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2018/01/20

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十五」

 

    二十五

 

 急勾配に逆落(さかおと)しに成っている谷を瞰下(みおろ)しながら山の脊梁を伝うて城跡(しろあと)の二の床あたりまで登り着いたころわびしい山の雨がかすかな雫を仰のうえに落しはじめた。

 一の床には常福寺の和尚さんがこの春かに建てた小事があるので、僕たちはその雅趣に富んだ小建築の茅屋根の下に雨を凌ぐことが出来た。携帯して来た弁当の包だのサイダアの瓶だのをそこへ置いたまゝ更に本丸の跡にのぼって、矢張そこにも建てて小亭の下に立って四方(よも)に眼を走らせた。

 眼の届くかぎりの天は雲に充(みち)みちて漂うていた。併しその雲はのべつにちっている一つの塊りでは無くて、広いひろい空のそれぞれの部分にさまざまの働きをいとなんでいる雲の個体の群れであった。彼れ等の中の或る者は日本海の涯に近(ひく)く垂れて沖をもの凄く暗ませていた。他の或る者は湖の南の山々の肩を掠めて瓢々と飛んで行き、又ある者は松江の市街と脚下の山とのあいだを低徊して僕たちの眼から町や城山やを隠そうとこゝろみていた。雲の群れと雲の群れとの間にいくらかの隙目(すきめ)が出来ると日の光は耀やかしくそゝぎ落ちて、それを浴びた山の傾斜が他のけしきの暗い中に一際目立って明るく鮮かな草木の緑りを匂わせた。

 巾三四間[やぶちゃん注:五・五~七・二七メートル。]、長さ廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]にも満たないと思われる山の頂の一角に「山中鹿之助銅像建設地」と書いた木杭(もくひょう)が立っている。これは常宿寺の和尚さんの発企(ほっき)でこの山のうえに建てらるる銅像の敷地らしい。

 僕は龍之介君と語り合った。好い加減な銅像なんか建てる事は止して寧ろいろいろの旧記や遺物を考証した上、その昔の城廓の形を模した建築をこの頂にこさえたらどんなものだろう?今日帝都其他の地に存在している銅像の多くは、現代並びに後世の識者の苦笑を永(とこし)えに買うために存在をつゞけている観がある。優秀な意匠と卓抜な技能との結合から生まれなかった劣悪の製作品は、白痴威(こけおど)しの銅像に過ぎない。

 殊に戦国時代だの封建時代だのの風尚(ふうしょう)[やぶちゃん注:人々の好み。その時代の人の好み。]を、元来が西洋から帰って来た銅像趣味の中に叩き込んで現し出そうとするのは、中々容易に成功しそうな努力では無い。それよりか小さい廟を建てゝ素朴な木像でも祭った方がはるかに奥床しい仕事のように考えられる。

 仮りに例えば鹿之助が三日月を拝んでいる銅像を山頂に建てたとして見る。そのときはるばる山をのぼつて来て其銅像に対した瞬間に、我われの胸のうちに縹緲(ひょうびょう)[やぶちゃん注:これは「はっきりとは分からないさま」の意。]として描かれていた勇ましくなつかしい戦国の勇士の悌(おもかげ)は、そこにある彫刻家の頭脳から型をあたえられ――そして不当に自己を古英雄代表者と主張しながら存在している、一塊の青銅のたふめに遺低(いてい)無く裏切られることであろうと思う。[やぶちゃん注:「たふめ」ママ。意味不詳。「遺低無く」意味不詳。前者は「ために」の衍字か。後者は「余すところなく、徹底的に」の意か。不学な私には判らぬ。]

 雄々しかった戦国の武士たちは山を削り谷を掘って、真山という巨きい山全体を以て、尼子の武名を幾千年の後までも伝えるべき絶好の記念物を造った。「時(たいむ[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])」は荒廃の手法の若干を夫れと和して山は自(おのず)からなる二会術品の風貌を具えるに至った。一基の銅像はあるいは俗衆の眼を惹くに足るかも知れないが、山の威厳と古城の寂びとに何等の貢献を加えることが出来よう?若し何等か後の人の為すべきものありとしたならば、其昔の武人の経営の跡を偲ぶよすがをこゝろつゝましく造りもうけることにありはしまいか?

 

[やぶちゃん注:「山中鹿之助」山中幸盛(天文一四(一五四五)年?~天正六(一五七八)年)は尼子氏の重臣で富田城主尼子義久の近習。後世の軍記物その他の記録では「鹿之介」或いは「鹿之助」と記されている場合が多いが、本人の自署は孰れも「鹿介」となっている。鹿介の名が初めて「雲陽軍実記」や「陰徳太平記」などの軍記物に登場するのは、永禄61563)年に毛利元就軍に包囲された尼子の拠点白鹿(しらが)城の救援戦であるが、この時、尼子軍は敗退し、以後、尼子勢は富田城に籠城して落城、尼子氏は滅亡した(既注)。落城後、出雲を去った鹿介は、主家尼子家の再興を画策し、尼子の遺子勝久を擁して、島根半島千酌(ちくみ)湾に上陸、尼子の残党を糾合して一時は出雲の大半を奪取したが、結局、毛利の援軍と布部山(ふべやま・現在の安来(やすぎ)市)で戦って大敗、出雲奪回の夢は断たれた。しかし、その後も執拗に再興を図って、各地を転戦、織田信長を頼って、その西征に望みを繫いだ。天正五(一五七七)年、信長の部将羽柴秀吉の麾下(きか)に入って毛利攻めに参加、上月(こうづき)城(現在の兵庫県佐用(さよう)郡佐用町)に主君勝久とともに籠ったが、毛利・宇喜多(うきた)の大軍に包囲され、結局、勝久は自殺して落城し、遂に降伏した。鹿介は備中松山城(現在の岡山県高梁(たかはし)市)の毛利輝元のもとに護送される途中、高梁川(たかはしがわ)の渡しで殺された。その生涯は、尼子家再興の執念と毛利氏に対する敵愾心に徹したものであった(小学館の「日本大百科全書」に拠った)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十四」

 

    二十四

 

 鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)飛ぶ小川に沿うて、曼珠沙華(ひがんばな)咲く径を暫く辿って行き、流れに架けた土橋を渡ると、灌木と雑草とに蔽われた山の裾が僕たちの行方に塞(ふさが)り立っていた。

 露滋(しげ)い[やぶちゃん注:ママ。]草叢を分けながら僕は先頭に立って山をのぼり始めた。含み切れない程雨の気をふくんだ雲の塊りが日の光をぬすみながら急ぎ足して頭上の空を過ぎて行った。

 緑りさびしい秋艸(あきくさ)はのぼって行く三人を取り巻いて山一面に茂りしげっていた………萩、なでし子、女郎花(おみなえし)の花など、山蔭を吹く秋かぜに馴染んで色淡(うす)くかたち仄かに咲く艸の花が、右にも左にも前にも背後(うしろ)にも咲きみちていた。山帰来(さるとりいばら)の長い蔓にはつぶらな果(み)が鈴(すず)生って居り、蓋(さら)をかぶったどんぐりは青い葉かげに黙って隠れていた。[やぶちゃん注:太字「どんぐり」は底本では傍点「ヽ」。]

 微かに蒸れる草の葉のかおり、木の葉の芳(かお)りにまじって、短い生命(いのち)のせつなさを歌う虫の声が静かな谷から谷へひゞいて行くのを聴きながら山を蔽う艸のはなのそれ此れに眼路(めじ)を移してはかなく覚束なげな色どりを眸(ひとみ)が映したとき、稚い頃から胸に刻まれている「秋」という季節の観念ははっきりと心に喚(よ)びさまされた。

 春や夏や冬やの訪れよりも「秋が来たな」と思わせる自然の物象の暗示のなかにこそ、季節の推移の底にひそむ或るものの意味は一層切実に語られているように思われる。勿論そうした心持のうちには因襲的な分子も少からず含まれているには相違無いが、あの華麗な光と豊満な熱とにかゞやき誇っていた夏の栄えが凋落(ちょうらく)と頽廃と静寂とを交えた火炉(かろ)の中へ投げ込まれて亡びて行くと云う――不可抗の運命律の基調の年々(ねんねん)の繰返しを経験するところの心が、自分自身の存在の反省からおのずと涌いて来る不安の情(こころ)に浸りながら、鋭敏な感触の眼(まなこ)を徐(しず)かに穏かにながれて行く萬象(ばんしょう)の推移の裡(うち)に潜ませているのではあるまいか。

 繊細な軽微な刺戟が心に伝えられたとき、或る複雑な原因からして、例えば鋭く尖った針のさきを揉(も)み込んだように、その刺戟が心の深い暗い窪みを穿って、そこにながい間懶(ものう)い眠りをつゞけている人生観に剃那的の痛覚を与えることがある。

 「秋だな」と云う感じの反面にはそれに類した心の揺(うご)きがあった。瞬時撹(か)きみだされた心の底が再び沈潜の状態に復(かえ)ったとき、其処に「秋」は細微の一点の痛みの痕(あと)と成って宿っていた。

 山の襞(ひだ)を縫うて登って、山の脊梁の一部分にたどり着くと、そこから路は丹(あか)い土の肌の露出している上を次第に山の脊梁の高い部分へと導いている。ねずみ槇(まき)だの黄楊(つげ)だの筑波根(つくばね)うつぎだのと云ったような灌木が裸かな山の胸にしがみ付いて匍匐(はらば)うているあいだには、古びた毛氈(もうせん)を敷きつめたように乾からびた羊歯(しだ)の葉がぎっしり茂っていた。

 「この山は簡単(てがる)に高山(こうざん)に登ったような気のする山だね。なんだか山の相(すがた)がばかに高山染みていて」と龍之介君が微笑した。

 「麓までが近くて、わけ無くのぼれて、それでいて眺めが佳いんだからね」と僕は自分の有(も)っている物を誇るような口調で云った。

 

[やぶちゃん注:「鉄漿蜻蛉(おはぐろとんぼ)」トンボ目イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrataウィキの「ハグロトンボ」によれば、成虫の体長は五十七~六十七ミリメートル、後翅長は三十五~四十四ミリメートルほどで、『トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干大きいが、大差はない。翅が黒いのが特徴で、斑紋はなく、雄は体色が全体的に黒く緑色の金属光沢があるのに対し、雌は黒褐色である。他のトンボのように素早く飛翔したりホバリングしたりせず、チョウのようにひらひらと舞うように羽ばたく。その際、パタタタ……と翅が小さな音を立てる。どこかに留まって羽根を休める際もチョウのように羽根を立てた状態で、四枚の羽根を重ねて閉じるという特徴がある』とある。グーグル画像検索「Calopteryx atrataをリンクさせておく。

「山帰来(さるとりいばら)」「さるとりいばら」というルビに拠るならば、単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラ Smilax china となる。果実は直径七ミリメートル程の球形の液果で、秋に熟すと、赤くなる。これ(リンク先はウィキの「サルトリイバラ」の実の画像)。「山帰来」という漢字表記に拘ると、ユリ目サルトリイバラ科シオデ属ドブクリョウ(土茯苓)Smilax glabra を指すが、同種は本邦に植生しない(中国南部、台湾に自生する多年生草本。この塊茎は「山帰来(サンキライ)」という生薬で、「日本薬局方」にも収録されている。吹出物・肌荒れなどに効果があるとし、古くは梅毒の治療薬ともされた)から違う。同属のサルトリイバラを「山帰来」と呼称することもある、とウィキの「ドブクリョウ」にあるので、前者でとってよく、井川の誤りでもない。

「眼路(めじ)」「目路」とも書く。目で見通した範囲・視界の意。

「ねずみ槇(まき)」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ(犬槇)Podocarpus macrophyllus の異名か。ウィキの「イヌマキ」によれば、ニンギョー(山口県)・ニンギョノキ(大分県・長崎県)・ネンネンゴ(静岡県)・ヤゾーコゾー(静岡県)・サルモモ(静岡県・福井県・島根県・山口県)・サルミノ(大阪府・山口県)・サルノキンタマ(山口県)という異名が記されてあるが、別種かも知れぬ。識者の御教授を乞う。ともかくも、グーグル画像検索「Podocarpus macrophyllusをリンクさせておく。

「黄楊(つげ)」被子植物門双子葉植物綱ツゲ目ツゲ科ツゲ属 Buxus microphylla 変種ツゲ Buxus microphylla var. japonicaグーグル画像検索「Buxus microphylla var. japonicaをリンクさせておく。

「筑波根(つくばね)うつぎ」双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科ツクバネウツギ属ツクバネウツギ Abelia spathulataグーグル画像検索「Abelia spathulataをリンクさせておく。]

芥川龍之介 手帳8 (17) 《8-19/8-20》

《8-19》

○元柏 上野図書館 言水 選句 海音集 言水追善集

[やぶちゃん注:この一条は旧全集にはない。

「元柏」後の「言水」(次注)から見ても俳号のように思われるが、不詳。

「言水」池西言水(いけにしごんすい 慶安三(一六五〇)年~享保七(一七二二)年)は江戸初期、松尾芭蕉と同時代の俳人。ウィキの「池西言水によれば、『奈良に生まれる。名は則好。通称は八郎兵衛、曽祖父の千貫屋久兵衛は奈良大年寄を務めた家系で父も俳諧を嗜んだと伝えられる。別号は兼志、紫藤軒、洛下童、鳳下堂』。十六『歳で法体して俳諧に専念したと伝えられる。江戸に出た年代は不詳であるが延宝年間』(一六七三年~一六八一年)に大名俳人であった内藤風虎の『サロンで頭角を現し』、延宝六(一六七八)年に第一撰集「江戸新道」を編集、その後、「江戸蛇之鮓(えどじゃのすし)」「江戸弁慶」「東日記(あずまのにき)」などを編し、『岸本調和、椎本才麿の一門、松尾芭蕉一派と交流した』。天和二(一六八二)年の『春、京都に移』って「後様姿(のちようすがた)」を『上梓した後、北越、奥羽に旅し』、天和四(一六八四)年まで西国、九州、出羽・佐渡への』『度の地方行脚を』行っている、貞享四(一六八七)年、伊藤信徳・北村湖春・斎藤如泉らと、「三月物」を編集、但馬豊岡藩主京極高住(俳号に云奴・盲月・駒角)とも『交流した』。元禄三(一六九〇)年に「都曲(みやこぶり)」を編集しているが、一方で、その頃、流行し始めていた前句付・『笠付などの雑俳にも手を染めた』とある。

「海音集」は龍之介の記す通り、京で没した翌享保八(一七二三)年に板行された方設の撰になる追福句集である。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」画像で入手出来る。]

 

○犬を賣りに來る女の話。ぺグイン鳥の話。不良少年の話。

○犬の着物をつくる店 チヨツキ ハンケチ タイ

○美人の肖像を示す 客それは己の祖母なりといふ 輕き shock

○人氣あるものは Mars の屬なり

[やぶちゃん注:この場合の「Marsは軍神の意であろう。わざわざこれを使ったところに、富国強兵へと傾斜してゆく大日本帝国全体への彼の危惧が逆に感じられるように私には思われる。]

 

Skepticism Simple error

[やぶちゃん注:「Skepticism」懐疑(論)・無神論。]

 

laughter and tears

[やぶちゃん注:笑いと涙。]

 

○スリ手の申へ入れる刃物をたのむ(ヤスリ屋へ)

《8-20》

○巡査病人の藥を落せしをひろひ その家をとどけんとしてさがす

○碧童 五錢を落せし車夫に苦しむ

[やぶちゃん注:「碧童」俳人小澤碧童(明治一四(一八八一)年~昭和一六(一九四一)年)芥川の俳句の師匠で、芥川龍之介の友人の中では最も年嵩(龍之介より十一年上)であったことから「入谷(いりや)の兄貴(あにき)」と称して、敬愛していた。]

 

○女の Kawarake の話 老女 膀胱麻痺 下島先生

[やぶちゃん注:「女の Kawarake」「土器(かわらけ)」であるが、これは近世の性的な隠語で、女性が年頃になっても陰毛のないことを指した。また、そうした今で言う「パイパン」の女性自身をも指した。

「下島先生」下島勲(いさお 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。]
 

 
○農村問題 地方自治體問題

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十三」

 

    二十三

 

 松江を中心とした此地方の風景を遺憾無く観照し度いと思ったら、少くとも附近の丘陵の一つに登って、眺嘱(ちょうしょく)を縦(ほしいまま)にするのが必要である。[やぶちゃん注:「観照」とは、主観をまじえないで物事を冷静に観察し、意味を明らかに知ること、或いは、美学用語としては、対象の美を直接的に直観として感じとることを指す。「眺嘱」万葉語。現行、「万葉集」では、この二字で「ながむ」と訓じている。]

 或る物に即くと云うことは観照の態度から遠ざかることを意味するし、或る物から離れると云うことは其反対を意味するものとすれば、若干の自然の景象(けいしょう)の組合せから成り立つ或る地方の風景を、夫れ自身一つの天成の芸術品として観照するためには、高きに登って眸(ひとみ)を放つことが必要であるとの断定が正当と成って来る。[やぶちゃん注:「即く」「つく」。]

 東から北から南から松江を取り巻いて立っている山の数はかなり沢山ある。東には嵩山(だけさん)に羽久羅山(はくらやま)、北には枕木山(まくらぎやま)、澄水山(しみずさん)、蛇山(じゃやま)、臥牛山(がぎゅうざん)、真山(しんやま)、朝日山(あさひさん)、南には茶臼山(ちゃうすやま)、天狗山(てんぐやま)、星上山(ほしかみやま)、京羅木山(きょうらぎさん)などを挙げることが出来る。最高の天狗山から最低の茶臼山まで二千四五百尺から五六百尺の海抜を示している丘陵であるが、何しろ平原から直ちに崛起(くっき)しているので、高さの割合には登路(とうろ)が長く且つ山頂の眺望が開闊(かいかつ)である。[やぶちゃん注:各山は最後に注する。「崛起(くっき)」山などが高く聳え立っていること。「開闊」気持ちよく、広く開けていること。「二千四五百尺」約七百二十八メートルから七百五十七・五八メートル。「五六百尺」約百五十二メートルから百八十一・八二メートル。]

 僕は之れ等の山々のいずれも少くとも一回、多きは十回くらい登った事があって、夫れぞれの山が有(も)っている性格に一種のなつかしみを感じているが、僕の好みから云うと、蛇山の頂からの眺めが一等勝れているように思われる。殊に秋も長けた十月ごろあの山の絶巓に踞(こしか)けて、涯もなく茂りつづく銀の穂芒(ほすすき)のあいだから、秋の日光(ひざし)にほのかに匂う海やみずうみや野や市街やのけしきをうっとり眺めるうつくしさ快さは、いつ迄も忘れ得ないもゝのひとつである。山の相(すがた)からから云っても僕はこの山を最も愛している。

 併し登る路の楽なこと、麓までの里程の短いこと、しかもその割合に眺めの住い点に於ては僕は嵩山と真山との二つを推奨する。そう云う理由から、東京から来た友人を所々案内したのち帰京の日が迫ったとき、僕はこの二つの山を挙げて、その孰れかに登ってみようと言い出した。

 二つの山をいろいろの点から比較したのち僕たちは真山を登臨(とうりん)の目的に選んだ。尼子(あまご)の城跡があると云う事と、登りが割合に短いと云う事との二つのこの選択を決定する最要件であった。

 大きい灰色の雲が頭上の空を蔽うて渡って行くのを仰ぎながら、如何(どう)も怪しいなと言い言い龍之介君と僕と弟と三人家を出かけた。

 西原(にしばら)から法吉(ほっき)の村へ入って川沿いの石ころ道を辿って行くと間も無く常福寺の丹瓦(あががわら)の屋根が竹薮のうえに現れた[やぶちゃん注:「薮」はママ。次の段では「藪」である。]。

 庫裏に訪れると梵妻(だいこく)さんがいつ見ても肥りたるんだ体躯(からだ)をはこんで出て来て挨拶する。そこへ「どうも井川さんの声らしいがと思った」と言いながら和尚さんが畑か藪の中からか帰って来て、「まあ少し休んでから山へあがりなされ」と勧めて呉れる儘、三人は本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ。

 それから龍之介君と僕とは肌衣一枚に成り、弟はシャツを着て来なかったので裸の体にズボン下をはいて出かけようとすると、和尚さんが「まあ是れでも引っかけてお出でや」と言って襦袢(じゅばん)を貸してやった。

 三人は寺で借りた藁草履をはいて山門の外の石段を降り細い谷川に沿う径をあゆみはじめた。

 「和尚さんの襦袢の汗臭いには少々閉口だわ」と後から踉(つ)いて来る弟がつぶやいて笑わせた。

 

[やぶちゃん注:ここで、時計が巻き戻って、再び、芥川龍之介が登場する。井川の芥川龍之介への思いが痛いほど判る作品構成となっているのである。

「嵩山(だけさん)」島根県松江市川原町にある標高三百三十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ。以下、既に出た山もあるが、ここでは標高は総て国土地理院地図で統一した。登山サイトの標高とはかなり有意に異なるものもあるので注意されたい)。

「羽久羅山(はくらやま)」恐らく、現在の松江市上東川津町にある和久羅山のこと。標高二四十四メートルの山。ここ。誤りかどうかは不明。何故なら、以下の名前も現行と異なるものがあるからで、古名や当時の通称名・異名である可能性も捨てきれないからである。

「枕木山(まくらぎやま)」松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌(ちくみ)にある標高四百五十三メートルの山。ここ

「澄水山(しみずさん)」松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。ここ

「蛇山(じゃやま)」現在の松江市島根町大芦にある滝空山(たきそらやま)。標高四百七十五メートルの山。ここ

「臥牛山(がぎゅうざん)」現在の蛇山(東方)と同じく島根県松江市島根町大芦にある大平山(おおひらやま)。標高五百二・八メートルの山。ここ

「真山(しんやま)」松江市西持田町にある標高二百五十六・二メートルの山。ここ。「新山」とも書く。ここは本文にある通り、尼子氏と毛利氏の攻防戦の場として知られる個人サイト「中国地方の登山紀行 法師崎のやまある記」のこちらが詳しく、実際の登頂記録が写真で掲載されている。必見。なお、芥川龍之介は旅から帰った後に井川に当てた感謝の書状(岩波旧全集書簡番号一七四)の中で(この書簡は後で全文を電子化する)、この時の真山での感懐を、

 

   眞山覽古

 山北山更寂

 山南水空𢌞

 寥々殘礎散

 細雨灑寒梅

    眞山覽古

  山北(さんぼく) 山(やま) 更に寂し

  山南(さんなん) 水(みづ) 空を𢌞(めぐ)る

  寥々(れうれう)として 殘礎(ざんそ) 散り

  細雨 寒梅に灑(そそ)ぐ

 

という漢詩にしている(訓読は筑摩全集類聚版を参考にはしたが、從っていない部分もある)。

「朝日山(あさひさん)」松江市東長江町にある標高三百四十一・八メートルの山。ここ

「茶臼山(ちゃうすやま)」松江市山代町にある標高百七十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データだと城跡名だけなので、ここでは国土地理院地図を用いた。一切、画面を移動させず、左下の「+」ボタンだけで拡大されたい)。

「天狗山(てんぐやま)」松江市八雲町熊野にある標高六百十・四メートルの山。ここ(また、グーグル・マップ・データに戻す)。

「星上山(ほしかみやま)」松江市八雲町東岩坂にある標高四百五十八メートルの山。ここ

「京羅木山(きょうらぎさん)」星上山の東方、松江市東出雲町(まち)上意東(かみいとう)にある標高四百七十三メートルの山。ここ

「尼子」大名としての最後の当主は尼子義久(天文九(一五四〇)年~慶長一五(一六一〇)年:出雲国の戦国大名尼子晴久の次男)。永禄九(一五六六)年十一月、義久は兵糧攻めを受けていた月山富田(がっさんとだ)城の開城を決意し、毛利元就に降伏する旨を伝えた。元就は義久の身柄を安堵することを記した血判を送って開城となった。この富田城陥落によって、出雲国内で抵抗していた尼子十旗(あまごじっき:根城富田城の防衛線として出雲国内に配した主要な十の支城)の城将達も次々に毛利氏に下った。元就は義久とその弟たちの一命を助け、取り敢えず、安芸の円明寺に幽閉した。これを以って大名としての尼子氏は滅亡したが、その後、義久は天正一七(一五八九)年、元就の孫毛利輝元によって、毛利氏の客分として遇され、安芸国志道(しじ)に居館を与えられ、慶長元(一五九六)年、長門国阿武郡嘉年(かね)にあった五穀禅寺(現在の極楽寺)に於いて剃髪、出家して「友林」と号し、十四年後、享年七十一で死去している。毛利家の意向により、甥(義久の弟倫久の長男)の尼子元知が養嗣子という形で、尼子氏を継いでいる。尼子と言えば、私の偏愛する上田秋成の「雨月物語」の「菊花の約(ちぎり)」だなぁ。

「西原(にしばら)」現在、松江市奥西原という地名が残るが(中央附近(グーグル・マップ・データ))、井川の叙述から考えると、その北の現在の松江市春日町((グーグル・マップ・データ))を含む広域の古い地名であろうと推察する。

「法吉(ほっき)」現在の島根県松江市法吉町(ほっきちょう)。(グーグル・マップ・データ)。真山のピークは現在の村域では、ごく僅かに東にずれるようだ。

「常福寺」松江市法吉町二五八に現存。(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。開基・開山は不詳。毛利と尼子の白鹿合戦の際、白鹿城城主で尼子の勇将であった松田左近将監満久はここの僧であった、また満久の末弟であった普門西堂は常福寺丸(この寺の後背の山)に砦を構えて奮戦したが、落城の時に自刃したとも伝えられている。寺はこの合戦によって荒廃したが、寛永一〇(一八三三)年清光院 高厳栄甫大和尚が再建した。現在の本堂は明治四〇(一九〇七)年に建てられた(データ他に拠る)とあるから、まさに芥川龍之介が訪れた時のままということになる。

「梵妻(だいこく)」は僧侶の妻のこと。大黒天が厨(くりや)に祀られたことから。「大黒」とも書く。先に紹介した井川と芥川の連句の中に、龍之介の句として、

 

梵妻(だいこく)の鼻の赤さよ秋の風

 

があり、句の後に『この句を定福寺の老梵妻にささげんとす』という添書きもある。

「本堂の畳をのそのそ踏んで北側の幅広い板椽に行って、本尊の仏様の前だけれど失敬して裸になってすゞんだ」グーグル・マップ航空写真現在、北側。この真山方向を向いて開かれた板縁で彼らは裸になって涼んだのだった。

「細い谷川に沿う径をあゆみはじめた」グーグル・マップの航空写真でそのルートが判る。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十二」

 

    二十二

 

[やぶちゃん注:以下の短歌群は底本の五十四ページから始まるのであるが、五十四ページは短歌のみで、それは裏の五十三ページを透かして見ると、総て一字下げで印刷されてあることが判る。ところが、最後の六首は五十五ページに載り、その後半部は次章「二十三」本文となっているのであるが、そこでは六首総てが、行の頭、一字目から記されてあるのである。そこで、ブラウザ上での見た目の悪さも考えて、総てを一字目から表記することとした。また、短歌には表記その他に複数の不審があるが、総てそのまま示し、後の注で疑問を挙げておいた。]

 

 ほそい雨が冷たい滴を落しながら早くもすがれた庭の杏の梢に降りそゝぐ静かなあさ、久しぶりにおちついた歌をかんがえて見た。城山の杜かげの草叢にすだく虫の音は、緑りのいろの白く濁った濠の水のうえを渡ってひる間もさびしくひびいて来るのであった。

 たちまち、視界のうすれて行く境をあかるい藍色の光が礫(つぶて)をなげうつ様に過ぎ去った。眼をあげて光のゆくてを追うと、お濠の岸から岸へ翔(かけ)って行く翡翠(かわせみ)の翅(はね)のいろであることが知れた。

 

わが生(よ)哀し日の没(お)りぎわの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土蔵(くら)の扉のかな錆(さび)もさ青むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は黙(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かいな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに揺するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな帰り来そ

海をみつめて立てる男の横顔くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆうかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり真菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土蔵の鉄(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚児(おさなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けうちくとう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

みずうみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家毎に住みならはせりうきくさのはな

人いとをしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちぢく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が帰ってしまった後の、井川の中の欠落感・寂寥感を彼は美事にこの章で短歌に託して示して美事である。……さてもさても、「芥川龍之介は帰ってしまったのか」とあなた(本ブログの読者)も淋しく思われるであろう(事実、帰っちゃったんだけれども)、ところが、どっこい――なんだな、これが……♪ふふふ♪……

 まず、歴史的仮名遣の誤りを訂した上で、短歌全文を恣意的に正字化して以下に示すこととする(仮名遣を訂した箇所は太字下線とした)。

   *

 

わが生(よ)哀し日の沒(お)りぎの雲の隙に空のみどりぞとほく明るむ

川岸の土藏(くら)の扉のかな錆(さび)もさ靑むまゝに秋は立つらしも

欄干によりそふ肌の冷えびえと女は默(もだ)し橋にゐたるかも

川浪のみどりのかげのゆらめきもしづこゝろなく日は暮れにけり

つばくらは橋をくぐりて川端の染物店の簷(のき)に入るかな

わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かな)かもいのちかなしき

しゝむらを海の疲れのやはらかに搖するがまゝにいねたる女

はろばろと海のあなたへはなちやるわが悲しみよな歸り來そ

海をみつめて立てる男の橫顏くらく日は暮るゝなり

わたつみの浪の雄(を)ごゝろくづをれてゆくかとぞ思ふたよりなき日よ

城山(しろやま)の木のうれに群れて啼く鳥のゆかたまけて飛び散らひけり

微雨(こさめ)ふるお濠の岸に舟をよせて乙女はひとり眞菰(まこも)を刈るも

こゝろ懶(う)き日なれば土藏の鐵(かな)窓ゆ湖をながめつ桐の葉越しに

ゆう映えの光にそむき山はしもうちうなだれてかなしめるかも

街の暮れ稚兒(さなご)どもの首傾(かし)げてひそひそかたるうす明りかな

かなりやは夾竹桃(けちくう)の花かげに啼きてしやまず湖(うみ)はたそがるゝ

うみの澄みたる水の隈(くま)にひたる家居のかげも秋さびにけり

牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ

堀かはの水に下り立ち藻の蔓(つる)を引くともなしにものを思へば

お花畑さみしき人の家每に住みならはせりうきくさのはな

人いとしと街にゆきぬ人にくしと山にのぼれりかく嘆かへる

無花果(いちく)の濶(ひろ)き葉かげにかくれつゝ光に怖ぢて啼ける小鳥はも

 

   *

 以下、私の正字正仮名版で引いて注する。

「わだつみの浪をうちゝつしびれたるわが腕(かひな)かもいのちかなしき」の「浪をうちゝつ」が私には意味が判らない。私は「浪をうちつゝ」の錯字(錯記号)かと思ったのだが。「うちちつ」で意味が通るということであるから、どうか、御教授下されたい

「城山(しろやま)の木のうれに群れて暗く鳥のゆふかたまけて飛び散らひけり」「城山」は旧松江城(千鳥城の異名の方がこの一首には相応しい)跡を指す。因みに、現在は(公園となっているが)「しろやま」よりも「じょうざん」「じょうやま」と呼び慣わすことが多く、小泉八雲が好んで散歩し、愛した城山稲荷神社も「じょうざんいなりじんじゃ」である。「うれ」は「末」で草木の新しく伸びた末端、梢の意。「ゆふかたまけて」万葉語。「夕片設けて」で「夕方を待ち受けて(受けるように)」の意。

「牢獄の煉瓦の壁におそ夏の日の光こそ赤くあざたれ」井川が借り、芥川龍之介と一緒に滞在した中原町の濠端の家から南方直近の、現在、島根県立図書館((グーグル・マップ・データ))がある場所には、当時、刑務所があった。]

2018/01/19

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十一」

 

    二十一

 

 友は次のような松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘、彼がふるさとたる東京を指して帰って行って、その第一篇を紹介した僕は、此続篇をも公にする事を妥当と信じている。

   日記より(二)

               芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して単にそれが過去に属するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な属性を除き去つても、尚是等の物がその芸術的価値に於て、没却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は独り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺(げつせうじ)に於ける松平家の廟所と天倫寺の禅院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の増加をも決して忌憚しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山の公園に建てられた光栄ある興雲閣(こううんかく)に対しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌悪の情以外に何物も感ずることは出来ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に対しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全国の都市の多くは悉くその発達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な発達の径路に縁(よ)ると云ふ事ではない。否寧ろ先達たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特権である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屡(しばしば)外国の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電灯とを以て広告と称する下等なる装飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹の養成とである。自分はこの点に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも処々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空気とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に関しても松江はその窓と壁と露台(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天恵(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

               芥川龍之助

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の実をつづる下に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のように[やぶちゃん注:「ように」はママ。]靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子(がらす[やぶちゃん注:ルビは全集版では「ガラス」に変更されている。]))板のやうな光沢のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に変るまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら随所に空と家とその間に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此処に住む人間の耳に伝え[やぶちゃん注:「え」はママ。]つゝあるのである。この水を利用して、所謂水辺(すゐへん)建築を企画するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる関係に立つてゐるのである。決して調和を一松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委ぬべきものではない。

 自分は、此盂蘭盆会(うらぼんゑ)に水辺の家々にともされた切角灯籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匂にみちた黄昏(たそがれ)の川へ静な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雑な印象記を井川恭氏に獻[やぶちゃん注:正字はママ。]じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(おはり[やぶちゃん注:ママ。全集版では「をはり」。])

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

 

    二十一

 

 友は次のやうな松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘(まま)彼がふるさとたる東京を指して歸つて行つて、その第一篇を紹介した僕は、此續篇をも公にする事を妥當と信じてゐる。[やぶちゃん注:これは勿論、井川恭の筆になるもので、恣意的に底本のそれを正字正仮名に改めておいた。]

 

   日記より(二)

                   芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して單にそれが過去に屬するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な屬性を除き去つても、尚是等の物がその藝術的價値に於て、沒却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は獨り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺に於ける松平家の廟所と天倫寺(てんりんじ)の禪院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の增加をも決して忌憚(きたん)しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山(じやうざん)の公園に建てられた光榮ある興雲閣に對しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌惡の情以外に何物も感ずることは出來ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に對しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全國の都市の多くは悉くその發達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な發達の徑路に緣(よ)ると云ふ事ではない。否(いな)寧ろ先達(せんだつ)たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特權である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屢(しばしば)外國の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電燈とを以て廣告と稱する下等なる裝飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹(がいじゆ)の養成とである。自分はこの點に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入(はひ)ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも處々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空氣とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に關しても、松江はその窓と壁と露臺(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天惠(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

                     芥川龍之助

 

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の實をつづる下(した)に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門(なだもん)の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のやうに靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子板(がらすいた[やぶちゃん注:ルビは全集版では「がらす」は「ガラス」に変更されている。])のやうな光澤のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に變るまで、水は松江を縱橫に貫流(くわんりう)して、その光と影との限りない調和を示しながら隨所に空と家とその間(あひだ)に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此處に住む人間の耳に傳へつゝあるのである。この水を利用して、所謂水邊(すゐへん)建築を企畫するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる關係に立つてゐるのである。決して調和を一(いち)松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委(ゆだ)ぬべきものではない。

 自分は、此(この)盂蘭盆會(うらぼんゑ)に水邊(すゐへん)の家々にともされた切角燈籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匀[やぶちゃん注:底本では「匂」であるが、岩波版旧全集が「匀」であり、芥川の好んだこちらを採用する。]にみちた黃昏(たそがれ)の川へ靜(しづか)な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雜な印象記を井川恭氏に獻じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(をはり)[やぶちゃん注:この一文は全集では全体が一字下げでしかもポイント落ちとなっているが、底本に従った。]

 

   *

「月照寺(げつせうじ)」島根県松江市外中原町にある浄土宗の名刹。芥川龍之介の言うように境内には松江藩主松平家の廟所があり、現在、国史跡に指定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「月照寺(松江市)」によれば、かつて『この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として』寛文四(一六六四)年に、『この寺を再興』、『浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた。直政は二年後の寛文六年に『江戸で死去したが、臨終の際』、『「我百年の後命終わらば』、『此所に墳墓を築き、そこの所をば』、『葬送の地となさん」と遺した』第二代藩主綱隆(直政の長男)は、父『直政の遺命を継ぎ』、『境内に直政の廟所を営』み、その際、『山号を現在の「歓喜山」と改めた。以後』、九『代藩主までの墓所となった』。『茶人藩主として著名な』第七代藩主松平治郷(はるさと:号の「不昧(ふまい)」で知られる)の『廟門は松江の名工・小林如泥』(じょでい 文化一〇(一八一三)年~宝暦三(一七五三)年:木彫・木工家で、代々、出雲松江藩主松平家大工方として仕えた。酒を好み、常に酔って泥の如しであったと伝え、不昧公よりこの「如泥」の号を賜ったという)『の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。境内には不昧お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑がある。また、不昧が建てた茶室・大円庵がある』。明治二四(一八九一)年に『松江に訪れた小泉八雲は』、『この寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである』。また、第六代藩主宗衍(むねのぶ)の『廟所にある』『碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれ』、『下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという』(これは私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (七)』を参照されたい)。『この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。不昧は』三十『キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。この延命地蔵は不昧にあやかり』、『「親孝行岩」として現在も信仰されている。現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている』とある。

「天倫寺」松江市堂形町にある臨済宗の寺。宍道湖が眼下にあり、その眺望は「宍道湖十景」や「松江八景」に挙げられた絶景である。「島根県観光連盟」の「しまね観光ナビ」の同寺の解説によれば、慶長一六(一六一一)年、『松江開府の祖堀尾吉晴の創建した龍翔山瑞応寺(りゅうしょうざんずいおうじ)を、堀尾氏のあと』に『入封した京極氏が宍道湖南の地に移して円成寺とした。この跡地に松平直政が』寛永一六(一六三九)年に『信州から僧東愚を招き、神護山天倫寺(臨済宗妙心寺派)を開山、今日に至っている。なお』、『その後』、『一時、興陽山本城寺と称していたこともある。鐘楼にある梵鐘は朝鮮鐘で、細密精巧な彫刻がほどこされ、また「高麗国東京内廻真寺(こうらいこくとうけいないかいしんじ)」の鐘銘が刻まれて国の重要文化財。もともといまの簸川郡多伎町田儀の本願寺にあったが、堀尾吉晴が陣鐘にするため徴発、城内においた。しかし』、『松平氏になってから』、『城内に梵鐘は不吉だと天倫寺に寄進されたもの』である。江戸中期の『文人画家池大雅(いけのたいが)』『はこの鐘声を賞(め)でて、当寺に逗留し、大幅』「赤壁図(せきへきのず)」の秀作を残した、とある。リンク先には地図もあるので、位置はそれで確認されたい。

「忌憚」ここは「嫌って厭(いや)がること」の意。

「興雲閣(こううんかく)」既出既注であるが、再掲しておく。旧松江城内南端にあり、底本後注によると、明治三一(一八九八)年に『松江城二の丸に工芸陳列所として建立された木造二階建ての洋館』で、明治四〇(一九〇七)年には『皇太子殿下』(後の大正天皇)『行啓の際、御座所となった』とあり、現在、松江郷土館となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農工銀行」明治二九(一八九六)年に制定された「農工銀行法」に基づき、各府県に設立された特殊銀行。農工業の改良発達のための貸付を目的としたが、大正一〇(一九二一)年に「勧農合併法」が制定され、漸次、日本勧業銀行に合併された。その松江支店は現在の松江市殿町(県庁の東)にある「松江センチュリービル」の位置にあった(ここ(グーグル・マップ・データ))。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治四一(一九〇八)年十月に新築されたとあり、その新築記念絵葉書で芥川龍之介が評価したハイカラな建物を見ることが出来る

「街衢(がいく)」「衢」は四方に分かれた道で、「人家などの立ち並ぶ土地・町」の意。

「井然(せいぜん)」整然に同じい。

「幽鬱(ゆううつ)」文中で注した通り、歴史的仮名遣は「いううつ」が正しい。「憂鬱」に同じいが、ここは、木が周囲が暗くなるほどに盛んに茂ることの意で、ネガティヴ一辺倒のマイナスの陰鬱の謂いではない。

「灘門」「なだもん」と読む。この「翡翠記」を井川による長歌とすれば、それの応じた相聞歌に当たるものが、実は存在する。「翡翠記」以上に読まれることが少ないと思われるものであるが、この旅で井川と芥川が交わした連句で現在、岩波新全集で「松江連句」という仮題で初めて活字化されたもので、松江を舞台として春夏秋冬を描いた壮大な二人による百韻である。私は既にやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺でそれを電子化注しているが、その中に、井川の「冬」の句として、

 

 灘門(なだもん)に人のけはひす夜を寒み

 

及び、

 

 雪あかり灘門とざす女かな

 

という二句が登場している。「灘門」については筑摩全集類聚版脚注では『「水門」か』と推理している。ここで言う「水門」とは、宍道湖には中海経由で潮水が入ってくるため、それが堀に逆流して田畑に塩害をもたらさないために作られたものを指すと思われるが(江戸末期の古地図を見ると、そのような水門が二箇所に視認は出来る)、しかしこれを句の「灘門」と解するには私は非常な無理があると考える。何故なら、これら二句は孰れも夜の景で、おまけに後者では灘門を閉じているのは女性だからである。万一、想像されるそれなりに大きな海水を閉鎖するための水路「水門」を、雪中の夜、女性が閉じに来る、という景は、一般的感覚では奇異にして不審だからであるこの「灘門」については、このやぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺を公開した後、そこで疑問を呈したところ、現地の方々の非常な協力を得、問題を解決することが出来た。同ページの注でも記してあるが、ここに引くと、松江では、堀や川に面した部分を持つ住居にあっては、それらの家が面している水域を「灘(なだ)」と呼称し、その水場(みずば:水仕事を行えた)への出入り口を「灘門(なだもん)」と言ったのである。以下にその写真を掲げる(なお、本写真は著作権の確認が出来ないが、本件では重要な資料であるので紹介する。万一、著作権抵触の指摘を受けた場合は公開を停止する。但し、以下の証言者の家が映っている以上、撮影者はその家の持ち主から逆に写真の取り下げを求められる可能性もあることを附記しておく)。本件への回答を下さった方(まさにこの注に相応しい女性の方である)の灘門の回想が素敵なので一部、公開する(表記の一部に手を加えた)。

Photo08

   *

(前略)灘門はね、下のほうに、十センチぐらいだったかしら? 少し隙間があるんです。水が増えてくると、そこへ降りる段段へ、それこそ「だんだん」水があがってきて、小さな魚や亀なんかが、うちのなかへ入ってくる状態になるんです。それが嬉しくて、楽しみで、大水になると日に何度もそこへいって見たものです。「○段目まであがったよー!」って親に報告するわけです。六、七段もあったでしょうか?

   *

因みに、この回想回答された方の御宅は、まさに、上の写真の中にある、とのことであった。

LIFELIKE」ここは「あたかも生き物であるかのような」という意。底本の後注では、芥川龍之介が大正三(一九一四)年四月に『心の花』に「柳川隆之介」の署名で発表した「大川の水」の一節を引いている。同箇所(前を少し増やした)をリンク先の私の電子テクストで引いておく。

   *

 海の水は、たとへば碧玉(ヂヤスパア)の色のやうに餘りに重く緑を凝らしている。と云つて潮の滿干を全く感じない上流の川の水は、云はゞ緑柱石(エメラルド)の色のやうに、餘りに輕く、餘りに薄つぺらに光りすぎる。唯淡水と潮水とが交錯する平原の大河の水は、冷な青に、濁つた黄の暖みを交へて、何處となく人間化(ヒユーマナイズ)された親しさと、人間らしい意味に於て、ライフライクな、なつかしさがあるやうに思はれる。

   *

引用部の語はリンク先で私が詳注しているので参照されたい。

「アアサア、シマンズ」イギリスの詩人で文芸批評家のアーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)。「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」は庄子ひとみ氏の論文「コスモポリタンのまなざし――アーサー・シモンズのヴェネツィア紀行」(PDFでダウン・ロード可能)の記載からみて、紀行文“Venice”(“Cities”一九〇三年/“Cities of Italy”一九〇七年の合本らしい)の中の一節らしい。

「松崎水亭(まつざきすゐてい)」宍道湖湖畔の当時の松江を代表する料亭。「松江絵葉書ミュージアム」のこちらによれば、明治六(一八七三)年の創業で、現在は玉造に移って「松の湯」という温泉旅館となっている、とある。旧所在地は、その記載から、この中央附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「盂蘭盆会(うらぼんゑ)」芥川龍之介が訪れた時を旧暦に直すと、松江到着の八月五日が旧暦六月二十五日、八月二十一日が旧暦七月十一日に当り、旧暦七月十五日よりも前になる。しかし、この文章は彼がその実景を見ているように書いているから、既に当時、松江では、新暦の八月十五日に盂蘭盆会をやっていたと読むべきであろう。

「切角灯籠(きりこどうろう)」盆灯籠の一種で、灯袋(ひぶくろ)が立方体の各角を切り落とした形になっている吊り灯籠。灯袋の枠に白紙を張り、底の四辺から透(すか)し模様や六字名号(南無阿弥陀仏)などを書き入れた幅広の幡(はた)を下げたもの。灯袋の四方の角にボタンやレンゲの造花をつけ、細長い白紙を数枚ずつ下げることもある(小学館の「日本大百科全書」に拠る)。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目マツブサ科シキミ Illicium anisatum 。仏前の供養用に使われる。詳しくは私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十三章 心中 (三)の私の注を参照されたい。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二十」

 

    二十

 

 海から上って二人は風呂場をさして行った。

  ごえもんぷろ

「ヤッ五右衛門風呂だね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」

と龍之介君が大に無気味がる。

「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏(おどり)をするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。[やぶちゃん注:「せないでも無い」はママ。西日本方言圏の表現という気がする。]

 僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸(つか)っていたが、

「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。

 湯からあがって海をながめているとおかみさんが魚づくめの夕飯の膳を持って来た。

 それをお腹(なか)におさめたあと二人は追々暗く成って行く海の面に見惚れながらいろんなことを話していた。

 たちまち闇の中に一点の光が閃いてしずかに瞬きはじめた。光が光の伴侶(つれ)を呼ぶように更にひとつの光がそれに並んで輝きを放ち始めた。三つ四つ五つと光の列は漸次(しだい)にながく成って海のはてに広がった。

「海の向うに街があって、灯(ともしび)の光を水に落しているようだね」

「光が一つひとつ浪のうえを此方へあゆんで来るような気もするし、お出で、おいでと手招きするようにも見えるね」

 二人は勝手な想像を描きながら漁り火をみつめた。

 大分つかれたので床をとらせて蚊帳の中にはいったが和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた。

 あくる朝めざめると暁の海は軽快な透明なうしおのいろをたゝえながらながい弓形(ゆみなり)の砂は夫(それ)に抱かれていた。

 朝飯をすませてから鰐走(わにばし)りのあたりまで散歩した。そこにかゝつている橋の欄干に凭れながら、浄らかに水の面の澄んでいる波根の湖水のあなたに三瓶山の秀抜な峯の容(すがた)をながめるけしきは、人の心を深く引付ける趣をそなえている。

 宿にかえるとまた浜辺へ下りてみずを泳いだ。およいでは浜にあがって日光(ひ)に照れている砂のうえに身を投げてあたゝめた。龍之介君が砂のピラミッドをきずくと、僕は砂のスフヰンクスをつくったが、スフヰンクスは自分の首の重さに耐えかねてがくりと砂の頭をうつむけた。

「年代(タイム)は斯うして一切の営みを亡ぼすのだ」と砂のくずれを指して僕はわらうた。

 龍之介君はせっせと砂を盛り上げて日本アルプスのひな形をつくりはじめた。それが出来上った時、

「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」と説明したが、その群嶺も間もなく僕たちの足の下に踏みくずされた。

 それから正午(ひる)過の汽車に乗って僕たちは今市に向った。

「愛すべき波根の村よ!うつくしかった昨夕の日没よ!」とこゝろの中にさけびながら、隧道(トンネル)の中に呑まれて行こうとする汽車の窓から僕はうしろを振返ってみた。

 

[やぶちゃん注:「漁り火」日本海の夏の風物詩である烏賊釣り舟の漁火(いさりび)である。

「和漢洋の怪談の書物を無数に読んで御苦労に一々それを記憶している龍之介君に得意の幽霊ばなしをそれからそれときかされた」芥川龍之介は稀代の怪奇談蒐集家であった。私の古い電子テクストで、私の偏愛する芥川龍之介の怪談採録集「椒圖志異」を参照されたい。

「鰐走(わにばし)り」底本後注に『波根』海岸の『西の奇巌「掛戸の岩」などのある岩場』とある。景色(グーグル・マップ・データの写真)。また、サイトおおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖の「7.掛戸開削」も是非、参照されたいここは現在のとなっては幻の波根湖からの排水路として切り開かれた(と伝わる)ものであることが判る。『掛戸の床面は海面高度とほぼおなじで、排水のための水路がその床面に掘り下げられている』とあり、私はこれを読んで何となく「鰐走り」の名が腑に落ちた。

「波根の湖水」現在の地図ばかり見ていると、この意味が判らない。何故、私が前の注の、サイトおおだwebミュージアム」の「干拓で消えた湖・波根湖を太字にしたか? そこの「2.砂州が湾をふさぐ」を読んでいないと、この井川や芥川の目に映っている景色が判らないからである。井川が「湖水」と言っているように、当時、ここには波根湖という巨大な「潟湖」があったのである。そこの七十前の地図を見られよ!

「三瓶山」大田(おおだ)市三瓶町(さんべちょう)志学。島根県のほぼ中央にある標高千百二十六メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。掛戸からは直線で南東に十五キロメートル弱の位置にある。大山隠岐国立公園内の名峰である。

「これが槍(やり)が嶽(たけ)、この間が天下の絶嶮で穂高につゞく。こちらのは常念嶽(じょうねんだけ)でこの凹みは梓川(あずさがわ)の渓谷だよ」芥川龍之介はこの六年前の明治四二(一九〇九)年、三中の三年生(十七歳)の夏(八月八日出発で十日頃に槍ヶ岳に登攀、十二か十三日に帰宅(この頃はまだ本所)している模様)に同級生の中原・中塚・市村・山口と五人で槍ヶ岳に登っており、この時の日記も残っている(日記は葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」所収の「槍ケ岳紀行」。なお、彼には大正九(一九二〇)年に『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」がある(「青空文庫」ので読める)が、驚くべきことに芥川龍之介は作家になってからまた槍ヶ岳に行ったと信じ込んでいる研究者(言っとくが、ただの龍之介好きの読者なんかではなく、芥川龍之介研究者を公に名乗っている奴である)がいたのには、ビックらこいた。これは、この十七の時の記憶と日記を元に彼がフェイクで作った立派な創作物、小説なのである)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十九」

 

    十九

 

 高い海ばたの崖から崖を伝って走って行った汽車が幾つかの隧道(とんねる[やぶちゃん注:ひらがなはママ。])を潜り抜け、最后の黒闇(くらやみ)の中から脱け出たとき、夕ぐれの日の光に染って屋根や壁やが一斉にはなやぎ輝いている波根の漁村が海を背景(バック)にして眼のまえに現れた。

 新築の小(ささ)やかな停車場に下車して改札口の駅夫に、「水月亭(すいげつてい)という宿はどこですか?」と新聞の広告で知った旅館の所在(ありか)をたずねると、「そんな家は知りません」と突慳貪(つっけんどん)に答え返した。困ったなと二人顔を見合わせていると、今の汽車から下りて来たらしい村の人が親切に教えて呉れたので安心して歩み出した。宿は停車場から二丁ばかり行ったところに在って宿の名を記(か)いた小旗が高い竿のうえに翻っていた。

 門を入って、こちらから入るのかと訊くと、そこで洗濯をしていた此家のおかみさんが「そげでございますがな」とこたえた。新築して間も無いと見えて中庭では庭師が仕事をしていた。ぼんやりとそこに立っていると、「こちらの部屋へ上んなさい」とおかみさんが無雑作に半ば命令的な口調で指図するのにいさゝか二人とも恐縮して言い付けられた儘一番東側の藤原朝臣なにがしの不二の歌の額のかゝつている部屋にあがった。

 あがって見ると眺望(ながめ)はすてきに佳い。二人は海にのぞんだ様にこしかけたまゝ、

「佳いね!ほんとうにいゝね!今夜こゝへ来てよかった」とお互いにいそがしく言い続けた。

 眼の前の海は一湾(いちわん)の暮潮(ぼちょう)を張りみなぎらせ、高らかな浪の音は静かな夕べの底に泌みてゆるやかに響いていた。浜が右の方に尽きるところには断層の条文(すじめ)鮮かな立神(たてがみ)の巌が巨人のように肩を聳やかしてすっくと立って居り、左り手は弓形につづく白砂の浜のはてに赤瓦の屋根がいろうつくしく重なり合っている。

 二人はいそいで衣服(きもの)をぬいで椽の前の高い石垣に架けてある板の桟(はし)を下りて海に跳びこんだ。

 浪は冷たい掌(てのひら)をあげて肩を衝ち胸をうつ。すっきりとした寒冷の感覚が緊張した全身の筋肉に錐の尖(さき)のように細くとがった刺戟を伝える刹那に、身を挑らせて浪のうえに手足を浮かせると、水は弾力性に富んだ快い圧迫を体躯(からだ)の周囲(まわり)に加えながら自分の思うまゝに揺(ゆさ)ぶり弄ぼうとこゝろみる。

 恰度その折太陽は、燦爛(さんらん)たる栄光の王冠を火炎の中に抛(なげう)つように爛々と燃えながら海の涯に沈んで行った。

「あっ、うつくしい!」

「うつくしいね!」と浪のあいだから二人がうれしくて耐(たま)らないような声を叫んで、そのゆうべの「日の終焉(おわり)」の栄(さけ)を讃めたゝえた。

 裸かな二人のからだのまわりには金色や、くれないや、藍綠(らんりょく)や、紺青やの浪の文(あや)、浪の模様が肌にとおる冷めたさと共に縺(もつ)れ絡(しが)らみはるかな海の端(はて)には日の、まったく没したあとの空に呪文の象(かたち)をした雲が焔(ほのお)のかたまりのように燃えかがやいていた。

 

[やぶちゃん注:「水月亭(すいげつてい)」底本後注に『現在の「金子旅館」あたりにあったと推定されるが、不詳』とある。「金子旅館」は(グーグル・ストリートビュー)。その手前に現在、「水明館」という宿もあるのだが(ここ。グーグル・ストリートビュー)、井川は「停車場から二丁」(二百十八メートル)「ばかり行ったところに」あったとあり、後者は波根駅の現在の中央部から計測しても八十メートルしかなく、近過ぎ、確かに「金子旅館」のある位置の方が相応しい。

「藤原朝臣なにがしの不二の歌」不詳。井川が「なにがし」とするところを見ると、藤原敏行や実方ではあるまい。しかもここで、よりによって、冨士かいな!

の額のかゝつている部屋にあがった。

「立神(たてがみ)の巌」底本後注に『波根湾東側突端の切り立った岸壁』とある。景色(グーグル・マップ・データの写真)。Tombeeブログ「清治の花便りの写真群も素敵だ! これらの写真を見ると、井川の「巨人のように肩を聳やかしてすっくと立って居」るのは横方向のシミュラクラの意だということが判る。!巨神兵!

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十八」

 

    十八

 

 昼飯(ひるげ)をすましてから二人寝ころんでいると、風は海の方から山辺(やまべ)へと二階のなかを吹き通すので、涼しさをとおり越して肌寒く成った。

 しばらくしてから裸になって浜へ出てみると、海岸から三四丁のあいだは浪が底を撹(か)き拌(ま)ぜるためか水はいやに濁って、白い浪のしぶきが一倍もの凄じく見えた。浪のなかへすゝんで行ったが、逆巻いてなだれ落ちる浪の力が暴悪をきわめていて、いく度努力してみても底へ叩き込まれるばかりであった。

 からだ中流れ藻やそだの屑だらけに成って僕たちはほうほうの体で湯場に引上げた。

 なんだか此処は索漠としていて興味が薄いので、一体は一と晩泊るつもりであった予定を急に変えて、四時の汽車で石見の波根(はね)に向うことにした。龍之介君がもう一返大社へ行ってお守りを買って行くと云うので復たおなじ途を引返してお宮に行き大黒さんと蛭子(えびす)さんと二体の木像の入っている小さい筥(はこ)をもらった。

 汽車に乗ってから龍之介君はそれを雑嚢の中から取り出していじくりながら、

「おも白いな。大黒さんと蛭子さんとが孔からのぞいているぜ。恰度顔のところへ孔をあけたのはおかしいや」

「どれ、見せ給え。なる程、二人とも楽天家だな。見ていると釣り込まれて笑わずには居られなくなるぜ」

 汽車は間も無く今市についた。そこで町の中をぶらついたりして一時間ばかり待った後大田(おおだ)行の汽車に乗った。汽車がすゝみ出すとはてしない青田を渡って吹いてる風のすゞしいこと!

 今市の西南には赭色(しゃしょく)の土の肌を斑(まば)らに露わした丘陵が一帯に起き臥している。それをみつめながら龍之介君が、

「僕あこんど出雲に来て始めて山の禿なるものの趣味を理解し得たよ。なかなか佳いものだね」

という。

「そうだね。関東は土が黒いから、その点の趣は欠けるね。ここいらの土はみな明るい、暖かい色をしているだろ。そのために山の艸木のみどりが大へん引立って見えるよ」

「画(え)にも成り易いだろう」

「うん、あそこいらの丘のけしきはセザンヌの描いたものを見るようだね」

 神西湖(じんざいこ)を後にして汽車は小田(おだ)の駅についた。僕が十歳ばかりの頃姉や兄と一緒に朝松江を出発して庄原(しょうばら)まで汽船で渡り、そこから俥で大田に向った事があった。恰度秋の雨のそぼ降る日で、この辺り迄来ると夕日はさびしく海の涯に落ち、雨の中から西の方がぼうと明るく成っていた。どこ迄行ったら目指す太田の町に着くのだろうかと、おさない子供ごころにむしょうに心細く成って泣き出し度いような気持がしたことを記憶している。

 その頃のことを考えると斯うして汽車の中に安々と身を横たえながら超えて行くことの出来るように成った文化の発達の有難さが痛切に感じられた。

 

[やぶちゃん注:「三四丁」三メートル強から四メートル強。

「そだ」「粗朶・麁朶」。ここは海藻の仮根や陸からの小枝や木屑片。

の屑だらけに成って僕たちはほうほうの体で湯場に引上げた。

「一体」副詞。もともと。元来。

「石見の波根(はね)」底本の後注に、『安濃』(あの)『郡波根村』(現在の大田(おおだ)市波根町(はねちょう))((グーグル・マップ・データ))。『山陰線出雲今市―石見大田間は』まさに、この芥川龍之介松江到着の五日後の、大正四(一九一五)年七月十一日に開通したばかりで、『羽根駅は大田駅より二駅手前』である(下線太字はやぶちゃん)。島根県大田市波根町中浜。(グーグル・マップ・データ)。芥川龍之介は旅から帰った後に井川に当てた感謝の書状(岩波旧全集書簡番号一七四)の中で(この書簡は後で全文を電子化する)、この時の車窓からの嘱目を、

 

   波根村路

 倦馬貧村路

 冷煙七八家

 伶俜孤客意

 愁見木綿花

    波根村路(はねそんろ)

  倦馬(けんば) 貧村の路(みち)

  冷煙(れいえん) 七八家(しちはちか)

  伶俜(れいべん) 孤客(こかく)の意(おもひ)

  愁ひ見る 木綿(もめん)の花(はな)

 

という漢詩にしている(訓読は筑摩全集類聚版を参考にした)。「伶俜」は落魄(おちぶ)れて孤独なさまを言う。なお、老婆心乍ら、以下ではこれから行く先の(まだ先の先の)地名がわんさと出てくる。井川と芥川の現在位置はもっと手前なので錯覚されないように

「大黒さんと蛭子(えびす)さんと二体の木像の入っている小さい筥」ネット画像では見当たらない。しかし、これ、是非、出雲に行ったら、探してみたい。

 

「今市」既出既注

「大田(おおだ)」島根県の中部にある現在の大田(おおだ)市。ウィキの「大田市によれば、『日本海に面して』おり、『石見地方内では石東地域(石見東部地域)に位置し、隣接する出雲市と共に県中部の中心地域となっている』。『出雲地域と石見地域の境界に位置しており、歴史的に双方の文化の中継点としての性質を持っている』こと『から、地理的に広島県や山口県との繋がりが強いといわれる石見地域の中では、例外的に出雲地域との繋がりが強い』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「神西湖(じんざいこ)」島根県出雲市の西部に位置する汽水湖。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「神西湖によれば、西南に三瓶山(さんべさん)を拝み、アシやガマに囲まれシジミがよく穫れる』。二〇〇五『年度のシジミの収穫量は約』一万七千トンにも及び、これは『全国の湖沼中』、六『位で』、『単位面積当たり』の漁獲量として見れば、『全国の湖沼中』第一『位である』とある。

「小田(おだ)の駅」島根県出雲市多伎町(たきちょう)多岐にある小田駅。(グーグル・マップ・データ)。

「庄原(しょうばら)」宍道湖の西南岸の斐川町内の庄原附近の広域呼称。附近(グーグル・マップ・データ)。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十七」

 

    十七

 

 大社の賽路(さいろ)は大鳥居からだらだらと下りに成っているので、それが社(やしろ)の尊厳をそこなう欠点であるかのように云う人もあるけれど、砂丘勝の地形を躊躇無くそのまゝ利用したところに却って土地の特殊な性格から来る風趣が自ずと現れているような気がする。

 青銅の鳥居をくぐると向って右の境内に真赤に錆びた分捕砲が巨きい口をひらいて蹲踞(うずくま)っている。

 Detestable Taiho と龍之助君がいきなり腹立たしげに叫んだ。[やぶちゃん注:「助」の右に底本編者によるママ注記がある。]

 「まったくだ」と僕も言下に同じた。

 拝殿のまえの大きい注連縄(しめなわ)の下に立って拝んだのち、社を一とめぐりした。濃い日光(ひざし)は森閑として境内に隈無くそゝいで、杉や檜の木かげを白い砂のうえに落していた。

 それからいく度か振返って弥山(みせん)の尖峰を仰ぎ見ながら稲佐(いなさ)の浜に出て行った。その内に空には雲が塞(ふさが)り涌(わ)いて、僕たちが、浜辺に辿りついたころには重苦しく曇った空の下にもの凄く暗んだ海が鞺鞳(どうとう)のひびきを立てゝたけっていた。

 浜の極るところの岩山の崕際には浮華(はで)な藍色に塗った俗悪を極めた建築が立っている。なんでも水族館か何からしい。水族館の設立そのものは大変結構な思い付きに違いないが、今少しこの神代ながらの海辺のおもむきに注意を払って欲しいと思った。

 養神館(ようじんかん)を指して行くと、そこの二階の柱や欄干も例の水族館と同じ悪辣な藍色のペンキで塗ってあるのに二人とも辟易した。たいくつそうに玄関に跼(こしか)けていた宿の女中は立ちあがって僕たちを二階に導いた。

 僕たちはそこに寝そべって欄干越しに海をながめた。浪は相かわらず白い牙を噛み鳴らして相搏(う)っていた。

「あのずっと向うへつゞいているのが石見潟(いわみがた)なんだよ。浜田はあの岬(はな)をまわったずっと先だ」と説明してきかせると、

「こゝまで来るとほんとうに遥々(はるばる)海の涯に来たってな気がするぜ。なんだか心ぼそくなっちゃった。日本海は暗いな」と龍之介君がしみじみとした語調で言った。

 僕はどうも青ペンキで塗った欄干が気になって耐らないので「おい君一体どうしてこんな嫌やな色に塗る気になったんだろう?」とふしぎがると、

「宿の人がよほどエキゾチシズムが好(し)きなんだろうよ。はゝゝ」

と龍之介君はわらった。

 女中の持って来たゆかたに着替えて裏の浴室に行って汐湯にはいると膚がヒリヒリとしみていたい。

「おい、解ったよ」と僕は湯の中で得意げに言をかけた。

「何だい?」

「あの欄干をあんな色に塗ったのはね、水族館の壁を塗ったペンキの余りが残っていたのを格安にゆずり受けたからなんだよ。きっとそうだよ。はゝゝは」

「成る程そうかも知れない……総ての問題は解決してみると案外あっけの無いものだからな、はゝゝ」

 

[やぶちゃん注:「賽路(さいろ)」参道。「賽」は「お参り・お礼祀(まつ)り(神から受けた幸いに対して感謝して祀る)」の意。

「大鳥居からだらだらと下りに成っている」この「下り参道」は全国の神社でも非常に珍しいものである。「遜(へりくだ)る」の意味を具現化しているというような解釈もあるようだが、ここで井川が述べている通り、「砂丘勝」(が)ちの地形によるものである。

「分捕砲」「ぶんどりほう」と読んでいるものと思う。底本後注に『出雲大社拝殿の横に置かれていた日露戦争の戦利品。第二次世界大戦時、供出した』とある。恐らく、これであろう(絵葉書販売サイトのもの)。鎌倉の鶴岡八幡宮にも古い写真を見ると、上宮へ上る階(きざはし)の右に砲弾が並んでいる。現在でも実は各地の神社には、この手のアナクロニックな戦利品の残骸が境内に飾り残されているところが、結構、ある。

Detestable Taiho」「いまいましい大砲!」。

「弥山(みせん)」前段で既出既注

「稲佐(いなさ)の浜」出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、

   《引用開始》

弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。

塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。

屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。

つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:「たけみなかたのかみ」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。

   《引用終了》

があると記す。ここで二人は海水を沸かした潮湯に入っているが、実はこれはここで行われる大社の宮司が行う神事に引っ掛けた旅亭のサーヴィスと思う。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (二)』を参照されたい。それでなくても、この浜で行われる(或いは曾て行われた)大社の宮司の神事は、ごく秘密なものなのである。

「鞺鞳(どうとう)」(因みに歴史的仮名遣では、この文字列の場合は「たうたふ」である)「鼕鼕」「鏜鏜」とも書く。波や水の流れが、勢いよく、音をたてるさま。音自体がオノマトペイアである。

「崕際」「がけぎわ」。

「浮華(はで)」派手。井川の当て漢字や当て訓は特異であるが、実に面白い。私は好きだ。

「水族館」初めは大正二年に竣工した私設の「大社教育水族館」。神聖な神の浜辺である稲佐浜に白亜の洋館風の外観を持つ施設として建てられ、オットセイなどがいたこともあったが、大時化(おおしけ)に見舞われるなどして、数年で閉鎖されたという。近畿・大社会のサイト「神話の国出雲・大社町」のこちらで写真が見られる(同水族館は存在期間が短かったため、写真はかなりレアである)。

「養神館(ようじんかん)」底本後注に『稲佐の浜にあった旅館。明治二十四』(一八九一)『年夏、ラフカディオ・ハーンは半月間ここに滞在して、海水浴を楽しんだ』とある。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (一)』を参照されたい。前注リンク先に写真入りで出る(「養命館」は「養神館」の誤り。写真の二階の右端に看板があり、そこにはっきりと「養神館」の屋号が読める)。この写真は大正四(一九一五)年頃とあるから、まさに井川恭と芥川龍之介が休憩したその頃のものである。まさにこの写真の「二階の柱や欄干」に「例の水族館と同じ悪辣な藍色のペンキ」をけばけばしく着色すれば、恭と龍之介の憂鬱は完成する

「石見潟(いわみがた)」島根県浜田市から江津市にかけての遠浅の海浜の広域地名。(グーグル・マップ・データ)。歌枕で、多くは「石(いは)」に「言は」の意を掛け、また、石見潟の「浦𢌞(うらみ)」「浦見」から、同音の「恨み」に掛かる枕詞のようにも用いられる。

 つらけれど人には言はずいはみ潟うらみぞ深き心ひとつに

        詠み人知らず(「拾遺和歌集」)

 いはみ潟うらみぞふかき沖つ波よする玉藻にうづもるる身は

        詠み人知らず(「古今和歌六帖」)

 石見潟たかつの山に雲はれて領巾(ひれ)ふる峯を出づる月かげ

 後鳥羽院(「新後拾遺和歌集」)

「好(し)き」芥川龍之介は東京市京橋区入舟町(現在の中央区明石町の、私が三年前の夏、外傷性クモ膜下出血及び前頭葉一部挫滅のために入院した聖路加(ルカ)病院のあるところ)生まれのちゃっきちゃきの江戸っ子であるから、「さしすせそ」の発音が「しゃししゅしぇしょ」或いは総てが「し」に偏頗して訛るのである。]

 

2018/01/18

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 五

 

     

 

 また諸國の峠路には往々にして中宿と云ふものがあつた。雙方麓村から運んで來る荷物を爰に卸して、隨時に向から釆て居る荷物を運び歸り夫々名宛先へ屆ける風習が近頃まであつた。これも鳥居氏は自説に引き込まれるか知らぬが、やはり明白に勞力の節約を目的として始まつた文明的の運送契約である。その中宿の在つたと云ふ地は澤山あるが、秋田縣ではこれを易荷(かへに)と稱し、砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路、また生保内(おぼない)から岩手縣の橋場へ行く峠にも、このために無人の小屋が設けられて、單に下から運んで荷物を置いて還るのみらず、椀小鍋等の食器迄が一通り備へてあつた。小安村から仙臺領へ越える道にもこの中宿があつた。關東では野州日光町の人が栗山方面の山民に味噌や油を送り、彼から木地や下駄材を取るにもやは此中繼法を採用し、最近までも安全に交易が行はれて居た。甲州東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠、及び多摩川水源の日原(につぱら)から秩父の大宮へ越える六十里越などにも、共に百年前までは道半分の處にこの種の中宿があつた。信仰の力を以て相手の不正直を豫防せんとしたものか、後者には道祖神の宮があつて荷物は皆その宮の中へ入れて置き、前者も亦其地に雙方の村から祭る妙見大菩薩の二社があつて、そのために峠の名を大菩薩阪と呼んで居た。既に此の如く信仰までが彼此共通であつた位で、これを異民族間に始まつた無言貿易と同視し得ないのは分明なことである。

[やぶちゃん注:「中宿」一応、「なかやど」と訓じておく。ちくま文庫版全集でもルビはない。

「砂子澤から大杉湯の臺へ越える山路」現在の秋田市上北手猿田砂子沢((グーグル・マップ・データ))の北西に上北手大杉沢という地名がある。それほど高くない丘陵を挟んではいるが、ここか。

「生保内(おぼない)から岩手縣の橋場へ行く峠」現在の秋田県仙北市田沢湖生保内((グーグル・マップ・データ)以下同じ)から秋田街道を、東の岩手県岩手郡雫石町橋場()への峠越え。これはかなりきつい山越えである。

「小安村」現在の秋田県湯沢市皆瀬(小安峡・小安温泉などの名が残る。から南東に宮城県栗原市へと山越えするルートか。これは相当、きつそうだ。

「栗山」栃木県日光市日向(東照宮の北方十三キロメートルほどの山中)の附近か(地図上に「日光市立栗山小中学校」の名を確認出来る)。

「東山梨郡の奧から北都留郡の小菅村へ越える上下八里の峠」山梨県北都留郡小菅村は。後に出る「大菩薩阪」(嶺・峠)はだから(山梨県甲州市塩山上萩原)、現在の甲州市の塩山の東北部からそこに抜けて、東京都の奥多摩町へと向かうルートである。

「多摩川水源の日原(につぱら)から秩父の大宮へ越える六十里越」東京都西多摩郡奥多摩町日原は。「秩父」「大宮」則ち、現在の埼玉県秩父大宮は

「妙見大菩薩」北極星を神格化した菩薩(道教の北極星信仰と結びついたもの)で、国土守護・除災厄除・招福長寿を司るとされる(仏教では実際には天部に配する)。本邦では特に眼病平癒を祈り、密教と日蓮宗に於いて祀られるケースが多いが、民間で単独で信仰されたことも多かった。]

 

 中宿に膳椀の類を備へて人の使用に任せると云ふことも例の多いことである。會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越にも近い頃まであつた。いわゆる日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたと云ふ話は登山者から聞いた。丹後田邊の海上三里の沖にある御島、又は北海道の奧尻島のごとき、ともに食器・炊器とともに若干の米さへ殘してあつて、誰も管理する人はいなかつた。これは風波の難を避けて寄泊する船人のために存する舊慣で、丹後の方ではやはりその地に祭神不明の神社があつて、その社の中に藏置してあつたと云ふ話である。

[やぶちゃん注:「會津から越後の蒲原へ越える六十里越八十里越」ルート

「日本アルプスの山中の小屋にも、一通りの食器を備へたものがあつたと云ふ話は登山者から聞いた」これは当たり前ですよ、柳田先生。

「丹後田邊の海上三里の沖にある御島」「丹後田邊」は現在の舞鶴であるが、この島は不詳。識者の御教授を乞う。

「奧尻島」。]

 

 要するに通例人がいて管理すべき取引を、何かの都合で相手次第に放任して置いたとても、其㋾以て直に窮北未開民族の間に存する奇異なる土俗と同系のものと見ることは速斷である。但し今一段とその根源に遡つて、後世我々の間に行はれた人なし商ひも、最初は觸接を憎んだ異民族間の貿易方法を、學んだものだらうと云ふ假定は立ち得るかも知らぬ。しかも之を確實にする爲には別に證據材料が無くてはならぬ。府縣に散布して居る所謂椀貸傳説が、殘念ながらその證據には些ともならぬことは、是から自分がまだ言ふのである。鳥居氏がこんなあやふやな二つの材料を以て、日本にも曾て無言貿易の行われた論據とせられ、二つも材料があるからは殊に確かだと云ふ感じを、與へんとせられたのは宜しくないと思ふ。

[やぶちゃん注:「些とも」「ちつとも(ちっとも)」。]

 

  家具を貸したと云ふ諸傳説において、最も著しい共通點は報酬のなかつたことである。唯一つの例外と言つた駿州大井川の楠御前でも、竹筒に二つの神酒は單に感謝の表示で、借料とは到底考へられぬのである。然らばこれ明らかに恩惠であつて對等の取引では無い。第二に注意すべきは文書を用いたと云ふ例である。小學教育の進んだ當節では、如何なる平民同士の間にも文書は授受せられるが、農人の大部分が無筆であつた前代に於ては、是は或智力の勝れた者の仲介を意味して居る。相手も亦手紙の讀めるえらい人又は神であつたと云ふことを意味して居る。語を換へて言へば、啻に今日の人の目にさう見えるのみでなく、この話を半ば信じて居た昔の田舍人に於ても、此不思議を以て信仰上の現象又は少なくとも呪術の致す所と考へて居たのである。從つて次々に尚述べるやうに、椀類の貸主に關する多くの言傳へは、無言貿易の相手方などゝは大分の距離がある。水の神と云ひ龍宮からと云ふ説明も、偶然ながら此傳説の成立ちと、其後の變化とに關する消息を漏らして居るやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「啻に」「ただに」。「唯に」と同じい。]

 

芥川龍之介 手帳8 (16) 《8-18》

《8-18》

○甲人噓をつかぬ教育をうけ、乙人噓をつく教育をうく 甲いろいろ苦しみ後安し 乙いろいろ苦しみ後安からず 同樣同情するやうにする

○特殊部落の人その輕べツサルルハ父母ノ所爲ノ下等ノ爲卜思フ 父母ヲニクミソノ家ヲ去ル 立身シソノ素性を知ラレ輕蔑サレ父母ノモトヘカヘル

[やぶちゃん注:「特殊部落」差別用語であるので以上の条は批判的に読まれたい。平凡社の「特殊部落」から引いておく(コンマを読点に代えた)。『明治後期から今日まで、被差別部落とその出身者に対して用いられてきた差別呼称。被差別部落問題への無理解と深刻な部落差別意識を根底に潜めた差別語であり』使用は『避けられるべきであるが、近代における部落問題の歴史と部落差別意識を解明する』上で、『きわめて重要な言葉である。この言葉は』明治四〇(一九〇七)年の政府が行った『全国部落調査の際に用いられたように、日露戦争後の部落改善政策の中で行政機関が使い、新聞記事などによって民衆の間にも広まったが、主として被差別部落の起源を異民族に求め、部落の人々の祖先を古代の朝鮮半島からの〈渡来人〉や律令国家の征服した〈蝦夷(えぞ)〉などとする誤った歴史認識に』基づいた、とんでもないものであった。]

 

○松南 山本梅叟の弟子

[やぶちゃん注:「松南」画家牛田松南(明治三(一八七二)年~昭和二〇(一九四五)年)。知多郡豊浜町山田生まれ。名は円空。幼い頃に僧籍に入り、傍ら、山本梅荘に画を学んだ。仏門修業のために大阪に移ったが、還俗して金沢に長く住み、画家として一本立ちが出来るようになったことから、上京したが、戦災で負傷、それが悪化して亡くなった(ブログ「松原洋一・UAG美術家研究所」の「南画の衰退、そして近代日本画へ」に拠った)。

「山本梅叟」山本梅荘(弘化三(一八四七)年~大正一〇(一九二一)年)の号の誤り前注のリンク先から引く。碧海郡新川鶴ケ崎村(現在の愛知県碧南市新川)に生まれ、後に半田に出た。通称は倉蔵で、別号に半村・半邨・楳荘がある。書画骨董を商う養父公平から特殊な教育を受けて画術を独修、後に京都に出て、『貫名海屋に学び、さらに三谷雪えんに従って画を修めた。帰郷後、元明清の古蹟を臨模し、王石谷に私淑し、山水を最も得意とした』。明治一五(一八八二)年の『第一回内国絵画共進会で金牌を受け、南宗水墨画では梅荘に及ぶものがないといわれた。晩年には彩色の花鳥画も多く描き、大正元年には中部からはじめて文展委員となり』、同三年からは『審査員をつとめ、旧派の代表だった』とある。]

 

○口から人魂の出た話 古川先生

[やぶちゃん注:芥川龍之介は怪奇談採集が趣味であった。私の古い電子テクストで、私の偏愛する芥川龍之介怪談採録椒圖志異を参照されたい。

「古川先生」不詳。]

 

○壬申の亂 民衆の力

[やぶちゃん注:考えてみると、芥川龍之介には神話古代や王朝物、中世・近世(江戸)物が数多あるが、この時期のものは、まず見当たらない。]

 

○⑴淸長ノ豆男江戸見物(3vol) 天明二 市場通笑 ⑵魂膽色遊懷男(榮花遊び出世男)(寶永正德) ⑶榮花娘 ⑷風流三代枕(5册) ⑸快談夜の殿 ⑹百鬼夜行 ⑺男色比翼鳥(6册)

[やぶちゃん注:「案上の書」(大正一三(一九二四)年六月『新小説』)及び「案頭の書」(翌月の同誌)の後半(「二」の部分)に「豆男江戸見物」「魂膽色遊懷男」の書名が出る。以上(単に分割公開したもので、未完に終わった)の二篇を合わせて、現行の全集では「案頭の書」として載せる。芥川龍之介の蔵書から江戸時代のものを二冊(「古今實物語」と「魂膽色遊懷男」)を紹介し、寸評した随筆。「青空文庫」のこちらで読める。因みに「案上」も「案頭」も「机上」の意。

「豆男江戸見物」(まめおとこえどけんぶつ:現代仮名遣。以下同じ)は「天明二」(一七八二)年板行の、「市場通笑」作・鳥居「清長」の黄表紙。ウィキの「豆男江戸見物」によれば、『山科の里の大豆(まめ)』(二字で「まめ」)『右衛門という男が、仙女から豆男に変身する秘薬をさずけられ、京都、大坂、江戸をめぐり歩き、好色的歓楽を経験する』という荒唐無稽な好色本。芥川龍之介は「魂膽色遊懷男」の原型とするが、これ自身が、元禄六(一六九三)年の西鶴の「浮世栄花一代男」、元禄八年の桃林堂蝶麿の「好色赤烏帽子」の模倣作でしかない。絵本版の一部が酔いどれ親父サイトの「浮世絵」で見られる。

「魂膽色遊懷男」(こんたんいろあそびふところおとこ)は江島其磧(きせき 寛文六(一六六六)年~享保二〇(一七三五)年)作の浮世草子。西川祐信画。宝永年間(元禄の後で一七〇四年から一七一一年まで。「正德」その次で、芥川龍之介は刊行が不確かであったから添えたのであろう)に板行された。後に改題して「色道假寢枕(しきどうかりねのまくら)」となった。五冊で一巻四話二十篇から成る。内容は先にリンクさせた「青空文庫」の芥川龍之介の「案頭の書」を参照されたい。

「榮花娘」漁柳作「潤色榮娘」(じゅんしょくえいがむすめ)。明和七(一七七〇)年成立か。豆男譚を模倣した豆女版。

「風流三代枕」作者不詳。菊川秀信画。明和二(一七六五)年序。これも豆男を主人公とした、春画集らしい。

「快談夜の殿」不詳。ちょっと新しいが、似たような名のものに、二世烏亭焉馬作で歌川国貞画になる「繪本開談夜之殿(えほんかいだんよるのとの)」(色摺半紙本三冊・文政九(一八二六)年)がある。「春画を見る・艶本を読む」展を参照されたい。但し、『亡魂となったお半が長右衛門の局部を引きちぎって暗い空へと昇り挙がる』とある通り、絵は強烈にエログロなので、自己責任で見られたい

「百鬼夜行」これやこれに類した名の図や絵巻は、複数、存在し、これだけでは具体的にどの作品を指しているのか判らない(ほど多い)。江戸時代で知られたものとしては、安永五(一七七六)年刊の烏山石燕作になる「畫圖百鬼夜行」(夜行は「やこう」とも「やぎょう」とも読む)であるが、これは妖怪を単発で描いたもので、文字通りの「百鬼夜行」図ではない。江戸に拘らなければ、室町時代の百鬼夜行絵巻などが個人的には正統な「百鬼夜行」であると考えており、それらはウィキの「百鬼夜行絵巻を見られたく、また他の作ならば、同じくウィキの「百鬼夜行などを参照されたい。因みに、私はこの手の絵巻のフリークで、近年出版のものは概ね所蔵している。ただ、前後の作品が好色本であるからには、これもその手の特殊な猥雑な「百鬼夜行」本なのかも知れぬ。私はその手の絵への興味がないので(私は猥褻な男としては人にひけをとらないが、どうもその手の春画は見ているうちに気持ちが悪くなっていけないのだ)、流石に所持していない。その手の〈好色百鬼夜行物〉を御存じの方は、是非、御教授を乞うものである。

「男色比翼鳥」(なんしょくひよくどり)東の紙子他作で奥村政信画。宝永四(一七〇七)年刊。前で紹介した、酔いどれ親父氏のサイトの「浮世絵」のこちらで全篇見られる。]

 

芥川龍之介 手帳8 (15) 《8-16/8-17》

 

《8-16》

男西洋人の少女に「Xmas の夜 stove より baby 來る」とは噓なりと云ふ 十年後男女より手紙を貰ふ I have loved you but I couldn’t say to you, because I heard from you that baby stove カラ生マレヌetc. I ハアナタノ手巾ニ initials ヲ縫ツタ but 君ハ知ラナカツタ 南洋へユク

[やぶちゃん注:何か面白いストーリーらしいが、該当作は、ない。]

 

《8-17》

○淸正と家康(佐渡守) pp154=家康と直弼

[やぶちゃん注:「淸正」加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)。

「家康(佐渡守)」家康が佐渡守であったことはない。彼は三河守である。家康の重臣本多正信(天文七(一五三八)年~元和二(一六一六)年)なら佐渡守である。以下の私の注に示す通り、原典が判明、そこでやはり第二代将軍秀忠の側近であった本多正信のことと判った。しかし「淸正」と家康の関係性はよく判らぬ。思うに、次注のリンク先を見ると、前の部分に「黑田長政」(ながまさ)のことが書かれており、芥川龍之介はそれを「きよまさ」と勘違いしてメモした可能性があるかも知れぬ

「家康と直弼」これは『女性改造』の大正一三(一九二四)年五月号に「上」を、同誌の翌六月号に前号掲載のものを改稿して後半を加筆した「僻見」(同誌で三月から連載したシリーズ。先行するのが「廣告」「齋藤茂吉」重太郎」(リンク先は私の注釈附電子テクスト。正字正仮名)、続くものが八・九月号の「木村巽斎」。これら「大久保湖州」を除いた「僻見」は「青空文庫」ので読める。但し、新字正仮名)の「三 大久保湖州」として掲載した作品のためのメモ。現行では「大久保湖州」は長いこともあって、近年の全集等では「僻見」とは独立した作品として扱われることが多く、独立したものが、やはり「青空文庫」のこちらで読める(但し、やはり新字正仮名)。則ちこれは、大久保湖州(元治二・慶応元(一八六五)年~明治三三(一九〇〇)年:滋賀出身で東京専門学校卒。国木田独歩の友人で在野の歴史研究家)が明三四(一九〇一)年に春陽堂から出版した『德川家康と井伊直弼とに關する史論を集めた』(芥川龍之介「大久保湖州」)「家康と直弼」である。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションの画像視認出来で、当該ページリンクてお。]

 

○淀殿の天下取りの爲の祈禱 pp156=同上

[やぶちゃん注:前の家康と直弼国立国会図書館デジタルコレクションの画像当該リンクてお。則ち、そこを読むと、淀君による、大奥が徳川家と離反するように呪詛した祈禱、ということらしい。芥川龍之介「大久保湖州」にはこの話は出て来ない。]

 

○且元と佐渡守 New桐一葉

[やぶちゃん注:「且元」片桐且元(弘治二(一五五六)年~元和元(一六一五)年)は豊臣家の直参家臣で「賤ヶ岳七本槍」の一人。豊臣姓を許された人物で、「関ヶ原の戦い」以降も豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場に転じ、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出して徳川方に転じた。大和国竜田藩初代藩主。「家康と直弼」の後者リンク部の附近にも登場している。

「桐一葉」(きりひとは)は坪内逍遙作の歌舞伎の六幕十六場から成る演目。明治二七(一八九四)年十一月から翌年九月にかけて『早稲田文学』に連載(この時は七段十五場から成る読本(よみほん)体)、明治三七(一九〇四)年三月に東京座で初演された。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、決定稿の実演用台本は 大正六(一九一七)年六月に刊行されている。内容は「関ヶ原の戦い」の後、徳川家からの難題を切抜けようと苦慮する片桐且元と、猜疑心が強くヒステリー性の淀君を中心に、崩壊していく豊臣家の運命を描いた悲劇で、歌舞伎とシェークスピア劇の融合を試みた野心作であり、個性的な人間を描き出したことで、のちの「新歌舞伎」に道を開いた、とある。内容の展開はウィキの「桐一葉が詳しい。シナリオ好きの芥川龍之介は、或いは、逍遙のそれとは別の展開を持った、脚本(恐らくは映画)としての構想があったか?]

 

○家康女を利用するに妙を得たり

○竹流刑?

[やぶちゃん注:「竹」徳川家康の側室なら「お竹の方」(?~寛永一四(一六三七)年:法号は良雲院。甲斐武田氏の家臣市川昌永の娘と伝えられるが、出自には異説が多い。天正(一五七三年~一五九二年)の頃、家康の側室となり、天正八(一五八〇)年に浜松城で振姫(法号は正清院(しょうせいいん))を生んでいる。後、家康に従い、駿府城・江戸城に移った)が入るが、「流刑」とは無縁。不審。これも「家康と直弼」に載ってるんだろうけど、探すの、面倒くさい。悪しからず。少なくとも芥川龍之介の「大久保湖州」に「竹」という人物は出て来ない。]

○かみゆひ 女の子に枕をはづすなといふ その後その女の子を藝者にやる

○相愛するものが一しよにゐる爲に苦しむ話 mother and son

Artist, superb art を見 art ノ及ビ難キヲ知リ non artist トナル

[やぶちゃん注:「superb」他を圧倒するほどに素晴らしい。]

 

○馬の足 羊喬

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一~二月の『新潮』に発表した「馬の脚(あし)」がある。

「羊喬」不詳。少なくとも、「馬の脚」にはこんな人物は登場しない。或いは、「「馬の脚」には全く異なる構想があったものか?]

 

○祇王 祇女

[やぶちゃん注:言わずと知れた、「平家物語」に登場する白拍子の姉妹。姉の祇王が平清盛の寵愛を受け、母娘三人ともに裕福に暮らしたが、仏御前に寵を奪われて、母娘で出家して嵯峨の奥に隠棲した。やがて、仏御前も世の無常を知って尼となって庵を訪ね、ともに念仏往生を遂げたとされる(講談社の「日本人名大辞典」に拠った)。この物語は確かに、芥川龍之介が狙いそうな素材ではあるが、作品は、ない。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十六」

 

    十六

 

 古浦へ行った翌(あく)る日、僕たち二人はかるい疲労(つかれ)が節々に残っている四肢(てあし)を朝の汽車の座席(シーツ)のうえに長々と伸ばしていた。

 秋は已に暦の上に立っていた。窓框(まどわく)に頤(おとがい)をもたせて茫然(ぼんやり)ながめると、透(す)きやかな水をひろひろと[やぶちゃん注:ママ。「ひろひろ」の後半は底本では踊り字「〱」である。]湛えている湖の面がものうい眼のなかに一杯に映った。十六禿(はげ)のうすい細のいろの崕(がけ)が静かな影を冴えた水の隈に涵(ひた)している上には、真山(しんやま)や蛇山(じゃやま)や澄水山(すんずさん)やが漸次(しだい)にうすく成って消えて行く峰の褶曲(しわ)を畳みながら淡い雲を交えた北の空をかぎっていた。

 みずうみの手前の岸には白い茎をそろえて水葦が風にそよぎながら立って居り、水際に沿う街道を竹籠を背負って洗足ですたすたあるいて行く若い女の横顔には、そうした山やみずうみや水の涯(ほと)りの村里やを取り巻いて揺(ただよ)うているさびしい透明な気分を一点にあつめた哀しい表情がかすかにやどっていた。

 湯町(ゆまち)、宍道(しんじ)と乗り降りの人の稀れな駅々を汽車はたゆたげにすぎて行った。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云って頻りに賞めていた。

 簸川(ひのかわ)の平原は僕にとってはかなり馴染のふかいところである。鼻高山(はなたかやま)だの旅伏山(たぶしやま)だの仏教山(ぶっきょうさん)だのと皆少年のころに草鞋をはいてのぼったことのある山ばかりで、どちらを向いても懐かしみをさそわぬものは無い。中にもあの長い長い一筋町の大津(おおつ)の端れにかゝつている神立橋(かんだちばし)のうえの夜風の涼しさがふと心に想い出された。折々今市(いまいち)の町からそこまですゞみに行ったもので、輝く星を隙間無く鏤(ちりば)めた暗やみの空が円くかゝつている川上の方から冷えびえと吹いて来る川風に浴衣の胸をくつろげながら父が上機嫌でしずかに声低く詩を吟ずるのを、僕たちは橋の欄干に黙って縋(すが)りついたまゝ聴いていることもあった。父は帰らぬ人に成った。僕たちの少年の日はとおく過ぎ去った。橋脚を揺(うご)かして流れる川水はそれ以来幾寸の砂の厚さをその河床に添えたのであろう?

 汽車は平原の夷(たいら)かさをよろこぶかのように西へ西へと疾(はし)りつゞけた。今市をすぎ朝山(あさやま)をすぎると松茂る砂丘の群が海やあらくれた太古の人や創世のふかしぎやを語りがおに行手に連っている。

 汽車は終点についた。そこの駅の名を大社と呼んでいるのはあまり感じが佳くない。やはり古い由緒(ゆかり)を尚(たっと)んで杵築(きづき)と呼ぶ方がゆかしそうに思われるが。

 二人は新しい駅のまえの道路をぶらぶらと北へあゆみ始めた。僕は前の日磯ばたの石の角で切った蹠(あしうら)の傷の疼(いた)みによけい遅れがちであった。

「いゝね。まったく山海の景勝の地だね!感心しちゃつた」と龍之介君は行手をながめた。

 そこには鋭く尖り立った弥山(みせん)の巓(いただき)が天を劈(つんざ)く神の戟(ほこ)と空の真中に聳え、その下にたゝなわり伏す山々は深い暗い木のみどりの影を抱いて日の光を露わにあびていた。

 

[やぶちゃん注:「秋は已に暦の上に立っていた」前の章の最後のクレジットは八月十日。大正四(一九一五)年の立秋は八月九日(特異点。通常は七日か八日)であった。

「十六禿(はげ)」底本の後注に、『宍道湖北岸に赤色の地肌の露出した岩壁が十六か所点在するところから付けられた呼称』とある。あるブログ記事では実際には(少なくとも現在は)十三ヶ所しかないともあった。私は宍道湖にも杵築にも行ったことない。行ってみたいのだが。

「真山(しんやま)」「新山」とも書く。松江の市街地の北側にある標高二百五十六メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。城跡がある。平安末期、平忠度がここに築城したと伝えられ、永禄六(一五六三)年には、毛利軍が尼子氏の拠点白鹿城攻略ために次男吉川(きっかわ)元春をここに布陣している(現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみ)。二人は後日、この山に登っており、そのシークエンスが後の「二十三」「二十四」に出る。

「蛇山(じゃやま)」現在の松江市八雲町熊野(松江市街の南約九キロ)に標高二百九十二メートルの同名の山がある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、どうも位置的におかしい。後の「二十三」で、井川は松江の「北」にある山として真山・澄水山に、この蛇山を並べているからでもある。どうも松江の北方にある山の別称のように思われる――と――底本の「二十三」の注に、蛇山は現在の滝空山(たきそらやま:読みはネット記載を渉猟して発見)である旨の注記があった。島根県松江市島根町大芦にある標高四百六十六メートルの山であった。(グーグル・マップ・データ)。

「澄水山(すんずさん)」島根県松江市島根町加賀にある標高五百二・八メートルの山。現行では「しんじさん」と呼んでいる。「二十三」で井川は「澄水山(しみずさん)」ともルビしている。不審。或いは方言で訛るのかも知れない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「湯町(ゆまち)」これは山陰本線(宍道湖の南岸を走る)の、現在の島根県松江市玉湯町湯町にある現在の「玉造温泉駅」のこと。この駅は当時は「湯町(ゆまち)駅」であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「宍道(しんじ)」同じく山陰本線の島根県松江市宍道町宍道にある宍道駅。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「簸川(ひのかわ)」狭義には島根県第一の長江で「肥河」とも書く。現在は斐伊(ひい)川として宍道湖に注ぐ素戔嗚命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の舞台に比定されている。ここではその宍道湖附近の河口平原(出雲平野の東部)を指していよう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「鼻高山(はなたかやま)」出雲市別所町にある標高五百三十六メートルの山。出雲大社の北東後背に当る出雲北山では一番高い。

「旅伏山(たぶしやま)」出雲市国富町にある出雲北山東端の標高四百二十一メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「仏教山(ぶっきょうさん)」これは出雲市斐川町(ひかわちょう)阿宮(あぐ)にある仏経山の誤り。標高三六六メートル。「出雲風土記」には「神名火山(かんなびやま)」(「神の隠れ籠れる山」の意で古代からの信仰の山の一つ)と出る山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「大津(おおつ)」島根県出雲市大津町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「神立橋(かんだちばし)」先の斐伊川に架かる、現在の出雲市と斐川町を結ぶ国道九号の橋。古えより、出雲では旧暦十月のことを「神在月(かみありづき)」と呼んで、全国の神々が出雲に集まり、その年のことを語り決めるという神話は頓に知られているが、その神々が談合を終えて自身の国へと帰って行く際の旅立ちがこの橋からとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「今市(いまいち)」現在の大津町の西の出雲市今市町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「父が上機嫌でしずかに声低く詩を吟ずる」底本の後注に、『父井川精一は雙岳と号して、地方漢詩壇で活躍した漢詩人であった』とある。また、その後に続く寺本善徳氏の解説によれば、彼は旧『津和野藩士族の出』とある。

「朝山(あさやま)」現在の出雲市朝山はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、位置的に合わないから、附近(グーグル・マップ・データ)の旧広域地名であったか。

「そこの駅の名を大社と呼んでいるのはあまり感じが佳くない。やはり古い由緒(ゆかり)を尚(たっと)んで杵築(きづき)と呼ぶ方がゆかしそうに思われる」島根県簸川郡大社町北荒木にあった大社線(出雲市駅から旧簸川郡大社町(現在は出雲市)の大社駅までを結んでいた)の「大社駅」((グーグル・マップ・データ)。現在同線は廃止(一九九〇年四月一日)にされて存在しない)なお、私も「杵築」がよかったと思う。

「弥山(みせん)」出雲大社の北山連峰の東直近、出雲市猪目町(いのめちょう)にある弥山。標高五百六メートル。(グーグル・マップ・データ)。「みやま」と訓じている記事もあるが、「みせん」が正しいものと思われる。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十五」

 

    十五

 

 岸に沿うて茂っている水草の叢を次へと次へと揺り靡かせながら、長いながい佐陀川(さだがわ)の川波を乱して進んで行つた汽船が、ゆかしく反りを打った橋の手前の川岸に着くと、今まで狭い船の中に窮屈な思いをして乗っていた船客はのびのびと背を延ばしながら陸(おか)にあがつた。

 船の中で一緒に成った水澄(みずみ)さんと泰(ゆう)ちゃんとが一足先に行く後から、龍之介君と僕とが「暑いなあ」と口癖に言いながら歩いて行った。桑畑や、芋畑や、戸内(なか)のうす暗いわら家やの間をさくさく砂を踏んで十丁ばかりも歩むと、漁夫の家の赤瓦の屋根のうえに日本海が見えはじめた。

「暗いねえ!海のいろが」と龍之介君がつぶやいた。

 空にはねずみ色の雲がひろがっていた。薄日の光りのもとに撫子の花が力無く首を傾(かし)げて咲いている径を足下あやうく降りて行くと、鉛色に濁った海は憤りの声を高くあげて白浪を打ちながらそこから一面に磯を荒らしていた。

 海に臨んで山蔭に建てた宿を指して行くと、太郎さんが一家の人々と来ていたお互いにかろい意外の感じをうかべた顔を見合せて挨拶した。朝五時に松江を出る船で古浦に来たとのことであった。

 宿の椽にあぐらを組みながら僕たちは海をながめた。風が西から強く吹いて来る為夏分には希れな荒れだと云うことで、巨きい浪のうねりが遥かの沖から黒い腹を膨らませたり凹ませたりしながら寄せて来ては岸から二丁ばかりのところで浪の頭から見る見る白い雪頽(なだれ)と成って崩れ落ちちるかと思うと、更に岸破(がば)と身を起して互いに衝ち合う恐ろしい力にたがいに砕け、浪と渦(あわ)とのめまぐるしい塊りを汀へ向けて揉(も)みにもみ寄せていた。

「壮(さか)んだなあ」と龍之介君が言いつゞける。

「泳げるかしら?」

「なあに泳げるさ」

「じゃあ直ぐにおよごう」と衣服(きもの)を脱いで裸に成ると「少々壮快すぎるようだね」と龍之介君が弱音を吐いた。

 白い髪毛をみだした頭を狂わしげに振り立てながら海のうえをまっしぐらに寄せて来る浪を汀に立ってにらむと大分臍(ほぞ)寒い気がしたが、なあにと思って双手(もろて)をあげて入って行った。

 浪が寄せると共に底を蹴って跳びあがりながら肩まで深さのある所に来ると、身体を浮かせて浪に向って抜き手を切る。目のまえ一間ばかりのところで崩れた浪が巨きい口を開けて頭のうえに落ちかかる。右手を高くあげながら浪を潜ると、浪は僕の身体を水の凹(くぼ)みに残した儘更に勇躍して、磯ばたへ向って打寄せて行った。

 すなおに巻いて折れて進んで行く浪は度し易いがぐじゃぐじゃに砕けて雪頽(なだ)れて行く浪は中々厄介で、そのぐじゃぐじゃの浪の渦に巻き込まれた瞬間には、身体が水の中でぐるぐるっと旋回する。夢中にもがいて浪の面に浮きあがると潮っからい水が鼻の孔から口のなかへ流れ通して、喉の奥がひりひりといたむ。

 斯うして次第に泳いで沖に出ると浪は巨きくうねりを打っているけれど巻いたり折れたりしない。海が深い胸でいきづく鼓動にまかせて浪と共に浮きしずむ快さは一寸外に比壽(たぐい)がないような気がする。

 頭のうえには潮(うしお)の気を一杯に含んだ風が嶮しい岸の岩山を蔽う草木の緑を慕っていさんで吹いて行く身体の下には海が暗い神秘の生(いのち)をひそめてふかしぎの踊りを止み間も無くおどり続けている……大空と、海とそのあいだに真(まこと)の悦びと自由とが原始人の感じたまゝのフレシュネッスを帯びて揺(ただよ)っていることを知る。

                (八月十日)

 

[やぶちゃん注:冒頭に言っておくと、御存じの方も多かろうが、芥川龍之介は水泳が非常に得意であった。彼は正(まさ)しく河童であったのである。

「佐陀川(さだがわ)」宍道湖の北東部と日本海沿岸の恵曇(えとも:ここ(グーグル・マップ・データ))を結ぶ人工河川。全長約八・三キロメートル、川幅約三十六メートル。天明五(一七八五)年、松江藩普請奉行清原太兵衛の建議により、藩主松平治郷(はるさと)が施工、難工事の末。二年後に完成した。城下町松江を水害から守ることと(宍道湖の増水調整)、宍道湖沿岸の諸港と恵曇間の舟運を実現することを目的とし、沿岸に新田も造成された。現在、一級河川に指定されているが、舟運と排水能力はない(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」に拠る)。底本後注には『昭和初期まで小型蒸気船が往来していた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「水澄(みずみ)さん」「泰(ゆう)ちゃん」不詳。井川の郷里の年長の友人や歳下の幼馴染みか。

「十丁」約一キロ九十一メートル。

「足下」「あしもと」と訓じていよう。

「太郎さん」不詳。やはり井川の年長の友人か。「かろい意外の感じをうかべた顔を見合せて挨拶した」とあるところからは親族とは私には思えない。だとしても、それほど縁の近いそれではあるまい。

「古浦」現在の島根県松江市鹿島町古浦。以下に示す古浦海水浴場は、ここ(グーグル・マップ・データ)。底本後注には田山花袋の「新撰名勝地誌」(明治四五(一九一二)年博文館刊。花袋はこの手の旅行案内書風のものをかなり多量に手掛けている。但し、東京や近郊の鎌倉などのものはいいとしても(それらは所持していて読んだ)、大部の本シリーズ(全国)などを管見するに、これはもう、梗概部をちょっと監修しただけで、主要な細目部分は総て、現地の識者に丸投げしている疑いが濃厚である)の「山陰道之部」の一部が引かれてあるが、ここではその引用部分を、国立国会図書館デジタルコレクションの当該原書の当該箇所の画像を視認して、電子化し示す。頭の太字は原文では傍点「●」。原典画像を見て戴ければ判るが、ルビには複数箇所に不審があり、敢えて示さなかった箇所がある。

   *

惠曇海水浴場 朝日山(あさひざん)を背面に下れば、古浦(こうら)に至るべし。惠曇(ゑぐも)灣深く陸地に侵入して古浦江角の漁村灣頭に連り、佐陀川(さだがは)、その中央に注ぎ、西端を古浦海水浴場、東隅を江角海水浴場とす。白砂靑松の好避暑地なり。而も、地は松江を距(さ)ること二里半、佐陀川より和船の便(びん)あり。またこの地に島根縣水産試驗場を置く。[やぶちゃん注:以下、原典では「出雲風土記」原文を引くが、略す。]

   *

「二丁」二百十八メートル。

「岸破(がば)」オノマトペイアに、洒落た漢字を当て字している。

「衝ち合う」「うちあう」と当て訓しているか。

「渦(あわ)」ママ。誤字ではなく、当て訓ととっておく。雰囲気は判る。後の「ぐじゃぐじゃの浪の渦に巻き込まれた瞬間には」も「あわ」と読むことになる。これも雰囲気は判るし、意味としては自然である。

「臍(ほぞ)寒い」聴かない成句であるが、「臍を嚙む」を捩じって「心底」「ひどく」の意か。或いは「ほぞ」には江戸時代より、男根の隠語として用いられるから、金玉がきゅっと縮むほどに寒いの意とも採れる気が私はした。

「一間」一・八メートル。

「比壽(たぐい)」「壽」はママ(「寿」ではなく、正字で示されてある)。しかし、こんな熟語もこんな当て訓も私は知らない。小学館の「日本国語大辞典」にも載らない。識者の御教授を乞う。

「フレシュネッス」freshness。新しさ・新鮮味・清々しさ・生き生きした感覚。

「八月十日」松江着から五日後。芥川龍之介の松江滞在は正味十六日間に及んだ。]

2018/01/17

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十四」 / 芥川龍之介「日記より」(その一)

 

    十四

 

    日記より

               芥川 龍之介

 松江へ来て、先自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縦横に貫いてゐる川の水と其川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流の多い都市は独(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其処に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鉄橋を架けてしかも其醜い鉄橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波旧全集版「松江印象記」では「の」に変えられてある。]一つに数へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版画家によつて、屡々其構図に利用せられた靑銅の擬宝珠(ぎぼしゆ)を以て主要なる装飾としてゐた一事は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐しさは事新しく此処に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜悪なる鉄の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人もこれに対してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出来るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の実利主義は全国に亘(わた)つて、此大いなる中世の城楼を、何の容赦もなく破壊した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壊も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥(さつちやうどひ)の足軽輩に理解せらる可く、余りに大いなる芸術の作品であるからである。今日に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壊者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に伝へむとする天主閣の数は、僅に十指を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を数え[やぶちゃん注:ママ。]得る事を、松江の人々の為に心から祝したいと思ふ。さうして芦と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に与へた物は満足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない訳にはゆかなかつた。否、独(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鉄網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帯びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鋳造の材料として積重ねてあるのも見ない訳にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鋳たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壊する必要が何処にあらう。まして其目的は、芸術的価値に於て卑しかる可き区々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる為であるとすれば、かくの如き無細工な石垣の築造は、其風趣を害する点に於て、正しく当初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に対して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機会を待つて語らうと思ふ。

 

[やぶちゃん注:本篇は、既に私は『芥川龍之介「松江印象記」初出形』で正字正仮名版(本底本と岩波旧全集の「松江印象記」とを校合した特殊な電子テクスト)として公開している。当該箇所をそのまま以下に掲げる。

   *

    十四

 

日記より

   芥川 龍之介

 

       一

 

 松江へ來て、先(まづ)自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縱橫に貫いてゐる川の水と其(その)川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流(かりう)の多い都市は獨(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其處に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鐵橋を架けてしかも其醜い鐵橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波全集版では「の」に変えられてある。]一つに數へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版畫家によつて、屢々(しばしば)其構圖に利用せられた靑銅の擬寶珠(ぎぼしゆ[やぶちゃん注:全集版は「ぎぼし」。])を以て主要なる裝飾としてゐた一事(いちじ)は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬寶珠を、灰色を帶びた綠の水の上に望み得た懷しさは事新しく此處に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜惡なる鐵の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡來と共に、はるばる南蠻から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人(なんびと)もこれに對してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出來るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の實利主義は全國に亙(わた)つて、此大いなる中世の城樓を、何の容赦もなく破壞した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壞も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に參與した薩長土肥(さつちやうどひ)の足輕輩(はい)に理解せらる可く、餘りに大いなる藝術の作品であるからである。今日(こんにち)に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壞者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に傳へむとする天主閣の數(かず)は、僅に十指(じつし)を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を數へ得る事を、松江の人々の爲に心から祝したいと思ふ。さうして蘆と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に與へた物は滿足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない譯にはゆかなかつた。否、獨(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鐵網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帶びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鑄造の材料として積重ねてあるのも見ない譯にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鑄(い)たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壞する必要が何處にあらう。まして其目的は、藝術的價値に於て卑しかる可き區々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島[やぶちゃん注:「ケ」は全角。以下同様。これは全集版も同じ。]の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる爲であるとすれば、かくの如き無細工(ぶざいく)な石垣の築造は、其風趣を害する點に於て、正(まさ)しく當初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁(せきたいをう)をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に對して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸(さいはひ)にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機會を待つて語らうと思ふ。

   *

「櫛形鉄橋」普通はこれは、橋脚が有意に数多く配されてあって、恰もそれが櫛のように見える(短い橋が何本も繋がって長い一本の橋のようになっているかのように見える)鉄橋を指す。芥川龍之介の憂鬱の中にあるのは、恐らくは明治三七(一九〇四)年(芥川龍之介十二歳)に木橋から鉄橋へ架け替えられてしまった、彼の幼年期の思い出の中にあった両国橋(但し、現在ある位置より二十メートルほど下流で、厳密にはそれは櫛形鉄橋ではなく、曲弦トラス三連桁橋である)への郷愁であろうと思われる。或いは龍之介はトラス構造の方を「櫛形」と言っているように私は感ずる。確かにあれは、河川の景観に骨のように蟠った怪物のように醜く、私ははなはだ厭だ。

「古日本(こにつぽん)の版画家」江戸時代の浮世絵師を指していよう。

「大橋」固有名詞。現在の島根県道二六一号母衣町雑賀町線上にある大橋川に架かる橋。「松江大橋」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、この時、芥川龍之介が見た「大橋」は最早、木橋ではないので注意が必要である。大橋は明治二四(一八九一)年にまさに龍之介の嫌悪する異様なトラス橋に架け替えられ(この橋と古い木橋のそれとを比較した小泉八雲(当時はまだラフカディオ・ハーン)は『しかし古い橋は、水の上に彎形に架かつて、數多き橋柱に支へられ、無茶な種類の長肢の百足虫のやうで、今度の新しい橋梁よりも遙かに美觀であつた』と述べている。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)』を参照されたい)、その後、明治四四(一九一一)年に鋼桁橋となった際、橋上が曾ての木橋のような擬宝珠を持ったものに擬似復元されたものであるウィキの「大橋(大橋川)」の記載からの推定)。

の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み得た懐しさは事新しく此処に書き立てる迄も「神橋」現在の栃木県日光市上鉢石町山内の日光東照宮への参道に架橋されている、これ(グーグル・マップ・データ)。この橋は神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用されたもので、現在も一般人に通行は出来ず、一般参詣者や観光客は少し下流にある日光橋を通行する。これ(グーグル・ストリートビュー。向うに見えるのが「神橋」で、手前の何の変哲もないつまらぬ橋が龍之介の言う「醜悪なる鉄の釣橋」の後継橋である「日光橋」)。

「千鳥城」松江城の別称。既に登場しているが、ここで注しておく。講談社の「日本の城がわかる事典」によれば、松江城は『島根県松江市殿町にあった平山城(ひらやまじろ)』で、『江戸時代初期に幕府の山陰側の拠点として築かれた』。『関ヶ原の戦いの戦功により』、『出雲・隠岐』二十四『万石を封じられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)に入城したが、軍事・経済の中心に適さないとして』、慶長七(一六〇七)年『に松江の亀田山に築城を開始した。松江城が完成したのは』慶長一六(一六一一)年で五『層六重の天守閣を中心に』六『基の櫓(やぐら)を構えた近世城郭である。天守の鉄砲狭間(てっぽうはざま)、軒裏の石落とし、地階には籠城用の大井戸や兵糧蔵など、実戦を想定して築城されたことが随所にみられる。堀尾氏は』三『代忠晴に世継ぎがなく途絶え、京極忠高(きょうごくただたか)が入城したが』、『嫡子がなく断絶』、寛永一五(一六三八)年に『信州松本から松平直政』『が入封し』、以後は松平氏が十代二百三十年間に亙って居城し、『明治維新まで続いた』。明治八(一八七五)年に『有志らの奔走で天守閣は解体を免れたが、それ以外は取り払われてしまった。現存する天守閣の中で、姫路城、松本城、松江城だけが』五『層の天守閣を持っている。旧態をよく残し、山陰地方における代表的な近世城郭として国史跡に指定され、天守閣は国の重要文化財に指定された。天守、石垣、土塁』、『櫓台、堀などの遺構が整備され、発掘調査などをもとに』二〇〇一年には、『南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元された』とある。

「天主閣」高さは本丸地上より約三十メートルで、天守台上からは二十二・四メートル。

「天主閣は其名を示すが如く、天主教の渡来と共に、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物である」この芥川龍之介が断言するカトリックの「天主」が起源とするという天主閣(天守閣)の呼称の由来説は、その一つに過ぎず(織田信長が最初に命名したというのも一仮説の域に過ぎない。但し、天守閣様の構造物が城に造立されるようになるのは室町末期からではある)、決して定説ではないので注意。日本の「驚く可き」文化「同化力」を賞揚しようとする龍之介の一つの方便としては上手いとは言える。

「エキゾテイツク」exotic。異国の情緒や雰囲気のあるさま。異国的の。異国風の。

「天主閣は、明治の新政府に参与した薩長土肥(さつちやうどひ)の足軽輩に理解せらる可く、余りに大いなる芸術の作品であるからである」この「可(べ)く」は「べくもないような」「べきものでは到底ないほどに」、則ち、「維新にヨイショした勤皇派の薩摩・長門(長州)・土佐・肥前(佐賀)の、そうした最下級の足軽ふぜいに理解出来るようなレベルの低い(薩長土肥の足軽の方々、御免なさい)ものではない」という特殊な用法である。

「日本の騎士時代」本邦の戦国以来の武士の時代を指すが、そこを敢えて「騎士」としたのは天守閣「天主」由来説をやはりサイドから賞揚するためである。

「偶像破壊者(アイコノクラスト)」iconoclast。原義は聖像(偶像)破壊者で、八~九世紀の東ヨーロッパのカトリック教会で起こった、聖人の画像礼拝の習慣を打破しようとした人々を指し、後に広く因襲打破を唱える因襲打破主義者を指す。元はギリシャ語由来。

「松平直政」徳川家康の孫であった松平直政(慶長六(一六〇一)年~寛文六(一六六六)年)は上総姉ヶ崎藩主・越前大野藩主・信濃松本藩主を経て、出雲松江藩初代藩主として寛永一五(一六三八)年二月十一日、出雲松江十八万六千石及び隠岐一万四千石を代理統治へ加増移封されて国持大名となった。参照したウィキの「松平直政」によれば、『直政は』松江藩『領内のキリシタンを厳しく弾圧し、これはかつての領主・堀尾氏や京極忠高らを上回るほど厳しいものであったらしい』とあるが、芥川龍之介の天守閣=天主説にはあんまり都合がよくないから、黙っておいた方がいいかしら?

「昭代(せうだい)」(現代仮名遣「しょうだい」)は前の「泰平」と同義。「よく治まっていて栄えている世の中・太平の世」の意。

「区々(くく)たる」小さくて、採るに足らないつまらぬ様子を言う。

「嫁ケ島」(よめがしま。現行は「嫁ヶ島」と表記)は島根県松江市嫁島町の西約二百メートルに位置する宍道湖唯一の島。全長百十メートル、幅約三十メートル、周囲二百四十メートルの小さな島で、約千二百万年前に噴出した玄武岩の溶岩から成る無人島である。参照したウィキの「嫁ヶ島」によれば、『島には弁財天を祀る竹生島神社の祠』(慶長一六(一六一一)年に堀尾氏第二代藩主堀尾忠晴が祭った)と鳥居(明治四〇(一九〇七)年に『琵琶湖疏水設計者の田辺朔朗が寄進)があり』、『周囲には松が植わっている』。昭和一〇(一九三五)年には松江出身の前内閣総理大臣『若槻礼次郎が数本の松しかなかった島に』二十『本の松の苗を植樹し』ている。現在は(芥川龍之介が嫌悪した)『消波ブロックとして、如泥石(松江藩の名工・小林如泥が考案したとされる円柱形の来待石)で島の周囲が固められている』とある。『島の名は伝説(嫁ヶ島伝説)によるが、この伝説には姑にいじめられた嫁が湖で水死した際に水神が浮き上がらせたとする伝説など』、『いくつかの悲しい伝説が残されている』。「出雲國風土記」の意宇郡(おうのこおり)の『条においては「蚊島」と表記されて』おり、『当時は周囲が約』百十メートル『と今の半分ほどの大きさで、島の中央には径』七~八センチメートルほどしかない『木が一本生え』ているだけで、磯には『貝や海草が見られたとある』。夕陽の美しい『スポットとして知られて』いる。『島に続く東側の湖底には』、『周囲より少し高くなった水中参道があるが』、『江戸時代初期までは対岸の袖師に連続した玄武岩の岬があり、松江城築造に伴う石材として掘削され岬がなくなったと伝えられていることから』、『玄武岩の掘削跡による浅瀬である可能性もある』という。『松江城創建者の堀尾吉晴が天守閣からの眺めに感動して』、『嫁ヶ島を「湖中の一勝地なり」と評したのをはじめ、水郷松江のシンボルとして文豪・小泉八雲をはじめ多くの人々に愛されてきた』。『松江市都市計画部都市景観課職員によると、松江城から嫁ヶ島を眺める線上には高い建物を建ててはならないという不文律があるという』。『大正初期に如泥石が防波堤として置かれた際には恒藤恭が新聞紙上で「この湖の礼儀にかなわぬ無作法漢」、「』四、五『本の松が小さな祠を護り、白い砂浜のはてに青葦が波に揺れる様こそ趣があった」、「やさしい島の面影が滅びてしまった」と批判』、『芥川龍之介も、「松江印象記」のなかで宍道湖の美しい景観を壊すものとして如泥石の防波堤を批判した』と、ここにまで井川と芥川のコンビとこの龍之介の文章までもが登場しているのが、すこぶる嬉しい! 『作家の丸谷才一も嫁ヶ島越しに見る宍道湖の落日美を「純粋に審美的な風景美」と評し、山崎正和も国内でも稀な「眺めるためにだけある島」であることを指摘し、吉田兼好の言葉を借りて「田舎の人はそばに行って手で触ったり足で踏んだりしないと納得しないが、その意味において都会的センスのある島」と述べ、丸谷、山崎両者ともに松江が洗練された趣味の町である証しとして、人があまり近づかなかった当時の嫁ヶ島の在り方を高く評価した』とある。

「一幅淞波誰剪取 春潮痕似嫁時衣」歴史的仮名遣で書き下すと、

 

 一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せんしゆ)せん

 春潮(しゆんてう)の痕(あと)は似たり 嫁時(かじ)の衣(い)

 

で、これは底本の後注によれば、永坂石埭(ながさかせきたい)(後注参照)が『松江の漢詩結社』であった「剪淞吟社(せんしょうぎんしゃ)」『の求めに応じて』結社名を巧みに詠み込んで『作った七言絶句「碧雲湖棹歌」の転結句』とある。そこに起承句が示されてあるので、全体を以下に示し、自己流で訓読する。

 

  碧雲湖棹歌

 美人不見碧雲飛

 惆悵湖山入夕暉

 一幅淞波誰剪取

 春潮痕似嫁時衣

   碧雲湖棹の歌

  美人見えず 碧雲 飛ぶ

  惆悵(ちうちやう)す 湖山の夕暉(せきき)に入るるを

  一幅の淞波(せうは) 誰(たれ)か剪取(せつしゆ)するか

  春潮の痕(こん) 似たり 嫁時(かじ)の衣(きぬ)に

 

「碧雲湖棹の歌」とは「碧(みどり)なす雲棚引く湖(うみ)に棹(さおさ)すの歌」の謂いか。……「美人」は先の悲劇の伝承の入水した「嫁」であり、「惆悵す」は「恨み歎く」、「湖山」は宍道湖とそれを取り囲む山並み、「夕暉」は夕陽(ゆうひ)、「淞波」は江蘇省の太湖から、長江に流れる淞江(呉淞江)の景勝(+結社名)に掛けたもので、当地松江をそれに擬え、宍道湖の松江に寄せる「波」としたものであろうと読む。しかもそれを「一幅」の山水画に譬えた趣向だろう、そうして「淞」から「松」で、その枝を「剪」る(+結社名の掛詞)、則ち、一幅の絵として全体からそれを切り「取」ることは――いや、あまりの美しさ故に出来ぬ――というのではないか? さても――春の潮の満ち引く、その浪の白い「痕」(あと)は、あたかも、嘗てここへ花「嫁」御寮(ごりょう)として幸せな思いで参った、悲劇の彼女の嫁入りの衣裳に似ているではないか――勝手な解釈であるからして、大方の御叱正を俟つ。

「石埭翁」医師で書家・漢詩人として知られた永坂石埭(弘化二(一八四五)年~大正一三(一九二四)年八月:本名は永坂周二。芥川龍之介は前年に亡くなった彼へのオマージュとしてこれを出しているのでもあろう)。尾張国名古屋出身。森春濤・鷲津毅堂に詩を学び、春濤門下の四天王に数えられた。明治七(一八七四)年頃に上京、神田お玉ケ池の梁川星巌旧居址に居を構え、「玉池仙館」と称して医業を開業した。書に巧みで、「石埭流」の名を恣(ほしいまま)にした(以上は日外アソシエーツの「20世紀日本人名事典」に拠った)。]

2018/01/16

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十三」――注にて芥川龍之介井川恭宛書簡五通を電子化(龍之介作戯詩含む)――

 

    十三

 

 毎日々々空が群青(ぐんじょう)色に深く晴れて雨を降らす法をまったく忘れて仕舞ったように憎らしい程澄み切った天が涯無く頭のうえに拡がっている七月の末ごろであった。東京から友人の龍之介君が手紙をよこした。

「……事故の起らない限り八月一日二日位に東京をたとうと思う。八月上旬は僕が毎年東京を出る時になっているのである」と書いて、その後に歌を七つ八つ添えてあった。

 その歌のなかに「こちごちのこゞしき山ゆ雲出でて驟雨(はやち)するとき出雲に入らむ」というのがあった。

 湖水で泳いでいると海の潮水と一緒に入って来た海月がふわりふわり泛んで居り、家の裏のお濠の水まで潮が来て朝起きて見ると鮒が四つも五つも腹を出して死にかゝつているってな案配で、「一と雨さあっと降って来たらどんなにか爽快だろう!」と空を仰いでは渇望していたころであったから、「ほんとうに龍之介君が来る日には雨をふらせてすゞしい目に遭わせてやり度いな」と思いながらその手紙をもとの如く巻いて封筒におさめた。

 やがて八月に成った。二日午後に東京を出た端書には「明三日午後三時五分東京駅発……五日午前九時八分城崎発、午后四時十九分松江着」と旅程が記してあった。

 四日の朝僕は郵便局へ行って、其日のあさ京都を出た列車に乗っている筈の友人に宛て、「アスレイジ四七フンハツニセヨヘンマツ」と云う電報を打った。夕方には城崎に下りた彼から折返し返電があって承知した旨を知らして来た。

 わざわざそんな面倒な手続を踏んで夕方に松江に着く都合にさせたのには一とかどの理由があった。第一には、すべて人は最初の印象(ファースト イムプレッション)に支配される力が強い。僕は自分の生まれた土地として此松江に対して或る程度の愛着の念を有(も)っている。だからこの未だ見ぬ国を指してはるばるやって来る友人の眼に、うつくしいゆうべの光に包まれている松江の街を先ず映させ度かった。

 次にはすゞしい夕ぐれに湖を西へ西へと彼を載せた舟を棹さしながらこの春品川で別れて以来溜っているたく山の聞き度いこと、話したいことを聞きもし話しもし度いと思っていた――その事自身の中にロマンチックな或るものが含まれているような気がして、ぜひ夕方でなくちゃあと云う考えを更につよくした。

 四日の晩(く)れ方にうつくしい虹が城山の杜のうえにかゝつた。

 五日の朝起きて見ると天気はがらり変って、滅茶々々の暴風雨(おおしけ)に成っていた。草木は一夜のうちに溌溂(はつらつ)とした緑りのいろを蘇らせ、お濠の水は雨の足に叩かれて爽かに鳴っていた。

 一と月近くも待ちに待った雨は斯うして勢い猛く襲って来た。久し振りに気がせいせいしたけれど、天気の奴に見事に裏切りされた様な気がしてばかに腹立たしかった。

 風も雨も終日(いちにち)しぶき続けた。

 友も舟に迎えてゆうぐれの湖を漕いで行くと云う計画は、それに伴わせてこゝろの中にゆめみていたROMANTIC NUANCEと共に痕跡(あとかた)も無く現実の面(おもて)から消え失せた。

 その夕かた、会ったら先ず「君の歌があまり利きすぎたようだぜ」と言ってやろうかなど心の内に考えながら独り雨のなかを停車場をさして友を迎えに出た。

 附言――この次には彼の松江印象記を紹介し度いと思う。

 

[やぶちゃん注:冒頭注で述べたが、芥川龍之介は東京帝国大学英吉利文学科二年終了の夏季休業中であった大正四(一九一五)年八月三日(東京午後三時二十分発。四日早朝に京都を経て、この日は城崎に宿泊、松江到着は五日の午後四時十九分)から二十一日(松江出発。当日は京都都ホテルに宿泊し、二十二日に田端の自宅に帰宅した)まで、畏友井川恭の郷里松江に来遊した。井川恭が来訪を切に慫慂した大きな理由の一つは、芥川龍之介の吉田弥生への失恋の大きな傷手を癒さんがためでもあった。

 少し長くなるが、ここで改めて、吉田弥生との破恋について述べておく必要があろう。芥川龍之介を愛好する者にとっては彼女の名とその失恋事件は自明のことであろうが、それを語らないのは不特定多数の私の読者への注としては、如何にも不公平であるからである。

 吉田弥生は芥川龍之介の本格的な初恋の相手で、同年の幼馴染み(実家新原(にいはら)家の近所)であった。彼女の父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた。当時、東京帝国大学英吉利文学科一年であった芥川龍之介(満二十二歳)は、大正三(一九一四)年七月二十日頃から八月二十三日まで、友人らとともに千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら、海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度、この頃、縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対し、龍之介は二度目のラブレターを書いており、その後、正式に結婚も申し込んでいる。しかし乍ら、この話は養家芥川家一族の猛反対に遇い、翌年二月頃に破局を迎えることとなる。反対の核心は、吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系であった)、弥生が同年齢であったこと等が、その主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があったことが大きい)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正四(一九一五)年四月二十日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。その四月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をした、ともある。鷺只雄氏は一九九二年河出書房新社刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。この失恋は芥川龍之介生涯のトラウマとなった事件であり、まさに龍之介の諸作品の核心のテーマであるエゴイズムの淵源であり、後年の龍之介の女性遍歴(不倫)の根っこも、私は、この忘れ難い失恋体験の消去不能な記憶と、それに纏わるところの親族を中核とした癒し難い強烈な人間不信にあると分析している。因みに、正に、この弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが、その避暑から帰った直後の大正三(一九一四)年九月一日発行の『新思潮』に発表した「青年と死と」である(リンク先は私の古い電子テクスト。この吉田弥生についての解説もそこで私が注したものを下敷きとした)。

 さて次に、非常に長くなるが(芥川龍之介の井川宛書簡の一通当たりの分量が特異的に多いため)、以下、松江へと旅立つまでの、現存する井川宛書簡を電子化することで、ここの注に代えたいと思う。因みに、短歌の頭の「こちごちのこゞしき」とは「そこここの、ごつごつと重なり合って嶮(けわ)しい」という意である。また、「ROMANTIC NUANCE」の文字は縦書である。

 電子化する書簡は、岩波版旧全集書簡番号で一六五・一六六・一六八・一六九・一七〇(以上、総て井川恭宛)及び松江到着の翌日に養父芥川道章に宛てた一通(一七一)までとする。底本は無論、岩波版旧全集を使用した。頭に岩波版旧全集書簡番号を振った。踊り字「〱」は正字化した。一部、あまりに読み難いと判断して私が字空けを施した箇所がある。先え進めなくなるので、語注は一切なしとした。

   *   *   *

一六五

(六月二十九日(推定)・田端発信)

井川君

手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者へ通つてゐる 四日目每に田端から高輪迄ゆくんだから大分厄介だ 生活は全然ふだんの通りだがあまりエネルギイがない 體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい 尤も醫者にきいて見なければ 確な事はわからないけれど 試驗中は時間を醫者に切られたので大分忙しくてよはつた 十五日にすんだ時はせいせいした その時いゝ加減に字を並べて

   放情凭檻室  處々柳條新

   千里洞庭水  茫々無限春

と書いた それほど 樂な氣がしたのである

桑木さんの試驗には非觀した Begriff の價値と云ふ應用問題が出た この大問題を一頁で論じるのだから苦しい そのあとですぐロオレンスの試驗があつた Dickens の月給と Dickens の親父のとつてゐる月給とどつちがどつちだかわからなくつて弱つた この前入れるのをわすれたから問題を入れておくる

毎日ぶらぶら日を送つてゐる 碌に本もよまない

ジャン・クリストフは矢代君が横濱から來て ミケルアンジェロやトルストイの[やぶちゃん注:この「の」には底本では右手にママ表記有り。]一しよに持つて行つてしまつた 一册も今手許には殘つてゐない 矢代君は 桑木さんの試驗にしくぢつたので 銀時計が貰へさうもないつて非觀してゐた 之より先三井君や井上君のやうに二囘特待生になつてゐた人たちが 桑木さんに運動して 試驗にノートを持つてゆく連中と持つてゆかない連中とを拵へる事に成功した 所が桑木さんはノートを持つて行つた連中には大分問題を附加してハンディキャップをつけた そこで矢代君が非觀するやうな事になつたのである 笑止にも氣の毒な氣がする

僕の中學の先生が 僕のうちの近所に住んでゐるが二年許前に奧さんを貰つてからまるで前とはちがつた生活をして日を送つてゐる それをみると輕蔑するより先に自分もあゝなりはしないかと云ふ掛念が先きへ起る 本は一册もよまずものは一切考へず 唯「何と云つても飯を食はなければ」と云ふやうな漠然とした考へを持つてゐるだけでしかもその考を最實人生に切實な思想のやうに考へて すべての學問藝術を閑人の遊戲のやうに考へて 学校へ出る事と 菊を作る事とに一日を費して 誰でもいつか一度はさう云ふ考へになると云ふやうな事を仄めかして 豫言者のやうに「さう云つてゐられる内が仕合せさ」と云ふやうな事を苦笑しながら云つて その癖全然パンを得る能力しかない人間を輕蔑して 細君に封しては細い事まで神經質に咎め立てゝ 愛することも出來ず 憎む事も出來ず 生ぬるい感情を持つてゐて 自分の生活には感覺の欲望が可成な力を持つてゐる癖に少しでもさう云ふ傾向のある人間の事を惡く云つて一切の道德と外面的な俗惡な社會的な意味に解繹して 自分は一かどの道德家の如く心得て――血色の惡い奧さんと寒雀のやうにやせた赤ん坊とを見ると不快な感じしか起らない

僕の向ふの家――板倉と云ふ華族だが――では此頃每日 義太夫を語る 非常な熱心家でのべつに一つ所ばかり一週間も稽古するんだが 靜な語り物だといゝが。此頃は累身賣りの段で大きな聲で笑ふ所があるんだから耐らない 人爲的な妙な笑ひ聲を 午後一時から午後四時に亘つて每日「あはゝえへゝ」ときかされる 腹が立つがどうにも仕方がない そこへうしろの小山と云ふ畫かきのうちでは小兒が病氣なので 蓄音機をのべつにやる「はとぽつほとぼつぽお寺のやねからとんで來い」と云ふ奴を金屬性の音でつゞけさまにやられるのだから非觀だ とにかく鳴物は甚よろしくない

僕の弟が 勉強しすぎて 神經衰弱になりかゝつたのには弱つた 勉強する事は自分の弟ながら 感心する程するが 其割に出來ない事にも又自分の弟ながら 感心する程出來ない 試驗や何かで出來そくなふとしくしく泣き出すんで叔母や何か大分困つてゐる

帝劇で「わしもしらない」をやつてゐる 君の遂によまなかつた釋迦の芝居である 大へんに評判がいゝ 僕は文壇の全體に亘つて 何か或氣運のやうなものが動き出したやうな來がする 自然主義以後の浮薄な羅曼主義のカツッエンヤムマアももうそろそろさめていい時分だ 何か出さうな氣がする 誰か待たれてゐるやうな氣がする 武者小路が 靴の紐をとく資格もないやうな人間が

こないだ戀愛三昧を見た パアフォーメーションはまるで駄目だがシュニツラアには感心する 人情ものもあゝなると實にいゝ あればかりでは少し心細いが大作のあひまに Novel weak としてあゝ云ふものを書いてゆけるといいと思ふ ウィンナであの芝居を見たらさぞ面白からう

今更らしい事を云ふやうだが あゝ云ふ芝居をみるとその芝居に直接關係してゐる藝術家がかつた奴が實に癪にさはる その次にはあゝ云ふ芝居へ出る女優の旦那なる物が生意氣千寓な眞似をしてゐる その次に日本の劇曲家は悉くいやな奴である 西洋でも矢張さうかもしれないが

こないだワーグネルを五つ許りきいた 二つばかりよくわかつた トリスタン・ウント・イソルデはいゝな あんなものをかいてバイロイトに組合藝術の temple を建てやうとしたのだと思ふと盛な氣がする

ワーグネルと云へば獨文科の口頭試驗に上田さんがある學生に「君の論文の題は何だい」ときいたら その人が「ヴアハナアです」と云つたさうだ すると上田さんが「こんなえらい人の名前の發音さへさう間違つてる位ぢやあ落第させてもいゝ」と云つて怒つたのでその人が「ぢやあワグナアですか」と云ふと「ちがふちがふ」と云ふ又「ワグネルですか」と云ふと矢張「いかん」と云ふ とうとう「私にはわかりません」と云つたら「よく覺えておき給へワアグネルだ」つて教へたさうだ そこで僕もワーグネルとかく 之は山本文學士にきいた話だ

山宮文學士は豫定通り文部省へ出るさうだ 僕が「何故あんな所へ行くんです」つてきいたら「あゝ云ふ所へ行つてゐると高等學校の口がわかりますしね それに官學に緣故がある 德ですよ 私立の學校へゆくと恩給がありませんからね」と答へた 山官學士の百年子孫の計を立ててゐるのには驚嘆する外はない

 特に四の第二首に君に[やぶちゃん注:底本は「に」の右にママ注記する。]捧げて東京をしのぶよすがとする

      一

   うき人ははるかなるかもわが見守(みも)る茄子の花はほのかなるも[やぶちゃん注:底本は歌の末尾にママ注記。]

      二

   あぶら火の光にそむきたどたどといらへする子をあはれみにけり

   庖厨の火かげし見ればかなしかる人の眉びきおもほゆるかも

      三

   藥屋の店に傴僂(くぐせ)の若者は靑斑猫を數へ居りけり

      四

   うつゝなく入日にそむきおづおづと切支丹坂をのぼりけるかも

   流風入日の中にせんせんと埃ふき上げまひのぼる見ゆ

      五

   思ひわび末燈抄をよみにけりかひなかりけるわが命はや

   これやこの粉藥のみていぬる夜の三日四日(みかよか)まりもつゞきけらずや

   *

一六六

(七月十一日・田端発信)

手紙はうけとつた 早くと云ふ事だけれど今月の末までは手のぬけない仕事がある それからでよければ早速ゆく醫者にきいたら 日本中ならどこへでもゆくがいゝと云ふ事であつた 僕自身から云つても大分行つてみたい

今 かなり忙しくくらしてゐる 本もろくによめない ごprosaic な用があるのだから困る

三並さんが小腦をいためて三學期中學校をやすんでゐた 今月末から諏訪へゆくさうだ

藤岡君はプラトン全集を懷にして御獄[やぶちゃん注:底本、右にママ注記。]へ上つた

成瀬はローレンスに落されたので 奮然として信州白骨の温泉へ思索にゆくさうだ

 

但馬の何とか温泉は大へんよささうな氣がする そこでぼんやり一日二日くらして それから「やくもたつ出雲」へはいりたい「いづも」とかなでかいてみてゐると國中もぢやもぢやした毛が一ぱいはえてゐさうな氣がする 僕の「いづも」と云ふ觀念は甚あいまいである だから期待の大小によつて 印象を損はれやうとは思はれない 之に反して石見となると「つぬしはふ」と云ふ枕詞が災して 國中一枚の岩で出來上つてゐてその上にやどかりがうぢやうぢやはつてゐるやうな氣がする 何にしても 縹緲としてさう云ふ遠い所へゆくんだと思ふと樂な心もちがする 第一途中にあるトンネルと陸橋が少し氣になる 陸橋から汽車が落ちたら大へんだね 八十もあるトンネルだからその中の一つ位は雨がふるとくづれるかもしれなからう さう思ふと心ぼそい一體江戸つ子と云ふものは 旅なれないものだからね

出まかせに詩をかく[やぶちゃん注:次の冒頭の一行、底本は「ゝ」の右にママ注記をする。第二連の文句から下に「に」が脱落していると考えてよい。]

      Ⅰ

   こゝあはれはドンホアン

   紅いマントをひきかけて

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   市のおと女は窓のかげ

   戸のうしろからそつとみて

   こはやこはやとさゞめけど

   一どみそめた面ざしは

   終(つひ)の裁判(さばき)の大喇叭

   なりひゞくまでわすられぬ――

   こひとおそれの摩訶不思儀[やぶちゃん注:「儀」はママ。]

 

   ドミニカ法師の云ふことにや

   羊の趾爪(けづめ)犬の牙

   地獄のつかひ惡魔(デアボロ)が

   紅いマントの下にゐて

   市のおと女を一人づゝ

   こひの難機(はぢき)につりよせる――

   こゝにあはれはドンホアン

   心もほそく身もほそく

   ひるはひねもすよもすがら

   市をひそひそあるきやる――

   こひとおそれの摩訶不風儀――

 

      Ⅱ

   月輪は七つ

   日輪は十一

   その光にてらされて

   のそのそとあるいてく

   きりん 白象 一角獸(ウニコール)

   地にさくのは百合と牡丹

   空にとぶのは鳳凰 ロック サラマンダア

   山は 靑い三角形をならべ

   その下に弓なりの海

   海には 金の雲が下りて

   その中にあそぶ赤龍白龍

   岸には 綠靑の栴檀木

   その下にねころぶパン人魚セントオル

   月輪は七つ

   日輪は十一

   荒唐の國のまひるを

   のそのそとあるいてく

   東洋は日本の靑年

 

      Ⅲ

   われは今桃花心木の倚子の上に

   不可思儀の卷煙艸をくゆらす

   その匂と味とは ものうき我をかりて

   あるひは 屋根うらのランプの下に

   あるひは ノオトルダアムの石像の上に

   あるひは 若葉せるプラターヌの

   ほのかなる木かげの上に(そとをゆくパラソルをみよ)

   あるひは 穗をぬける蘆と蘆薈と

   そことなくそよげる中に(そこになるタムボリンをきけ)

   あるひは へロヂアスの娘の饗宴に

   あるひはジアンダルクの火刑に

   ほしいまゝなる步みをはこばしむ

   不可思儀の卷煙艸をくゆらすとは

   わがオノーレ ド バルザックの語なり

 

  井川君

   *

一六八

(七月二十一日・消印七月二十六日・書簡内クレジット/七月二十一日・田端発信)

出かけるのが遲れたのは實はたのまれた飜譯物があつてそれが出至るまでは東京をはなれられないからである この月末迄にまだ百五十枚ほかかなければならない 考へてもいやになる

出雲は涼しいかね 東京の暑さは非常なものだ 大抵九十度以上になる裸でじつと橫になつてゐても汗がだらだらでる だから弱つた事も一通りではない これで二十何時間も汽車へのつてゐたら茹りはしないかなどゝ思ふ 兎に角出雲へゆく迄の間が大分暑さうだが今をはづすと一寸行く行く機會もないだらうと思ふから事故の起らない限り八月一日か二日位に東京をたたうと思ふ 八月上旬は僕が每年東京を出る時になつてゐるのである

實はしばらく手紙なかつたので或は都合が惡くなつたのかと思つて中途半ばな心配も少しした、

何にしてもかう暑くつてはやり切れないから用のすみ次第出たいと思ふ その爲に呉々も出雲の湖水の上のすゞしからむ事を祈る

   八雲たつ出雲の國ゆ雲いでて天ぎらふらむ西の曇れる

   はろかなる出雲の國ゆ天津風ふきおこすらむ領巾(ひれ)なす白雲

   そのむかし出雲乙女あ紅の領巾(ひれ)ふりふりて人や招(ま)ぎけむ

   紅の領巾ふる子さへ見えずなりて今あが船は韓國に入る

   いづちゆく天の日矛ぞ日の下に目路のかぎりを海たゝへけり

   こちごちのこゞしき山ゆ雲いでて驟雨するとき出雲に入らむ

   その上の因幡の國の白兎いまも住むらむ氣多の砂山

    七月廿一日

   井川君 案下

   *

一六九

(消印七月二十九日・自筆絵葉書)

 

Akutaigawaehagaki

 

差支へさへなければ三日に東京をたつ

五日には松江へゆけるだらう

よろしく御ねがひ申します

   *

一七〇

(八月二日・田端発信・葉書)

明三日午後三時廿分東京驛發

四日午前五時廿七分京都驛着

〃 〃 七時廿分  〃 發

〃 午前十一時卅九分城崎着(一泊)

五日午前九時八分  〃 發

〃 午後四時十九分松江着

大體右の如き豫定にてゆくべく候 匆々

   *

一七一

(八月六日 松江より・芥川道章宛・絵葉書)

松江へ安着いたしましたから御安心下さいまし

汽車の中では天氣が惡かつたおかげで少しも暑い思をしずにすみました

松江は川の多い靜な町で所々に昔の土塀がそのまゝのこつてゐます 雨の中を井川君と車で通つた時にその土塀の上に向日葵の黃色い花のさいてゐるのが見えました

井川君の家は御濠の前で外へ出ると御天主が頭の上に見えます

   *   *   *

「その後に歌を七つ八つ添えてあった」前に示した「書簡一六八」であるが、実際にはご覧の通り、短歌は全部で七首である。

「この未だ見ぬ国を指してはるばるやって来る友人の眼に、うつくしいゆうべの光に包まれている松江の街を先ず映させ度かった」底本の後注に、先行する『井川恭「松江美論」』(『松陽新報』(大正二(一九一三)年八月発行)に掲載)『には、次の一節がある』として引用がある。そのまま引く。

   《引用開始》

若し旅人が、日暮れて停車場につき、和多見裏から小舟をやとって、大橋の橋影黒く水に砕け、ほそ眉の月の光り銀砂をこぼす頃、大橋川を横ぎって東の水門を潜り、両岸の灯水に落ちては、夜の静けさに泣き暮れる京橋川をさかのぼって、一夜の宿を求め、

   《引用終了》

ここにはまさに当時の井川の内的なロマンティシズムが横溢しており、それを傷心の親友に見せたかった優しさが痛いほど伝わってくるではないか。

「この春品川で別れて以来」底本の後注には、『大正三年四月上旬、失恋の痛手を受けて「僕はどうすればいゝのかわからない」と言い送ってきた芥川を慰めるために上京している』(正確には「いゝのだか」。後の電子化した書簡を参照)とあるのだが、この大正三年というのはまさにこの松江訪問の前、大正四(一九一五)年四月の誤りである。最新の新全集の宮坂覺年譜には何故か記されていないが、先に示した鷺只雄年譜には、大正四年四月の条に『上旬の春休み中』、『恒藤』(井川)『恭が芥川家に滞在する』と明記されているからであり(太字下線はやぶちゃん)、ここで記されている井川宛書簡も旧全集書簡番号一五二で、それは大正四年三月九日発信のものだからである。この書簡は非常に重要なものであるから、やはり、ここで電子化しておく。田端発信で「直披」(親展)の書簡である。

   *

イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたることは出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒すことは出來ない イゴイズムの愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかも人はそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ

僕はイゴイズムを離れた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふ事がある 何故こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない

君はおちついて画[やぶちゃん注:ママ。「畫」ではない。]をかいてゐるかもしれない そして僕の云ふ事を淺墓な誇張だと思ふかもしれない(さう思はれても仕方がないが)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

毎日不愉快な事が必起る 人と喧嘩しさうでいけない 當分は誰ともうつかり話せない そのくせさびしくつて仕方がない 馬鹿馬鹿しい程センチメンタルになる事もある どこかへ旅行でもしやうかと思ふ 何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい

    三月九日            龍

   井川君

   *

こんな手紙を親友から貰ったなら、私のような男でも何としても何かしてやりたくなる。

 

「松江印象記」現在、全集類で芥川龍之介の「翡翠記」の龍之介の記載部分だけを抜いて一つに纏めたそれの標題として用いられているそれは、実はここで初めて井川が記したものであり、それはあくまでも井川が説明するために使用した、一般名詞としての松江来訪の印象記、の謂いなのである。なお、底本の後注には『因みに、ピエール・ロチの『日本印象記』は、前年大正三年十二月の刊行である』という附言がある。確かに、井川はそれを意識した可能性はあるかも知れぬ。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十二」

 

    十二

 

 いろんな作物が勢い好くそだっている中学校の農園の横を降(くだ)り奥谷(おくだに)へ出て萬寿寺の石磴(いしだん)をのぼった。

 本堂には義兄(あに)と、中学に出ている二人の子と、義兄の兄さんにあたる人とが先着していた。義兄と其兄さんにあたる人とは帷子(かたびら)のうえに絽(ろ)の羽織をきて袴をさばいて座って扇子をつかいながら話していた。誰もの顔にはかるい倦怠のこゝろもちが見えていた。[やぶちゃん注:ルビ「かたびら」の漢字は底本では「惟子」であるが、これは誤字と断じて、特異的に「帷子」に訂した。]

 本堂の中は冷いやりとしていた。こんな法会の席に来てお寺の本堂に悠(ゆっ)くり座りこむような事はかなり久し振りであった。恐らく三四年まえ東京で叔父が死んだ時、谷中の寺で寒かぜの吹く日に坊さんたちがお経をよむのを聴いたとき以来の久しさのように想われた。正面の本尊の周囲(まわり)の暗がりに光っているさまざまの金具の形象(かたち)だの眉間(びかん)にかゝげてある十六羅漢の原始的な貌(かお)だの、経文をのせた机の煤けた色だのがながい間わすれていた釈門(しゃくもん)の教の哀しさを懐かしむこゝろを喚びさました。

 お寺もいゝな………と思いながら広い畳のうえに眼の向く所をすべらせながら扇をつかいはじめた。

 この本堂の中では時間は誰の心持にも拘泥せずに出来るだけ悠揚(ゆっくり)と移ってゆくように想われた。それで僕もじきに退屈の仲間入をした。何辺(なんべん)も山門の下から真直に向うに続いている町をながめるけれど待っている俥の影らしいものは見えなんだ。

 でもその内六つになる子供を膝に載せて姉が乗って来た俥が山門の下で止った。子供は俥の上の窮屈さから解放されて愉快そうに小さい手を振りながら山門から本堂の方へあゆんで来た。

 やっと法会が始まる段取りとなった。ずんぐり肥った若い僧が大きい太鼓の縁と胴とをかわるがわる撥(ばち)で叩いて、から、から、から、どん、どどんと鳴らし始めると、今までの寺の中の静寂が四方へ散らばって仕舞って誰も顔から倦怠のいろが消え失せた。

 凸凹した頭、尖った頭、円い頭とさまざまの頭の所有者たる坊さんと小僧とが濁(だ)みた声澄んだ声を合せて経を読みはじめた。肥った若い僧も大きい太鼓を本堂の片隅に閑却した儘ほかの坊さんたちの席に加わって鐃鉢(にょうはち)と鉦(かね)とをちゃんぽんに鳴らしはじめた。

 読経が或る段落まで進んで行ったとき坊さんたちの活動は俄(にわか)に生気を加えた………坊さんたちは合唱の声を続けながら頭を畳に摺り付けて仏の容(すがた)を礼拝しては腰を延ばして起ち上った。たち上ったかと思うと菩薩や梵天の名前を一つ宛(ずつ)唱えては復た膝を折って跪(ひざまず)き頭をひれ伏して礼拝した。

 諸天諸界の隈々(くまぐま)に住みたまう仏の数が限り無いと等しく其立ったり座ったりの繰返しも果しが無かった。でもやっとそれが済むと今度はぐるりぐるり仏の前を廻りながらお経をうたいつゞけた。眇眼(びょうがん)の小僧が高く経文をさゝげながらきいろい声を張り上げて唱(うた)うのが一きわ耳についた。

 祀(まつ)られるのは此夏の始め鎌倉で亡くなったSさんの霊魂であった。Sさんはかあいそうな人であった。一年志願の兵役を果した後東京で学校にはいっている間に病気にかゝつて転地して往った先ではかなく成った。

 Sさんはすなおな性質(たち)で、ついぞ腹を立てた顔を見せたことは無かった。人の好かったSさんは彼(か)の世ではきっと上品(じょうぼん)に生れて、悦(たの)しい世界に逍遥することが出来るに相違あるまい。それから坊さん達が果しなく長い読経をつゞけても決して退屈な顔をする事などは無く、いつ迄も従容(ゆうよう)として聴いていることだろうと想われた。

 

[やぶちゃん注:「鐃鉢(にょうはち)」葬儀や法事の際に用いる打楽器。銅製で丸い皿のような、シンバルに酷似したもの。実際、二枚をシンバルのように打ち鳴らしたり、合わせて擦ったりして音を出す。

「眇眼(びょうがん)」片方の目が不自由なこと。眇目(びょうもく)。眇(すがめ)。

「従容(ゆうよう)」ルビは「しょうよう」の誤り。「悠揚」と勘違いしたものと思われる。ゆったりと落ち着いているさま。危急の場合にも、慌てて騒いだり焦ったりしないさま。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十一」

 

    十一

 

 松江に帰ってから四五日目の朝であった。親類の死人の四十九日の法事に参列する為萬寿寺(まんじゅじ)をさして家(うち)を出て行った。

 未だ少し時刻が早退ぎるだろうと云うので北堀の町から左へ折れて中学校に寄って見ることにした。

 暑い白けた日光(ひざし)が裸かな赤土の上にひかって居て、正門までの坂路の両側に生えている山ざくらの並木の梢を見上げるにも何んとなく心懶(こころう)い日和であった。

 僕の頭の中には、嘗て其坂みちを毎朝登って行かねばならなんだ頃に刻み付けられた印象がぼんやり浮んだ。多くの物はその当時の悌(おもかげ)を依然として眼の前に開展していた。併しまた自然に或は人為に由(よつ)て変ったものも少くなかった。

 目立って変ったのは坂の上に記念館が出来たことであった。坂の両側に生えている山桜の並木もいちじるしく幹が太り枝葉が茂りを加えた。突当たりの芝生に蔽われた傾斜面にはふしだらに小松の群れが丈を伸ばし、坂の右側には何軒も家が建ちつづいてそこいらが賑かになった。

 ぼんやりして居る(それ故によりうつくしく思われるところの)過去の印象と、眼の前に明るい日光の下(もと)に一切を露(さら)けている現実とを心の裡に比べて見………それから嘗て此坂を登って行った自分のすがたを考え、一緒に連れて来た今三年生に成っている弟のことを考えて、過去と現在とを隔てゝいる「時(たいむ)」の長さを具体的に意識しようと試みた。[やぶちゃん注:ルビ「たいむ」の平仮名はママ。]

 けれどその意識の内容はいちじるしく不安定なものであった。例えば魔術師がはっと懸け声をして隻手(かたて)をあげる間に、過去が廻れ右をして其背中からひょっくり現在が顔をのぞけたのだと云う様な気もするし、そうかと思うと二つの「時」が渡る事の不可能なほど広い深い水の淵を距てゝ顔を見合せているんだってな気もした。

 僕たちはことことと、坂を登って行った。弟は記念館に就いて若干の説明を与えた。僕は背延びをしてその向いにある生徒控所の窓から内部を覗いて見た。がらんとした天井とがらんとした石段の床とが何よりもなつかしかった……僕の頭の中に在る過去の世界そのものが薄暗いそこの空間に拡っている様に想われたから。[やぶちゃん注:段落冒頭は底本では「僕たちはこと、ことと坂を登って行った」となっている。松江中学へ向かう坂を「ことと坂」と呼んだかどうか、ネットで検索しても出てこないから、この読点は衍字(記号)か錯字(記号)と断じ、特異的にかく移動させた。万一、『殊、「ことと坂」を』が正しいのであれば、ご連絡を戴きたい。早急に復帰させる。

 そこの石板(いしはん)の上に立ちながら汚ないテーブルの上に弁当をのせて、湯で温めた飯を掻き込んだ記憶が真っ先に心にうかんだ。冬の日の寒さにかじけた手に持つ箸の先から黒豆の煮ころばしが幾つもいくつもころころ落ちて行く形がふしぎな鮮明かさをもって記憶の中から飛び出して来た。ひそかに苦笑しながら僕はその窓の下をはなれた。[やぶちゃん注:「いしはん」(「いしばん」でなくて)はママ。]

 ひろい運動場の土の面はからりと乾燥いていて何物も眼を遮るものは無かった。それを越して向うには遥かな山や野や水やのかたちが透明な空気のなかに揺(ただよ)うていた。

 朝早く登校して、ズボンの衣嚢(かくし)に両手を突込みながら靴の尖(さき)をかろくあげて、うすい朝霧を透かして旭の光が射して来る其グラウンドのうえを一方の端から一方のはしへとあても無くあるいて行った時の屈託の無い心持を再び味わうことの為ならばもう一返この古びた校舎が与える束縛の中へ後がえりをしても好いなと思った。

 

[やぶちゃん注:「萬寿寺」現在の島根県松江市奥谷町にある臨済宗の寺院。(グーグル・マップ・データ)。

「中学校」現在の松江市奥谷町の、小泉八雲も教壇に立った旧「松江中学校」。井川が在学して頃は「島根県立第一中学校」であったが、彼が卒業した翌年の明治四〇(一九〇七)年四月に「島根県立松江中学校」と改称していた。現在の島根県立松江北高等学校。(グーグル・マップ・データ)。

「記念館」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十」

 

     

 

 細かな雨がかすれかすれに糸の緒を曳いて降る静かな日には仰向けに臥転びながらひとり書をよむ。向いの家で機を織る梭(おさ)の音(ね)が悠長にひびいて来る。平常は朝から日暮まで歌いつゞける鴬が雨のふる日はジッと黙っていて、時偶(ときたま)杜の茂みからほがらかな囀りをこゝろみる許りである。気のせいか其声が悲しく沈んでいるようにきこえる。

 仏蘭西(ふらんす)の詩人の詩集を頁の開いた所から順序なく誦(よ)んでゆく。わかるのもある。解らないのもある。そんな事には頓着しないでよんでゆく。その中からひとつ二つ訳して見ようと思う。

 

  青白きわが額(ぬか)をなが膝のうへにおく

              スチュアル・メリル

 残(のこ)んの薔薇(そうび)の花もて蔽へる

 なが膝の上に青白き我額を置く

 あはれ、秋のをんなよ

 幽愁(うれひ)の時の壊(くず)ほれゆく前にこそ

 我らはかたみに恋をせめ!

 憂きわが倦怠(つかれ)をなぐさむる

 なが指のはたらきの優さしさ!

 いまわれは悲しく王をば夢む

 さはあれ、なんぢは

 眼をあげてうたへよかし

 黄金の兜せる国王が

 妃の足下(あしもと)にひれ伏して

 命はかなくなりしてふ

 古き世の歌謡(うた)の悲しき節もて

 わがたましいを揺(ゆ)りしづめよ

 なが衣(きぬ)をかざる薔薇のなかに

 うもれて死なばやと

 我れはねがふ

 うばひ去られし王国を

 ふたゝびわが手におめむため

 

 

  おもひ出

              アンリドレニエ

微睡(まどろむ)む池のをもてに

水葦がおのゝいてゐる

眼に見えぬ鳥の

ひそやかな羽搏(はばた)きのやうに

ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきを立てゝ

息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく

涯も無い野のうねりの上に

月は青じろい光りをそゝぎ

風はみどりの叢(くさむら)のかをりを

艸のはなのかをりを

絶え間もなく吹きおくる

けれども夜の底には

泉の水が嘆きうたひ

慄(ふる)へる胸のなかには

古い恋ごゝろがめざめてゐる

そのよるの悲しく愛しい思ひ出は

過去の深みからうかび出て

遠い方からくちびるのうへに

恋のさゝやきが響いてくる

 

[やぶちゃん注:作者名は底本ではもっと下であるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上げてある。最初の訳詩の最終行「おめむ」は「をさめむ」ための誤りのように思われるが、原文を確認出来ないのでママとした。ともかくも以上は、特異的に正字化して、原文に近づけたものを以下に示す。「アンリドレニエ」は中黒を打った。

   *

 

  靑白きわが額(ぬか)をなが膝のうへにおく

  

              スチュアル・メリル

  

 殘(のこ)んの薔薇(そうび)の花もて蔽へる

 なが膝の上に靑白き我額を置く

 あはれ、秋のをんなよ

 幽愁(うれひ)の時の壞(くず)ほれゆく前にこそ

 我らはかたみに戀をせめ!

 憂きわが倦怠(つかれ)をなぐさむる

 なが指のはたらきの優さしさ!

 いまわれは悲しく王をば夢む

 さはあれ、なんぢは

 眼をあげてうたへよかし

 黃金の兜せる國王が

 妃の足下(あしもと)にひれ伏して

 命はかなくなりしてふ

 古き世の歌謠(うた)の悲しき節もて

 わがたましいを搖(ゆ)りしづめよ

 なが衣(きぬ)をかざる薔薇のなかに

 うもれて死なばやと

 我れはねがふ

 うばひ去られし王國を

 ふたゝびわが手におめむため

 

   *

 

  おもひ出

 

              アンリ・ド・レニエ

 

微睡(まどろむ)む池のをもてに

水葦がおのゝいてゐる

眼に見えぬ鳥の

ひそやかな羽搏(はばた)きのやうに

ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきを立てゝ

息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく

涯も無い野のうねりの上に

月は靑じろい光りをそゝぎ

風はみどりの叢(くさむら)のかをりを

艸のはなのかをりを

絶え間もなく吹きおくる

けれども夜の底には

泉の水が嘆きうたひ

慄(ふる)へる胸のなかには

古い戀ごゝろがめざめてゐる

そのよるの悲しく愛しい思ひ出は

過去の深みからうかび出て

遠い方からくちびるのうへに

戀のさゝやきが響いてくる

 

   *

「スチュアル・メリル」アメリカ合衆国ニューヨーク州ヘンプステッド生まれのアメリカ人の詩人スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三 年~一九一五年(フランス・ヴェルサイユ))。パリでルネ・ギルなどと親交を結び、一八八六年に一度、アメリカへ帰って、コロンビア大学で律法を学んだが、詩作に耽り、一八八七年に詩集「音階」を発表、二年後には、再度、パリへ赴き、以後はそこに定住してフランス語を以って詠む詩人としての道を歩んだ。当初は高踏派やヴェルレーヌなどの影響を受け、わざとらしい調和や絢爛たるイマージュを求める傾向があったが、やがて繊細な自由詩による象徴詩に転じた(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。

「アンリドレニエ」アンリ・ド・レニエ(Henri de Régnier 一八六四 年~一九三六年)はフランスの詩人で小説家。北フランスのオンフルールに貴族の末裔として生まれた。外交官志望を断念して詩作に転じた。造形美術的な詩法を学び、マラルメの火曜会の重要メンバーとなって音楽的な詩法を会得、高踏派と象徴主義派を合わせた詩風であったが、後に新古典主義へと移った。憂愁にして豪奢な詩と評され、永井荷風が私淑していたことでも知られる(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「九」

 

     

 

 午後に成って日が西へまわると、庭に落ちている屋根の影が次第に伸びて行って濠の水のうえに落ちるように成る。

 濠の向い岸には何百年のあいだ其処に立っているらしい古いふるいたぶの木や椎の木やが思う存分丈を伸ばして曲りくねった枝をさし交している。浅みどりの葉、茶がかったいろの葉、暗緑色の葉、それが円味を帯びた塊りとなって枝ごとに茂り拡っている。[やぶちゃん注:「丈を」は底本では「丈をを」となっているが、流石に衍字と見て、特異的に「を」を一字、除去した。]

 日光がその上にそゝぐと濃かな樹々の緑りは一斉にかゞやいて、その儘うつくしい緑りの影を濠の水の上に落す。いくら風のおだやかな日でも昼間は水の面に皺立つ漣(さざなみ)が絶えないので、樹々の影は天鷲絨(びろうど)の模様みたように柔らかくけばだって映る。

 頸のまわりだけが紅くて残りは深黒な羽に身を蔽うているかいつぶりが何時も一羽か二羽かそこいらの水の上に泛んでいる。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。次の段落のそれも同じ。]

 ながいあいだ沈黙をまもりながら水のうえにじっと浮んでいるその小さい水鳥がやがてピロ、ピロ、ピロと鈴を振るような声をふるわせて四辺(あたり)の寂莫を破るかと思うと、つと頸をすくめて頭から水の中へもぐつて行く。…………跡には水の環がそのもぐって行ったところを中心にして静かに拡がって行き、水の面(おもて)に映された樹々のみどりの影がゆらりゆらりとみだれ揺(ゆら)ぐ。

 ひろがって行った水の環のつながりが向うの岸にとゞいて、更に反動をつくつて静かに寄せかえす頃には鳥は三四間はなれたあなたの水ぎわの茅(かや)の葉のあいだに浮び出て、そこでまたピロ、ピロ、ピロと清(すず)しげに啼く。

 水のふちに下りて蹲踞(しゃが)んで水の中を覗くとそこにはさまざまの水棲の動物が各自思いのまゝの生活を展開している。

 瓢軽(ひょうきん)な水馬(みずすまし)の群れが数知れず沢山に浮んでいてひょいひょいと跳びながら水の上をすべって行くので水の面は雨がふり注ぐ様にさゝれ立って見える。短気で楽天家のまいまいつむりがくる、くる、くると目眩(めまぐる)しく回転する。暗褐色の石の蔭に沈んでいて折々つっつと水の底をはしる沙魚(ごす)の物に怖じるような陰険そうな振舞いや、分不相応に長い手にうす汚ない藻くずのくっついたのを伸ばしながらのさばり歩く老いぼれの長手蝦の図々しさや、かあいらしい鰭を振り尾を振って浮き藻のあいだを潜(くぐ)りくゞつて泳いで行く目高の罪のない活発さや…………みんなその個性の趨(おもむ)くところに従って生活の不可思議を追い求めている。

 午睡(ひるね)のゆめを貪ったのち茫然(ぼんやり)さめた頃には、日は全く西へまわり、濠の水は鏡の面の様に透徹して些かの凹凸も無く、そのうえに映る艸木(くさき)のみどりの影は珠を鏤(あつ)めて張ったように玲(ほがら)かに澄み切る。

 懶(ものう)い眼をはっきり醒ます為井戸端へ顔を洗いに来ると、少しはなれた河岸に生えている櫨(はじ)の木の水にさし出た枝のうえに一羽の翡翠(かわせみ)が棲まっていて静かに水のなかを窺っている。

 と、身を跳らして水のなかに潜り入り、たちまち復た魚を啣(くわ)えておどり出て、つうつうと暗きながら彼方の樹の茂みを指して翔(かけ)って行く。[やぶちゃん注:「啣(くわ)えて」の「啣」は実は底本では「喞」であるが、これは「かこつ」の意であって、「くわえる」の意はない。されば誤字と断じて、特異的に訂した。]

 宝石の光りの貴とさを持っている色沢(つや)うつくしい瑠璃いろの翅(つばさ)がひらりと閃(ひらめ)かせるかと思うと早や暗い樹の蔭にその鳥のかたちは隠れてしまう。うつくしい人が懐かしい眸をちらと見せてすぐと消え失せたときのように、幻影のひかりがこゝろの中をはゞたいて通り過ぎる。

 

[やぶちゃん注:「まいまいつむり」「短気で楽天家」であって「くる、くる、くると目眩(めまぐる)しく回転する」という特徴から、私はこれは松江の方言であって、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属するミズスマシ類を指していると考える。]

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「八」

 

     

 

   4 Nの手紙  その一

   …………………………………………

 僕の生活は只もう平穏無事です。

 兄(けい)のお言葉の通りあれ程恐ろしい響を僕の頭の中に伝えた岩元さんと云う文字でさえ幾度繰り返して見ましても今は何等の反響をも起しませぬ。

 毎日母の手料理を並べた一つ卓(つくえ)に皆して向った時はあの恐ろしい賄い征伐の喧噪も十世紀も廿世紀も昔の音として僕の耳底のどこやら一部分に少しばかり止って居る位のもの、僕の心には只幸福の穏かな波のみ打ち寄せ只静かな恵の風のみ吹いてまいります。

 然し今や独りで黙想するといった様な時間は著しく減じました。井川君、霊の船は暴風激浪を侵して突進する時には決して顛覆の憂(うれい)は無くて反って静穏な港の中で自ら沈没してしまう事は無いでしょうか―此んな事が時々思い浮べられます。然し僕は此の港内に泊って居る間に破れた部分を修繕し十分の休養を積んで再び大海の激浪中に乗り出す準備を怠らぬ様にする考です。

 此の頃の月はどうです。今晩は確か日待ちでしょう。僕は毎晩浜辺を訪れます。

 虫の鳴いて居る小路を辿って月見草の中を分けながら砂丘を上り松林の間をくゞつて渚に出ますと、其処には潮のひいたあとが黒く残って居ます。西の方には新城(しんじょう)の岬がつき出して東には大山の鼻が静に黙して横たわって居ます。遥か沖には夜釣りするかゞり火が二つ三つ宛(ずつ)群をなしてかすかにチラツイて居るのが見られます。僕は砂の上に腰をおろします。

 幾匹とも知れぬ銀の龍が背を連らね列をなして沖の方からウネウネうねって来ます。と、忽ち響く轟きと共にそこら一面に起る真っ白な涌き立つ雲の中に姿をかくして脚下を襲ってまいります。

 僕の心は此の音を耳にし此のさまを目にして居(お)る間に遠いとおい国へ導かれます。そして幾時をすごした後に静かに立ってしめった砂地を踏みしめて寂しい足跡を残しながら家路につきます。

   4 Nの手紙 その二

   …………………………………………

 僕の四囲は至って静かです。然し此頃何故か僕の内部は静かで無い事が多う御座ります。いたましい程醜悪な自分の姿がまざまざ目の前につき出されて居る事を感じない時はすくなう御座ります。罪の感が次第に痛切になります。自分の一度犯した罪は終に消える可きもので無いと考えてふるいおのゝく事も御座ります。

 僕は此頃自分の著しく傲慢である事を思います。自分で此れは謙遜な行為だと感じて居る時の人の傲慢ほど甚しい傲慢が世にありましょうか。

 然しかすかながらも光は胸の中にさして居る様です。生命の泉は草深くうずもれた中にかすかな音をたてゝ涌いて居るのを感じます。

…………………略…………………

 以上はA君、Ⅰ君、F君、N君の四人からよこした沢山の手紙の中からえらんだ僅かなパッセージである。

 その選び方が僕の目的に対して妥当なものであったか如何(どう)かは僕の知る所で無い。

 又この四人の友人が各自に異った個性を持っている如く、僕とかれ等との間にもいちじるしい性格の相違がある事は明らかである。たゞいろいろの場合に於て、またいろいろの物に対してA君と僕との考え方や感じ方が一致する傾向が強かったことも事実である。

 

[やぶちゃん注::前にした通り、「N」は井川(恒藤)と同じく、京都帝国大学法科大学を卒業後、教育者となり、最後は京都市立美術大学学長に就任した長崎太郎である。彼は高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)の出身である。

「岩元さん」わざわざ井川がここを出す以上は、続く寮生活の「あの恐ろしい賄い」と関係のある人物とか、寮長とかが想起はされるが、よく判らぬ。

「新城(しんじょう)の岬」高知県安芸市穴内乙新城がある((グーグル・マップ・データ))が、岬ではない。困った。郷土史家の御教授を乞う。

「大山の鼻」現在の高地県安芸市下山新城にある大山岬か。(グーグル・マップ・データ)。

「A君」芥川龍之介。]

芥川龍之介 手帳8 (14) 《8-14/8-15》

《8-14》

○更くる夜を上ぬるみけり鰌汁

[やぶちゃん注:「鰌汁」「どじやうじる」。没後の「澄江堂句集」など、公に知られた表記は「更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁」である。大正一二(一九二三)年から翌年にかけての『にいはり』を初出とし、現存書簡では前年の大正十一年九月八日附真野友次郎(旧全集書簡番号一〇六九。芥川龍之介の普通人の愛読者の一人であるが、龍之介はかなり書簡のやりとりをしている)宛にまさに「泥鰌汁」ではなく、この「鰌汁」で初出する。無論、旧作の覚書とすることも出来るが、この初出時期を重視するならば、新全集の「後記」が本「手帳8」の記載推定時期を大正一三(一九二四)年から晩年にかけてと推定するその上限は絶対のものとは必ずしも言えなくなる気がする。]

 

30越した女(子供をおいて放す)兩乳はり卒倒す 旅人乳をすひすくふ(腦貧血) 旅人は弟の生まれるまでに間ありし故 乳の吸ひ方を知る 男女共春情を催す

○英語の教師 英語をやらねば出世せぬと云ふ 生徒思ふ 先生は如何

○永山が山口重春の二十四孝(錦畫)を五圓(古本屋)にかひ永見へ四十圓に賣る

[やぶちゃん注:「永山」後の「永見」(後注参照)から考えると、これは長崎県立長崎図書館初代館長として切支丹文献や対外貿易史料の収集に勤めたことで知られる永山時英(慶応三(一八六七)年~昭和一〇(一九三五)年)ではあるまいか。

「山口重春」柳斎重春(りゅうさいしげはる 享和二(一八〇二)年~嘉永五(一八五二)年)は大坂の浮世絵師。肥前国長崎鍛治町の商家山口善右衛門(屋号「大島屋」)の次男。俗称は山口甚次郎。

「二十四孝」浄瑠璃「本朝廿四孝」(時代物。五段。近松半二他に成る合作。明和三(一七六六)年、大坂竹本座で初演。「甲陽軍鑑」に取材し、中国の二十四孝の故事を配したもの)の芝居絵か。

「永見」永見徳太郎(ながみとくたろう 明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎市立商業学校卒。生家長崎の永見家は貿易商・諸藩への大名貸・大地主として巨万の富を築いた豪商で、その六代目として倉庫業を営む一方、写真・絵画に親しみ、俳句・小説などもものした。長崎を訪れた芥川龍之介や菊池寛・竹久夢二ら文人墨客と交遊、長崎では『銅座の殿様』(銅座町は思案橋と並ぶ長崎の歓楽街)と呼称された。長崎の紹介に努め、南蛮美術品の収集・研究家としても知られた人物である(講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「永見徳太郎」、長崎ウエブ・マガジン「ナガジン」の「真昼の銅座巡遊記」を参照した)。大正八(一九一九)年の龍之介の長崎行の際に宿を提供して以来、親しく交わった。]

 

○會社にて寫眞帖を出しその中の女を世話し話をまとめる

○豪傑

 神風連 種田少將の書生營兵司令(軍曹) 會津藩士 顏の肉を削らる 褌にて卷く 閑院宮殿下の檢閲 中隊長として blow wind 日淸戰爭前 陸軍中佐 日露役の時後備 70歳退役

《8-15》

○聯隊長を打つ 昇進を中止せしむ 上申までには及ばず

○北淸事件凱旋 廣島の宿屋 少佐(豫備)――義兄 少將――義弟 アア五郎かワレは何時ついた? コツチヘ來い コツチへ來い――ウン昨日宇品へついた ウンユキンムの爲一泊した 少將兄扱ひす

Meckel をなぐる(榊原と) 講評(圖上假設演習)の時 Meckel に叱らる German tactics は愚なりと叫び Meckel を打つ 少尉頃 停職

○貔子窩 日淸役 聯隊長ひけと云ふ 孤山より玉來る故 鞭にて聯隊長を打つ(お前の知るコトか) 岩上燒飯と梅干を食ふ 玉來る 倒る 飯をさがす

[やぶちゃん注:「○豪傑」以降、以上までは一連のものと判断する。

「神風連」明治九(一八七六)年十月二十四日に熊本市で発生した明治政府に対する士族反乱の一つである神風連(しんぷうれん)の乱。ウィキの「神風連の乱」によれば、『旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約』百七十『名によって結成された「敬神党」』(旧肥後藩士族の三大派閥の一つであった勤皇党の一派)『により、廃刀令に反対して起こされた反乱』で、『この敬神党は反対派から「神風連」と戯称されていたので、神風連の乱と呼ばれている、同日『深夜、敬神党が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官種田政明』(後注参照)『宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか』、『県庁役人』四『名を殺害した。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。しかし』、『翌朝になると、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始。加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難した』後、『自刃した。指導者を失ったことで、他の者も退却し、多くが自刃した』。『敬神党側の死者・自刃者は、計』百二十四名で、残りの約五十名は『捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約』六十名に及び、負傷者は約二百名であった。『この反乱は、秩禄処分』(明治政府が明治九(一八七六)年に実施した秩禄(華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称)給与の全廃政策。経過措置として公債が支給されたものの、支配層がほぼ無抵抗のままに既得権を失ったという点では世界史的にも稀な例とされる。ここはウィキの「秩禄処分」に拠った)『や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる』とある。

「種田少將」陸軍少将種田政明(天保八(一八三七)年~明治九(一八七六)年)。ウィキの「種田政明」より引く。旧薩摩藩士。『鹿児島城下の高麗町で生まれ』、文久二(一八六二)年、『島津久光の上洛に従い、中川宮朝彦親王付の護衛となった。これを契機に諸藩の志士と交流を持つようになり、その交渉役を果たしている。戊辰戦争にも参加した』。『戦後、薩摩藩常備隊』二『番隊長を経て』、明治四(一八七一)年、『御親兵大隊長として上京。兵部省に出仕し、兵部権大丞、兵部少丞を歴任』、翌年の『陸軍省創設後は、陸軍少丞、会計監督、会計監督長代理などを歴任し』た後、明治六年に『陸軍少将となった』。『東京鎮台司令長官を経て』(明治九年、『熊本鎮台司令長官に就任。陸軍薩摩閥の中では大将の西郷隆盛に次ぎ、同じく少将の桐野利秋、篠原国幹』(くにもと)『と並ぶ人物であった。桐野等と異なり』、『官僚としての力量もあり』、『明治六年』の『政変で西郷等が下野した後は』、『必然的に陸軍薩摩閥を束ねる地位にあったが』、この『神風連の乱で妾である小勝と就寝中、蜂起した敬神党に居宅を襲撃され、これに応戦するも首を刎ねられ』、『殺害された』。『派手好き女好きで』、『盛んに色町に出入りし』、「花の左門様」(左門は彼の通称)と『囃されていた。また熊本においても妾である小勝と共に小間使いの女を妾とし、両手に花と喜んでいたという』。『小勝は事件後、東京の両親に「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」との電報を打ち、当時の人気ジャーナリスト仮名垣魯文が』、『その下に「代わりたいぞえ、国のため」とつけて『仮名読新聞』に載せたことから有名になった』。『傷の養生のため』、『日奈久温泉に滞在。西南戦争の際には他の』五~六『人の女性と共に熊本城に篭城した』。『小勝の打った電報は、「語簡にして意深く」と称賛された。また、下の句を作る者が続出するなど』、『流行語にもなった。川上音二郎一座が電報文を題名にした芝居を上演しており、内容はひどいものであったが、題名のおかげで客入りは良かったという』とある。

「閑院宮殿下」閑院宮載仁親王(ことひとしんのう 慶応元(一八六五)年~昭和二〇(一九四五)年)は皇族で陸軍軍人(元帥陸軍大将大勲位功一級)・日本赤十字社総裁。ウィキの「閑院宮載仁親王」によれば、伏見宮邦家親王第十六王子。『後継のいなくなった閑院宮を継ぎ』、第六代当主となり、明治三三(一九〇〇)年『以後から第二次世界大戦終了直前まで』、『皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物であ』った。『日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した』とある。

blow wind」「羽振りを利かせる」の謂いであろうが、英語に疎いけれど、英語ではこうは言わないのではないか? Influential とか great deal of influence とはあるが?

「北淸事件」北清事変・義和団事件の別称。日清戦争後、清国内に於いて、義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、一九〇〇年には北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動し、これを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。

「ウンユキンム」運輸勤務。

Meckel」プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人で、明治前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いたクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel 一八四二年~一九〇六年)。参照したウィキの「クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル」によれば、明治一八(一八八五)年三月に来日、陸軍大学校教官となり、参謀将校の養成を担当した。『メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の』一『期生で卒業できたのは、東條英教や秋山好古などわずか半数の』十『人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく』、『希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め』、『様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した』という。三年間、『日本に滞在した後』、明治二十一年三月にドイツへ帰国した。

「榊原」後の陸軍中将榊原昇造(さかきばら しょうぞう 安政六(一八五九)年~昭和一五(一九四〇)年)か。そもそもがここに書かれた人物の名前が記されていないので、よく判らぬ。この人物を御存じの方、是非、御連絡を乞う

German tactics」ドイツ流戦術法。

「貔子窩」「ひしか」と読む。遼寧省の遼東半島東南部、現在の大連市普蘭店区(旧皮口鎮)にある皮口街道。ここは現在、新石器時代の遺跡があることで知られる。(グーグル・マップ・データ)。

「孤山」(グーグル・マップ・データ)。]

 

○村幸の話 妻齒醫者と通ず 子供の空氣銃にて打ちし穴より覗く 二人立ち來るけはひ 雨天をわすれ火の見に上る 火事と云ふ ねぼけた事になる 妻湯に入ると云ふ 幸焚きつけんとす 妻勿體ないと云ふ 床へはひり來る

[やぶちゃん注:「村幸」芥川龍之介の輕井澤日記(リンク先は私の電子テクスト)に『村幸主人』と出る、同日記の筑摩全集類聚版脚注(第六巻)に『港区新橋にあった古本屋の主人、村田幸兵衛』とある人物のことであろう。メモが簡略に過ぎ、シチュエーションを想像しにくい。これ、妻に不倫された本人の告白らしく、何だか、異様にその映像が、気になるのである。]

芥川龍之介 手帳8 (13) 《8-13》

《8-13》

○干し草もしめつてゐるや蓮の花

[やぶちゃん注:ここにのみ出る芥川龍之介の俳句。]

 

○二對の lovers あり 一對は關係あり 一對はなし 兩親と談ずる時 前者は成功し後者は失敗す

○遺傳――狂

 重大な Case に狂の爲大事業をす Jeanne d’Arc

[やぶちゃん注:「Jeanne d’Arc」言わずと知れた「オルレアンの乙女(聖処女)」ジャンヌ・ダルク(一四一二年頃~一四三一年)。救国の神託を受けたと信じ、シャルル七世に上申していれられ、イギリス軍を破ってオルレアンの包囲を解いたが、後にイギリス軍に捕らえられ、ルーアンで異端として火刑に処せられた。凡そ五百年後の一九二〇年にやっとローマ教皇庁により聖女に列せられている。彼女の狂人説は当時からあった。]

ブログ・アクセス1050000突破記念 梅崎春生 葬式饅頭

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年六月号『新潮』に発表された。

 底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 「勝味」は「かちみ」で勝ち目と同じ。

 「金壺眼」とは落ちくぼんでいて丸い目のこと。

 「ワクドウ」ネットの天草方言集の中に()、ポルトガル語“wakudo”由来で、「蝦蟇(がま)」「蟇蛙(ひきがえる)」(そういえば、そこに記載されている英語の“toad”も発音が似ているように思える)の意とある。

 本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1050000アクセスを突破した記念として公開した。【2018年1月16日 藪野直史】]

 

 

   葬式饅頭

 

 寺内孝治の席が、二日前から空席になっていた。三日目の朝早く、僕が学校に行くと、校門のそばのポプラの木のかげから熊手伍一がぬっと出て来て、僕を呼びとめた。偶然にそこにいたのではなく、僕を待伏せして、ポプラのかげにかくれていたのらしい。

「おい。お前。知ってるか」

「な、なにをだい?」

 熊手に対すると、どうも僕の声はどもり勝ちになる。いじめられまいとして、虚勢を張るせいだ。

「何かあったのか」

「ワクドウが死んだぞ」

「ワクドゥが? ま、またウソをつく!」

 伍一はよくウソをつく癖があって、ウソツキ伍一と言うあだ名がついていた。ことに伍一は僕みたいな体力の弱い者にウソをつき、きりきり舞いをさせて、それを見て楽しむような傾向があった。強い者相手にウソをつくと、報復されるおそれがあるからだ。僕は強(し)いて落着き、わざとにやりと笑って言い返した。

「そうそうだまされてばかりはいないぞ」

「なに。おれがウソをついてるとでも言うのか」

白眼を剝(む)き出すようにして、伍一は詰め寄って来た。見るともう両掌が拳固になっている。僕は逃げ腰になった。向うは身軽だが、こちらはカバンを肩から下げているので、格闘になっても勝味はない。カバンを下げていなくても、先ず先ず勝味はないのだが。

「友達が死んだと言うのに、笑ってもいいのか」

「笑ってやしない」

 飛びかかって来る気配を見せたので、僕はカバンを押え、横っ飛びに飛んで逃げた。力は弱いけれど、脚は僕の方が早い。伍一はとても遅い。運動会の徒競走でも、伍一はいつもビリだ。がに股だから、がたがたして、速く走れないのだ。伍一のお父さんは石屋で、石屋と言っても石塔専門の石屋で、やはりがに股だった。伍一のがに股はお父さんに似たのだろう。

 伍一は僕を追っかけてがたがたと走ったが、途中で走るのを止め、大声で怒鳴った。

「あとからひどい目に合わせてやるからな。覚悟しておれよ」

 その日はまだ五月だと言うのに、むんむんとしてむし暑い日だった。どろりと空気が淀んでいて、校庭の木の葉はそよともそよがなかった。やがて中庭の鐘がカーンカーンと鳴り、授業の一時間目が始まった。それなのに僕らの組担任の富岡先生は、なかなか教室にやって来なかった。だから皆は騒ぎ始めた。十分間ぐらいたって、扉をがたがたと引きあけ、詰襟服を着た富岡先生が、出欠簿をきちんと脇にかかえ、ぬっと姿をあらわしたから、ぴたりとがやがや騒ぎはしずまった。富岡先生が教壇に上ったので、僕は大声で号令をかけた。

「いち。礼。に」

 いち、と言うのは、起立と言うこと。に、とは、着席のことだ。何故僕が叫ぶかと言えば、その時僕は級長だったのだ。

「今日は皆さんに悲しいお知らせをする」

 いつもなら直ぐ出欠薄を開くのに、今日は先生はそうしなかった。詰襟のカラーに指を突込み、いかにも暑そうに、それを拡げる恰好をした。

「寺内孝治君が昨夜、なくなられた」

 カラーに指を突込んだまま、先生は金壺眼(かなつぼまなこ)で皆をぐるぐると見回した。引込んだ下瞼にも、鼻の頭や顎(あご)などにも、先生はぶつぶつと汗をかいていた。出欠簿を机の上に置き、それを開いた。

「病気は盲腸炎だ。皆も用心せんけりゃならん」

 カラーから指を引抜き、先生はうつむいて出席を取り始めた。その隙(すき)に乗じて、前方の席の伍一がふり向き、僕に向って憎々しげにアカンベーをして見せた。僕は知らんふりをしていた。級長ともあろうものが、アカンベーなんかに応じるわけには行かない。

(やはりワクドゥは死んだんだな。ウソじゃなかったんだな)と僕は考えた。(伍一の親父ほ石塔屋だから、ワクドウの親父が石塔を注文に行ったんだろう。だから伍一がそれを知ったのだ)

 寺内孝治の家は魚屋で、ちょっと顔がヒキガエルに似ていて、だからワクドウと言うあだ名がついていた。僕らの地方では、ヒキガエルのことをワクドウと呼ぶのだ。ワクドウは組中で一番背が低く、いつも筒袖の着物で学校に通って来た。その筒袖の着物は、いつもぷんぷんと魚のにおいがした。寺内魚屋で製造するシべツキカマボコはうまかった。店の一番奥に掘抜井戸があり、そこらの薄晴い場所に石臼(うす)が据(す)えられ、石臼の中の魚肉を機械仕組の鉄棒が、ぐっしゃ、ぐっしゃ、とこね回す。これがこね上ると、千切って形をととのえ、ワラシべをまぶし、そのまま一箇十銭のカマボコになるのだ。もうこれからは、寺内魚屋に孝治を誘い出しに行っても、井戸と石臼の間から孝治の姿は出て来ないのだ。そして孝治も、出来上ったカマボコを聯隊(れんたい)に納めに行かなくても済むし、納めに行きたくとももう行けないのだ、と思った時、急に頭の奥が熱くなって、僕は汗を拭くふりをしながら、瞼の上から眼玉を押えていた。その時先生が僕の名を呼んだ。元気よく返事したつもりで、僕の声は甲高くかすれたらしい。先生は出欠薄から眼を上げ、不審げな視線を僕に向けた。僕は恥じて、うつむいた。

 

 しかしワクドウの死は、それほどショックを僕ら級友に与えはしなかった。ワクドウはそれほど級では派手な存在ではなかったからだ。地味で、目立たず、それに勉強もあまり出来なかった。だから僕らは午前中、いつもと余り変らぬ気持で、授業を受けた。

 お昼になった。気温はじりじりと上って、ひどく暑くなった。弁当を開くと、おかずにカマボコが入っていた。お母さんがそのカマボコをどこで買って来たのか知らない。(孝治は昨夜死んだ筈だから)僕はカマボコを嚙みながら思った。(寺内魚屋でカマボコをつくる筈がない。これは他の店のカマボコだろう。だからうまくない)

 昼飯が済むと、僕は教員室に呼ばれた。教員室はいつも煙草のにおいがこもっている。今日放課後、先生と一緒に葬式に行くから、帰らずに待っているように、とのことだった。僕はお辞儀をして、教員室を出た。葬式に行くのはこれが初めてで、葬式に行ってどういうことをするのか、ただじっとしておればいいのか、そこのところがよく判らなかった。判らないままお辞儀をしてしまったのだ。教員室を出て、咽喉が乾いたから、水道の蛇口からがぶがぶと水を飲んでいると、隣の蛇口に熊手伍一がやって来て、同じく水をごくごくと飲み始めた。こんなに暑いと、誰だって咽喉が乾く。

「おい。お前」

 飲み終ると伍一は僕に呼びかけた。

「葬式に行くんだろ。ワクドウの葬式に」

「どうして?」

「お前、今、教員室から出て来たじゃないか」

 ふしぎなことだが、伍一の顔は一瞬おどおどと、不安そうな色を浮べているようだった。でもこれは僕の勘違いで、あまり暑かったからそう見えたのかも知れない。

「先生に呼ばれたんだろ」

「そうだよ」

「葬式に行けと言われたんか」

「まだ判らんよ」

 朝からずっとつきまとっているようで、変にうるさい感じがしたから、僕はつっぱねた。

「じゃ、教員室で、何の話をしたんだい?」

「うるさいなあ。何の話だっていいじゃないか」

「ほら。やっぱり葬式だな」

 伍一は僕の腕を摑(つか)んで、ねつっこい調子でくり返した。

「葬式だ。やっぱり葬式だ。な、お前、葬式に行くんだな」

「そんなに行きたけりゃ――」

 僕は腹を立てて怒鳴った。

「お前も行けばいいじゃないか」

「誰があんなとこに行くものかい」

 伍一は僕の腕をぎゅっとねじ上げた。

「あんな線香くさいとこ、誰が行きたがるもんか」

「行きたくなけりゃ、放っとけばいいじゃないか」

 僕は伍一の手を力をこめて振り払った。

「あんまりしつこくすると、先生に言いつけてやるぞ!」

 只今教員室から出て来たばかりだから、僕のその言葉には実感があったらしい。何時もと違って、伍一は僕に飛びかからず、口惜しげに唇を嚙み、僕をにらむだけだった。その伍一を尻眼にかけて、僕は教室の方に歩いた。

 

 葬式はひどく退屈だった。

 僕は富岡先生と並んで、ござをしいた板の間に坐らせられた。ござの上には、ぎっしりと人が坐っていた。お経は長いこと続いた。永久に続くのかと思われるほど、いつまでも続いた。学校の読方の本なら、大体終りの見当がつくが、お経となるとそうは行かない。僕の前には大人が坐っているから、和尚さんの姿は見えない。だからなおのこと退屈だった。

 退屈だけならいいけれど、足が痛くてつらかった。ござがしいてあっても、もともと板の間だから、板の堅さがごりごりと脛(すね)に当る。葬式だから、あぐらをかくわけには行かない。ちゃんと正座して、膝に手を置いていなければならない。

 隣の富岡先生をぬすみ見ると、先生も青黒い顔を緊張させて、たいへんつらそうだった。子供より大人の方が、体重があるから、その分だけつらいだろう。板の間にぎっしりつまった人々の、身じろぎする度にごりごりと鳴る脛骨の音が、お経の間(あい)の手のように、あちこちで鳴った。

 つらいのは足の痛さだけでなかった。板の間は風通しが悪く、暑さがむんむんとこもり、汗がひっきりなしにしたたり落ちた。大人と違って、ハンカチなんて気の利(き)いたものを、僕は持っていない。掌で拭くより仕方がない。掌が濡れて来たら、あとは上衣の袖口だけだ。汗は拭いても拭いても吹き出した。一番噴出量の多いところは、鼻の両脇とおでこだった。おでこの汗は、油断をすると、玉になって、眼にするりと流れ入った。流れ入ると、眼玉がやけに塩辛かった。塩辛いから、それを薄めるために涙が出る。辛いから涙が出るのか、悲しいから涙が出るのか、よく判らないような気分になり始めた頃から、僕は何となく悲しくなって来たらしい。

(ワクドウよ。死んだお前もつらかろうが、生き残ったおれたちもラクではないぞ)

 気分をごまかすために、僕はそんなことを考えた。

(しかし、お前はまあいいよ。ごりごりの板の間に坐らずにすむし、もう勉強なんかしなくてもいいし、伍一などにもいじめられないし)

 実際ワクドウも、伍一からはよくいじめられた。ワクドウは顔に似ず力は弱いし、勉強は出来ないし、誰だってちょっといじめたくなるような感じの子だった。しかしワクドウは泣き虫じゃなかった。いくらいじめられても、泣かなかった。だから、なおのこといじめられるのだ。泣いてしまえば、いじめは終るので、それではいじめ甲斐がない(お前が死んだんで、いじめ相手が一人減って、伍一もきっと淋しがってるぞ)

 永々と果てしなく続いていたお経が、突然と言った感じで、ふっと終った。樹にとまって啼(な)いていたセミが、とらえてやろうと樹に近づくと、ふっと啼きやめて飛んで行く。それに似ていた。お経が終ると、あたりがちょっとざわめいて、安堵のあまりに汗がひとしきりどっと吹き出した。

 

 ワクドウは白茶けたような顔で、棺の中で死んでいた。閉じた瞼は、青みを帯びていた。僕は先生と並んで棺の前に坐り、先生がする通り頭を下げた。頭を畳にこすりつけた。すりつけたまま先生が頭を上げないので、頭をずらすようにして横眼でうかがうと、先生は突然、ううっ、と言うような声を立てた。そして先生は急いで頭を上げ、右腕を眼に当て、肩をがくがくと上下に動かした。

 先生が泣いているんだと、僕はその時初めて判った。

 先生が泣いてるのに、生徒の僕が泣かないなんて、ちょっと具合が悪いと思ったが、そう思ったせいで、もう涙が出なくなってしまった。眼をばちばちさせて催促したが、どうしても出て来なかった。余儀なく出来るだけ神妙な顔となり、ワクドウの顔ばかりを眺めていた。ワクドウの全身は白布でおおわれ、出ているのは顔だけだった。その顔だけをにらんでいることは、悲しいと言うよりも、苦痛だった。

 早く棺から離れたいと思うのに、先生はまだ泣きやまない。

 

 ずしりと重い紙袋を呉れた。

 それを持って表に出ると、もう夕方になっていた。十間ばかり歩いて、紙袋の中をのぞくと、饅頭が二つ入っている。祝日に学校で貰う饅頭より一回り大きく、平べったかった。色も紅白でなく、表に茶色の焦げ目がつき、葉っぱのような模様が浮き出ていた。僕は唾を呑んだ。夕方だから腹が減っていたのだ。

 いくら腹が減っているとは言え、また人通りが少いとは言え、街中でむしゃむしゃと食えない。葬式の帰りだし、級長がそんな行儀の悪いことは出来ない。

 カバンにしまい込もうかと思ったが、カバンは教科書や筆入れで満員で、入りきれない。

 仕方なくぶらぶらと下げてあるいた。

 ずんずん歩いて、静かな寺町に入ると、うすら夕日の射す道端で、ウソツキ伍一がひとりで淋しそうに、石蹴りをして遊んでいた。ここで伍一なんかに会うのはまずい。別の道に変えようか、と立ち止ったとたん、僕は伍一に見つけられてしまった。伍一は石蹴りを中止し、長い長い影を引きずって、僕の方に大急ぎでかけて来た。砂ぼこりがばたばたと立った。

「葬式、済んだのか」

 つぶつぶ汗の吹き出した顔の、下唇を突き出すようにして、伍一は言った。

「面白かったか」

「面白いわけがあるもんか」

 脛の痛さを思い出して、僕はとげとげしく言い返した。

「お前、待ってたのか」

「何をだ」

「おれをだよ。待伏せしていたのか」

「誰がお前なんかを待伏せするもんかい」

 道にころがった小石を、伍一は溝の方にえいとばかり蹴飛ばした。

「おや。それは何だい」

「何でもないよ」

 紙袋をうしろに僕はかくすようにした。

「貰ったんだよ。饅頭だ」

「なに。饅頭だあ?」

 伍一は僕のカバンの紐をしっかと握った。逃げ出さないためにだ。

「見せろ」

「イヤだ」

 僕はふりほどこうとしたが、伍一の握力が強かったので、失敗に終った。だから仕方なく言った。ここらで手間取ると、帰りが遅くなる。

「では、見せるだけだよ」

 僕は紙袋を出した。伍一は眼を丸くしてのぞき込み、さっきの僕と同じように、ごくりと唾を呑み込んだ。

「すごく大きいなあ。この饅頭は」

「大きいにきまってるよ。葬式饅頭だもん」

 僕は知ったかぶりをした。葬式なんて初めてだから、饅頭の大きさなんか知っているわけがない。

「小さけりゃおかしいよ」

「二つもあるじゃないか」

「あたりまえだ。葬式饅頭だもの」

「二つとも、お前が食べるのか」

 伍一は上目遣いで、じろりと僕を見た。

「二つなんて、ぜいたくだ。一つ、おれに呉れ」

「イヤだよ。おれが貰ったんだから」

「だから、呉れと言ってるんじゃないか」

 要求を拒まれると、むきになってしつこくなる癖が、伍一にはある。

「おれだって、ワクドウの友達だ」

「しかし葬式には行かなかったじゃないか」

「行かなかったから、頼んでるんじゃないか」

 カバンの紐ごと、伍一は僕の身体をがくがくとゆすぶった。

「どうしてもイヤだと言うのか」

「どうしてもイヤだ」

「なに。こんなに頼んでも、イヤだと言うか」

 伍一はいきなり紙袋をひったくろうとした。僕はそうさせまいとした。紙袋が四つの手の間でもつれ、饅頭がころころと空間に飛び出した。あわてて受止めようとしたが、遅かった。饅頭はぼとぼとっと続いて地面に落ち、砂ぼこりの中にころがった。

「あ!」

 伍一もびっくりしたらしい。烏の囁くような声を立てると、そのまま後しざりした。僕と饅頭を七三に見ながら、どもった。

「お、おれのせいじゃないぞ。おれのせいじゃないぞう」

 そのままくるりと背を向けて、伍一はがに股をすっ飛ばして逃げて行った。

 僕は全身汗だらけになって、饅頭を見おろしていた。途方もなく大切なものをこわしたような気分で見おろしていた。どうしたらいいのか。

(拾ってうちへ持って帰って、割って中の饀(あん)だけ食べようか)

  そう考えた次の瞬間、僕はひどく腹が立って、何やかやに対してむちゃくちゃに腹が立って来て、エイ、エイ、とかけ声をかけて、饅頭を次々に溝の中に蹴り込んだ。蹴り込む足の先が、しびれるような気がした。

 

 家に戻ると、帰りの遅いのを心配して、門のところにお婆さんが立って待っていた。僕は孝治の葬式の話をした。お婆さんが聞いた。

「何も貰わなかったのかい」

「いいえ」

 僕はウソをついた。

「何も貰わなかったよ」

「ほんとかね」

 お婆さんはきつい眼をした。僕はうなずいた。葬式饅頭を貰って、途中で食べてしまったのではないか、とお婆さんは疑っているのだ。その証拠にお婆さんは、晩の食事で僕が平常通り食べるかどうか(葬式饅頭を食えば、夕食の量は減るだろう)眼を光らしているようだった。

 そのお婆さんの気持は了解出来るが、どうしてあの伍一が一日中、ワクドウの葬式にばかりこだわっていたかは、今もって判らない。

 

 

ブログ1050000アクセス突破

朝方、うかうかと、井川恭の「翡翠記」の電子化などしているうちに、こんな早朝から誰かがブログを見にきて、あっと言う間に1050000アクセスを突破してしまっていた。これより記念テキストの作成にかかる。

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「七」

 

     

 

   3・Fの手紙

 暑くなったね。今が土用の最盛りだ。君には別にお変りも無いそうで結構々々、僕も例の通りぶらぶら暮して居る。実はもう君から何か便を云って寄越すだろうと待って居た。その待ちあぐんで居た処へ八月一日附けのお手紙が舞込んで来た。久しく君と話をしなかった様に思われるのでとゞろく胸を抑えながらそこにある一文字たりとも逃がすまじと息もつがずに読み耽った。繰り返してまた読んで見た。面と向って話して居る時少しも気付かなかった君のパアソナリチーの或る部分が特別に明るい色彩と輪郭とを以って僕の心に攻め寄せて来る様に思われた。そして僕が堪えがたい苦みとなって涌いて来る、日独学館に居た頃僕の君に対する態度のあまりに余所々々しく親しみに薄かった事を許して呉れ玉え。僕は充分君を尊敬もし愛しもして居た。それだのに僕の頑固なそして遊戯的皮肉な心が知らず知らず僕を駆(か)って、ともすれば君に楯突こうとする様なおそろしい振舞に出さしめるのであった。君よ併しながらかゝる振舞は要するに僕の欠点には相違ないけれど決して僕の真意では無かったのだ。僕自身はも少し物やさしい親みのある人なつこい人間であると心に思って居る。ただそれを巧く―否巧妙でなくとも好い、率直にありのまゝ表現するをなし得ない人間なのである。単に君に対する時のみではない。僕が総ての人に対する態度が斯うである。是は甚だ宜くない。是非改め度いと思っている。

   …………………略…………………

 併しながら僕が巳に大盤石の上に悠然として静座して居るものであるかの様に君が考えるならば、それは大なる誤りである。「否誤りでは無い、どうしてもそう思われる」と主張するならば君は僕の様子のシャインのみを見たものである。僕には君と類を異にした(異ってないかも知れないが)不安があり煩悶がある。その込み入り方を比較するには及ぶまい。人は到底他人を完全に理解する事は出来ないものであるから(他人のみでは無い、自分自身の理解すら覚束ないが)僕は敢て自ら落付きのない心の浪立ち騒げるものであるぞと述べるのではない。これは「事実」の爲め「相互了解」の爲一言したまでである。

   …………………略…………………

 休暇になってから早や長い日日(ひにち)が経過した。故郷も今や僕に取っては淋しい場所である。竹馬の友と云うのは名のみ、嫁をもらい人の子の親となって炎天の下に汗を流して働いて居る彼等を見る時、古い記憶を呼び起して僅かに感ずる懐しみの情も殊更丁重な挨拶をされ或は見てみぬ振をされると忽ち物悲しい淋しさに変る。道で人に出会う毎に「お早う」とか「今日は」とか挨拶をせねばならぬ、そこに田舎の――故郷の面白味もあるけれども、時とすると嫌で堪らなくなり「あゝ一そのこと誰も知る人の居ない所に住んでみたい」と思うこともある。

 毎朝起きると僕は川へ出掛けて行く。川は僕の家から一町許りある。碧玉を溶いた様な水が緩かに流れてところどころ浅瀬にかゝると岩の間と球ずれの音のようにさゞめき流れている。僕は衣物をぬいで飛び込む。一分間許りもじっと浸って居ると、気持ちの好い寒さが毛穴の一つ一つから内臓にまで伝って心のネジがキリリキリリと引しめられる様に覚える。水から上ると透明な気分が透明な空気と空と野との間に限りなく広って心は白から勇み立ってくる。

 

[やぶちゃん注:「F」、石田幹之助の手紙の三つ目。

「日独学館」富坂にあった大正二(一九一三)年に作られた日独学館学生寮か。しかし、同年に彼らは第一高等学校第一部文科を卒業しているから、寮ではなく、ドイツ語塾と考えるべきか。

「シャイン」shine。「人格上の明るい側面」の意。

「故郷」石田の故郷は現在の千葉県千葉市内。]

2018/01/15

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「六」

 

     

 

  2・Iの手紙   その一

 御手紙拝見しました。

「心残りなく見物したまえ。されど見ぬ所をば残したまえ」と、うれしき御心添有りがとうございます。はからずも自分の胸と同じ響きを君から聞く事の出来たのを嬉しく存じます。十日廿日の旅にさえ、こんな心の涌(わ)くものを、この人生の旅空で未だ見ぬものゝ尽くる日があったら其はどんなに口惜しい事でしょう。すべてを極め尽した悲みはどれ程でしょう。

 アストロノミイとかエントウイツケルングテオリイとか業々しくもこちたき科学とやらは幾多の夢を破りました。諸々(もろもろ)のウイツセンシヤフトは「未だ見ぬものゝ国」へ侵入してすべてを尽さんとしています。僕は彼女に深い深い恨みがあります。しかも一面に於いてその恨みにも増した大きな恩のあるのを悲しく思います。恩ある姉に冷たい恨みの刃を持して反抗せんとするのがこの上もなくつろうございます。彼女の手はメスを持つドクターの手にもたとえましょうか。メスの一閃は何等かの利益を持ち来す事でしょう。しかし其前提として是非一つの苦みを予想しなければなりません。僕はその苦みを甘んじて忍ぶ事もありました。又恢復を否定して迄も、その苦みを拒みたいと思う事もあります。

 慈悲ある毒手とでも云いましょうか。その手に斃(たお)れた夢や神秘や不可思議や其らに僕は深い同情を寄せます。けれども僕は彼女が「すべてを示す」事は不可能だと信じます。

  ……………略……………

 未だ見ぬ所を残しておく心はやがてこの或るものを慕う心でありましょう。この Das unsichtbare を思う心でしょう。

 ウイツセンシヤフト、其れは右の手を引てくれます。然し左の手をとってくれるものもあるように思われます。それはたゞ思われるだけです。けれども証明の要求は野暮な事だと信じます。勿論それはもはや「神」でもありますまい、「仏」でもありますまい。と云ってベルギーの詩聖がいうミステリイだとも断じますまい。たゞ一つのDas unsichtbare としておきたく思ひます。その姿の心から消えた時、僕は Act のラストシーンに臨まなければなりません。……略……[やぶちゃん注:二つ目の「Das unsichtbare」は底本では「Das v nsichtbare」であるが、こんなドイツ語はなく、単に「u」の誤字或いは底本の誤植と断じ、特異的に訂した。]

   2・Iの手紙[やぶちゃん注:三字下げはママ。]

十八日夜大阪を立ちました。嵐を分けて百五十里、もうとうに都の人となっております。

  ……………略……………

 山のたゝずまい河のささやき、其れはやがて寮の灯をかゝげて楽しく語り合いませう。二十日後が待たれます。ただあの南の国を思わせる巡礼の歌も淋しい紀州から昔ながらの大和路はたとえしもなく嬉しい旅だった事だけをお伝えします。

  ……………………………

 奈良に入りては胸はただ嬉しさに溢るゝのみ。高野の山や生駒山のすがた、大和川の白き河原など車窓の興も尽きざるに、法隆寺に古(いにしえ)の七堂伽藍を訪ねて金堂の壁画に天才が丹精の跡と相対しては様々なる思いにくれてそゞろに「友あらば」と思ひました。仁王門の柱に入った Dorian Order Entasis に古代東西交通の盛を思い、夢殿に聖徳太子を偲びて郡山から草の中を奈良西郊の寺めぐりを始めました。

  ……………………………

 奈良は野辺の名、寺の名からしてなつかしくゆかしき所。唐招提寺、西大寺、秋篠寺と順にめぐつて山陵村より法華寺に出で海龍王寺をたずねました。海龍王寺――――いかにもいゝ名だと思います。唐招提寺と海龍王寺、僕の最も気に入った二つです。生駒山の後に落つる日を送って猿沢の池畔の宿の二階に寝そべった時はもうあたりは暮れて町のともし灯がかゞやきそめる頃でした。

  ……………………………

 

[やぶちゃん注:前にした通り、「I」は後に歴史学者・東洋学者となった石田幹之助。

「アストロノミイ」Astronomie。天文学。以下が明らかにドイツ語であるから、ここもドイツ語の綴りで示した。

「エントウイツケルングテオリイ」Entwickelungs Theorie。進化論。

「業々しく」「ぎょうぎょうしく」。大げさなさま。現行では一般に「仰々しい」と書くが、「仰仰し」(歴史的仮名遣「ぎやうぎやうし」。以下の丸括弧内も同じ)は近世以降の当て字であって、室町時代の表記から見ると「業業(げふげふ)」「凝凝(ぎようぎよう)」「希有希有(げうげう)」などから生じたものと考えられているから、この石田の用法は正しい。因みに、現在の「仰山(ぎょうさん)」の「ぎょう」も同語源とされる。

「こちたき」「言(こと)痛し」の転訛した語。ここは「大袈裟である・物々しい」の意であろう。

「ウイツセンシヤフト」Wissenschaft。元は「学問」の意であるが、ここは「科学」。

Das unsichtbare」音写するなら「ダス・ウンズィヒトバーレ」。「Das」は定冠詞で「Das unsichtbare」は「不可知の対象・性質」であるから、前の「未だ見ぬものゝ国」と同義的か。底本の後注では『目に見えぬ世界』とある。

「僕は彼女に深い深い恨みがあります」「Wissenschaft」(科学)は女性名詞である。

「ベルギーの詩聖がいうミステリイ」不詳。何となく頭に浮かんだのは、世紀末のベルギーの詩人で小説家のジョルジュ・ローデンバック (Georges Rodenbach 一八五五年~一八九八年(フランス))だが、よく判らぬ。詩人の名と引用元を御存じの方の御教授を乞う。

Act のラストシーン」十八世紀までの西洋の殆んどの演劇は五幕物であった。五幕に分けられた。提示部としての第一幕、対立の導入による上昇展開の第二幕、クライマックス(転換点)としての第三幕、それは下降展開・逆転する第四幕、そして大団円・破局・結末の第五幕が配される。喜劇と悲劇によって構成は対称的となるものの、ここで石田が言っているのはカタストロフとしての悲劇のそれと、私は、とる。

Dorian Order Entasis」ドーリア(ドリス)式のエンタシス。ドーリア式は古代ギリシャ建築の柱の様式の一つで、先細りの太い円柱と針形の簡素な柱頭を持ち、礎盤のないことなどを特徴とする。パルテノン神殿それが典型。エンタシスは円柱につけられた微妙な脹らみを持ったそれを指し、建物に視覚的な安定感を与える。ギリシャ・ローマ・ルネサンス建築の外部の柱に用いた。日本では法隆寺金堂の柱などに見られ、「胴張り」などと呼ばれる。

「唐招提寺」(グーグル・マップ・データ)。私のような京都奈良不案内人の注などいるまい。以下は基本、石田の足跡をのみ、地図で辿ることとする。

「西大寺」(グーグル・マップ・データ)。

「秋篠寺」(グーグル・マップ・データ)。

「山陵村」「みささぎむら」と読む。明治二二(一八八九)年四月の町村制の施行により、添下郡押熊村・中山村・歌姫村・秋篠村と合併して「平城村」となった旧村名。現在の奈良市山陵附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「法華寺」(グーグル・マップ・データ)。東北直近に「海龍王寺」がある。私は海龍王寺というと、後の堀辰雄の「十月」(『婦人公論』連載の「大和路・信濃路」の中の昭和一八(一九四三)年一月号初出)を思い出す。当該部は正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅱ)で読まれたい。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 四

 

     

 

 古墳では説明のつかぬ實例は決して是のみでは無い。ある府縣ではすでに水の底からも膳椀を借りていたのである。これも椀貸淵と云ふ名は普通は用いぬが、越中でも蓑谷山の絶頂にある繩池一名家具借の池には同じ話があつた。この池の神は靈蛇であつて、每年七月十五日には美女と化して池の上に出て遊ぶ。ある時貧しき民あつて人を招くに器のないことを歎いて居ると、忽然として朱椀十人前水の上に浮び出た。それ以後村人はこれに倣うて入用の度每に就いて借りることを例として居た處、遙か後世になつてある尼三人前の器を借りて十日も返さず、終に中盆二つを損じて不足のまゝ返したので、池水鳴動して大雨氾濫し、尼は居(いへ)覆へり命を損し、此不思議も亦止んだとある。尼が神罰を受けたというのは立山又は白山の登宇呂の姥の話と同系統の古傳であつて、面白い來歷のある事であるが、枝葉にわたるから玆には略しておく。

[やぶちゃん注:「繩池」(なはがいけ(なわがいけ))は現行では「縄ケ池」と表記し、現在の富山県南砺(なんと)市北野(きたの)蓑谷入会(みのたにいりあい)に位置する(ここは旧南砺波(となみ)郡城端町(じょうはなまち)の内であった)。ミズバショウ群生地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は高校一年の春に生物部(同年年末より演劇部を兼部)の遠出で一度行ったことがある。ここの龍(蛇)女伝説はサイト「龍学」のこちらに詳しい。それによれば、かの藤原俵藤太秀郷絡みで、しかも伝承の一つは彼自身が蛇の母が生んだ子であるという驚くべき内容を持つ。椀貸なんぞより遙かに面白い。必読。

「登宇呂の姥」「とうろのうば」。「止宇呂の尼」とも。禁制を犯して立ち入ろうとした女性が石と化した老女化石譚で、類型が名も酷似して「大峰の都藍尼(とらんに)」「白山の融(とおる)の姥」として伝承されている。]

 

 次に武藏の椀箱沼と云ふのは、今の埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木の中程にある沼で、形の細長い爲か一名を宮川とも呼んで居た。これも昔は農家來客の時に、椀具の借用望み次第であつたが、爰では必ず請求の旨を書面に認めて沼の中に投げ込むことになつて居たのが、他の地方の話と異なつた點である。山梨縣では南都留郡東桂村の鹿留川に同じやうな話がある。その地を御南淵(おなんぶち)と云ふのは多分もとは女淵であろう。村民必要に臨み膳椀何人前と書いてこれを附近の岩の上に置き、お賴み申しますといつて歸ると、翌朝は其數だけの品がちやんと河原に列べてある、返す時にも同じ場所に持つて行つて置けばよいのである。或時村民某面白半分に一人前だけ殘して返すと、それ以後はどう賴んでも決して貸さぬやうになつた。但し其膳は今でも寶物にして持ち傳へて居ると云ふことである。同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺の藪の中にある洞穴は、水邊では無いがやはり龍宮に通ずと云ふことで、亦村民に道具を貸して居た。是も望みの品と數とを紙に書いて穴の口に入れるのであつた。群馬縣では榛名の南の室田の長念寺の底無し井戸、是も龍宮まで拔けて居て寺の振舞の日には膳椀を貸した。入用を手紙に書いて前日に井中に落して置くと、其品々が夜の中に井の傍まで出してあつた。寺も井戸も現存しては居るが、やはり亦貸主を怒らせて夙に其慣例は絶えたと云ふ。

[やぶちゃん注:「椀箱沼」「埼玉縣比企郡北吉見村大字一ツ木」「宮川」恐らくは埼玉県比企郡吉見町一ツ木のこの東西に膨らんだ河川風の部分か(グーグル・マップ・データ)。国土地理院図を見ると、東の細くなった南側に神社があることが判る。それで「宮川」なのかも知れぬ。

「認めて」「したためて」。

「山梨縣」「南都留郡東桂村の鹿留川」「御南淵(おなんぶち)」現在の山梨県都留市鹿留(ししどめ)のここ(グーグル・マップ・データ)。山梨日日新聞社・YBS山梨放送の「冨士NET」の「おな淵」を参照されたい。それによれば、淵の水深は約⁵メートルで、高さ約六メートルの滝もがある(リンク先に写真有り)。そこには『伝説によると、この淵近くの長者の家に奉公していた「おなん」という娘がお膳(ぜん)を壊し、淵に身を投げた。その後、村で人寄せがあるときなどの前日、紙に「お膳を十膳お貸しください」と書いて淵に浮かべておくと、翌朝お膳が浮かんでいた。ある時、借りたお膳を』五『膳しか返さなかったので、その後は貸してくれなくなったという。借りたとされるお膳が豊鏡寺(夏狩)に』一『膳残る』とあり、「膳は今でも寶物にして持ち傳へて居る」というのと一致する。また、柳田國男の「おなん」=「女」の短絡説とは伝承は違う(この短絡、柳田らしくないじゃないか!)。豊鏡寺は不詳であるが、「おなん淵」から西南西八百五十メートルほどの、都留市桂町(ここ(グーグル・マップ・データ))に曹洞宗の寶鏡寺があり、夏狩はその北直近の地名であるから、この寺の誤りではないかと思われる(夏狩地区には豊鏡寺という寺はないようであるから)。この一膳、機会があれば見てみたい気がする。

「同縣西八代郡鴨狩津向村の廣前寺」原座の山梨県西八代(にしやつしろ)郡市川三郷町(いちかわみさとちょう)鴨狩津向(かもがりつむぎ)にある、曹洞宗の高前寺の誤りであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「龍学」のこちらに『西八代郡六郷町』(合併前の旧町名)『鴨狩津向の高前寺の下の洞穴は、ウボ穴といい、人寄りがあって多数の膳椀が必要の時、淵か川に行って頼むと、翌朝それだけの数が岸の岩の上においてある。用済の器具はよく洗ってお礼を言って岩に置くといつのまにかしまわれる。しかし、心のよくない者が返すときにその数をごまかしたり、壊して返したのでそれからは頼んでも貸さなくなったという。ここで貸してくれる器は竜宮皿といわれて竜宮がかしてくれるものだといわれた』とある。

「榛名の南の室田の長念寺」群馬県高崎市下室田町の長年寺の誤りと思われるここ(グーグル・マップ・データ)。この寺には「底無し井戸」はないが、榛名湖に繋がる或いは龍神が棲むとする井戸がある。個人ブログ「Tigerdreamの上州まったり紀行」の「木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-」を参照されたい。室田に別の「長念寺」があって「底無し井戸」もあるというのであれば、御教授願いたい。]

 

 近頃迄の學者には、此樣な變則の例を提出すると、それは訛傳だ眞似損ひだと、自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖が有つたが、鳥居氏は我々同樣に新しい人だから、必ずもつと穩健な解答をせられるに相異ない。然らば右に列擧するが如き所謂椀貸傳説は果して如何なる方面から、日本の無言貿易土俗を説明するのであらうか。無言貿易の問題に付ては、自分は只グリイルソンの無言貿易論一册を讀んで見たゞけであるから深い事は知らぬが、何でも山野曠原を隔てゝ鄰り住む二種の民族が、互に相手と接觸することを好まず、交易に供したいと思ふ品物のみを一定の地に留めて置いて、迭る迭る出て來ては望みの交換品を持還る風習を言ふのである。日本で人無し商ひなどゝ稱して、主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確に土佐の遍路筋などにあつた。鳥居氏は是も亦無言貿易であるやうに説かれたが、其ではあまりに定義が廣くなりはせぬか。土佐で自分等の目撃したのは路傍に草鞋とか餅、果物の類を臺の上に列べ、脇に棒を立てゝ錢筒を吊し、其下には三文または五文の錢の畫が描いてあつた。中央部の如く街道の茶店が發達せず、僅かの小賣のために人の手を掛けては居られず、幸ひ相手が貧人ながら信心の爲の旅行者であれば、其正直を賴りに右の如き人無し商ひをした迄で、本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「近頃迄の學者には」「自分の説に都合の好い分だけを正の物としたがる物騷な癖が有つた」柳田國男先生、そのまま、あなたに鏡返し致します

「鳥居氏」「一」の冒頭に出した鳥居龍蔵を指す。

「グリイルソンの無言貿易論」イギリスの法律家で人類学者でもあったフィリップ・ジェイムズ・ハミルトン・グリァスン(Philip James Hamilton Grierson 一八五一年~一九二七年)が一九〇三年に刊行したThe Silent Trade(「沈黙交易」)。「一」の私の「無言貿易」の引用注も参照されたい。

「迭る迭る」「かはるがはる」。「迭」(音「テツ」。「交替に」の意。現代では「更迭」でしかお目にかからない)で「送」ではないので注意。

「主の番をせぬ店商ひは、十年前までは確に土佐の遍路筋などにあつた」あの……僕の地域やその周囲の農家では、沢山、今もやってんですけど……。

「本式の無言貿易とは根本の動機が違ふやうに思ふ」これは確かに柳田國男先生に激しく同感する。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 三

 

    

 

 椀貸傳説の存在する地方には、往々にして借りて置いて終に返さなかつたのが是だと言つて、その一人前だけを持傳へて居る舊家がある。その物を見ると何れも模樣などの附いた立派な塗物であると云ふ。さうでなくても貸したのは多くは木具(きぐ)であつたと云ふが、德島縣だけには茶碗や皿を貸したことになつて居て、事に由ると其が素燒の氣味の良くない品であつたのかと思はれぬことも無い。飛彈の學者なども、昔は墓に其人の使用した臺所道具を埋めて居た所から、斯う云うふ話が起つたのかと説いて居る。しかし我々の祖先が木製の食器を用いて居たことゝ、木具の土中にあつては早く朽ちることゝを考へて見ると少し疑はしい。其よりも更に有力なる反對の證據は、膳椀を貸したと云ふ場所が必ずしも古墳ばかりでは無いことである。現に阿波でも家具の岩屋と稱して、この口碑を伴ふものに天然の岩窟が幾つもあり、假令天然で無くても墓穴では無い岩屋の中に、この話を傳へた例は各地に存するのである。

 例へば淡路の三原郡下内膳村先山の某寺で、あたかも上州館林の文福茶釜の如く、客來のある每に椀其他の雜具を借りたと云ふのは、天の磐戸とも稱した大洞穴であつた。淸めて穴の口に返して置けば何時の間にか取入れた。今から百六十年前の寛延年間まで貸したと云ふ。駿州吉原在にも膳を貸したと云ふ處が二箇所あり、[やぶちゃん注:底本は句点だが、ちくま文庫版で特異的に読点に訂した。]その一つは傳法村膳棚と云ふ畑地の中の小さな石塚、今一つは石阪と呼ぶ地の石の穴であると、山中共古翁は話された。美濃では稻葉郡古津村の坊洞、一名を椀貸し洞とも謂ふ村の後の山の下にある岩穴である。また一箇所は武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)の半腹に在る洞、この二つは後に水の神の話をする時に詳しく言ふ。越後では北蒲原郡加治山の一峰要害山と稱する山の半腹に在る窟で、其名を藏間屋(くらまや)と呼び、是は九十年前の文政年間まで貸していたさうである。ちやうど葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃には、まだ盛に實行して居たことになるのである。此岩窟は每年正月の元朝に震動し、山下の民其響の強弱によつて年の豐凶を卜したと云ふ説もあつて、頗る村の信仰生活と交渉して居る。能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである。

[やぶちゃん注:「淡路の三原郡下内膳村先山」現在の兵庫県洲本(すもと)市(淡路島の中央部)下内膳(しもないぜん)。ここ(グーグル・マップ・データ)。調べてみると、この地区では両墓制(墓石のある「参り墓」と実際の遺体を埋葬する「捨て墓」の二つを有する墓制)が現在でも受け継がれているから、或いは、この「捨て墓」がこの「洞窟」なのではないかとも私には思われる

「某寺」同地区で大きな寺院は真言宗盛光寺であるが、柳田がわざわざ伏せた以上、軽々にこことは名指せないし、そのような「大洞穴」が境内にあるという資料もないから、或いは廃寺となった寺なのかも知れぬ。柳田が書いた当時で既に荒廃が著しく、存続が望めなかった有様なら、彼は「某寺」と言いそうな気もする。郷土史研究家の御教授を乞うものである。

「天の磐戸」確認出来ない。

「寛延年間」一七四八年から一七五一年。第九代将軍徳川家重の治世。

「駿州吉原」現在の静岡県富士市吉原。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「傳法村膳棚」現在の静岡県富士市伝法の内か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「石塚」「石阪」柳田先生、同伝法の字中村には伊勢塚古墳が現存しますぜ(ここ(グーグル・マップ・データ))! それに「いせづか」や「いしざか」は「いしづか」と発音も似てますぜ! これも偶然ですかねえ? 古墳だったとしたら、自然の「石の穴」じゃあ、ありませんぜ。さても、そもそもが柳田國男がこれを書いた頃には古墳時代以前の遺跡は殆んど学術的に精査されておらず、古墳なのに、ただの自然の洞窟や穴だと思われていたものが私は非常に多かったと思っている。されば、柳田が頻りに古墳でない場所の椀貸伝説を力説するこれらも、今は古墳やそれ以前の繩文や彌生の集落・住居・墳墓跡であった可能性が私は頗る高くなると踏んでいるのである。

「山中共古」既出既注。リンク先の「共古日錄」の注を参照されたい。

「稻葉郡古津村」現在の岐阜市長良古津(ながらふるつ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。字坊ヶ洞が地名としては現存し、「坊ヶ洞山峰」「坊ヶ洞林道」の呼称もある。しかし、「村の後の山の下にある岩穴」の紹介は見当たらぬ。不思議。崩落して潰れてしまったのか?

「武儀郡西神野村の八神山(やかいやま)」現在の岐阜県関市西神野地区内であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、「八神山(やかいやま)」は地図上では見出せない。

「北蒲原郡加治山の一峰要害山」現在の新潟県新発田市東宮内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藏間屋(くらまや)」不詳。

「文政年間」一八一八年から一八三一年。第十一代将軍徳川家斉の治世。

「葛飾北齋が漫畫の中に面白がつて描いた頃」葛飾北斎(宝暦一〇(一七六〇)年?~嘉永二(一八四九)年)の「北齋漫畫」は初編の序文によれば、文化九(一八一二)年秋頃に下絵が描かれており、文政より少し前であるから、正確な謂いではある。この謂いは、この要害山の蔵間屋の椀貸の絵を北斎が「北斎漫画」中に描いていることを意味するわけだが、私は所持していない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像「山口県立萩美術館・浦上記念館 作品検索システム 絵本の世界」(但し、一部)で見られるが、如何せん、目次や検索が出来ないので、暫く見て、諦めた。発見したら、リンクを張る。悪しからず。

「能登と越中の氷見郡との境にも、奧の知れぬ洞があつて家具を貸した。今の何村になるか知らぬが灘の南村と謂つた處ださうである」私は思うにこれは、私も何度か行ったことがある、現在の富山県氷見市大境にある「大境洞窟住居跡」のことではないかと考えているここ(グーグル・マップ・データ)。北直近に石川県の県境がある(因みに、この県境の鼻は「百海」と言って私の父の秘密の釣り場で、私もよく連れて行って貰った。人生で腐るほど鉄砲鱚を釣り上げたのもここだった)。そうして、その間の海岸の海水浴場の名を御覧な、「灘浦海水浴場」だろ? ということは、この洞窟のある大境は嘗て「灘の南村」と呼ばれてたんではないかい? 柳田國男さんよ!)。大境洞窟住居跡(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は、六つの文化層を持つ繩文中期から中世にかけての永い時間をドライヴしてきた複合遺跡である。ウィキの「大境洞窟住居跡」によれば、『この住居跡は、氷見市大境漁港の近くにある白山神社裏手の洞窟内にあり』、大正七(一九一八)年に『社殿を改築しようとしたところ、骨や土器が出土した。その後、東京大学人類学研究室の柴田常恵らによって詳しい調査が行われ、縄文時代から中世にかけての土器、陶磁器や人骨、獣の骨が出土した。この時に実施された調査は、日本初の洞窟遺跡の発掘調査であるとともに、本格的な層位学的発掘調査の嚆矢となるものであった』(下線やぶちゃん)とある。柳田國男さんよ、これだとしたら、確かに元は自然の作った海食洞ではあろうが、これ、立派な人工の古代遺跡なんだぜ。天然自然の人の入らない穴ぼことは訳がちゃうんだ! まあ、許したろ。なんたって、この「隱れ里」は『東京日日新聞』大正七年二月から三月の連載だからな。鬼の首捕ったように、ここでこの洞窟を椀貸伝説の人工無抵触の自然洞窟として挙げてるあんたは、あんな辺鄙な糞ド田舎に、そんな繩文から中世に至る長大な時間軸を保持した洞窟文化があったなんて、これっぽっちも実は思ってなかったんじゃあないか? 正直に言いな! それがあんたの鄙を無意識に馬鹿にした中央アカデミズム的浅薄さだとは、これ、思わんかね?

いやいや! 癌はそんな根の浅い所にはない! この際だから、怒りついでに言っておこう!

あんたは《自分が民俗学の研究対象として採り挙げた対象を考古学者や歴史学者に横取りされるのが不快だった、されるんじゃないかといつも怖れていた》だけなんじゃないか?

寧ろ、《本来ならば学際的であるべき民俗学を、自分の学術領分として折口信夫と結託して勝手に線引きしてしまい、自分をアカデミックな数少ない新進の学問たる民俗学の「学者」として保身したかった》んじゃないのか?

そういうところをこそ、南方熊楠は痛烈に批判したんだよ。

《「伝承」を何より第一基本原理とし、自分の勝手で杜撰な解釈(思いつき)を伝家の宝刀のように思い込み、都合の悪いデータや性的な内容(こちらはお上を憚って)には、極力、目を瞑って見えないことにし、しかも、他の学問領域の科学的手法を積極的に自己の手法に組み入れようとはしないという、悪しきアカデミズムの領分・親分意識》

それが、日本の民俗学を、今のような鬼っこのような奇妙なものにしてしまったのではないか?

これだけはどっかで言っておかねばならない私の柳田國男への疑義なのである。

 同じ越中の西礪波郡西五位村大鳥倉には、少しばかり奇な一例がある。この村の山の上にも、近郷の民に器物を用立てたと云ふ深い洞穴があつて、その山の名をトカリ山あるいはカタカリ山またモトヾリ山ともいつた。かつて或農夫拜借の道具の立派なるに心を取られ、返却を怠つて居た者があつた。此家に生れた一人息子十五歳になる迄足立たず、夫婦之を悲しんで居ると、其年の秋の取入時に米俵を力にして始めて立つたので、悦びの餘りに更に一俵を負はせて見たら、其まゝすたすたと此山の方へ步み去り、跡を追ふも及ばず、終に洞穴の奧深く入つてしまつた。あつけに取られて立つて居ると、中では話の聲がする。一人が貸物は取つて來たかと問ふと、漸く元だけは取つて來たと答へた。これが元取山の名の起りである云々。

[やぶちゃん注:「西礪波郡西五位村大鳥倉」「モトヾリ」山現在の富山県高岡市福岡町(まち)五位(ごい)ではなく、その南東の高岡市福岡町鳥倉(とりくら)にある元取山(もとどりやま)。標高百九十五・七メートル。(グーグル・マップ・データ)。後半の展開が息子でなく馬という設定で今一つつまらぬ(その分、悲惨ではなくなりはする)が、フジパン」公式サイト民話の部屋の「伝説にまつわる昔話にあ富山県元取山(再話・六渡邦昭氏)も参照されたい。]

 

芥川龍之介 手帳8 (12) 《8-12》

 

《8-12》

Bear 戰場ケ原 馬鈴薯一袋 友だちねがへりぶつかる故 肘にてつく 木樵にきく 曰盜なし 熊なり

[やぶちゃん注:「戰場ケ原」栃木県日光市の日光国立公園内にある高層湿原である戦場ヶ原か。ウィキの「戦場ヶ原」によれば、標高は約千三百九十メートルから千四百メートルで、広さは四百ヘクタールに及ぶ。『戦場ヶ原という地名は、山の神がこの湿原を舞台に争いを繰り広げたという伝説に由来している』とある。

「盜なし 熊なり」それは、その友人が寝返りを打ったのでも、「盗人(ぬすっと)が何かしようとしたのでもなく、熊じゃ。」の謂いか。]

 

Gon Seaside 磯臭きCemetery Ghost 出る 兵士上り行く 女あり 船長の死せし後その船長を知りし淫賣來りて徘徊するなり

[やぶちゃん注:「Gon Seaside不詳。大文字でなければ、岩礁性海岸で岩場が角張っているところ、という意味でとれるが、孰れも大文字であるから、固有名詞である。]

 

Curious tale

 夫婦にて(旗本)吉原へゆき遊び面白くなり財産を蕩盡す つひに子供二人をさし殺し 亭主の血を見ておそれ走る 途中亭主に肩を切らる 亭主死す 後妻は再緣す 娘四人 その娘の一人なり 伜一人 川村淸雄

[やぶちゃん注:Curious tale」奇妙な話。

「川村淸雄」(嘉永五(一八五二)年~昭和九(一九三四)年)は洋画家。ウィキの「川村清雄」によれば、近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。江戸麹町表二番町で『御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男として生まれ』たとあり、以下、小学館の「日本大百科全書」によると、幼少の頃に住吉内記に入門、次いで大坂で田能村直入(たのむらちょくにゅう)に師事して、南画を学んだ。江戸に戻って、明治元(一八六八)年頃から開成所で川上冬崖に洋画を習った。明治四(一八七一)年に政治・法律の研究を目的として渡米したが、洋画に転じ、フランスからイタリアへ行き、ベネチア美術学校に学んだ。明治一四(一八八一)年に帰国してからは、大蔵省印刷局に勤めた後、画塾を開き、「明治美術会」の創立に参加して会員となって同志とともに「巴(ともえ)会」を結成したが、その作風は次第に日本趣味に傾いていった、とある。]

芥川龍之介 手帳8 (11) 《8-11》

《8-11》

同窓會 菓子一圓 すし四十踐

○佐世保より昨日つきけふ來る

○ムスコ外游中よめの候補者に皆のむすめの寫眞を貰ふ

K博士を love て得なかつた人とその未亡人

〇三十年(秦明小學校の先生) 夏中休暇と共にやめ月〻30圓外に3000圓貰ふ

[やぶちゃん注:「秦明小學校」は現在の東京都中央区銀座にある中央区立泰明小学校。明治一一(一八七八)年創立。]

 

○夫に對する嫉妬

○アナタイツモオ若イノネ

○小石川白山御殿町

不同

[やぶちゃん注:以上の二条(「小石川白山御殿町」と「不同舍」)は旧全集にはない。恐らくは現在の東京都文京区白山四丁目の(グーグル・マップ・データ)。「不同舍」は画家小山正太郎(次条注参照)が明治二〇(一八八七)年に創設した画塾のことか。最盛期には三百人を数え、中村不折・青木繁などを輩出した。参照したウィキの「小山正太郎」によれば、彼は『人によって指導の仕方を変え、自らの作品に弟子達が影響を受けないようにするため、自筆の油彩画を見せることは殆どなかったと』いう。『「不同舎」の名は塾の近所』であった『本郷区団子坂界隈の不動坂に由来するとも言われるが、それよりも弟子たちの個性を尊重した小山の指導理念を示したものだろう』とある。但し、団子坂は白山御殿町よりやや東北にずれる。]

 

Kent 鉛筆――drew

[やぶちゃん注:「Kent」はケント紙(高級紙の一種。純白で紙質は硬く締っている。イギリスのケント地方で初めてつくられたので、この名がある。現在は化学パルプで作るが、ごく高級なものは木綿など天然繊維を加えることもある。図画・製図用の他、名刺などにも用いる)であろう。]

 

○小山正太郎

 モデル三河島田

             >la souce Vénus de Milo 髮桃割

Millet

 +チヨンチヨン=ホ惚ナリ

[やぶちゃん注:底本では「小山正太郎」と「モデル三河島田」と、「Millet」と「+チヨンチヨン=ホ惚ナリ」はそれぞれ大きな長方形の枠で囲まれている。その四角の下から長い。斜線が伸びて中央下で繫がり、「la souce Vénus de Milo 髮桃割」と下に書かれてある。

「小山正太郎」(こやましょうたろう 安政四(一八五七)年~大正五(一九一六)年)は旧越後国長岡藩の藩医の惣領で洋画家であるが、画家としてよりも教育者として知られる。

「三河島田」島田髷の型の一種の通称であろう(地名ならば福島県耶麻郡西会津町新郷大字にある)。

la souce Vénus de Milo」フランス語。ギリシャ彫刻の名品でパリのルーヴル博物館所蔵の『「ミロのヴィーナス」を源泉とするもの』という意。

Millet既出既注

「チヨンチヨン=ホ惚ナリ」意味不明。以下、一行空き。]

 

 

○天草四郎時貞の史劇 faithworldlyvanityfaith and death

[やぶちゃん注:「信仰―世俗の―虚栄―信仰と死」の意か。]

 

芥川龍之介 手帳8 (10) 《8-10》

《8-10》

Anarchism  Ertzbach Zenker

[やぶちゃん注:「Ertzbach」「Zenkerドイツのアナキストの名前のようには思われるものの、ドイツ語でも英語でも検索の網に掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 

○踏繪 興善町 質屋 西奉行所(今の縣廳の所) 西村屋 享保13

[やぶちゃん注:まさに「踏繪」という題名の小説構想が芥川龍之介の中にあったことは大正六(一九一七)年十二月八日附の薄田淳介宛書簡(岩波版旧全集書簡番号三五九)ははっきりしている。但し、ここでは薄田(大阪毎日新聞学芸部長だった薄田泣菫)に、『題は「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れません』という記しているから、これは一見すると、内容は同じ(現在の「開化の殺人」)だが、象徴的な題名にするという意味にも採れる(しかし、「開化の殺人」の内容が比喩的に「踏繪」で通るかというと私は甚だ疑問である)のであるが、私は寧ろ、開化物と並行して、全く別に切支丹物の、踏絵をテーマとしたものを龍之介が構想しており、構想(芥川龍之介の脳内)ではそれが並行して進められていたのではないかと考えている。この「踏繪」という題名は実はもう一回だけ、翌大正七年五月十五日附の同じ薄田宛書簡(岩波版旧全集書簡番号四一三)に出るのであるが、そこでは『「踏繪」は中々出來ません元來春の季題だから初夏になつては駄目らしい』という弱音を吐いている(「踏絵」は春の季語。信徒が多かった長崎などでは、毎年正月から三月頃までの間に、奉行所が住民全員にキリストや聖母マリアの描かれた絵を踏ませたことに由来する)。ところで、先に龍之介が併置した「開化の殺人」であるが、これは同年八月十五日に『大阪毎日新聞』ではなく、『中央公論』に発表されているからして、「開化の殺人」と「踏繪」は別個な小説であることはここに明らかなのである芥川龍之介の「踏繪」(このメモから見ると、実際の踏絵をシチュエーションとするものと考えてよい。そしてそれは冷徹な心理分析小説「或日の大石藏之助」(大正六(一九一七)年九月『中央公論』)や棄教を扱った名品「おぎん」(大正一一(一九二二)年九月『中央公論』。或いは、成らなかった「踏繪」の一部はこの作品のおぎんの心理にある程度は反映しているものとも思われる)などとはまた違った心理劇となったに違いない)……読んでみたかったなぁ……

「興善町」現在の出島近くの長崎県長崎市興善町。(グーグル・マップ・データ)。

「西奉行所(今の縣廳の所)」サイト「幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡」の長崎奉行所(西役所)跡が写真・地図・沿革解説の三拍子が揃っていてまことに良い。

「西村屋」不詳。但し、芥川龍之介が架空のメモをするはずがないから、これは宗門改などの切支丹史料から見出した実際の屋号と考えるべきである。郷土史研究家の御教授を乞う。

「享保13」一七二八年。]

芥川龍之介 手帳8 (9) 《8-9》

《8-9》

[やぶちゃん注:以下から「○6,9,4」までの条は、旧岩波版全集には載らず、新全集で初めて原資料から活字化された箇所である。最後の二つの数字列以外が総て英文であるというのは、何となく、旧全集編者のカット意志のようなものが感じられなくもない。]

 

Richard I――Edward II

[やぶちゃん注:「Richard I」リチャード一世(一一五七年~一一九九年)はプランタジネット朝(Plantagenet dynasty:初期であるのでアンジュー(Angevin)朝と呼ぶのが正しい)第二代イングランド王(在位:一一八九年~一一九九年)。ウィキの「リチャード イングランド王によれば、初代イングランド王ヘンリー二世(Henry II 一一三三年~一一八九年)の三男であったが、父・兄弟と争い、『生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから』、「獅子心王」(Richard the Lionhear:フランス語:Cœur de Lion)と『称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが』、十『年の在位中』、『イングランドに』あったのは僅か六ヶ月だけで、『その統治期間のほとんどは』、『戦争と冒険に明け暮れた』とある。

Edward II」エドワード二世(一二八四年~一三二七年)は、プランタジネット朝の第六代目に当るイングランド王(在位:一三〇七年~一三二七年)。イングランド王はリチャード一世から彼の弟ジョン(John 一一六七年~一二一六年)へ、その長男エドワード一世(Edward I 一二三九年~一三〇七年)から彼の四男(兄らは早世)である彼へ継がれたが、ウィキの「エドワードイングランド王によれば、彼は『寵臣に政治を主導させ、諸侯や議会との対立を深め』、一三二六年には王妃イザベラ・オブ・フランス(Isabella of France 一二九五年頃~一三五八年:その美しさから広くヨーロッパの各宮廷で「佳人イザベラ」として知られたが、その行動からは“She-Wolf of France”(「フランスのメス・オオカミ」)という蔑称も与えられた)。エドワード二世を廃位して実子エドワード三世(即位時十五歳)の摂政として愛人とともに実権を握った)『が起こしたクーデタで幽閉の身となり、その翌年には議会から廃位されたうえ、王妃の密命で殺害され』てしまった。]

 

Sherwood Nottingham ―― shire

[やぶちゃん注:現在のイングランドのノッティンガムシャー(Nottinghamshire)の州庁所在地ノッティンガムの一地区。「shire」は「州」であるが、現行の英語では正式な呼称としては「county」で、この「shire」は主にイングランドの州名の語尾として用いる。中世イングランドの伝説上の弓の名手で義賊とされるロビン・フッド(Robin Hood)が隠れ住んだ森として知られる「シャーウッドの森」(Sherwood Forest)がある(ノッティンガムの北約三十キロメートル位置にあって王室林(royal forest)・国立自然保護区(National Nature Reserve)でもある)。]

 

Talisman

[やぶちゃん注:護符・お守り。或いは、不思議な力のあるものを指す語。]

 

Yeoman

[やぶちゃん注:ヨーマン。自作農・小地主・昔の自由民・王家や貴族に仕えた高位の従者・事務係下士官などの意がある。]

 

little John

[やぶちゃん注:ロビン・フッドの相棒の名前であろう。]

 

friar Tuck

[やぶちゃん注:ロビン・フッドの仲間。「friar」(フライァー)はカトリックの托鉢修道士のことであるが、彼は「タック坊主」「タック神父」などと邦訳されているようである。]

 

Maid Marian

[やぶちゃん注:ロビン・フッドの恋人。「少女/乙女マリアン」などと邦訳されている。]

 

12.07

6,9,4

[やぶちゃん注:数字列の意味、不詳。]

 

○南京町の入り口 山手警察の一町先 クレサント・クラブ 元フランホテル

[やぶちゃん注:「南京町」「山手」とあるから現在の横浜中華街である。「クレサント・クラブ」は「Crescent club」(三日月俱楽部)で、これはドイツ人フランツ・メッガー(Franz Metzger 一八八四年(Essen)~昭和三五(一九六〇)年(鎌倉))が大正一五(一九二六)年頃に山下町九十二番附近(グーグル・マップ・データ))に開いたフランス料理店の名である。横浜開港資料館公式サイトによれば、フランツは志願兵としてドイツ海軍海兵隊に入隊、中国の青島(チンタオ)に配属されたが、一九一四年の第一次大戦勃発で青島に侵攻して来た日本軍の捕虜となり、広島の似島(にのしま)収容所に収容され、戦後に解放されて東京に行き、日本に残る道を選んだという(こうした選択をした仲間には洋菓子で有名な「ユーハイム」、銀座でドイツ・レストランを開いたケテル、デリカテッセン店で知られる「ローマイヤ」らがいたという)。クレッセント・クラブ(Crescent Club)はしかし、昭和四(一九二九)年の大不況下で潰れたという。本「手帳8」の記載推定時期の上限は大正一三(一九二四)年とするが、ここから、少なくとも、この部分のメモは、もう少し後(大正十四~十五年以降)に書かれたものである可能性が高いことが判ってくる。

「山手警察」現在の横浜市中区山下町二百三のここ(グーグル・マップ・データ)にある神奈川県加賀町警察署。九十二番はここからの距離としても正しい。

「フランホテル」不詳。横浜郷土史研究家の御教授を乞う。]

2018/01/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十三年――二十四年 「しゃくられの記」三篇

 

     「しゃくられの記」三篇

 

 この年の六月二十四日、居士は高等中学の卒業試験を了(お)え、その結果を見るに先(さきだ)って、七月一日出発、帰省の途に就いた。[やぶちゃん注:「先って」とは、卒業試験の結果を待たずにの意である。以下、漱石の葉書は前後を一行空けた。宵曲は読み易くするために読点を打っており、日附と結語の位置も逆になっていて、おかしい。見た目の臨場感を出すため、岩波の旧「漱石全集」に載る通りに、書き換えた。明治二三(一八九〇)年七月五日『牛込區喜久井町一』より『松山市湊町四丁目正岡常規』宛葉書(但し、原本からではなく、「筆まか勢」からの転載)である。]

 

 早速御注進

 先生及第乃公及第山川落第赤沼落第米山未定 頓首敬白

    七月五日夜

 

という漱石氏の葉書は、居士より早く松山に着いていたのである。

[やぶちゃん注:底本では「乃公」は「だいこう」で一人称。男が仲間や目下の者とざっくばらんに話す際に用い、「僕」なんぞよりぞんざいな語。「山川」不詳。岩波旧漱石全集の注には「赤沼」は赤沼金三郎とする。彼は一高の自治寮の自治組織の中心的人物で、野球もともにした子規の友人である。「米山」保三郎。既出既注。]

 この帰省の際は三並良、小川尚義両氏と行を共にした。江尻に泊り、大垣に泊り、大阪神戸間に少しく彽徊して、九日故山に帰着するまでの顚末は、「しゃくられの記」上篇に記されている。この記事は大阪中ノ嶋の旅亭に筆を起し、待つ山に帰って後完成したらしいが、場所を異にするに従って文体を変えたのが居士の趣向であろう。江尻の条を「羽衣」の謡もどきにしたのと、大垣、大阪間を松山言葉の言文一致にしたのが殊に奇である。「しゃくられの記」なる題名の由来は大垣の宿にある。小川氏が養老の滝を見んことを主張して、どうも養老が引張るように思われてならぬというのを、それは養老の滝から糸をお前の身体につけ、手でしゃくっているのだろうと居士が評した、その言葉が同行者の間に盛に用いられたのを、直に採って題名としたのであった。

[やぶちゃん注:「三並良」既出既注

「小川尚義」(明治二(一八六九)年~昭和二二(一九四七)年:正岡子規より二歳歳下)は後の言語学者(台湾諸語研究者)・辞書編纂者で台北帝国大学名誉教授となった人物。ウィキの「小川尚義によれば、長男(第四子)の小川太郎は、戦後の同和教育の第一人者で『全国部落問題研究協議会会長も務め、日本作文の会にも関わった』とある。

「しゃくられの記」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像全文が視認出来る。]

 八月十八日、居士は松山から久万山(くまやま)、古巌屋(ふるいわや)に遊んだ。同行者は藤野古白をはじめ、皆親戚の年少者である。かつて明治十四年にここに遊んだのが、居士としては最初の旅行であり、当時の同行者は皆自分より年長であった。十年後に至り、年少者を率いて再達したことは、居士としても感慨に堪えなかったであろう。

 

 脱帽溪頭居石看

 危巖如劍欲衝天

 山靈能記吾顏否

 屈指曾遊己十年

  渓頭に帽を脱ぎ 石に据(すは)りて看る

  危巖 劍の天を衝(つ)かんと欲するがごとく

  山靈 能く吾が顔を記(き)するや否や

  指を屈すれば 曾て遊びしより 已に十年

 

の詩がある。この時の事を記したのが「しゃくられの記」中篇である。

[やぶちゃん注:「久万山(くまやま)」既出既注

「古巌屋(ふるいわや)」愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬にある古岩屋。岩峰が連なる名所で国の名勝に指定されている。現在、四国カルスト県立自然公園内に含まれている。]

 八月二十六日、松山を発して東上、先ず大阪に大谷是空、太田柴洲の二友を訪ねた。コレラの噂は久万山行の中にもちょっと出て来るが、大阪は殊に猖獗(しょうけつ)であったらしく、居士はここに止らず、大津の旅店に投じた。翌日義仲寺に芭蕉の墓を弔い、国分村に幻住庵の址をたずねなどしている。二十九日の夜は日暮から小舟を僦(やと)って湖に浮び、月明に乗じて辛崎まで赴いた。

 

 見あぐるや湖水の上の月一つ

 月一つ瀨田から膳所へ流けり

 

という句はその際の作である。「寒山落木」に「湖やともし火消えて月一つ」「明月は瀨田から膳所へ流れけり」とあるのは、後に改刪(かいさん)したものであろう。月は高く澄み、山々あh烟(けぶ)るが如き湖水の中を、しずかに舟を漕がしむる清興は、居士の一生を通じて前にも後にもない経験のようである。

[やぶちゃん注:「大谷是空」既出既注

「太田柴洲」既出既注

 八月三十日、大津の宿を去って、三井寺観音堂前の考槃亭(こうはんてい)に移り、滞留数日に及んだ。居士後年の句に「鮒鮨や考槃亭を仮の宿」とあるのは、この時のことを詠んだものである。松山出発以来のことを記した「しゃくられの記」下篇の冒頭に「ことしは上京の道すがら近江の月をながめんとてかくは早くたびだちけるなり」とあるから、琵琶湖畔に月を見ることは最初からの予定だったのであろう。ただ月に乗じて辛崎に遊んだ後は、附近に筇(つえ)を曳いたらしくもないし、考槃亭に宿を定めてからの消息は「しゃくられの記」を読んでもはっきりわからない。

[やぶちゃん注:「考槃亭(こうはんてい)」三井寺の門前にあった旅宿の屋号。]

 居士が帰省もしくは上京の途中を利用して各所に悠遊を試みるようになったのは、喀血後著しく目につく傾向である。それには保養の意味も含まれていることと思うが、往復と在郷中とを併せて三篇の「しゃくられの記」を産むようなことは、この年はじめて見るといわなければならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第九章 解剖學上の事實(3) 三 獸類の頸骨

 

     三 獸類の頸骨

 

Kirikeikotu

[麒麟の頸骨]

Kujirakubi

[鯨の顎骨]

[やぶちゃん注:孰れも底本国立国会図書館デジタルコレクションの画像を使用した。それが判るように、後者の画像にはキャプションを残した。後者にはご覧の通り、頸骨のキャプションと指示線がある。]

 

 誰も知つて居る通り、獸類の中には駱駝の如く頸の長いものもあれば、猪の如く頸の短いものもある。尚甚だしい例を引けば、アフリカに産する麒麟は、全身が三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチメートル強。]もあるが、頸だけでも六尺[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル弱。]は十分にある。また鯨・海豚(いるか)の類になると全く魚の如くで、頭と胴との間に別に頸と名づけて區別すべき部分はない。然るに奇妙なことには、これらの動物を解剖して見ると、頸の長い短いに拘らず、頸の骨は必ず七個ある。人間でも猿でも、牛・馬でも、犬・猫でも、頸の骨數は皆七個と定まつて居る。獸類では他の脊椎動物と同じく、頭の後から尾の先まで、數多の脊椎骨と稱する短い骨が恰も珠數の如くに連なつて、身體の中軸を造つて居るが、胸の邊ではこの脊椎の兩側に皆肋骨が附いてある。その第一番の肋骨の附著して居る脊椎より前に位する脊椎が卽ち頸の骨であるが、頸の長短に拘らず七個あるから、一個づゝの頸骨の形は種類によつて大に違ひ、麒麟の如き頸の長い獸では各々長さが一尺[やぶちゃん注:三十・三センチメートル。]程もあつて火吹竹の如く、鯨などのやうな頸のない動物では短い間に七個押し合つて入つて居るから、各々薄く扁平で、恰も煎餅の通りである。

 斯く獸類の顯の骨は必ず七個に限ることは、生活上何か必要があるかと考へるに、少しもさやうなことはない。現に鯨の中でも或る種類では七枚の頸の骨は癒着して一塊となり、僅に境界の線が見えるだけで、働きの上からいへば、全く一個の骨となつて居る。他の動物でも七個では困るといふ理由もない代りに、また七個でなければ頸が十分に働かれぬといふ譯もなく、六個でも八個でも乃至十個でも、生活の上には少しも差支へはないやうである。然るに實際に於ては斯くの如く頸の長短に拘らず、頸の骨が必ず七個あることは、若し動物各種が全く別々に造られ、そのまゝ少しも變化せずに今日まで生存し來つたものとしたならば、たゞ奇妙といふだけで、毫もその理由を了解することが出來ぬ。

 之に反して若しこれらの動物は皆同一の先祖より進化し降つたもので、その共同の先祖が七個の頸骨を有して居たと假定したならば、頸骨の七つあるといふ性質は、遺傳によつて總べての子孫に傳はり、生活法の異なるに隨つて自然淘汰の結果、各々適宜に長くも短くもなつたものと考へて、一通り理窟が解る。若しさうとしたならば、斯かる點は恰も家の紋の如きもので、現在の職業は互に如何に異なつても、一家一門の中は皆紋だけは同じである通り、現今地上を走るものも、海中を游ぐものも、ともにその先祖の圓じであるといふ符號を身體構造の中に存して居る次第であるから、昔に遡つて系圖を取調べるといふやうな場合には、最も重要な參考の資料となるものである。

 

Yadokari

[寄居蟹]

[やぶちゃん注:明瞭な講談社学術文庫版を用いた。

「寄居蟹」「やどかり」。節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類。]

 

 以上の如きことは、他の動物の他の體部に就いても幾らもあることで、例へば我が國の海岸の淺い處には蝦・蟹の類に屬する寄居蟹(やどかり)といふものが澤山に居るが、その身體の全體は稍々蝦に似て、前半は頭・胸、後半は腹である。空(あ)いた介殼を搜し求めて、常に體の後半をその中に入れ、介殼を引き摺りながら、水の底を這ひ步き、敵に遇へば忽ち全身を殼の中に引き込み、大きな鋏を以て殼の口を閉じるが、試に一疋を捕へ、無理に殼より引き出して檢すれば、體の後半卽ち腹部は常に介殼の中に保護せられて居る處故、皮膚が甚だ柔くて、蟹や蝦の堅い甲とは全く違ひ、且介殼の中に都合よく嵌まるやうに螺旋狀に卷いて居る。さて蟹と蝦と寄居蟹とを比べて見るに、一は巧に走り、一は速に游ぎ、一は介殼を引き摺つて這ひ步き、運動法の異なるに隨ひ、體格にも著しい相違があるが、これらの動物を竝べて置いて、その體の後部卽ち腹と名づける處を比較して見ると、外形が違ひ働が異なるに拘らず、孰れも皆根本の構造に一致した處があり、恰も同一の模型に從つて造つたものを、更に各々生活の有樣に應じて造り直した如くに見える。先づ蝦の腹を檢するに、六個の節より成り、その先端に尾が附いてあるが、每節ともに堅い甲で蔽はれ、その裏面には左右兩側に一個づゝの橈足[やぶちゃん注:「かいあし」。]が生じてある。蟹では如何と見るに、頭胸部が非常に大きく發達し、腹部はその下へ曲り込んで隱れて居るから上からは見えぬ。俗に蟹の褌(ふんどし)といふのが卽ち蟹の腹である。蝦では腹と尾とが主なる運動の器官で、急に敵に攻められた時などは、尾を前へ強く彈ねて自身は速に後へ飛び退くが、尾と腹の内にある筋肉とはその時に働くもの故、兩方ともに十分に發達して居る。之に反して蟹では主なる運動の器官は全く胸から生じた足ばかり故、尾も腹の筋肉も退化して無くなつて居る。そのため腹は薄く小くなつて、ただ體の裏面に曲つて附著して居るに過ぎぬが、その節の數を算へて見ると、やはり蝦と同じく六つある。尤も雄では節が往々癒着して數が減じて居るが、そのやうな場合でも癒着した處には微な橫線が見えて、元來節が六つあつたことを明に示して居る。また寄居蟹の腹部は前に述べた通り、常に介殼に保護せられて居るから、皮膚が極めて柔いが、その背面には上の圖に示した如くに稍々皮膚の堅い處が六箇所だけ縱に竝んである。之は確に蝦の腹部の背面の甲に相當するもので、甚だ柔いながらも、尚元來六つの節から成り立つことの明な證據を現して居る。斯くの如くこれらの動物は腹部の形狀が實際種々に異なつてあるにも拘らず、孰れも六つの節から成るといふ點で一致して居るが、之は前の獸類の頸の骨と同樣で、皆同一の先祖から降つた子孫であると見倣せば、先づ理窟は解るが、若し初めから全く無關係の別物としたならば、蟹の褌にも寄居蟹の柔い腹にも、生活上何の必要もないのに、やはり蝦と同樣に六つの節のあることは、たゞ不思議といふばかりで少しも譯が解らぬ。

 

Makuwangani

[マッツクヮン蟹]

[やぶちゃん注:底本は画像が暗いので、講談社学術文庫版を用いた。

「マッツクヮン蟹」エビ上目十脚目異尾下目オカヤドカリ科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro。「マッカン」は八重山地方で地方名(但し、呼称由来は不詳。「ガン」は九州以南では「蟹」を意味することが多いが、沖繩方言の場合は軽々には言えない気がする。論文ヤシガニと沖縄の人々の暮らし(PDF)でも、語源由来には非常に慎重である)。沖縄本島では「アンマク」と呼ぶ。陸生甲殻類内のみならず、陸上生活をする節足動物全体から見ても最大種で、より大きく、体長は四十センチメートルを超え、脚を広げると、一メートル以上にもなり、体重も四キログラム以上にも成長する。ヤシガニは「椰子蟹」で、近代の日本では、「ヤシの木に登りヤシの実を落として食べるカニ」としてのイメージが定着しているが、実際には、ヤシガニは雑食性であってヤシの実を主食とするわけでは全くなく、たまたまヤシの実を割って食べることは確かにあるが(私も実際に映像で見たことはある)、私の幼少の頃の学習図鑑に、まことしやかに椰子の木に登って(本挿絵もそうであるが、そこまではまだいい。木登りは、事実、するからである)、さらに実を切り落とす姿が描いてあったりしたけれども、実は椰子の実を採取するためにヤシの木に登る習性は確認されておらず、あのイメージは口承と誤った噂から生じた大噓と断じてよい。食用とし、ヤシガニそのものには毒性はないが、ヤシガニは雑食性で、摂餌対象物によって毒化(細菌やウイルス汚染されたものを含む)した個体を食べた場合には中毒例がある。症状は嘔吐・吐き気・手足の痺れなどであるが、重篤な場合は死亡例もある。現在、毒化個体の有毒成分の由来対象の一つはクスノキ目ハスノハギリ科ハスノハギリ属ハスノハギリ Hernandia nymphaefolia の果実(有毒物質ポドフィロトキシン(podophyllotoxin)が単離されている)と考えられているが、それ以外にもシガテラ毒中毒(ciguatera:熱帯の海洋に棲息するプランクトンが産生する毒素に汚染された魚介類を摂取することで発生する食中毒。Gambierdiscus toxicus などのアルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する有毒渦鞭毛藻類が原因(由来)生物であることが多い。毒素は複数あるが、シガトキシン(Ciguatoxin)やマイトトキシン(maitotoxin)は知られる。なお、「シガテラ」の呼称は、かつてキューバに移住したスペイン人が同地方で「シガ」(cigua)と呼んでいた巻貝(英名:West Indian Top)、腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科ニシキウズガイ科アコヤシタダミ亜科Cittarium 属チャウダーガイCittarium pica による食中毒のことを「ciguatera」と呼んだことに由来するもので、非常に長い間、このシガテラ毒による魚介類の毒化機構は不明であったが、一九七七年に東北大学などの研究チームが渦鞭毛藻類による原因物質の究明が行われ、生体濃縮作用によって毒素を蓄積した魚介類の摂食が中毒原因であることが明らかされた。なお、シガテラ中毒とおぼしき記述は既に一七七四年のキャプテン・クックの航海記にさえみられる。ここはウィキの「シガテラ他(海産有毒生物は私の得意範囲ある)に拠った)が原因とする説も有力である。また、前肢一対二本のハサミの力は非常に強く、中・大型個体に不用意に触れて指などを挟まれると、切断される危険があるから、注意が必要である。]

 

 尚面白いことには、琉球の八重山島を始め南洋の諸島には「マックヮン」といふて陸上に住み、祁子の實を食ふ大きな蟹があるが、その形は頗る寄居蟹に似て、殆ど寸分も違はぬ程である。倂し寄居蟹と違ふて空いた介殼の中に腹部を嵌め込まず、裸出したまゝで落葉の間を這ひ步いて居るから、腹部も背面だけには堅い甲があるが、その數はやはり六枚である。而して腹部の裏を見ると、こゝには蝦の腹部にある如き足の變形したものが生じて居るが、たゞ片側にあるだけで左右對をなしては居ない。蟹や蝦では身體は眞に左右同形で、若し中央線に沿うて身體を縱に二つに切つたならば、左右兩半は全く同じ形となるやうな構造を有して居るが、寄居蟹は卷いた介殼の中に入るもの故、腹部だけは左右著しく不同形で、特に尾端には介殼の中軸を挾むための器官を備へて居る。然るに「マックヮン」は介殼の中へ腹部を插し入れぬに拘らず、腹部の構造は全く寄居蟹の通りで、たゞ僅にその背面が堅くなつて居るだけに過ぎぬのは、何故であらうか。之は如何に考へても、マックワンは昔海岸に往んで、腹部を介殼に插し入れて居た寄居蟹が次第に陸上に上り、陸上の生活に適した有樣に變化し、腹部を介殼の中に入れぬやうになつたものと思ふより仕方はない。若しマックヮンは初めからマックヮンとして他の動物と關係なく、全く別に出來たものとしたならば、腹部の裸出して居るに拘らず、何故、寄居蟹と同樣に左右不同形の構造を有するか、少しも理由を見出すことが出來ぬ。

 

原民喜「眩暈」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年十月号『文藝汎論』発表。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「瞠いて」「みひらいて」と訓じていよう。

 「ブラツケー」は不詳であるが、文脈からは貝の方言名と読める。すると、個人サイト「お魚の図鑑 珍魚すくい」ページに、ホラガイ(腹足綱吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis)の異名として「ブラゲー」(他に「ブラ」「ブラー」「ブラゲー」「ブラヌーン」などもある)を見出せた。これでよいとしたいところだが、気になるのは前に民喜が「法螺貝」を出してしまっていることである。「がうな貝」は一般にヤドカリの異名であるが、ここは貝と見て、小型の巻貝(腹足類)を指すと考えるなら、ここで民喜が「ブラツケー」と言ったものは「法螺貝」に似ているが、違う巻貝、もっと大きな或いはもっと高そうに見える絢爛たる巻貝を指しているかのように私には思われる(但し、本邦産で法螺貝を超える大型種は存在しない)。或いは、「稀れに見る巨大な法螺貝」を特異的に「ブラツケー」と読んでいる野かもしれぬと私は思ったりした。

 「蒟蒻」は「こんにやく(こんにゃく)」。

 「齒朶」は「しだ」。羊歯。

 「見憶」「みおぼえ」。「見覺え」。

 「饂飩」「うどん」。因みに「饂飩のマントを纏ひ」はママである。

 「覗間」「すきま」と訓じておく。

 「在處」「ありか」。

 「凭つたまゝ」「よりかかつたまま(よりかかったまま)」と訓じておく。

 「蔓り」「はびこり」。

 「雞」「にはとり」或いは単に「とり」と訓じているかも知れぬ。「鷄」に同じ。

 「逸散に」「いつさんに(いっさんに)」。「一散に」。一目散に。

 「鸚哥」「いんこ」。小鳥のインコのこと。

【2018年1月14日 藪野直史】]

 

 

 眩暈

 

 溝の中でくらくら搖れてゐる赤い糸蚯蚓、太陽は泥に吸ひつく蛭の化けもの。

 砂がザラザラ押流され、ザラザラと睡むたい顏が溝の緣で、眼球を瞠いてゐる。

 それは彼であるが、彼ではない。

 砂はザラザラと彼の眼の前を橫切り、今は貨幣であるが、がうな貝、法螺貝、ブラツケー、見たこともない異樣な貨幣で彼の頭は混濁してゆく。

 見よ、數字が雜音とともに、この時、一齊に攻擊して來る。

 夢中で彼は求める。何かを、何ものかを、――たしかに、はつきりしたもののきれつぱしを。

 そして、彼は怪しく不自由な手つきで、空間を探る。

 電車の釣革の如きもの、ベルの如きものが彼の指に在る。その手觸りは遠い母親の乳房に似てゐる。

 と、(誰だ、そんなものを拾ふのは)と耳許で叱聲。

 彼はあわてゝ飛びのく。

 彈の破片が眼を掠め、くらくらと鋪道は蒟蒻と化し、建物が飴のやうにとろける。

 かすかに(明日の天氣豫報を申上げます)明日の、待つて呉れ。とたんに彼は目を白黑させてゐる。

(教へてあげないわよ)と女の聲。まごついてしまつた窓。

 暫くして、白い柱の嘲笑の列。

 

 いくつもいくつも太い眞白な柱は天井へ伸び、その白い柱の前に立留まつた彼は、出口を探さうとしてゐるが、この、きてれつの大ビルヂングは混沌として答へず。

 見上げる天井に水晶の三日月。

 はや足許に蔓草が茂り、蛇を潛めし太古の闇は階段の方を滑つて來る。バサバサと齒朶類は戰ぎ、鈍重な太鼓の音が陰濕と熱氣を沸きたたせば、既に彼は身動もならず悶死の姿で橫臥してゐた。

 やがて、巨龍の顎によつて、彼はカリカリと嚙碎かれてゐる。記憶を絶し、記憶を貫く、今の、昔の、彼の眼底に、ひそかに白象の妙なる姿は現じた。

 と、忽ち、外科醫の鋸が彼を強く威嚇する。不思議な裝置に依つて彼を裁くもの、實驗材料は縮まつて、悲しい啞の眼をしばたたく。その寢臺のまはりを群衆は無關心に通過してゐる。祭日めいた群衆の旗は散じ、彼は身の自由を得てゐる。

 しかし、混沌とした建物の内部にゐることに變りはない。彼は出口を求めて、再び放浪する。

 向に見憶のある噴水の池。

 明るい造花の房を音樂の蜜蜂が𢌞り、ロボットの女は默々と糸を紡いでゐる。そのあたりから、いけない豫想が微かに唸りを放つ。

 忽ち、彼の同僚の一人が裸身に饂飩のマントを纏ひ、池をめがけて突走つて來る。

 その顏は苦業に火照り、裸身は飜つて、池に投じた。くらくらと湯氣に饂飩は崩れ、その男の眼が發狂して彼を睥む。

 發散する湯氣はその言え池を消し、その男を消し、疲勞を重加された彼のみが、いつしか昇降機によつて運ばれてゐる。密林や暗雲が鐵格子扉の覗間に、時折、靑い紋條をもつ宇宙の破片も閃き、遂に眞暗な天蓋に達したと思ふ時、昇降機ははや針金の如き細き一本の煙突にすぎなかつた。

 彼の重みによつて、煙突はもろくも傾きはじめる。全身全靈の祈願と戰慄は彼を乘せた細い煙突の割目に集中され、やがて呻吟とともに身は放り落された。

 

 その足は床に達せず、いつまでもコンクリートの廊下の上を腹匍ふやうに飛んでゐる。この苦しい低空飛行がはじまるとともに、彼は飢えを覺え、食堂の在處を探してゐるのだが、群衆の往交ふ廊下は侘しい障害物である。

 ふと、この混迷の中を彼の幼友達が同じ恰好で飛んでゐるのを見つけ、彼は微かに安堵を覺えた。だが、彼の蹠(あしうら)に轉がる空氣の球をうまく操りながら進むには、妖しい一つの氣合が保たれねばならぬ。

 苦しい努力に依り、彼はゆるやかにタイルの上を流れ、テーブルの一隅に辿りついた。人々の犇めく空氣が背後で杜絶え彼の眼の中には眞白なテーブル・クロース。眼の前にある銀の匙とカツプに陰々と困憊の影はこもり、それをもし指にて觸れば、忽ち金切聲で感應するであらう。觸ることの豫想の苦惱に悶え疲れ、暗澹と彼は椅子に凭つたまゝ、妖しくゆらぐ空氣を吸ふうち、椅子はひとりでに床を進行してゆく。

 

 椅子のエスカレーターに運ばれて、彼はホールに來てゐる。

 會衆は暗闇の中に茸の如く蔓り、合唱とも囁きともつかぬものが刻々に高まりゆけば、暗黑の舞臺に突如、劍を閃かして一人の老人が舞ふ。雞の冠を頭につけ、眼は瞋恚に燃え、莊嚴な劍にて突差すところから、めらめらと焰が發して、見る間にあたりは火の海と化した。黑烟の渦と噴出する火に追跡されて彼は逸散に遁走する。

 

 曲つた柱。黑焦の階段。鉛の水槽。痙攣する窓枠を拔けて、彼は巨大な梁の上を傳ふ。

 今、凄慘な工事中の建物の橫腹が彼の頭上に聳え、赤黑い錆の鐵材と煉瓦の懸崖が目を眩ます場所にある。

 彼は墜落しさうな足許を怖れて、一心に異常な風景を描く。

 靑葉の中に閃いてゐた鮎。白い美しい網で掬はれた蝶。消えてしまつた幼年の石塊。

 その彼の骨を引裂く大速力の車輪のなかの情景の露が空中に見え隱れして、彼は危い梁の上の匍匐狀態を脱した。

 

 やがて屋上に來た。こゝでは工夫達が身を屈めて、コンクリートの床に鯖を釘で打つけてゐる。

 何のために、そんなことをするのか。困惑がこゝにも落ちてゐるといふのか。

 困惑する彼の眼に、一匹の鯖は近寄り、一本のネクタイと化せば、次いで彼の全視野は雜貨商品の群に依つて滿たされた。

 蜥蜴の靴下。彫刻の馬。鸚哥の女。猫の帽子。苺の指環。金魚の菓子。火打石。

 それらの虹も疲勞の渦で灰色となり、すべては存在しないに等しい。ゆるくゆるく灰色ばかりが彼の眼蓋をすぎてゆき、やがて罫線の麗しい白い紙があり、彼は靜かに氣をとりなほした。

 彼はペンを執つて、事務のつづきを始める。ペンの音が紙の上を空滑りしてゐて、間もなく數字は葡萄の粒々となる。

 すると、いつもの天井の方からするすると一すぢの綱を傳つて、一人の兇漢が彼の背後に近寄る。

 わあつと、呻き聲とともに、彼は兇漢のまはりを泳いでゐる。

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「五」

 

     

 

  1・Aの手紙   その二

 其後君の返事を待っていたが来ないから之をかくり

  …………略…………

 江尻の海岸は眼界が余り広くない。右に長くさし出た三保の半島、左にたゝなわる愛鷹(あしたか)の連嶺(れんれい)その間には伊豆の山々が曇った日はかすかな鼠色に、晴れた日にはさえた桔梗(ききょう)色に長く連っているために、殆水平線と云うものは見られないと云っていゝ。唯塩分の濃い潮流がつよい日光をうけるときは云いようの無い美しい青藍色をたゝえるのがうれしい。

 設備も鎌倉や鵠沼に比べると不完全だが靴をはいて泳ぐような人を見かけないのが取柄だろう。

 泳ぐのにつかれると濡れた体を熱い砂の上にふせてうとうとゝねむりながら懶(ものう)い海のつぶやきをきく。ダンヌンチオの Triumph of Death Giorgio Ippolita が海水浴をする美しい描写があった。藻のかおりと髪のかおりとの中に伊大利(いたりー)の海が鈍い銀色に光る官能的なあのパッセイジはこうして砂の上に寝て海の声をきいているとしみじみと心によびかえされる。

 海の水は近い所は海水浴をする男や女の足にかきみだされて濁った緑色(りょくしょく)につぶつぶと不平らしい泡をたてゝあるが、遠い所は濃いエメラルド、グリインからインヂアン、ブリユウに至るあらゆるうつくしい語調をつくって南の空をめぐる太陽の下に、はればれと笑っている。ゴルキイの Malva 第一行に the sea is laughing とかいてある。丁度その様に海が笑っているのである。

 日が傾いて砂の上に落ちたものゝ形が細長くなるとぬれた手拭と猿股とをぶらさげてかえってくる。

 玉蜀黍(とうもろこし)の畑で行水をつかい、夕飯(ゆうめし)をすましてから散歩にゆく。清水(しみず)の町へゆく事もある。龍華寺(りょうげじ)鐡舟寺へゆく事もある。豆の葉の黄色くなった畑みちをあるくと何時の間にか月の光が土の上に落ちているのに気がつく。蛙(かわず)がなく。「種豆南山下、草長豆苗稀」と云うような田園詩の気分をなつかしく思う。

 ……………略……………

  1・Aの手紙  その三

 ……………略……………

 木曽は大へん蚤の沢山いる所だった。福島へ泊った晩なぞは体中がまっ赤にふくれ上ってまんじりとも出来なかった。これから木曽へゆく旅客は是非蚤よけを持ってゆく必要がある。矢張福島で横浜商業の生徒と相宿になった。体格のいゝ立派な青年だったが驚く可く寝言を言う。夜中にいきなり「冗談云ってら、そんな事があるもんか」とか何とか云われた時には思わずふき出しちまったものだ。

 ……………略……………

 かけはしだの寝覚めの床だのに低徊してからやっと名古屋へ行った。……僕たちは伊東屋呉服店の木賊色(とくさいろ)と褪紅色(たいこうしょく)との NUANCE を持った食堂でけばけばしいなりをした女どもを大勢見た。偕楽亭の草花の鉢をならべたヴエランダであいすくりいむの匙をとりながら目の下の灯(ひ)の海をあるく名古屋人を大勢見た。そうしてその中のどいつをみても皆いやな奴であった。某々(ぼうぼう)の会社からの紹介状や名刺を出して参観を頼んだ。帳簿や書類の間から黄疸やみのような顔を出す書記や給仕や職工に大勢遇った。そうしてそのどいつをとってみてもみないやな奴ばかりだった。

 至るところで旅烏の身に与えた不快な印象を負っていたるところの工場で参観を拒絶されて僕たちはとうとう中京と呼称する尊敬すべき名古屋を御免蒙った。僕は名古屋と甲府ほど嫌な都会を見た事がない。尤も名古屋に蚤のいないだけは木曽より有難ったけれど。

 

[やぶちゃん注:「1・Aの手紙  その三」は底本では「1Aの手紙  その三」となっているが、前後と照応させて、特異的に中黒点を打った。また、「鵠沼」には「くがぬま」のルビがあるが、採用しない(無論、「くげぬま」だからである)。更に、Giorgio」は実は底本では「Ciorgio」となっているのであるが、これも綴りの誤り(後の原書簡参照)であるので、特異的に訂した。最初の略のリーダ数が少ないのはママ。

 まず、最初の方の「1・Aの手紙  その二」の書簡抜粋は、岩波旧全集書簡番号一〇〇の大正二(一九一三)年八月十六日附のもので「島根縣松江市内中原町 井川恭樣」宛てで「八月十六日朝」と添書のある「靜岡縣安倍郡不二見村新定院内 芥川龍之介」という差出人住所署名を持ったものである。以下に全文を示す。

   *

其後君の返事を待つてゐたが來ないから之をかく

大學の手續は分つたかね

結婚問題は片づいたかね

本は屆いたらうか

以上用事 之から僕の生活をしらせる

朝六時頃起きて床をあげ部屋の掃除をする

朝飯 飯は大抵少し糠くさい それから机を西向の窓の下にうつして本をよむ 窓の外は桑畑 幅の廉い綠色の葉に蕗が眞珠のやうに光つて其間にうなだれた夾竹桃の赤い花を蜂が唸りながらふるはせてゆく 土のにほひ 八月の日光 十時頃机を東の庭にむいた座敷へうつす もう簾一面に當つてゐた日が椽に落ちて座敷には微涼が芭蕉の葉のほのかなにほひと共にうごいてゐる 白つちやけた砂まじりの庭の土に山茶花 枇杷 棕櫚竹が短い影をおとす 蟬の壁 晝飯をくつてから一時間 午睡をするか新聞をよむかする 新聞は國民で三重吉の桑の實を每日おもしろくよんでゐる

一時うつと手拭を腰にさげて一高の夏帽子をかぶつて海水浴へ行く 浴場は江尻の海岸で寺から約半里ある 途は可成あつい 桑の葉黍の葉の綠、胡麻の花のうす紅 埃に白けた月見艸がしほれ乍ら路ばたにさいてゐる 不二見橋と云ふのを渡る 欄干の下を碧い水がみがいた硝子板の如く光り乍ら流れる 半町ほど隔てた港橋の向ふには漁船の檣が林立して其上に晝の月が消えさうに白く浮んでゐる 橋の袂の氷店の赤い緣をとつた旗の下をすぎると低い茅茸瓦屋根の狹い町になる 理髮店 梨や西瓜を商ふ靑物店 機屋 荒物屋 それらの家々の間には玉蜀黍の葉がそよぎ黃色い向日葵の花がさしのぞく 町はづれの松原を二三町行くと煉瓦燒場の低い板葺 美普教會の尖つた塔が江尻に近づいた事を知らせる 路ばたの甘藷畑、砂糖畑の向ふに靑い海が的爍と光るのも見える 輕便鑄道(清水靜岡間)の線路を一つ橫ぎると江尻で魚屋の壁にはられたすゝびた江戸役者の似顏繪も宿驛らしいなつかしさを感ぜしめる[やぶちゃん注:「美普教會」「みふきょうかい」(現代仮名遣)。日本美普教会(The Methodist Protestant Church)のこと。メソジストの流れにあった日本の教派であるが、米国メソヂスト教会からは正式には後の昭和五(一八三〇)年に分離している。但し、昭和一七(一九四二)年に日本基督教団の部制解消によって消滅し、この教派は現存しない。詳しくはウィキの「日本美普教会」を参照されたい。但し、これは大正二(一九一三)年の記載であるから、龍之介は「メソジスト(派)の教会堂」の意で使っている。]

江尻停車場の後をだらだらと海へ下る 錢道院の管理の下に營業する海水茶屋が三四軒葭津張を海へ張り出して旗をたてたり提灯を吊つたりして客をよんでゐる 無料休憩所へはいて[やぶちゃん注:ママ。]着物をぬぐ

江尻の海岸は眼界が餘り廣くない 右に長くさし出た三保の半島 左にたゝなはる愛鷹の連嶺 その間には伊豆の山々が曇つた日はかすかな鼠色に晴れた日にはさえた桔梗色に長く連つてゐるために殆水平線と云ふものは見られないと云つていゝ 唯鹽分の濃い潮流がつよい日光をうけるときは云ひやうのない美しい靑藍色をたゝへるのがうれしい

設備も鎌倉や鵠沼に比ると不完全だが靴をはいて泳ぐやうな人を見かけないのが取柄だらう

泳ぐのにつかれると濡れた體を熱い砂の上にふせてうとうととねむりながら懶い海のつぶやきをきく D’annunzio Triumph of Death Giorgio Ippolita が海水浴をする美しい描寫があつた 藻のかほりと髮のかほりとの中に伊大利の海が鈍い銀色に光る官能的なあの PASSAGE はかうして砂の上に寐て海の聲をきいてゐるとしみじみと心によびかへされる

海の水は近い所は海水浴をする男や女の足にかきみだされて濁つた綠色につぶつぶと不平らしい泡をたてゝゐるが遠い所は濃い EMERALD GREEN から INDIAN BLUE に至るあらゆるうつくしい諧調をつくつて南の空をめぐる太陽の下にはればれと笑つてゐる Gorky Malva 第一行にthe sea is laughing”とかいてある丁度その樣に海が笑つてゐるのである

日が傾いて砂の上に落ちるものの影が細長くなるとぬれた手拭と猿股とをぶらさげてかへつてくる

玉蜀黍の畑で行水をつかひ夕飯をすましてから散步にゆく 龍華寺錢舟寺へゆく事もある 淸水の町へゆく事もある 豆の葉の黃色くなつた畑みちをあるくと何時の間にか月の光が土の上に落ちてゐるのに氣がつく 蛙がなく

〝種豆南山下 草長豆苗稀″と云ふやうな田園詩の氣分をなつかしく思ふ[やぶちゃん注:終りのクオーテーション・マーク「″」は底本では左下にある。]

鴟尾の一つかけた寺の門の上に月をみながらかへつて來て蚊帳をつる 寐る その間に近所の小供や寺のおかみさんと話しをする事もある 小栗栖君の不二見一村に於ける人望は大したものである 八木君も中々信用がある 僕に至つては到底あんなに評判がよくなりさうもない

戸田君の逸話も寺のおかみさんからきいた 行水を使ふときにみそのおしろいをつけるのださうだ 冗談ぢやあない いくらやさ形だつて二十三になる男がおしろいなんぞつける奴があるもんですかと云ふとまああんたいくら田舍者だつとつてもみそのおしろいぐらいはしつとりますわね ほんとうですよあんたと極力主張する この分では僕もあとで何とか云はれさうだ 餘程素朴質素な生活をしなくつちやあ小栗栖八木兩君に封しても申譯が立たないやうな氣がする

毎日鹽からい田舍料理と鹽からい海水をのむので甘い物が戀しくて仕方がない 尤も東京からデセールや甘納豆やバナヽケークなどを持つて來た事は來たがそれも一週間たゝないうちに食つてしまつた 此近所の菓子は實にまづい 仕方がないから淸水迄ミルクセーキをのみにゆく事にしてる

蛙がどこにでも澤山ゐる 蛇の顏に HUMANITY があると云つたのは Walter Pater だが僕には蛙の方が更にHUMANITY がある樣な氣がする 東京近在にはゐないが黑白染分けの小さな蛙が行水を使ふ時なぞ鼻のさきへ來てすはつてゐると何だか口をきゝさうで氣味が惡い 一寸佐藤修平のひまごのやうな氣もする

BÖCKLIN に「魚の王」と云ふ繪がある 人の顏と魚の顏とを一緒にしたやうな醜怪な動物の肖像だが蛙をみると僕は必この魚の王を思ひ出す

もう一週間もしたら鶴沼へうつるかもしれない さようなら

    八月十五日

   *

この年の七月一日、芥川龍之介は第一高等学校一部乙類(文科)を卒業(全二十六名中、成績は二番であった。一番は、何を隠そう、この筆者井川恭であった)している(既に無試験によって東京帝国大学文科大学英吉利文学科への入学が決まっていた。井川は京都帝国大学法科へと別れ別れとなった。また原書簡冒頭から既にこの時、恒藤家への養子婿入りの話がほぼ終わっていたことも明らかになる。なお、この当時、大学初年で既に婚約が決まっているというのは必ずしも特異なケースではない)。以下、あくまで「翡翠記」の本文に対して注を附す(そうしないと、私の偏愛するベックリンの注まですることになってエンドレスになるからである)。

 芥川龍之介はこの大正二(一九一三)年八月(大学の入学は九月)の六日(新宿の自宅発で当日着)から同月二十二日(自宅着)まで、静岡県安倍郡不二見(ふじみ)村の臨済宗新定院(現在の清水市清水区北矢部町に現存。ここ(グーグル・マップ・データ))に滞在している。この書簡は、そこから京都に既に移っていた井川へ宛てたものである。

「江尻」この中央の南北の海岸線(当時はもっと内陸にあったものと推定される)の広域地名と思われる。北の現在の内陸に「江尻町」があり、反対の南の内陸位置に「不二見小学校」がある。

「愛鷹(あしたか)の連嶺(れんれい)」静岡県東部、富士山南隣に位置する火山愛鷹山(あしたかやま)。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰を指し、「愛鷹山塊」或いは龍之介の言うように「愛鷹連峰」とも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「靴をはいて泳ぐ」女性やハイカラを気取った男子が足や蹠(あうら)を傷つけるのを嫌ってゴムやズック製の靴を履いていたものか。そうでなくても日本の当時の上流階級の海水浴客は、上下ともかなりロングな海水着を着て、身体を隠して泳いだ。それは、かの夏目漱石の名作「こゝろ」の冒頭(現行の「先生と私」の第二章。リンク先は私の初出版注釈「心」)で、

   *

大分多くの男が鹽(しほ)を浴びに出て來たが、いづれも胴と腕と股(もゝ)は出してゐなかつた。女は殊更肉を隱し勝であつた。大抵は頭に護謨製(ごむせい)の頭巾を被つて、海老茶や紺や藍の色を波間に浮かしてゐた。

   *

でよく判る。この「先生」と学生「私」の鎌倉海岸でも邂逅については、私は明治四一(一九〇八)年の八月に比定している。詳細は私の『「こゝろ」マニアックス』の後半の作品内時系列の推理部分を参照されたい。

「ダンヌンチオ」はファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで知られるイタリアの詩人で作家のガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。本名はガエターノ・ラパニェッタ(Gaetano Rapagnetta)。本邦では「ダヌンツィオ」「ダヌンチオ」とも表記する(以上はウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」に拠る)。

Triumph of Death」ダヌンツィオの代表作で一八九四年発表の小説Il Trionfo della Morte(「死の勝利」)。私は読んでいないので、「ブリタニカ国際大百科事典」の記載を引く。快楽主義者である主人公ジョルジョ・アウリスパがイッポリタという女性との恋愛に惑溺し、次第に自分の感覚までも疑い始め、最後には死のみが女の情熱に勝利し得ると悟って、イッポリタを海岸に誘い出し、彼女を抱いて海に沈むという物語。しかし、小説の筋立ては必ずしも統一のとれたものではなく、寧ろ、美文による音楽的詩的効果に力点がおかれている。作者は自著の膨大な小説群を「百合のロマンス」「柘榴(ざくろ)のロマンス」「薔薇のロマンス」という種類に書き分け、この「死の勝利」は「薔薇のロマンス」三部作の最後の作品としている。全般にニーチェの超人思想の影響が色濃く表われている。

「パッセイジ」原文はご覧の通り、英文。「経緯」や「推移」だが、作品を音楽に比喩しての「楽節」の意の方がしっくるくるように私は思う。

「ゴルキイ」原文は英語(ラテン文字転写)。社会主義リアリズムの創始者とされるロシアの作家マクシム・ゴーリキー(Макси́м Го́рький 一八六八年~一九三六年:本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ(Алексе́й Макси́мович Пешко́в)。ペンネーム「ゴーリキー」(Го́рький:旧綴り:Горькій)はロシア語で「苦い」の意。

Malva」「マールワ」(女性名)。一八九七年にゴーリキーが発表した短篇。井上征剛氏の論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》: 現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」(PDF)の中に、歌劇「夢見るゲルゲ」でツェムリンスキーが素材検討した本作についての梗概が載るので引用させて戴く。

   《引用開始》

妻と息子のもとを去って海岸にやってきて、網元の見張り役として働くワシーリイは、奔放に生きる若い女性マールワを自分の情婦として扱っている。そこに、息子のヤコヴが現れ、やはり漁師として働き始める。マールワはヤコヴにまとわりつき、一方でワシーリイから心を離したような態度を取ったり、逆にあらためて誘惑したりするので、ワシーリイは気が気でない。やがてヤコヴもマールワに魅了されてしまい、ワシーリイから彼女を奪う決意をする。そこに、漁師として長く働いており、村から来たワシーリイを嫌っているセリョージカがつけこむ。彼はマールワにはたらきかけて、ヤコヴがワシーリイと対決するように唆させる。ふたりはセリョージカとマールワの計略に嵌って喧嘩を始め、ヤコヴがワシーリイを殴り倒す。失意のワシーリイが村へ帰る決意をする一方で、ヤコヴは意気揚々とマールワに求愛するが、マールワはヤコヴを軽くあしらう。ワシーリイはセリョージカに真相を知らされて怒りに震えるが、どうすることもできない。セリョージカはワシーリイの後釜におさまり、マールワは今度はセリョージカの情婦となる。

   《引用終了》

「第一行に the sea is laughing とかいてある」やはり先に引いた井上征剛氏の論文「アレクサンダー・ツェムリンスキーの《夢見るゲルゲ》: 現実ともうひとつの世界をめぐる歌劇」(PDF)の中に、「ゴーリキイ全集」第二巻(袋一平訳・昭和六(一九三一)年改造社刊)の邦訳が載る(井上氏によれば引用に際して表記を現代語に改めた由の注がある)ので、やはり引用部だけを引用させて戴く。原論文の傍点「ヽ」は太字に代えた。字配はママ。

   《引用開始》

海が――笑っていた。

 熱風の軽い息使いの下で身震いしていて、眩くばかりにキラキラと陽を反射しているさざなみをいちめんに湛えながら、青空に向って、幾百千の白銀の微笑をほほえんでいるのだ。その海と空との間の深い空間には、砂浜の坂になっている岸辺に、一つまた一つと続けざまに駆け上る、陽気な波の拍手の音がただよっている。その音と、さざなみのために幾千倍となって照り反されている太陽の輝きとが、生命の歓喜でいっぱいな不断の運動の中に諧調的に溶け合っている。太陽は、輝いているということで幸福であるし、海は、太陽の大喜びな光を反射しているということで幸福を感じているらしい。

   《引用終了》

「龍華寺(りょうげじ)」静岡県静岡市清水区村松にある日蓮宗龍華寺。「りゅうげじ」が正しい(公式サイトで確認済)。東海の名刹と謳われ、富士山の眺望の素晴らしさから、多くの人に親しまれ、「滝口入道」を書いた、ニーチェや日蓮に傾倒した国家主義者作家高山樗牛(明治三五(一九〇二)年十二月二十四日)の墓もここにある。ここ(グーグル・マップ・データ。北北西直近に次の鉄舟寺も確認出来る)。若き日の龍之介は樗牛を愛読していた。本時の訪問を含め、芥川龍之介の随筆「樗牛の事」(大正八(一九一九)年『人文』初出)に詳しい。「青空文庫」の新字新仮名版でここで読める。実は、芥川龍之介にはこの寺の住職夫婦をモデルとしたと思われる小説草稿「絹帽子」が存在する。これは大正五(一九一六)年に下書きが書かれたものを、五年後の大正十年、中国特派の直前に、特別に(他の原稿執筆は旅行の準備のために総て断っていたらしい)『中央公論』のために完成を目論んだ(新全集の「後記」に、当該草稿原稿の末尾に『中央公論』の編者によって書かれた経緯が記されてあり、それによって以上の事実が判明している)が、何故か不明であるが(恐らくは、芥川龍之介自身が原稿の一部に納得のいかない箇所があったものと思われ、龍之介自身が掲載を取りやめるように指示したのではないか)、発表されていない。旧全集に載り、新全集ではそれに、書き換えたものと思しい部分的な第二草稿も紹介されている。草稿と言っても、第一草稿は断片ではなく、全体の結構ははっきりととられており、それなりに「一つの完成作として読むことが可能な草稿」である。初期草稿はまさに署名が「柳川龍之介」となっており、それを抹消して「芥川龍之介」としてある旨も新全集「後記」記されている。これは、近いうちに電子化したいと思っている。

「鐡舟寺」龍華寺と同じ村松にある臨済宗鉄舟寺。ウィキの「鉄舟寺によれば、『飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した堂に始まり、その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという(『久能寺縁起』)。平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄えた』。永禄一三(一五七〇)年、『武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、宗旨も変わり』、『新義真言宗(真言宗根来派)に属することになる』。『江戸時代には朱印寺領として』二百『石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住(住職がいないこと)になって寺は荒廃してしまった』。『その後、旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。そのため鉄舟の書跡の遺品も多い』とあるから、龍之介の目当てはそれであろう。

「種豆南山下、草長豆苗稀」陶淵明の「歸園田居 五首」(田園の居に歸る)の「其三」の冒頭の二句。

   *

 

種豆南山下

草盛豆苗稀

晨興理荒穢

帶月荷鋤歸

道狹草木長

夕露沾我衣

衣霑不足惜

但使願無違

 豆を種(う)う 南山の下(もと)

 草 盛んにして 豆苗(たうみやう)稀れなり

 晨(あした)に興(お)き 荒穢(かうゑ)を理(ととの)へ

 月と帶(とも)に 鋤(すき)を荷(にな)ひて歸る

 道 狹くして 草木(さうもく)長じ

 夕露 我が衣を霑(ぬ)らす

 衣の霑(ぬ)るるは惜むに足らざれど

 但(た)だ 願ひをして違(たが)ふことを無からしめよ

 

   *

「1・Aの手紙  その三」この書簡は岩波旧全集には所収されていない(或いは新全集には含まれているかも知れぬが、確認出来ない)。問題は、この書簡が書かれた時期であるが、内容から見て、これは前の書簡よりも前、大正元(一九一二)年八月の夏季休業中、同月十六日から友人(中塚癸已男(明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年:「きしお」と読むか)と思われる。鷺只雄年譜(「年表読本 芥川龍之介」一九九二年河出書房新社刊)には『一高に合格した友人(未詳)二人で』とあり、彼は二浪してこの年に一高に合格しているからである。彼とは槍ヶ岳にも一緒に登攀している府立一中時代からの古い友人で、後に山一證券調査部に勤務した)と二人で、信州・木曾・名古屋方面の旅に出た時のものである。新全集の宮坂覺年譜によれば、同八月十七日には御嶽山に登攀、翌十八日頃には名古屋に到着した模様で、二十日には名古屋を発ち、帰宅(新宿)している。

「偕楽亭」不詳。古い資料を見る限り、名士の歓迎会や相当な人数の祝賀会などが、ここで行われているから、名古屋市内にあったかなり大きな、有名な料亭かレストラン(「ヴエランダ」「あいすくりいむ」)と推定されはする。]

 

2018/01/13

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「四」

 

     

 

 ある日戸棚の中に蔵(しま)って置いた行李を出してそのなかの物を検べた。

 いろいろの日記だの、記録だの、スケッチブックだのと一緒に古い手紙がたく山入っていた。尤も用事の手紙は其用事が結了した後は存在の価値を失ったものと認めて引裂いてしまうて、残っているのは純粋な書信とも云う可きものばかりであった。

 その手紙の中には高等学校にいたころ出来た友人からの便りも大分あった。向(むこう)が陵(おか)の自治寮で起臥(おきぶし)を共にした友人の中でその後も書信を往復している四人の手紙がかなり沢山積っていた。A君、Ⅰ君、F君、N君と呼ぶことにする。[やぶちゃん注:「向(むこう)が陵(おか)」旧制第一高等学校の別名。「向陵(こうりょう)」とも称した。東京都文京区向丘にあったことに由来し、「旧制第一高等学校寮歌」の第一番は「向が陵の自治の城、サタンの征矢はうがちえで、アデンの堅城ものならず、こもる千餘の大丈夫は、むかし武勇のほまれある、スパルタ武士の名を凌ぐ。」である。]

 Aは東京の大学の英文科にいる。[やぶちゃん注:これが芥川龍之介である。]

 Ⅰはおなじ大学の史学科、Fは哲学科にいる。[やぶちゃん注:「I」は後に歴史学者・東洋学者となった石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)。千葉市出身。底本後注には『石田静之助』とあるが誤植である。「F」は後の哲学者藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)。愛媛県出身。ドイツ留学後、甲南高等学校教授。孰れも芥川龍之介とも友人。]

 Nだけは京都の大学の法科に籍を置いている。[やぶちゃん注:長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)。高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)出身。京都帝国大学法科大学を卒業後、日本郵船株式会社に入社し、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集、特に芥川龍之介も好きだったブレイクの関連書の収集に力を入れた。帰国後に武蔵高等学校教員となった。昭和四(一九二九)年、京都帝国大学学生主事に就任、昭和二〇(一九四五)年、山口高等学校の校長となって山口大学への昇格に当った。昭和二十四年には京都市立美術専門学校校長となり、新制大学への昇格に当り、翌年、京都市立美術大学の学長に就任している。]

 この四人はみなかっきりと互いに異った性格を有(も)っている。[やぶちゃん注:太字は傍点「ヽ」。]

 Aは芸術を生活の中心として生きている。生れは東京である。

 Ⅰは驚嘆すべき記憶力の所有者でその生命は学問の研究に存している。生れはやはり東京である。

 Fは一切の努力の方向を道徳に向って集注せしめようと努めている人間である。伊予の生れである。

 Nは信仰の人である。彼は多くの事柄をキリストに結びつけて考える癖がある。土佐の人である。

 僕がこの四人に対する関係も亦彼らが友人であると云う点に於いて共通している外はそれぞれ小さからぬ差異がある。

 僕は彼等が二三年前に寄越した古い手紙をして彼れらの個性を語らしめたいと思い付いた。

 

  1・Aの手紙   その一

 上野の音楽会の切符を三枚もらったから君と僕と僕の弟と三人できゝに行った。楽堂の一番高い処にすわってまっていると合唱がはじまった。非常に調子はずれな合唱である。誰かゞ、あれは学習院の生徒のだからあゝまずいんだと云った。そのうち妙な女が出て来た。桃色のジュボンをはいて緑色のリボンをつけている。其女が「私は井上の家内であります」と云った。はゝあ俳優の井上の細君だなと思っていると、女は「これから催眠術を御らんに入れまする」と「る」に力を入れて云うかと思うと妙な手つきをして体操みたいな事をやりはじめた。よくみると女のうしろの台の上に小さな女の子が二人礫(つぶて)[やぶちゃん注:これは「磔(はりつけ)」の誤り。本章最後に附した注の原書簡本文を参照。]のように両手をひらいて立っている。それが手を動かすにつれて眠るらしい。そのうちに何時の間にか僕の弟が段を下りて女のそばへ行って一緒に成って妙な手つきをしている。何故だか知らないが、「これはいかんあの女は井上の家内だなんて云って実は九尾(くび)の狐なんだ」と考えたから、君にどうしたらいゝだろうと相談した。其答が甚だ奇抜である。「狐と云うものは元来臆病なもんだから二人で一度に帽子をぶつけてわっと云えばにげるにきまっている」と云うのである。そこで其通りに実行した。すると果して女は白い南京鼠程な狐になってストーブの下へきえてしまった。[やぶちゃん注:「南京鼠」(なんきんねずみ)はハツカネズミの飼養白変種。愛玩用及び実験用。]

 それで目がさめた。近来に無い愚劣な夢である。

   ………略………

 イエーツを送った。義曲(ぎきょく)[やぶちゃん注:「戯曲」の誤り。同前。]は少ししらべている事があるので送れない。

 僕は郵便制度に迷信的な不安を持っている。其上F君からの便りが途中で紛失してから一層物騒になった。本がついたら面倒でもしらせてくれ給え。聊(いささか)心配になる。

 此間ベルグソンの「笑」をよんだ。理屈が割合にやさしかったのでよくわかった。よくわかったから面白かった。

 面倒くさいな。書くより逢って話しをした方が遥に埒があく。僕は君に話す事が沢山ある。一日しやべってもつきない程沢山ある。

[やぶちゃん注:柱の「1・Aの手紙   その一」は一字下げであるが、後の同様の柱が二字下げであるので、それに合わせておいた。さて、この手紙は大正四(一九一五)年(この年次は推定。後で問題にする)十二月二十一日田端から井川恭宛で旧全集書簡番号一九二(転載掲載。恐らくは恒藤の著作から)である。以下、全文を引く。

   *

獨乙語の試驗一つすまして休みになつた

毎日如例 漫然とくらしてゐる 昨日は成瀬のうちへ行つて 久米と三人 暖爐のまはりに椅子をならべて一日話しをした 久米のかいてゐる戲曲の慷概[やぶちゃん注:「慷」はママ。「梗」の誤字。]もきいた 成瀨もやがて小説をかくと云ふ事であつた 無能なら僕は無能なるまゝに此休みも漫然と本をよんでくらさうと思ふ

 

上野の音樂會の切符を三枚もらつたから君と僕と僕の弟と三人できゝに行つた樂堂の一番高い所にすはつてまつてゐると合唱がはじまつた非常に調子はづれな合唱である誰かゞあれは學習院の生徒の合唱だからあゝまずいんだと云つた そのうちに妙な女が出て來た桃色のジュポンをはいて綠色のリボンをつけてゐる 其女が「私は井上の家内であります」といつた はゝあ俳優井上の細君だなと思つてゐると女は「これから催眠術を御らんに入れまする」と「る」に力を入れて云ふかと思ふと妙な手つきをして體操みたいな事をやりはじめた よくみると女のうしろの臺の上に小さな女の子が二人 磔のやうに兩手をひらいて立つてゐる それが女の手を動かすにつれて眠るらしいそのうちに何時の間にか僕の弟が段を下りて女のそばへ行つて一緒になつて妙な手つきをしてゐる何故だかしらないが「これはいかんあの女は井上の家内だなんて云つて實は九尾の狐なんだ」と考へたから君にどうしたらいいだらうと相談した 其答が甚奇拔である「狐と云ふものは元來臆病なもんだから二人で一度に帽子をぶつけてわつと云へばにげるにきまつてゐる」と云ふのであるそこで其通りに實行した すると果して女は白い南京鼠程な狐になつてストーブの下へきえてしまつたそれで目がさめた 近來にない愚劣な夢である

東京の大學ぢやあローレンス先生の御機嫌をよくとらなくつちやあ駄目ださうだ「さうだ」と云ふが之は皆先輩が「だ」と云ふのを君に傳へる爲に「さうだ」と謙遜したんだから確な事實として駄目なのである一體先輩たちが此樣な不合理な事の行はるゝのを默過するのみならず後輩をして其顰に習ふべく勸告するに至つては言語道斷であると思ふ 卒業論文はキーツ以後に下つては及第しないワイルドをかいて一番びりで卒業した人の如きは僥倖の大なるものである其上古代英語中世英語を學ばざるものは駄目で研究室に出入してチョーサアやスペンサーの質問をローレンスにしないものは駄目である英文の助手に井手と云ふ文學士がゐるが机の上ヘワイルドをのせておいたらローレンスが來て眉をひそめながら「不肖ながら自分は未こんなものに頭をわずらはされる程愚にかへつてはゐないつもりだ」ときめつけたそこで井手君は爾來ワイルドは悉机のひき出しにおさめて よまないふりをしてゐると云ふ話しである もう少し尊王攘夷をやらなくつちやあ駄目だと思ふが下手に動くと却つてひどい目にあふからこまる

山宮さんの如きは此點に於ては成功者で字の形までローレンスをまねて得意になつてゐる

松浦さんの講義も少し座談めいてゐる 夏目さんの文學論や文學評論をよむたびに當時の聽講生を羨まずにはゐられないどうしてかう譯のわからない世間だらうと思ふ

 

イエーツを送つた 戲曲は少ししらべてゐる事があるので送れない

僕は郵便制度に迷信的な不安を持つてゐる其上藤岡君からの便りが途中で紛失してから一層物騷になつた 本がついたら面倒でもしらせてくれ給へ聊心配になる

 

此間ベルグソンの「笑」をよんだ 理屈が割合にやさしかつたのでよくわかつた よくわかつたから面白かつた 面倒くさいな かくよりあつて話しをした方が遙に埒があく僕は君に話す事が澤山ある一日しやべつてゐてもつきない程澤山ある

 

城下良平さんが遊びに來たから筆をすてる皆さまの健在を折る

    十二月廿一日午後

   恭   君 梧下

   *

さて、の旧全集に推定年次は誤りである。何故なら、これでは、この手紙が芥川龍之介の松江訪問に後に出されたことになってしまうからである。新全集の宮坂覺氏の年譜を閲するに、新全集では恐らく前年、則ち、大正三(一九一四)年に正しく移されているように思われる(私は新字体で気持ちの悪い新全集の書簡巻は所持しない)。この推定年次の誤りは底本の編者も気づいており、やはり大正三年十二月説を注で主張している。

「イエーツを送った」大正三年の三月の井川と書簡のやり取り(旧全集書簡番号一二三・一二五)によって芥川龍之介が井川に『新思潮』でアイルランド文学号を出す関係から、ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats 一八六五年~一九三九年)のThe Secret Rose(「神秘の薔薇」一八九七年)を借りていることが判るので、それを返送したことを指しているようである。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「三」

 

     

 

 あさ日が向いの岸の高い樹々の梢を漏れて、濠の水のうえに落ちて来る。夙くめざめた人が棹をさして徐(しず)かに濠のうえに船をすべらせて往った後には、水がゆんらゆら何時までも揺(うご)いていて、そのうえに落ちる日の光りの反射をこちらの家の椽に向っている壁や天井に投げあげる。反射された光りは天井に沿い壁を伝って彩(あや)も無くめまぐるしく乱れ騒ぐ。

 弟が靴を穿きゲートルの釦(ぼたん)をはせて出て行ったあとには、母が洗いものをしたり家の掃除をしたりする。それがすむと円いめがねをかけて一しきり聖書をよんでいる。それもすませると今度は押入からつぎ布(き)れや針箱を出して縫物をはじめる。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]

 僕はとなりの部屋で気の向いた書(ほん)をよむが、じきに飽いて散歩に出かける。家の前を一寸曲がって櫨(はじ)の木の生えている川沿いに行く。[やぶちゃん注:「櫨(はじ)」のルビはママ。双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum のこと。或いは、松江では「はぜ」を「はじ」と呼ぶのかも知れぬ。]

 明るい耀やかしい朝の日光が一杯にそゝいで作物の緑りを鮮かに浮き立たせている畑のなかで、家庭学院の少年たちがよく畑(はた)を打っている。きのう今日は周囲の杉垣を長い鋏で苅り込んでいた。[やぶちゃん注:「家庭学院」底本の後注に『松江城下西側稲荷橋の近くにあった少年厚生施設』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。稲荷橋西詰めの角の辺り。]

 彼れ等のいずれもがそれ夫(そ)れその生涯に附きまとう何らかの暗い影を持っている為にそこの建物に収容されているのであろうが、活発なあさの日の光りの躍動と元気好げな早朝の労働とは、そう云ったようなくらい影を痕も無く消して、同じ年配(としごろ)の少年たちの誰れもが享け得る幸福を平等に彼れ等のうえにもやどらせているように思われた。[やぶちゃん注:「それ夫(そ)れ」のルビはママ。]

 城見畷(しろみなわて)の方をながめながら稲荷橋を渡って御城内へ入って行くと急に湿めやかな露をふくんだ草木(そうもく)の気が冷(ひ)いやりと迫って来る。片側は雑木や竹笹の密生している崖であるが、片側はどれも是も屋根庇(ひさし)の朽ちた古い家がまわりに生籬(いけがき)をめぐらして離ればなれに立っている。その薄暗い玄関の戸口から出て、傾きかゝつている門をくぐり、苔蒸した石段を踏んで、どんなさびしいすがたの人が下りて来るだろうかとうつかり想像がはたらき始める。[やぶちゃん注:昔、芥川龍之介の俳句研究で非常にお世話なった「松江一中20WEB同窓会・別館」(サイトリンクの一番下に私のサイトが紹介されている(但し、旧リンク))の塩見?城見?を参照されたい。現在の松江市北堀町の中央附近(グーグル・マップ・データ。小泉八雲旧居に近い)の呼称である。]

 血の気の褪せた青白い顔に過ぎ去った時代の俤(おもかげ)をただよわせ、細く切れた眼のふかい暗いひとみの中に荒廃の底に沈んで行く一切の古いものの悲しみを湛えている様な肩のやせた女のかたちが影のように目の前をとおりすぎる……そうした幻影を苦も無く裏切って現(うつつ)の人があらわれる事をないしょで怖れながら独り歩みを早めて行く。

 高い高い松の木と椎の木とが抱き合いながら路の上に蔽いかぶさるように生えている下をとおってギリギリ井戸のあたり迄来ると今まで自分が爽かな夏の朝の涼しさにひたひたに浸りながら歩んで居たんだと云うことを、俄かにそして泌(し)みじみと意識する。[やぶちゃん注:「ギリギリ井戸」底本の後注によれば、城内の『馬洗池の向かいにあった井戸』とあるから、附近にあった井戸と思われる(グーグル・マップ・データ)。]

 稲荷橋を渡ってからめがね橋に来るまでの城の裏手の道、灌木と荊棘(いばら)に蔽われている城の石垣、その下に浮き藻を揺(ただよ)わせてあおぐろく淀んでいる濠の水――廃滅と静寂とがつめたい頬を摺り合せてそれ等のものゝ間に「過ぎし世」の悲しみをなげき歌うている。[やぶちゃん注:「めがね橋」松江城の東にある北惣門橋のこと((グーグル・マップ・データ))。ここはかつて石造アーチ橋であった(現在は木製の平板な橋に架け替えられてしまっている)。]

 螺旋形(らせんけい)の馬車道だのペンキ塗の興雲閣(こううんかく)だのが、城跡や、城跡の持っている情趣やと没交渉の存在の権利を不当に要求している城山の表側の方へは帰ってから未だ一度も歩みをすゝめたことがない。[やぶちゃん注:「興雲閣」旧松江城内南端にあり、底本後注によると、明治三一(一八九八)年に『松江城二の丸に工芸陳列所として建立された木造二階建ての洋館』で、明治四〇(一九〇七)年には『皇太子殿下』(後の大正天皇)『行啓の際、御座所となった』とあり、現在、松江郷土館となっている。(グーグル・マップ・データ)。]

 

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「二」

 

     

 

 お花畑の町はさびしい町である。[やぶちゃん注:「お花畑」底本の後注に『松江城(千鳥城)西麓の内堀に沿った町の名。井川芥川を迎えるために、松江市中原町一六七の堀端の一軒屋を借りた。この借屋は、前年』、かの作家『志賀直哉が三月滞在していた家で、「濠端の住まひ」』(大正一三(一九二四)年十月執筆。大正十四年一月号『不二』初出。所持する岩波書店「志賀直哉全集」に拠る)『の舞台ともなった家である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 くらいお濠の水を隔てゝ城山の杜(もり)と対(むか)い合っている小(ささ)やかな家のうちに僕は母や弟とこのあけ暮れをすごしている。

 幼かった頃、おさない心に取ってはロマンスと一種の恐怖との宿り所であった城山は、今でもそうした感じの痕跡の或るものを心に刻みつけている。

 透徹した朝の静かさの好きな僕は早くから起きて庭へ下りる。紫陽花の花がうつゝない空色の葩(はなびら)を簇(むらが)り咲いている井戸端で顔をあろうたのち庭先の石段を二つ三つ下りて蹲踞(しゃが)んだ儘じっと濠のうえを眺める。[やぶちゃん注:「簇」は底本では「竹」(かんむり)ではなく(くさかんむり)であるが、ブラウザでは表記出来ないので、一般的に知られている漢字で示した。]

 鈍い緑りいろに澱んだ水の面からほの白いあさ靄が慄(ふる)えながら立ちのぼって、向いの岸のさゝ藪や水草やのかたちを曖昧にする。考えるとも無く暁け方に見た夢のなかの事件の発展をねぼけ気に頭の中に思いうかべてうっとりしている瞬間に、向いの杜の蔭深く夜を明かした鶯がはやくからすゞしい声でほゝうほけきょと啼く。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。]

 毎日聴き馴れた声だけれど朝は復(また)新たな音(ね)にきこえると云ったように樹や笹やみず艸や濠の水やが恍惚(うっとり)と聞きとれる。

 石段の両側から無花果(いちぢく)の木と桑の木とが枝を交していて、毎あさ定(きま)りて蜘蛛が、そこに蹲踞む僕の頭のうえあたりに網を張っている。ほそい繊(しなや)かな糸を巧みな均整の角度に張り渡してつくった手際をほこるように、すべての糸の輳(あつま)る中心に八つの肢(あし)をそろえながら逆さにとまってそのふしぎな虫は黒に黄のだんだらの模様のある腹を杜のこずえから落ちて来る朝の光にさらしている。

 頸を延ばして濠の上の方をながめると両岸の樹木の連なりが次第に狭(せば)まっている端(はて)に稲荷橋の際の松の木が見えて、その梢につゞいて白鹿(しらが)山のなかの一つの峯が鋭くとがった尖端を軟かな藍いろにうるむ暁の空に突き立てゝいる。[やぶちゃん注:「稲荷橋」(グーグル・マップ・データ)の中央上部で松江城内に繋がっている橋。「白鹿(しらが)山」松江市法吉町にある標高百四十五メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。]

 心がしばらくの間一切の濁った内容を振り捨てゝ、生まれたまゝの明るさに透きとおる、物と心とが溶け合うと云う純一無雑のふかしぎの世界の光りがちらと現われて、じきに限り無く遠いところへ消えて行ってしまう。

 石段をのぼり庭を五六歩来て板椽に立ちあがり「おいもう起きろ」と蚊帳のなかの弟を呼びにおこすと、「はあん」とねむそうな声で返事をするが、それからよっぽど経たなければ起きて来ない。[やぶちゃん注:「板椽」「いたえん」。]

 やっと起きて来たかと思うと僕が読みさしておいた新聞を腹這いに成って読みはじめる。講談の愛読者で毎朝欠かさずに眠い眼をこすりこすり読む。それと午后中学のグラウンドへ行ってベースの稽古をやる事とだけはまったく熱心なもので誰にも頼まれないでも欠かしたことはない。

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 始動 / 「一」

芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」



Akutagawaragyouikawaga

[やぶちゃん注:芥川龍之介は東京帝国大学英吉利文学科二年終了の夏季休業中であった大正四(一九一五)年八月三日(東京午後三時二十分発。四日早朝に京都を経て、この日は城崎に宿泊、松江到着は五日の午後四時十九分)から二十一日(松江出発。当日は京都都ホテルに宿泊し、二十二日に田端の自宅に帰宅した)まで、畏友井川恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷手を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しをつけた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(従って「松江印象記」という題名は芥川龍之介自身によるものではないと考えるべきである)。この芥川龍之介の書いた部分は、実は私が昔、既に『芥川龍之介「松江印象記」初出形』(正字正仮名版)として電子化している。ちなみに、この時が「芥川龍之介」という筆者名を用いた最初であり、この折りの水の町松江の印象は芥川の決定的な文学的原風景として残ることとなったと言ってよい。本篇はその芥川龍之介の文章も含めた井川恭著「翡翠記」の全篇の電子化プロジェクトである。「翡翠記」は最後まで読んで戴くと判るのであるが、これ、全体が、実は、井川恭の親愛なる無二の友芥川龍之介への、非常に繊細にして幽遠なオマージュの形式を採っている作品である。なお、題名の「翡翠」は作中、井川が見かける、松江の濠を翔る翡翠(かわせみ:鳥綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis)を指すのでルビを振っていない点、以下の底本などでも読みを一切問題としていない点から考えても、「かはせみ(歴史的仮名遣)」(現代仮名遣:かわせみ)ではなく、「ひすいき」と読んでいると採る。「ひすい」はそれでも第一義が鳥のカワセミの雌雄を指すから、何ら、音読みして問題ないからである。

 芥川龍之介の畏友井川(恒藤)恭(いかわ(つねとう)きょう 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年:井川は旧姓。婿養子により大正五(一九一六)年十一月に改姓)は島根県松江に、旧津和野藩士士族の出であった島根県庁の官吏で郡長も勤めた井川精一(漢詩人でもあり、号を雙岳と称した)の第五子次男として生まれた。後に法哲学者で法学博士となった。大阪市立大学学長及び名誉教授(昭和二一(一九四六)年)。戦前に於ける日本の代表的法哲学者として知られ、京都帝国大学法学部教授時代、思想弾圧事件として著名な「瀧川事件」で抗議の辞任をした教官の一人であった。芥川龍之介より四歳年上であるが、中学卒業後、体調を崩し(内臓性疾患)、三年間の療養生活を経て、恢復の後、文学を志して上京、『都新聞社』文芸部所属の記者見習をしながら、第一高等学校入学試験に合格、第一部乙類(英文科)に入学した。この時、芥川龍之介と同級となり、終生の親友となった。大正二(一九一三)年、一高第一部乙類を首席で卒業後、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した(文科から法科への進路変更については別な文章で、芥川との交流によって自身の能力の限界を知ったからである、と述べている)。京都帝大進学後も龍之介との文通(新全集で現存三十八通に及ぶ)による交流が続き、芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしている。なお、私は先日(二〇一八年一月二日)、恒藤の「友人芥川の追憶」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』(「芥川龍之介追悼号」:芥川龍之介自死(昭和二年七月二十四日)直近の翌々月号)初出)も電子化している

 底本は一九九二年寺本喜徳編島根国語国文会刊によって復刻された井川恭著「翡翠記」を底本とした。但し、これは新仮名遣・漢字新字体表記・編者によるパラルビ化が施されたものである。私のポリシーから言うと、歴史的仮名遣で漢字は正字としたいところであるが、原本を持たないから、底本に従った。但し、癪なので、編集権への抵触を避けるためにも、ルビは私が必要と判断したもののみに限った。踊り字「〱」は正字化した。一部にストイックにオリジナル注を附した。

 芥川龍之介の書いた部分は、先に示した通り、私の作成した正字正仮名版『芥川龍之介「松江印象記」初出形』があるので、そちらも、こちらと合わせて併読されんことを強くお薦めする。

 なお、冒頭に掲げたスケッチは、底本の見開きの著者と書名の下に、編者によって恒藤恭「急友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)より転載された、井川恭がこの旅(大正四(一九一五)年八月)の途中の出雲海岸で描いた「裸形の芥川龍之介」のスケッチ画である。【2018年1月13日始動 藪野直史】]

 

 

  翡翠記

 

               井川 恭


     

 一年振りにふらりと松江に帰って来た。

 あらゆる身の周囲の物たちは、それぞれに遠慮無く自己の存在を主張して、僕のあたらしい生活のうちに一角の領域をつくり始めた。

 わけも無く十日あまり経ってしまった。そのあいだに僕の心は、此旧くて新らしい環境に対してぴったりと調子を合せながら思うところへ動いて行く工夫を重ねて、いつかしら巧みな成功を贏(か)ち待ていた。

 この環境には到るところに豊富な「時間」が充ちていた。他(ほか)に贅沢を為る途を知らない僕の心は、このゆたかな賚賜(たまもの)を思いの儘に使って奢侈(おごり)をこゝろみる方法を考えついた。

 人口が無暗に膨張し、生産が止め度も無く過剰と成って、労力も貨物(かぶつ)も次第に低い価値(あたい)に見積られる傾向の在る今の世の中では、伸縮の融通の利かない時間と云うものゝ価値は殊に高かる可き筈である。斯(こ)う考えて見ると「時間の賛沢」に金箔が附いて大変ありがたいものを授りでもしたように愚かな心が得意に成った……「日長うして太古の如し」と歌った昔の人は疾(と)うからそんな奢りに馴れていたのだに。

 斯うした奢りに思いあがった心がいつしか周囲の物にしっくりと調子が合うように成った気楽さに自己表現を求めはじめた――斯うしてこの一篇はうまれ出したのである。

 だから時間と云うものを分秒の微に圧搾して出来得るだけ充実した収穫をおさめたいと考えるような人たちは決してこの記録を読んでいたゞかないが好い。と――斯うおろかな心が僭越にもつぶやいている。[やぶちゃん注:太字「しっくり」は底本では傍点「・」。以下で違った傍点が用いられるので注意。

 でも、そうは云うものの自分だって現実に対する執着からまったく脱離したと云うわけでは無い。むしろ反対に現実を強く緊(し)っかりと把握し度い為に、時間の観念の強迫から逃れ出ようとあせっているのであると――斯うその後から愚かな心が弁解がましいことを附け加え度がる。[やぶちゃん注:「度がる」「たがる」。]

 かの夏艸(ぐさ)は茂り度いだけ茂る。この記録は、かき度いだけ記(か)くと――再びそれに続けておろかな心は我儘な言い草を言う。

 こんな事を呟く愚かな心は現在の境遇に置かれる前一と月ばかりの間と云うものは、或る事情からして重い且つ苦しい圧迫の下(もと)に喘いで渇ける者が水を求めるように 「時間」の欠乏のことばかり考えていた。

 その事情とは多くの人には経験があるであろうが、他でも無い試験というものであった。やがてその圧迫は取り除かれたが、根がおろかな心のことであるから、忽ち嚮(さき)の「時間」の不足になやんだ境遇を忘れてしまって贅沢な真似を為はじめた。しかもいろいろの勝手な理屈をそれに附け加えて安心しようと努めて居る……愚かなこゝろよ!


 

芥川龍之介 手帳8 (8) 《8-8》

《8-8》

Une femme throws a bag onto the net-shelf. Delicat.

[やぶちゃん注:「Une femme」のみフランス語。「一人の女性が(列車の)網棚にバッグを抛り投げる。繊細。」の意。]

 

○棚梨の莟靑める餘寒かな

[やぶちゃん注:ここにのみ載る芥川龍之介の俳句。]

 

○地堺に針金張れる餘寒かな

[やぶちゃん注:ここにのみ載る芥川龍之介の俳句。]

 

○朝日二十の箱の中に螢を入れ穴をあけて送る(空氣を入れる)

[やぶちゃん注:「朝日二十」二十本入りの煙草の銘柄。明治三七(一九〇四)年に「敷島」・「大和」・「山桜」とともに口付紙巻き煙草の銘柄の一つとして販売開始された。広く国民に親しまれた銘柄で、夏目漱石が愛用していたことでも知られる。]

 

Millet 大作――前の川――100圓――私設鐵道の株 賣らず

やぶちゃん注:「種蒔く人」(Le Semeur 一八五〇年が最初で複数あり)「晩鐘」(L'Angélus 一八五七年~一八五九年)「落穂拾い」(Les Glaneuses 一八五七年)などで知られるフランスのバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet 一八一四年~一八七五年)。

「前の川」不詳。ミレーの作では水辺というと、Enfants paysans à un étang d'oie(「鵞鳥の池の百姓の子供たち」)があるが、あれは川じゃない、池じゃて。]

 

○鷄卵湯――甘し

[やぶちゃん注:卵湯(たまごゆ:玉子湯)のことであろう。鶏卵を掻き混ぜて砂糖を加え、熱湯を注ぎかけた飲み物である。]

 

○茶菓子代り――

[やぶちゃん注:旧全集ではここは前とセットで『鷄卵湯。甘し。茶菓子代り。』となっている。卵湯の性質から見ると、新全集の分離(独立項)の方が正しいように思われる。]

 

study

Doctor ―― studio 式窓 疊 天井なくして屋根 矢板石 小刀

[やぶちゃん注:「studio 式窓」当時の写真スタジオにような非常に大きな窓であろう。昔の写真館では人口光やストロボがなく、自然光を使うしかなかったことから、画家のアトリエと同じように北側窓で安定した自然光が降り注ぐようにした傾斜式になっている窓などが採用された。]

 

○遊走腎 紐のゆるめるもの 腫物かと思ふ

[やぶちゃん注:「遊走腎」(ゆうそうじん)は内臓下垂症の一種。腎臓は呼吸・体位により正常人でも生理的に二~五センチメートルの範囲内で上下に移動するが、この範囲を超えて移動する場合を指す。一般に右腎に著明で、二十~四十歳の体形的に痩せた女性に多くく見られるとされる。腎臓又は腰部の鈍痛時に仙痛・頻尿・排尿痛などの膀胱の症状や悪心(おしん)などの消化器的症状の他、種々の神経症状をも訴え、血尿・膿尿などが見られることもある。症状が軽い場合は腹帯や肥満療法で軽快することが多いが、症状が著しい場合や、合併症を伴うケースでは腎固定術を行うことがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「紐のゆるめるもの」遊走腎の症状を言っているようだが、よく判らない。]

 

○瓣膜病の故障 肺動脈瘤 大動脈瓣

[やぶちゃん注:「瓣膜病の故障」心臓弁膜症(心臓にある四つの弁(僧帽弁・大動脈弁・肺動脈弁・三尖弁)が炎症や外傷などによって血流を妨げられて心臓の活動に様々な支障を来たすもの)のことを言っていよう。狭窄症(弁が癒合して狭くなり、弁が開く際に血流が妨げられる症状)と閉鎖不全症(弁が閉鎖する際に不完全に閉鎖するため、血液の逆流現象が起きる症状)の二種がある。主に多く見られるのは僧帽弁と大動脈弁のそれぞれの症例で、二つ以上の弁に障害ある場合は連合弁膜症と称する。

「肺動脈瘤」動脈瘤のなかでは非常に稀れで症例報告も少ないが、この瘤破裂は致死的とされる。

「大動脈瓣」大動脈弁は心臓の左心室(模式図では向かって右下)から大動脈への血液の流出路にある弁で、左心室が収縮すると同時に開いて血液を上方の大動脈へ送り出し、左心室が拡張すると同時に閉じて、血液の逆流を防止する。三つの弁尖(べんせん)から成る。]

芥川龍之介 手帳8 (7) 《8-7》

《8-7》

○大工 屍體カイボウ(背高き爲) 洋服や何かこしらへ解剖代の金を使つてしまふ 靴出來る時金なし 靴屋曰「この靴持つて行き所なし 實費にひきとつてくれ」實費もなし

[やぶちゃん注:これは明らかに旧全集冒頭パートにあった、

   *

○大工六百圓に體をうる その金にて洋服靴をつくる 靴出來し時金なし(のんでしまふ)靴は十二文甲高故外にはきてなし 靴屋原料代にてよしと云ふ それもなし 靴屋へきえきし去る

   *

と同じ内容の記事である。しかし、表記通り、別メモ見えるから、芥川はこれを「溫泉だより」(リンク先参照)に採用するに際して、再度、草稿メモとして記したものかも知れない。]

 

○松山――京都へ出て(17 or 8) 日本畫の肖像がきのもとへ弟子入りす 東京へ出る前東京に木なしと思ひむやみに木をスケツチす 東京へ來る 汽車 水兵辨當を買つてくれる 東京へ來る 木あり

○鷄 惡しき卵をうむものは頑健 善き卵をうむのは餌と氣候とにも死すの變にも死す

○母 私生子あり 母の兄弟肺病にて全部死に一人殘る その一人東京にあり(父は隣村にあり 美男 否認す)母傭れ仕事にて生く 娘小學校にあり 「父なし」とからかはる 學校(村はづれの)からかへる時隣村へかへる男あり それを「アレガ父ナリと云ふ(母娘に説明して云ふ アレハ聟ナリシモ働キナキ故オヒ出シタト 日頃コレヲキキシ故云フナリ)男フリカヘツテ娘ヲミル15)ソノ母子ノ家正月元日の夜夜番にあたる(夜番トハ四戸ヅツ拍子木マハリ來ル)(女ハ雪袴)「オラヤンノ所ハ元日ノ夜ダ」安代(二人前ハタラク ヌヒ物ウマシ)sexual ノ發達早シ 村人and 教員藤村詩集ノヌキ書キヲ教フ

[やぶちゃん注:「藤村詩集」は島崎藤村の詩集で明治三七(一九〇四)年刊。「若菜集」 (明治三〇(一八九七)年刊。以下同じ)・「一葉舟」(明治三十一年)・「夏草」(同前)・「落梅集」明治三十四年)の合本。巻頭に『遂に新しき詩歌の時は來りぬ』に始まる序文を付してあり、明治浪漫主義の最初の開花を鮮かに誇示したとされる詩集。伝統の詩語や韻律を生かしながらも、近代的自我を基底とした官能解放・恋愛賛歌・唯美的芸術賛美の感情を詠い、生活的現実的な詩風へと変っていく過程も合本化によって観察出来る。本詩集刊行以後、藤村は詩から散文へと移ることとなる(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

芥川龍之介 手帳8 (6) 《8-6》

《8-6》

○見舞人醫師をとらへてきく(hypocrisy――家族をつる爲)

○院長病人も知らず荅ふ 責任者の荅は無責任

○偶然爲になりし失策のみ明かす(doctor hypocrisy

[やぶちゃん注:「hypocrisy」偽善・偽善的行為。語源はギリシャ語の「計算ずくの行為・演技」の意から。

「家族をつる爲」意味不詳。

「荅」は「答」に同じい。

「偶然爲になりし」意味不詳。]

 

○ヂフテリア――一二週間 9度(4、5日)。今晩注射すると翌朝なほる

anaphylaxis1000ニ3人)前に同じ馬の血淸をさしてゐる時(esp. や前に血淸をささざるも)起す過敏性 注射後10 or 5分に脈ふへ 呼吸促迫 Zyanose(血色紫になる)夢中になり2 or 3 時間に死す 手當無効 異性蛋白中毒を起す(故に10年以内に注射せしや否やを問ふ)

inflenza ヂフテリアの血淸 antitoxin を起す but 疲れて死す それでも highest authority として何か云はざるを得ざる事あり

[やぶちゃん注:1000」を含め、総てのアラビア数字は皆、縦書の中に横書(縦表記で二ケタ以上は右から左へ表記)してある。以下、特に記さないものはそう理解されたい。これから察するに、ここまでの旧全集版の「手帳」に記されている、横転した半角数字は実は縦書横組みであった可能性が大となったと私は思っている。

「ヂフテリア」
diphtheria」。ジフテリア菌の感染によって起こる主として呼吸器粘膜が冒される感染症。小児に多く、心筋や末梢神経が冒されて重篤に陥ることもあるが、予防接種の普及で減少した。

anaphylaxis」英語。「アナフィラキシー」。人や他の哺乳類に認められる、急性で全身性の比較的重いアレルギー反応の一種。ギリシャ語の「ana」(「反抗して」の意)と「phylaxis」(「防御」の意)」を語源とする。場合によっては、ほんの僅かなアレルゲン(allergen:免疫システムの IgE 抗体(Immunoglobulin E:免疫グロブリンの略。私の母はALSであったが、最初に大量投与を試みたのはこれであった。点滴一本二十万円程であったと記憶する)とは哺乳類にのみ存在する糖タンパク質であり、免疫グロブリンの一種である。が関与する抗原性物質)が生死に関わるアナフィラキシー・ショック(anaphylactic shock)を引き起こすケースがある。アレルゲンの経口摂取や皮膚への接触・特定薬品の注射・薬物や特定物質(蕎麦粉・花粉等)の吸引及び有毒生物(ハチ・クラゲなどの動物や、特定或いは有毒物質を含む植物の棘など)の刺傷(毒液注入)などにより惹き起される。

「馬の血淸」抗血清(ポリクローナル抗体(polyclonal antibody:動物血清から調製した抗体は同じ抗原に対して複数のB細胞が応答するために抗原との反応性が異なる免疫グロブリンの混合物となっていることから「ポリ」と呼ぶ。通常は単一のクローン細胞群が作る一種類の抗体であるモノクローナル抗体(monoclonal antibody)よりも高い反応性を有する)を含む血清。抗血清は多くの疾病患者に対して受動免疫を伝達させるために使用される)の一種。ウィキの「抗血清によれば、「血清療法」とは、馬などの動物に『毒素を無毒化・弱毒化した上で注射し、毒素に対する抗体を作らせ』、『この抗体を含む血清を、病気の治療や予防に用いる方法である。例えば、ニホンマムシやハブの毒素に対する抗体を、馬に作らせる。マムシ等による咬傷の際、この血清を患者に投与して治療する』のがそれである。しかし、馬血清は基本的にヒトにとって異物であることに変わりはないので、投与の際には、先のアナフィラキシー・ショックと遅延型アレルギー反応に対する、十分な注意が必要である、とある。そこには、一九二五年(大正十四年相当。本「手帳8」の記載推定時期は大正一三(一九二四)年から晩年にかけてと推測されている)に、アラスカでジフテリアが猛威を振るった載、犬橇で血清を届けた話は有名、とある。ウィキの「バルト(犬)によれば、『バルト(英語:Balto)は、アメリカの伝説的なイヌぞりチームのリーダー犬』で、一九二五年の『冬、アラスカ北端のノーム市にジフテリアが発生し、血清を市に運ぶ必要があった。しかし』、『低気圧の接近のため風速』四十メートル『の猛吹雪がアメリカからアラスカの陸路を断っていた。救助隊は』二百『頭のイヌぞりチームを作って』十六頭一チームで百キロをリレーする方法で、全行程一千百キロメートルもの距離を『輸送し、市民を伝染の危機から救った。困難を極めたこの行程の、最も困難であり、最も長距離の区間を走りぬいたのは』、『リーダー犬トーゴーのチームであったが、そのチームから血清を受け継ぎ、最後の区間を輸送したチームのリーダー犬がシベリアン・ハスキー(犬種、アラスカン・マラミュートという説もある)のバルトである。その功績を称え、現在ニューヨークのセントラルパークにバルトの銅像がある』とある。

「さしてゐる時」以前に注射している場合。

esp. especially。特別な(ケース)。ここは「特異体質」の意か。

Zyanose」チアノーゼ(ドイツ語)。血液中の酸素が減少して二酸化炭素が増加、皮膚や粘膜が青紫色を帯びる症状。唇・爪・四肢の先などで目立つ。呼吸困難や心臓障害を直接の原因として発症する。]

原民喜「弟へ」(恣意的正字化版)

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和一九(一九四四)年二月号『三田文學』に発表されたものである。原民喜三十八歳の時の作品。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で促音表記がないという事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「弟」は原家七男(民喜は五男。六男六郎は四つで夭折している)の十一年下の敏であろう。

 冒頭前書で「なにしろ中學生相手の僕のことだから」と出るが、原民喜は妻貞恵が昭和一四(一九三九)年九月に発病(糖尿病と結核)しており、小説で食えないので、昭和一七(一九四二)年一月より千葉県立船橋中学校(現在の千葉県船橋市東船橋にある県立船橋高等学校)に英語教師として週三回通勤を始めていた。但し、本篇が発表された翌月には退職している(同年夏頃に朝日映画社嘱託となる。九月、貞恵、逝去)。

 「燕」の「大神宮下の驛」京成電鉄の千葉県船橋市宮本にある「大神宮下(だいじんぐうした)駅」。(グーグル・マップ・データ)。一キロメートルほど西北西に現在の千葉県立船橋高等学校がある。

 「貝殼」の「八千代橋」は大神宮下駅の東直近の海老川に架かる橋。(グーグル・マップ・データ)。

 「牛」の「宮本」は(グーグル・マップ・データ)。「怺へたまま」は「こらへたまま」。堪(こら)えたままで。

 「津田沼」の「菠蔆草」は「はうれんさう(ほうれんそう)」のこと。「生き」は名詞。生きざま。生活のさま。

【2018年1月13日 藪野直史】]

 

 

 弟へ

 

 僕は近頃「無心なるもの」と題して短文をノオトに書溜めてゐる。これは通勤の道すがら、目に觸れた微笑ましいものを、何氣なく書綴つたものにすぎないのだが、それがだんだん溜つてゆくといふことも何となく僕にはたのしいことなのだ。今日はそのうちから、三つ四つ君にお目にかけよう。なにしろ中學生相手の僕のことだから、文章も中學生じみてゐるかもしれないが、まあ笑つて讀んでくれ給へ。

 

 

  

 

 大神宮下の驛では、電車が着くホームの軒に、燕の巢がある。軒とすれすれのところに電車の屋根は停まるのに、燕はあやふく身を飜へして巢に戾る。それにしても、巢の中の仔は電車の雜音でおちおち睡れないであらう。國民學校の生徒を引率した先生が、珍しげに軒の巢を見上げてゐた。あまり天氣は良くないが、平穩な遠足の歸りなのだらう。燕は線路を飛越え、人家の陰へ消えてしまつた。

 

  貝殼

 

 八千代橋の手前の貝殼に埋れたやうな露次は、どこよりも早く夏の光線が訪れる。どの軒下も大概貝殼が積重ねてあり、それは道路の方にも溢れ、奧では盛んに貝を剝いでゐるので、刻々に殖えて行く白い殼で、やがてそこいらは埋沒してしまひさうだ。空の辨當箱を示し、貝を賣つてくれないかと男に尋ねると、あまりいい顏もせず默つて貝を剝いでくれる。それが出來る迄暫く軒下にたたずんでゐると、地面の白い光線がくらくらして、ふと側に子供が立つてゐる。よごれた繪本を展げて、眩しげにこちらを見てゐるのだが、その展げた繪本は南洋の椰子の樹の日の丸の繪で、その中から子供は拔け出して來たやうにもおもへる。

 

  

 

 暑い暑い宮本町の坂。夏の朝、牛はゆつくりゆつくり、このだらだら坂を二つ越えて行く。途中の家畜病院の空地に牛や馬が繋がれてゐるところまでやつて來ると、步いてゐた牛ほもーおと鳴く。繋がれてゐる牛の方は何とも應へない。ある日休暇の兵隊が二三人づれで、繫がれてゐる牛の側に立寄つた。そして一人がそろつと牛の耳を撫でてみた。

 坂を下つて來る牛もつらさうだ。よく見ると牛の鼻のまはりには四五匹の蠅が黑くくつついてゐる。牛はそれをじつと怺へたまま步いてゐるのだ。

 

  

 

 ある朝、坂の下の方から猫の啼聲がだんだん近づいて來た。と思ふうちに後から自轉車がやつて來た。後に函らしい風呂敷包が括り附けてあり、啼聲はその中からするのだ。ところで、自轉車に乘つてゐる人の後姿は、妙に忙しげで、どうも早く片づけてしまひたいといふ風なのだが、哀れな泣聲はなかなか歇まない。自轉車がもう遠ざかつてしまつても、まだその泣聲はまだつづいてゐる。あの坂の向ふは茫々とした畑となつてゐるのだ。

 

  津田沼

 

 上野行に乘替へるため一番線ホームに行くと、そこら一杯に葱・菠蔆草・大根の束をちらかし黑い大きな風呂敷包の山の中に坐り込んで、辨當を披いてゐるもの、襤褸ぎれを綴り合はせて足袋を拵へてゐるもの、女行商人の生きの姿はとりどりであつたが――それも今は既に見られない風景となつた。嘗て、このホームから向のホームを見てゐたら、國民服を着た靑年と若い娘が睦じげに佇んでゐた。その娘の姿は婦人雜誌などのよく出來た繪にありさうな、凛とした姿で、靑空を背景に、並んで立つてゐる男の胸のあたりをたのもしげに見上げてゐるのであつた。

 

  木の葉

 

 烈風が歇んだ野の道を、二三人の子供がパラパラと駈出して來た。背の低い羽織を裏返しに着てゐる、何か興奮してゐると思つたら眼には靑い木の葉をくり拔いて嵌めてゐるのだつた。

 

 

芥川龍之介 手帳8 (5) 《8-5》

《8-5》

○研究所の二階 モデル倒る 皆近よる R 近よるにたへず 外へ寶丹をかひに行く かへりに階下の事務所に女畫師を見る 「水はないか」と云ふ 女畫師さう云ふ時は逆にぶら下げれば好いと云ふ 嫉妬なるべし 後 池の端のカツフエに人の妻となりしモデルとあふ 面やつれ 肉體を知り居る事 不快なり

[やぶちゃん注:この話は芥川龍之介の草稿断片、旧全集第十二巻の「斷片」(編者によるパート名)の「Ⅸ」に「或畫學生の手紙」という編者に仮題された以下に生かされてはいる。

   *

 わたしはこの手紙を上げるのを可也躊躇してゐました。が、きのふの出來事以來、急に勇氣を生じました。

 きのふの午後、わたしはパイプを啣へたまま、研究所の二階を駈け下りて來ました。するとあなたは階段の下に年の若い事務員と話してゐました。わたしはパイプを離しながら、かう事務員に聲をかけました。

 「君、モデルが腦貧血を起したから、水を持つて行つてやつてくれ給へ。」

 あのモデルは美人です。動物的な感じはするものの、兎に角世間並みの美人です。これはいつかあなたとも「美しい牝(めす)と云ふ感じですね」などと常談を言つたことがありました。わたしは格別あのモデルに氣のあつた訣(わけ)ではありません。しかし誰も騷いでゐる外にどうしてやると云ふものもありませんから、寶丹(はうたん)でも買つて來てやらうと思つたのです。あなたはわたしにその話を聞くと、妙にはげしくかう言ひました。

 「寶丹(はうたん)など入りはしない、逆(さか)さにしてゆす振(ぶ)つてやれば好いのに。」

 わたしは正直に白狀すれば、あなたの言葉の残酷なのに多少の不快を感じました。しかし研究所を出るが早いか、忽ち愉快な興奮が湧き上つて來ました。この手紙を上げるのは未だにその興奮を感じてゐるからです。

 わたしはあなたを愛してゐます。どうかこの手紙に返事をして下さい。

   *

しかし、これが元となった決定稿や完成作品のシチュエーションなどは存在しない。この草稿断片は旧全集の後記によれば、「斷片」の「Ⅰ」から「Ⅻ」までが大正一三(一九二四)年から昭和二(一九二七)年までのの逆編年構成であるとあるから、先の「溫泉だより」のメモなどから見て大正一四(一九二五)年四月以降のメモと考えてよい。

「寶丹」(はうたん(ほうたん))は江戸末期に売り出された、赤褐色の湿潤性粉末の気つけ薬。現在の東京都台東区上野にある「守田治兵衛商店」が文久二(一八六二)年に売り出したもので、現在も同商店から販売されている(こちら)。但し、現在は胃腸薬(第三類医薬品)としてである。

「池の端」現在の東京都台東区の西部の池之端(いけのはた)。旧下谷区。南部の一丁目が不忍池に面している。]

 

○靑年伊豫がすりの仕立て下しをきて湯に行く 肌に紺色のこる

[やぶちゃん注:「伊豫がすり」伊予絣。現在の愛媛県で織られる木綿絣(もめんがすり)の総称。松山市周辺が主産地で、「道後絣」の別名がある。一八〇〇年頃(同年は寛政十二~十一年相当)「鍵谷かな」が、久留米絣にヒントを得て考案したとされる。明治後期に最盛期を迎え、夜具地・農作業衣などのほか、着尺地(きじゃくじ:大人の着物を一枚仕立てるための反物のこと。通常は幅三十六センチメートル、長さ十一・四メートルほどで、これを「一反」と呼ぶ)にも用いられた。かつては桐・鶴・亀などの絵絣(えがすり)を特色としたが、今日では十字絣,井桁(いげた)絣などの単純な総絣が殆んどである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

芥川龍之介 手帳8 (4) 《8-4(続き)》

 

○活辯(東京に活動はやらざりし内)長岡へゆく 新派ホトトギスのfilm 每晩來る客 年增の女 樂屋へ通し物が來る(すぐ行くと估券を下げ且連中一同がまき上げる 便宜上始數囘はとりまきをつれて行く もう自分の手の内と思ふ時のり出す)のり出せし時酒肴出づ 活辯がくどかんとする時女からかみをあけ佛壇を指さし「今まで汝を呼びしは亡夫に似し故なり 佛の向養」と云ふ

[やぶちゃん注:「活辯」活動弁士の俗称。活動写真、則ち、無声映画(サイレント映画)の上映中に、その内容を語りで表現して解説する専門の職業的解説者。しかし、この構想設定メモはそもそもが複数の矛盾が存在する。何故なら、東京に映画館がなく、活動写真が一般興行されていない時期に、新潟長岡で活動写真(後注参照)を興行しているという設定はヘン(そんな活動写真黎明期には活動弁士なる職業者は日本には数えるほどしかいなかったはず)。しかも、そういう活動写真黎明期という設定なのに、明治三十年代に隆盛した新派(後注参照)が演じた、明治三十一年発表の徳富蘆花の「不如帰」(後注参照)を活動写真(film)に撮ったものを上映しているというのは、設定自体が異様にヘン「芥川龍之介! 一つ、弁解してもらおうじゃあ、ねぇか!」。

「新派」日本の近代演劇の一派。同明治二一(一八八八)年十二月、角藤定憲(すどうさだのり)が大阪で「大日本壮士改良演劇会」を起こして不平士族の窮状を訴えた「壮士芝居」を始めたが、新派内に於いてはこれを以ってその発祥と見做している。三年後の明治二十四年三月には川上音二郎が堺で「改良演劇」を謳った一座を興して「書生芝居」を始めて以降、伊井蓉峰の済美館・山口定雄一座・福井茂兵衛一座などの新演劇が各地で興り、日清戦争を題材とした戦争劇で基礎を築いた。その後、離合集散を繰り返すうちに際物(きわもの)性を脱皮し、小説の脚色上演で演技面でも新境地を開いた。大正末期から昭和初期にかけて衰えたが、敗戦後、分立していた劇団が大同団結し、「劇団新派」となり、現代に続く。当世の庶民の哀歓や情緒を情感豊かに描いた演目が多い。

「東京に活動はやらざりし内」ウィキの「活動写真によれば、明治三〇(一八九七)年二月十五日、フランスから帰国した稲畑勝太郎が「シネマトグラフ」の映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映したのが日本初の「映画興行」とされ、翌三月六日には東京市の「新居商会」によって神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打って「ヴァイタスコープ」による興行が行われている。日本の国産第一号の活動写真の公開は明治三二(一八九九)年六月二十日の東京歌舞伎座で、「芸者の手踊り」という題名のドキュメンタリー映画であった。劇映画の第一号は「稲妻強盗」という作品(日本初の拳銃強盗犯として死刑に処せられた清水定吉(明治二〇(一八八七)年九月処刑。享年五十一)の事件をモチーフにした駒田好洋の「日本率先活動写真会」の製作・興行)で、同年九月に製作されている。「やらざりし」という語を厳密にとるなら、明治二十九年以前となる。

「ホトトギス」徳富蘆花の小説「不如歸」(筆者は後年は「ふじょき」と読んだが、現行は「ほととぎす」の読みが広く行われている模様である)。明治三一(一八九八)年から翌年にかけて『国民新聞』に掲載された。調べてみると、明治三六(一九〇三)年四月に本郷座で藤沢浅二郎が「不如帰」を初めて脚色上演しているから、前注の事実とは異なることになる。則ち、明治三十六年では既に活動写真は盛んに興行されているからである。

「通し物」差し入れの料理であろう。

券」「沽券」とも書く。対面・品位。本来の「沽券」とは江戸時代の土地・建物などの売渡証文のことで、江戸の町屋敷の所有者としての町人にとってのステイタス・シンボルであったことから、近世末期から近代にかけて「人の値打ち」「プライド」の意で使われるようになったものと推測される。

「向養」ママ。旧全集は「供養」。回向と供養を芥川龍之介が混同して誤表記したものであろう。

2018/01/12

私は

私は私を他者に説明するのが厭になつたのです――

Alicebirth2


芥川龍之介 手帳8 (3) 冒頭パート(Ⅲ)及び《8-1~4》

○夫人(30歳)嘗資産家に嫁し離緣になり後僧に嫁す(眞言宗)僧は五十近し 好人物 書畫を愛す 性的に利かず 夫人曰二年間一度も安らず 夫人の妹(20―21歳)東京の女學校にゐる と四つ違ひ 同じ小學校にあり 夫人の兄 温泉場へ M をつれゆき怪まざりしは上京中の妹を M と一しよにすべく M の人物を知りたい爲一しよに行つてゐた 夫人曰 M と夫人との間をつづける爲には妹の夫となれ 且夫不能の爲別居したし 故に M と妹と一しよになれば二人を東京にすませ おのれも一しよになる M 曰そんな事は恐しくないか 夫人やや本心にかへる M 又曰結婚すべくんばもう一度見たし(小學時代に見し時は美しかりしも) 夫人と M と妹をよびよせる M 結婚する氣にならず 妹は一しよになつてもよいと思ふ 妹再東京へかへる その時船へのるのに W の別莊へ一晩とまる方よろし(W は夫人の友人の別莊なり) 夫人妹と別莊にとまらんとす そは夫人 M ととまる事を欲せしなり されど別莊番の娘藝者にて 母のもとへ來る この女 M を先生と稱す 別莊番の妻亦娘を M ととりもたうなどと云ふ それ故 M は夫人をそこへともなひたくなし 又 M に云はせれば妹來る事夫人との關係上困る故とうとう來る事を斷る M その境涯に安んぜず 夫人に大島を拵へてもらひ上京す 二ケ年後には既に夫人の兄大本教信者となり その爲夫人と妹と大本教となる 而して夫人の夫の僧も大本教となる その結果本堂の本尊と大本教の神と二つ並べて禮拜し始む ○妹結婚されなくなりしは業なりとし 夫人及夫人の兄妹の體を大本教の神に捧げよと云ひ 遂に王仁三郎に獻じ 夫人亦王仁三郎のもとに走る(眞言宗との關係もあり) 大本の神をまつりし爲村をおはる ○detail 溫泉場滯在中 M Art を思ひ且その atmosphere にたへず 上京するにつき basket etc. を買ふ 夫人皆買つてくれる 立つ時下着の大島を男物にしたて直し M にきせる(金)頸にかける金鎖は舊式故 帶へまく時計にすれば半分となる その拵へ直し方をたのみ 半は M にくれると云ふ ○M 湯島天神下(封筒を走らす宿)へかへる その後二年間に M の妹上京す M の妹の友だちあり こは郷里同じにて M と一しよになりたがり娘の親及 M の妹も贊成す この女上京し大學病院の看護婦となる 又宿の女將の姪に女歌人(畫もかく)あり M 病氣にてねるとこの連中見舞に來る 但し妹は郷里にかへる 琅の妹出現(琅の汽車中



《8-1》
[やぶちゃん注:ここから、新全集の原資料パートに底本を変更し、漢字は旧全集と校合して正字化した。

すすめらる)結婚問題、當時 M 身神つかれ 夫人に云ひしに人參の廣告を見舞狀に封じてよこす 宿の女房の夫は移民會社の船員 女房は荒物屋兼髮結をやりをる 故に M とも關係あり 亭主の鯉口の外套を着て步く 亭主好人物にて亞米利加へ行きし時一弗の watch を買つてくれる 質に入れると二圓かす



《8-2》


護婦になりし女性 M を見舞ふ(果物 菓子 藥) 怜悧なり M しばしば一しよにならんかと思ふ されど琅々の妹の問題あり その後その女看護婦として進級し 後病死す 死ぬまで M を忘れず

M
の支那旅行中郷里の妹より手紙をよこす M は東京の家に wife と妹(白木屋に入り裁縫にて身を立つ)と子供とをおきし故 heimat より來りしに驚く その手紙に「病氣になり郷里へかへる ×(看護婦)も死ねり」と云ふ

閏秀歌人(畫)は橫濱にあり 中流の娘 池上秀畝の門なり その同門の弟子と折合はず 
M Art と同感し M に畫を見せ批評を請ふ



《8-3》


又歌をみせ批評をこふ(露骨な歌) 繪の具の材料など
M に使用せしむ この人亦肺病なり 通知來る 生前畫を約す M 行けば一家寺にあり M 畫をさげてゆく 兩親よろこぶ 娘の三脚畫の具等皆貰ふ 畫の具は他の日本畫家に賣る

夫人の妹東京にて電報をうく 妹の友だちも皆結婚問題なりと云ふ hesitation but desire to return and 幼な友だち同志相見る

男あり(農) 夫人を口どきし事あり その男などの口よ
M と夫人との關係公にならんとす



《8-4》

M
と夫人と溫泉場にゆきしは(M の數年前に云ひしは)夫人が友だちの所へ遊びに行く事とし 友だちの方が萬事好いやうにしてくれる云〻

M の上京後 M love が他にうつりし後 M の從弟(M に似る)に夫人云ひよる 出來ず 結婚後も M は夫人に逢ふ 夫人は舊好をあたためたき氣あり

○琅々と水木との話

○おちね婆さん(寶屋)の詩

[やぶちゃん注:このメモ、作品構想メモにしては異様に細部が細かく、展開も恐ろしく複雑で、しかも「大本教」(明治二五(一八九二)年に「出口(でぐち)なお」を教祖として出口王仁三郎(おにさぶろう)が組織した神道系新宗教。「なお」の「お筆先」による「艮(うしとら)の金神(こんじん)の世直し」を唱え、「みろくの世」(神の国)の到来を説いた。大正一〇(一九二一)年(このメモの数年前か)に不敬罪と新聞紙法違反で弾圧を受けている)「池上秀畝」(しゅうほ 明治七(一八七四)年~昭和一九(一九四四)年:日本画家といった実在する固有名詞が出る(こういった当時実在した問題とされた新興宗教団体や現存の著名者を小説中にもろに出すのはあまり龍之介らしくない)ことなどから見て、私は誰かの語った話に惹かれて、走り書きしたものではなかろうかと考えている。これらを素材としたと思われる芥川龍之介の小説も私は思い浮かばぬ。なお、温泉場が頻りに出る辺りは、前条までの、芥川龍之介が大正一四(一九二五)年四月十日から五月三日まで滞在した修善寺との連関も私は考えている(そこでの聞き書きの可能性、という意味で、ということである)。イニシャル「M」は縦である。

atmosphere」芸術的(芸術への渇望の)昂揚気分の謂いであろう。

「鯉口」(こいくち)は、和服で水仕事などをする際、着物が汚れるのを防ぐために上に着る、袖口の小さい筒袖の上っ張り。

「一弗」一ドル。

「琅の妹出現(琅の汽車中すすめらる)」「琅」が不明。固有名詞であるが、名前なのかも判らず、しかも突如出るから、人物関係が判らぬ。丸括弧内の意味も判らぬ。或いは誤判読で後もそれで表示してしまったのではないかと私は疑っている。しかし、正しくどんな字だったのかも推定できない。現存する原資料がこの「すすめらる」の前まで欠損しているのも非常に気になる。実は「琅の汽車中」と「すすめらる」は繋がった一文ではないのかも知れない気さえしてくるのである。

「結婚問題、」読点は新全集のママ。

「身神」ママ。

「琅々」ママ。旧全集は「々」がない。
 
「白木屋」当時東京日本橋にあった現在の東急百貨店の前身ともいえる老舗百貨店。白木屋デパート。

heimat」不詳。私は「(小さな)村」の意の「hamlet」の誤記か誤判読ではないかと思ったが、新全集でもそう判読している。

hesitation but desire to return and躊躇しているけれども帰ることを強く欲し。

「おちね婆さん(寶屋)の詩」不詳。これは前の長い話とは無関係かも知れぬ。

原民喜作品群「死と夢」(恣意的正字化版) 魔女 / 「死と夢」~了

 

[やぶちゃん注:本作品群「死と夢」は原民喜の没後、角川書店版「原民喜作品集」第一巻(昭和二八(一九五三)年三月刊)で「死の夢」という総表題で纏めた形で収録されたものである。生前に刊行されたものではないので「群」と敢えて呼称したが、角川書店版以降の原民喜の作品集・全集に於いては、一括収録される場合、この総表題が附されるのは、原民喜自身が生前にそのように分類し、総表題を附していたからであり、かく標題提示することは筆者自身の意志(遺志)と考えてよい。

 本篇「魔女」は昭和一三(一九三八)年十月号『文藝汎論』に発表された。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが、歴史的仮名遣表記で拗音や促音が概ね無表記という事実、及び、原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、かく処理した。

 「活人畫」は「くわつじんぐわ(かつじんが)」と読み、布などに描いた背景の前で、扮装した人がポーズをとって、一幅の人物画のように見せる芸能を指す。明治から大正にかけて余興などで行われ、古今東西の名画や歴史上の有名人などが題材とされた。「翳して」は「かざして」と読む。「かなめ垣」(かなめがき)は若葉が紅色を帯びて美しい要黐(かなめもち:バラ亜綱バラ目バラ科ナシ亜科カナメモチ属カナメモチ Photinia glabra)で作った垣根のこと。「簷忍」は「のきしのぶ」と読む。「つりしのぶ」のこと。「黔んだ」は「くろずんだ」と読む。

 なお、本篇には主人公(姉からは「順ちやん」と呼ばれている)の姉が登場するが、因みに原民喜には二人の姉がおり、孰れからも民喜は非常に可愛がられた。長姉の操は十四年上で大正一三(一九二四)年に亡くなっており、次姉のツル(民喜より八つ年上)は大正七(一九一八)年(民喜十三歳)の時に亡くなっている。この二人の思い出が本篇に強く作用していることは間違いない。

 以上を以って原民喜作品群「死と夢」は終わるが、発表年次は順列となっておらず、公開する場合を考えて、原民喜が並べ替えている(ブログ・カテゴリ「原民喜」の公開順を参照)。同作品群十篇を発表年次で並べ替えると

「行列」(昭和一一(一九三六)年九月号『三田文學』)・「幻燈」・「玻璃」・「迷路」・「暗室」・「魔女」・「曠野」・「湖水」・「溺沒」・「冬草」(最後の「溺沒」と「冬草」の二篇は『三田文學』(昭和一四(一九三九)年九月号)への同時発表)

となる。【2018年1月12日 藪野直史】]

 

 

 魔女

 

 私は姉や姉の友達七八人に連れられて、人喰人種を見に行くのだつた。恰度、夕方のことで街は筒のやうに暗かつた。うまくすると、人喰人種が夕食を食つてゐるところが見せて貰へるかもしれない、と一人の女學生は云つた。昔の女學生は庇髮のやうな髮を結つてゐて、丈が高かつた。そして長い袴を穿いてゐて、氣高い顏をして步いた。私は人喰人種が今夜は何を食ふのかしらと思つた。人喰人種はきつと寒がつて、裸體の上に赤い毛布をくるくる卷いて、宿直の屋の疊に六七人蹲つてゐるやうな氣もした。

 そのうちに石疊の狹い露次へ來ると、旅館が二三軒並んでゐた。姉達は一軒一軒旅館の玄關で、人喰人種は來てゐないかと訊ねて步いた。どうも人喰人種が泊つてゐる宿屋はもつとさきらしかつた。もう一つ裏側にある路へ這入ると、今度はたしかにそれらしい旅館だつた。皆は眞暗な玄關の土間に立つて、一人が聲をかけた。すると眞暗な障子がするりと開いて、婆さんが現れた。「人喰人種が泊つてゐるのはこちらで御座いますか」と一人が訊ねた。婆さんは頷いた。それで私は何だか吻とした。「人喰人種が御飯食べるところ見せて下さいませんか」とまた一人が口をきいた。婆さんは何を思つてか、ぢつと默り込んでしまつた。それで、もう一人が同じことを嘆願した。「駄目です!」急に婆さんは口惜しさうな聲で呶鳴つた。皆はびつくりして、そのまま往來へ飛出した。それからだんだん急ぎ足になつて、とうとう走り出した。

 

 私は門口の處で、石に蹴躓いて膝頭を擦剝いた。膝坊主は火がついたやうにヒリヒリ痛んだ。見ると、膝頭には土がくつついてゐて雲母の破片がキラキラ光つてゐるので、私の眼さきは曇つてチラチラ慄へ出した。家に歸ると、もう辛抱が出來なくて、おいおい泣いた。すると、緣側で活花をしてゐた姉は靜かに鋏を置いて、私の傷を調べ出した。姉は私を疊の上に寢轉がして、「眼を閉ぢてゐなさい」と命令した。私が素直に眼を閉ぢると、姉は私の額の上に何か輕いものを置いた。靑々した木の葉の匂ひがするので、一寸眼を開けてみると、やはり額の上に置かれてゐるのは木の葉らしかつた。「まだ、眼をあけてはいけません」と姉はおごそかに云つた。

 私は眼を閉ぢた儘、どういふことが次に起るのだらうかと、少し面白くなつて來た。暫く何の物音もせず、靑靑した木の葉の匂ひが鼻さきを掠めてゐた。やがて姉がそつと立上る氣配がして、疊の上を靜かに步いて行く跫音がした。姉は簞笥の前で立止まつたらしく、微かに簞笥の環が搖れる音がした。間もなく、すーつと抽匣を拔く音がしたので、成程繃帶を持つて來るのだな、と私は思つた。そこから姉が私の側へ歸つて來るまでには隨分時間がかかつた。とうとう私は、何時、姉が、どういふ風に私の膝頭に槻帶を卷いてくれたのか、わからなかつた。姉はパチパチと植木鋏を使ひながら、「もう眼をあけてもいいよ」と云つた。

 

 私は父の大切にしてゐた萬年筆を踏んで壞してしまつた。生憎、見てゐる人がなかつたので、それが却つていけなかつた。壞れた萬年筆が父親の顏のやうに思へて、もう私は怖くてその方を見ることも出來なかつた。私はびくびくしながら緣側の方へ行つた。すると、何も知らない姉が、「もう、お風呂よ」と云つて、私を捉へた。それから私の帶をほどいて、私を裸にさせた。姉は私に手拭を渡した。それから姉は湯を汲んで、私の背中にざぶざぶ掛けた。

 磨硝子の窓に靑葉を照す陽光が搖れてゐて、風呂場は明るかつたが、私は窓の外に蓑蟲がゐることや、漆喰に黑い苔が生えてゐるのを見ると、何だか地獄に陷ちてゐるやうな氣がした。やがて、姉も頤のあたりまで湯に浸つて、私の顏と姉の顏は對ひ合つた。私は天井を見上げると、太い竹で組んだ天井は煤けて怕さうだつた。その時、私は姉が何か訊ねるやうな眼をしたので、「地獄極樂」と口走つた。すると、姉は一寸呆れたやうな顏をして、私の眼の中を視凝めた。それから姉の眼は、私の惱みの種を見つけて摘み出さうとする眼に變つてゐた。

 

 私は姉に連れられて街を步いてゐた。公會堂で活人畫や何かがあるのを見に行くのだつた。打水をされた路はピカピカ光つて、時々泥が裾の方に跳上つた。どの店舖も日覆を圓く脹らまして、奧の方はひつそりして薄暗かつた。屋敷の塀の續いてゐる日蔭へ來ると、ポプラが風車のやうに葉を飜してゐた。氣持のいい微風が路の角や電柱の橫から吹いて來ることもあつたが、斜上から差して來る陽はかなり蒸暑かつた。姉は白いパラソルを翳して步いてゐた。靑い木蔭へ來ると、パラソルも顏も靑く染められた。

 私は稍ひだるい氣持になり、少しぼんやりして來た。その時、一匹の大きな揚羽蝶がかなめ垣から飛出して來て、姉のパラソルの上を橫切つて消えた。暫くすると、またその揚羽蝶はふわふわと漾つて來て、姉のパラソルのまはりを飛んでゐた。それから間もなく揚羽状の姿は何處かへ見えなくなつたが、私は別に氣にも留めず步いてゐた。ところが、ふと、氣がつくと、姉の白いパラソルには何時の間にか、さつきの揚羽蝶が刺繡にされて、くついてゐるのだつた。私はびつくりして聲を放てなかつた。刺繡の蝶はまだパタパタと片方の翅を動かして、そこから今にも飛出さうとしてゐるのだつた。

 

 私が夏の午後、小學校から歸つてゐる途中のことだつた。電車道を越えると、路は片蔭になつてゐて、靜かな家が並んでゐた。妙に靜かな時刻で、家のうちの時計の振子の音が外でも聞えるのだつた。私はその時、屋根の方から誰かが呼んでゐるやうな氣がした。すると、聲はまた確か「順ちやん」と云つてゐた。見上げると、二階の障子が半分開いて、蔭から姉の顏が覗いてゐた。私は無言のまま暫く立留まつてその家を見た。ベンガラを塗つた格子のある中位の家で、二階の軒には簷忍と風鈴が吊つてあつた。そこへ姉は嫁入してゐたのかしら、と私は久し振りに見る姉の顏が妙に透徹つてゐるやうに思つた。すると、姉は默つて障子の奧へ引込んでしまつた。私はそれから間もなく自分の家へ戾つた。

 ところが、家へ戾ると、私の父は、「今、これから姉さんを停車場へ出迎へに行くのだから、お前も一緒に來い」と急きたてるのだつた。私はカバンを家に置いて、そのまま父の後に從いて出掛けた。急ぐと、太陽が後からギラギラ照りつけて大變暑かつたが、驛へ來ると、そこは風があつて涼しかつた。絽の羽織を着た女の人と、父と私と三人はホームに出た。やがて汽車が着くと、中から姉が出て來た。姉は透徹つた顏をしてゐて大變疲れてゐるやうな容子だつた。それから皆は俥に乘つた。姉の俥が先頭に街を走つた。俥は私の家の方へ行かないで、小學校へ行く路の方へ折れた。そして、さつき私が驚いて見上げた家の前で俥は留まつてしまつた。

 

 私は姉の入院してゐる病院に見舞に行つた。姉はベットに寢た儘、だるさうな容子で暫く私を相手に話してゐたが、枕頭の藥壜を取つて、唇に含んだ。「少し睡いから、これを飮んで睡むらう」さう云つてゐるうちに、もう姉はすやすやと小さな鼾をたてはじめた。私は椅子に腰掛けた儘することもなかつた。窓の外には侘しい病院の庭があつて、常盤木の黔んだ姿が見えるはかりだつた。壁に懸つてゐる額や、小さな人形や植木鉢のほか、目に留まるものもなかつた。白い侘しい時間だつた。

 ふと、ベットの方で姉の起上る氣配がした。見ると、姉は蒲團の上に坐り直つて、頻りに兩手を上の方へ伸しながら、何か綱のやうなものでも把まうとしてゐる恰好だつた。その眼は虛ろに大きく開かれて、何にも見えないのではないかと怪しまれた。姉は同じやうな動作を續けながら、次第に身體の重みを失つてゆくらしかつた。突然、姉は宙を浮上ると、天井の處に姉の身體はあつた。と思ふと、ベツトの下の方で姉の得意げに笑ふ聲がした。それから姉は額の裏や、植木鉢の下や、電球の中に、自在に身を潛めて、暫く飛𢌞つた。その間私は凝と椅子に縛り附けられてゐるやうな氣持だつた。やがて、ベツトの方で姉のうめき聲が聞えた。見ると姉はぐつたり疲れたやうに蒲團の中に埋れてゐた。

 

 私は午睡から覺めて、ぼんやりと玄關のところへ行つた。西の方の空にはまだ雲の峰が出てゐて、表の道路は白つぽく乾いてゐた。さうして往來を通る人も殆んどなかつた。無性に誰か私は人が現れないかと待つた。すると、近所の氷屋のおかみさんがバケツを提げて通つた。あのバケツの中にはけむりの立つ氷を入れてゐるのかと思ふと、一寸をかしくなつた。おかみさんは、しかし、すぐに視野から消えて、往來は再びもとの靜寂にかへつた。

 暫くして、何か異樣な影が路傍に落ちて來た。が、それは今、人力車が通るのだつた。その人力車の上には、つい先日死んだ姉がちやんと乘つてゐて、頻りにこちらの家の方を氣にしてゐる容子だつた。俥はそのまま家の前を通り過ぎた。私は早速下駄を穿いて門口に出てみた。すると、俥の姿はもう見えなく、往來はひつそりとして、砂がギラギラ光つてゐるばかりだつた。