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2017/06/25

宿直草卷二 第一 急なるときも思案あるべき事

 

宿直草 卷二

 

  第一 急なるときも思案あるべき事

 

Kumokai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のもの。中央のものが拝殿で、左手奥にあるのが祭殿で、そちらの天井裏が化け蜘蛛の巣であったものか。]

 

 靑侍(なまさふらい)ありて、道をゆくに、里遠き所にて、日、暮れたり。

「如何(いかゞ)せん。」

とあたりをかけるに、林下(りんか)に古き宮あり。すなはち、拜殿にあがり、柱にそふて、

「こゝにしも、夜をあかさん。」

と思ふに、朱(あけ)の玉垣は年ふる苔に埋もれ、幣帛(ゆふしで)、風に飛んで、淺茅(あさぢ)がもとに朽(く)つ。巫女(をとめ)の袖の鈴(すゞ)たへて、巫(きね)が手向(たむく)る祝(のつと)もなし。露になく滋野(しげの)の虫は、榊(さかき)をさそふ嵐にこたへ、壁に亂るゝ蜘蛛(くも)の網(ゐ)は、庭の眞葛(まくず)が蔓(つる)にあらそふ。荒れしをまゝの有樣は、いとゞ秋てふ悲しかりける。

 やゝ宵も闌(たけなは)にして、四更の空とおぼしきころ、十九(つゞ)二十(はたち)ばかりの女房、孩子(がいし)を抱(いだ)きて、忽然と、きたる。

「かゝる人家も遠き所へ、女性(によしやう)として夜更(よふけ)て來(く)べきにあらず。いかさまにも化生(けしやう)の者にこそ。」

と、うしろめたく用心して侍りしに、女、うちゑみて、抱きたる子に、

「あれなるは、父にてましますぞ。行(ゆき)て抱かれよ。」

とて、突き出す。

 この子、するすると來(く)るに、刀に手かけて、はたと、睨めば、そのまま歸りて、母にとりつく。

「大事ないぞ、行け。」

とて、突き出す。重ねて睨めば、また、歸る。かくする事、四、五度にして、退屈やしけん、

「いで、さらば、自(みづか)ら參らん。」

とて、件(くだん)の女房、會釋(ゑしやく)もなく來るを、臆せずも、拔き討ちに、ちやうど、斬れば、

「あ。」

といひて、壁をつたひ、天井へ、上がる。

 明けゆく東雲(しのゝめ)、しらみ渡れば、壁にあらはな貫(ぬき)を蹈(ふ)み、桁(けた)なんど傳(つた)ひ、天井を見るに、爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郎蜘蛛、頭(かしら)より背中まで斬りつけらて、死したり。人の死骸有(あり)て、天井も狹(せば)し。

 あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり。

 凡そ思ふに、化物と思ひ、氣(き)を逼(せ)きつゝも、五輪をきらば、莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)もあるは折れ、あるは刃(は)もこぼれなん。その時にして、人をとりしにや、よき工(たく)みなりかし。此人も心せきて、身も逸(はや)らば、心の外(ほか)に越度(おつど)もあるべし。思案して五輪を斬らざるは、あゝ、果報(くはほう)人かな。

 

[やぶちゃん注:本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻三の一「いか成化生の物も名作の物にはおそるゝ事」のインスパイアであるが、そのプロトタイプは「今昔物語集」の「卷第二十七」の「賴光郎等平季武、値産女語第四十三」(賴光の郎等(らうどう)平季武、産女(うぶめ)に値(あ)ふ語(こと)第四十三)である。また、「諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事」は、その「曾呂里物語」版の完全な同話であり、同じ「諸國百物語」の「卷之四 十 淺間の社のばけ物の事」の趣向に至っては、本「宿直草」版に異様なほど酷似する但し、後者ではエンディングで主人公の肝試し目的の侍が脇差を逆手に持って塔の九輪を突き通していたという為体(ていたらく)となっており、本条の最後の荻田安静の評言は、あたかもこの後者の話を意識したかのように読めるのも面白い。以前に述べた通り、「諸國百物語」は「宿直草」と同じ年の刊行であり、当時の人々が先に「諸國百物語」を読み、後で本話を読んだら、殆んどの人が、明らかに「宿直草」が「諸國百物語」をインスパイアし辛口評を附したのだとさえ考えるであろうと思う。こうなってくると、両書の影響関係は非常な興味を喚起すると言える(リンク先は孰れも私の電子テクスト注)ので是非、比較されたい

「靑侍(なまさふらい)」身分の低い若侍。なお、狭義の「あをさぶらひ」は公卿の家に仕える六位の武士で、彼らが「青色の袍(ほう)」を着たことに由来する。「袍」は衣冠束帯などの際に着用する盤領(まるえり)の上衣。更に言っておくと、この「青色の袍」は「麴塵の袍(きくじんのほう)」を指し、それは元来は天皇が略儀に着用した桐・竹・鳳凰・麒麟を組み合わせて一単位とした文様が織られた上着であったが、これを六位の蔵人が拝領して着用することがあり、それが以上の武士階級に広く着られるようになり、意味も格変化していったものである。

「かける」「驅ける」。よほどの鄙で、雨露を凌ぐべき場所が視界域には何も見えなかったから焦ったのであろう。

「幣帛(ゆふしで)」岩波文庫版では『木綿垂』と漢字表記する。「木綿四手」とも書くが、「四手」は当て字。元来は「垂らす」意の動詞「垂(し)ず」の連用形の名詞化したもので、原義は「木綿 (ゆう) を垂らすこと」である。「木綿 (ゆう)」は現行の木綿(もめん)ではなく、和紙の原料として知られる「楮」(イラクサ目クワ科コウゾ属雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera。「姫楮」(コウゾ属ヒメコウゾ Broussonetia kazinoki)と「梶の木」(コウゾ属カジノキ(Broussonetia papyrifera)の雑種)の皮の繊維を蒸して水に晒し、細かく裂いて糸としたものであって、主に幣(ぬさ)として神事の際に榊(ツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonicaの枝に懸けたものを指す。所謂、玉串(たまぐし)や注連繩(しめなわ) などに附けて垂らす現在は紙になってしまったあれである。ここは氏子も参る者もいなくなった廃社で、古い注連繩に附いていたその木綿垂(ゆうしで)も、すっかり風に吹き飛ばされて、なくなってしまっているのである。

「淺茅(あさぢ)」丈の低い茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)の叢。

「巫女(をとめ)」後の「鈴」から神楽舞いをする未婚女性の巫女/神子(みこ)。

「巫(きね)」「巫覡」(音は「フゲキ」)とも書く。これは広義には神に仕える神官や巫女 (みこ)を指すが、前に「巫女」を出しているから、こちらは祭儀を主宰する男性神官を「祝(のつと)」祝詞(のりと)。

「滋野(しげの)」草生い茂る野原。

「虫」原典の字体。

「榊(さかき)をさそふ嵐」かつて神前に手向けられた榊を吹き散らす大風。ここの祠の荒廃の寂寥を次のそれに「「こたへ」(應へ)る如き虫の音とともに倍化させる。

「網(ゐ)」岩波版の漢字表記を用いた。「ゐ」は「居」で蜘蛛の巣であるが、「蜘蛛の網(い)」という語があり、それは「ゐ」ではなく、「蜘蛛の巣」或いは「蜘蛛の糸」の意も示す。

「眞葛(まくず)」葛(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata)の美称。

「いとゞ秋てふ悲しかりける」秋という季節の、激しく、哀しく切ないことを思わせることであろうか。詠嘆の連体中止法。

「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。

「十九(つゞ)」「つづ」は本来は「十」を意味する。事実、「つづはたち」という語が存在し、これは本来は「十かや二十」という不定数(或いは定倍数)を指す古語であったものが、特に「十(つづ)や二十(はたち)の」年齢の謂いとして使用された際に、誤まって「十九か二十の」の意に用いられてしまった結果、「つづ」が「十九」の意に慣用化されてしまったものという(「日本国語大辞典」等を参考にした)。因みに、この下の「づ」は「一つ」などの助数詞「個(つ)」と同語源で「十個(とつ)」が転訛したものとも言うが、何だか私には怪しい感じがしてならない。因みに、「十九(つづ)」から「九十九折(つづらおり)」を連想する方もいるかも知れぬが、これは「葛折」で藤蔓などの蔓性植物が幾重にも折れ曲がって伸びていることからの比喩表現であり、「九十九」は当て字に過ぎない。しかし、私は「九十九」が「つづら」なら、「十九」を「つづ」と読もうとする人間が居たとしても強ち変ではない気がした(その場合、牽強付会するなら「ら」は複数を現わす接尾語と考え、それを落すことが「九」の一つを外すことになり「十九」と洒落てみたい気もする)。それが「十九」を「つづ」と読むようになってしまったとする説があっても、これ、よさそうな気さえするのである。

「孩子(がいし)」幼児。現代中国語でも年齢制限なしに「子ども」の意で用いる。因みに、現代の本邦では五歳位までに亡くなった子どもの戒名にこれを附すぐらいで、日常の「子ども」という使用例はまず見ない。

「うしろめたく」どうなるか不安で。

「ちやうど」一種のオノマトペイア的副詞。濁音が古いあ、後に清音「ちやうと(ちょうと)」ともなった。物と物とが強くぶつかったり、打ち合う音の形容。所謂「はっしと」や現代の「バシッと」に同じい。

「貫(ぬき)」穴。

「桁(けた)」柱の上に横に渡して垂木 (たるき) を受ける材で、梁 (はり) と打ち違いになる。

「爪(つま)さき長(ながき)事、二尺ばかりの女郎蜘蛛」間違ってはいけない。脚の先端節部分だけで二尺、六十一センチ弱もある女郎蜘蛛(鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata)というのだから、巨大である。この数値を第一脚の先端の長い鉤のように湾曲した節の長さと採ると、その実際の同種の脚節と全長比から見て、脚の全長(第四対脚の先端まで。ジョロウグモは脚が長い種である)では五倍はあるから三メートルは有にあり、実際の同種の頭胸部+腹部だけの比で見ても、脚を本体も六十センチ以上はあるだろう。因みにジョロウグモは性的二形が著しいことで知られ、成体の体長はで十七~三十ミリメートルに対し、は六~十三ミリメートルとの半分以下である。ここは母として化けてもいたことでもあり、この異様な巨大さからも、まず、である

「狹(せば)し」原典は「せばし」。底本は『挾し』(ルビなし)であるがこれは採れない。岩波文庫版を参考に、かく、した。

「あゝ、誰(た)がかたみぞや。また、連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」この前後は原典は勿論、底本なども総て繋がっているのであるが、私は恣意的に以上のような改行を施した。その理由は、この堰を切ったような感懐表現は前の天井裏に山と積もれた「人の死骸」へのそれではなくて、青侍が恐怖の天井裏から降りて来て、ふと近くの地面を見て思わず「連れし子とみえしは、五輪の古(ふ)りしなり」と気づき、その崩れた五輪塔は一体「あゝ、誰(た)がかたみぞや」と感慨を催した倒置法と読むからである。

「莫耶(ばくや)が劍(つるぎ)」名剣の譬え。この伝承(リンク先参照)で名剣の名となっている「干將(かんしょう)」と「莫耶(ばくや)」は、実はもともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。時間の許す方は、先日、電子化したばかりの柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)の私の注の冒頭の長い「干將鏌耶(かんしょうばくや)」を是非、参照されたい。

「その時にして、人をとりしにや」それを好機として蜘蛛怪は人を襲ったのではなかろうか。或いは、朽ち崩れた五輪塔には何箇所もの刀傷の痕があるのを青侍は見たのかも知れぬ。その方がまた、映像的には優れる。

「よき工(たく)み」蜘蛛怪が人間を襲うための巧妙な戦略。

「心の外(ほか)に」予想外の。

「越度(おつど)もあるべし」致命的な過ちを犯していたかも知れぬ。

「果報(くはほう)人」「人」は「にん」か。幸運な人、或いは、前世の善き因果によってかくもからき命を救われた人の謂い。]

2017/06/24

宿直草卷一 第十二 弓法の德をおぼえし事

 

  第十二 弓法の德をおぼえし事

 

 むかし、弓をたしむ人あり、ひとり、夜みちゆく。己(をの)がわざなれば、祕(ひ)めにし弓に矢を十筋(すぢ)取(とり)添へて出でけるが、また、道にて小竹原に入つて、篠(しの)を一本切(きり)、矢のたけにくらべ、根をそぎ、筈(はず)をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

 さて行くに、みちの眞中(まんなか)に、その色(いろ)、黑きもの、あり。人よりは小さふして、さらに動かず。

「退(の)け。」

といへど、いらへず。

「いかさまに狐、貉(むじな)なるべし。」

と思ひ、矢をはなちて射るに、手ごたへして、あたると見しも、飛(とび)のく音、かねなど、射るがごとし。しかれども、やをら、はたらきもせず。また射るも始めのごとし。一筋一筋と射るほどに、十筋みな射て、たゞ一本、殘れり。

 このとき、かの物、動きて、上(へ)にかづきし物を、わきへのけて飛(とび)かゝるを、のこる一すぢにて射止(いと)めたり。さて、間(ま)ちかく見れば、狸にて、上にかづきしは鍋(なべ)也。おそろしきたくみにあらずや。その十の數(まず)、知りしにや。また、十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ。狸すら、それをくりて、うかゞふ。まして、人なんどの智には考ふべきをや。きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る。

 『祕事(ひじ)は、まつげのごとく、これ、弓法(きうぼう)の德なり』といへり。惣(すべ)て、人にぬきでて藝ある人は、つねづねの心がけも各別なりけらし。この事にかぎらず、氣をつけ、心をくばらば、物ごと、よくとゝのふべきものをや。三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ。如夢僧都(によむそうづ)のゑぼしも、河風すさぶ折柄(をりから)には、ひとかど、晴(はれ)の用にたてりとあればとて、四明年(しみやうねん)にことくどき人も、我におゐて、うるさし。

 

[やぶちゃん注:弓で軽く連関。前話の一般論としての「見越し入道」が狸の変化(へんげ)であることを確定的なものするなら、狸の変化で直連関する。

「筈(はず)」矢筈(やはず)。弓矢の尻のV字形に加工した弓弦(ゆづる)を懸ける部分。

をつけて、十筋の箭(や)にとりそへて持ちけり。

「いかさまに」ここは副詞的用法で、「きっと・恐らくは」の意。

「貉」ここは前に狐を出して並列しているので狸のこと。

「やをら」元は対象生物などがゆっくりと動作を始めるさまを指す。ここは「おもむろに」。

「はたらきもせず」動こうともしない。

「十筋みな射て」その中で追加して作った即製の仮の箭(や)は既に交ぜ射ているのである。そうでないと、流石に篠竹の鏃なしのそれは、とどめを刺す一本にするには心もとないからである。

「かづきし」被っていた。

「その十の數(まず)、知りしにや」一応、疑問文であるが、この狸は、殆んど確述用法で十という数を認識していたのである。

「十は數の常(つね)にして、物每(ものごと)に是を用ゆ」十という数はありとあらゆる場面の中で常用される数で、種々の複数の対象物の一揃えにこの数を用いている。

「それをくりて」「くりて」「繰りて」。その放った矢の数を冷静に順に一つずつ数えて。

「まして、人なんどの智には考ふべきをや」畜生の狸でさえそうなのだから。まして、人間なぞの普通の者の持つ智恵などに於いては、これ、容易に考えつくことに決まってる。

「きりそへて、十一にしてゆきしは、心憎く侍る」そう考えると、この弓術師が敢えて即席の矢を作り添えて、総数を十プラス一にして夜道を行ったのは、まっこと、心憎い仕儀ではないか。

「祕事(ひじ)は、まつげのごとく」「祕事は睫(まつげ)の如し」容易くは理解出来ぬとされる奥義や秘密というものは学ばなければなかなか習得出来ないものの、実は睫毛は直ぐ眼の前にあるにも拘わらず、近過ぎて見えているという認識がないように、秘事・奥伝といったものは意想外に誰でも知っている常識のほんの近くにあるものであるといった意味の故事成句。「我が眼(まなこ)を以つて我が睫を見んとするが如し」或いはもっと短く単に「秘事は睫」とも言い、より知られた類義成句は「灯台下暗し」である。

「三番のあど」不詳。能狂言でシテに対する相手役を「アド」と称し、相手役が二人以上登場する場合は,主な相手役の「アド」を「主(おも)アド」または「一のアド」と称し、以下「次(じ)アド(二のアド)」、「三のアド」と言うが、その最後のものか? 端役であるが、能狂言の端役中の端役とも言えるが、彼が居なければ、芝居は成り立たないから、バイ・プレーヤー乍ら、芝居成立に必須な人物=知恵者の謂いか。そういう意味であるなら、ここはさらにその「三番のあどの外に、猶、物に心得たる人こそ、世中の寶なめれ」と常人の気づかぬ、この世の中には実は必須であり、同時に名もなき知恵者の存在が厳然としてあるのだと謂うのであろうか。大方の御叱正を俟つ。

「如夢僧都(によむそうづ)」これは恐らく、「如無僧都」の誤りであろう。「十訓抄」の「上」の「第一」の中に、平等院僧正行尊の気配りを讃えた一条の最後に、

   *

昔、宇多法皇、大井川に御幸の日、泉大將の、烏帽子(ゑぼし)、落したりけるに、如無僧都、三衣(さんえ)箱より烏帽子取り出でたりけんに、劣らずこそ聞ゆれ。

   *

と出る出来事を指すものと思われる。如無僧都は平安前期の公卿藤原山蔭の子で法相宗の僧。興福寺に住し、延喜六(九〇六)年に権律師に任ぜられて宇多天皇の覚え宜しく、承平元(九三八)年に大僧都となって、天慶元(九三八)年に遷化している。

「四明年(しみやうねん)にことくどき人」不詳乍ら、四年も先のあれこれのことを、くどくど言っては何やかやとそのときのためにあれをしろ、これをした方が良いなどとお節介をする人の謂いか? 大方の御叱正を俟つ。

宿直草卷一 第十一 見こし入道を見る事

 

  第十一 見こし入道を見る事


Mikosinyuudou

 ある侍(さふらひ)の語りしは、

『我、ますらおの若かりしとき、犬をつれて狩(りやう)にいでしが、その夜、仕合(しあはせ)惡(あし)し。一里ばかりの道越えて、はや歸るべきとおもひ、山の頂上にやすらひしに、岩(いは)漏(も)る滴(しづく)、物さびて、篠ふく風もらうがはしく、天漢(てんかん)ほしひまゝに橫(よこたは)りて、昴星(はうせい)うつすべき露なし。落ち葉、道ふさぎては、蛛蜘(ささがに)もまた糸をみだせり。

 此(この)山、西、ひがしに嶺つゞけるに、北向きてたちしが、前の谷より、なにとなふ、大きなるもの立ち上がる。そのかたち、彷彿(はふほつ)として見わけがたけれど、れんれんに立(たち)あがるにぞ、化け物とは知りぬ。かくて見守(まも)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]りゐるに、向ふの山のいたゞきより、その背、猶、高し。星の光りにすかして見れば、大きなる坊主なり。

「さては古狸などの化くる、見越し入道といふものにこそ。おそらくは射止めんものを。」

と、弓、取り直し、素引(すび)きして、猪(い)の目透(す)かせる雁俣(かりまた)の矢をとり、かの坊主の面(つら)を、目も離(はな)たず、睨(にら)みゐるに、ひた物、高くなりて、後(のち)には、見あぐる事、結し髮の襟(えり)につくまでせり。

「もはや、時分もよし、一矢、射ん。」

と、弓引きしぼり、ねらへども、あまり大きにして、矢つぼ、定めがたく、案じわづらふ間に、ふつと、消えて、更にそのかたち、なし。

 このときに、見えし星の影もなく、にはかに暗ふして、前後、途(と)を失ふ。何の害もなかりしかども、有無(うむ)に、道、見えず。目指すとも知がたし。所詮、歸らんと思ひけるにも、行くべき方を知らず、口惜しく思へども、すべきやうなし。連れし犬に嘯(うそ)かけて呼び、犬の頸綜(くびたま)に鉢卷を結(ゆひ)、わが帶(おび)の端(はし)に是をつけて、行くやら、歸へるやら、其(その)方角もしらず。犬にまかせて歸るに、ひとつの家、みえたり。其とき、心を付(つ)くるに、暗さも止みて、もとの星月夜(ほしづくよ)となり。見つけし家はわが家なり。その後(のち)は、友いざなひて、ひとりは出でず。」

と、いへり。

 

[やぶちゃん注:狩人が山巓で体験する怪として前話と繋がるが、全体の結構や巨怪の出現及び挿絵の人と見越入道の配置構成などは、二話前の「第九 攝川本山は魔所なる事」との親和性がすこぶる高い。

「見こし入道」日本の妖怪の一種としては、かなりメジャーな、しかもその巨大さとインパクトから、しばしば妖怪の首魁として登場する一種である。ウィキの「見越し入道」を引く。『江戸時代の怪談本や随筆、及び日本各地の民俗資料に見られる』もので、『夜道や坂道の突き当たりを歩いていると、僧の姿で突然現れ、見上げれば見上げるほど大きくなる』。『見上げるほど大きいことから、見上げ入道の名がついた。そのまま見ていると、死ぬこともあるが、「見こした」と言えば消えるらしい。主に夜道を』一『人で歩いていると現れることが多いといわれるが、四つ辻、石橋、木の上などにも現れるという』。『見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられるともいい、入道を見上げたために後ろに倒れると、喉笛』『をかみ殺されるともいう』。『九州の壱岐島では見越し入道が現れる前には「わらわら」と笹を揺らすのような音がするので、すかさず「見越し入道見抜いた」と唱えると入道は消えるが、何も言わずに通り過ぎようとすると』、『竹が倒れてきて死んでしまうという』。『岡山県小田郡では、見越し入道に出遭った際には頭から足元にかけて見下ろさなければならず、逆に足から頭へと見上げると食い殺されてしまうという』。『その他の対処法としては「見越した」「見抜いた」と唱えるほか、度胸を据えて煙草を吸っていたら消えたとか(神奈川県)』、『差金で見越し入道の高さを計ろうとしたら消えた(静岡県)などの例もある』。『岡山県のある地域では、厠で女性がしゃがんでいると、キツネが化けた見越し入道が現れて「尻拭こうか、尻拭こうか」と言って脅かすという』。『また、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ほととぎす」と唱えると必ず見越し入道が現れるともいう』。『これらの厠に関する伝承は、厠に現れるといわれる妖怪・加牟波理入道』(かんばりにゅうどう:僧形で厠を覗き、口から鳥を吐く妖怪))『と混同したものとの説もある』。『西村白鳥による江戸時代の随筆『煙霞綺談』では見越し入道は人を熱病に侵す疫病神とされており、以下のような話がある』。正徳年間(一七一一年~一七一五年)、『三河国吉田町(現・愛知県豊橋市)の商人・善右衛門が名古屋の伝馬町へ行く途中でつむじ風に遭い、乗っていた馬が脚を痛め、善右衛門も気分を害してうずくまっていたところ、身長』一丈三、四尺(約四メートル)『もの大入道が現れた。その入道はまるで仁王のようで、目を鏡のように光らせつつ善右衛門に近づいてきた。善右衛門が恐れおののいて地に伏していると、入道は彼を踏み越えて去って行った。夜明けの頃に善右衛門が民家に立ち寄り「この辺りに天狗などの怪異はあるか」と尋ねると「それは山都(みこしにゅうどう)と呼ばれるものではないか」との答えだった。後に善右衛門は目的地の名古屋に辿り着いたものの、食欲が失せ、やがて熱病に侵され、医者の手当ても薬も効果がなく』、十三『日目に亡くなってしまったという』。『見越し入道の正体は不明とされることが多いが、変化(へんげ)能力を持つ動物とする地方もある。福島県南会津郡檜枝岐村』(ひのえまたむら)『の伝承ではイタチが化けたものとされ、入道の巨大化につられて上を見上げると、その隙にイタチに喉を噛み切られるという』(ここで、ウィキの筆者は「宿直草」ではタヌキが化けたものとされていると記すが、それは本条で狩人が世間でそう言われているとして口にするものであって、この狩人が遭遇した見越し入道が本当に狸の変化(へんげ)であったかどうかは判らないようになっているので注意されたい)。『キツネが化けているという地方もある。信濃国(現・長野県)ではムジナが化けたものといわれる』。『また前述の檜枝岐では見越し入道は提灯、桶、舵などを手に持っており、その持ち物こそが本体で、持ち物を叩けば入道を退治できるともいう』。「妖怪画」の項。『単に見越し入道といっても、妖怪画では様々な姿として伝えられている』。『江戸時代の妖怪絵巻『百怪図巻』(画像参照)や妖怪双六『百種怪談妖物双六』では、顔や上半身のみが画面に大きく捉えられているのみで、身体的特徴ははっきりとしない構図となっている』。『鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』に「見越」の題で描かれた見越し入道』(リンク先に画像有り)『は大木の陰から覆い被さるように出現した様子を捉えたもので、首が長めになっているが、これは背後から人を見る格好で、ろくろ首のように首の長さを強調しているわけではない』。『このように巨大な妖怪という特徴で描かれた見越し入道が存在する一方で、江戸時代のおもちゃ絵などに描かれた首の長いろくろ首かとさえ思える見越し入道も決して珍しくない』。『ろくろ首との関連を思わせるものも存在し』、『ろくろ首の伝承の多くが女性であることから、男性版のろくろ首とも例えられることもある』。『この首の長さは時代を下るにつれて誇張されており、江戸後期には首がひょろ長く、顔に三つ目を備えているものが定番となっている』。『妖怪をテーマとした江戸時代の多くの草双紙でも同様に首の長い特徴的な姿で描かれており、そのインパクトのある容姿から、妖怪の親玉として登場することがほとんどである』。北尾政美(まさよし)の黄表紙本「夭怪着到牒(ばけものちゃくとうちょう:天明八(一七八八)年刊)では、『尼入道(あまにゅうどう)という毛深くて長い首を持つ女の妖怪が登場しており、これは女性版の見越し入道とされている』(リンク先に画像有り)。『民間伝承における見越し入道に類する妖怪は、』「次第高(しだいだか)」・「高入道(たかにゅうどう)」・「高坊主(たかぼう)」・「伸び上り」・「乗越入道(のりこしにゅうどう)」・「見上入道(みあげにゅうどう)」・「入道坊主」・「ヤンボシ」或いは単なる「見越し」などがある。また、『静岡県庵原郡両河内村(現・静岡市)ではお見越しともいって、道端にいる人に小坊主の姿で話しかけ、話している途中に次第に背が高くなり、その様子を見続けていると気絶してしまうが、「見越したぞ」と言うと消えるという。道端に優しい人の姿で現れ、通りかかった人が話しかけると、話の内容によっては大きくなってみせるともいう』。『熊本県天草郡一町田村(現・天草市)では』漢字表記の異なる「御輿(みこし)入道」として『伝承されている。下田の釜という地の一本道に現れるという身長』五丈(約十五メートル)『の妖怪で、出遭った人を今にも嘗めるかのように舌なめずりをするという。ある者がこれに出遭い、一心に神を念じたところ、入道は恐れをなし、御輿のようなものに乗り、布を長く引いて山のほうへと飛び去ったという』とある。

「ますらおの若かりしとき」「ますらお」は「益良男・丈夫・大夫」などと漢字表記するが、歴史的仮名遣としては「ますらを」が正しい。若く、且つ、雄々しく強い男であった頃。採話した折りの話者は既に老齢に入っていると読める。

「仕合(しあはせ)惡(あし)し」猟の仕儀が頗る悪い。猟果が全くない。

「物さびて」何ともいえず、古めかしい感じで寂れており。

「もらうがはしく」騒がしく、耳について五月蠅い。

「天漢(てんかん)」銀漢。銀河。天の川のことであるが、ここは狭義のそれというよりも、星が密集している感じを与えるという謂いでとってよいと思う。

「ほしひまゝに」その光を夜空にそのままずらりと鏤め敷いたままに横たわって夜空を異様に明るくしてしまい、その結果として露に「昴星(はうせい)」(おうし座の散開星団であるプレアデス星団(Pleiades)。和名は「すばる」。通常、肉眼でも輝く五~七個の星の集まりを見ることが可能なほどよく光って集合して見える)の光りが見えないのである。ここは、その昴(すばる)の星の光りを映すはずの夜露が全くないという意味ではなく、あまりに満天の星空が冴えきって、総ての星が孰れも光り輝いているために、却って普段なら目立って小さな露にさえ映るはず昴の星の光りが、露の中に「つゆも」見えないというニュアンスで言っているものと私は採る。ここがそのように異様に降るような満天の星空であることは、「蛛蜘(ささがに)もまた糸をみだせり」と、細い細い蜘蛛の糸にさえ、それらの星々の光りが輝いていることからも判るのである。そしてまた、この異様な綺羅星こそが、最後のシーンの暗転の恐怖へと転ずるための伏線なのである。

「彷彿(はふほつ)として」ここは、姿・形がぼんやりとしか見えないさま。

「れんれんに」形容動詞。その対象物がずっと続いていて絶えないさま。

「おそらくは」「きっと・必ずや」或いは「憚りながら」の意。

「素引(すび)き」弓に矢をつがえずに弦だけを引くこと。これは矢を射る準備行動ではなく、所謂、「弦打ち」で、妖魔を避けるための呪的防禦行動と思われる。

「猪(い)の目透(す)かせる雁俣(かりまた)の矢」岩波文庫版の高田氏の注に、『心臓形の猪の目の透かし彫りを施し、鏃の先を二股に作って内側に刃を付けたものを取りつけた矢。狩猟用』とある(挿絵がただの征矢なのは残念)。刀鍛冶福留房幸氏のブログ「一閑人 刀鍛冶 福留房幸の日々」のらねかりまたの画像を見られたい。素晴らしい!

「ひた物」副詞。無暗と。ひたすら。

高くなりて、後(のち)には、見あぐる事、結し髮の襟(えり)につくまでせり。

「矢つぼ」「矢壺・矢坪」で矢を射る際に狙いを定める所。矢所(やどころ)。

「有無(うむ)に」副詞。すっかり。全く。

「目指すとも知がたし」完全な暗黒で、今歩いてはいても、自分が一体どこを目指しているものやら判り得ない為体(ていたらく)であることをいう。後の「行くやら、歸へるやら、其(その)方角もしらず」も同じい。

「所詮」副詞。結局のところは。

「嘯(うそ)かけて犬を呼び」唇をすぼめて口笛を発し、犬を呼び。

「頸綜(くびたま)」犬の頸部に附けた索状か。それとも「首っ玉」という単に首の謂いか。識者の御教授を乞う。ただ、「鉢卷」一本を犬の首に結いつけてその端を腰帯に結び付けるというのはその鉢巻の長さが相当にないと無理と思われる。]

宿直草卷一 第十 本山の岑に天火おつる事

 

    第十 本山の岑(みね)に天火おつる事

 

 本山(ほんざん)の近邊に萩谷(はぎたに)といふ山家(さんか)あり。そこなる人、たゞひとり、夜行(やこう)に出でたり。しばし、あされども、狸の床にも尋ねあはず、高嶺(たかね)にいこふて、烟草(たばこ)なんど喰(た)うべしに、西の方よりも、物の鳴る音、おびたゞし。しばし有て、長さ一町もやあらん。太さも二腕(かい)ばかりの天火なり。其(その)左右(さう)に鞠(まり)ほどなる火とんで、さらに數へがたし。光り、爛漫として、あたかも白晝のごとし。とゞろきて本山の嶺(みね)に落(おち)たり。炎(ほのほ)、四方(よも)にちる事、五、六町もやあらん。落ちて響(ひゞき)やまず。三十町ばかりへだてし我がゐる山も地震(ぢしん)のごとし。

 さて、靜まるよ、と見るに、二、三千人の聲して、鬨(とき)をつくる事、押しかへして、三度、せり。山彦、こたへて、目覺(めさ)ましき有樣(ありさま)なり。恐ろしなんど云ふばかりなし。帝釋(たいしやく)、阿修羅(あすら)の戰(たゝかひ)のごとく、天狗どちの爭ひにやあらん。また、寺、近けれども、心なき身の、たゞ狩りくらしぬる我にしも、かしこくも示し給ふ、多聞天のつげにやと、日來(ひごろ)にあらため、これも獵(かり)を止(や)めけるとなり。

 

[やぶちゃん注:本山寺ロケーションで前話「第九 攝川本山は魔所なる事」と直連関するだけでなく、話柄内容も夜に狸を狩る狩人の殺生への誡めを変怪が示すという点で完全一致しており、しかも筆者は末尾の一節で「これも獵を止めけるとなり」とし、この「これも」は明らかに前話で二人の狩人が夜行をやめたことをダイレクトに受けた続篇として確信犯で記していることが判る。

「天火」一応、「てんくわ(てんか)」と読んでおくが、「てんび」「てんぴ」でもよい。一般名詞としては、落雷によって起こる火災である雷火、或いは、人為でない自然発火による火災一般を指すが、ここは明らかに空中に浮かぶ怪奇現象としての妖火、妖怪としてのそれである。ウィキの「天火」によれば、『天火(てんか、てんび、てんぴ)は、日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている』。『愛知県渥美郡では夜道を行く先が昼間のように明るくなるものを天火(てんび)といい』、『岐阜県揖斐郡では夏の夕空を大きな音を立てて飛ぶ怪火を天火(てんぴ)という』。『佐賀県東松浦郡では、天火が現れると天気が良くなるが、天火が入った家では病人が出るので、鉦を叩いて追い出したという』。『熊本県玉名郡では天上から落ちる提灯ほどの大きさの怪火で、これが家の屋根に落ちると火事になるという』。『佐賀県一帯でも火災の前兆と考えて忌まれた』。『かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、熊本県天草諸島の民俗資料『天草島民俗誌』には以下のような伝説がある。ある男が鬼池村(現・天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという』。『天火は飛ぶ』際、『奈良県のじゃんじゃん火のように「シャンシャン」と音を出すという説もあり、そのことから「シャンシャン火」ともいう』。『「シャンシャン火」の名は土佐国(現・高知県)に伝っている』(個人的には、この見た者に死を齎すともされる音を伴う不吉な妖火。「ジャンジャン火」は私の妖火の好みの最たるものである)。『『甲子夜話』によれば、佐賀の人々は天火を発見すると、そのまま放置すると家が火事に遭うので、群がって念仏を唱えて追い回すという。そうすると天火は方向転換して逃げ出し、郊外まで追い詰められた末に草木の中に姿を消すのだという』。『また、天火は雪駄で扇ぐことで追い払うことができるともいい、安政時代の奇談集『筆のすさび』では、肥前国で火災で家を失った人が「ほかの家の屋根に火が降り、その家の住人が雪駄で火を追いかけたために自分の家の方へ燃え移ったため、新築の費用はその家の住人に払って欲しい」と代官に取り計らいを願ったという語った奇談がある』。『江戸時代の奇談集『絵本百物語』では「天火(てんか)」として記述されており、これにより家を焼かれた者、焼死した者があちこちにいるとある。同書の奇談によれば、あるところに非情な代官がおり、私利私欲のために目下の者を虐待し、目上の者にまで悪名を負わせるほどだったが、代官の座を降りた翌月、火の気のないはずの場所から火が出て自宅が焼け、自身も焼死し、これまでに蓄えた金銀、財宝、衣類などもあっという間に煙となって消えた。この火災の際には、ひとかたまりの火が空から降りてきた光景が目撃されていたという』とある。但し、ここの「天火」は少なくとも現認した狩人の認識は毘沙門天(多聞天)の示した殺生の誡めとしてのものとして不吉なものではなく、事後に災いを受けた後日談もない。また、やめたのも狩り総てではなく(山家に住まう主人公はそれを主たる生計(たつき)としていた可能性がすこぶる高いから完全にやめることは出来ないはずである)、前の話を受けている点でも、危険な「夜行の狸狩り」のみと読める。なお、科学的な側面から見ると、現象的には激しい地響きを立てて落ちるところ(しかも落雷の光が先行して落ち、後に落雷音が時間差で聴こえる点)などは自然現象としての落雷の印象(放電や接地箇所を探るように延びるその細部をそれなりにスローで観察したもの。夜間に動体視力のある狩人が、ある程度の距離(後注参照)から観察したものとするなら、私はあり得ぬことではないように思われる)が強いようには思う。

「萩谷(はぎたに)」現在の大阪府高槻市萩谷であるが、本山寺より西或いは西南に四~五キロは隔たっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狸の床」「たぬきのとこ」タヌキの寝床。巣。

「いこふ」「憩ふ」。

「烟草(たばこ)なんど烟草喰(た)うべしに」煙草を吸っていたとろ。「たぶ」は「食ぶ」で、本来は「のむ」の謙譲語・丁寧語。

「一町」百九メートル。

「二腕(かい)」実際の腕二本分の太さでは長さと比して細過ぎるから(見かけ上の比喩で述べたのならそれで不信はない)、これを人体スケールの両腕幅(両腕で抱えた大きさ)である「比呂(ひろ)」と採るとすると、一比呂は一メートル五十一・五センチメートルであるから、三メートル強といったところか。ちょっと思ったが、この火の柱は毘沙門天がしばしば持つ宝棒、或いは宝塔の九輪をイメージしているものかも知れぬ

「四方(よも)」原典は平仮名で「よも」。底本は「四面」を当てるが、ルビがなく、不親切である。「よも」ならば「四方」の方がルビ無しでも「よも」と読めようと思い、変えた。

「五、六町」五百四十六~六百五十五メートル弱。

「三十町」三キロ二百七十三メートル。

ばかりへだてし我がゐる山も地震のごとし。

「帝釋」帝釈天。梵天とともに仏法の守護神で、十二天の一つとして東方を守る。須弥山(しゆみせん)の頂きの忉利天(とうりてん)の主で喜見城に住むとされる。古代インドのベーダ神話のインドラ神が仏教に取り入れられたもの。

「阿修羅」古代インド神話の悪神で、インドラ神(仏教に入って帝釈天となる)と激しく戦ったとされる軍神である。釈迦によって教化されたと見做され、八部衆の一つとして仏教の守護神となった。]

宿直草卷一 第九 攝川本山は魔所なる事

 

  第九 攝川本山(ほんさん)は魔所なる事

 

Honnzannmasyo

 

[やぶちゃん注:図は底本のものであるが、清拭し、さらに汚い左右の枠を意図的に除去して空間的広がりを持たせた。]

 

 津の國本山(ほんさん)は毘沙門天の靈場なり。山城の鞍馬寺、河内(かはち)の國信貴(しぎ)の山、今此(この)所と日本の三毘沙門といへり。雲たなびいて、懸繒(けんぞう)たえず、月すみて、然灯(ねんとう)とこしなへなり。千尋(ちひろ)の溪谷(たに)、前後にふかく、數里(すり)の嶺峯(みね)、左右(さう)につゞけり。こゝにして現世安穩(けんぜあんをん)の寶祚(ほうそ)をいのり、當來解脱(たうらいげだつ)の惠炬(ゑこ)をかゝぐ。またかくれなき魔所なり。

 そのふもと、川久保と云(いふ)里に、獵(かり)する人、ふたりつれて、夜行(よこう)ひきにゆく【たぬきをとりに夜出づる事】。ひとりは弓箭(ゆみや)をもち、またの袖は樫(かし)の棒をつく。常になれたる犬を連れて、まだ宵かけて出でしに、やうやう月もおち、夜も更(ふけ)ゆけど、獵(りやう)、さらにきかず。あまり殘り多かりければ、多門(たもん)におそれて日ごろは行かざりけれど、今宵は本山さして向ふ。坂、けはしふて、いかんともしがたし。やゝ登れども、道、なをはるけきに、連れたる犬、震ひわななきて、あまさへ、股倉(またぐら)のしたに隱る。さだめて、猪(いのしゝ)、狼(おほかみ)やうのもの來るにこそと、片手、矢はげて進むに、行くべき坂の眞中(まんなか)に、その長(たけ)八、九尺にして、色は炭(すみ)にまがふ頭(かうべ)を下へなし、白き鉢卷(はちまき)を帶(おび)たり、足は上(かみ)にのけぞつて、弓手(ゆんで)のかた、丈餘の棒を、をく、眠るが如くにして仰(あふ)のきに臥したるものあり。

 其間(あひ)十間(けん)ばかりになりて、二人のもの、見つくるといへど、とかく物もえいはず。たゞ尻(しり)ざりに半反(はんだん)ばかり退(しりぞき)て、わが里十餘町の坂道を、石につまづき、僜僜(ころびころび)歸りしが、互(たがひ)に家になりて、

「今のもの見たるか。」

と吐息(といき)して云ひけり。

 そのゝち、夜行(よこう)を止(や)めしと也。

 

[やぶちゃん注:【 】はここで初めて出る割注。原典では二行でポイント落ち。

「本山」大阪府高槻市大字原にある天台宗北山(ほくさん)霊雲院本山寺(ほんざんじ)。本尊は毘沙門天。ウィキの「本山寺(高槻市)」によれば、高槻市北郊の京都府との境に近い山間部に位置する。『本山寺の寺号は戦国時代の記録には見えて』いるが、『寺伝によると、役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。その後、宝亀年間』(七七〇年頃)『に光仁天皇の子・開成皇子が諸堂宇を建立して本格的な仏教寺院として創建したと伝えられている』。『北摂三山寺として、根本山と号する神峯山寺、南山と号する安岡寺とともに北山と号して天台宗に属している』。天正一〇(一五八二)年の『山崎の戦いの際に高山右近の兵火に罹って』焼失したものの、慶長八(一六〇三)年には『豊臣秀頼が鐘楼、楼門などを再建』、江戸時代に入って宝永年間(一七〇五年頃)に第五代『将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が改修を加え』ている。『現在の中の門は、伏見桃山城から移築されたと伝えられる』。『戦国時代には、松永久秀がこの寺で立身出世を祈願し、その後望みがかなったことから五百住(よすみ)にある所領の良田を寄進しているほか、芥川山城』(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう:同高槻市の三好山にあった日本の山城から畿内にかけて広汎に『権勢を奮っていた三好長慶や、キリシタン大名としても知られる高山友照・右近親子、甲斐国武田信玄の信濃侵攻により駆逐され三好家に身を寄せていた前信濃守護・小笠原長時らが寺領の安堵状を出している』。また、『江戸時代には、高槻城主・永井氏や皇室などの崇敬を受け』たとある。本文にもある通り、鞍馬寺・信貴山朝護孫子寺とともに「日本三毘沙門天」の一つとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「毘沙門天」先行する「第二 七命ほろびし因果の事」の「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」の私の注やウィキの「毘沙門天を参照されたいが、毘沙門天(四天王の一人としては多聞天と呼び、本文の後に出る「多門(たもん)」は多聞天のことである)の像型ではしばしば右手に宝棒や三叉戟(さんさげき)を持ち、この異形の怪人が右手に持つそれとの類似性が認められ、首が炭のように人間の肌(はだえ)とは全く異なるところも、中国の民間信仰に於いて毘沙門天像の顔を緑色に塗るのと類似しているようには見える。

「山城の鞍馬寺」京都府京都市左京区鞍馬本町にある、当時は天台宗であった鞍馬山(さん)鞍馬寺(くらまでら)(戦後の昭和二四(一九四九)年に天台宗より離脱独立して鞍馬弘教総本山となった)。本来は当寺が都の北に位置することから、四天王の中で北方を守護する毘沙門天を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった(現在の鞍馬弘教としての本尊認識は独特な説明で異なるが、それはくだくだしくなるだけなので、ウィキの「鞍馬寺」などを参照されたい)。

「信貴(しぎ)の山」現在の奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)にある真言宗信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。本尊は毘沙門天。本寺は信貴山寺とも称する。

「懸繒(けんぞう)」「げんぞう」と濁るのが寺院では一般的か。「繒」は織りを詰めて細かく織った高級な絹の生地で、この帛(きぬ)絹を仏殿や内陣の天蓋(てんがい)に荘厳(しょうごん)として懸けることを称する。 ここは信者からの高価な布施が不断に多くあることを言うのであろう。

「然灯(ねんとう)とこしなへなり」「燃燈永久(とこしな)へなり」。「燃燈」は法灯のこと。絶え間なく燃え続ける実際の本尊の献灯を永遠に絶えることのない本寺の法灯及び仏法の光明に喩えたもの。

「嶺峯(みね)」二字へのルビ。

「寶祚(ほうそ)」天子の位・皇位。平安旧仏教である天台宗は国家宗教である。

「當來解脱(たうらいげだつ)」必ず来る来世に於ける煩悩から解き放たれた涅槃。

「惠炬(ゑこ)」岩波文庫版の高田氏の注には『大いなる光明』とある

「川久保」現在の高槻市川久保。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「夜行(よこう)ひき」これで一語であろう。殺生であることに注意

「またの袖」頻出している通り、「袖」は「人」の意。連れである今一人。

「さらに、きかず」一向に得物が得られない。

「あまり殘り多かりければ」一匹も獲れない(ものと思われ、それが実は怪異の前兆であることに彼らは気づいていないのである)ので、このまま手ぶらで帰るのは心残りであり、また無性に癪に障るので。

「矢はげて」矢を番(つが)えて。

「八、九尺」凡そ二メートル五〇センチから二メートル七三センチ弱。

「弓手(ゆんで)」右手。岩波文庫版は『弓矢』とするが、誤判読である。

「をく」歴史的仮名遣が誤っているが、「置く」。

「其間(あひ)十間ばかりになりて」狩人二人とその道に長々と横たわった怪人との距離が十八・一八メートルほどになったところで。月も落ちて更けた頃合いの山道に於いて、この距離で、この怪人の姿を二人がともどもにしかりと現認出来たというのは不審であり、それはとりもなおさず、彼らが異界に導かれてつつあったことを示し、或いは、狩人の夜目の良さというよりも、この怪人自体妖しく光っていたからだったのではなかろうか?

「とかく物もえいはず」互いにものを言い交すことが出来なかったというのであるが、実は、これが効果的であったと言える。変怪に遭遇した際、相手が何ものであるかを見切ることが出来ずに、恐怖の余り、言葉を発してしまうと、変怪に有利に事態が進行してしまうのが民俗世界での一つの定理でもあるからである。世界的な神話の形式に於いても誤った言上げや恐怖の叫び声は神霊鬼神の勝ちとなってしまうことが多いからである。

「尻ざりに」後退(あとじさ)りで。

「半反」「はんたん」で、「反」はかつての距離単位の一つ。「六間」(一〇・九メートル)を「一反」とするから、凡そ五メートル半。

「十餘町」十町は一キロ九メートル相当。

「僜僜(ころびころび)」「轉び轉び」。中文サイトを見るに、「僜」には酔って躓くの意があるようである。]

2017/06/23

僕は

僕は君に嫉妬することがない。それは結局、鏡返しの自慰行為に過ぎぬからだ。

宿直草卷一 第八 天狗つぶて附心にかゝらぬ怪異はわざはひなき弁の事

 

  第八 天狗つぶて心にかゝらぬ怪異(けい)はわざはひなき弁(べん)の事

 

 寛永改元、予、いときなき比、大坂石(こく)町邊へ細々(さいさい)行きて泊りしに、その町のさる家へ、夜ごとに礫(つぶて)うつ。數(かず)もおほからず、七つ八つ、あるは戸を十四、五も打つ。打ちて音なきもあり、また、玉霰(たまあられ)のかれ野の篠(しの)を走るが如く、その音(をと)、ころころするもあり。されど、覆垂(おほたれ)、雨落(あまお)ちまで轉(こく)ることは、なし。かくする事、夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず。

 合壁(がつへき)、これに怖れ、隣家(りんか)、眉をひそむ。露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も、

「ゆゝしき大事なり。天狗つぶて打つ家は、かならず燒亡(ぜうまう)の難あり。しかるべき祈りなんど、し給へかし。」

など、いさむれば、まして身ちかき人々は、猶、

「加持拂(かぢはら)へなど、し給へ。」

といふ。しかれ共、此(この)家主、一向宗(いつかうしゆ)なり。何と尊く聞きいれられしにや、

「我、もと、情(じやう)の強(こは)きにてもなし、萬行圓備(まんぎやうゑんび)の念佛より外、わが宗(しゆ)に別(べち)に祈り、なし。」

といひて、曾(かつ)て驚かざれば、いさむる袖も力なく、やめり。案の如く、そのけぢめもなく、家、つゝがなく住(すみ)侍り。

 四十(よそぢ)の春秋を經て、去年なん、その門(かど)を過(よぎ)りしかば、むかしの事思はれて、すぎがてに、内もせ、見いれしにも、あへて古へにかはる事もなし。主(あるじ)はまかりて子の代と見えたり。されば心にかゝらぬ怪異(けい)は、更にその難なきものをや。なふ、お目のまけを取(とり)給へ。空(そら)に花はさき候まじ。「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」と、忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり。梅をおもへば口に酢(す)たまり、虱(しらみ)ときけば肌(はだ)かゆくなる。心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず。いはれぬ氣つかひに、色々を案じ、まちまちのわざはひを設(まふ)く。芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出すが如し。むさと、物事、機(き)にかけまじき事也。惣(そうじ)て小事は身のたしなみ、心のおさめやうにもよるべし。

 身ほろび、家絶ゆるなどは因果なり。あへて觸(いら)ふべからず。

 子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。子の曰(のたふま)く、

「丘(きう)が祈る事、ひさし。」

と。

 目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。佛いはく、

「やみなん、やみなん、助くべからず。これ、因果なり。」

と。

 夫子の仁にをよばす、佛の慈(じ)に及ばず、業(ごう)のなせる所、さらに手はつけられじ。明德眞如(めいとくしんによ)を尊(たと)ぶ人こそ、げに、やんごとなき祈りならまし。咎(とが)をなしても祈るべきを賴(たの)みにせん人、なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき。世の中の憂(う)さには神もおはしまさぬに、すゞしめ給ひしいにし人は、いと愚かにはおはしまさずや。士農工商ともに、身の程をしり、職(しよく)の常(つね)をわすれず、理(ことはり)のとをりに勤めば、いづれのところに害あらんや。祈らずとても神は守らずやはあらん。

 また、易に遊ぶ人の外に、四條繩手(なはて)の風寒み、白川橋(しらかはばし)に踞(しりうた)ぎして、莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで、仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書を讀み、梅花心易(ばいくはしんゑき)なんど引きちらして、綴り侘(わ)びたる素紙子(すがみこ)や、垢(あか)につめたきひとへ物に、時ならぬ編笠の内、蓍(めど)など亂(みだ)しつゝも、人の吉凶(きつけう)直(なほ)すなんどひしめくこそ、嗚呼(おこ)がましくも受けとられね。

 さりとて、祈禱なんど無益(むやく)と云(いふ)にはあらず。をよそ、現世の利益(りやく)は佛(ほとけ)の道の方便(てだて)にして、いと有難き操(みさほ)なりけり。むかしの才(ざえ)すぐれ德(とく)尊(たと)き世捨人は、雨をこひ、疫(えき)をやめて、造化の變をとゞめ、人民(にんみん)の助けとす。是、その德にあらずや。たゞ怨むらくは、愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人、歎くにも猶あまりあり。わざはひは病(やまひ)なり。祈(いのり)は藥なり。藥、よく病をいやすとて、毒もおそれず用ひべくは、誰(た)があやまちぞや。平生(へいぜい)、此(この)理(ことはり)を以て、まどふべからず。理をたづねば、匹夫(ひつぷ)とても舜門(しゆんもん)の人ならん。あくまで道理をたづぬべきか。

 しかるに、此(この)つぶてうたれし家主も、自然と機にもかけざるは、理の常(つね)をえし冥加(みやうが)ならんか。

 

[やぶちゃん注:第六の「天狗の礫」から「天狗の石切」に移り、再びここで「天狗礫」へ、しかも筆者自身の実体験として戻ってくるのは、まことに実録怪談の真骨頂と言うべ観があって素晴らしいなお、再度示すが、「天狗礫」については、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。

「弁(べん)」漢字は原典のママ。道理に従った主張・論説。

「寛永改元」元和十年二月三十日(グレゴリオ暦一六二四年四月十七日)に改元している。徳川家光の治世。この前年、家光は第二代将軍秀忠とともに上洛し、七月二十七日に征夷大将軍の宣下を受け、江戸帰着後に秀忠は隠居している。この時、筆者荻田安静は「いときなき比」(ころ)であったと言っている。安静は生年未詳であるが、没年は寛文九(一六六九)年である。引き算すると、寛永元年は四十五年前である。「いとけなき」というのは数え十代未満と考えてよく、しかもその折りの天狗礫に纏わるこのような話をここまで正確に細部まではっきりと記憶しているとなると、満年齢で八~九歳を推定し得るとすれば、荻田安静の生年は元和元(一六一五)年か翌二年が大きな候補とはなろうと思う

「大坂石(こく)町」現在の大阪市中央区石町(こくまち)。大阪城の西直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「細々(さいさい)」漢字表記は原典のママであるが、これは「再々」で「たびたび」の意であろう。岩波文庫版でも「再々」と表記し直してある。

「覆垂(おほたれ)」「尾垂(おだ)れ」。屋根庇(やねびさし)の、主に関西での謂い。

「雨落ち」軒先から落ちる雨水が地面に当たっては跳ね返り、その跳ねた雨水で建物の壁等を汚してしまうことを避けるため、砂利を敷き詰め、雨水の跳ね防止を意図として考えられた軒下の人工部分。この当時、調べた限りでは、民屋で廂の先に雨樋(あまどい)を持っているというのは普通はなかったようである。

「轉(こく)る」転がる。

「夏の最中(もなか)より秋の末かけて止まず」ここでの天狗礫がこの期間限定で、しかも連続して発生し続けるものところが面白い。この特性は、これが全くの気象現象であるにしろ、人為であるにしろ、その真相を解明する一つの鍵となるやも知れぬ

「合壁(がつへき)」壁一つ隔てた隣家。後の「隣家」それよりも離れたそれであろう。

「露の玉ゆら訪(とふら)ふ袖も」「露の玉ゆら」は「訪ふ」を引き出す序詞。「訪ふ袖」はこの家を「訪問する」(親しい)「人」の意。

「加持拂(かぢはら)へ」怪しげな修験者の山伏風の者などが民間で行った加持祈禱染みたお祓い。

「一向宗(いつかうしゆ)」岩波文庫版の高田氏の注に、『今の浄土真宗。専修念仏を重んじ、加持祈禱の類を嫌った宗旨』とある。だから、以下なのである。

「何と尊く聞きいれられしにや」反語。一向宗であればこそ、どうしてそんな慫慂を受け入れられようか、いや、断固として断った、というのである。

「情(じやう)の強(こは)き」人々の心配の思いに対して冷淡にして頑固な性質(たち)。

「萬行圓備(まんぎやうゑんび)」岩波文庫版の高田氏の注に、『仏教徒の修めるべき行が全て備わっていること』とある。

「けぢめ」岩波文庫版では『区別(けじめ)』とある。ある対象や状況が次第に移り変わってゆく、その前と後の違い。凶兆ならば禍いとなるような大きな変化があるはずであるが、そんなことは何も起こらなかったのである。

「去年」「こぞ」と訓じておきたい。

「すぎがてに」「過ぎがてに」無視して通り過ぎることが出来ずに。「がてに」は連語で、動詞の連用形に付いて「~することが出来ないで」の意を表す。これは元来は上代語「かてに」(可能の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形)であったが、その語源認識が薄れてしまい、「難(がた)し」の語幹変形と解されて生じた語。但し、既に上代からその誤用例は見られる。

「内もせ」岩波文庫版の高田氏の注に、『家がまえ。「もせ」はおもて、の意』とある。

「見いれしにも」何か、その後によくないことでも起こってはおるまいかとよく家構えを外から観察してみたが。

「お目のまけ」「眚」「目氣」等と漢字表記し、眼病の一種を指す。岩波文庫版の高田氏の注には『眼に白いもやがかかるように見えるのを指す。目気とも。転じて膜』とあるから、白内障の類いであろう。

「空(そら)に花はさき候まじ」「そら」は原典のルビであるから、空中に忽然と花が咲くとは御座いますまい、であろうが、意義としては何もない虚「空」(こくう)に「花」が化生(けしょう)して咲き開くなどということはあり得ないでしょう? と言っているのであろう。

「鳴子をばをのが羽かぜに動かして心と騷ぐむらすゞめかな」「禅林世語集(ぜんりんせごしゅう)」(私のデータは昭和三二(一九五七)年に京都の其中堂が刊行した土屋悦堂編のそれであるが、これは近世に禅語の内容を判り易い俗謡にしたものを近代に蒐集して編したものと思われる)に「鳴子をば己が羽風に動かして心と騷ぐ群雀」とある。全くの自己責任に基づく疑心暗鬼という自業自得を意味していよう。

「忌(いみ)の文字も己(を)のが心とは書けり」確かに。「忌」という漢字は「己」と「心」から成る。解字としては「心」は音符。「己」も音符ではあるが、と同時に「畏れる」の意を持たせる。

「心(しん)生(しやう)ずれば種々の法(ほう)生ず」いい意味でも悪い意味でもある一つの心理状態が生成されると、それに対し、さまざまな見かけ上の「物の在り方」が生成される、但し、それは単なる仮りの現象に過ぎぬ、と言った意味合いであろうと私は解する。

「いはれぬ」はたの者どもが好き勝手に口にしてしまった。「ぬ」は完了。

「芥(あくた)の中に蚓(みゝず)をほり出す」そのままにしておけば、気持ちの悪いそれを見て不快な思いをすることもないものを、わざわざ必要もないのに、芥溜(ごみため)めをほじくりかえしては、蚯蚓を引っ張り出すような余計なことをする。

「むさと」「むざと」。むざむざと。無暗矢鱈に。

「機(き)」「氣」に同じい。誤字ではなく、禪機などのそれのように、心の働き方を表現する語。

「觸(いら)ふ」「弄(いら)ふ」。もてあそぶ。思いつきとして安易に口にすべきことではない。

「子路(しろ)、夫子(ふうし)のやまひを祈らんといふ。……」「論語」の「述而篇第七」に載る。

   *

子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路對曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣。

   *

 子の疾(やま)ひ、病(へい)す。子路、禱(いの)らんと請ふ。子、曰く、「諸(これ)、有りや。」。と。子路、對(こた)へて曰く、「之れ、有り。誄(るい)に曰く、『爾(なんぢ)を上下(しやうか)の神祇(しんぎ)に禱る』と。」と。子、曰く、「丘の禱ること、久し。」と。

   *

「諸(これ)、有りや。」「そのような病気平癒の祈禱などをし、それが治る、或いは、治ったとする先例などがあるのか?」。「誄」は本来は死者の生前の功績を讃える弔辞であるが、ここは祈禱を集めたものの篇名であろう。「丘の禱ること、久し。」「子路よ、そういった類いの祈禱ならば、私はもう久しい間、やってきたよ。――やってはきたが、思い通りになった試しはこれ、一度としてなかった。」と言うのである。但し、子路は孔子より先に細切れにされて塩漬けにされ死んでいるので、これは孔子の実際の死の直前のものではない。

「目蓮(もくれん)、釋氏(しやくし)をすくはむといふ。……」目蓮は通常は「目連」で仏陀十代弟子の一人で「神通第一」とされた人物。これは恐らく、「太平記」の「北野通夜(つや)物語の事付けたり靑砥(あをと)左衛門事」の中で、法師が南朝には期待し得る臣下がいないことを説明するために語る仏陀の摩訶陀(まかだ)国絡みの故事を元にしている。非常に長いのである程度のシークエンスと因果律の語りが判る部分までを引用する。

   *

……斯かる處に釋氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄せ手の方へ返忠(かへりちゆう)[やぶちゃん注:裏切り。]をして申しけるは、

「釋氏の刹利種(せつりしゆ)[やぶちゃん注:古代インドの四姓の第二で釈迦もその出自である。]は五戒を持ちたる故に、かつて人を殺す事をせず。たとひ、弓強くして遠矢を射るとも、人に射當つる事は有るべからず。ただ寄せよ。」

とぞ教へける。寄せ手、大きに悦びて、今は楯をも突かず、鎧をも著ず、鬨(とき)の聲を作りかけて寄せけるに、げにも釋氏どもの射る矢、更に人に當らず、鉾(ほこ)を使ひ、劍(けん)を拔いても、人を斬る事無かりければ、摩竭陀國(まかだこく)の王宮、忽ちに責め落され、釋氏の刹利種、悉く一日が中に滅びんとす。この時、佛弟子目連尊者、釋氏の殘る所無く討たれなんとするを悲しみて、釋尊の御所(みもと)に參つて、

「釋氏、已に瑠璃王(るりわう)の爲に亡ぼされて、僅かに五百人殘れり。世尊、何ぞ大神通力を以つて五百人の刹利種を助け給はざるや。」

とされければ、釋尊、

「止みなん止みなん、因果の所感、佛力にも轉じ難し。」

とぞのたまひける。目連尊者、なほも悲しみに堪へず、

「たとひ定業(ぢやうごふ)なりとも、通力を以つてこれを隠弊(いんぺい)せんに、などか助けざらんや。」

と思し召して、鐡(くろがね)の鉢の中に、この五百人を隠し入れて、忉利天(たうりてん)に置かれける。

 摩竭陀國の軍(いkさ)はてて、瑠璃王の兵ども、皆、本國に歸りければ、今は子細あらじとて、目連、神力の御手を暢(の)べて、忉利天に置かれたる鉢を仰(あふ)けて御覽ずるに、神通を以つて隱さるる五百人の刹利種、一人も殘らず、死ににけり。目連、悲しみて、其の故を佛に問ひ奉る。佛、答へて宣はく、

「皆、是れ、過去の因果なり。爭(いか)でか助かる事を得ん。……[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

「明德眞如(めいとくしんによ)」仏教に於ける正しく公明な徳と、あるがままの絶対の真理。

「なじかは内證(ないせう)に違(たが)はざるべき」反語。「内證」は仏教に於いて自分の心の内で真理を悟ること。

「すゞしめ」「涼しめ」。清(きよ)め。祭事を行って神を慰めること。

「いにし人」「往にし人」「いにし」は連体詞で、元は動詞「往ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いたもの。過ぎ去った過去の人々。

「いと愚かにはおはしまさずや」反語。後の「いづれのところに害あらんや」も「祈らずとても神は守らずやはあらん」も同じく反語。

「易に遊ぶ人」易学を趣味好事(こうず)とする人々。ここに出すのは取り敢えず、本来の「易經」をちゃんと読み、学ぼうとする人々を指すのであろう。そうした人々より低級で胡散臭い「外」の自称易者が以下にリアルに描写されるのである。

「四條繩手(なはて)」四条以北の鴨川の土手の呼称。祇園白川は直近。

「白川橋」現在の滋賀県大津市及び京都府京都市を流れる淀川水系鴨川支流の白川の、京都市東山区内に架かっていた橋。現行のそれは(グーグル・マップ・データ)であるが、ここで言っているのが、これと全く同一かどうかは知らぬ。

「踞(しりうた)ぎして」腰かけて。

「莚(むしろ)・屛風のところ狹(せ)きまで」川風や寒気の防ぎにもなりそうにもない莚や屏風で狭く囲ったところで。

「仮名(かんな)まじりの八卦(け)の書」「かんな」は「かな」に同じい。世俗に堕した怪しげな占い書。

「梅花心易(ばいくはしんゑき)」「先天易」と称する易学を樹立した北宋の思想家邵雍(しょうよう 一〇一一年~一〇七七年)の著わした占筮法(せんぜいほう)について書かれた書。岩波文庫版の高田氏の注には、『任意に一字の画数を取り、八を減じて余数から卦を得、易理に依って吉凶を断ずる。手引書が江戸初期に数種類』、出版されていた、とある。

「素紙子(すがみこ)」柿渋を引かない白地の紙子(かみこ:紙で仕立てた衣服)。安価で貧者が用いた。ここは見た目も妖しい、当時の売卜者・辻占い師などの着衣や被っていた笠の粗末さの描写であろう。

「蓍(めど)」占い師の用いる筮竹(ぜいちく)。

「ひしめく」野次馬のように群がっては言い立てて騒ぐ。

「嗚呼(おこ)がましく」分不相応にして差し出がましく、出過ぎたことだ、或いは、如何にも馬鹿げている、全くばかばかしいという謂い。文脈上は前者であるが、結局は後者の謂いで纏めていよう。

「疫(えき)をやめて」疫病の流行を収束させ。

「誰(た)があやまちぞや」「愚(おろか)に迷ひ、祈りを賴みて、心をほしゐまゝにせん人」自身の過ちであると喝破するのである。

「舜門(しゆんもん)」「舜」は中国古代の伝説上の聖王舜で、ここはその正統な流れを汲むところの儒教の真の理解者のことを言う。]

宿直草卷一 第七 天狗、いしきる事

 

  第七 天狗、いしきる事

 

 右のはなしの次に、さる侍のいはく、

『我主(わがしう)も日光山の御普請の事承りて、筑紫(つくし)の山にて多く石を切るに、奉行三人云ひ付る内、我も其一人なり。ある夜、つれぐなるまゝに、小屋をいでゝ四方(よも)を見るに、例の山に火ありて、石切る音、高(たか)う聞えり。

「さては相奉行(あいぶぎやう)兩人の談合(だんかう)にて、夜普請を申しつくるにこそ。さてさて心得ぬ事かな。ことに此頃、石工人步(せきこうにんふ)、粉骨のせいを致すに、そのわたくしなし。しかるに夜詰(よつめ)までは情なし。よしまた思ひよるとも、我も奉行なり。したりがほに相談もなく申しつくる段、すこぶる奇怪の事、かつうは、はらぐろなり。意趣をとふて異義に及ばゞ、打ち果すべき。」

と思ひ、小屋にかへりて臥(ふ)す。

 夜あくるを待ちかねて、杖つきの者を使にして、相役(あいやく)兩人のかたへ、

「石の事、日算、用いたし候へば、やがて出來申べきに、いかで、さのみはいそぎ給ふ。夜前、三更まで仰つけられ候こそ、心得がたく侍れ。ことに吾(われ)、不祥なればとて、知らし給はず。隔意(きやくい)さしはさまるゝ段、うらみ入(いり)候。急度(きつと)、返事に聞かさるべく候。」

と云ひつかはしければ、兩人ともに、

「かつて知らず。」

といふ。石切り人步(にんぷ)に問へど、おなじ返事にして、あまさへ、我を胡亂(うろん)に思へり。

 さて、つぎの夜、三人ともに出て見るに、石切る音ありて、火、みえたり。

 あくる日みるに、石の切目(きりめ)は、かはる事なし。

 夜も夜も切る音、十餘日にして、此石、出來ければ、舟につみ、東國へくだせしに、終(つゐ)に難風(なんふう)にあふて、遠江灘(とうとうみなだ)にて海底(かいてい)へしづめり。

 さては、此石、用にたつまじき先表(せんひよう)に、かゝる怪異はありけりと、後に思合(おもひあは)せし。』

とかたれり。

 

[やぶちゃん注:前話を採録したのと同じ席で、しかも同じ日光山普請であって、最早、前話の顕在的続話として確信犯で示されている。しかも「天狗礫」を変形した「天狗の石切」という怪異内容でもダイレクトにジョイントしてある。しかも実録怪談としては細部にまで実に気遣いがなされた超弩級にリアルな話であり、この藩を特定出来ないが(後注参照)、或いは、筑紫のある藩史の記載から、日光山普請のための石材の切り出し任務及びそれを運搬した輸送船が遠州灘で沈没した記録が見出され、それをこの話に附帯して示すことが出来たならば、これは恐るべき「本当にあった怪奇事実」として歴史に残る話となるレベルの一章である。こういう強い現実感を持つ怪談は創作性の強い近世の怪奇談物の中では実は珍しく(採録型の著聞奇談集では普通に多くあるが)、歴史的事実や人物に見え見えの齟齬を施す(或いはきたす)ものが殆んどだからである。

「筑紫(つくし)の山」広域としての旧筑紫国は現在の福岡県の東部(豊前国)を除いた大部分に相当するが、七世紀末までには筑前国と筑後国とに分割されている。しかしそれ以降も両国は「筑州(ちくしゅう)」と呼ばれており、筑前国は筑前福岡藩(江戸前期は黒田家)及び支藩として秋月藩と、一時期(本書刊行時と重なる)には東蓮寺藩(直方藩)があり、筑後国は北部が久留米藩、南部の内、現在の柳川市及びみやま市などの大半に当たる地域に柳河藩、大牟田市に相当する地域には柳河藩と親類関係にあった三池藩が置かれていた。この全六藩の内、藩内に石を切り出せるような山があるのが対象藩となるが、山と限定しなければ複数箇所存在する。ぴったり符合する箇所を郷土史研究家の御教授にて俟つものである。

「火」夜作業用の灯火(としか見えぬもの)。

「人步(にんふ)」人夫。

「そのわたくしなし」その粉骨砕身の日々の努力には、工賃目当てなどという私心などは、これ、微塵もない。あくまで御領主様への御奉公という思いでのみ精を出しているのだ。

「夜詰(よつめ)までは情なし」そんな風に昼間、身を粉にして働いている彼らに、残業の、しかも徹夜仕事をさせるなどというのは、あまりにも人として非情極まりない暴挙ではないか。

「思ひよるとも」そうした過剰労働を自分以外の二人或いは一人の奉行人(監督者)が思いついてやらせているとしても。

「かつうは」「且つうは」。副詞で「一つには・一方では」の意。「且つは」の音変化。

「はらぐろ」「腹黑」。

「杖つきの者」山案内の者の謂いであろう。

を使にして、相役(あいやく)兩人のかたへ、

「日算、用いたし候へば、」予定通りの日程で普通に作業をやって御座れば。

「三更」子の刻相当。現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。

「ことに吾(われ)、不祥なればとて」主人公は他の二人の奉行とはこの石切作業の奉行人となる以前には殆んど面識がなかったということ。

「隔意(きやくい)」対人間に於いて内心に有意な隔たりがあること。まるで打ち解けないこと。要らぬ遠慮。

「急度(きつと)」即刻、きっちりと、必ず。

「石切り人步(にんぷ)に問へど」業を煮やした主人公は恐らく、翌日、昨夜、音のしたところの石切り現場に実際に行き、その人夫に直接、徹夜した事実を糺したのである。でなければ、彼らが主人公を胡乱(うろん)に思うこと、「何、訳わかんないこと、言ってんだ? 徹夜仕事なんぞしてねえのに。」と逆に疑わしく怪しむことはないからで、この辺りこそ、映像的で優れたリアルな描写であると言えるのである。

「三人ともに出て見るに」主人公の体験を猜疑していた他の二奉行を主人公は自分の小屋に招き、実地にその不審を晴らしたのである。それぐらいのことを相奉行らに要求するぐらい、主人公は頭に血が上っていた、怒り心頭に発していたのである。よろしいか? でなければ、彼らを「はらぐろなり」と断じ、「意趣をとふて異義に及ばゞ、打ち果すべき」とまでは思わぬ

「あくる日みるに、石の切目(きりめ)は、かはる事なし」ところが、三人して前夜に火と石切り音を皆で確認した場所に行ってみると、前日の夜になる前に終了した折りの石の切り跡は、全く変化していなかったのである。書かれてはいないが、複数の人夫に直接、その一帯総てを検分確認させたのであろう。

「夜も夜も」それ以降も毎夜毎夜。

「十餘日にして」そんなことが十日余り続いたちょうど、その頃。

「此石、出來ければ」実際の人夫らによる切り出し作業が終わったので。但し、予定の作業日程通りではなく、藩主の怒りを買わない程度には遅れたものと推定する。何故なら、この深夜の石切り音と灯火という怪異は誰よりも実地作業をする人夫らが知って、「山怪」として恐怖し、作業の遅滞や混乱がなかったはずはないからである。

「難風(なんふう)」船の航行を困難たらしめる暴風。海上の疾風(はやて)。

「遠江灘(とうとうみなだ)」所謂「遠州灘」であるが、これは広義には東海地方の太平洋岸沖合の東西の広い海域、伊豆半島先端の石廊崎から現在の三重県大王崎に至る約百八十キロメートルの海域を呼称し、狭義にはその中でも駿河湾の西に突き出る御前崎から渥美半島西側の伊良湖水道までを限定し、現行では「遠州灘」というと後者で認識されているが、ここは怪異のスケールを大きく採るために是非、前者で採りたく思う。

「先表(せんひよう)」歴史的仮名遣としては「せんへう」が正しい。「せんべう」「せんぺう」とも読み、「前表」とも書く。ある物事の起こる前触れ。前兆。]

2017/06/22

宿直草卷一 第六 天狗つぶて打つ事

 

    第六 天狗つぶて打つ事

 

 ある侍のかたりしは、

『日光山(につくわうさん)御普請(ふしん)の奉行にくだりしに、また他家に有て、ことにひさしくあはざる從弟(いとこ)、これも奉行にて、くだる。互に喜び、狀ども取りかはし、對面の望みありけれども、他家(たけ)の人を、小屋(こや)へいるゝ事、法度なりければ、力なふ、日數をふるに、一日(ひくらし)、從弟のかたより、

「その日其山にて話すべき。」

など云ひ越せしかば、やがて、

「しかるべき。」

と返事して、その日を待ちて出合、越しかた行くすゑまでをかたり、小竹筒(さゝえ)のかすみ汲みつゝも、あくとしもなく話し侍るに、はや、日の駒(こま)も端(は)山におち、餘光(よくわう)もやうやう影くらみければ、提燈(ちようちん)に燭(しよく)をかゝげ、今の時をおしむのみか、又いつの日の音信(をとづれ)など、名殘(なごり)までに及びければ、はや、亥の刻(こく)になりぬ。

 かく暇(いとま)ごひするうちに、いづちよりともなふ、大きなる石を礫(とぶて)[やぶちゃん注:「と」はママ。]にうつ。

「こは、狼籍。」

といへど、きかず。たがひに他人より猶はづかしき恥しる中の事なれば、下下(しもじも)も一際(きは)働くべきに見えけれど、向ふべき相手もなし。とかくするほどに、氈(せん)むしろ疊まんとするに、刀(かたな)にうち、挾箱(はさみばこ)にうつ。あたれる程のもの、みな、損じて、あまさへ、賴み切(きつ)たる挑燈(ちようちん)も打(うち)くだきて、火もつゐに消えぬ。はふはふのていに暇乞(いとまこひ)して、道具などすてゝ、くらき道を主從ともに身(み)がら歸りしに、人には、かつて、あたらず。

 さて、朝(あした)、人をつかはしければ、碎(わ)れしとおもふ道具、そのまゝ有て、取りかへりしなり。

 あまり不審なりしかば、從弟のかたへ尋ねにつかはしければ、其下人が差したる刀の鞘も、

「ゆふべは割れしと思ひしに、けさ見れば、つゝがなし。」

と云ひこせり。まのまへ、かゝる不思議にあひし。』

と語れり。

 

[やぶちゃん注:前話とは天狗で連関し、暫く天狗譚が続く。前の浅草観音堂連関など、本書の筆者が、完全ではないにしても、ある種の構成上の各話の関連性を強く意識していたことが判る。そうして、こうした傾向はある意味で、前話に刺激されて次話が語られる百物語形式の萌芽であるようにも私には見受けられるのである。話者の直接話法形式を採る点でも、信じられる優れた構造を持ってもいる。ここに記された現象は「天狗礫(てんぐつぶて)」などと呼称された、石が空から突然降ってくるという、かなり知られた怪奇現象で、海外では、こうした「その場にあるはずのないもの」が突如、降って来る現象を総称して“Fafrotskies”(ファフロツキーズ:英語)と呼ぶが、そちらは石だけでなく、魚や蛙やオタマジャクシ、獣類の毛、血のような雨等を含んだ異物の広範囲な降下を含んでいる。なお、詳しくは私の『柴田宵曲 妖異博物館 「そら礫」』の冒頭の私の注を参照されたい。サイト「不思議なチカラ」の大天狗の住む日光。天狗の社・古峯ヶ原古峯神社(栃木・鹿沼市)によれば、古くから日光は天狗の棲家として知られ、日本の四十八天狗に数えられる「日光山東光坊」や、後に群馬県の妙義山に移ったとされる「日光山(妙義山)日光坊」という大天狗がいた。また、日光東照宮の南西十三キロキロメートルの位置にある、現在の栃木県鹿沼市の古峯ヶ原(こぶがはら)高原にある古峯ヶ原古峯神社(こみねじんじゃ:ここ(グーグル・マップ・データ))は別名「天狗の社」とも呼ばれ、古くから参籠宿泊を行う「天狗の宿」として知られていたという。そもそもが、日光の寺社の開山は奈良時代に遡るとされ、『現在の栃木県真岡市に生まれた勝道上人という人が日光の地に入り、紫雲立寺(現在の四本龍寺)という寺を建立したのが始まりで、中禅寺湖や華厳の滝を発見したのもこの勝道上人だと言われて』いるが、『その後、勝道上人は「古峯大神」というこの地の山神の神威によって、古峯ヶ原を修行の地とし』、それ以降、『多くの僧侶や修験者が古峯神社を中心とした古峯ヶ原を訪れ、修行に励んだという』。『そういった勝道上人や修験者の姿から、御祭神または古峯大神の使いである天狗への信仰が生まれたようで』、この『古峯神社には、天狗を崇敬する人にもし災難が起きたときには、天狗が飛んで来てその災難を取り除いてくれるという、天狗への民間信仰が生まれ』た。ここ『峯ヶ原には隼人坊という天狗がいたと』伝えるが、『この天狗は実は日本の修験道の開祖と言われる「役小角(役の行者)」の弟子であった妙童鬼(前鬼・後鬼)の子孫だという説もあ』り、『古峯ヶ原が修行の地であったことから、この地を護る天狗が修験道の開祖である役小角やそれに従った弟子の前鬼・後鬼と結びついたので』はないかとサイト主は述べられ、『このように修験道や山の神などを介して、鬼と天狗が結びつくこともあ』るとする。本書刊行よりずっと後のことであるが、文政一一(一八二八)年には第十一代『将軍家斉が日光に社参した際に、日光に棲む数万とも言われる天狗たちが騒がないように、一時退去させる命令が江戸幕府から出された』とあり、この時に『幕府の奉行と連名で名を連ねたのが古峯ヶ原の隼人坊であったそうで、一躍、隼人坊の名声が高まったという』話も遺っている、とある。

「日光山御普請の奉行」この場合の「奉行」とは普請奉行ではなく、現場の指揮監督者の謂い。とすれば、この二人の武士は所謂、幕府が各藩に命じた日光山の諸社修復のための「手伝普請(てつだいふしん)」で派遣された武士である。実は次の第七話も同じ場での別な侍からの採話でなのであるが、そこでは冒頭で自分の主君が日光山普請のために藩内の筑紫の山で多くの石を切り出したと始まるから、同席していたこの主人公もそうした手伝普請の派遣職であったと考えてよいと思う。現地には臨時の藩ごとの本部及び出張小屋(本文の「小屋」とはそれであろう)のが設けられ、単純な力仕事の人足などは近隣の村などからを集めて労賃を支払って作業に当たった参照したウィキの「手伝普請」によれば、『江戸時代の初期には、各藩が費用を負担し、実際に藩が取り仕切って普請が行われていたしかし、時代が下るにしたがって、落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり、さらには金納化も進行した。そして』、安永四(一七七五)年『以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には、各藩は費用を負担するだけとなり、幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった』。『江戸時代の手伝普請』に於ける『各藩の負担は過重であり、藩の財政を逼迫させる要因のひとつとなった。ただし、他の課役・重職を担っている藩には、手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では、尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩、老中などの要職在任中の藩、溜間詰の大名、長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた』(下線やぶちゃん)とあるが、本書の出版は延宝五(一六七七)年であり、話柄内の描写からも江戸初期のそれであることが判る。

「狀」書状。手紙。

「他家(たけ)」前の注で示したように、この二人は親戚ではあったが、仕えていた藩は違っていたものと思われる。

「その日其山」伏字。実際には実際の日付と実在する山の名が書かれてあったのである。

「小竹筒(さゝえ)のかすみ」「小竹筒」は「小筒」「竹筒」とも書き、それも「ささえ」と読み、酒を入れる携帯用の竹筒を言う。「かすみ」は酒の異名であるが、これは恐らく、現在の清酒以前の、滓(おり)の部分が含まれた「滓がらみ」を「滓(かす)み酒」と称したことによるものと推測する。

「あくとしもなく」「飽くとしもなく」。飽きるということもさらになく。「としも」は連語(格助詞「と」+副助詞「し」+係助詞「も」)で「ということも」の意。ここのように下に打消表現を伴うことが多い。

「日の駒(こま)」ギリシア神話の太陽神ヘリオス(古代ギリシア人は太陽は天翔けるヘリオスの四頭立て馬車と考え、これは後にアポロンと習合した)ではないが、太陽の運行を馬に擬えたものであろう。

「亥の刻」現在の午後九時から十一時。

「といへど、きかず」と石を投げた者を批難したが、それに応える様子もなく、礫の投擲はやまない。

「たがひに他人より猶はづかしき恥しる中の事なれば」主人公と甥は、常人以上になおも武士としての面目をまず第一とし、いわれなき無礼を受けることの恥を、孰れも、最も嫌悪し、言語道断として許さざる性質(たち)の者たちであったので。

「下下」武士である主人公とその甥の、従者たち。

「一際(きは)働くべきに見えけれど」主人たちへの無法な無礼にいきり立って、その石を投げた者に立ち向かわんとしたところが。

「氈(せん)むしろ」毛氈の敷物。

「挾箱(はさみばこ)」諸道具(ここは物見遊山のための)を持ち運ぶための長方形の浅い箱、蓋ふたに棒をとりつけてあり、従者が担いだ。

「あまさへ」「剩(あまつさ)へ」。副詞で「事もあろうに・あろうことか」の意。「あまりさへ」の転。

「身(み)がら」ただ己が身一つ。礫が異様なほど波状的に間断なく、寧ろ、ますます回数を増やして生じたことが窺われる。

「まのまへ」「目の前」。眼前(がんぜん)間近く実際に。]

宿直草卷一 第五 ある寺の僧、天狗の難にあひし事

 

  第五 ある寺の僧、天狗の難にあひし事

 

Tenngu

 

[やぶちゃん注:この図は底本「江戸文庫」版のものであるが、汚損除去と合わせて、今回は四方の枠を総て除去して見た。]

 

 我(わが)朝(てう)にいふ天狗とはなにものやらん。古今(ここん)の大德(だいとこ)これを病めり。今とても自勝他劣(じせうたれつ)の見(けん)にしづみ、我慢增上(がまんぞうじやう)の念あらば、嘴(くちばし)も翼もなくて、生(なま)の天狗なるべし。才智藝能につき、自(みづか)ら足れりと思はん人は、鞍馬の奧を訪ぬべからず。遠からぬ心の奧の道にまよひては、いにし世にもみな彼(か)の道に落ち給ひしぞかし。いはゆる、佛の毒、魅鬼(みき)のたぐひか。

 かゝるついでに、さる人の語りしは、醍醐へんにての事なりしが、あるつれつれ、出家たち寄り合(あひ)なんどして遊びしに、なにがしの沙門(しやもん)、ただかりそめに座を立(たち)て返らず。圓居(まとゐ)の僧、不審して、寺へ戾りしかと、人やりて見するに、居(ゐ)ず。醍醐中は申すにをよばず、伏見・栗巣野(くるすの)・宇治(うぢ)・瀨田のわたり、所々尋(たづぬ)れども、行方(ゆくゑ)さらにしれず。院内・門前・兒(ちご)・同宿(どうじゆく)、大きに歎きあへり。

 しかるにその三日過(すぎ)て、ある寺の下部(しもべ)、爪木樵(つまきこ)りに山に行きしに、遙けき嶺(みね)を見れば、其(その)色白きもの、大木の、えも至りがたき所に飜(ひるが)へりけるを、寺に歸り、諸人(もろひと)にかたりければ、人々、不審して、かの下部を率て行き、案内(あない)のまゝに鹿の通ひ路(ぢ)わけ越えて、岩の角(かど)、草の蔓(つる)にとりつき、九折(つゝらをり)を登りて見れば、まがふべうもなき、それとしるき、骸(から)なりけり。

 白き小袖は木にかゝり、屍(かばね)は方方へひきちらせり。印契(ゐんけい)むすびし左右(さう)の手も、所々にみだれ、陀羅尼(だらに)を唱(となへ)し唇(くちびる)も、はや、色かはりぬれば、中中に訪ねて悔(くや)む有樣(ありさま)なりかし。これなん天狗の所爲(しわざ)ならん。何たる犯戒(ぼんかい)したまひて、降魔(がうま)の加護もなかりけると、あさましくもかなし。

 

[やぶちゃん注:「天狗」「我(わが)朝(てう)にいふ天狗とはなにものやらん」ウィキの「天狗」より引く。天狗は『日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物』で、『一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ』、外法様(げほうさま)ともいう。元来、『天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球』(流星)『はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている』。中国の史記を初めとして、「漢書」「晋書」には『天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた』。『仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし』、「正法念處經」の巻十九には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下」『とあり、これは古代インドの』ウルカ『(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである』。『日本における初出は『日本書紀』舒明天皇』九(六三七)年二月、『都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻』(みん ?~白雉四(六五三)年:飛鳥時代の学僧で、ウィキの「旻」によると、元々が中国系の渡来氏族の出自で、魏の陳思王曹植の後裔とする系図があるとし、推古天皇一六(六〇八)年に『遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り』、二十四年間に亙って、『同地で仏教のほか易学を学び』、舒明天皇四(六三二)年八月に『日本に帰国』、『その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた』。この流星を天狗の吠え声とした他、七年後の舒明天皇十一年『に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった』と記す)『が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」』と主張している。『飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる』。『空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方、民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する』。従って、『今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである』。『事実、当時の天狗の形状姿は一定せず、多くは僧侶形で、時として童子姿や鬼形をとることもあった。また、空中を飛翔することから、鳶のイメージで捉えられることも多かった』。『さらに驕慢な尼の転生した者を「尼天狗」と呼称することもあった。平安末期の成立した「今昔物語集」には、『空を駆け、人に憑く「鷹」と呼ばれる魔物や、顔は天狗、体は人間で、一対の羽を持つ魔物など、これらの天狗の説話が多く記載され』ており、これは例えば、永仁四(一二九六)年の「天狗草紙」(「七天狗繪」)として描写されている。『ここには当時の興福寺、東大寺、延暦寺、園城寺、東寺、仁和寺、醍醐寺といった』七『大寺の僧侶が堕落した姿相が風刺として描かれているこれら天狗の容姿は、室町時代に成立したとされる『御伽草子・天狗の内裏』の、鞍馬寺の護法魔王尊あるいは鞍馬天狗などが大きな影響を与えていると思われる』。「平家物語」には、『「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」とあり、鎌倉時代になると、『是害坊絵巻』(曼殊院蔵)を始めとする書物に、天台の僧に戦いを挑み、無残に敗退する天狗の物語が伝えられるようになる。また、林羅山の『神社考』「天狗論」、また平田篤胤の『古今妖魅考』に、京都市上京区に存在する「白峯神宮」の祭神である金色の鳶と化した讃岐院(崇徳上皇)、長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇ら、『太平記』に登場する御霊が天狗として紹介され』ている、とある。また、「吾妻鏡」の天福二(一二三四)年三月十日の条の記述には、「二月頃、『南都に天狗怪が現れ、一夜中にして、人家千軒に字を書く(「未来不」の三字と伝えられる』)」と記述されている。他にも「吾妻鏡」では彗星に関する記述が多く記載されてあるが、この記述からこのケースでは『彗星ではなく、別の怪異(けい)と認識していたことが分かる。外観についての記述はないが、字を書けるということは分かる内容である(一夜にして千軒の家に字を書くことが、人ではなく、天狗の所業と捉えられた)』。『天狗は、慢心の権化とされ、鼻が高いのはその象徴とも考えられる。これから転じて「天狗になる」と言えば自慢が高じている様を表す。彼等は総じて教えたがり魔である。中世には、仏教の六道のほかに天狗道があり、仏道を学んでいるため地獄に堕ちず、邪法を扱うため極楽にも行けない無間(むげん)地獄と想定、解釈された』とある(下線やぶちゃん)。

「見(けん)」見識。基本的な考え方。思想。

「鞍馬の奧」岩波文庫版の高田氏の注に、『天台宗鞍馬寺奥の院不動堂から貴船へ至る鞍馬山中の称。「そもそもこれは、鞍馬の奥僧正が谷に、年経て住める大天狗なり」(謡曲「鞍馬天狗」)』とある。所謂、牛若丸に兵法を教えたという、あれである。これを「訪ぬべからず」と禁ずるのは、増長慢から妖魔と化した鞍馬天狗は同じ機因を持つ輩を最も嫌うからであろう。

「佛の毒」岩波文庫版の高田氏の注に、『「仏頼んで地獄に落つ」という諺がある』とある。願っていたこととは正反対の意図しない結果に陥ることの譬え。

「魅鬼(みき)」「鬼魅(きみ/きび)」と同じい。鬼と化け物・妖怪変化。この二単語自体は恐らく、「日本書紀」の欽明天皇五(五四四)年十二月を初出とする(「有人占云、是邑人、必爲魅鬼所迷惑。」(人ありて占ひて云く、「必ず魅鬼(おに)の爲に迷惑(まど)はされん。)極めて古い語である。ただ、その意味には実在した当時の、主に日本国外の異民族の海賊などの意味もあった。後代、鼻の高い西洋人を天狗にカリカチャライズした後代との偶然の親和性が面白い。

「醍醐」現在の京都府京都市伏見区東部の広域地名であるが、地名自体が同区醍醐東大路町にある真言宗醍醐山(深雪山とも称する)醍醐寺に由来する。先の注の下線部を参照されたい。

「つれつれ」徒然(つれづれ)。暇な折り。

「圓居(まとゐ)」まどい。原義は丸くなって居並ぶ、車座になることであるが、ここは親しい人たちが集まって語り合ったりして楽しい時間を過ごしたその団欒に同席した者の意。

「栗巣野」ここは旧山城国宇治郡山科村(今の京都市山科区。町名等の中に栗栖野が残る)附近のそれであろう。稲荷山の東麓、醍醐寺の北西三キロ圏内に当たる。

「兒(ちご)」稚児。寺で召し使われた少年。概ね、男色の対象であった。

「同宿」同僚僧。

「下部(しもべ)」下僕。

「爪木樵(つまきこ)り」薪採(たきぎと)り。「爪木」(「つまぎ」とも読む)は手の爪先(指先)で折り取れる程度の、薪用の細い枝のこと。

「骸(から)」死骸。

「方方」ここは「はうばう」と読みたい。

「印契(ゐんけい)」現行では「いんげい」と濁る。印相(いんぞう)とも称し、密教の作法に於いて、手と指を組み合わせて印を結び、諸仏菩薩の悟りを行者の身に表示するもの。僧が行うそれは普通は法衣の下で結ぶのが作法(なお、仏像に於いては、手と指を組み合わせたものを「印」、それ以外の仏体が法具として剣・法縄・蓮華などを持つことを「契」と呼んでいる。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。

「陀羅尼(だらに)」サンスクリット語の「ダーラニー」の漢音写で、「能持」「総持」「能遮」などと意訳される(「保持すること」「保持するもの」の意)。本来は「能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持して忘失させない念慧(ねんえ)の力」を意味する。元は一種の記憶術であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを指し、それは種々な善法を能く持つことから「能持」、種々な悪法を能く遮ぎることから「能遮」と称する。通常は長い句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」の巻五によれば、聞持(もんじ)陀羅尼(耳で聞いたこと総てを忘れない呪文)・分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する呪文)・入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声から影響されることのない呪文)の三種の陀羅尼を説き、略説するなら「五百陀羅尼門」、広説するならば無量の陀羅尼門があるとしている。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」の巻四十五では、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている(ここまでは小学館の「日本大百科全書」に拠った)。意訳せずに梵語音写のまま唱える。

「犯戒(ぼんかい)」破戒。仏の戒めを犯すこと。

「降魔(がうま)」修行を妨害する妖魔(法理から言えばこれは本人の煩悩の外化したもの)を降伏(ごうぶく)すること。]

 

2017/06/21

宿直草卷一 第四 淺草の堂にて人を引さきし事

 

  第四 淺草の堂にて人を引(ひき)さきし事

 

 聖曆(せいれき)寛永七、八の年かとよ。都の人、江戸へ下りて、見世(みせ)借(か)る風情(ふぜい)のあきなひし侍るに、そのあたりに町人の娘、ゆふに優しきありけり。またなきものに戀そめて、人づてならで云ふ由もなかりければ、しかるべき袖を託(かこ)ち、淺からず思ふまでを艷書(えんじよ)につらね、せちに落ちよと言(こと)の葉(は)を、かきくどきつゝ云はせければ、情(なさけ)に弱るならひかは、こがれ流るゝ稻舟(いなぶね)の、いなまでもなく打(うち)なびけり。さなきだに親には問はぬ妹背(いもせ)のみち、殊になをざりなふ包みければ、親はかつて是をしらで、結ぶべき緣(えん)の事など定むべきに聞えければ、娘、いとかなしく思ひ、通ひぬる男に、かくと知らせ、

「年頃日頃(としごろひごろ)、むつまじき中をもわかれ、また云ひをきし約言(かねごと)も、いつしか僞(いつはり)になりやはせん。いつまでとてか信夫山(しのぶやま)、忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ、うき事をたゝ、蛟(みづち)の峒(ほら)・わに住む沖(おき)のなかなかに、君(きみ)もろともに出(いで)なば、なにか、悲しからん。今宵、とく連れ給へ、紛(まぎ)れ出でん。」

と口説(くど)きけれは、男(おのこ)も年來(としごろ)ぬすみ出(いだ)し、都べに率(ゐ)て行きたく思ひし事なれば、まふけ得たる事に思ひ、さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに、手々(てで)取りくみて出でしかど、夜は、はや更(ふけ)ぬ、借(か)るべき宿もなし。

 先(まづ)、淺草の堂に行(ゆき)、こよひを明(あか)して旅立(だ)たんと、かの堂の緣(えん)に袖かたしきて、たゞ二人寢ぬるともなく打ち傾(かた)ふきしに、つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて、側(かたへ)を見るに女房なく、裝束(さうそく)・帶(おび)なんど引きちらせり。

「こは口惜しや。」

と、かなたこなた、尋ぬれども、見えず。途方なく呆(あき)れしに、眉(まゆ)、霜にまがふ翁(おきな)の來りて、

「汝は何を歎くぞ。」

といふ。泣く泣く、樣子、かたりければ、

「さては、汝が尋(たづぬ)るは、あれ、なるか。」

と指(ゆび)ざしするを見れば、十二、三間ばかりの大木の枝に、情なくも、二つに引き裂きて、かけたり。あるもむなしき骸(から)なれば、やる方もなふ悲しきに、教へたる翁も、あとかた失(うせ)てさりぬ。

 いとゞ恐ろしく思ひ、江戸には住みもあへず、今ほどは紀州にあり。かの人、直(ぢき)に懺悔(さんげ)ものがたりせりと、さる座頭(ざとう)のはなし侍り。

 

[やぶちゃん注:この一章は鬼に人が食われてしまうところの、所謂、「鬼一口(おにひとくち)」伝承ウィキの「鬼一口などを参照のこと)の変形譚で、その中でもシチュエーションの類似から、「伊勢物語」の第六段の有名な通称「芥川」の段が直接のモチーフと推定される本文中でも「伊勢物語」の中の別の章段の一首をインスパイアしている形跡がある(後注。しかし引用箇所が全然ひどくて話にならぬ)。また、前話の続きといった感じで浅草の観音堂がまた出るのであるが、実は浅草寺の東方一帯は浅茅ヶ原(あさじがはら)と呼ばれ、ここにはまさに「鬼婆」の一変形とも言うべき「浅茅ヶ原の鬼婆」の伝承があった場所であることもロケーションをここにした大きな一因があると私は思う(但し、この鬼婆は人食いはせず、金品を奪って殺すというものである。ィキの「浅茅ヶ原の鬼婆などを参照されたい)。しかし、どうにも描写が薄っぺらく、全体の分量が如何にも少ないのに修辞技巧をべたべたに重ねてしまった結果、リアリティも糞もなくなってしまい、最後の引き裂かれて高枝にぶら下がった女の遺体の肉感(肉は食われたから「皮膚感」と言うべきか)も伝わって来ず、つまらぬ一篇に堕してしまっているように思われる。なお、湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』では、本話を「曾呂里物語」の巻四の「六 惡緣にあふも善心のすゝめとなる事」の類話とした上で、そのルーツを「今昔物語集」の「卷二十七」の「産女行南山科値鬼逃語第十五」(産女(うぶめ)、南山科に行きて鬼に値(あ)ひて逃げし語(こと)第十五)や同書の「卷第二十七」の「在原業平中將女被噉鬼語第七」(在原業平中將の女(おむな)鬼に噉はれむ語第七)及び「東人宿川原院被取妻語第十七」(東人(あづまびと)、川原の院に宿りて妻(め)を取られたる語第十七)に求め、後代では「伽婢子」の十三の七にある「山中の鬼魅」、「諸百物語」之二」十一 熊野にて百姓わが女ばうを変化にとられし事」及び」の 丹波申へんげの物につかまれし事」(リンク先は私の電子テクスト注)を挙げ、また本「宿直草」の「卷二」の「第四 甲州の辻堂にばけものある事」(後日、電子化する)も類話として掲げておられる。

「聖曆(せいれき)」ここは元号のこと。

「寛永七、八の年」一六二九年末から一六三二年年初相当。徳川家光の治世。

「見世(みせ)」店。

「借(か)る」借りる。

「しかるべき袖を託(かこ)ち」しかるべき仲介者に密かに(親に知られぬようにするため)頼んで。

「艷書(えんじよ)」恋文。

「せちに落ちよ」何としても靡いてこよ。

「ならいかは」の「かは」は反語の係助詞に、「川」を掛けて以下の「漕がれ」「流る」「稻舟」という縁語群を引き出す。

「こがれ」「漕がれ」と恋「焦がれ」を掛ける。

「稻舟」稲を運ぶそれに「否(いな)」を掛けて以下の「いなまでもなく」を引き出す。以下のこうした「信夫山」等の修辞技巧の説明は、私には判り切っていて、しかも退屈なので(私は和歌が嫌いで、そのうざうざした痙攣的に増殖する修辞技巧が好きでないからである)、ここに限らず、原則的にこれ以降の章でも省略することとする。

「さなきだに」そうでなくてさえ。

「親には問はぬ」親から教えてもらおうとなどはしない。

「妹背(いもせ)のみち」夫婦になるための恋人同士の関係。

「なをざりなふ」いいかげんな綻びなど全くないように。

「包みければ」包み隠していたので。

「結ぶべき緣(えん)の事」親が決めた具体的な縁談話。

「わかれ」別々になって逢えなくなってしまい。

「約言(かねごと)」未来を「予」測して口に出した「言」葉、具体には夫婦として契る「約束」言(ごと)ではあるが、岩波文庫版は『予言(かねごと)』とし、この方が古語としても、言上げとしての民俗語としてもよりしっくりくる。

「忍ぶ甲斐なきこゝにしも居(を)ればこそきけ」「こそ」已然形の逆接用法であるが、謂いの中身に焦燥的な捩じれのある表現である。耐え忍んでみても最早、約束は成就されないことになりそうな今日只今、それでもこうしてここにこうして現に二人して逢っていられるからこそ、まだ、こんなことも申し上げられますけれども。

「蛟(みづち)の峒(ほら)」「わに住む沖(おき)」深い川淵の底の蛟龍の住む水中の穴、大海の底の鰐(=鮫)の棲む海底洞窟、「の中」を繫ぎ出す序詞的修辞であろう。その「中」から「なかなかに」(ここはこのまま二人が別れるのとは全く「反対に」の意の副詞的用法であろう)の語をさらに引き出しているのである。

「ぬすみ出(いだ)し」親の許しを得ずに密かに駆け落ちし。

「都べに」京の方(かた)に。

「まふけ得たる」歴史的仮名遣としては「まうけえたる」で「設(儲)け得たる」、自分がもともと望んでいた通りの状況を手に入れた。

「さ夜(よ)のさむしろきぬきぬに」岩波文庫版の高田氏の注に、『「さむしろに衣かなしき今宵もや恋しき人に逢はでのみ寝む」(『伊勢物語』)を踏むか。あわただしい情事のあとで、の意。「きぬきぬ」は普通、男女が共寝した翌朝のこと』とある。この一首は「伊勢物語」の第六十三段、通称「つくも髪」などと呼ばれる章段であるが、三人の子持ちの好色なとんでもないばあさんの大年増が、子の力で、在五中将と契りを結ぶも(というよりも在五中将がその子の健気さに哀れを感じたのであろう)、訪れは絶える。後に、彼女のことをいとしいとはこれっぽちも思っていない在五中将は、その老女のことを、これまた、哀れを感じて情けをかけるという、如何にも私にはいやな感じがする話で、ここに引く気も起こらない。挙げられた歌は、見限りとなった在五中将へ老女の思いを詠んだものである。

「淺草の堂」前章と同じく、浅草観音堂であろう。

「打ち傾(かた)ふき」岩波文庫版の高田氏の注に、『うとうととする』とある。

「つゐ、夜の明(あけ)しに驚きて」「つゐ」は「じきに・忽ち」の意の副詞であるが、歴史的仮名遣は「つい」でよい。この時間経過の圧縮感覚には、私はおぞましき妖怪変化の眩暈力が彼に作用したのだと感ずる。

「十二、三間」二十一・八二~二十三・六三メートル。]

 

宿直草卷一 第三 武州淺草にばけ物ある事

 

  第三 武州淺草にばけ物ある事

 

Asakusakanondoubakemono

 

[やぶちゃん注:この図は底本「江戸文庫」版のもの。]

 

 元和(げんわ)の始めの頃、淺草の觀音堂に化物あるといひふれりしに、江府(こうふ)御鷹匠(たかじやう)の内、器量の士(ひと)ありて、

「我、行きて見ん。」

といふ。其むしろに侍る士士(ひとびと)、

「良かるまじき。」

など答へけれど、なまじゐの我(が)になりて、その日の暮に馬に乘り、少々つれし下人に、

「あくる卯(う)の一天に迎ひに來れ。」

と云ひふくめ、その身は堂に入(いり)て越夜(おつや)するに、亥のかしらとおもふ刻(きざみ)、夜まはりの者とうち見えて、鐵棒つきて二人來り、咎めていふやう、

「堂内へ俗人の入(い)る事、堅く禁制なり、とく、出で給へ。」

といふ。

 侍(さぶらひ)、聞きて、

「是は救世(くせ)に宿願ありて籠り居る者なり。免したまへ。」

といふ。

「是非とも。」

といふ。

「ひらに。」

と答へて出(いで)ざれば、力をよばぬ體(てい)に、出でさると見えしが、かき消ちてうせぬ。

「さては宿直(とのゐ)の者にてはなし。是こそ化物よ。」

と思ひしに、また夜半(よは)の比、僧徒五、六十人、十(と)あまりの提灯(ていとう)に火ともして、いかさまにも闍維(しやゆい)の規式(きしき)にて來(きた)る。殊勝(すせう)におぼえしに、さはなくて、堂内にきたり、

「俗人は法度(はつと)也。とく出でよ。」

と、いろいろに責め罵(のゝし)れども、『今宵はいかやうの事ありとも出まじき』と思ひ、後々は返事もせず、進退用心してこらへければ、是も、そのまゝ、うせけり。

 やうやう明かして、はや七鼓(しちこ)の時分とおぼしき比、十六、七ばかりの小僧、後門(ごもん)より内陣に入(いる)。輪灯(りんとう)に火とぼして禮拜(らいはい)す。また、その容(かたち)、色々に現ず。あるひは、面(おもて)長くなり、短かくなり、あるひは、㒵(かほ)、赤くなり、白くなり、その姿、高ふして天井も低(ひき)く、その顏面(かほばせ)、廣ふして堂内も狹(せば)し。しかれども、これに少(すこし)も臆せず、刀の柄(つか)を拳(こぶし)も碎けよと握り、かの化物の面(つら)を睨みつけて居(ゐ)ければ、せんかたなくて、是も、かき消して失せけり。此(この)うせし後、

「はつ。」

と思ひしかども、亂るゝ心を取り直しぬるうち、夕告鳥(ゆふつげどり)も鳴きつれて、鐘の音(ね)もそふ。しのゝめも明(あけ)ゆく空となりぬれば、迎ひや來ると、あい待ちしに、馬を引きて、たゞ一人、來たれり。

「殘りの者は。」

といへば、下人のいはく、

「皆、いまに參り申すべく候。某(それがし)は御身上(しんしやう)おぼつかなく、慮外(りよくはい)にも御馬に乘り參候。」

といふ。さて、まづ、馬に乘りしに、下人のいはく、

「去夜(きよや)、かはりたる事も御座なく候や。」

といふ。

「その事よ、變りしことこそあれ。以上、化物、三度、來たりしかども、はじめ二度は、さも思はず。三番目に小僧が來りて、面がまへ、いろいろに變(か)へにしこそ、興(きよう)がる恐ろしき事よ。」

といへば、馬取(とり)のいふやう、

「その顏は此やうに御座候べしや。」

といふを見れば、かの恐ろしき小僧が面(つら)に少しも違(ちが)ふ事なし。

「さて、これも化物よ。」

と、腰の刀に手をかけしに、馬も變化(へんげ)の物なれば、いたふ、跳(は)ねて、まつ逆樣に落ちける時、

「さて、たばかられけるよと思ふと心亂れし。」

と、後に語り侍りしと也。かくて、約束の下人、迎ひに行(ゆき)て見るに、絶入(たえいり)てありしかば、藥など與へ、介錯(かいしやく)して歸りしと也。

 後の評判、いろいろにして、始末よろしからざれば、無念にや思ひけん。お暇(いとま)申し、行方(ゆくゑ)知らず、出でけり。粗(ほぼ)、人人、知りたる事なり。

 『智者はまどはず、勇者は恐れず』といへど、恐るべきを恐れざるは、賞(ほ)むるにかいなし。凡そ、將(しやう)の勇(よう)と、兵(へい)の勇と、取捨、各別なるをや。これなん兵の勇にして、化物に向ふ、何の手柄(てがら)かあらんや。慕虎馮河(ぼこひようか)[やぶちゃん注:「慕」はママ。]して死すとも悔ゆる事なきものには與(く)みせじと、夫子(ふうし)のいましめも、ひとりこの人の爲(ため)にや。

 

[やぶちゃん注:この話は恐らくは「曾呂利物語」の「卷三」の「六 をんじやくの事」(温石の事)をインスパイアしたものではないかと思われ(これは湯浅佳子論文「曾呂里物語」の類話でもそう推定されてある)、また、本「宿直草」と全く同じ年に板行された諸國百物語の「卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事も同じくそれを素材としており(リンク先は私の電子化注)、しかも、限りなくどちらかがどちらかを真似をしたものと思われる。何故なら、リンク先の挿絵を見て戴けば判る通り、展開だけでなく、その主人公と変化の配置さえもよく似ているからである。

「元和(げんわ)の始め」「元和」は通常は「げんな」と読む。一六一五年から一六二四年まで。初めとあるから第二代将軍徳川秀忠の治世(彼は元和九(一六二三)年に嫡男家光に将軍職を譲っている)。

「淺草の觀音堂」現在の聖観音(しょうかんのん)宗総本山金龍山浅草寺。第二次世界大戦後の改宗までは天台宗。推古天皇の頃、宮戸川(現在の隅田川)から引き上げた観音像を土師真中知(はじのあたいなかとも)が祀ったのを始まりと伝え、大化元(六四五)年に勝海が堂宇を建立して開山となった。中興開山は円仁。江戸時代は幕府の祈願所であった。本尊は聖観音菩薩で秘仏。ウィキの「浅草寺」によれば、天正一八(一五九〇)年、『江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは』寛永八(一六三一)年・同一九(一六四二)年に『相次いで焼失したが』、第三代『将軍徳川家光の援助により』、慶安元(一六四八)年に五重塔が、同二年に『本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた』とある。なお、この日秘仏本尊は『長期間にわたって見る者がなかったため、明治時代には実在が疑われるようにな』り、そこで明治二(一八六九)年に役人が『調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していたことが明らかになったという。この時の調査によれば、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ』約二十センチメートル程で、『焼けた跡が伺え、両手足がなかったという』。『現在、常時拝観可能な「裏観音」が秘仏本尊と同じ様式であるとされるが、高さは』八十九センチメートルと異なっている、とある。

「御鷹匠」家康が鷹狩を好み、慶長年間(一五九六年~一六一五年)に幕府の職制として位置づけられ、天和元(一六八一)年の時点では実に百十六名を数えた。その後、「生類憐みの令」の発布に伴い、漸次減少し、元禄九(一六九六)年十月に一旦、完全に廃職となったが、二十年後の享保元(一七一六)年八月、徳川吉宗による放鷹制復活によって鷹匠職も復活し、四十名余の定員で、幕末まで至った。

「むしろ」「蓆」。「その会合の席」の意。

「なまじゐの我(が)になりて」口に出して言ってしまったことから、却って強情を張ってしまい。

「卯(う)の一天」卯の刻の「一點(点)」が正しい。一時を四等分した最初の時間帯。午前五時から五時半頃。

「越夜(おつや)」徹夜。

「亥のかしら」「かしら」は「頭」。午後九時頃。

「刻(きざみ)」時刻。

「救世(くせ)」救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)のことであるが、聖観音菩薩は正式でも通称でも「救世観音」とは言わない。ウィキの「救世観世音菩薩」によれば、救世観音とその信仰は、平安時代、法華経信仰から広まった名称であるが、この名称は経典等には説かれておらず、そう呼称する観音像は仏像として正統的な尊像ではないとされる。但し、『救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名ともされる。救世観音の名称の由来は「法華経」の観世音菩薩普門品の中の』「觀音妙智力 能救世間苦」という『表現にあると推測され、法華経信仰が平安時代に盛んになったこと、さらには聖徳太子の伝説が付帯されることで、この尊名が生まれ、民間で定着したと考えられている』とあるから、ここでの武士のこの謂いもイコール「觀音」のことと解してよい。

「是非とも。」夜回りの体(てい)の者の台詞。

「ひらに。」主人公の武士の台詞。

「宿直」原典は「とのゐ」。底本は「殿居」であるが、岩波文庫版の表記を採った。

の者にてはなし。是こそ化物よ。」

「提灯(ていとう)」ちょうちん。

「闍維(しやゆい)の規式(きしき)」「闍維」は火葬・荼毘(だび:パーリ語の漢訳音写)のこと。ここは広義の葬送・埋葬、死者を葬るための定式法を指す。

「殊勝(すせう)におぼえしに」実に厳粛な雰囲気が伝わってきたのだが。

「さはなくて」そうではなくて。本来の主体である葬儀の厳かさを破ってまで、まず真っ先に彼を堂内から排除しようとやっきになったことに対する謂いでろう。これは堂への祈願の籠り人(実際には主人公はそうでなく、肝試し目的の不届き者なのであるが)に対する措置としては確かに不審とは言える。

「七鼓(しちこ)」午前の七つ時。定時法では午前四時頃。

「後門(ごもん)」観音堂の後部の入口。岩波文庫版では『こうもん』とルビするが、原典に従った

「輪灯(りんとう)」仏前に灯を献ずるための灯明具の一つで、天井から吊るして油皿を載せて灯芯を立てる。

「㒵(かほ)」「顏面(かほばせ)」同義乍ら、異様なメタモルフォーゼをするこのシーンに別表現を使った筆者の意図はなかなかのものと言える。

「夕告鳥(ゆふつげどり)」鷄の別称。

「御身上(しんしやう)おぼつかなく」御主人様の御身の上が心配で心配でたまらず。

「慮外(りよくはい)にも」御無礼とは存じつつも、気がはやって、ただ一人先に。

「興(きよう)がる」岩波文庫版の高田氏の注に、『異常な。一風変わった』とある。

『「その顏は此やうに御座候べしや」/といふを見れば、かの恐ろしき小僧が面(つら)に少しも違(ちが)ふ事なし』このシークエンスはまさにかの小泉八雲の「貉」の遠い濫觴と言える(私の『柴田宵曲「續妖異博物館」「ノツペラポウ」附小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)』を参照されたい)。

『「さて、たばかられけるよと思ふと心亂れし」/と、後に語り侍りしと也』ここに突如、後の時制の談話を挿入しているのは、怪談を事実らしく見せる手法として、すこぶる効果的で、筆者がただの怪奇談収集を宗とする好事家レベルではないことをよく示すものである。

「介錯(かいしやく)」介抱。傍に付き添って面倒を見ること。

「後の評判、いろいろにして、始末よろしからざれば、無念にや思ひけん。お暇(いとま)申し、行方(ゆくゑ)知らず、出でけり。粗(ほぼ)、人人、知りたる事なり」後日の主人公の顛末を添えるのも、真実味を添える上手い方法であるが、この手法はまた古くは、かの「竹取物語」で蓬莱の玉の枝の偽物で失敗し、行方知れずになった車持皇子に既に原形がある。

「智者はまどはず、勇者は恐れず」「論語」の「子罕篇第九」に『子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。』(子、曰く、「知者は惑はず。仁者は憂へず。勇者は懼れず。)と出るのを指す。これは同じ「論語」「憲問第十四」にも『子曰。君子道者三。我無能焉。仁者不憂。知者不惑。勇者不懼。子貢曰。夫子自道也。』(子、曰く、「君子の道なる者、三(みつ)あり。我、能くする無し。仁者は憂へず、知者は惑はず、勇者は懼れず。」と。子貢、曰く、「夫子(ふうし)自(みずか)ら道(い)ふなり。」と。)と重出する。

「將(しやう)」真の軍師・軍略家。

「兵(へい)」実動する血気にはやるばかりの兵士。

「慕虎馮河」「暴虎馮河」が正しい。虎に素手で立ち向かおうとし、黄河を徒歩で渡らんとするで、血気にはやって無謀無益なことをすることの譬え。やはり、「論語」の「述而第七」に出る。私の好きな一節なので引いておく。

   *

子謂顏淵曰。用之則行。舍之則藏。唯我與爾有是夫。子路曰。子行三軍則誰與。子曰。暴虎馮河。死而無悔者。吾不與也。必也臨事而懼。好謀而成者也。

   *

子、顔淵に謂ひて曰く、「之れを用ふれば則(すなは)ち、行なひ、之れを舎(す)つれば、則ち、藏(かく)る。唯、我れと爾(なんぢ)とのみ、是れ、有るかな。」と。子路、曰く、「子、三軍を行(や)らば、則ち、誰(たれ)と與(とも)にせんか。」と。子、曰く、「暴虎馮河し、死して悔い無き者は、吾、與にせざるなり。必ずや、事に臨みて懼(おそ)れ、謀(はかりごと)を好(この)みて成さん者なり。」と。

   *

断わっておくが、私がこの条が好きなのは、これが孔子が徳行第一とした唯一の弟子にして、若くして死んで、孔子を激しく歎かさせた、かの顔回(=顔淵)への感懐を彼が素直に述べている点、そして、それ以上に、ここで蛮勇を揮う「暴虎馮河」な者と強く注意された子路が、実は誰よりも私は好きだからである。

「夫子(ふうし)」孔子の尊称。]

 

宿直草卷一 第二 七命ほろびし因果の事

 

  第二 七命(みやう)ほろびし因果の事

 

 むかし、行脚の僧、山路を步むに、をりしも初秋(はつあき)の頃、殘る暑さも眞夏にこえ、さわたる雁(かり)もいと珍しく、凉しき木陰(こかげ)にいこふ所へ、なめくじりなんいふ虫、はらばひ出でたりしに、ひとつの蛙(かはづ)有て、飛びきたりて、これを呑む、かゝりしを又、蛇(へび)、見つけて蛙(かはづ)をのむ。猪(ゐのこ)、見て、又、蛇をくらふ。僧、みて、

「あゝ、鳩(はと)のはかりに身を隱る術(じゆつ)も、我におゐてなき事よ。」

と恨むに、猪(ゐ)は喜びて去るに、どこより狙ひけん、この猪(しし)も矢にいられて、忽(たちまち)、目(ま)のまへに死す。かかるところへ、腰に靫(うつぼ)つけたる狩人(かりうど)きて、此猪(しし)をとり、嬉しげにかへる。

「さてさて、強者伏弱(がうじやぶくにやく)のことはりなるかな。なめくじりより次第に殺されて、猪(しし)、今、狩人の手に入る。しらず、此狩人も行方(ゆくゑ)、いかがあらん。」

 末(すゑ)おぼつかなく思ひければ、跡につきて、狩人の家に行き、宿(やど)かりたき由いへば、情(なさけ)ある者にてゆるし侍り。内に入(いり)、見れば、四面(しめん)あれたる柴の戸の、嶺(みね)の松風(まつかぜ)、らうがはし。隣るべき家もなふ、起臥(おきふし)ともにたゞ淋(さむ)しき住居(すまゐ)なめれど、かれが心に百敷(もゝしき)の、軒(のき)の並ぶも知らなくには、たんぬして住(すみ)つらめと、あさまし。似あはしき飼糧(かれゐひ)とゝのへて、洗足(せんそく)など迄いたはり、狩人夫婦(ふうふ)、たゞ三吟(きん)に話せしにぞ、夜(よ)もはや、いたふ更(ふけ)ける。明(あ)けてこそ語らめとて、あるじも寢(いね)ければ、僧も臥し侍りしに、なにとやら、胸(むな)さはがしく、つやつや、目も閉ぢでより居しに、外(そと)より鼠鳴(ねずな)きして、をとづるゝものあり。獵師の妻(つま)、得たり顏に、ひそかに立て、戸をひらく。物蔭より見れば、刀・脇差に、長刀(なぎなた)もちたる男、入ぬ。とかくすると見る程に、かの獵師を刺し殺す。

 僧、さればこそと、恐ろしく、身をひそめて見る。古き皮籠(かはご)を取りいだし、死骸を入れ、繩、十文字にかけて、

「年ごろの本望(ほんまう)、達しぬ。」

と、よろこぶ。

「さて何とすべきぞ。」

といへば、女のいはく、

「上(うへ)の山に埋(うづ)み給へ。」

といふ。

「いかゞして持ち行かん。」

といへば、

「さいはひ、旅人の候。これに持たせて御行き候へ。」

といふ。

「然(しか)るべし。」

とて、僧をあらけなく起し、

「皮籠(かはご)を荷なひ、きたれ。」

といふ。いつならはじの事なれば斟酌(しんしやく)なれど、否(いな)といはゞ、殺すべき氣色(けしき)に見えければ、力をよばず、これを荷なふ。件(くだん)の男、片手に鍬(くは)、かた手に長刀にて、おそろしき出立(いでたち)なり。

 かくて、山へゆき、埋(う)むべき所を見たて、をのれは奉行して、穴を僧に掘らするに、ぶん取、殊の外、ひろし。僧、心に思ふやう、

「我も埋(う)むべき巧(たく)みなるべし。我、ながらへば、女房も、密夫(まおとこ)も、事あらはれんなれば、一定(いちぢやう)、我をも殺すにこそ。扨(さて)さて、前業(ぜんごう)のかんずる所とはいひながら、無用(むよう)の所へ尋ねきて、非法(ひはう)の死(しに)をする事かな。ねがはくは、佛陀の加護、神明(しんめい)の靈驗ありて、助け給へ。」

と祈誓(きせい)して、彼(かれ)に先(せん)を越されじと思ひ、

「いかに、聞(きき)給へ、我ならはぬ事ながら、きめて掘れとのたまふゆへ、かほどまでは掘りたり。ゆるし給へ、まづ、少し休まん。」

といへば、男、聞(きき)て、

「今休みなば、やうやう、夜(よ)も明(あけ)なん。無下(むげ)に弱き法師かな。いで、退(の)きたまへ、我、掘らん。」

とて、鍬と長刀、取りかへて、よほどふかき穴に入(いり)、精をいだして掘りけるぞ、しかるべき運の盡きなる。

 僧、屠所(としよ)の羊の惜しむべき間(ひま)なり、

「穴、出來(でき)たらば、命あらじ。逃(のが)るべきは、こゝなり。」

と、

「汝是怨敵發菩提心(によぜをんてきほつぼだいしん)。」

と、心の内に弔(とふら)ひ、持ちたる長刀、取り直し、多聞(たもん)の鉾(ほこ)となぞらへて、かの男の首、うち落とし、さて山傳(やまづた)ひに迯(にげ)やはせんとおもひしが、

「いやいや、かの女、跡にて、わが過(とが)のやうに云ひなしなば、いかばかりの難義(なんぎ)かあらなん。たゞ正直(しやうぢき)に云はんには、しかじ。」

と、かの所の地頭(ぢとう)に、いちいちに斷りければ、

「沙門(しやもん)は神妙。」

とて褒美にあづかり、女房は定めの如く、刑(けい)に仰せつけられけるとかや。

 むべ、尊(たつと)きも賤しきも、なれては秋の色好(いろごの)み、よその袂(たもと)の香をとめて、誘ふ水に心をみだし、義理にはなれて名に殘るは、いとも口惜しからずや。狹衣(さごろも)の大將は、聞きつゝも淚にくもるとながめ、光(ひかる)君は、いかゞ岩根(いはね)の松はこたへんと詠ぜしも、膽(きも)にしみて淺ましくこそ侍れ。かの高麗人(こまうど)の、色(いろ)ある婦(をんな)の姿の雅びやかなると、家の富めるとに、よすがを定めかねたるも、道理は一往(わう)あれど、思ふに別れ、思はぬに添ふも、不祥(ふしやう)の常(つね)なれば、何とも、しがたし。さればこそ、重きが上の小夜衣(さよころも)といひ、貞女は二夫(じふ)に見(まみ)えずとも、王燭(わうしよく)はいましめ、和漢ともに五の常(つね)を守りて、我人のたしなみとす。

 然るに、この女、振分髮(ふりわけがみ)の馴(な)じみを忘れ、あらぬ方に心を移し、あまさへ、その夫(おつと)を殺す。まことに、天網恢々(てんまうくはいくはい)、罪(つみ)をいづこに贖(あが)なはんや。因果歷然、こゝを以て知るべし。目(め)のまへに七命(みやう)、ほろび侍り。をのれに入る者は、をのれに出づ。科(とが)を天に得ては、祈るにところなしと、此はなしに知られてぞ侍る。

 

[やぶちゃん注:「七命」(しちみょう)という特定の名数は仏語にはない。これは本話に於いて命を滅ぼすことになる因果を持った七つの生きとし生けるもの、①「なめくじり」(蛞蝓)に始まって、②蛙・③蛇・④猪・⑤狩人・⑥「密夫(まおとこ)」と、⑦女房(本文ではただ「定めの如く、刑に仰せつけられけるとかや」としかないが、不義密通を働き、しかも間男を手引きして夫を殺させ、その死骸を埋めるように指示した彼女は江戸時代の判例に従うなら死罪である。但し、この話柄の時制は後で法刑事権を握っている者としての「地頭」が出ることから、筆者(話者)の時代想定は鎌倉・室町時代のこととしているのかも知れぬ。にしてもこの女は本話中の最悪の悪人で何よりも死ぬべき存在であり、読者も七人目を彼女ととったことはまず間違いない)を指していると採るなお、湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』では、本話を「曾呂里物語」の巻五の五「因果さんげの事」の中間部をインスパイアしたもの(事実、よく似ている)、冒頭の因果律の箇所は、やはり「曾呂里物語」の五の六「よろつうへうへの有事」の類話(これも実際によく似ている)とされている。湯浅氏は同論文の結語で、「垣根草」には都合、「曾呂里物語」の十二の話との類話がみられるとされつつ、但し、『『宿直草』のそれらの話は、『諸国百物語』に比べると『曾呂里物語』との類似性はそれほど緊密ではない。しかし、『曾呂里物語』巻五の五のやや冗漫な長話が『宿直草』で三話に分けられるように記されていること等を考えると、『宿直草』は『曾呂里物語』に拠ったか、もしくは『曾呂里物語』と話材を共有しつつ、創作的姿勢をもって話を描きなおしたといえるだろう』と述べておられる。大変、首肯出来る見解である。リンク先(PDF)の論文を是非、読まれたい。

「さわたる」沢山飛び行く。雁の類は冬鳥の渡り鳥で、やや設定が早い気もするが、風雅の景として詠み込んだものであろう。「いと珍しく」があるのでそうした確信犯である。或いは、ロケーションを特定していないものの、これによって未だ真夏の暑さのぶり返すような初秋でありながら、雁の渡りあるというのは、暗にそれを東北地方に設定していることを暗示しさせているのかも知れぬ。

「はらばひ」這い。

「鳩(はと)のはかりに身を隱る術(じゆつ)も、我におゐてなき事よ」「はかり」「謀り」であろう。「鳩が持つ防衛戦略のような羽根の保護色などで身を隠す術」である。野生のハト類は周囲の色に合わせて羽根色を変え、天敵がいる場合は、叢や木蔭に凝っとして姿を隠す防禦姿勢をとることがある。それを言っているものと思われる。この「我」はそうした食うか食われるかの因果、食物連鎖を傍観した僧自身がそうした弱肉強食の因果の輪から遁れるための術(すべ)を全く持っていないことの感慨であると同時に、この後の危機一髪の展開への不吉な伏線のモノローグとなっている。

「靫(うつぼ)」前話に出たが、再注しておくと、「空穗」とも書き、弓の射手が弓矢を納めるために腰につける細長い筒状の入れ物。

つけたる狩人(かりうど)きて、此猪(しし)をとり、嬉しげにかへる。

「強者伏弱(がうじやぶくにやく)」「強き者は弱きを伏す」で「大無量寿経」の下巻の一節。人間が行うところの五つの悪である「五惡段」を釈迦が説く、その最初に第一の悪として出すものである。基本、これは「殺生」に収斂され、後の四悪は「偸盗」・「邪淫」・「妄語」・「飲酒(おんじゅ)」である。

「かれが心に百敷(もゝしき)の、軒(のき)の並ぶも知らなくには」「百敷」はこの鄙に対する狩人の見たこともない京の素晴らしい「皇居」の甍に、「ももしき」の「も」を係助詞「も」の不定の用法で――その彼の心でさえ「も全く以って」、繁華な軒の居並ぶ今日の都の壮大な景観さえも知らず、想像だに出来ぬのは――の謂いであろう。

「たんぬ」「足んぬ」。「たりぬ」の転訛で「堪能」に同じく、「十分に満ち足りて満足していること」という意の名詞である。賤しい生計(たつき)乍ら、狩人の心の平穏と最愛の妻との生活への満足を描いて後の展開の残酷さをより高めて上手い

「あさまし」ここは「呆れた」の謂いであるが、直下の「似あはしき」(その貧しさを感じさせるに足るいかにもみすぼらしい)「飼糧(かれゐひ)」(現代仮名遣「かれいい」であるが、正しい歴史的仮名遣は「かれいひ」。ここは狭義の旅行などに携帯した炊いた米を乾燥させた「乾飯/餉」ではなく、ごく粗末な糧食の謂い)にも影響を与えて、如何にも貧しい雰囲気を伝える効果がある。

「洗足」順序が逆(普通は訪れた最初にされねばならぬ)なのは、狩人の家がみすぼらしく、別に足を洗って上がるようなものでなかったことを伝え、夜話するうち、夫(妻ではあるまい)が僧の足の汚れているのに気づき、その労りのために、妻に命じて足洗いの水を用意させたものであろう。さりげなく狩人の質朴さを読者の印象づける気遣いが作者には感じられる。

「三吟(きん)に話せし」三人で話し合った。この貧家の楽しげな団欒の描きも、この直後でカタストロフへと暗転していく最後として非常に上手いと私は思う。

「つやつや」少しも。いかにしても。

「鼠鳴(ねずな)き」無論、「鼠の鳴くような声を出すこと」であるが、狭義には、この語自体に「女のもとに忍んできた男などが出す鼠の鳴きまね」の意がある

「皮籠(かはご)」皮を張った籠(かご)。後世には紙や竹で編んだ行李(こうり)をも言った。ここは猟師ではあるが、後者の竹行李でとっておく。

「いつならはじの事」不詳。殺された人の死体を入れた行李を背負うなどということは、今までもどんな時にでも習ったことない仕儀であることを指すか。

「斟酌」「条件などを考え合わせて適当に処置すること」か。ここは、以上のような「特殊な条件下の作業」の謂いか。或いは、(とてものことに殺人者である)「相手の事情や心情を汲み取って答えること」の謂いか。後の「否」を考えると、後者が適切かも知れぬ。

「ぶん取」「ぶんどり」で地面を掘らせている、その指定面積の区画分。それが人一人分を埋めるだけとは到底思えぬほどに広いのである。

ひ殊の外、ひろし。僧、心に思ふやう、

「一定(いちぢやう)」副詞で「きっと・必ず」。

「前業(ぜんごう)のかんずる所」自身の知らぬ前世(ぜんせ)の業(ごう)に感応した報い。

「きめて」ここは「責めて」の謂いであろう。

「運の盡き」間男の「運(うん)の尽(つ)き」。

「屠所(としよ)の羊の惜しむべき間(ひま)なり」「屠所の羊」は屠殺場に牽かれて行く羊で、刻々と死に近づいていることの譬えで、「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)」の北本(ほくほん)を出典とする。ここは「死に向かわんとする者が手を拱いている余裕など最早ない」という反語的心内表現である。

「汝是怨敵發菩提心(によぜをんてきほつぼだいしん)」これは「大藏經」等に見られる一節、「汝是畜生發菩提心(によぜちくしやうほつぼだいしん)」(たとえ犬畜生のような動物や虫であっても仏を信じ求める心を起したならば必ず救われる)のパロディである。というより「怨敵を殺生してもそれが即菩提となる」という刑法に於ける殺人罪の不適応となる「緊急避難」や「正当防衛」的な方便としての言上げであろう。

「弔(とふら)ひ」これから殺そうとする間男の命を事前に供養するという、滅多に見かけない驚天動地の僧の仕儀である。

「多聞(たもん)の鉾(ほこ)」多聞天は天部の武神毘沙門天のこと。持国天・増長天・広目天とと合わせて「四天王」の一尊として数える場合は多聞天となる。ウィキの「毘沙門天」によれば、本邦では『一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。奈良當麻寺でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。ほかに三叉戟を持つ造形例もあり、例えば京都・三室戸寺像などは宝塔を持たず片手を腰に当て片手に三叉戟を持つ姿である』(下線やぶちゃん)とある。リンク先に兵庫県高砂市時光寺の多聞天像の写真がある。この僧はまさに間男を殺害する際に自らを仏法の正法(しょうぼう)を守護堅持する多聞天に自らを擬えることで敢えて斬首殺人という惨たらしい最大級の殺生行為の正当化を自らに賦与させたというわけである。

「過(とが)」「咎(とが)」。犯行。

「なれては」馴れては。「秋」は「飽き」を掛け、相手に馴れて飽きてしまうと。

「名」ここは「芳しくない噂」「ゴシップ」の謂いか。

「狹衣(さごろも)の大將」平安中期、禖子(ばいし)内親王の女房であった宣旨(せんじ:女房名)の作とされ、延久・承保(一〇六九年~一〇七七年)頃に成立した「狹衣物語」の主人公。堀川関白の子で、総てに於いて人に優れた男であったが、同じ邸内に養われた従妹の源氏宮(げんじのみや)に恋しながら、報われず、心ならずも飛鳥井姫・嵯峨院の女二宮・一品宮(いっぽんのみや)・宰相の中将の妹などと関係を重ね、彼女らの不幸を招き、狭衣自身も帝位に上るという異例の幸運を得ながらも、遂に悶々たる思いは晴れることがなかったといった悲恋物語。その筋書きは殆どが「源氏物語」の換骨奪胎に過ぎないものの、緊密な構成・巧みな和歌・洗練された文章などによって鎌倉時代には「源氏物語」と並称されるほど好んで読まれた(私は同作を所持するが、全く読んだことがないので、以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「光(ひかる)君は、いかゞ岩根(いはね)の松はこたへんと詠ぜし」「源氏物語」の「柏木」の中に出る光の詠んだ、

 

 誰が世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へむ

 

を指す。光の親友頭中将の子柏木と妻女三の宮の間に出来た不義の子である薫の生誕の五十日目の祝いが過ぎ、三の宮を見舞った際、光が妻の不倫をあからさまに詠んだ嫌味な一首である。

「かの高麗人(こまうど)の、色(いろ)ある婦(をんな)の姿の雅びやかなると、家の富めるとに、よすがを定めかねたる」

「不祥」不運。

「さればこそ、重きが上の小夜衣」「新古今和歌集」の「卷第二十 釋教歌」の中の寂然法師(じゃくせん/じゃくねん 元永年間(一一一八年~一一一九年)?~?:平安末期の官人・歌人。俗名は藤原頼業(よりなり)。藤原北家長良流で丹後守藤原為忠の四男。近衛天皇の下で六位蔵人を務め、康治元(一一四一)年に従五位下に叙されて翌年には壱岐守に任ぜられたが、遅くとも久寿年間(一一五四年~一一五五年)に出家し、大原に隠棲した。参照したウィキの「寂然によれば、『西行とは親友の間柄であったと言われている。また、各地を旅行して讃岐国に流された崇徳院を訪問したこともある。寿永年間』(一一八二年~一一八三年)『には健在であったとみられるが』、『晩年は不詳』。『和歌に優れ』、『強い隠逸志向と信仰に裏付けられた閑寂な境地を切り開』き、『今様にも深く通じていた』とある)の一首(一九六三番歌)、

 

   不邪淫戒(ふじやいんかい)

 さらぬだにおもきがうへの小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ

 

に基づく。「不邪淫戒」は十戒(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)・不塗飾香鬘(ふずじきこうまん:香水や貴金属の装飾を身に帯してはならない)・不歌舞観聴(ふかぶかんちょう・歌舞音曲を遠ざけるねばならない)・不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう:膝よりも高い高級な寝具や装飾を施した閨(ねや)に寝てはいけない)・不非時食(ふひじじき:食事は一日二回(午前中の正式な斎(とき:時)と午後の非時食)としてそれ以外に間食をしてならない)・不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう:金(かね)や金銀・宝石類を含めて個人の財産となるような物を所有してはならない))の一つである女犯罪(にょぼん)を禁じた不淫戒(現実的には不道徳な性的行為の禁止、或いは、妻又は夫以外の者と性交を禁ずること)を指す。「小夜衣」夜具の雅語。なお、この語は後、この歌を語源として「浮気女」を指す隠語となった。「つま」配偶者の意に「衣」の縁語である「褄(つま)」(着物の裾の左右両端の部分或いは襟下)の意の掛詞。歌意は、

――ただでさえ、夜具とする衣は重いもの。その上に自分のものではない衣の褄(つま)を重ねるな。ただでさえ、女犯は罪深いことであるのに、その上に我が妻でない人妻と関係を結んで邪淫を重ねてはならぬ。――

といった謂い。ネット上には事実に基づく背景を憶測する解説もあるが、採れない

「貞女は二夫(じふ)に見(まみ)えずとも、王燭(わうしよく)はいましめ」「史記」の「田單列傳第二十二」に出る。「王燭」は「王蠋」が正しい。王燭は斉王の忠臣で王によく諫言したが、王は聞き入れず、彼は身の不徳を嘆いて辞任して隠居した。そこに隣国の燕王が楽毅を総大将として斉に攻め入り、斉は亡んでしまう。その直後、かねてより王燭の人徳を聞き知っていた楽毅は、王燭を燕の高官として迎えたい旨、何度も礼を尽くして慫慂したが、王燭は頑として応じなかった。それでも楽毅がそれを諦めず、王燭を脅迫しつつ招聘した際、その使者に向かって言ったのが、「忠臣不事二君。貞女不更二夫。」(忠臣は二君に事(つか)へず、貞女は二夫(にふ)を更(か)へず。)で、その喝破した直後、王燭は自邸の庭先の木に繩を懸け、自ら縊れて死んだという。これは「忠臣不事二君」への譬えであって、ここに出すに相応しい引用とは、私には思われない

「五の常(つね)」儒教で説く五つの徳目である五常(五徳)。仁・義・礼・智・信。

「我人」自己と総ての他者。

「あまさへ」「剩(あまつさ)へ」の近世以前の表記。副詞で「あまりさへ」の転。好ましくない状態が重なるという条件下での「そればかりか・その上に・おまけに」、或いは「こともあろうに・あろうことか」の意。ここは後者。

「天網恢々(てんまうくはいくはい)」「天網恢恢、疎(そ)にして漏らさず」の略。「天の神仏のめぐらした衆人を守るための網は広大で、それは一見、目が粗いようにも思えるけれども、悪事については決して僅かなりとも逃すことはない」の意で、「悪事はいずれ必ず報いを受けるものである」という成句。

「をのれに入る者は、をのれに出づ」この「をのれに」は自発の意か。ある対象に自然に内在するようになったものは、同じように自然に穏やかにその対象から出て行くものである。それが自然である。しかし、自己の内省や罪障感とは無縁に、その「科(とが)」が「天に」よって指弾され、決定(けつじょう)し、断罪されてしまった上は、天に「祈」って最早、何の赦免も与えられるものではない、という意味であろうか。大方の御叱正を俟つ。]

 

2017/06/20

宿直草(御伽物語)〔大洲本全篇〕 荻田安靜編著 附やぶちゃん注 始動 /宿直草卷一 第一 すたれし寺を取り立てし僧の事

宿直草(御伽物語)〔大洲本全篇〕 荻田安靜編著 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本書は延宝五(一六七七)年に京の松永貞徳直系の貞門俳人荻田安静(おぎたあんせい ?~寛文九(一六六九)年:姓は「荻野」とも)の編著になる「宿直草(とのゐぐさ)」として、京の知られた書肆西村九郎右衛門から出版した怪談集であるが、後に「御伽物語」と改組・増補編集され(その主たる作業は富尾似船(とみおじせん 寛永六(一六二九)年~宝永二(一七〇五)年:京都の俳人で初め、まさに荻田安静に師事したが、後に談林に転じ、元禄期の京俳壇で活躍した)によるものと推定されている)、この二様の名、寧ろ、「御伽物語」の名で流布してきた、「曾呂利物語」と並ぶ近代怪異小説集の濫觴ともされるものである(実際の改版や改題及び異版は複雑で、詳しくは以下に示した底本の高田衛氏の解題に詳しい)。

 本電子化注の底本は一九九二年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の「近世奇談集成(一)」を基礎底本としたが、底本は新字であるため、私のポリシーから恣意的に漢字を正字化したサイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本である本「宿直草」も参考にした。但し、この原本(PDF版(カラー)でリンク先で全巻ダウン・ロード可能)は草書で平仮名が多い上に破損が甚だしい。読みは原典に加えて同編者である高田衛氏が附したものも含まれるが、更に私が歴史的仮名遣で概ね原典に従って大幅に追加しておいたまた、以下の同氏編の岩波文庫版のそれも参考にした(同じ版本を用いているはずであるが、表記や読点・ルビ等が一部でかなり異なり、寧ろ、原本の平仮名を漢字にした箇所は岩波版の方が躓かずに読める場合が多々あることから、そちらの表記を元に正字化して示した箇所も多い注の一部は同じ高田氏が刊行した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集 上」(但し、こちらは抄録版)の注を参考にさせて戴きつつも、基本、オリジナルに施した。但し、私自身が必要と認めないものには附していない。悪しからず。読み易さを考えて、改行や句読点や濁点も増やした(一部には底本のそれに私が従えず、変更した箇所もある)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵は底本画像或いは岩波版のそれを用いた。後者を採用したものは底本画像の汚損が激しいからである。これはその都度、採用版を示す。

 序及び目録は最後に電子化する。【2017年6月20日始動 藪野直史】]

 

 

宿直草卷一

 

  第一 すたれし寺を取り立てし僧の事

 

Sutaresitera

 

[やぶちゃん注:挿絵は岩波文庫版である。底本のそれは、僧や狐の変化の顏部分がひどく汚損しており、正直、見るにたえない。岩波版のそれも一部を清拭した。]

 

 古人、燭(しよく)をとりて、日を繼(つ)ぐに夜(よ)を以てす。何とて、お眠(ねふ)り候や。籠耳(かごみみ)に聞きはつりし咄(はなし)、お茶受けひとつ、申(まう)さふか。

 むかし、智行兼備の僧、諸國さすらへしに、ある所に興景無雙(けうけいぶさう)の寺ありて住持の僧なし。庭に草しげく、床(とこ)、蜘蛛(ささがに)のいと、みだれり。此(この)靈境、見過ぐしがたく、かたへの在家(ざいけ)に入り、樣子たづね侍れば、

「さればとよ、所々(しよしよ)のお僧、いく袖(そで)か來たり、すみ給ふべきと兼て御すはり候へども、宵に入(いり)て、あくる朝(あさ)は、行衞(ゆくゑ)更に見え給はずさふらへば、いたづらに悲しび、悔むばかりにて、今ははや、住持の沙汰もいたさず候。さだめて、化物なんど、さふらふにやと申す事にて候。」

と、かたる。僧、聞きて、

「しからば、その寺、望みにて候。許されて我ら預りたく候。その外の人々へも云ひあはされ候て、据(す)え給(たまは)るまじや。」

と。あるじ、

「やすき事にてさふらへども、右申し候通りにて、あやしの所なれば、御無用にこそ。さりとて、我心ひとつにて否(いな)び申すべきにもあらず。」

とて、檀中(だんちう)あつめて相談するに、みな一同に、

「無益(むやく)。」

といへば、僧のいはく、

「尤(もつとも)なり。さりながら、不惜身命不求名利(ふしやくしんみやうふぐみやうり)と侍れば、捨てん命も惜しからず候。只、消えなん法灯(ほつとう)をかゝげたきのみ。ねがはくは、許し給(たまは)れ。」

と、再三に及べば、

「さては力(ちから)なし。けふ、かりそめに見えまいらせ、あすの噂となりたまはん事こそ、そなたの爲に悲しけれ。」

と、寺を預くるになりけり。

 哺時(ほじ)になりて、油、灯心、抹香をたづさへ、佛前、形(かた)ばかりかざり、看經(かんきん)、やうやう、時うつれば、夜も四更(しかう)になんなんたり。煩惱の霧すさびては、はれぬ眞如(しんによ)の月の影、たゞ觀念のあらしならずもと、心も澄みわたるをりふし、庫裏(くり)より長(たけ)一丈あまりの光物(ひかりもの)、見えたり。

「すは。」

と、おもふところに、また、外より、

「椿木(ちんぼく)さふらふか。」

と聲す。かの光物、

「たぞ。」

といへば、

「東野(とうや)の野干(やかん)。」

とこたへて、壁の破間(やれま)より入る。長(たけ)五尺ばかり、まなこ、日月(じつげつ)の如し。火ともして來たる。又、呼ぶ。

「たぞ。」

といへば、

「南池(なんち)の鯉魚(りぎよ)。」

と名のりて、橫行(わうぎやう)の物、たけ七、八尺、まなこは黃金(こがね)にて、身は白銀(しろがね)の鎧(よろひ)なり。

 次に呼ぶ。答(こたへ)れば、

「西竹林(さいちくりん)の一足(いつそく)の鷄(けい)。」

と名のりて、朱(あけ)の冑(かぶと)、紫の鎧、左右(さう)に翼ありて、たけ六尺ばかり。天狗もかくやと恐ろし。

 また、案内(あない)す。いらへすれば、

「北山(ほくざん)の古狸(こり)。」

といひて、色(いろ)、見別けがたく、たけ四尺ばかり、進退、利(さとしく)して、いづれ、妖(あや)しの物なり。此五つのばけもの、僧を中に取りこめ、鳴き、啀(いが)み脅(おど)しけれども、僧、怖(お)ぢずして、魔佛一如(まふついちによ)と觀(くわん)じ、心經(しんきやう)誦(ず)じ侍れば、せんかたなくや有りけん、何處(いづち)となふ、去りぬ。

 とかくせし内に、東岱(とうたい)、雲ひいて、常世(とこよ)の鳥も、聲みだせり。晨朝(じんでう)のつとめ、𢌞向(ゑかう)のなごりに、昨日(きのふ)の檀那五、六人來たり、僧を見て、不思議の思ひをなす。

「さて。危うき事も、なしや。」

と問ふ。僧、事の次第、いちいちにかたる。

「さこそ候はめ。かしこくも寺を預けしものかな。さて、その化物は如何にいたし侍らん。」といふ。僧のいはく、

「その事よ。殺生(せつしやう)の事、佛、いましめ置けり。さりながら、興隆佛法のため、一殺多生(いつせつたしやう)の善とは、これらをや申すべき。退治し給へ申さん。をよそ化物、四つは外(ほか)、ひとつは内に候。五つながら所を覺え候。まづ、東の野に狐あるべし。南の池に鯉、西の藪に足ひとつある庭鳥(にはとり)、北の山に狸、これ外(ほか)より來る四つなり。」

といヘば、

「さてはそれか。」

と弓・うつぼ、鑓(やり)、長刀(なぎなた)なんど、こしらへて、犬追ふものにあらねども、那須野(なすの)の昔とふらひて、狩場(かりば)に出(いづ)れば、狐、いでたり。やがて殺してけり。池の樋(ひ)をぬき、水ほして見れば、大きなる鯉あり。これもずんずんに切り捨(すて)つ。藪に網(あみ)はり、三方より聲して狩(かる)に、庭鳥、出でしを、やがて、とる。山をたづね、穴をもとめて、靑松葉、かきくべて、古き狸をえたり。

「さて、此堂の材木に椿や使はれ候か。」

といへば、其中にも古き人、

「げに。乾(いぬゐ)の隅の柱こそ、椿の木よ、と語りつたへて侍れ。」

といふ。

「さては。内(うち)の光物は、それにてこそ候へ。」

とて、やかて番匠(ばんじやう)をやとひ、別(よ)の木にとりかへけり。これより後、寺、いよいよ繁昌しけりとなん。

 

 宜(むべ)なるかな、この僧、德ありて妖怪にさまたげられず。多くの僧の、あるは果(は)て、あるは失せ給ひしに、寺も再び榮へしは、いみじきにはあらずや。また、東野(とうや)の野干(やかん)と聞きて、東(ひがし)の野(の)の狐(きつね)と讀まずは、詮(せん)はあらじ。物ごと、心を配るべきをや。外(ほか)より來たる四つは、年へて化くる術(じゆつ)をおぼゆる事もあるべし、内の椿の光るこそ、おぼつかなくも、怪しけれ。朽(くち)たる葦(あし)はきりぎりすとなり、稻また𧉪(よなむし)となると、出世(しゆつせ)の書(ふみ)に侍る。これまた、其たぐひか。かからば、などか、古下駄(ふるげた)も師走をまちて踊らざらん。化けまじき物の化けたるこそ、咄の中の咄ならめ。かの戀路(こひぢ)の關(せき)の夕霧(ゆふぎり)に、梅が小路(こみち)の露をわけてふ、熊谷笠(くまがへがさ)に息こめて、ひたに人目を忍ふ袖も、怖(こは)さの外(ほか)の化物(ばけもの)ならし。

 

[やぶちゃん注:ちょっと思うのだが、この中央に木、東西南北に動物を配したそれは、五行説の四神のパロディのように思われる。五行では中央は「土」であるが、これは植物の芽が地から萌え出でるシンボルとされる。なお、本話は湯浅佳子氏の論文『「曾呂里物語」の類話』によれば、先行する「曾呂里物語」(寛文三(一六六三)年刊)の巻四の「四 万の物年をへては必化事」をインスパイアものである。私は「曾呂利物語」を所持しないので、同論文から梗概を引用させて貰う。

   《引用開始》

 伊予国いづしの山寺は、にゐという僧が創立したのだが、何時の時からか化物が棲み、住持の僧たちを捕っていったので、今は主無き寺となっていた。ここに、関東の足柄から僧が訪れ、にゐに山寺の住持を無理に願い、山寺に入った。すると夜に「こんかのこねん」「けんやのばとう」「そんけいが三ぞく」「こんさんのきうぼく」という物が訪れ、寺の内から「ゑんよう坊」が出て、今夜は生魚があると言って客を歓待する。僧は化物の正体を見抜き、化物に名乗りをあげ、金棒で化物を打ち砕くと、いずれも数百年を経て形を変じて現れた物々であった。夜明けてにゐとその使いが訪れたが、僧は無事で、夜の出来事を語った。にゐは僧を中興開山の智者とし、寺は今でも仏法繁昌の霊地ということである。

○  出石寺は、現在の愛媛県喜多郡出石山にあった寺。『愛媛の面影』(五巻五冊、慶応三年刊、半井梧庵著)巻四「喜多郡」に「金山出石寺(きんざいづしでら)」とある。

   《引用終了》

「古人燭をとりて、日を繼ぐに夜を以てす。何とてお眠り候や」。「古詩十九首」(文選に載る漢代の五言詩群)の「十五」の「生年不滿百」(生年 百に滿たず)の冒頭前半の「生年不滿百 常懷千歳憂 晝短苦夜長 何不秉燭遊 爲樂當及時」(生年 百に滿たざるに/常に千歳の憂ひを懷く/晝は短くして 夜の長きに苦しむ/何ぞ燭を秉(と)りて遊ばざる/樂しみを爲すは當(まさ)に時に及ぶべし)や、それに基づく李白の「春夜宴桃李園序」(春夜桃李園に宴するの序)の一節、冒頭の『夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客。而浮生若夢、爲歡幾何。古人秉燭夜遊、良有以也。』(夫れ、天地は萬物の逆旅(げきりよ)にして、光陰は百代(はくたい)の過客(くわかく)なり。而して浮生(ふせい)は夢のごとし、歡(くわん)を爲(な)すこと幾何(いくばく)ぞ。古人、燭を秉(と)りて、夜(よ)、遊ぶ、良(まこと)に以(ゆゑ)有るなり。)などを下敷きとし、巻首に本篇の話者が直接話法の形で登場し、夜長を楽しむ夜伽話の怪談の面白さを読者に誘う形式をとっている。

「籠耳に聞きはつりし咄」「籠耳」は、竹籠に入れた水が編目からすぐ漏れてしまうことから、聴いてもじきに忘れてしまうこと。ここはそうした凡愚な私が聴きかじった(「はつる」は「斫る・削る」)、しかもなんとまあ、そんな私が未だ忘れておらぬ奇怪な話、という話者の謙辞である。

「お茶受け」ちょとした退屈しのぎの御茶飲み話。

「興景無雙」景色や雰囲気が二つとないほどに如何にも興趣に富んでいること。

「無益」無駄なこと。ここは前例に徴して、好意的に、その僧のためにならぬこと、の意で採る。

「不惜身命不求名利」身命を惜しまず、名利を求めず。インドの僧龍樹の記した「大品(だいほん)般若経」の注釈書を鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳した「大智度論」に出る。

「あすの噂となりたまはん事こそ、そなたの爲に悲しけれ」檀家連中がこの僧に全く期待しておらず、前の連中と同じように、翌朝になる前に寺を逃げ出に違いないと憐れんでいる。まさに前の「無益」の一発声と心底が響き合っているのである。

「哺時(ほじ)」狭義には申の刻、現在の午後四時前後を指し、広義には日暮れ時の意。

「形ばかり」手持ちのものもなく、荒れ寺であるから、かくするしかなかったのである。檀家連中も何も布施しなかったと考えてよい。それだけ、彼への期待が零であることがはっきりと判るからである。

「看經」主に禅宗などで声を出さずに経文を読むこと(対語は「諷経(ふぎん)」であるが、広義には声を出して経文を読む読経の意でも用いる。

「四更」丑の刻。現在の午前一時或いは二時からの凡そ二時間を指す。

「煩惱の霧すさびて」「煩惱の霧」は岩波文庫版の高田氏の注で『煩悩を、悟りの智恵である光明をさえぎる霧にたとえた』とする。ここはその比喩を実景に逆転させたもので、深い霧が甚だしく立ち込めてくるのを描出したもの。

「はれぬ眞如(しんによ)の月の影」「眞如の月」は岩波文庫版の高田氏の注で『煩悩が消え去って現われるすみきった心の本体を月にたとえた語』とする。前者と同じ逆転表現で、雲が厚く、射し込むはずの月光が至らぬ実景を描く。前の時刻から、このロケーションが旧暦の月の下旬であることが判る

「たゞ觀念のあらしならずもと」「あらし」は嵐。煩悩による心の乱れを「觀念の」嵐と譬えながら、その実、戸外には実際に妖しげな強風が吹き荒んでいるのである。

「長(たけ)一丈あまりの光物」「一丈」は三・〇三メートル。ここで「丈」と言っている点に着目すべきで、これは挿絵でもそうであるが、床からの高さがそれなのである。最後に明らかになる通り、これは実は柱に用いられた椿の精であるから、床面から立ち上っている光体なのである。

「椿」は岩波文庫版の高田氏の注では「莊子」の「逍遙游」の冒頭にある、「上古有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋。」(上古、大椿(たいちん)なる者、有り、以つて八千歳を春と爲(な)し、八千歳を秋と爲す。)を引かれ、『椿は古来長寿の霊木とされ、また』、『その古木は奇異をもたらすものとされた』と記しておられる。これは、その「大椿」なる巨木の一年は人間の三万二千年に当たるということで、この「大椿」(たいちん/だいちん)は人の長寿を祝いで言う語となったのであるが、しかし、中国語の「椿」は本邦の椿(ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ツバキ(ヤブツバキ)Camellia japonica)とは全くの別種である中国中部及び北部原産の「香椿」(中国語音写:チャンチン:ムクロジ目センダン科 Toona属チャンチン Toona sinensis)を指し、本邦とツバキとは何の関係もない(因みに、現代中国語で日本のツバキは「山茶花」「山茶」などと表記する)。そもそもが、「荘子」の冒頭に登場する、とんでもない大きさの動植物群は、想像不能の譬えようのない(そこが荘子の謂わんとする核心)、全くの伝説上の架空のものであって、「荘子」の「大椿」自体を本邦産の「椿」と並べて論じること自体は植物学的にまず無効である上に、そういう意味で駄目押しで無効なのである。無論、同字であることから、日本の「椿」が同様霊木や化物候補として誤認された事実はある訳ではあるから、ウィキの「ツバキ」にも、『年を経たツバキは化けるという言い伝えが日本各地に残る。新潟の伝説では、荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根の伝説では、牛鬼の正体が椿の古根だったという話がある』とはある。しかし私は、明白に違う部分は違っていることをはっきりと言わなければ、正しく注したことにはならぬと考える人種である

「火ともして來たる」挿絵の右手の狐の変化は右手先に紙燭(しそく)というにはコンパクトな付木(つけき)様のものを持っているのが、ちゃんと描かれている。

「朱(あけ)の冑(かぶと)」雄鶏の鶏冠(とさか)が隠喩(メタファー)されている。

「紫の鎧」地鶏の一種は、胸から腹にかけて濃い青黒い色をしているものがよくいる。古語の「紫」はくすんで暗く青に近い。

「橫行(わうぎやう)の物」岩波文庫版の高田氏の注に、『異類、動物をいう。横に歩くもの』とある。

「啀(いが)み」動物が吠えたり、噛みつこうとする動作を指す。現在の互いに敵意を持って激しく争う意味の「いがみ合う」はこれが原義。

「魔佛一如」「生仏(しょうぶつ)一如」などと同じく、魔物も凡夫の衆生も悟った仏もその本性は全く同じ一つのものであるとするもの。

「觀じ」心を乱すことなく、観想し。

「心經」般若波羅蜜多心経。ここまで出てきた種々の語から見て(細かく示さないが、例えば南宋以降に座禅をする定刻とされた「哺時」など)、この僧は禅僧と考えてよい。

「東岱」原義は中国の霊山である泰山で、転じて東方の山のこと。

「常世(とこよ)の鳥」常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)で鷄の異名。神話に於いて天照大神が天の岩戸隠れをした際、八百万神が天鈿女命(あめのうずめのみこと)にストリップを演じさせると同時に、この常世長鳴鳥を鳴かせて天照大神を呼び戻すことに基づく。即ち、一番鷄のそれは太陽の再生儀礼のひとつのアイテムでもあったのである。

「みだせり」「亂せり」。魑魅魍魎の跳梁する夜の闇の世界を掻き乱した。

「晨朝(じんでう)のつとめ」早朝の勤行。

「𢌞向(ゑかう)のなごり」これは勤行や法会の終わりに修めたところの功徳を一切の衆生に振り向けるために唱える願いの経文である「回向文(えこうもん)・回向偈(えこうげ))」のことであろう。普通は偈頌(げじゅ)又は陀羅尼(だらに)を唱える。

「一殺多生の善」これも仏語。一つの生けるものを犠牲にして、沢山の生けるものが助かることを善とする考え方。多くの衆生を救わんがために、悪しき存在である一つの生ける存在を犠牲にするという善行。無論、望ましいことではないが、方便として仕方ないとする場合の口上と考えてよい。「瑜伽師地論」(ゆがしじろん:玄奘が六四八年に訳した仏典。全百巻)を出典とするという。

「うつぼ」「靫」或いは「空穗」とも書く。弓の射手が弓矢を納めるために腰や背につける細長い筒状の入れ物。

「犬追ふもの」犬追物。中世武士の武芸の一つで、馬上から犬を標的として弓を射、その技能を競ったもの。馬場の中央に繩で円形の囲いを作ってその中に犬を放ち、三手(みて)に分かれた射手が外周からこれを射た。流鏑馬(やぶさめ:疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)で的を射る。通常は直線馬場で距離は百二十間(約二百二十メートル)、的は一尺四寸(約五十センチメートル)四方の檜板を竹に挟んで地面に挿した)や笠懸(かさかけ:騎射である点では流鏑馬と似るが、的の位置が凡そ三十メートル離れた遠い位置にある)などと合わせて騎射三物(きしゃみつもの)の一つとして流行ったが、室町末期には戦術法が変化するとともに衰えた。

「那須野の昔とふらひて」寵妃玉藻前(たまものまえ)に変じて鳥羽天皇を惑わし、下野国那須野原(現在の栃木県北部の那須町付近)で退治されて殺生石に変じた九尾狐の伝承を受ける。ウィキの「玉藻前」によれば、帝の病いの元凶を『陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)が玉藻前の仕業と見抜』き、『安倍が真言を唱えた事で玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を眩ました』。『その後、那須野(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてからの那須野領主須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成』、『三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し』、八万余りもの『軍勢を那須野へと派遣した』。『那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は』直ちに、『攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始』、『対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた』。しかし、『九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪った。そのため村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたといわれている。南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝わる』とある(下線やぶちゃん)。

「池の樋」後に抜いて水を干したとあるから、この場合は、水の出口に設けた堰き止めの板、水門の謂いである。

「ずんずんに」「寸寸に」で副詞。物を細かく幾つにも截ち切るさま。ずたずたに。
 
「靑松葉かきくべて」とは
脂が強く、煙が盛んに出る青松葉を掻き集めて穴に押し込み、それに火を放ち、より燃やして火煙を出すために青松葉を更に「くべて」(燒(く)べて)である。

「乾(いぬゐ)」北西。

「番匠」大工。

「詮(せん)はあらじ」全く役に立たなかっただろう。かくも美事に総てを退治することは出来なかったに違いない。

「おぼつかなく」(最も)気懸りで不審にして。

「朽(くち)たる葦(あし)はきりぎりすとなり、稻また𧉪(よなむし)となる」「𧉪(よなむし)」は「米蟲(よなむし)」で、甲虫目多食亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais のこと。深い叢の奥や米の中から突如、生まれるように見えた彼らを、因果の理を越えて全く突然に生まれ出たものと捉えた、仏教生物学の四生の一つである化生(けしょう)説である。

「出世(しゆつせ)の書」岩波文庫の高田氏の注によれば、出家が所持している仏典の意とする。

「古下駄も師走をまちて踊らざらん」ある程度の長い年月を経たものか、或いはいわく因縁のある道具などに霊が宿った所謂、「付喪神(つくもがみ)」のこと。但し、妖怪めいたものとしてそれらが登場跋扈するのは中世以降で、近世には流行がすたった。「化けまじき物の化けたるこそ、咄の中の咄ならめ」という謂いには、こうした話を主君にして聴かせた御伽衆の発生が中世末期であることを考えると、この謂い方は本怪談集の深層的側面を剔抉しているようにも思われる。

「夕霧」岩波文庫版の高田氏の注では、『大坂新町の名遊女夕霧をさすか』とある。ウィキの「夕霧太夫」(ゆうぎりたゆう)によれば、彼女は生年は不詳で延宝六(一六七八)年没とし(これは本書刊行の翌年である)、『京都・島原、大坂・新町廓にいた太夫』で『本名は照。出身地は一説によると、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるといわれる。いつ、どういう風に島原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。ここから大坂の太夫は生まれるのである。姿が美しく、また芸事に秀でた名妓であった。若くして病没すると、大坂中がその死を悼んだという。享年は』二十二とも二十七とも『伝えられ』、『亡くなった日は「夕霧忌」として俳句の季語にもある。墓は大阪の浄国寺、京都の清涼寺が有名だが』、『他に徳島や和歌山にもある』。『死後、夕霧とその愛人・藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』を始めとして、浄瑠璃の『廓文章』、歌舞伎の『夕霧名残の正月』『夕霧七年忌』などがある』とし、現在でも清涼寺で「夕霧供養祭」が催されているとある。

「熊谷笠(くまがへがさ)」岩波文庫版の高田氏の注では、『武蔵国熊谷』で生産された『普通の編笠より深い』タイプの笠とある。しかし、どうもこれらの高田氏の注を繋げて見ても、このエンディングの「かの戀路の關の夕霧(ゆふぎり)に、梅が小路(こみち)の露をわけてふ、熊谷笠(くまがへがさ)に息こめて、ひたに人目を忍ふ袖も、怖さの外の化物ならし」の謂いは今一つ、私には半可通である。無理矢理、解釈するなら、

――かの美しい、人目を惹かぬことのないはずの遊女夕霧、その美女が許されぬ禁断の恋をして、その恋路の、越えようにも越えられぬ関道(せきみち)を、しかし秘かに抜け行く折り――匂いたちはするものの、儚(はかな)き梅の花の咲く、小路(こみち)を通り抜けてゆく――その華奢な足元をそぼ濡らす露、それを必死に振り分け振り分けして越えてゆく夕霧の――その苦しさ、辛さ、その振り切れぬ切ない恋の思いを、その顔を――深く深く熊谷笠(くまがえがさ)に隠し隠して、只管(ひたすら)に人目を偲び、その美しき面(おもて)をも、ただただ、隠し隠しゆく、その袖――その姿こそ――「怖さ」という外の言葉にては言い表わせはぬ、いやさ! 化け物にては、これ、御座いましょうぞ!……

といった感じか。大方の御叱正を俟つ。]

 

2017/06/19

「想山著聞奇集」序(二種)+凡例+全目録/「想山著聞奇集」全電子化注完遂

想山著聞奇集 序

 

日月星辰。晝夜晦明。造次顚沛。天下之人。仰觀而俯察焉。而至其不測之變。則或昧焉。山川草木。鳥獸轟魚。跋渉往還。視聽而畜養焉。而至其不測之化。則或惑焉。神佛感格。善惡報應。華竺經傳。紀述而贊揚焉。而至其不測之應。則或疑焉。蓋疑者。其知識之劣也。惑者。其視聽之狹也。昧者。其問學之淺也。三好想山。篤學而博渉。性敏而善書。夫書之爲道也。摹範天地陰陽。以傳造化不測之祕。乃在自己神腕之間。故至事物休咎。因果報應之迹。無有不寸管一揮。掌握其霸柄者。謂出其優遊漁獵。硯山墨海之餘力。而然者非哉。今方就其所纂述之異聞奇觀。數百千條之中。特抄錄核實著明。而近人情者。爲五十卷。題曰著聞奇集。集成請序余。余告想山曰。佳矣。此篇隨聞隨筆。故不緣飾文之浮華。靡麗之態。倣事實達意之法。而天地之恢宏。萬物之繁衍。報應之微密。莫不細論詮考。纖悉著明矣。莫道俚語猥駁。蕪辭冗長。不足釆觀焉。世人因此。擴充其見聞覺知。則昧者明矣。惑者決矣。疑者信矣。善哉想山。不啻筆鋒入于木。著書亦上梓。自非學識老錬。詎得能然耶。每事輯錄。絲解縷折。似微而著。然則。其題之於著聞。名固不空。或曰。想山腕力有神。此篇總括造化奇機。遊戲書道三昧者。豈不其然哉。豈不其然哉。

  嘉永二年歳次己酉嘉平月

          方外子無黨社主僧允識

         無黨社主〔印〕執中〔印〕

 

[やぶちゃん注:原典も句点のみが打たれたものである。前半部分は一部、私にはよく訓読出来ない(無論、意味も分らない)箇所があるが、力技で強引に訓読しておく。大方の御叱正を俟つ。想山の文章ではないこの序文に読解の時間を割かれるのは私には徒労であるので殆んど注を附さない。悪しからず。なお、この筆者、方外子無党社主僧允というのは底本の冒頭の解説によれば、尾張藩藩士深田精一かとも思われるものの、詳らかでないとする。柱の下に「精□」(二字目の篆書は私には判読出来ない)落款風のものがあるが、判らぬので示さなかった。

   *

○やぶちゃんの書き下し文

日月星辰。晝夜晦明。造次顚沛(ざうじてんぱい)[やぶちゃん注:咄嗟の場合と躓いて倒れる場合で、転じて僅かな時間の譬え。「論語」の「里仁篇」の「君子は食を終ふる間も仁に違(たが)ふこと無し。造次にも必ず是(ここ)に於いてし、顛沛にも必ず是に於いてす」に基づく。]。天下の人、仰ぎ觀(み)、而して俯察す。而れども、其の不測の變、至れり。則り、或いは昧(まい)。山川草木・鳥獸轟魚、跋渉、往還するを、視聽きして畜養す。而れども、其の不測の化、至れり。則ち、或いは惑ふ。神佛の感格、善惡の報應、華竺の經の傳へ、紀述して贊揚す。而れども其不測の應、至れり。則ち、或いは疑ふ。蓋し、疑ふ者は、其知識の劣れるなり。惑ふ者は、其の視聽の狹(せば)きなり。昧なる者は、其の問學の淺きなり。三好想山、篤學にして博渉、性、敏にして善く書す。夫れ、書の爲道たり。天地の陰陽を摹範(もはん)[やぶちゃん注:「摹」は「模」の異体字。]して、以つて造化不測の祕を傳ふ。乃(すなは)ち、自己神腕の間に在り。故に事物の休咎(きうきう)[やぶちゃん注:幸いと禍い。]に至れり。因果報應の迹、寸管の一揮せざる有る無し。其の霸柄を掌握する者は、謂はく、其の漁獵の優遊に出づ。硯山墨海の餘力。而れども、然(しか)る者は非かな。今、方(まさ)に其の所に就きての纂述の異聞奇觀、數百千條の中(うち)、特に抄錄して核實著明たり。而も近人の情(なさけ)ある者、五十卷と爲(な)す。題して曰く、「著聞奇集」。集、成りて序を余に請ふ。余、想山に告げて曰はく、「佳なり。此の篇、隨聞隨筆。故に飾文の浮華は緣せず。靡麗(びれい)の態、事實達意の法に倣(なら)ふ。而して天地の恢宏(かいこう)[やぶちゃん注:大きく広々としていること。]、萬物の繁衍(はんえん)[やぶちゃん注:殖え広がること。]、報應の微密(びみつ)[やぶちゃん注:義は「極めて細かいこと」であるからありとあらゆる小さなことにまでも応報の理(ことわり)が働き、漏れがないことであろう。]。細論詮考せざる莫(な)し。纖悉(せんしつ)[やぶちゃん注:繊細にして周到なこと。]著明たり。」と[やぶちゃん注:もっと後まで直接話法かも知れぬ。]。俚語、猥駁(わいばく)なるは道(い)ふ莫し。蕪辭(ぶじ)[やぶちゃん注:「乱雑で整っていない言葉」。前の「俚語、猥駁なる」と合わせて、自分のここで言っている賞讃の文章を卑下して言っているものと思われる。]は冗長たり。釆觀(べんかん)するに足らず[やぶちゃん注:意味不詳。]。世人、此れに因つて、其の見聞・覺知を擴充し、則ち、昧なる者は明たり、惑ふ者は決たり、疑ふ者は信たり。善(よき)かな、想山。啻(た)だ、筆鋒、木に入らず。著書、亦、上梓す。自ら、學識・老錬に非ず。詎(いづくん)ぞ能く然るを得るや。每事の輯錄、絲解縷折(るせつ)、似るは微にして著す。然らば則ち、其れ、之れに於いて「著聞」と題す。名、固くして空ならず。或いは曰はく、想山、腕力、神(しん)、有り、此の篇、括造化の奇機を總べて、書の道三昧に遊戲する者。豈に、其れ、然らざるや。豈に其れ然らざるや。

  嘉永二年の歳(とし)、己酉嘉平月(かへいげつ)に次(ついで)る

      方外子無黨社主僧允、識(しる)す

          無黨社主〔印〕執中〔印〕

   *

「嘉永二年」一八四九年。想山は翌嘉永三年三月六日に病没する。

「次(ついで)る」この序文を編した。

「嘉平月」旧暦十二月の異称。]

 

 

 

近著勸懲之書者、都鄙不爲少矣、然多靈誕妄説、唯驚一時之耳目耳、今閲想山著聞集、研究其事物、皆記其名實、可謂勤焉、若夫強盜奸賊雖不恐仁義之教訓、亦竊有懼天地妖薛之應報、而克省其身者也、豈於世教不無少補哉、因書此事以塞請序之責云。

  嘉永己酉孟夏  尾張 佐々木庸綱撰

       佐々木庸綱〔印〕鷦鷯〔印〕

 

○書き下し文

近ころ、勸懲の書を著す者、都鄙、少し〔と〕爲(せ)ず。然れとも、靈誕妄説、多く、唯、一時の耳目を驚かすのみ。今、想山著聞集を閲(けみ)するに、其の事物を研究し、皆、其(その)名實を記(しるし)、勤(つとめ)たりと謂ふべし。若(もし)、夫れ、強盜・奸賊は不仁義の教訓を恐(おそれ)ずと雖(いへども)、亦、竊(ひそ)かに天地妖薛(ようせつ)[やぶちゃん注:意味不詳。]の應報を懼(おそ)るること、有り。克、其(その)身を省(かへりみ)る者なり。豈に世教(せいきやう)に於いて少しき補ひ無にはあらざらん、因て、此(この)事を書(しよし)、以て序(じよの)請(せい)の責(せき)を塞(ふさ)ぐと云(いふ)。

  嘉永己酉孟夏  尾張 佐々木庸綱撰

       佐々木庸綱〔印〕鷦鷯〔印〕

 

[やぶちゃん注:まず原典を白文で示し、そこに附された訓点に従って書き下したものを後に附した。句読点は底本にあるものをオリジナルに変更・追加した。〔 〕は訓読上、不全となると思われる箇所に私が入れ込んだものである。難読と思われる箇所に推定で読みを附した。なお、筆者佐々木玩易齋庸綱(やすつな)は、底本の冒頭解説によれば、想山の大師流書道の師で、京の人。九条家に仕えた後、尾張名古屋に移って文化から文保の間(一八〇四年から文政を挟んで一八四四年までの四十年間)、『書を以って聞こえた。尾張の支藩、美濃国高須の松平義建(四谷家)』(よしたつ 寛政一一(一八〇〇)年~文久二(一八六二)年:美濃高須藩(旧石津郡高須(現在の岐阜県海津市))第十代藩主。藩主就任は天保三(一八三二)年)『が、これを江戸に招こうとしたが、庸綱は、老齢を故として固辞し、代わりに高弟の想山を推した』とある。想山には『門人が多く、俸禄三十石程度の下級の士とはいえ、中級の生活を保てたようで、庸綱に対しても、師恩に感じて、長く仕送りを怠らなかったといわれる』とある。]

 

 

 

[やぶちゃん注:以下の「凡例(はんれい)」は原典では全体が一字下げであるが、途中に出る柱の「一」は一字目に配されてある。]

 

  凡例

、若年より、聞(きく)所、見る所、千態萬躰(ばんたい)、數千箇條(すせんがでう)に及ぶ。然りといへども、年月(ねんげつ)を經るに隨ひ、次第に忘却し、記臆(きおく)[やぶちゃん注:ママ。]、空敷(むなしく)、臟腑に腐爛す。故に鄙陋(ひろう)[やぶちゃん注:見識などが浅はかであること。]を顧ず、如何樣(いかやう)とも筆記なし置(おき)、子孫にも示し、同友にも告(つげ)まほしく思ふ而已(のみ)にて打過(うちすぎ)ぬるも、又、久し。勿ㇾ謂今日不ㇾ學而有來日、勿ㇾ謂今年不ㇾ學而有來年、日月逝矣、歳不我延、嗚呼老矣、是誰之愆と、古人の誡(いましめ)も有(あり)。僅(わづか)に限り有(ある)齡(よはひ)をもて、限りなき緩怠(くわんたい)をなして、其儘に擱(さしをかん)([やぶちゃん注:原典は「閣」底本の補正注で特異的に訂した。]も殘(のこ)り多しと、去(さんぬ)る乙未(きのとひつじ)年[やぶちゃん注:天保六(一八三五)年。]の秋、頻りに思ひ立ち、奇談・雜談(ざつだん)・祕談・深祕談(しんぴだん)の四條(しでう)となして書記(しよき)なし置(おか)んと、筆に任せて草稿なし、漸(やうやう)、五十卷(くわん)に及びたり。同志の人々、右草稿を閲(けみ)して、此書は閑窓の眠(ねむり)を覺(さま)す而已(のみ)に非ず、童蒙(どうもう)、又は愚夫愚婦(ぐふぐふ)を善道へいざなふ教化(けうけ)にも成(なり)ぬれば、校訂して同友に示すべしと、あながちに勸めらるゝにまかせ、寸暇に隨ひ、追々校訂なして、綴り上置(あげおき)ぬ。

[やぶちゃん注:「勿ㇾ謂今日不ㇾ學而有來日、勿ㇾ謂今年不ㇾ學而有來年、日月逝矣、歳不我延、嗚呼老矣、是誰之愆」原典の訓点に従って書き下す。

   *

謂ふ勿(なか)れ、今日(こんにち)、學ばずして、來日、有りと。謂ふ勿れ、今年、學ばずして、來年、有りと。日月(じつがつ)逝(ゆ)く。歳(とし)、我れに延(の)びず、嗚呼(あゝ)、老いたるや、是れ、誰(たれ)が愆(あやまち)ぞ。

   *

これはかの宋の朱熹の名文「勸學文」(學を勸むるの文)である。]

 

一、人の話を聞に、正説(しやうせつ)也と云(いふ)も、十に七、八迄は、話傳(はなしづた)えの違ひ、又は聞取違ひの誤謬(ごべう)と思はるゝも多く、或は定(さだ)か成(なる)話にても、首尾連續せずして、筆記なし難きなども多く、其外、奇なる事を好めるは世俗の常なれば、珍異を語るに、辯舌を以て面白く語りなし、甚敷(はなはだしき)に至りては、虛(きよ)を添(そへ)て、有(あり)し事の樣に言傳(いひつたふ)る族(やから)も有(あれ)ば、實(まこと)に取捨(しゆしや)六ケ敷(むつかしく)、纔(わづか)に實事に相違なきと思ひて記錄せしは、十が一(いつ)なり。其纔の一にも、首尾不決(ふけつ)の事、又は十分に貫き兼(かぬ)る事もあるまゝ、猶、實事と相違の事も多かるべし。古人も夫(それ)を厭ふて、記し置(おか)ずして、勸善懲惡とも成(なる)べき譚(はなし)の、其場限りに滅却せしも多かるべし。又、急度(きつと)、教誡(けうかい)の龜鑑(きかん)とも成べき事にても、傳聞の誤り有(あら)ん事を恐れて、其記(き)なくして、後世へ傳らざるも多からん。倩(つらつら)、此事を思慮するに、眞實のことなれども、疑は敷(しき)を恐れて記(しる)さずして、後世(こうせい)へ傳えざるがよきか、疑は敷(しき)ながらも、記し置(おき)て傳ふるがよきかと、兩端(りやうたん)を考ふるに、記し殘し置(おき)なば、用捨(ようしや)は見る人の心にあり。或は又、後年にも其通りの事の出來(でき)て、漸(やうやう)と後(のち)の證(しよう)と成(なる)も有(ある)べければ、記し置(おく)かたや、勝(まさ)るらんとて、斯(かく)は記し得(え)たり。

[やぶちゃん注:「龜鑑」「龜(亀)」はカメの甲を焼いて占った亀卜を、「鑑」は実相を映し出す「鏡」の意。行動や判断の基準となるもの。手本。模範。]

 

一、抑(そもそも)、古來變異を語らざるは、一つの心得有(ある)事と聞置たり。靈應(れいおう)奇怪は自然の儀(ぎ)にして、再びせよ迚(とて)、出來(でき)ることならず。故を以、變怪を見て狐疑(こぎ)する人多く、更に容(いれ)ざる人も有。又、不思儀[やぶちゃん注:ママ。]を見て能(よく)感伏(かんぷく)なし、幽明三世(いうめいさんぜ)の理(ことはり)迄、悟る人もあり。左(さ)すれば、怪異も又、道を開く事、擧(あげ)て計(かぞ)へ難く、其身(み)を陷(おとしいれ)しも、またまた多かるべし。愼むべき事歟(か)。人、是を眞(まこと)とせば其通り、虛(うそ)とせば其通り、強(しい)て論ずるに非ず、見る人の意(こゝろ)に任(まか)するのみ。呉々(くれぐれ)も、唯(たゞ)此篇は、聞きく)所見る所の違はざらん事を恐れて、文飾なくしるせし而已(のみ)。

[やぶちゃん注:「狐疑」狐(きつね)は疑い深い性質であるとするところから、相手のことを疑うことの意。]

 

一、此書は思ひ出るまゝ、又は人の語るを聞(きく)まゝ、或は古人の筆記を見るまゝに、記し置(おく)も多く、因(よつ)て時代前後をわかず、混亂にして、殊に十餘年來、書置(かきおき)たるを、前後不次第に綴り上(あげ)、其儘、册子(さうし)となしたる也。元來、此書は、勸善懲惡の爲、子孫に而已(のみ)、示さんと思ひおこして、筆記なしたるなり。去(さ)るに仍(よつ)て、此書の文躰(ぶんてい)は、古今著聞集(ここんちよもんしふ)を擬(ぎ)して書(かき)たるにも非ず、又、新著聞集に似せて書(かき)たるにも非ず、素(もと)より文勢をみがきて筆(ひつ)せしにも非ず、唯、俗通(ぞくつう)而已(のみ)を思ひて深く意を加へず、時に隨ひ筆に任せて寄集置(よせあつめおき)たる迄の事にて、敢(あへ)て著述せしと云(いふ)書に非ず。故を以、勿論、博識の君子に示すべき書に非ざれば、文面等の拙(つたな)きを笑ひ玉ふ事なかれ。

[やぶちゃん注:「古今著聞集」鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季編で建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの主に日本の説話約七百話を神祇・釈教・政道など三十編に分けて収めてある。

「新著聞集」寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。

「俗通」ごく通俗の談話。]

 

一、此書は、元來、一つとして虛談と思ふは書載(かきのせ)ずといへども、猶、其所(そのところ)に、噓(いつはり)を云(いふ)人にあらず、或は慥成(たしかなる)事、又は實事也などゝ云置(いひおく)は、猶更、其事の妄(もう)ならざるを示さん爲なり。且、又、話の義理、筋道の外、情態等に至るまで、煩雜を厭はず、其儘に書記(かきしる)せしは、其實(じつ)の貫通(くわんつう)を希(こひねが)ふ老婆心也。よつて鄙俚(ひり)重複(ちようふく)を省く事なし。

[やぶちゃん注:「鄙俚」表現や・内容などが田舎染みていて、賤しいこと。「野鄙」に同じい。]

 

一、今は昔語(むかしがた)りと成居(なりゐ)たる事、或は古人の筆記成置(なしおき)たるはなし、又は聞傳え置たる話等は、今、是を、再應(さいおう)、訂正せんと欲すれども、如何(いかゞ)とも力の及ばざる事は、捨(すて)て誌(しる)さゞる方(かた)、まさるべけれども、其事を厭ひて、よき話の夫(それ)なりに消失(せうしつ)せんも殘り多くて、書記したるもまゝ有(あり)。見る人、其(その)心し給へ。

 

一、此書、纔の一事といへども、意(こゝろ)の及ぶ丈(だけ)は訂正して、事實に齟齬(そご)せざる樣に記(すり)し置(おく)なり。然(しか)れども、事、多端(たたん)にして、理(り)も又、極(きはま)りなければ、其事實と違ひ居(ゐ)る事も有べし。是等の分(ぶん)を、自餘(じよ)の條に及ぼし、悉く取(とる)にたらぬと咎むまじ。

 

一、土俗の口碑は、惣(すべ)て證(しよう)とするに足(たら)ずとも云難(いひがた)きか。朝(てう)にすたれて野(や)に求むともいへば、農夫(のうふ)等の茶呑話(ちやのみばなし)といへる中(うち)に、採用すべき事、少(すくな)からざれば、夫等(それら)の事をも、其儘に記し置ぬ。兎角、此書は自意(じい)を加へず、人の咄(はなし)に任せて、有(あり)の儘(まま)に記すを第一とす。仍(よつ)て田夫野人(でんぷやじん)の鄙辭(ひじ)をも、違はぬ樣に書取(かきとる)を、却(かへつ)て主意とす。

 

一、人名地名等を記すに、髣髴(ほうふつ)として分り兼(かぬ)る分、又は、其人其名の正敷(まさしく)しれ居(ゐ)たるをも、或人、又は何某(なにがし)、或は其の村などゝ記し置たるもあり。且、文字のしれ兼(かぬ)るは、かな文字(もんじ)にて記(しる)し置(おく)もあり。是、闇推(あんすゐ)のたがひを恐るればなり。

[やぶちゃん注:「闇推」根拠のない問題を生ずるかも知れぬような憶測邪推。]

 

一、は尾陽(びやう)の産(さん)故、册中(さつちう)に、我(わが)云々(うんぬんん)と書置たるはみな本國の事なり。中年已後(いご)、東都に住(ぢゆう)する事、又、久し。故を以、江戸の事も、又、多し。仍て國を名乘(なのら)ずして、直(ぢき)に地名を云(いふ)ものは、皆、江戸の事なり。

 

一、は無畢管見(わんけん)、博(ひろ)く書を見されば、先人の論説等(とう)、有(ある)事を辨(わきま)へず、又、古來同樣の談有(ある)事等(とう)も知兼(しりかね)たり。然共(しかれども)、適(たまたま)、見及べるをは、其似類(じるゐ)を擧(あげ)て、後鑑(こうかん)に備(そなふ)るもあり。且、東遊記・西遊記、又は著聞集の類(るゐ)は、人々の座右に有(あり)て知居(しりゐ)る書なれども、童蒙の分り安き爲に、引書(いんしよ)なし置(おく)も有(あり)。強(しい)て意を加(くはふ)るにあらず。

[やぶちゃん注:「東遊記・西遊記」既に本文で示した橘南谿のそれ。]

 

一、猶、胸中に記臆する奇談雜談等(とう)、少(すくな)からず。且、日々夜々(にちにちやや)、聞(きく)所の珍異も量(はか)りなければ、已後も屢(しばしば)書記(しよき)なすべしと思へども、勤務の餘暇多からざるうへ、自己の俗事、又、多忙。しかのみならず、外(ほか)に志す道も有(あり)て、此册の毛擧(まうきよ)は更に遑(いとまあら)ずといへども、是も又、が癖(へき)にして、思ひとゞめ難し。嗚呼(あゝ)、勞を己(おのれ)に求(もとむ)るも、所謂、因緣にや侍らん。

  嘉永二年【己酉(つちのととり)】夏

  想山齋主人(しやうざんさいしゆじん)誌(しるす)

[やぶちゃん注:今までも何度も述べてきたが、三好六左衛門想山(しょうざん)は尾張藩右筆(ゆうひつ)であった。「外に志す道」というのは個人としての大師流の書家としての精進のことと思われる。最後の書名は原典ではクレジットの下にある。

「嘉永二年」前にも注したが、これが本当の最後の最後の注なので記しておくこととする。一八四九年。想山は翌嘉永三年三月六日に病没する。]

 

 

 

抑(そもそも)靈驗神異の第一は恐多(おそれおほ)くも太神宮(だいじんぐう)の御蔭參(おかげまゐ)りの一條にて、御幣御祓[やぶちゃん注:原本は「拔」。底本の訂正注で特異的に訂した。]の諸國へ降らせ給ふ事、初(はじめ)、種々(しゆじゆ)の奇瑞は申迄もなく、且、國々の人民擧(こぞつ)て參詣なし、惣(すべ)て人氣(じんき)の勇み立(たち)て、攝待施行(せぎやう)等(とう)をなせし奇珍(きちん)等(とう)を、聞及ぶ丈(だけ)、悉く集錄し給ひて、是を奇談の卷首として、五卷となし置給ひつれども、思ふ子細有(あり)て、右の五卷は續ひて上木(じやうぼく)なさばやと暫(しばし)擱(さしを)[やぶちゃん注:以前と同様に原典は「内閣」。やはり底本の訂正注に従って訂した。]き、こたびは、其次册(じさつ)の方(かた)より、斯(かく)上木なし畢(おはんぬ)。

  庚戊(かのえいぬ)孟春

       靑山直意(あをやまなほもと)

 

[やぶちゃん注:最後の想山の弟子で本書刊行の実質的な功労者であった青山直意の署名は原典ではクレジットの下にある。

「太神宮の御蔭參りの一條」に始まる原形の部分初巻パート五巻が存在したというのである。何度も言うように、我々は、かく本文でも語れらる、六巻目以下の膨大な幻を最早、見ることは出来ないのである。
 
 以下、目録を示す。本来ならば、全電子化注を終わっているので、総てにリンクを張ればよいのであるが、気持ちの上でそんなことをする気になれぬほど、この電子化が終わったことに残念さを抱いている。済まないが、ブログ・カテゴリ「怪談集」を開いて当該表題の記事を探してお読み戴きたい。悪しからず。]

 

 

 

想山著聞寄集卷の壹

   目錄

一出雲大赦遷宮の時、雲出る事

一天狗の怪妙幷(ならびに)狗賓餠(ぐひんもち)の事

一鏡魚(かゞみうを)と名付たる異魚の事

一蛸藥師靈驗の事

一頽馬(だいば)の事

一菖蒲(あやめ)の根、魚と化(け)する事

一毛(け)の降(ふり)たる事

一白蛇(じや)靈異を顯したる事

一狐の行列讎(あだ)をなしたる事

  附火を燈(とも)す事

一人の金を掠取(かすめとり)たる報ひ、螢にせめ殺さるゝ事

  附 虫ぎらひの事

一吉夢(きちむ)、應(おう)を顯す事

 

 

 

想山著聞寄集卷の貮

   目錄

一品川千體荒神尊、靈驗の事

一猫のもの云(いひ)たる事

一海獺(かいだつ)昇天するを打留(うちとむ)る事

一山𤢖(やまをとこ)の事

一風に倒れし大木、自然と起たる事

一剜拔舟(くりぬきぶね)掘出(ほりいだ)したる事

一鎌鼬(かまいたち)の事

一馬の幽魂殘りて嘶(いなゝ)く事

一辨才天、契りを叶へ給ふ事

 附 夜這(よばひ)地藏の事

一麁朶(そだ)に髮の毛の生(はえ)たる事

一神佛の靈驗にて車に曳(ひか)れて怪我なかりし事

 

 

 

想山著聞寄集卷の參

   目錄

一元三大師(ぐわんざんだいし)誕生水、籾(もみ)の不思議の事

一蟇(ひき)の怪虫なる事

一戲(たはむれ)に大陰囊(おほぎんたま)を賣(うり)て其病氣の移り替りたる事

 附 大陰囊の事

一狩人(かりうど)、異女に逢(あひ)たる事

一七足(しちそく)の蛸、死人を掘取(ごりとる)事

一天色(てんしよく)、火の如く成(なり)たる事

一油を嘗(なめ)る女の事

一金を溜たる執念、死て後(のち)、去來(さりかね)たる事

 幷、陰盜(いんたう)、現罸(げんばつ)を蒙りたる事

一いはな、坊主に化(ばけ)たる事

 幷、鰻(うなぎ)同斷の事

一雹(ひよう)の降(ふり)たる事

 

 

 

想山著聞寄集卷の四

   目錄

一日光山籠り堂不思議の事

 幷、氷岩(こほりいは)の事

一大名の眞似をして卽(そく)罰の當りたる事

一大い成(なる)蛇の尾を裁(きり)て崇られたる事

 幷、強勇(がうゆう)を以、右(みぎ)祟(たゝり)を靜(しづめ)たる事

一美濃國にて熊を捕(とる)事

一死に神の付たるといふは噓とも云難(いひがた)き事

一信州にて、くだと云(いふ)怪獸を刺殺(さしころし)たる事

一雁(がん)の首(くび)に金を懸(かけ)て逃行(にげゆき)たる事

 幷、愚民の質直(しちちよく)、褒美に預りたる事

一耳の大い成(なる)人の事

一龍(りよう)の卵、幷、雷(らい)の玉(たま)の事

一古狸(ふるだぬき)、人に化(ばけ)て來(きた)る事

 幷、非業(ひごふ)の死を知(しり)て遁(のが)れ避(さけ)ざる事

一西應房(さいおうばう)、彌陀如來の來迎(らいがう)を拜して徃生(わうじやう)をなす事

一美濃國須原神社祭事不思議、幷、靈驗の事

 

 

 

想山著聞寄集卷の五

   目錄

一柳谷(やなぎだに)觀音利益(りやく)の事

一蛇の執念、小蛇を吐出(はきいだ)す事

一天狗に連行(つれゆか)れて鐡砲の妙を得來(えきた)りし者の事

一にち蜂(ばち)の酒、幷、へぼ蜂(ばち)の飯(めし)の事

 附 蜂起(ほうき)の事

一馬の言云(ものいひ)たる事

一狸の人と化(ばけ)て相對死(あひたいし)をなしたる事

一磬石(けいせき)の事

一蚫貝(あはびかひ)に觀世音菩薩現(げん)し居(ゐ)給ふ事

※蚯蚓(はねみゝず)、蜈蚣(むかで)と變ずる事、幷、蜊(あさり)、蟹(かに)と化(け)する事

[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「發」。本文のそれも同じ。]

一縣道玄(あがただうげん)、猪を截(きり)たる事

一鮟鱇(あんかう)の如き異魚を捕(とらへ)たる事

一猫俣(ねこまた)、老婆に化居(ばけゐ)たる事

一萬木(ばんぼく)、柊(ひゝらぎ)と化(け)する神社の事



 
[やぶちゃん注:以上を以って「想山著聞奇集」の電子化注を総て終わるが、ヘルン文庫版の原典画像の存在の発見と入手が遅れたため、全体の3分の2近くの読みが私の推定になっていて、原典と異なる(特に「居」を想山は殆ど総てを「ゐる」と読んでいるのを、私は前後の状況から「をる」と推定読みしていること、想山は「有て」を「ありて」「あつて」と二様に読んでいることが後半の読み確認で判明している)。これらの原典未検証部分は後日、必ず行って修正する予定である。]
 
 
 

「想山著聞奇集」 跋(二種)

 

 

三好想山居士。篤奉三教。方外之友也。以善書聞。交道極廣。奇談異事。聞而識之。月益歳多。恐其久而遺忘也。乃錄爲數十册。名曰著聞奇集。談雖俚俗。事係報應。意欲留之以爲子孫勸懲之資也。以爲談也事也。已謂之奇異。世不常有。故人徃不疑則謗。能信焉者鮮矣。今居士必取其的證。詳其顚末。其地其時。鑿有徴。不墮浮虛無根之言。足以取覽者之信。斯可以爲衆善奉行諸惡莫作之助矣。方今昭代之化。苟有裨益世教者。概皆鏤板公諸世。况此集哉。宜爲天下後世勸懲之資也。奚止爲一家子孫哉。慫惥刻之。居士謙讓不肯曰。是奚足以傳世矣。會其門人濃州苗木藩士靑山子。來訪市谷精舍。因試言之。靑山子喜而從事。固請居士捐貲命工。嗚呼刻與不刻。何預吾事。而諄不已。乃一片利物婆心之所不能已也。亦吾輩之任也。不知者以爲好事。其復何傷。若夫辭藻之末則居士之所不屑也矣。亦奚暇論焉。

  嘉永三歳次庚戌孟春念八日江都鎭護山主蓮堂眞

   蓮堂〔印〕釋諶眞〔印〕字曰義海〔印〕

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

 

三好想山居士、篤く三教を奉ず。予、方外の友なり。善書を以て聞(きこ)ふ。交道、極て廣し。奇談・異事、聞て之を識す。月々に益(ま)し、歳々に多し。其の久して遺忘(いぼう)せんことを恐るゝや、乃ち錄して、數十册と爲(し)、名て「著聞奇集」と曰ふ。談、俚俗と雖ども、事、報應に係(かかは)る。意、之を留て、以て、子孫勸懲の資と爲んと欲す。予、以爲(おもへらく)、談なり、事なり。已に之を奇異と謂へは、世に常に有(ら)ず。故に、人、徃々、疑はざれば、則ち、謗(そし)る。能(よく)焉(これ)を信する者、鮮(すくな)し。今、居士、必、其(その)的證を取り、其(その)顚末を詳にし、其の地・其の時、鑿々(さくさく)として徴(しるし)有(あり)。浮虛無根の言に墮(おち)ずして、以(もつて)覽者の信を取るに足れり。斯(かく)、以て衆善奉行(しゆぜんぶぎやう)・諸惡莫作(まくさ)の助と爲(す)べし。方(まさ)に今、昭代(せうだい)の化(くわ)、苟(いやし)も世教(せいけう)に裨益(ひえき)に有る者、概ね、皆、板に鏤(ちりば)めて、諸(もろもろ)を世に公(おほやけ)にす。况や、此の集をや。宜(よろし)く天下後世勸懲の資と爲(す)なり。奚(なん)そ止(とど)めて一家の子孫爲(ため)のみにせんや。慫惥(しようよう)して之を刻ましむれとも、居士、謙讓して肯(がへんぜ)ずして曰(いはく)、「是(これ)、奚(なん)そ、以(もつて)世に傳(つたふ)るに足らん。」と。會々、其(その)門人、濃州苗木藩士靑山子(し)、來(きたつ)て予を市谷(いちがや)の精舍(しやうじや)に訪(たづね)、因て試(こころみ)に之を言(いふ)。靑山子、喜(よろこび)て從事し、固(かた)く、居士に請ひ、貲(し)を捐(えんじ)て工(こう)に命(めい)す。嗚呼(ああ)、刻と不刻と、何(なん)そ吾(わが)事に預らん。而(しかして)諄々(じゆんじゆんとして)已(やま)ず。乃ち、一片利物(りもつ)婆心の已(や)む能(あた)はざる所なり。亦、吾輩の任なり。知ざる者、以て、事を好(よし)と爲(せ)ん。其れ、復(また)、何ぞ傷(きづつか)ん。夫(そ)の辭藻(じそう)の末のごとき、則(すなはち)、居士の屑とせざる所なり。予も亦、奚(なん)そ、論するに暇(いとま)あらん。

  嘉永三歳次庚戌孟春念八日江都鎭護山主蓮堂眞

   蓮堂〔印〕釋諶眞〔印〕字曰義海〔印〕

 

[やぶちゃん注:原典では「跋」の下に篆書の落款があり、それはドシロウトの私には「爲樂衆客三觀來園」といった感じに見えるが、篆書は学んだこともないので、割愛した(底本では省略されている)。この内、「三觀」は確定字で、最も知られたものは天台教学に於けるそれで、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、この世界の差別的現象(諸法)とその本体である絶対的真実(実相)との関わり合いを「空」・「仮」・「中」という三つの在り方(三諦)から観想する「空観」・「仮観」・「中観」を「空仮中の三観」と称するものを指す。「空諦」とは「総ての存在に実体はなく、空である」という真理、「仮諦」とは「総ての存在は縁起せるもので仮有(けう:仮の現象)である」という真理、「中諦」とは『これら「空」と「仮」の二面は不二一如である』という道理を意味する。天台の立場では、この「三諦」は相互に別個のものなのではなく、互いに円融している(円融三諦)ものであり、衆生の一念の心の中には、この真理が融け合って実現していると観じる「一心三観」を天台の究極の境地とするものである。後に注するように筆者は天台僧である。最後の印は最終行記名の直下に打たれてある。電子化では底本の句点のみを残した形をまず示し(因みに、原典は返り点と送り仮名のみ)、後に概ね訓点に従った(底本編者の句点は参考に留め、句読点及び記号は独自に附した)書き下し文を後に示した。読みは原典・底本ともにないが、難読と思われる箇所にのみ推定で歴史的仮名遣で附した。

「三教」ここは神道・儒教・仏教の謂いであろう。

「善書」優れた著作。

「交道」交際。

「遺忘」忘却。

「談なり、事なり」至極尤もな真実の主張であり、明確な事実の記載である。

「的證」確証。的確な証拠。

「鑿々」ここは言辞を的確且つ巧みに用いることの謂いであろう。

「衆善奉行」仏教の基本的な実践徳目を端的に述べた「七佛通戒偈」(釈迦以前に存在したとされる六人の仏と釈迦を含む七人の仏(過去七仏)がともに説いた教えを一つに纏めたとされている偈で「法句經」などに収録されており、上座部仏教及び禅宗に於いては特に重んぜられるもので、禅宗では日常の読経にも取り入れられている)の冒頭にある句。「衆(もろもろ)の善を行ひ奉る」と訓ずる。全体は、

   *

 諸惡莫作

 衆善奉行

 自浄其意(じじやうごい/自ら其の意(こころ)を淨(きよ)くす)

 是諸仏教(ぜしよぶつきやう/是れぞ諸佛の教へなり)

   *

である。

「諸惡莫作」同前。「諸々の惡を作(な)す莫(なか)れ」と訓読する。道徳的な意味に於いて悪しき行為をなしてはならぬという戒め。

「昭代」太平にして繁栄している世。目出度い帝と将軍の治世。

「化」正しき賢人らの教化によって人がよい方向に在る時(今現在)、の謂いであろう。

「世教」世に行われている正統な教え。

「裨益」役立つこと。助けにあずかること。

「後世」これは仏教の「ごぜ」ではなく、事実時間の「こうせい」と読んでいるものと思われる。

「慫惥」慫慂に同じい。

「濃州苗木藩士靑山子」次の彼の跋文と私の注を参照されたい。「子」は尊称。

「市谷(いちがや)の精舍(しやうじや)」この漢文の跋の筆者「江都鎭護山主蓮堂」とは、本文にもしばしば登場した、寛永寺の院家である、市谷自証院、現在の新宿区富久町にある天台宗鎮護山自證院圓融寺の住職である。

「貲(し)を捐(えんじ)て」板行のための資金をも寄付して。

「工」版元。

「嗚呼、刻と不刻と、何(なん)そ吾(わが)事に預らん」反語。出版の功績は偏えに青山氏にあり、私は全く以ってたいしたことはしていないのだ、という謙遜の辞。

「諄々」原義は、「良く判るように繰り返し教え諭すさま」の他に「ぐずぐずするさま」の意味もあるので、ここは以下の叙述から見ると、想山の推敲・執筆が精細を極めた結果、遅々として出版が進まないことを言っていると私は採る。大方の御叱正を俟つ。

「一片利物婆心」ごくごくつまらぬ利益にしかならぬ、ちょっとした私の老婆心。

「已(や)む能(あた)はざる所なり。亦、吾輩の任なり」想山に執筆と出版をことあるごとに急かしたことを指すか。それぐらいが、拙僧の役割に過ぎなかったという、やはり謙遜の辞と私は採る。大方の御叱正を俟つ。

「知ざる者、以て、事を好と爲ん。其れ、復、何ぞ傷ん。夫の辭藻の末のごとき、則、居士の屑とせざる所なり」難読。――出版の経緯を知らない者は、これを以ってしても良しとするべきである。また、そうしたことでこの優れた本書に瑕疵がつくものでも全くない。そこに記された記載の瑣末なもののように見える箇所でさえ、まさに、想山居士はそれを屑(ソウ/くず)とは見做していないのだ、全記載の一言一句までが必須な言辞なのである。――という意味で私は採る。大方の御叱正を俟つ。

「奚(なん)そ、論するに暇(いとま)あらん」本書に対して意地の悪い反論をするような輩とは、私は一切、議論をする意志も余裕もないの謂いであろう。大方の御叱正を俟つ。

「嘉永三歳庚戌に次(ついで)る」「ついでる」の読みは推定でこの跋文を編著したの意で採る。嘉永三年は一八五〇年。

「孟春念八日」一月二十八日。「孟春」は旧暦一月の異称。「念」は「廿」(「廿」の音が「念」に近かったことから中国で宋代から代用字として用いられた)。想山はこの凡そ一ヶ月後の嘉永三年三月六日に病没している

「眞」「しんす」か。楷書で記すの意で採っておく。大方の御叱正を俟つ。]

 

 

 

          苗木藩 靑山直意漢隷

           靜慮〔印〕直意〔印〕

 

不可思議と云ことは、人の心をもて思ひ得がたきをいふ也。直意が入木道の師、想山大人の、年ころ、人のものがたれる、善には福ひし、惡きには禍ひをかふぶるなど、かの不可思議と云べき事どもを、きゝしまにまに書しるし置給ひたる反古どもの若干、卷に及びけるを、人の勸めにまかせられて、子孫勸懲の爲とて、とうてゝ册子につゞり、常にしたしうし給ふ大人達に畫をもこひて、よき册子となし玉ひしを、見る人每に同しくは櫻木に鏤めて、しうねき人の心をもやはらげ、稚きものの道行しをりにもなし玉へかしと、すゝめ玉へど、うけかひたまはぬを、おのれ思ふやう、此書は勸懲のみの事にあらす、三世一貫の書にして、上りたる代のうるはしきにも、をさをさ、おとるましと思へは、有と有、おなじ心の人々にも見せまほしく、後の世にも傳えはやと、ゆるし玉はさるを、あなかちに乞得て、かくは物しつ。

          靑山直意靜慮〔印〕

 

        靑山直意藏

           老少斎藏板〔印〕

            津坂光霽書

            早川可靜刻

  嘉永三年【庚戌】十一月刻成

 

[やぶちゃん注:原典にもルビはない。

「靑山直意」「あほやまなほもと(あおやまなおもと)」。三好想山の門人で美濃国苗木藩藩士(恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩。ここ(グーグル・マップ・データ))にして本書の刊行者である。最後のクレジットから、この跋文は想山の没後八~九ヶ月後に記されたものでことが判る。

「漢隷」漢字の書体の隷書の一種で「八分(はっぷん)」と称するもの。横画の終筆を右に撥ね上げるのを特徴とする。

「入木道」「じゆぼくだう(じゅぼくどう)」と読む。日本に於ける書道の異称。平凡社「世界大百科事典」によれば、唐の張懐瓘(ちょう かいかん)撰になる「書斷」に『王羲之、晋帝時、祭北郊更祝版。工人削之、筆入木三分』とあって、この「入木」とは書聖と仰がれる東晋の王羲之が祝版(祭文)を書いたところ、筆力が盛んなため、墨汁が木に沁み込むこと三分(ぶ)にも及んだという故事による。「入木三分」は「筆力の強い」ことを形容し、「入木」は文字を書くことから筆法・書法の意で使われるようになった。なお、宋の呉淑撰の「事類賦」には『逸少驚入木之七分』とあって、一説には「入木七分」とも伝えられたようである、とある。

「善には福ひし、惡きには禍ひをかふぶる」「ぜんにはさひはひし、あしきにはわざはひをかふぶる」で「かふぶる」は「蒙(こうむ)る」の意であろう。

「書しるし」「かきしるし」。

「とうてゝ」ママ。意味不詳。

「櫻木に鏤めて」「さくらぎにちりばめて」と訓じておく。出版して。

「しうねき人の心をもやはらげ」「執拗(しゅうね)き人」で奇談・怪談をはなっから信じない頑固者。ここは「古今和歌集」の紀貫之の「仮名序」の「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ」をインスパイアしたものであろう。

「道行」「みちゆく」。人生行路の。

「三世一貫」前世(ぜんせ)・現世(げんせ)・後世(ごぜ)を貫いている定めとしての因果応報の理(ことわり)。

「上りたる代」今から遡るところの遙か前代。

「うるはしきにも」優れた書物。

「有と有」「ありとある」。あらゆる。

「老少斎」青山直意の雅号であろう。

「津坂光霽」不詳。「つさかこうせい(さい)」と読むか。

「早川可靜」不詳。「はやかはかせい」と読むか。]

2017/06/18

「想山著聞奇集 卷の五」 「萬木柊と化する神社の事」/「想山著聞奇集」~本文終了

 

 萬木(ばんぼく)柊(ひゝらぎ)と化(くわ)する神社の事

 

Subetehiiragi

 

[やぶちゃん注:左右のキャプション。]

 

南天は木振(きぶり)葉振(はぶり)とも早速(さつそく)に變じ兼(かね)、圖の如く、南天の儘にして、葉には角(かど)を生じて柊(ひゝらき)となり居(ゐ)たり。

 

何ぞ譯有(わけある)事にや、兎角(とかく)、人々、南天を多く納(おさむ)る事にて、纔(わづか)貮三寸より、四、五寸斗(ばかり)の納(おさめ)たての變ぜざる南天も多かれども、其中(そのなか)にも、納(おさめ)て年經(としへ)たるのにや、此(かく)のごとき小(ちひさ)きまゝ、能(よく)柊(ひゝらぎ)の葉と變じ居(ゐ)たるも數珠(すちゆう)あり。

 

 京師(けいし)下加茂(しもがも)の攝社に、土俗、比良木大明神(ひらきだいみやうじん)と稱する社(やしろ)有。疱瘡(はうさう)の事を願ひて、願望成就の後(のち)は、先(まづ)は柊の木を上(あぐ)れども、外の木を奉るものも少からず。然(しか)るに、その木、皆、柊と變化(へんくわ)すると聞及(きゝおよ)び居(ゐ)たり。、天保九年【戊戌】[やぶちゃん注:一八三八年。]彼(かの)地に至りし時、追々、此社(やしろ)へも參詣なし、能々(よくよく)見侍るに、神垣(かみがき)の内、方(はう)五、六間[やぶちゃん注:九メートル強から十一メートル弱。]もありつらん。種々(しゆじゆ)の木有(あれ)ども、皆、柊の葉を生じ、大躰(たいてい)、全木(ぜんぼく)、柊と成(なり)たる多し。其(その)木、椿・玉椿(たまつばき)・木穀(きこく)・山梔子(くちなし)・樫(かし)・柘(つげ)・南天・木犀・白榊(しらしやけ)・正木(まさき)等、過半、柊と變化(へんくわ)なしかけたる分(ぶん)、或は未だ捧(ささげ)たるまゝにて、僅(わづか)に變じ懸(かゝ)りたる分も有。又、植(うえ)たてにて、未だ少しも變じ懸らざる南天・正木抔(など)もありたり。右神垣の内は植(うえ)る場もなく、且、締(しま)りも有(あつ)て入難(いりがた)き故、垣(かき)の外にも、やたらに植行(うえゆく)者も有に、悉く變ぜし也。其内、右神垣の内に、接骨木(にはとこ)の木、三、四株(かぶ)もあり。何れも接骨木の葉を生じて、柊にならざる樣に見請(みうけ)たれども、押合(おしあひ)て植込(うえこみ)たる中なれば、下枝(したえだ)等は、柊と成懸り居しにや、聢(しかと)とは分り兼たり。玉椿・木犀抔は、木振葉振とも柊に似寄(により)たるもの故、變化(へんげ)懸(かゝ)りより見分けがたき程に、よき柊と成居(なりゐ)つれども、山梔子抔は、幹より小枝に至る迄、さつぱりと木振も替り居(お)れ共(ども)、夫(それ)なりに薄き葉も厚めになり、其薄き葉に角(かど)も生(しやう)し居(ゐ)て、段々、柊の葉に變化(へんげ)懸り居れども、幹などの振合(ふりあひ)は其まゝにして、木肌も未だ其儘なるも多し。中にも小(ちひさ)き南天は、別(べつし)て澤山に納め有(あり)て、未だ少しも變じ懸らざる木も多かりしが、元來、南天は木振葉振も大ひに違ひ居(ゐ)けれども、夫成(それなり)に葉に角を生じて、柊の葉となり居たり。其樣子、畫解(かきほど)き難きまゝ、形計りなれども、圖となして顯し置たり。【近世、一種、南天にして、葉形(はかた)は全く柊の如きもの舶來せり、俗に柊南天(ひゝらぎなんてん)と云、また、阿蘭陀南天(おらんだなんてん)共(とも)云いふ。尤(もつとも)、夫(それ)とは別なり。此(この)御社(おやしろ)に參らぬ人、疑ひを生(しやうず)る事なかれ。】隣家(りんか)の鈴木某(それがし)、が上京せしより僅二年及びも早く、彼地へ參詣して見來(みきた)るには、柘榴(ざくろ)有(あつ)て花も盛に咲居(さきゐ)たれども、葉は過半、角(かど)生出(はえいで)、柊と成居たるは、別(べつし)て不思議成(なり)とて、能々(よくよく)慥(たしか)に見來り、驚(おどろき)て咄したるを、聢(しか)と聞留置し故、其木は有(ある)かと、心を留(とめ)て尋ね索(もとむ)れども、柘榴の變じたるは一株(ひとかふ)もなし。最早、悉く變化(へんくわ)して常の柊と成し事と見えたり。呉々(くれぐれ)も、神佛の利益(りやく)は、怪敷(あやしき)迄に量り難きもの也。【伊豆の國小瀨明神(こせみやうじん)の社木(しやぼく)と同談なり、此事は追(おつ)て委敷(くはしく)記す積り。】扨、此神の事は、都名所圖繪等(とう)にも見えず、何の神におはしませしにや、人に尋(たづね)ても、唯、比良木大明神と申事のみ知居(しりゐ)て、近來(きんらい)、京地(きやうち)にては、十社參り抔云(いふ)事、流行(りうかう)なし出(いだ)して、此神も、其内にて、參詣人多く、衆人のしる社(やしろ)なれども、神躰は分り兼たり。仍(よつて)猶、社説の趣を懇(ねんごろ)に聞探(きゝさぐ)るに、祭神(さいじん)は素盞烏尊(すさのをのみこと)にして、延喜式内の御神(おんかみ)にて、則(すなはち)、出雲井於神社(いづもゐお)しんしや)也といへり。大嘗會(だいじやうゑ)・新嘗祭(しんじやうさい)の御神事(ごしんじ)、みあへの祭(まつり)に關(あづか)りおはします御神(おんかみ)にて、地主(ぢしゆ)の神にして、此(この)御社(おやしろ)より西、今の京に至りて、出雲大路(いづもおほぢ)、又は出雲の郷(さと)など申地名も、此社より出(いで)し舊號(きうがう)の由。文德(ふんとく)天皇仁壽(じんじゆ)三年[やぶちゃん注:八五三年。]の夏四月、疱瘡流行、人民疫死(えきし)多く、此時、敕使、此社(やしろ)に參向の砌(みぎり)、神人(しんじん)に神かゝりおはしまし、疱瘡の疫神(えきじん)祓ひ除くべき詫宣(たくせん)おはしまして、比良木大明神と仰ぎ奉るべきよし。比良木は比々良木(ひゝらぎ)、比禮矛(ひれほこ)等(とう)の緣語(えんご)におはしますと、右社(やしろ)の舊記にも見え、又、除夜(じよや)に、人家の門戸(もんこ)の上に柊の枝を差(さし)、疫神(えきじん)を避(さけ)しも、比良木大明神の詫宣なりと申傳へし由。今の世に至りても、小兒(せうに)の疱瘡の憂(うれひ)を除(のぞか)んと、人々、此神に祈願すれば、必(かならず)、其驗(げん)有(あつ)て、疱瘡、輕(かろ)しと也。兎も角も、眼(ま)の當り、萬木(ばんぼく)、柊と變化(へんくわ)するを拜し奉る上は、神慮(しんりよ)の空(むな)しからざる事は申も愚(おろか)にて、いとも尊(たふと)き御事也。

想山著聞奇集(しやうざんちよもんきしふ)卷(まき)の五

[やぶちゃん注:「柊」シソ目モクセイ科オリーブ Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus。。卵状の長楕円形をした葉の縁には先が鋭い刺となっている(老樹では消失する)。和名はこの刺に触ると「ヒリヒリと痛む」ことから、古語の当該の意の動詞である「疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ」の連用形「疼(ひひら)き・疼(ひいら)ぎ」が名詞化したものである。柊は「延喜式」で邪気を祓う道具の一つである「卯杖(うづえ)」の材料の一つとして挙げられているように(但し、この起源は中国)、古えから、強靱な生命力と、それに付随する邪気や魔除けの呪力を保持する常緑樹として信じられた経緯がある柊に餅花をつけて神饌としたり、節分に柊の葉の燃え方で一年の気象を占う風習もあり、民間療法でも柊は病気除けとして使われてきた。家居の庭には鬼門除けとして表鬼門(北東)に柊を、裏鬼門(南西)に南天の木を植えると良いとされ、また、本文に「除夜に、人家の門戸の上に柊の枝を差、疫神を避」けたと出るように、節分の夜に柊の枝と大豆の枝に鰯の頭を挿して門戸に飾る邪気払いの風習「柊鰯(ひいらぎいわし)」として今に続く(節分は古くは「追儺(ついな)」「鬼やらい」「儺(な)やらい」などと称しして大晦日に行われた)ウィキの「柊鰯」によれば、『西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、とも』称し、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認できる』(やぶちゃん注:これは「土左日記」の最初の方の大湊の泊まりの元日の条で、船中の人々が都の元旦の様子をあれこれと想像する部分。そこに『今日(けふ)はみやこのみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)の端出之繩(しりくべなは[やぶちゃん注:注連繩。])の鯔(なよし)の頭(かしら)、柊(ひひらぎ)ら、いかにぞ。」とぞいひあへなる』とある)。『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』とある。但し、ここに書かれているような、ある一定区域内に植えた他の樹種が、総てヒイラギに変ずるという現象は、「木犀」(後の「木犀」の注を参照されたい)を除いては、私はあり得ないと思うこれは「比良木大明神」の当時の神官らが、社名にあやかって、こっそりと少しずつ、神垣内の植物(木犀を除く)を柊に巧妙に(あたかも変じたかのように見えるように)植え替えたものであろうと疑っている。

「下加茂(しもがも)」京都市左京区にある、通称、下鴨神社、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。

「攝社に、土俗、比良木大明神(ひらきだいみやうじん)と稱する社(やしろ)有」後にも出るが、下鴨神社の境内摂社の一つである「出雲井於神社」(いずもいのへじんじゃ:現行の表記呼称。「井於(いのへ)」とは「鴨川の畔(ほと)り」の意と伝える)で、式内社(しきないしゃ:延喜式内社或いは式社とも称し、「延喜式」の「神名帳」(じんみょうちょう))に記載されている神社のこと。全三千百三十二座・二千八百六十一社の記載を数える)としては「愛宕郡出雲井於神社」と呼ぶ。(グーグル・マップ・データ)。岡戸事務所のサイト内にある本神社のこちらの記載によれば、本社が通称で比良木神社(ひらきじんじゃ)と呼ばれているのは、『本宮の御陰祭(御生(みあれ)神事)が行われていた犬柴社』(御蔭祭と書く。葵祭の前祭で、比叡山山麓にある八瀬御蔭神社より神霊を迎える神事)『と愛宕郡栗田郷藪里総社柊社が同神で、この社に合祀されたため』、『この名がある』とし、『厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊」(ひいらぎ)となって願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、「京の七不思議」に数えられている』。『現在の社殿は』、寛永六(一六二九)年の『式年遷宮のときに賀茂御祖神社(下鴨神社)本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では最も古い社殿』(天正九(一五六一)年の造り替えで現在の重要文化財)とある。祭神は本文に出る通り、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)=素戔嗚命である。

「疱瘡(はうさう)」天然痘。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の注を参照されたい。

「椿」ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ(ツバキ)Camellia japonica日本原産で万葉時代から美しい花卉として好まれたが、特に近世には茶道の飾り花として「茶花の女王」の異名を持ち、早くから多くの園芸品種が作られた。但し、ツバキ類の多くの花は離弁花であるにも拘わらず、花弁が一枚一枚に時間差で散ることが少なく、花弁が基部の萼を残したまま、一気に丸ごと落ちる(「落椿」と称する)ものが多く、それが首が落ちることを連想させることから武家では嫌われた経緯があり、現在でも死や急死に繋がるイメージから見舞いの花としては禁忌とされる一面もある。

「玉椿(たまつばき)」椿の美称であるが、ここは前の椿と後に続く樹木名の並列関係から考えて、椿の多様な品種群のあれこれを指すものであろうと思われる。なお、ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum の別称でもあり、これは葉が確かに椿に似るが、同種は花が全く椿とは異なり、この場面の叙述で、それをわざわざ「椿」と併置して出すかどうかという点で、私はそれに同定するのは留保したい

「木穀(きこく)」これは恐らく「枳殻」で、ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata のことと思う。本種は枝に稜角があり、三センチメートルにも達する非常に鋭い刺が互生する点で、柊の葉の棘との親和性があるからである。

「山梔子(くちなし)」リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides強い芳香は邪気を除けるとも考えられるし、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う真言密教系の修法では供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nuciferaの五種の一つ

「樫(かし)」ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。民家の垣根として植えられる主要な樹の一群。常緑樹であることから防風林として、また、燃え難い性質から防火対策ともなったから、霊的樹木としての歴史は古いものと思われる。細かな種群は参照したウィキの「カシ」などを参照されたい。

「柘(つげ)」ツゲ目ツゲ科ツゲ属変種ツゲ Buxus microphylla var. japonica。言わずもがな、神代から霊的呪物たる櫛の主原材とされた。

「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domesticaウィキの「ナンテンによれば、中国原産であるが、古くに輸入されたものと思われ(現在は西日本や四国・九州に自生しており、これは渡来した栽培種が野生化したものとされている)、庭木として好まれた。江戸時代には『様々な葉変わり品種が選び出され、盛んに栽培された』。また、「なんてん」という発音が「難転」と同音であることから、語呂で「難を転ずる」に通ずるとして縁起の良い木とされて、『鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信がある。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれる。また、江戸の百科事典「和漢三才図会」には「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、江戸時代はどの家も「火災除け」として玄関前に植えられた』。『赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになった』。厠の『前にも「南天手水」と称し、葉で手を清めるためなどの目的で植えられた』とある(下線やぶちゃん)。

「木犀」シソ目モクセイ科オリーブ連モクセイ属モクセイ(ギンモクセイ(銀木犀))Osmanthus fragrans。花が強い芳香を持ち、前に掲げた真言密教の修法の供物「五木」の一つである。しかも、本種はヒイラギとは同属であり、また、実際にヒイラギとギンモクセイの雑種といわれるヒイラギモクセイ(柊木犀)Osmanthus × fortunei なる種が実在する同種は生垣などによく利用されており、葉は大形で縁に鋸歯を多く持っていて、私のような素人が葉見る限りでは、ヒイラギの葉にしか見えない

「白榊(しらしやけ)」この呼称は不詳であるが、取り敢えずは、日本で古くから神事に用いられているツツジ目モッコク科サカキ属サカキ Cleyera japonica を指しているとしておきたい。同種は本州では茨城県・石川県以西・四国・九州に分布するウィキの「サカキによれば、『古来から植物には神が宿り、特に先端がとがった枝先は神が降りるヨリシロとして若松やオガタマノキ』(モクレン亜綱モクレン目モクレン科オガタマノキ属オガタマノキMichelia compressa:和名は神霊を招聘する神木の意の「招霊木(おぎたまのき)」由来)『など様々な常緑植物が用いられたが、近年は』、最も『身近な植物で』、『枝先が尖っており、神のヨリシロにふさわしいサカキやヒサカキ』(モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ Eurya japonicaサカキが自生しない関東地方以北での代用品)『が定着している』。『サカキの語源は、神と人との境であることから「境木(さかき)」の意であるとされる』とある(下線やぶちゃん)。

「正木(まさき)」ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus榊(さかき)がない場合の代用品の一つが本種、柾(まさき)である

「締(しま)り」神域へは入口が閉められてあって安易に立ち入りが出来ないようになっているのである。

「接骨木(にはとこ)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属ニワトコ亜種ニワトコSambucus sieboldiana var. pinnatisectaアイヌの神を祀る聖具イナウ(御幣様の呪具)の材料とされ、神道の御幣の現在の白い紙の部分は、古くは本種(他にヤナギ・ヌルデ・クルミ・マツなど)の樹皮の一部を薄く削って用いたりし、小正月の飾りにも用いた。魔除けにする習俗は日本以外でも見られる

「柊南天(ひゝらぎなんてん)」「阿蘭陀南天(おらんだなんてん)」キンポウゲ目メギ科メギ亜科メギ連 Berberidinae 亜連メギ属ヒイラギナンテン Berberis japonica。中国南部・台湾・ヒマラヤ原産。小葉は硬く、ヒイラギの葉に似て、鋸歯は棘状となる。

「柘榴(ざくろ)」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum

「伊豆の國小瀨明神(こせみやうじん)」不詳。お手上げ。識者の御教授を乞う。

「此事は追(おつ)て委敷(くはしく)記す積り」現存する「想山著聞奇集」は本条を以って終わっている。我々は永遠にそれを読むことは出来ないのである。

「都名所圖繪」確認したが、名すら載らない。

「十社參り」この時代の京都のそれは不詳。識者の御教授を乞う。

「大嘗會(だいじやうゑ)」大嘗祭。天皇が即位後に初めて行う新嘗(にいなめ/しんじょう)祭(新穀を神に捧げて収穫を感謝し、同時に来るべき年の豊穣を祈る祭儀)。その年の新穀を天皇が天照大神及び天神地祇に供えて自らも食する(神人共食)、天皇個人としては一代一度の大祭。

「みあへの祭(まつり)」底本の注には『飲食物によるもてなし。したがって、みあへの祭は、大嘗・神嘗』(かんなめ:毎年秋に天皇が新穀で作った神酒と神饌 を伊勢神宮に奉納する祭儀)『など、飲食に関係ある祭りをいう』とあるから、前に私の注した広義の神人共食の供儀を指すように書かれてある。確かに、ここまでの文脈からはそうさらっと読めてしまうのだが、しかし、どうもこれは私には、先に注した、この神社の原形の一つである犬柴社の、葵祭の前祭に於いて比叡山山麓にある八瀬御蔭神社より神霊を迎えるための神事本宮の御蔭祭=御生(みあれ)神事のことをも同時に指すと考えることも大切なのではなかろうかと思われる。

「地主(ぢしゆ)の神」その土地を本来、支配して守っていた神。

「出雲大路(いづもおほぢ)、又は出雲の郷(さと)など申地名も、此社より出(いで)し舊號(きうがう)の由」「月の光」成田亨サイト「出雲井於神社が地図もあって非常に判り易い。必見! それによれば、「出雲」は『玉依姫が子を産んで、隠れ住むようになった森に五色の雲が起こったため出雲路森(いづもじもり)と名付けられたという』。『御蔭神社があるあたりが、高野の森だろうか』とあり、『この出雲路森(いづもじもり)と出雲井於神社(いずもいのへ)の関連があるかもしれない』と述べておられる(但し、神代の話をそのまま現在の地図で理解しようとすると(少なくとも私には)無理が感じられる。しかし、リンク先の考察は面白い。『玉依姫命が、出雲の御子(御毛入命)を生み育てたことによって、御蔭山は、御生山(みあれやま)と呼ぶようになったのかもしれない』という一節は、先の注で私が述べた「御生(みあれ)神事」との絡みでもすこぶる興味深いからである)。

「文德天皇仁壽三年の夏四月、疱瘡流行、人民疫死多く、此時、敕使、此社に參向の砌(みぎり)、神人に神かゝりおはしまし、疱瘡の疫神祓ひ除くべき詫宣おはしまして、比良木大明神と仰ぎ奉るべきよし」この社の記載はないが、「日本文德天皇實錄」(六国史の第五。文徳天皇の治世である嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの八年間を扱った歴史書。文徳帝の第四皇子で次代の帝となった清和天皇が貞観一三(八七一)年に藤原基経らに編纂を命じ、元慶三(八七九)年に完成)の「卷五」には『仁壽三年四月乙酉【廿五】乙酉。以頗皰瘡染行。人民疫死故。停賀茂祭』とある。

「比良木は比々良木(ひゝらぎ)、比禮矛(ひれほこ)等の緣語におはします」前者は柊の邪気を払う棘を、後者は恐らく「領巾(ひれ)矛」で、儀式用の矛に附けた小さな旗であろう。この旗は元来は呪力を持ったものとして装着されたものであるらしいから、そうした意味での縁語性があると、想山は謂いたいのであろう。]

 

2017/06/17

「想山著聞奇集 卷の五」 「猫俣、老婆に化居たる事」

 

 猫俣(ねこまた)、老婆に化居(ばけゐ)たる事

 

Syouzannekomata

 

 上野の國某(それ)の村に、屋根葺を渡世とする男有。此者、生れ付、律義にして、一人の老母有けるに、事(つか)ふるの切なる事、實(まこと)に珍敷(めづらしき)孝なるものなり。されども貧民の事なれば、かの母を家に殘し置、自身は日々職を勵み、そこ爰(こゝ)と稼ぎ步行(あるき)たり。扨、彼(かの)老母、いつとなく酒好(さけずき)と成(なり)たるゆゑ、每日、歸りには、酒を二合程づゝ土産となし、母を能(よく)いつくしむを樂みとして暮しける。此母、年老たる故にや、誠に心さま惡敷(あしく)、荒(あら)らかに成(なり)つれども、彼(かの)孝心をもつて樂(たのし)む男なれば、いよく至孝(しかう)を盡しけると也。然るに彼男、もはや年もなかば過(すぎ)と成[やぶちゃん注:二十五歳前後から三十歳ほどか。謡曲「敦盛」の「人間五十年」が知られるが、江戸時代を通じての平均寿命は四十五歳前後であった。]、母も次第に老年になりしを留守に置、外(そと)へ計(ばか)り出(いで)て稼ぐ事も不安堵(ふあんど)に思はるべし、且は老母唯一人、留守をさせ置は不自由にもあるべし、孝道を欠(かく)の第一なり迚、人々妻(さい)をむかふる事をすゝめつれど、彼(かの)老母、嫁を取(とる)事を至(いたつ)てきらひたるまゝ、孝行なる男故、先々(まづまづ)母の存念にまかせ置たり。去(さり)ながら、兎角、妻を迎ふる事を人々勸め、母壹人、るすをさせるこそ、却(かへつ)て孝道を欠(かく)道理なり、多くの人の中(なか)には、如何樣(いかやう)にむつかしき母人なりとも、氣に入(いる)べき嫁も有べしなど、餘儀なきすゝめにさとされて、兎も角も、と、人にまかせ置しに、程なく、心さまなどよき女の有たりとて、強(しひ)て人の取持(とりもち)くるゝにまかせ、妻をむかへ取(とり)たるに、かたの如く能(よき)嫁にて、老母に事(つか)ふる事、殘る所なきものなるに、彼(かの)老婆、殊の外、此嫁をきらひて、彌(いよいよ)六(むつ)か敷(しく)なり、日々と無躰(むたい)にいぢむるまゝ、何を云ふも、孝を盡すとてよびたる女なるに、あの樣に母がきらひ給ふを、差置べきに非ずとて、あかぬ中(なか)なれども、妻(さい)に暇(いとま)を遣して後(のち)は、又々以前のごとく、老母壹人暮させけると也。扨、或時、何事か有て、此男の屋根葺仲間、此家へ寄集(よりあつま)りて、酒など給(たべ)てざゝめく[やぶちゃん注:これだと「ざさめく」であるが、「ざざめく」のつもりであろう。「大声をあげて騒ぐ」「賑やかに話す」の意の「さんざめく」「さざめく」は、古くは「ざざめく」であって、「ざざ」は擬声語である。]約束にて、晝後(ひるご)より仕事を休みて酒をたしみ、肴樣(さかなやう)のものも一、二種、拵へ、人々の來るを待受(まちうく)るに、みなみな、何事やらん、俄(にはか)の用事出來(でき)て、一向、人も來らず。手當せし酒も肴も澤山にあまりたるまゝ、常々こそ貧敷(まづしき)ゆゑ、母に存分に酒も得(え)すゝめざりし、けふこそ天より母に與へよとて、か樣に澤山に物の殘りしこそ幸ひなれとて、酒よ肴よ迚(とて)、かの老母を饗(もて)なしけるまゝ、老母もいつになく大悦びにて、酒も數盃(すはい)傾け、肴も悉く喰盡(くひつく)して、心持(こゝろもち)よく臥戸(ふしど)に入(いり)、件(くだん)の男も、そこ爰(こゝ)と跡を片付(かたつけ)て、程なく臥(ふせ)りしに、其内に、何か老母のおかしくうめく音の頻りに聞えけるまゝ、如何(いかゞ)なし給ふにやと、聲を懸(かけ)ても答(こたへ)もなく、何(なに)さま、是は老人のあまりとや[やぶちゃん注:老人であるのに、その節制すべき限度を超えてしまったからであろうか。]、心に任せ、何もかもしたゝめ過(すぐ)されしまゝ、當りたるのなるべし[やぶちゃん注:過飲過食によって食中毒に当たってしまったものでもあろう。]と心を痛め、直(ぢき)に起上(おきあが)りたれど、彼(かの)母、近年、あかりをきらひ出(いだ)して、いつもくらがり故、手さぐりにては何事も行屆(ゆきとゞ)くまじと、早速、火を打(うち)、あかりを燈(とも)して、寢間を見るに、こはいかに、母にてはなく、大ひなる猫の、母の着物を着(ちやく)し、酒に醉臥(えいふし)て、たはひもなきなりに成(なつ)て熟睡せし、その鼾(いびき)の音にて有(あり)たるの也。彼男も誠に膽(きも)を潰しけれど、能々(よくよく)性(せい)の靜まりて分別有(ある)をのこにや[やぶちゃん注:よほど、生まれつきの性質(たち)が冷静沈着で適正確実な判断力を持った男性であったからであろうか。]、倩(つらつら)と其事を思ふに、われは猫俣の子なりしにや、去迚(さりとて)も、此婆(ばゞさ)を見て、是切(これぎり)にも止(やむ)べきに非ず[やぶちゃん注:このまま何の対処もせずに、今まで通りにするわけには到底、参らぬ。]と心を決し、先(まづ)、繩を以(もつて)、彼(かの)猫の兩手と兩足を確(しか)と縊(くゝ)り上(あぐ)るに、天運の盡(つく)る所にや、能々(よくよく)醉(えい)たると見え、猫は少しも覺(おぼえ)なき躰(てい)なり。さて、近隣幷(ならび)村中心安き友達、庄屋・年寄など迄、呼起(よびおこ)し、大勢、棒・熊手の類(るゐ)を持(もつ)て内(うち)へ入(いり)て見るに、猫はまだ寢入居(ねいりゐ)るまゝ、何の雜作もなく其儘に生捕(いけどり)となしぬ。猶、夫(それ)より過去(すぎさり)し事を篤(とく)と考見(かんがへみ)るに、三年餘り以降(このかた)、酒も好(すき)となり、氣分も六(む)つかしく成(なり)、寢るにも明りを嫌ひ、息子と一緒の所に寢るをいやがり、輕(かろ)きもの、寢間(ねま)と云もなく[やぶちゃん注:「寝間」と呼ぶにはあまりに狭いちょっとの場所であるところの。]、一間(ひとま)のみ成儘(なるまゝ)、障子にて仕切(しきら)せ臥(ふせ)りし樣(やう)に成(なり)し故、本(ほん)の親は、全(また)く此猫俣が食(くひ)しにやとて、家の内、そこ爰と、殘る隈なく尋ね求(もとめ)たるに、緣の下、圍爐裏(いろり)のきはに、實(じつ)の老母の骨は、其まゝよせ隱し有し也。故に、此猫こそ母を捕食(とりくら)ひて、其母と化替(ばけかは)り居(ゐ)たるに相違なきとて、人々も彌(いよいよ)驚き、直(ぢき)に近村へも聞えたるまゝ、領主へも訴へ、代官役所へも彼(かの)猫を連行(つれゆき)て、評議も有(あり)て、其後(そののち)、此猫は彼(かの)男へ下さるゝまゝ、心まかせになし申べしとの下知(げち)故、正敷(まさしく)親の敵(かたき)なれば、生置(いけおく)べきにあらずとて、出刄樣(でばやう)のものにて、こなごなにきり碎(くだ)き、彼(かの)村の入口、道の分れ角(かど)に瘞(うづ)め[やぶちゃん注:異界の妖獣であればこそ、異界との接点と考えた、こうした場所に埋めるのが民俗社会の当然の習わしなのである。寧ろ、そうすることでそれが一つにメルクマール或いは防禦の御霊(ごりょう)となって運命共同体としての村を守ることともなるのである。]、猫俣塚(ねこまたづか)と云(いふ)大(おほ)ひ成(なる)石碑を建(たて)しと也。この事、其時に、彼(かの)近村へ行居(ゆきゐ)たりし大工の咄にて聞たり。此大工は同職筋故、彼(かの)葺師(ふきし)も知(しる)者にて、殊に田舍の事故、直(ぢき)に咄の聞(きこ)ゆるにまかせ、馳行(はせゆき)て見來りし由。其猫の形は如何(いかゞ)、昔咄(むかしばなし)の通りの猫俣なりしやなど、具(つぶさ)に尋ねたるに、成程、猫俣にて、大きさは、江戸に居る、格別、大ひなる犬程(ほど)有(あり)。【江戸の犬は、上方の犬よりは一振(ひとふり)大ひなる分も有(ある)事は、人々の知る所也。】去(さり)ながら、犬とは大(おほひ)に替りたるものにて、全(また)く猫故、顏など犬よりは甚だ大(おほき)く、其顏の大きなる恰好は、小き猫の割合ながら、見馴(みなれ)ぬゆゑ、殊の外、きみわるく、手足も犬の五つ懸(がけ)も六つ懸もあり[やぶちゃん注:「懸」は正に「掛け」算の「かけ」で「倍」、というか(単純なそれではデカすぎるので)、五回りも六回りもの謂いであろう。]。是も犬を見たるわりにては[やぶちゃん注:犬を比較観察して述べるならば。]、甚だ不恰好に見え、赤色(あかいろ)の茶と白黑の三色(みいろ)にて[やぶちゃん注:三毛猫であることがここで初めて明かされる。この毛色は性染色体の伴性遺伝で、通常では三毛猫は総てである(ヒトのクラインフェルター症候群と同様の染色体異常か、モザイク、及び遺伝子乗換によって、本来はX染色体上にある当該毛色(正確にはオレンジ(茶)色を支配するO遺伝子)の遺伝子がY染色体に乗り移った際にのみ、が生まれる。その確率は三万匹に一匹程度と言われる。]、尾の長き事、是又、犬とは大ひに相違して、四尺[やぶちゃん注:一メートル二十一センチ。]程も有て、先(さき)、七、八寸[やぶちゃん注:二十二~二十四センチメートル。]程、二つにわれ、股となり居(ゐ)て、酒は其夜、二升及び呑(のみ)たるよし。畜生の淺ましさに、遂には思ひよらぬ美食にこゝろを奪はれ、其身を墜(をとす)に至りしこそ、能々(よくよく)時節の來(きた)るのにや。件(くだん)の大工の見に行(ゆき)たる時は、早(はや)、鎖にて、大極柱(だいこくばしら)に二重(ふたえ)に繫(つな)ぎ、晝夜(ちうや)拾五人づゝ、番をなし居るに、猫は、一向、驚く氣色(けしき)もなく、うそ睡りをして居(ゐ)、見物の人々、立集(たちつど)ひ、彼是(かれこれ)と口囂敷(くちかまびしき)節(せつ)は、細々(ほそぼそ)と目を開きし、其眼中の尖(する)どさは、犬や鳥とは大違ひ、恐ろ敷(しき)眼精(がんせい)にて、尤(もつとも)、殘らず開きし眼(まなこ)は、如何計(いかばかり)か大きく、且、いか樣(やう)にか恐ろしかるべくとこそ思はれたる由。去ながら、驚きもせず、睡(ねむ)り睡りて居る樣(やう)なれども、内心には、隙(ひま)を見て逃出(にげいで)んとせし氣色(きしよく)見えたりとぞ。今にても、彼(かの)地へ至り、御覽なさるべし。此猫俣塚は目前(まのあたり)に有(あり)とて、村の名、件(くだん)の男の名、領主なども委敷(くはしく)聞(きゝ)て、能(よく)覺え置たれども、二十(はた)とせ餘りを經て、かく筆記せしかば、忘れて殘り多し。此事は、いつの年の事かと再應(さいおう)聞(きゝ)つれども、大工も卑賤の者故、年號など覺(おのえ)もなく、私(わたくし)が幾つの年の事と覺えたりと云故、其時年を繰戾し見るに、寛政八辰年[やぶちゃん注:一七九六年。本書の刊行は作者三好想山の没年である嘉永三(一八五〇)年の板行であるが、実は最後に「今嘉永二年」(一八四九年)とあるから、筆録時からは五十三年前となる(そこでは、この聴いたのは至って自分の年が若かった時分であったとも述べてるのであるが、想山の生年が不祥なために上手くその年を示すことが出来ない)。それにしても想山は死の直前まで、精力的に採話や過去の聞き書きの考証を丹念に続けていたことが判る。よろしいか? 本巻は現存する最終巻の第五巻であるが、原本は全五十巻存在し、それに別に「外集」が六冊あったのである。恐るべし! というより、それが失われてしまったことが激しく哀しい!!!]頃の事としられたり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

武州荏原郡(えはらごほり)北澤(きたざは)村森巖寺(しんがんじ)【淡島大明神別當。】可雲(かうん)和尚[やぶちゃん注:不詳。]、此書を閲(けみ)して曰、領主より彼男へ猫を賜ひし時、何ぞ孝行の褒美はなかりしか、猫としらぬは、凡夫(ぼんぶ)の事なれば不覺には非ず、斯計(かくばか)り至孝(しかう)なる者も、世に珍敷(めづらしき)事なれば、定(さだめ)て何か賞(しよう)し品(じな)も有(あり)しかと押量(おしはか)りぬ。此一條は、猫が人と化(ばけ)たる奇事(きじ)のみの事に非ず、他日(たじつ)、孝子傳(かうしでん)を撰(えら)びなば、必(かならず)、加へ入(いる)べき事實也と尋ねらるれども、此咄を聞たるも、今嘉永二年[やぶちゃん注:一八四九年。]よりは三十餘年の昔の事にて、、年若成(としわかなる)時分故、別て是等の事に心付(こゝろづか)ず、聞漏(きゝもら)し置(おき)て殘念至極なり。ものを人に尋(たづぬ)るには、心得有(こゝろえある)べき事也。

[やぶちゃん注:「武州荏原郡(えはらごほり)北澤(きたざは)村森巖寺(しんがんじ)【淡島大明神別當。】」これは現在の東京都世田谷区下北沢付近を想起するが、実際にはこの寺の現存地からは、その南に接する、現在の世田谷区代沢で、寺は浄土宗八幡山森巌寺である。ウィキの「森巌寺(世田谷区)」によれば、『京都知恩院の末寺で』、『明治時代の神仏分離の時期まで、寺の東隣にある北沢八幡宮の別当寺を務めたことから山号を「八幡山」といい、正式の名称は「八幡山 浄光院 森巌寺」という』とあり、『江戸時代の森巌寺は、灸と針供養、そして富士講で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったとい』い、『灸は「淡島明神の灸」として知られ』、「江戸名所図会」によれば、『森巌寺の開山孫公和尚は紀州名草郡加太』(現在の和歌山県和歌山市加太(かだ)。医薬の神少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀る淡嶋神社がある。ここは全国千社余りある淡嶋神社系統の総本社で、和歌山県内でも屈指の歴史を誇る古社である社名は、日本を創造したと伝えられる少彦名命と大己貴命(おほなむじのみこと:彼もこの社に祀られている)の祠が加太の沖合いの友ヶ島(群島)の内の神島(淡島)に祀られたことに因むとされる)『の人で、常日頃腰痛に苦しんで』いたが、『和尚は淡島明神に熱心に祈願を続けたところ、ある夜の夢に淡島明神が現れて灸の秘法を伝授した。和尚は淡島明神の夢告に従って灸を試し、積年の腰痛はたちどころに完治した』。『和尚はこの霊験に深く感謝し、加太から淡島明神をこの地に勧請して淡島堂を建立した』。『和尚はさらに森巌寺の僧侶たちにも灸の秘法を伝授し、その効能の確かさは世間の評判を呼んで』、『遠くから訪れる人も多かった』。『その名残で森巌寺の山門には、「粟嶋の灸」という看板が今でも掲げられている』とある(下線やぶちゃん)。また、『森巌寺境内には、かつて富士塚が存在し』、その『富士塚は江戸時代に盛んだった富士講のために』文政四(一八二一)年に『造成されたもので、標高はおよそ』四十メートルあったが、『森巌寺の墓地整備計画によって』二〇〇六年に切り崩され、消滅してしまった、とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 最後にウィキの「猫又」を引いておく。『猫又、猫股(ねこまた)は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの妖怪。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けるといわれるものの』二種があるとする。『中国では日本より古く隋時代には「猫鬼(びょうき)」「金花猫」といった怪猫の話が伝えられていたが、日本においては鎌倉時代前期の藤原定家による『明月記』に』、天福元(一二三三)年八月二日、『南都(現・奈良県)で「猫胯」が一晩で数人の人間を食い殺したと記述がある。これが、猫又が文献上に登場した初見とされており、猫又は山中の獣として語られていた』。但し、『『明月記』の猫又は容姿について「目はネコのごとく、体は大きい犬のようだった」と記されていることから、ネコの化け物かどうかを疑問視する声もあり』、『人間が「猫跨病」という病気に苦しんだという記述があるため、狂犬病にかかった獣がその実体との解釈もある』。また、『鎌倉時代後期の随筆』「徒然草」『に「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに……」と記されている』。『江戸時代の怪談集である『宿直草』や『曾呂利物語』でも、猫又は山奥に潜んでいるものとされ、深山で人間に化けて現れた猫又の話があり』、『民間伝承においても山間部の猫又の話は多い』。『山中の猫又は後世の文献になるほど大型化する傾向にあり』、貞享二(一六八五)年の『『新著聞集』で紀伊国山中で捕えられた猫又はイノシシほどの大きさとあり』、安永四(一七七五)年の『『倭訓栞』では、猫又の鳴き声が山中に響き渡ったと記述されていることから、ライオンやヒョウほどの大きさだったと見られている。文化六(一八〇九)年の『『寓意草』で犬をくわえていたという猫又は全長』九尺五寸(約二・八メートル)とある。『越中国(現・富山県)で猫又が人々を食い殺したといわれる猫又山、会津(現・福島県)で猫又が人間に化けて人をたぶらかしたという猫魔ヶ岳のように、猫又伝説がそのまま山の名となっている場合もある』。『猫又山については民間伝承のみならず、実際に山中に大きなネコが住みついていて人間を襲ったものとも見られている』。『一方で、同じく鎌倉時代成立の『古今著聞集』』(建長六(一二五四)年稿)『の観教法印の話では、嵯峨の山荘で飼われていた唐猫が秘蔵の守り刀をくわえて逃げ出し、人が追ったが』、そのまま、『姿をくらましたと伝え、この飼い猫を魔物が化けていたものと残したが、前述の『徒然草』ではこれもまた猫又とし、山にすむ猫又の他に、飼い猫も年を経ると化けて人を食ったりさらったりするようになると語っている』。『江戸時代以降には、人家で飼われているネコが年老いて猫又に化けるという考えが一般化し、前述のように山にいる猫又は、そうした老いたネコが家から山に移り住んだものとも解釈されるようになった。そのために、ネコを長い年月にわたって飼うものではないという俗信も、日本各地に生まれるようになった』。『江戸中期の有職家・伊勢貞丈による『安斎随筆』には「数歳のネコは尾が二股になり、猫またという妖怪となる」という記述が見られる』。また、『江戸中期の学者である新井白石も「老いたネコは『猫股』となって人を惑わす」と述べており、老いたネコが猫又となることは常識的に考えられ、江戸当時の瓦版などでもこうしたネコの怪異が報じられていた』(下線やぶちゃん。以下同じ)。『一般に、猫又の「又」は尾が二又に分かれていることが語源といわれるが、民俗学的な観点からこれを疑問視し、ネコが年を重ねて化けることから、重複の意味である「また」と見る説や、前述のようにかつて山中の獣と考えられていたことから、サルのように山中の木々の間を自在に行き来するとの意味で、サルを意味する「爰(また)」を語源とする説もあ』り、さらに、『老いたネコの背の皮が剥けて後ろに垂れ下がり、尾が増えたり分かれているように見えることが由来との説もある』。猫は、『その眼光や不思議な習性により、古来から魔性のものと考えられ、葬儀の場で死者をよみがえらせたり、ネコを殺すと』七代祟る『などと恐れられており、そうした俗信が背景となって猫又の伝説が生まれたものと考えられている』。また、猫と『死者にまつわる俗信は、肉食性のネコが腐臭を嗅ぎわける能力に長け、死体に近づく習性があったためと考えられており、こうした俗信がもとで、死者の亡骸を奪う妖怪・火車と猫又が同一視されることもある』。『また、日本のネコの妖怪として知られているものに化け猫があるが、猫又もネコが化けた妖怪に違いないため、猫又と化け猫はしばしば混同される』。『江戸時代には図鑑様式の妖怪絵巻が多く制作されており、猫又はそれらの絵巻でしばしば妖怪画の題材になっている』。元文二(一七三七)年刊行の「百怪図巻」などでは、『人間女性の身なりをしなた猫又が三味線を奏でている姿が描かれているが、江戸時代当時は三味線の素材に雌のネコの皮が多く用いられていたため、猫又は三味線を奏でて同族を哀れむ歌を歌っている』とか、そうした事実に基づく『一種の皮肉などと』も『解釈されている』。『芸者の服装をしているのは、かつて芸者がネコと呼ばれたことと関連しているとの見方もある』。また、安永五(一七七六)年刊の画図百鬼夜行では(リンク先に画像有り)、『向かって左に障子から顔を出したネコ、向かって右には頭に手ぬぐいを乗せて縁側に手をついたネコ、中央には同じく手ぬぐいをかぶって』二『本脚で立ったネコが描かれており、それぞれ、普通のネコ、年季がたりないために』二『本脚で立つことが困難なネコ、さらに年を経て完全に』二『本脚で立つことのできたネコとして、普通のネコが年とともに猫又へ変化していく過程を描いたとものとも見られている』。『また、アメリカ合衆国のボストン美術館にビゲロー・コレクション(浮世絵コレクション)として所蔵されている『百鬼夜行絵巻』にもほぼ同様の構図の猫又が描かれていることから、両者の関連性も指摘されている』とある。]

 

ブログ960000アクセス突破記念 火野葦平 梅林の宴

 

[やぶちゃん注:これは本来は底本の「皿」の後に入る(意図はなく、ただ単にうっかり電子化を落してしまっただけである)。

 ネタバレを避けるために、注は本文の当該段落の後に附した。

 本電子化は、昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが960000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年6月17日 藪野直史】]

 

 梅林の宴

 

 野から、村から、山から、そのどよめきはおこつた。そして、とめどがなく、あまりにもけたたましすぎて、はじめはなんのことやらまつたく意味がわからなかつたほどである。革命がおこつたのかと考へた者もあつた。或ひは女のための出入りかと思つた者もある。一人の美しい女のために國が傾いたり、國と國とが戰爭したりする例はこれまでたくさんあつたし、その騷擾(さうぜう)のなかからはしばしば女の金切聲がきこえて來たからである。さうでないとわかると、ヤクザどもの出入りかと想像された。無知な博徒たちが繩張といふ勝手な勢力圈をこしらへて、一宿一飯の奇妙な仁義(じんぎ)をふりまはし、無意味に命のやりとりをする事件も、これまでうんざりするほどくりかへされたからであつた。しかし、そのどよめきは以上のどれでもなかつた。以上の三つのどれとも異つた悲壯で悽慘な趣を呈してゐた。

 ときに春がおとづれる季節であつたため、すでに雪のとけた大地からはきまざまの花が咲きいで、雲にも、村にも、山にも、鳥は樂しげにさへづつてゐた。まだ櫻は咲かなかつたが、梅はいたるところに紅く白くその高雅な花をひらき、馥郁(ふくいく)とした香をはるか遠くにまで放つて、これまで寒さにふるへてゐた人里に陶然(たうぜん)の風を吹き入れはじめたころなのである。每年の例からすれば、貧しい農家からもゆつたりとした歌聲がきこえ、梅林(ばいりん)に集まつた人間たちが一升德利から酒くみかはして、おどけた踊りで日の暮れるのを忘れるときなのである。ところが、今年は樣相が一變してゐた。筑豐(ちくほう)の野におとづれた春の姿は毎年と少しも變らなかつたのに、これを迎へる人間たちの方がまつたく變つてゐたのである。

 香春岳(かはらだけ)のふもとにある梅林に、紅白の花は撩亂(れうらん)と咲きいでても誰一人おとづれる者はなく、まして酒盛りなどの氣配もなかつた。このため河童たちが梅林で宴をひらく宿望を達することができたのである。先祖代々、蓮根畑といつた方がよい泥水の宮下池に棲みなれてゐた河童たちは、いつか一度は香春(かはら)の梅林で一杯やりたいと念願してゐた。しかし、毎年蕾(つぼみ)が咲きはじめてから散つてしまふまで、人間たらに占領されづくめで、その希望がはたされたことがなかつた。今年は大いばりでそれができた。蕾のときは無論のこと、どんなに紅白の花が咲きみだれても人間どもの姿はまつたくあらはれず、まるでこの美しい梅林を突然忘れ去つてしまつたやうな觀さへあつた。

[やぶちゃん注:「香春岳」(現代仮名遣では「かわらだけ」)は現在の福岡県田川郡香春町にある三連山で構成された山塊を指す。ウィキの「香春岳」によれば、地元では「香春岳」とは呼ばず、「一ノ岳」・「二ノ岳」・「三ノ岳」それぞれを分けて呼ぶことが多いという。最高峰は三ノ岳で標高五〇八・七メートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

「どうも變てこだね」

 と、一匹の河童がおいしさうに、蓮根酒の盃をかたむけながら、小首をひねつた。

「たしかに變てこだ」と他の一匹が答へた。

「人間どもの考へてゐることはさつばりわからん。しかし、おかげでおれたちは幸(しあは)せした」

「さうだ。いつかはこんな日を迎へたいと、寢言にまで話してゐたからな」

「命がのぴるよ」

「うん、來年もこんな風だとええな」

「だけど、どうして今年は人間どもが梅の花なんか見向きもせんのぢやらうか」

「そんなこた、どうでもええぢやないか。どうせ人間世界なんて、おれたちと無關係なのだ。無關係なことに神經を使ふのは馬鹿げとる。おれたちは河童世界のことだけを考へとればええんぢや」

「わかつた。わかつた。人間のことなんか相手にせずに、大いにやらう」

 河童たちの梅林の饗宴はいつ果てるとも知れなかつた。連日これをつづけても人間からさまたげられることがなかつた。

 ところが、事態は急變した。人間どもと無關係だと超然としてゐたのに、はからずも河童たちはその人間の騷擾のなかに卷きこまれ、傳説の掟を破つて、人間とたたかはねばならぬ羽目におちいつたのである。

 

          二

 

 河童たちをおどろかせたけたたましいどよめきは農民と武士とのたたかひなのであつた。蓆旗(むしろばた)をおしたて、槍、鍬(くは)、竹槍などを持つた農民たちの一隊が、代官所を襲つて非道の代官をやつつけたところまでは景氣がよかつたのだが、城主のゐる町から討伐隊がかけつけて來ると、百姓たちは總くづれになつた。武士たちは刀劍をふりまはし、槍をしごき、鐡砲まで射ちかけたので、武藝の心得のない百姓たちはひとたまりもない。それでも必死になつて抵抗した。

 今年は梅林に人間があらはれなかつた理由を、河童たちもすこしづつ理解するやうになつた。それはすでに長い間、香春岳のふもとに棲んで、すこしは人間世界の事情を知つてゐたからである。騷擾が野にも村にも山にもひろがると、河童たちも梅林へなど行けなくなつた。しきりに流彈が梅林にまで飛んで來て、幹につきささり、花を散らしてゐた。のみならず、梅林が戰場になつて、はげしい戰鬪の後、南軍が去つた後には、農民たちの屍骸が散りしいた梅の花のなかにころがつてゐたこともある。

 蓮根池のなかで首だけ出して、河童たらはこの騷ぎをあきれた顏でながめてゐた。ときどき、ヒユーンと蜂のつぶやきのやうな音を立てて彈丸が頭上をすぎた。びつくりして水にもぐつた。しかし好奇心はおさへられず、またそつと頭を出す。ときどき、兩軍が池のほとりの道をあわただしげに走りすぎることもあつた。

「これは百姓一揆(き)といふもんぢやよ」

 と一匹の河童がいつた。

「おれもさう考へる」と、他の一匹が答へた。「百姓たらは去年の暮ごろから蹶起(けつき)する下心ぢやつたらしいぞ。いま思ひ當る節がある。それで春になつて梅が咲いても、酒盛りどころぢやなかつたんぢやよ」

「代官所でもうすうすそのことを氣づいとつたにちがはん。さうでなかつたら、梅林から百姓を追つぱらつて、武士たちが遊び步くはずだ。今年は武士も梅林にあらはれなかつたのは、酒盛りの途中、女とたはむれるところを百姓に襲はれることを恐れてゐたのだとおれは思ふ」

「だが、百姓も一揆をおこすまでにはずゐぶん我慢をしたものよ。あんなに武士からいぢめられ、重い税金をとりたてられ、米をつくる百姓のくせに米は食へず、粟(あわ)、稗(ひえ)、豆、それに水を飮むやうな暮しだつたからな。梅林の酒盛りだつて、ヤケ酒みたいなところがあつたからな」

「さうとも、きうとも。どうせ武藝のたしなみのない百姓がどんなに武士に刀向かつたつて勝ち目はない。なんぼ徒黨を組んだところでタカが知れとる。それがわかつてゐながら立ちあがらずに居られなんだところが可哀さうだよ」

「見ろ。あんなに、武士からひどい目に合はされとる」

 河童たちはおほむね農民へ同情的であつた。無論、河童たちに人間世界のからくりはわかるはずもなく、なぜ汗水たらして働く農民が一番みじめであるかといふ理由がさつぱりのみこめなかつた。城主の權力が絶對であつて、支配者が思ふままに農民を搾取(さくしゆ)できること、それに抵抗すれば重い罪になるといふことも容易に理解できなかつた。また、一揆を鎭壓に來た武士たちが同じ人間であるのに、まるで蟲けらでもひねりつぶすやうに、無造作に農民たちを殺し、多く殺すほど手柄になるといふことも不可解至極に思はれた。けれども、河童たちは農民の應援にまで出て行く氣はない。義憤は感じても、人間世界にかかはりを持たぬことが傳説の掟であつたし、好んで傷を求める愚もしたくなかつたのである。これまで人間と關係を生じて得になつたためしがなかつた。ヒユーマニズムは爆發させずに垣のこちら側においておく方が無難であると同時に、こころよい自己陶醉も感じる。蓮根池のなかで河童たちは橫暴な支配者へ怒りを燃やしながらも、池から出て行かうとはしなかつた。そして、やはり梅の散らぬ前に騷亂が終結することが河童たらのなによりの望みであつた。

 

          三

 

「一揆ヲ退治スル功名」を武士たちは誰も狙(ねら)つてゐた。鎭定後の恩賞にあづかれば昇進の道もひらける。そこでできるだけ多く百姓どもを殺さうとし、その首領を捕へようとした。けれども文字どほり必死の農民たらは、正常な武藝は知らないが、命がけの奮鬪をして、あべこべに武士をたふすことが多かつた。武士のなかにも腰拔けはゐて、百姓の竹槍に芋刺しにされた。

 討伐隊のなかに河童たちを瞠目(だうもく)させた一人の武士があつた。有馬藩中でも劍豪として知られた戸塚八左衞門である。そんなに身體は大きくなく、むしろ小柄といへるほどだが、その動作の敏捷で、太刀のひらめきの鋭さはおどろくばかりだつた。八左衞門が動きまはると、一揆はまるで大根か胡瓜のやうになで斬りにきれ、彼の周圍にはたちまち百姓たらの屍骸が山と積まれた。河童たちは百姓たらを哀れみ、百姓たちの勝利を祈つてゐたが、一週間ほどの後、一揆は鎭壓された。靜かになつた村の廣場で、一揆の首謀者十數人が磔(はりつけ)の刑に處せられた。その指揮をしてゐたのも戸塚八左衞門である。

[やぶちゃん注:「有馬藩」久留米藩は元和六(一六二〇)年から幕末まで摂津有馬氏が藩主を務めていたから、それを指しているとしか読めないが、香春は久留米からはあまりに距離があり、実際、同所は小倉藩の藩領であったと思われるので不審である。もし、私の理解(不審)に誤りがある場合は御教授戴けると嬉しい。

「戸塚八左衞門」不詳。彼が実在すれば、前の記載の不審も明らかとあるのだが。]

 十數本の十字架が立てられ、百姓たちはそれにしばりつけられた。

「お上に刃向かふ不屆者ども、以後の見せしめに命の根をとめてくれる。誰でも彼でも政府の方針にしたがはぬ奴はこのとほりだぞ」

 八左衞門はさういつて、十字架上の百姓から、竹矢來の外に押しよせて、歎きかなしんでゐる百姓の家族たちに視線をうつした。彼は城主への忠誠の念にあふれ、任務達成の快感にひたつてゐた。今回の一揆鎭壓における戸塚八左衞門の勳功は拔群である。彼は得意の絶頂にあつた。

 八左衞門のするどい三角眼がぐるッと一巡して、その視線が蓮根池に向いたとき、河童たちはびつくりして、水中に沈んだ。自分たちを睨んだやうな氣がしたのである。

[やぶちゃん注:「三角眼」「さんかくめ」と読んでおく。

 

まぶたの外側がつり上がり、三角形の形になっている目¥のこと。]

「なにがなんでも、恐しい人間どもとは關係を結ばない方が得策だ」

 誰もがさう思つてゐた。

 それから數日後、大勢の人夫たちがどこからか莫大な土砂を運んで、宮下池のほとりにやつて來た。赤や黒の土を積みあげた車力や馬車が陸續としてつづいた。

「いつたい、なにことがはじまるのだらう」

「人間どものすることはわからない」

「なにをしても相手になるな」

 河童たちは不安の面持でさきやきかはした。

 土砂運搬隊を指揮してゐるのも戸塚八左衞門だつた。彼は藩主からその手腕を買はれ、新しい任務をさづけられたのである。

「ようし、早く池を埋めろ」

 と、八左衞門は號令をくだした。

 人夫たちはいつせいに運んで來た土砂を蓮根池に投げこみはじめた。土と人數とが多いので、あまりひろくもない池は見る見るうちに埋めたてられて行つた。

 河童たちは仰天した。先祖代々からの棲家がうしなはれようとしてゐる。だんだん狹められて行く池の水の殘りの部分へ、右往左往して逃げて行きながら、河童たちはあまりのことに淚も出なかつた。まつたく人間どもの心はわからない。人夫となつて働いてゐるのはみんなこの村の百姓たちだ。ついこの間まで蓆旗を立て、鎌、鍬、竹槍をふるつて武士に反抗した百姓たちが、その敵の武士の手先になつて、唯々諾々(ゐゐだくだく)と命令にしたがつてゐる。河童たちは一揆の間、終始百姓たちに同情し、實際上の鷹援はしなかつたとしても、百姓たちの味方のつもりでゐた。それなのに、その百姓たちは河童のもつとも大切な住居を埋めたてて、追放しようとしてゐるのだ。

「こんな馬鹿なことがあるか」

 河童たちはあきれ顏でブツブツと呟(つぶや)きあつたが、そんな河童の思惑などどこ吹く風かと、池は急速に野と化して行つた。

「よし、おれが交渉して來る」

 つひに我慢しきれなくなつて、一郎坊が眉をあげた。

「賴む」

 と、他の河童たちも異口同音にいつた。

 人間どもの理不盡に對して、河童たちは團結してたたかふ勇氣はなかつた。梅林で酒盛りするときにはすぐ團結するが、人間とたたかふことは生命にかかはるので、おいそれと團結ができなかつたのである。それに、百姓一揆鎭壓における武士どものすさまじい暴力、刀、槍、鐡砲などの武器の恐しさを見たばかりだつたので、河童たちも躊躇せずには居られなかつたのであつた。誰も好んで危險に近よりたくはない。それで、一郎坊が交渉方を買つて出ると、ほつとした面持で、これに望みを托した。

 一郎坊は思慮と勇氣に富む若者であつた。宮下池には大頭目は居らず、もと筑後川九千坊の二十七騎の一人であつた三百坊が、その昔の閲歷(えつれき)によつて、名目上の頭領となつてゐたが、元來が愚圖で、お人よしなので、統率力などはない。九千坊から破門同樣になつて、たわいもない蓮根池に左遷されるくらゐだから、その器(うつは)も知れてゐる。そこで、仲間うちには三百坊をしりぞけて、一郎坊を首領にいただかうと考へてゐる者もあつたほどである。その一郎坊なので、河童たちも大いに期待をかけた。

 大きな石に腰をかけ、銀煙管でスパスパ煙草をくゆらしながら、人夫たちを監督してゐる戸塚八左衞門の前に、一郎坊は姿をあらはした。うやうやしく膝をつき、頭の皿の水がこぼれないやうに用心しながら、頭を下げた。

 八左衞門は、突然、奇妙な動物が眼前に出現したので、三角眼をパチクリさせ、

「その方は何者だ?」

「河童でございます」

「なに、河童?」

「わたくしどもは、いま、埋めたてられて居ります宮下池に、先祖代々棲みなれて居ります河童です。お役人樣、お願ひでございます。わたくしどもの命から二番目の家をとりあげないで下さい。この池を埋めたてることを思ひとどまつて下さい」

「馬鹿なことを申すな。われわれにはこの土地が必要なのだ。殿の命(めい)によつてここに大馬場(だいばば)を作ることになつたのだが、この池が邪魔になる。よつて埋めたてるのになんの異存があるか」

「異存がございます。この池がなくなればわたくしどもは放浪しなくてはなりません。われわれ河童にとりましては一大事でござ小ます」

「ワッハッハッハッ、河童なんどのために、國家が決定した工事の中止ができるものか。いくらいつても駄目だ。歸れ、歸れ」

「歸りません。埋めたてを中止していただくまでは、ここを動きません。なにとぞ、お情を持ちまして、わたくしどもの大切な池を……」

「うるさい奴だなあ。政府の方針に楯(たて)をつくと容赦はせぬぞ」

「戸塚八左衞門樣、このとほり、頭を地につけまして、一同のため御歎願申しあげます」

「くどい」

 その言葉と同時に、河童はあふむけにひつくりかへつた。背の甲羅にはげしい痛みをおぼえ、頭の皿から水が流れ出て氣が遠くなつた。さらに足や肩に火でも投げつけられたやうな疼(うづ)きをおぼえたが、そのあとは意識が朦朧となつた。

 太い木劍をにぎつて立ちあがつた八左衞門は、

「馬鹿なやつ奴」

 といつて、高らかに哄笑した。

 人夫たらは八左衞門の不思議な擧動を、眼を皿にして凝視した。袖をひきあつてささやきあつた。突然、氣がちがつたのではないかと思ふ者もあつた。なぜなら、彼等の眼には河童の姿は見えなかつたからである。

 

          四

 

 二年ほどが經つた。

 或る夜、月下の梅林で、河童の宴がひらかれてゐた。

 香春岳(かはらだけ)はくつきりと夜空に浮きあがり、空には滿月とともにきらめく星の數も多かつた。梅林には相かはらず春にさきがけて梅の花が吹きみだれたが、晝間は武士か百姓かに占領されてゐるので、河童たちは深夜をえらばねば仕方がなかつた。今年は天地開闢(かいびやく)以來の大豐作とかで百姓はホクホクだつた。しかし、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)は一層はげしくなつてゐて、いくら豐作であつてもその大部分は藩主からとりあげられる。しかし、その搾取のはげしさに對しても、二年前の失敗にこりた百姓たちは泣き寢入りをしてゐた。ただ、ものが豐富にあるといふことはなんといつても氣持のゆとりを作るので、百姓たちの鼻息も荒く、梅林での宴會も度かさなるといふわけだつた。

[やぶちゃん注:「度かさなる」「たびかさなる」。]

 月は夜ふけとともにすこしづつ西にかたむいて、地上にうつる梅の木の影もしだいに東へ向かつて長くなつて行つた。宮下池を埋めたてられたため、その狹かつた蓮根池よりもつと狹くて水のきたない、泥沼といつた方が早い夜宮池(よみやいけ)に引つこさざるを得なくなつた河童たちは、やはり環境の影響で氣力も減退してゐた。ひとり元氣溌刺として、この二年間變らなかつたのは一郎妨だけである。

「きつと、思ひをとげて見せる」

 その願望のはげしさによつて、彼はつねに内部を充足させ、この二年間で仲間を瞠目させる生長を遂げた。頭目三百坊がノイローゼでいよいよ器量を下げたので、一郎坊は仲間のホープとなつたのである。しかし、彼にはたかが夜宮池の小頭領になつていばらうといふやうなケチな考へはなかつた。彼の唯一の宿念は人間に打ち克つことである。全精神はそのことで燃え、この二年間、孜々(しし)として鍛錬に倦むところがなかつた。

[やぶちゃん注:「孜孜として」熱心に努め励むさま。]

 戸塚八左衞門から太い木劍で打擲(ちやうちやく)された傷は、一カ月ほどで癒へた。それから一郎坊は猛然として、武藝修業をはじめた。彦山川(ひこさんがは)にゐる阿修羅坊(あしゆらばう)は性格が粗暴のため、武藝の點では河童界にならぶ者がなかつたのに、つねに孤立してゐた。人德がないので、子分が寄りつかないのである。劍豪だといつておだてておいて敬遠してゐた。その阿修羅坊を師と仰いで、一郎坊は苦しい二年間の精進をした。戸塚八左衞門の腕前のほどは自分の眼でたしかめてゐるので、彼をたふすためには彼以上の力を必要とする道理である。

[やぶちゃん注:「彦山川」現在の福岡県田川郡添田町の英彦山(ひこさん)を源流とする全長約三十六キロメートルの川。同県の直方(のうがた)市で遠賀川に合流する。]

「一郎坊、みごとな上達ぢや。それならもう八左衞門に負ける心配はない」

 二年の後、師の阿修羅坊は滿足げにいつた。

「ありがたう存じます。これまでの御指導によつて彦山流奧義をきはめることができました以上は、ただちに大月に參上し、憎みてもあまりまる戸塚八左衞門を打ち負かして歸ります」

[やぶちゃん注:「大月」不詳。小倉藩にも久留米藩にもこのような地名はない模様で、現在の福岡県内にも現認出来ない。]

「まだ彦山流の免許皆傳といふわけぢやない。祕傳はなほある。ぢやが、今くらゐ上達すれば、戸塚八左衞門を負かすには事缺くまい。行け」

「きつと勝つてみせます」

 かういふ次第で、いよいよ宿望の仇討行を決行することになつた一郎坊のため、今宵は梅林で壯行の宴が張られてゐるのであつた。師の阿修羅坊も特にはるばるやつて來て出席してゐた。性粗暴な者が劍術の師範であることは警戒を要するので、河童たらはビクビクしてゐたが、噂とはちがつて、阿修羅坊は豪快な飮みぶりではあるが、格別、あばれたりからんだりする樣子はなかつた。それどころか、弟子のために、壯行の歌をうたひ、梅の木の枝を折つて手ごろな木劍をこしらへてくれた。

「一郎坊、この木劍を試合に使へ。わしなら枝に花をつけたまま試合をし、どんなにはげしく丁々發止(ちやうちやうはつし)とわたりあつても、花は散らさぬが、お前にはまだそれは無理ぢやらう。この梅の劍で、八左衞門の腦天を割れ」

「なにからなにまで、お薰情かたじけなく存じます」

一郎坊はその梅の木劍をおしいただいた。梅の香がまだ殘つて居り、折られたばかりの枝の切口からは伽羅(きやら)に似た芳香があふれ出てゐた。二三度打ちふつてみると、實に使ひよい恰好の武器で、

(これで勝てる)

 その自信が出來た。

[やぶちゃん注:「伽羅」梵語の音訳「多伽羅」の略で「黒沈香(じんこう)」の意。沈香の最優品を言う。沈香はジンチョウゲ科の常緑高木の幹に自然或いは人為的につけた傷から真菌が侵入、生体防御反応によって分泌された油・樹脂の部分を採取したもので、香木の代表とされる。当該木材の質量が重いために水に沈むところから「沈水香」とも呼ばれる。インド・ベトナム・東南アジア産であるが、その中でも特に優良な製品を伽羅と呼び、香道で珍重される。]

「一郎坊の武道長久を祈つて乾盃しよう」

 三百坊の音頭で、いつせいに盃があげられた。無氣力で無能力な三百坊頭領も乾盃の音頭をとることくらゐは出來た。數十の蕗(ふき)の葉の盃から、蓮根酒がせせらぎのやうに音をたてて飮み干された。

 夜目にも大馬場(だいばば)が望まれた。月光をうけてゐて湖のやうに見える。ここでは馬術のみならず、弓、槍、劍、薙刀(なぎなた)、手裏劍(しゆりけん)、鎖り鎌等、あらゆる武道の鍜錬がなされてゐた。馬場の右には實彈射擊場もつくられ、鐡砲の音もしばしば聞えた。それは武士の示威(じゐ)運動のやうでもあり、來るべき戰爭の備へのやうでもあり、庶民の血税によつて成立した軍事豫算を使ひすてる無意味な行爲であるやうにも見うけられた。人間のすることは河童にはわからないことだらけだが、一つだけ確實にわかつてゐることは、この大馬場の下には嘗てのなつかしい宮下池があるといふことであつた。

[やぶちゃん注:「鍜錬」「たんれん」。鍛錬。「鍜」は「鍛」の異体字。]

(おれが八左衞門の木劍で打らたふされたのは、あの、流鏑馬(やぶさめ)の的のある場所だ。畜生、今に見て居れ)

 復讐の念に燃える一郎坊の若々しい瞳は、妖しくギラギラ光つてゐた。

 

          五

 

 戸塚八左衞門の家は大月町のはづれにあつた。その一帶は中祿者(ちうろくしや)の武家屋敷になつてゐて、練土塀(ねりどべい)に冠木門(かぶきもん)のついてゐる家がならび、方々に海鼠壁(なまこかべ)があつて、火の見櫓が立つてゐた。周圍は松林である。その裏を尾奴川(をぬがは)が流れ、對岸に霧岳(きりだけ)がそびえてゐる。閑靜で、風光もまづ惡くない。

[やぶちゃん注:「大月町」前に注した通り不詳であるが、以下の「尾奴川(をぬがは)」もその対岸にあるとする「霧岳」も不詳なのは、或いは、この、一見、冒頭、香春の実在ロケーションと匂わせながら、実は存在しない「有馬藩」という仮想藩の、仮想の剣豪「戸塚八左衞門」という作者火野葦平の確信犯の虚構設定なのかも知れぬと思われてきた。

「練土塀」練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築き上げたその上に瓦を葺いた塀のこと。

「冠木門」左右の門柱を横木(これを「冠木(かぶき)」と称する)によって構成した門。]

(これで、百姓一揆だの、戰爭だのがなかつたら申し分ないのだが、……)

 八左衞門は築山のある屋敷内の庭を散步しながら、そんなことを考へる。劍豪と稱せられる八左衞門も好んで人と爭ひたくはないし、人を斬りたいこともない。やはり、平和が好きだ。特に最近はさう思ふやうになつた。二年前の一揆鎭定の功を賞(め)でられて、馬𢌞り三百石にとりたてられてから、幸運が追つかけて來るやうに相ついだ。それをいちいち書くことは省くが、ともかく彼は家中の同僚たちから羨望の眼をもつて見られ、事あるごとに「戸塚氏にあやかりたいものでござる」と合言葉にいはれるほどになつてゐた。おまけに、家老の娘を嫁にもらつたばかりだ。このまま波瀾などなく幸福な一生をすごしたいのである。

(しかし、また、百姓一揆がおこるかも知れぬ。どうも最近不穩な動きがほのみえる。腹の立つ百姓ども奴)

 八左衞門はただ騷ぎをおこす百姓の方にばかり憎しみがわいた。なぜ百姓が蹶起せずには居られないのか、その原因の方には頭が向かない。一揆がおこれば八左衞門が討伐隊長に任命されることは既定の事實といつてよかつた。

 領主有馬種次(ありまたねつぐ)は口癖に、

「一揆は八左衞門にまかせておけばよい。八左衞門にかかつたら、どんなたちのわるい一揆でも、鼠か蚤のやうに、ひとたまりもなくひねりつぶされてしまふわ」

 といつてゐるからである。

[やぶちゃん注:太字「たち」は底本では傍点「ヽ」。

「有馬種次」不詳。久留米藩有馬氏の歴代藩主には「種次」なる人物はいない。ますます虚構性が、俄然、増してきた。]

(なんにもおこらんでくれ。このまま、十年でも二十年でも、平穩無事がつづいてくれ)

 八左衞門は必死のやうに、なにかに向かつて心中で祈るのだつた。

 或る夜、もう深更になつてから、八左衞門の寢處の雨戸をかるくたたく者があつた。

「戸塚八左衞門殿、……戸塚殿、……八左衞門殿、……」

 さう呼ぶ聲も聞える。聞きなれぬ聲音なので、八左衞門は小首をひねつた。男のやうでもあり、女のやうでもあり、皿をたたく音か、キツツキが木の幹をつつく音のやうでもあつた。しかし、この聲を八左衞門は聞いてゐるはずなのである。しかし、もはや二年前のことであるし、香春の大馬場埋立工事のとき、文句をいひに來た河童のことなどは、とつくに念頭から去つてゐたので、すぐには憶(おも)ひだせないのであつた。

「あなた、誰でせう?」

 妻の菊乃も眼をさまして、不審の眉をひそめた。

「出てみよう」

 丹前姿のまま、八左衞門は手燭をかざして、廊下に出た。腕におぼえがあるので、何者であつたところで恐れる氣持はなかつた。

「戸塚殿、……八左衞門殿」

 と、なほも呼んでゐる聲の場所に行つて、油斷なく雨戸を一枚めくつた。

 月光がさして晝のやうに明るい庭に、異樣な動物が一匹立つてゐた。ぬれてゐる身體や、頭のてつぺんにある丸い皿がキラキラ月に光つてゐる。それを見た瞬間、

(ああ、あのときの河童の聲だつたのだ)

 と、思ひだした。

 河童は一本の木劍を右手に待つたまま、

「戸塚八左衞門樣、お久しゆうございます」

「うん、久しいなあ」

「わたくしを御記憶ですか」

「よく憶えてゐる。あれから二年になるかなあ。ハッハッハッハッ……」

 八左衞門は當時のことを思ひだすとをかしくてたまらなくなり、笑ひだしてしまつた。

 一郎坊はむつとして、

「それなら、もう、わたくしがここへ參りました理由はおわかりになつたでせう?」

「仕返しに來たのか」

「そのとほりです」

「よし、待て」

 八左衞門も劍の達人であるから、相手の河童が二年前とはすつかりちがつてゐることに、すぐ氣づいた。二年前はだらしがない未熟者であつたのに、いま眼前にゐる河童は全身に堅確の氣が流れ、寸分の隙もない。劍氣に殺氣が重なつて、一種劍妖に似たすさまじさを呈してゐる。

[やぶちゃん注:「堅確」(けんかく)は、しっかりしていて動じないこと。確固。]

(これは油斷がならぬ)

 と警戒心がわいた。

 やがて、數分の後、ひろい庭では、二人の劍客の息づまる試合が展開されてゐた。月が明るいので、進退に不自由はない。どちらも木劍をかまへ、祕術をつくしてわたりあつた。

 

          六

 

 どちらの額にも油汗がふき出て來た。正直いふと、八左衞門は相手を油斷がならぬと警戒はしたものの、どんなに河童が克くてもタカが知れてゐると思つてゐた。それで、立ちあひと同時に打ちこんでしまふつもりでゐたのに、それができなかつた。それどころか、ちよつとでも氣をゆるめると、こちらが打ちこまれさうになる。河童の身體は魚か鳥かのやうに敏捷で、その飛びまはる間からつきだして來る木劍のするどさは、膽を冷やさせるほどだ。もし頭に當れば腦天がわれてしまふし、胴に當れば肋骨が折れてしまふだらう。足や腰に受け損じればみぢんに碎かれるにきまつてゐる。

(あつぱれな達人ぢや)

 河童の分在とあなどつてゐたので、舌を卷いた。しかし、感心してゐてもはじまらぬ。命の瀨戸際になつて來たので、八左衞門も必死だつた。

 河童の方も同樣な昏迷にとらはれてゐた。

(阿修羅坊師匠は、これならもう八左衞門に勝てるといつたのに、……?)

 自信を持つてゐた一郎坊も、相手の強さにたじたじだつた。しかし、これとて、師を恨んでみたところで、眼前の一瞬々々に生死を賭けてゐるので、全力をつくしてたたかふほかはなかつた。どちらもが計算ちがひをしたのである。

 試合は數刻におよんだが、勝敗は決定しなかつた。兩劍客はへとへとになつた。

[やぶちゃん注:「數刻」一刻は一般には現在の三十分相当。「數刻」という以上は最低でも一時間半にも及ぶか。後の野次馬蝟集を考えると、確かに非常に長い間、この決闘は続けられたことが判る。]

 ところが、二人が知らぬ間に、周圍には人だかりがしてゐた。妻菊乃が夫が寢室から出て行く樣子が變なので、後をつけてみると、丹前を着物に着かへた。襷(たすき)をかけて袴の股立(ももだち)をたかくとつた。愛藏の樫の木劍を持つて庭に出た。そして、一人で木劍をふりまはしはじめたのである。

[やぶちゃん注:「股立」袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を指す。そこをつまんで腰紐や帯に挟んで袴の裾をたくし上げることを「股立を(高く)とる」と称し、走ったり、試合をする際の敏捷な活動のプレの仕度の一つを指す語となった。]

「一體、どうしたのでせう?」

 老母をおこしたので、女中や仲間(ちうげん)も出て來た。近所にもふれ步いたので、同僚も見物にやつて來た。亂心したのではないかと疑ふ者が多かつたけれども、さうとばかりもいはれない。河童の姿は八左衞門だけにしか見えないので、八左衞門の擧動がすべて氣ちがひじみて見える。しかし態度が眞劍で氣魄に滿らて居り、聲をかけるのを憚らせるなにかがあつた。劍をふるひながら、一人氣合のこもつた掛け聲を發して、月光のなかを跳躍する八左衞門の姿は、劍鬼になつた觀さへ示してゐた。

 長いせりあひの後、一郎坊は木劍を引いた。

「戸塚殿、今夜はこれまでとします」

「逃げるのか」

「とんでもない。あくまであなたとたたかひますよ。しかし、今夜は疲れたし、時刻もううつたので、勝負なしとし、明晩また同じころに參ります」

「よし、待つてゐる」

 實は八左衞門もほつとして、河童の申し出に同意した。

 河童は裏木戸からいづこへともなく立ち去つて行つた。その舌打ちするやうなぬれた足音が、尾奴川のほとりから霧岳の方角へ遠ざかつて行くやうだつた。そのかすかになつた足音が絶えてしまふと、八左衞門はぐつたりとなつてそこへへたばつた。

 片唾(かたづ)をのんで見物してゐた連中がかけよつて來た。口々に、一體どうしたことか、譯を早く聞かせて欲しい、といつた。

 八左衞門は汗でどろどろになつた顏に、につと不氣味な笑みをたたへ、會心の面持で呟いた。

「はじめて、相手にとつて不足のない好敵手を得申したよ」

 糊(のり)のやうに疲れてゐたので、その夜はそのまま寢處にかへり、翌日になつて一部始終を家族の者に話した。二年前、軍事基地を擴張するため、河童のゐる池を埋めて、抗議に來た河童代表をひと打ちにたふした話は、前に何度かしたことがあつたので、聞いた者は河童の執念に身ぶるひする面持になつた。しかし、八左衞門は敵ながらあつぱれといつて河童を褒めた。それは家中の者に對する皮肉にも聞えて、戸塚八左衞門はノイローゼにかかつてゐるのだと蔭口をたたく者もあつた。

[やぶちゃん注:「糊(のり)のやうに疲れてゐた」聴き慣れない直喩であるが、体がぐにゃぐにゃになってべったりと横たわってしまいたくなるほど、といった意味合いとしては、よく判る。]

 この話はたちまち一日のうちに町全體にひろがつた。このため、次の夜は戸塚家には觀衆が押しよせた。八左衞門は閉口したが、好奇心をおさへることのできない野次馬は、まだ日も暮れぬうちからよい座席をとるために亭(ちん)や築山や練塀のうへに頑張る始末だつた。庭の木にのぼつてゐる者も多い。家中の武士のなかには手土産を下げて來て、老母や細君をくどき落して、特等席を豫約する者もあつた。

[やぶちゃん注:「亭(ちん)」屋根だけで壁のない休息所とする四阿(あずまや)のこと。]

「弱つたな」

 へこたれた八左衞門が頭をかくと、老母や妻は、

「いいぢやないの。あなたの腕前を見せるのだから」

 と、かへつて群衆の殺到を歡迎してゐた。

 

          七

 

 約束どほり、河童はやつて來た。そして、前夜のとほり、二人ははげしくたたかつた。今夜も容易に勝敗がきまらなかつた。

 見物はできるだけ姿をあらはさないやうに、片唾をのんでこの試合を見守つた。といつても、八左衞門だけしか見えないので、變てこな具合である。ただ氣合のこもつた八左衞門の進退、木劍のうごき等によつて、河童のゐることを想像するほかはなかつた。木劍のはげしくかちあふ音、八左衞門のではない、陶器を打つやうな奇妙な掛け聲がときどき聞えるので、河童の存在を疑ふことはできなかつた。

「八左衞門殿、しつかりおやり」

 老母も菊乃もゐても立つても居られない氣持で、口からいく度となくその言葉が出かかつた。しかし、聲援や應援は絶對にしてくれるなと、かたく八左衞門から禁じられてゐたので、ただ氣があせるばかりだつた。方々に潛(ひそ)んでゐる觀衆も聲援したい衝動にかられたが、やはり我慢をしてゐたので、數百人の人間がゐるのに、奇妙に邸内はしいんとしてゐた。月光ばかりが明るい。

(人間どもの考へてゐることはわからん)

 試合をつづけながら、一郎坊はあきれてゐた。命をかけた眞劍勝負をしてゐるのに、まるで野球かレスリングを見物するみたいに、人間が集つてゐる。どこにどんなに隱れてゐても河童にはわかつた。しかし、それもいいと思ふ。八左衞門が河童をやつつけるところを大勢の人に見せたいといふのなら、一郎坊の方も八左衞門を降參させるところを見せてやりたい。人間に打ち克つ、人間を嘲笑してやる絶好の機會だ。そして、さらに一郎坊は全力をふるひおこし、八左衞門打倒のために祕術をつくした。時がながれ、月がかたむいた。

「戸塚殿、今夜はこれまでといたしませう」

「よろしい」

 八左衞門が木劍を引くと、河童の足音が裏木戸から、尾奴川べりへ、そして、霧岳の方角に遠ざかつて行つた。

 その翌日はたいへんなことになつた。評判は擴大するばかりで、たうとう領主有馬種次の耳に入つた。八左衞門の妻が家老の娘であるから、自然といへば自然だつた。藩主はすこぶるこのことに興味をおぼえ、三日目は戸塚邸へ出張して見物するといふ達しがあつた。さうなると、簡單ではすまされなくなる。にはかに戸塚家では大掃除が開始され、襖や疊がはりかへられた。植木の手入れもされ、練塀や冠木門のペンペン草も拔きとられた。庭には城主の紋章入りの幔幕が張りめぐらされ、まるで御前試合のやうなものものしさだつた。

「弱つたな」

 八左衞門は恐慌(きようくわう)の態である。しかし、領主の命令は絶對で拒みやうがなかつた。

(今夜はどうしても河童奴を打ち負かさねばならぬ)

 八左衞門は齒を食ひしばつて、覺悟を新にした。神佛に祈願をこめ、水垢離(みづごり)をとつた。老母や女房は領主が自宅にお成りになるといふので、感泣してゐた。

 日が暮れて、月が出た。月がかたむいて深夜になつた。庭にさす月が明るくなつた。

「そろそろ參る時分でございます」

 凛々しい試合支度の八左衞門は、緣側の床几に腰かけてゐる有馬種次に告げた。

「しつかりやれよ」

「はい」

「そちがその劍豪河童を打ち負かしたならば、二百石を加増し、有馬家指南番にとりたてて仕はす」

「かたじけなうござります」

 ところが、深更をすぎても、河童はあらはれる樣子がなかつた。月はぐんぐんと霧岳のいただきに吸ひこまれて行き、どこかで一番鷄が鳴きはじめた。殿樣をはじめ見物は欠伸(あくび)を連發し、居眠りをする者もあつた。東の空が白みはじめた。八左衞門はいらいらして待つたが、呼びに行く術もなく、朝を迎へてしまつた。

 不興の果、激怒した藩主は、

「たはけ者奴が。切腹申しつける」

 はげしい言葉をのこし、寢不足の赤い眼をこすりながら、駕籠(かご)で城へ歸つて行つた。

 

          八

 

 一郎坊は必死の思案をめぐらしたのであつた。二日間たたかつてみて、戸塚八左衞門の強さがわかつた。といふより、まだ自分の腕が未熟なのだと悟つた。現在の實力をもつてしては試合は堂々めぐりをつづけるばかりで、勝敗は決定しさうもない。もうちよつと強ければ勝てるのだ。さう思つたとき、師阿修羅坊の言葉が浮かんだ。

(さうだ。師匠はまだ免許皆傳ではないといつた。もつと祕傳があるといつた。それを教へてもらはう。さうすれば、きつと今度は八左衞門をたふすことが出來るにちがはん)

 そして、一郎坊は三日目の勝負に行くことをやめ、倉皇(さうくわう)として彦山川へかけつけたのであつた。一日目には別れるとき、翌夜はかならず行くと約束したが、二日目には別に三日目の試合を約束はしなかつたので、不信の行爲をしたとは思はなかつた。阿修薙坊から極意(ごくい)をさづかれば、早速また試合に出なほすつもりだつた。

[やぶちゃん注:「倉皇」「蒼惶」とも書き、慌てふためくさま・慌ただしいさまを指す。]

(出なほしだ。この木劍はもう要(い)らぬ)

 いくらたたかつても勝つことのできなかつた緣起のわるい木劍だと思ひ、尾奴川の岸に立つたとき、これを粉みぢんにへし折つて、そこへ打ちすてた。そして、一散に大月町を後(あと)にしたのであつた。

 彦山川のほとりで、阿修羅坊は首をひねつた。苦笑しながら、

「ふうん、戸塚八左衞門らゆうのがそんなに豪傑か。ちと勘定ちがひをしたかな。よしよし、お前もそこまで考へつめとるなら、あくまで目的を達成せねば氣がすむまい。とつておきの祕傳ぢやが、特別にさづけて仕はさう。よく覺えて行け」

 それから數日、血の出るやうな稽古がつづいた。一郎坊は眞劍だから、むづかしい祕傳を短時日によく會得した。これでよからうと免許皆傳を許した師匠は、また新しい木劍を今度は桑の木で作つてくれた。勇み立つた一郎坊は宙をとぶやうにして大月町にかけつけた。

(いつたいこれはどうしたことだ?)

 尾奴川をわたり、戸塚八左衞門邸の前に立つて、一郎坊は茫然となつた。もはやそこにはまつたく見知らぬ他人が住んでゐて、八左衞門の姿はなかつた。不思議なことに思ひ、人間に化けて町のうどん屋で、それとなく事情を聞いてみた。戸塚八左衞門と河童との試合は小さな城下町では有名な大事件になつてゐたので、うどん屋の女將は詳しい事情を知つてゐた。それによると、八左衞門は殿樣の逆麟(げきりん)にふれ、切腹して死んだといふのであつた。

 一郎坊は仰天した。昏迷した。

(おれがあれだけ武術の極意をつくしても、たふすことのできなかつた劍豪を、藩主は手をくださずして、たつた一言の言葉で殺してしまつたといふが、これはなんの極意だらう。恐しく強い人間もあつたものだ。どうしてそんなすばらしいことができるか、殿樣に逢つて教へてもらはう)

 さう決心した一郎坊は、城内に忍びこみ、有馬種次の前に姿をあらはした。

「殿樣」

 膝まづき、頭の皿の水がこぼれぬやうに注意しながら、お辭儀をした。

 突然、奇怪な動物が眼前にあらはれたのを見て、城主はまつ靑になつた。腰を拔かし、がたがたとふるへだした。齒の根もあはず、ふるへ聲で、

「だ、だ、だれか居らぬか。……ば、ば、ば化(ば)けものが出たァ。助けてくれえ」

 武士たちのかけ集まつて來る氣配に、一郎坊は急いで城を退散した。なにがなにやらわからなくなり、泣きさうな顏つきになつて、故郷の香春岳(かはらだけ)のふもと、夜宮池の方角へ步を轉じた。

 數年の後、尾奴川(をぬがは)のほとりに、梅林が出現してゐた。一郎坊がちぎりすてた梅の木劍が全部芽をふいたものである。そこは大月町の新名所となり、花咲くころには賑はつた。宴會ももよほされる。

 香春岳をかこむ村々に、またも、どよめきがおこつた。その一揆を鎭壓するため、討伐隊が編成された。討伐隊は壯行宴をこの大月の梅林でからいた。領主有馬種次もその席に望み、勇しく部下を督勵した。

「生意氣至極の土百姓どもを、一人のこらずひねりつぶせ」

 その姿は颯爽とし、その聲は凛としてゐた。

2017/06/16

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されど、本日は野暮用多く、記念テクストは明日とする。 心朽窩主人 敬白

「想山著聞奇集 卷の五」 「鮟鱇の如き異魚を捕たる事」

 

 鮟鱇(あんかう)の如き異魚を捕(とらへ)たる事

 

Syouzannkaigyo

 

[やぶちゃん注:以下、キャプション(右は本文の末尾でキャプションではない)。原典では左右孰れも本体白くない部分に茶色の斑点がくっきりと描かれてある私同様、本種の同定を試みんとされる方は、是非、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」小泉八雲旧蔵本である本「想山著聞奇集」の原本PDF版(カラー)をダウン・ロードして確認されたい。]

 

   腹(はら)

 

 腹に小(ちひさ)き足八つ

 有(あり)て指先の所

 鼠の如き足なりと。

 

   背

 

 尾張の國名古屋の西、巾下(はゞした)[やぶちゃん注:現在の名古屋市西区幅下。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云所の町續きに、江川(えがは)[やぶちゃん注:現在の名古屋城の北の、地下鉄の浄心から東へ延びる名古屋市西区上名古屋の弁天通り附近と推測する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云有。【川巾僅三、四間にして、深さも壹尺餘りより貮三尺に過ず。[やぶちゃん注:「弁天通商店街」公式サイトのこちらを見るに、現在は埋め立てられてしまった模様である。]】天保八年【丁酉】七月[やぶちゃん注:一八三七年。同年の旧暦七月一日は新暦の八月一日である。]盆前(ぼんぜん)の事なるが、此川通り、飴屋町(あめやまち)[やぶちゃん注:不詳。]と云に懸渡(かけわた)し有(ある)小橋のもとに、近邊の小童(こわらべ)、大勢寄合、水中(すゐちう)へ入(いり)、遊び居たりしが、川上(かはかみ)より何か大成(おほひなる)もの來りて當りし故、振返り見ると、變怪成(あやしげなる)もの故、彼(かの)童子(わらべ)共(ども)の皆々驚き、唯ならぬ聲を揚(あげ)て、陸(くが)へ逃揚(にげあが)りたりければ、近邊(きんぺん)に居合せたる者共、懸集りて、何事ぞと尋問(たづねと)ふに、しかじかと答(こたふ)る故、如何成(いかなる)ものか見屆(みとゞけ)んとて、其次の橋へ行て、かのものゝ來るを見るに、大さ四尺計(ばかり)も有(あつ)て、頭(かしら)、殊に大きく、見馴(みなれ)ぬ魚の如きもの故、人々、又其次の橋へ駈行(かけゆき)て、來(きた)るを待(まつ)て篤(とく)と見るに、其大成(おほひなる)頭の先、一ぱい成(なる)口にて、白き齒、ひしと生出(はえいで)、更に分り兼たる怪物故、誰(たれ)も捕押(とりおさ)へんとする者もなく、あゝと計(ばかり)云て、既に見遁(みのが)すべき所に、土人の男(なん)に、勇氣甚敷(はなはだしき)壯年有(あつ)て、近邊に居合せ、此事を聞と等敷(ひとしく)[やぶちゃん注:同時に。]、駈來りて、大傳馬町(おほでんまちやう)[やぶちゃん注:現在の名古屋駅の東直近で、先の弁天通から真北に下った、現在の名古屋市中区錦附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云(いふ)町の橋の下にて、忽ち水中へ飛入(とびいり)、大成(おほひなる)たも網(あみ)を以、力(ちから)に任(まさせ)て頭(かしら)を押(おさ)へたれども、何分、大魚のみならず、件(くだん)の口と齒のすさまじさ、如何成(いかなる)毒魚か分り兼(かぬ)る故、壹人しては抱へ揚(あげ)かね、夫より大勢込入(こみいつ)て、難なく捕揚(とらへあげ)て、大盥(おほたらひ)に水をたゝえ、むりに入試(いれこゝろみ)るに、長さ四尺程有(あつ)て、尾の方(かた)、曲(まが)りて漸(やうや)く入(いり)たり。扨、其怪魚の頭(かしら)の方は、全く鮟鱇の如くにて、眼口(めくち)共(とも)大きく、齒も大鋸(おほのこぎり)の如き齒にて、脇鰭(わきびれ)は尋常(よのつね)の魚(うを)の如く、尾はまた鯰(まなづ)の如し。惣躰(さうたい)に鱗(うろこ)なく、肌(はだ)幷(ならびに)色合(いろあひ)共(とも)、蝦蟇(がま)の樣なる茶鼠色(ちやねづみいろ)にて、疣(いぼ)のごときむら肌(はだ)もあり。腹は鼠の曇色(どんしよく)にて、其腹大きく、腹の下に、蝌蚪(かいるこ)[やぶちゃん注:オタマジャクシ。]の蛙に變じ懸(かゝ)る時に生懸(はえかゝ)りたるごときの少き短き足、左右に四つづゝ、八つ付(つき)たり。其形ち先(まづ)、魚(さんせううを)のごときゆゑ、口々に魚成(なる)べしとはいえども、中々左には非ず。元より如何成魚と云事、分り兼たり。元來、此川の上(かみ)は勝川(かちがは)と云(いふ)大川(おほかは)より分水(ぶんすゐ)、庄内川と云(いふ)大川を伏越(ふせこし)て、用水に引(ひき)たる水にて、勝川も水源は山川(やまがは)なれども、夫は十里も川上にて、夫よりは砂川にて、常は水かれて、龍蛇の住程の淵瀨もなく、夫より此江川筋へ分水の後(のち)は、底も見ゆる至(いたつ)ての淺川(あさかは)にて、か樣の魚の住べき川にもなけれども、如何して何(いづ)れより迷ひ出來りけるにや、不審成事也。扨、此魚、形ち、異にして、しかも口、甚敷(はなはだしき)にも似ず、至て温順優長(いうちやう)なるものにて、躍り(はね)、又は齩付(かみつく)ものに非ず。鮒(ふな)・魦(はへ)・鰌(どぜう)の類(るゐ)を與へ試るに、やがて人にもなれて、此小魚を食し、半月程も活け置たるが、其内に、山師ども乞受(こひうけ)て、見せものにも出(いだ)せしに、間もなく斃(をち)たるよし。が若黨(わかたう)[やぶちゃん注:若輩の家士(郎等)。]水野金治(きんぢ)と云者は、此巾下(はゞした)の者にて、其時、ともに水中に入、急(きう)を助けて魚を取上たる者故、具(つぶさ)に聞(きゝ)て書記し圖し置ぬ。尾張の國は、餘國に勝れて、山なく淵なく平等なる平地(ひらち)にて、用水惡水(あくすゐ)よく分り、【用水と云は田へ引入る水、惡水と云は田より吐捨(はきすつ)る水也。】勿論、か樣なる異魚の住べき所はなけれども、現在、捕得(とりえ)たる事なれば、疑ひ樣(やう)もなし。世には色々の怪物もあるものにて、斯(かく)手近き所へも、漂ひ來りたるは珍敷(めづらしき)事也。博識の鑑定を俟(まつ)のみ。

[やぶちゃん注:一見して、私は、

 

棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目ウラナイカジカ科ガンコ属ガンコ Dasycottu setiger 

 

と踏んだ同種は完全な海水魚であること、棲息域が水深二十メートルから八百メートルの中層から深海層であること、名古屋では同種の本邦での分布域が合わないこと(「ぼうずコンニャク」の図鑑の「ガンコ」では銚子・島根県以北とする)、発見された場所が河口からかなり遡った場所であること、何よりも川上から下ってきている点などが同定を否定する要素ではあるのだが、形状(全長は大き過ぎる)は、すこぶる、「ガンコ」らしいのである。何より、サイト「かぎけんWEB」の「カジカ=ガンコ(頑固)」の多数の写真と、この挿絵と本文叙述を比べて見て貰いたい(但し、かなりグロテスクな魚であるから、生理的にだめな人が或いはいるかも知れぬ。クリックは自己責任で。しかし、これで食うととっても美味いんだぜ!)。いつもお世話になっているサイト「ぼうずコンニャク」の図鑑の「ガンコ」も見られたい。それによれば、和名「ガンコ」は富山県での呼び名が元で、まさに「頑固親父」が命名由来とも思われ、別名を「アンコウカジカ」「アンコカジカ」「カエルカジカ」等とも呼ぶのは、本記載との親和性を感じて戴けるものと思う。

 しかし、全長「四尺」、一メートル二十一センチメートルは、ガンコとしては確かに大き過ぎる

 

 そこで川上から来たのだから淡水魚としてはどうかと考えると、

 

巨大なナマズ類(骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ(ニホンナマズ:但し、固有種ではない)Silurus asotus

 

ならばあり得るように思われはする。飼育中に摂餌したのが「鮒(ふな)・魦(はへ)・鰌(どぜう)」(「鮒」は骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius/「ハヘ」は現行の「ハエ」「ハヤ」「ハヨ」(漢字表記「鮠」「鯈」等)で、日本産コイ科淡水魚の中で中型の細長い体型を持つ複数の種の総称。具体な種については先行する「鎌鼬の事」の私の「魦」の注を参照されたい/コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)と総て淡水魚であったのも肉食性の大型ナマズ類であった可能性は否定出来ぬ。大きさは規格外(標準は六十センチメートル)であるが、老成個体ならあり得る。

 しかし、同種に特徴的な左右の長い口髭が全く描かれていないのはすこぶる不審である。

 

 また、本文で多くの野次馬が強い同定候補とする魚でない両生類の「魚(さんせううを)」、日本固有種である、

 

脊椎動物亜門両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus

 

として見ると、分布(絶滅危惧種で現行では普通に我々が自然界で見かけることは少ないが、本来は岐阜県以西の本州・四国及び九州の一部に広く棲息していた)や川上から下ってきたこと(標高四〇〇から六〇〇メートルほどの河川上流域を標準的な棲息域とするが、中・下流にも住む)、全長の長さ(最大長は飼育個体では一五〇センチメートルにも達する)、細かな歯を持つこと(図よりも遙かに細かく小さくしかも浅いが、誇張して描かれたと見ることは可能である)等は、よく一致する

 しかし、四足(自然界では考えにくいことであるが、それら四足が総て何らかの疾患(先天的に欠損していた場合はこんなに大きくなるまでは生きられないと私は思う)や外傷等によって欠損したり、切断されたりしたのだと仮定しても、その痕跡や再生痕は残る。因みに、私は高校時代、演劇部以外に生物部にも所属しており、有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens の手足を切断して再生させる実験に従事した経験があるのでドシロウトではないことを断わっておく)が全く描かれず、しかもそれを人々が語っていないことが、これが「大山椒魚」なのだとすれば、すこぶる不審である。

 名古屋の市井の人々には悪いが、私はこの説は採れない

 

 問題は、図の腹部に見られる四対の、蝌蚪(おたまじゃくし)が蛙に変態しかけているように見える「足」である。しかも本文はこれを「左右に四つづゝ」と言っているにも拘わらず、附図ではその鰭状の酷似したものが五対あり、しかも、まだその後ろに二対あるようにも見え、最大、七対十四もあるようにさえ見えることである。

 これは何か?

 を同定候補からは排除したから、本奇生物は真正の魚類と私は見るのであるが、にしても、この付属の鰭(のように見える、ようにしか見えないし、そのような意識でそれは確信犯的に描かれてはいる)は如何なる魚類でも説明はつかない。

 ナマズの腹面は白くつるんとしており、その点では図はよく似ており、腹鰭は胸鰭からかなり下がった腹部後方、尻鰭の前方に左右に一対で、しかもこれ、複数の画像を見る限りでは余り目立たないように感じられる。

 ガンコの腹鰭はズバリ! 胸鰭の下方にあって、しかも、まさにこの図のような「ハ」の字型を成して非常に目立つことが、サイト「かぎけんWEB」の「カジカ=ガンコ(頑固)」の写真(クリックは前に言った通り、自己責任)で確認出来る。同ページの多数の写真を見ると、どうもガンコは生体時には腹部は白いように思われ、本図とも一致する

 しかし、この後部の多数の対構造を成すものは認められない。

 

 とすればこれら蛙に成りかかったように見える生物というのは何か?

 

 私は所謂、サメ類などに多く附着するコバンザメ(スズキ目コバンザメ科 Echeneidae コバンザメ属 Echeneis コバンザメ Echeneis naucrates)の類いか、或いは、何らかの外部寄生虫なのではないかと思うのである。

 

以上から、私はこの生物を ガンコ Dasycottu setiger  と同定するものである。想山同様、「博識の鑑定を俟」つものである。]

 

2017/06/15

「想山著聞奇集 卷の五」 「縣道玄、猪を截たる事」

 

 縣道玄(あがただうげん)、猪を截(きり)たる事

 

[やぶちゃん注:「縣道玄」「大蛇の事」で既に登場している。]

 

Agatadougeninosisiwokiru

 

 縣道玄は、信州小縣郡(ちいさがたごほり)小泉村[やぶちゃん注:現在の上田市小泉。同市の中心部の西方、千曲川左岸から国道百四十三号沿線にかけての地域内。ここ(グーグル・マップ・データ)。]郷士小泉宇右衞門の男(なん)なり。中年より江戸へ出(いで)て、專ら醫業を弘(ひろ)め、人に知られ、その頃より、、知己となれり。此人は、萬藝(ばんげい)とも、人に長出(ちやうしゆつ)して、なかんづく武藝を好み、劍術・柔術等(とう)、拔群にて、壯年の頃は國中所々を周遊し、其先々にて武藝の師と仰がれ、尊敬せられし人也。其頃、同國伊奈郡(いなこほり)高遠領[やぶちゃん注:現在の長野県伊那市高遠町東高遠。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の内、駒が嶽[やぶちゃん注:木曽駒ヶ岳。現在の長野県上松町・木曽町・宮田村の境界に聳える。標高二千九百五十六メートルで木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。高遠の西南西約二十四キロメートルの位置に当たる。前のグーグル・マップ・データで確認されたい。]の連なる山間(やまあひ)へも、追々行(ゆき)て師範せしに、此所は僅の平地(ひらち)にて、人家も漸(やうやう)二十軒計(ばかり)有(あり)て、田畑、更になく、皆、山獵を業(わざ)とし、其外、山稼(やまかせぎ)のみを以、渡世とする所なりしが、或時、道玄の云(いふ)には、各達(おのおの)の猪を獵する手際、我等も一度、見物仕度(したき)もの也と望みたるに、若きものどもゝ、先生をつれ行、あく迄、狩(かり)を致せ度(たし)など申せども、其長(をさ)たる者のいへるには、時節惡敷(あしき)まゝ、追て(おつ)てに成さるべしとて、追々延(のば)し居(ゐ)しに、或時、彼(かの)者云(いふ)、此程は仲春[やぶちゃん注:旧暦二月頃。]となり、猪もさかり出し、澤山に群れ居るまゝ、明日(みやうにち)は手勢にて山へ入込(いりこみ)、猪を追集(おひあつめ)、御覺に入(いれ)申べく候間(あひだ)、私共の手際よりは、御慰(おなぐさみ)に[やぶちゃん注:我ら生計(たつき)のそれとは違って、手業(てわざ)のお楽しみとして。]御仕留(おしとめ)あれかしとて、其用意をなし、未明に食事をしたゝめて、主從六、七人に犬二疋と共に家をいで、山路に分入(わけい)るに、まだ山は雪深く、下は氷り居(ゐ)、上はとけ居るまゝ、すべりて步行(ほかう)も自由ならず。よつて橇(かんじき)[やぶちゃん注:「樏」などとも書く。雪中に足を踏み込んだり、辷ったりせぬように雪靴や草鞋などの下に付ける、本邦古来からの北国の氷雪用歩行具。穿き物よりも一回り大きく木の枝や蔓などを輪に撓(た)めたものや、それらに滑り止めのアイゼン様の木爪(きづめ)を付けたもの等がある。挿絵にもちゃんと描かれてある。]の裏に釘の出(いで)しものをはきて山へ入込、其山の懷の少し谿間(たにま)なる所へ行て、先生は此所(このところ)に待居給ふべし、我々は四方へ分け入(いつ)て、此所へ猪を追出し申べきまゝ、澤山に御仕留有べし、後(のち)には又、此所へ皆々集り申べし、犬、猪を追出して、猪に吠懸(ほへかゝ)りたる時は、聲を合(あはせ)て遣(つかは)し下さるべし、左(さ)なき時は、猪に懸(かけ)られて斃(をち)申候、犬は我々の先達(せんだつ)にて、中々、大切に御座候と、懇(ねんごろ)に教へさとして、唯壹人、殘し置て、皆、ちりぢりに深山(しんざん)へ分入たり。扨、猪のさかり出したる時は、牝猪(めゐ)壹疋(ひき)に、牡猪(をすゐ)三十疋も四十疋も付纏ひ居て、嚙合(かみあひ)、互(たがひ)に血を流し、あけに成(なつ)て居ても、一向平氣の樣子にて、群あるくものにて、此時は、彼(かれ)も色情(しきじやう)に目くれて、人をも一向恐れず、甚だ不敵になり居るものとそ。程なく遠方の谷々に、ぽんぽんと錢砲の音響き出(いだ)す内に、谷一つ向(むかふ)の方(かた)にて、遙に犬の吠る音(こゑ)聞ゆるまゝ、是を見るに、猪十四、五、並び駈步行(かけあるく)に、唯犬一疋にて、しきりに吠懸り居、危き事と思ふ間もなく、暫く見て居(ゐ)る内に、豆腐にあんを懸(かけ)たる如く、雪中、忽(たちまち)にあけと成(なつ)て[やぶちゃん注:襲われた犬の血で朱(あけ)に染まって、の謂いであろう。]、夫切(それぎり)に犬の聲の止(やみ)たるは、猪に懸られたるに相違なく、僅、谷一つ向の事なれば、よく見ゆれども、其間(あい)は遙にて、猪は犬程に見え、犬は猫程に見ゆる所故、如何(いかん)とも仕方なく、哀れ成(なる)目に合(あひ)たる事、不便(ふびん)なりと思ふうちに、頻りに鐡砲の音、谷(たにだに)に響きわたりて、直傍(ぢきかたはら)の谷間(たにま)より、かなたの方へ、大猪(おほゐ)三疋、たけりてかけ來りたり。是はうろうろ、此姿にて、此所へ三疋來(きたら)れては凌ぎ難(かた)かるべしと、小高き所へ登りて、巖(いはほ)を小楯(こだて)に取(とつ)て、待懸(まちかけ)たれども、足場惡しく、其上、木下(こした)の難所(なんじよ)ゆゑ、刀(かたな)にてはあしかるべし、引付(ひくつけ)て脇差にて討留(うちとむ)べしと、刀は下緒(さげを)にて木の枝に結付置(むすびつけおき)、片手は木に取付居(とりつきゐ)、片手には拔身(ぬきみ)を持(もち)て待懸る間もなく、三疋の猪(ゐのしゝ)、今迄わが居し廣場へ來りて、くるひ𢌞り居る故、ヲヽイと聲を懸(かく)ると、直(ぢき)に壹疋(いつぴき)飛揚(とびあが)り來りたる故、側(そば)へ引付、眞向(まつかう)を骨も微塵に碎けよと切割(きりわる)に、銕(てつ)石に打付(うちつく)ることく、刄(やいば)、飛(とん)で[やぶちゃん注:以下、たびたび出るが、これは刀剣が食い入ることなく、弾かれてしまうの謂い(当然のことながら、刃の一部が欠けもするではあろう)のようである。]、皮(かは)のみ少しそげ、薄手(うすで)故、猪は彌(いよいよ)たけりて、再び飛懸り來るまゝ、又、同じ所を、つゞけ打に二刀(ふたかたな)まで切割に、先のごとく、刄(やいば)飛(とん)で、皮のみ、そぎ落したれども、始より三太刀の疵に、急所の痛手故にや、猪は直下(ぢきした)の谷へ落(おち)て、くるひ𢌞り居たり。この二度目の身の背(そむ)けかた[やぶちゃん注:二度目に脇差を揮った後、防禦のために体をかわした、その道玄のやり方が。]、惡鋪(あしく)、腹より胸へかけて牙にかけ破られ、衣類も懸割(かけわり)て、よほど手負(ておひ)、血、夥敷(おびたゝしく)流れ出れ共、中々、其疵を手當する有餘なく、是はけしからぬ事に逢(あひ)たり、賴み切たる覺(おのえ)の脇差さへ、骨、堅くして、刄(やいば)飛(とん)で切割(きりわる)事もならず、今、此所(このところ)にて命を落すべし、殘念至極なりと思ふ隙もなく、直(ぢき)に續ひて、二疋目の猪、かけ上り來りたるまゝ、今にこりて、今度は心せきこみ[やぶちゃん注:焦って。]、少し早く開(ひらき)て切(きり)たる[やぶちゃん注:切り払う際、先ほどよりも少し大きく広く手を開いて、ずん、と払ったであろう。その仕儀が効を奏することとなる。]まゝ、猪の鼻の先を切落(きりおと)したり。幸ひに、鼻は至ての急所なれば、少しの疵にても、屛風を倒す如く、ひつくり返りて、是も谷へ落て、先(せん)の手負と二疋、うめき𢌞る。又、引續きて、今一疋の猪、猛り來りたり。所詮、眞向を切ては、又、先(せん)のごとく、刄(やいば)飛(とん)で切割兼(きりわれかぬ)べし、今度は足を薙(なぐ)べしと、身を背(そむ)けて[やぶちゃん注:体をかわして。]、前足を二本ともに切落(きりおと)せし故、是も直下(ぢきした)の谷間へ落行(おちゆき)て、三疋うめき居たる有さまは、まだ、すさまじき事なれども、中々、巖石(がんせき)へ飛揚(とびあが)り來る勢(いきほひ)もなき故、漸(やうや)く先(まづ)、ほつと息をもつぎたれども、何分、小高き山の腹にて、片手は木に取付(とりつき)居、片手にては拔身を持居(もちい)、進退も自由ならねば、先々(まづまづ)、平場(ひらば)へ下(お)りて疵口(きづぐち)も見ばやと、先(さき)の所へ下(お)り立つと、猪は三疋とも、直傍(ぢきかたはら)の谷間に、のたり居たれども、夫(それ)を見向(むき)もせず、先(まづ)、帶を解(とき)て、かけられたる所を見るに、木綿(もめん)の綿入(わたいれ)二枚に絹の胴着、すつかりと利劍(りけん)にて切裂(きりさき)たる如くに成(なり)、襦絆(じゆばん)もきれて、腹の眞中(まなか)よりあばらかけて、右の肩のかたへ、八、九寸の曳疵(ひきいづ)なり。淺ききづながら、牙にてかけ破りし故、(のり)[やぶちゃん注:血糊であろう。但し、この漢字にはそのような意味はないと思われる。]夥敷(おびたゝしく)、懷中(くわいちう)に滿(みち)て、手當(てあて)成難(なしがた)く、依(よつ)て下帶(したおび)にて能(よく)卷(まき)て、しつかりと結び、【、此疵の痕(あと)を見たり、餘程の大疵なり、其時の事、思ひ合さるゝなり。】漸く少し氣も落付(おちつき)て、つくづく思ふに、皆の者共、我等への馳走に、段々、猪を此所へ追集(おひあつむ)るとて、あのごとく、谷々にて鐡砲を打(うて)ば、今に又、此所へ猪多く集り來るべし、血氣にはやり、よしなき事を好み、遂に獸(けもの)と勇(ゆう)を爭(あらそ)ひ、半(なか)ばにもならぬ命を、けふ此所にて非業(ひがふ)に死果(しにはつ)る事と見えたり。扨々、殘念至極、うかうかと不了簡なる事せしと、頻りに後悔をなし、勇氣もたゆみ果(はて)たれども、此姿にて憂へ居ても仕方もなしと、氣分を引立直(ひきたてなほ)し、先(まづ)、三疋迄は仕留たる事故、申譯は有けれども[やぶちゃん注:それで体裁は一応はつくけれども。]、頭骨を割たるは切兼(きりかね)て、三刀(みかたな)迄、片(かた)はづりと成(なり)[やぶちゃん注:ただ一方の頭部の皮をはつっただけのこととなってしまい。]、其外、鼻を切(きり)、足を切などして、皆々、見せ苦敷(ぐるしき)切樣(きりやう)也[やぶちゃん注:とてものことに、見苦しい斬り刻みようで、武芸の弟子である猟師たちに見せられるような代物ではない。]。重(かさね)て來らば、せめて一疋は胴切(どうきり)か、又はから竹わりに致度(いたしたき)もの也。今度は足場よき此所にて、刀(かたな)にて切割べしと思ひて、脇差を木の枝にかけ置て待(まつ)内に、直傍(ぢきかたはら)の山を、又、大猪(おほゐ)十一疋迄、連立(つれだち)て駈行(かけゆく)故、如何(いかゞ)はせまじと思へども、所詮、けふは此所にて獸(けもの)の爲に落(おと)す命、何(なに)にかせん、一疋も澤山に切て、死後の笑ひを防(ふせ)がばや、と所存を極め、不敵にも又、右の猪へ、ヲヽイと聲を懸(かく)ると、忽ち、取(とつ)て返して來りたり。【猪は聲を懸ると必(かならず)返し來る物となり。】其十一疋、殘らずつれ立(だち)て、簑毛(みのげ)を逆(さか)にたて、がりがりと齒をならし、狂ひ來(きた)る勢ひ、荒らかに、尖(するど)きとも何とも譬へがたも、なし。先(まづ)、最初、飛懸り來るを、今度は能(よく)開きて、胴中を眞二(まふた)つに切割(きりわる)に、何のざうさもなく、二つに切放したり。續ひて來(きた)るをも、又、引はづして、その通りに切放すに、快く手もなく切(きれ)たり。是は妙成(めうなる)事也、是にては何十疋來(きた)るとも、一討(ひとうち)づゝにて切殺(きりころ)すべしと、忽ち心も勇み立(たち)、大ひに勢ひを增して、懸り來る每(ごと)に胴切にして、續けて八疋迄、切放したり。其内に、三疋は、何(いづ)れへそれしか、行方(ゆきがた)をしらざりしと。誠に十疋もむれ來りて、八方より飛付來(とびつききた)るを、左右へ身を背(そむ)け、おもふ存分に切割たるは、實(じつ)に勵敷(はげしき)[やぶちゃん注:「激しき」「劇しき」。]事ながら、甚だ心地能(こゝちよき)事にて、此切味(きれあぢ)を知(しつ)て後は、猪を切(きる)は何の造作(ざうさ)もなき事なり、心得置べし迚(とて)、よく教へ呉たり[やぶちゃん注:ここは聴き手である想山に、の意であろう。]。先(まづ)、猪の猛り來(きた)る時は、がりがりがりと牙を嚙(かみ)ならす音すさまじく、人に向ひて簑毛を逆(さか)に立(たて)て、怒り來(きた)る時の、其早く尖(するど)き事は矢の如く、其間(あひ)、六、七間[やぶちゃん注:約十一メートルから十三メートル弱。]に成(なる)と、いかにも小(ちひさ)き尾をヒヨイと立(たつ)る也。尾を立(たて)たりと思ふと、突付來(つきつけきた)ると同時也。仍(よつ)て、彼(かの)尾をヒヨイと立(たつ)ると見るより、直(ぢき)に傍(かたはら)へ披(ひら)きて切(きる)と、いつにても二つ切(ぎり)に成(なり)、一向、六(むる)か敷(しき)ものに非ず、若(もし)、誤りて頭(かしら)を討(うて)ば、匁物(はもの)、飛(とん)で、中々、切らるゝものにてはなし、能(よく)心得置べき事。又、引はづして通しやれば、十間も廿間も[やぶちゃん注:十八メートルから三十六メートル強までも。]一文字(もんじ)に行過(ゆきすぎ)て、夫より輪を懸(かけ)て𢌞り來(きた)るゆゑ、假令(たとひ)、何度切損(きりそん)じても、二度目、懸り來(きた)るは急成(なる)ものに非ずと也。猪は巖石荊棘(がんせきけいきよく)の中(なか)はもとより、絶壁懸崖(ぜつぺきけんがい)の間を(あいだ)を駈步行(かけあるく)事、平地(ひらち)を步行(ある)く通りなれば、必(かならず)、平地の勝負がよき也とぞ。扨、切味、覺(おぼえ)たれば、何程(なにほど)も出來(いできた)れかしと思ふ内に、四方の鐡砲の音も止(やみ)たり。然(しか)れども、思ひ寄(よら)ず、數疋(すひき)、見事に切殺せし事故、恥敷(はぢかし)からぬ働(はたらき)ながら、扨々、危きことにて、呉々(くれぐれ)も恐ろ敷(しき)目(め)に遭(あひ)たりと、ほつと息をつぎ居たる所へ、主人、猪の皮を三枚と、犬程の猪を一疋背負(せおふ)て來り、此猪は好(よき)加減の故、今夜御振舞申すべし迚、持參りたりといふ。扨、此所の有樣を見て、さすが先生故、見事成(なる)御仕留なりと感心なし呉(くれ)、かれ是と危(あやう)かりし事ども咄し居る内に、外の者も、皆々、二、三疋づゝ、皮を持(もち)て揚り來たり。まだ初(はじめ)に討(うち)し三疋の猪は、其儘死せずに、傍に苦しみのたり居しを、歸り來りたる者共、乘懸(のりかゝ)りて、未だ死切(しにぎら)ざるを喉より截割(たちわり)、皮を剝(はぎ)、膽(きも)をとり、殘りの猪も、皆々懸りて、忽ち皮も取、膽もとり出(いだ)したり。其内に、十六、七歳成る童上(わらべあが)りの何とか云者、遲く戾り來り、此躰(てい)を見ていふ樣、是は先生とは、思ひの外、大馬鹿成(なる)事をなされしぞ、折角殺しても何の役に立(たつ)べき、夫(それ)をしたり顏(がほ)なるは、片腹痛(かたはらいた)き事也、見下(みさ)げ果(はて)たる先生成(なり)とつぶやく。是は胴切にせし故、皮の直段、半ばにもならぬ故也といへり。扨、能々(よくよく)聞訂(きゝたゞ)すに、皮に疵付ては、とりても値(ね)にならず、骨折ぞん故、駈來(かけきた)る猪に引組(ひきくん)で喉を突く、急所故、一突(つき)にて弱り、尤(もつとも)、夫(それ)なりに死(しに)きらぬを、直(すぐ)に先(まづ)、皮を剝取、夫より膽もとりて、素(もと)より肉と骨は其儘捨置(すておく)事なれば、道玄が祕術を盡して、立派に打留(うちとめ)たりと思ひの外、童等(わらべら)に笑はれて、初て、皮に疵を付(つけ)ぬ樣に取事を知たりと。又、かの向(むかふ)の山にて、犬が猪に吠懸りたる時に、遙(はるか)遠方(えんばう)ながら、オヽイオヽイと聲を懸遣(かけつか)はすと、直(ぢき)、犬に勢ひ付(つき)、猪は劣(おと)りて、怪我なきものゝ由なるに、餘り遠方故、聲懸たりとも詮なき事と思ひ、聲懸ざりしゆゑ、忽ち犬はかけ殺されたりと也。かの主人、此犬の死(しに)たるを、殊の外、殘念がり、甚だ歎きし由。犬は雌犬の白ならでは、用に立兼(たちかぬ)るもの也と。總て此邊(このへん)にては、猪のさかるときは、内中(うちぢう)の者、山へ入込、七、八疋づゝはとり來り、夫を渡世とする事とぞ。猪一疋とれば、皮が二百文計(ばかり)、膽が三百文計、まだ何か二百文計となりて、都合七百文程[やぶちゃん注:江戸後期では現在の一万二千六百円から一万六千百円ほどか。]にはなる事とぞ。此七百文を取(とる)とて、猛獸と勇を爭ひ、日々、命がけの勝負のみをなして、僅の生涯を送ると云も、此上もなき危き事也。北國にて熊を捕(とる)には、雪中に、熊の穴へ薪(たきゞ)をなげ入(いれ)て熊を怒(いか)らせ、遂に長さ壹間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートルほど。]計の手槍を以、月の輪を突(つき)て仕留(しとむ)る事也。若し、突損じぬれは、熊の掌(てのひら)にて槍の穗先を握るに、丈夫なる槍の身、三ッ四ッにをれ、碎く。左有(さあ)れは、獵者(れふしや)も、忽(たちまち)に攫(つか)み殺さるゝとの事等、具(つぶさ)に南谿が東遊記に記し、又、作州(さくしう)[やぶちゃん注:美作(みまさか)国。現在の岡山県東北部。]にて鷲(わし)を打(うつ)には、猿を置餌(おきゑ)となして、鷲のほろ羽[やぶちゃん注:腋羽(わきばね)。鳥類、翼の付け根の下面(腹面)にある羽。]の下のあたりを、錢砲にて打事也。一打にていかぬ時は、早(はや)ご[やぶちゃん注:「早具(はやご)」 は「早合(はやがふ)」で、小銃の弾丸を発射させるのに用いた火薬を詰めた紙製の小さい筒、現在の薬莢をこう言う。そうすると、ここで言っているのは空砲を撃つことであろうか?  しかし、それでは以下のシチュエーションと齟齬するから、ここは私は二番の実弾を手早く込めて撃つことと解釈する。大方の御叱正を俟つ。]を込(こめ)て打也。それを打損ずれば、鷲、大に怒りて、滅相にてねらふ[やぶちゃん注:確信犯でただただ撃ち殺そうとする。]をしりて、猿は勿論、人をも曳裂(ひきさく)事、折にふれてはある事なれども、先(まづ)、打損ずる事は一向になきとの事、周遊奇談に見え、其外、越中富山滑(なめ)り川(かは)の大蛸は、牛馬を取喰(とりくら)ひ、漁舟(ぎよしう)を覆(くつが)へして人をとれり。漁人、是を捕ふに術(じゆつ)なし。故に船中に空寐(そらね)して待てば、蛸、窺ひ寄(よつ)て手を延(のべ)、舩(ふね)の上にうち懸(かゝ)るを、目早(めばや)く鉈(なた)を以て其足を切落し、速(すみやか)に漕歸(こぎかへ)る。其危き事、生死(しやうじ)一瞬の間(ま)に關(かゝは)る。誠に壯子の戰場に赴き、命を塵埃(じんあい)より輕んずるは、忠、又、義によりて人倫を明かにし、或は天下の暴惡(ばうあく)を除(のぞか)んが爲なり。されども、蛸の足一本にくらべては、紀信(きしん)義光(よしみつ)か義死といへども、あはれ物の數にはあらずかしとの事、山海名産圖會に見えたり。皆、同日の談にして、いづれも危き渡世也。武門の家に生れても、かく太平の御世に出合、弓は袋、太刀は鞘に納め、枕を高ふして、華車風流(くわしやふうりう)を事として生涯を終ると云は、恐ながら、皆、東照宮の神德、仰(あふぐ)も愚成(おろかなる)事也。心得違(ちが)ふべからず。

[やぶちゃん注:「南谿が東遊記に記し」「卷之一」の越中の熊捕りを述べた「熊突」。以下。例の東洋文庫版の気持ちの悪い新仮名新字体で示す。挿絵も添えた。

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Kumatuki

 

 加賀、越中は世に名高き熊多き所也。熊胆(ゆうたん)なども此辺より出ずるを極上の品と定む。余越中に在りし時、飛彈境(さかい)の山中の人に出会いて、熊を取ることを聞くに、其猟者(りょうしゃ)も亦勇猛なり。冬に到(いた)り雪降積(ゆきふりつも)もる時は、熊皆(みな)穴に入り住む。其時猟者ども薪木(たきぎ)を多く持行(もちゆき)きて、熊の住める穴の中に投入(なげい)るるに、熊怒りて其薪木をうしろの方へ押し(おし)やる程に、穴の奥の方次第につまりて、其熊段々に穴の口の方へ出(い)で、ついには穴皆つまりて、熊穴の外へ出ずる時、長さ一間斗りの手鎗(てやり)を持って、月輪(つきのわ)のあたりをねらいて突くなり。熊突かれながら其鎗をかなぐり捨てんとして引く程に、弥(いよいよ)鎗深く身を貫く。猟者は始終其鎗をはなさず取付き居て、加勢の猟者を待つ。加勢の猟者走りかかりて、まさかりを以て、熊の頭(かしら)を打ちて取ること也。もし鎗を突損(つきそん)じぬれば、熊の掌(たなごころ)にて鎗の穂先を振るに、丈夫なる鎗の身三つ四つに折れ砕く。左あれば、猟者もつかみ殺さるることなり。

 余是を聞きて、「かく手詰(てづめ)[やぶちゃん注:安易にして有利に進める望みのない状態。]の危き働(はたらき)をせんよりは、など鉄砲にてはうたざる」といえば、「鉄砲は猶あやうし」という。「いかに」というに、「もし月輪を打はずす時は、たとえ鉄砲の玉熊の身を貫くといえども、忽ち飛かかりてつかみ殺すなり。鎗は、猟者其鎗に取付き居る故に、飛かかる事あたわず、されば命を失うこと無し」と也。「只(ただ)手負(ておい)の熊には、中々近附きがたきもの也。手負わざる間はおだやかなるものゆえ、近附くこと甚だ自由なり」と語れり。

 誠に漁者(ぎょしゃ)は水に勇(ゆう)に、猟師は山に勇あり。盗賊は又利欲に勇ありと思わる。

    *

「周遊奇談」昌東舎真風(しょうとうしゃしんぷう)著の奇談集「諸国奇談漫遊記」か。同書の内題は「周遊奇談」。文化三(一八〇六)年刊と推定される橘南谿「東西遊記」の影響も窺われる作品らしい。所持しないので、当該部を示せない。

「紀信」(?~紀元前二〇四年)は漢の劉邦に仕えた秦末の武将。ウィキの「紀信」によれば、紀元前二〇七年の「鴻門の会」で劉邦が項羽から逃れた際、『樊噲・夏侯嬰・靳彊らとともに参軍として劉邦を護衛し』、紀元前二〇四年の夏六月、『項羽率いる十万の軍勢が滎陽』(けいよう)『城(河南省)の漢軍を包囲した。食糧が尽き落城寸前に陥った時に、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服するふりをして、その隙に劉邦が逃亡する策(金蝉脱殻の計)を進言した。紀信はその献策を受け容れて、まもなく劉邦は陳平ら数十騎と共に成皋城に脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された』。『宋代に忠佑安漢公、元代に輔徳顕忠済王、明代に忠烈侯の諡号などを贈られている』とある。

「義光」護良(もりなが)親王の忠臣として知られる村上義光(よしてる ?~元弘三/正慶二(一三三三)年)のことであろう。元弘の変(一三三一年)の攻防に際し、子義隆とともに護良親王に従い、笠置山が落ちた後に高野山に逃れる親王を助けた。後、親王の籠っていた吉野城に幕府軍の攻撃がかけられた際、親王の身代りになって自害し、親王を落ち延びさせた。

「山海名産圖會」に載るという「越中富山」滑川」「の大蛸」の話は、早稲田大学古典総合データベースのこちらで視認出来る。図はこちら

 以下は最後まで底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

因に云、三山六海一平地(ぺいち)とて、世界は山三分(ぶ)海六分にて、平地(ひらち)は僅成(わづかなる)事也。仍(よつ)て山國に生れて、山獵(やまれふ)を事とする人は、斯のごとき事は珍敷(めづらし)からざれども、平原・都會の地に住(すめ)る人は、斯の如く手詰(てづめ)の働きをしらず。少しは心得にも成べきかと書付置ぬ。其時、道玄が兩刀の作人[やぶちゃん注:刀と脇差の刀匠の名。]も聞置(きゝおき)、且、地名幷(ならび)に主(ぬし)の名、又、月日等も委敷(くはしく)聞置しに、一度忘れて後は、如何とも思ひ出(いで)ず。今は道玄も黃泉(わうせん)の客の數に入ぬれば、尋樣(たづねやう)もなし。まだ、猪を組留(くみとめ)たる咄等は色々有て、外集にも書載置たり。[やぶちゃん注:「外集」は既に述べた通り、第二次世界大戦の空襲で焼失して現存しない。]

 

右、縣道玄十六歳の時、只一人、信州高遠より遠州秋葉山(あきはさん)へ行迚、いづれの村やらんへ通り懸ると、此程は、此先の往來へ豺(やまいぬ)[やぶちゃん注:狼。]出(いで)、七つ過(すぎ)[やぶちゃん注:凡そ午後五時以降。]よりは通行成(なり)がたき故、此所に宿り申べしと云て、達(たつ)て留(とむ)るまゝ、左候はば、竹壹本(ぽん)もらひ度(たき)迚、切(きり)とり、卽座に竹槍を拵(こしらへ)て持行(もちゆき)たりしに、果して狼數疋(すひき)出(いで)たるを、勵敷(はげしき)働(はたらき)をなして、三疋迄、突殺せし事ありと、知り居(ゐ)しもの、道玄の死後にに咄たり。仍(よつ)て委敷(くはしき)事知れず。又、常陸の國の何(いづ)れにてか、細き野道にて、馬に乘來(のりきた)る浪人の理不盡に慮外せし儘、道玄、腹立(はらたち)て、馬と共に、一時(いちじ)に取(とつ)て、深田(ふかた)へ投込(なげこみ)たる甚敷(はなはだしき)事有(あり)。此咄は、、直(ぢき)に聞置たれども、猶、委敷(くはしく)聞訂置(きゝたゞしおか)ざる内に、忽ち、なき人となりぬれは、いかにも殘り多し。呉々も、物は時を失ふまゝ、緩滯(くわんたい)には成置間數(なしおくまじき)事也。

[やぶちゃん注:「緩滯」「緩帯」と同義であろう。急がずにのんびりとしていること。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その3) /「名劍」~了

 

 併し名劍に關する話は悉くかういふ物騷な材料で充たされてゐるわけではない。唐の符載は文武雙絶の人で、常に一劍を藏して居つたが、一たび鞘を拂へば神光を放ち、夜も晝のやうに明るくなる名劍であつた。或時旅に出て海を渡る際、蛟(みづち)のために船が動かなくなつた。符載起つて一劍を揮つたところ、血そゝぐこと雨の如く、船は無事に進行することが出來た。ところがその後人の家へ行つて、寒食の日の粽(ちまき)を出されたことがある。それがまた別製と見えて、桶のやうな粽であつたから、普通の食刀ではどうにもならぬ。已むを得ず一劍を以て斬つたのはよかつたが、それ以來全く光りを失ひ、頑鐡の如く無用の品になつてしまつたと「芝田錄」に見えてゐる。「昔の劍は今の菜刀」といふ諺があるけれど、現在明晃々たる劍を直ちに食卓に用ゐたのはひど過ぎる。粽切丸では黃表紙の種ぐらゐにしかならぬであらう。

[やぶちゃん注:「寒食」(かんしよく)は古代中国に於いて冬至から百五日目に火気を全く用いずに冷たい食事をしたことを指す。この時期は風雨が激しいことから、火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促す予祝行事起原ともいう。

「頑鐡」「ぐわんてつ(がんてつ)」。ただの鉄の塊り。

「芝田錄」宋の丁用晦の撰になる小説集。全一卷 。

 以上は「太平廣記」の「器玩四」に「芝田錄」から「符載」として載る以下。

   *

唐符載文學武藝雙絶、常畜一劍、神光照夜爲晝。客游至淮浙、遇巨商舟艦、遭蛟作梗、不克前進。擲劍一揮、血灑如雨、舟舸安流而逝。後遇寒食。于人家裹秬粽。麤如桶、食刀不可用、以此劍斷之訖。其劍無光、若頑鐵、無所用矣。古人云。千鈞之弩。不爲鼷鼠發機。其此劍之謂乎。

   *]

 

 唐の鄭雲達が若い時分に一劍を得た。時に靈あるものの如く吼えたりするので、常に身邊を離さず愛玩して居つたが、或時突如として庭樹の上から下りて來た者がある。紫の衣に朱の頭巾をかぶり、一劍を手にして立つてゐる。黑氣が霧のやうにその周圍に立ち騰るので、異樣な感じはしたものの、鄭は大體な男だから、わざと見て見ぬふりをしてゐると、先方から口を開いて、自分は上界の人であるが、足下が異劍を有せらるゝ由を聞いて參つた、ちょつと拜見させていたゞきたい、と云ふ。いや、これは凡鐡です、あなたのやうな上界の方が御覽になる代物(しろもの)ではありません、と取り合はずにゐたところ、その男は執拗に見せてくれ、と請求する。鄭は隙を窺つて斬り付けたが、打ち損ねた。忽ち男は所在を失し、然も黑氣は容易に去らず、數日を經て漸く散じた(酉陽雜俎)。この男の正髓はわからない。黑氣といふのが魔を連想せしめるが、忽然として姿が見えなくなつただけで、後の崇りはなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「鄭雲達」東洋文庫版訳では「鄭雲逵(ていうんき)」とし、これだと唐代の官人(?~八一〇年)。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷六」の「器奇」の中にある以下。

   *

鄭雲達少時、得一劍、鱗鋏星鐔、有時而吼。常在莊居、晴日藉膝玩之。忽有一人、從庭樹窣然而下、衣朱紫、虯髮、露劍而立、黑氣周身、狀如重霧。鄭素有膽氣、佯若不見。其人因言、「我上界人、知公有異劍、願借一觀。」。鄭謂曰、「此凡鐵耳、不堪君玩。上界豈藉此乎。」。其人求之不已。鄭伺便良久、疾起斫之、不中、忽墜黑氣著地、數日方散。

   *]

 

「廣異記」の破山劍はいはゆる「胡人採寶譚」の一である。或士人が畑から掘り出した劍を胡人が欲しいといふ。錢一千から百貫までせり上げたが、士人はなかなか承知しない。胡人の執心は非常なもので、市から士人の家までやつて來て、遂に百萬錢で契約が成り立ち、明日錢を持つて取りに來ます、と云つて歸つた。士人は土中から得た劍にそれほどの自信はなかつたので、胡人があまり欲しがるため、だんだん釣り上げて行つたに過ぎぬ。その晩妻と一緒に月を見ながら、こんなものにそんな價値があるものか、と云つて笑つたくらゐである。たまたま庭に帛を搗く石があり、劍の先をその方に向けたら、急に眞二つに割れたけれど、深く氣にも留めずに居つた。然るに夜が明けるのを待つて、錢を携へて束た胡人は、劍を見るなり歎息し、劍光が已に盡きてしまつた、一體どうしたのか、と云つて、もう買はうとしない。彼の云ふところによれば、これは破山劍といふもので、一度しか用ゐることが出來ない、自分はこれを用ゐて寶の山を破らうとしたのだが、今光鋩が盡きてゐるのを見れば、何か觸れるところがあつたのだらう、といふのである。士人夫妻は深く後悔して昨夜の話をした。胡人は鏡十千だけ拂つてこれを買つて行つた。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「器玩四」に「廣異記」から引いて「破山劍」と出る。

   *

近世有士人耕地得劍、磨洗詣市。有胡人求買、初還一千、累上至百貫、士人不可。胡隨至其家、愛玩不捨、遂至百萬。已尅明日持直取劍。會夜佳月、士人與其妻持劍共視。笑云。此亦何堪、至是貴價。庭中有搗帛石、以劍指之、石即中斷。及明、胡載錢至。取劍視之、嘆曰。劍光已盡、何得如此。不復買。士人詰之、胡曰。此是破山劍、唯可一用。吾欲持之以破寶山。今光鋩頓盡。疑有所觸。士人夫妻悔恨、向胡其事、胡以十千買之而去。

   *

 

 これは今までに出た殺人劍ではなしに、一山起すべき有利の劍である。かういふものが手に入れば、土中の鑛脈を掘り當てる如きは易々たるものであらう。符載の劍は一たび粽を切つて光りを失つたが、これも搗帛石を二つに割るといふ無意義な事のために光鋩盡き、倂せて破山の實を喪つた。魚石の話にもこれに類似の事がある。破山劍は一度しか用ゐられぬといふところに、甚深の意味があるやうな氣がする。

[やぶちゃん注:「魚石」先行する「魚石」を参照。]

 

 名劍の話を列擧して來て、最後に加へたいのが「列子」にある孔周の三劍である。一は含光、「之れを視て見るべからず、之れを遲らしてその有るを知らず」といふのだから、存在するかどうか不明と云つて差支へない。二は承影、明方とか夕方とかいふ時分に、北面してこれを見れば、淡々たる物が存するやうであるが、その形はわからず、物に觸れれば微かに音がするけれども、痛むやうなことはないといふ。こゝに至つて少しく感覺の世界に入るわけである。三は宵練、晝は則ち影を見て光りを見ず、夜は光りを見て形を見ず、物に觸れても痕跡を止めず、痛みはあつても血は出ない。この三劍は十三代持ち傳へてゐるが、一度も使用したことがないといふのである。父の敵(かたき)を討たうとする來丹なる者がこれを借りに來て、含光や承影ではいさゝかたよりない、宵練を拜借したいと云つた。孔周は來丹と共に七日間齋戒し、恭しく宵練を授けた。來丹これを提げて、敵の黑卵が醉つて寢てゐるところを、頭から腰まで三つに斬つたけれど、黑卵は少しも氣が付かない。十分に敵を討ち果したと思ひ、門のところまで出て來ると、黑卵の子が外から歸るのに遇つた。こゝに於て擊つこと三度、恰も空を切る如くである。黑卵の子は來丹が何でそんな眞似をするのかわからなかつた。來丹も孔周の名劍眞に人を殺す能はざるを知り、歎じて歸るとあるが、斬れない刀を敵討に用ゐるのは、擂木(れんぎ)で腹を切るのと一般でなければならぬ。黑卵は目がさめて後、何も掛けずに寢た爲、咽喉と腰が痛いと云ひ、その子もまた來丹に三度招かれたら身體が痛いと云つた。もしこの來丹の敵討を傍觀する者があつたとしたら、喜劇として噴飯する外はなかつたに相違ない。

[やぶちゃん注:「擂木(れんぎ)」連木。擂りこぎ棒のこと。「連木で腹を切る」「擂(す)り粉木(こぎ)で腹を切る」という諺が本邦にはあり、出来もしないこと・あり得ないことの譬え。因みに、「れんぎ」は主に本邦の西日本(中国・四国・北九州)での呼称である。

 以上は「列子」の「湯問」にある以下。来丹が黒卵に仇を討たんとして、三宝の剣を持つ衛の孔周に面会するまでの導入部を宵曲はカットしている。

   *

魏黑卵以暱嫌殺丘邴章。丘邴章之子來丹謀報父之讎。丹氣甚猛、形甚露、計粒而食、順風而趨。雖怒、不能稱兵以報之。恥假力於人、誓手劍以屠黑卵。黑卵悍志眾、力抗百夫、筋骨皮肉、非人類也。延頸承刀、披胸受矢、鋩鍔摧屈、而體无痕撻。負其材力、視來丹猶雛鷇也。來丹之友申他曰、「子怨黑卵至矣、黑卵之易子過矣、將奚謀焉。」。來丹垂涕曰、「願子為我謀。」。申他曰、「吾聞衛孔周其祖得殷帝之寶劍、一童子服之、卻三軍之衆、奚不請焉。」。來丹遂適衛、見孔周、執僕御之禮請先納妻子、後言所欲。孔周曰、「吾有三劍、唯子所擇。皆不能殺人、且先言其狀。一曰含光、視之不可見、運之不知有。其所觸也、泯然无際、經物而物不覺。二曰承影、將旦昧爽之交、日夕昏明之際、北面而察之、淡淡焉若有物存、莫識其狀。其所觸也、竊竊然有聲、經物而物不疾也。三曰宵練、方晝則見影而不見光、方夜見光而不見形。其觸物也、騞然而過、隨過隨合、覺疾而不血刃焉。此三寶者、傳之十三世矣、而无施於事。匣而藏之、未嘗啓封。」。來丹曰、「雖然、吾必請其下者。」。孔周乃歸其妻子、與齋七日。晏陰之閒、跪而授其下劍、來丹再拜受之以歸。來丹遂執劍從黑卵。時黑卵之醉、偃於牖下、自頸至腰三斬之。黑卵不覺。來丹以黑卵之死、趣而退。遇黑卵之子於門、擊之三下、如投虛。黑卵之子方笑曰、「汝何蚩而三招予。」。來丹知劍之不能殺人也、歎而歸。黑卵既醒、怒其妻曰、「醉而露我、使我嗌疾而腰急。」。其子曰、「疇昔來丹之來。遇我於門、三招我、亦使我體疾而支彊、彼其厭我哉。」。

   *]

 

 非常にすぐれた劍客で、生涯一人も人を斬らぬといふ話がある。干將莫耶から孔周の三創に目を移せば、或はこれが劍の至れるものなのかも知れぬ。倂し一面から考へれば、美しい衣服を身に著けたつもりで街頭に出た裸の王樣の如く、來丹は孔周に愚弄されたと解せられぬこともない。復讎の愚を喩(さと)すために、ありもせぬ劍を與へたのだといふ風に見て來ると、話が急に理窟つぽくなつて興味索然とする。やはりさういふ神變不思議の名劍があつたことにして置いた方がよからう。

柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その2)

 

 この話はいつ頃日本に傳はつたものか知らぬが、全部が「太平記」のやうに書いてあると考へては間違ひを生ずる。平康賴の書いたといふ「寶物集」は大體同じやうな事だけれど、最後に三つの頭の鼎の中でぐるぐる巡る樣を、巴にかたどつたといふ一項が加へられてゐる。更に時代の古い「今昔物語」を見ると、眉間尺の頸を持參した者は干將の友人ではない。楚王の命を受けた使が山中で眉間尺に逢ひ、自分は君の頸と劍とを尋ねる者だと云つたら、眉間尺自ら頸を斬つて與へたことになつてゐる。この邊からして已にわからぬのに、楚王の頸は糊付けか何かのやうに、鼎の中を窺ふ時に自然と落ちるのである。二つの頸の食ひ合ふのを見て、頸を持參した使が眉間尺を弱らせんがために劍を鼎に投ずるのはいゝとして、使の頸もまた自然に落ちる。「三ノ頭交リ合テ何卜云フコトヲ知ラズ」といふのだから、勿論巴の由來などはない。かういふ場合はあまり諸書を參酌しない方がいゝかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「寶物集」(ほうぶつしふ)は白河院の近臣で鹿ヶ谷 (ししがたに) の議に参加して俊寛らとともに鬼界ヶ島に流されたが、翌年には許されて帰り、仏門に入った平康頼著(生没年未詳 法名:性照)の著。治承年間(一一七七年~一一八一年)頃の成立か。嵯峨の釈迦堂に於ける会話の聞書の形式を採り、多くの説話を例に引きながら仏法を説いた仏教説話集。そうした構成のため、引用話は独立した章としては書かれていない。当該話柄は「卷五」の「楚王干將を殺す 付 介之推(かいしすい)が文公を恨みし事」の前半部。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来た。当該箇所も短いので、当該部(前を少しだけ付随させた)を視認して以下に電子化しておく。

   *

楚王の干將が劔をせめし[やぶちゃん注:「責めし」。]終りに。眉間尺が恨を蒙り。夫差の伍員(ごうん)を失ふ末に越王勾踐に亡さる。周伯夷が首陽山に飢えし。武王の仁いつくしみ)の心がなきが故なり。介子推(かいしすい)が綿上山に燒けし。文公の政を恨みしなり。楚王干將といふ鍛治に劔を責め給ひて。干將が首を刎ねられしかぱ。その子の眉間尺といひし者。憤を舍みて父の怨を報ぜんとしけるに。干將が古の朋友の人憐みて。其に謀りていはく。汝その劔頭を三寸瞰ひ切り口中に含んで死すべし。我れ汝が首を持ちて楚王に獻せば。王心解けて汝が首を見給ふべし。その時口に含める劔の頭を楚王に吐懸けて。共に怨を謝すべしとぞ申しける。眉間尺是を聞き大に悦び。劔頭を口に含みて自ら己が首を撥(はね)落し。舊友の前にぞ置きたりける。朋友その首を楚王に獻すれば。王喜んで獄門に掛けらるゝに。三月までその首その目を怒らし齒を食ひしばり。常に齒がみを爲しける程に。楚王恐れて鼎に入れて七日七夜煎らる。楚王鼎の蓋を明けさせ見給ふに。彼の含める劔頭を潑(はつ)と吐懸けつれば。その劔あやまたず楚王の頭の骨を切り落し。鼎の中にて王の頭と眉間尺が頭と。上に成り下に成り喰合ひけるに。動もすれぱ眉間尺が頭喰ひ負けぬべう見えければ。朋友自ら己が首を撥(はね)落し鼎の中に入れ。諸共に楚王の頭を喰破りて。眉間尺が頭は死の後父の怨を報ずと呼(よば)はり。朋友の首は。泉下に朋友の恩を謝すと悦び聲して。後共に煎爛(にえくさ)りにけり。その三の頭の鼎の中にして巡る樣を。巴には形どれる共申し給ひるめれ。

   *

「今昔物語集」のそれは「巻第九」の「震旦莫耶造釼献王被殺子眉間尺語第四十四」(震旦(しんだん)の莫耶(まくや)、釼(つるぎ)を造りて王に献じたるに、子の眉間尺を殺されたる語(こと)第四十四)である。標題はママであるが、言葉が足らず、内容を充分に伝えるものとなっていない。□は欠字。

   *

 今は昔、震旦の□□代に莫耶と云ふ人、有りけり。此れ、鐡(くろがね)の工(たくみ)也。

 其の時に、國王の后、夏の暑さに不堪(たへ)ずして、常に鐡の柱を抱き給ふ。而る間、后、懐妊して産せり。見れば、鐡の精(たま)を生(しやう)じたり。国王、此の事を怪び給ひて、

「此れは何(いか)なる事ぞ。」

と問ひ給へば、后の云く、

「我れ、更に犯す事、無し。只、暑さに不堪ずして、鐡の柱をなむ、常に抱(いだ)きし。若(も)し、其の故に有る事にや。」

と。國王、

「其の故也けり。」と思ひ給て、彼の鐡の工、莫耶を召して、其の生じたる鐡を以て、寶の釼(つるぎ)を造らしめ給ふ。

 莫耶、其の鐡を給はりて、釼を二つ造りて、一つをば國王に奉りつ。一つをば隱して置きつ。國王、其の莫耶が奉れる所の一つの釼を納めて置き給ひたるに、其の釼、常に鳴る。國王、此れを怪しび給ひて、大臣に問ひ給ふ。

「此の釼の鳴る、何(いか)なる事ぞ。」

と。大臣、申して云く、

「此の釼の鳴る事は、必ず樣(やう)有るべし。此の釼、定めて夫妻(めをと)二つ有るらむか。然れば、一を戀ひて鳴る也。」

と。

 國王、此れを聞きて、大きに嗔(いか)りて、忽ちに莫耶を召して、罪を行はむと爲るに、未だ其の召使の莫耶が所に不至(いたらざ)る前に、莫耶、妻に語りて云く、

「我れ、今夜(こよひ)、惡しき相(さう)を見つ。必ず、國王の使ひ、來らむとす。我れ、死せむ事、疑ひ無し。汝が懷妊する所の子、若し、男子ならば、勢長(せいちやう)の時に、『南の山の松の中を見よ』と語るべし。」

と云ひて、北の門より出でて、南の山に入りて、大きなる木の中に隱れて、遂に死にけり。

 其の後、妻、男子を生ぜり。其の子、十五歳に成る時に、眉間、一尺有り。然れば、名を「眉間尺」と付きたり。母、父の遺言を具さに語る。子、母が教への如く行きて見れば、一つの釼(つるぎ)、有り。此れを取りて、

「父の敵(かたき)を報ぜむ。」

と思ふ心、有り。

 而る間に、國王、夢に見給ふ樣(やう)、眉間一尺有る者、世に有りて、謀叛(むほん)して、我れを殺害(せつがい)せむとすと。

 夢覺めて、恐(お)ぢ怖れて、卽ち、四方に宣旨を下して、

「世に眉間一尺有る者、定めて有らむ。其れを捕へて奉れ。若(も)しは、其の頸を取りて奉らむ者には、千金を與へ、賞を給ふべし。」

と。

 其の時に、眉間尺、此の事を自然(おのづか)らに聞きて、逃げ隱れて、深き山に入りぬ。宣旨を奉りたる輩(ともがら)は、足手を運びて、四方に伺ひ求むる間、眉間尺、山の中にして、此の使に會ひぬ。使、見るに、眉間一尺有る者有り。喜びて、問ひて云く、

「君は眉間尺と云ふ人か。」

と。答へて云く、

「我れ、然(しか)也。」

と。使の云く、

「我等、宣旨を奉(うけたま)はりて、君が頭(かしら)と、持ちたる所の釼とを尋(たづぬ)る也。」

と。其の時に、眉間尺、自ら釼を以つて、頭(かしら)を斬りて、使に與へつ。使、頭を得て、返りて、國王に奉る。国王、喜び給ひて、使に賞を給ふ。

 其の後、眉間尺が頭を使に給へて、

「速かに此れを可煮失(にうしなふべ)き也。」

と仰せ給ふ。使、仰せの如くに、其の頭を鑊(かなへ)に入れて、七日、煮るに、全く不亂(みだれ)ず[やぶちゃん注:煮崩れない。]。其の由を奏すれば、國王、怪しび給ひて、自ら鑊の所に行きて、見給ふ間に、國王の頭(かしら)、自然(おのづか)ら落ちて、鑊の中に入りぬ。二つの頭、咋(く)ひ合ひ諍(あらそ)ふ事、限り無し。使、此れを見て、

「奇異也。」

と思ひて、眉間尺が頭(かしら)を弱らしめむが爲に、釼(つるぎ)を鑊(かなへ)の中に擲(な)げ入る。

 其の時に、二の頭(かしら)、共に亂れぬ。使、亦、鑊(かなへ)の中を見る間に、亦、使の頭、自然(おのづか)ら落ちて、鑊の中に入りぬ。然れば、三(みつ)の頭、交はり合ひて、何と云ふ事を不知(しら)ず。此れに依りて、一つの墓を造りて、三の頭(かしら)を葬(はふ)りしてけり。

 其の墓、于今(いまに)尚(なほ)、宜春縣と云ふ所に有るとなむ、語り傳へたるとや。

   *]

2017/06/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「名劍」(その1)

 

 名劍

 

 支那の名劍として最も日本人に知られてゐるのは干將鏌耶(かんしやうばくや)の劍であらう。先づ雌雄の二劍を打出したのを、妻のすゝめに從ひ、雌劍をどこかへ隱して雄劍だけを楚主に獻ずる。雄劍が劍匣の中で悲啼の聲を發するため、群臣の意見を問はれたところ、雌雄あるものの一所にあらざる故であらうといふことになり、第一に干將が頸を刎ねられる。その子が眉間尺(みけんじやく)で、十五の時に父の遺書を讀んで雌劍の所在を知り、楚王に對し恨みを晴らさうとする。その時干將の友人なる者が來て、汝父の讎を報いんとならば、その劍の先三寸を食ひ切り、口中に含みて死すべし、我れ汝の頸を取つて楚王に獻ぜん、王悦んで汝の頸を見る時、劍の先を吹きかくべし、といふ助言を與へた。眉間尺その言に從ひ自ら頸を刎ね、計畫通り楚王に獻じたけれど、容易にその頸を近付けぬ。鼎(かなへ)に入れて七日七夜煮た上、楚王が鼎の蓋を取つて中を窺ふ時、あやまたず劍の先を吹きかけて、楚王の頸を打ち落した。それから鼎の中で頸同士の學びになつたが、眉間尺の方が形勢が惡い。干將の友人も自分の頸をかき落し、眉間尺に協力して楚王の頸を食ひ破つたとある。「太平記」あたりにも出てゐる有名な話であるが、一劍の故に四人まで頸を失ふのは尋常一樣の出來事ではない。劍の凶器である所以を證明すべき好材料であらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「干將鏌耶」は現行では干將(干将)・莫耶と表記することが多い。伝承によってその内容に変化が大きい。現存するもので最も古いものは、後漢初期の趙曄(ちょうよう)の書いた歴史書「呉越春秋」のそれであるが、少なくとも現在の同書には後半部の圧巻の復讐譚は存在せず、「王」も楚王ではなく、かの「臥薪嘗胆」で有名な、後に越王勾践に滅ぼされてしまう呉王闔閭(こうりょ)という設定で、魯の使者がこの剣を見、呉の不吉な将来を予知するところで物語は終わっている。その辺りの違いはウィキの「干将・莫耶」が判り易くよく纏められてあるので参照されたいが、基本、名剣の名となる「干將」と「莫耶」は、もともとは刀鍛冶の男干將とその妻莫耶の名である。宵曲が梗概の原拠としたものが何であるかちょっと判然としないが、恐らくは本伝承の中でも最も人口に膾炙しているものは、東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」に載る以下の話である。少なくとも、私が高校時代に最初に本話を現代語訳で読んだのはそれであったし、今でも放課後の誰もいない図書館で、読み終わって後、何かひどく心打たれたのを覚えているのである。

   *

楚干將莫邪爲楚王作劍、三年乃成、王怒、欲殺之。劍有雌雄、其妻重身、當、夫語妻曰、「吾爲王作劍、三年乃成。王怒、往、必殺我。汝若生子、是男、大、告之曰、『出、望南山、松生石上、劍在其背。』。」。於是卽將雌劍往見楚王。王大怒、使相之、劍有二一雄、一雌、雌來、雄不來。王怒、卽殺之。莫邪子名赤、比後壯、乃問其母曰、「吾父所在。」。母曰、「汝父爲楚王作劍、三年乃成、王怒、殺之。去時囑我、『語汝子。出戸、往南山、松生石上、劍在其背。』。」。於是子出戸、南望、不見有山、但睹堂前松柱下石砥之上、卽以斧破其背、得劍。日夜思欲報楚王。王夢見一兒、眉間廣尺、言欲報讎。王卽購之千金。兒聞之、亡去、入山、行歌。客有逢者。謂、「子年少。何哭之甚悲耶。」。曰、「吾干將莫邪子也。楚王殺吾父、吾欲報之。」。客曰、「聞王購子頭千金、將子頭與劍來、爲子報之。」。兒曰、「幸甚。」。卽自刎、兩手捧頭及劍奉之、立僵。」。客曰、「不負子也。」。於是屍乃仆。客持頭往見楚王、王大喜。客曰、「此乃勇士頭也。當於湯鑊煮之。」。王如其言。煮頭三日、三夕、不爛。頭踔出湯中、躓目大怒。客曰、「此兒頭不爛、願王自往臨視之、是必爛也。」。王卽臨之。客以劍擬王、王頭隨墮湯中。客亦自擬己頭、頭復墮湯中。三首俱爛、不可識別。乃分其湯肉葬之。故通名三王墓。今在汝南北宜春縣界。

   *

思い出の作品なので、敢えて自然流で書き下してみる。東洋文庫版の竹田晃氏の現代語訳を訓読する際の参考にした。

   *

 干將莫耶、楚王の爲に劍を作り、三年にして、乃(すなは)ち成る。王、怒りて、之れを殺さんと欲す。劍に雌雄有り。其の妻、重身にして、産に當る。夫、妻に語りて曰く、

「吾、王の爲に劍を作り、三年にして、乃ち、成る。王、怒りて、往かば、必ず、我を殺さん。汝、若し、子を生みて、是れ、男ならば、大なるときは、之れに告げて曰く、『戸を出でて、南山を望まば、松、石上(せきしやう)に生ず。劍、其の背に在り。』と。是(ここ)に於いて、卽ち、雌劍(ゆうけん)を將(も)ちて往き、楚王に見(まみ)ゆ。王、大いに怒りて、之れを相(しやう)[やぶちゃん注:占って調べる。]せしむるに、「劍、二つ有り、一(いつ)は雄(おす)、一は雌(めす)なり。雌、來たるも雄、來らず。」と。王、怒りて、卽ち、之れを殺す。莫邪の子、赤と名づく。壯たらん比後(ひご)[やぶちゃん注:青年となった頃おい。]、乃ち、其の母に問ひて曰く、

「吾が父の在る所はいづくぞ。」

と。母、曰く、

「汝の父、楚王の爲に劍を作り、三年にして、乃ち、成る。王、怒りて、之れを殺す。去る時、我に囑(しよく)すに[やぶちゃん注:頼んだことには。言伝てたことには。]、『汝の子に語れ。戸を出でて、南山に往かば、松、石上に生ず。劍、其の背に在り。』と。」

と。

 是に於いて、子、戸を出でて、南を望む。山、有るを見ず、但だ、堂前の松、柱の石砥(せきと)[やぶちゃん注:柱を支えるための礎石。]の上に下(さが)れるを覩(み)る。卽ち、斧を以つて其の背を破り、劍を得(う)。

 日夜、思ひて、楚王に報ひんと欲す。

 楚王、夢に一兒を見たり。眉間(みけん)、廣きこと、尺[やぶちゃん注:東晋の一尺は二十四・四五センチメートル。]にして、

「讎(あだ)を報(むく)はんと欲す。」

と言ふ。

 王、卽ち、之れを千金に購(あがな)ふ[やぶちゃん注:千金の報奨金を掲げて探させた。]。

 兒、之れを聞きて、亡(に)げ去り、山に入りて行歌(かうか)す。

 客[やぶちゃん注:旅人。]、逢ふ者、有り。謂(いは)く、

「子、年、少(わか)し。何ぞ哭(こく)すること、甚だ、悲しきや。」

と。曰く、

「吾は干將莫邪が子なり。楚王、吾が父を殺す。吾、之れに報はんと欲す。」

と。客、曰く、

「王、子が頭(かうべ)を千金に購ふと聞く。子が頭と劍とを將ちて來たり、子の爲に之れに報ひん。」

と。兒、曰く、

「幸甚なり。」

と。卽ち、自刎(じふん)し、兩手に頭及び劍を捧げて之れを奉じ、立ちながらにして僵(けう)す[やぶちゃん注:立ったままで硬直して死んだ。]。

 客、曰く、

「子に負(そむ)かざるなり。」[やぶちゃん注:「そなたのその心意気、これ、決して、ないがしろには、せぬぞ。」。]

と。是に於いて、屍(かばね)、乃ち、仆(たふ)る。

 客、頭を持ち、往きて、楚王に見(まみ)ゆるに、王、大いに喜ぶ。

 客、曰く、

「此れ、乃(すなは)ち、勇士の頭なり。當に湯鑊(たうかく)[やぶちゃん注:沸騰した湯を入れた足のない大釜。]に於いて、之れを煮るべし。」

と。

 王、其の言(げん)のごとくす。

 頭を煮ること三日、三夕(せき)なるも爛(ただ)れず[やぶちゃん注:一向に爛れもせず、煮えもしない。]。頭、湯中より踔出(たくしゆつ)し[やぶちゃん注:撥ね上がって飛び出し。]、躓目(ちもく)して[やぶちゃん注:苦痛に目を歪めるの意か。訳す際は「目を怒らせて」でよかろう。]大いに怒る。

 客、曰く、

「此の兒の頭、爛れず。願はくは、王、自ら、往きて、之れを臨視(りんし)せんことを。是れ、必らずや、爛るるなり。」

と。王、卽ち、之れに臨む。客、劍を以つて、王を擬(う)ち、王の頭、隨ひて[やぶちゃん注:それと同時に。]、湯中(たうちう)に墮(お)つ。

 客、亦た、自(みづか)ら、己(おの)が頭を擬(う)ち、頭、復た、湯中に墮つ。

 三首、倶に爛れ、識別すべからず。乃ち、其の湯の肉を分ちて[やぶちゃん注:残った肉を適当に三つに分けて。]、之れを葬れり。故に、通(つう)じて[やぶちゃん注:(誰が誰の首(の肉)であるか判らぬので)一纏めにして。]「三王が墓」と名づけり。今、汝南の北、宜春縣が界(さかひ)に在り。[やぶちゃん注:現在の江西省宜春市。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

   *

『「太平記」あたりにも出てゐる有名な話』「太平記」の「卷第十三」の「兵部卿(ひやうぶきやう)の宮薨御(こうぎよ)の事 付けたり 干將莫耶が事」である。所謂、中先代(なかせんだい)の乱(建武二(一三三五)年七月に故鎌倉幕府第十四代執権北条高時の遺児時行(ときゆき)が御内人の諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱)によって、大塔の宮守良(もりなが)親王が鎌倉から落ちる足利直義の命により殺害されてしまうシークエンスに挿入されているものである。メイン・ストーリーは私の好きな話であり、全体はかなり長いが、「干將莫耶が事」自体が三分の二弱なので、敢えて全部を引く。その代り、細かな注は附さぬ。

   *

左馬頭(さまのかみ)、既に山の内を打過給ける時、淵邊(ふちべ)伊賀守を近付けて宣ひけるは、[やぶちゃん注:以下、直義の台詞。]

「御方(みかた)、無勢に依つて、一旦、鎌倉を引き退くと雖も、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓(やが)て又、鎌倉へ寄せんずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可踵(くびす)を囘(めぐ)らすべからず[やぶちゃん注:時を要することはあるまい。]。猶も只、當家の爲に、始終讎(あた)と成らるべきは、兵部卿親王(しんわう)なり。此御事(このおこと)、死刑に行なひ奉れと云ふ勅許はなけれども、此の次(つい)でに、只、失ひ奉らばやと思ふなり。御邊(ごへん)は急ぎ藥師堂が谷(やつ)へ馳せ歸つて、宮(みや)を刺し殺し進(まゐ)らせよ。」

と下知せられければ、淵邊(ふちべ)、畏(かしこま)つて、

「承はり候。」

とて、山の内(やまのうち)より、主從七騎、引き返して、宮の坐(ましま)しける牢(らう)の御所(ごしよ)へ參りたれば、宮は、いつとなく、闇の夜(よ)の如くなる牢の中に、朝(あした)に成りぬるをも知らせ給はず、猶、燈(ともしび)を挑(かか)げて御經あそばして御坐(ござ)有りけるが、淵邊が御迎ひに參りて候ふ由を申して、御輿(おんこし)を庭に舁(か)き居(す)ゑたりけるを御覽じて、

「汝は我を失はんとの使ひにてぞ有るらん。心得たり。」

仰せられて、淵邊が太刀を奪はんと、走り懸からせ給ひけるを、淵邊、持つたる太刀を取り直し、御膝(おんひざ)の邊りをしたゝかに打ち奉る。宮は半年許り牢の中に居屈(ゐかがま)らせ給ひたりければ、御足(おんあし)も快よく立たざりけるにや、御心(おんこころ)は、やたけに思召しけれども、覆(うつぶ)しに打ち倒され、起き上がらんとし給ひける處を、淵邊、御胸の上に乘り懸かり、腰の刀を拔いて御頸(おんくび)を搔かんとしければ、宮、御頸を縮めて、刀のさきを、しかと、呀(くは)へさせ給ふ。淵邊、したたかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引き合ひける間(あひだ)、刀の鋒(きつさき)一寸餘り折れて失せにけり。淵邊、其刀を投げ捨て、脇差(わきざし)の刀を拔いて、先(まづ)、御心(おんむな)もとの邊(へん)を、二刀(ふたかたな)、刺す。刺されて、宮、少し弱らせ給ふ體(てい)に見へける處を、御髮を摑んで引き上げ、則ち、御頸を搔き落とす。牢の前に走り出でて、明(あか)き所にて御頸を見奉るに、噬(く)ひ切らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とど)まつて、御眼(おんまなこ)、猶、生きたる人の如し。淵邊、是を見て、

「さる事あり。加樣(かやう)の頸をば、主(しゆ)には見せぬ事ぞ。」

とて、側(かたはら)なる藪の中へ、投げ捨ててぞ歸りける。

 去る程に、御介錯(おんかいしやく)の爲に、御前に候はれける南(みなみ)の御方(おかた)、此の有樣を見奉(みたてまつ)て、餘りの恐しさと悲しさに、御身(おんみ)もすくみ、手足もたたで坐(ましま)しけるが、暫く肝(きも)を靜めて、人心(ひとごころ)付きければ、藪に捨てたる御頸を取り上げたるに、御膚(おんはだへ)も、猶、冷(ひ)えず、御目も塞(ふさ)がせ給はず、只、元(もと)の御氣色(ごきしよく)に見へさせ給へば、

「こは、若し、夢にてや有らん、夢ならば、さむるうつつのあれかし。」

と泣き悲しみ給ひけり。遙かに有(あつ)て理致光院(りちくわうゐん)の長老、

「斯(かか)る御事(おんこと)と承り及び候。」

とて葬禮の御事(おんこと)、取り營み給へり。南の御方は、軈(やが)て、御髮おろされて、泣く泣く、京(きやう)へ上(のぼ)り給ひけり。

 抑(そもそも)淵邊が宮(みや)の御頸(おんくび)を取りながら、左馬頭殿に見せ奉らで、藪の傍らに捨てける事、聊か思へる所あり。昔、周の末(すゑ)の代(よ)に、楚王と云ひける王、武を以つて天下を取らん爲に、戰ひを習はし劍(けん)を好む事、年、久し。或る時、楚王の夫人、鐵(くろがね)の柱に倚傍(よりそ)ひてすゞみ給ひけるが、心地、ただならず覺えて忽ちに懷姙したまひけり。十月(とつき)を過ぎて後、産屋(うぶや)の席に苦しんで一つの鐵丸(てつぐわん)を産み給ふ。楚王、是を怪しとしたまはず、

「如何樣(いかさま)、是れ金鐵(きんてつ)の精靈(せいれい)なるべし。」

とて、干將と云ひける鍛冶(かぢ)を召され、此の鐵(くろがね)にて寶劍を作つて進(まゐ)らすべき由を仰せらる。干將、此の鐵を賜はつて、其の妻の莫耶と共に呉山(ござん)の中に行きて、龍泉の水に淬(にぶ)らして[やぶちゃん注:焼き入れをして。]、三年が内に雌雄(しゆう)の二劍(にけん)を打り出だせり。劍、成つて未だ奏せざる前(さき)に、莫耶、干將に向つて云ひけるは、

「此の二つの劍(けん)、精靈(せいれい)、暗(あん)に通じて、坐(ゐ)ながら、怨敵(をんでき)を滅ぼすべき劍也。我[やぶちゃん注:汝。]、今、懷姙せり。産む子は必ず猛(たけ)く勇(いさ)める男なるべし。然(しか)れば一つの劍をば、楚王に獻(たてまつ)るとも、今一つの劍をば、隱して我は子に與へたまふべし。」

と云ひければ、干將、莫耶が申すに付いて、其の雄劍一つを楚王に獻じて、一つの雌劍(しけん)をば、未だ胎内にある子の爲に、深く隱してぞ置きける。

 楚王、雄劍を開いて見給ふに、誠(まこと)に精靈(せいれい)有りと見へければ、箱の中に收めて置かれたるに、此の劍、箱の中にして、常に悲泣(ひきふ)の聲あり。楚王、怪みて群臣に其の泣く故を問ひ給ふに、臣、皆、申(まう)さく、

「此の劍、必ず、雄(ゆう)と雌(し)と二つ有るべし。其の雌雄、一所(いつしよ)に在らざる間、是れを悲しんで泣く者也。」

とぞ奏しける。

 楚王、大きに忿(いか)つて、則ち、干將を召し出され、典獄の官に仰(おほ)せて頸を刎ねられけり。

 其の後(のち)、莫耶、子を生めり。面貌、尋常(よのつね)の人に變つて長(たけ)の高き事、一丈五尺[やぶちゃん注:本邦の換算なら四メートル五十四センチメートル。]、力は五百人が力を合はせたり。面(おもて)、三尺(さんじやく)有つて、眉間(みけん)一尺有りければ、世の人、其の名を眉間尺(みけんじやく)とぞ名付けける。

 年十五に成りける時、父が書き置きける詞(ことば)を見るに、

 

  日出北戸南山其松 松生於石劍在其中

(日 北戸(ほくこ)に出づ 南山に其の松あり 松 石に生ず 劍 其の中に在り)

 

と書けり。

「さては此の劍、北戸の柱の中に在り。」

と心得て、柱を割つて見るに、果たして一つの雌劍あり。眉間尺、是れを得て、

「哀れ、楚王を討ち奉つて、父の仇(あた)を報ぜばや。」

と思ふ事、骨髓に徹(とほ)れり。

 楚王も眉間尺が憤りを聞き給ひて、彼、世にあらん程は、心安からず思はれければ、數萬(すまん)の官軍を差し遣はして、是れを責められけるに、眉間尺一人が勇力(ゆうりき)に摧かれ、又、其の雌劍の刃(やいば)に觸れて、死傷する者、幾千萬と云ふ數(かず)を知らず。斯(かか)る處に、父干將が古への知音(ちいん)なりける甑山人(そうさんじん)、來(きたつ)て、眉間尺に向つて云ひけるは、

「我れ、汝が父干將と交はりを結ぶ事、年久しかりき。然(しか)れば、其の朋友の恩を謝せん爲(ため)、汝と共に楚王を討ち奉るべき事を謀るべし。汝、若し、父の仇(あた)を報ぜんとならば、持つところの劍の鋒(きつさき)を三寸(さんずん)、嚼(く)ひ切つて口の中に含んで死すべし。我、汝が頸を取つて楚王に獻ぜば、楚王、悦んで、必ず、汝が頸を見給はん時、口に含める劍のさきを楚王に吹き懸けて、共に死すべし。」

と云ひければ、眉間尺、大きに悦んで、則ち、雌劍の鋒(きつさき)三寸、喫(く)ひ切つて、口の内に含み、自(みづか)ら己(おのれ)が頸をかき切つて、客(かく)の前にぞ指し置きける。

 客、眉間尺が頸を取つて、則ち、楚王に奉る。楚王、大きに喜びて、是れを獄門に懸けられたるに、三月(みつき)まで其の頸、爛れず、目をみはり、齒をくひしばり、常に齒喫(が)みをしける間(あひだ)、楚王、是れを恐れて敢て近づき給はず。

 是れを鼎(かなへ)の中(なか)に入れ、七日七夜までぞ、煮られける。

 餘りにつよく煮られて、此の頸、少し爛れて、目を塞ぎたりけるを、

「今は子細、非じ。」[やぶちゃん注:「最早、大事あるまい。」。]

とて、楚王、自ら、鼎の蓋(ふた)を開けさせて、是れを見給ひける時、此の頸、口に含んだる劍(けん)の鋒(きつさき)を、楚王に、はつと、吹き懸け奉る。

 劍の鋒、誤らず、楚王の頸の骨を切りければ、楚王の頸、忽まちに落ちて、鼎の中へ入りにけり。

 楚王の頸と眉間尺が頸と、煎え揚(あ)がる湯の中(なか)にして、上になり、下に成り、喫ひ相(あ)ひけるが、ややもすれば、眉間尺が頸は下に成つて、喫ひ負けぬべく見へける間、客(かく)、自ら、己(おのれ)が頸を搔き落して鼎の中へ投げ入いれ、則ち、眉間尺が頸と相ひともに、楚王の頸を喫ひ破つて、眉間尺が頸は、

「死して後(のち)、父の仇(あた)を報じぬ。」

と呼ばはり、客(かく)の頸は、

「泉下(せんか)に朋友の恩を謝しぬ。」

と悦ぶ聲して、共に皆、煮え爛れて失せにけり。

 此の口の中に含んだりし三寸の劍、燕の國に留まつて太子丹(たいしたん)が劍となる。太子丹、荊軻(けいか)・秦舞陽(しんぶやう)をして秦の始皇を伐たんとせし時、自(みづか)ら差圖の箱の中(なか)より飛び出でて、始皇帝を追ひ奉りしが、藥の袋を投げ懸けながら、口(くち)六尺の銅(あかがね)の柱の半(なか)ばを切つて、遂(つひ)に三つに折れて失せたりし匕首(ひしゆ)の劍(けん)、是れ也。

 其の雌雄二つの劍は干將莫耶の劍と云はれて、代々の天子の寶(たから)たりしが、陳(ちん)の代(よ)に至つて[やぶちゃん注:この辺り以降、登場人物と歴史的時制は齟齬する。]、俄かに失せにけり。或る時、天に一つの惡星(あくせい)出でて、天下の妖(えう)を示す事あり。張華(ちやうくわ)・雷煥(らいくわん)と云ひける二人(ににん)の臣、樓臺に上(のぼ)つて此の星を見るに、舊(ふる)き獄門の邊(へん)より、劍(けん)の光り、天に上(のぼ)つて惡星と鬪かふ氣あり。張華、怪しんで、光の指(さ)す所を掘らせて見るに、件(くだん)の干將莫耶の劍、土(つち)五尺(ごしやく)が下に埋(うづ)もれてぞ殘りける。張華・雷煥、是れを取つて天子に奉らん爲に、自(みづか)ら是れを帶(たい)し、延平津(えんぺいしん)と云ふ澤(さわ)の邊(へん)を通りける時、劍、自(みづか)ら拔けて、水の中(なか)に入りけるが、雌雄二つの龍(りゆう)と成つて遙かの浪(なみ)にぞ沈みける。

 淵邊、加樣(かやう)の前蹤(せんじよう)[やぶちゃん注:故事。]を思ひければ、兵部卿親王の刀の鋒(きつさき)を喫ひ切らせ給ひて、御口の中に含まれたりけるを見て、左馬頭に近か付け奉らじと、其の御頸をば藪の傍らに棄てけるとなり。

   *]

 

急告! 芥川龍之介が死の床で着ていた中国産浴衣は現存するか?

芥川龍之が愛用し、死後の作品集「大導寺信輔の半生」で小穴隆一が装幀にその図柄を用いたと推定される――私の「推理:芥川龍之介の死出の旅路の浴衣の背中の紋様は、これではないか?」を参照のこと――死の床で着ていた中国産浴衣は現存するか? 芥川龍之介を研究しておられる若きスペインの研究家が著作の資料のために現存すれば見たいとメールしてこられた。現存し、その所蔵者を知っておられる方は、是非、お教え願いたい。

 
Siyukata


2017/06/13

「想山著聞奇集 卷の五」 「※蚯蚓(はねみみず)、蜈蚣と變ずる事 幷、蜊、蟹と化する事」

 

 蚯蚓(はねみゝず)、蜈蚣(むかで)と變ずる事

  幷、蜊(あさり)、蟹(かに)と化(け)する事

 

[やぶちゃん字注:「」=「虫」+「發」。本文のそれも同じ。]

 

Mimizumukadetonaru

 

[やぶちゃん注:以下、上段左右の、下段左右のそれぞれのキャプション。]

 

鳥居吉右衞門の見たるは、斯(かく)のごとく靑みゝずに、蜈蚣の足、生居(はえゐ)たりと也。

 

佐枝何(さえだ)某(なにがし)の見たるは、斯の如く頭(かしら)の方(かた)はむかでとなりて、尾のかたは未だみゝずにて、足も頭の方はよく生じ、尾の方は漸(やうや)く少し生(しやう)じ居たりとなり。

 

 爵(すゞめ)、大水に入(いつ)て蛤(はまぐり)と成(なり)、雉(きじ)、又、蜃(おほはまぐり)と成、鷹(たか)、化(け)して鳩と成の類(るゐ)は、月令(がつれい)に載る所、螂蛆(うじ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の蒼蠅と成、蠶(かひこ)の蝶と成の類は、衆人の見る所にして、珍敷(めづらし)からず。蟹蜷(がうな)の手長海老と成、田打蟹(たうちがに)の岡蝦虎魚(をかはぜ)[やぶちゃん注:四字へのルビ。]と成の類は、物産家の誰(たれ)やらんに聞置たれども、餘りの變化(へんくわ)、不審にも思ひ居(ゐ)しに、が友、佐枝何某は、我(わが)尾張の國津嶋にて、はね蚯蚓の【尾張にては飛蚯蚓(とびみゝず)と云(いう)を蒼き色をおびて飛(とびはね)る蚯蚓あり。水に投じても魚の食はざる蚯蚓なり。】蜈蚣と成懸(なりかゝ)りたるを見てより、はね蚯蚓がきらひに成たりとの咄し。又、鳥居吉右衞門も名古屋建中寺前にて、【津嶋とは六里及(および)も場所隔てり。】兩度迄見たりとて咄したり。は名古屋にて人となりたれど、一度も變ずる所を見ざる故、か程に慥成(たしかなる)咄を聞(きゝ)ても、不審の事に思ふは、のみにもかぎるまじきか。仍(よつ)て其變化(へんげ)の圖を乞(こひ)て載せ置(おく)也。國により所によりては、いくらも有(ある)事にや。猶、きかまほし。

[やぶちゃん注:「蚯蚓(はねみゝず)」(「」=「虫」+「發」)「靑みゝず」「飛蚯蚓」これはその独特の色、及び、高度な運動性能から見て、日本のミミズの中の最大種の一つとされ、日本固有種でもある、濃紺色を呈し、見方によってはかなり鮮やかな(というかエグい)青或いは青紫にも見える

環形動物門貧毛綱ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi

と同定したい。但し、残念なことに私は自然界で同種を現認したことはないので、以下、ウィキの「シーボルトミミズ」より全面的に引く。『シーボルトミミズは、西日本の山林に生息するミミズで、体が大きく、青紫色の光沢を持つ。また地表にでてくることがよくあるため、人目を引くものである。名前はフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが持ち帰った標本によって記載されたことにちなむ。大きくて目立つため、各地で方言名も存在する。ウナギ釣りの餌に使われることもある』(下線はやぶちゃん。以下、同じ。ここは想山の「水に投じても魚の食はざる蚯蚓なり」という叙述とは齟齬する)。『日本におけるミミズの最大種の一つであり、体長は時に』四〇センチメートルにも達するが、標準的には体長二四・七~二四・八センチメートル、体幅一・四~一・五センチメートル、体節数は百三十五から百五十二節にも及ぶ。『生きている時は濃紺色をしており、ホルマリン固定すると鮮灰色になる。受精嚢は』第六節から第九節までの節間に三対あるが、『その開口は小さい。環帯は第』十四節から第十六節に当たり、第十四節の『腹面中央に雌性生殖孔があるが』、小さい。第十八節の『腹面両端がやや膨らんで、そこに雄性生殖孔が開く』。『本種は日本最大のミミズの一つとされ』、原記載では体長二七センチメートル、体周囲三センチメートルとあり、別な学術報告では体長三十センチメートル、太さ一・五センチメートル、重量は最大値で四十五グラムとある。但し、『本種を上回る大きさのミミズは知られており、奈良県十津川村などで』は体長四十五~五十センチメートル、体重五十九グラムに達するとする『ピンク色のミミズが採集記録され、ナラオオミミズとの呼称もあ』り、また、『ほかにも類似の報告があり、本種より大きいかもしれないものが』二種は存在するともされる。但し、これは『正式に記載されてはいない』模様である(因みに、長さだけならば、『本種より大きいものははっきりしており』、ハッタジュズイミミズ(貧毛綱ジュズイミミズ目ジュズイミミズ科ジュズイミミズ属ハッタジュズイミミズ Drawida hattamimizu:本種は石川県の河北潟周辺・滋賀県の琵琶湖周辺・福井県の三方五湖周辺に限定的に棲息すると考えられており、特に『河北潟周辺は古くから本種の産地として知られ』、石川県金沢市八田町(はつたまち)の地名が『この種に与えられているが、実際には八田町よりやや東の地域に多かったとされていた。現在の分布は河北潟の東部、北部からかほく市南部にかけて生息しているとされる』。『滋賀県においては琵琶湖周辺の広い地域で本種が発見されて』おり、『北端にある余呉湖周辺にも発見されるが、この湖は琵琶湖とやや立地や成立の経緯を異にし、独立の分布域との見方もある』。『福井県では三方五湖のうち一番南にあって淡水性の三方湖やその隣の汽水性の菅湖の周辺などに分布している』という。因みに本種の背面は濃い藍色(かなり暗く、青くは見えない)を呈する。以上はウィキの「ハッタジュズイミミズ」に拠った)は標本による記載では体長二十四・六センチメートルと本種より小さいものの、本種はぶら下げたり、引っ張ったりすると、非常によく伸び、見かけ上は六十センチメートル以上にもなる)。話をシーボルトミミズに戻すと、シーボルトミミズは『日本固有種で』、『日本南部の山間部』を棲息域として、『中部地方以西の太平洋側に分布し』、紀伊半島・四国・九州南部では『比較的普通に見られるが、屋久島や沖縄には見られない』。『産地の森林に生息する。地中に生息するが、地表に出てくることもよくある。地上での動きは意外に素早い』(ここに中部地方とあるから、本文の名古屋ならば分布域と認められる)。『生活史については、寿命は卵の時期を含めて』三年『とされる。産卵は夏期に行われ、卵の状態で』一『年目の冬を越え、翌年初夏に新しい個体が出現し、成長して』二『年目の冬を越え』、三『年目に成熟個体が産卵すると、そのまま死亡する』。『ここで興味深いのは、同一地域ではこれが全ての個体で同期しており、その地域の個体は全て同じ世代に属する。つまり産卵が行われるのは毎年でなく、しかもその年の冬から翌年の春には、わずかな例外を除いてはこの種の個体が見られない時期がある』。『これはあまり普通のことではなく』、例えば、アブラゼミ(有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミGraptopsaltria nigrofuscata)は六『年の寿命があるが、実際には毎年出現する。これは寿命に若干の揺れがあることと、毎年別の世代が出現することによるとされる。他方』、ジュウシチネンゼミ(北米にのみ棲息するセミ科 Magicicada 属の一種で、毎世代、正確に十七年で成虫になって大量発生をする種群で、種としては Magicicada cassiniMagicicada septendecimMagicicada septendecula を指す。他にこの十三年蟬もおり、これらを総称して「周期蟬」「素数蟬」と称する)は成虫が十七『年おきにしか出現しない。シーボルトミミズでは後者のような形になっているわけである』。『また、季節によって大きく移動することも知られている。夏場には尾根筋から斜面にかけて広く散らばって生活するのに対して、それらの個体全てが越冬時には谷底に集まる。つまり、春には谷から斜面に向けて、秋には斜面から谷底に向けて移動が行われる』。『これに関わってか、本種が身体の前半を持ち上げるようにして斜面を次々に滑り降りる様や、林道の側溝に多数がうじゃうじゃと集まっている様子などがしばしば目撃され、地元の話題になることなどがある』という(下線前半部は本文の〈はねみみず(撥ね蚯蚓)〉や〈とびみみず(飛び蚯蚓)〉という名を連想させるに足る)。『このような現象の理由や意義は明らかにされていないが、塚本は天敵であるだろう食虫類は常時多量の餌を求めることから、このような習性はこの種の現存量が一定しないだけでなく、大きな空白期間を作ることになるので、この種を主要な餌として頼れない状況を作ること、また』、『同じく天敵となるイノシシに対しては』、『その居場所が一定しないことになるので』、『餌採集の場所を学習することを困難にしているのではないかと』いう見解がある。また、研究者の論文には、『本種が粘液を噴射する能力のあること』が記されており、それによると、『本種を見つけた際に素手で』摑『んだところ、ミルクのような白い液が飛び出し、顔や眼鏡にかかったという。恐らくは背孔から発射されたものと思われ、タオルで拭った後には特に変化はなかったという。国外ではミミズにそのような能力がある例が幾つか知られ、例えばオーストラリア』産のある種のミミズは俗に「フンシャミミズ」「水鉄砲ミミズ」などと呼び、『時に粘液を』六十センチメートル『も飛ばすという』。但し、『本種では他に聞く話ではないので、本種にその能力はあるもののいつも使うわけではないのだと思われる』(或いは、本文の〈はねみみず〉や〈とびみみず〉の「はね」や「とび」とは本体の運動ではなく、この粘液噴射を「はねらかす」「とばす」の意味で異名として読み込んだ可能性がないとは言えないのではないか?)。和名及び『学名は江戸時代に来日して多くの資料を持ち帰ったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトにちなむ。彼がこれをライデン博物館に持ち帰り、それを研究した』学者が『彼に献名したものである』。但し、『正確な採集地は記載されていない』。なお、『これは日本産のミミズに初めて学名が与えられたものである』。「山ミミズ」『などの異名も知られる。なお、目立つものであるためか』、『各地に方言名が多く残っている。四国ではカンタロウと言われることがあちこちに記されている。和歌山県でもカンタロウと呼ばれる他、カブラタとの呼称も知られる』とある。

 なお、南方熊楠は「続南方随筆」所収の「紀州の民間療法」で、『山中に住む人に淋病多し。西牟婁郡兵生(ひょうぜ)などで、木挽輩(ども)がその薬とて、勘太郎という碧紫(るり)色の大蚯蚓(みみず)、長(たけ)七、八寸あるを採りて、裂きて土砂を去り、その肉まだ動きおるを食う。実に見るも胸悪い』と記している(下線太字はやぶちゃん)。これは明らかにシーボルトミミズであり、先の「カンタロウ」とは「勘太郎」であることが判る。。残念ながら、「ハネミミズ」や「トビミミズ」の異名は確認出来なかった(「日本国語大辞典」の見出しにもなし)ので、識者の御教授を是非とも乞うものである。

 因みに言っておくと、シーボルトミミズに限らず、ミミズは、意想外にしばしば大きく跳ねるものである。これはちょっと観察すれば容易に見られる現象である。

「爵(すゞめ)、大水に入(いつ)て蛤(はまぐり)と成(なり)、雉(きじ)、又、蜃(おほはまぐり)と成、鷹(たか)、化(け)して鳩と成の類(るゐ)は、月令(がつれい)に載る」「爵(すゞめ)」漢字の「爵」と「雀」は音が「サク・シヤク(シャク)」(「雀」の「ジヤク(ジャク)」は慣用音)で音通であるから同義で用いる。トンデモ化生説としてよく知られるこれらは、古漢籍に於ける、月毎(ごと)の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記した「月令」(げつれい/がつりょう:私は「がつりょう」で読んできた)類に記されてあるものである。特に知られたものは「禮記」(らいき)の「月令」で、それぞれ、ここもそれ。以下に原典を引いておく。

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鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。

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水始冰、地始凍。雉入大水爲蜃。虹藏不見。

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始雨水、桃始華、倉庚鳴、鷹化爲鳩。

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例えば、「爵入大水爲蛤」(爵(しやく)、大水(たいすゐ)に入りて蛤(がう)と爲(な)る)や「雉入大水爲蜃」(雉(ち)、大水に入りて蜃(しん)と爲る)の部分は、水が初めて氷り、雁が飛来し始める晩秋(現在の十月八日から同十二日頃に相当)になると、雀や雉がいなくなるが、彼らは大海にへと入って蛤(はまぐり)や蜃(おおはまぐり)となるという伝承で、これはハマグリや同類の二枚貝の殻の模様が、スズメやキジの体色や斑紋と類似する類感呪術的発想によるものであり、「鷹化爲鳩」(鷹(よう)、化して鳩(きう)と爲る)の箇所は、初めて雨が降って桃の花が咲き初むところの仲春の頃おいには、かの獰猛なタカがその麗らかな陽気によって可憐なハト(カッコウともされる)と化すというのである。

「蝶」蛾は当時は蝶と厳密には区別されていない。というより、現代の生物学上の分類でも「チョウ」も「ガ」も鱗粉を持つ翅のある生物群である鱗翅目 Lepidoptera に属するのであって、区別されておらず、しかも「ガ」の種類数は「チョウ」の二十倍から三十倍はおり、「ガ」の方が圧倒的に種数が多いから、私は「鱗翅目」を一般に「チョウ目」とすることに強い違和感を持っている

「蟹蜷(がうな)」一般に「寄居蟲」と書いて「がうな(ごうな)」と読み、ヤドカリ(宿借:節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea に属するヤドカリ類の総称である。

「手長海老」現行では淡水及び汽水域に棲息する大型の、十脚目テナガエビ科テナガエビ亜科テナガエビ属 Macrobrachium に属するテナガエビ類或いは同属テナガエビ Macrobrachium nipponense に与えられている和名であるが、ここは海産(汽水域にも棲息はする)のヤドカリ類の化生とする点を考えると、手が長い点ではテナガエビ類と似ているが、全くの別種である抱卵亜目ザリガニ下目アカザエビ上科アカザエビ科アカザエビ亜科アカザエビ属アカザエビ Metanephrops japonicus 或いはその近縁種を指していると考えたい。小さなヤドカリが、たまさか、宿を巻貝の殻に借りているだけで(或いは、当時は巻貝が寄生虫(やどかり)に化生したものと考えた一般人は多かったであろう)、それが成長すると、手長海老となると信じたのも、それほど不審ではない

「田打蟹(たうちがに)」はが求愛行動として大きな鋏脚を振る「ウェービング(waving)」を行う、抱卵亜目短尾(カニ)下目スナガニ上科スナガニ科スナガニ亜科シオマネキ属 Uca のシオマネキ類のことである。「田打ち」とは春に田を掘り返す農作業であるが、その動作をウェービングに比喩した、本邦の異名である。

「岡蝦虎魚(をかはぜ)」「蝦虎魚」は条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei の総称であるが、ここは敢えて「岡」を冠しており、干潟に多い鋏振りの目立つシオマネキの化生とする点を考慮するなら、同じ干潟でよく飛び跳ねて目立つところの、ハゼ科オキスデルシス亜科トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus 辺りや、その近縁種、或いは、干潟を闊歩するハゼ類を同定候補としてよかろう。

「物産家」江戸時代の本草学者や研究者の中でも、薬用のみでなく、純粋な食用を含めた、有用天産物に就いての研究・開発を目的として各地の天産物の実地調査等を行い、さらにはそうした植物の栽培や動物採集・養殖・飼育、鉱山開発等の研究を行った者たちを指す。

「佐枝何某」不詳。

「津嶋」現在の愛知県中西部にある津島市。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蜈蚣と成懸(なりかゝ)りたる」私は当初、本章を読んだ際には、シーボルトミミズの青みがかった独特の色及び〈はねみみず(撥ね蚯蚓)〉や〈とびみみず(飛び蚯蚓)〉の「跳ねる」「飛ぶ」という運動様態から、本邦固有種の巨大な暗青色を呈する、節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属アオズムカデ(青頭蜈蚣)Scolopendra subspinipes japonica 或いは青色を呈する個体も多いトビズムカデ Scolopendra subspinipes mutilans が、シーボルトミミズを捕食しているのを誤認したのではないかと考えた(因みに、孰れも顎肢の毒は激烈で激しく痛む。私はごく小さなそれに咬まれた経験があるが、咬んだその瞬間はかなり痛みを感じた。我が家には大型個体もよく侵入し、お馴染みではある。私が嘗て借りていた鎌倉市岩瀬の古アパートに出現したトビズムカデは鮮やかな青色で体長は二十センチメートルはあった。湯に漬けて殺したが(これが最も確かな駆除方法)、その湯が腕にかかったが、翌日、その部分が真っ赤に腫れ上がった。恐るべし!)。しかし、附図を見る限りでは、そのようには読めない。或いは、鳥居吉右衞門のそれ(上の方の図)は、ただ、それらのムカデ(或いは近縁種)の単体の誤認であったとも思われるが、佐枝のそれ(下の図)は、はっきりと頭と体の上半分が完全にムカデであって、体の後ろ半分が完全なミミズであるから、食っている最中ではあり得ない。一つの可能性としては大型の肉食性のヒルが上記のムカデ類を尾部から半分ほど飲み込んだ状態のものを誤認した可能性が挙げられるか(私は山登りで何度か非常に大きなヒルがミミズや他のヒル或いはコウガイビルの一種と思われるものを後ろから飲み込んでいるところを見かけたことがある。ただ、鮮やかな青いヒルというのはその中にはいなかった)。他の何らかの可能性を想定出来る方は、是非、御教授願いたい。

「名古屋建中寺」現在の愛知県名古屋市東区筒井にある浄土宗徳興山(とくこうさん)建中寺。江戸時代を通じ、代々の尾張藩主の廟が置かれていたから、この鳥居なる人物も藩士である可能性が高いと言えよう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

Kaikamuri

 

 又或人の、蜊の蟹に變(へん)し懸り(かゝ)りを所持するとの事を聞居(きゝゐ)しに、が下男幸藏(かうざう)は、我國愛知郡(あいちごほり)戸田村のものなるが、右村にては、蜊は每々(まいまい)、蟹と成(なる)事にて、成懸(なりかゝり)も折々見當りて、珍敷(めづらし)からずと云故、篤(とく)と聞(きく)に蜊の𧊛(から)[やぶちゃん注:底本は「こら」と判読してルビするが、従えない。]を佩(おび)たるなりに、肉細長く出て、其出たる肉に、毛、生(はえ)て、足と成(なり)、やがて𧊛(から)を脱して、紫色をおびたる蟹と成(なる)よし。又、右幸藏の親なるものゝ云には、蟹蜷(がうな)、邂逅(たまさか)には手長海老(てながえび)と成(なる)ものぞ、心を付て見置(みおく)べしと示されたれども、幸藏は一度も見ざりしといへり。莊子(さうし)の逍遙遊(せうゑうゆう)に、鯤(こん)、化(け)して鵬(ぼう)と成(なる)との事も、偶言(ぐうげん)とも云がたきか。造化(ざうくわ)の妙は、人智の及ぶ事にあらず。是も幸藏の見たる變化懸(へんげかゝ)りの姿を、同人に聞訂(きゝたゞし)て圖し置(おき)ぬ。惣(さう)じて、虫鳥(ちうてう)の類(るゐ)の變化(へんくわ)の事は、本草綱目・三才圖繪等(とう)にも、種々の變化の事、見えたり。其内、或人の筆記に、下總(しもうさ)の國香取の浦の嶋々(しまじま)に、獺(をそ)、澤山に居(ゐ)て、鰡(ぼら)と云(いふ)魚の化(けし)たるのと、嶋(しま)人の云て、鰡の腹(はら)に、うすと云もの有(あり)、獺(をそ)にも有(あり)と云。又、蟹も此所(このところ)に多く、鳰(にほ)と云鳥(とり)に成(なり)て、半分は蟹、半分は鳰(にほ)なるも有(あり)といへり。此獺(をそ)と云は、海獺(かいだつ)の事にて、海獺は、とゞとも云て、鰡はとゞに成(なる)とは、土俗も云傳(いひつた)ふる事ながら、海獺は海獸(かいじう)にして、鰡とは大(おほひ)に違ひたるものなり。猶、其地にしばし住(じゆう)せし人に聞(きく)に、鰡の胡獱(とゞ)に變じ懸(かゝ)り成(なる)は、折々、漁人(ぎよじん)の網にも入(いる)事なれども、必ず放し遣はして、捕來(とりきた)らざる事也との答(こたへ)故、其變じ懸りは如何成(いかなる)ものぞと尋(たづぬ)るに、尋常(よのつね)の鰡の鱗の下に、毛、生出(はえいだ)して、鱗の間(あひだ)より、毛、顯(あらは)れ居(ゐ)る迄にて、手の生懸(はえかゝ)りたるや、頭(かしら)などの胡獱(とゞ)に變り居しは、絶(たえ)て見申さず。幷(ならび)に右の香取浦(かとりうら)の邊(へん)に、とゞは居申さず。鱗の下に毛生(しやう)してより後(のち)は、住(すみ)場所を改(かは)る事と見えたりと申せし。且、蟹の鳰(にほ)に成懸りも、一度も見受(みうけ)ざると申せし。猶、其(その)土の老漁(らうぎよ)に、出會(しゆつくわい)を待(まつ)て、委敷(くはしく)記し置(おく)べしと思ふ。うすと云(いふ)は、臍(へそ)の事かと思はる。呉々(くれぐれ)も、造化の妙も人智の及ぶ事に非ず。

[やぶちゃん注:「蜊」斧足綱マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum

「蟹に變(へん)し懸り(かゝ)り」「蜊の𧊛(から)を佩(おび)たるなりに、肉細長く出て、其出たる肉に、毛、生(はえ)て、足と成(なり)、やがて𧊛(から)を脱して、紫色をおびたる蟹と成(なる)よし」これはもう、節足動物門甲殻上綱軟甲綱(エビ綱)真軟綱亜綱(エビ亜綱)エビ上目十脚目短尾下目カイカムリ群カイカムリ上科カイカムリ科カイカムリ属ヒラコウカイカムリ Conchoecetes artificiosus などのように、自己防衛の擬態のために二枚貝の貝殻を背に背負っている蟹を誤認したものである(但し、ヒラコウカイカムリは、やや標準棲息深度が三十~百メートルと深い)。貝を背負う蟹は必ずしも稀でなく、例えば、短い歩脚で二枚貝の貝殻やカシパン類(棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科Astriclypeidae 或いは Astriclypeus 属スカシカシパン Astriclypeus manni など)の生体及び死殼及び各種海綿類などを背負って身を隠す習性を持っている、水深一〇~三〇メートル程度の貝殻が多い砂泥底に棲息する甲幅・甲長とも二十ミリメートル程度の短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ Heikeopsis japonica や、サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata(甲幅は約二十五ミリメートル。ヘイケガニに似るが、大型で、和名通り、体がザラザラしている。また、の鋏脚上面に毛が生える。北海道から台湾までの東アジア沿岸域に分布し、水深二〇~一五〇メートル程度の砂泥底に棲息する。福島県いわき市周辺では貝殻を被った姿を股旅姿に見立てて「サンドガサ」と呼ぶ)・キメンガニ Dorippe sinica(甲幅約三十五ミリメートル。サメハダヘイケガニよりも更に大型で、甲羅には人面に似た凹凸に加え、毛や疣状突起があり、さらに「彫り」が深く、「目」の部分が大きく見開かれ、その外辺部に角のような棘もあって、鬼面に見えるとこから和名がついた。東北地方からオーストラリアまでの西太平洋とインド洋に広く分布し、水深七〇メートル程度まで棲息している)なども好んで貝殻を背負うことが知られている。

「戸田村」現在の愛知県名古屋市中川区戸田。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は内陸であるが、この区内の殆んどが現在、海抜ゼロ・メートル地帯であり、海水面より低い地域も多いので、東に庄内川、西に日光川が流れており、汽水の河川敷や海浜や潟がこの辺りまであったことは想像に難くない。日光川側の現在の隣町の名はズバリ、「蟹江町」である。

「莊子(さうし)の逍遙遊(せうゑうゆう)に、鯤(こん)、化(け)して鵬(ぼう)と成(なる)との事」「莊子(そうじ)」の冒頭「逍遙遊」のそのまた冒頭。

   *

北冥有魚、其名爲鯤。鯤之大、不知其幾千里也。化而爲鳥、其名爲鵬。鵬之背、不知其幾千里也。怒而飛、其翼若垂天之雲。是鳥也、海運則將徙於南冥。南冥者、天池也。齊諧者、志怪者也。諧之言曰、「鵬之徙於南冥也、水擊三千里、摶扶搖而上者九萬里、去以六月息者也。」。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

書き下しておく。

   *

 北冥に魚あり、其の名を鯤と爲(な)す。鯤の大いさ、其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と爲るや、其の名を鵬と爲す。鵬の背(そびら)、其の幾千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べば、其の翼、垂天(すいてん)の雲のごとし。是(こ)の鳥や、海、運(うご)くとき、則(すなは)ち將に南冥(なんめい)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(てんち)なり。齊諧(せいかい)とは怪(かい)を志(し)れる者なり。諧の言(げん)に曰く、

「鵬の南冥に徙るや、水に擊つこと三千里、扶搖(ふえう)[やぶちゃん注:旋風(つむじかぜ)。]に摶(う)ちて上(のぼ)ること、九萬里、去(いんぬ)るに、六月の息(かぜ)を以てする者なり。」と。

   *

ここは「荘子」の言わんとする人智の及ばない宇宙の絶対原理の大きさではなく、巨大魚の「鯤」が化して巨鳥「鵬」となるというような化生のケースが存在し、その驚くべきギガなものの比喩例がそれ、とのみ読んでおけばよい。

「偶言(ぐうげん)」この場合の「偶」は「滅多にない・稀な」を特化したもので、あり得ないデッチアゲの噂の謂いであろう。

「本草綱目」明の李時珍の薬物書。五十二巻。一五九六年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種千八百九十二種、図版千百九九枚、処方一万千九十六種にのぼる。

「三才圖繪」明の王圻(おうき)及び彼のの次男王思義によって編纂された類書(百科事典)。一六〇七年に完成し、一六〇九年に出版された。全百六巻。

「或人の筆記」これは旧幕臣であった岡村良通の随筆「寓意草」。私は所持しないが、しばしばお世話になっている「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらの記載から見て、間違いない。岡村の次男は、かの海防の必要性を解いた「海国兵談」(寛政三(一七九一)年)を書いた林子平(元文三(一七三八)年~寛政五(一七九三)年)である。良通は徳川氏の御書物奉行として仕えていたが、子平が三歳の頃に『故あって浪人の身となり、家族を弟の林従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅に出た』とウィキの「林子平にはある。

「下總(しもうさ)の國香取」現在の千葉県北東部にある香取市。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在は利根川を挟んで茨城県と対峙するが、かつてはこの境の部分は霞ケ浦に通ずる海が嵌入した場所で大小多くの島嶼や砂州あった。

「獺(をそ)」ネコ目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソニホンカワウソ Lutra nippon。全国に広く生息していたが、一九七九年以降、目撃例がなく、二〇一二年に絶滅種に指定された。

「鰡(ぼら)」条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus

「魚の化(けし)たるの」私は、初読時、「がたいから見てもこれは逆で、ボラがカワウソになるのであろう」と誤読してしまった。ここはまさにその通りにカボラが年経て化生したものがワウソだと述べているのであるので注意されたい。「の」は名詞節や準体言を作る格助詞の用法で、「ボラという魚が化(か)した物」の意である。先に示した「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の記載にも『香取の浦の島々には獺がいるが、島人はぼら(鯔)という魚が化けたものであるという。これはぼらの腹にある「うす」というものが、獺にもあるからである』とある。

「うす」想山が最後に述べている通り、「うすと云(いふ)は、臍(へそ)の事かと思はる」で、さすれば、これは「臼」であろう。内臓の丸い出っ張りである。ウィキの「ボラから引くと、ボラは『雑食性で、水底に積もったデトリタスや付着藻類を主な餌とする。水底で摂食する際は細かい歯の生えた上顎を箒のように、平らな下顎をちりとりのように使い、餌を砂泥ごと口の中にかき集める。石や岩の表面で藻類などを削り取って摂食すると、藻類が削られた跡がアユの食み跡のように残る』。そうした『餌を砂泥ごと食べる食性に適応して、ボラの胃の幽門部』(胃の腸に向かう出口付近)『は丈夫な筋肉層が発達し、砂泥まじりの餌をうまく消化する』。その『厚い筋肉が発達した幽門』は『「ボラのへそ」「そろばん玉」などと呼ばれ、ニワトリの砂嚢(砂肝、スナズリ)を柔らかくしたような歯ごたえで珍重される』。カワウソは哺乳類であるから当然、臍があり、ボラの発達したそれが「ボラの臍」と呼ばれたことに由来する伝承であろう。

「蟹も此所(このところ)に多く、鳰(にほ)と云鳥(とり)に成(なり)て、半分は蟹、半分は鳰(にほ)なるも有(あり)といへり」「鳰」は鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ Tachybaptus ruficollis のこと。ウィキの「カイツブリによれば、普通は『流れの緩やかな河川、湖沼、湿原などに』棲息しているが、稀に冬季や『渡りの際には海上で見られることもあ』り、『主に水上で生活し』、動物食でカニなどの甲殻類も摂餌対象であること、『翼の色彩は一様に黒褐色』で、『嘴は短めでとがり、先端と嘴基部に淡黄色の斑がある』点はある種のカニの色彩と似ていなくもないように私には思われる。なお、この叙述も岡村良通の随筆「寓意草」からである。やはり「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらの記載を見られたい。なお、この部分までを「寓意草」からの引用と、一応、とっておく

「海獺(かいだつ)」「海獺は、とゞとも云て」この場合の「海獺」(訓では「うみうそ」「うみおそ」)はロケーショから見ても、巨大海獣のトド(ネコ目アシカ亜目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus)ではなく、本邦の沿岸にしばしば現われる、アシカ科アシカ亜科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicusのことであろう。

「鰡はとゞに成(なる)」これは出生魚としての実際のボラの経年変化による大型化の途中の呼称変化の誤認である(恐らくは岡村の誤認)。現行では(ウィキの「ボラ」に拠った)、

東北 コツブラ  ツボ  ミョウゲチ ボラ

関東 オボコ  イナッコ  スバシリ  イナ  ボラ  トド

関西 ハク    オボコ    スバシリ  イナ  ボラ  トド

高知 イキナゴ  コボラ    イナ   ボラ  オオボラ

と呼称が変わり、老成したがっしりした大型個体を指す「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから、後に「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となったことはよく知られるところである。孰れにせよ、「ボラ」が老成して「トド」になるというのは化生なんぞではなく、実際の真実なのである。

「海獺は海獸(かいじう)にして、鰡とは大(おほひ)に違ひたるものなり」ここに関しては、漁師が真実(ニホンアシカ Zalophus japonicus のこと)を語っているのである。

「尋常(よのつね)の鰡の鱗の下に、毛、生出(はえいだ)して、鱗の間(あひだ)より、毛、顯(あらは)れ居(ゐ)る」ここの部分は、恐らくは想山が話者に一杯食わされたんではなかろうか?

 

2017/06/12

江藤淳に

貴様は「先生」の自死を『自我の暴威』を主因とする行為だったと断じたことを忘れるな。

貴様は自死して死んだ。

貴様の自死の動機が何だったか――直前の妻の死や脳梗塞の後遺症なんど言われる時、およそ、貴様は下らぬ物言いとしてそれを拒否するに違いない――そんなことは、問題ではないし、興味もない。

私は貴様の、あの「こゝろ」論の、あの糞のような、忌まわしい似非日本主義の凡庸な結構に括られた
――さればこそ大衆に受け入れられ易いところの二項対立の――
自死論が大々大嫌いである。

貴様が自分の晩年を形骸に過ぎないなどと宣うていたとしても、それを「先生」は断固としてせせら笑う。

貴様は貴様の自死も――否――貴様のそれをこそ――素直に鮮やかに『自我の暴威』と断ずるべきだったのではないか?

さすればこそ――「先生」は――貴様の墓前に――花を手向けたであろうに…………

「想山著聞奇集 卷の五」 「鮑貝に觀世音菩薩現し居給ふ事」

 

 鮑貝(あはびがひ)に觀世音菩薩現(げん)し居(ゐ)給ふ事

 
Awabikannonn

 

[やぶちゃん注:以上の図は三ページに亙るものを、私が枠の消去を行い、更に一枚に見えるように処理合成したのものである。以下、キャプション。]

 

貝の大(おひき)さ、此通りにして、至(いたつ)て大(おほ)ひなる蚫(あはび)なり、緣(ふち)の所、圖のごとく缺損(かけそん)したる所有共(あれども)、幸(さひはひ)にして少しも尊像に障(さは)りなし。

 

 武藏の國荏原郡(えはらごほり)大井村來迎寺(らいごうじ)【品川鮫頭(さめづ)の先の所、海道より直(ぢき)左へ入(いる)村なり。】に、鮑貝に觀世音菩薩の像、現し居給ふもの有(あり)と聞及(きゝおよ)ひ、幸ひ良緣有(あつ)て、天保十五年【甲辰】[やぶちゃん注:一八四四年。]四月廿一日、思ひ立(たつ)て、かの地に行て、右の像を眞寫(しんしや)なし來りしを、左に圖し置(おき)ぬ。其來由(らいゆ)は、安房(あは)の隱士(いんし)如琴翁(じよきんをう)の懇(ねんごろ)に記せし文(ふみ)有ける故、是をも爰(こゝ)に記し置(おく)儘(まま)、今さら云に及ばず。

[やぶちゃん注:「來迎寺(らいごうじ)【品川鮫頭(さめづ)の先の所、海道より直(ぢき)左へ入(いる)村なり。】」東海道を京に向かって鮫洲(現行はこう書くが、調べてみると、現在の品川区東大井にある鮫洲八幡神社は「江戸名所図会」では「鮫頭明神祠」と出る)の先を左に折れるとなると、現在の品川区大井にある天台宗鹿島山来迎院ではないかと私は推測する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「安房(あは)の隱士(いんし)如琴翁」不詳であるが、本記載内時制の四十四年前の寛政一二(一八〇〇)年洒落本「風俗通」を出している松風亭如琴(詳細事蹟不詳)という作家がおり、世間で全く知られていない田舎の御隠居なんぞに由来記を頼んだりしないであろうから、この人物が一つ、大きな同定候補者となろうか。

 以下の由来記の部分は、底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

   海中出現觀世音尊像之(の)記

抑(そもそも)、此尊像は安房國朝夷郡(あさひなごほり)白濱村(しらはまむら)犬(いぬ)か谷(たに)の海士(あま)市五郎と申者、同邑(むら)福聚(ふくじゆ)禪林の觀世音を信じ、朝夕(てうせき)、步(あゆみ)を運び、詣でける。然るに、其母、蚫(あはび)をたしなみければ、日每(ごと)に是を取、おのれも又、浮世渡(うきよわた)りのよすがとは、なしぬ。時に文政十年秋八月十七日夜、不思議の靈夢を蒙りはべりしが、凡俗なれば、あやしとも思ほへず。野島か崎に立(たち)いでつるに、海面、殊にひかりけり。されども、波間をくゞり、かろうして岩根を尋ぬるに、ゑもの、さらになく、地ひとつのひかり渡りにけるを、とりつゝ家路にかへり、眞珠てふものやあらむと、かねもてうちはなしければ、忝(かたじけな)くも觀世音の尊像、かくやくとあらはれたまひぬ。母子おどろきて、作りし罪をかこちわびつゝ、只、泣(なく)より外、なかりけり。その肉(にく)は、もとの海底(うなぞこ)へかゑしけり。尊像はとゞめて尊信し、其母も鮑をたのしまず、母子發心(ほつしん)し、産業(さんぎやう)をやめて道心者(だうしんじや)となり、子孫は百姓となりて、いよいよ、さかへ侍りぬ。

 文政十一年二月十五日    安房の隱士

                   如琴翁しるす

[やぶちゃん注:「安房國朝夷郡白濱村」旧朝夷(あさい)郡白浜村は幕府領。現在の南房総市白浜町(まち)白浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「犬(いぬ)か谷(たに)」不詳。

「福聚(ふくじゆ)禪林」同白浜町にある曹洞宗明堂山福寿院かと思われるが、ここの本尊は釈迦如来坐像で観世音菩薩像ではない。或いは別にあったものか。

「蚫(あはび)をたしなみければ」後にそれを売って生計を立てたともあるが、それ以上に、最後に「其母も鮑をたのしまず」とある通り、この老母は鮑が、自身、大好物であったのである。

「文政十年」一八二七年。

「野島か崎」「のじまがさき」。ここ(グーグル・マップ・データ)。房総半島最南端

「眞珠てふものやあらむ」あまり理解されているとは思われないのでここで言っておくと、近代の真珠養殖の技術が本格的になる以前の「本真珠」とは、実は本来は「鮑玉(あわびだま」のことで、まさに鮑(腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類)の内部に自然形成される天然真珠のことを指した

「かね」軟体部を剝くための磯金(いそがね)であろう。

「かくやく」「赫奕」。光り輝くこと。

「作りし罪」海漁(うみりょう)の殺生。

「かこち」嘆き。

「産業」漁師としての生計(たつき)。]

 

 右記錄に、靈夢と有は如何成(いかなる)夢ぞと寺僧に尋(たづぬ)るに、聢(しか)と尋置(たづねおか)ざりし故、慥(たしか)には答へ兼(かぬ)れども、海上(かいしやう)をあゆみ行(ゆき)たる夢とのことは、承りたりとの事なり。夫計(そればかり)にては有間敷(あるまじく)、何かまだ、靈告(つげ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ありたる事そと思はる。扨、其蚫の貝の内に、圖の如き寶冠(はうくわん)の半身(はんしん)の觀世音、現じ居(ゐ)たまへど、鳥渡(ちよと)[やぶちゃん注:ちょっと。]見ては聊(いさゝ)かも見えず、常の貝にして、能々(よくよく)日に照して熟拜(じゆくはい)する程、御面貌(ごめんざう)、如何にも鮮明(あざやか)にして生身(しやうじん)の如く、筆勢の絶妙、まことに不凡の名畫(めいぐわ)也。畫(ゑ)の所、僅(わづか)、美濃紙二枚程も高く成居(なりゐ)たれども、瞬(またゝき)もせず、篤(とく)と拜し見れば、實(じつ)に赫耀(かくやく)として鮮(あざやか)也。此貝、彼(かの)民家に其儘有(ある)との事、江戸牛込築土(つくど)八幡宮の別當無量寺、聞出(きゝいだ)されて、數金(すきん)を購(あがな)ひて得られたる品の由なり。右無量寺は、隱居して念佛院と云て、此寺に閑居成居(なりゐ)らるゝ由。扨、又、谷中(やなか)明林寺(みやうりんじ)の常行房(じやうぎやうばう)、に語(かたつ)ていわく、右の貝は、雨乞(あまごひ)に靈驗(れいげん)有(あり)と聞及び居(ゐ)候ひしが、當(たう)辰(たつ)正月十七日夜(よ)に少(すこし)雨降(あめふり)、路次(ろじ)惡敷(あし)かれ共、同十八日に大師河原の大師へ參詣なし、來迎寺へも立寄來(たちよりきた)りしに、來迎寺の所化(しよけ)の話に、舊冬(きうとう)以來、久々(ひさびさ)雨なく、乾き強き故、此程、彼(かの)貝に雨乞なせしに、きのふ、少しながら雨降(ふり)て、其應(おう)有(あり)しと申せしは妙成(めうなる)事に候といへり。仍(よつ)て、右雨乞の事をも、所化眞常房(しんじやうばう)と云(いふ)に尋(たづぬ)るに、日々祈念して、觀音經三十三卷づゝ、一七日の内、讀誦致し候得ば、是非、雨降申候。海中に生じ給ふ物故、雨乞には靈驗炳然(いちじる)き事と存候、との答(こたへ)故、左候はゞ、別に水天(すゐてん)の法などは修せられずに雨降候哉と尋るに、何も外の法は修し申さずして、必(かならず)、七日の内に、雨は降申候との答也。其餘の事共(ことども)をも祈念なし給ふにやと問(とふ)に、一度も祈念せし事なしとの事故、左候はゞ、大病人(たいびやうにん)等(ら)、平癒の事を祈念なしたまはゞ、急度(きつと)、靈驗は有べしと勸め來りたり。安齋隨筆(あんさいずゐひつ)に云(いふ)、[やぶちゃん注:以下の引用は、原典では特異的に草書体ではなく、総て楷書で示されてあるので、太字にしてみた。]池上本門寺(いけがみほんもんじ)ノ僧、來(きたつ)テ談話ノ序(つひで)ニ、本門寺ニ、蚫貝(あはびがひ)ニ南無妙法蓮華經ノ文字(もんじ)現(あらはれ)タルアリ、貴(たつと)キ事也ト云。予、聞(きゝ)テ、ソレハ細工物也、予、作(つくつ)テ見スべシ、トテ、作リ置(おき)テ、他日、僧、來リシニ、見セタリキ。其製法ハ、蚫貝ニ、佛像ニテモ佛名ニテモ、生漆(きうるし)【セシメウルシ也。】ヲ以(もつ)テ書(かき)テ、蚫(あはび)ノ穴ヲ蠟(らふ)ニテ塞ギ、漆ヲヨクカラシテ、酢ヲ十分ニ入(いれ)テ、二十日程置(おき)テ、扨、酢ヲ砂ヲ以テ能(よく)磨ケバ、漆ノ付(つき)タル所、高クアラハルヽ也、是、無益(むやく)ノ戲(たはむれ)ナレドモ、如ㇾ此(かくのごとき)事モシリ置(おけ)ハ、僧ナドニ訛(たぶらか)サルヽ事ナシ、奇妙不思議ハ皆、造事(つくりごと)ナリ。といへり。も漆にて書(かき)、鼠屎(そふん)に酢を入て腐(くさら)して、文彩(ぶんさい)を造る事は、聞置(きゝおき)て知居(しりゐ)る事なれども、此觀音の事は眞(まこと)也として、疑(うたがひ)を生(しやう)じ兼(かね)たり。奇妙不思議は、皆、造り事也とのみは申がたし。既に十七の卷に記しある、大神宮の文字(もんじ)、木中(ぼくちう)に出現の事等は、木の澁(しぶ)にて出來(いでき)たる人作(じんさく)となしても、此(この)卷(まき)に記し置たる柊木(ひゝらぎ)明神の奇(き)、幷(ならびに)、九の卷に記しある無住國師の靈驗奇木等の事は、造り事にあらずして、今、眼前に、衆人の見て知るところの奇妙不思議なり。凡例(はんれい)にも斷り置たることく、眞(しん)と僞(ぎ)と、可(か)と否(ひ)との論は、見る人の心に任するのみ。

[やぶちゃん注:「江戸牛込築土(つくど)八幡宮」現在の新宿区筑土八幡町(ちょう)にある筑土(つくど)八幡神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「別當無量寺」松雲山無量寺であるが、見当たらない。別当寺であるから、廃仏毀釈で廃寺となったのかも知れぬ。無量寺別当寺の住持と言いながら、実は「念佛院」と称して「隱居して」この房総半島の突先の来迎寺で悠々自適に「閑居」している人物らしいから、こんなアホなものを何両も出してありがたがって買ってしまうのであるから、無量寺の行く末も危ぶまれて仕方ないかとも私は思う。

「谷中(やなか)明林寺(みやうりんじ)」不詳。「江戸名所図会」にも出ない。

「當(たう)辰(たつ)」冒頭、想山が最初に現物を来迎寺で見た天保一五(一八四四)年ということになる。

「所化(しよけ)」僧侶の弟子。修行僧。

「一七日」「ひとなぬか」と読む。一週間。

「炳然(いちじる)き」「炳」は明らかなさま。

「水天(すゐてん)の法」「水天」は仏教に於ける天部の十二天の一人。須弥山の西に住んで西方を守護するとされ、水の神で龍を支配するとされる。それを祈る雨乞いの修法。

「雨降候哉」「哉」は疑問詞「や」。

「靈驗は有べしと勸め來りたり」表現不全。「となり」「と云ふなり」である。これは常行く房が来迎寺の修行僧に述べた直接話法の終った部分だからである。

「安齋隨筆」江戸中期の旗本で武家の有職故実家として知られた博覧強記の伊勢貞丈(さだたけ 享保二(一七一八)年~天明四(一七八四)年)の随筆。成立年代未詳。三十巻本と二十巻本がある。有職故実の用語・文字の訓詁・制度の沿革・文物の起源など広汎に亙る。活字本は所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読めるが、多量なので今すぐには目は通せない。発見したら、追記する。

「池上本門寺」東京都大田区池上にある日蓮宗長栄山池上本門寺。

「生漆(きうるし)【セシメウルシ也。】」「瀬〆漆」。漆の枝からかき取った粘度が高く、接着力が強い漆液。一般には加工木材等の接合用や、その強度を増すための下地用に使われる。「石漆」とも呼ぶ。

「カラシテ」「枯らして」であるが、「乾燥させて」と言うにはやや問題がある。漆は実は湿気がないと乾燥しない特殊な性質を持つからである。

「酢ヲ砂ヲ以テ能(よく)磨ケバ、漆ノ付(つき)タル所、高クアラハルヽ也」酢によって殻の内側の光沢面に含まれる炭酸カルシウムが溶け出し、漆を塗った部分よりも柔らかくなり、それに磨きをかけると、漆で仏像を描いた箇所が凸となって浮き彫りとなるということであろうか?

「僧ナドニ訛(たぶらか)サルヽ事ナシ」相手が僧なんだから、この謂いはかなりキツイ。

「文彩(ぶんさい)」取り合わせた色彩。模様。色どり。彩(あや)。

「此觀音の事は眞(まこと)也として、疑(うたがひ)を生(しやう)じ兼(かね)たり」想山先生、コロッと騙されちゃってマス。

「十七の卷」既注の通り、現存しない。

「大神宮の文字(もんじ)、木中(ぼくちう)に出現の事等は、木の澁(しぶ)にて出來(いでき)たる人作(じんさく)」どこかの木に「大神宮」の字が突如として現われた事件は調べたところが、木に柿渋をその字の通りに塗って変色させた、人間による捏造であったというのであろう。ああ! 読みたかったなぁ! あと四十五册+外集(六冊?)!

「此(この)卷(まき)に記し置たる柊木(ひゝらぎ)明神の奇(き)」当最終五巻の掉尾にある「萬木(ばんぼく)、柊(ひゝらぎ)と化(くわ)する神社の事」。お待ちあれかし。

「九の卷に記しある無住國師の靈驗奇木等の事」これも現存しない。「無住國師」(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉後期の僧で、優れた仏教説話集「沙石集」の作者として知られる。ウィキの「無住」によれば、『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八歳で『常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に『尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し』、八十歳の時、寺内の『桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、話芸の祖ともされる』。八十歳の時の記録に「二十八日の卯の刻に生まれた」と『記しており、この年でこの時代の人間として誕生日を覚えていることは稀な例とされる』。『伝承によっては長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮華寺で亡くなったともされる』。『様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする』。『また、説法の対象は読み書きのできない層だった』。著書には「沙石集」の他、「妻鏡」「雑談集(ぞうだんしゅう)」などがある。「沙石集」は五十四歳の時に執筆を開始し、数年かけてまず五巻を『完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果』、全十巻となって、『書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる』。歴史学者で中世思想史(仏教思想)が専門の『大隅和雄は、無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよいとの判断をしている』。

「凡例」本文電子化後に電子化する。お待ちあれかし。

 最後に。ここに出る貝の真珠光沢に出現するそれは、「仏像真珠」などと称して、かなり古くから知られる、全くの人工の装飾用細工品、或いは、神霊仏像が示現したと人々を誑かすことを目的とした捏造品で、嘗て貝類コレクターであった私も何度か現物を見たことがある(人造のマガイモノであることを知っているから買ったことはない)し、質朴な老人が奇跡の霊仏としてこういう手合いのものを後生大事に礼拝しているのそれを見せて貰ったこともある(流石に事実を知らせる酷いことはしなかった)。中国で盛んに作られたもので、鴻阜山人氏のサイトの「真珠の養殖と加工」によれば(仏像真珠の写真有り)、十三世紀頃(南宋~元代)には『中国の南部に於いて淡水産の』真珠を形成することの出来る、殻の内壁に真珠層を持った烏貝(斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 『の貝殻と外套膜の間に土や鉛で仏像(主として座像)や半球を作り貝殻に貼り付けて、これに真珠層を』かぶらさ『せて作る「仏像真珠」と呼ばれる』殻付き真珠を人造する『技術が開発されていた』とある。要するに、現在の真珠養殖で異物である核を挿入して球体真珠を形成させると基本的には同じ貝類の自己の軟体部の防禦のための生理作用を用いて、仏像の形をした核を入れて真珠光沢に盛り上がった仏像真珠部を作らせるのである。但し、私はこの後半に書かれてあるような漆を用いた死貝の殻を処理する製法法は、ここで初めて知った。]

 

「想山著聞奇集 卷の五」 「磬石の事」

 

 磬石(けいせき)の事

 

[やぶちゃん注:「磬石」讃岐岩(さぬきがん)或いはサヌカイト(sanukite)と呼ばれる岩石。名称の元である旧讃岐国の香川県坂出市国分台周辺や、大阪府と奈良県の境にある二上山周辺及び三河鳳来寺山などで特徴的に採取される、マグネシウムに富んだ非常に緻密な古銅輝石安山岩(こどうきせきあんざんがん:bronzite andesite:斑晶として古銅輝石(ブロンズのような光沢を放つ斜方輝石(結晶系の一つで、互いに直交する長さの異なる三本の結晶軸をもつ結晶)の一つ)を含み、少量の斜長石を伴うガラス質で細粒の安山岩)。ウィキの「讃岐岩」など(引用部はそこ)によれば、『固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる』。『サヌカイトという名称は、明治政府に招かれ、日本各地の地質を調査したドイツ人地質学者』で「お雇い外国人」のハインリッヒ・エドムント・ナウマン(Heinrich Edmund Naumann 一八五四年~一九二七年)が、『讃岐岩を本国に持ち帰り、知人の』鉱物学者エルンスト・バインシェンク(Ernst Weinschenk 一八六五年~一九二一年)が研究、一八九一年(明治二十四年)に命名したものである。『古代には、石器の材料として使われ、打製石器、磨製石器に加工され』て『使われていた。そのため同じく石器の材料となる黒曜石同様に、古代の人々の遺物として、産出地以外の遙か遠方で、サヌカイトの破片が発見されている』。『固いもので叩くと』、『高く澄んだ音がする。玄関のベルの代わりに使われたりしている。博物館などで長さの違う石片を並べて木琴のように叩いて音を出す「石琴」(楽器名:サヌカイト)などの展示物やコンサートに』も使われており、『楽器としての演奏者も』いる。音楽家であった故金田真一氏を顕彰するサイトのこちらで、保存ダウン・ロード形式で素晴らしい音色を聴くことが出来る。但し、「磬」は中国の漢字であり、その原義も、同様に、玉製或いは石製の「へ」の字型(逆L字型)をした板状体を吊るして打ち鳴らす「詩経」にも出る古楽器を意味する。本文や諸中はあたかも、偶然に一致しただけで、本邦で独自に収斂進化した楽器のように書かれてあるが、中国由来の可能性を排除出来るものではない。ただ、後に注するように本邦の中国・四国地方に於いては中国とは無関係に打製石器の原石としてサヌカイトが使用されていたことが判っており、「磬」のような楽器として用いたかどうかは別としても、本邦独自の産物として重用されたことは事実であり、やはり後で注するように、日本の仏教寺院で用いられる「磬」(但し、現存するものは総て石製ではなく、鑄銅製)は本邦で独自に生まれたものとされている(しかし、この断定には私は疑問がある)。

 

Keiseki

 

[やぶちゃん注:右頁の右側の中央と下のキャプション。]

 

銕筆家(てつぴつか)細川林谷(りんこく)、奇石を好み、磬石數品(すひん)を藏す、一品を眞寫なし置(おく)。

 

石質も大同小異にして音(ね)も又、種々(しゆじゆ)なから、いづれも金銕(きんてつ)の音(ね)なり。

 

 面       橫       裏

 

[やぶちゃん注:「銕筆家」とは篆刻家のこと。

「細川林谷」(寛永九(一七八〇)年~天保一四(一八四三)年)は篆刻家で漢詩人。ウィキの「細川林谷」によれば、『本姓は広瀬氏、名は潔、字は痩仙・氷壺、林谷は号で他に林道人・忍冬葊・三生翁・白髪小児・天然画仙・不可刻斎・有竹家などと号している。通称は春平。讃岐の人』。『讃岐国大川郡寒川町石田東村森広(現在の香川県さぬき市)で生まれた。幼いうちに林村の阿部良山』『より篆刻』の技術を『受ける。その後、長崎・京都に遊学し、江戸に出て京橋の中橋広小路芝に住む。その篆刻は天下一と讚えられた。その後も各地を周遊し、浪華では文人墨客からの篆刻の依頼が引きも切らず、一冬滞在。毎晩の酒溺で散財した。このとき頼山陽の印も刻している。竹をこよなく愛したという。詩画をよくし、山水画・墨竹図を得意とした』とある。

「金銕」後の「金鐡」の同じで、金属の意。

「面」は「おもて」と訓じていよう。

 なお、左頁の左にある文章は、本文の末尾にあるもので、キャプションではない。「か樣成(やうなる)石」とあるその上に附図を示してあるのである。本文を参照されたい。

 

 磬と云物は樂器にして、石(いし)を以て拵(こしらへ)たる物故、磬の字の六書(りくしよ)は、諧聲(かいせい)の字ながら、石に從ひ聲に從ふて、會意(くわいい)をも含みたる字なり。【六書と云は、上古、文字を製作する規矩(きく)にして、諧聲を會意も皆其時の準繩(じゆんぢやう)なり、説文(せつもん)に、磬樂石也象縣虛之形殳擊ㇾ之也とあれども、會意のみの字にあらず。】漢土にては、洒濱(しひん)より出る事、書經の禹貢に見え、日本にては、讚州白峰(しらみね)の一山は、山内悉く磬石にして、大小數百千萬の磬、重(かさな)り上(あが)りたる山にして、夫(それ)に土の皮(かは)を被(かぶ)り居(ゐ)て、其土に草木(さうもく)覆ひ茂りたる山と也。此山、其高さは三里計りにして、京の愛宕山(あたごさん)程の恰好と也。山のなだれ口、又は岸(きし)[やぶちゃん注:切り岸(ぎし)。崖。]の崩れ口等は、悉く右の磬石にして、四、五寸より尺餘り、又、大なるは二尺三尺四尺位(ぐらゐ)のも有(あつ)て、厚さは四、五分[やぶちゃん注:一・三~一・五センチメートル。]より一二寸、又、厚きは七八寸より尺貮三尺位までのも有(ある)となり。形ちは、丸きも三角なりも、長きも短きも種々(しゆじゆ)にして、定(さだま)らざれ共、皆、金鐡(きんてつ)の音(ね)にして、全(また)く常の磬の音(ね)ながら、石每(ごと)に替りて、十は十ながら同し音(ね)はなし。隨分、律(りつ)に能(よく)合(あふ)も有べし。先(まづ)、薄き程、音色(ねいろ)よしと也。少しにても缺損(かけそん)じ有(ある)時は、音(ね)の響きなく、決て金鐡の音をなさず。然共(しかれども)、十が七、八迄は瑾(きづ)多(おほ)[やぶちゃん注:「おほき」の脱字か。]にして、全玉(ぜんぎよく)なるは至(いたつ)て稀なりといへり。其石色(いしいろ)は鼠色にして、砂土(すなつち)を付(つけ)たる如き、鮫肌(さめはだ)の石面(いしづら)にて、缺口(かけくち)は光澤(つや)なき黑色(くろいろ)なり。同國の西、香川郡葛西(かさい)村に、藏石家(ざうせきか)の高橋白峰(はくはう)と云(いふ)者、【白峰(はくはう)、夫婦とも奇人也、予が著聞外集に記し置たり。】近江の石亭(せきてい)にも劣らざる程の玩石家(ぐわんせきか)故、此石の缺口を、隙(ひま)を厭はずして、自身に磨き試るに、石質、至て堅く、玉(たま)の如き光澤(つや)出て、極上塗(ごくじやうぬり)の蠟色(らいろ[やぶちゃん注:「らういろ」の脱字かと思ったが、後にも出るので、こうも読むものか。なお、「ら」は「ろ」にも見える。])の如き色出(いで)て、全く赤銅(しやくどう)のごとく、無類なる見事の石と成(なり)たると也。其堅き事は金鐡の如くなれども、勿論、金(かね)にてはなし、石なり。元來、邊鄙の山中の事なれば、昔より磬石と云(いふ)事は知(しら)ずして過來(すぎきた)り居(ゐ)たるに、天明に、大内炎上の後、御所の君、燒たり迚(とて)、白峰へ取(とり)に來りて後(のち)、一山(いつさん)の石は磬石にて有たりと云事を、所の者も初(はじめ)て知(しり)たり。夫(それ)迄は、土俗、かね石とのみ唱へ來りしとなり。日本の内に、まだ、餘國にも、磬を生(しやうず)る山も有べきか。珍敷(めづらしき)石も有ものなり。茶政家(ちやせいか)の合圖の鳴物(なりもの)などゝせば、珍重かぎりなき物なるべしと思はる。然共、御所にて、右の石を磬となし給ひたる工匠の直(あた)ひ[やぶちゃん注:採取から工作完成までの総費用の謂いであろう。]は、夥敷(おびただしく)懸りたるとの風聞、讚州へも追(おつ)て聞えたる由、左も有べき事か。今、顯密兩宗等の佛家(ぶつか)にて用(もちふ)る所の磬は、皆、悉く銅磬(どうけい)にして、石磬を用ゆる事なきは、彫琢の直(あた)ひ、尋常ならざる故か。、中年の頃までは、樂器に用ゆる磬は石なる事をしらずして、磬といふは銅(あかゞね)にてのみ拵へたる物を、磬の字は金に從はずして石に從がふは、金と石とを取違へたるものなるかなどおもひ居(ゐ)たりしは、恥敷(はづかしき)ことにて有し。何事もしらぬ事のみにて打過(うちすぎ)、殘り多く思ふまゝ、せめては聞(きく)にまかせて記し置(おき)て、童蒙へ示さんと思ふのみ。

[やぶちゃん注:「六書(りくしよ)」漢字の造字法及び運用法の原理を六種(象形・指事・形声・会意・転注・仮借)に分類したもの。

「諧聲(かいせい)」形声の別称。事物の類型を表す記号(意符)と、発音を表す記号(音符)を組み合わせて新しい字を作る法で、漢字の基本構成としては九〇%以上と圧倒的である。但し、「磬」の甲骨文では象形文字で、吊るした鈎型の石を先端の大きな棒で打つさまを象っている。「殸」が初体字であったが、後に篆文で意味を明確にするために「石」が附加され形声文字となった(「磬」の解字部分は大修館書店の「廣漢和辭典」に拠った)。

「會意(くわいい)」既成の象形文字又は指事文字を組み合わせて新しい意味の漢字を新造すること。日本の国字は会意で作られたものが多いが、中国の漢字の会意文字解釈は研究者の個人的恣意に影響される傾向が強く、甲骨文字の発見以後は会意文字とされたものの多くが見直されつつある。先の甲骨文の解字から見ても想山も勝手な「会意」解釈をしていることがよく判る。

「規矩(きく)」「準繩(じゆんぢやう)」基準となるもの。規則・手本。多く前のそれと合わせて「規矩準繩」の四字熟語で使われる。「規」はコンパス、「矩」は物差し、「準」は水平を定める水盛り、「縄」は直線を引くための墨繩(すみなわ)の意である。

「説文(せつもん)」「説文解字」の略。後漢の許慎作の、最古にして優れた部首別漢字字典。西暦一〇〇年に成立し、一二一年に許慎の子である許沖が安帝に献納した。本文十四篇と「叙」(序)の十五篇から成り、「叙」によれば、小篆の見出し字九千三百五十三字、重文(異体字)千百六十三字を収録する(現在の通行本はこれより少し多い)。漢字を五百四十の部首に分類して体系づけ、その成立を解説、字の本義を記す。

「磬樂石也象縣虛之形殳擊ㇾ之也」訓点に従い、省略した読みを総て附けて、以下に書き下す。

   *

磬(ケイ)は樂石(がくせき)なり。縣(ケン)に象(かたど)る。虛(キヨ)の形(かたち)に、殳(シユ)は之れを擊つなり。

   *

但し、想山の引用は不全で、中文サイトを見ると、「樂石也。从石、殸。象縣虡之形。殳,擊之也。古者母句氏作磬。」とある。「虡」は尖った剣(ここでは叩くための棒)の意のようである。

「洒濱(しひん)」地名のようであるが、不詳。泗濱浮石(しひんふせき)という中国古代療法として使用していた石の名は存在する。後に出る「禹貢(うこう)」は「書経」の一篇で、紀元前の中国(漢族の居住地域)を九州(冀(き)州・兗(えん)州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍(よう)州)に分けて記述、地理書として後世に尊重されたmのであるから、この九州のどこかではあろう。

「讚州白峰(しらみね)」香川県坂出市東部にある標高三百三十七メートルの山。五色台(ごしきだい)山地の西部を占め、ここに出るサヌカイトは中国・四国地方の打製石器の原石となった。山頂近くには遠流された崇徳上皇の白峰陵、山腹に四国八十八ヵ所第 八十一番札所の白峰寺があり、かの上田秋成の名品怪談集「雨月物語」の冒頭を飾る「白峯」で知られる。

「三里計り」十一キロ七百八十二メートルほど。但し、登攀実測距離である。

「律」広義には、日本や中国音楽の音程単位で、十二律の一段階の差を示し、洋楽の半音(短二度)に相当する。狭義のそれもあるが、煩瑣であり、ここでは想山は大まかな音律の謂いで述べているので略す。

「香川郡葛西村」不詳。但し、旧香川郡には香西町(こうざいちょう)があり、ここには中笠居(なかかさい)村があった。ここか? 現在の高松市北西部にある香西(こうざい)地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「藏石家」愛石家。石コレクター。夫婦そろってであろうから、「奇人」と言うたのであろう。

「高橋白峰」不詳。

「著聞外集」本「想山著聞奇集」の拾遺と考えられるもので、名古屋市鶴舞図書館に全六冊で写本が存在したが、昭和二〇(一九四五)年に戦火に遭って焼失してしまったらしい(底本解題に拠る)。実に実に「残り多し」。

「石亭」奇石収集家木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)。稀代の一大奇石書「雲根志」(安永二(一七七三)年に前編、安永八(一七七九)年に後編、享和元(一八〇一)年に三編をそれぞれ刊行している。

「天明に、大内炎上」天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した「天明の大火」によるもの。出火場所の名をとって「団栗焼(どんぐりや)け」、「都焼(みやこや)け」などとも称する。ウィキの「天明の大火」によれば、『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた』。同日『未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝にまでずれ込んだ。『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失町数千四百二十四町、焼失家屋数は三万六千七百九十七に及び、焼失世帯六万五千三百四十戸、焼失寺院二百一寺、焼失神社三十七、死者は百五十名であったという。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名は『あったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示して』おり、また、『朝廷の動向が世間の注目を集めるようになり、尊号一件』(寛政元 (一七八九)年に光格天皇が父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の尊号を贈りたい旨、江戸幕府に希望した際、老中松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私(わたくし)するもの、として拒否した一連の事件)『などの紛争の遠因となった』とある。因みにこの「尊号一件」の後処理(同時期に第十一代将軍徳川家斉が実父一橋治済(はるさだ:吉宗の孫)に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていていたが、定信はこの事件で朝廷の尊号賦与を拒否した手前、この要請に対しても同様に拒否をせざるを得なくなった。これは実は定信が御三卿の一人として将軍位を狙える立場にあったところを、治済が白河藩へ放逐した政敵であったこと、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていたことに起因し、定信としては、本末転倒乍ら、一橋治済の大御所就任を阻止するためにも典仁親王の上皇就任を拒否せねばならなかったものともされる。しかし、これによって定信は家斉の不興を買うこととなり、寛政五(一七九三)年七月二十三日に失脚している。

「茶政家」聴かない熟語であるが茶道家のことか。

「鳴物」茶事(ちゃじ)に於いて準備の整ったことなどを知らせるために叩いて音を出すための道具。サイト「茶道入門」の「鳴物」によれば、銅鑼(どら)・喚鐘(かんしょう)・板木(ばんぎ)・木魚(もくぎょ)などがあり、『一般的に銅鑼や喚鐘は亭主が中立後の後入の合図などに用い、板木や木魚は客が到着や連客の揃った合図などに用い』るとし、『鳴物は、亭主が茶席の用意を終えて客の入来を請うために用いるのを鳴物挨拶(なりものあいさつ)といい、鳴物による案内を始めたのは』、『古田織部が露地を拡大したために亭主が躙口』(にじりぐち)を開けることで客を招来する合図とする『それまでのやり方ができなくなったからとい』 う、とある。

「顯密兩宗」「顕教」と「密教」の両学派。「顕教」とは、衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が秘密にすることなく明らかに説き顕した教え及びその経典の修学を指し、「密教」とは、真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた、容易に明らかに出来ない奥義としての秘密の教え及びそれが記されているとする経典の修学を指す。真言宗開祖の空海が「密教」が勝れているとする優位性を主張する立場から分類した教相判釈の一つであって宗派ではないが、一般には鎌倉新仏教を含まない、国家鎮護を主とする天台宗・真言宗などを指すことが多い。

「佛家にて用る所の磬」ウィキの「磬」によれば、本邦の仏教寺院では法要の際の読経の合図に鳴らす仏具として用いられ、これは古代中国の磬に似ているものの、材質は石でなく、鋳銅製である。『奈良時代から制作され、平安時代には密教で必須の仏具となり、その後他宗派でも用いるようになった』。『仏教寺院では、金属製の碗を台の上に置いて棒で叩いて鳴らす楽器のことを「磬子」または「鏧子」と書いて「けいす」または「きんす」と読む』。『これは古代中国の磬とは別物である』とある(下線やぶちゃん)。

「御所の君」光格天皇(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年:在位:安永八(一七八〇)年~文化一四(一八一七)年)。

 以下は総て全体が底本では二字下げ、原典では一字下げ。]

 

予が友、内藤廣庭(ないとうひろには)、此石を一つ所持なし居(ゐ)たり。か樣成(やうなる)石也。色は白目(しろめ)なる灰鼠(はいねづみ)にて、石肌(いしはだ)荒く麁(そ)にして鮫肌なれども、缺口は如何にも眞密(しんみつ)にて磨けば蠟色塗(らいろぬり)のごとく成(なる)に相違なし、此石片面の端の所に少し缺疵(かけきづ)有(あり)、此疵の方(かた)を下になし、釣(つる)して打(うつ)と鳴(なら)ず、又、疵の方を上になして釣して打と全(また)く金(かね)の音(ね)にて、其響き丁當(ていとう)として先(まづ)、鉦(しやう)などに近き音(ね)なり。

或人云(いふ)、唐土(たうど)には種々の磬石有(ある)事ときけり、瀛州(えいしう)の靑石磬(せいせきけい)、其長(たけ)一丈、輕き事、鴻毛(こうまう)の如し、など云(いふ)事有を見れば、其音(ね)も種々(しゆじゆ)有べし、讚州の石質は至(いたつ)て堅密(けんみつ)なれば其音(ね)金玉(きんぎよく)に近し、彼(かの)楊貴妃の弄(もてあそび)せし藍田(らんでん)の綠玉磬(りよくぎよくけい)などの類(たぐひ)なるべしと也。

[やぶちゃん注:「内藤廣庭」「猫のもの云たる事」に既出。そこで私は『不詳。ただ、想山と同時代人の、幕末の国学者で同じ尾張藩に仕えたこともある内藤広前(ひろさき 寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)の初名は広庭である。同名異人か?』と注しておいた。

「麁(そ)」粗いこと。

「眞密(しんみつ)」緻密。

「丁當と」漢字は当て字で歴史的仮名遣では「ていとう」でよい。副詞で玉などが触れ合う音、瀧や鼓などの音を形容する語である。

「鉦」銅或いは銅の合金で作った平たい円盆形の打楽器。直径十二~二十センチメートルほどのものまであり、撞木(しゅもく)または桴(ばち)で打つ。伏せ鉦(がね)・摺り鉦(「ちゃんぎり」とも)・鉦鼓(しょうこ)などの種類がある。

「瀛州(えいしう)」はまず、古代中国神話に於ける仙人の住むという東方の三神山(他の二つは蓬莱と方丈)の一つで、そこから転じて日本を指して東瀛(とうえい)とも雅称したが、ここは磬石が出土した場所の謂いであろうから、実在した魏晋南北朝時代の四八七年から隋代にかけて実在した行政区ととっておく。現在の河北省滄州市河間(かかん)市に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈」魏晋代では二・四〇メートル強、隋代では三メートル弱。日本では三・〇三メートル。ここではどの度量衡を採ればよいかは判らぬ。

「鴻毛」鴻(おおとり:大・中型の水鳥)の羽毛。非常に軽いものの譬え。

「藍田の綠玉磬」現在の陝西省西安市藍田県((グーグル・マップ・データ)。ここは盛唐の詩仏王維の別荘があったことで知られ、そこで読まれた友人裴迪(はいてき)と交わした詩「輞川集」二十首(「輞川(もうせん)集」。輞川は川の名)は「孟城拗(もうじょうよう)」「華子岡(かしこう)」「鹿柴(ろくさい)」「木蘭柴(もくらんさい)」「竹里館」など、高校の漢文教科書にもよく載るので御存じの方も多かろう)で産する緑玉石(エメラルド。サヌカイトではない)ウィキの「楊貴妃には「楊太眞外傳」からとして、彼女は磬の『名手でもあり、梨園の楽人ですらかなうものがなかった。彼女の琵琶は、ラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないものであった。また、彼女の紫玉の笛は、嫦娥からもらったものであるという伝説もあった。また、「涼州」という歌を自分で作曲し、死後に玄宗によって、世に広められたと伝えている』とあり、「太平廣記」の「卷二百四」の「樂二」の「太眞妃」(楊貴妃の道号。玄宗自身の第十八子であった寿王李瑁(りぼう)の妻だった楊貴妃を無理矢理に奪うために出家させたのである。「開元住信記」を出典とする)にも以下のようにある。

   *

太眞妃多曲藝、最善擊磬。拊搏之音、玲玲然多新聲、雖太常梨園之能人、莫能加也。玄宗令彩藍田綠玉琢爲磬、尚方造簨簴流蘇之屬、皆以金鈿珠翠珍怪之物雜飾之。又鑄金爲二獅子、拿攫騰奮之狀、各重二百餘斤、以爲趺。其他彩繪絢麗、製作精妙、一時無比也。及上幸蜀囘京師、樂器多亡失、獨玉磬偶在。上顧之淒然、不忍置於前、促令載送太常寺。至今藏於太樂署正聲庫者是也。

   *]

 

2017/06/11

譚海 卷之二 豐後國川太郎の事

○川太郎といふ水族(すいぞく)婦人に淫する事を好む、九州にてその害を蒙る事時々絶(たえ)ず。中川家の領地は豐後國岡といふ所也、その地の川太郎處女に淫する事時々也。その家の娘いつとなく煩ひつゝ健忘のやうになり臥床(ふしど)につく。是は川太郎に付(つか)れたり、力(ちから)なしとて親族かへりみず。川太郎に付るゝ時は誠に醫療術なし、死に至る事なりといへり。川太郎時々女の所へ來る、人の目には見へざれども、病人言語嘻笑(げんごきせう)する體(てい)にてしらるゝ也。親子列席にては甚だ尾籠(びらう)いふべからざるもの也といへり。加樣(かやう)なる事家ごとに有(ある)時は、川太郎を驅(か)る事あり。其法蚯蚓(みみづ)を日にほしかためて燈心(たうしん)になし、油をそゝぎ燈(ひ)を點じ、その下に婦人を坐しめ置(おか)ば、川太郎極めてかたちをあらはし出來(いでく)る也。夫(それ)を伺ひ數人あつまり川太郎を打殺(うちころ)し驅る、如ㇾ斯(かくのごとく)してその害少(すくな)しと云。川太郎など夜陰水邊(みづべ)にて相撲とる事は常の事也といへり。

[やぶちゃん注:「中川家の領地は豐後國岡といふ所也」これは豊後国(現在の大分県の一部)岡藩(おかはん:竹田藩とも呼ばれる)で、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)にあったそれであろう。当時の領地は豊後国大野郡・直入郡・大分郡に跨っており、小藩が分立した豊後国内では最大石高の藩であった。代々の藩主は「中川」氏で参照したウィキの「を見ると、「譚海」の内容時制(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚)からは、第八代藩主中川久貞か、第九第中川久持であろう。

「その家」の「その」は、川太郎に魅入られた家の、という意味。

「言語嘻笑する」誰もいないのに誰かと物語するように話をしては喜び笑うこと。処女であることから、河童淫猥伝承がある地で発生した、思春期性の心因性精神病の幻覚症状の一種である可能性が高いようには思われる。

「親子列席にては甚だ尾籠(びらう)いふべからざるもの也といへり」所謂、極めて性的な言葉を殊更に発したり、そうした行為を実際にして見せるのであろう。

「驅(か)る」と一応、訓じておいた。所謂、「駆除」「駆逐」で「追い払う」の意である。

「燈心」灯芯。この見えない河童を出現させる呪法は実に面白い。河童関連書ではあまり目にしたことがない。]

甲子夜話卷之四 15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

4―15 同人、竜紋を上下に始て着せし事

竜紋を麻上下の代りに用ることも、左近始められしと云。一日着して德廟の御前に供せらる。そのとき左近の上下は何なるやと御尋なり。是は龍紋にて候。家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候と申上らる。夫より世の中竜紋の上下を用始めしと云。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」引き続き、前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。彼は左近衛将監であった。

「竜紋」「りゆうもん(りゅうもん)」は「竜門」「流紋(りうもん(りゅうもん)」などとも書き、絹の平織物の一種。羽二重に似るが、やや厚手で、江戸時代、帯・袴・羽織・裃などに用いられた。武士の裃にそれを用いた濫觴は乗邑だと静山は記すのである。

「上下」「かみしも」。裃。

「德廟」吉宗。

「家來へとらせ候へば、麻より保よきとて悦候」乗邑はまず、竜紋の裃を作らせて家臣に下賜して、具合を見た。すると麻よりも「保」(もち)がよい(厚地であるから擦り切れにくいという謂いか)、とって「悦候」(よろこびさふらふ)であったから、彼もそれを着用したというのであろう。

 

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(5) 五 自然界の平均 /第六章~了

 

    五 自然界の平均

 

 動植物ともに若し生れた子が悉く生存し繁殖したならば、忽ち驚くべく增加すべきこと、及び實際に驚くべく增加した例の少からざることは以上述べた通りであるが、總べての動植物が斯く增加しつゝあるかといふに、之は無論出來ないことで、大體に於ては昨年も今年も來年も同一處に於ける動植物の數には甚しい相違はない。雀は年々十疋づつ子を生んでも格別に殖える樣子もなく、夏、肉類に附く蠅は一度に二百萬も卵を生み、卵は直に孵化して僅に十四五目で生長し終るから、二週間每に百萬倍に增加すべき筈であるが、少しも目立つ程には殖えぬ。然らば如何なる動植物が實際驚くべき增加をしたかといふに、前に擧げた例は皆偶然或は故意に人間が移殖したものばかりで、何十萬種もある動植物の中から見れば、實に極めて僅少な例外の場合に過ぎぬ。且それも何時までも限りなく同じ割合で繁殖する譯ではない。或る度に達すれば必ず自然に增加も止んでしまふもので、かの評判の高いオーストラリヤの兎でさへも、今は或る地方では最早增加の極に達した模樣があり、初めは只でも貰ひ人の無かつた兎の、冷藏して輸出するやうになつてからは、之を取扱ふ商人も殖え、互に競爭するので、原料も追々高くなり、今では昔のやうに儲からぬといふが、之は兎が最早盛に增加せぬ證據である。南アメリカの牛馬も略々之と同樣な有樣に達して居る。

[やぶちゃん注:「度」「ど」。レベル。]

 

 かやうに繁殖の極に達してしまふと、最早增加の餘地がないのであるから、一對の動物からは平均二疋だけの子が生存し、一本の木からは平均一粒だけの種が生存して、たゞ親の跡を繼ぐだけとなるより外に仕方はないが、若し同一地方に産する動植物が悉くこの有樣となつたならば、その地方は年々歳々動植物の數に少しの變化も起らず、鳥の減ることもなく、雀の殖えることもなく、去年百疋居たものは、今年もやはり百疋居る割合で、何年過ぎても自然界の有樣が依然として變ぜぬ理窟である。實際この通りの有樣が長く續くことは世界中どこへ行つてもないが、動植物相互の關係を考へて見ると、複雜極まるもので、到底他の種類と全く無關係に或る一種だけが獨立に增加することは出來ぬ。例へばこゝに一種の草を食ふ昆蟲があると想像し、この蟲が盛に繁殖增加すると假に定めたならば、その結果は如何。忽ち今まであつた或る草を食ひ盡して、自分も食物の無くなつたために共に倒れなければならぬやうになる。また一方には今までこの蟲を食物として居た或る鳥は餌の急に增したのに力を得て忽ち繁殖し、遂にはこの蟲を食ひ盡すまでに殖えるであらうが、蟲を食ひ盡してしまへば、この鳥も亦餓死せざるを得ぬ。若しこの時にかの草の種が幾粒か殘つて居て、生え出したとしたらば、之を食ふ蟲が居ぬこと故、忽ち增加してその邊一杯に蔓延る。また若しこの時にかの蟲の卵が幾つか殘つて居て孵化したとしたらば、食物は幾らでもあり、敵は全く居ぬから、忽ち繁殖して盛にかの草を食ふやうになる。これらの關係に就いては更に後の章で詳しく述べるが、兎に角、生物相互の間には非常に複雜な關係のあるもので、或る一種が增加しようとすれば、之を食ふものも殖えて之を抑へ、なかなか勘定通りに速に繁殖することは出來ぬ。恰も少しでも高く賣らうとする賣人(うりて)と、少しでも安く買はうとする買人(かひて)との間に、幾らならば賣らう買はうといふ物の相場が定まるのと同じやうに、長く一箇所に住する動植物の間には、食はれる動物何疋に對し、之を食ふ動物が何疋の割合ならば、一方で食はれて減るだけを、他方で繁殖して補うて行けるといふやうな具合に、動植物各種の數の割合の相場が自然に定まるものであるが、この通りに行つて居れば、動植物各種の數は年々同じことで、自然界に急劇な變動は決して起らぬ。この有樣を自然界の平均と名づける。尤も物の相場に日々多少の變動のある如く、自然界の平均を保つべき動植物の數の割合も、寒暖の相違、風雨の多少などの如き、その時々の事情で常に多少の變動をなすことは無論である。

[やぶちゃん注:「速に」「すみやかに」。]

 

 この章に擧げた動植物の劇しく增加した例は、敦れも自然界の平均を人工的に破つた場合である。人間が牛馬を輸入せぬ前にはアメリカではアメリカ産の動植物だけで自然界の平均が保たれ、年々著しい變動も無かつた。そこへ突然牛馬が入つて來たが、その增加を制限すべき敵動物が無かつたと見えて、忽ち斯くの如く繁殖したのである。オーストラリヤの兎なども之と同樣で、元來オーストラリヤ産の動植物だけで、自然の平均を保つて居た所へ、突然兎を輸入した故、前述の如き結果に達したのである。水面の高さの異なつた二個の池も、その間に連絡のない間は兩方ともに水も動かず、水量に增減もないが、堀を造つて二個の池を續けると、忽ち一方から水が流れ込み、一方