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2017/11/20

老媼茶話巻之五 玉川典禮

 

    玉川典禮

 

 いつのころにや有(あり)けん、奧州の御城主にめしつかはれける玉川典禮といふ兒小性(ちごこしやう)有、三百石を領せり。姿は花のごとく、心は沈勇強盛(ちんゆうごうせい)也。典禮十四の年、らうぜきものありて、人を切殺(きりころ)し、血刀をふり𢌞し、典禮が屋敷へかけ入(いり)ける。典禮、立(たち)むかい、件(くだん)の狼籍ものとわたし合(あひ)、切(きり)むすびけるが、何のぞうさもなく、一太刀に切ふせける。その勇、丈夫におとらず、一家中おしなべて、譽(ほめ)ざるは、なし。

 或はるの頃、殿樣、御とめ野の鷹場、園山の鷺沼といふ所へ御ゆるしを蒙り、放鷹(はうよう)に出(いで)ける。此折節、岡村の百姓共、多く、追鳥(おひとり)の人夫にかられ出ける内、傳助といふ者、何心なく出(いで)て、鷺沼の水鳥を追立(おひたて)けるが、典禮が容色を見て深く愛着(あいぢやく)し、歸り、愁(うれへ)て、病の床に伏しつみ、存命不定(ふぢやう)になやみける。爰(ここ)に傳介無二の友に作内(さくない)といふもの、傳助にすゝめ、作内伯母典禮が老母につかえける、此便(たより)を以て傳助典禮が方へ髮結奉公に出ける。望(のぞみ)有(ある)身なりしかば、隨分と奉公を相勤(あひつとめ)ける。

 岩つゝじいわねども傳助が深き志、典禮が心にや通しけん、或秋の夕暮、そば使(づかひ)の小坊主を以(もつて)、ひそかに傳助をめしよせ、典禮、申樣(まうすやう)、

「なんじ、傍輩多きうち、隨分、奉公相勤(あひつとむ)る心ざし、我、よく是を知る故、今宵の夜寒をいたはり、盃をさすなり。必(かならず)、人にもらす事、なかれ。」

とて、典禮、大盃に酒をもり、口を添(そへ)、傳助にあたへける。

 傳介、おしいたゞき、是をのみ、同じ床に枕をならべける情(なさけ)より、猶、ふかく有難く、多生劫々(タシヤウガウヽヽ)ふるとても忘れ難くぞ覺へける。

 その明る春、大守、江戸御登りましましける。典禮も御供して、晝夜、御そばをはなれずして、宮仕(みやづかへ)致しける。

 ある夜、御夜詰(およづめ)も過(すぎ)、朋輩の山本淸之助、

「此頃、求(もとめ)たりし。」

とて、祐乘(ユウジヤウ)がほりし橋辨慶の小づかを、典禮にみせける。

 典禮、取(とり)て見、

「扨々、珎敷(めづらしき)もの求(もとめ)玉へり。隨分、祕藏し玉へ。」

とて、ことの外、ほめて、淸之助に返しける。

 夜明(よあけ)て見るに、その夜、此小柄、うせける。

 外に相番(あひばん)もなし、典禮、氣の毒に思ひ、樣々尋ねけれども見へず。

 此事、誰いふともなく、典禮、盜隱(ぬすみかく)したる樣(やう)にさた有りけるまゝ、止事(やむこと)を不得(えず)、此事、御詮義を乞(こひ)けるまゝ、典禮、つとめを引(ひき)、ひき籠り居ける。傳助、心(コヽロ)におもふ樣、

「我(わが)主人かゝる賤劣(せんれつ)の志なしといへども、此席、外人(ほかひと)の入(いる)處にあらず。若(もし)盜(ぬすみ)もし玉はゞ、玉川代々武功先祖の名家、糞土にけがし玉へり。我(わが)主君の爲に盜人となのり出(いで)、御仕置に逢ひ、此度の御難、すくひ奉るべし。」

と思ひ定め、月番の橫目(よこめ)魚住三太夫かたへ行(ゆき)、取次を以て申述(まうしのべ)けるは、

「私(わたくし)義は玉川典禮召仕(めしつかひ)の下部傳助と申(まうす)者にて御座候。此度、山本淸之助さま御小づか、うせ申候は、某(それがし)、盜取(ぬすみとり)申候。此義に付、主人典禮、難義仕(つかまつり)候段、みるに忍び難く、天罰のがれまじきをかくご仕(つかまつり)、罷出(まかりいで)申候。何分にも御取計被下度(おんとりはからひくだされたき)。」

由、申ける間、三太夫、傳助にたいめんし、委(くはし)く譯を聞屆(ききとど)け、三太夫、申けるは、

「其方、小づか盜取ける段、不屆至極也といへども、前非(ぜんぴ)を改(あらため)、みづから罪にふくし、命を捨(すて)、明白に申出(まうしいで)、主人の難をすくひ申事、下々にはきとく也。」

とほめ、若黨をよび、

「此もの、汝が部屋へつれ行(ゆき)、おしこめおくべし。しかし、いましむるには不及(よばず)。」

といふ付け、右の趣、典禮がかたへ申遣(まうしつかは)し、三太夫は、則(すなはち)、家老のかたへ行(ゆき)、委(くはし)く物語いたしける。

 公事(くじ)奉行園田源左衞門、足輕を差遣はし、傳助をいましめ、獄屋へこめ置(おき)、糺明せしむるに、傳助、申樣、

「小づか盜取候わけは、私(わたくし)、ばくゑきを打(うち)、衣類脇差迄、打被取(うちとられ)、赤はだかに罷成(まかりなり)、奉公、相務可申樣無御座(あひつとめまうすべきやうござなく)、惡道無道の所行とは存(ぞんじ)ながら、其曉、主人典禮、髮を撫付(なでつけ)候節、ひそかに盜取、使(つかひ)に出(いで)候道にて、小間物賣に、うり拂(はらひ)申候間(あひだ)、其ものゝ名をも不承(うけたまはらず)、まして居所をも存不申(ぞんじまうさず)候。盜人と名乘出申上(なのりいでまうすうへ)、御誅伐は、かくごのまへに御座候。一言僞り可申樣無御座(まうすべきやうござなき)。」

由、申ける間、傳助、盜人にきわまり、典禮は虛名の雲はれて、其日より出仕を致し、傳助は御國もとへ下され、萬松寺河原の松原にて御成敗に行はれ、其砌(みぎり)、岡村の作内、今日、傳介御仕置に逢(あひ)けるよし聞(きこ)へければ、不便(ふびん)の事におもひ、

「せめて死骸成共(なりとも)取納(とりをさ)めん。」

と、新敷(あたらしき)棺(くわん)をにない、此所(ここ)へ來り、けいごの役人の前に畏(かしこま)り、拜伏して申樣、

「私(わたくし)は傳助とのがれざる岡村の作内と申(まうす)者にて候。今日、傳助、斬罪蒙り候よし承り、是迄、參り申候。哀(あはれ)、御慈悲を以て、今一度、今生(こんじやう)の對面、御ゆるし被遊被下候得(あそばされくだされさふらえ)。」

とて、兩眼に淚を流し、申ける。

 役人是を聞(きき)、

「少(すこし)の間、あわせん。」

とて、けいごのかこみを、くつろげける。

 傳助は切場の草むらに引(ひき)すへられ、刑札の元に死を待(まち)、少(すこし)もおくせる氣色もなく、四方を見𢌞し居たりしが、作内を見て、嬉しげに申樣、

「其方、必(かならず)、最後の對面に來るべきと心におもひ居たりしに、見物の中にもみへざれば、いかゞと、あんじ居たる也。我、盜(ぬすみ)せし初(はじめ)より、霜刑梟首(ソウケイキヤウシユ)、かくごなれば、少しも悔(くゆ)る心なし。乍去(さりながら)、我(わが)妄念(まうねん)と成(なる)べきは、其方も知る通(とほり)、七拾に餘る老母有(あり)、したしき親類もなけれが、我死後、飢渇(キカツ)に及び玉ふべし。是のみ、心かゞりなり。其方(そのはう)、偏(ひとへ)に賴むなり。きかつの苦しみなき樣に、やしなひくれよ。」

といふ。

 作内、聞て、打うなづき、

「昔より忠孝全くする事、あたはず、其方、小づかを盜みしも無據(よんどころなき)分(ぶん)有(あり)てこそ盜(ぬすみ)つらん。老母の事、心得たり。草の陰にても見よ。我かたへ引取(ひきとり)、實母のごとく養(やしなふ)べし。此事、心にかくべからず。最後、きよく、たしなむべし。」

と、不覺の淚にむせびけり。

 けいごの役人、

「時、則(すなはち)、移りたり。」

と作内を押出(おしいだ)し、傳助を西向(にしむき)におしなをし、切手(きりて)の後ろへ𢌞りければ、傳助、念佛高らかに申(まうし)、首、さしのべ、心よく切られける。作内、淚ながら、傳助が死骸(シカバネ)、取集(トリアツメ)、棺(クワン)に入(いれ)、岡村へ立歸(たちかへ)り、傳助が菩提所來迎山淨蓮寺といふ後ろの山、松陰に葬り、傳助老母をも手前ヘ引取、隨分、いたわり、養ひけり。

 扨、山本淸之助小づかが失(うせ)ける事は、同御家に召(めし)つかわれける吉川喜齋(きつかはきさい)と云(いふ)茶坊主有(あり)、此もの、玉川典禮にふかく心を懸(かけ)、文を送り、直(ぢき)にも樣々歎きけれども、典禮、かつて承引せず、喜齋、此事をふかくいきどをり、

「何とそして典禮に仇(あだ)をなさん。」

と心がけける間、その夜、ひそかに小柄を盜み取、典禮、盜たる樣に、世間へふれて、盜賊の惡名ををゝせ、

「日頃の意趣はらしせん。」

と、たくみける。

 典禮が家來傳助、己(おのれ)、盜人となり、名のり出(いで)、御仕置に逢ひける故、喜齋がたくみ、いたづら事となりて、本意(ほい)なき事におもひけるが、天命、のがるゝ事あたはず、盜みし小づかを江戸の片陰に小間物賣にうりけるを、典禮が若黨、此小づかを見出し、典禮に、

「かく。」

と、かたる。

 典禮、其小柄買取(かひとり)し小間物賣を召(めし)よせ、右の趣、上訴へ出ける間、御詮義の上にて、吉川喜齋、召とられ、拷問に懸り、兼々(かねがね)の惡事、委(くはし)く白狀の上、勸善懲惡(クハンゼンテフアク)の御掟(おんおきて)、御國もとへ御下(おくだ)し有(あり)て、去年(こぞ)、傳助、死刑に行なはれし同じ場所、萬松寺河原にて磔(はりつけ)にかけられける。見物、喜齋が橫惡(わうあく)をにくまぬものは、なし。

 典禮は喜齋が罪科(とが)に逢(あひ)ける後、つくづくと傳助が事をおもふに、

「己(おのれ)おかせる罪なくして、盜人と名乘出(なのりいで)、誅伐に逢(あひ)ける事、過(すぎ)にし夜(よ)の雨の暮、盃(さかづき)をあたへける其情(なさけ)をかんじ、我に盜賊の惡名を蒙らせじと、我(われ)罪人と訴出(うつたへいで)、其身命(しんみやう)を捨(すて)けるなるべし。」

と、深く哀(あはれ)み、思ひける。

 殿の御歸國の御供して國元へ歸(かへり)し後(のち)、供人少々召(めし)つれ忍びて岡村に至り、淨蓮寺をたづね、寺僧に逢(あひ)て、傳助がなき跡を尋(たづね)ければ、寺僧、あやしみて、

「傳助は下賤のもの。重罪を蒙り、刑伐に逢(あひ)しものにて候得ば、誰(たれ)とむろうものもなく、折々、墓詣(まうで)て仕るは、同村の作内と申もの斗(ばかり)に候。見奉るに、容顏美麗の御少年、御歷々の御方樣(おかたさま)。何故に傳助がなき跡、御尋(おたづね)候や。いぶかしくこそ候得。」

といふ。

 典禮、つゝまず、傳助がむかしの忠儀、身の恩を報じける事ども、委(くはし)く語り聞(きか)せければ、寺僧も是を聞(きき)、墨染の袖をしぼりける。

 典禮、僧をともなひ、傳助がつかへまうで見る。

 山陰の松の本(もと)に、土、少しうず高き所、有(あり)て、草茫々と、露深々たる、ふるつかに、印(しるし)の石もなく、かすかなるそとば、有り。それさへ、風に倒れて、木の葉に埋(うも)れ有(あり)ければ、典禮、なみだを流し、香花(かうげ)を備へ、寺僧とともに法花經を讀誦して、跡、念頃(ねんごろ)にとむらい、淨蓮寺へ金拾兩、布施とし、其後(そののち)、作内を呼出(よびいだ)し、傳助が老母、養ひ、其身、貧乏なりといへども、其人の友たる志(こころざし)をかんじ、金五拾兩、あたへ、傳助老母、一生、作内方(かた)へ、年々米拾俵・金拾兩宛(ずつ)遣はし、養(やしなひ)ける、といへり。

 誠に傳助、賤敷(いやしき)土民なれども、一言盃情(イチゴンハイジヤウ)の恩を得て、身を捨(すて)、命をおしまざる事、ごふもうのごとし。たぐひすくなき事どもなり。

[やぶちゃん注:これも前話と同じ流れを受けた男色の捨身譚で怪談ではない。やはり、心打たれる話柄である。

「玉川典禮」不詳。

「沈勇強盛(ちんゆうごうせい)」一般には「ちんゆうきようせい」。落ち着いていて勇気があり、勢いが強くて盛んなことを言う。

「らうぜきもの」「狼藉者」。

「わたし合(あひ)」渡り合い。

「何のぞうさもなく」「何の造作も無く」。何の手間や面倒もなく、速やかに。

「御とめ野の鷹場、園山の鷺沼といふ所」「御とめ野」は「御留野」で「御留場」に同じく、一般の狩猟を禁止した場所。基本、江戸幕府将軍や藩主のみが立ち入ることの出来る狩場・鷹狩場のこと。直後の「岡村」と合わせて「園山の鷺沼」数少ないの地名らしきもので本話のロケーションの同定ポイントとなるのであるが、残念ながら、不詳である。識者の御教授を乞う。

「追鳥(おひとり)」鷹狩をするために、周辺から狩場の狩りの実行位置へと鳥を追い込むこと。

「伏しつみ」「臥し詰み」で、愁いのために起き上がれなくなり、そうした心身症状が重くなって動けなくなってしまい、の謂いであろう。

「望(のぞみ)有(ある)」典礼に、内心、深く懸想していることを言う。

「岩つゝじいわねども」「古今和歌集」の「巻第十一 恋歌一」「読み人しらず」で載る一首(四九五番歌)、

 

 思ひ出づる常磐(ときは)の山の岩躑躅(いはつつじ)言はねばこそあれ戀しきものを

 

を踏まえる。……思い出す時、その「時」という名を持つ常磐の山の岩躑躅、言(い)わないではおりますけれど、心の内では常に恋しがっておりますのに――といった意味。

「多生劫々(タシヤウガウヽヽ)」仏語。通常は「多生曠劫」と書き、「たしょうこうごう(現代仮名遣)」と読む「曠劫」は「非常に長い年月」の意で、「何度も生まれ変わり死に変わりする、流転極まりない長い時間のこと。久遠・永遠の意。

「御夜詰(およづめ)」時間交代制の宿直(とのい)であろう。

「山本淸之助」不詳。

「祐乘(ユウジヤウ)」室町時代の金工家で装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖後藤祐乗(永享一二(一四四〇)年~永正九(一五一二)年)。ウィキの「後藤祐乗」によれば、『藤原利仁の後裔ともされる後藤基綱の子』で、『美濃国の出身。後藤家の所伝によると、初め将軍・足利義政側近の軍士として仕えていたが』、十八『歳の時に同僚からの讒言を受けたために入獄し、獄士に請うて小刀と桃の木を得て神輿船』十四艘と猿六十三匹を『刻んで見せたところ、その出来栄えに感嘆した義政によって赦免され、装剣金工を業とするように命じられたと伝えられる。また、足利家から近江国坂本に領地』三百『町を与えられた他、後花園天皇から従五位下・右衛門尉に叙任されたという』。『現存する祐乗の作品には自署在銘のものはなく、無銘または後代の極め銘のものばかりであるが、小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、良質な金・赤銅の地金に龍・獅子などの文様を絵師・狩野元信の下絵によって魚々子地に高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後』、十七『代にわたる大判座および分銅座の後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた。代々乗を通字として用いた』とある。

「小づか」「小柄」。小学館「日本大百科全書」より引く。『日本刀の鞘(さや)に付属する長さ』十五センチメートルほど(柄は凡そ九センチメートル)の『細身の小刀(こがたな)。初めは小刀の柄を小柄と称したが、柄が実用以上に装飾性をもち、小刀が刀としての役割より、刀装具として用いられるようになると小柄の呼称が一般的とな』った。『小柄の発生は、短刀の寸法が大きくなった鎌倉末期ころからと推定されるが、明確にされていない』。『初めは腰刀に付属したものであるが、室町最末期』頃『から打刀(うちがたな)にも付属するようになり、江戸時代に大小拵(こしらえ)の武家風俗が定まると、正式(登城の際)の大小拵には打刀に小柄と笄(こうがい)』(刀の鞘の差表(さしおもて:鍔の直下側面)に挿しておく篦(へら)状のもので、髪をなでつけるのに用いた)・『脇差(わきざし)には小柄のみをつける決まりとなった。元来の目的は日常のペーパー』・『ナイフ的なものであり、武器としての役割はもたないものである。さらに金銀を用いた精緻』『な金工作品に発展していくと、小柄の装飾性は一段と強まり、この種の金工の名人上手が多く輩出した』とある。

「橋辨慶」謡曲のそれ(弁慶が京の五条橋で牛若丸と戦って降参し、主従の契りを結ぶ)に材を採った絵飾りを彫ったものであろう。

「武功先祖の名家」底本編者は「家」を衍字と採っているが、別段、不審ではない。

「橫目(よこめ)」藩の目付(めつけ)。藩士の監察などを担当した。

「魚住三太夫」不詳。

「きとく」「奇特」。行いが感心・健気・殊勝なさま。「きどく」とも読むが、私は「きどく」と読む場合は「神仏の不思議な効験(こうげん)・霊験」の意の場合に限っている。

「おしこめおく」「押し込め込め置く」。

「いましむる」繩で縛ったりして厳しく監禁する。

「公事(くじ)奉行」藩内の訴訟及びその審理・裁判を担当した役職。

「園田源左衞門」不詳。

「ばくゑき」「博奕」。賭博。

「かくごのまへ」「覺悟の前」。覚悟の上。

「萬松寺河原」不詳。同名の寺は愛知などにあるが、どうも私にはピンと来ない。注意深く隠されているようだが、どうもこれも今まで通り、会津地方を仮想想定しているように思われてならぬからである。

「けいごの役人」「警固の役人」。

「のがれざる」「者」切っても切れぬ古き知り合いの者。

「霜刑(ソウケイ)」死刑。秋の冷たい霜に譬えて刑罰の厳しさを言う語。

「心にかくべからず」「心に懸くべからず」。心残りとするようなことは全くない。

「最後、きよく、たしなむべし」「最期、淸く、嗜むべし」。「最期の時を、きちんと心静かに迎えるがよいぞ。」。

「來迎山淨蓮寺」不詳。。あっておかしくない山号と寺名だが、寧ろ、ぴったり嵌り過ぎた名で、逆に架空である感じがプンプンするとも言える。

「吉川喜齋(きつかはきさい)」不詳。読みは私が勝手に添えた。別に「よしかは」でも構わぬ。

「をゝせ」「負はせ」。

「意趣はらし」「意趣晴し」で一語と採った。

「たくみける」「企みける」。謀った。

「いたづら事となりて」「戲事と成りて」。(目論見が外れて)無益な事となってしまい。

「兼々(かねがね)の」先般からの。ここは単に小柄を盗んだだけではなく、その企図した謀略総てと、その後の意外な展開の間も知らぬふりをしていたことまでをひっくるめて指すので、かく、言ったものであろう。

「御掟(おんおきて)」「ごぢやう」と読んでも構わぬ。

「橫惡(わうあく)」とんでもない悪事・悪意。「橫」は「普通でない・正しくない・道理に合わない・不正」の意。

「罪科(とが)」私のリズムの趣味で、二字でかく訓じておいた。

「とむろうもの」「弔(とむら)ふ者」。

「傳助がつかへまうで見る」「傳助が塚へ詣で見る」。

「ふるつか」「古塚」。

「かすかなるそとば」「微かなる卒塔婆」。「かすかなる」はみすぼらしいただの木片のような、といった意味であろう。

「ごふもう」「強猛」。精神が強く猛々しいこと。

「たぐひすくなき」「類ひ少なき」。]

柴田宵曲 俳諧博物誌 (4) 鳶 三 / 鳶~了

 

       

 

 「狐は穴あり、空の鳥は塒(ねぐら)あり、然(さ)れど人の子は枕する所なし」という。地球の上に産み付けられた鳶は、大空を我物顔に飛び廻るようであっても、結局土を離れることは出来ないので、

 

 雲に鳶五重の塔や蓮(はす)の花 許六

 鳶の舞梢は暑し坂ひとつ     枳邑(きいう)

 川越の鳶と舞たり秋の水     仙化

 鳶の眼もわたらぬ松のしみづかな 成美

 晝の間は鳶の留守にや高灯籠   左江

 引上て鳶に曇るや高灯籠     龍山(りゆうざん)

 

というような句を見ると、鳶の姿は空中にあるにかかわらず、大分地上の影が濃くなって来る。高灯籠などが顔を出すに及んで、殊にその感が強い。

 

 鳶の羽も刷(カイツクロヒ)ぬはつしぐれ 去來

 うしろ風鳶の身振ひ猶寒し        玄虎

 凩(こがらし)や鳶のすがたもふところ手 蜃水

 

等の句は、いずれも何かにとまった場合であろう。去来の「鳶の羽」は、今までのどの句にもないような高い響を持っている。「かいつくろひぬ」という引締った言葉も、この場合頗る通切である。場所も背景も描かず、ただ鳶だけを点出して、一句を斯(かく)の如く力あるものにしたのは、去来の気稟(きひん)の自(おのずか)ら然(しか)らしむる所でなければならぬ。「ふところ手」というのは、翼を収めている形を、懐手をしていると見立てたので、それが冬の季節を現すことにもなるのであろうが、あまり面白い観察ではない。もし「も」の一字が「人も懐手をしている」という意味を裏面に寓しているとしたら、いよいよ面白くないわけである。

[やぶちゃん注:去来の句は底本「刷ぬ」の「刷」に「かいつくろい」とルビし、本文も「かいつくろいぬ」とするが、歴史的仮名遣を平然と無視していて、宵曲の僻事(ひがごと)ではないが、『いよいよ面白くな』く、「てにをは」を命(いのち)とする俳諧の風上にも置けぬ、鳶も呆れて糞ひって飛び去ってしまうような低レベルのトンデモ仕儀である。これは一見、柴田宵曲のやったことのように見えてしまうが、そうではない。恐らくは編者小出昌洋氏が岩波編集部の方針――文庫化する当該文章『原文』全体『が文語文であるとき』に場合に限って『旧仮名づかいのままとする』であるが(尤も、本篇は引用以外の全体は口語文であるからこの条件に当て嵌まらないことに注意!)、しかし『振り仮名』については、『読みにくい語、読み誤りやすい語には現代仮名づかいで振り仮名を付す』という融通の全く利かないトンデモ規則(二重鍵括弧が岩波文庫編集部による巻末にある編集付記の表記についての現行の編集方針内容)に従って許諾した(せざるを得なかった)仕儀と思われる。しかしこうした変更は、文学を編集する者の当然の『気稟』として、基本的に厭なもの・嫌悪すべきもの・おぞましく感じること・恥ずべき行為であると私は思っている。特に短詩文学である俳諧世界では絶対の禁足として指弾されるべきものであると断ずる。さればこそ、「猿蓑」原文によって(カタカナ・ルビは「猿蓑」のママ)句を訂し、本文のそれは、それをひらがな表記に直したもので特異的に訂した。因みに、堀切実編注の岩波文庫「蕉門名句選(下)」(一九八九年刊)の本句(無論、そこでは「刷」には『カイツクロヒ』とルビする)のこの語の注に、『「かき繕ひ」の音便形。乱れた筋目など整えなおすの意。また』、『身づくろいする意にも。本来は他動詞的用法のものであるが、ここは雨に濡れてかいつくろわれた、という意で、自動詞的に用いられている』とある。

「気稟」生まれつき持っている気質。]

 

 うろうろと何を燒野の鳶からす 母風(ぼふう)

 冬枯や物にまぎるゝ鳶の色   吏明(りめい)

 霜かれて鳶の居る野の朝曇   曉台

 

 これらは先ず地上にあるものと解せられる。

 

 しぐるゝや鳶のをりたる捨桴(すていかだ)

                智邑

 

の如く、その場合ははっきりしておらぬが、地に近づいた場合でないと、こうした感じは受取りにくい。「物にまぎるゝ鳶の色」の一語に、蕭条たる冬枯の色と鳶の羽の色とを併せて描き去ったのは、巧(たくみ)な叙法というべきであろう。

 俳人は下界の鳶を観察してその巣に及んだ。鳥の巣は春の季になっている。もし鳶そのものに季を求めるとすれば、春季の鳶の巣か、鳶の子を持出すより外に仕方があるまい。岡本綺堂氏の書いたものによると、鳶はわが巣を人に見せぬという俗説があるそうである。鳶の巣は如何なるものか知らぬが、いずれ高い木の上に巣くうのであろうから、容易に人に見つからぬものと思われる。

[やぶちゃん注:「岡本綺堂氏の書いたものによると、鳶はわが巣を人に見せぬという俗説があるそうである」先に出た岡本綺堂の随筆「鳶」(昭和一一(一九三六)年五月発行『政界往来』初出。後に単行本「思ひ出草」「綺堂むかし語り」に収録。後者が「青空文庫」で電子化されており、こちらで読める)の一節。ここでは死の二年前に出た随筆集「思ひ出草」(昭和一二(一九三七)年相模書房刊)から引く国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像を視認)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 私はこのごろ目黒に住んでゐるが、こゝらにはまだ鳶が棲んでゐて、晴れた日には大きい翼をひろげて悠々と舞つてゐる。雨のふる日でもトロトロと鳴いてゐる。私は舊友に逢つたやうな懷かしい心持で、その鳶が輪を作つて飛ぶ影をみあげてゐる。鳶はわが巢を人に見せないといふ俗説があるが、私の家のあたりへ飛んで來る鳶は近所の西鄕山に巢を作つてゐるらしい。その西郷山もおひおひに拓かれて分讓地となりつゝあるから、やがてはこゝらにも鳶の棲家を失ふことになるかも知れない。いかに保護されても、鳶は次第に大東京から追ひ遣らるゝの外はあるまい。

   *]

 

 鳶の巢と里の木のぼり霞みけり   冥々

 五月雨は鳶のうき巢を懸てけり   春澄(しゆんちよう)

 鳶の巢としれて梢に鳶の聲     北枝

 鳶の巢にひるまぬ藤や木の間より  桃鄰

 

 このうち鳶の巣を季としているのは、北枝の一句だけである。梢に鳶の声がするのを開いて、この木には鳶の巣のあることがわかる、という意味であろう。強いて理窟をいうならば、梢に鳶が鳴いているからといって、必ずしもその木に巣があるとは断定出来ないかも知れぬ。作者もそこを慮(おもんぱか)ったものか、一本には「鳶の巢としれず梢は鳶の聲」となっている。この方だと、梢に鳶の声がするけれども果して鳶の巣があるかどうかわからぬということになって、理窟は合うようなものの、いささか理が詰み過ぎる嫌がある。作者の最初の感じは「鳶の巣としれて梢に鳶の声」であったのを、だんだん考えた結果、右のように直したのではあるまいか。子規居士の歌に「森の木にくふや鳶の巢鶉の巢鶉の子鳴けば鳶の子も鳴く」とあるのは、多分この北枝の句から来たものであろう。『分類俳句』の春の部には、ちゃんと鳶の巣の一項があって、北枝及(および)桃鄰の句を収録しているからである。鳶の巣の近くに鶉の巣があって、鶉の子が鳴けば鳶の子も鳴くなどというのは、内容が複雑になっている代りに、想像の産物たるを免れぬが、「子」ということを点じただけは、慥に北枝のより一歩を進めている。子の鳴声が聞えるなら、巣のあることは明(あきらか)である。北枝の句に対する疑問は、ただ鳶の声を耳にしただけで巣を想像する点にあるかと思う。

[やぶちゃん注:「鳶の巣としれて梢に鳶の声」は宵曲の推測句形であるから、正字化はしていない。]

 北枝は十七字の中に「鳶の巢」と「鳶の聲」を重ねて用い、子規居士は更に二重奏の格で、「鳶の巢鶉の巢」「鶉の子鳴けば鳶の子も鳴く」と繰返した。この句も歌も別にすぐれたものではないけれども、こういう句法を用いたことに注意すべきであろう。北枝と同じ元禄人の連句に

 

 水仙や圍ひの花を藪に見る  淺生(あさお)

  尋ぬる家の留主(るす)てこからし 兎白

 鳶の立(たつ)鳶の跡から鳶啼(ない)て

                   杏雨

 

というのがあり、これは鳶の字が三つある。十七字の中に三度同じ名詞を繰返すのは、少し多過ぎるかも知れぬが、作者工夫の迹(あと)の認むべきものがないでもない。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが兎白の句は前の淺生の句の付句である。]

 桃鄰の句も一本には「鳶の羽に」となっている。この場合の「鳶の羽」は、その形や色よりも羽風(はかぜ)を連想せしめる。従って「ひるまぬ」という言葉には「羽」の方が適切らしいが、そういう猛禽の巣があるにも恐れず、高い梢に藤の絡んでいるところを詠んだとすれば、「鳶の巣」でも差支(さしつかえ)はなさそうである。木の間に垂るる山藤の花は、一句の世界を極めて美しいものにしている。

 巣の有無にかかわらず、梢の鳶を描いたものはいろいろある。

 

 蓬萊や動かぬ枝にとまり鳶   貞佐

 初午や梢に鳶のふき合せ    同

 下闇や梢は晝で鳶の聲     除風

 翠(みどり)して鳶鳴く楠(くす)の木ずゑかな

                闌更

 朝霧や枝に居ながら鳶の聲   可風

 蹈折(ふみを)つて枝なき鳶の師走かな

                淡々

 毛をこぼす鳶や梢の小六月(ころくぐわつ)

                蒼虬(さうきう)

 

 鳶は空を飛びながらも囁き、梢にとまっても暗く。初午の句はよくわからぬが、人の吹く笛に合せて鳶の啼くことを詠んだものであろう。鳶の声を捉えた句は、右に挙げた外にも各季にわたって散見する。

[やぶちゃん注:「蓬萊」は、この場合、神仙の住む蓬萊山を象った正月の祝儀物の蓬萊飾りを指す。一般的に見慣れた正月飾りの素材に添えて、松竹梅・鶴と亀・尉(じょう)と姥(うば)などの祝儀物の人工的なフィギアの造り物を添えることがありここはその景を詠んだものであろう。]

 

 夕晴や柳に盈(こぼ)す鳶の聲 五明(ごめい)

 卯の花や巽(たつみ)ははれて鳶の聲 蘆角

 鳶啼(なく)や花も榎も蹈散(ふみちら)し

                   白良(はくりよう)

 さみだれや耳に忘れし鳶の聲     嘯山

 日の落(おち)て樹(き)になく鳶や秋の風

                   其雷(きらい)

 鳶の眞似してや棗(なつめ)の四十雀 楓井(ふうせい)

 浮雲やあふちの花に鳶の聲      涼菟(りやうと)

 鳶の啼く日の淋しさよ草の花     士朗

 鳶鳴(ない)て木を割(わる)音や冬籠り

                   海印

 柴漬(ふしづけ)に浪の立(たち)ゐや鳶の聲

                   我々(がが)

 茶の花に何を追込む鳶の聲      推柳

 十月やけさは鳶啼(なく)藪の空   風芝

 

 鳶の声はあまり愛すべきものでもないが、晴を卜(ぼく)するに足るというので、何となく明るい感じがする。嘯山の句は降り続く五月雨に、この頃鳶の声を聞かぬ、それを「耳に忘れし」といったのであるが、雨中といえども鳶は啼かぬわけではない。

[やぶちゃん注:「鳶の声はあまり愛すべきものでもないが、晴を卜するに足るというので、何となく明るい感じがする」敢然と言いたい私は鳶の声が好きだ。更に物言いを言っておくと、確かに快晴が有意に続いた日中には太陽光によって地面が暖まり、地表近くの空気温度が上がり、その結果として上昇気流が起こって、それに乗って鳶が狩りするために高いところへ飛び翔ける(晴天時は空気の透明度が高いから索餌に適しているとも言えるし、逆に湿度が高くなって視界が悪くなれば彼らは低い位置を飛翔する傾向があることも事実ではある)ことはままある。あるが、それは結果であって予兆でも何でもない。だから「卜するに足」らぬものだ。寧ろ、考えてみれば、晴天であっても、低気圧が近づけば上昇気流が発生し、それに鳶が乗って舞い上がるとも言えるわけであり、その時こそ、鳶は晴れを占うのではなくて、雨を予兆するのだと言えるではないか! 蘆角や一茶を引き合いに出そうが(次を見よ)、宵曲の謂いは博物学的には不十分であると私は思う。]

 

 朝鳶がだまして行(ゆく)や五月雨(さつきあめ)

                   一茶

 

 という句は、雨中に鳶の声が聞えても、更に晴れる様子のないことを詠んだので、一茶一流の騙(だま)すという擬人法は、この場合気象台の予報と同じく、全く天候の上に繋っている。蘆角の「卯の花」の句も雨である。但(ただし)辰巳の方の空は已に晴れかけて、爽かな鳶の声がするのだから、この雨は必ずあがると見てよかろうと思う。その他はすべて晴れた日の句と解すべきで、海印の「冬寵り」の如き、文字の上には何も現れておらぬにかかわらず、やはり好晴の天を想わしめる。晴れた空に鳶が啼き、どこかで薪(まき)を割る音が聞えて来る。一室を出ようともせぬ閑居の人の世界は、殆ど聴覚だけのものになっているのである。

 楓井の「四十雀」の句は、他の声を持って来て側面から鳶の声を現そうとした。その点前に引いた貞佐の「初午」の句に似ているが、鳶の声を如実に描いたものとしては、

 

 鳶ひよろひいよろ神の御立げな   一茶

 

を挙げなければならぬ。「神の御立」は神の旅である。出雲へ旅立ち給う首途(かどで)の合図に鳶が啼いたとすると、この句には笛の音に近いものが含まれているような気がする。

 

 鳶ついと社日(しやにち)の肴(さかな)領しけり

                  嘯山

 ふゆ木立鳶のかけたるわらぢかな  成美

 鼠喰ふ鳶のゐにけり枯柳      太祇

   眼前

 猫喰(くら)ふ鳶がむさいか網代守(あじろもり)

                  北枝

 

 油揚を攫う鳶は遂に俳句の中に発見し得なかった。冬木立の草鞋(わらじ)は果して鳶が攫って行ったものかどうかわからない。高い梢にかかっているのを見て、鳶が攫って行ったものと解釈したまでであろう。鼠も食われ、鼠を食う猫もまた食われる。そこに現世における自然の姿がある。北枝が前書に記した通り「眼前」の消息なのである。

[やぶちゃん注:「社日」雑節の一つで産土神(うぶすながみ:郷土の古来からの土地神)を祀る日。ウィキの「社日」によれば、『春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する』。『春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる』、但し、『戊と戊のちょうど中間に春分日・秋分日が来る場合(つまり春分日・秋分日が癸(みずのと)の日となる場合)は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とする。またこのような場合は前の戊の日とする決め方もある』。『この日は産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝する。また、春の社日に酒を呑むと耳が良くなるという風習があり、これを治聾酒(じろうしゅ)という。島根県安来市社日町などが地名として残っている』とある。]

 鳶はいろいろなものを攫って行く代りに、時に空中から取落すこともあるらしい。俳人はこれをも見遁(みのが)さなかった。

 

 古鳶の魚とり落すしぐれかな     卓池

 芋頭(いもがしら)鳶や落せし酉の市 抱一

 

 尤も抱一のは目撃でなしに想像である。明治以前に甚だ乏しい酉の市の句の、芋頭までが鳶によって拾われているのは面白い。

[やぶちゃん注:「芋頭」サトイモの塊茎。親芋。人の頭(かしら)に立つ意を通わせ、また子が多いところから正月の縁起物に用いる。通常は新年の季語であるが、ここは「酉の市」がロケーションで季語だから初冬となる。]

 

 あなかなし鳶にとらるゝ蟬の聲   嵐雪

 ひるがほに蝨(しらみ)のこすや鳶のあと

                  嵐蘭(らんらん)

 

 鳶の狙う対象としては、蟬は少し小さ過ぎる。嵐雪も現在鳶が捕る有様を見て、この句を詠んだのではなさそうである。耳に悲しげな蟬の声を聞いて、何かに捕えられたらしい蟬の運命を憐んだのであろう。「あなかなし」という上五字に、嵐雪一流の抒情味が溢れている。

 「ひるがほ」の句は鳶が地に下りた場合の遺留品と解せられる。俳人はこの種の観察を怠らなかったと見えて、元禄時代の句の中にも、「羽蝨(はじらみ)を花に落すなむら烏 正秀(まさひで)」「つばくらの蝨うつるなほとゝぎす 素覽」「梟の蝨落すな花のかげ 北枝」「蝙蝠の蝨落すな星祭 曲翠」等、いくつも算えることが出来る。ただ以上の句は悉く「落すな」「うつるな」という警戒的注意であるのに、嵐蘭は昼顔のほとりに遺された蝨を以て、明(あきらか)に鳶のものと認めている。

[やぶちゃん注:節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 咀顎(そがく)目 Psocodea に分類されるハジラミ(羽虱)類で、チョウカクハジラミ(ホソツノハジラミ)亜目 Ischnocera・ゾウハジラミ亜目 Rhynchophthirina・タンカクハジラミ(マルツノハジラミ)亜目 Amblycera 等に属する。ウィキの「ハジラミ」によれば、『鳥の羽毛や獣の体毛の間で生活し、小型で扁平、眼は退化し翅は退化している。成虫の体長は』〇・五~一〇ミリメートルで、『雄は雌より少し小さい。体色は白色、黄色、褐色、黒色と種によってさまざまである。大部分が鳥類の外部寄生虫で鳥類のすべての目に寄生し、一部は哺乳類にも寄生する。全世界で』二千八百『種ほどが知られ、うち』二百五十『種が日本から記録されている』。『ハジラミは全体の形はシラミに似るが、細部では多くの点で異なっている。胸部の各節は完全に癒合することはなく前胸部は明らかに分かれる』。『体表は剛毛に覆われ、多いものと比較的少ないものがある。また口器はシラミと違って吸収型でなく』、『咀嚼型で大顎が発達している。宿主の羽毛、体毛と血液を摂取するが、フクロマルハジラミ』タンカクハジラミ亜目タンカクハジラミ科メナカントゥス属メナカントゥス・ストラミネウス(フクロマルハジラミ)Menacanthus stramineus)『のように血液を成長中の羽毛の軸からとる種もある。ペリカンやカツオドリの咽喉の袋にはペリカンハジラミ属』(Pelecanus)『やピアージェハジラミ属』(Piagetiella)『が寄生し、大顎で皮膚を刺し、血液や粘液を摂取する』(以上の二属の属名は寄生される鳥と同名。上位タクソンは調べ得なかった)。『不完全変態で、卵若虫成虫となる。卵は長卵型でふつう白く、宿主の大きさに対応し』、一ミリメートル以下から二ミリメートル『近いものまである。卵は宿主の羽毛か毛に産みつけられるが、羽軸内に産みこむものもある。若虫は成虫に似ており』、一『齢若虫では小さく色素をもたないが、脱皮ごとにしだいに大きくなり』、『着色し』三『齢を経て成虫となる』。『ハジラミは温度や宿主のにおいに敏感で、適温は宿主の体表温度である。宿主が死に体温が下がるとハジラミは宿主から脱出しようとする。そのままでいれば、宿主が死ぬとハジラミも数日内に死ぬ』。『ハジラミの感染は交尾、巣づくり、雛の養育、砂あびなど宿主間の接触で起こる。もう一つの方法は翅のある昆虫に便乗することで、吸血性のシラミバエの体に大顎でしがみつき他の鳥に運ばれる。自然の集団では雌が多く、ある種では雄がほとんど見つからない。ウシハジラミ』(チョウカクハジラミ亜目ケモノハジラミ科Bovicola bovis)『では処女生殖が知られている。前胃にハジラミの断片が見つかることがあるが、この共食いの現象は個体数の調節に役だつと考えられている』。『ハジラミの最大の天敵は宿主であって、ついばみ、毛づくろい、砂あびによって殺される。また鳥の蟻浴も同様の効果がある。くちばしを痛めた鳥は十分毛づくろいができないので、非常に多数のハジラミの寄生をうけ弱る。哺乳類のハジラミは有袋類、霊長類、齧歯類、食肉類、イワダヌキ類および有蹄類に寄生し皮膚の分泌物や垢を食べているが、トリハジラミ』(タンカクハジラミ亜目トリハジラミ(鳥羽虱)科 Menoponidae)『ほど多くはない』。『ハジラミの祖先はチャタテムシのコナチャタテ亜目Nanopsocetae下目であると見られる』(確かに幾つかの拡大画像を見たが、形状が実に酷似している)。『自然の中で地衣類やカビを食べ自由生活をしていたチャタテムシが、三畳紀、ジュラ紀といった中生代初期から新生代の初期である古第三紀の間に羽毛を持つ動物の巣に寄生する生活を経て、生きた鳥の羽毛にとりつき寄生するようになったと考えられるが、化石は発見されていない。ちなみに、近年では羽毛は鳥の祖先の恐竜の一部の系統で既に発達していたことが知られるようになってきているので、初期のハジラミは鳥の出現以前に恐竜に寄生していた可能性もある』。『系統学的解析により、ハジラミは』二『つの系統が別々に進化したことがわかっている。哺乳類・鳥類に外部寄生するという特徴的な生態により、収斂進化が進んだ。うち』一『つの系統は、咀嚼性から吸収性へと進化したシラミを生み出した』。『ある種のハジラミは』二『種以上の鳥に寄生することがあるが、それは鳥の進化の速さがハジラミのそれを上まわったためと考えられている。つまり、宿主が環境に適応して変化しても、ハジラミにとっての生活環境である鳥体表面の条件、つまり食物の栄養や、温度条件などはあまり変化しないからだというのである。これをVL・ケロッグは遅滞進化と名付けた。例えばアフリカのダチョウと南アメリカのレアには共通のハジラミが寄生しており、今日では形態も分布も異なっているとしても、これらのダチョウは共通の祖先から分化したことを物語っている。ミズナギドリの仲間には』十六属百二十四種もの『ハジラミが知られているが、ハジラミの知見は大筋においてミズナギドリの分類系と一致するといわれている』。『アジアゾウ、アフリカゾウなどに寄生するゾウハジラミ』(ゾウハジラミ亜目ゾウハジラミ科 Haematomyzidaeゾウハジラミ属 Haematomyzus)『は体長』三ミリメートル『足らずの小さなシラミで、長い吻をもち吸血するが、その先端に大顎を』持ち、『完全にハジラミの形態をそなえており、ハジラミとシラミ』(咀顎目シラミ亜目 Anoplura:ヒトジラミ科 Pediculidae などの狭義のシラみ類を指している)『の間を結ぶ中間型とされる』。『人間に直接に加害するものはいないが、家畜や家禽につくものがある。ハジラミが多数寄生すると、鳥や獣はいらだち、体をかきむしり体を痛め、食欲不振や不眠をきたす。家禽は産卵数が減り太らなくなり、ヒツジは良質の羊毛をつくらなくなる。ニワトリハジラミはニワトリに寄生するハジラミ類の総称で、畜産上はニワトリナガハジラミ』(チョウカクハジラミ亜目チョウカクハジラミ科 Philopteridae ハジラミ属ニワトリナガハジラミ Lipeurus caponis)・『ハバビロナガハジラミ』(チョウカクハジラミ科Cuclotogaster 属ハバビロナガハジラミCuclotogaster heterographus)・『ニワトリマルハジラミ』(この和名では学名を探し得なかった)・『ヒメニワトリハジラミ』(チョウカクハジラミ科Goniocotes Goniocotes hologaster)の四『種が重要である。そのほか、ニワトリハジラミやニワトリオオハジラミも寄生する。これらはいずれも世界共通種である。キジ目の中には家禽となるものが多いが、同目のニワトリと近縁であるからいっしょに飼えばハジラミの混入が生ずる』。『多数寄生すればニワトリは羽毛がたべられ』、『かゆみのため体力が弱まり、成長が遅れ産卵率の低下をみる。防除には殺虫剤を使い、鶏舎内を清潔に保つことが必要である』とある。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、鳥類へのこのハジラミ類の寄生率は極めて高い。引用中にも出たが、私自身、弱って地に落ちた燕から、ぞろぞろと必死で逃げ出す彼らを見たことがある。何故か、無性に腹が立ったのを覚えている。]

 

 鳶の萊て蝨こぼすや家ざくら   雨江

 

という句もまた制止的命令でなしに、現在蝨をこぼすものとした。何か鳶に限って証迹(しょうせき)歴然たるものがあるのであろうか。もしそれがないとしたら、鳶罪の甚しいものといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「鳶罪」底本のママ。思うにこれ、冤罪の誤植ではないのか? それともそれを確信犯で洒落たとでも言うのか? とすれば、宵曲はかなり厭味な奴ということになろうかと存ずるが?

 

 かきつばたへたりと鳶のたれてける 蕪村

 

 この句は燕子花(かきつばた)のような美しい植物に対し、思いもよらぬ鳶の糞を配したところ、奇想というを憚らぬが、一面からいうと、あまり手際がよ過ぎるために、自然の感じは多少弱められているようである。鳶の糞を詠んだものは以前からあって、

 

 華科(とが)なしあたまから肩へ鳶の糞 素風

 鳶に糞しかけられたる瓠(ひさご)かな 鐡山

 

の如く、いずれも植物を題材に用いている。これらの句に比すれば、蕪村の句が一頭地を抽(ぬ)いていることは論を俟たぬ。

 鳶に関する俳人の観察は、以上の例句でほぼ尽していると思うが、なお数句を挙げて足らざる点を捕って置きたい。

 

 舞ふ鳶の中はせはしや夕雲雀   不卜

 鳶の羽風(はかぜ)靑梅ひとつ零しかな

                 求魚(きゆうぎよ)

 つゝくりて鳶もまだ寢ず初月夜  卓袋(たくたい)

 蓙(ござ)きれの鳶にもならずあきの暮

                 洞々(とうとう)

 いつまでか鳶にもならで古ぶすま 成美

 彼(かの)袴(はかま)鳶になつたか夕しぐれ

                 如行(じよかう)

 麥まきや風にまけたる鳶烏    吏明(りめい)

 

 雲雀も空の高くまで上る鳥ではあるが、軀(からだ)が小さいだけに大分忙しいところがある。「零し」は「オチシ」と読むのであろう。鳶が低くおろして来た羽風に、青梅が一つほろりと落ちる、自然の観察者に取っては看過しがたい小事実である。暮方の鳶を描いたものは、前に「日の落て」という其雷の句があったが、卓袋は進んで暮れた後を捉えた。「初月夜」は陰暦八月初の月をいうと歳時記にある。日はもう暮れて、繊(ほそ)い月が西にあるような場合であろう。「鳶もまだ寢ず」という言葉は、この場合いささか不明瞭であるが、高い梢の巣から啼く声が聞えて来るのをいったものではあるまいか。上五字が「つゝくりと」となっている本もあり、この語意がはっきりすれば、全体の趣ももう少しはつきりして来るのかも知れぬ。

 如行の句には「尾陽の鱠山(くわいざん)は一頭三面の市中に住て神や佛や儒や萬屋のあるじと成(なり)て等閑滑稽に心を遊(あそば)せ杜子(とし)が景情山谷が廣作を我物とする事久し、今年秋の末至日(しじつ)何やらむつかしと髪剃捨浮世(かみをそりうきよをすてん)に後さしむけ必(かならず)と西行遍照(へんじやう)ごときの佛たふとみにもあらず、旅衣か應(こた)ふ綸綴(りんてい)かおふるのかたちかるがるし、予ある日其閑戸を敲(たた)いて例の一笑を進む」という長い前書がついている。別に鳶には関係がないが、袴が鳶になるというのは説明を要するであろう。俗説に「古筵(ふるむしろ)鳶になる」ということがあって、木導なども「出女説(でおんなのせつ)」の中に「物皆終りあれば古筵も鳶にはなりけり」と書いている。洞々はそのまま一句の趣向としたのであるが、成美はこれを衾(ふすま)とし、如行は一転して袴とした。特に袴を持出したのは、鱠山が俗を捨てて法体(ほったい)になったためかと思う。今は不要になった彼の袴は多分鳶になったろうというところに、俳語らしい転化の迹(あと)が窺われる。

[やぶちゃん注:「袴が鳶になる」これは、ある程度の長い年月を経たものか、或いは、いわく因縁のある道具などに霊が宿った、所謂、「付喪神(つくもがみ)」の変容したものであろう。それらが化けて妖怪めいたものとなって百鬼夜行のように登場して跋扈することになったのは中世以降であったが、近世には早くもその流行は廃ってしまう。この無生物の化生説は、そうした名残りと読み取るべきであると私が思っている。]

 吏明の句は、麦蒔をする畑のほとりに、はじめのうちは鳶や鴉が集っていたが、風の強いのに辟易したらしく、遂に姿が見えなくなった。それを「風にまけたる」といったのである。見方によっては働き過ぎた言葉のようでもあるが、これだけの事を簡単に現すためには、やはりこの種の言葉を用いなければなるまい。

 

 むぎ蒔の鳶袖すりに落すかな   玉扇

 

などという句に比較すると、伎倆(ぎりょう)において同日の談でないことがわかる。

 

 鳶ひじり柿の衣をしぐれけり   星府

 

 『十訓抄(じっきんしょう)』に子供に捕えられた古鳶を助ける僧の話があって、鳶と見えたのは実は天狗であり、僧の乞に任せ釈尊説法の有様を見せるということになっている。しかも天狗が後シテの格で藪から現れる時は、法師の姿をしているのだから、どうもこの句に関係がありそうである。「鳶ひじり」という言葉は他に用例があるかどうか、鳶に化した聖、若しくは鳶の化した聖という『十訓抄』の典拠なしに、この言葉の解釈が出来るかどうか。もしその解釈が成立つとすれば、「鳶のすがたもふところ手」の句の如く、鳶そのものを聖と見立てたとしてもいいわけであるが、われわれは先入観に捉われているせいか、いささか無理なような気がする。

[やぶちゃん注:「十訓抄」のそれは「第一 可定心操振舞事」(心の操(きさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条。これは既に私が柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)の注で電子化してあるので、そちらを参照されたい。]

2017/11/19

犬 村上昭夫

 
 

犬      村上昭夫

 

犬よ

それがお前の遠吠えではないのか

また荒野の呼び声と伝えられる

月に向って吠えるのだと言われる

それがお前の不安な遠吠えではないのか

 
お前の遠吠えする声の方向に
 
死なせるものや愛させるもの
 
別れさせるものが
 
目も眩むばかりにおいてあって
 
お前はそれを誰も知らない間に
 
密かに地上に呼んでいるのではないか
 
 
だがお前はひるになると
 
まるでそ知らぬ顔をして
 
尾をふったり飛びついたり
 
愛くるしい目を向けたりする
 
真実忠実な犬でしかないように
 
噓の姿を見せるのだ
 
 
 
   *
 
先月二十六日に旅立ったアリスに――この詩を捧げる――
 
「これはね、お前のためにずっと昔に、ある詩人が詠んでくれた詩だったんだね…………」

老媼茶話巻之五 男色敵討

 

老媼茶話卷之五

 

 

     男色敵討

 

[やぶちゃん注:標題は「なんしよくかたきうち」と読む。和歌は前後を一行空けた(和歌は読みその他を添えず、濁音化も避けた)。処刑場の罰札の条々は底本では全体が二字下げであるが、無視し、その代わり、前後を一行空けた。なお、本話は怪談ではなく、実録風仇討譚である。]

 

 伊豫の松山の御城主に仕へける兒小姓(ちごこしやう)、宮崎喜曾路(きそぢ)といふ美童あり。父は宮崎刑部左衞門とて祿四百石、足輕貳拾人、御預被成(おあづけなさる)。

 或春、同國妙法寺と云(いふ)山寺の華ざかりに、木曾路、花見に行(ゆき)ける折、寺町の片陰に住居(すまゐ)する與藏といふいやしきもの有(あり)。先祖は沖波何がしと云(いひ)て朝倉義景につかへけるが、義景ほろびて、松山に來り、與藏に至り、朝夕の煙絶々(たえだえ)の身となり、その日その日をさへ暮し兼(かね)、此日、妙法寺へやとわれて有けるが、觀音堂のさくらのもとに木曾路が花を詠(よみ)て立居(たちゐ)たる面影を見そめ、深く愛念し、いかなる便(たより)をか求めけん、木曾路がそば近くめしつかへける三夕(さんせき)といふ小坊主を賴(たのみ)、文(ふみ)を傳(つた)へける。木曾路、艷書(エンしよ)を見て、不便に思ひ、或夜更(よフケ)、五月雨(さみだれ)の降(ふる)闇に、みの笠を着て、すがたをやつし、與藏がすむ寺町のはづれなる草のわら家(や)に尋(たづね)て一夜の情(ナサケ)をかけ、曉(あかつき)ふかく起(おき)、わかれける折、扇に歌を書(かき)て與藏にあたへける。歌に、

 

  手枕の寢屋の扇の露よりもいつれ形見に契りおかまし

 

 爰に十時(ととき)三郎右衞門といふ侍大將の次男辰之助と云(いふ)者、或時、御城主御城の西千本の松原の馬場にて、兒小姓不殘(のこらず)、馬藝、御覽被成(なされ)られ、木曾路、大長(ヲフタケ)なる黑の駒(こま)に燃立斗成(モヘタツばかりな)る紅(クレナイ)の三階(サンガイ)かけ、黑地に金銀以て柏(カシハ)の木に兎(ウサギ)すつたる鞍に乘(のり)、鐙(あぶみ)ふみはり、手綱かいくり、あゆませ出(いで)し、其姿、

「馬に乘る少年、淸(きよ)ふして、且(かつ)、みやびやかなりと東破居士(トウハコジ)が風水洞(ふうすいだう)にて季節を譽(ホメ)しおもかげもかくまでにはよもあらじ。」

と見物の老若、ほめざるはなし。

 此(この)容色を辰之助、見染(みそめ)、笹野露休(ロキウ)と云(いふ)小兒醫者、宮崎刑部左衞門かたへしたしく出入(でいり)ける、此ものをよびよせ、身命(しんみやう)にかけ、文の使(つかひ)を賴みける。露休も難義におもひけるが、是非なく、文を受取、折を伺ひ有ける折、木曾路、此頃、風をなやみて勤(つとめ)を引(ひき)、宿(やど)におりけると傳へ聞(きき)、

「能(よき)折節。」

と、何となく木曾路が宅へ行(ゆき)ける。

 木曾路、對面し、

「病中つれづれなるに能(よく)こそ來りたれ。」

とて、機嫌よく樣々のもの語りをする。露休、つくづくと木そ路が容色を見るに、誠に朝顏の花、曉露(げうろ)ををふくめる面影ともいはまし。

 露休、辰之助に賴まれし文の事をば打捨(うちすて)、我身、木曾路に愛着せし趣、直直(ヂキヂキ)かき口説(クドキ)ければ、木曾路、露休が艷言(エンゲン)を聞(きき)て、色を正しくして申けるは、

「我等事、殿樣、御不便(ごふびん)をくわへらるゝ段、其方(そのはう)も能(よく)知れり。かり染(そめ)のたわむれといふとも、必(かならず)、已來(いらい)、いふ事、なかれ。若(もし)重ねてか樣の不義無道の事云(いふ)ならば、出入(いでいる)事、堅(かたく)無用也。」

と云ける。

 露休、手持(てもち)なく赤面し、その夜、辰之助かたへ行(ゆき)、

「貴殿御たのみのゑん書、今夕、能(よき)折有(あり)て木曾路に遣はし、樣々申(まうし)、せめて文の返事斗(ばかり)もといゝけれども、御文、手にだにとらず、剩(あまつ)さへ、此段、殿の御耳へ入(いれ)んと申(まうす)、以の外の挨拶にて候。」

と誠(まこと)しやかに申しければ、辰之助、元來、短慮無分別なる男にて、聞(きく)とひとしくせきあがり、

「古今、戀路(こひぢ)のならひ、文を送り、玉章(たまづさ)を通はす事、珎(めづら)しからず。然るに、木曾路、君寵(くんちよう)にほこり、左樣の惡言をはく。兎角、今よひ、木曾路を切殺(きりころ)し、恨(うらみ)を晴すべし。其方も、のがれぬ所、木曾路が宿所、案内せよ。」

と、その夜、深更に、露休を先に立(たて)、忍び入(いる)。

 折節、木そ路、ねもやらで、南面の障子をひらき、更行(ゆく)、月を詠(ながめ)ありけるが、もの音を聞付(ききつけ)、

「何者なるぞ。」

と、刀おつ取(とり)立(たち)むかふ。辰之助、聞(きき)て、

「意趣は定(さだめ)て覺(おぼえ)あらん。十時辰之助也。覺悟せよ。」

と、三尺三寸の刀をぬき、眞一文字に打(うつ)て懸(かか)る。き曾路、覺はあらねども、はげしくきり懸る故、刀、合拔(ぬきあはせ)、切結(きりむすび)、暫し戰(たたかひ)けるが、敵、兩人なり。辰之助は打太刀(うちだち)に、弓手(ゆんで)の高(たか)もゝ、切(きり)おとされ、かしこへ、

「どう。」

と、まろびけるを、すかさず、首を打(うち)おとし、立退(たちのか)んとする所へ、木曾路が親刑部左衞門、太刀音を聞付(ききつけ)、

「盜人入りし。」

と驚き、まくらもとに立(たて)し長刀(なぎなた)、おつ取(とり)、

「皆々、起(おき)よ。」

と呼(よば)はりながら、かけ來(きた)る。

 辰之助・露休、屛風の陰に隱れ居て、やり過し、兩人、後(うしろ)より切倒(きりたふ)し、夫(それ)より、辰之助・露休、奧州へ立退(たちの)けり。

 此騷動の砌、與藏は遠所(ゑんじよ)に行(ゆき)、程過(ほどすぎ)て立歸(たちかへ)り、此(この)荒增(あらまし)を傳聞(つたへきき)、血の淚を流し、十時辰之助・笹野を恨める氣、胸にみち、骨髓に徹し、口惜(くちをし)く、敵討(かたきうち)と思ひ立(たち)、姿を虛無僧(こむさう)にやつし、先祖沖波重代正宗壱尺八寸「笹の雪」と名付(なづけ)たる名劍を尺八にしこみ、名を「空花(くうくわ)」と改め、住馴(すみなれ)し故里の草のいほりを立出(たちいで)、宮崎が菩提所に行(ゆき)、木曾路が塚に參り申樣(まうすやう)、

「君、むかし、五月雨ふるやみの夜に獨(ひとり)、姿をやつさせられ、つゆふかき賤(しづ)が草のいほりを御尋下されし御恩の程、いかでわすれ申べき。此度(このたび)、不慮の橫難(わうなん)に逢(あひ)玉ひて、御父子やみやみと十時にうたれ玉ひ、冥土黃泉(かうせん)迄、さぞ、口おしく思召(おぼしめし)候べし。君の御兄弟御親類もましまさず、敵打(かたきうつ)べき人もなし。姿は賤(いやし)き土民なり共(とも)、心は丈夫におとるべきか。恩をしるを以て人とし、恩をしらざるをちく類とす。某(それがし)、命あらん限り、國々所々を尋𢌞(たづねまは)り、怨敵(をんてき)十時・笹野を討取(うちとり)、首を此所(ここ)へ持來(もちきた)り、御靈前へ手向(たむけ)、君の妄執(まうしふ)をはらし奉り、本望(ほんまう)をとげ候はゝ、浮世に思ひ置(おく)事なし。其時、我身、追腹(ツイフク)仕(つかまつり)、めいどの御供申つゝ、そのかみの御厚恩、報じ申さんと、御暇乞(おひとまごひ)に參り候。靈魂、草の影にて、我(わが)赤心の忠節、あはれとおぼし給へ。」

とて、塚の前に泣(なき)ふし、暫し、淚にくれけるが、

「心よはくて叶はじ。」

と袖に淚をおしぬくひ、敵の行衞、尋んと、いづくともなく出(いで)にけり。

 昨日とくらし、今日も過(すぎ)、國々里々、尋つゝ、二とせの秋、奧州筋を尋(たずね)むと、みちのく街道にさしかゝり、白川の御城下、「かわこの原」を通りけるに、男女のはりつけ弐人、有り。立寄(たちより)見るに、其罪札に曰、

 

              枝岡村定石衞門

 此もの、元伊豫の松山にて笹野露休と申者也。弐年前の秋當所民右衞門と申ものに少(すこし)所緣(ゆかり)有て尋來り、令同居(どうきよせしめ)、名を定石衞門と改(あらため)、醫を以て産業(なりわひ)と仕り、罷在(まかりある)右衞門女房と密通いたし、毒藥を以て民右衞門を殺し、民右衞門跡、橫領いたし、女房、末々夫婦に成可申(なりまうすべき)たくみ致(いたし)候處、其事、令露顯(ろけんせしめ)候。前代未聞惡人故、如此行者也(かくのごとくおこなふものなり)。

 

とあり。兼(かね)て露休を見知りしかば、近く立寄(たちより)、克々(よくよく)罪人の面をみるに、慥に露休也しかば、恨氣、むねにみち、杖を以(もつて)、露休がしかばねをたゝき、

「極惡天刑を得て、如此(かくのごとき)の死をなし、我(わが)眼前(がんぜん)に骸(カバネ)をさらせり。恨らくは、おのれが生前に、我(われ)、手にかけて切殺し、本望を達せざるこそ口おしけれ。『寒林にほねを打(うち)、靈鬼(レイキ)すく世の惡をかなしむ』といへり。嘸(さぞ)、來世にて無間(むけん)地獄にくるしむべし。」

とて、立(たち)わかれ行(ゆき)けるが、

「我(われ)、旅行の始、主公の御塚參り、御敵笹野・十時を討(うち)、しるしを御墓へ手向奉らんと堅ちかひしに、笹野は既に刑罪せられ、十時をも討得ずして、靈魂、草の陰にて、嘸(さぞ)、言甲斐(いふかひ)なく思ひ玉ふらん。」

と無念のなみだにくれけるが、それより、若松の御城下へ入(いり)、村々里々、尋𢌞り、高田といふ里にいたり。折節、彌生のころ、伊佐須賀大明神の御庭の八重櫻、盛(さかり)にて、華見の人も多く有ける。文殊堂の別當の元に立寄、「戀慕、すかゝき、子を思ふ夜の鶴すこもり」といふ大森宗林が始(はじめ)て吹出(ふきいだ)しける尺八の祕曲を至せば、亭坊、立出(たちいで)、

「虛無僧は何國の人ぞ。」

と問(トウ)。

「はるか遠國のものに候。」

といふ。

「幸(さひはひ)、今日、花見の客、有り。其節(ふし)一曲、所望申たし。障(サハリ)なくば、此寺に、四、五日も滯留しあれかし。」

と云。

 空花、

「忝(かたじけなく)候。」

とて内へ入(いり)、茶などのみ居たり。

 亭坊、かたりけるは、

「尺八は後醍醐帝の皇子(わうじ)中務(なかつかさ)卿懷良(モリヨシ)親王に始ると、『よし野拾遺』にありといへども、唐の玄宗皇帝、やうきひと吹(ふか)せ玉ひし事、有(あり)。中頃、高瀨備前守・安田城長(ジヤウチテウ)・是齋(ゼサイ)・宜竹(ギチク)・指田(サシダ)・一音(いちヲン)、是、皆、名人也。しかれども、貴殿には及ぶまじ。音色(ヲンシキ)は笙(セウ)、筒音(ツヽネ)は黃鐘調(ワウシヤウテフ)也。近代の上手なり。」

と、ほむる間もなく、若黨壱人走り來り、

「星崎龍左衞門その外誰々、御見舞申(おんみまひまうす)。」

と案内する。

 亭坊、是を聞、路まで立出、客人、七、八人、打連(うちつれ)、座敷へ招きしが、嘉肴(カコウ)・美酒をとり揃へ、心を盡し、樣々と馳走をする。客人、各(おのおの)數盃(すはい)をかたぶけ、奧に入(いり)、三味線・胡弓、引(ひき)つれ、謠舞(やうぶ)酒宴、數刻(すこく)におよぶ。

 亭僧、時分、見合(みあはせ)、空花をよび出(いだ)す。

 空花座敷へ出(いで)、しやう客、星崎龍左衞門をみれば、とし月、心をつくし、つけねろう十暗辰之助也。空花、天にものぼる心地して、

『只壱討(ただひとうち)。』

とおもひけるが、急度(きつと)、むねをおし沈め、畏(かしこま)り居たり。

 各々、一曲、所望すれば、空花、尺八、取出し、吹(ふき)ならす。

 皆々、一入(ひとしほ)、興に入る。

 辰之助は空花を見しらざれとも、空花は、辰之助、松山にありし時、度々(たびたび)、妙法寺來りける故、よく見覺へたり。

 かくて終日の酒盛に、各々、亂醉(らんすゐ)無性(むしやう)になり、日も西山に沈みければ、皆、亭僧に暇乞して、おのがやどりへ歸りける。

 跡にて空花、納所(なつしよ)坊主に申樣、

「星崎龍左衞門殿と申(まうし)御士は四國こと葉にて候。元來、此國の人にておはしまし候や。」

と、とふ。坊主、聞て、

「あの人は元(もと)伊豫の松山の人にて候。國本にて人を打(うち)、此處に星崎五兵衞と申(まうす)浪人おはし候、一族にて、此人を尋來り、實名十時辰之助と申せしと承る。五兵衞殿も、去(さる)冬、死去にて、跡とるべき子共もなかりしかば、其(その)一跡(いつせき)をつぎ、今、星崎龍左衞門と申(まうし)、富貴にさかえ、此寺の西、矢木澤(ヤキサハ)と云(いふ)所に居宅有(あり)て住(すみ)玉へり。」

と委(くはしく)語(かたり)ければ、空花、思ひける樣、

「人間のくわふく存亡は片時の内も知り難し。來(きた)るを期(ご)しては、互の命、賴まれず。運は天にあり。今夕(こんゆふ)、十時を討取(うちとり)、日頃の恨(うらみ)をはらさん。」

と只壱筋に思ひ定め、其夜、寺を忍び出(いで)、十時が屋敷へ忍び入(いり)、内のていを伺ふに、表は、門・塀、丈夫にかけ𢌞し、からぼりを堀置(ほりおき)たり。

 空花、高塀を越(こえ)、庭へおり、大きなる松の木の有りける、其木へ登り、ゑだのしげみに身を隱し、暫(しばらく)有(あり)て、人音(ひとをと)も靜まりしかば、木づたへに庭におり、寢間とおほしき處に、燈のひかり、障子にうつりければ、ぬき足して緣へ上り、障子の紙をやぶり、内を窺見(うかがひみ)るに、燈火、明らかにてらし、其傍に辰之助、沈醉(チンスイ)し、前後も知らず、伏居(ふしゐ)たり。

 あたりに人もなかりければ、障子をひらき、内へ入(いり)、枕元に立寄(たちより)、押動(おしうご)かし、

「いかに龍左衞門。我は三年以前、汝が爲に討(うた)れたる宮崎木曾路が下人に、沖波與藏と云(いふ)者也。『君父(くんぷ)の仇(あだ)にはともに天いたゞかず』といへり。因果の業報、今こそと思ひ知らん。念佛申せ。」

と、右の足にて龍左衞門が枕、

「かば。」

と蹴とばせば、龍左衞門、目をさまし、

「心得たり。」

と起上(おきあが)るを、壱尺八寸正宗の脇指にて、首より肩をつらねて切落(きりおと)し、首、搔切(かききり)、引提(ひつさげ)て、其夜の内に鶴沼・大川と云(いふ)大河弐を越(こえ)、御山のけう國寺といふ山寺のありける、その御僧にしるべありけるまゝ、ふかく賴み、二、三日、隱れ居て、十時が首を鹽漬にしてこもに包み、姿を順禮にやつし、笈(ヲイ)つりを懸(かけ)、金剛杖(こんがうづゑ)をつゐて、件(くだん)のこも包(づつみ)を背負(せをひ)、すげ笠に、「奧州會津御山村(おやまむら)何がし」と書付(かきつけ)、道すがら辛苦かんなんして、日數つもりて、漸(やうやく)、五月中旬、伊豫の松山に着(つき)にけり。

 其夜、人靜まり小夜更(さよふけ)て、木曾路菩提所玉峯禪寺參り、き曾路がしるしを尋(たづね)けるに、三とせ以前まふでしかど、あだし野露と消(きえ)にし人、數ぞふそとばは立(たち)ならび、いつれをそれと見分難(みわけがた)し。

 月の光りをしるべに次第次第に尋見るに、ひとつの石碑、有り。

「法名羅山秋錦居士宮崎木曾路勝重墓」

と有。

 いつしか、艷骨、土となり、しるしの石も苔むして、昔を思ふ淚なな。

 與藏、墓の前のちりを拂ひ、器物(ウツハもの)より十時が首、取出(とりいだ)し、傍(かたはら)の水にて洗(あらひ)、木曾次が石塔の臺石(ダイいし)にすへ置(おき)、しりぞひて手を合(あはせ)、淚を流し、申樣、

「法名羅山秋錦居士、俗名宮崎木曾路勝重公へ、怨敵十時辰之助が首を手向(たむけ)奉る。九品(くほん)の蓮臺(れんだい)にて、心よく受(うけ)玉ひ、しゆら道の御くるしみを遁れ、すみやかに成佛とくだつを、とげ玉へ。つらつら、君恩(くんおん)のふかきいにしへを思へば、山よりも高く、大海よりも深し。只今、公(きみ)の怨敵を打(うち)、其(その)かうべを靈前にまつり、往昔(わうせき)の御高恩、萬分が壱、報謝し奉る。先達(せんだつ)て、尊靈へ御約諾申せし通(とほり)、我身、年來の本望をとげ候得ば、浮世におもひ置(おく)事なし。只今、はら切(きり)、死(しし)て冥土黃泉まで、御宮(おんみや)づかえ申(まうす)べし。隔生則妄(カクシヤウソクモウ)とは申せとも、一蓮托生にむかひとらせ玉へ。」

と心靜(こころしづか)に念佛百遍斗(ばかり)申(まうし)、其後(そののち)、石筆(せきひつ)をかみ、むかし、木曾路が「手枕の寢屋の扇」と書(かき)て與藏にとらせける形見の扇、今まで、片時も身をはなさで、もちけるが、其扇を取出(とりいだ)し、一首の歌を書添(かきそへ)ける。

 

 今こそは浮世の闇もはれにけり西へ導ひけ山の端の月

 

と書(かき)て、腹、十文字に切破(きりやぶ)り、木曾路が塚へ向ひ、合掌し、眠がごとく、むなしく成(なり)にけり。

 あはれなる哉(かな)、公(キミ)の一日(いちじつ)の恩に、せうがもゝとせの命を捨(すつ)るとは、かゝる事をや、もふすべき。

 

 野々山に消る斗の情けかは消にし露のこけの下まて

 

[やぶちゃん注:本話について、「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「データベース『えひめの記憶』」のこちらに「愛媛県史 文学」(昭和五九(一九八四)年発行)の「二 伊予の怪談・奇談」の「敵討ち奇談」に、

   《引用開始》

 月尋堂著作の浮世草子『文武さざれ石』(正徳二年の自序がある。別名『文武君が代碝石』)の巻二の一では、「予州道後」の姉弟が兄の敵討ちをするが、敵も死に至らず義理によって円満解決をみるという奇談である。松風庵寒流著作の『老媼茶話』(寛保二年序)は男色敵討ちの奇談集である。この中の「男色宮崎喜曽路」の条に、「伊予の松山の御城主に仕へる児小姓宮崎喜曽路といふ美童」がいた。ある年の春妙法寺に花見に行った時、寺町に住んでいた沖波与蔵が喜曽路を見初めた。寺町とは加藤嘉明が松山城下を整備した際、寺院を城北の山越村に移し、その後多くの寺院が建築され、寺町が構成された。与蔵のことを知った喜曽路は一夜の情けをかけてやった。ある時馬芸で十時辰之助が喜曽路の美童ぶりに恋着し、取り持ちを笹野露休に依頼したが、露休は辰之助のことは一言も言わず、自分が愛慕したことを直接口説いたが拒絶された。露休は辰之助方へ行きあなたの恋は不首尾に終わったと誠しやかに言うと、辰之助はその夜すぐ露休を伴い喜曽路方に押し入り父子ともに斬殺し奥州へ立ち退いた。このことを伝聞した与蔵は敵討ちを決心し諸国を尋ねるうち、陸奥街道の白河藩御城下で露休が密通の罪科で処刑されたことを知った。仕方なくそれより会津若松城下に入ったところで辰之助に出合い、彼の首級をあげ辛苦の末松山に持って帰り、喜曽路の菩提所で自分も腹掻き切って死んだという奇談である。

   《引用終了》

とある。

「伊豫の松山の御城主」伊予松山藩。伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に周辺の久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した。時制設定がはっきりしないが、一つ気になるのは、或いは非常な江戸初期の可能性もある点である、何故なら、いままで散々出て来た後に会津若松藩主となる加藤嘉明は慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」の功を以って二十万石を与えられて立藩したのが、この伊予松山藩だからである(彼の陸奥国会津藩四十二万石への加増転封は寛永四(一六二七)年)。しかし、この話柄、主人公空花(くうか)が宿敵十時辰之助に出逢うのが、やはり会津若松に設定されているからで、その場合、その後の蒲生忠知、更には松平(久松)家が藩主となった時代まで広げなくてはならなくなる。しかし、後に出るように、主人公空花(旧姓沖波)は祖父或いは曽祖父の代に朝倉義景(天正元(一五七三)年)に仕えていたとするなら、五十年は経過していると考えてよかろうから、そうなると、一六七三年前後となり、伊予松山藩第三代藩主松平定長(寛永一七(一六四〇)年~延宝二(一六七四)年)辺りが藩主だった時代になろうか

「宮崎喜曾路(きそぢ)」不詳。重要な役回りであるが、底本ではこの後、「木曾路」「木曾次」「木そ次」など表記が一定しない。基本的に名前で出ることが多いので、ある所から以下は漢字の場合は「木曾路」(稚児小姓であるから「次」より「路」が私の好みである故)で本文を統一した

「宮崎刑部左衞門」不詳。

「妙法寺」不詳。現在、愛媛県松山市会津町に日蓮宗の同名の寺があるが、明治以降の創建であるから違う。以下の「寺町」地区にはこの名の寺は現存しないようである。

「寺町」現行の松山市内にこの町名はないが、先の「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「データベース『えひめの記憶』」が有力な情報となり、現在の愛媛県松山市山越を指していることが判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)。戦国大名。孝景の子で、初め、孫次郎延景と称したが、天文 二一(一五五二)年に将軍足利義輝の偏諱を得て義景、同 十七年、父の死により跡を継ぎ、一乗谷城主。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和し、越前を平定した。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることができなかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立することとなった。義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立することとなり、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し(姉川の戦い)、さらに天正元年に信長の攻撃を受け、居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移してそこを小京都たらしめた室町文化の一翼を担った人物でもあった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「與藏がすむ寺町のはづれなる草のわら家(や)に尋(たづね)て一夜の情(ナサケ)をかけ」ちょっと不審なのは、木曾路が何故、この与蔵だけには、たった一度の恋文だけでで躊躇なく木曾路の方から「哀れ」と積極的に感じ入って、率先して即座に出向き、契ったのかという点である。或いは、実は、木曾路の方が先に与蔵を知っていて、憎からず思っていたのか? しかも元は武家の出であることなども知り、重ねて「哀れ」に思ったのではなかったか? であれば、素直に腑に落ちるのである。

「曉(あかつき)ふかく」この場合は、曉(朝であるが真っ暗な時間帯である。ネット上でも誤認した記載が多い、ある者は平然と『空が白みかける頃』などと書いているが、それは暁ではなく曙である)の早い時間の謂いであろう。午前三時過ぎ頃か。

「手枕の寢屋の扇の露よりもいつれ形見に契りおかまし」整序すると、

 

 手枕(たまくら)の寢屋(ねや)の扇の露よりも

    いづれ形見(かたみ)に契(ちぎ)りおかまし

 

で、この一首自体が、実は不吉な予兆唄となってしまっていることが判る。

「十時(ととき)三郎右衞門」不詳。

「十時」「辰之助」不詳。

「御城の西千本」松山城はここ(グーグル・マップ・データ)。この中央付近か。

「三階(サンガイ)」既注であるが、再掲しておく。「三繫(さんがい)」或いは「三懸」が一般的漢字表記。掛馬具(かけばぐ)の面繋(おもがい)・胸繋(むながい)・尻繋(しりがい)の総称。革紐又は裂紐によって馬具を馬体に装着させる部品。ウマの頭部につけて轡(くつわ)を保持するものを面繋、胸部から鞍にかけてつけるものを胸繋、鞍から尻にかけて掛けるものを尻繋という。後には装飾性が強くなった。

「すつたる」「摺つたる」(摺りたる)の音便で、嵌め込み細工や螺鈿細工などに於いて漆を用いてある模様になるように石や青貝等を嵌めて塗り込んで、さらにそれを美しく磨き出すことを言っているものと思う。

鞍に乘(のり)、鐙(あぶみ)ふみはり、手綱かいくり、あゆませ出(いで)し、其姿、

「東破居士(トウハコジ)が風水洞(ふうすいだう)にて季節を譽(ホメ)し」「東破居士」は「東坡居士」の誤り。北宋の名詩人蘇東坡(蘇軾)には「風水洞二首和李節推」二首がある。李は蘇軾の友人(高官であったとも)で蘇軾の詩集には「往富陽新城李節推先行三日留風水洞見待」・「風水洞二首和李節推」が収められている(中文ウィキのこちらで後者の原詩二首が読める)。何故だか知らないが(少なくとも「風水洞二首和李節推」にはそのようなものは感じられない)、蘇軾と李節推は本邦では男色の例として語られることが多いらしい(ブログ「東京史楽」の「続・江戸の話 三十七」に拠ったが、そこの元ネタは馬絡みである)。

「笹野露休」不詳。この男も救い難い男である。当時、珍しい小児科医となったのも、恐らくはそうした強い小児性愛傾向があったからなのであろうが、そもそもがここで辰之助の恋文を隠しておいて、己れの恋情を吐露して、それが叶わなかった意趣返しに、辰之助に虚偽の告げ口をして、かくなるカタストロフを出来(しゅったい)させるというのは、まさに、本話の中で実は最もおぞましい存在とも言える。

と云ける。

「ゑん書」「艷書」。恋文。

「玉章(たまづさ)」ここは、前の自分が「文を送り」に対応する表現で、相手を敬ってそちらから送られてくる文章・詩文や手紙などを指す語。

「三尺三寸」刀身にみの実長が九十九・九九センチメートル。、江戸時代の武士が好んだ刀の平均長は二尺三寸前後六十九・六九センチメートルであるから、これは異様に長い。

「弓手の高(たか)もゝ」左足の太腿。

「壱尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「橫難(わうなん)」思いがけなく起こる禍い。不慮の災難。

「やみやみと」「闇闇と」副詞。どうすることも出来ないさま。みすみす。やすやすと。

「ちく類」「畜類」。畜生の類い。獣(けだもの)。

「昨日とくらし」「昨日(きのふ)と暮し」。

「白川の御城下」「かわこの原」不詳であるが、白河藩の藩庁のあった白河小峰城(現在の福島県白河市郭内)は阿武隈川の右岸直近にあるから、これもその阿武隈川沿いの氾濫原近く(処刑場は通常、河原にある)ではなかろうかと類推される。この地図(グーグル・マップ・データ)にあると私は読む。

「寒林にほねを打(うち)、靈鬼(レイキ)すく世の惡をかなしむ」「平治物語」の一本の、「信賴降參の事並びに最後の事」の章中に、

   *

温野に骨を禮せし天人は、平生の善を喜び、寒林に骸(むくろ)を打ちし靈鬼は、前世の惡を悲しむとも、かやうの事をや申すべき。

   *

とある(個人ブログ「Santa Lab's Blog」のこちらを参考にした。私の所持する版本にはなかった。そこでは、『温かい野に骨を埋められた天人は、平素』、『善を積んだことを喜び、寒い林に骸を放られた霊鬼は、前世の悪行を悲しんで自らの死体に鞭打つというのは、このようなことを言うのでしょうか』と訳されてある)。「譬喩経(ひゆきょう)」等に基づくか。

「高田」現在の会津高田駅のある福島県大沼郡会津美里町附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊佐須賀大明神」現在の福島県大沼郡会津美里町宮林にある伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「文殊堂の別當」ウィキの「伊佐須美神社」を見ると、別当寺として暦応二(一三三九)年の『開基という清滝寺が存在したが』、寛文七(一六六七)年の『神社改めで社地からは除かれている』とある。現在、伊佐須美神社の北直近の会津美里町文珠西甲に天台宗清龍寺文殊院が現存するから、ここのことであろう(グーグル・マップ・データ)。

「戀慕、すかゝき、子を思ふ夜の鶴すこもり」「すかゝき」には底本に編者による『透垣』という添漢字がある。「すこもり」は「巢籠り」であろう。

「大森宗林」不詳。

「中務(なかつかさ)卿懷良(モリヨシ)親王」(元徳元(一三二九)年~弘和三/永徳三(一三八三)年)は主に参照した「ブリタニカ国際大百科事典」には「かねなが」とし、例によって他では「かねよし」とも読んでいる。後醍醐天皇の皇子で、足利尊氏離反にあたって、征西大将軍に任ぜられ、五条頼元らに守られて出立、四国に渡った。興国三/康永元(一三四二) 年、薩摩に行き、九州の勤王党である菊池・阿蘇らの豪族に擁せられて経略に従事し、大宰府に入って北九州を確保、南朝唯一の地方勢力として重きをなした。この勢威に驚いた足利氏は、初め、渋川義行を、さらに今川貞世(了俊)を遣わして勢力の回復に当らせ、征西府は圧迫され、大宰府は陥落、親王は退去し、将軍職を良成親王に譲って筑後矢部に隠居、同地で没したらしい。陵墓は熊本県八代市宮地にある。幼少時に京を出でて、その後、一度も京に戻ることなく生涯を終えている。「尺八修理工房幻海」公式サイトのこちらによれば、彼は、『幼い頃に尺八を吹かれ、その音色が天性妙を得ており、それにつられて吉野川の美しい魚が飛び跳ねた、という説話が』「吉野拾遺」や「本朝世事談綺」に』記されている。のちに南朝として、九州一円に勢力を拡大し、明と貿易して「日本国王」の位を授かるほど後ろ盾として良好な関係だった。その為、足利義満は明との貿易(日明貿易)を行なうにあたって外交相手と認識されず、苦労したという』とある。

「よし野拾遺」「吉野拾遺」は南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集。二巻本と三巻本とがあり、後者は「芳野拾遺物語」とも称する。ウィキの「吉野拾遺」によれば、『後醍醐・後村上天皇代の南朝廷臣の逸事・歌話を基礎とし、発心遁世譚・霊験譚・恋愛譚・怪異譚・復讐譚など多彩だが、『徒然草』・『兼好法師集』・『神皇正統記』・『太平記』から取材してこれを改変したものに加え、『撰集抄』と同様の方法で形成された虚構の創作説話が混在する。戦乱などの生々しい切迫した政情は反映されていないが、一応』、『南朝の参考史料として顧慮されてよいと思われる』とあるが、『近年では』『室町後期に偽作されたとする説が有力である。成立年代の下限は、『塵塚物語』との関係から』、天文二一(一五五二)年頃の成立『と推定される』とある。

「やうきひ」「楊貴妃」。

「高瀨備前守・安田城長(ジヤウチテウ)・是齋(ゼサイ)・宜竹(ギチク)・指田(サシダ)・一音(いちヲン)、是、皆、名人也」尺八の名奏家たちである。底本は中黒がなく、どこで切れるかに苦慮したが、矢頭治氏のサイト「虚無僧尺八 松籟・海鳴」の橋本海関「百物叢談」明治三六一九〇三)年有文社刊)の記載から推定した。

「黃鐘調(ワウシヤウテフ)」「黃鐘」は邦楽の十二律の一つで、基音の壱越(いちこつ)より七律高い音で、中国の十二律の林鐘(りんしょう)、洋楽のイ音に相当する。

「とし月、心をつくし、つけねろう」「歳月、心を盡し、つけ狙(ねら)ふ」。

「無性(むしやう)」節操なく、座が乱れること。

「納所(なつしよ)坊主」寺院で雑務を行う下級僧。

「矢木澤(ヤキサハ)」現在の会津美里町八木沢。(グーグル・マップ・データ)。

「くわふく」「禍福」。

「來(きた)るを期(ご)しては」計画に時間を費やして企略などし、万全の襲撃の時期を待っていたのでは。

「木づたへに」「木傳ひに」。

「君父(くんぷ)の仇(あだ)にはともに天いたゞかず」「君父の讐(あだ)は俱に天を戴かず」で「不俱戴天」のこと。主君や父・師の仇(かたき)とともには、この世に生きていくことは出来ぬ。命をかけても報復しないではいられぬことを言う。「禮記」「曲禮上」に基づく故事成句。

「鶴沼」福島県の中通り地方の岩瀬郡天栄村を中心に流れる阿賀野川水系の鶴沼川。(グーグル・マップ・データ)。

「大川」福島県会津盆地を流れる阿賀野川本流上流の会津地方での呼称。阿賀川とも。

「御山のけう國寺」不詳。福島県会津若松市門田町大字御山は現存するが、(グーグル・マップ・データ)では前の二つの川を渡ったというのと合致しないように思われるし、「けう國寺」なる寺も同地域には現存しない。識者の御教授を乞う。因みに、底本には「けう國寺」の「けう」に漢字を当てていないところを見ると、底本編者もこの寺を同定し得ていないものと思われる。但し、後に出る「奧州會津御山村(おやまむら)何がし」というのは現在の「御山」であってもおかしくない。

「こも」「菰」。

「五月中旬」辰之助仇討実行は弥生の桜の盛りであったから、二ヶ月以上かかって帰国したことになる。

「玉峯禪寺」不詳。

「しゆら道」「修羅道」。闘諍の末に討たれた彼は修羅道に輪廻していると考えるのは腑に落ちる。

「とくだつ」「得脱」。

「公(きみ)」私の推定訓であるが、最後に原典が「キミ」と訓じているから間違いない。

「隔生則妄(カクシヤウソクモウ)」「きやくしやうそくまう」が歴史的仮名遣としては正しい(現代仮名遣「きゃくしょうそくもう」)。人がこの世及び輪廻の転生先に生まれ変わる際に前世のことは忘れ去るということを指す。

「石筆(せきひつ)」黒色又は赤色の粘土を固め、削って筆のようにし、管軸に嵌めて字を書くもの。

「かみ」「嚙み」。

「今こそは浮世の闇もはれにけり西へ導ひけ山の端の月」整序する。

 

 今こそは浮世の闇も晴れにけり西へ導びけ山の端(は)の月

 

「せうがもゝとせの命を捨(すつ)る」「妾が百年の命を捨つる」。

「もふすべき」「申(まふ)すべき」。

「野々山に消る斗の情けかは消にし露のこけの下まて」整序すると、

 

 野の山に消ゆる斗(ばか)りの情(なさ)けかは消えにし露のこけの下まで

 

であるが、これは謂わば、この復讐譚に心うたれた作者三坂が最後に添えた花であるととれる。本篇では、後半、随所で、語り手であるはずの筆者自身が、慨歎する如き表現が随所に見られ、それがまた、本作を優れて感動的なものにしている。]

柴田宵曲 俳諧博物誌 (3) 鳶 二

 

       

 

 鳶の舞台は天空である。しかも常に高所を飛んでいる。鳥と名がつく以上、空を飛ばぬ族(やから)は稀であるが、われわれの親しく見得る範囲において、鳶の如く悠々たる高空飛行を続けている者はあるまい。「鳶の輪」という言葉は、高空における鳶の動作を描いて遺憾なきものである。

 

 鳶の輪につれて寄らばや山ざくら   丈 艸

 鳶の輪の下に野中の柳かな      百 杖

 鳶の輪の下に鉦(かね)うつ彼岸かな 大江丸

 

 三句とも春の句であるのは偶然であろうか。丈艸の句は「つれて寄らばや」という中七字が、少しく不明瞭のように思われるが、一本に「鳶の輪の崩れて入(いり)や」とあり、これに従えば句意も明であるのみならず、今まで長閑に舞っていた鳶が、急に輪を崩して山桜の梢に見えなくなったという点で、一句の上に或(ある)変化を生ずることになる。先年山崎から宝寺(たからでら)辺に遊んだ時、図らずもこの句と同じ光景に遭遇してなるほどと思った。丈艸の句は何処かわからぬが、実景を捉えたものであることは疑(うたがい)を容(い)れぬ。

[やぶちゃん注:「山崎から宝寺(たからでら)辺」「宝寺」は京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう)の天王山中腹にある真言宗天王山(又は銭原山)宝積寺(ほうしゃくじ:本尊十一面観音。養老八・神亀元(七二四)年に聖武天皇の勅命を受けた行基が開いたと伝承し、聖武天皇が夢で竜神から授けられたとする「打出」と「小槌」(両者は別の物。前者は短い握りとその上に刻みのついた打部がある小型の棒状のもの)を祀ることから「宝寺(たからでら)」の別名がある。この附近(東海道本線山崎駅から宝積寺辺り。グーグル・マップ・データ)を散策したということであろう。]

 

 春風や動くともなき鳶の羽   嘯山(せうざん)

 鳶飛(とん)で影も動かず花盛(はなざかり)

                乙由(おついう)

 澄切(すみきつ)て鳶舞ふ空や秋うらゝ

                正己(せいき)

 

 これらは「鳶の輪」の語は用いてないけれども、輪を描くのとほぼ同様の状態であろう。乙由の句は世界において丈州の句に近い。ただ丈州の方は「崩れて入や」の語によって、鳶の輪と山桜とを巧(たくみ)に繋いでいるに反し、乙由の「花盛」は漠然としていて、季節を現す以外に一向その景色が浮んで来ないのである。

 

 長閑(のどか)さや尾羽に楫(かぢ)取ル雲の鳶

                桃先(たうせん)

 はるの日や鳶の尾ひねるうら表 輕舟

 

の二句は、天空の鳶に対し、更にこまかな観察を試みたのであるが、少しく細工に堕した傾(かたむき)がある。桃先の句に「天の鳶淵の魚」という前書がついているのは、『詩経』の「鳶飛戾天。魚躍干淵」を引いたに過ぎぬにしろ、眼前の自然を直視する者に取っては、一枚の故紙も或隔りとならざるを得ない。しばらく『詩経』を伏せて、この句を三誦(さんしょう)して見ても、竟に生々(せいせい)たるものを欠いているのをどうすることも出来ぬ。

[やぶちゃん注:「鳶飛戾天。魚躍干淵」正字化した。「詩經」の「大雅」にある「旱麓(かんろく)」の第三連の一節。

 

 鳶飛戾天

 魚躍于淵

 豈弟君子

 遐不作人

  鳶(とび)飛びて天に戾(いた)り

  魚(うを)淵に躍(をど)る

  豈弟(がいてい)の君子よ

  遐(なん)ぞ人を作(な)さざらん

 

これは現在、幼き領主君子への祭事の後に捧げられた言祝ぎの詩と考えられており、「鳶が限りなき天空の果てまで自由自在に飛び上り、魚が深い淵で自ずから楽しんで飛び跳ねる如く、天然自然の理に従って、若き御子におかせられては、何事もなく成長なされ、立派な君子となられますように」と言った謂いであろう。]

 

 鳶に乘(のつ)て春を送るに白雲や 其角

 鳶の羽や夕日にすきて雲の峯    荻人(てきじん)

 雲の峯これにも鳶の舞ふ事よ    之房(しばう)

 鳶ののぼる限りなき哉雲の峯    榎柢(かてい)

 鳶鴉(からす)空は隙なし秋の雲  鼠彈

   風哉庵

 しぐれせぬ時には雲に鳶一つ    野坡

 

 鳶の句に雲が出て来るのは自然の順序であろう。其角の旬は『田舎之句合(いなかのくあわせ)』に出ている。彼がいまだ二十歳、蕉門の立脚地の全く走らぬ時代だから、自然の趣に遠いのは致方(いたしかた)がない。「鳶に乘て春を送る」は慥(たしか)に奇想で、後年の其角の面目は多少この裡(うち)に見えている。雲の峯の三句の中では、荻人の「鳶の羽」が最もすぐれているかと思う。夕日の前を飛ぶ鳶の羽が明に透いて見える光景は、われわれもしばしば目撃した。大きな雲の峯を背景にして、夕日の鳶をはっきり描いたところに、この句の特色を認めなければならぬ。之房及(および)榎抵の句はこれに比べると抽象的で、高く翔(かけ)る鳶の姿を髣髴するものがない。

 子規居士の句に「大凧(おほだこ)に近よる鳶もなかりけり」という句があるが、凧を紙鳶(いか)といい、支那には古く木鳶(もくえん)なるものもあったらしいから、因縁浅からざる間柄であろう。凧の揚る春の空に鳶も舞う。この二つの配合には、古人も興味を持っていたようである。

[やぶちゃん注:「木鳶(もくえん)」戦国時代の「韓非子」の「外儲左上」の中に、先行する「兼愛」の思想家で優れた技術者でもあったとされる墨子が「木鳶」(木製のグライダーのようなものと推定される)を作ったとする記載(但し、人の技術力は万能ではない例として批判的に)が出る。

   *

墨子爲木鳶、三年而成、蜚一日而敗。弟子曰、「先生之巧、至能使木鳶飛。」。墨子曰、「吾不如爲車輗者巧也、用咫尺之木、不費一朝之事、而引三十石之任致遠、力多、久於數。今我爲鳶、三年成、蜚一日而敗。」。惠子聞之曰、「墨子大巧、巧爲輗、拙爲鳶。」。

   *

 墨子、木鳶を爲(つく)り、三年にして成り、蜚(と)ぶこと、一日(じつ)にして敗(やぶ)る。弟子、曰く、

「先生の巧(かう)、能(よ)く木鳶をして飛ばしむるに至る。」

と。墨子、曰く、

「車輗(しやげい)を爲る者の巧みなるに如(し)かざるなり。咫尺(しせき)の木を用ひ、一朝の事を費さずして、三十石の任を引く。遠きを致すに、力、多く、歳數に久し。今や、我れ、鳶を爲るに、三年にして成り、蜚ぶこと一日にして敗る。」

と。

 惠子、之れを聞きて曰く、

「墨子は大巧なり。輗を爲るを巧とし、鳶を爲るを拙とす。」

と。

   *

「車輗」は車の轅(ながえ)の端と軛(くびき)とを結びつける小さな器具。]

 

 きれ凧も鳶も嵐の行方かな   玉羽

 寄見ては又のく鳶やいかのぼり 嘯山

 生烏賊(なまいか)や鳶引懸(ひつかけ)ていかのぼり

                箇口

 

嘯山の句は子規居士よりこまかいところを見せたが、少し説明に流れた嫌(きらい)がある。鳶の攫った生烏賊を直に「いかのぼり」というが如きは、滑稽というよりも駄酒落で、芭蕉以後の句らしくもない。嵐の空に凧は切れて飛び、鳶も遠く舞い去る玉羽の句は、平凡なように見えて、やはり生趣に富んでいる。

 

 古鳶のきげんなほりぬ朝がすみ    士朗

 鳶はまだ霞(かすみ)て居るや更衣(ころもがへ)

                   朱拙

 塵ほどに鳶舞上る卯月かな      梅室

 鳶舞て霧に霧ふる太空(みそら)かな 丿松(べつしよう)

 

 これらはいずれも天空遥(はるか)なる鳶を描いている。朱拙の句はちょっと人間が顔を出すようであるが、この場合の人はさほど重要な役をつとめていない。現在衣を更(か)えつつある人がどうとかいうよりも、更衣の季節が主になっている。即ち首夏(しゅか)の侯に当って衣を更える、折ふし鳶の舞う空は、春の名残をとどめて、ほのかに霞んでいる、という意である。暦の上の春と夏とは截然(せつぜん)と区別し得ても、風物の上では混雑を免れぬ。夏霞という季題さえ存在する以上、空が霞んでいたところで、何の不思議もないわけだけれども、それをどこまでも春の名残と見る。こういう観察なり表現なりは、俳句として決して上乗(じょうじょう)のものではない。けれども「古鳶のきげんなほりぬ」という擬人的な趣向や、「塵ほどに鳶舞上る」という誇張された形容に比べると、やはり元禄期の句らしい自然なところがある。「霧に霧ふる」というのは、一面の霧の上に更に霧が立ち重(かさな)る場合であろう。大空の鳶もあるいはそのために姿を見失ってしまうかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「首夏(しゅか)」夏の初め。初夏。陰暦四月の異称でもある。

「空が霞んでいたところで、何の不思議もないわけだけれども、それをどこまでも春の名残と見る。こういう観察なり表現なりは、俳句として決して上乗(じょうじょう)のものではない」と主張するのであれば、季語など不要であり、題詠に拠る無精詠吟など愚の骨頂である。私の俳句体験は中学時代に自由律俳句の「層雲」から始まった経緯もあり、無季俳句を支持する人間である。そもそもが、芭蕉は「季の詞ならざるものはない」とはっきり言っている。俳諧俳句に用いられる語彙が正しく正確に選ばれたものであればあるほど、その中には必ず絶対的属性として季節が既にして「ある」のである。]

 

 鳶の羽の力見せ行野分かな   玉志(ぎよくし)

 冬近き日のあたりけり鳶の腹  白雄

 

の如き句になると、同じく天空を舞いながらも、野分とか日光とかいうものが加わるために、自(おのずか)らその動きが中心になって来る。白雄の句は分類すれば秋の季に入るわけだが、一句から受ける感じはむしろ冬の分子が多い。頭上低く舞う鳶の腹に、やや斜になった日影があかあかとさすという光景は、われわれも何時(いつ)か何処かで仰いだ記憶があり、慥に「冬近き」季節とぴったり合うものである。こういう微妙な感じを捉えることは、正に俳人得意のところであろう。

 

 鳶ほどな雲夕立のはじめかな      鼠卜

   市中夕立といふ題

 鳶の香も夕だつかたに腥(なまぐさ)し 其角

 

 前の句は最初鳶位な大きさであった黒雲が、遂に一天にひろがって沛然(はいぜん)たる夕立を齎(もたら)すというので、鳶はただ雲の形容に用いられたに過ぎぬ。後の句は題を得て詠んだものの如くであるが、一句の趣は頗る異色に富んでおり、鳶の多かった江戸市中の空気が連想されるのみならず、爽快なる驟雨の感が十七字に溢れている。仮にこういう題があったにしても、この趣は都会詩人たる其角の実感から生れたものに相違ない。鳴雪翁は『其角研究』でこの句を説くに当り、漢詩では「龍氣腥」などといって、夕立に腥の字をよく用いる、という意味のことをいわれたかと思う。言葉は其角一流に捻っているが、鳶を描いて鳶を離れ、一脈の涼風を紙表に漂わしむる点で、この句は嶄然(ざんぜん)他を抽(ぬ)いている。渡辺華山の俳画に市中白雨(はくう)らしい光景を画いて、それに「鳶の香」の一句が遺してあったことを思い出す。

[やぶちゃん注:「沛然(はいぜん)」雨が勢いよく降るさま。

「龍氣腥」例えば、晩唐期、李商隠とともに「温李」と並称された温庭筠の「秋雨」に、

 

   秋雨

 雲滿鳥行滅

 池涼龍氣腥

 斜飄看棋簟

 疏灑望山亭

 細響鳴林葉

 圓文破沼萍

 秋陰杳無際

 平野但冥冥

 

とある。

「嶄然(ざんぜん)」「嶄」は「高く険しい」の意で、「一段高く抽(ぬき)ん出ているさま」「一際、目立つさま」を言う。

『渡辺華山の俳画に市中白雨(はくう)らしい光景を画いて、それに「鳶の香」の一句が遺してあった』「白雨(はくう)」は明るい空から降る雨。俄か雨のこと。この絵、見て見たい(但し、それらしい題名で贋物もあるようだ)。識者の御教授を乞う。]

 

 二里程は鳶も出て舞ふ汐干(しほひ)かな 太祇

 

 この句は天空の鳶を描くと共に、地上の世界をも描いている。その世界は一面の汐干潟であるため、天地の寄合の極みまで一陣に入る大観となつて、われわれの眼前に展けて来る。干潟の空に舞う鳶を遥に眺めて、あれは二里位も沖であろうと感じたのを、「二里程は鳶も出て舞ふ」と断定的な表現を用いたところに、太祇の長所もあれば短所もある。鳶が海天に舞うのは、汐干の際に限ったわけではないが、何ら眼を遮(さえぎ)る物のない干潟は、この高空飛行者に取って絶好の舞台でなければならぬ。彼は悠々と輪をかきながら、太祇の目測に従えば二里ほども沖の空に出つつある。瞰下(かんか)する大干潟に蠢(うごめ)く小動物は、悉くその鋭い双眼に収(おさま)り、時あって颯(さっ)とおろして来れば、漏(もれ)なくその餌食(えじき)になるのであろうが、太舐はそういう点に力を入れず、「二里程は鳶も出て舞ふ」の一語によって、汐干潟の広さを現そうとした。こんな大観を捉えたものも、鳶の句としては珍しいのである

 

 鳶鴉目早き空の雪解(ゆきげ)かな 素丸(そまる)

 蛙(かはづ)なく田のいなづまや鳶の影

                  野坡

 

 空中にある鳶の眼は何に注がれているか、素丸はその消息を詳(つまびらか)にしておらぬが、野坡はほぼこれを伝えている。春もやや深くなって、蛙が頻(しきり)に鳴立てる水田の上に、鳶が颯とおろして来る趣を「いなづま」と形容したものであろう。地上の小動物が鳶の影におののくことは前に述べた。平和な田園の音楽師も、一たびこの影の水田を掠(かす)めるに及んでは、敵機来襲以上に驚いて、鳴りをひそめるに相違ない。この句における鳶は、纔(わずか)にその影を水田に落すに過ぎぬけれども、それだけで猛禽の本色は十分に現れている。彼は徒(いたずら)に悠々として青天に輪をかいているわけではない。

 

2017/11/18

ローガン

今夕、「ローガン」を見た。

平行世界の時間軸の変容を収束させ、「Xメン・シリーズ」の最後を飾って余りあるよい作品であった。

同じ平行世界を扱いながら、昨夜見た「ターミネーター・ジェニシス」が、生死の問題を等閑視しており、存外に無感動であって失望したのとは大違いであった。

ローラとローガンの別れのシーン――まさか、このシリーズの中で、私の涙腺が緩むとは思っても見なかった。それは確かに私の老いの結果とも言えなくもないが、それはまた、アリスを失った私の今の心理状態によるものが甚だ大きい故であろう。

そもそも――「死ぬことが出来なかったはずの『絶対の孤独』者であるはずだったローガンが『絶対の死を迎える人間として』――しかも『他者から愛されて死ぬことが出来る』ということを知り得て、真の『ちっぽけな人間としての』死を『確かに』迎えることが出来たことを『安らかに人として実感する』――というエンディングは、禅の糞っ垂れた公案なんどより、遙かに『実感としての』説得力を持っている。

ネタバレにならぬ程度に言っておくと、子供たちが野放しのアメリカを脱出して銃規制のより厳しいカナダに向かうという設定、さらに往年の映画ファンには堪(こた)えられない大きな伏線が重要な形で張られている点でも、私は脚本もよく出来ていると思った。

十字架の洒落(皮肉)も私はすこぶるよいと感ずる。

人間を亡ぼし得るもの、且つ、逆にそれを救い得るもの、とは、神なんどではなく、人間そのものだ――ということに於いて、である――

和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕


Hakutyou

はくちやう 鵠【音斛】 鳴哠

      哠故名鵠

天鳶

      凡物大者皆

      以天名故曰

テンゴウ  天鵞

 

本綱鵠大于雁羽毛白澤其翔極高善歩謂鵠不浴而

白一擧千里是也

――――――――――――――――――――――

有黄鵠丹鵠 其皮毛可爲服飾謂之天鵞絨

大金頭鵞 似雁而長項入食爲上美于鴈

小金頭鵞 形差小又有不能鳴鵞飛則翔響

△按天鵞【一名鵠】俗云白鳥也似白雁而大項頸長而肥大

 眼前觜上黄赤觜脚俱黑羽毛白澤其翔極高而善歩

 其翅骨甚強鷹亦勞則爲之被搏其腹毛太柔厚製之

 作革造襯衣及巾膕則温燠能禦寒是天鵞絨之類乎

 翅之裏羽細長潔白而羽莖中正者俗稱君不知以造

 楊弓箭羽甚佳也常奧二州之産尤好其肉肥美味羽

 亦勁厚餘州之産者肉味不美其羽亦軟弱不足用之

一種有俗稱大鳥者狀似鵠而甚肥大白交黄紫花斑羽

 尾黑有白處而帶黄色脚指青而蹼及指端爪邊帶微

 赤色飛翔有響一擧千里唳于九霄近頃西北海島上

 捕之常見之者稀

 鵠字有二物可分別一卽此白鳥也一卽小鳥【久々比】也

 日本紀埀仁天皇皇子譽津別王生年既三十而未言

 焉十月八日於大殿前有鳴鵠度大虛皇子仰觀鵠曰

 是何物耶仍勅天湯河板擧令捕之時板擧遠望鵠飛

 之方追尋詣出雲而捕獲十一月二日獻鵠也皇子弄

 是鵠遂得言語由是敦賞之賜姓而曰鳥取造因亦定

 鳥取部鳥養部【日本紀鵠訓久々比不審】鵠恐此白鳥矣非大鳥者

 何能鳴度大虛飛到數百里乎

 

 

はくちやう 鵠【音、「斛〔(コク)〕」。】 鳴く

      こと、「哠哠」たり。故に鵠と名

      づく。

天鳶

      凡そ、物。大〔なる〕は、皆、

      「天」をつて名づく。故に、「天鵞」

      と曰ふ。

テンゴウ

 

「本綱」、鵠は雁より大にして、羽毛、白く澤(うるほ)ひ、其の翔〔(と)ぶや〕、極めて高く、善く歩く。鵠、浴びずして白く、一擧、千里と謂ふは、是れなり。

――――――――――――――――――――――

黄鵠・丹鵠、有り。 其の皮毛、服(きもの)・飾(かざり)と爲べし。之れを「天鵞絨(ビロ〔ウ〕ド)」と謂ふ。

大金頭鵞 雁に似て、長き項〔(うなじ)〕。食に入れて、上と爲す。鴈より美なり。

小金頭鵞 形、差(やや)小さし。又、鳴くこと能はざる〔も〕、鵞、飛びて、則ち、翔〔(はね)〕、響(ひゞ)く有り。

△按ずるに、天鵞【一名、「鵠」。】俗に云ふ白鳥(はく〔ちやう〕)なり。白雁に似て、大なり。項〔(うなじ)〕・頸、長くして、肥大なり。眼の前・觜の上、黄赤。觜・脚、俱に黑。羽毛、白澤。其れ、翔(かけ)ること、極めて高く、而〔も〕善く歩く。其の翅の骨、甚だ強く、鷹も亦、勞するときは、則ち、之の爲に搏(う)たるる。其の腹の毛、太〔(はなは)〕だ柔厚〔にして〕、之れを製して、革を作り、襯-衣(はだぎ)及び巾膕(きやはん)に造る。則ち、温燠〔(をんをう)〕にして能く寒を禦〔(ふせ)〕ぐ。是れ、「天鵞絨」の類か。翅の裏の羽、細かに長く潔白にして、羽の莖の中正なる者を、俗に「君(きみ)知らず」と稱す。以つて楊弓の箭〔(や)〕の羽に造りて甚だ佳なり。常・奧二州の産、尤も好し。其の肉〔も〕、肥〔えて〕美味〔なり〕。羽も亦、勁厚〔(けいこう)〕なり。餘州の産は、肉の味〔も〕美ならず、其の羽も亦、軟弱にして、之れを用ふるに足らず。

一種、俗に「大鳥」と稱する者、有り。狀、鵠に似て、甚だ肥大。白くして、黄・紫の花斑〔(くわはん)〕を交ふ。羽尾、黑くして、白き處、有り、黄色を帶ぶ。脚指、青くして、蹼〔(みづかき)〕及び指の端・爪の邊り、微赤色を帶ぶ。飛び翔(かけ)る時、響(ひゞ)き有り、一擧千里、九霄〔(きうせう)〕に唳〔(な)〕く。近頃、西北海、島の上〔にて〕、之れを捕ふ〔と〕。常に之れを見るは稀なり。

「鵠」の字、二物、有〔れば〕、分別すべし。一つは、卽ち、此の「白鳥」なり。一つは、卽ち、「小鳥」【「久々比〔(くぐひ)〕。】なり。「日本紀」埀仁天皇の皇子譽津別王(ほむつわけの〔おほきみ〕)、生年〔(しやうねん)〕既に三十にして、未だ言(ものい)はず。十月八日、大殿の前に於いて、鳴〔ける〕鵠、有〔りて〕、大虛(をほぞら)に度(わた)る。皇子、仰ぎて、鵠を觀て曰く、「是れ、何物(〔も〕の)や」〔と〕。仍〔(よつ)〕て天湯河板擧(〔あめのゆかは〕のたな)に勅して、之れを捕らしむ。時〔に〕、板擧(たな)、遠く、鵠、飛〔(とぶ)〕の方を望み、追ひ尋ねて出雲に詣(いた)り、捕獲して、十一月二日、鵠を獻ず。皇子、是の鵠を弄(もてあそ)び、遂に、言語を得。是に由つて、敦(あつ)く之れを賞したまひて、姓を賜ひて、「鳥取造(とつとりのみやつこ)」曰ふ。因りて亦、「鳥取部〔(とつとりべ)〕」・「鳥養部〔(とりかひべ)〕」を定む【「日本紀」、「鵠」、「久々比」と訓ず。不審。】。「鵠」、恐らくは、此の「白鳥」ならん。大鳥に非ずんば、何ぞ能く鳴きて大虛を度(わた)らん、〔また、〕飛ぶこと、數百里に到らんや。

 

[やぶちゃん注:最後に良安は二つの別な鳥(群)を指すとするが、そもそも彼が「白鳥(はくちょう)」と別種とする「鵠(くくひ・くぐひ)」はその白鳥の古称であるからして、ここは鳥綱 Aves カモ目 Anseriformes カモ科 Anatidae Anserinae 亜科に属する広義のハクチョウ類を指すと考えてよい。同亜科はハクチョウ属Cygnus・カモハクチョウ属 Coscoroba の二属に分かれ、ハクチョウ属にコブハクチョウCygnus olor・コクチョウCygnus atratus(和名の通り、ハクチョウ属であるが、成長するにつれて黒くなる)・クロエリハクチョウCygnus melancoryphus・オオハクチョウCygnus cygnus・ナキハクチョウCygnus buccinator・コハクチョウCygnus columbianus が、カモハクチョウ属にカモハクチョウ Coscoroba coscoroba がいるが、本来、古来から本邦に自然に飛来して来る種はオオハクチョウ Cygnus Cygnus とコハクチョウ Cygnus columbianus の二種のみであったと考えられるから、ここで良安の二種(「大鳥」と小鳥の「鵠(くぐい)」)の区別は大きさの点だけでも、これに合致する

 

「哠哠」白鳥の鳴き声のオノマトペイアで漢字を当てたものであるが、この「哠」の字は「喋る」の意があるので、実にマッチしたものと言える。東洋文庫訳は『皓皓』とするが、誤りである。

「浴びず」水浴びをしないのにも拘わらず。

「一擧、千里」一たび、飛び立てば、そのまま休むことなく千里を翔(かけ)ること。但し、これは明代の千里となるから(一里は五百五十九・八メートルしかない)、約五百六十キロメートルとなる。

「黄鵠」中文ウィキによれば、オオハクチョウ Cygnus Cygnus の現在の中文名が「黄嘴天鵝」であるから、それである可能性が高いかと思われる。

「丹鵠」中文ウィキによれば、コブハクチョウCygnus olor の別名としてある。

「天鵞絨(ビロ〔ウ〕ド)」ビロード。ベルベット。ポルトガル語の「veludo」で、本来は羽毛ではなく、表面が滑らかな感触の絹織物を指す。

「大金頭鵞」そのまま「だいきんとうが」(現代仮名遣)と読んでおく。

「食に入れて」食用に用いて。

「小金頭鵞」そのまま「しょうきんとうが」(現代仮名遣)と読んでおく。

「差(やや)」「稍」に同じい。

「鳴くこと能はざる〔も〕」鳴くことは出来ないが。殆んど鳴かない鳥は普通にいるが、種として鳴くことが出来ない鳥というのは私はいないのではないかと思う。いるということであれば、是非、御教授を乞うものである。

鵞、飛びて、則ち、翔〔(はね)〕、響(ひゞ)く有り。

「勞するときは」疲労して思うように飛べぬ時は。

「襯-衣(はだぎ)」肌着。

「巾膕(きゃはん)」脚絆。

「温燠〔(をんをう)〕」暖かいこと。

「君(きみ)知らず」若杉稔氏のサイト「マーリン通信」の「江戸時代の鷹狩り」の「君不知毛(きみしらずげ) とは?」に以下のようにある。

   《引用開始》

 江戸時代、鷹狩りに使われたタカはもっぱらオオタカのメスでした。その次に、ハヤブサ、ハイタカが使われ、まれに、コチョウゲンボウ、チゴハヤブサ、ツミなどが使われたようです。いずれもメスです。ハイタカは仕込みが難しいことからいちばん格の高い最高位のタカとして使われました。ハヤブサは森林の多い日本の環境にはやや向かないこともあってか、わざと格を下げて、蔑(さげす)まされて使われていました。

 さて、今回は、切経緒(きりへお)というハイタカ、ツミにしか使われない特別なものについて、記述します。ツミが鷹狩りにどの程度使われていたかはよく分かりませんが、大名の献上品目録には、時々ツミ(雀鷂)が出てきますので、ある程度使われていたことは確かです。しかし、タカ狩りの世界では、ツミは完全に脇役です。

 オオタカやハヤブサは、鷹匠の拳から飛び立ち、獲物を捕らえた後、すぐに捕らえたその場で獲物の羽毛をむしり始めたり、首の骨を折ることをし始めたりします。獲物を足にぶら下げて運ぶことはあまりしません。特に、しっかりと仕込まれたタカは獲物を運びません。しかし、ハイタカ、ツミは捕らえた獲物をすぐにぶら下げて運んでしまいます。そもそもそういう習性があるようです。そこで、鷹匠が考えたのは、ハイタカ、ツミの足に短いひもをつけることでした。このひものことを、切経緒(きりへお)といいます。馬の尾の毛を3本でよって作ったひもで長さ2mくらい、その一番先端に、ハクチョウの君不知毛(きみしらずげ)を付けます。君不知毛は脇腹にある羽で、「腋羽」のことです。どの鳥にもありますが、大きくて、白いことからハクチョウの羽が使われていました。

 身近な図鑑では、森岡照明さんら4人著の「日本のワシタカ類」、45ページのトビの写真によく写っています。下の写真で、右脇腹からピンと飛び出た羽が君不知毛です。

[やぶちゃん注:リンク先でここに挿入された写真を確認されたい。]

 なぜ、ハクチョウのこの羽が使われたのでしょうか。それはこの羽が白く目立つことと、羽軸に対して左右対称であること、しかも表と裏もそりがなく対称のため、ひもの先に付けて引っ張っても羽がクルクルと回転することがないからです。他の部位の羽、例えば風切羽や尾羽を使うと羽が必ず回転してしまい、ひもがよじれてしまいます。

   《引用終了》

これでその呼称と用途の確認は出来たが、何故、この羽を「君知らず」と呼ぶのかが判らない。自分の羽の脇羽であるから、鳥自身からは見えず、地上からは目立つことを、憐れんでかく呼んだものか? 識者の御教授を乞う。

「常・奧二州」常陸(ひたち)国と奥羽地方(陸奥国(奥州)と出羽国(羽州))或いは常陸と陸奥国。

「勁厚〔(けいこう)〕」厚みがあって強靱であること。

「餘州」それ以外の他の地方。

「九霄〔(きうせう)〕」空の高い所。

「唳〔(な)〕く」「啼く」。

「西北海、島の上」不詳。隠岐や壱岐・対馬であれば、そう記すはずであるから、北九州或いは山陰地方の海岸に近いマイナーな島であったか。

「「日本紀」埀仁天皇の皇子譽津別(ほむつわけの)王……」「日本書紀」の垂仁天皇二十三年(単純換算で紀元前七年)十月壬申の条。

   *

二十三年秋九月丙寅朔丁卯。詔群卿曰。譽津別王。是生年既三十。髯鬚八掬。猶泣如兒。常不言何由矣。因有司而議之。

冬十月乙丑朔壬申。天皇立於大殿前。譽津別皇子侍之。時有鳴鵠。度大虛。皇子仰観鵠曰。是何物耶。天皇則知皇子見鵠得言而喜之。詔左右曰。誰能捕是鳥獻之。於是。鳥取造祖天湯河板擧奏言。臣必捕而獻。卽天皇勅湯河板擧曰。汝獻是鳥、必敦賞矣。時湯河板擧遠望鵠飛之方。追尋詣出雲而捕獲。或曰。得于但馬國。

十一月甲午朔乙未。湯河板擧獻鵠也。譽津別命弄是鵠。遂得言語。由是以敦賞湯河板擧。則賜姓而曰鳥取造。因亦定鳥取部。鳥養部。譽津部。

   *

譽津別王(ほむつわけの〔おほきみ〕)」ウィキの「誉津別命によれば、『誉津別命(ほむつわけのみこと、生没年未詳)は、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。垂仁天皇の第一皇子。母は皇后の狭穂姫命(さほひめのみこと。彦坐王の女)』。『名の由来を記では稲城の焼かれる火中で生まれたので、母により本牟智和気御子と名づけられたとする。母の狭穂姫命はその兄狭穂彦の興した叛乱(狭穂毘古の反乱)の際に自殺。紀では反乱の前に生まれていたとするが、火中から救い出されたのは記に同じ』。『誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという』。『『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある』。『一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき』、『皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て』、『鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れ』、『「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという』。『さらに、『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。それによると誉津別皇子は』七『歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国の花鹿山に行き、榊を折って鬘(髪飾り)を作り、ウケイして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある』。『多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また』、『阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天ミカ津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる』。『これらの話は神話研究では、記紀でのスサノオが大人になっても泣いてばかりであったことや、また『出雲国風土記』でのアジスキタカヒコネが口が利けなかったという神話と比較されている』とある。

「天湯河板擧(〔あめのゆかは〕のたな)」「日本書紀」の以上の箇所にのみ出現する人物。その他の詳細は不詳。

『「日本紀」、「鵠」、「久々比」と訓ず。不審』『「鵠」、恐らくは、此の「白鳥」ならん。大鳥に非ずんば、何ぞ能く鳴きて大虛を度(わた)らん、〔また、〕飛ぶこと、數百里に到らんや』良安はこの「日本書紀」に出てくる「鵠」が小さい方の「くぐい」の訓で読まれていることに不審と異議を申し立てているのである。この話柄の鵠は大和国から出雲まで非常な遠距離を飛翔しており、大きな鳥でないものが、どうして大声で啼きつつ高い高い上空をゆうゆうと飛び翔け渡り、しかも数百里も離れた地に至ることができようか、いやできない、これは小型の鳥である(良安の認識)「くぐい」なんぞでは到底なく、大型の「白鳥(はくちょう)」でなくてはあり得ぬことだ、とブイブイ言わせているのである。]

柴田宵曲 俳諧博物誌 (2) 鳶 一

 

[やぶちゃん注:「鳶」鳥綱タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans。]

 

       

 

 別所梅之助氏の『聖書動物考』という書物の中に、「トビ」について次のような事が書いてあった。

[やぶちゃん注:「別所梅之助」(明治四(一八七二)年~昭和二〇(一九四五)年)は牧師(メソヂスト監督教会所属)。豊橋・川越などで牧師を勤め、その後はメソヂスト教会の機関紙『護教』主筆や青山学院教授を勤めてもいる。明治三六(一九〇三)年と昭和六(一九三一)年の賛美歌改訂編集作業に携わり、自身も賛美歌を創作、日本の讃美歌史に貢献した。大正六(一九一七)年の「大正改譯聖書」の改訂にも委員として参加している。

「聖書動物考」別所梅之助著。大正九(一九二〇)年警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで視認出来る。ここでは底本に従わず、その原典画像から全文を正字正仮名で再現した。因みに別所は翌年には同書店から「聖書植物考」という姉妹編も出版している(それも国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで読める)。

 以下の引用は底本では全体が二字下げだが、無視した。その代り、引用が判然とするように前後を一行、空けた。]

 

 かつまた鳶の晴空に舞ふは、日本國土の風景として、すぐれたものゝ一であるのに、歌人も、俳人も、あまり詠じない。淸少は「鳶烏などの上は、みいれ、きゝ入れなどする人、世になしかし」と、けなしてゐる。さすがに畫工はこの鳥をうつしている。「鳶飛んで天に戾」っても、神武の御門の弓弭(ゆはず)にとまつて、御軍をかたせても、「鳶の子鷹にならず」などと、日本人はよきものに馴れて、その美しさをも、強さをも認めてゐないらしい。

[やぶちゃん注:「淸少」清少納言。私は個人的に研究者などがしばしば口にするこの省略形には生理的に激しい虫唾が走るタイプの人間である。

「鳶烏などの上は、みいれ、きゝ入れなどする人、世になしかし」一般に「枕草子」の第三十八段とされる「鳥は」の鳥尽くしの中の長い鶯についての複雑な感懐を語る中の一節に出現する。

   *

鳶・烏などの上(うへ)は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし。されば、いみじかるべきものとなりたれば、と思ふに、心ゆかぬここちするなり。……

   *

訳すなら、「鳥の中でも、鳶(とび)や烏(からす)などといった、どこにでもいて、大方、憎らしく思われている手合いに関しては、それにわざわざ心を留めて注目してみたり、その鳴き声に聴き耳を立てたりするような人は、世の中に一人だっていはしないではないか。だから、鶯は、当然の如く、とっても素敵なものと相場が決まってしまっているものだと思うにつけて、いろいろな人の勝手な鶯に対する物言いや批判には、私は納得が行かない気持ちがするのである。」である。ここまでの前の鶯の叙述と絡んで述べているので、完璧に理解するためには原典を参照されんことを望む。「枕草子」の原文や現代語訳は有象無象腐るほど(残念ながら、一部は歴史的仮名遣も知らず、また、とんでもない誤訳が散見する、サイト全体が存在しない方がよい部類のものも多いので精選されたい)ネット上にある。

『「鳶飛んで天に戾」っても、神武の御門の弓弭(ゆはず)にとまつて、御軍をかたせて』「御門」は「みかど」、「御軍」は「みいくさ」(底本にはルビがあるが、原典には「ゆはず」以外はない)。「弓弭」は弓の木製本体部の上下の両端の、弦(つる)の輪を掛ける部分の名称。弓を射る際に上になる方を「末弭 (うらはず)」、下になる方を「本弭 (もとはず)」 と称する。以上は「日本書紀」の「神武紀」の「神武天皇卽位前紀戊午年」(単純換算で紀元前前六六三年)の「十二月丙申」の冒頭の以下。

   *

十有二月癸巳朔丙申。皇師遂擊長髓彦。連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷。乃有金色靈鵄。飛來止于皇弓之弭。其鵄光曄煜。狀如流電。由是、長髄彦軍卒、皆迷眩不復力戰。長髓是邑之本號焉。因亦以爲人名。及皇軍之得鵄瑞也。時人仍號鵄邑。今云鳥見。是訛也。

   *

以下、我流で私が理解出来るように訓読してみる。

   *

十有二月(しはす)癸巳(みづのとみ)朔(ついたち)丙申(ひのえさる)。皇師(くわうし)、遂に長髓彦(ながすねひこ)を擊つ。連(しきり)に戰ふも、取り勝つこと能はず。時に、忽然にして、天、陰(ひし)げ、雨氷(ひさめふ)る。乃(すなは)ち、金色の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來たり、皇弓の弭(はず)に止まる。其の鵄、光り曄-煜(かかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)のごとし。是れに由りて、長髓彦が軍卒、皆、迷ひ眩(くら)みて、復た戰(いくさ)を力(きは)めず。長髓、是れ、「邑之本(むらのもと)」の號なり。因りて亦、以つて人の名と爲す。皇軍の鵄の瑞(みつ)を得るに及ぶなり。時の人、仍りて「鵄邑(とびのむら)」と號(なづ)く。今、「鳥見(とみ)」と云ふは、是れ、訛(なま)れるなり。

   *]

 

 鳶は尋常詩歌の材料にはあまり取入れられていないかも知れない。しかし俳語の世界では相当活動しているような気がする。別所氏が「歌人も、俳人も」といわれたのは、いささか早計に失しはせぬかとも考えたが、さてどの位鳶の句があるかということになると、俄に挙げる便宜がない。俳諸には歳時記というものが発達していて、季題になっている動物の事はいろいろ研究してあり、句集も多くは季題によって分類されているので、容易に検出し得るけれども、それ以外の動物の句を特に分類して集めた本は見当らぬからである。相当数の多い鳶の句について、別所氏が前のように述べておられるのを見て、先ず古人が鳶をどう詠んでいるか、少し調べて見たくなった。勿論こういう仕事は、何人(なんぴと)も万全を期するわけに往かぬ。またわれわれの目的は、鳶が如何に俳人に扱われているかを見るにあるので、必ずしも手許にある句を全部羅列しようというのではない。これだけの材料について見ても、俳人が決して鳶に冷淡でなかったことは、十分立証出来るというに過ぎぬのである。

 かつて先輩から聞かされた話によると、以前は東京の空も、麗(うらら)かな日和(ひより)には鳶や鴉が非常に多く飛んだものだが、今は少しも見えない。これは市中の掃溜(はきだめ)が綺麗になって、彼らの拾う餌がなくなったためだろう、ということであった。なるほどその通りであろう。われわれの子供の時分を考えて見ても、鳶はまだそれほど珍しくなかった。漣山人(さざなみさんじん)のお伽噺に、高千穂(たかちほ)艦のマストにとまった鷹の話を聞いて、その運命にあやかろうとした鳶が、町中の電信柱にとまってわざと子供につかまるという筋のものがある。或時われわれの通っていた下町の小学校の屋根に、鳶がとまって長いこと動かぬのを発見し、この話の趣向の偶然ならざるを合点すると共に、鳶という鳥の意外に大きいのに驚いたことがあった。あの頃の市中には彼らの餌になるものがいくらもころがっていたに相違ない。

[やぶちゃん注:「漣山人(さざなみさんじん)」児童文学者巖谷小波(いわやさざなみ 明治三(一八七〇)年~昭和八(一九三三)年)の別号。以上のお伽話は「鳶ほりよ、りよ」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該話の画像の冒頭)である。前年に日本が圧勝した日清戦争を題材にしたもので、明治二八(一八九五)年の『少年世界』第一巻第二号に発表された。「個人サイト「巌谷小波研究」の「7.小波御伽噺の展開(2)」にある「失敗するキャラクターたち」によれば、以下のようなおぞましい隠喩(メタファー)が隠されたおぞましい童話である。

   《引用開始》

 安倍季雄が心に残っていると回想していた「鳶ほりょ、りょ」を見てみよう。これは、高千穂艦の帆柱にとまった鷹の真似をして、鳶が電信柱の上にとまって、人間がつかまえてくれるのを待つ話である。子どもは鳶をつかまえて「豚尾、捕虜、虜」と町じゅうを引きずりまわす。鳶は清国の辮髪を豚尾と呼んだのとかけている。清国のアレゴリーである。寓意の方は、鳶が鷹の真似をする〈身の程知らずの大たわけ〉という小波お伽噺のなかでも一番馴染みのものである。この時期の作品は、大部分が清国を暗喩するキャラクターの一人芝居による失敗談だが、この鳶の失敗ぶりは、「鳶ほりよ、りょ」という語呂合わせの洒落もうまくいって、その代表といっていいものになっている。

   《引用終了》

題名の「ほりよ、りよ」は最後まで読むと判る。]

 ペルリ上陸の大きな記念碑の建っている久里浜の一角に、一泊がけで遊んだ時は、何よりも鳶の多いのに驚かされた。鳶の声で目を覚したのは、この時が最初の経験である。一泊した家の外側が直(す)ぐ広い砂地で、そこに魚か何かが干してあったから、それを狙って来るのであろう。多くの鳶は悠々と空に輪を描かず、砂の上に下りて頻(しきり)に鳴き立てる。全くうるさい位であった。鳶の少くなった今の東京でも、東京港となった芝浦の空には、しばしば鳶の飛翔するのを見かける。あれは御浜御殿(おはまごてん)の鬱蒼たる立木の中に、巣があるために相違ないが、同時に彼らの餌が絶無でない結果と思われる。

[やぶちゃん注:「御浜御殿(おはまごてん)」現在の東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園浜離宮恩賜庭園。]

 大正十一年であったか、亡友井浪泊村(いなみはくそん)君が須磨に病を養っていた頃、送って来た句稿の中に、鳶を詠んだものが沢山あった。今おぼえているのは、「亦今日も午後の曇や鳶の秋」という一句に過ぎぬが、その句が多いだけ須磨の空には多くの鳶が飛翔し、病牀(びょうしょう)の泊村君は窓外に眼を放って無聊(ぶりょう)を慰めつつあるものと想像された。同君を須磨に見舞ったのは八月の暑い頃で、蒼茫と暮れて行く海の色を見ながら、夜に入るまで雑談に耽ったが、鳶の事は記憶にない。その後また暫く須磨におった時分の句に、「秋の鳶返りつゝ鬪へり」というのがある。あるいは須磨の鳶は秋に入って特に人の眼に親しくなるのかも知れない。元禄時代にも

 

 鳴(なき)もせで鳶の山行(ゆく)須磨の秋 史顯

 

という句があるから、古人も夙(つと)に、須磨の鳶に著眼していたのである。山を負い海を控えた須磨のような土地に、多くの鳶が飛翔するのは当然でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「大正十一年」一九二二年。

「井浪泊村」不詳。]

 岡本綺堂氏の随筆に「鳶」という一篇があって、東京に鳶の多かった時代から、次第に少くなった昭和年間にまで説き及ぼしてある。麹町に生れた綺堂氏は子供の時分から鳶は毎日のように見ており、トロトロトロというような鳴声も聞慣れていた。鳶に油揚を攫われるという事実もしばしばあったし、肴屋が盤台をおろして肴を拵えているところへ、鳶が突然舞下って来て、魚や魚の腸(はらわた)などを攫み去ることも珍しくなかった、と書いてある。日露戦争前に東京に来ていた英国の留学生が、大使館の旗竿に鳶がとまっているのを見て、「鳶は男らしくて好い鳥です。しかしロンドン附近ではもう見られません」というのを聞き、心ひそかにおかしく思ったが、その鳶もいつか保護鳥になり、東京人もロンドン人と同じく、鳶を珍しがる時代が来た。自然の運命であるから、特に感傷的の詠歎を洩すにも及ばないが、「鳶の衰滅に對して一種の悲哀を感ぜずにはゐられない」というのである。都市の発展に伴う鳶の衰滅は、明治より大正昭和に至る変遷の一片であるが、「鳶」の書かれた昭和十一年から、約二十年たった今日でも、東京の鳶は絶滅に帰していない。大東京の空は以前とは比較にならぬ広さだから、まだまだ当分は高く舞う彼らの姿を眺め得るはずである。

[やぶちゃん注:『岡本綺堂氏の随筆に「鳶」』昭和一一(一九三六)年五月発行の『政界往来』初出。後の単行本「思ひ出草」「綺堂むかし語り」に収録された。後者が「青空文庫」で電子化されており、こちらで読める。]

 後徳大寺実定(ごとくだいじさねさだ)は寝殿に鳶がとまらぬように、屋の棟に縄を張った。西行法師がそれを見て、「鳶の居たらむ、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ」といって、その後は実定のところへ行かなくなつた。しかるに綾小路(あやのこうじの)宮(性恵法親王)の小坂殿(こさかどの)の棟に、やはり縄を引かれたことがあったので、これも実定のような事かと思ったら、「鳥の群れ居て、池の蛙を取りければ、御覧じ悲ませ給ひてなむ」という慈悲に基づくものであった。後徳大寺にも何か理由があったのかも知れぬ。――こういう話が『徒然草』に出ている。藤岡東圃(ふじおかとうほ)博士の説によると、西行が実定のところへ行かなくなったのは、更に大なる理由があったからで、鳶のために縄を張ったというような瑣々(ささ)たる話ではない、ということだったと思うが、そう脱線していては際限がないから、穿鑿には及ばぬこととする。もし鳶に手近な目的があって屋の棟にとまるものとすれば、その対象が池の蛙であるにしろないにしろ、愉快な事柄ではあるまい。われわれでもかつて雞(とり)を飼っていた頃、鳶が低く舞い過ると、雞が一斉に怕(おそ)れて声を立てるので、長閑(のどか)なるべき鳶の影にも、あまり親しみを感じなかった経験を有するからである。

[やぶちゃん注:文中の「綾小路(あやのこうじの)宮」の読みの「の」は私が恣意的に補ったもので底本にはない。

「後徳大寺実定」公卿で歌人の徳大寺実定(保延五(一一三九)年~建久二(一一九二)年)のこと、別名を「後徳大寺左大臣」と称したことから、「後」が附されてある。右大臣徳大寺公能(きんよし)の長男。最終官位は正二位・左大臣。親幕派で源頼朝から厚く信頼された。西行はその昔、徳大寺左大臣の家人(けにん)で、彼は元主君あった

「綾小路(あやのこうじの)宮(性恵法親王)」(生没年未詳)「しょうえほうしんのう」と読む。鎌倉後期の亀山天皇の皇子。母は三条公親(きんちか)の娘。弘安七(一二八四)年に天台宗妙法院で出家、翌年、親王となり、後、同院門跡となった。「綾小路宮」は通称。

「小坂殿(こさかどの)」不詳。妙法院内の性恵の居所の通称か、或いは、妙法院そのものの別号かも知れない。

「こういう話が『徒然草』に出ている」第十段。

   *

 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假(かり)の宿りとは思へど、興あるものなれ。

 よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立、もの古(ふ)りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覺えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。

 多くの工(たくみ)の、心を盡してみがきたて、唐(から)の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間(ま)の烟(けぶり)ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

 後德大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寢殿に鳶ゐさせじとて、繩を張られたりけるを、西行が見て、

「鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿(との)の御心(みこころ)、さばかりにこそ。」

とて、その後は參らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟(むね)に、いつぞや繩を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、

「まことや、烏の群れゐて、池の蛙をとりければ、御覽じかなしませ給ひてなん。」

と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覺えしか。德大寺にも、いかなる故(ゆゑ)か侍りけん。

   *

「藤岡東圃」東京帝国大学助教授で国文学者(専門は国文学史)の藤岡作太郎(明治三(一八七〇)年~明治四三(一九一〇)年の号。

「西行が実定のところへ行かなくなったのは、更に大なる理由があった」私は藤岡氏の論考を読んだことがないので、不詳。ただ、この話、「徒然草」にやや先行する「古今著聞集」の「卷第十五 宿執」にも「西行法師、後德大寺左大臣實定・中將公衡等(ら)の在所を尋ぬる事」と題した一章としても載っており、そこではこの実定が、かくも物や金やに激しく執着し、主に経済上の問題から正妻をもないがしろにして別な女性に走っていたこと(新潮古典文学集成の頭注に有り)、また、彼の一族が出家に踏み切れぬことなどに対し、西行が完全に愛想を尽かしている様子が語られており、藤岡氏の言っているのは、或いはそうしたものと関係があるのかも知れぬ

「雞(とり)」鶏(にわとり)。]

 以上のように見て来ると、鳶のわれわれに与える印象も大分複雑である。別所氏は「この鳥も視力が強く、遠くよりおろし来って、ヘビや、ネズミをとり、腐肉を食して、人間を助ける」という功績を認められた。鳶が保護鳥になっているのもそのためであろうが、この能力が一面において油揚を攫い、魚や魚の腸を掠(かす)め去る上にも役に立っている。遂には人間にして白昼搔払(かっぱら)いを働く者が、昼鳶(ひるとんび)の尊称を受けるに至るのだから、なかなか油断は出来ない。尤も俳人はそんな点に深く拘泥せぬ。林若樹(はやしわかき)氏のいわゆる風流無責任論で、菜畑に舞う翩々たる蝶の姿も、卵を産みつけに来るのだと思えば、可憐とのみいい去ることは出来ぬかも知れぬが、俳人は蝶の前身や後身に思(おもい)を致さず、ただ眼前の姿の美を句にしている。「胡蝶にもならで秋ふる葉蟲かな」というような見方をしている者は極めて少い。鳶についてもまた同様であろう。

[やぶちゃん注:「林若樹」(明治八(一八七五)年~昭和一三(一九三八)年)は在野の考古学及び民俗学研究者で古書古物の収集家。本名は若吉。東京生まれ。ウィキの「林若樹」によれば、『早くに両親を失い、叔父の林董』(ただす 嘉永三(一八五〇)年~大正二(一九一三)年:旧幕臣で外交官・政治家)『に養われる。祖父の林洞海』(どうかい 文化一〇(一八一三)年~明治二八(一八九五)年:蘭方医で幕府奥医師)『から最初の教育を受け、病弱であったため』、『旧制第一高等学校は中退する。その頃から遠戚にあたる東京帝国大学の教授・坪井正五郎の研究所に出入りし』、『考古学を修める。遺産があったので定職に就かず、山本東次郎を師として大蔵流の狂言を稽古し、狂歌・俳諧・書画をたしなみ、かたわら古書に限らず』、『雑多な考古物を蒐集する』明治二九(一八九六)年、『同好の有志と「集古会」を結成。幹事となり』、『雑誌『集古』の編纂をする。人形や玩具の知識を交換し合うために』、明治四二(一九〇九)年に『「大供会」を結成。「集古会」「大供会」「其角研究」などの定期的ではあるが』、『自由な集まりを通じて』、『大槻文彦・』『山中共古・淡島寒月・坪井正五郎・』『三田村鳶魚・内田魯庵・』『寒川鼠骨・』『森銑三・柴田宵曲といった人々と交流し、自らの収集品を展覧に任せた』(下線やぶちゃん)。]

 

2017/11/17

柴田宵曲 俳諧博物誌 (1)  はしがき

 [やぶちゃん注:本「俳諧博物誌」は昭和五六(一九八一)年八月日本古書通信社刊。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してあるので、必ず参照されたい。一部の引用部は底本の字配を無視しているが(ブログ公開時のブラウザの不具合を防ぐ目的のみ)、一々注さない。この注は以下、繰り返さない。]

 

     はしがき

 

 はじめてジュウル・ルナアルの『博物誌』を読んだ時、これは俳諧の畠(はたけ)にありそうなものだと思った。『博物誌』からヒントを得たらしい芥川龍之介氏の「動物園」の中に、

 

       雀

 これは南畫(なんぐわ)だ。蕭々(せうせう)と靡(なび)いた竹の上に、消えさうなお前が揚(あが)つてゐる。黑ずんだ印(いん)の字を讀んだら、大明方外之人(だいみんはうぐわいのひと)としてあつた。

 

とあるのを読んだ後、『淡路嶋(あわじしま)』に

 

 枯蘆(かれあし)の墨繪に似たる雀かな 荊花(けいくわ)

 

という句を発見して、その偶合に興味を持ったことがある。古今の俳句の中から、こういう俳人の観察を集めて見たら、日本流の博物誌が出来上るであろうが、今のところそんな事をやっている暇がない。墨絵の雀を手控(てびかえ)に書留めてから、已に何年か経過してしまった。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の「動物園」の前後を一行空けた(以下の俳句以外の改行引用も同処理した。以下ではこの注を略す)またその引用は底本に従わず、私の岩波旧全集準拠の「動物園」の古い電子テクストに拠った

「ジュウル・ルナアルの『博物誌』」私の偏愛するフランスの作家ジュール・ルナール(Jules Renard  一八六四年~一九一〇年)が一八九六年に発表したアフォリズム風随想Histoires naturelles。私が如何に偏愛しているかは、電子テクスト「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)(ナビ派(Les Nabis:ヘブライ語「預言者」)のピエール・ボナール(Pierre Bonnard 一八六七~一九四七年)の挿絵全添付)をご覧になればお判り戴けるものと存ずる。

「大明方外之人」とは中国は「明の世捨て人」の意。

「淡路嶋」諷竹編になる俳諧選集。元禄一一(一六九八)年成立。全二冊。]

 尤も俳諧におけるこの種の観察は、元来一部的な傾向である。ルナアル的観察といえば新しく聞えるようなものの、やはり擬人とか、見立(みたて)とかいう平凡な言葉で片付けられやすい。奇警な観察が第一の価値である以上、その顰(ひそみ)に倣(なら)う者は、どうしても様(よう)に依って胡蘆(ころ)を画(えが)くことになる。仮に陳腐を嫌って、一々新意を出すとしても、その新しさが観察の範囲を脱却し得ぬとすれば、俳諧の大道にはやや遠いものといわなければならぬ。ルナアルの成功は散文の世界にああいう観察と、短い表現を持込んだ点にあるので、そこに若干の智的分子を伴うだけ、俳句のような詩では純粋な作を得がたいのである。

[やぶちゃん注:「様(よう)に依って胡蘆(ころ)を画(えが)く」旧来の定まった様式に従って瓢簞(ひょうたん)を描くという意で、先例に従っているだけで創意工夫がまるでないことの批判的な譬え。宋の魏泰(ぎたい)の随筆「東軒筆録」を出典とする。]

最も手近な一例を挙あげるならば、

 

  二つ折りの恋文が、花の番地を捜している。

 

というのが、『博物誌』の中の「蝶」であるが、元禄の俳人は同じく蝶に関して

 

  封〆(ふうじめ)を蝶の尋(たずぬる)ぼたんかな 潭蛟(たんこう)

 

の句を遺(のこ)している。一は蝶の形を二つ折の恋文と見立て、一は牡丹ほたんの封〆を蝶が尋ねると観察したのだから、その内容は同一でないにかかわらず、この両者は異曲にして同工と見るべき点がある。しかも潭蛟の句は牡丹の句としても、蝶の句としても竟ついに記憶されるほどのものではない。

[やぶちゃん注:「二つ折りの恋文が、花の番地を捜している」宵曲はあたかも自分が訳したように平然と記しているが、これは明らかに岸田国士訳(昭和一四(一九三九)年白水社刊初訳)のそれである。柴田のこういうやり口は許されるものではない。なお、原文は以下。

   *

 

      LE PAPILLON

   Ce billet doux plié en deux cherche une adresse de fleur.

 

   *

 

 搗立(つきたて)に白粉かけてや春の月 露川

 眞中に一目置くや今日の月 十竹(じつちく)

 

 この二句はいずれも月を題材にしている。搗立の餅のすべすべした上に白粉をかける、それを朧(おぼろ)なる春の月に見立てたので、餅の形の丸いことから、月の完円なることを示しているのかも知れない。「眞中に」というのは碁盤の見立である。碁盤の真中に一つ碁石を置く。天心に懸かかる月をその一目の石と見たのだから、その形容からいって当然白石の方であろう。餅とか、碁盤とかいうことを文字に現さぬのは、作者として用意の存する所であるかどうか。譬喩(ひゆ)は一々説明してかからぬ所に面白味があるかと思うが、それだけまた智的に想像せしむる傾(かたむき)を免れぬ。

 

 人も巢に顔出してゐる紙帳(しちやう)かな 馬泉

 

 紙帳から首ばかり出している人の形を、鳥の巣から鳥が首を出しているかの如く見立てたのであるが、「人も巣に」の語は少しく窮した感がある。巣の一字だけで鳥の巣にすることも、この場合無理といえば無理であろう。

[やぶちゃん注:紙をはり合わせて作った蚊帳(かや)。季語としては夏であるが、防寒用にも用いた。]

 

 夕ばえの半襟(はんえり)赤き燕(つばめ)かな

           紫筍母(しじゆんのはは)

 蒲(がま)の穗や明(あけ)て狐のとぼしさし

           扶浪(ふらう)

 

 燕の衿許(えりもと)の赤いのを半襟に見立てたのは、さすがに女らしい観察である。蒲の穂の形は蠟燭に似ている。狐には狐火というものがあるところから、「明て狐のとぼしさし」といい、夜が明けて火の消えた蠟燭と見たのである。蒲の穂を蠟燭に見立てた句は他にもあったと思うが、狐火を取合せて「とぼしさし」の蠟燭にしたのがこの句の趣向であろう。但(ただし)信州方面には蒲の穂を「狐の蠟燭」と呼ぶ土地があるそうだから、もし元禄時代からそんな名称があったとすれば、作者の働きは少くなる。蒲の穂を乾かして油に浸すと、よく燃えるという話もある。いろいろな因縁は具(そなわ)っているが、この句も遺憾ながら智的な興味に堕している。

 

 蒲公英(たんぽぽ)の夕べ白骨と成(なり)にけり   桐花

 

 蒲公英の花が白い穂綿(ほわた)のようになったのを捉えたので、明(あきらか)に「朝(あした)に紅顔夕(ゆうべ)に白骨」ということを蹈ふまえている。ただ白骨はいささか強過ぎる。「たんぽゝもけふ白頭に暮の春」という句は雅馴(がじゅん)であるのみならず、蒲公英の形容としても白頭の方が遥(はるか)に適切である。

[やぶちゃん注:「朝(あした)に紅顔夕(ゆうべ)に白骨」朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨(はっこつ)となる」この世は無常であって人の生死(しょうじ)は予測出来ぬことを言う成句。後に蓮如が「御文章」で用いたのが知られるが、「和漢朗詠集 下 無常」の

   *

朝(あした)に紅顏(こうがん)あて世路(せいろ)に誇れども 暮(ゆふべ)に白骨(はくこつ)となて郊原(かうぐゑん)に朽ちぬ 義孝(よしたかの)少將

 朝有紅顏誇世路 暮爲白骨朽郊原 義孝少將

   *

が原出典である。]

 

 うづみ火も冬の雨夜の螢かな      鼠彈

 石摺(いしずり)のうらや斑(まだら)に夜の雁(かり)

                    露川

 燒飯に毛のはえて飛(とぶ)鶉(うづら)かな

                    昆綱

 何船ぞかまぼこうかぶ浦の雪      金水(きんすい)

 臍の緒の蔓も枯(かれ)ゆく瓠(ひさご)かな

                    兎格

 

 まだ必要があればいくらでも挙げ得るが、この種の句の見本としては先ずこんなところでよかろうと思う。以上は手許の俳書から目についたままを抽き出したので、もっと丹念に捜したら、多少は面白いものが出て来るかも知れぬが、畢竟こうした観察によって本筋の句の得にくいことを示せば足るのである。「俳諧博物誌」と銘打ったのは、決してルナアル的観察に終始するわけではない。これを冒頭として各方面にわたる俳句の世界を一瞥しようというので、フランスの『博物誌』とは縁の遠いものになりそうである。もともと博物だから、大概なものは包含される理窟だけれども、結果は恐らく羊頭狗肉におわるであろう。いささか由来書を述べて前口上とする。

 

風船虫

そっか……「風船虫」は実在したか(半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目ミズムシ上科ミズムシ科 Corixidae の大型種に対する異名)……僕は53年の間、ゆりちゃんがバルンガに名づけた架空の生物名だとばかり思っていたよ……

2017/11/16

柴田宵曲 猫 五 / 猫~了


 猫の眼というものは慌しく変化する例に引かれるが、

 

 酔うた目と猫の目かはる胡蝶かな   貞佐

 

の如き句ではあまり面白くない。

 

 ひるがほや猫の糸目になるおもひ   其角

   里家春日

 猫の目のまだ昼過ぎぬ春日かな    鬼貫

 

 この二句は猫の目が午時(ひるどき)に至って、糸のように細くなることを捉えている。猫の眼の変化というのも、畢竟忽ちに糸の如くなるところから起ったのであろう。

 

 凩(こがらし)や眕(まばたき)しげき猫の面(つら)

                   八桑

 むらしぐれ猫の瞳子(ひとみ)もかはり行く

                   旨原

 

なども当然この範疇に属すべきものと思われる。

 

 猫の眼のいとたへがたきあつさかな  田女

 

 これは猫の眼がとろりとして、如何にも大暑に堪えぬように見えるというのであろうか。猫は寒に怖(お)じるけれども、暑には平然としている。猫を爾(しか)く見るのは、作者の方が暑に悩まされていることはいうまでもない。

 

 寒食や竃下(さうか)に猫の目を怪しむ 其角

 いなづまや黑猫のめをおびやかし    りん女

 

 暗きに青光りする猫の眼は無気味なものである。この二句はその趣を描いているが、真に妖気を発するところまで往っていない。十七字詩にこれ以上を求めるのは、あるいは無理なのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「寒食」(かんしょく)は陰暦で冬至から百五日目に行った行事或いはその日。古代中国に於いては、この日に火気を用いずに冷たい食事を摂った。これは、その頃に風雨が激しいことから、実用上の火災予防のためであるとも、また、一度、火を断って、新しい火で春を促すための予祝行事起原とも言われる。春の季語。]

 「猫の鼻は夏至の一日のみあたたかし」という諺がある。これは『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に「其鼻端常冷(そのびたんつねにひゆ)、唯夏至一日媛(ただげしいちじつのみあたたかし)」とあるから、支那伝来のものらしいが、日本でもよく耳にするように思う。

[やぶちゃん注:「酉陽雑俎」唐代の八六〇年頃に成立した段成式(八〇三年~八六三年)撰になる、古今の異聞怪奇を記した随筆。

「其鼻端常冷(そのびたんつねにひゆ)、唯夏至一日媛(ただげしいちじつのみあたたかし)」「のみ」は私が特異的に恣意的に附した。「酉陽雜俎 續集卷八」の「支動」に以下のようにある。

   *

貓、目睛暮圓、及午豎斂如糸延。其鼻端常冷、唯夏至一日暖。其毛不容蚤、虱黑者暗中逆循其毛、卽若火星。俗言貓洗面過耳則客至。楚州謝陽出貓、有褐花者。靈武有紅叱撥及靑驄色者。貓一名蒙貴、一名烏員。平陵城、古譚國也、城中有一貓、常帶金鎖、有錢飛若蛺蝶、士人往往見之。

   *]

 

 水無月や暑さを探る猫の鼻   銀雨

 

は明(あきらか)にこの趣である。俳人は猫の額より更に面積の狭い鼻にも、種々の観察を下している。

 

 立花にこすりてやらん猫の鼻  舟雅

 秋風の吹通し也(なり)猫の鼻 丿松(べつしよう)

 酒くさききく嗅ぐ猫や鼻の皺(しは)

                神叔

 石蕗(つはぶき)の日蔭は寒し猫の鼻

                抱一

 

 鼻をこすりつけるのは、猫が叱られる場合である。特に芳しい橘(たちばな)にこすりつけるというのに、何か意味があるのであろうが、これだけでは十分にわからない。「酒くさききく」というのは酒宴などの意味か、「鼻の皺」を捉えるに至っては、微細な観察の必ずしも近代俳人の檀場でないことがわかる。

 ひとり近代俳人が微細なる観察を誇り得ぬのみではない。俳諧という詩の生れるより数百年前に、平安朝の才女清少納言は、猫の耳を観察することを忘れなかった。『枕草子』に「むつかしげなるもの」として挙げた中に、先ず「ぬひ物のうら、猫の耳のうち」とある。これには蕉門の俳人もいささか驚いたと見えて、越人は享保十四年版の撰集に『猫の耳』という名をつけた。『蕉門珍書百種』がこの書を覆刻した時、野田別天楼(べってんろう)の開題に「枕草子に、宮中に飼われていた「命婦(みょうぶ)のおとど」という猫が、翁丸という犬に脅かされた談(はなし)が載っている。しかし猫の耳のことは見当らない」と断ぜられたのは、千慮の一失であろう。罔両子(もうりょうし)の序に「集を猫耳といふ事は淸女か筆にとるならし」というのも、機石の跋に「如何淸女かいへる猫耳を一刀に截斷(せつだん)して俳語の南泉と悟入し」云々とあるのも、皆前に挙げた「むつかしげなるもの」を指しているので、この才女の俳眼に感服した結果、採って我撰集の名としたに相違あるまい。現に『猫の耳』の跋を書いた機石は、『鵲尾冠(しゃくびかん)』に左の一句をとどめている。

[やぶちゃん注:「『枕草子』に「むつかしげなるもの」として挙げた中に、先ず「ぬひ物のうら、猫の耳のうち」とある」「枕草子」の「むつかしげなるもの」(一般に第百五十段とする)は、

   *

 むつかしげなるもの

 繡物(ぬひもの)の裏。鼠の子の毛もまだ生(お)ひぬを、巢の中よりまろばし出でたる。裏まだ付けぬ裘(かはぎぬ)の縫目(ぬひめ)。猫の耳の中。ことに淸げならぬ所の、暗き。

 ことなる事なき人の、子などあまた持(も)てあつかひたる。いと深うしも心ざしなき妻(め)の、心地あしうして久しう悩みたるも、夫(をとこ)の心地(ここち)はむつかしかるべし。

   *

であり、中の二品を恣意的に飛ばしていて、よろしくない。

「享保十四年」一七二九年。

『枕草子に、宮中に飼われていた「命婦(みょうぶ)のおとど」という猫が、翁丸という犬に脅かされた談(はなし)が載っている』一般に第六段とされる「上(うへ)にさぶらふ御猫(おほんねこ)は、かうぶり得て[やぶちゃん注:五位の位を賜って。]「命婦(みやうぶ)のおとど」とて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが、……」で始まる長い章段(原文や現代語訳は有象無象あるのでご自分お探しあれ)。

「南泉」禪語の公案に洒落たもの。私の古い電子化野狐禪訳注無門關 十四 南泉斬猫を参照されたい。因みに、關」完全訳注にある。]

 

  淸少納言もよく見て

 木茸(きくらげ)の形(なり)むづかしや猫の耳 機石

 

 「よく見て」は「よく観察して」の意である。木茸を耳の形容に用いることは、明治年間までは極めて普通であった。この句は猫の耳を木茸に擬し、「むづかしや」の語に『枕草子』の「むつかしげなるもの」を利かせたのであろう。『鵲尾冠』もまた越人撰の集だから、機石の名が両方に見えるのは当然でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「木茸(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae。]

 

 木枯や更行(ふけゆく)夜半(よは)の猫のみゝ 北枝

 

 この句になると已に『枕草子』を離れている。木茸に似た猫の耳のうちの観察でもない。更け渡る木枯の夜に、座辺に睡っている猫が時に聴耳(ききみみ)を立てたりする。聴耳を立てるまで往かずとも、懶(ものう)げに耳を動かしたりする。人は冬夜の閑に坐して、その耳を見ているというような趣であろう。

 

柴田宵曲 猫 四

 

 猫の子という季題は、現在では夏になっている。猫の恋が春で猫の子が夏なのは当然過ぎるほど当然である。古句にも猫の子を詠んだものは少くない。

 

 猫の子や蠅を押へし菅(すが)むしろ  長久

 蚊屋釣(つり)ていれば吼(ほゆ)る小猫かな

                    宇白

 猫の子のざれて臥(ふし)けり蚊屋の裾 史邦

 猫の子も外へ出たがる蚊やりかな    和應

 猫の子に齅(かが)れて居るや蝸牛   才麿

 猫の子の巾著(きんちやく)なぶるすゞみかな

                    去來

 

 これらの例を以て見れば、古人は猫の子を夏と認めてはいるけれども、必ずしも独立した季題として取扱っていない。何か背景になるべき風物を捉えている。むやみに季題を多くすることは、歳時記を賑(にぎやか)にする代りに、季感を稀薄にする虞がないともいえぬ。配合物によって季感を豊(ゆたか)にするのも、句を作る上に欠くべからざる用意であろう。

 寺田博士は「鼠と猫」という随筆の中で「我家に来て以来一番猫の好奇心を誘発したものは恐らく蚊帳であったらしい。どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人が居て自分が外に居る場合にそれが著しかった」といい、この事実を解釈して「蚊帳自身か或は蚊帳越しに見える人影が、猫には何か恐ろしいものに見えるのかも知れない。或は蚊帳の中の蒼(あお)ずんだ光が、森の月光に獲物を索(もと)めて歩いた遠い祖先の本能を呼び覚(さま)すのではあるまいか。若(も)し色の違った色々の蚊帳があったら試験して見たいような気もした」と述べている。宇白及(および)史邦の句は、この意味において注意すべきものがありそうな気がする。

[やぶちゃん注:「鼠と猫」寺田寅彦の随筆。大正一〇(一九二一)年十一月発行の『思想』初出。以上はその「四」の冒頭である。「青空文庫」のこちらで全文が読める。]

 

 子をうんで猫かろげなり衣がへ   白雪

 子を食(くら)ふ猫とこそ聞け五月闇(さつきやみ)

                  吏登

 麥秋や猫の子を産む男部(をとこべ)や

                  馬厓(ばがい)

 灌佛(くはんぶつ)や猫は生れて目もあかず

                  呉天

 

 白雪の句は「子をつれて猫も身がるし」ともある。これらは同じ猫の子であるが、前の諸句のように独立性がない。人間でいえば襁褓(むつき)時代である。子を産んで身軽になった猫と、軽い袷(あわせ)に著替えた人間とは、季節の上ばかりでなしに、気分の上でも一致するところがある。そこへ行くと灌仏の猫の方は、涅槃会の猫と一脈の繫(つなが)りがありそうで、句としてはあまり面白くない。

 

 若猫やきよつと驚く初真桑(はつまくは) 木導

 

 どの位までを猫の子といい、どの辺からを若猫というか、それは人によって見方が違うかも知れぬ。木導のこの句も「ねこの子」となっているのがある。

 

 若猫を猶狂はする尾花かな        卜梢

 

 この若猫は初真桑に驚いたのより弟分であろう。秋になって生れる秋子も無論ある。

 

 猫の子もそだちかねてや朝寒し      元灌

 

というのがそれである。

 

 若猫のつはり心や寒の中(うち)     許六

 猫の子のまもれる軒の鰯かな       幸日(こうじつ)

 

などは、その秋子が無事に成長した場合と解せられる。

 

 盜み行(ゆく)猫のなきだす袷かな    木導

 

 これは猫の子と断ってはないけれども、盗んで袂(たもと)に入れたのが啼き出すのは、子猫でないと工合が悪い。

 夏の句になって著しく目につくのは、牡丹に配したものの多いことである。

 

 ぼうたんやしろがねの猫こがねの蝶    蕪村

 

 この句は『蕪村句集』にもなければ『蕪村遺稿』にもない。『新花摘』に出ている。従って子規居士以下の輪講には漏れてしまったが、居士はこれを風変りな句と評したことがあったかと思う。蕪村の専門である絵画より得来った題材であろう。但(ただし)実際そこに金を以て蝶を画き、銀を以て猫を画いてあったか、白猫黄蝶を理想化してこういったのか、その辺はよくわからない。白がねの猫は西行が門前の子供に与えて去った有名な話があり、

 

   西行の贊

 白かねの猫も捨けり花の旅   蓼太

 

などという句もあるが、この句はそれとは没交渉である。

[やぶちゃん注:「白がねの猫は西行が門前の子供に与えて去った有名な話があり」私の北條九代記 西行法師談話を参照されたい。]

 

   牡丹にてふの畫

 猫はまだ知らぬ牡丹の胡蝶かな    也有

   牡丹に猫の畫

 猫に蝶に賑ふ花の富貴(ふうき)かな 同

   牡丹に鳥の繪

 鳥が來て猫に罪なき牡丹かな     同

   睡猫に蝶の畫

 夢に牡丹見て居る猫の晝寐かな    同

 

 これらはいずれも画による著想である。その悉くが猫を画いたものではないにせよ、牡丹の画に対して猫を連想することの偶然ならざることは明(あきらか)であろう。

 

 何事ぞぼたんをいかる猫の樣     南甫(なんぽ)

 線香に眠るも猫の牡丹かな      支考

 牡丹には免(ゆる)さぬ猫の憎きかな 三笑

 

 この三句はいずれも元禄期の作であるが、絵画を経由せざる自然の配合である。「ほたんをいかる」というのは、はじめて牡丹の花を見た猫の驚異なのかも知れぬ。三笑の句意は十分にわからぬが、猫が牡丹を痛めるとか、花を散らすとかいうことを指すのではあるまいか。也有の句の「鳥が来て猫に罪なき」と併看すれば、どうやらそういう解釈が成立ちそうである。

柴田宵曲 猫 三

 猫に配した春の植物の句は梅が最も多く、桜、海棠、椿、藤、柳、菜の花、独活(うど)、蕗(ふき)の薹(とう)などいろいろあるが、それほど面白いものもない。

 

 うち晴て猫の眠るや庭さくら    春水

 ぬつくりと寢てゐる猫や梅の股   几董

 

の兩句は同じように睡猫を描いている。前者が背景を主にし、後者が状態を主にしたあたり、元禄と天明との相違を窺うべきものであろう。

[やぶちゃん注:「元禄と天明との相違」「元禄」(前者春水(但し、この人物も句も出典不明。識者の御教授を乞う)の活躍期)は一六八八年から一七〇四年まで。「天明」(後者の几董の天明俳諧を指す)は一七八一年から一七八九年まで。高井几董(寛保元 (一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は其角に私淑し、明和七(一七七〇)年三十歳の時に与謝蕪村に入門している。]

 

 猫逃て梅うごきけりおぼろ月     言水

 

も実景ではあろうが、やはり

 

 くはらくはらと猫のあがるやむめの花 許六

 

の方が生趣に富んでいるようである。

 尋常に甘んぜざる其角は、猫と蝶との配合において次のような趣を見出した。

 

 猫の子のくんづほぐれつ胡蝶かな      其角

   薗中(ゑんちゆう)の吟

 蝶を嚙(かん)で子猫を舐(なむ)る心かな 同

 

 猫の子が蝶に戯れる光景とも解せられ、猫の子同士が戯れる上に蝶の飛ぶ意とも解せられる。翩々たる蝶を捕えかねて追いかけるところを「くんづほぐれつ」といったとしても、甚しい無理とは思われぬが、猫の子同士が組んずほぐれつする方が自然であろう。「薗中の吟」は単なる実景でなしに、何か寓する所があるらしい。もし蝶が子猫の害をなす者であったら、憎愛の二色が判然として隠れたる所なしであるが、それでは趣がなくなる。或時は蝶を嚙み、或時は子猫を舐(なめ)る。薗中の趣は蝶の一字に発揮されているように思われる。

 

 酔うた目と猫の目かはる胡蝶かな   貞佐

 蛤を猫に預けてこてふかな同     同

 から猫や蝶嚙む時の獅子奮迅     抱一

 

 これらの句も猫に蝶を配したものであるが、其角のような妙味がない。抱一は其角の二句を学んでいるだけに、かえって及ばざること遠いところを暴露している。

[やぶちゃん注:貞佐の一句目、暗愚な私にはよく句意が汲めない。識者の御教授を乞う。

「其角の二句を学んでいる」言わずもがなであるが、主語は我々(読者)のこと。]

 

 まふてふの跡けがらはし猫の糞    笑成

 蝶飛(とび)て花くふ猫の木陰かな  枕螢

 

 これらも別にすぐれた句ではないけれども、貞佐や抱一とは比較にならぬ。前に挙げた太祇の「蝶とぶや腹に子ありてねむる猫」なども、違った趣を捉えている点で一顧する必要がある。

 釈尊の入滅に参り合せなかった動物は猫だけであるといい、だから涅槃像には猫が画いてないのだという。猫嫌いの人はこれを以て猫の情に乏しい一理由に算えるようだが、俳人は季題の関係からこの伝説を見遁さなかった。

 

 佛には別れて猫の化粧かな      直水(ちよくすい)

 涅槃會や猫は戀してより付(つか)ず 許六

 鼠とる涅槃の猫と詠めけり      言水

 戀ゆゑの猫のうき名や涅槃像     童平

 涅槃會や猫のなく音はうはの空    田女

 

 涅槃会に疎(うと)かった理由を「猫の戀」に結びつけるのは、浅薄でもあり、即(つ)き過ぎてもいる。そういう人間にしたところで、勝負事に耽っては親の死目に逢い損うのだから、あまり威張った口は利かぬ方がいいかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「涅槃會」(ねはんゑ(え))は釈尊が亡くなって涅槃に入ったとされる日に行われる仏教の法会。一般に二月十五日とされる。私の誕生日である。]

 けれども涅槃会の猫は大体において概念の世界を脱し得ない。そこへ往くと同じ人事に配した句でも、「出代り」の方には実感が伴って来る。

[やぶちゃん注:「出代り」「出替り」とも書く。主に商家に於いて、半季奉公及び年季(年切)奉公の雇人が交替したり、契約を更新・変更する日を指す。この切替えの期日は地方によって異なるが、半季奉公の場合は二月二日と八月二日を当てるところが多かった。但し、京や大坂の商家では元禄以前から既に三月と九月の両五日と定めてあった。二月・八月の江戸でも、寛文八(一六六八)年、幕府の命により、京阪と同じ三月と九月に改められたものの、以後も、出稼人の農事の都合を考慮したためか、二月・八月も長く並存して行われた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

 

 出かはりや猫抱(だき)あげていとまごひ 慈竹

 出替りや淚ねぶらすひざの猫       木導

 出替の留主事(るすごと)するか猫のつま 吾仲

 出代やあとに名殘の猫の聲        和嶺

 

 犬とか猫とかいうものは、雇人に親しむ機会が多いから、別を惜しむのに不思議はない。「猫抱あげていとまごひ」だの、「淚ねぶらす」だのということは、必ずしも拵えた趣向とのみいい去ることは出来ぬが、即き過ぎていることは慥(たしか)である。俳句の場合、往々にして人情が障りになるのは、この即き過ぎる点にある。

 猫に鰹節は常識に過ぎるせいか、あまり見当らぬ。

 

 氏よりもそだちや猫に花鰹   論派(ろんぱ)

 

の句が花で春の季になるなども、あまり働かぬ趣向である。

 いささか意外の感があるのは、燕を配合したものが数句に上ることで、家の軒に巣を食う燕と、屋根歩きをする猫とは因縁がありそうなところであるが、われわれには所見がない。

 

 巣立まで猫の御器(ごき)借ル燕かな 喜友

 燕(つばくろ)の出入や猫の夢ごゝろ 任長

   おもはずつばくらにつらをけられたる猫あり

 妻もやと燕見かへる野猫かな     魚兒

   かくいへる我も別をおしみて

 契りおく燕と遊ん(あそば)庭の猫  園女(そのめ)

 

 燕に面を蹴られるなどは、どう考えても不自然を観察である。それを妻かと思って見返るに至っては、いよいよ面白くない。猫の食器のものを利用することが果してあるかどうか。要するに猫の相手になるには、燕の動作が軽捷過ぎるので、調和を得にくいように感ぜられる。猫が睡っている上を燕が身軽に出入する。猫はそれを見るでもなく夢心でいるなどというのが、比較的無理のないところであろうが、句の出来はあまり面白くない。

 

 飛(とび)かはづ猫や追行(おひゆく)小野の奥

                   水友

 猫はのけ蛙も面を洗ふらん      百里

 

なども別にいい句ではないにせよ、猫と蛙の間には実際的な調和がある。先天的に虫を好む猫が蛙を銜(くわ)えて来ることは、決して珍しい話ではない。佐藤春夫氏の『田園の憂鬱』の中にも、そんなことが書いてあったように記憶する。蛙に取ってはありがたくない敵ではあるが、事実の上で調和するから仕方がないのである。

[やぶちゃん注:。佐藤春夫氏の『田園の憂鬱』の中にも、そんなことが書いてあった」ここ。前後は私の佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)分割注釈でどうぞ(一括版はこちら)。

   *

 猫は、每日每日外へ出て步いて、濡れた體と泥だらけの足とで家中を橫行した。そればかりか、この猫は或る日、蛙を咥へて家のなかへ運び込んでからは、寒さで動作ののろくなつて居る蛙を、每日每日、幾つも幾つも咥へて來た。妻はおおぎように叫び立てて逃げまはつた。いかに叱つても、猫はそれを運ぶことをやめなかつた。妻も叫び立てることをやめなかつた。生白い腹を見せて、蛙は座敷のなかで、よく死んで居た。

   *]

「猫の戀やむ時閨(ねや)の朧月」という芭蕉の句は、猫の恋が主になっているため、この文章では圏外に置かなければならぬが、猫と朧月乃至(ないし)朧夜との配合は、春の句を考えるに当り、どうしても看過することが出来ない。

[やぶちゃん注:「猫の戀やむ時閨(ねや)の朧月」という芭蕉の句は、元禄五(一六九二)年春か、それ以前の作。]

 

 月は尚それもおぼろに猫の聲   芳船

 火に醉(ゑひ)て猫も出(いづ)るや朧月

                 木導

 猫をよぶ氣疎(けうと)き聲や朧月

                 化蝶

 朧夜やいつぞや捨し猫歸る    尚白

 朧月猫とちぎるや夜ルの殿    越闌

 

 「猫逃て梅うごきけり」という言水の句も当然ここに加えなければならぬ。猫の活動する舞台は必ずしも夜には限らぬが、春の大気が温暖になるに従い、夜までのそのそ歩くに適して来ることは事実である。月も朧なら更に妙であろう。ここに挙げた五句は、最後の越闌の句を除き、いずれも春の夜らしい空気を描き得ている。固(もと)より涅槃会や出代りの比ではないが、就中われわれには尚白の句が面白い。大分前にどこかへ捨てたなり、誰も見かけなかった猫がひょっくり帰って来た。「いつぞや」の一語は捨ててから相当の日数を経ていることを現している。この時間的経過と、朧夜の世界と、突然帰って来たこととの三つが合体して、一たび捨てた猫に或なつかしみを感ぜしめる。平凡なるが如くにして異色ある句といわなければならぬ。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(48) 大団円 /江戸川乱歩「孤島の鬼」全電子化注~了

 

   大団円

 

 さて、木崎初代(正しくは樋口初代)をはじめ、深山木幸吉、友之助少年の三重の殺人事件の真犯人は明らかとなり、私たちの復讐を待つまでもなく、彼はすでに狂人になり果ててしまった。また、その殺人事件の動機となった樋口家の財宝の隠し場所もわかった。私の長物語もこの辺で幕をとじるべきであろう。

 何か言い残したことはないかしら。そうそう、素人探偵深山木幸吉氏のことである。彼はあの系図帳を見ただけで、どうして岩屋島の巣窟を見抜くことができたのだろう。いくら名探偵といっても、あんまり超自然な明察だ。

 私は事件が終ってから、どうもこのことが不思議でたまらぬものだから、深山木氏の友人が保管していた故人の日記帳を見せてもらって、丹念に探してみたところ、あった、あった。大正二年の日記帳に、樋口春代の名が見える。いうまでもなく初代さんの母御だ。

 読者も知っている通り、深山木氏は一種の奇人で、妻子がなかった代りに、ずいぶんいろいろな人と親しくなって夫婦みたいに同僚していたことがある。春代さんもそのうちの一人だった。深山木氏は旅先で、因っている春代さんを拾ったのだ。(初代さんを捨て子にしたずっと後の話だ)

 同棲二年ほどで、春代さんは深山木氏の家で病死している。定めし死ぬ前に、捨て児のことも、系図帳のことも、岩屋島のことも、すっかり深山木氏に話したことであろう。これで、後年深山木氏が例の樋口家の系図帳を見るや否や、岩屋島へ駈けつけたわけがわかる。

 系図帳は樋口春雄(丈五郎の兄)からその妻の梅野に、梅野からその子の春代に、春代から初代にと伝えられたものであろう。むろん彼らはその系図帳の真価については何事も知らなかった。ただ正統の子が持ち伝えよという先祖の遺志を守ったにすぎない。

 では、丈五郎はどうして、あの呪文がその中に隠してあることを知ったか。彼の女房の告白によれば、丈五郎がある日、先祖の書き残した日記を読んでいて、ふとその一節を発見したのだ。そこには家に伝わる財宝の秘密が系図帳に封じこめられてあるという意味がしるしてあった。だが、それは春代の家出後だったので、折角の発見がなんにもならなかった。それ以来、丈五郎は佝僂の息子に命じて、春代の行方探しに努めたが、当てのない探し物ゆえ、なかなか目的を達しなかった。やっと大正十三年ごろになって、今では初代がその系図帳を持っていることがわかった。それから丈五郎がその系図帳を手に入れるために、どれほど骨を折ったかは、読者の知っている通りである。

 樋口家の先祖は、広く倭寇(わこう)といわれている海賊の一類であった。大陸の海辺を掠(かす)めた財宝をおびただしく所持していた。それを領主に没収されることを恐れて、深く地底に蔵し、代々その際し場所を言い伝えてきたが、春雄の祖父に当たる人がそれを呪文に作って系図帳にとじこめたまま、どういうわけであったか、その子に呪文のことを告げずして死んだ。徳さんの聞き伝えたところによると、その人は、卒中で頓死をしたらしいということである。

 それ以来、丈五郎が古い日記帳の一節を発見するまで、樋口の一族はこの財宝について何も知らなかったわけである。

 だが、この秘密は、かえって樋口一族以外の人に知られていたと考うべき理由がある。それは十年ほど以前、K港から岩屋島に渡り、諸戸屋敷の客となって、後に魔の淵の藻屑(もくず)と消えたあの妙な男があるからだ。彼は明かに古井戸から地底にはいり込んだ。私たちはその跡を見た。丈五郎の女房は、その男を思い出して、あれは樋口家の先祖に使われていた者の子孫であったと語った。それでは多分、その男の先祖が財宝の隠し場所を感づいていて、書き残しでもしたものであろう。

 過去のことはそれだけにして、さて最後に、登場人物のその後を、簡単に書き添えてこの物語を終ることにしよう。

 先ず第一にしるすべきは、私の恋人秀ちゃんのことである。彼女は初代の実妹の緑にちがいなく、樋口家の唯一の正統であることがわかったので、地底の財宝はことごとく彼女の所有に帰した。時価に見積って、百万円〔註、今の四億円ほど〕に近い財産である。

[やぶちゃん注:「孤島の鬼(5) 入口のない部屋」の割注と同じく、これは換算から見て、話者である蓑浦のそれというよりも、作者乱歩が蓑浦仮託して註したものと判断される。詳しくはそちらの私の注を再見されたい。]

 秀ちゃんは百万長者だ。しかも、現在ではもう醜い癒合双体ではない。野蛮人の吉ちゃんは、道雄のメスで切断されてしまった。元々ほんとうの癒合双体ではなかったのだから、むろん両人ともなんの故障もない、一人前の男女である。秀ちゃんの傷口が癒えて、ちゃんと髪を結い、お化粧をし、美しい縮緬(ちりめん)の着物を着て、私の前に現われたとき、そして、私に東京弁で話しかけたとき、私の喜びがどれほどであったか、ここにくだくだしく述べるまでもなかろう。

 いうまでもなく、私と秀ちゃんとは結婚した。百万円は今では、私と秀ちゃんの共有財産である。

 私たちは相談をして、湘南片瀬(しょうなんかたせ)の海岸に、立派な不具者の家を建てた。樋口一家に丈五郎のような悪魔が生れた罪亡ぼしの意味で、そこには自活力のない不具者を広く収容して、楽しい余生を送らせるつもりだ。第一番のお客様は、諸戸屋敷から連れてきた人造かたわ者の一団であった。丈五郎の女房や啞のおとしさんもその仲間だ。不具者の家に接して、整形外科の病院を建てた。医術の限りをつくしてかたわ者を正常な人間に造り替えるのが目的だ。

 丈五郎、彼の佝僂息子、諸戸屋敷に使われていた一味の者どもは、すべて、それぞれの処刑を受けた。初代さんの養母木崎未亡人は、私たちの家に引き取った。秀ちゃんは彼女をお母さんお母さんといって大切にしている。

 道雄は丈五郎の女房の告白によって、実家がわかった。紀州の新宮(しんぐう)に近いある村の豪農で、父も母も兄弟も健在であった。彼は見知らぬ故郷へ、見知らぬ父母のもとへ、三十年ぶりの帰省をした。

 私は彼の上京を待って、私の外科病院の院長になってもらうつもりで、楽しんでいたところ、彼は故郷へ帰って一と月もたたぬうちに、病を発してあの世の客となった。すべて、すべて、好都合に運んだ中で、ただ一事、これだけが残念である。彼の父からの死亡通知状に左の一節があった。

「道雄は最後の息を引き取るまぎわまで、父の名も、母の名も呼ばず、ただあなた様のお手紙を抱きしめ、あなた様のお名前のみ呼び続け申候(もうしそうろう)」

 

 

 

[やぶちゃん注:以上を以って――江戸川乱歩「孤島の鬼」全篇の終り!――

 以下、底本に続く江戸川乱歩の「自註自解」。]

 

     自註自解

 

 昭和四年、森下雨村さんが博文館の総編集長となり、講談社の「キング」に対抗して出した大部数の大衆雑誌「朝日」の同年一月創刊号から一年余り連載したもの。この小説は鷗外全集の随筆の中に、シナで見世物用に不具者を製造する話が書いてあったのにヒントを得て、筋を立てた。その後、私は通俗娯楽雑誌に多くの連載小説を書いたが、「孤島の鬼」はそういう種類の第一作といってもよいものであった。或る人は、私の長篇のうちでは、これが一番まとまっていると言った。この小説に同性愛が取り入れてあるのは、そのころ、岩田準一君という友人と、熱心に同性愛の文献あさりをやっていたので、ついそれが小説に投影したのであろう。この作は昭和十三、四年に出した新潮社の「江戸川乱歩選集」にも入れたのだが、そのころはもうシナ事変にはいっていて、小説の検閲もきびしく、何カ所も削除を命ぜられ、それが戦後の版にもまぎれこんで、削除のままになっている部分があったので、大正六、七年の平凡社の私の全集と照らし合わせて、すべて元の姿に直した。また、終りの方の樋口家の年表に間違いがあることを気づいたので、それも訂正しておいた。

[やぶちゃん注:「昭和四年」一九二九年。

「森下雨村」(うそん 明治二三(一八九〇)年~昭和四〇(一九六五)年)は編集者で翻訳家・小説家。ウィキの「森下雨村」より引く。『高知県佐川町出身。本名・岩太郎。別名・佐川春風。早稲田大学英文科卒』。『博文館に勤め』大正九(一九二〇)年に『探偵小説雑誌『新青年』編集長となり、内外の探偵小説の紹介に努め、自らも創作をおこなった』。『土佐の生まれで、酒豪だった。横溝正史によると、「親分肌で、常に周囲に若いものを集め、ちっくと一杯と人に奨め、相手を盛りつぶしては悦に入っていた」という。横溝も「たびたび森下に盛りつぶされているうちに、おいおい上達して、ついに出藍の誉れを高くしたものである」と語っている』。『『新青年』編集長として江戸川乱歩を世に送り、多くのすぐれた探偵作家を誕生させた雨村を、横溝は「森下こそ日本の探偵小説の生みの親といっても過言ではないだろう」と評し、「義理がたい乱歩は終生雨村に恩誼を感じていたようである」、「松本清張は雨村を、推理小説界における大正期の中央公論の滝田樗陰であると言っている」と述べている。クロフツの『樽』を最初に本邦に紹介したのも雨村である』。『晩年の雨村は故郷の土佐・佐川町に隠棲し、悠々として晴釣雨読の境地を楽しんでいた』。『横溝によると「ちっくと一杯やりすぎたのが』死の『原因である」とのことである』とある。

『講談社の「キング」』戦前の日本において大日本雄辯會講談社(現在の講談社)が発行した大衆娯楽雑誌。大正一三(一九二四)年十一月創刊(昭和三二(一九五七)年廃刊)。ウィキの「キング(雑誌)によれば、『戦前の講談社の看板雑誌であるとともに、日本出版史上初めて発行部数』一〇〇『万部を突破した国民的雑誌』。

『大衆雑誌「朝日」』個人サイト「江戸川乱歩データベース」の「江戸川乱歩拾遺」の「孤島の鬼の「初出誌」に初出時のエピソードが詳しく載るので、必見!

「この小説は鷗外全集の随筆の中に、シナで見世物用に不具者を製造する話が書いてあったのにヒントを得て、筋を立てた」既注。「随筆」とあるが、既に述べた通り、小説(鷗外が当時の流行りの私小説を皮肉って、俺ならこう書けるとして書いたもの)「ヰタ・セクスアリス」のことである。

「岩田準一」(明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年)は画家で風俗研究家。中学時代から竹久夢二と親交を持ち、江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」「鏡地獄」などに挿絵を描いている。本篇のロケーションに近い、郷里三重県志摩地方の民俗伝承の研究や、男色の研究でも知られ、南方熊楠との往復書簡もある。ウィキの「岩田準一では彼の主著として「本朝男色考」「男色文献書志」(没後五十七年経った二〇〇二年に原書房から合本として刊行)を挙げてあるが、「本朝男色考」の方は、本「孤島の鬼」発表の翌昭和五(一九三〇)年から『翌年にかけて『犯罪科学』に連載されたもので』、戦後の一九七三年に『岩田の遺族によって私家版が出版されている。英語・仏語にも翻訳出版され、南方熊楠も絶賛した』。一方の「男色文献書志」は、『岩田が収集した古今東西の膨大な男色文献の中から』千二百『点ほどをリストアップしたもので、戦前、出版化が試みられた』ものの、『実現しなかった。戦後、古典文庫の吉田幸一が江戸川乱歩から委嘱を受け』て、昭和三一(一九五六)年に「近世文藝資料」の一冊として刊行、また、「本朝男色考」と同じく、一九七三年に『岩田の遺族によって私家版が発行されている』とある。

「昭和十三」年は一九三八年。

「大正六」年は一九一七年。]

江戸川乱歩 孤島の鬼(47) 刑事来る

 

   刑事来る

 

 私たちは無事に井戸を出ることができた。久し振りの日光に、眠がくらみそうになるのを、こらえこらえ、手を取り合って諸戸屋敷の表門の方へ走って行くと、向こうから見馴れぬ洋服紳士がやってくるのにぶつかった。

「オイ、君たちはなんだね」

 その男は私たちを見ると、横柄(おうへい)な調子で呼び止めた。

「君は一体誰です。この島の人じゃないようだが」

 道雄が反対に聞き返した。

「僕は警察のものだ。この家を取り調べにやってきたのだ。君たちはこの家と関係があるのかね」

 洋服紳士は思いがけぬ刑事であった。ちょうど幸いである。私たちは銘々名を名乗った。

「噓を言いたまえ。諸戸、蓑浦の両人がここへ来ていることは知っている。だが、君たちのような老人ではないはずだよ」

 刑事は妙なことをいった。私たちをとらえて「君たちのような老人」とは一体何を勘違いしているのだろう。

 私と道雄とは不審に堪えず、思わずお互いの顔を眺め合った。そして、私たちはアッと驚いてしまった。

 私の眼の前に立っているのは、もはや数日以前までの諸戸道雄ではなかった。乞食みたいなボロボロの服、垢(あか)ついた鉛色の皮膚、おどろに乱れた頭髪、眼は窪み、頰骨のつき出た骸骨のような顔、なるほど刑事が老人と見違えたのも無理ではない。

「君の頭はまっ白だよ」

 道雄はそういって妙な笑い方をした。それが私には泣いているように見えた。

 私の変り方は道雄よりひどかった。肉体の憔悴(しょうすい)は彼と大差なかったが、私の頭髪は、あの穴の中の数日間に、全く色素を失って、八十歳の老人のようにまっ白に変っていた。

 私は極度の精神上の苦痛が、人間の頭髪を一夜にして白くしたという不思議な現象を知らぬではなかった。その実例も二、三度読んだことがある。だが、そんな稀有の現象がかくいう私の身に起ころうとは、全く想像のほかであった。

 だが、この数日間、私は幾度死の、或いは死以上の、恐怖に脅かされたことであろう。よく気が違わなかったと思う。気が違う代りに頭髪が白くなったのだ。まだしも、仕合わせといわねばならない。

 同じ人外境を経験しながら、諸戸の頭髪に異常の見えぬのは、さすがに私よりも強い心の持ち主であったからであろう。

 私たちは刑事に向かって、この島にくるまでの、また来てからの、一切の出来事を、かいつまんで話した。

「なぜ警察の助けを借りなかったのです。君たちの苦しみは自業自得というものですよ」

 私たちの話を聞いた刑事が、最初に発した言葉はこれであった。だが、むろん微笑しながら。

「悪人の丈五郎が、僕の父だと思い込んでいたものですから」

 道雄が弁解した。

 刑事は一人ではなかった。数人の同僚を従えていた。彼はその中の二人に命じて、地底にはいり、丈五郎と徳さんとを連れてくるように命じた。

「しるべの縄はそのままにしておいてください。金貨を取り出さなければなりませんから」

 道雄がその二人に注意を与えた。

 池袋署の北川という刑事が、例の少年軽業師友之助の属していた尾崎曲馬団を探るために、静岡県まで出かけ、苦心に苦心を重ね、道化役の一寸法師に取り入って、その秘密を聞き出したことは、先に読者に告げておいた。その北川刑事の苦心が功を奏し、私たちとは全く別の方面から、ついにこの岩屋島の巣窟をつき止め、かくは諸戸屋敷調査の一団が乗りこむことになったのであった。

 刑事たちがきて見ると、諸戸屋敷で、男女両頭の怪物が烈しい争闘を演じていた。いうまでもなく、それは秀ちゃんと吉ちゃんの双生児だ。

 ともかく、その怪物を取り鎮めて、様子を聞くと、秀ちゃんのほうが雄弁にことの仔細を語った。

 私たちが井戸にはいったあとで、私と秀ちゃんのあいだを嫉妬した吉ちゃんが、私たちを困らせるために、丈五郎に内通して、土蔵の扉をひらいたのだ。むろん秀ちゃんは極力それを妨害したが、男の吉ちゃんのばか力にはかなわなかった。

 自由の身になった丈五郎夫妻は、鞭をふるって、たちまち片輪者の一群を、反対に土蔵に押しこめてしまった。吉ちゃんが功労者なので、双生児だけは、その難を免(まぬが)れた。

 それから、丈五郎は吉ちゃんの告げ口で私たちの行方を察し、不自由なからだで自から井戸にくだり、私たちの麻縄を切断しておいて、別の縄によって迷路に踏み込んだのであろう。丈五郎の佝僂女房と啞のおとしさんがその手助けをしたにちがいない。

 それ以来、秀ちゃんと吉ちゃんは、かたき同士であった。吉ちゃんは秀ちゃんを自由にしようとする。秀ちゃんは吉ちゃんの裏切りをののしる。口論が嵩じて、からだとからだの争闘がはじまる。そこへ刑事の一行が来合わせたわけである。

 秀ちゃんの説明によって、事情を知った刑事たちは、ただちに丈五郎の女房とおとしさんに縄をかけ、土蔵の片輪者たちを解放し、丈五郎を捕えるために地底にくだろうと、その用意をはじめているところへ、ちょうど私たちが現われたのだ。

 刑事の物語によって以上の仔細がわかった。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(46) 狂える悪魔

 

   狂える悪魔

 

 それからまた、地獄めぐりの悩ましい旅がはじまった。カニの生肉に餓えをしのぎ、洞窟の天井から滴り落ちるわずかの清水に渇を癒(いや)して、何十時間、私たちは果てしもしらぬ旅をつづけた。そのあいだの苦痛、恐怖いろいろあれど、あまり管々しければすべて省く。

[やぶちゃん注:「管々しけれ」「くだくだしけれ」。]

 地底には夜も昼もなかったけれど、私たちは疲労に耐えられなくなると、岩の床に横たわって眠った。その幾度目かの眠りから眼覚めたとき、徳さんがとんきょうに叫び立てた。

「紐がある。紐がある。お前さんたちが見失ったという麻縄は、これじゃないかね」

 私たちは思いがけぬ吉報に狂喜して、徳さんのそばへ這い寄ってさぐってみると、確かに麻縄だ。それでは、私たちはもう入口まぢかにきているのであろうか。

「違うよ、これは僕たちが使った麻縄ではないよ。蓑浦君、君はどう思う。僕たちのはこんなに太くなかったね」

 道雄が不審そうに言った。いわれてみると、なるほど私たちの使用した麻縄ではなさそうだ。

「すると僕たちのほかにも、誰かしるべの紐を使って、この穴へはいったものがあるのだろうか」

[そうとしか考えられないね。しかも、僕たちのあとからだ。なぜといって、僕たちがはいったときには、あの井戸の入口に、こんな麻縄なんて括りつけてなかったからね」

 私たちのあとを追って、この地底にきたのは、全体何者だろう。敵か味方か。だが、丈五郎夫妻は土蔵にとじこめられている。あとはかたわ者ばかりだ。ああ、もしや先日船出した諸戸屋敷の使用人たちが帰ってきて、古井戸の入口に気づいたのではあるまいか。

「ともかくも、この縄を伝って、行けるところまで行って見ようじゃないか」

 道雄の意見に従って、私たちはその縄をしるべにして、どこまでも歩いて行った。

 やっぱり、何者かが地底へ入りこんでいたのだ。一時間も歩くと、前方がボンヤリと明るくなってきた。曲りくねった壁に反射してくるロウソクの光だ。

 私たちはポケットのナイフを握りしめて、足音の反響を気にしながら、ソロソロと進んで行った。一と曲りするごとにその明るさが増す。

 ついに最後の曲り角に達した。その岩角の向こうがわに、はだかロウソクがゆらいでいる。吉か凶か、私は足がすくんで、もはや前進する力がなかった。

 そのとき、突然、岩の向こうがわから異様な叫び声が聞こえてきた。よく聞くと、単なる叫

び声ではない。歌だ。文句も節もめちゃめちゃの、かつて聞いたこともない兇暴な歌だ。それが、洞窟に反響して、異様なけだものの叫び声とも聞こえたのだ。思いがけぬ場所で、この不思議な歌声を聞いて、私はゾッと身の毛もよだつ思いがした。

「丈五郎だよ」

 先頭に立った道雄が、ソツと岩角を覗いて、びっくりして首を引っこめると、低い声で私たちに報告した。

 土蔵にとじこめておいたはずの丈五郎が、どうしてここへきたか、なぜ妙な歌を歌っているのか、私はさっぱりわけがわからなかった。

 歌の調子はますます雪いよいよ兇暴になって行く。そして、歌の伴奏のようチャリンチヤリンと、冴え返った金属の音が聞こえてくる。

 道雄が又ソッと岩角から覗いていたが、やがて、

「丈五郎は気が違っているのだ。無理もないよ。見たまえ、あの光景を」

 と言いながら、ずんずん岩の向こうがわへ歩いて行く。気ちがいと聞いて、私たちも彼のあとに従った。

 ああ、そのとき私たちの眼の前にひらけた、世にも不思議な光景を、私はいつまでも忘れることができない。

 醜い佝僂おやじが、赤いロウソクの光に半面を照らされて、歌とも叫びともつかぬことをわめきながら、気ちがい踊りを踊っている。その足もとは銀杏(いちょう)の落葉のように、一面の金色だ。

 丈五郎は洞窟の片隅にある幾つかの甕(かめ)の中から、両手につかみ出しては、踊り狂いながら、キラキラとそれを落とす。落とすに従って、金色の雨はチャリンチャリンと微妙な音を立てる。

 丈五郎は私たちの先廻りをして、幸運にも地底の財宝を探り当てたのだ。しるべの縄を失わなかった彼は、私たちのように同じ道をどうどうめぐりすることなく、案外早く目的の場所に達することができたのであろう。だが、それは彼にとって悲しい幸運であった。驚くべき黄金の山が、ついに彼を気ちがいにしてしまったのだから。

 私たちは駈け寄って、彼の肩をたたき、正気づけようとしたが、丈五郎はうつろな眼で私たちを見るばかり、敵意さえも失って、わけのわからぬ歌を歌いつづけている。

「わかった、蓑浦君。僕たちのしるべの麻縄を切ったのは、このおやじだったのだ。やつはそうして僕たちを路に迷わせておいて、自分の別のしるべ縄で、ここまでやってきたのだよ」

 道雄がそこに気づいて叫んだ。

「だが、丈五郎がここへきているとすると、諸戸屋敷に残しておいたかたわたちが心配だね。もしやひどい目に合わされているんじゃないだろうか」

 その実、私は恋人秀ちゃんの安否を気づかっていたのだ。

「もう、この麻縄があるんだから、そとへ出るのはわけはない。ともかく一度様子を見に帰ろう」

 道雄の指図で、気ちがいおやじの見張番には徳さんを残しておいて、私たちはしるべの縄を伝って、走るように出口に向かった。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(45) 霊の導き

 

   霊の導き

 

「もっと詳しく、もっと詳しく話してください」

 諸戸がかすれた声で、せき込んで尋ねた。

「わしはおやじの代からの、樋口家の家来で、七年前に、佝僂さんのやり方を見るに見かねて暇(いとま)を取るまで、わしはことしちょうど六十だから、五十年というもの、樋口一家のいざこざを見てきたわけだよ。順序を追って話してみるから、聞きなさるがいい」

 そこで、徳さんは思い出し思い出し、五十年の過去に遡って、樋口家、すなわち今の諸戸屋敷の歴史を物語ったのであるが、それを詳しく書いていては退屈だから、左に一と目でわかる表にして掲げることにする。

[やぶちゃん注:以下、各年次の条が二行に及ぶ場合は底本では二字下げが行われているが、無視した。因みに先に注しておくと、「慶応」は一八六五年から一八六八年まで。「明治十年は一八七七年、中は略して、「明治四十一年」は一九〇八年。]

 

(慶応年代)樋口家の先代万兵衛(まんべえ)、醜きかたわの女中に手をつけ海二(かいじ)が生れた。これが母に輪をかけた佝僂の醜い子だったので、万兵衛は見るに耐えず、母子を追放した。彼らは本土の山中に隠れてけもののような生活をつづけてきた。母は世を呪い人を呪ってその山中に死亡した。

(明治十年)万兵衛の正妻の子春雄(はるお)が、対岸の娘、琴平梅野(ことひらうめの)と結婚した。

(明治十二年)春雄、梅野のあいだに春代(はるよ)生る。間もなく春雄病死す。

(明治二十年)海二が諸戸丈五郎という名で島に帰り、樋口家に入って、梅野がかよわい女であるのを幸い、ほしいままに振る舞った。その上梅野に不倫なる恋を仕掛けるので、彼女は春代を伴なって、実家に逃げ帰った。

(明治二十三年)恋に破れ世を呪う丈五郎は、醜い佝僂娘を探し出して結婚した。

(明治二十五年)丈五郎夫妻のあいだに一子生る。因果とその子も佝僂であった。丈五郎は歯をむき出して喜んだ。彼は同じ年、一歳の道雄をどこからか誘拐してきた。

(明治三十三年)実家に帰った梅野の子、春代(春雄の実子樋口家の正統)同村の青年と結婚す。

(明治三十八年)春代、長女初代を生む。これが後の木崎初代である。丈五郎に殺された私の恋人木崎初代である。

(明治四十年)春代、次女緑を生む。同年春代の夫死亡し、実家も死に絶えて身寄りなきため、春代は母の縁をたよって、岩屋島に渡り、丈五郎の屋敷に寄寓することになった。丈五郎の甘言にのせられたのである。この物語のはじめに、初代が荒れ果てた海岸で、赤ちゃんをお守りしていたと語ったのは、このころの出来事で、赤ちゃんというのは次女緑であった。

(明治四十一年)丈五郎の野望が露骨に現われてきた。彼は梅野に破れた恋を、その子の春代によって満たそうとした。春代はついに居たたまらず、ある夜初代を連れて島を抜け出した。そのとき次女の緑は丈五郎のために奪われてしまった。

春代は流れ流れて大阪にきたが、糊口に窮して、ついに初代を捨てた。それを木崎夫妻が拾ったのである。

 

 以上が徳さんの見聞に私の想像を加えた簡単な樋口家の歴史である。これによって初代さんこそ樋口家の正統であって、丈五郎は下女の子にすぎないことがわかった。もしこの地底に宝が隠されてあるとすれば、それは当然なき初代さんのものであることが、いよいよ明かになった。

 諸戸道雄の実の親がどこの誰であるかは、残念ながら少しもわからなかった。それを知っているのは丈五郎だけだ。

「ああ、僕は救われた。それを聞いては、どんなことがあっても、僕はもう一度地上に出る。そして、丈五郎を責めて、僕のほんとうの父や母のいどころを白状させないではおかぬ」

 道雄はにわかに勇み立った。

 だが、私は私で、ある不思議な予感に胸をワクワクさせていた。私はそれを徳さんに聞きたださなければならぬ。

「春代さんに二人の女の子があったのだね。初代と緑。その妹の緑の方は、春代さんが家出をしたとき、丈五郎に奪われたというのだね。数えてみると、ちょうど十七になる娘さんだ。その緑はそれからどうしたの。今でも生きているの」

「ああ、それを話すのを忘れたっけ」徳さんが答えた。「生きています。だが、可表そうに生きているというだけで、まともな人間じゃない。生れもつかぬふたごのかたわにされちまってね」

「おお、もしやそれが秀ちゃんでは?」

「そうだよ。あの秀ちゃんが緑さんのなれの果てですよ」

 なんという不思議な因縁であろう。私は初代さんの実の殊に恋していたのだ。私の心持を地下の初代は恨むだろうか、それとも、このめぐり合わせはすべて、初代さんの霊の導きがあって、彼女は私をこの孤島に渡らせ、蔵の窓の秀ちゃんを見せて、私に一と目惚れをさせたのではないだろうか。ああ、なんだかそんな気がしてならぬ。もし初代さんの霊にそれほどの力があるのだったら、われわれの宝探しも首尾よく目的を達するかもしれない。そして、この地下の迷路を抜け出して、再び秀ちゃんに逢うときがくるかもしれない。

「初代さん、初代さん、どうか私たちを守ってください」

 私は心の中で懐かしい彼女の悌(おもかげ)に祈った。

[やぶちゃん注:先の年譜で、春代が次女緑を生むのが明治四〇(一九〇七)年、春代が岩屋島から長女初代と逃走に成功するも、次女緑が丈五郎に奪われてしまったのが、翌年で、この章の時制が大正一四(一九二五)年夏(推定八月末か九月上旬)であるから、緑は満でなら、十七か十八とはなる。]

 

午後まで更新なし

これより、半年に一回の脳外科の診察。午後まで更新はなし。江戸川乱歩「孤島の鬼」は、全電子化をさきほど、完了したので、午後には残り(則ち、全篇のブログ掲載)の公開を行える。乞御期待――

江戸川乱歩 孤島の鬼(44) 意外の人物 / 最終章突入!

 

   意外の人物

 

 諸戸は私を離した。私たちは動物の本能で、敵に対して身構えをした。

 耳をすますと、生きものの呼吸が聞こえる。

「シッ」

 諸戸は犬を叱るように叱った。

「やっぱりそうだ。人間がいるんだ。オイ、そうだろう」

 意外にも、その生き物が人間の言葉をしゃべった。年とった人間の声だ。

「君は誰だ。どうしてこんなところへきたんだ」

 諸戸が聞き返した。

「お前は誰だ。どうしてこんなところにいるんだ」

 相手も同じことをいった。

 洞窟の反響で、声が変って聞こえるせいか、なんとなく聞き覚えのある声のようでいて、その人を思い出すのに骨が折れた。しばらくのあいだ、双方探り合いの形で、だまっていた。

 相手の呼吸がだんだんハッキリ聞こえる。ジリジリと、こちらへ近寄ってくる様子だ。

「もしや、お前さんは、諸戸屋敷の客人ではないかね」

 一間ばかりの近さで、そんな声が聞こえた。今度は低い声だったので、その調子がよくわかった。

 私はハッと或る人を思い出した。だが、その人はすでに死んだはずだ。丈五郎のために殺されたはずだ……死人の声だ。一刹那、私はこの洞窟がほんとうの地獄ではないか、私たちはすでに死んでしまったのではないか、という錯覚をおこした。

「君は誰だ。もしや……」

 私が言いかけると、相手は嬉しそうに叫び出した。

「ああ、そうだ。お前さんは蓑浦さんだね。もう一人は、道雄さんだろうね。わしは丈五郎に殺された徳だよ」

「ああ、徳さんだ。君、どうしてこんなところに」

 私たちは思わず声を目当てに走り寄って、お互いのからだを探り合った。

 徳さんの舟は魔の淵のそばで、丈五郎の落とした大石のために顚覆した。だが、徳さんは死ななかったのだ。ちょうど満潮のときだったので、彼のからだは、魔の淵の洞窟の中へ吸い込まれた。そして、潮が引き去ると、ただ一人闇の迷路にとり残された。それからきょうまで、彼は地下に生きながらえていたのだった。

「で、息子さんは? 私の影武者を勤めてくれた息子さんは?」

「わからないよ、おおかたサメにでも食われてしまったのだろうよ」

 徳さんはあきらめ果て調子であった。無理もない。徳さん自身、再び地上に出る見込みもない、まるで死人同然の身の上なんだから。

「僕のために、君たちをあんな目に会わせてしまって、さぞ僕を恨んでいるだろうね」

 私はともかくも詫びごとをいった。だが、この死の洞窟の中では、そんな詫びごとが、なんだか空々しく聞こえた。徳さんはそれには、なんとも答えなかった。

「お前たち、ひどく弱っているあんばいだね。腹がへっているんじゃないかね。それなら、ここにわしの食い残りがあるから、たべなさるがいい。食い物の心配はいらないよ、ここには大ガニがウジャウジャいるんだからね」

 徳さんがどうして生きていたかと、不審にたえなかったが、なるほど、彼はカニの生肉で飢(うえ)をいやしていたのだ。私たちはそれを徳さんに貰ってたべた。冷たくドロドロした、塩っぱい寒天みたいなものだったが、実にうまかった。私はあとにも先にも、あんなうまい物をたべたことがない。

[やぶちゃん注:「塩っぱい」「しょっぱい」。]

 私たちは徳さんにせがんで、さらに幾匹かの大ガニを捕えてもらい、岩にぶつけて甲羅を割って、ペロペロと平らげた。いま考えると無気味にも汚なくも思われるが、そのときは、まだモヤモヤと動いている太い足をつぶして、その中のドロドロしたものを啜るのが、なんともいえずうまかった。

 飢餓(きが)が回復すると、私たちは少し元気になって、徳さんとお互いの身の上を話し合った。

「そうすると、わしらは死ぬまでこの穴を出る見込みはないのだね」

 私たちの苦心談を聞いた徳さんが、絶望の溜息をついた。

「わしは残念なことをしたよ。命がけで、元の穴から海へ泳ぎ出せばよかったのだ。それを、渦巻に巻き込まれて、とても命がないと思ったものだから、海へ出ないで穴の中へ泳ぎ込んでしまったのだよ。まさかこの穴が、渦巻よりも恐ろしい、八幡の藪知らずだとは思わなかったからね。あとで気がついて引き返してみたが、路に迷うばかりで、とても元の穴へ出られやしない。だが、何が幸いになるか、そうしてわしがさ迷い歩いたお蔭で、お前さんたちに会えたわけだね」

「こうしてたべ物ができたからには、僕たちは何も絶望してしまうことはないよ。百に一つまぐれ当たりでそとへ出られるものなら、九十九度まで無駄に歩いて見ようじゃないか、何日かかろうとも、幾月かかろうとも」

 人数がふえたのと、カニの生肉のお蔭で、にわかに威勢がよくなった。

「ああ、君たちはもう一度娑婆の風に当たりたいだろうね。僕は君たちが羨ましいよ」

 諸戸が突然悲しげに呟いた。

「変なことを言いなさるね。お前さんは命が惜しくはないのかね」

 徳さんが不審そうに尋ねた。

「僕は丈五郎の子なんだ。人殺しで、かたわ者製造の、悪魔の子なんだ。僕はお日さまが怖い。娑婆に出て、正しい人たちに顔を見られるのが恐ろしい。この暗闇の地の底こそ悪魔の子にはふさわしい住みかかもしれない」

 可哀そうな諸戸。彼はその上に、私に対する、さっきのあさましい所行を恥じているのだ。

「もっともだ。お前さんはなんにも知らないだろうからね。わしはお前さんたちが島へきたときに、よっぽどそれを知らせてやろうかと思った。あの夕方、わしが海辺にうずくまって、お前さんたちを見送っていたのを覚えていなさるかね。だが、わしは丈五郎の返報が恐ろしかった。丈五郎を怒らせては、いっときもこの島に住んではいられなくなるのだからね」

 徳さんが妙なことを言い出した。彼は以前諸戸屋敷の召使いであったから、ある点まで丈五郎の秘密を知っているはずだ。

「僕に知らせるって、何をだね」

 諸戸が身動きをして、聞き返した。

「お前さんが、丈五郎のほんとうの子ではないということをさ。もうこうなったら何をしゃべってもかまわない。お前さんは丈五郎が本土からかどわかしてきたよその子供だよ。考えてもみるがいい、あの片輪者の汚ならしい夫婦に、お前さんのような綺麗な子供が生れるものかね。あいつのほんとうの子は、見世物を持って方々巡業しているんだよ。丈五郎に生き写しの佝僂だ」

 読者は知っている、かつて北川刑事が、尾崎曲馬団を追って静岡県のある町へ行き、一寸法師に取り入って、「お父つぁん」のことを尋ねたとき、一寸法師が「お父つぁんとは別の若い佝僂が曲馬団の親方である」といったその親方が、丈五郎の実の子だったのだ。

 徳さんは語りつづける。

「お前さんもどうせ片輪者に仕込むつもりだったのだろうが、あの佝僂のお袋がお前さんを可愛がってね、あたり前の子供に育て上げてしまった。そこへもってきて、お前さんがなかなか利口者だとわかったものだから、丈五郎も我(が)を折って、自分の子として学問を仕込む気になったのだよ」

 なぜ自分の子にしたか。彼は悪魔の目的を遂行する上に、真実の親子という、切っても切れぬ関係が必要だったのだ。

 ああ、諸戸道雄は悪魔丈五郎の実子ではなかったのである。驚くべき事実であった。

[やぶちゃん注:本章を含む本作の最終五章は初出では第十四回に相当する。この回のみ、竹中英太郎氏の挿絵標題には、回数表示がなく、そのかわりに『完結』(右から左への横書)の文字が書き込まれてある。]

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(43) 生地獄

 

   生地獄

 

 私は尋ねたくてウズウズする一事があった。だが、自分のことばかり考えているように思われるのがいやだったから、しばらく諸戸の興奮の鎮まるのを待った。

 私たちは闇の中で、抱き合ったままだまりこんでいた。

「ばかだね、僕は。この地下の別世界には、親もなし、道徳も、羞恥もなかったはずだね。今さら興奮してみたところで、はじまらぬことだ」

 やっとして、冷静に返った諸戸が低い声でいった。

「すると、あの秀ちゃん吉ちゃんのふたごも」私は機会を見いだして尋ねた。「やっぱり作られた不具者だったの」

「むろんさ」諸戸ははき出すようにいった。「そのことは、僕には、例の変な日記帳を読んだときからわかっていた。同時に、僕は日記帳で、おやじのやっている事柄を薄々感づいたのだ。なぜ僕に変な解剖学を研究させているかっていうこともね。だが、そいつを君にいうのはいやだった。親を人殺しだということはできても、人体変形のことはどうにも口に出せなかった。言葉につづるさえ恐ろしかった。

 秀ちゃん吉ちゃんが、生れつきの双生児でないことはね、君は医者でないから知らないけれど、僕らの方では常識なんだよ。癒合双体は必らず同性であるという動かすことのできない原則があるんだ。同一受精卵の場合は男と女の双生児なんて生れっこないのだよ。それにあんな顔も体質も違う双生児なんてあるものかね。

 赤ん坊の時分に、双方の皮をはぎ、肉をそいで、無理にくっつけたものだよ。条件さえよければできないことはない。運がよければ素人にだってやれぬとも限らぬ。だが当人たちが考えているほど芯からくっついているのではないから、切り離そうと思えば造作もないのだよ」

「じゃあ、あれも見世物に売るために作ったのだね」

「そうさ、ああして三味線を習わせて、一ばん高く売れる時期を待っていたのだよ。君は秀ちゃんが片輪でないことがわかって嬉しいだろうね。嬉しいかい」

「君は嫉妬しているの」

 人外境が私を大胆にした。諸戸のいった通り、礼儀も羞恥もなかった。どうせ今に死んじまうんだ。何をいったって構うものかと思っていた。

「嫉妬している。そうだよ。ああ、僕はどんなに長いあいだ嫉妬しつづけてきただろう。初代さんとの結婚を争ったのも、一つはそのためだった。あの人が死んでからも、君の限りない悲嘆を見て、僕はどれほどせつない思いをしていただろう。だが、もう君、初代さんも秀ちゃんも、そのほかのどんな女性とも、再び会うことはできないのだ。この世界では、君と僕とが全人類なのだ。

 ああ、僕はそれが嬉しい。君と二人でこの別世界へとじこめてくだすった神様がありがたい。僕は最初から、生きようなんてちっとも思っていなかったんだ。おやじの罪亡ぼしをしなければならないという責任感が僕にいろいろな努力をさせたばかりだ。悪魔の子としてこのうえ恥(はじ)を曝(さら)そうより、君と抱き合って死んで行くほうが、どれほど嬉しいか。蓑浦君、地上の世界の習慣を忘れ、地上の羞恥を棄てて、今こそ、僕の願いを容れて、僕の愛を受けて」

 諸戸は再び狂乱のていとなった。私は彼の願いの余りのいまわしさに、答えるすべを知らなかった。誰でもそうであろうが、私は恋愛の対象として、若き女性以外のものを考えると、ゾッと総毛立つような、なんともいえぬ嫌悪を感じた。友だちとして肉体の接触することはなんでもない。快くさえある。だが、一度それが恋愛となると、同性の肉体は吐き気を催す種類のものであった。排他的な恋愛というものの、もう一つの面である。同類憎悪だ。

 諸戸は友だちとして頼もしくもあり、好感も持てた。だが、そうであればあるほど、愛慾の対象として彼を考えることは、堪えがたいのだ。

 死に直面して棄鉢(すてばち)になった私でも、この憎悪だけはどうすることもできなかった。

 私は迫ってくる諸戸をつき離して逃げた。

「ああ、君は今になっても、僕を愛してくれることはできないのか。僕の死にもの狂いの恋を受入れるなさけはないのか」

 諸戸は失望の余り、オイオイ泣きながら、私を追い駈けてきた。

 恥も外聞もない、地の底のめんない千鳥がはじまった。ああ、なんという浅間(あさま)しい場面であったことか。

[やぶちゃん注:「めんない千鳥」遊戯の「目隠し鬼」のこと。手拭などで目隠しをした鬼役が、逃げ回る者たちを手探りで捕まえる「鬼ごっこ」の一種。逃げる者たちは「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」などと囃す。ここで「鬼」を出さなかったのは、本篇が「鬼」だらけであること以外に、寧ろ「めんない千鳥? ああ、目隠し鬼ね」と連想させる洒落であろう。或いは、別の異名である「目無(めなし)し鬼」の畸形に引っ掛けるいやらしさ、さらには「目無し児(ちご)」という同性愛への匂わせという厭な感じをも、逆に私には感じられる。穿ち過ぎか。]

 そこは、左右の壁の広くなった、あの洞窟の一つであったが、私は元の場所から五、六間も逃げのびて、闇の片隅にうずくまり、じつと息を殺していた。

 諸戸もひっそりしてしまった。耳をすまして人間の気配を聞いているのか、それとも、壁伝いにめくら蛇みたいに、音もなく餌物に近づきつつあるのか、少しも様子がわからなかった。それだけに気味が悪い。

 私は闇と沈黙の中に、眼も耳もない人間のように、独りぼっちで震えていた。そして、

「こんなことをしているひまがあったら、少しでもこの穴を抜け出す努力をしたほうがよくはないのか。もしや諸戸は、彼の異様な愛慾のために、万一助かるかもしれない命を、犠牲にしようとしているのではあるまいか」

 ハッと気がつくと、蛇はすでに私に近づいていた。彼は一体闇の中で私の姿が見えるのであろうか。それとも五感のほかの感覚を持っていたのであろうか。驚いて逃げようとする私の足は、いつか彼の黐(もち)のような手に摑まれていた。

 私ははずみを食って岩の上に横ざまに倒れた。蛇はヌラヌラと私のからだに這い上がってきた。私は、このえたいの知れぬけだものが、あの諸戸なのかしらと疑った。それはもはや人間というよりも無気味な獣類でしかなかった。

 私は恐怖のためにうめいた。

 死の恐怖とは別の、だがそれよりも、もっともっといやな、なんともいえない恐ろしさであった。

 人間の心の奥底に隠れている、ゾッとするほど不気味なものが今や私の前に、その海坊主みたいな、奇怪な姿を現わしているのだ。闇と死と獣性の生地獄だ。

 私はいつかうめく力を失っていた。声を出すのが恐ろしかったのだ。

 火のように燃えた頰が、私の恐怖に汗ばんだ頰の上に重なった。ハッハッという犬のような呼吸、一種異様の体臭、そして、ヌメヌメと滑かな、熱い粘膜が、私の唇を探して、蛭(ひる)のように、顔中を這いまわった。

 諸戸道雄は今はこの世にいない人である。だが、私は余りに死者を恥しめることを恐れる。もうこんなことを長々と書くのはよそう。

 ちょうどそのとき、非常に変なことが起こった。そのお蔭で、私は難を逃れることができたほどに、意外な椿事(ちんじ)であった。

 洞窟の他の端で、変な物音がしたのだ。コウモリやカニには馴れていたが、その物音はそんな小動物の立てたものではなかった。もっとずっと大きな生物がうごめいている気配なのだ。

 諸戸は私を摑んでいる手をゆるめて、じつと聞き耳を立てた。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(42) 復讐鬼

 

   復讐鬼

 

 どれほど眠ったのか、胃袋が、焼けるような夢を見て、眼を醒ました。身動きすると、からだの節々が、神経痛みたいにズキンズキンした。

「眼がさめたかい、僕らは相変らず、穴の中にいるんだよ。まだ生きているんだよ」

 先に起きていた諸戸が、私の身動きを感じて、物やさしく話しかけた。

 私は、水も食物もなく、永久に抜け出す見込みのない闇の中に、まだ生きていることをハッキリ意識すると、ガタガタ震え出すほどの恐怖におそわれた。睡眠のために思考力が戻ってきたのが呪わしかった。

「怖い。僕、怖い」

 私は諸戸の身体をさぐって、すり寄って行った。

 「蓑浦君、僕たちはもう再び地上へ出ることはない。誰も僕たちを見ているものはない。顔さえ見えぬのだ。そして、ここで死んでしまってからも、僕らのむくろは、おそらく永久に、誰にも見られはしないのだ。ここには、光がないと同じように、法律も、道徳も、習慣も、なんにもない。人類が全滅したのだ。別の世界なのだ。僕は、せめて死ぬまでのわずかのあいだでも、あんなものを忘れてしまいたい。いま僕らには羞恥も、礼儀も、虚飾も、猜疑(さいぎ)も、なんにもないのだ。僕らはこの闇の世界へ生れてきた二人きりの赤ん坊なんだ」

 諸戸は散文詩でも朗読するように、こんなことをしゃベりつづけながら、私を引き寄せて、肩に手を廻して、しつかりと抱いた。彼が首を動かすたびに、二人の頰と頰が擦れ合った。

「僕は君に隠していたことがある。だが、そんなことは人類社会の習慣だ、虚飾だ。ここでは隠すことも、恥かしいこともありやしない。親爺のことだよ。アン畜生の悪口だよ。こんなにいっても、君は僕を軽蔑するようなことはあるまいね。だって、僕たちに親だとか友だちがあったのは、ここでは、みんな前世の夢みたいなもんだからね」

 そして、諸戸はこの世のものとも思われぬ、醜悪怪奇なる大陰謀について語りはじめたのであった。

「諸戸屋敷に滞在していたころ、毎日別室で、丈五郎のやつと口論していたのを君も知っているだろう。あの時、すっかりやつの秘密を聞いてしまったのだよ。

 諸戸家の先代が、化物みたいな佝僂の下女に手をつけて生れたのが丈五郎なのだ。むろん正妻はあったし、そんな化物に手をつけたのは、ほんの物好きの出来心だったから、因果と母親に輪をかけた片輪の子供が生れると、丈五郎の父親は、母と子をいみきらって、金をつけて島のそとへ追放してしまった。母親は正妻でないので、親の姓を名乗っていた。それが諸戸というのだ。丈五郎は今では樋口家の戸主だけれど、あたりまえの人間を呪うのあまり、姓まで樋口を嫌い、諸戸で押し通しているのだ。

 母親は生れたばかりの丈五郎をつれて、本土の山奥で乞食みたいな生活をしながら、世を呪い、人を呪った。丈五郎は幾年月この呪いの声を子守歌として育った。彼らはまるで別世界のけだものでもあるように、あたり前の人間を恐れ憎んだ。

 丈五郎は彼が成人するまでの、数々の悩み、苦しみ、人間どもの迫害について、長い物語を聞かせてくれた。母親は彼に呪いの言葉を残して死んで行った。成人すると、彼はどうしたきっかけでか、この岩屋島へ渡ったが、ちょうどそのころ、樋口家の世継ぎ、つまり丈五郎の異母兄に当たる人が、美しい妻と生れたばかりの子を残して死んでしまった。丈五郎はそこへ乗り込んで行って、とうとう居坐ってしまったのだ。

 丈五郎は因果なことに、この兄の妻を恋した。後見役といった立場にあるのを幸い、手をつくしてその婦人をくどいたが、婦人は「片輪者の意に従うくらいなら、死んだほうがましだ」

という無情な一ことを残して、子供をつれて、ひそかに島を逃げ出してしまった。丈五郎はまっ青になって、歯を食いしばって、ブルブル震えながら、その話をした。それまでとても、かたわのひがみから、常人を呪っていた彼は、そのときから、ほんとうに世を呪う鬼と変ってしまった。

 彼は方々探しまわって、自分以上にひどい片輪娘を見つけ出し、それと結婚した。全人類に対する復讐の第一歩を踏んだのだ。その上、片輪者と見れば、家に連れ戻って、養うことをはじめた。もし子供ができるなら、当たり前の人間でなくて、ひどいひどい片輪者が生れますようにと、祈りさえした。

 だが、なんという運命のいたずらであろう。片輪の両親のあいだに生れたのは僕だった。似もつかぬごくあたり前の人間だった。両親はそれが通常の人間であるというだけで、わが子さえも憎んだ。

 僕が成長するにつれて、彼らの人間憎悪はますます深まって行った。そして、ついに身の毛もよだつ陰謀を企らむようになったのだ。彼らは手を廻して、遠方から、生れたばかりの貧乏人の子を買って歩いた。その赤ん坊が美しく可愛いほど、彼らは歯をむき出して喜んだ。

 蓑浦君、この死の暗闇の中だから、打ち明けるのだけれど、彼らは不具者製造を思い立ったのだよ。

 君はシナの虞初新志(ぐしょしんし)という本を読んだことがあるかい。あの中に見世物に売るために赤ん坊を箱詰めにして不具者を作る話が書いてある。また、僕はユーゴーの小説に、昔フランスの医者が同じような商売をしていたことが書いてあるのを読んだおぼえがある。不具者製造というのは、どこの国にもあったことかもしれない。

[やぶちゃん注:「虞初新志」明末清初の張潮撰(一六五〇年~一七〇七年)になる小説集。

「見世物に売るために赤ん坊を箱詰めにして不具者を作る話」中文サイトの原典で探して見たが、それらしいものが「序」の中にあるようにも見えるが、何分、中国語は判らぬので、引用はやめておく。ただ、確実に言えることは、この作者江戸川乱歩の最初のネタ元はダイレクトに「虞初新志」ではなく、森鷗外の「ヰタ・セクスアリス」(明治四二(一九〇九)年に発表。題名はラテン語 vita sexualisで「性(欲)的生活」の意)であるということである。それは最後の示す乱歩の本篇への「自註自解」の中で、『この小説は鷗外全集の随筆の中に、シナで見世物用に不具者を製造する話が書いてあったのにヒントを得て、筋を立てた』と述べていることで明らかだからである。当該箇所は「十五になつた」で始まるパートの以下で、それを見れば、初見がこれであることは一目瞭然である。底本は岩波の新初版選集(私は全集を所持しないため)を用いたが、気持ちの悪い漢字新字体なので、恣意的に総て正字化した。後半部は関係ないが、纏まったシークエンスと時間であるから、一緒に示した。「虞初新誌」と表記するが、これは他でも同書の書名としてしばしば見かける表記で、誤りではない。

   *

 夏の初の氣持の好い夕かたである。神田の通りを步く。古本屋の前に來ると、僕は足を留(と)めて覗く。古賀は一しよに覗く。其頃は、日本人の詩集なんぞは一册五錢位で買はれたものだ。柳原の取附に廣場がある。ここに大きな傘を開いて立てて、その下で十二三位な綺麗な女の子にかつぽれを踊らせてゐる。僕は Victor Hugo Notre Dame を讀んだとき、Emeraude とかいふ寶石のやうな名の附いた小娘の事を書いてあるのを見て、此女の子を思出して、あの傘の下でかつぽれを踊ったやうな奴だらうと思つた。古賀はかう云つた。

 「何の子だか知らないが、非道い目に合はせてゐるなあ。」

 「もっと非道いのは支那人だらう。赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にしたといふ話があるが、そんな事もし兼ねない。」

 「どうしてそんな話を知つてゐる。」

 「虞初新誌にある。」

 「妙なものを讀んでいるなあ。面白い小僧だ。」

 こんな風に古賀は面白い小僧だを連發する。柳原を兩國の方へ歩いているうちに、古賀は蒲燒の行燈の出てゐる家の前で足を留(と)めた。

 「君は鰻を食ふか。」

 「食ふ。」

 古賀は鰻屋へ這入つた。大串を誂える。酒が出ると、ひとりで面白さうに飮んでゐる。そのうち咽に痰がひつ掛かる。かつと云ふと思ふと、緣(えん)の外の小庭を圍んでゐる竹垣を越して、痰が向うの路地(ろぢ)に飛ぶ。僕はあつけに取られて見てゐる。鰻が出る。僕はお父(とう)樣に連れられて鰻屋へ一度行つて、鰻飯を食つたことしか無い。古賀がいくら丈燒けと金で誂えるのに先づ驚いたのであつたが、その食ひやうを見て更に驚いた。串を拔く。大きな切を箸で折り曲げて一口に頰張る。僕は口には出さないが、面白い奴だと思つて見てゐたのである。

 その日は素直に寄宿舍に歸つた。寢るとき、明日(あした)の朝は起してくれえ、賴むぞと云つて、ぐうぐう寢てしまつた。

   *

この「Notre Dame」は「ノートルダムのせむし男」の邦題で知られる、フランス・ロマン主義の文豪ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo 一八〇二年~一八八五年)の小説「パリのノートルダム(大聖堂)」(Notre-Dame de Paris:一八三一年刊)。

「ユーゴーの小説に、昔フランスの医者が同じような商売をしていたことが書いてあるのを読んだ」不詳。しかしどうも気になるのは、前に示した鷗外の引用部で、やはり、ユーゴの「ノートルダム・ド・パリ」の中でロマ(旧称「ジプシー」は差別性が強いので使用しない)の美姫の踊り子エスメラルダ(Esmeralda:原典表記はこちらが正しい)の名を挙げているのが気になり、そもそも同作の主人公カジモド(Quasimodo)は佝僂疾患である。乱歩には失礼乍ら、或いは彼は、鷗外の「ヰタ・セクスアリス」の先の引用箇所を読んで、「かつぽれを踊らせ」られている「十二三位な綺麗な女の子」を見た鷗外が、後に「Victor Hugo Notre Dame」を読んだ折り、そこに出てくる賤しい存在として差別されたロマの美しい「Emeraudeと」いう「小娘の事」について「書いてある」のを見い出し、「あの傘の下でかつぽれを踊」らされているひどい扱いをされていた娘を「思出して」同じだ、と思い、その、単に可憐な普通の少女が非道に酷使されているのを見た学友古賀が「何の子だか知らないが、非道い目に合はせてゐるなあ」と言ったのに対し、鷗外が(あんなのは酷使されているだけで、まだましだよ)「もっと非道いのは支那人だらう。赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にしたといふ話があるが、そんな事もし兼ねない」というふうに応じただけなのに、その文脈を乱歩は早とちりしてしまい――「虞初新志」に記されている、乳児の時から箱に閉じ込めて保育させられておぞましい畸形に改造されてしまった見世物の少女のように、鷗外が言っている「 Victor Hugo Notre Dame 」に出てくる「Emeraude とかいふ寶石のやうな名の附いた小娘」も、「あの傘の下でかつぽれを踊ったやうな」娘も、《ともに畸形な「奴」なの「だらうと思つた」》――という誤読をしているのではなかろうか? ユーゴの別な小説に「昔フランスの医者が同じような商売をしていたことが書いてある」のであれば、この推理は乱歩に対して失礼になるので即座に抹消線を引く。ご連絡あられたい。ともかくも大方の御叱正を俟つものである。

 丈五郎はむろんそんな先例は知りゃしない。人間の考え出すことを、あいつも考え出したにすぎない。だが、丈五郎のは金儲けが主眼ではなく、正常人類への復讐なんだから、そんな商売人の幾層倍も執拗で深刻なはずだ。子供を首だけ出る箱の中へ入れて、成長を止め、一寸法師を作った。顔の皮をはいで、別の皮を植え、熊娘を作った。指を切断して三つ指を作った。そして出来上がったものを興行師に売り出した。このあいだ三人の男が、箱を舟につんで出帆したのも、人造不具者輸出なんだ。彼らは港でない荒磯へあの舟をつけ、山越しに町に出て、悪人どもと取引きをするのだ。僕が奴らは数日帰ってこないといったのは、それを知っていたからだよ。

 そういうことをはじめているところへ、僕が東京の学校へ入れてくれと言い出したんだ。おやじは外科医者になるならという条件で僕の申し出を許した。そして、僕が何も気づいていないのを幸い、不具者の治療を研究しろなんて、ていのいいことをいって、その実不具者の製造を研究させていたのだ。頭の二つある蛙や、尻尾が鼻の上についた鼠を作ると、おやじはヤンヤと手紙で激励してきたものだ。

 やつがなぜ僕の帰省を許さなかったかというに、思慮のできた僕に、不具者製造の陰謀を発見されることを恐れたんだ。打ちあけるにはまだ早すぎると思ったんだ。また、曲馬団の友之助少年を手先に使った順序も、容易に想像がつく。やつは不具者ばかりでなく、血に餓えた殺人鬼をさえ製造していたのだ。

 今度、僕が突然帰ってきて、おやじを人殺しだといって責めた。そこで、やつははじめて、不具者の呪いを打ちあけて、親の生涯の復讐事業を助けてくれと、僕の前に手をついて、涙を流して頼んだ。僕の外科医の知識を応用してくれというのだ。

 恐ろしい妄想だ。おやじは日本じゅうから健全な人間を一人もなくして、かたわ者ばかりで埋めることを考えているんだ。不具者の国を作ろうとしているのだ。それが子々孫々の遵守すべき諸戸家の掟(おきて)だというのだ。上州辺で天然の大岩を刻んで、岩屋ホテルを作っているおやじさんみたいに、子孫幾代の継続事業として、この大復讐をなしとげようというのだ。悪魔の妄想だ。鬼のユートピアだ。

[やぶちゃん注:「上州辺で天然の大岩を刻んで、岩屋ホテルを作っている」「上州」ではないが、その近場で「岩屋ホテル」で直ちに思い浮かぶのは、埼玉県比企郡吉見町北吉見の吉見百穴のごく直近にあった(この中央位置(グーグル・マップ・データ)、通称「岩窟ホテル(巖窟ホテル)」(旧正式(?)通称「岩窟ホテル高壯館」)と称した岩山を刳(く)り抜いて作られた洋風の人口洞窟である。ウィキの「巌窟ホテル」によれば、『かつては、近隣の吉見百穴とともに観光名所になっていたが、現在は閉鎖されている』。『明治時代後期から大正時代にかけて、農夫・高橋峰吉の手によって掘られたもので、「岩窟掘ってる」が訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになった』。『そのため、もともとホテルとして建設されたわけではないが、新聞報道ではホテルとして建設中であると報じられていた』。峰吉はこれ『を建設する理由について「何等功利上の目的はなく、唯純粋な芸術的な創造慾の満足と、建築の最も合理的にして完全なる範を永く後世の人士に垂れんが為」と述べている』という。安政五(一八五八)年に『農民の子として生まれた高橋峰吉は、野イチゴを放置しておいたところ』、『発酵してアルコールができたという子供のころの経験をきっかけに、穴を掘って酒蔵を作ることを思いつく』。『明治になって西洋から流入した新しい文化や技術に強いあこがれを抱いた峰吉は、寺子屋で読み書きを教わった以上の教育を受けたことはなかったものの、建築関係を中心に書物を読み漁り独学で知識を身に着けた』。明治三七(一九〇四)年六月に起工、同年九月に実作業に入り、以降、峰吉が亡くなる大正一四(一九二五)年八月までの二一年間、鑿(のみ)と鶴嘴(つるはし)を使って、たった独りで岩窟を掘り続けた。『峰吉の没後しばらくは作業が中断したものの、昭和の初めから息子の奏次が作業を引き継ぎ』、昭和三九(一九六四)年頃まで二『階部分の掘削やペイントの補修作業が続けられた』。『手作業ゆえに一日に掘り進められる距離が』三十センチメートル『と非常に短く、当初から』三代百五十『年間の建設期間を予定していたという』。『岩窟ホテルのうわさは近郊にまで広がり、大正時代のはじめころには多数の見物人が訪れ、整理券を発行するほどの盛況ぶりだったという』。『その様子はロンドンタイムズでも報じられ』、昭和二(一九二七)年『には堺利彦も小旅行で訪問している』。『峰吉の死後も見物人は後を絶たず、吉見百穴に並ぶ観光名所となった』。『しかし、第二次世界大戦末期、吉見百穴の地下一帯に軍需工場が建設されると、岩窟ホテルもその一部として使用され』、『その際、軍需工場へ続く通路が新たに掘られている』。『終戦後は再び観光名所となるが』、一九八二年と一九八七年の二『度の台風被害による崩落によって閉鎖を余儀なくされ』、『管理をしていた奏次も』一九八七『年に亡くなり、以降』、『再開されることなく』、『現在に至』っている、とある。本篇は初出が昭和四(一九二九)年、本文内の主時制も大正一四(一九二五)年(六月二十五日。山崎初代殺人事件発覚日)以降であるから、知名度からも「上州」(誤認或いは意識的なモデルのズラしであろう)という点を除けば、ここに間違いないと私は思う。画像はサイト「廃墟検索地図」のでも見られる。]

 そりゃあ、おやじの身の上は気の毒だ。しかし、いくら気の毒だって、罪もない人の子を箱詰めにしたり、皮をはいだりして、見世物小屋に曝すなんて、そんな残酷な地獄の陰謀を助けることができると思うか。それに、あいつを気の毒だと思うのは、理窟の上だけで、僕はどういうわけか、真から同情できないのだ。変だけれど、親のような気がしないのだ。母にしたって同じことだ。わが子にいどむ母親なんてあるものか。あいつら夫婦は生れながらの鬼だ。畜生だ。からだと同じに心まで曲りくねっているんだ。

 蓑浦君、これが僕の親の正体だ。僕は奴らの子だ。人殺しよりも幾層倍も残酷なことを、一生の念願としている悪魔の子なのだ。僕はどうすればいいのだ。

 ほんとうのことをいうとね。この穴の中で道しるべの糸を見失ったとき、僕は心の隅でホッと重荷をおろしたように感じた。もう永久にこの暗闇から出なくてもすむかと思うと、いっそ嬉しかった」

 諸戸はガタガタ震える両手で、私の肩を力一杯抱きしめて、夢中にしゃべりつづけた。しっかりと押しっけ合った頰に、彼の涙がしとど降りそそいだ。

 あまりの異常事に、批判力を失った私は、諸戸のなすがままに任せて、じつと身を縮めているほかはなかった。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(41) 絶望

 

   絶望

 

 そこで、私たちはさいぜんの諸戸の考案に従って、右手で右がわの壁に触りながら、突き当たったら反対側の壁を後戻りするようにして、どこまでも右手を離さず、歩いて見ることにした。これが最後に残された唯一の迷路脱出法であった。

 私たちははぐれぬために、ときどき呼び合うほかには、黙々として果て知らぬ暗闇をたどって行った。私たちは疲れていた。耐えられぬほどの空腹に襲われていた。そして、いつ果つべしとも定めぬ旅路である。私は歩きながら(それが闇の中では一カ所で足踏みをしているときと同じ感じだったが)、ともすれば夢心地になって行った。

 春の野に、盛り花のような百花が乱れ咲いていた。空には白い雲がフワリと浮かんで、雲雀(ひばり)がほがらかに鳴きかわしていた。そこで地平線から浮き上がるようなあざやかな姿で、花を摘んでいるのは死んだ初代さんである。双生児の秀ちゃんである。秀ちゃんには、もうあのいやな吉ちゃんのからだがついていない。普通の美しい娘さんだ。

 まぼろしというものは、死に瀕した人間への、一種の安全弁であろうか。まぼろしが苦痛を中絶してくれたお蔭で、私の神経はやっと死なないでいた。殺人的絶望がやわらげられた。だが、私がそんな幻を見ながら歩いていたということは、とりも直さず、当時の私が、死と紙ひとえであったことを語るものであろう。

 どれほどの時間、どれほどの道のりを歩いたか、私には何もわからなかった。絶えず壁にさわっていたので、右手の指先が擦りむけてしまったほどだ。足は自動機械になってしまった。自分の力で歩いているとは思えなかった。この足が、止めようとしたら止まるのかしらと、疑われるほどであった。

 おそらく、まる一日は歩いたであろう。ひょっとしたら二日も三日も歩きつづけていたかもしれない。何かにつまずいて、倒れるたびに、そのままグーグー寝入ってしまうのを諸戸に起こされてまた歩行をつづけた。

 だが、その諸戸でさえ、とうとう力の尽きるときがきた。突然彼は「もうよそう」と叫んで、そこへうずくまってしまった。

「とうとう死ねるんだね」

 私はそれを待ちこがれていたように尋ねた。

「ああ、そうだよ」

 諸戸は、当たり前のことみたいに答えた。

「よく考えてみると、僕らは、いくら歩いたって、出られやしないんだよ。もうたっぷり五里以上歩いている。いくら長い地下道だって、そんなばかばかしいことはないよ。これにはわけがあるんだ。そのわけを、僕はやっと悟ることができたんだよ。なんて間抜けだろう」

 彼は烈しい息づかいの下から、瀕死の病人みたいな哀れな声で話しつづけた。

「僕はだいぶ前から、指先に注意を集中して、岩壁の恰好を記憶するようにしていた。そんなことがハッキリわかるわけもないし、また僕の錯覚かもしれないけれど、なんだか、一時間ほどあいだをおいては、全く同じ恰好の岩肌にさわるような気がするのだ。ということは、僕たちはよほど以前から、同じ道をグルグル廻っているのではないかと思うのだよ」

 私は、もうそんなことはどうでもよかった。言葉は聞き取れるけれど、意味なんか考えていなかった。でも、諸戸は遺言みたいにしゃべっている。

「この複雑した迷路の中に、突き当たりのない、つまり完全な輪になった道がないと思っているなんて、僕はよっぽど間抜けだね。いわば迷路の中の離れ島だ。糸の輪の喩えでいうと、大きなギザギザの輪の中に、小さい輪があるんだ。で、もし僕たちの出発点が、その小さい方の輪の壁であったとすると、その壁はギザギザにはなっているけれど、結局行き止まりというものがないのだ。僕たちは離れ島のまわりをどうどう巡りしているばかりだ。それじゃ、右手を離して、反対の左がわを左手でさわって行けばいいようなものだけれど、離れ島は一つとは限っていない。それがまた別の離れ島の壁だったら、やっぱり果てしもないどうどうめぐりだ」

 こうして書くと、ハッキリしているようだけれど、諸戸は、それを考え考え、寝言みたいにしゃべっていたのだし、私は私でわけもわからず、夢のように聞いていたのだ。

「理論的には百に一つは出られる可能性はある。まぐれ当たりで一ばん外がわの糸の輪にぶつかればいいのだからね。しかし、僕たちはもうそんな根気がありやしない。これ以上一と足だって歩けやしない。いよいよ絶望だよ。君一緒に死んじまおうよ」

「ああ死のう。それが一ばんいいよ」

 私は寝入りばなのどうでもなれという気持で、呑気な返事をした。

「死のうよ。死のうよ」

諸戸も同じ不吉な言葉を繰り返しているうちに、麻酔剤が効いてくるように、だんだん呂律(ろれつ)が廻らなくなってきて、そのままグッタリとなってしまった。

 だが、執念深い生活力は、そのくらいのことで私たちを殺しはしなかった。私たちは眠ったのだ。穴へはいってから一睡もしなかった疲れが、絶望とわかって、一度におそいかかったのだ。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(40) 暗中の水泳

 

   暗中の水泳

 

 私は子供の時分、金網の鼠取器にかかった鼠を、金網の中にはいったまま、盥(たらい)の中へ入れ、上から水をかけて殺したことがある。ほかの殺し方、たとえば火箸(ひばし)を鼠の口から突き刺す、というようなことは恐ろしくてできなかったからだ。だが、水攻めもずいぶん残酷だった。盥に水が満ちて行くに従って、鼠は恐怖のあまり、狭い金網の中を、縦横無尽に駈け廻り、昇りついた。「あいつは今どんなにか鼠取りの餌にかかったことを後悔しているだろう」と思うと、いうにいえない変な気持になった。

 でも、鼠を生かしておくわけにはいかぬので、私はドンドン水を入れた。水面と金網の上部とがスレスレになると、鼠は薄赤い口を亀甲型(きっこうがた)の網のあいだから、できるだけ上方に突き出して、悲しい呼吸をつづけた、悲痛なあわただしい泣声を発しながら。

 私は眼をつむって、最後の一杯を汲み込むと、盥から眼をそらしたまま、部屋へ逃げこんだ。十分ばかりしてこわごわ行って見ると、鼠は網の中でふくれ上がって浮いていた。

 岩屋島の洞窟の中の私たちは、ちょうどこの鼠と同じ境涯であった。私は洞窟の小高くなった部分に立ち上がって、暗闇の中で、足の方からだんだん這い上がってくる水面を感じながら、ふとその時のことを思い出していた。

「満潮の水面と、このほら穴の天井と、どちらが高いでしょう」

 私は手探りで、諸戸の腕をつかんで叫んだ。

「僕も今それを考えていたところだよ」

 諸戸は静かに答えた。

「それには、僕たちが下った坂道と、昇った坂道とどちらが多かったか、その差を考えてみればいいのだ」

「降った方が、ずっと多いんじゃありませんか」

「僕もそんなに感じる。地上と水面との距離を差引いても、まだ下った方が多いような気がする」

「すると、もう助かりませんね」

 諸戸はなんとも答えなかった。私たちは墓穴のような暗闇と沈黙の中に茫然と立ちつくしていた。水面は、徐々に、だが確実に高さを増して、膝を越え、腰に及んだ。

「君の知恵でなんとかしてください。僕はもう、こうして死を待っていることは、耐えられません」

 私は寒さにガタガタ震えながら、悲鳴を上げた。

「待ちたまえ、絶望するには早い。僕はさっきロウソクの光でよく調べてみたんだが、ここの天井は上に行くほど狭く、不規則な円錐形になっている。この天井の狭いことが、もしそこに岩の割れ目なんかがなかったら、一縷(いちる)の望みだよ」

 諸戸は考え考えそんなことをいった。私は彼の意味がよくわからなかったけれど、それを問い返す元気もなく、今はもう腹の辺までヒタヒタと押し寄せてきた水に、ふらつきながら、諸戸の肩にしがみついていた。うっかりしていると、足がすべって、横ざまに水に浮きそうな気がするのだ。

 諸戸は私の腰のところへ手をまわして、しつかり抱いていてくれた。真の闇で、二、三寸しか隔たっていない相手の顔も見えなかったけれど、規則正しく強い呼吸が聞こえ、その暖かい息が頰に当たった。水にしめった洋服を通して彼のひきしまった筋肉が、暖く私を抱擁しているのが感じられた。諸戸の体臭が、それは決していやな感じのものでなかったが、私の身ぢかに漂っていた。それらのすべてが、闇の中の私を力強くした。諸戸のお蔭で私は立っていることができた。もし彼がいなかったら、私はとっくの昔に水におぼれてしまったかもしれないのだ。

 だが、増水はいつやむともみえなかった。またたく間に腹を越し、胸に及び、喉に迫った。もう一分もすれば、鼻も口も水につかって、呼吸をつづけるためには、われわれは泳ぎでもするほかはないのだ。

「もうだめだ。諸戸さん、僕たちは死んでしまう」

 私は喉のさけるような声を出した。

「絶望しちゃいけない。最後の一秒まで、絶望しちゃいけない」諸戸も不必要に大きな声を出した。「君は泳げるかい」

「泳げることは泳げるけれど、もう僕はだめですよ。僕はもう一と思いに死んでしまいたい」

「何を弱いことをいっているんだ。なんでもないんだよ。暗闇が人間を臆病にするんだ。しっかりしたまえ。生きられるだけ生きるんだ」

 そして、ついに私たちは水にからだを浮かして軽く立ち泳ぎをしながら、呼吸をつづけねばならなかった。

 そのうちに手足が疲れてくるだろう。夏とはいえ地底の寒さに、からだが凍ってくるだろう。そうでなくても、この水が天井まで一杯になったら、どうするのだ。私たちは水ばかりで生きられる魚類ではないのだ。愚かにも私はそんなふうに考えて、いくら絶望するなといわれても、絶望しないわけには行かなかった。

「蓑浦君、蓑浦君」

 諸戸に手を強く引かれて、ハッと気がつくと、私はいつか夢心地に、水中にもぐっているのであった。

「こんなことを繰り返しているうちに、だんだん意識がぼんやりして、そのまま死んでしまうのに違いない。なあんだ。死ぬなんて存外呑気(のんき)な楽なことだな」

 私はウツラウツラと寝入りばなのような気持で、そんなことを考えていた。

 それから、どれくらい時間がたったか、非常に長いようでもあり、また一瞬間のようにも思われるのだが、諸戸の狂気のような叫び声に私はふと眼を醒ました。

「蓑浦君、助かった。僕らは助かったよ」

 だが、私は返事をする元気がなかった。ただ、その言葉がわかったしるしに、力なく諸戸のからだを抱きしめた。

「君、君」諸戸は水中で、私を揺り動かしながら「いきが変じゃないかね。空気の様子が普通とは違って感じられやしないかね」

「ウン、ウン」

 私はぼんやりして、返事をした。

「水が増さなくなったのだよ。水が止まったのだよ」

「引汐になったの」

 この吉報に、私の頭はややハッキリしてきた。

「そうかもしれない。だが、僕はもっと別の理由だと思うのだ。空気が変なんだ。つまり空気の逃げ場がなくて、その圧力で、これ以上水が上がれなくなったのじゃないかと思うのだよ。そら、さっき天井が狭いから、もし裂け目がないとしたら、助かるって言っただろう。僕ははじめからそれを考えていたんだよ。空気の圧力のお蔭だよ」

 洞窟は私たちをとじこめた代りには、洞窟そのものの性質によって、私たちを助けてくれたのだ。

 その後の次第を詳しく書いていては退屈だ。手っ取り早く片付けよう。結局、私たちは水攻めを逃れて、再び地底の旅行をつづけることができたのだ。

 引汐まではしばらく間があったけれど、助かるとわかれば、私たちは元気が出た。そのあいだ水に浮いていることくらいなんでもなかった。やがて引汐がきた。増した時と同じくらいの速度で、水はグングン引いて行った。もっとも、水の入口は、洞窟よりも高い箇所にあるらしく(だから、ある水準まで汐が満ちた時、一度に水がはいってきたのだ)その入口から水が引くのではなかったけれど、洞窟の地面に、気づかぬほどの裂け目がたくさんあって、そこからグングン流れ出して行くのだ。もしそういう裂け目がなかったら、この洞窟には絶えず海水が満ちていたであろう。さて数十分の後、私たちは水の滴れた洞窟の地面に立つことができた。助かったのだ。だが、講釈師ではないけれど、一難去ってまた一難だ。私たちは今の水騒ぎでマッチをぬらしてしまった。ロウソクはあっても点火することができない。それに気づいたとき、闇のため見えはしなかったけれど、私たちはきっとまっ青になったことにちがいない。

「手さぐりだ。なあに、光なんかなくったって、僕らはもう闇になれてしまった。手さぐりの方がかえって方角に敏感かもしれない」

 諸戸は泣きそうな声で、負けおしみをいった。

 

2017/11/15

柴田宵曲 猫 二

  

 『言海』にネコの語原を挙げた中に、「寐子(ねこ)の義」というのがある。「春眠不覺曉」などというのは人間の言草で、猫には関係ないはずであるが、春の猫の句について、睡猫を捜して見るのも一興であろう。

[やぶちゃん注:気持ちが悪い(特に私は新字の「暁」の字が間が抜けていて嫌いである)ので孟浩然の「春曉」の起句は正字化した(春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜來風雨聲 花落知多少(春眠曉を覺えず 處處(しよしよ)啼鳥(ていちやう)を聞く 夜來(やらい)風雨の聲 花落つること知んぬ多少))。なお、「言海」(大槻文彦)の「ねこ」の項は全文を四年ほど前に大槻文彦「言海」の「猫」の項 + 芥川龍之介の同項を批評したアフォリズム「猫」で電子化したので参照されたい。]

 

 ぬつくりと寢てゐる猫や梅の股    几董

 うち晴て猫の睡(ねむ)るや庭ざくら 春水

 うそ眠る猫のつらはる椿かな     一桃

 

 いずれも庭前の光景らしい。春になって寒さを恐れなくなった猫の様子は、「ぬつくりと」とか「うち晴て」とかいう言葉からも窺われる。如何にものびのびした様子である。椿の花がぽたりと落ちて、睡猫の面を打つというのは、巧を弄し過ぎた嫌(きらい)があるけれども、落椿は他の花に比して体積も重量も多いから、猫の睡を驚かすことはあるかも知れない。

 

 散花(ちりばな)や猫はね入てうごく耳

                   什佐

 

 この句は直(すぐ)に

 

   四睡の讚

 かけろふに寐ても動くや虎の耳    其角

 

の句を連想せしめる。其角は容易に他の後塵を拝する作家でないから、この趣向においても必先鞭を著けたものと思っていたところ、不思議なことに什佐の句を載せた『柱暦(はしらごよみ)』も、其角の句を載せた『千々之丞』も共に元禄十年に出ているので、先後を定めるのが困難になって来た。但(ただし)元禄の昔には生きた虎を見る便宜がない。其角のような逸才でも、画裡の虎で我慢せざるを得ぬ所以(ゆえん)であるが、この句は虎を画いて狗(いぬ)に類するのと反対に、猫を画いて虎に擬したようなところがある。一句の眼目たる「寐ても動く」耳は、これを猫に得て虎に及ぼしたものであろう。什佐の句はそれほど飛躍せず、どこまでも猫で終始しているから、その点は極めて安心である。落花の下に無心に睡っている猫が、しばしば耳を動かす趣は、画中の物でしかも画の捉え得ざる所を捉えている。

[やぶちゃん注:「元禄十年」一六九七年。]

 四睡というのは寒山(かんざん)と、拾得(じっとく)と、豊干(ぶかん)と、豊干の連れている虎とが、同じところで睡っている、長閑(のどか)であると共に浮世離れした光景である。其角がこの図に対して他の何者をも描かず、寐ても動く虎の耳だけを句にしたのは、仮令(たとい)猫から脱化したにもせよ、その才の尋常ならざることを示している。四睡を題材したものに

 

 海棠(かいだう)に女郎と猫とかぶろかな 卜宅

 

という句があるが、この場合も猫は虎の名代を勤めている。海棠は美人の睡る形容に用いられるから、これで季を定め、併せて四睡の一役を買わせたらしい。一句の感銘が甚だ弱いのは、すべてが女性であるためでなしに、単に役者を羅列するにとどまって、其角のように焦点を捉え得なかったためと思われる。

 

   睡猫の畫に

 思ひ寐の猫にかげろふもえにけり   也有

 

 この句は単なる睡猫図であるが、「思ひ寐」の一語に恋猫の意を現している。同じく陽炎(かげろう)を配してはあっても、これでは連想に訴えるものがない。ゆらゆら燃える陽炎を猫の思に擬するなどはそもそも末の事である。

 

 猫の尾の何うれしいぞ春の夢     賢明

 

 睡りつつある猫は耳を動かすのみならず、時に尾を動かすことがある。尾は猫の感情を現すところだから、夢中に尾を動かすのを見て、その夢に結びつけたのであるが、「何うれしいぞ」では仕方がない。そこへ往くと、

 

   つばくろ

 燕(つばくろ)の出入や猫の夢ごゝろ 任長

 

の句の方は、他の動きを配してあるだけに若干の変化を見せている。猫は室内にあり、燕は忙しく檐(のき)を出入するのであろうが、猫ははっきりそれを意識せず、うつらうつらとしているらしく解せられる。

 

 蝶とぶや腹に子ありてねむる猫    太舐

 屋根に寐る主(ぬし)なし猫や春の雨 同

 

 この句に至ると、著しく現実味が勝って来る。翩々(へんぺん)として蝶の飛ぶ下に猫の睡る光景は、什佐の句と大差ないにかかわらず、その猫が已に子を孕んでいるという現実問題が提起されたために、何となく感じが重苦しい。什佐や其角が睡猫そのものを観察しているのと異り、大袈裟(おおげさ)にいえば猫自身の生活状態に触れるところがある。それが春の懶(ものう)い感じと結びついて、蝶の飛ぶうららかな景色と調和することは慥(たしか)であるが、也有、賢明、任長等の描いた世界とは甚だ距離が遠い。

 俳諧に猫の恋を詠んだものが甚だ多く、孕猫(はらみねこ)を描いたものが少いのは、この現実感の過重によるものかも知れぬ。平福百穂(ひらふくひゃくすい)氏に「孕猫」の歌が八首あるが、雨、庭木、立春、というような自然が背景になっているため、現実感はよほど和げられている。太祀の句にしても可憐な猫蝶の動きが、全体の趣を和げていることは慥である。

[やぶちゃん注:「平福百穂」(明治一〇(一八七七)年~昭和八(一九三三)年日)は日本画家で歌人。後に一首出るが、他の当該短歌は確認出来なかった。]

 

 犬は主家の移転と共に直に移動するが、猫は旧栖(きゅうせい)の地を恋うて、そのままとどまることが往々ある。喪家(そうか)の狗(いぬ)と「主なし猫」との立場は同じであっても、事情は必ずしも同一ではない。今屋根に寐ているのは、如何なる事情であるかわからぬが、とにかく主を離れた浮浪猫である。猫が顔を洗うと天気が変るという俗説があり、それは猫の毛が水をはじかぬから、天気に敏感なのだろうと解している人があった。しかし現実の猫はそれほど雨を恐れない。春雨だから濡れても大事ないにせよ、大底の猫は平然として屋根で寐ている。百穂氏の「孕猫」にも「身ごもれる猫ひとり来てわが庭の春立つ雨に濡れて居るなり」というのがある。この場合も春雨であることが、その濡れる感じを和げていることは言を俟たぬ。

 

 春雨や寐返りもせぬ膝の猫      桃酔

 

 これも同じく春雨ではあるが、舞台はがらりと替る。一たび人の膝を占拠した猫は、容易に自ら動くものではない。久しきに及んで端坐の膝が痺(しび)れて来ても、依然として快眠を貪(むさぼ)っている。そのじっとしている様を「寐返りもせぬ」といったのである。閑居の徒然(つれづれ)に、膝を猫に貸して窓外の雨を眺める人も、蕩々(とうとう)たる天下の春の中に住しているのであろう。

 

 春雨や猫にあくびを移さるゝ     可得

 

 眠から一歩離れるけれども、春雨の因(ちなみ)によってここへ挙げて置こう。欠(あく)びは倦怠の発現であり、眠の前奏曲でもある。膝の上か、座辺かにいた猫が欠びをした。それを見た飼主も思わず欠びをした。凡そ天下に斯(かく)の如き瑣事(さじ)はない。しかしこの瑣事に何の興味を感ぜぬというならば、その人は春雨の趣を解せず、閑人閑中の趣を解せずというを憚らぬ。極言すれば竟(つい)に俳諧の或趣を解せずというところまで往くかもわからない。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(39) 魔の淵の主

 

   魔の淵の主

 

 

「そのほかに方法はない」闇の中から、突然、諸戸の声がした。「君はこの洞窟の、すべての枝道の長さを合わせるとどのくらいあると思う。一里か二里か、まさかそれ以上ではあるまい。もし二里あるとすれば、われわれはその倍の四里歩けばよいのだ。四里歩きさえすれば確実にそとへ出ることができるのだ。迷路という怪物を征服する方法は、このほかにないと思うのだよ」

「でも、同じところをどうどうめぐりしていたら、何里歩いたってしようがないでしょう」

 私はもうほとんど絶望していた。

「でも、そのどうどうめぐりを防ぐ手段があるのだよ。僕はこういうことを考えてみたんだ。長い糸で一つの輪を作る。それを板の上に置いて、指でたくさんのくびれをこしらえるのだ。つまり糸の輪を紅葉(もみじ)の葉みたいに、もっと複雑に入組んだ形にするのだ。このほら穴がちょうどそれと同じことじゃないか。いわばこのほら穴の両がわの壁が、糸に当たるわけだ。そこで、もしこのほら穴が糸みたいに自由になるものだったら、すべての枝道の両側の壁を引きのばすと、一つの大きな円形になる。ね、そうだろう。でこぼこになった糸を元の輪に返すのと同じことだ。

 で、もし僕らが、たとえば右の手で右の壁にさわりながら、どこまでも歩いて行くとしたら、右がわを伝って行止まれば、やっぱり右手でさわったまま、反対がわをもどって、一つ道を二度歩くようにして、どこまでもどこまでも伝って行けば、壁が大きな円周を作っている以上は、必らず出口に達するわけだ。糸の例で考えると、それがハッキリわかる。で、枝道のすべての延長が二里あるものなら、その倍の四里歩きさえすれば、ひとりでに元の出口に達する。迂遠なようだがこのほかに方法はないのだよ」

 ほとんど絶望におちいっていた私は、この妙案を聞かされて、思わず上体をしゃんとして、いそいそとして言った。

「そうだ、そうだ。じゃあ、今からすぐそれをやってみようじゃありませんか」

「むろんやってみるほかはないが、何もあわてることはないよ。何里という道を歩かなければならないのだから。充分休んでからにしたほうがいい」

 諸戸はそう言いながら、短くなった煙草を投げ捨てた。

 赤い火が鼠花火(ねずみはなび)のように、クルクルとまわって二、三間向こうまでころがって行ったかと思うと、ジュッといって消えてしまった。

「おや、あんなところに水溜りがあったかしら」

 諸戸が不安らしくいった。それと同時に、私は妙な物音を聞きつけた。ゴボッゴボッという、瓶の口から水の出るような、一種異様な音であった。

「変な音がしますね」

「なんだろう」

 私たちはじっと耳をすました。音はますます大きくなってくる。諸戸は急いでロウソクをともし、それを高く掲げて、前の方をすかして見ていたが、やがて驚いて叫んだ。

「水だ、水だ、このほら穴は、どっかで海に通じているんだ。潮が満ちてきたんだ」

 考えてみると、さっき私たちはひどい坂を下ってきた。ひょっとすると、ここは水面よりも低くなっているのかもしれない。もし水面よりも低いとすると、満潮のため海水が浸入すれば、そとの海面と平均するまでは、ドンドン水嵩(みずかさ)が増すにちがいない。

 私たちの坐っていた部分は、その洞窟の中で一ばん高い段の上であったから、つい気づかないでいたけれど、見ると水はもう一、二間のところまで追ってきていた。

 私たちは段を降りると、ジャブジャブと水の中を歩いて、大急ぎで元きた方へ引き返そうとしたけれど、ああ、すでに時機を失していた。諸戸の沈着がかえってわざわいをなしたのだ。水は進むに従って深く、もときた穴は、すでに水中に埋没してしまっていた。

「別の穴を探そう」

 私たちは、わけのわからぬことを、わめきながら、洞窟の周囲を駈けまわって、別の出口を探したが、不思議にも、水上に現われた部分には、一つの穴もなかった。私たちは不幸なことには、偶然寒暖計の水銀溜のような、袋小路へ入り込んでいたのだ。想像するに、海水はわれわれの通ってきた穴の向こうがわから曲折して流れ込んできたものであろう。その水の増す勢いが非常に早いことが、私たちを不安にした。潮の満ちるに従ってはいってくる水ならこんなに早く増すはずがない。これはこの洞窟が海面下にある証拠だ。引潮のときは、わずかに海上に現われているような岩の裂け目から、満潮になるや否や、一度にドッと流れ込む水だ。

 そんなことを考えているあいだに、水は、いつか私たちの避難していた段のすぐ下まで押しよせていた。

 ふと気がつくと、私たちの周囲を、ゴソゴソと無気味にはい廻るものがあった。ロウソクをさしつけて見ると、五、六匹の巨大なカニが、水に追われてはい上がってきたのであった。

「ああ、そうだ。あれがきっとそうだ。蓑浦君、もう僕らは助からぬよ」

 何を思い出したのか、諸戸が突然悲しげに叫んだ。私はその悲痛な声を聞いただけで、胸が空っぽになったように感じた。

「魔の淵の渦がここに流れ込むのだ。この水の元はあの魔の淵なんだ。それですっかり事情がわかったよ」諸戸はうわずった声でしゃべりつづけた。「いつか船頭が話したね。丈五郎の従兄弟という男が諸戸屋敷を尋ねてきて、間もなく魔の淵へ浮き上がったって。その男がどうかしてあの呪文を読んで、その秘密を悟り、私たちのようにこの洞穴へはいったのだ。井戸の石畳を破ったのもその男だ。そして、やっぱりこの洞窟へ迷い込み、われわれと同じように水攻めにあって、死んでしまったのだ。それが引潮とともに、魔の淵へ流れ出したんだ。船頭がいっていたじゃないか。ちょうどほら穴から流れ出した恰好で浮き上がっていたって。あの魔の淵の主というのは、つまりは、この洞窟のことなんだよ」

 そういううちにも、水ははや私たちの膝を濡らすまでに迫ってきた。私たちは仕方なく、立ち上がって、一刻でも水におぼれる時をおくらそうとした。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(38) 麻縄の切り口

 

   麻縄の切り口

 

 画工フェデリゴとちがって、私たちは神を祈ることはしなかった。そのためであるか、彼らのようにたやすく糸の端を見つけることはできなかった。

 一時間以上も、私たちは冷やかな地底にもかかわらず、全身に汗を流して、物狂わしく探しまわった。私は絶望と、諸戸に対する申し訳なさに、幾度も、冷たい岩の上に身を投げて、泣き出したくなった。諸戸の強烈な意志が、私を励ましてくれなかったら、おそらく私は探索を思い切って、ほら穴の中に坐ったまま、餓死を待ったかもしれない。

 私たちは何度となく、洞窟に住む大蝙蝠(おおこうもり)のために、ロウソクの光を消された。やつらは無気味な毛むくじゃらのからだを、ロウソクばかりでなく、私たちの顔にぶっつけた。

 諸戸は辛抱強く、ロウソクを点じては、次から次と、洞窟の中を組織的に探しまわった。

「あわててはいけない。落ちついていさえしたら、ここにあるにちがいないものが、見つからぬという道理はないのだから」

 彼は驚くべき執拗さで、捜索をつづけた。

 そして、ついに、諸戸の沈着のお蔭で、麻縄の端は発見された。が、それはなんという悲しい発見であったろう。

 それを摑んだとき、諸戸も私も、無上の歓喜に、思わず小躍りして「バンザイ」と叫びそうにさえなった。私は喜びのあまり、つかんだ縄をグングンと手元へたぐり寄せた。そして、それがいつまででもズルズルと伸びてくるのを、怪しむひまもなかった。

「変だね、手答えがないの?」

 そばで見ていた諸戸が、ふと気づいていった。いわれてみると変である。私はそれがどのような不幸を意味するかも知らないで、勢いこめて、引き試みた。すると、縄は蛇のように波うって、私を目がけて飛びかかり、私ははずみを食って、尻餅をついてしまった。

「引っぱっちゃいけない」

 私が尻餅をついたのと、諸戸が叫んだのと同時だった。

「縄が切れてるんだ。引張っちゃいけない、そのままソッとしておいて、縄を目印にして入口の方へ出て見るんだ。中途で切れたんでなければ、入口の近くまで行けるだろう」

 諸戸の意見に従って、ロウソクを地につけ、横たわっている縄を見ながら、元の道を引きかえした。だが、ああ、なんということだ。二つ目の広間の入口のところで、私たちの道しるべは、プッツリと断ち切れていた。

 諸戸はその麻縄の端を拾って、火に近づけてしばらく見ていたが、それを私の方へさし出して、

「この切り口を見たまえ」

 と言った。私が彼の意味を悟りかねて、もじもじしていると、彼はそれを説明した。

「君は、さっきころんだとき、縄を強く引張ったために、中途で切れたと思っているだろう。そして、僕にすまなく思っているだろう。安心したまえ、そうではないのだ。だが、われわれにとっては、もっと恐ろしいことなんだ。見たまえ、この切り口は決して岩角で擦り切れたものじゃない。鋭利な刃物で切断したあとだ。第一、引張った勢いで擦り切れたものなら、われわれから一ばん近い岩角のところで切れているはずだ。ところが、これはほとんど入口の辺で切断されたものらしい」

 切り口を調べてみると、なるほど、諸戸のいう通りであった。さらに私たちは、入口のところで、つまり私たちがこの地底にはいるとき、井戸の中の石畳に結びつけてきた、その近くで切断されたものであるかどうかを確かめるために、縄を元のような玉に巻き直してみた。すると、ちょうど元々通りの大きさになったではないか。もはや疑うところはなかった。何者かが、入口の近くで、この縄を切断したのである。

 最初私がたぐり寄せた部分がどれほどあったか、ハッキリしないけれど、おそらく三十間ぐらいはあっただろう。だが私たちがころぶ以前に切断されたものとすると、私たちは端の止まっていない縄を、ズルズルと引きずって歩いていたかもしれないのだから、現在の位置から入口まで、どれほどの距離があるか、ほとんど想像がつかなかった。

[やぶちゃん注:「三十間」約五十四メートル半。]

「だが、こうしていたってしようがない。行けるところまで行ってみよう」

 諸戸はそういって、ロウソクを新しいのと取り換え、先に立って歩き出した。この広い洞窟には幾つもの枝道があったが、私たちは縄の終っているところからまっすぐに歩いて、つき当たりにひらいている穴にはいって行った。入口は多分その方角であろうと思ったからである。

 私たちはたびたび枝道にぶっつかった。穴の行止まりになっているところもあった。そこを引き返すと、今度は以前に通った路がわからなくなった。

 広い洞窟へもー度ならず出たが、それが最初出発した洞窟かどうかさえわからなかった。

一つの洞窟を一周しさえすれば必らず見つかる麻縄の端を発見するのでも、あんなに骨を折ったのだ。それが枝道から枝道へと、八幡の藪知らずに踏み込んでしまっては、もうどうすることもできなかった。

 諸戸は「少しでも光を発見すればいいのだ。光のさす方へ向いて行けば、必らず入口に出られるのだから」といったが、豆粒ほどのかすかな光さえ発見することができなかった。

 そうして滅茶苦茶に一時間ほども歩きつづけているうちに現在入口に向かっているのだか、反対に奥へ奥へと進んでいるのだか、島のどの辺をさまよっているのだか、さっぱりわからなくなってしまった。

 またしても、ひどい下り坂であった。それを降りきると、そこにも地底の広間があった。広間の中ほどから、少しつまさき上がりになってきたが、かまわず進んで行くと、小高く段になったところがあって、それを登ると行止まりの壁になっていた。私たちはあきれ果てて、その段の上に腰をおろしてしまった。

「さっきから同じ道をグルグル廻っていたのかもしれませんね」私はほんとうにそんな気がした。「人間て実に腑甲斐(ふがい)ないもんですね。多寡(たか)がこんな小さな島じゃないか、端から端まで歩いたって知れたものです。また僕たちの頭のすぐ上には、太陽が輝いて家もあれば人もいるんです。十間あるか二十間あるか知らないが、たったそれだけのところを突き抜ける力もないんですからね」

「そこが迷路の恐ろしさだよ。八幡の藪知らずっていう見世物があるね。せいぜい十間四方くらいの竹藪なんだが、竹の隙間から出口が見えていて、いくら歩いても出られない。僕らはいま、あいつの魔法にかかっているんだよ」諸戸はすっかり落着いていた。「こんな時には、ただあせったって仕方がない。ゆっくり考えるんだね。足で出ようとせず、頭で出ようとするんだ。迷路というものの性質をよく考えてみるんだ」

 彼はそういって、穴へはいってはじめて煙草をくわえて、ロウソクの火をうつしたが、「ロ

ウソクも倹約しなくちゃあ」といって、そのまま吹き消してしまった。あやめもわかぬ闇の中に、彼の煙草の火が、ポツリと赤い点を打っていた。

 煙草好きの彼は、井戸へはいる前、トランクの中に貯えてあったウェストミンスターを一と箱取り出して、懐中してきたのだ。一本目を吸ってしまうと、彼はマッチを費さず、その火で二本目の煙草をつけた。そして、それがなかば燃えてしまうまで、私たちは闇の中で、だまっていた。諸戸は何か考えているらしかったが、私は考える気力もなく、ぐったりとうしろの壁によりかかっていた。

[やぶちゃん注:「ウェストミンスター」英国王室御用達の巻煙草“Westminster”(ウエストミンスター)。]

江戸川乱歩 孤島の鬼(37) 八幡の藪知らず

 

   八幡の藪知らず

 

 ともかく横穴へはいって、宝がすでに持ち出されたかどうかを確かめて見るほかはなかった。私たちは一度諸戸屋敷に帰って、横穴探検に必要な品々を取り揃えた。数挺のロウソク、マッチ、漁業用の大ナイフ、長い麻縄(網に使用する細い麻縄を、できるだけつなぎ合わせて、玉をこしらえたもの)などの品々である。

「あの横穴は存外深いかもしれない。『六道の辻』なんて形容してあるところを見ると、深いばかりでなく、枝道があって、八幡(やわた)の藪(やぶ)知らずみたいになっているのかもしれない。ほら『即興詩人』にローマのカタコンバへはいるところがあるだろう。僕はあれから思いついて、この麻縄を用意したんだ。フェデリゴという画工のまねなんだよ」

 諸戸は大げさな用意を弁解するように言った。

[やぶちゃん注:「八幡の藪知らず」千葉県市川市八幡にあった竹藪(現在でも当該地区は禁足地とされている)は、一度入ると出口がわからなくなるといわれたところから、出口がわからなくなる迷路(ラビリンス)、そこから、事態がすっかり迷走してしまうことの譬えの慣用句として使われる。語源となった現地については、私の「耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事」の注を参照されたい。

「『即興詩人』にローマのカタコンバへはいるところ」』「即興詩人」(デンマーク語:Improvisatoren)は、専ら童話で知られるデンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年:デンマーク語のカタカナ音写:ハンス・クレステャン・アナスン)の出世作となった最初の長編小説で、イタリア各地を舞台としたロマンチックな恋愛小説。一八三五年刊行。その森鷗外訳「卽興詩人」明治二五(一八九二)年から明治三四(一九〇一)年にかけて断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表した(ドイツ語訳からの重訳)。単行本の初版は明治三五(一九〇二)年に春陽堂から上下巻で刊行された。「カタコンバ」はイタリア語の「カタコンベ」(catacombe)で「地下墓地」のこと。私は三十代の初め、妻と二人でイタリアを旅した折り、たっぷりと見学したものであった。]

 私はその後「即興詩人」を読み返して、かのトンネルの条に至るごとに、当時を回想して、戦慄を新たにしないではいられぬのだ。

「深きところには、軟かなる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり。その枝の多き、その様の相似たる、おもなる筋を知りたる人も踏み迷ふべきほどなり。われは稚心(おさなごころ)に何とも思はず。画工はまたあらかじめその心して、我を伴ひ入りぬ。先づ蠟燭一つともし、一つをば衣(ころも)のかくしの中に貯へおき、一巻の絲(いと)の端を入口に結びつけ、さて我手を引きて進み入りぬ。忽ち天井低くなりて、われのみ立ちて歩まるるところあり……」

 画工と少年とは、かようにして地下の迷路に踏み入ったのであるが、私たちもちょうどそのようであった。

[やぶちゃん注:「卽興詩人」は岩波文庫版を所持しているのだが、どうしても見当たらないので、「青空文庫」版(正字正仮名)で確認されたい。ここはその「隧道、ちご」の章を指す。リンク先の当該段落を引用する。一部の漢字を恣意的に正字化した。

   *

 深きところには、軟(やはらか)なる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり。その枝の多き、その樣の相似たる、おもなる筋を知りたる人も踏み迷ふべきほどなり。われは穉心(をさなごゝろ)に何ともおもはず。畫工はまた豫め其心して、我を伴ひ入りぬ。先づ蠟燭一つ點(とも)し、一をば猶衣のかくしの中に貯へおき、一卷(ひとまき)の絲の端を入口に結びつけ、さて我手を引きて進み入りぬ。忽ち天井低くなりて、われのみ立ちて步まるゝところあり、忽ち又岐路の出づるところ廣がりて方形をなし、見上ぐるばかりなる穹窿をなしたるあり。われ等は中央に小き石卓を据ゑたる圓堂を過(よぎ)りぬ。こゝは始て基督教に歸依(きえ)したる人々の、異教の民に逐はるゝごとに、ひそかに集りて神に仕へまつりしところなりとぞ。フエデリゴはこゝにて、この壁中に葬られたる法皇十四人、その外數千の獻身者の事を物語りぬ。われ等は石龕のわれ目に燭火(ともしび)さしつけて、中なる白骨を見き。(こゝの墓には何の飾もなし。拿破里(ナポリ)に近き聖ヤヌアリウスの「カタコンバ」には聖像をも文字をも彫りつけたるあれど、これも技術上の價あるにあらず。基督教徒の墓には、魚を彫りたり。希臘(ギリシア)文の魚といふ字は「イヒトユス」なれば、暗に「イエソウス、クリストス、テオウ ウイオス、ソオテエル」の文の首字を集めて語をなしたるなり。此希臘文はこゝに耶蘇(やそ)基督キリスト神子(かみのこ)救世者と云ふ。)われ等はこれより入ること二三步にして立ち留りぬ。ほぐし來たる絲はこゝにて盡きたればなり。畫工は絲の端を控鈕(ボタン)の孔に結びて、蠟燭を拾ひ集めたる小石の間に立て、さてそこに蹲(うづくま)りて、隧道の摸樣を寫し始めき。われは傍なる石に踞(こしか)けて合掌し、上の方を仰ぎ視ゐたり。燭は半ば流れたり。されどさきに貯へおきたる新なる蠟燭をば、今取り出してその側におきたる上、火打道具さへ帶びたれば、消えなむ折に火を點すべき用意ありしなり。

   *

以下、続くシークエンスも印象的であり、この小説との関係性は、実は、ただの洞窟というシチュエーションだけのものではない。未読の方は是非、お読みあれかし。]

 私たちはさっきの太い縄にすがって次々と井戸の底に降り立った。水はやっと、踝(くるぶし)を隠すほどしかなかったけれど、その冷たさは氷のようである。横穴は、そうして立った私たちの腰の辺にあいているのだ。

 諸戸はフェデリゴのまねをして、先ず一本のロウソクをともし、麻縄の玉の端を、横穴の入口の石畳の一つに、しつかりと結びつけた。そして、縄の玉を少しずつほぐしながら、進んで行くのだ。

 諸戸が先に立って、ロウソクを振りかざして、這って行くと、私が縄の玉を持って、そのあとにつづいた。二匹の熊のように。

「息がつまるようですね」

 私たちはソロソロと這いながら、小声で話し合った。

 五、六間行くと、穴が少し広くなって、腰をかがめて歩けるくらいになったが、すると間もなく、ほら穴の横腹にまた別のほら穴が口をひらいているところにきた。

「枝道だ。案の定八幡の藪知らずだよ。だが、しるべの縄を握ってさえいれば、道に迷うことはない。先ず本通りの方へ進んで行こうよ」

 諸戸はそう言って、横穴に構わず、歩いて行ったが、二間も行くと、また別の穴がまっ黒な口をひらいていた。ロウソクをさし入れて覗いて見ると、横穴の方が広そうなので、諸戸はその方へ曲って行った。

 道はのたうち廻る蛇のように、曲りくねっていた。左右に曲るだけではなくて、上下にも、或るときは下り、或るときはのぼった。低い部分には、浅い沼のように水の溜っているところもあった。

 横穴や枝道は覚えきれないほどあった。それに人間の造った坑道などとは違って、這っても通れないほど狭い部分もあれば、岩の割れ目のように縦に細長く裂けた部分もあり、そうかと思うと、突然、非常に大きな広間のようなところへ出た。その広間には、五つも六つものほら穴が、四方から集まってきて、複雑きわまる迷路を作っている。

「驚いたね。蜘蛛手のようにひろがっている。こんなに大がかりだとは思わなかった。この調子だとこのほら穴は島じゅう、端から端までつづいているかもしれないよ」

 諸戸はうんざりした調子で言った。

「もう麻縄が残り少なですよ。これが尽きるまでに行止まりへ出るでしょうか」

「だめかもしれない。仕方がないから、縄が尽きたらもう一度引っ返して、もっと長いのを持ってくるんだね。だが、その縄を離さないようにしたまえよ。迷路の道しるべをなくしたら、僕らはこの地の底で迷子になってしまうからね」

 諸戸の顔は赤黒く光って見えた。それに、ロウソクの火が顎の下にあるものだから、顔の陰影が逆になって、頰と眼の上に、見馴れぬ影ができ、なんだか別人の感じがした。物いうたびに、黒い穴のような口が、異様に大きくひらいた。

 ロウソクの弱い光は、やっと一間四方を明るくするだけで、岩の色も定かにはわからなかったが、まっ白な天井が気味わるくでこぼこになって、その突出した部分からポタリポタリと雫(しずく)が垂れているような箇所もあった。一種の鍾乳洞である。

 やがて道は下り坂になった。気味のわるいほど、いつまでも下へ下へと降りて行った。

 私の眼の前に、諸戸のまっ黒な姿が、左右に揺れながら進んで行った。左右に揺れるたびに彼の手にしたロウソクの焰がチロチロと隠顕(いんけん)した。ボンヤリと赤黒く見えるでこぼこの岩肌が、あとへあとへと、頭の上を通り越して行くように見えた。

 しばらくすると、進むに従って、上も横も、岩肌が眼界から遠ざかって行くように感じられた。地底の広間の一つにぶっつかったのである。ふと気がつくと、そのとき私の手の縄の玉はほとんどなくなっていた。

「アッ、縄がない」

 私は思わず口走った。そんなに大きな声を出したのでなかったのに、ガーンと耳に響いて、大きな音がした。そして、すぐさま、どこか向こうの方から、小さな声で、

「アッ、縄がない」

 と答えるものがあった。地の底の谺(こだま)である。

 諸戸はその声に、驚いてうしろをふり返って、「え、なに」と私の方へロウソクをさしつけた。

 焰がユラユラと揺れて、彼の全身が明るくなった。その途端、「アッ」という叫び声がしたかと思うと、諸戸のからだが、突然私の眼界から消えてしまった。ロウソクの光も同時に見えなくなった。そして、遠くの方から、「アッ、アッ、アッ……」と諸戸の叫び声がだんだん小さく、幾つも重なり合って聞こえてきた。

「道雄さん、道雄さん」

 私はあわてて諸戸の名を呼んだ。

「道雄さん、道雄さん、道雄さん、道雄さん」

 と谺(こだま)がばかにして答えた。

 私は非常な恐怖に襲われ、手さぐりで諸戸のあとを追ったが、ハッと思う間に、足をふみはずして、前へのめった。

「痛い」

 私のからだの下で、諸戸が叫んだ。

 なんのことだ。そこは、突然二尺ばかり地面が低くなっていて、私たちはおり重なって倒れたのである。諸戸は転落した拍子に、ひどく膝をうって、急に返事することができなかったのだ。

「ひどい目にあったね」

 闇の中で諸戸がいった。そして、起き上がる様子であったが、やがて、シュッという音がしたかと思うと、諸戸の姿が闇に浮いた。

「怪我をしなかった?」

「大丈夫です」

 諸戸はロウソクに火を点じて、また歩き出した。私も彼のあとにつづいた。

 だが、一、二間進んだとき、私はふと立ち止まってしまった。右手に何も持っていないことに気づいたから、

「道雄さん、ちょっとロウソクを貸してください」

 私は胸がドキドキしてくるのを、じつとこらえて、諸戸を呼んだ。

「どうしたの」

 諸戸が不審そうに、ロウソクをさしつけたので、私はいきなりそれを取って、地面を照らしながら、あちこちと歩きまわった。そして、

「なんでもないんですよ。なんでもないんですよ」

 と言いつづけた。

 だがいくら探しても、薄暗いロウソクの光では、細い麻縄を発見することはできなかった。

 私は広い洞窟を、未練らしく、どこまでも探して行った。

 諸戸は気がついたのか、いきなり走り寄って、私の腕をつかむと、ただならぬ調子で叫んだ。

「縄を見失ったの?」

「ええ」

 私はみじめな声で答えた。

「大変だ。あれをなくしたら、僕たちはひょっとすると、一生涯この地の底で、どうどうめぐりをしなければならないかも知れぬよ」

 私たちはだんだんあわて出しながら、一生懸命探しまわった。

 地面の段になっているところでころんだのだから、そこを探せばよいというので、ロウソクで地面を見て歩くのだが、だんだんになった箇所は方々にあるし、その洞窟に口をひらいている狭い横穴も一つや二つではないので、つい、どれがいまきた道だかわからなくなってしまって、探し物をしているうちにも、いつ路をふみ迷うかもしれないような有様なので、探せば探すほど、心細くなるばかりであった。

 後日、私は「即興詩人」の主人公も同じ経験をなめたことを思い出した。鷗外の名訳が、少年の恐怖をまざまざと描き出している。

「その時われらの周囲には、寂としてなんの声も聞こえず、唯忽ち断へ忽ち続く物寂しき岩間の雫の響を聞くのみなりき。……ふと心づきて画工のはうを見やれば、あな訝(いぶ)かし。画工は大息つきて一つところを馳(は)せめぐりたり……。その気色ただならず覚えければ、われも立上りて泣き出しつ。……われは画工の手に取りすがりて、もはや登り行くべし、ここには居りたくなしとむづかりたり。画工は、そちはよき子なり、画きて遣(や)らむ、菓子を与へむ、ここに銭もあり、といひつつ衣のかくしを探して、財布を取り出し、中なる銭をば、ことごとく我に与へき。我はこれを受くる時、画工の手の氷の如く冷(ひややか)になりて、いたく震ひたるに心づきぬ。……さし俯してあまたたび我に接吻し、かはゆき子なり。そちも聖母に願へといひき。絲をや失ひ給ひし、と我は叫びぬ」

「即興詩人」の主人公たちは、間もなく糸の端を発見して、無事にカタコンバを立ちいでることができたのである。だが、同じ幸運が私たちにも恵まれたであろうか。

[やぶちゃん注:蓑浦の「卽興詩人」の引用は先の引用の次の段落部である。前と同じ仕儀で「糸の端を発見」する次の段落まで引いておく。踊り字「〲」「〱」相当の箇所は正字化した。

   *

 われはおそろしき暗黑天地に通ずる幾條の道を望みて、心の中にさまざまの奇怪なる事をおもひ居たり。この時われ等が周圍には寂として何の聲も聞えず、唯だ忽ち斷え忽ち續く、物寂しき岩間の雫の音を聞くのみなりき。われはかく由(よし)なき妄想を懷きてしばしあたりを忘れ居たるに、ふと心づきて畫工の方を見やれば、あな訝(いぶ)かし、畫工は大息つきて一つところを馳せめぐりたり。その間かれは頻(しきり)に俯して、地上のものを搜し索(もと)むる如し。かれは又火を新なる蠟燭に點じて再びあたりをたづねたり。その氣色(けしき)ただならず覺えければ、われも立ちあがりて泣き出しつ。

 この時畫工は聲を勵まして、こは何事ぞ、善き子なれば、そこに坐(すわ)りゐよ、と云ひしが、又眉を顰(ひそ)めて地を見たり。われは畫工の手に取りすがりて、最早登りゆくべし、こゝには居りたくなし、とむつかりたり。畫工は、そちは善き子なり、畫かきてや遣らむ、果子をや與へむ、こゝに錢もあり、といひつゝ、衣のかくしを探して、財布を取り出し、中なる錢をば、ことごとく我に與へき。我はこれを受くるとき、畫工の手の氷の如く冷(ひやゝか)になりて、いたく震ひたるに心づきぬ。我はいよいよ騷ぎ出し、母を呼びてますます泣きぬ。畫工はこの時我肩を摑みて、劇(はげ)しくゆすり搖(うご)かし、靜にせずば打擲(ちやうちやく)せむ、といひしが、急に手巾(ハンケチ)を引き出して、我腕を縛りて、しかと其端を取り、さて俯してあまたゝび我に接吻し、かはゆき子なり、そちも聖母に願へ、といひき。絲をや失ひ給ひし、と我は叫びぬ。今こそ見出さめ、といひいひ、畫工は又地上をかいさぐりぬ。

 さる程に、地上なりし蠟燭は流れ畢りぬ。手に持ちたる蠟燭も、かなたこなたを搜し索(もと)むる忙しさに、流るゝこといよいよ早く、今は手の際まで燃え來りぬ。畫工の周章は大方ならざりき。そも無理ならず。若し絲なくして步を運ばば、われ等は次第に深きところに入りて、遂に活路なきに至らむも計られざればなり。畫工は再び氣を勵まして探りしが、こたびも絲を得ざりしかば、力拔けて地上に坐し、我頸を抱きて大息つき、あはれなる子よ、とつぶやきぬ。われはこの詞を聞きて、最早家に還られざることぞ、とおもひければ、いたく泣きぬ。畫工にあまりに緊(きび)しく抱き寄せられて、我が縛られたる手はいざり落ちて地に達したり。我は覺えず埃の間に指さし入れしに、例の絲を撮(つま)み得たり。こゝにこそ、と我呼びしに、畫工は我手を摻(と)りて、物狂ほしきまでよろこびぬ。あはれ、われ等二人の命はこの絲にぞ繋ぎ留められける。

   *]

江戸川乱歩 孤島の鬼(36) 古井戸の底

 

   古井戸の底

 

 私たちは、その夜は諸戸屋敷の一と間に枕を並べて寝たが、私はたびたび諸戸の声に眼を覚まさなければならなかった。彼は一と晩じゅう悪夢にうなされつづけていたのだった。親と名のつく人を、監禁しなければならぬような、数日来の心痛に、彼の神経が平静を失っていたのは無理もないことである。寝ごとの中で、彼はたびたび私の名を口にした。私というものが彼の潜在意識にそんなにも大きな場所を占めているのかと思うと、私はなんだかそら恐ろしくなった。たとえ同性にもしろ、それほど私のことを思いつづけている彼と、こうして、そしらぬ顔で行動を共にしているのは、あまりに罪深い業ではあるまいかと、私は寝られぬままにそんなことをまじめに考えていた。

 翌日も、例の五時二十五分がくるまでは、私たちはなんの用事もないからだであった。諸戸には、かえってそれが苦痛らしく、一人で海岸を行ったりきたりして時間をつぶしていた。彼は土蔵のそばへ近よることすら恐れているように見えた。

 土蔵の中の丈五郎夫婦は、あきらめたのか、それとも三人の男の帰るのを心待ちにしているのか、案外おとなしくしていた。私は気になるものだから、たびたび土蔵の前へ行って、耳をすましたり、窓から覗いて見たりしたが、彼らの姿も見えず、話声さえしなかった。啞のおとしさんが、窓からご飯をさし入れるときには、母親の方が、階段をおりておとなしく受取りにきた。

 かたわ者たちも、一と間に集まって、おとなしくしていた。ただ私が時々秀ちゃんと話をしに行くものだから、吉ちゃんの方が腹を立てて、わけのわからぬことをどなるくらいのものであった。秀ちゃんは話してみると、一そう優しくかしこい娘であることがわかって、私たちはだんだん仲よしになって行った。秀ちゃんは智恵のつきはじめた子供のように次から次と私に質問をあびせた。私は親切にそれに答えてやった。私はけだものみたいな吉ちゃんが、小面憎いものだから、わざと秀ちゃんと仲よくして、見せびらかしたりした。吉ちゃんはそれを見ると、まっ赤に怒って、からだを捻って秀ちゃんに痛い目を見せるのだ。

 秀ちゃんはすっかり私になついてしまった。私に逢いたさに、えらい力で吉ちゃんを引きずって、私のいる部屋へやってきたことさえある。それを見て、私はどんなに嬉しかったであろう。あとで考えると、秀ちゃんが私をこんなに慕うようになったことが、とんだ禍の元となったのだが。

 片輪者の中では、蛙みたいに四つ足で飛んで歩く、十歳ばかりの可愛らしい子供が、一ばん私になついていた。シゲという名前だったが、快活なやつで、一人ではしゃいで、廊下などを飛びまわっていた。頭には別状ないらしく、片言まじりでなかなかませたことをしゃべった。

 余談はさておき、夕方の五時になると、私と諸戸とは、塀そとの、いつも私が身を隠した岩蔭へ出かけて、土蔵の屋根を見上げながら、時間のくるのを待った。心配していた雲も出ず、土蔵の屋根の東南の棟は、塀そとに長く影を投げていた。

「鬼瓦がなくなっているから、二尺ほど余計に見なければいけないね」

 諸戸は私の腕時計を覗きながらいった。

「そうですね。五時二十分、あと五分です。だが、一体こんな岩でできた地面に、そんなものが隠してあるんでしょうか。なんだか噓みたいですね」

「しかし、あすこに、ちょっとした林があるね。どうも、僕の目分量では、あの辺に当たりゃしないかと思うのだが」

「ああ、あれですか。あの林の中には、大きな古井戸があるんですよ。僕はここへきた最初の日に、あすこを通って覗いて見たことがあります」

 私はいかめしい石の井桁(いげた)を思い出した。

「ホウ、古井戸、妙な所にあるんだね。水はあるの」

「すっかり涸(か)れているようです。ずいぶん深いですよ」

「以前あすこに別の屋敷があったのだろうか。それとも昔はあの辺もこの邸内だったのかもしれないね」

 私たちがそんなことを話し合っているうちに、時間がきた。私の腕時計が五時二十五分を示した。

「きのうときょうでは、幾分影の位置が変っただろうけれど、大した違いはないだろう」

 諸戸は影の地点へ走って行って、地面に石で印をつけると独り言のようにいった。

 それから私たちは手帳を出して、土蔵と影の地点との距離を書き入れ、角度を計算して、三角形の第三の頂点を計ってみると、諸戸が想像した通り、そこの林の中にあることがわかった。

 私たちは茂った枝をかきわけて、古井戸のところへ行った。四方をコンモリと立木が包んでいるので、その中はジメジメとして薄暗かった。石の井桁によりかかって、井戸の中を覗くと、まっ暗な地の底から、気味のわるい冷気が頰をうった。

 私たちはもう一度正確に距離を測って、問題の地点は、その古井戸にちがいないことを確かめた。

「こんなあけっ放しの井戸の中なんて、おかしいですね。底の土の中にでも埋めてあるのでしょうか。それにしてもこの井戸を使っていた時分には、井戸さらいもやったでしょうから、井戸の中なんて、実に危険な隠し場所ですね」

 私はなんとなく腑(ふ)に落ちなかった。

「さあそこだよ。単純な井戸の中では、あんまり曲がなさすぎる。あの用意周到な人物が、そんなたやすい場所へ隠しておくはずがない。君は呪文の最後の文句を覚えているでしょう。ホラ、六道の辻に迷うなよ。この井戸の底には横穴があるんじゃないかしら。その横穴がいわゆる『六道の辻』で、迷路みたいに曲りくねっているのかもしれない」

「あんまりお話みたいですね」

「いや、そうじゃない。こんな岩でできた島には、よくそんなほら穴があるものだよ。現に魔の淵のほら穴だってそうだが、地中の石灰岩の層を、雨水が浸蝕して、とんでもない地下の通路ができたのだ。この井戸の底は、その地下道の入口になっているんじゃないかしら」

「その自然の迷路を、宝の隠し場所に利用したというわけですね。もしそうだとすれば、実際念に念を入れたやり方ですね」

「それほどにして隠したとすれば、宝というのは、非常に貴重なものにちがいないね。だが、それにしても、僕はあの呪文にたった一つわからない点があるのだが」

「そうですか。僕は、今のあなたの説明で全体がわかったように思うのだけど」

「ほんのちょっとしたことだがね。ほら、巽の鬼を打ち破りとあっただろう。この『打ち破り』なんだ。地面を掘って探すのだったら、打ち破ることになるけれど、井戸からはいるのでは、何も打ち破りやしないんだからね。それが変なんだよ。あの呪文はちょっと見ると幼稚のようで、その実、なかなかよく考えてあるからね。あの作者が不必要な文句などを書くはずがない。打ち破る必要のないところへ『打ち破り』なんて書くはずがない」

 私たちは薄暗い林の下でしばらくそんなことを話し合っていたが、考えていてもしようがないから、ともかく、井戸の中へはいって、横穴があるかどうかを調べてみようということになり、諸戸は私を残しておいて、屋敷に取って返し、丈夫な長い縄を探し出してきた。漁具に使われていたものである。

「僕がはいってみましょう」

 私は、諸戸よりからだが小さくて軽いので、横穴を見届ける仕事を引き受けた。

 諸戸は縄の端で私のからだを厳重にしばり、縄の中程を井桁の石に一と巻きして、その端を両手で握った。私が降りるに従って、縄をのばしていくわけである。

 私は諸戸が持ってきてくれたマッチを懐中すると、しっかりと縄をつかんで、井戸端へ足をかけて、少しずつまっ暗な地底へとくだって行った。

 井戸の中は、ずっと下まで、でこぼこの石畳になっていたが、それに一面苔が生えていて、足をかけると、ズルズルと、辷(すべ)った。

 一間ほどくだったとき、私はマッチをすって、下の方を覗いて見たが、マッチの光ぐらいでは深い底の様子はわからなかった。燃えかすを捨てると、一丈あまり下の方で、光が消えた。

 多少水が残っているのだ。

 さらに四、五尺さがると、私はまたマッチをすった。そして、底を覗こうとした途端、妙な風が起こってマッチが消えた。変だなと思ってもう一度マッチをすり、それが吹き消されぬ先に、私は風の吹き込む箇所を発見した。横穴があったのだ。

 よく見ると、底から二、三尺のところで、二尺四方ばかり石畳が破れて、奥底の知れぬまっ暗な横穴があいている。不恰好な穴の様子だが、以前にはその部分にもちゃんと石畳があったのを、何者かが破ったものにちがいない。その辺一体に石畳がゆるんで、一度はずしたのを又さし込んだように見える部分もある。気がつくと、井戸の底の水の中から、楔(くさび)型の石ころが三つ四つ首を出している。明らかに横穴の通路を破ったものがあるのだ。

 諸戸の予想は恐ろしいほど的中した。横穴もあったし、呪文の「打ち破る」という文句も決して不必要ではなかったのだ。

 私は大急ぎで縄をたぐって、地上に帰ると、諸戸にことの次第を告げた。

「それはおかしいね。すると僕たちの先(せん)を越して、横穴へはいったやつがあるんだね、その石畳のとれた跡は新しいの」

 諸戸がやや興奮して尋ねた。

「いや、大分以前らしいですよ。苔なんかのぐあいが」

 私は見たままを答えた。

「変だな。確かにはいったやつがある。まさか呪文を書いた人が、わざわざ石畳を破ってはいるわけはないから、別の人物だ。むろん丈五郎ではない。これはひょっとすると、僕たちより以前にあの呪文を解いたやつがあるんだよ。そして、横穴まで発見したとすると、宝はもう運び出されてしまったのではあるまいか」

「でも、こんな小さな島で、そんなことがあればすぐわかるでしょうがね。船着場だって一カ所しかないんだし、他国者が入りこめば、諸戸の屋敷の人たちだって、見逃がすはずはないでしょうからね」

「そうだ。第一丈五郎ほどの悪者が、ありもしない宝のために、あんな危ない人殺しまでするはずがないよ。あの人には、きっと宝のあることだけは、ハッキリわかっていたにちがいない。なんにしても、僕にはどうも宝が取り出されたとは思えないね」

 私たちはこの異様な事実をどう解くすべもなく、出ばなをくじかれた形で、しばらく思い惑っていた。だがそのとき、私たちがもしいつか船頭に聞いた話を思い出したならば、そして、それとこれとを考え合わせたならば、宝が持ち出されたなどと心配することは少しもなかったのだが、私はもちろん、さすがの諸戸もそこまでは考え及ばなかった。

  船頭の話というのは、読者は思惟せられるであろう。十年以前、丈五郎の従兄弟(いとこ)と称する他国人が、この島に渡ったが、間もなくその死骸が魔の淵のほら穴の入口に浮き上がったという、あの不思議な事実である。

 しかし、そこへ気づかなかったのが、結句(けっく)よかったのかもしれない。なぜといって、もしその他国人の死因について、深く想像をめぐらしたならば、私たちはよもや地底の宝探しを企てる勇気はなかったであろうから。

 

柴田宵曲 猫 一

 

柴田宵曲 猫

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三二(一九五七)年七月及び十月と、翌昭和三十三年十二月と、昭和三十五年六月月と十月発行の雑誌『谺』にかなり時間を挟んで発表された「猫」絡みの俳諧随想である。底本は一九九九年岩波文庫刊の小出昌洋編「新編 俳諧博物誌」に載る「猫」を用いたが、「虫の句若干」の冒頭注で述べた通り、大幅な変更処理を施してある。全五章(発表の順であろう)からなるので、各章毎に分割して電子化注するが、この冒頭注はここにのみ附す。]

 

       一

 

 俳諧の猫は殆ど恋猫に掩(おお)われた観がある。尤もそういう人間にしたところで、小説の世界から覗けば殆ど恋愛に終始しているわけだから、猫と甚しい逕庭(けいてい)はないのかも知れぬ。這間(しゃかん)の消息はすべて見る人の眼鏡によって支配される。小説世界が恋愛三昧だからといって、あらゆる人間が日夜恋愛に奔走しているとは限るまい。恋猫は季題として独立し、古今の句集に遍在しているため、人の目につく機会が多いに過ぎぬので、俳人の観察は固よりこれにとどまらぬのである。

[やぶちゃん注:「恋猫」初春の季語。

「逕庭」「径庭」とも書く。「逕」は「小道」、「庭」は「広場」の意。二つのものの間にある有意な隔たり、懸隔の意。元は「荘子」の「逍遥遊篇」に拠る。

「這間」既注であるが、再掲しておく。「この間(かん)」の意。但し、「這」には「この」という指示語の意はなく、誤読の慣用法である。宋代、「この」「これ」の意で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体が「這」と誤判読されたことに由来するものである。]

 

 元日や去年(こぞ)のめしくふ猫の顔 一友

 

 先(まず)歳旦第一日からはじめる。元日だからといって、猫の生活に変りはない。人間世界が屠蘇、雑煮その他、新年の季題に忙殺されるだけ、猫の方は閑却されざるを得ぬ。索莫として去年の皿に残された飯を食っている、というのである。甚だ冷遇を極めたようだけれども、実際問題からいうと、人間世界にも元日の飯はない。肝腎の餅は猫の御歯に合わざること、『吾輩は猫である』の証明する通りだから、しばらく去年の飯で我慢するより仕方があるまいと思う。

 この句は淡々と事実を叙し去ったようで、ちょっと面白いところを捉えている。元日としては普通の人の看過しそうな趣である。

[やぶちゃん注:「『吾輩は猫である』の証明する通り」「吾輩は猫である」の「二」の正月のロケーションに以下のようにある。引用は岩波版旧全集に拠った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

 今朝見た通りの餅が、今朝見た通りの色で椀の底に膠着(かうちやく)している。白狀するが餅というものは今迄一返も口に入れた事がない。見るとうまさうにもあるし、又少しは氣味(きび)がわるくもある。前足で上にかゝつて居る菜つ葉を搔き寄せる。爪を見ると餅の上皮(うはかは)が引き掛つてねばねばする。嗅いで見ると釜の底の飯を御櫃(おはち)へ移す時の樣な香(におひ)がする。食はうかな、やめ樣(やう)かな、とあたりを見廻す。幸か不幸か誰も居ない。御三(おさん)は暮も春も同じ樣な顏をして羽根をついて居る。小供は奧座敷で「何と仰しやる兎さん」を歌って居る。食ふとすれば今だ。もし此機をはづすと來年迄は餅といふものゝ味を知らずに暮して仕舞はねばならぬ。吾輩は此刹那に猫ながら一の眞理を感得した。「得難き機會は凡(すべ)ての動物をして、好まざる事をも敢てせしむ」吾輩は實を云ふとそんなに雜煑を食ひ度くはないのである。否椀底(わんてい)の樣子を熟視すればする程氣味(きび)が惡くなつて、食ふのが厭になつたのである。此時もし御三(おさん)でも勝手口を開けたなら、奧の小供の足音がこちらへ近付くのを聞き得たなら、吾輩は惜氣(をしげ)もなく椀を見棄てたらう、しかも雜煑の事は來年迄念頭に浮ばなかつたらう。所が誰も來ない、いくら躕躇して居ても誰も來ない。早く食はぬか食はぬかと催促される樣な心持がする。吾輩は椀の中を覗き込み乍ら、早く誰か來てくれゝばいゝと念じた。やはり誰も來てくれない。吾輩はとうとう雜煑を食はなければならぬ。最後にからだ全體の重量を椀の底へ落す樣にして、あぐりと餅の角を一寸(いつすん)許(ばか)り食ひ込んだ。此位力を込めて食ひ付いたのだから、大抵なものなら嚙み切れる譯だが、驚いた! もうよからうと思つて齒を引かうとすると引けない。もう一返嚙み直さうとすると動きがとれない。餅は魔物だなと疳(かん)づいた時は既に遲かつた。沼へでも落ちた人が足を拔かうと焦慮(あせ)る度にぶくぶく深く沈む樣に、嚙めば嚙むほど口が重くなる、齒が動かなくなる。齒答はあるが、齒答がある丈(だけ)でどうしても始末をつける事が出來ない。美學者迷亭先生が甞て吾輩の主人を評して君は割り切れない男だといった事があるが、成程うまい事をいつたものだ。此餅も主人と同じ樣にどうしても割り切れない。嚙んでも嚙んでも、三で十を割るごとく盡未來際(じんみらいざい)[やぶちゃん注:仏語。未来の果てに至るまで。未来永劫。永遠。ここは副詞的用法。]方(かた)のつく期(ご)[やぶちゃん注:決着のつくべき瞬間。]はあるまいと思はれた。此煩悶の際吾輩は覺えず第二の眞理に逢着した。「凡(すべ)ての動物は直覺的に事物の適不適を豫知す」眞理は既に二つ迄發明したが、餅がくつ付いて居るので毫も愉快を感じない。齒が餅の肉に吸収されて、拔ける樣に痛い。早く食ひ切つて逃げないと御三(おさん)が來る。小供の唱歌もやんだ樣だ、屹度(きつと)臺所へ馳け出して來るに相違ない。煩悶の極(きよく)尻尾(しつぽ)をぐるぐる振つて見たが何等の功能もない、耳を立てたり寐かしたりしたが駄目である。考へて見ると耳と尻尾(しつぽ)は餅と何等の關係もない。要するに振り損の、立て損の、寐かし損であると氣が付いたからやめにした。漸くの事是は前足の助けを借りて餅を拂ひ落すに限ると考へ付いた。先づ右の方をあげて口の周圍を撫(な)で廻す。撫(な)でた位で割り切れる譯のものではない。今度は左(ひだ)りの方を伸(のば)して口を中心として急劇に圓を劃して見る。そんな呪(まじな)ひで魔は落ちない。辛防が肝心だと思つて左右交(かは)る交るに動かしたが矢張り依然として齒は餅の中にぶら下つて居る。えゝ面倒だと兩足を一度に使ふ。すると不思議な事に此時丈(だけ)は後足(あとあし)二本で立つ事が出來た。何だか猫でない樣な感じがする。猫であらうが、あるまいが斯うなつた日にやあ構ふものか、何でも餅の魔が落ちる迄やるべしといふ意氣込みで無茶苦茶に顏中引つ搔き廻す。前足の運動が猛烈なので稍(やゝ)ともすると中心を失つて倒れかゝる。倒れかゝる度に後足(あとあし)で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる譯にも行かんので、臺所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起(た)つて居られたものだと思ふ。第三の眞理が驀地(ばくち)に[やぶちゃん注:禅語。副詞。激しい勢いで目標に向かって突き進むさま。いっさんに。一気に。まっしぐらに。]現前(げんぜん)する。「危きに臨めば平常なし能はざる所のものを爲し能ふ。之を天祐[やぶちゃん注:天の助け。]といふ」幸に天祐を享(う)けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戰つて居ると、何だか足音がして奧より人が來る樣な氣合(けはひ)である。こゝで人に來られては大變だと思つて、愈(いよいよ)躍起(やくき)となつて臺所をかけ廻る。足音は段々近付いてくる。あゝ殘念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雜煑を食べて踊(をどり)を踊つて居る」と大きな聲をする。此聲を第一に聞きつけたのが御三(おさん)である。羽根も羽子板も打ち遣つて勝手から「あらまあ」と飛込んで來る。細君は縮緬(ちりめん)の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さへ書齋から出て來て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云ふのは小供許(ばか)りである。さうして皆(み)んな申し合せた樣にげらげら笑つて居る。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる譯にゆかぬ、弱つた。漸く笑ひがやみさうになつたら、五つになる女の子が「御かあ樣、猫も隨分ね」といつたので狂瀾(きやうらん)を既倒(きたう)に何とかする[やぶちゃん注:韓愈の「進學解」に基づく。原義は「崩れかけた大波を、もと来た方へ押し返す」で、「形勢がすっかり悪くなったのを、再びもとに戻す」という譬え。]という勢で又大變笑はれた。人間の同情に乏しい實行も大分(だいぶ)見聞(けんもん)したが、この時程恨めしく感じた事はなかつた。遂に天祐もどつかへ消え失せて、在來の通り四よつ這になつて、眼を白黑するの醜態を演ずる迄に閉口した。さすが見殺しにするのも氣の毒と見えて「まあ餅をとつて遣れ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせ樣(やう)ぢやありませんかといふ眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺して迄見る氣はないのでだまつて居る。「取つてやらんと死んで仕舞ふ、早くとつて遣れ」と主人は再び下女を顧みる。御は御馳走を半分食べかけて夢から起された時の樣に、氣のない顏をして餅をつかんでぐいと引く。寒月君(かんげつくん)ぢやないが前齒が皆(み)んな折れるかと思つた。どうも痛いの痛くないのつて、餅の中へ堅く食ひ込んで居る齒を情(なさ)け容赦もなく引張るのだから堪らない。吾輩が「凡(すべ)ての安樂は困苦を通過せざるべからず」と云ふ第四の眞理を經驗して、けろけろとあたりを見廻した時には、家人は既に奧座敷へ這入つて仕舞つて居つた。

   *]

 

 初夢に猫も不二見る寢やうかな  一茶

 

 正月の縁端か、炉辺(ろばた)かに寝ている猫に対して、今どんな夢を見つつあるだろう、今日は初夢だから、一不二、二鷹、三茄子という、不二の夢でも見ているかも知れぬ、といったのである。人間の気持を直(じき)に禽獣に及ぼす、一茶一流の句であるが、何分拵(こしら)えものたるを免れぬ、現在自分の見た夢ですら、なかなか句には現しにくいのに、猫の夢裡の世界を伝えようとするが如きは、最初から無理である。初夢に跋(ばつ)を合せるために「不二見る寝やう」を持出すに至っては、奇ならんとしてかえって常套に堕している。

[やぶちゃん注:一茶の句は文政七(一八二四)年満六十歳の折りの歳旦吟と推定される。

「初夢に跋(ばつ)を合せる」自分が見た初夢を一つの話と譬えて、それに書物の「跋(ばつ)」(ここは後書き)を「合せる」ように句を捻り出した、という謂いか。]

 

 正月や猫も寒がる靑畳    素廸(そてき)

 

 新居であるか、年末に畳替(たたみがえ)をした場合か、いずれでも差支ない。畳が正月らしく青々としている。あたりもすっかり片付いて、あらゆるものがきちんとしている。こういう室内はすがすがしいと同時に、一種の寒さを感ぜしむるものである。就中(なかんずく)猫が寒そうな様子をしている、という句らしい。人間の正月気分と猫の生活とが一致せぬ一例である。

 

 猫の膝きのふはけふの著衣始(きそはじめ)

               范孚(はんぷ)

 

 この句も似たような趣であるが、一句の表現の上に、少しく曲折を弄したところがある。第一に「猫の膝」というのは猫に貸す膝の意である。昨日は猫の乗るに任せたが、今日は新な著物を著ているので、汚れるのを厭うて膝に乗らしめぬ。猫は不満かも知れぬが、晴著の膝の汚れを厭うところに、これを飼う婦女の気持が窺われる。

 著衣始は三ケ日のうち吉日を選ぶとある。日はきまっていないらしい。

 

 七草をたゝくむかふの小猫かな    諉水(いすい)

 古猫の相伴にあふ卯杖(うづゑ)かな 許六

 卯杖ともしらで逃けり猫の妻     卜史

 

 七草の粥は今なお行われているが、七草をたたく方は語り草に残るのみとなった。地方にはこの習慣が残っているところがあるかも知れぬ。卯杖に至っては更に遠い感じのする行事である。七草をたたく様子を見て、小猫がびっくりしているのも新春らしい光景であろう。この小猫は見物だから無事であるが、古猫の方は文字通り傍杖を食っている。そこでその次の猫の妻は、打たれぬ先から逃げているのである。

[やぶちゃん注:「七草をたゝく」正月六日の夜又は七日早朝に春の七種の菜を俎板の上に置いて、その年の福徳を司る歳徳神(としとくじん)がいる恵方(えほう)を向き、囃子詞を詠いながら、庖丁の背や擂粉木などを用いて七草を大きな音を響かせつつ、叩き潰す予祝行事。その際の祝詞は京都や大阪では「唐土(とうど)の鳥が日本の土地へ渡らぬさきになずな七草(ななくさ)はやしてほとと」、江戸では「唐土うんぬん渡らぬさきに七草なずな」。無論、こうして出来た七草を七日の朝の粥に炊き込んで食することでこの行事は完遂される。以上は古くからお世話になっている「みんなの知識委員会」の運営する非常に便利なサイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「七草がゆの儀式  七草たたき」に拠った。

「卯杖」新年の予祝行事で用いられた邪気を払うための杖。梅・桃・木瓜(ぼけ)などの木で作られ、いろいろな装飾が施される。長さは五尺三寸(約一・六メートル)で、二、三本ずつ五色の糸で巻いたりした。平安時代には正月初卯の日に、これを六衛府などから天皇・東宮に奉献する儀式があり、これを御帳の四隅に立てた。卯杖は漢の王莽の故事による剛卯杖の影響を受けており、また,年木(としぎ:戸口や門松のそばなどに置いて年神に供える木)や粥杖(小正月(正月十五日)に、望粥(もちがゆ:月の望であるが、後に餅を掛けて実際に餅を入れた)を煮る際に使う杖。これで子のない女性の腰を打つと男子が生まれるとされた)などとの関連も考えられる。現在、民間では用いられていないが,太宰府天満宮で正月七日の追儺祭 (ついなのまつり) にこれで鬼面を打ったり、和歌山県伊太祁曾(いだきそ)神社で正月十四日夕方、神前に卯杖を供えるなど、神事に用いている例は少くない(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」その他に拠った)。]

 

 つく羽や二階に猫の背を立る   古曆

 鳴く猫に赤ン目をして手まりかな 一茶

 

 この両句の相手は子供である。突羽子(つくばね)に驚いて背を立てる二階の猫にも、鳴く猫に赤ン目をする子供のふるまいにも、共に漫画的空気が溢れている。東京では「アカンベ」というのが普通だけれども、赤ン目が正しいのであろう。

[やぶちゃん注:一茶の句は文政四(一八二一)年の新年の句であるが、前年の句に、

 

 鳴く猫に赤ン目と云(いふ)手まり哉

 

があり、その改作と思しい。]

 

 山猫の下に昼餉や傀儡師(かいらいし)

                雁宕(がんたう)

 戀知らぬ猫さうさうし傀儡師  吐月

 あの猫も戀した果(はて)や傀儡師

                子交

 

 山猫廻しは傀儡師のことだと『塵塚談(ちりづかだん)』にある。人形を舞(まわ)して最後の一段になった時、鼬(いたち)のようなものを出してチチクワイチチクワイチチクワイとわめいて終にする、というのであるが、著者の小川顕道も少年時代に見たきりで、「今は絶てなし」という。われわれに全然見当がつかぬのはやむをえない。『続飛鳥川』の記載によると、「なく者は山猫にかましよ」と呼ぶのだそうである。雁宕(がんとう)の句は明(あきらか)に山猫廻しを詠んだものと思われる。「戀知らぬ猫」も「戀した果」の猫も、傀儡師から見た場合であろう。猫の老少を現すのに恋を持出したのは、やはり俳語の伝統に捉われたものかも知れぬ。山猫廻しとの因縁は稀薄なようである。

[やぶちゃん注:「傀儡師」「くぐつし」とも読む(わたしは「くぐつ」の読みが好きである)が句に読み込むには使い勝手が悪いことは判る)。人形を使って諸国を回った漂泊芸人。特に江戸時代、首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人をいう。「傀儡(くぐつ)回し」「木偶(でく)回し」「箱まわし」「首掛人形」、また、ここに出るように「山猫廻(まわ)し」などとも称した。やはり、予祝演芸として新年の季語となっている。

「塵塚談」江戸(一時は相模国藤沢に住んだらしい)の医師小川顕道(あきみち 元文二(一七三七)年~文化一三(一八一六)年)が文化一一(一八一四)年に書いた随筆集。幸い、現代思潮社の「古典文庫」版を所持しているので以下に示す(但し、気持ちの悪い新字新仮名版である。悪しからず)。まさに「塵塚談」の巻頭(上之巻)を飾る記載である。原典に添えられている図も添えた。キャプションによれば、上が江戸時代の傀儡師、下が平安時代の「信西古楽図」からの引用らしい。

   *

傀儡師のこと

 傀儡師(くぐつし)を、江戸の方言に山ねこという、人形まわしなり。一人して小袖櫃のようの箱に、人形を入れ背負いて、手に腰鼓(こしつつみ)をたたきながら歩行(ありく)なり。小童その音を聞きて呼び入れ、人形を歌舞せしめ遊観す。浄瑠璃は義太夫ぶしにして三絃はなく、芦屋道満の葛の葉の段、時頼記の雪の段の類を、語りながら人形を舞わし、だんだん好み[やぶちゃん注:出し物。演目。]も終り、これ切りというところに至りて、山ねこという鼬のごときものを出して、チチクワイくとわめきて仕舞いなり。われら十四五歳ころまでは、一ケ月に七八度ヅツも来りしが、今は絶えてなし。

 

Kugutusi

 

   *]

宮澤賢治「銀河鉄道の夜」より

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば 僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいわひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラ がぼんやり云ひました。
「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが 胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云ひました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行かう。」
「あゝきっと行くよ。 ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集ってるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにゐるのぼくのお母さんだよ。 」カムパネルラは 俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。

江戸川乱歩 孤島の鬼(35) 三角形の頂点

 

   三角形の頂点

 

 片輪者は皆おとなしかったので、その見張りを秀ちゃんと吉ちゃんに頼んだ。性わるの吉ちゃんも、自由を与えてくれた諸戸のいいつけには、よく従った。

 啞のとしさんには、秀ちゃんの手まねで諸戸の命令を伝えた。おとしさんの役目は、土蔵の中の丈五郎夫婦と片輪者のために、三度三度の食事を用意することだった。土蔵の戸は決してひらいてはならぬこと、食事は庭の窓からさし入れることなどを、くり返し命じた。彼女は丈五郎夫婦に心服していたわけではなく、むしろ暴虐な主人を恐れ憎んでいたくらいだから、わけを聞くと少しも反抗しなかった。

 諸戸がテキパキとことを運んだので、午後にはもう、この騒動のあと始末ができてしまった。

 諸戸屋敷には男の雇人は三人しかいず、それがみな出払っていたので、私たちはあっけなく戦いに勝つことができたのだ。丈五郎にしてみれば、私はすでにないものと思っているし、土蔵の中の道雄はまさか親に対してこんな反抗をしようとは思いがけぬものだから、つい油断をして、肝腎の護衛兵をみんな出してやったのであろうが、その虚に乗じた諸戸の思いきったやり口が、見事に功を奏したわけである。

 三人の男が何をしに出掛けたのか、どうして五、六日帰ってこないのか、私が尋ねても、諸戸はなぜかハッキリした答えをしなかった。そして、「やつらの仕事が五、六日以上かかることは、ある理由で僕はよく知っているのだ。それは確かだから安心したまえ」というばかりであった。

 その午後、私たちは連れだって、例の烏帽子岩のところへ出かけた。宝探しをつづけるためである。

「僕は二度とこのいやな島へ来たくない。といって、このまま逃げ出してしまっては、あの人たちに悪事の資金を与えるようなものだ。もし宝が隠してあるものなら、僕たちの手で探し出したい。そうすれば、東京にいる初代さんの母親も仕合わせになるだろうし、またたくさんのかたわ者を幸福にする道も立つ。僕としても、せめてもの罪亡ぼしだ。僕が宝探しを急いでいるのは、そういう気持からだよ。ほんとうなれば、これを世間に公表して、官憲の手を煩わすところだろうが、それはできない。そうすれば僕の父親を断頭台に送ることになるんだからね」

[やぶちゃん注:「ほんとうなれば」ママ。]

 烏帽子岩への道で、諸戸は、弁解するように、そんなことをいった。

「それはわかっていますよ。ほかに方法のないことは僕にもよくわかっていますよ」

 私は真実そのように思っていた。しばらくして、私は当面の宝探しの方へ話題を持って行った。

「僕は宝そのものよりも、暗号を解いて、それを探し出すことに、非常な興味を感じているのです。だが、僕にはまだよくわかりません。あなたはすっかり、あの暗号を解いてしまったのですか」

「やってみなければわからないけれど、なんだか解けたように思うのだが、君にも、僕の考えていることが大体わかったでしょう」

「そうですね。呪文の『神と仏が会うたなら』というのは烏帽子岩の鳥居の影と石地蔵とが一つになるときという意味だと、いうくらいのことしかわからない」

「そんなら、わかっているんじゃないか」

「巽の鬼というのは、むろん、土蔵の鬼瓦のことさ。それは君が僕に教えてくれたんじゃありませんか」

「すると、あの鬼瓦を打ち破れば、中に宝が隠されているのですか。まさかそうじゃないでしょう」

「鳥居と石地蔵の場合と同じ考え方をすればいいのさ。つまり、鬼瓦そのものでなくて、鬼瓦の影を考えるのだ。そうでなければ、第一句が無意味になるからね。それを丈五郎は、鬼瓦そのものだと思って、屋根へ上がってとりはずしたりしたんだ。僕は蔵の窓からあの人が鬼瓦を割っているのを見たよ。むろん何も出やしなかった。しかし、そのお蔭で僕は暗号を解く手がかりができたんだ」

 私はそれを聞くと、なんだか自分が笑われているように感じて、思わず赤面した。

「ばかですね。僕はそこへ気がつかなかったのです。するとちょうど鳥居の影が石地蔵に一致したとき、鬼瓦の影の射す場所を探せばいいわけですね」

 私は、諸戸が私の時計について尋ねたことを思い出しながら言った。

「間違っているかも知れないけれど、僕にはそんなふうに思われるね」

 私たちは長い道を、こんな会話を取りかわしたほかは、多くだまりこんで歩いた。諸戸が非常に無愛想で、私をだまらせてしまったのだ。彼は父親を押篭めた不倫について考えているにちがいない。父という言葉を使わないで、丈五郎と呼び捨てにしていた彼ではあるが、それが親だと思うと、打ち沈むのはすこしも無理ではなかった。

 私たちが目的の海岸へ着いたときは、少し時間が早すぎて、烏帽子岩の鳥居の影は、まだ切り岸の端にあった。

 私たちは時計のネジを巻いて、時の移るのを待った。

 日蔭を選んで腰をおろしていたけれど、珍らしく風のない日で、ジリジリと背中や胸を汗が流れた。

 動かないようでも、鳥居の影は、眼に見えぬ早さで、地面を這って、少しずつ少しずつ、丘の方へ近づいて行った。

 だが、それが石地蔵の数間手前まで迫ったとき、私はふとあることに気づいて、思わず諸戸の顔を見た。すると、諸戸も同じことを考えたとみえて、変な顔をしているのだ。

「この調子で進むと、鳥居の影は石地蔵には射さないじゃありませんか」

「二、三間横にそれているね」諸戸はがっかりした調子で言った。「すると僕の考え違いかしら」

「あの暗号の書かれた時分には、神仏に縁のあるものが、ほかにもあったかもしれませんね。現に別の海岸にも、石地蔵の跡があるくらいだから」

「だが、影を投げるほうのものは、高いところにある筈だからね。ほかの海岸にこんな高い岩はないし、島のまん中の山には神社の跡らしいものも見えない。どうも『神』というのはこの鳥居としか思えないのだが」

 諸戸は未練らしくいった。

 そうしているうちに、影の方はグングン進んで、ほとんど石地蔵と肩を並べる高さに達した。見ると丘の中腹に投じた鳥居の影と、石地蔵とのあいだには、二間ばかりの隔たりがある。

 諸戸はそれをじっと眺めていたが、何を思ったのか、突然笑い出した。

「ばかばかしい。子供だって知っていることだ。僕たちは少しどうかしているね」言いさして彼は又ゲラゲラ笑った。「夏は日が長い。冬は日が短い。君、これはなんだね。ハハハハハ、地球に対して太陽の位置が変るからだ。つまり、物の影は、正確にいえは、一日だって同じ場所へ射さないということだ。同じ場所へ射すときは、一年に二度しかない。太陽が赤道へ近づくとき、赤道を離れるとき、その往復に一度ずつ。ね、わかりきったことだ」

「なるほど、ほんとうに僕たちはどうかしていましたね。すると宝探しの機会も一年に二度しかないということでしょうか」

「隠した人はそう思ったかもしれない。そして、それが宝を掘り出しにくくする屈強の方法だと誤解したかもしれない。だが、果たしてこの鳥居と石地蔵が、宝探しの目印なら、何も実際影の重なるのを待たなくても、いくらも手段はあるよ」

「三角形を書けばいいわけですね。鳥居の影と石地蔵を二つの頂点にして」

「そうだ。そして、鳥居の影と石地蔵とのひらきの角度を見つけて、鬼瓦の影を計るときにも、同じ角度だけ離れた場所に見当をつければいいのだ」

 私たちはそんな小さな発見にも、目的が宝探しだけに、かなり興奮していた。そこで、鳥居の影が正しく石地蔵の高さにきたときの時間を見ると、私の腕時計はちょうど五時二十五分を指していたので、私はそれを手帳に控えた。

 それから、私たちは崖を伝い降りたり、岩によじ登ったり、いろいろ骨をおった末、鳥居と石地蔵の距離を計り、鳥居の影と石地蔵との隔たりも正確に調べて、それの作りなす三角形の縮図を手帳に書きしるした。この上はあすの午後五時二十五分、諸戸屋敷の土蔵の屋根の影がどこに射すかを確かめ、きょう調べた角度によって、誤差を計れば、いよいよ宝の隠し場所を発見することができるわけである。

 だが、読者諸君、私たちはまだ完全に例の呪文を解読していたわけではなかった。呪文の最後には「六道の辻に迷うなよ」という無気味な一句があった。六道の辻とは一体なにを指すのか。私たちの行事には、もしやそのような地獄の迷路が待ち構えているのではあるまいか。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(34) かたわ者の群

 

   かたわ者の群

 

 同じ日の夕方、私は土蔵の下へ行って、例の紙つぶてによって、私の発見した事柄を諸戸に通信した。その紙きれには、念のために烏帽子岩と石地蔵の位置を示す略図まで書き加えておいた。

 しばらく待つと、諸戸が窓のところに顔を出して、左のような手紙を投げた。

「君は時計を持っているか、時間は合っているか」

 とっぴな質問である。だが、いつ私の身に危険が迫るかもしれないし、不自由きわまる通信なのだから、前後の事情を説明している暇のないのも無理ではない。私はそれらの簡単な文句から彼の意のあるところを推察しなければならないのだ。

 幸い私は腕時計を、二の腕深く隠し持っていた。ネジも注意して巻いていたから、多分大した時間の違いはなかろう。私は窓の諸戸に腕をまくって見せて、手まねで時間の合っていることを知らせた。

 すると、諸戸は満足らしく領いて、首を引込めたが、しばらく待つと、今度は少し長い手紙を投げてよこした。

 

 大切なことだから間違いなくやってくれたまえ。おおかた察しているだろうが、宝の隠し場所がわかりそうなのだ。丈五郎も気づきはじめたけれど、大変な間違いをやっている。僕らの手で探し出そう。確かに見こみがある。あす空が晴れていたら、午後四時ごろ、烏帽子岩へ行って、石の鳥居の影を注意してくれたまえ。多分その影が石地蔵と重なるはずだ。重なったら、その時間を正確に記憶して帰ってくれたまえ。

 

 私はこの命令を受取ると、急いで徳さんの小屋へ帰ったが、その晩は呪文のことのはかは何も考えなかった。今こそ私は、呪文の「神と仏が会う」という意味を明かにすることができた。ほんとうに会うのではなくて、神の影が仏に重なるのだ。鳥居の影が石地蔵に射すのだ。なんといううまい思いつきだろう。私は今さらのように、諸戸道雄の想像力を讃嘆しないではいられなかった。

 だが、そこまではわかるけれど、「神と仏が会うたなら、巽の鬼を打ち破り」という巽の鬼が、今度はわからなくなってくる。丈五郎が大間違いをやっているというのだから、土蔵の鬼瓦ではないらしい。といって、そのほかに「鬼」と名のつくものが、一体どこにあるのだろう。

 その晩は、つい疑問の解けぬままにいつか眠ってしまったが、翌朝、この島には珍らしいガヤガヤという人声に、ふと眼を覚ますと、小屋の前を、船着場の方へ聞きおぼえのある声が通り過ぎて行く。疑いもない諸戸屋敷の雇人たちだ。

 私は諸戸に命じられていたことがあるものだから、急いで起き上がって、窓を細目にひらいて覗くと、遠ざかって行く三人のうしろ姿が見えた。二人が大きな木箱を吊って、一人がその脇につき添って行く。それが双生児の日記にあった助八爺さんで、あとの二人は、諸戸屋敷で見かけた屈強な男たちだ。

 諸戸が先日「近いうちに諸戸屋敷の雇人たちが、荷物を積んで、舟を出すはずだ」と書いたのはこれだなと思った。私はその人数を彼に知らせることを頼まれているのだ。

 窓をひらいてじっと見ていると、三人づれはだんだん小さくなって、ついに岩蔭に隠れてしまったが、待つほどもなく、船着場のほうから一艘の帆前船が、帆をおろしたまま、私の眼界へ漕ぎ出してきた。遠いけれど、乗っているのはさっきの三人と、荷物の木箱であることはよくわかった。少し沖に出ると、スルスルと帆が上がって、舟は朝風に追われ、みるみる島を遠ざかって行った。

 私は約束に従って、早速このことを諸戸に知らせなければならぬ。もうそのころは、昼間出歩くことに馴れてしまって、滅多に人通りなぞありはしないと、多寡(たか)をくくっていたので、なんの躊躇もなく、私はすぐさま小屋を出て、土蔵の下へ行った。紙つぶてで事の仔細を告げると、諸戸から、勇ましい返事がきた。

[やぶちゃん注:「多寡(たか)をくくっていた」「たかをくくる」の漢字表記は一般的には「高を括る」である。この「たか(高)」は「生産高」「残高」などの物の数量や金額を見積もった際の総計額を指すように、数量の程度を表わしている。それを「くくる(括る)」というのはそうした「たか」としての対象を「一纏めにする」、ある事柄や対象の認識や理解に対して「ある区切りを定める」「見切りをつける」ことを意味する。現行では、この語はいい意味ではあまり用いず、ある事態に対して「恐らくは進んで行っても(展開して行っても)この程度で留まる(終わってしまう)に違いないと安易に予測して楽観的に考えたり、大した影響はないとして対象を侮(あなど)る際に専ら用いられている。「多寡」は「多いことと少ないこと」であるから、成句としては意味が通り、「日本国語大辞典」でも「多寡」の二番目に「高」の上記の意味への「見よ見出し」を附すから、誤りではない。]

 

 彼らは一週間ほど帰らぬはずだ。彼らが何をしに行ったかもわかっている。もう屋敷の中には手強いやつはいない。逃げるのは今だ。助力を頼む。君は一時間ばかりその岩蔭に隠れて僕の合図を待ってくれたまえ。僕がこの窓から手を振ったら、大急ぎで表門へ駈けつけ、邸内を逃げ出すやつがあったら引っ捉えてくれたまえ。女とかたわばかりだから、大丈夫だ。いよいよ戦争だよ。

 

 この不意の出来事のために、私たちの宝探しは一時中止となった。私は諸戸の勇ましい手紙に胸をおどらせながら、窓の合図を待ちかまえた。諸戸の計画がうまく行けば、私たちは間もなく、久し振りで口を利き合うことができるのだ。そして、私がこの島に来て以来、あこがれていた秀ちゃんの顔を、間近に見、声を聞くことさえできるのだ。この日頃の奇怪なる経験は、いつの間にか、私を冒険好きにしてしまった。戦争と聞いて肉がおどった。

 諸戸は親たちと戦おうとしている。世の常のことではない。彼の気持はどんなだろうと思うと、その刹那のくるのをじっと待っている私も、心臓が空っぽになったような感じである。それにしても、彼は腕力で親たちに手向かうつもりなのであろうか。

 長い長いあいだ、私は岩蔭にすくんでいた。暑い日だった。岩の日蔭ではあったけれど、足元の砂がさわれないほど焼けていた。いつもは涼しい浜風も、その日はそよともなく、波の音も、私自身つんぼになったのではないかと怪しむほど、少しも聞こえてこなかった。なんとも底知れぬ静寂の中に、ただジリジリと夏の日が輝いていた。

 クラクラと眼まいがしそうになるのを、こらえこらえして、じつと土蔵の窓を見つめていると、とうとう合図があった。鉄棒のあいだから腕が出て、二、三度ヒラヒラと上下するのが見えた。

 私はやにわに駈け出して、土塀を一と廻りすると、表門から諸戸屋敷へ踏みこんで行った。

 玄関の土間へはいって、奥の方を覗いて見たが、ヒッソリとして人けもない。

 たとえ対手はかたわ者とはいえ、奸智にたけた兇悪無残な丈五郎のことだ。諸戸の身の上が気遣われた。あべこべにひどい目に会っているのではあるまいか。邸内が静まり返っているのがなんとなく無気味である。

 私は玄関を上がって、曲りくねった長い廊下を、ソロソロとたどって行った。

 一つの角を曲ると、十間ほどもつづいた長い廊下に出た。幅は一間以上もあって、昔風に赤茶けた畳が敷いてある。屋根の深い窓の少ない古風な建物なので、廊下は夕方のように薄暗かった。

[やぶちゃん注:「十間」十八メートル十八センチ。]

 私がその廊下へヒョイと曲ったとき、私と同時に、やっぱり向こうの端に現われたものがあった。それが恐ろしい勢いで、もつれ合いながら私の方へ走ってくるのだ。あまり変な恰好をしているので、私は急にはその正体がわからなかったが、そのものがみるみる私に接近して、私にぶつかり、妙な叫び声をたてたとき、はじめて私は双生児の秀ちゃんと吉ちゃんであることを悟った。

 彼らはボロボロになった布切れを身にまとい、秀ちゃんは簡単に髪をうしろで結んでいたが、吉ちゃんのほうは、時々は散髪をしてもらうのか、百日鬘(ひゃくにちかつら)のような無気味な頭であった。二人とも監禁を解かれたことを、無性に喜んで、子供のように踊っていた。私の前で、私の方へ笑いかけながら、踊り狂う二人を見ていると、妙な形のけだものみたいな感じがした。

[やぶちゃん注:「百日鬘」歌舞伎で使用する鬘(かつら)の一つ。月代(さかやき)の長く伸びた様子を表現したもので、時代物の盗賊や囚人などの役で使用する。鬢が左右に黒く垂れ、頭上に茸のような黒い空飛ぶ円盤を載せたみたような奴である。因みに、それがさらにさらに百日分も伸びたさまの鬘に「大百日(おおびゃくにち)」というのもある。]

 私は知らぬまに秀ちゃんの手をつかんでいた。秀ちゃんのほうでも、無邪気に笑いかけながら、懐かしそうに私の手を握り返していた。あんな境遇にいながら、秀ちゃんの爪が綺麗に切ってあったのが、非常にいい感じを与えた。そんなちょっとしたことに、私はひどく心を動かすのだ。

 野蛮人のような吉ちゃんは、私と秀ちゃんが仲よくするのを見てたちまち怒り出した。教養を知らぬ生地のままの人間は、猿と同じことで、怒ったときに歯をむきだすものだということを、私はそのとき知った。吉ちゃんはゴリラみたいに歯をむき出して、からだ全体の力で、秀ちゃんを私から引離そうともがいた。

 そうしているところへ、騒ぎを聞きつけたのか、私のうしろのほうの部屋から、一人の女が飛び出してきた。啞のおとしさんである。彼女は双生児が土蔵を抜け出したことを知ると、まっ青になって、やにわに秀ちゃんたちを奥のほうへ押し戻す恰好をした。

 私は最初の敵を、苦もなく取り押えた。対手は手をねじられながら、首を曲げて私を見、たちまち私の正体を悟ると、ギョツとして力が抜けてしまった。彼女はなにがなんだか少しもわけがわからぬらしく、あくまで抵抗しようとはしなかった。

 そこへ、さっき双生児が走ってきた方角から、奇妙な一団が現われてきた。先頭に立っているのは、諸戸道雄、そのあとに不思議な生きものが五、六人、ウヨウヨと従っていた。

 私は諸戸屋敷にかたわ者がいることを聞いていたが、みな開かずの部屋にとじこめられていたので、まだ一度も見たことがなかった。多分諸戸は、今その開かずの部屋をひらいて、この一群の生きものに自由を与えたのであろう。彼らはそれぞれの仕方で、喜びの情を表わし、諸戸になついているように見えた。

 顔半面に墨を塗ったように毛の生えた、俗に熊娘というかたわ者がいた。手足は尋常であったが、栄養不良らしく青ざめていた。何か口の中でブツブツいいながら、それでも嬉しそうに見えた。

 足の関節が反対に曲った蛙のような子供がいた。十歳ばかりで可愛い顔をしていたが、そんな不自由な足で、活発にピョンピョンと飛びまわっていた。

 小人島(こびとじま)が三人いた。大人の首が幼児のからだに乗っているところは普通の一寸法師であったが、見世物などで見かけるのと違って、非常に弱々しく、くらげのように手足に力がなくて、歩くのも難儀らしく見えた。一人などは、立つことができず、可哀そうに三つ子のように畳の上をはっていた。三人とも、弱々しいからだで大きな頭を支えているのがやっとであった。

[やぶちゃん注:「小人島(こびとじま)」皓星社の「隠語大辞典」に『体格倭小ノ人物』とあるが、小学館の「日本国語大辞典」には見出しとしてあり、『背が低く小さい人が住むと考えられた想像上の島』とあって、俳諧と雑排での使用例があるから、近世のそれから生じた差別用語であろう。]

 薄暗い長廊下に、二身一体の双生児をはじめとして、それらの不具者どもが、ウジャウジャかたまっているのを見ると、なんともいえぬ変な感じがした。見た目はむしろ滑稽であったが、滑稽なだけに、かえってゾッとするようなところがあった。

「ああ、蓑浦君、とうとうやっつけた」

 諸戸が私に近よって、つけ元気みたいな声でいった。

「やっつけたって、あの人たちをですか」

 私は諸戸が丈五郎夫婦を殺したのではないかと思った。

「僕たちの代りに、あの二人を土蔵の中へ締め込んでしまった」

 彼は両親に話があるといつわって、蔵の中へおびきよせ、咄嗟のまに双生児とともにそとへ出て、うろたえている二人のかたわ者を、土蔵の中へとじこめてしまったのである。丈五郎がどうしてやすやすと彼の策略に乗ったかというに、それには充分理由があったのだ。私は後になってそのことを知った。

「この人たちは」

 私は化け物の群を指さして尋ねた。

「かたわ者さ」「だが、どうして、こんなにかたわ者を養っておくのでしょう」

「同類だからだろう。詳しいことはあとで話そうよ。それより僕たちは急がなければならない。三人のやつらが帰るまでにこの島を出発したいのだ。一度出て行ったら五、六日は大丈夫帰らない。そのあいだに、例の宝探しをやるのだ。そして、この連中をこの恐ろしい島から救い出すのだ」

「あの人たちはどうするのです」

「丈五郎かい。どうしていいかわからない。卑怯(ひきょう)だけれど僕は逃げ出すつもりだ。財産を奪い、このかたわの連中を連れ去ったらどうすることもできないだろう。自然悪事をよすかもしれない。ともかく僕にはあの人たちを訴えたり、あの人たちの命を縮めたりする力はない。卑怯だけれど置去りにして逃げるのだ。これだけは見のがしてくれたまえ」

 諸戸は黯然(あんぜん)として言うのだ。

[やぶちゃん注:「黯然」「暗然」「闇然」とも書く。悲しみや絶望などで心が塞ぐさま。深く気落ちする様子。]

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(33) 神と仏

 

   神と仏

 

 さきほどから、たっぷり三十分はたっているので、もう大丈夫だろうと、私は岩蔭に身をひそめたまま、思いきって、小さく口笛を吹いてみた。諸戸を呼び出す合図である。

 すると待ちかまえていたように、蔵の窓に諸戸の顔が現われた。

 岩蔭から首を出して、大丈夫かと眼で尋ねると、諸戸は領いてみせたので、私は用意の手帳を裂いて、手早く丈五郎の不思議な仕草について書きしるし、その辺の小石を包んで、窓を目がけて投げこんだ。

 しばらく待つと、諸戸の返事がきた。その文句。

 

 僕は君の手紙を見て、非常な発見をした。喜んでくれたまえ。僕らの目的の一つは、間もなく成就することができそうだ。また、僕の身にさしあたり危険はないから安心したまえ。詳しく書いている暇はないが、ただ君にしてもらいたいことだけ書く。それによって、君は充分僕の考えを察することができよう。

 ⑴危険を冒さぬ範囲で、この島のあらゆる隅々を歩き廻り、何か祭ってあるもの、たとえば稲荷さまのほこらとか、地蔵さまとか、神仏に縁あるものを探し出して、知らせてください。

 ⑵近いうちに諸戸屋敷の雇人たちが、何かの荷物を積んで舟を出すはずだ。それを見つけたら、すぐに知らせてください。その時の人数も調べてください。

 

 私はこの異様な命令を受取って、一応は考えてみたけれど、むろん諸戸の真意を悟ることはできなかったが、それ以上つぶて問答をくりかえしては危険なので、私は一応その場を立ち去った。

 それから、諸戸の命令に従って、なるべく人家のないところ、人通りのないところと、まるで泥棒のように隠れまわって、終日島の中を歩いた。たとえ人に会っても化けの皮がはげぬよう、頰冠りをし、着物はむろん徳さんの息子の古布子(ふるぬのこ)で、手先や足に泥を塗って、ちょっと見たのではわからぬようにしてはいたが、それでも、昼ひなか、野外を歩きまわるのだから、私の気苦労は一と通りではなかった。それに、海辺とはいえ、八月の暑いさいちゅうに、炎天を歩きまわるのは、ずいぶん若しかったけれども、このような非常の場合、暑さなど気にしているひまはなかった。だが、そうして歩いて見てわかったことだが、この島はなんというさびれ果てた場所であろう。人家はあっても、人がいるのかいないのか、長いあいだ歩いていて、遠目に二、三人の漁師の姿を見たほかには、終日誰にも出あわないのだ。これなら何も用心することはない。

 私はその夕方までに、島を一周してしまったが、結局、神仏に縁のあるらしいものを二つだけ発見した。

 岩屋島の西がわの海岸で、それは諸戸屋敷とは中央の岩山を隔てて反対のがわなのだが、ほとんど人家はなく、断崖の凸凹が殊に烈しくて、波打際にさまざまの形の奇岩がそそり立っている。その中に一と際目立つ烏帽子(えぼし)型の大岩があって、その大岩の頂きに、ちょうど二見が浦の夫婦岩(みょうといわ)のように、石で刻んだ小さい鳥居が建ててある。何百年前、この島がもっと賑やかであったころ、諸戸屋敷のあるじが城主のような威勢をふるっていたころ、この海岸の平穏を祈るために建てられたものであろう。御影石の鳥居は薄黒い苔(こけ)に蔽われて今ではその大岩の一部分と見誤まるほどに古びていた。

 もう一つは、同じ西がわの海岸の、その烏帽子岩と向き合った小高いところに、これも非常に古い石地蔵が立っていた。昔はこの島を一周して完全な道路ができていたらしく、ところどころにその跡が残っているのだが、石地蔵はその道路に沿って道しるべのように立っているのだ。むろんお詣りする人なぞはないものだから、奉納物もなく、地蔵尊というよりは、人間の形をした石ころであった。眼も鼻も口も磨滅して、のっペらぼうで、それが無人の境にチョコンと立っている姿を見たときには、ギョッとして思わず立ち止まったほどである。台座にかなり大きな石が使ってあるので、ころびもせずに、幾年月を元の位置に立ち尽していたものであろう。

 あとで考えたことだけれど、この石地蔵は、昔は島の諸所に立っていたものらしく、現に北がわの海岸などには、石地蔵の台座とおぼしきものが残っていたほどである。それが子供のいたずらなどで、いつとなく姿を消して行き、最も不便な場所であるこの西がわの海岸の分だけが、幸運にもいまだに取り残されていたものにちがいない。

 私の歩きまわったところでは、島じゅうに、神仏に縁のあるものといっては右の二つだけで、そのほかには諸戸屋敷の広い庭に、何さまのほこらだか知らぬけれど、可なり立派なおやしろが建ててあったのを覚えているくらいである。だが、諸戸が私に探せといったのは、諸戸屋敷の内部のものではなかったであろう。

 烏帽子岩の鳥居は「神」である。石地蔵は「仏」である。神と仏。ああ、私はなんだか諸戸の考えがわかりだしてきたようだ。それはいうまでもなく、例の呪文のような暗号文に関連しているのだ。私はその暗号文を思い出してみた。

 

  神と仏がおうたなら

  巽(たつみ)の鬼をうちやぶり

  弥陀(みだ)の利益(りやく)を

  六道(ろくどう)の辻に迷うなよ

 

 この「神」とは烏帽子岩の鳥居を指し、「仏」とは例の石地蔵を意味するのではあるまいか。それから、ああ、だんだんわかってきたぞ。この「鬼」というのは、けさ丈五郎が取りはずして行った、土蔵の屋根の鬼瓦に一致するのではないかしら。そうだ。あの鬼瓦は土蔵の東南の端にのせてあった。東南は巽の方角に当たるではないか。あの鬼瓦こそ「巽の鬼」だ。

 呪文には「巽の鬼を打ち破り」とある。ではあの鬼瓦の内部に財宝が隠してあったのかしら。もしそうだとすれば、丈五郎はもうとっくに、あの鬼瓦を打ち割って、中の財宝を取り出してしまったのではあるまいか。

 だが、諸戸がそこへ気のつかぬはずはない。丈五郎が鬼瓦を持ち去ったことは、私がちゃんと通信したのだし、その通信を読んで、彼ははじめて何事かに気づいたらしいのだから、この呪文にはもっと別の意味があるにちがいない。瓦を割るだけならば、第一の文句は不必要になってしまうのだから。

 それにしても「神と仏が会う」というのは一体全体なんのことだろう。たとえその「神」が烏帽子岩の鳥居であり、「仏」が石地蔵であったとしたところで、その二つのものが、どうして会うことができるのであろう。やっぱりこの「神、仏」というのは、もっと全く別なものを意味しているのではあるまいか。

 私はいろいろと考えてみたが、どうしてもこの謎を解くことはできなかった。ただきょうの出来事でハッキリしたのは、私たちがかつて東京の神田の西洋料理店の二階へ隠しておいた暗号文と、双生児の日記帳とを盗んだやつは、当時想像した通り、やっぱり怪老人丈五郎であったということである。そうでなければ、彼が鬼瓦をはずした意味を解くことができない。彼はそれまでは、庭を掘り返したりして、無闇に諸戸屋敷を家探ししていたのだが、暗号文を手に入れると、一生懸命にその意味を研究して、ついに「巽の鬼」というのが、土蔵の鬼瓦に一致することを発見したものにちがいない。

 もしや丈五郎の解釈が図にあたって、彼はすでに財宝を手に入れてしまったのではあるまいか。それとも、彼の解釈には、非常な間違いがあって、鬼瓦の中には何もはいっていなかったのかもしれない。諸戸は果たしてあの暗号文を正しく理解しているのかしら。私はやきもきしないではいられなかった。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(32) 屋上の怪老人

 

   屋上の怪老人

 

 私は影武者のお蔭で危なく難を逃れたが、少しも助かったという気持はしなかった。徳さんの息子に化けている私は、うっかり小屋のそとへ姿を現わすこともできず、まして舟を漕いで島を抜け出すなんて、思いもよらぬことであった。私はまるで、私の方が犯罪人ででもあるように、昼間はじっと徳さんの小屋の中に隠れて、夜になると外気を呼吸したり、縮んでいた手足を伸ばすために、コソコソと小屋を這い出すのであった。

 食物は、まずいのさえ我慢すれば、当分しのぐだけのものはあった。不便な島のことだから、徳さんの小屋には、米も麦も味噌も薪も、たっぷり買いためてあったのだ。私はそれから数日のあいだ、えたいの知れぬ干し魚をかじり、味噌をなめて暮らした。

 私は当時の経験から、どんな冒険でも、苦難でも、実際ぶつかってみると、そんなでもない、想像している方がずっと恐ろしいのだ、ということを悟った。

 東京の会社で算盤をはじいていたころの私には、まるで想像もつかない、架空のお話か夢のような境遇である。ほんとうに私は一人ぼっちで、徳さんのむさくるしい小屋の隅に寝ころんで、天井板のない屋根裏を眺め、絶え間ない波の音を聞き、磯の香を嗅ぎながら、このあいだからの出来事がみんな夢ではないかと、変な気持になったこともたびたびであった。それでいて、そんな恐ろしい境遇にいながら、私の心臓はいつもの通りしっかりと脈うっていたし、私の頭は狂ったようにも思われぬ。人間は、どんな恐ろしい事柄でも、いざぶつかってみると、思ったほどでもなく平気で堪えて行けるものである。兵士が鉄砲玉に向かって突貫できるのも、これだなと思って、私は陰気な境遇にもかかわらず、妙に晴ればれした気持にさえなるのであった。

 それはとも角、私は先ず第一に、諸戸屋敷の土蔵の中に閉されている諸戸道雄に、事の仔細を告げて、善後の処置を相談しなければならなかった。昼間が怖いといって、暮れきってしまっては、電燈もない島のことだから、どうすることもできない。私は黄昏(たそがれ)どきの、遠目には人顔もさだかにわからぬ時分を見計らって、例の土蔵の下へ行った。心配したほどのこともなく、島中の人が死に絶えたかと思うように、どこにも人影はなかった。でも、私は目的の土蔵の窓の下にたどりつくと、ちょうどその土塀のきわにあった一つの岩を小楯に身を隠して、じっとあたりの様子をうかがった。

 塀の中や土蔵の窓から人声でも漏れはせぬかと聞き耳を立てた。

 夕闇の中に、蔵の窓は、ポッカリと黒い口を開けて、だまりこんでいる。遠くの波打際から響いてくる単調な波の音のほかには、なんの物音もない。「やっぱり夢を見ているのではないか」と思うほど、すべてが灰色で、青も色もない、うら淋しい景色であった。

 長い躊躇ののち、私はやっと勇気を出して、用意してきた紙つぶてを、狙い定めて投げ上げると、白い玉が、うまく窓の中へ飛び込んだ。その紙に、私はきのうからの出来事をすっかり書きしるし、私たちはこれからどうすればいいのかと、諸戸の意見を聞いてやったのである。

 投げてしまうと、また元の岩の蔭に隠れて、じつと待っていたが、諸戸の返事はなかなか戻ってこぬ。もしかしたら、彼は私がこの島を立ち去らなかったのを怒っているのではないかと、心配しはじめたころ、もうほとんど暮れきって、土蔵の窓を見わけるのもむずかしくなった時分に、やっと、その窓のところヘボンヤリと白い物が現われ、紙つぶてを私の方へ投げてよこした。

 その白いものは、よく見ると諸戸ではなくて、懐かしい双生児の秀ちゃんの顔らしかったが、それが、闇の中でもなんとなく悲しげに打ち沈んでいるのが察しられた。秀ちゃんはすでに諸戸から委細のことを聞き知ったのであろうか。

 紙つぶてをひろげて見ると、うす闇の中でも読めるように大きな字の鉛筆書きで、簡単にこんなことをしるしてあった。いうまでもなく諸戸の筆跡である。

「いまは何も考えられぬ。あすもう一度きてください」

 それを読んで、私は暗然とした。諸戸は彼の父親ののっぴきならぬ罪状を聞かされて、どんなにか驚き悲しんだことであろう。私と顔を合わせることさえ避けて、秀ちゃんに紙つぶてを投げさせたのを見ても、彼の気持がわかるのだ。

 私は、土蔵の窓からじっと、私の方を見つめているらしいボンヤリと白い秀ちゃんの顔に、うなずいて見せて、夕闇の中をトボトボ徳さんの小屋に帰った。そしてともし火もつけず、けもののようにゴロリと横になったまま、何を考えるともなく考えつづけていた。

 翌日の夕方、土蔵の下へ行って合図をすると、今度は諸戸の顔が現われて、左のような文句をしたためた紙切れを、ヒョイと投げてよこした。

 

 こんなになった私を見捨てないで、いろいろ苦労をしてくれたのは、感謝の言葉もない。ほんとうのことをいうと、僕は君がこの島を去ったものと思って、どんなにか失望していただろう。僕は君と離れては、淋しくて生きていられないことが、しみじみわかった。丈五郎の悪事もはっきりした。僕はもう親子というようなことを考えないことにしよう。父は憎いばかりだ。愛情なんて少しも感じない。かえって他人の君にはげしい執着をおぼえる。君の助けを借りてこの土蔵を抜け出そう。そして、可哀そうな人たちを救わねばならぬ。初代さんの財産を発見せねばならぬ。それはつまり君を富ませることだからね。土蔵を抜け出すについては僕に考えがある。少し時期を待たねばならぬ。その計画については、おいおいに知らせることにしよう。毎日人目のないおりを見計らって、できるだけたびたび土蔵の下へきてください。昼間でもここへはめったに人もこないから大丈夫です。

 

 諸戸は一度ぐらついた決心をひるがえして、親子の義理を断ったのである。だが、その裏には、私に対する不倫な愛情が、重大な動機になっていることを思うと、私は非常に変てこな気持になった。諸戸の不思議な熱情は、私には到底理解ができなかった。むしろ怖いようにさえ思われた。

 それから五日のあいだ、私たちはこの不自由な逢瀬(おうせ)をつづけた(逢瀬とは変な言葉だが、そのあいだの諸戸の態度は、なんとなくこの言葉にふさわしかった)。その五日間の私の心持なり行動なりを、詳しく思い出せば、ずいぶん書くこともあるけれど、全体のお話には大して関係のないことだから、すべて略することにして、要点だけをつまんでみると、あの謎のような出来事を発見したのは、三日目の早朝、諸戸と紙つぶての文通をするために、私が何気なく土蔵に近づいたときであった。

 まだ朝日の昇らぬ前で、薄暗くもあったし、それに島全体を朝もやが覆っていて、遠目が利かなかったせいもあるが、何よりも、それがあまり意外な場所であったために、私は例の塀そとの岩の五、六間手前まで、まるで気づかないでいたが、ふと見ると、土蔵の屋根の上に、黒い人影がモゴモゴとうごめいているではないか。

[やぶちゃん注:「五、六間」九メートル強から十一メートル弱。]

 ハッとして、やにわにあと戻りをして、土塀の角に身を隠して、よく見ると、屋根の上の人物というのは、はかならぬ佝僂の丈五郎であることがわかった。顔を見ずとも、からだ全体の輪廓でたちまちそれとわかるのだ。

 私はそれを見ると、諸戸道雄の身の上を気遣わないではいられなかった。この片輪の怪物が姿を見せるところ、必らず凶事が伴なった。初代が殺される前に怪老人を見た。友之助が殺された晩には、私はその醜い後姿を目撃した。そしてついこのあいだは、彼が断崖の上で鶴嘴を揮うと見るや、徳さん親子が魔の淵の藻屑と消えたではないか。

 だが、まさか息子を殺すことはあるまい。殺し得ないからこそ、土蔵に幽閉するような手ぬるい手段をとったのではないか。

 いやいや、そうではない、道雄のほうでさえ親に敵対しようとしているのだ。それをあの怪物がわが子の命を奪うくらい、なにを躊躇するものか。道雄があくまで敵対すると見きわめがついたものだから、いよいよ彼をなきものにしようと企らんでいるにちがいない。

 私が塀の蔭に身を隠して、やきもきとそんなことを考えているあいだに、怪物丈五郎は、少しずつ薄らいで行く朝もやの中に、だんだんその醜怪な姿をハッキリさせながら、屋根の棟の一方の端に跨(また)がって、頻(しき)りと何かやっていた。

 ああ、わかった。鬼瓦(おにがわら)をはずそうとしているのだ。

 そこには、土蔵の大きさにふさわしい、立派な鬼瓦が、屋根の両端に、いかめしくすえてあった。東京あたりではちょっと見られぬような、古風な珍らしい型だ。

 あの鬼瓦をはがせば、屋根板一枚の下は、すぐ諸戸道雄の幽閉された部屋である。危ない危ない、頭の上で恐ろしい企らみが行われているとも知らず、諸戸はあの下でまだ眠っているかもしれない。といって、あの怪物のいる前で、口笛を吹いて合図をすることもできず、私はイライラするばかりで、なにをすることもできないのである。

 やがて、丈五郎はその鬼瓦をすっかりはずして、小脇にかかえた。二尺以上もある大瓦なので、片輪者には抱えるのもやっとのことである。

 さて、次には鬼瓦の下の屋根板をめくって、道雄と双生児の真上から丈五郎の醜い顔がヒョイと覗いて、ニヤニヤ笑いながら、いよいよ残虐な殺人にとりかかる。

 私はそんなまぼろしを描いて、腋の下に冷汗を流しながら、立ちすくんでいたのだが、意外なことには、丈五郎は、その鬼瓦を抱えたまま、屋根の向こうがわへおりて行ってしまった。邪魔な鬼瓦をどこかに運んでおいて、身軽になって元のところへ戻ってくるのかと、いつまで待っていても、そんな様子はないのである。

 私はおずおずと塀の蔭から例の岩のところまで進んで、そこに身を隠して、なおも様子をうかがっていたが、そのうちに朝もやはすっかり晴れ渡り、岩山の頂上から大きな太陽が覗き、土蔵の壁を赤々と照らすころになっても、丈五郎はついに姿を見せなかったのである。

 

老媼茶話巻之四 幷、主水行末 /老媼茶話巻之四~了

 

   幷、主水行末

 

 寛永四年五月四日、加藤左馬助嘉明(ヨシアキラ)、及(および)、式部少輔明成、豫州松山より若松の城に入(いり)玉ふ。義明、同八年九月二日、武州にて逝去ましまし、死骸を火葬にしてたゞちに棺槨(くわんくわく)を作り、會陽城の西住吉大明神の前應胡(ヲウコ)河原にて荼毘(ダビ)し、松光院殿前拾遺釋道譽大居士と號しける。子息明成の代になり、國の政道、亂大(おほいにみだれ)、欲(ヨク)無道の仕置、多かりける。

 明成の臣、堀主水正(ほりもんどのしやう)、代々、家老職なり。しばしば明成の非道を諫(イサメ)、爭(アラソイ)を以て主君明成と不和なり。明成、主水正をにくみ給ふ事、深く、亡父義明より主水にゆるし給(たまふ)所の采配(サイハイ)を取返し玉ふ。

 此主水、拾六の時、大坂冬陣の戰(いくさ)に眞先(まつさき)に進み、能(よく)敵と懸合(かけあひ)、馬上より堀の中へ組(くみ)て落(おち)、終(つゐ)に敵の首を取り高名を顯はす故、夫(それ)より多賀井を改(あらため)、堀を以(もつて)、家號とす。大剛のもの也。依之(これによつて)、義明、采配をゆるし給へり。

 然るに、明成の代に取返し給(たまふ)間、主水正、是を大きにうらみ、いきどをり、同十六年四月十六日、護法山示現寺へ湯治(たうぢ)のよしを申立(まうしたて)、町々より、驛馬(えきば)を多(おほく)集め、主水正、幷(ならびに)、兄眞鍋小兵衞・多賀井又八、兄弟三人・家臣八人、各(おのおの)妻子從(シウ)類三百餘人、若松を出奔して中野街(カイ)道にて若松の御城に向ひ、一面に鐵砲を打放(うちはなつ)。辰の刻、闇川橋(くはがはばし)にいたり、柴を積上げ、火を懸(かけ)、橋板を燒落(やきおと)し、あしの原の關所、押破(おしやぶ)り、二股山に至り、持來る所の鑓(やり)・長刀(なぎなた)を捨(すて)、相州鎌倉に蟄(チツ)居しけるが、

「此處へも式部殿より討手(うつて)向ふ。」

と聞(きき)て、妻子をば、鎌倉の尼寺へ賴置(たのみおき)、夫(それ)より、紀州高野山趣(おもむき)、引籠(ひきこも)り隱れ居たり。

 式部殿、彌(いよいよ)、腹にすへかね、

「會津四拾萬石にも替(かへ)て唯(ただ)置(おく)まじ。」

とて、彼(かの)山の文殊院へ手を入(いれ)、文殊院の應昌(わうしやう)へ、さまざまの音物(いんもつ)をなし玉ふ故(ゆゑ)、文殊院、賄賂(マイナイ)にふけり、とかくにかこつけ、主水兄弟を追出(おひいだ)す。

 主水、是非なく、高野山より、和歌山の御城下にしのびけるが、

「又此所へも會津より討手向(むかふ)。」

と聞て、

「いづくへか、身を隱さん。」

と、兄弟、打寄(うちより)、相談しけるが、三界(さんがい)廣しといへども、暫くも彳(たたず)む方(かた)なかりければ、兄弟三人、江戸へ趣き、松平伊豆守殿へ、式部殿不儀不道とも共、壱ケ條、書立(かきた)て、目安(めやす)を差上(さしあげ)ける。

 其内に、大坂へ内通の次第、事細(ことこま)やかに申上(まうしあげ)けるまゝ、上聞に達し、式部少輔明成、在國たりけるを、江戸へ御召被成(おめしなされ)、御詮義の上にて、式部殿申分(まうしぶん)、立(たち)て、主水正兄弟三人、式部殿被下(くだされ)ける。

 是は、

「會津四拾萬石にかへても主水兄弟三人被下度(くだされたき)。」

よし、御家中迄、強訴(がうそ)なし給ける故也。

 式部殿、主水兄弟を被下ける間、大きに悦び是を請取(うけとり)、芝增上寺の表門通り海邊の下屋敷(しもやしき)引取(ひきとり)、主水兄弟、高手小手(たかてこて)にくゝし上(うへ)、乘物に乘(のせ)、つるし置(おき)、當番の侍共にいひ付(つけ)、乘物を突動(つきうご)かし、

「いかに主水、主に背(そむ)きし天罸、早くも報(むくひ)けるかな。何と、只今、後悔にては、なきか。」

と、樣々に言(いは)せ玉へり。

 其後、美酒・美食をあたへ給ふ。

 主水は禁搦(キンダク)せられし日より、湯水・食事をたつ。

 兄小兵衞・弟又八郎は食事をなしける故、乘物の内にて糞尿(フンシウ)にまみれ、見ぐるしかりける。

 かくて、寛永十八年三月廿一日、主水兄弟三人、兄眞鍋小兵衞・弟多賀井又八郎、兩人切腹、主水は芝の下屋敷の庭にて、しばり首をきらせらるゝ。

 御庭の露路口(ろぢぐち)迄は、繩取足輕(なはどりあしがる)なり。御庭へ引入(ひきい)れては貝塚金七と云(いふ)徒士(かち)、繩を取(とり)、既に主水を御庭に引(ひき)すへて、式部殿御出(おいで)を待居(まちゐ)たり。

 主水、繩取の貝塚を返り見、申けるは、

「其方と我、同家中に有(あり)といへども、祿位(ろくゐ)、其(その)品(しな)有(ある)を以(もつて)道に交(まぢは)る事なしといへども、最後に賴度(たのみたき)事、あり。其方も知る通り、我(われ)いましめを得てより、晝夜、乘物の内に有(あり)、眠(ネム)事、あたはず。今更、眠(ねむり)を催し、よん所なし。少(すこし)の内、其方が膝(ヒザ)を枕に、かし候へ。」

といふ。

 貝塚、聞て、

「安き事にて候。御休候へ。最後の節、おこし可申(まうすべし)。」

と、いふ。

 主水、

「過分也。」

と云て、縛(シバ)られながら、橫に伏貝塚がひざを枕になし、足、踏出(ふみいだ)し、高鼾(たかイビキ)をかき、心よく眠りける。

 式部少殿、朝御膳上られ、切手(きりて)は堀河喜兵衞と云もの也。主水がきらるゝを直(ぢき)に御覽被成(ごらんなさる)べきとのよし、被仰(おほせられ)けるを、磯山數之助と申(まうす)兒小姓(ちごこしやう)、是を諫(いさめ)、障子の紙を破り、ひそかに御覽被成(なされ)ける。

 貝塚、

「最後、只今なり。」

と主水をおこしけれは、主水、起直り、高高(たかだか)とあくびをなし、貝塚に申樣(まうすやう)、

「其方影(そのはうかげ)を以(もつて)、一睡、心よくせし段、滿足也。其上、氣味よき夢をみたり。所は此所の樣に覺(おぼえ)たり。鬢(ビン)を櫛形成(くしがたなり)にそりて、やせ面(づら)に、すが目なる男、さがり藤の紋所附(つけ)たる淺黃(あさぎ)の上下(かみしも)を着て、我(わが)前に膝まづき、我(わが)ひりたるくそを、うまそふに、三盃、喰(くら)ふ、と見たり。夢心に、扨(さて)もよく、容儀の式部少輔に似たる事哉(かな)とおもひて、心よかりし也。」

と、高々と打(うち)はらひ、首、差(さし)のべて、切らるゝ。

 吉兵衞、拔打(ぬきうち)に、首、打落(うちおと)す、と、ひとしく、いづくより來(きた)るともなく、老狐、飛來(とびきた)り、主水が首をくわへ、御庭の築山(つきやま)の後(うしろ)の狐穴へ引入れしが、いかに尋ぬれど、首、見へぬ、と、いへり。

「むかし、會津に有りし時、常に狐をかりて慰(なぐさみ)とせし、其故にや、あるらん。」

と、さたせしとかや。

 式部殿、是(これ)にてもあきたらずや思はれけん、相州鎌倉の尼寺へ、數百人の討手(うつて)を遺し、尼寺押入(おしいり)、主水正兄弟三人が妻子を搦(からめ)とらせ、悉(ことごと)く、首を刎(はね)玉へり。

 此鎌倉の尼寺へ、いか成(なる)罪ある者にても、一度、入(いり)ては、たとひ、天下の御とがめ有(ある)とても、御ゆるし有(ある)處也。然るに、式部少輔、是を御用(おんもち)ひなく殺害(せつがい)なさるゝ事、大きなる落度なり。

 同二十年五月二日、式部少輔殿、願(ねがひ)の通(とほり)、會津四拾萬石被召上(めしあげられ)、嫡子内藏助明友に石州安濃郡の内(うち)、弐拾壱村、高壱萬石被下(くだされ)候。其節、被仰付(おほせつけられ)候條々、

[やぶちゃん注:以下は、ここでは底本にある訓点を除去した形で示した。前後を一行空けた。それが、下知状をよく再現するものと判断したからである。訓点に従った訓読文は注で示すことにした。]

 

 一 於分國新關を立る事無其謂事

 一 家來切支丹雖多有之不穿鑿令用捨事

 一 諸侍召仕樣爲壱人不足不爲者無之事

 一 對公儀不忠之事

 一 堀主水正數年進諫言處、不承引、剩依

   罪科行鎌倉御所立退令蟄居處彼從類

   令死罪それのみならす鎌倉討手を差

   出し理不盡令戒補右大將以來無其例事

 一 越後銀山出來候處號分國無故出入之事

 右の惡逆壱として咎因不遁改易被仰付爲

 堪忍分於石州壱萬石被遣者也

  寛永二十年癸未五月二日

 

 會津には未(いまだ)、此事、知れざりしかば、端午の祝義、諸士、相務(あひつとめ)けるに、早曉(さうぎやう)より、大霧(たいむ)、深くおりて、しせきの内も見へわかず。諸人、大きにあやしみ思ふ處に、五日の午(うま)の下刻、江戸より明成の使節として不破源太郎・伴伊左衞門、晝夜のわかちなく急ぎ走下(はしりくだ)り、右の趣(おもむき)、家老の面々へ申聞(まうしきか)せける間、同六日早朝、畑三郎兵衞宅へ、諸士、不殘(のこらず)めし集(あつめ)、明成致仕(ちし)之事を告(つげ)、藏をひらき、白銀を取出(とりいだ)し、身上しんじやう)相應・知行高(ちぎやうだか)に隨ひ、悉く、割渡(わりわた)し、面々に、ほどこしける。是、式部少輔殿、下知し給ひしによつてなり。

 同六日、明成、武州を立(たち)、石州に趣(おもむき)て、剃髮し、名を休意と號し、寛文元年辛丑正月廿一日、行年七拾歳にて卒去

  戒名  圓通院殿と號しける。

[やぶちゃん注:以下、五行は、前後を一行空けた。]

 

堀主水正戒名          一譽積秀

眞鍋小兵衞

  祿千五百石 切腹 主水兄也 相譽離憶

多賀井又八郎

  祿弐千五百石 主水弟 切腹 釼譽舟秀

 

堀主水菩提所、半兵衞(はんびやうゑ)町、極樂寺のよし。

 

 

老媼茶話四終

 

[やぶちゃん注:前章の主人公堀主水の実録風の後日談。しかし怪奇談の押さえは、しっかり決まっていて、すこぶるよい。標題は「幷(ならびに)、主水(もんど)、行末(ゆくすゑ)」と読む。

「寛永四年五月四日」グレゴリオ暦一六二七年六月十七日。三代将軍家光の治世。

「加藤左馬助嘉明」既出既注。前章「堀主水、女の惡靈に逢ふ」の私の注及びそのリンク先の私の旧注を参照のこと。

「式部少輔明成」同前。

「豫州松山より若松の城に入(いり)玉ふ」寛永四年、会津の蒲生忠郷の死後、嗣子不在であっために蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、その入れ替わりとして嘉明が伊予松山藩から会津藩へ移封された。この時、四十三万五千五百石に加増されている。

「義明、同八年九月二日、武州にて逝去」誤り。彼の逝去は寛永八年九月十二日(一六三一年十月七日)である(但し、この時代、死亡日は公にされず、後になって後ろにずらして報知された傾向があるから、三坂の時代にはこの日とされていた可能性は排除出来ないかも知れぬ)。因みに、江戸の会津藩の桜田第に於ける病死であった。享年六十九であった。

「棺槨(くわんくわく)」遺体を納める箱。柩(ひつぎ)。

「會陽城の西住吉大明神の前應胡(ヲウコ)河原にて荼毘(ダビ)し」まず「會陽城」、次の「西住吉大明神」、「應胡(ヲウコ)河原」の総ての意味・社名・地名が不詳である。ウィキの「加藤嘉明」によれば、東京都港区元麻布一丁目に現存する浄土真宗麻布山(あざぶさん)善福寺(天長元(八二四)年に空海によって開山されたと伝え、当初は真言宗であったが、鎌倉時代、越後国に配流になっていた親鸞が赦免後に当寺を訪れた際、浄土真宗に改宗したとされ、その後、歴代天皇や幕府などの保護を受けて発展したという。ここ(グーグル・マップ・データ))で『荼毘に付され、後に遺骨は東本願寺大谷祖廟に葬られた』とあるが、現在のこの附近に当該ランドマークは見当たらない。識者の御教授を乞う。

「松光院殿前拾遺釋道譽大居士と號しける」前記ウィキによれば、松苑院殿拾遺釋道譽大禪定門。但し、この法名、本書が執筆(寛保二(一七四二)年序)される百年近く前の正保四(一六四七)年に東本願寺法主琢如によって「三明院道譽宣興」と改名されている、とある。

「欲(ヨク)無道の仕置」愚君明成の「欲」に満ちた「無道」非道の咎め立てや処罰。

多かりける。ウィキの「会津騒動」によれば、『嘉明の死後、家督は長男の明成が継いだが、明成は』「古今武家盛衰記」に於いて、『「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」、また飯田忠彦の』「大日本野史」には、『「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩殿といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」と伝えられる』とある。『堀主水は嘉明時代の功臣で、本姓は「多賀井」であるが』、ここで語られる通り、『大坂の役では敵と組みあい、堀に落ちても相手の首を取ったということから「堀」と名乗ることを嘉明に許されていた』(下線やぶちゃん。この「堀」姓の由来は面白い)。『先代からの実績もあり、戦国時代の気骨があった堀は』、『明成の素行に対して何度も諫言したが、堀と明成は次第に不仲になっていく』。そのような折も折り、『堀の家臣と明成の家臣が喧嘩をするという事件が起こ』り、『一方は筆頭家老の家来、一方は藩主の直臣であったことから奉行の権限で裁けることではなく、明成による裁断が仰がれた。すると』、『明成は堀の家来に非があるとして処罰し、さらに堀も連座として蟄居を命じた。この処置に怒った堀は、蟄居を破って明成のもとに現』われ、『再度の裁断と処罰の無効を訴えた。これに対して明成は怒り』、『家老職を罷免』してしまう。寛永一六(一六三九)年四月十六日、『堀は実弟の多賀井又八郎ら一族郎党を率いて、白昼堂々と若松城から立ち去った。しかもこの』際、『若松城に向かって鉄砲を撃ち、関所を押し破るという暴挙にも出ている。堀は鎌倉に立ち寄ったあと』、『高野山に逃れた。高野山は堀主水を匿いきれず、主水は紀州藩を頼るが、明成は紀州藩にも引き渡しを要求する。堀主水は紀州にも居られなくなり、江戸へ出て幕府へ「おのれつみなきよしを申す」が、 家臣でありながら関所を破り、城に鉄砲を撃ちかけたことは「家臣の礼を失ひ』、『国家の法をみだる。罪ゆるさるべからず」と』して、『明成に引き渡され、明成によって弟二人と共に処刑された』。四年後の寛永二〇(一六四三)年四月、『明成は「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」と幕府に申し出』、翌月、『幕府は加藤氏の改易・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤なども考慮して、明成に』一『万石を新たに与えて家名再興を許した。しかし』、これに『明成が応じなかったため、幕府は明成の子・明友に石見吉永藩』一『万石を新たに与え』、『家名を再興させ』ている。「徳川実紀」が伝えるのは、『以上のような経緯である』が、「徳川実紀」の巻五十三の寛永二十年五月二日の条には『改易の事実を記したあとで「世に伝うる処は」と経緯を記し、そこに堀主水の一件があるので、この経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではなく、同時代の確実な史料はない』。『明成は明友の庇護のもとで藩政に口出しせずに余生を送り』、万治四(一六六一)年一月に享年七十で死去している。

「采配」嘉明は軍兵を動かす権限を主水に与えていたから、軍師としたいところであるが、ここは太平の世であるから、彼の家老職のことを指している。

「主水、拾六の時」私の調べた限りでは、彼の生年は天正一二(一五八四)年で、大坂冬の陣(慶長一九(一六一四)年)だと、満二十歳、数え二十一となるが、まあ、こうした手柄話では年齢が若く詐称されるから、よかろう。

「多賀井」前章で注したが、多賀井氏は和泉淡輪の土豪で織田信長に従い、紀伊の根来雑賀衆と戦うなどしている。

「いきどをり」「憤(いきどほ)り」。歴史的仮名遣は誤り。

「同十六年四月十六日」グレゴリオ暦一六三九年五月十八日。

「護法山示現寺」底本本文は「慈現寺」であるが、編者によって右に『示』の添え訂正が成されてあるため、それを採用した(旧寺名との混同があったようである。後述)現在の福島県喜多方市熱塩(あつしお)加納町熱塩甲(こう)にある曹洞宗護法山示現寺(じげんじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。元真言宗で五峯山眼寺と称し、空海開基の伝承がある。永和元(一三七五)年に殺生石で知られる源翁心昭が護法山示現寺として再興した。熱塩温泉の湯元がある。

「兄眞鍋小兵衞」不詳。

「中野街(カイ)道」不詳。鶴ヶ城の南西に現在、門田町大字中野の地名ならば、現認出来る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「辰の刻」午前八時前後。

「闇川橋(くらがはばし)」底本は編者が『くわがわばし』とルビするが従わない。私はこの中央付近ではないかと推測した。この中央附近に架かっている会津鉄道の橋梁の名が「闇川橋梁」という名称だからである。因みに、本話当時、この「若郷湖」という湖(ダム湖)は存在しない。

「あしの原の關所」現在の栃木県那須町芦野附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「二股山」栃木県鹿沼市下沢二股山(ふたまたやま)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高五百七十メートル。

「鎌倉の尼寺」後の叙述から確実に「駆け込み寺」で知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗松岡山東慶寺であることが判る

「會津四拾萬石にも替(かへ)て唯(ただ)置(おく)まじ」と本当に明成が言っんかいなあ? だとしたら、まっこと、救い難い愚君だわ。

「文殊院」「應昌」(天正九(一五八一)年~正保元(一六四五)年)は紀伊那賀郡出身の真言僧で、高野山文殊院の勢誉に教えを受けたと、サイト「大阪の陣絵巻」のこちらにある人物であろう。慶長一一(一六〇六)年に『駿府に行き、徳川家康・秀忠に会』っている。『駿府に住んで』、『秀忠の命令で本多正信の猶子(相続を目的としないで、仮に結ぶ親子関係の子)となったが』、慶長一八(一六一三)年に『勢誉が亡くなったため』、『高野山に戻』っている。『大坂冬の陣が起こると』、『奈良や吉野の僧侶を鎮め』、寛永七(一六三〇)年に『高野山の伽藍諸堂が焼失すると』、『幕府に援助を願い出』ているとあるから、相当なパイプを持った人物ではあるようだ。

「音物(いんもつ)」「引物」とも書く。贈物。進物。「賄賂(わいろ)」にも言う。ここは、それ。

「和歌山の御城下」当時は和歌山徳川家始祖である徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年:徳川家康十男)が藩主。

「松平伊豆守殿」当時、老中首座であった松平信綱(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)。

「目安(めやす)」訴状。

「大坂へ内通の次第」私には意味不詳。識者の御教授を乞うものである。因みに明成の長男加藤明友(但し、側室の子)は大阪で生まれているが、何か、関係があるか?

「會津四拾萬石にかへても主水兄弟三人被下度(くだされたき)」「よし、御家中迄、強訴(がうそ)なし給ける」こりゃ、愚君だけでなく、藩の連中もこれ、救い難い馬鹿どもだわ。

「高手小手(たかてこて)」両手を後ろに回させて、首から繩を懸け、二の腕から手首まで厳重に縛り上げることを指す。

「くゝし」「括(くく)りし」の脱字か。

「禁搦(キンダク)」底本ルビは「キンタク」。「搦」の音は呉音が「ニヤク(ニャク)」・漢音が「ダク」であるので濁音化した。このような熟語は私は初見であるが、意味は「搦(から)め捕って閉じ込める」の意であることは判る。

「弟又八郎」先の「会津騒動」の引用に実弟多賀井又八郎と出る。詳細事蹟は不詳。

「糞尿(フンシウ)」ルビは原典のママ。呉音 なら「ネウ(ニョウ)」、漢音なら「デウ(ジョウ)」であるから、漢音のそれを誤って表記したものであろう。

「寛永十八年三月廿一日」グレゴリオ暦一六四一年四月三十日。

「貝塚金七」不詳。

「徒士(かち)」藩士の下級武士。先に連行担当であった足軽は士分格ではないから、極めて恥辱極まりない。

「堀河喜兵衞」不詳。

「磯山數之助」不詳。

「兒小姓(ちごこしやう)」貴人の傍近く仕えて雑用をする元服前の小姓。多く同性愛の対象となった。

「其方影(そのはうかげ)を以(もつて)」その方の御蔭を以って。

「鬢(ビン)を櫛形成(くしがたなり)にそりて」両サイドの鬢(びん)の毛を極端に剃り梳いて櫛の歯の形のようにして。

「やせ面(づら)」「瘦せ面」。

「すが目」加藤明成は片方の目が細いか、斜視であったのであろう。

「さがり藤の紋所」「下り藤」は加藤嘉明系の紋所。これ(ウィキの「加藤氏」の同紋の画像。下に解説も出る)。

「くそ」「糞」。

「うまそふ」「美味さう」。

「三盃、喰(くら)ふ」私なら、ここまでヤラセるなら、明成が朝御膳をおかわりして「三杯」食したと、前に記すね。

「相州鎌倉の尼寺へ、數百人の討手(うつて)を遺し、尼寺押入(おしいり)、主水正兄弟三人が妻子を搦(からめ)とらせ、悉(ことごと)く、首を刎(はね)玉へり」以下で「此鎌倉の尼寺へ、いか成(なる)罪ある者にても、一度、入(いり)ては、たとひ、天下の御とがめ有(ある)とても、御ゆるし有(ある)處也」とあるのは東慶寺以外にはない駆寺法(縁切寺法)による強力な治外法権なのである。東慶寺がこのような驚くべき寺法を持てたのは、大坂落城の翌年の元和二(一六一六)年に豊臣秀頼の娘天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入いり、後に二十世住持となったことに拠る。この天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄寺であり、住持任命も幕府が行った、極めて特殊な尼寺であったのである(因みに現在は尼寺ではない)。但し、大きな問題は、ここで三坂が「相州鎌倉の尼寺へ、數百人の討手(うつて)を遺し、尼寺」へ「押入(おしいり)、主水正兄弟三人が妻子を搦(からめ)とらせ、悉(ことごと)く、首を刎(はね)玉へり」とし、駄目押しで「式部少輔、是を御用(おんもち)ひなく殺害(せつがい)なさるゝ事、大きなる落度なり」と、大量の虐殺を既遂事件のように記している点である。堀主水の妻は確かにこの時、東慶寺に駆込んでおり、且つ、加藤明成が執拗にその引き渡しを求めたのに対し、天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴え、その助命を嘆願、それが実現しており、堀主水の妻は事件から三十数年も後の延宝七(一六七九)年十月十九日に亡くなったことが、ごく近年になって明らかになっているのである。そもそもが、明成が事実、東慶寺に乱入して対象者らを略奪した上、かくなるジェノサイド行っていたら、文句なしに則罪にお家断絶となて藩も取り潰しである。三坂の筆、あまりに滑り過ぎである。

東慶寺に堀主水の妻が駆け込んだこと、明成が東慶寺へ向けて実際に捕り手の兵を遣って妻を捕縛しようとしたこと、その寺法を犯さんとする暴挙に対して天秀尼が千姫に嘆願して事なきを得たこと、彼女がその後、会津に戻って永く生きたことは、サイト「鎌倉探索」の「東慶寺天秀尼」の会津騒動、ウィキの「東慶寺」の「会津四十万石改易事件」、或いはウィキの「天秀尼」の方の「会津四十万石改易事件」に明らかである。最後のそれには前にも別から引いたが、事件の記述は「大猷院殿御実紀」の巻五十三の寛永二〇(一六四三)年五月二日の条に『改易の事実を記したあとで、「世に伝うる処は」と経緯を記している。従ってその経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではない。また、その「世に伝うる処」の内容は作者不明の』「古今武家盛衰記」なる書の記述に酷似しており、しかも、その両方ともに「東慶寺」の寺名も住持「天秀尼」の名も出てこない(但し、注釈によると、「古今武家盛衰記」の方には「相州鎌倉へ赴く」及び「鎌倉を立ち退き、紀州高野山へ登り忍び居す」とはあるというから、三坂の叙述は或いはこの怪しげな「古今武家盛衰記」そのものではなくても、同一の原ソースに基づくものである可能性が強く感じられる)。『天秀尼と事件の関係を記した史料は』正徳六(一七一六)年『に刊行された』「武將感狀記」『という逸話集と』(これは三坂が読んだ可能性は高い)、文化五(一八〇八)年『に水戸藩の史館で編纂された』「松岡東慶寺考」で、「武將感狀記」『巻之十の「加藤左馬助深慮の事/付多賀主水が野心に依て明成の所領を召上げらるる事」にこうある』。

   *

[やぶちゃん注:引用元引用開始。但し、私が恣意的に漢字を正字化し、一部の仮名遣いを歴史的仮名遣に訂した。]その身は高野に入り、妻子は鎌倉の比丘尼所に遣はしぬ。[やぶちゃん注:引用元でここで中略されているようである。]鎌倉に逃れたる主水が妻子を、明成人を遣はして之を縛りて引きよせんとす。比丘尼の住持大いに怒りて、賴朝より以來此の寺に來る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不盡の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退轉せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へて事の勢解くべからざるに至る。此に於て明成迫つて領地會津四十餘萬石差上げ、衣食の料一萬石を賜りて石見の山田に蟄居せらるる[やぶちゃん注:引用元の引用終了]

   *

『「天樹院殿」(千姫)が出てくるので』、『「比丘尼所」(尼寺)とは東慶寺のこと。「比丘尼の住持」とは天秀尼のこと、「天寿院」ではないので千姫没後に書かれたものと判る。もうひとつの「松岡東慶寺考」には』、

   *

[やぶちゃん注:引用元引用開始。但し、私が恣意的に漢字を正字化し、一部の仮名遣いを歴史的仮名遣に訂した。]住持大いに怒り古來よりこの寺に來る者いかなる罪人も出すことなし。しかるを理不盡の族無道至極せり。明成を滅却せしむるか、此の寺を退轉せしむるか、二つに一つぞ[やぶちゃん注:引用元の引用終了]

   *

とあって、「賴朝より以來」は「古來」となっているものの、それ以外は上記「武将感状記」の『下線部分とまったく同じである』[やぶちゃん注:下線も再現した。]「武將感狀記」は『「成田治左衛門亡妻と契る事」などと』「雨月物語」紛いの『話まで載せている逸話集であり、そのまま事実とみなす訳にはいかないが』(これは寧ろまさに本「老媼茶話」の作者三坂好みではないか!)、『当時、将軍家所縁の鎌倉の尼寺が加藤明成の引き渡し要求に応じなかったことが広く知られていたということは解る。堀主水の妻は確かに東慶寺の天秀尼に命を助けられていたことが近年判明した。その妻の墓が会津にあり、かつその妻が事件後に身を寄せていた実家の古文書の跋文に経緯が書かれていた』。

   *

[やぶちゃん注:引用元引用開始。但し、私が恣意的に漢字を正字化し、一部の仮名遣いを歴史的仮名遣に訂し、一部に読み・濁点を附した。丸括弧は引用元或いはウィキ筆者の添え注。](天秀尼は堀主水妻を)忝くも戒弟子となされ、剰(あまつさ)へ寶光院觀譽樹林尼と法名を給はり、命を與へ給ふ事強く頻(しきり)なり。されば明成殿も御威光置きがたく宥(ゆる)して、先祖黑川喜三郎貞得(主水妻の兄)に扶助すべしと給はりたるより[やぶちゃん注:以下、引用元で下略。]

   *

『つまり』、『明成が折れて、堀主水の妻は会津加藤家改易より前に会津の実家へ帰ったと』いうこと、しかも、『それも「明成殿」から』「給はりたる」ことであったと記すのである。『つまり』、『堀主水妻の身柄は明成の元にあったということになる。これが事実とすれば』。「武將感狀記」に『記された結末は短絡しすぎで』あって『不正確であり、「事の勢解くべからざるに至る」ではなく「解けた」ことになる。両方をつなげて整合性を取るなら、会津藩の武士が東慶寺から堀主水の妻達を寺側の制止を振り切って強引に連れ去ったが、天秀尼の猛烈な抗議に折れて』、となって、以下で』、『跋文の通りとなる。両方とも後世の文書であるので正確性には欠けるが、いずれにせよ』、『堀主水の妻は東慶寺に駆け込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えて、その助命を実現したことだけは判る』(ここでウィキの筆者は主水の妻の捕縛自体を既遂としているが、私は留保したい。天秀尼が助命嘆願しているうちに殺害される可能性が遙かに高いからである)。

「同二十年」一六四三年。

「五月二日」所領返上の願い出は前月四月。

「嫡子内藏助明友」加藤明友(元和七(一六二一)年~天和三(一六八四)年)は明成の長男。大坂生まれ。ウィキの「加藤明友」によれば、『正室の子供でなかったため、父の命令で京都の山田氏に預けられて養育された。しかし正室との間に男児が恵まれなかったため』、寛永一一(一六三四)年に『江戸に戻されて世子に指名された』。しかし、寛永二〇(一六四三)年、会津騒動の余波と父自身の領知返上願いによって、『明成は改易され、会津領も没収された。その後、祖父・嘉明の功績を江戸幕府より評価されて明友に』一『万石が与えられ』、『石見吉永藩』(石見国安濃郡吉永(現在の島根県大田市))『を立藩した』。天和二(一六八二)年には、『祖父と自らが奏者番として立てた功績を評価され』、一『万石を加増の上』、『近江水口』(近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市))『に移封され』ている。逝去後は『長男の明英が継い』でいる。マニアックな狂父のために流浪者とならなかったのは幸いであった。

「一 於分國新關を立る事無其謂事

 一 家來切支丹雖多有之不穿鑿令用捨事

 一 諸侍召仕樣爲壱人不足不爲者無之事

 一 對公儀不忠之事

 一 堀主水正數年進諫言處、不承引、剩依

   罪科行鎌倉御所立退令蟄居處彼從類

   令死罪それのみならす鎌倉討手を差

   出し理不盡令戒補右大將以來無其例事

 一 越後銀山出來候處號分國無故出入之事

 右の惡逆壱として咎因不遁改易被仰付爲

 堪忍分於石州壱萬石被遣者也

  寛永二十年癸未五月二日」以下に底本の読みを参考に書き下す。一部に送り仮名を追加した。今まで通り、カタカナは原典の読み。ここに限っては原典ルビの濁音化処理をしなかった。五条目の「江」は「へ」に、「補」は「捕」に読み換えた。

   *

一 分國に於いて新關を立つる事、其の謂(イハレ)無き事。

一 家來[やぶちゃん注:原典は「家賴」。編者注で訂した。]、切支丹、多く之れありと雖(イヘトモ)、不穿鑿(ふせんさく)、用捨せしむる事。

一 諸侍(しよし)、召し仕ふ樣(やう)、壱人として不足爲(せ)ざる者、之れ無き事。

一 公儀に對して不忠の事。

一 堀主水正、數年(すねん)、諫言を進むる處、承引せず、剩(アマツサ)へ、罪科、行ふに依り、鎌倉御所に立ち退(の)き、蟄居せしむる處、彼の從類、死罪せしめ、それのみならず、鎌倉へ討手(うつて)を差し出(いだ)し理不盡に戒捕(かいほ)せしめ、右大將以來、其の例(ためし)、無き事。

一 越後、銀山、出で來き候ふ處、分國と號(なづ)け、故(ゆゑ)無く出入りの事。

右の惡逆、壱ツとして、咎(とが)、遁(のが)れざるに因つて、改易仰せ付けられ、堪忍分(かんにんぶん)と爲(し)て、石州にて、壱萬石遣はさるる者なり。

   *

以上は加藤明成の咎を箇条書きし、嫡子明友への祖父嘉明の遺勲によって恩情で禄を新たに与えて立藩することを許可した下知状という体裁をとっている。本説話の伝承者が勝手にデッチアゲたものであろうが、その中には或いは真実も含まれているのかも知れぬ。

第一条は、幕府の許可なく、分国(飛び地?)の中に新たな関所を設けたこと。

第二条は、家来の中に禁教の切支丹の信者が多くいたにも拘わらず、それを全く調べ上げることをせず、容認していたこと。しかし、この一条だけで文句なしの確実改易でしょ?!

第三条はよく判らない家臣を諸務に於いて担当させるに際し、必要以上に過剰に割り当てて、いたずらに職務を軽減させて、全体に構成員が怠惰となる藩政を行っていたということか? 識者の御教授を乞う。

第四条は、言わずもがな。ここに臭わされているのは、堀主水が上訴した内容に関わるのであろう。実はここに並べられた条々も、殆んど総てがその中に書かれていたものなのではなかろうか?

第五条は、既に述べた東慶寺絡みの騒動であるが、縁者家来総てを死罪という部分で、多分に都市伝説(アーバンレ・ジェンド)としての「幻の東慶寺乱入とジェノサイド」によって入れられた条と読める。「右大將」は源頼朝。因みに、徳川家康は自身が源氏の血を継ぐ末裔と認識していた節があり、座右の書もなんと「吾妻鏡」であった。

第六条は、接する他国越後国の山間部で銀山が発見されたのを、分国(飛び地)と勝手に称して、入山し、採掘を行っていた違法行為の告発である。これも家老の主水あたりでなくては知り得ない、藩の最重要機密事項であろう。それだけに却って真実味はあると言える。

「しせき」「咫尺」。「咫」は中国の周の制度で八寸(周代の一寸は二・二五センチメートルであるから、十八センチ)、「尺」は十寸(二十二センチ五ミリ)を意味し、距離が非常に近いことを指す。

「不破源太郎」不詳。

「伴伊左衞門」不詳。

「是、式部少輔殿、下知し給ひしによつてなり」事実なら、狂王にも五分の誠意はあったものか。

「寛文元年辛丑正月廿一日」正確には万治四年一月二一日(一六六一年二月二十日)。万治四年は四月二十五日になってから寛文に改元しているからである。

「行年七拾歳」

「釼譽舟秀」「釼」は「劍」(剣)の異体字。音はいろいろあるが、まあ、「ケン」であろう。

「半兵衞(はんびやうゑ)町」現在の会津若松市本町内の旧町名に「半兵衞町」が存在する。ウィキの「本町(会津若松市の「近代」の項を参照。

「極樂寺」福島県会津若松市本町七に現存する浄土宗寺院。(グーグル・マップ・データ)。]

2017/11/14

江戸川乱歩 孤島の鬼(31) 殺人遠景

 

   殺人遠景

 

 今や私は一篇の冒険小説の主人公であった。

 二人を送り出して、今まで徳さんの息子が着ていた磯臭いボロ布子を身につけると、私は小屋の窓際にうずくまって、障子の蔭から眼ばかり出して、小舟の行手を見守っていた。

 牛の寝た姿の岬は、夕もやに霞んで、黒ずんだ海が、鼠色の空と溶け合い、空には一つ二つ星の光さえ見えた。風が凪いで海面は黒い油のように静かであったが、ちょうど満ち潮時で、例の魔の淵の辺は、遠目にも海水が渦をなして、洞窟の中へ流れ込んでいるのが見えた。

 小舟は凹凸(おうとつ)のはげしい断崖に沿って、隠れたかと思うとまた切り岸の彼方に現われて、だんだん魔の淵へ近づいて行った。数丈の断崖は、まっ黒な壁のようで、その下を、おもちゃみたいな小舟が、あぶなげに進んで行く。時たま海面を伝わって、虫の鳴くような艪(ろ)の音が聞こえてきた。徳さんも、息子の洋服姿も、夕闇にぼかされて、もう豆のような輪廓だけしか見えなかった。

 もう一つ岩鼻を曲ると、魔の淵のほら穴にさしかかる。ちょうどその角に達したとき、私はふと小舟の真上の切り岸の頂上に、何かしらうごめくもののあるのに気づいた。ハッとして見直すと、それはまぎれもなく一人の男、しかも背中が瘤のようにもり上がった佝僂の老人であることがわかった。あの醜い姿をどうして見ちがえるものか。たしかに丈五郎だ。だが、諸戸屋敷の主人公が、今ごろ何用あって、あんな断崖の縁へ出てきたのであろう。

 その佝僂男は、鶴嘴(つるはし)のようなものを手にして、うつむいて熱心に何事かやっている。鶴嘴に力をこめるたびに、鶴嘴のほかに、動くものがある。よく見ると、それは断崖の端に危なく乗っている一つの大岩であることがわかった。

 ああ、読めた。丈五郎は、徳さんの舟がちょうどその下を通りかかるおりを見計らって、あの大岩を押し落とし、小舟を顚覆させようとしているのだ。危ない。もっと岸を離れなければ危ない。だがここから叫んだところで、徳さんに聞こえるはずもない。私はみすみす丈五郎の恐ろしい企らみを知りながら、犠牲者を救う道がないのだ。天運を祈るほかにせんすべがないのだ。

 佝僂の影が一つ大きく動いたかと見ると、大岩がグラグラと揺れて、アッと思う間に、非常な速度で、岩角に当たっては、無数のかけらとなって飛び散りながら、小舟を目がけて転落して行った。

 大きな水煙が上がって、しばらくするとガラガラという音が、私のところまで伝わってきた。

 小舟は丈五郎の図に当たって顚覆した。二人の乗り手は影もない。岩に当たって即死したのか。それとも舟を捨てて泳いでいるのか。残念ながら遠目にはそこまでわからぬ。

 丈五郎はと見ると、執念深い佝僂男は、ただ舟を顚覆しただけではあきたらぬとみえ、恐ろしい勢いで鶴嘴を使い、次から次とその辺の大岩小岩を押し落としている。すると、まるで海戦の絵でも見るように、海面一帯に幾つもの水煙が立ちのぼっては崩れるのだ。

 やがて、彼は鶴嘴の手をやめて、じつと下の様子をうかがっていたが、犠牲者の最期を見届けて安心したのか、そのまま向こうへ立ち去った。

 すべては一瞬間の出来事だった。そして、あまりに遠いので、何かしらおもちゃの芝居みたいで、可愛らしい感じがして、二人の生命を奪ったこの悲惨事が、それほど恐ろしいこととは思えなかった。だが、これは夢でも幻でもない、厳然たる事実なのだ。徳さんと息子とは、人鬼の奸計によって、おそらくは魔の淵の藻屑と消えてしまったのだ。

 今こそ丈五郎の悪企みがわかった。彼は最初から私をなきものにするつもりだったのだ。それを屋敷内で手を下しては何かと危険だものだから、舟にのせて、島との縁を切っておいて、舟の通路になっている断崖の上に待ち伏せ、魔の淵の迷信を利用して、徳さんの舟が、人間以上のものの魔力によって転覆したように見せかけようとしたのだ。それゆえ、彼は便利な銃器を使わず、難儀をして大岩を押し落としたのである。

[やぶちゃん注:「何かと危険だものだから」「だ」はママ。言い回しとしては誤りとは言えない。私は使わないが。]

 渡船をほかの漁師に頼まず、不仲の徳さんを選んだのにも理由があった。彼は一石にして二鳥を落とそうとしたのだ。彼の悪事を感づいている私をなきものにすると同時に、以前の召使いで彼に反旗をひるがえした、それゆえ、彼の所業をある程度まで知っている徳さんを、事のついでに殺してしまおうと企らんだのだ。そして、それが見事図に当たったのだ。

 丈五郎の殺人は、私の知っているだけでも、これでちょうど五人目である。しかも、よく考えてみると、恐ろしいことに、その五つの場合は、ことごとく、間接ながら、この私が殺人の動機を作ったといってもよいのだ。初代さんは私がなかったら諸戸の求婚に応じたかもしれない。諸戸と結婚さえすれは、彼女は殺されなくてすんだのだ。深山木氏は、いうまでもなく、私さえ探偵を依頼しなければ、丈五郎の魔手にかかるようなことはなかった。少年軽業師もそうだ。また徳さんにしろ、その息子にしろ、私がこの島へこなかったら、また影武者なぞを頼まなかったら、まさかこんなみじめな最期をとげることはなかったであろう。

 考えるほど、私は空恐ろしさに身震いした。そして、殺人鬼丈五郎を憎む心が、きのうに幾倍するのをおぼえた。もう初代さんのためばかりではない、ほかの四人の霊のためにも、私はあくまでこの島に踏みとどまって、悪魔の所業をあばき、復讐の念願をとげないではおかぬ。私の力はあまりにも弱いかもしれない。警察の助力を乞うのが万全の策かもしれない。だが、この稀代の悪魔が、ただ国家の法律で審(さば)かれたのでは満足ができない。古めかしい言葉ではあるが、眼には眼を、歯には歯を、そして、やつの犯した罪業と同じ分量の苦痛をなめさせないでは、此の私の腹が癒(い)えぬのだ。

 それには、丈五郎が私をなきものにしたと思いこんでいるのを幸い、先ずできるだけ巧みに、徳さんの息子に化けおおせて、彼の眼を逃れることが肝要だ。そして、ひそかに土蔵の中の道雄としめし合わせて、復讐の手段を考えるのだ。道雄としても、今度の殺人を聞いたなら、それでも親の味方をしようとはいわぬであろう。また、たとえ道雄が不同意でも、そんなことに構ってはおられぬ。私はあくまでも念願を果たすために努力する決心だ。

 仕合わせなことに、その後、幾日たっても、ふたりの死骸は発見されなかった。おそらく、魔のほら穴の奥深く吸いこまれてしまったのでもあろう。私は首尾よく徳さんの息子に化けおおせることができた。もっとも、いつまでたっても徳さんの舟が帰らぬので、不審がって私の小屋を見舞いにくる漁師もないではなかったが、私は病気だといって、部屋の隅の薄暗いところに二つ折の屏風(びょうぶ)を立てて、顔をかくしてごまかしてしまった。

 昼間はたいてい小屋にとじこもって人目を避け、夜になると、闇にまぎれて私は島中を歩き廻った。土蔵の窓の道雄や秀ちゃんを訪ねるのはもちろん、島の地理に通暁しておいて、何かのおりに役に立てることを心掛けた。諸戸屋敷の様子に心を配ったのはいうまでもないが、時には、人なきおりを見すまして門内に忍び入り、開かずの部屋の外側に廻って、密閉された戸の隙間から、内部の物音の正体を窺いさえした。

 さて読者諸君、私はかようにして、無謀にも、世にたぐいなき殺人魔を向こうに廻して、戦いの第一歩を踏み出したのである。私の行手にどのような生き地獄が存在したか。どのような人外境が待ち構えていたか。この記録の冒頭に述べた、一夜にして私の頭髪を雪のようにした、あの大恐怖について書きしるすのも、さほど遠いことではないのである。

江戸川乱歩 孤島の鬼(30) 影武者

 

   影武者

 

 その翌日とうとう恐ろしい破滅がきた。

 お昼過ぎ、私がひとりで啞の女中のお給仕で(これが秀ちゃんの日記にあったおとしさんだ)ご飯をすませても、諸戸が父親の部屋から帰ってこないので、ひとりで考えていても気が滅入るばかりだものだから、食後の散歩かたがた、私はまたしても土蔵の裏手へ、秀ちゃんと眼の話をしに出掛けた。

 窓を見上げてしばらく立っていても、秀ちゃんも吉ちゃんも顔を見せぬので、私はいつもの合図の口笛を吹いた。すると、黒い窓の鉄格子の中へ、ヒョイと一つの顔が現われたが、私はそれを見て、ハッとして、自分の頭がどうかしたのではないかと疑った。なぜといって、そこに現われた顔は秀ちゃんのでも吉ちゃんのでもなく、父親の部屋にいるとばかり思っていた、諸戸道雄の引きゆがんだ顔であったからだ。

 何度見直しても、私のまぼろしではなかった。まぎれもない道雄が、双生児の檻に同居しているのだった。それがわかった刹那、私は思わず大声に叫びそうになったのを、素早く諸戸が口に指を当てて注意してくれたので、やっと食い止めることができた。

 私の驚き顔を見て、諸戸は狭い窓の中から、しきりと手まねで何か話すのだが、秀ちゃんの微妙な眼とは違って、それに話す事柄が複雑すぎるものだから、どうも意味が取れぬ。諸戸はもどかしがって、ちょっと待てという合図をして首を引込めたが、やがて、丸めた紙切れを私の方へ投げてよこした。

拾い上げてひろげて見ると、多分秀ちゃんのを借りたのであろう、鉛筆の走り書きで、次のように書いてあった。

 

 少しの油断から丈五郎の奸計(かんけい)におちいり、双生児と同じ監禁の身の上となった。非常に厳重な見張りだから、到底急に逃げ出す見込みはない。だが、僕よりも心配なのは君だ。君は他人だから一層危険だ。早くこの島から逃げ出したまえ。僕はもう諦めた。すべてを諦めた。探偵も、復讐も、僕自身の人生も。

 君との約束にそむくのを責めないでくれたまえ、最初の意気込みに似ず気の弱い僕を笑わないでくれたまえ、僕は丈五郎の子なのだ。

 懐かしき君とも永遠におさらばだ。諸戸道雄を忘れてくれたまえ。岩屋島を忘れてくれたまえ。そして無理な願いだけれど、初代さんの復讐などということも。

 本土に渡っても警察に告げることだけは止してください。長年の交誼(こうぎ)にかけて、僕の最後のお頼みだ。

 

 読み終って顔を上げると、諸戸は涙ぐんだ眼で、じつと私を見おろしていた。悪魔の父はついにその子を監禁したのだ。私は道雄の豹変を責めるよりも、丈五郎の暴虐を恨むよりも、形容のできない悲愁に打たれて、胸の中が空虚になった感じだった。

 諸戸は親子というかりそめの絆(きずな)に、いくたび心を乱したことであろう。はるばるこの岩屋島を訪れたのも、深く思えば私のためでもなく、初代の復讐などのためではむろんなく、その実は、親子という絆のさせた業であったかもしれないのだ。そして、最後の土壇場になって、彼はついに負けた。異様なる父と子の戦いは、かくして終局をつげたのであろうか。

 長い長いあいだ、土蔵の中の諸戸と眼を見かわしていたが、とうとう彼の方から、もう行けという合図をしたので、私は別段の考えもなく、ほとんど機械的に諸戸屋敷の門のほうへ歩いて行った。立ち去るとき、諸戸の青ざめた顔のうしろの薄暗い中に、秀ちゃんのいぶかしげな顔がじっと私を見つめているのに気づいた。それが一そう私をはかない気持にした。

 だが、私はむろん帰る気になれなかった。道雄を救わねばならぬ。秀ちゃんを助け出さねばならぬ。たとえ道雄がいかに反対しようとも、私は初代の敵を見捨てて、この島を立ち去ることはできぬ。そして、あわよくば、なき初代のために、彼女の財宝を発見してやらねばならぬ(不思議なことに、私はなんの矛盾をも感じないで、初代と秀ちゃんとを、同時に思うことができた)。諸戸の頼みがなくても、警察の力を借りるのは最後の場合だ。私はこの島に踏みとどまって、もっと深く探って見よう。滅入っている諸戸を力づけて、正義の味方にしよう。そして、彼の優れた智恵を借りて、悪魔と戦おう。私は諸戸屋敷の自分の居間に帰るまでに、雄々しくもこのように心をきめた。

 部屋に帰ってしばらくすると、久しぶりで佝僂の丈五郎が醜い姿を現わした。彼は私の部屋にはいると、立ちはだかったまま、

「お前さんは、すぐに帰る支度をなさるがいい。もういっときでもここの家には、いや、この岩屋島には置いておけぬ。さあ支度をなさるがいい」

 と、どなった。

「帰れとおっしゃれは帰りますが、道雄さんはどこにいるのです。道雄さんも一緒でなければ」

「息子は都合があってあわせるわけにはいかぬ。が、あれもむろん承知の上じゃ。さあ用意をするのだ」

 争っても無駄だと思ったので、私は一と先ず諸戸屋敷を引き上げることにした。むろんこの島を立ち去るつもりはない。島のどこかに隠れていて、道雄なり秀ちゃんなりを、救い出す手だてを講じなければならぬ。だが、困ったことには、丈五郎のほうでも抜け目なく、一人の屈強な下男をつけて、私の行く先を見届けさせた。

 下男は私の荷物を持って先に立って歩いて行った。先日私に話しかけた不思議な老人の小屋のところへくると、いきなりそこへはいって行って、声をかけた。

「徳さん、おるかな。諸戸の旦那のいいつけだ、舟を出しておくれ。この人をKまで渡すのや」

「その客一人で帰るのかな」

 老人はやっぱり、このあいだの窓から半身を出して、私の顔をジロジロ眺めながら答えた。

 そこで結局、下男は私をその徳さんという老人に預けて、帰ってしまったのだが、丈五郎が、いわば裏切者であるこの老人に私を托したのは、意外でもあり、薄気味わるくもあった。

 とはいえ、この老人が選ばれたことは、私にとって非常な好都合である。私は大略ことの仔細を打ちあけて老人の助力を乞うた。どうしても今しばらく、この島に踏みとどまっていたいと言い張った。

 老人は先日と同じ筆法で、私の計画の無謀なことを説いたが、私があくまでも自説をまげぬので、ついに我を折って、私の乞いを容れてくれたばかりか、丈五郎をたばかる一つの名案をさえ持ち出した。

 その名案というのは、

 疑い深い丈五郎のことだから、私がこのまま島にとどまったのでは、承知するはずもなく、ひいては私を預かった老人が恨みを買うことになるから、ともかく一度本土まで舟を渡して見せなければならぬ。

 それも、徳さんが一人で舟を漕いで行ったのでは、なんの利き目もないのだが、幸い徳さんの息子が私と年齢も、背恰好も似寄りだから、その息子に私の洋服を着せ、遠目には私と見えるように仕立てて、本土へ渡すことにしよう。私は息子の着物を着て、徳さんの小屋に隠れていればよいというのであった。

「お前さんの用事がすむまで、息子にはお伊勢参りでもさせてやりましょう」

 徳さんは、そんなことをいって笑った。

 夕方ごろ徳さんの息子は私の洋服を着込んで、そり身になって、徳さんの持ち舟に乗り込んだ。

 私の影武者を乗せた小舟は、徳さんを漕ぎ手にして、行手にどのような恐ろしい運命が待ちかまえているかも知らず、夕闇せまる海面を、島の切り岸に沿って進んで行った。

 

江戸川乱歩 孤島の鬼(29) 三日間

 

   三日間

 

 諸戸の想像した通りだとすれば、彼の父の丈五郎は、そのからだの醜さに輪をかけた鬼畜である。世に比類なき極重悪人である。悪業成就(じょうじゅ)のためには、恩愛の情なぞ顧みる暇(いとま)はないのであろう。また道雄の方でも、すでにたびたび述べたように、決して父を父とは思っていない。父の罪業をあばこうとさえしている。この、世の常ならぬ親子が、一つ家に顔を見合わせていたのだから、ついに、あのような恐ろしい破綻(はたん)がきたというのは、まことに当然のことであった。

 平穏な日は、私たちが島に到着してから、たった三日間であった。四日目には私と諸戸とはもう口を利くことさえ叶わぬ状態になっていた。そして、その同じ日、岩屋島の住民が二人、悪鬼の呪いにかかって、例の人喰いのほら穴、魔の淵の藻屑(もくず)と消えるような悲惨事さえ起こった。

 だが、その平穏無事な三日間にも、しるすべき事柄がなかったのではない。

 その一つは、土蔵の中の双生児についてである。私が諸戸屋敷に最初の夜を過ごした翌朝、土蔵の窓の双生児を垣間見て、その一方の女性(つまり日記にあった秀ちゃん)の美貌にうたれたことは前章にしるした通りだが、異様なる環境が、この片輪娘の美しさを際立たせたとしても、その垣間見の印象が、あれほど強く私の心をとらえたというのは、なんとやらただ事ではない感じがした。

 読者も知るように、私はなき木崎初代に全身の愛を捧げていた。彼女の灰を呑みさえした。諸戸と一緒にこの岩屋島へきたのも、初代の敵を確かめたいばっかりではなかったか。その私が、たった一と目見たばかりの、しかも因果なかたわ娘の美しさにうたれたというのは、別の言葉を使えば、愛情を感じたことである。恋しく思ったことである。そうだ、私は白状するが、かたわ娘秀ちゃんに恋を感じたのである。ああ、なんという情ないことだ。初代の復讐を誓ったのは、まだきのうのように新しいことである。現にいま、お前はその誓いを実行するために、この孤島へきているのではないか。それが、到着するかしないに、人もあろうに、人外のかたわ娘を恋するとは。私はこうも見下げ果てた男であったのかと、そのときはそんなふうにわれとわが身を恥じた。

 しかし、いかに恥かしいからといって、恋する心は、どうにもできぬ真実である。私は何かと口実を設け、我が心に言いわけをしながら、ひまさえあれば、ソッと屋敷を抜け出して、例の土蔵の裏手へ廻るのであった。

 ところが、二度目にそこへ行ったとき、それは最初秀ちゃんを垣間見た日の夕方であったが、私にとって、一そう困ったことが起こった。というのは、そのとき、秀ちゃんの方でも、一方ならず私を好いていることがわかったのだ。なんという因果なことだ。

 たそがれの靄(もや)の中に、土蔵の窓がパックリと黒い口をひらいていた。私はその下に立って、辛抱強く娘の顔の覗くのを待っていた。待っても待っても、黒い窓にはいつまでたってもなんの影もささぬので、もどかしさに、不良少年みたいに、私は口笛を吹いたものだ。すると、寝そべっていたのが、いきなり飛び起きた感じで、秀ちゃんのほの白い顔が、チラと覗き、アッと思う間に、何かに引っぱられでもしたように、引っ込んでしまった。一瞬間ではあったが、私は秀ちゃんの顔が、私に向かってニッコリ笑いかけたのを見のがさなかった。そして「吉ちゃんのほうがやいていて、秀ちゃんを覗かせまいとするんだな」と想像すると、なんとやらくすぐったい感じがした。

 秀ちゃんの顔が引っ込んでしまっても、私はその場を立ち去る気にはなれず、未練らしくじっと同じ窓を見上げていたが、ややあって、窓から私を目がけて、白いものが飛び出してきた。紙つぶてだ。足元に落ちたのを拾い上げて、ひらいて見ると、次のような鉛筆書きの手紙であった。

 

わたしのことわ本をひろうた人にきいてください、そうしてわたしをここからだしてください、あなたわきれいでかしこい人ですから、きっとたすけてくださいます。

 

 非常に読みにくい字だったけれど、私は幾度も読み直してやっと意味をとることができた。「あなたわきれいで」というあからさまな表現には驚いた。例の日記帳の記事から想像しても、秀ちゃんの綺麗という意味は、われわれのとは少しちがっているのだけれど。

 それから、同じ土蔵の窓に、実に意外なものを発見するまでの三日間、私は五、六度もそこへ行って(たった五、六度の外出に私はどんな苦心をしたことだろう)、人知れず秀ちゃんと会った。家人に悟られるのを恐れて、お互いに言葉をかわすことは控えたが、私たちは一度ごとに、双方の眼使いの意味に通暁(つうぎょう)して行った。そして、ずいぶん複雑な微妙な眼の会話を取かわすことができた。秀ちゃんは字はへただったけれど、また世間知らずであったけれど、生れつき非常にかしこい娘であることがわかった。

 眼の会話によって、吉ちゃんが秀ちゃんをどんなにひどい目に合わせるかがわかった。ことに私が現われてからはやきもちを焼いて、一層ひどくするらしい。秀ちゃんはそれを眼と手まねで私に訴えた。

 あるとき秀ちゃんをつきのけて、吉ちゃんの青黒い醜い顔が恐ろしい眼で長いあいだ私の方を睨むようなこともあった。その顔の不快な表情を、私は今でも忘れない、ひがみとねたみと、無智と、不潔との、けもののように醜悪無類な表情であった。それが、まるで睨みっこみたいに、瞬きもせず、執念深く私の方を見つめているのだ。

 双生児の片割れが醜悪なけだものであることが、秀ちゃんへの憐みの情を一倍深めた。私は一日一日と、このかたわ娘が好きになって行くのをどうすることもできなかった。それが私にはなんだか前世からの不幸なる約束事のようにも感じられた。顔を見かわすたびごとに、秀ちゃんは早く救い出してくださいと催促した。私はなんの当てがあるでもないのに、

「大丈夫、大丈夫、今にきっと救って上げるから、もう少し辛抱してください」と胸をたたいて、可哀そうな秀ちゃんを安心させるようにした。

 諸戸屋敷には幾つかの開かずの部屋があって、土蔵はいうまでもなく、そのほかにも、入口の板戸に古風な錠前のかかった座敷があちこちに見えた。諸戸の母親や男の召使いなどが、それとなく絶えず私たちの行動を見張っていたので、自由に家の中を歩き廻ることもできなかったが、私は雪時、廊下を間違ったと見せかけてソッと奥の方へ踏み込んで行き、開かずの部屋のあることを確かめることができた。ある部屋では、気味のわるい唸り声が聞こえた。ある部屋では何かが絶えずゴトゴト動いている気配がした。それらはすべて、動物のように監禁された人間どもの立てる物音としか考えられなかった。

 薄暗い廊下にたたずんで、じつと聞き耳を立てていると、いい知れぬ鬼気に襲われた。諸戸はこの屋敷にはかたわ者がウジャウジャしているといったが、開かずの部屋には土蔵の中の怪物(ああ、その怪物に私は心を奪われているのだ)にもました、恐ろしいかたわ者どもが監禁されているのではなかろうか。諸戸屋敷はかたわ屋敷であったのか。だが丈五郎は、なぜなれば、そのようにかたわ者ばかり集めているのであろう。

 平穏であった三日間には、秀ちゃんの顔を見たり、開かずの部屋を発見したほか、もう一つ変ったことがあった。ある日、私は諸戸が父親のところへ行ったきり、いつまでも帰らぬ退屈さに、少し遠出をして、海岸の船着場まで散歩したことがあった。

 来たときには夕闇のために気づかなかったが、その道の中ほどの岩山の麓に、ちょっとした林があって、その奥に一軒の小さなあばら家が見えていた。この島の人家はすべて離れ離れに建っているのだが、そのあばら家は、ことに孤立している感じだった。どんな人が住んでいるのかと、ふと出来心で、私は道をそれて林の中へはいて行った。

 その家は、家というよりも小屋といったほうがふさわしいほどの小さな建物で、しかも、到底住むに耐えぬほど荒れすさんでいた。その小屋の地面は小高くなっていたので、海も、例の対岸の牛の寝た形の岬も、さては魔の淵といわれる洞窟さえも、すべて一望のうちにあった。岩屋島の断崖は複稚な凹凸をなしていて、その一ばん出っ張った部分に魔の淵のほら穴があった。

 奥底の知れぬほら穴は、魔物の黒い口のようで、そこにうち寄せる波頭が、恐ろしい牙に見えた。見つめていると、上部の断崖に魔物の眼や鼻さえも想像されてくる。都に生れ育った世間知らずの私には、この南海の一孤島は、あまりにも奇怪なる別世界であった。数えるほどしか人家のない離れ島、古城のような諸戸屋敷、土蔵にとじこめられた双生児、開かずの部屋に監禁されたかたわ者、人を呑む魔の淵の洞窟、すべてこれらのものは、都会の子には、奇怪なるおとぎ話でしかなかったのだ。

 単調な波の音のほかには、島全体が死んだように静まり返って、見渡す限り人影もなく、白っぽい小石道に、夏の日がジリジリと焦げついていた。

 そのとき、ごく間近いところで咳払いの音がして、私の夢見心地を破った。振り向くと、小屋の窓に一人の老人が寄りかかって、じつと私の方を見つめていた。思い出すと、それは、私たちがこの島に着いた日、この辺の岸にうずくまって、諸戸の顔をジロジロと眺めていた、あの不思議な老人にちがいなかった。

「お前さん、諸戸屋敷の客人かな?」

 老人は私がふり向くのを待っていたように話しかけた。

「そうです。諸戸道雄さんの友だちですよ。あなたは、道雄さんをご存じでしょうね」

 私は老人の正体を知りたくて、聞き返した。

「知ってますとも。わしはな、むかし諸戸屋敷に奉公しておって、道雄さんの小さい時分抱いたり負んぶしたりしたほどじゃもの、知らいでか。じゃが、わしも年をとりましたでな。道雄さんはすっかり見忘れておいでのようじゃ」

「そうですか。じゃあ、なぜ諸戸屋敷へきて、道雄さんに会わないのです。道雄さんもきっと懐かしがるでしょうに」

「わしはごめんじゃ。いくら道雄さんにあいとうても、あの人畜生(にんちくしょう)の屋敷の敷居を跨(また)ぐのはごめんじゃ。お前さんは知りなさるまいが、諸戸の佝僂夫婦は、人間の姿をした鬼、けだものやぞ」

「そんなにひどい人ですか。何か悪いことでもしているのですかね」

「いやいや、それは聞いてくださるな、同じ島に住んでいるあいだは、迂潤なことをいおうものなら、わが身が危ない。あの佝僂さんにかかっては人間の命はちりあくたやでな。ただ、用心をすることや。旦那方はこれから出世する尊いからだや。こんな離れ島の老人にかまって、危ない目を見ぬように用心が肝腎やな」

「でも丈五郎さんと道雄さんは親子の間柄だし、私にしてもその道雄さんの友だちなんだから、いくら悪い人だといって、危ないことはありますまい」

「いや、それがそうでないのじゃ。現に今から十年ばかり前に、似たようなことがありました。その人も都からはるばる諸戸屋敷を訪ねてきた。聞けば丈五郎の従兄弟(いとこ)とかいうことであったが、まだ若い老先(おいさき)の長い身で、可哀そうに、見なされ、あのほら穴のそばの魔の淵というところへ、死骸になって浮き上がりました。わしはそれが丈五郎さんの仕業だとはいわぬ。じゃが、その人は諸戸屋敷に逗留していられたのや。屋敷のそとへ出たり、舟に乗ったりしたのを見たものは誰もないのや。わかったかな。老人のいうことに間違いはない。用心しなさるがよい」

 老人はなおも、諄々(じゅんじゅん)として諸戸屋敷の恐怖を説くのであったが、彼の口ぶりはなんとなく、私たちも、十年以前の丈五郎の従兄弟という人と同じ運命におちいるのだ、用心せよといわぬばかりであった。まさかそんなばかなことがと思う一方では、都での三重の人殺しの手並みを知っている私は、もしやこの老人の不吉な言葉がほんとうになるのではあるまいかと、いやな予感に、眼の先が暗くなって、ゾッと身震いを感じるのであった。

[やぶちゃん注:「諄諄と」相手にわかるようによく言い聞かせるさま。]

 さて、その三日のあいだ、諸戸道雄のほうはどうしていたかというと、

 私たちは、毎晩枕を並べて寝たが、彼は妙に無口であった。口に出してしゃべるには、心の苦悶があまりに生々(なまなま)しすぎたのかもしれない。昼間も、彼は私とは別になって、どこかの部屋で、終日佝僂の父親と睨み合っているらしかった。長い用談をすませて、私たちの部屋へ帰ってくるたびに、ゲッソリと窶(やつ)れが見え、青ざめた顔に眼ばかり血走っている。そしてムッツリとだまりこんで、私が何を尋ねても、ろくろく返事もしないのだ。

[やぶちゃん注:前の「さて、その三日のあいだ、諸戸道雄のほうはどうしていたかというと、」での改行は底本のママ。実は、この次の章にも出てくるので、組み版の誤りではないようである。

 だが、三日目の夜、ついに耐え難くなったのか、彼はむずかった子供みたいに蒲団の上をゴロゴロころがりながら、こんなことを口走った。

「ああ、恐ろしい。まさかまさかと思っていたことが、ほんとうだった。もういよいよおしまいだ」

「やっぱり、僕たちが疑っていた通りだったの」

 私は声を低めて尋ねてみた。

「そうだよ。そして、もっとひどいことさえあったのだよ」

 諸声は土色の顔をゆがめて、悲しげに言った。私は、いろいろと彼のいわゆる「もっとひどいこと」について尋ねたけれど、彼はそれ以上何もいわなかった。ただ、

「あすはキッパリと断わってやる。そうすればいよいよ破裂だ。蓑浦君、僕は君の味方だよ。力をあわせて悪魔と戦おうよ。ね、戦おうよ」

 といって、手を延ばして私の手首を握りしめるのだった。だが、勇ましい言葉に引きかえて、彼の姿のなんとみじめであったことか。無理もない、彼は実の父親を悪魔と呼び、敵に廻して戦おうとしているのだ。やつれもしよう。私は慰める言葉もなく、わずかに彼の手を握り返して、千万の言葉にかえた。

 

老媼茶話巻之四 堀主水、女の惡靈に逢ふ

 

     堀主水逢女の惡靈

 

 奧州會津若松の御城主加藤左馬介義明の臣下、堀主水(ほりもんど)と云(いひ)て、三千石を領す。

 主水、宿願の事ありて塔寺の八幡宮へ詣でける折、高瀨と云(いふ)里はづれの土橋の元にて、水にひたり、物洗(あらふ)女、有り。主水、籠の内より能(よく)見るに、年頃廿(はたち)斗(ばか)りにて、世に稀なる美人也。若黨に、

「いづくの者ぞ。」

と、とはせければ、女、答(こたへ)て、

「我、元は中の目と申(まうす)所の賤(しづ)の女(め)にて候が、此春、此所へ緣付(えんづき)參り候。」

と云。

 主水、深く愛着し、權威を以て、おして、夫に緣をきらせ、我方(わがかた)へ、かの女、召寄(めしよせ)、其名を花と名付(なづけ)、なのめならず、寵愛す。

 此女、勝れたる美女なれ共、好色の女にて、主水が小性(こしやう)より召仕(めしつかひ)ける源五郎といふ美男ありしに、互に心ざしを通じながら、人目の關を急(せき)て、月日を過(すぐ)しける。

 主水、そば近く召仕(めしつかふ)女の内にて、

「かく。」

と、主水に告知(つげし)らす。

 主水、大きに怒り、咎(とが)の實否も糾明せず、源五郎をば、首を刎(はね)、花をば、強くいましめ、庭の松の木へくゝりあげ、足の下へ源五郎が首をおき、花に是を踏(ふま)せける。

 花、大きにうらみ、いかり、主水を散々に訇(ののし)り、惡口をしける間、主水、彌(いよいよ)はらにすへかね、馬屋の下部(しもべ)角助といふ強力者に云付(いひつけ)、花を〆殺(しめころ)し、死骸を、ひそかに寶積寺(はうしやくじ)の後(うしろ)なる松陰に埋(うづめ)鳬(けり)。

 其後、半年程過(すぎ)て、主水、書院に立出(たちいで)、柱にもたれ、皐月(さつき)中旬の、朧月夜の空行(ゆく)月を詠(よみ)、何心なく有けるに、俄に月くもり、雨ふりて、何となく物すごく、寒毛(さむけ)たち、おそろしさ、忍ひ難く有ける折、庭の木陰のほのくらき所より、白きもの、見へけるが、次第に近く步み來(きた)るを見るに、花なり。

 白かたびらを天窓(アタマ)よりかぶり、雨落(あまおち)へ來り、縁(えん)ふちへ手を懸(かけ)、主水を、つくづくとまもり居たりけるが、則(すなはち)、座へ上(のぼ)り、主水に近付けるを、わきさしを拔、切付(きりつけ)たるに、たゞ雲水(くもみづ)を打(うつ)がごとく、姿、彷彿(ホウホツ)として、手に、たまらず。是より、每夜、花が幽靈、來り、主水を、さまざま、せめ、なやます事、百日斗(ばかり)、主水も力つかれて、形體、衰へける。

 主水、ある時、欝氣(ウツキ)、なぐさみの爲、神指原(カミサシハラ)の新城(しんじやう)の跡へ、鷹野(たかの)に出(いで)、終日(ひねもす)、小鳥をかりくらし、夕方、宿所へ歸りけるに、藥師堂の刑罰場の大そとばの松陰に、年頃、六拾斗(ばかり)の老僧、石に腰をかけ、傍に杖と笠とを、をき、わらじのひもをむすび有けるが、主水がその前をとふりけるを見て、

「殿、暫く御止り候得(さふらえ)。申上度(まうしあげたき)事、候。」

と云。

 主水、立(たち)どまり、

「御僧は、いつくより、いつかたへ御通り候ぞ。用ありとは某(それがし)が事か。」
と云。僧の曰、

「愚僧は越後の國より當國天寧寺へ用ありて參候所化(しよけ)の僧侶にて候が、只今、殿の御面色(めんしよく)を見奉りけるに、怪物の爲に神氣をうばはれ、魂魄、身を守らず、血水、色をかざらず、筋骨、肉をはなれ、死相、今夕(こんせき)にあり。人間の命數は天元(てんげん)定まりありといへ共、御身は定業(じやうがふ)にあらずして非命(ひめい)の死を請(うけ)玉へり。必(かならず)、陰惡をなし玉はん。その業報たるべし。御用心候得。」

と云。

 主水、心に覺へあれば、

『扨は、此僧、凡骨にあらず。』

とおもひ、敬して僧に近付、

「我等住宅は壱の町と云所にて天寧寺へ近く、今日、まげて、我方に一宿あられ候得。爰は中途にて往來の人も多く、咄申度(はなしまうしたき)事も罷(まかり)ならず。ぜひ、御供可申(おともまうすべし)。」

とて、僧を、むたいに我(わが)乘來(のりきた)山かごに打乘(うちの)せて、急ぎ、宿所に歸り、僧を座敷招(しやう)じ、樣々もてなし、其後(そののち)、人を除(のぞき)、主水、申樣(まうすやう)、

「先程、御僧の、『積惡(せきあく)の家には必(かならず)餘殃(よあう)有(あり)て身命(しんみやう)をほろぼす物也』と、の玉ふ。誠に不思義に覺へ候。それに付(つき)、我(われ)、死相のあらはれ候、子細こそ候へ。」

とて女を殺しける後、靈鬼の每夜來り、惱(なやま)す事、くわしく語り、

「御僧の佛力方便を以(もつて)、件(くだん)の惡靈を退(しりぞ)け給はれ。」

と、わりなく賴(たのみ)ければ、僧の曰、

「人は萬物の靈長なるものに候。其(その)命取ると申(まうす)は、かろからぬ事にて候。其咎(とが)の眞僞をも御糺(おただし)なく、むたひに御殺(おころ)し被成(なされ)候故(ゆゑ)、女、罪にふくせず、其氣、凝滯(ケツタイ)して散ぜず、魂(たましひ)、中有(ちゆうう)にさまよい、あやしみをなすものに候。それ、人の始(はじめ)て死(しに)、七日を以(もつて)、忌とす。七日、七日に、一魂、散ず。故に七々(しちしち)四十九日を限りとして、魂、亡ぶ。易に曰、『精氣、物となり、游魂(ユウコン)、變(ヘン)をなす』と申(まうす)は、此故(このゆゑ)にて候。女の恨(うらみ)の氣、深くして、其身、骸(むくろ)をはなれず、魂魄、天地に離散せず、中有にさまよひ、祟(たたり)をなすものに候。其女、殺されし月日を指を折(をり)てかぞふるに、明日、一囘忌に相(あひ)當候得共、靈鬼、宿報をとぐる期(き)、すでに來(きた)れり。たとへ其身大ばんじやくの内に陰(かく)れ、萬刃(ばんぢん)のかこみをなし玉ふとも、決(けつし)て、御命、のがれ給ふべき樣(やう)、人力・佛力にも及(および)難し。倂(しかしながら)、靈鬼退散仕(つかまつる)べき方便、候。人、多(おほく)ては、他の聞(きこ)へ憚(はばかり)あり。御身近く候(さふらふ)人、一兩輩、めしつれ候わん。」

とて、其曉、主水を始(はじめ)、弐、三人にて、忍びて寶積寺山へ行(ゆき)、女を埋(うづめ)し塚を見るに、草茫々と生しげれる塚の上に、少(ちいさ)き、穴、あり。

 其穴より、なまぐさき氣を、吹出(ふきいだ)す。

 其氣をかぐ者、おうゑつして、黃水(わうずい)を吐(はく)。

 坊主、みずから、土を崩し、棺(おけ)のふたをひらき見るに、死(しし)て年を過(すぎ)けれども、女の面色、平生にかはらず、猶、生(いけ)るがごとく也。

 坊主、則(すなはち)、主水にしやうぞくぬがせ、主水が頭(かしら)・面(おもて)・身内(みのうち)、不殘(のこらず)、經文を書(かき)て、壱の神符(しんぷ)を主水が口にふくませ、氣息をやすからしめ、坊主、申樣(まうすやう)は、

「今夜、必(かならず)、あや敷(しき)事、候べし。其折、氣をおさめ、息をしづめ、少(すこし)も動き給ふな。」

とて、女の死骸と主水とを壱棺に入(いれ)、もとのごとくに埋置(うづめおく)。

 坊主は、主水が屋敷へ歸りける。

 牛滿過(すぐ)る頃、女の死かばね、頻りに動き起直(おきなほ)り、くるしげなる息をつぎ、うしろ樣(ざま)に、ひやゝかなる手をまはし、主水が身の内、克々(よくよく)探り見て、

「不思義成(なる)事哉(かな)。にくしと思ひける人もいつしか死果(しにはて)て、白骨に、苔(コケ)、生(ヲイ)たり。此曉は、必(かならず)、此人の命をうばひ、魂を拔(ぬき)、血を吸(すひ)、骨を喰(くらひ)、日ごろの恨み晴(はら)さむと思ひしに、今こそ、怨念、はれたり。」

とて、振返り、主水にひしといだき付(つき)、首をのべ、口をひらき、舌を出し、主水を天窓(アタマ)より手足迄、不殘(のこらず)、ねぶりけるが、女の屍(シカバネ)、主水が膝に倒れ懸り、弐度(ふたたび)、起(おき)あがらず。

 かくて、あかつきになりける頃、坊主、來り。女の塚を崩し、棺を開き、主水を出(いだ)し、女の骸(むくろ)を能(よく)見るに、凝結、いまだ散ぜざるにや、面色に惡相殘り有りければ、坊主、珠數(ずず)を以(もつて)、女の額を撫(なで)て曰、

「見よ、見よ、汝がふかく大惡心をとゞめし堀主水正(しやう)、今、すでに死(しし)、骸(むくろ)、汝が傍(かたはら)にあり。肉、消(きえ)、骨、晒(さらされ)たり。主水、去(さり)て後(のち)、誰(たれ)をさして怨敵となさんや。今、汝に妙文(みやうもん)の一句を示さむ。靈骸(れいがい)、慥(たしか)に、うけ、たもて。」

とて高聲(こうしやう)に曰、

「落華、枝に返らず、破鏡、二度、てらさず。四大、破れて、五薀(ごうん)、空(くう)に歸(き)す。魂魄、天地に消散して、冥々朧々たり。今汝が色身(しきしん)、いづくにありて、此世に執着(しゆうぢやく)をとゞめんや。一心の迷妄によつて、永く地獄にだざいして、剉燒舂磨(ザシヤウセウマ)のくるしみを受けんや。すみやかに惡念を去(さり)て成佛とくだつせよ。則(すなはち)、汝を『法通妙心信女』と名づく。悟道せよ、悟道せよ。

  思ひ見よ仇(あだ)も情(なさけ)も白露の消(きえ)にしあとはたゞの秋風」

 靈鬼、此一句のしめしを得て感得やしたりけん、忽(たちまち)、姿、にうはの相となり、快然たる氣色にみへけるが、唯(ただ)、朝日にむかふ露霜のごとく、皮肉、見る内に消(きえ)とけて、一具の骸骨斗(ばかり)、殘りけり。

 坊主、白骨に向ひ、目をとじ、合掌し、暫く、經、讀(よみ)、念佛して、其後、女の死骸、元のごとく埋置(うづめおき)、主水が屋敷へ歸りけり。

 主水、申(まうし)けるは、

「此度(このたび)、貴僧の法力によらずば、惡鬼の爲に命をとられ申(まうす)べし。此地に永く御留り候得。幸(さひはひ)、天寧寺の住持、老衰し、寺勢、叶(かなひ)難き由(よし)、申上(しんじやう)たり。我等、取計(とりはから)ひ、天寧寺へすへ申べし。」

と、再三、云(いひ)けれども、坊主、承引せず、

「雲水の一所不住を樂と仕(つかまつ)る。御志(おこころざし)、悦存候得(よろこばしくさふらえ)ども、御免候へ。しばし斗(ばかり)の假(かり)の世を、とてもかくても、過(すぐし)候べし。御緣も候はゞ、重(かさね)て御目に懸り申べし。亡者のなき跡をも、克々(よくよく)御とむらい候へ。菅相公(くわんしやうこう)の靈、伯有(はくいう)が鬼も候。乍憚(はばかりながら)、御身は血氣の勇士にて、ものゝ哀(あはれ)を知り玉はず。不仁不義の行跡(かうせき)、多かるべし。君寵(くんちよう)にほこり、奢(おごり)をほしいまゝにして、人のにくみを得玉はゞ、終りをよくはしたまふまじ。こうりやうの悔(くい)なきやうに御愼候べし。さなくば、三年をへずして大難に逢(あひ)玉ふべし。御暇(おいとま)申候。」

とて立出(たちいで)けるが、いづくへか行(ゆき)たりけん、其行方(ゆくゑ)を知る人、なし、とかや。

 

[やぶちゃん注:本篇には実は次に、この実在した主人公堀主水の、凄絶なる実録形式の後日談が続くが、この主水の殺害した女の靈とは無関係で、寧ろ、この亡霊を鎮めた僧の最後の言葉を、所謂、会津騒動で数奇な最期を遂げることとなった主水の後半生に繋げた、卓抜した優れ物(しかも次話でもそのエンディングには、やはり、ある怪異がしっかりと仕込まれてある)となっていると言えよう。標題は「堀主水(ほりもんど)、女の惡靈に逢ふ」と訓読する。

「加藤左馬介義明」(よしあき/よしあきら 永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)。会津藩初代領主。既出既注

「堀主水」(天正一二(一五八四)年~寛永一八(一六四一)年)加藤家家臣。主水は通称、元姓は多賀井。多賀井家は和泉淡輪の土豪で織田信長に従い、紀伊の根来雑賀衆と戦うなどした。主水は成長して加藤嘉明に仕え、大坂の陣で善戦して敵将を討ったことから(次章でも語られる)堀姓及び加藤家の軍事の采配権が与えられ、会津に移ってからはここにあるように三千石を与えられ、次の息子明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年:加藤嘉明長男。会津藩第二代藩主。既出既注)の代になってからも家老として国政に関わったが、放埓な明成をしばしば諫めた結果、彼から憎しみを買い、遂には会津騒動で斬首されることとなる(それはまた次章で語られる)。

「塔寺の八幡宮」」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺松原にある心清水八幡神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。道を挟んだ東隣には既出既注の恵隆寺(立木観音堂)がある。社伝によれば、陸奥守源頼義が天喜三(一〇五五)年にこの地に八幡神社を勧請したのを起源とするという。会津藩の崇敬を受けた。

「高瀨」九キロメートルほど東になるが、福島県河沼郡高瀬西という地名を見出せはする(ここ(グーグル・マップ・データ))が、ここかどうかは不明。直ぐ東を日橋川という川は流れている。

「水にひたり」「水に浸り」。

「籠の内より」三千石取りの軍師采配の家臣であるから、プライベートな参拝ではあるが、籠に乗っているのである。

「中の目」現在の河沼郡会津坂下町内に中目十日町という旧地名を見出せる(ここ(グーグル・マップ・データ))が、ここかどうかは判らないが、前の二つの地名の位置関係から見るならば、とんでもない位置とは言えない。

「人目の關を急(せき)て」「人目の關」は関所のように人を容易に通さない意から、人目が憚られて思うままに逢えないことを言い、「急(せき)て」はその「関」に掛けながら、「(恋しい思いのために)心がどうにも激しく動き」しようがない気持ちを謂っていよう。

「寶積寺(はうしやくじ)」福島県会津若松市花見ケ丘に現存する曹洞宗宝積寺(ほうしゃくじ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、ここのまさに裏手(実際に山である)には後年、白虎隊ら、会津藩士が実弾の訓練をしたと言われる的跡がある。

「神指原(カミサシハラ)の新城(しんじやう)の跡」現在の福島県会津若松市神指町本丸(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった神指城(こうざしじょう)址。慶長三(一五九八)年)正月に会津へ移封の命を受けた上杉景勝が、会津盆地の東南隅に位置する若松城が狭隘であることを憂慮し、慶長五(一六〇〇)年二月より、盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原(こうざしがはら)に新たな城の建設を始めた(惣奉行は直江兼続)。石塁・二の丸・堀まで構築したが、六月の酷暑のために休工し、さらに徳川家康の会津征伐によって竣工に至らず、関ヶ原の戦いの後、慶長六(一六〇一)年八月、上杉景勝は米沢へ移封となり、完成を待たずして神指城は破却された(慶長年間に石垣は若松城へ運ばれた模様)。以上はウィキの「神指城」に拠った。

「鷹野」鷹狩りのこと。

「藥師堂の刑罰場」先行する「巻之三 藥師堂の人魂」で考証済みで、この附近(グーグル・マップ・データ)と私は推定した。

「大そとば」「大卒塔婆」。

「とふりける」「通りける」。

「天寧寺」福島県会津若松市東山町石山天寧に現存する曹洞宗萬松山天寧寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「天寧寺(会津若松市)によれば、文安四(一四四七)年に『蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる。勧請開山は傑堂能勝であった。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺』三十三ヶ寺、僧堂十二棟『を数えたとされる』。『蘆名家中興の英主とされ、会津地方に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭』百『貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水』一千『名を擁する蘆名氏の菩提寺であった』。天正一四(一五八六)年、『蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶え、伊達氏と佐竹氏の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男・義広が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国白河の白河結城氏を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが』、翌年、『蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った』。義広は天正一七(一五八九)年の『摺上原の戦いの敗北により』、『米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時』、『焼亡している。当時の遺構として残っているのは本堂の礎石のみである』という。『会津を追われた蘆名義広は実兄・義宣を頼って常陸国に逃れ、のち、豊臣秀吉から常陸国江戸崎』四万五千石を『与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した』。『後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている』。因みに、この『境内裏手には、戊辰戦争に敗れ』、『刑死した新選組局長近藤勇の墓がある。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は土方歳三が遺体の一部を葬ったとされている』とある。