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2016/09/29

甲子夜話卷之二 20 有德廟金輪寺へ御成のとき、住持へ被下ものの事

2-20 有德廟金輪寺へ御成のとき、住持へ被下ものの事

春末夏初の事とかや、徳廟王子邊御成のとき、御膳所は金輪寺なりし。その所へ御歩行にて入御ありしとき、住持僧門前に平伏して居たれば、和尚久しひとの上意にて、着せられし御服を悉く脱給て住持に投與へられ、御身は裸體になり給ひて、御下帶に御脇指をおとし指にさゝせ、御手を振て寺へ入らせ給ふ。從行し奉る輩これを見奉りて、快活の御氣象を歎仰せりと云。此住持は、もと高野の學侶にて、名は宥衞と云けり。上、潛藩のときより知しめられし者なり。因てこの上意あり。拜賜の御服、今に彼寺に傳て有と聞く。又四谷筋御成のとき、鮫ガ橋へ渡御の比、これも時氣煖熱して御服を減ぜられたく思召、橋上にて大聲にこゝらは家來共計かと仰なりければ、御傍の人々左候と申ければ、御立ながら御服を脱せられ、裸體にならせられ風を入れ玉ひ、やがて輕々と一つ召直して御歩ありしとなり。御番の衆中など、橋の前後に皆蹲踞してありしが、奧向の外樣のと云御差別もなく、家來共計かとの仰、眞に難ㇾ有事なりと、番士の輩申合へりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」吉宗。

「被下もの」「くだされもの」。下賜の品。それが暑いから脱いだ汗臭い服だったところが面白いではないか。

「金輪寺」「きんりんじ」と読む。現在の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺の前身。ウィキの「金輪寺(東京都北区)」によれば、現存する同寺は『江戸時代には徳川将軍家の御膳所にもなった、地域を代表する寺院であった禅夷山東光院金輪寺(神仏分離令により廃寺)の支坊(塔頭)の一つであった藤本坊が、金輪寺の名を継ぎ』、『再興したもの』である。『廃寺になった元の金輪寺は、平安時代の康平年間』(一〇五八年~一〇六五年)、『源義家が前九年の役で勝利し、凱旋した折に甲冑を奉納し、敵方の安倍氏の兵士の冥福を祈る祈願所を創建したのが始まりであると言われる古刹であった』。『その後は荒廃し、いつしか無住の寺となっていたが、江戸時代初期に徳川秀忠の命で宥養上人』『によって再興され、王子神社及び王子稲荷神社の別当寺になり、歴代将軍の御膳所を務める格式ある寺院となった』。『最盛期には支坊が』六つもある(十二という説もある)壮大な寺院であった。しかし、幕末、『火災により伽藍を焼失し、その後も再興されずに、明治時代の神仏分離令によりそのまま廃寺となった』とある。

「王子」現在の東京都北区王子(おうじ)。ウィキの「王子(京都北区)」によれば、『江戸時代になると王子村の中心には日光御成街道(岩槻街道)が通って江戸の市街と直結され』、十八世紀には『八代将軍徳川吉宗によって飛鳥山に桜が植えられたことをきっかけに、江戸市民が頻繁に足を運ぶようになった。飛鳥山の花見人気とともに、王子村の岸にある王子稲荷神社がもともと東国』三十三ヶ国の『稲荷社の頭領を自認していたこともあってか』、『参拝客が増え、料理屋や茶屋が立ち並んで、江戸郊外の手軽な行楽地として人気を集めた。狐火の伝承』もある、とある。

「御膳所」「ごぜんどころ」。将軍が鷹狩りなどの際に昼食をとったりする休息所。

「御歩行」「おんかちありき」と訓じておく。乗馬せずに、徒歩で入ったのである。

「和尚久しひとの上意にて」『「和尚、久しい。」との上意にて』。歴史的仮名遣の誤り。「をおとし指」「落(おと)し差し」。歴史的仮名遣の誤り。刀を差す際の方法の一種で、鞘尻が有意に下がって柄が胸側に近づく差し方を言う。他に側面から見ると、刀が地面と水平になっているような差し方を「閂(かんぬき)差し」、甲冑を装着した際などの、太刀のように刃を下に(逆に)し、捻った帯の輪に通して固定する(鞘尻が後ろで上に反る形となる)「天神(てんじん)差し」などがある。

「宥衞」「ゆうゑい」。金輪寺第六代住持。

「上」「かみ」。将軍。吉宗のこと。

「潛藩」「せんぱん」と読むか。吉宗が未だ紀州藩にあった時期を指す(「潛」は臥龍・伏龍のイメージからであろう)。紀州藩第五代藩主(但し、彼は十四の時に葛野藩主となっている)となったのは、宝永二(一七〇五)年十月で(二十二歳)、実際の入部(紀州入り)はその五年後の宝永七(一七一〇)年四月である。後の享保元(一七一六)年七月十八日に征夷大将軍・源氏長者の宣下を受けたから、紀州藩主としての治世は十年六ヶ月、但し、この間、江戸参府四回・紀州帰国三回で実際の紀州在国(通算)は二年四ヶ月しかなかった(以上はウィキの「徳川吉宗」に拠った)。

「知しめられし」「しろしめられし」旧知であられた。

「四谷筋」現在の東京都新宿区四谷周辺。

「鮫ガ橋」「さめがはし」。現在の東京都新宿区を流れる、桜川支流鮫川に架かっていた鮫河橋(さめがはし)のこと。ウィキの「鮫河橋」によれば、『多く鮫ヶ橋とも表記する』。この名は同時に橋のあった周辺地名でもあり、『現在の新宿区若葉二、三丁目、南元町一帯を指』し、『江戸時代は岡場所、明治時代は東京市下最大の貧民窟として知られた』。川の名も『鮫川と呼ばれるが、いずれの名が先かは不明。千駄ヶ谷寂光寺鐘銘に「鮫が村」とあり、往古』の『村名でもあった可能性がある』。「紫の一本」(むらさきのひともと:戸田茂睡江戸前期の仮名草子。江戸の地誌としての体裁を取りながら、文学的な要素も強い。成立は天和年間(一六八一年~一六八三年)前後と推定される)では、『字義により鮫と結び付けられ、古くは海岸線が高く、橋下まで海水が進入し、鮫が見られることがあったからだとされた。この他にも、往古』、『四谷一帯は潮踏の里と称し、鮫河橋付近は豊島の入江と呼ばれたなどと伝えられ、元鮫河橋北町の通称入(いり)という地名はこれに由来し、その橋は入江の橋と呼ばれるなど、傍証が多く言い伝えられているが、伝承が伝承を呼んだものと思われる』。「江戸砂子」(江戸中期の俳人菊岡沾涼(せんりょう)にの手になる江戸地誌。享保一七(一七三二)年刊)では、『目の白い馬を𩥭(さめうま)と称することから』、『馬と結び付けられるようになった』とし、さらに『「牛込行願寺の僧が𩥭馬で曼供塚』 『に通っていたが、この橋より転落死してさめ馬ヶ橋と称したとする』。「再校江戸砂子」(内題「再校江戸砂子温故名跡誌」。明和九(一七七二)年刊。丹治恒足軒庶智の校正とするが、「江戸砂子」とは全くの別物)では、『普段は小流だが、谷の地形のため雨天時にのみ増水し橋が必要となるため雨(さめ)ヶ橋の意であると考察し』ている。「文政町方書上」(ぶんせいまちかたかきあげ:文政(一八一八年~一八三〇年)年間、幕府の「御府内風土記」編纂事業に当たって江戸各町の由来・現況に就き、町名主に提出させた書類を合冊した資料。「江戸町方書上(えどまちかたかきあげ)」とも呼ぶ。「旧幕府引継書」の一つ)では『源義家の馬とする説のほか、徳川家康秘蔵の駮馬を千駄ヶ谷村に埋葬する際にこの川に落ちたという説を加え、後者が有力とする』。近代では、「大日本地名辞書」(在野の歴史家吉田東伍個人によって十三年かけて明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌)が『冷水(さみず)の略と考察した。また、地元の郷土史家は、鮫洲と同様真水(さみず)の意で、海浜の近い当時』、『貴重だったことから命名されたとする』。『鮫川の水源は永井家屋敷山下と鐙ヶ淵の』二『箇所で、元鮫河橋北町で合流し、鮫川橋付近で紀伊徳川家家老久野家屋敷から千日谷に沿った西方からの流れと合流し、紀伊徳川家中屋敷内の池に注ぎ、最終的に赤坂溜池に至った』(この近辺が吉宗には江戸のホーム・グラウンドであったことがこの事実から判る。だからこそ、気軽に肌脱ぎが出来る認識があったのであろう)。『鎧ヶ淵は源義家が鮫河に転落した際に落としたと伝えられる鐙が遺された伝承がある淵で、江戸時代初期には八幡宮に安置されていたが、後に廃され、陽光寺抱地となった。近代になっても、晴れた日の正午頃、池に反射する光が金の鐙からの光として有難がられる光景が見られたが、四谷区内の下水に溜まった泥の廃棄場となり、消滅した』。『江戸時代初期の時点で水流は僅かだった。橋は長さ』二間(約三・六メートル)、幅も二間の『板橋と至って小規模なものだった』とある(下線やぶちゃん)。大きな太鼓橋なんどを想定してはいけない。

「比」「ころ」。

「煖熱」「だんねつ」。「煖」は「暖」と同義。やや汗ばむような蒸し暑さをいうのであろう。

「御服を減ぜられたく思召」服を脱ぎたく思われ。結構、吉宗、脱ぎたがり屋の露出狂傾向がある。

「計か」「ばかりか」。だけか?

「仰なりければ」「おほせなりければ」。

「左候」「さ、さふらふ」。

「御立ながら」お立ちになられた状態で。

「やがて輕々と一つ召直して」「そのまま、ごく軽く一枚を召し直されて」で、ここは全部を着ていないことが判る。所謂、肌襦袢のような一番内側に着ていた単衣(ひとえ)をのみ着直したのである。後は帯の下にだらりと下げている。如何にも他者の目を気にせぬ豪快な暴れん坊将軍ではないか!

「御歩」「おあるき」。

「御番の衆中」将軍の外出時の警護に当ったのは書院番・小姓組・新番などの番衆(番士・番方:交代システムで組まれた「番」を編成して将軍及び御所の宿直や警固に当たる者)であった。特に書院番と小姓組は「両番」とも呼称され、三河以来の直参旗本の家柄から選抜され、エリート・コースであった。

「蹲踞」「そんきよ(そんきょ)」。

「奧向の外樣のと云御差別もなく」「奥向(おくむ)きの(旗本か)、外樣(とざま)の(出の者か)と云ふ御差別もなく」。

「仰」「おほせ」。

「難ㇾ有事なり」「ありがたきことなり」。

「輩」「ともがら」。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)

 この組帳から察して、何人も許しなくしては、一夜たりとも村を去り、――若しくは餘所で仕事をし、或は他郷で結婚したり、別の處に定住したりする事は出來なかつたと考ヘられる。處罰は嚴重であつた、――恐ろしい笞刑が、高い役人に依つて加へられるといふのが、普通の懲罰であつた……。今では斯樣な罰はない、そして法律上各人はその欲する處に行く事が出來る。併し事實は何處へ行つてもその欲するままに行ふといふ事は出來ないのである、何となれば個人の自由は、組合の感情がなほ殘つて居るのと、古い慣習との爲めに、甚だしく制限されて居るからである。地方の組合に於て、各人は自分の適當と考へるやうに、其時間と方法とを自由に用ふる權利をもつて居る、と云つたやうな説を主張する事は甚だ賢からぬ事である。何人も自分の時間、金錢若しくは努力を以つて、全然自分のものであると考へる事は出來ない、――自分の魂魄の住んで居るその身體すらも、自分のものとは考へられないのである。社會に生活して居るといふその權利は、全然その人が社會に奉仕する事を欲するといふ心の上に基礎を置いて居るのであつて、その人の助力若しくは同情を要するものは、何人でもその人に向つてそれを要求する特權をもつて居るのである。『各人の家はその人の城廓なり』といふ事は、日本では言はれない言葉である、――高位の主權者の場合以外には、普通の人は世間の人々に對して、その戸を鎖ざしてこれを入れないといふわけには行かないのである。各人の家は來訪者に對して、公開されて居なければならぬ。日中其門を鎖ざして置くといふ事は、社會に對する侮辱である、――病氣と雖もその口實にはならない。極めて高い位の人のみが、他に接近しないといふ權利をもち得たのである。そして或る一人の住んで居るその社會の意に悖るといふ事は、――特にその社會が田舍であるとすれば――重大な事である。社會が立腹する時、その・社會は個人として行動する。其社會は五百、一千、或は數千の人々から成る、併しそのすべての人々の考へは、只だ一個の考へである。只だ一つの重大な過失のため、人は突然に社會共通の。意志に對して、孤獨反對の位置に立たせられる事がある、――孤立して、極めて有效な絶交にあふのである。緘默と柔和な敵意とは却つてその罰を恐ろしくする。かくの如きは慣習に對する重大な違反を罰する普通の方法である、暴行を加へる事は滅多にない事で、さういふ事をする場合は、(非常な場合は例外であるが、その事はやがて説く事とする)それは過失の罰としてではなく、單に矯正の方法として課せられるのである 中に粗野な組合に於ては、人の生命を危くするやうな過失を、直に身體上の懲罰を以つて罰する事がある――それは公憤の爲めに行はれるのではなくて、傳統的の理由に依つて爲されるのである。嘗て私は或る漁村に於て、此種の懲罰を見た事がある。人々は其處で波の中で鮪を殺して居た、その仕事は恐ろしく危險なものでありたが、その興奮の最中、漁夫の一人が過つて鮪を殺す道具の穗先を、一人の少年の頭に打ち込んだ。人々はそれが全く過失である事を知つて居た、併しその過失は人の生命を危くするものであつたので、直にそれに對して處分が行はれた、そしてこの過失者は、その近くに居た人々に依つて打ちたたかれ、正氣を失つてしまつた、――それから波の間から引き上げられ、砂の上に投り出され、自分で正氣のつくまで打棄られてあつた。この事に就いて、口をきくものは一人もなかつた、そして鮪を殺す事は、前の通りつづいて行はれて居たのである。私の聞いた處に依ると、若い漁夫は、船に危險を及ぼすやうな過失をした場合には、その仲間から舶中で亂暴な取扱ひを受けるのださうである。併しすでに言つた通り、かくの如き罰を受けるのは、癡愚な行ひのみであつて、絶交の罰は、暴行よりも遙かかに恐ろしいものとされて居る。いやこの絶交よりもなほ重い罰が一つある――則ち幾年かの期間若しくは生涯の追放である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲は所謂、「村八分(むらはちぶ)」という村落共同体に於ける制裁行為(私刑行為)を主題として語っている。以下、ウィキの「村八分」を引いておく。『村落(村社会)の中で、掟や秩序を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つこと(共同絶交)である。また、「村八分」は集団行動主義の日本社会における代表的ないじめの代名詞でもあり、様々なシーンでしばしば引用される』。隠語に詳しい言語学者楳垣実(うめがきみのる)が『説くところによると、『地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話と火事の消火活動という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つことをいうもの』とされる『葬式の世話が除外されるのは、死体を放置すると腐臭が漂い、また伝染病の原因となるためとされ、また死ねば生きた人間からは裁けないという思想の現れともいう。また、火事の消火活動が除外されるのは延焼を防ぐためである』。『なお、残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行である。しかしながら「はちぶされる」という言葉自体が、もともと村落生活とは無関係に発生した比較的新しい言葉であること』、『江戸期の村落共同体において重要な機能であり、また、実際の村八分においてなされた入会地の利用の停止が含まれていないことなどを考慮すると、後世の附会であろうと主張されており、「八分」は「はぶく」や「はじく」(爪弾きにする)の訛ったものなどの諸説も唱えられている』。『入会地の使用が停止されると、薪炭や肥料(落ち葉堆肥など)の入手に窮するなど、事実上生活が出来なくなった。しかし、村落の中での掟や秩序は、合法的・客観的で公明正大なものとは程遠い、その地域の有力者の利益に沿うためのものも多く、公平な秩序維持活動とは言えない』。明治四二(一九〇九)年の『大審院判決で、村八分の通告などは脅迫あるいは名誉毀損とされた』とある。『しかしこういった村八分行為は、第二次世界大戦後になっても存続し』続けており、現代に於いてもさまざまなトラブルや殺人事件に発展するような元凶ともなっている。但し、最後の「幾年かの期間若しくは生涯の追放」という懲罰になると、これは幕府や藩のレベルでの公的懲罰の色彩を帯びてくる。所謂、居住地からの一定期間の「構(かまえ)」(追放)に相当する「所払」や「江戸払」(居住地及び江戸市中(品川・板橋・千住・四谷大木戸よりも内側と深川・本所の両地域)を御構場所(侵入禁止区域)とするもの)から、それ以上の広域に及ぶ軽追放・中(ちゅう)追放・重追放である(但し、しばしば時代劇で「何年の江戸所払」などという期間限定の追放の申し渡しを聴くが、公的な追放刑は原則的には無期刑であった。但し、赦によって許される場合はあった。ここはウィキの「日本における追放刑」を参考にした)。それ(公的追放)を考えるとしかし、「幾年かの期間若しくは生涯の追放」という「村八分」以上の重刑としての私刑(リンチ)も、村社会の暗黙の掟として厳然と公の処罰とは別に存在していたことは疑いはない。運命共同体としての「村」という「船」を沈没から何としても守るための最終手段としてである。

「悖る」「もとる」。道理に背く。反する。]

 昔の封建時代にあっては、追放は重大な罰であつたに相違ない、事物一新の今日でも、重大な罰である。昔組合の意志に依つてその土着の地から逐はれた人――その家、その氏族、其職業から見棄てられた人、――は絶對の困苦に當面するのである。他の組合に行つても、其處にたまたま親戚でもあるのでなければ、自分を容れる場所はない、而も親戚とても、さういふ者を家に入れるには、先づその地方の官憲と、そのものの故郷の役人とに相談しなければならない。また他郷のものは、官憲の許しを得なければ、自分の地方以外の他所に定住する事をゆるされない。親類といふ口實の下に、他郷のものを、泊めた家に向つて加へられた事を記した古い記錄がなほ殘つて居る。追放された人は、家なくまた友なきものであつた。そのものは、或は上手な職人であつたかも知れない、併しその職を行ふ權利は、そのものの行つた地方に於て、その職を代表して居る職業組合の承認を得なければ得られないのであるが、追放にあつた人は職業組合も、これを受ける事をしないのである。さういふ男は下男となりたいと思ふかも知れないが、その逃げ込んで來た組合は、如何なる主人でもが、此亡命者にして且つ他郷の人たるものを雇ふ權利をもつて居るかどうか、第一それを疑ふ。其ものの宗教の如きは少にも役には立たない、組合生活の法規は、佛教に依つて定められるのでなく、神道の倫理に從つて定められるのである。則ち自分の生まれ故郷の神々が彼をすてたのであり、また他の地方の神々は、そのものの祭祀とは何の關係もないのであるから、宗教は其ものに取つて、何の助けともならないのである。其上、彼が亡命者であるといふ事實は、其事がすでに、其ものが祭祀に對して罪を犯して居るに相違ない事を證明して居るのである。いづれにしても他郷の人は、自分の知らない他郷の人々の間にあつて、同情を得る事は出來ない。今日でも他の國から妻を迎へる事は、其地方の意見に依つて惡るいとされて居る、(封建時代にはそれは禁止されて居たのである)各人はなほその生まれた土地で生活し、働き、結婚するやうに期待されて居る、――もつとも或る場合に於ては、その故郷の公然の承認を經て、他の組合に入る事を許される事はある。封建制度の下にあつては、他郷人の同情を博す事は、とても比較する事の出來ない程に少い、從つて追放は、飢饉、孤獨、竝びに口にしがたい程の困苦を意味するものであつた。何となれば當時に於ける、個人の法律上に於ける存在は、その家族と組合との關係以外には全然なくなつてしまふのであるからである。人はみな家の爲めに生活し、家の爲めに働き、家は又氏族の爲めに存立して居たので、家竝びに幾多の家の相聯關した集合以外には、生きて行くべき生活はなかつたのである、――罪人、乞食、穢多の生活を除いては、役人の許しがなければ、かくの如き者は、佛教の僧ともなれなかつた。賤民――たとへば穢多階級の如き――も自治の社會をつくり、獨得の傳統をもち、決して進んで外來人を受け容れるやう事はしない。かくして追放されたものは、大抵は非人――公式上『人問にあらざるもの』と呼ばれて居る放浪の憐むべき穢多階級の一になり下がり、人の袖にすがり、或は樂器を流して歩く音樂者、若しくは野師の如き下等な職業に依つて生活するのである。なほ遠い昔にあつては、追放されたものは奴隷に身を賣り得たのであるが、この憐むべき特權すら、德川時代には取り上げられてしまつたらしい。

[やぶちゃん注:「穢多」平凡社「世界大百科事典」の横井清氏の解説より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点にし、記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが、これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ、「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては、鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また、ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが、末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は、鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では、鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』。

「非人」平凡社「世界大百科事典」の横井清解説より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点にした)。『もとは仏教からでた言葉で、鬼神・夜叉(やしや)など、人にあらざるものが人の姿形をかりて現れたものの意味であったが、別に、罪人・世捨人・僧、最下級の神人(じにん)、乞食(こつじき)などをさす語として平安時代』以来『普及し、江戸時代になってからは、賤民身分の一部をさす呼称として、公式に江戸幕府・諸藩で採用され定着した』。『江戸時代に、いわゆる士農工商の諸身分の下に』「穢多(えた)」『とともに賤民として位置づけられた非人は、親子代々の〈非人素性〉の』者が『その中心をなしたが、ほかに、犯罪や、心中の仕損じを理由として非人身分に落とされて〈非人頭(がしら)〉の配下に入れられた〈非人手下(てか)〉、生活困窮のため乞食浮浪の身となった〈無宿非人〉〈野非人(のびにん)〉があり、その内容はさまざまであった。彼らは江戸幕府の』膝元で、『歴代、〈穢多頭(えたがしら)〉の地位にあった弾左衛門(だんざえもん)の統轄下に置かれたが、直接的には江戸浅草の車善七(くるまぜんしち)に代表されるような各地の非人頭、もしくは非人頭に該当する役職の者(たとえば、京都ではそれを悲田院年寄といっていた)、さらには非人頭に属する多数の小屋頭たちの支配を受け、町外れや河原の非人村の小屋に住み、物乞い生活を基本としながら、大道芸、犯罪者の市中引廻し、処刑場での雑役などで、日々の暮しをたてていた。江戸では、罹病の囚人や十五歳未満の罪人たちは、浅草・品川の非人頭のもとで非人が管理していた非人溜(ひにんため)に収容され、そのことを非人小屋預(あずけ)といった。また、前記の無宿・野非人については、天保~嘉永年間(一八三〇~五四)に浅草に非人寄場(よせば)が設けられていた。非人身分は、一八七一年(明治四)八月二十三日の太政官布告により廃止されたが、非人の集住していた非人村の多くは』、「穢多」『の集落と同様に江戸時代を』通じて『深刻な差別の対象となっており、現代における被差別部落の一源流をなした』。]

 吾々は今日斯樣な追放の狀態を想像する事は出來ない、これと同じやうな西洋の例を求めるには、帝國時代に先き立つ遠き以前の古いギリシヤ、ロオマ時代に戾らなければならない。その當時追放なるものは、宗教上の破門を意味し、實際上文明社會からの除外であつた、――其頃はまだ人類同胞の考へもなく、血族上から親切を求めるといふ外、親切を求めるといふやうな考へはなかつたからである。他郷の人は何處でも敵であつた。さて昔のギリシヤの都會に於けると同樣に、日本に於ても、守護神の宗教は、いつも團體の宗教、組合の祭祀であつて、一地方の宗教とさへならなかつたのである。一方に高等の祭祀は個人とは關係して居なかった。個人の宗教はただ一家、一村、或は一地方の宗教であつた。故に他の家、他の地方の祭祀は、全然別のものであつた。他の祭祀に屬するといふのは、其處に迎へ入れられる事に依つてのみなされ得たのである。そして他郷人を迎へ入れるといふ事は、規則としてない事であつた。家或は氏族の祭祀がなければ、個人は道德上にも、社會上にも、死んだものであつた。何となれば餘所の祭祀も、氏族も、かくの如きものを排斥したからである。個人の私生活を規定した家族の祭祀から棄てられ、なほ對社會の生活を定める地方の祭祀から除かれた時、そのものは人間社會に對する關係に於て、全くその存在を失つたものである。

 以上の事實から、過去に於て、個人が自己を發展させ主張する機會の極めて乏しかつた事は想像しうるであらう。個人は無慙にも全然社會の爲めに犧牲に供されて居た。今日でも日本人の居住する處に於ける唯一の安全な道は、何事もその地方の慣習に從つて行くといふ事であつて、少しでも原則から離れると、嫌惡の目を以つて見られる。祕密といふものはない、何事も隱蔽され得ない、各人の善德も惡德も他のすべての人に知れる。故に尋常でない行爲は、行爲の傳統上の標準から離れたものと判斷され、すべでの風變りな事は、慣習に反くとして非難され、その傳統と慣習とは、宗教上の義務と云つた位の力をなほもつて居る。事實それ等は、(傳統と慣習とは)ただにその起原からばかりでなく、なほ過去の禮拜の意なる公共の祭祀に關係ある所から、宗教でもあり、義務ともなるのである。

 これに依つて神道が道德上の成文法をもつて居ない理由も容易に理解されるし、また神道の大學者が道德の法規は、不必要であると斷定した所以も了解されよう。祖先崇拜が代表して居る宗教的發達の其階段にあつては、宗教と道德との區別もなく、また道德と慣習との區別もあり得ない。宗教と政治(政府)とは同一物であ、慣習と法律とは同じである。神道の倫理は慣習に服するといふ一事の内に悉く包容されて居る。一家の傳統的規則、組合の傳統的法律、――それ等は則ち神道の道德であり、それに從ふのは則ち又宗教であり、それに反くのは不信心であつた……、而して成文たると否とに拘らず、凡そ宗教的法規の眞の意義は、要するにその社會に於ける義務の表明、善惡の行爲に關する教義、人民の道德的體驗の具體化等にあるのである。實際イギリスに於けるが如き行爲の近代的理想と古ギリシヤ及び日本のそれの如き族長制度的理想との間の相違は、これを精査して見れば、只だ古い考へを、詳細に亙つて、個人生活の細目にまで擴げるといふ點にあつた事が解る。正しく神道の宗教は、成文上の命今を要しなかつた。それは教訓に依り、或は實例に依つつて、幼少の時代から各人に教へられたもので、普通の知識あるものであれば、何人もそれを了解し得たのである。規則に外づれた行動が、人々に取つて危險である事を、宗教が認める以上、法規を作る事は無論無用な事である。たとへば吾々のより高い社會生活、則ち文化的生活の、他を排して居る吾々の一團の行爲は、決して單なる十誡に依つてのみ支配されるものではない。それ故吾々とても事實、行爲に關した成文上の法規をもつて居るわけではないのである。自分の住んで居る地帶(社會)に於て、何を爲すべきか、如何にしてこれを爲すべきか、と云つたやうな知識は、ただ訓練に依り、經驗に依り、觀察に依り、また事物の道理を直覺する事に依つて得られるのである。

佐渡怪談藻鹽草 仁木與三兵衞賭ものに行事

     仁木與三兵衞(よさべえ)賭(かけ)ものに行(ゆく)事

 

 天和年中の事なるに、或時腕立する若侍五七輩、寄合(よりあひ)て物語しける中に、壱人の男言(いひ)けるは、

「昨日平山邊、爰彼所(こゝかしこ)を遊行せしに、總源寺の松原に、新敷(あたらしき)卒都婆立(たち)たる墓所有(あり)。今宵誰にても、右の處へ至り、卒都婆を取(とり)て、歸りしならば、此連中にて近日一會を催し、振舞(ふるまひ)なん。誰にても、速かに參らるべし」

と言(いへ)ば、頃しも卯月の始(はじめ)、宵月もとく入果(いりはて)、目ざすもしらぬ闇なれば、道の程も覺束なく、我行(ゆか)んと言(いふ)人もなく、爰に仁木與三兵衞は、柱に添(そへ)て眠り居けるが、此沙汰を聞て、

「件(くだん)の所へは、我行(ゆく)べし。跡にて饗應必(かならず)、違へ給ふな」

とて、刀おつとり立出(たちいで)れば、其座に、親しき人有(あり)て、

「わきて、今宵は夜寒なれば、一盃吞(のみ)て行(ゆき)給へ」

と心を添(そへ)るに、與三兵衞答へけるは、

「予も吞度(のみたく)はおもへども、酒に力をかりて行(ゆく)に似たれば、ひたすら呑まじ」

迚(とて)、其處を立出、夫より總源寺の門前に至り、平道へおりて、又松林へ登り、彼(かの)聞置(きゝおき)し墓の邊を尋(たづぬ)るに、夜ながら、向(むかひ)の方に卒都婆とおぼしき白きもの見へけるより、能々(よくよく)見定(さだめ)て、扨(さて)急(いそぎ)て、聞置(きゝおき)ける事のあれば、後ろざまに七足歩みて、卒都婆に手を掛け取(とり)て、脇挾み、前の邊りを下り、總源寺の前に出(いで)、夫(それ)より嚴常寺坂へ掛り、半端下りけるに、法泉寺裏門【當時は表門となり】の前へ至れば、門柱の上に、薄白きもの見へける故、立寄(たちより)て、何やらんと能々(よくよく)すかし見るに、其丈ケ、七八尺もあらんとおもふ坊主、目を見はりて居たり。

「心得たり」

迚、拔打(ぬきうち)にせんとするを、ひらりとあなたより飛かゝり、上に成(なり)、下に成、組(くむ)程に取(とり)て、押へて上になれば、亦かへされて、組敷(くみし)かれ、數度かくの如(ごとく)して、精根疲れ、夫より前後を忘れ、扨(さて)草の葉露の口に入(いり)て、氣の付ければ、起上(おきあがり)て見るに畑の中なり。

「何として、爰には寢し事ぞ」

と、能々おもひめぐらせば、

「かけに行(ゆき)しものを」

と、しかしかの事ども思ひ出し、

「卒都婆はいかにしつらん」

と、尋ぬれば、裏門の前の溝に有。寢て居たる處は、其向(むかひ)の畑なり。是(これ)にこりて、足を急ぎ、會合の處へかえり、皆々待(まち)果て、休(やすみ)居たりしを、呼起(よびおこ)し、卒都婆を渡しければ、何れも賞美して、

「扨、何として遲かりしぞ」

と、子細尋ければ、

「名折にや成(なり)なん」

とて、少しもあかさず。其後會合の内、親敷(したしき)人へは、密(ひそか)に語りしと也。

 

[やぶちゃん注:「仁木與三兵衞」寛文年間(一六六一年から一六七二年)の佐渡奉行所役人に仁木与三右衛門秀幸という人物が見えるが、この縁者か同一人か。

「賭(かけ)もの」仲間内の賭け事。

「天和年中」一六八一年から一六八四年。

「腕立する」腕自慢の。

「平山」不詳であるが、以下に出る「總源寺」から現在の佐渡市相川下山之神町地区及びその周辺の通称名と思われる。

「總源寺」現在の佐渡市相川下山之神町にある曹洞宗青嶽山総源寺。「BSNホームテレビ」公式サイト内の「新潟名刹紀行」のこちらによると、元和五(一六一九)年の開山であるから、本話柄は建って間もない頃の出来事である。名奉行と称された初期の佐渡奉行鎮目惟明(しずめこれあき 永錄七(一五六四)年~寛永四(一六二七)年)を始めとする四人の佐渡奉行の墓があるとある。

「頃しも卯月の始(はじめ)、宵月もとく入果(いりはて)、目ざすもしらぬ闇なれば」前にも類似の表現が出たが(「高田備寛狸の火を見し事」)、殆んど新月なので何かを目を凝らし、じっと見てもその対象物を視認することが全く出来ないほどの完全な闇夜なので、の意。

「刀おつとり」「押取(おっとり)り刀」と同じ。武士が刀を腰に差す間も無く手に取って飛び出して行くさまを指す。

「わきて」「別きて」。格別に。

「心」ちょっとした思いやり。

「ひたすら」呼応の副詞。下に打ち消しの語を伴って「まるきり・少しも」の意。

「平道」或いはこれは平らな道ではなく、「平(山へ向かう)道」の略なのかも知れぬ。

「聞置(きゝおき)ける事のあれば、後ろざまに七足歩みて」これは興味深い表現である。「以前から聴いていたことがあったので、そこで立ちどまり、後ろの方に七歩歩いて「卒都婆に手を掛け取」ったというのである。恐らくは怪奇現象に遭遇しないようにする呪いがこの七歩下がることにはあると考えてよい。そこで思い出すのは「禹歩(うほ)」で、これは、古代中国の夏の禹王が治水のために天下を廻り、足が不自由になって片足を引きずって歩くようになったという伝説から生まれたとされる呪法で、貴人が外出する際、陰陽師が行う邪気を払うものである。呪文を唱えつつ、一見、千鳥足のように歩くという(この「禹歩を含む儀式全体」を「反閇(へんばい)」と称する)。禹歩の一種と思われるものに「歩五星法」(「五星図」に描かれた五星を踏んでいく呪法)があり、また、星座の形を描いて歩く呪法に「北斗七星」を描く「歩罡(ほこう)」(「罡」「北斗七星」のこと)という道家に採り入れられた重要な歩法呪術が存在し、ここの七歩とは北斗七星の星の数に対応する、この「歩罡」に基づく邪気払いの呪(まじな)いであろうと私は考えている。

「嚴常寺坂」「佐渡市世界遺産推進課」の「佐渡市の文化財」にある「厳常寺坂」に『濁川を境に奉行所に向かう帯刀坂と対象的に下山之神台地に通じる石段道が厳常寺坂です。石段に沿って、左側は地役人天野氏邸跡のみごとな石垣、総源寺末寺の長泉寺跡、その奥が日蓮宗法泉寺と続きます。右側は浄土宗厳常寺跡、法泉寺墓地跡、厳常寺墓地跡、長泉寺墓地跡と今は荒廃した石垣を残すだけです。寺院や墓地が集まっていた跡だけに、石段の両側には今も地蔵が多く見られます』百三十八段(昭和四八(一九七三)年現在)の『坂は昔のままで、両側は小高い丘の樹木に囲まれて、いつも陽のあたらない感じです。役人が、東照宮や大山祇神社・八幡神社に詣でるのに奉行所からの最短距離に開いた道と思われます。坂の頂上近く、杉木立の闇の間を登りつめ、ホッと見上げる右の石の鳥居が八幡神社です。眺望が開けて、はるか左の森が東照宮跡・愛宕さん・大乗寺の山門と弘法堂の石段、大山祇神社と禅宗総源寺。台地は神社仏閣の静寂な一画です』。全二百二十五メートルに及ぶ『この石段は、また庶民信仰の坂道として、下山之神台地への唯一の歴史を語る道です』とある。この「嚴常寺」は浄土宗栄照山厳常寺で下山之神町に寛永五(一六二八)年(「相川町誌」では寛永元年)に創建された寺であるが、明治元(一八六七)年に廃寺となっている(最後の厳常寺の箇所は旧相川地区の「寺社調査」(PDF)に拠る)。

「半端」「なかば」。半分。

「法泉寺」相川下山之神に現存する日蓮宗妙栄山法泉寺。は寛永元(一六二四)年創建。「佐渡名勝志」八巻を書いた地役人須田富守(延宝八(一六八〇)年~延享三(一七四六)年)の墓があることで知られる。

「裏門【當時は表門となり】」こういう執筆時点との相違割注はすこぶる貴重である。それによって本話の見かけ上の現実性が強く補強されるからでもある。

「七八尺」二・二~二・五メートル強。

「心得たり」「正体見極めたり!」という物の怪に負けないための「言上げ」である。

「何として、爰には寢し事ぞ」「かけに行(ゆき)しものを」「卒都婆はいかにしつらん」この奇怪な記憶の健忘自体が怪異に遭遇した証しとなっている。そこを実に丁寧に記している手腕は、怪談語りとしては「ただ者」ではないという気がする。

「名折」「なおれ」。不名誉。しかし、とすれば、ここは直接話法ではなく、心内語である。仁木与三兵衛はその場では、黙して語らなかったのである。]

只今横臥中   梅崎春生

 

 神経症でこの春(昭和三十四年)入院して治療を受け、七月退院して現在にいたるが、何かまだはっきりしない。以前の不安感はなくなったが、意欲というか闘志というか、それが湧き出て来ないのである。医師の言によれば、治療法の関係でそういう状態が半年から一年続くものだそうで、だからこれは私の責任でない。退院時医師は私に、当分四つの条件を守るよう指示した。その条件というのは、一、したいことをすること、二、したくないことはしないこと、三、酒は秋まで飲まぬこと、四、食後四十分は横臥(おうが)すること、である。一と二はたいへんいい条件で、はっきりしている。自由にふるまえばいいのである。三はいつから秋かというのがあいまいだが、私は俳句が大好きなので、山本健吉編『新俳句歳時記』でしらべてみると「立秋(八月八日ごろ)から立冬(十一月七日ごろ)の前日までを秋とする」とある。医者が秋と言ったのは何月を指すのか知らないが、問い合わせるのも面倒なので、とりあえず山本説にしたがって八月八日から飲み始めた。

 四の食後横臥というのは、他で食事がしにくいという不便があるけれど(レストランなどで横臥しては恰好が悪い)まず悪くない。むしろ好きである。私は昔から横になるのは大好きだ。寝たり起きたり出来るということは、たいへん幸福なことで、数ある動物の中には、横臥しないのがいる。たとえば馬なんかは立ったまま眠るし、こうもりなんかは樹にぶら下って眠る。これに反し、立てないという動物もいる。蛇やみみずやごかいがそれで、覚めている時でも横臥している。彼等は立とうにも立ちようがないのである。

 何だか話が横に外(そ)れたが、前述の如く私はだらしなく横臥するのが好きで、なぜそうなったかというと、私は幼少時割にきびしい家庭教育を受けた。食後横になったりしようものなら、火箸で打たれた。食後の横臥は衛生的なのだが、当時はそのことは普及していず、そんなことをすれば牛になると信じられていた。その反動で、親もとを離れると、私は起居のしめくくりがすっかりゆるんで、時をかまわず横になることを愛好するようになった。

 その傾向に拍車をかけたのが軍隊生活で、私は海軍の暗号兵だったが、一日の中眠る時間は五時聞か六時間で、あとの時間は立つか腰かけるかしていねばならぬ。それに海軍というところは、眠るのはハンモックの中である。経験ある人なら知っていようが、あれは厳密な意味では横臥でない。ハンモックの中では、身体が匙(さじ)のように曲って、窮屈なものである。やはり横臥というのは、畳の上で手足を伸ばして横たわることだと思う。だから当時私たちは、「一日でいいから畳の上で、ぐつすり眠りたいなあ」とこぼし合ったものだ。

 だから私は復員後、過去に復讐するかの如く、暇さえあれば横たわり、眠ってばかりいた。

 その習慣が今なお残っていて、私は今でも一日十時間は眠る。夏はそれに昼寝の時間が加わるから、年間平均は十時間を上廻るのである。

 そんなに眠っては、起きている時間がすくないから、一生を短く生きることではないか。いやいや、そんなことはない。起きてぼんやりしているよりも、眠って多彩で豊饒(ほうじょう)な夢を見ている方が、はるかに有意義である。はるかに人生を愉しく生きていることになると、私は思っている。それに十時間も眠れば、休養が充分にとれて、長生きが出来ようというものである。

 で、横臥に話が戻るが、私は病後の関係もあり、覚めている時間の大半をこれにあてている。食後四十分とは医師の指令だが、私は四十分では満足出来ずに、二時間か三時間にも及ぶこともある。食後だけでなく、食前食後にわたることもあり、更に進んで食事も横臥のままとることもある。寝ながらざるそばなんかを食うのは、なかなか趣きのあるものだ。

 そんなに横臥して、何をしているのか。ぼんやりと物思いにふけったり、読書にいそしんだり、テレビを眺めていたりする。今も私は寝床に腹這いになり、日本野球選手権のテレビを横眼に見ながら、これを書いている。

 日常生活のどういうところから小説のヒントを得るか、というこれは注文原稿なのであるが、以上のような私の日常であるので、ヒントを得るにはほんとに苦労する。しかしまあこんな日常でも、どしどしというわけには行かないが、ぽつりぽつりとヒントがやって来て、どうにか門戸を張っているというのが実情で、そのヒントも自らぽっかりと浮ぶこともあり、他人の話からそれを得ることもある。それらのヒントを私はすかさず枕頭(ちんとう)のノートブックに記入して置く。

 どういうわけか、私は自分で見たり経験したことよりも、他人のちょいとした話の方が、小説に仕立てやすい傾きがある。自分の経験したことだと、それだけが全体で想像力を加える余地がない。あとは変形あるのみである。ところが他人の話だと、自由に想像力がふるえるからではないかと思う。

 それで、そのノートに控えたヒントはどうするか。すぐ使ってはまずいのである。せっぱつまってすぐ使ったこともあるが、おおむね出来ばえが良くなかった。ヒントというものはやはり味噌や醬油と同じで、速成ではうまく行かない。ある程度寝かして、充分に醱酵させないと、上味にはならない。

 どの程度寝かして置けばいいかと言うと、私の経験では、半年から一年ぐらいがいいところである。二年を越すと、もういけない。ヒントが腐ってしまうのである。ヒントというものは生(なま)ものであるから、あまり放置すると腐敗菌が取りつくのだ。私の戸棚には、そういう腐ったヒントが、ノートで数冊死蔵されている。

 横臥のうつらうつらの物思いに、仕入れたヒントをあれこれと考え、つつき散らし、変形を加えたりひっくり返したり、そんなことをするのはなかなか愉しいことで、他の商売に従事している人にはうかがい知れぬ快感がある。伊達(だて)や酔狂で私も横臥しているのではないのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年十二月号『文学界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「日本野球選手権」この年の日本選手権シリーズの優勝はパシフィック・リーグの南海ホークス(初優勝)で、相手はセントラル・リーグの読売ジャイアンツであった。]

諸國百物語卷之二 十八 小笠原殿家に大坊主ばけ物の事

     十八 小笠原殿(どの)家に大坊主(をゝばうず)ばけ物の事


Oobouzu

 慶長年中に、小笠原の何がしの内儀、とし四十四五にて疱瘡(はうそう)せられしが、大せつなりしゆへ、小笠原どのも、つぎの間にて、くすりの御だんがうなどしてゐられけるに、をくの間より、女ばうしう、

「をそろしき事あり」

とて、かけいづる。小笠原どの、をくへ御入り候ひて見給へば、屛風のうへより、まつくろなる大ぼうず、御内儀をみて、わらひゐける。小笠原どの、やがて刀をぬき、きりはらひ給へば、かのぼうずは、きへうせけり。あくる夜もまたきたるべしと思ひ、さぶらひども五六人、をくへよび置き、まちかまへゐたる所へ、あんのごとく、くだんのぼうず、又、びやうぶのうへより、あたまをいだす。

「なに物なれば、かやうにへんげをなしけるぞ」

と、しかり給へば、かのぼうず、内儀をひつつかみ、天井をけやぶりてあがる所を、さぶらひども、御内儀にとりつき、ひきとめんと、しける。ぼうずは、かみへ、ひきあげん、とす。このいきをいにて、御内儀をふたつにひきさき、くびをば、とつて、かへりけると也。そのゝち一年ほどがあいだは、殿、せつちんへゆき給へば、ひやゝかなる手にて股をなで、あるひは、せつちんのかけがねを、そとよりかけるなど、色々のすさまじき事をゝかりしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「小笠原殿家内大坊主の事」。

「小笠原殿(どの)」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『小笠原を名のる家は多いが、大名とすれば、小笠原信濃守秀政であろう』と記す。冒頭の「慶長年中」とも合致し、信濃守護小笠原氏の末裔で下総古河藩主・信濃飯田藩主・信濃松本藩初代藩主にして小笠原宗家初代である小笠原秀政(永禄一二(一五六九)年~慶長二〇(一六一五)年)ウィキの「小笠原秀政」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『小笠原貞慶の長男として山城宇治田原』(現在の京都府綴喜(つづき)郡宇治田原町(うじたわらちょう))『で生まれる。この頃の小笠原氏は武田信玄に信濃を追われて流浪していたため、このような場所で生まれたものと思われる。天正十年(一五八二年)六月の本能寺の変で織田信長が死去すると、父・貞慶は徳川家康の家臣となるため、長男の貞政を人質として差し出し、石川数正に預けられた』。『天正十三年(一五八五年)、石川数正が貞政を引き連れて豊臣秀吉のもとへ出奔すると、貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった。貞政は秀吉より偏諱を与えられ』、『秀政と名乗る。天正十七年(一五八九年)一月、父から家督を譲られて小笠原氏の当主となる。八月には秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘・登久姫(信康の娘)を娶ることを許された』。『天正十八年(一五九〇年)、父が秀吉の怒りを買って改易されると、父と共に再び家康に仕え、家康から下総古河に三万石を与えられた。同年の小田原征伐でも軍功を挙げた』。『文禄四年(一五九五年)三月二十日、従五位下上野介に任じられ、豊臣姓を与えられる』。『慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき』、『宇都宮城守備に功を挙げ、翌年(一六〇一年)に信濃飯田五万石に加増移封される。慶長十二年(一六〇七年)、出家して家督を長男の忠脩』(ただなが)『に譲る。慶長十八年(一六一三年)に父祖の地である信濃松本八万石に加増移封された』。『慶長二十年(一六一五年)の大坂夏の陣に参陣し』、『榊原康勝軍に従って、本多忠朝を救援する。しかし天王寺口の戦いで大坂方の猛攻を受けて忠脩は戦死し、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱するが、間もなく戦傷により死去したとされる。享年四十七』。『跡を次男の忠真が継いだ。なお、このときの秀政の戦死が、後世の小笠原氏の改易危機の際に、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成した』とある。

「慶長年中」グレゴリオ暦一五九六年から一六一五年。

「疱瘡(はうそう)」天然痘。私の「耳 之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注など参照されたい。私はかなり沢山の電子テクスト注で「疱瘡」を扱っているが、リンク先は、ごく初期のものである。

「大せつ」重大な事態であること。当時の痘瘡は特に成人が罹患した場合、重篤化することが多く、死亡することもあった。

「だんがう」談合。処方についての協議検討。

「女ばうしう」「女房衆」。

「をそろしき事あり」

「かみへ」「上へ」。

「いきをい」「勢(いきほ)ひ」。歴史的仮名遣の誤り。]

2016/09/28

北條九代記 卷第九 武藏守平長時死去 付 將軍家若君御誕生

     ○武藏守平長時死去  將軍家若君御誕生

 

文永元年八月十日、北條武蔵守長時、卒去あり。是相摸守重時の嫡子たり。さしたる文才のあるにはあらざれども、その心操(こゝろだて)、柔和にして、人を愛し、道を嗜(たしな)み、衰へたるをとりたて、非道を諫め、内外(うちと)につけて然るべき人なりけるに、俄に病出(やみいだ)し、幾程もなく失せ給ひければ、恩顧好交(おんここうこう)の輩(ともがら)、その方樣(かたさま)の人々は、淚を血に替へて歎かれけり。年未だ三十五歳、一時の花と散果てたり。人聞の一生は風前の孤燈、榮耀は又、草頭(さうたう)の露、誠に消(きえ)易き世の中なり。同月十二日に、將軍家の若君、御誕生あり。日比よりの御祈禱加持の勳力(くんりき)に依(よつ)て、御子母(ごしぼ)共に堅固にぞ渡らせ給ふ。めでたかりし御事なり。諸將諸侍、思ひ思うひの御産養(おんうぶやしな)ひ、色々の擎物(さゝげもの)、山を重ねて奉りけり。

 

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」巻五及び「将軍記」巻五「文永二年九月廿一日」に基づく、とする。

「武藏守平長時」北条(赤橋)長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元年八月二十一日(一二六四年九月十二日))。第六代執権(時頼から時宗への中継ぎ的就任に過ぎず、得宗ではないので、本「北條九代」には含まれない)北条重時の次男。北条氏極楽寺流嫡家赤橋流の祖。家格の高さは北条氏の中では得宗家に次ぐ権威を持ち、最後の第十六代執権赤橋守時や足利尊氏正室赤橋登子(とうし/なりこ)は彼の曾孫に当たる。

「將軍家若君」第六代将軍宗尊親王嫡男で後の第七代将軍惟康親王(文永元年四月二十九日(一二六四年五月二十六日)~嘉暦元年十月三十日(一三二六年十一月二十五日)。

「文永元年八月十日」永元(一二六四)年であるが、前注通り「八月二十一日」の間違い

「草頭(さうたう)」草の葉の上。

「同月十二日」八月十二日ということになるが、前注通り、同文永元年四月二十九日(一二六四年五月二十六日)の大間違い。即ち、ここは時系列でも順序(長時死去の四ヶ月も前に惟康は生まれている)が狂っている。弔・慶の順に並べた確信犯かも知れない。

「勳力(くんりき)」効力(こうりょく)。効験(こうげん)。

「御産養(おんうぶやしな)ひ」出産後、三日・五日・七日・九日目の夜に親類らが産婦や赤子の衣服・飲食物などを贈って祝宴を開くこと。また、その贈り物。平安時代、貴族の家で盛んに行われた。この名残りが現在の「お七夜の祝い」(子どもが生まれて七日目に行う祝い。この日に赤ん坊に名をつけることが多い)である。

「擎物(さゝげもの)」(「擎」は音「ケイ・ギョウ」で「持ち上げる・差し上げる」の意)捧げ物。]

北條九代記 卷第九 時宗執權 付 御息所御産祈禱

      ○時宗執權  御息所御産祈禱

時賴入道の嫡子式部丞時輔は、京都に居(す)ゑられ、北條重時の二男陸奥〔の〕左近〔の〕大夫將監(しやうげん)時茂(ときしげ)と兩六波羅として、畿内西國の政道を行はる。と兩六波羅として、畿内西國の政道を行はる。時賴入道の二男左馬頭時宗は、天性篤實にして仁德あり、禮節自(おのづか)ら其宜(よろし)きに合ひければ、幼稚ながらも其器(き)に當る給へりと、人ごとに見參らせけり。今年十三歳にして、時賴入道の家督を繼ぎて、相摸守に任じ、執權職に補(ふ)せられ、政村、長時、輔翼(ふよく)とし、政道を佐(たす)けらる。同十二月、將軍家の御息所(みやすどころ)、御産(ごさん)の事、近付き給へば、宮内權大輔時秀が家を御産所に定めらる〻所に、十七日戌(いぬの)刻に、荏柄社(えがらのやしろ)の前より失火ありて、塔辻(たふのつじ)まで燒きたり、時秀が家も囘祿(くわいろく)せしかば、俄に武藏守義政の亭に入れ奉るべき評定一決し、同二十四日、御方違(おかたたがへ)の沙汰を以て、陰陽師等を召して、異見を尋ねらる。「二十四日は沒日(もつにち)なり、御憚(おんはゞかり)あるべきか」と、晴茂(はるしげ)朝臣、勘(かんが)へ申す。業昌(なりまさ)朝臣申しけるは、「建長六年四月二十四日は丙寅(ひのえとら)沒日にて候ひしに、大宮(おほみやの)院、御産所に入り給ふ、憚なかりき。此度もその例に任せらるべし。次に御方違の事、二十九日を用ひらるべきか」と、業昌、又、申して曰く、「其日は往亡日(わうまうにち)なり。但し、御産の事には憚如何(いかゞ)」と申したりけるを、晴茂は「苦(くるし)かるべからず」と問答しけれども、將軍家には憚るべきの義を御(ご)許容あり。一日引越(ひきこ)して同じく二十八日に、左近大夫將監公時(きんとき)朝臣の名越(なごや)の亭に入れ奉り、御産所と定めて、若宮の僧正、御祈(おんいのり)の師として加持し奉らる。次の日、名越より御息所は還御し給ふ。

 

[やぶちゃん注:短い北条時宗(建長三(一二五一)年~弘安七(一二八四)年)の第八代執権就任(文永五(一二六八)年三月五日)の箇所は「吾妻鏡」では欠落しており、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は林鵞峯「日本王代一覧」及び、本「北條九代記」の作者と推定される浅井了意作「将軍記」巻五「文永元年八月十日」に基づき、御息所の産所に関しての評議の箇所は「吾妻鏡」巻五十一の弘長三(一二六三)年十一月二十三日、十二月十七日・二十四日・二十八日・二十九日に基づくとする。

「御息所」既注であるが、再掲しておく。第六代将軍宗尊親王正室で近衛兼経(この娘の輿入れの前年に死去)の娘近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?)。第七代将軍惟康親王の母。まずは元執権北条時頼の猶子として鎌倉に入って同文応元年の三月二十一日に十九歳の将軍宗尊の正室となって御息所と呼ばれた。参照したウィキの「近衛宰子」によれば、『時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている』。この翌文永元(一二六四)年四月に無事、惟康王を出産するが、文永三(一二六六)年に宰子と、この惟康『出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見』、六月二十日、良基は逐電、『連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された』。『鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った』。七月四日、『宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出』て帰洛、京には『「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は』未だ三歳であった『惟康王を新たな将軍として擁立した』。『その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された』とある。この一連の将軍交替の騒動は無論、後に「北條九代記卷之第九」で語られる。

「時賴入道の嫡子式部丞時輔」北条時輔(宝治二(一二四八)年~文永九(一二七二)年)。時頼の長男。母は時頼側室の、出雲国の御家人三処(みところ)氏の娘、讃岐局で、三歳年下の異母弟時宗は時頼の次男ながら、母が時頼正室の北条重時の娘、葛西殿であったことから嫡男とされた(元の名は時利であったが、十三歳の正元二(一二六〇)年正月に時輔と改名しているが、これは父時頼の命によるものと考えられており、それは時宗を「輔(たす)く」の意が露わであった)。文永元(一二六四)年十月、十七歳で六波羅探題南方となる(この二ヶ月前に十四歳の時宗は連署に就任している)。文永五年、時宗が執権を継ぐが、これに内心不満を抱き、蒙古・高麗の使者との交渉に於いても時宗と対立した。文永九(一二七二)年二月十一日に鎌倉で反得宗勢力であった北条時章(名越流北条氏初代北条朝時の子)・教時兄弟が謀反を理由に誅殺されると、その四日後の十五日、京都の時輔も同じく謀反を図ったとして執権時宗による追討を受け、六波羅北方の北条義宗(先の第六代執権北条長時嫡男。赤橋流北条氏第二代当主)によって襲撃され、誅殺された(二月騒動)。享年二十五。吉野に逃れたとする説もある。

「北條」「時茂(ときしげ)」(仁治元(一二四〇)年~文永七(一二七〇)年)第二代執権北条義時三男北条重時の三男。同母兄北条長時が評定衆に任ぜられたため、建長八(一二五六)年六月から兄に代わって六波羅探題北方として上洛、以後十四年に渡って同職を勤めた。三十一で若死にしているが、後にこの六波羅を滅ぼす足利尊氏は彼の曾孫に当たる(以上はウィキの「北条時茂」に拠った)。

「左馬頭時宗」正確には「左馬權頭」。時宗の左馬権頭任官(同時に従五位下に叙された)は弘長元(一二六一)年十二月(満九歳)。

「今年十三歳にして、時賴入道の家督を繼ぎて、相摸守に任じ、執權職に補(ふ)せられ」これは書き方がいい加減

時頼の家督を継いだのは 弘長三(一二六三)年頃(本文後半の「御息所御産」の記事との整合性と教育社の増淵氏現代語訳の割注に基づく)

相模守となるのは    文永二(一二六五)年三月

第八代執権就任は    文永五(一二六八)年三月

である。

「輔翼(ふよく)」助けること。補佐。「扶翼」とも書く。

「同十二月、將軍家の御息所、御産の事、近付き給へば」弘長三(一二六三)年十二月。

「宮内權大輔時秀」「宮内權大輔」は官位。幕府御家人長井時秀(生没年不詳)。ウィキの「長井時秀」によれば、正元元(一二五九)年閏十月に宮内権大輔に任ぜられ、五位に叙せられている。『長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり』、『北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられ』、『「時」の字は北条氏得宗家当主よりその通字を受けたものと考えられる』とする。リンク先を見る限り、引付衆・評定衆に任ぜられており、また『執権・北条氏の下で評定衆を務める身でありながら、歴代将軍(藤原頼経・頼嗣・宗尊親王)の側近としても重用されてい』ることから、執権北条時宗の厚い信頼を受けた人物であることが判る。また子の宗秀は「吾妻鏡」の編纂者の一人ではないかと推測されている、ともある。

「戌(いぬの)刻」午後八時頃。

「武藏守義政」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、文永一〇(一二七三)年に叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任じられ、執権北条時宗を補佐した但し、「武藏守」となるのは文永一〇(一二七三)年七月で、この話柄内時制では官位は「左近衞將監」(「吾妻鏡」も「大夫將監」とある)が正しい(ウィキの「北条義政」に拠る)。

「異見」異なった見解。以下、例によって、陰陽師の責任逃れ的「異見」の連発。いい加減、聴き飽きた(さればこそ、本章は「吾妻鏡」の引用もしないこととする)。

「没日(もつにち)」陰陽道に於いて一切の事に凶であるとする凶日。

「建長六年」一二五四年。

「大宮(おほみやの)院」後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后となった西園寺姞子(きつし 嘉禄元(一二二五)年~正応五(一二九二)年)。太政大臣西園寺実氏の長女。後深草及び亀山天皇の生母。大宮院は院号。ウィキの「西園寺きつ子」によれば、『後嵯峨天皇が姞子所生の後深草天皇に譲位して上皇となったのを受けて』、宝治二(一二四六)年六月に『院号宣下を受けて「大宮院」の称号を与えられた』とある。

「往亡日(わうまうにち)」陰陽道に凶日の一つで一年間に十二日あり、旅行・婚礼・移転・建築などを忌み禁じる日とする。

「御産の事には憚如何(いかゞ)」御産のための方違えを、旅行や移転とは採らずに特殊な事例として捉えた場合、それが決定的に忌み避けるべきであるかどうかは判断出来ません、というのである。

「一日引越(ひきこ)して」一日早めて。

「左近大夫將監公時(きんとき)」

「若宮の僧正」隆弁。

「次の日、名越より御息所は還御し給ふ」御産所と定めた公時邸へ方違えとしてこの日に向かい、そこでの御産所と決めた隆弁主催の祈禱を滞りなく終え、御所へ戻った(「吾妻鏡」によれば還御は翌二十九日で、その日に腹帯を着帯したとある)。何だか、かなり面倒で妊婦さんにはこっちの方が「凶」でしょう!]

佐渡怪談藻鹽草 髭坊主再生の事

      髭坊主再生の事

 

 享保のはじめ、髭坊主といへる念佛の修行者ありて、相川町々を修行し歩行(ありきゆき)けるが、住居は馬町邊に住けるよし、僧形、甚だ異體にして、髭は五六寸生ひ延び、いつ髮剃を當(あて)しとも見へず。午時一飯にして、菩提殊勝なる道心者と見えたり。八卦をよく考(かんがえ)、生存之(これ)をも敢て違わせず。或人問(とふ)、

「僧は如何して、菩提の道に入しや」

といふ。僧答(こたへ)て、

「志す事の候ひて、小兒より直(ぢか)に僧形にて、今六十歳迄、道心怠らず、念珠致し候」と答(こたふ)。

「去(さる)は何故、一度男にもならず候哉(や)」

と、懇(ねんごろ)に尋(たづね)しかば、僧申(まうし)けるは、

「過(すぎ)しむかしの物語、罪深く候得共、委敷(くはしく)尋(たづね)給へば、語可申(かたりまうすべし)。元某(それがし)は、在所腰細村のものにて、生れし年、父は死して、母親の手にて、姉と某とを育(そだて)しが、二才の年、疱瘡はやりて、某は病症重く病付(つき)て、十日斗(ばかり)にして、身まかりしとぞ。然(しかれ)ども、

『疱瘡子死ぬるは、日を經て、蘇生する事も有(あり)』

とて、三日程は其儘に置(おき)しが、とても蘇生する樣ならねば、檀那寺に葬り、母は哀傷の淚に沈(しづみ)て、物も辨(わきま)へず。姉は十四五才にも成(なり)ぬれば、甲斐甲斐敷(しく)、日每墓所に參りて花を手向けるに、葬りて四五日も過て、墓に詣(まうで)ゝ、花抔(など)さゝげ歸らんとするに、不計(はからず)遠方にて、小兒の泣聲しけるが、

『是は墓より狸抔(など)のかくする』

と心得て、足早に歸りける。其翌日も如此(かくのごとし)。すでに三日迄、泣聲聞えける。よくよく其(その)処を聞(きく)に、墓の中と聞ゆれば、急ぎ帰り、母に告(つげ)、村長にもしかしかと述(のべ)て、扨(さて)檀那寺へ行(ゆき)て語りければ、

『夫(それ)は嘆く心の切なるより、そなたの心のなすわざなり、死(しし)て八九日にもなる小兒の、いかでさる事の侍らん』

と答ければ、

『何卒心まかせに、壱度掘て見たき』

などわりなく望めば、辭しがたく、頓(やが)て、親敷(したしき)人々、塚をあばきて見れば、小兒蘇生して泣(なく)に決しければ、急ぎ取出(とりいで)て生育し、次第に成長して、物聞分(きゝわく)る程に成(なり)しかば、母其事を語りて、

『壱度死して、生(いき)歸りし事なれば、菩提の道に入て、助(たすけ)給ひし佛神に報ひ、且は父母の後世の菩提をも訪へかし』

と、進(すゝめ)られ、有難き事に思ひて、夫(それ)より二つなき道に、入(い)り候ひし」

とぞ語りぬる。

 

[やぶちゃん注:「享保のはじめ」一七一六年から一七三五年。始めであるから、一七二二年ぐらいまでか。

「馬町」相川地区の南の下戸(おりと)地区の北東の一画に相川北町として現存する。

「僧形」「そうぎやう(そうぎょう)」

「五六寸」十五センチから十八センチほど。

「髮剃」「かみそり」と訓じておく。即ち、髪もばっさばさで、のび放題になっているのである。さればこそ「僧形甚だ異常體」なのである。

「午時一飯」「ひるどきいつぱん」。昼間に一度だけ食事をすること。仏教では、僧侶の食事を「斎(とき」と呼ぶが、これは「食すべき時の食事」の意の「とき」であって、古いインド以来の戒律によって現在でも本来、僧侶は午前中に一度食べ、それを「正時」とし、それではもたないので、午後以降の食すべき時でない時刻に食する食事を「非時 (ひじ)」と称したから、この「午時」を広義の昼間の午前中とするなら、この僧は、そうした守れる僧が今も昔も殆んどいない「斎」を正しく守っていたとも考えられるのである。さればこそ筆者も彼を稀にみる「菩提殊勝なる道心者」と見たのである。

「八卦をよく考(かんがえ)、生存之(これ)をも敢て違わせず」「易経」による正統なる易学にも深く通じており、人の生死に関わる占いではまず以って誤った占いをしたことが「今六十歳」これが正確に述べた言とするなら、彼の生年は一六五七年から一六六三年、明暦三年から寛文二・同三年ということになる。

「念珠致し候」数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)りつつ、仏を念ずることを致いて参った。

「男」成人男子としての俗人としての体験。興味本位の謂いではない。彼が「小兒より直(ぢか)に僧形にて」と言ったことを受けて、ちょっと奇異に感じたのである。

と、懇(ねんごろ)に尋(たづね)しかば、僧申(まうし)けるは、

「罪深く候得共」「罪深いことにて御座れども。」。後に語られる埋葬後に墓の中から蘇生した奇談をかく捉えて言っているのである。そうした経験をせねばならぬ業(ごう:前世の悪行の罪としての因果応報)を背負っていると解釈しているのである。これはごく普通の仏教的な考え方であって、特異ではない。

「腰細村」現在の佐渡市赤泊(小佐渡の南東岸のやや南寄り)地区内にかつて腰細村があった。

「心まかせ」心の訴えるままに。

「掘て」「ほりて」。

「わりなく」無理矢理に。はなはだ激しく。

「入て」「いりて」。

「後世」「ごぜ」。

「訪へ」「とむらへ」。「弔ふ」に同じ。

「進(すゝめ)られ」「勸められ」。

「二つなき道」正しき唯一無二の仏法の聖道(しょうどう)。]

甲子夜話卷之二 19 町奉行根岸肥前守へ松平豆州挨拶の事

2-19 町奉行根岸肥前守へ松平豆州挨拶の事

近頃の町奉行、根岸肥前守は、御徒士より勤め上りて此役に迄なりぬ。予亦舊識なりき。此人勘定奉行公事方たりしとき、或日自宅の白州にて吟味のとき、罪人不平を懷くことありしや、傍に侍坐せる留役某を目がけ、飛かゝりて、その所に在ける燭臺を取て、したゝかに打たるとき、根岸起てその罪人を押へ、背へ膝を掛て動かさず。その中人々馳集りぬ。根岸心に頗これを自負して、或時事を建言するの次に、松平豆州に【信明、老職】、其狀を申述たれば、豆州挨拶には、さても不用心なることに候と斗なり。根岸、甚失言を悔しとなり。豆州の言は、奉行職吟味の席は、その屬吏等正々堂々とあるべき所、必竟備の足らざりしより、不虞の事ありと云意とぞ聞へし。根岸、人と爲り鄙野にて、禮法に疎なるを戒めての言なりけらし。いかにも重職の體を得たる挨拶とて、心あるものは感じ合けり。

■やぶちゃんの呟き

 これはもう、誰にも負けない。私は根岸肥前守鎭衞(しずもり/やすもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)の「耳囊」全話を原文全電子化訳注っているからである。ここに出る話は、耳嚢 巻之四 不時の異變心得あるべき事で根岸本人が吟味事件の内容を含め、詳しく細部を語っており、それに私も注し、現代語訳もしてある。引き比べてお読みあれ。その冒頭は「寛政七卯年予が懸りにて」と始まるから、グレゴリオ暦一七九五当年のことである。私は断然、根岸の肩を持つね

「此人勘定奉行公事方たりしとき」本件当時の根岸は勘定奉行(天明七(一七八七)年に佐渡奉行から勘定奉行に抜擢され(この時、従五位下肥前守に叙任された)、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となった)であったが、恐らくは訴訟関連を扱う公事方勘定奉行として、評定所で関八州内江戸府外の訴訟を担当していたものと思われる。

「御徒士」「おかち」。御目見得以下で騎馬を許されぬ軽輩の下層の武士階級を指す。

「舊識なりき」旧知の仲であった。但し、根岸は静山より二十三も年上である。寛政七(一七九五)年当時、静山は満三十五歳で、既に平戸藩第九代藩主であった(文化三(一八〇六)年に隠居、以後はこの「甲子夜話」を中心とした執筆活動に勤しんだ)。

「自宅の白州」。根岸は南町奉行(在職のまま死去)としても。かなりの期間、奉行所内に居住していたことが知られている(必ずしもそこに住む制約はなかったし、通った奉行も多い。どっかの総理大臣が二・二六の亡霊を怖がって官邸に住まないのとは大違いだね)。

「傍」「かたはら」。

「侍坐」「じざ」。

「在ける」「ありける」。

「取て」「とりて」。

「したゝかに」強く

「打たる」「うちたる」。

「起て」「たちて」。

「掛て」「かけて」。

「その中」「そのうち」。

「馳集りぬ」「はせあつまりぬ」。

「頗」「すこぶる」。

「或時事を建言するの次に」「或時(あるとき)、(奉行実務に関わる)事(柄)を建言するの次(ついで)に」。

「松平豆州」老中伊豆守松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年:老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年)。既注

「其狀」その時の事件の有様。

「申述たれば」「まうしのべたれば」。

「挨拶」返答。

「斗」「ばかり」。

「甚」「はなはだ」。

「悔し」「くいし」。

「屬吏等」「ぞくりら」。勘定奉行支配の役人ら。

「正々堂々とあるべき所」「正々堂々」は態度が正しく立派なさま。公明正大で卑劣な手段をとらないさまの意で専ら使われるが、本来は「孫子」の中の言葉で、軍隊の陣容が整っており、意気や勢力が盛んなさまを指し、ここは寧ろ、後者の意で、油断なく構えて、細部に注意を怠らない警備体制、を指していると読むべきである。

「必竟備の足らざりしより」「必竟(ひつきやう)備(そなへ)の足(た)らざりしより」。伊豆守は、そもそもがそのような怪我人や死者が発生するかも知れないゆゆしき不測の事態が起こらぬよう、初めから万全の備え(予防措置)を行っておくことが勘定奉行の役目である、それが致命的に不足していたからこそ、このような事件が出来(しゅったい)したのである、と批判しているのである(「不虞」は「ふぐ」で「思いがけないこと・そうした事態」の意で、「不慮」に同じい)。

「云意」「云ふ意」。

「人と爲り鄙野にて」「人(ひと)と爲(な)り、鄙野(ひや)にて」「鄙野」は「野鄙」「野卑」と同義で、「下品で洗練されていないこと」をいう。

「疎なる」「おろそかなる」。うとい。粗雑である。

譚海 卷之一 魚上流にむかひ牛馬風にむかふ事

魚上流にむかひ牛馬風にむかふ事

○魚は都(すべ)て水上にむかつてさかのぼる也。水にさかふによりて、鱗順(じゆん)になりていたまず、又駒(こま)もさのごとし。牧に生(うまれ)たるは方角に馴(なれ)ていつも風にむかひてをるゆへ、毛なみ順にして風をうくる事なく、病馬なし。他所より來る駒は方角をしらず、風をうしろにしてをるゆへ毛の穴より風をうけて病馬になる也。

[やぶちゃん注:何となく納得してしまった。]

譚海 卷之一 越前侯茄子獻上の事

越前侯茄子獻上の事

○越前家より毎年茄子獻上あり。寒國にて雪深けれども、かく早く出來る事は、獻上の茄子ばたけは別にありて、冬中苗をうへて、後その畑の四邊へ溝をほり𢌞し、したゝかにこやしをくみ入(いれ)溝にみて、扨(さて)中央のはたに茄子をうへ重疊(ちやうじやう)におほひをしかけをくゆゑ、冬のうちの苗を生長する事すでに四五寸に及ぶと云。

[やぶちゃん注:「越前侯」越前国福井藩(現在の福井県嶺北中心部を治めた藩)藩主越前松平家。「譚海」の記載時期(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)の藩主は第十二代松平重富。但し、彼の藩政は劣悪で、ウィキの「松平重富によれば、『藩政においては藩士の知行削減などを中心とした財政再建を目指したが、連年による大雪・大火・風水害・疫病などによる被害が大きく、逆に財政は悪化する。しかも重富自身が江戸の一橋家の生活に慣れていたために』(彼は御三卿の一つである一橋家の初代当主徳川宗尹(むねただ)の三男として江戸一橋家屋敷で生まれたが、福井藩第十一代藩主で異母兄であった重昌が宝暦八(一七五八)年に死去したためにその養子となって跡を継いでいた)『豪華絢爛な日常生活を送り、さらには米商人に対して御用金を課すなどの悪政を行なった。ところが』、『この御用金政策が逆に米価高騰を招き、さらに凶作も重なって福井には貧民があふれ』、明和五(一七六八)年には『打ちこわしまで起こった。そして、福井藩ではこの領民の不満が爆発した藩政史上最大の打ちこわしに対応できず、やむなく一揆側の要求を認め、家老酒井外記ら関係する役人や御用商人を処分する』。『徳川将軍家と縁戚だったため(重富は』第十一代『将軍となった家斉の伯父であり、その父で一橋徳川家』第二代当主治済(はるさだ/はるなり)の『同母兄にあたる)、幕府から援助金をもらって藩政の再建を目指すが、天明の大飢饉をはじめとする災害などもあって財政はさらに悪化した』とある。献上茄子なんぞ作ってる場合ではない!

「うへて」「植ゑて」。歴史的仮名遣は誤り。後も同様。

「したゝかに」しっかり。十二分に。

「こやし」「肥し」。

「溝にみて」溝に満たして、の謂いあろう。

「はた」畑(畠)。

「重疊(ちやうじやう)」何重にも。

「おほひ」「蔽ひ・覆ひ・被ひ」。

「しかけをく」「仕掛け置く」。

「四五寸」十二~十五センチ。]

譚海 卷之一 しいし取あつかひの事

しいし取あつかひの事

○しいし竹は時々湯へひでてつかふべし、竹むしばむ事なし、但し釜にて煮るはわろし、どうこの中へひたすが手まはし也とぞ。

[やぶちゃん注:「しいし竹」とは「しんし」で、「伸子」「籡」(国字)などと漢字表記する、布・反物を洗い張りしたり、染織したりする際、布幅を一定に保つために用いる道具(英語のテンプル(temple))で、形状は両端を尖らせたたり、又は、針を植えた細い竹棒(木製のものもある)である。左右両端にピンと張った布を固定し、布を縮ませずに幅を保たせるように支える器具である。ここにあるように「しいし」とも呼ぶ。細かくは参照したウィキの「伸子を読まれたい。

「ひでて」「漬(ひ)でて」。漬(つ)けて。

「むしばむ」「蟲食む」或いは「蝕む」。虫に食われたり、腐ったり、ぐずぐずになったりする。

「どうこ」「銅壺(どうこ)」。銅や鋳鉄などで作った箱形の湯沸かし器を指すが、ここは前の釜が鉄製であるから、銅製のそれととるべきであろう。

「手まはし」「手囘し」。正しいやり方。]

佐渡怪談藻鹽草 枕返しの事

     枕返しの事

 

 小木町、鴻池市郎兵衞方へ享保のはじめ、相川より、飛脚のもの來りて居けるが、三日めに、

「何卒今日は歸りたし」

と、ひたすら返書を乞(こふ)。あるじ申けるは、

「返書いまだ、調ひ兼(かね)る事侍れば、最一兩日居給へ」

といゝければ、飛脚のもの言(いひ)けるは、

「是非もなし、去(さり)ながら、とても逗留いたす事ならば、別宿へ遣わし給わるべし」

とひたすらに賴みける。亭主聞(きゝ)て、

「心得ぬ事哉(や)、何ぞ氣に障りし事もや候ひける、家内とても、手狹(ぜま)なれば、窮屈には候わんなれど、拙者が不斷、寢臥の所なれば、指(さし)て、御嫌ひ筋も有(ある)まじ。若(もしく)は、召遣(めしつかひ)のもの、僻言(ひがげん)にても、申(まうす)を御聞候(きゝさうらひ)ての事か、何にもせよ、某(それがし)に、不包(つゝまず)御語(かたり)候得」

と、懇(ねんごろ)に問へば、飛脚も理に伏(ふ)し、

「さらば、樣子を明(あか)し申(まうす)べし。一昨夜臥り候處、壁ひとへにて、

『其元(そのもと)樣は、能(よく)御休(おやすめ)』

と聞(きこ)へ、某(それがし)はねられず、漸(やうやく)、七ツ頃にもあらん、とろとろとまどろみ候とき、念なく枕返しに合(あひ)て候程に、けしからず、存(ぞんじ)候。夕邊又、前の如く寢られず。七ツ時頃眠れば、又枕返し逢(あひ)たり。其有樣、何か物の來りて、打(うち)かへす樣に覺へて、心惡(あし)く、今夜も又返され候わんと思へば、氣に障りて、心地惡敷(あしく)候間、無據(よんどころなく)、右の通りに候。必(かならず)、心に御かけ被下間敷(くだされまじく)」

と語りければ、亭主打(うち)うなづき、

「是は、大きに拙者が誤(あやまり)なり。今夜其事あらば、決(けつし)て、拙者再び、面をむけ申間敷(まうすまじく)、止(とま)り給へ」

とて止(やみ)ぬ。飛脚も、

「扨(さて)は、心得のあるらん」

と、賴母敷(たのもしく)て、泊れば、案の如く、其夜は、床へ身を付(つく)るより寢入(いり)て、夜明(あけ)て覺(さ)めけるに、枕もかへされず、不思議に思ひて、其故を問ふに、笑ひて答へざりしとぞ。其後番所の役人、何某(それがし)に語りけるは、

「先年、ケ樣ケ様の事候ひて、迷惑致(いたし)候、必(かならず)寢間の中に靈天骸を置(おき)給ふな。極て枕を返す事ぞ。右の時も、手合の藥に入(いり)候とて、靈天骸を求(もとめ)て、常は脇へ釣置(つりおき)しが、飛脚の來る同日故、紛れて同間にかけ置【紙袋に入て釣置しぞと】たれば、其爲に、枕をかへされし」

とぞ語りぬ。

 

[やぶちゃん注:「枕返し」妖怪名として知られるが、この記載は「枕返し」を引き起こす原因物質が挙げられている点で特異である。但し、「壁ひと」つ隔てて、「其元(そのもと)樣は、能(よく)御休(おやすめ)」という不思議な言葉が飛脚に聴こえてくるところは妖怪的存在として描いている側面もあると言える。以下、一般的なそれをウィキの「枕返しから引いておく。『枕返し、反枕(まくらがえし)とは、日本の妖怪の一つ。夜中に枕元にやってきて、枕をひっくり返す、または、頭と足の向きを変えるとされている。具体的な話は江戸時代・近代以後に多く見られ、その姿は子供、坊主であるともいわれるが、明確な外見は伝わっていない。江戸時代の妖怪画集『画図百鬼夜行』には小さな仁王のような姿で描かれている』。『妖怪と見なされるほか、その部屋で死んだ人間の霊が枕返しになるとも考えられていた。宿泊した大金を持った旅人(座頭、六部、薬売りなど、話される土地によって職業などは異なるがいずれも各地を移動する旅行者)をその家の者がだまして殺害し、金を奪ったところ、その旅人の霊が夜な夜な泊まった人の枕を動かしたという話などがある』。『東北地方では、枕返しは座敷童子(ざしきわらし)の悪戯と言われることが多い。民話研究家・佐々木喜善の著書『遠野のザシキワラシとオシラサマ』によれば、枕を返されるほかにも、寝ている人が体を押しつけられたり、畳を持ち上げられたりし、周りには小さな足跡が残っていたという。同書によれば、岩手県九戸郡侍浜村(現・久慈市)南侍浜や下閉伊郡宮古町(現・宮古市)字向町のある家では不思議な柱があり、枕をその柱に向けて寝ると枕返しに遭い、とても眠れないという』。『岩手県下閉伊郡小本村では、ある家で亡くなった人を棺に入れて座敷に置いておいたところ、火事で棺も畳も焼けてしまい、その後に畳を替えたにもかかわらず、その畳の上で寝た者は枕返しに遭うといわれた。この枕返しの正体は諸説あり、タヌキやサルの仕業ともいわれた』。『群馬県吾妻郡東吾妻町でいう枕返しはネコが化けたものである火車』(かしゃ:悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を奪うとされる妖怪であるが、形状は空中を飛翔する正体不明の獣様のものであるが、ウィキの「火車」によれば、「北越雪譜」の「北高和尚」に天正時代のこと、『越後国魚沼郡での葬儀で、突風とともに火の玉が飛来して棺にかぶさった。火の中には二又の尾を持つ巨大猫がおり、棺を奪おうとした。この妖怪は雲洞庵の和尚・北高の呪文と如意の一撃で撃退され、北高の袈裟は「火車落(かしゃおとし)の袈裟」として後に伝えられた』とある)『の仕業とされていて、東向きに寝ている人を西向きに変えたりするといわれる』。『枕をひっくり返す童子姿の妖怪を枕小僧(まくらこぞう)と呼ぶ地方もある。静岡県磐田郡では枕小僧は身長』約三尺(約九十センチメートル)で、『一人で寝ていると枕を返すなどの悪戯をするといわれる』。『特定の部屋や建築物の中で枕返しに遭うという話は、日本各地の寺院にいくつか見られる』。(中略)『寺院での枕返しには、寺の本尊の霊験を物語るような例も見られる。栃木県栃木市大平町西山田の大中寺には「枕返しの間」という部屋がある。かつて旅人がこの部屋に泊まり、本尊に足を向けて寝たところ、翌朝には頭の方が本尊の方へ向いていたといい、大中寺の七不思議の一つに数えられている』。『美濃国小金田村(現・岐阜県関市)の白山寺という寺には「枕翻(まくらがえし)の観音」という観音菩薩がまつられており、その堂内にいるとなぜだかしきりに眠くなってしまい、仏前にもかかわらず居眠りをしてしまうが、この際に夢の中で枕が返ることが願いが成就するあかしなのだという』。『単に悪戯をするだけでなく、枕返しが人間の命を奪うという伝承の例もある』。『石川県金沢のある屋敷には美女の姿の枕返しが出たというが、その屋敷の草履取りが屋敷の前で枕返しに笑いかけられた途端に気を失い、そのまま死んでしまったという』(以下、アラビア数字を漢数字に代えた)。『和歌山県日高郡のある村では、七人の木こりが小又川のそばのヒノキの大木を切ったところ、その夜に眠っている七人のもとに木の精が現れて枕を返し、七人とも死んでしまったという。おなじく和歌山に伝わる類話では、八人の木こりがモミの大木を切ろうとし、一日では切れないので途中でやめたところ、翌日には切り口が元通りになっていた。不思議に思ってその夜に木を見張っていると、木の精が現れて切り屑を切り口に詰めていた。そこで木こりたちは、木を切るときに屑をすべて焼き払うことで、ようやく切り終えた。するとその夜、木こりたちのもとに木の精たちが現れ、枕を返していった。一人の木こりは一心に般若心経を唱えていたところ、木の精たちは彼を信心深い者と見なして枕を返さずに帰って行った。翌朝、彼以外の七人はすべて息絶えていたという』。『夢を見ている間は魂が肉体から抜け出ており、その間に枕を返すと魂が肉体に帰ることができないという信仰が古くは日本人の間にあったと考えられている。平安時代末期の歴史物語『大鏡』にも、藤原義孝が自分の死に際し、死後も必ずこの世に帰るために通常のしきたりのような葬儀をするなと遺言を残したにもかかわらず、枕の位置を北向きに直すなどして通常の葬儀が行われたため、蘇生することが叶わなかったとの記述がある』。『民俗学者・武田明は、枕には人間の生霊(いきりょう)が込められており、枕を返すことは寝ている人間を死に近づけることを意味するとしている』。『民俗学者・宮田登は、かつての日本では、夢を見ることは一種の別世界へ行く手段と考えられており、夢を見るために箱枕(はこまくら)に睡眠作用のある香を焚き込むこともあった。そのために枕は別世界へ移動するための特別な道具、いわば異次元の交錯する境界とみなされており、眠っている間に枕をひっくり返されるという「まくらがえし」は、すべての秩序が逆転する異常な事態であることを示していたのではないかと考察している』。『このような枕に対する民間信仰が、枕返しの伝承の元になっており、枕返しをされてしまうことは人間の肉体と魂が切り離されてしまう異常な事態であるとして恐れられていた』『が、徐々にその信仰が廃れるにつれ、枕返しは単なる悪戯と見なされるようになったと見られる』とある。

「小木町」「おぎまち」と読む。現在の小佐渡の南端にある佐渡市小木(おぎ)。

「鴻池市郎兵衞」不詳。

「享保のはじめ」「享保」一七一六年から一七三五年。始めであるから、一七二二年ぐらいまでか。

「最一兩日」「もういちりやうじつ」。もう一日、二日。

「是非もなし」「仕方ない。」。

「とても」けれども。しかし。

逗留いたす事ならば、別宿へ遣わし給わるべし」

とひたすらに賴みける。亭主聞(きゝ)て、

「寢臥」「いねぶし」と訓じておく。

「僻言(ひがげん)」普通は「ひがこと」「ひがごと」と読む。失礼なこと。

「臥り」「ふせり」。

「七ツ頃」定時法でとる。午前四時頃。

「念なく」思いもかけず。

「夕邊」「ゆうべ」。昨夜。

「寢られず」「いねられず」。

「必(かならず)、心に御かけ被下間敷(くだされまじく)」「決して、御主人様や御家内の方々に関わって、宿替えを求めておるのでは御座いませぬから、そこは、どうか、御心痛なさいませぬように。」。

と語りければ、亭主打(うち)うなづき、

「拙者再び、面をむけ申間敷(まうすまじく)、止(とま)り給へ」「拙者、貴殿に対して二度と顔向け出来ぬ。(さればこそ、こちらも覚悟の上でその枕返し、これ、起こらぬように致すこと覚悟致して御座れば)どうか、せつに、まずは我が家へ今一晩、お泊り下されよ。」。

「止(やみ)ぬ」と言葉を結んだ。

「扨は、心得のあるらん」『さては、この主人、何か、枕返しを起こす原因に心当たりがあるようだ。』という心内語。

「其後番所の役人」「其後、番所の役人」。しかし以下の直接話法からは、この「番所の役人」は「鴻池市郎兵衞」その人としか読めない。

「靈天骸」「レイテンガイ」と音読みしておくが、全く不詳。近似する文字列も見当たらない。漢方或いは民間の生薬の類いと思われる。湿気を嫌うこと、吊るして保管する(出来る)こと、「靈」の字が含まれていること、「骸」は乾燥した硬い時間の経った死者の遺体(ミイラ)のような色をしているのであろうこと、「テンガイ」は「天蓋」を想起させることなどから推定するなら、これは或いはかの漢方で延命の霊薬とされた「霊芝(レイシ)」を私は候補として挙げておきたい気はする。因みに「霊芝」は菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 真正担子菌綱 Homobasidiomycetes タマチョレイタケ目 Polyporales マンネンタケ科 Ganodermataceae マンネンタケ属 Ganodermaレイシ Ganoderma lucidum

「極て」「きはめて」。必ずと言っていいほど。

「手合の藥に入(いり)候とて」「手合」は「てあひ」。適当ないつも日常的に服用している薬に調合して入れようと。

「脇」居間(応接の間)の脇。

「同間」飛脚に客間として宛がった部屋。]

神経科病室にて   梅崎春生

 

 ズルフォナールと言う薬がある。

 この薬はもともと睡眠薬であったが、効きが遅い上に覚めも遅いので、やがて催眠用にはもっと速効性のものにとってかわられ、使用されなくなってしまった。ところがその後、その遅効性持続性が再認識されて、持続睡眠療法の主薬として登場することになった。この療法は、持続的に眠ることで精神障害を取りのぞこうというもので、朝昼晩の三度にこれを服用、ひたすら眠りに眠る。眠っている間に抑圧が取れ、覚めたらさっぱりするという仕組みのもので、私がこの療法に興味を持ったのは一昨年(昭和三十二年)のことだ。

 何故私がこれに興味を抱いたかというと、ある人問(仮りにAとしよう)がこの療法を受けて、一種の酩酊(めいてい)状態となる。酪酎状態となって、さまざまでたらめを言い放つ。そこへBという人物が見舞いにやって来て、そのでたらめを真に受ける。Aは大金持の爺さんで、そのでたらめ言辞の裏附けをなす大金を出したりするものだから、Bはますます真に受けて、その金でいろんな事業などを始める。その空に浮いたような金をめぐつて諸人物を配置させ、そこで小説が書けないものかと考えたのである。

 そこで実際に医師の教えを乞い、医書をひもとき、病院を参観したりして、とうとうそんな小説を一篇でっち上げた。それと同時に私が持続睡眠療法のちょいとした通となったのも当然だろう。何事にしろ、通となることは、立派なことであり、またいい気持のものである。

 そんないきさつで通になり、神経のおかしい人に治療を勧告したり、やに下ったりしている中はよかった。今年になって思いがけなく、火の粉が今度は、こちらにふりかかって来たのである。今年の初め頃からどうも神経状態がおかしくなり、変な不安感が強まって来た。まさかあんな療法を小説に仕立てたせいじゃあるまい、とは思うが、讖(しん)ヲナスというむずかしい言葉が昔からあることだし、きっぱりそうでないとは言い切れない。その意識が私の不安感を更にかり立て、ついに私は医師に相談に行くことを決心した。その医師というのが、前に教えを受けた医師で、医師は私の訴えを聞き、こともなげに言った。

「まあ暫く眠って見るんですな。そうすればさっぱりしますよ」

 その二言で私の入院は、簡単に決定してしまった。その病院というのも、私が一昨年参観した病院で、つまり私は以前書いた小説の主人公の運命を、そっくりそのままたどるということになったのである。それはかなり妙な気分のものだった。

 

 私は昔から、病気など入院などということは、あまり好きでない。(好きな人はあまりいないだろうけれども)

 その好きでない最大のものは、肉体の苦痛がそこにあるからである。私は痛さにはなはだ弱いのだ。

 ところがこの持続睡眠というやつは、その点においてはラクで、痛さということはほとんどないのである。入院して薬を服用してさえいればだんだん眠くなり、浅眠期に入り、一種の酩酊状態におちいり、それから嗜眠期に入る。睡眠時間はますます延長して、昼夜を通して十八時間から二十二時間も眠るようになる。眠っているのだから、痛いとか苦しいということは全然ない。覚めている時も、抑圧が取れた酩酊状態、酒を飲んでいい気持になったのと同じ状態になるのだから、こんな楽しいことはない筈である。そのことを私は体験で知ったのではなく、あらかじめ一昨年の勉強で、下調べがついていた。だから苦痛の点では不安がなかった。

 しかし別の不安があった。薬によって酩酊状態となる。夢うつつの状態になる。しかもそれは何時間でなく、何日、何週という長期にわたって、そんな状態となるのだ。その期間に私がどんなことを口走り、また行動するか。それが私の不安のたねであった。誰も見てないならいいけれど、その一部始終を看護婦やつきそいたちが見るに違いない。それを思うと、何だか身がすくむような気がする。一体私から抑圧をごっそり取り除いたら、どういうことになるのか。

 もちろんこれは私の自尊心でなく、虚栄心のなせる業であることは、よく知っている。多少見苦しい真似はするかも知れないが、はっきりした意識の下で醜態を演ずるのではなく、ほとんど無意識の状態でそれをやるので、現身(うつしみ)の私は責任を取る必要がないのだ。とは考えてみるものの、どうも自信がなく、憂鬱な思いにとらわれる。

 でもお前は、健康時においても、夜になると眠るじゃないか。時には寝とぼけたりするじゃないか。また時には大酒も飲んで酩酊し、でたらめを口走ったり、痴愚の限りをつくしたりするではないか。

 しかしそれは、この療法の場合とは少し違う。夜になって私が眠るのは、私が眠ろうと思って眠るのであり、飲酒して酩酊するのも、自発的に盃を傾けて酩酊に至るのである。その自発的という点が違う。持続睡眠療法は、三度三度薬をのまされて、無理矢理に眠らされるのだ。たとえ私が自発的に入院したとしても、その後の療法は私の意志に任せられていない。あくまで他力である。どうもそのことが面白くない。

 それにも一つ、私に妙な虚栄心があった。それはその治療を受けて、他人と同じような反応を示したくない。自分だけは特別な反応を示してやりたい、というばかげた虚栄心だ。無論それは口には出さなかったが、入院前かなり頑固に、その考えは私の胸にわだかまっていた。

 もちろん私だって叩かれたら痛いし、撫でられたら気持がいい。人間であるからには、他人様と反応は同じである。ところがこの場合に限ってそんな妙な虚栄心が起きたのは、持続睡眠療法の手の内を私が知っていたからである。手の内を知りつくした療法なんかで、かんたんに抑圧を取り除かれ、ころりと眠らせられてたまるものかというのが、私のいつわらざる本音であった。

 それで結果はどうであったか。そんなに胸中深くレジスタンスをこころみたにもかかわらず、私はころりと眠ってしまったらしいのである。

 

 投薬は入院したその日から始まった。何のへんてつもない白色粉末で、食後に一服ずつ出て来る。私はその粉末を一度にらみつけて、おもむろに服用する。簡単にやられはしないぞという心意気なのである。

 レジスタンスの一方法として、私は大判ノートを病室に持ち込んでいた。毎日の出来事を細大洩らさずしたためて置こうとの心算(つもり)で、鉛筆も何本も用意した。つまり日記を書き続けることで、自分が覚めていることを立証したかったのだ。

 そしてその日記は書き続けたか。

 ころりと眠ったのなら、中絶したに違いないと読者は思うだろうが、そうではない。私は完全に書き通したのである。ただ深眠期の二日ばかり、書くには書いてあるが、字形が乱れて、何を書いてあるかは判らない。が、字らしきものがめんめんとつながっているので、書こうという意志があって、書いたことに間違いはないのである。

 薬は四日目頃から、そろそろ効き出したようだ。四日目にこう書いている。

「もうそろそろズルフォナールきいて来そうに思えども未だその様子なし。やや足はふらつくけれど」

 足がふらつくのが、効いて来た証拠であるが、気分の上では効いて来たと思いたくなかったのだろう。五日目にはテレビを見ている。

「ちょっとちらちらして不快なり」

 六日目にはいよいよ効いて来て、

「何もかも二重に見える。新聞を読むのがつらい。薬がきいて来たのか。テレビ見ようか電話かけようかと思うけど面倒くさい気分あり。酔っているようだ」

「便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠るからだめだとのこと。腸が眠るとは初耳なり。前代未聞なり。そんなことがあるべきか」

 などと悲憤慷慨している。腸の眠りは下調べにはなかったので、怒ったのである。この日あたりから、日記に書いたことが、私の記憶には残っていない。夢うつつで書いているのだ。

「看護婦さんスカートをまくり上げる。いけないねとたしなめる」

 抑圧が取れると、人間は多少エロになる。多少どころか大いにエロになることは、下調べで調べがついていた。だからエロになっちゃいけないと、大いに自戒していたのだが、八日目の日記にこんな文句があることを覚醒時に知って、私はぎくりとした。私がまくってたしなめられたのかと思ったのだ。(この頃の日記は文章も乱れていて、能動形も受動形もごっちゃになっている)

 早速つきそいさんを呼んで調べて貰ったところ、まくったのは看護婦さんで(暑かったから)たしなめたのは私だったと判明して、ほっと胸を撫でおろした。(小心翼々たる様思い見るべし)

 十日目あたりが最高潮で、前述の如く何を書いてあるか判読出来ない。便所と食事以外は、眠りに眠っていたものらしい。

 そこを通り越すと、少し覚めて来て、また活動が始まる。廊下をうろうろしてよその部屋に遊びに行ったり、階下にテレビを見に行ったり。廊下は一間半ほどの広さがあるが、その両方の壁に両手をあてて、私は歩いていたという。(やはり同病の患者談。)いくら私の手が長いとはいえ、一間半の両側の壁に同時に手をあてるなんて、神業である。平均を取るために大手を拡げて、ふらふらとよろめき歩いていたから、そう見えたのだろうと思う。

 茫漠たる記憶を探ると、私はこの頃テレビを見て、全然愉しくなかった。泥酔時と同じで、テレビの画面が二重に見える。それは苦痛なので、右眼を閉じたり左眼を閉じたり、片眼だけで眺めていたような記憶がある。筋なんかももちろんたどれない。瞬間瞬間がちらちらしているだけで、では何故そんな面白くないテレビを見に階下に降りて行くかというと、おれはまだ覚めているんだぞ、テレビを見る余裕があるんだぞと、他人にも見せ、自分でも納得したかったからだろうと思う。そして病室に戻って、今見て来たテレビ番組を丹念に日記に書き記したりしている。六月八日の日記。

「夜テレビ。ゼスチュアに大岡昇平出る。なかなか立派なり。碁は下手だけれども」

 この夜の記憶も、私からさっぱりぬぐい取られている。後でこれを読み、大岡昇平が「ゼスチュア」に出るのは、どう考えても想像が出来なかったから、見舞いに来た家人に訊ねて見たら、「私の秘密」の誤りであった。「私の秘密」なら想像出来る。

 こんな具合に、記憶にも残らないのに、震える手でせっせと日記を書き綴っている自分を考えると、何だかいじらしくて、肩でも叩いてやりたいような気がする。

 

 半月ばかう経つと、眠りがだんだん覚めて来て、気分もはっきりして来る。眠るのは夜だけで、昼間は覚めている。飯を食う時間以外は、ベッドの上で週刊誌を読みふけったり、よその部屋に遊びに行って、花札をたたかわしたりする。この病院ではこいこいが流行していて、入院中に私も大いにこれに習熟した。これは神経科病室にふさわしくないほど、なかなか知的な遊戯である。

 そこで私は病友諸君(神経症だのアル中だの鬱病だのいろいろ)を観察して、ひとつの発見をした。彼等には非常に左利きが多いということである。一々左利きか右利きかと聞いて廻ったわけではない。花札をたたかわしている手を見ると、直ぐに判るのだ。

 大体左利きの人間は、幼少時から両親や先生に矯(た)め直されて、字も右で書くし、箸も右手で取るというのが多い。ただ花札みたいなことになると、先生だの両親だのは、右手でやれとは決して教えて呉れない。そこでどうしても利き手が出てしまうのである。

 私のいた病院では、左利きの数の方が、右利きよりもずっと多かった。かく申す私も、生れつき左利きである。

 何故左利きが神経科あるいは精神科の患者になりやすいか。つれづれなるままに、私は考えてみた。

 前述の如く左利きというやつは、幼少時から両親や先生に圧迫されて、本来なら左手を使いたいところを、心ならずも右手を使用する羽目となっている。これは精神に対する相当な圧力だろうと思う。子供の時はまだ柔軟だから、その圧力に耐えるけれども、青年あるいは中年になると、その圧力の歪みがついに表面に出て来て、鬱病になったり神経がこわれたり、また酒でも飲まねばやり切れない気分になってアル中になるのだろう。そうとでも考えねば、病人に左利きが多いということは説明がつかない。

 もちろんこれは私の仮説であって、一々データを取って調べたわけではない。そのうち暇があったら、正確なデータを取りまとめ、学界に問おうかと思っているが、もし読者諸子の中に左利きがおられるなら、日頃から神経を涵養(かんよう)し、精神を柔軟にして、精神科病院に入院する羽目にならないよう、御忠告申し上げたいと思う。

 

[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年十月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。この睡眠療法体験記は「私のノイローゼ闘病記」などとかなり被るので、「ズルフォナール」などは、そちらの注を参照されたい。

「讖(しん)ヲナス」未来の吉凶や禍福を推測して説くこと、予言するの意。古代中国の「讖緯(しんい)」に由来し、「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」などと呼ばれる。ウィキの「讖緯」によれば、『元来は、讖と緯とは別のものである。讖とは、未来を予言することを意味しており、予言書のことを「讖記」などと呼んでいる。それに対して、緯とは、儒教の経典に対応する「緯書」と呼ばれる書物群を指すものである。しかし、後には、この二者はともに予言を指す言葉と、それを記した書物として、併せて用いられるようになり、「讖緯」という用語が予言を指すようになった』。「隋書」の「経籍志」には(以下は引用元のそれを歴史的仮名遣に正し、漢字を正字に変え、読みを補い、一部の訓読を個人的に変更してある)、『説く者、又た云ふ、孔子は既に六經(りくけい)を敍し、以つて天人の道を明らかにするも、後世には、その意に稽同すること能はざるを知り、別に緯及び讖を立て、以つて來世に遺す』とある。『讖緯説が著しく発展したのは、王莽の新の時代である。王莽の即位を予言する瑞石が発見された、とされ、王莽自身も、それを利用して漢朝を事実上簒奪した』。『儒教の経書に対する緯書が後漢代にも盛んに述作され、それらは全て聖人である孔子の言として受け入れられた。後漢の光武帝も、讖緯説を利用して即位している。また、春秋戦国時代の天文占などに由来する讖記の方も、緯書の中に採り入れられて、やがては、それらも、孔子の言であるとされるようになった。当時の大儒者であった鄭玄や馬融らも、緯書を用いて経典を解釈することに全く違和感を持っていなかった。よって、五経に対する緯書は言うに及ばず、当時は経典の中に数えられていなかった『論語』に対する『論語讖』というものまで述作されるに至った。その一方で、桓譚や張衡のような、讖緯説を信じない者は不遇をかこった』。『讖緯の説は、その飛躍の時代である王莽の新の時代以来、王朝革命、易姓革命と深く結びつく密接不可分な存在であったため、時の権力からは常に危険視されていた。よって、南北朝以来、歴代の王朝は讖緯の書を禁書扱いし、その流通を禁圧している』とある。

「一間半」一メートル二十三センチ弱。

「ゼスチュア」「ジェスチャー」が正しい。昭和二八(一九五三)年二月二十日から昭和四三(一九六八)年三月二十五日までNHKで放送されたクイズ番組。梅崎春生の入院当時(昭和三四(一九五九)年五月から七月)の放映時間は火曜日の午後七時半から七時五十九分で、紅組のキャプテンは「ターキー」こと水の江瀧子、白組が柳家金語楼であった。レギュラー格の出演者(解答者)らは参照したウィキの「ジェスチャー(テレビ番組)を見られたい。無論、私もリアル・タイムで見た。

「私の秘密」昭和三〇(一九五五)年四月十四日から昭和四二(一九六七)年三月二十七日までNHKで放送されたクイズ番組。梅崎春生の入院当時の放映時間は毎週月曜日の午後七時半から八時で、司会はNHKの名アナウンサーとして知られた高橋圭三。参照したウィキの「私の秘密」によれば、『一般視聴者からの参加者が登場し、その参加者の持つ特技、趣味、自慢などを』四人の『著名人で構成された解答者が質問を通じて当てる、という内容であった』。無論、こちらも私は見た。]

諸國百物語卷之二 十七 紀伊の國にてある人の妾死して執心來たりし事

   十七 紀伊の國にてある人の妾(めかけ)死して執心來たりし事

 

 紀伊の國松坂(まつざか)のしろをあづかりたる何がしのありけるが、妾をゝき、よなよな、路地口(ろぢぐち)より此をんなを、よびよせける。此をんな、いつも木履(ぼくり)をはきて、かよひけるが、二三年ほどへて、わづらひつき、つゐに、むなしくなりにけり。そのゝち、何がしは、この女と、とし月かたりし事ども、おもひ出し、夜もねられず、あかしゐたる所へ、さよふけかたに、くだんの女、いつものごとく、木履をはき、路地口より、きたるあしおと、しければ、何がし、ふしんに思ひ、どん張(てう)をあげてみれば、かの女、やせおとろへ、かみをさばき、路地口より、座敷へ、いらんとす。何がし、見て、

「さてさて、ひきやうものかな」

と、しかりければ、つかつかと、ざしきへあがり、何がしのかほを、つくづくと見て、どん張のうちへ、そのまゝはいる所を、何がし、刀をぬきて、きりはらいければ、いづくともなく、うせけるが、そのゝち、何がしも、わづらひつきて、死にけると也。

 

[やぶちゃん注:「紀伊の國松坂のしろ」伊勢国松坂(まつさか)藩の居城松坂城(現在の三重県松阪市殿町に城跡がある)。当初、古田氏が入部したが、二代で移封されて、元和五(一六一九)年より松坂は紀州藩領地の飛び領地となった。ウィキの「松坂城」によれば、元和五(一六一九)年、『古田氏は石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。松阪城は当地を統括する城として城代が置かれた。城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、江戸時代前期の史料によれば』、正保元(一六四四)年に『天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった』。寛政六(一七九四)年には『二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。以後、紀州藩領として明治維新を迎えた』とある。従って、本話を殊更に古田氏の時代に限定する必要はないが、しかし、先行する十五 西江伊予(さいごういよ)の女ばうの執心の事が佐和山藩初代藩主井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)の存命中のことのように暗に措定していること、次の「十八 小笠原殿(どの)家に大坊主(をゝばうず)ばけ物の事」が「慶長年中」と始まることを考えると、本話も松坂藩初代藩主古田重勝或いは第二代藩主古田重治(重勝の弟)の時代(孰れも慶長期を含む)を措定していると考えた方が自然ではある。

「あづかりたる何がし」留守居役。

「妾をゝき、よなよな、路地口(ろぢぐち)より此をんなを、よびよせける」一切、正妻が出てこない。しかし呼び寄せるとあるからには、彼の屋敷か別宅ということになる。別宅ととっておくが(どんなに鈍感な正妻でも、ぽっくりの音させて妾が忍んで来るのは「ちょっと待てい!」だろ!)、或いは、この男は未婚か男鰥(やもめ)で、この女と付き合っていたものの、女の身分が高くないために(留守居役であれば相応の地位の武士ではあるから)、正妻に出来なかっただけか? しかし、だったら、「妾を置き」とは言わないような気もする。識者の御教授を乞う。

「木履(ぼくり)」ぽっくり下駄。「ぽっくり」「ぼっくり」「こっぽり(下駄)」「おこぼ」など、呼称は地方によって異なる。参照したウィキの「ぽっくり下駄」によれば、『もともとは日本の町方の子女の履き物。舞妓や半玉、花魁や太夫につく「かむろ」の履き物でもあり七五三のお祝い履きにも使われる。最近では、結婚式や成人式にも用いられる』。『正式には、表と呼ばれる(竹の皮を編んだもの)ものが上面についているものだが、現在は高価になるため、上面を漆塗りで仕上げたものもある』とある。

「さよふけかた」「小夜更け方」夜の更ける頃合い。

「どん張(てう)」「緞帳(どんちやう)」。歴史的仮名遣は誤り。ここは厚地の織物で作った模様入りの布。帳 (とばり) などに用いる。或いは、夏か秋口頃(「夜もねられずあかしゐたる」という悶々たる感じは秋の夜長の雰囲気を感じさせはする。「淮南子(えなんじ)」にも「秋、士、哀しむ」ともある)で襖などは開け放って蚊帳状にそれを釣ってあったものかも知れぬ。

「かみをさばき」「髮を捌き」。ここは髪を左右前後に分け乱して、の意であろう。

「ひきやうもの」言いたいことがあるから亡霊となって出てきているのであろうに、黙って閨に入るとは何事か! 正面から私に立ち向かって何かを言うてみよ! それが出来ぬとは何と卑劣な奴じゃ! と亡霊に負けぬように言上げしたものであろう。私は思うのだが、ここで生きていた時と同じように、優しく声掛けしてやり、落ち着いて話をするように仕向けていたならば、或いはこの男、患って死なずにすんだかも知れぬと、ふっと思うのである。

「そのまゝ」間髪入れず。あっという間に。私は霊の動きとしては、これ、かなり近代的のものであるように感ずる。]

2016/09/27

佐渡怪談藻鹽草 眞木の庄兵衞が事

     眞木(まき)の庄兵衞が事

 

 何の頃にや有(あり)けん。年曆未詳。夷(えびす)町正覺寺の住持或夜、夢中に壱人(ひとり)の男來りて、跪(もろ)き言(いひ)けるは、

「某(なにがし)は近き頃相果(あひはて)、御取置被下(とりおきくだされ)し、夷町何某(なにがし)にて候。【其名の事有忘却しぬ】御賴申度事有(たのみまうしたきことあり)て、來り候ふ」

といふ。和尚聞(きき)て、

「我、其方の導師なれば、忘念の晴(はる)る事ならば、身に及ぶ程の事は、何ぞ違背可申(まうすべし)。されど、僧にあらざる働の事はしんしやく有べきか、先々語られよ」

といへば、彼(かの)男ゆふよふ。

「眞木村より來り、此處に住(すめ)る、庄兵衞と申(まうす)者と、某(なにがし)存生に、數年爭ふ事候ふて、某(なにがし)が理分になりたるを、遺恨に存じ、某(なにがし)を殺害せんとの氣指の有(ある)よし、祕にしらするものあれば、隨分用心致して、年月を過(すぎ)しに、年頃過(すぎ)ても、庄兵衞が心猶變ぜず。平日懷中に刃を隱し持(もち)、途中にて逢ふ時、存念を果(はた)さんとす。明暮如斯(かくのごとし)、敵を持(もち)候事故、氣もむすぼれけるにや、近年病付(つき)、終(つい)に相果(あひはて)しが、庄兵衞、今以て刃物を懷にして、遺恨を含み居候間、此亡執にさゝわりて、中有に迷ひ候、何卒、庄兵衞が心をなだめて、件(くだん)の刃を取りおさめ候樣に、御賢慮願ひ奉る」

と、打(うち)しほれて語りければ、僧のいわく、

「庄兵衞は、近年當寺の旦那に付(つき)て、折節來り候得ば、成程尋ね向(むか)ひ、實事に候はゞ、愚僧賴みて、取收(おさめ)候樣に、計ふべし」

と答へければ、いと嬉しげにて、立去(たちさる)と見て覺(さめ)ぬ。

「扨(さて)、ふしぎなる夢哉(かな)」

と思ひ過(すぎ)しに、四五十日も經て、又右の男、夢中に來て、言けるは、

「先頃御賴申せし事、何迚(とて)、御打捨被置候哉(おんうちすておかれさうらふや)。近頃恨めしく候」

迚、いきすみぬるさまなれば、

「檀用に紛れて、延引せし程に、今少し待れ候へ」

と、なだめければ、

「我が亡執の晴(はれ)やらぬ事は、何に紛(まぎ)るべき方もなく、苦しければ、とくとく御計ひ有れぞ」

と言(いふ)と行(ゆく)と見て、さめぬ。

「扨は、打捨がたければ、庄兵衞心をも聞(きか)ん」

と思ひて、聞合(きゝあは)すに、此程、在(ざい)へ行ぬよしにて、又三十日斗(ばかり)も打過ぎぬ。或夜例の男、夢中に來りて、

「僧の身として、妄語をのみなす事の腹立(だゝし)さよ。叶わずば叶わぬ迄、慥(たしか)に答へ給へ。存寄候(ぞんじよせさうらふ)事侍る」

とて、眼を見はり齒をかみ、腹を張り、詰(つめ)かけければ、和尚のいわく、

「此程庄兵衞が方を聞合(きゝあは)すれば、在へ行(ゆき)しよしなり。今年もすでに暮(くれ)なんとす。早春は、いつも來る程に、明年も、人は遣さずとも、年禮に來るべし。其節わりなく咄すべし。此詞違變せば、其方の恨を請(うける)べし」

と答ふ。

「然(しから)ば、其御詞違へ給ふな」

とて、歸ると見て覺(さめ)ぬ。次の年正月五日、例の通り、庄兵衞來て、年玉を差出し、年始詞(ことば)終りて後、和尚のいわく、

「年内にも、問合候得(とひあはせさうらへ)ば、在へ被參(まゐられ)候由にて止み、幸(さいはひ)、今日對面の序、咄し申度(まうしたき)事有(あり)」

と言(いは)ば、

「何事にか、改りたる御詞に候」

といふ。僧のいわく、

「御自分の懷中に御嗜(たしなむ)御刃物を、何かなしに、愚僧に給り候へ、偏(ひとへ)に賴成候(たよりになりさふらふ)」

といへば、庄兵衞いへるは、

「某(それがし)が脇差にて候哉(や)、安き御事にて候、可進(すゝむべし)」

と申せば、僧のいわく、

「いや脇ざしの事にてはなし。懷中し給ふ物の事よ」

といへば、庄兵衞首を打振(うちふり)、

「懷中に何を隱し置くべきや、合點の參らぬ御詞(おんことば)や」

とまじめにいへば、僧のいわく、

「是は御自分とも覺へぬ答也。愚僧がさし詰(つめ)て可申(まうすべき)事を、何とて陳じ給ふや、よし陳じば陳じ給へ。愚僧も、出家の道を破りても、見屆(とゞけ)て置(おく)べきか」

といへば、庄兵衞迷惑がりて、

「是(これ)はかゝる難儀を、被仰(おほせらるゝ)もの哉(か)。然(しから)ば、是非なく次第」

とて、懷中より何やらん、柄付の品を取出(とりいだ)し、

「此品を隱し持(もち)候事は、私意遺恨の者ありて、何か存念を懸(かけ)んと存込(ぞんじこめ)候柄ものに候得ば、眞平御免被下候へ。貴師は何として、御存候や」

といふ。僧のいわく、

「さればこそ、其刃物を以(もつて)、當所の何某(なにがし)をねらひ給ふか」

と問ふ。庄兵衞俯(うなづき)て、言葉なし。僧重(かさね)て、

「其ねらひ給ふ何某は、去る頃亡命せしを、知(しり)給ふか」

と問ふ。

「曾て、不存(ぞんぜず)、久しく病氣のよしは、粗承候」

といふ。僧のいわく、

「死去の事は、愚僧が取置(とりおき)しからは子細なし。夫(それ)にても、刃をば、身に添持(そへもち)給ふべきや」

と問ふ。又答なし。

「然らば、遺恨は、互に世に有(ある)内の事、生を隔てし人に、何迚(とて)罪深き事し給ふぞ。とくとく、愚僧にくれられ候へ。此事愚僧が存(ぞんじ)たる譯は、何某が亡靈來りて、しかしかと告げ、無據(よんどころなき)賴(たより)にまかせての事なり」

といへば、庄兵衞畏(おそれ)て、

「彼(かの)者死去致し、其上身の非を悔(くひ)て、侘(わび)申(まうす)事ならば、貴師を證據にして、遺恨の根を切(きり)、此刃物をくれ可申(まうすべし)」

とて差出(さしいだ)すを見れば、小(ちいさ)き鎌を研(とぎ)すまして、髮毛も剃る斗りなるを、鞘覆柄短にしたゝめたるにぞ有ける。僧押いたゞきて、

「我願ひ滿(みちた)り」

と悦びて、頓(やが)て、彼男の墓前の土を穿(うがち)て、埋(うづ)みければ、其後は、何の怪もなかりしとぞ。

「庄兵衞が存念、したゝかなる者かな」

と、知れる人はいゝあへるとぞ。

 

[やぶちゃん注:この一篇、本文標記やルビに有意に誤りや不審箇所が多いので注意されたい。

「眞木(まき)」両津湾の小佐渡側の根の部分に内陸まで広がる地域。佐渡市真木として現存する。

「夷(えびす)町」現在の両津港ターミナルのある一帯、佐渡市両津夷。

「正覺寺」佐渡市両津夷新(東西と南を夷町で囲まれている)にある。浄土宗。

「跪(もろ)き」意味からは「ひざまづき」であろうが、このような訓は知らない。これは見るからに「脆」と「跪」を筆者以外の無智な人間が誤認してかくルビを振ったとしか思われない

「取置(とりおき)」葬儀と埋葬。最後のシーンで、住持が、かの武器を埋めるシーンが出るから境内に墓地があったと推察される。

「其名の事有忘却しぬ」「そのなのこと、ありしも、ぼうきやくしぬ」と読んでおく。

「忘念」これは「亡念」の誤記ではあるまいか? それなら、仏教用語として「迷いの心・執着心・物事や対象に囚われる心」の意で腑に落ちる。

「身に及ぶ程の事」拙僧の身にて出来得べく範囲のこと。

「何ぞ違背可申(まうすべし)」反語。どうしてその約束に背くことが御座ろうか、いや、背くことは御座らぬ。

「僧にあらざる働の事」「働」は「はたらき」。僧としてすることの難しい行為に関すること。

「しんしやく」「斟酌」。元は「水や酒を酌(く)み分ける」意から、与えられた条件などを考え合わせて適切に処置すること。

「先々」「まづまづ」。

「ゆふよふ」「言ふ様」。歴史的仮名遣は誤り。

「某(なにがし)」ここもおかしい。この二箇所の「某」は孰れもルビは「それがし」であるべきところであろう。

「存生」「ぞんじやう(ぞんじょう)」存命中。

「理分」その争い(具体的には不明)はこの今は死んでしまった男の申し立てた「理」屈(「分」)が全面的に正しいとされて、彼の側(「分」)が勝ったことを言っている。「理分」(りぶん)でもおかしくはないが、ここは私には有利・利益の意の「利分」の方がしっくるくるようには思う。

「氣指」「兆(きざ)し」の当て字であるが、腑に落ちる当て字ではある。

「祕に」「ひそかに」。

「しらするもの」告げ「知らする者」。

「年頃過(すぎ)ても」何年経っても。

「刃」「やいば」と訓じておく。コーダで出現する奇体な武器と響き合うからである。

「存念」恨み。意趣。

「氣もむすぼれけるにや」気が晴れずに塞いでしまい、それが内に凝り固まって病因となったものであろうか。

「中有」「ちうう(ちゅうう)」中陰。人の死後、次の生を受けるまでの間の状態や、その期間、或いは、その特異な宙ぶらりんの時空間を指し、本邦では通常は四十九日間と定めている。しかしここは謂わば、そういう来世でもなく、六道のどれでもない、虚空時空間、特殊な虚無の世界を指さしているように読める。敢えて言うなら、古くからカトリック教会に於いて「原罪のうちに(洗礼の恵みを受けないままに)死んだ者であるが、しかし永遠の地獄に堕ちることも定められてはいないキリスト教を信仰していない人間が死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた辺獄(へんごく/リンボ:ラテン語:Limbus・英語:Limbo)のようなものと私は考えている。但し、この霊は「近き頃相果」と言っているから、その四十九日の間のことともとれ、特に私のような妙な仮定空間を措定する必要はないとも言えるが、しかし二度目の例の出現は「四五十日も經て」から、三度目は二度目から「又三十日斗」りも経ってからで、三度目は完全に中陰をとっくに過ぎているので、ここはやかり私の考え方の方が、論理的にはしっくりくると思う。

「取收(おさめ)」当人から貰い受けて、仏前に納め。

「いきすみぬるさま」「息濟みぬる樣」か。亡者だから少し変であるが、「息も絶え絶えといった様子」の意か。

「檀用」多くの檀家の仏事。

「何に紛(まぎ)るべき方もなく」何かで紛らわすことが出来るような程度のものではなく。

「在(ざい)へ行ぬよし」たまたま、在所の真木村へ里帰りしているとのこと。後で「今年もすでに暮(くれ)なんとす。早春は、いつも來る程に、明年も、人は遣さずとも、年禮に來るべし」とあるから、正月休みの帰郷を主人が早めに出して呉れていたものと思われる。

「妄語」嘘・偽りを言うこと。仏教では「十悪」(在家信徒が五戒を守らない「五悪」にも含まれる)の一つに挙げられる(「十悪」は「身」の三悪(正行(しょうぎょう))の殺生・偸盗・邪淫、「口」の四悪(正語)の妄語・綺語(綺麗事を言って誤魔化すこと)・両舌(二枚舌を使うこと)・悪口(あっく:他人の悪口を言うこと)、「意」の三悪(正思)の貪欲(とんよく)瞋恚(しんい;すぐ怒ること)・愚癡(恨んだり妬んだりすること)を指し、「五悪」は殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒(おんじゅ)の五種の悪行を指す。

「存寄候(ぞんじよせさうらふ)事侍る」「存じ寄る」というのは「思いつく」「思いを寄せる」「考えつく」の意の謙譲語であるから、ここに使うのはおかしい。「何か釈明出来ることが御座るかッツ?!」という亡者憤激の台詞である。怒っているから敬語法を間違えたなどという誤魔化しは、ナシにしてくれ。

「腹を張り」腹を異様に突き出す。「詰(つめ)かけ」る(詰め寄る)動作を、亡者なれば、あり得ないほどに腹を突き出す形で行えるととると、なかなか面白いではないか。

「年玉」「としだま」。(「年賜」の意)新年の祝儀として贈る金品。

「序」「ついで」。

「改りたる」「あらたまりたる」。

「御自分の懷中に御嗜(たしなむ)御刃物」「御自分の懷中に御嗜(おんたしな)むる、御刃物(おんはもの)」と読み変えるのがよいように思う。

「何かなしに」さりげなく。ここは訳を問わずにという意味を含む。

「偏(ひとへ)に賴成候(たよりになりさふらふ)」「ひたすら、貴殿の誠意を頼りとして御座る。」「ただもう貴殿を頼りにして、何も言わずにこそれを渡し下さるよう、お願い申し上ぐる。」といった謂い。

「某(それがし)が脇差にて候哉(や)、安き御事にて候、可進(すゝむべし)」庄兵衛は僧の言ったのが、自分が帯に指している脇差のことだと思ったのである。恐らくは、彼の安物の脇差を僧が(物好きにも)気に入ったとでも勘違いしたのであろう。

「庄兵衞首を打振(うちふり)」この前振りと台詞は、庄兵衛の慌て様(よう)や、気色ばんでいる様子がよく出ている。

「是は御自分とも覺へぬ答也」「これは平素の実直誠実なる御貴殿とも思えぬ答えじゃて。」。

「愚僧がさし詰(つめ)て可申(まうすべき)事を、何とて陳じ給ふや。よし陳じば陳じ給へ。愚僧も、出家の道を破りても、見屆(とゞけ)て置(おく)べきか」「拙僧が、かくもさし詰まった状況のなかで、無理にお願い申し上げておることを、さても何故に強く抗弁しなそろうとするか?! ままよ! 口答えするというなら、徹底的に抗(あらが)いなさるるがよかろう! 拙僧も、出家としての戒を破ってでも、貴殿のまことを見届けずにはおかぬわ!!」。僧はまさに捨身になって庄兵衛と対峙しているのである。そののっぴきならない真剣さが庄兵衛の胸を打つのである。

「迷惑がりて」ここは「如何にも困ったという感じで」の意で、迷惑そうに、ではない。

「柄付」「えつき」。柄のついた物品。

の品を取出(とりいだ)し、

「存込(ぞんじこめ)候」思いを強くこめましたる」

「柄もの」「えもの」。ここは「得物(えもの)」とするのが正しい。柄のついた鎌だから「柄物」だろうでは駄目でである。ここは「得物(えもの)」で明確な「武器」の意を出さなければ駄目なのである。

「眞平御免被下候へ」ここでは庄兵衛は僧に渡すことを明確に丁重に拒否しているのであ「粗承候」「あらあらうけたまはりさふらふ」。

といふ。僧のいわく、

「死去の事は、愚僧が取置(とりおき)しからは子細なし」死去に関してはその葬儀埋葬一切を拙僧が執り行ったによって、そこでは何らの変異も不審なことも一切、これ、ない。

「夫(それ)にても、刃をば、身に添持(そへもち)給ふべきや」恨む相手がこの世からいなくなったにも拘らず、それでも、その禍々しい刃(やいば)を肌身離さず添え持ちなさるる必要、これ御座ろうか!?!

と問ふ。又答なし。

「賴(たより)」依頼。

「まかせての事」従ってのこと。

といへば、庄兵衞畏(おそれ)て、

「彼(かの)者死去致し、其上身の非を悔(くひ)て、侘(わび)申(まうす)事ならば、貴師を證據にして、遺恨の根を切(きり)、此刃物をくれ可申(まうすべし)」」庄兵衛は、その恨む相手があの世で、己が生前に庄兵衛に関わって行った総ての非を悔いて、私に詫びを入れるというのであれば、貴僧をその証拠、懺悔したことと詫びを入れたことの証人として認め申し上げ、遺恨の根を根元からばっさりと切り、この懐の必殺の刃物を貴僧に差し出だし捧げましょう、と折れたのである。

「髮毛」「かみのけ」と訓じておく。

「鞘覆柄短にしたゝめたる」「さやをおほひ、え、みじかに」拵えた鎌。]

譚海 卷之一 日蓮上人眞蹟の事

日蓮上人眞蹟の事

○諸宗租師の中、日蓮上人の眞蹟ほど高價なるものはなく、又上人のまんだらはすかしてみるもの也。おほくは寫して墨をぬりたるものおほければ也。

[やぶちゃん注:本条には最後に編者竹内利美氏によって『この條底本になし』とある。

「まんだら」日蓮及び日蓮宗でのそれは「法華曼荼羅」「大曼荼羅」「大曼荼羅御本尊」、俗称で「髭曼荼羅とも呼ばれる、概ね、文字で構成されたものを特異的に指す。ウィキの「法華曼荼羅によれば、『日蓮門下の諸派に於ける法華曼荼羅は、日蓮が末法の時代に対応するべく、法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。敬称として「大曼荼羅御本尊」と称し、中央の題目から長く延びた線を引く特徴から、髭曼荼羅とも呼ばれている。また、一部には文字でなく画像で表したものもある』とある。リンク先で画像も見られる。]

甲子夜話卷之二 18 有德廟御馬渡(ワタリ)のこと幷三勇の事

2-18 有德廟御馬渡(ワタリ)のこと三勇の事

德廟の時、仙臺より獻ぜし御馬、思召に叶ひて御召に備へられ名を渡(ワタリ)と付玉ひ、その丈け八寸ぞ有ける。或日御馬場に率せ、これに乘らせ給ひ、十匁の御筒を馬上にて打試らるゝに、馬驚て御落馬なり。即復めし、同じ筒を取らせられければ、諏訪部文右衞門つと御馬の向に𢌞り、兩手を以て御馬のもろ轡を執るや否、德廟かの渡のさん頭(ツ)より復一丸打出さる。此時は渡少も驚かず。諏訪部も決心して御轡を執りおおせたり。時竊に評して三勇と申けるとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「有德廟」吉宗。

「八寸」「やき」と読む。馬の蹄から背部までの高さをさす。馬の丈は四尺を標準とし、それ以上は寸だけで数えた。四尺八寸。一メートル四十五センチ。通用語としては「大きく逞しい馬」をも指す。

「率せ」「ひかせ」。

「十匁の御筒」この「匁」(もんめ)は火繩銃の特定の口径を指す総称表現で、概ね、口径十八ミリ十九ミリほどの口径の大きなものを「十匁筒(じゅうもんめづつ)」と称した。重厚で出来のいい物が多いが、音も反動もかなりあったものと想像される。

「打試らるゝに」「うちためさらるるに」。

「即復めし」「すなはち、また、召し」。再度、「ワタリ」を連れてこさせなさって。

「諏訪部文右衞門」御馬方であった諏訪部文右衛門定軌(さだのり 貞享四(一六八七)年~寛延三(一七五〇)年)であろう。以上は「新訂寛政重修諸家譜」の記載に拠った。

「もろ轡」「諸くつわ」。恐らくは「ワタリ」の真正面に立ちはだかって、口に嚙ませた轡を左右からグイと摑んで「ワタリ」の目を凝視したものであろう。

「さん頭(ツ)」「さんづ」で、馬の尻の方の背骨の盛り上がって高くなっている部位を指す語。「三途」「三圖」とも書く。

「時竊」暫く「じせつ」と音読みしておく。時の人々は密かに。

「三勇」これはこの折りの将軍吉宗公と諏訪部と「ワタリ」を指すのであろう。「竊」でああったのは将軍と並べることが憚られたせいであろう。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(15) 組合の祭祀(Ⅱ)

昨日は小泉八雲の命日であった(狭心症とされる。明治37(1904)年9月26日。未だ満五十四歳であった)。遅ればせ乍ら――


 この事を了解するためには、神道の神官はその地方の宗教的感情を代表して居たものである事を記憶しなければならぬ。各組合の社交的規約は、宗教上の規約と同一であつた――それは則ち地方の守護神を祭祀する事である。則ちすべての組合の仕事の成功、病氣に對する防禦、戰時に於ての主君の勝利、飢饉若しくは疫病の際に於ける救助、さういふ事の爲めになされる祈禱は、みな氏神に向つて爲されるのである。氏神はすべで良い事を與へるものであつた、――人民の特別な助力者、保護者であつた。かくの如き信仰が今日なほ行はれて居るといふ事は、日本の百姓の生活を研究するものの等しく認める所である。百姓が秋の澤山の收穫を祈り、若しくは旱魃に際して雨乞ひをするのは、佛に向つてするのではない、また米の澤山の出來の爲めに感謝を捧げるのも佛へではない、――それは昔の地方の神に向つて捧げるのである。また氏神の祭祀は、組合(社會)の道德上の體驗を具現して居るものである――それは則ちすべて其大事にして有て居る傳統と習慣、其行爲に關する不文律、その義務の感を代表して居るのである。一家の倫理に對する違犯が、かくの如き社會に於ては、一家の祖先に對する不敬と考へられるやうに、村或は一地方に於ける慣習を破る事は、その氏神に對する不敬の行爲として考へられるのである。一家の繁昌は孝道を――孝道は一家内の行動の、傳統的規則に服從するのと同一にされて居る――守るにあると考へられて居るが、それと同じく組合の繁昌も、祖先の風習を守るにあると假定されて居る、――則ち少年の時からすべての人に教へられて居る、地方の不文律に從ふにありとされて居るのである。風習は道德と同一視されて居る。一地方で定められたる風習に對する違犯は、その地方を守る神に對する違犯であつで、從つてそれは公の安事を危くするものである。組合の存在はその仲間の一人の犯罪に依つて危くされる、故に各員は社會から、その行爲に對する責任をもつやうにされて居る。人の各行爲は、氏子の傳統的慣習に一致しなければならない、獨立した例外の行動は公然の違法である。

[やぶちゃん注:「飢饉若しくは疫病の際に於ける救助」「於」は完全に欠字(活字欠落)となっているが、ここ以前の「於ける」という表記存在から推定して「於」とした。]

 古代に於ける社會(組合)に對する個人の義務の如何なるものであつたかは、これに依つて想像されよう。個人は自分に關して、正しく三千年前に、ギリシヤの市民がもつて居たと同じ權利以上のものをもつては居なかつた――恐らくはそれ程ももつては居なかつたらう。今日に於ても、法律は甚だしく變化したとは言へ、個人は實際殆ど古と同樣な狀態にある。個人の欲するがままに行ふ權利と云ふやうな、ただそれだけの觀念でも(たとヘば、イギリス及びアメリカの社會に於て、個人の行爲の上に加へられる一定の制限の内にあるやうな自由な觀念であつても)それは個人の考への内には入り得ない。かくの如き自由は、若しそれが日本の人に説明されたならば、その人は、それを以つて禽獸の狀態に比べらるべき道德上の狀態と考へるであらう。吾々西歐人の間にあつては、普通の人々に取つての社會上の規定が、主として云々の事は爲すべからざるものであるといふ事を定めるのである。然るに日本に於て行ってはならぬといふ事は――廣い範圍に亙つた禁止を示すものではあるが――普通の義務の半分よりも少いものである、それよりも人の行はなければならね事を學ぶのは、遙かに必要なのである……今個人の自由の上に、風習が及ぼす制限を筒單に考へて見よう。

 

 先づ第一に注竟すべきは、組合の意志が一家の意志を後援する事である、――則ち孝道を守る事を強ふる。幼年の時期を過ぎた男の子の行ひすらも、家族でなくて、それが公共に依つて定められる。男の子は家に服從しなければならぬが、またその家に於ける關係に就いては、公共の意見に從はなければならぬ。孝道と兩立しないやうな著しい不遜な行は、すべてのものから批判され叱責される。さらにその子が大きくなって働き、また學問を始めるやうになると、その日日の行爲が監視され批評される、そして一家の法が始めてそのものの周圍に緊張して來るやうな年配になると、そのものは同時に世間の意見の壓迫を感じ始める。年頃になると結婚しなければならないが、勝手に妻を選ばせるといふやうな考へは、全然問題外である、そのものは自分の爲めに選んでくれた配偶を受けるものとされて居る。併し何か理由があつて、どうしてもその妻を厭惡するので、その意を酌量するとふやうな場合には、そのものは家族が、またつぎの選擇をしてくれるのを待つてり居なくてはならない。社會はかくの如き事柄に就いて不從順なのを許さない、一たび孝道違反の例を示すと、それは甚だ危附な前例となるのである。靑年が終に一家の長とな今、一家の人々の行爲に對して責任をもつやうになつても、なほ且つその主人は公共の考へに依つて左右され、その家事を治める方針に關して忠告を受納しなければならないのである。主人と雖も不慮の事の起つた場合、勝手に自分の考へに依つて行動する事は出來ない。例へば一家の主人は慣習上親族を助けてやらなければならない、また親族と葛藤の起つた場合には、仲裁を受けなければならないのである。主人が自分の妻子の事のみを考へるといふ事は許されない、――斯樣な事は許しがたい利己心であると考へられる、彼は少くとも外觀上は、その公共の行爲に於て、父子或は夫婦の愛情に依つて心を動かされては居ないやうに行動しなければならない。後年になつて村或は地方の頭の位置にあげられたと假定しても、その行動及び判斷の權利は、以前同樣な制限の下に置かれて居るのである。實際、其個人的自由の範圍は、社會的地位の登るに應じて減少して行くのである。名目上彼は頭として統治するが、實際上其權威は、只だ社會から藉りて居るのであつて、それは社會が許して居る間のみ自分の手にあるのである。蓋し彼は公共の意志を遂行する爲めに選ばれて居るので、自分の意志を行ふためにあげられて居るのではない、――自分の利益の爲めではなくて、社會共同の利益のためであり、慣習を維持し、これを堅くするためんであつて、決してそれを打破する爲めに選ばれて居るのではない。こんな次第で、首長としてあげられて居ながら、彼は只だ公共の僕であり、その古郷に於ての尤も自由を持たない人である。

[やぶちゃん注:「厭惡」「えんを(えんお)」。厭(いや)がって嫌い憎むこと。

「藉りて」「かりて」。]

 ヰグモア教授がその『舊日本に於ける土地所有權竝びに地方制度所見』“Notes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan.” の内に飜譯し、且つ公刊した幾多の文書は、德川將軍時代の田舍の地方に於ける社會生活に關する、詳細な規則に就いての驚くべき考へを與ヘて居る。その規則の多くはたしかに高い權威者から下されたものであつた、併しその大部分は昔の地方の慣習を表はしたものである。此種の文予書は組【註】帳  Kumi-enactments  云はれて居る。そしてこの組帳なるものは、村の團體の全員が遵守すべき行爲の規則を定めたものである、かくしてその社會に於ける利益は莫大なものである。私一個の探究に依り、私はこの國の諸地方に、この組帳に記されて居たものに酷似せる規則が、なほ村の慣習に依つて勵行されて居る事を知つた。私はここにヰグモア教授の飜譯から二三の例を引用して見る――

 

    註 封建時代の終りに至るまで、國中

    の人々の多分は、大都會に於けると、

    村に於けるとを問はず、行政的に扱幾

    個かの家族或は家の群に依つて分かた

    れて居た、それを稱して組則ち『仲間』

    と云つた。組に於ける家の普通の數は

    五つであつた、併し處に依つては六軒

    十軒の家から成る組もあつた。組を作

    つて居る家家の主人達は、その内から

    頭を選んだ、――それが組の全員の代

    表になったのである。この組の組織の

    起原及び歷史は不明である、これと同

    樣な組織は支那にも朝鮮にもある。

    〔日本の組の組織は、軍事上から來て

    居るといふ事をヰグモア敬授は疑つて

    居るが、その理由は心服するに足るも

    のである〕正しくこの組織は非常に行

    政の上に好都合であつた。上長の權威

    に對して責任をもつたものは一個の家

    でなくて、組がその責任の衝に當つた

    のである。

[やぶちゃん注:「『舊日本に於ける土地所有權竝びに地方制度所見』“Notes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan.” ウィグモアが一八九一年に発表したもの。但し、これにはPosthumous Papers of D. B. Simmons (John Henry Wigmore, editor)”(D・B・シモンズなる人物の遺作論文をウィグモアが編集したという意味)という添え題があるから、純粋な彼の論文ではない。

「衝」「しよう(しょう)」と読む。要所・大事な任務の意。]

 

 『組の内の一人が、兩親に對し好意をもたず、兩親をなほざりにし、若しくはその言ふ事をきかぬ樣な事があれば、吾等はそれを隱匿し、若しくは差しゆるしたりする事なく、それを報告するであらう……』

 『吾等は子供達のその兩親を尊敬し、僕婢のその主人に服從し、夫妻、兄弟、姉妹の和合して暮らし、若者の年長者を畏敬し愛撫する事を求める……各組は(五軒の家から成る)その部員の行狀を注意して監視し、非行のないやうにすべきである』

 『百姓にせよ、商人にせよ、また職人にせよ、何人でも組の一人が怠惰であり、仕事に精勵しなければ、番頭(主なる役人)はそのものに注意を與へ、忠告をし、その行をなほすやうに指導する。若しそのものが忠告をきかず、怒りまた剛情であるならば、そのものは年寄(村の長老)に申し出される……』

 『喧嘩を好み、また家を出て夜遲くまで流連し、勸告をきかぬものは訴へられるであらう。若し他の組で斯樣な事を怠る事あれば、それに代つて左樣なものを訴へるのが吾等の義務の一つである……』

[やぶちゃん注:「流連」音「リウレン(リュウレン)」当て読みして「ゐつづけ」(居続け)とも訓ずる。原義は、「幾日もの間、家を離れて他の所に留まること」で、特に「遊里などで幾日もの間、泊まり続けて遊ぶこと」(「一夜切(いちやぎり)」の対語)の意もあるが、ここは前者。]

 『親族と爭ひをなし、その親切な忠告をきかず、或は兩親の言葉に背き、或は同村の人人に不親切であるものは、みな(村の役人に)申し出されるであらう……』

 『舞踊、相撲、その他公の觀覽物は禁止の事、藝娼妓は一夜たりとも村に滯在する事を許されず……』

[やぶちゃん注:この条、末尾は「許されず」で截ち切れている。前後からリーダと二重括弧閉じるを補った。]

 『人々相互の喧嘩は禁斷の事、爭ひの場合、事情は申告すべし。若し申告なき時は、雙方とも等しく罰せらるべし……』

 『他人の事を惡目し、公に他人を惡人とふれまはるが如き事は、たとへそれが事實であるとしても、それは禁斷である』

 『孝行及び主人への忠實なる奉仕は、當然の事ながら、特に左樣の事に忠實に勤直なるものは、吾々より政府へ推薦するため、必らず左樣の者を申し出る事にする。……』

 『組の仲間として、吾等は親族に對するより以上に友誼を篤くし、相互の幸福を增進し、また相互の悲みを頒かつ事をする。若し組の内に非道不怯のものあれば、吾等一同はそのものに對する責任を分擔するものである』

 

    註 『舊日本に於ける土地所有權竝び

    に地方制度所見』‘Notes on Land

    
Tenure and Local Institutions in Old Japan.

    ――『日本亞細亞協會』第十九卷第一

    部所載論文。私は各種の組帳から以上

    を選拔して引用し、説明に都合の良い

    やうに排列した。

    譯者註 以上の諸項は小泉先生も言は

    れて居る通り、ヰグモア教授の飜譯か

    ら拔萃したとの事であるが、五人組の

    規約なるものは地方々々に依つて無數

    にあり、多少の相違もある。先生のあ

    げて居られるやうな個條を、五人組制

    度に依り、竝びに『德川禁令考』に依

    り、探して見たが、正確に合ふのは見

    當たらない、併し大略同じやうなもの

    を二三見つけ出した故、左にその一二

    をあげて置く事にした。

     第一親に孝行を盡くし、下人は主

    能順ひ主人は又召仕を憐み夫歸仲よく、

    兄第親類に親しく、友立は老たるを敬

    ひ、物毎賴母しく諸人に對し不體惡口

    不仕……又村中に勝れて親に孝行かる

    もの有之候は、其容子を見屆け委く申

    上ぐべし……ガサツ口論を好み夜アル

    キ不作法にして行跡不見屆のもの有之

    候はゞ名主五人組異見申すべし、若不

    用候はゞ其申上隱置後日顯れ候はゞ其

    五人組共越落たるべし…。

     不孝の輩於有之は急度曲事行はる

    べくの間、若し左樣の族御坐候はゞ、

    有體に申上べく候、隱し置き脇より顯

    はるるに於ては、名主五人組まで越度

    に仰せ付らるべくの旨奉畏候事。

[やぶちゃん注:「德川禁令考」ウィキの「徳川禁令考によれば、『明治初期に新政府の大木喬任が旧幕臣の司法省官吏菊池駿助らに命じて編纂した江戸幕府の法令集で』、『「武家諸法度」など江戸幕府が出した主要な法令の多くが収録されているが、幕府が出した法令自体の数が余りにも膨大過ぎるためその全ては収録されていない。また、「公武法制応勅十八箇条」のように今日では幕法であることが疑問視されている法令、「慶安御触書」「禁裏御所御定目」などのように誤伝により幕法とされてきた法令が載せられている。その一方で、「生類憐れみの令」のように幕府の権威を失墜させた法令は収録されていないとされる』とある。

「下人は主能順ひ」「下人は主」に「能」(よく)「順」(したが)「ひ」。

「友立」友達。

「物毎賴母しく」「ものごと」に「たのもしく」。どのような出来事に対しても頼もしい存在としてあり。

「不體惡口不仕」「不體(ふてい)・惡口(あつく)仕らず」。「不體」は不逞(勝手に振る舞うこと・道義に従わないこと)のつもりであろう。

「行跡不見屆のもの」「ぎやうせきみとどけざるの」者と読んでおく。何をしでかすか分からない要注意人物の謂いであろう。

「越落」読み不明であるが、これは次の末の方にある「落度」(おちど:手落ち・誤り。「越度」とも書く)と同義であろう。或いはこれで「おちど」と当て読みしているのかも知れぬ。

「奉畏候事」「たてまつりかしまつてさふらふ」と訓じておく。]

 

 以上は單に道德上の規約を示した例に過ぎないが、この外に道德以外の義務に就いてのもつと詳細な規約もある――例へば――

 

 『出火の際は、各自みな手桶に一杯の水を携へ、直にその現場へ行き、役人の指揮の下に消火ににつとむべし……出場せざる爲のは罰せらるべし』

 『他郷の人にして、此の地に居住せんとするものある時は、その出身の村を尋ね、當人より保證を差し出さすべし。……旅客は一夜たりとも旅宿以外の家に宿泊すべからず』

 『盜賊夜襲の報知は、梵鐘その他の方法に依つてなさるべし、其報知を聞くものは犯人の捕縛さる〻まで、共に追跡すべし。故意にそれを避けるものは糺問の上罰せらるべし』

 『村中火の用心可入念自然火事有之は火元え駈付消ベし藏近所出火之節は別而精を出かこひ可申候若遲出合候者有之は穿鑿の上急度可申付之――。

一 在々所々惡黨有之時はナリを立べし、然ば先の村々より出合可召捕之、御褒美可被下、若し不出合郷中は穿鑿の上可爲曲事事。

[やぶちゃん注:「ナリ」は底本では傍点「ヽ」。これは恐らくは「鳴り」で、半鐘のようなものをそれと判るように打って近在の隣村に伝達することを指すのであろう。]

一 行衞不知者は一夜なり共宿貸候儀堅仕間敷候、尤御傳馬宿場之旅寵屋は勿論、其外町並往還通り有之所と共に總て往來の旅人、一夜泊りは格別、二夜三夜共泊り申度と申候はば請人立させ、其子細篤と聞屆け、問屋名主五入組へ相斷り吟味の上……。

[やぶちゃん注:「行衞不知者」「ゆくへしれざるもの」で目的地が不明な旅人のことであろう。

 なお、平井呈一氏の「日本 一つの試論」(一九七六年恒文社刊)では、ここにやはり、前の戸川氏の訳注と同様の平井氏の訳注が挿入されている。則ち、以上ほ本文を現代語で訳したことを踏まえ、『穂積博士の編纂された「五人組法規集」正続、野村博士著「五人組帳の研究」に一々当って見たが、著者が排列を組みかえた以上の個条に、正確に相当するものがないので、ここには原文の訳だけを掲げ、それにやや該当すると思われるものを、二、三抄録して、読者の参考に供しておく。』という前振りを以って、この戸川訳の「道德上の規約を示した例」と「道德以外の義務に就いてのもつと詳細な規約」に相当する組帳記載を以下に六箇条、示しておられるのである。ここでは、その平井氏の提示されたものを、恣意的に漢字を正字化して引用しておくこととする(一部の崩し字を正字化してある。また、それぞれの最後の引用原本の注記は平井氏の底本では下インデント二字空けであるが、ブログのブラウザの不具合を考えて上に上げた)。

   《引用開始》

一 第一親に孝行を盡し、下人は主人に能隨(シタガ)ひ、主人はまた召使を憐(アハレミ)、夫婦中能、兄弟親類睦敷、友達老たるを敬(ウヤマヒ)、物毎賴母敷、諸人ニ對し不禮惡口不仕、つゝましやかにし家業第一に、所之法を背べからず、又村中ニ勝れて親に孝行成者有之侯ハゝ、其樣子を見屆ケ、委(クハシ)ク可申上、常々耕作こも不入精、博奕ケ間敷義、がさつ口論を好み、夜歩行、不作法にして、行跡見屆かさる者有之候ハゝ(名主)五人組異見可申候、若不用候ハゝ、其段可申出、隱置後日ニ顯侯ハゝ、其五人組共ニ可爲越度‥‥

一 喧嘩口論出來候ハゝ、所之者出合相留埒明可申候、若内々ニテ不相濟義ニ候ハゝ、雙方申分可訴出、勿論手負えものに候ハゝ、押置早速可申出候、縱過候テモ疵付候共、其子細即時可訴來候、尤他村ニテ喧嘩等有之候節、不可馳集候、人を殺、立退候者有之候ハゝ、(隣郷之者迄出合、揚取、早速)可遂注進、捕候儀難叶候ハゝ、跡を慕落付所申屆ケ、其段早々可訴出事。

 ――明和四年 武藏國高麗郡藤村 五人組帳

一 勸進能・相撲・操り其外諸見物類可爲停止事

一 若火事出來之節ハ、人別ニ手桶ヲもち、火事へかけ付、消し可申候。若不罷出もの有之ハ可爲曲事事

 ――元祿十五年 上野國安中郡上野尻村 五人組帳

一 遊女・野郎惣テ遊者之類、一切當村に置申間敷候、一夜之宿をも借申間敷候事

 ――享保十五年 武藏國荏原郡久ケ原村 御法度御仕置五人組帳

一 在々處惡盜有之時分ハ、なり立べし、其時者先々村々よりも出合、召からめ候は御褒美可被下候由被仰候へバ、若出不申候ハ曲事ニ可被仰任候。

 ――元祿四年 下總國葛飾郡三ツ堀村 五人組帳

   《引用終了》]

佐渡怪談藻鹽草 小川權助河童と組し事

     小川權助河童と組(くみ)し事

 

 享保の始(はじめ)つかた、小宮山彦左衞門召遣(めしつかひ)に、權助といふものあり。此もの小川村の産にして、生れ付(つき)、殊に逞しく、力量他にこへたり。若年より相撲を好み、又は腕立成(なる)事共(ども)、其聞えあるもの也。元より生得かしこければ、農家の業を嫌ひ、武家に勤(つとめ)て、我(われ)不敵なる事を、府中に顯わさんと思ふより、行年二十三四の頃より、小宮山が僕と成(なり)、忠を盡すこと年あり。たまたま帶刀する時は、在名をもて、則(すなはち)、小川權助と名乘(なのる)。府中に隱れなき奴なりけり。或時小宮山、諸用の事にて、他へ使す。頃は、彌生の半頃、春雨、いとしめやかに降(ふり)て、夕日に落(おち)かゝる程なるに、羽田の濱を通りぬ。海際より、十二三斗りなる童の、いと怪しげなるが、川筋に添ひて、登るかと見へしが、權助を目掛け、近寄(ちかよる)とひとしく、後より帶の結びを捕へ、一無盡に海の方へ引(ひき)ゆかんとす。權助振除(ふりのぞか)んとすれど、猶引く事強く、怪しきもの哉(か)と、寄向ひて、むずと組(くむ)。件(くだん)の童、少しもたゆまず、組合(くみあふ)事、數刻にして、既に海際まで、組行(ゆき)たり。權助思ふには、

「是ぞ、世にいふ川獺なるべし。河童は、頭上に窪み有(あり)て、陸へ顯るゝ時は、水をいたゞき、其水溢れざる程は、力強きよし、聞(きゝ)傳へければ、彼(かの)水を打(うち)こぼさん」

と心付(こゝろづき)、振り拳を以て、彼ものゝ頭上を碎(くだか)んばかり、五つ六つ續けざまに、打(うち)ければ、實も力や失ひけん。權助を振(ふり)はなし、海中へ飛入(とびいり)ける。權助、あまりに組疲れければ、川水にて、喉を潤し、しばし息を繼ぎ、

「くせもの、最壱度顯われば、組留(とめ)んす者を」

と、磯際にすゝたち、半時斗りも待(まち)かけけれど、彼(かの)もの終(つひ)に出(いで)ず。權助殘念ながら、以前の用事の缺(かけ)んも如何(いかん)と、其儘に打捨(うちすて)、使用(つかひよう)足早に調へ、小宮山が方へ歸る。彦左衞門申(まうし)けるは、

「何迚(とて)、遲く歸りぬ」

とあれば、

「其事にて候。羽田濱にて、怪異なる事の候て、手間取候」

と、しかしかの事を語る。小宮山も怪敷(あやしく)思ひけれど、權助が顏色靑く、いかにも疲れたる體(てい)なれば、

「さる事も有べし。むかしより、羽田の海には川童住(すみ)て、人を害する事數多(おおく)有(あり)。汝其(その)異形を止めば、いやしくも、名を後代に殘さんものを、殘念さよ」

と、戲れけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「享保の始(はじめ)つかた」「享保」一七一六年から一七三五年。始めの頃であるから、一七二二年ぐらいまでか。

「小宮山彦左衞門」これより遙か以前の江戸初期であるが、佐渡地役人の中に同姓同通称の武士がいたことが「佐渡で活躍した甲斐の人々 武士の部」で判る。

「小川村」現在の佐渡市相川の北に接して、佐渡市小川地区が現存する。

「腕立成(なる)事」腕比べ。腕力比べ。

「我(われ)不敵なる事」自分が無敵の臂力(ひりょく)の持ちであるという強烈な自信。

「府中」佐渡国。

「行年」ここは単に年齢(数え)の意。

「奴」「やつこ(やっこ)」。通常の意味では、武家の奴僕で撥鬢(ばちびん)頭・鎌髭(かまひげ)の姿で日常の雑用の他に槍・挟み箱などを持って行列の供先を勤めた者、「中間(ちゅうげん)」と同じであるが、ここの語気は、一部が、そうした連中の中から出現した俠客・男伊達(おとこだて)の荒くれ者で、派手な或いは奇矯な服装をし、無頼を働いた旗本奴のニュアンスで言っている。そうでないと、コーダの小宮山の台詞が生きてこないからである。

「羽田の濱」「はねだのはま」と訓じておく。現在、佐渡市相川地区の南部に羽田(はねだ)村が現存する。但し、ここは現在は内陸で相川下戸(おりと)町を挟んで海浜に接している。この浜のことを指と思われる。同地域には現在、別の町域を挟んで北と南に河川が流れている。

「一無盡に」脇目も振らずに行動するさまを言う。無暗矢鱈、一気に、一思いに、我武者らにといったニュアンスであろう。

「數刻」「すこく」と読んでおく。一刻は「僅かな時間・瞬時」の意があるが、ここはそれではおかしく、「一時(ひととき:現在の二時間相当)の四分の一、現在の凡そ三十分間を指している。

「川獺」「かはうそ」。当時、実在した生物としては食肉(ネコ)目 Carnivora イタチ科 Mustelidae カワウソ亜科 Lutrinae カワウソ属 Lutra ユーラシアカワウソ Lutra lutra 亜種ニホンカワウソ Lutra lutra Nippon であるが、ここは妖怪の河童と同義で用いている。ウィキの「カワウソ」によれば、『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。『室町時代の国語辞典『下学集』には、河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』とある。ニホンカワウソは嘗ては全国に広く生息していたが、昭和五四(一九七九)年以来、目撃例がなく、遂に二〇一二年に絶滅種の指定がなされた。佐渡に棲息していたかどうかという生物学的証拠は探し得なかったが、ノンフィクションライターで歴史民俗学者であられる礫川全次(こいしかわぜんじ)氏(私は以前にこの方から歴史民俗学研究会への参加を慫慂されたことがある)のブログ「礫川全次のコラムと名言」の『カワウソに関する伝説(藤沢衛彦執筆「カワウソ」を読む)』に、民俗学者藤沢衛彦(もりひこ)氏執筆になる百科事典の「カワウソ」の引用の中に佐渡のカワウソの話が出る。孫引きになるが如何に引く(一部、切れている箇所を繫いだ。下線やぶちゃん。一部で表記不能の字を□■で示しておられ、最後に当該字の注を礫川氏が注しておられるが、現在、孰れの字もユニコードで表示出来るのでそれに換え、注は省略した)。

   《引用開始》

〔伝説〕『和名抄』には水獺〈カワウソ〉を「宇曾」〈ウソ〉と記してゐるが、『月令』の書は水獺と記して山獺と区別してゐる。川獺、海獺といふ種は共に水族として同様の伝説を存せしめてゐる。水獺は小獣ではあるが、淵の底に住んで悪事をなすこと頻〈シキリ〉に、よく人語を真似て、人を惑はし、人を騙かして〈ダマカシテ〉水に引込むなどと伝へられてゐる。河に住むを川獺といひ、海に住むを海獺と名づける。『佐渡志』によると、佐渡の両津町附近では、昔から海獺はけしからぬ詐術を以て人の命を奪ふと信ぜられ、一名を海禿〈ウミカブロ〉といふ説話は、河童と同系の伝説をなすものである。それで『信濃奇談』などは、老獺が変つて河童となるといつてをり、さう信じてゐた地方があつた。獺〈カワウソ〉伝説は少なくとも河童伝説の一素因をなすやうで、『西安奇文』の陳西咸寗県趙氏の娘が水獺に魅せられる話は、水獺が一種の好色獣として人間と交婚し遂に惨殺する説話で、水獺には元来雌雄がなく、多くは猨(手長猿)を相手とするといふ伝説が、幾多人間との交婚説話を将来したものと考へられる。獺の雌なきを獱獺といひ、猨を選ぶことについて「援鳴而獺候」などいはれることは恐らく獺の交尾期を示してゐるものらしい。常に魚を食して水信を知るといふことも、獺の尋常ならぬ動物であることを指せるもので、『月令』に、正月、十月、獺魚を祭るといふことについて、女陰を魚にて描くのであるといふ俗説をなせるものは、寧ろ〈ムシロ〉『呂氏十一月紀』に、「獺祭円鋪、円者水象也。」といへる見方が正しいであろう。『小戴記月余』には、「此時魚肥美、獺将食之先以祭也。」と見える。その祭日を雨水の日となし、円を描くは女陰を象る〈カタドル〉のである故に獺の皮を以て褥〈シトネ〉を作り、これを産婦に敷かしむるに安産をするなどの俗説が立てられてゐる。『七十二候』には「水獺祭魚、以饗北辰、獺不祭魚、必多盗賊」と見え、日本に於ても、この民俗を伝へてゐる。(藤沢)

   《引用終了》

これによってニホンカワウソの佐渡棲息は認められると考えてよかろう。

「實も」「げにも」。

「最壱度」「もいちど」。

「組留(とめ)んす者を」「組み留めんずものを」であろう。「んず」は意志を表わす助動詞「むず」の音表記変化したもので、上代には「むとす」(推量の助動詞「む」+格助詞「と」+サ変動詞「す」)で、「むず」となったのは中古。中世前期には盛んに用いられたが、中古にあっては俗語的で、はしたない悪い言葉遣いとされていたようである)。「者を」は逆接の確定条件を表わす接続助詞「ものを」の当て字。「組みしだいてやろうものを!」

「半時」約一時間。

「以前の用事の缺(かけ)んも如何(いかん)と」主(あるじ)小宮山彦左衞門から命ぜられた最前の用件を果たさずに帰ることも如何なものかと思い。

「使用(つかひよう)足早に調へ」当該の用事の場所へ速やかに出向いて、用件を手早く済ませ。

「小宮山も怪敷(あやしく)思ひけれど」ここで主人が怪しく思ったのは、奇っ怪な河童の出現の怪異自体ではなく、彼自体の言い訳であることに注意。小宮山は、普段からかぶいて何かと問題を起こす権助のことだから、何か途中で遊びなんどして、遅くなったのではないかと疑っているのである。

「數多(おおく)」「おおく」(歴史的仮名遣は誤り)は「數多」の二字に附されたルビ。

「汝其(その)異形を止めば、いやしくも、名を後代に殘さんものを、殘念さよ」「そなた、そのかぶいた恰好やら素行やらを止めて全うなる中間(ちゅうげん)であったなら、かりそめにでも、『河童と組み合って勝ったる勇士』としてその名を後代までも残したであろうに、いやいや! なんとまあ、残念なことか! ふふふ」。

「戲れける」「たはむれける」。]

閑人妄想   梅崎春生

 

 私の娘は今中学三年生で、せっせと勉強している。そう根をつめずに、すこしは遊んだらよさそうに思うが、そうは行かないらしい。昭和二十二年生れの終戦子は実にたくさんいて、今春には莫大な中学浪人が出る。浪人にならないためには、勉強しなければならぬ。こちらが勉強すると、他のやつがそれ以上勉強する。するとこちらがそれ以上。また向うがそれ以上という悪循環で、三当五落という言葉も出来ているそうだ。一日五時間眠るともうだめで、三時間ならまあまあという意味である。おそろしいことになったもんだ。

 もっともうちの娘は、たっぷり八時間は眠っているらしい。(らしい、というのは、私は、一日十時間から十二時間眠るので、確かめるすべがない)

 一体どういうつもりで日本人は、昭和二十二年にえっさえっさと子供をつくったのだろう。そしてこんな状態に至らしめるなんて、ばかばかしい話だ。とはいうものの、私も生んでいるのだから、他人をとやかくは言えないけれど。

 こんな人口過剰の世代は、もう数年続く。私の息子は小学五年で、ここらもまだ多い。平常に復するのは、今の小学三年の頃かららしい。息子の方は、まだ高校受験に間があるので、のんびりと遊んでばかりいる。あまり勉強しないと、中学三年になった時困るぞと言うと、

「大丈夫だよ。ぼく、中学を卒業したら、二年浪人して上げるよ」

 二年浪人すれば高校の門も楽になるから、心配しなさんなという、これは親孝行のつもりの台詞(せりふ)なのである。向うじゃ親孝行のつもりだろうが、こちらは屈強の若者に二年間も家でごろごろされちゃ、上ったりである。

 適度の競争は人間をして向上せしめるけれど、過度の競争は往々にして人間性を荒廃させるものだ。この年代の競争は、高校受験だけでなく、大学、人生を通じ、死ぬまで続くのである。この世代が社会の中堅になった時、社会や文明がどんな様相を呈するか、興味津々(しんしん)などとうそぶいてはいられない。

 もっともこの世代のみならず、大体今の日本の広さに、一億人が住むのは無理じゃないだろうか。戦争前のように、内地人口が五千万程度がいいところであるというのが私の説で、そのことを随筆に書いたら、某氏の某著(その本は信州に置き忘れて来て手もとにないので、正確には書けないが)の中の批評では、それは不可能なのだそうである。

 五千万が一億になり、殖えた五千万人が仕事がなくて暇を持て余しているかと思うと、一億全体がやたらに忙しがっているようだ。仕事が忙しいし、遊ぶことにも忙しい。どこの仕事場もどこの遊び場も満員で、割り込むすきがない。勤勉だと言えば聞えがいいが、すでに荒廃の相を呈していると言う方が正しい。つまり忙しいというのは実質的だが、忙しいような気分になっているだけだ。忙しがっている気分に照応する内容は、ほとんど貧寒である。

 過日藤原審爾君より電話があり、竹岡沖に魚釣りに行かないかとの誘い。行ってもいいが、今骨をすこし傷めているので、断った。人口という言葉がある。釣り人口。碁人口。登山人口。テレビは人口と言わずに台数というらしいが、この何とか人口というのは、戦前にはなかったような気がする。その各人口がやたらに殖えて、たとえば釣り人口も戦前から何倍にも殖えて、それに見合う魚数がないので、釣果零(ぜろ)であたり前、いくらか釣れれば儲(もう)けものという具合では、やはり荒廃と言わないわけには行かないだろう。そこで竹岡くんだりまで遠出することになる。電車や汽車もそれで満員になり、釣ることも結構忙しい暇つぶしになって来る。

 登山人口、これもたいへんなもので、戦前五千万から今一億で、登山人口が二倍になったかというと、そうでない。算術的でなく、幾何級数的に、五倍にも八倍にも殖えている。それで山に登ったという実感も実質もなくなって、ただ忙しかったという後味だけが残る。エネルギーの消耗だけだ。

 狭い庭池の中に金魚を二三匹入れると、彼等は実にゆうゆうとのんびり泳いでいる。これに数十匹入れると、彼等は俄然忙しくなり、右往左往してあばれ廻る。今の日本人の忙しさは、つまるところそれじゃないのか。多過ぎて、ところを得ないのだ。やたらに殖えたことも良くないけれど、それに対応した政府の無策がよろしくない。

 いつだったか必要があって、朝の通勤電車を見に行ったことがある。聞きしに勝るすごいラッシュで、押し屋さんがぐいぐいと押し込み、人間たちはまるで経木の中の佃煮(つくだに)みたいに、重なって詰め込まれていた。よく不平不満が出ないものだ。もっともある人の説によると、これは政府の陰謀であって、も少しまばらな混み方にすると、通勤客は政府の無能無策に思いを致す。ところがあれほどぎゅうぎゅう詰め込むと、人間は押して来る周囲を憎むのがせいいっぱいで、政府に思いを致す余裕がなくなるのだそうだ。新聞などの記事では、押した押さない、足を踏んだ踏まないとのささいな原因で、喧嘩がよく起きているようだが、その喧嘩は皆政府に対して吹っかけるべきで、被害者同士が相争うのは政府の思う壺なのである。夢の超特急など、不要なものだとは思わないが、通勤電車の増設にくらべれば、はるかに不急なものである。大阪まで三時間で行きたけりや、飛行機で行くがいい。

 まあそんな具合にあちこちが混むのは、人間が殖えたせいであるが、体位が向上したことにも大きな原因があるらしい。大正時代の男の背丈は五尺二寸、女は五尺足らずというのが普通だったが、今は違う。うちの娘でも百六十六センチあるし、男で百八十や九十はざらである。今は腕力が単位になる時代でないから、思い切って体質改善(?)して、ピグミイ並みに一メートルぐらいにしたらどうだろうか。そうすれば電車も混まないし、すし詰め教室もなくなる。釣りだって今ハゼ釣りに行く人がメダカを釣りに行くようになるし、私はゴルフは嫌いだが、ゴルフ場も三分の一に縮小出来る。建物も階ごとに中仕切をつけて、五階建てが十階分に使える。でもこれには欠点がある。たとえば犬や猫が、人間の縮小にしたがって猛獣化し、人間をかみ殺したり、ひっかいて重傷を負わしたり、手近なところはそんなものだが、大きなところでさまざまの不都合が起きるだろう。――ということで紙数が尽きたが、以上、あまり忙しがりたくない人間が、ベッドの上に寝そべっての、とりとめもない妄想だと読み流していただければ幸甚である。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年二月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。因みに、この年の日本の総人口は九千六百十五万六千人(男性は四千七百二十万八千人、女性は四千八百九十四万七千人)。なお、二〇一五年十月一日現在は一億二千七百十一万四十七人である。底本では本作は「エッセイⅡ」の最後に配されてある。

「私の娘」梅崎春生の長女梅崎史子(ふみこ)さん。梅崎春生が山崎恵津さんと結婚した(昭和二二(一九四七)年一月)年の十月に誕生している。同年の日本の総人口は七千八百十万一千人(男性は三千八百十二万九千人、女性は三千九百九十七万二千人)であった。彼女は所謂「団塊の世代」に相当する。ウィキの「団塊の世代」から引いておく。『団塊の世代(だんかいのせだい)とは、日本において、第一次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代』で、『第二次世界大戦直後の』昭和二二(一九四七)年から昭和二四(一九四九)年に『生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことである。第一次ベビーブーム世代とも呼ばれる。日本経済においては第二次世界大戦後の高度経済成長、バブル景気を経験している』。『団塊世代が生まれる前は戦中、戦後直後であり、出産を先送る傾向にあった』。『その反動だけでなく、第二次世界大戦の終結に伴って大正世代の若い男性が復員し』、一九四〇年『代後半に婚姻をする男性が増加した』。明治四十年代生まれ(一九〇七年から一九一二年(明治四十五年・大正元年))・大正生まれ(一九一二年から一九二六年(大正十五年・昭和元年))・昭和一桁前半(一九二五年から昭和五(一九三〇)年)『生まれの若い男女の婚姻急増に伴う出生人口の大幅な増加が発生』、これが「第一次ベビーブーム」と後に呼称された。また、昭和二三(一九四八)年までは、『一部の例外(強姦・姦通)を除き、一般的に産婦人科での避妊・中絶・不妊手術などの行為は、刑法で堕胎罪となり禁止されていた』。昭和二三(一九四八)年に『優生保護法によって限定的に容認して、さらに』その翌年に同法が『改正されて、「経済的な理由」での中絶も容認することになったため、出生率の増大に歯止めがかかり』、昭和二五(一九五〇)年以降は出生率が低下していった。このため、日本に於いては昭和二二(一九四七)年から昭和二四(一九四九)年の三年間に生まれた人口が突出することとなった。『作家の堺屋太一が通商産業省鉱山石炭局在籍時の』昭和五一(一九七六)年に発表した小説「団塊の世代」の『中で用いたことから、「団塊の世代」という用語とともに、団塊の世代が日本社会に及ぼす大きな影響が一般にも認識された。アメリカ合衆国でも同様の現象が見られており、こちらは「ベビーブーマー」と呼ばれている』とある。

「私の息子」梅崎春生の長男梅崎知生(ともお)さん。昭和二六(一九五一)年五月生まれ。同年の日本の総人口は八千四百五十四万一千人(男性は四千百四十八万九千、女性は四千三百五万二千人)。彼は狭義の「団塊の世代」には含まれないが、「ポスト団塊の世代」と呼ばれることはあり、私(昭和三二(一九五七)年二月十五日生まれ)も含めた一九五〇年代生まれの世代は別に「しらけ世代」などとも呼ばれた。

「この世代が社会の中堅になった時、社会や文明がどんな様相を呈するか」やはりウィキの「団塊の世代」から継ぎ接ぎして示す。まず、学齢期に彼らは日本教職員組合(昭和二二(一九四七)年設立)『の濃厚な影響を受けた世代である』ことを認識する必要はあろう。青年期には『地方農村の中学校・高等学校卒の若者は、高度経済成長期で働き口が豊富だった東京や大阪などの大都市へ集団就職した。彼らは「金の卵」と呼ばれ、工場や商店などといった中小零細企業で大勢雇われ日本経済の底を支えた』が、それによる『東京一極集中・大都市一極集中が問題とな』った時期でもある。『高校から大学へ進学したインテリの若者たちは民主主義への嫌忌と毛沢東思想への心酔から、所謂学生運動と呼ばれた大学「改革」や、安保闘争、ベトナム戦争反対の反体制運動に身を投じた。こうした動きは国公立より私立大学に措いて顕著であり、都市部大学から地方大学へも広がり、全共闘運動などで日本政府や既成秩序に反発する新左翼的な活動へと転じていった』が、昭和四四(一九六九)年に東大紛争が敗北に終わり、七十年『安保闘争も不調に終わると、多くの若者が学生運動から(表面上は)離れていき、追い込まれた過激派の暴力行為がエスカレートしていった。更にあさま山荘事件や党派の分裂による内ゲバやリンチの横行などで、それまで穏健な支持を与えていた世間の目が冷たくなると急速に学生運動離れが進み』、一九七〇年代半ばまでには、殆んどの『団塊若者は政治活動から距離を置くようになり、企業戦士に転向するものも多かった』。『文化的側面から見れば、ファッションという概念が浸透し始めた世代であり、男性はジーンズ、女性はミニスカートを好んで装い、レジャーやドライブを好むなど、そのスタイルは現代に至るまで続く若者文化の基盤と呼べるものであった。この世代は、それまで絶対的なものとして意識されていた欧米(主にアメリカ合衆国)と東洋(日本)の文化の対立を相対化し、ごった煮にして双方を楽しもうとする多文化世代の先駆けとなった』。一九七〇年代になると、『結婚する男性(この時期は戦後の婚姻数の統計のピークだった)や子供を産む女性が徐々に増えてくる』。『従来の家制度の意識が薄れ、核家族による家庭指向が強く、見合い結婚と恋愛結婚が逆転した世代で』、『団塊の世代が親元から独立して家庭を持つようになると、著しい住宅不足となった。この対策として、大都市の近郊には数多くの核家族向けの近代的な団地が造成された』。『また大手企業は、社員の福利厚生用に集合住宅タイプの社宅を構えた。その周辺に生活物資を売る商店が集まり、衛星都市と呼ばれる中都市ができた。これによって大都市を取り巻く都市圏は大きく広がり、それに伴う通勤通学のための交通網の整備が急がれ、鉄道の輸送力増強や新線建設、道路の新設や拡張が行われた。都市膨張の時代』と重なることとなる。昭和六一(一九八六)年から平成三(一九九一)年の『バブル景気時代には、団塊の世代は』四十歳前後の『働き盛りとして社会の中核を担っており、企業で仕事に没頭するあまり家庭を顧みなくなったり、さらには過労死で突然命を失った団塊男性も少なからず存在した』とある。

「今の日本の広さに、一億人が住むのは無理じゃないだろうか」日本の人口が一億を超えたのは昭和四二(一九六七)年で、一億十九万六千人(男性四千九百十八万人・女性五千百一万六千人)であった(以上、ここまでの人口数値は二〇一五年現在の値を除き、サイト「戦後昭和史」の「日本の総人口と老年人口」に拠った)。

「戦争前のように、内地人口が五千万程度がいいところであるというのが私の説で、そのことを随筆に書いた」梅崎春生はこの手の話をしばしば主張している。例えばこの五年前の「人口が半減すれば」(昭和三三(一九五八)年六月十三日附『毎日新聞』初出)などを参照されたい。

「某氏の某著(その本は信州に置き忘れて来て手もとにないので、正確には書けないが)の中の批評では、それは不可能なのだそうである」不詳。識者の御教授を乞う。

「藤原審爾」(大正一〇(一九二一)年~昭和五九(一九八四)年)は小説家。ウィキの「藤原審爾」によれば、『純文学から中間小説、エンターテイメントまで幅広い作品で活躍し、「小説の名人」の異名を取った』とある。初期代表作「秋津温泉」や、映画化された「泥だらけの純情」、新宿にある架空の警察署を舞台とした推理警察小説「新宿警察」シリーズなどで知られる。私は「大妖怪」(昭和五三(一九七八)年)しか読んだことがない。

「竹岡」内房の千葉県富津市竹岡。

「今骨をすこし傷めている」この前年の昭和二七(一九六二)年十月に子どもとふざけて転倒、第十二胸椎を圧迫骨折、さらにぎっくり腰も併発していた。

「テレビは人口と言わずに台数というらしい」私はメディアがこの言葉で人口を解説するのを聴いたことがない。そもそも日本の一人当たりの車の保有台数などを問題にするようになった(二〇一四年現在は一世帯当たり一・〇六九台、一人当たり〇・四七台)今時、この謂い方は死語であろう。

「この何とか人口というのは、戦前にはなかったような気がする」梅崎春生らしい鋭い指摘である。

「五尺二寸」百五十七・五六センチ。なお、梅崎春生は背が高かった。

「五尺足らず」一メートル五一センチ弱。

「ピグミイ」ウィキの「ピグミー」によれば、ピグミー(Pygmy)は特に身長の低い(平均一・五メートル未満)特徴を持つところの、アフリカの赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民の総称。中央アフリカ全体の熱帯雨林を生活拠点としており、人種学的には「ネグリロ」(Negrilo)と呼ばれる。なお、この語は古代ギリシャの肘尺(pygmē:ピュグメ。肘から拳までの長さで約三十五センチ相当。肘から中指の先までの間の長さに由来する古い身体尺「キュビット」(英語 : cubit:四十四から六十四センチ)に似るが、遙かに短い)が語源であるという。

「人間の縮小」この記事の七年前の一九五六年にアメリカの幻想作家リチャード・マシスン(Richard Burton Matheson 一九二六年~二〇一三年)が発表した「縮みゆく人間」(The Shrinking Man)は翌年にアメリカで映画化(監督ジャック・アーノルド(Jack Arnold))もされている。これよりも前に「キングコング」(King Kong 一九三三年)で知られるアーネスト・シュードサック(Ernest Schoedsack 一八九三年~一九七九年)の「ドクター・サイクロップス」(Dr. Cyclops 一九四〇年)があるが、こちらは日本未公開である。「ウルトラQ」で、梅崎春生の案と同じ路線の夢落ち物として脚本家金城哲夫が書いた名作「1/8計画」(円谷一監督)が放映されたのは、この三年後の昭和四一(一九六六)年四月二十四日であったが、春生はその前年の七月十九日に白玉楼中の人となっている。]

諸國百物語卷之二 十六 吉利支丹宗門の者の幽靈の事

     十六 吉利支丹宗門の者の幽靈の事


Kirisitannorei

 いせの津に吉利支丹の宗門ありて、江戸より申しきたり。此ものどもをさかさまにつり、せいばいして、そののちおとべと云ふ所にて灰になしけるに、二三日すぎて、くれがたに、さぶらい二三人づれにて、古川と云ふ所をとをりければ、うるはしき女、かづきをきて、下女にふくろをもたせ、とをりけるを、さぶらひども、是れをみて、かやうの女は、伊せにてはつゐに見なれず、いづかたよりきたりたるやらん、とふしぎにおもひ、そろそろあとをしたいてみれば、この女、乙部(をとべ)のかたへゆきて、かの吉利支丹をやきたる穴のほとりへゆきて、ひた、と、骨をひろひゐたるが、又、つれの女ばう、いづくともなく二三人いでゝ、おなじごとくに、ほねをひろいけるが、しばらく有りて、みなきへうせけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「切支丹宗門幽灵」。「灵」は「靈」の異体字。禁教の切支丹の霊をそれも複数(四人以上。挿絵は二人の高貴な感じの婦人御附きの者一人の三人であるが、本文を読むと、まず、婦人一人、その場について骨を拾い始めると、湧き出たように「二三人いで」とあるからである)出現させるというのは私の知る限り、極めて異常な特異点の古典怪談であると思われる。当時の切支丹、現在のキリスト教徒はこの怪談をどう読み解くか? 訊いてみたくはある。しかし、この作者、ただ者ではないぞ! 凄い所に眼をつけた! 脱帽!

「いせの津」「伊勢の津」。現在の三重県津市。

「宗門」信者。

「申しきたり」禁教令に基づき、命令が下され。通常、単禁教令と言った場合は、慶長一七(一六一二)年及びその翌年に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる「慶長の禁教令」を指す。

「さかさまにつり」後で「穴」と出るように、これは所謂「穴吊るし」の刑である。キリシタン弾圧で悪名高い豊後府内藩二代藩主長崎奉行竹中重義(?~寛永一一(一六三四)年:彼は後に密貿易の嫌疑で奉行職を罷免されて切腹したと記録には残るが、事実は重義が第二代将軍徳川秀忠の寵臣であったために次代の家光に代替わりした際に粛清されたものと考えられている。ここはウィキの「竹中重義」に拠った)が考案したとされる残虐刑で、ウィキの「禁教令」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『穴吊るしは、深さ二メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問である。公開されても穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ぬことはできず、それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問であった。寛永十年九月十七日(一六三三年十月十八日)、この拷問によって管区長代理であったクリストヴァン・フェレイラが棄教し、カトリック教会に大きな衝撃を与えた。同じく拷問を受けた中浦ジュリアンは殉教している』。なお、ヒトを逆さ吊りにした場合には三~四時間で脳圧が血圧により高まって意識が無くなり、そのまま放置すれば死に至る。耳や蟀谷(こめかみ)に血抜き用の穴が開けられるのは、殺さずに永く苦しませるためで、経過上は本来は即刻の死刑ではなく、転ばせるための拷問刑たるものの真骨頂部分であるとは言える。

「せいばい」「成敗」。

「おとべ」現在の三重県津市乙部。

「灰になしける」禁教の門徒であるから、埋葬しようがないので(そうした墓碑などがまた信仰の対象になることを防ぐためにも)、異例の火葬にしてその骨もそこにそのまま放置したのである(或いは、それを密かに拾いに来る者があれば、これまた、芋蔓式に切支丹を捕縛出来るとも言える。或いは、後に出る「さぶらい二三人づれ」というのもそういった密偵ともとれなくはないように私は思う)。

「古川」現在、津市に西古河町がある。この附近か。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注でもここに比定されている。

「かづき」「被き」或いは「被衣」と漢字表記する。身分ある女性などが外出の際に顔を隠すために頭から被った衣服。後に「かつぎ」とも言った。挿絵の骨を拾っている二人の婦人が被っているのがそれ。

「あとをしたいてみれば」「後を慕ひて見れば」。歴史的仮名遣は誤り。後をつけて行ってみたところ。単に鄙(ひな)には稀な高貴なる美女だからとすれば、まさにハイエナのように女を漁らんと文字通り「慕って」行ったとも読める。そうしたチャラ男(お)三馬鹿トリオが怪異に逢うというのも面白い。しかし、先に述べた通り、官憲の犬がチャラオ男に変装して尾行したととった方が(それを最後に夢想すれば)二重に話は面白くなると私は思うのである。]

2016/09/26

佐渡怪談藻鹽草 高田何某あやしき聲を聞事

     高田何某(なにがし)あやしき聲を聞(きく)事

 

 寶曆二申年、如月始(はじめ)の事にや。日は忘れぬ。印銀所泊番にて、高田氏備寛(びかん)、内田何某、保科何某、三人止宿せしが、前の年の夏より、國の御仕替迚(とて)、物騷しかりければ、宿の族も、多くは不寢の如くにてぞ有(あり)ける。其夜は、いと餘寒甚しく、各寢卷を引(ひき)懸けて居たり。夜はいたく深(ふかく)て、丑の刻斗りにも侍らん。眠りを補ふむかし咄に、高田、保科は覺(おぼえ)て居ぬ。内田はすやすや居眠(ねむり)ぬる程に、味噌屋町、入口の方當りで、地よりは二丈も、上と思しく、大牛の呼ぶ如く、ひゞれの入(いれ)たる聲、高く聞ゆ。高田

「あれは」

と、保科へ目くばせしければ、保科も

「げに」

と答へ、其詞(ことば)引(ひか)ざるに、大御門の向ふにと思しき方にて、右の如く、又、大聲聞ゆ。凡(およそ)、其程を考(かんがえ)るに、早く共、四足の獸のいかに走る共、及(および)難き。其あわひ、四十間も有べし。羽有るものにしては、聲に應ぜる形狀ならば、甚だ怪敷(あやしく)なるさまあらんと、弐人(ふたり)あきれて、評議しぬれば、内田、目覺て、

「跡の一聲は聞(きき)たり」

といへるに、

「翌日は慥(たしか)成(なる)形緣の説もあらん」

抔(など)、近邊の沙汰を聞(きき)あへり。外に聞(きく)人なし。遙後に、人喰犬の説などを、取りあわせて語る人もあれど、中々、犬などの、いか程かけり、歩行(ありき)ても、地を離れざるは、論に及ばず、聲もまた、犬の聲を十疋合(あはせ)ても、及ぶべくもなし。何れ共、實を知らざれば、其(その)虛を虛とせんや。むなしく聞置(きゝおか)んも、くやしく、後考の爲しるし置(おく)也。

 

[やぶちゃん注:「高田何某」とあるが、本文で既にお馴染みの「高田氏備寛」とあるのはやや不思議。

「寶曆二申年」宝暦二年壬申(みずのえさる)でグレゴリオ暦一七五二年。

「如月始(はじめ)」宝暦二年二月一日は一七五二年三月十六日である。

「印銀所」「いんぎんしよ」「印銀」とは佐渡一国内での通用を目的として元和五(一六一九)年に鋳造された銀貨。佐渡は銀の大生産地であったから、国内限定の通用銀を作らないと、上銀の抜荷(ぬけに)を抑えることが出来なかった。上銀六分に銅鉛四分の比率で混入したもので、極所(きめしょ)で「徳」・「通」・「定」・「印」の判が打たれた。相場は市中で一両に六十二匁ほどであった。最初つくられたのは八百貫、慶安の吹替えで千九百二十六貫に達したが、宝暦(一七六一)年に廃止され、文銀を通用銀に代えた(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。この「印銀所」とはその判を刻印した「極所」のことであおう。

「前の年の夏」宝暦元(一七五一)年夏。

「國の御仕替」「くにのおんしかへ」。前の注にあるようにまさに佐渡一国で通用していた印銀を廃止し、文銀に「新しく作りかえる」(仕替(しか)ふ)という国内通貨大改変期のことを指している。以下の通り、役人ら誰もが不眠不休の連続であったろうこと、ピリピリしていたことは、想像に難くない。

「宿の族」「しゆくのうから」。宿直(とのい)の下役人ども。

「不寢」「ふしん」。ろくに寝ないこと。真面(まとも)に文字通りの不眠の宿直をせねばならぬこと。

「餘寒」立春後の寒さ。寒が明けてもなお残る寒さ。旧暦の立春は正月節(旧暦十二月後半から一月前半)にあった。

「丑の刻」午後二時頃。まさしく怪異出来の時空間である。

「眠りを補ふ」眠くなるところを目を覚まして居ねばならぬ、その代わりに補うための。

「味噌屋町、入口の方當り」佐渡奉行所跡の南東の角に、現在も相川味噌屋町が現存する。

「二丈」約六メートル。

「大牛」「おほうし」。大きな牡牛。

「ひゞれの入(いれ)たる聲」「ひゞれ」は「罅(ひびれ)」で「ひび」のこと。牛の啼き叫ぶのに、耳障りな慄っとする、ひび割れが入ったような感じの不快な声。

「其詞(ことば)引(ひか)ざるに」その保科の「げに」と応じた言葉が終わらぬうちに忽ち。二度目の怪声が間髪を入れず聴こえたのを、実に美事にリアルに表現したものと私はとる。

「大御門の向ふ」「大御門」(おほごもん(おおごもん)は佐渡奉行所の表門のこと。

「其あわひ」その間。

「四十間」七十二・七二メートル。現行の相川味噌屋町町域の北西の外れ(奉行所側)から測定すると、ここれよりも少し長く、ほぼ百メートルある。

「羽有るものにしては、聲に應ぜる形狀ならば、甚だ怪敷(あやしく)なるさまあらん」この距離を数秒で移動する、しかも空中からその声が聴こえるというのは、羽を持った鳥類としか考えられないけれども、その牡牛のような野太く、ひび割れたような大きな反響音で啼くのに応じた体型というのは、これ、とてものこと、鳥の類いとは思われず、非常に怪奇な(物の怪の仕業とも思しい)現象としか思えぬ。

「跡の一聲は聞(きき)たり」「拙者も、目覚めた折り、二度目のおぞましき一声は、これ、確かに聴いた。」。

「翌日は慥(たしか)成(なる)形緣の説もあらん」「形緣の説」(「けいえんのせつ」と読んでおく)は不詳。物的な証拠となるような「形」跡(痕跡)、或いはその声の原因と推定し得るところの由「縁」の物(非生物の物体かも知れぬし、者(人)かも知れぬし、何らかの実在する動物かも知れぬ)によって論理的に納得出来る説明のことか。「ともかくも、明日になれば、この怪異を説明出来る、確かな痕跡や所縁(ゆかり)の物証も見つかることであろう。」。

「遙後に」「はるかのちに」。

「人喰犬」「ひとくひいぬ」。狂犬(野犬・山犬)か狼のことか。後の言い分から見ると、そういう名の妖怪の謂いでは、ない。

「取りあわせて語る人」いろいろと勝手に挙げては、それらの都合よい部分だけを組み合わせて語る人。こういう知ったかぶりは何時の世にもいるものである。

「何れ共、實を知らざれば、其(その)虛を虛とせんや」どの説明も、その核心に於いて大事な真実性が欠けているのだから、寧ろ、その怪異は、理由は不明乍ら、そういう妖しい空を飛ぶあり得ない生き物の声が聞えた、というような気がした、に過ぎない(「実」に対する「虚」)、事実としては「偽り」の現象であった、とするしかないのであろうか?

「むなしく聞置(きゝおか)んも、くやしく、後考の爲しるし置(おく)也」ただの馬鹿話として聴き捨てにされて(怪声を確かに「聴」いたことにも掛けているに違いない)しまうのも、実際に確かにその声を聴いたというその人々の気持ちになってみれば、すこぶる悔しく、後の誰かの考証(それによって真実が明らかにされるかも知れぬ)のためにも、ここに記しおくものである。……すまない……私も解き明かすことは出来ぬ…………]

佐渡怪談藻鹽草 名畫の奇瑞有事

     名畫の奇瑞有事

 

 何れの頃にか有(あり)けん。水津(すいつ)村の𢌞船宿、何某(なにがし)が方に、攝州神戸(こうべ)浦の船頭、日和待(ひよりまち)して有しが、亭主申(まうし)けるは、

「此(この)間某(それがし)が枕もと元に建(たて)給ふ古き二枚屛風の繪、所望候、平生建(たて)給ふなれば、さして大切なる御道具とも、見へず候儘、申す也」

と語れば、あるじ何心なく、

「成程、古き屛風の繪なれば、おしみ申事夢無之(まうすことゆめこれなし)。下地ともに、進じ申べし」

とて、遣しぬ。船頭嬉しげとて、船に積(つみ)て、程なく出船しぬ。明年、また來りて、金子差出し、

「是は去年申請(まうしうけ)し屛風の謝禮にて候」

とてくれぬ。亭主打(うち)驚き、

「さしも古き屛風の禮にとて、過分の禮物、いたみ入(いり)候」

迚(とて)、皆々辭退して、請(うけ)ざりしが、船頭

「さらば、繪の事ざんげ申べし。去年入津の折柄、枕に屛風を建られしに、某(それがし)晝寢して、寢もせず覺(おぼえ)もやらぬに、猫來りて、枕元にて狂ひしを能(よく)見れば、牡丹に遊ぶ蝶の繪に飛(とび)かゝり飛かゝり、眞顏に狂ひしをもつて、我も若年より少し繪の心あれば、望みて國にもて行(ゆき)、目利者を賴み、目利を乞(こふ)に、

『名畫に紛れなし。金五兩に買(かひ)とらん』

と乞ふ。賣(うり)惜しくは思へど、筆者もさだかならざれば、又目利も覺束なく、幸(さいはひ)と思ひて、賣(うり)て遣わしぬ。餘りに罪深く候まゝ、壱兩は謝禮にと、いたして來れば、心安く請(うけ)給へ」

といへば、興ざめながら、

「さらば」

迚請(うけ)ぬ。巨勢(こせ)の金岡が、はね馬の障子の繪に名をあらわせしためしもあれば、それらの名畫にやあるとあやし。

 

[やぶちゃん注:「水津(すいつ)」小佐渡の北東端に当たる佐渡市水津。現在の姫崎(ひめざき)灯台のある段丘下に位置する天然の良港で、近世は前浜海岸(水津地区の南方の佐渡市片野尾附近の海岸線。本州に面しているところからこの名がついた)の西廻(にしまわり)海運の寄港地として海上警備のために浦目付番所が置かれた。当時の出船・入り船を仕切った廻船(かいせん)問屋がいまも残されている。両津湾東海岸の景勝地でもある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「攝州神戸(こうべ)浦」現在の兵庫県神戸市神戸港。当時は「兵庫津」などとも呼称した。ウィキの「神戸港」によれば、『西廻り航路の北前船や内海船の要港、朝鮮通信使の寄港地として栄えて』、江戸時代、既に『一万人前後の人口を誇』ったとある。

「日和待(ひよりまち)」航行によい日和になるのを港(或いは島陰)で待つこと。

「下地」「したぢ」。屏風下地(びょうぶしたじ)のこと。絵を貼り、また全体を屏風として固定するための木の組み枠や格子のこと。

「嬉しげとて」如何にも嬉しそうな様子で。

「禮物」「れいもつ」と読んでおく。

「ざんげ」「懺悔」。

「寢もせず覺(おぼえ)もやらぬに」眠り込んでしまうわけでもなく、といってすっかり目が醒めているわけでもない、うつらうつらとしておったところが。

「狂ひしを」狂ったように暴れているのを。

「目利者」「めききもの」。書画の鑑定人。

「目利も覺束なく」私自身の鑑定眼も当てにはならぬによって。落款や署名があれば、私でもその目利きの鑑定の真偽のほどを見定め、この申し料(鑑定金額)を断わって、もっと良い値で売ることをも考えもしたであろうが、という含みを持つものであろう。

「興ざめながら」亭主が白けたのは、嗜好に合ったものと心得て好意で無料で譲ったものを売ってしまったこと、さらには五両で売ったのであれば、せめても半金は謝礼に出してよかろうとも、思ったものかも知れぬ。

「巨勢(こせ)の金岡が、はね馬の障子の繪に名をあらわせしためし」巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な名画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜なその馬が壁から抜け出て田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。ここはそれを言ったもの。他にも、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしよう、という。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て、絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードなども今に伝わる。

「それらの名畫にやあるとあやし」そういった類いの、無名者の超絶技巧の絵ででもあったものか、と不思議に思った。]

食生活について   梅崎春生

   食生活について

 

 せんだってお米が一升、とうとう三百円にはね上った。なにしろあの上り方はすさまじく、一日に十円ずつきちんきちんと上り、二百二三十円程度のものが三百円になるのに、大体十日もかからなかったと思う。いくら凶作とはいえ、新米がもう出廻っているのだから、水鳥の音におどろかされた平家勢のような感がなくもなかった。私の近所一帯に毎日千葉県から行商にやってくる女がいて、皆から「千葉屋さん」と呼ばれているが、その千葉屋さんに毎日米の相場を聞くのが、スリルでもあり、またたのしみのようなものであった。しかしいくらなんでも三百円の声を聞いた時には、私も慨歎に堪えず、またそんな闇米を買うために余計の働きをしなけりゃならない、そんなばかばかしいことはないから、これをいい機会として、当分米を一切食べないことに決心した。米なんか食べなくても、他のものでも結構間に合う。ことにこの頃は、米不足のせいもあって、新聞雑誌で各種の粉食談義があるから、戸惑うことはない。それに私は近頃、いくらか食の嗜好(しこう)が変ってきて、以前のように是が非でもお米でなくてはならない、ということがなくなって来ている。更年期に近づいたせいであろう。

 私は若い頃極端なライスイーターで(ふつうの日本人は大体そうであるが)、パンや麺(めん)類を主食とする生活には到底堪えられなかった。これはいろいろ理由はあることであろうが、私の感じとしてはその理由のひとつに、歯ごたえの問題ということがあげられるように思う。粒食を好む人間の大部分は、その歯ごたえを好んでいるのではないかしら。少なくとも私はそうだ。。パンや麺と違って、粒食はその一粒一粒の触感が、はっきりと味そのものに参加している。それが味覚の上からの粒食の最大の特徴である。で、私の米好きもそこにかかっているようだ。

 その証拠、というほどでもないが、たとえば私はあの敗戦直後、アメリカさんよりいただいた(いただいたと言ってもどうもただではないらしい)玉蜀黍(とうもろこし)の粉。あれは大嫌いである。コーンスープか何かにすれば旨いのだろうが、当時はそんな余裕はなかった。すなわち誰もが食べたように蜀黍(もろこし)団子。あんなに旨くないものはない。あれは不味(まず)さの点において、私の食べたものの中のベストスリーに入る。ところが私は玉蜀黍のもぎ立てをゆでたり焼いたりして食べるのは大好きなのである。玉蜀黍の季節は、新米の出廻る前で、だからふやけたような古米を食べるより、玉蜀黍を食べる方がずっと旨いのであろう。これもやはり歯ごたえの関係であるらしい。

 また戦争中によく配給された玄米。あれはあまり評判が良くないようであったが、私には好適であった。今でも手に入れば食べたいと思うほどだ。あのぶつりと歯で嚙みしめる感触が、パンにも麺にもないのである。それからおこげ。

 御飯のおこげの旨さについて、ある時さる食通の人に語ったところ、それは味覚の邪道であると叱られた。しかしその人の説によると、おこげが出来るような焚き方をすると、おこげ以外の飯粒、つまり釜底のではなくて内側の方の飯の味は、ぐんと好くなるそうである。その話を聞いて以来、私はますますおこげに対する愛着と尊敬の念を深めた。一身を犠牲にして他の飯粒の味を良くしてやる。人間にも仲々出来ないことだ。しかも邪道とはいえ、あの狐色に焦げたおこげの味はすばらしい。私は今でも、自宅で酒を飲む時適当な肴がなければ、家人におこげをつくって貰い(もちろん家中の御飯をつくるついでにだ)、それにバターを塗り、ガーリックソルトをふりかけて、もって肴とする。手軽にして絶好の歯ごたえである。食物のみに限らず、すべてのことにおいて、この歯ごたえということは大切である。

 そういう御飯好きの私が、御飯を遠ざけようと決心したのも、前述の如く米のばか闇値によるのであるが、同じような決心をした人が他にもいると見えて、今朝の某新聞の投書欄に「食い改めの実行」という文章が出ていた。それには「私は排米宣言をした。排米といってもアメリカを排撃するのではない。米粒を排撃するのである。私も六十年近く米の飯を食べてきたので、米の飯のうまさは十分承知している」というような書き出しで、十月一日から米飯を一切食べぬことにしてすでに二十数日、何の異状もなくしごく快適な日を過しているというのである。更につづけて「凶作は神様が日本人に悔い改め(食い改め)を迫っておられるものと私は信じている」とつけ加えてある。趣旨は大体私と同じようなものであるが、いざ文章として読んでみると、何か禁欲的なものがまつわりついているようで、そこらがちょっとばかり引っかかる。食生活というものは、原則的に楽しみの上にたてられるべきで、禁欲的要素は持ちこんではいけないものと私は日頃考えている。と言って三百円に立ち向かう資力は私にもないから、つまり私も食い改めて、まるまる一週間私は米を側近から追放した。すなわち朝はパン、昼はうどんそば、あるいは押麦ばかりをたいてそれを主食とする。押麦ばかりのやつは、想像していたよりもずっと旨い。別種の歯ごたえと香気があり、少しはばさばさしているが、おぎなうにスープあるいは味噌汁、または唾液をいつもより少し余計出せばいい。その気になれば唾液なんかいくらでも出るものである。夜は原則として私は主食を摂(と)らない。酒をもってこれにかえる。酒は米ではないか。しかしここに合成酒というものがあって、私はこの飲料をあまり好まないのであるが、いきがかり上清酒を飲むわけにはいかないので、止むなく合成酒。近頃は合成酒にも、味を良くするために少々米の気が入っているという話も聞いたが、そこまで気を廻すとはてしがない。芋か何かからまるまる合成されたものだと諒承して、一週間これをたしなんだ。結構これでも酔いが廻る。ぜいたくなことを言うなと言われそうな気もするが、実のところ、合成酒でも結構酔うということにおいて、私はいささかのこだわりと不快を感じる。合成酒は清酒ににせて造った飲料であり、いわば代用品またはにせものである。清酒というものが世に存在しないとするなら、私はこの合成酒を芋酒として認めてもいい。しかし清酒が存在する以上、そういうわけにいかない。このことは、近頃流行(?)の人造米にも通用する。人造米。何というばかばかしい発明をしたものであろう。

 人造米というものを苦心して発明した人間の頭脳の奇怪さ、あるいはばかばかしさ、それについて私はもう言う言葉もない。人間の頭脳がそういうことに使われることに、私はある惨(みじ)めさを感じる。私は人間の頭というものは、たとえば米については、稲の品種改良なり増産方法なりまたは保存方法改良の方向に使われるべきものであって、他の原料からにせ米を造る、そんなことに使われるべきでないと考える。これは自明の理である。そういうことは詐術に類することであり、まっとうな頭脳の使用法ではない。そう私は思う。井ノ頭公園あたりに行くと、木の枝の形に似せたセメント製の柵(さく)がある。あれを見るたびに私は不快を感じるのであるが、人造米の厭らしさもそれに相通じるものがある。しかし人造米人造米と、論議のみを繰返していても始まらない。そこでせんだってうちでもこれを一袋買って来て、試食してみた。ふつうのお米に二割混入してたいてみたのであるが、食べてみて、ほとんどそれと判らなかった。そのことが私を二重に不快にさせた。混入を判別出来なかったということは、一応発明の勝利ということになるかも知れない。しかし食べている側からすれば、お米と思って食っていて、実は別のものを食わせられていることになる。そんな不都合な話はなかろう。自分で混入を承知して食べる分にはいいかも知れないが、たとえばよそで晩飯などを御馳走になったとする。そしてたっぷり米の飯を食べたつもりでいるところを、それが人造米が三割混入であったりしては、都合がよくないだろう。米だと思って食べたのならそれでいいじゃないか、という向きもあるだろうが、それは口舌の感触だけで、中身が違えば栄養も違う。本質的に違うものを、だまされて食うということはよろしくない。女だと思って共寝したら、それが男娼と判って、怒ってそれを刺し殺した少年の例がある。刺し殺したのは良いことではないが、あの少年の怒りは当然であり正しいものであったと私は思う。人造米も実質的にはこのおかまの類である。お米と識別出来ないとか、栄養価もお米に劣らないとかいうことは、言わば枝葉末節のことである。根本的なところで歪んでいるのだ。これは人造米のみに限らず、世上一般のこと、政治にも芸術の分野にも、近頃この人造米的傾向が多過ぎる。例はあげるまでもなかろう。

 以上、闇米が三百円となり、人造米が出現し、あちこちで粉食談義の花が咲き、いろんな人がいろんな食生活の発言をしたが、中にひとつこういうのがあった。今は米不足で皆わいわい言っているが、それは贅沢というものである。終戦時のことを思え。芋の葉や雑草まで食べたではないか。現在は米はともかく、パンや麺類は自由販売だし、さつま芋にいたってはろくに食い手もない有様である云云。この議論は一応もっとものように見えて、これほど愚劣な議論はない。言うまでもなく人間には、正常な食生活をする権利と自由があるし、あるべきである。終戦時のそれは異常な状態であり、すなわち人間の食生活ではなかった。それを引き合いに出すのは正しくないし、それを引き合いに出すことによって現在を贅沢だと立論することは、その立論者が支配階級側だとすれば厚顔なる言いくるめであるし、庶民階級からの発言だとすればそれは卑劣な奴隷根性ということになる。ところが案外こんな論議があちこちで賛成されていて、この間もバスの中でどこかの奥さん同士が同じ趣旨の会話をしていて、私をいらいらさせた。私はなにも栄耀(えいよう)栄華、盛んに贅沢をせよなどとは言わないが、耐乏生活ということ、その言葉がよって来たるところのごまかしに対しては、全身をもって反撥する。我々に耐乏を押しつけることによって、他にろくでもないことが行われつつある。そんな状態には私は我慢が出来ない。前述の立論はこのろくでもない状態の進行に力をかすようなものだと私は思う。

 またこんなのもあった。必要があってお米の配給所から空俵を二つ買って来た。すると俵のあみ目の間にぽつんぽつんと米粒がはさまっているので、勿体(もったい)なくて一日がかりでそれをつまんでは取りつまんでは取り、そしてついに二つの空俵からお米が一合ばかり取れた。こんなに米粒をむだにしては勿体ない次第である。一俵から五勺とすれば、全国の量として云々という論議なのであるが、この論も少少おかしい。そういう目減りみたいなものは、始めから予定されているべきものであって、それをとやかく論議するのは愚かである。一日がかりでつまみ取ったその時間と労力は一体どうなったのか。その方こそよほど勿体ないと考えるべきである。前記の終戦時を思えという論議よりはたちはよろしいが、やはり人力並びに時間を計算に入れない東洋的(と言うより日本的)蒙昧(もうまい)さにおちている。東洋的贅沢という言葉があるそうだが、つまり人力や時間のべらぼうな蔑視の上になり立つ贅沢のことだが、この人のやり方も一脈それに通じるものがあるようだ。それほど苦労して米一合を採取し、それを焚いて食べて、さぞかし旨かったでございましょう。昔、駅弁の折のすみに食べ残しが残る。これは勿体ない。全国の駅で一年間を通じると、それが何千石か何万石に当るというような計算をした人があったが、それと大体同巧異曲である。そういう考え方がずっと動いたり進んだり、そこらでちょいと曲ったり歪んだりすると、すなわち人造米の発明ということになるのである。何という貧困にして惨めな思考法であろう。

 以上、食生活について甚だとりとめもないことを書き連ねて来たが、私はすこし古風なのかも知れないが、人間は青年の食欲をもって、自分の口にあった旨いものを食う、それが本義であるように感じられる。もちろんカロリーとか栄養とか、ビタミンとかミネラルとか、そんなことも考えた方がいいのであろうが、それにあまりとらわれることの弊害の方が大きいように思われる。そういうのが嵩(こう)じると、自分の中に常に何かが不足しているような強迫観念にとらえられ、すなわち現代人の一部がかかっているようなクスリばかり常用する、そういう状態におちて行く。ビタミンとかミネラルとかは、自然物にあるものだから、そう偏食しない限りは自ら食べていることになるだろう。栄養食、という言葉もいやだ。食べ物というからには食べるものだが、栄養食というと、これは食べるという感じではなく、摂取、経口摂取、経口投与というような感じを伴う。この感じは食生活の本義ではないと私は思う。現代人は食生活においても、末梢に走ることなく、やはり野性を原則とすべきである。

 その他ハウザ一食についても書こうと思い、昨日新宿のハウザ一食堂におもむき、いろんな詰も聞き、いろんな感想も持ったが、もう紙数が尽きて書けなくなってしまった。これもまた別の機会にゆずる他はない。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十二月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「三百円」換算基準にもよるが、下手をすると現在の八千円相当である。一升八千円の米は流石に私も買う気にならない。

「押麦」「おしむぎ」精白した大麦や燕麦を蒸した後に押しつぶして乾かしたもの。つぶし麦。平麦。所謂、我々が食材として「麦」と呼んでいるスタンダードなものを指す。麦には別に、米に粳(うるち)米と糯(もち)米があるように、糯米のような食感を持った餅麦(もちむぎ)がある。

「合成酒」ウィキの「合成清酒」から引く。『アルコールに糖類、有機酸、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にしたアルコール飲料で』、『清酒に比べて酒税の税率が低く、価格が安いことから、清酒の代用として普及しており、料理酒としてもよく使われている。風味付けのために、醸造された日本酒の成分を数%添加した製品が多い』。『日本の酒税法では合成清酒のアルコール度数は』「十六度未満」であることが求められているとある。

「人造米」で既注。

「ハウザ一食」ドイツ出身で第一次世界大戦後にアメリカに移住した大衆栄養学者ゲイロード・ハウザー(Gayelord Hauser  一八九五年~一九八四年)が推奨した健康食事法。毎日の食事に醸造酵母・小麦胚芽・脱脂乳・ヨーグルト・粗糖蜜(そとうみつ)の五食品を必ず加えることを特色とし、日常の食事に不足しやすいビタミン・ミネラルなどの微量栄養素を補給することを目的としたもので、若さの源泉は、よい栄養にあるという考えに基づいて中高年者の若返りのための食事法として考案されたものでる(食事法の具体内容は小学館の「日本大百科全書」の宮崎基嘉氏の解説に拠った)。]

諸國百物語卷之二 十五 西江伊予の女ばうの執心の事

   十五 西江伊予(さいごういよ)の女ばうの執心の事

 

 江州澤山(がうしうさわやま)に、伊井のなにがしの家中に、西江伊予と云ふ人あり。三とせがほど、知行所(ちぎやうしよ)にこもりゐて、わかき女どもをてうあひし、あそばれけるゆへ、本妻、嫉妬ぶかき人にて、なかなが是れをいかり、つねづね、ほむらをもやされけるが、つゐにおもひ死にしける。つねづね申されけるは、

「われ、としごろのほむら、いづくへかゆくべき。もしあひはてなば、一日二日があいだには伊予どのをむかへに來るべし。もしさもなくは、みなみな、われをあざけりわらふべし」

とて、白きくすりを、かゞみの下にいれをき、

「われまつごにをよぶとき、此くすりをのますべし」

とて、そのゝち、ほどなく、あひはてられけるが、いひごんのごとく、くだんの藥をあたへける。伊予は知行所よりかへりて、葬禮、ねんごろにとりをこなひ給ひける。そのゝち、屋のうち、なりわたりて、すさまじき事、いふばかりなく、かなしき事もよそになり、みな人、いろをうしなひける。本妻あひはてられてのち、三日めの事なるに、伊予、かわやへゆかれけるに、しばらくありて、かわやのうちにて、まろびたをるゝおとしければ、人々おどろき、かわやの戸をひらきてみれば、伊予がまなこ、玉をほりぬきて、ころしをきける。さて手(て)かけの子、あとをつぎければ、つねに、屋なり、すさまじく、戸しやうじを取りはづし、なげすて、たれがするともなく、けしからずあれければ、その子、母を辨才天にいわひしより、そのゝちはしづまりたると也。

 

[やぶちゃん注:「西江伊予(さいごういよ)」不詳。後注に示す通り、実在した井伊氏家中の者がモデルか。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『井伊氏重臣に西郷氏がある』と記す。

「江州澤山(がうしうさわやま)」滋賀県彦根市内。

「伊井のなにがし」井伊氏の意識的変字。近江国佐和山藩初代藩主は井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)で、彼は嫡子直継(第二代佐和山藩藩主)に当時の居城であった佐和山城とは別に、新たに彦根城を築城するように命じ、直継は彦根城(彦根市金亀町。佐和山城の西南西一・七キロメートル)を完成させたが、直継は病弱で(実際には一部の家臣団や家康自身が彼の力量を見限っていたために江戸藩邸に半ば軟禁されていたともされる)大坂の陣に参陣出来なかったことを理由とし、上野安中藩に三万石を分知され、移封されてしまう(この時、直勝と名を改めている)。彼に代わって参陣し、活躍した弟直孝が、佐和山藩を廃藩して改めて置かれた彦根藩の藩主となった(この時、直継の藩主としての履歴は抹消されており、現在も直孝が彦根藩第二代とされている)。幕末まで井伊家が継いだ。なお、第十五代藩主は、かの井伊直弼である。本話が「澤山」と限って用いているところからは、第一代直政の治世を暗に措定しているものか?

「知行所(ちぎやうしよ)」前記「江戸怪談集 下」の脚注に西江伊予の『所領地。佐和山藩内にあり、城下の屋敷とは別』とする。ここには佐和山藩としるしており、城下とは彦根城下ではなく、佐和山城下という謂いであるから、高田衛氏は本話柄の時制を直政の入部(慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦い以後)からその死(関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因とされる。ウィキの「井伊直政」によれば破傷風とも)までの閉区間に措定していることが判る。

「てうあひ」「寵愛」。歴史的仮名遣の誤り。「ちようあい」でよい。

「なかなが」ママ(底本は後半が踊り字「〲」となっているからかく表記した)。副詞「なかなか」(とても)の誤りとも見えるが、これは後の「つねづね」と対となると考えるなら、「長々」「永々」の謂いと考えてもなんらおかしくはないが、にしても「なかなが」は結局、おかしい。

「ほむら」嫉妬の「焰」(ほむら)。

「おもひ死に」「思ひ死(じ)に」。怨み死に。本来は恋い焦がれて死んでしまうことを指すが、考えてみれば、激しい嫉妬を燃やして狂死するということは、尋常ならざる恋情を夫に持っていたことになるわけで、なんら、これ、おかしな謂いではない。

「としごろ」「年來(としごろ)」。

「いづくへかゆくべき」「何處(いづく)へか行くべき」。強烈な反語であることに注意。「妾(わらわ)は何処へ行くというのか?! あの憎っくき非情の夫、それでも愛する夫をおいて、何処へ行くというのか?! いいえ! 何処にも参らぬ!! 妾はこの世に居続ける! そうして――そうして必ずあの夫を迎えに、来てやるッツ!!!」という怨詛の台詞なのである。

「いれをき」「入れ置き」。歴史的仮名遣の誤り。

「まつごにをよぶとき」「末期に及ぶ時」。臨終の際。

「此くすりをのますべし」この薬を必ず私の口の中に含ませなさい。これは霊魂を一時的に現世に留置させ得る霊薬としか読めぬ。この薬の正体、知りたいなぁ!

「いひごん」遺言。

「ねんごろにとりをこなひ給ひける」「懇ろに執り行ひ給ひける」。

「屋のうち、なりわたりて、すさまじき事、いふばかりなく」半端ないポルターガイスト(Poltergeist:ドイツ語「polter」(騒がしい)+「geist」(霊)・「騒がしい幽霊」)現象が起こったのである。恐らくは物が飛んだり(天狗礫(てんぐつぶて:石が空から突然降ってくる超常現象とされるもの)などを含むであろう)、移動したり、天上から激しい落下音、床下から突き上げるような音がするのである。これはもう、ただのラップ(Rap)現象(人的関与や作為なしに誰もいない部屋や、何も置かれていない空室から、ある種の音が発生して鳴り響く、超常現象とされるもの)とされる現象のレベルではないからこそ、次の言葉も出てくるのである。

「かなしき事もよそになり」主人の葬儀後の正妻の死という悲しみや喪の意識も、これ、そっちのけになってしまい。

「かわや」「厠」。歴史的仮名遣の誤り。

「まろびたをるゝおと」ドスンと転倒するような音。

「伊予がまなこ、玉をほりぬきて、ころしをきける」「伊予が眼、玉を彫り拔きて、殺しける」

「手(て)かけの子」「妾の子」。めかけの子。本妻との間には子がなかったか、或いは夭折してしまっていたのであろう。「てかけ」「めかけ」とは「他と違って手や目をかけて愛し育む者」の意が語源である。

「屋なり」「屋鳴り」。

「戸しやうじ」「戸・障子」。

「けしからず」まずは第一義の「怪しい・異様だ」、次に明らかに「よくない」徴候、それに程度が「ひどい・甚だしい」の意を加えた三重の意を添えた語である。

「その子、母を辨才天にいわひしより」その妾の子(嗣子であるから単に「母」と書いておかしくない)が義母を弁財天として祀ったことから。何故、弁財天か? ここは彦根の佐和山で琵琶湖西岸、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つ竹生島宝厳寺も近いし、琵琶と言えば弁財天、また、神道・仏教の習合形態の中で女の神仏化といったら、まんず、彼女、数ある仏像の中でも唯一完全な美形の女神仏として造形される数少ない弁財天で、女性を神仏化して祀るとなれば最も相応しい(仏教には今一つ、鬼子母神がいるが、この像がおとろしけない。あれでは義母も厭がろう。神道の天照大神ではちょっと厳か過ぎて、嫉妬に駆られて狂死した女を神格化するには馴染まぬ。また、天鈿女(あめのうずめ)では、これ、ちとエロティック過ぎるし、実は彼女はそれほどメジャーではない。観音は概ねすこぶる女性的に造形されるものの、一般的仏説では中性とされる)。前記「江戸怪談集 下」の脚注で高田氏は『民間では、水神、音楽神であるとともに、嫉妬する女神としての信仰があった』と記す。確かに弁財天は嫉妬によって恋人の仲を裂く力、縁切りの能力を持つという俗信が古くからあった。ここは西江もその本妻も亡くなっており、嗣子の子も未だ独身のようであるから、彼が嫉妬する女神として本妻を祀るのにはこの時点では問題はない。但し、彼が妻を迎えた場合、そのパワーが再燃する惧れは十分にあるとは言えるから、迎えた妻とは拝礼しないことが望まれるか(例えば近現代の江ノ島神社などはその辺りの俗信を払拭して参詣者を呼び込まねばならなかった。昭和四六(一九七一)年三月七日に「お岩屋」で落石事故のために二人が亡くなった時でさえ、まことしやかにその噂が流れ、新聞にも書かれたのを私は忘れない。因みに、この事故を以って岩屋は立ち入り禁止となったが、一九九三年に再改装されて復活した。言っておくが、私は江ノ島を愛して止まない江ノ島フリークでもある)。因みに、かの忌まわしい明治の廃仏毀釈でも概ね、神道が受け入れて生き残った(寺院が残したり、持ち出して廃棄流失を免れたものもまた多い)のもこの弁財天であるが、それは何故かといえば、私は、男或いは男からしか仏菩薩になれないとする、如何にも差別的でかったるく迂遠な信仰(変生男子(へんじょうなんし)説)からか、美形の仏像でも、元(もと)男か、或いは、男根が渦を巻いて股間に封じられていたりする(そう彫られている裸になった古い地蔵菩薩像を私は知っている)点で仏教系では意識的に下位に置かれていた(しかし、そのあからさまな女体表現に実は僧侶も魅惑されていたに違いないのだが)のに対し、女神が異様に多く、女の性的属性に対しても圧倒的に受容耐性に富んでいた神道系の認識は、こうした艶っぽい形象の弁財天像を逆に受け入れるに寛容であったからだと考えている。]

2016/09/25

佐渡怪談藻鹽草 高田備寛狸の火を見し事

     高田備寛(びかん)狸の火を見し事

 

 元文年中の事にや。

「公務の氣を散ぜん」

とて、高田備寛、淺村何某(なにがし)を伴ひ、鹿伏(かふす)村に行(ゆき)て、逍遙かんと言(いふ)に、一日の閑暇有(あり)。日末の下りより、さゞへなんど取持(とりもた)せて、彼(かの)處に到り、

「夜釣の興をこそ」

迚(とて)、餌の小海老共取(とり)したゝめ、夕日傾き落(おつ)る頃、磯傳ひにつたひ出て、春日崎(かすがざき)なる身なげ岩の下邊りに行て、釣竿をおろし、暫らく、世情を忘(わすれ)たるは、天晴(あつぱれ)此日の樂(たのし)みなるべし。扨(さて)、用意の持せもの抔(など)、取(とり)廣げ、面白ふ醉にいる時、日はいつしか海に沈みて、させる得物もなかりき。

「最少し夜に入(いり)なば、魚の喰(くひ)てんものを」

迚、竿を携(たづさへ)て居たる。頃は卯月の末なれば、目ざすもしらぬ、闇の夜にて、傍(かたはら)の肩を幷(なら)べし何某も、聲のみ聞ゆる斗なれば、興盡(つき)て、

「いざや、立歸らん」

と言(いふ)に、何某の言へるは、

「此餌をたゞに捨(すて)んも本意なし。されど、海の淺深もわき難ければ」

と、

「爰(こゝ)に一趣向有(あり)」

と、火繩の火を付木に、てんてん蠟燭(ろうそく)に燈(とも)して、竿の先に結付(むすびつけ)、海上へ指出(さしいだ)して、底を見れば、魚の住居ふべき所、能々見えたり。是(これ)に依(より)て、思わず、赫六ツ七ツ、ひた釣につり上げる。かゝる處へ、其邊小高き岩の上よりたゝみかけて、石を打(うつ)事、頻なれば、魚もかゝらず、皆々興さめぬ。

「例の狸ござんなれ。したゝかなる目みせん」

とて、鍔口くつろげ、そこらかけ𢌞(まはれ)ども、聊も、目にさへぎらねば、釣竿を𢌞(まはし)て、もとの道をたどりて、醫王寺の邊に至り、彼(かの)魚釣し所を、見返れば、高き岩の上より、先の如く、竿に蠟燭を燈したる體(てい)を、其儘に寫し、三四ケ所に燈したり。何れも、高き岩を離(はなれ)て、靑き火をかゝげたてたるさま、いと憎ければ、

「最一度かしこに行(ゆか)ん」

抔いふに、伴ふ何某、

「いらざる畜類に腕立ぞ」

と制せられて、其儘に歸りぬ。

 

[やぶちゃん注:「高田備寛(びかん)」訓読みでは「のぶひろ」。既注。靈山寺に大百足出し事」の私の「同權太夫【後久左衞門備寛と言】兄弟」注を参照のこと。

「元文年中」グレゴリオ暦一七三六年から一七四〇年、「享保」の後で「寛保」の前。

「公務の氣を散ぜん」「公務の鬱憤の憂さ晴らしをしようぜ!」。高田備寛(?~安永二(一七七三)年)は既に注した通り、佐渡奉行所地役人であった。従ってこの「淺村何某」もやはり同僚であったと考えてよい。今回新たに検索したところ、「産業医学資料展示室」公式サイト内のこちらのデータによれば、彼は後の宝暦六(一七五六)年に『佐渡金山坑夫の金銀の毒、石粉塵埃の影響について「佐渡四民風俗」にまとめる』とあり、なかなか公務絡みでもなかなか堅実な仕事をしていた(これからするのであるが)ことが判った。にしても、この話柄では若き日は、なかなかに剛勇でもあったことが判って、寧ろ、微笑ましい。

「鹿伏(かふす)村」既出既注。現在の相川の南端の下戸(おりと)村の、さらに南西の海岸域にある相川鹿伏(かぶせ)。

「逍遙かん」「そぞろゆかん」と訓じておく。

「日末の下り」夕暮れから宵にかけての時間を指すか。

「さゞへ」「榮螺(さざゑ)」。歴史的仮名遣は誤り。叩き割って腹足の軟体部や内臓を酒の肴とするのである。後の「用意の持せもの」である(釣り餌は「小海老」と後に出るから、釣り餌ではない)。

「春日崎(かすがざき)」相川鹿伏の西端にある岩端。私の佐渡での定宿ホテル大佐渡の真ん前である。

「身なげ岩」おとろしけない名である。

「最少し」「もすこし」。

「頃は卯月の末なれば、目ざすもしらぬ、闇の夜にて」殆んど新月なので完全な闇夜に近く、何かを目を凝らしじっと見てもその対象物を視認することが全く出来ないほどだ、というのである。次の「傍(かたはら)の肩を幷(なら)べし何某も、聲のみ聞ゆる斗なれば」でよくその闇の雰囲気を伝えている。

「此餌をたゞに捨(すて)んも本意なし。されど、海の淺深もわき難ければ」後のシーンを見るに、「餌を全く芥のように海に捨てるというのも、これ、どうにも不本意じゃ。と言って、ごく浅瀬の根付き魚などを狙おうと思っても、この真っ暗闇じゃ、海の深浅さえ分らぬ、下手すりゃ、海へ真っ逆さまじゃ。」といったニュアンスであろう。

「爰(こゝ)に一趣向有(あり)」高田備寛の台詞。「ここに一つ、面白い趣向を思いついたぞ!」。

「火繩の火を付木」檜 の皮、竹の繊維又は木綿糸などを縒(よ)って繩を作り、これに硝石を吸収させたもので、火持ちがよいので点火に用いた。当時の連中には煙草の着火用として重宝されたのであろう。それを火をつける付け木として。

「てんてん蠟燭(ろうそく)に燈(とも)して」「てんてん蠟燭」で一語か。よく判らぬ。しかし、てんてんと複数の蠟燭に火をつけた訳ではあるまい(直後に「竿の先に結付(むすびつけ)」とあるからである)。識者の御教授を乞う。

「住居ふべき所」「すまふべきところ」。すんでおるのが判るような所。

「能々」「よくよく」。

「赫」「あかえ」と読む。「宿根木村臼負婆々の事」に既出。その注で私は赤鱏(あかえい:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei)に同定した。アカエイはごく浅い沿海、干潟や河口などにも棲息する。

「ひた釣」立て続けにそればっかり釣り上げること。

「頻」「しきり」。

「皆々」二人とも。

「例の狸ござんなれ。したゝかなる目みせん」「例の化け狸の仕業に間違いない。いっちょ、ガツン! 痛い目遇わせてやろかい!」。

「鍔口くつろげ」「つばぐち寛げ」。刀の鯉口を切ってすぐに抜き放つことが出来るようにしおいたのである。

「聊も」「いささかも」。

「目にさへぎらねば」視界には何も飛び込んでこないので。

「釣竿を𢌞(まはし)て」相川へ戻るというそれを釣り竿の先だけを写して向きを正反対に回すのである。まさに映画のモンタージュの手法である。お美事!

「醫王寺」旧相川地区の「寺社調査」(PDF)によれば廃寺で現存しない。真言宗岩尾山 医王寺で鹿伏(かぶせ)にあった。慶長一七(一六一二)年に創建されたが、明治元(一八六七)年に元の農家に復した旨の記載がある。付記に聖徳太子像を安置し、正保三(一六四六)年には水田与左衛門なる人物が太子堂を再建したとある。

「最一度」「もいちど」。

「いらざる畜類に腕立ぞ」「獣の類い如きに、無駄な蛮勇を奮(ふる)うて、どうする!」。]

佐渡怪談藻鹽草 神鳴の銚子の事

     神鳴の銚子の事

 

 享保の末、相川壱丁目裏町に、庄助と言(いへ)るのみ掃買所有(あり)。生得(せうとく)實體なる男にして、佛庄助と呼びぬ。

 或時大床や町、寄床にて、人々申けるは、

「彌十郎町大願寺に、雷の銚子といふもの有。何故にかくは、呼(よび)習わし候哉(や)」

といふ。庄助言けるは、

「今大願寺の重寶にて有(ある)物を、かく申(まうす)も如何(いか)なれ共、右の壺は、元某(なにがし)が持(もち)て有しを、さる子細有て、天神へ奉納仕(つかへ)たりと也(なり)」

其故を問ふに、庄助がいわく、

「某親のときは、南澤に住(じゆう)して、富士權現の登り口に、畑を、四時の野菜を作りけるが、或(ある)初冬の頃、日和を伺ひ、其畑にて、大根を引(ひき)侍(はべり)しが、朝の氣色と替り、空かき曇り、神鳴頻りになれば、畑を捨て、宿に歸らんとするに、其内大きなる雷なりて、霰しきりに降(ふり)、又大きに電雷して、畑へ落(おつ)ると覺え、働のもの絶入(たちいり)たり。されど雷の落たるにあらざれば、各起立(おきたち)て見るに、二三間先の畑の中に、何やらんあれば、取て見るに、高さ五六寸斗りの壺なり。皆々奇異の思ひをなし、持(もち)歸りて、祕し置(おき)けるに、其後は、家内に病人抔(など)絶えず、仍(よつ)て占かたを聞(きく)に、

『家内に尊き物ありて、在家のけがれ、染(そむ)故、時ならぬ病難など有(ある)よし、是は必定(ひつじやう)、此壺の有(ある)故ならん』

とて、幸(さひはひ)に天滿宮を信じける程に、彼(かの)壺を奉納したりしが、夫より家内安穩にて、折節の祈願も、思ふ儘の有ける」

と語りぬ。今も、傳へてありやとふべし。

 

[やぶちゃん注:「享保の末」「享保」は一七一六年から一七三五年。

「相川壱丁目裏町」現在の相川地区の中心に相当する位置に今も「相川一丁目裏町」と言う行政区地名で残る。今までもそうだが、二百三十八年も前(「佐渡怪談藻鹽草」は安永七(一七七八)年の成立)の、それも怪談集に出る町名が完全に今も一致して残っているとうのは京都などを除くと、極めて珍しいことである。

「のみ掃買所」佐渡金山の直下であるから、これは「鑿の掃(はら)ひ買ひ所(どころ)」と訓じておき、使い込んで欠けたり、磨り減ってしまった使用不能となった鑿を買い取る(買い取ってそれをまた鑿の製造業者に鉄屑として売る)所(恐らくは佐渡奉行公認)と読んでおく。誤りであれば御指摘戴けると嬉しい。

「佛庄助」「ほとけしやうすけ」。

「大床や町」佐渡市相川大床屋町として現存。相川の金山寄り。

「寄床」「よせどこ」と訓ずるか。髪結い床で多人数の客を収容出来るようなキャパの大きなものか。識者の御教授を乞う。ともかくも以下のシチュエーションは客が二、三人の小さな床では写真がしょぼくなる。

「彌十郎町」相川大床屋町の少し北の方に相川弥十郎町として現存する。私も見た廃野球場と見紛う近代の佐渡金鉱場の、廃墟となった巨大な円形のシックナー(金の泥鉱濃縮装置)跡が残る。

「大願寺」当該地のそれは廃寺となって現存しない。時宗。開山は慶長一三(一六〇八)年。但し、この寺、佐渡市四日町(真野湾湾奧)に現存する、貞和五(一三五〇)年に開かれた同名の時宗満松山大願寺(佐渡国府の中にあって国府川の橋の近くにある道場という意から念仏道場「橋本道場」と称された。天正一七(一五八九)年の上杉景勝の佐渡攻めで兵火に寺堂を焼かれたものの、初代佐渡奉行大久保長安が帰依し、彼の助力によって慶長一三(一六〇八)年に再建されている)が相川に開いた支寺で、参照した現存する佐渡市四日町の方の本寺「大願寺」の公式サイトによれば、この相川の方の大願寺には鎮守天神社を祀っていたとある(天神社とは菅原道真を祭祀する社でるから本篇の「天滿宮」という記載と一致すると言ってよい)。旧相川地区の「寺社調査」(PDF)にはこの相川の大願寺の項には、悪名高き神仏分離令(以前にとある知られた大きな島の廃仏毀釈のケースを調べたことがあるが、特に島嶼部に於いては、寺を焼き打ちしたり、僧に暴行を働き島外へ追放するなど、凄惨を極めた事実はあまり知られているとは思われない)により明治元(一八六八)年に廃寺となり、神官に引き渡されたとし、その廃寺となった大願寺は『順光寺跡に建』っていたと「相川町誌」に書かれている旨の記載がある(順光寺というのは相川の大願寺の建っていた場所にかつてあった浄土真宗の寺であるが、同資料に寛永一〇(一六三三)年に退転(廃寺と区別しているので衰退して島外へ移転したものか)したとある)。

「雷の銚子」現在は所在不明(以下のリンク先記載に拠る)。実に真摯な隕石探究考証の個人サイト「TUNGUSKA」の「田野浦隕石探索の記」では、本篇に出るこの雷鳴とともに落下し来った壺状(お銚子形)の物体は隕石と推定され、享保一七(一七三二)年(冒頭の「享保の末」と一致)の十月九日(グレゴリオ暦十一月二十六日:本篇の「初冬の頃」と一致)に田浦に落ちたと、相川の人が書いたとされる「佐渡国略記」に載っているらしく、その隕石の大きさは直径三十センチメートルほどのものであったか、と述べられた上で以下のように述べておられる。かなりの分量の引用となるが、この一見、「たかが怪談」に見える話が、実は現実に起った、佐渡相川での「隕石落下事件の顛末を記録した稀有の事実記載関連資料」であるの可能性を強く示唆されているものなれば、敢えて引かさせて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。

   《引用開始》

田野浦という地名は旧・小木町にあるが、旧・相川町には北田野浦がある。相川の北田野浦という地名は近世中期までは田野浦村と称し、享保二年から北田野浦の記載が見られ、文政年間(一八一八~三〇年)以降これが通例になったと言われる。したがって享保十七年には佐渡に田野浦村が少なくとも二村あったことになる。小木、相川ともはっきりした隕石の伝説は残っていない。しかし「佐渡国略記」を書いた人は相川の人であるし、北田野浦の「堂屋敷」(お寺の前身、約百三十年前に焼失、現在は再建されて「十王堂」となっている)には雷さんの伝説があったそうである。この伝説も現在では忘れられていて詳しい内容は分からないが、雷さんが落ちて地蔵さんになったというものらしい。隕石落下の際には閃光や大音響を伴うことが多く、そのため西欧でも長いあいだ雷と混同されたという。雷さんの伝説が隕石に関係あるかもしれないが、確認するのは難しいだろう。

「佐渡田野浦村の引臼石」の文献調査をしているときに、相川町史編纂事務局の方から「神鳴の銚子」の伝説を教えていただいた。「佐渡相川の歴史資料集」によると、弥十郎町(旧・相川町弥十郎町)の満松山大願寺の宝物に「神鳴の銚子」があった。この由来は、享保の末の初冬、富士権現に落雷のような現象が起きた。しかし雷が落ちたのではなく、人々が不思議に思い近づいてみると畑に何かあり、取り出してみると高さ五寸ほどの壺であった。この銚子に似た壺のようなものを拾い持ち帰った男の家ではその後病人などが絶えず、占いにみてもらったところ壺のせいだということで大願寺の天満宮に奉納したという。「神鳴の銚子」は現在行方不明だが、隕石落下の様子とよく似ているので隕石の可能性が高い。時期が享保の末の初冬ということから、「佐渡田野浦村の引臼石」との関係も考えられる。同じ隕石が分裂したのかもしれないが、北田野浦と富士権現とは距離が離れすぎているように思える。あるいは母天体が同じで、同じ軌道だったのかもしれない。

大願寺は天満宮の別当寺である。この天満宮は享保十七年十二月二十四日に焼失している。この頃すでに奉納してあったのか分からないが気になる出来事だ。また弥十郎町は寛保二年(一七四二年)、延享五年(一七四八年)、安政五年(一八五八年)に全町焼失の大火に見舞われている。これだけ火事があれば行方不明になるのも仕方ないことかもしれない。さらに天満宮は大正五年(一九一六年)に下戸町の北野神社に併合され、大願寺は明治元年に排仏毀釈により廃寺になっている。

文献調査だけをやっても埓が明かないので京都の篠田氏と現地調査をすることになった。

一九八五年五月四日、先ずは「神鳴の銚子」の落下地、富士権現へ。旧・相川町の中心部近くで、五郎左衛門町に羽田城址公園があり、その先である。伝説によると富士権現の登り口の畑に落下したことになっているが、この城址公園がやたらと広く、どのあたりが富士権現かよく分からず敗退……。大願寺は時宗のお寺であった。大願寺の宝物はどこかの時宗のお寺に引き取られているかもしれないと考えたが、手がかりも掴めなかった。

次に田野浦村は相川の北田野浦と断定して「十王堂」へ。堂の内外におびただしいお地蔵さんが安置されていた。隕石が紛れ込んでいるのではないかと必死で探したが見つからなかった。雷さんの伝説については民宿の人などに尋ねたが誰も知らなかった。

   《引用終了》

私は読みながら、震えるほどわくわくした。

「某(それがし)親のときは」私の親の代の頃は。以上の事実と照らし合わすと、ちょっと変この台詞は親も家もそこには、もういない、もうない、感じがするのである。隕石落下は享保一七(一七三二)年十月九日で享保は二十年で終りである。この作品内時制を享保末年としても三年しか経っていない。ということは三年前まで庄助は親の元と一緒に住んでおり、そこで隕石落下事件に遭遇し、三年のうちに隕石の祟りを受け、大願寺の天満宮に奉納、そうしたら福が来(きた)った。しかし二親はその直後に死に、家は人手に渡り、庄助は現在の生業(なりわい)をするために「相川壱丁目裏町」に移り住んだ、ということになる。何か、ヘンくね?(ここはこれでやめておくが、必ず注の最後を参照されたい)

「南澤」現在も相川南沢町があるが、この町、異様な形状を成す。相川地区中心部から東の山手(金山方向)に向かって頭の大きな腹の部分が管のようになった尾っぽもある四足獣が東を向いているような形を成しているのである。

「富士權現」正確な位置は不詳。検索すると、所在地不明の相川にあった富士権現は『相川浄水場の近くだったのではないか、という人も』おり、『冨士権現は、南沢の三寺家によって祀られていたとのこと』とあった(個人ブログ「けんぱの日記vol.2」の「両津梅津(北平沢) 冨士大権現神社」のコメント)。先の引用には『五郎左衛門町に羽田城址公園があり、その先』と記されてある。ここは現在の南沢町の南三百~四百メートル圏内にあり、比定地としてはおかしくはない。

「働のもの」「はたらきのもの」。畑で作業をしていた者。

「絶入(たちいり)たり」気絶してしまった。

「されど雷の落たるにあらざれば」落雷ではなかったと断言していることに注意されたい。電光一閃や身体への電撃などがなかったことを暗に示していると読める。ますます隕石であった可能性が高まるのである。

「二三間」三・七~五・五メートルほど。

「五六寸」十六~十八センチメートルほど。

「占かた」「うらかた」で「占形」「占象」などと書き、占い師によって行われた占いの結果。「かた」は、古くは亀の甲羅や鹿の肩甲骨などを焼いたりして(亀卜(きぼく)・鹿占(ろくぼく)などと称する)、そこに生じた亀裂の形象(「かた」ち)などを見て行ったことによる)。

「在家のけがれ、染(そむ)故」在俗の家の穢(けが)れが、その尊(たっと)い宝物を汚染している結果として。

「思ふ儘の有ける」願えば願ったそのまま、思うままに成就する。

「今も、傳へてありやとふべし」「今も伝えられて現存するか、寺に問うてみるがよかろう。」。この附言は意味深長である。何故なら、本書の成立当時(安永七(一七七八)年)には既に、大願寺にその「神鳴の銚子」が今もあるかどうかは不分明であることを意味しているからである。しかし、四十六年後にこの奇体な事件と「神鳴の銚子」という不思議な物体のことが忘れらているようだから、ここに記し、「神鳴の銚子」が現存するかどうかを確認した方がいい、という本「佐渡怪談藻鹽草」の筆者による額縁はおかしくはないものの、どうもこの話柄の細部には時制上の不審がある。そもそもが享保一七(一七三二)年十月九日に隕石と思しいものが落下し、それが持ち主に禍いを齎し、大願寺に納められたという事実があったのに、その直後(本文冒頭は「享保の末」で享保は二十年で終りである)、末年としても落下からたった三年後に、髪結い床に集った面々が、このすぐ近くに落ちたはずの、「神鳴の銚子」の名は知っていて大願寺の寺宝としてあることも知っているのに、事件そのものは全く知らない、というにはどう考えてもおかしいのである。]

文学青年について   梅崎春生

 

 前号において「近頃の若い者」を論評するつもりで、書いているうちに筆が横すべりして、ついに論旨不徹底なあいまいな文章になってしまった。これはその続きというのではないが、大体そんなところから書き出してみようと思う。れいによってまた中途半端な、あやふやな文章にならなければよいが。

 しかし、実を言うと、私は今時の青年のことをあまり知らないのである。もちろん新聞や雑誌、あるいは映画などを通じてのそれは私も知っているが、実物についての接触を私はあまり持っていない。若者とのつき合いがないのだ。若い者が慕って集まってくる、そんな親方的性格で私はないし、また私は私のことで手いっぱいで、近頃の若者とじっくり話し合いたい余裕や欲求もほとんどない。しかし私は私の職業の関係上、文学を愛好あるいは志望する青年たちに、時折接する機会がある。この青年たちから、一般の青年を律することが出来るかどうかということになれば、おそらくそれは不可能だろう。だから一般的な青年論は私には書けない。こんな例もあった、あんな例もあったという風な、個人的記述にとどまるだろう。

 今書いたように、私は親分的性格を全然持たない。むしろその反対の性格である。と言うことは、子分的性格だということではない。私は子分的でもなければ、群れたがるメダカ的性格も持たぬ。体力ならびに気力の弱さから、自然に気持が内側に折れ曲り、現実に対してはひたすら防禦(ぼうぎょ)の一手、刺戟に対してはかたく殻を閉じ、追い立てられれば止むなくおろおろ歩く。私は私自身の本来の性根を、先ずそういう具合に了解している。先日意を決して医者に全身の細密な健康診断をしてもらったが、その医師の言によれば、私の身体は先天的無力体質というのだそうで、まあ動かず働かず、心身を休めておくのが第一番の健康法だとの説明であった。そうすれば案外こんな体質でも、人並み以上に長生きするものだそうである。無力体質とはおそれ入ったね。しかし安静が第一番かも知れないが、現今のような悪時代には、それはどうにもならない。自分で自分の尻を追い立てても、とにかく働かねばならぬ。ところが底の底には、他人を邪魔せず、そのかわり他人からも邪魔されたくない無力の性根がわだかまっているので、たとえば私のところに小説原稿を持ってくる青年たちは、たいてい一目で私の非親分的性格を見抜くらしく、再訪してくるのはほとんどまれである。私もその方が好都合であるが、向うの方でも私如きにかかり合っては、埒(らち)があかないと思うのであろう。というのは、彼等の全部が全部ではないが少なくとも七〇パーセント以上は、文学愛好または志望者ではなく、文壇愛好ならびに志望者なのである。しかしこのことは、いちがいに非難し慨嘆すべきことではないかも知れない。文学が、職業として、しかも有利な職業として成立している以上、それは当然のこととも言える。文士という職業は、うまくゆけば、巨万の収入をもって酬いられる。ことに今年は各種全集が濫立したから、年所得総額一千万円を超える作家が続出するだろう。一応の筆力、それに旺盛(おうせい)な体力があればいいのであるから、青年たちがこの職業をねらわない筈がない。その点において、近頃の文学青年は、昔日のそれにくらべて極めて実利的であり、筋道がはっきりしているように思う。

 近頃の文学青年について、諸家が書いた文章やしゃべった座談会などを、私は時折雑誌あたりで見かける。それによると、現代文学青年はおおむねなっとらんという説が多く、原稿を送って来ると同時に、たとえば「新潮」なら「新潮」という具合に紹介発表の雑誌を指定して来たり、原稿料はいくらでその中二割は謝礼に差し上げると書いて来たり、そんなのが多いそうだ。まさかそんなのばかりではなかろうが、極端な例として出ているのだろうと思うが、いくらかその傾向はあるらしい。

 で、それでは昔日の文学青年が、今時のにくらべて実利的でなく、きわめて純粋であったかどうかということになれば、これはちょっと疑わしい。二昔ほど前、あれは杉山平助だったかな、「文学青年屑説」というのを発表し、物議をかもしたことがある。杉山平助はその後、戦争中に松岡洋右(ようすけ)などをかつぎ、侵略戦争を支持することによって、ついに夫子自身が屑(くず)的存在になり下ってしまったが、その「屑説」によると、近頃の(つまり二昔前なのだ)文学青年は人間の屑であって、働きはないくせに大言壮語し、肉親や他人に恬然として迷惑をかけ、名誉欲物欲が人一倍強いくせに孤高を気取る、どうにもしようのない人間の屑だと言うのである。そういう風に私は記憶している。これを正論だと仮定すれば、昔日の文学青年の方が、今時のよりもっとなっとらんではないか。今時のそれの方が、目的意識がはっきりしているだけでも、はるかに立派だと言える。ところが現実には、二昔前のその屑の中から、たまたま選ばれて作家となり、現代活躍しているところの諸家から、今の文学青年は屑あつかいにされている。すなわち前号において書いた如く、「近頃の若い者」はいつの時代においても屑なのである。だから今時の若い者は、そんな老人の繰り言に耳をかしたり反撥したりする必要はなかろう、とも思う。

 それで、すなわち文壇に出るためには、前記の如く既成作家のところに原稿を送りつける手以外には、懸賞に応募する手とか、まだ他にもいろいろあるが、一番の正道としては同人雑誌を発行するという方法である。同人雑誌を発行して、堂々と文学賞をねらう。

 同人雑誌というものは、これは売るためのものでなく、一応の修業の場であり、目的としては既成の作家評論家あるいは編集者に読ませよう(そして実力のほどを認めさせよう)というところにある。昔からそうである。現今全国に何百冊の同人雑誌が発行されているか知らないが、かくてそれらが流行評論家作家先生がたにどしどし贈呈される。ところが先生がたは、原稿生産に日も夜もない有様であるから、なかなか読んで貰えるというわけには行かない、二三日前見た某同人雑誌の編集後記に、どうせ俺たちの雑誌は風呂の焚きつけだと、自嘲しているのかあてつけているのか、そんな風に書いてあるのがあったが、まずそのような運命も時には免れないであろう、しかし大金を出し合って雑誌をつくり、それをてんで読まれないとあっては、その非生産性において現代文学青年の耐うるところでなかろう。

 先日私を訪問して来た某同人雑誌所属の某青年に、雑誌を発行するのも大変だろうねと言ったところ、滔々(とうとう)として発行の苦心を話してくれた。その苦心談の一節に、発行日云々のことがあって、それが私を大へんおどろかせた。同人雑誌を何日に発行するか。発行する以上は、それは是が非でも贈呈先の先生がたに読まれなければ意味ない。先生がたに読ませるには、まず先生がたが比較的ひまな日がよろしい。文芸雑誌綜合雑誌の〆切が大体月末、だからその月末は避ける。〆切に迫られていては、同人雑誌もくそもないからである。それから中間雑誌の〆切が大体月の十日、この頃も避ける。

 次に避けるべきは、月の十三四日前後と、二十三日前後。これは前記営業雑誌の発行日であるから、先生がたのところにはそれらの雑誌がどさりと送られて来る。先生連は読むなら先ず営業雑誌を手にするにきまっているし、読むほどに読み疲れて、ついに同人誌の方は封も切られず、そのまま風呂の焚きつけということになりかねない。そこでこれは不得策。その他の日をえらぶにしくはなし。

 某青年のその苦心談を聞き、私はかつは驚きかつはほとほと感服して、工夫はそれだけなりやと反問したところ、青年莞爾(かんじ)として答えて曰く、以上の鬼門日を避けた日々の中から、こんどは日曜日をえらびます。すなわち日曜日は、雑誌社は言うに及ばず、全体が一般的に休みだから、先生到達の郵便物は、日曜日にごっそり減る。ところが先生連中は職業上、ある程度の活字中毒にかかっていて、一日中何の活字にも接しないという状態に耐えられない。その機微に乗じて、月曜日に到着するように、日曜日に投函する。すると月曜日、何か活字に接したくてうずうずしていた先生のもとに、その同人誌がぽつんと舞い込んでくる。そして先生はいそいそと封を切り、ふつうなら風呂の焚きつけにするところを、すみからすみまで読了するということになる。

 この日曜日発送の月曜日到着という着想には、さすがの私も感心のあまり声も出なかった。もうこうなると、同人雑誌発行も魚釣りじみて来る。熱心な釣師が糸や針をえらび、餌に苦心するのと全く異ならない。如何にして先生がたをひっかけようか、涙ぐましきまでの工夫である。昔日の文学青年にはこんなのはいなかった。もっと抜け目があった。しかしこの青年のように、細心緻密にして抜け目ないのは、これも一概に邪道であるとも言い切れないだろう。もともと同人誌は第一に先生がたに読ませるものであるから、読ませるために綿密な手段と計画を立てるのは当然の話であり、またサービスと言えるだろう。ことがら自体は決して悪いことではない。

 ところがいよいよの問題はその先にあるのであって、こんなに細心に諸事に気がつき、人間心理にも通暁しているらしきところのこの青年が、その雑誌に掲載している小説を読むと、一読啞然(あぜん)、甘くてだらしなくてばかばかしくて、とてもこれが同一人の作品だとは全然思えないのである。文学以前においてかくも俊敏なる青年が、いざ文学となるととたんにだらしなくなるのは何故であろう。

 以下、その青年の口裏と私の推察をないまぜにしながら、その理由を探ってみると、それはつまり結論として彼等が文壇的であり過ぎるからである。すなわち彼等の目指すところは、片々たる心境小説のたぐいではなくて、百万人の文学千万人の文学なのである。出来るだけ多くの人に愛読されようというたくらみであり、またそうでなければ文学に志した意味がない。現在において百万人の文学とはなにか。形状的には中間小説がそれにあてはまる。で、彼等は中間雑誌の小説類にその範をとる。これは全国の文学青年の大多数に共通した傾向であるように思う。私はそれを実証するかなりのデータを持っている。

 ところが現実に中間小説とは何か。最初の構想としては、これは片々たる文壇小説にあき足らず、視野のひろがりを持ったすべての社会人に読まれる小説、すなわち百万人の文学という発足であったが、現実のあり方としては、文壇小説家が自分の力量に水をうすめ、いい加減な思い付きといい加減な行文でもって頁を埋める、そんな状態におち入っているようである。何故こんなことになるかというと、まあ作家の才能というものは、如何なる大才といえども限度があって、これを温泉にたとえて言えば、湧出量に限界があるというようなものだ。だから如何に湧出量が大であっても、旅館ホテルが続々建ち千客万来ということになれば、自然と旅館一軒あたりの原湯配給が僅かになる。僅かであれば、万来の客をすべて入湯させるというわけには行かないので、量を増すために水を混ぜる。

 現代中間雑誌が軸としてねらっているのは、もっぱらそういう流行温泉の如き作家なのであって、作家側は止むを得ず(全部が全部ではなかろうが)水でうすめた自分の作品をわたすということになる。そんな水をうすめない原湯だけの作家はないかというと、それはあるにはある。そういう作家は地味な山奥の温泉みたいなもので、旅籠(はたご)を二三軒建て、細々と、その代りほんもの混じり気なしの原湯でもって商売をしている。中間雑誌がどうしてこんな作家を使わないか。それも温泉で言えば、交通の便が悪く、行き着くのに努力を要するとか、名前が売れていないとか、原湯は原湯だけど硫黄(いおう)の匂いが強過ぎて一般的でないとか、いろんな理由があげられる。すなわち水でうすめられていても、前記の流行温泉に殺到するというわけだ。百万人の読者なんて、つまり口当りさえよければ、ほんものにせものもない、そういうところからも来ている。すなわちここにおいて、小説は文学でなく、娯楽品である。極言すればパチンコ並みと言ってもよろしい。

 そのパチンコ並みの小説を、百万人の文学と錯覚し、それを範にするところから、前記の青年のようなあやまちも出て来るのではないかと私は推察するのであるが、またこのパチンコ並みを読み、なにこの程度なら俺にだって書けると、そこで奮発して文学を志すような青年もあるかも知れない。こんな水うすめで一枚数千円もかせぐ、じゃ俺も、というわけだ。かくて小説の質が年々歳々低下するに比例して、文学志望の青年の数も増してくるのだろう。文運隆盛と言っても、裏に廻ればあやふやなものだ。

 現在の中間小説について少々悪口を言ったが、お前も時々中間小説を書いているではないかと、誰かに言われそうな気がする。その時は、私は私を含めて悪口を言ったんだと答える他はない。まあ悪口というものは、常にかならず、全部自分のところへかえってくる。世の中は大体そんな仕組みになっているようだ。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十一月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本篇は前の近頃者」の続編的性質が濃厚であるので、未読の方はまず、そちらを読まれたい。

「先天的無力体質」現代医学に於いてこのような診断名が存在するのであろうか? 識者の御教授を乞うものである。

「杉山平助」(明治二八(一八九五)年~昭和二二(一九四六)年)は評論家。大阪市生まれ。慶應義塾大学理財科中退。大正一四(一九二五)年に小説「一日本人」で生田長江に認められ、文芸評論などを書き、昭和六(一九三一)年から『東京朝日新聞』に「氷川烈」のペン・ネームでコラムを執筆、多くの著作を出したが、急速に軍国主義的になっていった。歯に物着せぬ文章で、同時代の人々からは「毒舌評論家」として知られた(ウィキの「杉山平助」に拠る)。こちら(PDF)で都築久義氏の論文「杉山平助論」が読める。

「文学青年屑説」不詳。識者の御教授を乞う。

「松岡洋右(ようすけ)」(明治一三(一八八〇)年~昭和二一(一九四六)年)は外交官・政治家。満州国満鉄総裁。日本の国際連盟脱退・日独伊三国同盟の締結・日ソ中立条約の締結など、第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に於いて代表的な外交官乃至は外務大臣として関与し、敗戦後ははA級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判の被告となったが、結核悪化のために公判法廷には最初の罪状認否(彼だけが英語で答えた)一度のみで、公判中に病死した(ウィキの「松岡洋右」に拠った)。

「夫子」長者・賢者・先生などの尊称。

「近頃の(つまり二昔前なのだ)」老婆心乍ら、躓く方のために、これは『つまり二昔前の時点での「近頃」なのだ(つまり、二昔前の、その時制での「近頃」であるから「二昔前」の時空間そのものなのだ)』の意。梅崎春生が言いたいのは戦争を挟んだ「二昔」も「前」の大昔、精神観も価値観も変容したはずの激しいギャップを経ているにも拘わらず、この「近頃の」という言い回しが亡霊の如く機能しているぞということを前の記事近頃者」に続けて主張しているのである。

「恬然」「てんぜん」。物事に拘らず平然としているさま。]

諸國百物語卷之二 十四 京五條の者佛の箔をこそげてむくいし事

     十四 京五條の者佛(ほとけ)の箔(はく)をこそげてむくいし事

 

 京油小路(きやうあぶらのこうじ)五條あたりに、まづしき油屋ありけり。ある人、大ぶつの三十三間(げん)のほとけのうちに、金(こがね)ほとけあり、と、かたりければ、くだんの油屋、よき事をきゝたり、と、よろこび、三十三間堂にゆき、ほとけの手あしをもぎとり、灰にやきければ、箔(はく)、かたまつて、金になりければ、是れをあちこちとまわしけるほどに、ほどなく金子三十枚ほどになり、それより家内(かない)ふつきになり、あさゆふ、ゑやうにくらしける。ある時、ふうふならびねたる所へ、何やらん、身にひやひやとさわるを、ふしぎにおもひ、火をとぼし見れば、ちいさき蛇、二すぢあり。ふうふ、おどろき、蛇をうちころしけれども、あとより、いくつともなく蛇いでゝ、よるひるとなく二すぢの蛇(へび)、身(み)をはなれずそひゐたり。さまざま、いのりきとうすれども、しるしなし。のちには、ふうふともに心あしくなりければ、はかせにうらなわせみれば、はかせ、占文(せんもん)をかんがへて云ひけるは、

「その方は佛にかゝりて金銀をもうけたる事はなきか」

と、とふ。ふうふのもの、

「されば、さやうの事候ひて、金銀を、もうけ候ふ」

と、一々、のこさず、さんげしければ、はかせ、きゝて、

「しからば、その金(かね)にて佛をつくり、かの寺へきしんし給はゞ、此たゝりは、やむべし」

と云ふ。さらばとて、もうけたる金、半ぶんにて、ほとけをつくり、きしんしければ、かのへび一すぢは、はなれうせけるが、今一すぢは、身をまといて、はなれず。ふうふのもの、思ひけるは、とかく、いのちのありてこそのあんらくなれ、とて、のこる金にて又、ほとけをつくりて、きしんしければ、今一すぢのへびも、はなれうせて、又、もとのまづしき油屋となりける也。

 

[やぶちゃん注:「京油小路五條」現在の京都市下京区油小路通五条。

「大ぶつの三十三間(げん)のほとけ」現在の東山区三十三間堂廻町にある、知られた「三十三間堂」(正式名称「天台宗蓮華王院本堂」)のこと。後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛二(ユリウス暦一一六五)年に完成したとされ、創建当初は五重塔などを含む本格的寺院であったが、建長元(一二四九)年の火災で焼失した。文永三(一二六六)年に本堂のみが再建されたが、それが現在の「三十三間堂」と称している堂である。「大仏」というのはこの寺の建つ古い地名で(一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『地名』とある)、これは恐らくは豊臣秀吉の東山大仏(方広寺・天台宗・京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町・三十三間堂の北直近)の造営時、この三十三間堂のある位置がその境内に含まれていたことによるのではないかと私は推測する(ウィキの「方広寺によれば、東山大仏は文禄四(一五九五)年に完成したが(全高約十九メートルとも言われるが詳細は伝わらない)、翌年の慶長伏見地震により倒壊、秀頼が復興を図って慶長一七(一六一二)年には大仏に金箔を押すところまで完成、慶長一九(一六一四)年に梵鐘が完成、『徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康』がその梵鐘銘文(東福寺・南禅寺に住した禅僧文英清韓作)の中の「國家安康」「君臣豐樂」という句が、徳川「家」「康」を分断し、「君」主として豊「臣」を戴く、という謂いであって、徳川家並びに家康を冒瀆するものだと難癖をつける、有名な方広寺鐘銘事件が発生(これが「大坂の陣」(慶長一九(一六一四)年の「大坂冬の陣」と翌年の「大坂夏の陣」)の端緒ともなったとされる)、沙汰止みとなったまま、「大坂の陣」で豊臣家は滅亡、大仏自体はその後も残されたものの、寛文二(一六六二)年の地震で大破し、大仏は寛文七(一六六七)年に木造で再興されたが、『壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされ』てしまい、この木造大仏の方も寛政一〇(一七九八)年の落雷に起因する火災で焼失、以後、同様の規模のものは再建されなかった)。

「まわしけるほどに」売り廻って金箔を金に換えたところが。

「ふつき」「富貴」。

「ゑやう」「榮耀」。歴史的仮名遣は「ええう」が正しい。権力を得て富み栄えること。又、贅沢をすること。気儘勝手なこと。驕り昂ぶること。

「身(み)をはなれずそひゐたり」「身を離れず、添いひ居たり」。

「いのりきとう」「祈り・祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣の誤り。

「はかせ」陰陽(おんみょう)博士。民間の陰陽師。

「占文(せんもん)」占いに現れた文言(もんごん)。陰陽師のみに判る表徴。

「さんげ」「懺悔」。

「きしん」「寄進」。

し給はゞ、此たゝりはやむべし」

「身をまといて」夫婦の身に纏いついて。

「いのちのありてこそのあんらくなれ」「命の在りてこその安樂なれ」。命あっての物種。ちゃんと係り結びしているのが清々しい(江戸時代には「こそ」已然形の係り結びは、かなり崩れていた)。]

2016/09/24

佐渡怪談藻鹽草 仁木與三兵衞大浦野にて狢をおびやかす事

     仁木與三兵衞(よさべえ)大浦野(おおうらの)にて狢(むじな)をおびやかす事

 

 延寶二五年の事ならん、仁木與三兵衞、橘浦目付役たりし時、相川の舊友をしたひ、慕われて、二夜三夜の間には、國府(こうの)に出て、友に交る。其(その)行(ゆく)程、二里に近(ちかけ)れば、生得(せうとく)強機(ごうき)の士なれば、一僕をもつれず、深夜にも往還せしが、或時、一時雨して、晴上る空を賴み、夕餉そそこにしたゝめ、木履に竹杖を突(つき)て、もよひいで、漸(やうやく)、日の海に沈む頃、相川に着(つき)て、安田與一右衞門(よいちえもん)【此與一右衞門も剛勇の人物力量の事世人の知る所なり】宿を尋ね、例の腕立を好む同士、四五輩集(あつま)りて、咄し合ひ、子の刻さがりに、皆々別れて歸る。與三兵衞も、兼(かね)て止宿嫌らひなれば、暇乞(いとまごひ)して出(いで)しが、神無月の半(なかば)にて、月夜ながらも、曇りがちにて、途の程も覺束なけれど、凹に水たまりて、ひたすらの草履道にもあらず、木履がけにて立歸りしが、下戸町より鹿伏(かふす)にいたり、大浦野を四五丁行(ゆき)て、澤へ下り、江川を渡り、向ふを見れは、途中に、黑犬の如く成(なる)もの、伏し居たり。折節、空かき曇りて、其形、見え分(わか)ざれば、そと寄(よせ)て窺ひ見るに、狢の伏(ふし)たるなりければ、

「何とせよ、おどして慰(なぐさめ)ん」

とて、携(たづさへ)たる竹杖にて、したゝか打ければ、驚き起(おき)て、右の岨へ逃(にげ)去りぬ。扨(さて)、與三兵衞宅にては、亭主の他行なれば、いも寢られず、いとゞ徒然なるまゝ、老母は、綿車の糸も長き夜を繰り倦(うみ)て、隣家の老母、或(あるひ)は下部の女など打交(うちまじは)り、四方山(よもやま)の咄(はなし)して居たりしが、子の刻半にも、及びぬらんと思ふ頃、門に人音して、戸にさわり、

「爰(ここ)は、橘の御浦目付樣の御宿か」

と問ふ。内より下女、

「しかしか」

と答ふ。件(くだん)のもの申けるは、

「是(これ)の旦那殿、相川にて口論を被成(なされ)、相手を御打擲(ごちやうちやく)、今頃は、生死の知れぬ騷動ゆへ、爲御知申(おしりなしまうす)」

と言捨て、行けり。老母立出て、呼かけぬれ共、再びいらへなし。其時老母のいわく、

「士の人を打擲とは、先々安堵なり。兼ては、又しれものゝ醉狂し、かゝる事言ひぬるもしれず」

迚(とて)、以前のごとく、糸車ひきて、さらぬ體(てい)ながら、胸の内、決し難くぞありける。與三兵衞は、彼(かの)獸を打(うち)て、しずかに野道をたどり、大浦野にいたれば、燈の見ゆる家もなく、夫(それ)より磯傳ひ、高瀨村を過(すぎ)て行(ゆく)時、向ふより、弐三人來るもの有(あり)。近くなりて見れば、各尻つぼりあけて、夫(それ)へ御出被成候(おいでなされさうらは)ば、

「橘の御旦那樣にてか」

とゆふ。

「成程、與三兵衞也」

と答へしかば、先立(だち)たる男、腰をかゞめて申(まうす)は、

「御老母樣、暮過(くれすぎ)より、御煩ひ、以(もつて)の外にて、食滯(とゞこほる)と御見え候得共、いまだ咄も無之(これなく)、殊の外、御苦しみゆへ、名主殿はじめ、皆々集(あつま)り居られ、我々共に、相川の醫者衆、迎ひに參り候」

と言(いひ)すて、相川の方へ走りぬ。與三兵衞、以の外、仰天して、其儘木履を脱(ぬぎ)て捨(すて)、素足になりて、一さんに宿へ歸り、門の戸、あらゝかに引明(ひきあけ)て、内の體(てい)を見れば、老母も、いまだ綿車に向ひ居られしが、つい差置(さしおき)て、出迎へ、

「扨、口論の事は誠か」

と問へるにぞ、與三兵衞も、

「母老人の御煩ひ病は、誠に候哉(や)」

と言へば、互にあきれて、詞なし。其時、與三兵衞、

「先々尊體恙なく、安堵(あんど)仕候(つかまつりさうらふ)、私口論の事御尋(おたづね)、曾て以之(もつてこ)れ無き義にて候」

とて、途中にて逢(あひ)し人の事共申ければ、老母も、しらせの人來りし事を咄し、皆々僞りなりければ、與三兵衞、

「實々心付候事の候」

とて、大浦野にて、打し狢の事を、具(つぶさ)語り、互に手を打(うち)て、笑ひぬとかや。

 

[やぶちゃん注:「仁木與三兵衞(よさべえ)」既に「佐渡怪談藻鹽草 安田何某廣言して突倒されし事」に登場した仁木一族と思しい人物。

「大浦野(おおうらの)」現在の相川の南方、春日崎を廻った佐渡市相川大浦。相川からは徒歩実測で五キロ圏内。

「狢(むじな)」現行では、

哺乳綱 Mammalia 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ型亜目 Caniformia クマ下目 Arctoidea イタチ小目 Mustelida イタチ上科 Musteroidea イタチ科 Mustelidae アナグマ属 Melesニホンアナグマ Meles anakuma

を指すが、佐渡では、

食肉目イヌ科 Canidaeタヌキ属 Nyctereutesタヌキ Nyctereutes procyonoides

を「狢(むじな)」と呼んでいたから、ここも狸を指す。

「延寶二五年」延宝は九年までなので、ここは延宝二(一六七四)年から延宝五(一六七七)年頃の意である。第四将軍徳川家綱の治世末期である(家綱は延宝八年に死去)

「橘浦」相川との距離が「二里に近(ちかけ)れば」と出、途中に「大浦野」を通り、しかも「浦」であるとすると、徒歩実測八キロの辺りに佐渡市稲鯨(いなくじら)という港を有する場所があるが、その入り口附近(稲鯨の北西)に「橘」の地名を探し当てた。

「國府(こうの)」天領で島一つで佐渡国を形成していた佐渡島の佐渡金山と佐渡奉行所を置いた佐渡国の中心(国府相当)たる相川のこと。

「強機(ごうき)」「剛毅」。

「夕餉」「ゆふげ」。夕食。

「木履」「ぼくり」。下駄。

「竹杖」「ちくじやう(ちくじょう)」。

「もよひいで」不詳。「催(もよ)ひ出で」。下駄に竹の杖(それに手土産の酒の肴辺りを)準備して立ち出で、の謂いか。

「腕立」腕比べ。腕力比べ。

「子の刻さがり」午前零時前後。

「止宿嫌らひ」外泊が嫌いな性質(たち)。

「凹」「くぼみ」と訓じておく。

「ひたすらの草履道にもあらず」「草履道」は「ざうりみち(ぞうりみち)」と訓じておく。朝日新聞社の「とっさの日本語便利帳」に「草履道」の見出しがあり、そこには『それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている』とある。ここは、草履ですたすたすたとスムースに歩ける(それが「ひたすらの」の意であろう)ような道ではなく、という意味でとる。

「木履がけ」下駄を引掛けて行くこと。或いは下駄で水たまりなどを飛び飛びにぎくしゃくと「駆け」て行くことかも知れぬ。

「下戸町」「おりとまち」。既出既注。相川の南地区。

「鹿伏(かふす)」既出既注。下戸から南西の海岸域に相川鹿伏(かぶせ)の地名が残る。

「四五丁」四百三十七~五百四十五メートルほど。

「澤」「江川」並び方見ると、明らかに地名と思われるが、不詳。

「そと寄(よせ)て窺ひ見るに」そっと音を立てぬように近寄っていって、用心しながら仔細に観察してみると。

「慰(なぐさめ)ん」「ぐっすり眠って、気づきもせぬ。ちょうどいいわい! 儂(わし)の気晴らしに、してやろう!」。

「岨」「そだ」。崖。

「他行」「たぎやう」。外出。

「いも寢られず」「寢(い)」+係助詞「も」+動詞「寢(ぬ)」の未然形+可能の助動詞「らる」の未然形+打消の助動詞「ず」で、眠ることも出来ず。

「綿車」「わたぐるま」。綿繰(く)り車のこと。採取されたままの綿花から、繊維と種子とを分ける簡単な機械。一対のローラー状の物の間に綿花を送り込み、繊維を向こう側へ、種子を手前に毟(むし)り取る器具。

「下部の女」「しもべのをんな」。下女。

「子の刻半」午前零時半前後。

「爲御知申(おしりなしまうす)」「取り急ぎ、お知らせ申し上げます。」。

「士の人を打擲とは、先々安堵なり」「一方的に息子が殴りつけたとのことなれば、息子は無事。まずまず安心じゃ」。豪傑の子に、この母あり!

「兼ては」正常の使い方ではないが、「或いは」の意でとる。

「しれものゝ醉狂し、かゝる事言ひぬるもしれず」「痴(し)れ者(悪戯好きの者)なんどが、酔狂にありもせぬ噓を言い放って、このような悪しき物言いの悪さをなしたものかも知れぬし。」。

「胸の内、決し難くぞありける」流石に、胸中はこれ、穏やかでは御座らなんだ。やっぱり、お母さんだもんね!

「高瀨村」大浦の南、現在の佐渡市高瀬。

「各」「おのおの」。

「尻つぼりあけて」不詳。尻端折(しりはしょ)り(着物の裾を捲くって、その端を帯に挟むこと。しりからげ)の意でとっておく。「しりっぱしょり」とも言い、これを「しりつばしをり」と書き換えて見ると、「しりつぼり」の文字列に近似するからである。

「夫(それ)へ御出被成候(おいでなされさうらは)ば、」不審。底本編者本間純一氏には失礼ながら、この次の鍵括弧開始位置は間違いではないか? ここは既にこの部分からが、その出逢った男たちの内の一人「先立(だち)たる男」の台詞であって、しかも末尾の「ば」は「は」であり、

「夫(それ)へ御出被成候(おいでなされさうらふ)は、橘の御旦那樣にてか」

なのではるまいか?

「成程」肯定を表わす感動詞。いかにも。既出。

「いまだ咄も無之(これなく)」問うてもみても、応答も出来ぬ状態にて、の意でとっておく。大方の御叱正を俟つ。

「名主」橘(村)の名主(なぬし)。

「つい差置(さしおき)て」すぐにその作業をやめて。母の心配がその動作によく表われている。この作者はなかなかなシナリオ・ライターとみた。

「先々尊體恙なく」「まづますそんたいつつがなく」。

「私口論」「わたくしこうろん」。私的な言い争い。

「曾て以之(もつてこ)れ無き義にて候」ここは「腕自慢の力比べは日常茶飯なれど、口争いからの乱暴狼藉なんどという女々しい(差別用語だがピンとくる語がないので使わせてもらう)仕儀は、これ、未だ嘗て一度として成したことは御座りませぬ!」という与三兵衛がその気風(きっぷ)のいい矜持を表明するシーン。浄瑠璃の台詞のように小気味よいではないか。

「實々」「まつことまこと(まっことまこと)」と訓じておく。これで一語の感動詞で、感動詞「まこと」(ふと思い出したり、話題転換する際などに発する語。「ああ、そうそう」「ああ、そういえば」)を重ねた強調形。

「互に手を打(うち)て、笑ひぬとかや」このエンディング! いいね!!!]

近頃の若い者   梅崎春生

 

 この一両日、まったく暑い。こんなに暑くては、仕事するのも厭になる。昨日は東京は摂氏三十八度四分あったそうであるが、今日も昨日に劣らず暑い。頭の中が軟かくなっているらしく、考えの筋道さえ立たない。私は昔はそうでもなかったが、近頃は頓(とみ)に暑さに弱くなってきたようだ。伊藤整がある雑誌に、北海道人は寒さには平気だろうと言うが反対である、と書いていた。ある年の冬、九州生れの福田清人が股引(ももひき)をはかずにいたのを見て仰天した話。つまり暖国の九州人の方が寒さには強いという説なのだが、寒さはそれとして、暑さはどうであろう。暑さには逆に寒国人が強いという説が成立するかも知れない。私も九州生れであるので、そこで暑さがこんなに身にこたえるのだろう。

 暑さが私の職業に及ぼす影響ということになれば、まず以上のことが第一であるが、それとは別に、如上の個人的肉体的現象でなく、社会的文壇的なひろがりを持った現象が私の身辺に毎年あらわれて来る。すなわち夏場になると、ふしぎなことに私は毎年流行作家的な症状を呈してくるのである。原稿や座談会やその他いろいろの注文が、春頃にくらべるとぐつと増してくるのだ。それから秋場になると、次第にそれらは減少してくる。この現象に私は二三年前から気がついていて、どうも変だ変だと思っていたのだが、この頃になってやっとその原因をつきとめることが出来た。問題はその夏の暑さにあり、かつ私の家に電話があるという事実によるものであるらしい。

 今電話が私の家にあると書いたけれども、正確な意味では、電話がある家の一部に私が寄寓していると言った方が正しい。その電話は私の所有物ではないが、家にくっついている関係上、私は私の職業のために利用している。その電話が流行作家と何の関係があるかと言うと、からくりは簡単である。夏は暑い。人間なら誰でも暑い。私も暑いが、新聞雑誌の記者編集者も暑い。暑いとあまり日向(ひなた)をてくてく歩きたくない。そこで原稿などの注文も、出来るだけ動かないで、すなわち電話などでやろうとする傾向が出て来る。ところが電話などを自前で持っているような作家評論家は、たいていふところがあたたかいので、暑い東京を離れて涼しい海山へ、あるいは温泉場に出かけて、そこで仕事をするということになる。電話持ちで東京に止っているのは、まことに寥々(りょうりょう)たるものである。そこで勢い注文は、その寥々の人々に集中する。そして私は自前の電話持ちではないが、形式の上ではその寥々たる一人であるので、私にも注文殺到ということになる。一日に五つの雑誌新聞社から注文を受けたことさえある。こうなると私もちょっと自分がひとかどの流行作家であるような錯覚を起し、起居の態度もいくらか重々しくなり(暑さで体がだるいせいでもあるが)、軽口や冗談もあまり言わず(これも同前)、倣然(ごうぜん)と座敷で昼寝などをしている。

 そんなに注文があるのなら、昼寝ばかりしていないで、どんどん書き捲(まく)って流行したらいいではないかと、家人も言い私も考えるのであるが、そこはそれ天は二物を与えず、先刻も書いたように私は暑さに弱い。今年はことにその傾きがあって、この七月八月を通じて私がした仕事は、この社会時評とあと二三の雑文だけ。小説などはついに一篇も書けなかった。毎年の例で言うと、秋口になって涼しい風が立ち始める頃から、私の体力頭脳力は回復にむかい、存分に(と言うほどでもないが)仕事が出来る状態になるのだが、時すでに遅し、その頃になれば海から山から温泉場から、さっきの腕達者の連中が続々と帰京してきて、私などが無理をしないでも、結構新聞雑誌は発行されるという仕組みになる。毎年この同じ繰返しである。暑さが私に流行作家になる条件を与えてくれるのだが、同じくその暑さが私を流行させることをさまたげる。そういう因果関係になっている。生きて行くということも、なかなか思うようにはならないものだ。ついでながらつけ加えると、秋を過ぎて冬に入ると、またいくらか私の身辺も流行の兆(きざ)しを見せる。これによって、我が国の流行作家評論家の若干が、避寒に出かけるという事実を推定することが出来る。私の夏と冬の流行具合から推定すると、連中の避暑と避寒の対比は、大体十対一ぐらいではないかしら。すなわち連中は避暑は大いにやるが、避寒はあまりやらないらしい。わざわざ出かけずとも、防寒設備のととのった邸宅に住んでいるからだろう。火野葦平談によると、イギリスで小説でめしを食っているのは五指に満たないという。我が国にあっては百指をあまるだろう。文運隆盛というべきか。

 こんなに文運隆盛になったというのも、雑誌類がよく売れるからであり、つまり小説類の読者が戦前よりぐんと殖えたせいなのだろう。そこで文筆業が職業として、有利な職業として成立する。一応の筆力と相当な体力(どちらかといえば後者の方が大切)があれば、あとはチャンスさえあれば人々は流行作家になれる。という風に私も考え、近頃の若い者も考える。近頃の若い者、とうっかり筆を辷(すべ)らせたけれども、よく考えてみると私がこの言葉を筆にしたのは、これが生れて初めてである。そう書いたからには、もうこの私は若くはないのか。その思いが私の気分を大層憂鬱にさせる。

 私は生れつき身体が弱く、幼年時代には満足に育つまいと言われ、小学校時代は体操の時間が一番いや、長ずるに及んで戦争にかり出されて身体はがたがたとなり、そして今日に及んでいる。戦後は毎年一回、必ずと言ってもいい程、病気をする。病気といっても、風邪や腹下しは病気の中に入らない。まさか癌(がん)とか潰瘍(かいよう)とかそんな大病はまだやらないが、中級の病気が毎年一度ずつ私を訪れる。一昨年は原因不明の熱病 (新型のチフスらしいという医師の推定)、昨年は左右の第一大白歯の抜歯、という具合で、今年は上半期を過ぎた頃から、何か憂鬱な兆候が私の身体にあらわれ始めた。この憂鬱な兆候については、あまり筆にしたくないのだが、また社会時評の枠を離れることにもなるが、まあ筆のついでに書いてみると、先ず一日の夕方になる。夕方になると夕刊が来る。その夕刊を縁側に拡げて読もうとすると、どうも眼がちらちらして、焦点が定まらない。新聞を遠くに離すと、いくらか輪郭がはっきりするようだが、しかしそうなると細かい活字は読めない。そしてある夕方、何気なく眼鏡を外(はず)してみて、私は少なからずおどろいた。眼鏡を外すと、細かいすみずみの活字まで、実にあざやかに浮び上って来るのである。その瞬間私は、活字を読むたびに眼鏡を額にずり上げる中老の人々のことを考え、私の症状がそれに酷似していることを確認した。いささかの狼狽も同時に感じた。戦後派の俊秀が、もう老眼症状になったとあっては、可笑(おか)しいやら気の毒であるやら、また世間に対して申し訳のないような気もするのであるが、事実であるから仕方がない。とはいうものの、まさかという気持も一部にはあって、私はすぐ立ち上って眼科医にかけつけ、眼鏡ならびに眼玉を診察して貰った。眼科医は女医であったが、眼鏡は異常なし、眼玉は症状としては老眼であるけれども、疲労のためにそういうことになることもあるという。気の毒そうな、なぐさめるような口調であった。そこで私はその足でとってかえし、別の内科医の門を訪れ、れいの新薬をお尻に注射して貰った。牛の脳下垂体か何かを粉末にして、それを蒸溜水に溶かしたやつである。この薬だけは五十歳になるまでは注射しまいと、かねて私は心に決めていたのだけれども、事情がこうであればもう止むを得ない。そしてこの新薬はかなり私に効果があった。すなわち翌日から老眼症状はさっぱりと消失した。

 その日以来今日まで、その症状が再発しないかというと、憂鬱なことにはそうではないのである。疲労のためかどうかは判らないが、時にその症状がぼんやりとあらわれてくるのだ。その度に私は、これは何でもないと強いて楽天的に考えてみたり、あるいは自分の肉体も盛りを越したのだから、あとはいたわりいたわりして使って行く他はない、と考えてみたりする。かなり侘しい心境である。こういう心境が背景にあるからこそ、ついうっかりと、近頃の若い者という言葉が、辷(すべ)り出たのだろう。すでに自分が若者でないという意識が、胸のどこかにわだかまっている。脳下垂体の移植を必要とするような若者はあり得ないのだから。しかしまあ逆に言うと、この牛脳のおかげで老眼にもならず、まだ形状的には若者の仲間入りをしていると、言えなくもなかろう。爾来(じらい)路傍で牛と出会うたびに、私は感謝の眼でもって眺めるのである。

 脳下垂体のみならず、近頃の医薬は飛躍的に進歩して、新聞紙上の薬の広告を見ると、どんな病気でもなおらないものはないような気配であることは、大変めでたいことである。そしてこれが、単に誇大広告ではないという証拠には、日本人の平均年齢が以前よりぐんと大幅に引き上っていることでも判る。たしか私の小学校の頃は、日本人の平均年齢は四十五歳ぐらいであった。ところが今は、五十五歳ぐらいだったかな。二十数年の間に十二歳ばかり伸びている。すなわち医業医薬の発達のため、二年間に一歳ずつぐらい引き上っている勘定になる。これが一年に一歳ずつ引き上ってくれると、どんなに有難いことだろう。そうすれば私は永久に死ななくて済む。私がいくら歳をとっても、平均年齢も同じ速度で上るから、いつまで経っても死亡年齢に到達しないからである。是非そういうことに願いたい。その点について一般医業医薬にたずさわる人々に、なお一層の努力と管起を要望する。永久に生きる、となれば、もう老人も若者もない。近頃の若い者という言葉も自然と消滅する。しかし悲しいかな現今では、まだ生命は有限であるので、どうしても近頃の若い者がということになる。

 で、近頃の若い者という言葉であるが、これはそのあとに必ず否定とか悪口がつながる決めになっていて、過去のどの時代にもこの言葉は存在した。さるエジプト学者に聞いた話だが、先年ピラミッドかどこかに発見された象形文字をその道の専門家が苦心して解読してみたら、やはりそこにも近頃の若い者が云々という文章があったそうである。日本でも江戸時代の文章の中に、私は同じ趣旨のものを読んだ記憶がある。どの時代においても、近頃の若い者は、ばかで無思慮で浮薄で、あらゆる悪徳に満ちている。「近頃の若い者はなどと申すまじく候」太平洋戦争中そんな言葉もあったが、その言葉と共に幾多の若い者は特攻隊となり、空しく死んで行った。つまり利用価値のある場合にのみ、老人ならびに中老は青年の悪口を控えるもののようである。それにしても、近頃の若い者に告げるが、近頃の若い者云々という中老以上の発言は、おおむね青春に対する妖妬の裏返しの表現である。一時的老眼症状におち入ったこの私の言であるから、これは信用してもいい。それは妖妬であり、また一種の自己嫌悪の逆の表現である。いろいろヴァリエイションはあるだろうが、大体基底においては同様のものである。

 私も若い時は若かったし(当然のことであるが)、中老も老人も同じく若い時は若かった。そしてすべて若かった頃には、その時々の老人連から、近頃の若い者は云々と言われて来た。その口調をちゃんと覚えていて、さて自分が年寄になった時、使用しているのである。私は今次大戦に海軍に引っばられ、兵隊としていろいろ苦労したが、まあ初め二等水兵として入隊する。すると兵長というすごい階級がいて、これが若い兵隊を殴ったり棒で尻をひっぱたいたり、そしてきまり文句で説教をする。そこで、あわれなる上水、一水、二水の面々は、耳にたこが出来るほど同じ文句を聞かされ、それをちゃんと覚えこんでしまう。そして順々に兵長に進級して行くと、同じ文句と同じやり方で、若い兵隊を説教する。はんこでも押したみたいにぴったり同じなのである。「近頃の若い者云々」も型としてはこれと同じだ。その時代その時代で、文句の枝葉末節に変化があるだけに過ぎない。

 しかし現代においては、近頃の若い者を問題にするよりも、近頃の年寄を問題にする方が、本筋であると私は考える。若い者と年寄と、どちらが悪徳的であるか、どちらが人間的に低いかという問題は、それぞれの解釈で異なるだろうが、その人間的マイナスが社会に与える影響は、だんちがいに年寄のそれの方が大きい。これは言うまでもないことだ。若い者にろくでなしが一人いたとしても、それは大したことではないが、社会的地位にある年寄にろくでなしが一人いれば、その地位が高ければ高いほど、大影響を与えるものだ。そして現今にあっては、枢要の地位にある年寄達の中に、ろくでなしが一人もいないとは言えない。いや、言えないという程度ではなく、うようよという程度にいると言ってもいい状態である。それを放置して、何が今どきの若い者であるか。

 こう書いて来ると、何か私がひどく若者の肩を持っているようであるが、実はこの小文で、近頃の文学志望の若い者に対して、老眼的視角からやっつけてやろうと予定していたのだけれども、どこかでペンがスリップして、妙な方向に来てしまった。そしてついに時間も紙数も尽き果てた。やっつけは別の機会を待つ他はない。やはり酷暑に仕事するものではないようだ。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「寥々」原義は「もの寂しいさま」であるが、ここはメインで今一つの意である「数の少ないさま」としながら、原義の寂しさをも、東京に残っている(行きどころのない)作家という筆者自身の心の寂しさとしても掛けている。

「戦後派の俊秀が、もう老眼症状になったとあっては」ここで梅崎春生は老眼様の症状を訴えているが、発表当時の春生は未だ満三十八で、確かにこれは、眼精疲労の可能性が強い(実際に翌日には回復している)。因みに、私が老眼になったのは(明白に意識し始めたのは)四十八歳の夏頃であったように記憶している(因みに私はかなり強い近眼で高校時代から眼鏡をかけている)。

「れいの新薬」「牛の脳下垂体か何かを粉末にして、それを蒸溜水に溶かしたやつ」既に梅崎春生の小説「大王猫の病気」で注しているが、再掲しておく。rattail氏のサイト「岡田自観師の論文集」(岡田自観(明治一五(一八八二)年~昭和三〇(一九五五)年)とは世界救世(メシヤ)教教主。本名は岡田茂吉)の『医学断片集二十九』(『栄光』一九四号・昭和二八(一九五三)年二月四日発行)に、

   《引用開始》

 近来流行の牛の脳下垂体埋没法によって、若返るとか、禿に毛が生えるとか、背が伸びるとか、皺(しわ)がなくなるとか、疲れなくなるとか、まるで牡丹餅(ぼたもち)で頬ッペタを叩かれるような、うまい話ずくめなので、その専門の医師が雨後の筍(たけのこ)のように増え、最近東京都内だけで、二百数十カ所にも及んだというのであるから驚かざるを得ない。そのため医師会の問題になり、その対策によりより合議中だが、容易に断案(だんあん)は得られないので困っているようである。

 しかしこれを吾々から見ると、はなはだ簡単な話で直ちに断案を得られるからそれをかいてみよう。いつもいう通り医学の方法は、ヒロポンと同様よく効く程一時的効果でしかないから、この脳下垂体法も効果はまず数カ月ないし一力年くらいと思えばよかろう。その先は元の木阿弥(もくあみ)どころか、体内に入れてはならない変なものが入っている以上、これが禍(わざわい)をして厄介な病気になり、随分苦しむ事になろう。確か十数年前に若返り手術などといって、一時流行した事があるが、これもいつの間にか煙になってしまったのは、知る人も相当あろう。

 今度の方法もそれと同工異曲と思えばいい。まず一、二年で幽霊のようになってしまうのは、断言して誤りないのである。

   《引用終了》

文中の「断案」とは、ある事柄に就いて最終的に決定された考え・方法・態度のことである。さてもまた、『東スポweb』の二〇一二年十一月七日の記事に、「安直な理由で広まった“若返り”ブーム【なつかしの健康法列伝:牛の脳下垂体がブーム】」 というのがあり、昭和二七(一九五二)年に全国の医師が食肉処理場に大挙して繰り出し、牛の脳下垂体を買い求めに来るという事態が起きたとし、それが何と、『牛の脳下垂体を人間の筋肉に埋め込むと、若返りに効果絶大という噂が広がったから。大学病院の医師から開業医にいたるまで、入手希望者が殺到したという』。『施術の具体的な方法は、牛の脳下垂体の皮をむきメスで細かく刻み、細切れになったものを患者の尻の筋膜下に入れ込むというものだったらしい』とあり、『若返り希望者(需要)と、処理される牛(供給)のバランスがとれておらず「処理場では牛の頭の奪い合いだった」という記事も残っている』とある。『また、当時の医者の卵は教授から「ちょっと実験台になってみろ」と、やたらめったら尻の皮膚を削られるという悲惨な現象も起きたとか。もちろん、その若者たちが若者のままであるという事実は一切ないがと、ちゃらかし、『脳下垂体はホルモンのボス的存在。どうやら「ホルモンのボスなのだから、移植すれば若返りに効果があるだろう」というなかなか安直な理由で広まったブームらしい』。『もちろん、細切れの皮1枚を移植したところで効果もなければ副作用もなかったようだ。バカらしく思えるブームだが、「若返り」と聞けば何でも飛びつく習性は、今も何ら変わってないような気もしたりして』と結んでいる。岡田の警告した副作用のなかったのはちょっと残念だが、「注射」となると、私は俄然、プリオン病のクロイツフェルト・ヤコブ病の感染が危惧されるのであるが、如何? ともかくも、梅崎先生、視力の回復はその注射のせいじゃ、ありませんぜ。しかも、医学的効果どころか、もっとアブナい病気に罹るところだったかも知れませんぜ。♪ふふふ♪

「日本人の平均年齢が以前よりぐんと大幅に引き上っていることでも判る。たしか私の小学校の頃は、日本人の平均年齢は四十五歳ぐらいであった。ところが今は、五十五歳ぐらいだったかな」厚生労働省発表のデータによれば、梅崎春生の謂いはかなり間違っている本記事の発表された昭和二八(一九五三)年当時の日本人の平均寿命は男性が六十一・九歳、女性が六十五・七歳で遙かに高い。春生が例示している「私の小学校の頃は、日本人の平均年齢は四十五歳ぐらいであった」というのはこちらのデータによれば(春生は大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子小学校入学、昭和二(一九二七)年に同校を卒業している)、大正十年から十四年(一九二一~一九二四)年の平均寿命は男性が四十二・〇六歳、女四十三・二歳であるから、こっちもやはり高い

「すなわち医業医薬の発達のため、二年間に一歳ずつぐらい引き上っている勘定になる。これが一年に一歳ずつ引き上ってくれると、どんなに有難いことだろう。そうすれば私は永久に死ななくて済む。私がいくら歳をとっても、平均年齢も同じ速度で上るから、いつまで経っても死亡年齢に到達しないからである」梅崎先生、平均年齢と個体の死は直に連動しませんぜ。それじゃまるで、ゼノンの「アキレスと亀」と同じ偽命題でがす。]

「さるエジプト学者に聞いた話だが、先年ピラミッドかどこかに発見された象形文字をその道の専門家が苦心して解読してみたら、やはりそこにも近頃の若い者が云々という文章があったそうである」これは都市伝説の類いで信ずるに足らない。まず、このアーバン・レジェンドの元凶は何と、どうもかの柳田國男の知られた評論「木綿以前の事」であるらしい。以下にその箇所を引く。第三章目「昔風と當世風」(このパートの元原稿は昭和三(一九二八)年三月に行われた彰風会での講演が最初)の冒頭に出現する(底本は昭和一三(一九三八)年創元社刊「木綿以前の事」

国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した)。

   *

 此話題はそれ自身がいかにも昔風だ。平凡に話さうとすれば幾らでも平凡に話される題目である。聽かぬ前から欠伸あくびをしてもいゝお話である。人間に嫁だの姑だのといふものゝ無かつた時代から、または御隱居・若旦那などゝいふ國語の發生しなかつた頃から、既に二つの生活趣味は兩兩相對立し、互ひに相手を許さなかつたのである。先年日本に來られた英國のセイス老教授から自分は聽いた。かつて埃及の古跡發掘に於て、中期王朝の一書役の手錄が出てきた。今からざつと四千年前とかのものである。其一節を譯して見ると、斯んな意味のことが書いてあつた。曰く此頃の若い者は才智にまかせて、輕佻の風を悦び、古人の質實剛健なる流儀を、ないがしろにするのは歎はしいことだ云々と、是と全然同じ事を四千年後の先輩もまだ言つて居るのである。

   *

ここに出る「セイス」という人物はイギリスの言語学者・アッシュリア学者であったアーチボルド・ヘンリー・セイス(Archibald Henry Sayce 一八四五年~一九三三年)で、広汎に未解読文字研究を行っていた(英文ウィキはこちら)。しかし、この柳田の如何にもな聴き書きの確信犯的断定は、実は全く非学術的で信ずるに足らないものであることを個人ブログ「現在位置を確認します。」の『古代エジプト人は「近頃の若い者は・・・」と言ったか? 噂の出所を探ってみた』で細部に至るまで検証されている。必読!!!

「日本でも江戸時代の文章の中に、私は同じ趣旨のものを読んだ記憶がある」Q&Aサイトの答えなどによれば、享保二(一七一七)年板行の江島其磧(きせき)の浮世草子「世間娘気質(せけんむすめかたぎ)」には『最近の若い女性は、正直であることよりも人からどう見られるかばかり気にしている』と書かれてあると断言してあり、また、こうした「今の若い者は」式の愚痴は『江戸時代の初期からすでに言われていたことは間違い』なく、例えば『江戸初期の頃のとある武士が友人に送った手紙の中で「最近の若い武士はダメだ」と愚痴を書き連ねている内容のものが現存している』とされ、『確か手紙の内容は「我々が若い頃は戦に臨むために懸命に武芸に励んでいたものだが、最近の若い武士は“稽古をしてればそれで良い”という考えばかりでダメだ」といった内容だったとは思う』とある。またこの人物はさらに、『似たような(というか同じような?)内容で、かの徳川家康も「最近の若い武士たちなんかより、戦乱の時代の女たちのほうがよっぽど勇ましかった」と述べたと記録に記されているそうで』、これはNHKの「歴史秘話ヒストリア」でも紹介されていたと明記しておられる。私は今、それらの孰れも確認は出来ないものの(「世間娘気質」は早稲田大学の「古典籍総合データベース」内に当時の公刊本の全画像があるが、とても調べる気にはならない。悪しからず)、これは極めて素直に腑に落ちる。太平の世が続いて実践経験もなく、人を斬ったことのない武士がゴマンといた江戸時代の老人は必ずや、こう言ったと思うからである。

「近頃の若い者はなどと申すまじく候」ネットを調べるにこれは、かの山本五十六大将が高橋三吉大将への書簡に認(したた)めた文言とされるようである。元は確認出来ない(というか、調べる気も起こらない)が、「今時の若い者はと憚るべきことは申すまじく候」辺りが正文か?]

諸國百物語卷之二 十三 奧州小松の城ばけ物の事

     十三 奧州小松の城ばけ物の事


Hitouban



 ちかきころ、奧州小松といふ所の城の留主居番をする侍あり。この妻は同國宇和岐(うわき)の何がしがむすめにてありしが、ある夜、せつちんへゆきければ、むかうより、かねくろぐろとつけたる女のくびひとつ、とびきたりて、妻をみて、にこにことわらふ。この妻、おそろしくは思ひけれども、かやうの物に見まけぬれば、あしき、と、こゝろえて、目を見ひらきにらみつけてゐられければ、かのくび、にらみまけて、しだいしだいに、とをざかりゆきて、つゐに、きへうせけると也。妻、うれしくおもひて、かはやよりいでゝ、ねやにかへりければ、灯(ともしび)、きへてあり。つぎのまへゆけども、つぎにも、灯、きへて、くらし。そのとき、妻も氣をとりうしなひ、たをれふしぬ。男、ほかよりかへりて、妻をたづねければ、かしこにたをれふしてゐけるが、いきたへ、よべども、おともせず。人々、おどろき、氣つけなどあたへければ、やうやう、よみがへりぬ。さて、事のやうすをたづねければ、はじめをわりの事、物がたりしけると也。そのゝち、かのかわやも所をかへて立てなをしければ、かさねては出でざりしと也。

 

[やぶちゃん注:美事に典型的なる偏愛する飛頭盤の再出現! この留主居役の妻、にこにこ笑うそれと、にらめっこするたぁ、大した女傑じゃて! 挿絵の右キャプションは「小松のしろばけ物の事」。

「奧州小松といふ所の城」現在の山形県東置賜(ひがしおきたま)郡川西町(まち)中小松にあった小松城。秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「小松城」を参照させて戴くと、築城時期は不明で、『もともと長井氏に与した在地土豪船山氏が居住したとも』あり、康暦二(一三八〇)年、『伊達宗遠が長井氏を滅ぼして置賜郡を制圧した後、元中・応永年間』(一三八四~一四二八年)『の城主として大町修理亮貞継が、亨禄年間』(一五二八年~一五三二年)『頃から桑折播磨守景長が在城したと伝えられます。そして』天文一一(一五四二)年『に勃発した「天文伊達の乱」後、乱で晴宗方に与した牧野弾正景仲が居住しましたが、元亀元』(一五七〇)年、『牧野弾正久仲は実父中野宗時・新田義直と謀り』、『伊達輝宗に叛いたため、小松城は伊達軍の攻撃を受けて落城し、ほどなく廃城になったと思われます』とある。他のサイトの記載ではその後に桑折氏が再び城主となったとあるものの、思うに、江戸時代にはとうに廃城となっていたとしか考えられない。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『当時』としてこの牧野弾正が誅殺された一件が載るのであるが、どうもこの『当時』がおかしい。本篇冒頭は「ちかきころ」である。本「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊行である。百年前を「近き頃」とは首を飛ばされても言わぬ。どうも判らぬ。

「同國宇和岐」前掲「江戸怪談集 下」の脚注には『不詳。ただし上小松の小字に「姥神(うばき)」がある』とある。

「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。

「見まけぬれば」「見負けぬれば」。物の怪や獣などとは、目が合ったら、見つめ続けるのが大事。逸らした方が襲われてしまい、負けるのは民俗社会でもそうだし、動物生態学上でも概ね正しい。

「かしこ」少し離れた部屋。

「おと」「音」。応答。返事。

「かのかわやも所をかへて立てなをしければ、かさねては出でざりしと也」終りがショボ「臭い」のは厠なればこそ仕方がないか。]

2016/09/23

佐渡怪談藻鹽草 寺田何某怪異に逢ふ事

     寺田何某(なにがし)怪異に逢ふ事

 

 寺田彌三郎、下戸の役館に、【御番所向ふに二ケ所役地有、上の段の役家なり】居住しける頃は、享保のはじめなるが、或(ある)日御番所勤番にて、同役泊番に引渡して、暮六ツ半頃、御番所より出でゝ、私宅へ歸りけるが、纔(わづかに)、五七間歩行して、裏町通りの小路へ懸(かゝ)るに、いとゞくらき闇の夜の、猶しも東西をわかぬ程に、くらく成(なり)て、向ふへ行(ゆか)ば、物つかへるやふに成て、ゆかれず。どちらへ行て見てもをなじければ、私宅の方角をも失(うしなひ)し程に、暫(しばらく)心をすまして、又行て見れ共、つかへて行事(ゆくこと)ならねば、

「是は何條狸などの仕業、ござんなれ、いで物見せん」

とて、刀を拔(ぬき)て切拂(きりはら)へば、少し手ごたへする樣にて、明るくなり。行て見れば、どちらへも自由なれば、宿所へかへらず、大津屋小右衞門と言へる、問屋宅の、燈のあかり明らかに見ゆれば、門よりつと入(いり)て、燈臺の下へ至り、刀を拔て、すかしみれは、切先に少し血付きたり。されど、隨分のかすり手と見ゆれば、詮なく思ふに、小右衞門家内のものは、

「何事故(ゆえ)、かくは刀をぬき給ふや」

と、恐れわなゝひぬるを、

「氣遣の事にはあらず。かよふかよふ」

と物語て、暇乞(いとまこひ)、立出(たちいで)ぬ。扨(さて)、前の通りかゝりけれ共、何の事なく、歸宅せしとぞ。其頃窪田松慶、二ツ岩團三郎方へ、療治に行し沙汰有(あり)しが、此彌三郎が説も、同じ頃の事なり。

「必定(ひつじやう)、彌三郎が、手を負(おひ)せし物の療治せしに、疑(うたがひ)なし」

と、聞(きく)もの、奇異の思ひをなせりけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:素晴らしい! 前話窪田松慶(くぼたしようけい)療治に行(ゆく)事とほぼ同時制の出来事を、別班体勢で撮ったサイド・ストーリー・ホラーではないか! お美事!! 脱帽!!!

「寺田何某」「寺田彌三郎」末には「其夜、寺田彌三郎と言(いふ)士、下戸御番所の邊にて、怪異の物を切(きり)しよし」とあった。

「下戸」「おりと」。注参照。

「役館」官舎。

「御番所向ふに二ケ所役地有、上の段の役家なり」下戸(おりと)御番所の向うには二ヶ所の公用地があり、その上の段に作られた官舎である。

「享保のはじめ」注参照。

「暮六ツ半頃」不定時法であるが、の初めに初冬とあったから、午後六時十五分頃でる。松慶の所に急患往診の使者が来訪したのは「亥の刻」、午後十時頃である。本篇の事件は午後六時半を回った辺りから遅くとも七時前までに発生したと考えられるから、松慶の治療を受けたのは受傷後、凡そ四時間も経過した午後十一時前と思われる。

「五七間」九~十二メートル強。

「物つかへるやふに成て、ゆかれず」何か目に見えないものが前に塞がっていて、それにぶつかってつかえるような感じになって、先へ進むことが出来ない。「くらく」なって、と前にはあるが、視認出来る物体があって塞がっているのではないのである。暗いけれども、ぼんやりとではあるが、辺りの様子は見えるのである。但し、その場所の見当識はないのである。その絶妙な語りが上手い。

「何條」「なんでふ」の当て字。副詞で反語。

「ござんなれ」実際には「ごさんなれ」「ごさなれ」の方が原型に近い。「~であるようだ・~のようであるな」の意。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「こそ」+補助動詞「あり」の連体形+推定伝聞の助動詞「なり」の已然形からなる、「にこそあるなれ」の変化形である。

「いで物見せん」「物見」ではない。「(目に)もの見せむ」で、「よしッツ! 目にものみせてくれるわ!」という喝破(かっぱ)である。

「明るくなり。」句点はママ。

「宿所へかへらず」に、最寄りにあった「大津屋小右衞門と言へる、問屋宅の」前に未だ灯してあったところの、夜警のための門「燈のあかり明らかに見ゆれば」。

「隨分のかすり手と見ゆれば」この「隨分」は用法としては異例(というか誤用)である。「思ひの外のかすり手」である。確かな手応えががあったから、寺田は相当な血糊を期待していたのであるが、案に相違して、少しばかり、対象を掠っただけの様子(太刀の刃の血糊が浅く、しかも少ない)であったので、ちょっと期待に反したのである。だから「詮なく」、しょうがねぇか、と思っているのである。

「小右衞門家内のもの」そろそろ門灯は消す時刻であり、また人の足音や太刀を抜く音なども聴きつけたから、家内の者らが皆、玄関へと出てきたのであろう。

「かよふかよふ」「斯樣斯樣(かやうかやう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「其頃」これは「その同じ時期の(怪奇な)話として」の意。同時刻の意ではない。寺田の帰宅は遅くとも七時半から八時前で、先に述べた通り、「窪田松慶、二ツ岩團三郎方へ、療治に行」ったのは午後十時過ぎ以降である。この附加文によって、前話窪田松慶(くぼたしようけい)療治に行(ゆく)事との同期が素敵に完成するのである。

佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事

     窪田松慶(くぼたしようけい)療治に行(ゆく)事

 

  窪田松慶といへる外科醫師有(あり)。柴町に住(すみ)けるが、享保の始(はじめ)、初冬の事なるに、或夜、寒冷常ならず、寒け立(たち)ければ、

「いざ寢て、あたゝまらん」

迚(とて)、亥の刻斗りに、夜具抔(など)あたゝめて居る處へ、門より下司人の聲して、

「窪田松慶樣の御宿は、爰(ここ)にて候哉(や)」

と問ふ。

「成程」

といらゑしかば、

「急病有て、御迎(おむかへ)に參りたり。とくとく」

と申(まうす)にぞ、召仕(めしつかへ)の男は、所用にて外へ遣(つかは)しぬ。

「今少し待れ候得」

と申しければ、

「駕籠を持(もち)て參りたり。御藥箱を持(もつ)者も參りたり。一刻も早く、御出被下(おいでくだされ)かし」

と申にぞ、松慶申けるは、

「然らば、金瘡などにて候哉(や)」

と尋しかば、

「成程、手負人有て、御迎申(まうす)」

と答ふ。

「いざゝらば」

とて、急ぎ、寢卷の上に、小袖着て、胴服引かけ、藥箱懷中して、立出(たちいで)ければ、駕籠の戸明(あけ)て、打(うち)乘せて、飛(とぶ)が如くに行ける。折しも、闇の夜なれば、木傳ふ風の音のみ、諷(うた)ふと吹落(ふきおち)て、肌をおゝし行(ゆく)程に、七八丁も行(ゆき)て、鍵に登る心地して、川を右にして、ひたすら行し折々、駕籠の窓すだれの透(すき)よりみれば、山林高く見ゆ。何國とも分難(わけがた)し、また問(とふ)べき心も付(つけ)ずして、ひたすら行(ゆく)程に、最早、壱里も來ぬらんと思ふに、忽然として、向ふに大なる兩開の門有。

「是は何方(いづかた)にや、かゝる門の有(ある)家居迚(とて)、近在に覺えず」

と思ひ、駕籠のものに、

「是は門にや」

と問へば、

「さん候」

と答ふ。さらば

「下りて、拾ひ候半(さうらはん)にや」

といへば、

「急病の事に候得ば、苦(くるし)からず、しかしか」

と斷(ことはり)ければ、門の番人、其儘通しぬ。夫より、四五拾間も行て、或(ある)臺に至る。

「窪田松慶樣、御出」

と言へば、袴羽織着たるもの、四五人出て向ふ。駕籠より下り、辭儀して、玄關に至りて見れば、床餝、武道具のきらびやかさ、尋常にあらず。をよそ弐拾疊にも、敷(しく)候わんと覺ゆ。夫より、招請して、石爐に炭火を小山の如く起し、火體弐ツ、たばこ盆備へて、待(まち)たる風情也。金屛風の照りもまばゆく、衣服の無造作を恥(はぢ)る心持にて居たるに、年の程、五十才餘の人、骨柄宜(よろ)しきが、羽織袴、長き脇差を帶して出(いで)、

「是は松慶樣、遠方へ御招申(おまねきまうす)事、無據(よんどころなき)急病人有て、主人方より、迎(むかへ)を遣る處、早速御出(おいで)忝存候(かたじけなくさふらふ)。夫(それ)、御茶を」

といへば、角前髮の小姓、菓子盆持(もち)、茶を持て出(いで)、ふんふんたる薰り、田舍の花香とも覺えず。弐三碗給(たまひ)て後に、

「御病人樣は、何方(いづかた)に」

と問へば、

「暫(しばらく)、御待候へ。主人へ申聞(まうしきく)べく」

由を言て、良(やゝ)有て、七旬餘りの禪門、白小袖に十德を着て出て、

「是は是は松慶老、夜中と申(まうし)、遠方の御出、過分に存(ぞんづ)る。隨而(したがひて)、申進候(まうしすゝめさうらふ)は、末子義、怪我をいたし、手薄なる生故(ゆえ)、なやみ申(まうす)間、金瘡の樣子、見て貰ひ申(まうし)たし。是(これ)へ是へ」

と、立て入る。心ならず、松慶も、頓首する程に、人物終(つひ)に見し人は壱人もなし。其奧の間に至れば、金銀の屛風を引𢌞し、病人と覺しく、中央に、蒲團うづ高く重ね、其上に十三四斗(ばかり)の美少人、鉢卷をして、白め成(なる)小袖を着し、胸息によりて、顏をしかめ居たり。近邊にて、看病と覺しく、男女大勢詰(つめ)居たり。件(くだん)の禪門、

「いざいざ疵(きず)の樣子を、懇(ねんごろ)に見て給(たまは)り候へ」

と申(まうせ)ば、

「近く寄(より)て、御疵を伺ひ申(まうし)たし」

と申せば、側へ立寄、疵を卷(まき)たる衣類をほどけば、いまだ血とまらず、流るゝより、血留を以て覆ひ、其樣子を見るに、切先にて、突(つき)候樣成(やうなる)疵、二ケ所、さして深手にもあらず。仍て、松慶申けるは、

「當分の御(おん)疵にて候。必(かならず)御安事(おんやすきこと)被成間敷候(ならせまじくさうらふ)。血止り候得ば、格別疵は、少く見え候(さうらふ)物にて候。此血止を能々御用ひ、其上へ、只今調合申(まうす)膏藥を、御張被成候得(おんはりなされさうらへ)ば、疵も早速留(とま)り可申(まうすべし)」

と申せば、老人を始め、一座の面々、嬉し候(さうらふ)に興じて、

「いざ松慶樣へ、御酒一つ、參らせよ」

といへば、以前の席へ案内して、吸物盃小付など出(いだ)し、種々饗應ける有樣、言葉に述(のべ)がたし。

「夜中なれば、御暇」

とて、罷立(まかりたて)ば、前の挨拶人、懇(ねんごろ)に禮を申(まうし)て、

「膏藥抔(など)、したゝめ置(おき)、一兩日中に、又御見舞可申(まうすべし)」

とて、立出(たちいづ)。夫(それ)より駕籠を早め、暫くの内に、我宿の前に來り、

「いさ、御歸り」

と、門より聲すれば、宿所にも、起居て迎ふ。扨(さて)、松慶は、

「駕籠の衆暫く、茶を一ツ」

と申て、立出(たちいで)みれば、早歸(かへり)たり。召遣ひの男に、

「追掛(おひかけ)て御主人の名を問へ」

といひ、追掛たれど、跡形もなく、松慶も、忙然たる心地にて、後悔しぬ。其夜、寺田彌三郎と言(いふ)士、下戸御番所の邊にて、怪異の物を切(きり)しよし、後に思ひ合(あは)すれば、松慶が療治に行し所はニツ岩團三郎ならんか。

 

[やぶちゃん注:この話、江南文三のエッセイ「佐渡が島から」(大正一四(一九二五)年一月刊『明星』初出。私は不所持であるが、今回、「青空文庫」に同話の伝承型と本篇の簡単な梗概が収録されていることを知った。リンクはそれ。作者江南文三(えなみぶんぞう 明治二〇(一八八七)年~昭和二一(一九四六)年)は石川県出身の詩人・歌人。東京帝国大学に入学した明治四三(一九一〇)年から石川啄木の後を受けて『スバル』の発行・編集人となり、同誌の全盛期を創り、自らも詩歌・小説などを発表し、大学卒業後は千葉や東京などで中学教師をした。著作に「日本語の法華経」など)。参照されたい。

「窪田松慶」不詳。上記の江南の聞き取りでは「瀧浪玄伯」という名の医師である。

「柴町」現在の佐渡市相川の北辺部に柴町(しばまち)が残る。

「享保の始」「享保」一七一六年から一七三五年。始めであるから、一七二二年ぐらいまでか。

「亥の刻」午後十時頃。

「下司人」「げすにん」。ここは身分低い役人の意か。下賤の者の意もあるが、このシークエンスではその声掛けの言葉遣いの感じから、それは判ろうというものである。

「成程」肯定を表わす感動詞。「いかにも」「たしかに」。

「召仕(めしつかへ)の男は、所用にて外へ遣(つかは)しぬ」たまたま助手(下男並みか)は外に用事があって遣わしていたために、実動出来るのは松慶だけであった。訪問者とやり取りさせ得るレベルの者も家内いなかったということである。

「金瘡」松慶は外科医であるから、頻りに急いでいるところからは金属性の武器や道具によって受傷したかなり大きな創傷かと問診したのである。

「胴服」「どうぶく」と濁る。羽織の古称。

「諷(うた)ふと吹落(ふきおち)て」「♪ヒュウーッツ♪」っと、あたかも声に節をつけ、抑揚を持たせて唱える歌うかのように風が木立から吹き落ちてきて。

「肌をおゝし行(ゆく)」「おおす」は恐らくは「おほす」の歴史的仮名遣の誤りで、「負ほす・課す・科す」と書き、肉体的(或いは精神的)な重荷を身に受けさせるを原義とするサ行下二段活用の他動詞であろう。あまりに風が強く、駕籠の中にいても隙間から入ったその風が、肌を有意に風圧が感じられる、圧されるのが実感されるままに行く、の意ととる。

「七八丁」七百六十四~八百七十三メートルほど。

「鍵に登る心地して、川を右にして、ひたすら行」鉤(かぎ)の手に直角に曲がったかと思うと川を右手に見せて登ってゆく感じで、というのである。現在の相川柴町から直線で一キロほど南下すると、川があるが、その手前、現在の相川下戸浜町(おりとはままち)の交差点の手前を右に直角に折れて(左に折れたら海)行くと、右に川を見ながら、少し行くと、川を渡って(現在は、である。河川状況を見ると上流に断絶した流域や溜め池のようなものがあって、やや不審。或いは江戸時代は流域が違っていた可能性もある。なお、この「下戸」は本篇の最後で武士が変化(へんげ)の「もの」を斬った地名と一致していることにも注意されたい)地蔵権現大神から山裾を南に回って二ツ岩神社、そこを東に折れて山に向かえば、その山道の彼方には、実に先の「鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」に出た、まさしくかの団三郎狸所縁とされる二ツ岩大明神があるのである。私はこのルートを私のロケ地に選ぶ。

「何國」前にも感じたが、或いはこれで「いづく」(どこ)と訓じているのかも知れぬ。それで私は読む。

「問(とふ)べき心も付(つけ)ず」使者の者らに訊ねようとする気も起こらず。かなりのペースで急いでおり、風も強ければ、遠慮したともとれなくはないが、寧ろ、明らかに訳のわからぬ場所へ向かっているのだから、詰問する気にならなかったというのは自然ではない。即ち、その不思議で迂闊な心の持ちよう自体が、松慶が知らず知らず、異界への通路を通り抜けている証左ともなっているのだということに気づかねばならぬ。

して、ひたすら行(ゆく)程に、最早、壱里も來ぬらんと思ふに、忽然として、向ふに大なる兩開の門有。

「家居」「いへゐ」。家。住まい。

「さん候」「さにさうらふ」の転訛したもの。さように御座いまする。

「拾ひ候半(さうらはん)にや」格式の高い武家屋敷らしい大門であるから、松慶は駕籠を下りなければならぬと判断し「徒歩で参りましょうか?」と使者に問うた(と私はとる)のである(だから「門の番人」もまた、その使者の言ったように、咎めもなしに「其儘通し」た、というのである)。但し、「拾ふ」は、雨などでどろどろになった道をぬかるんでいない箇所を拾うようにして「歩く」ことから転じた尊敬語で、厳密には自分の徒(かち)歩きに使うと自敬表現となってしまい、厳密にはおかしい。

「四五拾間」七十三~九十一メートル。エントランスも長い。広大な屋敷である。

「臺」高い建物の謂いであるが、私はこれは「式台・敷台」、玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの客を送り迎えする場所と読む。

「床餝」「とこかざり」と読む。玄関の間にある掛物や花・置物。

「武道具」しかし、本来の武家屋敷の玄関の間はこんな奢侈はしない。

「弐拾疊にも、敷(しく)候わんと覺ゆ」「敷(し)く」は当て字でカ行四段活用の自動詞「若(し)く・如(し)く・及(し)く」で「及ぶ」「匹敵する」「相当する」の意であって四十枚の畳を「敷」いたほど、という意味ではない。玄関の間だけで、二十畳にも及ばんとする広さに感じた、というのである。……しかし……案外、団三郎の金玉の皮敷きだったりして、ね(あれは八畳敷だけど、団三郎はスケールが五倍違ったりして)……ふふふ♪

「石爐」巨大な石製の火鉢。

「火體弐ツ」「くわたいふたつ」と読んでおく。前述のような大火鉢を二基、の意でとっておく。

「衣服の無造作を恥(はぢ)る心持にて居たる」松慶は寝巻に小袖、それに防寒用のぶくぶくの羽織を引っ掛けた、何とも不格好にして無様な姿であることに注意。

「骨柄宜(よろ)しきが」肉体的な人体(じんてい)とそこから受ける人柄及び着こなしも含んだ風采(ふうさい)総てが如何にも相応の格の御方と思しい御仁が。

羽織袴、長き脇差を帶して出(いで)、

「角前髮」「すみまへがみ」。江戸時代の元服直前の武家の少年が結った髪型。ウィキの「角前髪」によれば、『通常の少年の髪形と同様に髷を結んで前髪を垂らすが、前髪の生え際の左右を角を立てるように小さく剃り込んである』髪型を指し、『元服の際は、この角前髪から前髪を落として大人の髪型(銀杏髷など)にする』。

「小姓」「こしやう(こしょう)」高位の武家や貴人の側近くに仕え、身の回りの雑用を務める少年。

「ふんふんたる」「ふんぷんたる」。「芬芬たる」と書き、においの強いさま。多くは、よい香りに用いるが、悪臭にも使う。

「七旬餘り」七十歳ほどの。

「十德」「じつとく(じっとく)」。室町時代に下級武士の着た、脇を縫った素襖(すおう:直垂(ひたたれ)の一種で、裏をつけない布製のもので菊綴(きくとじ)や胸紐に革を用いたものを指す。略儀式の服装。室町時代には庶民も常用した)のこと。江戸時代には腰から下に襞をつけて医師・儒者・絵師などの礼服となった。絹・紗(しゃ:生糸を絡み織りにしたもので軽く薄い)などを用い、色は黒に限った。「じっとく」は当て字で、この様式であった昔の僧衣「直綴(じきとつ)」が転じたものともいう。

を着て出て、

「手薄なる生故(ゆえ)」深く突き刺したり抉るような深いものではないが、身体の表面を「ごく薄く」広く「削いだような」形状の受けたばかりの「生」傷(なまきず)であるために。

「なやみ申(まうす)間」痛がって苦しんでおりまするによって。

「心ならず」特に意識して確認したわけではないのであるが。

「頓首する程に、人物終(つひ)に見し人は壱人もなし」挨拶した、最初使者らも、門番も、出迎えた四、五人の羽織袴の下士らも、出迎えた「五十才餘」のがっしりとした武士も、「角前髮」の「小姓」も、七十歳余りの禅僧姿の男も皆々(有に十人以上である)、未だ嘗て見知った人は一人もいなかった、と言うのである。或いはプレで次のシーンの患者である少年の周囲にいる「看病と覺し」い「詰(つめ)居」る「男女大勢」もそれに含むと読んでもよいであろう。

「胸息によりて」激しく息をし、胸部もそれにつれてひどく上下している様子を描写したものであろう。何らかの感染症などの症状ではなく、一種のショック状態による、過呼吸のような発作と見られる。

「仍て」「よつて」。そういう見立てと決したによって。

「當分の御(おん)疵」差し当たって、見たままの傷。大した傷ではないという意。

「必(かならず)御安事(おんやすきこと)被成間敷候(ならせまじくさうらふ)」意味不詳。「御安き事(なる疵にて候)。(重き樣(やう)には)必ず成らせ間じく候ふ(疵にて候ふ)」でなくては意味が通らぬ。「ご安心戴いて問題のない軽い傷にて御座います。重い症状になるというようなことは、決してない傷にて御座います」であろう。私はそれで通して読む。

「血止り候得ば、格別疵は、少く見え候(さうらふ)物にて候」出血が止まりさえ致しますれば、見れば、傷は思ったよりもごくごく少なく、極めて小さなものであることがお判りになるでしょう、というのである。ショック状態が激しく、血圧が上がり、激しい出血が激しいために、傷痕が実際以上に大きなものに見受けられるだけで、至って傷は軽度のものです、というのである。

「血止」「ちどめ」血止薬。これは傷口に直接添加封入するタイプのものであろう。直後に「其上へ」膏薬をお貼りなされば、と述べているからである。

「嬉し候(さうらふ)に」如何にも嬉しそうに、の謂いであろう。

「御酒」「ごしゆ」。

「參らせよ」差し上げよ。

「小付」「こづけ」。酒肴として出す小鉢や小皿に盛った料理。つきだし。

「饗應ける」「もてなしける」と訓じていよう。

「前の挨拶人、懇(ねんごろ)に禮を申(まうし)て」最初に出迎えて挨拶した五十絡みの男である。ここはその男が松慶に改めて往診の御礼を申し、されば、それに最後に松慶が「膏藥抔(など)、したゝめ置(おき)、一兩日中に、又御見舞可申(まうすべし)」(「血は直に止まりますが、その予後に貼付する膏薬などを処方致しました上(或いはここは「当座の膏薬はすでに処方して置いてありますから」の意かも知れぬ)、一両日中には、また、再往診申し上げましょう」)と述べたのである。末尾のジョイントが、その台詞と上手く繋がっていないのが私にはやや気になる。

「いさ、御歸り」「さあて! 御主人様のお帰りぃ!」。送った使者の言上げであろう。これが変化の「もの」の退場の言上げともなっているのである。

「後悔しぬ」治療代を貰わなかったからではない。悪意はないとは言え、全体、変化の「もの」に誑かされた事実に悔しい思いをしたのである。但し、先に示した江南の聞き取りではかなり違う。彼『の聞いた話では、歸るとき先方で、實は自分は二つ岩團三郎であると打ち明けて、お禮として錢差に差した一さしの金を寄越して、これは極めて輕少だが、いくら費つても最後の一文だけを殘しておけば再びもと通りになるのだから、人に隱して子孫へ傳へるやうにと言ふ事だつたさうです。處が、子孫のなかに言ひ付けを守らない男が出てみんなつかつてしまつたので、もう決して殖えなくなつたが、其錢差だけは今も尚瀧浪家の神棚に下げてあると言ふ話です。瀧浪の子孫の家は私の家から一二町南にあります。二つ岩道へ出る處にありますが、昔大した醫者の居た家とは思はれない家構です』とある。最後の掟が破られることによって呪力が永遠に失われる典型譚の、実に興味深いヴァリエーションである。

「士」武士。

「下戸御番所」現在の相川下戸町(おりとまち)及び「下戸」地区附近(前の注に出した相川下戸浜町の南には「下戸炭屋町」「下戸炭屋裏町」最北には「下戸村」さえも現存する)にあった佐渡奉行所の番所。]

二塁の曲り角で   梅崎春生

 

 うちにはエスという名の犬がいる。昭和二十三年頃、何となくうちの縁の下に住みつき、子供がめしなどを与えているうちに、とうとううちの飼犬になってしまった。正式に登録し、犬税も滞納せずに、きちんきちんと払う。容姿も大したことはなく、芸もろくに出来ず、取得のない犬だったが、私は種に困るとこのエスを小説や随筆に書き、犬税や餌代を上廻る原稿料を稼いだ。その点で私はエスを大いにとくとして、三度の食事も私が吟味して、うまいものを食わせてやっていた。

 そのエスが、昨年の暮、突然死んだ。

 朝入時頃、私が犬飯をつくって、犬小屋に廻ると、エスは小屋の中にいず、小屋の前の地べたに横になっていた。犬小屋の内には藁(わら)が敷いてある。こんなに寒いのに、藁に寝ず、何故つめたい地べたに寝ているのか。三米ぐらい離れたところから、そう思いながら、私はしばらく観察していた。三米以内に近付かなかったのは、なんだか妙に動悸(どうき)がして、気味が悪かったからである。

 そのまま三分間ばかり観察して、私は犬飯を持ち、台所に戻って来た。犬飯を塵芥(じんかい)入れに捨て、うちのものに言った。

 「エスが死んだらしいよ」

 うちのものたちは直ぐにどやどやと飛び出して、やがてぞろぞろと戻って来た。やはり死んでいたのである。

 そこで、庭に埋めてやらなくちゃとか、死骸をあそこに置き放しじゃ困るからどこかに移さなくてはとか、わいわい言っていたが、図体の大きな犬だから、女子供の手に負えない。私にそれをやれ、と言い出して来た。私はことわった。

「死骸というやつほ、気味が悪いからイヤだ」

「だってこの前、カロが死んだ時、自分で埋めたじゃないの。犬の死骸も、猫の死骸も、死骸という点では同じよ」

 カロというのは、三年前に死んだうちの猫の名だ。

 そうだ。死骸という点で同じであることは、私も知っている。しかし死骸に対する私が、三年前と今とでは違っている。

 三年前、カロの臨終を私は眺めていた。カロは柳行李(やなぎごうり)のぼろの中で、最後の痙攣(けいれん)をして、そのまま動かなくなった。(このカロのことについても、私はずいぶん原稿料を稼いだ。)カロの身体からその瞬間、生命が去って行った、という実感がその時私に来た。つまり動かなくなったそこにあるものは、カロ、マイナス生命、という具合に感じられた。だからそれは不気味でなかったのだ。私は庭の隅に、カロを埋葬し、石を積んでやった。

 昨年末のエスの場合は、そうでなかった。三米の距離から見たエスは、エスの身体から生命が引揚げたのではなく、エスの身体に死というものが、忌わしい死が到来した、という感じが強くあった。私が気味が悪かったのは、そのやって来た死であった。生命が去ったって、死がやって来たって、現象としては同じようなものだが、実感する側からすると、ちょっと違う。彼は快活な人間だというのと、彼はおっちょこちょいだというのとぐらいには違う。

 犬飯を塵芥入れに捨てながら、

「つまりこの犬飯をつくったのは、むだだったというわけなんだな」

 と、わざと呟(つぶや)いたりしてみたが、もちろんそれでごまかし切れるものでない。

 結局、死骸を放って置くわけには行かぬので、近所の八百屋から大型蜜柑箱を買い求め、年少の友人の秋野卓美君を電話で呼び出して、詰め込み方を依頼した。彼は直ぐにやって来た。子供たちが蜜柑箱に紙を貼り、秋野君がエスの身体をぎゅうぎゅう詰め込んだ。私は依然として、三米離れたところから眺めていた。三米というのに意味があるわけでないが、どうもそれ以上近づく気になれない。子供が花をたくさんエスにかぶせ、秋野君が蓋にがんがんと釘を打ちつけた。

「どうして近寄らないんですか?」

 と秋野君が聞くから、私は答えた。

「あれ以来、ちょっと具合が悪いんだ」

 犬の医者に電話して、その蜜柑箱を持って行って貰った。火葬料三百円とのことだったが、まさか人間の火葬場に持って行ったのじゃあるまい。(そんなことをすると、人間が怒る。)犬猫専門の火葬場が、どこかにあるらしい。犬医者の自転車のうしろにくくりつけられて、蜜柑箱が遠ざかって行く風景は、何か趣き、いや、趣き以上のものがあって、私は何だか身につまされるような思いがした。

 昨年の十月だったか、呉九段と高川本因坊の対局があって、観戦記者として私はおもむいた。その時私は疲れていたと思う。一日目の夕方、私は対局室から控え室に降りて来て、毎日新聞の三谷水平さんと碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。そのまま横になった。顔の筋や頭の中にしきりに痙攣が走って、何とも言えないいやな感じである。三谷さんは驚いて、持薬の心臓薬を服用させ、窓をあけ放った。一酸化炭素の中毒をも懸念したのである。直ぐ電話をかけて、医者を呼んだ。

 医者が来るまでの二十分間、死ということがちらちらと私の頭をかすめた。ああここで死ぬのかも知れないな、それならそれでもいいや、という気持だったと書きたいところだが、随筆にうそを書いてはいけないという決めがあるそうで、それならば、やはりここで今死んじゃ困る、切に困る、という気持の一本槍であった。しがみつくようにして、医者の到来を待ちこがれた。医者はやって来た。先ず聴診器で心臓をしらべ、つづいて血圧を計った。血圧は百九十あった。(あとで医書で調べたら、こんな発作を高血圧症の脳症と言うらしい。)降血圧剤を注射して、医者は帰って行った。その日は絶対安静で、もちろんお酒も飲まず、うつらうつらと眠った。その夜半、その宿に泥棒が入った。呉九段の部屋から現金を、三谷さんの部屋からカメラその他を盗み、自動車で東京方面に逃走した。(どういうわけか私の部屋には入って来なかった。)三人組だったとのことで、翌朝その話を聞いて、私はその三人組に対して憎しみと同時に、かすかな羨望を感じた。羨望というのは彼等の行動性に対してだ。おれがこんな具合になって、身動き出来ないのに、あいつらは事もあろうに泥棒なんかをはたらいている。怪しからんという気持と羨ましいという気持がごっちゃになって、更に私の気力を無力にした。

 翌日医者が再訪した時、血圧は百三十くらいに下っていた。

 その時医者は言った。こういう体質の人は案外長生きしますよ。その言い方には憐れみの色があった。何故、と私は問い返した。自分を大事にするからですよ、と医者は答え、帰って行った。だから大事をとってその日も安静、翌日東京に戻り、直ぐ帰宅すればいいのに、切符を持っていたから、後楽園でカージナルス対全日本の野球一回戦を見た。寒い日で、最後まで見るには見たが、選手たちが投げたり打ったり走ったり、それを見るのは楽しいというよりつらかった。泥棒に感じたのと同じような感じがあって、それがつらかったのだ。

 

 その日をきっかけとして、心身の違和が何となく始まり、だんだん増大して、正月頃には最高潮に達した。心身の違和と言っても、正月頃は心の方が八分、身の方が二分、あるいは九分一分の配分で、気分の方が参ってしまったのである。常住坐臥(じょうじゅうざが)死のことを考えている。死について哲学的省察をめぐらしているのではなく、もっと低次元でそいつとつき合っているのだ。死についていくら考えたって、結論は出ないことは先刻御承知だけれど、向うから忍び入って来るからかなわない。

 この状態はよくない。放って置けないと考えたのが大晦日で、明けて一月三日友人の神経科の医師広瀬君の家に相談に行った。私の訴えを聞いて、広瀬君は即座に言った。

「入院するんだね。それも直ぐ」

 直ぐと言ったって、こちらにも仕事がある。仕事が終るのが五月初旬、その頃入院ということにして、それまで薬でつなぐことにした。四箇月間薬で持ちこたえられるかどうか、自信はなかったけれども、そうするより仕様がない。幸い今(四月二十日)まで持ちこたえたから、あとはどうにかやって行けるだろうと思う。

 それから私は来訪者たちに私の病状を詳述し(いくらか誇張して)PRを依頼した。こんな病気は、ひっそりと病んでいるのは面白くない。あまねく人々に知らせて、同情されたり、あるいはざまあ見やがれと思われたりする方が、心に緊張を与えて、精神衛生上有利であると判断したからだ。そのPRはかなり成功した。ざまあ見やがれの方は測定出来ないけれども、同情票の方は言葉やはがきになって、具体的に相当集まった。

 ある人が言った。昔から四十二の厄年(やくどし)といって、その頃は身体の調子のかわり目で、何かが出て来るんだよ。君は厄年にしては少しひねてるけれども、人間の寿命が一般に伸びたから、現代はひねた加減のところで出て来勝ちなものだ。野球で言うと、二塁の曲り角にさしかかったんだね。

 二塁の曲り角か。私は訊(たず)ねた。すると三塁は? 三塁は六十前後に来るそうだ。ではそのあとは? あとはホームまで一直線さ。なるほど、なるほど、あとはホームインまで一直線かと、私は了承した。すると一塁は?

「一塁は青春だよ」

 というのが、その男の答えであった。そういえば私にも思い当る節がある。私は大学に入った時から卒業までの四年間、心身の違和(これも心の方にウェイトがかかっている) が続いて、学校には出席しないし、被害妄想もあって、それで下宿の婆さんを殴(なぐ)って怪我させて、留置場に入れられたことなどもあった。たしかにあれが一塁の曲り角だったに違いない。その頃の日記を読むと、ほとんど毎日のように「荒涼として死の予感あり」だとか「暮夜眼覚めて死をおそるることしきりなり」とか、そんなことばかり書き連ねている。荒涼として死の予感があった青年が、別段病死もせず自殺もせず、のほほんとこうやって生き伸びているのだから、笑わせるようなものだが、やはり心身の違和を、若さで押し切ったのだろう。

「とうとうわしも二塁の曲り角まで来たか」

 と、ある晩お酒を飲み、少し酔って書斎にひとりで坐り、そう呟いた。「僕」という呼称のかわりに「わし」というのが、自然に口から出た。そこでも少し、いろいろ使ってみた。

「わしは哀しい」

「わしは飢えている」

「わしは背中がかゆい」

 わしという呼称は、作中人物に使わせたことはあるが、自分で使ってみるのはこれが初めてである。他人が使っているのを時々聞くと、イヤ味なものだと思うが、自分で使う分には、何だか勇ましいようなわびしいような、ちょっと趣きのあるものである。で、翌晩もお酒を飲んで(毎晩飲んでるみたいだ)うちのものたちを呼び集め、僕も二塁の曲り角まで来たから、以後僕はやめて、わしにしようかと思っていると相談したら、全員から猛反対を受けた。二塁如きでわしを呼称するのはまだ早い。それに近頃医業薬業の発達で、三塁の次はホームという形がくずれつつある。三塁の次に四塁、四塁の次に五塁と、次々に塁が続いているのが現状で、わしを使いたかったら、紀元二千年の祝典以後にしたらどうか、というのがうちのものたちの私への忠告であった。

 紀元二千年の祝典というのは、私が以前書いた随筆で、それに日本地区の文化人代表として出席したい、というようなことを記した覚えがある。今でも出席したいと本気で思っている。私は千九百十五年の生れだから、紀元二千年というと、八十五歳になる。そのくらいまでは生きられるだろう。歳も歳だから、私が団長ということになり、阿川弘之翁や有吉佐和子刀自(とじ)、それに私は外国語に弱いから通訳として遠藤周作老などを引具し、祝典の場所に出かけたいと思っている。どこで祝典が行われるか、やはりその時にならぬと判らない。

 で、そういうわけで「わし」もあと四十余年経たぬと、使えないことになった。当分は僕一本槍だ。

 とにかく来月には仕事が終り、入院する。この四五箇月、外歩きをしないで、家にこもってばかりいたので、身体が少々退化した。先日近所の靴屋に足の文数を取らせたら、十文二分になっているのには驚いた。軍隊にいた時は十文七分あったのだから、五分も退化したというわけになる。まだ若いんだから、本式の退化ではないだろう。運動不足から来る一時的現象に違いない。幸い今度の病院の療法は、あらゆるストレスを一応御破算にして、振り出しのところに戻す療法だそうで、退院の暁は大いに運動だの登山だのをして、足の文数だって十一文ぐらいにはなりたいものだと思っている。そうでないと、団長なんかつとまりそうにもない。

 

[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年六月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。第二段落の冒頭の「昨年」の後には「(昭和三十三年)」というポイント落ちの割注が入っているが、これは底本編者の挿入と断じ、除去した。また、私は囲碁の趣味はなく、野球はルールも知らない。従ってその部分の注は一部を除いて附さないこととする。悪しからず。本作は一読、幾つかの実体験シチュエーションが遺作となった「幻化」(リンク先は私の全注釈PDF縦書版)に忠実に活かされていることが判る。彼の精神病院入院と睡眠療法については私のノイローゼ闘病記などで何度も注しているので割愛する。実際、ここに出る内容や語句・人物はかなり重複する。そちらの私の注を参照されたい。

「エス」私が昭和三九(一九六四)年頃に飼っていた柴犬の雑種は「エル」という名だった。1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エルを参照されたい。私が名付けたのだが、これは小学校二年の「国語」の教科書の冒頭の道徳染みた説教臭い物語に登場するスピッツの名だったと記憶している。

「このカロのことについても、私はずいぶん原稿料を稼いだ」「猫の話」(昭和二三(一九四八)年作)・「カロ三代」(昭和二七(一九五二)年作)などを指す(リンク先は私のブログ版テクスト。それぞれPDF縦書版も用意してある。私の「心朽窩旧館」をどうぞ)。特に、「カロの身体からその瞬間、生命が去って行った、という実感がその時私に来た。つまり動かなくなったそこにあるものは、カロ、マイナス生命、という具合に感じられただからそれは不気味でなかったのだ」(下線やぶちゃん)という述懐はかの名作「猫の話」を読解する上で非常に重大な作者の発言である点に注意されたい。

「秋野卓美」(大正一一(一九二二)年~平成一三(二〇〇一)年)「立軌会」同人の画家。元「自由美術協会」会員。より七つ年下。「カロ三代」にも登場するちょっとエキセントリックな人物である。梅崎春生は、彼とかなり親しかったようである。

「カージナルス対全日本」昭和三三(一九五八)年に行われたセントルイス・カージナルス対全日本戦。セントルイス・カージナルス(St. Louis CardinalsSTL)は現在のメジャーリーグ・ベースボールのナショナル・リーグ中地区所属のプロ野球チームで。本拠地はミズーリ州セントルイスにあるブッシュ・スタジアム(ウィキの「セントルイス・カージナルス」に拠った)。これはカージナルスの初来日で、全日本は二勝十四敗。メジャーでは下位チームであったが圧勝した、とある(ここは「日米野球の歴史」の解説に基づく)。

「紀元二千年の祝典というのは、私が以前書いた随筆で、それに日本地区の文化人代表として出席したい、というようなことを記した覚えがある」不詳。発見し次第、追記する。

「私は千九百十五年の生れ」大正四年二月十五日生。因みに月日は私の生年と同じである。

「紀元二千年というと、八十五歳になる。そのくらいまでは生きられるだろう」残念なことに梅崎春生はこの執筆から六年後の七月十九日午後四時五分、肝硬変のために東京大学病院上田内科にて急逝した。満五十歳五ヶ月であった。

「阿川弘之」(大正九(一九二〇)年~二〇一五年)。春生より五つ年下。ここに出る中では彼だけが紀元二〇〇〇年を越えて生きた。

「有吉佐和子」(昭和六(一九三一)年~一九八四年)。春生より十六つ年下。

「刀自(とじ)」ここは老女の尊称。

「遠藤周作」(大正一二(一九二三)年~一九九六年)。春生より八つ年下。

「来月には仕事が終り、入院する」昭三四(一九五九)年五月に台東区下谷にある近食(こんじき)病院に入院、七月に退院した。

「十文二分」二十四・三三センチメートル。

「十文七分」二十五・五センチ。

「十一文」二十六センチ。]

諸國百物語卷之二 十二 遠江の國堀越と云ふ人婦に執心せし事

     十二 遠江の國堀越(ほりこし)と云ふ人婦(よめ)に執心せし事



Horikosiyomesyuusin

 遠江の國に、堀越の何がしと云ふ人、有りけるが、年十六にて男子(なんし)を一人もうけゝるが、ほどなく此子、十六才になりければ、妻をよびむかへける。そのとき、堀越は卅歳にてありしと也。このよめ、みめかたちうるはしく、よろづ、さいかくなる女なれども、堀越は、あふても、物をも、しかじかいはず、さしうつむきてゐけるほどに、みな人、ふしんして、

「此よめ、御きに入り申さぬにや」

と、とへば、

「いや、ふうふのあいださへよくは、別のこと、あらじ」

と云ふて、三年があいだ、なにとやらん、ふらふらと心地あしくみへて、しだいにわづらひおもくなりければ、婦(よめ)も、

「御見まいに、まいらん」

との給へば、

「見ぐるしき病人の床(ゆか)へ、かならず、むよう也」

とて、あたりへ、よせつけず。今はのときにをよびて、よめ、堀越のまくらもとにより、手あしをさすりて、かんびやうせられけるほどに、しうとめもつぎの間にいで、すこし、くつろぎ給ふが、しばらく有りて、おくに、何やらん、屛風、しやうじに、はらはらと物のあたるをと、しければ、みな人、ふしぎにおもひ、ゆきてみれば、堀越、蛇(じや)になりて、よめを三まとい、まとゐけるが、あしもとより、水、ざゝ、と、いで、その屋敷、ふちとなり、よめともに、しづみぬ。ちかきころまで、天氣よきときは、堀越が池のなかに家のはしらなど、みへけると也。今は蛇身(じやしん)もすまざるにや、ふちもあさく、ちいさくなりけると也。

 

[やぶちゃん注:エンディングの話者の現在時制の映像が、何やらん、時経た、物の怪の夢の跡の荒んだる寂寥を感じさせるのが、これ、上手い。挿絵の右キャプションは「婦にしう心をせし事」。

「堀越」人名であるが、古くは有力豪族の姓は同時に地名でもあった。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『現在の静岡県袋井市堀越町あたり。かつて今川了俊の所領で、今川屋敷が有名』とある。現在は「袋井市堀越」で「町」はつかない。今川了俊(りょうしゅん)は鎌倉後期から南北朝及び室町初期の武将で守護大名の今川貞世(嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年)の法名。歌人としても知られた。調べてみると、本祖今川氏の居館は静岡県藤枝市花倉字寺屋敷であるが、この「堀越」(高田氏が注で「今川屋敷」と称するもの)は静岡県袋井市堀越字城山にある、この今川了俊を祖とする遠江今川氏の居館居城である、今川仲秋の屋敷堀越館跡・堀越城跡(有意な遺構は残っていない)のことである。PEI氏のサイト「城郭放浪記」の遠江・堀越城を見ると、天文一二(一五三二)年に『今川義元が西楽寺』(袋井市春岡)『に与えた安堵状に地頭堀越貞基の名が残り、この堀越氏は遠江今川氏の末裔である』とされ、同地に現存する『海蔵寺に「堀越藤左ヱ門」という墓があるが堀越氏の一族であろうか』と記されており、本話柄の堀越氏のモデルの一族である可能性が高い感じが強い。但し、この海蔵寺にはまさに始祖今川了俊の墓が現存する(一紋龍史進氏のサイト「城逢人きほうじん」の袋井市の城館冒頭の「堀越館」を参照されたい)。

「みめかたちうるはしく、よろづ、さいかくなる女」「見目形麗しく、萬、才覺なる女」。容姿端麗にして、万事、何事にも気の利く才媛。

「しかじかいはず」この「しかじか」は呼応の副詞として使い、「ろくに挨拶もちょとした言葉も掛けず」の意である。

「よくは」「良くば」。良いのなら。ここが順接の仮定条件であるところが、心理学的には面白いと私は思う。

「むよう」「無用」。

「今はのときにをよびて」「今はの時に及びて」。歴史的仮名遣は誤り。今際(いまわ)の際(きわ)という期(ご)に至ったによって。

「かんびやう」「看病」。

「せられける」この助動詞「られ」は可能(やっと看病することが出来る・許される)或いは自発(末期となればこそ自然、看病しないではいられない)の意である。

「しうとめ」「姑」。義父堀越の妻。

「はらはらと物のあたるをと」このSEは、水の当たる擬音ではなく、大蛇の逆立った鱗が屏風や障子に当たる「ぱらぱら」というそれととってこそ、ホラー効果抜群と言いつべし!

「三まとい、まとゐける」二箇所とも「まとひ」が歴史的仮名遣としては正しい(後者はまとひ居(ゐ)ける」の誤記かも知れぬ)。挿絵に見るように、息子の嫁を中にして蜷局(とぐろ)を三重に巻き込んで、巻き纏い締めているのである。]

2016/09/22

佐渡怪談藻鹽草 高下村次郎右衞門狸を捕へし事

    高下村次郎右衞門狸を捕へし事

 

 高下村の百姓、次郎右衞門と言もの有(あり)。或時相川へ内用事の有(あり)て出しが、用濟(すみ)て歸るに、途中より日暮(くれ)て、石花村を過(すぎ)、後尾村、影の神の磯なる濱邊を通りしが、薄月夜の事なるに、先へ女の壱人(ひとり)行けるを近寄(より)て見れば、小野見(おのみ)村のものなり。兼て見知りたる事なれば、疑(うたがひ)にあらねど、相川にて正敷(ただしく)見て來りと、

「譬(たとへ)、親里へ行く迚(とて)も、先へ行拔(ゆきぬく)べき筈なし」

と思ひしが、さあらぬ體にて、

「是が扨(さて)、小野見へこざるか」

といへば、成程

「小野見へ參ります」

と答ふ。

「扨も、能(よき)連(つれ)なり」

といへば、女言やふ、

「夜道にて、心細く思ひしが、御目に懸りて、心つよくなり候。御苦勞ながら、御連(おつれ)に被成下候得(くだされさふらへ)」

と、懇(ねんごろ)に賴みければ、

「いざ先立て、參られ候へ」

とて、先へ立せけるに、道十丁も行て、殊の外疲れたる體(てい)にて、歩行叶(かなひ)がたき樣なれば、

「如何せられ候哉。いと道の遲き」

といへば、

「されば、私は久敷(ひさしく)煩ひ侍りて、此程少し快よく候儀、里へ心さし出で候へ共、いかふ草臥(ふし)て、最早一足もすゝみ難(がた)く覺え候、先へ御越候得(おこしさふらへ)。私は御跡より、そろそろと參り、若(もし)やおくれ候はゞ、入川、千本のかたにて、何方にても泊り、明日參るべし」

といふ。次郎右衞門聞(きゝ)て、

「然らば、某(それがし)に負(おは)れ給へ」

といふ。女聞て、

「近頃、御嬉敷候得共(おんうれしくさうらへども)、餘り慮外に候へば、決(けつし)て御無用に被成下侯候得(くだされさふらへ)」

といへ共、次郎右衞門聞入ず、背負てゆく。猶、腰繩を出(いだ)して、しかと結び付れば、

「是は、何を仕給ふぞ」

といふ。

「是は、夜道といひ、某(それがし)宅へも今少しにして、もし落(おと)し、怪我抔(など)ありては、如何故(いかんゆえ)、念の爲にて候」

といふ。

「さらば、最早おろし給へ。ひらに」

といへ共、

「何か苦しからん。先(まづ)某(それがし)方へ伴ひ、湯茶にても參らせ、直(たゞち)に小野見へ送り可申(まうすべし)」

とて、負行(おひゆき)、我宿に至る。宿にては

「夜も更(ふけ)たり。相川に泊りたらん」

と、燈もしめし、門の戸しめ置(おき)しに、次郎右衞門聲して、

「門を明(あけ)よ。燈を燈(とも)せよ。御客のあるに」

といへ共、女房子共あわてゝ、燈とぼし、戸を明て、

「御客とは、相川より、何人を伴ひ給ふぞ」

次郎右衞門、女壱人負たり。樣子をしらねば、家内かたづを呑(のみ)て、見居たり。次郎右衞門いふ、

「先御客を火にあてん。裏に有松葉(まつばあり)、持てこよ」

といふ。頓(やが)て、持て參りければ、多く燒(やか)せて、扨、裏表の戸窓を能(よく)〆(しめ)させて、件(くだん)の女をおろし、

「いざ、火にあたり候得」

迚、頓(やが)て、煙にふすべければ、

「是は、あやまちし給ふな。我をいかに苦しめ給ふぞ」

と、罵りけるにぞ。

「憎し、己は、我を誰とか思ひて、騙かさんとせしぞ、早く尾を出さずんば、此火の中へ打込(うちこ)んで、殘さず燒盡(やきつく)すぞ」

といへば、頓(やが)て尾を出したり。扨こそとて、あぶりければ、大きなる古老の狸に成たり。

「以來、當村のものに、あたり候哉(さふらふや)、否哉(いなや)」

と、したゝめ、

「決(けつし)て當村の人には、あだをなす間敷(まじく)」

といらひ、詫(わび)ければ、

「さらば赦(ゆるす)ぞ。重(かさね)て、右の振𢌞(ふるまひ)などあらば、尋(たづぬ)る事なしに、焚火へ打込んで、燒果(やきはた)すぞ」

と言へば、首をたれて、飛行(とびゆき)ぬ。

「此次郎右衞門は、隨分したゝか成(なる)男なり」

と、或人の語られし。此人も、高下浦勤(つとめ)たりし仁なり。

 

[やぶちゃん注:「高下」以下三ヶ所とも底本では「下」の右に『(千カ)』という推定編者注が附されてある。この「高千」佐渡市高千(たかち)・外海府地区が現存する。ここは佐渡島の北部(大佐渡)の外海府海岸にあり、昭和三一(一九五六)年九月三十日に佐渡郡相川町に合併するまでは高千村・外海府村として存在した。しかし、現在の高千地区は南から、「南片辺(みなみかたべ)」・「北片辺(きたかたべ)」・「石花(いしげ)」「後尾(うしろ)」・「北川内(きたかわち)」・「北立島(きたたつしま)」・「入川(にゅうがわ)」「千本(せんぼ)」「高下(こうげ)」・「北田野浦(きたたのうら)」・「小野見(おのみ)」・「石名(いしな)」の全部で十二の集落から成り立っており、ここには「高下(こうげ)」という地名もある。底本編者は何故、ここではなく広域の「高千」を選んだものか? 以上は「佐渡市立高千中学校」公式サイト内のHPを参照させて戴いたが、まさに下線太字の地名が本篇には出てきている「高下(こうげ)」ではいけない理由が私にはよくわらない。識者の御教授を乞うものである。或いは最後に「高下浦勤」とあるから、旧「高下(こうげ)」部落は海に面していない内陸であるのかも知れぬ。それなら腑に落ちる(旧集落の位置までは調べ得なかった)。なお、相川からは海岸線を辿ると、相川から現在の地区境界の南の端まででも二十二キロメートルはある

「内用事」ごくプライベートな内々の用事。

「影の神」大佐渡の海府南部にある岩礁性海岸に突き出た巨大な岩塊(歩いて渡れる)。金北山の祠の影がここに映ることに由来するという。「佐渡ジオパーク推進協議会」公式サイト内のこちらで写真が見られる。

「相川にて正敷(ただしく)見て來り」今日の昼間に相川の町中で確かに見かけた。

「十丁」約一キロ強。

「里へ心さし」実家へと挨拶に行かんと思い立って。

「いかふ草臥(ふし)て」「嚴(いか)う草臥(くさぶ)して」の歴史的仮名遣の誤り。「いかう」は形容詞「いかし」の連用形「いかく」のウ音便で、「はなはだ・ひどく」の意、後の「くさぶして」は「くたぶれし」で「草臥(くたび)れた・疲れた」の意である。

「慮外」思いがけなくも有り難いこと(この義も「慮外」にはある)乍ら、それは如何にも貴方さまにはぶしつけ・無遠慮。無作法に過ぎること(なれば)、というのである。

「といへ共」「共」はママ。「といへば」とあるべきところ。

「騙かさん」「たぶらかさん」。

「あたり」接触して探りを入れ(ひいては誑(たぶら)かそうと画策し)。]

譚海 卷之一 壽老人畫の事

壽老人畫の事

〇華人(くわじん)壽老人(じゆろうじん)の畫には、四邊に五色の蝙蝠をゑに書(かく)事也。又祝儀の畫には蜂と猴(さる)とをゑがく也。封侯のこゑを尊(たつと)むゆへなりとぞ。

[やぶちゃん注:「華人」中国人。

「壽老人」「蝙蝠」ウィキの「寿老人」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『道教の神仙(神)。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)』(Canopus:竜骨座α星で同座の中で最も明るい恒星であるが、本邦では東北地方南部から南の地域でしか観察出来ず、見える地域でも南の地平線・水平線のごく近くで、肉眼による視認は大気汚染などによって年々難しくなっている。私も数度しか見たことがない)『の化身とされる。七福神の一柱』。『真言(サンスクリット)は、「オン バザラユセイ ソワカ」(普賢菩薩の延命呪と同じ)』。酒を好み、『頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入る。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている』。「七福神」を解説したサイトの「鹿を伴った寿老人と藤原氏の謎」によれば、『日本人にとつて、寿老人は福禄寿よりさらに馴染みの薄い神である。次項の自家(自髭)神社を別にすれば、寿老人を主祭神とする神社は、日本に一つもみられない。室町時代に中国文化にあこがれる禅僧が、福禄寿と寿老人の信仰を取り入れた。しかしこの中国人に人気のあった二柱の神様は、日本では禅寺の外にはほとんど広まらなかった』。『そのため七福神巡りの時に、寺院が本尊とは別に祭る福禄寿像や寿老人像を拝むことが多い』。『寿老人は杖を持ち、杖に巻物をぶら下げている姿に描かれることが多い。この巻物は「司命の巻」と呼ばれる一人一人の人間の寿命を記したものだといわれている』。『中国の寿老人の絵に、蝙蝠と鹿が添えられていることが多い中国の蝙蝠の蝠(ホ〔フク〕』)『の音が福(ホ〔フク〕と同じで、鹿(ロク)と禄(ロク)の音も共通する。そのために蝙蝠や鹿は、福をもたらす縁起の良い生き物とされた』(下線やぶちゃん)。『日本には蝙蝠を好む風習はみられないが、鹿は春日大社(奈良市)や鹿島神宮(茨城県鹿島市)の神様の神使とされていた。春日大社は、朝廷で最も有力な貴族である藤原氏の氏神で、日本国内に多くの分社をもつ』。『春日信仰をもつ人びとが、鹿を従える寿老人に親近感を感じ、寿老人を福の神として重んじる集団の中心となったのであろう。しかし個性のないありふれた上品な老人の姿をした寿老人は、印象が薄かった。そのため寿老人が庶民に馴染み深い福の神となっていくのは、江戸時代に入ってからであると考えてよい』とある。なお、同サイトには福禄寿と寿老人は混同されながらも、別々の神として日本に入ったのはなぜ?というページがあり、そこには以下のようにある。北宋の元祐年間『』(一〇八六年~一〇九三年)に、『老人星の化身とされる一人の老人が都(開封)に現われたと伝えられている。その老人は身長がわずか三尺』(九十センチメートル)『で、体と頭とが同じ大きさであったという』。『老人は整った顔で長い髯を生やし、市に出て占いをして生計をたてていた。銭が入ると、酒代にした。老人はしばしば自分の頭を叩いて、「我が身は、寿命を益する聖人である」と言っていたという』。『老人の名前は、伝わっていない。しかもこの占いをした老人の伝承の、どこまでが事実であるかも明らかではない』。『しかし「私は南極星の化身である」と自称する異相の老人が存在したことに』よって、『福禄寿信仰が起こった可能性は高い。彼がのちに信仰の対象とされて、北宋後の南宋』時代(一一二七年~一二七九年)『あたりにその不思議な老人をもとにした福禄寿の絵が描かれるようになったのであろう』。『道教の開祖である老子は、中国で広く祭られていた。この老子が、仙人になって不老不死になったとする伝えもあり、老子は長寿をもたらす神としても祭られた。そのため老子の信仰と南極星の信仰とが融合して、寿老人という神がつくられた。寿老人像は老子像に似た、長い髯の上品な老人の姿に描かれた。北宋の時代に、寿老人が開封に現われたとする次のような伝説もある』。『「開封の町にただ者と思えない神々しい威厳を持つ老人が現われたので、皇帝が宮殿に招き入れた。そうしたところ老人は酒を七樽も飲み干して姿を消した。皇帝が不思議に思っていると、翌日になって天文台の長官が、『昨夜、南極星が帝星のそばで見えなくなった』と報告してきた』。これによって『皇帝は、先日の品の良い老人が寿老人であると知った」この話は後世の人間が、寿老人の権威を高めるために創作したものであると考えられる』。『鎌倉時代の日本の禅僧は、南宋のさまざまな文化を学んでいた。中国の南宋代に別々のものとして祭られていた福禄寿と寿老人の信仰は日本ではまず南宋との関わりの深い禅寺に伝えられ』、『福禄寿は室町時代に七福神とされたが、寿老人はそれより遅れて江戸時代なかば過ぎに七福神に加えられた』と解説されてある。ウィキの福禄寿の方を見ると、『中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化した一幅の絵などが作られ広く用いられた』(下線やぶちゃん)とある。本邦富岡七十九歳時の「寿老図」であるが、蝙蝠がはっきりと見える。

「蜂と猴(さる)」「封侯のこゑを尊(たつと)む」ブログ「鳥獣画家・佐藤潤の世界」の猿猴図(桜と猿と蜂)に佐藤潤氏御自身の素敵な絵とともに、『猿と蜂の組み合わせは立身出世の組み合わせです』。『中国では「猿」は「猴」とも書き、音が「侯」に通じ』、『「蜂」の音は「封」(領地を与えられ爵位を受けること)に通じますので「封侯」(侯に封ぜられる=出世)の意味となるのです』と解説を附されておられる。]

譚海 卷之一 太神樂者巫女關八州支配の事 附東照宮御影の事

太神樂者巫女關八州支配の事 附東照宮御影の事

○太神樂(だいかぐら)の者巫女(みこ)の類は、關八州(くわんはつしう)徘徊の分は淺草三社權現神主(かんぬし)田村八太夫支配也。西國の事はいかゞあるにやしらず。右三社權現の内陣に、東照宮の御影(みえい)有(ある)由田村氏の物語也。又淺草御藏前(おくらまへ)西福寺にも東照宮の御影あり。毎年三月・十月十七日に拜まする、諸人參詣拜禮す。尊影は甲冑の畫也とぞ。

[やぶちゃん注:「大神樂(だいかぐら)の者」元来は、伊勢神宮へ一般の参詣人が奉納する神楽で、御師(おし)の邸内で行われたもので、「大神楽」「代神楽」「太太(だいだい)神楽」などとも書いたが、それから転じたものが江戸時代には大道芸となっていた。最初期には伊勢神宮や熱田神宮の下級神官が全国各地を巡っては神事としての獅子舞い(二人立ちの獅子であるが一人立ちで舞うことも多かった)を行う伊勢神宮の宣伝班のようなものであったものが、さらには獅子を舞わせて「悪魔払い」「火伏せ」などを祈禱を行い、ひいては曲芸や狂言風の掛合芸などを演ずるようになって、庶民の人気を呼んだ。

「巫女(みこ)」ここは中世以降の「渡り巫女」「歩き巫女」のこと。ウィキの「巫女によれば、『祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる』。『旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではな』く、一部は『後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた』とある。

「關八州」江戸時代の関東八ヶ国の総称。相模・武蔵・安房・上総・下総(しもうさ)・常陸・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)。

「淺草三社權現」現在の東京都台東区浅草にある浅草寺(せんそうじ)本堂右隣の浅草(あさくさ)神社の通称。ウィキの「浅草神社」によれば、「三社」とは『浅草神社の草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)』、『檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった』とあり、『現存の社殿は徳川家光の寄進で』慶安二(一六四九)年に完成したものと記す。東照宮の浅草寺境内(神仏習合)への勧請自体は元和四(一六一八)年である。

「田村八太夫」彼はこうした神事舞(じんじまい:神事として行われる舞い。鎮魂を目的とする神楽のなかの禊・祓い・神おろし・託宣の舞お、或いは神の霊験を具象化した舞い、悪魔払いの舞い,田植神事に於ける農耕の予祝祈願の田楽から、悪霊・怨霊の鎮魂や魂送りのための舞い、降雨祈願の舞いなどを広汎に含む)の東国での総支配の地位にあったらしい。「巫研 Docs Wiki」の中山太郎氏の「日本巫女史」関東の市子頭田村家の消長の「一 田村家の由来と舞太夫」に詳しい。

「御影(みえい)」ここは神格化された貴人の肖像。「ぎょえい」「ごえい」「みかげ」とも読む。

「西福寺」現在の東京都台東区蔵前にある浄土宗東光山松平良雲院西福寺西福寺。元は松平家・徳川家発祥の地である三河国松平郷(現在の愛知県豊田市)にあったが、家康の関東入府の際、現在地に移転したとされる。江戸浄土宗の随一とされ、千駄ヶ谷に百石の御朱印を受けていた。家康の側室於竹の方の墓もここにある。]

甲子夜話卷之二 17 石河氏藏、虞世南眞蹟の事

2―17 石河氏藏、虞世南眞蹟の事

御使番勤し石河某の家に、唐虞世南の眞蹟一卷ありて、其至寶なることを知らずして、舊紙の中に廢棄してありしを、或時識る人ありて賞鑑せしより、甚貴重の品となれり。これに因て、水戸黃門治保卿、其書を乞求玉ひしかども奉らず。竟に其本を臨摹せられしと聞ぬ。因て其書を見んことを思へど、由なくて過ぬ。一日登城のとき、福山世子【主計頭、阿部正精、今備中守】に逢、此事を語しに、主計頭やがて手寄もとめ借得られ、其書見よとて持たせこされぬ。其折、簡に、盧世南眞蹟一卷、道本附錄二卷、電矚に呈す。盧が書は贋と思はる。予は模寫の念無しとなり。予其卷を展るに、世古く識べきならねど、盧が筆跡とは拙眼にも覺へず。其卷首に、原知己之時義故相知之徒とありて、末に沒要離之側以膠投漆中離婁豈能識貞觀九年八月虞世南書として印記あり。其奧に紫芝山人兪和と雲林生傀との文あり。又卷外に二軸を附す。支那沙門道本鑑定の書なり。享保十年歳在乙巳季夏上院、謹書於竹林蘭若とあり。其一は知己賦の注略なり。終に跋あり。支那沙門寂傳道本として印記二つあり。後人この世南の書を聞及び、見んと思ふものあるべしと記し置ぬ。

■やぶちゃんの呟き

「石河氏」「御使番勤し石河某」不詳。「石河」は「いしこ」と読む可能性もある。「御使番」は、元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣格で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』とある。

「虞世南」(ぐせいなん 五五八年~六三八年)は名書家で初唐三大家(唐の第二代皇帝太宗に仕えた書の大家三人。彼と歐陽詢(おうようじゅん)・褚遂良(ちょすいりょう)を指す)の一人。越州余姚 (よよう:現在の浙江省) 出身。六朝の陳の時代から書と学才で知られ、初め隋の煬帝 (ようだい) に仕えたが重用されず、後に唐の太宗に仕え、信望された。楷書を得意とし、その書風は「君子の書」と称された。代表作「孔子廟堂碑」(大学時代の「書道Ⅰ」の夏の宿題は、これと欧陽詢の「九成宮醴泉銘(きゅうせうぐうれいせんめい)」の全書写だった)。

「識る人」書の目利き。

「甚」「はなはだ」。

「水戸黃門治保卿」水戸藩中興の祖とされる水戸藩第六代藩主水戸黄門徳川治保(はるもり 寛延四(一七五一)年~文化二(一八〇五)年)。知られたかの第二代藩主水戸黄門徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)とは別人なので要注意。ウィキの「徳川治保によれば、彼は『光圀にならって学問奨励にも尽力した。停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、治保自ら学者とともに、毎朝『大日本史』の校訂作業にあたったという。また藩士に対し、城内で彰考館の学者による講義を始めたり、学力試験を試みるなど、学問重視の姿勢を明らかにしている。町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てている。加えて、立原翠軒ら彰考館の総裁』三名を『政治顧問として、実際の政治に学者の意見を反映させようとした。こうした空気のもと、翠軒やその門下の幽谷などが、農村復興の政策や蝦夷地での対ロシア政策など、藩内外の問題にも積極的に発言するようになっていく。 治保自身も優れた文人』として知られた、とある。なお、「水戸黄門」とは水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名であって固有名詞ではない。初代藩主で光圀の父である徳川頼房以下「水戸黄門」は全部で七名も存在するのである。

「乞求玉ひ」「こひもとめたまひ」。これは明らかに、譲ってくれと乞うたのである。しかし、頑として拒絶した(なかなか石河某、いいじゃない!)から仕方なく、「臨摹」したのである。

「臨摹」「りんも」。「臨模」「臨摸」などとも書く。厳密には、中国での書画の模写の手法の一つで「臨」は原物を傍らに置いて、その形勢を写す「臨写」、「摹(も)」は原物の上に薄い紙を置いて透写(すきうつ)しをする手法を指す。

「因て其書を見んことを思へど、由なくて過ぬ」とは筆者松浦静山自身のことである。

「一日」「いちじつ」。ある日。

「福山世子【主計頭、阿部正精、今備中守】」「主計頭」は「かずへのかみ(かずえのかみ)」と読む。備後福山藩第五代藩主阿部正精(まさきよ 安永三年(一七七五)年~ 文政九(一八二六)年)。老中(文化一四(一八一七)年~文政六(一八二三)年)ウィキの「阿部正精」によれば、『江戸駒込藩邸内に学問所を設置したり、民間救済機関で文化教育に取り組む「福府義倉」を援助し、朱子学者菅茶山に歴史書「福山志料」の編纂を命じているなど、文化政策に熱心であった。そのため、文化の興隆は阿部期の福山藩で最盛期を迎え、自身も多くの書画を残した』とある。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五歳年下。「今」とあり、静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)であるから、正精の存命時の記載であることは判る。しかし、名目官位の「主計頭」を示しながら、どこにも「老職」と記していないところをみると、静山のこの件の原記載(メモ)は老中に就任にした文化一四(一八一七)年より前か、或いは老中を辞任した後文政六(一八二三)年以降ということになる。しかし、静山は老中職であったものには必ず「老職」と記しており、登城の際というシチュエーションからは、前者である可能性が高いか。識者の御意見を乞う。

「手寄」たより。知るべの協力。

「簡」手紙。添えられた阿部正精の書状。以下の「盧世南眞蹟一卷、道本附錄二卷、電矚に呈す。盧が書は贋と思はる。予は模寫の念無し」がその文面である。「道本」は後の「又卷外に二軸を附す。支那沙門道本鑑定の書なり」から、江戸中期の黄檗宗の清からの渡来僧である黄檗道本(一六六四年~享保一六(一七三一)年)のことである。彼は福建省福清県生まれで。姓は陳、道本は道号、法諱を寂伝(後に「支那沙門寂傳道本として印記二つあり」とあるのと一致)。一七一九年に渡来して長崎崇福寺六代住持となった。渡来前より詩名高く、広く文人墨客と交遊、また書も能くし、中国古来の伝統書風を伝えているという(思文閣「美術人名辞典」に拠る)。「電矚」は「でんしよく(でんしょく)」で「披見」の敬語である「御高覧」の意(「矚」は「見る」)。

「展る」「のぶる」。広げる。

「世古く識べきならねど」「よ、ふるく(を)しるべきにあらねど」。私は古えの世の事物についての、深い見識は全く持ってはいないけれども。

「原知己之時義故相知之徒」私には読解出来ないので、中国語の堪能な教え子に今、以来したところ、これと次は、南朝の梁の文学者任昉(じんぼう)の「答陸感知己賦」(「陸知己に感じて答ふるの賦」と訓ずるか)に出ることが判明、その教え子によれば「もともと自分を知っている時、つまり無二の友人であった時があったので、そのゆえにお互い、わかり合う間柄である」という意であるとのことである。

「沒要離之側以膠投漆中離婁豈能識貞觀九年八月虞世南書」同前の教え子の訳。「その傍らを離れようとしないその状態は、膠(にかわ)を漆(うるし)に放り込んだような状態であり、何度引き離そうとしたところで、どうして二人を識別することができようか、いや、できはしない」という意味だそうである。教え子に深謝!

「紫芝山人兪和」「ししさんじんゆわ」。不詳。サイト「浮世絵文献資料館」内のこちらの「陳居中(ちんきょちゅう)」「鬼子母神図」巻子本(文化二(一八〇五)年・聖福寺所蔵)の「跋」にこの名が出ている。

「雲林生傀」「うんりんせいかい」。不詳。

「享保十年歳在乙巳季夏上院、謹書於竹林蘭若」「享保十年、(太)歳は乙巳(きのとみ)に在り。季夏(きか)。上院。謹んで竹林蘭若(らんにや)にて書す」と読むか。「享保十年」は乙巳でグレゴリオ暦一七二五年、「歳」は歳星(木星)を指し、木製は十二年弱で一巡することから、古くは干支年の基準とされ、年を示すに「太歳は○○に在り」という書き方で何年であるかを示した。「季夏」は旧暦六月(水無月)の異名で夏の末に当たる。「上院」は恐らく「上寅」で、月の初めの最初の寅の日のことであろう。調べると、享保十年の十月の最初の日は十月二日丙寅(ひのえとら)である(グレゴリオ暦では一七二五年十一月六日)。「蘭若」は「阿蘭若」の略で寺院のことである。「竹林」は竹林寺で固有名詞かも知れぬが、京都を始めとして複数あるのでこれでは比定出来ない。

「知己賦の注略」前の注に示した任昉作「答陸感知己賦」の略注という謂いであろう。

佐渡怪談藻鹽草 靈山寺に大百足出し事

     靈山寺(れいざんじ)に大百足(むかで)出(いで)し事

 

 享保巳の年の程ならん。神無月の初(はじめ)、磯洋にめでゝ、仁木孫太郎【後に門右衞門秀致と言】同權太夫【後久左衞門備寛と言】兄弟一僕を倶して、吹上の方へ、磯釣にまかりけるが、暫く釣竿を下し、いまだ魚の一ツも釣得ざるうち、海の上くろみ、北風烈敷(はげしく)吹來て、興も盡(つき)ければ、

「いさや、百姓町邊へ立歸(たちかへり)居て、氣色の荒增らば、ひたすらに歸りてん、若(もし)風止(やみ)雲も晴(はれ)なば、今一度竿を下して」

抔(など)いゝて、そこそこに調度したゝめて歸り、百姓町なる靈山寺に立寄(たちより)ければ、猶更、風雨烈敷(はげしく)吹(ふき)て、歸路も叶ひ難く、彼(かの)寺に暫く雨やどりして居たるに、庫裏より白髮の老人出て、たばこの火、茶抔すゝめ、

「住僧は、檀用に出られぬれど、御心なく、雨を晴(はら)し給へ。見苦敷(ぐるしく)候得共、庫裏への柴火にあて申(まうし)たし」

などゝ、念頃(ねんごろ)に饗應(もてなし)けるより、

「いざ」

迚(とて)、庫裏へ行(ゆき)て、ともに圍爐裏(いろり)取(とり)まき居たるに、彼(かの)老人語りけるは、

「此靈山寺に、『大百足住(すみ)居ける』と人每(ごと)に聞(きゝ)傳へたる斗(ばか)り、誠の蜈蚣(むかで)を見し人は、當時に此老人壱人(ひとり)、今は生殘(いきのこり)候程に、御夜咄の種に語(かたり)て聞(きか)せ申(まうす)べし。年號抔は忘れしが、思へば、七十年も昔なるべし。

 此翁五六歳の頃ならん。當寺へ手習にあがりて、同志も七八人にて、其頃の住僧、小兒を愛せられしより、手習の時刻過ても、皆々打より三ツ文學くさり、謎々抔の戲れに集(あつま)りぬるが、時節は初冬の頃にて、刈柴を高垣に繕ひ添へ、風をいとふ助とするに、其日も空くらみ、今日抔のごとく、濱風吹添(ふきそへ)たるが、いとゞ夕日も

『今や浪に落(おち)なん』

と思ふ頃、曇りて影も見へず、寺内は燈火たてゝも能(よき)程成(なる)が、座敷の次の明り障子赤く照りて見へければ、住僧打(うち)驚き、垣にゆひそへたる柴に徒ものゝ火や付(つき)てしも、あわて出て見れば、左はなくて、寺の後なる高き岩山の半過(すぎ)立(たち)登りて、橫に缺け込(こめ)たる樣に見べし處へ、ころの岩かどより、筋かひて四五間の間、大きなる百足、長さは知れず、幅は背の黑き處、弐尺餘りもあらん、と見えけるは、手は甚だ赤く、びらびらと餘光ありて、言(いは)ん方なく恐ろしきさまなれば、住僧走り入りて、件(くだん)の小兒共を、皆々つれ出て、

『語り種に能く見よ』

とて、見苦識(ぐるしき)體(てい)を見居たり。次第に奧の方へ入(いり)けり。當村の内にも、其時見たる人、五七人も有りけるが、十年斗(ばかり)先迄は、生(いき)殘りたるものもありしが、今は、此老人斗りにて候。其節、住僧の語られしは、

『六七十年は以前、大百足出たるよし、傳へ聞(きゝ)し』

など言れしをおもへば、最早六七十年𢌞りなれば、近年の内、又出候わん時、此物語、思(おぼ)しめしあわせ給へ」

となん語りぬ。

 

[やぶちゃん注:「靈山寺(れいざんじ)」浄土宗海岸山霊山寺。廃寺となって現存しないが、現在、ここ(佐渡市下相川の旧石切町内。石切町は、既に述べたが、金を含む岩石を擂り潰すための臼を作る石を切り出す石屋集団が居住していた)には百足山神大権現(百足神社)が建っている。ブログ「佐渡の翼」の「とある旅人」氏の投稿になる「百足山神社(佐渡下相川)」動画を見られたい。旧相川地区の寺社調査」(PDF)の「百足神社」によれば、明治一六(一八八三)年に県令に提出された「神社明細帳」に「安永三年九月朔日旧霊山寺の後の山石穴より一丈余りの百足出現せしにより鎮祭せし旨。従前見上権現と称し来る処』、明治一一(一八七八)年七月に改称したとある。現在の県道下相川の集落の外れのカーブから見上げた岩山の中段にある。

「百足」民俗学を学んだ人はピンとくるのであるが、百足は金を始めとする鉱物採取(個人的にはムカデの生態及び坑道の長く蜿蜒と続く支柱が百足の形状に酷似するとする説を私は強く支持している)や採取後の金属精錬の技術を持った集団との連関が非常に強い。ここ(佐渡金山跡の西直近である)ならではこそ、大百足は出現する、彼は物の怪ではなく、ある意味、金をシンボライズする聖獣なのである。お前の考えは眉唾だという輩のために、ウィキの「ムカデ」から以下を引いておこう。「甲陽軍鑑」に『拠れば武田家の金掘り衆は、トンネル戦法を得意とする工兵部隊で、百足衆と呼ばれたとも言われる。大蛇が河川を象徴し、砂鉄の採集や製鉄の技術者集団を表すことと比して、ムカデは地下坑道を掘り進み、自然金などの鉱石を採集する技術者集団を表しているという説がある』。

「享保巳の年」享保十年乙巳(きのとみ)。グレゴリオ暦一七二五年。

「神無月の初(はじめ)」新暦では一七二五年十一月上旬(旧暦十月一日はグレゴリオ暦で十一月五日)。

「磯洋」「いそひろ」と訓じておく。磯海。岩礁性海岸。

「めでゝ」磯海の景を好み、の意でとっておく。磯(釣り)に惹きつけられて、でも構わぬ。

「仁木孫太郎【後に門右衞門秀致と言】」既注。佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝の長男秀致。

「同權太夫【後久左衞門備寛と言】兄弟」仁木秀勝の次男で仁木秀致の実弟高田六郎兵衛備寛(のぶひろ)。底本の本間純一氏の解題に以下のようにある。

   《引用開始》

 説話の中に登場する人物の中でも、高田備寛は、説話の収集者を考察する上で、特に注目に値する人物である。高田備寛(?~安永二年・一七七三)は、仁木彦右衛門秀勝(「上山田村安右衛門鰐を手捕にせし事」「堂の釜崩れの事」)の次男(長男の仁木門右衛門秀致は「蛇蛸に変ぜし事」「霊山寺へ大百足出し事」に名がみえる) で、高田六郎兵衛意正(「百地何某狸の諷を聞事」)のあとを継ぎ、奉行所の役人となった人物である。宝暦六年(一七五六)、佐渡奉行石谷清昌の命により、佐渡の実状把握のための文書である『佐渡四民風俗』 を編集した人物として知られる。塵竹と号して、俳詰も噂んだ。元文四年(一七三九)から八年の間に、実に五回も江戸詰の経験を持ち、見聞も広かった。備寛にまつわる説話の数とそれらの詳細な記述とあわせ、彼自身『佐渡四民風俗』編集に伴い佐渡各地を実地調査していた事実、そして豊富な江戸詰の体験を持つことなどから考えるに、備寛が「古人」[やぶちゃん注:これより前の箇所で本作の筆者を推理する中で本間氏は本作の序文に基づき、『「古人(未詳、奉行所の地役人と思われる)」が児童の手慰みとして、佐渡に伝わる古老の言い伝えなどをじかに見聞し、「証跡慥(たしか)なる怪談」を公務の寸隙に書き記していた。それを』、『「梅光主人/太庚」なる人物が取り集め』、『安永七年の冬(霜月)の日に『怪談藻塩草』と題して一冊の書物にしたとある』と記す中の「古人」を指す。]の説話収集に何らかの形で関与していた可能性が想定できる。あるいは「古人」=高田備寛の可能性も否定できないが、確証はない。

   《引用終了》

「吹上」既出既注であるが、再掲する。佐渡市下相川吹上は下相川のさらに北地区の吹上海岸。ここは金山で発掘した岩岩石を擂り潰すための臼を作るための石切場跡として知られる。

「いさや」感動詞。「さあて! まあ」。オケラの期待外れの気持ちを含んだもの。

「百姓町」通称の固有名詞。寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃の「町役銀取調書」には相川村を「羽田百姓町」「海府百姓町」と記しており、この前後には「下相川」の呼称が生まれたのではないかと考えられている。相川は元和三(一六一七)年の「屋敷検地帳」で百姓屋五十六軒、「佐渡国雑志」では家数七十棟とし、相川の南側を通称「百姓町」北側を「石切町」と称した(「新潟県」公式サイト内の「相川漁港(第1種 佐渡市管理)」(当該頁はリンクが許されていないので御自分で探されたい)に拠った)。

「氣色の荒增らば」「けしきのあれ、まさらば」。天候の荒れ様(よう)が、これ、さらに増すようならば。

「ひたすらに」(もう釣りは諦めて)ただただ、さっさと。

「歸りてん」「歸りてむ」(完了(確述)の助動詞「つ」の未然形+推量の助動詞「む」)の表記変化。「帰ってしまうこととしよう」という強い意志の意、或いは次の仮定を考えるなら、もう少し弱く、「…してしまうのがよかろうぞ」(適当)の意。 

「調度」周囲の釣り道具類。

「したゝめて」整理して。片付けて。

「百姓町なる靈山寺」本来は北の「石切町」でないとおかしいが、この頃はその区別が厳然たるものではなかったか、或いは武士である彼らは「百姓町」「石切町」を特に区別していなかった(上位呼称で「百姓町」と総称していた)可能性も高い。

「七十年も昔」冒頭が享保一〇(一七二五)年(頃。確定限定ではない)であるから、明暦元・承応四(一六五五)年以前となる。第四代将軍徳川家綱の治世。

「此翁五六歳の頃ならん」以上の数値が正しいとすれば、この老人の生年は一六五一年か翌年、則ち、慶安四年又は承応元・慶安五年頃ということになる。家綱が征夷大将軍の宣旨を受けたのが慶安四(一六五一)年八月十八日のことであった。

「三ツ文學くさり」不詳。或いはこれは「三ツ文字(もじ)」の誤記ではあるまいか? だからと言って目から鱗となる訳ではないけれども、「謎々」遊びと並置し得る少年らの遊びで「三ツ文字」となると、私は俳句や川柳の「折句(おりく)」を直ちに想起するからである。即ち、三句構成から成るそれらの頭に一字或いは一音(冠(こうぶり))、又は句の最後(沓(くつ))に既定の一字或いは一音を織り込んで五七五を作る、「三つの文字を詠み込む遊び」である。但し、それを「三つ文字」と言うのを私は聴いたことは実際には、ない。しかし、それぐらいしか浮かばぬのである。それよりなにより「文學」は如何にもヘンでしょ。そうすると、「くさり」は「一(ひと)」「齣・闋」(接尾語:「鎖」と同源)文章・俳諧の一区切り。 或いはそれらの課題文字「三字」を繫げる・続けるの意の「鏈(くさ)る」で如何にも(私にとってはではるが)腑に落ちるのである。大方の識者の御叱正を俟つ。

「風をいとふ助とする」「風を厭ふ助(たすけ/じよ)とする」。

「燈火」「ともしび」と訓じておく。

「座敷の次の明り障子赤く照りて見へければ」妖怪大百足の二つの目が爛々と赤酸漿(あかかがち)の如くに照り映えているのである。こんな注を附したら、気がついたが、私はムカデでも大きな個体を小さな時から別に「ハガチ」と呼んでいた(小さなものは決してこう呼ばずにただ「むかで」と呼んでいた)。この語源、調べて見たが、誰も明らかに出来ていない。私は「ハ」は「歯」で鋭く大きな左右に開いた鎌のような毒腺を持った口器(顎肢)を、「ガ」は所有の格助詞、「チ」は「魑」で山の怪物の意(だからデカい)ではないかと勝手に考えている。

「徒もの」「いたづら者」。

「火や付(つき)てしも」「よりによって火でも点けたりしたのではあるまいか?」。「しも」はその文節を取り立てて示す副助詞(副助詞「し」+係助詞「も」が一語化したもの)。

「寺の後なる高き岩山の半過(すぎ)立(たち)登りて」ここは「寺の後(うしろ)なる高き岩山の、半過(なかばすぎ)」の箇所は、「立(たち)登りて」(岩がまるで立ち登るように真っ直ぐに聳えていて、の謂いでとる。

「橫に缺け込(こめ)たる樣に見べし處へ」その断崖絶壁状になった中央辺りに横に欠けてへこんだように見える棚状の細い箇所に。

「ころの岩かど」「(その附近の)小さな岩の角」の意でとっておくが、どうもおかしい。小さなものは「石ころ」であって「岩」ではないからである。この「ころ」は不審。何かの誤記ではなかろうか?

「筋かひて」「筋を搔きて」(或いは「筋を書きて」でもよい)が「筋を搔いて」(「筋を書いて」)となったものの、歴史的仮名遣の誤りか。筋を搔く(書く)が如くにずるずると立ち現われ。

「四五間」七~九メートル強。

「弐尺」六十・六センチメートル。

「手」唇脚、体節に一対左右に出る歩肢。ウィキの「ムカデ」によれば、現生種の場合(アラビア数字を漢数字に代えた)、『歩肢の数は分類群によって異なり、イシムカデ目、ゲジ目の成体は十五対、オオムカデ目では二十一又は二十三対、ジムカデ目では種によって異なり、二十七対から三十七対、四十一対、四十七対などを示し、多い種は百対を超し、百七十三対まである。ジムカデの歩肢対数には多くの個体変異が見られるが、発生による制約があるらしく、偶数対の歩肢対を持つ個体は稀な奇形である。最後の節には一対の尾脚=曳航肢と、改形類の雌では生殖肢がある』とある。なお、ムカデは節足動物門 Arthropoda多足亜門 Myriapoda ムカデ上綱 Opisthogoneata 唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda の属すが、以下のようにその下の二亜綱で「ムカデ」類は跨って分類されている。

ムカデ亜綱 Epimorpha

 ジムカデ目 Geophilomorpha

 オオムカデ目 Scolopendromorpha

ゲジ亜綱 Anamorpha

 ナガズイシムカデ目 Craterostigmomorpha

 イシムカデ目 Lithobiomorpha

 ゲジ目 Scutigeromorpha

なお、この大百足の現生種のモデルは色と形状からして本邦産の、

オオムカデ目 Scolopendromorpha オオムカデ科 Scolopendridae オオムカデ属 Scolopendraトビズムカデ Scolopendra subspinipes mutilans

と同定出来る(無論、言わずもがな乍ら、こんなに巨大にはならない)。ウィキの「トビズムカデ」によれば、体長は普通八~十五センチメートル、稀に二十センチメートル近くにもなり(三十六年前、鎌倉市岩瀬の私の住んでいたアパートの部屋に侵入してきた個体は二十センチを有に超えており、書棚の後ろを歩く際にザラザラと大きな音を立てた。沸かした湯を洗面器に張ってそれに菜箸で挟んで投げ入れて殺したが、それを戸外に捨てる際、湯が腕に少しかかった。翌日、その部分がみみず腫れとなったのが忘れられない)、『日本産ムカデの中では最大級。 体色に個体ごとの変異が多く、赤い頭に黄色い足を持つ個体や、朱色の頭と足を持つ個体など、様々なものが存在する』。『北海道南部から沖縄にかけて生息し、春から晩秋まで観察されるが暖地や屋内では一年を通して見ることもある』。『昆虫などにある幼虫や成虫などの区分は基本的にない(性的に未熟な個体を若虫、成熟した個体を成虫と区別することがあるが、判別が難しい場合も少なくない)。通常は朽木や雑木林の落ち葉の中などやや湿り気のあるところに生息するが、肉食性なのでゴキブリやバッタ、ガ、ネズミなど小動物を捕食するため、住宅地でもゴキブリなどムカデの餌になるものが繁殖している人家では餌を求めて侵入することがある(ただし、住居内で 産卵することはない)』。『節足動物の中ではシミなどと並んで比較的長命の種で、およそ』五年から七年ほど生きる。『繁殖期には雄が雌の住む場所に行き、雌と気があったのであれば雌を誘因物質で誘導し、精子の入った精筴を置き、雌はそれを尾部の生殖器で回収する』。『雌は小さな巣穴で』八十個『近くの卵を産む。卵は背に乗せ、地面に触れないように抱卵し、体を丸めて卵を守る。卵を絶えず舐め、カビが生えないように抱卵する。卵は、雌の抱卵行動がなければ孵化出来ない。また、刺激を与えられたり、天敵に襲われた際には、雌は抱卵行動を放棄し、卵を食べてしまう』。『孵化した幼体は二回ほど脱皮したら、親元を離れ、独立生活をする』。『本種の頭部にある顎肢には毒腺があり、それを刺すことで相手の体内に毒を注入することができる』(ムカデ類は全種が毒を持つ)。『本種は人の住環境、農地等にも生息・出没するため、人と遭遇することが多い。その結果、子供が興味本位で触れたり、就寝中の寝返りにより接触したり、農作業中に掴んだりした場合に人が刺されることがある。 毒はヒスタミン、セロトニン等のアミン類、また血球溶解作用(溶血性)を有するタンパク質が主成分である。これを体内に注入されると、激しく痛む(ムカデ咬症)。咬傷時には、早急に医療機関で診療を受けることが勧められる』。『衛生害虫として問題視され、アオズムカデがこの系統のムカデの中で一番毒性が強いともいわれる』。私の現在の家には日常茶飯に、この近縁種であるオオムカデ属アオズムカデ Scolopendra subspinipes japonica が侵入してくる。

「語り種」「かたりぐさ」。

「見苦識(ぐるしき)體(てい)」見るも忌(い)まわしい姿。

「其節、住僧の語られしは、『六七十年は以前、大百足出たるよし、傳へ聞(きゝ)し』など言れしをおもへば、最早六七十年𢌞りなれば、近年の内、又出候わん」この百足の化け物は六十年から七十年周期でこの地上に姿を現わす……というのである。それが、丁度、このまさに老僧の語っている頃である……というのである。「……近々、またしても出現致いた折りには、この拙僧の物語、お思い出しになられまするように……」……外は異様な風雨である……実に上手いコーダでは、ないか…………]

妙な違和感   梅崎春生

 

 昨日タクシーに乗った。するとそのタクシーは妙な走り方をした。ふつうA地点からB地点に行くには、おのずからきまった道があるものだが、そのタクシーはその道を走らなかった。見知らぬ横町に曲ったり、狭い路地を抜けたりして、たいへんせせこましく走り、目的地に着いてメーターを見たら、ふつうの走り方よりも二十円安かった。つまりこの運ちゃんは良心的に走ったというわけだ。

 しかし私は、金を払いながら、あまり愉快でなかった。妙な違和感を感じた。運ちゃんのお節介みたいなものを感じていやだった。

 数年前病院に通っていた時、その病院に注射自慢らしい医者がいて、その医者に当る度に、私はやはりそのようなものを感じたことがある。ふつう静脈注射というものは、腕の内側の関節部の太い静脈にするものだが、その医者は注射自慢であるからして、そういうところにはやらない。わざわざ手首などの細い静脈を探し出して、それにぶすりと針をさす。それで失敗することは一度もないから困るのである。

 私はその時考えた。注射をするのは向うだから、どの静脈を選ぶかは向うの権限だろう。患者の私が、この静脈にしてくれと指定するのは、越権に違いない。そう考えて黙って注射させていたが、気分が面白くなかったことは事実である。何か余計なことをしている、私はまっとうでないことをされている、そんな感じがつきまとって、いつも不愉快であった。しかし注射という作業は、完全にミスなく果たされているのだから、文句をつけるわけにも行かない。

 床屋という商売がある。あそこに行くのを私はあまり好まないが、頭髪の方で容赦なく伸びるから、一カ月か一カ月半に一度は行く。私にはあの理髪の一時間は苦痛である。肉体の自由を束縛されるからだ。だからといって、伸ばしっ放しにはしておれない。

 その床屋でも、私はしばしば面白くないものを感じる瞬間がある。たとえば鼻毛を切られる時などだ。頭髪を刈り終えて、理容師は私の鼻の穴をのぞきこみ、同じ鋏でちょんちょんと鼻毛を刈り取る。

 もちろん鼻毛が伸びていてはおかしいし、自分で刈るのはむつかしいから、理容師がそれをやってくれることはたいへん有難いことである。感謝すべきことだとは自分でも分っている。

 にも拘らず、その瞬間私は面白くない気持になる。おれは理髪に来たのであって、鼻毛を刈りに来たんじゃないんだぞ。見そこなうな。心の中でそんな叫び声を上げている。これは鼻毛が伸びていると言う屈辱感とも関係があるらしい。

 それから洗髪になる。洗い終って、乾いたタオルで髪をふく。そのついでに理容師の手は私の顔にまわり、乾いたタオルが軽く眼に押し当てられる。

 眼のあたりはびしょびしょぬれて、眠があけられない。不快だ。そこをいかにも心得ておりますという具合に、乾いたタオルはそこらをさっぱりふき上げてくれる。有難いことだ。

 ところが私はその時突然腹が立つのである。びしょびしょして眼があけられなくて不愉快なのは、おれなんだぞ。お前さんじゃないんだぞ。不愉快ではないお前さんが、さも心得た風に、おれが自分でやるの以上にうまくふき取るなんて、一体これはどういうわけだ。あんまりおれをばかにするな。

 もちろん理不尽な怒りだと自覚はしているから、口には出さない。口に出せば気違いと思われるにきまっている。

 近ごろ出て来た新人の小説を読むと、もちろん全部が全部ではないが、なんだか私はそういう感じにとらわれることがしばしばある。うまいし、面白いし、文句のつけようはないのだが、何となく違和感があったり、突然腹が立って来たりするのである。どういうわけのものだろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年三月九日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「近ごろ出て来た新人」誰を指しているのは無論、判らぬ。因みに、今、悪だくみの主犯と思しく見える石原死んだろう、基!――文字変換機能が壊れたかなぁ、きっとパソコンの基盤の何処かに「秘密の空洞」でもあるんだろうか?――石原慎太郎(昭和七(一九三二)年~)の出世作とされる、お下劣チンポコ小説「太陽の季節」は昭和三〇(一九五五)年七月号『文学界』での発表である。他に目ぼしい所では、昭和三一(一九五六)年「楢山節考」で第一回「中央公論新人賞」を受賞した深沢七郎(大正三(一九一四)年~昭和六二(一九八七)年:勘違いするといけないので言っておくと、作家デビューが遅いだけで、彼は梅崎より一つ年上である。梅崎春生エッセイM式二十一箇条に登場している)、翌三二(一九五七)年八月号『文学界』に「死者の奢り」を発表して学生作家デビューした大江健三郎(昭和一〇(一九三五)年~)、昭和三三(一九五八)年に「裸の王様」(発表は前年十二月の『文学界』)で芥川賞した開高健(昭和五(一九三〇)年~昭和平成元(一九八九)年)らがいる。これはただ、日本文学史年表をぼんやり見ながら「新人」小説家らしい輩を拾っただけであって、くどいが、梅崎春生が誰を指しているかは、あくまで不明である。]

諸國百物語卷之二  十一 熊野にて百姓わが女ばうを變化にとられし事

     十一 熊野にて百姓わが女ばうを變化にとられし事


Hyakusyounyoubouwo

 熊野のかたはらにすむ百姓、年貢につまりて、妻子をひきつれ、ゆきかたしれず、かけおちしけるが、ほどなく、道にゆきくれ、とある堂のうちに一夜をあかしければ、いづくともしらず、女一人、きたり、

「をのをのは、この所へは、いづかたよりきたり給ふぞ」

と云ふ。百姓も、つれをもとめたる、と、おもひ、うれしくおもひて、

「われは此あたりの者にて候ふが、かやうかやうのやうす候ひて、たちのき候ふ」

といへば、かの女、申すやう、

「しからば、此所にすまい候ひて、このはなどひろいて御たき候へ」

と申せば、百姓、うれしくて、木の葉をひろいにゆきければ、そのあとにて、百姓の女ばうを、かの女、ひつさげてゆく。百姓は、たちかへりてみれば、女ばうは、みへず。山のうへに女ばうのなきさけぶこゑ、きこへけるほどに、さては、へんげの物、さいぜんの女とばけて、わが女ばうをつかみゆきたるとみへたり、と思ひ、こゑをしるべに、かなたこなたとたづねけれども、山ふかくて、たづねあひがたし。とやかくとするあいだに、その夜もほのぼのとあけにける。いよいよこゝかしこ、たづねみければ、二丈ばかりたかき杉の木のえだに女ばうをふたつにひきさき、かけをきたり。百姓、これをみて、なげきかなしめども、かいなし。かゝる所へ、男一人、きたり。

「そのはうは、なにをなげくぞ」

と、とひけるゆへ、くだんのやうすを物がたりしければ、

「扨もふびんのしだひかな。そのはうがさしたる大小を、われにくれ候はゞ、しがいを木よりおろしてとらせん」

と云ふ。百姓、よろこび、刀ばかりをわたし、

「脇指は、なり申さず」

と云ふ。

「さあらば、をろしてとらせん」

とて、木のうへゝつるつると、のぼり、百姓が女ばうを、ひきさきひきさき、くらいつゝ、からからとうちわらひ、

「脇指をくれたらば、なんぢも、かく、せんものを」

と云ふて、こくうにうせて、みへざりける。百姓、あまりのふしぎさに、あたりの人に尋ねければ、

「この堂、女人けつかいの寺なるゆへに、さやうの事も有るべし」

と云ひける。百姓のさしたわきざしは、三條小(でうこ)かぢがうちたる名(めい)の物にてありしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「百姓女はうをへんけにとらるゝ事」。

「年貢につまりて、妻子をひきつれ、ゆきかたしれず、かけおちしけるが」逃散(個別事例)である。「ゆきかたしれず」は行く当てもなしに、の意。

「このはなどひろいて御たき候へ」「木の葉など拾ひて御焚き候へ」。歴史的仮名遣は誤り。後の展開といい、「紅葉狩」の如、謡曲っぽいのが、お洒落。

「ひつさげてゆく」「引つ提げて行く」。

「さいぜん」「最前」「先前」。

「つかみゆきたるとみへたり」「摑み行きたると見えたり」。歴史的仮名遣は誤り。

「こゑをしるべに」「聲を標に」。声の聴こえるのを手掛かりとして。

「二丈ばかり」六メートルほど。

「しだひ」「次第」。歴史的仮名遣は誤り。

「つるつると」するすると。滑るように登る、のである。蛇体のそれを感じさせる。

「こくうにうせて」「虛空に失せて」。

「女人けつかい」「女人(によにん)結界」女人禁制。恋情や怨念を持った女の男を追い来たるも結界によって思いを遂げ得ず、遂に怨みより化して、蛇体となって人を喰らう女怪となったとするならば、「つるつると」が腑に落ちるではないか。ロケーションの熊野、蛇体とくれば、道成寺伝説の濫觴との同源を感じさせる。

「三條小(でうこ)かぢ」「三條小鍛冶」。既注であるが、再掲する。平安時代の伝説の刀工三条宗近(生没年未詳)の流れを汲む刀工或いはその工房(古く、製鉄業者を相称して「大鍛冶(おおかじ)」と称したのに対し、特に刀鍛冶のことを限定して「小鍛冶(こかじ)」と呼んだ)。ウィキの「三条宗近」を参考までに引いておく。『山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある』。『古来、一条天皇の治世、永延頃』(十世紀末頃)『の刀工と伝える。観智院本銘尽には、「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある』。『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。実年代については、資料によって』「十~十一世紀」・「十二世紀」等と幅があるとする。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』である。

「名(めい)の物」三条小鍛冶の銘の入った名刀。]

2016/09/21

佐渡怪談藻鹽草 小川村の牛犀と戰ふ事

     小川村の牛犀(さい)と戰ふ事

 

 往昔(わうじやく)、小川村の豐饒なる百姓何某(なにがし)の宅に、牛四五疋飼(かひ)ける中に、こつてい牛壱疋、或夜、牛小屋見ざるより、其あたり尋(たづね)しかども、居ざるにぞ、

「明日疾く起(おき)て尋ん」

迚(とて)、臥(ふし)けるが、明方の頃、

「いそ尋ん」

とて、部屋へ行(ゆき)て、件(くだん)の牛、常の如く伏(ふし)居たり。

「何處行て歸りしや」

と、不審ながら、其まゝ過しが、又の夜、小屋へ行て見るに、又おらず。かくする事、五七夜に及びければ、牛の主、猶々いぶかしく思ひて、或夜、晝より部屋の傍(かたはら)に居處を敷(しき)て、密(ひそか)に隱れて、牛をもあらしく、繩にて繫ぎ置て、例の頃を待(まち)けるに、彼(かの)牛如何(いかに)して繩をぬけゝん、緩々と歩行(ありきゆき)て、小屋の前を過行(すぎゆく)程に、はるか跡に下りて、見え隱れに慕行(したひゆき)ければ、此牛、小川村の境を越(こえ)て、海邊の草刈道より下る程に、猶々、したひて行に、字(あざ)よしが尻といふ處の汀(なぎさ)へ行て、暫く打(うち)居る程に、忽然と磯邊、波風さわさわと立來(たちきたり)て、ざつふといふ音、聞えけるを、遠(とほく)餘處(よそ)に打(うち)見れば、額に一角有(ある)牛の如き獸、汀(なぎさ)へ飛上(とびあが)り、牛を目がけて飛(とび)てかゝるを、待(まち)得たり。顏に向ひ寄(よせ)て、頭を以て戰ふさまにて、數刻移る迄、勝負つかず。牛はひたすら、尾を苦にする體(てい)にて、捲(まき)つ延(のば)しつして、互(たがひ)に角もて、かけんかけんと、爭ふさまにて、終(つひ)に明方に成(なり)ければ、相引に引(ひき)て、一角の獸は、海へ飛入(とびいり)ければ、牛も元の道へ歸りけるを、跡に下りて、傳ひ戾りしが、牛の主、思ひけるは、

「牛は尾を邪魔になりて、力劣れり」

と、見ゆればとて、明(あく)る日刃物を以て、尾を伐(たち)ければ、さもりゝしげに、有けるにぞ、

「すは今宵は、此(この)方の勝に極(きはま)れり」

と小踊(おどり)して、暮(くれ)るを遲しと待(まち)て、きのふのごとく、牛の跡に付(つき)て行(ゆき)見るに、一角の獸、又汀(なぎさ)へ上りて、突(つき)かゝり、暫く兩方、位を取(とり)て有(あり)けるが、一角の獸、つと寄(より)て、其角に掛(かけ)て、牛を三四丈脇へ投(なげ)ければ、岩角にあたりて、立もあからず、大きに一聲吼(ほえ)て、死ぬ。其樣を見て、一角の獸も、海に入(いり)ぬ。牛主は、案に相違して、天窓(あたま)をかきて、それよりも、我が宅へこそ、歸りけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:「小川村」現在の佐渡市相川の北に接して、佐渡市小川地区が現存する。

「犀(さい)」「額に一角有(ある)牛の如き獸」容易に想起されるのは、脊椎動物亜門 Vertebrata哺乳綱 Mammalia鯨偶蹄目 Cetartiodactylaハクジラ亜目 Odontocetiマイルカ上科 Delphinoideaイッカク科 Monodontidaeイッカク属 Monodonイッカク Monodon Monoceros なのであるが、同種は北極圏にのみ分布し、迷走個体でも佐渡に来ることはあり得ないから、これはそうした奇体な生物イッカクが海にいるという渡来談を伝え聞いた者が、ここに特別出演させたと考えるのが妥当であろう。参考までにウィキの「イッカク」から角(牙)についての記載部分を引用しておく。『イッカクの雄の特徴は』一『本の非常に長い牙である。この牙は歯が変形したものである。イッカクの歯は上顎に』二『本の切歯があるのみであるが、雄では左側の切歯が長く伸びて牙となる。牙には左ねじ方向の螺旋状の溝がある。その大半が中空で、脆い。先端はつやのある白』で、『体長が最大で』四・七メートル『程度であるのに対し牙の長さは』実に三メートル、牙単独の重さだけで最大十キログラムにも『達することもある。通常牙は一本であるが』、五百頭に一頭程度の割合で二本を『有する個体も存在する。この場合、もう一本の角は左側より短いが、同様に左ねじ方向の螺旋状である。また雌は通常、牙を持たないが、約』三%程度の雌個体には一・二メートルほどの短い『華奢な牙が生える。また、野生においては一例、二本の牙を持つ雌が確認されている』。『牙の役割については多くの議論が交わされてきた。以前は棲息地である北極海を被う氷に穴を開けるために発達しているという説や反響定位(エコーロケーション)のための器官であるという説などがあった。最近では牙の電子顕微鏡検査によって内側から外へ向かう神経系の集合体と判明し、高度な感覚器として知られるようになった。この牙を高く空中に掲げることにより気圧や温度の変化を敏感に知ることがイッカクの生存環境を保つ手段となっている。また、大きな牙を持つ雄は雌を魅了することができるようである。ゾウの牙と同様に、イッカクの牙は一旦折れてしまったら再び伸びることはない』。

「豐饒」「ほうぜう(ほうじょう)」。地味が肥えており、作物がよく稔ること。

「こつてい牛」現代仮名遣に直すと「こっていうし」。底本には「こつてい」の右に『( 特 )』と編者注が附されてある。歴史的仮名遣では「ことひ牛」が正しい。「ことひうし(こというし)」は「特牛」以外に「牡牛」とも書き、「頭が大きく強健で重荷を負うことの出来る牡牛(おうし)」を指す。古くは「こというじ」とも呼んだらしく、「こといのうし・ことい・こってい・こってうし・こっとい」などとも呼称した。基本形は「ことい」であるようである。語源については「日本国語大辞典」を見てもどれもピンとこない。幾つかのネット記載も読んだが、中ではhikoimasu氏のブログ「海峡24時」の「特牛は、なぜコットイと読む?」がよく渉猟なさっていて面白い(但し、「犢」(音・トク/訓・こうし)を牡牛の意とするのは誤りで、「小牛」を指す漢語である)。

「いそ尋ん」底本には「そ」の右に『(ざ)』と編者補正注が附されてある。

「部屋」牛小屋。

「部屋の傍(かたはら)に居處を敷(しき)て」牛小屋の牛から見えぬ隅に莚などを敷いて座り所をとし。

「牛をもあらしく」「牛をも荒(あら)しく、繩にて繫ぎ置て」牛も荒っぽくガッシりと荒縄で縛り繋ぎおいて。「粗(あら)しく」ととって、行動観察するためにわざとはずれやすいように隙を作って繋ぎ置いたのだとも読めなくはないが、そうすると直後の「彼(かの)牛如何(いかに)して繩をぬけゝん」という主人公の百姓の奇異感が全く生きてこないからだめである。

「はるか跡に下りて」かなり時をおいてから家をつけて出て。牛に尾行を感づかれないようにするためである。

「慕行(したひゆき)ければ」目を離さないよう、秘かに、「一定距離、離れた牛を注視し」(これが「慕ふ」に相当する)つつ尾行して。

「小川村の境を越(こえ)て、海邊の草刈道より下る」「字(あざ)よしが尻」現在の小川地区の海浜側は総て外海府(そとかいふ)海岸で、その南側は佐渡市相川地区となり、北川は達者(たっしゃ)地区であるが、孰れも岩礁性海岸である。航空写真を見る限り、現行、牛と「犀」が戦えそうな有意な空き地(汀(なぎさ))は、相川地区との境の小川地区内に入り江の奥に細かな礫状の地帯を確認出来るものの如何にも狭い。小川地区の北の現在の達者側(境付近は岩礁帯)には新潟大学理学部附属臨海実験所があり(それが立つということは相応の多様性海岸が周辺に広がることが容易に想像できよう)、その東南方向には入り江があって、長い私海浜の「達者海水浴場」が広がっている。私なら、本篇のロケ地は絶対、ここにする。

「遠(とほく)餘處(よそ)に打(うち)見れば」遠く沖合の海面の方を打ち眺めて見ると。

「相引に引(ひき)て」互いに、身を退かせて相互に引き分けと認知してその場は止めた行動をとったのである。

「三四丈」九メートルから十二メートルほど。

「それよりも」まあ、何とも、それからしょんぼりして、とぼとぼと。この「も」は文法的は難しい気がするが、ここは「まあ、何とも」、係助詞「も」の感動・詠嘆の意でとっておく。]

佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事

     大蛸(おおだこ)馬に乘(のり)し事

 

 享保の始(はじめ)、濁川(にごりかわ)町に、瀧浪友庵(たきなみゆうあん)と言(いふ)醫師有ける。

 其頃高田氏何某(なにがし)、十五六才の時、或時友庵方へ行(ゆき)けるに、息の仲右衞門(ちゆうえもん)、古き橫帳を取出(とりいだ)し、小細工のよりにせん迚(とて)、彼(かの)帳をときたるを見れば、端(はし)に「蛸配り候覺」と有(あり)て、誰々と名を書(かき)續けたる也。去共(されども)、何心もなく、よりによりて細工に遣(つか)ひぬ。次の日、友庵へふと右の蛸の事を尋ければ、友庵語りけるは、

「夫(それ)は後世の語り傳へに、能(よき)證據なるを、などて失ひけるぞ」

と、仲右衞門を叱りけれ共、詮(せん)なく、角(かく)て、

「其(その)蛸の物語聞(きき)給へ」

とて、

「享保の今より、五六十年も先ならん。和泉村の百姓、馬を牽(ひきゐ)て、相川へ出(いで)、板町何某が方へ來り、肥(こえ)を取(とり)て、歸らんとするに、日いだくたけたり。雨氣の道、ぬかりたれば、中々、半途迄も行(ゆく)事かたしとて、其夜は居留(とま)りけるが、馬をば濱へ牽出(ひきゐだ)し、浪除の柵に繋ぎ置(おき)、翌日烏の告(つぐ)るを待(まち)て、起出(おきいで)、馬に荷鞍(くら)して、出立(いでたゝ)んと、濱に出て見れば、馬はなくて、繫ぎたる藁綱の、弐尺斗(ばかり)、切れ殘りたるさま、

『何物の業(わざ)なるぞ。又人の盜行(ぬすみゆき)けるにや』

と、あやしく、夫(それ)より濱傳ひ、下相川の邊り、吹上(ふきあげ)邊(あたり)までも、尋(たづね)求むれ共、なし。さらばと、下戸鹿伏(かふす)の邊(あたり)へ行(ゆけ)ども、見當らねば、誠に馬放せし人のたとへも、我身の上に知られて、又元の板町に立(たち)歸る時、上の方より沙汰して、

『北澤神明の上に、椎の木林に、化物出(いで)て、馬に乘(のり)居る』

抔(など)、取々に言はやして、

『我行(ゆか)ん』、『己もまからん』

なんと、ふためきあへるを聞(きく)に、馬に乘りし化物とは、耳寄(よせ)なれば、件(くだん)の馬士も、行(ゆき)て見るに、いでそも言ひしに違(たが)わず、法師の樣なるもの、馬にまたがりて、居たり。先達(さきだち)て、見屆たる人の、

『あれは大蛸(おおだこ)の馬に乘(のり)たる』

なんと、いゝあへれば、跡より、まかる人々に打交(うちまじは)り、強氣なく、近寄(より)て見るに、彼(かの)蛸、弐(ふた)筋の手を馬の平首にまとひ、手綱(たづな)を表するならん、四筋は下へ𢌞して腹帶とし、弐筋は鞭(むち)とす。かくて、有(ある)べきならねば、馬を牽(ひきゐ)て下る。馬放せし人は、德付(つき)てければ、頓(やが)て、蛸を引(ひき)おろし、大釜を借りて煮るに、壱筋の手の長さ、凡(およそ)疊表丈(た)ケにも過(すぎ)けるにぞ、是を切(きり)て、一きれつゝ、町並へ配當するに、坂下町の領分に餘り、濁川(にごりかわ)は半ば過(すぎ)配りけるなり。

『其時配りし門々を記し置(おけ)る帳也(なり)』

とぞ。されば、

『馬を取(とる)べき蛸ならんに、かしこくも、山へ逃(のがれ)し事よ』

と、其世の人々、言(いひ)あへりし」となん語られし。

 

[やぶちゃん注:「大蛸」実はこれは現在でも、タコの中で世界最大の種とされる、

軟体動物門 Cephalopoda 頭足綱 Cephalopoda 八腕目 Octopoda マダコ科 Octopodidae ミズダコ属 Enteroctopus ミズダコ Enteroctopus dofleini

の異名であり、本話の体長の有意な大きさからも同種に比定するのが自然であると思われる。ウィキの「ミズダコ」によれば、本種は『寒海性のタコで、主に日本の東北地方以北の海に広く分布し、北太平洋が主な生息場所になる。カナダをはじめ、北アメリカ沿岸部にも生息している』とするが、佐渡、特に相川のある大佐渡の外洋側の海域は北から南下するリマン海流の影響を強く受けると判断でき、大型のミズダコが漂着することは充分にあり得ることと思う。『タコ類最大だけあって体、吸盤ともに非常に大きい。体長は足(腕)を広げると』三~五メートルに及び、体重十キロから五十キログラムにもなる。現在、体長九・一メートル、体重二百七十二キログラムの最大個体記録がある(『ナショナル・ジオグラフィック』二〇一〇年二月一四日閲覧の注記有り)。『口のカラストンビは人の握り拳大ほどもあり、これで餌であるカニの甲羅や貝の殻を咬み砕くと言われるが、他のタコ』

(八腕目マダコ亜目 Incirrinaマダコ科 Octopodidaeマダコ亜科 Octopodinaeマダコ属 Octopusマダコ亜属 Octopusマダコ Octopus (Octopus) vulgarisなど)

『のような唾液のチラミン』(Tyramine:間接型交感神経興奮効果を持つ化学物質)『毒素の強さについては不明』。『体のほとんどが柔軟な筋肉であるため力が強く、巨大な個体に絡まれたら人間でも危険である。潜っていたときに襲われ、溺死した例もある。ただし、近づきすぎたり、刺激しない限りは故意にダイバーを攻撃することはない』。但し、『陸上では水中と違い、重い体重を支えることはできず、動けなくなってしまう』。『カナダ方面では大型化し、体長』三・五メートルにも『達する大物も少なくないと言われるが、生息地域が寒い海ということもあり、マダコなどに比べれば、まだまだ生態的に未解明な部分が多い』。『餌は主にケガニ』

(節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 軟甲綱 Malacostraca 真軟甲亜綱 Eumalacostraca ホンエビ上目 Eucarida 十脚(エビ)目 Decapoda 抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata 短尾(カニ)下目 Brachyura イチョウガニ上科 Cancroidea クリガニ科 Atelecyclidae ケガニ属 Erimacrus ケガニ Erimacrus isenbeckii

や『タラバガニ』

(抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata 異尾(ヤドカリ下目 Anomura ヤドカリ上科 Paguroidea タラバガニ科 Lithodidae タラバガニ属Paralithodes タラバガニ Paralithodes camtschaticus

『などの大型甲殻類』、魚類やホタテガイ

(軟体動物門 Mollusca 斧足(二枚貝)綱 Bivalvia 翼形亜綱 Pteriomorphia イタヤガイ目 Pectinoida イタヤガイ上科 Pectinoidea イタヤガイ科 Pectinidae Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis

を始めとした多様な貝類や海胆(ウニ:棘皮動物門 Echinodermata ウニ綱 Echinoidea)類等、『手当たり次第に』捕獲して『貪欲に食べてしまう。本種が最大のタコでいられるのも、寒い海に生息するそれら大型甲殻類などの餌が豊富であり、そのために寒海には住めない他のタコ類との競争も減り、大型化していったと考えられる』。『天敵はイルカ』

(獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla ハクジラ亜目 Odontoceti の主にマイルカ科 Delphinidae に属する海豚(イルカ)類)

や『ラッコ』

(ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Caniformia クマ下目 Arctoidea イタチ上科 Musteloidea イタチ科 Mustelidae カワウソ亜科 Lutrinae ラッコ属 Enhydra ラッコ Enhydra lutris

や『アザラシ』

(イヌ亜目 Caniformia 鰭脚下目 Pinnipedia アザラシ科 Phocidae の海豹(アザラシ)類)

や『トド』

(食肉(ネコ)目 Carnivora アシカ科 Otariidae トド属 Eumetopias トド Eumetopias jubatus

『といった海生哺乳類に、サメ類などの大型魚類などで、襲われると周囲のものに擬態したり、墨を吐いて逃走するが、それらに捕食されるのは小さな個体である場合が多く、巨大な個体なら逆にサメを捕食してしまう事すらあるほどの力を持っていて、充分に育った成体にはあまり敵はいないだろうとも思われる。また水族館では、同じ水槽内にいたアブラツノザメ』

(脊索動物門 Chordata 軟骨魚綱 Chondrichthyesツノザメ目 Squaliformes ツノザメ科 Squalidae ツノザメ属 Squalus アブラツノザメ Squalus suckleyi

『を攻撃し死亡させた例もある』。『他の多くのタコと同じく、寿命は』二~三年と『されていて、雄は雌と交尾した後、雌は卵を守り、孵化を見届けた後に一生を終えるが、地域別には』四『年ほども生きる個体もいるといわれる』。『雌雄の違いは雄の方が体も吸盤も大きく、相手を捕らえて抱え込んだり、吸い付く力も強力だとされているが、その吸盤の大きさから配列は大小ともに歪な感じがする。雌は雄に比べて、吸盤の配列や大きさが、比較的均等になっている』。『また、他のタコや周囲の状況に擬態したり、迷路を解いたりするなど高い知能を有している』。本邦では『本種は人間によって食用目的に捕獲されている。体が大きい分、水産上重要種と見なされ、蛸壺にて漁獲されている。また、マダコの流通が少ない北海道や東北でのタコというと大抵は本種であり、北海道では本種の漁獲高が最も多い。現在、需要が高いが、乱獲による個体数の減少も懸念されている。北海ダコという名称で呼ばれることもある』。『北海道・東北では、マダコの代わりに各種タコ料理として利用され、正月料理に使われるタコの多くは、ミズダコである。本来タコは、腕(足)の方が利用価値は高い。しかし、産地では、足より胴(頭)の方が食され利用頻度は高い(足よりも頭の方が安いという事情もある)。その他、口(顎板:通称タコトンビ)が食用とされる』。『マダコに比べて皮膚だけでなく、肉質も柔らかく、水っぽいのでコクが強いマダコよりおいしくないと言われるが、それが本種の名前の由来にもなっており、また、そのために食感としてはミズダコの方が歯触りが良いともいわれる。体の大きさから含まれるタウリン』(taurine:動物の体細胞を正常状態で保つ作用(ホメオスタシス)を持つ生体にとって重要な物質。イカ(頭足綱 Cephalopoda 鞘形亜綱 Coleoidea 十腕形上目 Decapodiformes の烏賊(イカ)類)・タコ・カキ(二枚貝綱 Bivalviaウグイスガイ目 Pterioidaイタボガキ科 Ostreidae 及びベッコウガキ科 Gryphaeidae に属する牡蠣(カキ)類)などの軟体動物では組織に遊離状態で豊富に存在する)『の多さでもマダコをしのいでいる。メスの方がオスよりも味が良いという意見もある。 また、吸盤が大きいことからミズダコのほうを好む人もいる』。『北海道での料理方法として、刺身(足、頭)寿司、たこ焼き(足、頭)の他には、おでんや塩茹で、たこしゃぶ(しゃぶしゃぶ)、燻製、酢蛸、塩辛(イカの塩辛とは別物)などがある。』とある。

「享保」一七一六年から一七三五年。始めであるから、以下の考証のために一七二二年ぐらいまでとしよう。

「濁川(にごりかわ)町」現在の佐渡市相川濁川町。相川中央北側の川の河口近くの両岸で、佐渡奉行所の西北の隣接地に当たる。

「瀧浪友庵(たきなみゆうあん)」底本は「滝浪友庵」。人物は不詳。

「息の仲右衞門(ちゆうえもん)」友庵の息子である。恐らくは高田某よりもかなり年下なのではあるまいか。

「橫帳」「よこちやう(よこちょう)」。用紙を横長に二つ折りして綴じた帳簿。細字で記入すれば所謂竪帳(たてちょう:用紙を縦に二つ折りにして袋綴じにした帳面。検地帳・宗門人別帳・五人組帳・村明細帳などの領主向け公式帳面は原則として全てこの形をとる)より多くの記載が可能で、紙の節約にもなる。年貢算用帳・小作収納帳など数字を列記する場合や、覚書き・日記などは概ねこの形をとる(まさに「新潟県立文書館」公式サイト内の「古文書解読の基礎知識」に拠った)。

「小細工のより」手慰みの遊びに遣うための紙縒(こよ)り。

「蛸配り候覺」「たこくばりさふらふおぼえ」。後で明らかになるように、以下に語られた化け大蛸を茹でて捌(さば)き、それらを人々に分配した際の、分量や配布先の人々の名を一々記した覚書であったのである。前振りにはここに語れた馬に跨った蛸の一件についても記されてあったと考えるのが自然である(事実とすれば、である。或いは単に浜辺に巨大な蛸が打ち上がったのを処理したと書かれていたのかも知れぬ。漁師が生捕ったものならば、その大蛸と漁師の武勇仕立てにすれば十分怪異譚になるのであるから、漂着物の可能性が高いようには思われる)。

「友庵へふと右の蛸の事を尋ければ」訊ねたのは実は高田某であろう。そうしたところが、友庵が思いの外、息子をきつく叱り、息子は泣き出し、一緒に紙縒りにしてしまったその場にいた高田は何とも申し訳なく思って、「其(その)蛸の物語聞(きき)給へ」と友庵に乞うた。それを高田が後に記したか或いは語ったというのでなくては、高田の出番がないからである。

「享保の今より、五六十年も先ならん」明暦二(一六五六)年前後から寛文一二(一六七二)年頃か。第四代将軍徳川家綱の治世である。

「和泉村」現在の佐渡市和泉。現在は飛び地で二分しているが、大佐渡の南部の妙見山の南部分から南東、佐和田の内陸域に当たる。

「板町」相川の濁川町の更に海寄りの左岸に現存する。

「肥(こえ)を取(とり)て」農作物の肥料にする人糞を汲み取って。

「いだくたけたり」「痛く闌(た)けたり」。思いの外、とっぷりと暮れてしまったのである。

「雨氣」「うき」。或いは既に止んでいたのだが(馬を浜の柵に繫いでいるところから推理出来る)、その日は一日雨模様で雨上がりであったのであろう。

「半途」泉村まで皇行程の半分の謂いであろう。大佐渡の南を廻つとなったら、これはとんでもない距離(二十キロメートルはある)があるからあり得ず、ぬかり道では山越え(直線でも十キロメートルある)も難いのである。

「浪除の柵」「なみよけのさく」。太い材木をみっちりと組んだ一種の防波堤と想像される。かくするところを見ると、この時は既に波浪も激しくなかく落ち着いていたのであろう。

「烏」「からす」。

「荷鞍(くら)して」これは思うに「荷と鞍」ではなく、左右に肥え桶(たご)をバランスよく配した荷を馬に負わせるための鞍と読む。

「弐尺」六十一センチ弱。

斗(ばかり)、切れ殘りたるさま、

「又」或いはまた。

「下相川」現在の佐渡市下相川地区は板町から北へ七百メートル強。

「吹上(ふきあげ)」佐渡市下相川吹上は下相川のさらに北地区の吹上海岸。ここは金山で発掘した岩岩石を擂り潰すための臼を作るための石切場跡として知られる。

「下戸鹿伏(かふす)」「下戸」は「おりと」と読むと思われる。今度は反対の相川の南端である。現在も下戸(おりと)村が、そのさらに南西の海岸域に相川鹿伏(かぶせ)の地名が残る。因みに私は二度の佐渡行では、その鹿伏の更に西にあるホテル大佐渡に泊まった。

「馬放せし人のたとへ」不詳。「淮南子(えなんじ)」の「塞翁が馬」ではここで途方に暮れて、「我身の上に知られて」呆然と「又元の板町」へととぼとぼ帰って行く百姓のエピソードには相応しくない。識者の御教授を乞う。しかし、実は私はこれはやはり「塞翁が馬」を伏線としているように実は思っている。以下の「德付(つき)てければ」の注を参照されたい。

「沙汰して」知らせ。

「北澤神明」この社(やしろ)は確認出来ないものの、板町からずっと川を遡って東に折れた佐渡奉行所の東北の両岸は現在、相川北沢町である。この付近でロケーションとしてもしっくりくる。地図上では現在、当該地北沢町の北直近の下山之神町に八幡宮を現認出来る。

「ふためきあへる」慌てて騒ぎ立て合っている。

「耳寄(よせ)なれば」馬を失った百姓にしてみれば、無視出来ない耳よりの話(或いは自分の馬であるかも知れないから)なので。

「いで」感動詞。「いや! もう!」。

「法師の樣なるもの」坊主のような、つるんとした頭の奇体な者。タコ坊主とはよく言ったものだ。

「先達(さきだち)て、見屆たる人の」この読点はない方がよい。野次馬どもの先の方で既にその正体を見届けた人が。

「なんと」「抔(など)と」の意か。或いはまた、前の台詞についているものであって、「乘りたるなむ」、余韻を示す係助詞「なむ」で「乘りたるなむある」の結びの省略ともとれないことはない。異常な光景には後者の方が私にはしっくりくる。

「跡より」自分と同様に群集の「あと」の方から或いは「遅れて」(群がってゆく人々に「打交(うちまじは)り」。

「強氣なく、近寄(より)て見るに」そのような奇体な化け物と言われては、とてものことに気の強さも起こらず、おっかなびっくりで近寄って見て見たところが。

「弐(ふた)筋の手を馬の平首にまとひ、手綱(たづな)を表するならん、四筋は下へ𢌞して腹帶とし、弐筋は鞭(むち)とす」「平首」馬の首の両側の平らな部分。「手綱(たづな)を表するならん」そのようにすることで手綱を執っているようなポーズを表わしているつもりなのだろうか。「腹帶」「はらおび」で馬の背に鞍 を附けるために馬の腹に締める帯。計八本の足を馬上の蛸にとって必要十分条件で実にしっかりと腑に落ちる形で説明されてある妙味を味わうべし!

「かくて、有(ある)べきならねば、馬を牽(ひきゐ)て下る」かくして(その箇所は存在しないものの、彼の馬であることが確かにはっきりと認められたのである)、こんな奇体なことはあり得ようはずはないから――しかし、現に事実として「ある」のである――ともかくも、神明社の神域を穢そうずものなればこそ、百姓はその馬を化け蛸の跨ったまま、急いで社から引いて麓へと下っていったのである(北沢神明社が小高い位置にあることがこれで判る)。

「德付(つき)てければ」当初、私は余りの奇体な現象或いは洒落にならない悪戯に「どくづいて」(毒づいて)、「ひどく罵りの言葉を吐いて」の謂いかと読んだのだが、どうも「ければ」という部分と、次のシークエンスへの速やかなジョイントを考えるなら、これはまさに、やはり「塞翁が馬」なのであって、馬を失ったと思った百姓の元に、巨大な蛸を引き添えて帰ってきた、――予想外の「德」(とく)が「付」加されて手元に戻ったので――という謂いではあるまいか?

「壱筋の手の長さ、凡(およそ)疊表丈(た)ケにも過(すぎ)ける」一本の腕足だけでも畳一枚の長辺を有に越える長さであった。江戸時代の畳の寸法は種々あるものの、概ね六尺と考えてよいから、一メートル八十二センチを越える長さということにある。

「一きれつゝ」ママ。

「坂下町」「坂下町」現在の北沢町の下流、濁川町の上流の両岸の当時の佐渡奉行所の北方に位置する、相川坂下町である。

「馬を取(とる)べき蛸ならんに、かしこくも、山へ逃(のがれ)し事よ」この一般大衆の褒め言葉から、この馬は大蛸に襲われて喰われそうになったが、組みついた蛸を巧みに馬上に載せ、山へと逃げて、化け蛸を退治したと真面目に信じていることが判るのである。ここまでの本書の中では、これ、そのまことしやかな種明かしなども全く不要なる、すこぶる微笑ましい大ダコ怪「奇」笑談である。相川の民草の気持ちのいい笑い声が聴こえてくるではないか。]

佐渡怪談藻鹽草 山仕秋田權右衞門愛宕杜參籠の事

     山仕秋田權右衞門愛宕杜(あたごのもり)參籠の事

 

 秋田權右衞門は、羽州秋田の産にして、當國へ來り、山師と成(なり)しが、其(その)生得、考深(ふか)ふして、金銀山の事、委しく心ゆだねし故、十が八九は的中して、金銀の盛りを穿出(うがちいだ)し、其名を知られしものなり。去(さる)程に、神を祈るの心も、又厚くて、所々の社頭へ參籠の事、度々なり。或時、愛宕山へ七日籠りて、滿願の宵ならん、頃は十月の末、霰ばしる軒の板間より影薄き月のさし入て、物淋敷(さびしき)折から、火箱相手に祈願の心を澄(すま)せしが、何やらん、しめやかに人のおとなへ聞えて、答問するさまなれば、

「誰人の詣(まうで)て來つらん、能き通夜の友にこそ」

と、入來(いりきた)るを待(まち)けるに、其沙汰なし。又

「とく往けんにや」

と、耳を傾けて聞(きか)ば、少語(すこしかたり)し事、始(はじめ)のごとく、

「あわや」

と不審して、そと立出(たちいで)、物の隙(すき)より差(さし)覗けば、僧俗の訣(わかち)はしらず、大きなる人の、只弐人(ふたり)、椽(たるき)に腰打かけ、近く居寄(より)て、語り合(あへ)るなり。何(いづ)れもうしろさまに見ゆれば、面體(めんてい)は見えず。頭は物にてつゝみたるよふにて、身に着せしものも、蓑より荒らかに、松かさ抔(など)のよふに有(あり)ける。其(その)丈(た)ケ六尺斗(ばかり)もあるらん程にて、腰懸(かけ)たれば、其體(てい)つまびらかならず。物もけしからず、見る程に、其人の言けるは、

「今月の初(はじめ)、出羽國秋田に至りし時、何通り何町より出火して、何町まで凡(およそ)五六百軒燒亡に及びし」

など【町の名、幷人民牛馬の死失迄、殘所なく、咄しせしよし、爰(こゝ)にしるさず】語りければ、こなたよりも、其頃佐州に事變りし噂とも、數々咄し聞かせぬ。其後は咄(はなし)も止み、

「先々とくと休足あるべし。重(かさね)て餘國の物語、聞候(きゝさうら)わん物を」

とて、打連(うちつれ)て立(たつ)よと見えけるが、かきけす如く、見えざりし也。權右衞門、忙然として居たりしが、はたと心付き、秋田の邊を取(とり)しらぶれば、我(わが)親許(おやもと)、其(その)外類門、悉く燒失に及びしならんと、死生の程迄も思ひ續け、餘り怪の事なれば、

「重(かさね)て書通に引合(ひきあは)せん」

と、懷中の鼻紙取出(とりいだ)し、矢立の筆を染(そめ)て、燒出(いで)せし町所、類燒の邊り等、聞留(きくとめ)し分は、書付(かきつけ)て置(おき)ぬ。其後三四十日過(すぎ)て、秋田の飛脚來りつゝ申(まうす)言葉一事も違(たが)わざりしとぞ。

 

[やぶちゃん注:「山仕」山師(やまし)。鉱脈の発見や鑑定、実際の鉱石採掘事業の実務等を行う者。

「愛宕杜」現在の相川山之神町にある愛宕神社か。

「火箱」「ひばこ」。ここは行火(あんか)や足焙(あしあぶ)りなどの、ごく粗末な暖房器具のことであろう。

「答問」「たふもん」。訪ねて来て内へ声がけをすること。

「とく往けんにや」「(誰もおらぬと見て)さっさと行ってしまったものか?」。

「僧俗の訣(わかち)」着衣や風貌から修行するためにやってきた山伏や僧侶であるのか、そうでない俗人であるかの区別。

「椽(たるき)」近代以降でもこれを「緣」(縁側)の意味に用いる者は芥川龍之介を始めとして多い。

「つゝみたるよふ」「裹みたる樣(やう)」。歴史的仮名遣の誤り。

「六尺」一メートル八十一センチ。

「物もけしからず」何とも言えず、異様な感じで。

「こなたよりも、其頃佐州に事變りし噂とも、數々咄し聞かせぬ」この時点で、主人公の山師「秋田權右衞門」はその話に出た場所が自身の肉親や親類縁者の住むところであることに全く気付くことなく、見当違いも甚だしい、その同じ頃に佐渡で起った変事などを話した、というのである。実はこの彼自体の反応(応対)自体が奇っ怪なものであることに読者は気づく。これは実は既に異界との回路の中に権右衛門が取り込まれていることを示す証左なのである。

「重(かさね)て書通に引合(ひきあは)せん」「書通」「しよつう(しょつう)」は書面にて意を通じること。文(ふみ)を遣わすこと。「「確認のために改めて文書にし、それを送って向うに問い合わせて見よう」の意でとる。]

道路のことなど   梅崎春生

 

 この一月、私はよく動いた。もともと動くことはそう好きではないので、こんなことは私にとって異例である。二日の旅行には後二日の休養、一週間の旅行には一週間の休養、それが必要なのに、ほとんどその暇もなく、蟻のようにせっせと動き廻った。北海道旅行、帰ってから直ぐ鬼怒川五十里(いかり)ダムの見学、本因坊対局観戦、その他私用であちこち。そのために使用した乗物は、鉄道、バス、乗用車、電車、船舶、トラック、飛行機其他である。

 動き廻っていろいろなものに触れたので、すこしは勉強にもなったが、やはり疲労の堆積(たいせき)のため注意散漫になり、大部分は雲烟過眼(うんえんかがん)の状態だったようである。とにかく旅慣れない者にとって、旅は疲れる。しかも暑い。今述べた乗物の中で、一番疲れを強いたのは、バスのたぐいである。バスそれ自身はいいのだけれども、道路が悪いので、大へんに揺れた。比較的よかったのは飛行機と鉄道。飛行機は距離の割に乗っている時間が少ないので、一番楽であった。楽というのは肉体的に言うのであって、経済的な意味からすればこれが一番楽でない。こいつに乗るために借りた金がまだ戻せずにいるほどだ。

 釧路(くしろ)から阿寒に入る。ここは鉄道がないので、自動車で入る他はない。私たちは釧路市の弘報車で入った。釧路市観光課の招待だから、そこの車を出してくれたのだ。弘報車というのはスピーカーなどを坂り付けて、市民の啓蒙宣伝をして廻る車だから、ドライブ用には造られていない。頑丈ではあるが、相当に揺れる。それに釧路から阿寒への道路が、あまり良好ではなかった。今年は北海道は冬が長く、私たちが行った時はタンポポの花盛りであった。ここのタンポポは全く大柄である。多摩川あたりのそれに比べて、約三倍の背丈と太さを持っている。今度の北海道旅行で、この大タンポポが一番印象的であった。タンポポは良かったが、そのタンポポにはさまれたバス道路が相当の難路であった。雪解けと同時に地盤がゆるみ、あちこち出来た凸凹を、まだほとんど修理してない。それに加うるに、この弘報車の運転手が、運転はなかなかうまいのだが、とかくスピードを出したがる癖のある人だそうで、私は最前席に腰掛けていた関係上、計器などを眺めることが出来たが、時にはその時速が八十キロを越した。口では八十キロというけれど、実際に乗ってみるとこわいようなものである。

 誰も知っているようにバス類は、後ろの席になるほど揺れがひどい。最前席の私でさえ、しつかと真鍮(しんちゅう)棒を握っていても、身体がおのずからぴょんぴょんと跳躍する。後方席の人々は大変なものだっただろう。阿寒までこの調子で、大体四時間ぐらいかかるのだが、そういう緊張の連続で、身体は疲労するし神経はささくれ立つし、阿寒に着いてもあまり風光も眼に入らないふうであった。あたら阿寒の名勝も、道路のために五割がた損をしている。その夜は阿寒の宿に泊って酒などを飲んだが、一行の気持が少しこじれていたせいか座が荒れて、同行のれいの新宿の田辺茂一さんあたりは、ついに取っ組み合いの喧嘩までした。喧嘩それ自身は社会時評にならないが、気持のこじれの原因の一部分がこの悪道路にあるとすれば、少しはかかわりがあるだろう。極言すればこの喧嘩も、幾分かは政府の罪なのである。

 阿寒は観光地として割に設備はととのっているが、その設備の費用の幾分でもさいて、道路造りに廻せばいいのにと思う。近頃の日本人は道路については割に無関心らしい。阿寒道路は、観光路兼木材搬出路だから、それで一般を律するわけにも行かないが、大東京の道路だって相当にひどい。道路があってその両側に家があるのではなく、まず太初に家があって、その家々の間隙が道路ということになる。道の出来方がふつうと逆なのである。敗戦後、あちこちの焼跡にバラックやマーケットがぞくぞくと出来たが、その成立の過程を眺めて、私は日本人の道に対する考え方をはっきりと納得した。そんな具合にして出来た道路であるから、道路本来の性格を欠如して、排水も不完全だし、凸凹はあたりまえ、雨が降ればぐしゃぐしゃになってしまう。こういう悪道路に対して、私たちの祖先は、アスファルトや木煉瓦を発明するかわりに、足駄とか高下駄を発明し、下駄にかぶせる爪皮の類を発明した。その後自動車というものが輸入されると、自動車の車輪の横にぶら下げる泥よけの類を発明した。すべて日本人の考えることは、その根本治療ではなくて、常に姑息(こそく)な対症療法なのである。便所がくさい。では水洗便所、とは考えない。臭気止めの玉などを考案してごまかそうとする。蚊が出ると、蚊帳(かや)を発明して、その蚊帳を本麻にして見たり、ぼかしを入れたりしてたのしんでいる。あるいは蚊取線香を発明して、蚊を部屋から追い出すことしか考えない。DDTの如き着想は日本人の頭には宿らないのである。この傾向は今の為政者のやり方にも歴然とあらわれている。

 国土建設週間というのがあって、建設省から招かれて、鬼怒川の五十里ダムの見学に行った。東京駅からバスで出発。このバスはなかなか上等のバスで、前記弘報車とくらべものにならなかったが、そこはそれ泥道の足駄で、いくら足駄が上等でたとえ金蒔絵(まきえ)でも、道が泥んこでは致し方ない。阿寒路にくらべれば、さすがに関東の道路は良好であったが、それでも坦坦砥(たんたんと)の如しという状態からははるか遠かった。幹線道路がこんな風であるから、その他は思いやられる。その行程は東京都、千葉県を経て、ちょっと茨城県の端をかすめ、それから栃木県に入る。東京都、千葉、栃木の道路整備は一応行き届いていたが、可笑(おか)しなことには茨城県の道路が全然未整備である。何故かと言うと、この道路は茨城県の辺境をかすめるだけで、つまりその道を整備することによって茨城県は何も得をしないのである。得もないところに何で金を使う必要があるかという気持なのだろう。だからこの県をかすめる十五分間は、さすがの上等バスが大滞れに揺れた。栃木県の土木課長(?)が同じバスに同乗していたが、これは私の方の管轄(かんかつ)ではないんで、と言いながら、涼しい顔で揺れていた。そんなセクト的な考えを止めて、どうにかならないものかねえ。

 途中利根川の大堤防で昼食をとったが、まあこの利根川も時々氾濫する。そして堤防が決潰する。たとえばその決潰場所が千葉県側だったとする。水が引いて、そこをがっしりと補強する。すると対岸の茨城県側が、今度の出水を予想して戦々兢々(きょうきょう)とする話。すなわち出水があれば、どこか決潰するように運命づけられているから、千葉県が補強すれば、今度の決潰は俺たちの番だというのである。この話は、家に行商にやって来る千葉の女からも聞いたから、本当なのだろう。しかしどうもこの話はおかしなところがある。すなわち両岸を盛大に補強すればいいではないか。そうすれば水は素直に海へ流れて行く筈だ。こう言えばお前のは素人(しろうと)考えだと、誰かが言うだろう。素人考えであることはよく承知しているが、こんな素人考えが今の日本に必要であることも私は承知している。初心を忘れてはいけない。

 鬼怒川温泉から川治までの道は、山腹の崖を切り開いてつくった山道。これは日本各地で見られるが、非常に狭い道で、自動車がすれ違う時は、膚(はだ)に粟が生ずる趣きになっている。一度二度使うのではなく、永久に使うものだから、もうちょっと道幅をひろげるといいのにと思う。ぎりぎりのすれ違いと来ているから、ここらはもっぱら運転手の技倆(ぎりょう)の見せどころとなっている。物量の不足を、技倆と精神力でおぎなおうとした旧日本軍隊の伝統は、形を変えてこんなところに生きている。それは精神の豊かさよりも、むしろ貧しさを意味するのだ。どんな下手な運転手でも危険なくして行けてこそ道路と言えるのだ。危険の余地を残しているのは、日本人特有の人命軽視の考えのあらわれだろう。また運転手の運転方法も、外人のそれにくらべて、我流の乱暴さがあるように思われた。

 釧路から札幌に来て、疲労はなはだしく、もう旅行もいやになったから、飛行機で帰ろうと衆議一決した。私は生憎(あいにく)囊中壱千円ぐらいしかなく、止むを得ず新聞社に借金を申し込み、やっと飛行機代を調達した。札幌から東京まで、飛行機代は一万二百円である。正確に言うと、札幌から千歳までのバス代、千歳から羽田までの飛行機代、羽田から銀座までのバス代である。飛行機上の時間は約三時間であるが、両方のバス車上の時間が二時間余りかかる。結局札幌から五時間余りかかることになるが、その半分近くがバス時間であることは、何だかバカバカしいような気がする。バカバカしいけれども仕方がない。

 札幌から出たバスは、黄塵万丈(こうじんばんじょう)をついて疾駆した。この道路は割に良いけれども、もうもうたる砂塵のため、窓はしめ切りである。二台のバスのうち、生憎と後車に乗ったのが運の尽きであった。たびたびの経験で、何はともあれバスには前方に掛けることにしているから、揺れの方はこたえないが、暑さと空気の溷濁(こんだく)には参った。一時間半ほどで千歳の町に着く。

 基地の風景に私は未だ接したことはなく、この千歳が初めてであるが、なるほど大へん異様にして荒涼たるものである。板を打ちつけたような粗末な家が両側に並び、町を歩いているのは、米兵、日本保安隊員、れいの女性たちで、何だか人と人とのつながりが全然ないような、荒涼としか言えないような隔絶した雰囲気である。その中をバスは通り抜けて、飛行場に入る。

 この飛行場の正門を入ったとたんに、運転手の運転の仕方が俄然変化した。今まで乱暴に運転していたのに、とたんに用心深くなって、たとえば十字路に来ると、両側は見通しであるにもかかわらず、きちんと停車して左右をうかがい、それからそろそろと動き出す。まったく正確に規則通りなのである。よっぽど米軍からいためつけられたらしい。運転手のみならず、バスの車体それ自身がおどおどした表情で動く。私はすこし腹が立って来た。今まで乱暴な運転をしたのにここではおどおどしている、そのことに腹が立ったのか、あるいはここではおどおどしてるのに先刻まで乱暴に車を動かした、そのことに腹が立ったのか、自分でもよく判らないが、とにかく不愉快でむしゃくしゃした。それからいよいよ待合室に着くと、私たちが来るべき飛行機がまだ東京から着いていない。一時間余り待たされた。遅延するならするで、あらかじめ判る筈だから、札幌の方に連絡すればいいのに、日航事務員はそんなことはしない。待たしたって結局乗せりゃいいんだろう、そんな表情で済ましている。小役人みたいなやり方だ。

 飛行機に乗ったのはこれが生れて初めてであるけれども、どうも飛行機に乗るような人種はいやなところがある。つき合いかねるようなのばかりだ。汽車で一番感じの悪いのは、特別二等車の客であるが、飛行機のはもっと感じが悪い。私もそこに乗ったんだから、この私も含めてもいいが、とにかく説明出来ないような厭らしさがある。この厭らしさはどこから来るのか、いずれよく考えるとして、この三時間の飛行は少しは揺れたけれども、快適であった。バスよりははるか良好である。空路には泥んこ道もなければ、凸凹もないからだろう。もっともそれに代るいろんなものが、悪気流やエアポケットのようなものがあるらしいが、私の場合には幸いそんなものはなかった。かりにそんなものがあって揺れたとしても、けちな私は酔わないであろう。一時間当り三千余円も支払って酔っては引き合わないからである。釧路行きの船で船酔いしたのは、あの船賃は釧路市持ちで、ただだったからだ。

 飛行機の方は、バスやタクシーなどと違って、操縦には細心の注意が払われているように感じられた。でもそれは感じただけで、実際に操縦の現場を見たわけではない。しかしそうでも感じなければ、飛行機には乗れないだろう。なにしろ止ったら落っこちるんだから、バス、タクシーの類とはちがう。タクシーの運転手並みに操縦されてはかなわない。

 それにしても、東京のタクシーの運転ぶりは、少しひどすぎる。十日ほど前私の乗っている小型タクシーが、とうとう他の小型タクシーに側面衝突して、幸い怪我はなかったけれども、冷汗が出た。私の車が相手のを追い抜こうとしたからである。両方とも車体がすこしずつ損傷したらしい。それから運転手同士の言い合いになって、歩道でつかみ合わないばかりの議論になった。乗客の私などはそっちのけである。仕方がないから車を降りて歩き出そうとしたら、私の運転手が眉を吊り上げて、乗り逃げする気かと追っかけて来た。見ると強そうな男だったので、私は黙って代金を支払った。まあ強そうでなくとも払うつもりだったが、議論の方で忙しそうだったので、遠慮しただけの話だ。しかし運転手が車をぶっつけ、客の心胆を寒からしめ、しかも代金を請求するのは、すこし虫が良過ぎるように思う。昨日の新聞の投書欄だったか、近頃のタクシー運転手への非難に対して、運転手からの答えが出ていたが、それによると乱暴な運転や追い越しをやる社会的経済的な条件があるのだという。それならそれとして、その条件は早急に根本的に改善されなくてはならぬ。ほんとに近頃の東京の街は、危くてうっかりと歩けない。東京の道路に於て、人間の価値は極度に下落している。その下落の程度は、史上にその比を見ないだろう。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年九月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、この年は四月頃にかの桜島を再訪、五月には座談会「映画に於けるリアリズム」に出席、囲碁では「文壇本因坊」に川端康成・尾崎一雄らと同席、ここに出るように、七月には栃木県五十里ダムを視察するなどの『行動の一方で、先天的無力体質と診断されるなど』、『憂鬱症の兆候があらわれ』始めていた、と記す。

「鬼怒川五十里(いかり)ダム」既注。梅崎春生「ダムでの感想」(昭和二八(一九五三)年七月十六日号『建設工業新聞』初出)の本文と私の注を参照されたい。

「雲烟過眼(うんえんかがん)」本来は「烟」は霞(かすみ)、「過眼」は目前を過ぎ去ること。雲や霞が目の前を過ぎ去って留まらぬように「物事に深く執着しないこと」、「物事に心を留めないで淡泊でいること」の譬え。又は「物事の過ぎ去って留まることのない無常」の譬え。北宋の蘇東坡の一〇七七年作「王君寶繪堂記(おうくんほうかいどうき)」の中のの一節「譬之煙雲之過眼、百鳥之感耳、豈不欣然接之、然去而不復念也。」の冒頭に基づく。

「今年は北海道は冬が長く、私たちが行った時はタンポポの花盛りであった。ここのタンポポは全く大柄である。多摩川あたりのそれに比べて、約三倍の背丈と太さを持っている」有意に大きいことを述べており、梅崎春生の向かったのが道東であることから、在来種で沿岸域に限って植生する、キク目キク科タンポポ属シコタンタンポポ Taraxacum shikotanense であろうと思われる。

「田辺茂一」(もいち/本名の読みは「しげいち」 明治三八(一九〇五)年~昭和五六(一九八一)年)は紀伊國屋書店創業者。ウィキの「田辺茂一」によれば、昭和二(一九二七)年一月に新宿にて紀伊國屋書店を創業、翌年には『小学校の同級生だった舟橋聖一たちと共に、同人誌『文芸都市』を創刊』した。『戦災で大きな被害を受け、一時は廃業も考えたが、将棋仲間だった角川源義の励ましで事業を再開』。昭和二一(一九四六)年一月に同社を『法人化し、株式会社紀伊國屋書店に改組。それに伴って、同社代表取締役社長に就任』し、一九五〇年頃には経営が安定した。但し、『これ以降、田辺自身はほとんど経営に関与せず、夜な夜な銀座に出現してバーからバーへと飲み歩き、華麗な女性遍歴を繰り広げて「夜の市長」と呼ばれた』。彼が『紀伊國屋ビルに演劇ホール(紀伊國屋ホール)を設け』、『紀伊國屋演劇賞を創設するなど、文化事業に力を注』ぐようになったのは一九六〇年代後半のことである。当時、四十八歳。

「爪皮」一般には「つまかわ」と読む。下駄や草履などの尖端に雨や泥などをよけるためにつける覆い。名称は嘗ては皮革製であったことによる。爪(つめ/つま)掛け。

「DDTの如き着想は日本人の頭には宿らない」ことを私は真の意味で自然に叶っていると信ずる事例も数多くあり、私はこの箇所については必ずしも梅崎の意見に全面的賛同はしない。

「国土建設週間」Q&Aサイトの答えによれば、建設省(現在の国土交通省)が昭和二四(一九四九)年から実施しているもので、当時の建設省の開庁記念日である七月十日の「国土建設記念日」から一週間を「国土建設週間」とし、国土建設事業の円滑な推進を図るために、その意義・重要性並びに施策目的・内容を広報し、国民の理解と協力を得、安全で快適な国民生活を実現する国土建設事業を推進し、二十一世紀に相応しい活力ある経済社会の基盤づくりを目指すことを目指して設定されているそうだ。今日の今日まで私は知らなかったし、この事大主義的な謂い自体に胡散臭さを感じる。豊洲の謎の地下空間のような中身のない虚しさをも伴って、である。

「坦坦砥(たんたんと)の如し」「坦坦」は地形や道路などの平らなさまをいい(そこから、何事もなく時の過ぎるさま、変化のないさまの譬えともなる)、「砥の如し」は砥石の表面のように完全に平滑であることを指す。表現としては屋上屋の嫌いがある。

「飛行機代は一万二百円」現在の価値に換算すると、凡そ十倍近いと考えてよいであろう。

「黄塵万丈(こうじんばんじょう)」]黄色の土ぼこりが風に乗って空高く立ち上るさま。漢代に著作された政治・道徳等に関する論集「春秋繁露」の「保位權篇」を典拠とするという。

「千歳」「基地の風景」旧千歳空港、現在の航空自衛隊千歳基地周辺の当時の描写である。同空港は大正一五(一九二六)年に千歳村村民の労働奉仕によって開かれ、航空機着陸場が造成され、昭和一四(一九三九)年十一月に海軍航空隊が開庁(民間併用)されたが、昭和二〇(一九四五)年十月に敗戦に伴い、米軍に接収された。本記事の二年前の昭和二六(一九五一)年十月に民間航空併用が再開され、千歳・東京間に日本航空が就航、これに合わせて、本篇にも出るように、北海道中央バスが日本航空機の利用者専用の連絡バス(札幌発着)の運転を開始している。翌年の六月には警察予備隊千歳臨時部隊が空港敷地内に設置された。この後の昭和三二(一九五七)年八月には本邦の航空自衛隊第二航空団が浜松より移駐し、翌月、千歳基地が開設、その二年後の昭和三十四年七月、米軍から日本政府(防衛庁)に返還されている(以上はウィキの「千歳基地」に拠った)。現在の新千歳空港とは南東で隣接設置されているが、飛行場としては別個である。

「日本保安隊員」本記事の前年の昭和二七(一九五二)年十月十五日に警察予備隊を改編して発足した、保安庁に警備隊とともに置かれた国内保安を名目とした武装部隊の隊員。現在の陸上自衛隊の前身。昭和二九(一九五四)年六月の自衛隊法・防衛庁設置法の成立により、翌七月に陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊の管理・運営を行う防衛庁が発足、保安庁は発展的に廃止された。

「れいの女性たち」米兵相手の売春婦ら。

「特別二等車」今のグリーン車相当と考えてよい。ウィキの「特別二等車」より引く。一九五〇年代の『一時期、日本国有鉄道(国鉄)が当時の二等客車の区分内において、特別設備の車両を指して呼称した用語』。昭和二五(一九五〇)年に『日本で初めて自在腰掛(リクライニングシート)を備えた客車が二等車扱いで製造されたが、これが従来の二等車と設備の格差がありすぎたため、従来の二等車と区別する意味で付けられた名称である。この特別二等車には、特別の料金体系が制定され(特別二等車料金)』、昭和三三(一九五八)年まで『この料金制度が継続された』。『一部の国鉄関係者の間では、「特別」という部分と二等車の略称である「ロ」を組み合わせた「特ロ(とくろ)」・』「特二(とくに)」とも『呼称した。それに対して、在来のボックス型や転換式座席の二等車は、「並ロ(なみろ)」・』「並二(なみに)」と『称された』。『「特ロ」車は在来二等車に比して格段に居住性を改善したため好評を得、やがてリクライニングシートは急行列車以上の二等車の標準設備となった』。『特別二等車の増備によって』、一九五八年十月一日『以降、急行以上の二等車はすべて特別二等車を連結することになった。その中で指定席・自由席が設けられ、急行の二等車に座席指定制度が適用されることとなり、旅客輸送規則上、特別二等車料金が消滅し、これ以降は特別二等車の呼称は営業上は使用されなくな』り、一九六〇年の『二等級制移行で「一等車」となった。その後』、一九六九年になって『特別車両「グリーン車」となった』とある。当時の特別料金は三百キロメートルまでの三百円に始まり、千二百一キロ以上が七百二十円であった。]

諸國百物語卷之二 十 志摩の國雲松と云ふ僧毒蛇の難をのがれし事

     十 志摩の國雲松(うんしやう)と云ふ僧毒蛇の難をのがれし事


Unsyou

 雲松といふ僧、熊野より志摩のくにへ行脚しけるが、この國に、海をかゝゑたる、よき景なる洞(ほら)ありしが、雲松、このほらにしばらくすまいして、しゆぎやう、とくどうして、あさゆふ、念佛をこたらざりしが、此ほらのうち、すさまじくなまぐさき事、かぎりなし。雲松、おそろしくをもひ、經をよみ、ねんぶつ申してゐられける所へ、にわかに大蛇、ほらより出でて、雲松をのまんと、口をひらきてまちかまへしが、此經念佛のこゑをきゝて、かしらをうなだれ、口をとぢて、ほらのうちにかへりたりける。雲松なをなを、念佛、をこたらざりし所へ、たちまち、衣冠たゞしき人きたりて、雲松をらいはいし、しばらくありていわく、

「われはこれ、此ほらのぬし也。このほらにすまいする事數萬年也。つねに人けだものをゑじきとする事、そのかずをしらず。今、たつとき僧のこれにましまして、ねんぶつのこゑをきゝて、われらがあくしん、ことごとく、めつせり。こよひの雨は、われらがよろこびのなみだなり。わがかたちの大なる事、この雨にてしろしめすべし。今よりのち、いよいよ惡心をひるがへし、佛道にいらんことの有がたさよ」

とて、かうべを地につけ、らいはいしてうせさりぬ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「僧とくしやの難をのかるゝ」か。なお、この挿絵は雲松の顔面部分が頭部全面が痘瘡も痕のように無惨である。当初は毒龍の腥い息のために爛れているのかと思ったが、話柄から見ても、どうもただの著しい汚損としか思われない。原本を確認出来ないのでどうしようかとも思ったが、あまりにも雲松が哀れに感じ、恣意的に顔面部のみを拡大して、違和感のないように清拭処理を施した。大方の御批判は甘んじて受ける者である。

「しゆぎやうとくどうして」「修行得道」。歴史的仮名遣は誤り(正しくは「とくだう」)。「得道」は仏道修行して悟りを開くこと。「悟道」に同じい。

「をこたらざりしが」「怠らざりしが」。歴史的仮名遣は誤り。

「らいはい」「禮拜」。

「ゑじき」「餌食」。

「われらがあくしん」「我らが惡心」。

「めつせり」「滅せり」。]

2016/09/20

法師蟬に学ぶ   梅崎春生

 

 きりについて書けと言う。

 きりとは何かと問い返したら、ぴんからきりきりで、すなわち小説の結びのことだと言う。映画でいえばラストシーン。碁でいえば寄せ。人間でいえば臨終。

 引き受けて、机の前に坐り、いろいろと考えてみたが、そのきりについて、あまり書くこともない。

 私は小説を書くに当って、ぴんのところ、つまり書き出しの文章には、時折苦労するが、きりについて苦心した記憶は、ほとんどない。

 序盤中盤を過ぎれば、自ら侵分(よせ)に入るように、小説も書き出して、一定の枚数に達すると、自らきりの形がまとまって来る。その形をつくって、筆を置けば、一篇の小説が完結したことになる。

 それは私が無口なせいだろうとも思う。よくおしゃべりな人がいて、しゃべり出すととめどがなくて、きりがつかない。そう言う人が小説を書くと、きっときりに苦労することだろう。

 私なんかは昔から無口で、若い頃話を頼まれて、壇上に立ったこともあるが、しゃべり出して五分も経つと、しゃべる材料がなくなってしまう。無理しないでも、自然ときりがやって来るのである。

 私は小説を書くのは愉しくない。昔からそうである。書いている間は、頭の重労働で、早くこの苦患(くげん)から逃れたい逃れたい、とばかり考えている。(作家と画家の決定的な差違はここにある、と私は思っている。画描きは、画を描く時は、いそいそとして嬉しいそうだ)

 この逃れたい逃れたいと思う心が、何でもありあわせのものをちょんとつかんで、粘土細工の犬にちょんと尻尾をつけるように、それで結末に間に合わせてしまう。そんな関係もあるのだろう。

 やはり自然なのがいい。つくったり、たくらんだりしたのは、感じが好くない。

 私はつくつく法師という蝉が好きだ。あの啼声(なきごえ)には、格別の趣きがある。

 ツクツクホーシ、ツクツクホーシと、十声ばかり啼き、そこでちょっと調子を変えて、ツクツクウイー、ウイオース、ウイオース、と三四度啼き、最後に、ジー、と啼きおさめる。あのジーというきりは、自然にして、かつ千鈞(せんきん)の重みがある。油蟬や蜩(ひぐらし)の啼声とは、比較にならない。

 ツクツクホーシと啼き始める前にも、ジーといったような、一種の前奏がつく。その前奏と、きりのジーとが相呼応して、すばらしい効果を上げるのである。起承転結、間然するところがない。

 小説の書き出しやきりについても、こうありたいものだ。

 つくつく法師なんかと、莫迦(ばか)にせずに、心を虚(むな)しくして、その自然さを学ぶべきである。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年十二月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「法師蟬」有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opaliferaウィキの「ツクツクボウシ」に、『北海道からトカラ列島・横当島までの日本列島、日本以外では朝鮮半島、中国、台湾まで、東アジアに広く分布』し、『平地から山地まで、森林に幅広く生息する。地域によっては市街地でも比較的普通に発生する(盛岡市など)が、基本的にはヒグラシと同じく森林性(湿地性)であり、薄暗い森の中や低山帯で多くの鳴き声が聞かれる。この発生傾向は韓国や中国でも同様である。成虫は特に好む樹種はなく、シダレヤナギ、ヒノキ、クヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。警戒心が強く動きも素早く、クマゼミやアブラゼミに比べて捕獲が難しい』。成虫は七月から『発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる』八月下旬から九月上旬頃には『鳴き声が際立つようになる』。九月下旬には『さすがに数が少なくなるが、九州などの西南日本では』十月上旬に『鳴き声が聞かれることがある。なお、後述のように八丈島や岡山・長崎では』七月上旬から『鳴き始めることが知られている』とある(リンク先で二つの鳴き声を聴ける)。梅崎春生の文壇登場の名作桜島」の極めて重要な伏線アイテムである(前のリンクは私のPDF全注釈版)。同「桜島」の初出位置は(このリンク先は私の分割ブログ版の当該パート)。

「寄せ」「侵分(よせ)」囲碁・将棋に於いて中盤の戦いが終わり、終局又は詰めに至るまでの段階。囲碁では、その段階によって大寄せ・中寄せなどに分け、「侵分」「収束」とも書く(以上は三省堂「大辞林」に拠った)。

「千鈞(せんきん)」(「鈞」は重量単位で一鈞(きん)は三十斤(きん)で十八キログラムだから、「千鈞」は十八トンに相当する)非常に重いこと、極めて価値の高いこと或いはそうした対象物を指す。]

佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事

     鶴子(つるこ)の三郎兵衞(さぶろべえ)狸の行列を見し事

 

 鶴子に住(じゆう)せし三郎兵衞といへるもの、急用の事有(あり)て、相川へ出るとて、薄暮に在所を出けるに、本道は遠ければ、

「少しも早く往(ゆか)ん」

とて、ニツ岩道へ掛りけるが、秋雨のあがりなれば、谷合の道、ぬかりて、步行(ありきゆか)ず、

「彼是として、半時斗(ばか)りも、間取(とり)ぬらん」

と思ふ頃、二ツ岩の手前に至り、例の所なれば、何とやらん、ものすごし。心地惑ひけるに、右の方、屛風越道へ行(ゆく)小道有(あり)。其方より、挑燈(ちようちん)三ツ四ツ出たり。

「是は、誰人の來るやらん」

と、其道を退きて、扣(ひか)へ、見居たるに、追々提燈の出(いづ)る事、すでに五六十、二行に並んで、所々に、高張弐(ふた)ツ宛交(まじはり)たり。燈の影に長柄、鑓、打物などもひらめきたり。

「あわや是は、殿樣の何方へ、渡らせ給ふて、御歸りにや」

と畏(かしこまり)て、見居たれば、追々近付き、いまだ、てうちんの紋所は見え分らざる程になりて、一度に消(きえ)たり。はつと思ひて、

「是は、例の彼(かの)團三郎か」

と心付(づく)より、身の毛立て、覺えけれ共、流石(さすが)、跡へも歸られず。ニツ岩を通りて、山道を探りに步行(ありきゆき)、漸(やうやく)、夜半(よは)に馬町へ出(いで)たり。さすがもだし難き所用なれば、用は足したり。夫より病み付(つき)て、百日斗り打臥(うちふ)しけるが、神巫醫藥の助を得て、快驗ありしとぞ。

 

[やぶちゃん注:遂にここに至って、佐渡最大の化け狸にして佐渡で最も知られた妖怪「團三郎」狸が登場する。ウィキの「団三郎狸」をまず引く(記号の一部を省略した)。『新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に伝わる化け狸。佐渡ではタヌキを狢と呼んでいたことから、団三郎狢(だんざぶろうむじな)ともいう。錦絵では同三狸とも表記される。淡路島の芝右衛門狸、香川県の太三郎狸と並び、日本三名狸に数えられている』。『佐渡のタヌキの総大将。人が夜道を歩いているところに壁のようなものを作り出したり、蜃気楼を出したりして人を化かしたり、木の葉を金に見せかけて買物をしていた。自分の住処である穴倉に蜃気楼をかけ、豪華な屋敷に見せかけて人を招き入れたりもした。病気になったときには人に化けて人間の医者にかかっていた』。『悪さをするばかりでなく、困った人には金を貸していた。その金は人に化けて金山で働いたり、盗んだりして稼いでいたという。また、団三郎の住処は相川町下戸村にあり、借用書に金額、返却日、自分の名を記して判を押して置いておけば、翌日にはその借用書は消え、代りに金が置いてあったという』。『後に団三郎は相川町に二つ岩大明神として祀られ、人々に厚く信仰されている』。『佐渡にキツネがいないのは、団三郎が佐渡からキツネを追い払ったためといわれ、それを示す以下の』二つの『伝説がある』。『団三郎が旅の途中、キツネに出会い「佐渡へ連れて行ってください」と頼まれた。団三郎は「連れて行ってやるが、その姿ではまずい。わしの草履に化けなさい」と行った。キツネは言われた通り草履に化け、僧姿の団三郎がそれを履いて船に乗った。やがて団三郎は佐渡へ渡る舟に乗り、海の真っ只中で草履を脱いで海に放り込んだ。以来、キツネは佐渡に渡ろうとは考えないようになった』。『団三郎は旅の途中で』一匹の『キツネに会った。自分の術を自慢するキツネに対し、団三郎は「自分は大名行列に化けるのが得意なので、お前を脅かしてやる」と言って姿を消した。間もなく大名行列がやって来た。キツネは行列の中の殿様の籠のもとに躍り出て「うまく化けやがったな」などとからかうと、たちまちキツネは捕えられ、狼藉の罪で斬殺されてしまった。行列は団三郎ではなく本物であり、彼はあらかじめ行列がここを通ることを知っていたのである』(以上の伝承は本話との親和性が認められる)。『団三郎の人化かしは数多く続いたが、人間との知恵比べに負けたために人を化かすことをやめたという伝説もある』。『団三郎が若い農夫を見つけ、彼を化かそうと団三郎は若い女に化け、具合の悪そうなふりをした。心配して声をかけてきた農夫に「腹痛で動けない」と答えた。農夫は女を送ろうと背負ったが、もしや団三郎かと直感し、女を縄でしばりつけた。慌てる団三郎に「お前さんがずり落ちんように」と答えた。危険を感じた団三郎は「降ろして下さい」と必死に頼んだ。「具合が悪いのに、なぜ降りる?」と農夫が降ろさずにいるので、団三郎は「……おしっこがしたいのです」と答えたが、農夫は笑い「あんたのような美しい娘さんのおしっこならぜひ見てみたい。わしの背中でしなされ」と一向に降ろさなかった。やがて着いたのは農夫の自宅だった。団三郎が「ここは私の家ではありませんが?」と言うと、農夫は「団三郎、もうお前の正体はわかっている!」と言い、平謝りする団三郎を散々懲らしめた。以来、団三郎が人を化かすことはなくなったという』。『団三郎とは越後国の人間の商人の名であり』、明暦三(一六五七)年に『佐渡金山で用いる鞴の押皮をとるために繁殖用の子ダヌキを売っており、後に佐渡で養狸を始めた団三郎が島民から敬われ、タヌキ自体も氏神のように祀られたとの説がある』とある。なお、私の電子テクスト(注附)「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」「耳嚢 巻之三 天作其理を極し事」も是非とも参照されたい

「鶴子」「つるこ」と読んでいるが、これは佐渡島でも最古の部類に属する安土桃山時代から近代の大正期まで存在した銀鉱山である、鶴子銀山(つるしぎんざん)のことであろう。相川の東、現在の佐渡金山跡の東方(山の反対側)に広がる一帯である。ウィキの「鶴子銀山」によれば、天文一一(一五四二)年に露頭から銀の採掘が開始されており、文禄四(一五九五)年には『石見銀山の山師を招いて本格的な坑道を使った採掘が始まった。その後、採掘技術は山の反対側で見つかった相川鉱山(佐渡金山)の採掘に応用されている。江戸時代から大正時代を通じて、大量の金・銀の鉱石の採掘が行われた』とある。現在は人家なく、鉱山遺構や鶴子鉱山代官屋敷跡などがあるのみ。佐渡市教育委員会の「佐渡金銀山遺跡追加指定(鶴子銀山跡)の概要」(PDF)を見られたい(写真有り)。

「ニツ岩」現在の相川の東南内陸に「ニツ岩大明神」が、その西の麓の佐渡市相川下戸村に「二ツ岩神社」があるから、このルートと見て間違いない。冒頭の団三郎狸の引用も必ず参考のこと。ここはそもそもが、かの化け狸由来を一つとする場所(明神)なのである。

「間取(とり)ぬらん」「手間取ってしまったようじゃわい。」

「屛風越道」「びやうぶごえみち(びょうぶごえみち)」と訓じておく。現行では確認出来ないが、屛風のように真っ直ぐに切り立っている岩が相川方向に向いて北側、所謂、佐渡金山方向に存在した(している)と考えても何ら、不自然ではない。それを乗っ越す山道の固有名詞であろう。

「扣(ひか)へ」控え。

「高張」「たかばり」。高張提灯。卵形をした大きな提灯で、竿の先に高く吊るし、通常は門前に張り出すように掲げたのでこの名称がある。提灯には家紋や屋号を入れて格式を表明した。江戸初期に武家で使われていた照明用具であるが、時代が移るにつれて芝居小屋や遊廓でも利用されるようになった(朝日新聞社刊「とっさの日本語便利帳」に拠る)。

「宛」「づつ(ずつ)」。

「長柄」「ながつか」と訓じておく。柄(つか)の長い刀。

「鑓」「やり」。

「打物」上記以外の他の刀剣の類い。

「殿樣」これだけの格式の行列から、主人公三郎兵衞はてっきり佐渡奉行のそれととったのであろう。

「何方」「いづかた(いずかた)」。

「馬町」現在の佐渡市相川馬町。二ツ岩神社の西北直近で、相川地区の南部。

「さすがもだし難き所用」「もだし」は「默(もだ)し」で「そのまま無視して捨て置く」の意。ここは怪異に遇って尋常ではない状態にあるのだが、しかしうち捨てておけるような用件ではなかったのである。

「神巫」一般にはこう書いて「いちこ」と読み(「市子」「巫子」などとも漢字表記する)、狭義には、呪文を唱えて霊を呼び出して自分に憑依させ、死者の死後の様子や依頼主の未来のことなどについて予言をすることを職業とした女、「口寄せ」「巫女(みこ)」「いたこ」などを指すが、ここは広く、民間の職業巫女(みこ)や男の修験者などの呪術師を指していると思われる。

「助」「たすけ」と訓じておく。

「快驗」「くわいげん」と音読みしておく。快癒。]

諸國百物語卷之二 九 豐後の國何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事

    九 豐後の國何がしの女ばう死骸を漆にて塗りたる事

 

 豐後の國に何がしの有りけるが、此つま、十七さいにて、かくれなきびじんにて、夫婦のなかよき事、たぐひなし。この男、つねづ