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2017/03/24

冬近く   山村暮鳥

 

  冬近く

 

お前の目はふかい

それはまるで淵のやうだ

冬近く

その目の中にぽつちり……

ぽつちりと點じた一つの灯を思へ

此の眞實に生きよ

いまは薄暮である

此のさびしさを愛せよ

 

雪ふり蟲   山村暮鳥

 

  雪ふり蟲

 

いちはやく

こどもはみつけた

とんでゐる雪ふり蟲を

而も私はまだ

一つのことを考えてゐる

 

[やぶちゃん注:「考えて」はママ。「雪ふり蟲」については途上所見で既注。]

 

或る風景   山村暮鳥

 

  或る風景

 

みろ

大暴風の蹶ちらした世界を

此のさつぱりした慘酷(むごた)らしさを

骸骨のやうになつた木のてつぺんにとまつて

きりきり百舌鳥(もず)がさけんでゐる

けろりとした小春日和

けろりとはれた此の蒼空よ

此のひろびろとした蒼空をあふいで耻ぢろ

大暴風が汝等のあたまの上を過ぐる時

汝等は何をしてゐた

その大暴風が汝等に呼びさまさうとしたのは何か

汝等はしらない

汝等の中にふかく睡つてゐるものを

そして汝等はおそれおののき兩手で耳をおさへてゐた

なんといふみぐるしさだ

人間であることをわすれてあつたか

人間であるからに恥ぢよと

けろりとはれ

あたらしく痛痛しいほどさつぱりとした蒼空

その下で汝等はもうあらしも何も打ちわすれて

ごろごろと地上に落ちて轉つてゐる果實(きのみ)

泥だらけの靑い果實をひろつてゐる

おお此の蒼空!

 

[やぶちゃん注:太字「あらし」は原典では傍点「ヽ」。

「蹶ちらした」「けちらした」と訓じているものと思われるが、これは「蹶」の字の音「ケツ」からの当て訓のように思われる。「蹶」には「つまずく・失敗する・倒れる・ひっくり返る・殺す・根元から抜き取る・躍る・飛び上がる・走る・動かす」等の意はあるが、対象を「蹴散らす」の意はないからである。

「おお此の蒼空!」例外的に述べておくと、六年後にイデア書院から刊行された改版「風は草木にささやいた」ではこの一行が削除されている。私は改版を支持しない。

 

草の葉つぱの詩   山村暮鳥

 

  草の葉つぱの詩

 

晩秋の黃金色のひかりを浴びて

野獸の脊の毛のやうに荒荒しく簇生してゐる草の葉つぱ

一まいの草の葉つぱですら

人間などのもたない美しさをもつ

その草の葉つぱの上を

素足ではしつて行つたものがある

素足でその上をはしつて行つたものに

そよ風は何をささやいたか

こんなことにもおどろくほど

ああ人間の惱みは大きい

素足でその上をはしつて行つたものがあると

草の葉つぱが騷いでゐる

 

[やぶちゃん注:「簇生」「そうせい」とも「ぞくせい」とも読め、草木などが群がって生えることを指すが、私は清音の方が好きだ。「叢生」と同義である。]

 

秋のよろこびの詩   山村暮鳥

 

  秋のよろこびの詩

 

靑竹が納屋(なや)の天井の梁にしばりつけられると

大きな摺臼は力強い手によつてひとりでに廻りはじめる

ごろごろと

その音はまるで海のやうだ

金(きん)の穀物は亂暴にもその摺臼に投げこまれて

そこでなかのいい若衆(わかいしゆ)と娘つ子のひそひそばなしを聞かせられてゐる

ごろごろと

その音はまるで海のやうだ

ごろごろごろごろ

何といふいい音だらう

あちらでもこちらでもこんな音がするやうになると

お月樣はまんまるくなるんだ

そしてもうひもじがるものもなくなつた

ああ收穫のよろこびを

ごろごろごろごろ

世界のはてからはてまでつたへて

ごろごろごろごろ

 

[やぶちゃん注:「廻」は原典の用字。]

 

人間の神   山村暮鳥

 

  人間の神

 

手に大鍬をつつぱつて

ひろびろとした穀物畠の上をしみじみ眺めてゐる

としよつた農夫の顏よ

その顏の神神しさよ

農夫は世界のたましひである

農夫は人間の神である

黎明(よあけ)からのはげしい勞働によつて

崖壁のやうな胸をながれる脂汗

その胸にたたへた人間の愛によつて

穀物は重い穗首をひくく垂れた

みよ一日はまさに終らんとしてゐる

赤赤しい夕燒け空

大鍬の泥土(どろ)をかきおとすのもわすれて

農夫はひろびろとした穀物畠を飽かずながめてゐる

その彼方(かなた)にあかあかと

太陽は今やすらかにはいつて行くところだ

 

愛の力   山村暮鳥

 

  愛の力

 

穀物に重い穗首をたれさせる愛のちからは大きい

赤赤しい秋の日

ひろびろとした穀物畠

ひろびろと

としよつた農夫はそれに見惚れ

煙管の吸ひ殼をはたきながら

いたづらな雀や鴉に何をかたつてゐるのか

ゆたかに實のつた穀物は金(きん)の穗首をひくくたれて

だまつてそれを聞いてゐる

穀物に重い穗首をたれさせる愛のちからは大きい

黃銅(あかがね)のやうなその農夫のあたまの上に

蜻蛉が一ぴき光つてゐる

何といふ靜かさであらう

 

蝗   山村暮鳥

 

  

 

くるしみはうつくしい

人間の此の生きのくるしみ

これは人間ばかりでない

これが自然の深い大きな意志であるのか

 

深藍色にすつきりとした空

秋の日のうすらさみしさ

あちらこちらの畦畦にみすぼらしい彼等をみよ

女達と子ども等と

その手をのがれて逃げまどふ蝗蟲(いなご)を

ひつそりと貧しい村村

ながながしい鷄の聲

田の面はひろびろと凪ぎ

蝗蟲がぴよんぴよん飛んでゐる

それをつかまへようとしてあらそひ

それを追つ驅けまはしてゐる彼等

しきりにぴよんぴよんと

弱弱しい晝過ぎの光線を亂してとんでゐる

そしてまんまと捕へられる蝗蟲よ

 

[やぶちゃん注:「深藍色」気になって調べてみたところ、和名色名としては、何とこれで「ふかきあゐいろ」と訓ずるらしい。そうして、そう訓じた時こそ私はこの部分を素直に気持ちよく朗唱出来ることに気づいたのである。]

 

自分はさみしく考へてゐる   山村暮鳥

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  自分はさみしく考へてゐる

 

ひとびとを喜ばすのは善いことである

自分をよろこばすのは更に善いことである

ひとびとをよろこばすことは

或は出來るかも知れぬ

自分をよろこばすことは大切であるが容易でない

物といふあらゆる物の正しさ

みなその位置を正しく占めてゐる秋の一日

すつきりと冴えた此の手よ

瘦せほそつた指指よ

こんなことを自分はひとり考へてゐる

なんといふさみしい自分の陰影(かげ)であらう

 

太陽はいま蜀黍畑にはいつたところだ   山村暮鳥

 

  太陽はいま蜀黍畑にはいつたところだ

 

一日の終りのその束の間をいろどつてゆつたりと

太陽はいま蜀黍畑にはいつたところだ

大きなうねりを打つて

いくへにもかさなりあつた丘の畑と畑とのかなたに

赤赤しい夕燒け空

枯草を山のやうに積んだ荷馬車がかたことと

その下をいくつもつづいてとほつた

何といふやすらかさだ

此の大きいやすらかな世界に生きながら人間は苦んでゐる

そして銘々にくるしんでゐる

それがうつくしいのだ

此のうつくしさだ

どこか深いところで啼いてゐるこほろぎ

自分を遠いとほいむかしの方へひつぱつてゆくその聲

けれど過ぎさつた日がどうなるものか

何もかも明日(あした)のことだ

何もかも明日のことだ

 

[やぶちゃん注:太字「こほろぎ」は原典では傍点「ヽ」。ここで初めて、山村暮鳥は、彼にとって蟋蟀(こほろぎ)の、あ「の聲」が「自分を遠いとほいむかしの方へひつぱつてゆく」ものであることを告白していることに注意されたい。]

 

故郷にかへつた時   山村暮鳥

 

  故郷にかへつた時

 

これではない

こんなものではない

自分が子どもでみた世界は

山山だつてこんなにみすぼらしく低くはなかつた

何もかもうつくしかつた

 

握手   山村暮鳥

 

  握手

 

どうしたといふのだ

そのみすぼらしいしほれやうは

そのげつそりと瘦せたところはまるで根のない草のやうだ

おい兄弟

どうしたといふのだ

何はともあれ握手をもつてはじめることだ

さあその手をだしたまへ

しつかりと自分が握つてやる

大麥を刈りとつた畠に

これはいま秋そばを播きつけてきた手だ

どんなことでもしつてゐる手だ

どんなことにも耐へてきた手だ

土臭いとて顏を蹙めるな

此の手は君に確信を與へる

ぐつとつきだせ

もぢもぢするのは耻づべき行爲だ

君もその手に力をこめて

そして自分の痛いといふほど

握りかへしてくれ

それでよろしい

強く正しく直立(つつた)て!

 

[やぶちゃん注:二行目「しほれやうは」の「ほ」はママ。]

 

都會の詩   山村暮鳥

 

  都會の詩

 

けむりの渦卷く

薄暮の都會

ぽつと花のやうに點じ

蔓のやうな燈線のいたるところで

黃金色に匂ふ燭光のうつくしさよ

黃金色に匂ふ千萬の燭光

みろ

都會はまるで晝のやうだ

だいあもんどがなんだ

るびいがなんだ

此の壯麗な都會の街街家家

ここに棲む人間なればこそどんな苦みをも耐へるのだ

ここにすむ人間の幸福

ああ何もいらない

此の壯麗に匹敵するものは何か

此の幸福の上にあつて

都會は生きてゐる

よるのふけるにしたがつて

よるがふければふけるほど

だんだん都會は美しく光りかがやき

ここで疲れた人間が神神のやうに嚴かな眼瞼(まぶた)を靜にとぢるのだ

此のうつくしさは生きてゐる

 

[やぶちゃん注:太字は原典では傍点「ヽ」。]

 

都會の詩   山村暮鳥

 

  都會の詩

 

煤烟はうつくしい

その煤烟で一ぱいになつた世界だ

その中にある此の大都會

働く者のかほをみろ

その手足をみろ

何といふ崇高(けだか)いことだ

ああ煤烟

その中でうめく勞働者の群

ふしぎなこともあればあるものだ

これが新鮮で

而も立派にみえるのだ

なにもかも慘酷のすることだ

ああたまらない

ひきつけられる

 

汽車の詩   山村暮鳥

 

  汽車の詩

 

信號機(シグナル)がかたりと下りた

そこへ重重しい地響をたてて

大旋風のやうに堂々と突進してきた汽車

みろ

並行し交叉してゐる幾條のれーるのなかへ

その中の一本の線をえらんで

飛びこんできた此の的確さ

そしてぴたりとぷらつとほーむで正しくとまつた

此立派さを何といはうか

此の勇敢は壓迫する

けれど道は遠い

滊罐(ヱンジン)をば水と石炭とでたつぷり滿たせ

而して語れ

子どもらの歡呼をうけてきたことを

それから女の首と手足をばらばらにしたことを

木も家もひつくりかへして見せたことを

子どもらの愛するものよ

此の力強さを自分も愛する

 

[やぶちゃん注:太字は原典では傍点「ヽ」。]

 

新聞紙の詩   山村暮鳥

 

  新聞紙の詩

 

けふ此頃の新聞紙をみろ

此の血みどろの活字をみろ

目をみひらいて讀め

これが世界の現象(ありさま)である

これが今では人間の日日の生活となつたのだ

これが人類の生活であるか

これが人間の仕事であるか

ああ慘酷に巣くはれた人間種族

何といふ怖しい時代であらう

牙を鳴らして嚙合ふ

此の呪はれた人間をみろ

全世界を手にとるやうにみせる一枚の新聞紙

その隅から隅まで目をとほせ

活字の下をほじくつてみろ

その何處かに赭土の瘠せた穀物畠はないか

注意せよ

そしてその畝畝の間にしのびかくれて

世界のことなどは何も知らず

よしんばこれが人間の終焉(をはり)であればとて

貧しい農夫はわれと妻子のくふ穀物を作らねばならない

そこに殘つた原始の時代

そこから再び世界は息をふきかへすのだ

おお黃金色(こがねいろ)した穀物畠の幻想

此の黃金色した幻想に實のる希望(のぞみ)よ

 

ひとりごと   山村暮鳥

 

  ひとりごと

 

一日中のはげしい勞働によつて

ぐつたりとつかれた體軀(からだ)

今朝(けさ)みると

むくむくと肥え太り

それがなみなみと力を漲らしてゐる

そしてあふれるばかりになつてゐる

それは大きな水槽が綺麗な水を一ぱいたたえてゐるやうだ

たらたらと水槽には筧の水がしたたるのだが

おお此の肉體の力はよ

それは眠つてゐるまに何處(どこ)から來たか

力はあふれる水のやうなものだ

肉體から充ちあふれさうな此の力

それをまたけふもけふとて彼方(かなた)で頻りに待つてゐる

あの丘つづきの穀物畠

あの色づいて波立てる麥の畠をおもへ

此の新しい日のひかり

新しくあれ

ゆたかな力のよろこびに生きろ

 

[やぶちゃん注:七行目「たたえてゐる」はママ。]

 

2017/03/23

此の世界のはじめもこんなであつたか   山村暮鳥

 

  此の世界のはじめもこんなであつたか

 

うすむらさきのもやのはれゆく

海をみろ

此のすきとほつた海の感覺

ああ此の黎明

この世界のはじめもこんなであつたか

さざなみのうちよせるなぎさから

ひろびろとした海にむかつて

一人のとしよつた漁夫がその掌(て)をあはせてゐる

渚につけた千鳥のあしあともはつきりと

けさ海は靜穩(おだや)かである

 

秋ぐち TO K.TŌYAMA.   山村暮鳥

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  秋ぐち
    
TO K.TŌYAMA.

 

さみしい妻子をひきつれて

遙遙とともは此地を去る

渡り鳥よりいちはやく

そして何處(どこ)へ行かうとするのか

そのあしもとから曳くたよりない陰影(かげ)

そのかげを風に搖らすな

秋ぐちのうみぎしに

錨はあかく錆びてゐる

みあげるやうな崖の上には桔梗や山百合がさいてゐる

紺靑色の天(そら)よりわたしの手は冷い

 

友よ

おん身のまづしさは酷すぎる

而もおん身の落窪んだその目のおくに眞實は汚れない

生(いのち)を知れ

友よ

人間は此の大きな自然のなかで銘銘に苦んでゐるのだ

しづかに行け

 

[やぶちゃん注:「K.TŌYAMA.」「Ō」長音符と思われる部分の左右は、原典では下の「O」に沿って下がっているが、再現出来ないので、ここでかく注した。この人物(姓「遠山」?)は不詳。白神氏の「山村暮鳥年譜」によれば、本詩篇は大正六(一九一七)年十月刊の『感情』に初出された旨の記載がある。]

先驅者の詩  山村暮鳥

 

  先驅者の詩

 

此の道をゆけ

此のおそろしい嵐の道を

はしれ

大きな力をふかぶかと

彼方(かなた)に感じ

彼方をめがけ

わき目もふらず

ふりかへらず

邪魔するものは家でも木でもけちらして

あらしのやうに

そのあとのことなど問ふな

勇敢であれ

それでいい

 

大きな腕の詩   山村暮鳥

 

  大きな腕の詩

 

どこにか大きな腕がある

自分はそれを感ずる

自分はそれが何處にあるか知らない

それに就ては何も知らない

而もこれは何といふ力強さか

その腕をおもへ

その腕をおもへば

どんな時でも何處からともなく此のみうちに湧いてくる大きな力

ぐたぐたになつてゐた體軀(からだ)もどつしりと

だがその腕をみやうとはするな

見やうとすれば忽ちに力は消へてなくなるのだ

盲者(めくら)のやうに信じてあれ

ああ生きのくるしみ

その激しさにひとしほ強くその腕を自分は感ずる

幸薄(さちうす)しとて呟くな

どこかに大きな腕があるのだ

人間よ

此のみえない腕をまくらにやすらかに

抱かれて眠れ

 

[やぶちゃん注:太字「みうち」は原典では傍点「ヽ」。十行目「だがその腕をみやうとはするなの「や」、十一行目「見やうとすれば忽ちに力は消へてなくなるのだ」の「や」及び「へ」はママ。]

 

溺死者の妻におくる詩   山村暮鳥

 

  溺死者の妻におくる詩

 

おんみのかなしみは大きい

女よ

おんみは靈魂(たましひ)を奪ひ去られた人間

おんみの生(ライフ)は新しく今日からはじまる

その行末は海のやうだ

そしてさみしい影を引くおんみ

けふもけふとて人人はそれを見たと言ふ

何んにも知らずにすやすやとねむつたあかんぼ

そのあかんぼを脊負つて泣きながら

渚をあちらこちらと彷徨(さまよ)つてゐるおんみの殘すその足あと

その足あとを洗ひけす波波

女よ

おんみは此の怖ろしい海をにくむか

にくんではならない

おんみは此のひろびろとした海を恨むか

うらんではならない

海でないならと呟くな

ああそれが海である悲しさに於て

靜におもへ

海はただ轟轟と吼えてゐるばかりだ

波は岸を嚙みただ荒狂つてゐるばかりだ

海に惡意がどこにある

それは自然だ

けれど溺れる人間の小ささよ

人間の無力を知れ

溺れたものがどうなるか

いたづらになげきかなしむことをやめ

それよりは脊負ふその子を立派に育てることだ

強く強く

海より強く

波より強く

その手の上に眠る海

その手の下に息を殺した暴風(あらし)と波と

此の壯大な幻想を

あかんぼの未來に描け

それをたのしみに生きろ

その子のちからが此の大海を統御する時

おんみはもはや惡まず恨まず

此の海をながめ

此の海の無私をみとめて

はじめて人間を知るであらう

人間を

そして此の海をかき抱いて愛するであらう

而もおんみはそれまでに

いくたび海に悲しくも語らねばならぬか

せめてその屍體(なきがら)なりと返してよと

ああ若くして賴(よ)るべなき寡婦(やもめ)よ

 

或る淫賣婦におくる詩   山村暮鳥

 

  或る淫賣婦におくる詩

 

女よ

おんみは此の世のはてに立つてゐる

おんみの道はつきてゐる

おんみはそれをしつてゐる

いまこそおんみはその美しかつた肉體を大地にかへす時だ

靜かにその目をとぢて一切を忘れねばならぬ

おんみはいま何を考えてゐるか

おんみの無智の尊とさよ

おんみのくるしみ

それが世界(よ)の苦みであると知れ

ああそのくるしみによつて人間は赦される

おんみは人間を救つた

おんみもそれですくはれた

どんなことでもおんみをおもへばなんでもなくなる

おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時

それをみて石を投げつけたものは誰か

あの野獸のやうな人達をなぐさむるために

年頃のその芳醇な肉體を

ああ何の憎しみもなく人人のするがままにまかせた

齒を喰ひしばつた刹那の淫樂

此の忍耐は立派である

何といふきよらかな靈魂(たましひ)をおんみはもつのか

おんみは彼等の罪によつて汚れない

彼等を憐め

その罪によつておんみを苦め

その罪によつておんみを滅ぼす

彼等はそれとも知らないのだ

彼等はおのが手を洗ふことすら知らないのだ

泥濘(どろ)の中にて彼等のためにやさしくひらいた花のおんみ

どんなことでもつぶさに見たおんみ

うつくしいことみにくいこと

おんみはすべてをしりつくした

おんみの仕事はもう何一つ殘つてゐない

晴晴とした心をおもち

自由であれ

寛大であれ

ひとしれずながしながしたなみだによつて

みよ神神(かうかう)しいまで澄んだその瞳

聖母摩利亞のやうな崇高(けだか)さ

おんみは光りかがやいてゐるやうだ

おんみの前では自分の頭はおのづから垂れる

ああ地獄のゆり

おんみの行爲は此の世をきよめた

おんみは人間の重荷をひとりで脊負ひ

人人のかはりをつとめた

それだのに捨てられたのだ

ああ正しい

いたましい地獄の白百合

猫よ

おんみはこれから何處へ行かうとするのか

おんみの道はつきてゐる

おんみの肉體(からだ)は腐りはじめた

大地よ

自分はなんにも言はない

此の接吻(くちつけ)を眞實のためにうけてくれ

ああ何でもしつてゐる大地

そして女よ

曾て彼等の讃美のまつただ中に立ちながら

ひとときのやすらかさもなかつた

おんみを蛆蟲はいま待つてゐるのだ

あらゆるものに永遠の生をあたへ

あらゆるものをきよむる大地

此の大地を信ぜよ

人間の罪の犧牲としておんみは死んでくださるか

自分はおんみを拜んでゐる

彼等はなんにもしらないのだ

わかりましたか

そして吾等の骨肉よ

いま一どこちらを向いて

おんみのあとにのこる世界をよくみておくれ

 

[やぶちゃん注:太字「ゆり」は底本では傍点「ヽ」。七行目「おんみはいま何を考えてゐるか」の「え」、十五行目「おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時」の「え」、「神神(かうかう)しい」のルビ「かうかう」(二本を確認したが、現行諸本のように「かうがう」と後半は濁音にはなっていない。連濁でしかないない以上、濁音に《訂する》必要性を私は全く感じない)は、総てママ。「讃美」の「讃」は原典の用字。但し、最後から二行目の「いま一どこちらを向いて」は原典では「いま一どこららを向いて」となっていて、これでは読めない。これは最早、「こちら」の誤植と校正洩れしか思われない。現行諸本も無論、「こちら」となっているので、特異的に訂した。]

 

キリストに與へる詩   山村暮鳥

 

  キリストに與へる詩

 

キリストよ

こんなことはあへてめづらしくもないのだが

けふも年若な婦人がわたしのところに來た

そしてどうしたら

聖書の中にかいてあるあの罪深い女のやうに

泥まみれなおん足をなみだで洗つて

黑い房房したこの髮の毛で

それを拭いてあげるやうなことができるかとたづねるのだ

わたしはちよつとこまつたが

斯う言つた

一人がくるしめばそれでいいのだ

それでみんな救はれるんだと

婦人はわたしの此の言葉によろこばされていそいそと歸つた

婦人は大きなお腹(なか)をしてゐた

それで獨り身だといつてゐた

キリストよ

それでよかつたか

何だかおそろしいやうな氣がしてならない

 

 

くだもの   山村暮鳥

 

  くだもの

 

まつ赤なくだもの

木の上のくだもの

それをみたばかりで

人間は寂しい盜賊(どろばう)となるのだ

此の手がおそろしい

 

收穫の時   山村暮鳥

 

  收穫の時

 

黃金色に熟れた麥麥

黃金色のビールにでも醉ふやうに

そのゆたかな匂ひに醉へ

若い農夫よ

此處はひろびろとした畠の中だ

娘つ子にでもするやうに

かまふものか

穀物の束をしつかり抱きしめてかつぎだせ

山のかなたに夕立雲はかくれてゐる

このまに

このまに

いま

そして君達の收穫のよろこびを知れ

刈り干された穀物を愛せよ

 

記憶について   山村暮鳥

 

  記憶について

 

ぽんぽんとつめでひき

さてゆみをとつたが

いつしか調子はくるつてゐる

ほこりだらけのヴアヰオリン

それでもちよいと

草の葉つぱのどこかのかげで啼いてゐる

あの蟋蟀(きりぎりす)の聲をまねてみた

 

[やぶちゃん注:太字「ゆみ」は原典では傍点「ヽ」。

「蟋蟀(きりぎりす)」漢語としては「蟋蟀」はコオロギ(一般には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属する種の総称)で、上科レベルで異なる全く違う種群であるキリギリス(剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis に属する種の総称)には「螽斯」「螽」という別漢字表記が現在はあるが、和語としての「こおろぎ」は秋に鳴く虫を広く指す語として古くから存在し、しかも面倒なことに平安時代には現在の「コオロギ」を「きりぎりす」と呼んでいた(現在の「キリギリス」は「はたおり」(機織)という別称で呼ばれた)。こうした経緯から、近代以降でも「蟋蟀」には「こおろぎ」と「きりぎりす」の二様の読みが残り続けてしまい、近代小説でも、それが果たして現在の「コオロギ」と「キリギリス」のどちらの種を指すかは思ったほど明確に識別は出来ないのが現状である。最も知られたものでは芥川龍之介の「羅生門」の冒頭に出る、「蟋蟀(きりぎりす)」であろう。かつての教科書の注にはわざわざコオロギの古名という注まであったものだ。脱線になるが、但し、芥川龍之介の「羅生門」の「蟋蟀(きりぎりす)」は現行のコオロギではないと私はずっと考えてきたし、そう授業し続けた。何故なら、冒頭に出るそれは『或日の暮方の事である。一人の下人(げにん)が、羅生門(らしやうもん)の下で雨やみを待つてゐた。』『廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々丹塗(にぬり)の剝げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。』(底本は岩波旧全集。但し、「きりぎりす」の「ぎり」は底本では踊り字「〱」である)と描写されており、大きな丸柱に、有意に柱の下部から離れた視認出来る位置にとまっているのは現在の、ちんまい地味な黒っぽいか茶褐色の「コオロギ」よりも、現在の比較的大きな緑色を呈した「キリギリス」の方が、遙かに自然であり、色彩の点じ方にも配慮がなされてあると読めるからである。閑話休題。では、山村暮鳥のこれはどちらか? そもそもが前に「ヴアヰオリン」が出て「きりぎりす」とくれば、「アリとキリギリス」だろう。いやいや、実は以前の詩篇で暮鳥は頻繁に「蟋蟀」を出すほどに「コオロギ」の声が好きなのである。しかも、その先行する詩篇の一部の「蟋蟀」には、はっきり「こおろぎ」とルビを振っているのである。従って、少なくとも私はここまでの「蟋蟀」は真正の現在の「コオロギ」であり、ここに関しては真正の「キリギリス」であると考える。それはヴァイオリンで鳴き真似をし易いのがどちらかを考えて見ても判る。ちょっと頑張れば断然、キリギリスの方が鳴き真似出来そうだ、コオロギは難しい、と私は大真面目に思うからである。

一本のゴールデン・バツト   山村暮鳥

 

  一本のゴールデン・バツト

 

一本の煙草はわたしをなぐさめる

一本のゴールデン・バツトはわたしを都會の街路につれだす

煙草は指のさきから

ほそぼそとひとすぢ靑空色のけむりを立てる

それがわたしを幸福にする

そしてわたしをあたらしく

光澤(つや)やかな日光にあててくれる

けふもけふとて火をつけた一本のゴールデン・バツトは

騷がしいいろいろのことから遠のいて

そのいろいろのことのなかにゐながら

それをはるかにながめさせる

ああ此の足の輕さよ

 

[やぶちゃん注:「ゴールデン・バツト」の中黒点は有意に大きいが、再現すると、読みが却って躓くように思われるので再現をやめた。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(5) /「空を飛ぶ話」~了

 

「我衣」に出てゐる話は晝間ではない。夜半過ぎの月夜の室に、花火のやうなものが出たかと思ふと、そのあとから狩衣を著けた人の靑馬に乘つて行くのが見えた。馬の膝より上は見えて、蹄のあたりは見えなかつたとある。この事は「街談文々集要」にもあり、「我衣」とは一日の相違があるが、場所も兩國廣小路、萌黃の狩衣を著けた馬上姿、馬の先に火の玉が飛んだといふ點まで一致してゐるから、先づ同じと見てよからう。この姿を見た時、皆恐怖して目と目を見合せ、女などはその晩眠れなかつたと「我衣」は云ひ、廣小路へ出る講釋師で、翌日早速この話をした者があつたと「街談文々集要」には書いてある。今ならニュースのハシリを使つたものらしい。

[やぶちゃん注:「我衣」以前に述べた通り、同書は所持しないので確認出来ないが、幸い、きりよん氏のブログ「きよりんのUFО報告」の日本における神火-その絵画的表現からの問題提起-48に引用されてあるのを発見したので、以下に恣意的に正字化して引かせて戴いた。

   *

多紀安長先生の三番目の弟は、貞吉殿とて、幼稚より醫をきらひ、儒學の功つもりて一家をなし、頗る雅も有りて、醫學館の傍らに住まれし。七月十八日の夜、家内の男女三四人連れて、兩國橋に暑をさけんと、夜行の歸りは九ツ時[やぶちゃん注:午前零時。]過ぎにや成りけん。廣小路も人まばらにして、月さへよく照り增したるに、いがらしが家の上ころと覺へし所より、花火の如き物出て、元柳橋の方へゆらめき行く。あれよと見上げたるに、その後より狩衣を着たる人の靑馬に乗りて宙を行く。その高さ一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]ばかり上なり。馬の膝より上は見えて、蹄のあたり見えず、皆恐怖して目と目を見合せ、茫然たるばかりにて、女などは戰慄して宿所に歸りて、その夜一目も合はずと。その兄御成山崎宗固に右の趣語られしを、師君の御城直に於て聞かれしと予に語り給ふ。いかなるものなるや。不審の極といふべし

   *

「街談文々集要」石塚豊芥子(別名・集古堂豊亭)が文化文政期(一八〇四年~一八二九年)の巷間の話題を書き記したもの。やはり所持しないが、前のきりよん氏の同記事に合わせて引かれてあったので、やはり正字化して引用させて戴いた(そこには引用を「街談文々集要」の『丙の中』としておられる)。途中に挟まれているきりよん氏の注は省かさせて貰った。

   *

文化十三年七月十七日の夜、萌黃(もえぎ)の狩衣を着し、あし毛の馬に乘りて天を飛びしものあり。兩國廣小路にても見しもの多くあり。このとびものの時、馬の先へ立て火の玉も飛びしよし。翌日廣小路の講釈師、この事を咄したるよし。奇怪なる事なり。

   *

「文化十三年」は一八一六年。但し、「我衣」の記事は年号を示しておらず、柴田が言うように、これが同じものと推定してよいかどうかは私は微妙に留保するものである。]

 本郷五丁目の伊勢屋吉兵衞といふ者が見たのは晴天の眞晝であつた。物干に仰向きになつて空を眺めてゐると、一點の雲もない空を、東の方から悠々と通過する者の形が繪に書いた麟麟に似てゐた。誰か呼んで見せたいと思つたが、あいにく傍に人が居らぬので、自分だけで見るより仕方がなかつた。次第に北西の方へ行つて、遂に何も見えなくなつた。 ――これも「我衣」の記事である。

「奇異珍事錄」の傳へてゐるのは牛込筑土邊の話で、七ツ過ぎ(午後四時)と覺しき頃、一羽の鶴が西から東へ飛んで行つた。その鶴の背中に小さな仙人が乘つて、何か卷物のやうなものを見てゐた。あツと思ふうちに、向う屋敷の屋根に隔てられて見えなくなつてしまつたが、鶴は鳶ぐらゐの大きさに見えたさうである。これらの話が悉く江戸の町中であるのは、ちょつと不思議なやうな氣がする。

[やぶちゃん注:以上は同書の「二の卷」の掉尾にある「仙人」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。]

「四不語錄」にあるのは大分古く、寛永年中の話で、甲胃を背けた武士が馬に乘つて虛空を飛びめぐるのを、多くの人が見たといふのであるが、これもまた江戸であつた。

[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「四不語錄」を私は所持しないので原典を示せない。]

 鶴に乘るのは仙人として寧ろ平凡な光景だといふ人があるかも知れぬが、日本の例だけではいさゝか物足らぬから、支那の變つた例を「尚書故實」から出して置かう。盧某なる人が或日澄み切つた碧空を仰いでゐると、仙人が鶴に乘つて通過するのが見えた。それも一羽の鶴でなしに、前後に何羽も飛んで居り、たまたま一羽の鶴の背から他の鶴の背へ來り換へるのを見た。その狀は恰も人が馬を換へるやうであつたといふのである。これは慥かに珍しい。碧空の高きに在つて鶴から鶴へ乘り換へるなどは、考へただけでも目がくらむやうな氣がするが、谷に墜落して水瓶を破碎した松葉食ひの僧とは違ふ。眞に仙界の修行を積んだ者なら、平然としてこんな放れ業を演じ得るのであらう。鶴背の仙人を平凡だと云つたのは、無論單騎獨行の場合なので、鶴の乘り換へならば特筆大書して差支へあるまい。

[やぶちゃん注:「尚書故實」晩唐代の李綽(りしゃく)が著した小説集。上記は以下。

   *

又説表弟盧某、一日碧空澄澈、仰見仙人乘鶴而過、別有數鶴飛在前後、適睹自一鶴背遷一鶴背、亦如人換馬之狀。

   *

 吾々が讀んだ範圍に於て、最も美しい感じがしたのは「閲微草堂筆記」の中の一話である。尤もこれは空を飛ぶといふほど高空の話ではない。或庭の花盛りの時、女達がしきりに騷ぐのを聞いて、そつと窓を明けて見たら、桂の木の梢に掌ほどの蝶が舞つて居り、その蝶の背に紅い著物を著た、拇指(おやゆび)ぐらゐの女の子が坐つてゐるのであつた。蝶はひらひらと垣根を越え去つたが、鄰家の兒女もこれを見付けて聲を揚げた。或者は花月の妖であるかと疑ひ、或者は小さな人形を蝶の背中に縛つて放したのだらうと云つた。倂し目擊者に云はせると、その蝶に乘つた女の子の樣子は、あだかも馬を駕馭するが如くで、俯仰顧眄する意態も決して人形の類ではなかつたと主張してゐる。西洋の童話の妖精に似た姿を、支那の書物の中に見出したのは、いさゝか意外であつた。

[やぶちゃん注:「閲微草堂筆記」「四庫全書」総編集を担当した清の官僚で学者の紀昀(きいん 一七二四年~一八〇五年)の書いた志怪稗史。以上は「第十五卷」の「姑妄聽之 一」にある以下。

   *

慎人又言、一日、庭花盛開、聞婢嫗驚相呼喚。推窗視之、競以手指桂樹杪、乃一蛺蝶大如掌、背上坐一紅衫女子、大如拇指、翩翩翔舞、斯須過墻去。鄰家兒女、又驚相呼喚矣。此不知為何怪、殆所謂花月之妖歟。説此事時、在劉景南家、景南曰、「安知非閨閣遊戲、以通草花朶中人物縛於蝶背而縱之耶。」。是亦一説。慎人曰、「實見小人在蝶背、有磬控駕馭之狀、俯仰顧盼、意態生動、殊不類偶人也。」是又不可知矣。

   *

「駕馭」(がぎよ(がぎょ))は「駕御」とも書き、馬を自由に乗りこなす意。

「俯仰顧眄」(ふぎやうこべん(ふぎょうこべん))の「俯仰」は「俯(うつむ)くことと仰ぎ見ること・見回すこと」で、「顧眄」(「眄」は「見回すこと」「横目で見ること」)は「振り返って見ること」であるから、蝶を空中で馭するために、上下左右に目を配ることを指している。

「意態」挙止動作や行動姿勢のことであろう。]

大鉞   山村暮鳥

 

  大鉞

 

てうてうときをうてば

まさかりはきのみきをかむ

ふりあげるおほまさかりのおもみ

うでにつたはるこのおもみ

きはふるえる

やまふかくねをはるぶなのたいぼくをめがけて

うちおろすおほまさかり

にんげんのちからのこもつたまさかり

ああこのきれあぢ

このきのにほひのなまなましさ

ひつそりとみみをすましたやうなやまおく

やまやまにはんきやうして

てうてうときのみきにくひいるまさかり

おほまさかりはたましひをもつ

 

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「大鉞」は「おほまさかり(おおまさかり)」。五行目「きはふるえる」の「え」はママ。]

 

都會にての詩   山村暮鳥

 

  都會にての詩

 

都會はまるで海のやうだ

大波のよせてはかへす

此の海のやうな煤煙のそこで渦く

千萬の人間の聲聲

よせてはかへす聲の大波

大きな一つの聲となり

うねりくねり

のたうちながらも人間であれ

ああ海のやうな都會よ

その街街家家の軒かげにて

飢えながら雀でさへ生き

そこで卵をあたため孵えしてゐるのだ

強くあれ

強くあれ

人間であることを信じろ

それを確く

 

[やぶちゃん注:「飢えながら」の「え」、「孵えして」の「え」はママ。

「渦く」「うづまく」。

「確く」「かたく」。]

 

刈りとられる麥麥の詩   山村暮鳥

 

  刈りとられる麥麥の詩

 

ああ何といふ美しさだ

此のうつくしさは生きてゐる!

みろ

麥畑はすつかりいろづき

ところどころの馬鈴薯(じやがいも)と

蠶豆(そらまめ)と葱と菜つぱと

大きな大きなみはてのつかない此のうつくしさ

一めん黃金(きん)いろに麥は熟れ

刈りとられるのをまつてゐるやうな此のしづかさ

あちらこちらではじまつた麥刈り

あちらこちらから冴えざえときこえる鎌の刄の音

水の迸(はし)るやうな此の音のするどさ

わたしの心は遠いところで歔欷(すすりなき)をやめない

彼女は何をしてゐることか

わたしは彼女のことを思つてゐる

その上に此のひろびろとした畑地の美しさを堆積(つみかさ)ねるのだ

片つ端から刈りとられる麥麥

冴えざえと鋭くきこえる鎌の刄の音

麥もわたしとその音をきいてゐるのか

ゆたかに實のり

ぐつたりと重い穗首を垂れた麥麥

 

波だてる麥畑の詩   山村暮鳥

 

  波だてる麥畑の詩

 

わたしらを圍繞(とりま)くひろびろとした此の麥畑から

この黃金色した畝畝の間から

私はかうして土だらけの手を君達のかたへとさし伸べる

君達は都會の大煙筒のしたで

終日じつと何をかんがへてゐるのだ

それが此の目にみえるやうだ

ああ大東京の銀座街

そこでもそよ風は華奢にひらひら翻つてゐることか

そのそよ風のもつてゆく生生しい穀物のにほひで

街の店店はみたされたか

すこやかであれ

すこやかであれ

都會は君達のうへにのしかかり

そして君達はくるしんでゐる

それは君達ばかりではない

それだからとてどうなるものか

しつかりしろ

ああ此の波だてる麥畑

わたしらをおもへ

わたしらはこの麥ばたけで

君達のうしろに立つてゐるのだ

君達の前額(ひたひ)をふいてゐるそよ風は私等がここからおくつてゐるのだ

ああ此の豊饒(ゆたか)な麥畑に

ああ此處にあるひばりの巣

その巣に小さな卵があると

私はこの事を君達に――全世界につげなければならない

 

[やぶちゃん注:「豊饒(ゆたか)な」の「豊」は原典の用字。]

郊外にて   山村暮鳥

 

  郊外にて

 

赭土の瘠せた山ぎはの畑地で

みすぼらしい麥ぼが風に搖られてゐた

わたしはすこし飢えてゐる

わたしは何かをもとめてゐる

麥ぼの上をとほつてどこへ行くのか

そよ風よ

みどり濃く色づいた風よ

都會の空をみろ

烟筒の林のしたの街街を

つばめはそのなかをとんでゐる

人人もそこに棲むのをよろこんでゐる

ここにゐてきこえる

あの空に反響する都會の騷擾

そこはまるで海のやうだ

風はそよそよと

麥穗に何をささやくのか

麥ぼは首をふつてゐる

それがさみしい

 

[やぶちゃん注:三行目の「飢えて」はママ。]

 

此處で人間は大きくなるのだ   山村暮鳥

 

  此處で人間は大きくなるのだ

 

とつとつと脈うつ大地

その上で農夫はなにかかんがへる

此の脈搏をその鍬尖に感じてゐるか

雨あがり

しつとりとしめつた大地の感觸

あまりに大きな此の幸福

どつしりとからだも太れ

見ろ

なんといふ豊富さだ

此の靑靑とした穀物畑

このふつくりとした畝畝

このひろびろとしたところで人間は大きくなるのだ

おお脈うち脈うつ大地の健康

大槌で打つやうな美である

 

[やぶちゃん注:「豊富」の「豊」の字は原典の用字。

「とつとつ」大地の「脈搏」のオノマトペイア。

「鍬尖」「くはさき(くわさき)」。]

 

ザボンの詩   山村暮鳥

 

  ザボンの詩

 

おそろしい嵐の日だ

けれど卓上はしづかである

ザボンが二つ

あひよりそうてゐるそのむつまじさ

何もかたらず

何もかたらないが

それでよいのだ

嵐がひどくなればなるほど

いよいよしづかになるザボン

たがひに光澤(つや)を放つザボン

 

[やぶちゃん注:「ザボン」双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属ザボン Citrus maxima。漢字では「朱欒」「香欒」「謝文」などと表記するが、私は「ブンタン」(文旦)或いは「ボンタン」(同じく漢字表記は「文旦」)という呼称の方が親しい。私の亡き母の郷里は鹿児島で、小さな頃から郷里の祖母が送って呉れた「ボンタン飴」がいつもオヤツだったし、あの巨大な生の実も食べたことがあるからである。梶井基次郎ではないが、剝き始めはまさに劉基(一三一一年~一三七五年:元末明初の軍人政治家で詩人)の「賣柑者之言」(賣柑者(ばいかんしや)の言(げん))の「鼻を撲(う)つ」それであった(関東の人はブンタンを生食したことのある人はあまり多くないと思う)。]

 

海の詩   山村暮鳥

 

  海の詩

 

どんよりとした海の感情

砂山にひきあげられた船船

波間でひどく搖られてゐるのもある

はるか遠方の沖から

こちらをさしてむくむくともりあがり

押しよせてくる海の感情

何處(どこ)からくるか

この憂鬱な波のうねりは

そこのしれないふかさをもつて

此の大きな力はよ

ああ海は生きてゐる!

夜晝(よるひる)絶えず

渚にくだける此の波波のすばらしさ

そこにすむ漁夫等を思へ

 

[やぶちゃん注:八行目「この憂鬱な波のうねりは」は原典では「この憂鬱な波のうねりりは」となっている。これは「うねり」の「り」の衍字としか考えられないので、特異的に除去した。無論、彌生書房版全詩集も加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)も孰れも「うねり」で「うねりり」とはなっていない。]

 

歡樂の詩   山村暮鳥

 

  歡樂の詩

 

ひまはりはぐるぐるめぐる

火のやうにぐるぐるめぐる

自分の目も一しよになつてぐるぐるめぐる

自分の目がぐるぐるめぐれば

いよいよはげしく

ひまはりはぐるぐるめぐる

ひまはりがぐるぐるめぐれば

自分の目はまつたく暈み

此の全世界がぐるぐるとめぐりはじめる

ああ!

 

[やぶちゃん注:「自分の目はまつたく暈み」の「暈」の字は実は原典では「葷」となっている。しかし、この「葷」(音「クン」)は禅寺の戒壇石にしばしば見かける「不許葷酒山門」(葷酒(くんしゆ)山門に入るを許さず)の「葷」で、「大蒜(にんいく)・韮(にら)・葱などの匂いの強い辛い菜」或いは「腥(なまぐさ)いもの・肉食」が主意であり、ここでの訓と思われる「くらむ」という意味は、ない。これは山村暮鳥自身の誤記或いは植字ミスの校正洩れと考えられるので、特異的に本文を訂した。無論、彌生書房版全詩集も加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)も孰れも「自分の目はまつたく暈み」となっている。]

 

荷車の詩   山村暮鳥

 

  荷車の詩

 

日向に一臺の荷車がある

だれもゐない

ひつそりとしてゐる

木には木の實がまつ靑である

荷車はぐつたりとつかれてゐるのだ

そしてどんよりした低氣壓を感じてゐるのだ

路上には濃い紫の木木の影

その重苦しい影をなげだした荷車

 

雨の詩   山村暮鳥

 

  雨の詩

 

ひろい街なかをとつとつと

なにものかに追ひかけられてでもゐるやうに驅けてゆくひとりの男

それをみてひとびとはみんなわらつた

そんなことには目もくれないで

その男はもう遠くの街角を曲つてみえなくなつた

すると間もなく

大粒の雨がぽつぽつ落ちてきた

いましがたわらつてゐたひとびとは空をみあげて

あわてふためき

或るものは店をかたづけ

或るものは馬を叱り

或るものは尻をまくつて逃げだした

みるみる雨は橫ざまに

煙筒も屋根も道路もびつしよりとぬれてしまつた

そしてひとしきり

街がひつそりしづかになると

雨はからりとあがつて

さつぱりした靑空にはめづらしい燕が飛んでゐた

 

人間の午後   山村暮鳥

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  人間の午後

 

まだそこで

わめきうめいてゐるのか

ヴアヰオリン

何といふ重苦しい日だ

黑黑と吐かれる煤烟

大きなけむだしの彼方に太陽はおちて行く

此の憂鬱のどん底で

うごめいてゐる生きものに幸あれ

祈禱の一ばんはじめの言葉

主よ、人間のくるしみはひまはりよりもうつくしい

 

[やぶちゃん注:二ヶ所の太字は原典では傍点「ヽ」。]

子どもは泣く   山村暮鳥

 

  子どもは泣く

 

子どもはさかんに泣く

よくなくものだ

これが自然の言葉であるのか

何でもかでも泣くのである

泣け泣け

たんとなけ

もつとなけ

なけなくなるまで泣け

そして泣くだけないてしまふと

からりと晴れた蒼天のやうに

もうにこにこしてゐる子ども

何といふ可愛らしさだ

それがいい

かうしてだんだん大きくなれ

かうしてだんだん大きくなつて

そしてこんどはあべこべに

泣く親達をなだめるのだ

ああ私には眞實に子どものやうに泣けなくなつた

ああ子どもはいい

泣けば泣くほどかはゆくなる

 

寢てゐる人間について   山村暮鳥

 

  寢てゐる人間について

 

みろ

何といふ立派な骨格だ

そしてこの肉づきは

かうしてすつぱだかで

ごろりとねてゐるところはまるで山だ

すやすやと呼吸するので

からだは山のうねりを打つ

ようくお寢(やす)み

ようくおやすみ

ゆふべの泥醉(ゑひ)がすつかりさめて

ぱつちりと鯨のやうな目があいたら

かんかん日の照るこの大地を

しつかり

しつかり

ふみしめて

またはたらくのだ

ようくおやすみ

おお寢てゐる人間のもつてゐる此の偉大

おおびくともしない此の偉大

それをみてゐると

自(おのづか)らあたまが垂れる

 

わすれられてゐるものについて   山村暮鳥

 

  わすれられてゐるものについて

 

君達はひつ提げてゐる

各自(てんで)に槓杆(てこ)よりも立派な腕を

石つころをも碎く拳を

これはまたどうしたものだ

それで人間をとり返えさうとはしないのか

全くそれを忘れてゐる

そして馬鹿だと罵られてゐる

鐵のやうな腕と拳と

金錢(かね)で賣買のできない武器とは此のことだ

それは他人には何の役にも立たない各自のもので

君達に最初さういふ唯一の尊い武器をくだすつたのは神樣だが

それをまるで薪木(たきぎ)にもならないものだと嘲つて棄てさせやうとした惡漢(わるもの)は誰だ

だが考へてみれば

馬鹿だと言はれる君達よりも

君達を馬鹿だといふ奴等の方がよつぽど馬鹿なんだ

いまに君達がひつ提げながらも忘れてゐるその腕と拳とをおもひだす時

其時、一人が千人萬人になるんだ

其時、彼奴等(きやつら)は地べたにへたばるんだ

まあいいさ

何もかも神樣がごぞんじでいらつしやることだ

さうして其時、世界が息を吹返すんだ

 

[やぶちゃん注:五行目「それで人間をとり返えさうとはしないのか」の「返えさう」の「え」はママ、十二行目「それをまるで薪木(たきぎ)にもならないものだと嘲つて棄てさせやうとした惡漢(わるもの)は誰だ」の「させやう」もママ。]

人間に與へる詩   山村暮鳥

 

  人間に與へる詩

 

そこに太い根がある

これをわすれてゐるからいけないのだ

腕(うで)のやうな枝をひつ裂き

葉つぱをふきちらし

頑丈な樹幹(みき)をへし曲げるやうな大風の時ですら

まつ暗な地べたの下で

ぐつと踏張(ふんば)つてゐる根があると思へば何でもないのだ

それでいいのだ

そこに此の壯麗がある

樹木をみろ

大木(たいぼく)をみろ

このどつしりとしたところはどうだ

 

[やぶちゃん注:二行目「腕(うで)のやうな枝をひつ裂き」は彌生書房版全詩集も加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)も孰れも「腕(うで)のやうな枝をひき裂き」と《訂されて》あるが、従えない。]

 

耳をもつ者に聞かせる詩   山村暮鳥

 

  耳をもつ者に聞かせる詩

 

これが神の意志だ

この力の觸れるところ

すべては碎け

すべて微塵となる

高高とどんな物でもさしあげ、ふりあげる此の腕

そこに此の世界を破壞する憂鬱な力がこもつてゐるのだ

娘つ子はこんな腕でだき緊められろ

人形のやうな目のぱつちりしたあかんぼ

むくむくと膨くれた乳房が吸はせてみたくはないか

それも神の意志だ

これも神の意志だ

言へ

自分達こそ男と女の神樣なんだと

 

[やぶちゃん注:太字「あかんぼ」は原典では傍点「ヽ」。]

 

憂鬱な大起重機の詩   山村暮鳥

 

  憂鬱な大起重機の詩

 

ぐつと空中に突きだした

腕(うで)だと思へ

いま大起重機は動いた

重い大きなまつ黑いものをひつ摑んで

それを輕輕と地面から空中へひき上げた

微風すらない

此の靜謐をなんと言はうか

怖しいやうな日和だ

蟻のやうに小さく

大きな重いものの取去られたところに群がつて

うようよ蠢動(うごめ)いてゐる人人

大起重機のたしかな力をみろ

その大浪のやうな運動を

その大きな沈默を

ああ大起重機の憂鬱!

ああ大起重機の怪物!

此の不可思議な怪力に信賴しろ

それの動いて行く方向をみつめて大空を仰いでゐる人人

それを据附けたのは何ものだ

それをこしらへたのはどの手だ

それを考へれば

ああこれは人間以上の人間業(わざ)だとすぐ解ることだ!

人間は自然を征服した!

今こそ人間は一切の上に立つべきだ

太陽も眩暈(めくる)めくか

ああ人間は自然を征服したか

ああ

けれど人間は悲しい

此の大起重機にその怪力を認めた瞬間から

まつたく憐れな奴隷となつた

そして蟻のやうに小さくなつた

それがどうした

それがどうした

かんかん日の照る地球の一てんに跪坐(ひざまづ)いて此の大怪物を禮拜しろ

ああ此の憂鬱な大起重機の壯麗!

ああ此の憂鬱な大起重機の無言!

 

其處に何がある   山村暮鳥

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  其處に何がある

 

足もとの地面を見つめてかんがえてばかりゐる人間の腰ははやく彎曲(まが)る

いたづらに嘆き悲しんではならない

兄弟よ

あたまの上には何があるか

樹木のやうに眞直(まつすぐ)立て

そして垂れた頭をふりあげて高く見上げろ

其處に何がある

この大きな靑空はどうだ

人間はこの靑空をわすれてゐるのだ

兄弟よ

この大きな靑空はどうだ

 

[やぶちゃん注:一行目「かんがえて」はママ。]

 

或る時   山村暮鳥

 

  或る時

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから‥…‥

 

[やぶちゃん注:最後のリーダは七点。原典でのリーダの各点の間隔は均等だが、打ち込みの関係上、バランスが悪くなったのは悪しからず。]

 

朝朝のスープ   山村暮鳥

 

  朝朝のスープ

 

其頃の自分はよほど衰弱してゐた

なにをするのも物倦く

なにをしてもたのしくなく

家の内の日日に重苦しい空氣は子どもの顏色をまで憂鬱にしてきた

何時もの貧しい食卓に

或る朝、珍しいスープがでた

それをはこぶ妻の手もとは震えてゐたが

その朝を自分はわすれない

その日は朝から空もからりと晴れ

匙まで銀色にあたらしく

その匙ですくはれる小さい脂肪の粒粒は生きてきらきら光つてゐた

それを啜るのである

それを啜らうと瀨戸皿に手をかけて

瘻れてゐる妻をみあげた

其處に妻は自分を見まもつてゐた

目と目とが何か語つた

そして傍にさみしさうに座つてゐる子どもの上に

言ひあはせたやうな視線を落した

其の時である

自分は曾て自分の經驗したことのない

大きな強いなにかの此身に泌みわたるのを感じた

終日、地上の萬物を溫めてゐた太陽が山のかなたにはいつて

空が夕燒で赤くなると

妻はまた祈願でもこめに行くやうなうしろすがたをして街にでかけた

食卓にはさうして朝每にスープが上(のぼ)つた

自分は日に日に伸びるともなく伸びるやうな草木の健康を

妻と子どもと朝朝のスープの愛によつて取り返した

長い冬の日もすぎさつて

家の内はふたたび靑靑とした野のやうに明るく

子どもは雲雀(ひばり)のやうに囀りはじめた

 

[やぶちゃん注:七行目「それをはこぶ妻の手もとは震えてゐたが」の「震え」はママ。

「瘻れてゐる妻をみあげた」「瘻」の字は、腫れ物・瘡(かさ)・「できもの」の謂いで、読めない。彌生書房版全詩集はこの字で表記している。しかし恐らくは、これで「やつれている」と読んでいるものと思われ、それだと「寠れてゐる」とごく似た漢字がここに当てはめられることが判る加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)でもこの字を採用している)。ここは原典のママとして、かく注を附しおくだけとした。

「大きな強いなにかの此身に泌みわたるのを感じた」彌生書房版全詩集及び上記「青空文庫」版は孰れも「泌みわたる」の「泌」を「沁」に《訂して》いるが、従えない。「泌」には国字としては「しみる」(沁みる・滲みる)の意があり、《訂する》必要を私は認めないからである。]

よい日の詩   山村暮鳥

 

  よい日の詩

 

どこをみても木木の芽は赤らみ

すつかり赤らみ

枯葉の下から草も靑靑と

そしてしつとり濡れた木の下枝では

どこからともなく集つてきた鶸やのじこが囀つてゐる

何といふ善い日であらう

友達の花嫁のまめまめしい働きぶりをみてきた私の目のかわゆらしさよ

何がそんなにうれしいのか

お太陽樣(てんたうさま)もみてゐらつしやる通り

此の山みちで

私はすこし醉つてをります

 

[やぶちゃん注:太字「のじこ」は底本では傍点「ヽ」。

「鶸」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelini の鳥の総称で「ヒワ」という種は存在しない。但し、広義のこれだと、カナリア(カナリア属カナリア Serinus canaria など)やカワラヒワ(カワラヒワ属カワラヒワ Chloris sinica など)、イスカ(イスカ属イスカ Loxia curvirostra など)、ウソ(ウソ属ウソ Pyrrhula pyrrhula など)等をまで広汎に含んでしまうので、一般に狭義で「鶸」と言った場合は、ヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinus を指すと考えてよい。

「のじこ」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属ノジコ Emberiza sulphurata。漢字表記は「野路子」或いは「野地子」。参照したウィキの「ノジコによれば、『中華人民共和国南東部、台湾、日本、フィリピン北部』に分布はするものの、夏季に日本の『本州北部で繁殖(夏鳥)し、冬季になると中華人民共和国南東部、フィリピン北部へ南下し』越冬するが、『本州西部以南では』そのまま残って『越冬する個体も』おり、また何よりも本種は『日本のみで繁殖する』種である。全長は十三・五~十五センチメートル、翼開張は二十一センチメートル、『体上面には暗褐色、体側面には褐色』『や灰緑色の縦縞が入る』。『尾羽の色彩は黒褐色で、外側から』二『枚ずつの尾羽には白い斑紋が入る』。『中央尾羽の色彩は淡赤褐色で、羽軸に沿って黒褐色の斑紋(軸斑)が入る』。『翼の色彩は黒褐色で、羽毛の外縁(羽縁)は淡褐色。中雨覆や大雨覆の先端には白い斑紋が入り、静止時には』二『本の白い筋模様(翼帯)に見える』。『眼の上下に白い輪模様(アイリング)があ』り、『嘴の色彩は青みがかった灰色』、『後肢の色彩は淡黄褐色』を呈する。は『頭部や体上面は黄緑色や灰緑色の羽毛で被われ』、『下面は黄色い羽毛で被われ』ており、『眼先は黒い』。は『頭部や体上面が淡褐色、下面が淡黄色の羽毛で被われ、眼先は淡褐色』。同属のアオジ(ホオジロ属アオジ Emberiza spodocephala)と『非常に良く似ており、素人では見分けが困難である』。『繁殖期には標高』四〇〇~一五〇〇メートルの『開けた森林に生息する』。『食性は雑食で、昆虫、種子などを食べ』『夏季は樹上で主に昆虫を、冬季は地表で主に種子を』摂餌する。『繁殖形態は卵生。草の根元や地表から』二メートル『以下の高さにある低木の樹上に植物の茎や枯れ葉などを組み合わせたお椀状の巣を作り』、五月から七月にかけて一回に二~五個(主に四個)の『卵を産む』。『雌雄交代で抱卵し』、『抱卵期間は約』十四日で、『雛は孵化してから』七日か八日で巣立つ、とある。]

 

としよつた農夫は斯う言つた   山村暮鳥

 

  としよつた農夫は斯う言つた

 

あの頃からみればなにもかもがらりとかわつた

だがいつみてもいいのは

此のひろびろとした大空だけだぞい

わすれもしねえ

この大空にまん圓い月がでると

穀倉のうしろの暗い物蔭で

俺等(おいら)はたのしい逢引をしたもんだ

そこで汝(われ)あみごもつたんだ

何をかくすべえ

穀倉がどんな事でも知つてらあ

そうして草も燒けるやうな炎天の麥畑で

われあ生み落とされたんだ

それもこれもみんな天道樣がご承知の上のこつた

おいらはいつもかうして貧乏だが

われあ秣草(まぐさ)をうんと喰らつた犢牛(こうし)のやうに肥え太つてけつかる

犢牛のやうに強くなるこつた

うちの媼(ばばあ)もまだほんの尼つちよだつた

その抱き馴れねえ膝の上で

われあよく寢くさつた

それをみるのが俺等(おいら)はどんなにうれしかつたか

そして目がさめせえすれば

山犬のやうに吼えたてたもんだ

其處にはわれが目のさめるのを色色(いろん)な玩具(おもちや)がまつてただ

なんだとわれあおもふ

そこのその大きな鍬だ

それから納屋にあるあの犁と

壁に懸つてゐるあの大鎌だ

さあこれからは汝(われ)の番だ

おいらが先祖代代のこの荒れた畑地を

われあそのいろんなおもちやで

立派に耕作(つく)つてくらさねばなんねえ

われあ大(でけ)え男になつた

そこらの尼つ子がふりけえつてみるほどいい若衆(わけえしゆ)になつた

おいらはそれを思ふとうれしくてなんねえ

しつかりやつてくれよ

もうおいらの役はすつかりすんだやうなもんだが

おいらはおいらの蒔きつけた種子(たね)がどんなに芽ぶくか

それが唯(たつた)一つの氣がかりだ

それをみてからだ

それをみねえうちは誰がなんと言はうと

決して此の目をつぶるもんでねえだ

 

[やぶちゃん注:一行目「あの頃からみればなにもかもがらりとかわつた」の「かわつた」、十一行目「そうして草も燒けるやうな炎天の麥畑で」の「そうして」はママ。なお、彌生書房版全詩集も「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)も十五行目の「われあ秣草(まぐさ)をうんと喰らつた犢牛(こうし)のやうに肥え太つてけつかる」の頭の「われあ」を「われは」と《訂している》が、従えない。そもそも前後が「われあ」であるのにここだけを「われは」と《訂する》意図が全く不明である。]

 

針   山村暮鳥

 

  

 

子どもの寢てゐるかたはらで

その母はせつせと着物を縫つてゐる

一つの手が拍子をとつてゐるので

他の手はまるで尺取蟲のやうにもくもくと

指さきの針をすすめてゆく

目は目でまばたきもしないで凝(じつ)とそれを見てゐる

音すら一つかたともせず

夜はふけてゆく

なんといふしづかなことだ

子どもの寢息もすやすやと

針は自然にすすんで行く

むしろ針は一すぢの絲を引いて走つてゐるやうだ

 

翼   山村暮鳥

 

  

 

よろこびは翼のようなものだ

よろこびは人間をたかく空中へたづさえる

海のやうな都會の天(そら)

そこで悠悠と大きなカーヴを描いてゐる一羽の鳶

なんといふやすらかさだ

それをみあげてゐるひとびと

彼等の肩には光る翼がひらひらしてゐる

うたがつてはならない

彼等はなんにも知らないのだが

見えない翼はその踵にもひらひらしてゐる

 

[やぶちゃん注:一行目「よろこびは翼のようなものだ」の「ような」、二行目「よろこびは人間をたかく空中へたづさえる」「たづさえる」はママ。なお、最終行の「踵」の字であるが、これは詩集原本では実は、《「路」-「各」+「童」》という異様な漢字活字になっている(底本二本とも確認)。しかし、この漢字は私は知らないし、大修館書店の「廣漢和辭典」にも収録せず、ネットの「Wiktionary」でもこの字を見出すことが出来ない。従ってこの漢字をここに入れ込んでも、まず殆んどの日本人がそれを読むことが出来ないであろうと考えて良いと判断した。されば、ここのみ、特異的に彌生書房版全詩集及び加工用データとして使った「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)に従い、本文自体を「踵」の字として示した。これを公開後、教え子が中国語サイトを調べたところ、「蹱」という漢字が存在することを教えて呉れた。それによれば(以下、彼の通知の引用)、『zhong1 字義:『躘』long2long3の字義1に同じとあり、同系列サイト上には『躘』aに「子供が歩く様子」とある。用例:機不旋蹱チャンスは二度と巡ってこない。〔以上、中国語の複数のサイトより〕 総じて足(踝から先)を指すと考えて間違いないようである』とある。しかし、孰れにせよ、それでもそれは「踵」の限定的な意味ではないし、普通の日本人には読めないことには変わりがないので、やはり「踵」への本文変更は戻さないこととした。なお、この「踵」は「かかと」或いは「くびす」「きびす」であるが、特にルビを振っていない以上、暮鳥は「かかと」と読んでいよう。こちらは天使というよりはヘルメスのサンダルのようなものだ。暮鳥の好きなギリシャ神話的イメージである。]

風の方向がかわつた   山村暮鳥

 

  風の方向がかわつた

 

どこからともなく

とんできた一はのつばめ

燕は街の十字路を

直角にひらりと曲つた

するといままでふいてゐた

北風はぴつたりやんで

そしてこんどはそよそよと

どこかでゆれてゐる海草(うみくさ)の匂ひがかすかに一めんに

街街家家をひたした

ああ風の方向がすつかりかわつた

併しそれは風の方向ばかりではない

妻よ

ながい冬ぢうあれてゐた

おまへのその手がやはらかく

しつとりと

薄色をさしてくるさへ

わたしにはどんなによろこばしいことか

それをおもつてすら

わたしはどんなに子どもになるか

 

[やぶちゃん注:標題「風の方向がかわつた」及び十行目「ああ風の方向がすつかりかわつた」の「かわつた」は孰れもママ。

「薄色」薄紫の色名。]

ポプラの詩   山村暮鳥

 

  ポプラの詩

 

すんなりと正しくのび

うすいみどりの葉をつけた

高臺のポプラの木

その附近(あたり)から

みえる遠方はなつかしい

一本すんなり立つてゐても

五本六本列んでゐても

此の木ばかりはすつきりしてゐる

そよ風にこれがひらひらするのをみてゐると

わたしはたまらなくなる

ああ此の木のやうな心持

怖しい敏感なポプラ

冬のをはりにもう芽ぶき

秋には入るとすぐ落葉(おちば)する

ああポプラ

これこそ光線の愛する木だ

子どもらは此の木のしたで遊ばせろ

 

2017/03/22

十字街の詩   山村暮鳥

 

  十字街の詩
 
    
 „THIS IS THE MANY_TENTACLED TOWN”

            ――VERHAEREN――

 

ここは都會の大十字街

すべての道路はここにあつまり

すべての道路はここからはじまる

堂堂とその一角にそびえた

大銀行をみろ

その窓したをぞろぞろと

ひとはゆき

ひとはかへる

なんにもしらないゐなかびとすら

此の大銀行の正面にてはあたまを垂れ

手をうやうやしくあはせる

ああ都會の心臟である十字街

都會はまるで惡食(あくじき)をする大魚の胃ぶくろのやうに

ここはひとびとをひきつけて

そのひとびとを喰ひ殺すところだ

そこから四方へ草の蔓のやうにのびてゆく街街

つらなり列ぶ家家

何といふ立派なものだ

ああ此のけむり吐く大煙筒の林

此のすばらしさに帽子をとれ

へとへとにつかれながら而も壯麗に生きてゐる大都市

此の中央大十字街

その感覺はくもの巣のやうな大路小路にひろがり

ひろいひろい郊外に露出して顫え

其處で何でもかでも鋭敏に感じてゐる神經

どんなものでもひつ摑まうとしてゐる神經

その尖端のおそろしさよ

 

[やぶちゃん注:「顫え」はママ。

「„THIS IS THE MANY_TENTACLED TOWN」「――VERHAEREN――」これは、ベルギーの詩人で劇作家でフランス詩壇で活躍し、ヴェルレーヌやランボーらとともに象徴派の一翼を担ったエミール・ヴェルハーレン(Emile Verhaeren 一八五五年~一九一六年)が、一八九五年に刊行した詩集“Les Villes tentaculaires”(フランス語・「触手ある都市」)の題名を英訳意訳したものかと思われる。

或る雨後のあしたの詩   山村暮鳥

 

  或る雨後のあしたの詩

 

よひとよ細い雨がふり

しののめにからりとはれて

しつとりと

なにもかも重みがついた

ああ此の重み

そのおちつきが世界をうつくしくするのであるか

それだのに人間ばかり

何といふみすぼらしさだ

穀物の種子のふくろをだきだすその腕(うで)につたはる

あの重みだ

あの重みにみちみてよ

ああ人間

大地と太陽とのいとし子

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(4)

 

 支那の神仙譚に近いものを日本に求めるならば、先づ天狗を擧げなければなるまい。空を飛ぶ話も勿論ある。高松侯の世子が幼時に目擊した話として「甲子夜話」に出てゐるのは、矢の倉の邸内で凧を揚げてゐると、遙かに空を來るものがある。近付いたのを見れば、人が逆樣になつてゐるらしく、頭や手には着物がかぶさつてゐるため、はつきりわからぬが、女と覺しく號泣する聲が聞えたといふのである。これは天狗が人を摑んで空中を行くので、天狗の姿は見えず、摑まれた人だけが見えるのだといふことになつてゐるが、もしこんな事の出來る者があるとすれば、やはり天狗の外にはないかも知れぬ。似たやうな話は「三州奇談」にもあつて、一むら黑い雲の通り過ぎる中に、裸體の男が一人引提げられたやうになつて、叫びながら行くのが見えた。目擊者は金澤の竹屋次郎兵衞といふ者で、手許が暗くなつたのを不審に思つて、ひよいと空を見た目に映つたのだといふ。「三州奇談」には「火車出現も目のあたりにや」とあるだけで、天狗の所爲に歸しては居らぬが、「甲子夜話」の記載が天狗と斷定し得るならば、これも當然同じ範疇に入るべきである。

[やぶちゃん注:「高松侯」讃岐高松藩。当時は水戸松平家。後に掲げた原典に「世子」で「貞五郎」と出ることから、この超常現象の目撃者は、後に(静山没の翌年)第十代藩主となった松平頼胤(文化七(一八一一)年~明治一〇(一八七七)年)であることが判る。

 以上のそれは、「甲子夜話卷之三十」の「空中に人行(ひとゆく)を見し話」である。以下に次の段落で語られている後半も含めて示す。但し、その漢文部分は返り点及び送り仮名を除去して示し、後に改めて、訓点に従って私が書き下したものを《 》で示した。読みは推定で歴史的仮名遣を以って附した。

   *

五六年前、或る席上にて坊主衆某の語りしは、高松侯の世子貞五郎の語られしと云。世子幼時矢の倉の邸に住れしおり、凧鳶(たこ)をあげて樂しみゐられしに、遙に空中を來るものあり。不審に見ゐたるが、近くなれば、人倒になりて兩足天を指し、首は下になり、衣服みなまくれ下りて頭手に被り、明白には見へざれど女と覺ぼしく、號叫する聲よく聞へける。これや天狗の人を摑て空中を行き、天狗は見ヘず人のみ見へしならんと云はれしとぞ。尤その傍にありし家臣等も皆見たりと云ふ。これは別ことながら『池北偶談』にあるは、文登諸生畢夢求、九歳時嬉於庭。時方午。天宇澄霽無雲。見空中、一婦人乘白馬、華袿素裙、一小奴牽馬絡、自北而南。行甚干徐。漸遠乃不見。予從姉居永淸縣、亦嘗於晴晝仰見空中、一少女子美而艷粧、朱衣素裙、手搖團扇自南而北。久之始沒。これは仙の所爲か。

《文登の諸生、畢夢求(ひつむきゆう)、九歳の時、庭に嬉(あそ)ぶ。時に方(まさ)に午(ひる)なり。天宇(てんう)、澄霽(ちやうせい)にして、雲、無し。空中を見るに、一婦人、白馬に乘り、華袿(くわけい)・素裙(そくん)にして、一小奴(しやうど)、馬絡(ばらく)を牽き、北よりして南す。行くこと甚だ徐(ゆる)し。漸(やうやう)遠(とほく)して乃(すなは)ち見えず。予が從姉(いとこ)の永淸縣に居(を)るも、亦、嘗(かつ)て晴(はれし)晝(ひる)に於いて空中を仰見(あふぎみ)れば、一少女子の美にして艷粧(えんさう)なる、朱衣(しゆい)素裙にして、手に團扇(うちは)を搖(ゆら)し、南よりして北す。久(しさし)く之(ゆく)にして始(はじめ)て沒(ぼつ)す。》

   *

 「三州奇談」の方は同書の「卷之三」の「鞍岳墜槻」(「アンガクツイキ」と音読みしておく)の中の一節。同条を二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化し、総て引いておく。読みは底本そのままを附してある。

   *

 鞍が嶽は金城の西南にして、高雄山の峯つゞきなり。近郷の高山奇靈の地、絶頂に池有(あり)て暑天にも渇せず。次の池は大成(なる)堤にして、山彦奇怪有(あり)。蓴菜(じゆんさい)の名所にして、夏日は遊人多き所也。是(これ)昔(むかし)、富樫次郎政親布子[やぶちゃん注:底本では「子」の右に『(市)』と補正注がある。]の館を離れ、高雄の城に籠りて一揆に敵す。智勇用ひ盡すと云共(いへども)、寡は誠に衆に敵しがたし。終(つひ)に詰の丸なる此(この)鞍ケ嶽の山上に乘上り、敵須崎和泉入道慶覺が家臣・水卷小助と馬上ながら組して、兩馬終に此池に沈む。其後(そのゝち)、此(この)池に朱塗の山頃有(あり)て、往々水上に浮ぶ。是(これ)此池の主也(なり)と云(いひ)、人恐れて水に不入(いらず)。

 此池、鶴來村の上・金劒宮砥池に水通ず。故に糠を蒔(まき)て見るに、必ず數里の山谷を隔(へだて)てうかみ出づと云(いふ)。げにも山上の古池望むも恐しげなるに、金澤の俠士往(ゆき)て水に入者有(いるものあり)。然共(しかれども)、底を盡して歸る者なかりしに、山王屋市郎左衞門と云者(いふもの)、よく底を探しけるに、折懸切子(をりかけきりこ)に燈をともして有(あり)しをみたり。「池底、灯のて有事(あること)なし」と不審して歸りしが、程なく家に死したりと云(いふ)。是も怪異の池故成(なる)べし。

 元文年中、金澤に廣瀨何某(なにがし)と云(いへ)る鷹匠有(あり)。同輩四五人を誘ふて此(この)峯に至りしに、比(ころ)は六月の夕立雲此峯に覆ひ、咫尺の間も闇夜のごとく、雨盆を傾(かたむく)るがごとく降來しかば、と有(ある)老木の許(もと)に隱れて晴行(はれゆく)空を待(まち)けるに、忽(たちまち)闇雲の中一塊の風筋有て、りうとひゞきけるが、何かは知(しれ)ず此池水へどふと落(おち)る物有(ものあり)。暫くして雨晴退(はれのき)ければ、今の響を怪(あやし)みて池上を見やりたるに、新敷(あたらしき)棺桶一つうかみ有(あり)しかば、怪しみ岸に引寄(ひきよせ)、打明て見たるに死骸はなし。「去(さる)にてもいか成事(なること)ぞ」と、空敷(むなしく)興盡て金澤へ歸りしに、廣岡町の竹屋次郎兵衞と云(いひ)し者は、其日(そのひ)屋根を葺(ふき)てゐたりしに、是(これ)も其比(そのころ)闇き雲の一通りかゝりし程に、「不思議也」と振仰(ふりあお)ぎしに、裸體の男一人引(ひき)さげられたる如く、雲中を喚び行(ゆき)たるを見たりしと云。是(これ)又同刻限也(なり)。火車出現も目のあたりにや。「此(この)つゞき硫黃山の池にも、いづれの年か、かゝる怪事有(あり)ける」と咄(はなし)人口に有(あり)。去(され)ば中院僧都、少しの惡念に依(より)て、死して魔道に生じ、慶國大德にあふて問答し、彼(かの)大德の威を崇め敬ひければ、大德の曰、「貴僧魔界に落(おち)て何を以て所業とする」。僧都の云(いふ)、「我徒數千人、只(たゞ)人の臨終を伺(うかゞ)ひ、變異を以て災害をなす。爾(しか)も碩師宿德の人少しも慢心有(ある)は、殊更に伺ひ安し」と云(いひ)けるとかや。誠に毛末の慢心も恐るべき事にこそ。況(いはん)や英雄功ならずして、無念の死をなす、魔魅に落て殘魂の怪となすも又あやしむべからず。

   *]

「甲子夜話」は天狗に摑まれて空を行く今の話の後に、「池北偶談」の記事を掲げてゐる。晴れ渡つた空を白馬に乘つた婦人が、小奴に端綱を牽かせてゆるゆると行くのが見えたといふのが一つ、美しい少女が朱衣を著け、手に團扇を持つてゐたといふのが一つ、いづれも自ら空を行くので、人に摑まれた形跡はない。「これは仙の所爲か」といふのであるが、仙人談の少い日本にも、似たやうな話が多少傳はつてゐる。

[やぶちゃん注:以上の「池北偶談」の元の話は同書の「第二十六卷」の「談異七」に載る以下。例のように、中文サイトにあるものを加工して示したが、一部、不明の字があり、そこは「甲子夜話」の引用から補った。

   *

文登諸生畢夢求、九歳時、嬉於庭、時方午、天宇澄霽無雲、見空中一婦人、乘白馬、華袿素裙、一小奴牽馬絡、自北而南、行甚於徐、漸遠乃不見。予從姊居永淸縣、亦嘗於晴晝仰見空中一少女子、美而豔妝、朱衣素裙、手搖團扇、自南而北、久之始沒。

   *]

柴田宵曲 續妖異博物館 「空を飛ぶ話」(3)



 昔の獅子舞歌に「大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりてあまぐもとなる、あまぐもとなる」とあるが、叡山の西塔に任する靜觀僧正が夜もすがら尊勝陀羅尼を詞してゐると、空を飛びつゝあつた陽勝仙人がその聲を聞いて、先づ房の前の杉の木に下り、次いで高欄の上まで來た。陽勝も嘗て西塔で僧正の弟子だつた人だから、僧正に招かれて坊に入り、年來の事を語り明したところ、愈々歸らうとしても、暫く人の氣を受けて身が重くなつたものか、俄かに飛び立つことが出來ない。その時陽勝が、香の煙りを近く寄せ給へと云ひ、香煙を近くさし寄せたら、その煙りに乘つて飛び去つた。靜觀僧正はその後も長く香爐の煙りを斷たなかつたと「今昔物語」に出てゐる。この話には明かに詩があるが、それも飯焚く煙りや炭燒の煙りでなく、香煙の煙りである點に注意すべきであらう。

[やぶちゃん注:冒頭に出る獅子舞の歌というのは、実は獅子舞歌として人口に膾炙しているのではなくて、上田敏が、かの名訳詩集「海潮音」(明治三八(一九〇五)年十月本郷書院刊)の冒頭で、扉で『遙に此書を滿州なる森鷗外氏に獻ず』と献辞を記したその裏に、

 

 大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりて

 あまぐもとなる、あまぐもとなる

               獅子舞歌

 

と引用したことによって広く知られ、今に残っていると言うべきものである。但し、江戸俳諧に造詣が深かった柴田は「海潮音」とは別に知っていたとしてもこれはおかしくはない。

「陽勝」紀善造なる人物の子とされ、貞観一一(八六九)年生まれであるが、神仙と化したことから、没年は不詳とする。

 以上に示された話は「今昔物語集 卷第十三」の「陽勝修苦行成仙人語第三」(陽勝(ようじよう)、苦行を修(しゆ)して仙人と成る語(こと)第三(さむ))の最後のパートである。以下に示す。

   *

 今は昔、陽勝と云ふ人、有りけり。能登の國の人也。俗姓(ぞくしやう)は紀の氏(うぢ)。年十一歳にして始めて比叡(ひえ)の山に登りて、西塔(さいたふ)の勝蓮花院(しようれんぐゑゐん)の空日(くうにち)律師と云ふ事を師として、天台の法文(ほふもん)を習ひ、法花經を受け持(たも)つ。其の心、聰敏(さうびん)にして、一度聞く事を二度不問(とは)ず。亦、幼きより道心のみ有りて、餘(あまり)の心無し。亦、永く睡眠(すいめん)する事無く、戲(たはぶ)れに休息(やす)む隙(ひま)無し。亦、諸(もろもろ)の人を哀む心深くして、裸なる人を見ては衣を脱ぎて與へ、餓ゑたる人を見ては我が食を與ふる。此れ、常の事也。亦、蚊(か)蟣(きさき[やぶちゃん注:虱(しらみ)。])の身を螫(さ)し噉(は)むを厭はず。亦、自ら法花經を書寫して、日夜に讀誦(どくじゆ)す。

 而る間、堅固の道心發(おこ)りて、本山(もとのやま)を去りなむと思ふ心、付きぬ。遂に山を出でて、金峰(みたけ)の仙(せん)の舊室(もとのむろ)[やぶちゃん注:金峰山にある以前に持経仙人という方が住んでおられた古い庵室(あんじつ)。]に至りぬ。亦、南京(なみきやう)の牟田寺(むたでら)に籠り居て、仙の法を習ふ。始は穀を斷て菜(くさひら)を食らふ。次には、亦、菜を斷ちて菓(このみ)・蓏(くさのみ)を食らふ。後には、偏へに食(じき)を斷つ。但し、日に粟(あは)一粒(ひとつぶ)を食らふ。身には藤(ふぢ)の衣を着たり。遂に食(じき)を離れぬ。永く衣食(えじき)の思ひを斷ちて、永く菩提心を發(おこ)す。然れば、烟(けぶり)の氣(け)を永く去りて跡を不留(とどめ)ず。着たる袈裟を脱ぎて、松の木の枝に懸け置きて、失せぬ。袈裟をば經原寺(きやうぐゑんじ)の延命(えんみやう)禪師と云ふ僧に讓れる由を云ひ置く。禪師、袈裟を得て、戀ひ悲しむ事、限無し。禪師、山々谷々(やまやまたにだに)に行きて、陽勝を尋づね求むるに、更に居(ゐ)たる所を知らず。

 其の後、吉野の山に苦行を修(しゆ)する僧、恩眞(おんしん)等(ら)が云く、

「陽勝は既に仙人に成りて、身に血肉(ちしし)無くして、異(こと)なる骨、奇(あや)しき毛、有り。身に二つの翼(つばさ)生(お)ひて、空を飛ぶ事、麒麟・鳳凰の如し。龍門寺(りうもんじ)の北の峰にして此れを見る。亦、吉野の松本の峰にして、本山(もとのやま)の同法(どうぼふ[やぶちゃん注:比叡山にて修学していた当時の同学の修行僧。])に會ひて、年來(としごろ)の不審を淸談(せいだん)しけり。」

と告ぐ。

 亦、笙(しやう)の石室(いはむろ)に籠ろて行ふ僧、有りけり。食を絶ちて日來(ひごろ)を經たり。不食(ふじき)にして法花經を讀誦す。其の時に靑き衣を着たる童子、來て、白き物を持ちて、僧に與へて云く、

「此れを可食(くらふべ)し。」

と。僧、此れを取りて食ふに、極めて甘くして餓うる心、直りぬ。僧、童子に問ひて云く、

「此れ誰人(たれびと)ぞ。」

と。童子、答へて云く、

「我れは此れ、比叡の山の千光院の延濟和尚の童子なりしが、山を去りて、年來(としごろ)苦行を修(しゆ)して仙人と成れる也。近來(ちかごろ)の大師は陽勝仙人也。此の食物(じきもつ)は、彼(か)の仙人の志し遣(つかは)す物也。」

と語りて去りぬ。

 其の後(のち)、亦、東大寺に住ける僧に陽勝仙人、値(あ)ひて、語りて云く、

「我れ、此の山に住して五十餘年を經たり。年は八十に餘れり。仙の道を習ひ得て、空を飛ぶ事、自在也。空に昇り、地に入るに、障(さは)り無し。」

と。法花經の力に依りて、佛(ほとけ)を見奉り、法を聞き奉る事、心に任せたり。世間(よのなか)を救護(くご)し、有情(うじやう)を利益(りやく)する事、皆、堪へたり。

 亦、陽勝仙人の祖(おや)、本國(もとのくに)にして病ひに沈みて、苦しみ煩ふに、祖(おや)、歎きて云く、

「我れ、子多しと云へども、陽勝仙人、其の中に我が愛(かな)しき子也。若し、我が此の心を知らば、來て我れを見るべし。」

と。陽勝、通力を以つて此の事を知りて、祖(おや)の家の上に飛び來りて、法花經を誦(じゆ)す。人、出でて、屋(や)の上を見るに、音(こゑ)をば聞くと云へども、形をば不見(み)ず。仙人、祖(おや)に申して云く、

「我れ、永く火宅(くわたく)を離れて人間(にんげん)に不來(きたら)ずと云へども、孝養(けうやう)の爲に強(あなが)ちに來りて、經を誦し、詞(ことば)を通ず。每月(つきごと)の十八日に、香(かう)を燒き、花を散らして、我れを待つべし。我れ、香の煙(けぶり)を尋ねて、此に來り下(お)りて、經を誦し、法を説きて、父母(ぶも)の恩德を報ぜむ。」

と云ひて飛び去りぬ。

 亦、陽勝仙人、每月(つきごと)の八日に、必ず、本山(もとのやま)に來りて、不斷(ふだん)の念佛を聽聞(ちやうもん)し、大師の遺跡を禮(をが)み奉る也。他(ほか)の時は不來(きたら)ず。而(しか)れば、西塔の千光院に淨觀(じやうぐわん)僧正と云ふ人、有りけり。常の勤めとして、夜(よ)る、尊勝陀羅尼を終夜(よもすがら)、誦(じゆ)す。年來(としごろ)の薰修(くんじゆ[やぶちゃん注:永年の修行の積み重ね。])入りて、聞く人、皆、貴ばずと云ふ事、無し。而る間、陽勝仙人、不斷の念佛に參るに、空を飛びて渡る間(あひ)だ、此の房の上を過ぐるに、僧正、音(こゑ)を擧げて尊勝陀羅尼(そんしようだらに)を誦(じゆ)するを聞きて、貴(たふと)び悲むで、房(ばう)の前の椙(すぎ)の木に居(ゐ)て聞くに、彌(いよい)よ貴くして、木より下(お)りて、房の高欄(かうらん)の上に居(ゐ)ぬ。其の時に、僧正、其の氣色(けしき)を怪しむで、問ひて云く、

「彼(あ)れは誰(た)そ。」

と。答へて云く、

「陽勝に候(さむら)ふ。空を飛びて過ぐる間(あひだ)、尊勝陀羅尼を誦し給へる音(こゑ)を聞きて、參り來る也。」

と。其の時に、僧正、妻戸(つまど)を開(ひら)きて呼び入(い)る。仙人、鳥の飛び入るが如くに入りて、前に居(ゐ)ぬ。年來の事を終夜(よもすがら)談じて、曉(あかつき)に成りて、仙人、

「返りなむ。」

と云ひて立つに、人氣(ひとのけ)に、身(み)、重く成りて、立つ事を得ず。然(しか)れば、仙人の云く、

「香(かう)の烟(けぶり)を近く寄せ給へ。」

と。僧正、然(しか)れば、香爐(かうろ)を近く指(さ)し寄せつ。其の時に、仙人、其の烟に乘りてぞ、空に昇りにける。此の僧正は、世を經て、香爐に火を燒(た)きて、烟(けぶり)を不斷(たた)ずしてぞ有りける。

 此の仙人は、西塔に住ける時、此の僧正の弟子にてなむ有りける。然(しか)れば、仙人返りて後(のち)、僧正、極めて戀ひしく悲しびけりとなむ語り傳へたるとや。

   *

柴田の言うように、この話は何とも高貴な詩の香りが漂っていて素晴らしい。]

「十訓抄」にある松の葉の僧は氣の毒な喜劇である。松の葉を食ふこと兩三年、自分でも身が輕くなつたやうに思はれるので、仙人になる決心をして、あらゆる物を弟子に讓り、祕藏の水瓶だけを身に著けて出た。弟子同朋、傳へ聞いた人々まで大勢集まつて、この登仙行を迭る。僧は山の傍に差出た巖の上に登つて、一度に空へ登らうと思ふが、その前に近く遊んで皆樣の御覽に入れようと云ひ、谷から生えてゐる松の木の四五丈もある梢へ飛んだ。今までも内々で飛ぶ練習はしてゐたのに、この場に臨んで臆したらしく、飛びそこなつて谷へ落ち込んでしまつた。見物の人達は案に相違して、そのうちに飛び上つて來るだらうと見てゐたが、さういふ樣子もない。谷底の嚴に當つて水瓶もわれ、自分も大怪我をして、もとの坊へ擔ぎ込まれた。一旦弟子に讓つた坊や財物も取り返し、松の實の葉の代りに五穀を貪り食つて、殘生を保つより外に途がなかつた。

[やぶちゃん注:「十訓抄」(じつきんしやう(じっきんしょう))は鎌倉中期に成立した教訓説話集。編者は未詳。以上は「第七 可専思慮事」(思慮を専らにすべき事)の冒頭(「序」に続く本文筆頭)に挙げられた救いようのない莫迦坊主の話である。以下に原典を読み易く加工して示す。

   *

一 河内國、金剛寺とかや云ふ山寺に侍りける僧の、「松の葉を喰ふ人は、五穀を食(く)はねども苦しみなし。能(よ)く食ひおほせつれば、仙人とも成りて、飛びありく」と云ふ人ありけるを聞きて、松の葉を好み食ふ。誠(まこと)に食ひやおほせたりけむ、五穀の類ひ、食ひのきて、やうやう兩三年に成りにけるに、實(げ)にも身も輕くなる心地しければ、弟子などにも、

「我(われ)は仙人になりなむとする也。」

と、常は云ひて、

「今、今。」

とて、うちうちにて、身を飛び習ひけり。

「既に飛びて、登りなん。」

と云ひて、坊も何も弟子どもに分け讓りて、

「登りなば、仙衣を着るべし。」

とて、形のごとく、腰にものを單(ひとへ)卷きて出で立つに、

「我が身には、これよりほかは、いるべき物なし。」

とて、年來(としごろ)、祕藏して持ちたりける水瓶(すいびん)ばかりを腰に付けて、すでに出でにけり。弟子・同朋、名殘(なごり)惜しみ悲しぶ。聞き及ぶ人、遠近(をちこち)、市(いち)のごとくに集りて、

「仙に登る人、見む。」

とて、集(つど)ひたりけるに、この僧、片山のそばにさし出でたる巖(いはほ)の上に登りぬ。

「一度に空へ登りなんと思へども、近く、まづ、遊びて、ことのさま、人々に見せ奉らむ。」

とて、

「かの巖の上より、下に生ひたりける松の枝に居(ゐ)て遊ばん。」

とて、谷より生ひ上がりたる松の上、四、五丈[やぶちゃん注:約十二~十五メートル。]ばかりありけるを、下(さ)げざまに飛ぶ。人々、目をすまし、あはれを浮かべたるに、如何しつらん、心や臆したりけん、兼ねて思ひしよりも、身、重く、力、浮き浮きとして、弱りにければ、飛びはづして、谷へ落ち入りぬ。人々、あさましく見れども、

「これほどのことなれば、やうあらむ。さだめて、飛び上がらむずらむ。」

と見るほどに、谷の底の巖に當りて、水瓶も割れ、また、わが身も散々に打ち損じて、唯、死にに死ぬれば、弟子・眷屬、騷ぎ寄りて、

「いかに。」

と問へど、いらへもせず。わづかに息のかよふ計(ばか)りなりけれど、とかうして、坊へかき入れつ。爰(ここ)に聚(あつ)まれる人、笑ひののしりて、歸り散りぬ。扨、この僧、有るにもあらぬやうにて、病み臥せり、とかく云ふばかりなくて、弟子も恥づかしながらあつかふ間(あひだ)、松の葉ばかりにては、命(いのち)生くべくも見えねば、年來(としごろ)、いみ敷(じ)く喰(くら)ひのきたる五穀をもて、樣々(さまざま)、いたはり養へば、命ばかりは活(い)けれども、足・手・腰も打ち折りて、起居(おきゐ)もえせず。今は松の葉喰(くら)ふにも及ばず。もとのごとく、五穀むさぼり食ひて、弟子どもに、勇々(ゆゆ)しく讓りたりし、坊も寶も取り返して、かゞまり居たり。

 仙道にいたる人、たやすからぬ事也。文集[やぶちゃん注:「白氏文集」。]には、「賤(いや)しくも金骨(きんこつ[やぶちゃん注:「仙骨」に同じい。世俗を超越した風格。])の相なくば、丹臺(たんだい[やぶちゃん注:仙人界。])の名を期(き)し難し」とこそ、書かれて侍るなれ。ただ松の葉を食ひ習ひたる計りにて、左右(さう)深き谷へ向ひて飛びけるこそ、思ひはかり、なけれ。但し、唐の玄宗の宮に、西王母と云ふ仙女參りて、仙桃を七ツ奉れりけるを、

「この種を我が宮に移さんと思ふ。」

とのたまはせたりければ、王母、うち笑ひて、

「天上の菓、人間(じんかん)に留まりがたくや。」

と申して、はかなげに思ひ奉りけり。帝(みかど)だにも、かく愚かにおはしましければ、まして、この僧、仙を得たりと思ひて、未得謂得の心、幼なかりけるも、理(ことは)りなり。

   *

「未得謂得」は音なら「ミトクヰトク」であるが、「未だ得ざるを得たりと謂ふ」と訓読しておきたい。]

種子はさへづる   山村暮鳥

 

  種子はさへづる

 

種子(たね)はさへづる

穀倉の種子のふくろで

 

はるがきたとてか

靑空の雲雀も

 

それをききつけた百姓は

あわてて穀倉に驅けこみ

穀物の種子のふくろを抱きだした

 

萬物節   山村暮鳥

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  萬物節

 

雨あがり

しつとりしめり

むくむくと肥え太り

もりあがり

百姓の手からこぼれる種子(たね)をまつ大地

十分によく寢てめざめたやうな大地

からりと晴れた蒼空

雲雀でも啼きさうな日だ

いい季節になつた

穀倉のすみつこでは

穀物のふくろの種子もさへづるだらう

とびだせ

とびだせ

蟲けらも人間も

みんな此の光の中へ!

みんな太陽の下にあつまれ

 

春   山村暮鳥

 

  

 

どこかで紙鳶(たこ)のうなりがする

子どもらの耳は敏く

靑空はひさしぶりでおもひだされた

いままで凍(ゐ)てついてゐたやうな頑固な手もほんのりと赤味をさし

どことなく何とはなしににぎやかだ

どこかで紙鳶のうなりがする

それときいてひとびとは

ああ春がきたなと思ふ

そして何か見つけるやうな目付で

水水しい靑空をみあげる

てんでに紙鳶を田圃にもちだす子ども等

やがてあちらでもこちらでもあがるその紙鳶

それと一しよに段段と

子どもらの足も地べたを離れるんだ

 

[やぶちゃん注:「凍(ゐ)てついて」の底本ルビの「ゐ」はママ。]

 

梢には小鳥の巣がある   山村暮鳥

 

  梢には小鳥の巣がある

 

なにを言ふのだ

どんな風にも落ちないで

梢には小鳥の巣がある

それでいい

いいではないか

 

何處へ行くのか   山村暮鳥

 

  何處へ行くのか

 

またしても

ごうと鳴る風

窓の障子にふきつけるは雪か

さらさらとそれがこぼれる

まつくらな夜である

ひとしきりひつそりと

風ではない

風ではない

それは餓えた人間の聲聲だ

どこから來て何處へ行く群集の聲であらう

誰もしるまい

わたしもしらない

わたしはそれをしらないけれど

わたしもそれに交つてゐた

 

[やぶちゃん注:「餓えた」はママ。]

 

遙にこの大都會を感ずる   山村暮鳥

 

  遙にこの大都會を感ずる

 

この麥畑の畦のほそみち

この細道に立つ自分をはるかに大都會も感ずるか

けふもけふとて

砂つぽこりの中で搖れてゐる草の葉つぱ

ああ大旋風も斯る草の葉つぱからはじまつてやつぱり此の道をはしるのだ

ああ此の道

道はすべて大都會に通ずる

道は蔓のやうなものでそして脈搏つてゐる

まつぴるまの太陽も暗く

あたまから朦朦と塵埃をあびせかけられてゐる幻想

その塵埃の底にあつて呼吸(いき)づく世界きつての大都會よ

ああ大沙漠の壯麗にあれ

ああ壯麗な大旋風

その街街の大建築の屋根から屋根をわたつて行く

大群集の吠えるやうな聲聲

此の大都會をしみじみと

此の大沙漠中につつ立つ林のやうな大煙筒を

此のしづけさにあつて感ずる

夜の詩   山村暮鳥

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける

子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

ランプ   山村暮鳥

 

  ランプ

 

野中にさみしい一けん家

あたりはもう薄暗く

つめたく

はるかに遠く

ぽつちりとランプをつけた

ぽつちりと點じたランプ

ああ

何といふ眞實なことだ

これだ

これだ

これは人間をまじめにする

わたしは一本の枯木のやうだ

一本の枯木のやうにこの烈風の中につつ立つて

ランプにむかへば自(おのづか)ら合さる手と手

其處にも人間がすんでゐるのだ

ああ何もかもくるしみからくる

ともすれば此の風で

ランプはきえさうになる

そうすると

私もランプと消えさうになる

こうして力を一つにしながら

ランプも私もおたがひに獨りぼつちだ

 

[やぶちゃん注:「そうすると」「こうして」はママ。]

 

曲つた木   山村暮鳥

 

  曲つた木

 

うすぐらい險惡な雲がみえると

すぐ野の木木はみがまへする

曲りくねつた此の木木

ねぢれくるはせたのは風のしわざだ

そしてふたたびすんなりとは

どうしてもなれない

そのかなしさが

いまはこの木の性となつたのか

風のはげしい此處の曲りくねつた頑固な木木

骨のやうにつつぱつた梢にも雨が降り

それでも芽をつけ

小鳥をさえづらせる

まがりなりにも立派であれ

ああ野にあつて裸の立木

ああ而もなほ天(そら)をさす木木

 

[やぶちゃん注:「さえづらせる」はママ。歴史的仮名遣としては「さへづらせる」が正しい。]

或る朝の詩   山村暮鳥

 

  或る朝の詩

 

冬も十二月となれば

都會の街角は鋭くなる……

 

父上のおん手の詩   山村暮鳥

 

  父上のおん手の詩

 

そうだ

父の手は手といふよりも寧ろ大きな馬鋤(からすき)だ

合掌することもなければ

無論他人(ひと)のものを盜掠(かす)めることも知らない手

生れたままの百姓の手

まるで地べたの中からでも掘りだした木の根つこのやうな手だ

人間のこれがまことの手であるか

ひとは自分の父を馬鹿だといふ

ひとは自分の父を聖人だといふ

なんでもいい

唯その父の手をおもふと自分の胸は一ぱいになる

その手をみると自分はなみだで洗ひたくなる

然しその手は自分を力強くする

この手が母を抱擁(だきし)めたのだ

そこから自分はでてきたのだ

此處からは遠い遠い山の麓のふるさとに

いまもその手は骨と皮ばかりになつて

猶もこの寒天の瘦せた畑地を耕作(たがや)してゐる

ああ自分は何にも言はない

自分はその土だらけの手をとつて押し戴き

此處ではるかにその手に熱い接吻(くちつけ)をしてゐる

 

[やぶちゃん注:「大きな馬鋤(からすき)」「唐鋤」。単に「犂」一字でかく読む場合もある。柄が曲がって刃が広い、非常に古くから汎世界的に使われていた鋤で、多くは牛馬に引かせて田畑を耕すのに使う。「うしぐわ」とも呼ぶ。]

彼等は善い友達である   山村暮鳥

 

  彼等は善い友達である

 

結氷したやうな冬の空

その下で渦捲く烈風

山山は雪でまつ白である

晝でもほの暗い

ひろびろとした北國の寒田に

馬と人と小さく動いてゐる

はるかに遠く此處では

馬と人と

なんといふ睦じさだ

そして相互(たがひ)に助けあつて生きてゐる

寒田は犂きかへされる

犂きかへされた刈株の田の面はあたらしく黑黑と

その上に鴉が四羽五羽

どこからきたのか

此のむごたらしい景色の中にまひおりて

鴉等は鳴きもせず

けふばかりは善い友達となつて働いてゐる

なにを求めて馬や人といつしよになつてゐるのか

それが此處からはつきり見える

田の畦の枯れたやうな木木までが苦痛を共にしてゐるやうだ

 

[やぶちゃん注:「田の面」「たのも」と訓じたい。]

 

詩集「風は草木にささやいた」始動 / 序詩「人間の勝利」・自序・穀物の種子

 

詩集「風は草木にささやいた」

 

[やぶちゃん注:以下、大正七(一九一八)年十一月十五日白日社刊の詩集『風は草木にささやいた』の電子化注に入る。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの当該初版のモノクローム画像及び同初版で白神正晴氏の山村暮鳥研究サイト内にあるカラーPDF版を用いた。但し、時間を節約するために、「青空文庫」内の同詩集のテクスト・データ(底本は昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」。土屋隆氏入力・田中敬三氏校正)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる(なお、既に「自序」の中に初版と違う箇所が出現している)。校合活字資料は従来通り、彌生書房版全詩集を用いた。なお、本詩集は死の年の衰弱が激しくなった八月三十日に改版がイデア書院から刊行されているが(白神氏のこちらにカラーPDF版がある)、今回はあくまで初版に拘っての電子化注を目指すため、原則、参考にしなかった。死の直前(十二月八日午前零時四十分永眠)のものであるので(初版の以下に示す「自序」は、新たに書き下ろされた「卷首に――」に差し替えられているので、これは電子化する必要がある)、全詩を終えた後に校合してみようと考えている。悪しからず。]

 

 

風は草木

にささや

いた

 

[やぶちゃん注:表紙。濃い橙色で印字。改行はママ。]

 

 

POEMESYAMAMURA

 

[やぶちゃん注:背。表紙と同色で縦に印字。]

 

 

   此の書を祖國のひと

   びとにおくる

 

[やぶちゃん注:扉一(左)。同じく濃い橙色。]

 

 

 Mon P ê re

 

[やぶちゃん注: 前の献辞に続いて扉二(左。前にパラフィン様の遊び紙が入る)に顔だけを打ち抜いた写真(正直言うと、ちょっと異様な感じがするものである。白神氏のPDF版確認されたい。撮影者も不明でそもそも写真の人物が誰だかも確定出来ないので画像は示さない)があり、下に以上のキャプション(フランス語で「私の父」)が附されてある。山村暮鳥(本名は土田八九十(つちだはくじゅう))は出生に纏わるごたごたから旧姓は「志村」(母の実家の姓)及び「木暮」で、実の父は木暮久七であるが(実に面倒なことに実父でありながら後に彼を取り戻すに際して養子縁組をしている)、暮鳥は妻冨士と結婚に際して、その父でキリスト教教父であった土田三秀と婿養子縁組をしているため、最終的に「土田」姓となっている。但し、本文二篇目の「父上のおん手の詩」を読む限り、その父とは貧しい百姓であり、明らかに実父を詠んでいる。されば、この人物も木暮久七であると考えてよいように思われる。]

 

  なんぢはなんぢの面に

  汗して生くべし

 

[やぶちゃん注:以上は扉三(左)に黒(以下本文も無論、黒)で以上の通り、二行で印字。「面」は「おもて」と訓じておく。]

 

 

 

  人間の勝利

 

人間はみな苦んでゐる

何がそんなに君達をくるしめるのか

しつかりしろ

人間の強さにあれ

人間の強さに生きろ

くるしいか

くるしめ

それがわれわれを立派にする

みろ山頂の松の古木(こぼく)を

その梢が烈風を切つてゐるところを

その音の痛痛しさ

その音が人間を力づける

人間の肉に喰ひいるその音(ね)のいみじさ

何が君達をくるしめるのか

自分も斯うしてくるしんでゐるのだ

くるしみを喜べ

人間の強さに立て

耻辱(はぢ)を知れ

そして倒れる時がきたらば

ほほゑんでたほれろ

人間の強さをみせて倒れろ

一切をありのままにじつと凝視(みつ)めて

大木(たいぼく)のやうに倒れろ

これでもか

これでもかと

重いくるしみ

重いのが何であるか

息絶えるとも否と言へ

頑固であれ

それでこそ人間だ

 

[やぶちゃん注:以上は実は本文詩篇ではなく、謂わば、本詩集全体への「序詩」である(だからその後に「自序」が入っている)。

「ほほゑんでたほれろ」の「たほれろ」はママ。]

 

 

 

  自序

 

 自分は人間である。故に此等の詩はいふまでもなく人間の詩である。

 自分は人間の力を信ずる。力! 此の信念の表現されたものが此等の詩である。

 自分は此等の詩の作者である。作者として此等の詩のことをおもへば其處には憂欝にして意地惡き暴風雨ののちに起るあの高いさつぱりした黎明の蒼天をあふぐにひとしい感覺が烈しくも鋭く研がれる。實(まこと)にそれこそ生みのくるしみであつた。

 生みのくるしみ! 此のくるしみから自分は新たに日に日にうまれる。伸び出る。此のくるしみは其上、強い大膽なプロメトイスの力を自分に指ざした。遠い世界のはてまで手をさしのべて創世以來、人間といふ人間の辛棒づよくも探し求めてゐたものは何であつたか。自分はそれを知つた。おお此のよろこび! 自分はそれをひつ摑んだ。どんなことがあつても、もうはなしてはやるものか。

 

 苦痛は美である! そして力は! 力の子どもばかりが藝術で、詩である。

 

 或る日、自分は癲癇的發作のために打倒された。それは一昨々年の初冬落葉の頃であつた。而もその翌朝の自分はおそろしい一種の靜穩を肉心にみながら既に、はや以前の自分ではなかつた。

 それほど自分の苦悶は精神上の殘酷な事件であつた。

 此等の詩は爾後つひ最近、突然咯血して病床に橫はつたまでの足掛け三ケ年間に渉る自分のまづしい收穫で且つ蘇生した人間の靈魂のさけびである。

 一莖の草といへども大地に根ざしてゐる。そしてものの凡ゆる愛と匂とに眞實をこめた自分の詩は汎く豊富にしてかぎりなき深さにある自然をその背景乃至内容とする。そこからでてきたのだ、譬へばおやへびの臍を嚙みやぶつて自(みづか)ら生れてきたのだと自分の友のいふその蝮の子のやうに。

 自分は言明しておく。信仰の上よりいへば自分は一個の基督者(キリステアン)である。而も世の所謂それらの人人はそれが佛陀の歸依者に對してよりどんなに異つてゐるか。それはそれとして此等の詩の中には神神とか人間の神とかいふ字句がある。神神と言ふ場合にはそれは神學上の神神ではなく、單に古代ギリシヤあたりの神話を漠然とおもつて貰はう。また人間の神とあればそれは無形の神が禮拜の對象として人格化(パアソニフワイ)されるやうに、これは正にその反對である。其他これに準ず

 

 最後に詩論家及び讀者よ

 此の人間はねらつてゐる。光明思慕の一念がねらつてゐるのだ。ひつつかんだとおもつたときは概念を手にする。これからだ。これからだ。何時もこれからだとは言へ、理智のつぎはぎ、感情のこねくり、そんなものには目もくれないのだ。捕鯨者は鰯やひらめにどう値するか。

 ‥…何といふ 「生」 の嚴肅な發生であらう。此の發生に赫耀(かがやき)あれ!

 

[やぶちゃん注:文中の太字は底本では総て傍点「ヽ」。終りの方の「其他これに準ず」及び「最後に詩論家及び讀者よ」の後に句読点がないのはママ。現行では孰れも句点が打たれてはいるが、私は安易に孰れも句点が打ってよいとは思われない

「プロメトイス」ギリシア神話の男神で、ゼウスの反対を押し切って「天界の火」を盗んで人類に与えた。また、「人間」を創造したともされるプロメテウス(Promētheus)。ウィキの「プロメーテウスによれば、『その名は、pro(先に、前に)+ metheus(考える者)と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。他にも、ギリシャ語』の「促進する・昇進させる」+「神(ゼウス)」と『解釈すると、人類に神の火を与えた事で「神に昇進させた者」との説も有る』とある。

「つひ最近」はママ。

「橫はつた」「よこたはつた」。

「豊富」の「豊」の字は原典のママ。

「パアソニフワイ」英語“personify”。「擬人化する・人格化する・人間の形で表現する・具体(具現)化する・象徴(シンボライズ)する・(~の)化身となる」の意。

 以下に目次が続くが、省略する。]

 

 

 

   

 

[やぶちゃん注:以上は扉(左)の左寄り位置に濃い橙色で印字。]

 

 

 

  穀物の種子

 

と或る町の

街角で

戸板の上に穀物の種子(たね)をならべて賣つてゐる老嫗(ばあ)さんをみてきた

その晩、自分はゆめをみた

細い雨がしつとりふりだし

種子は一齊に靑靑と

芽をふき

ばあさんは蹙め面(づら)をして

その路端に死んでゐた

 

肉體の反射   山村暮鳥

 

  肉體の反射

 

さみしさのきはみにありてひたすらに雪を期待す

さはれ林檎に溺るる窓硝子の憂欝

薔薇は肉的にして擬似ヒステリアの狀態にあり

時計の數字蚤(のみ)更紗(さらさ)空(そら)榲桲(まるめろ)電線汽罐車煉瓦の匂ひ、蛇雲雀キュラソオの罎の行列

 

射入る光線は愛せられて金ペンの如く恐しき性慾は平靜なる鼻の尖(さき)唇(くちびる)扉(ドア)のハンドル、さては眼鏡(めがね)の蔓に密集す

 

はやくも陰に立つはつ冬黃昏

まろべるコップたへがたく

醉ひくるふ蟋蟀、その感覺をひえびえとをどりあがり且つ鳴きいでつ

指(ゆび)觸(ふ)れたるもの就中(なかんづく)優秀にして卽ち金屬悲痛のイルミネヱションをもつて自らも搔(か)けり

 

[やぶちゃん注:「キュラソオ」リキュールの一種で香りが強く甘いキュラソー(curaçao)のこと。スピリッツやブランデーにオレンジの果皮の香味成分と糖分を加えたもの。

 底本ではこの詩篇の後に『〔以上大正五年詩篇から〕』という編者注があり、これを以って「新編『昼の十二時』」パートは終わっている。]

孤獨   山村暮鳥

 

  孤獨

 

第一の目はとぢ

第二の目は上をながめ

第三の目は斜により

第四の目は濡れ

第五の目はせはしく囘轉し

第六の目はあてもなく

第七の目は垂れ

第八の目はやみ

第九の目は飛び出で

一つもわたしを見る目がないので

わたしは悲しくなつた

 

卓上にて   山村暮鳥

 

  卓上にて

 

あたまに數限り無く

孔のあるペッパーの罎

それを卓上にして

靜肅な一條の薄暮だ

レッテルに密集するのは

金屬的新鮮な悲哀

さみしい窓がらすのかなた

そこに小さな海がある

 

[やぶちゃん注:タルコフスキイに撮らせたい!]

現實   山村暮鳥

 

  現實

 

草の中を一頭の豚

それに續いて一頭の鹿

また續いて一頭の犬

また續いて一頭の牛

凡て方向を等しく走るのは何の兆(しるし)だ

樹木が四五本

その附近(あたり)を嗅ぎ𢌞る

純理性的な鼬

素つ裸のにんげんが丘の上で

腹這つて泣いてゐる

その尻のところでお日樣の泥醉

蛇はどくろを卷いて眠り

木兎はふりかへつて思案し

魚はにんげんの尻の上の

お日樣をのまうとして罪を犯した

さて、綺麗な悲哀の紋章の瞳!

鎧の樣な翼をもつた鳥は

もの憂さに長鳴き

高脚の大香爐を中に立てて

相對して男と女との交禮感觸

馬はその兩側に繫れて

うち默し

折々、木の葉を搖がす

空間一面に燦めく星

――これが私の手の匂ひだ

 

或る一の音響の物的作用   山村暮鳥

 

  或る一の音響の物的作用

 

或る一つの音響の物的作用

かすかなる悲哀の反射

十本の指はひとしく

みえざる銀線を捲きつけたり

玻璃上斷面の上にして

惱める音響の屈折

はつなつ

なにとなく傾く首

窓の下に落ちたる瞳(め)

瞳の匂ひ

瞳にどよむ音響

こつぷからつぽ

縞蛇にのぞきこまれて

こつぷふるへあがり

みどりに透きとほり

翼ある三尖の音響

感觸の電燭裝飾(イルミネーシヨン)いちはやく

二つの耳は結晶せり

 

新しき物の觀方の詩的説明   山村暮鳥

 

  新しき物の觀方の詩的説明

 

冬は玻璃製である

 

窓のうちでは

三角形のひとみが

ぴすとるをみがいてゐる

雪がふるのである

その窓に手をかけて

こんやはさみしい光の反射を

ふかい沈默が舐めてゐる

 

[やぶちゃん注:太字「ぴすとる」は底本では傍点「ヽ」。]

 

網を投げる人   山村暮鳥

 

  網を投げる人

 

わたしはひねもす

あみをなげる

あみはおともたてないで

しっかにおりる

めにみえないあみ

わたしはあみのなかにゐる

それをひきよせるので

どこかで

おほきなてがうごいてゐる

 

じゆびれえしよん   山村暮鳥

 

  じゆびれえしよん

 

泥醉せる聖なる大章魚

そらに擴げた無智の足

官能の高壓的なからくりに

マリヤ・マルタは

はんかちいふを取り出し

なみだを絞る

晝の十二時

盲目なる大章魚の礫刑(はりつけ)

毛のない頭蓋を直立させ

三鞭酒(しやんぺん)の脚杯(さかづき)ささげ

もぐもぐ何か言ふさうなが

なにがなにやら

あはれ晝の十二時

 

[やぶちゃん注:太字「はんかちいふ」は底本では傍点「ヽ」。標題「じゆびれえしよん」“jubilation”は英語では「歓喜・慶祝・祝祭」であるが、山村暮鳥が好んで用いるフランス語では俗語としての「大喜び」の意で、ここはそれの方がいいように思われる。

「マリヤ・マルタ」新約聖書に登場する姉妹。「マルタ」が姉で妹がマリア。後者は特に「ベタニアのマリア」と呼ばれる。エルサレムの近郊ベタニアに弟ラザロとともに暮らし、イエスと親しかった。参照したウィキの「マリアマルタの妹によれば、『イエスが彼女らの家を訪れた時、迎えた姉マルタが接待のことで忙しくしていたのに対し、妹マリアはイエスの語る言葉に聞き入っていた。この姉妹の態度の違い』『は、伝統的に「活動的生活」と「観想的生活」を表すものであると考えられてきた。教会、とくに修道の伝統のなかでは観想的生活を重視する論述がなされるが、エックハルトは、その説教のなかで、活動的生活を通して神に奉仕するマルタの態度をキリストはよりよいものとして』良しとした『とする独自の解釈を提出している。また東方教会においては、「観想的生活」と「活動的生活」はそれ自体において優劣をもたないが、マルタはマリアに対する不平を述べた点で誤りをおかしたとする理解もみられる』。『またあるとき、マリアはイエスの足に香油を注ぎ、その足を自らの髪で拭った』。『この話は類似のエピソード』『の合成によるものかもしれない。この行為はイエスがキリスト(メシア=油を注がれし者)として祝福されること、あるいは近く来たるべき喪葬を暗示する。実際のイエスの喪葬にはマグダラのマリアが香油を用意した』『ことから、ベタニアのマリアとマグダラのマリアはしばしば混同もしくは同一視される』。五九一年、ローマ教皇グレゴリウス一世は、『ベタニアのマリアとマグダラのマリア、また』、「ルカによる福音書」に登場する「罪の女」を『同一人物とした。この理解は西方教会(特にカトリック)でのみ支持され、東方教会では受け入れられずに終わった』ともある。]

 

生理的な風景   山村暮鳥

 

  生理的な風景

 

「泥豚のあたまが光つてゐる

泥豚はなんにもしらないのだ

さあ……これからだ

秋の内部のすみつこには

JOKERがやんで寢てゐる

さみしいのは

鼻の孔からすひこんだ鮮麗な愛で

玻璃器のうしろで

みつけられてしまつた

つめを研ぐ陰影、アーメン

窓で搖れる蜀黍の葉から

うつかりともう冬が

ほそいけむりをたてはじめた」

こんなひとりごとを

わたしの瞳が言うてゐる

 

[やぶちゃん注:底本ではこの後に『〔以上大正四年詩篇から〕』という編者注がある。]

 

風景   山村暮鳥

 

  風景

 

雨はいま

砂丘にうづめた

とりの卵をきづかつて

あとから汽車をおひかけた

それとみて

つかれた汽車は

すぐ隧道にとびこんだ

 

玻璃もざいく   山村暮鳥

 

  玻璃もざいく

 

しろがねの瞳に

よみがへる月

澱める玉

彩られたる罪

梢の印象

卓上の驟雨

いざなはれたる嘴

 

匍ふ浮樂

そらは海の底の色

百合の神經

顰める笛

解脱しかけた

あしたのゆめと

歇私的利亞

 

蚯蚓のいのり

雨の觸角

鏡の中の手

なでしこは眞珠

祕めたる星

さみしさに

こほろぎの刺繡

 

さては狂へる鷄頭

たましひの花火

孕める陰影

かすかな曲線

ゆびさきから

くれゆく悲哀

魔法にかかつた赤とんぼ

 

どこから來たのか

もの言はぬ僧

螢の匂ひ

走る草の實

とかげの凝視

肉を蝕ばむ

うつくしき黴菌

 

やみの藻

玩具のちんもく

つるむ蛇

壁の鱗

(きんの犢を

地獄でつくる)

落葉の模樣

 

病める魚

ひかる露

おほきな臍

鍊金術にて

そよかぜが

息の根を

ぎゆとおさへた

 

[やぶちゃん注:「歇私的利亞」「ヒステリア」と読む。ヒステリー。]

鍊金術   山村暮鳥

 

  鍊金術

 

にくたいのといきをきざみ

そらのひばりのねをこんじ

はつなつのひかりをそそぎ

たましひのかほりもてねり

さみどりのむぎぼのうへにて

それをななたびくりかへし

 

祕密   山村暮鳥

 

  祕密

 

かどの酒屋のみせさきに

たくさんのビイル罎が列べられて

月はまんまろ

罎の中では泥醉人(ゑひどれ)が

その月を嚥まうとしてゐる

 

風景   山村暮鳥

 

  風景

 

おもちやの汽車はいのちがけ

こつそりと走りいで

豫定どほりに轉覆すれば

やすらかに悲しき風景

そしてうはさがぱつと消え

空いつぱいの沈默に

螢飛ばせて、ひらかせて、やがて、また

わたしの洗つた手を眺める

 

夜景(二篇)   山村暮鳥

 

  夜景

 

電線の心的曲折

銀行は孔だらけ

自動車の痙攣

あたまにて立つ夢遊病者

さんざん舐つた

ぽけつとの中なる月

そのまんまるい月の冴え

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「舐つた」は「なぶつた」(「舐(な)めた」の意)と読む。]

 

 

 

  おなじく

 

どこかで

ほしのにほひがする

じゆんぎんのしらみは

やみよのさんみやくを

はらばひ

ひたはしり

 

裝飾   山村暮鳥

 

  裝飾

 

梢のさきは

月に觸れ

かなしみ煙り

水の中なる靑空は

ふねの愛もて

裁斷(たちき)られ

ふたつにふるへ

 

庭園   山村暮鳥

 

  庭園

 

庭園には沼がある

沼は永遠である

その原質より言へば結晶的である

又其の機能性として草木の纖維の母胎である

沼のかたはらに立てるは女神である

女神が耳を傾ける

沼は動搖をはじめる

水が輝く

もろもろの生物が形を成す

女神が目をひらく

風車がくるくる𢌞る

存生一切の苦惱があきらかになる

水は昇揚と沈泌との意志分裂に靑松褪める

水には硫黃が燻(い)ぶる

すべての色が赤くなる

女神が唇をうごかす

闇は光に遂はれて水の上が明るくなる

水が湧きかへる

いちめんの火となる

にんげんがあらはれる

靈が根づく

にんげんの右手には天國があり左の手には地獄がある

そして額には中心をさだむる太陽がある

すべては黃金色になる

女神が微笑する

水はたちまち愛となる

智慧と榮光をめがけて噴水がはじまる

その周圍を鳥が飛ぶ

にんげんに二つあり、それが交接する

星が瞬く

女神が靜かに步きだす

噴水はいよいよさかんになる

にんげんの五つの感覺がみんな開く

そして微妙な音樂がおこる

 

[やぶちゃん注:「くるくる」の後半は底本では踊り字「〱」。

「沈泌」不詳。「沈祕」を想定したが、こんな熟語も見当たらぬ。前の「昇揚」から考えると「沈潛」が想起はされるが。但し、「泌」には流れるの意があるから、沈み込んで流れるの意としては対語たり得るとは思うが、しかし、和漢語としてはどうも奇天烈な熟語にしか私には見えぬ。識者の御教授を乞う。]

 

詩術   山村暮鳥

 

  詩術

 

剥製の音樂

まぼろしの彫刻

病める繪畫

すべて眞實

わけても必然なものは

感覺のあちらこちらに於ける

むずがゆき形象の舞踏

 

ある時   山村暮鳥

 

  ある時

 

胴體ばかりのをんなが

ひとりしよんぼり

あたりいちめんの目

雪に足をうづめてゐる

あたまは空の月だ

 

椿   山村暮鳥

 

  椿

 

けれどおしやれなしろつばき

つばきのはながおちれば

おまへのからだにつきがでる

つみのうれしいめをやんで

しんけいのつりがねのなるころ

 

亂   山村暮鳥

 

 

 

土あたま

かみげ枯葺

かしこに

純銀のしらみら

微睡(まどろ)み

世は事もなし

 

2017/03/21

小曲   山村暮鳥

 

  小曲

 

雪は直線

くらりおん

瞳(め)のしぐなる

天の雪

をんなゆゑ

ゆだの首縊り

 

[やぶちゃん注:太字「しぐなる」「ゆだ」は底本では傍点「ヽ」。因みに、私はユダ支持者である。彼はイエスの生温い布教活動に業を煮やした過激な信仰者であった。イエスが許すべき対象は実は誰よりも彼を筆頭にすると私は考えている。多くの絵の題材となった〈放蕩息子の帰還〉は正にそれをシンボライズしていた。最新のそれはタルコフスキイの「惑星ソラリス」のエンディングであり、ドストエフスキイの父殺しをカラマーゾフ兄弟の代わりに敢然と遂行するスメルジャコフこそ彼であった。

「くらりおん」“clarion”。明瞭にして毅然としたラッパの響きの謂い。ラテン語の「透き通った」の意が原義。ここで「ヨハネの黙示録」を想起する私は牽強付会か。]

 

現身   山村暮鳥

 

  現身

 蛇のながさは無限である

 

光の芽

紫の雪をふらしめ

光の小牙

手は結晶し

螺旋狀なる幸福

しも枯れの

天を噴きあげ

紫の雪をふらしめ

 

智慧のおと

智慧めにみえず

ふところに

ペんにいの飛行

 

明日の海のどん底

智慧さみし

人造古代の愛

あしうらに電氣をし掛け

 

[やぶちゃん注:太字「ぺんにい」は底本では傍点「ヽ」。「ペニー」。英国の下位通貨単位である“Penny”、複数形“Pence”(ペンス)で百ペンスで一ポンド。]

 

奇術   山村暮鳥

 

  奇術

 

闇の着るのは

びろおど

そのびろおどのさみしさに

霜の夜天に首をかけ

またその首にぶらさがりたる靈性

瞳(め)を痙攣(ひきつ)け

瞳をうちわすれ

手を匂へ

みよその燃ゆる手

きはまりて、夜もふけぬれば

女ま裸の凧をもあげ

 

[やぶちゃん注:二行目の太字「びろうど」は底本では傍点「ヽ」。最終行の魔女のようなシークエンスが、すこぶる、いい。]

 

小曲   山村暮鳥

 

  小曲

 

渠、屋上園の

てらこた

陶像(てらこた)ぞひとりつぶやく

きちがひ鴉め

空一ぱいに羽を擴げ

十字も切らず

ことしは雪も見ないで

死んでしまつた

 

[やぶちゃん注:「渠」「かれ」。彼。

「陶像(てらこた)」テラコッタ(terra cotta)。元はイタリア語の「焼いた」(cotta)+「土」(terra)に由来する語で、良質の粘土を焼いて作った素焼きの陶製の塑像(器も言う)。]

 

自然   山村暮鳥

 

  自然

 

その瞳

士をいでず

その瞳はかなし

 

さんたまりや

わが手黃ばめり

 

瞳はおとろへつ

土をいでず

つつしみてその瞳をぬかん

 

わが手黃ばめり

わが手匂へり

 

肉樂   山村暮鳥

 

  肉樂

 

靈性噴水

天(そら)さんらん

一念

瞳のしづく

交歡きはまり

かなしむ頭蓋(あたま)

秋の日走り

われの手を切る

 

[やぶちゃん注:この後に底本では『〔以上大正三年詩篇から〕』という編者注がある。]

 

地上悲頌   山村暮鳥

 

  地上悲頌

 

穗をめぐる農夫

穗をめぐり

しんじつ一念合掌す

穗は金色燦爛

あかつきの釣鐘

かなしみきはまり

農夫らなみだかき垂れ

かがやく鎌をとりいだせり

 

智慧――萩原朔太郎に   山村暮鳥

 

  智慧
    
――萩原朔太郎に

 

種子は純金

小さき壺のかなしみ

やせ衰へし秋の日の

うつけもの

その道心をば

蟋蟀の額に集む

 

   ○

 

生木(なまき)鳴らす

生木を鳴らす

 

玉の吐息

 

祕唱   山村暮鳥

 

  祕唱

 

すべてさめたり

つつしみて落穗あつめん

 

道をば肉身にもとめよ

すべてさめたり

 

畑なる陸稻は刈られ

あたらしく歸るこほろぎ

 

いたましき瞳に

淫らなる光りぞ迷ふ

 

天上の秋の眞晝は

金屬の信念一味

 

また更に噴きあぐる空

とこしへに生れぬ胎兒

 

白金悲光   山村暮鳥

 

 白金悲光

 

眞實一念

ひまはり垂れたり

眞實一念

その上に蜻蛉つるめり

眞實一念

乞食ものを食へり

眞實一念

 

無限   山村暮鳥

 

  無限

 

どこかで鶫(つぐみ)が鳴く

わたしの頰はぬれてゐる

昨日のゆめが浮いてきた

 

昨日のゆめの氣まぐれもの……

わたしの手は、まだ

穀物の匂ひを握つてゐる

 

どの邊なんだ

何時ごろだ

それよりはまづ私は何だ

 

何にも知らない

何にもわからない

それだのに、わたしの頰はぬれてゐる

 

そして何處まで落ちて行くのだ

わたしは落ちてゐる

昨日のゆめが浮いてきた

 

もう、幸福はまつたく終り

みなとの船の

帆柱の槍を立て

わたしの一つの壺からは

秋の光りが溢れてゐる

わたしは落ちてゐる

 

わたしは何にか待たれてゐる

 

[やぶちゃん注:私はコーダの「わたしは何にか待たれてゐる」に心から打たれている。]

 

肉體頌   山村暮鳥

 

  肉體頌

 

麥の畑にうづくまり

合掌禮拜、彫刻す

 

みそらの雲雀ら讚歎し

われ、太陽を彫刻す

 

滴りて血に響あり

きえゆく夢の響あり

 

眼瞼(まなぶた)重く

はてなく遠し

 

太陽ぞ淚にぬれて燦爛たり

 

すてふだ   山村暮鳥

 

  すてふだ

 

どこから來たのか

 

第一、考へる鳥

第二、躍る人形

第三、泣く魚

 

 

なにものだ

 

第一、眞珠感傷

第二、白金奇蹟

第三、玻璃眞實

 

 

どこへ行くのか。

 

第一、盲目(めしひ)

第二、ちんば

第三、啞

 

 

何とか言はないか

 

第一、穴を掘る父

第二、果實(このみ)をおとす母

第三、夢を作る聖靈

 

キリストが生れる

 

[やぶちゃん注:行間は底本を視認したままに再現してある。なお、私は似非差別撤廃主義者のように、差別用語使用注記をここにする気は全く、ない。私は、差別用語使用注記をすれば、差別が無くなるとお目出度くも思っている輩は、私自身、ともに天を戴かない差別主義者の奴らであると大真面目に思う人種である。]

 

銘に   山村暮鳥

 

  銘に

 

かなしみは夢を孕めり

 

手には薔薇の匂ひをにぎり

眼にはみえざる空を描き

やがてぞ生れいでなむ

 

靜物   山村暮鳥

 

  靜物

 

このみは上にあり

しろがねの指さきに

うれて悲しみ

(女は眞裸(まはだか))

このみの炎

その指さきに形をなし

瞳をただよひ

(女は足桎せり)

さんとして光の聖餐

金屬の香氣を發す

 

[やぶちゃん注:「足桎」「あしかせ」と読む。刑具の足枷(あしかせ)。]

 

蠱道   山村暮鳥

 

  蠱道

 

巣を作る鴉、終日(ひねもす)

いのちの巣を作る

 

鴉の糧は光なり

光は終日

われも終日(ひねもす)

 

光を滌(あら)へ

光を釣れ

光を碎け

光を商へ

 

光をいだけ

光を描け

光を憎め

光を知れ

鴉の糧は光なり

 

[やぶちゃん注:確かに――彼はそんじょそこらにゴロついている似非詩人ではない。ともかくもタダモノでは、ない。]

 

おちぼ   山村暮鳥



  おちぼ

 

わが畑にめぐみの落穗

わが拾へどもはてなし

手に充つ

 

落穗はいのちの束の間

わすれられたる束の間

さんとして光ぞふる

 

ゆるしたまはば君に捧げむ

かなしみのきはみに

わがめがけたる

最後(いやはて)の一の落穗を

 

われは生く

 

ゐもり   山村暮鳥

 

  ゐもり

 

やれ、心の羽ばたき

靑い空をみて

やれ、ぴんちろと

河岸の柳のめをさます

そこに

ゐもりが死んでゐた

 

禮拜   山村暮鳥

 

  禮拜

 

黎明にひざまづき

私は、まづ、私を禮拜する

日輪は私のため、私の靑い額にのぼる

大氣は私の罪惡をすら包んで

朝每、神聖だ

 

私は何といふ慘めだ、けれど幸福だ

私は怜悧で愚鈍で

刹那には私以上だ

 

私は他(ひと)の知らないものを知り

世界のもたない物を有つ

私は宇宙に二人とないのだ

 

空は私の屋根、私の胸には

はてのない海があり、無數の獸と魚とが住む

 

私は一切の上に立つ

よろこびは私をとり圍み

災害は私をめがけて亂射する

 

私はくるしい

私はさびしい

けれど、私はうれしい

 

私の外に何がある

すべてのものは私の幻影

私の眼は無限を見

私の耳は音なきものを聽き

私の手は力を握る

 

私の願望にゆらぐ樹木

私の神經の雪

私を中心に生はめぐり、消え

死はその祕曲を奏す

 

私は光、世のはじめ

神を作つた

私の髮毛には月がいで、星がいで

また、霧が湧く

そして皮膚には嵐が眠る

 

私は宇宙のみなし兒

私は宇宙の軸で

私の胸は宇宙を抱いて猶餘る

 

それはさて、どうぞ、神樣、特別なお慈悲をもつて

女の小さい心に入れるやう

家には女が角を鳴らして寢て居りまする。

 

正午   山村暮鳥

 

  正午

 

かなしき獸(けもの)、眠れる獸

音樂の中よりいできたれ

汝(な)が父母は何處に

翼あるたましひの聲

 

こどもらは一心禮拜

太陽を彫刻すなり

らんらんたる肉體ぞ

とこしへに燃え

世界に愛の息吹きかく

 

おお、されば夫婦(われら)は躍らむ

とりし手をたかくかかげて

「死よ、ここをくぐれ」と

 

[やぶちゃん注:「らんらん」は底本では後半が踊り字「〱」。本詩篇は大正三(一九一四)年中に書かれた詩篇であるが、「夫婦(われら)」と出るが、山村暮鳥はこの前年の大正二年六月十七日に富士と結婚している。]

 

内心   山村暮鳥

 

  内心

 

おもひでの中に畑あり

そよ風によびさまされて

麥の穗やめり

 

ゆらゆらと

みどりに燃ゆる眞晝の月

 

まぶたのほとりを

ゆめの手つなぎ

おのづから形をぬけいで

雲雀鳴くなり

 

しっけさの中に畑あり

ゆらゆらとみどりに燃ゆる

 

[やぶちゃん注:二ヶ所の「ゆらゆら」は底本では後半が踊り字「〱」。]

 

草の中にて   山村暮鳥

 

  草の中にて

 

草の中に埋れた

昨日(きのふ)のすがた

ここまで髮毛(かみげ)の匂ひがする

 

空の靑さをしみじみと

ゆめの葉うらの

耳は何をきいてゐるのだ

 

空の靑さに沁みこみ

肉體のいのちぞ煙れる

 

ちと、出て來ないか

そして影でも曳かうもの

 

葉の上に滴り

葉の上のかなしみ

彼方へばかり眼をさます

 

肖像――室生犀星に   山村暮鳥

 

  肖像
   
 ――室生犀星に

 

頭は純金

心は玻璃

指は銀(しろがね)

瞳は眞珠

そして胴體(からだ)は大理石

 

地上一心信經   山村暮鳥

 

  地上一心信經

 

ふらすこの中にあり

星の月にあり

 

梢にあり

よろこびの雪にあり

病める魚の眼にあり

 

影にあり

耳にあり

罪の赦しにあり

 

水晶にあり

夢にあり

信念にあり

 

白銀の雨にあり

愛にあり

嫉妬にあり

 

觸角の上にあり

野にあり

苦惱にあり

 

匂ひにあり

樹木にあり

にくしみにあり

 

床にあり

ともしびにあり

酒にあり

 

過去にあり

未來にあり

祈禱にあり

 

發音にあり

謹愼にあり

光にあり

 

外にあり

内にあり

刹那にあり

 

花にあり

空にあり

水にあり

 

黎明にあり

炎天にあり

夕にあり

 

肉にあり

太陽にあり

 

みどりにあり

音響にあり

痛みにあり

 

草にあり

力にあり

眠れるあらしにあり

 

智慧にあり

本能にあり

 

聖靈にあり

沈默にあり

 

死よ、美よ

その餘はすべて汝の糧なり

 

[やぶちゃん注:「信經」「しんぎやう(しんぎょう)」は前にÀ FUTURで注した「信仰個條(クリイド)」と同じであるが、ここはその原初的な本来の「キリスト教会で信仰を明白に表現すること」という意味で用いているように私には感ぜられる。]

 

私ではない   山村暮鳥

 

  私ではない

 

私ではない、お前でもない

それは星の良心だ

 

どこかで搖いてゐる櫂

影なんかが實際あるものか

 

お前ではない、私でもない

それでゐて天鵞絨(びろうど)の香

 

恍惚の中に燃えてゐる

美だ、愛だ、吐息だ

 

瀕死の音樂……一切の情慾の

眞の合掌禮拜だ

 

視線   山村暮鳥

 

  視線

 

   1

 

金屬の中にある

物の種子にある

すべてにある

見えない力にある

そなたの聲は

うまれぬ現實を解き

靈魂(たましひ)のゆめを彩る

 

   2

 

前方を正しく見なば

明日(あした)は瞳の中にあり……夢よ

そなたを待てるものにのみ

うしろにて呼(よば)ふは雪か

わがあしおとをだに聽くなかれ

 

春   山村暮鳥

 

  

 

煤煙にくすぶらされて

眞黑なかほの太陽は

空に、けふもけふとて醉つてゐる

どこかで雲雀が笛を吹く

 

うへの丘からくだつて來た神祕な糞と菜の花のにほひの合奏が

わたしを𢌞つて舞踏する、接吻する

(暗い底のしれない孔を見ろ)

微風(そよかぜ)が金と赤とのいとを紾(よ)る

どこかで雲雀が笛を吹く

唯、それつきり

そして(その孔からでる蛆をみろ)

 

プリズム   山村暮鳥

 

  プリズム

 

生れでて見ろ、光を

葬列ぞうつくしければ

その踊り子を

胎兒よ、世界は夢を作る

 

雨滴   山村暮鳥

 

  雨滴

 

   1(形)

 

雨のしづくの好き音(ね)あり

みづからの眞實に醉ふ

音樂が伸べし

梢の下なる都會

 

都會の路はよろめき

ひそやかなる影のさ搖ぎ

罪は銀製の蛇の如く

重き空をかなしめり

 

けふしも靑褪めて

心を這ひめぐるま晝の月

わが美しき都會を

掌(たなぞこ)にのせてながむる

 

   2

 

まどろみに、まどろみに

屋根の雪は消え

ちろちろと

雨滴(あまだれ)のおしやべり

一の目がどこかで默し、衰弱し

まことの世界を作る

 

薔薇   山村暮鳥

 

  薔薇

 

薔薇には叡智がある

薔薇は空をまことの愛とし

そして私には他の目がある

 

かつて瞑(と)ぢたことのない第三の目

いやはての世界を作り

 

音の中の光りに、いのちは

一切の影をゆめむ

 

薔薇は聖なる三位一體

 

どうぞ歸る逕をおしへてください

私には他の目がある

 

插話   山村暮鳥

 

  插話

   (TO MARIE,  E

 

この知惠をうつくしき果實となして

かなしめる君にあたへむ

 

しろがねの指にまつはる愛の伴奏

その髮には罪にさく花をかざらむ

 

あやかしの何處ともなき死の舟

帆をあげて蹌踉と心の上をはしり過ぐ

 

[やぶちゃん注:「MARIE,  E」不詳。]

 

見えざる觸手   山村暮鳥

 

  見えざる觸手

 

冬の遠山は紫水晶の彫刻

きえ殘つた雪をむさぼる

星のめまひ、餓ゑたよろこびの小曲?

 

私の心には老いた侏儒(こびと)が住んでゐて

そして私の淫奔な目から

おもひだしては世界を凝視(なが)める

 

だが、枯木の上の鴉よ

ほんとの事は、そつと、誰が知る

 

鴉よ、唯、一つの靈魂も忘れて

おや、おや、私の風景は掌に

時計の針をぐるりぐるりと

家には神樣がさみしがつてゐるんだ

 

凧   山村暮鳥

 

  

 

凧があがつた

高く、低く

その中の一つは

いまも猶(どれだらう)

さみしいわが手の糸を引く

 

いくつもあがつた

そのむかしの空に

 

凧、凧、あがれ

 

それをみて

冬は、みんな逃げてしまつた

 

月光   山村暮鳥

 

  月光

 

切株に

いのちの芽ばえ

 

月は眼のなき蠱惑をかなしみ

水のほとりに佇みつ

ながながと汚れもつれし髮毛(かみげ)を

はづかしく躊躇(ためら)ひけり

 

寶石   山村暮鳥

 

  寶石

 

記憶で光つてゐる

夢がその上にふつてゐる

瞳はぬれてゐる

世界を聽いてゐる

指に眠る寶石は

雪の祕密を知つてゐる

 

印象   山村暮鳥

 

  印象

 

お前の闇の中心では

愛がちろちろ燃えてゐる

そのまはりを交尾(つる)んで𢌞り

刹那と刹那と踊つてゐる

黎明をとり返すまで

わたしの墓の上では

形をなさぬ悲しい希望が

星を叩き落してゐる

などと言ふのも、一切(みんな)、しばしのイルミネヱション

 

現實の上に   山村暮鳥

 

  現實の上に

 

   1

 

もつと、悲痛な冬

薔薇を一つ拜借しませう

おしやれな靈魂だ、月の下で

月が、あんまり耻かしい

 

   2

 

なんとしたらよからう、さんたくろすのお爺さん

柊の葉の刺を、槇の葉、いり亂れたる金と銀との爭ひ、そのなかで、天使(みつかひ)たちにまもられて、永遠の無形の寂寞(しじま)のふところに玩具の嬰兒は寢(いね)、すやすやと夢を見てゐる

 

雪、雪、雪、いのちの窓の上の沈默、心を土に埋めたら罪のざんげが花となる、春となる、よろこびとなる、睡くなる、雪、ともしびを吹き消して、水仙の吐息のまぼろし

 

神經の不思議ないるみねえしよん、むかしの愛の凍(い)てた沼に、かはいさうな若い寡婦(やもめ)の月が出た

 

ごらんなさい、三十度の直角をもつた技術を、光を、指さきを、捉へがたなき微妙を、血の生首はどこへやら、眼の無いサロメの裸踊り、胎内(はら)の嬰兒が泣いてゐる

 

餓ゑたれど高貴な冬のたしなみ、燦めく星がほしさうに小さい白い手をかさねて、幸福のせわしさ、引續き、殘忍な影の儀式を行ふ、悲しい異國趣味(えきぞちつく)のクリスマス、肉體のクリスマス

 

[やぶちゃん注:これは何だか凄い!]

垂直に   山村暮鳥

 

  垂直に

 

冬の挨拶ぞよみ返る、風景に

感覺の諧謔、落ちよ!

 

病める太陽はかき抱かれて

うつくしき肉の花

(伸びゆく黃金(きん)の刹那に

ふかきうめきの焰、輕く)

 

すたれし眞晝

傷ける樹木のまぼろし

愛の巽のゆきを呼ぶ

 

搖られて默(もだ)す心の空

水晶のたましひの音のかなしみか

地獄の奏樂、太陽の浮れ男(を)

 

[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]

 

風景   山村暮鳥

 

  風景

 

冬はいつでも眞裸(すつぱだか)

そして、昨日、首を縊りそこねた

わたしらの愛の窓で

淫奔(いたづら)な三毛猫(みけ)は幸福(しあはせ)?

 

欺されまいぞ、黑鵜(くろつぐみ)

やつぱり冬は、きむすめ

木の頂上(てつぺん)でけふも今日とて

枯れた葉つぱを飛ばしてゐた

 

華奢な世界の繼子(ままこ)、憎まれ子

雪のふる日がまたれるか

お前は何(なんに)も知るまいが

お前は高貴な系(すぢ)を引く

雪は、お前の、眞(ほんと)の、母なんだ

 

風景   山村暮鳥

 

  風景

 

夢は五と三に

一つ置いて、其次の眼

 

雪のふる記憶の中心

そして、悔無きものに湧く

 

死に醉うた其次の眼

現實の上の空

 

各自にヱデンの園

雪は此世の外でふる

 

犬に   山村暮鳥

 

  犬に

 

おい、ジョン! 何が見える?

どんな匂ひがする、あの星は?

とりすました空の沈默は?

 

薔薇は俺を燒く

みじめな天使の瞳のために

 

ああ、闇、雪の上の樂園

星を戀する幸福な馬鹿

 

「耶蘇のおやぢは

せぴあ色に靈魂を彩つてさ」

俺の良心の狼が、また

世界を嬲(なぶ)りはじめる

紫と冬のをんなと水鳥と

「榮えて、罪は碎けた」

 

おい、悲しい友よ

色情狂者の手の敬虔に

せめて、ともしび、闇の銀の永生

 

斷想――「紺靑の夜」のために、綠汀へ   山村暮鳥

 

  斷想

   ――「紺靑の夜」のために、綠汀へ

 

丘の上をながめよ

もろこしの穗はめぐみに垂れ

鶫(つぐみ)は梢にかへり來れり

 

つねに樹木に聽き

またつねに沼のほとりを夢む

――晝の月こそ幸福なれ

 

悲哀の犢(こうし)のかげをのみ、世は屠るべし

わが徑(みち)は空にあり

わが空は蟋蟀の聲にあり

 

手の上の霜

痛める靈のすがたを見

わが踊り子はよろこび蹣跚(よろめ)き、狂ふ

(光を愛すべし)

みえざるものの生む藝術

 

ともしびは醉へるが如く匍へり

猫は心の奧をも迷へり

 

罪のふかさのかぎりなければその底に

かくれて盲の魚となりなむ

わがものうさは雪をはらめり

 

いちぢくは盜まれたり

 

蟷螂の、入日をみつめて憔悴す

 

諧謔(おどけ)たる朝の雨もて、死は、地の美

否、美以上の醜惡

冬のはじまり、わが歡び

闇のかたみのわが薔薇

 

聲なき肉體のいのり

きたるべき物のあしあと近づけり

 

[やぶちゃん注:『「紺靑の夜」のために、綠汀へ』白神正晴氏の「山村暮鳥年譜」によれば、「綠汀」は当時、仙台在住の歌人岩井緑汀(雑誌『詩歌』の同人)。彼は大正元(一九一二)年十一月に詩歌雑誌『シヤルル』を刊行しているが、暮鳥は前田夕暮とともにその雑誌の顧問となっている。「紺靑の夜」(こんじやうというのは岩井が大正三(一九一四)年一月二十五日に刊行した自身の歌集「紺青の夜」(シヤルル社刊)の「序」として寄せたもので、「国文学研究資料館」ので歌集「紺青の夜」の部分画像が挙げられており、まさにこの詩篇の冒頭の二行に相当する部分が視認出来る(「3」の画像)が、それを見ると、

 

  序詩

      (山村暮鳥)

  瞑想

 

という題であって、ここにある添えの辞はなく、しかも、

 

丘の上をながめよ、

もろこしの穗はめぐみに垂れ、

 

と、読点が行末に打たれているのが判る。これから類推すると、後の行にも読点が有意に打たれている可能性が高い。底本が何に依拠したものか不詳であるが、或いは、以上の詩篇は「序」の草稿原稿なのかも知れない

「蹣跚」は音「マンサン」で、よろよろと歩くさまを言う語。

「蟷螂」「かまきり」と訓じておく。]

冬 其他   山村暮鳥

 

   其他

 

(絶望と自由と、一切のさんげ)

 

冬が來た

 雪はしんしん……

心の上に冬がきた

焰(ひ)にきた 愛にきた

 

空からきた

 

(これから眞(ほんと)の薔薇がさくのだ)

 

ゆめがなく

 雪はしんしん……

凍えてかぢやの鐵砧(かなしき)が泣く

冬が泣く 闇が泣く

靈がしきりに泣く

 

(これから世界が生れるのだ)

 

     ○

 

かねもちの馬鹿むすこ

太陽、お前は悲痛をしらぬ

 

     ○

 

黑い鳥がてつぺんにとまつた

今日も木の根は土を掘る

 

[やぶちゃん注:丸括弧独立行に「○」印を挟んだ、今までに例のない形式の詩篇である。「焰」の用字は底本のもの。

「さんげ」懺悔。懺悔は古くは「さんげ」と清音であった。

「鐵砧(かなしき)」音は「テツチン」で「砧」は訓「きぬた」で判る通り、布や草などを打つために石の台の謂いであるが、これは所謂、金属性の金敷・金床(かなとこ)のこと。鍛冶に用いる鉄製の作業台。]

 

人間   山村暮鳥

 

  人間

 

われは故なきに傷き

われは追はれし野鹿のごとし

 

打默(うちもだ)し、そと、こころの鏡をさしのぞけば

うつくしき角のなげかひ

 

わが空はいづこなるらむ

ものおぢの手もて

さぐりよる夢のそらごと……

 

[やぶちゃん注:底本ではこの詩篇の後に編者により、『〔以上大正二年詩篇から〕』という注記がある。]

 

こほろぎ   山村暮鳥

 

  こほろぎ

 

草の葉にいのちの搖ぎ

ものな言ひそね

死の脈をたどるものあり

草の葉にいのちの搖ぎ

蟋蟀の音にな觸れそね

 

理性の廢園   山村暮鳥

 

  理性の廢園

 

そはさて理性の廢園は

かなしみを額(ぬか)にきざまむ

いとうつくしき月のなげかひ……

 

陰影(ものかげ)は生けるがごとし

しっかにしづかに力をば祕め

かれ草にまどろめり

 

空はその影をながめつ

蒼白き手をさしのべたり

 

にほはしき生命(いのち)の夕

愛惜に、風景のうれひはてなし

 

樹木   山村暮鳥

 

  樹木

 

(あきかぜに心は搖れ

帆布のごとく言葉をはらむ)

 

屋根の上なる晝の月

樹木の苦惱(なやみ)におぼれたり

 

樹木は煙れる靈氣の渦

樹木は見知らぬ空を愛し

 

ほそぼそと、土を凝視(みつ)めつ

樹木はおのが形を曳く

 

内部   山村暮鳥

 

  内部

 

   1

 

指の上にみえざるものあり

ゆめに潑(わ)く果實(このみ)の智慧

燃えたつ秋の日の小曲

死の招き、ほのかなる花

髮の匂、雪、美のかなしみ

たなぞこに眞摯(まこと)ぞ眠る……

 

君よ

光は音もなし

光は金の粉、靈性の雨

 

   2

 

彫(ゑぼ)りし感覺よ、秋の日よ

かなしみやすき肉體の白きそぷらの

くちつけは光を撤(ちら)し

沼にしづめた風景が

醉うて心に、浮いてきた

 

冬   山村暮鳥

 

  

 

雨にはかへらぬ希望がある

燻(くす)ぶる愛の火の舞踊(ダンス)

磯の松山、黑くぬれて

燻ぶる愛の火の舞踏(ダンス)

 

かなしい事のなごりか

ともかくも冬のはじまり

 

梟の歌   山村暮鳥

 

  梟の歌

 

   1

 

ものゆはぬ、人形

もの言はぬ、悲しみ

泥土(つち)を捏ね

おのれを作る

靈の人形つくり

 

[やぶちゃん注:「ゆはぬ」はママ。]

 

   2

 

牛は野にねころび

かなしみの草を反嚼(にれが)む

 

[やぶちゃん注:「反嚼(にれが)む」漢字から推量出来るが、「にれがむ」は「にれかむ」(漢字表記「齝む」)で牛などが牧草を嚙んで一度飲み込んだ食物を再び口に戻して食む、反芻(はんすう)行動のことを指す動詞である。]

 

   3

 

さわがしきなみをきらひ

やみのよのなぎさをのがれて

わたしのむねに

ねむるちどりよ

あいぢやくはうすらあかりさ

しののめのさみしさの

うみおとしたのはめなしご

そのめなしごを

だいてゆくなみのおもひ

 

   4

 

消ゆるいのちを草の葉に

かへらぬ霜を手のひらに

冬がわたしの額にきた

――さらば、わが蟋蟀よ……

 

   5

 

山葡萄、熟みて赤らみ

秋の日はおもひ沈めり

わが耳はゆめを孕めり

(記憶よ、ささやくなかれ)

 

   6

 

(指をもて

のぞみを胸に描きぬ)

雲よ、かなしむなかれ

足音そろへてしなよく踊れ

 

りんご   山村暮鳥

 

  りんご

 

憐憫(あはれみ)はこほろぎの聲にあり

わが言葉のさみしさは

りんごの赤き頰にあり

皿の上に眠れる林檎

君が瞳の秋の日の小曲

君が瞳の底ふかく

みいでたる銀のないふ

 

[やぶちゃん注:太字「ないふ」は底本では傍点「ヽ」。]

 

所現   山村暮鳥

 

 所現

 

沼のさかしき釣人に

若輩の風はおもひで

釣人はいのちを傷み

ゆめに黃金の鉤を垂れたり

さはあれど魚のかからず

沼と見し

そはかなしみの空にして

 

[やぶちゃん注:「所現」既出既注。]

 

立秋   山村暮鳥

 

  立秋

 

「まだ、なかなか暑いね」

「それでも朝夕はめつきり變(ちが)つてぢやねえかえ」

「そろそろ穴ごもりの準備(ようい)かね」

「どうして、これからだよ」

「夏中は澤山、仕事があつたつて……」

「え。毎日、よく晝寢をしたよ」

「美(い)い夢をしこたま見たんだね」

「ところがね――あの、日向葵め。くるしがりやがつて焰(ひ)のやうな吐息さ。もう、あんなに黑くなつて首を低れてしまつたが」

「へえ」

「どうだね、此の頃の塀の上は」

「昨日金蠅を一つ」

「うむ」

「今日、おはぐろ蜻蛉を……」

「うむ」

蜘蛛と蜘蛛との立ちばなし

 

[やぶちゃん注:「なかなか」「そろそろ」の後半は底本では踊り字「〱」。太字「しこたま」は底本では傍点「ヽ」。「焰」は底本の用字。

「金蠅」本邦で最も普通に見られる種は(最近はまっこと見なくなったが)、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目額嚢節弁翅亜節ヒツジバエ上科クロバエ科キンバエ族ヒロズキンバエ Phaenicia sericata であろう。

「おはぐろ蜻蛉」トンボ目イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata。暮鳥の謂いからは「鉄漿蜻蛉」であるが、現行の漢字和名では「羽黒蜻蛉」である。但し、羽色からは「おはぐろ蜻蛉」はすこぶる腑に落ちる。ウィキの「ハグロトンボによれば、『別名ホソホソトンボ』と言い、所謂、我々が糸蜻蛉と総称しているグループの一種で、『成虫の体長は』五十七~六十七ミリメートル、後翅長三十五~四十四ミリメートルほどで、『トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干大きいが、大差はない。翅が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色の金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際も』、『チョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある』。成虫は五月から十月頃まで見られ、特に七月から八月にかけて多く見かける。『主に平地から低山地のヨシなどの挺水植物や、エビモ』(単子葉植物綱オモダカ目ヒルムシロ科ヒルムシロ属エビモ(海老藻)Potamogeton crispus)・『バイカモ』(日本固有種である双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ(梅花藻)Ranunculus nipponicus var. submersus)『などの沈水植物などが茂る緩やかな流れに生息する。幼虫は、おもに夜半から早朝にかけて、挺水植物』(ていすいしょくぶつ:水生植物の内で水底に根を張り、茎の下部は水中にあるものの、茎或いは葉の(少なくとも)一部が水上に突き出ている種群を指す)『などに定位して』六月から七月頃に『羽化する。羽化後の若い個体は薄暗いところを好み、水域から離れて林の中で生活するが、成熟すると再び水域に戻り、明るい水辺の石や植物などに止まり縄張りを張る。交尾後、雌は水面近くの水中植物に産卵する』とある。]

 

まどろみ   山村暮鳥

 

  まどろみ

 

女よ。海はひとみの底にして――

波のひびき、松脂(まつやに)の匂ひ

形無き樹(こ)の間(ま)の靜寂にすべてのものは憩へり

霧をこめたる梢よ

梢にかかりて靑き夢よ

たましひを見うしなひし沙の上

女よ。ここに無限がある

雲雀と蟬と、そして鷗と

濱えんどうの花と撫子草(なでしこ)

そよかぜよ、まどろみは果實(このみ)のごとし

わがかなしみに、海よ、な觸れそ

 

[やぶちゃん注:「濱えんどう」双子葉植物綱マメ目マメ科レンリソウ属ハマエンドウLathyrus japonicusウィキの「ハマエンドウより引く。『北海道から九州までの日本各地の海岸に分布する海浜植物。日当たりの良い砂地や岩場などによく見られる。まれに内陸部の湖岸でも見られる』。『全体に粉白色を帯びており、草丈は高くなく、地表面に沿って茎を伸ばし這い広がる。葉は偶数羽状複葉。葉の先端には巻きひげがあり、樹木や柵などがあれば、巻きひげで絡み付いて立ち上がる』。花期は四月から七月で、『濃紫色の花を咲かせる。花がスイートピーに似ており、美しいので栽培されることもある。実はエンドウマメのような形状で、若いものは芽と共に食用にできるが、ラチリズム』(Lathyrism:下肢の痙攣性麻痺などの神経症状を指す。レンリソウ属 Lathyrus の種子では古くから知られる中毒症状である)『を引き起こすオキサリルジアミノプロピオン酸などの毒成分を含むため』、『過食は禁物である』。『和名の由来は、浜辺に生えて、エンドウマメに似ていることから。 種小名はjaponicus(日本の)となっているものの、汎世界種であり、アジア・ヨーロッパ・北アメリカ・南アメリカなどの海岸に分布している』。]

 

理解   山村暮鳥

 

  理解

 

そらのひばりはうたつてゐる

ひるがほのはながさいてゐる

 

そらのひばりのかへるのを

ひるがほのはながまつてゐる

 

そらのひばりはうたつてゐる

ひるがほのはながさいてゐる

 

そらのひばりはうたつてゐる

すにゐたひながしんでゐる

 

そらのひばりのかへるのを

ひるがほのはながまつてゐる

 

ある時(感覺)   山村暮鳥

 

  ある時(感覺)

 

わが花園にしのび入り

猫は眠り

猫は驅けめぐる

 

夏は白き猫

夏は白き感覺なり

 

わが花園のかなしみ

夏は病めるひなげし

 

(せめて、翼のかげをこそ)

 

ちんもくよ、捕へがたき

かすかなる樂器の夢よ

 

夏は白き猫

夏は白き感覺なり

 

水邊にて   山村暮鳥

 

  水邊にて

 

 

うなじよ、力なく垂れて

なにをかおもふ

色白き君がうなじよ

 

水底の草あをあをと

わが愛のごとし

沼なる空のひかりに

 

色白き君がうなじよ

 

妻に――   山村暮鳥

 

  妻に――

 

われはなみだを君に求め

月は醉ひて眠れり

わが手に殘る祝福はあをじろき月のひかりか

(愛がとりこにした夢は――)

 

かしこに返れる風景あり

(いつになつても狂ひはしない)

月の光のかなしみに

かぎりなき匂ひをこめし

床の上なを一つの花

 

まんどりん   山村暮鳥

 

  まんどりん

 

世界は一のまんどりん

けふしも雨ふりいづれば

うたうたひの

ま白なるかひなを、枕

 

まんどりんこそ悲しけれ

緊張の絃(いと)にからみて

夢は、小さき沈默す

夢は、眼瞼(まぶた)を、そと辷り

 

けふしも雨は煙り

心の奧のくらがりに

白銀(しろがね)の

いたみを探る

 

雨   山村暮鳥

 

  

 

なつかしき雨をふるさとにおもひやれば

さすらひの淚の

乳の香のあまきに痛む

いとかなしかる線條

 

季節の歌   山村暮鳥

 

  季節の歌

 

此世の暗さに

髮は折々、夢を引く

雪がちらちら

ほのかに

膨らむものがある

 

春   山村暮鳥

 

  

 

しづかな鐘が鳴る

しづかな鐘が鳴る、麗かな春のなやみに

茶花畑は眠つてゐる

馬鹿者に追驅けられてきた黑猫が

ぴよいと尻尾を立てて怒つた

茶花畑は眠つてゐる

馬鹿者の命賭けになつた眼の光

ぷんと咽返る樣な花の芬香(にほひ)が

猫をかくした

黃い蝶が舞ひだした

しづかなる鐘が鳴る

洋傘(ぱらそる)の貴婦人が通つた

馬鹿者は、それを發見(みつ)けて高笑ひ

菜花畑に捩ぢ伏せた

(洋傘の、その洋傘の

折れた翡翠の柄のかなしさ)

 

しづかな鐘が鳴る

蝶は靑空、高く

星をめがけて高く

馬鹿者の靈魂(たましひ)の樣に、猶、高く

 

聲   山村暮鳥

 

  

 

音無きともしび、音無き闇

何を求むるわが生ぞ

 嬰兒(あかご)が泣く

 

街上に嵐は眠り

うごめくもの死の陰影が

 夢の如く

 

つかれはて歸りし心の

希望よ、再び明日(あした)を、と

 いとも悲しく

 

月光   山村暮鳥

 

新編「晝の十二時」

 

[やぶちゃん注:この詩群は調べる限り、予定された詩集ではない。しかもどうも『新編「晝の十二時」』という呼称自体が、以下の底本で仮想された詩群への仮題に過ぎないような気がしている(パート末にある藤原定と伊藤信吉の半可通な編集ノート記載から推断。そもそもが何故、それらの総標題(仮想詩集題)が大正五年パートの「じゆびれえしよん」の末行の一句から『新編「晝の十二時」』と題されねばならぬのかが全く分らぬ点でも実に不快である)。ともかくもこれらは大正二年から同五年の四年間の彼の詩作を集成したものであることは間違いない。

 底本は昭和五一(一九七六)年彌生書房刊「山村暮鳥全詩集」(第六版)の同パートを参考としたが、例の仕儀で、漢字を正字化した。]

 

 

 

  月光

 

月光は古沼の邊(ほとり)にさきし

その可憐なる水草の花

そして鶫(つぐみ)の聲

靜物畫の匂ひがある

 

 

ほそくして情無きは

樂器の絃(いと)にしあれど

その永遠性より言はば

むしろ木の葉の夢と朽ちてゆく

 

否、月光は尼僧の面

洪水のあと、鐘の音

また蒼白き酒の感覺

 

悲しくして聲なきものなれば

女よ、そなたの唇

罪多き髮の毛の光澤(つや)

 

2017/03/20

靜物   山村暮鳥

 

  靜物

 

あかくぬりたる

ぼんのほとり

あめのひ

いくつかのちさきちやわん

きうす

ゆこぼし

すゑものはすゑものどち

むつまじくよりそひ

そのかたはらなる

たばこぼんよりたちのぼるは

ひとすぢ

うすいろの

たばこのけむり

 

[やぶちゃん注:本詩を以って底本の「黒鳥集」のパートは終わっている。]

夕ぐれ   山村暮鳥

 

  夕ぐれ

 

わかきほとけら

木を搖れば

はららはなちり

そのはなをみにあび

これもさみしいめがねをかけた

いきぼとけ

三角形のあたまふりたて

かたへをはしる汽車に對してにつこりす

いまたそがれのさみしさに

わかきほとけら逆立し

 

わたしはたねをにぎつてゐた   山村暮鳥

 

  わたしはたねをにぎつてゐた

 

わたしはたねをにぎつてゐた

なんのたねだかしらない

いつからにぎつてゐるのか

それもしらない

とにかくどこにかまかうと

そしてあをぞらをながめてゐた

あをぞらをながめてゐるまに

たねはちひさなめをだした

 

[やぶちゃん注:私がしばしば教え子や友人の結婚式及び離任式で朗読した詩である。……もう、あんな、素朴で素直なことは出来んようになった……]

天景   山村暮鳥

 

  天景

 

しづけさに

いろづく麥は

しづけさに

なく雲雀

飛行機

天上銀座街

そして世はこともなし

おもちやの電車

 

斷崖   山村暮鳥

 

  斷崖

 

かけわたす

つりばし

空中一列の僧

斷崖

僧のあたまをてりかへす

谿のそこ

ひかりをながし

ひかりを流す山山

山山山

僧のあたまを

てりかへす斷崖

 

雪後   山村暮鳥

 

  雪後

 

雪の山山

山と山とのあひだにおいてきらめくは

純銀おもちやの新市街

ひるちかく

大藍色の空をうつしたわたしの瞳

そのめのなかのどこかで

ちろちろ雲雀がさへづる……

 

雪景   山村暮鳥

 

  雪景

 

まよなか

地上一面白金光

ゆき

ゆきだるま

まよなか

まはだか

 

雪景   山村暮鳥

 

  雪景

 

直線曲線

雪雪雪

ゆきがらす

雪雪

をんなのめ

みつめるかほがめになり

めはひとつ

かずかぎりなく

曲線直線

雪雪雪

うづまくめ

もえあがるめ

 

雪景   山村暮鳥

 

  雪景

 

山はぷりずむ

山山山

山上さらにまた山

雪のとんがり

きららかに天をめがけ

山と山とは相對して

自らのひかりにくづれつ

雪の山山

きらりもゆる雪山

山山のあひだに於て

折れたる光線

せんまんの山を反射す

 

竹やぶ   山村暮鳥

 

  竹やぶ

 

竹やぶ

るりの竹光り

風の波うち

うちかへす

なみまにこぼれ

冬雀

 

竹やぶ

はばたき溺れ

竹ひかり

 

創世の銘   山村暮鳥

 

  創世の銘

 

ひるすぎの

きび畑

黍の菜かげに

つるんだとんぼは

かくれた

 

薄暮   山村暮鳥

 

  薄暮

 

大キナ芭蕉ノ葉ノウヘニ

啞ノカヘルガ一ピキ

オ月樣ヲムカヘニデタトコロ

――オバンニナリマシタ

 

岬の上にて   山村暮鳥

 

  岬の上にて

 

めのなかのしののめ

ゆびさきのしののめ

みみたぶのしののめ

はだのしののめ

かすかにしののめを意識する、われ

しののめは刺をもち

われは一ぴきの鱚を釣らんと

海ふかく鉤をたれる

 

[やぶちゃん注:私の愛唱詩。

「刺」「とげ」。

「鱚」は「きす」(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類の総称であるが、普通はキス科キス属シロギス Sillago japonica 海釣りで正道とする)。

「鉤」「はり」。]

秋の日のこと⑴・⑵   山村暮鳥

 

  秋の日のこと 

 

こつそりと

長い着物をきた陰影が

わたしのあとから踉いてくる

しきりに黍の葉がゆれてゐる

綺麗な日だ

手をすかしてみてゐると

天(そら)にうつつてゐる黍畑の中で

うめく一本の電線

さみしい電線

それがはつきりときこえてくる

 

[やぶちゃん注:「踉いてくる」「ついてくる」と訓じていよう(「踉」はより一般的には「よろめく」と訓ずるが、それではおかしい)。]

 

 

 

  秋の日のこと 

 

風は吐息か

きびの菓かげに

きえうせて

そこに男がひとり

さみしく

しょんぼり瘦せて立つてゐた

 

あるひとに   山村暮鳥

 

  あるひとに

 

あなたのうつくしいてはかなしんでゐる

それはつきのひかりのやうなとこしへのしんじつで

それだのにあなたは

すべてのものはすぎさつたといひますか

あなたのふたつのひとみのなかにいまもなほいきてないてゐる

こほろぎのねをきいてください

こんやは

 

蜀黍畑にて   山村暮鳥

 

  蜀黍畑にて

 

なんとなくしきりに

ふかいところをあるいてゐる

かすかな蜀黍畑

瞳(め)のなかでもろこしの葉が搖れてゐる

そして風がひらひら光つてゐる

稜形玻璃のやうなわたしのあたまもけふばかりは

ほのかにたれて

みづからの靜肅(しづか)さに醉つてゐる

 

[やぶちゃん注:「蜀黍」「もろこし」。単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor、所謂、「コーリャン」(高粱)のこと。

「稜形玻璃」プリズム。私はここもそう読みたい。]

 

大韮露章   山村暮鳥

 

  大韮露章

 

   Ⅰ

 

ここは天上で

粉雪がふつてゐる

 

はつふゆの日は古代模樣のさみしさ

その上にふる雪

雪以上の雪の風景

陰影(かげ)がふりかへつては

直覺的にわたしの手を眺める

 

陰影はそれとなくゆれてゐる……

 

ここは天上で

粉雪が頻りにふつてゐる

 

[やぶちゃん注:総題の「大韮露章」は「だいきうろしやう(だいいきゅうろしょう)」と音読みしておく。漢代の葬送歌「薤露歌」(かいろのうた)や夏目漱石の「薤露行」(かいろこう)で知られるように、薤(にら)の葉の上の露は消え易いところから、「人の世のはかないこと」「人の死を悲しむ涙」をシンボライズした語が「薤露」である。ここは「大韮」であるから、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ラッキョウ Allium chinense の葉の上の露ということになる。]

 

   Ⅱ

 

まふゆの空は

瞳のなかに澄んでゐる

すつかり葉つぱのおちつくした

樹木は樹木のさみしさに

雪のふるのをまつてゐる

そしてわたしは

神のやうな悲哀を舐めて生きてゐる

 

   Ⅲ

 

うまれたばかりの

あかごののどぶえを

ぎゆつとしめていつたのは

なにものだ……

あをぞらの木から

さみしいものがふつてゐる……

 

よふけ   山村暮鳥

 

  よふけ

 

まふゆまよなか

にくしんをつらぬく

いつぽんのでんせん

すみわたり

あいをかんじて

しばらくは

いつとなく

なりいでつるもおのづからなれ

 

みらくる   山村暮鳥

 

 みらくる

 

まきたばこ

けむりを立て

ぴちぴち跳ねる魚

卓上なぎさ

なみひるがへれ

ひるひなか

手のほとり

海の陰影(かげ)

ゆゑなし

泡のかなしみ

 

印象   山村暮鳥

 

  印象

 

たにがはにぎんのあゆ

うづまくあゆのほつさ

めらんこりや

あゆのせつながゆびをきる

ゆびをきるさみしきあいのかんしよく

ひらり

きらめく

やまのてつぺん

みらくる

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、二行目の「ほつさ」は「發作」。]

 

靜物   山村暮鳥

 

  靜物

 

ふかさにそこのない

ひるのひだまりで

てのひらにのせられてゐる

たつたひとつのりんご

 

芽   山村暮鳥

 

  

 

をとめごの

かくしどころのけほどに

のびたむぎのめ

そらはれわたり

まひることなし

をかのはたけのひだまり

 

小曲

 

  小曲

 

とをのをゆびにななつのめ

めのないゆびのいひけらく

「さはさりながら

月がでるとて蘆の葉は

かぜもないのに搖れてゐた」

 

種子   山村暮鳥

 

  種子

 

農夫としより

たねは一粒

たねを掌(て)にしてひとりもの

たねのなかなるひとりもの

 

新生   山村暮鳥

 

  新生

 

天をつきさす

麥の芽

ひとこそしらね

ひとこそしらね

わがなみだ

 

模造眞珠   山村暮鳥

 

  模造眞珠

 

主よ

僕(しもべ)は黃銅悲性の香爐を

ひねもす、かく

はつふゆ藍色の天にささげ

めをとぢ雪をまてり

いちねん

光きざせる肉體に

憐憫をかけさせたまへ

でんせんの僂麻質斯

 

[やぶちゃん注:「黃銅悲性」不詳。「黃銅」で出来た、ヤハゥエやイエスやマリアの絶対の慈「悲」の「性」(しょう)をシンボライズする香炉の謂いか? 識者の御教授を切に乞う。

「でんせん」以下の疾患としての「僂麻質斯」との繋がりからは「傳染」か。但し、「電線」である可能性もあり、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「僂麻質斯」「リウマチス」。関節・骨・筋肉の痛みや強張りの症状を呈する関節リウマチやリウマチ熱などの疾患群を指すリューマチ・リウマチ(英語:rheumatismrheuma)のこと。前の語を「伝染」ととる場合、関節リウマチについては感染症ではないが、後者のリウマチ熱は現在、A群溶連菌の感染による全身性疾患であることが判明しているから、この謂いは必ずしも非科学的詩的表現と断ずることは出来ない。]

 

ある時   山村暮鳥

 

  ある時

 

キリストの

あたまのひかり

灯のひかり

それをみつめるめのしづく

銀座の

よるの雨のひかり

をんなのひかり

酒のひかり

血のひかり

落葉のひかり

それをみつめるめのしづく

たつた一つの眞實に……

 

冬くれば   山村暮鳥

 

  冬くれば

 

雪をふらす

わが指

をんなのからだに

觸れなば魚

(溺れたる目は

さかづきのなかにあり)

 

ひかり   山村暮鳥

 

  ひかり

 

月おち

くだけ

肉心さんらん

しきりに玻璃の筏をながし

天いたみ

いちねん

闇に十字をきる

 

信樂   山村暮鳥

 

  信樂

 

くれなやむ

冬のはじまり

空遠く

落葉さんらんたり……

その落葉を禮拜せよ

 

   *

 

しんじつ

ひとすぢ

たちのぼる香爐のけむり

 

   *

 

みよ

木はおのが影を曳く

 

   *

 

いちりんの

くさばな盜めば

手ひかり

眞裸(まはだか)の

をんな一列

秋天

かなしみ

落葉す

 

   *

 

一脈かすかに

水走り

いのれば

枯木さんらん

 

   *

 

えんぴつのやうに

指指をけづれ

ああ、わが靈性の噴水

 

[やぶちゃん注:「信樂」は恐らく「しんげう(しんぎょう)」で、「教えを信じ喜ぶこと」「阿弥陀仏の本願を信じて疑わないこと」の意の仏教用語である。キリスト者であるからこそ、暮鳥は仏教も深く学んでいたようであり、その信仰の様態には、異教であっても深く共感する部分があったに違いないことは容易に推察出来る。]

 

祕唱   山村暮鳥

 

  祕唱

 

いのりは髮を亂せども

秋の日をうてば白金

そらのみどりに指を浸し

ひとみにふかくうめくこほろぎ

秋の日をうてば白金

 

眞實に   山村暮鳥

 

  眞實に

 

眞實一ねん

びんづるの赤禿げ頭蓋(あたま)

かなしみひかり

眞實一ねん

ひびきかすかにちるは金の葉

 

   *

 

秋ふかみ

さみしらに

鳥とび

魚沈み

さみしさきはまり

木木しくしくとねむれば

ひかる蟋蟀

 

   *

 

わが手からつぽ

わが足は

泥にまみれつ

けれど走る

 

[やぶちゃん注:「びんづる」既出既注。]

 

發心   山村暮鳥

 

  發心

 

聡明八面

感觸千手

 

おのづから

ひかりをはなつ

 

聰明八面

感觸千手

 

なれゆゑに

さみしいひかり

 

聰明八面

感觸千手

 

[やぶちゃん注:「聰明八面」洩れなくあらゆる方向総てに絶対の聡明なる智を働かし及ぼすことが出来る能力の謂いであろう。

「感觸千手」「千手」は「せんじゆ」と一応、読んでおく。ありとあらゆる対象の核心に無数の万法(ばんぽう)を用いて直(じか)に触れ、直感することが出来る能力ととっておく。]

人魚の歌   山村暮鳥

 

  人魚の歌

 

にんぎよはよるのとこにあり

とこにふせりつねもやらず

鰭をかなしむわがにんぎよ

海の聲かすかに

みどりのかみを浸せり

かぎりなきつみのふかさを

おもひいで

鰭をかなしみ

とこにふせりつねもやらず

 

かぜ   山村暮鳥



  かぜ

 

しろがねのかぜすぐ

いつしかさえたるひとみ

ひとすぢのかぜすぐ

こしかたにみちあり

そらなるつき

ひるのさみしさに

ゆくてをばとふなかれ

 

蔓   山村暮鳥

 

  

 

ひとすぢのつるをたぐる

ひとすぢのつるのくずばな

しろがねのをゆびさしのべ

そのつるをたぐる

むらさきのはなのかなしみ

いとほのかなるにほひは

わがむねにおそろしきあらしをよぶか

うつくしきつるをたぐる

 

 

  

 

壺はさんらん

壺はかなしや

ひねもす

にくたいの

天(そら)をしみじみ玉の吐息

わが灑ぐいのちの炎

たえず

つつしみ

みちあふれず

壺はさんらん

壺は永遠

 

なつのあしたを   山村暮鳥

 

 なつのあしたを

 

なつのあしたを雪ぞふる

なつのあしたを

その中をかけめぐる燕ら

女の瞳はいよいよ靑くうつくしくかなしく

――なつのあしたを雪ぞふる

 

すぎしひのまんどりん

その音(ね)がゆめをゆする

たましひの黎明(よあけ)、はてなく引かれた直線

凝視(みつめ)られた寶石の香、肉にさく薔薇

――なつのあしたを雪ぞふる

 

沼におほ空あり

その空に月浮けり

されば

かぎりなきよろこびの魚となり

抱(いだ)かれて死なましものを

 

すぎしひのまんどりん

その音がゆめをゆする

 

内心   山村暮鳥

 

  内心

 

禮拜せよ

われらは影の中、その影を

みなぞこに眠れる魚を

 

禮拜せよ

黃ばめる麥穗を、空を

そして明日(あした)を

かなしみきはまれる手を

 

すべてのものは形にかくれ

とこしへのやみにめざめむ

 

智慧の木   山村暮鳥

 

  智慧の木

 

マリヤよ

うらのはたけの智慧の木は

空一ぱいの花をつけた

 

マリヤよ

はなのかほりでめがしひて

むかしのゆめをてさぐる

 

けふもけふとて日光は霧のやうだ

そなたのかみのけもぬれて

 

まひるだけれど月の聲

どこだらう、わたしを呼ぶ

 

ある時   山村暮鳥