のテーブルの、その両側に腰かけを置いて飲ませる式の安酒場だ。その男はテーブルの向う側に腰かけて、山かけか何かで銚子をかたむけていた。おれはその男に全然注意を払っていなかった。注意を払わなくていい仕組みだったし、そういう雑然とした空気の飲み屋だったから。注意を払う方がかえってとげとげしいようなものだった。

 ところでおれたちは、持ち金がたいへん乏しかった。

 持ち金がすくないから、肴など取らずに酒ばかり飲んでいたのだが、飲み進むにつけ、だんだん在り金が底をついて来た。そこでおれたちは顔を近づけ合わせ、ぼそぼそと相談して(大声で相談するわけにはいかない)帰りに食う予定だった牛飯代を、酒の方にふり替えた。時刻が時刻で、いま時下宿に戻っても飯は出ないから、そのふり替えはおれたちにとってかなりの犠牲だった。

 運ばれて来た銚子も、十分ぐらいで空(から)になってしまった。

 牛飯代と引き合うぐらいの酒だから、値段としてはたいへん安い。安いから、水っぽいのだ。おれたちはまだ満足しなかった。

 おれたちはまた顔をつき合わせた。

「帰りは歩くことにして、も少し飲むか」

 バス代を酒にふり替えようというわけだ。おれたちの下宿は本郷にあった。浅草から本郷までかなり歩きでがある。もう一押し酔いを深めて、歩くのが苦にならない程度になるかどうか、お互いに自信はなかった。だからなおぼそぼそと相談を続行した。

 その時その男が声をかけて来たのだ。

「にいさん。これでどうぞ」

 男は勘定をすませて立ち上っていた。右手をおれたちの方に突き出している。掌には五十銭玉が二つ乗っかっていた。

「こ、これで飲んで、あとバスで帰んなさい」

 この時おれは初めてその男に気がついたのだ。男は四十前後で、厚司(あつし)を着ているところから見ると、小さな商店主か何かだったのだろう。売りかけを集金に行って、その帰りに一杯かたむけたという恰好(かっこう)だった。酔いにあからんだ善良そうな顔に、小さな眼が二つついていて、それは熱っぽい光を帯びておれにそそがれていた。熱っぽいというと積極的にひびくが、そういう感じじゃない。働きかけを持たない、そこで起きてそこで完了する、何か重苦しいような過剰さ、それがその男の眼を熱っぽく見せかけていたのだ。

 おれははげしい当惑と羞恥を感じた。

 金をめぐまれる自分自身が恥ずかしかったんじゃない。相手になりかわって、というと傲慢不遜(ごうまんふそん)になるが、おれの当惑と羞恥はあきらかにこちら側のものじゃなかった。

「そんな金、貰ういわれはない!」

 立場としてはそう拒絶してもよかった。しかしおれはそうしなかった。早くこの感情の決着をつけねばならない。背後から追い立てられるような気分になって、こちらも掌を突き出した。男の掌からおれの掌に、五十銭玉二枚がころがって移動して、男は急におどおどした態度となり、そそくさと足早に店を出て行った。まるですべてのあと始末を、こちらに預けてしまったみたいに。

 婆さんはおれのたもとを摑んで離さない。あの厚司姿の男にあった重苦しい過剰さと同じ性質のものが、婆さんの小さな眼にあふれていて、それがじっとりとおれにからみついて来る。逃げ出したくとも、逃げ出せない。

 

 おれが連れられて行った家には『白菊派出看護婦会』という小さな看板がかかっていた。それで婆さんは看護婦かと思ったら、そうではなく、そこの主人だった。何故判ったかと言うと、出て来た小女が婆さんのことを、会長さま、と呼んだからだ。

 おれはこぢんまりした部屋に通された。長火鉢なんかが置いてあるところを見ると、ここが会長の私室らしい。座蒲団を出されたけれども、落着いて坐る気になれない。おれが落着かないのに反比例して婆さんはますます落着き、おれに向ってにっと笑いかける。婆さんの眼は、笑うと糸屑みたいに細くなるのだ。善意を行使するものの傲慢さとでも言ったものが、婆さんの全身にみなぎつていて、それがいよいよおれの気分を重苦しくさせる。

「ラクにしなさいよ。ラクに」

 おれが坐るのを見届けて、婆さんは押しつけがましく言う。

「今おにぎりでもつくって来て上げるからね」

 婆さんは部屋を出て行く。廊下を足音が遠ざかって行く。あとにひとり残されて、おれの頰はだんだんこわばって来る。にぎり飯にするくらい飯があるのなら、何も会長自身がとことことトーストを食べに行かなくてもいいじゃないか。トーストを食べに行っても差支えはないけれど、罪もないおれをつかまえて、あまつさへ誤解して、善意の獲物にしなくてもいいではないか。何というおれは腑甲斐(ふがい)ない男なのだろう。

「このまま、そっと逃げ出してやろうか。すべての感情の決着を向うに預けて――」

 やり方としては、それが一番ふさわしかった。おれはすでに朝飯は食べていたから、おなかはすいていなかった。そう決心して、長火鉢に手をかけ、腰を浮かせかけた時、廊下の向うから足音が聞え、しだいにこちらに近づいて来る。とたんに身体の中で何かがみるみる収縮して、おれは腰をおろす。婆さんが敷居に姿をぬっとあらわす。皿を捧げ持っている。皿には大きなにぎり飯が三箇乗っている。婆さんの小さな眼は実に満ち足りた光をはらんで、にこにことおれを見おろしている。……

小穴隆一 「二つの繪」(15) 「友人」

 

    友 人

 

 恒藤恭(やすし)

 僕は恒藤が一度鵠沼に芥川を訪ねてきたのを知つてゐる。が、そのとき恒藤と芥川がどういふ話をしてゐたのかは全く知らない。芥川が恒藤のことを僕に話すときには、いつも恒藤に對する敬意があつた。芥川が笑つて僕に話してたのは、「恒藤(高等學校時代の)の描く畫は、いつも電信柱がないと描けないんだ。」「恒藤は君のことをいかにも山野を跋渉しさうな人だと言つてゐたが、それがかうならうとは恒藤でも……、」の二度だけだ。あとのはうの話は、僕が義足をつけてはじめてしばらくぶりで芥川の書齋にはいつたときに言つたのである。

 恒藤が社會思想方面の話で芥川に、近く日本に革命がくる、が、それは明治維新のやうな流血の慘事をともなはず、きはめておだやかにくるといつた話をしたといふ。芥川はきはめてまじめに僕にその恒藤説を傳へてゐた。

 僕は芥川の死んだとき恒藤に田端で會つて、鵠沼の海岸で撮つたあの寫眞は、と芥川のを聞いたら、恒藤はあれは、とだけ言つてゐた。あれは電信柱がなかつたので寫らなかつたのかも知れない。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の無二の親友恒藤恭(一般には「きょう」と音読みする)は、京都帝国大学経済学部助教授(但し、彼の専門は法哲学)であった大正一五(一九二六)年九月二十九日頃、アメリカから帰国したばかりの彼(恒藤は大正十三年から欧州留学中で一時帰国。留学はこの年九月までで、この時の肉体的精神的に激しい衰弱を見せていた龍之介を殊の外心配し、フランス滞在中には頻りに龍之介の来仏を誘ったりした)は鵠沼の龍之介を訪ねている。これが盟友との三年振りにして最後の邂逅となった。]

 宇野浩二

 宇野が鵠沼に芥川を訪ねてきたとき、僕は芥川のところの緣側に腰をおろしてゐた。病院にゐるとだけ思つてゐた宇野が玄關にせかせかあがつてくるのを見たとき、僕はこれはいけないと思つてそのまま庭のはうから家に歸つた。あのときの狼狙した芥川の「なに。宇野がきた?」と言つた顏色といつたものはなかつた。芥川は宇野をあづまや(旅館)につれていつて話をしたと言ふ。

[やぶちゃん注:宇野浩二の鵠沼訪問は大正十五年十一月二十七日のことで、同年十一月二十八日附佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五三一)に『昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた』とある。但し、「病院にゐるとだけ思つてゐた宇野」という小穴隆一のここでの記載は記憶の齟齬の可能性が疑われる。以前にも注したが、宇野が発狂と称してよい本格的な変調をきたすのは昭和二(一九二七)年五月末のことで、龍之介が率先して齋藤茂吉の診察を受けさせて(六月二日)入院治療を勧め、同六月上旬には嫌がる宇野を王子にあった精神科病院小峰医院に入院させている。小穴はその時期の記憶を混同して記している可能性が高いように私には思われる。但し、この大正十五年十一月に宇野が一時入院していないということを確認したわけではない。]

 菊池 寛

 夜の藤澤町の往來で、「菊池は軍資金をだしてやるから遊蕩をしろと勸めるのだがね、どうだい、二人分の金を貰つて二人でこれから遊蕩をはじめようか、」さういふ芥川と僕とは顏を見合せて思はずふきだした。遊蕩兒の素質は充分にあつても二人とも下戸なのだ。

 僕の父は人にくらべるとはやく老衰した。その父が、(僕は父に芥川はひどい神經衰弱だととりつくろつてゐた、)「ああいふ人は少し道樂をしなければいけない、すすめてみろ、」と言つたので、笑つてそのことを芥川に話すと「うむ、」といつて笑つてゐたが、後になつて、父が老衰してゐることを芥川に話したら、芥川は、「どうだ、君のお父さんにいつしよに遊びにゆかないかと言つてくれ、」とよろこんでゐた。

 久米正雄

 芥川は猿股の紐を食ひきつたといふ□夫人の執拗? まで言つたあと、久米のことを言つた。「久米は好きな女と對ひあつて話をしてゐる、それだけでもう洩らしてゐるんだといふが――」「誰でもさうかねえ、」と久米のことを言つて、(血氣いまださだまらざるときのことであらう、)「誰でもさうかねえ、」と眞劍になつてゐた。

 芥川は「自分にはそんなことはなかつたがね、」と言つてゐたが、死ぬ話でまはりの人達をさわがせてゐてなほそんなことを彼は言つてゐるのだ。

 芥川のところにサムホール(小型油繪具箱)か、明治にはミレー型といつたのか、それがあつた。僕がそれを見てゐると芥川は「久米といつしよに買つて房州に行つて、はがきに描いて夏目さんに送つたものだよ、」と言つてゐた。

[やぶちゃん注:「芥川は猿股の紐を食ひきつたといふ□夫人の執拗? まで言つた」これはここだけに載る閨房での秀しげ子の行動である。しかし如何にも芥川龍之介遺書(小穴隆一宛)に出現する『秀夫人の』『動物的本能の烈しさは實に甚しいものである』に相応しい仕儀ではないか。

「サムホール」“thumbhole”或いは“thumb-hold”。小型のスケッチ箱とスケッチ用の板。箱の底の穴に親指を入れて持つことから、この名がある。

「明治にはミレー型といつたのか」確認出来なかった。]

 佐佐木茂索

(新年號に近づく頃、)「文藝春秋で度々人をよこしていろいろ書かせるが、これは自分がこの頃書かないでゐる、それで困つてゐるだらうと思つて、みんなそれは佐佐木が心配して、菊池寛に話してゐてくれてるんだらうと思ふんだがね、」と言つてゐたが、佐佐木の書いた「生きてしまつた人」といふのが新聞の雜誌廣告にでてゐるのをみると、いきなり「俺はもう佐佐木とは絶交だ、」と怒鳴つてゐた。(僕は芥川のところで芥川よりはやくその廣告をみて、芥川のことを書いてゐるのではなからうが、きつと芥川は芥川のことを書かれたと思ひこむだらう、困つたことだと思つてゐた。)もつとも、それ以前に佐佐木は一度鵠沼にきて、芥川から死ぬ話を聞かされて、聞かされると僕のところにころげこむやうにはいつてきて、「君はあれを聞いたか? ああたまらん、ああをかしい、ああたまらん、」と淚を拭き拭き泣き笑つてゐた。(僕はそのとき、佐佐木といふ男は悲しみのときに人とかはつてちがつた表情をすると思つた。)僕は泣き笑つてゐた佐佐木が、芥川の死後今日に至るまで、なにも言はず芥川家のことに配慮してゐてくれてるのでありがたいと思つてゐる。

 芥川は僕に「民子さんのためにも僕はO君の新秋を書いたよ。」と言つてゐた。

「ワーグネルが獨逸一國に値するその名聲よりも、乏しいなかにもほの暖い晩餐を欲してゐたその氣もちはわかるよ。」とミゼラブルな芥川がミゼラブルな僕に言つた。(但し僕は芥川に引合ひにだされてゐたワーグネルの不幸に對し、ワーネグルに恐縮しつづけてゐる、)

[やぶちゃん注:「生きてしまつた人」不詳乍ら、昭和二(一九二七)年年初か、前年末に発表されたものらしい。

「民子さん」不詳。しかしこれが佐佐木茂索に関わる叙述だとすれば、茂索の妻「房子」の誤植のように思われてならぬ。

「ワーネグル」恐らくは「ワーグネル」の誤植と思われるが、暫くそのままとしておく。]

 佐藤春夫

 これら鵠沼の話のなかには、僕でなく、佐藤春夫に「梅・馬・鶯」の裝幀を賴んでゐる芥川のこともある。佐藤に裝幀を賴んで、ひそかにこの世での別れをつげてゐるさういつた芥川である。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の随筆集『梅・馬・鶯』は大正一五・昭和元(一九二六)年十二月二十五日(この日が改元)に新潮社から刊行されている。芥川龍之介の後期の単行本の装幀は小穴隆一に多くを託しているが、本書は特に芥川龍之介から佐藤春夫に依頼し、彼が担当している。鷺只雄氏の年譜には、『これは別れの記念のつもりだったといわれている』とある。]

柴田宵曲 妖異博物館 「異形の顏」

 

 異形の顏

 

 或旗本が御鷹野の御供に出て歸宅すると、迎へに出た家來が鬼の顏をしてゐる。内室も女中も皆鬼の顏である。甚だ不審には思つたが、刀を手から離さず、著替へもせずにぢつと坐つてゐると、奧から只今火事が起りましたと云つて來た。これにも動じないでゐるうちに、俄かに座敷の障子に火が移つた模樣で、家中の者が騷ぎ立てたけれども、依然座を動かうともせぬ。いつとなく火も消え、前に鬼の顏に見えたのも、平常の通りになつて居つた。暫くすると、今度は鄰りの旗本屋敷に女の泣き聲が聞え、何か大騷動の樣子なので、早速駈け付けて見たところ、主人が刀を拔いて家來、内室、子供に至るまで斬り付けられてゐる。實は當方もかやうかやうの次第であつたといふのを聞いて、鄰り屋敷の主人も氣が付いて見れば、平生と別に變つたこともないので、大いに後悔の體であつた。狐狸などの仕業であるか、主人だけに皆の顏が鬼の如く見える妖怪であつたらしい(蕉齋筆記)。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。]

 これと似たやうな記載は「世事百談」「閑窓瑣談」「思ひ出草紙」等に見えてゐるが、いづれも大同小異である。「蕉齋筆記」は刀を離さずにぢつとしてゐたとあるが、その他は皆刀を遠ざけて心をしづめたことになつてゐる。これは亂心して刀を振り𢌞したりするのを、自ら用心したものであらう。怪異は暫時にして過ぎ去り、それだけの用意を缺いた鄰家に事が起ることは、どれも變りがない。「世事百談」以下の諸書は、これを通り惡魔の所爲に歸してゐるのである。

[やぶちゃん注:「世事百談」(既出既注)のそれは「卷之四」の「通り惡魔の怪異(けい)」。以下に示す。挿絵も参考底本とした吉川弘文館随筆大成版のものを掲げておく。本文は当該書を恣意的に正字化し、読点を追加した。読みは一部に留め、踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

Sejihyakudatooriakuma

   ○通り惡魔の怪異

 

 世に狂氣するものを見るに、大かたは無益のことに心を苦しめ、一日も安き思ひなくて、はてには胸にせまり心みだれて、狂ひ、さはげるなり。されば、男たるものには先(まづ)は、なきはづのことにて、婦人には、まゝあることなり。しかれども、男女(なんによ)にかぎらず、何事もなきに、ふと狂氣して、人をも殺し、われも自害などすることあり。そはつねづね、心のとりをさめ、よろしからざる人の、我と破れをとるに至るものなり。かゝれば養生は藥治によらず、平生(へいぜい)の心がけあるべし。こゝろを養ふこと專(もつぱら)なるべし。そのふと狂氣するは、何(なに)となきに怪(あやし)きもの目にさへぎることありて、それにおどろき、魂(たましひ)をうばはれ、おもはず、心のみだるゝなり。俗に通り惡魔にあふといふ、これなり。游魂(いうこん)變をなすの古語むなしからず。不正の邪氣に犯さるゝなり。こは常に心得あるべきことなり。むかし、川井某(なにがし)といへる武家、ある時、當番よりかへり、わが居間にて、上下(かみしも)、衣服を着かへて直につき、庭前をながめゐたりしに、緣さきなる手水鉢(てうずばち)のもとにある葉蘭(はらん)の生(おひ)しげりたる中より、焰(ほのほ)炎々ともゆる、三尺ばかり、その烟り、さかんに立(たち)のぼるを、いぶかしく思ひ、心つきて、家來をよび、刀、脇指(わきざし)を次つぎ)へ取(とり)のけさせ、心地あしきとて、夜着とりよせて打臥(うちふし)、氣を鎭めて見るに、その焰のむかふなる板塀(いたべい)の上より、ひらりと飛(とび)おりるものあり。目をとめて見るに、髮ふりみだしたる男の、白き襦袢(じゆばん)着て、鋒(ほさき)のきらめく鎗(やり)打(うち)ふり、すつくと立(たち)てこなたを白眼(にらみ)たる面(おも)ざし、尋常ならざるゆゑ、猶も心を臍下(さいか)にしづめ、一睡して後(のち)再び見るに、今まで燃立(もえたて)る焰も、あとかたなく消(きえ)、かの男も、いづち行けん、常にかはらぬ庭のおもなりけり。かくて茶などのみて、何心なく居けるに、その隣の家の騷動、大かたならず。何ごとにかと尋ぬるに、その家あるじ、物にくるひ、白匁(しらは)をふり𢌞し、あらぬことのみ訇(のゝし)り叫びけるなりといへるにて、さては先きの怪異(けい)のしわざにこそとて、家内(かない)のものに、かのあやしきもの語(がたり)して、われは心を納めたればこそ、妖孽(わざはひ)、隣家へうつりてその家のあるじ怪しみ驚きし心より、邪氣に犯されたると見えたれ。これ世俗の、いはゆる、通り惡魔といふものといへり。また、これに似たることあり。四ッ谷の邊類邊、類燒ありし時、そこにすめる某が妻(さい)、あるじの留守にて、時は、はつ秋のあつさもまだつよければ、只ひとり緣さ先きにたばこのみつゝ、夕ぐれのけしきをながめゐたるに、燒後(やけご)といひ、はづかのかり住居なれば、大かた(いしずゑ)礎のみにて草生(くさおひ)しげり、秋風のさはさはと、おとして吹來りしが、その草葉の中を白髮の老人、腰はふたへにかゞまりて、杖にすがりよろぼひつゝ、笑ひながら、こなたに來るやうす、たゞならぬ顏色にて、そのあやしさ、いはんかたなし。この妻女(さいぢよ)、心得あるものにて、兩眼(りやうがん)を閉ぢ、こは、わが心のみだれしならんとて、普門品(ふもんぼん)を唱へつゝ、心をしづめ、しばしありて目をひらき見るに、風に草葉(くさば)のなびくのみ。いさゝかも目にさへぎるものさらになかりしに、三、四軒もほどへたる醫師の妻(さい)、俄に狂氣しけりといへり。これもおなじ類ひの怪異(けい)なるべし。むかしより妖は人よりおこるといふこと、亦、うべならずや。鳩巣(きうさう)云、陰陽(いんやう)五行の氣の、四時に流行するは、天地の正理(せいり)にて、不正なけれども、その氣、兩間(りやうかん)に游散紛擾(いうさんふんぜう)して、いつとなく風寒暑濕をなすには、自(おのづから)不正の氣(き)もありて、人に感ずるにて、しるべし。されば、天地の間に正氣(せいき)をもて感ずれば、正氣、應じ、邪氣をもて感ずれば、邪氣、應ず、といへり。色(いろ)にまよひて身命(しんめい)を失ふも、おなじことわりとしるべし。

   *

文末の「鳩巣」は江戸中期の儒学者室鳩巣(むろきゅうそう)のことで、引用は「駿臺雜話 卷一」の「妖は人より興る」の一節。部分を冒頭の箇所を引用する。

   *

座中ひとり、

「神は聰明正直なるものにて至誠の感應はさもあるべき事にて候。然るに、昔より妖怪不正の事ども世に流布し侍る。是もその理ある事にや。」

といふに、翁、

「鬼神は天地の功用二氣の良能といへば、勿論、正理より出でたる事なれども、人の本性惡なくして、氣質におちては善惡あるごとく、神(しん)も人世に降つては、正しきあり正しからざるあり。其子細は、陰陽五行の氣の四時に流行するは、天地の正理にて、不正なけれども、其氣、兩間に游散紛擾して、いつとなく風寒暑濕をなすには、おのづから不正の氣もありて、人に感ずるにてしるべし。されば天地の間、この氣の往來にあらざるはなし。正氣をもて感ずれば、正氣、應じ、邪氣をもて感ずれば、邪氣、應ず。但、正邪ともに二氣の感應より出づれば、邪氣の感とても神にあらずといふべからず。夫(それ)、正氣の感は、大小となく精誠の所ㇾ致(いたすところ)にあらぬはなし。

   *

 

「閑窓瑣談」は戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名・佐々木貞高)の随筆。当該章は「卷三」(これ以降は正編の続編)の「三十三 通惡魔(とほりあくま)」。以下、吉川弘文館随筆大成版を参考に恣意的に正字化し、句読点を変更・追加した。読みは一部に留め(一部の歴史的仮名遣の誤り本文を含む)を訂し、従えない読みをオリジナルに変更した)、踊り字「〲」は正字化した。「河合」「川合」の混合は底本のママ。

   *

    ○第三十三 通惡魔

 怪力亂神の沙汰は語べからずと禁(いましめ)あれど、後の人の心得にもならんかと、這(こゝ)に記す一(いつ)怪事あり。世に知られたる英才の官家河井何某の、いまだ出身せられざりし頃、或日御役所より早く歸宅あつて圊(かはや)へ行(ゆか)れ、出(いで)て手を洗はんと手水鉢(てうずばち)の柄(ひさく)に手をかけんとする時しも、庭に植(うゑ)たる蘭の葉の間(あひだ)より、俄に火燃出て、めらめらとたち登る、何某は大に驚かれしが、心を鎭め、内室(ないしつ)を呼(よびて云(いはく)、我(わが)傍(そば)に有(ある)所の刀劔(たうけん)は更なり、刄物(かもの)はことごとく取除(とりのけ)て、我手に持(もた)する事なかれ、即今(いま)、又、是を我(われ)求むるとも、暫時、隱して與ふべからず、と言渡(いひわた)し、從女(こしもと)に夜具を出(いだ)させ、あはたゞしく夜着を冠(かぶり)て倒れ伏(ふし)、我(われ)、汝等を呼(よぶ)事ありとも近付(ちかづく)まじ、と言(いひ)て、うち臥(ふし)ける故、内室も從女(こしもと)も、其間を退(しりぞ)きて異(あやし)み居たり。偖(さて)、何某は夜着の袖より庭の方を窺ひ見れば、葉蘭の間にて燃(もゆ)る火は彌々(いよいよ)盛(さかん)にて、地境(ぢざかひ)の塀の上に、白き襦袢を着たる男、髪を振亂し、怖しき顏色にて、手には短かき鑓(やり)の光りかゞやくを引提(ひきさげ)、忽ち庭に飛下り、緣側に走登(はしりのぼ)りて、何某に近付(ちかづか)んとする故、今は堪へ兼て聲を上げ、刀(かたな)を持参(もちまゐ)れ、刀を持(もて)と叫ばれしかども、内室は這(こゝ)ぞと思ひ返事もせず。何某は是非なく臆したるやうになりて、夜着の中に心を鎭めありけるが、暫時して二度夜着の袖より窺ひ看れば、火も消(きえ)、曲者(くせもの)の容形(かたち)も見へず。時は是、午(むま)の半刻(はんこく)ばかり、太陽、盛(さかん)にして、陰鬼幽靈の類(たぐひ)、狐狸なんどの妖をなす事、叶ふべからず。尤(もつとも)あやしむに絶(たえ)たり、此折(このをり)から、隣家(りんか)の俄に物騷(ものさわが)しくなりて、其家の主(あるじ)、狂氣して、家内(かない)の男女(なんによ)を切(きつ)て、怪我人、多く悩(なやみ)しとか。然(され)ど何故(なにゆゑ)といふ事、不分明(わからず)。後々の沙汰に、彼(かの)家の主の眼(め)に異樣物(あやしきもの)の看えて、狂亂せし如くなりし、とぞ。案ずるに、川井氏(うぢ)の見られし變化(へんげ)が、隣家へ行(ゆき)しものか、河井氏は後に此事を他人に語りて、心氣(しんき)を鎭め、麁忽(そこつ)に物驚(ものおどろき)をせざるやう異見ありて、昔より、かゝる異(あやしみ)のものを、通り惡魔となづけ、何事もなき人に災(わざはひ)をなすと、いひ傳ふ。用心すべき事なり、と教訓せられしとか。察すに、俄に狂亂して親兄弟を殺害(せつがい)し、小兒までも情なく切捨(きりすつ)る類(たぐひ)の事ありて、後に種々(いろいろ)の説をなせども、大略(たいりやく)は惡魔に魅(ばか)されて本心を失ひ、狂を發しての所爲(わざ)ならんか。恐るべし。

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「思ひ出草紙」江戸後期に東随舎(とうずいしゃ)が書いた「古今雑談思出草紙」のこと。私は所持しないが、調べて見たところ、当該項の標題は、やはり「通り惡魔の事」である。ウィキの「通り悪魔」によれば、その内容は、『加賀国(現・石川県)。ある武士が家の外を見ると、甲冑を着て槍や長刀を持った者たちが、板塀の上に』三十『数人も並んでこちらを睨んでいた。世にも恐ろしい光景だったが、武士は平伏して臍の下に意識を集中するようにして心を静めた。しばらくして顔を上げると、その者たちの姿は消えていたが、塀の向こうの家に住む者が乱心して人に傷を負わせ、自身も命を絶つという騒動が起きたという』。また前掲の「世事百談」の二例は、本「古今雑談思出草紙」にも『掲載されており』、一『件目の話では川井の名が川井次郎兵衛とされている』とある。

「通り惡魔」ウィキの「通り悪魔」によれば、『気持ちがぼんやりとしている人間に憑依し、その人の心を乱すとされる日本の妖怪。ここに掲げたような『江戸時代の随筆に見られ、通り者(とおりもの)、通り魔(とおりま)ともいう』。『通り者を見て心を乱すと必ず不慮の災いを伴うので、これに打ち勝つためには心を落ち着けることが肝心だという。その姿は諸説あるが』、以上の「世事百談」や「古今雑談思出草紙」では『白い襦袢を身に纏い、槍を振りかざした奇怪な白髪の老人だといい』、「古今雑談思出草紙」では『無数の甲冑姿の者たちだったともいう』。『現代においても、理由もなく殺人を犯す人間を「通り魔」というが、かつてはそのような行ないは、この通り者が原因とされていた』とある。]

 

 鈴木桃野の祖父に當る向凌といふ人が若い時分に、獨り書齋に坐つてゐると、忽然として衣冠を著けた人が櫻の枝から降りて來た。よくよく見るに盜賊らしくもないが、衣冠を著けた人などが、この邊に居る筈がない。固より天から降るべき筈もないから、心の迷ひでこんなものが見えるのであらうと、暫く目を閉ぢてまた開けば、官人は次第に降りて來る。目を閉ぢては開くこと三四度、遂に緣側のところまで來て、緣端に手をかけた。これは一大事だと思つたので、家人を呼んで、氣分が惡い、夜具を持つて來い、と命じ、暫く睡つて目が覺めたら、もう何事もなかつた。これは衣冠を著けた人といふだけで、異形な顏ではなかつたらしいが、來るべからざる官人が櫻の木に現れ、次第に近付いて緣端に手をかけるに至つては、僅かに尋常の沙汰ではない。かういふ事態に直面した者は、睡つて心氣をしづめるより外、良策はなささうである。

 桃野は「反古のうらがき」にこの話を記した末に、曲淵甲斐守の家にも似た事があり、甲斐守が驚かなかつたため、妖氣は隣家に移つて、そこの主人が腰元を手討ちにしたといふ事を附け加へてゐる。「世事百談」「閑窓瑣談」「思ひ出草紙」いづれも川井家の事として傳へてゐるから、これは桃野の聞き誤りか、或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない。

[やぶちゃん注:「鈴木桃野」(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)は幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子として生まれ、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授に就任している。射術を好む一方、随筆・絵にも優れた。

「向陵」多賀谷向陵(たがやこうりょう 明和三(一七六六)年生~文政一〇(一八二七)年:本名は瑛之(「よしゆき」か))は幕臣。尾張生まれの儒者で書家・画家としても知られた。

「反古のうらがき」(ほごのうらがき)は嘉永三年頃までに鈴木桃野が完成させた怪奇談集。筆名は雅号「醉桃子」名義。当該条は卷之一に「官人天より降る」として載る。以下に示す。底本は「日本庶民生活史料集成 第十六巻」を用いた。

   *

 

    ○官人天より降る

 

 予が祖父向陵翁若かりし時、書齋に獨り居しに、忽然として一人の衣冠の人、櫻の枝より降り來る、よくよく見るに、盜賊とも見えず。但し衣冠の官人、此あたりに居るべき理(ことはり)なし、況や天より降るべき理更になし。おもふに心の迷ひよりかゝるものの目に遮ぎるなりと、眼を閉て見ず、しばしありて眼を開けば、其人猶あり、降りも來らず、やはり其邊りにあり、眼を開けば漸々(ぜんぜん)に降り來る、また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、漸々近づき來る、如ㇾ此きこと三四度にして終に椽頰迄來り、椽ばなに手を懸る、こは一大事と思ひて眼を閉ぢたるまゝに、家人を呼びて氣分惡し、夜具(やぐ)を持來れと命じ、其儘打ふして少しまどろみけり。心氣しづまりて後、起出で見るに何物もなし、果して妖怪にてはあらざりけりと、書弟子石川乘溪に語りしとて、後乘溪予に語りき。此話曲淵甲斐守といふ人も、此事ありしよし聞けり、これは曲淵心しつまりて驚かざれば、妖氣鄰家に移りて、即時に鄰主人こし元を手打にして狂氣せしよし、語り傳たへたりとなり。

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柴田は「或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない」などと好意的にも言っているが、私はここは桃野「聞き誤り」か、或いは元の話から派生した都市伝説であるように思われる。そもそもが「河合」「川合」の「かはひ」と「甲斐守」の「甲斐」(かひ)は音型が酷似しており、しかも「河合」「川合」「曲淵」は如何にも縁語染みているからである。]

 越中、飛驒、信濃三國の間に入り込んだ四五六谷といふところがある。神通川を遡り、またその支流を尋ねて行くのに、甚だ奧深くて、これを究め得た者がない。近年飛驒舟津の者が二人、三日分の食糧を準備して川沿ひに行つて見たが、その食糧も乏しくなつたので、魚を釣つて食ふことにして、なほ幾日か分け入つた。或時ふと同行者の魚を釣つてゐる顏を見ると、全く異形の化物である。思はず大きな聲で呼びかけたので、魚を釣つてゐる男が振向いたが、その男の眼には此方の男の顏が異形に變じてゐる。お互ひに異形に見える以上、この地に變りがあるに相違ないと、急いでそこを逃げ出し、大分來てから見合せた顏は、もう平常に戾つて居つた。思ふにこの谷は山神の住所で、人の入ることを忌み嫌つて、かういふ變を現したものと解釋し、その後は奧深く入ることをやめたが、飛驒の高山の人の話によれば、それは山神の變ではない、山と谷との光線の加減で、人の顏の異形に見えることがある、飛驒のどこかに人の往來する谷道で、人の顏が長く見えるところがあるが、その谷を行き過ぎると常の通りになる、この道を通ひ馴れぬ人はびつくりするけれども、所の人は馴れて何とも思つてゐない、といふことであつた(東遊記)。

[やぶちゃん注:「船津」(ふなつ)は旧岐阜県吉城郡の旧町名。神通川支流の高原(たかはら)川の上流にあり、古くから神岡鉱山(亜鉛・鉛・銀鉱山)の中心地として栄え。現在は飛騨市神岡町船津。(グーグル・マップ・データ)。

「東遊記」京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。天明四(一八七四)年から天明六年にかけての旅記録を、寛政七(一七九五)年から同十年にかけて先立つ「西遊記」とともに板行した「東西遊記」の一部。当該項は 後編 卷之三」の冒頭「五一 四五六谷(しごろくだに)」(現在の双六(すごろく)岳(長野県大町市と岐阜県高山市に跨る飛騨山脈の裏銀座の主稜線に位置する((グーグル・マップ・データ))。標高二千八百六十メートル。私の好きな山である)の西側の谷の旧称と思われる。「双六」自体が元は「四五六」であったという説もある)。東洋文庫版を参考に、漢字を正字化して示す。ルビは一部にオリジナルに歴史的仮名遣で附した。本文原典にはかなり歴史的仮名遣の誤りがあり、それらは訂した。

   *

 四五六谷は越中、飛驒、信濃三國の間へ入り込める谷なり。富山へ落つる神通川を逆上り、又、其支流を尋ねてのぼるに、甚だ深遠にして、其奧を究むる者なし。近き年、飛州舟津(ふなづ)の人兩人、此谷の奧を究めんとて、三日の𩞯(かて)を用意して、段々川にそいて入りしに、其食も乏しくなりぬれば、魚を釣り食うて猶數日(すじつ)の間尋入りしに、ふと伴ひし者の魚を釣り居(を)る顏を見やりたるに、異形(いぎやう)の化物なり。大いに驚きて聲をかけたるに、魚を釣り居(ゐ)たる者も驚きてふりかへり見るに、其呼びたる者の顏亦異形に變じて恐しさいはんかたなし。たがひにかくみゆるからは、此地に變こそ有るらめとて、いそぎ逃歸(にげかへ)れり。遙か逃出でて、たがひに顏を見るに、何の變(かはり)もなく常々のごとくなれば、此奧こそ山神(さんじん)の住所ならめ、人の入る事を忌嫌(いみきら)ひてかかる變(へん)をあらはせしならんと恐れて、其後は奧深く入る者なしと也。

 此事を其頃語り合ひしに、飛驒の高山の人其座に在りていふ樣(やう)、「それは山神(さんじん)の變(へん)にはあらず、山と谷との日受(ひうけ)によりて人の顏異形に見ゆるもの也。飛州の中に、人の往來する谷道に、人の顏長くみゆる所あり。其谷をしばし行過(ゆきす)ぐれば、顏色常のごとし。此道を通り馴れざる人は大いに驚く事なれども、所の人は常々に見なれてあやしむ事なし」と云えり。外の國にてはいまだ聞(きき)及ばず、いと珍敷(めづらしき)事なり。

   *]

 家人の顏が皆鬼に見える通り惡魔の話は恐ろしいが、これは終日戸外に在つて疲勞して歸るといふことも、考慮に入れる必要がありさうである。光線の加減で人顏が異形に見える四五六谷の話は、自然であるに拘らず、却つて無氣味に感ぜられる。山中無人の境でさういふ目に遭つたら、恐怖の餘り刀などを振り𢌞さぬとも限らぬ。

 或場合或人の眼に異形に見える外に、さういふ現象の屢々起る場所があつた。四五六谷の例は山谷の光線の他に異るためとも解せられるが、「梅翁隨筆」の記載の如く室内で起るに至つては、化物屋敷の稱を與へられても仕方がない。本多氏の後室圓晴院が若い時分に住んでゐた屋敷は怪しい事が多く、夜更けて行燈の下に竝んで針仕事をしてゐる時など、側の女の顏が忽ち長くなつたり、また殊の外短くなつたり、或は恐ろしい顏になつて消え失せたりする。座敷で火の燃え出すことは珍しくなかつた。家内一同の難儀とあつて、遂に加賀屋敷へ移られたさうである。

[やぶちゃん注:「梅翁隨筆」著者未詳の寛政年間(一七八九年~一八〇一年)の見聞巷談集。八巻。本話は「卷之二」にある以下の条の前半部(太字で示した)。吉川弘文館随筆大成版を参考に恣意的に正字化した。本文の頭には飛び出した「一」があるが、箇条の印に過ぎぬので、省略した。歴史的仮名遣に問題があるが、ここはママとした。

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  ○妖怪物語幷夜女に化し事

 

本多氏の後室圓晴院といふ人、わかき頃番町三年坂中程におはせし時の事なりしが、化物屋しきにて、色々あやしき事どもあり。夜更行燈のもとに並ゐて仕事などするに、側なる女の㒵たちまち長くなり、又ことの外短くなり、或は恐ろしき顏になりて消失る事あり。座敷にて火のもゆるはめづらしからず。ある女わづらひて休み居けるが、其女むらさき色の足袋をはきて掃除せしかば、甚あやしく思ひながら、女の休みたる所へ行て見れば、矢張打ふして居けるゆへ立戾りければ、さうじ仕たる女は見えず。かやうの事ども多くして、家内難儀するゆへ、加賀屋敷へ引移られしとの咄なり。是は我等度々承りし事ゆへ、こゝに記しぬ。是にて思ひ出せし事あり。明和九年目黑行人坂の火事とて、江戸中大半燒失せし大火事あり。其夜牛込若宮八幡宮の脇に住す加藤又兵衞が中間、市谷左内坂を通りしに、きれいなる女泣居たるに逢けり。やうすを尋るに燒出され行べきかたもなしといふ。しからば我かたへ來り一夜をあかし、しれる人の行衞を尋ね給ふべしといふ。やすらかに得心してつれ立來りけり。ひとり男のことなれば、さし障る心遣ひなしと、中間こゝろに大いに悦び、ともなひて部屋に入、圍爐裏の火を澤山にさしくべて、こゝろ及ぶだけ馳走しけるが、覺へず少し居眠り目覺しみれば、彼女も居眠りたりしが、口もとに長き毛の見ゆる如く成りしゆへ、目をうちひらききつと見れば、いつか古狸となれり。大睾丸を廣げて火にあぶり居るゆへ、己たぬきめよく化したり、打殺して汁の實にせんと打かゝれば、狸初て驚き窓より飛出逃去たりとかや。又兵衞今はやしき替して、一色喜間多の屋敷と成る。

   *

話柄上、後半を省略したのは判るが、後半の「大睾丸を廣げて火にあぶり居る」女に化けた狸の方が、面白い。]

小穴隆一 「二つの繪」(14) 「妻に對する、子に對する、」

 

      妻に對する、

      子に對する、

 

 僕の家の勝手口からはいつてきた芥川は、いつもとちがつた明るい顏で言つた。

「僕はやつと安心したよ。僕の讀者は三千ある。僕が死んでも全集が三千は出るとやつとけふさう自信がついた。三千出れば死ねる。」

 朝、わりあひ早くきて、さう言ふとそのまま歸つていつた。伊四號の家から別の家に移つてゐたときのことであつたが、芥川はきまつて勝手口から音もなく(麻裏草履で砂地であるためもあるが、)すうつとはいつてきてゐた。伊四號の家にゐたときには懸垂の要領で窓から首をさきにだし、猫のやうにはいつてきて、緣側から上つてくるとか、玄關からはいつてきたといふためしはなかつた。(鵠沼での話)

[やぶちゃん注:「懸垂」「けんすい」。鉄棒のそれで、腕の力で体を持ち上げること。]

 昭和二年に、芥川の第一囘の全集が岩波から出た時の部數は五千七百、漱石全集の第一囘の時よりも七百多いといふ話であつた。全集といふものは、第一册より二册目、三册目と、多少月々に滅つてゆくものであるが、その減りかたが少ないのを木版屋の都築(故人)が感心してゐた。出版屋といふものは木版屋に十減れば十だけ注文を減らすので、割合確かな數が知れてくるものだが、芥川の全集といふものは他の人のに比べると減り方は少ないらしい。

[やぶちゃん注:「昭和二年に、芥川の第一囘の全集が岩波から出た時」昭和二(一九二七)年十一月から刊行が始まり、昭和四年二月に終了した全八巻から成る、岩波書店刊の第一次元版全集。編集委員は、この小穴隆一を始めとして、谷崎潤一郎・恒藤恭(芥川龍之介の一高以来の無二の親友。旧姓井川(いがわ)。法学博士)・室生犀星・宇野浩二・久保田万太郎・久米正雄・小島政二郎(まさじろう)・佐藤春夫・佐佐木茂索・菊地寛という錚々たるメンバーであった。装幀も小穴が担当している。

「漱石全集」夏目漱石は大正五(一九一六)年十二月九日に胃潰瘍のために満四十九歳で亡くなったが、大正七年一月一日から翌八年六月に終了したのが例の岩波書店菊版「漱石全集」十三巻であった(同年十一月に同別巻一巻を追加刊行、同補遺一巻が大正一四(一九二五)年に刊行されている)。

「都築」不詳。「木版屋」とあるから小穴隆一と親しい印刷業者であろう。]

 芥川と話をしてゐると、きまつて、「死ぬ話をしようや、」に話をもつてゆく。さういふ芥川はいつも「僕の女房は自分には過ぎた者だ。」と言つて淚を湛へてゐた。「女房も僕のやうに、過去に過失を持つてゐてくれる女であれば、また、今日に、或は先きにいつてでも過失を犯してくれるやうな人間であつてさへくれるのなら、どれほど僕の氣持は救はれるか」と搔き口説いてゐた。

 芥川の遺書のなかには、〔一、もし集を出すことあらば、原稿は小生所持のものによられたし。二、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄したれば、)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。〕といふ字句があつた。

[やぶちゃん注:私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の「芥川文子宛遺書断片」を参照されたいが、現在、遺書のこの部分は現存しないのでこの小穴隆一の証言は非常に重要である

「妖婆」大正八(一九一九)年九月及び十月発行の『中央公論』に発表。当初、この怪奇小説に芥川龍之介は相当な自信を持っていたが、前半発表に直後に佐藤春夫が、最初から失敗している、と批評したからか、急速に自信を失った。生前の単行本にも未収録で、現行でも総じて評価は低く、研究者の本作への言及も少ない。以上は平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」の一柳廣孝氏の解説に拠った。

「アグニの神」大正一〇(一九二一)年一月及び二月発行の『赤い鳥』に発表、翌三月に刊行された第五短編集『夜來の花』、大正十一年十月刊の作品集『奇怪な再會』(金星堂刊)にも収録され、生前から企画しながら没後の刊行となった小穴隆一画に成る童話集『三つの寶』にも所収している。

「改鑄」「かいちう(かいちゅう)」鋳(い)なおすこと、鋳造し直すことで比喩表現。

「死後」大正一四(一九二五)年九月発行の雑誌『改造』に発表。私の「死後」の古い電子テクストを読んで戴くと、彼が『妻の爲に』と理由を添えた意味が判る。]

 芥川は鵠沼で、「女房のおふくろが君、自分の亭主が死んだときに、誰もわたしに再婚しろと言つてくれる人がなかつたと、まるで怒つてでもゐるやうに言つてたよ。」と言つてゐたことがある。(塚本さんの旦那さんは初瀨の機關長、日露戰爭のとき艦の沈むに殉じて死んだ。芥川の話だと、兵學校、大學ともに首席で通した人。芥川は兵學校と言つてゐたが、機關學校の言ひちがひであらう。)芥川が死にたがつてゐると知つて、塚本さんがさういふことを口にしてゐるのは了解できるが、さういふことを言はれたためであるのかどうか、芥川の夫人に宛てた遺書のなかには、僕といつしよなれと書いてあつたのもあつてみせられたが、それでもつて僕は新原得二に「六ケ月たつてみなければ……」といふ二つの意味をふくめた心外な嫌味を言はれてゐる。(芥川はこの實弟と實姉とは義絶せよと家人に書いてゐた。)多分芥川のところの年寄達も當時腹の中では、なにか新原と似た考へを持つたことであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「自分の亭主が死んだとき」芥川龍之介妻芥川(旧姓塚本)文(ふみ 明治三三(一九〇〇)年七月八日~昭和四三(一九六八)年九月十一日)は東京府生まれで、海軍少佐塚本善五郎と妻鈴の娘であった。ウィキの「芥川文」によれば、善五郎は日露戦争で第一艦隊参謀少佐として明治三七(一九〇四)年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗艦して出征したが、同年五月十五日、旅順港外で「初瀬」が機械水雷に接触して轟沈、御真影を掲げて艦とともに運命をともにしている。鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)によれば、鈴の生年は明治一四(一九八一)年三月九日であるから、夫善五郎殉職時は未だ二十三歳で、彼女の鬱憤も判る。因みに芥川龍之介自死の折りの文は満二十七であった。

「初瀨の機關長」前注から誤り。以下の小穴隆一の推定も誤りが元だから、誤り。

「芥川の夫人に宛てた遺書のなかには、僕といつしよなれと書いてあつた」私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の「芥川文子宛遺書断片」を参照されたいが、現在、遺書のこの部分は現存しないのでこの小穴隆一の証言は非常に重要である。私は、意図的に削除されているからこそ、小穴隆一の証言は真実であると考えている。何より、芥川龍之介は「わが子等に」とした遺書(上記リンク先参照)で、

 

 小穴隆一を父と思へ。 從つて小穴の教訓に從ふべし。

 

とさえ述べているからである。

「二つの意味」私が馬鹿なのか、一つは判らぬ。誰か、教えて戴きたい。]

芥川は二度ばかり僕に「僕は子供を大事にしない女は嫌ひだ。」と言つてゐたことがあつた。いつも話になんの連絡のないとき言つたのであつたから、それがこちらには突然でて耳に殘つてゐる。

[やぶちゃん注:私は 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』で考察したが、彼の「わが子等に」とした遺書を読むに、芥川龍之介が自死したのは龍之介自身が三人の子等に対し〈より良き父〉であろうとしたことを大きな動機とするものであると大真面目に信じている人間である。]

 關東大震災のすぐあとであつた。(芥川がまだ死ぬ話をしない前のこと、)芥川のところから渡邊町へでる角のところで、(よくそこの家角までくると家庭の話を聞かせてゐたものだ。)聲を小さくして、「女房がわたしも小さい文房具屋をやつてみたいといつてゐる、」と言つてくすつと笑つてゐた。それからその場所で、「女房は子供を一人は小説家、一人は畫かき、一人は音樂家にしたいといつてゐるのだ、」といかにも滿足してゐる顏で言つてゐたこともある。

[やぶちゃん注:「渡邊町」田端の南西の旧日暮里渡辺町、現在の荒川区西日暮里四丁目一帯であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「女房は子供を一人は小説家、一人は畫かき、一人は音樂家にしたいといつてゐる」長男芥川比呂志は俳優、次男多加志は昭和二〇(一九四五)年四月十三日にビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦にて胸部穿透性戦車砲弾破片創により二十二の若さで戦死したが、芥川龍之介の遺伝子を最も受け継いでおり、生きていれば作家となっていたかも知れず(私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」を参照)、也寸志(彼の名は後で小穴も推測している通り、龍之介の畏友恒藤恭(きょう)の「恭」の訓読みから採られたもの)は音楽家となった。]

「女房は子供たちのためにもいつしよに死ねないと言つてゐる、」と芥川は言つてゐた。子供達といふのは、比呂志(菊池寛のひろしをとつて、ひろしと名づけた)多加志(これは僕の隆一の隆をたかしと讀ませてたかしと名づけた。ビルマの最後の戰鬪で死を傳へられたままになつてゐる子供、)也寸志(この名のゆかりは恒藤恭のやすしであらう)の三君である。

 比呂志君が生れたときのことであつたと思ふが、芥川は、丁度きた屑屋の秤で目方をはかつて貰ひ、目方が多かつたといふことを言つてゐた。これは一寸、芥川らしくない話でゐて、いかにも芥川のやりさうなことだと思ふ。

 室生犀星の長男の豹太郎が死んだときに、芥川夫人がお悔みにゆくと室生夫人が、「わたしたちお互ひにおでぶちやんは……、」と言つたといふ。それで芥川夫人は家に歸つて、「わたしはおでぶちやんぢやないわ……」と言つてゐたといふが、室生夫人は子供に死なれた悲しみで一貫目瘦せて十八貫、芥川夫人は十六貫、と十二貫五百の芥川は笑つて聞かせてた。

[やぶちゃん注:「室生夫人」室生(旧姓浅川)とみ子(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年)は大正七(一九一八)年二月に犀星と結婚、大正一〇(一九二一)年五月に長男豹太郎が誕生したが、翌年に夭折している。豹太郎夭折当時、とみ子は二十七歳、芥川文は明治三三(一九〇〇)年(七月四日)生まれであるから、二十二歳。

「十八貫」六十七・五キログラム。

「十六貫」六十キログラム。

「十二貫五百」四十六キロ八百七十五グラム。]

 伊四號の家の庭のなかほどに、つゆくさが咲いてゐた。芥川は也ちやんを抱いてそこまでゆくと、下におろされても泣きもせずにあつぷあつぷ這はうとしてゐる也ちやんに、立つたままぢつと目をすゑてゐた。僕が、「しやうがないおとうさんだなあ、」と言つて抱きあげようとすると、芥川は急に抱きあげて、「この兒は君にやるよ、」と言つた。

[やぶちゃん注:「也ちやん」「やっちゃん」で三男也寸志のこと。乳飲み子であったので(大正一四(一九二五)年七月十二日生まれ)、彼は文と一緒に鵠沼について来ていた。

「つゆくさ」先の鵠沼」の小穴の見取りの中央に、『ココニ侏儒の言葉の表紙の花』とあるもので、芥川龍之介の単行本「侏儒の言葉」(没後の昭和二(一九二七)年十二月六日文藝春秋出版部刊)の印象的表紙絵で小穴隆一が素材としたそれである(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの表紙画像)。]

2017/01/09

柴田宵曲 妖異博物館 「人魂」

 

 人魂

 

 佐々成政が越中の大津の城を攻めた時、城兵よく防いだけれども、多勢に無勢で次第に弱り、愈々明日は最後と覺悟をきめた。女子供などは泣き悲しんで居つたが、その日も暮れ方になると、城の中から天目ほどの火の玉が、いくつといふことなく飛び出した。寄せ手はこれを見て、城中では死に用意をしたぞ、あの人魂の飛ぶことを見よ、と云つて皆で見物する。城主は降參を申し出で、城中の者の一命は助けてくれといふことだつたので、成政同心し、和議は忽ちにととのつた。上下限りなく喜んでゐるうちに日が暮れたら、昨日飛び出したのと同じくらゐの數の人魂が、どこからか飛んで來て、皆城中へ入つて行つた。この人魂の目擊者は幾千人もあつたわけである。人魂の記載はいろいろあるが、「義殘後覺」の大津の城攻めの際のやうに、大規模なのはあまり見當らない。

[やぶちゃん注:「佐々成政」(さっさなりまさ 天文五(一五三六)年(但し、他に永正一三(一五一六)年・天文八(一五三九)年説有り)~天正一六(一五八八)年)は尾張出身の安土桃山時代の武将。織田信長に仕えて歴戦、天正三(一五七五)年の一向一揆鎮圧の功により越中富山を領した。同天正十二年の小牧・長久手の戦いでは徳川家康方に応じ、翌年、豊臣秀吉に攻められて降伏、助命されて同十五年には肥後国主となったが、国人統制に失敗、その責めを問われて切腹した。

「大津の城」「大津」は「小津(おづ)」(古地名)が正しく、所謂、現在の富山県魚津市内にあった魚津城。天正一〇(一五八二)年に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍(そこにこの佐々成政や前田利家らがいた)と上杉景勝軍との戦い。

「天目」「てんもく」で天目茶碗のこと。浅い擂鉢形をした抹茶茶碗。これは日本での呼称で、本来は中国福建省の建窯(けんよう)で焼かれた建盞(けんさん)を指し、鎌倉時代に浙江省天目山の禅寺から留学僧が持ち帰ったところから、本邦ではこの名で知られる。後に瀬戸などで写しが作られ、茶道で主に貴人用として用いられ、高台(こうだい)が小さいため、必ず天目台に載せて用いる。

「義殘後覺」「ぎざんこうかく」と読み、文禄年間(一五九二年~一五九六年)の成立とされる愚軒による雑話集。本話はその「卷之三」の「三 人玉の事」。岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」に載るものを参考底本としつつ、読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附し、恣意的に漢字を正字化、読点を追加して示す。

   *

 

   人玉の事

 

 いかさま、人の一念によつて、瞋恚(しんい)のほむらと云ふものは、有るに儀定(ぎぢやう)たる由、僧俗ともに、その説、多し。しかれども、つひに目に見たる事のなき内は、疑ひ多かりし。眼前にこれを見しより、後生をふかく大事に思ひよりしなり。

 これとひとつ事に思ひしは、人每に人玉といふものの有るよしを、歷々の人、歷然のやうにのたまへども、しかと肯(う)けがたく候ひしか。北國の人、申されしは、越中の大津の城とやらむを、佐々内藏介(さつさくらのすけ)、攻め申されしに、城にも強く防ぐといへども、多勢の寄せて、手痛く攻め申さるるほどに、城中、弱りて、すでに、はや、明日は討死せんと、おひおひ暇乞(いとまご)ひしければ、女、わらんべ、泣き悲しむ事、たぐひなし。まことに哀れに見えはんべりし。かかるほどに、すでに、はや、日も暮れかかりぬれば、城中より天目ほどなる光り玉、いくらといふ數かぎりもなく、飛び出でけるほどに、寄せ衆(しゆ)、これを見て、「すはや、城中は死(しに)用意しけるぞや。あの人玉の出づる事をみよ」とて、我もわれもと、見物したりけり。

 かかるによりて、降參して城をわたし、右をなだめ候やうにと、さまざま扱ひを入れられければ、内藏介、此の義に同じて、事、調ふたり。「さては」とて、上下喜ぶ事かぎりなし。かくてその日も暮れければ、昨日飛びし人玉、又、ことごとく何處(いづく)よりかは出でけん、城中さして飛びもどりけり。これを見る人、幾干といふ數を知らず。

   *

「扱ひ」降伏に際して交渉をすることを指す。「同じて」同意して。]

 吉原の西河岸にある娼家の女が、勞症で危篤に及んだ時、その家から人魂が飛び去つた。たまたま外を通りかゝる人があり、刀を拔いて人魂を斬つたら、女の病氣はそれきり快癒した(甲子夜話)

[やぶちゃん注:「西河岸」「にしがし」。

「勞症」「らうしやう(ろうしょう)」は肺結核のこと。以下の原文の「勞瘵」(らうさい)も同じい。

 以下の話は「甲子夜話卷之十八」の「人魂(ひとだま)を切(きり)て病(やまひ)癒(いゆ)る事」を指す。

   *

吉原町西河岸倡家の女、勞瘵にて危篤に及びたるとき、人だま出て飛去る。この時戸外を行く人あり。これを見て刀を拔て人だまを切りたり。是よりしてかの病平愈せしと云。理外の談なり。

   *

松浦静山は最後に全否定している点に着目されたい。]。

 日野伊豫守が若い時分に、家來の中に久しく煩ふ者があつて、到底本復しさうにも見えぬ。側向を勤めた者で、親しく召仕つたことであるから、その長屋を見舞つたりしたが、或日の夕方、他の家來を連れて馬場へ行き、病人の噂などをして歸つて來ると、その家來の長屋の門口に、煙草の吹殼りは少し大きく、蠟燭の心を切つたぐらゐの火が落ちてゐる。火の元が宜しくない、蹈み消したがよからうと云つてゐるうちに、その火は一二尺づつ上つたり下つたりしたが、軒端ぐらゐの高さになると、茶碗ほどの大きさに見えた。身の毛がよだつやうな思ひで家に歸つたところ、果してその晩病人は亡くなつた(耳囊)。

[やぶちゃん注:これは「耳囊 卷之九 人魂の起發を見し物語りの事」。私の訳注電子テクストでどうぞ。]

 かういふ記事を讀むと、人魂は單に靑い尾を曳いて、ふらふら飛ぶとは限らず、人のまさに死せんとするに當り、魂魄の空中に飛び去るものの如くである。倂し必ずしも死に瀕した者の魂には限らぬので、「甲子夜話」などは違ふ例をいくつも擧げてゐる。

 平戸の泥谷某なる者が、夜舟を浮べて釣りをしてゐる時、半里ばかり向うに切り立てたやうな絶壁があつて、そこには淸水が湧いてゐるのを知つてゐるため、艪を漕ぐ下男は、あの水をちよつと飮んで來たうございます、といふ。今は釣りの最中だからいかん、艪の手を離すな、と云つて上陸を許さぬので、下男は已むを得ず、艪を動かしながら居睡りをしてゐる。泥谷がひよいと見ると、下男の鼻孔から酸漿(穂ほゝづき)ぐらゐの靑光りをした火が飛び出した。火はふはふはと飛んで、例の淸水のある岸に到り、暫くたつてまた戾つて來た。漸く近くなつて、下男の鼻孔に入ると同時に、彼は目を覺ました樣子である。泥谷にどうしたかと尋ねられて、實はあまり咽喉がかわきますので、舟を岸に著けたいと存じましたが、御許しがございませんから、艪を押しながらつい睡つてしまひました、夢の中であの岸へ行き、水を飮んだと思ひましたら、目が覺めました、もう咽喉は少しもかわきません、と云つた。泥谷も何だか氣味が惡くなつたので、その晩は釣りをやめて歸つて來た。

[やぶちゃん注:「泥谷」は「ひじや」或いは「ひじたに」と読むか。他に「どろたに」「どろや」「なずたに」などとも読める。なお、以上は「甲子夜話卷十一」の「平戸にて魂火を見し人の事」の冒頭の一例。「魂火」の読みは「こんくわ」か「たまび」かは不詳。

    *

人世には魂火と云うものもあるにや。予が領内の泥谷某、釣を好み夜々平戸の海に浮(うかみ)て鯛をつる。これは碇(いかり)を投じては宜しからず。因(より)て潮行(しほゆく)にしたがひて海上を流れて釣り糸を下(おろ)す。ゆえに舟處を違へざる爲に、櫓を搖(おし)て流れ去らざらしむ。泥谷、乃(すなはち)、下僕に櫓を搖(お)させ、己は釣を下して魚の餌につくを待つ。又その海の向(むかふ)は大洋、其邊半里許(ばかり)に絶壁の岸あり。こゝより常に、淸泉、湧き出づ。下僕、主人を顧(かへりみ)て云ふ。先より櫓を搖(おし)て咽(のど)渇くこと頻なり。冀(ねがはく)は、岸に舟をつけ、泉水を一飮せん。泥谷云ふ、今、釣の最中なり、手を離つべからずとて、舟を岸に着くことを許さず。僕、止(やむ)ことを得ず、櫓を搖(お)し立(たち)ながら睡る。泥谷、これを見るに、僕の鼻孔の中より酸醬實(ほほづき)の如き靑光の火、出(いで)たり。怪(あやし)と思たるに、ふはふはと飛行(とびゆき)て、やがて彼(かの)岸泉の處に到り、泉流に止(とどまり)てあること、良(やや)久(ひさしき)なり。夫(それ)よりまた飛來(とびきたり)てやゝ近くなる。愈々怪み見ゐたるに、僕の鼻孔に入りぬ。其時、僕、驚醒(おどろきさめ)たる體(てい)なりければ、泥谷、いかにせしと問(とひ)たれば、さきに餘りに咽乾(かはき)たる故、舟を岸に着けんと申(まうし)たるを止(とど)め給ひしゆゑ、勉強して櫓を搖(お)しゐたれば、不ㇾ覺(おぼえず)睡りたり。然(しかる)に夢に岸泉の處に至り、水を掬(きく)し飮(のみ)て胸中快く覺えたるが、睡(ねむり)、醒(さめ)ぬ。もはや咽渇かずと言(いひ)たり。泥谷も、これを聞(きき)て恐ろしくなりて、好(このみ)なる釣りを止(やめ)て、其夜は歸りしと云ふ。

   *]

 また平戸の田村某は、一婢の容色あるのを愛してゐたが、妻の嫉みを恐れて敢て通ぜず、年季を了へて實家に歸つてから、時々ひそかに行くやうにしてゐた。或夕方出かけて行くと、中途の村堤のところで、十何間も先に靑い小さな火が、地上五六尺ぐらゐを飛んで行く。酸漿の實ぐらゐの火である。狐狸の所爲であらうと思ひ、已に斬らうとしたが、火はまだ距離がある、近付いてからの事として行くうちに、火は田村の先を行き、此方が止れば彼方や止る。いつの問にかその家の前に來て居つた。婢は窓の下に寢てゐるので、田村はひそかに戸を明けて入る例であつたが、今夜は田村より先に火が窓から飛び込んだ。愈々怪しく思つて、引返さうかとも思つたが、約束したことだから、入つて婢を搖り起したところ、どうしてこんなに遲くおなりでした、お待ち申してゐるうちについ睡つてしまひましたが、その夢の中で、お迎へに參りまして、村堤のところで目にかゝつて、御一緒に歸つたと思ひましたら、あなた樣がお起しなさいましたのです、と云つた。田村は婢の情の深いのを悦んだけれども、一方には恐ろしい感じも伴ふため、その後は行くことが稀れになつた。

[やぶちゃん注:「十何間」「じふなんげん」で凡そ三十メートル弱か(一間は一・八メートル)。「五六尺」は一・五~一・八メートル。以上は「甲子夜話卷十一」の「平戸にて魂火を見し人の事」の先に続く第二例。一部、原典の本文表記の歴史的仮名遣の誤りを訂した。

   *

又これも平戸のことなり。田村某が家の一婢、頗(すこぶる)容色あり。田村心に愛すと雖ども、妻の妬(ねたむ)を恐れて通ずること能はず。その婢、年期を以て里に歸る。里、殆(ほとんど)二里、田村時々潛(ひそか)に往き曉に及んで歸る。或日暮に又往く。時に小雨ふれり。道半ばにして村堤を行(ゆく)に、前路十餘間、地上を去ること五六尺にして靑光の小火(こび)あり。ほおずきの實(み)の如し。田村怪しみ狐狸の所爲とし、已に斬(きら)んとす。然(しかれ)ども火未(いまだ)遠し。因(より)てこれに近かんとするに、火乃(すなはち)田村が前に行くこと初の如し。田村立止(たちどま)れば火もまた止る。田村爲(なさ)ん方(かた)なくして行く内に、覺えず婢の家に至る。婢いつも窓下(さうか)に臥す。因て密(ひそか)に戸を開(あけ)て入る。今夜も常の如く入(いら)らんとするに、火は田村に先だつて窓中(さうちう)に入る。田村愈(いよいよ)怪(あやし)み、卽(すなはち)歸らんと爲(せ)しが、約信(やくしん)を失ふも如何(いかが)と、乃(すなはち)戸を開て入るに、婢よく寐て不ㇾ覺(さめず)。田村搖起(ゆりおこ)せば、婢驚き寤(さ)め、且(かつ)云ふ。君來(きた)ること何ぞ遲き。待(まつ)こと久(ひさし)ふして遂に睡れり。然るに夢の中に君を迎へんとて、出て村堤の邊に到るとき君に逢ふ。因て相伴ひて家に入ると思へば、君我を起し給へりと云。田村聞て下女の情(なさけ)深きを悦(よろこぶ)と雖ども、旁(かたは)ら恐懼の心を生じ、これより往(ゆく)こと稀になりしとなん。是も亦魂火なるべし。

   *]

 もう一つのもやはり平戸であるが、これは今までの例と違つて、自分の鼻孔から小火の飛び出たことを知つてゐる。酸漿のやうで靑光りをした火は、自分も傍の人も見てゐる間に、次第に高くなつて報恩寺の森に入つた。この人は富裕な商家であつたが、報恩寺は旦那寺である、あの火は魂であらうから、自分の死は近きに在る、家財を持つてゐたところで仕方がない、早く散じて快樂を盡さうと決意し、日夜遊び暮したけれども容易に死なぬ。全くの無一物となつたので、剃髮して道心者となり、乞食をして日を過して居つた。三四年たつて後、嘗て自分の鼻孔から小火の飛び去るのを見たのと同じ場所で、夕方涼んでゐると、報恩寺の森から星の如きものが飛んで來て、道心者の鼻孔に入つた。けれどその後の運命には著しい變化もなく、九十以上の長壽を保つた。或人の説に、もしこの人が家財を散じなかつたら、必ずあの時死んだであらう、財盡き身窮した爲に壽命は延びたのである、といふことであつた。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話卷十一」の「平戸にて魂火を見し人の事」の先に続く第三例でこれで同条うは終わる。

   *

又平戸城下の町に家富める豪の商估(しやうこ)あり。或日城門外の幸橋(さひはいばし)にて納涼して居たるとき、その鼻孔より小火出たり。これも酸漿の實の如にして靑光あり。其人は云に及ばず、餘人もあれあれと云うち、次第に遠く去る。あきれて視ゐたるに愈々高くあがり、報恩寺の森に入りたり。商(あきんど)思ふに、こゝは我が檀那寺なり。あの火は魂なるべければ我(われ)死近きにあらん。貨財有(も)つとも死して後何の益ぞ。蚤(はや)く散じて快樂(けらく)を盡くさん迚(とて)、日夜飮宴(いんえん)し、或又遊觀(いうくわん)に日を送りたるに、程經ても死する樣子もなく、其中(うち)に家産竭(つき)て貧寠(ひんらう)の身となりければ、剃髮して道心者となり、市里(いちさと)に乞食(こつじき)せり。それより三四年を經て、夏夕かの幸橋に涼(すずん)で居たるに、以前小火の去(さり)ゆきたる寺林の木の梢より、何か星の如きもの飛出(とびいで)たり。怪しと望(のぞみ)ゐたるに、來ること近くなりゆゑ不審に思(おもひ)たるに、間近くなると餘人も怪(あやし)み見るうち、忽ち道心者が鼻孔の中に入りぬ。己も不思議ながら爲(せ)ん方もなく、さり迚(とて)貧が富にも復せず。多くの年月をおくり壽(じゆ)九十を越(こえ)て終れりと云。是又魂火の一つか。或(あるひと)云(いふ)。人世乘除(じんせいじゃうじよ)は何事にもあることなれば、此(この)商(あきんど)、財を散ぜずんば必(かならず)死せしなるべし。財盡(つき)身(み)貧窮せしより、壽命は延(のび)しならんと。斯(この)言甚(はなはだ)深理(しんり)あり。

   *]

 以上三つのうち、最初の下男の話は、南部のダンブリ長者と似たところがある。ダンブリ長者はその名の如く、蜻蛉がこの男の口と向うの山陰とを往復するのであるが、その夢に山陰の淸水を飮んで、すばらしい酒であつたと見る。そこへ行つて見たら、全く夢の通りであつた。この男が晝寢をしてゐる間、傍にゐた女房の夢に、ダンブリ(蜻蛉)と見えたのが、實は長者の魂であつたといふのである。平戸の下男が飮んだのは酒泉でもなく、それによつて長者になつても居らぬが、魂の泉に到る點に變りはない。こんな單純な話であつても、夜釣りの舟の上で、鼻孔から靑い火の飛んだりするのを見れば、成程あまり愉快ではあるまい。

[やぶちゃん注:「南部のダンブリ長者」旧南部藩(その中心は現在の岩手県盛岡市)に属した現在の秋田県鹿角(がづの)市に広く伝わる「南部ダンブリ長者」伝説。婿を探す娘がダンブリ(本文に出るようにトンボ(蜻蛉)の古名である)の導きによって一人の若者と出逢い、酒が湧く霊泉を見つけて長者となり、その娘吉祥姫は継体天皇の側室となったとする説話である。詳しくは「十和田八幡平観光物産協会」公式サイト内の鹿角地域の伝説を参照されたい。]

小穴隆一 「二つの繪」(13) 「死場所」

 

     死場所

 

 死場所として海には格別の誘惑を感じなかつたやうである。水泳ぎができるからと言つてゐたのはいひわけのやうで、濱邊にころげてゐる死體を考へてゐるといふよりも、(芥川はスパァニッシュ・フライをのんで死んでて陰莖勃起は滑稽だねえと言つてゐた、)行方不明になりきる死體の行方のはうを心配だと言ふのである。深山幽谷で死ぬことには多少の關心があつたやうだが、これとても糜爛しきつたのを發見されるのはいやだと言ひ、死體が木乃伊になつてゐるのならば興味があるといふ贅澤を言つてゐた。

 大正十五年鵠沼には、まだ震災で潰れたままの廢屋と言つてよろしい物があちこちにあつた。芥川が一日、僕を散步にかづけて案内したところは、なるほど死なうといふ者にとつては、白骨か木乃伊になるまでは、發見されないと思へる場所の家であつた。(「悠々莊」ではない、)芥川はその家までたどりつくと、活潑に先きに立つて屋敷の中をぐるぐる步きまはり、その安全さを言つてゐた。その道の途中で芥川は、「こないだ比呂志と步いてゐたら道に釘が落ちてたが、此呂志がそれをみて、くろがねが落ちてゐるといつてゐたよ、」とほほゑましげにそのことを僕に言つてゐた。比呂志君が尋常一年のときであらう。

 芥川は、「自分の家で變死をすれば、やがては家を賣るであらう、それを考へれば養父に迷惑をかけるのは忍びないことだが、自分の建てた書齋なら、そこさへ潰せば大したこともなからう、」といふことを言つてゐた。(彼はま新らしい書齋で死んでゐた。)

 

 菊池寛は芥川の死後に、「芥川のところで、もし家を賣るやうなら自分が買ふから、」と僕に言つてくれた。また、「比呂志君にお小道として、文藝春秋の株を貮百あげるつもりだ。」ともいつてそのとほりした。

[やぶちゃん注:「スパァニッシュ・フライをのんで死んでて陰莖勃起は滑稽だねえ」既に注したが、スパニッシュ・フライに含まれるカンタリジンは、人間が摂取した場合、尿中に排泄される過程で尿道の血管を拡張させて充血、即ち、持続的な陰茎勃起現象を引き起こす。

「悠々莊」大正一六(一九二七)年一月一日発行の『サンデー毎日』新年特別号に発表された鵠沼の廃別荘をロケーションとした陰鬱な小品(電子テクストでどうぞ)。

「比呂志君が尋常一年のとき」芥川龍之介の長男芥川比呂志は大正九(一九二〇)年四月十日生まれであるが、戸籍上では三月三十日生まれとして入籍されてある。比呂志はこの大正十五年に東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)に入学している。因みに「比呂志」という名は盟友菊池寛(本名は「ひろし」)のそれを万葉仮名に当てたものである。]

小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」

 

      漱石の命日

 

「いままで度々死に遲れてゐたが、今度この十二月の九日、夏目先生の命日には、いくらどんなに君がついてゐてもきつと俺は死んでしまふよ、」

「その間一寸君は帝國ホテルに泊つてゐないかねえ、」

「いやかねえ、」

 芥川は鵠沼で僕にさういふことを言つてゐた。

 僕は芥川が死ぬまで、毎月九日がすぎるとほほつとしてゐた。

 芥川は昭和二年の春、麻素子さん(平松)と帝國ホテルで死なうとしてゐる。

[やぶちゃん注:本章は以上が全部で、底本の中では最も短い一章である。

「夏目先生の命日」夏目漱石は大正五(一九一六)年十二月九日に亡くなっている。例えば、死の前年の十二月九日は新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、芥川龍之介も小穴隆一も鵠沼にいたが、小穴はこの日、妹尚子危篤の報を受け、急遽、上京している(後の「降靈術」「手帳にあつたメモ」参照。後者に尚子は十二月三十一日に十三歳の若さで逝去したことが記されている)。その前年の大正一四(一九二五)年の十二月九日から六日程過ぎた頃には、かの、漱石の墓を探しあぐねるという奇怪なシークエンスを含む、痛切な内実告白年末一日」を脱稿しており、大正十三年十二月九日には龍之介の青春への挽歌信輔半生」を脱稿している(リンク先は私の古いテクスト)。これらには明らかに漱石の祥月命日との精神的な意味での強い連関性が認められるように私は思う。

「芥川は昭和二年の春、麻素子さん(平松)と帝國ホテルで死なうとしてゐる」前章で既出既注であるが、再掲しておく。昭和二(一九二七)年四月七日、妻文の幼馴染みで、文自身が芥川龍之介の自殺を監視させるために紹介し、親しくなっていた平松麻素子と帝国ホテルに於いて心中を決行しようとしたとされる出来事を指す。平松はホテルに赴かず、この小穴隆一へその計画を漏らし、文・小穴・葛巻義敏三人がホテルへ駆けつけ、自殺は未遂に終わった。この事件は不明な点も多い。この後の「帝國ホテル」でもその一件が語られている。]

小穴隆一 「二つの繪」(11) 「死ねる物」

 

      死ねる物

 

 鵠沼に移る前に、芥川は、下島空谷(勳)の藥局から藥品を盜みださうと言つてゐた。後に陰で下島空谷馬鹿親爺とひとりごとを言つてゐたことがあつたが、そのわけははつきりしてゐない。芥川はまた、金田精一の藥局にはいるのに金田を紹介しろなどとも、大びらにゆするやうな駄々をこねたりしてゐた。

[やぶちゃん注:「金田精一」後述内容から医師らしいが、不詳。新全集の人名索引にも出ない。

「大びら」ママ。先行する「鯨のお詣り」でも『大びら』。]

 藥品でなくても、ピストルでもいい、ただ何かいつでも死ねる物がありさへすれば、それを持つてて生きてゐられる。自分に生きてゐて貰ひたいのなら、死ねる物を持たせろといふ態度であつた。

 あづまや(鵠沼の宿屋)で、まはりに飛んでゐる蠅をつかまへて幾匹か呑下してて、それで大便を瀉したといつてゐた芥川は、僕の油繪の筆の豚毛を、鋏で細く切りきざんで大事に紙に包んでもゐた。

[やぶちゃん注:実際にそういう場面(飛んでいる蠅をぱっと龍之介が獲って口の中に入れて吞み込むというシーン)を彼の生前に目撃したという記載を誰かの回顧記事で読んだ(誰だか思い出せぬ)が、そこではそれを見た筆者が驚いていると、龍之介「健康にいいんだ」と言ったと記されているように記憶している。何よりまた、芥川龍之介の遺稿「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に発表されたもの)に、

   *

僕  僕は度たび自殺しようとした。殊に自然らしい死にかたをする爲に一日に蠅を十匹づつ食つた。蠅を細かにむしつた上、のみこんでしまふのは何でもない。しかし嚙みつぶすのはきたない氣がした。

   *

と龍之介自身が記している。まあ、しかし「大便を瀉」す程度のものでしかない。或いは、芥川龍之介は「スパニッシュ・フライ」を蠅だと勘違いしていたから、如何にも子供染みた発想(次段にも「芥川の劇藥についての知識は甚だ幼稚だ」と出る)からの仕儀やも知れぬ。

「僕の油繪の筆の豚毛を、鋏で細く切りきざんで大事に紙に包んでもゐた」目的不詳。豚毛が有毒だとは聴いたことがない。]

 注射器を買つて、蒔淸からモルヒネを貰ふ日を待つてゐた、さういふ芥川を僕は怖いとは思はなかつた。蒔淸は、金田は醫者のくせに藥について少しも知識がない、呆れた、と豪語してゐた男である。(藥局方にはあつても、ポピュラーでない藥の場合には、醫者であらうが、一寸知らずにゐるときもありうるであらう。)その蒔淸に言はせると、芥川の劇藥についての知識は甚だ幼稚だといふ。蒔淸がただ一度芥川に渡したモルヒネは、芥川がもし、それを使用したところで、單に數時間の間婆婆苦を忘れてゐるだけの鎭痛安眠の量であり、僕は芥川が蒔淸からそれを貰つて丁寧に薩をいつてゐるのをみてもゐたが、その芥川は一寸、死ねる物のコレクション・マニヤのやうにもみえてた。

 僕のたつた一匹のスパァニッシュ・フライは勿論、密かに用意してゐた注射器も、夫人につぶされて捨てられたと芥川は言つてた。さういふ話のときの芥川は、またなにか手にいれようといふたのしみを持ちつづける人のやうににこにこしてゐた。

 芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたといふ話を聞いたときのほうが凄く感じた。

「醫學博士齋藤茂吉といふ名刺を僞造して、藤澤の町で靑酸加里を手にいれようか、」と眞面目に相談しかけてくる芥川にはまだ安心してゐた。が、恐しかつたのは、藤澤の町を夜の散步として步いてゐたときに、通りがかりの店で、たむし藥を買つてゐた僕のうしろから、いきなり前に出た芥川が、「靑酸加里はありませんか、」「證明がなければ賣りませんか、」と言ひ、店の者が、「證明がなくてもお賣りするにはしますが、いまはありません、」と答へてゐたときであつた。僕はさういふ芥川を怖れて、そのときには憎い奴だと思つた。僕が芥川をしんそこ憎い奴と思つたのはそれ一度きりである。

 帝國ホテル事件(帝國ホテルの章參照)の後のことであつたかも知れない。夕方伴れだされた。僕は上着も着てゐず、芥川は羽織も着ない着ながしで草履をつつかけたままであつたので、(かやうな姿の芥川は鵠沼の暮し以後のものであらう)話しのまま芥川の家の門を潜ることにきめてると、芥川は家の垣根に沿つて素通りしてしまつて神明町のはうに行く、「今度こそはほんとに靑酸加里を手に入れたよ。一寸、君、」と言つて藥屋にはいつていつた芥川を僕は神明町の入口の角でその日みた。目藥の罎よりも小さい空罎を買つて、透してみながら、「やつとこれでいれ物ができたよ」と嬉しさうだつた。(芥川は泉鏡花がくるところだといつて、そこの待合に案内して大勢の藝者に顏見せをして貰ひ僕を無理に殘して歸つた。)

[やぶちゃん注:「帝國ホテル事件」昭和二(一九二七)年四月七日、妻文の幼馴染みで、文自身が芥川龍之介の自殺を監視させるために紹介し、親しくなっていた平松麻素子と帝国ホテルに於いて心中を決行しようとしたとされる出来事を指す。平松はホテルに赴かず、この小穴隆一へその計画を漏らし、文・小穴・葛巻義敏三人がホテルへ駆けつけ、自殺は未遂に終わった。この事件は不明な点も多い。

「帝國ホテルの章」この後の七章目「帝國ホテル」。

「神明町」田端の南西直近の旧駒込神明町、現在の本駒込五丁目附近であろう。ここは以前は花街であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 僕は芥川が死んで二十九年になる今日、若い世代の人から芥川がのんだ藥はなにか、死體は解剖されたかといふ、はじめてのことを聞かれて、改めて醫者の下島が書いた文藝春秋の(昭和二年九月號)「芥川龍之介氏終焉の前後」をみたが、「私は私の職務の上から死因を探究しなければならない。そこで先づ齋藤さんの睡眠藥の處方や、藥局から取つてきた包數や日數を計算して見たが、怎うも腑に落ちない。そこで奧さんや義敏君に心當りを聽いて見ると、二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて調べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。」とだけで、その眞因もなにも藥の名一つさへあげてはゐない腑に落ちないものであつた。同じく改造九月號の「芥川龍之介氏のこと」のはうをみると、これも十二年の長い間の接觸とあるが、それにしてはその芥川の身體報告は如何にも軍醫らしくきめが荒いものであり、(下島は元軍醫)その「芥川氏は稀れに見る品行方正の藝術家であつた。」といふ結びでもわかるほどのものであつたのには驚いた。今日とはちがつて、昭和二年の當時では、藥の名を記事に明らかにすることは許されなかつたでもあらうが、僕も二階の紫檀の机の上にこぼしてゐる白い粉ぐすりとその瓶、それはみてゐる、芥川といふ人間を思ひその神經を考へると、僕にはどうも芥川がわざとこぼしておいた見せ金のやうな見せ藥とも考へられ、僕が芥川と會つてゐる最後の七月二十二日は、下島ともいつしょになつたが、僕には

「――ああ、うるさいから電報で返事をしておいた。どうせ西の方だ。」

「――それまでにおれはもうあの世にいつてゐるから、」

「――だから僕はただ、ユクとしておいたのだ、ユクとだけで場所は書かなかつたよ。」(「Ⅳ」參照)

と言つてゐる芥川が、下島には「鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。」で、明後日の二十四日に死んでをり、僕にはどうしても芥川が、鵠沼にまた當分行つてゐるからと言つて下島を欺かして、睡眠劑を餘計にもらつてゐる形跡を感じさせるし、下島が歸つたあとで芥川が、下島空谷馬鹿親爺と吐きだすやうに言つてゐたこと、芥川の遺書のなかの「下島先生と御相談の上、自殺とするも病殺とするも可。若し自殺と定まりし時は――」との脈絡が、また僕に芥川のユウモアを感じさせてもゐる。僕は死ぬ死ぬと言ひつづけられてて、一年三ケ月のうちに芥川がなんの藥で死んだのかなどといふことの詮議など今日まで全く忘れてゐた。遺書を懷中にして本人が死んでゐる以上解剖などといふこともなかつたし、東京新聞社の田中の調べでは當時の警視廰の係官(現存の人といふ、)の手もとに𢌞つてきた瀧野川署からの報告書には、藥の名があるといふ話ではあるが、報告書は單なる報告書にすぎず、それをもつて、僕らよりは科學的にものを考へる若い世代の人達を納得させられるとは、到底思へないことである。

[やぶちゃん注:『下島が書いた文藝春秋の(昭和二年九月號)「芥川龍之介氏終焉の前後」』私は、これを読んだことがないのであるが、山崎光夫氏の優れた考証作「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成四(一九九二)年文藝春秋刊)に引用がある。そこで氏はこれを『主治医ならではの生々しい〝臨終記録〟』と評価し、『(二、八、五)――昭和二年八月五日と執筆月日が記され、芥川の死後さして時間の経過しない記憶の鮮明なうちに書くかれた文章である』とした上で以下のように引用されておられる。以下、下島の記載は恣意的に正字化して示す(踊り字「〱」「〲」は正字化した)。

   *

 七月の半ばから暑気のために胃を病んでゐられる老人(父君)の診察に行つたのは、二十日のたしか午後四時少し過ぎごろであつた。診察を了つてから二階の應接間兼臨時の書齋へ這入ると、内田百閒氏が歸りがけとみえて椅子から離れたところであつた。内田氏を玄關に見送つて上つて來た芥川氏は、元氣ではあつたが、内田氏の何か一身上の問題をひどく案じてゐられた。又宇野氏のことも案じてゐられた。

   *

以下、山崎氏による梗概。『下島はすぐに帰るつもりでいたところ、花札遊びの猪鹿蝶に誘われ、三番たて続けに負ける。龍之介は「頗る大得意のこコニコもの」で意気軒昂である。下島は「電燈が灯つてから」の時間になって帰った』。『その二日後の二十二日に下島は芥川家に赴いている』。

   *

午後三時半頃、老人の診察が了るか了らぬうちに伯母さんが出て來られて、「怎(ど)うも二階のが胃が惡さうだから診てやつてくれ」と云つて、間もなく二階から下座敷へ引ぱつて來た。「何、昨日午後睡眠藥を飮んで晝寢をしてゐるところを、突然起こされたんで例の腦性嘔吐をやつたんです。まるで關係も何もない雜誌の記者が來たと云つて、用事も無いのに起すんですから……。それだからまだ今日もフラフラしてゐます。ほかには何も故障はないのです」と不平たらだらである。

   *

以下、山崎氏による梗概。『下島はただちに龍之介を仰向きに寝かせて診察する。そして、体調の急変を感じとった』。

   *

外觀上それ程にも思つてゐなかつた肉體が、一般に衰弱してゐることで、殊に心臟の力も例の過敏であるべき筈の膝蓋腱反射も力が足らず、それに瞳孔も少し大きいやうに思つたので、これは睡眠藥の飮み過ぎに違ひない、あとで充分忠告の必要があると思つたのである。

   *

以下、山崎氏の本文。

   《引用開始》

 下島は睡眠薬の飲み過ぎを懸念している。このあと、二階の書斎で複製の長崎屏風を見せてもらってから、下島は気になっていたとみえ、

「あまり睡眠薬を濫用してはいけない。どうもそんな症状があるから充分気をつけたまえ」

 と釘をさしている。

 龍之介は不愉快そうな顔に苦笑をもらして「大丈夫です、大丈夫です」と繰返してこたえている。

 二人のやりとりから察して、睡眠薬は共通の関心事になっている。少なくとも下島は龍之介の睡眠薬中毒現象を憂慮している。

 この後、小穴隆一が訪ねてきて雑談が始まる。小穴は龍之介の枕元でデスマスクを描いた画家で、死の前年に自殺の意志を伝えた相手で、龍之介が最も心を許した、いわば刎頸(ふんけい)の友である。龍之介は藤椅子の背に後頭部をあずけて陰気な顔をしている。下島は龍之介に勧められるまま『改造』掲載の「西方の人」と「東北、北海道、新潟」を読み感嘆の声をあげると、龍之介は「さも満足気さうな表情を浮か」べるのである。やがて下島は暇ごいをする。

   《引用終了》

   *

梯子段の上まで送つて來て体がフラフラすると云ふから、固く見送りを辭退したが仲々聽かない。いつもの通り玄關まで下りて來て、丁寧にチヤンと手をついて送つてくれた。が、これが今生のお別れであつた。……

   *

以下、山崎氏の本文。

   《引用開始》

 龍之介の体調を気づかい見送りを断わる主治医。お客を玄関に送り礼儀正しく手をつく小説家。二人の友誼と交遊がこの一場面でわかるというものだ。

 わたしには、この下島が「ベロナールおよびジャールの致死量」を龍之介に手渡すとはとても考えられない。

   《引用終了》

この少し後の部分で、山崎氏は下島勲の後の単行本「人犬墨」(昭和一一(一九三六)年竹村書房刊)にある転載された「芥川龍之介氏終焉の前後」を再度、採り上げておられる。前半が、芥川龍之介急変の報知を受けた部分、後半がここで小穴隆一が引いている箇所である。以下、山崎氏の本文。下島の引用部は前の通り、恣意的に正字化した(底本では引用は全体が二字下げである。ここでは山崎氏の本文と区別するために引用部を太字で示した。下島の引用の一部の拗音を変更した)。

   《引用開始》

 

 二十四日は未明から雨が降り出して久し振りに凉味を覺えながら、よい心持にまだ夢うつゝを辿つてゐた。すると、玄關の方で確かに聞きなれた芥川の伯母さんの聲である。家内が出て應答の慌たゞしい聲の間に、變だとか、呼んでも答へがないなど響くと同時に私はギヨツとして床の上に起き直つた。家内の取次ぎの終らぬうちに急ぎ注射の準備を命じ、臺所へ飛んで口を漱ひしてゐると、また老人の聲がする。いきなり手術衣を引かけるが早いか、鞄と傘を引たくるやうにして家を出た。

 近道の中坂へかゝると、雨の爲赭土は意地惡く滑り加減になつてゐる。焦燥と腹だゝしさの混迷境を辿つて、漸く轉がるやうに寢室の次の間へ一步這入るや、チラと蓬頭蒼白の唯ならぬ貌が逆に映じた。――右手へ𢌞つて坐るもまたず聽診器を耳にはさんで寢衣の襟を搔きあけた。と、左の懷ろから西洋封筒入りの手紙がはねた。と、同時に左脇の奥さんがハツと叫んで手に取られた。遺書だなと思ひながら、直ぐ心尖部に聽診器をあてた。刹那、――微動、……素早くカンフル二筒を心臓部に注射した。そして更に聽診器を当てゝ見たが怎うも音の感じがしない。尚一筒を注射して置いて、瞳孔を檢し、軀幹や下肢の方を檢べて見て、体温はあるが、最早全く絶望であることを知つた。そこで近親其他の方々に死の告知をすましたのは、午前七時を少し過ぎてゐた頃かと思ふ。

 

 主治医が龍之介の死に出会ったときの驚愕と周章狼狽がよく著わされている。「芥川龍之介氏終焉の前後」と題し四ページにわたり掲載され、抜き書きをした個所は龍之介の死に遭遇した条のハイライトである。

[やぶちゃん注:中略。]わたしは龍之介急変の報をきいて芥川家に駈けつけた下島のその日の体験記を読み返した。

 すると雑誌で読んだときとはちがって、気になる記述に出会った。死の告知も済ませた原稿の終りに近い部分である。

 

私は私の職務の上から死因を探求しなければならない。そこで先づ齋藤茂吉氏の睡眠劑の處方や、藥店から取つて來た包數や日數を計算して見たが、どうも腑に落ちない。そこで奥んや義敏君に心當りをきいて見ると二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて檢(しら)べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。

 

 わたしはこの部分を三、四回読み直した。下島は死因を探求するため処方された薬を検査したが、「腑に落ちない」と書いている。これは処方された睡眠薬では死亡しない、と表現しているのに等しい。致死量の睡眠薬ではなかったのだ。不審に思った下島はそこで夫人や甥の葛巻(くずまし)義敏にたずねると二階の書斎に置かれた机の上が怪しいといわれ、すぐ二階へ行って調べた。

 

初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。

 

 下島は机の上に何かを見たのである。しかしそれが何であったかは書いていない。わたしはそれこそ龍之介のいう「蘇生する危険のない」ものが置いてあったにちがいないと思った。「毒物学の知識」を生かした薬品と想像した。

 わたしは『人犬墨』を注意深く読み直した。そればかりではなく下島の書きのこした『井月の句集』『随筆・富岡鐡齋其の他』の著作物にもあたった。だが、「机の上」のものには言及してなかった。

   《引用終了》

因みに、私はこの山崎光夫氏の論考を、凡百の芥川龍之介論よりも読むべき価値のあるものと考えている。是非、御一読をお薦めするものである。

 

『改造九月號の「芥川龍之介氏のこと」』これは既に私が電子化している。をどうぞ。

「僕が芥川と會つてゐる最後の七月二十二日」新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この日は『この年の最高気温(華氏九五度、摂氏三五度)を示す猛暑』であった午後三時半頃、『下島勲が来訪して診察を受け、睡眠薬の飲み過ぎを注意される』。『夕方小穴隆一も来訪し、午前』零時頃まで『死について話をした』。一緒に住んでいた甥の『葛巻義敏には「今夜死ぬ」と言っていたが、「続西方の人」が完成していないため、取止める』とある。言わずもがなであるが、芥川龍之介の自死は翌々日、七月二十四日(日曜日)未明であった。

『「Ⅳ」參照』を参照されたい。

『下島には「鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。」』これは「芥川龍之介氏終焉の前後」にあるものと推測される。

「病殺」芥川龍之介の遺書のママ。私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫の「芥川文子宛遺書」を参照のこと。

「東京新聞社の田中」不詳。

「瀧野川署」当時の田端は東京府滝野川町で(現在は東京都北区田端)、その所轄署。現在の警視庁滝野川警察署。]

2017/01/08

柴田宵曲 妖異博物館 「夢中の遊魂」

 

  夢中の遊魂

 

 元祿十三年の七八月頃、京都にあつた話である。或人が夜更けて三條の大橋を渡り、自分の家へ歸らうとすると、晝のやうに明るい月夜で、西の川岸に十四五歳の女の子が、手で水を掬ひなどして餘念なく遊んでゐるのが見える。人の寢靜まる夜更けに、女の子が一人こんなところに遊んでゐるのは不思議だと思ひながら、近寄つて見るのに、かねて心易くしてゐる三條釜座の足袋屋の娘に相違ない。言葉をかけたところ、此方を見てにつこり笑ふと同時に、三條通りを西に向つて走り去つた。自分も全速力で追駈けたが、なかなか迫ひつけぬ。足袋屋の前まで來たと思ふと、娘は急に地を離れ、二階の窓から内へ入つてしまつた。こゝまで見屆けた男は不審に堪へず、翌日さりげない風で足袋屋へ行き、亭主と世間話をしてゐるうちに、娘が出て來てこんな話をした。昨夜の夢にどこか知らぬ川のところへ行つて、水いたづらをしてゐましたら、あなたがおいでになつて、何をしてゐるとお尋ねになりました、こんなところへ來たことを、父母に告げられてはいけないと思つたものですから、一所懸命に走つて歸りますと、あなたがまた後から迫駈けていらつしやるので、大汗になつて目がさめました、といふのである。男は自分が現實に見た通り話すのも如何かと思つて、夢にはそんな事がよくあるものだ、と云つて歸つて來た(雪窓夜話抄)。

[やぶちゃん注:「元祿十三年」一七〇〇年。

「三條の大橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。この近辺は「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた場所である。それを原話者は意識しているのかも知れぬ。

「掬ひ」「すくひ」。

「三條釜座」「釜座」は「かまんざ」と読む。室町末期にこの附近に茶釜の工人が集まって出来た職掌集団の旧名が地名化したもの。ここで製せられた釜は「京釜」と称し、織田信長・豊臣秀吉の保護もあって桃山時代に栄えて繁栄の基礎を築いた。現在も「釜座(かまんざ)通り」として名を残す。この附近

「雪窓夜話抄」「せつさうやわしやう」は鳥取藩士上野忠親(貞享元(一六八四)年~宝暦五(一七五五)年)の書いた異聞奇譚集。本話は同「上卷」の「足袋屋の娘夢中に出遊の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

 淺井多門といふ人が、夜更けまで友達のところで話して歸つて來る途中、若い女が先を步いて行く。こんな夜更けに一人步きをしてゐるのは、浮れ女に相違ないと、言葉をかけて手を執らうとしたら、大いに恐れた樣子で、先へ逃げて行つたが、間もなく歸り著いた自分の家の門に、その女が佇んでゐた。門を明けて入らうとする時、女は影のやうに中に入る。さては妖怪に極つたと、用心しながら雨戸を明ければ、女はまた緣に上つてゐる。心得たりと拔打ちに斬りかけたところ、手應へはなかつたけれども、あつといふ一擊と共に、女の姿は消えてしまつた。倂しその聲は慥に臺所の方に聞えたので、そのまゝ雨戸を鎖ざし、耳を澄ましてゐると、墓所の方では茶の間の女が寢おびれて氣絶したと云つて騷いでゐる。介抱されてゐるのは明かに今の女であつた。女の方でも正氣に戾るなり、多門の顏を見て逃げようとする。女の云ふには、それでは夢でございましたらうか、只今門前まで御武家樣と同道致しまして、内に入つたところを拔打ちに斬られたやうに覺えて居ります、といふことなので、多門は怪しみながらもその事を口に出さず、大方夢であらう、と云つて濟ました。それからこの女の樣子を注意してゐたが、その時以外には別に變つたこともなかつた。「三州奇談」に出てゐる話で、金澤の出來事らしい。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるもの蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの正編五巻・続編四巻。これは正編の「卷之四」の「妖女奉仕」の前段部。折角なので、全章示す。底本は二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化し、送り仮名・読点を増補した。読みは独自に歴史的仮名遣で附した(本文の一部の歴史的仮名遣の誤りも勝手に訂した)。踊り字「〲」は正字化した。□は底本の判読不能字。注は附さぬ。

   *

 

     妖女奉仕

 

 長町淺井多門と云ふ人は、廉直にして武備を忘ざる人成りしが、或夜、友の元に相ひ話して、只一人、深更に歸られしに、香林坊の邊より若き女一人先へ行く。「かく深更に只一人行く者は必ずうかれ者に社(こそ)」と、詞をかけ、手をとらへんとしけるに、大に恐れ、先へ迯(に)げ行く。程なく我が門に至りしに、此女、爰(ここ)に彳(たたず)みゐたり。怪しみながら門を敲きて開けさせしに、彼(かの)女、影の如く、つと、門内(かどうち)に入りたり。「扨(さて)は妖怪の者にこそ」と身堅(みがため)して内に入り、寢所に入りて雨戸を明くるに、聲と共に、彼女、亦、緣に入る。「心得たり」とぬき打ちに切り懸けしに、手ごたへはせざりしかども、「あつ」といふ一聲と共に、形は消えて失せぬ。あやしや、其聲は臺所の方に聞えしまゝ、先づ戸をさして、暫く心を靜めて聞き居りしに、臺所には「茶の間の女一人、寢おびえて絶氣したり」と云ひさはぎけるまゝ、ふしぎに思ひ、「藥にても呑せよ」と立ち寄り見たりしに、先の女也。此女、心付づて、淺井氏の顏を見て、又、逝かんとす。先(まづ)とゞめて其の謂(いはれ)をとふに、「扨は夢にてや候。慥かに門前迄一人の侍と同道し、内に入り候ふ所を、拔き打ちに切られたりと覺えて候」と云ふ。淺井氏、怪しみながら曾て其事不ㇾ云(いはざり)ければ、夢ならんとて休みしが、此女、何共(なんとも)心許(こころもと)なく、色々に心を付けて見しかども、其の外には何も替りたる事もなかりし。

 古き怪談にも、夢の出でありきし事はのせたれ共(ども)、夢ごとに出でありくにも非じ。若(もし)寔(まこと)に夢出(ゆめいで)ありかば、億萬の人のゆめ、夜中は祭禮・踊場にも似るならん。魂魄出ありく者も、又、人中の妖也。淸水淸玄、まなごの庄司の淸姫、是、皆、人妖也。生れ付也とぞ覺ゆ。

 奇怪の女、今もなきにも非ず。正德年中、或る武門に妾を求められしに、堀川越中屋五兵衞と云者の娘、容顏並びなきのみならず、絲竹の道もうとからねば、媒(なかうど)を求めて是を妾となしぬるに、一度幸して、主(あるじ)、甚だ悦び、藍田秋至り掌中の珊瑚と愛せられしに、三十日斗(ばかり)過ぎて、心得ぬ事、有りし。此妾、深更に及べば、暫く不ㇾ居(をらず)。後は心元なく、是をた□□□りしに、夜更て此女、主人の寢息を考へ、忍びて立ち出で、障子を密かに明け、外に出づる程に、「扨は忍び男にても有るや」と、主人、跡より立ち出で、ひそかに伺はれしに、此女、緣よりひらりと飛び、庭前の大い成る梅の木に、高さ十四五間も有らんと覺へしに、たとへば鼠の壁を上るごとくさらさらとかけ上り、忽ち梢に打ち跨(またが)りて四方を見𢌞しゐたり。主人驚き、「是、只事に非ず。正敷(まさしく)妖怪に社(こそ)。下らば討ちて捨つべし」と思はれしが、吃度(きつと)思ひ返して床に戾り、さらぬ體(てい)にてねられける。暫(しばし)して女も歸り、始めの如く息合ひを聞きて休みける。

 扨、其夜も明ければ、年寄女を呼びて、「妾が事、聊か心に不叶事(かなはざる)あれば、暇(いとま)を申し渡すべし」と有るに、大(おほき)に驚き、色々詫びて、不調法の所を尋けれ共、「只何共(なにとも)なく暇(いとま)遣すべし」と云ひれければ、其の趣きを妾に云ひけるに、妾「今はぜひなし。然らば今一度御目見へ申し上げ、願申し上ぐる事有り」とて、主人の前へしづしづと來りて畏あ(かしこま)り、「私儀、御暇被下(くだされ)候事、定雨(さだめて)此の間の事、慥かに御覽ぜられたると存じ候。左(さ)候へば、とても御家には勤めがたし。但し、妾が事、一言も御さた被下間鋪(くだされまじく)侯。萬一、此の事、露斗(ばかり)も洩らし給はゞ、忽ち、其夜を不去(さらず)御恨み可申(まうすべく)候」と云ふに、主人「心得たり。心易かれ、再び、いわじ」と有りければ、妾、快く暇を貰ひ、同じ家中へ奉公に出でけるが、爰にも氣に入りし由(よし)也。先の主人不心得(ここえろ)、「慥かに人にてはなき」と覺へ、行末いかゞと、毎度かれが事、尋ね問ひけるに、他人、今も心有る樣(やう)にも取りざたせしが、全く怪異の故(ゆゑ)成りしとぞ。然るに此の女、鬱症を煩ひ、程なく死しけり。是に依りて葬場の樣子、取り置きの次第とも心を付けて聞き合はされしに、何の替る事もなしと也。

 傳へ聞く、三村紀伊守、銀針の如き髮の妖女を殺し、備前岡山の家中・山岡權六郎は、妖女と契りて是を知り、指し殺したりしに、常の女と替らず、只、足の指に水搔(みづかき)有りけると云ひ傳ふ。野女・山姫など聞きしかども、外に世間に立ち交ぢりて異怪の女有る事、亦、珍しからじとぞ覺ゆ。

   *]

 平秩東作が「怪談老の杖」に書いたのは、江戸赤坂傳馬町に住む紺屋の話である。夫婦に弟子一人といふ簡素な暮しであつたが、或晩亭主が寢てから苦しさうにうなされるので、女房が搖り起して尋ねると、今恐ろしい夢を見たと云つた。四谷のお得意先からの歸りがけ、紀の國坂の上で侍に逢つた。何だか氣味の惡い男だなと思ふうちに、いきなり刀を拔いて追駈けられたので、命限りに逃げようとしてうなされたものであらう、やれやれ夢でよかつた、と話してゐるところへ、表の戸を叩く者がある。今時分何人か、と咎めると、いや往來の者であるが、御家内に何事もないか、火の用心にかゝる事ゆゑ、打棄つて置けず、お知らせした次第だ、といふ。亭主も恐る恐る戸の隙から覗いて見るのに、紛れもない夢の中の士である。不思議に思つて子細を尋ねたところ、只今紀の國坂の上で茶碗ほどの火の玉を見た、斬り付けようとして刀を拔いたら、火の玉は人などの逃げるやうに、坂をころがり落ちてこゝまでころがり續け、たしかにこの家の内に入つた、時節柄火事にでもなつたら、外々の難儀にもなると存じて知らせたのだが、變りがなければそれで宜しい、この上とも氣を付けられい、しかと斷り申したぞ、と云ひ捨てて立去つた。四五間行つてから、いゝ聲で歌をうたふのが聞えた。これは紺屋の亭主の魂が、火の玉としてその侍の目に映じたのである。

[やぶちゃん注:「平秩東作」「怪談老の杖」既出既注。同「卷之一」の「紺屋(こうや)何某の夢」。「新燕石十種 第五巻」に載るものを(先の一つ目小僧」の引用の前にある話である)、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。一部、私には意味の解らぬところがあるが、注は附さぬ。

   *

   ○紺屋何某が夢

江戸赤坂傳馬町に、京紺屋なにがしといふ者、弟子一人に夫婦にてくらしける、自分は藍瓶にかゝり、弟子は豆をひき、女房はしいしをほりなど、いとまなくかせぐをのこ有、十一月ごろの事なり、外より來れる手間取共は、おのが宿々へ歸り、でつちは釜の前に居眠まゝに、女房ふとんをかけ、火などけし、一人のおさなきものにしゝなどやりて、しほたうと、たすき、前だれときて、添乳のまゝに寐入りぬ、亭主は染ものまきたて、あすの細工の手配り、帳面のしらべなどして、九ツ過にやすみけるが、暫くありて、さもくるしき聲にてうめきけるを、女房ゆりおこして、いかに、恐ろしき夢にても見給ひたるやといふに心づきて、扨も恐ろしやと色靑ざめ、額に汗をくみ流して語るやう、四ツ谷の得意衆まで行て歸るとて、紀伊の國坂の上にて侍に逢しが、きみあしき男かなとおもふうち、刀を引ぬきて退かけしまゝに、命かぎりに迯んとして、おもはずおそはれたり、やれやれ夢にてありがたや、誠の事ならば妻子ども長き別れなるべし、とわかしざましの茶などのむで、むねなでおろし居る處に、門の戸をほとほととたゝく音するを、今頃に何人ぞととがとが敷(しく)とがめければ、いや往來の者なるが、御家内にあやしき事はなく候や、火の用心にかゝる事ゆへ、見すぐしがたく、告知らせ候といひけるに、亭主もいよいよ恐ろしけれど、戸はしめて貫の木をさしければきづかひ無しとさしあしして、すき合より覗きみれば、夢のうちに我を退かけし侍なり、あやしさいはんかたなく、何事にて候、と尋ければ、われらきの國坂の上より、ちやわんほどの火の玉を見つけて、あまりあやしく候間、切割んと存、刀をぬきければ、此玉人などの迯るごとく、坂をころびおちて大路をころび、此家の戸の間より、内へ入り候ひぬ、心得ずながら行過候が、時分がら、火事にてもありては、外外の難儀なるべしと屆け置候なり、かはる事なくば其分なり、心をつけられよ、斷申たるぞと云ひすてゝゆき、四五間も行過て、聲よく歌などうたひてさりぬ、扨は、わが魂のうかれ出たるを、火の玉とみて追はれし物ならん、あやふかりし身の上かな、と夫婦ともに神棚など拜して、その夜は日待同前に夜を明しぬ、夢は晝のおもひ夜の夢なれば、さる事あるべき道理はあるまじと思へど、天下の事ことごとく理を以てはかりがたき事、此類なり、是はうける事にあらず、しかもいと近きもの語りなり、

   *]

「近代異妖篇」(岡本綺堂)の中の「新牡丹燈記」は、この「怪談老の杖」の話に基づいたものと思はれるが、火の玉でなしに切子燈籠になつてゐる。ただ遊魂の主は「雪窓夜話抄」と同じく娘である。深夜だしぬけに戸をたたかれることも、その侍が夢の中で斬り付けようとした人であつたといふことも、すべて「怪談老の杖」の材料であるが、別に切子燈籠を加へたところに、作者の働きを認めなければならぬ。

[やぶちゃん注:「近代異妖篇」大正一五(一九二六)年青蛙房刊。「青蛙堂鬼談」の続編であるが、これは綺堂の意思によるものでない可能性も捨てきれぬ。しかし、私は嫌いでない。

「新牡丹燈記」大正一三(一九二四)年六月刊の『写真報知』が初出。「青空文庫」のの「一 新牡丹燈記」がそれで、話柄の入れ子構造の内側に前出の「怪談老の杖」の話が切子燈籠のように仕込まれてあるので、インスパイアとしてはオリジナリティがあるとは言える。]

小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」

 

     鵠沼

 

[やぶちゃん注:以下、二ヶ所で漢文が出るが、底本では完全訓点(返り点とカタカナ送り仮名)附きである。ブラウザ上の不具合を考え、返り点のみを附し、後に私が小穴隆一の訓点に従って訓読したもの(句読点と鍵括弧は私の判断で変更・挿入した)を【 】で附した。]

 

 制服を着た大學生の芥川龍之介が夏目漱石を始めて訪ねたときに、漱石は、君子有三戒。少之時。血氣未ㇾ定。戒ㇾ之在ㇾ色。及其壯也。血氣方剛。戒ㇾ之在ㇾ鬪。及二其老一也。血氣既衰。戒ㇾ之在ㇾ得。【「君子に三戒有り。少き時は、血氣、未だ定まらず。之を戒むる、色に在り。其の壯なるに及びてや、血氣、方に剛なり。之に戒むる、鬪に在り。其の老に及びてや、血氣、既に衰ふ。之に戒むる、得に在り。」と。】といふ(論語のなかにある言葉、)その子曰クの言葉をいつて彼を戒めたといふが、芥川には、なぜその時漱石が芥川に對つて、さういふことをいつてゐるのかわからなかつたといふ。「自分の仕事はもう今日これ以上には進みはしない。が、自分はただこのままにしてゐさへすれば、おのづと世間では自分を押しも押されもせぬ大家として扱つてゆくだらう。無爲にしてさうされてゆくことは僕は恥辱に思つてゐる。それにつけても一日も速かに死んでしまひたい。」と僕にいふやうになつてしまつた芥川は、(芥川數へ歳で三十五のとき、)「君にはわかるか、」といひ、「僕には、夏目先生の言はれた言葉の意味がこの歳になつて、ほんたうにわかつた。いままでは、なんで先生がそれを自分に言つてゐたのかわからなかつた。」(彼はそのとき手ずれたポケット論語を脇においてゐた。)とニコチン中毒の顏の頰にほのかな血色を漂はせて、(初々しくみえた、)人少き時、血氣未だ定まらず、之を戒むる色に在り、其壯なるに及びてや、血氣方に剛なりを朗々と誦した。

[やぶちゃん注:「制服を着た大學生の芥川龍之介が夏目漱石を始めて訪ねたとき」漱石の門下生であった一つ年上の、後にも出る岡田(後に林原)耕三(彼は始め仏文科であったが後に英文科に転じ、英文学者となった)に連れられて、久米正雄と漱石山房を始めて芥川龍之介が訪問したのは、龍之介大学最終学年二十三歳の冬、大正四(一九一五)年十一月十八日であった。因みに、この十一月一日に龍之介は「羅生門」を『帝國文學』に発表しているが、世評は黙殺に近かった。しかし彼が第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表するのは三ヶ月後の翌大正五年二月十五日(脱稿は一月二十日)、それに対して知られた漱石の激賞書簡が届いたのは二月十九日のことであった。

『君子有三戒。少之時。血氣未ㇾ定。戒ㇾ之在ㇾ色。及其壯也。血氣方剛。戒ㇾ之在ㇾ鬪。及二其老一也。血氣既衰。戒ㇾ之在ㇾ得。【「君子に三戒有り。少き時は、血氣、未だ定まらず。之を戒むる、色に在り。其の壯なるに及びてや、血氣、方に剛なり。之に戒むる、鬪に在り。其の老に及びてや、血氣、既に衰ふ。之に戒むる、得に在り。」と。】』これは「論語」の「季氏第十六」の一節。三箇所の「之(これ)を戒(いまし)むる」は「之を戒むること」と訓ずる方が一般的である。「少」(「少(わか)き」)・「壯」・「老」はそれぞれ三十歳以前・三十~四十歳・五十歳以上を指す。「色」は色欲。「得」(トク/一般に「うる」と訓ずるようだが、対句の修辞から考えると、これは「トク」と音で名詞として読まねばおかしい)は欲得・利欲・貪欲の意。芥川龍之介には「壯」の後ろ3/4と「老」はなかったが、文壇の「君子」としての彼の生涯はまさにその方面の「血氣」盛んにして数知れぬ「色」に塗れ、文学的政治的思潮や富国強兵の国家思想との「剛」の「鬪」に折れたと言えば言える。まさに龍之介にとって漱石のその言葉は恐懼すべき予言であったことに最晩年の彼は気づいたのであった。]

 子曰賢者辟ㇾ世。其次辟ㇾ色。其次辟ㇾ言。【子曰く、「賢者は世を辟く。其の次は色を辟く。其の次は言を辟く。」と。】この色を辟くまでを論語を手にしたことがなかつた僕が暗んじてゐたところをもつて考へると、芥川のその告白は僕を教へ諭してゐたこともあらうと思へる。

[やぶちゃん注:『子曰賢者辟ㇾ世。其次辟ㇾ色。其次辟ㇾ言。【子曰く、「賢者は世を辟く。其の次は色を辟く。其の次は言を辟く。」と。】』これは「論語」の「憲問第十四」の一節であるが、不完全引用である。正しくは、

 

子曰、「賢者辟世。其次辟地。其次辟色。其次辟言」。子曰、「作者七人矣」。

(子曰く、「賢者は世を辟(さ)く。其の次は地を辟く。其の次は色(いろ)辟く。その次は言(げん)を辟く。」と。子曰く、「作(な)す者、七人あり。」と。)

 

が全文である。「辟」は「避」に同じい。これは賢者の正しい処世術を語ったもので、

 

――まことの「賢者」は乱れた世にあっては速やかに「隠遁」する。それも不十分と知れば祖国を捨てて「亡命」する。それも不十分と知れば厳しく「禁欲」する。それも不十分と知った時には敢然と「沈黙」を守るものである。

――私の知る限り、それを正しくし遂げ得た者は歴史上、七人いる。

 

という意であろう。但し、この七人については伯夷・叔斉などが推定比定されているようであるが、定説はない。小穴隆一は自身の恋愛体験を重ねた上で芥川龍之介の生涯を俯瞰し、前の引用もこれも、真に賢く生きる者は何より「色」欲の厳しい制禦こそが肝要だったのだ、などという辛気臭い説教を強化するために、かく省略剽窃してしまったのであろう。しかし……「隠遁」「亡命」「禁欲」「沈黙」――私はしばしば、第二次世界大戦直前に田舎へ「隠遁」し、遂には愛憎半ばしつつも本質的には愛した中国に「亡命」し、その黄土の彼方へと「禁欲」の放浪をして「西方」へと向かい、そこで無名者として生きることを選び、しかし最早、一篇の詩も口にせずに「沈黙」の行に生き続けているアクタガワ・アンドレイ・リュウノスケ・ルブリョフを夢想するので、ある……]

 スクキテクレ、アクタカワ、の電報が七月の十二日にきて、僕は十三日の晝に、僕にとつてははじめての土地の鵠沼で芥川と會つてゐる。松葉杖を抱へた僕は、電車を降りると葛卷と人力車を連らねて芥川の寓居に(伊四號の、)急いでゐた。僕は必ず數日のうちには金澤から上京してくる者と僕との萬一のためにも持つてゐた、スパァニッシュ・フライで(〇・〇〇一グラムが致死量と聞いてゐた一匹が、綿にくるんで蓄音機の針の箱のなかにいれてあつた。)果して、人が死ねるのかどうか、信じたり、疑つたりしてはゐたが、それをクレープの襯衣の隱しにいれて縫ひつけてしまつて持つてゐた。萬が一芥川が芥川の面目かけてもすぐにも死ななければならぬのならば、僕は手を拱いてゐてその後を追ふ腹であり、さういふ若さであつた。

[やぶちゃん注:ここは先行する「その前後」や前章「一人の文學少女」などの本文及び私の注を参照されたい。

「〇・〇〇一グラムが致死量」誤り。「その前後」の注で記した通り、カンタリジンは精製したものでさえ致死量は約三〇ミリグラムである(但し、これが本当に確かかどうかは私はかなり疑問に思っている)。因みに、毒薬として名高いシアン化カリウム(青酸カリ)でさえ、成人で一五〇~三〇〇ミリグラムである。一ミリグラムでイチコロというこんな素敵な毒物があるなら欲しいもんだ。と、言ってみてもしかし、私は使いようがないのだ。私は献体しているから、解剖されるような自殺はしたくても出来ぬからである。

「クレープ」(フランス語crêpe・英語:crepe)強撚糸を使って縮緬(ちりめん)のように布全体に細かい皺(しぼ)を出した織物のこと。

「襯衣」「シャツ」と読む。]

 門で車を降りて内にはいると、僕はすがすがしい撥釣瓶をみた。その撥釣瓶は僕のこころを多少沈めてはくれたが、芥川の留守は意外であつた。(芥川は、「唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃し、謠攻めにて閉口、」云々と八月十二日に下島勳にあてて書いてゐる、さういつた事情でもう少し閑靜な塚本さん(夫人の里方、)の家に原稿を書きにいつてゐた。)

[やぶちゃん注:「撥釣瓶」「はねつるべ」。井戸の水の汲み上げ装置。長い横木の一端に重石が取り付けられており、その重みで釣瓶を跳ね上げて水を汲み上げる。こんな注を若い読者のためにしなくてはならないというのは、私は致命的に哀しいことだと感じている。

『芥川は、「唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃し、謠攻めにて閉口、』云々と八月十二日に下島勳にあてて書いてゐる』旧全集書簡番号一五〇六の一節。正しくは、『唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、莫迦囃し、謠攻めにて閉口、近々もう少し閑靜な所へ引き移らうと思つてをります。しかし海を御らんになつたりなさるのには今ゐる家の方が好都合です』である。同様のことを八月九日附佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五〇三)でも記している。「囃し」は「はやし」と読む。実際に九月下旬頃、東屋(あずまや)旅館の貸別荘「イの四号」から、直ぐ裏手にあった二階家の同じく東屋所有の借家に転居している。]

 間には机となつてゐる茶ぶ臺に、若干の飮みもの(酒にあらず、)食べものが並んで、歸つてきた芥川とひとわたりの話がすむと、芥川の「散歩をしようや。」で僕は伴れだされた。芥川は何年ぶりの松葉杖でさうは歩けもしないものを、人目をさけて、小路へ小路へと引つぱりまはしておいてから、「あれを持つてきたか、」と言つた。僕は「うむ。」と答へたが、それからまた隨分步かせられた。(芥川は鵠沼で、誰にであつたか、僕の松葉杖を使つて、松葉杖をついてゐる姿を寫せてゐたことがあつた。)僕らが砂丘のはうにでて海をみながら休んでゐたときには、もう僕のたつた一匹のスパァニッシュ・フライは芥川にとりあげられてしまつてゐたが、夕陽を浴びてて話してた芥川の話は、ただ彼の妻子のよろこびを語るだけに(田端と鵠沼との暮しのちがひからくる、)つきてゐたので、僕の張りつめてゐた氣持も救はれて、死といふ懸念もなくなつてゐたほどの、のびやかさを感じてゐた。

[やぶちゃん注:「芥川は鵠沼で、誰にであつたか、僕の松葉杖を使つて、松葉杖をついてゐる姿を寫せてゐたことがあつた」この写真は不詳。私は見たことがない。

「ただ彼の妻子のよろこびを語るだけに(田端と鵠沼との暮しのちがひからくる、)つきてゐた」事実、芥川龍之介はここでの文との質素乍ら、親子水入らずの生活を知人らに「二度目の結婚」生活と呼んでいた(本文の後にも下島勳宛書簡から「我々の二度目の新世帶」と引いて居る)。但し、「或阿呆の一生」では、

   *

 

       四十三 夜

 

 夜はもう一度迫り出した。荒れ模樣の海は薄明りの中に絶えず水沫(しぶき)を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歡びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稻妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣(ほばしら)の二つに折れた船が。」

 

   *

という恐ろしく絶望的なイメージとともに綴っている。]

 さうししてその日は、芥川のところに泊り、僕自身のことは七月二十九日を頂上として、あとは終るといふ有樣になつてしまつたので、芥川と彼の夫人とに約束してあつたとほり、引越しの金を改造社から貮百圓前借りして、(「三つの寶」の印税のこと、昭和三年六月二十日發行の金五圓の四六判の二倍よりは大きい本、芥川はこの本の印税を改造社とは壹割五分の約束で、僕にはその半分の七分五厘が僕のとりまへと言つてゐた。)僕も鵠沼に移つて芥川のそばにゐることになつた。

[やぶちゃん注:「僕自身のこと」詳細は不詳乍ら、前章「一人の文學少女」の注で私が推理したような事態の終焉を指している。

「三つの寶」芥川龍之介作小穴隆一画に成る、龍之介の代表的童話六篇(「白」・「蜘蛛の糸」(岩波旧全集版作品集『傀儡師』版。両者の校異を示した『■芥川龍之介「蜘蛛の糸」のやぶちゃんによる岩波版全集との校異』有り)・「魔術」「杜子春」・「アグニの神」・「三つの寶」。以上のリンクのあるものは総て私の電子テクスト。特に「白」は「□旧全集版及び■作品集『三つの寶』版」をカップリングしたものである。「アグニの神」と「三つの寶」は「青空文庫」にある。但し、新字である)を収録した大判の豪華本童話集。但し、「前借り」と言う言葉で判る通り、実はこの時には刊行されていない。しかも実際にこの童話集が出たのは実は、芥川龍之介一周忌直前、昭和六(一九三一)年六月(改造社刊)であった(改造社というか、社長の山本実彦、企画から三年後の芥川没後の刊行の、それもこんな大金(大正十五年頃のそれは、とある記載によれば、五十三万七千円に相当する)の前貸しを何度もするとは(ここでは当然、龍之介は自分の分も前借りしていると考える方が自然だから、最低でも現在の百五十万円以上は出していよう)これ、実に太っ腹!)作品集『三つの寶』は昭和四七(一九七二)年ほるぷ社刊「名著復刻 日本児童文学館」版を所持しており、今回の小穴隆一のパブリック・ドメイン化を受け、今年中に、小穴の挿絵(各作品二枚)を含め、正字正仮名で完全復元電子化をしたいと考えている。]

 芥川と改造社の間は昭和二年に、芥川が、「山本改造は僕に顧問になつてくれと言ふんだ、」「山本實彦は僕と谷崎と佐藤に壹萬圓づつだして、いづれヨーロッパに行つて貰ふつもりだと言つてゐる、」などと言つてゐたほどの間柄で、貮百圓は、僕が、ただ、芥川がきてくれろと言つてゐるからと言つただけで、高平君がすぐに屆けてきてくれた。考へてみると大正十五年の貮百圓は大きい。僕は芥川が死んでからのいろいろの雜用も片づき、この上芥川の家のそばにゐて、あまりみたり知つたりするのもと思つて、昭和三年に高圓寺へ越すときに、山本實彦に會つて、「三つの寶」の印税からまだ僕の受取れる分あるから、貮百圓をくれと言つて貰つた。「三つの贊」は參千部刷つたと聞いてゐたが、僕は「三つの寶」で前後合せて四百圓を受取つたが、それがいつも引越賃になつてゐた。

[やぶちゃん注:「山本改造」改造社社長の「山本實彦」を社名に被せた謂い。山本実彦は前章「一人の文學少女」に既注。

「谷崎」谷崎潤一郎。彼はまさに『改造』誌上で芥川龍之介と〈小説の筋の芸術性〉を巡る文学論争を展開した。私のテクストには芥川龍之介「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」がある。

「佐藤」佐藤春夫。因みに、彼は作品集「三つの寶」に「序に代へて 他界へのハガキ」という一文を寄せている。実に佐藤らしい優しさに満ちたものである。これは私の澄江堂遺珠 神代種亮 跋 図版目次 奥附の注で電子化している。

「高平君」改造社社員(編集者?)の高平始なる人物かと思われる。

「大正十五年の貮百圓は大きい」前段の私の注を参照のこと。]

 僕が丸山町のアパートから鵠沼に移つた日は、當時の小さい手帖の二册をみても、引きちぎつてあるのでわからない。

[やぶちゃん注:「丸山町」「自殺の決意」で既注。

「鵠沼に移つた日は、當時の小さい手帖の二册をみても、引きちぎつてあるのでわからない」以前に注したが、宮坂覺年譜によれば、大正一五(一九二六)年七月の末と推定される。]

 芥川は、當時〔ちよつと、我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願であります。〕と下島老人に書いてゐるが、芥川夫人の場合には? 僕は、僕らの鵠沼生活といふものは、あのみじめななかにあつてすら、いや、みじめな思ひの暮しにおかれてゐたからこそ、夫人にとつて囘顧があれば、幸福であつたと思つてゐるのではなからうかと思ふ。

[やぶちゃん注:「〔ちよつと、我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願であります。〕と下島老人に書いてゐる」先に引いている旧全集書簡番号一五〇六から十二日後の大正一五(一九二六)年八月二十四日附下島勳宛書簡(旧全集書簡番号一五一〇)前の一節。正確には『ちよつと我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして御飯の一杯もさし上げたい念願であります。』。「新世帶」は「あらあじよたい」と読んでおく。]

 芥川が書いた年譜によると(現代小説全集、第一卷、芥川龍之介集、大正十年四月、新潮社版)大正四年十二月夏目漱石の門に入る。林原耕三の紹介に據る。五年十二月夏目漱石の訃に接すとなつてゐるが、芥川はその僅か一年の間の夏目漱石のことを死ぬまで口にしてゐた。十年もゐた氣がするが、僕の僅か半年にも滿たなかつた鵠沼のその生活は所詮(芥川の姉の夫の西川氏が鐡道自殺をしたので、芥川は一寸東京に戾つたのがそのままになつて、僕もまた東京に歸つて田端の下宿にはいつた。)

  松風に火だねたやすなひとりもの

と芥川が僕に書きのこしてゐるこの句の如きものではあらう。

[やぶちゃん注:「僕の僅か半年にも滿たなかつた鵠沼のその生活」先に示した通り、小穴隆一の鵠沼転居は大正一五(一九二六)年七月末で、小穴は翌年二月までそこにいた。芥川龍之介は同じ年の三月まで鵠沼の借家を借りてはいたが、前年末以降は殆んど滞在せず、小穴それに合わせて龍之介の側にいるために、引き揚げたのである。

「芥川の姉の夫の西川氏」芥川龍之介の義兄で弁護士であった西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)。芥川龍之介をダメ押しで疲弊させた彼の鉄道自殺については、「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」で詳細な注を施してある。未読の方は是非、参照されたい。

「松風に火だねたやすなひとりもの」この句は現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の謂いから見ても、これは真正の龍之介の句と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で採録している。]

       ○

 ――嵐の中に僕は互ひの空いろが出るのを待つてゐた。

 槻を句にしたがつてゐたがなあ、高槻や、高槻やと、置いてゐたがなあ、

「君は僕の女房にどうしてあんなにわからずやになつたのかつて言つたさうだね、女房もほんとにどうしてかうわけがわからなくなつたのかと言つてゐたよ、ほんとに君、僕はそんなにわからずやになつてしまつたかね、女房は言つてたよ、小穴さんはどうしてあんなにわからずやになつたのかつて僕のこと言つてたつて、君ほんとに僕はさうかね、」

 僕は僕の家に這入つてくるといふよりはいつももぐつてくるといふ恰好の無氣味を忘れないよ。

 うしろの松にしろ、朝寒や、松をよろへる、蔦うるし這はせて寒し庭の松、仕舞ひには、飛行機も東下りや朝ぐもりなんて、僕のところの唐紙のきれつぱしに書いてゐたではないか。

「女房は僕に、僕に君の癖がすつかりうつつちやつたつ言つてたよ、うつつちやつたつてね、」

 ああ、アハッハッッ――、

 さういふげらげら笑ひは僕にうつつた。

[やぶちゃん注:「嵐の中に僕は互ひの空いろが出るのを待つてゐた」これは、当時の鵠沼の印象をカリカチャライズした、先に全文を出した芥川龍之介の「或阿呆の一生」の「十三 夜」のイメージをインスパイアしたものと私は読む。

「槻」(つき)「高槻」(たかつき)孰れもバラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata の古名と採っておく。

「置いていた」俳句の上五或いは下五に配すること。

「僕は僕の家に這入つてくるといふよりはいつももぐつてくるといふ恰好の無氣味を忘れないよ」後半の「妻に對する、子に對する、」や「鵠沼・鎌倉のこと」パートの冒頭「鵠沼」にも出るが、芥川龍之介は小穴隆一の鵠沼の家訊ねる時、窓や勝手口から盗人が侵入するように入ってくるのを常としていた。次に掲げる小穴の図の、中央稍右寄り上に『伊二号O穴の住家』(小穴の住家(すみか))とあり、その左上に『芥川出入の窓』とある。

「うしろの松にしろ、朝寒や、松をよろへる」芥川龍之介の俳句の推敲に語句断片。

「蔦うるし這はせて寒し庭の松」次に掲げる小穴の図の、左手の庭の垣根らしいものの内側に『蔦うるしからむ松』とあるのがそれらしい。この句も現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の「僕のところの唐紙のきれつぱしに書いてゐたではないか」という断定・指定の謂いから見ても、これや前の俳語集も真正の龍之介の句及び断片と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で前の断片ともども採録している。

「飛行機も東下りや朝ぐもり」この句も現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の謂いから見ても、これも真正の龍之介の句と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で採録している。]

 

Oanakugenumazu

 

[やぶちゃん注:以上は、底本に挿入された小穴隆一手書きの鵠沼の本話柄絡みの面白い地図である。やや悪筆ながら、小穴隆一の字はなかなか味わいがある。一応、判読してみる。