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2017/02/24

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗になつた人」

 

 天狗になつた人

 

 京都の東松崎に日蓮宗の寺があつた。こゝの上人は高才の人であつたが、病氣になつて遷化(せんげ)も遠からずと見えた頃から、何となく容貌が物凄く變り、看護の人達も心許なく思ふうちに、ふと起き上つて、只今臨終ぞと四方を見る眼が輝き、鼻が高くなり、左右の肩に羽が生え、寢室より走り出て、緣側へ行つたと見る間もなく、如意ガ嶽に飛び去り、行方が知れなくなつた。上人には有力な弟子が五人ほどあつたが、師の成行きを見て、いづれも宗旨を改めた。そのうちの一人が淨土宗になり、了長坊と稱して東山で念佛をすゝめて居つた。この人の口から、上人の天狗に化して飛び去つた時の恐ろしかつたことが傳へられた(新著聞集)。

[やぶちゃん注:「東松崎」現在の京都市左京区松ヶ崎東町、この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「心許なく思ふ」何とも心配で、気掛かりに思う。

「如意ガ嶽」如意ヶ嶽(にょいがたけ/にょいがだけ)は山頂が京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町にある京都東山の標高四百七十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の松ヶ崎東町からは、南東に五・五キロメートルの位置にある。

 以上は「新著聞集」の「第十四 殃禍篇」(「殃禍」は「わうくわ(おうか)」で「災い・災難」の意)の「日蓮學僧活(いき)ながら天狗となる」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した。

   *

洛陽の東松が崎に、日蓮宗の寺あり。此上人、高才の人にて、門弟にも、上人分(ぶん[やぶちゃん注:師の才智に相応しただけの知力を持っているの謂いであろう。])の聖(ひじり)あまたありし。師煩(わづらひ)て遷化遠(とほ)からず見へし比(ころ)より、何となく、面像(めんざう)のあたり物すごくて、看病の面々、心もとなく思ひしに、不圖(ふと)をきあがり、只今臨終ぞとて、四方を吃(きつ)と見たる眼(まなこ)かゞやき、見る見る鼻高くなり、左右に、羽(は)がひ生(はへ)て、閨(ねや)より走り出(いで)て、緣(ゑん)ばなに行(ゆく)とみへしが、むかふの如意(によい)が岳(たけ)に飛(とび)さり、行方(ゆくへ)なく成(なり)し。弟子の上人五人、みなみな宗旨をあらためし中(うち)に、浄土宗に獨り成(なり)て、名を了長坊とあらため、東山におはして、多くの人に念佛をすゝめたまひし。此人の、くはしく語りて、舌を振(ふり)ておそれあへり。まことに其上人の日來(ひごろ)の行跡樣(ぎやうせきやう)、おもひやられて哀(あはれ)なり。

   *]

 近江の長命寺に居つた普門坊といふ僧は、松ガ崎の巖上に百日の荒行をして、終に生身の天狗になつた。この僧は長命寺に近い牧といふ村の者で、何某忠兵衞といふ郷士の家から出た。天狗に化して後、一度暇乞ひに來て、以後はもう參りますまい、といふ聲だけ聞えた。「今は百有餘年前のことゝかや」と「閑田耕筆」に書いてある。「閑田耕筆」は享和元年版だから、先づ元祿末年の事と見てよからう。

[やぶちゃん注:「長命寺」琵琶湖畔に聳える長命寺山の山腹、現在の滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗姨綺耶山(いきやさん)長命寺(ちょうめいじ)。創建は推古天皇二七(六一九)年とし、聖徳太子を開基と伝える古刹で(但し、伝承の域を出ず、確実な史料上の長命寺寺号の初見は承保元(一〇七四)年)、参照したウィキの「長命寺」によれば、伝承によると、第十二代景行天皇の御世、かの『武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り』長寿を祈願したことから、宿禰は三百歳の『長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている』とある、私に言わせれば、天狗を産み出しそうな面妖な寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「普門坊」「ふもんばう(ぼう)」。非営利教育機関「JAPAN GEOGRAPHIC」公式サイト内の長命寺ページ(写真多数)の中山辰夫氏の記載によれば、寺の境内の一番奥まったところに「太郎坊権現社」が祀られており、これが普門坊が天狗となったものを祭祀したものと記しておられる。以下に引く。『この祠の両脇にも巨石がゴロゴロ。割れ目のある岩は女性とされる』。『祀られているのは、太郎坊という大天狗。もとは、長命寺で修行をしていた普門坊という僧で、厳しい修行の結果、超人的、神がかり的能力を身につけ、大天狗になって、寺を守護しているのだとか』。『屋根に覆い被さるような巨石は「飛来石」』。京の天狗のメッカ、『愛宕山に移り住んだ太郎坊が、長命寺を懐かしく思って、近くにあった大岩を投げ飛ばし、長命寺の境内に突きささったものだとか』とある。

「松ガ崎」地図上では確認出来ないが、こちらの方の記載中に、『長命寺の山を下りて、すぐ目の前にある「名勝 松ヶ崎」という場所』で撮った琵琶湖への落日の写真があるので、長命寺の直下にある湖岸の呼称であることは間違いない。

「牧」現在の近江八幡市牧町(まきちょう)。現行の牧町は長命寺の南から南西方向の四キロメートル圏内にある。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「閑田耕筆」の「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した(カタカナは原典のもの)。

   *

淡海(あふみ)長命寺に普門坊といへる住侶(じふりよ)、其(その)麓(ふもと)松が崎の巖上(ぐわんじやう)に百日荒行(あらぎやう)して、終(つひ)に生身(しやうしん)天狗に化(か)したりとて、其(その)社(やしろ)、卽(すなはち)松が崎の上(うへ)本堂の裏面の山に有(あり)。此僧の俗性(ぞくせう)は、此長命寺のむかひ牧(マキ)といふ村にて、某氏(ばうし)忠兵衞といふ郷士(がうし)の家(いへ)より出(で)たりしが、化して後、一度至り暇乞(いとまごひ)し、今よりは來(きた)らじと聲計(ばかり)聞えてされりとなん。今は百有餘年前のことゝかや。今も年々某(ばう)月日(つきにち)、此社の祭は彼(かの)忠兵衞の家より行ふとぞ。

   *

「享和元年」一八〇一年。

「元祿末年」元禄は十七年(グレゴリオ暦一七〇四年)の三月十三日に宝永に改元している。]

 倂し天狗になる者は必ずしも出家方外の人には限らぬ。信州松本の藩士萱野五郎太夫といふ人は、文武兩道の嗜みがあり、萬事物堅い人物であつたが、その代り物に慢ずるところがあつた。或年の正月、大半切桶を新たに作らせ、幾日の晝頃には必ず出來(しゆつたい)するやうにと、嚴しく下男に命じた。果して何事がはじまるのか、訝りながらその通り調製すると、今度は新しい筵十枚をとゝのへ、餠米四斗入三俵を赤飯にしろといふ。十枚の筵は座敷に敷かせ、大半切桶には赤飯を盛つて筵の上に据ゑ、自分は日の暮を待つて沐浴し、麻上下を身に著けた。家人は悉く退け、無刀でその一間に閉ぢ籠つたので、氣が違つたのではないかと思つたが、他には別に不審の事もなく、殊に無刀であるから、五郎太夫の云ふに任せた。その夜半頃になつて、人數ならば三四十人も來たやうな足音であつたが、もの言ふ聲は少しも聞えない。曉方にはひつそりして、やがて夜も明け放れたのに、何の音もなくしづまり返つてゐる。こはごは襖を少し明けて覗いたら、人影は全くないのみならず、あれほどの赤飯が一粒もない。五郎太夫の姿も見えぬので、方々搜したが、結局行方不明であつた。そのまゝには捨て置けず、領主へ屆け出たところ、常々貞實の者であり、不埒な事で出奔したといふでもないが、理由なく行方不明になつた以上、家名は斷絶、代々の舊功により、倅を新規に呼び出し、もと通りの食祿で召仕はれることになつた。翌年の正月、誰が置いたかわからぬ書狀が一通、床の間にあつて、紛れもない五郎太夫の筆蹟で、自分は當時愛宕山に住んで、宍戸シセンと申す、左樣に心得べしと書いてあつた。尚々書に「二十四日は必ず必ず酒を飮むまじく候」とあつたが、その後變つた事もなかつた。たゞ領主はその年故あつて家名斷絶した。シセンの文字も書狀にはちやんと書いてあつたのだけれど、傳へた人が忘れたのださうである(耳囊)。この話は五郎太夫に心願があつて、天狗になつたものと解せられるが、天狗にならうとした動機、天狗になつてからの消息は、一通の書狀の外、何もわからない。

[やぶちゃん注:これは「耳囊」の「卷之十 天狗になりしといふ奇談の事」である。私の電子テクスト訳注でお楽しみあれ。]

 永祿頃の話といふから少し古いが、川越喜多院の住持が天狗になつて、妙義山中に飛び去つた。代代の住職の墓の中に、この住持の墓だけないといふ話がある。この住持が天狗になつた時、使はれてゐた小僧も天狗となり、同じやうに飛立つたが、まだ修行が足りなかつたのであらう、庭前に墜ちて死んだ。その小僧は恰も味噌を摺りつゝあつたが、摺粉木を抛り出して飛び去つた。そのためかどうか、今でもこの院で味噌を摺ると、必ず何者かが摺粉木を取つて行つてしまふ。味噌を摺ることが出來ないので、槌で打つて汁にすると「甲子夜話」に書いてある。たゞこの話には、小僧の墜ちたところに小さな祠を建てたとある外、天狗になつた後日譚は何も見當らぬ。

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年で室町末期。

「川越喜多院」現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗星野山(せいやさん)喜多院。鬼となって厄病を防いだかの元三大師良源を祀り、「川越大師」の別名でも知られる。五百羅漢の石像でも有名。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「甲子夜話」の「卷之四十二」にある、川越喜多「院に味噌をすること成らず」である(原典目次は前が同じ川越喜多院の話柄であることから「同院」となっている)。以下に示す。「搨」は「する」(擂る)と読んでいる。

   *

又永祿の頃とか。喜多院の住持、天狗となりて、妙義山中の嶽と云に飛去りたりとぞ。因て住職代々の墓の中に、この住持の墓ばかりは無しとなり。又この住持の使ひし小僧も天狗となり飛立しが、庭前に墜て死す。故にその處に今小祠を建てあり。この小僧飛去る前に味噌を搨りゐたるが、搨こ木を擲捨て飛たりとぞ。その故か、今にこの院内にて味噌を搨れば、必ず物有て搨こ木を取去ると。因て味噌を搨ことならざれば、槌にて打て汁にするとぞ。是も亦何かなる者の斯くは爲る乎。

   *]

2017/02/23

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の姿」

 

 天狗の姿

 

 天狗の話は澤山あるが、明かにその姿を見た者は存外少い。山中で出會つたり、誘拐されたりした話を見ても、大體は山伏姿である。「梅翁隨筆」その他に見えた加賀國の話のやうに、たまに天狗らしい風體の者があると思へば、それは金を欲しがる贋天狗で、傘を持つて上から飛び下りることは出來るが、飛び上ることは曾てならぬといふ心細い手合であつた。

[やぶちゃん注:「梅翁隨筆」のそれは「卷之五」の「加賀にて天狗を捕へし事」である。柴田は贋天狗の笑い話なので、妖異に当たらぬものとして本文では少ししか語っていないので、ここは一つ、お慰みに、吉川弘文館随筆大成版を参考に例の仕儀で加工して示そうぞ。頭の柱「一」は除去した。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを推定で附した。本文の「いわく」はママ。

   *

加州金澤の城下に堺尾長兵衞といふて數代の豪家(がふけ)あり。弥生(やよひ)半(なかば)の頃、まだ見ぬかたのはなを尋(たづね)んとて、手代小ものめしつれて、かなたこなたとながめけるに、ある社(やしろ)の松の森の方より羽音(はおと)高く聞えける故、あふぎ見れば天狗なり。あなおそろしやとおもふ間もなく、この者の居(ゐ)たる所へ飛來(とびきた)るにぞ、今ひき裂(さか)るゝやらんと、生(いき)たる心地もなくひれふしけるに、天狗のいわく、其方にたのみ度(たき)子細あり。別儀に非ず。今度(このたび)京都より仲ケ間(なかま)下向(げかふ)に付(つき)、饗応(きやうわう)の入用(にふよう)多き所、折ふしくり合(あは)せあしくさしつかへたり。明後日晝過(すぎ)までに金子三千兩此所(ここ)へ持參して用立(ようだつる)べしといふ。長兵衞いなといはゞ、いかなるうきめにや逢(あは)んと思ひて、かしこまり候よし答へければ、早速(さつそく)承知(しやうち)過分なり。しからばいよいよ明後日此處(ここ)にて相待(あひまつ)べし。もし約束違(たが)ふことあらば、其方(そのはう)は申(まうす)に及ばず、一家のものども八裂(やつざき)にして、家藏(いへくら)ともに燒(やき)はらふべし。覺悟いたして取計(とりはから)べしといひ捨て、社壇のかたへ行(ゆき)にける。長兵衞命(いのち)をひろひし心地して、早々我家に歸り、手代どもへ此よしをはなしけるに、或は申(まうす)に任(まか)すべしといふもあり。又は大金を出す事しかるべからずといふもありて、評議まちまちなりけるに、重手代(おもてだい)のいわく、たとひ三千兩出(いだ)したりとも、身(しん)だいの障(さは)りに成(なる)ほどの事にあらず。もし約束をちがへて家藏を燒はらはれては、もの入(いり)も莫大ならん。其上(そのうへ)一家のめんめんの身の上に障る事あらば、金銀に替(かふ)べきにあらず。三千兩にて災(わざはひ)を轉じて、永く商売繁昌の守護とせんかたしかるべしと申(まうし)けるゆへ、亭主元來其(その)心なれば、大(おほい)に安堵(あんど)し、此(この)相談に一決したり。されば此(この)沙汰(さた)奉行所へ聞えて、其(その)天狗といふものこそあやしけれ。やうす見屆けからめ取(とる)べしと用意有(あり)ける。扨(さて)その日になりければ、長兵衞は麻上下(あさがみしも)を着(ちやく)し、三千金を下人に荷(にな)はせ、社の前につみ置(おき)、はるか下つて待(まち)ければ、忽然と羽音高くして天狗六人舞(まひ)さがり、善哉(よきかな)々々、なんぢ約束のごとく持參の段(だん)滿足せり。金子(きんす)は追々返濟すべし。此返禮には商ひ繁昌寿命長久うたがふ事なかれと、高らかに申(まうし)きかせ、彼(かの)金を一箱づゝ二人持(もち)して、社のうしろのかたへ入(いり)ければ、長兵衞は安堵して、早々我家へ歸りける。かくて奉行所より達し置(おき)たる捕手(とりて)のものども、物蔭に此体(てい)をみて、奇異のおもひをなしけるが、天狗の行方(ゆくへ)を見るに、谷のかたへ持行(もちゆき)ける。爰(ここ)にて考(かんがへ)みるに、まことの天狗ならば三千兩や五千兩くらひの金は、引(ひつ)つかんで飛去(とびさ)るべきに、一箱を二人持(もち)して谷のかたへ持行(もちゆく)事こそこゝろへね。此うへは天狗を生捕(いけどり)にせんとて、兼(かね)ての相圖なれば、螺貝(ほらがひ)をふき立(たつ)るとひとしく、四方より大勢寄(より)あつまり、谷のかたへ探し入(いり)、六人ながら天狗を鳥(とり)の如く生捕にして、奉行所へ引來(ひききた)れり。吟味するに鳥の羽、獸(けもの)の皮にて身をつゝみこしらへたるものにて、實の天狗にてはあらず。されば飛下(とびくだ)ることは傘(かさ)を持(もち)て下るなれば自由なれども、飛上(とびあが)る事とては曾てならずとなり。扨(さて)是(これ)をば加賀國にて天狗を生捕たるはなしは末代(まつだい)、紙代(しだい)は四文(しもん)、評判々々と午(うま)の八月江戸中をうり歩行(ありきゆき)しは、此(この)事をいふ成(なる)べし。

   *]

「甲子夜話」にあるのは深山幽谷でも何でもない、江戸は根岸の話である。千手院といふ眞言宗の寺に、大きな樅の木があつたが、朝の五ツ時(午前八時)頃、その枝間に腰をかけてゐる者がある。顏赤く鼻高く、世にいふ天狗といふ者そつくりであつた。目撃者は數人あつたといふが、あとも先もない。全く繪に畫かれたと同じ存在である。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全巻所持するが、探すのが面倒なので、発見し次第、追記する。悪しからず。]

 そこへ往くと「雪窓夜話抄」の記載は大分特色がある。因幡國の頭巾山は昔から魔所と呼ばれ、寶積坊權現の社が山上に在つた。そこの神主田中主税重矩といふ人が、享保十一年六月十八日に登山して、神前に一七日の斷食をした。二十三日の申の刻(午後四時)時分、神前に三四間ぐらゐある大石が三つ四つ重ねてあるのにもたれ、ひとり煙草をのんでゐると、遙かな谷底より大夕立の降つて來るやうな音がする。一天雲なく、雨の降りさうな樣子もないので、風の音かと見るのに、木の葉一つ搖がうともせぬ。そのうちにもたれてゐた石の上に、ひらりと飛び下りる人影があつた。主税とは五六尺の距離だから、手に取る如く鮮かに見えたが、相對すること半時ばかり、一語も發せず、左右を見𢌞すこともなく、立つたまゝ主税をぢつと見詰めるだけである。その眼つきにも人を憎むやうなとこ

ろはない。やがて人形を絲で引上げるやうな風に、七八間も空中に騰つたが、その時仰ぎ見て、はじめて兩翼のあることがわかつた。翼は背中で合せたやうになつてゐるので、石上に立つ間は少しも見えなかつた。翼は背中で左右にひろがり、前の方へ俯向いたかと思ふと、隼落しに谷底へ落ち込んだ。その時にも大夕立のやうな羽音が聞えたさうである。

[やぶちゃん注:「因幡國の頭巾山」「ときんやま」で、鳥取県鳥取市にある三角山(みすみやま:「三隅山」とも書く)の別名。「襟巾山」とも書き、「とっきんざん」とも読む。標高五百十六メートル。山頂には三角山神社がある。

「寶積坊權現」「ほうしゃくぼうごんげん」(現代仮名遣)と読むと思われる。ウィキの「三角によれば、『三角山は、古くは「滝社峰錫(ほうしゃく)権現(峰錫坊権現、峯先錫坊権現)」といい、山岳信仰・修験道の修行地で、江戸時代には鳥取藩の祈願所が置かれていた』。『山域は太平洋戦争前までは女人禁制で、麓には垢離場や女人堂が残されている』。『このため用瀬では山や神社を「峰錫さん」とも呼ぶ』。『祭神は猿田彦大神である』とあり、この「峰錫(ほうしゃく)」は「寶積」と音通であるからである。また、猿田彦神はしばしば天狗の形象と相似する点でも親和性が強いと言える。

「田中主税重矩」「たなかちからしげのり」の読んでおく。

「享保十一年」一七二六年。

「三四間」五メートル半から七メートル強。

「五六尺」一・五~一・八メートル。

「半時」約一時間。

「七八間」十二メートル半強から十四メートル半ほど。

 ここ以下の話は「雪窓夜話抄」の「卷下」の「卷六」巻頭にある「因州頭巾山に天狗の飛行(ひぎやう)を見る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

 この時主税の見た姿は、面體などは常の人に變らず、一尺二三寸もあらうといふ長い顏で、五月幟に畫いた辨慶のやうな太い目鼻であつたが、殊に口の大きいのが目に付いた。眼光はぎらぎらして凄まじく、目と目を見合せることは困難であつた。筋骨逞しく赤黑く、髮は縮んで赤い。木の葉のやうなものを綴つて身に纏つてゐたとおぼしく、それが膝頭まで垂れてゐた。自分の心は常よりしつかりしてゐて、別に恐ろしいとは思はなかつたが、五體は全くすくんで手も足も動かぬ。既に空中に飛び上り、眞逆樣に谷へ落ち込んだと思つたら、はじめて夜の明けた心持になり、手足も縛られた繩を解かれた如く自由になつた。こゝに至つて漸く、只今目のあたり拜んだのが寶積坊であつたらうと考へ及んだ、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「一尺二三寸」三十七~三十九センチメートル。]

 主税が頭巾山の頂上で一七日斷食をすると聞いて、その安否を氣遣ひ、わざわざ登山した醫者があつた。恰も天狗の姿を見た日の五ツ(午後八時)頃、主税が大きな洞穴に引籠つて、火を焚いてゐるところへやつて來たので、今日の話などをしてゐると、夜半頃になつて、また谷の方から大きな羽音が聞えて來た。今度は晝の經驗があるので、思はず身の毛よだち、身を詰めて二人とも洞中に屈伏してゐたが、この時は地には下りず、遙か空中を翔り過ぎた。數百疋の狼が聲を合せたやうな、大きな聲で咆哮し、空中を通る時、山に響き谷に應(こた)へ、大地も震ふばかりであつたけれども、少しの間でそれもやみ、山は閑寂たる狀態に還つた。一日に二度不思議を見聞したわけである。

[やぶちゃん注:先のリンク先を見て貰うと判るが、原典では医師の来訪の前の部分に別の伝聞が挿入されており、しかもその直後に『(中畧)』とあって医師来訪後の夜の話があるから、原話はもっともっと長いことが判るのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗と杣」

 

 天狗と杣

 

 山城國淀の北橫大路といふ里の庄屋善左衞門の家は、裏の藪際に土藏があり、その土藏の傍に大きな銀杏樹があつた。近年大風などの際、銀杏樹の下枝が土痺の瓦を拂ひ落すことがあるので、善左衞門が仙を雇つて下枝を切り拂はせた。だんだん下から切つて行つて、三ツ又のところに到り、その太い枝を切らうとすると、俄かに陰風吹き來り、首筋を何者か摑むやうに覺えてぞつとした。仙大いに恐怖し、急に逃げ下りたが、顏色土の如く、首筋元の毛が一摑みほど拔かれてゐる。これは天狗の住まれるところを切りかゝつたためと思はれます、もう少しぐづぐづしてゐたら、命はなかつたかも知れません、と云ひ、その上の崇りを恐れて、俄かに樹木に神酒を供へ、ひたすら罪を謝した上、その日の賃錢も取らずに歸つてしまつた。三ツ又のところは、琢(みが)いたやうに淸淨になつてゐたので、如何にも神物の久しく住んでゐたものであらうと、善左衞門もこの樹を敬ふやうになつた。寛政四年四月の話である(北窓瑣談)。

[やぶちゃん注:「杣」「そま」と読む。樵(きこり)のこと。

「寛政四年」一七九二年。

 以上は「北窓瑣談」の「卷之三」に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「一」は除去した。歴史的仮名遣の誤りが見られるが、ママとした。

   *

寛政四年壬子四月の事なりし。山城國淀(よど)の北橫大路(よこおほぢ)といふ里あり。其村の庄屋を善左衞門といふ。其家の裏の藪際(やぶぎは)に土藏あり。土藏の傍に大なる銀杏樹(いちやうのき)あり。近年大風などふく度に、土蔵の瓦を下枝(したえだ)にて拂ひ落しければ、善左衞門、仙(そま)をやとひ下枝を切拂はせけるに、段々下より切りもてゆきけるに、やうやう上に登り、三ツまたの所に到りて、件の三ツまたに成たる枝を切んとせしに、俄に陰風(いんふう)吹來り、杣が首筋を何やら物ありて、つかむやうに覺へて、身の毛ぞつと立ければ、杣、大いに恐れて急に迯下り見るに、首筋元(くびすじもと)の毛一つかみほど、引ぬきて、顏色土のごとくに成たり。善左衞門も怪みて何事にやといふに、杣、恐れて天狗の住給ふ所を切かゝりし故にとぞ思はる。今少しおそく下らば、一命をも失れんを、猶此上の祟(たゝり)もおそろしとて、俄に樹木に神酒(みき)を備へ、罪を謝し過(あやまち)をわびて其日の賃錢さえ取らで迯歸れり。其三ツまたの所は、甚だ淸浄にて琢(みがき)たるやうに有ける。何さま神物の久しく住ける處にやと、善左衞門も恐れて、此銀杏樹を敬しける。此事、善左衞門親類の嘉右衞門物語りき。

   *]

 天狗と樹木とが密接な關係を有する以上、樹を伐る杣の上に怪異が伴ふのは怪しむに足らぬ。美濃の郡上郡、武儀郡、賀茂郡、惠那郡あたりでは、はじめて山に斧を入れる時、先づ狗賓餠(ぐひんもち)といふものを拵へて山神に供へ、人々もこれを祝つて後、木を伐るので、さうしなければ種々の怪異があつて、なかなか木が伐れない、と「想山著聞奇集」にある。怪といふのも一樣でないが、多くは杣の道具を取るとか、使つてゐる斧の頭を拔き取るとかいふ類の事で、或時は山上より大木大石を落す音をさせたり、進んでは山を崩し巖を拔く勢ひを示したりする。そこで怪異の小さいうちに恐れをなし、狗賓餠を供へて神を祭り、御詫びをしてから木を伐ることになつてゐる。長い間木を伐つて𢌞る山などでは、時々狗賓餠を供へて祭り直しをしないと、木を伐ることがならぬのである。

[やぶちゃん注:「郡上郡」現在の岐阜県郡上(ぐじょう)市の大部分と下呂市の一部に相当する旧郡。

「武儀郡」「むぎぐん」と読む。旧郡。現在の美濃市全域と関市の大部分とその他で、旧郡上郡の南に接していた。

「賀茂郡」岐阜県加茂郡は現存するが、旧郡域は現在より遙かに広域で旧武儀郡の東方に接していた。

「惠那郡」旧郡。現在の岐阜県恵那(えな)市と中津川市の大部分と瑞浪(みずなみ)市の一部に加え、愛知県豊田市の一部も含まれていた。

「狗賓餠(ぐひんもち)」「狗賓」とは天狗の一種の個別呼称。ウィキの「狗賓」によれば、『狼の姿をしており、犬の口を持つとされ』た天狗の一種とする。一般的には『著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』。『狗賓は山の神の使者ともいえ、人間に山への畏怖感を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異・天狗倒しは狗賓倒しとも呼ばれるほか、天狗笑い、天狗礫、天狗火なども狗賓の仕業といわれる。このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない』。『しかし人間にとって身近といっても、異質な存在であることは変わりなく、度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと人間たちに災いを振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるために岐阜県や長野県で山の神に餅を供える狗賓餅など、日本各地で天狗・狗賓に関する祭りを見ることができる』。『また、愛知県、岡山県、香川県琴平地方では、一般的な天狗の呼称として狗賓の名が用いられている』。『ちなみに広島県西部では、他の土地での低級な扱いと異なり、狗賓は天狗の中で最も位の高い存在として人々から畏怖されていた。広島市の元宇品に伝わる伝説では、狗賓は宮島の弥山に住んでいると言われ、狗賓がよく遊びに来るという元宇品の山林には、枯れた木以外は枝一本、葉っぱ一枚も取ってはならない掟があったという』とある(下線やぶちゃん)。

 以上と後の二段の内容は総て、「想山著聞奇集」の「卷之一」の「天狗の怪妙、幷(ならびに)狗賓餠の事」に拠るものである。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年三一書房刊)挿絵とともに以下に示す。「武儀(むげ)郡」の読みはママ。【 】は原典の二行割注。

   *

 

Tenngutosoma

 

  天狗の怪妙、狗賓餅の事

 

 天狗の奇怪妙變は、衆人の知恐るゝ事にて、人智の量るべきにあらねども、その種類も樣々有事としられ、國所(くにところ)によりては、所業(なすわざ)も又、色々替りたるかと思はる。爰に北美濃郡上(ぎじやう)郡・武儀(むげ)郡、東美濃賀茂(かも)郡・惠那(ゑな)郡邊の天狗は、其所業、一條ならずといへども、大概、同樣の怪をなすなり。先(まづ)、山の木を伐時に、初て斧を入る節は狗賓餅(ぐひんもち)と云を持て山神に供へ、人々も祝ひ食てのち木を伐也。然らざれば、種々の怪ありて、中々木を伐事、成難し。長く所々木を伐𢌞る山などは、折々狗賓餅をして、齋(ものい)み仕直さねば、怪有て、木を伐事ならぬと也。扨、其怪、種々にて一樣ならざれども、多くは杣道具をとり、又、遣ひ居る斧の頭を拔取、或は山上より大木大石を落す音をさせ、甚敷時は、山をも崩し巖をも拔の勢を爲故、小怪の内に甚恐れをなし、直(ぢき)に狗賓餅をして神を祭り、厚く詫を乞て木を伐る事也。或時、濃州武儀郡志津野村の【中山道鵜沼宿より三里許北の方】村續きの平山を伐たり。是は山と云程の所にもなく、殊に古樹の覆ひ繁りたる森林(もりはやし)にもなく、村續きの小松林の平山にて、中々天狗など住べき所とは、誰人も思はざるゆゑ、かの狗賓餅をもせずして、木を伐るとて、杣ども寄合て伐初ると、皆、振上る斧の頭をとられたり。それ天狗出たりとて、道具を見れば、悉く失せたり。是にては、中々けふは仕事ならず、いざ狗賓餅をなすべしとて、おのが家々に歸(かへ)り、支度して餅を拵へ、山神を祭りて詫をなし、やがて道具を得て、翌日より無事に木を伐たりと。一年(ひとゝし)此村のよし松と云ものを、予が下男となして聞しる所也。木を伐居たるとき、斧を振上て木へ打付る間に、聊も手ごたへなくして、頭(かしら)なくなり、柄斗(ばかり)となるを知ずして、木へ打付て後、始て頭をとられし事をしるなり。不思議と云も餘り有る事也。其時は、杣道具も、いつの間にか取れて失(うせ)ぬるなり。しかれども、狗賓餅をしてわびぬれば、失たる道具も、いつとなく、元の所へ戾し置ことなりとぞ。其邊にては、か樣の怪異も常の事故、さして不審とはせざれども、餘國の人の見聞く時は奇怪なる事也。

[やぶちゃん注:以下の一段落分は底本では全体が二字下げ。]

狗賓餅を行ふ時は、先村内(むらうち)にふれて、けふは狗賓餅をするに來れといへば、老少男女大勢山に集りて、さて飯を強(こは)く焚き、それを握り飯となして串に貫き、能(よく)燒て味噌を附け、先(まづ)初穗を五つ六つ木の葉などに盛り、淸き所に供へ置て、其後各心の儘に飽まで喰ひぬる事となり。甚だ旨き物なれど、此餅を拵ると天狗集り來るとて、村内の家屋にては一切拵へざると也。同國苗木邊にては是を山小屋餅と云て大燒飯となす也。又、小くも拵て串に貫き燒たるをごへい餅と云り。【御幣餅の意か辨へずと云り】國所(くにところ)によりて、製し方も名付方も變るべし。是古に云粢餅(しとぎ)の事(こと)にて、今も江戸近在の山方にては粢餅と云とぞ。

 又文政七八年の事なるが、苗木領の二ツ森【城下より西北二理程の所】の木を伐出す迚、十月七日に山入してごへい餅を拵しが、山神へ供る事を忘れて皆々食盡したり。さて夜(よ)に入(い)ると大木を伐懸る音して一山荒出せし故、漸と心附、早々餅を拵、詫入て無事にて濟たる事あり。夫より以來は右邊にては、わけて意(こゝろ)を込て大切に供る事と、苗木侯の山奉行何某の咄なり。

 又、越後の國蒲原(かんばら)郡・磐船(いはふね)郡の杣人に聞に、山に入て木を伐る時、其一枝を折、異なる所に差て、是を祭らざれば、大木などには、殊に其祟有由なり。又、越後の國・出羽の國などにては、杣人にても狩人にても、山に入時は、鮝魚と云魚を懷中して入なり。大木を伐に難儀なる時、是を供れば、難なく安く伐得。又、狩人も終日狩て得物なき時は、山の神へ祈請して、鮝魚の頭を少し見せかけて、獸を得せしめ給ふて、感應あらせ給はゞ、全形を見せ參らせんと祈る也。しかする時は、速かに感應有事とぞ。されども、中々輙(たやすく)は行はぬことにて、其究る時ならざれば、感應もなしと云り。

   *

これは私には非常に興味深い話である。天狗どころか、所謂、山の神信仰の古形がはっきりと保存されている記載だからである。なお、幾つか語注をしたい。

・「武儀郡志津野村」現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「鵜沼宿」現在の岐阜県各務原市鵜沼附近。(グーグル・マップ・データ)。志津野の南。

・「苗木」現在の岐阜県中津川市苗木(なえぎ)。美濃苗木藩は美濃国恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩であった。(グーグル・マップ・データ)。

・「粢餅(しとぎ)」「しとぎ」はここでは二字へのルビである。「しとぎ」は「糈」とも書き、水に浸した生米(粳(うるち)米)を搗き砕き、種々の形に固めた食物で、神饌に用いるが、古代の米食法の一種とも謂われ、後世では糯(もち)米を蒸して少し搗いたところで卵形に丸めたもの指すようになった。

・「文政七八年」文政七年は一八二四年。

・「苗木領の二ツ森」前の前のグーグル・マップ・データを参照。同地区外の北西に「二ツ森山」を確認出来る。

・「越後の國蒲原郡」新潟県の旧郡。現行の多数の市域等を含む広域なのでウィキの「蒲原郡を参照されたい。

・「磐船郡」新潟県に「岩船郡」として現存する。現在は関川(せきかわ)村と粟島浦(あわしまうら)村の二村のみであるが、旧郡域は現在の村上市を含む新潟県の最北端に位置していた郡である。ウィキの「岩船郡を参照されたい。

・「苗木侯」藩主遠山氏。江戸時代を通じて、ほぼ財政窮乏が続いた。「文政七八年」当時は第十一代藩主遠山友寿(ともひさ 天明六(一七八七)年~天保九(一八三九)年)。

・「鮝魚」「おこぜ」と読む。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科(フサカサゴ)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus のこと。ヤマノカミという俗称は、本種の干物を山の神への供物にする風習があったことによる。伝承によれば女神である「山の神」は不器量で、しかも嫉妬深いとされたことから、醜悪な鰧(おこぜ)=鬼鰧(おにおこぜ)=鬼虎魚)の面(つら)を見ると安心して静まるとされ、現在でもこれを祭る儀式は山間部や林業職に関わる人々の間で今なお、保存され続けている(なお、同種は背鰭の棘条が鋭く、しかも毒腺を持っているので取扱いには注意を有する)。これについては私の古い電子テクスト、方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」(明治四四(一九一一)年二月発行の『東京人類学会雑誌』初出)を読まれたい。]

 或時武儀郡志津野村の村續きにある平山を伐つたが、これは山といふほどのところでもなし、小松林の平山で、誰しも天狗の住みさうなところとは思はぬので、狗賓餠もせずに伐りはじめた。やゝあつて氣が付くと、振上げる斧の頭がない。さてこそ天狗が出たと、道具を見ると皆なくなつてゐる。これでは到底今日は仕事が出來ぬといふので、家へ歸つて狗賓餠を拵へ、山神を祭つて詫びをしたら、なくなつた道具もどこからか出て來て、翌日は無事に伐木を了へた。或男の如きは、いくら斧を振上げても手ごたへがない。柄ばかりになつてゐるのを知らずに、木へ打付けてはじめて頭を取られたことを知つた、といふやうな話もある。

 狗賓餠といふのは飯を強(こは)く焚き、握り飯にしたのを串に貫き、よく燒いて味噌を付けるので、その初穗を五つ六つ木の葉に盛つて淸淨なところに供へ、然る後皆集まつて食ふ。甚だ旨いものであるが、この餠を拵へると天狗が集まつて來るといふので、村内の家屋では一切拵へぬことになつてゐる。ところによつて山小屋餠といひ、小さく拵へて串に貫き燒いたのを御幣餠といふ。文政七八年頃、苗木領の二ツ森山の木を伐り出した時は、山入りして御幣餠を拵へたが、山神に供へるのを忘れて、皆で食ひ盡してしまつた。夜に入ると大木を伐りかゝる音がして、一山が荒れ出したから、漸く氣が付き、匆々に餠を拵へて詫びたなどといふ話もある。

   天狗住んで斧入らしめず木の茂り 子規

といふ句は、諸國に傳はるかういふ話を考慮に入れて解すべきものと思ふ。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三五(一九〇二)年の作で、民俗を詠んで面白くはあるものの、句としてはそれほどともとれぬのだが、これ、「病牀六尺」に記された結果、人口に膾炙してしまったものと言えよう(私もそれで覚えていた)。同書の「八十五」章である。全文を引いて、注の〆と致す。底本は岩波文庫版の一九八四年改版を恣意的に正字化して示した(読みは一箇所を除いて除去した)。句の前後を一行空けた。

   *

○この頃茂りといふ題にて俳句二十首ばかり作りて碧虛兩氏に示す。碧梧桐は

 

     天狗住んで斧入らしめず木の茂り

 

の句善しといひ虛子は

 

     柱にもならで茂りぬ五百年

 

の句善しといふ。しかも前者は虛子これを取らず後者は碧梧桐これを取らず。

 

     植木屋は來らず庭の茂りかな

 

の句に至りては二子共に可なりといふ。運座の時無造作にして意義淺く分りやすき句が常に多數の選に入る如く、今二子が植木屋の句において意見合したるはこの句の無造作なるに因るならん。その後百合の句を二子に示して評を乞ひしに碧梧桐は

 

     用ありて在所へ行けば百合の花

 

の句を取り、虛子は

 

     姫百合やあまり短き筒の中

 

の句を取る。しかして碧梧桐後者を取らず虛子前者を取らず。

 

     畑もあり百合など咲いて島ゆたか

 

の句は餘が苦辛(くしん)の末に成りたる物、碧梧桐はこれを百合十句中の第一となす。いまだ虛子の説を聞かず。贊否を知らず。

   *

因みに、私は敢えて選ぶとすれば、「姫百合やあまり短き筒の中」を善しとする者である。]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「秋葉山三尺坊」

 

 秋葉山三尺坊

 

 秋葉の三尺坊の天狗咄は、西鶴の「好色一代女」(貞享三年)に出てゐるが、それは人の噂に過ぎなかつた。「一代女」より三年後の「本朝故事因緣集」(元祿二年)にも「遠州秋葉山三尺坊奇瑞」といふ話が書いてある。近頃この山の麓で大鐡砲を放つた者があり、その昔と同時に虛空に飛び上り、片時の間に信州諏訪の衣ガ崎に行つて居つた。これが天狗の仕業なので、汝は大鐡砲を放つてわしの眠りを驚かしたが、その罪は赦してやる、これから富士を見せよう、と云つたと思へば、忽ちに頂上に登り、田子の浦を眺めてもとの所へ歸つて來た。こゝで空から墮されたけれど、何の怪我もなかつたといふのである。秋葉山の靈異はかなり廣く傳播されたものであらう。鳥取の人の手に成つた「雪窓夜話抄」なども、いろいろ委しい消息を傳へてゐる。

[やぶちゃん注:「秋葉山三尺坊」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん:赤石山脈南端・標高八百六十六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))の、火防(ひぶせ)の神である「秋葉大権現」という山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神の別称。但し、明治の廃仏毀釈によって秋葉山本宮秋葉神社と秋葉寺に分離したが、後者は明治六(一八七三)年)に廃寺となり、現在、その仏像仏具類は本寺であった現在の静岡県袋井市久能にある「可睡斎(かすいさい)」に移され、「三尺坊」の神像もそこに現存する。現在、静岡県浜松市天竜区春野町に秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉山(しゅうようざん)秋葉寺という寺があるが、これは明治一六(一八八三)年に再建されたものである。詳しくは、参考にさせて戴いた「ぞえじい」氏のサイト「ぞえじいの福々巡り」の「秋葉山 秋葉寺(三尺坊)」「可睡齋」の記載や、個人ブログ「神が宿るところ」の「秋葉山総本山 秋葉寺(三尺坊)」を参照されたい。なお、後者のブログ記載によれば、『「秋葉大権現」が「三尺坊大権現」という天狗として認識されるようになったのは、次のような伝承による。即ち、三尺坊は』、宝亀九(七七八)年、『信濃国・戸隠(現・長野県長野市)生まれで、母が観音菩薩を念じて懐胎し、観音の生まれ変わりといわれた神童だったという。長じて、越後国・栃尾(現・新潟県長岡市)の蔵王権現堂で修行し、僧となった。「三尺坊」というのは、長岡蔵王権現堂の子院』十二坊の内の一つで、その名を取ったものであり、『ある日、不動三昧の法を修し、満願の日、焼香の火炎の中に仏教の守護神である迦楼羅天を感得し、その身に翼が生えて飛行自在の神通力を得た。そして、白狐に乗って飛行し、遠江国秋葉山のこの地に降りて鎮座したとされる』。『現在も頒布されている秋葉山の火防札には「三尺坊大権現」の姿が描かれているが、猛禽類のような大きな翼が生え、右手に剣、左手に索を持ち、白狐の上に立っている姿である。火炎を背負い、身体は不動明王のようだが、口は鳥のような嘴になっている。これは、もともとインド神話の鳥神ガルーダが仏教に取り入れられた迦楼羅天』(かるらてん:八部衆・後の二十八部衆の一つ。)『の姿に、不動明王を合わせ、更に白狐に乗るところは荼枳尼天の形が取り入れられているようだ。実は、この姿は、信濃国飯縄山の「飯縄権現(飯縄大明神)」とほぼ同じである。「飯縄権現」は、飯縄智羅天狗とも呼ばれ、日本で第』三『位の天狗(「愛宕山太郎坊」(京都府)、「比良山次郎坊」(滋賀県)に次いで「飯縄山飯縄三郎」とも呼ばれる。)とされる。こうしたこともあり、「三尺坊大権現」は、その出自や修行地からして、戸隠や白山などの修験者の影響が強いようだ。そうすると、火難避けの神様としての秋葉山信仰は、古くても中世以降、民衆レベルでは江戸時代以降なのではないかと思われる。江戸時代には、資金を積み立てて交代で参拝する秋葉講が盛んに組織された』とある。

『西鶴の「好色一代女」(貞享三年)に出てゐる』「貞享三年」は一六八六年。これは同作の「卷三」巻頭の「町人腰元」の冒頭、

   *

十九土用とて人皆しのぎかね。夏なき國もがな汗かゝぬ里もありやと。いうて叶はぬ處へ鉦女鉢を打鳴し。添輿したる人さのみ愁にも沈まず跡取らしき者も見えず。町衆はふしやうの袴肩衣を着て珠數は手に持ながら掛目安の談合。あるは又米の相場三尺坊の天狗咄し若い人は跡にさがりて。遊山茶屋の献立禮場よりすぐに惡所落の内談それよりすゑずゑは棚借の者と見えて。うら付の上に麻の袴を着るも有。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

を指すのであろう。

『「本朝故事因緣集」(元祿二年)』「元祿二年」は一六八九年。「遠州秋葉山三尺坊奇瑞」は同書「卷之二」のそれ。「国文学研究資料館」公式サイト内のここの画像で読める。

「雪窓夜話抄」のそれは同「下卷」の「遠洲秋葉山靈異の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。読まれれば判るが、次段の内容がそれである。]

 寛延年間の話らしい。紀州から御代參として、長谷川右近といふ物頭(ものがしら)が登山した。前夜は山下の在家に止宿するのであつたが、この山中に雉子が澤山居ると聞いて、それを料理して出すやうに命じた。それは御登山以後になされた方がよろしうございませう、當山は餘所とは異り、いろいろ怪異のある山ですから、今夜は御精進なされた方が御爲であると存じます、と亭主はしきりに止めたけれど、橫紙破りの右近は聞き入れない。本人ならば精進すべきであらうが、拙者は代參であるから、その必要はない、三尺坊は神である、魚鳥を食ふ者を忌み嫌ふ理由はない筈だ、と云ひ張るので、云ふなりに料理して出し、主從十六人、したゝかに食べた。然るに翌日登山すると、八九分通り上つたところで、一天雲霧が覆ひかゝり、一寸先も見えなくなつた。一同居すくみといふものになつて、生きた心地もなかつたが、十六人悉く山上から投げ落された。暫くたつて雲霧は晴れ、夜の明けたやうになる。人人目を開いてあたりを見廻せば、誰も怪我した者はなく、秋葉山の絶頂から五六里も麓に寢て居つた。どうしてこゝへ來たものか、前後不覺で更にわからぬ。この怪異に恐れて、再び登山する勇氣を失つたが、代參として參詣した以上、登山しないでは歸られず、秋葉寺の役僧に内談して、紀州より持參した神柄の物を供へ、例の如く符守を頂戴して歸國したいと賴んだ。寺の方では、未だ登山せぬ人に符守などを進ずることは出來ないと斷つたけれど、この御禮には一たび紀州に歸つた上、必ずまた引返して登山し、神前に於て懺悔する、と云つたので、何しろ歷々の士の死活に關する事であるから、符守を取り揃へて渡すことになつた。右近は本國に歸つて、御代參の次第を申上げ、自分宿願ある由を以て御暇を願ひ、一日もその足を休めずに引返して、秋葉に參詣したさうである。

[やぶちゃん注:「寛延年間の話らしい」先に示した「雪窓夜話抄」の原文を見ると、『今年(寶曆三年)より五六年には過ざる事なり』とあるから、数えでの謂いと考えると、宝暦三(一七五三)年から四、五年前は寛延元年・延享五(一七四八)年か寛延二年となるも、「過ぎざる」と言うのだから、柴田の寛延年間は正しい謂いとなる。

「物頭」武頭(ぶがしら)とも称し、弓組・鉄砲組などを統率する長を指す。

「符守」「ふしゆ」は「神符守札(しんぷしゅれい)」の略。神社等で出す護符、御守りの御札のこと。]

 秋葉山の靈異に就いてはいろいろな話があつて、西國方の大名から代參として登山した足輕などは、道中で身持の惡い事があつたと見え、權現に攫まれて行方不明になつた。その男は引裂かれ、大木の松の枝に久しく懸つてゐたさうである。この話を聞かされた岩越分四郎といふ人が、自分は精進潔齋の心持で來たから、何の障礙もあるまいと思ふが、薄氣味惡くなつて、竹輿を舁く者にさういふと、その御心配はありません、障りのあるなしは麓の光明山あたりで知れます、身持の惡い人を舁いて行く場合には、光明山あたりまで參るうちに、同じところを何遍もぐるぐる𢌞つたり、五町も十町も登つたと思ふのに、やはりもとのところにゐて、どうしても登山出來ません、今日は麓まで何の子細もなく、光明山も遙かに過ぎましたから、御別條はありますまい、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「光明山」秋葉山のほぼ南、天竜川を挟んだ六・五キロメートルの位置にある山。ここ(グーグル・マップ・データ)。秋葉台権現の火伏せの霊験に対し、水難避けの神として信仰を集める(暴れ川天竜の近くなれば納得)。現在、曹洞宗金光明山光明寺(静岡県浜松市天竜区山東地内)が山麓に建つ。

「五町」約五百四十五メートル半。]

 秋葉權現は火防(ひぶせ)の神と云はれてゐるが、毎年十一月の祭日には、近國から夥しい人が集まつて通夜をする。深山の事であるから、暫くも火を離れては居られぬ。手に手に薪を持つて來て、堂上堂下の差別なく、大篝りを焚いて寒氣を凌ぎ、一夜を明すので、火の用心などといふことは少しもないに拘らず、どこにも火の燃え付くことはない。また時により曇つて小雨降る日の暮方、無數の魚が谷川に充ち滿ちて見えることがある。この時は三尺坊が遊獵にお出かけになると云つて、家々は門を鎖して用心する。はじめ秋葉の山上にほのかに火が一つともるかと思ふと、時の間に二つ三つと數が殖え、山も谷も一面の火になる。やがてその火が崩れかゝり、谷川の上から下へ、非常な迅さで翔(かけ)り去る。川端にあるものは何によらず、龍卷に卷かれたやうになくなつてしまふが、山中でこの不思議に出遭つた人は、平地に伏して目を塞いでゐれば何事もない。風雲の吹いて通るやうなもので、數萬の火は消えて、もとの闇に還ると云はれてゐる。

[やぶちゃん注:現在の秋葉神社で十二月十六日に行われている「秋葉の火まつり」の原型であろう。同神社の公式サイトの同祭の頁をリンクさせておく。]

 この秋葉の火に就いては、「耳囊」にも簡單な記載がある。山上に火が燃えて遊行し、雨などの降る時は、川に下りて水上を遊行する。土地の者はこれを天狗の川狩りと稱し、戸を鎖して愼んでゐるといふのは、「雪窓夜話抄」と變りがない。「諸國奇人談」にある大井川の天狗なども、多分秋葉山に屬するものであらう。翅の直徑六尺ばかりある大鳥の如きもの、深夜の川面に飛び來り、上り下りして魚を捕る。人音がすれば忽ち去るので、土手の陰に忍んで、ひそかに窺ふより仕方がない。これは俗にいふ木葉天狗の類だらうといふことである。

[やぶちゃん注:以上の「耳囊」のそれは「卷之三 秋葉の魔火の事」である。私の原文電子化訳注を参照されたい。

『「諸國奇人談」にある大井川の天狗』これは「諸國里人談」の誤りである。同書の「卷之二」の「木葉天狗(このはてんぐ)」のこととしか思われないからである。以下に示す。

   *

駿遠の境大井川に天狗を見る事あり。闇なる夜深更におよんで、潛に封疆塘の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに翅の徑り六尺ばかりある大鳥のやうなるもの、川面にあまた飛來り、上りくだりして魚をとるのけしきなり。人音すれば忽に去れり。是は俗に云術なき木の葉天狗などいふ類ならん。

   *

文中の「封疆塘」は「どてづつみ」(土手堤)と読むものと思われる。「云術なき」(じゆつなき)と読んでおく。恐らくは「特に神通力を持たない下級の」という意味と判ずる。

「六尺」一・八メートル。思うにこれは、私の好きな哲学者然とした、翼開長が一五〇~一七〇センチメートルにもなる、鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea の誤認ではないかと疑うものである。]

 

2017/02/22

柴田宵曲 妖異博物館 「適藥」

 

 適藥

 

 

 京の油小路二條上ル町、屛風屋長右衞門の倅長三郎、十二歳になる少年が不思議な病にかゝつた。腹に出來た腫物に口があつて、はつきりものを云ひ、食物は何によらず食ふ。あまり食ひ過ぎては如何かと云つて食はせぬと、大熱を發し、樣々に惡口する。醫師が代る代る治療を加へても、何の利き目もなかつた。病のはじめは五月中旬であつたが、七月に至り菱玄隆といふ博識の名醫に診察を乞うたところ、かういふ病人は本朝では聞いたことがない、異朝の書物に見えてゐるといふことで、先づいろいろな藥を例の口に食はせて見た。然る後、彼が厭がつて食はぬもの五七種を集めて調劑し、病人に服用させた。定めし惡口を云ふであらうが、構はず服藥をお續けなさい、と云つて飮ませて見ると、もの言ふ聲も次第に嗄れ、食物も漸く減じて來た。十日ばかりたつて、長さ一尺一寸、頭に一角のある雨龍の如きものが糞門から出たのを、直ちに打ち殺した。元祿十六年の話といふことになつてゐる(新著聞集)(元祿寶永珍話)。

[やぶちゃん注:私の好きな人面疽(じんめんそ)・人面瘡(そう)物である。因みに言っておくと、しかし、私は人面疽物では手塚治虫の「ブラックジャック」の「人面瘡」以外は面白いと思った作品がない。映画の二重体物の「バスケット・ケース」などはあまりのレベルの低さに最後は大笑いしてしまった。

「嗄れ」「しやがれ」。

「元祿寶永珍話」筆者未詳。本書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。以下に「新著聞集」の方の「雜事篇第十」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」を何時もの仕儀で以下に引く(これは同書の掉尾に配されたものである)。

   *

京あぶら小路二條上ル町、屛風や長右衞門といふ者の子、長三郎とて十二歳になりし、元祿十六年五月上旬に、夥しく發熱し、中旬にいたり、腹中に腫物の口あきて、其口より、言便あざやかに、本人の言にしたがひて、ものをいひ、又食事、何によらずくらひけり。若食過ていかゞやとて、押へて噉さゞりければ、大熱おこり、さまざま惡口し、罵り辱しめたり。医師、代る代る來りて、巧をつくしゝかど、何のしるしなかりしが、七月におよび、菱玄隆とて、博識の高医、懇に見とゞけて、かゝる病人、本朝にはいまだつたへ侍らず。異朝の書典にみへ侍りしとて、種々の藥味を、件の口にくはせ試て、かれがいなみて喰はざるものを、五七種あつめ配劑し、さだめてかれ、いぶせくおもひて、いかばかり惡口せんずれ共、すこしもいとひなく服用したまへとて、本人にたてかけ呑せければ、一兩日にぜんぜんに件の口のこゑかれ、食物もやうやくに減少し、十日ばかりして、糞門より、長一尺一寸、額に角一本ありて、その形、雨龍のごとくなる者飛出しを、卽時に打殺してけり。

   *

何やらん、実在するヒト寄生虫らしいしょぼい結末については次段の注の引用も参照されたい。]

 腹中に物あつて何か言ふ話は、應聲蟲と称する。「鹽尻」の記載は殆ど右の通りで、菅玄際なる醫者が、雷丸の入つた湯藥三帖を服せしめんとするに、腹中の聲大いに拒んで、その藥用ふべからずといふ。強ひて飮ませた結果、日を經て聲嗄れ、一蟲を下す。蜥蜴(とかげ)の如くにして額に小角ありといふ。菱玄隆と菅玄際の如きは、筆寫の際に生じた誤りと見るべきであらう。

[やぶちゃん注:「應聲蟲」ウィキには「応声虫」の項がある。以下に引いておく(下線やぶちゃん)。『応声虫による症状』『があらわれた人物の説話は、中国の『朝野僉載』や『文昌雑録』、『遯斎間覧』などに記述がみられ、本草書である『本草綱目』には応声虫に効果があったとされる雷丸(らいがん)や藍(あい)の解説文中にもその存在が言及されている』。『応声虫が人体の中に入り込むと、本人は何もしゃべっていないのに腹の中から問いかけに応じた返事がかえって来るとされる。雷丸(竹に寄生するサルノコシカケ科の一種で漢方薬の一つ』(信頼出来る漢方サイトによれば、サルノコシカケ科 Polyporaceae のライガン Omphalia lapidescens の菌核を乾燥したものとあった)『を服用すれば効果があり、虫も体外に出るという』。『腹の中から虫が声を出すという症状を受け、中国では「自分の意見をもたず付和雷同した意見のみを言う者」を応声虫と揶揄して呼んだともいう』。『日本においても、回虫などの寄生虫のように人間の体内に棲む怪虫によって引き起こされる病気であるとされ、人間がこの病気に冒されると、高熱が』十『日間ほど続いて苦しんだ後、腹に出来物ができ、次第にそれが口のような形になる。この口は病気になった者の喋ったことを口真似するため、応声虫の名がある。喋るだけでなく食べ物も食べる。自ら食べ物を要求し、これを拒むと患者を高熱で苦しめたり、大声で悪口を叫んだりもする』。『江戸時代に記された説話集『新著聞集』や随筆『塩尻』に見られる説話では、以下のように語られている』(ここに原典を出した「新著聞集」の梗概があるが省略する)。また、「閑田次筆」には以下のような話がある。元文三(一七三八)年、『応声虫に取り憑かれているという奥丹波の女性の話を見世物小屋の業者が聞きつけ、見世物に出そうと商談に訪れた。その女性の家を訪ねたところ、女性は確かに応声虫の病気を患っているらしく、腹から声を出していた。女性の夫が言うには、寺へ参拝に行った際、腹から出る声を周囲の人々が怪しみ、とても恥ずかしい思いをしたので、見世物など到底無理とのことだった。こうして業者の思惑は外れてしまったという』。『これらの話は、実在の寄生虫である回虫を綴ったものであり、回虫が腹にいることによる異常な空腹感や、虫下しを飲んで肛門から排泄された回虫の死骸を描写したものであるとも考えられている』『が、前述のように応声虫はもともと中国に存在する説話であり、また『新著聞集』にあるものなどは中国に伝わるものに人面瘡の要素(口のようなできものが発症する点)が加わっており、中国の文献を単純に換骨奪胎し脚色しただけのものであるとする説もある』とある。

「鹽尻」江戸中期の尾張藩士で国学者であった天野信景寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の随筆。全千巻とも言われる一大随筆集(現存は百七十巻程)。私は所持しない。]

「齊諧俗談」に「遯齋閑覽」を引いてゐるのは、一人の道士の説により、本草を讀んで、その声に應ぜざる藥を飮ませよといふことになる。雷丸に至つて遂に答へなきを見、雷丸を服せしめて癒えたとある。異朝の書物に見えてゐるといふのは、或はこれかも知れぬ。併し「酉陽雜俎」には左の腕に出來た腫物の話がある。この腫物はいはゆる人面瘡で、ものを言ふことはなかつたが、酒を與へれば吸ひ盡し、食物も大概のものは呑却する。名醫の言に聞いて、あらゆるものを與へてゐるうちに、貝母といふ草に逢著したら、腫物は眉を寄せ、口を閉ぢて、敢て食はうとせぬ。貝母の適藥であることを知り、この搾り汁を注いで難病を治し得た。本草を讀んで雷丸に至り答へぬなどは、いさゝか留學的知識に富み過ぎてゐる嫌ひがある。「酉陽雜俎」の記載が古いところであらう。

[やぶちゃん注:「齊諧俗談」「せいかいぞくだん」と読む。大朏東華(おおでとうか:江戸の者とする以外の未詳)著の怪異奇談集。記載は「卷之三」の「應聲蟲」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

遯斎閑覧(とんさいかんらん)に云、往古(むかし)人あり。其人、言語を發する度に、腹中にて小き聲ありて是に應ず。漸々に其聲大なり。然るに一人の道士ありて云、是(これ)應聲蟲なり。但本草を讀べし。其答ざるものを取て、是を治せとおしゆ。困て本草を讀に、雷丸に至て答へず。終に雷丸を數粒服して、すなはち愈たりと云。

   *

「遯齋閑覽」中文サイトによれば、宋代の范正敏の撰になる歴代笑話集とある。中文サイトで同書を閲覧したが、この叙述は見当たらなかった。

「酉陽雜俎」「ゆうようざっそ」(現代仮名遣)と読む。唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。ここで言っているのは、以下。記事にある原文を加工させて貰い、頂戴した。

   *

許卑山人言、江左數十年前、有商人左膊上有瘡、如人面、亦無它苦。商人戲滴酒口中、其面亦赤。以物食之、凡物必食、食多覺膊内肉漲起、疑胃在其中也。或不食之、則一臂瘠焉。有善醫者、教其歷試諸藥、金石草木悉與之。至貝母、其瘡乃聚眉閉口。商人喜曰、此藥必治也。因以小葦筒毀其口灌之、數日成痂、遂愈。

   *

「貝母」「ばいも」と読む。これは中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方される用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要(ここはウィキの「アミガサユリに拠った)。]

柴田宵曲 妖異博物館 「煙草の效用」

 

 煙草の效用

 

 落語の「田能久」で大蛇の化けた老人が、柿澁と煙草の脂(やに)が大嫌ひだと云つたのは、どこまで本當であるかわからぬが、煙草の脂に關する話は若干ないでもない。

[やぶちゃん注:「田能久」「たのきう(たのきゅう)」と読む。個人サイト「落語ばなし」のこちらが痒いところに手が届く優れたシノプシスと解説となっている。必見!]

 備後福山の家中内藤何某が、或時庭に出て來た蛇を杖で強く打つたら、そのまゝ逃れて穴に入つてしまつた。暫くたつて下男が發見して、先ほどの蛇が草の中で死んで居りますといふので、杖でそれを搔きのけようとした時、蛇は頭を擧げて煙の如きものを吹きかけた。煙は内藤の左の眼に入り、蛇は倒れて死んだが、内藤の眼は俄かに痛んで腫れ上り、熱が出て苦しんだ。已に命も危く見えたのを、煙草の脂が蛇に毒であることを思ひ出し、脂を眼に入れたら、次第に腫れが減り痛みもなくなつた。あとはたゞ眼が赤いだけであつたが、日々脂を入れることを怠らず、五六日で快癒した。翌年のその時節にまた眼が痛くなり、醫者の治療を受けてもなほらず、また脂を用ゐてなほつた。こんな話が「北窓瑣談」に出てゐる。著者は醫者だから、全くの浮説でもあるまい。一説に蛇を打つたのは助

左衞門といふ人で、内藤は毒の側杖を食つたのだといふが、これはいづれでも差支へない。肝腎なのは脂が蛇毒に利くといふことだけである。

[やぶちゃん注:以上は「北窓瑣談」の「卷之四」の一節。挿絵とともに吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。冒頭の柱の「一」は除去した。

   *

Karasuhebi

備後福山の家中内藤何某といふ人、或時、庭に出たりしに、烏蛇(うじや)を見付たりしかば、杖もて強く打けるに、其まゝ走りて巣中に入りければ、草の上より頻りに打て尋求けれども、つひに見失ひぬ。暫程へて奴僕見當りて、草中に蛇死し居れりと告しかば、内藤出て、杖もてかきのけんとしける時、其蛇、頭をあげ内藤に向ひ、烟草(たばこ)の煙のごときものを吹かけゝるが、其烟、内藤が左の目に當りて、蛇は其まゝ倒れ死しける。内藤が眼、俄に痛てはれあがり、寒熱(かんねつ)出て苦惱言んかたなし。既に命も失ふべく見えし程に、内藤、煙草のやにの蛇に毒なることを思ひ出して、煙管のやにを眼中に入れしに、漸々に腫消し痛みやはらぎて、一日中に苦惱退き、眼赤きばかりなりしかば、日々にやにを入れたるに、五六日して全く癒たり。其翌年、其時節又眼(め)痛(いたみ)出したるに、色々の眼科醫(めいしや)の治療を施しけれども癒(いえ)ざりしかば、蛇毒の事を思ひ出し、又煙管のやにを入れしに、忽ち癒たり。二三年も其時節には、必眼目痛ければ、いつも其後はやにを入れて癒ぬ。此事、村上彦峻(げんしゆん)物語なりき。又云、蛇(じや)を打し人は助左衞門と云人にて、毒に當りし人は、其庭に居合せし内藤なりとぞ。

   *

「烏蛇」一般にかく古くから呼び慣わす(訓で「からすへび」)のは無毒の有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata の黒変個体である。]

 上總の鹿野山では時々人が行方不明になることがあつた。狒々(ひひ)といふ獸の所爲だと云はれ、人々恐怖するものの、往來に避けられぬ道なので、やはり通らざるを得ない。寛政三年の夏、或村の商人が煙草を一駄買つて、この麓を通り過ぎた時、俄かに山鳴りがしたので、何事かと見上げたところ、恐ろしい蟒(うはばみ)が山から出て、この人を目がけて迫つて來る。一所懸命に逃げ出したけれど、到底蟒の速力にはかなはぬ。路傍の木に大きなうつろがあつたので、急いで逃げ込まうとすると、已に追ひ迫つた蟒がうしろから一呑みにしようとする。辛うじて頭を突込んだだけで、足はまだ外に在つたが、蟒は大口をあけ、背に負つた煙草の荷を一口に呑み去つた。商人は暫くうつろの中に小さくなつてゐるうち、物音もしづまつたやうだから、恐る恐る這ひ出して、跡をも見ずに逃げて歸つた。年頃人を取つたのは、狒々ではなしにこの蟒であつたかと、人々怖毛(おぞけ)をふるつたところ、それから日數を經て、この山を通つた人が、谷間に大きな蟒の死んでゐるのを見出した。已に死骸は腐爛しかけてゐたけれど、頭は例によつて四斗樽ほどあつたから、「その丈もおもひやるべし」とある。煙草は蛇に大毒だから、商人の荷を呑んだため、その毒に中つたものだらうといふ評判であつた(譚海)。

[やぶちゃん注:「上總の鹿野山」これで「鹿野山(かのうざん)」と読む。現在の千葉県君津市にある、千葉県では二番目に高く、上総地方では最高峰である。三峰から成り、白鳥峰(しらとりみね)(東峰)が最高標高で三百七十九メートルある。

「寛政三年」一七九一年。

「一駄」「駄」は助数詞で馬一頭に負わせる荷物の量を「一駄」として、その数量を数えるのに用いた。江戸時代には「一駄」は「三十六貫」(約百三十五キロ)を定量としたが、ここではちょっと重過ぎる。有意に大きな背負い荷物分ぐらいな意味にとっておく。

 以上は「譚海」の「卷之七」の冒頭にある「上總鹿納山(かなうやま)うはゞみの事」である(「鹿納山」はママ)。以下に示す。読みは私のオリジナル。

   *

○上總の加納山には、人(ひと)とり有(あり)て每年人うする事(こと)有。ひゝといふけだ物の所爲(しよゐ)ななどいひ傳へて、人々恐るれども、往來によけぬ道なれば、人のとほる所なり。寛政三年の夏、ある村の商人、たばこを壹駄買(かひ)得て、背に負て麓を退けるに、夥(おびただ)しく山鳴りければ、何事ぞと見あげたるに、すさまじきうはばみ、山のかたより出て、此人をめがけて追來(おひきた)りければ、おそろしきにいちあしを出(いだ)してにげけれども、うはばみやがて追(おひ)かゝりてせまりければ、今はかなはじとおもひて、かたへの木の大成(だいなる)うつろの有けるに、にげ入らんとするに、うはばみ追付(おひつき)てのまんとす。其人ははふはふうろたへかしらさし入(いれ)たれど、足はまだ外に有けるに、此うはばみ大口(おほぐち)をあきて、負(おひ)たるたばこ荷(に)を一口にのみてさりにけり。商人(あきんど)久しくうつろのうちにありて聞(きく)に、やうやう物の音しつまりければ、をづをづはひ出(いで)て跡も見ずはしり歸りつゝ、しかじかの事、あやうき命ひろひつなどかたるに、さればとし頃(ごろ)人とりのあるは、此うはばみ成(なり)けりなど、人々もおのゝき物がたりあひしに、日ごろ經(へ)てある人此(この)山を過(すぎ)たるに、大成(なる)うはばみ谷あひに死してあるを見て、驚きはしりかへりて人に告(つげ)ければ、みなうちぐして行(ゆき)て見るに、はやう死(しに)たる事としられて、體もやうやうくちそこなひ、くさき香(か)鼻をうちてよりつくべうもなし。かしらは四斗樽ほど有けるとぞ、其丈(たけ)もおもひやるべし。さればたばこ蛇のたぐひにきわめて毒なるものなれば、此うはばみたばこの荷をのみたるに、あたりて死たる成(なる)べしといへり、めづらしき事に人いひあへり。

   *]

 まことに十坂峠の老蟒われを欺かずである。それほど毒な煙草の荷を一口に呑却したところを見れば、この蟒も大分あわてたか、然らずんばいさゝか空腹だつたに相違ない。この話は數多い日本の蟒ばなしの中で、最もユーモアに富んだものの一つで、前半が恐ろしさうなだけ、後年に轉化の妙がある。少し工夫して見たら、落語にしても「田能久」に對抗することが出來るかも知れぬ。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(93)「後記」 /「鯨のお詣り」~了

 

 後記

 

「鯨のお詣りは如何した鯨も隨分ながい晝寢だなあ」。「お詣りの道中はなかなかながいですねえ。」と、人々が笑へば、自分も笑つてゐた。その間に、ここまる一年の月日がたつてしまつてゐた。一年の月日が自分に窮餘の一策を教へた。自分は一策を得た。それで「この九月には、いよいよ鯨をお詣りさせてしまひせせう。」といふ橋本政德君の言に同感の意を表することとした。窮餘の一策、それは、この本の扉の文字を松下英麿君に書いて貰ふことにあつあ。松下君の筆を煩はしたのは、同君が、この本を出版しようと言ひ出した中公論社内の發願人であらう、それに對しての愛想ではない。日頃、豪快に飮み、帋縑と見るや、則ち墨塗りの至藝を發揮するといふ噂のある同君の藝當に執着してしまつてゐるからである。

[やぶちゃん注:「橋本政德」不詳。中央公論社の編集者か。

「松下英麿」(明治四〇(一九〇七)年~平成二(一九九〇)年)編集者で美術研究家。長野県生まれ。早稲田大学英文科卒業後、中央公論社に入社、本書刊行の昭和一五(一九四〇)年からは『中央公論』編集部長を務めた。

「帋縑」「シケン」と音読みする。「帋」は「紙」に同じで、「縑」は訓「かとり」(「固織(かたお)り」の音変化)で、「目を緻密固く織った平織りの絹布」、「かとりぎぬ」のことで、要は墨書・揮毫し得るものという謂いであろう。]

 文字や表紙等の板の彫りには伊上次郎君を煩はした。次郎君は、拙い自分の畫を生かして彫つてくれてゐた、故伊上凡骨の息子である。たとへば、芥川龍之介之介の黃雀風の表紙、あの當時の凡骨の彫師としての氣合ひは、今日では感謝の種である。

[やぶちゃん注:「伊上凡骨」「いがみぼんこつ」と読む。木版画彫師。本名は純蔵。徳島県生まれで、浮世絵版画の彫師大倉半兵衛の弟子。明治時代に於ける新聞・雑誌の挿絵は原画の複製木版画であったが、凡骨は洋画の筆触・質感を彫刀で巧みに表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、美事な複製版画を作った(以上は「百科事典マイペディア」に拠った)。Kozokotani氏のブログ『「北方人」日記』の記事によれば、「伊上次郎」は実際には実子ではなく養子で、後に二代目「凡骨」を継いだらしい。]

 見返しには父の生家の林泉圖を複製して用ゐた。安政二卯年調であるから、亡父誕生十年前の林泉である。

 

  昭和十五年夏       小穴 隆一

 

 

[やぶちゃん注:以下に奥付を画像で示す。]

 

Kujiranoomairiokuduke



小穴隆一「鯨のお詣り」(92)「一游亭句集」(4)「田端」 /「鯨のお詣り」本文~了

 

 田端

 

 

 からたちの芽やいつしかにつくし草

 

 からたちは玉(たま)となるかや梅雨ぐもり

 

   一昔たちて大阪に人を訪ぬ

 白壁(しらかべ)はまぼし小皿(こざら)のわらびもち

 

 食(を)すも旅わらびもちなとひるさがり

 

   靑梅にて二句

    壜の中の皆二匹づゝなれば、どれが

   雌か雄かと言ひ、雌を容れておいては

   鳴かぬと言ひ切らる。

 おぞましく事(こと)たづねたり河鹿(かじか)どの

 

 旅立つや雨にぬれたる草ばうき

 

 今年の丈(たけ)のびきりつ葉鷄頭(はげいとう)

 

   雨の夜將棋盤を購ふ

 これはこれ獨り稽古の將棋盤

 

[やぶちゃん注:私は将棋の「金」「銀」の駒の動かし方も知らぬ輩であるが、恐らくは湿気を嫌う将棋板を雨の夜に買うというシチュエーションに既にして句の翳りがセットされているのではあろう。]

 

 山獨活(やまうど)を食(た)ぶる冥利の淸水(しみづ)哉

 

   東海道

 ひがん花(ばな)富士はかうべに晝の月

 

   三千院、寂光院へまゐる

 ひがん花殘りてぞあれ大原(おほはら)や

 

 白萩(しらはぎ)や目に須磨寺(すまでら)の昔かな

 

          昭和二年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。以上の以って「後記」を除いた「鯨のお詣り」の本文は終わっている。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(91)「一游亭句集」(3)「鵠沼」

 

 鵠沼

 

   卽事

 甲蟲(かぶとむし)落ちて死んだるさるすべり

 

   海濱九月

 膝ををる砂地(すなぢ)通(かよ)ふや黃(あめ)の牛

 

   二百二十日も無事にすみたるにて

 去年(こぞ)の栗ゆでてすみたるくもりかな

 

 潮騷(しほさ)ゐや鶺鴒(せきれい)なとぶ井戸の端(はた)

 

 らん竹(ちく)に鋏(はさみ)いれたる曇り哉

 

[やぶちゃん注:「らん竹」「蘭竹」であるが、これは特定の植物種ではなく、東洋文人画の蘭と竹を配したもの絵を指している。蘭・竹・菊・梅の四種の植物は、中国では古来より「四君子(しくんし)」と称され、徳・学・礼・節を備えた人のシンボルであった。蘭は〈高雅な香と気品〉を、竹は冬にも葉を落とさず青々として曲がらぬところから〈高節の士〉を指すとされた。ここはそうした絵に鋏を入れて切り裂くという画家ならではの反逆的シチュエーションと私は採る。大方の御叱正を俟つ。]

 

 ひときはにあをきは草の松林

 

 わくら葉(ば)は蝶(てふ)となりけり糸すゝき

 

 この釜(かま)は貰ひ釜(がま)なるひとり釜(がま)

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「鵠沼・鎌倉のころ」パートの「鵠沼」に参考画像として私が出したの釜であろう。]

 

   人に答へて

   鵠沼はひとり屋根にもの音をきく

 湯やたぎる凍(し)みて霜夜(しもよ)の松ぼくり

 

 夜具綿(やぐわた)は糸瓜(へちま)の棚に干しもせよ

 

   若衆二人にて栗うりをなすに

 大(おほ)つぶもまじへて栗のはしり哉

 

 うすら日(ひ)を糸瓜(へちま)かわけり井戸の端(はた)

 

 鳳仙花種をわりてぞもずのこゑ

 

 つぼ燒きのさざえならべて寒(かん)の明け

 

 足袋(たび)を干す畠(はたけ)の木にも枝のなり

 

 垣(かき)に足袋干させてわれは鄰りびと

 

 

   しちりんに手をかくること

   またあるべくもなき鵠沼を去るにのぞみ

 一冬(ひとふゆ)は竈(かまど)につめし松ぼくり

 

          大正十五年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(90)「一游亭句集」(2)(四句)

 

         ○

 

   小春日

 蘇鐡(そてつ)の實(み)赤きがままも店(みせ)ざらし

 

   歳暮の詞

 からたちも枯れては馬の繫(つな)がるる

 

 ゆく年やなほ身ひとつの墨すゞり

 

   アパート住ひの正月二日

 けふよりは凧(たこ)がかかれる木立(こだち)かな

 

          大正九年――大正十四年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。

 考えるに、この添えられた句数は四句、しかも「鄰の笛」と纏めて作句年代が最後にクレジットされてあるということは、この四句こそが小穴隆一が「鄰の笛」のために校正段階で芥川龍之介の句数五十句に合わせて削除した幻しの四句と断じてよかろう。妙な褒め方であるが、正しい削除である。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(89)「一游亭句集」(1)「鄰の笛」(全)~芥川龍之介との二人句集の小穴隆一分五十句全!

 

 一游亭句集

 

 

  鄰の笛

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介との二人(ににん)句集で大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句とともに掲載されたものの小穴一游亭隆一の発句五十句である。

 芥川龍之介分の五十句は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」を参照されたい。近い将来、芥川龍之介のそれとこの小穴隆一のこれをカップリングした、初出「鄰の笛」の原型に近いものを電子テクスト化したいと考えている。暫くお待ちあれかし。

私は当該初出誌を所持せず、現認したこともないので断言は出来ないが、龍之介のものが「芥川龍之介」署名である以上、以下の小穴隆一分も「小穴隆一」署名と考えてよいと思う)。岩波書店旧「芥川龍之介全集」の編者の「後記」によると、文末に次の一文があるとする。

   *

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

   *

なお、大正十四年七月、芥川龍之介はこの二人句集「鄰の笛」掲載について以下のような記載を残している

 七月二十七日附小穴隆一宛葉書(旧全集書簡番号一三四八書簡)では、

「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」

とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、

「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」

と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、

「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」

最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、

「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」

となって(太字やぶちゃん)、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている。[ちなみに全集類聚版ではここが八二字削除されている]。

 察するに、芥川龍之介は親友の小穴を軽く見た、『改造』編集者への強い不快感を持ったのである(それと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を芥川は十二月十日に断っている)。以上は私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で注した内容の一部に手を加えたものである。

 なお、その経緯の中に現われる「大利根や」は以下の、

 

大利根や霜枯れ葦の足寒ぶに

 

の句を、「もらひ紙」は、

 

よごもりにしぐるる路を貰紙

 

を、「お蠶樣の祝ひ酒」は、

 

ゆく秋やお蠶樣の祝ひ酒

 

を「米搗虫」は、

 

ゆく秋を米搗き虫のひとつかな

 

の句を指すから、当然と言えば当然乍ら、芥川龍之介の望んだ句は削除対象四句から外されていることが判る。]

 

 

   信濃洗馬にて

 

 雪消(ゆきげ)する檐(のき)の雫(しづく)や夜半(よは)の山(やま)

 

 伸餅(のしもち)に足跡つけてやれ子ども

 

 雨降るや茸(たけ)のにほひの古疊(ふるだたみ)

 

 百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

 

   雨日

 熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

 

 けふ晴れて枝(えだ)のほそぼそ暮(くれ)の雪

 

   庚申十三夜に遲るること三日 言問の

   渡に碧童先生と遊ぶ

 身をよせて船出(ふなで)待つまののぼり月(づき)

 

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、前書を改行した。以下、長いものでは同じ仕儀をした。以下、この注は略す。

「庚申十三夜」旧暦九月十三日の十三夜に行う月待(つきまち)の庚申(こうしん)講(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)。但し、ここの「庚申」とは、その定日や狭義の真の庚申講(庚申会(え))を指すのではなく、ただの夜遊びの謂いと思われる。

「言問の渡」「こととひのわたし」。浅草直近東の、現在の隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の附近にあった渡し場。架橋以前は「竹屋の渡し」と称した渡船場があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 薯汁(いもじる)の夜(よ)から風(かぜ)は起(た)ち曇(くも)る

 

 山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

 

 手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉

 

   厠上

 木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「厠上」後でルビを振っているが「しじやう(しじょう)」と読み、「厠(かわや)にて」の意。]

 

 鳥蕎麥(とりそば)に骨(ほね)もうち嚙むさむさ哉

 

 わが庭をまぎれ鷄(どり)かや殘り雪

 

   暮秋

 豆菊(まめぎく)は熨斗(のし)代(がは)りなるそば粉哉

 

 籠(かご)洗ひ招鳥(をどり)に寒き日影かな

 

[やぶちゃん注:「招鳥(をどり)」は現代仮名遣「おとり」で、「媒鳥」「囮」の字を当てる。鳥差しに於いて仲間の鳥を誘い寄せるために使う、飼い慣らしてある鳥のこと。「招き寄せる鳥」の意である「招鳥(おきとり)」が転じたものとも言われる。秋の季語である。]

 

   冬夜 信濃の俗 鳥肌を寒ぶ寒ぶと云ふ

 寒(さ)ぶ寒ぶの手を浸(ひた)したる湯垢(ゆあか)かな

 

 雉(きじ)料理(れう)る手に血もつかぬ寒さかな

 

 壜(びん)の影小窓に移す夜寒(よさむ)哉

 

 鶴の足ほそりて寒し凧(いかのぼり)

 

 大利根(とね)や霜枯(しもが)れ葦(あし)の足(あし)寒(さ)ぶに

 

 尺あまり枝もはなれて冬木立(ふゆこだち)

 

 まろまりて落つる雀の雪氣(ゆきげ)哉

 

   三の輪の梅林寺にて

 厠上(しじやう) 朝貌(あさがほ)は木にてかそけき尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「三の輪の梅林寺」現在の東京都台東区三ノ輪にある曹洞宗華嶽山梅林寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「厠上」は電子化した通り、句上部に同ポイントで入る。但し、これは句の一部ではなく、句意を強調するために前書とせずに句頭に掲げたもので、或いは小穴隆一はポイントを小さくする予定だったものかも知れぬ。似たような用例は芭蕉の名句、

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉(かな)

は言うに及ばず、後の芥川龍之介の大正一五(一九二六)年九月の『驢馬』「近詠」欄初出形、

 破調(はてう) 兎(うさぎ)も片耳垂(かたみみた)るる大暑(たいしよ)かな

でも見られる。そこでは芥川龍之介は「破調」のポイントを落している。但し、後に龍之介はこれを前書に移している。]

 

   すでに冬至なり そこひの伯父は

   庭鳥の世話もづくがなければ賣つ

   ぱらふ

 餌(ゑ)こぼしを庭に殘せる寒さかな

 

[やぶちゃん注:「づくがなければ」こちらの記載によれば長野方言のようである(現代仮名遣では「づく」は「ずく」のようである)。「億劫でそれをする気が起こらない・根気がない・やる気が続かない」といった感じの意味合いを持つものと考えてよい。

「庭鳥」「にはとり」。鷄。]

 

 連れだちてまむしゆびなり苳(ふき)の薹(たう)

 

[やぶちゃん注:「まむしゆび」別名「杓文字(しゃもじ)指」とかなどと呼ばれるが、医学的には「短指症(たんししょう)」と称し、指が正常より短い形態変異を広く指す。爪の縦長が短く、幅があって、横に爪が広がっているような状態に見える。実際には手の指より足の指(特に第四指)に多く見られ、成長とともに目立つようになるという。女性に多く見られる遺伝的要因が大きいとされる先天性奇形の一種であるが、機能障害がない限り(通常は障害は認められない)は治療の対象外である。ここは蕗の薹を採るその手(兄弟の子らか)であるから、手の指、特に目立つ親指のそれかも知れぬ。一万人に一人とされるが、私は多くの教え子のそれを見ているので、確率はもっと高く、疾患としてではなく、普通の他の個体・個人差として認識すべきものと考える。]

 

   望郷

 四五日は雪もあらうが春日(はるひ)哉

 

 庭の花咲ける日永(ひなが)の駄菓子(だぐわし)哉

 

   端午興

 酒の座の坊(ぼう)やの鯉(こひ)は屋根の上

 

 桐の花山遠(とほ)のいて咲ける哉

 

 夏の夜の蟲も殺せぬ獨りかな

 

 豌豆(ゑんどう)のこぼれたさきに蟆子(ぶと)ひとつ

 

[やぶちゃん注:「蟆子(ぶと)」「蚋」(ぶゆ・ぶよ)に同じい。昆虫綱双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属するブユ類の総称。体長は標準的には二~八ミリメートルで蠅に似るものの小さい種が多い(但し、大型種もいる)。体は黒又は灰色で、はねは透明で大きい。の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。これ自体も(「豌豆」は夏)夏の季語である。]

 

 餝屋(かざりや)の槌音(つちおと)絶ゆる夜長かな

 

   澄江堂主人送別の句に云ふ 

    霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

   卽ち留別の句を作す

 木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や

 

   望郷

 山に咲く辛夷(こぶし)待つかやおぼろ月

 

 しやうぶ咲く日(ひ)のうつらうつら哉

 

 庭石も暑(あつ)うはなりぬ花あやめ

 

   長崎土産のちり紙、尋あま少なるを貰ひて

 よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

 

   大正十二年正月脱疽にて足を失ふ

   松葉杖をかりて少しく步行に堪ふるに

   及び一夏を相模鎌倉に送る 小町園所見

 葉を枯(か)れて蓮(はちす)と咲(さ)ける花(はな)あやめ

 

   短夜

 水盤に蚊の落ちたるぞうたてなる

 

   平野屋にて三句

 藤棚の空をかぎれをいきれかな

 

 山吹を指すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)

 

 月かげは風のもよりの太鼓かな

 

   思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤藤兵衞に

 獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

[やぶちゃん注:先行する帳」で前書にルビを振っており、「思遠人」は「ゑんじんをおもふ」で、「祕露」は「ペルー」。]

 

 しぐるるや窓に茘枝の花ばかり

 

[やぶちゃん注:「茘枝」ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis。花は(ウィキ画像)。]

 

   よき硯をひとつほしとおもふ

 ゆく秋を雨にうたせて硯やな

 

   せつぶんのまめ

 よべの豆はばかりまでのさむさかな

 

 みひとつに蚊やりうち焚く夜更けかな

 

 笹餅は河鹿(かじか)につけておくりけり

 

[やぶちゃん注:「河鹿」これは奇異に思われる向きもあろうが、私は断然、これは両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri であると思う。その何とも言えぬ美声を賞玩するために人に贈ったのである。これは近代まで嘗ては普通に季節の贈答として行われていたからである。]

 

 ゆく秋やお蠶樣(かひこさま)の祝ひ酒

 

 ゆく秋を米搗(こめつ)き虫(むし)のひとつかな

 

[やぶちゃん注:「虫」はママ。ここまでが「鄰の笛」の小穴隆一分全五十句である。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(88)「答人」

 

 答人

 

 童(わらべ)ありて、駱駝(らくだ)を描(ゑが)くに、

 駱駝の顏、

 まこと駱駝の顏なれど

 駱駝の足(あし)、

 駱駝の足はまこと松葉杖をつきたらむにも似つ、

 さればわれわが杖をとりて庭に出(い)で、

 首(かうべ)をのべて童にわが駱駝の足を見するかな。

 

 童あり、脱疽にて足頸(あしくび)を失へるわが脚(あし)、

 わが脚は袋(ふくろ)かむせてあれば、

 馬の首(くび)馬の首とてうち囃(はや)す。

 まこと馬の首に似つ、わが脚。

 さればわれわが片足を撫(ぶ)して立ち、

 馬首(ばしゆ)を廻(めぐら)して童に嘶(いなゝ)きてみするかな。

 

 童あり、「おまきかへ」をするわが部屋に入込(いりこ)みて、

 踵(くびす)なきわが足の創口(きりくち)を窺(のぞ)き、

 象(ぞう)の鼻(はな)象の鼻とて喜悦す。

 まことわが足は象の鼻の如くなりて癒ゆるかな。

 さればわがこころ象となりて、

 わが象の鼻をのばし、ふりたてて童に戲むる。

 

[やぶちゃん注:「答人」の標題にルビはない。謂いは「人に答ふ」であるが、「タフジン(トウジン)」と音で読ませる気かも知れぬ。

「おまきかへ」老婆心乍ら、「お卷き替へ」で切断面をカバーしている繃帯を取って交換し、巻き替えることである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(87)「秋色」

 

 秋色

 

    行く秋や身に引まとふ三布蒲團   芭蕉

 

 紅葉(もみぢ)は

 ――庭の落葉(おちば)

 桐油合羽(とおゆ)を通(とほ)したのは

 ――障子が開(あ)いてゐて吹きこんだ時雨(しぐれ)

 遠く辿(たど)つてゐた小徑(こみち)は

 

 ――廊下

 

 林の中に佇んでゐたが

 ――それは茶を汲みに這入(はい)つた茶間(ちやのま)

 さうして樹(き)の上のあの猿は

 ――如何(どう)した事か微(うす)ぐらい部屋の隅の簞笥(たんす)の上に

 日頃(ひごろ)元氣な兒(こ)がくぼまつてゐたのだ

 

[やぶちゃん注:私は本パート五篇の内、最も好きなものである。最後のシークエンスが慄っとするほど素敵だ!

 芭蕉の添え句は「韻塞(いんふたぎ)」「泊船」などに載り、服部土芳編「蕉翁句集」(=蕉翁文集一冊「風」・宝暦六(一七五六)年完成)では貞享五・元禄元(一六八八)年作とする句。「三布蒲團」(小穴はルビを振っていない)は「みのぶとん」と読み、「三幅布團」とも書く。三幅(みの:「の」は和装織物の最も一般的な幅。和服地では鯨尺九寸五分で約三十六センチ。「みの」はその三倍であるから一メートル八センチ相当)の大きさに作った布団。如何にも貧弱で、事実、寒い。芭蕉庵の独り寝の侘びしさを伝える。

「桐油合羽(とおゆ)」四字へのルビ。桐油(とうゆ)は桐油紙(とうゆがみ)で油紙(美濃紙などの厚手の和紙に柿渋を塗って乾燥させてその上に桐油または荏油(えのあぶら)を何度も塗り乾かした強靱な防水紙)。これを表の素材とし、裏に薄布を合わせた防水着を「桐油合羽(とうゆがっぱ)」と名づけ、古くから外出着・旅行用合羽として用いられた。]

2017/02/21

小穴隆一「鯨のお詣り」(86)「儚なきことすぎて」

 

 儚なきことすぎて

 

 はかなきはことすぎて

 きおくにかへることぞ

 あはれたらちねのははの骨(こつ)

 おのれがたけよりもおほいなる甕(かめ)にいるるとて

 のぞきみしたるおぼえはあれど

 さて

 そのふたいかにせしかはおほえずによ――

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(85)「雨中山吹」

 

 雨中山吹

 

 あしくびはやきばにゆきていづこゆきたらむ

 あはれはらばひてとざせるへやをいづるに

 いつもいつもさかぬやまぶきはなつきて

 あめのしもとあめのしもと

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(84)「偶興」

 

[やぶちゃん注:以下、小穴隆一「鯨のお詣り」の詩篇パート。散文では散々読者を苦しめる小穴隆一であるが、詩篇では俄然、その朦朧体が優れたサンボリスムを醸し出すことが判る。孰れも、いい。

 

 

 偶興

 

 あしのゆびきりてとられしそのときは

 すでにひとのかたちをうしなへる

 あしのくびきりてとられしそのときは

 すでにつるのすがたとなりにけむ

 あしのくびきりてとられしそのときゆ

 わがみのすがたつるとなり

 かげをばひきてとびてゆく

 

 

[やぶちゃん注:この詩篇の本文自体(標題「隅興」」は無し)は既に游心帳で掲げてはいる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(83)「又三郎の學校」

 

 又三郎の學校

 

 四十年も前の事である。母に死なれた子供達はその父に連れられて函館から祖父が住む信州に、倅(せがれ)に後添(のちぞへ)が出來た、孫共は祖父に連れられて再び函館の倅へといつた次第で、そのをりの私の祖父の長帳(ながちやう)に綴ぢた道中記には確か松島見物の歌などもあつた筈ではあるが、東北の人に東北は始めてですかと聞かれれば、始めてですと答へるよりほかにないその東北に、物の一つ一つが珍しい旅をすることができた。尤も私が步いたのは單に花卷(はなのまき)、盛岡、瀧澤の範圍だけである。

[やぶちゃん注:「長帳」主に近世の商人(あきんど)が営業用に用いた帳簿の一つ。その形式。

「瀧澤」現在の岩手県の中部に位置する滝沢市。盛岡市の北西に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 私は最近坪田讓治から宮澤賢治といふ名を始めて聞いた。書店は私に宮澤賢治全集、宮澤賢治名作選、註文の多い料理店等(など)の本を呉れた。また賢治の會(くわい)といふものが、東京から盛岡にかけて幾箇(いくつ)かある事も聞かされた。

[やぶちゃん注:「宮澤賢治全集」文圃(ぶんぽ)堂版全三巻本と思われる(昭和九(一九三四)年~ 昭和十年刊行)。

「註文の多い料理店」短編集「注文の多い料理店――イーハトヴ童話――」の初版本は大正一三(一九二四)年十二月一日に盛岡市杜陵出版部及び東京光原社を発売元とし、千部が自費出版同様に出版されたている(発行人は盛岡高等農林学校で一年後輩に当たる近森善一)が、当時、賢治は一部の識者以外には殆んど知られておらず、定価一円六十銭と当時としては比較的高価であったこともあり、殆どが売れ残ったという(ウィキの「註文の多い料理店」に拠る)。本文で書店が呉れたと小穴は言っているから、ずっと後の、別書店からの再刊本であろう。]

 しかしながら自分のやうな者は、本來安井曾太郎と中川一政の二人を偉いと思つてゐればよいので、正直なところ宮澤賢治の故郷花卷(はなのまき)のはづれや、瀧澤から二つさきの放牧場で、向うの山の麓(ふもと)、あれが啄木の出たところですと人々に指さし教へられても、これはなかなか戰國時代だなあと腹の中に呟きこんでゐたのである。

[やぶちゃん注:言わずもがな、現在の岩手県盛岡市渋民。ここ(グーグル・マップ・データ)。実際には啄木は現在の盛岡市日戸(ひのと)生まれ(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、一歳で渋民に移っており、ここもそちらと採っておく。]

 私はただ「風の又三郎」の作者を生んだ土地を見、かたがたのその又三郎を入れるのに適當な學校を探すために、遙々(はるばる)奧州へも下つてみたのである。

 斯う書けば、宮澤賢治の敬愛すべき父母(ふぼ)、またよきその弟、また幾箇(いくつ)かの賢治の會(くわい)、この賢治の會には、賢治が彼の意圖(いと)のコンパスを擴(ひろ)げて土を耕し小屋を建て、その小屋に童共(わらべども)を集めてグリムやアンデルセンの物を聞かせてゐったと聞く、當時の童が今日は齡(よはひ)二十四五、農學校に教諭として彼を持つた生徒の齡は三十三四、斯ういつた人達もゐるであらうに、私の感情が冷たいとの誤解があるかも知れない。

 私が又三郎を入れる學校は、彼(かれ)宮澤賢治がその作物を盜みぬかれてゐたその一つ一つの跡へ、薄(すゝき)の穗を一本づゝ插しておいたといふ畑の橫を流れてゐる北上川の渡を渡つて行つた島(しま)分教場であつた。

 島分教場は兒童の在籍數

 

Matasaburounogakkou

 

といふ學校である。[やぶちゃん注:以上は底本をスキャンし、画像で取り込んだ。]

 讀者はこの學校の所在地を貧窮なものとして考へるかも知れない。私も見ないうちはさう考へてゐた。見ればその部落は甚だ綺麗で、作物も立派であり、家々は少くとも私の家よりは堂々としてをり、そこに豐かで落ついた靜かな暮しが想はれるのである。

 それに戸每(こごと)の戸袋(とぶくろ)には意匠がほどこしてあるのである。一軒の家に殊に立派なものがあつた。私は一寸見た時始め佛壇が戸外(こぐわい)に安置されてゐるのかと思つた。漆喰(しつくひ)でかためたものであつた。私の興味は花卷(はなのまき)に殘つてゐる足輕(あしがる)同心(どうしん)の家よりもあの部落の戸袋に殘つてゐる。

 風の又三郎を讀んでゐる人の中には、先生が三人、生徒が計百十一人といふ學校では、少々建物(たてもの)が大きすぎるといふ人があるかも知れない。

  ツヤ(クレヨン)

  四年京子(綴方(つゞりかた))六錢預(あづか)り

           十月二日

 と書いてある職員室の黑板から目を離して、室(しつ)の入口に立戾つて、改めて入口から室にはいるその眞正面を見れば、そこにはお宮(みや)が安置されてあるのを見るが、短い廊下を左に廻れば、又三郎の學校に相應(ふさ)ふべき狀(さま)の臍緒(へそのを)が、雨天體操場(うてんたいさうぢやう)にも講堂にもならうといふやうに改造されてはゐるが、依然として今日でも殘されてゐるのである。臍緒(へそのを)、つまり現在島(しま)分教場となつてゐるそもそもの建物(たてもの)は、講堂と講堂正面の黑板の左の玄關、右の先生の部屋それなのである。

 先生の部屋か住居(すまゐ)か、柱のカレンダーは今日(けふ)の日を示してゐるとは思はれないほどの、幾(いく)十年かの昔の空氣を持つてゐた。その講堂の黑板の中央の上にもお宮が安置されてゐた。校舍のなかがあまりに淸潔で、一寸私にお宮のなかを步ある)かせられてゐるといふ奇異な感じを持たせ、講堂のお宮の橫にくつついて大きなベルがあつたことが、

「これは大變だ、神樣も耳のそばでベルを鳴らされたのではおちおち晝寢もできまい。」と思はず私に私達を案内して呉れた先生の前でも言はせてしまつたのである。

 黒板の左が玄關、玄關といつても、そこは今日(こんにち)玄關として使用されてはゐない。暗い小さいその部屋には小使(こづかひ)であらう婦人が一人靜かに爐の火を搔立(かきた)ててゐた。入口はといふ淸六さんの問ひに先生は、

「そこの窓のところです。」と答へた。私はその窓とすれすれに桑の畑を見た。

[やぶちゃん注:「淸六さん」宮澤賢治の実弟宮澤清六(明治三七(一九〇四)年~平成一三(二〇〇一)年)。]

 私達は再び織員室に戾つて茶の馳走になり、今日の玄關の入口の前の二宮金次郎の銅像にも別れを告げて歸路についた。

「どうもあの先生は神主くさい。」

 といふ私の言葉に、淸六さんが、

「神主です。いまでも何かの時には神主の裝束(しやうぞく)をつけて出かけてゆくのです。」と答へた。

 何年か前の花時(はなどき)の事、女房と近所の童女を連れて上野の動物園に行つたことがあつた。一わたり園内を歩き廻つて、燈火(とうくわ)がつき夜間開場あることに氣づいた。さうして、だんだん世智辛(せちから)くなると動物園の動物まで夜勤をしなければ喰(た)べてゆかれぬのかと思つた。しかし、あの島分教場の講堂の上の神樣には、ベルが鳴る度(たび)ににこにこして扉のなかから兒童の姿を見てゐるのである。私は日も落ちてしまつ北上川の渡船(わたしぶね)のなかの空氣、暗(やみ)のなかにさくさくと草を喰(は)む馬のけはひ、ああいつたものに再び出會ふことを夢にも考へてゐなかつた。私は幸福であつた。その日(ひ)森さんが路の落栗(おちくり)を一つ拾つて私に呉れた。私は家に持つて歸つて女房に渡した。女房は東北の人間である。この栗が私の家の申譯(まうしわけ)ばかりの庭に芽を生やす時こそ見物(みもの)である。

[やぶちゃん注:「森さん」不詳。]

 盛岡といふ所も甚だ愉快に思へた。私を愉快にしたのは何も賢治の會の方々ではないのである。私は公園で、オホコノハヅクと梟(ふくろ)を樂(たのし)んで見た。盛岡の高橋さんは私に教師の手帖といふ隨筆集を呉れた。高橋さんの隨筆集を讀めば、梟(ふくろ)は善(よ)い鳥ではないらしい。しかし、小桶(こをけ)の中に入つては水を浴び、まつ黑い鐡砲玉のやうな目をきよとんとさせては、ぷるぷると羽根をふるはせてゐる梟(ふくろ)の顏をみてゐれば、飽きもせぬたのしさを時(とき)をすごすものである。

[やぶちゃん注:「オホコノハヅク」フクロウ目フクロウ科 Otus 属オオコノハズク Otus lempiji

「梟(ふくろ)」同前フクロウ科 Strigidae の他種を広範囲に指す。

「高橋さん」不詳。]

 盛岡は明るいユウモワがある土地である。案内役を買つて呉れた菊池さんの兄さんの小泉さんの家(うち)に一夜(や)の宿を借りたのであるが、翌朝の私は鳶(とび)の聲で目が醒めた。寢床に起きなほつて枕の覆ひの手拭(てぬぐひ)に目を落すと、鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)といふ文字が染出されてゐたのである。鳶に鷹がこれほどにぴつたりこようとは思ひもつかなかつた。

[やぶちゃん注:「菊地さん」不詳。

「鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)」不詳。]

 馬賊鬚(ばぞくひげ)を生やし、よく乾燥した、つまり筋肉が引きしまつて精悍な小泉さんは瀧澤の種畜場(しゆちくぢやう)に電話をかけて馬車の交渉をして、私を瀧澤の放牧地へ連れて行つて呉れたのであるが、南部の鼻まがりに對し何(なん)とかのまがり家(や)といつて、居(ゐ)ながらに馬ツ子(こ)に注意ができるやうになつてゐる民家を見ながら、相當の距離を走つてゐた時であつた。私達男ばかりがざつと十人も乘込んでゐる馬車をたつた一人の男が止めたのである。

[やぶちゃん注:「小泉さん」不詳。]

 私は何かと思つた、誰(た)れかが馬車を止めた相當の年配をした堂々たる體軀(たいく)の其(その)男に錢(ぜに)を渡した。するとその男が馬車を離れて馭者が馬に鞭を加へた。

 馬車の後ろに席をとてつてゐた私には、その男が何者であるかを了解できなかつたのであるが、馬車とその男の間(あひだ)にへだたりができて始めて、股引(もゝひき)もなく半纏(はんてん)だけの膝(ひざ)を叩いて笑つてこちらを見送つてゐる、その男の膝のところに偉大なるものが笑つてゐるのを認めて一切を了解した。私は馬を見にきて馬を見ずに馬のやうな奴を見たとと言つた。するとそれ迄は一言(ひとこと)も言はなかつた皆(みんな)が急に陽氣に笑つた。ことによると、人々が東北健兒の物のサンプルと思はれては困ると心配してゐたのかも知れない。

 私は私達のその日の愉快なピクニツクで、始めて馬も喰はぬといふ鈴蘭に赤い綺麗な實み)があるのもみた。馬車の馬も車を離れて飛び廻つての歸途、夫人子供を連れた知事が瀧澤の驛から種畜場(しゆちくぢやう)迄私達を運んだ馬車に乘つて後(あと)から驅けてきた。知事に先に路を讓つた私達に知事は目禮して行つたが、私達は知事もやはり偉大なる魔羅に喜捨をとられたであらうと笑ひながら心配してゐた。

 以前の場所に以前の男が矢張(やは)りゐた。既に喜捨をした一行とみて今度は近よりかけてやめてしまつた。實話雜誌の社長といふものは私達と違つて何でも知つてゐるらしいが、私達が、知事は婦人子供の手前二十錢もとられたらうと騷いだといふ話をしたら、一度見たい、盛岡までは自分はよく行くからと言つてゐた。謹嚴な坪田讓治でさへもが、井上友一郎(ともいちらう)勵ます會(くわい)に出席してこの瀧澤の傑物(けつぶつ)の話を傳へて人々を喜ばせたさうである。

 男子は須(すべ)からく男根隆々たるべきか。

[やぶちゃん注:「井上友一郎」(明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は作家。大阪市生まれ。早稲田大学仏文科卒。『都新聞』記者となり、昭和一四(一九三九)年に『文学者』で『残夢』を発表、作家生活に入った。風俗小説作家として活躍し、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、昭和二四(一九四九)年発表の小説「絶壁」が宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると非難されて抗議を受け、一九七〇年代には忘れられた作家となった(以上はウィキの「井上友一郎に拠った)。

「男子は須からく男根隆々たるべき」ここで本書後半では久しぶりに芥川龍之介に繋がるように書かれてある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(82)「一游亭雜記」(13)「ミコチヤン」

 

         ミコチヤン

 

 ミコチヤンが家(うち)の前を行き過ぎると、「おい、赤坊(あかんぼう)が通るよ。」ミコチヤンが垣根のそとに立つてゐると、「おい、赤坊がゐるよ。」と私は女房に呼ばはる。また、ミコチヤンも女房に逢ふ度(たび)ごとに何時(いつ)も、「ヲヂチヤンナニシテヰル。」と聞くといふ。しかし、ミコチヤンは何時(いつ)となく私を避けてゐるのである。さうなつてからの一日(にち)、私の晩めしの前に坐つていつしよに食事をするミコチヤンの顏に、私はミコチヤンを認めたのである。私は臺所の女房に、「おい、赤坊は赤坊といはれるのをいやがるんだねえ。」と言つた。すると「ウン、ミコチヤンダヨ、」と、ミコチヤンが小聲で言つてにつこりした。ミコチヤンは小さい口を開けては私の箸の先から魚肉を食べてゐたのである。ミコチャンももう數へ歳(どし)で三つになつてゐた。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(81)「一游亭雜記」(12)「カザグルマ」

 

         カザグルマ

 

(女房の先生のそのまた先生の學生時代の話。)

 女房の女學校の御作法(おさはふ)の先生が始めて唱歌を習つた時には、

「ミヅグルマー」

「ミヅノマアニマアニメグルナリー」チヨン

 と、先生が拍子木(ひやうしぎ)を打つて教へてゐたといふ。

「カザグルマー」チヨン

「カゼノーマアニマアニメグルナリー」チヨン

 があまりに可笑しいので先生は笑つて、先生に叱られた由。またこの話を聞かされた生徒一同は皆(みな)笑つて、「何が可笑しいんです」と東北辯(べん)の先生、卽ち拍子木の生徒に叱られてしまつたといふ。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(80)「一游亭雜記」(11)「昔ばなし」

 

         昔ばなし

 

          1

 

「兵隊さんのおならはネトネトしてる」

 喇叭(らつぱ)のリズムをとつて、斯(か)ういふ言葉を歌にしてゐる童(わらべ)の聲を垣根のそとに聞いた時に、わたしの心には卒然として、

「ちよこちよこ連隊十三聯隊、まら○○前へおーい」

 と、いふ言葉が湧(わ)いた。

 三十何年の前にもなる日露戰爭當時の佐世保、服部中佐の銅像がある軍港佐世保その街で、わたし達少年は舟越海軍少佐の子も品部陸軍大尉の子も、喇叭のリズムに合はせて、ちよこちよこ聯隊十三聯隊まら○○前へおーいを、息脹(いきふくら)めて歌つてゐたのである。

[やぶちゃん注:「まら○○」「○○」には子らの姓が入るのか。「まら」は男根の意か。好く判らぬ。識者の御教授を乞う。

「服部中佐の銅像」戦前にあった海軍中佐の銅像(昭和十八年頃の軍事物資不足による金属供出で消失したものであろう)。よく判らぬが、日清戦争の大沽砲塁の戦いで戦死した海軍指揮官の服部雄吉中佐のことか?

「舟越海軍少佐」日露戦争の第二艦隊司令部の参謀に船越海軍少佐というのがいるが、これか?

「品部陸軍大尉」不詳。]

 

          2

 

 當時の佐世保尋常小學校には唱歌室などはなく、樂器の何物をも持たない先生が手ぶらで教壇に立つて、まづ一小節を歌つては口うつしで萬事(ばんじ)わたし達に歌はせてゐたものである。諸君が歌つてゐる軍隊の行進を思浮(おのひうか)べてくれれば幸(さいはひ)である。先生は一小節ごとに手拍子足拍子で、「アヽ、コリヤコリヤ」と合(あひ)の手を入れた、日露の戰(いくさ)まつさかりの時故(ゆゑ)、教(をそは)つたものは軍歌の類と、美しき天然(てんねん)である。

「アヽ、コリヤコリヤ」

 われら生徒は歌の興(きよう)酣(たけなは)なるにいたれば、机を叩き、床を蹴り、一小節ごとに聲を張上げてゐたのである。

 

          3

 

 何時(いつ)か、「アヽ、コリヤコリヤ」の先生、そのわたし達を受持つてゐた先生が去つて、何時か神戸から新任の先生が來た。

 唱歌の時間、この紙戸から來た先生とて、樂器無しには無論(むろん)口うつし法であつた。神戸の先生にとつての最初の唱歌時間、先生の歌に、アヽ、コリヤコリヤといつせいに合(あひ)の手を入れた生徒達を先生は驚いたらしい。東京から來た生徒、卽ち、わたしも初めは不思議な土地だと思つてもゐたのである。

「皆(みんな)が何時もさういふことをいふのか。」

「ハイ。前の先生には左樣にして教(をそ)はつてをりました。」「アヽ、コリヤコリヤは下等だから止めなければいけない。」と、いつたやうな先生と生徒、三十何年前の古き時代の神戸の先生、その羊羹色(やうかんいろ)の服は、モーニング・コートであつた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(79)「一游亭雜記」(10)「賣れつ子」

 

         賣れつ子

 

(RESTURANT・Xにて)

 一番の賣れつ子といふものはなかなか閙(いそが)しい。だから不潔で年中虱(しらみ)をわかしてゐる。

(BAR・Yにて)

 あの洋裝のモガ? あれはこないだ階段から落ちて、ズロースの奧までみせたからもうこの店には出てゐない。

(CAFE・Zにて)

 はだかのキユーピーに六十圓も衣裝代をかけたここのKチャンは、ここのマネーヂヤアと結婚、幸福で目出度い。

 こんな話はY君の話である。

 このY君は、知らぬこととはいへ知らぬ間(ま)に、自分がこの不景氣に一人でも失業者を出してゐたといふことは、氣の毒なことをしたと思つてゐる。と、車のなかで、笑ひながら話してゐた。

 Y君がY君の義兄の家に行つて、話をしてゐたら、知らぬ間にそこの女中に箒(はうき)を逆さにたてられてゐた。姉がそれを知つて咎めた。女中は斷然非を認めない。姉も斷然あやまれと言ふ。あやまらない女中は馘首(くわくしゆ)されたといふのである。

[やぶちゃん注:「閙」(音「ドウ」)は一般には「騒がしい」の意味である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(78)「一游亭雜記」(9)「白と赤」

 

         白と赤

 

 白のパジヤマを着てウクレレを持つのはモデル女。

 ――顏は黑い。ポーズが終了してもなほそのパジヤマの白を凌がんがほどにお白粉を亂用してゐる。

 赤のセミ・イーヴニングを着てバンジオを持つのはお孃さん。

 ――顏は白い。ポーズが終ればそのドレスに似せて色取(いろど)れる顏を拭(ぬぐ)ひ跡を人に示さない。

[やぶちゃん注:「バンジオ」弦楽器のバンジョー(banjo)。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(77)「一游亭雜記」(8)「自畫像」

 

         自畫像

 

 二人の時、飯を食ひながら女房は私に斯う言つたものである。

「あなた、あんなお母さんの子にどうしてあんな可愛らしいお孃さんが出來たんだらう、ねえ。」

 三人の時、火鉢を圍みながらの話にお孃さんは斯う私達に語つた。

「母と一緒に歩くとはづかしい。」

 ――乍去(さりながら)描(か)かれた畫面をみれば、悲しむべし。母娘(おやこ)の相違は、單に娘が斷髮であり、洋裝であるといふ以外に示す何物もない。私をして愕然たらしめたものは、おそるべし。お孃さん自身の手になる木炭畫の數枚、その自畫像であつた。私は最初母親がポーズしたものと思つた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(76)「一游亭雜記」(7)「襁褓」

 

         襁褓

 

 實の子供を生んで育てて、夫と子供二人計三人を同時に失つた母親が口をとんがらせて言ひつのつた。

「このおしめだつてさ、かう天日(てのぴ)で乾(かはか)したのと炭火で乾したのとでは違ふんだよ。お前達は子供を産んだことがないから知らないだらうが、お母さんなんぞはさんざんためしてきたんだからね。」

 すると、もうやがて年頃の娘が突如としてその母親を詰(なじ)つた。

「あら、さう、お母さんはわたしをためしに使つたの?」

 母親はふてくされてしまつた。

「ああ、さうさ、お母さんの言ふことは、みんないろいろにためしてきたことなんだからねえ」

 娘の顏は蒼ざめて既に大人である表情を現はしてゐた。

 

[やぶちゃん注:「襁褓」私は「むつき」と読みたくなるが、ここは本文に即して「おしめ」と読んでいよう。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(75)「一游亭雜記」(6)「廣告術」

 

         廣告術

 

「今日は三越明日は帝劇」といふ言葉は、濱田氏が往年まだ三越の平社員である時代に、考へついた言葉である。しかし、株式會社がこれを使用するに至るまでには、これまた一年の考慮があつたといふ。濱田氏がその「今日は三越、明日は帝劇」で年金を貰つたか如何(どう)かは知らない。(江川正之から聞いた話。)

[やぶちゃん注:ウィキの「三越」によれば、この宣伝文句の使用は大正二(一九一三)年のことで、『東宝が日本初の西洋式の劇場として帝国劇場を開設。来場客に無料で配付した一枚刷りの「筋書き」(プログラム)に掲載された広告のキャッチ・フレーズ』に用いられたのが初回であったという。『「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は当時の有閑富裕階級の女性を象徴する一般庶民の憧れだと鮮烈に印象付けた。コピーライターは浜田四郎(三越の広告担当)。ポスター用の婦人画は竹久夢二だった』とある。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(74)「一游亭雜記」(5)「初戀の味は年金」

 

         初戀の味は年金

 

 初戀の味については演説の必要もないであらう。

 僕はここに、「初戀の味」といふことばを考へた、世にも幸福なその一人の人物を人々に紹介してみたいのである。

 始めに、彼は地方の中學の漢文の教師であつた。と書かなければならない。およそそれに似合はしくもない漢文の教師が「カルピスの味は初戀の味」といふ言葉を得た。ともかくも彼はそこに初戀の味といふ言葉を考へ得たとみえる。先生が斷じた「初戀の味」といふ言葉をカルピス社が拾つた。會社は、初戀の味に關する東西古今の文獻、小説、戲曲などについて、改めて調査する事一年の長きに亙つたといふが、結論して現はれてきたものも、初戀の味といふものがやはりさう惡いものではない。唯(たゞ)、それにつきてゐたといふ。結果、會社がこれを廣告用の字句として採用することに一決して、羨むべし漢文の先生! 先生は先生が考へた「初戀の味」といふ言葉に對して、カルピス會社から光榮ある年金を獲得するに至つたのである。

 自分がこの話を書く今日、時遲く、すでに肝心の漢文の先生は幸福にも地下に眠つてゐる。先生の年金も亦今日では先生の遺族扶助料に變じてゐるといふのである。(江川正之から聞いた話。)

[やぶちゃん注:ここに記されていることは事実で、「カルピス㈱」公式サイトの「創業者三島海雲」にも記されている。この考案者は三島の学生時代の後輩で、当時の中学校国漢教師であった驪城(こまき)卓爾である。それによれば、大正九(一九二〇)年、驪城が『甘くて酸っぱい「カルピス」は「初恋の味」だ。これで売り出しなさい』と提案したが、海雲は一度は『とんでもない』と断ったとあり、結局、それが採用されて最初に用いられたのは、大正一一(一九二二)年四月の新聞広告のキャッチ・フレーズとしてであったとあり、その画像も小さいながら、見ることが出来る(視認するに『カルピスの一杯に初戀の味がある』とある)。彼は少なくとも大阪府立今宮中学校に奉職していいた時期があり、こちらのページで驪城氏の顔写真も見ることが出来る。

「江川正之」出版者。純粋造本を志向した江川書房の創立者として知られる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(73)「一游亭雜記」(4)「金田君と村田少將」

 

        金田君と村田少將

 

 醫學士金田君は、高等學校時代に、弓で鳴らしたものだといふのが蒔淸(まきせい)の話である。

[やぶちゃん注:「金田君」不詳。

「蒔淸」遠藤古原草。]

 然し彼金田君に於いては、一日(にち)、庭木に猫を吊るして矢を放つたところ、如何(どう)間違つてか、猫は繩からはなれて金田君よりも死物狂(しにものぐる)ひに金田君に飛びついてきた。それで、弓術名譽の彼が無慙(むざん)にも、目をつぶつてめくらめつぱうに地蹈鞴蹈(ぢたんだ)んで、弓で地べたを叩きまはつてゐた。と、告白してゐる。

 爾來十數年、人には怖ぢぬ金田君の猫をこはがることこれはまた尋常ではない。であるから僕は、もし金田君との喧嘩ならば猫を連れてゆかうとひそかに思つてゐる。

 

 玉突場がへりの途(みち)で蒔淸から聴いた話である。

 ――村田少將は、あの村田銃のさ、金田は一度弓道部の學生として、少將の家に行つたさうだ。金田のことだから例の調子でしやべりたてたことだらう。とにかく村田少將、キユーを手にしてゐたのださうだがね、撞球(どうきう)の數學的であり且つまた全身にわたる運動である所以(ゆゑん)を盛んに説いてゐたさうだ。それからそのその頃弓銃(きうじう)の考案をやつてゐて、障子を明けると書割のやうに正面に的場(まとば)が出來てゐたといふが、それを珠臺(たまだい)のこつちから射(う)つてみせて弓銃の效能を述べてゐたさうだ。

 

 僕の玉は? 僕は中學で幾何(きか)では零點(れいてん)を貰つたことがあるのである。おまけに中年(ちうねん)隻脚(せききやく)となつてしまつた。到底村田少將のやうなわけにはゆかん。

 勝負は氣合(きあひ)ものときめてゐる。

[やぶちゃん注:「村田少將」「あの村田銃の」旧薩摩藩藩士で日本陸軍軍人の村田経芳(天保九(一八三八)年~大正一〇(一九二一)年)。明治一三(一八八〇)年に最初の国産銃である十三年式村田銃を開発した人物。

「キユー」ビリヤード(billiards)のキュー(cue)。

「弓銃」所謂、洋弓、クロスボウ(crossbow)のことか。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(72)「一游亭雜記」(3)「臼井君」

 

         臼井君

 

 昨日は朝五時に起きた。玄關に行つてみたが新聞もきてかない。ゼリーで腹をこはしたやうだから自分で風呂を焚いてはいつた。風呂から出たら步けると思つた。そこで自分の足で往復できる臼井君の家(いへ)まで行つた。お役人の臼井君は日曜の朝寢をやつてゐた。それで庭のはうにまはつてみたら、普通ならば石が竝べてありさうなところを、夥(おびただ)しい靴墨ととお白粉(しろい)との空瓶(あきびん)がさしたててあつて、乏しい葉つぱの紫蘇(しそ)などが大切に圍はれてあつた。それで自分は、臼井君のために、臼井君の日本(につぽん)の生活が今日では三年に及んでゐることを嘆じた。が、それと一しよに、その殺伐なる庭のなかに、郊外の一風景を發見して立つてゐた。

[やぶちゃん注:「臼井君」不詳。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(71)「一游亭雜記」(2)「老紳士」

 

         老紳士

 

 僕の家(いへ)の前を二丁ほど行くとゴルフ練習場に出る。このゴルフ場の橫に空地がある。そこを木村壯八(さうはち)のところの若者達が三角ベースで野球をする場所としてゐる。またこの傍(そば)には、早慶戰のレコードなどかけてゐる郊外建(だ)ての家がある。その家の主人公は、女中に練習場のキヤデイと同じやうな小さいバケツを持たせて、一人で悠々と二月の風のさなかを、僕等の三角ベースのグラウンドで、ゴルフに興じてゐたのである。

[やぶちゃん注:「木村壯八」(明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの洋画家・版画家・随筆家。ルビは「そうはち」だが、一般には「しょうはち」(現代仮名遣)と読む。岸田劉生と親しく、大正元(一九一二)年の「ヒュウザン会」結成に参加している。大正一一(一九二二)年の「春陽会」創設には客員として参加、大正末頃から小説の挿絵の注文が増え、特に昭和一二(一九三七)年の『朝日新聞』に連載された永井荷風の「濹東綺譚」では作品とともに爆発的人気を博した。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(70)「一游亭雜記」(1)「男の子」

 

 一游亭雜記

 

 

         男の子

 

 別に通る人もない二月なかばの日の事である。

 夕方、一軒を置いて隣同志の男の子供達は、めいめいの家(いへ)の門(もん)を出てかちあつた。ことによるとそれは、僕の家で買つてゐたときらしい。子供達が豆腐屋の桶をのぞきこんだ。七つの子が五つの子に

「コノナカニオシツコヲスルト、アワガブクブクタッチオモシロイヨ。」

 と言つた。

 五つの子はちんちを出してみた。七つのはうもちんぽこを出した。さうして、同時にオシツコをしてしまつた。子供達が愉快とした事も、その桶のなかのアブクから露顯してしてしまつて、雙方の親が桶の豆腐を辨償した。わるいことには、豆腐屋はその豆腐を捨てずに、またほかに持ちまはつて賣つてゐたものらしいのである。

 氣持ちのいいものだ。僕は少年時代に度々(たびたび)浴槽のなかで小便をした。その話を、話を聞かせた家人に聞かせて、自今(じこん)豆腐は豆腐屋まで買ひにゆくべしと堅く申渡しておいた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(69)「子供」(7)「角力」

 

         角力

 

 繼母(けいぼ)ができた。私達はまた函館に戾された。さうしてまた東京に來た。私は永代橋の上から一錢蒸気を眺めて暮してゐた。(函館の港のふちで暮した自分は船大工(ふなだいく)になるつもりでゐた。)家(いへ)は深川からまたすぐ本郷に移つた。これでは私の父がルンペンであつたかの樣であるが、その頃の父は郵船の社員で、轉任また轉任が、私の尋常一年を函館、深川、小石川と三つの學校に分けてもゐたのである。

 本郷に移つて私にはまだ一人(ひとり)の友達もない。私は家の近所を一人でしよんぼり步きまはつて、いつか路地のなかで角力(すまふ)をして遊んでゐる一團の子供の集りをみてゐた。みてゐるうちに私にも角力が面白く思へた。行司をのぞいた角力のなかで一番強い子供をみてゐると如何(どう)したのか、なんだこんな奴、耳を引つぱつてしまへばなんでもないと思ひだした。

 すると腕がむずむずして、

「かててけれやあ」

 と言つた。すると、皆が何だいと聞きなほしたから、また「かててけれやあ」と言つた。

「なんだ田舎つぺい、面白いぞ、いれてやれ」といつて皆が角力仲間にしてくれた。私は函館で相撲見物につれていつて貰ひ、何枚かの一枚繪を買つて貰つた覺えはあるが、本職の角力を見物したのは、天にも地にもそれかぎりであるし、まして子供に四十八手もなにもなかつた。ガムシヤラなフンバリで順々に相手を負かし、最後に一番強さうな子が出てきた時に、私はいきなり相手の左右の耳をぎゆつとつかんでフンバツタ。皆がやあやあ言つてゐたが、やあやあもへつたくれもなくガンバツテゐるうちに私の勝になつた。向ふも耳の吊出(つりだ)しの手で、もう一度もう一度でくるのを我慢しとほしたら、「やあ、この田舍つペ強いぞ、またおいで、」と行司がまた遊びにこいと誘つてくれた。

 私は私が耳の吊出しで勝つた相手の子と後(のち)に偶然同じ學校で同級生となつた。高木といふ米屋の子であつた。

 私は高木の耳をみて大きなとんがつた耳だなあと思つた。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(68)「子供」(7)「銅像の手」

 

         銅像の手

 

 一體私の幼年時代の大人という者はげえねえ、子供のこはがる話ばかりして聞かせてゐたものである。萬藤(まんとう)の先代が大學病院に入院してゐた頃、伯母も松本から來てゐて、私の家(いへ)に泊つてゐた。入院してゐた萬藤の伯父は、病院の銅像がいけない子供を喰べて地だらけな口をして、每晩夜中になると窓から自分の室(しつ)に遊びにきていろいろな話をする、そんな話を私に聞かせた。私は或る晩私の胸に觸つた手を、銅像の手だと思つて、聲も出せず蒲團のなかで兩手を力いつぱいに握りつづけてゐたが、床をならべて寢てゐた伯母の手にちがひないのである。私は後年、每晩子供を喰べる銅像の前に改めて立つてみて妙な氣がした。先代の萬藤は寫眞を見れば全くにが蟲を嚙潰(かみつぶ)したといふ面(つら)である。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。私なら事実でなくても、エンディングを「私は後年、每晩子供を喰べる銅像の前に改めて立つてみて妙な氣がした。先代の萬藤は寫眞を見れば全くその銅像と瓜二つの、にが蟲を嚙潰したといふ面であつたからである。」としたであろう。小穴隆一の嘘はつけない生真面目さが伝わってくる。

 

「萬藤」不詳。小穴の親族であろうが、商家の屋号のようである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(67)「子供」(6)「地震」

 

         地震

 

 子供の時靑瓢簞(あをべうたん)と人に言はれた。またこの靑瓢簞は靑瓢簞なるとともに存外の臆病者であつたのである。

 或る晩のこと、ふと目をさますと大頭の大(おほ)どろばうが唐紙の䕃に蹲(うづくま)まつて、こちらの部屋の樣子をぢつとみてゐる。敷居のところに大きな顏を半分出してゐるのである。私はいつしよに寝てゐる父を起こすこともできずに、蒲團のなかにぴつたりとなつたまま、掛蒲團の橫の下から大頭の人間をそうつと見つめてゐた。すると家が搖れだした。私はどろばうが家(いへ)を搖すぶつてゐるのだと思つたから、一層默つたまま蒲團にしがみついてゐた。すると父が大聲で私の名を呼立(よびた)てて、蒲團をはぎとつて私を引立(ひきた)てた。夜の明け方の地震であつたのである。大頭の大どろばうは家の提燈(ちやうちん)であつた。

 私はこはがつても、泣くとか、聲をたてるとかといふことはしなかつた。非常にこはいと思つた時には敷蒲團の偶に潜つてゐた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(66)「子供」(5)「旗」

 

         

 

 食べられない河豚(ふぐ)を釣る。あれも釣りであらう。幼稚園から尋常一年になる頃函館にゐて、河豚を釣つては下駄で潰してぽんと音をたてるのをたのしんでゐた。その力(ちから)をこめて河豚の腹を蹈潰(ふみつぶ)してゐた足が今日では義足である。日露戰爭の時には佐世保にゐて、島屋(しまや)のをぢさんに一度烏賊(いか)釣りに連れていつて貰つた。

 どうも釣りの樂しさは食べられない河豚を釣つてゐる幼年の頃にあるやうだ。

 函館といへば、私の母は函館で亡くなつたのであるが、朝起こされて便所につれてゆかれ小便をしたら、一枚あけた雨戸の間から母が庭へ凧(たこ)を出し、すうつとそれがあがつたのが目についてゐるのである。儚(はか)ないが私が母に對する記憶はこの一つしかない。凧の形はハタといふのである。(私とすぐ上の姉とは長崎生れである。)ハタが繪も字もないまつ白なものであつたのは、ことによると母が夜なべにこしらへておいたものなのかも知れない。

小穴隆一「鯨のお詣り」(65)「子供」(4)「子供の復讐」

 

         子供の復讐

 

 草箒(くさばうき)を持つて、大勢で赤とんぼを追ひかけまはつてゐた私、お菓子は家(いへ)の玄關のわきの部屋にはいるといつでもあつた。胸の高さまであつたその木箱に、そつと手を入れては、いつぱいに摑出(つかみだ)してゐた私、おばあさんから黑砂糖を貰つてしやぶつてゐた私。

 日野家(ひのや)はおぢいさんの家に向つて左鄰(どな)り、右鄰りの家に二人の子がゐた。

 私はなんで腹を立ててたか、兄弟、その弟が家の前を通るのをめがけて家のなかにつつたつたままで石を投げた。石はその子の頭にあたつて、その子は頭をおさへて泣きながら家にとんでいつてしまつた。頭から血が流れてゐたやうに思つてゐるが、おぢいさんから叱られた記憶もなし、その事あつて間もなくその子の家に行つて、茶の罐(くわん)の蓋を薄い餅にあてて、せんべいを何枚かつくつて遊んだ覺えのあるところを思ひ考へると、せいぜい瘤(こぶ)の一つ位(ぐらゐ)といふところかも知れない。

 私は私のしたことを忘れてゐて、一日(にち)、私が石を投げつけたその兄弟に誘はれて山に行つた。兄弟は麥畑(むぎばたけ)の上に屋根を出してゐる牛屋(うしや)を指さして、一寸あそこまで行つてくるからここに待つておいでと、私を殘したまま靑い麥畑の中に驅込むんでしまつた。どの位(くらゐ)待つてゐたかいまもつてわからないが、私は殘されてぢつと待つてゐた。日がとつぷり暮れて私はその山路(やまぢ)に泣いてゐた。暗いなかから私に聲をかけた大人がゐた。その大人は私の伯父であつた。私は薪(まき)を背負つた伯父に連れられておぢいさんのところに歸つてきた。

 後年幾度か、私は、私が六歳の時泣いて立つてゐた場所を、なつかしんでそこに立つてみた。

 私はうし公(こう)とそれから私に復讐をしたその兄弟がなつかしく、度々(たびたび)人々にその行方を聞いてもみたが、誰(だ)れもうし公やその兄弟の事を忘れてゐて知つてゐる者がない。

小穴隆一「鯨のお詣り」(64)「子供」(3)「洗馬宿」

 

         洗馬宿(せばじゆく)

 

 村のまんなかにあつた學校の屋根は、高い高い、ものであつた。

 さうして、その學校のうしろには大きい山があつた。

 學校、奇異なその建物(たてもの)のてつぺんには、木曾義仲が馬の脚を洗つてゐる刻物(ほりもの)がのつかつてゐた。

 時をり、自分はしみじみとしてそれを眺めてゐた。

 晴れた日の空のなかに高く、川は群靑(ぐんじやう)に、鎧(よろひ)が紅(あか)で、流れで馬の脚を洗つてやつてゐるその木曾の義仲はすつかり自分の氣に入つた。しかし、いくつもの峠を馬に乘つてきた自分を、山の中におぢいさんの家にゐる自分を、――お父さんは一人で函館に歸つてしまつた。――私の好きな海に大きい汽船が浮いてゐる函館を――ぼんやり考へてゐた。

[やぶちゃん注:標題柱にルビが振られているのは本書ではこの章のみである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(63)「子供」(2)「とんもろこし」

 

         とんもろこし

 

 母は函館で死んだ。それで一時、私達、二人の姉と一人の弟と私、四人の孫が信州のおぢいさんの家に預けられた。私は鄰の日野家(ひのや)のうし公(こう)から小便で泥饅頭(どろまんぢう)をつくることを教(をそ)はつた。土をよせあつめてそこを肱(ひぢ)でちよいちよいと凹(へこ)ませて、小便を少しづつたらせばいくつかの饅頭が出来る愉快な遊び、あれである。

 私が日野家からどれだけのとんもろこしを貰つたものか見當もつかないでゐる。しんばかりになつたのを持つてゆくとまた實(み)のついたのが貰へたから。

 日野家には牛がいくつかゐて、私が食べたあとのしんをみんな引受けてくれてゐたのである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(62)「子供」(1)「猫におもちや」

 

 子供

 

 

         猫におもちや

 

 仔猫を貰つて大事にしてゐたものである。その頃の私は月に二三囘外出するかしないかのの暮しをしてゐた。それは足がわるくてろくろく步けないから、長い間にさういふ習慣が自然と私についてしまつてゐたのだ。私は外出をする。さうすると、必ず猫のために何か買つてやらなければ、落着いて街にゐるわけにもゆかなかつた。私はいつも氣をつけて猫のよろこびさうなおもちやを街でさがしてきたが、畢竟私は人間であり、仔猫といへども猫は獸であるから、私の買つてきたものに猫はいつも滿足してはゐなかつた。猫に買つたのではあるが、人の子のおもちやはこれを人の子に、いつか一つ二つと人の子にやつてしまつた。

 私には子供がない。それがために、いつか大道商人がらスモール・バアドを買つて、「坊チヤンが喜びますぜ」と愛嬌をふりまかれた私は、私の笑ひをしたがその時の笑ひを依然として今日(こんにち)でも持つてゐる。

 猫のおもちやだといつて人の子のおもちやがなかなか買へるものではない。

[やぶちゃん注:「スモール・バアド」子供の大型玩具の乗用ペダル・カーに同名のものがあるが、これは戦後の一九六〇年代以降の出現であるし、流石に猫のためのおもちゃには買って帰るまい。デコイ風の小鳥の木製フィギアか、小鳥の形をした木笛か(しかし後者だったら小穴隆一ならそう説明する気もする)。識者の御教授を乞う。]

2017/02/20

小穴隆一「鯨のお詣り」(61)「伯父」(2)「T伯父」

 

         T伯父

 

 T伯父さんは私の祖父の實家の人である。T伯父、この伯父は舊家に生れた有德(うとく)の人である。はつきりと言へば、今井四郎兼平の嫡流と書かなければならない。

[やぶちゃん注:「今井四郎兼平」(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)は言わずと知れた、木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人で、粟津の戦いで討死にした義仲の後を追って凄絶な自害を遂げた人物である。]

 私は一度父に連れられて、この伯父と淺草に一緒に行つた子供の頃の記憶を持つのである。珍世界の鄰の小屋では芝居をやつてゐたと思ふ。私は楠公子別(なんこうこわか)れの場面が描(か)いてあつたその小屋の繪看板に見惚(みと)れて、もう少しのところで、迷子になつてしまふところであつた。何處(どこ)ぞで御飯も食べた。何を食べたかは憶えてもゐない。廊下を步いてゆく藝者と姐(ねえ)さんの髪飾(かみかざり)が不思議であつたらしい。

[やぶちゃん注:「珍世界」明治三五(一九〇二)年から明治四十一年まで浅草六区にあった妖しげな珍奇博物標本を展示した見世物感覚のテーマ・パーク。小穴隆一は明治二一(一八九四)年十一月二十八日生まれであるから、「子供の頃」とある以上、開館当時の十四歳頃か。]

 伯父はまた一度、私が描いた風景畫を見て、これはどこの眞景かと聞いたことがある。伯父の眞景といふ言葉は私の耳に甚だ愉快ではあつたと同時に、伯父と私との年齡の開きを非常に感じさせられもした。

 私が二十何歳の頃であつたか、記憶にのぼるかぎりではこれが始めてではあるが、私はK伯父さんに連れられてT伯父さんの家(いへ)に行つた。

 T伯父をはじめてその家に訪ねた時に、私に文具料と書いて水引のかけてある立派な紙包を貰つた。さうして伯父の家を辭してから、K伯父と私は眞晝の上諏訪と下諏訪との間の道をてくてくと步いてゐた。この途中茶屋のやうな家で鮨(すし)を食べた。その勘定の時に、私はK伯父にさとられぬやうにこの紙包の金に手をつけた。包の中にはきちんとした一枚の一圓札がはいつてゐたのである。後で祖母にT伯父からお金を貰つたが、途中でつかつてしまつたといつたら叱られた。私はK伯父の汽車賃やら何やら立替(たてか)へてゐたものであるからともいへずに、頭を搔いてしまつた。この文具料から後(のち)十五年以上も經過して、私は父に信州にあつた空家(あきや)を一軒貰つたのである。空家にあつた物は、十七歳の時から國を出た父のあらかたの手紙、鼠の糞にまみれたさういふ物ばかりで、その間から

[やぶちゃん注:以下、特異的に漢文体の書状を一切の読み無しで掲げ、後に【 】で最低の読みを附して示した。原文は総ルビである。最後の署名以下はブラウザの不具合を配慮して字配を操作した。]

  敬白

 父上様母上様御中日久しく度々不和相生候段誠に以て私儀心配仕淚胸中に滿ち難忍落淚仕事更に無之候依て父の御惠愛を以て此事御聞入被下置偏に御中睦親之段只管に奉悃願候此事情口上にて申上べく之所鈍愚之口に恐懼して難述依て如此相認御忿如をも不顧諫書仕候此段偏に御聞入被下度肺肝を碎き奉歎願候

右之情皆下女○○より起りたる事に御座候間彼をお雇なく暇遣候ば宜敷御座候彼有らば愈家に大害を生じ御名を汚すに至るかと奉存候此段御聞屆之程偏に奉願候

右之條々私心を御洞察被下御聞入被下置候はば雀躍歡喜生涯中之幸福元より大なるは無候之偏に奉歎願候

    ○○○○

         頓首謹白

  ○○父上大君樣

【 敬白

 父上様母上様御中(おんなか)日久(ひひさ)しく度々(たびたび)不和相生候段(あひしやうじさふらふだん)誠に以て私(わたくし)儀心配仕(つかまつり)淚胸中に滿ち難忍(しのびがたく)落淚仕(つかまつりし)事更に無之(これなく)候依(よつ)て父の御(ご)惠愛を以て此(この)事御聞入被下置(おきゝいれくだされおき)偏(ひとへ)に御中(おんなか)睦親(ぼくしん)之(の)段只管(ひたすら)に奉悃願(こんぐわんたてまつり)候此(この)事情口上(こうじやう)にて申上(まうしあぐ)べく之(の)所鈍愚(どんぐ)之(の)口(くち)に恐懼(きようく)して難述(のべがたく)依(よつ)て如此(かくのごとく)相(あひ)認(したゝめ)御忿如(ごふんじよ)をも不顧(かへりみず)諫書(かんしよ)仕(つかまつり)候此(この)段偏(ひとへ)に御聞入被下度(おきゝいれくだされたく)肺肝(はいかん)を碎き奉歎願候(たんぐわんたてまつりさふらふ)

右之(の)情皆下女○○より起りたる事に御座候間(あひだ)彼をお雇(やとひ)なく暇(いとま)遣候(つかはしさふらは)ば宜敷(よろしく)御座候彼(かれ)有らば愈(いよいよ)家(いへ)に大害(たいがい)を生(しやう)じ御名(おんな)を汚(けが)すに至るかと奉存候(ぞんじたてまつりさふらふ)此段御聞屆(おききとどけ)之(の)程偏(ひとへ)に奉願候(ねがひたてまつりさふらふ)

右之條々私心(ししん)を御洞察(ごどうさつ)被下(くだされ)御聞入被下置候(おきゝおきくだされさふらは)はば雀躍歡喜生涯中(ちう)之(の)幸福元より大なるは無候(なくさふらふ)之(これ)偏(ひとへ)に奉歎願候(ぐわんたてまつりさふらふ)

    ○○○○

         頓首謹白(とんしゆきんぱく)

  ○○父上大君(たいくん)樣】

 と認(したゝ)めた一通の書狀が出た。

 伏字以外は原文どほりである。

 正にT伯父が少年時代の筆蹟と思はれる物、私はこれを別にして保存してゐた。保存しておいて三年、たまたま叔母の死ぬに遇つて、諏訪に行つた時に、私はその席で伯父に幾年ぶりかで逢へた。

[やぶちゃん注:以下、同然の異例の処置を施した。]

 芳簡拜披殘暑今以て殘り候處益益御健勝奉賀候偖先日○○にてお話有之候祕書御戾し被下難有受納致候老生多年心掛り之品入手致し安堵之至云々

【芳簡(はうかん)拜披(はいひ)殘暑今以て殘り候處益益(ますます)御健勝奉賀(がしたてまつり)候偖(さて)先日○○にてお話有之(これあり)候祕書(ひしょ)御戾し被下(くだされ)難有(ありがたく)受納(じふなふ)致候老生(らうせい)多年心掛り之(の)品(しな)入手致し安堵之(の)至(いたり)云々】

 これが伯父が生涯中(ちう)に唯一度(ど)私に書いた手紙である。

 T伯父、これもまた數年前(ぜん)に死んでしまつてゐるのである。

 私はいま、どうしてそれが私のおぢいさんの手にあつたものか。どうしてまた私のところに移つたものか。その時分はおやぢの前に出てはとても物などいへるものではない。それで、あれを書いてそつとおやぢの机の上にのせて置いたものだが、それについておやぢは一言(こと)もいはず、自分もまた一言もいへず、人に話しもできず、ただその後(あと)はその書いた物をおやぢはどうしたかと、そればかり苦(く)になつてゐて、未だに苦にしてゐた物だ。と言つてゐた伯父に親しむ。

 長者の髭鬚(ししゆ)を生(はや)した、謹嚴でにこやかな伯父が、瞼(まぶた)をすこしあからめて、いふところの祕書(ひしよ)を得て喜び安堵したといふわけかどうかしらぬ。その後(ご)幾何(いくばく)もなくこの伯父の訃告(ふこく)に接した。

[やぶちゃん注:これは、本書中、白眉の一章と言える。芥川龍之介も生きておれば、きっと「いいものを書いた。」と小穴を讃えたものと疑わぬ。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(60)「伯父」(1)「K伯父」

 

 伯父

 

 

         K伯父

 

 さうよ、松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となりとなるかな、俺らはどうもといふのが、やはり順なのであらう。彼處(あそこ)は木曾の三宿の一つで、貫目改所(かんめあらためじよ)があつた土地である。地名の由來が、遠い昔、木曾ノ義仲がその馬の脚の疵(きず)を自分で洗つてやつた、といふにあるかと思へばまた、ここで二人あすこで三人と飯盛女を抱へてゐた。木曾街道六十九次、廣重の錦繪で見ると、さびゆく秋の色ぞかなしきであるが、木曾の奥からは女房子(にようぼうこ)が馬を曳いておらやとつさを迎へに出張(でば)つてもきや賑やかな場所であつたはずである。はるばる江戸まで稼ぎにいつて錢を持つたとつさが、郷里(きやうり)のちかまでやれやれと大事なところでゆるみだし、少しは財布の紐もはづさうか、かかさはさはさせじの木曾の入口、そこがK伯父さんの生れた土地なのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、同じ。

「木曾の三宿」奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿。但し、以下の木曾義仲の馬の脚云々は中山道の洗馬(せば)宿の由来譚であり、実際、「北国西街道」(善光寺街道・善光寺西街道とも称した)が「中山道」から分岐していた洗馬宿内には、街道を通行する伝馬の荷物の重量を検査するための貫目改所が置かれたから、どうもここは洗馬宿を指しているように思われ、また歌川広重の描いた「木曾街道六十九次」では、洗馬宿のそれこそが「さびゆく秋の色ぞかなしき」に相応しいと思う私にははなはだ不審ではある。

「貫目改所」江戸幕府が問屋場に置いた機関で、街道を往来する荷物の貫目(重量)の検査に当った。大名や旗本が過貫目の荷物を運搬させて宿や助郷(すけごう)の人馬役業務を苦しめたことを鑑みて設置されたものであるが、通過荷物の重量を総てをここで改めていたのでは往還の業務に支障を来たすため、実際には荷物付け替えの際に重い荷物のみを改めたという。伝馬(てんま)荷物は一駄(だ)三十二貫目、駄賃荷物は四十貫目を標準とした。]

 K伯父さん、この伯父はその一生をまことに不遇で終つてしまつた。小言も言はず、物もくれなかつたかはりに、げえもねえ話でも、ただありのままにそのままに昔話にしてくれた伯父であつた。

 げえもねえ話のげえもねえ話の例をあげると、

 棒(ぼう)ちぎりに黐(もち)をつけて、納戸(なんど)のなかの樽の呑口(のみくち)につつこみ、錢を釣上(つりあ)げては持出してつかつてゐた話(物價が、一、二錢四厘男ぞうり三足(ぞく)。一、八錢、女わらぞうり十足。といつた時の、また一昔(むかし)も二昔も前の時代である。)積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら、通りがかりの人に梅毒だと教へられた話(褌(ふんどし)もせずにちんぽこを出して知らずに遊んでゐたありさまの子供、花柳病の名も知らぬうちに左樣な病氣を持たされた土地、また時代でもあつたとみえる。伯父は何も知らぬのだからちんぽこを出してゐたのだと言つてゐた。宿場女郎であるのか飯盛女か、その相手がそれを聞いて藥を屆けてよこしたといふのである。)本箱を持つて諏訪に遊學してゐたときには、塾生(じゆくせい)一同が本を賣つてまでして、…………………………たものであるが、先生に……………………しようではないかといふことになつて、けいあんに周旋(しうせん)をたのんでおいたところ、先生の家の玄關に連れてきたのが、以前自分達が雇うつてゐてお拂箱(はらいばこ)にした女であつたので、自分達も驚いたが女も驚いた話。神戸(かうべ)の遊廓では夜中に、コロリだ、コロリだ、といふ騷ぎがあつて皆狼狽しておもてに飛出したら、コロリでなくて心中があつての騷動であつた話。等々(とうとう)である。

[やぶちゃん注:「積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら……」以下の部分、勿論、その後の点線で伏字にしてある部分がまるで分らぬ。チンポコを丸出しにしている子どもへの冗談としても、「梅毒」はよく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「けいあん」は「桂庵」「慶庵」などと書き、縁談や奉公の仲介を生業(なりわい)とする者、口入れ屋のことである。寛文年間(一六六一年~一六七三年)頃の江戸の医師大和桂庵が奉公や縁談の世話をしたことに由る呼称とされる。ここは特に縁談のそれであろう。確かにそれなら吃驚りする。]

 私は信州人の子であり、またこの八年前からは戸籍も信州生れとなつたのであるが、育つた土地ではないので、信州の地理にも委しくなくて困るが麻市(あさいち)があると聞いた大町(おほまち)、日本アルプスの登山口であらうか、あの大町にあそこに高遠(たかとほ)の長尾無墨(ながをむぼく)が塾を開いてゐた時、伯父はその塾に塾生となつてゐたといふ。さうして或る日、文武兩道の士この無墨に連れられて一同が有明山(ありあけさん)に登つた時のことであるが、無墨は武士のさういふときの姿、伯父達は當時の流行で紫の片面引染(かためんひきぞめ)の木綿の三尺帶、それに一本ざしで出掛けたものの夜(よる)宿(やど)をとつて泊つたところが、階下の爐ばたに一晩中人が集まつてゐて、その騷ぎでうるさくて睡られもせず、夜が明けて騷ぎの仔細を尋ねたら、人の出入りがはげしかつたのも道理、里の人々のはうでは一行を山賊と思ひこんで、若者達を狩集めて夜中警戒をしてゐたのだといふには呆れたともいふ。それに明治五年もうその歳(とし)の暮におしつまつて曆法改正のことがあつた時には、(明治五年十二月四日の次の日を六年一月一日(じつ)として太陽曆となる。)他の土地から集つてきて佑た塾生高の間で、新曆の正月で休みをとる者と舊曆の正月で休みをとる者とを二組にわけて、じやんけんがあつたといふことである。通ひの門弟もあるし、塾生全部が新曆で休みをとることは許されなかつたといふ。通ひの門弟にとつては、新曆で休むといふことが左ほどに痛切ではなかつたと思ふ。明治五年は伯父が十六歳の時であらう。

[やぶちゃん注:ここの叙述、暦制変更に関わる市井の状況を伝えるという点でも面白い叙述である。

「長尾無墨」(?~明治二七(一八九四)年)は官吏で日本画家。維新前は信濃高遠藩士で藩校進徳館の大助教であった。維新後は筑摩県に勤務し、明治七(一八七四)年に県権令永山盛輝に従って県下の教育事情を調べ、「説諭要略」に纏めた。退職後、田能村竹田(たのむらちくでん)の門に学び、雁の絵を良くしたという。本姓は宇夫形(うぶかた)。著作に「無墨山人百律」「善光寺繁昌記」がある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

「さうさなあ、英京龍動(えいきやうロンドン)が佛國(ふつこく)パリスにでも行つたならばどうか知らんが、面白いことはあまりないずら。」と言つてゐた晩年の伯父に、無墨について私は何故もう少し聞いてはおかなかつたかと今日一寸後悔してゐるのである。一二年前(ぜん)の文藝春秋に、向島に住んでゐた明治中半(なかば)の文人墨客(ぼつきやく)についてたれかが書いてゐた。そのなかに無墨の名も交つてはゐたが、人は長尾無墨の名などはあまり知らぬらしい。K伯父が少しでも詩書畫(ししよぐわ)に志(こゝろざし)を持つてゐた人であれば、その不遇の一生のなかにも、これまた風流の趣(おもむき)を捉らへ得た筈であると密かに考へもするその私にしてからが、無墨が私の祖父の家で畫(か)いた繪を持ち、未だにこれを表具(へうぐ)もさせずにゐるのではある。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「英京龍動(えいきやうロンドン)」はイギリスの首都ロンドン、「佛國(ふつこく)パリス」はフランスの首都パリ、の意である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(59)「鯉」

 

 

 

 睡蓮の鉢を三つ四ついれられる程の池を去年の庭にこしらへた。ついでにめだかをいれておいた。すると秋にはめだかの子が出來た。そこでこれは別にガラスの器に收容してその池にいれておいた。然し始めてのことなので注意が足りず、一夜の雨に五十ぴきばかりの子を一つも殘さずなくなしてしまつた。めだかの子は器から溢れだして親に喰べられてでもしまつたらしい。そこで今年は用心して、櫻の花びらがお向ひから一つ二つとこの池に浮んでゐる日頃(ひごろ)から、再びめだかの卵をみつけだした。注意よろしく現在は、人が「やあ、熱帶魚?」と聞く程、卽ち大方の人にはまだめだかかとはつきりわからぬ五六分(ぶ)位(ぐらゐ)の魚(さかな)となつてゐる。

[やぶちゃん注:「五六分」一・五~一・八センチメートルほど。]

 お向ひのお醫者さんの家には池らしい池があつて五六圓どこの鯉が泳いでゐるのだ。このお醫者さんのおばあさんにめだかの卵を若干進呈した。すると俄然お向ひの人達は自家(じか)の池、金魚鉢などのなかに魚(さかな)の卵を物色しはじめた。さうして鯉の卵だといふものを僕の家(うち)に呉れた。家(うち)の細君は欣喜(きんき)として、砂糖甕(さたうがめ)だか味噌甕(みそがめ)だか知らぬが甕(かめ)を庭に出してきて、この鯉の卵の目鼻に注意を集中しだした。卵は甕にあること一兩日で孵り何やら魚(さかな)のかたちはして菱(ひし)の葉の陰に動きだした。

 この鯉が生れてから幾日であつたであらうか。

 関西に轉地してゐた年下の友人が、昨夜突然夫婦づれで我家(わがや)を訪れてきた。この人達もめだかの子をつかまへて「やあ、熱帶魚ですか。」と言つてゐる。甕を疊の上に持出して鯉の子を見せたら、「あら、これが鯉? 丸煮(まるに)に出來るあの鯉?」と妻君は感心してゐた。

 僕は若い女の凄い空想に驚いた。

 

         ○

 

 小さい庭のまんなかに醬油樽を埋(い)けて、金魚の池としてゐたことがある。然しこれは、實際には犬の水呑場(みづのみば)やあつたのかも知れない。

 始め庭さきで、ぢやぶ、ぢやぶつ、といふ音がした時には何んだと思つた。まだあの時は犬を飼つてはゐなかつた。

 その池? に鯉を買つていれておきたいと細君はいふ。

 入物(いれもの)が小さいから駄目だと自分はいふ。その夏はそれですんだ。翌年またも鯉を買つてはいけないかといふ。承知をしたら、ほんとは去年に買うつてあるのだといふ。どこに置いてあるのだと聞くと預けてあるといふ。どうせ十錢か十五錢の鯉なら小つぽけなものだらう、それにしても一年もたつてゐればまた少しは大きくなつてもゐるだらう。とつて來いと言つたら早速に飛出して行つた。行つたら店(みせ)の親爺が、どの鯉を預つたのだかわからなくなつてしまつたからどれでも好きなのを持つてゆけと言つたといふ。そこで細君は一番大きいのを貰つて元氣で歸つてきた。それは到底醬油樽に住(すま)へる代物(しろもの)ではない。樽から飛出すのをつかまへて入れ入れしてゐるうちに、何時(いつ)か猫か犬にとられてしまつた。

 以前借家に居た時の話である。

[やぶちゃん注:志賀直哉風の小品である。小穴隆一の文章にしては、迂遠な表現やまどろっこしい描写が殺がれており、微笑ましい。しかし、芥川龍之介が生きていたとして、これを褒めたかどうかは別問題ではある。私は基本、志賀が嫌いだから判らぬと言っておくにとどめる――と――小穴隆一風に終わることとしよう。]

柴田宵曲 妖異博物館 「人の溶ける藥」

 

 人の溶ける藥

 

 旅商人が越後で大蛇の人を呑み、且つ傍らの草を舐めると、膨れた腹が忽ちもとのやうになるのを見、その草を摘んで歸る。江戸へ歸つてから、蕎麥を五六十食べると云ひ出して賭になる。二十五ばかり食べたところで廊下に出して貰ふ約束で、ひそかにその草を嘗めたのはいゝが、元來人を溶かす藥であつたので、蕎麥が羽織を著て坐つてゐたといふ落語がある。

[やぶちゃん注:この落語は一般に江戸落語では「そば清(せい)」と呼ばれるもので、蕎麦を手繰る音が極め付けの私も好きな演目である。別名を「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」などとも称する。ウィキの「そば清」よりシノプシスを引く。江戸の『そば屋で世間話をしている客連中は、見慣れぬ男が大量の盛りそばを食べる様子を見て非常に感心し、男に対し、男が盛りそばを』二十『枚食べられるかどうか、という賭けを持ちかける。男は難なく』二十『枚をたいらげ、賭け金を獲得する』。『悔しくなった客連中は、翌日再び店にやってきた男に』三十『枚への挑戦を持ちかけるが、またしても男は完食に成功し、前日の倍の賭け金を取って店を出ていく。気の毒がったひとりの常連客が、「あの人は本名を清兵衛さん、通称『そばっ食いの清兵衛』略して『そば清』という、大食いで有名な人ですよ」と、金を奪われた客連中に教える』。『悔しさがおさまらない客連中は、今度は』五十『枚の大食いを清兵衛に持ちかける。清兵衛は自信が揺らぎ、「また日を改めて」と店を飛び出して、そのままそばの本場・信州へ出かけてしまう(演者によっては、清兵衛は行商人として紹介され、信州へ商用で出かけたと説明する)。』『ある日、清兵衛は信州の山道で迷ってしまう。途方にくれ、木陰で休んでいると、木の上にウワバミがいるのを見つけ、声が出せないほど戦慄する。ところがウワバミは清兵衛に気づいておらず、清兵衛がウワバミの視線の先を追うと、銃を構える猟師がいるのが見える。ウワバミは一瞬の隙をついてその猟師の体を取り巻き、丸呑みにしてしまう。腹がふくれたウワバミは苦しむが、かたわらに生えていた黄色い(あるいは赤い)草をなめると腹が元通りにしぼみ、清兵衛に気づかぬまま薮のむこうへ消える。清兵衛は「あの草は腹薬(=消化薬)になるんだ。これを使えばそばがいくらでも食べられる。いくらでも稼げる」とほくそ笑み、草を摘んで江戸へ持ち帰る』。『清兵衛は例のそば屋をたずね、賭けに乗るうえ、約束より多い』六十『枚(あるいは』七十『枚)のそばを食べることを宣言する。大勢の野次馬が見守る中、そばが運び込まれ、大食いが開始される。清兵衛は』五十『枚まで順調に箸を進めたが、そこから息が苦しくなり、休憩を申し出て、皆を廊下に出させ(あるいは自分を縁側に運ばせ)、障子を締め切らせる。清兵衛はその隙に、信州で摘んだ草をふところから出し、なめ始める』。『観客や店の者は、障子のむこうが静かになったので不審に思う』。『一同が障子を開けると、清兵衛の姿はなく、そばが羽織を着て座っていた。例の草は、食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。]

 幸田露伴博士が「圏外文學雜談」に記すところに從へば、この話は元祿六年の「散人夜話」に出てゐるさうである。延享五年の「教訓しのぶ草」には、蕎麥でなしに餠になつてゐるといふ。「散人夜話」ほどうなつてゐるか、見たことがないからわからぬが、文政三年の「狂歌著聞集」にあるのも牡丹餅であつた。先づ元祿あたりが古いところであらう。

[やぶちゃん注:「幸田露伴」の「圏外文學雜談」は書誌情報さえ未詳。識者の御教授を乞う。

「元祿六年」一六九三年。

「散人夜話」寛文一一(一六七一)年頃に会津藩藩主保科正之に招かれて以後、三代に亙って藩主侍講を勤めた後藤松軒の儒学随筆(kitasandou2氏のブログのこちらの情報に拠る)らしい。

「延享五年」一七四八年

「教訓しのぶ草」不詳。識者の御教授を乞う。

「文政三年」一八二〇年。

「狂歌著聞集」江戸前期の俳人椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永六(一七〇九)年頃?:京都生まれ。松永貞徳・山本西武(さいむ)門。寛文三年に「茶杓竹(ちゃしゃくだけ)」を著わして安原貞室を論難した。後、大坂で説話作者となった)の説話集。詳細不祥。]

 大坂ではこの落語を「蛇含草」と称するさうだが、この名前は落語家がいゝ加減につけたものではない。「子不語」に白蛇來つて雞卵を呑む。然る後樹に上り、頸を以て摩すると、膨れた卵は忽ち溶けてしまふ。そこで戲れに木を削つて雞卵の中に入れ、もとの處に置いたら、これを呑んだ蛇は大いに窘(くる)しみ、遂に或草の葉を取つて前の如く摩擦し、木卵を消し去つた。消化不良の際、その草を以て拂拭するに、立ちどころに癒えざるなしとある。こゝまでは至極無事であつたが、鄰人の背中に腫物が出來た時、食物なほ消す、毒また消すべしといふわけで、煎じて飮ませたところ、この應用は失敗に了つた。背中の腫物は癒えたが、飮んだ人の身體がだんだん小さくなり、これを久しうして骨まで溶けて水になつた。この事が蛇含草といふことになつてゐる。日本でも寛政九年版の「北遊記」に蛇含草の名が用ゐてあるが、これは醫者が難病を治するまでで、身體が溶けるやうな危險はなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「蛇含草」「蛇眼草」とも表記する。ウィキの「そば清」より「蛇含草」のシノプシスを引く。『夏のある日。一人の男が甚平を着て友人(東京では隠居)の家に遊びに行ったところ、汚れた草が吊ってあるのを見つける。友人は「これは『蛇含草』と呼ばれる薬草で、ウワバミ(=大蛇)が人間を丸呑みにした際、これをなめて腹の張りをしずめるのだ」と言う。珍しがった男は、蛇含草を分けてゆずってもらう』。『そんな中、友人が火を起こし、餅を焼き始める。男は焼けたばかりの餅に手を伸ばし、口に入れる。友人は「誰が食べていいといったのか」と、いたずらっぽくたしなめ、「ひと言許しを得てから手を付けるのが礼儀だろう。それならこの箱の中に入った餅を全部食べてくれても文句は言わない」と言い放つ。男は面白がり、「それなら、これからその餅を全部食べてやろう」と宣言する』。『男は「『餅の曲食い』を見せよう」と言って、投げ上げた餅をさまざまなポーズで口に入れる曲芸を披露する(「お染久松相生の餅」「出世は鯉の滝登りの餅」といった、滑稽な名をつける)など、余裕を見せるが、ふたつを残したところで手が動かなくなり、友人に「鏡を貸してくれ」と頼む。友人が「今さら身づくろいをしても仕方がないだろう」と聞くと、男は「いや、下駄を探すのだ。下を向いたら口から餅が出てくる」』『長屋に帰った男は床につき、懐に入れた蛇含草のことを思い出して、「胃薬になるだろう」と口に入れてみる』。『その後、心配になった友人が長屋を訪れ、障子を開けると、男の姿はなく、餅が甚平を着てあぐらをかいていた。蛇含草は食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。

 「子不語」に載る以上の話は「第二十一卷」の「蛇含草消木化金」である。中文サイトのそれを加工して示す。

   *

張文敏公有族姪寓洞庭之西磧山莊、藏兩雞卵於廚舍、每夜爲蛇所竊。伺之、見一白蛇吞卵而去、頸中膨亨、不能遽消、乃行至一樹上、以頸摩之、須臾、雞卵化矣。張惡其貪、戲削木柿裝入雞卵殼中、仍放原處。蛇果來吞、頸脹如故。再至前樹摩擦、竟不能消。蛇有窘狀、遍歷園中諸樹、睨而不顧、忽往亭西深草中、擇其葉綠色而三叉者摩擦如前、木卵消矣。

張次日認明此草、取以摩停食病、略一拂試、無不立愈。其鄰有患發背者、張思食物尚消、毒亦可消、乃將此草一兩煮湯飮之。須臾間、背瘡果愈、而身漸縮小、久之、並骨俱化作水。病家大怒、將張捆縛鳴官。張哀求、以實情自白、病家不肯休。往廚間吃飯、入内、視鍋上有異光照耀。就觀、則鐵鍋已化黃金矣、乃捨之、且謝之。究亦不知何草也。

   *

次の段に書いてある内容が末尾にある。

「寛政九年」一七九七年。

「北遊記」ネット上で見出せる寛政九年板行の勢州山人著「諸国奇談北遊記」(四巻四冊)か。それ以上の書誌などは現在、不明。]

 蛇含草は人を溶かすが、それを煎じた鍋は鐡化して黄金となると「子不語」に書いてある。「日陰草」といふ寫本の隨筆は、その成つた時代を詳かにせぬが、外國の事として「子不語」の話の後年を傳へ、煎じた釜が金になつたことまで記してゐる。たゞいさゝか不審なのは、「子不語」が「究むれども亦何草たるを知らざるなり」と云つてゐるこの事に就いて、「いでや此草は金英草とて、鐡を點して金となす草也、されども大に毒草也、馬齒莧に似て紫なる草也となり、見知ておくべき物也」などと知識を振𢌞てゐる一事である。尤も「子不語」は背瘡の患者に與へたのに、この書は「腹脹をやめる人」となつてゐるから、兩者の間にもう一つ記載があり、「日陰草」はそれによつて書いたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「日陰草」現在の秋田県能代の住吉神社別当を勤めた修験者で国学者の大光院尊閑(たいこういんそんかん 慶安四(一六五一)年~元禄一四(一七三七)年:役 尊閑(えき(えん?)のたかやす)とも称した)の著に同名の書があるが、それか。

「金英草とて……」以下の叙述と酷似する者と思われる内容が、中文(簡体字)サイトのここにある。別称とする「透山根」の方をやはり中文サイトを調べると、ここには誤食すると即死するとある! しかも……写真入り! なんじゃあ、こりゃあ! 柴田じゃあないが、今以ってネットでも「知識を振𢌞てゐる」と言える記載である。

「點して」不詳。ある熱による変化を与えて変性させて、という意味か。

「馬齒莧」音なら「バシケン」或いは「バシカン」であるが、これが現代中国語で、庭の雑草としてよく見かける(私の家の庭にもよく蔓延る)、食用になるナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea のことである。]

 蛇含草の名は見えぬけれども、同じ話は「子不語」より古く「耳奇錄」に出てゐる。鹿を呑んだ大蛇が一樹に就いてその實を食ふと、腹中の物は次第に消え去つた。これを目擊した官人が、從者に命じてその葉を採らしめ、家に歸つた後、飽食の腹を減ぜんとして、例の葉を煎じて飮む。一夜明け午になつても起きて出ぬので、布團を剝いで見たら、殘るところ骸骨のみで、餘は水になつてゐた。結局原産地は支那で、林羅山が「怪談全書」に紹介した頃は醫療譚であつたのが、一轉して大食譚になり、遂に蕎麥が羽織を著て坐つてゐる話までに發展したものと思はれる。

[やぶちゃん注:「耳奇錄」不詳。識者の御教授を乞う。

『林羅山が「怪談全書」に紹介した』「怪談全書」は江戸初期の朱子学派の儒者で林家の祖たる林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)が出家後の号林道春(どうしゅん)の名で著した中国の志怪小説の翻訳案内書。全五巻。漢字カナ混じり文。ここで柴田が言っているのは同書「卷之二」の「歙客(せふかく)」である。所持する三種の別テクストを校合し、最も読み易い形に私が成形したものを以下に示す。

   *

 歙客(せふかく)と云ふ者、潛山(せんざん)を行き過ぐる時、蛇の腹、腫れふくれて、草の内に這ひ顚(ころ)ぶ。一つの草を得て、之れを咬み、腹の下に敷きて摺りければ、脹の腫れ、消して常の如し。蛇、走り去る。客(かく)の心に此の草は脹滿腫毒(ちやうまんしゆどく)を消(しよう)する藥なりと思ひ取りて、箱の内に入れおく。

 旅屋に一宿するとき、隣りの家に旅人有りて、病ひ痛むの聲、聞ゆ。客(かく)、行きて之れを問へば、

「腹、脹りて痛む。」

と云ふ。即(すなは)ち、彼(か)の草を煎(せん)じ、一盃、飮ましむ。暫く有りて苦痛の聲なし。病ひ、癒えたりと思へり。

 曉(あかつき)に及びて水の滴(も)る聲、有り。病人の名を呼べども答へず。火を曉(とも)して是れを見れば、其の肉、皆、融けて水と成り、骨許(ばか)り殘りて床(ゆか)に有り。客(かく)驚き周章(あはて)て、未明に走り行く。

 夜明けて、亭主、之れを見て、其の故(ゆゑ)を知らず。其の殘る所の藥の入れたる釜、皆、黃金(わうごん)となる。不思議の事也。潛(ひそか)に彼(か)の人の骨を埋(うづ)む。

 年を經て、赦(しや)を行はれければ、彼(か)の客(かく)、皈(かへ)り來つて、此の事を語る。故に、世人、傳へ聞けり。【「春渚記聞」に見えたり。「本草綱目」に「海芋(かいかん)」と云ふ草を練りて黃金(わうごん)に作ると云へり。此の草の事にや。】

   *

この最後の割注に出る「春渚紀聞」(現代仮名遣「しゅんしょきぶん」)は宋の何子遠(かしえん)の小説集で、同書の「卷十記丹藥」の「草制汞鐵皆成庚」を指している。以下に中文サイトより加工して示す。

   *

朝奉郎劉筠國言、侍其父吏部公罷官成都。行李中水銀一篋、偶過溪渡、篋塞遽脱、急求不獲、即攬取渡傍叢草、塞之而渡。至都久之、偶欲求用、傾之不復出、而斤重如故也。破篋視之、盡成黃金矣。本朝太宗征澤潞時、軍士於澤中鐮取馬草、晚歸鐮刀透成金色、或以草燃釜底、亦成黃金焉。又臨安僧法堅言、有歙客經於潛山中、見一蛇其腹漲甚、蜿蜒草中、徐遇一草、便嚙破以腹就磨、頃之漲消如故。蛇去、客念此草必消漲毒之藥、取至篋中。夜宿旅邸、鄰房有過人方呻吟床第間。客就訊之、云正爲腹漲所苦。卽取藥就釜、煎一杯湯飮之。頃之、不復聞聲、意謂良已。至曉、但聞鄰房滴水聲、呼其人不復應、卽起燭燈視之、則其人血肉俱化爲水、獨遺骸臥床、急挈裝而逃。至明、客邸主人視之、了不測其何爲至此、及潔釜炊飯、則釜通體成金、乃密瘞其骸。既久經赦、客至邸共語其事、方傳外人也。

   *

「本草綱目」の「海芋」は中文ウィキソース本草の「六」「1.51 海芋として載る。そこには先に出た「透山根」が附録として掲げられ、その中には「金英草」も出、やはり両者がごく近縁種であることが確認出来、しかもやっぱり『大毒』とある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(58)「東郷大將」

 

 東郷大將

 

 先月のことと思ひます。

 畫人(ぐわじん)石井鶴三は春陽會洋畫研究所の學生達を前にして東郷大將がとつた丁字(ていじ)戰法を論じ人間東郷を更に見直させ、而して鶴三一流に、人間一生の腹の据ゑ樣(やう)をば説きました。

[やぶちゃん注:「石井鶴三」(明治二〇(一八八七)年~昭和四八(一九七三)年)は彫刻家・洋画家。

「春陽會」大正一一(一九二二)年一月に設立された在野の現存する洋画団体。ウィキの「春陽会」によれば、『院展の日本画部と対立、脱退した洋画部同人を中心に創立された。創立時のメンバーは、小杉放庵らの日本美術院洋画部系の画家と、岸田劉生や梅原龍三郎らだった。その後、梅原と岸田は脱会し、河野通勢や岡本一平らが参加』とある。

「東郷大將がとつた丁字戰法」日露戦争の日本海海戦に於いて連合艦隊司令長官東郷平八郎(弘化四(一八四八)年~昭和九(一九三四)年:事蹟はウィキの「東郷平八郎」を参照)が《採ったとされる》砲艦同士の海戦術の一つ。敵艦隊の進行方向を遮るような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術を指す。しかし、日本海海戦では、この戦法は採用はされたものの、実際にはその配置にはならず、「丁字戦法」は結果的には形勢されなかったとされている。まず、ウィキの「日本海海戦」を見よう。『連合艦隊は秋山参謀と東郷司令長官の一致した意見によって、敵前の大回頭と丁字戦法を実施することを考えていたが、黄海海戦での失敗を受けて連携水雷作戦を海戦で使用することを決めた。しかしそれも当日の荒天により使用が不可能になると、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝くことと、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を並航砲撃戦に持ち込む方法に切り替えた』。『当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭』(しかも二分余りを費やして一五〇度も回頭せねばならなかった)『は危険な行為であった。実際、回頭中はともかく、その後の同航戦中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒され、被弾』四十八発の内、四十発が『右舷に集中していた。しかし、一見冒険とも思える大回頭の』二『分間には、日本海軍の計算が込められていた。それは次のようなものである』。『確かに連合艦隊は』二分間余り、『無力になるが、敵も連合艦隊が回頭中はその将来位置が特定できず、バルチック艦隊側も砲撃ができない(実際、三笠が回頭を終えた後に発砲してきている)』。ジャイロ・コンパスが発明されていない当時、一点に『砲弾を集中し続けることは事実上できなかった』。『当時は照準計の精度が悪く、第』一『弾が艦橋や主砲などの主要部に』一『発で命中することはごく稀であった』。そのため、第一弾の『着弾位置(水柱)から照準を修正して、第』二『弾からの命中を狙うことが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第』二『弾を放つまでに時間が掛か』。即ち、回頭中に第二弾は『飛来しないか、飛来するとしても慌てて撃つため命中精度が低い』。『バルチック艦隊が、それでも仮に一点に砲撃を集中したとしても、わざわざ砲撃が集中している場所に後続艦は突っ込まずに回避すればよい』。『バルチック艦隊は旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った』。万一、『三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした』。『また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った』。『こうして敵前回頭は行われたが、実際の海戦ではその後の両艦隊は並列砲戦に終始し、今まで言われているような「日本側は丁の字もしくはイの字体形に持ち込み丁字戦法を行った」という事実はなかった』(下線やぶちゃん)。『日本側はウラジオストクに逃げ込もうとするロシア艦隊に同航戦を強要し、かつロシア艦隊より前に出ることはできたが、相手の進路を遮断することはできておらず、このため現場のどの部隊も「日本海海戦で大回頭後に丁字(もしくはイの字)体形になった」とは思っておらず、一次資料の各部隊戦闘詳報にも公判戦史にも書かれていない。ところが海戦直後の新聞紙面で初めて「丁字戦法」のことが触れられ世間に広まり』、『一次史料にはどこにも書いていないのに、やったかのようになってしまった』とあり、また、ウィキの「丁字戦法」にも(戦術図有り)、『日本海海戦において日本海軍の東郷平八郎連合艦隊司令長官は戦艦』四隻・装甲巡洋艦八隻を『率いてロシアのバルチック艦隊主力』(戦艦八隻・装甲巡洋艦一隻・海防戦艦三隻)『を迎え撃った』。一九〇五年五月二十七日十四時七分、『ロシア艦隊と反航戦の体勢で進んだ日本側は敵の面前で左へ』百六十五度の『逐次回頭を行った。これを日本側は丁字戦法と説明している』が、予想に反して、三十『分程度で主力艦同士の砲戦は決着がつき、ロシア艦隊は大損害を受けて統制を失った。日本艦隊は主力艦の喪失ゼロに対して、ロシア艦隊は最終的に沈没』二十一隻・拿捕六隻・中立国抑留六隻と『壊滅的な打撃を受け、ウラジオストク軍港にたどり着いた軍艦は巡洋艦』一隻と駆逐艦二隻に『過ぎなかった』。『実際にはバルチック艦隊の変針により並航戦へすぐ移り、「敵艦隊の進路を遮る」事が遂にできず通常の同航戦でみられる様な「ハ」の字、若しくは「リ」の字に近い形で推移、完全な丁字は実現しなかった』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『また戦闘詳報や各種一次資料に「日本海海戦で敵前大回頭後に丁字戦法をした」という記述はないことから、このため当事者たち自身は大回頭後に「丁字」若しくは「イの字」の体勢が出来たとは考えていないと推測される』。但し、『戦策の丁字戦法には「敵の先頭を圧迫する如く運動し」という記述があり、戦闘詳報に「敵の先頭を圧迫」という記述は存在する』。後に半藤一利は海戦直後の五月二十九日、『詳細な報告も無いまま軍令部よりマスメディアに対して「日本海海戦は丁字戦法で勝てた」と虚偽の発表がなされ、翌日の紙面にそれが掲載されそれがそのまま世間に浸透してしまったという説を唱えているが』、『実際に発表されたのは』六月二十九日の『ことであり』、六月三十日『の朝日新聞に掲載されている』とあるのである。なお、後者のウィキによれば、丁字戦法は『同方向に併走しながら戦う同航戦や』、『すれ違いざまに戦う反航戦から丁字戦法を成り立たせるためには、敵艦隊より速力で上回り敵先導艦を押さえ込めること、丁字の組み始めから完成までに比較的長く敵の攻撃にさらされる味方先導艦が充分な防御力を持つこと、丁字完成後も丁字を長く維持するための艦隊統制及び射撃統制が取れることなどが必要なため、着想は容易だが実行は難しい戦法であるといえる』とある。]

 そこで私も亦、東郷大將についていまここにお話しをする光榮を持ちたいと思ひます。

 私のいふ東郷大將、東郷元帥のことでありますが この東郷さんの姿を遠くからでもよい、一度でも實際に見たといふ人はこれは存外に少ないと思ひます。唯一度(ど)ではあるが私は東郷さんをまのあたりに見た過去を有します。而も、幸運あつて乃木大將と二人を同時に一しよに見てゐるのであります。それは私が小學生の時にでありました。

[やぶちゃん注:「乃木大將」乃木希典(まれすけ 嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年九月十三日:事蹟はウィキの「乃木希典」を参照されたい)。]

 私は本郷の西片町(にしかたまち)、東片町で育ちました。その私には、自分の學校の歸りに二三の友達と大學の構内で一わたり遊んでから、家に戾る習慣を持つてゐた時期がありまして、巡視にひどく叱られたこともあります。その時代にです。日露戰爭後で、明治は何年頃(ごろ)でしたか。ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオといふ歌、河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた年頃か、その一寸後(のち)のことでせう。

[やぶちゃん注:「ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオ」私は野球のルールも知らない異常な人間であるが、野球用語を覚えるための子どもの遊び唄であろうか。識者の御教授を乞う。

「河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた」不詳。同前。]

 その日もまづ大學の柔道場ののぞきから始まり、御殿御殿と言つてゐた池のふちの建物の側(そば)までまはつていつた時に、幕にそつて建物の方に何か人々がぞろぞろ這入(はい)つてゆく、その中に私達も混つていつかそのなかに這入てしまつたのです。建物のなかに這入ると皆がしーんとしてゐました。なんといふことなく私達も膝を折つてしまつて隅から室(しつ)のまん中を見詰めてををりした。その時です。私達の傍(そば)を東郷大將、乃木大將が通つたのです。

 あれは道場開きででもあつたのでせうか。二三番見たかその後で私は來賓としての乃木大將と高商の人の(どういふものか高商の文字だけ不思議に忘れません)劍道の試合を見ることになりました。しかしその試合を前にして、東郷大將はまた私達の傍を通つて今度は歸つてゆくのです。

[やぶちゃん注:「高商」一橋大学の前身。]

「如何(どう)して歸るんだらう。」「東郷さんは如何して、乃木さんの試合を見てゆかないのだらう。」とさうけげんには思ひながら片方を見ますれば、かが乃木大將は面、籠手(こて)をつけ、竹刀(しなひ)を持つて道場のまん中に立つてをります。乃木さんのその時の恰好はたゞのお爺さんくさく見えました。相手學生の方はきちんとして強さうに見えました。二三合(がふ)あつたかのうちに、學生の體當(たいあた)りを喰つて乃木さんはどんと仰のけにひつくりかへりました。あつと思つて私は隨分心配したものです。また高商の人も困るだらうなあと思ひました。しかし乃木さんが直(すぐ)に起上り、再びぽかぽかと打合つたかと思ふと、あつけなくそれがその試合の引分けでした。

 私の東郷大將の話はたつたこれだけで終りです。

 何故、東郷さんは乃木さんの試合を見ずに歸つたのか。これを今日(こんにち)、私がみだりに論じたくはありません。また一方乃木大將の場合、自分があの時の乃木さんを見ておかなければ、芥川龍之介の「將軍」によつて、私の一生乃木大將を見る目に歪(ゆが)みをつけたかも知れぬと思つてをります。

[やぶちゃん注:「將軍」大正一一(一九二二)年一月『改造』発表。芥川龍之介の作品の中で、唯一、激しい伏字が今も復元されずにある(現行紛失のため)唯一の作品である。

 小穴隆一の朦朧体に加えて、刊行時期が時期なだけに(昭和一五(一九四〇)年十月)末尾部分、小穴の心境は汲み取り難くされてある。しかし素直に読むなら、小穴隆一は芥川龍之介の「將軍」に示された、異様にマニアックな乃木のイメージを暗に支持しているものと読める。だから主題を乃木とせずに、東郷平八郎の思い出にずらしてあるのだと思う。なお、芥川龍之介の遺児たちは特に父の書いたこの「將軍」故に、陰に陽に学校や軍隊内でいじめを受けたのであった。]

北條九代記 卷第十一 北條時宗卒去 付 北條時國流刑

 

      ○北條時宗卒去  北條時國流刑

 

同七年四月四日、北條相摸守時宗、病(やまひ)に依(よつ)て、剃髮し、法名道果(だうくわ)とぞ號しける。去年の春の初より何となく心地煩ひ、打臥(うちふ)し給ふ程にはあらで、快らず覺え、關東の政治も合期(がふご)し難く、北條重時の五男彈正少弼業時(だんじやうのせうひつなりとき)を以て執權の加判せしめらる。今年になりて、時宗、取分(とりわ)けて、病、重くなりければ、内外の上下、大に驚き奉り、樣々醫療の術を賴みて耆扁(ぎへん)が心を差招(さしまね)くといへども、更に其驗(しるし)もなし。今は一向(ひたすら)打臥し給ひ、漿水(しやうすゐ)をだに受け給はねば、諸人、足手(あして)を空(そら)になし、神社に幣帛を捧げ、佛寺に護摩を修(しゆ)し、精誠(せいじやう)の祈禱を致さるといへども、天理に限(かぎり)あり。命葉、保(たもち)難く、漸々(ぜんぜん)に気血(きけつ)衰耗し、この世の賴(たのみ)もなくなり給ひて、圓覺寺佛光禪師祖元を戒師として、出家せられしが、同日の暮方に遂に卒去し給ひけり。行年三十四歳。寳光寺殿(どの)とぞ稱しける。去ぬる文永元年より今弘安七年に至る首尾二十一年、天下國家の政道に晝夜その心を碎き、朝昏(てうこん)其(その)思(おもひ)を費し、未だ榮葩(えいは)の盛(さかり)をも越えずして、命葉(めいえふ)、忽(たちまち)に零(お)ち給ひけるこそ悲しけれ。嫡子左馬權頭貞時十四歳にて、父の遺跡を相續し、將軍惟康(これやす)の執權たり。彈正少弼業時、加判して、政治を行はれ、貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛、陸奥守に任ぜられ、その威、既に八方に盈(み)ちて、その勢(いきほひ)、四境に及び、肩を竝(ならぶ)る者なし。奉行、頭人(とうにん)、評定衆も先(まづ)この人の心を伺ひ、諸將、諸司、諸大名も、偏(ひとへ)にその禮を重くせしかば自(おのづから)執權の如くにぞ侍りける。同五月、北條時國、六波羅南の方として、西國の成敗を致されし所に、如何なる天魔の入替りけん、如何にもして世を亂し、關東を亡(ほろぼ)して、我が世を治めて執權となり、眉目嘉名(びもくかうめい)を天下後代(こうだい)に殘さばやとぞ思ひ立たれける。内々その用意ある由(よし)聞えければ、關東より飛脚を以て「俄に密談すべき子細あり」と申上せられしかば、時國、思も寄らず、夜を日に繼ぎて、鎌倉に下向せられしを、是非なく捕へて常陸國に流遣(ながしつか)はす。一味與黨の輩、憤(いきどほり)を挾(さしはさ)み、常州に集(あつま)り、時國を奪取(うばひと)りて大將とし、北陸の軍勢を催し、城郭に楯籠(たてこも)り、討死すべき企(くはだて)ありと聞えしかば、潛(ひそか)に配所に人を遣し、時國をば刺殺(さしころ)しければ、その事、終(つひ)に靜りけり。

[やぶちゃん注:「同七年」弘安七(一二八四)年。

「合期」思うようなる、思い通りに展開すること。

「北條重時の五男彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には重時の四男であったが、年下の異母弟義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。

「時宗、取分けて、病、重くなりければ」時宗は満三十二歳の若さで亡くなっているが、死因は結核とも心臓病ともされる。孰れにせよ、執権職の激務も死を早めた要因ではあろう。

「耆扁(ぎへん)」名医。歴史上、名医とされる耆婆(ぎば)と扁鵲(へんじゃく)から。耆婆(生没年不詳)はインドの釈迦と同時代の医師で、美貌の遊女サーラバティーの私生子であった。名医として知られ、釈尊の教えに従った。扁鵲(生没年不詳)は中国の戦国時代(前四〇三~前二二一)の名医で、事実上の中国医学の祖師とされる人物。渤海郡(現在の河北省)の生まれで、「史記」によれば、各地を遍歴して施術を行い、特に脈診に優れていたとされる。彼の才能に嫉妬した秦の太医によって殺害された。

「心を差招く」懇切に依頼して招聘する。

「漿水」飲料水。

「足手(あして)を空(そら)になし」なすすべもなく、途方に暮れ。

「精誠(せいじやう)の」精魂込めた。

「命葉」後で「めいえふ」(めいよう)とルビが振られる。「命数」に同じい。

「気血」漢方医学に於ける人体内の生気と血液で、経絡の内外を循環する生命力の源とみなされる。

「圓覺寺佛光禪師祖元」無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。諡は「仏光国師」。弘安二(一二七九)年に執権時宗の招きに応じ、来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となった。懇切な指導法は「老婆禅」と呼ばれ、時宗を始めとして多くの鎌倉武士の厚い帰依を受け、弘安五年には時宗が元寇での戦没者追悼のために創建した円覚寺の開山となり、本邦に帰化して無学派(仏光派)の祖となった。建長寺で示寂し、墓所も同寺にある。

「文永元年」一二六四年。

「榮葩(えいは)」「葩」は「花」「華やかさ」の意で「栄華」のに同じい。

「零(お)ち」前の「葩」の落花・凋落に掛けたもの。

「嫡子左馬權頭貞時」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。かの悪名高き第十四代執権北条高時は彼の三男である。

「加判」連署職。

「貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は有力御家人安達義景の三男。異母妹(後の覚山尼(かくさんに))を猶子として養育して、弘長元(一二六一)年に時宗に正室として嫁がせ、北条時宗の外戚となり、得宗家との強固な関係を決定的にし、幕府の重職を歴任、栄華を誇った。時宗の死後、「弘安徳政」と称される幕政改革も行ったが、内管領平頼綱と対立、弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」で一族郎党とともに滅ぼされた。北条貞時の側室で高時の母となる後の覚海円成(えんじょう))も、彼の次兄安達景村の子泰宗の娘であった。

「陸奥守に任ぜられ」弘安五(一二八二)年のこと。この時、泰盛は「秋田城介」を嫡子宗景に譲り、その代りとして「陸奥守」に任ぜられている。ウィキの「安達泰盛」によれば、『陸奥守は幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた』とあり、彼の権勢が、ここにかたっれるように名実ともに最も輝いた頂点の時であったと言える。

「同五月」弘安七(一二八四)年五月。

「北條時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年十月三日(但し、異説有り。後注参照))は北条氏佐介流の一族で「佐介時国」とも呼ばれた。「卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基」の私の注を参照されたい。

「如何なる天魔の入替りけん」如何なる悪辣なる天魔がその心と入れ替わってしまったものか。

「眉目嘉名(びもくかうめい)」「嘉名」は通常、歴史的仮名遣でも「かめい」で「名声」の意。「眉目」もここは「面目・名誉」の意。

「申上」「せられしかば」と続くので「しんじやう」と音読みしておく。

「潛に配所に人を遣し、時國をば刺殺しければ」ウィキの「北条時国」によれば、この時国の死は「鎌倉年代記」の建治元(一二七五)年の条では『常陸国伊佐郡下向、十月三日卒』、「武家年代記」の建治三年条では十月三日に「於常州被誅了」とする一方、「六波羅守護次第」では十月四日に自害とするが、異説として九月、常陸にて逝去とも伝える。「關東開闢皇代並年代記事」の「北條系圖」でも死因を自害としているが、その時期を遡る八月としており、「尊卑分脈」や「續群書類從」所収の「北條系圖」及び「淺羽本北條系圖」では八月十三日に「被誅」(誅さる)とする、とある。如何にも怪しい。]

2017/02/19

柴田宵曲 妖異博物館 「乾鮭大明神」

 

 乾鮭大明神

 

 岡田士聞の妻が安永六年に奧州の旅をして「奧の荒海」といふ紀行を書いた。北から來て廣瀨川、名取川を渡り、武隈明神に詣でた後のところに、からさけ大明神の事が記されてゐる。昔松前に赴いた一商人が乾鮭を持つてゐたが、行程の長いのに思ひ煩ひ、乾鮭を松の枝に掛け、この處の主となれ、と戲れて立ち去つた。暫くたつてこの魚が光りを放つのを奇瑞とし、土地の人が神と崇めるに至つた。この神が生贄(いけにへ)を好むため、所の歎きになつて居つたが、或人不審してこれを窺ひ、古狸の仕業と判明したとある。

[やぶちゃん注:「岡田士聞」河内の出身の儒者岡田鶴鳴(寛延三(一七五〇)年~寛政一二(一八〇〇)年)の字(あざな)。代々、幕臣水野家に仕え、河内片野神社神職も兼ねた。彼の妻となった「奥の荒海」の作者小磯逸子は、京出身で、右大臣花山院常雅の娘敬姫の侍女っであった。敬姫は松前藩藩主に嫁いだが亡くなり、安永六(一七七七)年に京都へ帰る途中の事柄を日記にしたものが「奥の荒海」だという(小磯逸子については、msystem氏のブログのこちらの記載に拠った)。以上の箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのちらの画像で視認出来る。]

「怪談登志男」にあるのは飛驒の話で、黐繩(もちなは)に雁が一羽かゝつたところへ、越後より通ふ商人が四五人通り合せて雁を取り、代りに馬につけた乾鮭をかけて去る。これを見て獵師が先づ不思議がり、それからそれと話は大きくなつて、から鮭大明神の社造營となつた。翌年の春、越後の商人が歸りがけにこの社を見、去年は無かつた筈だと里人に尋ね、はじめてその由來がわかる。商人等顏を見合せて笑ひ出し、その乾鮭は自分達が掛けて行つたのだ、神樣でも何でもないと立ち去つた。信仰忽ち崩れ、社は毀たれたが、これには生贊だの、古狸の仕業だのといふ怪談めいた事は一切書いてない。

[やぶちゃん注:この話は後で柴田も挙げているように明らかに中国の説話由来である。これ、授業でやったわ! 木の股の洞に水が溜まったところに魚の行商人が悪戯に売れ残った鰻(原文は「鱣」)を投げ入れて立ち去った。後から来た男がその鰻を見つけて、こんな所に鰻がいるはずがない、これは霊鰻だということになり、社(やしろ)が出来、栄えた。暫くして、先の行商人がそこを通り、件の霊験譚を耳にし、それを取って調理して食ってしまい、見る間にその社は廃れた、という話である。調べたところ、これは宋の劉敬叔の志怪小説集「異苑」(但し、一部は発見された明末の増補と考えられている)の「卷五」の以下であった。

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○原文

會稽石亭埭有大楓樹、其中空朽。每雨、水輒滿溢。有估客載生鱣至此。聊放一頭於朽樹中、以爲狡獪。村民見之、以魚鱣非樹中之物、咸謂是神。乃依樹起屋、宰牲祭祀、未嘗虛日。因遂名鱣父廟。人有祈請及穢慢、則禍福立至。後估客返、見其如此、卽取作臛。於是遂

○やぶちゃんの書き下し文

 會稽の石亭埭(せきていたい[やぶちゃん注:堤の名であろう。])に大楓樹、有り。其の中(うち)は空朽(くうきう)なり。雨ふる每(ごと)に、水、輒(すなは)ち滿溢(まんいつ)す。估客(こきやく[やぶちゃん注:行商人。])の生鱣(せいせん[やぶちゃん注:生きた鰻。])を載せて此に至る有り。聊(いささ)か一頭を朽樹(きうじゆ)の中に放ち、以つて狡獪(かうくわい)を爲す。村民、之れを見て、魚鱣(ぎよせん)は樹中の物に非ざるを以つて、咸(みな)、是れ、神なりと謂ふ。乃(すなは)ち、樹に依りて屋(をく)起(た)て、牲(にへ)を宰(をさ)めて祭祀し、未だ嘗て虛日(きよじつ)あらず[やぶちゃん注:供養しない日はなかった。既にして大盛況となっていることを指す。]。因りて遂に「鱣父廟(せんぽべう)」と名づく。人、有りて祈請し、穢慢(ゑまん[やぶちゃん注:穢れのある行為や、祭祀を怠ること。])に及べば、則ち禍・福、立ち至る。後に估客、返りて、其の此(か)くのごときを見て、卽ち、取りて臛(あつもの)と作(な)す。是(ここ)に於いて遂に絶ゆ。

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 「怪談登志男」は「かいだんとしおとこ」(現代仮名遣)と読み、寛延三(一七五〇)年刊の慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)著の怪談集。私の好きな怪談集で、いつかは全文を電子化したいと考えている。以上は「卷之三」の冒頭にある「十二 乾鮭の靈社」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。]

 田中丘隅が妻の實家を訪ふに當り、川狩りをしてギヽウといふ魚一尾を獲た。これを携へて道を急ぐうち、或山中で獵師の張つた網に雉子がかゝつてゐるのを見付け、姑への土産にはこの方がよからうといふので、雉子を取つて代りにギヽウを置いて行つた。そのあとに來た獵師はこれを見て大いに驚き、水に住む魚が山の中の網にかゝるのは不思議だと云ひ出し、陰陽師に占はせた結果、これは山神の崇りである、速かにこの魚を神に祭るべし、といふことになつた。ギヽウ大明神の岡は忽ち出來上つたが、たまたま大風雨があつたので、村民は神變と心得て、神前に湯花を捧げ、神樂(かぐら)を奏する。この間に乘ずる謠言などもあつて、騷ぎは次第に大きくなつた。丘隅はこの事を聞き、ギヽウ大明神の崇りは某が鎭めよう、どんな事があつても驚いてはならぬぞ、と戒めた上、祠を毀つて燒き、ギヽウを燒いて食つたのみならず、神酒まで飮んで歸つて行つた。村民はびつくり仰天し、山神の崇りを恐れたが、その後何事もなかつた。

[やぶちゃん注:「田中丘隅」江戸中期の農政家・経世家(政治経済論者)田中休愚(きゅうぐ 寛文二(一六六二)年~享保一四(一七三〇)年)の別名である(同じく「きゅうぐ」と読むか)。ウィキの「田中休愚」によれば、『武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきる野市平沢)出身。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した。なお、共に大岡支配の役人として活動した蓑正高は休愚の娘婿にあたる』。『平沢村の名主で絹物商を兼業する農家・窪島(くぼじま)八郎左衛門重冬の次男として生まれる』。『子供の頃から「神童」の誉れが高かった休愚は、兄の祖道とともに八王子の大善寺で学んだ後、絹商人となる。その後、武蔵国橘樹(たちばな)郡小向村(神奈川県川崎市)の田中源左衛門家』『で暮らすようになる。これが縁で東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、その家督を継いで』、宝永元(一七〇四)年四十三歳の時、『川崎宿本陣名主と問屋役を務め』、宝永六(一七〇九)年には『関東郡代の伊奈忠逵(ただみち)と交渉して、江戸幕府が経営していた多摩川の六郷渡しを、川崎宿の経営に変えることで、付近の村の村民が人足に駆り出されることがないようにし、同時に川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築』いた。正徳元(一七一一)年五十歳に『なった休愚は猶子の太郎左衛門に役を譲り、江戸へ出て荻生徂徠から古文辞学を成島道筑から経書と歴史を学』んだ。享保五(一七二〇)年、四国三十三ヵ所巡礼から帰宅した彼は、『自分が見聞きしたことや意見等をまとめた農政・民政の意見書』民間省要の執筆を開始』、翌六年に『完成させる(田中丘隅名義)。『民間省要』を上呈された師の成島道筑は、当時関東地方御用掛を務めていた大岡忠相を通じて幕閣に献上。時の将軍・徳川吉宗は、大岡と伊奈忠逵を呼んで休愚の人柄を尋ねた後』、享保八(一七二三)年に『休愚を御前に召』した。当時六十二歳に『なっていた休愚は、将軍からの諮問に答え、農政や水利について自身の意見を述べ』、『この一件で休愚は支配勘定並に抜擢され』、十人扶持を『給され、川除(かわよけ)普請御用となる。荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水の改修工事、相模国(神奈川県)酒匂川の浚渫・補修などを行』った。『富士山の宝永大噴火の影響で洪水を引き起こしていた酒匂川治水の功績が認められ、支配勘定格に取り立てられて』三十人扶持を給されて三万石の『地の支配を任される』。享保一四(一七二九)年七月には遂に代官となり、『正式に大岡支配下の役人として、地元の武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち』三万石を支配、殖産政策にも携わって、同年中には『橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区)から櫨(ろうそくの原料)の作付状況が報告されたという記録が残されている』という。『死後、子の田中休蔵が遺跡を引き継ぐ。なお、休愚の急死は、六郷用水の補修で世田谷の領地を突っ切ったことで、伊奈家から大岡に苦情があったため、切腹したとされる伝説も残っている』という。

「ギヽウ」古くから食用とされた川魚である条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps こと。和名はオノマトペイアで、彼らが水中で腹鰭の棘と基底の骨を擦り合わせて「ギーギー」と低い音を出す(陸の人間にも聴き取れる)ことに由来する。また背鰭・胸鰭の棘が鋭く、刺さるとかなり痛いので注意が必要である。]

「百家琦行傳」は丘隅の話を傳へた後に、「風俗通」の話を掲げてゐる。その話は先づ田の中で麞(くじか)を拾ひ得たことに始まる。これを澤の中に置いてどこかへ行つたあとに、魚商人が通りかゝり、商賣物の鮑魚(ほしうを)を麞に換へて去る。麞を置いた男は、その俄かに鮑魚と變じたのを神異とし、鮑魚神と祭られるに至る。數年たつてから前の魚商人が來て、これ我が魚なり、何ぞ神ならんやと云ひ、祠に入つて鮑魚を持ち去つた。順序は田中丘隅の話と同じである。鮑魚神の話は「怪談登志男」にも引いてあつた。

[やぶちゃん注:「百家琦行傳」「ひゃっかきこうでん」(現代仮名遣)は八島五岳著。五巻五冊。天保六(一八三五)年自序で弘化三(一八四六)年刊。以上は「卷之四」の「田中丘隅右衞門」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。

「風俗通」後漢末の応劭の「風俗通義」の略称。諸制度・習俗・伝説・民間信仰などに就いて記す。以上のそれは「怪神」の中の「鮑君神」である。中文サイトより加工して示す。

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謹按、汝南鮦陽有於田得麇者、其主未往取也。啇車十餘乘經澤中行、望見此麇著繩、因持去。念其不事、持一鮑魚置其處。有頃、其主往、不見所得麇、反見鮑君、澤中非人道路、怪其如是、大以爲神、轉相告語、治病求福、多有效驗、因爲起祀舍、眾巫數十、帷帳鍾鼓、方數百里皆來禱祀、號鮑君神。其後數年、鮑魚主來歷祠下、尋問其故、曰、此我魚也、當有何神。上堂取之、遂從此壞。傳曰、物之所聚斯有神。言人共獎成之耳。

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「麞(くじか)」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis(一属一種)。体長 七十五~九十七センチ、体高約五十センチメートル。雄の上犬歯が長く、牙状(この歯は下顎の下方にまで達する)を呈することが名の由来。川岸の葦原や低木地帯に小さな群れを成して棲息する日中活動性の鹿である。「風俗通義」の「麇」は近縁種のノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus

「鮑魚」「はうぎよ(ほうぎょ)」で、これは魚の種を指すのではなく、広く塩漬けにして保存食とした魚の加工品を指す。]

 支那にはこの類の話が多く、「太平廣記」などにも、「異苑」「抱朴子」等からいくつかの話を擧げてゐる。民間信仰の起りにはかやうのものが多いから、強ひてからさけ大明神を以て支那渡りとするにも當らぬが、魚の祭られる一點は同一系統に屬すると云へるかも知れぬ。たゞ「太平廣記」にある話は悉く魚ではない。

[やぶちゃん注:「太平廣記」宋の太宗の勅命によって作られた、稗史(はいし:中国で公的な正史の対語で、民間から集めて記録した小説風の歴史書を指す)・小説その他の説話を集めた李昉(りぼう)らの編に成る膨大な小説集。五百巻。九七八年成立。神仙・女仙・道術・方士以下九十二の項目に分類配列されており、これによって散逸してしまった書物の面影を今に知ることが出来る貴重な叢書である。

「抱朴子」「はうぼくし(ほうぼくし)」は晋の道士葛洪(かっこう)の著作。三百十七年に完成した。内篇は仙人の実在及び仙薬製法・修道法・道教教理などを論じて道教の教義を大系化したものとされ、外篇は儒教の立場からの世事・人事に関わる評論。]

 貞享三年の「其角歳旦牒」にある

 

  干鮭も神といふらし神の春   仙化

 

といふ句も、から鮭大明神に因緣あるらしく思はれるが、これだけでは十分にわからぬのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:句の前後を空けた。字配は再現していない。

「貞享三年」一六八六年。

「歳旦牒」「歳旦帳(帖)」。月の吉日を選び、連歌師・俳諧師が席を設けて門人と歳旦の句を作り披露する「歳旦開き」に披露するため、前年中に歳暮・歳旦の句を集めて版行した小句集。これを出すことが俳諧師の面目であり、門下を拡大する必須行為でもあった。

 

「仙化」(生没年未詳)「せんか」と読む。直接の蕉門の門人。芭蕉庵で行われた句会を元にした貞享三(一六八六)年閏三月板の「蛙合(かわづあはせ)」を編している。この集中で、かの蕉風開眼とされる「古池や蛙飛びこむ水の音」に対し、「いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(かな)」の句をものしており、別号も青蟾堂(せいせんどう)である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(57)「鯨のお詣り」

 

 鯨のお詣り

 

 ――一度(ど)どうもあなたそれはどつさり鯨が捕れたんでしたつけがねえ どうもそれはどつさり捕れたんですよ ええ 鯨つてえものはどうも大きなものですねえ

 どうして丈(たけ)なんざあ大人が寢た位(くらゐ)大人が寢た位もあるんですからねえ 頭なんてものも大きなもので さあこちらの火鉢程ありませうかね ねえあなた なにしろ頭が火鉢位(ぐらゐ)なんですからねえ どうも大層なものですね ねえあなた

 一度それがどうもどつさり捕れましてね どうもあなた どつさり捕れたんですが それを濱でもつてね みんなで切りましてね ねえあなた 鋸(のこぎり)で切るんで御座いますね どうもそれを鋸でもつてみんな一尺位(ぐらゐ)に切りましてね どうも鋸でもつてみんな 一尺位に切つてしまつてね 切つてしまつたんですが なんでもその時そこにぶらさがつている樣な囊(ふくろ)がどつさり出ましたんですがね どつさり出たんですよ ええ

 ――その氷囊(ひようなう)かえ

 ――ええ そこにぶらさがつてる樣な囊なんですがね ええ なんでもどつさり出ましたよ ええ まつちろなのがぶつぶつ浮いてましたけがね

 あなた

 それでもつてみんな切つて賣るところは賣り とつとくところはとつとくとこで鹽(しほ)に漬け 賣るところは賣り とつておくとこはとつておくところで鹽に漬け どうも大變な騷ぎでしたがねえ なんですよあちらではお魚(さかな)だらうがなんだらうが女(おんな)がみんな持つて賣りに歩くんですからね どうも女衆(おんなしう)の忙しいことつたら それはなんですよお魚でも捕れるとみんなそれは夜中であらうがなんであらうがそれを持つて擔いでゆくんですからねえ どうしてあなた

 さうしてそのまあをかしいぢやありませんか ねえほんとでせうか いつたいこんなことがあるもんでせうかねえ ほゝほゝゝゝゝ

 鯨がお詣(まゐ)りするなんて事が全くありますかねえ あなた 鯨がお詣りするなんてねえあなた可笑(をか)しいぢやありませんか あなた ほんとでせうかね そのまあ鯨を切りました人がね 晩になるとそれはどうも大層な熱で苦しんだと申しますがねえ それでもつて御不動樣へ御祈禱を賴みにいきますとね これは鯨はやはたの八幡へお詣りに來たところをまだお詣りもすまさないうちに捕つたのでその祟(たゝ)りだと申しましたさうですがね あなた いくらなんだつて鯨がお詣りするなんてそんな事がほんとでせうかね でもね 御祈禱して貰つたらすぐ治(なほ)つたつて言ひますがね あなた ほんとでせうかね いくらなんだつて あなた ほゝほゝゝゝ お神主(かんぬし)は殺したものは仕方がないから卒塔婆(そとば)でも建ててやれと申したさうですが そのとほりにしたらぢき治つたさうですよ ええ 

 ――さあ鯨は三十ぴきも來ましねかねえ

 

Gungeisankeizu

 

   群鯨參詣圖について

 私が「鯨のお詣り」を書いたのは大正十二、三年の頃と思ふ。家の婆やの話が面白くて、そのままに書いておいたのを、芥川さんがまた面白がつてこれに僕が挿畫を畫いて載せようと、いつか先に立つて、「人間」であつたか、「隨筆」であつたかに送つてしまつた。この鯨のお詣りは芥川さんが送つたのではあるが、運わるく、その雜誌社そのものが、芥川さんの折角の畫は板にまでしながら、雜誌に載せもせぬうちに廢滅してしまつて、印刷にならなかつたものである。未だインキに汚れてもゐない凸版の板木は神代種亮がその折に貰つて手に入れてゐた。昭和八年に江川正之が雜誌「本」を創めるに當つて、私はこの自分の鯨のお詣りを江川に贈り、あはせて神代氏から芥川さんの群鯨參詣國の板木を借出すやうにすすめたものであつたが、さうした今日、私は私の隨筆集の上梓に當つて、神代氏も既に亡き人なるを思ひ、いまは誰れがその板木を持つてゐるのか、これを江川に問合せてみた。江川からは、「本」の印刷所に預けたままになつてをりましたが、先年その印刷所が全燒してしまひ、何とも申譯なきこと乍ら炎上いたしてしまひました。といふ返事があり、神代氏所有の板木も既に、神宮繪畫館正面突當りにある愛光堂が全燒の際烏有に歸してゐるといふのである。群鯨參詣圖の原畫の行衞については私は全くの知らずである。ともあれ、芥川さんの、遂に潮を吹上げなかつ畫の鯨を、私は「本」創刊號の寫眞版から再製して、ここに使はせて貰ふこととした。

[やぶちゃん注:以上は、我鬼山人の署名と落款を持つ芥川龍之介の描いた「群鯨參詣圖(ぐんげいさけいず)」(原画では「參」は「参」である)のキャプションとして下にポイント落ちで示されたものである(標題「群鯨參詣圖について」もポイント落ちであるが、それよりも更にキャプション本文はポイントが落ちる)。絵とキャプションは「鯨のお詣り」の本文の途中、左ページを使って挟まれてある。

 このキャプションの内容は後の昭和三一(一九五六)年中央公論社刊の「二つの繪」の芥川の畫いたさしゑにも書かれているが、小穴隆一の「ばあや」の話はここでしか読めない。最早、焼失してしまった芥川龍之介の「群鯨參詣圖」と、この「ばあや」の話を一緒に読めるのは、本書以外には、ない。私はそれをこのネット上で再現出来たことを、心から嬉しく思っている。

 

 なお、この「ばあや」の語りの中に出てくる鯨の体内から多量に出て来たという氷囊のような形状の物体ととはなんであろう? 海洋生物フリークの私でも一寸判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(56)「遠征會時代」

 

 遠征會時代


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[やぶちゃん注:本章は本「鯨のお詣り」の中で初めて芥川龍之介とは全く関係のない小穴隆一個人の随筆として出るものである。個人的には全体的には幾分、時勢に媚びた如何にもな文章であるようにも私は感ずるのであるが、それはまた、今のダレ切った日本の「おぞましき私」の感想に過ぎぬのかも知れぬ。注する意欲も特異的にかなり失われた。悪しからず。]

 

 父は親孝行といふことはしたことのない私(わたし)に、空家になつてゐた田舍の家(いへ)を一軒殘しておいてくれた。私はその家を貰つた。さうして、これは誰も持出(もちだ)してゆきてが無つた。紙魚(しみ)の這出(はいだ)す塵が飛び散る古文書(こぶんしよ)や古新聞のきれぎれが詰つてゐる、二つの行李も貰つたのである。

[やぶちゃん注:「はいだ」の読みはママ。

「田舍の家」小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父は中山道洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出であった。この田舎の家がどこを指すかはよく分らぬが、塩尻であることは間違いないように思われる。]

 家は持歸(もちかへ)ることができず何年か前の村の火事で燒失(やけう)せてしまつた。

 中の物は七八年も風にあてておいたから、鼠の小便のにほひも漸く薄れてきた。親孝行といふことはしたことのない私であつても、年をとり古いものをとりひろげて、私共の父母が生れて死んだその間(あひだ)の、時代の動きを思ひ、靜かにしてゐることば格別に樂しい。

 遠征會要領なるものも私は古行李(ふるかうり)から拾つたものであるが、私はいま別してこの遠征會について知りたいのである。私がここに書いてみようとしてゐる話は甚だ口惜しいが、昔、私が東片町(ひがしかたまち)に父と暮してゐた當時、母が動物園の話から、「あの福島中佐の馬、あれは如何(どう)してゐるかねえ。」と言つてその子供達の笑ひを買つたそれと大差のない物だ。

[やぶちゃん注:「東片町」町名だけを出して読者に判るとなれば、これは東京の地名で、駒込東片町か。現在の文京区向丘・西片・本駒込附近に相当する。

「福島中佐」日本陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「福島安正」によれば、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士福島安広の長男として生まれ、慶応三(一八六七)年に江戸に出、『幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦』、明治二(一八六九)年には『藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学』んだ。その後、明治六(一八七三)年四月に明治政府に仕官、司法省から文官として明治七(一八七四)年に陸軍省へ移った。二年後の明治九年には七月から十月までアメリカ合衆国に「フィラデルフィア万国博覧会」への陸軍中将西郷従道(つぐみち)に随行、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では福岡で征討総督府書記官を務めた。明治二〇(一八八七)年、陸軍少佐に昇進した彼はドイツのベルリン公使館に武官として駐在し、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報などを報告しているが、明治二五(一八九二)年の帰国に際して、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を』日本陸軍に齎したことで知られる。ここで小穴隆一の母が言っている「馬」とは、その「シベリア単騎横断」の際の馬のことである。福島の「シベリア単騎横断」については、未完ながら、こちらに詳しい解説がある。小穴隆一の以下の叙述に従うなら、この馬は幸せにも本邦に戻って動物園で余生を暮したということであろう。その動物園は伊勢雅臣氏のこちらの記事によって上野恩賜動物園であったこと、馬は一頭ではなく、三頭であったことが判る。]

 私はあと一週間たてば一寸俗用があつて、二三日の豫定で信州に行く。行けばまた福島中佐について何か若干知るてとが出來るかもしれない。

 私もまたずうつと子供のころほひに動物園でみた福島中佐の馬、小舍(こや)にしよぼしよぼとなつてゐた馬、あれは一體、あの時の馬は何歳であつたものであらう。

 

○日本地圖

明治十年の大日本(だいにつぽん)地圖

 明治十年の二月に出版されや地圖には、臺灣もまた樺太もないのである。ましてや朝鮮などがありやう筈はない。まだ頭も尻もないこの大日本地圖、富士山が最高を、信濃川が最長を示してゐる日本地圖で、私が持つてゐる物には下等小學第貮賞品の印(いん)が押されてゐるのだ。

 私共は小學校の昔、「四千餘萬の兄弟(あにおと)どもよ。」の歌を唱(うた)つた。私は母の前で、四千餘萬の兄弟どもよ。」と唱つて「おや、三千餘萬ではなかつたのかねえ、この頃は四千餘萬になつたのかねえ、といはれたこともある。然しながらまた私の女房になると、「北は樺太千島より」で、「七千餘萬の兄弟どもよ。」と習つたといつてゐる。現在支那事變この方、私はラヂオで一億の日本國民といふ言葉を聞き、六十年も昔のこの地圖を再びとりひろげてみて、丁度私共の父母が生れたあたりの時代から漲るいぶきが、如實にかんじられるのを、樂しまざるをえない。

 なほ、この地圖は十年二月十六日出版御屆(おんとゞけ)となつてゐるのであるが、御屆一日(にち)前の二月十五日といふ日は、私學校(しがくかう)の生徒が西郷隆盛を擁して鹿兒島を出發して兵一萬五千に桐野利秋、篠原國幹(くにもと)、別府晋助、村田新八等(ら)が動いてゐた時でもあるのだ。

 

 

  ○作文

  明治十年頃の兒童の作文、一例。

 

  加藤淸正

 身體長大ニシテ力(チカラ)極メテ強ク知力アリ夫(ソ)レ天下ニ高名ノ人物ニシテ始終豐臣秀吉ニ事(ツカ)ヘ戰ニ出ヅル每(ゴト)ニ偉功(ヰカウ)アリ殊ニ志津嶽(シヅガタケ)ノ戰(イクサ)ノ如キ尤モ大功(タイコウ)ヲナシ武威ヲ一世ニ輝カシ福島正則、加藤嘉明、糟谷武則、平野長泰、片桐且元(カツモト)、脇坂(ワキザカ)泰治ト共ニ志津嶽七本槍ト稱シ後世ニ英名ヲ存(ソン)シ又朝鮮征伐ノ時其勢(イキホヒ)破竹ノ如クニテ向(ムカ)フ所殊(コトゴト)ク(悉くの誤りであらう。)之ヲ破リ大功ヲ顯ハシ、實(ジツ)ニ未曾有之(ノ)豪傑ナリ然(シカ)リ而(シカウ)シテ方今(ハウコン)如此(カクノゴト)キ人物アラバ何ゾ薩賊ヲ伐(ウ)ツニ足ラン、鳴呼淸正ノ偉(ヰ)而(シカシテ)大(ダイ)ナラン哉(ヤ)

[やぶちゃん注:「方今(ハウコン)」まさに今。ただ今。]

 

 私は、この作文加藤淸正なるものは父が書いたのであると思つてゐるのだが[やぶちゃん注:「書いたのである」は底本では「書いのである」であるが、意味が通じないので、脱字と断じて特異的に訂した。]、或は他の人の物であるのかも知れぬ。父とすれば、これは父が十三歳の時の物である。私の父は信州人であり、耳學問では松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となる順序であるが、父が生れた土地といふものは元來が天領であつたやうである。

 九段の遊就館の第十一室(維新前後及(および)明治時代)には、熊本ニ於テ薩軍ヨリ投ジタル文(ブミ)として、然ルニ當縣鎭臺名義ヲ辨セズ城(シロ)ヲ閉ヂテ云々なる物が陳列されてゐるが、私には父の「加藤淸正」にも甚だ興味があるのである。私は思ふのである。當時薩摩の兒童に加藤淸正の題を與へて文章をつゞらせてゐたものならば、薩賊のかはりには如何なる言葉が現はれてゐたであらうか。

 加藤淸正を書いた父も血氣定まらぬ時代には、孤軍奮鬪圍(カコミ)ヲ衝(ツ)イテ歸ルと兵兒(へこ)の謠(うた)を愛吟してゐた筈である。私は、「敵の大將たるものは古今無双の英雄ぞ。」といふ歌を小學校で習つた。當時は漫然たゞこの古今無双の英雄ぞといふ文句が好きであつたが、今日では古今無双の英雄ぞと句が使はれてゐるその意氣がありがたいと思はざるをえない。

  ○徴兵

 明治十二年十月八日東京日日新聞掲載の寄書(きしよ)

  ○徴兵論 北總(ほくそう) 林彦兵衞

 この論文は、明治十二年の日本では、理(リ)ハ情(ジヤウ)ヲ得テ通ズル底(てい)の物であつたあらうが、今日(こんにち)に於いては全文の掲載にすこしく不安を感ずる。

[やぶちゃん注:「林彦兵衞」不詳。同一姓の通名で、千葉在の同時代の教育関係者がいるが、軽々に同一人物と比定するには、事蹟を読む限りでは不審があるので、敢えて示さない。識者の御教授を乞うものである。]

 明治十二年十月といへば既に招魂社(十二年現稱靖國神社に改む)も建てられてゐた。

 この徴兵論は、慶應三年將軍慶喜大政奉還、王政復古の大號令、慶應四年が明治元年となり、五箇條の御誓文の宣布、御(ご)卽位式、明治四年全國に四鎭臺(東京、仙臺、大阪、熊本)を置き舊藩の武士から兵を徴す。五年十二月詔(せう)して、全國徴兵の制を定められ翌六年正月徴兵令發布、といふこの今日の陸海軍之(の)制の礎(いしずゑ)をつくつた兵部大輔(ひやうぶだいすけ)大村益次郎が在京師爲兇人所成薨(けいしにありてきようじんのためにこうぜられて)から後(のち)十年の物である。男子の散髮令、取平民に苗字を呼YO)ぶことを許されてから九年、帶刀禁止令があつてから三年目、大正天皇御降誕の年の物である。さうして、これを掲げた日(ひ)の「日日」の一面には陸軍省録事(ろくじ)として○達(たつし)甲第拾六號(陸軍士官學校生徒入學檢査格例(かくれい)の續き、陸軍士官學校生徒入學心得書(しよ)等(とう)、四面公告には、志願人(にん)檢査課目が載せられてゐるが、士官學校人學願(ねがひ)のところで、

  年號何年何月何日生(うまれ)

 明治十二年十二月何年何ケ月に目をとめて數(かず)をはかると、志願人は安政四年から文久三年の間(あひだ)に生まれた人達に限られてゐて、元治(ぐわんぢ)、慶應に生れた人では未だ入學を許可される年齢に達してもゐない。さういふ今日(こんにち)から五十八年も前の時代の物であることを知る。

 私はこの林彦兵衞といふ人物については全然何も知らない。(明治の初めに働いた人達といふ者は、年は若くとも私共とは違つて、隨分圖太(づぶと)く性根(しやうね)を据ゑて事(こと)にかゝつたらしい。林彦兵衞も彼が存外若い時にこの徴兵論を書いたものとして命數のながい人であれば、八十何歳かで昭和十二年に生きてゐるかも知れぬ。)

 日本も、五十八年前の日本には林彦兵衞の徴兵論が必要であつたと思はれる。私はこの林彦兵衞の徴兵論をひろひとつて一讀した時に、日露開戰前の私共小學生の姿を再び思出した。如何(どう)いふものか當時東京の子供達の間(あひだ)にでも、君のところは士族か平民かと聞合(きくあ)ふ習慣のやうなことがあつた。私のところは平民であるから今日でもこれを忘れずにゐるのである。私は、明治十二年頃では士族對平民の感情も、どこかここ十年か前の水平社の人達の思ひにも似たものがさしはさまつてゐたのではなからうかとも思ふ。今日は今年二一歳の末弟の如き、「いまでも士族といふものがあるかねえ。」と言つてゐる次第であるが。

 明治十二年、十二年十月の東京日日新聞には、マイエツト氏日本(につぽん)公債ノ辯(べん)も連載してゐるのである。

[やぶちゃん注:「マイエツト氏」ポール・マイエット(Paul Mayet 一八四六年~一九二〇年)はドイツの政治経済学者で「お雇い外国人」教師。明治九(一八七六)年に来日し、東京医学校ドイツ語教師や農商務省調役等として活躍、公債の諸制度や統計院・会計検査院の設置に関する建議・立案のため奔走した。一八九三年に帰国した後はドイツ統計局員を務めた。「日本公債弁」(一八八〇年)等の著書を持つ(以上は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠った)。]

(マイエツト氏日本公債ノ辯カラ鈔寫(セウシヤ))

 附言――將(マ)タ千八百七十六年一月一日(ジツ)ノ計算デハ四十萬八千八百六十一名ノ士族ハ其家族トモ百八十九萬四千七百八十四人ニシテ全國ノ人口ノ十八分ノ一ニ當リ内(ウチ)十二萬ノ千八百八十一名ノ士族ニシテ元來俸祿ヲ有セス或ハ業(ゲフ)已ニ之ヲ奉還セシモノハ其家族トモ五十九萬四千零(レイ)四十二人又(マタ)二十八萬六千九百八十名ノ士族ニシテ尚ホ之ヲ有(イウ)セシモノハ其(ソノ)家族トモ百二十萬零(レイ)七百四十二人卽チ全國ノ人工二十六分ノ一ナリ(尤モ右計算ニ從ヘバ俸祿受領人ハ此外(コノホカ)ニ家族二千九百二十九人ヲ有シタル四百六十六名ノ華族ト家族三萬零(レイ)二十六人ヲ有シタル平民五百四十二名アリ但シ俸祿受領人ノ統計表ニ於テハ皆各(カク)其(ソノ)數(スウ)ヲ異(コト)ニス是レ全ク編纂ノ時日(ジジツ)同ジカラザル故(ユヱ)ニ因(ヨ)ル)――

 

 鳥羽・伏見の戰(いくさ)、上野戰爭、函館戰爭、佐賀の亂、熊本・萩の亂、西南の役、明治元年か明治十二年の間(あひだ)に日本人(につぽんじん)を敵にしてこれだけの戰(くさ)をしてゐたのでる。私は先日神戸の湊川神社に參拜した。さうして竝んで神前に額(ぬか)づく兵士の列を(うしろ)のはうからをがんだ。楠正成もなにもない。ただ神が神にお辭儀をしてゐるその姿に思はず掌(て)を合はせてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「鳥羽・伏見の戰」慶応四年一月三日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十七日)に起こった旧幕府軍及び会津・桑名藩兵と薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、慶喜を擁して鳥羽・伏見で薩長軍と交戦したが、慶喜は江戸に逃げ帰った。戊辰戦争の発端となったが、旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢がここに確立した。

「上野戰爭」慶応四(一八六八)年五月十五日、江戸城無血開城を不満として江戸上野の寛永寺に立て籠もって抵抗した彰義隊を新政府軍が壊滅させた戦い。

「函館戰爭」「五稜郭の戦い」とも称する。明治元(一八六八)年から翌年にかけて箱館五稜郭を中心に榎本武揚ら旧幕臣が臨時政府を創って官軍に抵抗した戦い。榎本らの降伏によって終結し、鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はこれをもって終焉を迎えた。

「佐賀の亂」明治七(一八七四)年、征韓論争に敗れて下野した前参議江藤新平が中心となって、島義勇(しまよしたけ)の率いる憂国党と結んで佐賀で蜂起した、反政府派士族による反乱。征韓・攘夷・旧制度復古をスローガンとしたが、期待していた西郷隆盛らの応援もなく、全権を受けた大久保利通の指揮下の追討政府軍に鎮圧され、敗れた江藤・島は晒し首に処せられた。

「熊本・萩の亂」前者は明治九(一八七六)年十月に熊本に起こった反政府暴動「神風連(しんぷうれん/じんぷうれん)の乱」のこと。新政府の開明政策に不満を抱いた旧士族太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)らが結成した政治団体の「神風連」(敬神党)が、国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃したが、ほどなく鎮圧されたものを指す。後者は同明治九年、山口県の萩で前兵部大輔前原一誠(まえばらいっせい)ら不平士族が蜂起した反政府反乱。先の熊本神風連の乱や、秋月(あきづき)の乱(同年十月に福岡県秋月(現在の朝倉市)で旧秋月藩士宮崎車之助(しゃのすけ)らが起こした反乱。政府の対韓政策を批判して立ったが小倉鎮台兵に鎮圧された)と呼応して政府粛正の奏上を計画、山陰道を上京しようとしたが、政府軍に平定された。

「西南の役」西南戦争。明治一〇(一八七七)年に西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成、政府との対立が次第に高まり、遂に私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが、政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の城山で自刃した。明治維新政府に対する不平士族の最後の反乱となった(私は維新史に興味がないため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。

「湊川神社」現在の兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る明治になって創建された神社。ウィキの「湊川神社」によれば、勤皇の忠臣楠木正成は延元元(一三三六)年五月二十五日にこの湊川の地で足利尊氏と戦って亡くなった。その墓は長らく荒廃していたが、元禄五(一六九二)年に、『徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った』。慶応三(一八六七)年、『尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ』、明治元(一八六八)年、『それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ』、翌年、墓所や最期の地を含む場所を境内地と定め、明治五(一八七二)年五月に湊川神社が創建されているとある。]

 私を生んだ母の弟で、私より僅か六つだけ年長の叔父が、私共の祖父にあたるその父に、子供の時、德川家をとくがはけといつて叱られて、何故とくがはけといつては惡いかと言葉をかへすと、とくせんけと言へと毆(なぐ)られた話にも驚きはしない。私は五箇條の御誓文の宣布以後、臺灣征伐、江華島事件、朝鮮京城の變、東學黨の亂、日淸戰爭、に至るに及んで一新(しん)祖國日本(につぽん)といふ心がまへが、本當に日本人全體に漲るやうになつたと考へてかゐるのである。

[やぶちゃん注:「五箇條の御誓文の宣布」明治天皇が天地神明に誓約する形で公卿・諸侯などに示した明治政府の基本理念である「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」は慶応四年三月十四日(グレゴリオ暦一八六八年四月六日)に布告された。

「臺灣征伐」第一次「台湾出兵」、「征台の役」とも称する。明治四(一八七一)年に台湾に漂着した琉球島民五十四人が殺害された事件及び明治六年に岡山県の船員が略奪されたことを理由に清政府に犯罪捜査を要請したところ、清政府はこれを「台湾人は化外の民(統治から遠く離れて支配の力が及ばない人民、未開人・野蛮人といった蔑視的ニュアンスをも含む語)で清政府の責任範囲にない(清政府が実効支配してない管轄地域外での)事件)」として拒否、責任を回避したことから、当時、征韓論を唱えて大陸進出を画策していた外務卿副島種臣らが、明治七(一八七四)年、明治政府が台湾への犯罪捜査名目で出兵した事件を指す。政府は大規模な殺戮事件であったことから警察ではなく軍を派遣したと称したが、日本軍が行った最初の海外派兵となった。

「江華島事件」明治八(一八七五)年九月、日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が朝鮮の江華島付近に進入、砲撃されたため、これに対して砲台を撃破した事件。これを理由として維新後間もなかった明治政府は欧米列強に倣うやり方で朝鮮政府に迫り、鎖国政策をやめさせ、翌年二月には不平等条約である「日朝修好条規」を結ばせて朝鮮半島侵略の手懸りとしたのであった。

「朝鮮京城の變」朝鮮国の京城(日本統治時代のソウルの名。但し、この時点で朝鮮は独立国であり、ここは「漢城」といった)で起った一八八二年(明治十五円相当)の壬午事変(興宣大院君らの煽動を受けて漢城に於いて大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃(みんぴ/びんぴ)一族の政府高官・日本人軍事顧問・日本公使館員らが殺害されて日本公使館が襲撃を受けた事件)、一八八四年(明治十七年相当)の甲申政変(漢城で発生したクーデター事件。開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らが朝鮮独立と政治改革を掲げて日本政府の援助を受けて王宮を占領したものの、二日後に清の武力干渉によって失敗した)という二つの排日運動を背景とした事件の総称であるが、近年は使用されなくなった。

「東學黨の亂」「甲午農民戦争」とも呼ぶ。一八九四年(明治二十七年相当)に起こった朝鮮歴史上最も大規模な農民蜂起。この事件を端緒として、清の勢力を排除し、朝鮮を支配下におくことを画策していた日本政府は公使館警護と在留邦人保護の名目によって大軍を繰り出し、「日清戦争」を引き起こすこととなった。以下、小学館「日本大百科全書」の馬渕貞利氏の解説を引く(読みを概ね除去した)。『当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた』、一八九〇『年代の初めには干魃が続いて未曽有の飢饉に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった』。五『月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り』、五『月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約』・六月十日)。『全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや』、一八九四年(明治二十七年)七月二十三日、『王宮を占領し、親日政府を組織させた』。『清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは』十月『なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は』二十『万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年』一月、農民軍は壊滅、全準は三月末にソウル(京城)で処刑された、とある。

「日淸戰爭」明治二七(一八九四)年八月から翌年にかけて、日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は宗主権を主張する清国と対立、前述の甲午農民戦争を機に両国が朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃して開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、一八九五年四月に下関で講和条約を締結した(私は近代史に不学であるため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。]

 

  ○遠征會

   遠征會要領

 本會ハ福島安正氏ノ單騎遠征ノ偉業ヲ表彰シ後進者ヲシテ氏(シ)カ餘風ニ起(オコ)ラシムルノ目的ヲ達センカ爲メ信濃人(シナノジン)若クハ信濃ニ關敬係アル有志者(シヤ)ヨリ義金(ギキン)ヲ募リ單騎遠征獎學資金トスルノ主旨ニシテ爾來幸(サイハヒ)ニ賛同者ノ衆(オホ)キヲ加フルニ至レリトイエドモ醵金(キヨキン)猶未タ少額ナルヲ以テ益々同志ヲ得ルコトニ黽勉(ビンベン)シ居レリ。

[やぶちゃん注:「黽勉(ビンレイ)」「僶俛」とも書く。務め励むこと。精を出すこと。]

 然ルニ熟々(ツラツラ)宇内(ウダイ)ノ形勢ヲ察スルニ今ヤ歐洲列國強國ノ勢力東亞ヲ凌壓(リヨウアツ)スルノ狀(サマ)日(ヒ)ニ甚シキニ至レリ之カ對抗ノ策ヲ講スルハ實(ジツ)本邦人(ホンパウジン)ノ須臾(シユユ)モ忽(ユルガセ)ニスヘカラサルノ秋(トキ)ナリ必竟福島氏ノ先(マ)ツ亞細亞大陸遠征ノ偉業ヲ立テラレルモ其意蓋(ケダ)シ玆(ココ)ニ在(ア)ラン斯(カク)ノ如キ危殆(キタイ)ノ狀勢ナルヲ以テ嚮(サキ)ニ本會カ主旨トシタルトコロノ學生ヲ養成スル目的ヲ以テ進ンテ探檢ヲ繼カシメント欲ス仍(ヨツ)テ單騎遠征彰功會(シヤウコウクワイ)ヲ改テ遠征會ト稱ス

 今ヤ遠征ノ事ニ從フヤ先(マ)ツ東亞及び南洋各邦(カクハウ)ノ實況ヲ視察シ之カ研究ヲ爲サヽルベカラス故ニ西比利亜(シベリヤ)、滿洲、支那(シナ)、及南洋諸島ニ着手シ進ンテ西亞諸邦(セイアシヨハウ)ニ及ホシ之カ探檢ヲ爲サシムヘシ

 此撰ニ充(アツ)ルモノ士ハ信濃人(ジン)ニシテ勇敢堅忍艱辛(カンシン)ヲ甞(ナ)メ冒險之レ事(コト)ニ堪ユヘキ軀幹(クカン)學識アル者ヲ要ス然シテ本會ハ之ニ適當ナルヘキモノヲ得ルニ於テ既ニ望ムトコロノモノアルアアリ

 前段ノ目的ヲ達セントスルニハ最も幾多ノ金額ヲ要ス依ツ近クハ信濃人若クハ信濃ニ關係アル者ニ就キテ同志ノ義金ヲ募リ又他(タ)ノ地方人ト雖モ此旨趣(シシユ)ヲ賛成セントスルモノハ之ニ應スヘシ

 

  明治廿六年十一月  遠征會

 私は今日(こんにち)この面白さうな遠征會についてその詳細を知りたいと思ふのである。私には祖父志村巖(いはほ)が義金(ぎきん)金(きん)三圓以上の寄附と、その所掌(しよしやう)村内(そんない)で凡(およそ)金貮拾圓以上の募集方(かた)、この二つを遠征會委員から冀望(きぼう)されていたまでしかわかつてゐない。遠征會委員は伊藤大八、今村淸之助、石塚重平(いしづかぢうへい)、原卓爾(はらたくじ)、大濱忠三郎、小笠原久吉(ひさきち)、田中平八、辻新六、中村彌(や)六、山田莊(そう)左衞門、丸山名政(なまさ)[やぶちゃん注:読点ナシ。]牧野毅(たけし)、皆川(みながは)四郎、兩角(もろずみ)彦六。事務所は東京市神田一ツ橋通町(とほりまち)廿一番地にあつたのである。

[やぶちゃん注:「冀望」「希望」に同じい。

「伊藤大八」(安政五(一八五八)年~昭和二(一九二七)年)は政治家・実業家。帝国議会衆議院議員を五期務めている。長野県下伊那郡上殿岡村(現在の飯田市上殿岡)生まれウィキの「伊藤大八」を参照されたい。

「今村淸之助」(嘉永二(一八四九)年~明治三五(一九〇二)年)は実業家。信濃国伊那郡出原村(現在の長野県下伊那郡高森町)生まれウィキの「今村清之助」を参照されたい。

「石塚重平」(安政二(一八五五)年~明治四〇(一九〇七)年)は衆議院議員。信濃国北佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)生まれウィキの「石塚重平」を参照されたい。

「原卓爾」不詳でるが、恐らく、佐原六良氏の論文「諏訪市湖南地 区南真志野の教育」(PDF)に出る、明治七(一八七四)年一月二十五日附『筑摩県吏原卓爾の巡視の際に提出した届書』(筑摩県は明治四(一八七一)年に飛騨国及び信濃国中部・南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方・南信地方及び岐阜県飛騨地方と中津川市の一部に相当する)とある役人と同一人物と考えられる。

「大濱忠三郎」(明治四(一八七一)年~大正一四(一九二五)年)相模国(神奈川県)生まれ。東京専門学校(早稲田大学の前身)英語本科卒後、家業の洋糸織物商を継いだが、横浜市議・同議長・神奈川県議などを経、大正九(一九二〇)年から衆院議員に当選(二回)、また、横浜生命保険社長・横浜倉庫取締役・横浜取引所理事長・神奈川県農工銀行取締役などを務めた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「小笠原久吉」不詳。同名人物が複数いるが、軽々に比定出来ない。

「田中平八」(天保五(一八三四)年~明治一七(一八八四)年)は信濃生まれの実業家。開港後の横浜で「糸屋」と称して生糸を売り込み、洋銀売買などで活躍、「天下の糸平(いとへい)」と称された。維新後は洋銀相場会所・田中銀行などを設立した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「辻新六」不詳。

「中村彌六」(安政元(千八百五十五)年~昭和四(一九二九)年)は林業学者で農商務官僚・政治家。日本における林学博士第一号で、原敬首相を暗殺した犯人中岡艮一(こんいち)の大叔父に当たる。信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者中村元起二男として生まれた。中村家は代々高遠藩藩儒の家柄であった。詳しくはウィキの「中村弥六」を参照されたい。

「山田莊左衞門」(嘉永四(一八五一)年~大正六(一九一七)年)は政治家。信濃東江部(ひがしえべ)村(現在の長野県中野市)の大地主の息子として生まれた。十二代荘左衛門を襲名、北信商社の創立に参画、明治一三(一八八〇)年に県会議員、明治二十三年には貴族院議員、明治三十一年には衆議院議員となった。

「丸山名政」(安政四(一八五七)年~大正一一(一九二二)年)は政治家・官僚で実業家。信濃国須坂藩家老丸山兵衛次郎本政長男として江戸藩邸で生まれた。明治法律学校(明治大学の前身)卒業後、内務省地理局勤務を経て、自由民権運動に入り、嚶鳴社員として立憲改進党結成に参画、東京横浜毎日新聞記者・下野新聞主筆などを務めた後、明治一八(一八八五)年に代言人(現在の弁護士)となった。第二回・第八回の衆議院議員総選挙に当選、実業家としては日本証券株式会社社長・松本瓦斯株式会社取締役など、多くの会社の経営に参画、明治三六(一九〇三)年~明治三十八年には東京市助役も務めている(ウィキの「丸山名政」に拠った)。

「牧野毅」(弘化元(一八四五)年~明治二七(一八九四)年)は陸軍少将・大阪砲兵工廠提理(「主任」相当)。近代日本の砲兵術・製鉄事業の先駆けの一人。信州松代藩士大島規保次男として生まれた。ウィキの「牧野毅」を参照されたい。

「皆川四郎」(嘉永五(一八五二)年~明治四四(一九一一)年)は実業家。信濃国伊那郡中村(現在の長野県飯田市)の岩崎家に生まれたが、飯田城下の皆川家の養子となったウィキの「皆川四郎」によれば、『維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。渋沢栄一夫人の妹と結婚し、第一銀行に入行し、石巻支店長を経て、東京電灯会社支配人となる。また株式会社化した東京歌舞伎座』(第二期)を創立、明治三一(一八九八)年の第五回衆議院議員総選挙に長野県第七区から出馬し、当選している。

「兩角彦六」(慶応元(一八六五)年~明治四一(一九〇八)年)は信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に諏訪藩士の子として生まれた、司法官僚・弁護士で衆議院議員。ウィキの「両角彦六」から引く。明治一七(一八八四)年に『司法省法学校予科を修了』後、明治二十一年には『東京帝国大学法科大学を卒業した』。『判事試補、司法省参事官試補、宮城控訴院書記長、函館地方裁判所判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事を歴任』したが、明治二六(一八九三)年に『退官し、弁護士を開業した』。また、『和仏法律学校(現在の法政大学)の理事兼講師、明治法律学校(現在の明治大学)講師、専修学校(現在の専修大学)講師を務めた』。明治三五(一九〇二)年の第七回『衆議院議員総選挙に出馬し、当選』。第八回の同『総選挙でも再選を果たし』ている。]

 福島安正氏單騎遠征ノ偉業ヲ繼キ且(カツ)時勢忽(ユルガ)セニスヘカラサルヲ感シ東亜及南洋諸島探檢ノ事業ヲ企圖致シ候(サフラフ)遠征會については、全く私も人にこれを聞かなければならぬのである。私がいまたまたま手廻りにあつた明治二十七年一月十二日の信府日報(しんぷにつぱう)に、林政文(はやしまさぶみ)氏の出發今囘亞細亞大洲(だいしう)の跋渉(ばつせふ)を試むる長野町(まち)なる林政文(はやしまさぶみ)氏(松本町田生)は愈々來る十四日を以て長野を出發することに定めしといふ雜報記事を發見して、遠征會を結びつけて考へなぞしてゐる有樣(ありさま)である。

[やぶちゃん注:「信府日報」『信陽日報』が明治二四(一八九一)年に改称して出来た地方紙であるが、これが松本に於ける政党系新聞の走りとされている。東京経済大学山田晴通氏の講演記録「戦前における松本の日刊新聞-ユタ日報と同時代の小さな新聞を読む-」に拠った。

「林政文」現在、金沢に本社を置く「北国(ほっこく)新聞」の第二代社長林政文(明治二(一八六九)年~明治三二(一八九九)年)か。この人物も信州出身である。]

 

Hukusimayasumasa

 

(福島中佐の寫眞は手札(てふだ)型の物。裏面(りめん)に福島安正君松本彰※會(しやうくくわい)之印あり、□印(じるし)のところの文字は肉のつきわるく讀難(よみがた)し。私の父が持つてゐた物。(福島中佐の單騎遠征は明治二十五年である。)

[やぶちゃん注:「※」の部分は「」(太字ママ)の中に太字の「」の字が書かれた活字。このためにわざわざ活字を彫ったものと思われる。後の後の「□印のところ」とは「※」の部分を指す。「讀難し」と言っている割にはちゃんと示している。]

 座右の百科辭典に依れば、福島中佐は、

 福島安正(一八五二―一九一九)軍人嘉永五年信州松本に生る。慶應元年十四歳にして江戸に出(いで)て、講武所(こうぶしよ)に入りてオランダ典式を學び、後(のち)、大學南校に學んだが、家貧にして資給せざりしため學費を得る能はず故に私塾の教員となり或は身を林信立(はやしのぶたつ)、江藤新平等(ら)の家(いへ)に寄せて慘憺たる苦學を重ねた。江藤はその才氣の非凡なるを認めて明治二年司法省十三等(とう)出仕に補(ほ)したが七年陸軍省に移つて十一等出仕となつた。西南戰役には征討軍筆記生として從軍し、平定の後(のち)陸軍中尉に任ぜられ明治二十年少佐にて在ドイツ公使館武官に補せられ、二十五年任滿ちて歸朝するに當り單騎ベルリンを發し、露都(ろと)を過ぎウラルを越え、シベリヤより蒙古に入(い)り、再びシべリヤに歸り、黑龍江の氷上を渡つて滿洲に入り三度(たび)旦シべリヤを通つて二十六年六月浦鹽(うらじほ)に着いて歸朝したが、この壯擧により彼の名は内外に喧傳(けんでん)し、明治天皇 は勳三等を賜り、その壯擧を嘉賞(かしやう)し給ひ、國民また歡呼(くわんこ)して、彼を迎へた。その後(ご)幾度(いくたび)か歐亞を旅行して足跡殆ど世界の半ばに亙り、十箇國以上の語に通じ、軍部第一の地理學者と称せられた。日淸戰爭には參謀として出征、三十三年の北淸事變には少將を以て最初の日本(につぽん)軍司令官として出征、日露戰爭には滿洲軍參謀として出征して功あり三十九年參謀次長に補せられ、七月中將に進み四十年男爵を授けらる。四十五年四月關東都督に任ぜられ、大正三年九月十五日大將に進むとともに後備役(こうびえき)に入り八年二月十九日六十八歳で歿す。

――である。

 私は小學校の昔、福島中佐萬歳萬歳萬々歳(ばんばんざい)といふ唱歌を知つてゐた。悲しい哉、今日その唱歌も萬歳萬歳萬々歳といふところだけしかの記憶になつてしまつた。のみならず單騎遠征は日淸戰爭の二年前であるべきに、日露戰爭の二年前とまでも誤つて考へてゐたほどの盲(めくら)になつた。私の網膜に映るのはただ昔(むかし)上野の動物園でみた福島中佐の馬(中佐を乘せて西比利亞(シベリヤ)を橫斷してきた馬、)偶然松本に行つてゐてみてみた福島中佐の歸省姿(私の見たのは福島大將)である。

 明治二十七年一月十二日の信府日報には又郡司大尉一行の近況が掲載されてゐる。寫して備忘としておきたい。

[やぶちゃん注:「郡司大尉」郡司成忠(万延元(一八六〇)年~大正一三(一九二四)年)は海軍軍人で探検家・開拓者。海軍大尉を退いて予備役となり、一民間人として千島を目指すことにした。開拓事業団「報效義会」を結成して北千島の探検・開発に尽力した。小説家幸田露伴は弟である。彼の事蹟の詳細はウィキの「郡司成忠」を参照されたい。]

   ○郡司大尉一行の近況

 千嶋の占守(しゆむしゆ)、シャシコタン、擇捉(えとろふ)へ分住(ぶんぢう)して越年の準備中なりし那司大尉一行の近狀を聞くに占守嶋(しゆむしゆたう)なる大尉外七名は最初より食料の準備充分なる上相應の獲物(えもの)あり又シャシコタン島(たう)なる一團も食料は前程には充分ならざれど獲物も隨分多ければ孰れも心配無かるべし又擇捉嶋(えとろふたう)なる大尉一行の家族百餘人は各所に散在し居りしも最早冱寒(ごかん)の候(こう)に向ひたれば留別(るべつ)と紗那(しやな)との二箇所に集合する事となり留別の方は獨身者二十五人紗那の方は其他の八十餘人なり同島(どうたう)には豫(かね)て食料として米百四十俵の用意ある上に有志者の寄附金にて買入れたる米五百九十俵幷に海軍部内より寄附の米五十五俵も到着したれば都合七百八十五俵の米あるのみならず此百餘名の内には乳兒凡そ七八十人位(ぐらゐ)もある事ゆゑ食物は最早充分にして本年の初航海には占守(しゆむしゆ)へ向け其内の四十俵を送致する見込なるよし左(さ)れば各嶋(かうたう)とも目下(もくか)は航海の便(べん)杜絶して其後の狀況を知るに由なきも食料にして已に充分なれば孰れも無事に此寒氣を過ごすべしと云へり。

[やぶちゃん注:「占守」千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ロシア名はシュムシュ島(Шумшу)。ウィキの「占守島より引く。『サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある』。『元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる』。『島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている』。『南西から北東へ約』三十キロメートル、幅は最大で二十キロメートルの『大きさで、全体的に楕円形の島である。北東のカムチャツカ半島のロパトカ岬とは千島海峡』に、西の幌筵(ほろむしろ/ぱらむしる)島とは『幌筵海峡』によって『隔てられている』。『島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある』。海抜二百メートル『くらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。草原にはかつて日本人の住居があったが、現在は何も残っていない』。『現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない』。リンク先の「歴史」の項に、ここに記されてあるように、明治二六(一八九三)年八月三十一日に郡司成忠が創立した開拓事業団「千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)」の会員がこの島に上陸して越年している、とある。

「冱寒(ごかん)」「冱」は「凍る」の意。凍り閉ざされるほどの激しい寒さを指す。

「留別(るべつ)」留別村。ウィキの「留別村によれば、『現在の北海道根室振興局択捉郡に属する村』であるはずで、『村名の由来は、アイヌ語のル・ペッ(道・川)からで、日本で最も面積の広い村である』。但し、ロシア連邦が占領、実効支配中である。択捉島の凡そ西半分に相当する地域。

「紗那(しやな)」紗那(しゃな)村。択捉島中央に位置し、明治期の択捉島では最も栄えた地域であった。]

 

 追記。私はこの遠征會時代を書いた後で、雜誌明治文化に、田邊尚雄(ひさを)氏の「明治年間の亞細亞探檢紀行」が掲載されてゐるのを知つた。また明治廿六年十月に發行された、畫工(ぐわこう)香朝樓國貞(かうてうろうくにさだ)となつてゐる。單騎旅行福島中佐軍歌壽語祿(すごろく)と昭和十四年東亞協會發行の福島將軍大陸征旅(せいりよ)詩集も購(あがな)つた。明治廿九年の文藝俱樂部にある須藤南翠の小説今樣水鏡(いまやうみづかゞみ)は――千萬年の後(のち)までも印度洋(いんどやう)とやらを通る人は玆(こゝ)で日本帝國の軍艦畝傍(うねび)號が沈沒した其折には乗組一同潔よく隊を整へ色(いろ)も變らず溺死したと言ふであらう其隊長こそ我良人(をつと)海軍大尉波多忠澄(はたたゞすみ)と名は知らぬまでも自然に名譽となる譯柄(わけがら)其妻が未練に‥‥アヽ此上は紀念兒(きねんじ)の巖(いはほ)を我が力(ちから)で育上(そだてあ)げ良人(をつと)に勝(まさ)るとも劣らぬやうな海軍士官に――といふやうな、波多忠澄の妻を書いてゐるのではあるが、それに絡む惡漢有賀泰介(ありがたいすけ)は月並として、久兵衞巖(いはほ)を座敷に密(そつ)と下(おろ)しサア坊樣(ぼうさま)今御覽なすツた福島中佐の油繪のお話しをなさいまし坊樣も今に彼の通りにお成なさるのです、のあたりは大佐に進級してしまつてゐる福島安正の目に觸れたものなのであらうかなどと思ひもするのである。

[やぶちゃん注:「明治文化」吉野作造を中心に大正十三(一九二四)年に結成された歴史研究団体「明治文化研究会」(めいじぶんかけんきゅうかい)の機関誌『新旧時代』(のち『明治文化研究』と改題)の別称。

『田邊尚雄氏の「明治年間の亞細亞探檢紀行」』不詳。同姓同名で知られた東洋音楽学者がいるが、内容的に彼とはちょっと思われない。識者の御教授を乞う。

「明治廿六年」一八九三年。

「香朝樓國貞」浮世絵師三代目歌川国貞(嘉永元(一八四八)年~大正九(一九二〇)年)。「香朝樓」は号の一つ。

「昭和十四年」一九三九年。本書刊行の前年。

「須藤南翠」(安政四(一八五七)年~大正九(一九二〇)年)は伊予(愛媛県)出身の小説家。改進党系の政治紙『改進新聞』などに発表した政治小説で文名をあげ、後に『大阪朝日新聞』」に招かれた。事蹟はウィキの「須藤南翠がよい。

「今樣水鏡」明治二九(一八九六)年二月十日発行の『文藝俱樂部』(第二巻第三編)。署名は南翠外史(日本近代文学館編「文芸倶楽部明治篇総目次・執筆者索引」に拠る)。私は未読。読みたくも、ない。

「軍艦畝傍」大日本帝国海軍の防護巡洋艦で、フランスで建造された最初の日本海軍軍艦。明治一九(一八八六)年十月に完成、日本に回航される途中、同年十二月上旬、シンガポール出発後、行方不明となった。フランス人艦長ルフェーブル、飯牟礼(いいむれ)俊位(「としひら」と読むか)海軍大尉以下の日本海軍将兵及び駐日フランス人家族合わせて全乗客乗員計九十名の消息は未だ不明とウィキの「畝傍防護巡洋艦にある。

「波多忠澄」不詳。須藤南翠の創った仮想人物か?

「紀念兒」形見の嬰児の謂いか。

「巖(いはほ)」その忘れ形見の男の子の名前であろう。

「久兵衞」波多家の老僕か。直系親族の台詞とは一寸思われない。

「大佐に進級してしまつてゐる福島安正の目に觸れたものなのであらうかなどと思ひもするのである」実に下らんことを気にするところは実に小穴隆一らしいと思う。]

2017/02/18

柴田宵曲 妖異博物館 「山中の異女」

 

 山中の異女

 

 寛文元年五月、安藝國府川の深山に容顏美麗の女人が現れた。金襴の衣を重ね、人のやうでもあるが、また人でないやうなところもある。最初に發見した樵夫が驚いて山を下り、村中に解れ𢌞つたので、百姓が大勢山に入つてその姿を見た。天人影向(やうがう)かと覺えて、或者が近くに寄り、御名を名乘り給へと云つたところ、自分はこの山に住居する山女である、自分の住所が近日破滅の憂ひがあるため、今こゝに來てゐる、と答へた。たとひ何人にもあれ、捕へて國主の一見に供へよう、と云ひ出す者があつて、大勢立ちかゝると、その姿は搔き消すやうに失せてしまつた。近村の男女大勢、雲霞の如く山を圍み、山中隈なく搜したけれども、遂にわからない。翌日その山鳴動して、一方崩れ落ちたが、その崩れた跡に穴があり、恰も漆を以て塗つたやうであつた。近邊には大豆のやうな白土の玉が谷を埋めてゐた(本朝故事因緣集)。

[やぶちゃん注:「寛文元年」一六六一年。

「安藝國府川」現在の広島県府中市府川町(ふかわちょう)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「影向(やうごう)」現代仮名遣は「ようごう」で、神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨の意。

「白土」原典(次注リンク先参照)では「シラツチ」とルビする。

「本朝故事因緣集」作者未詳。元禄二(一六八九)年に刊行された、説法談義に供された諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。同話は「卷之五」の「百廿二 山女(やまじよ)出現」で、「国文学研究資料館」公式サイト内画像データベースのこちらから視認出来る。]

 山中に時折出現する女人は、多く神異的色彩を帶びてゐる。「醍醐隨筆」に記されたのは土佐國の話で、鹿を捕へようとして山中に入り、魔笛を吹いたところ、俄かに山鳴り騷いで、茅葦が左右に分れ、何者か來るけはひである。樹の間に陰れて鐡砲を構へてゐると、向うの伏木の上に頭ばかり見えたのが、色白く髮うるはしく、眉目晴れやかな美しい女であつた。頭から下は見えぬけれど、場所が場所だけに、その美しいのが寧ろ凄まじく感ぜられる。危く鐡砲を放つところであつたが、萬一打ち損じては一大事と、身動きもせずにゐるうち、かの首は暫く四方を見𢌞して引込んでしまつた。再び風吹く如く茅が左右に分れ、もと來た道へ引返したらしい。此方も恐ろしくなつて、後をも見ずに逃げ出したとある。

[やぶちゃん注:既に注した通り、私は「醍醐隨筆」を所持しないので、原文を提示出来ない。]

「奧州波奈志」にあるのは、菅野三郎といふ者、朝早く起きて薪を取りに山へ行くと、松山の木の間を髮を亂して歩いて來る女がある。何者であらうと見守るほどに、次第に近寄つて來て、松の上から顏をさし出した。色白く髮黑くはいゝが、朝日にきらきら光る眼は慥かに人間ではない。束ねかけた薪も、持つてゐた鎌も抛り出して逃げ歸り、その後この山へは行かなかつた。家に歸つて考へて見るのに、松山の梢から頭が出る以上、どうしても身の丈二丈ぐらゐなければならぬ。頭の大きさも三尺ばかりと思はれた。多分これが山女であらうといふことである。

[やぶちゃん注:「二丈」六メートル十センチ弱。

「三尺」約九十一センチ。

 以上は「奧州波奈志」の「三郎次」にある。以下に例の仕儀で示す。【 】は原典の割注。

   *

 

     三郎次

 

 又爰なる家人に、菅野三郎次といふもの有し。【若きほどの名なり。今は三力と云。】知行は平地にて、【大みち】一里[やぶちゃん注:これは現行の一里、三・九キロメートル強相当。]の餘をゆかねば山なし。故に薪に不自由なれば、十六七の頃、さしたる役もなき故、朝とくおきて、一日の薪をとりにいつも山に行しに、ある朝、松山の木の間より、女の髮をみだしてあゆみくるを見て、いづちへ行ものならん、髮をもとりあげずして、早朝にたゞ壱人、爰を行はと、心とゞめてまもりをれば、こなたをさして、ちかよりこしが、松の上より頭ばかり出て、面(おもて)が見あはせしに、色白く髮は眞黑にて末はみえず、眼中のいやなること、さらに人間ならず。朝日に照て、いとおそろしかりしかば、つかねかけたる薪も鎌もなげすてゝ、逃歸りしが、二度その山にいらず。家にかへりておもひめぐらせば、松山の梢の上より頭の出しは、身の丈二丈もやあらん。頭の大さも三尺ばかりのやうにおぼえしとぞ。これ、世にいふ山女なるべし。

   *]

「甲子夜話」にある神遊行(しんゆぎやう)といふのは、立花家の臣某が、明け方山狩りに行くと、平素來馴れた路に、殊の外いゝ香が濡つてゐる。怪しみながら行くほどに、人の丈ばかりも茂つた茅原が、風もないのに

自ら左右に分れ、何者か山を下つて來るやうなので、思はず傍に寄つてこれを避けたが、地を離るゝ

こと八九尺と覺しきところを、端嚴微妙、檜に蓋いたやうな天女が、袖を飜しながら麓をさして爽る。

錬砲を倒し平伏してゐたら、天女が一町ばかりも過ぎたらうと思ほれる頃、漸く人心地がついた。そ

れから狩り暮したけれども、遂に一物を獲ず、またもとの路に出た時、麓の方より茅が左右に分れ、

天女は奧山に還られる樣子であつた。この話は前に引いた「醍醐隨筆」の記載に似たところがある。「醍醐隨筆」では首だけ出してあたりを見廻すところを、全然一顧も輿へず、茅を分けて凍り、茅を分けて去るのが如何にも紳遊行にふさほしい。

[やぶちゃん注:以上と次段及び次々段のそれは総て「甲子夜話」の「卷之十二」の「筑後の八女津媛(やとつめひめ)の事 幷(ならびに) 神女の事」である。以下に示す。【 】は原典の割注。平仮名の読みは私が推定して附加した。漢文訓点は参考底本としている東洋文庫のそれをほぼ再現したが、一部におかしな箇所があるので、そこは私が正しいと思うもので訂した。

   *

或人の曰、三十五六年前柳川侯の【筑後の領主】公族大夫に立花某と云あり。其領せる所を矢部(ヤベ)と云ふ。此地古(いにしへ)は八女(ヤメノ)県(あがた)と云しなり。又八女(ヤメノ)國とも云しこと『日本紀』に見ゆ。其山は侯の居城の後まではびこりし高山と云ふ。或日大夫の臣某、山狩に鳥銃(つつぱう)を持、拂曉(ふつげう)に往(ゆき)しに、常に行馴(ゆきなれ)たる路殊の外に異香(いかう)薰(くん)じたれば怪みながら向(むかふ)さして行(ゆく)ほどに、丈(たけ)計(ばかり)も生立(おひたち)たる茅原(かやはら)の人もなきに左右へ自(おのづか)ら分れ、何か推分(おしわけ)て山を下るさまなれば、傍へに寄てこれを避(さく)るに、人は無くて地を離るゝこと八九尺と覺しきに、端嚴微妙まことに繪がける如き天女(てんによ)の、袖ふき返しながら麓をさして來(きた)るなり。因て駭(おどろ)き鳥銃(てつぱう)を僵(たふ)し平伏してありしが、やがて一町も過たりと覺しき頃、人心地(ひとごこち)つきて山に入り狩(かり)くらしたれど、一物をも獲ずして復(また)もとの路に囘(かへ)るに、麓の方より又茅(かや)左右に偃(ふし)て今朝のさまなれば、路傍に片寄り避てあるに、かの天女は奥山さして還り入りぬ。人々奇異の思をなしたりとなり。又彼(かの)藩の臼井省吾と云しは博覽の士なりしが、是を聞てそれぞ『日本紀』に見ゆる筑紫後(ノミチノシリノ)國の八女(ヤトメ)県の山中に在(おは)すと云(いふ)八女津媛(ヤトツメヒメ)ならんに、今に至て尚其神靈あるなるべし。景行紀、十八年秋七月辛卯朔甲午【四日也】〕到筑紫後(ミチノシリノ)國御木タマフ於高田行宮(カリミヤ)、丁酉【七日也】到八女(ヤメノ)県。則前山以テ南望粟ノ岬、詔シテㇾ之、其山峰岫重疊シテ美麗之甚シキ、若クハ神有。時水沼(ミヌマノ)県主猿大海(サルオホミ)奏シテ、有女神八女津媛(ヤトツメヒメ)。常レリ山中。故八女(ヤメノ)國之名由ㇾ此レリ也。是を證すべし。

又八九十年にも過(すぎ)ん、予が中に大館逸平(おほだていつぺい)と云(いへ)る豪氣の士あり。常に殺生を好み、神崎と云ふ処の【平戸の地名】山谿(さんこく)に赴き、にた待(まち)とて鹿猿の洞泉に群飮(ぐんいん)するを鳥銃(てつぱう)を以て打(うた)んとす。此わざはいつも深夜のことにして、時は八月十五日なるに、折しも風靜(しづまり)月晴(はれ)、天色淸潔なりしが、夜半にも過んと覺しきに、遙に歌うたふ聲きこへければ、かゝる山奥且(かつ)深夜怪しきことと思ふうち、やゝ近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の空中を步み來れり。その歌は吹けや松風おろせや簾(すだれ)とぞ聞へける。逸平卽(すなはち)鳥銃(てつぱう)にて打(うた)んと思(おもひ)たるが、流石(さすが)の剛強者(がうきやうもの)も畏懼(ゐく)の心生じ、これを僵(たふし)て居(をり)たれば、天女空中にて、善(よ)き了見(りやうけん)々々と言(いひ)て行過(ゆきすぎ)しとなり。是(きれ)らも彼の八女津媛(やとつめひめ)の肥の國までも遊行(ゆぎやう)せるものか。又前さき)の逸平の相識(あひし)れる獵夫も、平戸嶋志自岐(しじき)神社の近地(きんち)の野徑(のみち)を深夜に往行(わうかう)せしに、折から月光も薄く、人に逢(あひ)たり。獵夫乃(すなはち)これを斬(きら)んと思(おもひ)たるが、頻(しきり)に懼心(くしん)生じ刀を拔得(ぬきえ)ずして過(すぐ)したり。是より深夜に山谷(さんこく)をば行(ゆく)まじと云しと語傳(かたりつた)ふ。亦かの神遊行(かみゆぎやう)の類(たぐひ)か。

   *]

「甲子夜話」が擧げたもう一つの例は、神崎といふ平戸の山谿の話である。大館逸平といふ者、常に殺生を好み、鹿や猿の水を飮みに集まるのを錢砲で擊つ。この獵は深夜に限るのであつたが、十五夜の月明の空に遙かに歌聲が聞える。かゝる山奧に、夜半を過ぎて何事と思ふうちに、歌聲は次第に近付き、天女と思はれる端麗な婦人が空中を步み來つた。その歌の文句は「吹けや松風おろせや簾」といふやうである。はじめは鐡砲で擊つつもりであつたが、さすがに畏懼の心を生じ、銃を倒してゐると、天女は空中で「よき料簡々々」と云つて行き過ぎた。立花家の臣の遭遇した神は、筑後國八女郡の山中に在す八女津媛であらうといふ説があるが、同じ神の肥前まで遊行せらるゝのであらうかと「甲子夜話」は記してゐる。

[やぶちゃん注:「水」「たにみづ」と訓じておく。

 大館逸平のよく識つてゐる獵師は、平戸嶋志岐神社の近くで容貌正しい婦人に出違つた。時は丑の刻(午前二時)で、月の光りも薄かつたのに、衣裳は鮮明に見えたさうである。獵師は怪ならんかと疑ひ、一たび斬らうとしたが、頻りに懼心を生じ、刀を拔くことが出來ず、もうこれから深夜に山谷を行くことは止めると云つた。これもまた神遊行の類かも知れぬ。

「想山著聞奇集」の「狩人異女に逢たる事」は、大體に於て「甲子夜話」の第一の例に近いが、場所は信州御嶽山の麓である。夜明けの篠竹を分けて來る女人を變化(へんげ)と思ひ込み、鐡砲を構へてゐると、そなたに告げたい事がある、と云つてこれを制し、次第に近付いて來たのは、容貌美麗なる十六七の少女である。自分は飯田領何村の何某の娘である、十三年前の七月、川へ物洗ひに行つた際、遁れられぬ因緣あつて山へ入り、山の神となつた、故郷の父母はこれを知らず、その日を忌日として供養してくれるのは忝いが、自分にはそれが却つて障礙になつてゐる、來年は鈴鹿山の神になる順序のところ、この七月は十三囘忌といふことで、また佛事供養などを營まれると、鈴鹿の神となることも叶はぬ、どうか父母に逢つて、この子細を告げ、今後佛事は勿論、佛供一つも供へぬやうにして貰ひたい、と云ひ了つてその姿は消え失せた。狩人奇異の思ひをなし、狩裝束を脱ぎ捨てて信州に赴き、云はれた通りをその父母に告げた。娘が家を出たのは十六歳の時であつたが、狩人の前に現れた姿も十六歳ぐらゐに見えた。その容貌のあでやかな事は、人間とは思へなかつたさうである。狩人はこの女神から殺生をやめよと云はれたことを深く肝に銘じ、名古屋に出て武家奉公などをし、遂に江戸に來て市ケ谷自稱院の道心坊となつた。時代は寛政か享和頃といふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:「障礙」「しやうがい」。障害・障碍に同じい。

「自稱院」原典(後掲)では『自證院』である。

「寛政か享和頃」寛政は享和の前であるから、一七八九年から一八〇四年の間。

 「想山著聞奇集」のそれは「卷の參」の「狩人(かりうど)、異女(いぢよ)に逢(あひ)たる事」である。以下に示す。【 】は原典の割注。図も添える。

   *

 

Kariudoijyoniahu

 

 狩人異女に逢たる事

 

 市谷自證院に西應房と云道心坊主有て、老年なれども筋骨健にして、朝飯後、直に股引草鞋にて、山内の草を取、木をきり、或は木の葉を拾ひよせ、働く事、若き男どもよりは遙かに增りて、終日働き居て、遂に右院にて沒したり。【臨終に來迎往生をなしたり此事次の卷に記し置ぬ。[やぶちゃん注:これは次の「卷四」に「西應房、彌陀如來の来迎(らいがう)を拜して往生をなす事」として載る。但し、面白いのは、彼が来迎往生したこととここに語られるマタギ時代の本体験を直接に繫げていない点にあり、この本地垂迹を否定しつつも殺生の悪しきを諭す女神に対し、殺生をやめるだけではなくて出家してしまい、しかも弥陀の来迎を目出度く迎えて往生したとする猟師の後日談の展開が私にはすこぶる面白いのである。]】此西應房は、尾張の國中嶋郡一の宮の産なれども、少年より狩を好み、飛驒の國に行て狩人と成、信州は勿論、美濃・加賀・越前・越中等までも、山續きに渡り步行て、狩暮したれども、怖しかりしと思ひし事もなかりしに、或時、打續き餘り獲物なき故、里へも歸らずして、御嶽山の麓の方へ深くわけ入、其所に夜を明し、朝の歸り猪にても躵はん[やぶちゃん注:「ねらはん」。狙おう。]と曉を待居て、夜も明方に成、東も少ししらみ懸る頃、小高き峯へ上り、獸や來ると四方を見𢌞し、明るを遲しと待居たるに、遙向の御嶽山の方より、篠竹を分て來る者あり。其樣子、何とも見極めかね、甚だ不審に思ひて能々見れば、女にて、段々此方を目懸て來れり。此深山に、假令童にても、女の行かふべき理なし。まして、斯明方などに、女の來る道理、絶てなき筈也。今迄は、運能く斯のごときの變化に遭ざりしに、今來るものこそ尋常のものに非ず。川だち川にて果るの諺は此事にて、我運命も是までにて、今を限りと成たることと知られたり。去ながら、天魔にもせよ、鬼神にもせよ、手を束ねて取殺さるゝは拙し、運は天に任せて一勝負なし、假令、如何成天魔鬼神にても、一打にうち殺さんと、一大事の時に用る鐡の錬ひ玉を出して鐡砲に込直し、矢比[やぶちゃん注:「やごろ」。打ち放つに最もよい距離。言わずもがな、弓の用語を鉄砲に使ったのである。]に成を待居たるに、【此錬ひ玉と云は、一玉に壹萬遍念佛を唱へながら錬ひ揚げたる玉也、此玉を持居て身の守りとし、一所懸命の危急の時にもちゆる玉なりと。】かの女は、次第に篠を分、近より來るまゝ、はや打留んとせし所にいたりて、彼女、聲を懸ていひけるは、先、鐡砲を止られよ、我は申事有て來る者也、努ゆめ)々災ひをなすものに非ず、そこ迄參るべし、其樣に躵ひ給ふては、我申事も聞えがたかるべしと云。其聲もしとやかにて、常の人にかはらねば、狩人も少しは心も弛みて、女の云よしをもきかばやと思ひて、近づく儘に、能見れば、容貌美麗なる十六七斗の少女也。然ども、此少女、かくは云居ながら、油斷させ、如何成目をか見せん手段にや。何にもせよ、實の人間の來る所に非ず、殊にかく斗り美敷[やぶちゃん注:「うつくしき」。]人間の有事をしらず。旁[やぶちゃん注:「かたがた」と訓じておく。]、こなたよりも方便(たばかり)て打取べしと、心に油斷なく息ひ込居る故、彼女、又云やう、兎角、我を打んと思はるれども、假令、如何成手練にても、我は錢砲などにて打るゝものに非されば、心を靜て聞給はれと云故、勇氣もたゆみ、且は何れにも詳を聞べしと、漸く打留る心を止たり。其時、少女のいひけるは、我は飯田領なる何村の何某の娘也、今より十三年已前の七月の事なりしが、近きわたりの川へ物洗ひに行しに、連れぬ因緣の有て、其儘、山に入て山の神と成たり。然ども、故郷に告るよしなければ、父母は是を知らず、其日を我忌日として、常々懇に吊ひ、供養などなし給ふて、甚だ忝き事ながら、わが爲には、却て夫が障碍と成なり、我既に此所に在て、年ころ功を積たれば、來年は鈴鹿山の神と成て、一級の昇進をも得る事と成れり。然るに、此七月は十三囘忌に當れば、又、故郷にて佛事供養をもなし、我跡を吊ひ給ふべし、左すれば、夫が障りと成て、來年、鈴鹿の神と成事、叶ひ難し。此ことを父母に告知らせ度思へども、告る事叶はず。又、誰有て賴むべき人もなし。是を父母に告貰んは、其許ならではなしと、日頃心に込置たり。依て偏に來み參らするまゝ、何卒、故郷へ行、父母に對面て、懇に此事を告て、以來は我爲に、佛事はさら也、佛供一つ備へ呉給はぬ樣に傳へくれられよとて、女は失去たり。誠に奇異の思をなして、夫より早々宅へ歸り、狩裝束をぬぎ捨て、信州へ趣き、かの父母を尋て、此事を具に告るに、今に存命成事かと、父母も初て知りて、且は驚き、且は怪みたりとぞ。此女、家を出たるは十六歳の時にて、西應房の逢しは十八年經ての事なれども、失張十六斗の少女に見え、其容貌のあでやかなる事は人間とは思へざりしといへり。これを考ふるに、仙女の容貌の美麗なる、或は女躰の御神の艷色無量に渡らせ給ふなどゝ同じ事と見えたり。扨、此少女の申には、纔の露命を繫ぐとて、我一命に懸て、朝暮、猛獸と勇を爭ひ、晝夜、物の命を取るを業となすは、己の罪業を己と增わざ也、渡世は是のみにも限るまじ、餘事をなして世を渡り給へと示せし由。此事、能々心魂に徹せしにや、是より發心して、狩人をやめて名古屋へ出て、武家奉公などをなし、夫より江戸へも來り、後に自證院へ入て道心房と成て身まかりたり。予、以前、彼寺へ常々親敷[やぶちゃん注:「したしく」。]行し時、此僧に逢て、篤と[やぶちゃん注:「とくと」。]と此事を尋置べしと思ひつゝ打過て、其内に、なき人となりしは殘り多し。同院の隱居念阿院【此册の初ケ條[やぶちゃん注:「はじめがじやう」。]に云置樽常偏阿闍梨の事也。[やぶちゃん注:「卷の參」の巻頭の「元三(げんさん)大師誕生水、籾(もみ)の不思議の事」に登場しており、この自證院の『文政年間の院家なり』という割注が附されてある。]】抔も、此話は能知居給へども、年月、村郷の名などは忘れたりと申されき。外に寺内に誰も覺え居るものなく、殘り多し。何れ彼僧の若き時の事故、寛政か享和ころの事と知れたり。

   *]

 神自ら姿を現じ、自分の身の上話をして、故郷への傳言を賴むなどといふのは、この類話の中に一つもない。篠竹を分けて現れ、搔き消すやうに失せるあたり、正に型の通りであるが、「甲子夜話」の神遊行の如き神韻縹渺たる趣は缺けてゐる。右に擧げた或者は神に近く、或者は怪に近く、一概に論じがたいけれど、出現の段取りは共通するところが多い。もう一つ參考のため、「甲子夜話」の第三例に近い小佛峠の話を「梅翁隨筆」から擧げよう。こゝに出て來る百姓與右衞門なる者は、肥前國嶋原領の男であるが、所用あつて江戸へ出、甲斐國龍玉村の名主を尋ねるため、小佛峠を越えた。俄かに日が暮れて道もわからず、あたりに家もないから、是非なく步いて行つたら、神さびた社のところに出た。今夜はこゝに一宿することにして、次第に夜も更け渡つた頃、年の頃二十四五位と思はれる、賤しからぬ女が現れ、與右衞門の側近く立𢌞ること數度である。これは化生(けしやう)の者に相違ない、近寄つたら一打ちにしようと思つたが、五體がすくんで全く動かぬ。女が少し遠ざかれば自由になり、近寄ればまた動けない。そのうちにだんだん近付いて來る模樣だから、或は食ひ殺されるかも知れぬ、それはあまり殘念だと、思ひ切つて女の帶をしつかり銜へた。その時女は恐ろしい顏になつて、今にも食はれさうであつたが、途端に身體が自由になつたので、脇差を拔いて切り拂ふ。女の姿は消えてしまつた。倂し考へて見ると、この神が人を厭ひ給ふこともあるかと氣が付き、直ちにそこを去つて夜道を急いだ。その後は甲州に到るまで、何の怪しいこともなかつた。――この話は神と怪との中間に在る。平戸の獵師が斬らんとして斬り得なかつた話に比べても、慥かに怪に一步近付いてゐるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「小佛峠」「こぼとけたうげ」は高尾山北側の山麓を貫く旧甲州街道内のの峠。現在の東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の間にあり、標高は五百四十八メートル。

「數度」「あまたたび」。

 以上の「梅翁隨筆」のそれは、「小佛峠の怪異」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。本文文頭の柱の「一」は除去した。

   *

  ○小佛峠怪異の事

肥前國島原領堂津村の百姓與右衞門といふもの、所用ありて江戸へ出けるが、甲州巨摩郡竜王村の名ぬし傳右衞門に相談すべき事出來て、江戸を旅立て武州小佛峠を越て、晝過のころなりしが、一里あまり行つらんとおもひし時、俄に日暮て道も見えず。前後樹木生茂りて家なければ、是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、賤しからぬが步行來り、與右衞門が側ちかく立𢌞る事數度なり。かゝる山中に女の只壱人來るべき處にあらず。必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、五體すくみて動き得ず。こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。又近よる時は初のごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り來る故、今は我身喰るゝなるべし。あまり口おしき事に思ひければ、女の帶を口にて確とくわへければ、この女忽ちおそろしき顏と成て喰んとする時、身體自由に成て脇ざしを拔て切はらへば、彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。扨おもひけるは、此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。其後は怪敷ものにも出合ずして、甲斐へいたりぬとなり。

   *]

「閑田次筆」の獵師は寶寺の下に住む者である。その後他へ移つたが、或朝猪を狙つて山に入り、思ひがけず容顏美麗の女に逢つた。所がら怪しく思ひ、あとをつけて行くと、女はしづかに小倉明神といふ社(やしろ)をめぐる。獵師も共にめぐるうち、その女が見返つた顏を見れば、眼が五つある。驚いて走り歸り、ふつと殺生をやめて百姓になつたが、ほどなく足腰が立たなくなつた。これは神社が出て來る點で、平戸の話及び小佛峠の話に似てゐる。たゞ五つ眼といふやうな異形の話は、他にないところで、先づ怪と見る外はあるまい。

[やぶちゃん注:「寶寺」「たからでら」で、現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(ちょう)大字大山崎字銭原(ぜにはら)にある真言宗宝積寺(ほうしゃくじ)のことか。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「閑田次筆」の「卷之四 雜話」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。頭の柱「○」を除去した。

   *

此筆記を草する時、山崎の者、ことのついでにかたらく、寶寺の下に住ける獵師、鐵炮甚だ上手にて、飛鳥をもよくうち落せしが、後其近村山家(ヤマガ)といふへ移(ウツ)り住て、一朝猪をねらひて山へ入しに、おもほえず容顏美麗の女にあへり。所がらあやしけれども從ひゆくに、小倉明神とまうす社をめぐる。おのれも共にめぐりしに、彼女吃(キ)と見おこせ睨(ニラミ)たるを見れば、限五になりたり。驚きて走(ハシ)り歸り。此後殺生を止(トヾ)め、農業をつとむ。されども從來の罪によりてや、ほどなく足腰不ㇾ起(タヽズ)。子は二人有しも、一人は早世し、一人は白癩(シロコ)にて、あさましき者なりといへり。常に見聞に、鳥屋には支離(カタハ)もの多、あるひは終をよくせざるもの多し。さるべき道理なり。

   *

「シロコ」は「白癩」の左意訳を示すルビ。本来は「びやくらい(びゃくらい)」と読んでいよう。多様な皮膚変性症状を呈するハンセン病の一つの病態の古称。身体の一部或いは数ヶ所の皮膚が斑紋状に白くなる症状のものを指した。]

芥川龍之介の幻の作品集「泥七寶」のラインナップを推理して見た――

 

 小穴隆一の「鯨のお詣り」の「影照斷片」のここ を読むと、どうしても推理して見たくなるのである。この時点で芥川龍之介が平安朝物ばかりを集めた幻の作品集「泥七寶」に収録しようとした作品はなんだったのか?

 この前の彼の作品集は第六作品集「春服」(大正一二(一九二三)年五月十八日春陽堂刊・収録作品十五篇)が、

「六の宮の姫君」・「トロッコ」・「おぎん」・「往生繪卷」・「お富の貞操」・「三つの寶」・「庭」・「神神の微笑」・「奇遇」・「藪の中」・「母」・「好色」・「報恩記」・「老いたる素戔嗚尊」・「わが散文詩」

で(下線やぶちゃん。これが純然たる王朝物四篇)、他に切支丹物三篇・古代物一篇・開化物一篇・中国物(「奇遇」。但し、現代物入子形式)・開化物一篇でこれら歴史小説が計十一篇、それに現代小説が三篇と童話一篇で、これまでの芥川龍之介の面目たる、歴史小説集の体裁を維持していると言える。

 ところが、この、ぽしゃった「泥七寶」の直後に出た、第七作品集「黃雀風」(大正十三年七月新潮社刊・収録作品十六篇)では、

「一塊の土」・「おしの」・「金將軍」・「不思議な島」・「雛」・「文放古」・「糸女覺え書」・「子供の病氣」・「寒さ」・「あばばばば」・「魚河岸」・「或戀愛小説」・「少年」・「保吉の手帳から」・「お時儀」・「文章」

で、「おしの」「金將軍」「糸女覺え書」の三篇のみが歴史小説で、しかもこれは近世初期を舞台とするものであり、それ以外は現代小説で埋められ、芥川龍之介の創作志向表明の方向転換が明確に打ち出されていることが判る。

 しかも前回の「春服」刊行以降、芥川龍之介は新たな本格物の王朝物を書いていないのである。

 則ち、芥川龍之介がこの時期、平安朝物ばかりを集めた作品集「泥七寶」を刊行しようと思ったのは、そうした、文壇への進出と流行、そこで中心核としてきた或いはされてきたところの歴史小説に仮託した創作姿勢への、一つの訣別の記念としての標(しるべ)、墓標としての意味があったと私は考える。

 では、そうした観点から、収録を予定していたものは何であったか?

 これはそうした彼の歴史小説作家としての前半生へのオマージュである以上、先行する単行本所収との重複や未完成の除外(禁則)はまずは無視してよいであろう(それらも候補としてよいということ、である)。さらに作品集の標題を「泥七寶」と称した以上、芥川龍之介は自作遺愛のそれから「泥七宝」と呼ぶに相応しい独特の色に変じた七篇を選んだと考えて自然であると思う。実は芥川龍之介の平安時代を舞台とした本格的な王朝物は前期に集中し、しかも意想外にそう多くはない。

 

「羅生門」・「鼻」・「芋粥」・「道祖問答」・「運」・「偸盗」・「地獄變」・「邪宗門」・「龍」・「往生繪卷」・「好色」・「俊寛」・「藪の中」・「六の宮の姫君」

 

十四篇が、幻の作品集「泥七寶」収録予定作品の候補の最大公約数と私は考えてよいように思う。

 まず消去法で行こう。この内、まず「邪宗門」は確実に除外される。何故なら、この未完中断作品を芥川龍之介はわざわざ既に未完のまま単独一作で大正一一(一九二二)年阿一一月十三日に春陽堂から単行本化しているからである。

次に除外される可能性が高いのは「龍」であろう。芥川龍之介は藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月『新潮』)で、『樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた』と世間に告白してしまっているからである(リンク先は私のテクスト)。これは龍之介のダンディズム、否、矜持からも絶対に入れられない(私は個人的には入れたいが)

 次に芥川龍之介が必ず選ぶであろうものを考える。

 実際の公的処女作であり、第一作品集の標題ともした「羅生門」は絶対で、漱石絶賛の「鼻」も勿論、その漱石の激励に応えた「芋粥」(当時も今もやや失敗作とされることが多いが、瘧に彼に強い愛着があるはずである)も外せない

 未完と言えるピカレスク・ロマン「偸盗」も龍之介は愛したし(彼の手帳メモなどから明らかに続篇執筆の強い希望があったことが判る)及び、自他共に力作の自信作であった、自身に擬えられたような芸術至上主義者の破滅を描く「地獄變」も当然の如く選ぶと考えねばならぬ。

 「藪の中」は私的な愛憎からも必ず入集したであろう。

 ここまでで六篇。残り一篇をどうするか。

……「道祖問答」……「運」……「往生繪卷」……「好色」……「俊寛」……「六の宮の姫君」…………

 私なら迷わずに「六の宮の姫君」(大正一一(一九二二)年八月『表現』)である。これはまさに王朝物の最後の作品であるが、長く評価の悪い一作であった。私はこの作品はまさに芥川龍之介の王朝物群の中で、〈滅びの美〉ならぬ〈滅びの生の実相〉を描いた鬼気迫るものとしてすこぶる偏愛する作品だからである。

 以上、

 

私の幻の芥川龍之介の王朝物作品集「泥七寶」七篇(推定)のラインナップ――

 

「羅生門」

「鼻」

「芋粥」

「偸盗」

「地獄變」

「藪の中」

「六の宮の姫君」

 

である。これなら、絶対、私は買う。買いたいし、続けて読んでみたい。

 どうぞ、皆さんもオリジナルな芥川龍之介作品集「泥七寶」を、これ、お考えあれかし――

2017/02/17

小穴隆一「鯨のお詣り」(55)「影照斷片」(13) / 「影照斷片」~了

 

         ○

 

 彼にあつて志賀直哉は別格である。

 自分にあつては、文藝生活に於ける彼に絲(いと)を投げかけた者を、漱石、潤一郎と信ずる。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「芥川・志賀・里見」の原型の一部。]

 

         〇

 

「互(たがひ)にただの鼠(ねづみ)でないと人に思はれてゐるのがつらい。」

 仙臺の宿で、醉餘(すゐよ)の里見弴(とん)はかう搔口説(かきくど)いて彼に言つたといふ。

「君も僕もただの鼠でもない者が、ただの鼠ではないと思はれてゐる。」

 講演旅行から歸つて自身の室(へや)に這入(はい)るなり、彼は自分にさう言つて悄然としてゐた。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「芥川・志賀・里見」の原型の一部。]

 

         ×

 

Akutagawazoujyouhaitizukujiraban

 

[やぶちゃん注:底本では前の「×」と以下の文章全体がポイント落ちで、更に以下の文章は本文四字下げ下インデントである。ルビは一切附されていない。芥川龍之介の告別式の配置図は「二つの繪」版の「芥川の死」に挿入されているそれ()よりも大きな上に、版が異なるので底本のものを新たにスキャンしてここに示した。]

 

 二三二頁は昭和二年七月二十七日午後三時より行はれた下谷區谷中齋場に於ける芥川龍之介告別式場の見取圖である。菊池寛が友人代表として弔詞を讀んだ。

「芥川龍之介君よ、君が自ら選み、自ら決したる死について吾等何をかいはんや、たゞ吾等は君が死面に平和なる後光の漂へるを見て甚だ安心したり。友よ安らかに眠れ‥‥」

 と一言讀んで聲をのみ二言讀んで淚を拭ひ、終に聲をたててさへ哭いた。滿場涕位した。

小穴隆一「鯨のお詣り」(54)「影照斷片」(12)

 

         ○

 

 七月二十一日に、彼が、金はいらぬかと言つてゐたその金の高は自分にも不明である。が、彼の死後時に遇(あ)つてうなづけた。――死ぬる三日前(かまえ)に改造社から千圓を借りてゐる。何の爲それを彼が要した金であつたか。さうけげんに思つた改造社の者の言葉は、自分にもけげんではあつたが事の合點(がてん)が出來た。家人にも祕(ひそ)かにしたその金を彼が持つて、左翼の人に夜へてゐると知つたのはそれ以後の日(ひ)に斯(お)いてではあるが、その彼についてのM女は、「えゝ、わたしにはそんな事も言つてゐました。」と返事した。千圓の金が其儘(そのまま)に二三日の間に消えてゐる。噂の彼を自分も認めはする。殊に當時の新聞の三面には、生活難に死んだ人達の記事が多かつたと考へるが、全く淚を流して、「自分は斯ういふ人達の事をみるにつけても、かうやつて自分が生きてゐることがすまないと思ふ。」と、言つてゐた晩年の彼の、來(く)る朝每(ごと)の嘆きを見知つてゐるからである。

「僕も、あの時は、あゝいふ風になると、自分も矢張り、つくづく、勳章が欲しいと思つたよ。」

 何かの時に淸浦(きようら)伯(はく)と席を共にした事のある彼はさう語つてゐた。その頃の彼は、(死ぬ話)の出なかつた時代の彼である。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「千圓の金」の原型。本書で先行する「最後の會話」も参照されたい。

M女」平松麻素子。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(53)「影照斷片」(11)

 

         ○

 

 本を裝幀してゐるが如くに、墓をも積むと言ふのである。但し、棹(さを)の無い石塔を彼は空想してゐた。彼の註文どほりにゆけば、上野公園などに見るロハ臺(だい)の如き物の小なる物が出來(しゆつらい)する。それがよろしい。誰れにでも腰掛けられるものであつて欲しいと答へてゐた彼であるが。

 墓を彼のために考案するに當つて、臺石を平素彼が敷いてゐた二枚の座蒲團(ざぶとん)の寸法に倣(なら)つて定め、全體の型は推(お)していつた。卷紙に圖を畫(か)いて殘した、彼自身家族に示すところの如きものとは、赴(おもむき)を異(こと)にしたかと思ふ。自分が常常(つねづね)彼の墓に御無沙汰してゐるのは、憖(なま)じひに、彼の註文を受けて、墓石(ぼせき)の文字まで、自分の惡筆を刻ませてしまつてゐるからである。

[やぶちゃん注:「出來(しゆつらい)」のルビはママ。

「ロハ臺」「只(ただ)」を分解してカタカナに変え、座るにタダであることから、公園などに設けたベンチの謂い。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(52)「影照斷片」(10)

 

         ○

 

 一、若(も)し集を出すことあらば、原稿は小生所持のものによられたし。

 二、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄(かいちう)したれば)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。

 この間(あひだ)の文字を見る。人はそこに、妻の爲にと告げおく事の彼の背後を搜すであらう。「自分が勝手な事をしておいて、勝手な事が言へや義理ではない。」「自分のやうな人間が『死後』の如き物を書いた事は間違(まちがひ)である。」と、言てゐた彼を、彼は其儘(そのまま)傳へて殘してゐる。

 ――集を出すことのために、訂正を試みた彼の筆(ふで)を二三の箇所に示す芥川龍之介集(現代小説全集、新潮社版(はん))を自分は所持する。これ亦その箇所を示す「夜來の花」は、彼の遺族の所有となつてゐる。自分の「夜來の花」は間違つて彼の死後も其儘に彼の家(いへ)に留り彼の「夜來の花」が自分の家に移つた。

[やぶちゃん注:前半部分は「二つの繪」版の妻に對する、子に對するに使用されている。

「芥川龍之介集(現代小説全集、新潮社版)」死の一ヶ月半後の九月十二日に新潮社から刊行された。因みに、新潮社は芥川龍之介の遺書によって土壇場で理不尽にも生前の全集刊行の契約を破棄されている。 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫を参照されたい。

「夜來の花」は中国特派旅行の直前(東京出発大正一〇(一九二一)年三月十九日)の三月十四日に新潮社から刊行された芥川龍之介の第五作品集。収録作品は「秋」「黒衣聖母」「山鴫」「杜子春」「動物園」「捨兒」「舞踏會」「南京の基督」「妙な話」「鼠小僧次郎吉」「影」「秋山圖」「アグニの神」「女」「奇怪な再會」の十五篇。これ以降、龍之介の作品集の殆んどの装幀を小穴隆一が手掛けることなった。

『その箇所を示す「夜來の花」は、彼の遺族の所有となつてゐる。自分の「夜來の花」は間違つて彼の死後も其儘に彼の家(いへ)に留り彼の「夜來の花」が自分の家に移つた』この部分はやや解り難いが、芥川龍之介は非常にマメで、小穴がここで述べているように、初出誌や初刊の単行本に後から訂正や改稿を手書きで加えたりしている(実際に全集本文の中には、そうしたものと校合して本文確定がなされているものがある)から、これは作品集「夜來の花」初刊筆者本で、芥川龍之介が本文に書入れをしたものが、本書刊行時である昭和十五年に於いても、何故か、小穴隆一の手元に置かれてあり、小穴隆一への献呈本が、何故か、芥川邸に置かれてある、ということを言っているのだと私は読む。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(51)「影照斷片」(9)

 

         ○

 

 昭和二年の夏に芥川さんは東日(とうにち)に「本所兩國」を書いた。その差畫(さしゑ)を藤澤古實(ふるみ)氏かするはずであつたところ、藤澤氏が辭退してしまつたので、岸田劉生に「銀座」あり、われもまたの勢いで、芥川さんは自身畫(ゑ)も兼ねようと、カットには橋、㈠の畫(ゑ)のところは芥川家が載つてゐる昔の地圖を臨模(りんも)、といつた次第で第一日分を作つた。しかし後(あと)十四日分が如何(どう)にもならず、結局前日になつてその差畫急に私に廻つた。

 今日になつてみると、あの時、芥川さんが後十四日分勝手なものを續けて作られなかつた物かとも思ふ。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「芥川の畫いたさしゑ」の前半に使われている。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(50)「影照斷片」(8)

 

         ○

 

 惡い物は人にやること

 これもまた僕に足のあつた昔の時の話である。我鬼先生當時三十一歳とみてよろしい。例の支那雜貨の守尾(もりを)、あそこで僕が筆を一本買つてゐる間(あひだ)に、先生は差渡(さしわたし)三寸(ずん)五分程のこんなToukiaku陶器をみつけた。さうして、そのなんだかわからないものを、呉須(ごす)も龍の繪も兩方ともいけないのを、如何(どう)したか、我鬼先生が五圓の値(ね)で買つてしまつた。「肉池(にくち)に使はう。」といふ。ところが店を出ること數步で、「僕はこれを地べたへ叩きつけたくなつた。癇癪が起きてくる。と言ひだした。夏の夕方の往來で懷(ふところ)だつて嵩張(かさば)るのはごめんといふわけでもあつた。我鬼先生はじりじりしながら、僕にうまい天ぷらを紹介して呉れたが、幾日かたつてまた會つた時には、「君、僕はあれを人にやつてよかつたよ。室生にやつたら、君、室生は早速肉を五圓買つてきていれておいたさうだがね。一晩で、みんな油を吸はれてしまつたといふんだ。君、惡い物は人にやることだねえ。」と、言つてゐた。僕は改めてまたその陶器に感心もした。

 一體、陶器に對する室生犀星さんの目が肥えたのも、もしこのことあつて以後であるとしたならば、僕等はよろしく、惡い物はこれを人にやる事を實行したはうがよささうでもある。

[やぶちゃん注:陶器の形は底本の当該部を画像でスキャンして嵌め込んだ。

「例の支那雜貨の守尾」この書き方からは当時、戦前にかなり知られた中国雑貨店と考えねばならぬが、不詳。識者の御教授を乞う。

「三寸五分」一〇センチ六ミリメートル。

「呉須(ごす)」本来は、磁器の染め付けに用いる鉱物性顔料。酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含む。原石は黒ずんだ青緑色を成すすが、粉末にして水に溶いて磁器に文様を描き、上に釉(うわぐすり)をかけて焼くと、藍色に発色する。ここはその系統の色合いを指している。

「五圓」Q&Aサイトで大正十年の一円を現在の約七千七百四十三円相当とする換算式があったから、凡そ三万八千円ほどに相当するか。

「我鬼先生當時三十一歳」数えであるから大正一一(一九二二)年と推定される。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(49)「影照斷片」(7)~幻の作品集「泥七寶」!

 

         ○


Drositupou

 私の關係した範圍では、出版されようとして出版されなかつた二種の本が彼にある。一つは平安朝物ばかりを集めた「泥七寶(どろしつぱう)」、これはその見返しの繪、箱、扉の文字までが木版に出來上りながら、不幸にして版元玄文社そのものが廢滅(はいめつ)してしまつたので、本とはならなかつたものである。もう一つのは切支丹(きりしたん)物ばかりを集めた物で、このはうはどことの約束であつたのか、ただ私がはそのために、一度東洋文庫に石田幹之助さんを訪ねて、慶長版の切支丹本(ぼん)を見せて貰つた記憶があるばかりである。これが大正十五年五月のことで、泥七寶は同十四年の話と思ふ。(カツトは泥七寶の扉の文字。尚子筆。縮寫)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧部分は底本ではポイント落ち。

 「泥七寶」この語自体は「どろしっぽう」或いは「でいしっぽう」と呼ばれる七宝焼きの技法の一種で、ウィキの「七宝焼きによれば、『独特の釉薬(多くは不透明の釉薬)を用いて焼いた平安時代ないし桃山末期から見られる古来の技法。透明な釉薬は西洋では東ローマ時代から見られるが、東洋では不透明な釉薬を用いたものが多い。それら、ワグネル』(Gottfried Wagener 一八三一年~一八九二年:カタカナ音写は「ゴトフリート・ヴァーゲナー」が近い。ドイツ出身の「お雇い外国人」であるが、当初はアメリカのラッセル商会の石鹸工場設立参加のため来日したが(その事業は不成功となって廃案となった)、その後に政府に雇われた「お雇い外国人」としては特異なケースである。京都府立医学校(現在の京都府立医科大学)・東京大学教師・東京職工学校(現在の東京工業大学)教授などを勤め、陶磁器やガラスなどの製造を指導、明治の工学教育に大きな功績を残した。ここはウィキの「ゴットフリード・ワグネルに拠った)『により透明釉薬が発達する以前の七宝器や釉薬を、総じて泥七宝と呼ぶ。あるいは、日本では古来にも平田七宝のように透明感のある作もあるため、それらを区別して、単に泥七宝と呼ぶにふさわしい濁りのある釉薬を用いた作を泥七宝と呼ぶ場合もある。また、初期の尾張七宝の釉薬のことを泥七宝と呼ぶ場合や、京都では鋳造器に七宝を入れたものを泥七宝と呼んでおり』、『その定義は定まっていない』とある。翻って、この幻の作品集「泥七寶」の部分は「二つの繪」でカットされてしまっている。またここで小穴隆一は「泥七寶は同十四年の話と思ふ」と述べているが、これは大正十三年の誤りである。鷺只雄氏及び宮坂覺年譜の大正一三(一九二四)年五月二日(宮坂氏は『五月二日頃』と推定)の箇所に(以下、引用はの写真は、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)より)『玄文社から王朝物の短編集『泥七宝』を出すことになり、装幀(表紙、扉、見返しで四〇円)を小穴氏に依頼する。小穴は五月一六日までに仕上げるが、玄文社が倒産したため、刊行されなかった』とあるからである。鷺・宮坂年譜ともに収録予定の作品への言及はない。何となく、芥川龍之介の死後の昭和一一(一九三六)年に野田書房から限定百七十部で出版された「地獄變」(本文・越前産特漉・小穴隆一題字・帙入)みたようなもんかなぁなどとは感じたりする「泥七寶」! 何を集録したであろう?! ああっ! 欲しい!(なお、芥川龍之介の作品では大正一三(一九二四)年六月発行の雑誌『隨筆』に掲載された、春の日のさした往來をぶらぶら一人步いてゐるに、『八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七寶の靑に似てゐる』と「泥七寶」が登場している。

「尚子」既出であるが「ひさこ」と読む。小穴隆一の実の妹。小穴隆一の仕事を手伝い、芥川龍之介作品集の装幀用の字を隆一はしばしば彼女に書かせた。数え十三で夭折した。

小穴隆一「鯨のお詣り」(48)「影照斷片」(6)

 

         ○

 

 大正六年から大正十二年の間、君看雙眼色不語似無愁(きみみよさうがんのいろかたらざればうれひなきににたり)から暮春者春服既成得冠者(ぼしゆんにしゆんぷくすでになりくわんじや)五六人(にん)童子(どうし)六七人(にん)沿乎沂風乎舞雩詠而歸(きにそひぶうにふうしえいじてかへらむ)に至るまで、阿蘭陀(おらんだ)書房發行の「羅生門」から春陽堂發行の「春服(しゆんぷく)」に至るまでの、その間の彼の作品を順次に一度ゆつくり讀んでみたいと私は思つてゐる。何故ならば、夏目漱石先生の靈前に獻ずとした「羅生門」の扉に君看雙眼色不語似無愁を擇(えら)んだ彼が、「春服」の扉には暮春者春服既成を擇んでゐたことに、改めて氣付いたからでもある。本來春服には扉の春服の二字のほかにそれと彼の年少時代、袴着の祝ひの時の寫眞との間に、もう一枚に暮春に春服既に成りからに沂(き)に沿ひ舞雩(ぶう)に風(ふう)し詠じて歸らむまでの文字を扉としていれる彼の意向であつた。それをいれ落したといふ間違ひの原因は、彼の「春服」の後(のち)に、に書いてもあるがやうに、「春服」が私の病苦のさなかにつくられたためにほかならない。私はいま自分の手ずれた春服に觸(さは)り、この見返しの繪も、伊香保からやうやうに家(いへ)にたどりついて、脚(あし)を切斷するために入院するまでの、そのすぐの二日間の間に畫(か)いたものであらうことなど思ひめぐらすのである。彼も、春服の扉の春服と暮春者(ぼしゆんには)から詠而歸(えいじてかへらむ)までの文字を書いた私の妹も亦、既に白骨(はくこつ)と化してしまつてはゐるが、當時春陽堂にゐたが小峰八郎は、惜しむべき扉をいれ落したその始末を承知してゐる筈である。芥川龍之介は、版(はん)までこしらへておきながらはさむのを皆が心付かずに忘れてゐて、本になつてから氣付いたと言つてゐた。いま私には君看雙眼色と暮春者春服既成(ぼしゆんにはしゆんぷくすでになり)との間にある、彼の心のひろがりとくぼまりか動いて感じられてくるのである。一つには私の耳底(みゝぞこ)から、彼が夏目漱石を始めて訪ねた時に、漱石が、孔子曰、君子有三戒(くんしにさんかいあり)、を引いてわかき當時の彼を戒(いま)しめたといふ彼の言葉と、暮春者春服既成(ぼしゆんにはしゆんぷくすでになり)の彼の讀みと註釋が全く消えてゐないからかも知れない。ことわるまでもないことではあるが「黃雀風(くわうじやくふう)」とか「湖南の扇」とかの表紙に書きこんである詩は、彼の好みや註文に依つたものではなく、全く私の勝手仕事の物(もの)故(ゆゑ)、一寸(ちよつと)ここに書添(かきそ)へて彼の愛讀者の間に誤解のないやうにしておきたい。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「暮春には春服」の原型。最初に出る「暮春者春服既成得冠者」の文字列のルビで「ぼしゆんにしゆんぷくすでになりくわんじや」と「暮春に」の後に「は」が落ちているのはママである。

 なお、言っておくと、芥川龍之介の単行本の中後期の装幀が、概ね小穴隆一に任されていたという事実は芥川龍之介ファンの間では必ずしもよく知られているとは思われない。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(47)「影照斷片」(5)

 

         ○

 

 ――七月二十二日夕(ゆふ)、彼はサンドウィッチ、私はハムライス、二つとも彼の家(いへ)で出來たのを食べて、さて、われわれの夜がきた。

 私達はいつも二人だけの話になるときのやうに橫になつた。

 ――二十四日

 ――私は義ちやんの畫架(ぐわか)を借りて畫(か)いた。

 ゑのぐはつけないの?

 僕ちやん(芥川比呂志)は、私の畫布(ぐわふ)をのぞいて言つた。

「あとで」と私は答へた。

 僕ちやんは安心して行つてしまつた。

 僕ちやんは、もう一度、帳面を持つてそばにきた。クレイヨン畫家は寫生をせずに行つてしまつた。

 檢視官は「そのまま」と私に言つた。

 屍體はそれでも多少は動かされた。

 頸筋(くびすぢ)のところから、めきめき色が變つた。

 肖像畫として殘すのには、全く絶望する色となつて私は筆(ふで)を投(とう)じた。

 畫(ゑ)は、F號。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「死顏」の原型。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(46)「影照斷片」(4)

 

         ○

 

 ――あの時は、それでも僕等は嵐の中に互(たがひ)に互の空色(そらいろ)が出るのを待つてゐた。

 

 槻(つき)を句にしたがつてゐたがなあ、

 高槻(たかつき)や、高槻やと、置いてゐたがなあ、

「君は、僕の女房にどうしてあんなにわからずやになつたのかつて言つたさうだね。女房もほんとにどうしてかうわけがむからなくなつたのかと言つてゐたよ。ほんとに君、僕はそんなにわからずやになつてしまつたかね。女房は言つてたよ。小穴さんはどうしてあんなにわからずやになつたのかつて僕のことを言つてたつて、君ほんとに僕はさうかね。」

 僕は僕の家に這入(はい)つてくるといふよりはいつももぐつてくるといふ格好の無氣味を忘れないよ。

 うしろの松だつて、朝寒(さざむ)や、松をよろへる、蔦(つた)うるし這(はは)せて寒し庭の松、仕舞ひには、飛行機も東下(あづまくだ)りや朝ぐもりなんて僕のとこの唐紙(からかみ)のきれつぱしに書いてゐたではないか。

「女房は僕に、僕に君の癖がすつかりうつつちやつたつて言つてたよ。うつつちやつたつてね。」

 ああ、アハツハツツ――、

 さういふげらげら笑ひは僕にうつつちやつた。

[やぶちゃん注:この断片は「二つの繪」版の「鵠沼」にほぼ丸ごと活かされてある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(45)「影照斷片」(3)

 

         ○

 

 大正十五年の冬、鵠沼にゐた僕等は、そこから一度横濱まで、シネマを見に出かけて行つた。

 僕等はヴアレンチノの「熱砂の舞(まひ)」を見物してゐた。彼は、「かうやつて死んだ者がまだ動いてゐるのをみると妙な氣がするねえ」と言つて見てゐた。(註。ヴアレンチノはその前かた天國の人になつてゐた。)

 昭和二年の秋、田端で大勢でシネマのなかの生前の芥川龍之介を見た。僕は改造社の現代日本文學全集の廣告フイルムのなかに動いて、なんともいへない顏をしてゐる彼を見た。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「影照」パートの「ヴァレンチノ」の原型。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(44)「影照斷片」(2)

 

         ○

 

 いま考へてもはづかしいが、私は入院中人が教へてくれる歌を、なんでも、苦痛をごまかすために歌つてた。

 さういふ際に、一度、芥川さんにぶつかつた。「それでは僕も歌はう。」と言つて、芥川龍さんが大聲でうたつたのは一中節(ちうぶし)である。勿論、病室の看護婦達は啞然となつてしまつた。

 私が足首を切斷される時には芥川さんも立會つた。

 病室で待つてゐた遠藤の語るところによれば、芥川さんは、まつさをになつて室(しつ)に歸つてきたさうである。さうして「僕は血管を抑へてぶらさがつてゐる澤山のピンセツトの、どれか一つでも落ちて、あれがあのまゝはいつていつたら大變だと、どうしようとそればつかり急に心配になつてきて見てゐずにはゐられないうちに、どうしても、いくらやつても首がくうつと抑へられるやうにのめつてきた。」と言つてゐたといふ。この芥川さん、後に、「君、いまだから言ふが、あのときピンセツトが一つ落ちたよ。もつとも、下島先生に聞くと、血管が一つ位(ぐらゐ)しばらずにはいつたつて大丈夫ださうだ。」なぞといふいやがらせを何度か私に言つたものである。

[やぶちゃん注:「大聲でうたつたのは一中節である」何度も注しているが、芥川龍之介が愛した伯母フキは江戸浄瑠璃系三味線音楽の源流である一中節(いっちゅうぶし)の名取であった。

「ピンセツト」鉗子(かんし)。

「あのまゝ」結束鉗子が落ちて、内部にその血管が結束されぬままに辷り込んでしまい、そのまま術式が終わって縫合されてしまうことを指しているようである。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(43)「影照斷片」(1)

 

 影照斷片

 

[やぶちゃん注:これは本「鯨のお詣で」の中の芥川龍之介に関わる十四篇から成る雑録短章群である。後の「二つの繪」の「影照」群の原型で、そこで生かされて加筆され、独立章化したものも多いが、中にはカットされてしまい、ここでしか読めないものも含まれる点で重要な章である。]

 

 

         ○

 

 當時雜誌で讀んだ「手巾(はんけち)」の作者として以外、何も彼について知らなかつた僕を、彼に引合はせたのは、友人であり時事新報社記者であつた瀧井孝作である。

 大正八年十一月、その日、黑のスウエターを着籠(きこ)んでゐた彼は、先客の藤森淳三とただ二人で頭髮の長さを論じてゐた。互に相手の髮のはうが長いと言つてゐるのであつた。

 私はいづれにせよつまらない謙讓であると思つた。それで「それは錢湯(せんたう)でだれでも人のきんたまが大きく見えるが、鏡に寫つた自分のを見ると、案外さうでもない、と考へるのとおんなじだ。」と言つた。

「僕は錢湯にいかないから知らない。」

 ぴつくりした顏の芥川龍之介が斯(か)う言つて改めて私を見た。私はその日の日曜に、錢(ぜに)もなくて瀧井孝作と步いてゐた憂鬱な記憶のなかに彼を思ひだす(或阿呆の一生二十二參照)

[やぶちゃん注:この小穴隆一の芥川龍之介との初対面は、大正八(一九一九)年十一月二十三日日曜日のことであった。

因みに言っておくと、芥川龍之介の巨根はかなり知られており、小穴隆一も小澤碧童も小島政二郎も皆、認めている。「二つの繪」版の「宇野浩二」を見よ。

「手巾(はんけち)」大正五(一九一六)年十月『中央公論』に発表。芥川龍之介はこの年の二月十五日、第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表、その四日後の二月十九日に夏目漱石からの「鼻」激賞の手紙を貰い、九月一日には「芋粥」を『新小説』に発表して実質上の文壇デビューを果たしていた。また、同年十月二十五日には塚本文にプロポーズの手紙を書いている。

「藤森淳三」(明治三〇(一八九七)年~?)は編集者で小説家・評論家。三重県上野町生まれ。「藤森順三」という別名もある。早稲田大学英文科中退。横光利一と上野中学で同窓で、大正一〇(一九二一)年に横光・富ノ沢麟太郎らと同人誌『街』を刊行。その後、芥川龍之介もよく作品を載せた『サンヱス』『不同調』などの編集に携わりつつ、作品を発表した。小説集「秘密の花園」・童話集「小人国の話」・評論集「文壇は動く」・美術評論「小林古径」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。後の「二つの繪」の『「藪の中」について』に名が出る。

「或阿呆の一生二十二」「或阿呆の一生」の小穴隆一を語った印象的で意味深長な一条である。以下。

   *

 

       二十二 或 畫 家

 

 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。

 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

 

 

   *]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(42)「河郎之舍」(5)「訪問錄」 / 「河郎之舍」~了

 

         訪問錄

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「訪問錄」の原型。こちらもこれで「河郎之舍」パートが終わっている。底本では句の前書等でポイントを落しているが無視した。]

 

 私共の游心帖時代に全く大きな句點を打つてしまつたもの、それが訪問錄である。

 二十五字詰めの原稿紙を綴ぢた物に半紙の表紙をつけて訪問錄と書き、それを順天堂の私の病室の枕もと置いのは碧童さんであるが、私はここにその訪問錄のなかの芥川さんの筆蹟を收錄してこの河郎之舍(かはらうのいへ)の終結としたい。

 

 大正十一年十二月

 十八日

   一游亭足の指を切る

   人も病み我(われ)も病む意(い)太(はなはだ)蕭條(せうでう)

  初霜や藪に鄰(とな)れる住み心(ごゝろ)

  冬霜や心して置け今日あした

[やぶちゃん注:最後の句は「二つの繪」では最後の句は「冬霜よ心して置け今日あした」となっている。そこからここの「や」は単純な判読の誤りと採る。この句は他に類型句がない特異点の句であるが、小穴隆一は「二つの繪」で改稿する際に実際の「訪問錄」を確認したと信じる。さればこそ「よ」と〈訂正〉したと考える。そもそもここは「や」では片足首を切断した病者への贈答句としては甚だ欠礼に過ぎるからである。]

 

 二十五日

   小穴隆一、遠藤淸兵衞、成瀨日吉(なるせひよし)の三氏に獻ず。

 時(とき)  千九百二十二年耶蘇(やそ)降誕祭

 處(ところ) 東京順天堂病院五十五室

[やぶちゃん注:以下のト書きは底本では全体が三字下げで、続く台詞の柱も底本では一字下げであるが(台詞が二行に亙る場合は行頭まで上っている)、ブラウザの不具合を考え、再現していない。最後の「(未完)」はポイント落ち。]

患者一人ベツドに寢てゐる。看護婦一人(ひとり)病室へ入(はい)り來り、患者の眠り居(ゐ)るを見、毛布などを直したる後(のち)、又室外へ去る。室内次第に暗くなる。

再び明るくなりしとき、病室の光景は變らざれど、室内の廣さは舊に倍し、且つ窓外は糸杉、ゴシツク風の寺などに雪のつもりし景色となり居(ゐ)る。此處にトランプのダイヤの王、女王(ぢよわう)、兵卒の三人、大いなる圓卓のまはりに坐り居(ゐ)る。圓卓の下(した)に犬一匹。

ダイヤの王 ハアトの王はまだお出(いで)にならないのか?

ダイヤの女王 さつき馬車の音が致しましたから、もう此處へいらつしやいませう。

ダイヤの兵卒 ちよいと見て參りませうか?

ダイヤの王 ああ、さうしてくれ。

  ダイヤの兵卒去る。

ダイヤの女王 ハアトの王はわたしたちを計りごとにかけるのではございますまいか?

ダイヤの王 そんな事はない。

ダイヤの女王 それでも日頃かたき同志ではございませんか?

ダイヤの王 今夜皆イエス樣の御誕生を祝ひに集(あつま)るのだ。もし惡心(あくしん)などを抱く王があれば、その王はきつと罰せられるだらう。

   ダイヤの兵卒歸つて來る。

ダイヤの兵卒 皆樣がいらつしやいました。ハアトの王樣も、スペイドの王樣も、クラブの王樣も、‥‥

ダイヤの王(立ち上りながら)さあ、どうかこちらへ。

ハアトの王、女王、兵卒、スペイドの王、女王、兵卒、クラブの王、女王、兵卒、等(ら)皆(みな)犬を一匹引きながら、續々病室へ入(はい)り來(きた)る。(未完)

 

    あけくれもわかぬ窓べにみなわなす月を見るとふ隆一あはれ   龍之介

 耶蘇降誕祭以後訪問錄には我鬼先生の筆(ふで)がないのである。

[やぶちゃん注:「ふたつの繪」版の私の注に記した通り、この一首は龍之介の作品ではなく龍之介弟子である渡辺庫輔の短歌である可能性が高い。]

 十六日 十八日右足第四趾(し)切斷致すべく候ふ。二十九日足頸(あしくび)より切斷の宣告あり、既に右足の趾(ゆび)二つは切つて落せり、大正十二年一月四日足頸を落して、病み臥せばあけくれなくてをりをりに窓邊にいづる月は浮べり。その脱疽の苦しみから全く逃(のが)れ去ることも出來、私の病院生活はなほ續いたのではあつたが、最早訪問錄も不用になつてゐた。私はただ自由に步けなくなつただけで自由にしやべることはでき溝たのだ。十二年の夏は病院を出た身を鎌倉の平野屋に橫たへた。私はそこで芥川さんと同じ部屋に起居(ききよ)してゐた。私共の鄰には岡本一平さん夫婦とその子太郎君がゐた。一日(にち)、かの子さんは、何をあげてよいかわからないので東京驛でこれを買つて、きましたと言つて私に小さいゴム人形を一つ呉れた。芥川さんと私は震災五日前に平野屋を引上げてゐたが、岡本さん夫婦の部屋は眞先に潰れたと聞いて、私は自分が宿の部屋に殘してきたままのそのゴム人形が、潰されてピイと泣きはしなかつたか、それがかの子さんに聞えはしなかつたかなぞと思つた。後には每朝の新聞記事の三面に出てくる人の身の不幸な話に、ぽろぽろと淚を流してゐるやうに瘦せ細つた澄江堂といふ名より、私はあの平野屋で、あの平野屋の風呂番は、まだ足頸に繃帶をしたままでいる[やぶちゃん注:「いる」はママ。]私がいくら湯をうすめようとて怒(おこ)りはしなかつたが、一日(にち)、いつしよにはいつてゐた芥川さんに、芥川さんがうすめてゐると間違へて、窓のそとから怒鳴つた。その時、どうしたものか芥川さんは俺は風呂番にチツプをやらんぞと怒つた。芥川さんにしては珍しい怒りかたではあるが、私は弱つてしまつた澄江堂主(しゆ)より、ああした元氣のあつた紆我鬼先生のはうが好きなのである。

 

  牛久沼河童の繪師の亡くなりて唯よのつねの沼となりにけり 小杉放庵

 

柴田宵曲 妖異博物館 「鼠遁」

 

 鼠遁

 

 寛文十年の夏、現世居士、未來居士といふ二人の幻術者が來て、種々の不思議を見せ、諸人を惑はしたことがある。その國の國主は、左樣の者が居れば諸人亂を起す基だと云つて、直ちに召捕り、磔刑に處するやうに命じた。その時兩人が、我等只今最期に及び申した、こゝに一つのお願ひと申すは、我等がこれまでに仕殘した術が一つある、それを皆樣に見せてから刑に就きたいと思ふ、かほどきびしく警固の人々が槍刀で取圍んで居らるゝことであるから、外に逃れるべき途もない、少し繩をおゆるめ下さい、と云ひ出した。警固の者どもも、靑天白日の下ではあり、少しぐらゐ繩をゆるめたところで、どこへ行けるものでもあるまいと油斷して、ちよつと繩をゆるめたと思ふと、未來居士は忽ち一つの鼠となり、磔柱の橫木に上つてうづくまる。現世居士は鳶になつて虛空に飛び上り、羽をひろげて舞つてゐる。この狀態は少しの問で、鳶はさつと落ちかゝり、鼠を摑んで行方知れずになつた。警固の者は今更の如く驚き、方々尋ねたけれども、繩は縛つたまゝ殘り、二人の所在はわからぬので、その場に出た警固の役人、足輕に至るまで、重いお咎めを蒙つた(老媼茶話)。

[やぶちゃん注:この原文は既に「飯綱の法」で注引用した。]

 この話は國主とあるのみで、どこの出來事とも書いてないが、「虛實雜談集」では、これが豐太閤と果心居士になつている。太閤或時果心居士を召して、何か不思議の術を見せよと命ずると、白晝變じて闇夜となり、一人の女が現れて、太閤に向つて恨みを述べる。この女は木下藤吉郎時代に契つた者で、間もなく病死したため、誰にも話したことがなかつたのに、まざまざと昔の事を語るのに驚き、我が胸中の祕事を知つてゐるのは曲者である、かゝる者を生かして置いては、今後如何なる災禍を起すやも知れずと、近習を呼んで礫刑に行はしめる。その時自分はこれまで多くの術を行つたが、未だ鼠にならなかつたのが遺憾である、願はくは少し繩を弛め給へと云ひ、鼠になつて磔柱を搔き上ると、空から鳶が舞ひ下つてこれを摑み去る。「老媼茶話」は二人の居士が鼠と鳶を分擔するのであつたが、果心居士にはワキがない。一人二役を演じたものと見える。

[やぶちゃん注:「虛實雜談集」瑞竜軒恕翁(じょおう)作で寛延二(一七四九)刊。私は所持しない。なお、本話は先行する「果心居士」も参照されたい。

「ワキ」能の役方のそれを指す。次段参照。]

 この話は支那氣分が濃厚である。「列仙傳」の超廓は永石公に道を學んだが、師から見ると幾分不安な點があつたらしい。遂に法に問はれさうになつた時、先づ靑鹿となり、次いで白虎となり、最後に鼠になつて捕へられた。永石公はこれを聞いて面會に行き、兵士に圍まれた中で逢ふことを許される。廓、前の如く鼠になったところを、自ら鳶となつて摑み去り、飛んで掌中に入るとある。これもシテワキが備はつてゐる。

[やぶちゃん注:「列仙傳」道教に纏わる仙人の伝記集。二巻。ウィキの「列仙伝」によれば、前漢末、楚王劉交の子孫である官僚劉向(りゅうきょう)が、昔、秦の大夫であった阮倉の『記した数百人の仙人たちの記録を』七十余人に絞り込んで『書き記したものとされている』ものの、『劉向が選したというのは仮託であり、後漢の桓帝以降に成立したものと見られている』とある。但し、ここに出る「超廓」の話は、現行の正本の「列仙傳」には載らず、調べて見るとこれは北宋の「太平廣記」の「方士一」に「列仙傳」(逸文か)からとして引かれる「趙廓」の話である。以下に中文サイトより加工して引く。

   *

武昌趙廓、齊人也。學道於呉永石公、三年、廓求歸、公曰、子道未備、安可歸哉。乃遣之。及齊行極、方止息、同息吏以爲法犯者、將收之。廓走百餘步。變爲靑鹿。吏逐之。遂走入曲巷中。倦甚。乃蹲憇之。吏見而又逐之、復變爲白虎、急奔、見聚糞、入其中、變爲鼠。吏悟曰、此人能變、斯必是也。遂取鼠縛之、則廓形復焉、遂以付獄。法應棄市、永石公聞之、歎曰、吾之咎也。乃往見齊王曰、吾聞大國有囚、能變形者。王乃召廓、勒兵圍之。廓按前化爲鼠、公從坐翻然爲老鴟、攫鼠而去、遂飛入雲中。

   *]

「集異記」に見えた茅安道はすぐれた術士であつた。二人の弟子に隱形洞視の術を授けたが、術未だ熟せず、韓晉公に捕へられて殺されさうになつた。安道これを聞いて救ひに行くあたり、永石公と全く同じである。晉公は繩も弛めず、白刃の下に弟子と相見ることを許した。安道は公の左右に水を乞うたが、公は水遁の術を行はんことを恐れ、固く與へようとしない。安道は公の硯に近づき、その水を含んで二弟子に吹きかけると、二疋の黑鼠に化して庭前に飛び出す。安道は忽ち大きな鳶となり、兩方の足に一疋づつ鼠を摑んで、虛空遙かに舞び去つた。晉公は驚駭を久しうするのみで、如何ともすることが出來なかつた。この場合は役者が一人殖えてゐるが、二弟子の立場は全く同じだから、ワキヅレと見てよからう。

[やぶちゃん注:「隱形洞視」現代仮名遣で「いんぎょうどうし」と読んでおく。姿を隠す術と、相手の表情からその心を既に読み取る術のことか。

「集異記」は「集異志」とも表記し、晩唐の陸勲撰になる志怪・伝奇小説。全二巻あったが完本は伝わっていない。以上もやはり「太平廣記」の「方士三」に「茅安道」として載るその逸文である。前と同様に引く。

   *

唐茅安道、廬山道士、能書符役鬼、幻化無端、從學者常數百人。曾授二弟子以隱形洞視之術、有頃、二子皆以歸養爲請。安道遣之。仍謂曰、吾術傳示、盡資爾學道之用。即不得盜情而衒其術也。苟違吾教。吾能令爾之術、臨事不驗耳。二子授命而去。時韓晉公滉在潤州、深嫉此輩。二子徑往修謁、意者脱爲晉公不禮、則當遁形而去。及召入、不敬、二子因弛慢縱誕、攝衣登階。韓大怒、即命吏卒縛之、於是二子乃行其術、而法果無驗、皆被擒縛。將加誅戮、二子曰、我初不敢若是、蓋師之見誤也。韓將倂絶其源、卽謂曰、爾但致爾師之姓名居處、吾或釋汝之死。二子方欲陳述、而安道已在門矣。卒報公、公大喜、謂得悉加戮焉。遽令召入、安道龐眉美髯、姿狀高古。公望見、不覺離席、延之對坐。安道曰、聞弟子二人愚騃、干冒尊嚴。今者命之短長、懸于指顧,然我請詰而愧之、然後俟公之行刑也。公卽臨以兵刀、械繫甚堅、召致階下、二子叩頭求哀。安道語公之左右曰、請水一器。公恐其得水遁術。固不與之。安道欣然、遽就公之硯水飲之、而噀二子。當時化爲雙黑鼠、亂走於庭前。安道奮迅、忽變爲巨鳶、每足攫一鼠、冲飛而去。晉公驚駭良久、終無奈何。

   *]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「外法」

 

 外法

 

 米村平作といふ人が本括(じめ)役を勤めてゐた頃、類燒に遭ひ、暫く町宅を借りて住んで居つたが、土藏の内に入れて置いた御用銀三貫目が紛失し、いくら穿鑿しても知れぬ。恰も伯耆の倉吉から福正院といふ名高い僧が鳥取に來てゐたのを幸ひに、招いて占はせたら、これは何月何日に何某が取つたと、その名を指して云つた。果してその通りだつたといふ評判で、彼方此方から招いて占はせるのに、皆先方の心中を見通して何か云ふ。願ひある者は多くこの僧に賴んで祈らせるといふ風であつた。もう鳥取滯留の日數が盡きて、四五日の内には倉吉へ歸る順序になつた或夜の事である。近所の町人が福正院の旅宿を訪れ、宿の亭主もまじつて談笑してゐるところへ、慌しく門を敲き、御家中の某家よりの使である、夜中ながら急用につき、この使と共に直ぐ來て貰ひたいといふ。かういふ招請を受けるのはいつもの事であつたから、早速身拵へをして、使の者に提燈を持たせ、急いで出て行つた。今まで話してゐた近所の者も、亭主と話してゐても仕方がないので、暇乞ひをして歸る。先刻福正院が慌てて門を出る時、何か落したやうな音がしたと思つたが、一步踏み出す途端に足に障るものがある。そのまゝ袖に入れて歸り、行燈の光りで見ると、袱紗に包んだ香箱であつた。これほどの物が落ちたところで、家の奧にゐる自分に聞える筈がない。自分の耳に入るくらゐなら、本人の耳にも入る筈なのに、一人も氣が付かなかつたのは不審千萬だと、持佛堂の中に入れて寢てしまつた。

[やぶちゃん注:「外法」後の本文内でルビが振られるように「げはふ」(げほう)と読む。ここでは広義のそれで妖術・魔術・魔法と同義。

「本括(じめ)役」「もとじめやく」で、ここは鳥取藩(藩庁は因幡鳥取城(現在の鳥取市東町))勘定方元締役(財用方役人の長官)のこと。

「三貫目」後段で示されるように本話は「雪窓夜話抄」に載るが、同書は鳥取藩士上野忠親(貞享元(一六八四)年~宝暦五(一七五五)年)の記録した異聞集である。ネットのQ&Aサイト及び江戸期の貨幣価値換算サイト等によれば、元禄三(一七〇〇)年十一月に幕府が決めた金銀銅貨の交換レートは、金一両は銀六〇匁で、銀一貫は銀一〇〇〇匁に相当するから、銀三貫は十七両弱となり、元禄期の銀三貫なら凡そ五十両前後、これを現代に換算すると凡そ五百万円ほどとなるか。

「伯耆の倉吉」伯耆国久米郡倉吉(くらよし)。現在の鳥取県倉吉市。

「香箱」原典では(後段リンク先参照)『香合』で『コウバコ』とルビする。]

 福正院の方は招かれたところへ行つて、いろいろ尋ねられたが、その晩に限つて何一つ中らない。これは出がけに外法(げほふ)を袂に入れたのを、どこかで落したと見える。袂を探つてもないから、そこそこに挨拶して引返し、旅宿の戸外を尋ねたが見當らぬ。さては先刻同席した近所の町人が拾つたものであらう。夜中の事で人の出入りもないから、他に知つた者はない筈だ、と考へ付くや否や、その家へ行つて案内を乞ふ。家内は全部寢てしまつたから、用事なら明日來て下さい、と斷つても、今夜中に逢はなければならぬ急用だといふので、已むを得ず灯をともして呼び入れた。町人の坐つてゐるうしろは例の持彿堂であるが、その中から聲がして、そら本人が取り返しに來たぞ、容易に渡すな、と云ふ者がある。福正院は座敷へ通るなり、そなたは拙僧の旅宿の前で、手帛に包んだものを拾はれたに相違ない、拙僧はそれによつて露命を繫ぐ者ぢや、何卒お返し下されい、といふ。はじめは知らぬふりをして見たが、相手の態度は甚だ強硬で、次第によつてはその場で討ち果しもしかねまじき顏色なので、成程拾ふことは拾ひましたが、あなたの物と知つて拾つたわけでもない、何か代りを出されるならお返ししませう、と返事をした。先づ以てお返し下されうとの御一言は忝い、御禮の申上げやうもござらぬ、有り合せの銀五百匁を代りに差上げませう、といふ。拾つた方はそれほど大事なものとは思はなかつたので、承知の旨を答へようとすると、また持佛堂の中から、そんな事ではいかぬ、銀は澤山持つてゐるのだから同心するな、といふ聲が聞える。その通りに云つて斷れば、然らば是非に及ばぬ、一貫目で御同心下されと云ふ。だんだん値を釣り上げる事になつて、町人は異存はないけれども、持佛堂の聲が「まだまだ」と制するため、遂に三貫目までに達した。この時は持佛堂にも聲がない。福正院は所持の袋の底をはたいて三貫目を出し、袱紗包みを三度頂いて歸つて行つた。鳥取方面で儲けた銀は空しくなつたわけであるが、最も不思議なのは、福正院に相對する持佛堂の聲が、町人の耳にだけはつきり入つて、福正院には全然聞えぬ一事であつた。

[やぶちゃん注:「手帛」近代以降なら「ハンケチ・ハンカチ」と読むところだが、原典(次の段の私の注のリンク先を参照)でも『手帛』であるから、「しゆはく(しゅはく)」で、小さな白い絹物。前出の「袱紗(ふくさ)」と同義。

「鳥取方面で儲けた銀は空しくなつた」とのみ柴田は述べているのであるが、言わずもがなであるが、この話柄、最初に藩の御用金「三貫目」が〈妖術によってでもあるかのように〉突如、消失して行方不明となったことと、福正院が必死に外法の秘物を奪還するのに支払ったのも同じく「三貫目」であることを考え合わせると、そこに事件の真相が隠されている、と原話は暗に匂わせている。そこが面白い。]

「雪窓夜話抄」の傳へたこの話によれば、福正院は袱紗に包んだ香箱の告げのまゝに、種々の靈驗を示したので、その祕物を不用意に取り落した結果、儲けただけを吐き出さなければならなくなつたものであらう。持佛堂の聲は拾ひ主に思ひがけぬ福を與へたが、三貫目で折合つて福正院の手に戾つたのだから、一應不用意を戒めた程度で、全く彼を見放すには至らなかつたのである。

[やぶちゃん注:以上は「雪窓夜話抄」の「卷七」の冒頭にある「怪僧福正院の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。]

 外法の正體は如何なるものか、「雪窓夜話抄」だけでは竟にわからぬが、「耳嚢」の中にいさゝか徴すべきものがある。寶暦の初めであつたか、矢作の橋を普請することがあり、江戸表から大勢の役人職人等が三河に赴いた。或日人足頭の男が川緣に立つてゐると、板の上に人形らしいものを載せたのが流れて來た。子供の戲れかと思つたが、人形の樣子が子供のものらしくもない。面白がつてそれを旅宿に持ち歸つたところ、夢ともなく、うつゝともなく、今日の事を語り、明日の事を豫言する。巫女が使ふ外法とかいふものであらうと懷中して居れば、翌日もまたいろいろの事を告げる。はじめは面白かつたけれども、だんだんうるさく厭になつて來た。倂し捨てるのも何だか恐ろしいので、土地の者に聞いて見たら、それはつまらぬ物をお拾ひになりました、遠州の山入りに、さういふ事をする者があると聞いて居りますが、今お捨てになれば禍ひがありませう、と云はれ、途方に暮れてしまつた。漸く或老人の説に從ひ、はじめの如く板に載せて川上に至り、子供が船遊びをするやうに、人形を慰める心持で、自分はうしろを向いて、いつ放すとなく手を放し、そのまゝ跡を見ずに歸つて來た。その後は何の崇りもなかつたさうである。

[やぶちゃん注:これは「耳囊 之三 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事である。私の原文訳注でお楽しみあれ。]

2017/02/16

小穴隆一「鯨のお詣り」(41)「河郎之舍」(4)「游心帳」

 

         游心帳

 

Umanikerareakappa

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「游心帳」の原型。前の「河童の宿」の冒頭注で述べた通り、ここには芥川龍之介が描いた河童を振り落す馬の絵と、久米正雄が対抗してフェイクした「芥川龍」のサインの絵が載るが、前と同様に本文でその絵について何ら、語っていない。しかも挿絵挿入に際して、原画その儘でなく、左を意識的に上げて入れてある、甚だ馬の蹴りの躍動感の消えてしまったものなので、これは特異的に前に既に掲げた、正立の原画を上に再掲することとした。読み易さを考え、詩歌は前後を一行空けた。前書がポイント落ちになっていたりするが、再現せず、同ポイントで示した。]

 

 サミダルル赤寺(アカデラ)ノ前ノ紙店(カミミセ)ユアガ買ヒテ來(キ)シチリ紙(ガミ)ゾコレハ   我鬼

 

 游心帳(いうしんちやう)には前期の物と後期の物とがある。そもそもは、自分の祖母から矢立(やたて)を一つ貰つたことに始まつて、私は半紙を四つ折にして綴ぢた帳面を拵へて、これに游心帳と書いてっ㋼た。これが卽ち前期の物であるが、これは全く私一人だけの物で、多くは暮秋、豆菊は熨斗代(のしがは)りなるそば粉(こ)哉、などといふ自分の俳句の獨稽古(ひとりげいこ)のためにつかつてゐたものである。後期の物、これは半紙を二つ折にした物で、必ずしも私一人の物ではなかつた。この後期の物は第二册目あたりから碧童題(だい)衷平(ちうぺい)題とかなつて、碧童さんの筆(ふで)で游心帳が游心帖(いふしんてふ)、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやうとも變つてしまつた。さうして何時(いつ)と知らず、私の游心帳は我鬼先生、碧童さん、淸兵衞(せいべゑ)さんの歌句(かく)、繪の用(よう)にまでなつてゐたのである。⦿河童と豚の見世物(みせもの)、明治二、三年洗馬(せば)に於いて二十人を容(い)るるほどの小屋掛(こやが)けにて瓢簞(へうたん)に長き毛(け)をつけたる物を河童と稱(よ)び見世物となして興行せる者あり。見料(けんれう)大人(だいにん)と小人(せうにん)との別あり。豚も見世物となる。――斯樣(かやう)な種類の聞書(もんじよ)のあるのが前記の物に屬し、久米さんの河童の繪(ゑ)まである賑やかな物は後期に屬する。サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ。長崎の長いちり紙(がみ)に添へて半紙に楷書紙(かいしよがみ)でも下に敷いたかのやうに行儀よく書かれてゐるたこの歌、これは勿論(もちろん)游心帳に書いてあつた歌ではない。『後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少(すくな)くない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は、畢竟これだけに盡きてゐると言つても好(よ)い。卽ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以(ゆゑん)である。芥川龍之介記』とある大正十四年九月の「改造」の「鄰(となり)の笛(ふえ)」、大正九年より同十四年度に至る年代順の芥川さんと私の五十句づつの句、そのなかの自分の句、

 

   長崎土産のちり紙、尋(ひろ)あまりなるを貰ひて

  よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

 これを思出(おもひだ)させる歌なのである。

 私は大正十二年の正月に右の足頸(あしくび)を脱疽で失くなした。私は松葉杖にたよるやうになつてからは、

 

   偶興(ぐうきよう)

  あしのゆびきりてとられしそのときは

  すでにひとのかたちをうしなへる

  あしのくびきりてとられしそのときは

  すでにつるのすがたとなりにけむ

  あしのくびきりてとられしそのときゆ

  わがみのすがたつるとなり

  かげをばひきてとびてゆく

 

といふ類(たぐひ)の詩をつくりだしてゐた。十二年震災の直後祕露(ペルー)に行く淸兵衞さんに餞別(せんべつ)として、私は私の紀念すべき矢立を贈つてしまつてゐた。

 

   思遠人(ゑんじんをおもふ)、南米祕露(ペルー)の蒔淸(まきせい)遠藤淸兵衞に

  獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

 後期の游心帳は九年から十一年の夏で終つてゐた物らしい。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版では『後期の游心帳は意外にも九年十年十一年の晩秋で終つてゐる。』と書き直している。]

 すでに澄江堂なく、蒔淸も死す。小澤碧童とは相語らず。こゝに游心帳にある我鬼先生の筆蹟を拾ひ以下これを收錄して註を付する所以(ゆゑん)である。

[やぶちゃん注:「小澤碧童とは相語らず」小穴隆一が既に本書刊行の遙か以前から小澤碧童と疎遠になっていたことがここで明確に判明する。次の句群との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  秋の日や竹の實(み)垂るる垣の外

 

  落栗や山路(やまぢ)は遲き月明り

 

  爐(ろ)の灰にこぼるゝ榾(ほだ)の木(き)の葉かな

 

  野茨(のいばら)にからまる萩(はぎ)の盛りかな

 

○ この帳面の表紙はとれてゐる。裏表紙には合掌の印がある。この合掌といふ字句は、一ころの我鬼先生が使つてゐたものであつて、碧童さんはこの合掌といふ言葉をことごとく珍重し印にまで刻(きざ)んでゐたものである。私はこの帳面に子規舊廬之鷄頭(しききうろのけいとう)を見て、我鬼先生に伴はれて折柴(せつさい)さんと主(ぬし)なき漱石山房を訪ね、碧童さんに伴はれて子規舊廬を見たるかと忘れてゐたことも思出した。

[やぶちゃん注:冒頭は実は底本では一字下げで「○この……」となっている。後の組み方から誤りと断じて特定にかく訂した。

 次との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  天雲(あまぐも)の光まぼしも日本(ひのもと)の聖母の御寺(みてら)今日(けふ)見つるかも

 

○ この歌は齋藤さんの歌であらう。歌の傍(かたは)らに木立(こだち)を畫(か)き、藁葺小屋(わらぶきごや)を畫き、人の住む繪のらくがきがある。これも亦表紙はとれてゐる。この帳面に碧童さんの鬼趣圖をみてよめる狂歌がある。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版では齋藤茂吉のそれではなく、芥川龍之介の一首であると訂正されている。

 次との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  君が家(いへ)の軒(のき)の糸瓜(へちま)は今日の雨に臍腐(へそくさ)れしや或(あるひ)はいまだ

 

  笹(さゝ)の根の土乾き居(ゐ)る秋日(あきび)かな

 

○ 歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉(とんぼ)を畫(か)いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土(つち)の字(じ)を指(さ)してゐる。表紙は糸瓜の宿(やど)の衷平(ちうぺい)さんの手でゆうしんじようとなつてゐる。

[やぶちゃん注:次との間には一行空けがないが、これは改ページのための編集上の例外(小穴隆一の校正ミス)であるから、ここでは二行空けた。]

 

 

  荒(あら)あらし霞の中の山の襞(ひだ)

 

○ この一句のほかに

 

  うす黃(き)なる落葉(おちば)ふみつつやがて來(き)し河(かは)のべ原(はら)の白き花かな 南部修太郎

 

  いかばかり君が歎きを知るやかの大洋(たいやう)の夕べ潮咽(しほむせ)ぶ時 南部修太郎

 

  しらじらと蜜柑(みかん)花さく山畠(やまばたけ)輕便鐡道の步(あゆ)みのろしも 菊池 寛(くわん)

 

といふ我鬼先生の筆がある。この游心帳は綴ぢも全き物、ひかた吹く花(はな)合歡木(がうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ、あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)、雨中(ウチウユ)湯ケ原(ハラ)ニ來(キタ)ル、道バタ赤クツイタ柹(カキ)ニ步イテタ等(とう)の私の筆もある、次の游心帖大正十年晩秋湯河原(ゆがはら)ニテに連絡する物である。

[やぶちゃん注:作者名の位置は底本では二字上げ下インデントであるが再現していない。以下、同じなのでこの注は略す。

この部分は甚だ問題がある。底本では最初の芥川龍之介会心の一作と知られる句が、なんと!

 

  荒(あら)あらし霧(きり)の中(なか)の山(やま)の襞(ひだ)

 

となっている(ルビを総て再現)。こんな句形の草稿は知らないし(あるとしたらトンデモなくヘンな新発見句となる)、そもそもが「二つの繪」版では「霧」は知られる通り、「霞」(かすみ)となっており、他の周辺人のこの句についての記載も総て「霞」であり、こんな字余りもおかしく、「荒あらし」い「山の襞」に対称される景観としての「霞」は不易の文字(もんじ)であり、単純にイメージしても、霧の中の山襞では話にならない。特異的に――ひどい誤植とむごいルビ(読み)・小穴隆一の致命的校正ミス――断じて訂した。

「うす黃(き)なる落葉(おちば)ふみつつやがて來(き)し河(かは)のべ原(はら)の白き花かな」この南部の一首は「二つの繪」版では、

 

  うす黃なる落葉ふみつつやがて來し河のべ原の白き花かも  南部修太郎

 

末尾が「かも」となっている。私は若嫌いであるが、ここは「かな」より「かも」の方が遙かによい、とは思う。

「ひかた吹く花(はな)合歡木(がうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ」この小穴隆一の一首は「二つの繪」版では、

 

  ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ

 

で、「花合歡(ねむ)」は「はなねむ」と訓じていると良心的に解釈するならば(そちらで注したが、ルビ位置に不具合がある)これは音数律から、

 

 ひかた吹(ふ)く/

 花(はな)合歡木(ねむ)の下(した)/

 もろこしの/

 みやこのてぶり/

 あが我鬼(がき)は立(た)つ

 

で、この一首はなかなかに趣のあるよい一首である《はず》である。「合歡木(がうか)」は雅趣もヘッタクレもないヒドい読みであり、しかも音数律もケツマクリの無視で、話にならないと私は思う。これは小穴隆一自身の短歌であるから「元はこうだったんだ!」と言われれば、「ハイ、そうですか。ひどい歌だね!」としか私は応じられぬ。「二つの繪」版でかく訂したのは、ヒドさに遅きに失して小穴が気づいて改作したものか、或いは、やはり、遅きに失してヒドい校正ミスに気づいて訂正したものか、今となっては「藪の中」である。私は校正者が次の一首で「合歡(がうか)」の読みを振っているのを見て、お節介をして、前の一首にも同じルビを組んでしまったのではないか、と実は密かに疑っているのである。

「雨中湯ケ原ニ來ル」句の前書。

「道バタ赤クツイタ柹(カキ)ニ步イテタ」新傾向俳句であるから音数律の崩れは問題ない。問題なのは「二つの繪」版では、

 

  道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ

 

となっている点である。この「テ」のあるなしでは叙景は全く違うのだ(私は若い頃は自由律俳句の『層雲』に参加していた)。小穴隆一は「二つの繪」版では、あろうことか、自分の一句だからと言って――掟破りに――「游心帳」に書いてある通りではなく――改作してしまったのではなかったか? 因みに自由律時代の私ならば、

――本来の「道バタ赤クツイタ柹ニ步テタ」の方が自然で厭味がなく遙かにいい

と言うであろう。「タ」には主体者のこれ見よがしな意思が働いている。句を創るために――まさに「ためにする」行為として「歩く」行為がなされている厭らしさが滲み出てしまう――と評するであろう。

 次との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  草靑(くさあを)む土手の枯草(かれくさ)日影(ひかげ) 我鬼

 

  曼珠沙華(まんじゆしやげ)むれ立(た)ち土濕(つちしめ)りの吹く 我鬼

 

  家鴨(ひる)眞白(ましろ)に倚(よ)る石垣(いしがき)の乾(かは)き 我鬼

 

 

○ 一層瘦せて支那から歸つてきた我鬼先生に招ばれて碧童さんと私は、首相加藤友三郎が居たといふ部屋をあてがはれてゐた。友を訪(と)へば、外面(がいめん)の暗い秋霖(しうりん)の長髮(ちやうはつ)をなでてゐた。これが碧童さんの其時の句である。

 

 

  山に雲(くも)下(お)りゐ赤らみ垂るる柿の葉 我鬼

 

  たかむら夕べの澄み峽路(かひぢ)透(とほ)る 我鬼

 

 游心帳に書いてはないがこの二句も、時雨(しぐれ)に鎖(とざ)されてゐた三日間の私共の動靜を傳へた隨筆「游心帳」(大正十年十一月、中央美術)に收錄してゐるものである湯河原、よし私はここに碧童さんの、峯(みね)見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來(き)しいづこ友の屋(や)、の歌をみようとも、

 

     芋錢(うせん)をなげく   小杉 放庵

  牛久沼(うしくぬま)河童の繪師の亡くなりて唯(たゞ)よのつねの沼となりにけり

 

 私は「文藝日本(にほん)」創刊號で讀んだこの放庵先生の歌に教へらるるところあらねばならぬのである。

[やぶちゃん注:この小杉放庵未醒の一首と添書きは「二つの繪」版ではカットされている。因みに、小川芋銭は昭和一三(一九三八)年に七十歳で亡くなっている。小杉は芥川龍之介と親しくはあったし、小穴・小澤・遠藤の布施弁天旅行と小川芋銭の連関性を小穴は既に述べてはいる。しかし、如何にも小穴らしい朦朧エンディングで、「何が言いたいの?」とツッコミたくなるような、コーダらしからざるヘンなコーダである。カットした理由もそれに筆者自身が気づいたからなんであろう。]

柴田宵曲 妖異博物館 「命數」

 

 命數

 

 賣卜者が扇を求め、いつまでこれを持つてゐるかと占つたら、今日中になくなるといふ卦が出た。何でそんな。とがあらうと不審に思ひ、日の暮れるまで面前に開いて、ぢつと見守つてゐたところ、夕飯の支度が出來たと云つて、勝手から頻りに呼ぶ。遂に小童が駈けて來て、開いた扇の上に倒れ、さんざんに破つてしまつた。賣卜者も奇異の思ひをなすと同時に、我ながら占ひの妙を感じた。數の盡くる時に至れば、金城湯池に籠めたものと雖も、これを免れがたい。昔或人が陶の枕で晝寢してゐる顏の上へ、何者かばつたり落ちて來た。驚いて眼を開けば、鼠が天井から落ちたので、こそこそと梁へ這ひ上らうとする。枕を把つて投げ付けたが、鼠には中(あた)らず、枕の方が三つに割れてしまつた。中に數箇の文字が染め付けてあつて、この枕某の紀年に造る、これより幾年を經て、其の甲子鼠に抛つが爲に壞る、と讀めた。陶の枕を抛つなんぞは亂暴な話で、恐らく晝寢の夢をさまされて、意識朦朧たる狀態に在つたものと思はれるが、それも畢竟枕の命數が盡きた爲にさうなつたのであらう。

[やぶちゃん注:「賣卜者」「ばいぼくしや」。金銭を取って占いをするところの辻占を生業(なりわい)としている業者を指す。]

「黑甜瑣語」は物に定數あるを説くのに、この二つの例を擧げた。無生物たる扇や枕がさうであるとすれば、生物の命盡くる期は更に昭々たるものがあるに相違ない。鯰江六太夫といふ笛吹きがあつた。國主の祕藏する鬼一管といふ名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であつたが、何かの罪によつて島へ流された。笛の事は格別の沙汰もなかつたのを幸ひに、ひそかにこの鬼一管を携へ、日夕笛ばかり吹いて居つた。然るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が來て、垣の外に立つて聞いてゐる。雨降り風吹く時は、内に入つて聞くがよからう、と云つたので、その後はいつも入つて聞くやうになつた。或夜の事、一曲聞き了つた童が、かういふ面白い調べを聞きますのも今宵限りといふ。不審に思つてその故を問ふと、私は實は人間ではありません、千年を經た狐です、こゝに私のゐることを知つて、勝又彌左衞門といふ狐捕りがやつて參りますから、もう逃れることは出來ません、といふ返事であつた。そこで六太夫が、知らずに命を失ふならともかくも、それほど知つてゐながら死ぬこともあるまい、彌左衞門が島にゐる間、わしが匿まつてやらう、と云つたけれども、狐は已に觀念した樣子で、こゝに置いていたゞいて助かるほどなら、自分の穴に籠つても凌がれますが、彌左衞門にかゝつては神通を失ひますので、命を失ふと知つても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお禮に、何か珍しいものを御覽に入れませう、と云ひ出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戰の樣子が見たい、と云ふと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戰の場と變じた。一切が消え去つた後、狐は更に六太夫に向ひ、何月幾日には殿樣が松ガ濱へ御出馬になりますから、その時鬼一管をお吹きなさいまし、必ずよい事がございませう、と告げて去つた。彌左衞門の掛けた罠は七度まで外したが、八度目に遂に捕へられた。六太夫は深く狐の事を憐れみながら、教へられた日に鬼一管を取り出して吹くと、この音が松ガ濱の殿樣の耳に入り、それが動機になつて、六太夫は狐の豫言通り召し還された(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:第一段落の内容は「黑甜瑣語」の「第三編」の「物に數あり」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「期」「とき」と当て訓したくなる。

「昭々たる」「せうせう(しょうしょう)たる」は、対象が隅々まで明らかなさまを言う。

「鯰江」「まなづえ(なまずえ)」列記とした姓氏(及び地名)である。ウィキの「鯰江」によれば、『藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流』。『荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた』。永禄一一(一五六八)年に『鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて』天正元(一五七三)年九月に『鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし』、『毛利氏となった』。『なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している』。このほかにも、『豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという』とある。

「六太夫」この通称と「笛吹き」から見て能の囃子笛方か。

「鬼一管」「きいちかん」と読んでおく。原典にもルビはないが、「鬼一」を前の持ち主の名とし、これは通称としては「きいち」が一般的である。

 以上は、満を持して「奥州波奈志」の巻頭を飾る「狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管」である。以下に示す。【 】は原典の割注、《 》は同頭注。

   *

 此宮城郡なる大城の、本川内にすむ小身者に、勝又彌左衞門といふもの有き。天生狐をとることを得手にて、若きよりあまたとりしほどに、取樣も巧者に成て、この彌左衞門が爲に數百の狐、命をうしなひしとぞ。狐はとらるゝことをうれひ歎て、あるはをぢの僧に【狐の、をぢ坊主に化るは、得手とみへたり。】化て來り、「物の命をとることなかれ」といさめしをも、やがてとり、又、何の明神とあふがるゝ白狐をもとりしとぞ。其狐の、淨衣を着て明神のつげ給ふとて、「狐とることやめよ」と、しめされしをもきかで、わな懸しかば、白狐かゝりて有しとぞ。奇妙ふしぎの上手にて有しかば、世の人「狐とり彌左衞門」とよびしとぞ。其とりやうは、鼠を油上にして味をつけ【此の味付るは口傳なり。】、其油なべにてさくづ[やぶちゃん注:宮城方言で「米糠」のこと。]をいりて、袋にいれ懷中して、狐の住野にいたりて、鼠をふり𢌞して、歸りくる道へいり、さくづを一つまみづゝふりて、堀有所へは、いさゝかなる橋をかけなどして、家に歸入て、我やしきの内へわなをかけおくに、狐のより來らぬことなし。ある人、「目にもみえぬきつねの有所を、いかにして知」と問ひしかば、彌左衞門答、「狐といふものは、目にみえずとも、そのあたりへ近よれば、必(かならず)身の毛たつものなり。されば野を分めぐりて、おのづから身の毛たつことの有ば、狐としるなり」とこたへしとぞ。勝又彌左衞門と書し自筆の札をはれば、狐あだすることなかりしとぞ。《解云、相模の厚木より甲州のかたへ五里ばかりなる山里、丹澤といふ處に、平某といふものあり。これも狐を捕るに妙を得たり。土人彼を呼て丹平といふといふ。その術、大抵この書にしるす所と相似たり。享和年間、予相豆を遊歷せし折、是を厚木人に聞にき。》

 又其ころ、鯰江六太夫といふ笛吹きの有し。國主の御寶物に、鬼一管といふ名笛有けり。是は昔鬼一といひし人のふきし笛にて、餘人吹ことあたはざりしとぞ。さるを六大夫は吹し故、かれがものゝごとく、あづかりて有しとぞ。【世の常の笛と替りたることは、うた口の節なし。もし常人ふく時は、かたき油にてふさげば、ふかるゝとぞ。】故有て六大夫、網地二(あせふた)わたし[やぶちゃん注:現在の宮城県石巻市の沖合、牡鹿半島突端の南西海上に位置する網地島(あじしま)であろう。ウィキの「網地島」によれば、『江戸時代には浪入田』(なみいりだ)『金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという』とある。]といふ遠島へ流されしに、笛のことは、御沙汰なかりし故、わたくしにもちて行しとぞ。島にいたりては、笛をのみわざとして吹たりしに、いつの頃よりともしらず、夕方になれば、十四五歳ばかりなる童の、笆[やぶちゃん注:「ませ」或いは「まがき」と読む。「籬」と同義。竹や木で作った目の粗い低い垣根のことで、庭の植え込みの周りなどに設ける。]の外に立て聞ゐたりしを、風ふき雨降などする頃は、「入てきけ」といひしかば、後はいつも入て聞ゐたりしとぞ。かくて數日を經しに、ある夜この童、笛聞終りて、なげきつゝ、「笛の音のおもしろきを聞も、こよひぞ御なごりなる」といひしかば、六大夫いぶかりて、その故をとふに、童のいはく、「我まことは人間にあらず。千年を經し狐なり。爰に年經し狐有としりて、勝又彌左衞門下りたれば、命のがるべからず」と云。六大夫曰、「しらで命をうしなふは、世の常なれば、是非もなし。さほどまさしう知ながら、いかでか死にのぞまん。彌左衞門がをらん限りは、我かくまふべし。この家にひしとこもりて、のがれよかし」といひしかば、「いや、さにあらず。家にこもりてあらるゝほどの義ならば、おのが穴にこもりてもしのぐべし。彌左衞門がおこなひには、神通をうしなふこと故、命なしとしるくも、よらねばならず。いまゝで心をなぐさめし御禮に、何にても御のぞみにまかせて、めづらしきものをみせ申べし。いざいざ望給へ」といひしかば、「一の谷さかおとしより、源平合戰のていをみたし」といひしかば、「いとやすきことなり」といふかと思へば、座中たちまちびやうびやうたる山とへんじ、ぎゞ[やぶちゃん注:「巍々」。厳(おごそ)かで威儀のあるさま。]どうどうとよそほひなしたる合戰の躰、人馬のはたらき、矢のとびちがふさま、大海の軍船に追付くのりうつるてい、おもしろきこといふばかりなしとぞ。ことはてゝ消ると思へば、もとの家とぞ成たりける。さて童のいふ、「何月幾日には、國主松が濱へ御出馬有べし。そのをりから、鬼一管をふき給ふべし。必吉事あらん。我なき跡のことながら、數日御情の御禮に、教奉るなり」とて、さりしとぞ。扨、彌左衞門わなをかけしに、七度までははずしてにげしが、八度目に懸りて、とられたりき。六大夫是を聞て、いと哀とおもひつゝ、教の如く、其日に笛を吹しに、松が濱には、空晴てのどかなる海づらを見給ひつゝ、國主御晝休のをりしも、いづくともなく笛の音の、浦風につれて聞えしかば、「誰ならん、今日しも笛をふくは」と、御あたりなる人に問はせ給ひしに、こゝろ得る人なかりしかば、浦人をよびてとふに、「是は網地二わたしの流人、鯰江六大夫が吹候笛なり。風のまにまに聞ゆること常なり」と申たりしかば、君聞しめして、「あな、けしからずや。是よりかの島までは、凡(およそ)海上三百里と聞くを、【小道なり。[やぶちゃん注:「小道」(こみち)とは一里を六町(六百五十四メートル半)とする東国で用いられた里程単位で「坂東道」「田舎道」などとも呼称したもの。従って「三百里」は凡そ百九十六キロ半に当たる。但し、ここに出る「松が濱」を現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜(ここ(グーグル・マップ・データ))と比定するならば(ロケーションや島との位置関係からはここがよいと私は思う)、網島までは真西に三十六キロメートル程しかないから、誇張表現となる。]】ふきとほしける六大夫は、實に笛の名人ぞや」と、しきりに御感有しが、ほどなくめしかへされしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

 狐の笛をこのみて、後(のち)化をあらはし、源平の戰のていをしてみせしといふこと、兩三度聞しことなり。其内、是は誠に證據も有て、語つたへしおもむきもたゞしければ、是をもとゝして、外を今のうつりとせんか。又、是も狐の得手ものにて、をぢの僧に化るたぐひならんか。笛吹は猿樂のもの故、さるがくの中に、やしま、一の谷などのたゝかひを、おもしろく作りなしてはやす故、笛吹の心みなこのたゝかひを見たしと、願ことも同じからんか。かの笛いまは上の寶物と成て有。金泥にてありしことどもを、蒔繪にしたるといふ。

   *]

 これと同じ話は「蕉齋筆記」に明石の話として出てゐる。源平合戰の有樣を見せるまで全く變りはないが、從容として死に就く最後の一段を缺いてゐる。「奧州波奈志」の狐は千年、明石の狐は八百五十年といふことだから、百五十年ばかり修行不足の點があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段中程)から視認出来る。しかしこれ、エンディングが浅ましく油で揚げた鼠を喰らつて狐が死ぬという展開がおぞましく下卑ていて厭だ。それを見て主人公の御隠居が出家して諸国廻国するなんざ、糞オチもいいところである。]

 「想山著聞奇集」にあるのは狐でなしに狸であつた。稻葉丹後守正通が貞享二年に越後國高田へ國替になつた時、隨從した大野與次兵衞といふ者の屋敷へ、突然十七八歳の若者が現れ、爐のほとりに居つた老婆といろいろ話をする。これが狸なので、遂にその事が主君の耳に入り、微行の形で與次兵衞の家に見えられたが、當夜は全然影も見せなかつたなどといふ話もある。或晩この狸が鬱然として樂しまず、自分は明夜獵師のために一命を落すことを告げた。順序は三段になつてゐて、晝の内の錢砲は避け得る、夕方の落し穴も免れる、夜の罠にかかつて死ぬといふ。それほど運命を豫知する通力がありながら、どうして助かることが出來ぬかといふ問に答へて、天運の盡くるところは是非に及ばぬ、かねて罠にかゝると知つてゐても、その期に及んでは恍惚として覺えなくなるのだ、と云つた。すべて鯰江六太夫に於ける狐と同じである。たゞこの狸は源平合戰の幻術などは見せず、紙と墨を乞うて右の掌の形を捺しただけであつたが、それは全く獸の足跡であつた。

[やぶちゃん注:「稻葉丹後守正通」「まさみち」と読む。江戸前期譜代大名で老中でもあった稲葉正往(まさみち 寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年:「正通」とも書いた)相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主。彼は確かに貞享二(一六八五)年に京都所司代を免職となり(貞享元(一六八四)年に親戚であった若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事件で連座して遠慮処分となったことによる)、高田藩に国替させられている

「微行」「びかう(びこう)」は、身分の高い人などが身をやつして密かに出歩くこと。忍び歩き。

 以上は「想山著聞奇集」の「卷之四」の「古狸 人に化て來る事 幷 非業の死を知て遁れ避ざる事」である。かなり長いが、所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)を底本として挿絵とともに以下に示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。また、【 】は原典割注を示し、〔 〕は底本で前の字の右手に打たれてある、底本編者による補正字である。読みは底本には殆んどないが(太字がそれ)、オリジナルに推定で歴史的仮名遣で附加した。

   *

 

 古狸、人に化て來る事

  幷、非業の死を知て遁れ避ざる事

 

 稻葉丹後守正道朝臣は相州小田原の城守なりしが、京都諸〔所〕司代職に命ぜられて、家中の上下勤役の者を撰(えら)み、彼(かの)地へ隨從なさしめ姶ふ、夏に大野與次兵衞と云(いふ)家士有(あり)て、死して後、其子四太郎、父の祿を承繼(うけつぎ)て、童形のまゝ勤仕(ごんし)なし居て、漸十六歳と成(なり)けるが、老母壹人(ひとり)のみにて、兄弟共外、親屬迚(とて)も一人もなし。しかれども、與四太郎も此撰(せん)の内に預りて、京都へ隨從する命を蒙りたり。由老母の孝養表すべきものなきを以(もつて)、京地へ母同道の儀を願ひて、速(すみやか)に聞濟(ききずみ)と成(なり)、元服して父の名に改(あらため)て、與次兵衞と云。然るに貞享二年【乙丑】正通朝臣、諸司代職退役の臺命(たいめい)有て、越後國高田の城へ替地仰付られ、高田は是迄、越後中將光長卿の領所にして、城も大きく、家中の家敷も分に過(すぎ)て廣く、由(よつ)て役人宍戸五太夫と云者、主命を請(うけ)て、屋敷割をして、與次兵衞にも廣き家敷を賜りて住居(すまゐ)す。元來、與次兵衞は未だ妻子もなく、老母と二人にて、僕從の外には、京都にて抱(かかへ)おきたる老婆壹人のみにて、【此処老婆は、もと京の片田舍醍醐のものなるが、不幸にして世にたつきなく、妹聟の元に育(やしな)はれ居て、漸(やうやう)妻木(つまぎ)を商ひて助(たすけ)となして、かすかに世を渡り居るものを抱て遣ひたり、此老婆、若かりし時は雲上方(うんじやうかた)にも奉公なし、賤敷(いやしき)身ながらも心も優にして、聊か和歌の道にも心有(あり)て、與次兵衞母子に仕(つかへ)る事類ひなくやさしかりけれは、母子の悦び大かたならずして、厚く目を懸(かけ)て遣ひけるにより、姥(ばば)も甚だ悦びて事はるゝ所に、俄に斯(かく)所領替(かは)りて、夢にも知らぬ越路の住居と成(なり)、馴染みたる老婆に別(わかるる)事、名殘(なごり)をしさよと母子の語り合ふを聞(きき)て、姥は忝(かたじけな)き事に思ひ、迚もよるべなき身なれば、生涯を見屆け給らば、ゆかりのものに談(はな)し合(あひ)、越後までも參りて事(つか)へ奉らんとて、身寄のものにも談合して、はるばる越路へ付行(つきゆき)たる女なり。】は至(いたつ)て人小(せう)なれば、爾(いよいよ)以(もつて)、家居(いへゐ)も廣過(ひろすぎ)て、こぼち取たる所も有て、本家と長屋の間も遙に隔り居て、猶更、淋敷(さびしき)事也。越後は雪國と云(いふ)内にも、高田は別して雪の甚敷(はなはだしき)所にて、今年も雪、殊の外降積(ふりつもり)、寒氣も甚敷(はなはだしく)、初て住居する輩は、一入(ひとしほ)、寒苦を愁ふ、主君も、心欝々として、冬籠りをなし居られ、居間の次には諸士を寄(よせ)られて、己がさまさま日夜の物語りするをきゝて、慰(なぐさま)れける故、與次兵衞も、夜話晝詰(ひるづめ)に、隙(ひま)なく出仕なしたりける。或夜、寒さも一入強く、與次兵衞は例の夜話に出(いで)、本家には、老母と老婆とのみ、るすして居たりしに、初更過る頃、十七八歳計なる見馴ぬ奴僕一人、臺所の戸を外より明けて、老婆の圍爐裏に燒火(やきび)して居たる傍へ來り、婆さま、御淋敷(おさびしく)候半(さふらはん)、今宵は一入寒しと云を、能(よく)みれども、知らぬ者故、誰(たれ)にやと問ふに、長屋へ洗濯に來るもの也、氣遣ひ給ふな、我等も其火にあて給へとて、近く居寄(ゐよる)故、何方(いづかた)の人なるぞと問(とへ)は、直(ぢき)屋敷のうしろ近き所に住むもの也とのみ云て、四方山の物語りす。老婆も心解(こころとけ)て、語合(かたりあひ)しが、我等は始て此國に來り、雪中の苦寒には誠に堪兼(たへかね)るといへば、左こそ候半、御身は京師(けいし)醍醐の人なれば、かゝる雪には馴給はねば、嘸(さぞ)、難儀なるべしと云。老婆驚き、そなたは今宵始て來りたる人なるに、如何して我等が故郷(ふるさと)をしり居らるゝぞと怪(あやし)みて問ふに、彼男、夫(そえ)は我等は譯(わけ)有(あり)てしり居るなり、怪み給ふなと云て、餘事(よじ)の咄(はなし)をなして後、夜も大に更(ふけ)たり、歸りなん、又こそ來り候らはめとて出行(いでゆき)ぬ。かくする事、夜々に及びしかは、與次兵衞の老母も不審に思ひ、毎夜、老婆は人と物語りをなす、殊に男の聲なり、いぶかしき事也と怪しみ、老婆に問ふに、誰とは知り申さゞりしが、長屋へ洗濯の用有て來る者也と申せし由、答へければ、今宵も來らば、住居を問ふて、其故(ゆゑ)を能(よく)尋(たづね)よと有しかば、其夜來りし時、老婆、委敷(くはしく)尋探(たづねさぐ)りたるに、實は我は此屋敷の後(うしろ)に年經て住(すめ)る狸なるが、御身の心正直にして、聊も矩〔拒〕(こばみ)給ふこゝろなきまゝ、我も又、其仁心(じんしん)に馴(なれ)て來り、燒火にあたりて寒苦を凌(しの)ぐ事幸(さひはひ)なれば、夜每に來りぬ。聊(いささか)たりとも害はなさゞれは、怪(あやし)み恐れ給ふまじといへり。翌日、此旨を老母へ語りければ、老母も實(まこと)しからぬ程怪しみながら、邊土の山地には、かゝる事も有らん、重(かさね)て來らば、左程に身を變じて人語をもなし、通力自在を得るものならば、與次兵衞の俸祿をもまし、役儀をも進む樣に、君公、又は執柄の老臣へも訴へ呉(くる)る能(よき)方便もあるらんに、賴みてみよと云(いひ)しまゝ、夜の更(ふく)るを待居(まちを)ると、いつもの通り、かの狸、化(ばけ)來りて、老婆を守り見て云樣(いふやう)は、姥(ばゞ)樣は正直にして仁ある故、今迄は來りしが、なんぞや、與次兵衞殿の立身加祿あらせん事を、我に賴み給ふ心の侍るこそ興なき事なれ、是見給へ、我は此通りに、日果を繰(くる)事數年也とて、懷より念珠一連出して見せ、これ全く他の望に非らず、只人間に成度(なりたき)事を願ふ、然(しかれ)ども、其願、中々叶はず、然るに、夫程貴き人身を受(うけ)、殊に四民の第一なる武士と生れ給ひて、此稻葉の御家において、御祿も賤(いやし)からずして重く召使(めしつか)はれ、殊に君の御座右に扈從(こじふ)せらるゝは、是に過(すぎ)たる事、有べからず、所詮、人間の習ひ、何に成(なり)ても望み願ひの絶(たえ)る事はあるべからず、左樣の心を振捨て、君には忠勤をなし、親には孝行をなして、身を正直に職を守り給はゞ、終(つひ)には天道の惠み來るべし、去(さり)ながら、若(もし)、人知(しれ)ぬ變事なんどのあらん時は、前方(まへかた)に心付(こころづき)て告(つげ)奉る程の事はなし申さんといへるゆゑ、老婆も甚だ感服し、さこそ侍らん、かゝる凡心(ぼんしん)の願望は止(やむ)べしとて、其夜は酒を與へ、折節、有合(ありあは)せし小豆飯を與へて歸らせ、其由、具(つぶさ)に老母へも話せしとなり。故又、主君は雪中の徒然に、將棊(しやうぎ)を翫(もてあそ)び給ひしが、家士丹羽武太夫といふもの敵手にて、晝の勤仕を免(ゆる)され、夜每に登城して、君の相手をなせり。其頃、武太夫、母の病氣にて、或夜、病用に取込居て、登城も遲刻となり、由(よつ)て至(いたつ)て差急(さしいそ)ぎ駈行(かけゆく)所に、右の與次兵衞が門前にて雪鞜(ゆきぐつ)の紐を踏切、難儀に及びしまゝ、門(かど)に居たる與次兵衞が僕(しもべ)を賴み、鞜の紐を付かへ貰ふ折節、與次兵衞は今宵は登城ならん、老母もまめにて、其外、家内に替(かは)る事もなきやと問(とふ)に、僕答(こたへ)て云(いふ)には、何れも御機嫌能(よく)候らへども、屋敷の裏に年來(としごろ)住居たる古狸、毎夜、小者に化來(ばけきた)りて、京都より供して來り居候老婆と中よく咄しするに、人間に少しも替る事御座なく、或時は酒を飮(のみ)、又、或時は飯をもたべさせ、珍敷(めづらしき)事に御座候と云故、夫(それ)は甚だ珍敷事なり、實事かと問返(とひかへ)すと、何の虛(そらごと)を申上べきぞと云内に、鞜の紐も直りたる故に、武太夫は急ぎて登城をなすと、先刻より追々尋させ給ふと、朋輩の告(つぐ)を得て、急ぎ御前へ出(いづ)るとて、武太夫申(まうす)には、時刻後れて急ぎて出る道にて、大野與次兵衞の門前にて鞜の紐をきり、甚だ難儀して、やうやうと與次兵衞が僕を賴て、鞜の紐を直し貰ひ、一入(ひとしほ)、遲(おそ)りたり。夫(それ)に付、右の僕の咄には、與次兵衞が墓所へは、毎夜、狸が人に化て出來り、京より連來(つれきた)りし老婆と咄するといふ珍敷事を聞來(ききた)りたりと云故、夫は珍敷事などゝ人々噂する間もなく、直(ぢき)に主君の耳に入(いり)、夫こそ奇成(なる)事也、速(すみやか)に尋(たづ)ぬべしとて、與次兵衞を御前へ呼出(よびいだ)され、汝が家にかやうの事有(あり)と聞(きく)、日頃、何にても、珍敷事は、自國他國の事によらず、聞(きき)及びて慰む折節なるに、何とて夫程の事を今迄は申さゞりしと尋給ふゆゑ、與次兵衞、謹(つつしみ)て申(まうす)やう、されば其儀にて候、只今、武太夫申上候由の趣(おもむき)に相違は御座なく候へども、あまり怪敷(あやしき)事故、先々(まづまづ)遠慮仕候(しさふらふ)て、是迄は、親敷(したしき)朋輩(はうばい)等(など)へも、一切咄し申さず、仍(よつ)て言上(ごんじやう)も仕らず候と答へけるに、主君も、左(さ)も有(あり)なんとて、夫より與次兵衞の咄しを具(つぶさ)にきゝ給ひて、扨々(さてさて)珍敷面白き事也、何卒、竊(ひそか)に汝が宅に我等も行(ゆき)て、其狸の奴僕(ぬぼく)と成來(なりきた)りて物語りするを見聞したきまゝ、明夜、汝が家に至るべしと云出し給ふ故、老臣、此事を承り、此儀は然るべからず候、假令(たとひ)、御城下と云(いへ)、御譜代の與次兵衞にもせよ、夜陰の御忍び步行(ありき)は、御愼(おつつしみ)の足(たら)ざるに似たり。殊に怪談を聞召(ききめさ)れて、化物を御覽に入らせられ候と申は、あまり淺々(あさあさ)しき御儀(おんぎ)にて候と諫め申せば、正道(まさみち)朝臣(あそん)申さるゝは、尤(もつとも)の云(いひ)事なれども、與次兵衞の咄し、僞(いつはり)にあらず、また再度(ふたたび)有(ある)べき事ならねば、行(ゆき)て見置(みおく)べしと申さるゝ故、老臣の申は、然らば、御鷹狩との披露にて、前後の御行粧(ごぎやうさう)を御調(おんととの)へ渡らせられ候へと申上れば、正通朝臣申さるゝには、夫にては、必定(ひつじやう)、かのもの出(いづ)べからず迚(とて)、唯々(ただただ)諸向(しよむき[やぶちゃん注:いろいろな担当者・方面の意であろう。])へ極(ごく)内々にて、彌(いよいよ)與次兵衞の宅へ至らるゝに事極(きはま)りて、其時刻に至りて、近習のもの計(ばかり)、纔(わづか)召連られて、其供人も皆々與次兵衞が門前に殘し置(おき)、主君は近臣兩三輩とともに、竊(ひそか)に與次兵衞が家に入、每(いつも)小者と化來りて、老婆と物語する上の間(ま)の隅に、障子一間(けん)を隔(へだて)て、極々隱れ忍びて、靜かに潛り居られて、狸にしられまじと、火鉢をも進めず、もとより酒食もなくて、數刻得るれども、其夜に限り、妖怪出來らず。既に夜半も過(すぐ)れども來らざれば、雪中の寒苦甚敷(はなはだしく)、上下(うへした)とも堪兼(たへかね)、今宵は先(まづ)歸りて、明夜は寒氣を凌ぐ手當(てあて)はじめ、酒肴も調へて、是非來るべしとて歸り給へば、其跡にて、間もなく、例の僕、出來りて、婆樣いかにと云故、今宵は每(いつも)の時刻に來られぬ故、如何成(いかなる)事かと思ひ居(をり)しに、なぜ遲く來られしと問ふに、僕が曰、そなたは知(しり)給はぬにや、今宵は大守、家内に至らせられて、巍々然(ぎぎぜん)としてましませしに、かゝる高位高祿の貴人に間近く我等の入(いる)べきにあらざれば、其(その)歸らせらるゝを待つ(まち)て來りたる也と語りたるゆゑ、姥(ばゞ)又曰、たとへ大守の御入(おいり)にもせよ、忍びて入らせらるゝのなれば、何も夫程、恐懼するには及ぶまじ、重(かさね)ては遠慮なく來るべしと云と、夫は思ひもよらぬ事也、たとへ再度來り給ふとも、大守のまします内は、百度とも出べからずと云たる故、翌日、與次兵衞出仕して、右の趣を具に言上せしかば、然らば、我等が見聞(みきか)ん事叶ふべらずとて、主君は息思ひ止(とどま)り給ひしとぞ。夫より年月を經ても、僕の來る事、始のごとくなりしが、或夜、來りて一向に物も云はず、氣色(けしき)常に替りて、欝然として樂しまず、食物抔(など)、進むれども食せず、甚だ心痛なる樣子に見ゆる故、姥も不審におもひ、何故に今宵は常に替りしぞ、心配なる事にても有(ある)かと強(しい)て聞(きき)ければ、さればにて候、我(わが)運、已に盡(つき)て、明夜は獵師の爲に一命を落(おと)すに極(きはま)れり、今迄、年來(としごろ)、一形(ひとかた)ならず芳志(はうし)に預りたる事、御禮(おんれい)、言葉に盡し難し、是迄、然るべき期(とき)もなくて、させる御禮をもなさず、是限りに死に行(ゆく)事の殘(なご)り多さよとて落淚す。明日は、晝の内に、鐡砲の難あれども、是は避(さく)べし、又、夕方、穽(おとしあな)の危きに望めども、是も免(まぬか)るべし、夜に入て罠(わな)に懸りて死す。此時は免るべからずと語る故、老婆問て曰く、夫程、未前を能(よく)知る通力有(あり)て、形をも人と變じ、言語も人に替る事なき變化(へんげ)自由の身を持(もち)て、其罠に懸る事を止(とめ)樣(やう)はなき歟(か)、又、たとへ、罠に懸りたりとも、助(たすか)るべき術(すべ)はなきか、夫(それ)ほどしり居(をり)ながら、其罠に懸りて死ねばならぬといふ事、我等には合點(がてん)行(ゆか)ずといへば、天運の盡(つく)る所は、如何とも是非に及ばざる事にて、兼て罠に懸るとは知居(知りゐ)ても、其期(そのとき)に至りては、心恍惚として覺えなく、縊(くびり)て死せん事、鏡にかけたる如く知居(しりを)れども、遁(のが)るゝに所なし。最早、今宵限一りに此家へも再び來(きた)るまじ、御主人へも宜(よろしく)禮を申呉(まうしくれ)られよと打(うち)しほれて語るに、老婆も甚だ名殘惜(なごりおし)く、且は(かつ)氣の毒に思ひ、汝死(しし)て後、其尸(しかばね)に印(しるし)有(あり)やと問ふに、如何にも、古き狸の尾の、今は白きが我にして、罠にて死(しぬ)故、一身に疵(きず)なし、是、我尸なりと云。斯(かく)年月(としつき)、心易くちなみし故、實々(げにげに)殘(なご)り多し、一つの印(しるし)を殘すべしとて、紙墨を乞(こひ)て、右の掌(てのひら)に墨をぬり、紙に押(おし)と見えしが、全く獸(けもの)の足跡なり。是(これ)ぞ形見の手形なりといふ。老婆曰く、迚(とて)もの事に、今一(ひとつ)紙得させよと乞しに、あら心なの事よ、かやうの印は二つ殘すものに非ずと云(いひ)て、夫切(それきり)に去(さり)て見えず。仍(よつ)て老婆、狸の云たる事どもを、具(つぶさ)に與次兵衞が母に告(つげ)しが、老母もさすがに哀(あはれ)に思ひて、翌日、近邊の獸を鬻(ひさ)ぐ市店(いちみせ)へ人を遣はし、寒中、狸を藥用になす事有(ある)まゝ、一身に疵なくて尾先の白からんを得ば、價(あたひ)は望みに任せんと觸置(ふれおき)せしに、其翌日、只今、獵師の手より得たるは、御注文通り也とて持來るを見れば、縊れ死せしものと見えて、惣身に疵なく、尾の半(なかば)は白し。常に來りてまみへたる時は、纔(わづか)廿(はたち)計(ばかり)にも成兼(なりかね)たる若き奴僕(ぬぼく)にてありしが、死せる形を見れば、一際(ひときは)小さくて斑毛(まだらげ)多く、如何にも年經(としふり)たる古狸とみえたり。老母も怪みながら、稀有の思ひをなして、高田へ所替(ところがへ)の後(のち)、菩提所に賴置(たのみおき)たる同所東雲寺といふ寺の現住(げんじゆう)へ、有(あり)し事どもを具(つぶさ)に語り、畜生ながら、一入(ひとしほ)不便(ふびん)の事に思ふまゝ、厚く吊(とむら)ひ給へと賴み、施物(せもつ)を添(そへ)て、尸(しかばね)を彼(かの)寺へ送りければ、住僧も奇異の事に思ひて、人を葬るごとく、念頃(ねんごころ)に囘向(ゑかう)を成遣(なしつかは)しければ、老母も悦びて、此狸の爲に、此寺に石塔を建て、今猶、印(しるし)も殘し有(あり)となん。其後、元祿十四年【辛巳(かのえみ)[やぶちゃん注:一七〇一年。]】稻葉家へ臺命(たいめい)有(あり)て、下總(かづさ)の國佐倉(さくら)の城主戸田家と【能登守忠直朝臣】所替(ところがへ)ありて、其頃は最早、醍醐の姥(ばば)は死して、老母は存命にて、母子、佐倉へ至りたれども、未(いまだ)諸士の屋敷定(さだま)らざる内、城下の山崎といふ所の名主又兵衞といふものゝ家に、與次兵衞旅宿す。此時、佐倉の勝胤寺の一梁禪師、與次兵衞の老母より直(ぢか)に聞置(ききおき)し物語を、聢(しかと)と覺え居(ゐ)て咄されたるを、源の信友(のぶとも)[やぶちゃん注:後注参照。]と云(いふ)人、此物語りの口談にのみ殘り居て、其事跡の絶たえ)ん事を恐れて、寶暦四年【甲戌(きのえいぬ)[やぶちゃん注:一七五四年。]】の春に至りて、懇(ねんごろ)に筆記なし置(おき)たる記錄を得て、寫し置たり。かの狸、老婆と夜な夜なの物語には、計らぬ面白き話も多かるべきに、漸(やうやう)、其初(はじめ)・中(なか)・終(おはり)の有さまだけ、慥(たしか)に殘(のこ)りたるは、殘り多き中にも、又々幸(さひはひ)なる事と思はる。予、此書卷を筆記成し置事(おく)、意、玆(ここ)に有(あり)。兎角、物每(ごと)、委敷(くはしく)筆記なし置(おか)ば、千歳(せんざい)の昔も目前に在(ある)が如く、此書も、貞享年中[やぶちゃん注:一六八四年~一六八八年。元禄の前。]の後、寶曆年中に至りて、信友の其事跡の絶果(たえはて)ん事を憂ひて筆記なし置たるは、七十年後(のち)の事にして、右の筆記あらざれば、今は絶(たえ)て知(しる)ものもあるまじく、扨又、其信友の筆記なし置し寶曆四年の後は、今天保十五年[やぶちゃん注:一八四四年。]に至りて、己に九十一年の星霜は經(ふ)れども、歷然として右に記し置(おく)通り、筆記せし程の事は明(あきら)かなり。予、此書册に、文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]以來、目前に見聞の事のみを多く記し置(おけ)ども、幸にして祝融(しゆくゆう[やぶちゃん注:火災。])の災(わざはひ)をさへ免るれば、千歳の後に至りても、目前に見るが如くに慥(たしか)ならんと打置兼(うちおきかね)、多忙中ながら、筆を執(とり)て纔(わづか)に其事實を記し置(おく)事、册中を見て量りしるべし。第廿五の卷に記し置(おく)、奧州宮城野の老狐の、死後を知居(しりゐ)て得(え)避(さけ)ざりしと、全く同日(どうじつ[やぶちゃん注:同一の意。])の談也。


Tanukinowakare

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後書き部分の文中に出る「源の信友」とは、作者三好想山(しょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)と同時代の、国学者として知られる伴信友(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)ではないかと思われる。彼の蔵書印には「源伴信友」というのがあるからである。因みに、最後に筆者は「第廿五の卷に記し置」いた「老狐」の話を見よ記載するが、実は本「想山著聞奇集」は現存五巻で、原本は凡例や序文に五十巻とあるのだが、公刊はその五巻ぎり、原本も散逸して全く伝わらない。従って、それを読むことは最早、出来ないのであるが、「奧州宮城野」というロケーションと本話の展開から見ても、先の「黑甜瑣語」と相同か或いはごく同系の相似話柄であると考えてよかろう。]

 人間は學問をして、つまらぬ知識を頭に詰め込む代りに、運命を豫知する靈覺を失つてしまつた。千年なり八百五十年なりの齡を保つたら、或は可能かも知れぬが、今の人間の力では、長壽の一點だけでも彼等に伍することは出來ない。勿論狐狸の世界に在つても、かういふのはすぐれた少數者の事で、他は概ね平凡なる野狐、野狸を以て終始するのであらう。

2017/02/15

柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」

 

 飯綱の法

 

 淸安寺といふ寺の和尚は狐をつかふといふ評判であった。橋本正左衞門といふ人がふとした事から懇意になり、折々夜ばなしに行くやうになつた。或晩も五六人寄り合つて話してゐる時、お慰みに一つ芝居を御覽に入れませう、と和尚が云つたと思ふと、忽ち座敷は芝居の體になり、道具の仕立て、鳴物の拍子、名高い役者の出て働く體、何一つ正眞の歌舞伎と違ふところもない。一同大いに感心した中にも、正左衞門は殊に不思議を好む心が強いので、どうかしてかういふ術をおぼえたいと思ひ、その後も屢々和尚をおとづれた。和尚の方でも正左衞門の心中を察し、そなたは飯綱の法を習ひたいと思はるゝか、それならば明晩から三夜續けておいでなされ、愚僧が三度おためし申した上、それが堪へらるゝやうならば、必ず傳授致さう、と云ひ出した。正左衝門は飛び立つばかり悦んで禮を述べ、如何なる事でも堪へ忍んで、飯綱の法を習得しようと決心した。翌日は日の暮れるのを待つて出かけると、先づ一間に通し、やがて和尚が出て來て、もし堪へがたく思はれたならば、いつでも聲を揚げて赦しを乞はれよ、と云つたなり、どこかへ行つてしまつた。間もなく夥しい鼠が出て、膝に上り、袖に入り、襟を渡りなどするので、うるさくて堪らぬけれども、どうせこれは本當のものではあるまい、咬まれたところで疵はつくまい、と心を据ゑ、ぢつと堪へてゐたら、暫くして何もゐなくなつた。和尚が姿を現して、いや御氣丈な事である、明晩またおいでなされ、と挨拶する。翌晩は鼠の代りに蛇で、よほど我慢しにくかつたけれども、本物でないといふことだけで堪へ通した。あと一晩濟ませば傳授を得られると、よろこんで翌晩出かけると、今度はいくら待つても何も出て來ない。少し退屈した時分に、意外な者が現れた。早く別れた實母が、末期(まつご)に著てゐた衣類のまゝの憔悴しきつた容貌で、ふはふはと步いて來て、向ひ合つて坐つたきり何も云はぬ。この實母の末期の樣相は寸時も正左衞門の心を離れぬものなので、鼠や蛇とは同日の談でない。たうとう我慢出來なくなつて、眞平御免下さい、と聲を揚げたが、母と見えたのは實は和尚で、笑ひながらそこに坐つて居つた。正左衞門も面目なくて、それより二度と和尚のところへは行かなかつた(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:「飯綱の法」「飯綱」(いづな)は管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐によれば、『日本の伝承上における憑き物の一種』とされるもので、『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』(下線やぶちゃん)。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」などと『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。なお、実在する食肉目最小種である哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ型亜目イタチ科イタチ属イイズナ(飯綱) Mustela nivalis(「コエゾイタチ」とも呼ばれる)が同名で実体原型モデルの一つではあるが、同種は本邦では北海道・青森県・岩手県・秋田県にしか分布しないので、寧ろ、イヌ型亜目イヌ科キツネ属 Vulpes をモデルとした広義の狐の妖怪(妖狐)の一種と採る方がよい。なお、所謂、「妖狐」の分類については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』の私の注を参照されたい。

「淸安寺」不詳。

「奧州波奈志」先の「むかしばなし」の作者仙台藩医の娘で女流文学者・国学者であった只野真葛の文政元(一八一八)年成立の奥州を中心とした地方説話集(但し、江戸と跨る話柄も含まれる)。以上はその「十四 狐つかひ」である。例の国書刊行会「叢書江戸文庫」版の「只野真葛集」を参考底本として、例の仕儀で示す。オリジナルに歴史的仮名遣で読み(推定)を附した。

   *

     狐つかひ

 淸安寺といふ寺の和尚は、狐をつかひにて有(あり)しとぞ。橋本正左衞門、ふと出會(であひ)てより懇意と成(なり)て、をりをり夜(よ)ばなしにゆきしに、ある夜(よ)五六人より合(あひ)て、はなしゐたりしに、和尚の曰、「御慰(おなぐさみ)に芝居を御目にかくべし」と云しが、たちまち芝居座敷の躰(てい)とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝ拍子(へうし)、色々の高名(かうみやう)の役者どものいでゝはたらくてい、正身(しやうしん)のかぶきに、いさゝかたがふことなし。客は思(おもひ)よらず、おもしろきことかぎりなく、居合(ゐあひ)し人々、大(おほい)に感じたりき。正左衞門は、例のふしぎを好(すく)心から分(かき)て悦(よろこび)、それより又習(ならひ)たしと思(おもふ)心おこりて、しきりに行(ゆき)とぶらひしを、和尚其内心をさとりて、「そなたには、飯綱(いづな)の法、習たしと思はるゝや。さあらば先(まづ)試(ためし)に、三度(たび)ためし申(まうす)べし。明晩より三夜(や)つゞけて來られよ。これをこらへつゞくるならば、傳授せん」とほつ言(げん)せしを、正左衞門とび立(たつ)ばかり悦(よろこび)て、一禮のべ、いかなることにてもたへしのぎて、その飯綱の法ならはゞやと、いさみいさみて、翌日暮るゝをまちて行(ゆき)ければ、先(まづ)一間にこめて壱人(ひとり)置(おき)、和尚出むかひて、「この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても聲をあげて、ゆるしをこはれよ」と云(いひ)て入(いり)たり。ほどなくつらつらと、鼠のいくらともなく出來て、ひざに上り袖に入(いり)、襟(ゑり)をわたりなどするは、いとうるさく迷惑なれど、誠(まこと)のものにはあらじ、よしくはれても疵はつくまじと、心をすゑてこらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく皆なくなりたれば、和尚出て、「いや、御氣丈なることなり」と挨拶して、「明晩來られよ」とて、かへしやりしとぞ。あくる晩もゆきしに、前夜の如く壱人居(ゐる)と、此度は蛇のせめなり。大小の蛇いくらともなくはひ出て、袖に入(いり)襟にまとひ、わるくさきことたへがたかりしを、是(これ)もにせ物とおもふばかりに、こらへとほして有(あり)しとぞ。いざ、明晩をだに過(すぐ)しなば傳授を得んと、心悦(よろこび)て翌晩行(ゆき)しに、壱人有(あり)て、待(まて)ども待ども何も出(いで)こず。やゝ退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別(わかれ)し實母の、末期(まつご)に着たりし衣類のまゝ、眼(まなこ)引(ひき)つけ、小鼻(こばな)おち、口びるかわきちゞみ、齒出(いで)て、よわりはてたる顏色、容貌、髮のみだれゝけたるまで、落命の時分(じぶん)身にしみて、今もわすれがたきに、少しもたがはぬさまして、ふはふはとあゆみ出(いで)、たゞむかひて座したるは、鼠蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみたとへがたく、すでに詞(ことば)をかけんとするてい、身にしみじみと心わるく、こらへかねて、「眞平御免被ㇾ下(まつぴらごめんくださる)べし」と聲を上(あげ)しかば、母と見えしは和尚にて、笑座(しやうざ)して有(あり)しとぞ。正左衞門面目(めんぼく)なさに、それより後(のち)二度(ふたたび)ゆかざりしとぞ。

   *]

 この話は「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる。仙たらんとして志を果さなかつた杜子春の試練にも相通ずるところがある。道則は最初の試練に失敗したので、第一の祕術は得られなかつたけれども、第二の術を學び歸つて都の人々を驚かした。その中に「み几帳の上より賀茂祭などわたし給ひけり」といふ一條がある。これは多分淸安寺の和尚が座敷で芝居を見せたやうなものであらう。

[やぶちゃん注:『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話』後に示す「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)。なお、「瀧口」は姓ではなく宮中の、近衛兵に当たるところの「滝口の武士」のそれである。

「杜子春の試練」唐代伝奇として知られる李復言の「杜子春傳」及び芥川龍之介「杜子春」をどうぞ! この私の電子テクストは完璧!

 以下、「宇治拾遺物語」の「瀧口道則習術事」を示す。

   *

  瀧口道則習術事

 昔、陽成院(やうぜいのゐん)位(くらゐ)にておはしましける時、瀧口道則、宣旨を蒙(かうむ)りて、陸奧(みちのく)へ下るあひだ、信濃の國ひくに[やぶちゃん注:未詳。]といふ所にやどりぬ。郡(こほり)の司(つかさ)に宿をとれり。設(まう)けしてもてなしてのち、あるじの郡司は、郎等(らうどう)引き具して出でぬ。

 いも寢られざりければ、やはら起きて、ただすずみありくに、見れば、屛風をたてまはして、疊など淸げに敷き、火燈(とも)して、よろづめやすきやうにしつらひたり。

「そら薰物(だきもの)するやらん。」[やぶちゃん注:「そら薰物」判らぬように香を焚き燻くゆらすことを言う。]

と、香(かう)ばしき香(かほり)しけり。

 いよいよ心にくく覺えて、よく覗きて見れば、年二十七八ばかりなる女一人ありけり。みめことがら[やぶちゃん注:容貌・体(からだ)つき。]、姿、有樣、ことにいみじかりけるが、ただ一人臥したり。見るままに、ただあるべきここちせず[やぶちゃん注:そのまま見過ごせるような感じがしない。既にはからずも妖異に惹かれてしまっているのである。]。あたりに人もなし。火は几帳(きちゃう)の外に燈(とも)してあれば、明(あか)くあり。

 さて、この道則、思ふやう、

「よによに[やぶちゃん注:いや! 誠に!]ねんごろにもてなして、志(こころざし)ありつる郡司の妻を、うしろめたなき心つかはんこと、いとほしけれど[やぶちゃん注:バツが悪いけれど。]、この人の有樣をみるに、ただあらむことかなはじ。」

と思ひて、寄りて傍(かたはら)に臥すに、女、けにくくも[やぶちゃん注:小憎らしいことに。]おどろかず、口おほひをして、笑ひ臥したり。言はむ方なく嬉しく覺えければ、九月(ながつき)十日ごろなれば、衣(きぬ)もあまた着ず、一襲(かさね)ばかり男も女も着たり。香ばしき事限りなし。

 我が衣(きぬ)をば脱ぎて、女の懷(ふところ)へ入るに、しばしは引き塞(ふた)ぐやうにしけれども、あながちにけにくからず。懷に入りぬ。

 男の前の痒(かゆ)きやうなりければ、探りて見るに、物、なし。驚き怪しみて、よくよく探れども、頤(おとがひ)に鬚(ひげ)を探るやうにて、すべて跡形(あとかた)なし。おほきに驚きて、この女のめでたげなるも忘られぬ。この男の探りて。怪しみくるめくに、女、すこしほほゑみてありければ、いよいよ心えず覺えて、やはら起きて、わが寢所(ねどころ)へ歸りて探るに、さらに、なし。

 あさましくなりて、近く使ふ郎等(らうだう)を呼びて、かかるとは言はで、

「ここにめでたき女あり。われも行きたりつるなり。」

といへば、悦びて、この男(をのこ)去(い)ぬれば、しばしありて、よによにあさましげにて、この男、出で來たれば、

「これもさるなめり。」

と思ひて、また、異(こと)男を勸めて遣(や)りつ。これもまた、しばしありて出で來ぬ。空を仰ぎて、よに心得ぬ氣色(けしき)にて歸りてけり。かくのごとく、七、八人まで郎等を遣るに、同じ氣色に見ゆ。

 かくするほどに、夜も明けぬれば、道則、思ふやう、

「宵(よひ)にあるじのいみじうもてなしつるを、嬉しと思つれども、かく心得ずあさましきことのあれば、とく出でむ。」

と思ひて、いまだ明け果てざるに、急ぎて出づれば、七、八町行くほどに、後(うしろ)より呼ばひて馬を馳(は)せて來る者あり。走りつきて、白き紙に包みたる物を差し上げて持て來(く)。

 馬を引へて待てば、ありつる宿に通(かよ)ひしつる[やぶちゃん注:給仕を担当していた。]郎等なり。

「これは何(なに)ぞ。」

と問へば、

「これ、郡司の『參らせよ』と候ふ物にて候ふ。かかる物をば、いかで捨ててはおはし候ふぞ。形(かた)のごとく、御まうけ[やぶちゃん注:朝食の用意。]して候へども、御いそぎに、これをさへ落させ給ひてけり。されば拾ひ集めて參らせ候ふ。」

と言へば、

「いで、なにぞ。」

とて取りて見れば、松茸を包み集めたるやうにてある物、九つあり。あさましく覺えて、八人の郎等どもも、怪しみをなして見るに、まことに九つの物あり。一度に、さつと、失せぬ。さて、使ひはやがて馬を馳せて歸りぬ。そのをり、わが身よりはじめて、郎等ども、皆、

「ありあり。」

と言ひけり。

 さて、奧州にて金(くがね)受け取りて歸るとき、また、信濃のありし郡司のもとへ行きて宿りぬ。さて、郡司に、金・馬・鷲の羽など多く取らす。郡司、よによに悦びて、

「これはいかにおぼして、かくはし給ふぞ。」

といひければ、近く寄りていふやう、

「かたはらいたき申しことなれども、はじめこれに參りて候ひし時、怪しきことの候ひしは、いかなることにか。」

といふに、郡司、物を多く得てありければ、さりがたく思ひて、ありのままに言ふ。

「それは、若く候ひしとき、この國の奥の郡に候ひし郡司の、年よりて候ひしが、妻の若く候しに、忍びてまかり寄りて候ひしかば、かくのごとく失せてありしに、怪しく思ひて、その郡司にねんごろに志(こころざし)を盡して習ひて候ふなり。もし習はんとおぼしめさば、このたびは、おほやけの御使ひなり、すみやかに上(のぼ)り給て、また、わざと[やぶちゃん注:改めて。]下り給ひて、習ひ給へ。」

と言ひければ、その契(ちぎ)りをなして、上りて、金(こがね)など參らせて、また、暇(いとま)を申して下りぬ。

 郡司にさるべき物など持ちて、下りて取らすれば、郡司、おほきに悦びて、

「心の及ばんかぎりは教へん。」

と思ひて、

「これは、おぼろけの心にて習ふ事にては候はず。七日、水を浴(あ)み、精進をして習ふことなり。」

と言ふ。そのままに淸(きよ)まはりて、その日になりて、ただ二人連れて、深き山に入りぬ。大きなる川の流るるほとりに行きて、さまざまのことどもを、えもいはず罪深き誓言(せいごん)ども、立てさせけり。

 さて、かの郡司は、水上へ入りぬ。

「その川上より流れ來(こ)ん物を、いかにもいかにも、鬼にてもあれ、何にてもあれ、抱いだ)け。」

と言ひて行きぬ。

 しばしばかりありて、水上の方(かた)より、雨降り、風吹きて、暗くなり、水、まさる。しばしありて、川より、頭(かしら)一抱(ひといだ)きばかりなる大蛇(だいじや)の、目(まなこ)は金椀(かなまり)を入れたるやうにて、背中は靑く紺青(こんじやう)を塗りたるやうに、首(くび)の下は紅(くれなゐ)のやうにて見ゆるに、先(まづ)來(こ)ん物を抱(いだ)けと言ひつれども、せん方なく恐ろしくて、草の中に伏しぬ。

 しばしありて、郡司、來たりて、

「いかに。取り給ひつや。」

と言ひければ、

「かうかう覺えつれば、取らぬなり。」

と言ひければ、

「よく口惜しきことかな。さては、このことはえ習ひ給はじ。」

と言ひて、

「いま一度、試みん。」

といひて、また入りぬ。

 しばしばかりありて、やを[やぶちゃん注:不詳。「八尺」の誤りか。]ばかりなる猪(ゐ)のししの出で來て、石をはらはらと碎けば、火、きらきらと出づ。毛をいららかして走りてかかる。せん方なく恐ろしけれども、

「これをさへ。」

と思ひきりて、走り寄りて抱(いだ)きて見れば、朽木(くちき)の三尺ばかりあるを抱きたり。妬(ねた)く、悔(くや)しきこと限りなし。

「初めのも、かかる物にてこそありけれ、などか抱かざりけん。」

と思ふほどに、郡司、來たりぬ。

「いかに。」

と問へば、

「かうかう。」

と言ひければ、

「前(まへ)の物、失ひ給ふことはえ習ひ給はずなりぬ。さて、異事(ことごと)の、はかなき物を物になすことは、習はれぬめり。されば、それを教へむ。」

とて、教へられて、歸り上りぬ。口惜しきこと限りなし。

 大内(おほうち)に參りて、瀧口どものはきたる沓(くつ)どもを、あらがひをして、皆、犬子(いぬのこ)になして走らせ、古き藁沓(わらぐつ)どもを、三尺ばかりなる鯉になして、臺盤(だいばん[やぶちゃん注:食物を盛った器を載せる食台。])の上に躍らすることなどをしけり。

 帝(みかど)、この由をきこしめして、黑戸の方(かた)に召して、習はせ給ひけり。御几帳(みきちやう)の上より、賀茂祭(かもまつり)など渡し給ひけり。

   *

但し、これは「今昔物語集」の「卷二十」に載る「陽成院御代瀧口行金使習外術語第十」(陽成院の御代(みよ)、瀧口、金(くがね)の使ひに行きて外術(げずつ)を習ふ語(こと)第十)と殆ど同話である。それを示すときりがなく、ダブって面白くなくなるだけなので、そちらはまた、私の『「今昔物語集」を読む」』ででもお示しすることと致そう。]

 江戸時代にはこの種の異術を飯綱の法と称したので、「老媼茶話」などにも似たやうな奇談をいくつか擧げてゐる。飯綱の法と斷つてはないが、「耳囊」に見えた紅毛人の奇術などもこれに類するらしい。長崎奉行の用役を勤めた福井といふ男が、主人の供をして長崎に赴いた時、母親が病氣と聞いて、江戸の事を思ひ續け、鬱々として暮すうちに、食も進まず呆然としてゐる。主人も大いに憐れみ、いろいろ療治を加へたが、或人の話に、さういふ病氣は紅毛人に見せれば、何か奇法がある筈だといふことなので、紅毛屋敷へ行き、通辭を以て申し入れた。カピタンから醫師に話すと、盤に水を汲み、この中へ頭をお入れなさい、といふ。指圖通りにしたところ、襟を押へて暫く水中に押入れ、眼をお開きなさいと云はれて眼を開けば、凡そ六七間も隔てたと思ふあたりに、母親の帷子(かたびら)らしいものを縫つてゐる樣子がはつきり見えた。その時、水中より顏を引き上げ、何か藥をくれたから、それを用ゐて全快した。程なく江戸へ歸り、積る話をした際、母親の方から、一年餘りの在勤中は、戀しいこと限りなかつたが、或日お前の帷子を縫ひながら、ふとお鄰りの方を見たら、塀の上にお前の姿がありありと浮び、暫く顏を見合せたことがある、決して夢ではない、と云ひ出した。その時日を尋ねるのに、長崎で紅毛人の療治を受けたのと全く同日同刻であつた。

[やぶちゃん注:『「老媼茶話」などにも似たやうな奇談をいくつか擧げてゐる』これは「老媼茶話」の「卷之六」の「飯綱(いつな)の方(はう)」であろう(一条の中に複数例を挙げてある)。やや長いが以下に例の仕儀で示す。本文の一部を濁音化し、読みは原典の誤りが多いので、オリジナルに附した。

   *

 

     飯綱の法

 

 狐は疑(うたがひ)多きけた物[やぶちゃん注:「獸物」で「けだもの」。]なり。能(よく)化(ばけ)て人をまどわす。人常に知る處也。聲患(うれふ)る時は兒(ちご)の鳴(なく)がぎとく、聲よろこぶ時は壺を打(うつ)がごとし。白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老(おい)たり。化して女と成(なり)顏色よし。見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)。

 近世本邦に狐を仕ふ者有。呼(よび)て飯綱(いづな)の法といへり。其法先(まづ)精進けつさいにして身を淸め、獨り野山に遊び狐の穴居をもとめ孕狐(はらみぎつね)を尋(たづぬ)。此狐を拜して曰、「汝が今孕む所の狐、産れば我(わが)子とせん。必(かならず)我に得させよ」と。それより日夜にしのんで食事をはこびて、母狐(ははぎつね)子を産(うむ)に及び彌(いよいよ)勤(つとめ)て是を養ふ。子すでに長じて母狐子を携さへ術者の元に來(きた)り。子に名を付(つけ)て、「今日よりして如影隨身(かげのごとくみにしたがひ)心の儘(まま)にせよ」と云(いふ)。術者兒狐(こぎつね)に名を付(つく)る。母狐悦び拜して子をつれて去る。是よりして後、術者事あれば潛然(ひそか)に狐の名を呼(よぶ)に、狐形(かたち)を隱し來りて人の密事(みつじ)を告(つげ)、術者におしゆるまゝ、術者狐のおしゑのまゝに妙を談する間、則(すなはち)人、「神に通ぜり」と思へり。若(もし)狐を仕ふもの少(すこし)にても色欲どんよくにふける心有(ある)時は、此術行ふ事あたはず、狐も又弐度(ふたたび)來らずと言へり。

 近所奧州筋の國主に仕へける士に能(よく)飯綱の法(はふ)修せる人有(あり)。此人江戸江登り候折(をり)、小金井の宿に泊りける時、あるじ夫婦のもの立出(たちいで)申(まうし)けるは、「我(われ)壱人(ひとり)の娘有(あり)。近きころ妖狐の爲に惱まされ半死半生の體(てい)に罷在(まかりあり)候。此娘昨日の曉よりたわ言を申候。明日何時(なんどき)其國のたれかしと申(まうし)士、此所に宿をかるべし。必(かならず)宿をかすべからす。此侍此宿に留(とま)る時は我(わが)命助(たすか)り難し。いかゞせんと申(まうし)て身もだへ仕(し)、奧深く隱れふるへわなゝき罷在候。然るに娘申候に違いひなく[やぶちゃん注:ママ。衍字か或いは「たがひ言ひ」か。]、國所も御苗字もひとしき御士樣御宿(おんやど)召(めし)候まゝ、あまりふしぎにぞんし、御供の衆に承(うけたまはり)候へばかゝる怪敷(あやしき)病ひ能(よく)御直しあそばし候由承申(うけたまはりまうす)に付(つき)、恐入候得(おそれいりさふらえ)ども老人二人(ふたり)が心底(しんてい)哀(あはれ)み思召(おぼしめし)、娘が命(いのち)御助被下(おたすけくだされ)候得」と手を合(あはせ)地に伏(ふし)淚を流し賴みける間、かの士も不便(ふびん)に思ひ、「其娘爰へつれ來(きた)れ。先(まづ)對面し樣子を見るべし」と云。夫婦の者悦んで、出間敷(いでまじ)と泣悲(なきかな)しむ娘を無理に引立(ひきたて)來(きた)る。其年十弐三斗り成(なり)。きれい成(なる)娘なるが、汗を流しわなゝいて士の前にひれふし居たり。士娘をつくづくと見て、「汝奧州二本松中山(なかやま)の三郎狐(さぶらうぎつね)にてはなきか。何の恨(うらみ)ありていとけなき者に取付(とりつき)なやましくるしむる。己(おのれ)速(すみやか)にさらずんば只今命をとるべし。早々に去れ」といへども娘答へず、二三度に及んでも返事せず、且(かつ)てふくせるけしきなし。侍怒(いかり)て拔打(ぬきうち)に娘を打落(うちおと)せり。あるじ夫婦の者大きに動轉し、「是はいか成(なる)ことをなし給ふぞ」とあわてさわぐ。士の曰、「驚(おどろく)事なかれ。此(この)曉は必(かならず)其正體を知るべし」とて娘が死骸にふすまをかぶせ屛風を以(もつて)是をかこふ。あるじ夫婦のものは娘の死骸を守り終夜まどろまず。曉に成(なり)て是を見れば、年舊(としふ)りたる狐弐(ふたつ)に切られてふすまの下に死居(しにゐ)たり。夫婦悦び娘を尋(たづね)みれば奧深き處に心よく眠(ねむり)居たり。引起(ひきおこし)よく見るに何の恙(つつが)もなく日を經(へ)て元のごとく成りしといへり。

 近き頃、猪狩所右衞門(いがりしよゑもん)と云(いふ)人、能(よく)飯綱の法を行(おこなふ)。或時侍友(ども)相集りて酒半醉(はんすゐ)に及びける折、所右衞門あをのきて空を詠(なが)め、友をかへり見語りけるは、「昨夕の雨に銀河水增して桂陽の武丁(ぶてい)兄弟浮木(うきき)に乘りてすなどりをなす。われも行(ゆき)て天の川より魚をすくふて歸りおのおのをもてなすべし」と云て笠をかぶり網を提(さ)げはけご[やぶちゃん注:「佩籠」で「魚籠(びく)」のこと。]を腰に付(つけ)わらんじをはいて天へのぼる。暫(しばらく)有(あり)て又空より歸り來(きた)る姿、しとゞ濡(ぬれ)て、腰のはけどより大魚數多(あまた)取出(とりいだ)し、則(すなはち)料理して皆皆へふるまひけり。是は其座に有(ある)人のものがたりなり。

[やぶちゃん注:「桂陽の武丁兄弟」一条兼良の有職故実書「公事根源」(室町中期の応永参〇(一四二三)年頃成立)に、『「續齋諧記」に云ふ、桂陽城の武丁といひし人、仙道を得て、弟に語りて曰はく、 七月七日に織女河を渉る事あり。弟問ひてなにしに渡るぞといひければ、織女しばらく牽牛に詣づと答へき。 是れを織女牽牛の嫁(とつ)ぐ夜となりと、世の人申し傳へたるなり』とある(ここのデータに拠った)。「桂陽」は湖南省郴州市桂陽県か。]

 又寛文拾年[やぶちゃん注:一六七〇年。]の夏、ある國へ現世(げんせ)居士・未來居士といふ幻術者來(きた)り、樣々の不思義をなし諸人をまよはす。其國主是を聞召(ここしめし)、「左樣の者國にあれば諸人亂(みだれ)を發すの元也」とて召(めし)とられ、刑罪せらるゝ折、彼(かの)兩人の者ども申(まうし)けるは、「我等只今最期に及(および)候。仕殘(そのこ)したる術一(ひとつ)候。見物の各々へ見せ可申(まうすべし)。かく嚴敷(きびしき)警固の人々鑓(やり)・長刀(なぎなた)にて取(とり)かこみおはしまし候得ば、外へのがるべき樣(やう)もなし。少し繩を御ゆるし候得」といふ。警固の者ども聞(きき)て、「靑天白日なり。少し繩をゆるめたればとて、いづくへ行(ゆく)べき」とて少しなわ[やぶちゃん注:「なは」。繩。以下、同じ。]をゆるめければ、未來居士則(すなはち)なわをぬけ壹(ひとつ)の鼠となり、はり付柱[やぶちゃん注:「梁付柱」(はりつけばしら)で磔(はりつけ)の刑に用いる柱のことであろう。]の橫木江(え[やぶちゃん注:「へ」。])あがりうづくまり居たり。現世居士鳶(とび)と成り虛空に飛あがり羽をかへし空に舞ふ。暫く有て落懸(おちかか)り彼(かの)鼠をさらひ行方知らず成(なり)たり。警固のもの大きに驚き爰かしこ尋(たづね)けれども、なわはしばりし儘(まま)に殘り身斗(ばかり)ぬけたり。其刑罪の場へ出(いで)し固(かため)の役人、足輕迄いましめを蒙りたりといへり。かゝる怪敷(あやしき)者ゆるがせにすべからず。必(かなず)急(すみやか)に殺すべし。魔術を行ふ場へ牛馬鷄犬によらず何獸(なんじう)の血にても振(ふり)そゝぎ、或は糞水(ふんすゐ)をそゝぎ懸れば、妖術忽(たちまち)滅して魔法幻術かつて行はれず。また鐵砲を打うち)はなてば其(その)法破るといへり。是古人の祕法也。

 またいつの頃にや有(あり)けん、武州川越の御城主秋元但馬守殿領分三の丁と云處へ行脚の僧壱人(ひとり)來(きた)り。宿をかりけるに、あるじけんどん成る者にて宿をかさゞりけり。僧ひたすらに歎き、「日はくるゝ、いたく草臥(くたぶれ)足も引(ひか)れ不申(まうさず)。せめては軒(のき)の下なりと御かし候へ。夜(よ)明(あか)ば早々出行可申(いでゆきまうすべし)」と云。主(あるじ)是非なくしぶしぶ立て戸を開き態(わざ)と燈(ともし)をも立(たて)ず。坊主内へ入(いり)水を求(もとめ)手足を洗ひたばこを呑(のみ)休息し、「燈はなく候哉(や)」といふ。「是(これ)なし」といふ。其れ時坊主左の手をいろりの内へ差入(さしいれ)、五(いつつ)のゆびを火にもやし燈となし、目を張(はり)こぶしを握り、鼻の穴へ入るゝ事ひぢまで也。其後(そののち)鼻をしかめ口をあきくさめをすれば、長(ながさ)二三寸斗(ばかり)の人形(にんぎやう)共(ども)弐三百吐出(はいきいだ)す。此人形共立上り、てん手(で)に鍬(くは)を以(もつて)座中をからすき、忽(たちまち)苗代田(なはしろだ)の形をなし、水を引(ひき)籾(もみ)を蒔(まき)靑田となし穗に出(いで)てあからむを、人形共鎌を取(とり)大勢にて刈取(かりとり)、つきふるひ數升の米となしたり。其後坊主人形共をかき集(あつめ)大口をあき一のみに飮納(のみをさめ)、「鍋來(きた)れ鍋來れ」と呼(よぶ)に庭の片角の竃(かまど)にかけし鍋おのれとおどりて坊主が前に來りければ、坊主ふたを取、米・水を鍋に入、左右の足を蹈(ふみ)のべ、いろりの緣(ふち)へ當(あ)て傍(かたはら)に有ける大(おほ)なたを以て膝節(ひざぶし)より打碎(うちくだ)き打碎き薪(たきぎ)となし、火にくへて程なく飯を焚納(たきをさ)め、數升の米不殘(のこらず)喰盡(くらひつく)し、水を一口呑(のみ)いろりに向ひ吹出(ふきいだ)しけるに、忽(たちまち)いろり泥水と成り蓮の葉浮び出(いで)て蓮の花一面に咲(さき)、數百の蛙(かはづ)集りかまびすしく泣(なき)さわぐ。あるじみて大きに驚き、ひそかに表へ出(いで)て若き者共を呼集(よびあつ)め件(くだん)の事共(ども)を語りければ、聞(きく)者ども、「夫(それ)は慥(たしか)に化物なるべし。取逃(とりにが)すな」と訇(ののし)りてん手(で)に棒まさかりを取持(とりもち)て、くつ強(きやう)の若男(わかをのこ)十四五人斗(ばかり)家の内へ押入(おしいり)見る。坊主ゆたかに伏(ふし)ていびきの音(おと)高し。「しすましたり」と坊主が伏たる跡先(あとさき)を取(とり)かこみ、手足をとらへ頭を強く押へからめ是(これ)をとらへんとするに、坊主目を覺(さま)し、押へける手の下(した)よりふつと拔出(ぬけいで)る。是をみててん手(で)に棒をふり上(あげ)たゝき伏せんとするに、かげろふ[やぶちゃん注:陽炎(かげらふ)。]・いなづまのことく飛𢌞り手にたまらず片原(かたはら)[やぶちゃん注:傍ら。]に有ける大きなる德利の内へ飛入たり。「取逃すな」と寄り、この德利をとり上(あぐ)るにおもくしてあがらず、德利おのれとこけまわる[やぶちゃん注:ママ。]。「さらば打碎(うちくだけ)」と棒まさかりを振上(ふりあぐ)るに、德利の中より黑煙り吹出(ふいいだ)し德利の中(うち)鳴(なり)はためき、終(つひ)に二(ふたつ)にわれたり。其ひゞき大雷(おほいかづち)のごとし。十四五人の者ども氣を取失(とりうしな)ひ、爰かしこに倒れふす。このさわぎの内に坊主はいづかたへ行(ゆき)たりけん、跡形(あとかた)もなく失(うせ)けりとなり。

 昔松永彈正久秀永祿の頃、多門の城にありし時、果心居士といふ魔術者、久秀をまどはしける事あり。果心も此類にや。

   *

柴田が前に掲げた「果心居士」を最後に出しているのが、柴田の執筆の連関性共時性を感じさせて面白い。それにしても最後の坊主の話は明らかに中国の唐代伝奇以来の道士の幻術(妻から、その間男から、屋敷から何から全部、口に中から出して入れてしまうという入子形式)や、妖しの者が家内でミニチュアの小人や家畜を出現させて畑を耕す志怪譚が元だろうが、これはそれがすこぶる徹底していて間断なく、なかなか優れたインスパイアになっていると私は思う。

 以上の「耳囊」のそれは「卷之四」の「蠻國人奇術の事」である。リンク先の私の原文訳注でどうぞ。]

「譚海」に出てゐる話も紅毛人で、ほゞ似たやうなものであるが、これは病人ではない。紅毛通事の西長十郎といふ者である。紅毛人が歸國する時は、通事の人々だけがその船まで送つて行つて、離別の宴を催すことになつてゐる。或年例の如く船中で酒を酌み交したが、紅毛人も非常に機嫌よく、年年各々方の御引𢌞しで滯りなく御用を勤めることが出來ました、この御禮に御望みのものを本國から送りませう、と云つた。一同いろいろのものを賴む中に在つて、長十郎は笑談半分に、私は別に願ひはありませんが、これまで二三年に一度づつは江戸へ御同道致し、その逗留の間に在所へ參つて、妻子の安否を問ふことが出來ましたのに、このところ六年ほどは江戸へ參らず、在所の安否も知れません、これを知りたいだけが私の願ひです、と云ふと、それはわけのないことですが、構へて御他言無用、といふことであつた。長十郎も誓詞を立て、座に通事以外の人も居らぬから、紅毛人も承知して、大きな瀨戸物の鉢に水を一杯に湛へ、この中を瞬きせずに見詰めて居られゝば、在所の安否は自ら知れます、といふ。如何にも水中に郷里である栃木の道中が浮び、村舍林木まではつきりわかる。餘念なく見入つてゐると、遂に自分の家の門前に出た。門が普請中で入りにくいやうだから、垣根の外の木に上つて家の内を見入つたところ、女房は俯向いて針仕事に精を出してゐる。此方を向かぬかと見惚れてゐるうちに、半時ばかりして縫ふ手をやめ、ふと顏を見合せた。此方も何か言はうとする、女房も驚いて聲を揚げようとした途端、紅毛人が鉢の水を掻き𢌞したので、すべて消滅した。さてさて殘念なことを致した、もう少しで言葉を交すところであつた、と言ふと、今そこで言葉を交されゝば、お二人のうち一人は生命に異狀がある、何か言はれさうであつたから、その前に消して上げたのです、といふ話であつた。このあとは前の話と同じく、その後在所へ歸つて委細を話した時、成程あなたが垣根の外にいらつしやるのを見て、私も何か申上げようと思ひましたが、急に夕立が降り出して、お姿が見えなくなりました、と女房が云ふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「譚海」の「卷之二」(現在、私が電子化注進行中の巻であるが、そこまで辿りついていない)の「阿蘭陀(おらんだ)通事(つうじ)西(にし)長十郎の事」である。以下に示す。歴史的仮名遣の読みは私の推定による。

   *

○紅毛(こうもう)通事に西長十郎と云(いふ)者あり。野州栃木領の者成(なり)しが、放蕩にて産を破り長崎まで浪牢(らうらう)せしが、生質(きしつ)器用成(なる)ものにて、阿蘭陀の言語をよくし、後々をらんだ通事西某といふものの弟子と成(なり)て、其氏(うじ)を名乘(なのる)ほどの者に成(なり)、通詞(つうじ)役の末席にも缺(かか)ざるほどの者にて有(あり)。每年おらんだ人江戸へ御禮(おんれい)に來(きた)る時は、長十郎も度々(たびたび)同行し、をらんだ人逗留の内に栃木へも立越(たちこし)、妻子にも年々對面せしと也。或年をらんだ人長崎の御暇(おいとま)相濟(あひすみ)出立(しゆつたつ)のせつ、いつも通詞の人計(ばかり)は船中まで送り行(ゆき)て、酒宴を催し別(わかれ)を敍する事なれば、例の如く諸通詞の者送り行(ゆき)、三里計(ばかり)沖に有(ある)をらんだ船まで行(ゆき)て、酒を酌(くみ)かはしたるに、おらんだ人殊の外悦び、年々各方(おのおのがた)の御引𢌞しにて御用無ㇾ滯(とどこほりなく)相勤め忝(かたじけなく)、此御禮には何にても御望(おのぞみ)の物本國より仕送(しおく)り遣(つかは)すべき由を申(まうし)けるに、みなみな種々の物を賴み遣しける中に、此長十郎戲(たはむれ)に申けるは、われら外に願ひはなけれども、御存じの如く、二三年に一度づつは江戸へ御同道し、逗留の内に在所へも罷越候(まかりこしさふらふ)て、妻子の安否をも問(とひ)侍りしが、我ら事(こと)近年間違(まちがひ)候て六年ほど江戸へ參らず、在所の安否もしれかね候、此(これ)のみ心にかゝり候、是(これ)を知(しり)たき外(ほか)願(ねがひ)はなく候と申ける時、をらんだ人聞(きき)て其安否をしられん事はいと安き事なれども、構(かまへ)て他言(たごん)ありてはならぬ事也といひければ、長十郎此安否しられ申(まうす)事ならば、如何樣(いかやう)の誓言(せいごん)にても立申(たてまうす)べしとて申(まうす)にまかせてちかひをたてける時、和蘭陀人さらばこゝは各方(おのおのがた)のみにて、隔心(へだてごころ)なき事なれば苦しからずとて、やがて大きなる瀨戸物の鉢をとりよせ、其内へ水をたゝへ、長十郎に申けるは、此内を目(ま)たゝきせず能(よく)見すまし居(を)らるべし、在所の安否おのづから知られ侍るべしといひければ、長十郎不思議に思ひながら鉢の内をみつめ居(をり)たれば、水中に栃木道中の景色出來(いでき)、再々(さいさい)其道を行(ゆく)に村舍林木まで悉く見へければ、餘念なく面白く見入(みいり)たるに、終(つひ)に道中をへて我(わが)在所の門(かど)に至りぬ。門(かど)普請(ふしん)有(あり)て入(いり)がたき樣子なれば、我(わが)家(いへ)の垣の外に木のありたるに上りて、家の内を見入たれば、女房縫針(ぬひばり)に精を入(いれ)てうつむき居(ゐ)たり。我(わが)方(かた)をみむくかと見とれて居(ゐ)たるに、漸(やうやく)半時斗(ばか)り過(すぎ)てぬひものを止(や)め、ふと我(わが)顏を見合(みあは)せたれば、うれしく物いはんとするに、女房も驚き詞(ことば)を出(いだ)さんとする時、此阿蘭陀人そのまゝ手を鉢の内へ入(いれ)、くるくると水をかきまはしたれば、在所の景もうせ、長十郎も正氣付(しやうきづ)たるやうにて首(かうべ)をあげ、扨(さて)も扨も今少し殘念なる事也(なり)、妻に逢(あひ)てものをいはんとせしに、水をかき𢌞し失はれし事、千萬(せんばん)殘(なご)り多き事也(なり)と申せしかば、其(その)事也(なり)、今そこにて詞(ことば)をかはさるれば、兩人の内に壹人(いちにん)命(いのち)をたもつ事あたはず、さるによりて詞をかはさんとせらるゝを見てとり、うしなひ進(しん)じたる也(なり)といへり。是(これ)紅毛人(こうもうじん)いか成(なる)術をもちて如ㇾ此(かくのごとき)事をなすや、今に怪(あやし)みにたへざる事也。後年(こうねん)長十郎江戸へ來りし序(ついで)、在所へ越(こし)右(みぎ)物語りをせしかば、女房申けるは、成程其の月日在所へをはして垣の外に居(ゐ)給ふをみて、詞をかけんとせしが、俄(にはか)に夕立(ゆうだち)降出(ふりいで)て見うしなひ侍りしといひけるよし、不思議成(な)る物語也(なり)。

   *]

 この二つの話などは切支丹破天連の妖術として一言で片付けられさうであるが、日本人の中にも似た話が無いでもない。服部備後守が蝦夷奉行勤役中、松前の城下に盲人の按摩があつたのを、呼んで話相手にされた。或時その盲人が、永々の御在勤で、さぞお國を戀しく思召されませうといふので、如何にもさうだが、海陸數百里を隔ててはどうもならぬ、妻子の事も思ひ出さぬではないが、と答へると、もし御對面なされたく思召すならば、私がお逢ひなされるやうお取りはからひ申しませう、と意外な事を云ひ出した。それは思ひもよらぬ事ぢや、と取合はれなかつたところ、盲人は形を正して、私いさゝか術を心得て居ります、先づ私の致すやうに遊ばされませ、と云ひ、備後守を正坐させ、しばらく目をおねむり下さりませ、といふ。暫く瞑目し、盲人の言葉に從つて目を開けば、周圍は忽ち江戸の屋敷となり、奧方も若君達も居竝んで談笑して居られた。備後守は大いに驚き、暫く茫然としたが、漸く心付いて、こやつ曲者ぢや、取逃すな、と大聲を揚げられた。詰め合せた用人、近習の者まで、おつ取り刀で盲人を取圍んだけれども、少しも騷がず、立上つて緣側に出る。途端に庭から水が湧き上つて、盲人の姿はどこへ行つたかわからなくなつた。その日その時、備後守の姿が江戸の屋敷に現れたさうである。「我衣」の著者はこの話の末に「是いかなる事にていひふらせしや、その出所甚だ正しからず」と云ひ、「後に聞けば、皆虛説也といへり」と附け加へてゐるから、あまり信用出來ぬかも知れない。

[やぶちゃん注:「服部備後守」江戸後期の旗本で松前奉行・勘定奉行などを務めた服部貞勝(宝暦一一(一七六一)年~文政七(一八二四)年)か。彼はウィキの「服部貞勝によれば、文化九(一八一二)年十一月に松前奉行となり、翌年九月には『前任者より引き継いだロシアとの国際紛争「ゴローニン事件」』(文化八(一八一一)年に千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン(Василий Михайлович Головнин)らが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されて約二年三ヶ月に亙って本邦で抑留された事件)の解決に努め、文化十三年五月に『勘定奉行勝手方兼務』(松前奉行は同年十二月に退任)している。彼は従五位下備後守(後に伊賀守)であった。ここは「蝦夷奉行」とあるのだが、江戸幕府の遠国奉行の一つであった蝦夷地の行政を管掌したそれは、享和二(一八〇二)年に設置されたものの、まもなく「箱館奉行」となり、文化四(一八〇七)年には「松前奉行」と改称しているからである。

「我衣」「わがころも」と読む。水戸藩士で文人医師であった加藤曳尾庵(えびあん/えいびあん宝暦一三(一七六三)年~?)が書いた日記風随筆。十九巻。本書は文政一二(一八二九)年成立とされるから、服部貞勝の記載として共時的で無理はない。同書は所持しないので確認出来ない。]

北京広安門外天寧寺壁面レリーフ

北京在住の教え子が還暦の今日の僕に贈ってくれた北京広安門外の天寧寺の壁面レリーフの写真――慄っとするほど美しい!

 

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完全還暦記念 二本のステッキ 田中純 佐藤泰治 畫

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介を素材とした実名小説である。昭和三一(一九五六)年二月「小説新潮」に発表された。表記漢字は底本自体が正字現代的仮名遣(但し、ひらがなの拗音は拗音表記されていない)である。

 底本は、十年前、初出誌を神奈川県の公立図書館に正規に有料コピーを依頼して入手したものを使用した。底本の傍点「ヽ」はブログでは太字とした。

 小説家田中純(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は広島県広島市生まれ。関西学院神学部及び早稲田大学英文科卒。春陽堂に入社して『新小説』の編集主任を勤めた。クロポトキンやツルゲーネフ、ドライサーの「アメリカの悲劇」などの翻訳を手掛けた。久米正雄・里見弴らの知遇を得、文芸評論・小説・戯曲などにも手を染め、大正八(一九一九)年に里見らと『人間』を創刊、翌年の「妻」が代表作である。彼の作品はパブリック・ドメインである。

 挿絵を担当した画家佐藤泰治(たいじ 大正四(一九一五)年~昭和三五(一九六〇)年) は洋画家。東京生まれ。川端画学校に学び、宮本三郎に師事した。新聞小説や雑誌などの挿絵を多く描き、代表作としては川端康成の「舞姫」の挿絵が知られる。彼の作品もパブリック・ドメインである。佐藤氏の挿絵は私が最も適切と判断した箇所に配した(冒頭の一葉は底本でも冒頭に配されてある)。

 私は既にこの実名小説の元となった実在する佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)の随筆「芥川龍之介の思い出」(昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)。これは田中純に提供されたものを後に改稿したものである)を電子化している本文のみのHTML版ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での同注釈附分割ブログ版・同一括ワード縦書版(私のこちらの「心朽窩旧館」からのダウンロード方式)の三種であるが、それ以外にも佐野花子の「芥川龍之介の思い出」についてはブログで複数の小攷を試みているので(前記テクスト冒頭にリンクさせてある)、そちらも参照されたい)。

 なお、佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の中でも、実は本作への言及が、その末尾にある。未読の方は本作を読む前に佐野花子の「芥川龍之介の思い出」全篇をまず読まれんことを強く求めるものである。末尾のそこでは、この発表の翌月の同じ『小説新潮』三月号の「文壇クローズアップ」欄に十返肇が書いたとする「芥川への疑惑」という本小説への評をかなり長く引用している(但し、現物は私は未見)。それは佐野花子の引用意図とは別に、この田中の、実名小説という形式に対する、強い批判が含まれている。是非、そこもお読み戴きたい。

 因みに言っておくと、本作冒頭に出る、資料の原執筆者と措定される佐野花子に当たる人物を指して、『昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつた』としているのは、田中の小説上の技巧であって事実に反する。廃人同様となった人間に本作公開の後、あのような緻密な改稿作業は不可能だからである。佐野花子(彼女の没年は既に示した通り、昭和三六(一九六一)年(八月)で本作発表から五年後のことである)の名誉のために言い添えておく。

 以下、老婆心乍ら、先に幾つかの注をしておく。それ以外については、恐らく、私の佐野花子「芥川龍之介の思い出」の方の詳細注で事足りるはずと心得る。

・「博士」不詳。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」には登場しない。

・「ストーム」は「storm」(嵐)を語源とする、本邦の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校・新制大学などの学生寮などに於いて、学生たちがしばしば行ったバンカラ(蛮行)の一種で、高歌放声のどんちゃん騒ぎを考えればよい。

・「蠟勉」は「ろうべん」と読む。かつての一高寄宿舎では夜十二時で消灯が決まりで、それ以後に勉強したい者は蠟燭を買っておいて灯し、こっそりと勉強した。そのことを指す学生間の隠語である。

・「河童踊り」ネット情報によると、一高以来、主に水泳部(一高水泳部は明治二七(一八九四)年創部)を中心に行われた校内の学生間の準年中行事と思われる。本来は初冬の寒中水泳であったか。現在の東京大学水泳部には、この「部踊り」としての「河童節」が残り、時々、河童踊りも行われているようである。但し、「河童節」は大正一〇(一九二一)年誕生で、公式の初演は昭和五(一九三〇)年の紀念祭で((PDF)の東京大学水泳部の準公式と思われるデータに拠る)、芥川龍之介は大正二年一高卒・大正五年東京帝大卒であるから、ここにこの話が出るのはやや不審な気がする。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」にも「ストーム」「蠟勉」と合わせて、出ない。

・「若宮堂」この場合は鎌倉の鶴岡八幡宮下宮、特にその舞殿を指す(但し、これは近代に設営されたものであって鎌倉時代に静が舞ったのは上宮の回廊部分である)。言い添えておくと、それ以下の由比が浜のシークエンスを含め、この建長寺から天園のロケーション部分は、田中の完全な創作(嘘っぱち)であって、実際の芥川龍之介の水泳の場面は横須賀の海岸での佐野花子の思い出のそれを操作捏造したものである。無論、小説であるからにはそれを咎め立てするには当たりはしない。続くところの本作の題名に関わる印象的場面を撮るには演出行為としては上手いと思わぬでも、ない。しかし、私はこの如何にもなそれを(原資料の佐野花子の芥川龍之介の水泳シーンはすこぶる映像的で印象的で美しい故にこそ)はなはだ生理的に不快極まりないものとして強く映ずるものであることは言い添えておきたい。

・「靜」のルビ「しずか」はママ。

・「村夫子」は「そんふうし」或いは「そんぷうし」と読む。「村で一目置かれる学者のような存在」「田舎暮らしの在野の先生」の謂いであるが、別に「見識の狭い学者」という卑称でもある。

・「淚線」はママ。

 最後に。本電子データは私の完全還暦記念として公開するものである。【2017年2月15日――満60歳の私の誕生日に――本作に対する複雑な愛憎を込めて――藪野直史】

 

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 二本のステッキ

 

             田中   純

             佐藤 泰治畫

 

 この三四年間、私の親しく接して、來た作家たちの印象を筆にすることの多かつた私は、ずいぶん多くの未知の人々から手紙を貰つた。そうした手紙の中にははじめから喧嘩腰で、筆者の解釋の不當をなじつたり、誤謬を指摘して來たりしたのもあつたけれども、その多くは、こちらには勿髓ないほどの好意を示して、賛意を表したり、未知の事實を知らせてくれたりするものだつた。

 「芥川龍之介と女たち」を書いたときも、私は幾通かの善意に溢れた手紙を受け取つた。中には芥川君の親戚の人からの、懇切に私の疑問を解く手紙などもあつて、ともかくも私の文章が、甚だしく故人の德を傷つけていないらしいことを知つてほッとしたのであるが、そうした頃の或る日、私は一通の分厚い封書と一緒にハトロン紙包みの小さい小包郵便を受け取つたのである。

 差出人は橫須賀市の山口靖子とある。もちろん未知の人だ。私の文章を讀んだのでにわかに思い立つてこの手紙を書くという書き出しで、しつかりした字畫の若々しい文字で書いてあるところによると、彼女の父は若い頃、橫須賀の海軍機關學校の教官をしていたことがあり、同じ學校の教官であつた芥川龍之介と相當に親しく交わつたようである。殊にその頃お茶ノ水女高師の文科を卒業したばかりの母は、まだ文學に靜かな情熱を抱いている時代でもあり、芥川の美しい人柄や泉のような才筆にすつかり魅せられたようで、このような若い天才を家庭の友として持つていることに、この上もない喜びと誇りとを、父とともに感じていたようであつた。ところが、こうした親しい交りが二年も續いた後に、突然、芥川から、理由の判らない絶交を宣せられた形になつた。これは靜かで平凡な生涯を送つた父母にとつては、終生最大のショックであつたようである。殊にあれほどに芥川を信じ愛した母は、その理由が全く判らないだけに一層苦しんでいたようで、最近まで一人娘である彼女に、

「どうして芥川さんは私たちにあんなことをなすつたのだろうねえ。」

 と言つて嘆いていた。この母は、昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつたし、父もまた十數年前に世を去つている。もちろん芥川も自ら生命を絶つた今日では、その理由を確かめるてだては全くなくなつているけれども、ただ一つ、母がその晩年に書き遺して置いたノートがあり、これには芥川と父母との交遊の樣子を相當にくわしく書いている。このノートを讀んでも、どうして芥川が父母に對してあんな仕打ちをしたのか、その理由が自分たちには判らないけれども、その頃の芥川と親しい交遊があり、且また文筆者の心理にも通じている筈の貴下は、このノートによつて何かの解釋を得られるかも知れない。もし何かの結論を得られたら、母の心の最後の平和のためにも、それを知らせてほしい。うした願いをこめて、右のノートや、その頃の父母の寫眞などを送るからよろしく賴む。

 手紙の文意は大體右のようなもので、更に最後に、自分たちは決して貴下の「芥川龍之介をめぐる女たち」に名乘りをあげるつもりでこんな手紙を差し上げるのではないし、芥川の非情を非難するつもりで貴下に訴えるわけでもない。父や母がその一生にわたつてどんなに芥川を愛し敬していたかはこのノートを見てくれれば判ることだから、その點誤解のないように願いたいという意味がつけ加えてあつた。

 手紙を讀み終ると、私はさつそく小包を開いて見た。二つの手記があつた。一つは原稿紙三十枚ばかりの「私」と題するもので、母なる人の生い立ちの記のようなものらしい。今一つのが大判の大學ノート一筋にぎつしりと書きこまれたもので、表紙には「芥川樣の思い出」と橫書きしてあり、その下に小さく佐原春子と署名してあつた。そして別に一封の西洋封筒が添えてあつて、その中に兩親の寫眞と、芥川の手紙と原稿の寫眞が一枚ずつ入れてあつた。

「綺麗な人じアないか。」

 私はそばにいる妻に寫眞を示した。

「ほんと。」

 と、妻も、もう少し黃色を帶びて來ている古い寫眞に見入つて、「とてもゆたかな感じの人じアないの。」

「クラシカルだけれども利巧そうだし、好い感じだね。」

「これが芥川さんの戀人?」

「さア、ノートを讀んでみなければ判らないが……」

 その日いちにちかかつて、私はこのノートを讀んだ。ノートの大部分は、彼らがまだ新婚時代に獨身者の芥川とかわした友情の記錄だつた。その追憶の甘さと、敍述のくだくだしさとははじめのうち多少私を退屈させたことは事實であるけれども、やがてこの記錄の持つ不思議に強い情熱に引きこまれて行つた。特にこの筆者の良人なる人の芥川に對する神のような寛容や善意には妙に心を打つものがあつた。むろん私は、どうして芥川がこうした友情にそむいたのか、その理由を讀みとろうと努めた。いろいろな想像が私の頭に浮んだけれども、遂に的確にこれだという理由は摑み得なかつた。結局、私は、彼ら母子の期待に添い得ないことを斷つて、このノートを送り返そうと思つたが、二三日机の上に置いて眺めているうちに、こうした記錄をこのまま娘の筐底に埋めてしまうことの惜しさを感じて來た。むろんこうした交遊は、芥川にとつてはまことに些々たる感傷期の戲れであつたかも知れないけれども、そのために少くとも二つの最も善良な魂が、戸惑つたり悶えたり嘆いたりしていることを考えると、私は何か義憤に近いものさえ感じないでいられなかつた。で、それから二三囘の文通の後に、私はこのノートを公表することの許しを得た。これから書くのがそのノートである。

 もつともこの手記は相當に長いものであるから、ここにその全文を示すわけには行かなかつた。私は思い切つて取捨したり書き改めたりしなければならなかつた。從つてこの一齊の文責は全部作者たる私にあることを斷つて置く。

 

 芥川さんの噂を良人からはじめて聞いたのは、私たちのまだ婚約中のことであつた。その頃私は、仲人である鎌倉の博士のお宅で家事見習いをしながら、ときどき良人と會つていた。信州の片田舍の女學校を卒業して、そのまま女高師の寄宿舍生活に入つていた私は、都會ぐらしの家事については全く何も知つていないのであつた。

「僕の學校の同僚に芥川龍之介という人がいるんですよ。」

 と、或る日、良人は、F博士邸の應接室で二人きりで話しているときに言つた。その頃芥川さんはすでに「羅生門」その他を書いて、若い天才を謳われている時代であつたから、私もよく彼の名を知つていた。

「まア、あんな方が同僚でいらつしやいますの。」

「僕よりも三四年の後輩だけれど、すばらしい秀才です。僕は理科、先生は文科だけれど、二人とも東京の下町生れなので、よく話が合うんです。あなたも文科だから、結婚したらいろいろのことを芥川君に教えていただくと好い。」

「ええ、是非。」

 こんなことを話してから間もなく、いよいよ近づいて來る結婚の準備のために私は信州の里に歸つたが、田舍の古い家の中で何かと忙しく働きながらも、やがて間もなく芥川さんのような方と親しくおつきあいすることになるのだと考えて、何か樂しいような不安なような氣持に陷ることもあるのだつた。

 その年の春、私たちは鎌倉の博士のお屋敷で、内輪ばかりの結婚式を擧げた。橫須賀の新居で新床の一夜を過ごした私たちは、翌日のお午すぎ、箱根、伊豆へかけての新婚旅行に出た。折からのお花見どき、それも土曜日のことなので、この小さい軍港の街路は水兵と工員の姿でいつぱいだつた。二臺の俥を連ねて停車場へ着いた私たちは、人ごみを避けて改札の始まるのを待つていたが、そのときいきなり、

「やア、おめでとう。」

 と聲をかけて、良人の前に立つた紺背廣をつけた瘦身の紳士があつた。私はとつさに、雜誌で見ている寫眞を思い出して、

「あッ、芥川さんだ。」と思つたが、果してその人は、良人の紹介も待たないで、

「僕芥川というものです。」

 と、氣輕い調子で挨拶をされた。實はそれまで、二三の作品を讀んだ印象から、芥川さんという人を非常に神脛質な氣むずかしい人だと想像し、こちらが田舍者だという引け目もあつて、何となく避けたい人のようにも感じていた私であるけれども、彼のこの初對面の氣輕さは、一瞬にして私の氣重さを吹き飛ばしてしまつた。

「どうぞよろしく。」

 生れつきの小心から、小さく口の中で言つたけれども、私の心には何か明るい喜びがあつたような氣がする。

 プラットフォームに出ると、芥川さんは、

「僕あちらですから。」

 と言つて、三等車の方へ行つた。しかし汽車が鎌倉驛に着くと、彼は私たちの窓の外に立つて、

「僕も四五日うちに京都に遊びに行くつもりです。」

 などと言つて、汽車が動き出すまで私たちを見送つてくれた。

「すばらしいだろう、芥川君は。」

「ええ、とても。」

 私たちはそう言つて、新婚最初のなごやかな笑いを笑みかわした。

   春寒や竹の中なる銀閣寺   龍

 こんな句を書いた京都の繪葉書がとどいたのは、こうして私たちが二週間の旅を終つて歸りついた翌日のことだつた。私は大切に自分の新しい文箱にしまい込んだ。

 

Taiji2

 

「今日は芥川君と一緒に、鎌倉の小町園で夕食を食べることにして來たから。」

 學校から戾るなり良人がそう言つたのは、いよいよ新學期が始まつて間のない或る土曜日の午後だつた。突然のことで私は面喰つたけれども、嬉しくないわけではなかつた。

「ほかならぬ芥川君に見て貰うんだから、今日は馬力をかけて綺麗になつて行つてくれ。」

 そう言つた良人が、自分で鏡臺を明るい緣がわに持ち出してくれるのに、私は思わず吹きだしてしまつた。長い學窓生活のために殆んどお白粉になじまない私であつたけれども、良人にそう言われては鏡の前に坐りこまないでいられなかつた。F博士夫人に教えられたことを思い出しながら、丹念に自分の顏を彩つているうちに、いつか若妻らしい思いも湧いて來るのであつた。

 良人に帶を選んで貰つたり、襦袢の襟をかけ換えたりしているうちに、いつか夕暮れが迫つて來た。良人にせき立てられて停車場に急ぎ、鎌倉驛に降りて小町園に行くと、芥川さんはもう奧の離れで、お園さんという美しい女中さんを相手にして、待つていられた。

「やア、おそい、おそい。」

 と言いながら、芥川さんの顏はひどく樂しそうだつた。

「なにしろ新婚最初の外出なので、奧さんのお化粧が手間取つちやつて。」

 良人がさつそく意地惡を言い出すと、

「いや、奧さんはお化粧なぞなさらない方が好いですよ。」

 と言つて、芥川さんはじッと私の顏を見られた。

 やがて膳が運ばれてお酒になつた。お二人とも餘り強いお酒とも見えず、しばらく飮んでいるうちにお話しがはずんで來た。お話しは學校のことやら文壇のことやら、ずいぶんいろいろ出ていたが、そのうちに芥川さんは私の方へ顏をむけて、

「中條百合子つて人、奧さんの生徒じアないんですか。」

 と言われた。

「生徒つてわけではありませんけれども、お茶ノ水の教生として教えたことはございます。」

「こないだ僕、あの人に會見したのですよ。會見することは前から判つていたのだが、初めての僕と會うというのに、あのお孃さん派手な友禪の前掛をかけているんですがね。これが私の趣味ですと説明してましたが、ちよつと變つたお孃さんだと思いましたね。」

「學校でもちよつと變つた生徒だと、いうことになつていたようです。なにしろ國語は滿點なのですけれど、數學となるといつでもゼロだというのですから。」

「ゼロはひどいな。」

 と、良人は笑つて、「しかし龍ちやんなどは、そういう向きの令孃と結婚した方が好いかも知れないな。」

「いや、僕の友人に久米正雄というのがいるんですがね、これが家庭の關係から中條百合子と幼ななじみでしてね、僕に彼女と結婚しろと言うのです。こないだの會見もそういう久米のおせつかいの結果なんですが、まア、問題にはなりませんね。こちらが四六時中、文學の問題で頭を惱ましているのに、細君にまで煽られるのではやり切れませんからね。」

「しかし全然文學に無理解な女でも困るでしよう。」

「まア、こちらの仕事の價値を十分に知つていて、しかも惡く刺戟しないような人があれば理想的ですがね。しかし僕の家庭は相當に複雜ですからね、あまり理想的なことばかりも言つていられないのです。」

 芥川さんはそう言つて、彼の實母が狂人であつたことや、彼が養子であることや、彼を育ててくれた叔母のいることなどを、しんみりした調子で話した。

 その晩、私たちは十時近くまでも話しこんで別れた。汽車に乘ると良人は好い氣持そうに居座りをはじめたが、私は先刻の芥川さんの淋しそうな顏を思い浮べ、あんなに華やかに世に出ている人にも惱みは深いのだ、などと考えていた。

 それから二三日して、私たち二人にあてて芥川さんから手紙が來た。文意は――先夜は御馳走になつた。今度は自分が御馳走したいから、次ぎの土曜日の夕方から小町園に來てほしいというのだつた。私たちにも異存はなかつた。先日は何となく晴れがましく、氣の重かつた私も、今は、はずむような氣持で、その日の來るのを待つた。

 八幡前の櫻はもうすつかり若葉に變つていた。玉砂利を踏む音ものどかに玄關に立つと、

「お待ちかねでいらつしやいますよ。」

 と、お園さんに迎えられた。

 先日と同じように離れ座敷に通ると、芥川さんはもうドテラに着換えていて、

「今日は僕が主人役ですからね、ここに泊ることにしました。あなたがたもお風呂にでもはいつて、終列車まで遊んで行つて下さい。」

 間もなくお園さんが良人のドテラを持つて來て、私たちに入浴をすすめる。大變なことになつたと思つたけれども、結局私も座を立たねばならなかつた。

 

Taji3

 

 その晩も、良人たちは樂しそうだつた。

「僕の從弟に小島政二郎というのがいるんだけど、知つてますか。」

 良人が言うと、

「知つてますとも。とても勉強家でね、有望ですよ。」

「僕たちは同じ下谷生れで、彼の家は呉服屋、僕の家は紙屋なんです。」

 そんな話しから、ひとしきり東京の下町の思い出が續き、食べものの話から、一高の寮生活の話に移つて、ストームだの蠟勉だの河童踊りだのの話がはずんだ。

「ところで今夜は、かねての約束に從つて、君の春子觀を聞きたいんですが。」

 良人がそんなことを言い出したのは、もうだいぶお酒が𢌞つた頃だつた。

「そうだ。まだ大役が殘つてましたね。――實は、奧さん……」

 芥川さんと良人とがこもごも説明するところによると、私たちがまだ婚約中であつた頃、學校の教官室で、既婚の教官たちが良人にむかつて、いろいろと細君操縱術だの、夫婦喧嘩の法だの、細君を叱るコツだのを説いたものだそうである。それを聞いて良人が、

「弱つたなア。結婚生活つてそんなにむつかしいものかねえ。」

 と、困惑した樣子を見せたところ、あとで芥川さんが、

「なに大丈夫ですよ。あなたが結婚したら僕が奧さんを鑑定してあげますからね、あなたはそれに從つてよろしくやれは好いんです。」

 と言われたので、その約束が出來てるのだというのである。

「それで私を鑑定なさいますの。まア、こわい。」

「大丈夫ですよ、奧さん。」

 芥川さんはそう言つて、硯と紙とを女中に持つて來させた。そしてさらさらと何か書いて、良人の前に置き、

  悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し

 と讀み上げてから、

「どうぞ。」

「簡單に言えば、心引かれるような方だ。そういう方を奧さんにされた佐原さんが羨ましい――そういう意味ですよ。だから佐原さんは、操縱術も指導法も何も考えないで、ただただ自然のままにしていられれば好い。そうすればおのずから温かい美しい家庭が出來る。それが僕には羨ましいというんです。」

「ほんとに君、そう思つてくれますか。」

「ほんとですとも。」

「僕は數學と物理との外には何も知らない男だけれども、文筆の大家の君がほんとにそう思つてくれるんだつたら、僕、とても嬉しいな。春子もそう思うだろう?」

 良人が目をきらきらさせて私の顏を見る。私もちよつと淚ぐんで來て、無言にうなずいたけれども、それは芥川さんに褒められた嬉しさというよりも、良人という人の無類に單純な人の好さが、じかに私の胸に解れて來た結果だつたような氣がする。

 しかしこの夜から、私はにわかに芥川さんに親しみを感じるようになり、何か珍しい食べものでも手に入れば必ず良人に芥川さんを誘つて來て貰つて、ささやかな食卓をともにするようになつた。殊に或る日、私の郷里から送つて來た山鳥を調理して、田舍風の鳥鍋を供した時には、特に彼は喜んだようであつた。

「奧さん、これから郷里に手紙を出されるときには、必ずこないだの山鳥はおいしかつたとお書きになるんですね。そうするとまた送つて來ますから、自然に僕も御馳走にありつけるという寸法になりますからね。」

 芥川さんはそんなことを言つてはしやいでいたが、あまりはしやぎすぎたためか、歸るときに玄關で、すつとんと尻餅をついてしまつた。

「山鳥の祟りらしいですね。」

 芥川さんがそう言つたので、私たちは氣の毒さも忘れて笑つてしまつた。

  うららかやげに鴛鴦の一つがひ

 そんな句を紙きれに書いて下さつたのもその夜だつたと思う。

 その頃の或る日、私たちの新婚寫眞が麗々と時事新聞に出たことがあつた。友だちからお祝いの手紙を貰つてはじめてそのことを知つた私たちは隨分驚いた。この寫眞は、ごく少數の親しい人に贈つただけだつたので、どうしてそれが新聞社なぞに𢌞つたのか、私にも良人にも見當がつかないのだつた。すると或る夕方、良人が芥川さんと一緒に歸つて來て、

「おい、重大犯人を連れて來たよ。」

 と言うのでぁる。すると芥川さんもにやにやと笑つて、

「僕今日は奧さんにお詫びに來ました。」

 と言う。

「まア、なんでございますの?」

 と聞くと、それが寫眞のことであつた。

 芥川さんが私たちの新婚寫眞を東京の家に持つて歸つて、机の前に立てかけているところへ、その頃時事新聞の記者をしていた菊池寛さんが訪ねて來て、是非これを新聞に載せさせろと言つたというのである。

「そこで僕、しばらく沈思默考しましたね。これは善行なりや惡事なりやという大問題なのです。結論として僕は、これは善行ではないまでも惡事にあらずと決斷したのです。少くともこれは、奧さんに非常に大きな損害を與える行爲ではない。しかもその結果として、僕は菊池に友情の一端を果すことが出來るし、一新聞社の事業を扶助することも出來る。よろしい、早速持つて歸つて、滿天下の紳士淑女