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2018/04/19

譚海 卷之二 江戸白銀瑞聖寺什物天竺蓮葉の事

○江戸白銀瑞聖寺は、黃檗山(わうばくさん)の旅宿寺也。瑞聖寺に年來(としごろ)勤め居たる男七助と云(いふ)もの、一日朝飯焚(たき)ゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方(ゆくゑ)なし。月日を經(ふ)れば入水(じゆすゐ)などせしにやなど皆々申(まうし)あひたるに、六年過(すぎ)て七助うせたる其月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出(いで)て見るに、遙(はるか)なる空中より一むら黑雲の如きもの苒々(ぜんぜん)に地へ降る、是をみて人騷動する也。さて程なく空中のものくだり來て瑞聖寺の庭に落たり、大なる蓮の葉也。その内にうごめく物有(あり)、人々立寄(たちより)て開きみれば件(くだん)の七助茫然として中より這出(はひいで)たり。奇怪なる事いふばかりなし。一兩日過(すぎ)て、七助人心地(ひとごこち)付(つき)たる時、何方(いづかた)より來(きた)るぞと尋(たづね)たれば、御寺に居たるに僧一人來りて天竺へ同伴せられしかば、共に行(ゆく)と覺えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所の人物言語共に甚(はなはだ)異也(ことなり)、天竺なるよし僧のいはれしに、折しも出火ありてさはがしかりしかば、此僧われにいはるゝ樣(やう)、この蓮の葉に入(いり)てあれと入(いれ)たれば、やがて包みもちて投(なげ)すてらるゝと覺へし、その後(のち)何にも覺へ不申(まうさず)といひけり。此蓮の葉は天竺の物なるべし、八疊敷程ある葉也。寺庫に收(をさめ)て今にあり、蟲干の節は取出(とりいだ)し見する也。此七助その後八年程ありて七十二歳にして寺にて卒したり。此蓮の葉彼寺の蟲干の節行逢(ゆきあひ)て、正しく見たる人の物語也。

[やぶちゃん注:この神隠し譚、惜しいかな、消えた期間が「六年」、消えた月日も再び戻ったのも同月同日、帰ってから八年後に数え七十二で亡くなったと小まめに時間を記すのに、一向、それが何年のことであったか、肝心な部分が全く記されていないという辺り、それこそ実は都市伝説臭いのである。但し、以下に見る通り、瑞聖寺の創建は寛文一〇(一六七〇)年であり、本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る津村の見聞記であるから、概ねその百年の間とは言えるわけだが。如何にもあやしい。但し、この話はかなりその頃、持て囃された有名なものだったらしく、底本の竹内利美氏校訂注版の注によれば、これに基づいて作られた多数の類話が存在するらしい。案外、山崎美成や平田篤胤が入れ込んだ、天狗に連れられて仙界を経廻って帰還したと称し、その後も冥界と行き来出来るとし、た江戸の「天狗小僧寅吉」(文化三(一八〇六)年の秋頃に出現、文政五年に篤胤は彼から聴き取った異界・幽冥界の話を「仙境異聞」として大真面目に出版し、篤胤はこの少年に幽界への手紙まで託した。さらに篤胤はこの仙吉を自身の養子となし、文政十二年まで世話までした)なんぞも、この古い七助の話をもとに悪智恵チンピラ寅吉がインスパイアしたものだったのかも知れないなどと思ったりする。なお、本条は私の電子化した柴田宵曲の「妖異博物館」「天狗の誘拐」(3)で紹介されており、そこの注で既に私は電子化もしてある。柴田の現代語訳でも楽しまれたい。同「天狗の誘拐」(1同(2)もリンクさせておくので、未読の方は、順番に読まれることをお薦めする。

「瑞聖寺」「ずいしょうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の東京都港区白金台三丁目にある黄檗(おうばく)宗系禅宗寺院である紫雲山瑞聖寺。本尊は釈迦如来。創建は寛文一〇(一六七〇)年で開山は本邦の臨済宗黄檗派(黄檗宗)第二代の明の渡来僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年:江戸時本山黄檗山萬福寺開山で黄檗宗祖隠元隆琦(一五九二年~寛文一三(一六七三)年:福建省福州福清県生まれ。萬福寺は生地福清の古刹)の弟子)。江戸時代は幕末まで江戸黄檗宗の中心寺院として壮大な伽藍を誇った。(グーグル・マップ・データ)。因みに、黄檗宗は曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つで、本山は現在の京都府宇治市にある黄檗山万福寺。承応三(一六五四)年に明から渡来した僧隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年によって齎された。宗風は臨済宗とほぼ同じであるが、明代の仏教的風習が加味されている。明治七(一八七四)年に一旦、臨済宗と合併したが、二年後に独立、今も一宗派となっている。

「旅宿寺」黄檗宗は勿論、恐らくは親和性の強かった臨済宗(実際、私は鎌倉史の研究もしているが、臨済宗の占有とも言える鎌倉の禅寺や付属施設の中には、江戸時代、この寺の末寺であったり、持ち分であったものが見出せる)の行脚僧を宿泊させる寺であったものと推定される。

「あざむ」意外なことに驚く、呆れかえる、ここはその声。

「苒々(ぜんぜん)に」はここでは「ゆっくりだんだんと」の意か、或いは「ふうわりふうわりゆらゆらと」といったオノマトペイア(擬音語・擬態語)として用いているように思われる。]

 

明恵上人夢記 61

 

61

又、夢に、上師、死人(しびと)の頭(かうべ)を持てり。半頭(はんづ)なり。今、之を見るに、汝之(の)母方之(の)祖母之(の)後世(ごぜ)、之を訪(とぶら)ふべしと云々。

[やぶちゃん注:「60に続いており、大項目としての59の三つ目に当たる。「60の冒頭注と全く同じ様態(状況・属性)である。必ず、「60の冒頭注を参照のこと。

「死人の頭(かうべ)」「かうべ」は私の読み。「かしら」や「あたま」でもよいが、ここは生首ではなく、私は古い頭蓋骨、それも「半頭」、則ち、頭骨、しゃれこうべの上辺の「鉢」の部分だけなのだ、と私は読む。本夢はホラーなのではない。だから、髑髏(どくろ)の左右の半面なんかでは絶対にあり得ないし、一見すると、古い土器のように見えるものなのだと、私は一読した瞬間、イメージされた。明恵の母方の祖母の、既に葬られて久しい以前の、既に朽ち欠けた瓦(かわらけ)のようになった、それなのだ、と私は強く思うのである。そのように訳した。

「汝之母方之祖母」私はここにきて、やはり「上師」を上覚房行慈としてよかったのだと確信した。何故なら、彼は明恵の母方の叔父で、出家当初からの師だからである。

 

□やぶちゃん現代語訳

61

 また、こんな夢も見た。

 

 上覚上師が、その手に、何か瓦(かわらけ)のようなものを持っておられる。

 それは、よく見ると、死人(しびと)の小さな髑髏(しゃれこうべ)の一部なのであった。

 そうして、それは、髑髏の上の方の半分、鉢のところに当たるものなのであった。

 そして、上師が私に、徐ろに命ぜられた。

「――今、私は、この遺骨を見たのであるが、明恵よ、この――汝の母方の祖母の後世(ごぜ)――これを、しっかりと弔わねばならぬ……」…………

 

明恵上人夢記 60

 

60

 此は後日之夢と覺ゆ

又、夢に、上師、靈鷲山(りやうじゆせん)に在り。予、共に之(これ)に侍り。卽ち、見奉るべき由、心に之を庶幾(しよき)する間(あひだ)也。

[やぶちゃん注:この条は前の「59」夢の箇条「一」の中に含まれて(底本では「一」は最上部で以下、一字下げ表示)いるのであるが、示した通り、「59」の条との間に小文字で「此は後日之夢と覺ゆ」とあり、これは、「これは後日に見た上師関連の夢であったと記憶している」の謂いであり、この「59」に始まる部分(実はもう一夢ある)は上師上覚房行慈が登場する夢であったが故に、上師が登場するこの近場で見た夢三つ纏めて記載したのだということが判る(その間に別な夢を見ていると考えるのが自然であり、とすれば、以下で私が「62」から「65」とする四つの夢(「65」の後は記録が一回切れており、別な時期の夢記載と思われる)が、この「59」「60」及び次の「61」夢に挟まっている場合の分析・解釈の余地を残す必要がある)。明恵は無論、それらが強い連関性を持った夢と思ったが故にかく纏めたのであり、その関連附けを意識する必要は当然ある(夢自体が関連があるかどうかよりも、明恵が関連附けをしたがった事実の持つ意味に於いて遙かに、である)が、必ずしも、我々はそう理解する必要はない。特に「59」が判読不能箇所があり、今一つ、夢の内容が判然としない以上、まずは独立した夢として分析するのがよいであろう。

「後日」「59」夢を私は建保七(一二一九)年二月二十九日としたから、その翌日以降に見た夢となる。

「靈鷲山」(りょうじゅせん)はインドのビハール地方のほぼ中央、古代「マガダ国」の都であった「王舎城」ラージギルの東北にある山で、釈迦が「無量寿経」や「法華経」などを説いた地として知られる。中央付近(グーグル・マップ・データ)。但し、ここは報身(仏陀となるための因としての行を積んだその報いとしての完全な功徳を備えた仏身)となった釈迦(如来)が法華経を説いた現世に出現した霊的な時空間であって、遠い未来に現実世界が毀損しても、釈迦如来は未来永劫、ここに常住して法を説き続ける、とされるから、ここでは「浄土」世界と同義と採ってよい。

「庶幾」心から強く願い望むこと。]

 

□やぶちゃん現代語訳

60

(明恵自注:これは先の夢を見た、その後日に見た別な夢と記憶する。)

 また、こんな夢も見た。

 

 上覚上師は、今まさに、霊鷲山山頂におられる。

 しかも私も、なんと、ともにそこに、上覚上師に従っているのである。

 則ち、今より何が起こるか、しっかりと見届け申し上げことが出来るのだという思いが湧き上がってきて、私は心に、それを切に望み願っているのである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 厄月の五月

 

     厄月の五月

 

 居士の容態は春を過ぎてもよくならず、厄月の五月に至って最も悪くなった。『ホトトギス』及『日本人』には四月以降居士の執筆にかかるものが見えなくなり、たまたまあるものは若干の俳句に過ぎぬ。『日本』紙上にも「俳句と漢詩」の稿を了え、「吉野拾遺の発句」を掲げた後、「俳人蕪村」を連載しはじめたが、五月中病のために中絶した。前々年松山滞在中鳴雪翁に宛てた手紙に、世人が居士の一派を目して蕪村派と称することをいい、「小生歸京後都合によれば一篇の「蕪村論」を書くつもりに御座候」とあったが、その後執筆の機を得ず、この時に至ったのである。

[やぶちゃん注:「厄月の五月」正岡子規個人の思い込みで、暦占上の厄月とは無関係。先行する「明治二十八年 喀血遼東海」(かっけつりょうとうかい)に、「本郷台及遼東海における大喀血がいずれも五月であったのは、後来五月を厄月とする因をなすもの」とあった。

「俳句と漢詩」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」ので読める。

「吉野拾遺の発句」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらで読める。なお、「吉野拾遺」は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集であるが、ウィキの「吉野拾遺によれば、『跋文と本文によると、かつて南朝の廷臣であり、後醍醐天皇の崩御に際して出家・遁世した松翁(しょうおう)という人物が』正平一三(一三五八)年に『自らの見聞を記したものという』が、説話の中に元中元/至徳元(一三八四)年撰の「新後拾遺和歌集」『所収の和歌が含まれることから、成立はこれ以降の室町期に下るとみられ、また、作者松翁の正体に関しても』『諸説があってはっきり』せず、『近年では、松翁に仮託して室町後期に偽作されたとする説が有力である。成立年代の下限は』天文二一(一五五二)年と推定されているとある。]

 

 三月二十八日虚子氏宛の手紙に「小生前日來ある人より芭蕉傳を草しくれよとたのまれ居(をり)、尤(もつとも)頻りに辭退して洒竹(しやちく)などをすゝめたれど聽かれず、已むなく紀行をちゞめたる傳記(評論はなし)を草し候。其節花屋日記(芭蕉死時の日記)を取り出し見たるところ讀むに從ひて淚とゞまらず、殊に去來が狀を見たる其場より立ちて急ぎ來り芭蕉と對面の場に至り鳴咽不能讀(よむあたはず)、少し咽喉をいため申候」とあり、また「小生神戸入院以後淚もろくて病床にある時も傍に人なき折は時々泪を浮べ申候、古白を想ひ出したる時など多く候。花屋日記をよめばいつにても少し泣き居候へどもこの度の如く咽のいたくなり候事は無之(これなく)候」ともいっている。この芭蕉伝を依頼した「ある人」なる者は誰であるかわからぬが、この原稿は居士生前には発表されず、歿後金尾文淵堂の手に入って、原稿のまま木版にして刊行された。行脚俳人芭蕉』がそれである。「吾れ日本二千餘年間を見わたして、詩人の資格を備ふること芭蕉が如きを見ず。只彼がために今十年の命を長うせざるを惜むのみ」というのがその結語であった。居士が「俳人蕉村」と前後して『行脚俳人芭蕉』を草しているのは、慥に注目すべき事実である。蕪村のために多くの言辞を費したに反し、芭蕉の方を簡単に片付けてしまったのは、評論を省いた関係もあるが、蕪村は居士によって新な評価を与えられたので、世人の多く顧みぬ点を顕揚(けんよう)する必要があったためであろう。一方に偏したわけではない。

[やぶちゃん注:「花屋日記」真宗僧で俳人の文暁(ぶんぎょう 享保二〇(一七三五)年~文化一三(一八一六)年:俗姓は藁井(わらい)。肥後八代の真宗仏光寺派正教(しょうきょう)寺(熊本県八代市本町に現存)住職。蕉風俳諧の復興に尽力した僧蝶夢らと親交があり、小林一茶は彼を慕って寛政四(一七九二)年暮から三ヶ月に渡って同寺に滞在したという)の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)は上下二巻。上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、芥川龍之の「枯野抄」の正秀(せいしゅう)の如く慟哭した正岡子規には非常に悪いのだが、現在では、多量の先行資料を組み合わせて文暁が創作した偽書であることが判っている。但し、私は正岡子規の感涙の気持ちは、よく判る。それほど、この創作は上手いのである。私は実はブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で「花屋日記」の全電子化注釈を完遂しており(タイトルは『偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」』で全十二回)、サイト「鬼火」の心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇で、その一括PDF縦書も公開しているので参照されたいが、ブログ版で指示すると、「去來が狀を見たる其場より立ちて急ぎ來り芭蕉と對面の場」は、である。]

                               

 『花屋日記』の事は「芭蕉雑談」の中にもあった。居士自身もかつて旅に病んで、碧、虚両氏の看護を受けた経験があり、今また大患の牀(とこ)に橫(よこた)わりつつある。『花屋日記』が異常に居士を動かしたのは、単に境遇の相通ずるためというよりも、病者にしてはじめて会する消息があるものと思われる。

[やぶちゃん注:「芭蕉雑談」国立国会図書館デジタルコレクションの「獺祭書屋俳話」のこちらで読める。当該箇所は(右頁)であるが、そこでも子規は『實に世界の一大奇書なり』とし、『芭蕉死後百數十年間人の筐底にありて能く保存せらたるは我等の幸福にして芭蕉の名譽なり』と大絶賛している。]

 

 虚子氏宛の手紙にはこうも書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

小生は感情の上にては百年も二百年も生きられるやうに思ひ居候故に病氣のために遠大の事業をやめる抔申すことは無之候。

併し道理の上よりは明日にも死ぬるかと存候。淚もろきも衰弱の結果にして死期の近づきたるものと斷定致候。但いくら道理で斷定しても自分は明日や明後日にはとても死ぬ事などは思ひもよらずと存候。

感情が正しきか道理が正しきかといはゞいふ迄もなく道理正しく候。それにも拘はらず感情正しきやうに思ふは卽ち凡夫の凡夫たる所以に候。人間が凡夫でなかつたら樂もへちまもあつたものには無く候。

 

 四月に入ってからは縁側に出て萩や芒の芽を眺め、屋根越に加賀邸の桜を望んだりして、「萩の芽が三寸位になれば去年の例に従ひ少しは心よくなるべきかと樂(たのしみ)居候」といい、「腫物なくば車にていでましものをと存候」と大原恒徳氏宛に申送った位であったが、それは空恃(そらだの)みに過ぎなかった。五月末は最も工合が悪く、四、五日間も九度以上の熱が続いて一向下らない。「先づ小生覺えてより是程の苦みなし」というほどの状態に陥ってしまった。松山で極堂氏らが協議して、誰か看護のために上京させようとしたが、手のぬける人がないので実現されなかったのはこの時である。在京の知友門下は相次いで見舞い、交代して病牀に侍することになった。六月十日から十五日まで、その看護者によって記された日記が残っているが、居士はその辺から漸(ようよ)う快方に向い、看護日誌は幸に『花屋日記』にならずに済んだ。

 「病來殆ど手紙を認めたることなし。今朝無聊輕快に任(まか)せくり事申上候。蓋し病牀に在りては親など近くして心弱きことも申されねば却て千里外の貴兄に向つて思ふ事もらし候」といって、熊本の漱石氏宛にかなり長い手紙をしたためたのは、看護日誌のなくなった六月十六日であった。

 

 余命いくぼくかある夜短し

 障子あけて病間あり寄薇を見る

 

の二句がその末に記されている。

和漢三才圖會第四十一 水禽類 白鶴子(ダイサギ)

Daisagi

だいさぎ   俗云大鷺

白鶴子

       一種似大鷺

       而略小者名

ベッホ ツウ  蹶足鷺

 

本綱白鶴子狀白如鷺長喙高脚但頭無絲耳姿標如鶴

故得鶴名林栖水食近水處極多人捕食之味不甚佳

△按白鶴子【俗云大鷺】大於鷺而頭無絲脚灰黑色觜黃色

 

 

だいさぎ   俗に「大鷺」と云ふ。

白鶴子

       一種、大鷺に似て、

       略〔(やや)〕小さき者を

       「蹶足鷺〔(けつそくさぎ)〕」と

       名づく。

ベッホ ツウ

 

「本綱」、白鶴子は、狀、白くして鷺のごとく、長き喙〔(くちばし)〕、高き脚。但だ、頭に絲(いと)無きのみ。姿標〔(しへう)〕、鶴のごとし。故に「鶴」の名を得。林に栖み、水食〔(すいしよく)〕す。近き水の處、極めて多し。人、捕へて之れを食へば、味、甚だ佳ならず。

△按ずるに、白鶴子【俗に「大鷺」と云ふ。】鷺より大にして、頭に、絲、無し。脚、灰黑色。觜、黃色なり。

 

[やぶちゃん注:本邦では冬鳥として観察される、鳥綱 Aves ペリカン目 Pelecaniformes サギ科 Ardeidae サギ亜科 Ardeinaeアオサギ属亜種ダイサギ(大鷺)Ardea alba alba の冬羽の個体であろう(「頭に糸がない」というのは飾り羽がないことを指しているからであり、良安が「嘴(くちばし)が黄色である」と言っている点も合致する。以下の引用参照)。ウィキの「ダイサギによれば、体長は九十センチメートルほどで、『日本ではアオサギ』(アオサギ属アオサギ Ardea cinerea)『と並ぶ最大級のサギ。全身の羽毛が白色。白鷺の一種』。『雌雄同色。全体が白色で、脚と首が非常に長く、くちばしも長い。足は全体が黒い。夏羽ではくちばしが黒くなり、足の基部がわずかに黄色がかる。また』、『胸や背中に長い飾り羽が現れ』、『眼先が緑がかる婚姻色が現れることもある』が、『冬羽では飾り羽がなく、くちばしが黄色くなる』(下線太字やぶちゃん)とあるからである。ダイサギより僅かに小さい亜種チュウダイサギ Ardea alba modesta を含めてもよいが、同亜種は本邦では夏鳥として見られ、一部のみが、越冬するだけで、多くは冬には南方へ渡るので、揚げる必要はない気もする。寧ろ、「一種、大鷺に似て、略〔(やや)〕小さき者を「蹶足鷺〔(けつそくさぎ)〕」と名づくとあるのをそれに比定してもよいか。「蹶足」の「蹶」は訓で「つまずく」で、「倒れる」や「跳ね起きる」の意があるが、或いは、歩行運動の様子をけ躓(つまづ)ように捉えた命名か。

「姿標〔(しへう)〕」姿と、その様子=生態。東洋文庫訳では「標」に『ようす』とルビする。「標」は見た目の「しるし」の意。

「水食〔(すいしよく)〕す」前条にも注した通り、水中の生物を捕食する、の意。

「人、捕へて之れを食へば」は下が「味はとんでもなく不味い」というのだから、本来は「人、捕へて之れを食ふも」ぐらいがいい。]

 

栗本丹洲自筆「鱟」(カブトガニ)の図

 

Kabutogani

 

[やぶちゃん注:東京国立博物館蔵の帝室博物館編「博物館虫譜」より。栗本丹洲の自筆画。画像は東京国立博物館の「研究情報アーカイブズ」のデジタル・コンテンツにあるもの(ここ。画像番号・C0071677/列品番号・QA-959)の上下左右をトリミングして用いた。上記リンク先の資料は東京国立博物館の「デジタルコンテンツ無償利用条件」(こちらを参照)によって、『非商業目的で』『「デジタルコンテンツ無償利用条件」』『を満たす』『利用については、特別な手続きを経ることなく無償で複製、加工、出版物やウェブサイトへの掲載等を行うことができ』るとし、その場合、『東京国立博物館提供のコンテンツであることを、著作権法に定める引用の方法に準じて明示し』、『ウェブサイト等に掲載する場合は、掲載ページ内に当館「研究情報アーカイブズ」サイトへのリンクを含め』ること、『画像について加工、変形等の操作を行った場合は、利用者においてその旨を明示』することが示されており、以上の私の記載で、それは満たされていると判断する。また、そこで「非商業利用の例」としては、『個人その他非営利団体が運営する営利を目的としないWebサイト』とあり、私のブログはそれに該当する。以上の通りであるからして、上記図版のみを勝手に使用されぬよう、くれぐれもお願いする。藪野直史

 

□翻刻1(原画のママ。一行字数も一致させたもの。但し、原画像の解像度が著しく低いために、細部がよく判らぬのが恨みである。約物のカタカナの「ト」と「モ」の合字は正字化した。一行目の「カブトガニ」のように見えるが、他の濁音字、例えば直前の「ブ」直後の「ガ」、その下方の「ジ」、何より更にその同行最後にある同じはずの「ド」の濁点と比べても、明らかに違うので、ここは汚損或いは虫食いと採って「ト」とした。但し、以上の不鮮明さから、「海ドングハン」の「グ」、「鱟音教」の「教」にはやや自信がない。しかし根拠を以って比定はした。それは後注を参照されたい。■は遂に判読出来なかった字である。識者の御判読を切に乞う

鱟魚 和名カブトガニ  ウジキガニ  ハチガニ 海ドングハン

   鱟音教      唐人ガニ トモ云肥前長崎ノ方言ナリ

   寛政十午年季夏■日■浦御舩藏寫眞

   淸人常ニ是ヲ食フ因テ唐人ガニト云

 

□翻刻2(私が読み易く整序・訓読し、一部に推定で歴史的仮名遣で読みを添えたもの)

「鱟魚(コウギヨ)」

和名、「カブトガニ」・「ウジキガニ」・「ハチガニ」・「海ドングハン」。

「鱟」、音、「教(カウ)」。

「唐人ガニ」とも云ふ。肥前長崎の方言なり。

寛政十午年季夏、■日■浦御舩藏に於いて寫眞す。

淸人、常に是れを食ふ。因りて「唐人ガニ」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:節足動物門鋏角亜門節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ属カブトガニ Tachypleus tridentatus。かなり知られているので言わずもがなであるが、通常の我々が知っている「蟹」(カニ)類は節足動物門甲殻亜門 Crustacea であるが、本カブオガニ類は鋏角亜門 Chelicerata であって、「カニ」と名附くものの、カニ類とは極めて縁遠く、同じ鋏角亜門 Chelicerata である鋏角亜門クモ上綱蛛形(しゅけい/くもがた/クモ)綱クモ亜綱クモ目 Araneae のクモ類や、その近縁の蛛形綱サソリ目 Scorpiones のサソリ類に遙かに近い種である(鋏角亜門には皆脚(ウミグモ)綱 Pycnogonida も含まれる。なお、現生カブトガニは全四種である)。実は私はカブトガニについて書かれた現在の専門家の著作を複数冊所持しているのであるが、書庫の奥に埋没しており、今は探し出せなかった。或いは、以下の不明箇所はそれらで解消するかも知れない。見出した際には、追記する。

「鱟魚(コウギヨ)」漢名。

「ウジキガニ」「ウジキ」の漢字表記と意味は私は不詳であるが、「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、字(あざな)は千里、通称を伝左衛門といい、平野必大・野必大とも称した。父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書)や寺島良安和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類に(リンク先は私の古い電子化注。「鱟」の項を見られたい)、カブトガニの異名として『宇牟幾宇(うむきう)』(前者)『宇無岐宇』(後者)が載り(「本草綱目啓蒙」(江戸後期の本草学研究書。享和三(一八〇三)年刊。江戸中後期の本草家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理したもの。引用に自説を加え、方言名も記している)にはこれを筑前の方言とする)、これと「ウ」と「キ」の音が一致はする。識者の御教授を乞う。

「ハチガニ」形状から「鉢蟹」。本草学者松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)の「怡顔斎介品(いがんさいかいひん)」に『安藝ニテ鉢蟹(ハチガニ)ト云フ』と出る。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを見られたい。

「海ドングハン」「グ」は「ダ」にも見えるが、私はこれは本種の本体を銅鑼(どら)に模した方言と見、「ドングハン」は「ドンガン」で銅鑼のことではないかと推察して、かく判読した。

『「鱟」、音、「教(カウ)」』「教」は判読に困ったが、「鱟」の音は「コウ」(歴史的仮名遣でも同じ)で、「教」には音に「カウ」、現代仮名遣で「コウ」があることから、発音の類似性から、この字に比定した。別字であると判読される方は、お教え戴ければ幸いである。

「寛政十午年」寛政十年は戊午(つちのえうま)。西暦一七九八年。

「季夏」は旧暦六月(水無月)の異名で夏の末に当たる。

■日■浦御舩藏」いろいろと考えて見たが、遂に判読出来なかった。幕医であった栗本丹洲がカブトガニが棲息している西日本(カブトガニは古くは大阪湾にも棲息していたことが判っている)に行ったという事実を確認出来ないので、「■日■」を、当初は江戸の御船蔵があった「兩國」とか(「■日」の部分)、その近くにあった「新大橋」(二つ目の判読不能字は「橋」のようにも見える)をこれに当てようと調べてはみたが、崩し字として孰れも到底、適合しない。識者の御教授を切に乞うものである。

「淸人、常に是れを食ふ」中国でカブトガニを食用とするという記事は「本草綱目啓蒙」などの本邦の諸本草書に記載があり、「本朝食鑑」の島田勇雄氏の訳注の第五巻(一九八一年平凡社東洋文庫刊)の「鱟」の最終訳注にも『中国では、小野蘭山の言うように食用に供したものであろう』とある。事実、カブトガニ類は現在も中国(南部)や東南アジアで食用にされている。但し、毒化個体が存在し、死亡例もあるようなので非常に危険である。ウィキの「カブトガニによれば、『日本においては』、概ね『田畑の肥料や釣りの餌、家畜の飼料として使われてい』ただけであるが、『中国やタイ等の東南アジアの一部地域ではカブトガニ類が普通に食用にされている。中国福建省では「鱟」(ハウ)と呼び卵、肉などを鶏卵と共に炒めて食べることが行われている。日本でも』、『山口県下関など一部の地域では食用に用いていたこともあったが、美味しくはないと言われている』。『大和本草は「形大ナレトモ肉少ナシ人食セス」、和漢三才図会は「肉 辛鹹平微毒 南人以其肉作鮓醬」としている』。『ただし、外観が似ているマルオカブトガニ』(カブトガニ科 Carcinoscorpius  Carcinoscorpius rotundicauda)『など一部の近縁種には、フグの毒として知られるテトロドトキシンを持っており、食用には適さない。上記地域では食中毒事件がしばしば発生している』。]

 

2018/04/18

ブログ1080000アクセス突破記念 豚と金魚 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年七月号『主婦の友』に発表。

 因みに、最初に出る「長者門(ちようじゃもん)」というのが、どのような門を指すのか判らぬ。識者の御教授を乞う。

本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1080000アクセスを突破した記念として公開する。【2018年4月18日 藪野直史】]

 

 豚と金魚

 

     1

 

「豚(ぶた)をかいませんか。豚を!」

 夕方になっても暑いから肌ぬぎになって、膳を縁側に持ち出し、冷(ひや)ヤッコをさかなにしてビールを飲んでいたら、山名君が長者門(ちようじゃもん)をくぐつて、のそのそと庭に入って来て、いきなりそう声をかけた。

「おや。もうビールを飲んでんですか。まだこんなに明るいのに」

「明るくたって、大きなお世話だよ」

 私はつっぱねた。山名君は年少の友人だが、まだ年齢は若いくせに、何やかやととかくお節介(せっかい)をやくくせがあるのである。若いのから意見されるのは、あまり愉快なことではない。

「日がながくなったんだからね、暗くなるのを待ってたんじゃ、八時頃になっちまう」

「それもそうですな。しかしその冷ヤッコ、うまそうですなあ」

 つばをごくりと飲み込んだ。

「それに薬味(やくみ)のシソとショウガの色のあざやかなこと。絵になりますよ」

 山名君は絵の先生をやっているから、そんなことを言うのだが、本当に色に感心したのか、食欲をそそられて口走ったのか、よく判らない。舌をべろりと出して下唇をなめた。

「シソなんかどうでもいいよ。それよりも豚を何とかと言ってたが、どうしたんだい?」

「ああ。豚ね。豚を持って来たんですよ。リヤカーに乗せてね」

 長者門の外を彼は指差した。

「安くしときますよ。どうですか」

「安いと言っても、いつも君から貰ったり買ったりすると、結局高くついてしまうからねえ。で、その豚肉、密殺豚じゃあるまいね。四百グラム、いくらだ?」

「四百グラム?」

 山名君は眼をばちくりさせた。

「冗談じゃないですよ。四百グラムだなんて。生き豚です。生きてんですよ」

「なに。生き豚?」

 私はつまみ上げた冷ヤッコを丼(どんぶり)に取り落した。

「僕に生き豚を買えというのか。買ってどうしろと言うんだ?」

「そりや小屋をつくって飼ってもいいし、何なら丸焼きにしてお食べになってもいいじゃないですか。とにかく持って来ます」

 ちょっと待てという暇もなく、山名君は身をひるがえして、長者門の方にすっ飛んで行った。やがて皮紐(かわひも)を引いて戻って来たので、よく見ると紐の先に仔豚がついて、よちよちと歩いて来た。仔豚の胴体に腹巻き式に、ぐるりと布が巻きつけてあって、紐はその腹巻きについているのである。山名君は鼻翼をうごめかして自慢した。

「どんなもんです。いい考えでしょう。初め犬の首輪をつけてみたんですがね、なにしろ豚はイノシシが進化したものでしょう。だから猪首(いくび)で、豚は苦しがってもがくし、もがくとスポッと首輪が抜けてしまう。それでこんな腹掛け式にしてやりました。どうです。この可愛いこと。こんないい顔立ちの豚は、めったにいませんぜ」

 仔豚はきょとんとした表情で、庭を見回している。私は豚についてあまり知識はないが、さほどすぐれた豚相とも思えない。豚は肥っているというのが相場だが、この仔豚はへんにスマートで、つまり瘦せこけているようだし、毛並もよごれている。後肢のつけ根あたりがこぶみたいに、ぶくりとふくれているのも気にかかる。

「あんまりいい豚じゃないね。それに僕には豚を飼う趣味はない。牛飼いならまだ趣きがあるが、豚飼いなんて散文的過ぎるよ。御免こうむる」

「じゃ今度は牛を持って来ましょう」

「いや。結構だ」

 私はあわてて手を振った。山名君のことだから、牛でも馬でも持って来かねない。この間などは頼みもしないのに、ヘビのぬけがらを持って来て、むりやりに私に売りつけた。つぶして粉にしてのむと精力剤になるというのだが、あまり当てにならないから、近所のどぶに捨ててしまった。

「それに豚を飼えばくさくて、近所から文句が出るだろう」

「御冗談でしょう。豚ほど清潔な動物は、他にはいないですよ。くさいのは管理が悪いからです。飼うのがイヤだったら、丸焼きは如何ですか。おいしいですよ。ことに鼻の部分がうまいという話です。邸永漢(きゅうえいかん)さんの本にもそう書いてありました」

 仔豚が私の方を向いてブーと鼻を鳴らした。

 「それならどこかの中華料理屋に持って行ったらどうだい?」

「実はお宅におうかがいする前に、うちの近くの中華屋に持って行ったんですよ。相手が話に乗って商談がまとまりかけた時、この仔豚はお香代(かよ)婆さんから預ったものだと、うっかり口をすべらせたら――」

「なに。これは香代婆さんの豚か」

「そうなんですよ。するとおやじがとたんに青筋を立ててね、オカヨババアの豚ならタダでもいやだ、とっとと持って帰れって怒鳴りつけたんで、僕はもうびっくりして――」

「なに、なに。そりや何か複雑な事情があるらしいな。まあ上れよ。ゆっくり話を聞こう」

「ではそうさせていただきます」

 予期していた如く、彼は皮紐を柿の木の根もとに結びつけると、下駄を脱いでのこのこと縁側に上って来た。坐るのかと思ったら、そのまま台所の方に行って、割箸と皿とコップを大事そうにかかえて戻って来た。御馳走するとも言わないのに、もう飲み食いする気でいるのだから、イヤになってしまう。もっとも図々しいところが、この山名君の身上(しんじょう)だと言えるのだけれども。

「うまいですなあ。この冷ヤッコ」

 豆腐をつまみ上げながら、コップをにゅっと突き出したので、私は余儀なくビールをとくとくと注(つ)いでやった。山名君はそれを一息で飲みほした。腕で唇の泡をふきながら、満足そうな声で言った。

「うまい。もう一杯下さい!」

「そりや飲ませてやらないこともないけどね、どうしてその中華屋のおやじが怒ったんだね?」

「これには深い事情があるんですよ。先ずさし当っての原因は、目下の求人ブームで、出前(でまえ)の人手不足ということですな」

 山名君は急に重々しくもったいぶった口調になった。ゆっくりしゃべることで時間をかせぎ、その分だけビールを余計に飲もうとの魂胆だとは思いたくないけれども、いつも彼は坐り込んでコップを手にすると、こんな話し方になってしまうのはふしぎである。

 

     2

 

 香代婆さんに私はまだ会ったことはないが、山名君の世間話にしばしば出て来るので、顔なじみのような気がしている。山名君の家の裏手に、小さな隠居所みたいな家があり、そこに一人で住んでいる。と書くと天涯孤独の身のように聞えるが、ちゃんと立派な息子がいて、貿易会杜の課長をやっていて、なかなか羽ぶりがいいという話だ。では何故息子と同居しないかというと、息子の嫁と気性が合わないのではなく、

「あたしゃ昔から自由が大好きでね、やりたい放題のことをやりたいのさ」

 そこでわざわざ別居して、生活費だけは息子に送らせて、気ままな老年をたのしんでいるのである。我意を通すだけあって、かなり気性は強く、どちらかというと強情我慢、ウルサ型の典型みたいな婆さんらしい。その婆さんがどういうわけか山名君とウマがあう。いろいろ可愛がったり、おかずを分けて呉れたりして、世話を焼いて呉れる。山名君の話によると、

「あたしゃ世の中の不正だのインチキだのを見ると、むらむらっと腹が立ってつっかかりたくなるけれど、あんたみたいに素直で正直な人を見ると、ひいきにしたくなるんだよ」

 と婆さんが言ったとのことで、私もすこしあきれて、

「へえ。君が素直で正直なのかね」

 と嘆息したら、

「もちろんそうですよ。それとも僕がひねくれてるとでも思っているのですか。それに僕が貧乏にもめげず、芸術にいそしんでいるでしょう。その点に婆さんは感動したらしいのです」

 と語気を強めた。なるほど、山名君は画家だけれど、絵が売れたという話は一度も聞いたことがない。その点感服にあたいすると言えば、言えるかも知れない。

 その香代婆さんがこの間、少々血相をかえて、総髪にした白髪をふり立てるようにして、山名君の家の庭に入って来た。駅前通りに出るためには、自分の門をくぐつて出るより山名君の庭を横切る方が近道なので、いつも婆さんはそこを通るのである。その時縁側で爪を切っていた山名君は、それを見てあわてて呼びとめた。

「お婆さん。お婆さん。顔色をかえて、一体どうしたんです」

「どうもこうもないよ。癪(しゃく)にさわるじゃないか」

 婆さんは足をとめて、じだんだを踏むようにした。丁度(ちょうど)そこらに草花が芽を出し始めていたので、山名君ははらはらしたそうである。

「駅前通りの珍華亭(ちんかてい)に、ラーメンの出前を頼んだんだよ。それから三十分も経つのに、まだ持って来ないじゃないか。女の一人暮しと思って、あの珍華のおやじ、あたしをバカにしてんだよ。だから今から文句を言いに行くんだ」

 なかなか気の強い婆さんで、不正不義を憎むのである。不正不義と言っても、婆さんがそう思い込んでいるだけで、生憎(あいにく)その日は日曜だったし、珍華亭の雇い人が一人やめて、出前の手不足で配達が遅れていたのだ。しかしそれを説明しても聞き入れるような婆さんではないので、山名君も爪切りを中止して、ついて行くことになった。婆さんの加勢をしようという殊勝な魂胆でなく、喧嘩の現場を見たいとの野次馬根性からだったらしい。

 

     3

 

「その珍華亭のおやじも少々変り者でね、商売人のくせにむっつりして、お世辞ひとつ言わない。しかしそういうのに限って、腕は確かなようですな。ラーメンでもチャーハンでも、ひなにはまれなものを食わせました」

 ビールも冷ヤッコもなくなったから、山名君は台所に立ち、勝手に冷蔵庫をあけて、新しいビールを二本と焼豚の皿を持って戻って来た。実に平然とことを遂行(すいこう)するので、私はなんだかここが自分の家じゃないような気がして来る。庭の生き豚を眺めながら焼豚を食うのは、妙な感じのものであった。

「婆さんは前にのめるような姿勢で、とっとと歩いて行く。もう六十何歳というのに、足腰が達者で、とても早いんですよ。僕も遅れじとあとに続きました。珍華亭の前に来ると、婆さんははずみをつけるような恰好(かっこう)でパッとのれんをはね上げ、中に押し入りました。珍華のおやじは丁度調理場でチャーハンをいためていた。婆さんが大声を出しましたね。

『出前を頼んで一時間も経つのに、まだ持って来ないのはどういうわけだね。あたしゃ腹が減ってんですよ。あたしを干乾(ひぼ)しにしようというつもりかい?』

『干乾し?』

 飯を空中でくるりとひっくり返しながら、おやじはじろりと婆さんを横眼で見ました。

『今若い者が暇をとってね、手が足りねえんですよ』

『手はあるじゃないか』

 婆さんは店番の小女(こおんな)を指差しました。小女はおろおろと灰皿などを片付けています。

『女じゃダメだよ』

 おやじは冷然と言って、コショウを飯にパッパッとふりかけました。

『それにあんたは出前にいろいろ文句を言うそうじゃないか。やめた若い者が言ってましたよ。やれ今日のは汁がからかったとか、シナ竹(ちく)が少かったとか――』

『文句じゃないよ。批評してやってんだよ』

『批評なんてものはね、もっと大局からするもんだよ。それを何ですか。シナ竹の一本や二本に、ケチケチとこだわって――』

『あれ、あたしをケチとお言いなのかい』

 婆さんは腕まくりをしました。女ながら勇ましいものですねえ。

『あたしゃお客だよ。そのお客に向って、ケチだから、つくってやらないと言うんだね』

『そうは言ってないよ。婆さんの分は出来てんだよ。ほら、そこに』

 おやじが顎をしゃくったので、見ると台の上にちゃんとラーメンの丼が乗っかっています。

『そんなに腹がぺこぺこなら、ここで食べてったらどうだね。その方が早道ですよ』

『お婆さん。そうしたらどうですか。いつまで言い合っても、きりがないから』

 僕がそう口をそえたものですから、香代婆さんは不服そうに僕をにらみつけ、それからどしんと椅子に腰をおろして、つんけんした声で小女に命令しました。

『それなら食べてやるから、棒みたいにつっ立ってないで、早くラーメンを持っといで!』

 小女がラーメンを持って来ると、婆さんはおもむろに卓上のコショウの容器を振り上げました。そしてあの穴が点点とある中蓋を爪でこじあけると、中身を全部パアッとラーメンにぶちあけてしまった。あっ、と言う間もありませんや。あれは一瓶五十円やそこらはするんでしょう。婆さんは帯の聞から財布を出して、十円玉を四つ、卓上にパチパチと並べました。

『さあ。代(だい)はここに置いたよ。山名さんや。帰りましょう』

 横眼で調理場から見ていたおやじが、憤然たる面もちで飛び出しました。そりゃそうでしょう。四十円のラーメンに五十円のコショウをぶちあけられては、どだい商売にならない。おやじは怒鳴りました。

『何てことをするんだ。もったいない』

『あたしゃケチケチすることが大きらいでね』

 婆さんも怒鳴り返しました。

『それともお前さんとこの店じゃ、コショウを使っちゃいけないのかい?』

『いけないとは言わん!』

 おやじもぐつと詰ったらしい。すぐ体制を立て直して、

『コショウをそんなに使った以上、ここで全部食べてもらおう』

『食おうと食うまいと、金を払った以上、あたしの勝手ですよ。それともお前さん、押売りする気かい?』

『なに押売りだと?』

 おやじの額に青筋がニョキニョキと立ちました。

『さっきこの小女(こおんな)に何て言った? 食べてやるから持って来いと言ったじゃないか。さあ、きっぱり食べていただこうじゃねえか』

 今度は香代婆さんの方がぐつと詰った。調理場でチャーハンが焦(こ)げて、煙を出し始めたので、小女があわててガスの火を消しに飛んで行きました。

『食えばいいんでしょ。食えば!』

 逃口上(にげこうじょう)がなくなったものだから、婆さんはふてくされて、居直りました。見ると丼の表面はコショウだらけで、ソバもシナ竹(ちく)も肉片もその中に埋没しています。婆さんは箸でそっとコショウをかきわけ、ソバをつまみ出しました。一口食べたとたんに、コショウが鼻に入ったと見え、大きなくしゃみを三度続けざまにしました。

 おやじが腕組みしてにらみつけているので、婆さんも逃げ出すわけには行かない。くしゃみをしたり、涙をほろほろ流したりしながら、やっと半分も平らげたでしょうか。見るに見かねて僕が横から口を出しました。

『お婆さん。残りは僕が食べましょう。僕も腹ぺこなんです』

『そうかい。それなら差上げるよ』

 と丼を僕の方によこした。あんなからいラーメンを食ったのは、生れて初めてですな。まるで口の中が火事になったみたいで、出すまいとしても大粒の涙がコロコロころがり出る。やっとのこと食べ終ったら、おやじが腕組みを解いて、汁まで全部飲んで行けと言う。ムチャな話ですよ。コショウがどっさり溶け込んでいるんですから、あれを飲んだら気違いになるか、あるいは肝臓が破裂して死んでしまうかも知れません。

『汁まで飲まねばならぬという規則は、どこにもないぞ』

 と頑張って、婆さんと二人で外に出て、家まで小走りでかけ戻って来ました。そしてボンプをギイコギイコ鳴らして水を出し、二人でがぶがぶ飲みました。実は珍華亭で水を注文してもよかったのだけれど、行きがかり上そんなわけには行きません。婆さんが涙を流しながら我慢しているのに、僕が水を頼んだとあっては、男の名折れですからねえ。

 香代婆さんはその夕方から、どっと床につきました。あんなからいものを食べて、水を一升ぐらい飲んだので、胃腸をこわしたんですな。僕ですらその日一日は身体の調子が悪かったんだから、六十何歳という年齢にはムリだったに違いありません」

 

     4

 

「豚とその話とどういう関係があるんだね」

 と私は聞いた。

「ええ。それがね、身体をこわしてどっと床についたとこから、次の幕が始まるんですがね」

 山名君はにやにや笑いながら、空のビール瓶を催促がましく振って見せた。

「もう、これ、ないんですか」

「イヤな奴だな。もうビールはないよ。戸棚をさがせばウィスキーが少し残っているかも知れないけれど」

「ウィスキー、結構ですねえ。持って参りましょう」

 台所をごそごそ探し回り、半分ほど残ったウィスキー瓶を持って戻って来た。

「なにしろ胃腸をいためたのだから、固いものは食べられない。僕も気の毒に思って、朝夕二度重湯(おもゆ)などをこしらえて、届けていました。香代婆さんというのは大の医者嫌いで、どんなにすすめてもかかろうとしない。おなかの病気なんか寝てりゃなおるという信念で、その信念が通ったのか、三日目にはやっと床に坐れるほどに回復しました。鏡を使って髪を撫でつけたりしていると、その鏡に庭の一部がうつったんですな。

 婆さんは一人で暮しているだけあって、きれい好きで、庭はあまり広くないけれど、雑草ひとつ生えていません。真中に小さな池があって、婆さんの趣味で金魚が飼ってある。僕は金魚について知識はないけれど、なかなか素姓のいい金魚だそうで、大きな尻尾をひらひらさせて、ゆうゆうと泳いでいます。その金魚を猫がねらっているのが、鏡にうつったんです。婆さんはキャッというような声を上げて、庭の方に振り向いた。

 全身があぶらぎって憎たらしく大きな黒猫だったそうですが、ちらと婆さんの方を見ただけで、また視線を元に戻して、前肢をチョイチョイと池につっこんで、金魚をかすめようとしている。婆さんはカッとなって立ち上り、そこらにあった箒(ほうき)をふり上げて突進しようとしたが、なにしろ三日間食うや食わずでしょう。腹に力が入らないものですから、ひょろひょろと縁側までたどりついた時、黒猫はパッと金魚をすくい上げた。口にくわえると、生垣の方に逃げて行く。おのれとばかり婆さんが縁側から飛び降りると、やはり体力不足のせいで足を取られて、よろめいて庭にひっくり返りました。起き上った時には、もう猫の姿も形も見えません。もしこれが病気でなけりゃ、婆さんは箒で猫を張り倒して、金魚を救えたでしょうにねえ。

 婆さんは怒りに燃えて、近所の子供たちを呼んで猫の特徴を話すと、それはきっと豚足の猫だよと口々に言う。豚足というのは一町ほど離れたところにある農家で、本来は農業ですが、内職に豚を飼っている。それだけ聞きただすと、婆さんは部屋に取って返し、生卵を二箇割って呑み、杖をついて豚足に出かけたんですな。婆さんを支えているのは、不正不義を憎む精神力だけです。でも精神力だけではスピードは出なくて、一町歩くのに三十分ぐらいかかったそうです。

 豚屋のおやじは在宅していました。四十がらみの肥った男で、庭で豚の餌の調合をしていました。サツマイモの煮たのに米ヌカとかオカラとか、そんなのを混ぜ合わせているところに、へんな婆さんが杖をついてよたよたと入って来たので、何と間違えたのか、

『うちじゃ間に合ってるよ』

 と、つっけんどんに言ったそうです。そこで婆さんはこちんと頭に来た。

『間に合ってるとは何だよ。この泥棒猫!』

『派棒猫?』

 猫呼ばわりをされて、豚屋は眼をぱちくりさせました。

『そうだよ。お前さんとこの猫が、さっきうちの金魚をかっさらって逃げたんだよ。一体どうして呉れる』

『金魚? 金魚ごときの問題で、血相かえることはないじゃないですか。いい歳をして見っともない』

『何を言ってんだい。金魚々々とバカにしなさんな。一匹何十万円という金魚もあるんだよ。お前さんとこの三文豚とは、ケタが違うんだ』

『三文豚とは何だ』

 調合の手を休めて、豚足も本気で怒り出しました。

『そら、自分で飼ってるものをけなされりゃ、誰だって怒るだろ。大切な金魚を盗られた身にもなってみなさい』

『じゃあどうしろと言うんだい?』

『金魚の代償に、豚一匹よこしなさい。それだったら、我慢してやる』

 別段豚が欲しいわけじゃなかったのですが、豚足の態度が横柄なのと、体がつらいのをムリしてここまで来たもとを取ろうと、とっさの間に婆さんの口から、そんなせりふが飛び出したというわけです。ちょいとした言いがかりですな。

『金魚と豚と!』

 果たして豚足は天を仰いで嘆息しました。

『冗談も休み休みにしてもらいたいね。比較になるもんか。それとも婆さんとこの金魚は、何十万という代物(しろもの)なのかい』

『何十万はしないけれど、一万五千円ぐらいするんだよ』

 婆さんはサバをよみました。香代婆さんの死んだつれあいというのは、弁護士だったそうで、その影響で彼女もサバをよんだり、言いくるめたりするのが得意なのです。

 それから婆さんと豚足の間に大議論が始まって、猫の行動にどの程度まで飼主が責任を持つべきかということや、金魚の管理に不備はなかったかとの。問題などについて、さまざまの意見が交されて、ついに豚足は、

『うちのクロが金魚を盗ったというが、その証人か目撃者を連れて来い』

 と言い出して来た。目撃者はいない。見ていたのは婆さんひとりですから、彼女は口惜しがって歯をギリギリと嚙み鳴らし、

『よろしい。お前さんがそういう態度を取るなら、あたしにも考えがある。あたしゃ警察署長や新聞記者に、たくさん知合いがあるんだからね。あとで後悔しなさんな』

 と捨ぜりふを残して、また一町の道を二十五分ぐらいかかって、えっちらおっちらと戻って来ました。

 夕方僕がおかゆをこしらえて、香代婆さんの家を訪ねると、婆さんは壁に向って坐って、ダルマのように何か思案にふけっていました。僕が声をかけると、婆さんはこちらを振り向いたが、あの気丈な婆さんが両眼に涙をうっすらとたたえているので、おどろきましたねえ。コショウ中毒にかかった揚句、大切な金魚まで盗られて、さすがの婆さんも涙もろくなったらしいのです。

『あたしゃ口惜しいんだよ』

 一部始終を聞いて、僕も同情にたえなかったですな。婆さんが血相をかえて珍華亭におもむこうとした時、この僕がとめさえすれば、こんな事態にはならなかった。その点で僕にも責任はないことはない。

『どうです。お婆さん』

 僕は思いついて提唱しました。

『新聞に投書したらどうですか。苦情欄とか何とか、そんなのを取り扱う欄があるでしょう。それに豚屋の猫のことを――』

『そうねえ』

 婆さんはおかゆをモグモグ食べながら、視線を宙に浮かせて、何かしきりに考えていましたが、

『でも、採用して呉れるかねえ。たかが泥棒猫のことで』

『そりゃ出してみなきや判らないですよ。案外目新しい事件だから、採って呉れるかも知れない』

 婆さんは梅干を頰ばり、首をかたむけていましたが、やがて思い詰めたように、

『それよりも、山名さん、あんたがその新聞記者に化けて、あの豚足をおどかして呉れないかねえ』

『え? 僕が新聞記者に?』

『そうだよ。あの豚屋みたいな男は、弱い者には横柄に出るけれど、強いのが来るとすぐへたへたとなるタイプだよ。あたしのカンに間違いはない。ねえ、山名さん、あたしをたすけると思って、ここで一芝居打ってお呉れでないか』

 と両手をつかれた時には、もう僕もことわり切れなかったですな」

 

     5

 

「それで――」

 私もあきれてコップを下に置き、先をうながした。

「君がその苦情欄の記者に化けたのか」

「そうですよ」

 山名君はウィスキーの瓶の尻をたたいて、最後の一滴を飲み干した。

「友達に新聞社につとめているのがいてね、翌日そいつを訪ねて名刺を一枚もらい、その足で豚足のところに行ったのです。一老女という署名の投書があって、お宅に悪質な泥棒猫がいるという話だが、と切り出すと、豚足はギクリとしたらしいが、平気をよそおって、

『あんたは誰だ?』

 というから、名刺を見せてやりました。そして続けて、

『豚のにおいがプンプンして、近所が迷惑しているとも書いてあるが――』

 と言うと、豚屋は急にへどもどして、態度もていねいになり、

『それ、新聞に乗せるんですか?』

 と哀願的な口調になったので、僕も少々気の毒になり、

『いや。部課長会議にかけて採否はきめるんだが、その一老女というのに心当りがあったら、あやまりに行って、投書の取消しを頼んだらどうだね』

 と教えてやり、縁側でお茶とお菓子を御馳走になり、意気揚々として戻って来たのです。なに? 包み金か何かもらったろうって? 冗談じゃないですよ。それほど僕は悪らつな男じゃありません。うちへ戻ってしばらくすると、香代婆さんの家の方から話し声が聞えるから、窓からそっとのぞいて見ると、豚屋がこの仔豚を持ってあやまりに来ていたところでした。僕は笑いをかみ殺すのに苦労したですな」

 外はもう蒼然と昏(く)れかかって、柿の木につながれた仔豚の姿も、さだかでなくなっている。酔いがこころよく全身をめぐつて来た。

「その仔豚を持て余して、珍華亭に売りに行ってことわられ、それで僕のところに持って来たというわけか」

「そうなんですよ」

 山名君はコップを伏せて長嘆息した。

「お宅でも要(い)らないとすると、一体どこに持って行けばいいのかなあ。仔豚の始末は僕に任せなさいと、婆さんに見得(みえ)を切って来た手前、今更持ち帰るわけにも行かないし、ほんとに頭が痛いですよ。弱ったなあ」

 立ち上ってからも、山名君はしきりにぼやいた。

御伽百物語卷之四 有馬富士

 

御伽百物語卷之四

 

     有馬富士

 

Arimahujil

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のもの(左右二枚)を合成、原画自体が上手く合わないので、上下左右の枠その他を消去して違和感を最小限に留めたつもりである。本文中の唄は、ブラウザでの不具合を考え、切れると思われるところで改行し、前後を一行空けた。なお、標題の「有馬富士」は現在の兵庫県三田市にある標高三百七十四メートルの山である(グーグル・マップ・データ)。後半の舞台がここということなのであるが、題名とのストーリーには親和性は殆んどないと言ってよい。]

 

 攝州有馬郡(ありまごほり)塩原山(しほばらやま)の溫泉は世に有馬の湯と稱して、都鄙遠境の人、あしをはこび、馬にまたがりて、日夜にむらがり、虛勞冷痰疝氣等(とう)、おもひおもひに恙(つゝが)ある時は、湯文(ゆふみ)のおしへにまかせ、こゝに浴するに、百發百中の驗(しるし)すみやかなるがゆへ、人皇三十五代舒明天皇三年に始めて行幸ましましけるより、千歳の今にいたる迄、所の繁榮、綿々として絶えず。されば、此湯坪にやしなはれ、病者を導きて、作業(なりはひ)をする者また少からず。去(さり)し建久の比より、土地をならし、構(かまへ)を改むる事ありてより、十二坊、軒をつらね、湯槽(ゆぶね)を、一、二に分ち、湯治往返(たうぢわうへん)の人の、先をあらそひ、功を貪るの邪(よこしま)なきためとて、大湯女(〔おほ〕ゆな)小湯女と名付け,坊每(ごと)に女を抱へ、五畿七道の旅客をあつかはしむる事なりしに、いつとなく色を媚(こ)び、情(なさけ)をつくりて、戀慕愛執の絆(きづな)をなす媒(なかだち)となりぬれば、春の夜の一刻、價千金を用ひ盡しても、はかなき夢の私語(さゝめごと)をたのみ、就中(なかんづく)、膓(はらわた)を斷つといふなる秋の暮に、月待ち顏の戸ぼそは、かならずといひしかね言(ごと)をたのむならひとぞなりわたりける。

[やぶちゃん注:有馬温泉は旧摂津国、現在の兵庫県神戸市北区有馬町(ここ(グーグル・マップ・データ))にある日本三古湯の温泉で、古くは清少納言の「枕草子」の「三名泉」(第百十七段に『湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯』とある。「ななくり」は「七栗」で現在の三重県の榊原温泉とする説の他に、和歌山県の「湯の峰温泉」や長野県の「別所温泉」を指すとする説がある。また玉造も島根県の玉造温泉とする以外に、宮城県の鳴子温泉の旧称としてそこに当てる説もある)、江戸前期の林羅山の「日本三名泉」(他の二つは群馬県の草津温泉と岐阜県の下呂温泉。但し、これは室町時代の僧万里集九が既にこれらを三名泉と書き残していたものを、羅山が漢詩にして読み込んだのが人口に膾炙しただけのもので彼の命数ではない)にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされていた。有馬温泉の歴史については「有馬温泉観光協会」公式サイトのこちらに詳しい。江戸時代より前はそちらを読んで戴くとして、本話のシークエンスの映像化に役立ちそうな、江戸時代の様子の解説部を引いておく。『江戸時代に入ってからの有馬は、さらに繁栄の一途をたどり、江戸時代の有馬は幕府の直轄領であ』った。『しかし、当時は現在のように各旅館内に内湯があったわけではなく、町内に元湯がひとつあるだけで、湯治客はすべてこの元湯に出かけるシステムになっ』ており、また、『温泉の湧出量もさほど多くなく、秀吉の入湯、そして泉源の本格的な改修工事により』、『温泉としての知名度が高まって訪れる人は増加したものの、当時の入湯の様子を調べてみると、現在の姿とはかなり異なっていた』らしい。『この頃の元湯は、南北に七間』(十二・七二メートル)、『東西に三間』(五・四五メートル)『ほどの建物が』一『棟あったにすぎず、その中に設置されていた浴槽も、南北に』二丈余り、東西一丈余り[やぶちゃん注:一丈は三・〇三メートル。]で『中央に板仕切りがあり、一辺一丈の小さな正方形のもので』、『その南側は「一の湯」北側は「二の湯」と呼ばれ、深さはいずれも三尺七、八寸』(約九十一センチメートル強)『であったと伝えられてい』るという。仁西(にんさい:ここに先行する部分に、平安末期の承徳元(一〇九七)年に有馬で洪水が発生し、人家を押し流して温泉も壊滅したとされ、これ以後、実に九十五年もの間、有馬は殆ど壊滅状態のままに推移したと考えられているとあり、源平合戦によって平家が滅亡した直後の建久二(一一九一)年、吉野山麓にあった高原寺(現在の奈良県吉野郡川上村大字高原)の住職であった仁西という僧が有馬の再興を果たした、とある)が開いた十二『の坊は、秀吉が大改修工事をしたころには』、二十『坊に増え』、『旅館として機能しており、一の湯には十坊、二の湯に十坊がそれぞれ入るように決められて』おり、各坊には二人の『湯女が配属されて』いた。『その後も湯治客の増加にあわせて、坊の下に「小宿」と称する宿舎が作られるようになり、宿泊施設も充実してい』った。『また、江戸時代後半になると、庶民も社寺参詣や、湯治に出かけるようになり』、『このような庶民の旅の手助けをしたのが道標で』、『有馬温泉にもこれらの道標がいくつか現存しており、有馬の街で見かけるけることができ』る、とある。なお、有馬温泉は怪奇談の舞台になり易いらしく(温泉は所謂、湧き出すところが「地獄」と呼ばれるから、有馬に限らず、総じて怪談との親和性は強い)私の既に電子化したものの中でさえ、「諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事」の外、柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)の中の「雲萍雜志」所収のそれなどがある。

「虛勞」疾患を原因とする全身性衰弱。

「冷痰」漢方では幾つかの意があるようであるが、陽気の不足によって脾胃が衰弱し、胸部に冷たい痰が結ぼれる状態を言うようである。

「疝氣」下腹部の痛む病気。

「湯文(ゆふみ)」不詳。各地の温泉案内書にある効能書き(適応症)か。

「人皇三十五代舒明天皇三年」現行の序数では第三十四代天皇で、生年は推古天皇元(五九三)年(?)で没年は舒明天皇一三(六四一)年、在位は舒明天皇元(六二九)年から没年までで、推古天皇の次代。当時の政治の実権は蘇我蝦夷にあった。

「建久」一一九〇年から一一九八年まで。

「かね言(ごと)」「兼言」「予言」。前もって言っておいたこと、約束の言い交し。客と湯女が将来を契った約束である。]

 

 こゝに玉笹(たまさゝ)の仙助といひける男は、そのかみ、越後の高田にて名ある武士なりけるが、さる子細ありて延寶年中に一族を引きぐし、年比(としごろ)すみ馴れたる高田を立ちのき、丹州雲原(くものはら)といふ所に田地を求め、はじめて歸隱退耕の逸民の心をなし、明暮れ、碁(ご)・將棊(しやうぎ)・連歌の席、または琴・三味線・尺八のあそび、さまざまの遊興に飽きける餘り、此程は一向に色をおもんじ、妻妾(さいせう)にほこり、彼(か)の揚國忠[やぶちゃん注:「揚」はママ。]が肉陣(にくぢん)とかやいひけるは、冬の夜、我が座したるあたりに、美人をあまた居ならばせ、寒きあらしを防がせける、といふ本文を聞きはつり、京・江戸・大坂はいふにおよばず、國々所々に人をつかはし、繪圖を以て姿形(すがたかたち)より目つき物ごし迄、同じやうなる美女を十人抱え、肉陣の遊びをなすべしとおもひたち、方々より呼びあつめ、千金を憎まず尋ねもとめけるに、纔か七人にいたりて世に女なきがごとく、繪にあひたる者なくて、

「いかゞ。」

と思ひわづらひける所に、此比(ごろ)、ある人の語りけるは、

「攝州有馬の湯本大藏町といふあたりに、高町無三(たかまちむ〔さん〕)とかやいへる針の醫(い)あり。常は此邊近郷の村に療治を業(わざ)とし、多くは貧家(ひんか)の娘、便(たより)なき嬬(やもめ)の一人子(ひとり〔ご〕)などを引き取りてかくまへ、此村の湯女または京・江戸・大坂の色を賣る里、あるひは大名高家に茶の間お湯殿の宮仕へ、それぞれに仕立て、はかなき勤(つとめ)に今日の命(めい)を繼がしむるの人あり。」

と聞きて、

「さらば、彼を尋ねても此望(のぞみ)は足(たり)ぬべし。」

と、おもひたちけるより、早(はや)首途(かどで)して、一つは湯治の養生をも心にかけつゝ、自身、旅におもむき、夜を日にそひて急ぎ彼(か)の大藏町(おほくらてう)にたづね入りて、無三を宿とし、心中の程を語りければ、無三もまた、仙助が富貴(ふうき)と心ざしに折れて心やすく領狀(れうでう)しぬ。

「しからば、いついつの日、御とも申すべし。當所は國法の御制禁(ごせいきん)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、さやうのものを養ひ置き候ふ所は程を隔てて侍る。」

よし、細かにかたり聞かせ、四、五日もすぎぬと思ふ比(ころ)、仙助と兩人、しのびやかに宿を出で、北をさして行く事、三里ばかりして、三田村とかやいふ里に着きぬ。無三、こゝより駕籠を歸し、仙助と只二人、二本松のかたへ行きけるに、程なく大きなる門がまへあり。いかさま往昔(そのかみ)は名高(なだか)かりし寺などにやと見えて、庫裏(くり)・客殿(きやくでん)・室(しつ)の間(ま)など、むかし覺えたるかまへながら、軒(のき)破れ、瓦、落ちて、狐・梟(ふくろう)のすみかともいひつべし。本堂とおぼしき所は片はし崩れて、雨もたまらねばにや、本尊と覺しき丈六の佛を客殿の廣庇(ひろひさし)にすえたり。

[やぶちゃん注:「玉笹(たまさゝ)の仙助」不詳。

「延寶」一六七三年から一六八一年。徳川家綱・綱吉の治世。

「丹州雲原(くものはら)」現在の京都府福知山市雲原(くもばら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。有馬温泉の北北西七十六キロメートルに位置する。古くは丹後国与謝郡に属した。奥深い山中ではあるが、北にある与謝峠は西国三十三所観音霊場の巡礼道であったから、人の行き来は以外にあって関所もあった。本来は宮津藩領であるが、玉笹仙助が移り住んだ時期が微妙で、延宝八(一六八〇)年から天和元(一六八一)年の間は幕府領であった(以上は、何故かしばしばお世話になるサイト「丹後の地名」のこちらの記載に拠った)。

「妻妾(さいせう)にほこり」妻や妾(めかけ)に自慢して。この男の神経が判らぬ。

「揚國忠」「揚」はママ。親族(又従兄)であった楊貴妃の地位を利用して玄宗に取り入り、宰相となった「楊國忠」(?~七五六年)の誤記。「肉陣(にくぢん)」は本話のややエロチックなニュアンス(彼は「美女」を選んでおり、「肉陣の遊び」と称し、「七人」まで探し遂せたものの、残りの三人がどうしても見つからず、「世に女なきがごとく、繪にあひたる者なくて」と言っている辺りはそうした雰囲気が濃厚である)とは異なり、彼が冬には常に太った侍女たちを前に歩かせてそれを「肉陣」と言ったことに由来する。権勢を誇った彼も、楊貴妃が縊り殺された馬嵬(ばかい)(現在の陝西省興平市)で、先だって兵士に殺されている。

「聞きはつり」この「はつる」は「削る・斫る」で「少しだけ削り取る」の意であるから、まともにちゃんと読んだのではなく、それこそ誰かから聴き齧(かじ)って、の意であろう。

「攝州有馬の湯本大藏町」現在の有馬町にはこの地名は残っていない。兵庫県神戸市北区大蔵があるが、ここは有馬から十二キロメートルも西南西で、有馬の村域とするのには無理がある。

「高町無三(たかまちむ〔さん〕)」不詳。

「夜を日にそひて」昼夜兼行で。

「仙助が富貴(ふうき)と心ざしに折れて」算盤勘定をして、専ら「富貴」に折れたに違いのがよく判るように前に出してある。

「領狀(れうでう)」(りょうじょう)は「仰せを承諾すること」の意。

「當所は國法の御制禁(ごせいきん)」当時の有馬温泉の表面上の公的意味での風紀(客と湯女との性的交渉という内実は措いて)は厳しかったことが判る。

ゆへ、さやうのものを養ひ置き候ふ所は程を隔てて侍る。」

「北をさして行く事、三里ばかり」「三田村とかやいふ里」有馬温泉から北北西十キロメートルほどの位置に、現在、兵庫県三田市がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二本松」三田市にこの地名はない。或いは、そうした非合法の置き屋であるから、山の中の目印の一般名詞としての「二本松」なのかも知れぬ。現在でも三田市中心部の北東部は丘陵や山岳地帯で、幾つかの山寺も地図で確認出来る。

「室(しつ)の間(ま)」寺院で住職一人のための居間に当たる「方丈」のことであろう。因みに「庫裏」(くり)は寺の台所及び、そこから転じて、住職や弟子及び家族が使用するプライベートな居室を広汎に指す語である。ここはこれとダブるから「台所」でよいであろう。

「むかし覺えたるかまへ」相応の格式と規模の寺であったことを想像させる結構であることを指す。

「本堂とおぼしき所は片はし崩れて、雨もたまらねばにや、本尊と覺しき丈六の佛を客殿の廣庇(ひろひさし)にすえたり」ここは、「本堂と思しき所は既に屋根の片端が崩れてしまっていて、さんざんな状態でひどく雨漏りしている様子で、されば、『ここならば、雨も溜まらない』と考えたものか、本堂の仏壇から、本尊と覚しき丈六の仏像を下ろして、客殿の前にあって幸い損壊を免れている広庇(ひろびさし)の下に据え置いてあった」という意味であろう。因みに「丈六」とは仏像の背丈の一つの基準で、如来の身長が一丈六尺(約四・八五メートル)あると伝えられることから、仏像もそれ)=丈六)を基本的な標準値としたもの。実際には、祀る場所や建造物によって、その五倍・十倍或いは二分の一などで造像された。なお、坐像の場合の丈六像は半分の約八尺(二メートル四十三センチメートル)で作り、ただ「半丈六像」と称した場合は約八尺の立像を指す。]

 

 仙助は、見馴れぬ事どもに心おかれ[やぶちゃん注:気が落ち着かず。]、

『いかにや。』

と思ひ居たるを、無三は事もなげに此ほとけの膝につい登り、佛像の左の乳くびをとりて引きあぐれば、大きなる穴あきたり。

 仙助をまねきて、ともに此あなより這(はひ)いりけるに、ふしぎや、此佛の腹中に、又、廣き道ありて、行く事、十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]ばかりもあらんとおもふに、大きなる門がまへあり。

 始め見たるには違ひて、棟門(むねかど)玉をみがき、金銀をちりばめ、心も詞(ことば)もおよびがたき事、一とせ、太閤秀吉の伏見の御殿御普請のありさまもかくやと思ひ、金閣の東山殿ともいひつべき構と見えたり。

[やぶちゃん注:「太閤秀吉の伏見の御殿御普請のありさま」現在の京都市伏見区桃山地区にあった秀吉が建てた原伏見城。ウィキの「伏見城」によれば、『伏見城の原形ともいえる施設は豊臣秀吉が』天正一九(一五九一)年に『関白の位と京都における政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、自らの隠居所として伏見の地に築いた屋敷である。この屋敷は』文禄元(一五九二)年八月十一日に『秀吉が平安時代より観月の名所と知られる指月周辺を散策して同月』十七『日に場所を決定し』、二十日には『着工が決められ』た。『この際、聚楽城下から多くの町民が移住したと考えられ、現在も「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」などの地名が伏見地区に遺る』。この『隠居屋敷は』文禄二(一五九三)年九月には『伊達政宗との対面や徳川家康・前田利家との茶会に用いられるなど、概ね完成したと思われ』ている。しかし、同年、『明との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え』、『日本の国威を見せつける目的と』、同年八月三日に『拾丸(豊臣秀頼)が産まれ、拾丸に大坂城を与える』ことを『想定したこと』から、『隠居屋敷は大規模な改修が行われることになった』。文禄三(一五九四)年十月頃より、『宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築き』、『その上に街道を通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われた。また宇治橋を移して指月と向島の間に架け豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和・伊勢及び西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺え』、ここに『大坂城に付随する隠居用の屋敷から秀吉の本城へと意図を変えたと考えられる』。築城は文禄三(一五九四)年から『本格的に始まり、普請奉行に佐久間政家が任命され、石材は讃岐国小豆島から、木材は土佐国、出羽国からも調達され、同年』四『月には淀古城から天守、櫓が移建された。同年』十『月には殿舎が完成し』、翌文禄四年に秀次切腹事件が起きると、同年七月には、『破却された聚楽第からも建物が移築され、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の支城、向島城が築城された』とある。なお、豊臣秀吉は大の温泉好きで、有馬温泉との縁も深く、彼はここに御殿も造営している。先の「有馬温泉観光協会」公式サイトのこちらにも詳しいが、ここは「大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト」のこちらから引いておく。彼は例えば、『中国攻め途中の』天正七(一五七九)年には有馬温泉一帯を領地として』おり、『秀吉本人やその縁者も何度も有馬に湯治に訪れ、災害で寂れていた有馬の復興に力を注いでいます。このことから温泉寺』『を建立した奈良時代の僧行基、有馬十二坊と称される浴舎を建て、温泉を再興した平安時代末から鎌倉時代の僧、仁西上人』『と共に「有馬の三恩人」と言われてい』る。当初、『秀吉は有馬を訪れる際には現在の天神源泉近くにあった「阿弥陀堂」を利用してい』たが、文禄三(一五九四)年には『自身のための湯治施設として「湯山(ゆのやま)御殿」』『を建設』、『建設するにあたって』は、六十五軒もの『家屋を強制撤去して』おり、相当に『規模の大きなものであった』ことが判る。この御殿は』慶長元(一五九六)年に発生した『伏見大地震によって倒壊し』たが、二年後には『再建されて』いる。無論、現存しないが、『湯山御殿の位置は愛宕山の山腹にある現在の極楽寺あたりと考えられて』おり『極楽寺の庫裏(くり)の床下には「湯殿あと」と伝えられる遺構が保存されてい』たとあり、リンク先には遺稿の画像も出る。必見。]

 

 無三、先づ門に入りて案内しけるに、年の比(ころ)、十四,五なる童子,六,七人,水色の直垂(ひたたれ)に小結(こゆひ)のえぼし着(き)たるが、出(で)むかひ、無三を見て、おのおの、手を拱(こまね)きていふやう、

「主人、此ほど、君の御出でを待ち給ふ事、久し。はや、御通り候へ。」

と、いざなひ行く所に、主人と見えつる人は、五十にもあまりけんと見えて、折(をり)えぼしに水干(すいかん)なよやに着こなし、八ツ藤のさしぬき靴(くわ)の沓(くつ)をはきたるが、螺細(らでん)の椅子に靠(よりかゝ)り給ひしありさま、仙助、心まどひ、魂(たましひ)を失ふばかり、戰慄(わなゝ)きてひかへたるを、無三は、何ともなき顏(かほ)やうして、しづかに步み出づれば、此主人、おそれたる氣色にて、倚子(いす)より立ちてむかひに出で、一禮をなしける時、無三、仙助がかたを見かへりて、いふやう、

「此人は、これ、高田の何某(なにがし)にて弓馬に名ある御(お)かたなるぞ。よく饗應參(もてなし)らせよ。」

と、いひて引き合はせ、

「我、けふは、こゝに來たる事、此君をいざなひ奉らんためのみ也。今、急に用の事ありて、歸るぞ。かまへて、此御客、おろそかにすべからず。彼(か)のかゝえ置きつる女ども、みな、めし出だして、もてなし參らせよ。」

と、いひて歸ると見えしが、たちまちに姿を見うしなひぬ。

[やぶちゃん注:「小結(こゆひ)のえぼし」「小結」は本来は、折烏帽子 の巾子 こじ:「こんじ」の撥音の無表記。本来は冠の頂上後部に高く突き出ている部分を指す。髻(もとどり)を入れ、その根元に笄(こうがい)を挿して冠が落ちないようにする。元はこれをつけてから前部の覆いである幞頭(ぼくとう)を被ったが、平安中期以後は冠の一部として作り付けになった) の下部左右に穴をあけ、髻に結んだ小紐を引き出し、烏帽子が落ちないように後部で結ぶ作業を言うが、ここは「小結烏帽子」で小結の組紐を長く垂らした侍烏帽子のこと。]

 

 仙助、いよいよ怪しくおぼえながら、貴人なる人に、なれなれしくとふべきやうもなければ、只かしこまり居たるに、彼の主人仙助をいざなひ、奥のてい[やぶちゃん注:「亭」(屋敷)の意で採っておく。]に行きけるに、唐織(からをり)の深緣(ふかへり)さしたる二疊(でうだい)紫檀(したん)の倚子に古金襴(こきんらん)の帳(とばり)して、仙助を座せしめ、其身は引きさがりて、錦(にしき)の深緣さしたる二疊臺白檀(びやくだん)の倚子になをりける時、十八、九より卅四、五迄と見えつる女の、姿かたち、いときよげに玉をつらねて作りたらんやうなるが、廿人ばかり行きかよひ、さしつどひて、さまざまの肴とゝのへ、いろいろの膳部、心をつくし、酒をすゝめ、諷(うた)ひ舞ひなどする程に、仙助、つくづくと此ありさまどもを見るに、

『我が國もとにて、繪姿に物數寄(ものすき)し、あつぱれの美人とおもひしを、此所(このところ)のすがたに思ひくらぶれば、花のかたはらの枯木か孔雀のまへの梟。』

とのみ、見ゆるにぞ。

 いつとなく心いさみ、興に乘じて、あまたゝび、酒をくみかはしける比(ころ)、中にも「花川(はなかは)」とかやきこえし女は、年、すこしさかりに過ぎたりと見えたれど、聲よくうたひ、器量もひとしほに勝れたりければ、是れに目うつりて、宵より、仙助も人しれずしのび目に、ひたと見おこせたるに、女もまた、心ありげなりけるが、仙助、いさゝか盃(さかづき)をひかへて、いたく醉ひたり、と見えつゝ、吞みかたげなりし時[やぶちゃん注:「吞み難げなり」でもうちょっと酒を飲むのは難しそうだといったポーズをしたところ。そこでさらに酌を勧めるのは寧ろ縁戚に侍る芸者の常識。]、花川、みづから酌にたちけるが、

「すん。」

と、たちて、

 

  かすがのゝ若むらさきの根にかよふ

  君が心しかはらずば

  野中の淸水くみてしれ

  もとより我もこひ衣(ごろも)

  うらなきものをひたちおび

  むすびあふせをまつかぜ

 

と、おしかへし、おしかへし、絲竹(いとたけ)の音にうちそへて、はりあげたる聲、さしひく、かいな、扇の手の身ぶりまで、なをざりならず、戀かぜまさり、うつらうつらと聞きいたるに、主人、俄(にはか)に、

「用の事ありて、國の守(かみ)にめさるゝ也。程なく歸り來たるべし。」

と、仙助にいとまごひ、夜はいまだ子の刻[やぶちゃん注:午前零時前後。]ばかりとおもふに、供まはり、美々(びび)しく、騎馬(きば)數おほくうちちつゞきて、出でゆきぬ。

[やぶちゃん注:唄に注する。

・二行目の「し」は強意の副助詞。

・五行目の「ひたちおび」は「常陸帶」で、昔、正月十四日に常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事で、意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯(はらおび)の献納が起源とされる帯占(おびうら)に掛けたもので、「うらなき」は「占」を引き出すとともに、「裏無き」で私の思いに嘘はない、恋情は心底のもの、という意を掛けている。

・六行目。このように実際に歌謡として旋律に合わせて歌われたものは、字余りや字足らずが多くあることは知ってはいる。しかしそれでもここまで定型のものであるのだから、最終部は個人的には「まつのかぜ」と音数律を合わせたくなるのだが、それは無粋なのだろうか?]

 

 そのあとは、女のみなる座敷となりて、いとゞしき樂しみ、

『今こそ、おもふ事、いはでたゞにや。』[やぶちゃん注:「今こそ、思うておる彼女への恋心、言わずに空しく終わる(この場を立ち去る)ことができようか、いや、出来ぬ!」。]

と戲れそめて、彼の花川と一間(ひとま)なる閏(ねや)にいりて、偕老(かいらう)の契(ちぎり)、あさからず。

 千夜を一夜とおもひつゝ臥したりけるむつ言(ごと)に、花川、うちしほれ、淚ぐみつゝかたりけるやう、

「さても君。いかなる故ありて、こゝには來たらせ給ひしぞや。妾(せう)が身は、もと、近江の國高嶋の者にて、坂上田村丸利仁(さかのうへたむらまるとしひと)將軍におもはれ參らせつる『海津(かいづ)の細目(ほそめ)』といひしものゝ娘にて侍(はべら)ふぞや。利仁、この高嶋を領せられし比(ころ)、禁中の格勤者(かくごんしや)何がしをそゝのかし來たらせ給ひ、『芋粥にあかせん』とてつれくだり給ひつる夜(よ)、みづからは賤(いやし)けれども、利仁の御たねにて細目が腹にやどりたればとて、召して御屋形(おやかた)にそだち侍ふほどに、其比(そのころ)、わづか七つばかりの年なりけるを、此(この)飯綱(いづな)つかひにとられ、幻術にまよはされて、うき年月を重ね侍る程に、今ははや幾許(いくばく)の年を越えつれば、定めて、その由緒も絶えたるらんと、おもへば便(たより)なく悲しく侍るぞかし。君、もし、こゝを退(のが)れたまはずば、永く此(この)里のとらはれ人となりて、世を惑はすの奴(やつ)に催促(かりもよほ)され給ふべし。こゝら、ありわたる人は、みな、そのたぐひにて侍るぞや。」

と、つぶつぶと、かたりつゞけて泣くに、仙助、大きにおどろき、

「こは、そも、何と、いふぞ。其(その)高嶋に田村丸の居たまひつる事は、人皇五十代桓武の御世、今、すでに、千年にちかし。我(われ)、今の代をいはゞ、人皇すでに百十四代聖神文武(せいじんもんむ)の元祿改元ましまして三年也。君がかたる所の芋粥の事は宇治拾遺といふ物にしるし傳へて、世の口ずさみとなれる事ぞ。かくな、空言(そらごと)したまひそ。」

とはいひながら、

『さしあたりたる身のうへ、いかゞせん。』

とあきれたるに、花川、また、いふやう、

「そも、この里を誠ありとおもひ給ふより、しばし、猶豫(ゆうよ)心(こゝろ)もある也。よし。後(のち)におもひあはせ給はん。さりとも、我がいふやうにしたまへ。」

とて、白き練貫(ねりぬき)をもつて、仙助が頭(かしら)をつゝみ、おしへていふやう、

「主(あるじ)歸りたまはゞ、天照大神(てんしようだいじん)をはじめ、諸々の神號(しんがう)をとなへ給へ。主、かならず詫びたまはん。是れによらずしては、よも、たすかり給はじ。」

と、おしへ置きぬ。

[やぶちゃん注:芥川龍之介も吃驚りの「芋粥」の驚天動地のサイド・ストーリー、大展開!

「近江の國高嶋」滋賀県高島市。琵琶湖の北西部。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「坂上田村丸利仁(さかのうへたむらまるとしひと)將軍」奈良末期から平安前期の武人で征夷大将軍として蝦夷征伐をした坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)と、平安中期の武将で鎮守府将軍となった藤原利仁(生没年未詳:民部卿藤原時長の子で越前国敦賀の豪族藤原有仁の娘婿。延喜一一(九一一)年に上野介、翌延喜十二年に上総介に任じられている。延喜一五(九一五)年に鎮守府将軍)との混同(この混同は古くからあったので筆者を批判するには値しない)但し、芥川龍之介「芋粥」の素材とした、「今昔物語集」の巻二十六の「利仁將軍若時從京敦賀將行五位語第十七」(利仁の將軍、若き時、京より敦賀に五位を將(い)て行く語(こと)第十七)及び「宇治拾遺物語」の巻一に載る「利仁芋粥の事」(利仁、薯粥(いもがゆ)の事)の主人公は後者であり、その話を素材としている以上、ここは藤原利仁である(リンクはそれぞれ「やたがらすナビ」の原文)。但し、高島の地を領有したのがどちらであったかは確認出来なかった。識者の御教授を乞うが、五位を敦賀に連れて行くというロケーションからも、本文ではっきりと「利仁、この高嶋を領せられし比」と言っていることから、高島は利仁でしっくりくることはくる。

「海津(かいづ)の細目(ほそめ)」不詳。

「格勤者(かくごんしや)」古くは撥音無表記で「かくご」とも表記した。平安時代、院・親王家・大臣家などの最上級階級の者に仕えた武士。

「飯綱(いづな)つかひ」「飯綱使ひ」。荼枳尼天(だきにてん:元はインドの魔女でサンスクリット語では「ダーキニー」。仏教に採り入れられて鬼神となり、密教では胎蔵界曼陀羅外院にあって、大黒天に所属する夜叉神。自在の通力をもって六ヶ月前に人の死を知り、その心臓を食うとされた。本邦では狐の精とされ、稲荷信仰と混同されている)を祭り、「イヅナ」或いは「エヅナ」又は「管狐(くだぎつね)」などと呼ばれる架空の霊的小動物を駆使し、託宣や占いなど、様々な法術・妖術を行った、特に東日本で活動した民間の宗教者。原型と思しいものは古くからあり、特に中世以降、流行した。古くから飯綱使いの法術は「飯綱の法」といい,近世では邪術の類と見做されていた。飯綱使いの多くは修験系の男の宗教者であったが、「いたこ」などの巫女もこれを用いることがあったらしい。「イヅナ」の語は明らかでないが。信州の飯繩(綱)(いいづな)山及びそこの古い修験道などと関係があるのではないかと考えられてはいる。

「その由緒」母の血脈。それに繋がる後裔。

「催促(かりもよほ)され給ふべし」いろいろなことを命ぜられ、それらを直ちに実行するように、責め立てられなさる立場に陥りなさるに違い御座いません。

「ありわたる人」ずっと長い期間、この屋敷でかくなる状態で時を過ごすしている人々。

「つぶつぶと」こと細かに、詳しく。

「人皇五十代桓武の御世」前で「其(その)高嶋に田村丸の居たまひつる事は」とあり、第五十代天皇(ここの序数は現代と合致している)桓武天皇の在位は天応元(七八一)年から延暦二五(八〇六)年であるから、ここは坂上田村麻呂として述べていることになる。

「今、すでに、千年にちかし」玉笹仙助が越後高田藩を脱藩したのは延宝年間(一六七三年~一六八一年)とあったから、それで単純計算すると最長で九百年前となる。実は次で、玉笹仙助は現在時制が元禄三年だと初めて明かす(次注参照)のだが、それで計算しても、最長で九百九年前にしかならないから、玉笹の謂いはちょっとドンブリということになる。

「人皇すでに百十四代聖神文武(せいじんもんむ)の元祿改元ましまして三年也」ここで初めて見かけ上の現在時制が元禄三年、グレゴリオ暦一六九〇年に限定される(「見かけ上」と言ったのは、ラスト・シーンから言うと、この世界では時間は急速に先へ進んでいる訳だからである)。「百十四代」とあるが、これは序数がまた違っている。元禄三年当時の天皇は第百十三代天皇東山天皇(在位:貞享四(一六八七)年~宝永六(一七〇九)年)である。「聖神文武(せいじんもんむ)」というのがよく判らぬが、今のように今上天皇というのを、当時はこう言ったのだろうか? 識者の御教授を乞う

「そも、この里を誠ありとおもひ給ふより、しばし、猶豫(ゆうよ)心(こゝろ)もある也」よく判らぬが、玉笹仙助(仙助のはこの辺りでブラック・ジョークの確信犯の名前と判る)が「まだ、今居る世界を現実の世界だと信じ切っているという点に、実は却って、救われ得る可能性の種(あなたの側の心の余裕に当たる部分)があるのです」と、花川は言っているように思われる。

「後(のち)におもひあはせ給はん」私の今申し上げたことは、それが上手くいった後、その暁には「なるほど!」と、きっと思い当たられることにもおありになられることでしょう。

「白き練貫(ねりぬき)」「練貫」は縦糸に生糸、横糸に練り糸(生糸を灰汁(あく)や石鹸やソーダ溶液で処理して膠質(にかわしつ)のセリシンを除去した柔らかく光沢のある絹糸)を用いた平織りの絹織物。恐らくは飯綱使いの眼を見ないようにするためであり、或いはこの絹織物に邪気を排する効果もあるものかも知れぬ。]

 

 ほどなく、夜あけなんとする比、彼のあるじ歸りぬ。

 仙助、花川がおしへしとをり、大音(だいおん)をあげて祈りけるに、主、おほきに仰天し、頭(かうべ)を地につけ、命を乞ひていふやう、

「花川が骸骨(がいこつ)、我がおしへに違(たが)ひたる故に、此(この)天災にあひぬ。吾が幻術も、是れまで也。今より、なに、住む事、かなはず。命(いのち)を助けさせ給へ。」

と、再三よばゝりて、逃げさりぬ。

 花川、なを、仙助にかたりけるは、

「我、君(きみ)とふかき緣あるがゆへに、假にも契りをなす事を得たり。彼(かれ)は、一とせ、津の國龍泉寺にありて不動咒(ふどうのじゆ)となへたる修行者を、肥前國まで投げたりし、幻術つかひの鬼(き)なり。今は去(さり)ぬれば、心やすし。」

などいひて、二とせばかりありけるが、仙助、ふと、故郷なつかしく、歸りたき心つきて、妻に此事かたりしかば、妻も又いふやう、

「我、幽冥にゆるされ、假に爰(こゝ)に來る事、限れる日かず、あり。けふ、すでに、盡たり。よし、歸り給へ。日ごろの情(なさけ)、おぼしめし出ださば、哀れとも思ひ、とぶらはせ給へ。」

とねんごろにかたり、仙助をともなひ、刄物(はもの)を以て、東の方の壁を、きり明(あく)ると見えしが、始め入りたる時の佛の乳(ち)の穴に似たるが、是れより、仙助をおし出だしぬ、とおもひけるに、思はずも武州江戸淺草に聞えたる駒形堂の緣の下より、はい出でたり。

 それより、漸(やうやう)、袖乞(そでこ)ひに命(いのち)をつなぎて、もとの丹州に歸りけるが、纔かに二とせあまり、とおもひつるも、國に歸りてければ、二十年を經たりしとぞ。

[やぶちゃん注:出て来た場所が、私の好きな「駒形泥鰌」の傍の駒形堂というのも、まるで私にサービスして呉れたみたようだ! 感激!

「津の國龍泉寺」摂津国龍泉寺であるが、未詳。「宇治拾遺物語」の巻一に載る「修行者逢百鬼夜行事」(修行者、百鬼夜行に逢ふ事)に拠れば、実はこの寺、旅の修行僧が真夜中に踊り狂う鬼の群れに遭遇する(リンク先はやはり「やたがらすナビ」の原文)。また、これが所謂「百鬼夜行」の濫觴とも言われているらしく、怪奇の起こる頗るいわくつきの寺らしい。しかも、以下の花川の話は実はまさにその「宇治拾遺物語」を元にした話なのである!

「不動咒(ふどうのじゆ)」不動の慈救咒(じくじゅ)或いは大咒(たいしゅ)であろう。「慈救咒」は「中咒」とも呼ばれる不動明王の真言の一つで、中間の長さのもの。ウィキの「不道明王」から引く。「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」。「大咒」は「火界咒(かかいしゅ)」と呼ばれる真言で、「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」。一般に知られ、「不動真言」と呼ばれる短いものは「小咒」「一字咒(いちじしゅ)」で、「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」である。孰れも意味は「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ! 迷いを打ち砕き給え! 障りを除き給え! 所願を成就せしめたまえ! カンマン!」の謂いらしい(「カンマン」は不動明王を象徴する一音節の呪文(「種子(しゅじ)」と呼ぶ))。因みに、私の守護尊は生年月日からは不動明王だそうである。

「幻術つかひの鬼(き)」ここは「宇治拾遺物語」を現実的にインスパイアしている。原話は明らかに真怪としての妖怪・妖鬼であるわけだが、花川は妖術を完成するために鬼神に魂を売り渡した花川の魂(骸骨を用いた蘇生術とその使役)を弄んだ幻術使いの人非人であって、あくまで鬼畜の人間として捉えているものと思う。この「鬼」は中国の「死者」の意でも怖ろしい化け物としての「鬼」ではなく、寧ろ、致命的に救い難い人間の面をした鬼のような極悪人というイメージなのだと私は思うのである。

「駒形」これは「宇治拾遺物語」の僧が「肥前國の奥の郡」に飛ばされたそれのパロディで東国なのであろう。]

 

2018/04/17

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)

Sagi

さぎ   鷺鷥 絲禽

     雪客 白鳥

     舂鋤

【音路】

     【和名佐木】

ロウ

 

本綱鷺林棲水食羣飛成序潔白如雪頸細而長脚青善

翹高尺餘解指短尾喙長三寸項有長毛十數莖毿毿然

如絲欲取魚則弭之以目盻而受胎禽經云飛則霜鷺

飛則露步于淺水好自低昻如舂如鋤之狀

△按白鷺全軆純白惟脚與啄黑指色黄其聲人呼喚

 者也三才圖會云鷺性惡露其翔集必舞而下

 月淸 飛きゆる雲井の鷺の羽風ゟ我が色こほす雪の曙後京極

一種小鷺【一名盃鷺】是白鷺之小者共肉淡甘夏月最賞之

 

 

さぎ   鷺鷥〔(ろし)〕

     絲禽

     雪客〔(せつかく)〕

     白鳥

     舂鋤〔(しようじよ)〕

【音、「路」。】

     【和名、「佐木」。】

ロウ

 

「本綱」、鷺は林に棲みて、水食〔(すいしよく)〕す。羣飛して序を成す。潔白なること、雪のごとし。頸、細くして長し。脚、青く善く翹〔(かけ)〕る。高さ、尺餘り。解〔(ひら)ける〕指、短き尾、喙〔(くちばし)〕の長さ、三寸。項〔(うなじ)〕に長き毛有り、十數莖〔(くき)〕、毿毿然〔(さんさんぜん)〕として絲のごとし。魚を取らんと欲するときは、則ち、之れを弭〔(と)〕む。目を以つて盻〔(げい)〕して胎〔(たい)〕を受く。「禽經〔(きんけい)〕」に云はく、『(しもふるとり)、飛ぶときは、則ち、霜ふる。鷺、飛ぶときは、則ち、露〔(つゆ)〕、をつ。淺き水に步〔(ほ)〕して、好んで、自〔(みづか)〕ら低昻〔(ていかう)〕す。〔それ、〕舂〔(うすつ)〕くがごとく、鋤の狀〔(かたち)〕のごとし。

△按ずるに、白鷺、全軆、純白、惟だ、脚と啄と黑く、指の色、黄。其の聲、人の呼び喚ぶ者なり。「三才圖會」に云はく、『鷺の性〔(しやう)〕、露を惡〔(にく)〕む。其れ、翔び集〔まれば〕必ず舞ひて下〔(くだ)〕る。』〔と〕。

 「月淸」

  飛びきゆる雲井の鷺の羽風より我が色こぼす雪の曙

                     後京極

一種、「小鷺」【一名、「盃鷺」。】 是れ、白鷺の小なる者なり。共に、肉、淡甘。夏月、最も之れを賞す。

 

[やぶちゃん注:これは「白鷺」であるが、白鷺とは鳥綱 Aves 新顎上目 Neognathae ペリカン目 Pelecaniformes サギ科 Ardeidae の中で、ほぼ全身が白いサギ類の総称通称であり、「シラサギ」という和名の種がいるわけではないので注意が必要(但し、中国語で「白」は種としてのコサギ(サギ科コサギ属コサギ Egretta garzetta を指す)。ウィキの「白鷺」によれば、本邦では、一般に全身が白色を呈する、サギ科の、

アオサギ属ダイサギ(大鷺)Ardea alba alba

(同亜種で小型のチュウダイサギ Ardea alba modesta 含む)

アオサギ属チュウサギ(中鷺)Ardea intermedia

コサギ属コサギEgretta garzetta

コサギ属カラシラサギ(唐白鷺)Egretta eulophotes(数少ない旅鳥(渡りの途中で春・秋に定期的に姿を見せる鳥を指す)として知られる)

を指し、

サギ亜科 Ardeinae アマサギ属アマサギ(飴鷺)Bubulcus ibis(夏季は頭部から頸部及び胴体上面がオレンジがかった黄色(飴色)の羽毛で被われ(夏羽)るが、冬羽は全体に白くなるため)

も入れられることがある。また、

クロサギ(コサギ属クロサギ Egretta sacra)の白色型(必ずしも稀ではなく、九州以北では黒色型が分布するが、南西諸島では白色型の割合が増える。黒色型は黒い岩場に適応し、南西諸島に多い白色型は白い砂浜やンゴ礁に適応したものと考えられている)

もこれに加えられる、とある。

 

「水食〔(すいしよく)〕す」水中の生物を捕食する。

「羣飛して序を成す」整然と並んで群れ飛ぶ。

「翹〔(かけ)〕る」「翔る」に同じい。

「項〔(うなじ)〕に長き毛有り」上記の種群は概ね、成鳥は雌雄ともに繁殖期の前になると、頭や背に「飾り羽」が生じるので、この言いは正しい。

「毿毿然〔(さんさんぜん)〕として」「毿毿」は、毛などがふさふさとして長いさま、或いは、細いものが長く垂れ下がるさまを言う。

「弭〔(と)〕む」止める。押さえて獲る。

「盻〔(げい)〕して」睨んで。

「胎〔(たい)〕を受く」前にも出てきたが、凝っと見つめ合うだけで受胎するのである。

「禽經」既出既注であるが、たまには再掲しよう。春秋時代の師曠(しこ)の撰になるとされる鳥獣事典であるが、偽書と推定されている。全七巻。

「露〔(つゆ)〕、をつ」露が降りる。

「低昻〔(ていかう)〕す」首(頭部)を上げたり、下げたりする。

「舂〔(うすつ)〕くがごとく」臼で何かを搗(つ)くようであり。

「鋤の狀〔(かたち)〕のごとし」鋤(すき)で地を耕すのにも似ている。

「人の呼び喚ぶ者なり」人が誰かを呼ぶようにも、叫ぶようにも聴こえるものである。

「鷺の性〔(しやう)〕、露を惡〔(にく)〕む」「禽經」の記載との連関性が私には今一つよく判らぬ。

「月淸」「式部史生(ししょう)秋篠月淸集」(あきしのげっせいしゅう)は藤原良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年:平安末から鎌倉初期の廷臣で歌人。九条兼実の子として生まれ、左大臣を経て、従一位摂政太政大臣に昇った。後京極殿と号した。和歌を藤原俊成に学び、建久期前半(一一九〇年~一一九七年)には、歌壇を主宰して、定家ら新風歌人の庇護者となり、「花月百首」「六百番歌合」を開催。建久七(一一九六)年の政変(父兼実が関白を罷免されて失脚した事件)により、一時、籠居したが、後、政界に復帰、後鳥羽院歌壇に於いても中心人物として「新古今和歌集」編纂に貢献した。同歌集の「仮名序」を執筆し、巻頭歌作者ともなっている)の自撰家集。全四巻一千六百十余首を収める。「新古今和歌集」成立の元久二(一二〇五)年前後に成ったと推定される。「南海漁夫」「西洞隠士」などの謙退仮名をも用いており、良経の隠者志向を窺わせる一面もあるが、その人生の無常をも見つめた長高清雅な歌境が、この家集の価値を高めていると言える(歌集の評価は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。但し、以下の一首はネットで幾ら調べても「秋篠月清集」には載らないようだ。確かに良経の一首とならば、識者の御教授を乞う。

「飛びきゆる雲井の鷺の羽風より我が色こぼす雪の曙」前注最後に記した通りであるが、これに非常によく似た一首を、室町時代の臨済宗の僧で歌人の淸巖正徹(しょうがんしょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年:備中(岡山県)小田郡で神戸山城主小松康清の次男として生まれた。応永二一(一四一四)年三十四歳にして東福寺で出家した。同寺では書記をしていたことから「徹書記」とも呼ばれ、自ら「招月菴」とも号した。冷泉派の和歌に通じ、二条派の尭孝法印とともに室町期の京都歌壇の代表的人物とされる。現存する和歌は「草根集」十五巻に集録される一万一千首余を始めとして、二万首余に上る。「新古今和歌集」の藤原定家に傾倒し、幽玄で象徴的・幻想的な作風を特徴とする(「朝日日本歴史人物事典」に拠った))の一首に見出した(水垣久氏の「やまとうた」の「正徹」の頁)。集外歌仙の中の一首で、

 

   曙雪

 しら鷺の雲ゐはるかに飛びきえておのが羽こぼす雪のあけぼの

 

前の一首が確かに藤原良経のものであるとすれば、これは本歌取りと名指す以前に、下手な剽窃と言うべきものだと私は思う。

「小鷺」これは文字通り、サギ科コサギ属コサギ Egretta garzetta と採ってよかろう。

「盃鷺」は小さな白磁の盃の意か。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 四~六 / 柳田國男「一目小僧その他」全電子化注~完遂

 

     四

 

 この通り、加賀と越前の熊谷彌惣左衞門稻荷は、共に松島の新左衞門同樣に江戸還りであります。ところがその淺草の熊谷稻荷の緣起も、現在あるものと古くからのものとは、よほど違つて居るのであります。第一には稻荷の名でありますが、江戸總鹿子大全といふ元祿年中の書には、明瞭に熊谷彌惣左衞門稻荷とありますのに、江戸砂子の方には熊谷安左衞門稻荷とあります。現在の多くの書物の安左衞門は、すべて江戸砂子によつたものと思はれます。

[やぶちゃん注:「江戸總鹿子大全」元禄三(一六九〇)年に板行された江戸の地誌。藤田利兵衛(生没年も事蹟も不詳)著。先行する藤田の江戸地誌「江戸鹿子」の、藤田自身による増補版。本文は全六巻で「江戸鹿子」と同じだが、当時の人気絵師菱川師宣の挿絵が挿入され、「江戸鹿子」以上に好評を博した。

「江戸砂子」江戸中期に俳人菊岡沾涼が書いた江戸の地誌。「江戸砂子溫故名跡志」とも称する。享保一七(一七三二)年刊(編集に八年をかけている)。江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。]

 

 そこで江戸砂子の話を又簡單に申し上げると、年代は大分食ひ違つてをりますが、越前の大守、或年三日三夜の大卷狩を企てられたところ、その前夜に、御先手を勤める熊谷安左衞門のところへ、一匹の老狐がやつて來て言ふには、どうか今度の卷狩には、私どもの一族だけは是非お宥しを願ひたいと、是は狐にも似合わぬ利己主義な話でありますが、どうか私の一族だけは助けて下さいと賴みました。そこで安左衞門が、お前の一族だか、他の狐の一族だか、その區別がどうして人間にわかるかといつたところが、私の一族は尾の尖がちょつと白いからわかります。どうか尾の尖の白い狐は許して下さいといつて歸りました。そこで早速殿樣に話し、殿樣も亦人の好い方で、それでは助けてやらうといふことになつて、翌日からの狩には、白い尻尾を立てゝ見せた狐だけは助けてもらふことが出來ました。この安左衞門も後にやはり何かの理由で浪人をして、これも江戸に出て、白銀町に住んでをりました。ところが小傳馬町の藥師堂の前に住む障子作り、建具職の忰の長次郎といふ者が、ある日淺草觀世音に參詣して、手洗場の附近で、一見したところ田舍者らしき若い夫婦の者と喧嘩して歸つて來た。さうしたらその晩から狐がついて、大騷ぎになりました。俺は越前の國の狐である。無禮をしたからこの男に取憑いた。どんなことをしたつて落ちないぞと、頻りに威張つてゐるそばから、併し若しこの近所に熊谷安左衞門といふ人がをりはしないか。この人には曾て狩場の恩があるから、その人が來ると俺は如何ともすることが出來ないといつた。搜して見たところ白銀町の、何れひどい裏長屋でありませうが、熊谷安左衞門という浪人が住んで居た。是非々々お願ひ申しますといつて賴んで連れて來たところが、狐は平身低頭をして早速に落ちて立退いたといふのは、何だか豫め打合せでもして置いたやうな話であります。爰に至つてかこの熊谷安左衞門が狐を追ひ落すといふことが評判になつて、小石川のさる御大家に抱へられて立身したといふ話であります。その結果最初には紺屋町邊の宮大工の店から、小さいお宮を買つて來て家に祀つてをつたが、後程なく淺草觀世音の境内に、熊谷稻荷として祀ることになつた、といふのが江戸砂子の説であります。江戸砂子が有名な著書である如く、この話も一般に非常に有名な話であります。武江年表にもちやんと出て居るのであります。

[やぶちゃん注:「白銀町」現在の東京都新宿区白銀町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「紺屋町」東京都千代田区神田紺屋町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「武江年表」斎藤月岑(げっしん 文化元(一八〇四)年~明治一一(一八七八)年)江戸後末期から明治の文人。名は幸成(ゆきなり)が江戸府内外に起った事柄を編年体に記したもの。全十二巻。正編八巻は嘉永元(一八四八)年に、続編四巻は明治十一年成立。正編は天正一八(一五九〇)年の徳川家康の関東入国から嘉永元(一八四八)年まで、続編は同二年から明治六(一八七三)年までで、江戸の地理の沿革や風俗の変遷、巷談・異聞などを記録している。]

 

 寛文三年[やぶちゃん注:一六六三年。]六月十五日(淺草志には寛文二年)淺草に熊谷安左衞門稻荷社を勸請と、武江年表の中には出て居ります。それから四十五六年も經つて、また同じ年表の寶永四年[やぶちゃん注:一七〇七年。]九月四日の條には、熊谷安左衞門卒す、墓は新堀端橫町本法寺にありとあつて、辭世の歌一首を掲げております。

     拂へども浮世の雲のはても無し曇らば曇れ月は有明

人に狐などをつけて置きながら、是は又餘りにす濟まし返つた辭世の歌だと思はれますが、狐と彼との關係とてもやはり一つの傳説で、ごくごく確かな話とはいへないのであります。第一に先程申す如く、この浪人の名字が熊谷だといふことは餘程疑はしいのであります。現にこの辭世の歌の刻んである本法寺の墓を見ますと、何處にも熊谷といふ名字は書いてないのであります。石碑の表は夫婦で、男の方は山本院東雲日賴居士とあつて、本來山本といふ名字であつたことが想像出來るのであります。淺草の熊谷稻荷の傍にも、元は一つの石碑がありました。この石碑には山本院一中日賴とあつて、妻妹の戒名と連名になつておりました。兎に角に曇らばくもれ月は有明の歌をよんだ安左衞門といふ人は法華の行者でありまして、淺草の觀世音の境内にお稻荷さまを建てた人としては似つかはしくないのであります。又寛文三年に稻荷の堂を建てたといふ人が、四十五年後の寶永四年まで生きて居たといふのも、可なり有得べからざることであります。どうも少し長命すぎる。恐らくは同じ人ではなからうと思ひます。それから本法寺の石碑の方には、女房と二人名を並べ、更に淺草觀音にあつたのは妹と三人連名になつて居るのでありますが、是等の點から考へますと、どうやらこの法華の行者が狐使ひで、女房と妹を助手にしてをつたのではないかと思ふのであります。もしさうでなくしてこれが熊谷安左衞門の墓であるとしたならば、女房は兎に角、妹まで出るわけがないのであります。つまり女房とか妹とかの口を借りて、五十年からさきの歷史を語らうとしますれば、話はするたびに少しづゝ、變つて來るのも決して不自然ではないのであります。外國では屢試みられた社會心理の實驗でありますが、人を二十人か三十人一列に並ばせて置いて、簡單な百語か百五十語の話をこちらの一端で話してそれを順々に次の人に傳へさせ、後に他の一端に於て言はせて見ると、もう非常に違つて來るのであります。かやうに隣同士が一列を爲して、口から耳へ卽時に傳へても、それが二十人からの人になると、もう元の形は無くなるのであります。ましてや數十年の久しきに亙つて、何度も同じ事をくり返して話すのであります。同じと思つて居るうちにいつの間にか違つて來るのは、是は寧ろ當然といつてよいのであります。

[やぶちゃん注:「新堀端橫町本法寺」先に示したsunekotanpako氏の「奴伊奈利神社」の「その3」によって、この寺は台東区寿二丁目(地下鉄銀座線田原町駅近く)にある日蓮宗長瀧山本法寺であることが判っている(ここ(グーグル・マップ・データ)。sunekotanpako氏のページには同寺に現存する「熊谷安左衛門廟處碑」及び「熊ヶ谷彌三郎之碑」なる写真が掲載されてある。但し、『安左衛門の墓はわからなかった』と記されておられる)。それにしても「新堀端」というのは、現在の東京都渋谷区広尾附近(ここ(グーグル・マップ・データ))の旧地名で、これではまるで位置が合わない。寺が移転した可能性はあるが、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同寺の詳細事蹟を見るに、そのような事実はない。ところが、松長氏の「本法寺の縁起」の最後には、

   《引用開始》

社伝曰、熊谷安左衛門ハ当寺の檀家ゆへ、初め浅草観音寺内へ勧請せしを、又当寺へ勧請する所なり。熊谷安左衛門墓も当寺にあり。江戸志

毎年十一月廿九日・晦日、脊属祭。盗賊除守札出る。江戸図説

安左衛門ハ元越前の住人にして、山本勘助か甥なり。父を山本図書と云。安左衛門もはしめハ、山本三郎兵衛武頼と云。故ありて氏を熊谷に改む。則当寺の檀家なり。安左衛門、はしめ此社を浅草観音の境内に勧請して、法華経を石に彫りておさむ。其後、故ありて神鉢其外霊宝なと、当寺に移し勧請す。安左衛門か納むる所の縁起、かれか娘の書写せし家の系図も此社に納めてありと云。改撰江戸志(御府内寺社備考より)

   《引用終了》

とあり、「本法寺にある熊谷稲荷」の項には、

   《引用開始》

江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した。この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸者に参詣多しと書かれているように世に名高い稲荷である。 稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありその中でも人間に福徳をわかつ狐として白狐だけが稲荷大明神の御本尊にえらばれる資格があると云われている。

白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語り継がれているが熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所しかないきわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。(本法寺掲示より)

   《引用終了》

とあるのである。]

 

     五

 

 現在傳はつて居るところの、淺草の熊谷稻荷の緣起なるものは、近頃印刷になつた色々の書物に出てをりますが、これは確かに一種の改良であり、又整頓であつたかと思はれます。それを搔いつまんで申しますと、昔近江の國伊吹山の麓に山本圖書武了(たけのり)といふ武士が住んでゐた。越前の太守朝倉義景に仕へてをつた。あるときの狩の前夜、白髮の老人入り來つて、やつがれはこの一乘ケ谷の地に永年の間住居する一城小三太宗林といふ狐でござる。一女おさんなる者唯今懷胎して身重く、明日の狩倉の鏃[やぶちゃん注:「やじり」。]を免れんこと覺束ない。どうか御家に傳はるところの傳教大師祕傳の「一の守り」を御貸しあつて、當座の危難を救はしめ玉へとわりなく賴んだ。狩倉の御人數として何たる不心得なことであつたか、快く承引して狐安全の護符を與へたとは、主人に對しては相濟まぬ話であります。ところがその後裔に山本武朝といふ者浪人をして、これもやはり江戸に出て大傳馬町に住し、その名を熊谷安左衞門と改めた。

[やぶちゃん注:「山本圖書武了」不詳であるが、「文化遺産オンライン」の「紙本着色熊谷(くまがい)稲荷縁起絵巻 附(つけたり)紙本墨書熊谷稲荷縁起」に、ここに書かれた伝承が彼の名ととともにそっくり出ているから、かなり知られた伝承であったことが判る。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)は戦国大名。孝景の子。初め、孫次郎延景と称していたが、天文二一(一五五二)年、将軍足利義輝の偏諱を得て、義景と名乗った。同十七年、父の死により、跡を継ぎ、一乗谷城主となった。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和し、越前を平定。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることが出来なかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立、義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立し、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し(姉川の戦い)、さらに天正元(一五七三)年には信長の攻撃を受け、居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移してここを小京都たらしめた人物としても知られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「山本武朝」不詳。]

 

 その隣町の小傳馬町の藥師堂の前に住む建具屋半左衞門の一子長右衞門――長右衞門の親が半左衞門は少々おかしい――寛文五年[やぶちゃん注:一六六五年。]七月二十三日と、これは日まではつきり出てをります。その日にこの若い者に狐がついて、口走つていふのには、この者は町人の分際として、夏足袋に雪駄をはき、杖などをついたりして實に不埒な奴である。さうして觀音堂の水産において、我に手水をかけておきながら、却つて喧嘩をしかけて、杖で此方を打つた。憎い奴だからこの男についたといひました。註釋を加えると又理窟になりますが、寛文五年頃に夏足袋に雪駄をはいた町の若者といふのは非常に信じにくい。かういふ亂暴なアナクロニズムは、よくよくお粗末な大衆文藝家でもやれない藝であります。

 それからなほその狐がいふには、俺は越前一乘ケ谷の小三太宗林の一類で越中安江の中の郷に住む宗庵といふ狐の子息、宗彌といふ狐である。山本家に對しては我が先祖にとつて狩庭(かりば)の恩がある。さうして熊谷安左衞門こそは山本家の嫡流であるから、その下知には從はなければならぬと告白した。そこで又早速その熊谷安左衞門を賴みに行きまして、來てもらふと忽ち退散したといふことで、そのときには白狐ではなく、黑白斑の大狐が姿を現はして逃げて行つたと謂つて居ります。それから早速その翌日に淺草觀世音の境内へ祠を建てたといふのが、現在の熊谷稻荷だと新緣起には見えて居るのであります。

[やぶちゃん注:「越中安江の中の郷」不詳。]

 

 我々がこの話の不思議さを了解するため、或はこの話の意味を知るために、先づ問題にしなければならぬのは、昔朝倉義景の時代に在つて、狐が夜分にやつて來て護符を貸して下さいといつたという樣な、さういふ隱密の事件を全體誰がいつまでも記憶してをつたかといふことであります。正面から見て最も主要な歷史家は、小傳馬町の建具屋の忰、夏足袋雪駄の長右衞門であります。その次にはこの浪人の山本氏、卽ち熊谷安左衞門君でありますが、これはきわめて樂な地位であつて、默つてやつて來て、成程そんなこともあつたやうだといふ顏さへして居ればよかつたので、積極的には別に大して働いて居りません。つまり誰が一番この話を保存するに盡力したかといふと、狐が人に憑いて言ふことを眞に受けることの出來た周圍の人々といふことになるのであります。さういふ人々の社會が、三百年前の奇なる史實を、斯くして兎に角に不朽にして呉れたといふ斷定に歸するので、少しぐらいの食違いはさうやかましくいふことも出来ないわけであります。

 

     六

 

 全體江戸の狐狸は、よく昔から北國筋へ往復してゐるのであります。例へば前の三州奇談の中に今一つ、有名な藤兵衞駕籠屋の話があります。これは上州茂林寺の文福茶釜の守鶴、小石川傳通院の宅藏司、江州彦根の宗語狐、或は鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつたといふ類の話と、日を同じくして談ぜらるべきものであります。

[やぶちゃん注:「三州奇談」のそれは正編の「卷之三」の「霾翁の墨蹟」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで全文が読める。「霾」は本文を読んで貰うと判るが、本来は音「バイ・マイ」で、訓は「つちふる」(風が土砂を巻きあげて降らせる)、或いは「つちぐもり」(巻き上げられた土砂で空が曇ること)であるが、実は漢字の分解で、「雨」ふるを知る霊力を持った「狸」の意の号である。

「文福茶釜の守鶴」言い方が後の併置の謂い方と比しておかしい。「文福茶釜」は群馬県館林市の曹洞宗青竜山茂林寺に伝わる伝説で、現在も同寺には狸が化けたとされる茶釜が伝わっているが、守鶴は狸の名ではなく、応永元(一三九四)年から正長元(一四二八)年の間、当寺の住持であった僧の名である。その守鶴が愛用した茶釜が、一度水を入れると、一昼夜汲み続けても水がなくならないという伝説が伝えられており、それが文福茶釜と名指されるようになったのである。

「宅藏司」現行、通常は「澤藏司」(たくぞうす)と表記するのが正しい。東京都文京区小石川にある浄土宗無量山伝通院(でんづういん)に伝えられる、僧に化けたとされる狐の名。ウィキの「澤蔵司」によれば、天保四(一八三三)年、『江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作から』、『その才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった』。『澤蔵司は入寮すると非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき』、『寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った』。『その後』、『一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと戸外で仏法を論じていたという』という妖狐譚である。

「宗語狐」俳人路通絡みの妖狐譚に出る宗語という老人に化けた狐。前に出た「諸国里人談」の巻之五の「九 氣形部」の「宗語狐」として出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る(但し、草書)。

「鎌倉建長寺の使僧が犬に食はれて死んだのを見ると、その正體が狸であつた」かなり知られたもので、「耳囊 卷之八 狸の物書し事」を参照されたい。]

 

 是も金澤城下の淺野といふところに、山屋藤兵衞といふ駕龍舁[やぶちゃん注:「かごかき」。]が、通し駕籠[やぶちゃん注:途中で駕籠の乗り継ぎをせず、目的地まで直行すること。]で客を送つて江戸まで出て來た。その歸りに淺草橋場の總泉寺から、年とつた坊さんを京都の大德寺まで送り屆けることになつて、武州深谷の九兵衞といふ男を相棒として、再び通し駕籠で北國筋を歸つて來た。そのときもやはり建長寺の狸のお使僧と同じ樣に、所々の宿屋では書を書いて人に與へる。その字が今日まで殘つてゐるのです。さうして泊りを重ねて加賀の宮の腰といふ宿場にかゝつて休んでゐると、非常に強い犬が駕籠の中へ首を突つ込んで、その坊さんを引き出して咬み殺してしまつた。吃驚して介抱すると、坊さんの正體は貉であつたといふのであります。さうしてその貉が金を澤山持つてゐる。しかし引き取るものがないので、二人の駕籠屋がこれを持つて、橋場の總泉寺へ來て話をしたところが、總泉寺でいうにはもう二百年も前から、あの老僧は我が寺に住んでゐた。さうして是非京都へ行きたいと言ふので送り出したが、命數は免れ難く、いよいよ道途に於て終りを取るといふ夢の告が既にあつた。その金はお前たちの方へ取つておけといふので、忽ちこの二人が金持になつた云々という奇談であります。

[やぶちゃん注: 「金澤城下の淺野といふところ」先に出た「「三州奇談」の「淺野稻荷」との親和性が強いことが判る。

「淺草橋場の總泉寺」現在は東京都板橋区にある曹洞宗妙亀山総泉寺。この寺は当初は浅草橋場(現在の台東区橋場。ここ(グーグル・マップ・データ)。浅草寺の東北方)にあった。

「加賀の宮の腰」現在の石川県金沢市金石。この附近(グーグル・マップ・データ)。にしても(確かに本文では「北陸道を經てのぼりける」とはあるが)私は何だか変に思う。駕籠屋二人に里心がついて、一度、金沢に戻ってから回るということで請け負ったものか?]

 

 それから又一つ、越中の滑川[やぶちゃん注:「なめりかは」。]在の百姓八郎兵衞といふ者、家貧しくして營みを續け難く、親子三人で北國街道を辿つて江戸へ出ようとした途中、狐がお産をするのを見て、憐れんでその狐の子を介抱してやつた。それから難儀をしいしい武州へ入つて來て、熊谷から少し南の鴻の巢の宿へかゝつたが、食物がなくて路傍の茶店に休んでゐると、そこへ一人の見なれぬ老僧がやつて來て、お前はまことに善人だから餅をくれようといつて、店先から餅を買つて三人の者に食はせた。その老僧が立ち去つてから、茶店の亭主がいふには、お前さんは何か善いことをして來ましたね。あの人は四五年前からこの土地をあるいてゐる不思議な坊さんだが、どうも狐らしいといふ評判である。あの人から物を貰つた者は必ず立身する。私も一つお前さんに緣を繫いで置かうといつて、江戸へ行つたらどこそこへ訪ねて行くやうにと紹介狀などを書いてくれた。斯うして早速の便宜を得て、江戸は駒込の何とかいふ處に住んで、段々に榮え金持になつたといふのであります。これ等は北國往還の旅人と、武州の狐との間に結ばれる因緣話の、最も普通の一つの型なのであります。狐が旅行をすることは前にも申しました。大和の源九郎狐[やぶちゃん注:「三」で既出既注。]と同じ話は、隨分諸國にありまして、その話なら自分の國にもあるといふ人によく出逢ひますが、その中でも一番有名なのは、秋田の城址の公園にある與次郎稻荷、これもやはり飛脚になつて、始終江戸へ往來をして居た。佐竹家には大事な狐でありましたが、或時新庄とか山形とかで、人のかけた鼠の油揚のわなにかゝつて殺されたのであります。獸類の悲しさには、殺されることを知りながらもそれを避けることが出來なかつた。跡には状筥[やぶちゃん注:「じやうばこ(じょうばこ)」。文箱(ふみばこ)。]が殘つて居て、その状筥だけ江戸の藩邸へ屆いたといふ話であります。また因幡の鳥取にも、どの飛脚よりも達者に、短い期限で江戸に往復して居た狐の話があります。同じ例は三つや四つではないのです。ところが武州の熊谷堤でも犬に食はれて正體を現はしたという狐の飛脚の話があるのです。何に出てゐたか、今はちよつと見當りませぬが、その狐の化けた飛脚の名前が熊谷彌惣左衞門であつて、後にそれを稻荷さまとして淺草に祀ることにしたといふことが出て居たのであります。

[やぶちゃん注:以上の前半の話、出典不詳。私は何かで読んだ記憶があるのだが、思い出せない。

「與次郎稻荷」この伝承はサイト「日本伝承大鑑」の「與次郎稲荷神社」に詳しい。

「熊谷堤」熊谷桜堤 (くまがやさくらつつみ)のことであろう。現在の埼玉県熊谷市の荒川左岸の堤防の内、荒川大橋付近から下流、約二キロメートルの区間。江戸以前の天正八(一五八〇)年頃、熊谷堤(現在の熊谷桜堤とは別の位置で、もっと現在の駅の位置に近かった)が築かれ、その後、桜が植えられ、江戸時代には既に桜の名所として有名であった。現在のそれは、ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 それからこれと關係があるかないか、まだ私には斷言は出來ないのでありますが、右の熊谷堤の近くの熊谷の熊谷寺の境内に、やはり熊谷彌惣左衞門といふ稻荷さまがあります。一名を奴稻荷と申しております。近い頃の言葉でヤツコといふのは、子供の頭に剃り殘した鬢の毛のことで、上方で謂ふビンツであります。だから今日では、ヤツコといふのは卽ち子供を意味するとこぢつけて、專ら小兒の疱瘡その他を守護する神となつてをります。信心する者は、その子供を十三までとか十五までとか年期を限りまして、稻荷樣の奉公人にすると謂つて奉公人請證文を書いて稻荷さまに納めます。さうするとその子供は、非常に身體が丈夫になると申します。面白いことには、子供をこの熊谷彌惣左衞門の奉公人にした以上は、決して親が叱つてはいけない。これは非常に深い意味のありさうなことで、子供は親の折檻に伏すべき者ではあるが、一たび熊谷稻荷の家來にした上は、親でも之を支配するわけには行かぬといふわけであつたのかも知れませぬ。兎に角に叱つてはいけないといふ奇異なるタブーに、一つの不思議が潛んで居るのであります。

[やぶちゃん注:「熊谷寺」「ゆうこくじ」と音読みする。埼玉県熊谷市仲町にある浄土宗蓮生山(れんせいざん)熊谷寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 更に今一つの不思議は、熊谷彌惣左衞門といふ名は、この熊谷の町では正に狐の名といふことに明瞭に認められて居るのであります。この點に關しても、早くからの口碑があります。熊谷家の中興の祖で、みな樣十分御承知の熊谷次郎丹治直實が、戰場に臨んで敵手強しと見る場合には、必ず何處からともなく、一人の武士が現はれて加勢をする。そして我こそは熊谷彌惣左衞門といつて大いに働いて、戰が濟むと忽ち居なくなつてしまふ。或時次郎直實があまりに不思議だと思つて御身はそも誰ぞと訊きますと、ちやうど徒然草に記されたる土大根(つちおほね)の精靈の話の如く、我は君の家を守護するところの稻荷である。これから後も火急の場合あらば、彌惣左衞門出合へと呼はりたまへ、必ず出でゝ御奉公申すべしと答へて消え失せたといふ話であります。これは色々の書物に出てをりますが、最も人のよく知つて居るのは木曾路名所圖會であります。今から百三十年前の享和元年[やぶちゃん注:一八〇一年。]頃に世に出た書物でありますが、その内容はそれほど新しくはないので、私の知る限りに於ては、少くもそれから尚百年近く遡ることが出來るのであります。信州天龍川右岸の三河境、坂部(さかんべ)の熊谷家といふのは、あの邊で有名な舊家でありますが、その家に熊谷傳記といふ書が傳はつて居ります。先代の熊谷次郎太夫直遐(なほはる)が、明和年間[やぶちゃん注:一七六四年~一七七二年。]に書き改めたもので、ずつと前からの記錄だと言つて居りますが、是にもやはり右にいふ彌惣左衞門狐のことが書いてあります。全體熊谷といふ名字は、三河にも信濃にも大分廣く分布して居つて、何れも元は武藏の熊谷から轉住した家です。或は何かの信仰と關係した家では無かつたかと思ふのは、別に政治上の原因でこの一族を、斯樣に弘く移動せしめたものが無いからであります。少なくともこの家の人たちは何れも信心深く、かつ熊谷彌惣左衞門の實は稻荷であることを信じて居ました。他の地方の舊い熊谷家では現在も稻荷を信じ居るかどうか。私は追々に尋ねて見たいと思つて居ります。

[やぶちゃん注:「徒然草に記されたる土大根(つちおほね)の精靈の話」「徒然草」第六十八段。

   *

 筑紫に、なにがしの押領使(あふりやうし)[やぶちゃん注:古い官名。諸国の治安の維持に当たった。]などいふ樣なる者のありけるが、土大根(つちおほね)[やぶちゃん注:大根。]を萬(よろづ)にいみじき藥とて、朝ごとに二つづつ燒きて食ひける事、年久しくなりぬ。或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ來りて、圍み攻めけるに、館の内に、兵(つはもの)二人、出で來て、命を惜しまず戰ひて、皆、追ひ返してけり。いと不思議に覺えて、

「日ごろ、ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戰ひし給ふは、いかなる人ぞ。」

と問ひければ、

「年ごろ賴みて、朝な朝な、召しつる土大根らに候ふ。」

と言ひて、失せにけり。

 深く信を致しぬれば、かかる德もありけるにこそ。

   *

「木曾路名所圖會」安永九(一七八〇)年に「都名所圖會」を出版して大いに当てた読本作者で俳人の秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)が文化二(一八〇五)年に出版した木曾路を中心とした名所図会。六巻七冊。

「信州天龍川右岸の三河境、坂部(さかんべ)」の附近(グーグル・マップ・データ)。ここは、南北朝の文和二(一三五三)年に、埼玉熊谷氏の一族であった熊谷貞直が戦乱の中を流れ着き、切り拓いた地であるという。個人ブログ「府右衛門記」の「熊谷家伝記のふるさと 坂部」に拠る。

「熊谷家傳記」前有注のリンク先に、『その初代熊谷(くまがい)貞直から』十五『代直遐(明和』五『年)までの』四百十五『年間にわたって書き継がれた日記であり、その当時の様子がわかる貴重な資料で』、『江戸時代に編集』されたとある。]

 

 兎に角にこれから考へて見ると、熊谷彌惣左衞門の通稱は、如何にも中世の勇士らしく嚴めしい又物々しい名前ではありますけれども、實はそれは狐自身の選定、狐の趣味、狐の理想でありました。ところが狐のことであれば致し方がないといふものゝ、この彌惣左衞門といふ通稱には差合ひがあつたのであります。熊谷家の系圖を調べて見ると、直實の子が小次郎直家で、その子が平内次郎直道、直道の次男に熊谷彌三左衞門尉直朝といふのがあつて、それが本家を繼いでをります。卽ち嫡流第五代の主人公が彌三左衞門であつたことは知らずに、さしもの靈狐も畜類の悲しさには、系圖などの吟味も行屆かずして、平氣でいつ迄も彌惣左衞門の昔話をして居りました。

 私の唯今考へて居るのは、不思議は決して一朝にして出現するものでなく、その由つて來るところは、久しく深く且つ複雜なるものがあるといふことであります。この書を御讀みになる方の中に、もし熊谷の一統に屬する人があつたならば、何と思はれるか知りませんが、どうも熊谷家には、何かといふとこの彌惣左衞門といふ通稱を用ゐたいといふ傾向が、昔からあつたやうに私は感ずるのであります。それは恰も鈴木といふ家の人がよく三郎と名づけられ、あるひは龜井という苗字には屢〻六郎と名乘る人が多いのと同じやうに、家に專屬した一種の趣味、又は隱れたる性癖ではないかと思ひます。

 私の以前親しくして居た先輩に、農學士で熊谷八十三君といふ人があります。是は讃州高松[やぶちゃん注:底本は「長州」となっているが、ちくま文庫版全集ではかく訂されているので、それに従った。なお、特に示さないが、この後もかなり書き換えられている。]の熊谷氏では無かつたかと思ひますが、確かではありません。香川景樹の高弟で、浦の汐貝といふ有名な歌集の作者、熊谷直好という人は通稱は熊谷八十八でありまして、是は周防の熊谷氏でありました。

 そこでたつた一言だけ、私の結論を申し上げます。曰く、凡そこの世の中に、「人」ほど不思議なものはないと。

        (昭和四年七月、東京朝日講堂講演)

[やぶちゃん注:「熊谷八十三」(くまがいやそぞう 明治七(一八七四)年~昭和四四(一九六九)年)は東京帝大農科卒で、愛知県立農業学校教諭・東京府立園芸学校長・農事試験場技師・園芸試験場場長を経て、元老西園寺公望の執事となった。ワシントンにあるの桜を育てたのは彼である。

「熊谷直好」(くまがいなおよし 天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は周防国岩国藩士で歌人。初名は信賢。通称は八十八・助左衛門。平安末期の武将熊谷直実の二十四世と称した。参照したウィキの「熊谷直好」によれば、『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身。熊谷信直の五男・熊谷就真が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座、萩を追われて岩国に一時滞在し、のち』、『一族が赦された際、就真の子・正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった。この子孫が直好である』。十九歳での時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられる』。文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移った』。歌集「浦のしお貝」の外、『著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。

 以上を以って、単行本「一目小僧その他」(昭和九(一九三四)年六月小山書院刊)の本文は終わっている(但し、原本ではこの後に「索引」が載る)。

 二〇一六年二月十五日の自身の誕生日始めた「一目小僧その他」の電子化注を、二年二ヶ月にして遂に完遂した。お付き合い戴けた数少ない読者の方に、心より御礼申し上げるものである。【藪野直史 二〇一八年四月十七日記】]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 熊谷彌惣左衞門の話 一~三

 

   熊谷彌惣左衞門の話

 

     一

 

 私の小さな野心は、これまで餘程の𢌞り路をしなければ、遊びに行くことの出來なかつた不思議の園――この古く大きく又美しい我々の公園に、新たに一つの入口をつけて見たいといふことであります。吾々は彼處[やぶちゃん注:「かしこ」。]がまことによい安息所であることは昔から知つて居るけれども、そこへ踏み入るためには今日ではいろいろの手數があつて煩はしい。型と名づくるものゝ澤山を承認しなければなりませぬ。

 幽靈は井戸のほとり、いつも柳の下に出るといふのは、泥鰌のやうでをかしな話、狸の小僧の酒買ひなどは、粉雪のちらちらとする寒い晩を待たなければならぬ。東京で怪譚を夏の夜のものと致したのは、多分白小袖と散らし髮の聯想でありましようが、これも亦不自由な話であります。第一に不思議を夜の世界に限るものとし、それを更に際立たせる爲に、丑三つの鐘がゴーンなどと、餘計な條件を設けることになつて、却つてその他の時刻、眞晝間や宵の口には、得體の知れぬものが飛び𢌞る結果を見るのであります。

 吾々の不思議の園は荒れました。一筋の徑(こみち)は雜草に蔽はれて、もはやプロムナードに適しなくなりました。鏡花先生のことに愛せられる靑い花のありかゞ、愈〻不明にならうとして居るのであります。これはまことに大なる人生の疲れでなければなりませぬ。そこで私どもは今一度、あらゆるこれまでの樣式から脱け出して、自在に且つ快活に、所謂靑天白日下の神祕を求めなければならぬのでありますが、それには殘されたるもう一つの入口、卽ち、丁度この吾々の社會の方へ向いた、まだ開かれない大通りがあるやうに私は思ひます。今回の催しは言はゞそのための土地測量のやうなものであります。

 それ故にもし諸君の中に、今時そんな問題に苦勞をしてゐる人間があらうとは「不思議な話」だという人が、もしあったならば、もうそれだけでも道が切り開かれたことになるのであります。少なくとも差當つて、今晩の目的は達せられたわけであります。

 

     二

 

 しかし理窟を言ふことは、不思議な話には甚だ似つかはしくない。不思議はたゞ感ずべきものであります。だから私はこゝに型を破つて、試みに出來るだけ事實材料ばかりを敍べてみたいと思ひます。

 話は吾々が尊敬する泉鏡花氏の御郷里から始まります。加賀國は鏡花門徒の吾々にとつて、又一個のジエルサレム[やぶちゃん注:「エルサレム」のこと。]の如き感があるが、この地方の舊いことを書いたものに、三州奇談といふ一書があつて、既に活版になつてをります。その中に金澤城外淺野山王權現境内のお稻荷さまのことが書いてあります。これは元前田家の家中の小幡宮内といふ人の屋敷にありましたのを、後に爰へ移して今以て繁昌して居るのであります。その起原をかいつまんで申すと、明曆年中のこと、前田侯の家來に熊谷彌惣左衞門[やぶちゃん注:「くまがひさうざゑもん(くまがいそうざえもん)」。ちくま文庫版のルビから。しかし「くまがい」はやや問題がある。後注参照。]、本姓は渡邊といふ人があつた。知行は三百石、弓の達人でありました。或年の山科高雄(そんな處は無い)の御狩の日に、この渡邊彌惣左衞門御供をして、孕める一匹の白狐を見つけ、あまりの不便さにわざと弓を射損じて、其命を助けてやりました。それ故に殿の不興を蒙つて彌惣左衞門、浪人となつて隣國の越前に行つて住みました。ところが前に助けてやつた牝狐が恩返しに、彼を武州秩父に棲むところの夫の狐のところへ紹介し、それから段々手蔓を得て江戸に出て淺草邊に侘住居をしてをると、白狐は之に授くるに奇術を以てし、能く諸々の病を治すことが出來た。仙臺の殿樣の御簾中[やぶちゃん注:「ごれんぢゆう(ごれんじゅう)」(濁らなくてもよい)。公卿・将軍・大名などの正妻を敬っていう語。]、彼が名を聞いて召して其異病を加持させられたところ、卽座に效を奏して祿五百石に取り立てられ、子孫を渡邊三右衞門といふとあります。その渡邊氏がお禮のために、淺草觀世音の境内に熊谷稻荷といふのを建立したといふのであります。金澤の方では右申す渡邊の舊友小幡正次なるもの、その話を聞いて、自分もその稻荷を祀つて同樣の利益にあづからうといふので、淺草觀世音境内の稻荷を勸請して邸内に祀つて居た。小幡宮内はその正次の子孫でありましたが、狐を祀るといふなどは馬鹿げてゐると、その稻荷の祠を取り潰したところ、さつそく祟を受けて小幡の家は斷絶、それで本家小幡氏の領地淺野村の百姓たちが、その事あつてから約五十年の後、寶永四年四月に、再び祀つたのがこの山王權現社のお稻荷さまだといふことになつてをります。

 まるつきり跡形の無いことでは無い證據には、確かに近い頃まで淺草觀音の境内に熊谷稻荷がありました。唯今では他の社と合祀せられて千勝神社[やぶちゃん注:ちくま文庫版では「千勝」に『せんしょう』とルビする。しかしこの神社、いろいろと問題がある。後注参照。]となりましたが、江戸名所圖會その他には熊谷稻荷、一名安左衞門稻荷――彌惣左衞門ではなく安左衞門稻荷と出て居るのであります。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるものが蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの。宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃には世人に知られた書であったことが判っている。正編五巻・続編四巻。全百四十九話。これは正編の「卷之四」の「淺野の稻荷」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「明曆年中」一六五五年~一六五八年。

「高雄」私の所持する「三州奇談」ではこの二字に『タユ』とルビする。

「寶永四年」一七〇七年。

「千勝神社」柳田國男の言う通りに調べてみたが、現在は千勝神社は見当たらぬ。そこで、ネット検索を掛けて行くうちに、sunekotanpako 氏のブログ『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』の「奴伊奈利神社 その3」に出逢った。そこには『浅草寺境内にあったという熊谷稲荷はその後どうなってしまったのだろうか』と、sunekotanpako 氏が調べてみたところが、『地図で浅草寺一帯を隈なく探しても千勝神社は見つからなかった。また、浅草三社神社に千勝神社が合祀されたという事実があるわけでもなく、いろいろ調べた結果』、この熊谷稲荷は『同じ台東区の寿2丁目、地下鉄銀座線田原町駅近くにある日蓮宗の長瀧山本法寺に移転していることがわかった』とされ、現地を訪ねておられる。そこで熊谷稲荷の由来についての解説を転写され、『《江戸中期の享保年間の頃雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である当本法寺に勧請した』。『この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷として信者も多く江戸誌に参詣頗る多しと書かれているように世に名高い稲荷である』。『稲荷を祀った狐にもさまざまな種類がありそのなかでも人間に福徳をわかつ福狐(ふっこ)として白狐(びゃっこ)だけが稲荷大明神の御眷属にえらばれる資格があると云われている』。『白狐は財物に恵まれることと人生の幸福を授かると語りつがれているが』、『熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で江戸浅草の本法寺と東北の弘前の津軽藩公が祀った二箇所だけしかない』、『きわめて珍しい稲荷で江戸時代から霊験あらたかなお守札をだしている稲荷として世に知られている。》』とあり、『柳田のいう千勝神社に合祀された話など微塵もない』し、『それにしても、なんだか妙な内容の案内文だ』とされ(同感)、『《稲荷を祀った狐》とはなにか。「狐を祀った稲荷」、あるいは「稲荷に祀られた狐」というべきなのではないのか。その後の文面から考えると後者が正しいと思われる。ところが、白狐だけが稲荷大明神の眷属に選ばれる資格がある、という文章が続くとなると、祀られているのが狐なのか、それとも稲荷大明神――おそらく倉稲魂命――なのかどちらかわからなくなってくる。思うに、稲荷神とともに眷属である白狐を祀った神社と考えればよいのだろう』。『それはいいとして、一方では、常々疑問に思っていたことが氷解した案内でもあった。その疑問とは、世間一般の稲荷神社に奉納されている狐の置物のことで、これがいわゆる狐色をしたものをわたしは一度も見たことがなかったからにほかならない』と語られておられる。sunekotanpako氏の「奴伊奈利神社」は実に全六回に及ぶ実地探訪に拠る考証記事で、熊谷市熊谷字仲町の熊谷(ゆうこく)寺境内にある伊奈利(いなり)神社、通称「奴伊奈利(やっこいなり)」を訪問する「その1」に始まり、ここで柳田國男の本「熊谷彌惣左衞門の話」が引かれる。引かれるのは、この「二」章よりも後も含まれている)、ここで引用させて戴いた、そして『熊谷弥三左衛門とは何者か』で始まる・6と続く。最後にはタタラ製鉄へと結ばれていく、非常に興味深い考察で、全文を読まれんことを強くお薦めするものである(ブログは全部を続けて読めるようにはなっていないので、上記のリンク・クリックで読まれた方が楽かとは思う)。【2018年4月18日:上記注の一部を削除し、以下を追記する。】以上を公開した翌日である今日、いつも不明点や誤りを指摘して下さるH・T氏が千勝神社(「千勝」は「せんしょう」ではなく「ちかつ」と読むようである。以下のリンク先参照)が浅草寺内に実際に存在していたことをお伝え下さった。一つは、国立国会図書館デジタルコレクションにある「南無觀世音 金龍山緣起正傳」(「金龍山」は浅草寺の山号)で、これは明四五(一九一二)年四月芳林堂刊の浅草寺の詳細な解説書なのであるが、その一〇〇頁目(国立国会図書館デジタルコレクションの画像では75コマ目。ここ)で、そこには(読みは一部に留めた。句読点を独自に補った。下線太字は私が附した)、

   *

    千勝神社

榧木(かやのき)八幡宮の左側(さそく)に、千勝社(ちかつしや)あり。千勝明神、琴平神(ことひらじん)、天滿宮、愛宕社(あたごしや)、淡島社(あはしましや)、姥宮(うばみや)、姫宮、一之大神(いちのだいじん)、西宮稲荷(にしみやいなり)、熊谷稲荷(くまがやいなり)の十社を合祀(がふき[やぶちゃん注:ママ。])し奉る。千勝大神(ちかちだいじん)と稱し奉るは、猿田彦命にして、道祖神だうそしん)にまします。又、琴平神社は大巳貴神(おほなもちのかみ[やぶちゃん注:ママ])、金山彦神(かなやまひこがみ)、崇德天皇を稱(たゝ)へまつる神號にて、天滿宮は菅原道眞卿を祭り、愛宕社は火産靈神(ほむすびのかみ)、大巳貴神(おほなむちのかみ[やぶちゃん注:これは正しい。])、又、粟島神社は大巳貴(おほなむち)少、彦名神(すくなひこなのかみ)にましまし、姥宮姫宮は、彼(か)の淺茅ケ原の一ツ家(や)の姥の親子なり。一之大神は所謂、一の權現にして、西の宮、熊谷(くまがや)と稱へまつる稻荷の大神は、倉稻魂神(さうとうこんじん)にして、豐受姫(とようけひめ)の別の御名と知り奉るべし此中にて、姥宮、西宮稻荷、熊谷稻荷に就ては、昔よりの緣起あれば、之を左に記し奉るべし

   *

とあるのである。因みに、頭に出る「榧木八幡宮」が浅草寺境内にあった「御府内寺社備考」の「御府内備考續編卷之二十八」の「寺院部四 天台宗 金龍山淺草寺」の中に列挙された社名の中に、

   *

○榧木八幡宮 壱間四方

 八幡太郎義家卿榧ヲ立給フト申傳候。此後ニ榧之木有之。

   *

とある(但し、こちらからの孫引き(一部を恣意的に正字化))から、まず間違いない。更に、国立国会図書館デジタルコレクションの「南無觀世音 金龍山緣起正傳」の次の76コマ目77コマ目には、熊谷稲荷の縁起が載り、そこにはまさに柳田國男が本記載の中で語っている内容がみっちりと纏めて書かれているのである。

 また、H・T氏は別に、文学散歩系の個人サイト「東京紅團」(実はここはお恥ずかしいことに私が毎日必ず巡回するサイトである)の「川端康成の「浅草紅団」を歩く-5-」にアップされてある「昭和14年の浅草絵図(一部)」の中に「千勝神社」ある(浅草寺の本堂に向かって左にある二天門の北側直近)のであった(当該サイトはトップ・ページにしかリンクを許していないので、そこにある目次を探されたい)。そこに書かれた解説によって、千勝神社は第二次世界大戦の戦災によって焼失し、再建されなかったことも判った。

 なお、以上によって sunekotanpako 氏の〈千勝神社浅草寺内非在説〉は誤りであったことになるが、sunekotanpako 氏の検証探訪の意義の重要さは聊かも減じていない。

 ともかくも、御指摘下さったH・T氏に改めて御礼申し上げたい

「江戸名所圖會その他には熊谷稻荷、一名安左衞門稻荷――彌惣左衞門ではなく安左衞門稻荷と出て居る」「江戸名所圖會」の「卷之六 開陽之部」の「淺草寺」の条(流石に長い)の中に(【 】は二行割注部)、

   *

熊谷稻荷(くまがやいなり)祠【本堂の後(うしろ)の方(かた)にあり。熊谷(くまがや)安(やす)左衞門といへる人、勸請す。來由(らいゆ)ハ繁(しげ)きいとひてこ〻に畧(りやく)す。内陣(ないぢん)に狩野周信(かのちかのぶ)の筆(ふで)の橋弁慶(はしべんけい)の掛繪(かかけゑ)あり。】

   *

とある。]

 

     三

 

 私は今からもう十數年も前に、早川孝太郎君と協力して「おとら狐の話」といふ書物を世の中に出したことがあります。おとらは三州長篠の古城のほとりに棲んで、今でもあの附近の農村に非常な暴威を逞しうする[やぶちゃん注:「たくましうする(たくましゅうする)」。]老狐であります。老狐が暴威を振ふといふことはさもあるべしとしても、それにおとらなどゝいふ名のあるのは不思議では無かろうか。私は物ずきな話でありますが、之を問題にして大いに苦勞しました。しかし不思議には相違ないけれども、さういふ例は諸國に至つて多いのであります。例へば三河の隣の尾張小牧山の吉五郎、山中藪の藤九郎、同じくその近所の御林のおうめにおりつなど、これがみな男女の狐であります。中でも殊に有名なのは、大和の源九郎狐、これは諸國里人談にも出ておりまして、その女房は伊賀の小女郎という牝狐だといつて、色々の優しい話がある。

[やぶちゃん注:「早川孝太郎」(明治二二(一八八九)年~昭和三一(一九五六)年)は民俗学者で画家。ウィキの「早川孝太郎」によれば、愛知県出身で、『画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し』、昭和一九三〇五年には「花祭」を『刊行。農山村民俗の実地調査を行った』とある。

「おとら狐の話」大正九(一九二〇)年玄文社の『炉辺叢書』の二として早川孝太郎との共著として出版されている。本「熊谷彌惣左衞門の話」は昭和四(一九二九)年七月に、朝日新聞社主催の「民衆講座夏季特別講演会「不思議な話の夕」で講演したもので、翌八月発行の『變つた實話』に載ったものが初出であるらしい。ちくま文庫版全集第六巻ではたまたま、本「一つ目小僧その他」の後に、同書の柳田國男執筆部分のみが収録されている。但し、私は電子化するつもりはない。悪しからず。

「諸國里人談」俳人菊岡沾凉(せんりょう)著になる随筆。寛保三(一七四三)年刊。次の段で紹介される「源九郎狐」は、「諸國里人談」の「卷之五」の「九 氣形部」の二番目にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

○源九郎狐(小女郎狐)

延寶のころ、大和國宇多に源五郎狐といふあり。常に百姓の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤む。よつて民屋これをしたひて招きける。何國より來り、いづれへ歸るといふをしらず。或時關東の飛脚に賴まれ、片道十餘日の所を往來七八日に歸るより、そのゝち度々往來しけるが、小夜中山にて犬のために死せり。首にかけたる文箱を、その所より大和へ屆けゝるによりて此事を知れり。又同じ頃、伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に、小女郎狐といふあり。源五郎狐が妻なるよし、誰いふとなくいひあへり。常に十二三ばかりの小女の貌にして、庫裡にあつて世事を手傳ひ、ある時は野菜を求めに門前に來る。町の者共此小女狐なる事をかねて知る所なり。晝中に豆腐などとゝのへ歸るに、童どもあつまりて、こぢよろこぢよろとはやしけるに、ふり向て莞爾、あへてとりあへず。かくある事四五年を經たり。其後行方しらず。

   *

最後の「莞爾」は「につこり」と読んでおく。おきたい。]

 

 この源九郎狐は人に賴まれて、飛脚となつて江戸との間を始終往來してをつたところ、ある年小夜の中山で犬に食はれて死んだ。けれどもその持つていた狀箱ばかりは完全に先方へ屆いたともいふのであります。甲府には今はなくなつてゐるらしいが、曾て浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衞門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました。それから陸前松島の雄島の稻荷さま、これは新右衞門樣と申して現在でも信心せられてをりますことは、松島見物にお出でのお方は多分御承知であらう。非常に靈驗のあらたかなお稻荷さまで、久しく江戸へ出て歸つて來た、留學の狐でありました。私は既に二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります。

[やぶちゃん注:「甲府には今はなくなつてゐるらしいが、曾て浪人の姿をして伊勢詣りをしたといふ庄の木の八右衞門といふ狐が稻荷に祀られ、信心者の澤山詣つて來る御社でありました」この部分、ちくま文庫版全集では「甲府には今はなくなつてゐるらしいが、」が完全にカットされている。或いは、なくなっておらず、実在したことを知った柳田國男が単行本化(講演から五年後の昭和九(一九三四)年六月小山書店刊)した際に削除したものか。しかし、本当に当時、現存したのだろうか? 調べてみると。現在、甲府城跡の南東の角に似たような名の「庄城稲荷大明神」がある(第二次世界大戦の戦災で焼失後に移設)が、この稲荷の由来を調べても、ここに書いてあるような奇譚はなく、約八百年の昔、甲斐源氏の祖一条次郎忠頼が、一条の庄小山の地(現在の舞鶴城)に館を築いた際に守護神として祀った社で、忠頼亡き後、武田時代を経て、貴賤の隔てなく厚い信仰を得、徳川時代となり、家康が新城をこの地と定めた折りに庄城神社の一部を「稲荷曲輪(くるわ)」と命名、維新後も庶民の信仰の念厚く、その先達として、地元桜盛会(現在の桜北自治会)が明治以来、今日まで崇敬してきた、と個人サイト武田家史跡探訪」ページにある。しかし、これだけ創建とその後の信仰や庇護の経緯が明らかになっていては、逆にここで柳田國男が言うような奇譚が入り込む余地は逆になくなると思うから、私はこの稲荷は違うと思う。或いは、柳田國男が講演した際、甲府在住或いは出身の来場者が、この稲荷がそれだと考えて(誤認して)、「今もある」と柳田國男に強く抗議したのかも知れない。厭になった柳田が、それをろくに検証せずにカットした可能性もあるように思われる。「いや! この庄城稲荷大明神にここに書かれた話がある!」と言われる方は是非とも御教授下されたい。

「陸前松島の雄島の稻荷」松島湾東奥の松島港の南方に浮かぶ雄島(架橋で陸と接続する。私の好きな島である)にある新右衛門稲荷。江戸後期の頃、江戸からの便船が暴風に巻き込まれ、乗り合わせていた白狐に救われたという話から、海難防止の守り神として知られる。

「私は既に二三年前の朝日新聞に、記者として報告をしておいたことがあります」不詳。発見したら追記する。]

 

 是はきつと何かの理由のあることゝ思ひますが、それを論究して居るとお約束に背く。先づ今囘は省略しておきますが、兎に角に祀つてもらふことの出來るほどの狐ならば、名が有り時としては苗字があるのは、言はゞ當世の當然であります。

 たゞ一つの不思議は、この場合においては熊谷彌惣左衞門は、祀られる狐の名ではなくして、これを祀つた人の名前と認められることであります。この點だけが他の例と違つてゐる。それがど何處まで他の色々の狐の信仰と、一致するかといふことが問題であります。

 加賀の隣の福井縣では、南條郡南日野村大字淸水といふ、北國街道の傍の村に、同じく熊谷彌惣左衞門稻荷といふのがありました。その由緒を記したものはいろいろありますが、越前國名蹟考に書いているのは、加州藩の浪人で苗字は不明、通稱を彌惣左衞門といふ者夫婦、この村に來たつて高木某といふ村の舊家に、二三年厄介になつて居ました。その後夫婦は江戸へ出て行くことになつて、途中武州熊谷の堤にさしかゝつたとき、一匹の白狐に出逢ひ、その白狐の依賴を受けて、淺草の觀世音の境内に、新たに建立して祀つたのが今の熊谷稻荷である。後年前の高木の主人次左衞門が江戸へ出て來て、兼て世話をしたことのある加州浪人彌惣左衞門を訪ねたところが、その稻荷のために大分工面がよくなつている。それならば自分も祀りたいと、勸請して歸つたのがこの越前淸水村の熊谷彌惣左衞門稻荷であるといふのであります。このとき高木氏が國へ歸る途すがら、二匹の白狐が後先になつて附いて來たが、その一つがやはり途中で犬にくはれて死んだ。それだから今のは後家だといふことも書いてあります。

[やぶちゃん注:「南條郡南日野村大字淸水」現在の福井県南条郡南越前町西大道附近と思われるが((グーグル・マップ・データ))、熊谷彌惣左衞門稻荷(「彌惣左衞門」は「やそゑもん」と読むのであろう)というのは現存しない模様である。

「越前國名蹟考」福井藩右筆井上翼章の編になる越前地誌。文化一二(一八一五)年完成。]

 

2018/04/16

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 九 大人彌五郎まで / ダイダラ坊の足跡~了

 

     九 大人彌五郎まで

 

 是までに大切な我々が創世紀の一篇は、やはり人文の錯綜に基づいて、後漸く徴にして且つ馬鹿馬鹿しくなつた。九州北面の英雄神は、故意に宇佐の勢力を囘避して外海に向わはんとしたかの如き姿がある。壹岐の名神大社住吉の大神は、英武なる皇后の征韓軍に先つて、まづ此島の御津浦に上陸なされたと稱して、太宰管内志には御津八幡の石垣の下にある二石と、此浦の道の辻に立つ一つの石と、三箇の御足形の寸法を詳述して居る。何れも其大さ一尺一二寸、爪先は東から西に向いて居る。信徒の目を以て見れば、それ自身が神の偉勳の記念碑に他ならぬのだが、しかも壹岐名勝圖誌の錄するところでは、此島國分の初丘(はつをか)の上に在るものは、大は則ち遙かに大であつて、全長南北に二十二間[やぶちゃん注:四十メートル。]、拇指の痕五間半[やぶちゃん注:十メートル。]、踵の幅二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチメートル弱。]、少し凹んで水づいて居るとあるが、これは昔大(おほ)といふ人があつて、九州から對馬[やぶちゃん注:底本では「對島」であるが、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。]に渡る際に足を踏み立てた跡だと謂ひ、しかも村々にも同じ例が多かつたのである。それ迄はまだよいが、肥前平戸島の薄香(うすか)灣頭では、切支丹伴天連と稱する恠物があつて、海上を下駄ばきで生月(いけづき)その他の島々に跨いだとも謂つて居る。卽ち古く近江の石山寺の道場法師の故迹と同じく、殘つて居るのは下駄の齒の痕であつたのである。

[やぶちゃん注:「壹岐の名神大社」(みやうじんたいしや(みょうじんたいしゃ))は壱岐島のほぼ中央に位置する、長崎県壱岐市芦辺町(あしべちょう)住吉東触(ひがしぶれ)にある住吉神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの同神社によれば、『社伝によれば、住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途現在の壱岐市郷ノ浦町大浦触に上陸して三神を祀ったのに始まるという(これを以て「日本初の住吉神社」を称している)。その後、神託により現在地に遷座した。『延喜式神名帳』では名神大社に列した。その他にも長崎県下筆頭神社を名乗っている』とある。

「御津浦」現在の壱岐志摩西部の湯本湾か、その南の半城湾と思われる。

「太宰管内志」江戸後期の福岡藩の国学者で地誌学者の伊藤常足(安永三(一七七四)年~安政五(一八五八)年)が六十八歳の時、九州各地の歴史を纏めたもの。全八十二巻。三百冊もの資料を読み解き、実に三十七年もの歳月をかけて完成した労作。福岡県鞍手郡にある「鞍手町歴史民俗博物館」公式サイト内のこちらのページを参照した。

「御津八幡」御津浦の正確な位置が不明なのであるが、長崎県壱岐市勝本町本宮西触にある、本宮八幡神社か? ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、他にも「八幡」を称する神社は壱岐島内に少なくとも後三つはある。

「壹岐名勝圖誌」江戸時代末の文久元(一八六一)年に編纂された壱岐島地誌。当時の壱岐島を治めた第十代平戸藩主松浦熙の命により、十一年の歳月をかけて作成された。全二十五巻。

「國分の初丘(はつをか)」長崎県壱岐市芦辺町国分。この附近(グーグル・マップ・データ)の丘陵であろう。

「肥前平戸島の薄香(うすか)灣頭」現在の長崎県平戸市平戸島(現在、陸と架橋)の北部にある大きな湾。この湾の入り口附近(グーグル・マップ・データ)。

「生月(いけづき)」薄香湾の西方洋上にある大きな島(現在、平戸市生月島で平戸島と架橋)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 それから南へ下つては肥後鹿本郡吉松村の北、薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留(なる)の大石の如き、共に大人の足跡といふのみで、神か鬼かのけぢめさへ明瞭で無い。其の名の早く消えたのも怪しむに足らぬのである。ところが是から東をさして進んで行くと、諸處に恰かも群馬縣の八掬脛[やぶちゃん注:「やつかはぎ」。既出既注。]の如く、神に統御せられた大人の名と話が分布して居る。阿蘇明神の管轄の下に於ては鬼八法師、又は金八坊主といふのが大人であつた。神に追はれて殺戮せられたといふかと思ふと、塚あり社あつて永く祀られたのみならず、その事業として殘つて居るものが、悉く凡人をして瞳目せしむべき大規模なものであり、しかも人間の爲には功績があつて、或はもと大神の眷屬であつたやうにも信ぜられたのであつた。

[やぶちゃん注:「肥後鹿本郡吉松村の北」現在の熊本県熊本市北区植木町轟附近かと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「薩摩では阿久根の七不思議に算へられる波留(なる)の大石」「阿久根」は鹿児島県の北西部にある現在の阿久根市。ここ(グーグル・マップ・データ)。「阿久根市」公式サイトのこちらに『「阿久根七不思議」と呼ばれるものがあり』、『江戸時代末に書かれた「三國名勝圖會」によると、「阿久根七奇」として「光礁」「隔岡の塩田」「大人の足形」「黒神岩」「岩船」「小潟崎穴」「尻無川」が挙げられて』おり、またまた、大正四(一九一五)年に『発行された「出水風土記」によると、前述のものに「五色濱」「鍋石」「龍の化石」のうち』、『一つを七不思議に加える場合もあるとされてい』るとある。「波留の大石」という名は出ないものの、この「大人の足形」には(写真有り)『市内山下地区の八幡神社前にある大きな石にある約』六十センチメートル『程の人の足型のくぼみをそう呼』ぶとあって、『伝説によると、この地方に住んでいた天狗が』、『村人たちにけしかけられて阿久根大島まで飛ぼうとしたときに踏み台にした石だと伝えられて』おり、『「天狗の足跡」とも呼ばれてい』るというのがそれであるようにも思われる。]

 

 其矛盾の最初から完全に調和せぬものであつたことは、更に日向大隅の大人彌五郎と、比較して見ることによつて明白になるかと思ふ。彌五郎は中古に最も普通であつた武家の若黨家來の通り名で、それだけからでも神の從者であつたことが想像せられる。而うして大人彌五郎の主人は八幡樣であつた。大隅國分の正八幡宮から、分派したらうと思ふ附近多くの同社では、その祭の日に必ず巨大なる人形を作つて之を大人彌五郎と名け、神前に送り來つて後に破却し又は燒棄てること、恰も津輕地方の佞武多(ねぶた)などと一樣であつた。さうして其行事の由來として、八幡宮の大人征服の昔語を傳へて居るのである。或は其大人の名を、大人隼人などゝ説いたのも明白なる理由があつた。卽ち和銅養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く參與せられ、其記念として今日の正八幡があるのだといふ在來の歷史と、斯うすれば確かに稍一致して來るからである。

[やぶちゃん注:「日向大隅の大人彌五郎」ウィキの「弥五郎どんによれば、「弥五郎どん」は「大人弥五郎」「弥五郎様」とも呼ばれ、『九州南部、宮崎県と鹿児島県に伝わる巨人伝説(大人伝説)。およびこれを祀ってこの地方で行われる年中行事・神事である』。『「大人弥五郎」は ダイダラボッチのように山ほどもある大男であったとされている』。『弥五郎のモデルとなった人物や、伝説の起源は明らかではないが、言い伝えでは、弥五郎とは奈良時代の』養老四(七二〇)年に『勃発した「隼人の反乱」の際、律令政府に対抗した隼人側の統率者であったとする説が最も広まっている。後にこの戦いで敗北した隼人達の霊を供養する放生会が行われたが、これが現在の「弥五郎どん祭り」の起源となったとされている』。『他に』三百『歳の長寿を生き、大臣として』六『代の天皇に仕えたとされる伝説上の人物、武内宿禰であるとする説がある』(私はこれを果敢な隼人族の反乱を大和朝廷の捏造された歴史に組み込むための戦略、或いは虚説によって本来の姿を残すための逆の戦略であったのではないかと考えている)。『「弥五郎どん祭り」、または「弥五郎様祭り」は、宮崎県内の』二『地域と、鹿児島県内の』一『地域で毎年』十一『月に開催されており、巨大な弥五郎の像が作られ町内を練り歩く。なお、これら』三『地域の弥五郎は、兄弟であるとする設定が与えられている』(宮崎県都城市山之口町にある円野神社(的野正八幡宮)で行われる長男とされる「山之口弥五郎どん祭り」及び日南市にある田ノ上八幡神社で行われる三男とされる「弥五郎様」はリンク先を見て戴きたい)。さて、次男とされる、曽於市大隅町岩川にある岩川八幡神社で行われる「弥五郎どん祭り」の「弥五郎どん」は身長四メートル八十五センチメートルで、『白い顔に黒髭を生やし、梅染めの茶色い衣を纏い、腰に』二『本の刀を差し、両手で鉾を持つ。「浜下り(はまくだり)」行事』(隼人族の霊を慰めるため、放生会をするようにという宇佐神宮の託宣によって始まったとされるもの。五穀豊穣・豊漁祈願を願い、鹿児島神宮から隼人塚を経て御神幸地へとお下りする大隅一ノ宮鹿児島神宮御神輿行列を模したものであろう)『の先頭に立って練り歩く』ものである。既に注で述べたが、この曽於市大隅町岩川は私の母方の実家(祖父笠井直一。歯科医師)のあったところである。私はこの「弥五郎どん」の祭りを見たことがない。私は死ぬ前に一度、必ず、この弥五郎どんを見たいと思っている

「和銅養老」間に「神龜」を挿んで、七〇八年から七二四年までの期間を指す。]

 

 大人隼人記といふ近代の傳記には、國分上小川の拍子橋(ひやうしばし[やぶちゃん注:底本では「ひやうばし」であるが、ちくま文庫版全集で特異的に訂した。])の上に於て、日本武尊大人彌五郎を誅戮したまふなどゝ謂つて居るさうだ。其屍を手切り足切り、爰に埋め彼處に埋めたといふ類の話は、今も到る處の住民の口に遺つて居るのだが、しかも一方に於ては大人は尚靈であつて、足跡もあれば山作りの物語も依然として承繼せられるので、それほど優れた神を何故に兇賊とし、屠つて[やぶちゃん注:「はふつて(ほうって)」。]後また祭らねばならなかつたかの疑は、實はまだ少しも解釋せられては居なかつた。大隅市成村諏訪原の二子塚は、一つは高さ二十丈[やぶちゃん注:六十メートル六十センチメートル。]周五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル半。]餘、他の一つは略其半分である。相距ること一町ばかり、これも昔大人彌五郎が草畚[やぶちゃん注:「ひもつこ」。ちくま版のルビに拠った。草藁で編んだもっこ。]で土を運んだ時に、棒が折れて飜れて[やぶちゃん注:ちくま版では『こぼれて』とひらがなで書かれている。意味は判るが、しかし、「飜」は「こぼれる」とは訓じない。]此塚となつたといふ點は、富士以東の國々と同じである。獨り山を荷うて來たのみで無い。日向の飫肥(おび)の板敷神社などでは、稻積彌五郎大隅の正八幡を背に負ひ、此地に奉安して社を建てたと謂ひ、やはり其記念として行ふ所の人形送りは、全然他の村々の濱殿下りの儀式、隼人征討の故事といふものと一つである。それから推して考へて行くと、肥前島原で味噌五郎と謂ひ筑豐長門において塵輪と謂ひ、備中で溫羅といひ美作で三穗太郎目崎太郎と謂ひ、因幡で八面大王などゝ傳へて居る恠雄、それから東に進むと美濃國の關太郎、飛彈の兩面の宿儺(すくな)、信州では有明山の魏石鬼(ぎしき)、上州の八掬脛、奧羽各地の惡路王大武丸、及びその他の諸國で簡單に鬼だ強盜の猛なる者だと傳へられ、殆ど明神の御威德を立證する爲に、此世に出てあばれたかとも思はれる多くの惡者などは、實は後代の神戰[やぶちゃん注:「かみいくさ」、]の物語に、若干の現實味を鍍金[やぶちゃん注:「めつき」。]するの必要から出たもので、例へば物部守屋や平將門が、死後に却つて大いに顯れた如く、本來はそれほど純然たる兇賊では無かつたのかも知れぬ。それは改めて尚考ふべしとしても、少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた證據がある。而うしてそれが殺戮せられて神になつたのは、また別の理由があつたのである。

[やぶちゃん注:「大人隼人記」不詳。識者の御教授を乞う。

「國分上小川の拍子橋」現在の霧島市国分上小川。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、現在は川も橋もない。吉留だいすけ氏のブログ「吉留だいすけの「日新タ」日記」の「寄り道(シリーズ第30弾:霧島市上小川)」に写真入りで記事が載る。必見。『熊襲の頭、川上梟師(タケル)がここにかかっていた橋で拍子をとったとのことでつけられた拍子橋があったとされる場所』があり、『この近くで日本武尊によって殺されたとも伝わる(女装して熊襲を倒すという話)』とあり、『近くに隼人の末裔「弥五郎」の体の一部が祀られた枝宮神社もある』とある。

「大隅市成村諏訪原の二子塚」鹿児島県鹿屋市輝北町諏訪原。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらの方の「二子塚の田の神」でこの「二子塚」が現存することも判った。写真(但し、二子塚の全景は判らない)もあり、地図もある。

「日向の飫肥(おび)の板敷神社」現在、日南市飫肥にある田ノ上八幡神社(旧称に改称された)。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらの詳細な記載も参考になり、そこには「稻積彌五郎」及び稲津弥五郎という名も見出せる。

「塵輪」ちくま文庫版では『じんりん』とルビする。

「溫羅」ちくま文庫版では『おんら』とルビする。

「少なくとも彌五郎だけは忠實なる神僕であつた」柳田國男は八幡神の使いとなった点や、或いは天皇の即位式に於ける隼人舞(最後に犬狼のように屈辱的に吠えて言祝ぐのだ!)などを根拠としているのかも知れぬが、私はそれは隼人族が大和朝廷に隷属させられたことの「證據」でこそあっても「忠實なる神僕であつた證據」だなどとは天地が引っ繰り返っても思わないとここに述べておく。

 

 もう長くなつたから兎に角に此話だけの結末をつけて置く。我々の巨人説話は、二つの道をあるいて進んで來たらしい跡がある。其一方は夙に當初の信仰と手を分ち、單なる古英雄説話の形を以て、諸國の移住地に農民の伴侶として入來り、彼等が榾火の側に於て、兒女と共に成長した。他の一方は因緣深くして、春秋の神を祭る日每に必ず思出し又語られたけれども、爰でも信仰が世と共に進化して、神話ばかりが舊い型を固守して居るといふことは難かつた。卽ち神主等は高祖以來の傳承を無視する代りに、之を第二位第三位の小神に付與して置いて、更に優越した統御者を、其上に想像し始めたのである。名稱は形である故に、固より之を新たなる大神に移し、一つ一つの功績だけは古い分から之を下﨟の神におろし賜はつたのである。菅原天神が當初憤恚(ふんい)[やぶちゃん注:「恚」は怒ること。]激怒の神であつて、後久しからずしてそれは眷屬神の不心得だから、訓誡してやらうと託宣せられ、牛頭天王が疫病散布の任務を八王子神に讓られたというが如き、何れも大人彌五郎の塚作りなどゝ、類を同じくする神話成長の例である。幾ら大昔でもそんな事は有得ないと決すれば、恐らくは又次第に消えて用ゐられなくなることであらう。

[やぶちゃん注:柳田國男の見解は、官僚的な構造支配で総て片が着くとでも考えているらしい。彼は支配階級が最も畏れた御霊の信仰形態の強力な核心の恐ろしさを全く認識していないように私には見える。あんたがこんなことを書いた十四年も後、第二次世界大戦が勃発した際、昭和天皇は崇徳院の御陵に侍従を送り、アメリカに味方されぬようにおろおろと祈らせた事実を教えてやりたい気がした。

 

 村に淋しく冬の夜を語る人々に至つては、其點に於て稍自由であつた。彼等は澤山な自分の歴史を持たぬ。さうして昨日の向ふ岸を、茫洋たる昔々の世界に繫ぎ、必ずしも分類せられざる色々の不思議を、其中に放して置いて眺めた。一旦不用になつて老嫗の親切なる者などが、孫共の寢付かぬ晩の爲に貯へて居た話も、時としては再び成人教育の教材に供せられる場合があつた。卽ち童話と民譚との境は、渚の痕の如く常に靡き動いて居たのである。而して若し信じ得べくんば力めて[やぶちゃん注:「つとめて」。]これを信じようとした人々の、多かつたことも想像し得られる。傳説は昔話を信じたいと思ふ人々の、特殊なる注意の産物であつた。卽ち岩や草原に殘る足形の如きものを根據としなければ、之を我村ばかりの歷史の爲に、保留することが出來なかつた故に、殊にさういふ現象を大事にしたのである。而して我が武藏野の如きは、兼て逃水堀兼井の言ひ傳へもあつた如く、最も混亂した地層と奔放自在なる地下水の流れを有つて居た。泉の所在は度々の地變の爲に色々と移り動いた。郊外の村里には曾て淸水があるに由つて神を祭り居を構へ、それが又消えた跡もあれば、別に新たに現れた例も亦多い。此の如き奇瑞が突如として起る每に、或はかのダイダラ坊樣の所業であらうかと解した人の多かつたことは、數千年の經驗に生きた農夫として、些かも輕率淺慮の推理では無かつた。説話は卽ち之に基づいて復活し、又屢〻其傳説化を繰返したものであらうと思ふ。

        (昭和二年四月、中央公論)

[やぶちゃん注:「昭和二年」一九二七年。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 八 古風土記の巨人

 

     八 古風土記の巨人

 

 さう考へるとダイダラ信仰の發祥地で無ければならぬ九州の島に、却つて其口碑のやゝ破碎して傳はつた理由もわかる。卽ち九州東岸の宇佐と其周圍は、巨人神話の古くからの一大中心であつた故に、同じ古傳を守るときは地方の神々は其勢力に捲き込まれる懸念があつたのみならず、一方本社に在つては次々の託言を以て、山作り以上の重要なる神德を宣揚した結果、自然に他の神々が比較上小さくなつてしまふので、寧ろ之を語らぬのを有利とする者が多くなつたのである。是は決して私の空漠たる想像説では無い。日本の八幡信仰の興隆の歷史は、殆ど一つ一つの過程を以て、之を裏書きして居ると言つてよいのだ。

 之を要するに巨人が國を開いたといふ説話は、本來此民族共有の財産であつて、神を恭敬する最初の動機、神威神力の承認も是から出て居た。それが東方に移住して童幼の語と化し去る以前、久しく大多良の名は仰ぎ尊まれて居たので、其證跡は足跡よりも尚鮮明である。諾册[やぶちゃん注:「だくさつ」。「諾」は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、「册」は伊奘冊尊(いざなみのみこと)。]二尊の大八洲生は説くも畏こいが、今殘つて居る幾つかの古風土記には、地方の狀況に應じて若干の變化はあつても、一として水土の大事業を神に委ねなかつたものは無いと言つてよろしい。其中にあつて常陸の大櫛岡の由來の如きは寧ろ零落である。それよりも昔なつかしきは出雲の國引きの物語、さては播磨の託賀郡の地名説話の如き、目を閉じて之を暗んず[やぶちゃん注:「そらんず」。]れば、親しく古へ人の手を打ち笑ひ歌ふを聽くが如き感がある。まだ知らぬ諸君の爲に、一度だけ之を誦して見る。曰く、右託加(たか)と名づくる所以は、昔大人ありて常に勾(まが)りて行きたりき。南の海より北の海に到り、東より(西に)巡る時に此ところに來到りて云へらく、他のところは卑くして常に勾り伏して行きたれども、此ところは高くあれば伸びて行く。高きかもといへり。かれ[やぶちゃん注:故に。]託賀(たか)の郡とは曰ふなり。その踰(ふ)める迹處[やぶちゃん注:「あとどころ」。]、しばしばに沼と成せり(以上)。私の家郷もまた播磨である。さうして實際斯う語つた人の後裔であることを誇りとする者である。

[やぶちゃん注:「常陸の大櫛岡の由來」既出既注

「播磨の託賀郡の地名説話」以下の引用は「播磨風土記」の「託賀(たか)の郡(こほり)」。岩波文庫版の武田祐吉氏の訓読を示す。太字下線は柳田國男の読みや表記と異なる箇所。但し、ちくま文庫版全集では幾つかの補正がなされていて、以下にごく近い。

   *

託賀(たか)の郡(こほり)、右、託加(たか)と名づくる所以(ゆゑ)は、昔大人(おほびと)ありて常に勾(かゞ)まりて行けり。南の海より北の海に到り、東より巡り行きし時、この土(くに)に來到(きた)りて云ひしく、「他(あだ)し土(くに)は卑(ひく)ければ、常に勾まり伏して行きしに、この土(くに)高ければ申(の)びて行く。高きかも」と云ひき故(かれ)、託賀(たか)の郡(こほり)といふ。その踰(こ)えし迹處(あとどころ)、數々沼と成れり

   *

ちくま文庫版全集では「卑くして」を「いやしくして」と読んでいるが、この訓読はおかしい気がする。同全集では「しばしばに」を「數々」直しているが、そこには『あまた』とルビする。武田先生は直接体験過去で訓読されておられ、風土記の性質としては、その方が遙かによいと感ずる。]

 

 證據は斷じて是ばかりでは無かつた。南は沖繩の島に過去數千年の間、口づから耳へ傳へて今も尚保存する物語にも、大昔天地が近く接して居た時代に、人は悉く蛙の如く這つてあるいた。アマンチユウ[やぶちゃん注:現代仮名遣では「アマンチュウ」。]は之を不便と考へて、或日堅い岩の上に踏張り、兩手を以て天を高々と押上げた。それから空は遠く人は立つて步み、其岩の上には大なる足跡を留めることになつた。或は又日と月とを天秤棒に擔いで、そちこちを步き𢌞つたこともある。其時棒が折れて日月は遠くへ落ちた。之を悲しんで大いに泣いた淚が、國頭本部(もとぶ)の淚川となつて、末の世までも流れて絶えせずと傳へて居る(故佐喜眞興英君の南島説話に依る)。アマンチユウは琉球の方言に於て、天の人卽ち大始祖神を意味して居り、正しく此群島の盤古であつた。さうして是が赤道以南のポリネシヤの島々の、ランギパパの昔語と近似することは、私はもう之を架説するの必要を認めない。

[やぶちゃん注:「國頭本部(もとぶ)の淚川」現在の沖縄県国頭(くにがみ)郡本部町(もとぶちょう)は(グーグル・マップ・データ)。同地区貫流する最も川幅の広いそれは満名川(まんながー)であるが、「涙」は沖縄方言で「なだ」であり、不詳。

「佐喜眞興英」(さきま こうえい 明治二六(一八九三)年~大正一四(一九二五)年)は沖縄県宜野湾市出身の民俗学者。既出既注であるが、再掲する。大正元(一九一二)年に沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業、その後、上京して大正四(一九一五)年に第一高等学校独法科を卒業して、東京帝国大学独法科に入学した。在学中から柳田國男に目をかけられた。大正一〇(一九二一)年に帝大を卒業すると、裁判官になり、福岡市・東京市・大阪市・岡山県津山市など各地に赴任、最後の任地の津山で肺結核のために三十一歳で亡くなった(以上はウィキの「佐喜眞興英」に拠った)。本「ダイダラ坊の足跡」は昭和二(一九二七)年四月の『中央公論』初出。

「盤古」(ばんこ)は中国の古代神話に登場する神。この世界を創造した造物主であるとされ、その世界創造については二通りの異なる伝承が残されている。一つは「天地分離型」と呼ばれるもので、それによれば、太初の世界は、上も下もないどろどろしたカオス状態にあり、盤古は、その中から生まれた。その後、天地が押し開かれると、陰陽二気のうちの清らかな「陽気」が天に、濁った「陰気」が地になった。彼は天と地の間に立って双方を支え続けたが、天は日に一丈ずつ高くなり、また、地は日に一丈ずつ厚くなったため、それにつれて盤古の身長も一丈ずつ伸びてゆき、遂には天と地は果てしなく隔たることになったとするものである。今一つの伝承は、「死体化生(けしょう)型」とグループされるもので、それによれば、この世の初めに既に盤古は居た。そして盤古が死んだ際、その体の各部が変化して世界を構成する諸物と成り、両眼は日月に、体は大地に、血液は川に、筋肉の筋(すじ)は大地の襞に、皮膚は田畑に、髪や髭は星に、体毛は植物に、歯や骨は岩石にと、それぞれ変化したとするものである。この二タイプの世界創造神話は、本来、同一の系統に属すものなのか、或いは、全く別の伝承が同じ盤古の名に依って語られるようになったものなのかは、現在、明らかではない(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ランギパパの昔語」ニュージーランドの先住民であるマオリ族の世界創造神話に登場する「ランギ」と「パパ」の二神の名(マオリ族は東ポリネシアのソサエテ諸島のタヒチ島・クック諸島・マルケサス諸島からニュージーランドに十一世紀頃に移住してきた)。Es Discovery製作のサイト内の「世界の神々」の中のマオリの神話:天空神ランギ・大地母神パパによれば、彼らの、その『神話で説かれている原初の世界は『混沌と無の世界』であり、暗闇の中でのポーといううめき声に合わせて世界の動きが起こり、そこから光・熱・湿気が生み出され、世界最初の二神である天空神ランギと大地母神パパが出現した』とする。彼らは『その他の神々や天地の間にある万物を創造したが、二人があまりに親密で仲良くしっかりと固く抱き合っていたため、天と地が近づきすぎて』、『光が届かず』、『ずっと暗闇に覆われたままであった。二人が生み出した子供の神々、タネやタンガロア、ロンゴらは、世界に光と昼を取り戻すためには、親である二人を引き離すか殺すかしかないと考え、森の神タネの『天空を遥か上にして、大地を足元に置くため、二人を無理やりにでも引き離そう』という提案に賛成した。唯一、嵐と風の神であるタウヒリだけが、父母を引き離すことに反対していた』。『密着してがっちりと抱き合っている天空神ランギと大地母神パパを引き離すことは簡単ではなかったが、森の神タネが頭を母の大地に押し付けて、足で父の天空を激しく蹴り上げることによって何とか二人を引き離した。父母は引き離された悲しみを訴えて泣いたが、二人が引き離されたことで、暗闇の世界に光が差して』、『昼の時間が回復されたのである。母パパの嘆きの溜息は霧となって天空(夫)へと上がり、父ランギの涙は大雨になって大地(妻)に降り注いだの』]だった、とある。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 七 太郎といふ神の名

 

    七 太郎といふ神の名

 

 自分等が問題として後代の學者に提供したいのは、必ずしも世界多數の民族に併存する天地創造譚の些々たる變化では無い。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、何時から又如何なる事由の下に、我々の巨人をダイダラ坊、若しくは之に近い名を以て呼び始めたかといふ點である。京都の附近では廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し、乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水は、京羽二重以下の書に之を説き、長さ六尺ばかりの指痕分明也とあつて、今の長野新田の大道星は卽ち是だらうと思ふが、去つて一たび播州の明石まで踏出せば、もうそこには辨慶の荷塚(になひづか)があつて、奧州から擔いで來た鐵棒が折れ、怒つてその棒で打つたと稱して頂上が窪んで居た。だからダイダ坊などはよい加減の名であらうと、高を括る人もあるいは無いと言はれぬが、自分だけはまだ決してさう考へない。畿内の各郡から中國の山村にかけて、往つては見ないが大道法師、ダイダラ谷ダイダラ久保等といふ地名が、竝べてよければ幾らでも玆に擧げられる。つまりは話は面白いが人は知らぬ故に、大人といふ普通名詞で濟まして置き、辨慶が評判高ければあの仁でもよろしとなつたのであらう。笠井新也君が池田の中學校に居た頃、生徒にすゝめて故郷見聞錄を書かせた中に、備前赤磐郡の靑年があつて、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師(ざうぶつし)といふ者が來て、山から山を跨いで去つた。それで土人が其足跡を崇敬すると述べて居る。耶蘇教傳道の初期には、何れの民族にも斯んな融合はあつたものである。

[やぶちゃん注:「廣澤の遍照寺の邊に、大道法師の足形池があることを、都名所圖會に插畫を入れて詳しく記し」所持する「都名所圖會」の「卷之四 右白虎」の「遍照寺山」(へんじょうじやま)の項に、『大道法師足形池』として、割注で『廣澤の巽』(南東)『三町』(約三百二十七メートルほど)『ばかりにあり』と記し、添えられた『廣澤池 遍照寺旧跡』にある「足形池」から見て、その位置は現在の広沢の池の南東池畔、京都府京都市右京区嵯峨広沢町、或いはその池畔直近の嵯峨広沢池下町の広沢公園附近と推定される。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「乙訓(おとくに)郡大谷の足跡淸水」乙訓郡(おとくにぐん)は京都府(山城国)の郡。現行は京都府で大山崎町(おおやまざきちょう)一町であるが、旧郡は京都市伏見区の一部と南区の一部及び西京区の一部、向日市と長岡京市の全域を含んだ。「大谷」は不明で「足跡淸水」から逆に辿れるだろうと思ったが、甘かった。それも見出せない。識者の御教授を乞う。

「京羽二重」「きょうはぶたえ」(現代仮名遣)と読み、貞享二(一六八五)年に水雲堂狐松子が著した全六巻六冊から成る、実用性を重視した京都の地誌及び観光案内記。

「長野新田の大道星」探すのに苦労した。「長野新田」は現在の京都府京都市西京区大枝東長町附近であることが判った。埼玉大学教育学部谷謙二(人文地理学研究室)氏の提供になる時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」の、ここの左の古地図に「長野新田」とある。なお、この大道星(だいどうぼし)という字地名は現在も残っていることが、京都市の墓地区画整理関連の文書から判明した。

「笠井新也君」(明治一七(一八八四)年~昭和三一(一九五六)年)は現在の徳島県美馬市脇町の生まれの教師で考古学・古代史研究者・阿波郷土史家。國學院大學師範部国語漢文歴史科卒(特待生で首席卒業)。卒業後は帰郷して、県立高等女学校(現在の城東高校)や県女子師範学校などの教職を勤めながら、歴史・民俗の研究・論文執筆に取り組んだ。明治四四(一九一一)年には長野県上田中学校に転じ、さらに翌明治四十五年には大阪府池田師範学校(後の大阪学芸大学学芸学部 (現在の大阪教育大学教育学部)の母体の一つ)とに移った。両校在職中も、生徒が記録した民話・伝説を纏めるなど、それぞれの土地の民俗に関心を持って活動した。特に邪馬台国研究に力を注ぎ、その所在地は大和であり、奈良県桜井市にある最古の前方後円墳とされてきた全長二百七十二メートルの箸墓古墳が女王卑弥呼の墓であると最初に提唱したことで知られる。以上は「徳島県立博物館」公式サイト内のこちらの記載を参照した。

「備前赤磐郡」(あかいはぐん(あかいわぐん))は岡山県にあった旧郡。現在の岡山市の一部・赤磐市の大部分・和気郡和気町の一部を含んだ。「地神山」は不詳。異名か。識者の御教授を乞う。]

 

 紀州の百餘の足跡はその五分の一を辨慶に引渡し、殘りを大人の手に保留して居る。美作の大人足跡も其一部分を土地の恠傑目崎太郎や三穗太郎に委讓して居る。西は備中備後安藝周防、長門石見などでもただ大人で通つて居る。それから四國へ渡ると讃州長尾の大足跡、又大人の蹴切山がある。伊豫でも同じく長尾といふ山の麓に、大人の遊び石といふ二箇の巨巖があつた。阿波は劔山々彙を繞つて、もとより數多い大人樣の足跡があり、或は名西地方の平地の丘に、山作りの畚の目から、こぼれて出來たといふものも二つもある。土佐でも幡多高岡の二郡には、色々此例があつて何れも單に大人田、若しくは大人足跡で聞えて居た。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間は無いのかと思ふと、豈に測らんや柳瀨貞重の筆錄を見ると、却つて阿波に近い韮生(にろう[やぶちゃん注:底本では「みろう」とルビするが、調べてみると、「にろう」であり、ちくま文庫版全集もそうなっているので、特異的に訂した。])郷の山奧に、同名の巨人は悠然として隱れて居た。卽ち此筆者の居村なる柳瀨の在所近くに、立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石があつて、前の二つはダイドウボウシ之を棒にかつぎ、降石は袂に入れて此地まで步いて來ると、袖が綻びてすつこ拔けて爰へ落ちた。それで降石だと傳へて居たのである。

[やぶちゃん注:「目崎太郎」「三穗太郎」孰れもダイラダボッチの実在性を高めるために、漢字のそれらしい実在人物らしい表記仕立てとしたものと考えてよい。

「讃州長尾」旧香川県大川郡長尾町(ながおちょう)。この附近一帯(グーグル・マップ・データ)。

「蹴切山」不詳。識者の御教授を乞う。

「伊豫でも同じく長尾といふ山」不詳。識者の御教授を乞う。

「劔山々彙」徳島県中部南方に位置する徳島県の最高峰(標高千九百五十五メートル)の剣山(つるぎさん)を中心とした周囲の山々の意(隠田集落村である祖谷(いや)はこの地帯の西方である)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「山彙」は「さんゐ(さんい)」と読む普通名詞で、山系や山脈を成すことなく、孤立している山々の集まり、山群を指す

「名西地方」徳島県名西郡(みょうざいぐん)。現在の石井町(ちょう)・神山町の外、旧郡域は徳島市の一部・板野(いたの)郡上板町(かみいたちょう)の一部を含んだ。現在の郡域はここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐」「幡多」高知県幡多郡は現在、大月町・三原村・黒潮町のみであるが、旧郡域は宿毛市・土佐清水市・四万十市の全域、及び高岡郡四万十町の一部を含んで、土佐国内の郡で最大の面積を有し、南海道でも紀州に牟婁郡に次いで広大な郡域を持っていた。

「高岡」現する郡。旧郡域(高知西部中央地区)はウィキの「高岡郡」を参照されたい。

「柳瀨貞重」土佐の郷士柳瀬貞重(居住地韮生郷)。香美郡韮生郷の小領主で山田家臣。山田家の滅亡後に太西・川窪の両家を通じて長宗我部国親の麾下に属した。彼は韮生郷を中心に安芸郡から幡多郡までの古文書・記・伝承などを編纂した「竹木筆剰」などを残している。

「韮生(にろう)」現在の香美市の北東部、奥物部県立自然公園(ここ(グーグル・マップ・データ))の周辺。

「筆者の居村なる柳瀨」現在の高知県香美市物部町柳瀬。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「立石・光石・降石(ぶりいし)の三箇の磐石」不詳。]

 

 そこで私たちは、是ほどにして迄も是非ともダイドウボウシでなければならなかつた理由は何かといふことを考へて見る。それには先づ最初に心づくのは、豐後の嫗嶽の麓に於て、神と人間の美女との間に生まれた大太(だいた)といふ怪力の童兒である。山崎美成の大多法師考に引用する書言字考には、近世山野の際に往々にして大太坊の足蹴と傳ふるものは、疑ふらくはこの皹童(あかゞりわらは)のことかと言つて居る。證據はまだ乏しいのだから冤罪であつては氣の毒だが、少なくとも緒方氏白杵氏等の一黨が、この大太を家の先祖とせんが爲に、頗る古傳の修正を試みた痕は認められる。成程後に一方の大將となるべき勇士に、足跡が一反步もあつては實は困つたもので、山などはかついで來なくとも、別に神異を説く方便はあつたのであらう。しかしどうして大太といふが如き名が附いたかと言へば、やはり神子にして且つ偉大であつたことが、その當初の特徴であつた故なりと、解するの他は無いのである。

[やぶちゃん注:「豐後の嫗嶽」「嫗嶽」は「うばだけ」。宮崎県との県境の、大分県豊後大野市に山頂を持つ祖母山(そぼさん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千七百五十六メートルで、宮崎県の最高峰。ここに記された伝承は、個人サイト「戦国 戸次氏年表」のこちらのページに詳しい。

「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大多法師考」不詳。読んでみたい。

「書言字考」近世の節用集(室町から昭和初期にかけて出版された日本の用字集・国語辞典の一種。「せっちょうしゅう」とも読む。漢字熟語を多数収録して読み仮名を付ける形式を採る)の一つである「書言字考節用集(しょげんじこうせつようしゅう)」のことか。辞書で十巻十三冊。槙島昭武(生没年未詳:江戸前中期の国学者で軍記作家。江戸の人。有職故実や古典に詳しく、享保一一 (一七二六) 年に「關八州古戰錄」を著わしている。著作は他に「北越軍談」など)著。享保二(一七一七)年刊。漢字を見出しとし、片仮名で傍訓を付す。配列は語を意味分類し、さらに語頭の一文字をいろは順にしてある。近世語研究に有益な書。

「皹童(あかゞりわらは)」「皹」は「あかぎれ・ひび」の意。この伝説はM.Shiga氏のサイト「パノラマ風景写真で観光する大分県」の「緒方川原尻橋周辺の風景 緒方三郎物語 伝説」に詳しいので参照されたい。

「緒方氏」日本の氏族。平安後期以降、豊後国大野郡や直入郡を本拠地とし、豊後国南部に勢力を伸ばした大神(おおが)氏の後裔氏族。大友氏が入国する以前からの豊後国に於ける有力な在地武士の一族で、大野川・大分川流域の大野・直入両郡を本拠地として、豊後国南部に勢力を伸ばした。参照したウィキの「大神氏」によれば、『大神氏は中世期の豊後における在地武士の一族として栄えるが、惟基については祖母岳大明神の神体である蛇が人間と交わって生まれたとの伝説が』「平家物語」や「源平盛衰記」に『見え、それによると惟基の』五『代の孫が緒方氏の祖、緒方惟栄』(おがたこれよし 生没年不詳)『となる。因みに、惟栄は』養和元(一一八一)年に『豊後国目代を追放』され、元暦元(一一八四)年には『平家についた宇佐神宮を焼き討ちにするなど、従来の支配階級に代わり』、『武士勢力による支配を強めた。治承・寿永の乱(源平合戦)に際して源氏につき、葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍した』とある。ウィキの「緒方惟栄」によれば、『豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領し』、『祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟』とある。「平家物語」に登場し、『その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている』。『宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ』治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵後』、養和元(一一八一)年、『臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった』。寿永二(一一八三)年に『平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたため』、『これと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った』。『こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる』。また、『惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる』とある。

「白杵氏」ウィキの「臼杵氏」によれば、『大神氏の一族で、大神惟盛が豊後国臼杵荘に入り、地名を取って臼杵氏と称した。戸次氏・佐伯氏・緒方氏(佐伯氏の庶家とする説もある)などの庶家が出た』。『鎌倉時代に臼杵惟直(直氏)には男子が無く、すでに近隣の有力豪族であった大友氏の一族になっていたかつての庶家・戸次氏から、戸次貞直の子の直時を婿養子に迎えた。これにより臼杵氏の嫡流も大神姓から大友系へと変わり、大友氏に従属する立場となった』。『戦国時代の当主・臼杵長景は臼杵庄水ヶ谷城主で、大友義鑑の加判衆を務めるなど、大友氏の重臣として活動した。その死後、家督を継いだのは長男の臼杵鑑続で』二十『年の長きに渡って加判衆を務め、幕府や朝廷との交渉等、大友氏の外交を担った。鑑続には男子がいたが幼少のため、弟の臼杵鑑速が跡を継いで、加判衆を務めた。鑑速は大友義鎮(宗麟)の重臣として活動し、吉岡長増・吉弘鑑理らと「豊後三老」と称された。この頃は外交だけではなく、筑前国や豊前国に侵攻してきた毛利氏への対応や、明や李氏朝鮮との対外貿易にも携わった』。天正二(一五七四)年『の書状から見えるように、この頃から鑑速の嫡男・臼杵統景が父の名代としての活動を開始して将来を嘱望された。しかし』、天正六年の『耳川の戦いに出陣した統景は島津軍に敗れて討死した。統景の討死により、その従兄弟の臼杵鎮尚が家督を継いだ。鎮尚は侵攻する島津氏に抵抗して臼杵城の攻防戦にも参加している。また同じく統景・鎮尚の従兄弟の臼杵鎮定は、宗麟死後大友義統に仕えて、文禄・慶長の役にも出陣したが、義統がこの戦役の最中に改易されると、大友氏を退出して上洛。その後、行方不明となり、戦国武将としての臼杵氏は完全に滅亡した』とある。

「一反步」「いちたんぽ」。三百坪。九百九十一・七三六平方メートル。約一千平方メートルとすれば、テニス・コート約四面分ほどに相当する。]

 

 柳亭種彦の用捨箱[やぶちゃん注:「ようしやばこ」。]には、大太發意(だいたぼつち)は卽ち一寸法師の反對で、是も大男をひやかした名だらうと言つてある。大太郎といふいみじき盜[やぶちゃん注:「ぬすつと」と読んでおく。]の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り、烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて、いたつて有觸れた[やぶちゃん注:「ありふれた」。]名だから不思議も無いようだが、自分は更に溯るつて、何故に我々の家の惣領息子を、タラウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入つて來てちやうど太の字と郎の字を宛てゝもよくなつたが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦(たらしひこ)帶姫(たらしのひめ)だのといふ貴人の御名があつたのを、丸で因みの無いものと斷定することが出來るであらうか。筑後の高良[やぶちゃん注:「かうら(こうら)」。]社の延長[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに『年間』と入る。]の解狀[やぶちゃん注:「げじやう(げじょう)」。律令制で下級官司が上級官司又は太政官に差し出す上申文書。]には、大多良男[やぶちゃん注:「だいだらを(だいたらお)」。]と大多良咩[やぶちゃん注:「だいたらひめ」。]のこの國の二神に、從五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の人聞菩薩朝記には、豐前の豬山にも大多羅眸神[やぶちゃん注:「だいたらばうしん(のかみ)」と読むか。]を祭つてあつたと述べて居る。少なくもその頃までは、神に此樣な名があつても恠まれなかつた。さうして恐らくは人類の爲に、射貫き蹴裂き[やぶちゃん注:「いぬき・けさき」。後者はちくま文庫版に拠る読み。]といふやうな奇拔極まる水土の功をなし遂げた神として、足跡は又其宣誓の證據として、神聖視せられたものであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「柳亭種彦の用捨箱」柳亭種彦の江戸後期の考証随筆。天保一二(一八四一)年刊。三巻三冊。「俳諧用捨箱」の外題を付した後摺本もある。近世初期の市井の風俗や言語などについての考証が大部分を占め、概ね刊年の明確な俳書を援用して実証し、また古版本の挿絵や古画を模写・透写して多数載せて画証としており、所説の信憑性が高い。引用資料中には現存不明のものもあり、資料的価値も高い。なお、一般名詞としての「用捨箱」とは箱の中を仕切って、必要な文書と用済みの文書を区分けして入れるようにしたものを指す語である。

「盜の大將軍の話は、早く宇治拾遺に見えて居り」「宇治拾遺物語」の巻三にある「大太郎盜人事」(大太郎盜人(だいたらうぬすびと)の事)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「烏帽子商人の大太郎は盛衰記の中にもあつて」「源平盛衰記」巻二十二「大太郎烏帽子」。ブログ「北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室」の『「源平盛衰記」巻二十二甲斐国の住人大太郎(烏帽子商人)』で原文が読める。

「足彦(たらしひこ)帶姫(たらしのひめ)」古代皇族の名によく見られる。

「筑後の高良社」福岡県久留米市の高良山にある高良大社(こうらたいしゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「延長」九二三年~九三一年。

「宇佐八幡の人聞菩薩朝記」「人聞菩薩朝記」は「にんもんぼさつてうき(にんもんぼさつちょうき)」と読むものと思われる。仁平二(一五二)年頃に書かれたとされる、現在、京都府八幡市の石清水八幡宮が所蔵するもので、宇佐八幡の縁起が記されてある、最古の縁起書。神仏習合によって、宇佐では八幡大菩薩に対し、人聞(にんもん:神母)菩薩が比定創成されて民衆に信仰された。

「豐前の豬山」大分県豊後高田市臼野と同県豊後高田市城前の境にある猪群山(いのむれやま)か。(グーグル・マップ・データ)。標高四百五十八メートル。山頂にある巨石群で知られ、「飯牟礼山」とも書く。ウィキの「猪群によれば、『大分県の北東部にある国東半島に位置し、国東半島の中心である両子山から見ると北西の方角にあたる。猪群山という名前は、イノシシが群れるほどに多かったことに由来するといわれる』。『山頂は南北に分かれ、北峰の頂上付近に巨石群がある。この山の最高地点は北峰より約』十メートル『高い南峰にあ』り、『中腹には飯牟礼神社の中宮がある』。『北峰の頂上付近にある巨石群は、斜め上方に向かってそびえる高さ約』四・四メートルの『神体石を中心に、東西』に三・三メートル、南北に楕円状に四十二メートルにも及ぶ十六基もの『巨石が並ぶ。さらにその外側には』『円状に』『直径約』七十メートルに達する二十四基の『石が配されている。登山路から頂上の巨石群への入口には陰陽石と呼ばれる一対の巨石が門のように立っている。一帯は、「オミセン」と呼ばれる聖域で、女人禁制の地であった。なお、現在は女性も立ち入ることができる』。『この巨石群はストーンサークル(環状列石)であると言われるが、配列に歪みがあり』、『整った楕円状ではないことや、石の間隔が一定でないことなどから、ストーンサークルと呼ぶべきではないとの指摘もある。巨石群の周囲には楕円状に土塁と溝が走っているが、これは』明治三九(一九〇六)年に『山火事から守るため』、『防火壁として築造されたものであるとされる』ものの、『それ以前から遺構があった可能性も残されている』。『神体石は、伝承によれば、山幸彦と海幸彦神話で知られる山幸彦が、龍宮から持ち帰った潮盈珠(しおみちのたま)、潮乾珠(しおひのたま)を置いた場所であるとされる。そのため、神体石の上部の窪みには、満潮時には水が満ち、干潮時には水が乾くという。また、窪みには金魚が住んでおり、この金魚を見た者は盲目になるとも伝えられる。この巨石群は、古代の巨石信仰の遺跡であるとする説、中世の仏教信仰の霊場跡であるとする説、中世の砦跡であるとする説、自然地形であるとする説等がある。また、卑弥呼の墓とする俗説もある』とある。この山が柳田國男がここで言う「豐前の豬山」かどうかは分らぬが、この巨石群はまさにダイダラボッチに相応しいアイテムであると私は思う。

「大多羅眸神」不詳。ネット検索にはこの文字列では全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

 

2018/04/15

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 再度の手術、再度の疲労

 

    再度の手術、再度の疲労

 

 『日本』における居士は「明治二十九年の俳諧」を掲げる傍(かたわら)、「俳句と漢詩」を論じ、「服制と美術」を論じ、「『詩董狐(しとうこ)』を読む」を載せたりした。『詩董狐』は国分青厓(こくぶせいがい)氏の評林を集めたもので、この批評に限り越智処之助(ところのすけ)の名を用いている。

[やぶちゃん注:「国分青厓」(安政四(一八五七)年~昭和一九(一九四四)年:正岡子規より十歳年上)は漢詩人。既出既注であるが再掲する。本名は高胤(たかたね)、青厓は号で「青崖」とも書いた。仙台生まれで、父は仙台藩士。後年の号であったこの号は青葉城に由来する。ウィキの「国分青崖によれば、『藩学の養賢堂で、国分松嶼(しょうしょ)に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門(千仞)に漢詩を学んだ』。明治一一(一八七八)年、『上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐(調理場荒らし)のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと』ともに『退校した。退校仲間とは長く親しくした』。『朝野新聞』や第一次『高知新聞』の『記者を勤めて後』、明治二二(一八八九)年創刊の『日本新聞』に、『陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論』である「評林」を『連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前』の明治三六(一九〇三)年十一月に書いた「檜可斬(檜斬るべし)」や翌月の「植物類」は『発禁の処分を受け、その後も当局の処分を受けることがたび重なったことから、青崖は自ら、「会社の被った罰金を弁償する」と『申し出たと言う』。明治二三(一八九〇)年に『森槐南・本田種竹らと詩社『星』社を興し』、『三詩人と呼ばれた』。明治三九(一九〇六)年に『陸羯南が社長を辞した時』、十一『人の社員と共に政教社へ移り、その『日本及日本人』誌で』「評林」を続けている。大正一二(一九二三)年、『大東文化学院の創立と共に教授となった。『雅文会』・『詠社』・『興社』・『蘭社』・『樸社』・『竜社』などの詩社にかかわり、『昭和詩文』誌を主宰した』。昭和一二(一九三七)年には『帝国芸術院会員に選ばれた』昭和五(一九三〇)年に『政教社社長として『日本及日本人』誌を率いた五百木良三が』没すると、青崖がこれを受け継ぎ、』『入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった』。『太平洋戦争』『の敗色が深まる中で没した』。『青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが』、彼の詩集はここに出る「評林」第一集の「詩董狐」しか出版していない。『恬淡無欲な人柄だったと言われる』とある。]

 

 居士の容体はこの年もあまり面白くなかった。腰痛が更に加わり、筋肉が腫(は)れたので、佐藤三吉氏の来診を乞うたのが二月十九日で、三月二十七日に至り同氏の手術を受けた。手術前に大きくなった腰の腫(はれ)を、大原恒徳氏宛の手紙に図で示したこともある。手術した時の佐藤氏の話では、一ヵ月半もたつとまた腫れて来るから、その時再び手術する、ということであったが、その晩のうちにもう腫れて来た。「少くも寐返(ねがへ)りだけは自由ならんとたしかめ居候ひしが右の次第にてそれも叶はず失望致候。小生のこそ誠に病膏肓に入りしもの、どんな事したとて直る筈はなけれどそこは凡夫のこと故若しやよくはなりはしまいかと思ふことまことに淺ましき限りに候」という感慨を虚子氏宛に洩している。五月三日の漱石氏宛の手紙に「再度ノ手術再度ノ疲勞一寸先ハ黑闇々」とあるから、二度手術を受けたことは明であるが、二度目の日は何時頃かわからない。

[やぶちゃん注:「佐藤三吉」(安政四(一八五七)年~昭和一八(一九四三)年)は外科医(医学博士)で貴族院議員。美濃国大垣藩藩士の三男。東京帝国大学教授・東京帝国大学医科大付属医院長・東京帝国大学医科大学長として本邦の近代医学の創生期に活躍した。この年にベルリン大学留学から帰国、東京帝国大学教授に任ぜられていた。]

 

 しかしそういう状態の中にあって、居士は存外元気であった。小説「花枕」を草したのは、最初に佐藤氏の診察を受けた直後である。二月十七日の漱石氏宛の書簡に「此頃ハ僕が小説を書くといふことが新聞に出たさうだ、すると本屋が來てどうか一つ御願ひ申(まうし)たいのでといふ、そこは僕ノヿナレバ小説は出来ません抔とことわるのもいやで、アイアイ宜しうございますと受けあつた。ソレデハ今度のが出來ましたらそのお後でも最一(もひと)つ御願ひ申度といつた。アイアイ宜しうございますと受(うけ)あつた。受あつたが自ら驚いたネ、小説とハどんなに書いたらいゝのであらう」とあるのを、間もなく実行に移したものと見える。「花枕」は四月になって『新小説』に発表された。居士の小説で一般の文芸雑誌に載ったのは、前後を通じてこの一篇だけである。

[やぶちゃん注:以上の漱石氏宛書簡は引用であるのに、底本では表記が完全に現代仮名遣になっていて不審であったことから、「子規居士」原本を用いて再現した。但し、読みと訓点は底本のものを採用した。なお、「ヿ」は「こと(事)」の約物である。]

 

 「花枕」がどういう小説であるかということは、『めさまし草』の「雲中語」に「繼母に窘(くるし)めらるゝ少女、夢に天つ神に誘はれて、ひかりと云ひ、にほひと云ふ神の子と共に雲を蹈みて登るべかりしを、妹の上を忘れかねて地に墜つと見て醍むる物語を、抒情詩の如く、又抒情詩を挿みて、正岡のぼるの書けるなり」とあるのがよく尽している。居士の今まで書いた小説とは全然世界が違う。「拝情詩の如く、また抒情詩を挿みて」とあるが、あるいは新体詩になるべき構想を、そのまま小説にしたのかも知れない。「人間よりも花鳥風月がすき也」という居士の立場からいえば、この風変りな小説もまた存在の理由が十分にある。

[やぶちゃん注:「花枕」は「青空文庫」ので読める(但し、新字)。宵曲の言うように初期構想は長篇抒情詩であったように思われる。]

 

 但(ただし)居士はこの時最初から「花枕」を書こうとしたものではなかった。「小説は須磨を書きかけ候處迚も間にあはず、中途でやめて「花枕」といふ極短篇(原稿二十枚)を一日にものし候。なかなかの勇氣に有之候」という虚子氏宛の手紙(二月二十六日)がその消息を伝えている。中途でやめた須磨の小説は即ち「月見草」で、この時筆を招いたなり、永久に未完で残されることになった。居士が小説を書くということが新聞に出たというのは、「月見草」の方だったのであろう。

 「花枕」の執筆に次いで、「古白遺稿」の編纂を了えたのもこの病中であった。「古白遺稿」は一周忌までに作るつもりであったのが、前年は遂に着手せず、三周忌を前にして稿成ったのである。遺稿に添えた「藤野潔の伝」を草するために、居士は一日半余を費した。伝を書上げた晩は八度六分も熱があったが、「責任をはたさんとする心熱は體熱に打勝ちて重荷の下りたやうに覺え候」といっている。

 「古白遺稿」は遂に四月の命日までには出来上らなかった。「藤野潔の伝」は後に「藤野古白」と題を改めて『日本人』にも掲げられた。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十年 新体詩押韻

 

     新体詩押韻

 

 新体詩の作品は引続き『日本人』その他に掲げられたが、三十年に入ってから新体詩に韻を踏むことをはじめた。居士は三月五日発行の『日本人』に「新体詩押韻の事」なる論文を掲げ、押韻の種類と実際の経験とについて、つぶさに説くところがあったが、作品の上に押韻の跡が見えるのは、一月二十日発行の『日本人』に揚げた「老媼某(なにがし)の墓に詣づ」「田中館甲子郎(たなかだてこうしろう)を悼む」「少年香庵を悼む」「古白の墓に詣づ」の諸篇以来である。一度押韻と決した上は、如何なる場合にもこれを廃せず、「まさをかつねのり」の名を以て「皇太后陛下の崩御遊ばされたるをいたみたてまつる」を『日本』に掲げた時なども、整然と一行置きの押韻が試みてある。

[やぶちゃん注:「老媼某(なにがし)の墓に詣づ」以下の全詩篇は国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」(第六巻大正一五(一九二六)年アルス刊)で読める。ここ。左コンテンツ「目次・巻号」をクリックし、「新體詩」の項目が見えるまでスクロール・ダウンすると、ずらりと並ぶ。

「田中館甲子郎(たなかだてこうしろう)」物理学者で東京帝大教授の田中館愛橘(あいきつ)の弟。詳細不祥。

「少年香庵」不詳。

「皇太后陛下」孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母(実母ではない)英照皇太后(天保五(一八三五)年~明治三〇(一八九七)年一月十一日:九条夙子(あさこ):明治天皇睦仁(むつひと)は孝明天皇と典侍(ないし)中山慶子(よしこ)との間の子であったが、立太子と同時に准后九条夙子の実子とされた)。同追悼詩は十四日後の一月二十五日のクレジット。]

 

 新体詩押韻の一事は、当時としても共鳴者は出なかった。居士は前年の十月『日本人』の「文学」において「新體詩に韻を踏むことの利害如何。曰く踏むも可なり、踏まざるも可なり。若し韻を踏まんとならば徒に形式的に蹈[やぶちゃん注:ここは「子規居士」原本のママ。]まんと企てずして、其韻をして吟誦の際效力あらしむるやうにすべきなり」というのを前提として、押韻に関する意見を述べたことがあったが、この時はまだ実験したわけではなかった。自ら実験したところによると、句法の曲折が多くなる、これは名詞や副詞が語尾に来た結果で、世人は佶屈聱牙とか、支離滅裂とか、文法が違うとかいうであろうが、韻文が散文より佶屈聱牙になり、支離滅裂のところが多くなり、文法を破る傾向があるのは当然である、ただ実際問題からいって、名詞を韻にするのは困難であるにかかわらず、名詞を韻にしなければならぬ必要を感じた、というのである。

 新体詩における押韻は、最後の母韻のみを韻とする者、最後の一字だけを韻とする者、最後の一字とその前の字の母韻とを韻とする者の三種に分れるが、居士は実験上第二の法を採った。「是れ唯此量を適度と信じたるに因る」というのである。韻の距離ということも一の問題であり、居士は六種ほどの例を挙げているが、韻の距離は遠ければ遠いほど作り易いといっている。「吾は調子の上より新體詩に韻を踏まざるべからずとは言はず、されど今の散文的新體詩を韻文的ならしむる一方便として韻を踏むことを勸むる者なり。韻を踏みたるがために佶屈聱牙ともならん、支離滅裂ともならん。佶屈聱牙も支離滅裂も刺激劑として必要なりと信ず」というのがその結論である。

[やぶちゃん注:一応、全詩篇を読んだが、佶屈聱牙とも支離滅裂とも感じぬ一方、形式整序への興味があからさまに傾斜していて、詩人の悲傷も、これまた、全くと言っていいほど、美事に伝わってこない。]

 

 居士はこの押韻のために自分で「韻さぐり」一巻を作った。語尾の韻によって語を分類し、同類の中は更にこまかく分けてある。三十年一月著手(ちゃくしゅ)とあるから、押韻をはじめると同時にこの事を作ったものに相違ない。新体詩に押韻の必要を認めたところで、自分一個の詩作の便宜のために「韻さぐり」を作って座右に置くというようなことは、尋常文学者の能くせぬところであろう。居士には何事も根抵から着手しなければ気の済まぬ性質があった。

 三月五日の『日本人』に居士は「俚歌(りか)に擬(ぎ)す」六篇を掲げた。当時の新体詩壇にあって民謡俚歌に著眼したのも面白いが、居士の作の最も短いものとして、ここに挙げて置くことにする。

 

 大凧あがれ、

 天まであがれ。

 天から落ちたら

 柳にかかれ。

 柳の枝に

 三羽の鷺が

 みんな逃げて

 しまつた。

 

 これははじめのところに「れ」の韻が踏んであるだけのようであるが、次の一篇は大分こまかに韻を用いている。無造作なように見えて、苦心を要したものであろう。

 

 雄蝶舞へ舞へ

 雌蝶を連れて、

 雌蝶ひらひら、

 雄蝶を追ふて、

 麥や菜種や

 大根の花や、

 大根飛び越え

 向ふへ行くや

 右は小雀、

 左は悪魔、

 中にぐるぐる

 大水車、

 行くな遊ぶな、

 又舞ひ戾り、

 もとの菜種に

 夢語り夢語り。

 

[やぶちゃん注:以上二篇はやはり国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」(第六巻大正一五(一九二六)年アルス刊)の画像(ここ)を視認して校訂した。「雄蝶」は底本ルビから「をてふ(おちょう)」、「雌蝶」は「めてふ(めちょう)」と読んでいるようである。]

 

 この年三月に新詩会から発行された『この花』という詩集には、居士も正岡子規の名を以て加わっており、『日本人』に掲げた「鹿笛」「父の墓」「小虫」「曳」「筆」「四季」等の外に「おもかげ」一篇が収められている。「おもかげ」はこの集のために作ったものかと思うが、押韻が試みられているところを見れば、三十年以後の作であることは疑(うたがい)を容れぬ。居士以外の『この花』の作者は落合直文、佐佐木信綱、武嶋羽衣(はごろも)、杉烏山(すぎうざん)、大町桂月、塩井雨江、与謝野鉄幹の諸氏であった。

[やぶちゃん注:「武嶋羽衣」(明治五(一八七二)年~昭和四二(一九六七)年)は日本橋生まれの詩人で国文学者・作詞家。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)。本名は武島又次郎。瀧廉太郎作曲の名曲「花」やジンタやチンドン屋の演奏で知られる「美しき天然」の作詞者である。但し、ウィキによれば、折口信夫(釈迢空)の短歌「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり」を幼稚な歌だと批判し、「心なく山道を行きし人あらむふみしだかれぬ白き葛花」と添削したことによって、折口の「あたらし」を「新し」ではなく「愛惜し」と誤解したこと、また、紅紫色の葛の花を「白き」とした無知によって歌壇の失笑を買ったという逸話が残されている』とある。

「杉烏山」杉敏介(としすけ 明治五(一八七二)年~昭和三五(一九六〇)年)は山口県生まれの教育者。第一高等学校の国文教授・校長。通称は「びんすけ」で、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「津木ピン助」のモデル。歌人としても知られ、「烏山」はその号。

「塩井雨江」塩井正男(明治二(一八六九)年~大正二(一九一三)年)の号。但馬(兵庫)出身の詩人で国文学者。落合直文の「浅香社」に参加し、七五調の詩を発表、擬古派の詩人として注目された。日本女子大・奈良女高師教授。]

 

 居士の新体詩方面における仕事は、他の方面の業績に掩(おお)われ過ぎた嫌(きらい)がある。あるいは居士に取って労多くして酬いらるるところ少いものであったかも知れぬが、二十九年から三十年へかけて、居士の精力の一半は新体詩に傾注されていたといって差支ない。その点は『この花』の一作者たる以外に、多くの検討を要するものがあると思う。

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(2) 二 攻擊の器官

 

     二 攻擊の器官

 

 斯くの如く、地球上に生存する動物は、各々自分だけの利益を計つて、常に相互に劇しく競爭をなし居るもの故、この生存競爭場裡に立つて敵にも殺されず、同僚にも負けぬだけの構造・性質の具はつたものでなければ、この世の中には生活は出來ぬ。この構造・性質に聊でも不足した處があれば、忽ち敵に殺され、同僚に負かされるから、素より生活の出來る理窟がない。それ故、如何なる動物を取つても、敵を防禦し、餌を攻擊する仕掛は十分に發達して居るが、動物各種の生活の狀態の異なるに隨ひ、防禦・攻擊の裝置も著しく相違して、實に千態萬狀といふべき有樣である。

 

Hebinotoukotu

 

[蛇の頭骨]

[やぶちゃん注:以下六図、総て、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして補正を加えて(絵図によってはひどく暗いため)使用した。因みに、講談社学術文庫版の上図は、上下逆様に示されていて、蛇の頭骨に見えないのはどうしたことだろう?]

Hitujiwonondadaijya

[羊を呑んだ大蛇]

 蛇類は自身の直徑の數倍もある大きな餌を攻めて、之を丸呑みにするものであるが、その口の構造を調べて見ると、全くこの攻擊法に適して、各部の巧妙に出來て居る具合は、實に感服せざるを得ぬ。先づ他の動物の口と比較して述ベて見るに、我々の口では上顎は左右二つの骨から成り立つて居るが、その間は縫合によつて結び付いて居るから、運動するに當つては、一個の骨も同樣である。また下顎の骨は元來たゞ一個よりない。この上下の顎骨が、耳の孔の前の處で互に關節して居るだけ故、我々は如何に大きく口を開いても、一定の狹い制限を超えることは出來ぬ。然るに蛇の方では、大いに之と違ひ、上顎も少しづゝ左右へ動くが、下顎の方は左右兩半が全く相離れ、その間はたゞゴムの如き彈力性を有する靭帶で繫がれて居るから、隨分廣く左右へ開くことが出來る。また上顎と下顎とは直接に關節せず、その間には左右ともに一本づゝの棒の如き骨があり、その骨の後端と下顎骨の後端とが關節して、どの骨も皆互に極めて寛く結び付いて居るから、蛇の口は殆ど幾らでも廣く開くことが出來る。我々は口の大きさに應じて食物を切つて食ふが、蛇は食物の大きさに應じて口を開くというても宜しい。また大きなものを食ふには、單に口が大きく開くだけでは十分でない。絲で大きな餅を天井から吊して、手なしに之を食はうとすると、口で押すだけ餅が逃げる故、なかなか容易には食へぬ。また池の鯉や龜に麩を與へても、こちらで押すだけ尨は先へ流れて行くから、終に石垣のある處まで押して行き、そ處で初めて之を食ふことが出來るが、これらを見ても解る通り、手なしに大きなものを食ふことは、困難なものである。所が、蛇は手のないに拘らず、自身の直徑の數倍もあるものを食ふのであるから、普通の食ひやうでは到底出來ぬ。そのためには必ず特別の裝置がなければならぬ。卽ち蛇の口には上顎にも下顎にも、尖端の後へ向いた細かい齒が澤山に生えてあつて、顎の間に挾まれたものは口の奧へ向つては滑に進めるが、その反對の方向に口の外へ出ようとすれば、齒に止められて動くことが出來ぬ。その上に下顎の左右兩半は交(かは)る交る前後に動き、前へ出るときは食物の表面をたゞ滑に進むが、後へ退くときは細い齒が食物に引つ掛るから、食物を口の奧へ引き込むやうになる。我々の齒は咀嚼の器官であるが、蛇の齒は全くたゞ食物を引つ掛けて引き入れるための器官に過ぎぬ。それ故、左の下顎で先づ食物か一分引き入れ、次に右の下顎でまた一分引き入れるといふやうな具合にして、如何に大きな食物でも漸々嚥み込んでしまふが、その有樣は恰も我々が左右の兩手を用ゐて、綱などを手繰(たぐ)るのと同樣である。かやうな裝置は、動物界に他に類を見ぬ位の特殊のものであるが、この裝置のあるために蛇は何でも容易に嚥むことが出來る。蛇に取つては極めて都合の宜しいものであるが、蛇の餌となる蛙等から考へれば、實に何ともいはれぬ程、不仕合せな次第である。

 

Mamusinoatama

 

[「まむし」の頭

(い)毒牙 (ろ)舌]

 

 靑大將・「山かゞし」などの如き普通の蛇では、右に述べただけであるが、蝮(まむし)・「はぶ」等の如き毒蛇には、尚その上に頭の兩側に毒液を分泌する腺があり、上顎の前端には一對の牙があつて、餌とする動物を見つけると、先づ口を開き、牙を立て、之を以て餌を打つて殺し、然る後に之を嚥み込んでしまふ。蛇の毒は極めて劇烈なもので、鼠位の小い獸であると、一囘打たれると、直に體の一部が麻痺し、續いて全身が動かなくなる。牙は管狀をなし尖端に細い孔があつて、打つと同時に傷口に毒液を注ぎ入れるのであるから、醫者の用ゐる皮下注射の器械と理窟は少しも違はぬが、牙を差し込んで、毒液を注射し、牙を拔くまでの働きが極めて速で、手をうつだけ程の時も掛らぬ位である。この位に完備した攻擊の器械は、他に類がないというて宜しからうが、決して之は必要以上に精巧なといふ譯ではない。毒蛇は之だけの裝置が具はつてあるので、僅に種屬を維持して行くことが出來るのである。

[やぶちゃん注:「靑大將」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora

「山かゞし」ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus有毒種

「蝮(まむし)」ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。有毒種。

「はぶ」マムシ亜科ハブ属ハブ Protobothrops flavoviridis。他にサキシマハブProtobothrops elegans(本来は与那国島と波照間島を除く八重山列島の固有種であったが、沖縄本島の南部に薬用などの目的で持ち込まれた生体個体が逃げ出して分布しており、二〇一三年には宮古島でも見つかっている)・トカラハブProtobothrops tokarensis(吐噶喇(とから)列島の小宝島と宝島の固有種)などの外、マムシ亜科ヤマハブ属ヒメハブ Ovophis okinavensis などもおり、真正のハブ属も系統学的研究によって、近い将来、もっと細分化される可能性が高い。基本的に総て有毒種。]

 

Kujiratoukotuhige

 

[鯨(附圖は頭骨と鬚)]

 

 蛇類は極めて大きな動物を一個づゝ丸呑みにするが、鯨の如きは之に反して、極めて小な餌を同時に無數に丸呑みにする。それ故、口の構造も蛇類とは正反對で、單に大きな篩(ふるひ)或は味噌漉[やぶちゃん注:「みそこし」。]の如き仕掛を有し、餌を海水に混じたまゝで、多量に口に入れ、水は外へ溢(こぼ)し、餌だけを咽喉の方へ呑み込むが、之には素より適當な裝置を要する。總べて鯨類は頭の大きなもので、種類によつては頭が全身の三分の一以上もあるが、斯く頭の大きいのは、全く口が大きいからである。先年東京で鯨の觀せ物の有つたとき、その口を開いて中に一艘の小舟が入れてあつたが、之によつても口の大きさが想像出來る。この大きな口に海水と餌と混じたものを入れるのであるが、鯨の餌となる動物は、僅に長さが一寸か二寸に過ぎぬ位のもので、その居る處には常に無數に群をなして生活するもの故、そこへ行つて鯨が口を開けば、一囘每に何萬入るか、何十萬入るか解らぬ。さて鯨の口の構造を調べて見るに、上下ともに顎には齒はないが、上顎の左右兩側には數百枚づゝも所謂鯨の鬚がある。鬚は長い三角形で、尖端を下にし、前後に相重なつて、恰も櫛の齒の如くに竝んで居るから、鯨が口を開いて、餌と海水とをその中に入れ、次に口を閉ぢて、舌を上へ押せば、海水は鬚の間を洩れて口の外へ流れ出し、固形體である餌ばかりが口の中に殘り、斯くして皆一度に丸呑みにせられてしまふ。鯨は現今生活する動物中の最も大きなもので、その最も大きな種類は身體の長さが十五間[やぶちゃん注:二十七・二七メートル。]以上もある。九州邊で每年取れるものは餘り大きな種類ではないが、それでも平均一疋に付き肉が四萬斤[やぶちゃん注:四万キログラム。四十トン。]位はある。四萬斤の肉は若し一日に一斤づゝ食ふとすれば、百二三十年もかからねば食ひ盡せぬ勘定であるが、鯨は斯く身體の大きなもの故、隨つて多量の食物を食はなければ生きては居られぬ。所が、鯨の餌となる動物は、僅に一寸か二寸に足らぬ位な小さなものであるから、之を一疋づゝ捕へて食ふやうなことでは、到底間に合はぬ。普通の動物の餌の食ひ方は、之を商賣に譬へると、恰も小賣の如きものであるが、鯨のは全く卸賣に比すべき食ひ方である。鯨はこのやうな食ひ方をなすべき特別の裝置が具はつてあるから、生活が出來るので、鯨に取つてはこの裝置は一日も缺くべからざるものであるが、そのため鯨の腹に葬られて日々命を落す動物の數は何萬あるか、何億あるか解らぬ。

 

Kitutukitoukou

 

[啄木鳥の頭骨(長き舌骨を示す)]

 

 以上は動物の餌を食ひ、敵を攻擊する器官の千態萬狀である中から、最も異なつた例を選み出しただけであるが、その他、如何なる動物を調べても、この種の裝置の具はつてないものはない。他の例を尚一二擧げて見るに、啄木鳥(きつゝき)は樹木の幹の中に隱れて居る蟲類を食物とするが、その身體を檢すると、頭から尾の端まで、斯かる蟲を捕へるために最も都合の好い構造が具はつてある。先づ嘴は錐の如く眞直で、甚だ鋭いから、樹の幹に孔を穿つには最も適して居る。舌は非常に長く、先端が尖り、逆に向いた小な鉤[やぶちゃん注:「はり」。]が幾つも附いてあるから、之で孔の奧に居る蟲を刺して、舌を引き込ませば、蟲は必ず口の中に入るやうになつて居る。總べて鳥類の舌には舌骨が軸をなして居るが、啄木鳥では舌を遠くまで出し得るために、舌骨も甚だ長い。それ故、舌を引き込めて居るときには、舌骨の後端は頭の後から上へ曲つて、頭の上面を過ぎ、鼻の邊まで達して、恰も車井戸の釣瓶繩が車を巡る如くに頭の周圍を一周して居る。或る種類では之でも尚足らぬため、舌骨の後端は前を向いて上嘴の中までも入るが、かやうな性質は決して他の鳥では見ることは出來ぬ。また足の趾は四本ある中、二本は前を向き二本は後を向いて居るから、樹の皮の凸凹に爪を掛けて身を支へるに都合が好い。倂し他の鳥と著しく異なつて見える處は尾である。一體鳥類の尾の羽毛は通常甚だ柔いものであるが、啄木鳥では頗る硬くて、且先端が針の如くに尖つて居る。この鳥が蟲を捕へるために樹に孔を穿つには直立した樹の幹に爪ばかりで摑み附いて、長い間働かねばならぬが、そのときに、尾を幹に當て、これを以て身體の重さを支へれば、大に筋肉の疲勞を省くことか出來る。實際、啄木鳥は尾をこの目的に用ゐ、恰も椅子に腰を掛けたやうな姿勢を取つて、孔を穿つて居るが、そのためには尾の羽毛の硬くて端の尖つて居るのは、この上ない適當な裝置である。斯くの如くこの鳥の身體は頭から尾まで、總べてその習性に適した構造を具へて居るが、これはこの鳥に取つては無論極めて都合が好い。倂し孔を穿たれる樹木や、その中に住んで居る蟲の方から考へれば、迷惑至極な次第である。また夜鷹といふ鳥は夜飛び廻つて蚊を食ふて生きて居るが、その嘴は甚だ小いから、口を閉じて居る所を見ると、口が餘程小ささうに思はれる。所が、口を開けばその大きなこと實に驚くばかりで、殆ど頭部全體が口となつてしまふ。この鳥の蚊を捕へるときの樣子を見るに、口を開いたまゝで蚊の澤山群がり集まつて居る中を飛んで通り拔け、恰も網で魚を掬(すく)ふ如くに蚊を掬つて食ふのであるが、斯かる方法で餌を集めるには、無論口の大きい程功能が多い。而して餌を一疋づゝ啄(ついば)む譯でないから、嘴は殆ど有つてもなくても同じ位である。かやうに、この鳥の身體も眞に習性に應じた構造を具へて居るが、そのため一方では、この鳥が生存することが出來ると同時に、他の方では無數の蚊が絶えず命を落して居る。この鳥には蚊母鳥[やぶちゃん注:「ぶんもてう(ぶんもちょう)」。]といふ漢名が附いて居るが、一聲鳴く每に蚊を千疋づゝ吐くとのいひ傳へのあるのは、恐らく大きな口を開いて、蚊の群を貫き飛ぶ所を見て考へ誤つたのであらう。

[やぶちゃん注:「蚊母鳥」私の和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊(か) 附 蚊母鳥(ヨタカ?)を参照されたい。]

 

Kitutuki

 

[啄木鳥]

 

 斯くの如く如何なる動物にも攻擊の裝置は具はつて居るが、餌の種類の異なるに隨ひ、著しく目立つものと、目立たぬものとが素よりある。比較的大形の物を捕へて食ふ種類では、餌となるものの抵抗に打ち勝つベき道具が入用故、爪・牙等の如き、一見して明に攻擊の器官と思はれるものが大に發達して居るが、逃げもせず、抵抗もせぬ植物を食ふ種類では、かやうな武器は全く發達せぬ。それ故、これらは極めて平和的の動物の如くに見えるが、牛馬の前齒・奧齒でも、蝸牛の舌でも、蝗の顎でも、浮塵子(うんか)の吻でも、植物を攻擊するに當つては、孰れも頗る有力な武器である。また蜘蛛の網の如きは敵を亡ぼす裝置に違ひないが、進んで攻めるのでなく、止まつて待つ方故、我々は鯨り攻擊の武器らしく感ぜぬ。倂し孰れにしても、これらの裝置は、之を有する動物の生活上最も必要なもので、相互に競爭する場合には、先づこの器官の完備したものが勝を占め易いわけ故、凡そ或る動物が今日生存して居る以上は、相手を攻めて之を食ふだけの裝置が之に具はつてあることは當然であるが、餌となる動物或は競爭の相手となる動物の側から見れば、この裝置の發達程迷惑なことは他にない。斯く自身の生存上にのみ有益で、他の多數の生物に迷惑な器官が孰れの動物にも發達して居ることは、生物各種は生存競爭の結果、自然の淘汰により漸々進化し來つたとすれば、必然の現象と思はれるが、自然淘汰を度外視しては殆ど説明することが出來ぬ。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 六 鬼と大人と

 

     六 鬼と大人と

 

 高木誠一君の通信によれば、福島縣の海岸地方では、現在は單にオビトアシト(大人足跡)と稱へて居る。しかも其實例は極めて多く、現に同君の熟知する石城双葉の二郡内のものが、九ケ處まで算へられる。其面積は五畝步から一段まで、何れも濕地沼地であり、または溜池に利用せられて居る。鐵道が縱斷してから元の形は損じたけれども、久ノ濱中濱の不動堂の前のつゝみ、それから北迫(きたは)の牛沼のごときは、大人が此二ケ處に足を踏まへて三森山に腰をかけ、海で顏を洗つたといふ話などがまだ殘つて居るといふ。

[やぶちゃん注:「高木誠一」(明治二〇(一八八七)年~昭和三〇(一九五五)年)は磐城(現在の福島県浜通り及び福島県中通りの白河郡と宮城県南部に当たる地域の旧称)の郷土史研究家。既出既注であるが、思うところあって再掲する。「いわき Biweekly Review 日々の新聞社」公式サイト内の第九十二号の「その時代のドキュメント」によれば、高木氏はここに出る「平町」、現在の福島県いわき市平(たいら)北神谷(きたかべや)の農家の長男として生まれた。『旧制磐城中に入学したが、「農家の長男に学問はいらない」と』二年で『退学させられ、小学校で代用教員を務めたあと、家業の農業に従事しながら、農政学や民俗学と関わることになる』。『その転機となったのは』明治四〇(一九〇七)年の『柳田国男との出会い』で(高木氏二十歳)、以後、『柳田の薫陶を受け続け』、昭和一〇(一九三五)年には『高校教師の岩崎敏夫、山口弥一郎、甥の和田文夫などとともに「磐城民俗研究会」を立ち上げる。その関係で、渋沢敬三、宮本常一などとも交流し』た。なお、「石城北神谷誌」が『高木自身の手で書かれ、脱稿したのが』大正一五(一九二六)年七月、『その後、岩崎と和田が中心となり、編集・校正をし』たものの、『戦時中という異常事態のなか、思うように作業が進まなかった』。『が、岩崎と和田の「何とか本として出したい」という執念が実を結び』、「磐城北神谷の話」として上梓されたのは実に脱稿から二十九年後の昭和三〇(一九五五)年十二月のことであった。しかし『残念なことに、校正の最終段階に来て高木が病のために床に伏し、仮綴じした校正紙を見ただけで、他界してしまった。高木はそのとき、痩せ衰えた両手を布団の上に合掌して「ありがとうございました、渋沢先生によろしく」と言ったという。本が完成したのは、死後』三ヶ月後のことであった、とある。執念の史家としてここに特に記しておきたい。

「石城」旧郡。現在のいわき市の大部分。

「双葉」福島県浜通り現存する、福島第一原子力発電所事故によって大半の地域が帰還困難区域・居住制限区域・避難指示解除準備区域に指定されているあの地域である。旧郡はいわき市の一部も含まれた。

「五畝步から一段」「畝步」は「せぶ」と読む。畝(せ)は単純に歩(坪)の倍量単位でここは畝と同じで、一畝は九十九・一七平方メートルで、この値は一アール=百平方メートルに非常に近いので、五百平方メートルで普通車十台を並べたぐらい。「一段」は「いつたん(いったん)」で「一反」に同じ。一反は十畝で十アールだから、前の小さな足跡の二倍。

「久ノ濱中濱の不動堂」福島県いわき市久之浜町久之浜中浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。「不動堂」は確認出来ない。

「北迫(きたは)の牛沼」「きたは」はママちくま文庫版全集では「きたば」。或いは福島県南相馬市鹿島区塩崎北迫(きたさく)か? ここ(グーグル・マップ・データ)で、同地区や周辺には湖沼が散在はする。

「三森山」福島県いわき市四倉町(よつくらまち)八茎(やぐき)の三森山(みつもりやま)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高六百五十六メートル。]

 

 宮城縣に入ると伊具郡狼山(からうざん)の巨人などは、久しい前から手長明神として祀られて居た。山から長い手を延ばして貝を東海の中に採つて食うた。新地村の貝塚は卽ち其貝殼を棄てた故跡などゝいふ口碑は、必ずしも常陸の古風土記の感化と解するを須ゐいない[やぶちゃん注:「もちゐない」。用いない。]。名取郡茂庭の太白山を始めとして、麓の田野には次々に奇拔なる印象が、多くの新しい足跡とともに散亂して居たのである。但し大人の名前ぐらゐは、別に奧州の風土に適應して、發生して居てもよいのであるが、それさへ尚往々にして關東地方との共通があつた。例へば觀迹聞老志は漢文だからはつきりせぬけれども、昔白川に大膽子と稱する巨人があつて、村の山を背負つて隣郷に持運んだ。下野[やぶちゃん注:「しもつけ」。]の茂邑山(もむらやま)は卽ち是であつて、那須野の原には其時の足跡があるといふ。但し其幅は一尺で長さが三尺云々とあるのは、是も少しばかり遠慮過ぎた吹聽であつた。

[やぶちゃん注:「伊具郡狼山(からうざん)」現在の福島県相馬郡新地町(しんちまち)及び宮城県伊具郡丸森町に跨る山で、標高は四百二十メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。新地町には貝塚があり、大正一三(一九二四)年の調査によって、約四千年前の縄文後期の遺跡であることが判明している。非常に古くから貝塚が知られていたことは、ここにそのまま新地町小川字貝塚という地名があることからも判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「名取郡茂庭の太白山」宮城県仙台市太白区茂庭にある。標高は三百二十一メートルほど。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「觀迹聞老志」「奥羽観蹟聞老志」(おううかんせきぶんろうし)が正式名。享保四(一七一九)年に完成した全二十巻から成る仙台藩地誌。台藩四代藩主伊達綱村の命により、藩の儒者で絵師でもあった佐久間洞巌が編纂したもの。

「大膽子」「だいたんし」と読んでおく。

「下野の茂邑山」茂邑は旧那須郡武茂村(むもむら)のことか? 現在の那珂川町馬頭一帯に相当し、近くには高鳥山・女体山・薬師岳などがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは、個人のブログの「奥羽観蹟聞老志」の「太白山」を読み解いているこのページを参照した。まさにここに書かれている「大膽子」の部分である。必見!]

 

 尤も大膽子を本當の人間の大男と信ずる爲には、實は三尺二尺といつて見ても尚少しく行過ぎて居た。だから惡路王大竹丸赤頭という類の歷史的人物は、後に其塚を開いて枯骨を見たといふ場合にも、脛の長さは三四尺に止まり、齒なども長さ二寸か三寸のものが、精々五十枚ぐらゐまで生え揃うて居たやうにいふのである。從つて名は同じく大人と謂つても、近世岩木山や吾妻山に活きて住み、折々世人に怖ろしい姿を見せるといふ者は、言はゞ小野川谷風[やぶちゃん注:「おのがは・たにかぜ」。ちょっとした小川や渓谷を渡る風のような規模の小さいものの謂いであろう。]の少し延びた程で澤山なのであつた。それが紀伊大和の辨慶の如く、山を背負ひ巖に足形を印すといふことも、見やうによつては愈々以て尊び敬ふべしといふ結論に導いたかも知れない。卽ち近江以南の國々の足跡面積の限定は、一方に於ては信仰の合理的成長を意味すると共に、他の一方には時代の好尚に追隨して、大事な昔話を滑稽文學の領域に、引渡すに忍びなかつた地方人の心持が窺はれると思ふ。若しさうだとすれば中世以來の道場法師説の如きは、また歷史家たちの此態度に共鳴した結果と言つてもよいのである。

[やぶちゃん注:「惡路王」平安前期に坂上田村麻呂や藤原利仁に滅ぼされたと伝えられる人物。蝦夷(えみし)の族長阿弖流為(あてるい)の訛ったものとの見方もある。達谷窟(たっこくいわや:岩手県平泉町に現存)を巣窟としたと言われ、これを討った田村麻呂は、そこに京の鞍馬寺を模して九間四面の精舎を建立、多聞天の像を安置したと伝える。文治五(一一八九)年九、,源頼朝は平泉を攻略、藤原泰衡らを討ち滅ぼした後、この窟に立ち寄り、田村麻呂の武勇譚を聞いている(「吾妻鏡」)。現在、茨城県桂村の鹿島神社と同県鹿島町にある鹿島神宮には、田村麻呂が納めたという悪路王の木造の首級が伝えられており、前者は元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に徳川光圀が修理したものである。これらの事実は、蝦夷社会に広がった鹿島神に、悪路王の怨霊の慰撫が求められていたことを示すものであろう(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大竹丸」(おほたけまる)は伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝承される鬼神。文献によっては「鈴鹿山大嶽丸」「大武丸」「大猛丸」などとも表記され、「鬼神魔王」とも称される。山を黒雲で覆って、暴風雨や雷鳴・火の雨を降らせるなど、神通力を操ったとする。坂上田村麻呂伝説が色濃く残る東北に、この鈴鹿山大嶽丸の説話が持ち込まれたことで、達谷窟の悪路王伝承と結びついたともされる。詳しくは参照したウィキの「大嶽丸」を読まれたい。

「赤頭」は「あかあたま」で、鳥取県西伯(さいは)郡名和村に伝わる伝説に登場する、非常な力自慢の男のことか。その怪力は米俵を一度に十二俵纏めて運ぶほどであったとする。ウィキの「赤頭によれば、その伝承は、『昔、赤頭が観音堂でひと休みしていたところ』、四、五『歳程度の男の子が現れ、観音堂の柱に五寸釘(ごすんくぎ)を素手で刺しはじめた。その力もさるものながら、今後は素手で釘を抜き取ったかと思うと、やがて釘を刺す、抜くを繰り返して遊び始めた。しかも、よく見ると素手どころか、使っているのは指』一『本のみだった。赤頭は「子供に負けるか」とばかりに自分も釘を刺すが、怪力自慢の彼でも、両手で釘を刺すのがやっとで、抜き去るのは到底無理だった。男の子はその情けない様子を笑いつつ、どこかへと去っていった』。『赤頭の死後、村の若者たちの何人かは、彼にあやかって怪力を授かろうと彼の墓に集まるようになった。ところが』、『夜になると、墓の』ところにいた『者たちの背中に』、『大変な重みが伝わり、とても我慢ができなくなった。その様子はまるで、目に見えない重石のようなものが背中に乗せられ、何者かがそれを背中に押しつけてきたようだったという』というものである。]

 

 奧羽地方の足跡の段々に小さくなり、且つ岩石の上に印した例の多くなつて行くことは、不思議に西部日本の端々と共通である。自分などの推測では、これは巨人民譚の童話化とも名づくべきものが、琵琶湖と富士山との中間において、殊に早期に現はれた爲では無いかと考へる。しかも山作りの一條の其後に附添した插話で無かつたことは、略確かなる證據がある。會津柳津(やないづ)の虛空藏堂の境内には有名なる明星石があつて、石上の足跡を大人のだと傳へて居るに、猪苗代湖の二子島では鬼が荷のうて來た二箇の土塊が、落ちて此島となると稱し、其鬼が怒つて二つに折れた天秤棒を投込んだという場處は、湖水の航路でも浪の荒い難所である。卽ち足跡は大抵人間より少し大きい位でも、神だから石が凹み、鬼だから山を負ふ力があつたと解したのである。眞澄遊覽記には、南秋田の神田といふ村に、鬼步荷森(おにのかちにもり)があると記して、繪圖を見ると二つの路傍の塚である。あんな遠方までも尚大人は山を運んであるいた。さうして少なくとも其仕事の功程に由つて判ずれば、鬼とは謂つても我々のダイダラ坊と、もともと他人では無かつたらしいのである。

[やぶちゃん注:「會津柳津(やないづ)の虛空藏堂」現在の会津の西方、福島県河沼郡柳津町(ここ(グーグル・マップ・データ))。只見川畔にある臨済宗妙心寺派の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂。本堂の前は舞台になっていて「柳津の舞台」として名勝とされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。kankeさんのマイページを参照。石といっても、川岸にある大きな岩塊であることが判る。

「猪苗代湖の二子島」不審不詳。現在の猪苗代湖には北西湖岸近くの翁島しか存在しない。或いは、岩礁のような小さな、地図にも載らぬものなのか?(航空写真を拡大して見ると、そういったものはある) 識者の御教授を乞う。

「眞澄遊覽記」江戸後期の旅行家(というより探検家)にして博物学者菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の奥州を中心に、蝦夷地の探訪も行っており、その膨大な探査著述は百種二百冊ほどもあり、ここで柳田國男が言っている「眞澄遊覽記」というのは単独の書名ではなく、それら総てを総称するものである。詳しい事蹟はウィキの「菅江真澄がよろしい。

「南秋田の神田といふ村」「鬼步荷森(おにのかちにもり)」不詳。但し、「步荷」は「ぼっか」で背負子(しょいこ)のことであるから、ダイダロボッチの山作り伝承との親和性が感じられる。]

2018/04/14

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 五 一夜富士の物語

 

     五 一夜富士の物語

 

 話が長くなるから東海道だけは急いで通らう。此方面でも地名などから、自分が見當を付けて居る場處は段々あるが、實はまだ見に行く折を得ないのである。遠州の袋井在では高部の狐塚の西の田圃に、大ダラ法師と稱する涌水の地があるのを、山中共古翁は往つて見たと言はれる。見附の近くでは磐田原の赤松男爵の開墾地の中にも、雨が降れば水の溜まる凹地があつて、それは大ダラ法師の小便壺と謂つて居たさうである。尾張の呼續町の内には大道法師の塚といふものがあることを、張州府志以後の地誌に皆書いて居る。日本靈異記の道場法師は、同じ愛知郡の出身である故に、彼と此と一人の法師であらうといふ説は、主として此地方の學者が聲高く唱へたやうであるが、それも辨慶百合若同樣の速斷であつて、到底一致の出來ぬ途法もない距離のあることを、考へて見なかつた結果である。

[やぶちゃん注:「遠州の袋井在」「高部」静岡県袋井市(グーグル・マップ・データ)であるが、「高部」も「狐塚」も不詳。識者の御教授を乞う。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「磐田原の赤松男爵の開墾地」「磐田原」は現在の静岡県磐田市内の磐田原(いわたはら)台地。静岡県南西部の天竜川東方の洪積台地で、対岸の三方原台地と同じように、天竜川の古い扇状地の隆起したもの。東西約 四キロメートル、南北十三キロメートルで、磐田原礫層と赤土層から成り、地下水面が深く、開拓は遅れた。現在は東名高速道路が通り、磐田原パーキングエリアが設置されている。台地南端には多くの大小古墳群が散在するほか、遠江国国府の所在地や東海道の宿駅の見付があり、その付近の中泉には遠江国分寺跡がある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。「赤松男爵」は「日本造船の父」と呼ばれる旧幕臣で軍人政治家で貴族院議員であった赤松則良(天保一二(一八四一)年~大正九(一九二〇)年)。戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流し、江戸脱走を試みるたが果たせず、徳川家臣らとともに静岡藩へ移った。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くした。明治元(一八六八)年、徳川家所縁の地であった磐田原の払い下げを受け、その開墾に力を注いだ。その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進、主船寮長官・横須賀造船所長・海軍造船会議議長を歴任し、明治二二(一八八九)年には開庁した佐世保鎮守府の初代長官ともなった。明治二〇(一八八七)年に男爵を叙爵、貴族院議員も務め、大正六(一九一七)年に辞職した。明治二六(一八九三)年に予備役となった後は、現在の静岡県磐田市見付へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家を建造した(以上はウィキの「赤松則良」及び「静岡県観光協会」の「ハローナビしずおか」のこちらを参照した)。旧赤松邸はここ(グーグル・マップ・データ)。

「大ダラ法師の小便壺」位置不詳。

「尾張の呼續町」現在の愛知県名古屋市南区呼続(よびつぎ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。関係ないが、私の妻のかつての実家のそばである。

「張州府志」元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に編集され、宝暦二(一七五二)年に完成した尾張藩最初の藩撰地誌で、それ以降の地誌に大きな影響を与えた。

「日本靈異記の道場法師」上巻の「第三 得雷之憙令生子強力在緣」(「雷(かみ)の憙(むかしび)を得て生ましめし子、強き力(ちから)在る緣」。「憙(むかしび)」とは好意)に出る道場法師(どうじょうほうし 生没年不詳)。原典はこちら(但し、漢文で全白文)にあり、こちらに全現代語訳がある。ウィキの「道場法師」から引いておくと、飛鳥時代の僧で「日本霊異記」に於いて「道場法師」の名で登場する。『尾張国愛知郡の出身』。六『世紀後半敏達天皇の代、農夫であった父親が農作業の途中落ちてきた雷の命を助け、その結果、強力(ごうりき)の子として生まれた』。十『歳の頃、上洛して皇居の北東隅に住んでいた力のある王族と力比べをして勝った。その後元興寺(飛鳥寺)の童子となり、鐘楼堂にすむ人食い鬼(がごぜ)を退治した。このときの鬼の髪の毛が元興寺に伝わっている。その童子は元興寺の優婆塞(うばそく=在家のまま仏道修行をするもの)となった。王族が元興寺が所有する田に引水するのを妨害したが、童子はこの妨害を排除し』、『衆僧に出家・得度することを許され、道場法師と称されるようになったという』。「今昔物語集」には、『道場法師の孫娘の話が記述されており、道場法師の怪力は男には伝わらず、女方に伝わったことが語られている』。同書では『孫娘も愛知郡出身と記述されており、少なくとも聖武天皇の時代まで一族は愛知郡で暮らしていたものとみられる(ただし、氏名の記述はない)』とある。]

 

 例へば丹羽郡小富士に於ては、やはり一箕(き)[やぶちゃん注:「み」。穀物の選別や運搬に使う農具で、竹皮・藤皮・桜皮などを編んで平らな容器状にし、周囲に竹や細木を結んでU字状の縁をつけたもの。]の功を缺いた昔話があり、木曾川を渡つて美濃に入れば、いよいよ其樣な考證を無視するに足る傳説が、もう幾らでも村々に分布して居るのである。通例其巨人の名をダヾ星樣と呼んで居るといふことは、前年「民俗」といふ雜誌に藤井治右衞門氏が書かれたことがある。此國舊石津郡の大淸水、兜村とかの近くにも大平(だゞひら)法師の足跡といふものがあると、美濃古鏡考から多くの人が引用して居る。里人の戲談に此法師、近江の湖水を一跨ぎにしたと謂ふとあることは有名な話である。

[やぶちゃん注:「丹羽郡小富士」旧丹羽郡富士村のことか。現在の愛知県犬山市には尾張富士がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「前年」本「ダイダラ坊の足跡」は昭和二(一九二七)年四月の『中央公論』初出。

「藤井治右衞門」岐阜県出身か在住の研究者か。こちらの『岐阜県教育会雑誌』の(大正四(一九一五)次の目次に複数回、同名が見える。

「石津郡の大淸水、兜村」石津郡は岐阜県にあった旧郡。ウィキの「石津郡」によれば、『多芸郡を挟んで東西で飛地状態となっていた。のちに西部が上石津郡を経て養老郡、東部が下石津郡を経て海津郡となった』。『現在の以下の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない』として、大垣市の一部・海津市の一部・養老郡養老町の一部とする。但し、「大淸水」及び「兜村」は不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃古鏡考」不詳。]

 

 奇談一笑といふ書物には何に依つたか知らぬが、その近江の昔話の一つの形かと思ふものを載せて居る。古[やぶちゃん注:「いにしへ」。]大々法師(だゞぼふし)といふ者あり。善積郡の地を擧げて悉く掘りて一箕となし、東に行くこと三步半にして之を傾く。その掘る處は卽ち今の湖水、其委土(すてつち)[やぶちゃん注:「捨て土」。]は今の不二山なりと。而うして江州に在る所の三上(みかみ)鏡岩倉野寺等の諸山は、何れも箕の目より漏り下るものといふとある。孝靈天皇の御治世に、一夜に大湖の土が飛んで、駿河の名山を現出したといふことは、隨分古くから文人の筆にする所であつたが、それが單に噴火の記事を傳へたのなら、恐らく此樣には書かなかつたであらう。卽ち神聖なる作者の名を逸したのみで、神が山を作るといふことは當時至つて普通なる信仰であつた故に、詳しい年代記として當然に之を錄したといふに過ぎなかつた。日本紀略には天武天皇の十三年十月十四日、東の方に皷[やぶちゃん注:「つづみ」。鼓に同じ。]を鳴らすが如き音が聞えた。人ありて曰ふ、伊豆國西北の二面、自然に增益すること三百餘丈、更に一島を爲す。則ち皷の音の如きは神此島を造りたまふ響なりと。伊豆の西北には島などは無く、大和の都まで音が聞える筈も無いのに、正史に洩れて數百年にして此事が記錄に現れた。しかも日本の天然地理には、斯う感じてもよい實際の變化は多かつた。乃ち山作りの神の、永く足跡を世に遺すべき理由はあつたのである。

[やぶちゃん注:「奇談一笑」西田維則 (いそく ?~明和二(一七六五)年:江戸中期の儒者。近江の人であるが、京都に住み、中国の白話小説を翻訳。漢文の用例集なども著わしている。訳書に「通俗西遊記」等)の作。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここにある「江州湖水」の最終行から次の頁の話。漢文であるが、訓点が打たれているので読み易い。

「善積郡」「よしづみのこほり/よしづみぐん」。但し、「奇談一笑」では『善澄郡』である。また、このような旧郡は古代の記載にはないようである。「古事類苑」の「地部十五」「近江國」の「郡」にある「近江國輿地志略」では(リンク先の本文を少しいじった)、

   *

近世俗間の軍記に【「江源江鑑」「淺井三代記」「織田軍記」「太閤記類」】善積郡を多く載す。近江の土俗も亦これをいふものおほし。ともに虛僞孟浪の言なり。「三正史」「六國史」「諸實錄」、善積郡の名をあぐるものをみず。「拾芥抄」に『十二郡』としるし、その十二郡の名の下に、『勢多・善積』としるす。是をもつて郡名とおもへるにや。勢多・善積は郷の名にして、「順和名抄」に、勢多は栗本郡の下にのせ、善積は高島郡の下にしるせり、是を正説とすべし。「東鑑」のごとき中世の實紀なり、是亦、善積の庄をのせて、善積郡をしるさず。是、善積郡なきこと、あきらかなり。ことごとく書を信ぜば、書なきにはしかず。正史實録を除て、稗雜の書をとらんや。いはずして明なり。

   *

「三上(みかみ)」現在の滋賀県野洲(やす)市三上にある、「近江富士」として知られる標高四百三十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「鏡岩」甲賀市土山町の巨岩。鈴鹿峠を三重県側に少し下ったところにあると「甲賀市」の「土山町」のページにある。ここは坂上田村麻呂の鬼退治で知られるところらしい。その話もリンク先にある。

「倉野寺」不詳。現在の滋賀県や三重県内にはこんな名の山はない。識者の御教授を乞う。

「孝靈天皇の御治世」治世は不確か。「日本書紀」にあるものを機械的に西暦当てはめると、紀元前二九〇年から二一五年。

「日本紀略」平安後期の歴史書。全三十四巻。編者・成立年ともに未詳。神代から後一条天皇までの歴史を漢文の編年体で記したもの。神代は「日本書紀」、神武天皇から光孝天皇までは「六国史」からの抄録、それ以降は各種の日記・記録に拠っているが、「六国史」の欠を補う重要史料とされる。

「天武天皇の十三年十月十四日」ユリウス暦六八四年十一月二十六日。例えば、この年に富士山が噴火した古記録はない。

「三百餘丈」三百丈で九百九メートル、三百五十丈で凡そ一キロメートル。]

 

 琵琶湖の附近に於て、此信仰が久しく活きて居たらしいことは、白髭明神の緣起などが之を想像せしめる。木内石亭は膳所の人で、石を研究した篤學の徒であつたが、その著雲根志の中に次の如く記して居る。甲賀郡の鮎河(あいが)と黑川との境の山路に、八尺六面ばかりの巨石があつて、石の上に尺ばかりの足跡が鮮かである。寶曆十一年二月十七日、此地を訪ねて之を一見した。土人いふ、これは昔ダヾ坊といふ大力の僧あつて、熊野へ通らうとして道に迷ひ、此石の上に立つた跡であると。ダヾ坊は如何なる人とも知らず、北國諸所には大多(おほた)法師の足跡といふものがあつて、是も如何なる法師かを知る者は無いが、思ふに同じ人の名であらうと述べて居る。自分の興味を感ずるのは、ダヾ坊といふ樣な奇妙な名は是ほど迄弘く倶通して居りながら、却つて其證跡たる足形の大さばかり、際限もなく伸縮して居ることである。

[やぶちゃん注:「白髭明神の緣起」滋賀県高島市鵜川にある白鬚神社。全国にある白鬚神社の総本社とされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。「白鬚神社」公式サイト内で「白鬚大明神縁起絵巻原文」が読める。同神社の祭神は猿田彦命で、縁起に彼が『其鼻長七咫、背丈七尋、亦口もかくれ所も赤くてれり。眼は八咫の鏡をかけたらんやうにてりかゝやく事、赤かゝちに似たり』という巨魁であったことを指すのであろう。「七咫」(ななあた)の「咫」(音「シ」)は日本の上代の長さの単位で、開いた手の親指の先から中指の先までの長さに当たるから、「一咫」は凡そ十七センチメートルに当たるとして一メートル二十センチメートルの鼻。「七尋」(ななひろ)は通常は一尋が六尺とされるから、十二メートル七十三センチメートル弱。

「木内石亭」「著雲根志」木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)は本草学者で奇石収集家。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)生まれ。捨井家に生まれたが、母の生家である木内家の養子となった。養子先の木内家は栗太郡山田村(現在の草津市)にあり、膳所藩郷代官を務める家柄であった。幼い時から珍奇な石を好み、宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃から、物産学者津島如蘭に本草学を学び、京坂・江戸その他各地の本草家や物産家と交流、物産会でも活躍した。「弄石社」を結成して奇石を各地に訪ね、収集採集も盛んに行った。これら収集歴訪をもとに、独自に鉱石類を分類して発刊したのが奇石博物誌として名高い「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)であった。当時流行の弄石の大家ではあるが、その態度はすこぶる学究的で、「石鏃人工説」を採るなど、実証的見解を示し、我が国の鉱物学・考古学の先駆的研究を果たしたと評される。シーボルト著の「日本」(Nippon:一八三二年~一八八二年)の中の石器・勾玉についての記述は彼の業績の引用である。津島塾では大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木木村蒹葭堂と同門であり、宝暦六(一七五六)年に江戸に移って田村藍水(栗本丹洲の実父)に入門した時には、同門下の一人であった平賀源内らとも交流している。以上の話は「雲根志」(私の愛読書である)の「後編卷之三」巻頭にある「足跡石(あしあといし)」に所収する。

「甲賀郡の鮎河(あいが)と黑川との境」現在の滋賀県甲賀市土山町鮎河と南で接する土山町黒川との間。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「寶曆十一年」一七六一年。]

 

 そこで試みにこの大入道が、果して何れの邊まで往つて引返し、若しくは他の靈物に其事業を讓つて去つたかを、尋ねて見る必要があるのだが、京都以西はしばらく後𢌞はしとして北國方面には自分の知る限り、今日はもうダイダ坊、或は大田坊の名を知らぬ者が多くなつた。併し三州奇談といふ書物の出來た頃までは、加賀の能美郡の村里にはタンタン法師の足跡といふ話が傳はり、現に又其足跡かと思はれるものが、少なくも此國に三足だけはあつた。所謂能美郡波佐谷の山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬ處があつた。其次に河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡といふ田の中に、是も至つて鮮明なる足跡が殘つて居た。下に石でもある爲か、一筋の草をも生ぜず、夏は遠くから見てもよくわかつた。今一つは越中との國境、有名なる栗殼[やぶちゃん注:「くりから」。倶利伽羅(峠)。]の打越にあつた。何れも長さ九尺幅四尺ほどゝあるから、東京近郊のものと比べものにならぬ小さゝだが、其間隔は共に七八里もあつて、或は加賀國を三足に步いたのかと考へた人もある。勿論其樣な細引[やぶちゃん注:「ほそびき」。麻などを縒(よ)って作った細い繩。細引き繩。]の如き足長は、釣合ひの上からも到底之を想像することを得ないのである。

[やぶちゃん注:「三州奇談」俳人楚雀なるものが蒐集した北陸三国の奇談集を元に御用商人の次男堀麦水が筆録したもの。宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃には世人に知られた書であったことが判っている。正編五巻・続編四巻。全百四十九話。これは正編の「卷之四」の「大人足跡」の前段部。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(左頁)から視認出来る。迷亭ブログ「下町じゅ現代語訳がある。

「加賀の能美郡」石川県能美郡は川北町(かわきたまち)のみであるが、旧郡域は能美市・小松市の大部分・白山市の一部を含む。

「能美郡波佐谷」石川県小松市波佐谷町(はさだにまち)。(グーグル・マップ・データ)。

「河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡」石川県金沢市木越町(きごしまち)(グーグル・マップ・データ)。「光林寺の跡」は不詳だが、同地区に光蓮寺という似た名前の寺は現存する。]

栗本丹洲自筆(軸装)「鳥獣魚写生図」から「豪猪」(ジャワヤマアラシ)

 

□題簽

豪猪 眞圖

    ヤマアラシ

Jyawayamaarasi

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像の上下左右をトリミングした。ジャワヤマアラシの同定は同ページの磯野直秀氏の解題に拠る。

 ジャワヤマアラシは、ユーラシアとアフリカに分布する地上性の「旧世界ヤマアラシ」の一種である、

脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科ヤマアラシ属ジャワヤマアラシ Hystrix javanica

である(ヤマアラシ上科 Hystricomorpha には他に「新世界ヤマアラシ」と呼ぶ、南北アメリカに分布する、形態上では「旧世界ヤマアラシ」に酷似した樹上性のアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae の諸種群がいるが、これらは齧歯類の中で別々に進化した全く独立の系統の生物群であって、収斂進化の好例とされる、互いに近縁な関係にはない種群である)。本種は絶滅に瀕している種であることが、共有ブログ「ハウズバリ バリ島生活情報誌」の「バリ動物園、ジャワ・ヤマアラシを自然に還す」で判る(可愛い写真有り)。ヤマアラシ類は、背中に長く鋭い針状が密生しているが、これは体毛が変化したものである。ウィキの「ヤマアラシ」によれば、『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ』、『積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇するだけでなく、頻繁に背中の針を逆立てて、相手に対し後ろ向きに突進する。本種の針毛は硬く、その強度はゴム製長靴を貫く程であり、また捕食された場合でも針が相手の柔らかい口内や内臓を突き破り感染症や疾患を引き起こさせ、場合によっては死亡させることが知られている』。このため、『クマやトラといった大型の捕食動物でも本種を襲うケースは少ない』とある。

 蹉跎庵主人氏の強力にして必見の「見世物興行年表」の江戸時代 安永」のページに、安永二(一七七三)年一月に、『田村藍水が「豪猪図説」(一枚摺)を著す』(昭和六一(一九八六)年八坂書房刊の高島春雄著「動物物語」に拠るとある)とあって、以下、

   《引用開始》

〈編者註〉昨年八月、薩摩の島津重豪が田沼意次に山嵐を献じ、上覧ののち田村藍水へ下付された。田村は、見物に来る人たちの便にと正月に「豪猪図説」(一枚摺)を著した。

『動物物語』の著者高島春雄氏は、「私は原品は覧(み)るを得ないが上野益三博士御所蔵の写本を拝見することができた」(『動物物語』20頁)として、そのあらましを載せている。それによると山嵐が田村邸に来たのは安永元年十二月二十八日だという。「豪猪図説」にはもちろん山嵐の絵が描かれていたと思わるが、残念ながら同書に図は掲載されていない。

 ところで、国立国会図書館に栗本丹洲筆「鳥獣魚写生図」(写本・年代不詳)があり、そこに山嵐が描かれている(下図参照[やぶちゃん注:本図の上図の画像が示されている。])。丹洲は藍水の実子で、宝暦六年[やぶちゃん注:一七五六年。安永元年十二月ならば、丹洲は満十七歳。丹洲が奥医師栗本昌友(三代目栗本瑞見)の婿養子となったのは安永七(一七七八)年)七月である。]の生まれ。実際に見て描いたか、あるいは「豪猪図説」に描かれていた山嵐を写したものか、それは定かでないが、いずれにしろ、丹洲が描いたこの山嵐はこの時の個体であると思われる。

   《引用終了》

とある。また、同ページの後の方には、「摂陽奇観」(濱松歌国著になる、江戸初期から天保四(一八三三)年に至る大阪の年代記)から、安永二年に大阪道頓堀で興行された「山嵐」(ヤマアラシ)の見世物の記事が載り、ポケモンみたような奇体なヤマアラシの図も載る(引用元は大正一五(一九二六)年から刊行された『浪速叢書』とある)。それに続けて、「蒹葭堂雜錄」(けんかどうざとろく:大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年の著になる、安政六(一八五九)年刊の五巻から成る考証随筆。各地の社寺に蔵する書画器物や、見聞した珍しい動植物についての考証及び珍談奇説などを書き留めた原稿を、著者没後、子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋したもの。挿画は大阪の画家翠栄堂松川半山の筆になる)の「豪豬」(ヤマアラシのこと)の記事と図が載る。これは私も持っている吉川弘文館随筆大成版からのものであるので、以下に何時ものように恣意的に漢字を正字化して、図も添えて示す。【 】は割注。踊り字「〲」は正字化した。キャプションは『豪豬(やまあらし)之圖』。

   *

 

Yamaarasinozu

 

豪豬【俗云也未阿良之(やまあらし)】。

山豬(さんちよ)、嵩豬(かうちよ)、鸞豬(らんちよ)等の名あり。安永元年阿蘭陀(おらんだ)より薩摩國(さつまのくに)へ傳來(でんらい)し、翌二年巳の春、浪華に來りて觀物(くわんぶつ)とす。其形豬(いのこ)の如く、頭(かしら)兎(うさぎ)に似て色白し。身毛(みのけ)長く平(ひらた)くして髮搔(かうがい)[やぶちゃん注:笄(こうがい)。]のごとく、恰(あだか)も管(くだ)を以(もつ)て作(つくり)し蓑(みの)を着(き)たるが如し。身を奮(ふる)ひ動(うご)かす時(とき)は、鳴音(なるおと)金具(かなぐ)を打合(うちあは)すがごとし。毛の色白き中に所々(ところどころ)茶色の斑(ふ)あり。實に奇異(きい)の獸(けもの)なり。一説に、唐土(もろこし)南陽(なんやう)[やぶちゃん注:現在の河南省南陽市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の深山に生ずる「サルマントウ」[やぶちゃん注:不詳。]是なり。又靈獸目鑑(れいじゆもくかん[やぶちゃん注:「じゆ」はママ。])に見へたるは、身毛其年の氣(き)によりて變ず。唐人(たうじん)其色を見て、歳(とし)の運氣(うんき)を考(かんがふ)るといふ。當時(たうじ)の豪豬(がうちよ)は、咬𠺕吧國(しやがたらこく)[やぶちゃん注:インドネシアの首都ジャカルタの古称であるが、近世にはそのジャワ島から日本に渡来した品物に冠したところからジャワ島をも指す。本種がジャワヤマアラシで正しいことの重要な一節である。]の産(さん)なるを、蘭人(らんじん)捕獲(とりえ)て持渡(もちわた)しといふ。本草綱目にいへる豪豬の説(せつ)とは、大同小異あり。略之。

   *

以下、蹉跎庵主人氏は「浪花見聞雜話」の『山嵐 安永年中に山あらしといふけだもの渡りて諸方にて見世ものに出したり。毛が爪のごとくにして、甚綺麗成けだもの、珍敷見世物成とて、何れへ持ても大にはやり、人々群集したり』と引かれた後。

   《引用開始》

この山嵐は時期的にみても田村邸に下付されたものとは明らかに別の個体である。薩摩より来たとあるから、島津重豪がオランダ人より買ったのは二匹で、一匹は幕府に献上され、もう一匹は何らかのルートを経て大阪へ来て、見世物になったと考えられる。

   《引用終了》

と考察しておられる。なお、同じブログの天保四(一八三三)年から天保五(一八三四)年を扱った「一」のページにも、ヤマラシの見世物のチラシが二種掲げられ、丁寧に活字に起されており、「唐蘭船持渡鳥獸之圖」所載の「山あらし」の図が「舶来鳥獣図誌」(恐らく一九九二八坂書房刊の磯野直秀・内田康夫共著のそれであろう)から掲げられている。その解説には『「天保三辰〈七月二十日〉弐番阿蘭陀船持渡 山あらし 出所アンボン国」とある』。『また朱書きで「御用伺い相成り候処、御用これ無き旨御達しにて、牧野長門守殿(長崎奉行)御調べにて、弐匹とも薩州へ相遣わす」(読み下し・編者)とある。つまり、幕府へ伺いを立てたところ、無用との返事だったので、二匹とも薩摩へ遣わしたというのである。それがどういう経路を経て大阪へ来たのかは知りえないが、大阪で見世物になった山嵐は、このとき渡来したうちの一匹であることは間違いないだろう。この後、名古屋へ行く』とある。このアンボン国とはインドネシアのジャワ島からは東方にずっと離れたアンボン島(スラウェシ島の東)のことである。因みに栗本丹洲は天保五(一八三四)年没であるから、この時はまだ生きている。しかし、このヤマアラシが江戸に来ない限りは見られない。蹉跎庵主人氏の推察した通り、丹洲の実父田村藍水が安永二(一七七三)年に「豪猪図説」に描いた個体をともに写したものか、或いは、ずっと後に父の図を転写したものと考える方が自然である。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 (無名ヒトデ三個体)

 

Hitodesankotai

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは、ない。

 右下のものは、腕針が有意には伸びていないから、

棘皮動物門ヒトデ綱モミジガイ目モミジガイ科モミジガイ属モミジガイ Astropecten scoparius

でよい。

 中央と左下のものは同一種で、これはもう、ズバリ、

ヒトデ綱叉棘(マヒトデ)目マヒトデ科マヒトデ属マヒトデ sterias amurensis

である。

 以上で、栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」は終わっている。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 クモヒトデ三個体

 

にくのて

 

Nikunote

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上記一行のみ。このキャプションは正直、頭の文字の判読に悩んだ。当初は「わくのて」或いは「りくのて」と読んだが、「り」の崩しはどう簡略化してもこうはならないから、やっぱり「王」の崩しの「わ」だなと思い、「わくのて」で「枠の手」、盤を枠としたものかとも思ったのだが、「輪」ならまだしも(しかしそれでは「く」が始末出来ない)、ありゃ、どう見ても枠とは言わんだろ、と思い直し、再考した。「もくのて」で「くものて」を誤記したのかもなどとも考えたのだが、「毛」の崩し字はやはりこうはならないと思うし、何より丹洲先生に失礼だからヤメにした。すると、「耳」の崩しの「に」に思い当たった「にくのて」、「肉の手」だ! クモヒトデ類はヒトデ類(後で述べるが、クモヒトデはヒトデの一類ではなく、ヒトデに近縁のヒトデと対等な群(タクソン)である)と異なり、移動には管足を用いず(管足はあるが、吸盤を持たないから、運動はおろか捕食にも使用しないようで、粘液分泌や一種の感覚器官として用いているらしい)、腕を盛んにくねらせることによって、意想外に敏捷に移動する。腕には有意な柔軟性があって蛇ののたくるような動き、或いは漕いだり、泳いだりするような動きを見せるので、あれは柔軟な奇体な「肉の手」に相応しいじゃないか! と独りごちたのである。大方の御叱正を俟つが、諸本をひっくり返し、ネット・フレーズ検索も掛けたが、「にくのて」も「わくのて」も、「~のて」という語尾を持つクモヒトデの異名は見出せなかった。

 さて、同定になると、これが難しい。色で見りゃいいと思われる方も多いだろうが、実はクモヒトデは同一種でもカラー・ヴァリエーションが驚くほど多いものがゴマンといるからそれは比定条件になりにくいのである。以下、参考資料としては佐波征機(まさき)・入村精一著「ヒトデガイドブック」(TBSブリタニカ二〇〇二年刊)を用いた。

 一つ言えることは、右上方の一個体と、中央下及び左上方の二個体は明らかに違う種であるということである。前者は盤上面にびっしりと鱗があり、腕の根元に当たる部分に、飯粒が二つ配されたような輻楯(ふくじゅん)が明瞭に描かれている(なお、これによってこれが腹面側でないことは明らかである)こと、盤の中央に花のような紋があるのに対し、後者二個体は盤上面に何らの紋様や鱗も輻楯の隆起さえも見られない。則ちこの二個体の盤上面はかなり厚い皮で一様に覆われているのだと考えるのが自然である。

 しかし、クモヒトデ類は現生種で、世界で二千種ほどが知られており、正直、失礼乍ら、この丹洲のお粗末な絵ではとても同定は出来ないというのが本音である。通常のクモヒトデなら普通はあるはずの腕にびっしりと生えている腕針が全く描かれていないのも困りものである。

 それでも挑戦してみよう。

 まず、前者は、既に述べた通り、盤上面が露わになって鱗や輻楯が明瞭に見てとれることから、

クモヒトデ目 Ophiurida

であることは間違いない。本邦の岩礁帯や磯の転石の下に見られる一般的なクモヒトデ類は本群に属するものが殆んどで、チビクモヒトデ科 Ophiactidae・スナクモヒトデ科 Amphiuridae・トゲクモヒトデ科Ophiotrichidae・トゲナガクモヒトデ科Ophiacanthidae・リュウコツクモヒトデ科Ophiochitonidae・アワハダクモヒトデ科Ophiodermatidae・フサクモヒトデ科Ophiocomidae・クモヒトデ科Ophiuridae・キヌハダクモヒトデ科Ophiomyxidae・アミメクモヒトデ科Ophionereididae 等に分かれる。その中でも、本邦の日本海及び銚子以南の潮間帯下部や潮下体の転石下によく見つかる中型個体で、ここまで輻楯がはっきり見え、個体によっては盤上面中央に白い斑紋があって何となく丸い紋があるように見えるのは、

クモヒトデ科ニホンクモヒトデ亜科ニホンクモヒトデOphioplocus japonicus

である。しかし、残念なことに本種は暗緑色或いは暗褐色でこんなに明るい色ではない(本図が乾燥標本で色が脱色していたものの模写であったのなら、この同定で私はいいと思う)

他に候補を挙げるとすると、カラー・ヴァリエーションの多く、こうした明るい肌色のものもいる、

クモヒトデ目 Ophiurina 亜目 Gnathophiurina 下目チビクモヒトデ科 Ophiopholis 属ジュズクモヒトデ Ophiopholis japonica

であろうか。ジュズクモヒトデは北方系でベーリング海・アラスカ沖・カムチャッカ沖から紀伊半島までと、日本海に分布している(但し、本州沿岸では水深五百~千メートルの深海に多く棲息する)。気になるのは、本種はかなり目立った腕針を持つことで、生体或いは死後あまり時間が経過していない個体を丹洲が見て描いたのであれば、その棘状突起を描くであろうと思う点か。しかし、翻ってよく図を見ると、この一個体にのみ、腕に細かな節を描いていることが判るから、或いは多数飛び出る腕針を速成で簡易に描こうとした結果が、この節なのかも知れぬとも思った。他にも候補はあるが、キリがないのと、正直、原画がショボいので、取り敢えず、ここまでとしておく。

 次に後者の、盤が皮で覆われていて輻楯が殆んど見えず、鱗を持たないのは、

クモヒトデ(蛇尾)綱カワクモヒトデ(革蛇尾)目カワクモヒトデ亜目キヌカワクモヒトデ科Ophiomyxidae

の特徴である。同科では、本邦では津軽海峡以南の本州・四国・九州の水深五十~五百メートルに棲息している、

キヌハダクモヒトデ Ophiomyxa australis

が最同定比定候補となろうか。但し、同種は盤の辺縁に一列に並んだ板があり、細長い輻楯とともに皮に覆われているが、よく観察すると、それらの輪郭は確認出来る。本図を見ると、二個体とも盤の辺縁部円周全体に複数の膨らみの連続が見られ、丹洲はそこでは色を有意に幽かに脱(ぬ)いていることが判る。これは或いは、その円周に存在する「板」の形を模したものとも思われなくもない。キヌハダクモヒトデの生態写真を見ると、実際に、辺縁はこうした微かな曲線の凸凹を呈しているのである。カラー・ヴァリエーションは多く、ネットの海外の画像を見ると、図の下のような紅色、黄褐色、赤褐色の個体の外、草色・灰色・暗色のものもあるから、この二個体を同定候補とすることには色の点では問題はない。ただ、ここに大きな問題が一つある。それは同種の腕には斑紋状或いは縞状の有意な模様があることで、この図には拡大して見てもそれが全く描かれていないのである。しかし、この図は、底本画像(ここ)を見て戴くと判るように、えらく小さいものであること、筆痕を見ても、彩色が腕からはみ出しているように見える箇所もあって、精魂は入っていないことなどから、模様まで手が回らなかったとも言えなくもない。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 カメノテ

 

龜の手

 

Kamenote

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上記一行のみ。私が海岸動物として最も偏愛する蔓脚類(フジツボの同類)の一種(一属一種)である、

節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目有柄目ミョウガガイ亜目ミョウガガイ科カメノテ属カメノテ Capitulum mitella

である。ウィキの「カメノテ」より引いておく。『石灰質の殻をもつ岩礁海岸の固着動物』である。『大きさは』通常、三~四センチメートルであるが七センチメートルにも達する個体もある。『頭状部は殻板』(かくばん)『と呼ばれる大小の硬い殻が左右相称に並』び、『このうちの先端側の』四対は、『大きさはそれぞれに違う』ものの、『先端がとがった三角で、その外側には』、『より小さいものが環状に』十八~二十八個並んでいる。『さらにそこから下に続く柄部の表面は、より細かな鱗状の鱗片が一面にある』。『主要な殻は特に突出したものが』三『対あり、その中央よりのものが最大の長さを持つ。その前後の殻は幅の広いものと狭いものがあるため、最大のものは中央より偏って存在する。この部分に蔓脚のほとんどが収まるが、これは構造上は腹部に当たるので、幅広い殻の方向が前方に当たる。これらの殻を、前方から楯板』(じゅんばん)『・背板・峰板と言い、さらに楯板より前に』、『より小さな嘴板』(しばん)『など、さらにいくつかの目立つ殻がある』。『このような殻の配置は』、『同類であるフジツボ類やエボシガイ類よりかなり数が多く、この類の原始的な構造を残すものとの説がある。例えば』、『フジツボでは楯板と背板が』、『本体そのものを包む殻になり、それ以外のものは外側の殻に発展したとするものである』。『その見た目の形状が亀の手に似ていることからこの名が付けられた。タカノツメ或いはセイ貝と呼ぶ地域もある』(カメノテ・フリークの私として一言言っておくと、この異名「セイ貝」(或いは単に「セイ」とも呼ぶ)の「セイ」は「勢」で、男根を意味する)。『北海道南西部からマレー諸島にまで分布し、潮間帯岩礁の割れ目に群生し、波によって運ばれてくる餌を蔓脚(まんきゃく)を広げて捕食する。蔓脚は紫を帯びる』。雌雄同体であるが、通常は『他個体と交尾する』。『柄の中に有る筋肉は食用となる。茹でて』、『汁物のだしなどに用いる』。はい! 私の大好物でもあります!
 

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ヤリイカ スルメイカ

 

ヤリイカ

 

スルメイカ

 

Yariikasurumeika

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上記二行のみ。二個体の別種。実は私のミスで、この図は先の「タチイカ」(コウイカ Sepia (Platysepia) esculenta に同定)と「(無名イカの図)」(アオリイカ Sepioteuthis lessoniana に同定)の間にある。悪しからず。

 しかし、これはキャプション通りには採れない

 まず、上の「ヤリイカ」とする図であるが、頭足綱鞘形亜綱十腕形上目閉眼目ヤリイカ科 Heterololigo 属ヤリイカ Heterololigo bleekeri にしては、体型がヤリイカのように「槍」状でなく、エンペラ(俗に言う「烏賊の耳」。イカ類の胴の、脚と反対側にある、三角形の「ヒレ」及び胴全体の縁に付属する「ヒレ」の部分)が小さく、胴先頭部に寄り過ぎている

 一方、下の図の「スルメイカ」であるが、これも、十腕形上目ツツイカ目スルメイカ亜目アカイカ科スルメイカ亜科スルメイカ属スルメイカ Todarodes pacificus にしては、胴が如何にも寸詰りで、スルメイカらしくないのである。

 そこで、今回は裏技を用いてみた。例の磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分を、ここで先に見て見たのである。すると、果せるかな、『ケンサキイカ(ヤリイカ)』及び『ジンドウイカ(スルメイカ)』とあるのであった。このそれぞれの丸括弧内が「衆鱗図」の原記載名であるから、これらが「衆鱗図」からの転写図である可能性がかなり高いと言える(但し、私は原画を見てはいないから断定は出来ない)。

 されば、改めてその、ヤリイカ(誤)→ケンサキイカ(正)、及び、スルメイカ(誤)→ジンドウイカ(正)という観点から本図を見てみると、まさにそれが正しいように私には思えたのである。比較比定には、奥谷喬司先生の編になる最強のイカ図鑑である全国いか加工業協同組合新編 世界イカ類図鑑 ウェブ版、及び、土屋光太郎・山本典暎・阿部秀樹共著の「イカ・タコガイドブック」(二〇〇二年TBSブリタニカ刊)と、ネット上の信頼出来る諸サイトを用いた

 されば、右上の「ヤリイカ」とする一個体は、

ヤリイカ科ケンサキイカ属ケンサキイカ Uroteuthis edulis のメヒカリイカ型

であると思われる。ウィキの「ケンサキイカによれば、ケンサキイカは、『ケンサキイカとして指されるゴトウイカ型、ずんぐりむっくりとしてブドウイカ型、特に小型のメヒカリイカ型の』三『つに分類されるが』、『遺伝的には同種であり』、『環境による変異であるとされる』。『主に大型の春季成熟群、やや小型の夏季成熟群、小型の秋季未成熟群の』三『つの成熟群が出現し、漁獲される』とある。本図はその、まさにその小型である秋季の未成熟群タイプのケンサキイカの小型群の一個体とするに相応しいと私には思われる。

 一方、下の「スルメイカ」とする一個体も、やはり、

ヤリイカ科ジンドウイカ属ジンドウイカ Loliolus (Nipponololigo) japonica

でこそ納得出来るのである。本田技研Honda釣り倶楽部の「ジンドウイカ」の解説によれば、最大でも胴長十二センチメートル、体重五十グラム止まりの小型のイカで、ケンサキイカやヤリイカの幼体と似る(そういう意味でも自然、この図のようにケンサキイカと、このジンドウイカを並べて見たくもなろうというものだ)。先が尖らない、太く短い胴の半分ほどの位置に、四角くて角に丸みがある鰭があり、腕は太く(特に第二、三腕)、胴に比べて大きいなどの特徴から区別することが出来る、とあるのも本図とよく一致するのである。]

2018/04/13

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 こんべこ

 

こんべこ

 

Konbeko

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上記一行のみ。

 形状から、一目瞭然、卵生のサメ・エイ類の卵鞘と判る。さて、そこでキャプションの「こんべこ」である。これは、

「こんべ」の「子(こ)」の意味ではなかろうか?

而して「こんべ」は日本海側で広汎に使用される「エイ(鱏)」の方言である(ネット検索で「コンベ エイ」のフレーズで検索されたい。富山の「エイの鰭(ひれ)」を指す記載が多数出る)。また、「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のドブカスベ

軟骨魚綱板鰓亜綱ガンギエイ目ガンギエイ科 Arhynchobatinae 亜科ソコガンギエイ属ドブカスベ Bathyraja smirnovi

の「地方名・市場名」の項に『コンベ/新潟県糸魚川市浦本・能生』とも出るからである。種までは同定する必要はなく、これは、

軟骨魚綱ガンギエイ目 Rajiformesなどに属する卵生のエイの種の卵鞘(卵殻)

と採ってよいであろう。それは栗本丹洲 魚譜 アカエイの卵【誤り】(正しくはガンギエイの卵鞘)の図と比較して貰えれば、腑に落ちるはずである。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 いとまき

 

いとまき

 

Itomakihitode

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上記一行のみ。

 二個体ともに、

棘皮動物門ヒトデ綱アカヒトデ目イトマキヒトデ科イトマキヒトデ属イトマキヒトデ Patiria pectinifera

である。本邦では浅海で最も普通に見られるヒトデで、樺太・千島列島南部から日本沿岸及び黄海の潮間帯から水深三百メートルまで広く分布している。図の通り、五腕の個体が多いが、四・六・七腕、稀に九腕のものも見られる。腹面は概ね橙黄色であるが、背面は青藍から暗緑色の濃淡タイプが多く、中にはかなり薄い灰のものもおり、不規則な橙赤色の斑紋を有するものが多い。時に背面全面が朱赤色の個体もいる。サザエ・アワビ類の稚貝を食害するので漁業関係者からは嫌われるが、私は岩場で彼らを見つけると、何故か、ほっとするのを常としている。和名は糸巻に似ることに由来する。なお、例の磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分に、「イトマキヒトデ」があり、加えて「ヌノメイトマキヒトデ」に同定した別個体が描かれているとあるが、これが「衆鱗図」からの転写図であるかどうかは、原画を見て見ないと何とも言えない。しかし、三崎周辺海域では潮間帯から水深数メートルまでの転石域や岩礁等で普通に採集される小型のヒトデ類である(マリンバイオ共同推進機構JAMBIO公式サイト内の解説に拠る)イトマキヒトデ科 Aquilonastra 属ヌノメイトマキヒトデ Aquilonastra bather は、ネット画像を複数見て見たが、間軸域の切れ込みがイトマキヒトデよりも遙かに深く、腕として丸く突き出ており、背面の表皮も通常のイトマキヒトデより遙かに粗いから、それを左上部の個体に同定することは私には出来ない。

 
 

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 (無名イカの図)

 

Mumeiikazu

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは、ない。

 本種は、眼球の様態及び、外形が卵円形で、しかも鰭が大きくて外套長の殆んどに及んでいること、胴部の幅も広いこと、腕吸盤が二列見られること等から、

頭足綱閉眼目ヤリイカ科アオリイカ属アオリイカ Sepioteuthis lessoniana

と同定してよいのではないかと思う。なお、例の磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分に、「アオリイカ」が挙がっていることから、本図も「衆鱗図」からの転写図の可能性がある。しかし、コウイカに比して、画力が有意に下がっており、見た目に生気が乏しく、美味そうにも見えないのは残念である。しかし、胴部表面の色素胞の点描はマニアックだ。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛

 

     四 百合若と八束脛

 

 上野國では三座の靈山が、初期の開拓者を威壓した力は、却つて富士以上のものがあつたかと想像せられる。乃ち其峰每に最も素朴なる巨人譚を、語り傳へた所以であらう。例へば多野郡の木部の赤沼は、伊香保の沼の主に嫁いだといふ上﨟の故郷で、我民族の間に殊に美しく發達した二處の水の神の交通を傳ふる説話の、注意すべき一例を留めて居る沼であるが、是もダイラボツチが赤城山に腰を掛けて、うんと踏張つた足形の水溜りだといふ口碑がある。榛名の方では又榛名富士が、駿河の富士よりも一もつこだけ低い理由として、其傍なる一孤峰を一畚(ひともつこ)山と名けて居る。或はそれを榛名山の一名なりとも謂ひ、今一畚足らぬうちに、夜が明けたので山作りを中止したとも傳へる。其土を取つた跡が、あの閑かな山中の[やぶちゃん注:ちくま文庫版では『伊香保の』となっている。榛名湖のことであろう。]湖水であり、富士は甲州の土を取つて作つたから、それで山梨縣は擂鉢の形だと、餘計な他所の事まで此序を以て語つて居る。此山の作者の名は單に大男と呼ばれて居る。榛名の大男は曾て赤城山に腰をかけて、利根川水で足を洗つた其折に臑(すね)に附いて居た砂を落したのが、今の臑神の社の丘であるとも謂ふ。

[やぶちゃん注:「上野國」「三座の靈山」上毛三山。赤城山・榛名山・妙義山。

「多野郡の木部の赤沼」現在の群馬県高崎市木部町であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊香保はここから北北西に二十七キロメートルほど、赤城山は東北に三十二キロメートルほど。但し、鏑川の右岸ではあるが、現在、「赤沼」は見当たらない。

「一畚山」(ヒトモッコやま)は榛名山(標高千四百四十九メートル)南西の榛名湖に少し突出した麓のピーク。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高は千百四十メートルほどだが(榛名山との高低差は三百九メートル)、榛名湖(標高千八十四メートル)の湖面からの比高は五十六メートルしかなく、見たところは湖岸の丘陵といった感じである(例えば、こちらの個人の画像を)。「畚」(もっこ)は「ふご」とも読み、藁・繩・竹・蔓などを用いて網状に編んだ蓆(むしろ)状の平面の四隅に、吊り綱を二本附けた形状の運搬用具。古くは主に農作業で土砂を運搬するのに使用された。

「臑神の社」いろいろ調べてみたが、この社(やしろ)は現在のどこを指すのか、不詳。識者の御教授を乞う。但し、「臑神」というのは直ちに「荒脛巾神」、則ち、本邦の民間信仰的な古形の神の一柱である「あらはばき」を想起させはするウィキの「アラハバキ」によれば、この神名は一般には「脛(はぎ)」に佩く「脛巾(はばき)」(脛巾裳(はばきも)。臑(すね)当てのこと。旅や作業などの際に臑に巻き附けて紐で結び、臑を防備する一方、動き易くした実用的装具。古くは藁や布で作った。後世の脚絆)の『神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが』、『後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた』。また、近代の『神仏分離以降は「脛」の字から』後の日本神話に登場する長髄彦(ながすねひこ)=『長脛彦を祀るともされた』。『荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある』。また、『荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県大宮の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」』『と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである』。『これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説』『もある』。『氷川神社は、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったと伝わり、出雲の流れを汲む。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。しかし、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したという説と、氷川は「ピカワ」から転訛したという説を双方とって、両者に全く繋がりはないという説もある(しかし、シカワ説もピカワ説も格別有力な説というわけではない)』。『氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない』とある。なお、リンク先に詳述される「東日流外(つがるそとさんぐんし)三郡誌」に基づく見解は、同書の偽書性が確実であることから、私は引用していない。]

 

 それから妙義山の方では山上の石の窓を、大太(だいだ)といふ無雙の強力があつて、足を以て蹴開いたといふ話がある。仲仙道の路上から此穴のよく見える半年石(はんねじ)といふ處に、路傍の石の上に大なる足跡のあるのは、其時の記念なりと傳へられた。緘石錄といふ書には、大太は南朝の忠臣なり、出家して其名を大太法師、又の名を妙義と稱すとあるが、如何なる行き違ひからであらうか、貝原益軒の岐蘇路記を始とし、此地を過ぐる旅人は、多くは之を百合若大臣の足跡と教へられ、あの石門は同人が手馴らしの鐵の弓を以て、射拔いた穴だといふ説の方が有力であつた。百合若は舞の本によれば、玄海の島に年を送り、とても關東の諸國までは旅行をする時をもたなかつたやうに見えるが、各地に其遺跡があるのみか、その寵愛の鷹の綠丸までが、奧羽の果てでも塚を築いて弔はれて居る。如何なる順序を經てさういふことになつたかは、茲で簡單に説き盡すことは不可能だが、つまりは村々の昔話に於て、相應に人望のある英雄ならば、思ひの外無造作にダイダラ坊の地位を、代つて占領することを得たらしいのである。

[やぶちゃん注:「半年石(はんねじ)」中山道から視認出来るとならば、この範囲内(中央に妙義山)である(グーグル・マップ・データ)。妙義山の最高峰は表妙義稜線上の相馬岳で千百三・八メートルであるが、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山の千百六十二・一メートル。しかし、ここは前者であろう。ここに書かれた伝承は、今、ネット検索を掛けると、悉くが柳田國男のこの記載からの孫引きとしか思えないものばかりである。中には勝手に「はんねんいし」などという誤った読みを振っているものもある。こんな世も末の世界では既に、その由緒の「石の窓」(妙義は見上げる限り、奇岩奇石は多く、登ったことはないが、山容は好きだ。室生犀星が「生姜のようだね」と言ったのは言い得て妙である)も「半年石」も大太の「足跡」というのも消えてしまったものかも知れない。但し、後で引く貝原益軒の「岐蘇路記」には、『松井田と坂本の間に世俗にいはゆる、ゆり若大臣の足あとの岩と云あり』とあり、この「坂本」とは現在の横川の北、軽井沢へ越える一帯の北の地名であるから、この「半年石(はんねじ)」は、松伊田附近から北西を越えて軽井沢に行く手前の旧中山道添い(グーグル・マップ・データ)にある(あった)と限定出来る

「緘石錄」恐らくは江戸期の随筆と思われるが、不詳。柳田國男は諸作で引用している。

「大太は南朝の忠臣」「出家して其名を大太法師、又の名を妙義と稱す」原典が不詳なので、調べようがない。こんな人物は私は知らない。

「貝原益軒の岐蘇路記」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年:名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ)が享保六(一七二一)年に刊行した木曾路の紀行文。当該項を国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像から先を起こす。読みは一部に留めた。下線太字は私。

   *

○松井田より坂本へ二里、松井田、家數四百軒ばかり。此地を松枝(えだ)共云。此間に橫川と云所に關所あり。箱根の關のごとく往來のあやしき人をとむ。妙義山は松井田の南、道の左に有。此山は松井田より坂本の西まで、凡五里ばかりつゞきたる岩(いは)山也。故(かるがゆゑ)に山上には草木(くさき)なし。他所(たしよ)にはなき程の珍しき山也。麓の高き所に堂有、其前坂の上に二町程なる町有。民家きれい也。妙義山へ參詣する者の休息する所也。馬もあり。町の東の家より東の方を望めば、上州、武州、眼下に見えて好(よき)景也。町より石の階(かい)を登りゆけば堂有。妙技法師を安置せし所也。靈驗ありとて關東の人民は甚(はなはだ)尊敬渇仰(そんきやうかつかう)をなす。故に人の參詣常に多して繁盛の地也。堂の前側(かたはら)に別當の寺有。堂の前に薪敷(しき)衣着たる女巫(かんなぎ)、常に二十餘人並居(なみゐ)たり。參詣の人女巫に逢(あひ)て、御託(たく)をきかんといへば、託をのべて各々其人の行さきの吉凶を告(つぐ)る。妙技法師は、比叡の山の法牲坊尊意(ほつしやうばうそんい)也という延喜帝の御時の人なり。此山を白雲山(はくうんざん)と號す。奧(おくの)院へ麓より一里有。中の嶽(たけ)と云。道さがしといへり。尤靈地なりと云。此山世に類なき寄異成(なる)形樣(ありさま)なれば神靈ある事むべなり。かかる名山には必靈あり。故に祈ればしるしあり。 松井田と坂本の間に世俗にいはゆる、ゆり若大臣の足あとの岩と云あり。凡ゆり若大臣と云人古書に見えず。世俗のいひ傳ふること、信じがたし。但日本武尊をあやまりてかくいひ傳へけるか。此邊(へん)は日本武尊とおほ給ひし道也。又豐後築前にも百合若大臣の古跡有。強力武勇ありてつよ弓引し人なりといひ傳ふ。日本武尊筑紫にも下り給ひ、武勇はなはだすぐれたる人なれば、若此人をや、かくいひ傳へけん、いぶかし。然れ共世に云傳るは、嵯峨天皇の御宇に、四條左大臣公光の子百合若(ゆりわか)大臣九州の總司として下り、豐後に住せられしといへば、日本武尊とは時代ちがへり。

   *

ここに出る「百合若大臣」は伝説や物語上の貴種流離譚の主人公。幸若舞や説経節の「百合若大臣」の英雄として活躍し、後には浄瑠璃や歌舞伎、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる物語では、嵯峨天皇の時、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣して大勝、帰途に玄海の孤島で一休みしていた間に、家臣の別府兄弟の悪計によって置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死の虚偽報告を成し、九州の国司となった。しかし、百合若の形見に残した「緑丸」という鷹が孤島に飛来し、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国を果たし、九州を支配していた別府兄弟を成敗、宇佐八幡宮を修造して日本国将軍となるというものである。この伝説は本来、山口県以南に分布するもので、九州を本貫(ほんがん)とする説話が、諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われる。伝説には諸種があり、例えばここに出た「百合若の足跡石」という巨石を伝えたり、別称「ダイダラボウシ」の名をもって祀られた「百合若塚」なども存在する。孰れもここで柳田が問題とする巨人伝説を踏襲するものであるから、必ずしも柳田が百合若と絡むのを奇異に感ずるのは当たらない。その他にも、鷹の緑丸に関わる遺跡も多く、鷹を神使とする民俗の影響が考えられる。また、壱岐島には「イチジョー」という巫女(みこ)が、天台や「ボサの祭り」と称する、毎月二十八日に神楽として語る「百合若説経」と称するものもあり、これは五十センチメートルほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、たたきながら行うもので、病人平癒の祈禱にも同じことをするという。そこではかつては「百合若」以外も語ったらしいが、今は他には残っていないという。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混淆はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡(大分県大分市にある柞原八幡宮。本社は宇佐八幡宮の豊後国への分祀社と見て間違いない)での本地物になっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人部(あまべ)の伝承と八幡信仰の関与があると考えてよい(以上は小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「舞の本」中世芸能の一種であった幸若舞(こうわかまい)の詞章を記したもの。幸若舞は曲舞(くせまい)の一流派の後裔で、室町期に流行した。

「その寵愛の鷹の綠丸までが、奧羽の果てでも塚を築いて弔はれて居る」Nachtigall Blaue氏のブログ「碧風的備忘録」のこちらに、宮城県栗原市栗駒にある鳥合(ちょうごう)神社の緑丸の伝承が、奥羽ではないが、近接する「新潟県聖籠町(せいろうまち)」公式サイト内のこちらにも、町名の由来が緑丸に関わることが記されてある。

 

 自分の是からの話は大部分が其證據であつて、特に實例を擧げる迄も無いのだが、周防の大島の錨ケ峠の近傍には、現在は武藏坊辨慶の足跡だと稱するものが殘つて居る。昔笠佐の島が流れようとした時に、辨慶こゝに立つて踏張つて之を止めたといふのである。紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山(にふやま)とは、同じく辨慶が畚(ふご)に入れて荷うて來たのだが、廣瀨峠で朸(おこ)が折れて、落ちて此土地に殘つたと謂ひ、大和の畝傍山[やぶちゃん注:「うねびやま」。]と耳成山[やぶちゃん注:「みみなしやま」。]、一説には畝傍山と天神山とも、やはり萬葉集以後に武藏坊がかついで來たといふ話がある。朸がヤーギと折れた處が八木の町、いまいましいと棒を棄てた處が、今の今井の町だなどゝも傳へられる。そんな事をしたとあつては、辨慶は人間でなくなり、從つて此世に居なかつたことになるのである。實に同人の爲には有難迷惑な同情であつた。

[やぶちゃん注:「周防の大島の錨ケ峠」大島はここ(グーグル・マップ・データ)。「錨ケ峠」(いかりがとうげ)は不詳。

「笠佐の島」大島の西方に浮かぶ小島。

「紀州の日高郡の湯川の龜山と和田村の入山(にふやま)」この附近(グーグル・マップ・データ)。現在の和歌山県御坊市湯川町丸山と、その西南に接する和歌山県日高郡美浜町和田地区

「廣瀨峠」不詳。

「朸(おこ)」「おうご」「おうこ」とも呼ぶ。荷物に差し通して肩に担ぐ天秤(てんびん)棒のこと。

「ヤーギ」折れる音のオノマトペイアらしい。]

 

 それは兎も角として信州の側へ越えてみると、亦盛んにダイダラ坊が活躍して居る。戸隱參詣の道では飯綱山の荷負池が、中陵漫錄にも出て居て既に有名であつた。此以外にも高井郡沓野の奧山に一つ、木島山の奧に一つ、更級郡猿ケ番場の峠にも一つ、大樂法師の足跡池があると、信濃佐々禮石には記して居る。少し南へ下れば小縣郡の靑木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山にも、其間二十餘丁[やぶちゃん注:二~三キロメートル弱。]を隔つて二つの大陀(だいだ)法師の足跡があり、何れも山頂であるのに夏も水氣が絶えず、莎草科の植物が茂つて居る。昔巨人は一跨ぎに此山脈を越えて、千曲川の盆地へ入つて來た。其折兩手に提げて來たのが男嶽女嶽の二つの山で、それ故に二蜂は孤立して間が切れて居るといふ。

[やぶちゃん注:「飯綱山の荷負池」「飯綱山」は「いひづなやま(いいづなやま)」、「荷負池」は「におひいけ(においいけ)」。長野県北部の、長野市・上水内郡信濃町・飯綱町に跨る山(標高千九百十七メートル)でここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「荷負池」は不詳。識者の御教授を乞う。

「中陵漫錄」水戸藩の本草学者佐藤中陵成裕(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)が文政九(一八二六)年に完成させた採薬のための諸国跋渉の中での見聞記録。同書は所持するが、当該記事を発見出来ない。発見し次第、追記する。

「高井郡沓野」現在の長野県下高井郡山ノ内町(旧高井郡沓野(くつの)村)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「木島山」長野県下高井郡木島平村のそれ(グーグル・マップ・データ)か?

「更級郡猿ケ番場の峠」長野県千曲市と東筑摩郡麻績(おみ)村を結ぶ猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「信濃佐々禮石」「科野佐々禮石」(しなのさざれいし)。江戸末期の橘鎮兄(たちばなちんけい/しづえ)著になる信濃国の地誌。万延元(一八六〇)年成立。刊本は大正二(一九一三)年。

「小縣郡の靑木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山」この中央付近と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「莎草科」「ささうか(さそうか)」。単子葉直物綱イネ目カヤツリグサ科 Cyperaceae のカヤツリグサ(蚊帳吊草・莎草)の類。

「男嶽女嶽」(をだけ・めだけ)はここ(グーグル・マップ・データ。「男山」「女山」と表記されている)。]

 

 東部日本の山中には此類の窪地が多い。それを鬼の田又は神の田と名づけて、或は蒔かず稻の口碑を傳へ、又或は稻に似た草の成長を見て、村の農作の豐凶を占ふ習ひがあつた。それが足の田・足の窪の地名を有つことも、信州ばかりの特色では無いが、松本市の周圍の丘陵に其例が殊に多く、大抵は亦デエラボツチヤの足跡と説明せられて居るのである。その話もして見たいが長くなるから我慢をする。只一言だけ注意を引いて置くのは、爰でも武相の野と同じやうに、相變らず山を背負うて、其繩が切れて居ることである。足跡の濕地には甚だしい大小があるに拘らず、落し物をして去つたといふ點は殆ど同一人らしい粗忽である。小倉の室山に近い背負山は、デエラボツチヤの背負子[やぶちゃん注:「しよいこ(しょういこ)」。]の土より成ると謂ひ、市の東南の中山は履物の土のこぼれ、倭村の火打岩は彼の庭石であつたといふが如き、何れも一箇の説話の傳説化が、到る處に行はれたことを示すのである。

[やぶちゃん注:「小倉の室山に近い背負山」現在の長野県安曇野市三郷小倉にある室山はここ(グーグル・マップ・データ)。「背負山」は不詳。識者の御教授を乞う。

「倭村」長野県の旧南安曇郡倭村(やまとむら)。現在の松本市梓川倭。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火打岩」(ひうちいは)不詳。]

 

 但し物草太郎の出たといふ新村の一例のみは、或はダイダラ坊では無く三宮明神の御足跡だといふ説があつたさうだ。今日の眼からは容易ならぬ話の相異とも見えるが、さういふ變化は既に幾らでも例があつた。上諏訪の小學校と隣する手長神社なども、祭神は手長足長といふ諏訪明神の御家來と傳ふる者もあれば、又デイラボツチだといふ人もあつて、舊神領内には數箇所の水溜りの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡から出來たといふ窪地が今でもある。手長は中世までの日本語では、單に給仕人又侍者を意味し、實際は必ずしも手の長い人たることを要しなかつたが、所謂荒海の障子の長臂國、長脚國の蠻民の話でも傳はつたものか、さういふ怪物が海に迫つた山の上に居て、或は手を伸ばして海中の蛤を捕つて食ひ、或は往來の旅人を惱まして、後に神明佛陀の御力に濟度せられたといふ類の言ひ傳へが、方々の田舍に保存せられて居る。名稱の起りはどうあらうとも、畢竟は人間以上の偉大なる事業を爲し遂げた者は、必ず亦非凡なる體骼を持つて居たらうといふ極めてあどけない推理法が、一番の根源であつたことは略確かである。それが次々に更に畏き[やぶちゃん注:「かしこき」。]神々の出現によつて、征服せられ統御せられて、終に今日の如く零落するに至つたので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首でも、曾て一度はそれぞれの黃金時代を、もつて居たものとも想像し得られるのである。

[やぶちゃん注:「物草太郎」(ものくさたらう)は渋川版「御伽草子」の一つである貴種流離譚「物くさ太郎」の主人公。信濃国筑摩郡「あたらしの郷」(次注参照)に「物くさ太郎ひじかす」という無精者が寝て暮らしていた。あまりの物ぐさぶりに驚きあきれた地頭が、村人に彼を養うように命令するが、やがて京の国司から村に夫役がかかった際、この夫役を物くさ太郎に押しつける。京に上ると、人が変わったようにまめまめしく働き、夫役を無事に務めて、妻となるべき女性を探し求め、清水寺の門前に立ち、見初めた貴族の姫と恋歌の掛け合いの末、勝って結ばれる。貴族となった太郎は、やがて仁明天皇の孫が善光寺に申し子して授かった子であることが判明、信濃の中将に任ぜられて帰国、百二十歳まで生き、死後、彼は「おたかの明神」に、妻は「朝日の権現」として祀られたとする。昔話の「隣の寝太郎」と同系統の説話であるが、怠け者で貧しい男が巧智を用いて長者の婿になるという寝太郎型の昔話では、物語の舞台が農村に限定されているため、知恵の優位を強調することで物語を展開させているのに対し、こちら物語では、後半部の舞台を農村から都へ移すことで意外性に満ちた波瀾万丈の物語となっている。つまり、太郎の行動、則ち、農村での「物くさ」から、都での「まめ」への極端な行動の変化を通じて、農村と都では社会システムとそれを支える価値や倫理観が異なっていることを語り示しているとされる。さらに、この「物くさ」と「まめ」の対立的な行動の背後には、中世人の「のさ」という行動原理が貫いているとの解釈もなされている。中世の農村では、日頃から養っていた乞食などを、実際の犯罪者の身代わりに立てて処理するという習慣があり、その習慣が、この物語における「物くさ太郎」の養育と夫役の関係にも反映されているとみることもできる(以上は「朝日日本歴史人物事典」の小松和彦氏の解説に拠る)。

「新村」現在の長野県松本市新村(にいむら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三宮明神」神武天皇の第一皇子日子八井命(ひこやいのみこと)か。]

 

 故に作者といふ職業の今日の如く完成する以前には、コントには必ず過程があり種子萌芽があつた。さうしてダイダラ坊は單に幾度か名を改め、其衣服を脱ぎ替えるだけが、許されたる空想の自由であつた。例へば上州人の氣魄の一面を代表する八掬脛(やつかはぎ)といふ豪傑の如きも、なるほど名前から判ずれば土蜘蛛の亞流であり、又長臑彦・手長足長の系統に屬する樣に見えるが、その最後に八幡神の統制に歸服して、永く一社の祀りを受けて居ると云ふ點に於ては、依然として西部各地の大人彌五郎の形式を存するのである。しかも曾ては一夜の中に榛名富士を作り上げたとまで歌われた巨人が、僅かに貞任・宗任の一族安倍三太郎某の、その又殘黨だなどと傳説せられ、繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をしたといふ樣な、花やかならぬ最後を物語られたのも、實は亦無用な改名に累された[やぶちゃん注:「わづらはされた」。]ものであつた。八掬脛はさう大した名前ではない。一掬を四寸としてもせいぜい三尺餘りの臑である。だから近世になると色々な講釋を加へて、少しでも其非凡の度を恢復しようとした跡がある。例へば此國の領主小幡宗勝、每日羊に乘つて京都へ參觀するに、午の刻[やぶちゃん注:正午。]に家を立つて申の刻[やぶちゃん注:午後三時から五時。]には到着する。依て羊太夫の名を賜はり、多胡の碑銘に名を留めて居る。八束小脛は其家來であつて、日々羊太夫の供をして道を行くこと飛ぶが如くであつたのを、或時晝寢をして居る腋の下を見ると、鳥の翼の如きものが生えて居た。それを挘り取つてから隨行が出來ず、羊太夫も參觀を怠るやうになつて、後には讒言が入つて主從ながら誅罰せられたなどと語り傳へて愈々我ダイダラボチ[やぶちゃん注:ママ。ちくま文庫版では『ダイダラボッチ』。]を小さくしてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「コント」conte。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」を意味するが、英語に取り入られると、特に笑いを含んだ冒険・空想物の短編小説を指すようになった。

「八掬脛(やつかはぎ)」「越後国風土記」(逸文)に(【 】は二行割注)、

   *

美麻紀の天皇[やぶちゃん注:崇神天皇。]の御世、越の國に人あり、八掬脛(やつかはぎ)と名づけき【その脛の長さ八掬ありて、力多くいたく強し、これ出雲の後なり。】。その屬(たぐひ)多かりき。

   *

「一掬」(ひとつか)は、人が掌を握った拳の幅を指す単位で、「八掬」は概ね八十センチメートル相当か。身長が大きくないのに、脛だけが長いと採れ、それは胴が短く、足が長い種族ということになり、土蜘蛛に等しく、長臑彦(ながすねひこ)の名とも合致する。

「手長足長」(てながあしなが)。ウィキの「手長足長」より引く。『秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人』。『その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される』。『秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる』。『それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師が吹浦(現・山形県 鳥海山大物忌神社)で百日間祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという』。『また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキの実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという』。『福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神』『として祀ったとされている。このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている』。『福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという』。『上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられ』、室町時代に編纂された「大日本國一宮記」によると、『壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であった』『とされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の』二『社が存在していた』。『長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており』、『手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する』。『この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある』。『また、建御名方神が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神と共に建御名方神と戦ったとされる』。『これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している』(本条)。また、十一世紀に成立した、かの「大鏡」には、『硯箱(すずりばこ)に蓬莱山・手長・足長などを金蒔絵にして作らせたということが記されており、花山院(』十『世紀末)の頃には、空想上の人物たる手長・足長が認知されていたことがわかる。これは王圻』(おうき)の「三才圖會」などに『収録されている中国に伝わる長臂人・長股人(足長手長)を神仙図のひとつとして描くことによって天皇の長寿を願ったと考えられる』。『天皇の御所である清涼殿にある「荒磯障子」に同画題は描かれており、清少納言の』「枕草子」にも』、『この障子の絵についての記述が見られる』。』『物語文学のひとつである絵巻物』「宇治橋姫物語繪卷」には、『主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている』。『岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られる』が、『これは嘉永年間』(一八四八年~一八五五年)『の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来』『とされている。手長足長に神仙としてのイメージと』「山海經」、『あるいは浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる』とある。

「大人彌五郎」(おほひとやごらう)は本「ダイダラ坊の足跡」の最終章「大人彌五郎まで」で語られるが、主として九州南部に伝わる巨人伝説の主人公の名である。鹿児島県大隅町の岩川八幡神社の祭りには、大人弥五郎の人形が登場することが知られており、こうした弥五郎人形は、ヤマトタケルに滅ぼされた隼人族の長であるとする伝承がある。これは八幡信仰と結びついたものだが、その他にも、悪い病気を追放する牛頭天王と結びつき、邪霊を払う弥五郎人形が、村境まで送られて焼かれてしまう祭事も存在する。実は、その鹿児島県大隅町岩川とは私の母の故郷なのである

「安倍三太郎某」康平五(一〇六二)年九月に源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任を衣川・鳥海・厨川の柵で破り、貞任を殺して宗任を降伏させ、前九年の役が終わるが、その安倍氏滅亡の際、配下の大将安倍三太郎が残党を従えて群馬と福島の県境の尾瀬に逃げ延び、百六十年もの間、そこに住みつき、その後、群馬県旧水上町大字藤原へと移ったとする伝承が残る。

「繩梯子を切られて巖窟の中で餓死をした」不詳。識者の御教授を乞う。

「小幡宗勝」多胡羊太夫(たごひつじだゆう)の名で伝承される人物。ウィキの「多胡羊太夫により引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『奈良時代天武天皇の時代(六七二年~六八六年)に活躍したとされる上野国(群馬県)の伝説上の人物(豪族)。伝承では多胡郡の郡司だったとされる。 多胡碑によれば、「和銅四年』(七一一)年『に近隣三郡から三百戸を切り取り「羊」なる者に与え多胡郡とした」と記載される「羊」なる者であるとされる。なお、多胡碑の原文は漢文であり』、『「給羊」の句があることから発想された。人名説以外に方角説時刻説などがあるが、現在学説では人名説が有力である』。『名前については、多胡(藤原)羊太夫宗勝、小幡羊太夫とも表記されることがある。「羊太夫伝説」では、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市または本庄市)で和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊を発見し朝廷に献上した功績で、多胡郡の郡司とともに藤原氏の姓も下賜されたと伝承される。この和銅発見により、年号が慶雲から和銅に改められたとされる(続日本紀卷四。ただし、実際の発見者と羊太夫が同一であることは証明しきれない。)』。『上州小幡氏が多胡羊太夫の子孫と称する。現代でも群馬県高崎市及び安中市の多胡氏を羊太夫の流れを汲むとする説もある。(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)』『伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある(群馬県安中市中野谷の羊神社由来)』。『斎藤忠「日本古代遺跡の研究 文献編」によれば、多胡羊太夫は、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋滅亡(五八七年)に連座し、上野国に流された中臣羽鳥連の末裔であるとしている。中臣羽鳥連は、その子、中臣菊連の娘が、貴種を求める上野国の地方豪族車持国子(男性)に嫁ぎ、その娘・与志古が天智天皇の采女に上がり、藤原鎌足に下賜され、藤原不比等が生まれたとしているため、多胡羊太夫の郡司就任には藤原氏の影響があったとする説もある。(吉田昌克説)』。『考古学者尾崎喜左雄(元群馬大学教授)は、「(伝承によれば、多胡碑のある多胡郡には)帰化人が多かったはずなのに(多胡羊太夫がいたとされる群馬県高崎市)吉井町付近にはそれを思わせる大きな古墳がないのは不思議だ」と同時代の他の地区との間に文化的差異があったことを指摘している』。但し、『遺物については多胡碑のほか、須恵器や上野国分寺の瓦などの焼き物と若干の銅製品、石碑、石仏が出土しているだけであり、また各地に伝わる古文書・伝承にも、時系列や情報の混乱(おそらく江戸時代に多胡碑が全国に紹介された後、羊太夫伝承が偽造された、もしくは他の民間伝承と混交したのであろう)が認められるため、モデルとなる人物がいたとしても、伝説通りに実在したかについては疑問視されている』。『なお、この伝説では、羊太夫は広域にわたる大規模な反乱を起こしているが、「続日本紀」にはそれに類する記録は見当たらない』。『吉田昌克によれば、中央集権の律令政治に勢力を持ちすぎた邪魔な地方豪族の国司や郡司を解体したことが歴史上の事実であり、羊太夫伝説で高麗若光の讒言により攻められたなどは、江戸時代に羊太夫伝説として再構成された時の単なる口実ではないかと』する説もあるらしい。『多胡碑によると「和銅四年に近隣三郡から三百を切り取り』、『「羊」なる者に与え多胡郡とした」とある』わけだが、『多胡碑は金石文であり、「羊」の解釈については、方角説、人名説など長い間論争がなされてきた。現在では、前述した尾崎が主張する人名説が有力とされている』。『「羊」が人名であるとした場合、その正体は』、『藤原不比等本人であるとする説(関口昌春提唱)』、『「羊」は物部氏の祖神の名である経津主の転であり、物部氏の後裔であるとする説(吉田説)』、『秦氏に連なる渡来人とする説。(久保有政説)』、『「火」を神聖視した伝承が羊神社にあることから、ゾロアスター教に関係がある、中央アジア系渡来人であるとする説』、『キリスト教関係の遺物が多胡碑から発見されたことから景教(ネストリウス派キリスト教)教徒説』や『ユダヤ人系キリスト教徒説。(日ユ同祖論説)』『など、さまざまな説が百出しているため、はっきりしない。上野国風土記などの古風土記は、これについての記載がなされていると考えられるが、現存しておらず、その逸文も発見されていない。 流石に渡来人、キリスト教徒であるという説は、確たる証拠等が出土しない限り、納得できない』。但し、『久保有政は、仏教伝来の歴史においてシルクロード経由で大乗系の仏教が日本に伝わってくる間に、ユダヤ教やゾロアスター教やネストリウス派キリスト教の影響をかなり受けていることを指摘しており、キリスト教とは言えないまでも、奈良時代には仏教と混交した形で入っていると主張している』。『「日本書紀」によれば当時数十戸を賜う対象は皇族の皇子くらいの者であり、臣下に当たる「羊」が三百戸も賜わったのには相当な理由や功があったと推測できる』。以下、「羊太夫伝説」の項。『伊藤東涯による「盍簪録」(一七二〇年(享保五年))や青木昆陽による『夜話小録』(一七四五年(延享二年))をはじめとする数多くの古文書や古老の伝承などに、次のような「羊太夫伝説」がみられる。こ』こ『で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされ』、『この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方である。それぞれの「羊太夫伝説」にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである』。『昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる』。『しかし、「羊太夫伝説」のなかには、著しい差異がみられる古文書もあ』り、『「神道集」(文和・延文年間・一三五二年~一三六一年)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(四〇〇年〜四〇五年)の人として登場』し、『この話では、羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残されている』。『また、六八七年に創基した釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となるが、後に大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫が、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立したとされる』。『伝承では、羊太夫の従者である八束小脛は神通力を持ち、大いに太夫を助けたとされる。また一部の伝承によっては、山の知識に優れていたとも、馬術にすぐれていたともされる。このことから小脛は、羊太夫に協力した渡来人や蝦夷等の人格化ではないかとする説がある』。『他にも』、その『正体については、山岳信仰の現れとして山神・天狗の類であった説、名前通り土蜘蛛、つまり蝦夷であったという説、役小角に縁のある修験者であったり、鉱山を探す山師であったり、高い呪力を持つシャーマンであったりと諸説あり、伝承によっては、男であったり男装の乙女、物の怪ともされる』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『ある時期に、渡来人や蝦夷等の協力が得られなくなったことが、羊太夫伝説が指し示す事実であるとする説もある』。『里見郷の上里見神山における伝承では、八束小脛は、榛名山の女天狗であり、銅鉱山を羊太夫に教えたのも小脛の仕業との話も伝わる』。『そのバリエーションには、全てを与える代わりに自分を裏切ったら全てを失うと請願を立てさせた話、銅鉱石から金を作り出した伝説(利根川流域上流(草津、沼田付近)には銅鉱床があるため、洪水で流された黄銅鉱、黄鉄鉱がしばしば河原で見つかり、砂金と間違われるという)、羊太夫が討伐された後、彼の財産であった金銀財宝がたちまち錆び腐った等の話もある(おそらく黄鉄鉱などを金や銀と間違えたことをさす話であろう)』。『類似するものとして、「日本書紀」神功皇后九年(二〇九年)の条に「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。……層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」という説話がある』。『久保有政は、松浦静山がその著書の中で、多胡碑のかたわらの石槨に「JNRI」という文字が見られ、また碑の下からは十字架も発見されたと書き記していることを挙げ、羊太夫とネストリウス派キリスト教との関連性を指摘する』。『「JNRI」は、ラテン語のJesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字をとった略語であって』これは『「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を意味し、十字架刑に処せられたイエス・キリストの頭上にかかげられた言葉であるとされ、「INRI」(この場合、Iesusの頭文字である。)とも記されることがある。久保は、これについて東方キリスト教の残滓が日本まで到達したことを示すものであろうとしている』。『また「INRI」について、ヘブライ語は筆記においては母音が省略され子音のみ表記されるため、「INaRI」と母音を補い、稲荷信仰との関連も指摘されている。しかし、この説の根拠となる遺物に関しては、江戸時代にキリスト教信者によって捏造された可能性が否定できない他、語呂合わせ的な主張でもあり、説を補強する確かな遺物でも発見されない限り、この説を取ることは困難である』とある。]

2018/04/12

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 舩頭烏賊 タチイカ

 

[やぶちゃん注:本図は二〇一五年五月四日附の本ブログの博物学古記録翻刻訳注 ■15 栗本丹洲筆自筆本「蛸水月烏賊類図巻」に現われたる「舩頭烏賊 タチイカ」の図で画像も掲げ、キャプションの電子化や注及も附してあるので、そちらを参照されたい。なお、本図も例の磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分に「舩頭烏賊, タチイカ」とあることから、これも「衆鱗図」からの転写図である可能性が高い。

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 テナガダコ

 

手長鱆

 

Tenagadako

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上の一行のみ。「鱆」は「たこ」。「たこ」は印象的な吸盤から「章魚」とも書くから、腑に落ちる。

 本図は、

頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目マダコ亜目マダコ科マダコ亜科マダコ属Octopus 亜属テナガダコ Octopus minor

としてよかろう。「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」の「テナガダコによれば、全長は七十センチ前後になり、『非常に腕が長く、胴(目のある頭に見える部分)の』五倍もあるとする。『日本各地』の下部潮間帯から水深』二百メートルから四百メートルの『泥底の穴に棲み、腕を表面に出している』。本邦では近年まで食用としては殆んど流通していなかったが、韓国料理の流行で、所謂、テナガダコを、生きたまま、ぶつ切りにした上で、皿に盛り、塩を混ぜた胡麻油やチョコチュジャン(酢入りのコチュジャン)を和えて食する「サンナクチ」(朝鮮語で「サン」(生きた)+「ナクチ」(テナガダコ))で知られるようになった。ウィキの「サンナクチによれば、『大韓民国では「タコ』一『匹が高麗人参』一『盛り」という諺があり、タコは美容食や強壮食として全国的な知名度を誇る食品である』。『鍋や炒め物に使われる他、サンナクチのように生で食べるのも人気が高い』。『テナガダコはなかんずく』、『全羅南道の木浦が産地として知られ、サンナクチも郷土料理として有名』。『成長する前の足の細いテナガダコはセバルナクチと呼ばれ』て珍重され、『木浦ではこのセバルナクチを生きたまま割り箸に巻きつけ、チョコチュジャンをつけてかぶりついて食べる』。『生きた状態で食するため、口の中でタコの吸盤が吸い付く力が極めて強いものの』、『咀嚼を繰り返すことで新鮮なタコの歯応えを楽しめ、甘味が口に広がる』。『食べるのに慣れなければ』、『喉にまでタコの吸盤が吸い付いた挙句、窒息死寸前にまで至る場合があるので注意を要する』。『イギリスの日刊紙「サン」は』二〇一二年八月十六日、『サンナクチを「世界の危険な食べ物』八『つ」の』一『つとして紹介(その他に紹介されているのは、日本のフグ、ウシガエル、ベトナムのキングコブラの毒で作ったカクテル、ジャマイカ産アキーの実、赤貝、イタリアのカース・マルツゥ、ホットドッグ)』『ホットドッグが紹介されているのは奇異な感じを受けるが、アメリカ合衆国では』一『年間に』八十『人程度がホットドッグを食べて窒息死しているという』。『またロイターによると、オーストラリアの旅行専門ウェブサイト「バーチャルツーリスト」が「世界』十『大珍料理」の』一『つに選んでおり(その他に選ばれているのは、台湾の豚の血のケーキ、ウガンダのバッタ、フランスのハト、マレーシアのドリアン、ノルウェーのルートフィスク、オーストラリアのイモムシ、ベトナムのヘビ酒、イタリアのロバ、南アフリカのダチョウ)』、『ゲテモノの類としての色合いが強い。なおバーチャルツーリストは、サンナクチについて「死んでいるのに生きているように動いており、素早く食べなくてはならない」と食べ方も紹介した』とある。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 アカダコ(スナツカミ)・イイダコ

 

赤ダコ 砂ツカミ

 

飯ダコ

 

Akadakoiidako

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。タコ二種。キャプションは上の二種へのそれのみ。「砂ツカミ」は異名と思われるもので、底本では割注式にポイント落ちで右に寄せてある。

 さて、右の「赤ダコ」(赤蛸)、異名を「砂ツカミ」(砂摑み)とするものであるが、形状のスマートさと異名に含まれる「砂」から、これは、

頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目マダコ亜目マダコ科マダコ亜科マダコ属Octopus 亜属スナダコ Octopus kagoshimensis

ではないかと踏んだ。土屋光太郎・山本典暎(のりあき)・阿部秀樹共著の「イカ・タコガイドブック」(二〇〇二年TBSブリタニカ刊)によれば、『体の表面は細かい顆粒で覆われ、眼の両側に四角い暗色斑と、それを縁どる白いラインが入ることが特徴的。イイダコと似るが、明瞭な眼状斑はない』。『分布の詳細は不明だが、少なくとも駿河湾以南、台湾、インドネシア北部から記録がある』。『ただし、本来スナダコの和名に当たるものは全長』が三十~四十センチメートルに『達する大型種で』あり、『小型で成熟・産卵する種に対して』一律に Octopus kagoshimensis の学名を『当てるのは不適切かもしれない』とし、この Octopus kagoshimensis に『あたるタコは、メスで全長』十七センチメートルほどの、静岡県沼津市西浦江梨にある伊豆半島北西端から北へ駿河湾に突き出した岬『大瀬崎』((グーグル・マップ・データ))『などで撮影される一連の』個体群と『よく合致する。成熟サイズのばらつきを考えると、スナダコと呼ばれるものの中に、複数種が含まれている可能性も考えられる』という驚きの(私にとっては)記載があった。しばしば、大型の貝殻や空き瓶などに身を潜ませているタコとして知られる。ちょっと種同定に自信がなくなりかけたが、例の磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分に、「タコ類:イイダコ(飯鱆(タコ), スナダコ(赤鱆, 砂ツカミ」があることから、本図も「衆鱗図」からの転写図と思われ、何より、スナダコの比定が誤り出なかったことが判って、胸を撫で下ろしたのであった。

 次の「飯ダコ」はもう、「いいだこ」(飯蛸)、

マダコ属Octopus 亜属イイダコ Octopus ocellatus

で決まりである。以下、ウィキの「イイダコから引く。『東アジアの浅海に生息する小型のタコであり、沿岸域では古代から食用として漁獲されている』。『種小名 ocellatus は、ラテン語で「目(のような模様)のついた」の意味で、足の付け根あたりに目立つ眼状紋のある』『ことを指しての命名』である。『和名のイイダコは「飯蛸」で、一説に、胴部(頭にみえる部位)にぎっしり詰まった卵胞が米飯のように見えるからだと』も、また、『その卵胞の食感が飯粒のようであるからだとも』いう。『方言として「コモチダコ(子持ち蛸)」や「イシダコ」「カイダコ」などがある』。『体長は最大でも』三十センチメートル『ほどで、タコとしては小型である。体表は低い疣(いぼ)状突起が多い。体色は周囲の環境により変化するが、腕の間の襞(ひだ)に金色の環状紋が』二『つあることと、両眼の間に長方形の模様があることで他種と区別できる。また、興奮すると胴(俗に「タコの頭」と呼ばれる部位)や腕に黒い縦帯模様が現れる』。『北海道南部以南の日本沿岸域から朝鮮半島南部、黄海、および、中国の沿岸域に至る、東アジアの浅海に分布する』。『波打ち際から水深』十メートル『ほどまでの、岩礁や転石が点在する砂泥底に生息する。外洋性のマダコに対して波の穏やかな内湾に多く、日本本土ではテナガダコ(Octopus minor minor)と生息域が重複する。昼間は石の隙間やアマモ場に潜むが、大きな二枚貝の貝殻や捨てられた空き缶、空き瓶なども隠れ家として利用する。夜になると』、『海底を移動しながら餌を探し、海岸性の甲殻類、多毛類、貝類などさまざまな底生生物(ベントス)を捕食する』。『産卵期は冬から春にかけてで、石の間や貝殻の中に長径』四ミリメートル『程度の半透明の卵を産む。この卵はマダコよりも大粒で、ちょうど米粒くらいの大きさがある。産卵後はメスが卵のそばに留まって卵を保護し、卵が孵化するとほとんどのメスは死んでしまう』。『漁撈の対象としては主に蛸壺漁で獲られ、イイダコ用の蛸壺は大きな二枚貝の貝殻、または、それを模したプラスチック製の貝殻が用いられる』。『日本では、イイダコ漁専用と思われる小型の蛸壺が』、『古く弥生時代や古墳時代の地層から発見されている。現代におけるイイダコの蛸壺漁は、瀬戸内海沿岸および九州西部のものがよく知られている』。『海岸からの釣りでわりと手軽に獲ることができる。イイダコは白いものに飛びつく習性があるが、これはイイダコが獲物である二枚貝の白さと見誤って襲いかかるためといわれており、その錯覚を利用した「テンヤ」という釣りが知られている。釣具店などでもイイダコ釣りのためのテンヤが市販されており、白色のほか、ピンク、赤など海中でも目立つような鮮やかな着色がなされている。そのほか、スイセンやラッキョウの球根、肉の脂身などを鉤(かぎ)に取り付けて釣る技法がある』とある。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 海䖳

 

[やぶちゃん注:本図は二〇一三年七月二日附の本ブログの海産生物古記録集■8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載で画像も掲げ、キャプションの電子化や注及び現代語訳も附してあるので、そちらを参照されたい。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 (無名クラゲの図)

 

Nanasikurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは、なし。

 よくみると、傘の濃い焦茶色を呈した上面には亀甲型の紋がびっしりとあり、その紋は脱色した形で傘下部の辺縁にもびっしりとあって、傘の中央に向かって赤味の強い茶色の点描が、これまったびっしりと描かれてある。口腕らしきびらびら(片方が強く貫入した襞状を成し、その部分には恐らく薄いピンク色の着色が施されている)は八本、中央から五本の短い触手状の器官が垂れ下がっている(その先端も薄いピンク色の着色が施されてある)。お手上げ。同定不能。識者の御教授を乞う。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ハンドクラゲ

 

ハンド海月

 

Handokurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。キャプションは上の一行のみ。

 本図は非常な困り物で、傘の内に現認出来る三つの円紋があり(見えない対称位置に今一つあうと考えてよい)、華々しい色のついたビラビラの口腕が数も数えられぬほどにあり、しかも垂れ下がる触手らしきもの十九本も描かれているのであるが、こんなクラゲは、私は、知らない。口腕がやや赤い色を呈していて、ごっそりとしているところは、一見、鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta のように見えるのであるが、どうも目玉模様がそれらしくない。何より、先行無名のクラゲ図の注を見て貰うと判るが、『「栗氏千蟲譜」巻九』(リンク先は私のサイト内の古い電子化注テクスト。図有り)で丹洲は本図の種とほぼ同種ではないかとも思われる個体を描いており、そこには、

   *

九州ノ海ニアリ四ツ目クラゲ又ハンドクラケ類ニシテ食料ニナラズ

   *

(「ハンドクラケ」はママ)とある。困るのは、この「ハンド」という名でもあり、いろいろ調べて見たが、遂に意味も由来も判らない(陰陽道の禁忌に纏わる「犯土(ぼんど)」の転訛なども考えたが、ピンとこない)。しかし、傘の形状と、「千蟲譜」のキャプションの異名「四ツ目クラゲ」の特徴的な四つ円紋(四つある丸い胃腔を取り囲んだ馬蹄形の生殖腺)、及び、食用にならないという点、「ハンド海月」という名から、やはり、

旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属(タイプ種)ミズクラゲ Aurelia aurita

と同定するしかないと私は思う(ミズクラゲの口腕は四本)。ビゼンクラゲ支持派の方には反論するが、そもそもが、ビゼンクラゲやその仲間が「ハンドクラゲ」であるのなら、古来、食材としてきた以上、「食料ニナラズ」とは逆立ちしても書くはずがないのである。正直これは、丹洲がミズクラゲを、実態を無視して、おどおおどろしく、猟奇的な「海月」絵として、空想的に描いたものとしか私には思えないのである。言おうなら、「じゃっどん、こんなクラゲは居りもハンド!」クラゲ、なのである。……と書いてきて、前にも示した磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)を見たら、例の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分に「ハンド海月」があることから、本図も「衆鱗図」からの転写図と思われ、そこでは何と、磯野氏はこれを、あらま!

鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

にあっさり同定しておられるのであった。……そっか……ちょっとシュールレアリストとしての丹洲を夢想し過ぎたか……折角の大団円のはずなのに……何だか、淋しかった…………

進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(1) 序 / 一 野生動植物の通性

 

    第十四章 生態學上の事實

 

 第九章より前章に至るまでの間に述べたことは、生物進化の證據ともいふべき事實、竝に生物進化の實際の事蹟であるが、孰れも生物種屬は永久不變のものではなくて、漸々進化し來つたものであることを明瞭にするだけで、生物の進化は何によつて起つたかといふ問題に關しては、以上の事實だけではまだ何等の手掛を得ることも出來ぬ。ダーウィンの自然淘汰説によれば、生存競爭の結果、代々少數の適者のみが生存して子を遺すから、この自然の淘汰によつて生物種屬は漸々進化して行くといふのであるが、之は單に理窟だけを考へてもさうありさうな上に、動物の生活狀態を調べると、その證據ともいふべき事實が殆ど無限にある。之を逐一述べると、そればかりでも一册の大きな生態學書となる程故、こゝには單にその中から最も著しいものを若干だけ選んで説明するに止めるが、これらを見れば、生物進化の原因は生存競爭であることが明に解る。尤もこの以外に生物進化の原動力はないといふ證據にはならぬが、兎に角自然淘汰が進化の主なる原因であつたことは十分に推察することが出來る。それ故、本章に於て述べる所は、先づ自然淘汰説の論據とも名づくべきものである。

 

     一 野生動植物の通性

 

 野生動植物といへば、範圍が極めて廣いから、その中には如何なる形狀を有するものも、如何なる生活を營むものもあるが、これら總べてに通じて見出すことの出來る點はたゞ一つある。それは卽ち各種屬に於て發達せる構造・性質は悉くその持主である動植物に有用なものばかりで、一として他の動植物に都合好きために態々[やぶちゃん注:「わざわざ」。]存するものがないといふことである。人間が長い間飼養した動植物では、各々人間に都合の好い性質が發達し、乳牛は自分に不必要な多量の乳汁を人間のために分泌し、綿羊は自分に不必要な多量の毛を人間のために生じ、八重櫻は生殖の役に立たぬ美麗な花を人間のために咲かせ、溫州蜜柑は種子のない果實を人間のために熟させるなど、一として人間のためならざるはない。之は人爲の淘汰により代々人間に利益ある點を標準として選擇した結果故、斯くあるべきが至當であるが、さて野生の動植物は如何と見るに、この方ではたゞ自然の淘汰によつて進化するばかり故、各々一種屬の秀でた點は、たゞ生存競爭上、その持主自身に取つて都合の好いもののみで、甲の動物のみに利益ある性質が乙の動物に具はつてあるといふやうな場合は決してない。若し一つでも確にかやうな例があつたならば、自然淘汰の説は全く取消さねばならぬ理窟であるが、實際今日まで斯かる例が一つとして發見せられぬ所を見れば、これだけでも、自然淘汰の説は餘程眞らしく思はれる。

 生物の增加する割合を計算して見れば、實に盛なもので、若し生れた子が總べて生長し、生殖したならば、忽ち地球上には乘り切らぬほどになる譯であるが、食物その他の需要品には各々制限がある故、同種内にも異種間にも、常に劇烈な競爭の絶えることはない。その次第は既に第七章に於て述べたが、斯く競爭が行はれて居る以上は、一の動物に有益な構造・性質は、之と利害の相反する敵に取つては頗る不利であるは無論のことで、例へば鶴の嘴や頸の長いのは、鶴白身が水中から餌を拾ふに當つては至極使利であるが、食はれる泥鰌の方からいへば、之程不利益なことはない。また甲の鳶の眼の鋭いことは、その鳶自身に取つては極めて有益であるが、同一の食物を搜して之と競爭の位置に立つ乙・丙等の鳶に取つては、決して有難くないことである。總べてかやうな理窟で、生物の各種屬・各個體には皆自分だけの利益になり、多數の他の生物種屬及び個體の迷惑になるやうな點が特に發達して居るが、生物は皆生存競爭の結果、自然淘汰によつて進化し來つたものとすれば、之は素より當然のことである。若し之に反して、西洋諸國で從來いひ傳へたやうに、天地創造の際に全智全能の神が、動植物の各種を一々別に造つたものとしたならば、同一の手になつた製造品が各々斯く相互に迷惑になるやうな性質を具へて居ることは、何ともその意を解することが出來ぬ。實際生物界の有樣を見るに、猫の方に鼠を捕へて食ふための鋭い爪、尖つた齒、敏い鼻などが、十分に具はつてあれば、鼠の方にはまた猫に捕へられぬために活潑な足、鋭い耳などが發達してあるから、如何に猫でも怠けて居ては鼠を飽食することは出來ぬ。また大に勞力を費しても、鼠が小い穴に入つてしまへば、之を捕へることが出來ず、折角の骨折も全く無益に終ることも屢々あるから、鼠の運動・感覺の發達は、猫に取つてはこの上もない不利益である。之は最も卑近な例に過ぎぬが、凡そ地球上にある生物の生活の有樣は、總べてこの通りで、如何なる種類を取つても、皆他を殺すため、他に殺されぬため、他を食ふため、他に食はれぬための性質が發達し、その競爭によつて自然界の平均が暫時保たれて居るのである。若し之が同一の神の手によつて造られたものとしたならば、その神の所行(しわざ)は恰も一方の動物に矛を授け、一方の動物に楯を授けて、之を以て互に烈しく相戰へと命じたと同樣なわけに當り、從來詩人などの屢々歌つた自然の調和といふものは、矛の鋭さと楯の堅さとが相匹敵したために、暫時勝負の附かぬその間の睨み合の有樣を指すことになる。著者が、曾て東京の或る基督教會の説教を聞きに行つたときに、「エホバの智慧」とかいふ題で、牧師が種々の動物のことに就いて述べた中に、「猫の鬚は左右合はせると丁度身體の幅だけあるから、鼠を追うて狹い處に飛び込むとき、之によつて自分の身體がそこに入るか否かを直に知ることが出來る。之は猫に取つては極めて便利なことで、若し之がなかつたならば、狹い處に知らずに飛び込んで挾まつてしまふ筈であるが、鬚がある故、そのやうな心配もなく鼠を捕へることが出來る」とか、「鮫の口は頭の尖端にはなく、頭の腹面にあるから、人の泳いで居るのを食ふには、先づ腹を上へ向けるために體を轉じなければならぬが、その隙に人間が逃げることが出來る」とかいふて、之を基として、神は斯の如く智慧と慈悲とに富んであらせられるとの結論に及んだが、事實の眞僞はさておき、若し神が猫に都合よき性質を與へたとしたならば、鼠に取つては之ほど迷惑なことはない。また鮫の方もその通りで、餌を食ふに當り一々體を轉じなければならず、その間に餌が逃げてしまふやうな仕掛に造られては、鮫は、そのため往々餓死することなどもあつて、定めて神を恨んで居るであらう。これらは素より強いて駁すべき程のことでもないが、少數の事實を取つてその半面だけを見ると、或は斯かる考が起らぬとも限らぬから、例に擧げたに過ぎぬ。

 前にも述べた通り、野生の動植物は如何なる種類を取つて見ても、生存競爭の際にその持主に都合の好い構造・性質が發達して居るものであるが、その有樣は本章に於て之より説く如く、實に人工の到底及ばぬ程の巧妙なものが澤山にあり、また全く意表に出た面白い仕組のものも種々ある。それ故、たゞ之だけを見ると、全智全能の神でも造つたのであらうといふ考が起るかも知れぬが、その動物と利害の相反する敵である動物の側から見ると、斯かる構造・性質が巧妙に出來て居るだけ益々不利益なもの故、あれとこれとを合はせ考へれば、同一の意志に隨ひ、同一の手によつて兩方が造られたとは、どうしても信ぜられぬ。また他の動植物の利益になるばかりで、その持主には何の役にも立たぬやうな構造・性質は今日まで一つも例がないというたが、一種の動植物の有する性質を、他の種類が利用することは素より有るべきことで、例へば海岸に澤山住んで居る寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類。]は、卷貝類の空いた殼を拾ひ、之を以て體の後部を保護して居る。倂し介殼は貝類の生活上最も必要なもので、たゞその不用に歸して捨てられたものを寄居蟹が拾つて利用するに過ぎぬから、斯くの如き例は自然淘汰の反對の證據とはならぬ。若し介殼が之を生ずる貝類には何の役にも立たず、たゞ後に寄居蟹に便利を與へることを目的として出來たものならば、之は自然淘汰説の豫期する所と正反對な事實であるから、たとひ一つでもかやうな例が發見せられたならば、自然淘汰説は全くその根柢を失つたと論じて宜しい。

 また生存競爭といふことがある以上は、生物各種屬が皆自己の生存のために勉めて居る働きが、偶然他の種屬に利益を與へることは無論あるべき筈である。何故といふに、一種の動物があれば必ずその敵があり、敵である動物にも亦その敵があつて、順次その先の相手がある故、一種の動物を攻めることは、卽ちその動物と利害の相反する敵を助けることに當り、一種の動物を助けることは、卽ちその敵である動物を攻めることに當るから、若し今甲なる動物が、生存の必要上常に乙なる動物を搜して食ふ場合には、乙の敵である動物、乙の敵の敵の敵である動物は、自然に甲のために利益を得ることになる。一例を擧げていへば緣(えん)の下の如き雨の降り掛らぬ乾いた地面には、摺鉢形の小な穴が幾つもあるが、その底に或る蟲の幼蟲が隱れて居て、蟻が來ると、捕へて食はうと待ち構へて居る。穴が摺鉢形故、こゝに來た蟻は皆底へ落ちて忽ち食はれるに極まつて居るから、俗に之を「蟻地獄」と名づけるが、鷄は地面の蟲を搜して步くもの故、蟻地獄の蟲を見付ければ、容赦なく之を啄(つゝ)いて食ふてしまふ。鷄には素より蟻を助ける心はないが、たゞその餌とする蟲が丁度蟻の敵に當るから、結果からいへば、蟻に大きな利益を與へることになる。通常我々が益鳥とか益蟲とか名づけるものは皆この理[やぶちゃん注:「ことはり」。]で、我々に偶然利益を及ぼすものである。

[やぶちゃん注:「蟻地獄」昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する一部のウスバカゲロウ類の幼虫を指す。但し、ここで丘先生の言っているニワトリがアリジゴクを本当に餌として摂餌するかどうかは私にはやや疑問がある。何故なら、彼らアリジゴクは体内にグラム陰性桿菌の一種である、プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属エンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes などの昆虫病原菌をアリジゴク自身の嗉嚢(そのう)などに多数共生させており、それに由来する強い毒物質を含むからで、例えば、殺虫活性はフグ毒テトロドトキシンの百三十倍もあるとされているからで、確かに、啄み行動でアリジゴクを突き殺すことはあっても、それを好んで多量に食うとはちょっと思われないからである。識者の御判断を俟つ。]

 

 自然界に於て、一種の動物が他の種屬に利益を與へる場合は、總べて斯くの如き次第で、他に利益を與へることは、何時も偶然の結果に過ぎぬ。益鳥と名づけ、益蟲と名づけるのも、單に我々に對する利害を標準として、結果から打算したもの故、若し標準とする所が變ずれば、今日の益蟲も明日は害蟲と名づけられるに至るかも知れぬ。芋蟲・毛蟲の類は我々の培養する野菜に大害を及ぼすから、今日は害蟲と名づけられ、之に卵などを産み附けて殺す寄生蜂は益蟲と稱せられて居るが、萬一、芋蟲・毛蟲等の利用の道が開け、野菜よりも芋蟲の方が價が貴(たか)くなるやうなことでもあらば、今日の害蟲は忽ち明日の益蟲と變じ、今日益蟲と呼ばれる寄生蜂類は忽ち害蟲の部に編入せられてしまふ。現に蠶の如きは桑に取つてはこの上もない大害蟲であるが、人間から見れば、その産物である絹絲が桑よりも數十倍も價が貴いから、一種の芋蟲でありながら、日本第一の益蟲と稱せられて居る。つまる所、益鳥も益蟲もその時々の標準により、その時々の結果から附ける名で、決して最初から、如何なる事情の下に於ても、必ず人間に利益を與へるといふやうな性質を具へて居る次第ではない。それ故、態々人間のために造られたものであるといふやうな説は到底信ぜられぬ。益鳥・益蟲に限らず、若し地球上に他の種屬に利益を與へるためにのみ生存して居る野生動物が、たとひ一種でもあつたならば、自然淘汰の説は全く潰れる道理であるが、かやうな例は今日まで一つも發見になつたこともなく、尚この後發見せらるべき望もないのである。

 

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 三 關東のダイダ坊

 

     三 關東のダイダ坊

 

 自分たちは先づ第一に、傳説の舊話を保存する力といふものを考へる。足跡がある以上は本當の話だらうといふことは、論理の誤りでもあらうし、又最初からの觀察法では無かつたらうが、兎に角に斯んなをかしな名稱と足跡とが無かつたならば、如何に誠實に古人の信じて居た物語でも、さう永くは我々の間に、留まつて居なかつた筈である。東京より東の低地の國々に於ては、山作りの話は漸く稀にして、足跡の數はいよいよ多い。卽ち神話は遠い世の夢と消えて後に、人は故郷の傳説の巨人を引連れて、新たに此方面に移住した結果とも、想像せられぬことは無いのである。けだし形狀の少しく足跡に似た窪地をさして、深い意味も無くダイラボツチと名付けたやうな彗口も、或時代には相應に多かつたと見なければ、説明のつかぬ程の分布があることは事實だが、大本に溯つて、若し巨人は足痕を遺すもの也といふ教育が無かつたら、到底是までの一致を期することは出來ぬかと思ふ。

 上總・下總は地名なり噂話なりで、ダイダの足跡の殊に遍ねき地方と想像して居るが、自分が行つて見たのは一箇處二足分に過ぎなかつた。旅はよくしても中々そんな處へは出くはせるもので無ない。上總では茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れて居る。其右岸の立木といふ部落を少し登つた傾斜面の上の方に、至つて謙遜なるダイダツポの足跡が一つ殘つて居た。足袋底の型程度の類似はもつて居るが、此邊が土ふまずだと言はれて見ても、なる程と迄は答へにくい足跡であつた。面積は僅かに一畝と何步、周圍は雜木の生えた原野なるに反して、此部分のみは麥畠になつて居た。爪先は爰でも高みの方を向いて居る。土地の發音ではライラツポとも聞える。兩岸[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集では『川の両岸』とある。]の岡から岡へ一跨ぎにしたと言ふのであるが、向ひの上永吉の方では、松のある尾崎が近年大いに崩れて、もう足跡だと説明することが出來なくなつて居る。たゞ其の少しの地面のみが別の地主に屬し、左右の隣地を他の一人で持つて居る事實が、多分以前は除地であつたらうことを、想像せしめるといふだけである。

[やぶちゃん注:「茂原から南へ丘陵を一つ隔てゝ、鶴枝川が西東に流れて居る。其右岸の立木といふ部落」現在の千葉県茂原市立木。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「除地」「よけち」(「じょち」とも読む)。江戸時代、幕府や藩から年貢を免除された土地の内、寺社の境内や特別な由緒のある土地を指す。従来は検地を受けなかったが、次第に検地された上で、検地帳に「除地」として登録されるようになった。起源は中世寺社境内の免租地を除地といったことにあるらしい(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 

 埴生郡聞見漫錄を見ると、この地方の海岸人がダンダアといふのは、坊主鮫とも稱する一種の恠魚であつた。それが出現すると必ず天氣が變ると傳へられた。或は關係は無いのかも知れぬが、事によるとダイダ坊も海から來ると想像したのではあるまいか。常陸の方では、風俗畫報に出た「茨城方言」に、ダイダラボー、昔千波沼(せんばぬま)邊に住める巨人なりといふ。土人いふ此人大昔千波沼より東前池(ひがしまへいけ)まで、一里餘の間を一跨ぎにし、其足跡が池となつたと言ひ傳ふる假想の者だとある。其足跡の話は吉田氏の地名辭書にも見え、或は椎塚村のダツタイ坊などの如く、そちこち徘徊した形跡は勿論あるが、それを古風土記の大櫛岡の物語が、其儘殘つて居たものと解することは、常陸の學者には都合がよろしくとも、他の方面の傳説の始末が付かなくなる。自分はさういふ風に地方々々で、獨立して千年以上を持ち傳へたやうには考へて居ないのである。

[やぶちゃん注:「埴生郡聞見漫錄」深川元儁(もととし 文化七(一八一〇)年~安政三(一八五六)年):江戸後期の国学者・蘭学者。平田篤胤に国学を、幡崎鼎(はたざきかなえ)に蘭学を学んだ。郷里の上総地方の本草調査や研究を行い、漢学・詩文にも優れた)の著になる埴生郡(はにゅうぐん/はぶぐん)の見聞記。埴生郡は現在の茂原市の一部・長生郡長南町の大部分・長生郡睦沢町の一部(以上、旧上埴生郡)、及び、成田市の一部・印旛郡栄町の一部・茨城県稲敷郡河内町の一部(以上、下埴生郡)に相当する広域である。

「風俗畫報」明治二二(一八八九)年二月に創刊された日本初のグラフィック雑誌。大正五(一九一六)年三月に終刊するまでの二十七年間に亙って、特別号を含め、全五百十八冊を刊行している。写真や絵などを多用し、視覚的に当時の社会風俗・名所旧蹟を紹介解説したもので、特に「名所圖會」シリーズの中の、「江戸名所圖會」に擬えた「新撰東京名所圖會」は明治二九(一八九六年から同四一(一九〇八)年年までの三十一年間で六十五冊も発刊されて大好評を博した。謂わば現在のムック本の濫觴の一つと言える。同誌の「茨城方言」は明治四〇(一九〇七)年七月発行ではないかと思われる(柳田國男の「野草雜記・野鳥雜記」の記載内容から推定)。

「千波沼(せんばぬま)」茨城県水戸市の偕楽園内にある千波湖のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。個人のブログ「コツコツ歩き隊!」の「偕楽園と千波湖を歩く(2)」によれば、現在、同湖の遊歩道に「ダイダラ坊の伝説」という案内石柱があり、それを電子化しておられた。整序して連続させて以下に示す。

   *

千波湖をつくったのはダイダラ坊という巨人だ、と言い伝えられている。ダイダラ坊は現在の内原町大足に住んでいた。村が朝房山のために日陰になり、村人の困っているのを見たダイダラ坊は、山を村の北方に移してしまった。ところが、その跡に水がたまって洪水になったため、指で小川をつくって水を流し、その下流に掘った沼が千波湖だという。

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「東前池(ひがしまへいけ)」この名称では残っていないか、池自体が消失しているのかも知れない。識者の御教授を乞う。

「吉田氏の地名辭書」「大日本地名辭書」。明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年をかけて編纂された。

「椎塚村」水戸の遙か南方(でも巨人なら十数歩)の茨城県稲敷市椎塚か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「古風土記」の一書である「常陸國風土記」。

「大櫛岡の物語」水戸市塩崎町にある「大櫛(おおくし)の岡」で、「茨城県生活環境部生活文化課」作成になるこちらによれば、文献に記載された貝塚としては世界最古の貝塚とされる縄文前期に形成された大串貝塚遺跡がある。ここにはその貝塚に纏わる巨人伝説が知られている。「常陸國風土記」の「那賀郡」の条に(武田祐吉編の岩波文庫版から引用する)、

   *

平津(ひらつ)の驛家(うまや)[やぶちゃん注:古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。後の宿駅。]の西一二里に岡あり。名を大櫛(おほくし)といふ。上古(いにしへ)に人あり、體(かたち)極めて長大(おほ)きに身は丘壟(をか)の上に居りて、蜃(うむぎ)[やぶちゃん注:蜃気楼を吐いて見せるとされる伝説上の巨大な蛤。]を採りて食ひき。その食へる貝、積聚(つも)りて岡と成りき、時の人大きに朽ちし義(こゝろ)を取りて、今大櫛(おほくし)の岡(をか)といふ。その踐(ふ)みし跡は、長さ四十餘步、廣さ二十餘步あり、尿(ゆまり)[やぶちゃん注:小便をすること。それで地面に穴が開いたのである。]の穴趾(あと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]は、二十餘步許なり。

   *

とある。]

 

 下野では又鬼怒川の岸に立つ羽黑山が、昔デンデンボメといふ巨人の落して往つた山といふことになつて居る。此山に限つて今尚一筋の藤蔓も無いのは、山を背負つて來た時に藤の繩が切れた爲だといふのは、少々ばかり推論の繩が切れて居る。或は此山に腰を掛けて、鬼怒川で足を洗つたと謂ひ、近くに其時の足跡と傳ふる二反步ばかりの沼が二つあり、土地の名も葦沼と呼ばれて居る。足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメの樣だと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)、信州などの例と一致して居る。

[やぶちゃん注:「羽黑山」現在の栃木県宇都宮市宮山田町にある羽黒山。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高は水準点で四百五十八メートル(但し、最高地点は標高四百七十メートル以上四百八十メートル未満のピーク)。ウィキの同山の記載によれば、『羽黒山には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山に腰掛けて鬼怒川で足を洗ったという言い伝えがある』とある。

「少々ばかり推論の繩が切れて居る」落した後に本体の山をどこへ運んだかという後段の本筋が切れているということか。

「土地の名も葦沼と呼ばれて居る」栃木県宇都宮市芦沼町。(グーグル・マップ・データ)。但し、沼は見当たらない。他にも芦沼の少し北には、デンデンボメが肘(ひじ)をついたと伝える栃木県塩谷郡塩谷町(しおやまい)肘内(ひじうち)もあるここ(グーグル・マップ・データ)。

「足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメの樣だと謂つて笑ふといふのも(日本傳説集)」国立国会図書館デジタルコレクションの。]

 

 枝葉にわたるが足を洗ふといふ昔話にも、何か信仰上の原因があつたのでは無いかと思ふ。私の生まれた播州の田舍でも、川の對岸の山崎といふ處に、淵に臨んだ岩山があつて、夜分其下を通つた者の怖ろしい經驗談が多く流布して居た。路を跨いで偉大なる毛脛が、山の上から川の中へぬつと突込まれたのを見たなどゝ謂つて、其土地の名を千束と稱するが、センゾクは多分洗足であらうと思つて居る。江戸で本所の七不思議の一つに、足洗ひといふ恠物を説くことは人がよく知つて居る。深夜に天井から足だけが一本づゝ下がる。之れを主人が𧘕𧘔[やぶちゃん注:「かみしも」。裃。]で盥を採つて出て、恭しく洗ひ奉るのだといふなどは、空想としても必ず基礎がある。洗はなければならなかつた足は、遠い路を步んで來た者の足であつた。卽ち山を作つた旅の大神と、關係が無かつたとは言はれぬのである。

[やぶちゃん注:兵庫県神崎郡福崎町(ふくさきちょう:柳田國男の生地)の山崎(やまさき)。(グーグル・マップ・データ)。

「千束」「せんぞく」と読む。柳田國男の引用もある観光情報 (平成二十七年五月号・PDF)によれば、この大きな足の出たとする崖の上は「播磨國風土記」で神が降臨したとする「神前山」であるとあり、『大足伝説はこのことと無家系ではないかもしれない』とある。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 二 デエラ坊の山作り

 

     二 デエラ坊の山作り

 

 松屋筆記には又斯んな話を書いて居る。著者は前の煎茶僧と略同じ時代の人である。曰く、武相の國人常にダイラボツチとて、形大なる鬼神がいたことを話する。相模野の中に在る大沼といふ沼は、大昔ダイラボツチが富士の山を背負つて行かうとして、足を踏張つた時の足跡の窪みである。又此原に藤といふものゝ少しも無いのは、彼が背負繩にするつもりで藤蔓を搜し求めても得られなかつた因緣を以て、今でも成長せぬのだと傳へて居る云々。自分は以前何囘もあの地方に散步して此事を思ひ出し、果して村の人たちが今ではもう忘れて居るか否かを、確かめて見たい希望を持つて居たが、それを同情して八王子の中村成文君が、特に我々のた爲に調べてくれられた結果を見ると、中々どうして忘れてしまふどころでは無かつた。

[やぶちゃん注:「松屋筆記」「まつのやひつき(ひっき)」と読む。江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風の随筆。元は全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えてある。その語句は約一万に及び、国語・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来るが、膨大なので探していない。但し、サイト「Shonan Walk」の「湘南の昔話」の「15.でいらぼっちのお話 /(相模原市)」に、デイラボッチが地団駄踏んで出来た沼を「鹿沼(かぬま)」と「菖蒲沼(しょうぶぬま)」とし、両方で「じんだら沼」と呼ばれたこと、犢鼻褌(ふんどし)を引きずりながら藤蔓を探すために相模野中を歩き回った結果出来た窪地を「ふんどし窪(くぼ)」と名づけたということが昔話に出るとある。また、鹿沼と菖蒲沼は『JR横浜線の淵野辺駅前にあり』、「松屋筆記」に『相模野の大沼として紹介されているのが、この沼のことと言われてい』るとある。また、「ふんどし窪」が『あったのは、下溝の県立相模原公園の付近にあたり、 藤づるを切るために、鎌(カマ)を研いだというので、鎌とぎ窪とも言われてい』たともある。『このほか、相模原には、矢部の村富神社付近、旭中学校(橋本)の西側、 向陽小学校(向陽町)の北側に、でいらぼっちの足跡と伝えられるくぼ地が』かつてあり、神奈川『県内には、横浜市磯子区・鶴見区・神奈川区、逗子市沼間、横須賀市長沢などに、でいらぼっちの尻餅(しりもち)をついた跡や、足跡といわれるくぼ地が』存在したともある。鹿沼の方は、神奈川県相模原市中央区鹿沼台の鹿沼公園ここ(グーグル・マップ・データ))、県立相模原公園(神奈川県相模原市南区下溝)はそこから四キロメートル弱南に位置する(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「中村成文」「せいぶん」と読み、八王子の民俗研究家と思われる(『郷土研究』等に投稿論文が多数ある)。大正四(一九一五)年には文華堂から「高尾山写真帖」を出版しており、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。]

 

 右の大沼とは同じで無いかも知れぬが、今の橫濱線の淵野邊停車場から見える處に、一つの窪地があつて水ある時には之を鹿沼と謂つて居る。それから東へ寄つて是も鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり、二つの沼の距離は約四町[やぶちゃん注:四百三十六メートル。]である。デュラボッチは富士山を背負はうとして、藤蔓を求めて相模野の原ぢうを搜したが、どうしてもないので殘念でたまらず、ぢんだら(地團太)を踏んだ足跡が、この二つの沼だといふ。又此原の中程には幅一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり、南北に長く通つた窪地がある。デエラボツチが犢鼻褌を引きずつてあるいた跡と稱し、現にその地名をふんどし窪ととなへて居る。境川を北に渡つて武藏の南多摩郡にも、之と相呼應する傳説は幾らもある。例へば由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫(うつぬき)へ越える阪路に、池の窪と呼ばるゝ凹地がある。長さは十五六間[やぶちゃん注:二十八~二十九メートル。]に幅十間[やぶちゃん注:十八メートル。]ほど、梅雨の時だけは水が溜つて池になる。これもデエラボツチが富士の山を背負はんとして、一跨ぎに踏張つた片足の痕で、今一方は駿河の國に在るさうだ。成ほど足跡だといへばさうも見えぬことはない。又同郡川口村の山入といふ部落では、繩切と書いてナギレと訓む字(あざ)に、附近の山から獨立した小山が一つある。これはデエラボツチが背に負うてやつて來たところ、繩が切れて爰へ落ちた。その繩を繋ぐ爲にふぢ蔓を探したが見えぬので、大にくやしがつて今から此山にふぢは生えるなと言つたさうで、今日でも山は此地に殘り、ふぢは成長せぬと傳へて居る。但し其ふぢといふのは葛のことであつた。巨人なればこそ其樣な弱い物で、山でも擔いで持ち運ぶことが出來たのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。

「鐵道のすぐ傍に菖蒲沼があり」距離を測って航空写真で探したが、最早、そのような沼はないようである。

「由井村の小比企といふ部落から、大字宇津貫(うつぬき)へ越える阪路」神奈川県南多摩郡にあった旧由井村は現在、東京都八王子市に編入しており、東京都八王子市小比企町(こびきまち)としてここ(グーグル・マップ・データ)にある。後者も同じく東京都八王子市宇津貫町(うつぬきまち)として編入して現存しており、前者の南東である(ここ(グーグル・マップ・データ)。現行の同地域は近いが、接触はしていない)。

「同郡川口村の山入」神奈川県南多摩郡の旧川口村(上と下があった)は、やはり現在は東京都八王子市に編入されている。「山入」は不詳だが、八王子市川口はここ(グーグル・マップ・データ)。南北に丘陵があるのが判る。

ふぢといふのは葛のこと」通常の「藤」はマメ目マメ科マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda であるが、「葛」はマメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属 Pueraria montana 変種クズ Pueraria montana var. lobata である。葛の蔓は真っ直ぐに横に伸びるので、採取や使い易さでは葛蔓であるが、強靱さでは、より太くなる藤蔓か。]

 

 甲州の方ではレイラボツチなる大力の坊主、麻殼(をがら)の棒で二つの山を擔ひ、遠くへ運ばうとしてその棒が折れたという話が、日本傳説集にも甲斐の落葉にも見えて居る。東山梨郡加納岩村の石森組には、其爲に決して麻は栽ゑなかつた。栽ゑると必ず何か惡い事があつた。其時落ちたといふ二つの山が、一つは鹽山であり他の一つは石森の山であつた。或知人の話では、藁の莖で二つの土塊を荷なつて行くうちに、一つは拔け落ちて鹽山が出來たと謂ひ、其男の名をデイラボウと傳へて居た。デイラボウは其まゝ信州の方へ行つてしまつたといふことで、諸處に足跡があり又幾つかの腰掛石もあつた。

[やぶちゃん注:「レイラボツチ」山梨に於けるダイダラボッチの異名。YAMANASHI DESIGN ARCHIVEを参照。「鹽山」(広域地名としては「えんざん」であるが、山名としては現行では「塩ノ山」で「しおのやま」のようである)の地図もある。

「麻殼(をがら)」通常は「皮を剥いだ麻の茎」(盂蘭盆の門火をたくときなどに用いるあれ)を指すが、ここは植物種を言っているから、古くから植物繊維を採るために広く栽培された「苧麻(ちょま)」で知られるイラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea を指すように私には感じられる或いは、狭義の植物種としてのツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus であるが、ここは前者でよかろう。前者は「紵(お)」「青苧(あおそ)」「山紵(やまお)」「真麻(まお)」「苧麻(まお)」など、異名も多い。

「日本傳説集」ドイツ文学者で神話学者・民俗学者でもあった高木敏雄(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)の名著。大正二(一九一三)年郷土研究社刊。当該記載は同書の「巨人傳説及兩岳背競傳説第二」の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。高木は熊本県生まれで、東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授・東京高等師範学校教授・愛媛師範学校教授・大阪外国語大学教授を歴任した。大正元(一九一三)年から翌年にかけては柳田国男とともに雑誌『郷土研究』を編集、欧米、特にドイツの研究方法に拠った神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した(以上はウィキの「高木敏雄高木敏雄に拠る)。

「甲斐の落葉」山中共古(きょうこ 嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年:本名・笑(えむ))の日記。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した。日記「共古日録」は正続六十六冊に及ぶ彼の蒐集資料集ともいうべきものである。以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)の著。ウィキの「山中によれば、明治一九(一八八六)年に山中は甲府教会(現在の甲府市中央。旧桜町)の牧師となって山梨県各地で伝道活動を行う一方、当地の庶民生活史を見聞、その成果を『東京人類学会雑誌』へ発表、それを後に纏めたもので、『山梨県の道祖神祭りや山梨独自の節供人形である』「かなかんぶつ」(甲斐国の郷土玩具で江戸後期から明治中期頃までに流行した端午の節句に於ける節供人形(節供飾り)。通称は「おかぶと(さん)」と呼び、別称で「甲斐(甲州)かなかんぶつ」または単に「面」や「兜面」とも呼ばれた。現在では廃絶した。詳しくは参照したウィキの「を見られたい)など、『同時代に廃れつつあった民俗事例を記録しており、山梨県民俗史研究の嚆矢として評価されている』とある。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」で自筆本(明治三四(一九〇一)年序)が読める。]

「東山梨郡加納岩村の石森組」現在の山梨県山梨市下石森周辺の旧村名と思われる。「石森組」は石森山のことで、(グーグル・マップ・データ)。塩ノ山はここから東北へ四・七五キロメートル離れるYAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらも参照。]

 

 我々の祖先はいつの世からとも無く、孤山の峯の秀麗なるものを拜んで居た。飯盛山といふのが、その最も普遍した名稱であつた。御山御嶽として特に禮拜する山だけは、此通り起原が尋常で無いものゝ如く、説明せられて居たやうに思はれる。後には勿論之を信ずる能はざる者が、所謂大話(おほばなし)の着想の奇に興じたことは確かだが、最初に重きを置いたのは麻殼葛[やぶちゃん注:「をがら・くづ」。]の蔓の點では無かつたらう[やぶちゃん注:ちくま文庫版全集ではここに「か」が入る。それが正しいと私も思う。実利上の「麻殼(おがら)」が何故育たぬか・育てることが禁忌かということを伝承上で合理化することが最初の出発点であろう。]と思ふ。六かしく言ふならば此種巨人譚の比較から、どの位まで精密に根原の信仰が辿つて行かれるか。それを究めてみたいのが此篇の目的である。必ずしも見かけほど呑氣な問題では無いのである。

 

2018/04/11

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(7) 六 貝塚の貝 /第十三章~了

 

     六 貝塚の貝

 

 我が國には處々に貝塚というて、古代の人間が食用にした貝の殼が、一箇處に夥しく堆(うづたか)くなつて居る處がある。初めて發見になつたのは、東京と橫濱との間の大森で、鐵道に沿うた處であつたが、その後處々方々で、澤山に見出され、今では東京に近い處だけでも、何十箇所と數へるに至つた。之を造つたのは、我々日本人種以前にこの島に住んで居た人間で、いつ頃之を造つたかは確には解らぬが、この人間と我々の先祖であるその頃の日本人種と、物品を交易したらしい形跡もあるから、先づ二千年位も前のものと見て置けば宜しからう。さてこの貝塚には如何なる貝があるかといへば、今日その邊の海岸に居るのと全く同種な貝類ばかりであるが、貝塚の貝と現今の貝とを比べて見ると、多少の相違を發見する。貝塚から發見せられた貝の種類は何十種もあるが、その中から最も普通にある類を三四種だけ選んで比較して見るに、「あかがひ」に似て遙に小く、殼の表面の溝の數の著しく少い「はいがい」といふ貝があるが、今日海岸で採集した標本と貝塚から掘り出したものとを比べて見ると、殼の表面にある溝の數が大分違ひ、今日のものは、溝が二十三か二十四位もあるが、貝塚のものには平均十八位よりない。また「おきしゞみ」といふて蛤を圓くしたやうな貝があるが、左右の介殼の幅と長さとの割合を測つて表に造つて見ると、今日の方が貝塚の頃よりは著しく長めになつて居る。また今日の「ばい」と貝塚の「ばい」とを竝べて、兩方の介殼の卷いた尖端の角度を測つて見ると、今日の方が遙に鋭くなつて居る。その他の貝類にも之と同樣な變化を見るが、一々之を擧げることは略する。

[やぶちゃん注:「あかがひ」斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii四十二本或いは四十三本の放射肋を有する

「はいがい」フネガイ科 Tegillarca 属ハイガイ Tegillarca granosa放射肋は十八本内外ウィキの「ハイガイによれば、アカガイと同じくヘモグロビンを含む体液を持つ。南アフリカ東岸から東南アジア・オーストラリア・ポリネシア及び本邦の北部まで広汎に分布する。主に水深一~二メートルの潮間帯の砂泥中に埋もれた状態で棲息する。成貝は殻長五~六センチメートル、殻幅四~五センチメートルに達する。本種は『食用として経済価値が高く』、『浙江省沿岸だけで』も凡そ百平方キロメートルの『干潟が本種の養殖に利用されて』。『隣接する福建省の河口域においても同様の養殖が行われている』。『蒸す、茹でる、焼くなどの調理法にて食される。伝統的には生食されることもある』。但し、『安全に食用とできる他の多くの貝類と異なり、本種は低酸素環境に生息するため』、『懸濁物と共にA型肝炎、E型肝炎、腸チフス、赤痢等の細菌やウイルスを取り込んでいる』。『本種は中国料理に用いられる美味な食材の一つと考えられているが、上海における早茹で (quick-boiling) のような調理法では』、『多くの細菌やウイルスが残留する』とある。

「おきしゞみ」斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科オキシジミ亜科オキシジミ属Cyclina sinensis。本州・四国・九州及び朝鮮半島・台湾・中国沿岸に分布する。通常は内湾の潮間帯或いは河川の河口付近の汽水域の泥底に棲息し、潮干狩の対象の一つとなる。殻の外形は丸みがあり、殻高・殻長ともに五センチメートルほどに達し、殻頂は前へ傾いている。殻表は褐色乃至黄色で、辺縁部は紫色を帯びる。大きな蜆のようには見える。辺縁部では放射肋及び成長脈が明瞭。内面は白色で、腹縁は細かく刻まれている。食用にはされるが、漁業対象になるほど纏まっては採れない(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「蛤」異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria

「ばい」腹足綱吸腔目バイ科バイ属バイ Babylonia japonica。]

 

 斯くの如く僅に二干年前に住んで居た貝類の殼と、今日のものと比較して見ても、既にその間に多少の相違を認める。單にその相違ばかりを見れば、素より些細な相違には違ひないが、時の短さに比較して考へて見れば、隨分著しい變化というても宜しからう。前にも述べた通り、地球の歷史に比べると、二干年位は殆ど勘定にも入らぬ程で、水成岩の出來始から計算しても、今日までの時の長さは二千年の何萬倍も何億倍もあつたらしいから、若し僅に二干年の間に既に尺度を以て容易に測れる程の變化が起るものならば、全體に於

ては如何なる變化でも決して出來ぬことはない。近來はこの種の測定が精密になり、多數の材料に就いて研究した結果、今日では僅に十年間に起つた變化までを數字で現すことが出來る例もある。イギリスの或る處で築港をした結果、そこに住む蟹の甲から生えた刺毛の數が、僅二年許の間に平均が減じたことなども、測定と統計とによつて明瞭となつた。かやうに丁寧に測つて見ると、生物種屬の形狀が漸々變ずることは目前の事實で、たゞ變化が遲いために特別に精密な方法によつて測定し、その結果を統計して見るだけの勞を取らねば、之を知ることが、むづかしいといふに過ぎぬ。

 本章に掲げたのは、皆或る動物が同一の場所に於て、漸々變化した例であるが、この外にて一地方から他の地方に移したために、動物の漸々變化した例は頗る多い。ヨーロッパからポルトサントーの島に移した兎が、既に別種と見倣すべき程に變化したこと、ブラジルからヨーロッパに移した「モルモット」は、今は互に交尾せぬまでに相違するに至つたことなどは、既に前に述べたが、これらも無論動物の變化した實際の例として擧ぐべきものである。先年、玉黍貝(たまきびがひ)といふ一種の貝をヨーロッパから北アメリカに移殖したことがあるが、今日ヨーロッパ産のものとアメリカ産のものとを比較して見ると、その貝の幅と長さとの割合が著しく相違するに至つた。之も同樣の例に屬する。また人間の飼養する動物が今日までに著しく變化し來つたことも、素より生物進化の實際の例であるが、これらは既に述べたことであるから、再び説くには及ばぬ。斯くの如く生物の形狀が實際に變化し來つたことの、確に解つてある場合は、地質學上の時代に於ても、また歷史以後に於ても、數多の例のあること故、今日に於ては生物種屬は總べて萬世不變のものであるといふやうな説は、最早殆ど眞面目になつて駁する程の價値もないものである。

[やぶちゃん注:「ヨーロッパからポルトサントーの島に移した兎が、既に別種と見倣すべき程に變化したこと、ブラジルからヨーロッパに移した「モルモット」は、今は互に交尾せぬまでに相違するに至つたことなどは、既に前に述べた」第三章 人の飼養する動植物の變異(4) 三 他の動物の變種を参照。

「玉黍貝(たまきびがひ)」腹足綱前鰓亜綱盤足目タマキビガイ科タマキビ属 Littorina の一種であろう。本邦で全国的に普通に見られる例のタマキビ Littorina brevicula(他には朝鮮と中国南部のみに分布。本邦では食用としないが、ダシは採れる)とは異なる種であるので注意。わざわざ移入したのだから、食用にするために移植したものであろう。試みに調べてみたところ、フランス沿岸で食用とされるタマキビ属の種として Littorina fabalisLittorina sitkanaLittorina obtusata をフランス語のサイトから見出せた)。]

 

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 (無名クラゲ)

 

Nanasi2

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。本図にはキャプションがない。これは中央部が四つ葉のクローバー状という不審があるが(通常はやや突出した一つのピークを呈する)、

刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目盤泳亜目ギンカクラゲ(銀貨海月)科ギンカクラゲ属ギンカクラゲ Porpita porpita

の盤部(気泡体)の白い個体を描いたものと見做してよい。ウィキの「ギンカクラゲによれば、『暖海性、外洋性で黒潮海域に生息する。その平らな円盤状の気泡体の中心部は白色から銀色で、銀貨というより』、『牛乳瓶のフタや大根の輪切りに形容される場合もある。盤部は最大で』四センチメートル『程、その周囲には刺胞を持った』太鼓のバチ状をした『感触体、下には』一『つの大栄養体、感触体との間には多数の小栄養体がぶら下がる。感触体や盤部の端は藍青色をしている。それぞれの感触体には数十本の有頭触手がある。円盤の表面にはところどころに小さな円錐形の突起があり、円盤の内部には多数の隔壁を持った気嚢を持つ。円盤の部分は堅いキチン質でできており、骨格が浜辺などに打ち上げられる事がある。刺胞の毒性は弱いが』、『人によってはアレルギー反応が出るので油断できない』。『クラゲの様に見える群体はポリプで、かつては円盤状の管クラゲと考えられていたが、現在ではこの動物は浮遊のための浮きを備えたヒドロ虫と考えられている。その証拠として、別に本当のクラゲ型のクラゲが形成されることがあげられる。有性生殖のためには栄養体から小さなクラゲ芽を形成し、小さなクラゲを一度に放出する。クラゲ』は四『つの放射管を持つが』、『触手はもたない』とある。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 (無名クラゲ)

 

Nanasi1

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。本図にはキャプションがない。本図のクラゲは、四本の口腕をもち,傘の縁は多くの縁弁に分かれているという特徴から、

刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目 Semaeostomeae

の幼体と考えてよいように思われる。同目はオキクラゲ科 Pelagiidae(三属十七種。既出のオキクラゲ・アカクラゲ等)・ユウレイクラゲ科 Cyaneidae(二属十五種。既出のユウレイクラゲ等)・ミズクラゲ科 Ulmaridae(十四属二十三種・既出のミズクラゲ等)等に分かれる。この図では私には種同定は出来ない。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ツヅミクラゲ

皷海月

 

Tudumikurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。本図の丹洲によるキャプションは上記一行のみ。図は簡易に過ぎて良く判らぬと言わざるを得ぬが、敢えて附されたそのキャプション通り、標準和名の一致する、

刺胞動物門ヒドロ虫綱剛水母目ツヅミクラゲ科ツヅミクラゲ属ツヅミクラゲ Aegina rosea

に同定しておく。ウィキの「ツヅミクラゲによれば、『冬~早春に太平洋沿岸で見られるクラゲの一種』で、傘径二~五センチメートルで、『半球を高くした形をしている。口は中央に開き円形。触手と同数の溝を有するゼラチン質は硬く分厚い。傘の上方から突出する触手は通常』四本であるが、五本や六本の個体も見られ、その場合傘にある溝も五放射相称、六放射相称となる。日本近海には五本『触手の個体が多い』とある。

 本図は触手が全く描かれていない点、中央が一番高く、その下に層を段々に重ねたように見えるが、これは或いは、傘をひっくり返して下から見たものを描いたものかも知れない。少なくとも生体は傘の頭部は透明であるのに対し、傘の下部に向かって突出するように見えるからである(その場合、中央は口器となる)。その場合、特殊な生え方をする触手は向う側になって、描かれないのは自然となるからでもある。触手が総て取れてしまった死亡個体を傘の上方から見て描いたとした場合、均質の硬く分厚いゼラチンがこんな等高線のような層を成した形に潰れるだろうか、という疑問があるからである。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 別種クラゲ

 

別種クラゲ

 

Kamikurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。本図の丹洲によるキャプションは上記一行のみであるが、下に鉛筆書き(であることから、丹洲の記載ではなく、後代の所有者が記したものと私は判断する)の筆記体で、

 

 Spirocodon saltator Haeckel

 

とある。本図は触手が異常に短いが、一見して私は、

刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目キタカミクラゲ科カミクラゲ属カミクラゲ(髮水母)Spirocodon saltator

と判じた。されば、この誰が記したか知らぬ落書き(確信犯であっても原画に記すのは禁じ手である)を心強く思ったものである。カミクラゲ属は

Spirocodon Haeckel, 1880

ではあるが(学名の属名の命名者は、かのドイツの生物学者で「個体発生は系統発生を繰り返す」で知られるエルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)である)、種としてのカミクラゲは

Spirocodon saltator (Tilesius, 1818)

である。この属名に先だって本種に名(恐らくは種小名の方)を附けた、この先行命名者は、恐らく、ドイツの医師で博物学者(特に海洋生物学に詳しかった)ヴィルヘルム・ゴットリーブ・ティルシウス・フォン・ティルノー(Wilhelm Gottlieb Tilesius von Tilenau 一七六九年~一八五七年)であると思われる。栗本丹洲は天保五年三月二十五日(一八三四年五月三日)没であり、この時、少なくとも同種の属名は Spirocodon でなかったものと思われるから、これは丹洲のメモではあり得ないのである。

 ウィキの「カミクラゲ」によれば、『青森~九州の太平洋岸の湾内に生息する日本固有種のクラゲの一種』で(但し、ネットを調べると、サイト「クラゲ屋」の「春の到来を告げる神様!? カミクラゲの特徴と魅力について」には、二〇一五年平凡社刊「日本クラゲ大図鑑」(峯水亮/久保田信/平野弥生/ドゥーグル・リンズィー共著)からとして、『元々は日本特産種であると考えられてい』『が、近年では韓国でも存在が確認されている』らしいとする記載がある)、十二月から五月に『かけて見られる』。『傘は円筒状で高さ』十センチメートル、幅六センチメートル。放射管は四本で、『多くの枝状の盲管を出す。生殖腺は螺旋状に垂れ、触手は傘縁一帯から多数生ずる。毒性は弱く、刺傷報告は殆どない』(としても個人差があるので注意が必要)。『多数の長い触手の棚引く様子が髪の毛を思わせることからこの名がついた。この触手の根元には赤い眼点があり、そこで光を感じ取ることができる。飼育下で受精卵を得て飼育しても、幼生を着底させて変態させるに至った成功例は知られておらず、野外からもポリプの世代は未発見である。その原因として、ヒドロ虫類の多くの種に見られるように、ポリプ世代が他の生物と共生生活を営んでいる可能性も指摘されている』とある。並河洋著「クラゲガイドブック」(TBSブリタニカ二〇〇〇年刊)には、触手は八群に分かれて傘の辺縁から伸びるとあり、図の傘辺縁が八つのパートに分かれているのに一致する。また、その辺縁部が赤く塗られいるのは、すこぶる正しい描写で、実はカミクラゲの触手の付け根には、多数の赤い粒状の眼点が並ぶのである。カミクラゲは、この眼点によって光の変化を感じて、それに『反応してポンポン跳るように泳ぐ様子から、跳躍を意味するラテン語名(saltat)の種小名がつけられた』とある。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 (無名のクラゲ図)

 

Mizukurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。図中にある黒い曲線は虫食いの穴で絵とは無関係である。左下に少し覗いているのは、別種のクラゲ個体の絵で本図とは無関係。本図にはキャプションがない。しかし、「栗氏千蟲譜」巻九(リンク先は私のサイト内の古い電子化注テクスト。図有り)で丹洲は本図の種とほぼ同種(或いは同一対象を同時に描いた別な一枚)と思われる別図を描いており、そこには、

   *

九州ノ海ニアリ四ツ目クラゲ又ハンドクラケ類ニシテ食料ニナラズ

   *

(「ハンドクラケ」はママ)とある。本図もそちらも、口腕が十本も描かれているのが気にはなるが、そこは目を瞑って、形状と「千蟲譜」のキャプションの異名「四ツ目クラゲ」の特徴的な四つ円紋(四つある丸い胃腔を取り囲んだ馬蹄形の生殖腺)、及び食用にならないという点から、

旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属(タイプ種)ミズクラゲ Aurelia aurita

と同定してよいと思う(ミズクラゲの口腕は四本)。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ハルクラゲ

  

春海月

 

Harukurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。図中の各所にある黒い曲線は虫食いの穴で絵とは無関係である。本図のキャプションは上記の一行のみ。本図の種は、今回は間違いなく、

刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ  Chrysaora pacifica 

である。同図は傘に二十四の条線紋を持つが、これを放射状紋(筋)として一対として数えれば、十二となり、アカクラゲの放射状紋は常に傘中央から出るとは限らず、傘の中間部から生じるものもあるので、おかしくはない(アカクラゲのそれは十六本)。というより、以前に書いた通り、海産動物に限って見ると、丹洲の絵は、実は必ずしも形態及び生態に忠実ではなく、細部や色彩に於いて正確ではない場合が、結構ある。これも美的なシンメトリーを意識して改変している可能性があるから、条数の違いは問題にならない。寧ろ、触手が四十一本(触手中間部で数えた数)から四十三本(辺縁部で数えた数)ほど描かれていること(アカクラゲの触手数は四十~五十六本)、口腕が四本描かれていること(数は正しいが、アカクラゲの生体のそれは、こんな鞭状のものではなく房状・リボン状を呈する)等から総合して、かく同定した。また、アカクラゲは関東以南では春四~五月に出現するから、「春海月」はしっくり来るネーミングである。なお、最後に調べて見たところ、磯野直秀氏の論文「日本博物学史覚え書XV」(『慶應義塾大学日吉紀要』(二〇一〇年十月発行)。PDFでダウン・ロード可能)の「衆鱗図」所収の図についての叙述部分に「春海月」があることから、本図も「衆鱗図」からの転写図と思われ、そこで磯野氏はこれをやはり、アカクラゲに同定しておられる。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ヒクラゲ

 

ヒクラゲ

 

Hikurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。図中の各所にある黒い曲線は虫食いの穴で絵とは無関係である。本図のキャプションは上記の一行のみ。本図は実物画ではなく、讃岐高松藩第五代藩主で博物学でもあった松平頼恭(よりたか 正徳元(一七一一)年~明和八(一七七一)年)が画家三木文柳に描かせた魚譜「衆鱗図」を、忠実に転写したものである(国立国会図書館描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌に載る本図の解説を参照されたい)。「ヒクラゲ」を現行和名に持つ種は、

刺胞動物門箱虫綱アンドンクラゲ目イルカンジクラゲ科ヒクラゲ属ヒクラゲ Morbakka virulent

であり、形状・色彩、及び、原図が描かれた地域も本種にきわめてよく合致するので、ヒクラゲと同定してよいウィキの「ヒクラゲによれば、『主に瀬戸内海で秋から冬にかけて見られる立方クラゲ』で、『箱型の傘と、傘の四隅から』一『本ずつ伸びる淡い桃色をした』四『本の触手を持つ。立方クラゲ類の中では大型種であり、成熟すると傘高は大きなもので』十五~二十三センチメートル、触手は最長で一メートル『以上になる』。『立方クラゲ類は、その多くが』、『ポリプ世代から直接クラゲ世代に変態するという特徴を持つが、本種はタコクラゲ』(鉢虫綱根口クラゲ目タコクラゲ亜目タコクラゲ科タコクラゲ属タコクラゲ Mastigias papua)『やサカサクラゲ』(タコクラゲ亜目サカサクラゲ科 Cassiopeidae)『などの鉢クラゲ類』(鉢虫綱 Scyphozoa)『と同様に、ポリプがまずストロビラ』(strobila:刺胞動物門鉢虫綱に属するクラゲの、皿を何枚も重ねたような形態を成す一幼生期の呼称。受精卵から浮遊幼生のプラヌラ(planula:楕円形の体で、体表に生えた繊毛で遊泳する)が生じ,次いでこれが海底におりてイソギンチャクのようなポリプ(polyp)となり、それにさらに縊(くび)れが生じてストロビラとなる。その皿状のそれぞれが遊離して花びらのようなエフィラ(ephyra)と称する稚クラゲとなる)『化し、そこからクラゲ世代へと変態する』。『強い刺胞毒を持ち、刺されると激痛を感じる。その後はヒリヒリとした痛みが数時間から数日間にかけて続き、患部はミミズ腫れのようになる。この症状が火傷に似ていることからヒ(火)クラゲという名がついたとされている』。『刺された人の体質にもよるが、大事に至ることは殆どない』。『刺された場合は速やかに陸に上がり、海水をかけて刺胞を洗い流し』、『様子を見る』とある。]

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ウドンクラゲ

 

ウドン海月

 

Udonkurage

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。図中の各所にある黒い曲線は虫食いの穴で絵とは無関係である。本図のキャプションは上記の一行のみ。「ウドンクラゲ」に相当する異名を持つクラゲは現行では見当たらない。本図は、前の「シヤグマクラゲ」が完璧に白く脱色した個体だろうとしか言いようがないほど、色を除いて、傘の辺縁・触手・口器附近の形状が酷似する。しかも、本図は実物画ではなく、讃岐高松藩第五代藩主で博物学でもあった松平頼恭(よりたか 正徳元(一七一一)年~明和八(一七七一)年)が画家三木文柳に描かせた魚譜「衆鱗図」(明和四年から、それ以後(頼恭の没後)の完成と推定される)を丹洲が転写したものであり、その原画の種は、荒俣宏氏が「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)で、

刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ユウレイクラゲ科ユウレイクラゲ Cyanea nozakii

に同定されておられた(同書の七十四~七十五頁には見開きで当該原画が載る)。ネット上で Cyanea nozakii の画像を精査したところ、本図のそれは、確かにユウレイクラゲに頗る一致する。ユウレイクラゲは、傘は殆んど扁平を成し、直径は十五~三十センチメートルだが、時に 五十センチメートルもの大型個体も見られる。全体は無色或いは白色であるが、褐色の斑点が散在し、個体によっては傘の下部と口器周辺が有意に紅色を呈する個体もあるようだ。傘縁には十六個の弁と八個の感覚器があり、全縁に亙って多くの触手が出ている。四個の口腕は複雑な襞状を呈し、幅が広く、中央に口が開く。放射管は網目状になる。本州中部以南に分布し、夏に瀬戸内海に多産する。瀬戸内海各地では「ハゲトベ」とか「マエデ」などと呼称し、カワハギの釣餌に用いる、と「ブリタニカ国際大百科事典」にあった。これらのユウレイクラゲの形態は「衆鱗図」の原画のそれとやはりかなりの合致を見出せることから、やはりこれは、

刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ  Chrysaora pacifica 

と同定すべきものである。なお、「彩色 江戸博物学集成」の原画を見ると、そちらは驚くべきことに、擬似立体で、傘本体は勿論、本体外にある触手の一本一本が丁寧に切り抜かれてあって、その全体が台紙に張り付けられてあるのである。荒俣氏はキャプションで、『台紙から浮いた部分が影を落と』すという、『他に類例を見ない大胆な手法を駆使した名作である』と激賞されておられる。また、本文(同書「松平頼恭」の本文)によれば、松平家の他の図譜に描かれた魚類は、総てがレリーフ(浮き彫り)『になっており、手で触れれば鱗や地肌の感触が』現物どおりに味わえるようになっており、このような『図譜など、西洋には実例がない』と述べておられるのである。これは海産生物を描き続けてきた丹洲も流石に吃驚したであろうし、彼の自負心から考えても、甚だ悔しくも思ったに違いない。さればこそ、彼はそのフィギアのような描法に対抗して、あろうことか、同図を真っ赤色に塗り替えた、真っ赤な嘘のをデッチアゲたのだ、とも言えるかも知れぬ。]

2018/04/10

栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 シヤグマクラゲ

 

シヤグマクラゲ 大毒アリ

 

Syagumakurage

 

[やぶちゃん注:「蛸水月烏賊類図巻」(表記は本巻子本の題簽に従った。正字では「蛸水月烏賊類圖卷」で「たこ・くらげ・いかるい、ずかん」と読む。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を用いた。掲げた図も同じで、上下左右をトリミングしてある。図中の各所にある黒い曲線は虫食いの穴で絵とは無関係である。本図のキャプションは上記の一行のみ。「シヤグマクラゲ」の「シヤグマ」は「赤熊」(しゃぐま)である。或いは「赭熊」とも書き、赤く染めたヤク(哺乳綱ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク Bos grunniens)の尾の毛。また、それに似た赤い髪の毛。仏具の払子(ほっす)・鬘(かつら)、兜(かぶと)・舞台衣装・獅子舞の面の飾りなどに用いる、例の奴である。

 さて、私としては、当初、

刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ  Chrysaora pacifica 

に同定したいと思った。しかし、中央の口器が八重桜のように描かれていて口腕が全く見えない(但し、アカクラゲに限らず、クラゲの口腕は容易に脱落する)こと、傘辺縁に切れ込みが入っていること、同所の触手の生えている箇所が倍近くあること(通常のアカクラゲは八分画で各一ヶ所)、触手数が異様に多い(各八分画で一ヶ所につき五~七本、計四十~五十六本)こと、逆に触手の長さがちょっと短いこと(通常ならアカクラゲでは長さは二メートルにも及ぶ)等、不審は多い。が、水母の図としては珍しい煽りの絵であること(丹洲は実際に水中に浮遊する本個体を見て描いたとは考えられないから、これは目の前の陸に上がってベロンと横たわったそれを想像で泳がせて、イメージとして描いたに相違ないから、推測部分が勢い多くなる)、推定される傘の区分帯数は十五が数えられてアカクラゲの十六に近いこと、本図の触手は多いものの、概ね一ヶ所から既定数の五~六本のそれが描かれていること(陸に揚げられて、触手が絡みついており、死後、乾燥しても刺胞毒が有効で危険であることを知っているから、殊更に触手を捌いて一区画からの生えている本数などを確認はするはずもない)、キャプションで刺胞毒が強烈であるとすること等から、アカクラゲと見たくはなるのである。

 また、丹洲好きの私としてはあまり言いたくないのであるが、海産動物に限って見ると、丹洲の絵は、実は必ずしも形態及び生態に忠実ではなく、細部や色彩に於いて正確ではない場合が、結構あるからでもある。

 しかし、実は私は本軸装「蛸水月烏賊類図巻」の後の方に出る、アカクラゲらしく見える別な図を、既に二〇一三年七月二日の本ブログ記事、『海産生物古記録集8 「蛸水月烏賊類図巻」に表われたるアカクラゲの記載』で電子化しており、その際、丹洲の「千蟲譜」に載るクラゲの図の真っ赤な個体を参考図として掲げた。それは、寧ろ、この上に上げた個体と、色だけでなく、傘辺縁の形状などが酷似しているとは言える。しかし、多量の触手はなく、四本の口腕と十二の触手を持ち、傘に放射肋が全くないことから、その図のクラゲは、見るからにアカクラゲではなく、旗口クラゲ目オキクラゲ科オキクラゲ Pelagia panopyra に近い。但し、オキクラゲならば触手は八本(口腕の四本はよい)である。されば私は「千蟲譜」のそれを「オキクラゲ」に同定比定してしまっているのである。ところが、悩ましいことに、その「千蟲譜」版の赤いクラゲのキャプションには、『赤クラゲ 又「シヤグマクラゲ」ト云』と書いてあるのである

 ところが、次の図「ウドン海月」とキャプションする図は、見るからに本図の個体から赤色を抜いた同一個体のように見られる。しかもそれは実物画ではなく、讃岐高松藩第五代藩主で博物学でもあった松平頼恭(よりたか 正徳元(一七一一)年~明和八(一七七一)年)が画家三木文柳に描かせた魚譜「衆鱗図」を丹洲が転写したものであり、やはり、原画も珍しい煽りの図なのである。その原画の種は、荒俣宏氏が「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)で、

刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ユウレイクラゲ科ユウレイクラゲ Cyanea nozakii

に同定されておられた。そこで今回、ネット上で Cyanea nozakii の画像を精査したところ、本図のそれは、確かに形状的はユウレイクラゲに頗る合致することが判った。一般にユウレイクラゲは褐色の斑点が散在するものの、このように全体が鮮やかに赤い個体は珍しいが、それでも傘の下部が有意に赤い個体画像が見られたことから、最終的に、本種はユウレイクラゲである可能性が極めて高いと判断した。]

進化論講話 丘淺次郎 第十三章 古生物學上の事實(6) 五 他の動物進化の實例

 

     五 他の動物進化の實例

 

 高等の動物では斯く完全に進化の往路の知れて居るのは、今の所では殆ど馬ばかりであるが、稍々下等な動物には、進化の有樣が望めるだけ完全に解つた例が幾つかある。特に淡水の池に住む貝類などは、代々の介殼が同じ池の底に泥と共に溜るから、底の土を上から掘つて行きさへすれば、今生きて居る子孫から順を追うて、その始の先祖までの遺體を悉く採集して調査することが出來る理屈故、生物進化の實際を見るには、最も都合の宜しい種類である。而して今日生物進化の事蹟の最も完全に知れて居る例といふのは、多くはやはりこの類に屬する。

 

Hiramakigai

[平卷貝の進化]

[やぶちゃん注:以下三図、孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用した。]

 

 

 ドイツヴュルテンベルヒスタインハイムといふ村に可なり大きな湖水の跡がある。水は餘程前に涸れて、今ではたゞの畑になつて居るが、そこの土中には、種々の介殼が澤山にあり、特に平卷貝といふて、日本でも、天水桶や溝などの中に居る平に卷いた黑い小な貝と同屬の貝が夥しくある。こゝから出る貝類ばかりを特に調べた學者が二三人もあるが、深く掘るに隨うて、貝の形が漸々に變じて行き、終には全く種の異なつたものかと思ふほどに甚だしく違ふやうになる有樣は、この人等の研究によつて明瞭となつた。こゝに掲げたのは斯く順を追うて變化して行く中から、若干の段を選んで取り出した標本の寫生圖であるが、之を見れば、文句で長い記述を讀むよりも、遙に明瞭に解るであらう。初め恰も日本産の如き扁平な形から、漸々卷き方が平でなくなつて、終には殆ど田螺の如き形となり、更に尚鋭く尖つた介殼を有するに至つたのであるが、之は單に進化の中心系統の一部分だけで、尚この外には多少途中より橫へ分かれて進化した側系ともいふべきものがあるから、異なつたと思はれる形狀を總べて勘定して見ると、實に夥しい。それ故、之を丁寧に調べず、たゞ飛び飛びに若干の介殼だけを拾つて見ると、餘程澤山な種類がある如くに感ずる。實際斯く完全に研究せられる前には、之を十四種にも區別してあつたが、眞に無理もないことである。今では之を改め、總體を合して一種と見倣し、「多くの形を有する平卷貝」といふ意味の學名が附けてある。

[やぶちゃん注:「ドイツヴュルテンベルヒスタインハイム」現在のドイツ連邦共和国の十六の連邦州の一つであるバーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)のハイデンハイム(Heidenheim)郡シュタインハイム・アム・アルブッヒ(Steinheim am Albuch)。ここ(グーグル・マップ・データ)。直径二十四キロメートルの盆地、中新世中期、約千五百万年前に直径百五十メートルほどの大きさの隕石の衝突で出来たとされる「シュタインハイム・ベッケン」(Steinheimer Becken(「ベッケン」はドイツ語で盆地。英語では「シュタインハイム・クレーター」(Steinheim crater)とも呼ばれる)で知られる。ウィキの「シュタインハイム・クレーターによれば、『クレーターが湖となっていた時代に形成された湖沼性堆積物中には』、『中新世の種々の化石に富み、シュタインハイム盆地は』、『この時代の化石研究において最も重要な場所の一つに数えられている。すなわち』、『脊椎動物(魚類、爬虫類、鳥類、哺乳類)の化石が多数発見されているほかに、素晴らしく豊富で状態の良い淡水性貝類の化石が見られることで有名で、いわゆる Steinheimer Schneckensand』(シュタインハイム貝砂層)『と呼ばれているのがそれである』一八六二年、古生物学者フランツ・ヒルゲンドルフ(Franz Martin Hilgendorf 一八三九年~一九〇四年)は、『ここの堆積物中のヒラマキガイ科のヒラマキガイ属 Gyraulus 』(後注参照)『の殻を調査し、殻の形が古い堆積層のものから新しい堆積層のものへとゆっくり変化していることを述べた。このヒラマキガイの殻の漸次変化に関する研究は』一八五九年に『チャールズ・ダーウィンが出版した『種の起源』における進化論を最初に追認したものであった』とある。

「平卷貝」ここでは、腹足綱異鰓亜綱有肺下綱水棲目ヒラマキガイ上科ヒラマキガイ科ヒラマキガイ亜科ヒラマキガイ族Planorbiniヒラマキガイ属 Gyraulus の種。ヨーロッパ産で多く見られ、ドイツにも分布する現生種ではGyraulus albus がいる(本邦産のハブタエヒラマキガイ Gyraulus illibatus の近縁種。但し、ここで丘先生が挙げた種がそれだというわけではない)。ウィキの「