フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

2017/12/12

柴田宵曲 俳諧博物誌(25) 兎  一 (その1)

 

  

 

       

 

 因幡(いなば)の兎に遡(さかのぼ)り、かちかち山の兎を引合に出し、南方熊楠翁の『十二支考』あたりを参酌したりしてかかれば、話は兎の耳の如く長くなる可能性があるわけだが、範囲を俳諧に限ったのでは大した材料はありそうもない。しかし熊や狼と違って、兎はわれわれとはかなり親しい間柄である。あるいは子供の唱歌にいわゆる「前足短く後足長く」位のところに落著くかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「南方熊楠翁の『十二支考』」「十二支考 兎に関する民俗と伝説」(大正四(一九一五)年一月発行の『太陽』初出)。「青空文庫」のこちらで読める。]

 はじめ兎の句というものを漫然と考えた時、何だか秋の句が多そうな感じがしたが、実際に当って見た結果はやはりそうであつた。兎という動物に季の約束はないにしろ、古来御馴染の月の兎という景物があり、月が秋の季に幅を利かせている以上、俳人がこれを看過するはずがないからである。実際の兎と混雑する虞があるので、先ず月宮殿裏の先生からはじめる。

 

 越後路や空にも月の白兎    伊伯

 いとはじな月の兎の下り坂   忠也

 まん丸な月はまむきの兎かな  信全

 出すは耳ひくべき月の兎かな  重和

 天筆といふもや月の兎の毛   貞德

 

 これらはいずれも貞門の句である。不思議なことにこの兎たちは、月の兎と称するだけで臼も杵も持っていない。

 

 名月や丸に兎の帆をあげる   麥阿

 三日月に火も焚かねぬ兎かな  巢兆

 三日の月兎の耳のとがりかな  塘里

 後脚のかくるゝ月の兎かな   嘯山

 初月や兎の臼の作りかけ    白柱

   香木記

 臼の香や月の兎は聞知らん   也有

 

[やぶちゃん注:二番目の巣兆の句であるが、底本では「焚(た)かねぬ」とルビがしてある。これでは音数律どころか意味も判らぬ。調べて見たところが、これは「焚(たき)かねぬ」であることが判った。「てにをは」が命の発句にあって、このミスは致命的である。底本と全く違うルビを振ることに躊躇し、ブラウザの不具合も考えて、この句はルビを排除し、ここで注した。]

 

 終の二句に至って臼が出て来る。月の中の兎が臼に搗くものは、昔は薬であったらしく、李白なども「白兎擣藥成。問言與誰餐」といっている。それが兎の餅搗(もちつき)と相場がきまったのは、そう古い事ではないという話である。唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)の「兎兎何うすつくぞ十五夜のつきしらけたる影を見よとや」という狂歌も、「つきしらけ」で米を利かせているように見える。あるいは望月という言葉の縁から、餅搗になってしまったのかも知れない。俳諧の兎は臼を持出すだけで、何を搗くともいってないが、也有の句にはかえつて古い薬の匂がする。『鶉衣(うづらごろも)』の本文に、「君みずや、久かたの月の中にも、藥を搗くときけば」云々とあるので、由って来る所は自(おのずか)ら明である。

[やぶちゃん注:「白兎擣藥成。問言與誰餐」李白の私の好きな「古朗月行(こらうげつかう)」の一節。

 

  古朗月行

小時不識月

呼作白玉盤

又疑瑤台鏡

飛在靑云端

仙人垂兩足

桂樹何團團

白兔搗藥成

問言與誰餐

蟾蜍蝕圓影

大明夜已殘

羿昔落九烏

天人淸且安

陰精此淪惑

去去不足觀

憂來其如何

淒愴摧心肝

 小時(しようじ)月を識(し)らず

 呼んで「白玉の盤」と作(な)す

 又た疑ふ 瑤臺(やうだい)の鏡

 飛んで碧雲の端(はし)に在るかと

 仙人 兩足を垂る

 桂樹 何ぞ團團たる

 白兔 藥を搗いて成る

 問ふて言ふ 誰(たれ)に與へて餐(さん)せしむるかと

 蟾蜍(せんじょ)は 圓影を蝕(しよく)し

 大明(たいめい) 夜 已に殘(か)く

 羿(げい)は昔 九烏(きうう)を落とし

 天人 淸く 且つ 安し

 陰精(いんせい) 此(ここ)に淪惑(りんわく)

 去去(きよきよ) 觀るに足らず

 憂ひ 來りて 其れ如何(いかん)

 悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く

 

当該部は一九五八年岩波書店刊の中国詩人選集8「李白 下」の武部利男氏の訳によれば、『白うさぎは仙薬をついて作りあげるが、「いったいだれに食べさすの。」などとたずねたものだ。』で注に『中国古代神話によると、月世界では白いうさぎがいつも仙薬をついている』とされたとある。全訳は漢文委員会紀頌之氏の凄絶なブログ「李白集校注」のこちらこちらを参照されたい。

「唐衣橘洲」(寛保三(一七四四)年~享和二(一八〇二)年)は田安徳川家家臣で狂歌師。本名、小島恭従。大田南畝と朱楽菅江(あけらかんこう)らとともに天明狂歌ブームを築き上げ、狂歌三大家と囃された人物の一人。

「『鶉衣(うづらごろも)』の本文に、「君みずや、久かたの月の中にも、藥を搗くときけば」云々とある」尾張藩士で俳人の横井也有(元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)の「鶉衣」は好私の好きな俳書であるが、正字の原文で電子化したいので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにある明治四二(一九〇二九)年共同出版刊の画像を視認して示す。「香木記」は「かうぼくのき(こうぼくのき)」と読み、安永元(一七七二)年、也有七十一の時の作。一部に読みを歴史的仮名遣で添え、句読点も不審な箇所が多いので、オリジナルに付け替えた。一部、二〇一一年岩波文庫刊の堀切実校注「鶉衣」で補訂した箇所があるが、そこに注を附した。

   *

   香木記

むかし、龍の繪を好(す)ける人には、眞の龍、顯れて、姿見せけるとぞ。好むに信あれば物に感應ある事、なきにあらず。我(わが)府下に、花井某、深く香の道を好みて、常に樂(たのし)む事、久し。しかるに[やぶちゃん注:底本は「かるに」]、其家に古く傳(つた)へたる臼あり。いたく年經るまゝに、底なども破れにたれば、今は所せき不用の物なりとて、くだきて釜木(かまぎ)に打交(うちまぜ)けるに、ある日、いみじき妙なる香の、家にみちわたりけるを、怪(あや)しみて求(もとむ)るに、かの竃(かまど)に燒ける臼の木なりけり。心いれて見るに、實(げに)、木(き)のさまも、世の常ならず。おどろきて、香の師のがり、たづさへ行(ゆき)て、是を問ふに、うたがはず、赤栴檀(しやくせんだん)にさだまりぬ。名はそのまゝに花井臼(はなゐうす)と呼ぶとぞ。柯亭竹(かていちく)の笛、焦尾(せうび)の琴を得たるためしにもかよひ、邇日(ちかごろ)、こゝら、あつかひ草(ぐさ)にして、めで[やぶちゃん注:底本は「めて」。]羨む事にぞ有りける。されば、臼といふものは、賤(しづ)の手にならして、そのしな、下(さが)れるに似たれど、君みずや、久かたの月の中にも、藥を搗(つ)くときけば、もしや、其(その)臼も、此木の類にやあらむ。

  臼の香や月の兎はきゝ知らむ

   *

語注は附さぬ。岩波文庫でみられたい。]

 巣兆、塘里、白柱の三人はいずれも月のはじめに当って、兎の栖(すみか)の狭隘(きょうあい)なることをいい、嘯山は後(のち)の月であるために「後脚のかくるゝ」という趣向を持出した。十三夜の月は僅に満たぬ状態にあるから、兎の後脚が隠れて見えぬという。これらの句には一点の理が潜んでいる。

 下界の兎について見ても

 

   月の下に兎の畫に

 もし月をぬけた兎か笹の陰     也有

 

などは依然として月中の影が附纏(つきまと)っているし、

 

 秋の尾も兎程あり後の月      也有

   餞別

 行月をとゞめ兼(かね)たる兎かな 此竹(しちく)

 

の如き句になると、兎は何かの譬喩(ひゆ)に使われているだけで、愛すべきこの動物は句中に姿を現しておらぬ。それでは兎と月との因縁は悉く月宮殿の流を汲んでいるかというと、必ずしもそうではない。実際の兎もまた月光に照されているのである。

 

 名月や尾上(をのへ)の兎みゆるほど 千崎(せんき)

 名月や兎の籠の置處(おきどころ)  白主

 犬を鹿猫を兎やけふの月       存義(ぞんぎ)

 戰にうさぎ嬉しや月今宵       鷲長

 兎ならちと出て遊べ月の中      八町

 野兎の丸う成たり後の月       太無

 兎の子百目になりぬ後の月      大江丸

 子をつるゝ兎も後の月見かな     吟江

 

 「兎の籠の置處」の句は飼兎だから別問題であるが、他の句には兎が月に浮れるというほどではないにしても、嬉々として月夜に遊んでいるような様子が窺われる。「犬を鹿」というのは犬や猫を山野の獣に見立てたわけで、実際の兎が徘徊しているのではないけれども、作者は月夜に遊ぶ兎というものを頭に置いて、しかる後猫を名代(みょうだい)に使ったのであろう。「兎なら」という句にもその心持がある。松浦静山侯なども『甲子夜話』の中で「児謠に兎兎何視てはねる、十五夜のお月さまを觀てはねると云ふ、是兎の月を好を云ふにや」といい、野兎を沢山捕らせて寵に入れ、月下の築山に一夜置いたところ、翌朝は一疋もいなかったという経験談を記しているし、林笠翁の『寓意草』にも兎が月夜に籠を抜出して越後川の面を走り去ったという話が書いてある。「うさぎは月に向へば身の自由に成て、いかにちひさきこのめよりもいでて水の面をはしるとなん」とあるのは眉唾物であるが、少くとも古人がこういう考を持っていたことだけは注意しなければならぬ。

[やぶちゃん注:松浦静山の「甲子夜話」電子化注ていが、なかなか進まぬ。これもどこに書いてあるかが判らぬと原典が引けぬ。何方か、御存じの方、巻数をお教え下されよ。

「寓意草」幕臣で後に浪人になって諸国を巡ったとされる岡村良通(元禄一二(一六九九)年~明和四(一七六七)年)の随筆。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して、「上」の中に見つけた。短いので視認して電子化する。

   *

越後川のほとりにすまひける人の、兎をこに入て

かひける、秋の頃月のあかき夜のきにかけおきたれば、みなこよりぬけて、河の面をはしりさりぬ、こにひまもなし、めよりいでける、をさぎは搗きに向へば身の自由に成て、いかにちいさきこのめよりもいでて、水の面をはしるとなん、

   *]

 大江丸の句は無論飼兎で、後の月の時分にその子が百匁位に育っていたという偶然の事実に興味を持ったのであろう。この種の句は軽いところに生命がある。月との因縁もなるべく手軽に見る必要があるので、強いて結付けようとすれば、どうしても理に堕しやすい。

[やぶちゃん注:「百匁」(ひゃくもんめ)は三百七十五グラム。一般的な本邦の野うさぎであるウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus の標準体重は一・五~から二・五グラムである。]

 

 名月やうさぎのわたる諏訪の海   蕪村

 

この句は全く理想世界のものである。「緑樹かげ沈んで魚樹にのぼるけしきあり、月海上に浮んでは兎も波を走るか」という謡曲「竹生嶋」の文句は、「綠樹影沈魚上木。淸波月落兎奔浪」という僧自休(じきゅう)の詩を用いたのであるが、蕪村は一面この趣向を籍(か)りると同時に、舞台を琵琶湖から信州の諏訪湖に移動させた。諏訪湖には狐が渡って後、はじめて氷上を渡り得るという伝説があり、談林時代の俳人も「諏訪の海や麒麟渡らん氷の樣 調幸子(ちょうこうし)」などという句を作っている。蕪村の場合は名月の湖なるが故に、兎の渡る趣向が活(い)きるのである。

[やぶちゃん注:蕪村の句は明和八(一七七一)年の句稿。

『謡曲「竹生嶋」』梗概はサイト「thecom.」のを。詞章は(PDF)がよい。

「綠樹影沈魚上木。淸波月落兎奔浪」ルビがあるが除去したので、ここでまず、底本に準拠して訓読しておくと、「綠樹(りよくじゆ)に影(かげ)沈(しず)んで魚(うを)木に上(のぼ)り。淸波(せいは)に月(つき)落(お)ち兎(うさぎ)波(なみ)に奔(はし)る」である。以下、伝えられる全詩をオリジナルに訓読しておく。

   *

 

 自休藏主詣竹生嶋作詩

綠樹影沈魚上木

淸波月落兎奔波

靈灯靈地無今古

不斷神風濟度舟

   自休藏主(ざうす)、竹生嶋に詣でて作る詩

  綠樹 影 沈み 魚(うを) 木に上(のぼ)る

  淸波 月 落ち 兎 浪を奔る

  靈灯靈地 今古無く

  不斷の神風(しんぷう) 舟を濟渡(さいど)す

   *

宵曲はこの漢詩が先にあったとするのであるが、しかし、近世の謡曲解釈書である犬井貞恕の「謡曲拾葉抄」によれば、自休は謡曲「竹生島」の、かの詞章に惹かれて、この詩を作ったというのが、どうも事実らしいYan 氏のブログ「古代文化研究所」の主」を参照されたいが(漢詩原文全体はこちらを参考にした)、この自休蔵主という人物は私はよ~く、知っている、のである。だって、鎌倉の建長寺の広徳庵の自休蔵主でしょ? ほれ! 江ノ島の稚児が淵若衆道心中の坊主だもの! 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵やその注をどうぞ!]

老媼茶話巻之七 釜煎

老媼茶話卷之七

     釜煎

 

 「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」には、釜煎(かまいり)は大臣家(だいじんけ)にあらずしては、なりがたし。臺德院樣御代、石川五右衞門といふぬす人、三條河原にて釜ゐりに被仰付(おほせつけ)らるゝ。御當代、これ、始(はじめ)也。

 蒲生藤三郎秀行卿、其身(そのみ)、正四位下宰相にて、領内の罪人、毎度、釜煎申付(まうしつけ)られ候。そのむくひにて、子孫斷絶せしといへり。

 宰相の御代、會津、中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村に平七といふ百姓、有(あり)。此もの、鳥殺生(とりせつしやう)を能(よく)する。

 ある時、「しらふ」の雲雀(ひばり)、本郷河原といふ所にて取(とり)、宿へ歸り、女房に見せ申(まうし)けるは、

「此(この)雲雀は、當時、珎敷(めづらしき)『しらふ』也。天下をしなべて、小鳥流行なれば、殿樣へ差上(さしあげ)、過分の御褒美いたゞくべし。嬉敷(うれしき)事なり。」

とて、大きに悦(よろこぶ)。女房、きゝもあへず、

「今の殿樣をば、『しぶ柹(がき)宰相樣』とて、人、皆、うとみはて、大欲無道のとの樣なり。たとへ、『しらふ』の雲雀は扨置(さておき)て、きんのひばりを上(あげ)給ふとも御褒美は存(ぞんじ)もよらず。けつく、『百姓の務(つとむ)べき農作は不動(はたらかず)して、殺生致(いたす)事、不屆也、身こらしに』とて、いかなるうきめにか逢(あひ)玉ふべき。とくして、仙臺へ持行(もちゆき)、仙臺の殿樣へ賣り玉ふべし。必(かならず)、當所の殿さまさしあげ玉ふな。」

と申ける。

 平七、女房の申(まうす)に任せ、忍(しのび)て閑道(かんだう)を經(へ)、仙臺へ行(ゆく)。

 仙臺中納言政宗卿へ賣上(うりあげ)、金子十五兩、くだされける。

 平七、大きによろこび、會津歸り、女房に向ひ、

「汝がおしへにしたがひ、如此(かくのごと)し。」

と、金子を差出(さしいだ)し、見せて、悦びける。

 女の饒舌(ジヨウゼツ)、末のわざはひを、知らざりけり。

 此(この)雲(ひ)ばり、政宗卿より將軍樣へ差上(さしあげ)玉ふ。將軍樣、甚御寵愛被遊(あそばされ)、

「此雲雀、『しらふ』にして、類(たぐひ)なき名鳥なり。鳴音(なくね)、大音(だいおん)にて、いさぎよく御所中にひゞく。定(さだめ)てつたへ聞召及(きこしめしおよ)ばれし、かの奧州名取郡宮城野ゝ、はぎの名所の野邊より、もとめつらん。」

との上意也。

 政宗卿、謹(つつしみ)て申被上(まうしあげられ)けるは、

「此鳥は我領内より求(もとめ)つるにては候はず。若君樣、小鳥御好被成(このみなさる)事故、若(もし)、珎敷(めづらしき)鳥も候はゞ、御慰(おなぐさみ)にさし上度存(さしあげたくぞんじ)候て、近國へ申遣(まうしつかは)し、會津領より、求め候て差上候。」

と被申上(まうされあげ)ける。

「會津に加樣(かやう)の名鳥出(いづ)るならば、宰相方(かた)よりこそ可差上(さしあぐべき)に、そまつなる仕形(しかた)なり。」

とて御機嫌あらく、秀行卿、めいわくなさるゝ。

 依之(これによりて)、秀行卿、御在國なりければ、江戸家老より會津國家老右の趣(おもむき)、こまやかに申遣(まうしつかは)す。

 兼々、會津にても小鳥殺生の役人有(あり)て、すべて小鳥をも其筋へ差上候掟(おきて)也。

 國家老、嚴敷(きびしき)詮義のうへにて、平七、罪、悉く顯れ、女房が惡言も知(しら)れければ、夫婦共に、大川河原にて釜煎に成

 其刑罪場所、「平七畑」とて近き頃まで有けるが、元祿十五年午(うま)の十月二日の洪水にて、其所、押流し、今は河原と成

 平七が幽靈、雨ふり闇夜は、夫婦ながら、くだんの刑罪場へ立出(たちいで)て、泣(なき)さけびしを、村人、度々、見たるなり。

 蟹川村寶光院の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

 石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)。辭世、

  石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ

 或記に、加藤左馬介、大坂より伏見へ被參(まゐられ)ける道、日暮がた、伏見なはてにて、ぬすびとの大將石川五右衞門、手下の盜人大勢、鐵砲三拾挺、其間へ鑓を組合(くみあひ)伏置(ふせおき)、使(つかひ)を以て左馬介殿へ酒手(さかて)を乞(こひ)ける。

 嘉明、聞(きき)て、

「につくき盜人め。それ、壱人もあまさず、なでぎりにせよ。」

と自身、大長刀(おほなぎなた)をおつ取(とり)、かけ出(いで)られける。

 此勢ひに恐れ、五右衞門を始(はじめ)、ちりぢりに逃失(にげうせ)たり。前々、此如(かくのごと)くして、諸大名より、大分(だいぶん)、金を取(とり)けり。

 

[やぶちゃん注:「釜煎」一般に「釜茹(かまゆ)で」で知られるが、大きな釜で熱せられた湯や油を用いて罪人を茹でる死刑方法で、石川五右衛門の場合は油が用いられたとする説があり、その場合は「釜煎り」が相応しくはある。ウィキの「釜茹でによれば、『日本においては、戦国時代から江戸時代まで、釜茹での刑が存在して』おり、それ以前に『刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり』十三~十四『世紀には、地獄の刑罰』として広く『認知されていたことがわか』り、従って、『京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる』とあり、『金沢藩では』元和四(一六一八)年、『姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻たねが「釜煎」に処された』とある。

「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた書。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「大臣家(だいじんけ)」江戸時代、大臣の資格があると認められていた家柄。中院(なかのいん)・正親町三条(おおぎまちさんじよう)・三条西の三家。

「臺德院」この箇所、底本では、改行して一マス目から書かれている。これは所謂、敬意を示すための書式であるが、私は無視して前に続けた。台徳院は第二代将軍徳川秀忠(在位:慶長一〇(一六〇五)年五月一日(征夷大将軍宣下)~元和九(一六二三)年七月二十七日隠居)を辞任の法号。但し、現行では石川五右衛門は安土桃山時代の人物とされており、この謂いはおかしい。思うに、本話柄の中心である「雲雀」事件の時制と勘違いしているのではなかろうか?

「石川五右衞門」(?~文禄三年八月二十四日(一五九四年十月八日))は安土桃山時代の盗賊の首長。ウィキの「石川五右衛門」より引く。『従来』、『その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている』。『江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た』。『都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による』。『史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の』二十『年ほど』、『日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した』「日本王国記」に『よると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、』その十五『人の頭目が捕らえられ』、『京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に』、『「この事件は』一五九四『年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族』九『人ないしは』十『人であった。彼らは兵士のようななりをしていて』十『人か』二十『人の者が磔になった」』『と記している』。また、公家の山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」には、文禄三年八月二十四日『の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの』、『宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの』、寛永一九(一六四二)年に編纂された「豊臣秀吉譜」『(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類』二十『人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている』とある。

「三條河原」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「蒲生藤三郎秀行」陸奥会津藩主。既出既注

「正四位下宰相」蒲生秀行は従四位下・飛騨守・侍従であった。侍従は参議(唐名「宰相」)の下であるから、正しい謂いではない。

「宰相の御代」文禄四(一五九五)年から慶長三(一五九八)年に宇都宮に移封されるまでの短い時期と、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって会津に復帰した時から、死去した慶長一七(一六一二)年五月十四日までになるが、後に仙台藩主として伊達正宗が登場するから後者の時期

「中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村」現在の会津若松市北会津町蟹川。ここ(グーグル・マップ・データ)。中荒井は現在、その地区の南西に接してある(ここ(グーグル・マップ・データ))から、「中荒井組」とは村落共同体的なものを指すか。

「しらふ」「白斑」。たヒバリ(スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis)の背中には、それぞれの羽を縁取る多くの白斑が入るが、それは必ずしも珍しいものではない。

「本郷河原」JR東日本只見線に会津本郷駅(福島県会津若松市北会津町上米塚)があり、平七の住まう蟹川とも近く、阿賀川河岸であるから、この附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「しぶ柹(がき)宰相」「澁柹宰相」。蒲生秀行このような渾名があったことは調べ得なかった。

「うとみはて」「疎み果て」。

「けつく」「結句」。挙句の果ては。

「不動(はたらかず)して」「動」はママ。「働かずして」。

「身こらし」「身懲らし」め。

「いかなるうきめ」「如何なる憂き目」。

「とくして」「疾くして」。

「仙臺の殿樣」後に出る仙台藩の初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。彼が仙台に開府するのは慶長六(一六〇一)年。

「閑道(かんだう)」普通は「間道」。

「將軍樣」前に述べたように、蒲生秀行が会津藩主である時期は秀忠の治世である。

「奧州名取郡宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、「奥の細道」で芭蕉も訪ねている(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。ここ(グーグル・マップ・データ)で、地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。

「はぎの名所」ここで言う「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。

「若君樣」かく言うのは父家康が存命であるからで、家康は元和二年四月十七日(一六一六年六月日)に没しており、蒲生秀行が死去したのが、慶長一七(一六一二)年であるから、秀忠がこの事件は、事実とするならば、その間(一六一二年から一六一六年)の間の出来事とみなすすることが出来る。秀忠は天正七(一五七九)年生まれであるから、この時、満三十三から三十七歳となる。

「仕形(しかた)」「仕方」。仕儀。

「めいわく」「迷惑」。

「大川河原」「大川」は福島県会津盆地を流れる阿賀野川本流上流の会津地方での呼称。

「平七畑」位置不詳。

「元祿十五年」一七〇二年。

「蟹川村寶光院」福島県会津若松市北会津町蟹川に現存する。真言宗。ページで位置が確認出来る。

の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

「石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)」ウィキの「石川五右衛門」によれば、伝説上では、彼の『出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある』。『丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる』。また、『一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し』、十六『歳で主家の宝蔵を破り、番人』三『人を斬り』、『黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも』言われるとある。なお、彼が『処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある』という。因みに、三坂の自信を持った四十二が享年だとすれば、彼の出生は天文一三(一五五三)年ということになる。

「石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ」整序すると、

 

 石川や濱の眞砂(まさご)は盡(つ)きるともよも盜人の種は盡きまじ

 

であるが、一般に流布されているそれは、

 

 石川や濱の眞砂は盡くるとも世に盜人の種は盡くまじ

 

である。ウィキの「石川五右衛門」によれば、これは「古今和歌集」の「仮名序」にある、譬え歌として挙げられてある、

 

 わが戀はよむとも盡きじ荒磯海(ありそうみ)の濱の眞砂はよみ盡くすとも

 

の本歌取ではないかとする。

「加藤左馬介」伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人で、さんざん出てきた加藤明成の父。

「伏見なはて」「伏見繩手」。りか(グーグル・マップ・データ)。この場合の「繩手」は「田の間の道・畦道」或いは「真っ直ぐな道」を指す。

「なでぎり」「撫で斬り」。]

老媼茶話巻之六 邪見の報 / 老媼茶話巻之六~了

 

     邪見の報

 

 奧州にて、何方(いづかた)といふ處は知らず、甚六といふ百姓有り。ほういつ邪見、類(たぐひ)なきものなり。父母、はやく死(しに)て、姉壱人、有(あり)。姉も若くして夫を失ひ、孀住(ヤモメずみ)にて、壱人の娘「ふじ」とて、十二成(なる)を持(もち)けり。此姉も、風をなやみて、死す。

 姉の娘、懸(かか)るべきよすがもなかりしかば、甚六、ひきとりけるに、つらくあたりける事、いふ斗(ばかり)なし。

 或時、ものゝうせけるに、

「ぬすみ取(とり)たるらん。」

とて、冬の事なるに、つよくしばりて、うらの栗の木にくゝり付(つけ)、食も喰(くは)せず。

 娘は、なきさけび、もだへこがるれども、誰(たれ)取(とり)さゆるものも、なかりしかば、曉方(あかつきがた)、終(つゐ)に、こゞへ、死す。

 死骸(むくろ)をも野原へ捨(ス)てけるまゝ、おのづから鳶・烏の餌食となしぬ。

 女郎(メロウ)がぬすみしといゝしものも、程經(ほどへ)て、おもわずの所より出(いで)にけり。

 其明(あく)る春、元朝に、持佛堂、頻りになり出し、誰業(たがわざ)とも知れず、位牌其外、佛具、甚六夫婦がひざ元へ、なげやりける。

 其夜より、めろうが面影、有有(ありあり)と甚六が目に見へて、いぶせかりしかば、山伏を賴み、祈禱をするに、しゆみだんに餝(かざ)り置(おき)たる、とつこ・花皿(はなざら)・れい・しやくじやう、不殘(のこらず)、表へなげ出(いだ)しけるまゝ、山伏、肝をけし、逃歸(にげかへ)る。

 甚六、

「神に願懸(ぐわんかけ)をして、此あやしみをのがれん。」

と思ひ、柳津(やないづ)へ參り、歸りに岩坂といふ處にて夕飯を認(したた)めけるに、茶屋の亭主、弐人前の膳を出(いだ)しける儘、

「我、壱人にて、つれは、なし。一膳の外(ほか)いらぬ。」

といふ。

 亭主申(まうす)は、

「慥(たしか)に、十二、三ばかりの女郎(メロウ)の、ふるきゆかたに三蔦(つた)の紋、付(つけ)しが、髮もゆわず、面(おもて)も洗はず、きたなげなるが、

『我等は甚六が姪にて候。膳を認(したた)め呉候得(くれさふらえ)。』

と申(まうし)て、座敷へ入(いり)候まゝ、二膳、儲(まうけ)しに、其めろうは、いづくへ行(ゆき)候哉。」

といふ。

 甚六、心に思ふ、

『扨(さて)は。「ふじ」めが亡靈、付(つき)ありくよ。』

と思ひながら、

「あるじは何を見玉ひし。我より外に、とものふ者もなきもの。」

といふて、其夜はとゞまり、曉(あかつき)早く、宿へ歸りけるに、坂下(ばんげ)と云(いふ)里にて咽(のど)かわきけるまゝ、折節、出茶屋(でぢやや)に冷麥(ひやむぎ)の有(あり)けるを、茶店に腰懸(こしかけ)ながら、喰けるが、弐、三度、さらを取落(とりおと)し、打(うち)こぼしけるうへ、皿を割(わり)ける。

「是は。おもわず、そそふ、いたしける。面目(めんぼく)なし。」

といへば、茶やの男、

「されは不思義なる事候。其方(そなた)の側(そば)に、十二、三斗(ばかり)の小(こ)めろう、付添居(つきそひゐ)て、冷麥を喰(くは)んといたさるれば、手を出(いだ)し、皿を引取(ひきとり)、打(うち)こぼし候。今も、左の方(かた)に、まぼろしごとく、居(ゐ)申(まうし)たり。」

といふ。

 甚六、彌(いよいよ)心をくれ、宿へ、かへりける。

 日暮て行灯(あんどん)をともしけるに、此行灯、持(もつ)人もなく、中(ちゆう)を飛(とび)あるきける間(あひだ)、家内の者共、驚見(おどろきみ)れば、行灯を持(もち)ける小(ちひさ)き手節(てぶし)斗(ばかり)有(あり)て、人は、みへず。

 とび懸り、おさゑんとすれば、手にさわるもの、なし。

 甚六夫婦ふしける寢屋鍋・かま・藥鑵(ヤクハン)の樣なるものを、つぶてに打入(うちいれ)、

「是は。」

と、驚起(おどろきおき)さわぐに、何も、なし。

 せんかたなくなりけるに、あるもの申けるは、

「是は何樣(なにざま)、狐狸の類ひ成(なる)べし。化ものゝ通ふべきと思ふ所へ干砂(ヒスナ)をふり置(おき)、足跡を見玉へ。」

といふ。

 甚六、

「實(げ)にも。」

とて、亡靈の來(きた)るべきとおもふ、高窓の下へ、砂をふりける。

 某日の暮方、件(くだん)の窓より、幽靈、顏を出(いだ)し高高(たかだか)と笑(わらひ)、

「我を狸狐とおもふかや。己(おのれ)が惡逆、已に報ひ、天より下(くだ)れる災(わざはひ)なり。いかゞして遁(のが)るべき。覺悟せよ。」

と言(いひ)て消失(きえうせ)たり。

 其後、甚六、さまざま、「ふじ」が跡、よく吊(とむら)ひければ、亡靈もきたらず、つゝがなかりし、とかや。

 

 

老媼茶話卷之六終

 

[やぶちゃん注:このエンディングは、この慈悲もなき甚六にして、怪談として承服することは私には全く出来ない。本篇は、冷麦のシークエンス及び行灯のところに小さな瘦せた手首だけが見えるシーンが、まっこと、絶品である。

「ほういつ」「放逸」。

「こゞへ」底本は「こゝへ」。歴史的仮名遣の誤りで「凍え」。底本も右に添漢字で『凍』とする。

「女郎(メロウ)」歴史的仮名遣は「めらう」が正しい(現代仮名遣は「めろう」)。後に出る「小女郎」とともに小娘・少女の意。

「しゆみだん」「須彌壇」。仏堂内等に置いて仏像を安置する台。帝釈天の住むとされる須弥山(しゅみせん)を象ったものとされ、四角・八角・円形などの形のものがある。

「とつこ」「獨鈷」。密教・修験道で用いる仏具金剛杵(しょ)の一つ。金属・象牙などを主材料とし、中央に握り部分があり、両端が尖っている杵形(きねがた)の仏具。元は古代インドに置いて敵に投げつける武具。独鈷杵(とっこしょ)。

「花皿(はなざら)」「花籠・華筥」と書いて「けこ」とも呼ぶ。法事の際に散華(さんげ:仏を供養するために周囲に花を蒔き散らすこと。現行では蓮の花弁に象った紙を用いる)に用いる花を入れる仏具。元は竹籠であったが、後には金属で皿形に作り、下に飾り紐や房を垂らし、装飾性が高くなった。

「れい」「鈴」。独鈷等と同じ法具の一つである五鈷鈴(ごこれい)であろう。独鈷の仲間で両端が五つに分かれているものを五鈷(杵)と呼ぶ(以下、私の目の前にずっと昔、タイで買ったそれが置いてある)が、その一方が鈴になっているもの。

「しやくじやう」「錫杖」。

「柳津(やないづ)」現在の福島県河沼郡柳津町(やないづまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「參り」とあるのは、同地区にある霊岩山円蔵寺であろう(縁起などによれば、大同二(八〇七)年に空海作とされる虚空蔵菩薩像を安置するために徳一なる人物が虚空蔵堂を建立したのを始めとする)ここの只見川畔にある臨済宗(現在)の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津の虚空蔵さま」として親しまれ、その本堂の前は舞台になっていることは既に注した。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「岩坂」柳津町柳津岩坂町甲があり、ここはまさに円蔵寺の北直近である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ふるきゆかた」「古き浴衣」。

「三蔦(つた)の紋」これ(グーグル・画像検索「三ツ蔦」)。

「とものふ」「伴ふ」。

「宿」自宅。

「坂下(ばんげ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町(ばんげまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)以上の三つの地名から、冒頭、「奧州にて、何方(いづかた)といふ處は知らず、甚六といふ百姓有り」と始めているものの、甚六の居所は現在の会津若松市内或いは猪苗代周辺と推理してよいと思われる。

「そそふ」「麁相・粗相」。

「中(ちゆう)」「宙」。

「おさゑん」「押さへん」。

「甚六夫婦ふしける寢屋江鍋・かま・藥鑵(ヤクハン)の樣なるものを、つぶてに打入(うちいれ)」「是は」「と、驚起(おどろきおき)さわぐに、何も、なし」「天狗の石礫」というよりも、これは最早、「ふじ」という未成年の少女(ここでは亡くなっているけれども)が関係するというあたりも、典型的なポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist)現象で、実に興味深い。]

2017/12/11

老媼茶話巻之六 狼

 

     

 

 武州江戸のもの、奧州の名所松嶋を見に、はるばると下りけるに、松嶋行詰(ゆきづま)て、山道に迷ひ、山中へ入りけるに、人目(ひとめ)稀(まれ)なる谷影に、時雨(しぐれ)も月も嘸(さぞ)もるらんと、あさましき賤(しづ)が家(や)あり。

「道をとはん。」

とおもひ、案内を乞ひ立入(たちいり)けるに、内には年寄りたる翁(おうな)と姥(うば)と有(あり)。

 娘と覺敷(おぼしく)て、廿(はたち)餘りの美女、しずのおだ、をへて、姥が側に有り。

 容氣、至(いたつ)て美麗なりしかば、旅人、愛念を生じ、暫(しばらく)休(やす)らいみるに、誠に天性の美人なりしかば、姥に向ひ、

「そこつに候得ども、懸(かか)るいぶせき山中に侘敷(わびしく)住(すみ)玉はんより、御娘を我(わが)妻にあたへ玉へ。然らば、老人夫婦をも武藏へ引取(ひきとり)殘曆(ざんれき)をたのしませ候はん。」

といゝければ、夫婦、申樣(まうすやう)、

「我等は齡(よは)ひ、すでにかたむき、あすをも知らぬ老の身にて候まゝ、この山中にすみ果て候とも、壱人の娘、世にあらせたく候。御望(おのぞみ)ならば、參(まゐら)せ候はん。」

といふ。

 旅人、大きに悦び、老人夫婦に金子(きんす)多くあたへ、松嶋の見物は差置(さしおき)て、急ぎ江、戸へ歸り登りけるが、三年を經て、妻、申樣、

「かりそめに父母にたち離れ、既に三年に及(および)候。其内(そのうち)、便りもなさゞれば、さこそ恨(うらみ)て過(すぐ)し玉ひなん。此度(このたび)、思ひ立(たち)、奧州下り、父母に對面申度(まうしたし)。」

と侘(わび)ければ、男、元より富有(フクユウ)の者なるうへ、松嶋も又、みまほしく、妻の望(のぞみ)にまかせ、供人少々にて、奧州へ下りける。

 程なく、件(くだん)の處に至り、ありこし宿を尋ねけるに、庵の跡は有(あり)ながら、柱、倒れ、壁、落(おち)て、絶(たえ)て、人もなく見へにけり。

 片原(かたはら)を能(よく)みるに、大きなる狼の骸(むくろ)の雨風にくちたるが、弐疋、打重(うちかさな)り、死居(しにゐ)たり。

 死(しし)て久敷(ひさしき)とみへて、肉は殘らず、かれけれど、皮・ほねは尚、全く續き有(あり)。

 女、此死骸を見て、

「我(わが)父母、すでに人の爲に殺され玉へり。口惜しさよ。」

といふて、身ぶるいすると見へしが、忽ち、大きなる狼となり、ほへ怒(いか)て夫に懸向(かけむか)ふ。

 夫、大きに驚き、刀を拔(ぬき)、ふせぎけるが、終(つゐ)に狼に喰殺(くひころ)さる。

 供の男ども、是を見て、跡をも見ずして、逃歸(にげかへ)りけるとかや。

 

[やぶちゃん注:これはかなり知られた狼の異類婚姻譚で、複数、存在する。私の読んだものは二つあり、孰れも東北が舞台であったが、私の記憶では、最後がこのように凄惨でないものもあったやに思う。今直ぐにそれらを提示出来ないが、書棚の中にはあるはずのものであるから、見出し次第、書誌等を示す。

「行詰(ゆきづま)て」進んだ道が完全な行き止まりで。

「もる」「漏る」。

「しずのおだ」ママ。「倭文(しづ)の苧環(をだ)」。苧環(おだまき)で「しづ」(上代は「しつ」と清音)は梶(かじ)の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布を作るために、紡いだ糸を巻いて中空の玉にしたもの。

「をへて」不詳。「を」は格助詞で、「へて」は動詞らしいが、ピンとくるものが浮かばぬ。或いは「をへ」で「終(を)ふ」(ハ行下二段動詞)で、「巻き終えて」の意か。

「そこつ」「麁忽・粗忽」不躾な急な軽はずみな無礼なること。思慮もなき失礼なこと。

「いぶせき」山家(やまが)のこととてひどく不便で窮屈な。

「殘曆(ざんれき)」余命。

「片原(かたはら)」「傍ら」。

「かれけれど」「枯れけれど」。]

老媼茶話巻之六 山中の鬼女

 

     山中の鬼女

 

 信濃より都へのぼりける旅人、木曾路にて道にふみまよい、爰(ここ)かしこと、さまよひ、或山中に壱家(や)を見付(みつけ)、悦(よろこび)て立寄(たちよ)り、宿をかりけるに、五十斗(ばかり)の女、立出(たちいで)て、宿を貸(かし)ける。

 外に人もなく、かの女斗(ばかり)、いろりの側(そば)に、何やらん、なべに取り入れ、火を焚居(たきゐ)たり。なべより、

「ぐつぐつ。」

と煮上りける香(ニホイノ)、頻(シキ)りに、うまくにほひけるを、旅人、申樣(まうすやう)、

「我、山深く道にまよい、野くれ山くれ、道すがら、人家なかりしかば、甚だ、餓(ウヘ)に望みたり。侘(わび)しきものにても、くるしからず。何ぞ、食事をあたへ玉へ。」

 女、聞(きき)て、笑(わらひ)て答(こたへ)ず。

 旅人、重(かさね)て、

「鍋に、かしき玉ふ物は、何にて侍るぞ。それを少し、ほどこし給へかし。」

といふ。

 女、聞て、

「是は、魔ゑんの食物(くひもの)也。我(わが)夫、遠くへ行(ゆき)て押付(おつつけ)、歸り來(きた)るべし。其(その)てんしんを儲置(マウケおく)なり。人の喰(くふ)べき物にて、なし。」

と云(いふ)。

 女のつらつきをみるに、先(さき)みし面影とはこと替り、眼(まなこ)、大きく光り、口、耳もとへ切(きり)のぼり、さも、すざましき鬼女となれり。

 旅人、是を見るに、鍋にて煮るものは、皆、人の首・手足なり。

 旅人、覺へず、表へ飛出(とびいで)、息を限りに逃(にげ)はしる。

 鬼女も續(つづき)て飛出、

「おのれ、何方(いづかた)へやるべき。」

とて、山の覆ひかゝるごとく、透(すき)もなく、追懸(おひかく)る。

 旅人、今はせんかたなく、或(ある)辻堂走り込(こみ)、内陣入(いり)、御佛のうしろへ、

「助け玉へ。」

とて、隱れ臥(フ)す。

 女、續(つづき)て追(おひ)たり。

 爰(ここ)かしこ、尋(たづね)めぐりけるが、旅人を見出(みいだ)さず。

 さも、おそろしき聲を上(あげ)、

「取逃(とりにが)しける口おしさよ。」

と訇(ののし)りながら、風のふくよふに、出(いで)さりけり。

 旅人、からき命をたすかり、ほふほふ、都へ登りける。

 

[やぶちゃん注:「一(ひと)つ家(や)の鬼婆」(浅茅ヶ原(あさぢがはら)の鬼婆)の山深い木曾版で、あれは人気なく淋しい原とは言えど、現在の東京都台東区花川戸がロケーションであるのに対し、これは絶体絶命の深山(みやま)の逃げ場のない場所だけに文字通り、鬼気迫ってくる。しかも、鬼婆の謂う通りであるなら、彼女は独り者ではなくして、「人の首・手足」を煮込んだ「魔ゑん」(「魔緣」)「の食物(くひもの)」を大好物とする「夫」がいると言い、それが直に帰って来るというのだから、たまったもんではない。しかし、あまりに定番にハマり過ぎていて、話柄としてのオリジナルな怪異性は減衰してしまっている。

「ふみまよい」ママ。「踏み迷ひ」。

「野くれ山くれ」小石の多い野道や山道。また、野山で日が暮れてしまうこととも言う。両義ともに含んでいるととってよかろう。

「餓(ウヘ)」ママ。「ウヱ」が正しい。

「侘(わび)しきもの」粗末なもの。

「かしき」「炊ぎ」。「かしき」だと古形。「かしぎ」と読んでもよい。通常は飯を炊(た)くことだが、広く「火にかけて食い物を作る」「煮る」の意もある。

「てんしん」「點心」。ここは簡単な軽い食事の意。

「儲置(まうけおく)なり」調理なして供するために煮込んでいるのじゃて。

「つらつき」「面付き」。

「御佛のうしろへ」「助け玉へ」で、何故か、鬼婆は彼を見出せず、目出度く逃げおおせるというのは、仏力といことになろうが、これまたダメ押しでつまらぬ。]

 

柴田宵曲 俳諧博物誌(24) 狼  三 / 狼~了

 

       

 

 狼を冬の季に定めたのは、冬時積雪の山野を埋むるに当り、村里に出没して人畜を害するところから来ているらしい。これは狼に限らず、雪のために餌を失った禽獣は皆人里近く姿を現すようであるが、狼との交渉は人間として迷惑な部類に属し、銃を執ってこれを斃(たお)したところで、皮とか肉とかいう収獲は期待し得ぬように思われる。それだけにまたそういうありがたくない交渉のある時でもなければ、季題に採用する因縁を見出しにくいのかも知れない。但(ただし)最初に述べた通り、狼だけで独立した句は殆ど見当らず、他の季題と結合して冬季に列するものが多いので、これまでに挙げた以外にもまだ次のような句が算(かぞ)えられる。

 

 狼の吠(ほえ)からしたか冬のやま 冰花(ひやうくわ)

 山枯(かれ)て狼の目や星月夜   除風

 狼のあと蹈消すや濱千鳥      史邦

 狼のかりま高なり冬の月      奚魚(けいぎよ)

 

 蕭条たる冬の山に対して「狼の吠からしたか」というのは作者の主観である。現在そこに狼が姿を現しているわけでもなければ、景陽岡の虎の如く狼が出るときまっているわけでもない。狼の凄(すさま)じい吠声のために枯山になつてしまったのか、という作者の感じさえ受取れれば差支(さしつかえ)ないが、その次の「山枯て」の句になると、どうしても実際の狼をそこに認めなければならぬ。しかも枯山に徘徊する狼の目は爛々と光っている。狼の目即星の光として、星月夜の星の如く無数の狼の目が光りつつあると解せぬまでも、星光の下に狼が日を輝かしていることは事実である。用い慣れた秋の星月夜でなしに、枯山を照す鋭い冬夜の星光でなければならぬ。

 海浜の狼はやや奇であり、特に千鳥のような優しいものを配したのは更に奇である。千鳥の迹(あと)を逆に出て、「狼のあと蹈消す」役をつとめさせたのは、奇を弄し過ぎた嫌がないでもない。子供の時誰かから聞いた話に、狼は塩が欲しくなると、海辺まで水を飲みにやって来るということがあった。真偽は固より保証せぬが、山の狼が海辺に出るには何か原因があるのであろう。山の狼さえよく知らぬわれわれが、海浜の狼を問題にするのは無理なのかも知れぬ。

 狼に関する夜の連想は、それに月を点ぜしめやすい。「故寺月なし狼客を送りける」の句が「月なし」と断ったのも、裏面からこれを証明しているような気がする。殊に寒月と狼との配合に至っては、いささか即(つ)き過ぎることを歎ぜざるを得ぬほど、切離し難い関係にある。

[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、「狼のかりま高なり冬の月」の句意が判らぬ。「狩り」が「眞高」である、最高潮である、という謂いか? 「雁眞高なり」では初句が潰れる。何方か、御教授戴ければ幸いである。]

 

 こがらしや狼原をいづる月   五明(ごめい)

 

という句の「狼原」は恐らく地名であろうが、その名の由(よ)って来る所は、実際の狼にあるに相違ない。宮城県本吉郡の狼河原(オイヌガハラ)は、煙草の産地として江戸まで知られていたが、狼が数多くいたために出来た地名だと『孤猿随筆』に見えている。現在そこに狼の影を認めぬにせよ、狼を以て呼ばるる原の月の凄じさは想像に堪えたるものがある。

[やぶちゃん注:「宮城県本吉郡の狼河原(オイヌガハラ)」「(オイヌガハラ)」はルビではなく、本文。現在の登米(とめ)市東和町(とうわちょう)米川(よねかわ)地区内。ここ(グーグル・マップ・データ)。平凡社「世界大百科事典」の「東和町」の中に、二股川に沿って走る西郡街道(にしごおりかいどう。現在の国道三百四十六号線)の狼河原(おいのかわら)(米川)では永禄年間(一五五八年~一五七〇年)から製鉄が行われたと伝えられ、荒鉄を米谷(米川に接する南の地区。ここ(グーグル・マップ・データ))に運んで精錬し、武具を作っていた。また、狼河原一帯は近世初期にキリシタンが多数居住した所で、キリスト教の布教に尽力した後藤寿庵の墓とされる碑が残り、三経塚はキリシタン百二十名余が処刑された地といわれる、とある(太字下線はやぶちゃん)。以上の柳田國男のそれは「狼史雜話」の「十六」にある。そこでは確かに柳田は『おいぬがわら』(ちくま文庫版全集の表記)とルビしている。東北方言を考えると、「おいぬ」「おいの」は腑に落ちる違いではある。]

 けれども俳諧の狼は冬季の専属ではない。時として意外の辺に顔を出すことがある。

 

 狼のすべつたあとや春の雨  氷固(ひやうこ)

 狼にねごときかすなおぼろ月 梢風尼(せうふうに)

 

 狼の辷(すべ)った跡は何によって鑑定するかわからない。もし作者が狼の辷るのを目撃していたとすれば、慥に滑稽句に分類さるべきである。肝腎の、辷った場所がわからぬので、これ以上の解釈はつかぬけれども、背景は煙るが如き春雨であり、冬とは全く舞台の変った感を与える。狼に聞かすまじき寝言というのは何であろうか。狼が古屋の軒に立聴(たちぎき)していると、老同士の話として「虎狼よりはモリ殿こそこはけれ」というのを聞いて、世の中に自分より強いものがいるのかと驚いて逃去ったとある古屋の漏(もれ)の昔噺(むかしばな)は、偶然の話が狼を追払ったことになっている。何か狼に聞かれてならぬ事があって、うっかり寝言をいうと立聴される虞があると警(いまし)めたらしいが、この裏にはどうしても古屋の漏の話が潜んでいるように思われてならぬ。ただそれが寝言であり、朧々とした春の月夜であるために、狼らしくもない、むしろのんびりした趣になるのである。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「古屋の漏り」の民話で、「モリ殿」とは「古い家屋の雨漏り」のことで、この「殿」は避けたい対象を敬して遠ざける呪術的言い方であろう。これは恐らく、柳田國男の「桃太郎の誕生」(昭和八(一九三三)年三省堂刊)の中に「古屋の漏り」を参考にして書いたものと思われる。幸い、個人ブログ「民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界」の『「古屋の漏り」柳田国男』に当該箇所が電子化されている(前が省略されているものだが、宵曲が参考にしたと思われる箇所は出ている)ので参照されたい。]

 

 狼にもるぞおそろしほとゝぎす   許六

 

 この句には明(あきらか)に古屋の漏が使ってあるが、句意はあまりはっきりしない。雨の漏る古屋にあってほととぎすを聞くと解すれば、一応わかるようなものの、それでは狼は漏のために引出されたに過ぎなくなる。狼とほととぎすとを共に実在のものと解すれば、全体が三題噺のようにばらばらになってしまう。始末の悪い句というべきであろう。

 

 狼の口に入けり雨のてふ   丿松(べつしよう)

 狼のによろりと出るや藤の花 荒雀

 狼の足跡さびし曼珠沙花(まんじゆしやげ)

               露竹

 狼に夜はふまれてはなすみれ 成美

 狼の息かゝる野にすみれかな 五明

 

 かっと開いた口に蝶がひらひら飛ぶ。折からの雨を避けて狼の口に入るように見えるというのであるが、狼の口という恐しいものと、可憐な蝶とを対照的に用いたので、いずれ空想の産物であろう。奇抜といえば奇抜である。荒雀の句の藤は、人家に近い藤棚などのでなしに、山藤らしく思われる。巌(いわ)に攀(よ)じ梢にかかる山藤のほとりに狼がひょっと顔を出す。「によろり」という言葉も、この場合山藤の妖気と一脈相通ずるところがありそうである。曼珠沙華の真紅の花の側に狼の足跡を認めるということも、冬とは全くかけ離れた点に一種の狼趣味を発揮したのが面白い。董(すみれ)に至っては狼と甚だ縁の遠いもので、狼に踏まれるにしても、狼の息がかかるにしても、董のために同情に堪えぬ。

 

 狼の子をはやしけり麻の中   許六

 

 狼の子と人間、人間の子と狼の間にはいろいろな話が伝えられている。狼の乳に育てられた赤子があったり、狼の産見舞という話があったりして、人狼交渉史の最も微妙な一面であるが、この句を解する上にそう面倒なものを担ぎ出すにも及ぶまい。問題はこの狼の子をはやす者が人間か、狼自身かということである。狼の子などは容易に人の目に触れそうにも思われぬが、岩穴に狼が子を産んだのを見て、「好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれないか」と口から出まかせにいったところ、翌朝戸口に可愛らしい狼の子がいたので、困って狼の巣まで返しに行ったなどという話もあるから、人間がはやすという解釈も成立たぬことはないらしい。もし産み落されたばかりの子でなしに、戎程度育った子だとすれば、山に近い麻畠の中まで出て来たのを、人が見つけてはやし立てるというのかも知れぬ。とにかくこの句は夏であるのが珍しい上に、他の捉えぬ「子」を描いており、実感に富んでいることを異とすべきであろう。狼もここに至って完全に平和なる野趣の裡(うち)に住している。

[やぶちゃん注:「狼の乳に育てられた赤子」ローマの建国神話に登場する双子の兄弟ロームルス(Romulus)とレムス(Remus) が著名。ウィキの「ロームルスとレムス」によれば、『この双子は、軍神マルスとレア・シルウィア(アルバ・ロンガ=ラティウム王ヌミトルの娘)の間に生まれたとされている。王の末弟のアムリウスは王位を奪っていたが、兄の孫である双子の復讐を恐れて、双子をテヴェレ川に捨てた。しかし、双子は狼によって育てられた。やがて、羊飼い夫婦に引き取られ立派に成人する。その後、祖父の軍隊に山賊と間違えられてとらえられ』、『尋問されるうちに孫と判明する。間もなく』、『兄弟は反逆者の叔父を殺し、祖父を復位させた。兄弟は、自分たちが捨てられた地に都市を建設しようと決めた。兄弟のうちのどちらが建設者になるかを鳥占いで決めることになり、兄のロームスに軍配が上がり、羊の守護の女神パレスを讃えるババリアの日』(四月二十一日)『新しい町(Roma quadrata)の城壁を築くために線を引き始めた。それに弟のレムスが怒り兄をあざけったので、兄弟の間で戦いが起こり、弟が兄に殺されてしまった。弟を立派に埋葬した兄ロームスは、町に多くの人を住まわせた。彼は』四十『年間統治し、雲の中へ消えていった』とされる。『このローマ建設伝説は、紀元前』三『世紀にはすでに存在していたと伝えられて』おり、紀元前二九六年に『牝オオカミの乳を飲む双子の兄弟の像が献上され、同』二六九『年製造のローマ貨幣の表裏にオオカミと双子像の同じ場面が刻印されている』とある。また、宵曲は昭和四一(一九六六)年没で、一九二〇年にインド西ベンガル州で発見され、孤児院を運営していたキリスト教伝道師ジョセフ・シング(Joseph Amrito Lal Singh)によって保護・養育された、幼少時、狼に育てられたとされる二人の少女アマラ(Amala 一九一九年?~一九二一年九月二十一日:死因は腎臓の炎症とされる)とカマラ(Kamala 一九一二年?~一九二九年十一月十四日:死因は尿毒症とされる)の話も知っていたと考えられ、彼女たちのことも或いは念頭にあったかも知れぬ。本邦では彼女たちは昭和三〇(一九五五)年に翻訳出版されたアーノルド・ゲゼル著生月雅子訳「狼にそだてられた子」(新教育協会刊)によって大々的に知られたからであり、私自身(昭和三十二年生まれ)、小学校の低学年の時に既に「狼少女アマラとカマラ」として知っていたからである。但し、現在ではこれはシングによる作り話であり、彼女たちは実は所謂、「野性児」だったのではなく、先天的疾患としての自閉症或いはある種の精神障害を抱えた孤児であったと考えられている。それこそ彼女たちは年齢からして、狼から授乳を受けていなくてはならないのであるが、オオカミの♀は積極的に乳を与えることはなく、ヒトの乳児も乳首を口元に持って行かないと乳を吸わないことから、授乳自体が成立しないし、ヒトとオオカミの乳は成分がヒトと異なるため、実は消化自体が出来ないのである(ここは一部でウィキの「アマラとカマラを参照した)。

「狼の産見舞」「産見舞」は「さんみまい」と読む。これは柳田國男の「桃太郎の誕生」に収録されている「狼と鍛冶屋の姥(うば)」(昭和六(一九三一)年十月『郷土研究』初出)の「六 朝比奈氏の先祖」の中に出てくるのを引き写しただけである。この言葉だけでは何のことか判らぬので(引用しない方が却っていいぐらいだ)、当該パート前後を引くと(ここは原典を引くため、国立国会図書館デジタルコレクションの「桃太郎の誕生」の原典画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた)、

   *

以前「山の人生」と題する小著[やぶちゃん注:大正一五(一九一六)年郷土研究社刊。]に於て、既に片端は述べたこともあるが、人と狼との昔の交際は、必ずしもこわもてとか、機嫌取りとかいふ程度の、輕薄なものでは無かつたのである。其の中でも興味のある古い仕來りは、狼の産見舞(さんみまひ)と名けて[やぶちゃん注:ママ。「名付けて」。]、一年に一度食物を器に入れて、山に持つて行つて狼の居りさうな處に置いて來ることであつた。是が狼に逢つて手渡しするのでも無ければ、又實際に安産のあることを確かめての上での無かつたのは、少しく其言ひ傳へを注意して見ればわかる。東京の近くで有名なものは、武州秩父の三峯さんであるが、是は三峰山誌にも、又十方菴遊歷雜記三篇中卷にも詳しく出て居て、近頃まで行はれて居た式であった。或夜狼の異樣に吠える聲を聞くと、それで御産の有つたことを知つて、翌日は見舞ひに行くのだといひ、又山中に特に淸靜に草木を除いた一地の有るを見付けて、そこに注連[やぶちゃん注:「しめなは」。]を張つて、酒と食物を供して來るともいひ、是を御産立(おこだて)の神事と謂つて居た。た。新篇武藏風土記稿卷八十、三峰村大木の行屋堂(ぎやうやだう)の條には是を御犬祭と名付けて每月十九日に行ふともある。十九日は知つて居る人も有らうが、子安講とも又十九夜講とも謂つて、村々の女人が子安神を祀る日であつた。是が後には一年に一度になっただけである。

   *

『岩穴に狼が子を産んだのを見て、「好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれないか」と口から出まかせにいったところ、翌朝戸口に可愛らしい狼の子がいたので、困って狼の巣まで返しに行ったなどという話』これもやはり前と同じく、柳田國男の「桃太郎の誕生」の「狼と鍛冶屋の姥」の「七 狼と赤兒」の中に出てくるのをやはり引き写しただけである。ここまでくると、宵曲は同じ書物から引用していることを意識的に隠して、恰も自分がいろいろ調べて知っているかのように振舞っている節さえ窺われる(正直、出典を探すこっちとしては、いや~な感じである)。前と同様に当該パート前後を引く。

   *

 或は又斯ういふ話もある。美麻村千見(せんみ)區に花戸(くわど)といふ澤があつて、村の下條家の持地であつた。岩穴に狼が子を産んだので、産養(うぶやしな)ひに赤飯を持たせて遣つた。其下男が狼の子を見て、好い兒を澤山産んだなア、おれに一疋くれねエかと口から出まかせを言つて戾つて來ると、翌朝は戸口に可愛らしい一疋の狼の子が居た。さうはいふものの飼ふわけにも行かぬので、又其子を狼の巢の中へ返しに行つたといふ。此種の世間話の發生した事情を考へて見ると、單なる目の迷ひや思ひ違へ以上に、尚之を受入れた聽衆の心理にも、今まで省りみられなかつた奥深い何物かが窺われる。

   *]

 

 狼のこの比(ころ)はやる晩稻(おくて)かな 支考

 

 晩稲田を刈る頃になって、彼方此方(あちこち)で狼の噂を耳にする。現代ならば狂犬の沙汰の如きものであろうと思う。多少の流言蜚語も交って各方面に狼出没の話が伝えられる。実際は何疋いるのかわからぬけれども、噂を綜合するとかなりの数に上り、被害も頻々(ひんぴん)とあるらしいというような事実を、作者は「狼のこの比はやる」と簡単にいってのけたのである。

[やぶちゃん注:「晩稻(おくて)」「おしね」とも。「おそいね」の音変化とも言われる。稲の中で遅く成熟する品種。]

 山に近い農村などであろう。晩稲を刈ることによって冬の眼前に迫ったことを感ずる。そろそろ狼が山から出て来て、人里に食物を求めようとする季節になる。狼は出没の噂だけを現し、「晩稻」の一語で季節と農村の背景とを描き得たのは、巧な手法といわなければなるまい。あるいは働き過ぎているということになるかも知れぬ。

 

   相摸川(さがみがは)洪落水接天

 狼の浮木(うきぎ)に乘(のる)や秋の水 其角

 

 古今にわたる狼の句の中で、最も奇抜なものとしては、この句を推すに躊躇せぬ。ここに至ると、もう月も雪もない。夜道の不安も山家もない。狼に関して今まで挙げ来った、あらゆる配合物は悉く影を消して、浮木の上に乗った狼が水の上を流れて来る。秋の水といったところで、湛然(たんぜん)として日を浮べたり、底に何か沈んでいるのが見えたりするような、生やさしいものではない。正に『荘子』のいわゆる「秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぐ」底(てい)の大水である。濁流滔々(とうとう)として天を浸す中を、浮木に乗った狼が何処までも流れ去る。人を脅し馬を恐れしむる狼の存在も、頗る小さなものとならざるを得ぬ。其角は那辺より、この奇想を獲来(えきた)ったか。あるいは相模川出水の際の出来事を、沿岸の人からでも聞いて、自家薬籠中のものとしたのではないかと思うが、尋常に甘んぜざる彼の面目は、遺憾なくこの一句に示されている。もしこの句に対してなお其角の才の恐るべきを感ぜぬというならば、その人の眼は魚鱗を以て掩われているのである。

[やぶちゃん注:「洪落水接天」は総て音で「こうらくすいせつてん」と読んでいるのであろう。和訓しては句景の厳しいダイナミズムが失われる。

「湛然」静かに水を湛(たた)えているさま、静かで動かぬ様子。

「荘子」「秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぐ」「莊子」(そうじ)「後篇」の「秋水」の冒頭。「秋水時至、百川灌河。涇流之大、兩涘渚崖之間、不辯牛馬。」(秋水、時に至り、百川(はくせん)、河(か)に灌(そそ)ぐ。涇流(けいりゆう)の大、兩涘(りやうし)渚崖(しよがい)の間(あひだ)、牛馬を辯ぜず。)で、「秋の大水が一時(いっとき)に出水(でみず)し、多くの川の水が黄河に一気に流れ込む。水の流れは広大にして満ち溢れて氾濫原は水浸しとなり、両岸や中洲の汀(みぎわ)と思しい辺りを見渡しても、そこに半ば浸っているらしい牛と馬との区別さえ、濛々として、つきかねるほどだ。」の意。原文では以下、黄河の主(ぬし)河伯(かはく)が喜び勇んで泳ぎ出すのである。

「底(てい)」「体(てい)」が正しい。]

 

 狼の聲はなれたる砧(きぬた)かな   五明

 

 この句は二様に解せられる。中七字を「聲は馴れたる」と読むか、「聲離れたる」と読むかによって解釈は分れるので、次第に遠ざかる狼の声を「離れたる」と形容するのは適切でないから、多分前者であろう。狼の声をしばしば耳にしながら、深く意に介せず、砧を打っている山家の生活が側面から描かれている。

 眼前の鑑賞物として適せぬことは、熊も狼も大して変りはない。しかし熊を句中のものとするに当っては、どうしても或(ある)形なり、動作なりを捉える必要がある。狼の声は鑑賞に値するものでないにせよ、登場せずに存在を示す利器であり、俳人もまた如才なくこれを活用している。実際俳句の狼の大半は、その姿を見せておらぬようである。

一匹の馬   原民喜

 

[やぶちゃん注:随筆「一匹の馬」は初出未詳で、原民喜没後十四年後の昭和四〇(一九六五)年八月に芳賀書店から刊行された「原民喜全集」(全二巻)に収録されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を参考底本に用いたが、昨日、本カテゴリ「原民喜」で電子化注を完成したジョナサン・スイフト原作・原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)の表記に則り、恣意的に漢字を概ね正字化した句点が一切存在しないのは底本のママ。「憂ウツ」「敏ショウ」「發ラツ」「クラ」「ショウ然」「オウト」「ノド」も総てママである。底本の仮名遣は現代仮名遣で、正字とはやや不整合かも知れぬが、原稿・原本を確認出来ないので、そのままとした。私は実は芳賀書店版全集の編集者が歴史的仮名遣を現代仮名遣に変えた可能性を深く疑っている。何故なら、書き出しで民喜は「五年前」と言っており、とすれば、これは昭和二五(一九五〇)年に書かれたものであり、民喜は終生、ほぼ一貫して基本、歴史的仮名遣・正漢字を使用して原稿を書いていた事実があるからである(上記の「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)を参照。「ガリヴァー旅行記」もこれと同じ時期に書かれたものと思われる)。

 なお、本シークエンスについては、先ほど公開した原民喜の随筆「ガリヴア旅行記 K・Cに 」の最後でも言及されている。

 第二段落に出る「東練兵場」は現在の広島県広島市東区光町などを含む、広島駅の北側に広がっていた「廣島市東練兵場」のことである。「とりさん」氏のブログ「広島市東練兵場跡地」が非常に詳しい。当時の航空写真や、現在の地図上に当時の当該区画も示されてある。必見。

 「東照宮」は現在の広島市東区二葉の里にある、広島東照宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「広島東照宮によれば、『の原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の一つ』で、そこに『ここは爆心地から約』二・一キロメートル『(広島市公式)に位置した。爆風により』、『建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが』、『通信兵の手により』、『更なる延焼から免れ』、『全焼は回避された』。また、『社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて』、『大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの国前寺へと運ばれた』被爆翌日の八月七日には『境内南下に広島駅前郵便局および広島鉄道郵便局の仮郵便局が設けられた』とあり、その後に『幟町(現在の広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は』七『日夜、親族とともに境内の避難所で野宿して覚書』(「原爆被災時のノート」)『を記し、後日それを元に小説『夏の花』を執筆した』と記されてある。「原爆被災時のノート」は「青空文庫」のこちらで読める。そこにもこの馬のことが記されてあるので、以下に引く(青土社版全集の「Ⅲ」のそれと校合し、恣意的に漢字を正字化した)。

   *

 翌朝[やぶちゃん注:七月八日に相当する。]目ザメテ肩凝ル 廣島驛ノ方ヘ行ツテ見ルニ 廣島ノ街ハ滿目灰白色ナリ 福屋ナドノビルワヅカニ殘ル 馬一匹練兵場ニサマヨフアリ 驛ニハ少年水兵作業ヲナス 橫川ヨリ 汽車アル由キイテ歸ル 臥屋ニ歸レバ陽アタリテ暑シ 昨夜ノ黑焦顏ノ婦人既ニ死ニ 巡査シラベルニ 呉ノ人ナルコトワカル

   *

「燒津」恐らくは「饒津」(にぎつ)の誤り(原民喜自身の誤字か、芳賀書店編者の判読の誤りであろう。後者の可能性が高い)であろう。現在の東区二葉の里二丁目にある饒津神社(にぎつじんじゃ)方向を指しているものと思われる。同神社はここ(グーグル・マップ・データ)で、広島駅の北西に当たり、広島東照宮からは直線で五百メートル強である。

「東警察署」当時の「廣島東警察署」は広島市京橋町(現在の広島市南区京橋町)にあったが、被爆の前月七月に空襲激化の虞れがあることから、広島市下柳町(現在の広島市中区銀山町)の藝備銀行下柳町支店(現在の広島銀行銀山町支店)を借りて移転していた。現在の広島駅の南西の、(グーグル・マップ・データ)。以上はウィキの「広島東警察署」の「沿革」を参照した。

 因みに、本篇は既に新字新仮名で単品(二〇〇二年七月二十日作成)、及び、原民喜訳「ガリバー旅行記」(二〇〇三年五月三日公開・二〇一四年三月二十七日修正)の最後に、一九七七年一二月晶文社刊の「原民喜のガリバー旅行記」に併載されているものから、電子化されているのであるが、後者は、底本である晶文社のそれが杜撰なのか、或いは入力者のミスによるものなのか、本篇のそれは誤りや有意な文章の脱落(第六段落目。私のものと比較されたい。「罹災證明がもらえ」という同じ文字列を次の第七段落目の頭と誤認して繋げてしまった結果であろう)があり、電子テクストとしては価値がない(本日二〇一七年十二月十一日現在で再確認したが、依然として訂正されていない)ことを言い添えておく。嘗て同文庫には一般閲覧者が誤りを指摘する投稿ページがあり、それによって修正もなされていた(私も何度か指摘した)が、そのシステムが今はないので、ここで述べておくこととする。但し、底本の晶文社の誤りの場合(私は所持しないので確認出来ない)は、同文庫のシステムでは底本第一主義をとっているため、誤ったままで載せ続けることになるのであろう。しかし、それは、それこそ、原民喜に対して非常に失礼な仕儀となると存ずるものである。なお、前者の単品物は問題ない。しかし、その場合でも、ネットだけで見ている読者はその違いに戸惑うことは明白であるから、後者の誤ったものは全篇をカットするぐらいの英断をしなければ、電子テクストの草分けの名が廃ると言ってよい。]

 

 

   一匹の馬

 

 五年前のことである

 私は八月六日と七日の二日、土の上に橫たわり空をながめながら寢た、六日は河の堤のクボ地で、七日は東照宮の石垣の橫で――、はじめの晩は、とにかく疲れないようにとおもって絶對安靜の氣持でいた、夜あけになると冷え冷えした空が明るくなってくるのに、かすかなのぞみがあるような氣もした、しかし二日目の晩は、土の上にじかに橫たわっているとさすがにもう足腰が痛くてやりきれなかった、いつまでこのような狀態がつづくのかわからないだけに憂ウツであった、だが周圍の悲慘な人々にくらべると、私はまだ幸福な方かもしれなかった、私はほとんど傷も受けなかったし、ピンと立って步くことができたのだ

 八日の朝があけると私は東練兵場を橫切って廣島驛をめざして步いて行った、朝日がキラキラ輝いていた、見渡すかぎり、何とも異樣なながめであった

 驛の地點にたどりつくと、燒けた建物の脇で、水兵の一隊がシャベルを振り囘して、破片のとりかたづけをしていた、非常に敏ショウで發ラツたる動作なのだ、ザザザザと破片をすくう音が私の耳にのこった、そこから少し離れた路上にテーブルが一つぽつんと置いてある、それが廣島驛の事務所らしかった、私はその受付に行って汽車がいま開通しているものかどうか尋ねてみた

 それから私は東照宮の方へ引かえしたのだが、ふと練兵場の柳の木のあたりに、一匹の馬がぼんやりたたずんでいる姿が目にうつった、これはクラもなにもしていない裸馬だった、見たところ、馬は別に負傷もしていないようだが、實にショウ然として首を低く下にさげている、何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿なのだ

 私は東照宮の境内に引かえすと石垣の橫の日陰に橫臥していた、晝ごろ罹災證明がもらえることになつたので、私はまた燒津の方へ向う道路を步いて行った、道ばたの燒殘った樹木の幹を背に、東警察署の巡査が一人、小さな机を構えていた

 罹災證明がもらえて戾ってくると今度は間もなく三原市から救援のトラックがやって來た

 私は大きなニギリ飯を二つてのひらに受けとって、石垣の日陰にもどった、ひもじかったので何氣なく私は食べはじめた、しかしふとお前はいまここで平氣で飯を食べておられるのか、という意識がなぜか切なく私の頭にひらめいた、と、それがいけなかった、たちまち私は「オウト」を感じてノドの奧がぎくりと搖らいできた

 

 

ガリヴア旅行記 K・Cに   原民喜

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月号(原民喜が没した(三月十三日)翌月に当たる)『近代文学』初出。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を参考底本に用いたが、昨日、カテゴリ原民喜」で電子化注を完成したジョナサン・スイフト原作・原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)の表記に則り、恣意的に漢字を概ね正字化した。本篇は既に新字正仮名版が「青空文庫」で公開されているが(二〇〇二年七月二十日作成)、私のこの電子テクストはこの仕儀により、より原民喜の原稿に近いものとなっていると考えている。

 なお、副題の献辞者「K・C」はイニシャルから考えて、親友の詩人長光太(ちょう こうた 明治四〇(一九〇七)年~平成一一(一九九九)年)ではないかと推定される。末尾に「(二五・八)」とあるが、これは昭和二五(一九五〇)年八月のクレジットである。少なくとも、この年の年末には自死を決していたと考えられる。

 第一段落の「吻と」は文脈から考えて「ほつと」(ほっと)と当て訓しているものと思われる。

 同段の「老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの繪」の「ウオター・ロレイ」とはイングランドの女王エリザベス世の寵臣にして探検家・詩人であったウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年:新世界アメリカに於いて最初のイングランド植民地を築いたことで知られる。信頼されていたエリザベス世が一六〇三年四月に死去すると、同年十一月に内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで凡そ十二年監禁されている。それが解かれた同年、南米にエル・ドラド(黄金郷)を求める探検隊を指揮して向かったが、その途中、部下らがスペインの入植地で略奪を行い、一行がイングランドに帰還後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世に彼の死刑を求め、一六一八年十月十八日に斬首刑に処せられている。以上はウィキの「ウォルター・ローリーに拠った)の少年時代を描いた、イギリスのラファエル前派の画家サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais 一八二九年~一八九六年)の一八七一年の作品The boyhood of Raleighを指している。Wikimedia Commons(英文)にある再使用許可画像をここに掲げておく。

 

Millais_boyhood_of_raleigh

 

 挿入される「ボードレール」の『「航海」といふ詩』というのは、シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の「悪の華」(Les Fleurs du mal:初版・一八五七年/第二版・一八六一年/第三版(没後)一八六九年)の中の「死」(La mort)パートの最後の一篇Le voyage(「旅」とも訳される)で、この一篇にはA Maxime Du Camp.という献辞が附されている(マクシム・デュ・カン(Maxime Du Camp 一八二二 年~一八九四年)はボードレールの友人で写真家。写真集「エジプト、ヌビア、パレスティナ、シリア」(Egypte Nubie Palestineet Syrie 一八五二年~一八五四年)で知られる)。全八章から成る長詩で、この引用は、その第一連。フランス語原詩全文で読め、詩人小林稔ブログヒーメロス通信邦訳が読める。原民喜の訳はかなり原詩に忠実である。

 「ニユーホランド」“New Holland”。オーストラリア大陸の歴史的名称。

 「この物語を書いた作者が發狂して、死んで行つた」最愛の女性や良き協力者であった友人らが亡くなる中、スウィフトに最初に病気の徴候が顕れたのは一七三八年であった。一七四二年になると発作が起こるようになり、会話能力を失うとともに精神障害が発現、一七四五年十月十九日、満七十七歳で亡くなった。なお、実は彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実であった。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「人間らしさ」で次のように述べている。

   *

 

       「人間らしさ」

 

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

   *

私の芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)も参照されたい。

「ゴーゴリの場合」ウクライナ生まれのロシアの作家ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь 一八〇九年~一八五二年)は、一八四八年、宿願であったパレスチナへの巡礼旅行を終えてロシアへ帰って後は、一旦、焼き捨てた「死せる魂」第二部の執筆を続け、一八五一年末には完成に近づいていたらしいが、かねてより、霊的指導者として文通していた神父マトベイ・コンスタンチーノフスキーの影響も手伝って、「神の啓示なしに」作家としてとどまることに罪悪感を抱くようになり、一八五二年二月、完成直前であった「死せる魂」第二部の原稿を焼却してしまうと、その後、間もなく、半ば錯乱した状態のまま、断食に入り、三月四日の朝、絶命した(以上は小学館「日本大百科全書」の木村彰一氏の解説に拠った)。

 なお、最終段落に語られる、被爆直後の馬のシークエンスは、随筆「一匹の馬」(初出未詳)に語られているので、本篇の公開後に電子化する(公開終了。こちら)。]

 

 

   ガリヴア旅行記
    
K・Cに

 

 この頃よく雨が降りますが、今日は雨のあがつた空にむくむくと雲がただよつてゐます。今日は八月六日、ヒロシマの慘劇から五年目です。僕は部屋にひとり寢轉んで、何ももう考へたくないほど、ぼんやりしてゐます。子供のとき、僕は姉からこんな怪談をきかされたのを、おもひだします。ある男が暗い夜道で、怕い怕いお化けと出逢ふ。無我夢中で逃げて行く。それから灯のついた一軒屋に飛込むと、そこには普通の人間がゐる。吻と安心して、彼はさきほど出逢つたお化けのことを相手に話しだす。すると、相手は「これはこんな風なお化けだらう」と云ふ。見ると、相手はさっきのお化けとそつくりなのだ。男はキヤツと叫んで氣絶する。――この話は子供心に私をぞつとさすものがありました。一度遇つたお化けに二度も遇はすなど、怪談といふものも、なかなか手のこんだ構成法をとつてゐるやうです。

 先日から僕はスウイフトのガリヴア旅行記をかなり詳しく讀み返してみました。小人國の話なら子供の頃から聞かされてゐます。夏の日もうつとりして、よく僕は小人の世界を想像したものです。子供心には想像するものは、實在するものと殆ど同じやうに空間へ溶けあつてゐたやうです。さういへば、少年の僕は、船乘になりたかつたのです。膝をかかへて、老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの繪を御存知ですか。あの少年の顏は、少年の僕にとても氣に入つてゐたのです。

  地圖を愛し版畫を好む少年には

  宇宙はその廣大なる食慾に等し。

  ああ! ランプの光のもと世界はいかに大なることよ!

  されど追憶の眼に映せばいかばかり小なる世界ぞ!

 ボードレールは「航海」といふ詩でかう嘆じてゐますが、僕自身は今でもまだ人生の航海を卒業してゐない人間のやうです。

 しかし、近頃の新聞記事を讀むと、何だか、この地球はリリパツトのやうに、ちつぽけな存在に思へて來るのです。卵を割つて食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきかと、二つの意見の相違から絶えず戰爭をくりかへさねばならないほど、小ぽけな世界に……

 だが、小人國から大人國、ラピユタ、馬の國と、つぎつぎに讀んで行くうちに、僕はもつとさまざまのことを考へさせられました。この四つの世界は起承轉結の配列によつて、みごとに效果をあげてゐるやうですが、僕を少しぞつとさせるのは、あの怪談に似た手のこんだ構成法でした。

 小人國からの歸りに、ガリヴアは船長にむかつて躰驗談をすると、てつきり頭がどうかしてゐると思はれます。そこでポケツトから小さな牛や羊をとり出して見せるのです。そして、その豆粒ほどの家畜をイギリスに持つて歸って飼つたなどといふところは、まだ輕い氣分で讀めます。しかし、大人國からの歸りには、ガリヴアは箱のなかにゐて、鷲にさらはれて海に墜されて、船で救はれるのですが、ここでも船員たちとガリヴアとの感覺がまるで喰ひちがつてゐます。最初私を發見したとき何か大きな鳥でも飛んでゐなかつたかと、ガリヴアが訊ねると、船員の一人は、鷲が三羽北を指して飛んでゐるのを見た、が大きさは別に普通の鷲と變ったところはなかつたと答へます。もつとも非常に高く飛んでゐたので小さく見えたのだらうとガリヴアは考へるのですが、これは少し念が入りすぎてゐるやうです。そして、こんな手法は馬の國からの歸航では更らに陰欝の度を加へてくりかへされてゐます。ここでは人間社會から逃げようと試みるガリヴアの悲痛な姿がまざまざと目に見えるほど眞に迫つて訴へて來ますが、奇妙なのは船長とガリヴアとの問答です。はじめ彼の話を疑つてゐた船長が、さういへばニユーホランドの南の島に上陸して、ヤーフそつくりの五六匹の生物を一匹の馬が追ひたててゆくのを見たといふ人の話をおもひだした、といふ一節があります。實に短かい一節ながら、ここを讀まされると、何かぞつと厭やなものがひびいて來ます。何のために、こんな念の入つたフイクシヨンをつくらねばならなかつたのかと、僕には、何だか痛たましい氣持さへしてくるのです。

 身振りで他國の言葉を覺えてゆくとか、物の大小の對比とか、さういふ發想法はガリヴア全篇のなかで繰返されてゐます。この複雜な旅行記も、結局は五つか六つの回轉する發想法に分類できさうです。だが、それにしても、一番、人をハツとさすのは、ヤーフが光る石(黃金)を熱狂的に好むといふところでせう。僕は戰時中、この馬の國の話を讀んでいて、この一節につきあたり、ひどく陰慘な氣持にされたものです。陰欝といえば、この物語を書いた作者が發狂して、死んで行つたということも、ゴーゴリの場合よりも、もつと凄慘な感じがします。

 また僕は五年前のことをおもひ出しました。原爆あとの不思議な眺めのなかに――それは東練兵場でしたが――一匹の馬がゐたのです。その馬は負傷もしてゐないのに、ひどく愁然と哲人のごとく首をうなだれてゐました。(二五・八)

 

2017/12/10

安心したまえ

安心したまえ――僕は君を詩人だなどとさらさら思っていないし、君にキスしたいとも思っていない――

……いや……君が僕と死ぬると言うのなら……全力を以って君の口を――吸おう――

感懐

我々人類なる生き物は、あらゆる無名者のヒト及びあらゆる生き物の生殖の結果として存在している。そうした事実を不遜にテツテ的に忘れ果てている人類に、生きる価値も資格も、最早、全く以って存していない。その絶対の真理を、我々は、哀しいかな、これまた、全く忘れている。これは霊長類などと称する我々の致命的な誤謬以外のなにものでも、ない――

(鈴木その子孃に)   原民喜(詩稿)

[やぶちゃん注:底本は広島市立中央図書館の「原民喜の世界」の「画像ギャラリー」の原稿を視認した。書誌情報によればB4ザラ紙一枚に墨書きである。原稿そのままのものを最初に示し、詩篇の内容から私が恣意的に一部を繫げ、一部に読点と恣意的な読みを添えたものを後に掲げた。因みに、私は「鈴木その子」なる人物が如何なる方かは、不詳である。識者の御教授を乞う。]

 

明日、太陽は再びのぼり

花花は地に咲きあふれ、

明日、小鳥たちは晴れや

かに囀るだらう。地よ、地

よ、つねに美しく感動に

満ちあふれよ。明日、僕

は感動をもつてそこを

過るであらう。

       原民喜

鈴木その子孃に

 

   *

 

明日、太陽は再びのぼり、花花は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだらう。

地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。

明日、僕は感動をもつて、そこを過(よぎ)るであらう。

       原民喜

鈴木その子孃に

 

柴田宵曲 俳諧博物誌(23) 狼  二

 

        

 

 狼と人との交渉が何時頃から険悪になったか、『孤猿随筆』には「狼史雜話」の一篇があるが、はつきりした年代はわからぬらしい。人獣間の歴史も固(もと)より平和な方がいいので、人とる沙汰が聞えるよりは

 狼も喰はでめでたしやまの春   南山

 

の方が実際めでたいに相違ないのである。

[やぶちゃん注:「孤猿随筆」既注であるが、再掲しておく。柳田國男の「孤猿隨筆」は昭和一四(一九三九)年創元社刊。

「狼史雑話」は「孤猿隨筆」に載るが、初出は昭和七(一九三二)年九月及び翌昭和八年十一月に発行された、雑誌と思われる『日本犬』である。全十七章。但し、柳田の記述は実際には殆んど江戸期のものばかりで、戦国以前、中世はもとより中古の文献を渉猟した形跡がない、私に言わせれば、異様に偏頗なものである。]

 

 『孤猿随筆』はまた、維新前後の地方の刑場が甚だ乱雑で、夜その附近を通ると必ず狼の唸り声を聞いたものだという老人の話を挙げ、「これは以前も戦闘の跡とか、飢饉その他の大災害のあった土地とかには、幾度かくり返されたろうと思う光景で、今はもう信じ難いほどの昔の事になっている」といい、「それよりも更に一般的なのは埋葬法の変遷で、かつては普通人の墓地などは、殆ど狼の劫掠(ごうりゃく)を防ぎ切れぬような簡単な装置のものばかり多かったのが、追々と深葬の風が普及し、石の工作はまたこれを保護するようになった」ということが附加えられている。俳諧の狼は概して太平で、戦場や刑場などは取入れられておらぬが、

 

 狼の葬の火を掘る時雨(しぐれ)かな 相夕(さうせき)

 

の一句は、右の説を立証するものとして、一読寒気を覚えしめる。少くともわれわれの目に触れた範囲では、この句の如く凄然(せいぜん)たるものを知らぬ。「ひよつと喰べし」という鉢敲の上には、若干の滑稽を感ずるほど、狼と疎遠なわれわれも、この一句の持つ真実味には打たれざるを得ない。句中に点じた「火」の一字が時雨の天地をいよいよ暗からしむると共に、凄涼の度を加えているような気がする。

[やぶちゃん注:ここで宵曲が言い、引用しているのは、「孤猿随筆」の中の、前に出た「「狼史雜話」ではなく、その前の、以前に注した、「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」(昭和八(一九三三)年十一月)の「九」の一節なので注意が必要である(別作品からの出典であるのにそれを謂わないのは宵曲の非常によくない点であると私は思う)。

 因みに、この相夕という俳人、全く知らないが、確かに、鬼趣のこの一句、慄っとするほど素敵である。

「劫掠(ごうりゃく)」「劫略」とも書く。歴史的仮名遣は「ごふりやく」であるが、古くは「こふ(こう)」と清音ともされる。意味は「脅して奪い取ること」の意。]

 

 狼の身もたのまれぬ夜寒(よさむ)かな 乙州(おとくに)

 

 これは山野の狼の事をいったのか、作者自身の主観を狼に託したのかわからぬが、夜寒の中に身を置いて考える時、人の恐れる狼の身も甚だたのみ難い存在になって来る。不思議な所に想を寄せたものである。

 山犬と狼とが別種であるかどうかということに関しては、いろいろ説もあるらしいが、柳田国男氏は「近世の事実に拠って、二つの異なる習性をもつ狼と山犬とが、併存するものと推断することは出来ぬと思う」といっている。俳諧の狼は割合に多いが、山犬の句は極めて少い。

[やぶちゃん注:以上も前の段落と同じく、「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」の「六」の一節。なお、以上の柳田國男のそれらの引用は原本を確認出来ないので、歴史的仮名遣や正字化を行わなかったが、ちくま文庫版全集と校合はした。違った細部はあるにはあったが、同全集は現代の読者の読み易さを考えて編集が加えられているので、必ずしも、宵曲が誤っているとは断定出来ぬので、底本のままとした

「山犬」以前に注したが、これは野生の犬(反対語は「里犬」)・野犬のことである。或いは「ニホンオオカミ」の別名としても用いられた。江戸期の動物画や随筆類では、野生の犬に似ているが、独立した動物種のようにまことしやかに書いたものがあるが、そんな種は存在しない。]

 

 萩原や一夜はやどせ山の犬     芭蕉

 

という句は、「狼も一夜はやどせ萩がもと」あるいは「蘆の花」となつている。先ず同じものと見てよかろう。この句は萩を持出したせいか、臥猪(がちょ)の床と似た趣になって、山犬乃至(ないし)狼の感じはそれに蔽われた形であるが、

 

 山犬を馬が嗅(かぎ)出す霜夜かな 其角

 

の句は頗(すこぶ)る恐しい。人は馬背に跨りつつあるか、荷を負わせて共に歩みつつあるか、とにかく霜夜の道を行くに当って、人がまだ何とも感ぜぬ先に、馬は山犬の匂を嗅ぎつけたらしく、突如として身顫(みぶるい)するという趣であろう。黒闇々(こくあんあん)たる霜夜の天地の中において、声や形によることなく、襲い来るもののけはいを感ずるところに、動物の鋭敏な感覚も窺われ、夜行の寒さも骨に沁み入るように思われる。

[やぶちゃん注:芭蕉の、

 

 萩原(はぎはら)や一夜(ひとよ)はやどせ山の犬

 

は貞享四(一六八七)年の作で、この句形は「續虛栗」(ぞくみなしぐり)・「泊船集」のそれ。かの「鹿島紀行」(鹿島詣)にも、

 

 萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃靑

 

の表記・署名で載る。異国編の「泊船集」(はくせんしゅう)には、「萩原や一夜はやどせ山の犬」の別案として、

 

 狼も一夜はやどせ萩がもと

 

を載せ、支考編の「笈日記」には、

 

 狼も一夜はやどせ芦の花

 

を載せる。この「芦(蘆)の花」は許六の「泊船集書入」にも載る。どう考えても、「山の犬」がいい。

 一方、其角の句の方は、

 

 山犬を馬が嗅出(かぎだ)す霜夜哉

 

で「皮籠摺」や「五元集」に載る句で、後者には「山行」の前書がある。この鬼趣もいいが、先の相夕の句にはまるで及ばぬ。]

 

狼の犬誘ひよる霜夜かな   嘯山

 

 狼と犬との境界線がやや明瞭でないため――少くともその祖先を同じゅうするために、犬と狼との交渉については、童話の世界にもいくつか話が伝えられている。家を守るに堪えなくなった老犬が、予(あらかじ)め狼と打合せて置いて、主人の幼児の奪われたのを取返して来る、その殊勲によって今まで老耄(ろうもう)せりとして無用視されていた者が、俄に優遇されるようになるなどという話は、いささか人間的才覚に終始し過ぎた嫌があるが、畢竟犬と狼との間に他の獣と異る因縁が存在するため、こういう想像も成立つのであろう。『青い鳥』の森の場でチルチルに向って来る狼も、犬を兄弟と呼んで誘惑的な言辞を弄している。囁山の狼は何のために犬を誘いに来るのかわからない。ただ「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」のような普通の友好でなく、何か目的があるらしく考えられるのは、やはり彼らの特別関係を意識しているためかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の岩手県で採取された民話「犬と狼」(再話者・六渡邦昭氏)がある。これは後半で、狼が報酬として家の鶏を要求し、それを断ったところ、狼は鬼とともに老犬を食おうとする。しかし一緒に飼われている猫が助太刀をして、めでたしめでたし!――お読みあれ。朗読音声もある。

「青い鳥」ベルギーの詩人で作家のモーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck  一八六二年~一九四九年:正式名はメーテルリンク伯爵モーリス・ポリドール・マリ・ベルナール(Maurice Polydore Marie Bernard, comte de Maeterlinck)。但し、本人の母語であるフランス語を音写すると「メーテルランク」、ベルギーのフラマン語(オランダ語のベルギー方言)や、彼の今一つの母語でもあるオランダ語では「マーテルリンク」に近い音である。なお、この“maeterlinck”はフラマン語で「計量士」「測量士」を意味する語である。以上はウィキの「モーリス・メーテルリンク」に拠った)作のフランス語でL'Oiseau bleu。五幕十場から成る童話劇で一九〇八年発表。宵曲の言っているのは第三幕第五場のワン・シーンである。

「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」これは与謝蕪村の「蕪村句集」の秋に載る句。

 

   山家

 猿どのゝ夜寒(よさむ)訪(とひ)ゆく兎かな

 

で、初案は「百歌仙」に載る、

 

 猿どのゝ夜さむ訪(おとな)ふ兎かな

 

である。これは、

 

   山居の僧に

 雪を汲(くみ)て猿が茶を煮けり太山寺  其角

 

の句を踏まえたもので、深山の友の家を蕪村が訪れんとする事実を、仙境に擬えて童話化した一句である。ここは新潮日本古典集成の清水孝之校注「與謝蕪村集」の注を参考にさせて戴いた。]

 

 若草や狼かよふ道ながら       芭蕉

 狼の道をつけたる落(おち)ばかな  程已

 狼に道や絶(たえ)けん鹿の聲    蓼太

 

 この三句にあっては狼は全く陰の役者になっている。狼の常に往来するような道も、春が来れば美しい若草が萌える。冬になって落葉が積れば、その上にまた狼の通う道がつく。そういう現象はもともと何の関係もないにかかわらず、二つ並べて見ると季節の推移が今更の如く感ぜられる。蓼太の句は狼が出没するために、鹿が通わなくなるという意である。空を行く鳥に鳥の道があり、水を行く魚に魚の道があるように、獣にもそれぞれ適う道が走っているとすれば、道を外にして存在する者は現世にないのかもわからない。但(ただし)芭蕉の場合は狼が通うことを知っているだけで差支ないが、程已の句は何によって狼たることを判断するか、馬のようにこれを嗅分(かぎわ)ける能力などは、普通の人間にあるべくも思われぬ。強いていえば狼が動物として遺(のこ)す証拠物件による外はなさそうである。

[やぶちゃん注:宵曲が芭蕉作として出す「若草や狼かよふ道ながら」は大蟻編の芭蕉書簡集「翁反故(をきなほご)」に載る句であるが、この書は偽書であることが判っており、この句も芭蕉の句でない可能性が頗る高い。一九七〇年岩波文庫刊の中村俊定校注「芭蕉俳句集」でも「存疑の部」に入っており、山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年講談社学術文庫刊)にも採られていない。如何にもな、駄句である。]

 

 狼の糞に露見る山路かな   玉珂(ぎよくか)

 

 獣の糞までも詩材として見遁(みのが)さをかったことは、慥に他の文芸に見られぬ俳諧の特色であった。これには已に子規居士の詳しい説があつて、新に贅言(ぜいげん)を加える必要を認めぬが、「俳句では他の詩でいへぬやうな些細な事までいへるのであるから、その觀察が隅から隅まで行き屆くやうになるのは自然の傾向」である事、「俳人の觀察の區域が廣くて總ての物を網羅するやうの傾向は、終に糞小便の研究に迄及んで、しかもそれをどれだけに美化したか」という事は、俳諧と他の詩歌とを比較するに当り、閑却すべからざるものと思われる。史邦(ふみくに)の如きは「霞野(かすみの)や明(あけ)立春の虎の糞」という句まで作っているが、当時としては所詮(しょせん)想像的産物たるを免れぬ。狼の糞は珍しい点では虎に及ばぬとしても、自然な点においてはかえって勝っている。

[やぶちゃん注:以上の正岡子規のそれは恐らく(後者の引用は確実に)明治三三(一九〇〇)年の評論「糞の句」である。後者は新字体旧仮名の引用を中原幸子氏の論文『正岡子規の取り合わせ観 ――「俳諧大要」から「糞の句」へ――」で現認出来たので、本文を訂し、漢字を恣意的に正字化した。前者はそれに合わせるため、私が恣意的に歴史的仮名遣に直し、漢字を正字化した。出典を含め、もしも誤りがあれば、御指摘頂きたい。]

 

 狼の糞を見てより草寒し       一茶

 狼の糞見て寒し白根越(しらねごえ) 子規

 

 この二句は大体同じところを捉えている。地上に認めた糞が狼のそれであると知った時、慄然として寒さを感ずるというのは、気持の上において、玉珂の句より更に一歩蹈入ったものがあるかと思う。

[やぶちゃん注:一茶の句は「七番日記」に所載する文政元(一八一八)年の作。子規の句は「寒山落木 五」に載る明治二九(一八九六)年の作。]

しかし狼の糞に著眼することは、必ずしも玉珂や一茶にはじまるのではない。元禄の俳人も夙(つと)に連句の中にこれを用いている。

 

 木佛(きぼとけ)の御首(みくし)計(ばかり)はふるされし

                    休計

  勘解由(かげゆ)がひらふ狼の糞  西吟(せいぎん)

 山ふかみなを山ふかみ啼(なく)梟(ふくろ)

                    休計

 

 木仏の首ばかりになっているのは、鏡花氏の「水雞(くいな)の里」に出て来る兀仏(こつぶつ)のようで薄気味が悪い。そういう背景の下に拾った狼の糞も、恐らく日を経て乾からびているのであろうが、蕭条たる山中の気を感ぜしむるに十分である。「山ふかみ」は西行の「山ふかみけぢかき鳥の聲はせで物おそろしき梟の聲」を蹈えているらしい。三句相俟って荒廃した山中の御堂か何かを描き出している。これは綜合的効果というべきもので、如何に狼の糞を巧に使ったにしても、一句の上に望むのは最初から無理である。

[やぶちゃん注:『鏡花氏の「水雞(くいな)の里」』「水鷄(くひな)の里」「鷄」が正しい表記)は明治三四(一九〇一)年三月発行の『新小説』発表の百鬼夜行の付喪神や異類妖怪のオン・パレード小説(サイト「鏡花花鏡」の九〇番からPDFで縦書版全篇がダウン・ロード出来る)。三年後に戯曲「深沙大王」(しんじゃだいおう)に仕立て直された。

「兀仏(こつぶつ)」鏡花の「水鷄の里」の冒頭に連呼されて出るが、そこでは『兀佛(はげぼとけ)』(禿げ仏)とルビされている。以下、ややネタバレとなるが、場所は越前白鬼女川(しらきじょがわ)岸の水鶏の里の、荒れ果てた深沙大王を祀った祠(ほこら)で実はもうその「兀佛」の声の主自体が人間ではない、鼬の妖怪が首の抜けた賓頭盧の像を罵って言った台詞なのである。

「山ふかみけぢかき鳥の聲はせで物おそろしき梟の聲」「山家集」の「下 雜」(八一九八番歌)及び「夫木和歌抄」の「廿七 雜九」に載る一首。

 

 山ふかみけ近(ぢか)き鳥のをとはせで物恐ろしきふくろふの聲(こゑ)

 

で、「け近き」は「親しみのある鳥」の意。宵曲はルビも振らずにこの一首をポンと出しているのであるが、二箇所の「聲」を変えて読ませることは、この和歌を既に知っている人間にだけに出来る芸当。或いは、宵曲自身孰れも「こゑ」と読んでいたものか? だとすると、知ったかぶりをして逆に墓穴を掘ったとしか言えない。「をと」「こゑ」と読むことを知っていてわざとルビを振らなかったとしたら、実に厭ったらしい行いである。

 

 狼の祭や猛きこゝろにも    嘯山

 烏來て豺(さい)の祭を覗きけり

                同

 狼のまつりか狂ふ牧の駒    太祇

 狼の跡を喰はんと祭るめり   之房(しばう)

 狼のまつりに染めるすゝきかな 晋佶(しんきつ)

 

 秋の季題に「豺祭獣」というのがある。春の「獺祭魚(だっさいぎょ)」と対をなすべきものであるが、歳時記には月令を引いて、「此は戌月(いぬづき)の候と記す。獸を祭るとは、之を天に祭るなり。禽(きん)を戮(りく)するとは、之を殺して以て食ふなり」とあるだけで、よくわからない。

[やぶちゃん注:引用した歳時記が具体的に何かも判らぬし、調べる気もないが、表現が文語であるから、漢字を恣意的に正字化した。

「豺祭獣」音なら「さいさいじゅう」だが、気持ち悪い。これは訓じて、「豺(やまいぬ)、獣(けもの)を祭る」であり、歳時記では晩秋の季語とする。他に「狼の祭り」「豺(やまいぬ)の祭り」などとも柱立てするらしい。七十二候(しちじゅうにこう)の中の「霜降初候」(日本の「霜始降」(霜、始めて降る):十月二十三日~二十七日頃)の、中国での呼称「豺乃祭獸」(豺(さい)、乃(すなは)ち、獸を祭る):山犬が捕らえた獣を並べて食らう)に由来)の時期を指すという。「豺」は山犬或いは狼で、彼らが狩った禽獣を捕獲後に祭るようにして並べるという伝承に因んだ季語で、宵曲も言っているように初春の「獺、魚を祭る」、また、初秋の「鷹、鳥を祭る」に対応するものである。

「月令」「がつりょう」(現代仮名遣)と読む。古漢籍に於いて月毎(ごと)の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したものを指す一般名詞である。有名なものは「禮記」のもので、調べてみると、まさに「月令」に、

   *

鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。

   *

とあった。歳時記という奴は、実は判っていない奴が判ったような顔をして、判らんことを当然の如く書き連ねた、似非(えせ)博物書であると、私は昔から思っている。]

 

 狼に寒鮒(かんぶな)を獻ず獺(うそ)の衆 子規

 

という句は芋銭氏の画にでもありそうな趣で、獣と獣に或(ある)交渉を認めた所が面白いけれども、前の「豺祭獣」と直接関係はあるまい。獺祭魚は李義山(りぎざん)の故事があり、延(ひ)いては子規居士の獺祭書屋となったりして、文字の上から見ても雅馴(がじゅん)である。狼の祭は想像しただけでも殺風景で、何ら詩興を鼓するものがないと思われるのに、こんなに句があるのは意外であった。尤も句はいずれもあまり妙でない。豺狼猶(なほ)之(これ)を祭る、いわんや人間をやというようなことにでもして置こう。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三一(一八九八)年冬の作。

「獺祭魚は李義山の故事があり」「李義山」は晩唐の政治家で妖艶と唯美の名詩人であった李商隠(八一二年或いは八一三年~八五八年)のこと。ウィキの「獺祭魚李商隠によれば、彼は『作中に豊富な典故を引いたが、その詩作の際』、『多くの参考書を周囲に並べるように置いた』ことから「獺祭魚」と呼ばれた(前者では自らそう号したとあるが、後者に従った)という。

「子規居士の獺祭書屋」正岡子規は自らを「獺祭書屋主人」(だっさいしょおくしゅじん)とも号した。]

 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)「あとがき」~自筆原稿完全復元完遂!

 

    あとがき

 

[やぶちゃん注:原民喜は「あとがき」も疎かにしていない。非常な推敲痕が残っている。本文同様、なるべく原稿を再現想起出来るように今までと異なり、本文注にも注を挟んだ。なお、青土社全集では、これは本文(第「Ⅱ」巻)とは別に、第三巻の「拾遺集」パートに掲載されている。

 

 ガリバー

 ガリヴアは十六年と七ケ月ものの間、〔世界のあちこちを珍しい〔不思議な〕國國を〕旅行して來ました。私たちも彼のあとについて、

 最初は〔もう一度〔、〕その〕珍しい國〔國〕をまはつてみませう。

[やぶちゃん注:原稿のママ。推理するに、「旅行して來ました。」で一度、改行して、次の段落を書きかけたものの、不足を感じ、「旅行して來ました。」の後の余ったマス全部を使って「私たちも彼のあとについて、」(最後の読点が最終二十マス目)を書き添え、改行した「最初は」を抹消して、追加分をその下に加えたものと思われる。]

 まづ一番はじめに〔、〕リリバツト[やぶちゃん注:「バ」はママ。]の國へ來〔てみ〕ると、どうでせう〔、〕小人のうつかり步けば〔、〕〔足の下に〕踏みつぶしてしまひさうな小人が〔、〕うじようじよしてゐるではありませんか。小人なんか何でもないとガリヴア あな〔侮〕どると大間違ひです。ガリヴアはあべこべに小人の王樣の家來にされてしまひます。それから、ハンカチの上で役人の 騎兵を走らせたり、ガリヴアの股の下を■[やぶちゃん注:(へん)は「方」である。]脚の下を 玩具のやうな〕軍隊→を〕〔股の下→股の下に〕に行進〔させ〕たりします。〔奇〕[やぶちゃん注:上の抹消部に頭にそのように(「奇」)見える字が斜めに書かれてあるように見える。抹消もされていない。]こんな話なら〔、〕〔もう〕誰でも一度は絵本で見たり、人から聞かされて知つてゐるはずです。私も子供のときリリパツトの國の話をきいて、緣側で蟻ありの行列を眺めてゐたら、自分がガリヴアになつたやうな氣がしたものです。しかし、小人の國にも戰爭があつたり、〔政〕爭がつて〔あつたりして〕、ガリヴアはとうとう〔とうとう〕〔そこ〔この囗〕を〕逃げ出してしまひます。

[やぶちゃん注:冒頭の「最」の抹消はママであるが、現行版では冒頭に『最初は』が復活している。]

 それから、その次にブロブデインナグ國へ來てみると、ガリヴアは〔まづ〕膽をつぶします。今度はガリヴアの方が小人になつてゐるのです。いくら〔、〕ガリヴアが勇まし〔強〕さうな振りをしても、自分の國の自慢をしてみても、この大人たこの國の人から見れば〔まるで〕蟲けらのやうなものです。〔だから〕ガリヴアは箱に入れられて、可愛がられてゐます〔。〕すると、その箱を鷲がつかんで海へ持つて行きます。〔、→ます。〕ブロブデイング國 この話は終わります。 ガリヴアはまた■[やぶちゃん注:これは「囗」(國)かも知れない。]〔そして→かうしてガリバーは、大人國ともお別れになります。

[やぶちゃん注:「可愛がられてゐます。」は、現行版では『カナリヤのように可愛がられています。』となっている。最後の「ガリバー」はママ。]

 今度はガリヴアは飛島へやつて來ます。どうも〔そこには〕奇妙な人間ばかり棲んでゐるので、ガリヴアは厭になあつ 厭になつ〔あきあきし〕てしまひます。それから、バルニヴービ國では〔の〕學士院を見物したり、幽靈の國へ行つたり、死なない人間と會つてみたりします。それからガリヴアは〔はるばる〕日本へまで立寄〔やつて〕ります。東京はまだ江戸といはれ〔てゐ〕た頃のことで、長崎では踏絵があつたりします。

 最後にガリヴアは馬の國へやつて來ます。そこには人間そつくりのヤーフといふ厭らしい家畜がゐます。〔るので、〕〔まづ〕ガリヴアはそれを見てぞつとします。それからフウイヌムたちにあひ、そこの言葉を覺え、そこの國に慣れてくるにしたがつて、馬の 平和と秩序と理性のこの穩やかな理性の國がすつかり好きになつ〔気に入つ〕てしまひます。そして人間よりも馬の方がずつと立派だと信じるやう〔思ふやう〕になります。だからこの國をでる彼が追放された時の嘆きは〔それは〕大変なものです。した。→す。それから→それから〕自分の國にかへつても、人間がヤーフ 彼は人間が嫌で嫌でたまらなくなてゐます。〔久振りで人間と出あふと、〔ガリヴアは■■びつくりして〕〔たまらなくなつて→やりきれなくなつて〕逃げだしてしまふ〔さうとします。〕〔しかし〕人間より、馬の方が立派だなど、何と→少し〕情ない話ではありませんか。〔はありませんか。〕〔これは〕〔ほんとに、これは〕情ない奇妙な話にちがひありません。けれども、この話は奇妙でありながら、何か〔ま〕人の心に殘るものがあります。讀んだら忘れられない話のやう〔のやう〕です。

[やぶちゃん注:以下、一行空けの指示。現行版も行空けがなされてある。しかし、以上の原稿と現行版とを比べて見た時、我々はあることに気づく。以下に現行版を示す。

   *

 最後にガリバーは馬の国へやって来ます。そこには人間そっくりのヤーフといういやらしい家畜がいるので、まずガリバーはそれを見てぞっとします。それからフウイヌムたちに会い、そこの言葉をおぼえ、そこの国に馴れてくるにしたがって、ガリバーはこの穏やかな理性の国がすっかり気に入ってしまいます。そして人間より馬の方がずっと立派だと思うようになります。だから、この国を彼が追放されたときの嘆きは大へんなものです。それから久し振りで人間と出会うと、ガリバーはたまらなくなって逃げ出そうとします。しかし、人間より馬の方が立派だなど、少し情ない話ではありませんか。ほんとにこれは情ない、奇妙な話にちがいありません。けれども、この話は奇妙でありながら、何か人の心に残るものがあります。読んだら忘れられない話のようです。

   *

訳本文の末尾もそうであったように、以上の通り、痛烈な文明批判としての、ガリヴァーの強烈な厭人変容が、極度に薄められてしまっているのである。

 私は、本原稿を電子化している最中、原稿の罫外余白に何度も原民喜自身が何かの計算をしている不思議な数字列を何度も見てきた。そして、第三部の馬の国「フウイヌム」では、苦心して訳した箇所を、抹消線や巨大な「×」や斜線で多量に削除する彼を、そうせざるを得なかった彼を、遂には現行の余白に『どうでもいい』と出版社の編者に投げつけるような指示をする彼を、見てきた。そうして、ここでの抹消箇所をそれらに照らし合わせた時、見えてくることは、

★原民喜は出版社である「主婦の友社」の編集担当者から執筆の最中に何度も総原稿字数の制限を告げられていたに違いないこと。

★恐らくは第二部の「飛島」辺りで、残りの許容字数が極端に少なくなったに違いないこと。

★そのために、民喜は最後の「フウイヌム」では、自身の意志に反して、多量の省略と削除を余儀なくされ、人類に対して嫌気がさしたガリヴァーの如く、出版社に厭気のさした彼は、半ば「勝手にしろ!」と吐き捨てるように、「どうでもいい」! と原稿に向かって叫んだのではなかったか?

ということ、いや、推定される厳しい真相、と私は感ずるのである。

 忘れてはいけない。本電子化の冒頭注で述べた通りこの時、この原稿を書いている最中、彼は既にして自死を決していたのだ! 孤独な最期の時間にあった彼にとって、これが如何に痛い鞭であったかを考えてみるがよい! 「最後が原作と違う」などと軽々に批判すヤーフどもは、永遠にここを立ち去るがよい!!!

 

 では、こんな不思議な話を書ゐた人は、〔一たい〕どんな人なのでせうか。

 今からおよそ二百年ばかり前、ヂヨナサン・ウィフトといふ人がこれを書いたのです。彼は一六六七年、アイルランドのダブリンに生れました。頭の鋭い、野望家でした。はじめは、〔ロンドンに出て〕しきりに政治問題に筆を向けてゐました。〔、〕政党にも加はつてゐました。生れつき諷刺の〔彼は若い頃から〕才能に惠まれてゐたので、當時の■ 「桶物語」とか「書物の戰爭」とか「桶物語」とかいふ本を書いて、當時の社會を皮肉つてゐますが、〔した。〕「ガリヴア旅行記」は彼が五十九の年に〔アイルランドで〕書き上げ〔られ〕たものです。しかし、後にはアイルランドに引つ込んで、そこで、教會の副監督をしながら、暮してゐたのです。〔ました。→たのです。〕  そこで

[やぶちゃん注:「ヂヨナサン」の「ヨ」には有意なが記されてある。或いはこれは拗音化してくれという意味なのかも知れない。

「政党にも加はつて」ウィキの「ジョナサン・スウィフト」等によれば、彼はホイッグ党(Whig Party:イギリスの旧政党。後の「自由党」及び「自由民主党」の前身)政権下、『野党のトーリー党』(Tory Party:イギリスの旧政党。現在の「保守党」の前身)『の指導力が』、『より彼の主張に共鳴することに気付き』、一七一〇年に総合雑誌『エグザミナー』(Examiner:「審査官」の意)の『編集者として彼らの主張を支えるために採用された』(同誌で彼は半年間、論説を担当している)。一七一一『年、スウィフトは政治パンフレット「同盟国の行為」を発行し、フランスとの長引くスペイン継承戦争を終わらせることのできないホイッグ政権を攻撃し』ている。その後、『スウィフトはトーリー党の取り巻きの』一『人となり、しばしば外務大臣』『のヘンリー・シンジョン(ボリングブルック子爵)と大蔵卿で首相』『のロバート・ハーレー(オックスフォード=モーティマー伯)との間で調停者としての役割を演じた』とある。

「書物の戰爭」The Battle of the Books。一六九七年に書かれたが、刊行は一七〇四年。近代と古代の学問の愚劣な優劣論争を痛烈に暴露したもので、これは親交のあった彼の後援者でもあったウィリアム・テンプル卿(スウィフトは晩年の彼の面倒を見ており、実はスウィフトはテンプルの私生児だったという説もある)の著作への批判に応えた諷刺小説。ウィキの「ジョナサン・スウィフト」も参照されたい。以下の「桶物語」も参照。

「桶物語」A Tale of a Tub(一六九四年から一六九七年の間に執筆され、一七〇四年に「書物の戦争」とともにカップリングされて刊行)はパロディ小説。ウィキの「桶物語」によれば、『幾重にも付された序文や相次ぐ脱線(主となる挿話と挿話の間に脱線のための章が別途置かれる)など、特異な作品構造を持つ。パロディの手法が用いられている』。『作品の内容および構成からも関係が深く、両者は合わせて一つの作品として読まれるべきであると考えられる』。『題名は、ホッブズの『リヴァイアサン』にある、鯨をよけるための水夫の慣習についての挿話から取られている。その内容は新旧論争での古代派と近代派の対立、および宗教改革期以来のカトリックとプロテスタントの対立を風刺するが、この物語は単線的に進むわけではなく、絶えず脱線によって中断される』とある。]

 「ガリヴア旅行記」は一七二六年に書き上げられました。■彼アイルランドに引退してから十四年目ので、スウィフトが五十九の年でした。彼は

 一七二六年、

 その頃、彼は、

 さて、この「ガリヴア旅行記」は一七二六年に書上げられました。〔それは〕〔丁度〕彼が五十九の年で、アイルランドに引退してから 十四年目のことでした。そして、〔痛ましいことに〕彼はその後、次第に氣が狂つて行きました。一七四五年、七十七才で、死にました。この世を去りました。

そこには人間そつくりの 厭らしい ヤーフといふ厭らしい家畜が 馬に■[やぶちゃん注:(へん)は「亻」であるから、「似」「使」などが考えられる。]ゐます。ガリヴアもヤーフの一種だらうと馬たちにおもはれます。つ たち の國には戰爭もなく

[やぶちゃん注:これは「あとがき」の原稿「2」(左上の番号は順列がよく判らないが「49」)の後に続くものとして書いた原稿の反古をこの「あとがき」現行の五枚目に用いたものと思われる。原稿「2」は最終行が「最後にガリバーは馬の国へやって来ます。」でぴったり終わっていることからも間違いない。

「次第に氣が狂つて行きました」最愛の女性や良き協力者であった友人らが亡くなる中、スウィフトに最初に病気の徴候が顕れたのは一七三八年であった。一七四二年になると発作が起こるようになり、会話能力を失うとともに精神障害が発現、一七四五年十月十九日、満七十七歳で亡くなった。なお、実は彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実であった。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「人間らしさ」で次のように述べている。

   *

 

       「人間らしさ」

 

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

   *

私の芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)も参照されたい。]

 

 しかし、この「ガリヴア旅行記」→は〕、ひろく〔これまで〕ひろく世の中に〔界中の人に〔大人に大人にもよろこんで〕讀まれてゐる〔きた〕本珍しいやうです数へる程です。〔の一つです。〕これからもまだ多くの〔人〕人に讀まれて行く〔こと〕でせう。もともと、これは 子供より〔も〕大人にも、〔むしろ〕大人が讀んで喜ぶ本のやうです。

[やぶちゃん注:最後の箇所は子供向けの「あとがき」としてはカットするのは腑に落ちる。推敲が錯雑しているが、これは下書きで、後に整序したものが載る。]

 私は この 原文       みなさんも

 私はこのある部分多少省略

 ■この書物〔譯〕では、かなり省略した部分もありますが、みなさんも大人になつたら、もう一度、 全譯を讀んで 一度は全譯を讀んでみて下さい。 全譯を讀まれることをおすすめして■

 全譯を讀

 

 この「ガリヴア旅行記」は〔これほど〕ひろく世界中の人人に讀まれて來た本です。大人にも、子供にもこれくらゐ よく讀まれた知られて〕てゐ〔き〕た本は稀です。これからもまだ多くの人人に讀まれて行くことでせう。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 この『ガリバー旅行記』は、これまで広く世界中の人々に親しまれてきた本です。大人にも、子供にも、これくらい、よく読まれてきた本は稀です。これからもまだ多くの人々に読まれてゆくことでしよう。

   *

である。「しよう」はママ。

 以上を以って、去年2016年5月10日に開始した、ブログ・カテゴリ原民喜」内の本『ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)』の総てを完遂した。]

 

2017/12/09

老媼茶話巻之六 一目坊

 

     一目坊

 

 最上の侍、辻源四郎といふもの、なやめる事ありて塔の澤の湯へまかりけるに、いづくより來(きた)る共(とも)知れず、六拾斗(ばかり)の僧、是も、ひとつに、湯入(いり)けるが、諸國にて、さまざま珎敷(めづらしき)物語をする間、源四郎、申(まうし)けるは、

「我等は最上のものにて候が、病氣にて是(これ)へ湯治致し、則(すなはち)、此湯の向ひの家に宿をかり、罷在(まかりあり)。折節、隙(ひま)の節、おとづれ、語り玉へ。」

といふ。

 僧、聞(きき)て、「忝(かたじけなく)候。夜さり、可參(まゐるべし)。」

とて、其日のくれがたに尋來(たづねきた)り、いつものごとく、物語をなし、酒茶過(すぎ)て、夜もふけ、坊主、歸る折、僧の曰、

「我等は明曉(みやうげう)、最早、歸り申(まうす)にて候。われら住申(すみまうす)寺も、程近く候。前の谷川の水上へ登りはてゝ、杉のむら立(だち)の候。其杉原を二里斗(ばか)來(きた)り給へば「一目寺」と申(まうす)古寺の候。所がら、物ふり、殊(ことに)、靜(しづか)に淋敷(さびしく)、一詠(いちえい)の御工夫(ごくふう)の便(たより)ともなり申(まうす)べし。近々、おとづれ玉へ。」

とて、わかれける。

 四、五日ありて、源四郎、若黨を呼(よび)、

「日外(イツゾヤ)、我(わが)かたへ來りし僧の住(すむ)山寺、今日のつれづれに、たづねみばや。」

といふ。若黨、申(まうす)は、

「今日は、そらもうらゝかに候。思召立(おぼしめしたち)おわしませ。」

とて、主從、四、五人にて前の谷川の水上を尋登(たづねのぼ)れば、僧のおしゑし杉のむら立(だち)あり。

 それを、はるばると分行(わけゆけ)ば、實(げ)にも山陰に、崩れ、かたむきたるふる寺あり。さながら、人の住(すむ)とも見へず。

 源四郎、先達(さきだつ)て、若黨を遣(つかは)し、案内をいゝ入(いれ)けるに、十二、三の小(こ)かつしき、立出(たちいで)て、

「それより。」

といふ。

「辻源四郎、御見廻申(おみまはしまうす)。」

といふ。かつしきの曰、

「あるじの僧は、きり嶋が嶽參り候得ば、四、五日は歸り申まじ。」

と云(いふ)。

 若黨、かつしきを見るに、ひたひに、大きなる眼、壱ツ有(あり)。

 若黨、たまげ、歸り、源四郎に、このよしを語る。

 源四郎、不思義におもひ、急ぎ、寺へ行(ゆき)、客殿を見るに、一目の小僧共、四、五人、あつまり、人の首を取(とり)あつめ、

「壱。」

と、かぞへ、竹かご入るゝ。

 勝手へまはり見るに、面(おもて)赤き禿(かむろ)の一眼(ひとつめ)なるが、弐、三人、いろりをめぐり、人の首を、十四、五、火にくべ、あぶり居たるが、源四郎主從をみて、

「又、首數がふへたるよ。」

と、いふ。

 源四郎、大きに驚き、主從飛(とぶ)がごとく、急ぎ宿へ歸り、主(あるじ)を呼出(よびいだ)し、前々のことども、かたる。

 あるじ、聞(きき)て大(おほき)に驚き、

「それは大魔所にて候得ば、誰(たれ)も行(ゆく)人なく候。たまたま、道にふみ迷ひ、行至(ゆきいた)る人の、命たすかるは、なく候に、不思義の御命助り、御仕合(おしあはせ)にて候。先(まづ)、爰元(ここもと)を、はやく御立(おたち)候べし。」

と申しける間、源四郎、彌(いよいよ)肝をつぶし、早々、取急(とりいそ)ぎ、最上へ歸りける。

 

[やぶちゃん注:「最上」出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した新庄藩であろう。

「なやめる事」直ぐに命には関わらないものの、何らかの難治性疾患と思われる。

「塔の澤の湯」不詳。最上という起点地名と、現存しないと思われる温泉名では、ロケーション自体が判らぬ。ただ、本条を現代語訳しておられる山ン本眞樹氏のサイト「座敷浪人の壺蔵」の「一目寺」では、ここを『磐梯山の麓の塔の沢温泉』と訳しておられる。本「老媼茶話」のロケーションとしてはしっくりくるのだが、国土地理院の地図を拡大して見てもこの「塔の沢」も「塔の沢温泉」も見出せない。取り敢えず山ン本(恐らくは「稲生物怪録」のそれであろうから「さんもと」と読むものと思われる)氏のそれを採用させて戴こうと存ずる。同定証左を知っておられる方があれば、是非、御教授を乞う。

「夜さり」夜。「夜去り」で「去り」は時間が経過して「~が来る・~になる」の意の普通の動詞「さる」(去る・避る)の名詞化。私は中学高校時代を富山県高岡市伏木で過ごしたが、あちらの方言で「夜」のことを今も「よさり」と言う。

とて、其日のくれがたに尋來(たづねきた)り、いつものごとく、物語をなし、酒茶過(すぎ)て、夜もふけ、坊主、歸る折、僧の曰、

「杉のむら立(だち)」杉の木が有意に固まって茂り生えている場所。

「一目寺」上手い手法だ。表題「一目坊」は確かに「ひとつめばう(ひとつめぼう)」と読む者は多かろうが、本文にこれが出て来ると、誰も初めっから「ひとつめじ」とは読むまい。そう読めば、主人公の源四郎も異様に思うであろうが、そんな雰囲気は全く出て来ないからである。されば我々もつい無意識に「いちもくじ」で読んでいるに違いない(題名のおどろおどろしさを、もう、忘れて、である)。それがさても、「そうか! 一つ目だ!」と膝を打った時にはこれ、既にして三坂の怪異の語りのマジックに搦め獲られてしまっているという寸法なのである。

一詠(いちえい)の御工夫(ごくふう)の便(たより)」詩歌俳諧などを一吟おひねりになる、その感懐の一つの手立てや素材。

「日外(イツゾヤ)」面白い当て訓である。

「思召立(おぼしめしたち)おわしませ」「『思い立ったが吉日』とも申しますれば、お遊びにお出で遊ばされませ。」。

「小(こ)かつしき」「かつしき」は「喝食」で現代仮名遣で「かっしき」。「かつ」は「唱える」の意。「しき」は「食」の唐音。狭義には、禅宗寺院に於いて食事を摂る際(規律では午前中に一度だけ)、食事の種別や進め方を僧たちに告げながら給仕をすること。また、その役に当たる未得度の者を指すが、後に禅宗に限らず、学問・仏道の修行のために寺に預けられて先の作業を務めた有髪(うはつ)の稚児(ちご)のこと。多くは僧の男色の相手とされた。ここはそれに「小」がついているから、幼童・年少の少年である。

「それより。」私はこれは後の若党の応答から見て、「どちらから?」或いは「どちらさまで?」という問いかけではないかと採る。

「辻源四郎、御見廻申(おみまはしまうす)。」底本は、この「辻源四郎」を地の文として前に出している。しかし、このシーンでは源四郎は離れた位置にいるのであるから、それは頗るおかしいことになる。されば、これは若党の台詞と採るべきである。則ち、「我らが主人、辻源四郎、和尚にお目見え申し上げんがため、参上仕った。」と言う伝言告知であると採る。

「きり嶋が嶽」これが磐梯山のピークにあればいいのだが、知らぬ。

「くべ」「燒(く)べる」。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)掉尾【幻の活字化されなかった草稿原稿の結末完全電子化!】~完遂!

 私はできることなら、何處か無人島を見つけたいものだと思ひました。その島〔こ〕で働きさへすれば生きてゆける小さな島があつたら、ひとりで靜かに暮したいのでしたす〕。私はヨーロツパのヤーフたちの社会へ返るのは、〔もう〕考へただけでも厭でした。

 その日の夕方、私は〔向に〕小さな島〔が〕一つ發見し〔見えて來〕て、〔私は〕間もなくそこへ着きました。だが着いてみると、それは大きな岩だつたのです。〔しかし〕岩の上によぢのぼつてみると、東の方に陸地がずつと伸びてゐるのが、はつきり見えました。その晩は舟の中で〔寢〕て、翌朝早く起きると、また航海をつづけました。七時間ばかりすると、ニユーポランドの東南端に着きました。

[やぶちゃん注:「ニユーポランド」原典は“New Holland”。オーストラリア大陸の歴史的名称。]

 あたりには人の子一人見えなかつたのですが、〔私は〕武器を持つてゐないので、奧へ進むのも考へもの〔心配〕でした。〔私は〕海岸で貝を拾ひましたが火をたくと〔いて〕土人に見つかるといけないので、生のまま食べました。三日間は牡蛎と貝ばかり食べてゐましたが、近くに綺麗な小川があつたので、〔水の水の方は〕助かりました。

 四日目の朝、いつ〔私は〕少し遠くへ出かけてみました。ふと、五百ヤード前方〔の〕丘の上に、二三十人の土人の姿が見えました。男も女も子供も、眞裸で、火を圍んでゐるのです。一人がふと私の姿を見つけて、すぐ他の者に知らせたかとおもふと、五人の男がこちらへ近づいて來ます。

 私はもう一目散に海岸へ逃げて帰ると、舟に飛乘つて漕出しました。土人たちは貴志まで追いかけて來て、矢を放ちました。

 〔それから〕私は舟を北の方へ進めてみました。暫くすると、向に帆〔の〕影が一つ見えて來ました。しかも、〔船は〕どんどんこちらへ近づいて來るのです。私はこのまま〔待〕つてゐようかしらと思ひましたが、ヤーフのことを考へると、たまらなくなつて、〔りました。〕〔そこで〔、〕〕舟を漕いで一目散に逃げだしました。そしてさつき 逃げ〔私が〕朝出たもと〔あ〕の島へまたもどつて來ました。私は小川の傍の岩かげに隱れ〔てゐ〕ました。

 後から追つて來た舟は、ボートをおろして〔、〕この島へ水汲みにやつて來ました。〔そして〕水夫たちが上陸するとき、私の独木舟に氣づきました。もちぬしが何處にゐるにちがひないと、彼等はそこら中をさがし廻りました。武裝した四人の男が、とうとう、岩かげに小さくなつ〔すくんでゐ〕る私を見つけました〔だしたのです〕。革の服、毛皮の靴下、など見て、私の奇妙な服裝に、彼等は驚いたやうです。しかし裸でないので土人ではないこと〔思つたのでせう。〕はすぐわかつたらしい

 「立て、お前は何者だ」

 と、水夫の一人が、ポルトガル語でたづねました。ポルトガル語なら〔、〕私もよく知つてゐるので、すぐ立ち上つて答へてやりました。

 「私はフウイヌムの國から追出された哀れなヤーフです。だからどうか、このままそつとしておいて下さい。」

 ポルトガル語ができるので彼等は驚いたやうですが、〔きましたが〕、私の顏色を見てヨーロツパ人にちがひないとわかつたやうでした。しかし、私のいふこと ヤーフとかフウイヌムとかいふ言葉はなんのことかわからなかつたらしいのです。私がまるで馬のやうにいなないて物を言ふので、彼等は噴き出してしまひました。

 私は〔もう〕怖くてブルブル震へてゐました。逃がせて下さいと言ひながら、独木舟の方へ行かうとすると、彼等は私を捕へて、何處の國の者で、何處から來たかなど、いろんな質問をしかけます。

[やぶちゃん注:「逃がせて下さい」はママ。フウイヌム語風に発音したと思えば、全然、おかしくない。以上の、二段落分の現行版を示す(二段落分が一段落になっている)。ここでは生きているのに、カットされている箇所があるからである。

   *

 ポルトガル語ができるので彼等は驚きましたが、私がまるで馬のようにいなゝいてものを言うのに噴き出してしまいました。私はもう怖くてブルブ震えていました。逃がしてください、と言いながら、独木舟の方へ行こうとすると、彼等は私を捕えて、どこの国の者で、どこから来たかなど、いろんな質問をしかけます。

   *]

 〔とうとう〕彼等がものを言ひ出した時、私は犬や牛が物を言ひ出したやうに、〔全く〕変な氣持にさせられました。私か〔が〕何度も逃げ出さうとするので、とうとう彼等は私を縛り上げて、ボートへ引ずりこみ、それから本船へつれて行きました。

 〔それから〕私は船長室へ引ぱつて行かれました。船長の名前はペドロと云いました。ひ〕、大変、親切な男でした。

 「どうか、あなたの身上話をきかせて下さい。食事はどんなものを召上りますか。これからは私と同じ待遇にしてあげたいのですが」

 と、こんな親切なことを云つてくれます。私は ヤーフからこんな親切にされるとは夢にも思ひがけないことでした。しかし、私は相変らず默りこんでゐました。

 私は彼等の臭ひが〔厭で〕たまらなく、今にも倒れさうでした。しかし彼等は私に一寢みせよと云つて、綺麗な部屋へ案内してくれました。私は服のまま、ベツドに寢ころんでゐましたが、三十分ばかりして、水夫たちの食事をしてゐる隙に、そつと脱け出しました。こんなヤーフどもと暮すぐらゐなら、いつそ海へ飛込まうと覺悟してゐるところを、船員の一人に見つけられました。〔そして〕今度は船長室にとぢこめられてしまひました。

[やぶちゃん注:「一寢みせよ」「ひとやすみせよ」と訓じているらしい。現行版は『一寝入せよ』で「ひとねいりせよ」に変えられている。]

 食事をすませると、ペドロがやつて來ました。そして、

 「何故あんな無謀なことをしようとしたのだ、自分はできるだけのことをしてあげたいつもりでゐるのに」、と〔船長〕はしみじみと云つてくれます。私はとうとう彼を

 私はごく簡單に、これまでの身上話をしてやりました。すると船長は夢の話でもきいてゐるやうな顏つきです。〔した。〕私も腹が立つてしまひました。私はもう噓をつくやうな、あんなヤーフの國のことは、すつかり忘れてしまつてゐたので、相手を疑ふといふこことも考へられなかつたのです。

 しかし、船長〔彼〕はなかなか賢い男で、そのうち〔やがて〕私の話をだんだん分つてくれました。私も、〔もう〕二度と逃げ出さないことを〔すやうなことはしないと〕彼に約束しました。

 航海は順調に進みました。私は船長とは時時、あつて一緒にいろいろ話こともあにました。が しかし一日の大方〔たいがい〕自分の部屋に引込んで、船員たちには会はないやうにしました。船長は、その〔奇妙な〕服を脱いではどうか、といつて、わざわざ彼の 服を〔晴着を〕貸して〔出して〕くれるのでしたが、一度でもヤーフの身躰についたものを著るのはたまらない氣持がしたからです。私は断りつづけました。

[やぶちゃん注:以上の太字で示した箇所は、全体に非常に薄い曲線の抹消線のようなものが四本ほど見える。抹消と入れ替えが行われており、民喜が最後の最後に苦心して推敲した跡が見られる。無論、現行版には太字部分は存在しない敢えて抹消線を引かずに示した。]

 一七一五年十一月五日、船はリスボンに着きました。船長は、その姿では見つともないといつて、無理に外套を着せかけま〔て〕くれました。それから私は船長の家へ連れて行かれ、一番奥の部屋に案内してもらひました。

[やぶちゃん注:「一七一五年十一月五日」本邦では正徳五年十月十日。]

 十一月二十四日に英國イギリス船で私はリスボンを發ちました。十二月五日にダウンスに着きました。

 てつきり私を死んだものとばかり思つゐた妻子たちは、大喜びで私を迎へてくれました。

 家へ戾る〔入る〕と、妻は私を兩腕に抱いて接吻〔キス〕しました。だが、〔だが、〕なにしろこの数年間といふものは、こんな動物〔人間〕に觸られたことがなかつたので、一時間ばかり私は氣絶してしまひました。

[やぶちゃん注:現行版は以上で全篇が終わっている。しかし実は原稿にはまだ先がまだ二段落分あるのである。敢えて太字で示す。

……かつて「この終わりの部分が致命的に駄目な不完全な訳だ」と「したり顔」で評した書評を読んだことがある……お前には原民喜を語れない! 一言もだ!……彼の初期原稿にはちゃんと訳されてあるんだよ!……原民喜が自死を決しながら、それでも未来の子らのために訳した希望の光の幻の中の本作を……お前なんぞに批評する資格なんぞ――金輪際――ない、よ…………

 私は〔家に戾つてから〕はじめの一年間は〔私は〕妻子と一緒にゐるだけでも堪らなかつたのです。臭が我慢できなかつたし、一つ部屋では一緒に食事などする気にはなれませんでした。

 〔近頃、〕私は二頭の仔馬を買つて、立派な厩を造つて飼つてやつてゐます。りました。つてゐます。〕馬たちは、私の言ふことを大ていわかつてくれるので、毎日、四時間ぐらゐは一緒に話をすることにしてゐます。

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム ヤーフ君お大事にね (2) /(事実上の「ヤーフ君お大事にね」の了)

 

十一章

 

[やぶちゃん注:現行版では以上の柱は存在せず、前の段落で普通に改行して続いている。]

 

 私が岸を離れたのは、一七一四年二月十五日、朝の九時でした。風向がいいのではじめは櫂ばかりで漕いでゐましたが 、思ひきつて帆を上げました。 舟は主人や友人達は〔、〕私の姿が見えなくなるまで〔、〕海岸に立つて〔、〕見送つてくれてゐました。時時、召使の月毛が、

 「ヤーフ君 お大事にね」

 と、怒鳴つてくれるのが聞えました。

[やぶちゃん注:月毛君の台詞の空きマスはママ「お大事にね」の「ね」の左下には読点のようなものがマスの中にあるが、通常の原稿書きで原民喜こんなところに読点は打たない(一年五ヶ月も自筆原稿とつき合えばそれぐらいのことは身につく)から、これはたまたまペンを置いたか、汚れである。そもそもかれは直接話法の終りに句点を討つことも稀なのである。無論、現行版は『「ヤーフ君、お大事にね。」』である。印象的なエンディングのシークエンスなので、短いし、次に行空けがあるわけでもないけれども、独立させて公開することとする。

「一七一四年二月十五日」日本では丁度、正徳四年正月一日、元旦である。]


 
 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム ヤーフ君お大事にね (1)

 

    ヤーフ君お大事にね

 

[やぶちゃん注:現行版の柱は『四、ヤーフ君、お大事に』であり、現行版は本章を以って]

 

 私はこの國に〔、〕いつまでも住んでゐたい〔、〕と思ふやうになりました。ところが、どうしても、この國を〔立〕去らねばならぬこと になつたのです。〔がもちあがりました。〕

 この國では、四年毎に、全國から代表者が集つて〔、〕會議を開くのです。この會議は野原で、五六日つづけられます。私の主人も〔、〕〔こんど、そ〕の會議に〔、代表者として、〕出て行つたのです。

 ところ〔で〕、今度の會議で問題になつたのは、ヤーフをこの地上に生かせておいて〔、〕いいか惡いか〔、〕といふこと〔問題〕でした。

 一人の議員は次のやうに演舌しました。

[やぶちゃん注:「演舌」はママ。後の方で自分で訂正している。]

 〔「〕およそ、世の中にヤーフほど、不潔で、いやらしいものはない。彼等はこつそり、牛の乳を吸ふやら、猫を殺して食べるやら、畑をあらすやら、ろくなことはしない。

 このヤーフといふものは、もとからこの國にゐたものではない。傳説によると、ある時、突然、山の上に二匹のヤーフが現れたといふ。〔これは〕太陽の熱で腐つた泥の中から生れたものか、どうかよくわからないが、一度生れて來ると、子供がずんずん殖えて、たちまち全國にひろがつてしまつた。

 そこでフウイヌムたちは〔、〕大山狩をして、ヤーフたちをとりかこみ、年とつたものを殺してしまひ、若いのだけ、フウイヌム一人について二匹づつ、小屋を作つて飼ふことにした。そこで、あばれものの動物も、少しは馴らされ、とにかく物をひかせたり、運ばせたりするくらゐの役にはたつやうになつた。

 しかし、住民たちは、ヤーフを使つてゐるうちに、ついうつかり驢馬を増やすことを忘れてしまつた。驢馬はヤーフにくらべて、すばしこくはないが、そのかはり形もいいし、をとなしくて、くさくもない。われわれは、あのいやらしいヤーフはみなは〕殺して、そのかはりに驢馬を使つた方がいいとおもふ。」

 これには贊成したものも〔大分〕ありましたが、私の主人は反対のかんがへ〔意見〕をのべました。

 「二匹のヤーフが山に現れたといふ傳説はこんな風に考へられる。あれは、たしかに海を越えて、むかふからやつて來たもので、のらしい。ので、〕〔二匹は〕上陸すると、そのまま山〔の中〕へ逃げ込んだものらしい。それから時のたつとともに、だんだん野蠻になつて、〔とうとう〕あんな風な動物になつてしまつたのだとおもはれる。その證據には〔、〕私は驚くべきヤーフを一匹持つてゐる。」

[やぶちゃん注:抹消字の「向」は自身がない。「何」のようにも見える。「向うの山」或いは「何故か」が想定はされる。なお、現行版は最後の「驚くべき」は『不思議な』となっている。]

 こういつて、主人は、私を見つけた時の〔こ〕とから、洋服を着てゐること、この國の言葉をおぼえてしまつたこと、この國へくるまでのことを自分ではなしてきかせたことなど、いろいろと説明しました。

 「こんな風な、〔おとなしい〕ヤーフもゐるのだから、ヤーフをみな殺しにするのは〔、〕かはいさうだ。それより、ヤーフ〔の〕子供をふやさないやうにして、驢馬の子をうんとふやすやうにしたらいいとおもふ。」

 と私の主人はこう演〔説〕したのでした。

 私はこの會議のことを主人から聞かされて、何だか心配になりました。ヤーフをどうすることに決まつたのか主人主人それはまだ私それはまだハツキリしてゐませんがはまだ話してくれませんでした。主人は何も語りませんでした。それはまだ〔はつきり〕きかせてもらへなかつたのです。〕

 ある朝、主人から迎への使が來ました。行つてみると、主人は、どうも話しにくさうに困つてゐる、〔云何から話し出したらいいのか、困つてゐる樣子でした。が、やつと口をひらいて云ひました。〕

 それによると、今度の会議で、ヤーフのことが問題にされた際に、主人に苦情が出たのです。〕私はこの國から出て行つてほしいといふことに決まつたのです。

 主人が私を〔ヤーフを〕家に置いて、フウイヌム並みに扱つてゐるとは実にけしからん〔、〕と主人は代表者たちから苦情を云はれました。普通のヤーフのやうに働かすか、それとも、泳いで國へ帰らすか、どちらかにせよ〔、〕と云はれるのです。だが、〔私を〕普通のヤーフの仲間に入れたら、ヤーフたちをそそのかして、夜になると家畜を襲つたり、どんな危險なことをやりだすかわからない、といふので、やはり泳いで國へ帰らせた方がいいと決まりました。主人は私に同情して、かう云つてくれました

 「私はむろん一生でも喜んでお前を〔ここに〕置いてやりたかつたのだが、どうも仕方がない。〔泳いで帰るといつても〕まさかお前〔の囗〕まで泳げもすまい。だから、いつかお前の話した、海を渡る容れものを一つ作つてみてはどうか。〔それなら〕私の召使や近所の召使にも手傳はせてやる。」

 私は主人にかう言ひ渡されると、悲しくなつて、氣を失彼の足許にふらふらと倒れました。主人は私が死んでしまつたのかと思つたほどでした。しかし、とにかく氣をとりなほして、船をつくることにきめました。

 主人は船ができるまで、二ケ月待つてくれる〔もらふ〕ことになりました。そして、〔私は〕召使の月毛を助手に貸してもらひました。

 私は月毛をつれて、あの〔海賊どもが〕私を無理矢理に上陸さされ〔せ〕た海岸の方へ行つてみました。丘にのぼつて、ずつと四方を見渡すと、東北の方向に島影のやうなものが見えてゐます。〔望〕遠鏡を出して覗いてみると、たしかに島で〔す〕。距離は五リーグぐらゐです。〔しかし〕月毛の召使には、あれはただ靑い煙だら

うといふのです。彼は自分の國より他の國かあるとは〔夢にも〕考へてゐないので、海の向にあるものがわからなかつたのです。

[やぶちゃん注:「五リーグ」既出既注であるが、再掲する。ヤード・ポンド法の単位であるが、時代によって一定しないものの、凡そ、一リーグ(league)は三・八~七・四キロメートルの範囲内にある。本書公刊よりもずっと後、イギリスで十九世紀頃に定められた現在の「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」である。但し、海上では「一リーグ」を「三海里(nautical mile:ノーティカル・マイル:現在の国際海里では一八五二メートルに規定)」として使うこともあるので、前者ならば二十四キロメートルほど、後者の海里換算なら九キロメートル強となるが、後者だったら望遠鏡を用いて確認するまでもないし、あまりに近過ぎる気がするから、これを以って本書では総て「一リーグ」=「三マイル」=「約四・八二八キロメートル」換算でよいと断定したいと思う。]

 とにかく、この島が見つかつた以上はもう大丈夫だ〔後は運を天にまかせて、あの島まで流れてかう〕と私は思ひ〔きめ〕しました。

[やぶちゃん注:「流れてかう」はママ。現行版は『流れて行こう』。]

 それから家に帰ると、月毛と相談して、〔こんどは〕森へ出かけて行きました。私は小刀で、彼はフウイヌムの斧を使つて、檞(かひ)の枝を幾本も切り落しました。ステツキぐらゐの太さのものや、もう少し太いのもありましたが、それを私はいろいろに細工しました。

[やぶちゃん注:「檞(かひ)」の「かひ」は特異点のルビである。これはどう見ても、ここまで見て来た原民喜の字の癖からは「ひ」であって、他の字、例えば「し」(「かしは」の「は」の脱落。しかし後述するが「カシワ」と「カシ」同属ではあるものの、別な種(群)を指すものであり、「カシワ」のことを「カシ」とは絶対に言わないでも、「い」(「檞」の音「カイ」。事実、この漢字は中国にもある漢字ではあり、音は「カイ・ケ」ではある。但し、この字は国字で「カシワ」と訓ずるのは「槲」の字に似ていることからの誤用であり、しかも歴史的仮名遣に直してもこれは同じ「カイ」であって「カヒ」ではないのである)でもない。現行版は『槲(かしわ)』である。決定稿に従い、「かしは」で読んでおく(歴史的仮名遣に従う)。則ち、ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata である。同種はすでに述べた通り、「槲」は誤用で、「柏」或いは「槲」と書くのが正しい。一方、「カシ」は「樫・橿・櫧」などと漢字表記するが、これはブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の中でも常緑高木の一群の総称である。狭義にはコナラ属中の常緑性の種をカシと呼ぶが、同じブナ科コナラ属で名前も似ているものの、「カシ」は常緑性、「カシワ」は落葉性なので両者は全く違う木なのである。但し、原文を見ると単に“oak”とあり、これはブナ科コナラ属の総称であるから、正直、仮想国の樹木である以上、これを「カシ」(英語:Live oak)か「カシワ」(英語:Daimyo Oak)かと、強いて拘る必要はない気もする。しかも「カシ」も「カシワ」も孰れも船舶材に適しているからである。]

 一番骨の折れるところは月毛が手傳つてくれて、六週間もすると、インド人の使うやうな独木舟が一隻出來上りました。

[やぶちゃん注:「独木舟」当て読みで「まるきぶね」と読む。「丸木舟」のこと。現行版では『独木舟(カヌー)』とルビする。今の子供たちには最早「カヌー」の方が躓(つまず)かぬ。]

 船はヤーフの皮で張つて、手製の麻糸で縫ひ合はせました。帆もやはりヤーフの皮で作りました。これは年をとつたのでは皮が硬いので、仔ヤーフの皮を使いました。櫂も四本こしらへました。皮兎と鳥の蒸肉、それに牛乳、水を入れた壷を二つ、それだけを船に積込んでおきました。

 〔私はこの〕船を家の近くの大きな池〔に〕ためし〔に浮べ〕てみて、悪いところを直し、隙間にはヤーフのあぶらをつめました。いよいよ、これで大丈夫だつたので、〔になりました。そこで、〕今度は〔船を〕車に積んで〔み〕、ヤーフたちに引かせて、靜かに海岸まで運びました〔んだのです〕。

 準備ができあがつて、出發の日がやつて來ました。私は主人夫妻と家族に別れを告げました。眼は淚で一杯になり、心は悲しみでかきむしられるばかりでした。だが、主人は、私が船に乘るところが見たい、と云つて、近所の人人を誘つて一緒にやつて來ました。潮合を私は潮合を一時間ばかり待つてゐました。風工合もよくなつたので、私は〔いよいよ〕向の島へ渡らうと思ひ〔、〕ました。〔そこで〕私は改めてまた主人に別れを告げました。私がひれふして、彼の蹄に接吻しようとすると、彼は靜かにそれを私の口もとまで上げてくれました。ほかのフウイヌムたちにも、ていねいに挨拶して、舟に乘りこむと、〔私は〕いよいよ岸を離れたのです。ました。

[やぶちゃん注:最後はママ。現行版では『離れたのです。』である。この後に原稿では「十一章」を挿入する校正記号が入る。現行版はそのまま、改行して続いている。]

 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (3) / たのしい家~了

 

 私は、主人の家から六ヤードばかり離れたところに、自分の室を一つ作らせてもらいました。

[やぶちゃん注:「六ヤード」五メートル半弱。]

 壁は自分で粘土を塗り、床には〔自〕分で工夫して〔つくつた〕莚を敷きました。この邊には麻が多いので、それを打つて、蒲團のおほひを作り、中には〔そのなかに〕鳥の羽毛をつめました。骨の折れる仕事は仔馬に手傳つてもらひ、小刀で椅子を二つこしらへました。

 服が擦り切れると、これは兎の皮で代りをつくりました。この皮からは、立派な靴下もできました。私はよく木のうろから蜜をとつて來て、水に混ぜて飮んだり、パンにつけて食べました。

[やぶちゃん注:以下の一行空けは現行版にはない。]

 

 私は〔、〕主人のところへ訪ねて來る〔、〕フウイヌムのお客たちとも〔、〕知りあひになりました。主人の部屋に〔、〕私の方から〔、〕〔彼等の話をききに〕出かけて行くこともあり〔、〕時には〔、〕主人やお客が〔、〕私の部屋に訪ねてくることもあります。それから、また時には〔、〕主人のお供をして、お客の家に訪ねて行くこともありました。

 私は訪ねられる〔質問に答へ〕るほかは、こちらから口を出して喋つたりするやうなことはしません〔なかつ〕たのです。ただ、そばで彼等の話を聞いてゐれば、それだけで〔私は〕氣持よかつたのです。彼等の話はちよつとも無駄なところがなく、簡單で、はつきりしていました。〔ちやんと禮儀は守られてゐて、〕堅苦しいところ〔が〕ないのです。喋ることは、話す方も樂しければ、聞く方も氣持よくなるやうなことばかり〔なの〕です。邪魔も入らねば、退屈もなく、のぼせたり、爭つたりするやうなこともないのです。

 彼等はたいてい、友情とか、慈善〔とか〕、秩序だとか〔とか〕、秩序〔とか〕經濟だとかいふ〔などの〕ことを話しあひました→す。〕それから〔、〕詩の話もよく出ます。私は〔かりに〕ヨーロツパで一番えい人たちの集りに出るより、ここで、フウイヌムの話をきいてゐる方が、ずつと誇らしく思へました。

 私はこの國の住民たちの力と美と速さを感心しました。そして、このやうな穩やかな〔立派な〕人格に、深い尊敬すつかり尊敬するさゆになりました。〔〔私は〕だんだん尊敬するやうになりました。〔なつたのです。〕〕

 〔そして〕私は、自分の家族や友人、同胞、人■〔などを〕考へてみると、〔とてもひどく〕ヤーフ恥かしくなりました。ヤーフと私たちが違うのは、ただ〔人間の方は〕言葉が話せるといふことだけで、理性はかへつて惡いことに〔〕使はれてゐます。よく〔、〕泉や湖に映る自分の姿を見たときなど、思はず〔私は〕顏をそむけたくなりました。

[やぶちゃん注:この恐らくは「ヤーフと私たちが違うのは、……」以下、最後までは上罫外に大きな丸括弧が被せられてあってその上にはっきりと「略」と書かれてある。しかし、幸いなことに現行版でここはしっかりと以下のように生きている。

   *

 そして私は、自分の家族や友人、同胞などを考えてみると、とてもひどく恥かしくなりました。ヤーフと私たちが違うのは、たゞ人間の方は言葉が話せるということだけで、理性はかえって悪いことに使われています。よく、泉や湖にうつる自分の姿を見たときなど、私は思わず顔をそむけたくなりました。

   *

但し、現行版はこれで「三、楽しい家庭」は終了している。ところが、原稿には実は、以下の通り、半原稿分二段落がある。この原稿分は全体に大きな「×」が振られて、抹消指示と見えるのであるが、実は上罫欄外には「どうでもいい」と書かれてあるのである。私はこの際、この「どうでもいい」を削除とせずに、残そうと思う。されば、全体に「×」が附されてあるが、特異的に以下は抹消線を引かずに示すこととする。

 私はフウイヌムと話をして、その姿を見るのが一番たのしかつたのです。とうとう私は彼等の步き方や身振りを眞似るやうになり、今ではすつかりそれが癖になりました。だからよく人達から、

 「何だその步き方は、ますで馬ぢやないか」と云はれるますが、却つて私にはそれがうれしいのです。よく人と話をしてゐるとき、私は急にフウイヌムのやうに、いななくこともあります。

 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (2)

 

八章  たのしい家

 

[やぶちゃん注:現行版にはこのような柱はなく、行空けもなく、普通に改行で前と続いている。]

 

 〔こんな風に〕私は主人から、ヤーフの癖〔性質〕をいろいろ聞かされた〔。〕ので、それでは一つ是非どこか近所のヤーフの群を訪問させて下さい、と〔私は〕賴みました。主人は快く承知して〔、〕くれ、召使の月毛の小馬を私の附添ひに命じました。この附添にまもられて〔が〕ゐなかつたら、とても私はヤーフ〔の〕近〔く〕に行くことはできなかつたのです。私が最初この囗に來た時、この忌まはしい動物〔に〕いぢめられたことは、前にも言つたとおりですが〔のですが〕、その後も、私は〔うつかり短劍を忘れて外に出たときなど〕三四度も危く爪 にかけられるところでした。

 それにどうやら彼等の方でも、私が同種族のものであることに、うすうす感づいてゐたらしいのです。私は附添と一緒にゐるときなど、よく袖をまくりあげて、腕や胸を見せてやりました。すると彼等は〔、〕いつも私のすぐ傍まで來て、丁度あの猿の人眞似と同じやうに、しきりに私の恰好を眞似ますが、いつも憎憎しげな顏つきで〔、〕それをやるのでした。

 彼等は子供の時から、とても敏捷です。〔あるとき私は〕一度三歳の子を一匹捕へ〔て〕て、手なづけようとしましたが、相手は、恐ろしい勢で、喚んだり、ひつかいたり、かみみつくので、とうとう放してしまひ〔やりま〕した。

[やぶちゃん注:「喚んだり」は「さけんだり」と読んでいるようである。現行版は『喚いたり』となっている。]

 私の見たところでは、ヤーフぐらゐ〔ほど〕、教へにくい動物はゐません。できることといへば、精々荷物をひいたり、かついだりすることだけ〔ぐらゐ〕です。

 フウイヌムたちは、家から少し離れたところに小屋をつくつて、いろんな用にヤーフを飼つてゐますが、その他のヤーフは〔、〕すべて野原に放し飼ひにされてゐます〔るのです〕。彼等はそこで、木の根を掘つたり、草を食つたり、肉をあさつたり、時には、いたち〔を〕捕へて食べます。〔そして〕丘などの側に爪で深い穴をほつて、そのなかに寢ます。

 彼等は子供の時から、水泳ぎや、長い間水の中〔水〕潛つてゐることも〔り〕〔が〕きます。かうしてよく魚を捕へては、牝が家に持つて帰つて、子供に食べさせるのです。〔ます。〕

 〔ところで、〕なにしろ、私はこの國に三年も住んでゐたのですから、この國の住民たちの風俗や習慣のことを、〔ここに少し述べておきます。〕ここにこれからお話し たらよく知つてゐます〔るのです。〕

[やぶちゃん注:最後の抹消し忘れはママ。]

 このフウイヌム族といふのは、生れつき、非常に徳の高い性質を持つてゐます。彼等の格言は〔、〕「理性を磨け 理性によつて行へ」といふのでした。

 友情と厚意はフウイヌムの美徳です。どんな遠い國から來た〔知らない〕人でも、まるで友達のやうにもてなされます。どこへ行つても、自分の家と同じやうに安心できます。みんなは〔、〕非常に上品で〔、〕つつしみ深いのですが、わざとらしく取澄まし〔らしく儀禮〕〔らし〕いところ〔が〕〔少しも〕がありません。自分の子供も他所の子供だからといつて滅茶苦茶可愛がるも、同じやうに可愛がります。〔彼等〕子供の教育〔のしかた〕は感心なかなか立派です。なのです。十八歳になるまでは、ある定まつた日でなければ、燕麥など一粒も口にすることを許されません。牛乳などももほとんど飲まされません。夏は午前に二時間と、午后に二時間づつ、草を食べさせてもらへますが、このきまりは親た〔ち〕もそのとほりに守るのです。

[やぶちゃん注:現行版は細部がかなり違う。

   *

 友情と厚意は、フウイヌムの美徳です。どんな遠い国から来た知らない人でも、まるで友達のようにもてなされます。どこへ行っても、自分の家と同じように安心できます。みんなは、非常に上品で、つゝしみ深いのですが、ちょっとも、わざとらしいところがありません。自分の子供も他所の子供も、同じように可愛がります。子供の教育の仕方は、なかなか立派なのです。十八歳になるまでは、ある定まった日でなければ、からす麦など一粒も口にすることを許されません。夏は午前に二時間と、午後に二時間ずつ、草を食べさせてもらいますが、この規則を親たちもきちんと守ります。

   *

太字はもとは傍点「ヽ」。]

 フウイヌムは、その子弟〔を強くするために、〕險しい山や石ころ道を走らさます。汗だくになると、今度は河の中にザンブリ頭から跳びこませるのです。それから、一年に四回、若い男女が集まつて、駈けくらや、跳込み、そのほか、いろんなの競技をします。勝つた者には、それを讃める歌が與えられます。

[やぶちゃん注:「走らさます」はママ。現行版は『走らせます』。

「讃める」は「ほめる」と訓じているようである。現行版は『ほめる』と平仮名である。]

 また四年目毎に、全國からの代表者が集つて會議があります。これ〔集まつ→これ〕は野原で開かれ、凡そ五六日つづきます。この會ギでは各地方のいろいろなこと〔な問題〕が決められます。

[やぶちゃん注:以上の段落は、全体に斜めに大きな取消線が二本引かれている。現行版には全く存在しない内容である。

「ギ」という乱暴なカタカナ表記様のものは一見、珍しいが、実は民喜は「義」を(つくり)に持つ「議」「儀」などの場合には、「義」を「ギ」とすることがままあり、ここでは(へん)の「言」をも省略してしまった結果、こうなったものと私は考えている。或いは、書きながら、「ここもカットだな」と考えていたために、書き方がぞんざいになった可能性もあるかも知れぬ。]

 フウイヌムは文字といふものをまるで持つてゐません。(知識は親から子へ口でつたへるのです。)しかし彼等は詩をつくることがとてもうまいのです。その詩はその詩は〕友情や善意をうたつたものと、運動の優勝者を讃め〔た〕ものと立派な→ものと、〕なか立派な詩があるので〔りま〕す。

[やぶちゃん注:現行版は最後は『なかなか美しい詩があります』となっている。]

 家〔庭〕はごく簡單〔質素〕に出來てゐますが、不便はありません。この國には四十年ごとに根元がゆるんで、〔風でも吹けばすぐ〕倒れる樹木があります〔ます〕。〔そして〕これ〕まつすぐに伸でゐるのですから、この〔倒れた〕樹木を使つて家を作るのです。

[やぶちゃん注:以上の段落は丸ごと現行版には存在しない。

 フウイヌムたちは〔、〕病氣にかかるといふことがないので、醫者はゐません。〔しかし〕怪我をしたとき使ふ〔つける〕薬は立派なのが〔ちやんと〔備へて〕あり〕ます。彼等は、病気〔にかかつて〕死ぬなどなどこと〔やうなこと〕はないのです。〔く、〕死ぬとは〕〔ただ〕年をとつて自然に衰へ〔て〕死ぬのです。死ぬと〔そして〕死人は〔人〕目につかない場所に〔そつと〕葬ることになつてゐます。臨終だといつて、誰も悲しんだりするものはありません、死んでゆく本人でさへ、ちよつとも悲しさうな顏はしてゐないのです。

 彼等はたいてい〔、〕七十か七十五まで生きます。たまには八十まで生きる〔もの〕もゐます。死ぬ二三週間前になると、だんだん身躰が弱つてきますが、別につ〔つ〕らくはないのです。ると〔さうなると〕友達がつぎつぎに訪ねて來ます。つまり、気樂に一寸外出するやうなことができなくなつ〔いから〕です。

 いよいよ死ぬ十日前頃には、今度はごく近所の人たちにだけには→だけには〕挨拶に〔答礼〕に出かけてゆきます。彼は答礼先へ着くと、まづ暇乞お別れの挨拶をのべるのですが、それはまるで、何處か遠いところへ旅行するときの別れのやうな恰好なのです。

[やぶちゃん注:ここに一行空けの指示が入っている。現行版は一行空けはない。]

老媼茶話巻之六 彦作亡靈

 

     彦作亡靈

 

 出羽の國村山郡白岩は八千石酒井長門守、知行所也。

 白岩の名主喜太夫といふ者、百姓へ無理非道を度度(たびたび)申懸(まうしかける)ける間、彦作といふ百姓、直(ぢき)に目安(めやす)を添田八左衞門方へ差上(さしあげ)ける。喜太夫、是を聞(きき)、八左衞門方へ金銀を澤山にまひないける間、喜太夫、まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)、彦作は非公事(ヒクジ)に成、

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびやくしやう)の見せしめ。」

とて、彦作は萬松院河原の松原にて成敗(せいばひ)に逢(あひ)ける。

 このとき、彦作、けんぶつに向ひ申けるは、

「郡(こほり)奉行添田八左衞門、幷(ならび)に、喜太夫め。己(おのれ)、わが欲にふけり、上をかすめ、非を以(もつて)理(ことはり)となし、ほしいまゝに百姓に過役錢(くわやくせん)をかけ、取(とり)つぶす。我、是を見るに忍びす、惣百姓に代り、今、非命の死を請(うく)。各(おのおの)見玉へ、八左衞門・喜太夫兩人子孫迄、とりたやし、三年とは延(のぶ)まじき也。」

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

 半年程過(すぎ)て、八左衞門家に、彦作亡靈、晝も、折々、あらはれ出(いで)ける。

 祈願・祈念をなしけれ共、少(すこし)も印(しるし)なく、此故にか、八左衞門、亂心し、平兵衞坊といふ十七歳に成惣領、妹十三才になるを切殺(きりころ)し、其身も自害し果(はて)たり。亂心の所行とて、後(あと)、絶(たえ)たり。

 其頃、やき澤の百姓與四郎・孫三郎といふ者、萬松院河原へ畑打(はたうち)に行(ゆき)けるに、何方(いづかた)よりともなく、彦作、與四郎が側(そば)へ來(きた)る。

 與四郎、見て、驚き、

「彦作。そちはいかゞして、爰へ來(きた)るや。去年(こぞ)、此所にて御成敗に逢(あひ)、其怨念の、いまだ此地に留りて中有(ちゆうう)にさまよふものならん。」

 彦作、聞(きき)て、

「いかにも其通りなり。我、罪なくして刑に逢(あひ)ける。恨み、こつずひにとふり、その魂、此土に殘り、則(すなはち)、八左衞門をば子孫迄、取(とり)たやし、今、喜太夫が惡逆、司錄神(しろくじん)にうつたへ、是もゆるしを得て、宿報をとぐる折(をり)を待(まつ)といへども、喜太夫、いまだ運命のつゞく宿善(シユクゼン)有(あり)て、我、志を達せず。來春、彼等三人、はりつけに行るゝ陰惡(いんあく)、有(あり)。是、我(わが)宿意をとぐる折(をり)也。」

といふ。

 與四郎、聞(きき)て、

「魂といふ事は有(ある)事か、無(なき)事か。地獄極樂は、いかゞ。」

と云(いふ)。

 彦作、聞て、

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故、善惡の決談(けつだん)なし。御成敗に行はるゝ首の場にのぞみ、魂(たましひ)、骸(からだ)を放れ出(いで)、飛(とび)て、我身、松の梢にありて下を見下(みおろ)すに、我(わが)骸(からだ)を切(きり)、罪(つみ)する人、有(あり)て、首をごく門に懸(かけ)て有(あり)。是を見るといへども、我(わが)魂に、少しも、いたみなし。只、煙雲霞(けぶりくもかすみ)のごとく、きへては、また、結び、こりては、また、散ず。爰に魂ありといへども、すべて、きかつのうれいなく、寒暑のくるしみもなく、妻子をかへり見べきこゝろも、なし。只、わが恨める心、天より高く、地よりもあつし。最早、歸り去(さる)ぞ。」

といふ、とおもへば、一たいの陰火となりて、煙、ぜんぜんに消(きえ)て、さりける。

 與四郎も孫三郎も不思義の事に思ひながら、人にも語らずしてありけるが、其(その)明(あく)る春、喜太夫父子三人、同村の與次右衞門といふものに非道を申懸(まうしかけ)、是、又、公事に成(なる)。

 此時に至り、前々の惡事、委く顯(あらは)れ、喜太夫は最上の長町河原といふ所にて、すべて、三拾人、はりつけに懸る、その壱人なり。子ども弐人、成敗になり、家迄、公義へ召上(めしあげ)られける間、妻子、乞食となり、ちまたに袖をひろげ、道に倒れ、餓死(うゑじにし)けるとなり。

 

[やぶちゃん注:「出羽の國村山郡白岩」出羽国村山郡寒河江荘白岩は現在の山形県寒河江(さがえ)市白岩(しらいわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。後の石高から見ても、ここを中心とした広域と考えてよかろう。戦国時代より白岩城があり、江戸初期、短期に白岩藩(領)が置かれた。ウィキの「白岩城」によれば、『白岩(寒河江市白岩)の地は、寒河江川上流に大江広元宗廟吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分かつ要地であった。斯波兼頼との争いで父・大江元政を失った時茂は、南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男・溝延茂信の子・政広を配した』。『白岩氏は』四代の『白岩満教を溝延氏から迎えると、両者は関係を強めながら』、『次第に自立性を高め』、『領主権を拡大するが、戦国時代末期』、『寒河江氏滅亡と前後して最上氏に下り』、『松根光広を養子として迎えた』が、『慶長出羽合戦では庄内から六十里越街道を経て侵入した下秀久に攻め落とされた』。元和八(一六二二)年に『最上氏が改易になると、白岩には旗本・酒井忠重(庄内藩主・酒井忠勝の弟)が入った。しかし忠重は苛政を布き』、寛永一〇(一六三三)年『には白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える事態となった(白岩一揆)。これが原因となり』、寛永一五(一六三八)年『に酒井忠重は改易され』、『その後、白岩領は幕府領となり、代官の支配下に置かれた』とある。さすれば、本話柄はこの「白岩一揆」のプレ段階と考えて良かろうから、作品内時制は元和八(一六二二)年より後、寛永一〇(一六三三)年よりも前となり、凡そその閉区間の約十年の間に絞られることとなる。なお、本書の成立は寛保二(一七四二)年であるから、百年以上も前の古い話となる。

「八千石酒井長門守」酒井忠重(慶長三(一五九八)年~寛文六(一六六六)年)。出羽国村山郡白岩領八千石領主で旗本寄合。酒井家次三男で祖父酒井忠次(徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされる家康第一功臣。但し、死後養子)の養子。ウィキの「酒井忠重」によれば、元和元(一六一五)年に『家康、秀忠に拝謁し、小姓に召出され』、二年後には『従五位下長門守に叙任』、先に述べた通り、元和八年、出羽国村山郡白岩の領主(当初は四千石)となった(後に八千石に加増)。しかし、寛永十年、領内に於いて一千人余りに及ぶ餓死者を出すなどの苛政を強いたことから、『白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴え』出(白岩一揆)、四年後の寛永十五年、『江戸奉行所の判決により』、『白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられ』た。さらに寛永一九(一六四二)年には、『忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚』、十年後の承応元(一六五二)年には、『忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かった』ことに腹を立て、『幕府に提訴』、忠勝の長男で新藩主となった酒井忠当(ただまさ)から金二『万両を贈られて義絶され』てしまう。それでも懲りないこの男は、寛文五(一六六五)年、『息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり』、またしても『改易され』、その翌年の九月、『夜中、何者かに襲われて死亡』してしまったという。享年六十九。この救いようのない愚か者にこそ、彦作の亡霊の怨念は向かっていたものかも知れないな

「目安(めやす)」訴状。

「添田八左衞門」不詳。

「まひないける」「賂(まひない)」し「ける」。

「まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)」内容は明らかに喜太夫の負け(敗訴)が明らかな案件であったが、賄賂を受けた添田は悪しき「忖度」を喜太夫に有利に加え、喜太夫側の弁解には十分に正当な道理があるという裁定が下され。

「彦作は非公事(ヒクジ)に成」彦作の公訴は正当な訴えとして認められなかったばかりか。

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびゃくしやう)の見せしめ。」「お上(御主君)を軽んじて、かくも分不相応な言いがかりを公訴するは、不届き千万! 領内の総ての百姓らの見せしめじゃ!!」。

「萬松院河原」不詳。但し、一般にこの戦国明けのこの時期の刑場は藩庁(城)からそう遠くない位置にあったと考えてよく、白岩城は寒河江川の左岸近くにあったので、附近(グーグル・マップ・データ。この中央付近が白岩城跡と推定される)の寒河江川の河原ではないかとも考えたが、最後の出る刑場「最上の長町河原」は名前から明らかにずっと東の最上川の河原であろうから、これも寒河江川のもっと下流(東)かも知れない。

「けんぶつ」「見物」。

「郡奉行」(こおりぶぎょう)は室町中期以降に現れた武家の役職で、領国を数区域に分け、農政を担当した。江戸時代には諸藩では一郡に一人の郡奉行を配置し、郷目付・代官・手代などの部下を配して年貢の収納・訴訟・農民統制などに当らせた。郡奉行自身が現地で実務業務を行うこともあったが、通常は城下の郡役所で事務を司り、現地では代官などの属吏が実際の業務を行なった。

「かすめ」「掠め」。この場合は「騙(だま)す・欺(あざむ)く」の意。

「過役錢(くわやくせん)」ここは過剰な年貢。

「非命」天命ではなく、思いがけない災難で死ぬこと。横死。

「とりたやし」憑(と)りついて絶やし。

「三年とは延(のぶ)まじき也」「きゃつらに祟って亡ぼすには、おう! 三年とはかかるまいぞ!」。

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

「やき澤」不詳。

「中有(ちゆうう)」既出既注であるが、再掲しておく。仏語で四有(しう)の一つ(後述)。死有(しう)から次の生有(せいう)までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までを指す。「中陰」とも言う。「四有」の「有」は梵語の漢訳で「生存」「存在」の意で、「衆生の存在の在り方」を期間別に四種に分類したもので、死んでから次の生を受けるまでの期間を「中有」、それぞれの世界に生を受ける瞬間を意味するのが「生有」、その新たな生を受けてから死ぬまでの一生の期間を「本有」、その生あるものが死ぬ瞬間を意味するのが「死有」である。

「こつずひにとふり」「骨髓に通(とほ)り」。

「此土」仏教的な謂いならこの世で「穢土」で「ど」であるが、彼は百姓なので私は「つち」と訓じたい。

「司錄神(しろくじん)」地獄の裁判に於ける「司命(しみょう)」と「司録(しろく)」という書記官。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。

「はりつけ」「磔」。

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故」こうした恨みを持った魂は例外的に四十九日に拘束されないのである。

「善惡の決談(けつだん)なし」冥府に於ける十王による現世での善悪の裁定自体を全く受けていない。

「ごく門」「獄門」。

「きかつのうれいなく」「飢渇の憂ひ無く」。

「あつし」「厚し」。

「一たい」「一體」。一つの分離出来ない塊り。

「ぜんぜんに」「漸漸に」次第次第に。だんだんに。

「其(その)明(あく)る春」二人の農夫が彦作の亡霊を見たのは、彦作の処刑から半年後、でその翌年の春というのであるから、最大長でも一年半余り二年未満で、彦作の呪った三年未満という言葉もここで成就している。

「委く」「くはしく」ではおかしい。底本ではこの「委」の右に編者による『*』が附されてある(衍字・誤字等と判断したことを示す。但し、示すだけで内容は書かれていない)から、私はこれは草書の判読で誤り易い「悉」ではないかと思う。「ことごとく」はここの決めの言葉として相応しいと感ずる。

「最上の長町河原」不詳。寒河江川は東流して最上川に入る。]

老媼茶話巻之六 狐

 

    

 

 會津柳原(やなぎはら)といふ處に、又吉といふ百姓、有(あり)。

 或秋、七月初(はじめ)、深川といふ里へ、なす調(ととの)へに參りける折、天神のまへ、「ぼうし沼」の端に、いかにも、やせつかれたるきつね、北より南へ行(ゆき)けるを、又吉、見て、石を取(とり)、狐に打付(うちつく)る。左の足にあたり、漸(やうやう)、足を引(ひき)づり引づり、逃失(にげうせ)たり。

 又吉、家に歸り、熱病をなやみ、さまざまのたわごとを、いふ。

「我は晝の狐也。又吉に、我、少しも仇(あだ)なさず。何故に礫(つぶて)を抛(なげ)て我を痛めける。我々、遊行(ゆぎやう)せるにあらず、不叶(かなはぬ)用有(あり)て、日光中善寺の稻荷より、北方慶德(ケイトク)の卷尾(ケンビ)の稻荷明神へ使者に行者(ゆくもの)者也。然るに、道遠くして甚(はなはだ)つかれ、くるしむ。また吉に左のあしを痛められ、步行(ほかう)、成(なり)難し。此仇に、則(すなはち)、此者の命を、とるべし。」

といふ。

 妻子、驚き悲しみ、御子(みこ)・山伏をたのみ、樣々、侘言(わびごと)をする。狐が曰(いはく)、

「人間の命數(めいすう)は天元(てんげん)の數、有(あり)。命を取るべしといふは、我がたはむれにて、汝等を驚かす爲也。我にかぎらず、狐の人に取付(とりつき)なやまさんとする時は、先(まづ)、我(わが)骸(からだ)を、深き山谷影(やまたにかげ)が巖穴のうちへかくし置(おき)、其後(そののち)、魂(たましひ)斗(ばかり)、骸をはなれ、人に取付(とりつく)もの也。此故に、もし其骸を鷲・熊鷹、或は、人に見付(みつけ)られ、其からだをやぶり損ぜらるゝ時は、二度、魂の立歸(たちかへる)べき所なく、これに依(よつ)て、是非なく、一生、人體を離(はなれ)ず、魂、人の骨肉の内に住む。我(わが)骸(からだ)、かりに、天神の宮、緣の下にかくし置(おき)、たましゐ、又吉に取付(とりつき)たり。骸を人に見付られざる先に、明曉(みやうげう)、もどるべし。然(しかれ)ども、先(サキ)にいふ通り、又吉に足をいためられ、步行、不自由なり。七日の内、又吉がたましゐをかり、夫(それ)を供につれて、歸るべし。明曉、餞別の壽をなし、赤の飯かしぎ、赤鰯(あかいわし)・御酒をそなへ、我を送るべし。又吉がからだを靜成(しづかなる)所に置(おき)、人にみせ、おどろかしむべからず。必(かならず)、七日目には元の又吉と成(なる)。替(かは)る事、なかるべし。」

と、いふ。

 そのあかつき、家内の者ども、身を淸め、火を改(あらため)、赤飯をふかし、赤鰯・御神酒(おみき)をそなへ、狐の旅立(タビだち)を祝ひける。

 扨、又吉がからだをば、屛風を立𢌞(たてまは)し、靜成(しづかなる)所に置(おき)けるに、七日目の曉、又吉、起上(おきあが)り、常のごとく、酒食をなし、替(かは)る事なし。

 妻子、悦び、此間の事を尋聞(たづねきく)に、少も覺(おぼえ)ず。日光の道筋、中善寺地景、今市(いまいち)の樣子、事こまかに語るに、ちがひなし。今市の茶屋にて、小刀にて右の手のゆび切(きり)たると覺しが、ゆびに疵あり。足にまめなど多く出來、足にわらんじすれの跡、あり。又吉は、終(つゐ)に其前、日光へ行(ゆき)しこと、なし。關山(せきやま)村の百姓彦三郎といふもの、又吉に逢ひ、柳原へ狀を賴みける。其狀も、又吉が袖の内より、出(いで)たり。不思義のこと共(ども)なり。

 加藤明成の侍、川井勘十郎といふ者、御山近邊鳥殺生(としせつしやう)に出る。散々不勝負にて、歸りける道、中野の十文字はらの藪影に、古狐、前後も不知(しらず)ねて居たりける。

 勘十郎、見付(みつけ)、鐵炮へ紙玉を込め、筒拂ひに、きつねの耳元にて鐵炮を打放(うちはな)す。

 狐思ひかけざる事にて、大(おほい)に肝をつぶし、一間斗(ばかり)、飛上(とびあが)り、倒れふためき、さけびないて、跡、ふり返り、ふり返り、見て、淨土の館三五倫(リン)のかたへ、はしり逃(にげ)たり。

 勘十郎家に歸り、狐のおどろきたる事、妻子にもの語りし、酒茶に夜を更(ふか)し、いねたり。

 其夜、八時分、門(かど)、けわしくたゝき、高提灯・箱提灯おびたゞしく、灯立(ともしたて)、

「月番(つきばん)・添番(そへばん)の物頭目付(ものがしらめつけ)誰々。」

と名乘(なのり)、

「上意によつて罷越(まかりこし)候。早々玄關ひらき候得。」

と言入(いひい)るゝ。

 勘十郎家内、騷動して、先(まづ)、急ぎ、勘十郎、袴を着し、出向ひ、玄關をひらき、座敷へ招じ入(いれ)、何(いづ)れも座敷へはいり、中にも其時の目付役伊東權平、添番の目付片山彌平次、兩人、進み出(いで)、申(まうす)樣、

「其方儀、今(こん)晝(ひる)、御鷹野の場所と云(いふ)御城近くと申(まうす)傍(かた)、遠慮有(ある)べき處、みだりに鐵砲を打放(うちはなち)、上を輕(かろ)しめ、法外の至り。此段、殿樣、以の外、御腹立(おはらだち)にて、早速、腹切らせ候樣にと被仰付(おほせつけられ)、我々を始(はじめ)、物頭誰々、罷向(まかりむかひ)候。早々切腹致すべし。」

と申渡(まうしわた)す間(あひだ)、勘十郎、大きに驚き、此節、是非を申上(まうしがぐ)るに不及(およばず)、

「行水(ぎやうずい)仕候内(つかまつりさふらううち)、御暇被下(おひまくだされ)候。」

樣に申(まうし)けれ共(ども)、ゆるされず。

 片山彌平次、

「かいしやく、某(それがし)に被仰付(おほせつけられ)たり。」

とて、羽織、拔(ぬき)すて、袴のもゝ立(だち)を取(とり)、勘十郎が後へ𢌞り、既に十分あやうき折節、勘十郎、家に、しゝ・狼まで能(よく)取(とる)名犬、弐疋有(あり)けるが、無二無三に表より座敷へ缺込(かけこみ)、先(まづ)、彌平次が首骨、くらひ懸り、首と胴中をくわへ、喰殺(くひころ)し、庭へふり捨(すて)、猶、殘りのもの共(ども)へ、吠懸(ほえかか)る。今まで、物頭・目付役とて、りつぱに見へし士共(ども)、大きにあわて騷ぎ、則(すなはち)、狐と成(なり)て、十方(とほう)を失ひ、出方(でかた)に迷ひ、十字八點に逃𢌞(にげまは)りけるを、勘十郎も、家内男女も、てん手(で)に、棒、引提(ひつさげ)、打殺(うちころ)す。

 弐疋の犬、勇み進んで、喰殺(くひころ)し、かみ殺す間、あまたの狐、不殘(のこらず)打殺し、それより表出(いで)、門をひらき、二疋の犬を、足輕共に、けしかけける。

 足輕にばけし狐共、大きにさわぎ、うろたへ、右往左往に逃げ散(ちり)、壱疋もなくなり、狐、十二、三、打殺し、是にてこそ晝おどろかされしきつねの所爲(しよゐ)成(なり)けると知られし。

 

[やぶちゃん注:「會津柳原(やなぎはら)」現在の福島県会津若松市柳原町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「なす調(ととの)へに」茄子の苗木を買いに、という意で採っておく。

『天神のまへ、「ぼうし沼」』先の柳原町のグーグル・マップ・データを拡大すると、中央に菅原神社(「天神」)が現存し、その東北ごく直近に「帽子丸の墓」があるのが判るこの辺りに「帽子沼」があった(底本でも右に編者による添漢字で『帽子』とある)。石田明夫氏のサイト「会津の城」の「義経伝説と会津」に『③皆鶴姫の碑 会津若松市河東町指定有形文化財』とあって、そこに、『源義経が、京都の鞍馬寺に預けられているとき、兵法書を吉岡鬼一法眼が持っていることを知り、見ることを願い出るが』、『許されず、娘の皆鶴姫に近づき、兵法書を写し取ることに成功する。平氏の追っ手が近づいていることを知り、義経は平泉に逃れた。皆鶴は、義経の後を追い、会津に来たが、追っ手により発見され、義経との間にできた帽子丸がとらえられ、沼で溺死。皆鶴は、藤倉の難波沼まで来たが、身を悲観し、沼に身を投じて亡くなった。墓が造られ、難波寺が建てられたが、寺は廃寺となった。この碑は』寛政五(一七九三)年に『会津藩で建てられた。下居合には、皆鶴姫が義経の名を呼んだ「よばる橋」というのがある』とあり、そうした伝承を伝えた沼であったことが判る。

「遊行(ゆぎやう)せるにあらず」漫然と遊び歩いていたのではないのだ!

「不叶(かなはぬ)」おろそかに出来ない。しないでは済まされぬ。

「日光中善寺の稻荷」「中善寺」はママ。中禅寺湖湖畔の栃木県日光市中宮祠にある二荒山(ふたら)神社内の二荒山神社中宮祠境内にある中宮祠稲荷神社のことか。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「北方慶德(ケイトク)の卷尾(ケンビ)の稻荷明神」恐らくは、福島県喜多方市慶徳町豊岡不動前に現存する慶徳稲荷神社であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは少なくとも現在、この神社では田植え神事が行われているが、これはこの行事の分布上の日本の北限だそうである。狐だから、呼称の「卷尾」は納得。

「御子(みこ)」巫女。

「天元」万物成育の源である天の元気によって予め定められたものの謂い。

「骸(からだ)」死骸ではなく、魂(たましいが抜けた「骸(むくろ)」の謂い。

「山谷影(やまたにかげ)」「山谷蔭」。

「もどるべし」戻ろうと考えている。

「赤鰯」糠或いは塩漬け又は干して、脂分が酸化して赤茶けた色になった鰯のこと。

「今市」栃木県の旧今市市(いまいちし)。現在は日光市の一部。日光市役所本庁舎は旧今市市役所の建物を使用している。参照したウィキの「今市市」によれば、『江戸時代には、日光街道や会津西街道、日光例幣使街道今市宿の宿場町として繁栄した。現在も、日光へ至る鉄道は今市を経由する』とある。

「わらんじすれ」「草鞋摺れ」。

「關山村」不詳。孰れにせよ、日光近辺でなくてはなるまい。

「加藤明成」腐るほど、既出既注(初出の条にリンクしておいた)。

「川井勘十郎」不詳。

「御山」現在の会津若松市門田町大字御山附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。。

「散々不勝負にて」全く狩り(鳥撃ち)は不猟にして。

「中野の十文字はら」前の現在の門田町大字御山の西に門田町大字中野という地名を確認できる。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南二キロメートルほどで現地域に至るから、ここで鉄砲を撃てば、城に聴こえはするように思われる。

「藪影」「藪蔭」。

「鐵炮へ紙玉を込め、筒拂ひに」かく言っている以上、ここで紙玉を詰めたのは、あくまで火縄銃の銃身、筒の中を掃除するためなのであろう。何もそれを狐に中てたわけではない。

「一間」一メートル八十二センチ弱。

「淨土の館三五倫(リン)」底本、右に編者の添字で『允殿』とあるから、既出既注の允殿館(じょうどのだて)。現在の福島県会津若松市に所在した城館で、中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の門田町大字中野の北直近で、より鶴ヶ城に近い。「倫」は「輪」の誤りで、恐らくはそこに古い三基の五輪塔が立っていたのではあるまいか。

「八時分」午前二時頃。

「けわしくたゝき」「險しく叩き」。激しく敲いて開門を促すこと。

「高提灯」高張提灯(たかはりちょうちん)。大形の棗(なつめ)形をした提灯で、先に上下二本の腕木を持った長竿(ながざお)の先に取り付け、その口輪・底輪を腕木にとめて高く掲げた。承応・明暦(一六五二年~一六五八年)頃になって現れたもので、初期は武家が用いたが、後には広く商家や遊廓などでも使い、一般にはここに出るような「高提灯」或いは単に「高張」と呼ぶ。提灯には定紋や屋号などを書き、専ら、目印として利用され、社寺・役所の門前、商家の店頭や祭礼・葬送の行列などの先頭に高く掲げ、目印として利用された。現在でも社寺の祭礼や葬礼の際に使われることが多い。

「箱提灯」浅い香箱のような丸形の木製の箱と紙の蛇腹本体及び丸い底蓋から成る円筒型の大形提灯。畳むと、全部が上下の木枠(箱)の中に収まるようになっている。蛇腹に家紋や屋号などを入れ、各種礼式の際、行列に加わったり、婚礼の門に掛けられたりした。

「月番」月番交代制の当該月の勤務。

「添番」先の月番役の補助役。

「物頭目付」弓組・鉄砲組などを統率する長を「物頭」(ものがしら)と称し、「目付」は諸藩では藩内諸士の監督のため設置された監察役を指すが、「物頭」自体が同時にそうした藩士の集団をも指し、後で二人の人物は孰れも「目付」と同等格で称しているから、ここは「物頭」と「目付」ではなく、藩内の藩士を統括する実務担当の事実上の監察役である「物頭目付」という一語で採る。

「伊東權平」不詳。

「片山彌平次」不詳。

「御鷹野」城主が鷹狩をするための禁足地。

「傍(かた)」底本は「旁」。その右に打たれた編者の添漢字に代えた。私の推定訓。先に勘十郎が狐を脅した場所が、その傍ら、ごく近くであったということ。

「行水(ぎやうずい)」死に面しての潔斎のため。

「かいしやく」「介錯」。

「袴のもゝ立(だち)を取(とり)」「袴(はかま)の股立ちを取り」既出既注であるが、再掲しておく。「腿立ち」は袴の左右両脇の開きの縫い止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。

「しゝ」「猪」。

「缺込(かけこみ)」「驅(か)け込み」。

「首と胴中をくわへ、喰殺(くひころ)し、庭へふり捨(すて)」和犬であるから、そんなに巨体の犬とも思われないので、嚙みかかった瞬間、化けた狐の本来のサイズぐらいまで弥平次の姿が縮んだシチュエーションを想起すべきか。狐の姿に戻ってしまうより、その方が面白い

「十方(とほう)を失ひ」途方にくれ。

「出方(でかた)に迷ひ」逃げ出る方向に惑い。

「十字八點」東西南北に、その中間の十字方向を加えた八方の謂いで、「四方八方」と同義と思われる。]

2017/12/08

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (1)

 

     たのしい家

 

[やぶちゃん注:現行版では柱は『三、楽しい家庭』である。]

 

 ある朝、早く迎への使が、私のところへやつて來ました。行つてみると、主人が、

 「まあ、そこに坐れ」

 といひます。

 「〔これまで〕お前からきいた〔話は、〕お前その後まじめに考へてみたが、どうも、お前たちは、どういふ風の吹廻しか、たまたま爪の垢ほどの理性を持つてゐる一種の動物らしい。ところが、お前たちは折角、自然があたへてくれた立派な力は、捨てて見むきもしようとしないで、もとからもつてゐる欠点ばかりを増やそうとしてゐる。わざわざ骨を折つては、欠点を殖やす工夫や發明をしてゐるみたいなものだ。

 また、お前だけを〔例にとつて〕考へてみると〔ても、〕お前は、お前はヤーフ共の力も〔なければ〕敏捷さ〔が〕ない。後足で妙な步き片をしてゐるし、どうしたことか爪は何の役にも立たないやうになつてゐるし、顎の髯も消えてしまつてゐる。それのお前はこの國のヤーフ〔ど〕ものやうに、早く走ることもできなければ、木に登ることもできないではないか。」

[やぶちゃん注:以上の段落(馬の主人の台詞中の最後の形式段落は現行版では完全にカットされており、次の一行もカットされて、改行で台詞が続いている。

 それから主人はまた、こんなことを言ひました。

 「お前は、お前の國のヤーフ〔ども〕の生活暮し行ひ〔生活をいろい〕ろ話してくれたが、お前たちと、この國のヤーフとは身躰ばか〔の恰〕好だけでなく、〔ばかりででなく、〕心もよく似てゐると思へる。ヤーフどもがお互に憎みあふのは、みんな よく知られてゐることだが、〔ほかの動物には見られないほど猛烈なもので、それは〕〔誰でも知つてゐることなのだが、〕、この國のヤーフ〔ど〕もの爭も、お前が言つたお前たちの〔その〕爭いも、つまりは同じやうに似たもの原因のものらしい。〔〔どちらも〕どうもよく似てゐるのだ。〕

 もし、ここにヤーフが五匹ゐるとして、そこへ五十人分ぐらゐの肉を投げてやるとする。すると、彼等はおとなしく食べるどころか、一人で全部をとらうとして、たちまち、ひどい摑み合ひがはじまる。だから、彼等が外で物を食べる時には、召使を一人そばに立たせておくことにするし、家にゐる時はお互ひ遠くへ離してつないでおく。

 また、牛が死んだりした場合、それをフウイヌムが家のヤーフのために買つてもどると、間もなく近所のヤーフどもがおしかけて來〔群をなして〕盜みに來る。そして、お前が言つたと同じやうな戰爭がはじまる。爪でひつかきあつて大怪我をする。ただ幸なことに、お前たちの發明したやうな人殺し器械はないので、滅多に死ぬやうなことはない。また、ある時は、何の理由もないのに、近所同士のヤーフ共が〔、〕同じやうな戰爭をはじめる。つまり近所同志で、折もあらば不意を襲つてやらうと、隙をねらつてゐるのだ。」

 それから、主人は更らに、次のやうな〔珍しい〕話をしてくれました。

 この國の、ある地方の野原には、さまざまの色に光る石があつて、これがヤーフどもの大好物なのです。もし、この石が〔、〕地面から半分ほど〔、〕のぞいてゐたりすると、ヤーフどもは何日でも、朝から晩まで爪で掘返してゐます。そして家に持つて帰ると、〔それを〕小屋の中に〔そつと〕隱しておきますが、まだそれでも、もしか仲間に嗅ぎ出されはしないかと、ギヨロギヨロと眼を見はつてゐます。

 主人は、どうしてまたこんな石〔を〕ヤーフども→が〕役立つのか〔大切にがるのか〕、さつぱりわからなかつたのですが、私が〔話した〕人類の金錢のこと欲ばりなこと人類→人類の欲ばりなことと全くよく似てゐる〕を話したので、それで、あれと同じことなの■だらうと思ひました〔つたさうです〕。

[やぶちゃん注:これだけ苦吟しているのに、現行版では、『主人は、どうしてまたこんな石をヤーフどもが大切がるのか、さっぱりわからなかったのですが、』だけで、後は全部カットされて、ここでは改行されている次の頭の部分に『一度試しに』で続いている。]

 一度など 召使のヤーフが主人は〔一度試しに〕ヤーフが〕埋めてゐる場所から、そつとこの石を取つて〔りのけ〕ておきました。すると、このさもしい動物は、宝がなくなつてゐるのに気づいて、大声で泣きわめき、仲間をすつかりそこへ呼び集めました。そしてさも哀れげに悲しんでゐるかとおもふと、忽ち誰彼の区別もなく嚙みついたり、引掻きま〔い〕たり大騷ぎをしました〔す〕。それからだんだん元気がなくなつて、物も食べなければ、眠りもしません。そこで、主人はその石をまたもとのところへ返してやりました。する石が〕それを見るとヤーフはすぐ機嫌もよくなり、元気になつたといふことです。

 この光る石が澤山出る土地にかぎつて、ヤーフどもは、たえず、そこを■■■→の土地〕を爭ひあつて〔お互に〕、戰爭します。〔また〕二匹のヤーフが野原でこの石を見つけると、兩方で〔互に〕睨みあつて爭ひます。そこへもう一匹のヤーフが現れて、橫どりすることもあるさうです。

 それから、ヤーフといふ奴は時々、気が変になるらしく、ただ隅つこに引込んでしまひ、ねころがつて、吠えたり、唸つたり、誰かそばへ寄ると、忽ち蹴とばしてしまひます。まだ年も若いし、肉付もいいのです。〔し、〕別に食べものがほしいわけでもないのです。いつたいどこが悪いのか、さつぱりわかりません。ところが、こんな場合、ヤーフを〔つかまへて〕無理にどんどん働かせると、この病気はケロリとなほるさうです。

柴田宵曲 俳諧博物誌(22) 狼 一

 

     

 

       

 

 前門の虎、後門の狼とはいうが、熊に継ぐに狼を以てすでは語を成さぬ。殊に熊の尾の長からざることは、これを継ぐに当って頗(すこぶる)る妙でない。狼に伍するのはあるいは不平かも知れぬが、日本のような猛獣の乏しい国に生れたのを宿命として、不承してもらうより仕方があるまいと思う。

[やぶちゃん注:宵曲は本邦の狼のみを扱っているから、動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 食肉(ネコ)目Carnivora イヌ科 Canidae イヌ属 Canis タイリクオオカミCanis lupus 亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax(絶滅種。学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い(後に標本となって現存)である。ここはウィキの「ニホンオオカミ」に拠った)を挙げておけば一応はよいのであるが、実際には本邦では野犬・山犬も混同して「狼」と呼んできた経緯があるから、広義の人間が飼育していない野生の通常の犬(イヌ属 Canis)類も含まれるとして読むべきである。]

 狼に関しては古来多くの伝説的話柄が存在する。武者修行と号して講談の天地を行く者は、淫祠邪神の類を退治するか、山中で群狼を相手に闘うか、大体相場がきまっている。もし日本に狼というものが活躍しなかったならば、彼らの武勇伝は半(なかば)以上精彩を失ってしまうに相違ない。けれども実際問題として、どこにそういう群狼の世界があったかというと、伝説の霧に包まれて所在は不明になるのである。柳田国男氏に従えば、「狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、そう古くからの事ではなく、以前は畏敬もすればまた信頼もしていて、人と狼との珍しい交渉があった」のだという。単なる話だけの世界にしても、犬梯(いぬばしご)を作って樹上の旅人に迫る場合、古猫の知慧を借りなければならぬ日本の狼は、橇(そり)の馬の尻から食いつくような兇猛な動物ではなさそうに見える。それが何時から支那の犲狼(さいろう)と同じ取扱を受けるに至ったかは、われわれの手に合う問題でもなし、『俳諧博物誌』の領域を離れても来る。ここらで本文に入らなければならぬ。

[やぶちゃん注:『柳田国男氏に従えば、「狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、そう古くからの事ではなく、以前は畏敬もすればまた信頼もしていて、人と狼との珍しい交渉があった」のだという』この引用の原典は「桃太郎の誕生」(昭和八(一九三三)年三省堂刊)の中の「狼と鍛冶屋の姥」(初出は昭和六年十月発行の『郷土研究』)の「四 猫と狐と狼」であるが、例によって宵曲の引用は杜撰である。三省堂の改版(昭和十七年刊)の「桃太郎の誕生」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認(ここ)して前後を少し含めて示す。下線が宵曲が引いた箇所に相当する。太字は引用の誤りの部分。

   *

彼等[やぶちゃん注:狼を指す。]もし記憶あらば今昔の感に堪へぬであらうと思ふ程に、僅かな年代に人間の信用が衰微したのである。狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、さう古くからの事で無かつた。以前は畏敬もすれば又信賴もして居て、人と狼との珍しい交際があつたことは、本篇と關係があるから是非とも後に述べなければならぬ。

   *

ちくま文庫版全集も確認した。

「犬梯(いぬばしご)」老婆心乍ら、言っておくと、野犬や狼が木や岩崖などに梯子を掛けたように複数重なり合って樹上の獲物を襲うことを謂う。

「犲狼(さいろう)」「豺狼」とも書く。「豺・犲」は「やまいぬ(山犬)・野犬」と狼で、中国では貪欲で獰猛な野生の犬型獣類の代表とする(転じて「欲深くて残忍な人間」の譬えともする)。なお、中国でも日本(近世まで)でも「豺・犲」や「やまいぬ(山犬)」は犬とも狼とも異なる獣と認識されていた。特に中国では現代では「豺」はれっきとした種、食肉目イヌ科ドール属ドール(アカオオカミ)Cuon alpinus (一属一種)を指すので注意が必要である。]

 

 俳諧における熊の獲物が少かったに反し、狼の句は相当に多い。われわれの手許に集っただけでも、狸よりむしろ多い位である。季寄(きよせ)を見ると狼も熊と同じく冬の部に座席を持っているが、狼として独立したものは殆ど見えず、大概何かの季題によって登場している。但(ただし)その中で群狼――複数たることを示しているのは左の一句に過ぎぬ。

 

 狼の聲そろふなり雪のくれ   丈艸

 

 降りしきる雪の夕暮に、食物を求めて人里近くへでも出て来たのであろうか、友を呼ぶ狼の声がする。何疋かで吠える声の揃って聞えるのが、静な雪の夕暮だけに物凄くもまたうら寂しい。狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている。距離はかなりあるらしいが、「そろふ」の一語が特に凄涼の感を強くしているように思われる。

 

 終夜(よもすがら)狼なくや村の雪  雪水

 

 これも世界は丈艸の句と殆ど同じである。雪の村に出て来た狼が、そこらを徘徊して吠える声が一晩中聞える。村人はいずれも戸を固く鎖して、一歩も出まいとしているのであろう。但(ただし)複数か否かは句の上に現れておらぬばかりでなく、一句の持つ力も丈艸の句に遠く及ばぬのは、必ずしも「そろふ」の語の有無によるだけではあるまい。

 

 おほかみの聲遠ざかり月夜かな   山鹿

 狼の吼(ほえ)うせてけり月がしら 曉臺

 

 この両句は月に対して吠え去る狼を描いている。月下の狼は容易にその黒影を認むべきであるが、作者はそれを目撃したか、声だけ聞いたかわからず、単数か複数かも明(あきらか)でない。同じ狼の声でも、あるいは次第に遠ざかり、あるいは聞えなくなったところに多少の安堵が窺われる。狼に重きを置けば冬、月を主にすれば秋になるが、われわれはこの場合、皎々(こうこう)たる寒月が天地を一色に包んでいるものと見たい。冴渡る月の光が、動より静への推移的効果を多からしめている点に注意しなければならぬ。

 子規居士の「十年前の夏」という文章の中に「今宵は頸筋稍(やや)寒く覺ゆるに蒲團引きかづきて涼しき夢を結びしが、つぐの朝下女の來て、ゆふべは狼の吠えしを聽きたまはざりしか、と語りぬ」というところがある。明治十九年の夏、日光から湯元に遊んだ時の回想であるが、居士は遂に狼の声を耳にしなかったらしい。

 

 冬の宿狼聞て温泉(ゆ)のぬるき  子規

 狼に引かぶりたる蒲團かな     同

 

の二句は、いずれも冬に振替えられているが、その底には湯元の狼の声が流れている。居士が後年になつて狼というものを念頭に浮べる場合、湯元で話だけ聞いた狼の声は、必ず記憶の裡(うち)に蘇ったことであろう。この下女の一語があるため、湯元の夏は実際以上に涼しいものになっている。

[やぶちゃん注:「十年前の夏」確かに全集には載るが、所持しないので、いつか図書館で確認してみたい。これはちゃんと読んでみたい気がする。同題の子規の文章を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、抄録なのか、以上の記載は見当たらない。しかし気になったのは、その冒頭に『はや十二年の昔とはなりぬ』とある点で、標題通りのかっきり十年前ではない。さすれば、この回想随筆は明治三〇(一八九七)年か翌三十一年の作と思われることだけは言い添えておく。

「冬の宿」「狼に」は孰れも明治三十一年の作。宵曲の「湯元で話だけ聞いた狼の声は、必ず」子規の「記憶の裡(うち)に蘇った」というのが事実として響いてくる年の附合である。]

 明治時代の子規居士は、果して狼に因縁があったかどうか疑問であるが、その句にはなお次のようなものもある。

 

 大雪や狼人に近く鳴く      子規

 雪にくれて狼の声聲くなる    同

 狼の吾を見て居る雪の岨(そは) 同

 狼のちらと見えけり雪の山    同

 

 前の二句は声のみであり、後の二句は姿を見せているが、皆空想の産物であろう。しばらく声の二句について見ても、丈艸以下の句にあるだけの実感が籠っていない。その点は湯本の回想から得た二句に如かぬのである。

[やぶちゃん注:四句総てが明治三十年の作。]

 送り狼に関しては『孤猿随筆』に数説があった。第一は狼が外部からの危害を防衛し、人に夜路の安全を保障するために送ってくれるのだという説、第二は転べば食おうと思って附いて来るのだという説、第三は第二に関連して、狼が人を転ばせるために送りながらいろいろ仕掛をするという説で、柳田氏はこれを以て「古い信仰の中に含まれていた人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてある」のだと解釈している。日本における人と狼の間には、慥に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い。古くは藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に対する袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の話、近くは維新前の挿話として漱石氏が『それから』の中に点じた――雪の夜に後から呼びかけられたのを振向きもせず、旅宿の戸口まで来て、格子をぴしゃりとしめてから、長井直記は拙者だ、何御用か、と聞いた話などは、よほど送り狼に似通っている。この場合あとから来るのが人でも狼でも、危険の程度に変りはあるまい。

[やぶちゃん注:『「孤猿随筆」に数説があった』柳田國男の「孤猿隨筆」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)の中の「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」(昭和八(一九三三)年十一月)の「八」の後半部に記されてある。

「古い信仰の中に含まれていた人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてある」引用に誤りはない。

「藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に対する袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の話」藤原保昌(天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)は平安中期の貴族で、右京大夫藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。武勇に秀で、藤原道長の四天王(他は源頼信・平維衡・平致頼)の一人と称された人物。和泉式部の夫。ウィキの「藤原保昌」によれば、十月(かんなづき)『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』。これと同様の説話は「宇治拾遺物語」にもある。また、後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(?~永延二(九八八)年:後述する)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、』「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい為、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。なお、彼には『和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるも』、『なんとか』、『一枝を得て』、『愛を射止めたという逸話があ』る。この弟とされる藤原保輔はウィキの「藤原保輔」によれば、『官人として右兵衛尉・右馬助・右京亮を歴任したが、盗賊として有名で、『尊卑分脈』でも「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と記されている。すなわち「右馬助、正五位、右京亮、右兵衛、強盗張本、本朝第一武略、蒙追討宣旨事十五度、後禁獄自害」』。寛和元(九八五)年、『源雅信の土御門殿で開かれた大饗において、藤原季孝に対する傷害事件を起こす。さらに、以前兄藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射たり』、永延二(九八八)年閏五月『には藤原景斉・茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの罪を重ねた。これらの罪状により、保輔に対する捜索は続けられ、朝廷より保輔を追捕した者には恩賞を与えると発表され、さらには父・致忠が検非違使に連行・監禁された。この状況に危機感を持った保輔は同年』六月十四日『に北花園寺で剃髪・出家したが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられた。なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したという』。『なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという』。後世、「今昔物語集」などに『見える盗賊の袴垂(はかまだれ)と同一視され、袴垂保輔という伝説的人物となった』。しかし「今昔物語集」「宇治拾遺物語」では「袴垂」という字(あざな)のみで登場しており、「続古事談」で初めて「袴垂保輔」と記され、「元方の民部卿の孫、致忠朝臣ノ子也」としている。因みに、「今昔物語集」の話は「卷第二十五」の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(「藤原保昌朝臣、盜人袴垂に値(あ)ふ語(こと)第七」)で、「宇治拾遺物語」のそれは「袴垂合保昌事」(袴垂、保昌に合ふ事)で(リンク先は「やたがらすナビ」の原文)あるが、これと別に同じ「宇治拾遺物語」には、「保輔盜人タル事」(同前)があり、これだと、両者は盗賊ではあるが、別人の扱いと確かに読める。

「漱石氏が『それから』の中に点じた――雪の夜に後から呼びかけられたのを振向きもせず、旅宿の戸口まで来て、格子をぴしゃりとしめてから、長井直記は拙者だ、何御用か、と聞いた話」これは夏目漱石の「それから」(明治四二(一九〇九)年六月二十七日より十月十四日まで『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載され、翌年一月に春陽堂から刊行)の、「四」に主人公代助の幕末に殺された伯父の話として出る。岩波旧全集で示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 伯父が京都で殺された時は、頭巾(づきん)を着た人間にどやどやと、旅宿(やどや)に踏み込まれて、伯父は二階の廂(ひさし)から飛び下りる途端、庭石に爪付(つまづ)いて倒れる所を上から、容赦(ようしや)なく遣られた為に、顔が膾(なます)の樣になつたさうである。殺される十日程ほど前(まへ)、夜中(やちゆう)、合羽(かつぱ)を着きて、傘(かさ)に雪を除(よ)けながら、足駄がけで、四条から三条へ歸つた事がある。其時旅宿(やど)の二丁程手前で、突然後(うしろ)から長井直記(ながゐなほき)どのと呼び懸けられた。伯父は振り向きもせず、矢張(やは)り傘(かさ)を差した儘、旅宿(やど)の戸口迄來きて、格子を開けて中(なか)へ這入つた。さうして格子をぴしやりと締めて、中(うち)から、長井直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。

   *]

 

 故寺月なし狼客を送りける 北鯤(ほつこん)

 

 この狼は柳田氏の挙げた第一説に当るものであろう。寺と狼との関係はわからぬが、格別の異心も懐かず、闇夜の道を守護して送るらしい趣が、一句の上からも感ぜられる。

 

 狼のおくらず成(なり)し雪吹かな   招月

 

になると、狼の態度はいささか明瞭でない。送らなくなった原因は吹雪であるが、途中まで来たのは果して守護のためかどうか。「雪見にころぶところまで」という転ぶには絶好の条件があるだけに、万一の場合を期待したのかもわからない。

[やぶちゃん注:「雪見にころぶところまで」老婆心乍ら、芭蕉の句。初期形は「笈の小文」に載る(「笈の小文」の旅シンクロニティ――いざ行かん雪見にころぶ處まで 芭蕉及びその前後(ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で)を参照)、

 

 いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで

 

で、貞亨四(一六八七)年十二月三日、名古屋の門人夕道(風月堂孫助)亭での雪見の席での句であるが、真蹟詠草に、

 

  書林風月ときゝし其(その)名も

  やさしく覺えて、しばし立寄(た

  ちより)てやすらふほどに、雪の

  降出(ふりいで)ければ

 いざ出(いで)む雪見にころぶ所まで

  丁卯(ていばう)臘月(らうげつ)

  初、夕道(せきだう)何がしに贈る

 

とあるのが再案であろう。その後の「花摘」での、

 

 いざさらば雪見にころぶ所まで

 

が決定稿となった。私は改悪甚だしいもので、初期形が素直でよいと考えている。]

 

 狼を送りかへすか鉢たゝき   沾圃(せんぽ)

 

 この場合は全く主客顚倒している。送り狼変じて送られ狼になるのは、鉢敲(はちたたき)が方々歩き廻るため、道順が逆になつたのかも知れぬが、

 

 狼のひよつと喰べし鉢たゝき  野童

 

とある以上、鉢敲の身の上も決して安心なわけではない。夜歩く鉢敲に対して直に狼を連想するのを見れば、人里近く徘徊していたことも思いやられる。

[やぶちゃん注:「鉢たゝき」「鉢扣き・鉢叩き」とも書く。元来は、中世に広まった念仏信仰の一つの派及び遊行(ゆぎょう)形態で、空也を祖と仰いで、鉦(かね)や瓢簞を叩きながら、念仏や和讃を唱え、念仏踊りを行なっては、布施を求めた遊行僧。但し、ここはそれと同時にそこから派生した家々の門に立って喜捨を乞うた門付芸の一種で、鹿の角をつけた鹿杖(かせづえ)を突き、瓢簞を撥(ばち)で叩きながら、念仏や無常和讚(わさん)染みたものを唱えて踊っては物品を乞うた者を指す。とくに孰れも陰暦十一月十三日の空也忌より除夜の晩までの四十八日間に亙って洛中で勧進し、洛外の葬所などを巡ったから、このロケーションもその時期(或いは場所も)をイメージしてよかろう。]

 虎は酔漢を食わぬという話が漢土にある。山中で酔払って寢ているところへ虎が現れたが、本人は高鼾で何も知らぬ。目を覚させるつもりで頻に顔を嗅ぎ廻すと、虎の髯が鼻に入ったと見えて、大きな嚏(くしゃみ)をした。虎は不意討に驚いて跳躍する拍子に、足を踏み外して谷底へ落ちてしまったという話。酔払って余所から帰って来ると、門前に獣が蹲っている。大きな犬位に心得て杖の一撃を加えたところ、慌しく逃出した。遥か向うへ行った時、虎特有の縞がはっきり月明りに見えたという話。上戸党(じょうごとう)に聞かせたら酒徳の一に勘定するかも知れぬ。もし虎が酔漢を憚るとしたら、三碗不過岡(さんわんおかをすぎず)という酒をしたたかに呷(あお)った武松などは、虎の方で三舎を避けそうなものであるが、そう御跳向(おあつらえむき)に往っていないから、この説も懸値(かけね)があるらしい。あるいは酒気を厭(いと)うのでなしに、怕(おそ)れざる人間を食わぬので、酔漢が虎害を免れるのは怕れざるためだという。いずれにせよ大抵の上戸には、実験して見るだけの勇気が出そうもない危険な芸当である。

[やぶちゃん注:最初に挙げてある話は「茅亭客話」(ぼうていかくわ:黄休復撰。五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻)に載る話。老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)を参照されたい。注で原典も引いてある。二番目の話も何かで確かに読んだ記憶があるのであるが、直ぐに思い出せない。分かったら、追記する。

「三碗不過岡(さんわんおかをすぎず)という酒をしたたかに呷(あお)った武松」「三碗不過岡」とは「たった三杯で酔って岡が越せなくなる強い酒」のこと。これは「水滸伝」の武松(既出既注)のまさに虎退治に纏わる話に出てくる。バッカスサイト「中国語講座」原文(簡体字)・日本語)現代日本語

「三舎を避けそうなもの」「三舎を避ける」とは相手を恐れて尻込みすること、また、相手に一目置くことの譬え。「春秋左氏傳」の僖公二十三年にある、三舎(古代中国で九十里(約六十キロメートル)を指す距離単位。これは軍隊の三日の行軍距離の謂い)の距離の外に避けるという意味に基づく故事成句。]

 

 いざ醉(ゑひ)て狼追はん後(のち)の月 玉葉

 

というのは酒客の空景気に過ぎぬか、実際この位大きな気持になるものか、盃中の趣を解せぬわれわれには想像がつかない。虎に比べれば大分型が小さくなるようなものの、酒気を仮りてはじめてこの言あるのを見ると、大した豪傑ではないのであろう。

 

 狼の人とる沙汰や遲ざくら   倚彦(いげん)

 

 これは噂だけである。遅桜の咲いている場所はわからぬが、山中の旅客ででもあったら、この噂は相当に心を脅すものでなければならぬ。従って左の句のように、人を送るに当って殊更狼を持出したりするのは、親しい仲の戯(たわむれ)にせよ、やや悪謔(あくぎゃく)に類するように思う。

 

   木導子が山家に分入るときゝて

 狼に喰はれてかへれ山櫻      許六

 

 狼と桜との取合も多少の不調和を免れぬ。西鶴が『一代男』に「野郎翫(そ)びは、ちり懸(かか)る花のもとに、狼が寢て居るごとし」と書いたのも、這間(しゃかん)の消息を伝えているものの如くである。

[やぶちゃん注:井原西鶴の浮世草子の濫觴とされる草草紙の処女作「好色一代男」(八巻八冊。天和二(一六八二)年大坂池田屋板行)。私はこの手の好色本が生理的に駄目なので読んでいないし、所持もしていない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見ることは出来るが、探す気にもならない。悪しからず。]

2017/12/07

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム 不思議なヤーフ (2) / 不思議なヤーフ~了

 

五章

 

 〔私と主人とは〕それから後も何度も會つて、いろんな話をしました。私はヨーロツパのことについて、商業のこと、工業のこと、學術のことなど、知つてゐることを全部話してやりました。

[やぶちゃん注:実は、現行版では、この段落に改行せずに、

   *

しかし、この國には権力、政府、戦争、法律、刑罰などゝいう言葉がまるでないのです。ですから、こんなことを説明するには、私は大へん弱りました。

   *

という、前段の末尾部分が続いている。ところが、原稿ではここに校正記号があるものの、それは不思議な記号で、次の段落を以下へ持って行け、という指示にしか見えないものなのである。則ち、前の、

「一たいこの國には權力、政府、戰爭、法律刑罰、などといふ言葉が〔は〕〔まるで〕ないのです。ですから、こんなことを説明するには私は大変弱りました。しかし、主人は素晴らしく頭がよいので、私の話を〔も〕だんだん分つてくれました。

を、次の「あるとき、私はこんなことを主人に話しました。」に繋げろ、というのである。しかし、そこには「五章」として分断する段の冒頭が入ることになり、そんなことをすると、文脈が大いに変調してしまって、少なくとも構成上の流れが、理解出来なってしまうのである。思うに、この「フウイヌム」に入ってから、異様に現行版での訳文のカットが多いのを見ても、恐らくは、編集者から、もう、出版上の残りの字数が厳しく制限されて、民喜は、苦渋の激しい短縮を迫られていたのではないかと、私は推理する。そうしたディレンマがこうした仕儀として表われているのであるまいか? と私は深く疑うのである。

 あるとき、私はイギリス主人にこん→こんなことを主人に〕〔云〕ひました。

 「今、イギリス 〔と〕フランス〔は〕長い 長い戰爭をしてゐるのです〔これは〕〔とても長い戰爭で〕〔、〕この戰爭が終るまでには、百万人のヤーフが殺されるでせう」

[やぶちゃん注:作品内時制は「一七一〇年」であるから、これはスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた「スペイン継承戦争」(一七〇一年~一七一四年)である。詳しくはウィキの「スペイン継承戦争」を参照されたい。]

 すると主人は、「一たい國と國とが戰爭をするのは、どういふ譯な〔原因による〕のかと、たづねました。

 そこで、私は次のやうに説明して答へました。

 「それは戰爭をする〔の〕原因なら澤山あります〔が〕だが主なものだけを云つてみませう。まづ王さまの野心です。王樣は、自分の〔もつてゐる〕領地や、人民だけで滿足しません。いつも他人のものを欲しがるのです。第二ばん〔番〕目の原因は〔、〕政府〔の人たち〕が腐敗くさつてゐることです。彼等は自分 で政治に失敗して〔おい〕て、それを誤魔化すために、わざと戰爭をおこすのです。〔します。〕

 さうかと思へば、ほんの一寸した意見の喰ひちがひから戰爭になります。たとへば、肉がパンである〔の〕か、パンが肉であるのかとい〔つ〕た問題、口笛を吹くのが、いいことかわるいことか、手紙は大切にするのがよいか、それとも火にくべてしまつた方がよいとか、上衣の色には何色が一番よいか、黑か、白か〔、〕赤か、或はまた、上衣の仕立は、長いのがよいか短いのがよいか、汚ないのがいいか、淸潔なのがいいか、そのほか、まあ、こんな馬鹿馬鹿しい爭ひから、何百万といふ人間が殺されるのです。〔しかもそれに〕この意見のちがいから起る戰爭ほど、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しほど〔気ちがひじみて〕、むごたらしいものはありません。

 時には、二人の王さまが、よその國の領土をほしがつて、戰爭をはじめる場合もあります。〔また〕時には、ある王が、よその國の王から攻められはすまいかと取越苦勞をして、かへつてこちらから戰爭をはじめることもあります。相手が強すぎて戰爭になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。

 また、人民が餓ゑたり病氣して、國が衰へて乱れてゐる場合には、その國を攻めて行つて〔戰爭しても〕いいよと■ とされて〔ことになつて〕ゐます。

 また〔、〕ある王さまが、ほかの王さま〔を〕〔たよつて〕助けてもらつた〔やつた〕とします、助けてやつた〔その〕〔その〕王さまは今度は〔ついでに〕 かへつて〔その〔相手の→相手の囗〕に攻めて行つて、 相手助けてやつた手さ〔きを今度は殺したり、追つぱらつても、それはなかなか立派なことだと〔、〕されてゐます。〕

 そ〔こ〕で軍人といふ商賣はいち一番→いちばん〕立派な商賣だと考へられて〔されて〕ゐます。つまり彼等〔これ〕は自分に何の害も加へ〔罪もない〕相手〔連中〕を、出來るだけ澤山、平氣で殺すためにやとはれてゐるヤーフなのです。」

[やぶちゃん注:ここのガリヴァーの大事な戦争(国家)批判の台詞は現行版では、

   *

「戦争の原因ならたくさんありますが、主なものだけを言ってみましょう。まず、王様の野心です。王様は、自分の持っている領地や、人民だけで満足しません。いつも他人のものを欲しがるのです。第二番目の原因は政府の人たちが腐っていることです。彼等は自分で政治に失敗しておいて、それをごまかすために、わざと戦争を起すのです。

 そうかとおもえば、ほんのちょっとした意見の食い違いから戦争になります。たとえば肉がパンであるのか、パンが肉であるのかといった問題、口笛を吹くのが、いゝことか悪いことか、手紙は大切にするのがよいか、それとも火にくべてしまった方がよいかとか、上衣の色には何色が一番よいか、黒か白か赤か、或はまた、上衣の仕立ては、長いのがよいか短いのがよいか、汚いのがいゝか、清潔なのがいゝか、そのほか、まあ、こんな馬鹿馬鹿しい争いから、何百万という人間が殺されるのです。しかも、この意見の違いから起る戦争ほど気狂じみてむごたらしいものはありません。

 ときには、二人の王様が、よその国の領土を欲しがって、戦争をはじめる場合もあります。またときには、ある王様が、よその国の王から攻められはすまいかと、取越苦労をして、かえってこちらから戦争をはじめることもあります。相手が強すぎて戦争になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。また、人民が餓えたり病気して国が衰えて乱れている場合には、その国を攻めて行って戦争してもいゝことになっています。

 そこで、軍人という商売が一番立派な商売だとされています。つまり、これは何の罪もない連中を、できるだけたくさん、平気で殺すために、やとわれているヤーフなのです。」

   *

となっている。]

 すると主人〔は〕、私の話を開いて、かう申し〔云ひ〕ました。

「成程、お前が戰爭について、〔お前の〕言ふことをきいてみると、お前が〔いふ、その〕理性ききめ〔はたらき〕といふものもよくわかる。だが、〔それにしても〕お前たちの〔その〕恥かしい行ひは、實際には〔まあ〕危險が少なくて、とにかくくて、まあいのではないか、→い方だらう。〕幸で 幸だ。お前たちの口は、顏に平たくくつついてるから、いくら〔兩方が〕嚙みあつて〔みて〕も、大した傷にはならないし、足の爪も短かくて軟いから、まあこの國のヤーフ一匹で、お前の國のヤーフ十匹ぐらゐは追拂ふことができるだらう。だから、戰場で仆れたといふ死者の数だつて、お前が云ふは大袈裟なことを云つて〔る〕だけだらう。」

 主人がこんな、ものを知らぬことを〔無智なことを云ふので、私は思はず首を振つて笑ひました。私は軍事について■■〔少しは〕知つてゐ〔ました〕ので、大砲とか小銃とか、彈丸、火藥、劍、軍艦、それから、攻擊、砲擊、追擊、破壞、など、さういふ事柄をいろいろ説明してやりました。そして、

 「私は〔わが囗〕の軍隊が〔、〕百人からの敵を圍んで、これを一ぺんに〔、〕木葉みじんに吹き飛ばしてしまふところも〔、〕見たことがあります。また、数百人の人が〔、〕船と一しよに吹き上げられるのも見ました。雲の間から屍体がバラバラ降つて來るのを見て、多くの人は万才と叫んでゐました」

 こんな風に私はもつともつと喋らうとしてゐると、主人がいきなり

 「默れ」

 と云ひました。怒鳴→云ひました。〕

 「成程、ヤーフの性質を知つてゐる者〔〔の〕こと〕なら、今お前が言つたやうな、行〔こと→行〕をしさうなことはわかる〔ことはわかる〕〔そんな忌はしいことも〔やり〕さうだ。〕〔それは〕ヤーフの智惠と力が、その悪心と一緒になれば、〔それは〕できるだらうことだらう。」

 彼は私の話を聞いて、非常に心が乱されました。〔、〕、そして、私の種族を前より〔もつと〕もつと嫌ふのでした。もしこんな ことを 忌はしいこおを毎日耳に聞かされゐれば、慣れてしまつて、嫌らしさを感じなくなるだらうと、彼は考へました。

 それにしても、〔自分が〕理性はあるといつてゐる〔その〕動物が、あ〔そ〕んな恐ろしい極悪の事 行ひをするのなら、これは野獸よりもつと 恐ろしいことではないか、してみると、人間は、理性のかはりに、何か生れつき、悪を増す〔し〕つのらしてゆくやうな性質を持つてゐるのではあるまいか、と主人はひとりで、思いろいろ思ひふけりました。

[やぶちゃん注:以上の段落は、全体に斜線が引かれてあり、現行版でもカットされてしまっている。

 この次の箇所には行間に、一行増しの校正記号があってそこに「六章」とし、「たのしい家」という柱が入れてあって、「一行アキ」とまで書きながら、「一行アキ」以外は抹消されてある。現行版も続いており、実際の現行版の「三、楽しい家庭」はもうすぐなので、続けて電子化しておく。]

 主人は戰爭の話はもう聞きあきてしまひました。それで今度は金錢の話をしてやりましたが、〔これも〕〔主人は〕私の言ふ意味がなかなかのみこめないやうでした。

 「ヤーフといふものは、この貴、お金といふものを澤山溜めてゐさへすれば、綺麗な着物、立派な家、おいしい肉や飮みもの、その他、なんでも欲しいものが買へるのです。そして、〔ヤーフの國では〕なにもかも、お金の力なので次第なのですから、ヤーフどもは、いくら使つても使ひ足つたとか、いくら貯めてももうこれでいいと思ふことはありません。

 〔お金〕のためには、ヤーフどもは〔絶えず〕お互に相手を傷つけあふことをくりかへします。金持は貧乏人を働かせて、らくな暮をしてゐますが、その数は貧乏人の千分の一ぐらゐしかゐません。〔だから〕多くのヤーフは毎日毎日、安い賃銀で働いて、みじめな暮しをつづけてゐます。」

 と、こんなふうに私は話してやりました。それから、ヤーフの國の政治とか法律のことも主人にいろいろ説明してきかせました。

柴田宵曲 俳諧博物誌(21) 熊 二(その2) / 熊~了



 熊について連想に上るのは熊蹯(ゆうはん)と熊胆(くまのい)であるが、俳諧の世界にはあまり見当らない肉食の普及した今日でさえ、熊蹯の味を知る者は、そう身辺に居合せないのだから、昔の日本人の間にどれほど賞味されたか、少しく疑問としなければならぬ。佐藤成裕が『中陵漫録』の中で頻(しきり)に説いているところによると、熊蹯を食うには煮方がある。小刀で粗皮を去って煮ればよく煮える。その肉は葱のように白い、醤油に酒を加え、葱薑(そうきょう)の類を磨って入れると美味である。粗皮をよく削り去らなければ、幾度煮てもよく煮えぬので、古人が「胹熊蹯不熟」といっているのは、いまだこの法を知らぬのだ、というのである。彼が同じ書物の中で、二度までこの法を説いているのを見れば、世人が熊蹯の美味を称しながら、如何に実際に疎かったか、想像に難くない。成裕は奥羽に遊んでこれを食べたといい、この料理法は山人の常に試みて知る所ともいっている。われわれはこの熊蹯通に対して、とかくの言を挿(さしはさ)む資格がない。

[やぶちゃん注:「熊蹯」「熊の手」(熊掌)のこと。「一」の私の注の「和漢三才圖會」の「熊」の引用を参照されたい。

「熊胆(くまのい)」熊の胆嚢を乾燥させた動物性生薬。熊胆(ゆうたん)とも称する。ウィキの「熊胆」により引く。『古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ』、『健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもな』り、『「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)が』知られる。古くから熊を神獣とした『アイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)があ』り、『東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』、『湿潤せず』、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた』。『また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとってもヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。倭人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると』、『松前藩の役人が毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』とある。『近年、日本では狩猟者が減少していることや、乾燥技術の伝承が絶たれていることなどから、熊胆の流通量が減り、取引価格が上昇している。このため、中国などから輸入されている』『(中国は生産量の一割を消費し、韓国・日本に対する供給国とされる』)とある。

「佐藤成裕が『中陵漫録』の中で頻(しきり)に説いている」佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は水戸藩の本草学者。中陵は号。「中陵漫録」は文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここで宵曲が二箇所と言っているのは、「卷之四」の「胹熊蹯」(「熊蹯を胹(ゆび)きても熟さず」。「熊の手は煮ても、少しも、煮上がらない」の意。)と、「卷之十二」の「熊蹯易ㇾ熟」(「熊蹯は熟し易し。」。「熊の手は煮上がりやすい」の意。]である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、先の仕儀で加工して示す。少し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みと注を添えた。

   *

 熊蹯

古人、熊蹯を貴(たふとみ)て食すと雖も、其(その)煮法を知らず。先(まづ)、熊蹯を得て、小刀にて粗皮を削去(けずりさり)て煮る時は、忽(たちまち)に熟す。其肉は白し。葱白(そうはく)[やぶちゃん注:ネギ。]のごとし。醬油に酒を加へ、葱薑(そうきやう)[やぶちゃん注:ネギや生姜(ショウガ)。]の類を磨入(すりいれ)て食すれば美也。此掌の粗皮を、よく削去らざれば、食しがたし。幾度、煮て、熟しがたし。古人、「胹(ユビヽテ)熊蹯不ㇾ熟」と云(いふ)は、此法を、いまだ、しらざる也。

   *

 熊蹯易ㇾ熟

古人、熊蹯を美(うま)しとて、好(このん)で食す。しかれども、「煮て熟しがたし」と云(いふ)。余、甞(かつ)て、奧羽に遊(あそび)て、是を食す。其(それ)、煮る時、蹯の上の厚き皮を削り去(さり)て煮る時は、忽に熟す。其皮ともに煮る時は、中は熟して上の厚皮、熟せざるなり。此法、山人(さんじん)[やぶちゃん注:山深く分け入って林業や猟をする者。]、常に試(こころみ)て、しる處也。古人、未だこゝに至らず。「香祖筆記」曰(いはく)。『用草繩匝韋煮ㇾ之。則易ㇾ熟』と云(いふ)。

   *

「胹」は原典は「ユヒヽテ」であるが、濁音化した。「湯引き」の意であろうが、本来の本字は「煮る・よく煮る」という意味ではある。佐藤はしっかりと掌の表皮を削ぎ落して軽く煮れば(或いは湯引けば)よいと言っており、そんなに煮込む必要はないと言いたいらしい。「忽に熟す」と繰り返し言うのは、そういう意味であろう。「香祖筆記」は、号の王漁洋(山人)で知られる、清初の詩人王士禎(一六三四年~一七一一年:山東省出身)の随筆。その「卷三」に、『熊掌最難熟、故楚靈王請食熊蹯而死。明秦府王孫不羈云、「用草繩匝掌煮、之則易熟。』と出る。この「用草繩匝韋煮、之則易熟。」とは「草繩匝韋を用ひて之れを煮れば、則ち、熟し易し。」で、恐らくは荒繩を以って充分に摺り回して(表皮を削り取って)煮れば、簡単に煮上がるの謂いと採る。単に煮豚のように荒繩で巻き固めて煮ただけでは、佐藤の言の証左にはならぬからである。]

 熊胆の方は何人も耳に熟している。幼時腹を痛む度に必ず飲まされたのがクマノイであった。名前は熊だけれども、実際は何の胆かわからず、あるいは何の胆でもない百草根の類だったかも知れぬ。今でもおぼえているのは口一杯に広がる苦みと、熊の毛を髣髴する黒い色とである。あの薬の袋にはたしか熊の画がついていた。もしあんな苦い薬でなしに、もっと子供に親しいものであったら、熊に対するなつかしみを加える役に立っていたであろう。永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)の説によると、豕(いのこ)の胆は熊胆に劣らぬ功があるといい、熊胆の真偽は容易に弁別出来ぬということであるが、正木直彦(まさきなおひこ)氏の『回顧七十年』の中には、木曾街道で正真の熊胆と称するものを売付けられ、同時にその一味らしい追剝(おいはぎ)に持物を奪われた話が出て来る。熊胆の鑑別は素人には困難であるにせよ、

 

 熊の胆と瓢簞(へうたん)釣(つり)て榾火(ほたび)かな 魯哉

 

は紛れもない熊胆で、それが瓢簞と共に榾火に煤(すす)けているところ、雪に鎖された北国情趣の頗(すこぶ)る顕著なものがある。

[やぶちゃん注:信頼出来る漢方サイトの記載によれば、熊の胆(い)の詐称品としては猪(本文の「豕」。但し、本文でも述べている通り、偽物の中ではまだいい方(効果がある)らしい)の胆嚢であったり、粗悪品の殆どは牛や豚の胆汁に植物の竜胆(リュウタン:リンドウ目リンドウ目リンドウ科リンドウ属トウリンドウ変種リンドウ Gentiana scabra var. buergeri の根茎を乾燥させた生薬)・黄連(オウレン:キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の根茎を乾燥させた生薬)。黄檗(オウバク:ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮を乾燥させた生薬)などのエキスを混和「永富独嘯庵」(享保一七(一七三二)年~明和三(一七六六)年)は江戸中期の医師。ウィキの「永富独嘯庵」によれば、『古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは』、『西洋医学などで補うことを主張した』という。『長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)に生まれ』、十三『歳で医師、永富友庵の養子とな』り、十四『歳で江戸に出』、『医学の修業を始め』た『が、医学にあきたらず』、『山県周南のもとで儒学を学んだ』。十七『歳で帰郷して儒学を講じて』過ごした『が、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き』、『東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、東洋は任官を勧めなかった』という。二十一『歳の時、東洋に命じられ』、『越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ』。二十九『歳の時、病をため、家を離れ』、『諸国を漫遊した。長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ』。この旅行中の見聞を「漫遊雑記」として著したが、それ『を華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる』。三十歳になって、『大阪で開業し、多くの門人を育て』たが、五年後、三十五の若さで『病没した』。著書には他に「吐方考」「囊語」などがある。彼の言葉に、「病を診すること、年ごとに多きに、技、爲すこと、年ごとに拙し。益々知る、理を究ることは易く、事に應ずることは難きことを。」があるとある。夭折が惜しまれる人物である。

「正木直彦」(文久二(一八六二)年~昭和一五(一九四〇)年)は美術行政家。ウィキの「正木直彦」によれば、『東京帝国大学法科大学法律科卒』、『文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を』明治三四(一九〇一)年から昭和七(一九三二)年までの実に三十一年の長き『にわたって務めた』人物である。

「回顧七十年」昭和一二(一九三七)年学校美術協会出版部刊。所持しないので、原典を示せない。]

 

 初雪に熊の出(いで)たる海邊かな   不玉

 

 この句には「出羽國さかた、おなじつるが岡の便に」という前書がついている。不玉といふのは『奥の細道』に「小舟に乘て酒田のみなとに下る、淵庵不玉と云醫師の許を宿とす」とあるその人で、この前書は作者のつけたものでなしに、出羽方面の便にこういう句があったという編者の断り書らしく思われる。東北の人の作だけあって、何らか実感に似たものが窺われるが、いわゆる眼前写生の句ではない。初雪の降り積った海辺に熊が出て来たという事実を、そのまま句にしたものであろう。海辺まで熊が出るのは、やはり食糧問題に苦しんだ結果かと想像する。

[やぶちゃん注:「淵庵不玉」(?~元禄一〇(一六九八)年)は酒田(現在の山形県酒田市)の医師伊東玄順。俳号が「不玉」で、「淵庵」は医号。。芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、酒田で会って彼の邸宅に滞在し(象潟行きの三日間を除く前後九泊)、曾良を加えての三吟歌仙を残している。この時、芭蕉に昵懇して蕉門に入り、酒田俳諧を盛り上げた人物とされるが、現在、酒田市中町一丁目に不玉宅跡が残る以外、事蹟はあまり知られていないようである。詳細は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 52 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ』を見られたい。

「つるが岡」同じ山形県の日本海沿岸(庄内地方)南部に位置する現在の鶴岡(つるおか)市のことか。]

 猛獣が俳諧的材料として適当なものでないことは已に述べた。熊もその斑に列する以上、活動の舞台が猿や狐より狭いのは覚悟しなければならぬ。熊そのものが俳諧に適せぬというよりも、人間と熊との間が俳諧的交渉を生ずるには距離があり過ぎる、ということになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「斑に列する」意味不明。正直言うと、これは「班に列する」の宵曲の誤りではなかろうか? 「班」ならば「仲間」の意で、腑に落ちるからである。]

 明治になつて子規居士は熊の句の上に多少の新材料を用いた。

 

 金時も熊も來てのむ淸水かな   子規

 

という句は居士としても初期の作であるが、足柄山の金太郎を捉え来った点に特色がある。

この童話的な熊は、江戸時代の句には遂に用いられなかったようである。こういう和気藹々(わきあいあい)たる熊は、金時のワキ以外に存在しそうにも思われぬ。

[やぶちゃん注:「寒山落木卷一」の明治二五(一八九二)年の「夏 天文 地理」の「松山」に載る。子規二十五歳。]

 

 しぐるゝや熊の手のひら煮(にゆ)る音 子規

 檻(をり)古(ふ)りぬ熊の眼のすさましく

                    同

 

[やぶちゃん注:前者は「寒山落木卷二」の明治二十六年冬に載り、後者は「寒山落木卷三」の明治二十七年の秋に載る。「すさましく」が季語で晩秋であるが、どうも季語として働いていると読むと、私は寧ろ、句の勢いが甚だしく減衰するように思う。因みに、私は無季語俳句を絶対的に支持する人種である。]

 熊蹯の句は珍しいけれども、恐らく実況ではあるまい。「檻古りぬ」は動物園裏の熊を描いた点で、前代の句と区別することが出来る。

 

 五六人熊担ひ來る雪の森        子規

 

 これは北海道風景を想像したものであろう。明治二十九年の『寒山落木』にこれと並んで「丈(たけ)低き夷(ゑびす)の家や雪の原」という句が記されているのを併せ考うべきものである。南海に生れ、東京に住した居士は、海を越えて遼東(りょうとう)まで蹈出したが、北海道には足迹(そくせき)を印するに及ばなかった。「足たゝば蝦夷(えぞ)の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」と詠じたりもしているから、時に白皚々(はくがいがい)たる北海の曠野(あらの)に想を馳せ、アイヌの熊狩の様などを脳裏に画いていたのかも知れない。「五六人」の句は想像を化して眼前の実景の如く叙したのである。

[やぶちゃん注:「明治二十九年」一八九六年。本段落をよりよく理解するために、この前後の正岡子規の事蹟を、ここで簡単に述べておく。正岡子規(慶応三(一八六七)年~明治三五(一九〇二)年九月十九日:本名・常規(つねのり))は明治二三(一八九〇)年に東京帝国大学哲学科に進学したものの、翌年、国文科に転科し、この頃から句作を開始している。大学中退後、明治二五(一八九二)年に新聞『日本』の記者となり、翌明治二十六年には「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」の連載を開始するとともに、本格的な俳句革新運動に着手した。明治二七(一八九四)年の夏に日清戦争が勃発すると、翌明治二十八年四月、近衛師団附従軍記者として遼東半島に渡ったが、上陸した二日後に下関条約が調印されたため、同年五月、第二軍兵站部軍医部長であった森林太郎(鷗外)らに挨拶をし、帰国の途についた。しかし、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院、同年七月、須磨保養院で療養した後、松山に帰郷している。明治三〇(一八九七)年、俳句雑誌『ほとゝぎす』(後の『ホトトギス』)を創刊している。以上はウィキの「正岡子規」に拠った。

「足たゝば蝦夷(えぞ)の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」明治三一(一八九八)年の「足たたば」の歌群の中の一首。

「白皚々(はくがいがい)」雪や霜などが一面に白く明るく積もっているさま。]

 

 熊賣つて乾鮭(ほしざけ)買ふて歸りけり 子規

 草枯(くさがれ)や狼(おほかみ)の糞熊の糞

                     同

 冬枯や熊祭る子の蝦夷錦(えぞにしき)  同

 

 これらの句もまた北海道生活の想像的産物であろうか。熊を売るという特別な事柄の裏としては、乾鮭を買うのは平凡過ぎるようでもあるが、そこは想像的作品のやむをえざる所であろう。価高きものは他に売り、価低きものを買って暮す小さな生活者の様子も窺われる。居士は先ず熊蹯よりはじめてそれを売るところ、草原に見る熊の糞、熊祭をする子の蝦夷錦まで句中のものにしたが、想像は竟(つい)に実感でない。熊の句の世界は広くなっても、句から受ける感銘はむしろ稀薄な憾(うらみ)がある。

[やぶちゃん注:「熊賣つて」の句は明治三〇(一八九七)年の俳句稿。

「草枯や」明治三十一年の句。

「冬枯や」同じく明治三十一年の句。次の「江戸櫻」も同年。]

 

  無事庵より熊の肉を送り來る

 江戸櫻越後の熊を肴かな         子規

 

 熊の肉はこに至り俳諧の俎上に上ることになった。居士はこの珍味に関して他に何も記しておらぬから、果して熊蹯であったかどうかわからぬが、御馳走主義の居士をよろこばせたことは想像に難くない。無事庵は今成氏、越後六日町の人で、居士と同じ病を抱いていた。われわれは変化に富んだ北海道の諸句よりも、一見平凡なるこの越後の熊の肉を尊重する。居士の句の本色は、彼になくして此に存するからである。

[やぶちゃん注:「今成」「無事按」子規と交流のあった新潟県南魚沼郡六日町の今成文平。]

 熊祭の句は明治以前には見当らぬようであるが、連句の中にはこれを捉えたものがある。

 

  義經(きくるみ)王は大祭なり   太祇

 果果はしてやる熊を乳に育テ     嘯山

  鬢付油(びんつけあぶら)なくてあらなん

                   同

 

 太祇の作中に蝦夷文学が顔を出すのは意外であった。嘯山は前にも熊の句があり、ここでまた熊祭を持出している。何か熊に因縁のある人だったか、書物か人の話かで得た知識を応用したまでか、俳諧に現れた熊として注目に値することはいうまでもあるまい。

 前に北枝の「あら熊」の句について示教を得た野鳥氏の書簡によると、越後、岩代(いわしろ)の国境に近い山村の者は、ブナの実が沢山地上に落ちているのを見て「今年は熊が捕れるぞ」というそうである。野鳥氏なども幼時火燵の上で、炒ったブナの実の薄皮を南京豆のようにはじきながら、年寄たちからこういう話を聞かされたという。ブナの実は余り食べると頭痛がするほど、油の多いものだと書いてあった。これを読んだらいまだ見ぬ雪国の冬が直(じか)に眉宇(びう)に迫るような感じがした。芭蕉は東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなしと喝破したが、雪国の冬を知らぬ者は熊を談ずるに足らぬのかもわからない。

[やぶちゃん注:「義經(きくるみ)王は大祭なり」この付句、意味がよく判らぬので調べて見たところが、義経の生存説に関わるもので、彼が衣川で死なず、蝦夷へと渡って、アイヌ民族によって「キクルミ神」として祀られたという伝承があるらしいことが判った。東北大学附属図書館会議室で行われた展観目録第66号「源義経」に関する図書展目録を参照されたい。にしても、私は正直、この連句の意味はまるで判らぬことを告解しておく。何方か、私に解るように、御説明戴ければ幸いである。

「越後、岩代(いわしろ)」不詳。識者の御教授を乞う。

「ブナの実は余り食べると頭痛がするほど、油の多いものだ」タンニンが疑わられるが、ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata にはタンニンが殆んどなく、特にヒトに対する頭痛を惹起するような毒性があるという記載は、ない。

「眉宇(びう)」「宇」は軒 (のき)、眉(まゆ)を「目の軒」に見立てて言った語。眼前。

「芭蕉は東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなし」服部土芳の「三册子」(さんぞうし:元禄一五(一七〇二)年頃成立、安永五(一七七六)年刊)の「白册子」の一節。「旅、東海道の一筋もしらぬ人、俳諧に覺束なしとも云へりと有」で、これは森川許六(きょりく)の「韻塞(いんふたぎ)」(元禄十五年)に拠るか。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(20) 熊 二(その1)

 

       

 

 『和漢三才図会』は熊の習性についてこういう事を書いている。

  性輕捷にして好んで緣上高木に攀る。人を見れば則ち顚倒し自ら地に投ず。

身体つきはどっしりしていても、なかなかすばやいところがあるらしい。好んで高い木の上に攀じ登り、人を見れば地へころがり落ちるというのはどういう料簡かわからぬが、この習性らしいものを捉えた句が一つある。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」の原文(頭の「本草綱目」の引用部)は前の「一」の注で示したのでそちらを参照されたいが、私はそこで原典に忠実に漢字(略字や異体字の場合もそれを採用している)を起してある(これは私が作業中の「和漢三才圖會」の電子化注(現在は「禽類」(鳥類))で私が厳格に守っている仕儀である)。宵曲が引くのはその、

  性輕捷好攀縁上高木見人則顛倒自投于地

の部分である。御覧の通り、原典は「縁」ではなく「縁」であり、「顚」でなく「顛」である。しかし、ここは特異的に引いた宵曲のそれを忠実に正字化しておいた。何故なら、底本自体が「顛」については「顚」の字を用いているからで、その場合、総てを正字表記とする方が、読者の不審を起さないと判断したからである。また、そこで私は、

  好んで攀ぢ縁(よ)り、高木に上ぼる。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら、地に投(とう)ず。

と訓読した。前の箇所は確かに「縁上」部分に全く送り仮名がないことから、宵曲の読みも一つあろうかとは思う。しかし、宵曲は良安の振った訓点を無視している点で、致命的な反則を犯している。良安は「上高木」としているからである。そもそもが私が敢えて「攀ぢ縁(よ)り」と読んだかと言えば、「縁上」という熟語が不審だったからである。この返り点がなければ、宵曲のように読むかも知れぬが、それにしても「縁上」というのは不審な語である。「高い所のその中でも端の方」の意ならば、確かに転げ落ち易そうな場所ではある。しかし、だったら、「高木上縁」とするべきであろう。そこで私は「縁」は動詞で前の「攀」と熟語になっているのではないかと考えた。「縁」には「寄る」という動詞の意があるから、ある物の近くにすり寄って攀じ登るという意で採ったのである。]

 

 人音(ひとおと)や熊ののたりに散(ちる)さくら 轍車

 

 「のたり」という言葉が顚倒に当るかどうか、多少の疑問があるとして、そうでも解釈しなければ、さしあたりこの句の始末がつかない。木の上に攀じ登っていた熊が、人の来るけはいを知って、どたりと地上にころがり落ちる。その地響であたりの桜の花が散る、というような意味であろう。熊公花に浮れて桜の梢に登り、四方の景色を眺めるとまで限定する必要はない。熊の登るのは他の木で、桜はそのほとりにあるとしてもよかろうと思う。いずれ深山の趣に相違ないが、役者が熊だけに「駒が勇めば花が散る」というほど陽気な芸当にはならぬ。作者がこういう光景を目撃して詠んだか、人から話を聞いて想像を逞(たくま)しゅうしたか、恐らくは後者であろう。熊と桜はちょっと珍しい取合である。落花を配することによって、無気味な「熊ののたり」も多少優美化されたような気がする。

 

 夕立に取(とり)にがしけり熊つかひ 孟遠

 

 岡本綺堂氏の『半七捕物帳』に「熊の死骸」という話がある。麻布の古川の近くに住む熊の膏薬屋が、店の看板代りに飼っていた熊を、大火事の騒ぎで逃すと、人に追われて混雑の中に姿を現し、行く手の邪魔になる人を殴(たた)き倒す。その中に二人の武士のために斬り倒されるという出来事なので、『事々録』弘化二年の条に見えているから、当時の江戸にそんな事があったものであろう。孟遠の句はそれほどの大事件ではない。「熊つかひ」とあるけれども、後の曲馬団のような大がかりなものでなく、屋外で芸をさせる程度の熊ではあるまいか。「丹波の国で生捕った荒熊でござい」というような言葉は、そんなものを見たおぼえのないわれわれでも小耳に挟(はさ)んでいる。突然夕立の降って来た騒ぎに、熊つかいも慌てたと見えて、大事の熊を逃してしまった。夕立の巻はこれでおわるから、作者はその後に来るべき騒動については何も示していない。巷間蜚語(こうかんひご)粉々として、遂にフィリップの「獅子狩」のような結果になるかどうか、それは小説家に一任して差支(さしつかえ)のない問題である。

[やぶちゃん注:「熊の死骸」大正九(一九二〇)年八月号の『文藝俱樂部』初出で、設定時制は弘化二年正月二十四日(グレゴリオ暦一八四五年三月二日)で、舞台は芝三田・高輪である。「青空文庫」のこちらで読める。

「事々録」風聞雑説を集録したもので、作者未詳とされるが、大御番を勤めた堀田重兵衛(堀田甚兵衛)なる人物ではないかとも言われる。所持しないので原典を示せない。

『フィリップの「獅子狩」』フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 一八七四年~一九〇九年)の没後に刊行された二十四編から成る短編集「朝のコント」(Les Contes du Matin 一九一六年:邦訳は誤解を生む。確かに“Matin”はフランス語の一般名詞で「朝」であるが、実はこれは固有名詞で、それらが連載された大衆新聞の紙名であるから、正確には「『ル・マタン』紙のコント」とする正しい)の中の一篇。抄訳本しか所持せず、当該作は所収しておらず、未読。原題もフランス語サイトを検索したが、何故か、リストが見当たらないので示せない。分かり次第、提示する。

「夕立の巻」何の俳諧撰集か不詳。識者の御教授を乞う。]

 熊を馴らして飼うことは、昔もしばしばあったらしい。伴嵩蹊(ばんこうけい)などは熊は人に馴れやすいものだといい、京都で菓物売(くだものうり)の女が熊の子を繫(つな)いで飼っていることを『閑田耕筆』に書いている。香川景樹も生麦(なまむぎ)の茶店に飼っている熊を見て、一首の歌を詠じているが、その歌はさっぱり面白くない。『甲子夜話』には白熊を養う話もあるが、これらはいずれも子飼のようである。

[やぶちゃん注:以上の伴嵩蹊(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:商人で歌人・文筆家。本名資芳(すけよし)。近江八幡出身の京都の商家に生まれたが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念したが、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。代表作は知られた「近世畸人傳」(正編は寛政二(一七九〇)年出版))の随筆「閑田耕筆」の記載は、「卷之三 物之部」の四条目に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

○山獸の中には、熊は人に馴安きものなり。華山のさき、牛尾道と三條への別路に、菓(クダモノ)賣(ウル)女のかり初に出居るが、熊の子をつなぎたるを、おのれ立より見て、其菓物(クダモノ)を買て、熊に與へたれば、女うまいと申せといふ聲に隨ひて、うなりたる。いかにもうまいうまいと聞ゆ。幾度も同じ。伊吹山よりいまだ乳をのむものを、人のとらへ來るを買て、初は物を嚙(カミ)てあたへしに、今は三とせになれりといひしが、猶小なりし。旅人來あひて、是ほ大にして觀場(ミセモノ)の料に賣んとにやといひしに、女いなかく養ひて何かは賣ベき。生涯飼ひぬべし。もとより是がために、物買ふ人も多しといはれて、旅人は得ものいはざりき。殊勝のこたへなりと、思ひてわすれず。

   *

「華山」というのは京都府京都市山科区北花山のことで、「牛ノ尾道と三條への別路」というのはその東で、附近と見てよかろう(グーグル・マップ・データ)。京都と滋賀の境である。それにしても、仄かなペーソスを含んで、しみじみとした、いい話ではないか。

「香川景樹も生麦(なまむぎ)の茶店に飼っている熊を見て、一首の歌を詠じているが、その歌はさっぱり面白くない」これは江戸後期の歌人桂園派の開祖香川景樹(かがわかげき 明和五(一七六八)年~天保一四(一八四三)年)が、尾張国津島の門人の元を訪ねるため(その後、京都の本宅へ向かった)、文政元年十月二十三日(グレゴリオ暦一八一八年十一月二十一日)に江戸を発った、その道中日記である「中空日記」(なかぞらにっき)の中の一節。「奈良女子大学学術情報センター」の「江戸時代紀行文集」にある「中空日記」から(当該)、翻刻文を原本と照合して正字化し、句読点や濁点(推定)及び記号を追加して示す。

   *

六郷のわたしをわたり、川崎より市場鶴見を過て生麥にかゝる。

  あはれなりなまむき村も冬かれて蕎麥のから打から棹の聲

何事にかあらん、ある家に老たる女どもの、つどひて、酒のみしけるが、はやり小哥、かたなりにうたひあざれて、たなうら、かたみにうちかはし、ゑひたはるゝを見て、よめる。

  世のうきやわすれはつらんさゝの葉のさやげば是も一ふしにして

また、熊をかひおける茶店あり、此くま、春は芹をのみくひたるが、今は柹をのみくひけり、さはいへ、投やりて、塵などけがれたるをば、さらにくらはず、されば、たれも手づからやるに、其やるごとに、かならず、おしいたゞきて、くふめり、さて、あるじ、かたらく、「此熊は腹ごもりにてえたるに侍り、今は十歳になり侍りぬ、親ぐまの腹をさかはぎにせし時、その利鎌のさき、かれが月の輪にかゝり侍りて、ほとほと、命あやふく侍りき、其疵、いまに侍り、それ、見せまゐらせよ。」といへば、打すわりてのけさまに、のんどをさゝげたるさま、あはれにかなし。

  月の輪にかゝれるあとを仰ぎてもみするやくまとなのるなるらん

   *

宵曲は出典も明かさず、歌もつまらんと一蹴しているが、この嘱目はかなり興味深い。私が非常に高く評価しているkanageohis1964氏のサイト「地誌のはざまに」の生麦のツキノワグマ:「中空日記」よりでもこの話を採り上げておられるので、是非、お読みになることを強くお薦めする。それによれば、『この熊は後年になると』、『芸を覚えて道行く人を楽しませる様になり、評判をとったことが幾つかの記録に残って』おり、なんと、かの『シーボルトが「江戸参府紀行」等でこのツキノワグマについて紹介して』いて、また、『生麦村の関口家が代々書き継いだ「関口日記」にも幾度かこの熊について記録が現れる』とある。「鶴見区」公式サイト内の7回:シーボルトと熊茶屋(その1)関口日記に見る熊茶屋の顛末及び同「の2も必見で、そこには「白熊」(ツキノワグマのアルビノ)の話もある(但し、「甲子夜話」の話のそれとは別個体。後注参照)

「『甲子夜話』には白熊を養う話もある」私の(私は甲子夜話電子化注も手掛けている)甲子夜話卷之四 12 白熊を参照されたい。]

 

 鶯や熊をやしなふ人も出る  麥水

 

という句も何かそういう飼育者を詠んだものであろうが、如何なる場所、如何なる人であるか、これだけでは見当がつかぬ。上に「鶯や」とあり、下に「人も出る」とあるところを見ると、冬去り春来る季節の循環を扱っているのではないかと思われる。

2017/12/06

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム 不思議なヤーフ (1)

 

三章 不思議なヤーフ

 

[やぶちゃん注:現行版では柱は『二、不思議なヤーフ』。]

 

 私が言葉を覺えるといふので、主人も、子供たちも、召使まで、みんなが私に言葉を教へたがりました。彼等は私のやうな〔つまらぬ〕動物が、〔見かけによらず〕賢いので、がつくりしてゐました。

 私は手あたり次第、物を指さしては名前を聞きます。そして、その名前を手帳に書込んでおいて、發音の惡いところは、家の者に何度もなほしてもらひます。〔それには〕下男の栗毛の仔馬が〔、〕いつも私を助けてくれました。

 この家の主人は〔とても〕〔、〕ものずきで、それに、せつかちでしたから、閑なときには何時間でも、私に教へてくれました。彼は〔、〕はじめ、私をヤーフにちがいないと信じてゐました思つてゐたのださうです。→と考へてゐたさうです。〕しかし、ヤーフ〔の私〕が物を覺えたり、禮儀正しかつたり、綺麗好きなの〔で〕、彼はよほど〔とても〕驚いたらしいのです。ヤーフなら決して、そんな性質は持つてゐません。

 〔彼に→彼に〕一番わからなかつたのは、〔私の着てゐる→私の着てゐる〕洋服のことだつたらしいのです。→のことで、あれは〔一たい何だらうやはり身躰の一部分なのだらうか→だらうか〕と、彼は何度も考へてみたさうです。〕ところが、私はみんなが寢靜まつてしまふまでは、決してこの洋服を脱がなかつたし、朝はみんなが起きないうちに、ちやんと身に着けてしまつてゐたのです。

[やぶちゃん注:現行版は最後の一文は独立段落で、『ところで、私はこの洋服を、みんなが寝静まってしまうまでは決して脱がなかったし、朝はみんなが起きないうちに、ちゃんと身に着けていたのです。』と順接の接続詞で始まっている。但し、原稿では「ところで」の「で」が抹消されたようにも見える。しかし乍ら、そこに「で」の字を添えてはいない。]

 馬のやうにものが言へて、上品で利こう〔巧〕さうな、不思儀なヤーフが現れたと、私のこと〔が〕ひようばん〔評判〕になると、近くの馬たちが、〔度々〕、この家を訪ねて來るやうになりましたました。私〔に〕逢ひに來る馬たちは、私の身躰が、頭〔顏〕と兩手〔の〕外は、〔まるで〕普通の皮膚が〔まるで〕見えないの〔で〕驚いてゐました。〔いつも〕私は誰でも裸のところを見せないやうに工夫〔用心〕してゐました。

 ところが〔、〕ある朝、主人は栗毛〔召使〕の仔馬に云ひつけて私を呼びに來だし〔やり〕ました。〔その時〕私はまだぐつすり眠つてゐたので、服は片方にずり落ちシヤツは腰の上に載つてゐました。これを見て召使はすつかりびつくり しまひました〔驚き、〕〔早速このことを主人に云つてしまつたのです。〕

 それから、私が服を着て、主人の前に行くと、主人は不審そうにたづねました。

[やぶちゃん注:「すつかりびつくり しまひました〔驚き、〕」の「て」が残っているのはママ。この辺り、部分的に抹消しながら、そこで立ち止まって推敲している感じを再現したかった目的もある。現行版は前の段落と繋がって、

   *

 ある朝のことでした。主人は召使に言いつけて、私を呼びに来ました。そのとき、私はまだぐっすり眠っていたので、服は片方にずり落ち、シャツは腰の上に載っていました。これを見て召使はすっかり驚き、さっそく、このことを主人にしゃべりました。私が服を着て、主人の前に行くと、主人は不審そうに尋ねました。

   *

となっている。]

 「お前は寢た時と起きてゐる時とでは、まるで姿が變るといふことだが、それは一たいどういふわけなのか」

 私は今迄〔これまで〕、あの厭なヤーフ〔族〕から〔できる〕区別してもらふために、洋服のことは祕密にして〔おい〕たのです。しかし今はもう隱せなかつたので〔くなりまし〕た。それに私の服も〔もう〕大分ひどくなりかけてゐますから、いづれボロボロになるでせう。〔さ〕うなれば何か新しいのを拵へねばなりませんから、その時、すつかり〔この〕祕密はわかつてしまひます。そこで主人に打ち明けてしまひました。

[やぶちゃん注:「それに私の服も〔もう〕大分ひどくなりかけてゐますから、いづれボロボロになるでせう。〔さ〕うなれば何か新しいのを拵へねばなりませんから、その時、すつかり〔この〕祕密はわかつてしまひます。」この部分の上部罫外には、大きな下向き丸括弧が被せてあり、現行版ではこの部分は丸ごとカットされている。]

 「私の國では、仲間たちは〔みんな〕、動物の毛で作つたものを身躰につけてゐます。これは寒さや暑さを防ぐためと、〔それから、〕禮儀のためにさうするのです。それで、もし御命令〔それを見せよ〕とおつしやるなら、私は早速裸になつて、お目にかけてもよろしいのです。」

 さう言つて、私はまづボタンを外して上衣を〔ぬ〕ぎました。次にはチヨツキ、それから順順に、靴、靴下、ズボンも〔ぬ〕いで行きました。

 主人はさも不思議そうに眺めてゐましたが、やがて私の洋服を、一枚づつ拾ひあげて叮ねいによくそれを〕檢査し〔てゐ〕ました。それから今度は、私の身體をやさしく撫でてくれたり、私の周りをぐるぐる廻つて眺めてゐました。それから〔かう云ひました。〕

 「やはり〔これは〕ヤーフだ、ヤーフにちがひない、だが、それにしても皮膚の軟かさ、白さ、それから身躰の方々に〔あまり〕毛のないこと、四足の爪の形が短かいこと、いつも二本足だけで步くことなんか、他のヤーフどもとは〔、〕大分変つてゐるやうだな」

 〔それから、〕私が寒さにブルブルふるへてゐるのを〔ので→と、〕顧

 「もう見たくないから、服を着てよろしい」と彼は云〔い〕ひました。そこで、私も彼にこう言つてやりました。

 「一つどうも面白くないことがあるのですが、それは〔あなたが〕頻りに私をヤーフ、ヤーフと呼ばれてゐること〔なの〕です。なにしろ、あんないやな動物たらないのですから、私だつてヤーフは大嫌ひなのです。どうか、これからはヤーフと呼ばれるのだけはよして下さい。それから、この〔洋〕服のことは、あなたにだけ打明けましたが、まだほかの人には〔どうか〕祕密にしておいて下さい」

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「あんないやな動物たらないのですから」は「あんないやな動物」っ「たら」、「ないのですから」の意。「たら」は「といったら」「といった日にゃ」の謂いである。]

 主人は私の願ひを快く承知してくれました。それで、この洋服の祕密はうまく守られました。

 ある日、私は主人に身上話をしてきかせました。

 「私は遠い遠い國からやつて來たのです。〔はじめ〕私のほかに五十人ばかりの仲間が一緒でした。」〔でした。〕に乘つたのです。

 私は船のことを出來るだけよく口で説明しました。 船といふものは

 この家よりも、もつと大きい、木でつくつた容れものに乘つて、海を渡つて來たのです。ところが途中で仲間喧嘩が起つて、私はこの海岸へ上陸させられました。それから私は〔が〕あの厭なヤーフたちににいぢめられてゐると、あなた肩に救はれたのです」

なのです。のことなのです。→に乘つて、海を渡つて來たのです。」〕

 〔私は船のことをうまく口で説明し、それが風で動くことも、ハンカチを出して説明しました。〕

 すると、主人はかう聞きます。

 「さうすると、誰が一たいその船を作るのだ。またお前の國のフウイヌム(フウイヌムといふのはこの國の言葉で、馬のことなのでした。)等〔は〕、よくその船をヤーフなどにまかせておくだらうか。」

 私は彼にかう云ひました。

 「どうか私が〔の→が〕話を

 「実はこれ以上、お話しするには、是非その前に、決して怒らないといふことを約束して下さい」

[やぶちゃん注:原稿の挿入指示に従って動かしてあるが、現行版の「フウイヌム」の説明位置は原稿の最初の位置に戻っており、丸括弧割注ではなく、地の文として独立段落として書かれてある。以下に示す。

   *

「そうすると、誰が一たいその船を作るのだ。また、フウイヌムたちは、よくその船をヤーフなんかにまかせておけるだろうか。」

 フウイヌムというのはこの国の言葉で、馬のことでした。私は彼にこう言いました。

「実はこれ以上、お話しするには、ぜひその前に、決して怒らないということを約束してください。」

   *]

 彼は承知しました。そこで私は話しました。

「実は船を作るのは、みんな私たちと同じやうな動物なのです。それは私の國だけでなく、〔今迄私は隨分旅行しましたが、〕何處の國へ行つてみても、私と同じ動物が一番えらいのでした〔す〕。ところが、私はこの國へ來てみて、フウイヌムが一番えらいので、〔非常に〕驚きました。

 それはあなた方が、ヤーフと呼んでゐられる人間に、理性らしいものがあるといつて驚かれるのと同じこと理窟→こと〕でもあの汚ならしい動物はなんとも私には譯がわかりません。」

[やぶちゃん注:以上の「それはあなた方が、ヤーフと呼んでゐられる人間に、理性らしいものがあるといつて驚かれるのと同じこと〔理窟→こと〕でもあの汚ならしい動物はなんとも私には譯がわかりません。」の箇所は現行版では丸ごとカットされて、ガリヴァーの台詞は「驚きました。」で鍵括弧が閉じて終わっている。

 〔私がかういふと、彼はたづねました〔びつくりして〕〔訊ねます〕。

 「お前の國では、そのヤーフが一番えらいのか。そんな馬鹿なことがあ〔つ〕てたまるか。それでは、お前の國にはフウイヌムはゐないのかい。ゐるとすれば何をしてゐるのか、それを言つてみ給へ。」

 私は答へました。「フウイヌムなら隨分たくさんゐます。夏は野原で草を食べてゐるし、冬になると家の中で飼はれて、乾草や燕麥を貰つてゐます。そして、召使のヤーフが、身躰を磨いたり、たてがみを梳いてやつたり、食物をやつたり、寢床を拵へてやつたりするのです」

 「〔な〕るほど、それでは、お前の國で〔は〕フウイヌムの、〔が主〕人でヤーフは召使なのだな」と主人はうなずきました〔す〕。

 〔「いや、実は〕フウイヌムの話をこれ以上おきかせすると、きつと、あなたは怒られるでせう。だから、もうこの話は申上げません〔よしませう〕」と私は云ひました。しかし、彼はなにもかも、ほんとのことが聞きたい〔のだ〕と云ふの〔せがみました→す。〕私はまた話しました。

 「私の國ではフウイヌムのことを馬と呼んでゐますが、それは最も立派な美しい動物で〔す。〕力もあり、速く走ります。だから貴人に飼はれて、旅行や競馬や馬車を引く仕事をしてゐる時は、大へ必ずずいぶんいたはられます。〔大切にされます。〕しかし、病気にかかつたり、跛になると、今度は他所よそへ賣られて、いろんな苦しい仕事に追使はれます。

[やぶちゃん注:「追使はれ」「追ひ使う」で「忙しく働かせる・追い回してこき使う」の意。なお、現行版ではここで改行はなく、続いている。]

 そして〔れに〕死ねば〔死ぬで〕、皮→を〕剝がれていい値段で賣られ、肉は犬なんかの餌にされます。そのほか、百姓や馬車屋に飼はれて、一生ひどくこき使はれ、ろくな食べものももらへない馬もゐます。」

 それから、私は〔〕馬の乘り方や、手綱や、鞍、拍車、鞭などのことを、できるだけわかるやうに説明してやりました。それから、鐡といふ硬い板を、〔馬の〕足の裏に打ちつけることも話してやりました。

 主人は一寸、腹を立てたやうな顏を見せましたが、また、かう云ひだしました。

 「それにしても、お前らが〔よくも〕フウイヌムの背中へ乘れるものだ。この家のどんな弱い召使だつて、一番強いヤーフを振落すくらいわけないし、ヤーフ一匹押潰すことなど誰にもできるのだ。」

 私はまら云ひました。

 「私の國の馬はもう三つ四つの頃から、訓練されます。どうしても〔い〕けない奴は、荷馬車ひきに使はれます。もし惡い癖でもあれば、仔馬のうちにひどくひつぱたかれるのです」

 〔かう言つても〕主人は私の話がまだ充分にわからないやうでした。そしてそして〔かう→かう〕云ひます。〔ました。〕

 「この國では、動物といふ動物は、みんなヤーフを毛嫌ひしてゐる。弱い者はよけて通り、強い者は追つ拂つてしまふ。まあ〔といふあん〕ばいだ。してみると、かりにお前たち人間が理性をもつてゐるとしても、あらゆる動物から嫌はれてゐるのをどうするのだらうか。どうして彼等を馴らして使ふことなどできるのか、そこのところがわからない」

 しかし、彼はもうその話はそれで打切りました。それから、今度は、私の經歴や生國のことや、この國へ來るまでに出あつた〔、〕いろんな事を話して〔きかせて〕くれと云ますます。だしました〔ふ〕〔のです。〕そこで私は言ひました。

 「それはもう、なんなりとお話いたしませう。ただ、心配なのは、とても説明できないやうな事が〔■■〕あるのではないかしらと思ひます〔と思います〕。あなたなどは考へたこともないやうなことがあるのであらうと思ひます。

[やぶちゃん注:現行版は削除部分が復活している。

   *

「それはもう、何なりとお話しいたしましょう。たゞ、心配なのは、とても説明できないような、あなたなどは考えたこともないようなことが、多少あるのではないかと思います。

   *]

 まづ、私の生れはイギリスといふ島國です。この島はここから隨分離れてゐます。あなたの召使の一番強い者が步いて行つても、太陽が一年かかつて一周りするだけかかるでせう。私は一つ金儲をして、それで帰つたら家〔族〕を養はうと思つて、國を出たのです。

 今度のこの航海では、私が船長になつて、五十人ばかりのヤーフを使つてゐました。ところが、これが海〔上〕で大分死んでしまつたので、別のヤーフをやとひ入れました。ところが、それが海賊だつたのです。」

 こんな風に〔私は〕話し〔て行き〕ましたが、主人は海賊などといふものがよく〔てんで〕分らないのでした→した。〕

 「いつたい、なんのために、何の必要があつて、〔人間は〕そんな惡いことをするのか。」

とききます。〔そこで〕私はいろいろ骨折つて、〔人間の惡徳を〕説明しましたが、彼はまるで一度も〔、〕見も聞きもしなかつた事を聞かされたやうに、驚きまし〔いきどほるのでし〕た。

 一たいこの國には權力、政府、戰爭、法律刑罰、などといふ言葉が〔は〕〔まるで〕ないのです。ですから、こんなことを説明するには私は大変弱りました。しかし、主人は素晴らしく頭がよいので、私の話を〔も〕だんだん分つてくれました。

[やぶちゃん注:実は原稿の上では、次の章に関わってやや説明の難しい校正指示記号があるのであるが、それは次章で説明することとする。]

ブログ1030000アクセス突破記念 時任爺さん 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十二月発行の「別冊文藝春秋」初出。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 第二段落の「訳あい」は「訳合(わけあ)い」で「理由・事情・道理」の意。

 「ヒネタクアン」は捻ねこびた、やせ細った大根を用いた沢庵のことであろう。

 「稲田堤」は神奈川県川崎市多摩区のJR東日本南武線稲田堤駅及び京王電鉄相模原線京王稲田堤駅周辺を指す地域名。町名としては南武線稲田堤駅が所在する菅稲田堤(すげいなだづつみ)が残る。附近(グーグル・マップ・データ)。梅崎春生の随筆「日記のこと」にも登場する地名である。梅崎春生自身、敗戦の一ヶ月後の昭和二十年九月に上京した際、川崎の稲田登戸の友人の下宿に同居している(現在の神奈川県川崎市多摩区登戸。現在の小田急電鉄小田原線の「向ヶ丘遊園駅」は昭和三〇(一九五五)年四月に改称されるまでは「稲田登戸駅」であった。(グーグル・マップ・データ)。南武線登戸駅は南武線稲田堤とは二駅しか離れていない)。そうして、かの名作桜島(リンク先は私の電子化注PDF版。分割の連載形式のブログ版は)は、まさにこの稲田登戸で書かれたのである(春生の「八年振りに訪ねる――桜島――」を参照のされたい)。

 「代用醬油」ウィキの「代用醤油によれば、『第二次世界大戦前後、日本では物資の不足のため、本来の醤油醸造に必要な原料である大豆や小麦の入手が困難となり、醤油の生産量が低下した。さらに戦後、醤油は配給品となり、流通量が不足することとなった。参議院において』『「加工水産物、蔬菜、味噌、醤油等についてもその配給量を増加し得るような方策を講じ」と、増産と流通統制が提案されているように、食糧不足の中でもさらに重要な問題として扱われていた。しかし普通の醤油は、原料の問題のみならず』、『醸造のために大規模な設備と長期間の醸造期間を必要とし、短期間での増産はできない。そのため代用品として、醤油粕を塩水で戻し、さらに絞ったものを用いたり、魚介類やサツマイモの絞り汁、海草などを原料として用い、カラメルや、前述の醤油粕の絞り汁等で風味を調整したものを用いることがあった』。『これを代用醤油と呼ぶ』。『醤油の味と香りに似せるためには、うまみと香りを得る必要があり、物資不足の際は入手可能な様々なもの』『を原料としている。その際は動植物を問わず生産の原料とされ、研究対象としては、人間の廃毛髪を原料としたものも検討された』とあり、他の多くの記載でも人の髪の毛からの醤油製造は実用化されなかったとし、二〇〇四年に中国国内で人の毛髪で醬油を作っている業者の話がすっぱ抜かれた時も、おぞましい感じで私の友人らはその記事の話していたが、現に私が二十代の頃に理髪して貰っていた理容師は、昭和三十年代の小僧さん時代、店の毛髪を多量に買って行く業者がいたので、「何にするの?」と訊いたら、「醬油を作るんじゃ。」と答えたと私に語って呉れた。日本でも非合法に裏で人の毛髪で醬油は造られていたし、その醬油を知らずに使っていたのだと私は信じて疑わない。その製法は毛屑を十%の塩酸の中に入れて二十四時間ほど煮沸した後、濾過して苛性ソーダで中和させるのだそうである(ウィキの「人毛醤油に拠る)。そうしてまた、別にそうして作った醬油を私は「おぞましい」とは思わない人間である。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1030000アクセスを突破した記念として公開した。【2017年12月6日 藪野直史】]

 

   時任爺さん

 

 昭和二十一年の四月十日夜、僕は時任(ときとう)爺さんと喧嘩をした。

 どういういきさつだったからか、もうはっきりは覚えていないけれど、僕が買ってきた朝鮮濁酒(どぶろく)を二人して飲んでいるうちに、話が戦争の話になり、僕が戦争の悪口をさんざん言っている中に、時任爺さんがしだいに怒り出してきたのだ。どんな気持で怒り出したのかよく判らない。

「戦争に負けてよかっただなんて、あんたそんなことを言ってもいいのかい」

 言っていいにも悪いにも、真実そう思っているのだから仕方がない。承服出来る訳あいのものでない。だから僕は前言を取消さず、ますます言いつのる。今思うと、相手は爺さんだから、手加減すればよかったのに、生憎(あいにく)僕の身体には、濁酒の酔いが回り過ぎていた。どうも朝鮮濁酒という飲料は、僕には抑制力を失わせるように働くようだ。

「いいとも。いいとも。言って何が悪いんだい」

「何が悪いって、悪いにきまってるじゃねえか。第一、戦死した何百万という人に、そんなこと言っちゃ済むめえ」

「戦死した人は戦死した人さ。おれたちは生きてるんだよ。生きて酒を飲んでるんだよ。安楽に飲んでるところに、戦死者を引っぱり出すなんて、その方がよっぽど悪いや」

 そんなことを言い合っているうちに、時任爺さんの顔がしだいにどす黒くなり、額ににょきにょきと青筋が立ってきた。時任爺さんは生来の癇症(かんしょう)で、戦争前は屋台のスシ屋で、その頃もよくお客と喧嘩をした。爺さんの屋台スシは七箇で十銭で、形は小さかったけれども、小額の金でたくさん食ったような気分になるから、割に繁昌(はんじょう)した。〈時寿司〉という屋号で、僕もその頃お客の一人として、時任爺さんに知り合ったのだ。僕なんかいい顧客だったが、それでもその頃二三慶、爺さんと喧嘩したことがある。その頃から爺さんは立腹すると、顔がどす黒くなり、青筋がもりもりとふくらんだ。怒るのにふさわしい、都合のいい顔だった。

「どうしても取消さねえというのか」

 気分を落着けるためか、濁酒を入れた瓶を耳のそばに持って行き、爺さんはことことと振った。僕は答えた。

「そうだよ」

「では、仕方がねえ」

 瓶をどすんと畳に戻し、時任爺さんは思い切ったように言った。

「じゃあこの家を出て行って貰おう。おれの家なんだからな。明日にでも出て行って貰おう。そんな不当なことを言うやつに、部星は貸して置けねえ」

 僕は黙っていた。すると爺さんはたたみかけた。

「明日だぞ。明日、とっとと出て行って呉れ」

 そのままふらふらと立ち上って、自分の部屋に戻って行った。自分の部屋と言っても、三つしか部畳がない掘建小屋で、唐紙(からかみ)や障子も破れたりへし折れたりしているから、全体がひとつの部屋と言っていい。その玄関に当る部屋を数箇月前、僕は時任爺さんから借り受けたのだ。ちゃんと間代は払ってある。爺さんは戦時中に婆さんと死に別れ、息子が一人いるが、これがだらしない息子で、横浜の方の会社に勤めていて、当時で月給を六百円以上取っていたが、給料を貰ったとたんに進駐軍のチョコレートを二百円も買い込み、一晩で食べてしまったりして、ろくに爺さんに金を入れない。だから爺さんとしては、僕の払う毎月の部足代を、大いにあてにしているのだ。

 そこで僕も面白くなくなり、どたんばたんと蒲団をしいて眠った。

 翌朝、時任爺さんが僕の蒲団のそばに立ちはだかり、足で僕を揺り起した。

「今日だぞ。今日、とっとと出て行くんだぞ」

「判ってるよ」

 僕もむっとしてはね起きた。他人を足で起すなんて、言語道断のやり方だ。見ると爺さんはまだ青筋を立てている。戦争前のスシ屋時代は、怒っても三十分も経(た)つと元の顔になったもんだが、一晩越しても青筋がとれないなんて、年齢のせいで身体や気持がこちこちにこわばっているのだろう。

「手続きを済ませて、とっとと出て行くよ」

 時計を見ると九時だ。外に出て小川で顔を洗い、それから外に飛び出した。飯なんか食っている暇はない。町会、営団、煙草屋など回った。下駄の鼻緒ががくがくしてきたので、煙草屋で鼻緒を買った。十一円五十銭だ。それからとっとっと登戸の駅前に来ると、地べたにむしろを拡げて、いろんな露天商が店を出していた。その一つ一つを横目で見ながら歩いていると、下駄売りがいて、それが時任爺さんぐらいの年頃の老人で、水洟(みずばな)をすすり上げながら、ええ安い下駄、ええ、途方もなく安い下駄、と調子をとって歌っていた。

 見ると安い方の下駄が八円で、高い方のが十円だったので、僕はもうむらむらとして、ポケットの鼻緒をにぎりしめた。ちょっと見た感じでも、僕が買った鼻緒と、八円のやつの鼻緒と、品質はほとんどかわりがなかったからだ。鼻緒だけで十一円五十銭だというのに、こっちの方は八円で、しかも台までついている。

 それで気分をこわしたから、更に足早になって、とっとっと家に戻ってきた。家に戻ったとたんに、下駄の鼻緒がぷっつり切れた。

「ちくしょうめ」

 声には出さないが、そんな気持で玄関に飛び上り、せっせと荷造りを始めた。

 荷造りはまたたく間に済んだ。僕の荷物というのは、蒲団だけだったからだ。復員して来て、蒲団だけ持って上京、電車の中でぱったりと時任爺さんと再会、そして誘われるまま爺さんの家にころがり込んだのだから、それも当然だ。

 もっともこの数箇月で、生活のかすみたいながらくた道具がたまったが、それはさっぱり燃すことにきめた。がらくたなんて手足まといだ。いくら物がない時でも、物に執着するようでは、強く生きて行ける筈がない。

 僕は玄関の上り框(がまち)に腰をおろし、おもむろに下駄の鼻緒をすげ替え始めた。あのいまいましい鼻緒でだ。上り框の下には、俵にくるんでさつま芋が一貫目あまりころがっている。一週間ほど前、買出しに行ってきたその残りだ。それを見た時、やっと空腹が僕にやってきて、腹の虫がググウと啼(な)いた。

「おおい。爺さん」

 僕は首を奥にふり向けて呼びかけた。

「爺さんは朝飯を食ったかね?」

 返事はなかった。いないわけではない。唐紙や障子は破れたりへし折れたりしているから、部屋の真中に向うむきになって、うずくまっている時任爺さんの姿が見える。この爺さんが朝飯を食ったかどうか、わざわざ訊(たず)ねてみないでも僕には判っているのだ。同じ家に住んでいるから、そんなことぐらい直ぐ判る。昨夜濁酒を飲み始めた頃、明日芋の買出しに行こうと向うから持ちかけたのだから、爺さんの食糧の手持は底をついたにきまっている。

「ここに芋がすこし残ってるから、お別れのしるしに、一緒に食べないか」

「いやだ」

 声が戻ってきた。

「食うんなら、お前だけで食え!」

「だって爺さんは、朝から何も食ってないんだろ」

「食っても食わなくても、余計なお世話だ」

「おいしいよう、焼芋」

 僕はわざと声を大きくしながら、芋を俵ごとごそごそと引きずり出した。

「お庭で焼いて食うんだよ。爺さんも一緒に食えよ」

「まっぴらごめんだ」

 針金のような声が飛んできた。まだ額に青筋を立てているにちがいない。

 僕は芋俵を庭に運び、更にがらくたをえっさえっさと庭に運び出した。庭というのは、爺さんの部屋の前にあるのだ。がらくたを底に置き、芋俵をその上に乗せて、マッチで火をつけた。儀一枚では足りそうになかったので、そこらをかけ回って空俵二枚を探し出し、火にたてかけた。

 火は景気よく、面白いようにぽんぽん燃えた。芋が焼けてくるらしく、焼芋のにおいが立ち始めた。

 すると破れ障子をひらいて、たまりかねたように時任爺さんがのそのそと姿をあらわした。丼を手に持っている。縁側に大あぐらをかいた。丼を膝の上に置き、指でつまんで、小量ずつをむしゃむしゃと食い始めた。

 その丼の中に何が入っているか、わざわざのぞかないでも、僕には判っている。ヒネタクアンと土筆(つくし)の煮付けだ。ヒネタクアンは稲田堤の百姓からゆずって貰ったもの、土筆は多摩川べりから摘んできて、それを代用醬油で煮付けたものだ。あんなもの、いくらむしゃむしゃ食べたって、腹の足しになるわけがない。足しになるわけがないと言っても、芋のにおいに刺戟されれば、それでもつまむ他はないのだろう。

 天気がおそろしく良かった。まるで天の底が抜けたように、雲が一片も見えないし、風もそよとも吹かなかった。がらくたと俵は勢いよくぼうぼうと燃え、煙はまっすぐ一筋に空に上り、やがて燃えつきて下火になってきた。がらくたは燠(おき)になり、俵はそのままの形で灰になった。灰になっても、風がないから、俵の形はくずれない。

 僕は縁側に、時任爺さんのすぐ前に新聞紙をしいた。台所から竹箸(たけばし)を探し出し、燠の中から焼芋を一箇ずつつまみ出し、縁側にかけ寄っては、一つ一つ新聞紙の上に並べた。数えて見ると、拳固ぐらいの大きさのが、一ダースあった。一ダースの芋はこんがり焼け、ほやほやと旨そうな湯気を立てていた。僕は縁側に斜めに腰をおろし、時任爺さんの顔を見た。

「爺さん。食べろよ」

「いやだ」

 土筆をつまみ、口に放り込み、不味そうににちゃにちゃと嚙んでいる。額にはまだ青筋を立てている。見るまいと思っても、どうしても視線が焼芋の方に行くらしく、爺さんの表情は苦しそうだった。

「そんなに強情を張らないで、食べたらいいじゃないか。あんまり腹をへらすと、身体に毒だよ」

「余計なお世話だ。おれは食いたい時、おれのものを食う。お前のものは、お前が食え」

「おれも食うよ。しかしここに、こんなにあるんだから――」

「こんなにある? たったそれっぽっち」

 時任爺さんはおそろしく軽蔑したような口をきいた。

「それっぽっち、一人で食えねえのか。若いもんが何というざまだ」

「なに」

 僕もいささか腹を立てた。

「食えるよ。折角(せっかく)半分食わせてやろうと言うのに、食わないんなら、おれひとりで食っちまうぞ」

「ああ食いな。ぞんぶん食いな。おれがここで見ててやるからよ」

 僕は憤然と芋の一箇をつまみ上げた。口に持って行った。一ダース全部を食う自信はなかったが、もうこうなれば、食い尽さなければいけなくなった。僕は縁側に飛び上って、時任爺さんと向い合って大あぐらをかいた。土筆の煮付けを嚙む爺さんの顔を、真正面に眺めながら、むしゃむしゃと僕は焼芋を嚙んだ。

 三つ目ぐらいから、僕はしだいにかなしくなってきたが、それに負けないために眼を大きく見張り、意地になって芋を食い続けた。

1030000アクセス突破

「俳諧博物誌」の注で「和漢三才図会」の「熊」の電子化などにリキを入れていたうちに、ブログが1030000アクセスを突破してしまっていた。午後に記念テクストにとりかかる。

柴田宵曲 俳諧博物誌(19) 熊 一

 

     

 

      

 

 獅子は石橋(しゃっきょう)の牡丹に戯れると相場がきまり、虎は雞林八道(けいりんはちどう)に横行するのみで、船便がなければ内地へは渡って来ない。明治以前の日本人は猛獣とあまり交渉がなかった。武芸者や狩猟家はあるいは髀肉(ひにく)の歎(たん)に堪えなかったかも知れぬが、一般人民に取ってこれほど幸(さいわい)なことはあるまい。苛政虎の如しなどと文字だけは並べたところで、真に虎害の恐るべきことを知っている人は、絶無といっていい位だから、虎の話を聞いて色を失う心配もないわけである。国内太平を謳歌し得る一理由としては、猛獣毒蛇の難がないことも算えられなければならぬ。

[やぶちゃん注:「熊」ここには以下の叙述から、本邦に棲息している二種、動物界 Animalia脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 食肉目 Carnivora イヌ型亜目 Caniformia クマ下目 Arctoidea クマ小目 Ursoidea クマ科 Ursidae クマ亜科 Ursinae クマ属 Ursus ツキノワグマ Ursus thibetanus 亜種ニホンツキノワグマUrsus thibetanus japonicus 及び、クマ属ヒグマ Ursus arctos 亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis を挙げておく必要がある。

「獅子は石橋(しゃっきょう)の牡丹に戯れる」知られた能の「石橋(しゃっきょう)」(作者未詳)に基づいた謂い。入唐して仏跡を巡り歩いたワキ僧寂昭(じゃくしょう 応和二(九六二)年頃?~長元七(一〇三四)年:「寂照」とも表記。俗名、大江定基。平安中期の天台宗の僧。参議大江斉光(ただみつ)の子。因みに、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも愛おしさのあまり葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったことにあった。後者は私の「雨月物語 青頭巾  授業ノート」で電子化しているので参照されたい)が清涼山の麓へと辿り着いた。そこはまさに仙境であった。そこから山の中へは細く長い石橋が架かっており、その先は文殊菩薩の浄土であるという。寂昭は意を決して橋を渡らんとするが、そこに現われた前シテ(樵或いは童子)が「尋常な修行では渡ることは出来ぬから止めよ」と諭し、「暫く橋のたもとで待つがよい」と言い残して消える(或いは橋の謂われと文殊の浄土の奇特を教えて去る)。ここで中入となり、後見が舞台正面に一畳台と牡丹が据える。後段は「乱序」という緊迫感溢れる特殊な囃子が始まり、それを打ち破るように獅子(後シテ)が躍り出でて、法師の目の前で文殊菩薩の霊験としての勇壮な舞いを披露する。一部で参照したウィキの「石橋(能)」によれば、『小書(特殊演出)によっては、獅子が二体になることもある。この場合、頭の白い獅子と赤い獅子が現われ、前者は荘重に、後者は活発に動くのがならいである。前段を省略した半能として演じられることが多い。まことに目出度い、代表的な切能である』とある。

「雞林八道」鶏林八道。「朝鮮八道」とも称し、李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島に置いた八つの道(行政区画)で、京畿道(キョンギド)・忠清道(チュンチョンド)・慶尚道(キョンサンド)・全羅道(チョルラド)・江原道(カンウォンド)・平安道(ピョンアンド)・黄海道(ファンヘド)・咸鏡道(ハムギョンド)の総称(それぞれの位置はウィキの「朝鮮八道こちらの地図を参照されたい)。それぞれの四百年以上に亙って同一の区分が用いられたため、これ及び単に「八道」は「朝鮮全土」のことも指した。ここもその用法。

「髀肉(ひにく)の歎(たん)」功名を立てたり、手腕を発揮したりする機会のないことを嘆くこと。「三国志」「蜀志」の「先主傳」注で、蜀の劉備が、平穏な日々が続いたために、馬に乗って戦場に行くことがなくなってしまい、「髀」(「脾」とも書く)肉=内腿(うちもも)の肉が肥え太ってしまったのを嘆いた、という故事に拠る。]

 『今昔物語』に「鎭西人波新羅値虎語」こというのがある。船の人を襲おうとして一たび海に落ちた虎が、鰐鮫(わにざめ)に左の前足を咬切(かみき)られながらも屈せず、岩の上に構えて鰐鮫の来るを待ち、頭に爪を立てて一丈ばかり浜に投上げ、銜(くわ)えて二、三度打振った後、肩に懸けて五、六丈の巌壁を上り去った。「船の内に有る者共此れを見るに、半(なかば)は皆死ぬる心地す」とあるのは、日本人としては稀有な経験をしたもので、虎文学の中に永く異彩を放っている。近松も『国姓爺(こくせんや)』に虎狩の一段を点出し、馬琴も『八犬伝』に武松打虎の向うを張ろうとして、国産の虎がないのに困ったらしく、画の虎が抜出す趣向を思いついた。しかしいずれも実感に乏しいのは生きた虎を知らぬからで、如何に豊富な形容詞を駆使したにしろ、虎を画いて狗(いぬ)に類する譏(そしり)を免れぬ。加藤清正は虎狩で雞林八道に勇名を轟かせたが、この猛将も内地へ帰ると筑後河の河童退治になるのを見れば、日本内地の猛獣狩に適せぬことは明である。河童は水虎と書くなどといっても、所詮埋合せのつく話ではない。

[やぶちゃん注:「『今昔物語』に「鎭西人波新羅値虎語」こというのがある」底本の訓点は『鎮西人(ちんぜいじん)渡新羅(しらき)値(あ)ウ虎語(とら)』と、返り点も送り仮名も読みも総て、致命的に間違っている(ここまま書き下すと、「鎮西人(ちんぜいじん)、新羅(しらき)に渡りて虎に値-語(あ)う」と、如何にも気持ちが悪いものになる)ので、排除して白文で示した。これは「今昔物語集」の「卷第二十九」にある「鎭西人渡新羅値虎語 第卅一」でこれは、

鎭西(ちんぜい)の人、新羅(しらき)に渡りて虎に値(あ)ふ語(こと) 第三十一」

と読む。以下に示す。は欠字。

   *

 今は昔、鎭西□□の國□□の郡(こほり)に住みける人、商ひせむが爲に、船一つに、數(あまた)の人、乘りて、新羅(しらき)に渡りにけり。

 商ひし畢(は)てて返りけるに、新羅の山の根に副(そひ)て漕ぎ行ける程に、

「船に水など汲み入れむ。」

とて、水の流れ出でたる所にて、船を留(とど)めて、人を下(おろ)して、水を汲まする程に、船に乘りたる者、一人、船に居て、海を臨(のぞ)きけるに、山の影、移りたり。其れに、高き岸(きし)の、三、四丈[やぶちゃん注:九~十二メートルほど。]許り上(あが)りたる上に、虎の縮(しじ)まり居て、物を伺ふ樣(やう)にて有りければ、其の影の海に移りたりけるを、傍らの者共に、此れを告げて、水汲みに行きたる者共など、忩(いそ)ぎ呼び乘せて、手每(てごと)に艫(ろ)を取りて、忩ぎて船を出だしける時に、其の虎、岸より踊り下(お)りて、船に飛び入らむと爲(す)るに、船は疾(と)く出づ。虎は落ち來たる程の遲ければ、今一丈[やぶちゃん注:約三メートル。]許(ばか)り、踊り着かずして、虎、海に落ち入りぬ。

 船に乘りたる者共、此れを見て、恐(お)ぢ迷(まど)ひて、船を漕ぎて、急ぎ逃ぐるままに、集まりて、此の虎に目を懸けたりけるに、虎、海に落ち入りて、暫(しば)し許り有りて、游(およ)ぎて、陸(くむが)に上(あが)りたるを見れば、汀(みぎは)に平らなる石(いは)の有る上に登りぬ。

「何態(なにわざ)爲(す)るにか有(あ)らむ。」

と見れば、虎の左の前足、膝より下、切れて無し。血、出(あ)ゆ。

「海に落ち入りつるに、鰐(わに)の咋ひ切りたるなんめり。」

と見る程に、其の切りたる足を海に浸して、平(ひら)がり居り[やぶちゃん注:凝っと蹲(うずくま)っている。]。

 而る間、息(おき)[やぶちゃん注:「沖」の借字。]の方より、鰐、此の虎の居る方(かた)を差して來たる。

「鰐來て、虎に懸る。」

と見る程に、虎、右の方の前足を以つて、鰐の頭(かしら)に爪を打ち立て、陸樣(くむがざま)に投げ上ぐれば、一丈許り、濱に投げ上げられて、鰐、仰樣(のけざま)にて砂の上にふためく[やぶちゃん注:ばたばたと音を立てて暴れる。]を、虎、走り寄りて、鰐の頤(おとがひ)の下を、踊り懸りて咋(く)ひて、二、三度許り、打ち篩(ふる)ひて、鰐、□□る[やぶちゃん注:「なゆる」(萎(な)ゆる)辺りか。弱ってぐったりとなる。]際(きは)に、虎、肩に打ち懸りて、手を立てたる樣なる巖(いはほ)の、高さ、五、六丈[やぶちゃん注:十五~十八メートルほど。]許り有るを、今、三つ足を以つて、下坂(くだりざか)など走り下だる樣に走り登りて行きければ、船の内に有る者共、此れを見るに、半(なかば)は皆、死ぬる心地(ここち)す。

「然(さ)は、此の虎の爲態(しわざ)を見るに、船に飛び入りなましかば、我等は一人殘る者無く、皆、咋(く)ひ殺されて、家に返りて妻子の顏もえ見(み)で死(し)なまし。極(いみ)じき弓箭(きうぜん)・兵仗(ひやうぢやう)[やぶちゃん注:刀剣類。]を持ちて、千人の軍(いくさ)防ぐとも、更に益有らじ。何(いか)に況んや、狹(せば)き船の内にては、太刀・刀を拔きて向き會ふとも、然許(さばか)り、彼(か)れが力の強く、足の早からむには、何態(なにわざ)を爲(す)べきぞ。」

と、各々云ひ合ひて、肝・心も失せて、船漕ぐ空も無くてなむ、鎭西には返り來たりける。

 各々、妻子に此の事を語りて、奇異(あさま)しき命を生きて返りたる事をなむ、喜びける。外の人も此れを聞きて、極じくなむ、恐(お)ぢ怖れける。

 此れを思ふに、鰐も海の中にては、猛く賢き者なれば、虎の海に落ち入りたりけるを、足をば咋(く)ひ切りてける也。其れに由無(よしな)く[やぶちゃん注:ところが、よせばいいのに無暗に。]、

「尚、虎を咋はむ。」

とて、陸(くむが)近く來たりて、命を失なふ也。

 然(しか)れば、萬(よろづ)の事、皆、此れが如く也。人、此れを聞きて、

「餘りの事は止(とど)むべし。只、吉(よ)き程にて有るべき也。」

とぞ、人、語り傳へたるとや。

   *

「近松も『国姓爺(こくせんや)』に虎狩の一段を点出」近松門左衛門作の全五段から成る人形浄瑠璃「國姓爺合戰」。正徳五(一七一五)年、大坂竹本座で初演。文楽でも私の非常に好きな作品の一つである。虎退治のシークエンスは二段目に出る。

「馬琴も『八犬伝』に武松打虎の向うを張ろうとして、国産の虎がないのに困ったらしく、画の虎が抜出す趣向を思いついた」「武松打虎」(ぶしょうだこ)とは「水滸伝」の中でも私が格別に好きな武松(梁山泊第十四位。渾名は「行者(ぎょうじゃ)」(途中から追手から遁れるために修行者の姿に変装することに由来)の虎退治のこと。ウィキの「武松」によれば、『鋭い目と太い眉をもつ精悍な大男で、無類の酒好き。拳法の使い手』であったが、酒のために、『誤って役人を殺したという理由で柴進の屋敷に身を寄せ隠れていた。そこで逃亡してきた宋江と出会い』、『義兄弟の契りを結ぶ。その後、殺したと思っていた役人が実は失神しただけということが判明し、故郷の清河県へ帰る途中で、景陽岡の人食い虎を退治したことにより、陽穀県の都頭に取り立てられる。更にその街で働いていた兄・武大と再会したが、武大は武松が出張している間に嫂の潘金蓮とその情夫・西門慶によって毒殺される。兄の死に疑問を持った武松は奔走して確かな証拠を』摑『み、兄の四十九日に潘金蓮と西門慶を殺害して仇討ちを果たし、その足で県に自首し』、『孟州に流罪となった』。『護送中、立ち寄った酒屋(張青、孫二娘夫婦が経営)で振る舞われた酒に一服盛られるが、感づいてかかった振りをして倒れ、肉饅頭にしようとした張青夫婦を逆に懲らしめた。孟州に入ると、典獄の息子であり』、『盛り場の顔役であった施恩の世話となる。ところが、施恩と盛り場を巡り対立していた張団練配下の蒋門神(蒋忠)を叩きのめしたことにより恨みを買い、孟州に赴任した張団練の一族である総督の張蒙方に冤罪を着せられて再度流罪となった。さらに護送中に刺客に襲われたことにより激怒し、刺客や護送役人を返り討ちにし、蒋門神と張団練と張蒙方一家を皆殺しにすると、今度は自首せず』、『逃亡。その途中、張青夫婦と再会し、魯智深や楊志がいる青州二竜山へとの入山を勧められ向かうこととなる』とある人物。ここで宵曲が言っているのは、ウィキの「南総里見八犬伝」によれば、滝沢馬琴の大長篇の読本「南總里見八犬傳」(文化一一(一八一四)年刊行開始後、二十八年かけて天保一三(一八四二)年完結。全九十八巻百六冊)の中の、犬士列伝でも終りに近い「親兵衛の京都物語」のシークエンス。『里見義成は朝廷への使者として犬江親兵衛を京都に遣わす。しかし、美貌の親兵衛は管領細河政元に気に入られて抑留されてしまう。親兵衛は「京の五虎」と称される武芸の達人たちや、結城を追われ京都に戻っていた悪僧徳用(父は細河家の執事)との試合を行い、大いに武勇を示した。そのころ、巨勢金岡』(こせのかなおか 生没年未詳:九世紀後半の伝説的な名画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜なその馬が壁から抜け出て田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。他にも、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしよう、という。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て、絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードなども今に伝わる。なお、言わずもがなであるが、「南総里見八犬伝」の時代設定は室町末期である)『の描いた画の虎が抜け出て』、『京都を騒がす事件が発生する。虎を退治した親兵衛は、褒賞として帰国を認めることを細河政元に認めさせ、安房への帰国の途に就く』とある。私は実は全篇を通して読んだことはないのだが、実は妻が大変なファンで、原文全篇を二度も精読しているフリークである。

「加藤清正は虎狩で雞林八道に勇名を轟かせたが、この猛将も内地へ帰ると筑後河の河童退治になる」安土桃山から江戸前期の武将で、肥後熊本藩初代藩主加藤清正(永禄五(一五六二)年~慶長一六(一六一一)年)の朝鮮出兵中の虎退治は有名だが(但し、実はこの虎退治は本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすり替えられたもの)が、河童の方は私の「火野葦平 英雄」の本文及び私の注を参照されたい。手短に知りたい方にはサイト「河童共和国」の田辺達也氏の「美童をめぐる 清正VS河童 球磨川夏の陣」がお薦めである。]

 余計な前置が長くなったが、日本に猛獣文学の少いのは、資料になるべき猛獣が少いためである。近松や馬琴のような舞台を持合せぬ俳諧者流が、その取扱に苦しむのは致方がない。百獣の王や金毛白額の大虫は原産地の諸公に任せるとして、これに次ぐものを我国に求めれば、第一に熊を挙げなければなるまいと思う。

 もう二十何年も前になるが、友人の山岳愛好者から、日本アルプスの何処かに熊が出るという話を聞いた。そんなに山が物騒なのかと早合点したらそうではない、あまり登山者が出かけるため、その人たちが山で粗末にする食物の残りを食いに出没するという説明で、いささか呆れたおぼえがある。比較的近年の日本アルプスでさえその始末だとすれば、昔の山中に熊の出るのは珍しい話ではあるまい。ピエル・ロティの『日本印象記』に日光の事を書いて、「ここは日本嶋の中部である。ここから行けばすぐと熊より外には誰も住まぬ地方に出られる。につこうの商家にはその熊の灰色の皮が沢山ある」といっているのは、あながち誇張の言とも思われぬ。われわれは日本アルプスに熊が出たと聞いて驚いた顔をするけれども、逆に熊の方からいえば、彼らの天地まで人間の侵入するのに呆れているかも知れない。

[やぶちゃん注:「ピエル・ロティの『日本印象記』」フランス海軍士官で作家であった通称ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年:本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie-Julien Viaud)は一八八五年(明治十八年)と一九〇〇年(明治三十三年)から翌年の二度、来日し、明治の日本を辛辣に観察、日記体小説「お菊さん」(Madame Chrysanthème 一八八七年)、「日本の秋」(Japoneries d'automne 一八八九年)、「お梅が三度目の春」(La Troisième Jeunesse de Madame Prune 一九〇五年)などを発表している(但し、彼は全く日本及びその文化を殆んど理解もせず、評価もしていない)。宵曲の言う「日本印象記」というのは、「日本の秋」の高瀬俊郎による抄訳(大正三(一九一四)年新潮社刊)で、しかも意訳或いは翻案的な杜撰なものである。]

 熊の種類にもいろいろあり、一概には往かぬであろうが、動物園で見参した印象は、この種の獣としては温和な方である。丸々と太った軀(からだ)、愛敬のある小さい眼、檻の中に腰を落著けて身を揺(ゆす)る様子、すべて猛獣界のものではない。殊に咽喉に月の輪のある先生に至っては、慥に愛玩に堪えた風貌を具えている。足柄山の金太郎が鉞(まさかり)を担いで日夕(につせき)伴侶とするには、まことに恰好のものと見受けられるが、一たび檻を離れて山野に棲息する段になると、普通の人間にはちょっと近づけない。ルナアルの『博物誌』には無論洩れているし、芥川氏の「動物園」にも見当らぬ。鳥羽僧正の鳥獣画巻は麒麟や獅子まで画いているにかかわらず、どういうものか熊は逸している。永く金太郎とアイヌを以て知己とせざるを得ぬ限り、彼らの境遇も多幸というわけに往かぬであろう。われわれの熊に対する愛情も、動物園の檻に臨んではじめて生ずるものとしたら、そこには自(おのずか)ら限界があるからである。

[やぶちゃん注:「ルナアルの『博物誌』」既出既注。宵曲の言う通り、熊は載っていない。しかし、ルナールのそれは基本、身近に観察される動物中心のアフォリズムで、動物園等で見た動物も採られてはいるものの、ルナールの食指は熊には動かなかったものと思われる。なお、フランスではスペインとの国境のピレネー山脈ぐらいにしか棲息しない(ヨーロッパヒグマUrsus arctos arctos:ごく少数が棲息するものの、現在、絶滅が懸念されている)。私の古い電子テクスト「博物誌 ルナール 岸田国士訳(附原文+やぶちゃん補注版)」を参照されたい。

『芥川氏の「動物園」』大正九(一九二〇)年一月及び十月発行の雑誌『サンエス』に分割掲載された、明らかにルナールの「博物誌」の二番煎じのアフォリズム集。私の電子化注がある。

「鳥羽僧正の鳥獣画巻」国宝「鳥獸人物戲畫」は京都市右京区の高山寺に伝わる作者未詳の紙本墨画の絵巻物。現在の構成は甲・乙・丙・丁と呼ばれる全四巻から成る。ウィキの「鳥獣人物戯画」によれば、『内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化して描かれた甲巻が非常に有名である。一部の場面には現在の漫画に用いられている効果に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される』。『成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため』、現在では、一二世紀から十三世紀(平安末から鎌倉初期)の『幅のある年代に複数の作者によって、別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来し』、それが、「鳥獣人物戯画」として集成されたものと考えられている。『作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷』(かくゆう 天喜元(一〇五三)年~保延六(一一四〇)年:平安後期の天台僧。日本仏教界の重職を務めた高僧であるのみならず、絵画にも精通した)が長く『擬され』、現在でもそう思っている一般人も多いが、『それを示す資料はなく、前述の通り』、『各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうか』も『疑わしい。おそらく歴史上無名の僧侶などが、動物などに仮託して、世相を憂いつつ、ときには微笑ましく風刺したものであろう』とある(下線やぶちゃん)。]

 熊に関する文献の乏しい中にあって、俳諧は冬の季題に座席を与えた。熊などに縁のなさそうな近世歌人の作にも「あら熊はゆくへも知らず奥山のうつぼにこもる木枯の聲」というのがある位で、この点に恐らく異議はあるまいと思う。実際また熊といえば、直に朔風凛々(さくふうりんりん)たる天地が連想に浮んで来るが、俳書を猟(あさ)って見ると存外獲物が少い。他の配合物なしに熊だけで独歩している句の如きは、殆ど皆無に近い状態である。歳時記の例句で容易に検出し得るなら、わざわざここへ持出すにも及ばぬが、少しく探索を要するので、見当った句を列べて置く。折角内地産の獣の大関に擬しながら、その地位にふさわしい句がないのは、甚だ遺憾といわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「あら熊はゆくへも知らず奥山のうつぼにこもる木枯の聲」出典も作者も不詳。識者の御教授を乞う。「うつぼ」岩や木などにできた空洞やほら穴。洞(うろ)。正確には「うつほ」と濁らないのが正しい。]

 

 蟻を喰(くら)ふ熊の命や冬籠(ふゆごもり) 東以

 

 この冬籠は人間のではない。熊が冬季穴に籠るの意である。熊の冬籠などは俳人の専売かと思うと、古く「白雪のふる木のうつぼすみかとて太山(たいざん)の熊も冬籠るなり」という為家の歌があって先鞭を若けている。『和漢三才図会』に「冬蟄入穴。春乃出」といい、「冬月蟄時不食。饑則舐其掌。故其美在掌。謂之熊蹯」と記してあるのは、多少この句の参考になりそうである。熊が穴に籠る場合は何も食物がないので、掌で蟻を潰してはこれを舐(なめ)るという話は、われわれもかつて誰かから聞かされた。アリマキの身体から甘い汁を吸う蟻が、熊の掌で潰されて餌食になるのは、因果応報らしくも考えられるが、それよりもあの大きな図体(ずうたい)の熊、蟻のような小虫を食料にして、細々と命をつなぐところに、いうべからざるあわれがある。作者は江戸の人らしいから、やはりこんな話を聞いて一句にしたものであろう。

[やぶちゃん注:「和漢三才図会」(江戸中期の大坂の医師寺島(てらじま)良安によって明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典。全百五巻八十一冊、約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が同年をクレジットすることからの推測)に完成し、大坂杏林堂から出版された。私は同書の動物類の全電子化注も手掛けている最中であるが、「卷三十八 獸類」は未着手である。私がそこに到達するのは恐らく一年ぐらいは先であろう。生きていればの話であるが)の引用は、ルビがあるが、現代仮名遣で気持ちが悪いので、総て排除した。以下で原典で示し、原典の訓点に従って示した(〔 〕は私が添えたもの)。これによって「冬蟄入穴。春乃出」「冬月蟄時不食。饑則舐其掌。故其美在掌。謂之熊蹯」が、実は良安の言葉ではなく、明の本草家李時珍の「本草綱目」からの抜粋部からの、そのまた、一部引用であることがお判り戴けるものと思う(下線太字部分が宵曲の引いた当該部分)。

   *

本綱熊生山谷如大豕而豎目人足黑色性輕捷好攀縁

上高木見人則顛倒自投于地冬蟄入穴春乃出春夏臕

肥時皮厚筋弩毎升木引氣或墮地自快俗呼跌臕冬月

蟄時不食饑則䑛其掌故其美在掌謂之熊蹯其行山中

雖數千里必有跧伏之所在石巖枯木謂之熊舘其性惡

穢物及傷殘捕者置此物于穴則合穴自死或爲棘刺所

傷出穴爪之至骨卽斃也性惡鹽食之卽死又云熊居樹

孔中人擊樹呼爲子路則起不呼則不動也

[やぶちゃん注:以下、「熊膽」(くまのい)と良安の評言と「熊皮」が続くが、略す。]

   *

「本綱」に、『熊、山谷に生ず。大なる豕〔(ゐのこ)〕のごとくにして、豎(たて)の目、人の足〔のごとし〕。黑色。性、輕捷にして、好んで攀〔ぢ〕縁〔(よ)り〕、高木に上〔ぼ〕る。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら、地に投〔(とう)〕ず。冬は蟄(すごも)り、穴に入り、春は乃〔(すなは)〕ち、出づ。夏、臕(あぶら)、肥えたる時、皮、厚く、筋、弩〔(ど)たり〕[やぶちゃん注:肉も豊かになる。]。毎〔(つね)〕に木に升〔(のぼ)〕るときは、氣を引き、或いは地に墮ち、自ら、快とす。俗に「跌臕(くまあそび)」と呼ぶ。冬月、蟄する時は、食(ものくら)はず、饑〔(う)ゑ〕るときは、則ち、其の掌(たなごゝろ)を䑛ねぶ)る。故に、其の美、掌に在り。之れを「熊蹯〔ゆうはん)〕」と謂ふ。其の山中を行くこと、數千里と雖も、必ず、跧伏(せんふく)の所[やぶちゃん注:腹這いになる場所。]、有りて、〔そは、〕石巖・枯木に在り。之れを「熊舘(いうくわん)」と謂ふ。其の性、穢(けが)れたる物及び傷殘[やぶちゃん注:傷つくこと。]することを惡〔(にく)〕む。〔されば、〕捕ふる者、此(こ)れらの物を穴に置くときは、則ち、穴に合〔へば〕、自〔(みづか)〕ら、死す。或いは棘刺〔きよくし)〕の爲めに傷〔せらるれば〕、穴を出でて之れに爪〔たてて〕、骨に至れば、卽ち、斃〔(たふ)〕るなり。性、鹽を惡む。之れを食へば、卽ち、死す。又、云ふ、熊、樹の孔の中に居〔(を)〕る〔とき〕、人、樹を擊ちて、呼んで「子路。」と爲〔(す)〕れば、則ち、起き、呼ばざるときは、則ち、動かず』と。[やぶちゃん注:「子路」は孔子の愛弟子で、私も愛する、暴虎馮河で知られた剛勇無双の彼のことであろう。類感呪術の典型例である。]

   *

「為家」藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)は鎌倉中期の公家歌人。父はかの藤原定家。この一首は「新撰和歌六帖」の「第二 山」に所載する。

「掌で蟻を潰してはこれを舐(なめ)るという話は、われわれもかつて誰かから聞かされた」私は、熊は熊は好物の蜂蜜を利き手で取って舐める、そうでない方で蜂を払う、だから利き手の方が甘くて美味しいと言い、熊の利き手は左手だとか、いや、右だとかという怪しい話なら知っている。しかし、中華料理で食べるのは皮の内部であり、あのゴッツい皮(上海で実物を見たが)は凡そ外部から蜂蜜が浸透するようなシロモノではないから、妄説である。利き手の方が肉は豊かになろうかとは思うが。

「アリマキ」蟻牧。昆虫綱有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea のアブラムシ類。ウィキの「アブラムシによれば、『自身の防御力が弱いアブラムシ類には、アリに外敵から守ってもらう種があり、これがアブラムシがアリマキと呼ばれる所以になっている。食物である師管液には大量の糖分が含まれ、甘露と呼ばれる肛門からの排泄物には余剰な糖分が多く含まれるため、アリ達はこの甘露を求めて集まってくる。中には、はっきりとアリとの共生関係を持ち、アリに守られて暮らすものもある』とある。]

 

 熊の手の蟻も盡(つき)た歟(か)梅の花 嘯山

 

という句は東以の「冬籠」と併看すべきもので、特に「熊の手」を持出したところ、前の解釈を補うことにもなるが、句の価値は少々落ちる。春来り梅の花の咲くのを見て、冬籠る熊の手の蟻も尽きたろうかと想いやるのは、奇は即ち奇であって、何分か理に堕した嫌があり、「蟻を喰熊の命や」の如く、内に深く蔵するものがない。

 

 あら熊のかけちらしてや前の雪   北枝

   飛驒の山中にて

 あら熊の出(いづ)る穴あり片時雨(かたしぐれ)

                  十丈

 

 北枝の句は古い国定教科書に「笹の雪」となつて出ていたかと記憶する。一面の笹に積った雪が、著しく乱れている迹(あと)を見て、あら熊でもかけ散したものかといったとすれば、その意味は明瞭であるが、『北枝発句集』の何によって「笹」と改めたか、その点に疑問がないでもない。「あら熊のかけちらしてや」という事柄の背景としては、「笹の雪」も繊弱を免れぬようである。「前の雪」は前方降った雪か、眼前の雪かなどと解し煩っているうちに、目黒野鳥氏の示教を得た。「前の雪」「背戸の雪」「真の雪」等、いずれも雪国山村の常用語で、明(あきらか)に山中住いの「家の前の雪」の意だそうである。この雪国の用語がわからぬため、誰かがさかしらに「笹の雪」と改めたものではあるまいか、ということであった。「笹の雪」はどう考えても熊に適切でない。作者の北枝は北国人だから、家の直ぐ前の雪に熊の蹴散した逃があるという、即景を句にしたものと思われる。

[やぶちゃん注:立花北枝(?~享保三(一七一八)年)は蕉門十哲の一人。通称は研屋源四郎。加賀金沢に住み、刀の研師(とぎし)を生業(なりわい)としつつ、俳諧に親しんだ。元禄二(一六八九)年に芭蕉が「奥の細道」の旅で訪れた際に入門、越前丸岡まで永の見送をしている。以後、加賀蕉門の中心人物として活躍したが、無欲な性格で俳壇的な野心はなかった。自分の家が丸焼けになった際、「燒(やけ)にけりされども花はちりすまし」と詠み、芭蕉の称賛を得たエピソードは著名で、世俗を離れて風雅に遊ぼうとする姿勢が見てとれる(ここは概ね、「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「目黒野鳥」詳細事蹟は判らないが、彼を師とする俳人がいるから、自己の俳句グループを持っていた人物と思われ、書誌情報では、「芭蕉翁編年誌」(昭和三三(一九五八)年青蛙房刊)の著作もある。]

 十丈の句は前書で場所が明になっている。時雨の降る寂しい山中に一箇の穴があって、ここから荒熊が出るという。現在荒熊が顔を出さないにしろ、居住者がそうときまれば、狐や狸の穴と同一視するわけに往かぬ。この二句の共通点は、「あら熊はゆくへも知らず」の歌と同じく、熊の姿が舞台に見えぬところにあるので、そこへのそのそ登場して来たならば、到底十七字や三十一字に収まるものではない。われわれが平然として熊を観察し得るのは、動物園の檻を隔てた場合に限る。彼に山野を彷徨する自由が与えられている以上、文学的材料として彼を捉える前に、此方があの大きな掌の一掃から免れる工夫をしなければならぬ。北枝がかけ散された雪の迹で間に合せたり、十丈が「出る穴」だけで埒(らち)を明けているのも、実際はやむをえぬ結果なのである。

2017/12/05

老媼茶話巻之六 飯綱(イヅナ)の法

 

     飯綱(イヅナ)の法

 

 狐は、疑(うたがひ)多き、けだ物なり。能(よく)化(ばけ)て、人をまどわす。人、常に知る處也。聲、患(ウリヤウ)る時は、兒(チゴ)の鳴(なく)がごとく、聲、よろこぶ時は、壺を打(うつ)がごとし。白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老たり 化して女と成(なり)顏色よし」「見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)。

 近世、本邦(ホンポウ)に狐を仕(つか)ふ者、有。呼(よび)て飯綱(イヅナ)の法といへり。其法、先(まづ)精進けつさいにして身を淸め、獨り、野山に遊び、狐の穴居をもとめ、孕狐(はらみぎつね)を尋(たづぬ)。此狐を拜して曰、

「汝が今孕む所の狐、産(うまる)れば、我子とせん。必(かならず)、我に得させよ。」

と。

 それより、日夜にしのんで、食事をはこびて、母狐、子を産(うむ)に及び、彌(いよいよ)勤(つとめ)て、是を養ふ。

 子、すでに長じて、母狐、子を携さへ、術者の元に來り、

「子に名を付(つけ)て、今日よりして、如影(かげのごとく)、隨身(みにしたがひ)、心の儘にせよ。」

と云(いふ)。

 術者、兒狐に名を付(つく)る。母狐、悦び、拜して、子をつれて、去る。

 是よりして後、術者、事あれば、潛然(ヒソカ)に狐の名を呼(よぶ)に、狐、形を隱し、來りて人の密事を告(つげ)、術者におしゆるまゝ、術者、狐のおしゑのまゝに妙を談ずる間(あひだ)、則(すなはち)、人、

「神(しん)に通ぜり。」

と思へり。

 若(もし)、狐を仕ふもの、少(すこし)にても色欲・とんよくにふける心有(ある)時は、此術、行ふ事、あたはず、狐も又、弐度來らず、と言へり。

 近所、奧州筋の國主に仕へける士に、能(よく)飯綱の法、修せる人、有。

 此人、江戸登り候折、小金井の宿に泊りける時、あるじ夫婦のもの、立出(たちいで)、申(まうし)けるは、

「我、壱人の娘、有。近きころ、妖狐の爲に惱まされ、半死半生の體(てい)に罷在(まかりあり)候。此娘,昨日の曉より、たわ言を申候。『明日何時、其國の、たれがしと申(まうす)士、此所に宿をかるべし。必(かならず)、宿をかすべからず。此侍、此宿に留(とどま)る時は、我、命、助(たすか)り難し。いかゞせん』と申(まうし)て身もだへ仕(つかまつり)、奧深く隱れ、ふるへ、わなゝき、罷在候。然るに、娘、申候に違いひなく、國所も御苗字も、ひとしき御士樣、御宿召(おんやどめされ)候まゝ、あまりふしぎにぞんじ、御供の衆に承(うけたまはり)候へば、かゝる怪敷(あやしき)病ひ、能(よく)御直しあそばし候由、承申(うけたまはりまうす)に付(つき)、恐入候得(おそれいりさふらえ)ども、老人二人が心底、哀み思召(おぼしめし)、娘が命、御助被下候得(おたすけくだされさふらえ)。」

と、手を合(あはせ)、地に伏(ふし)、淚を流し、賴みける間、かの士も不便(ふびん)に思ひ、

「其娘、爰(ここ)へつれ來(きた)れ。先(まづ)、對面し、樣子を見るべし。」

と云。

 夫婦の者、悦んで、

「出間數(いづまじ)。」

と、泣悲(なきかな)しむ娘を、無理に引立(ひきたて)、來(きた)る。

 其年、十弐、三斗(ばか)成(なる)きれい成(なる)娘なるが、汗を流し、わなゝいて、士の前に、ひれふし、居たり。

 士、娘をつくづくと見て、

「汝、奧州二本松、中山の三郎狐にては、なきか。何の恨(うらみ)ありて、いとけなき者に取付(とりつき)なやまし、くるしむる。己(ヲノレ)、速(スミヤカ)にさらずんば、只今、命をとるべし。早々に去れ。」

と、いへども、娘、答へず、二、三度に及んでも返事、せず、且て、ふくせるけしき、なし。

 侍、怒(いかり)て、拔打(ぬきうち)に娘を打落(うちおと)せり。

 あるじ夫婦の者、大きに動轉し、

「是は、いか成(なる)ことを、なし給ふぞ。」

と、あわてさわぐ。

 士の曰、

「驚(おどろく)事、なかれ。此(この)曉は、必(かならず)、其(その)正體を知るべし。」

とて、娘が死骸にふすまをかぶせ、屛風を以(もつて)、是を、かこふ。

 あるじ夫婦のものは、娘の死骸を守り、終夜、まどろまず。

 曉に成(なり)て是を見れば、年舊(としふ)りたる狐、弐に切られて、ふすまの下に死居(しにゐ)たり。

 夫婦、悦び、娘を尋みれば、奧深き處に、心よく眠居(ねむりゐ)たり。

 引起(ひきおこし)、よく見るに、何の恙(つつが)もなく、日を經て、元のごとく成りしと、いへり。

 近き頃、猪狩所右衞門(ゐがりしよゑもん)と云(いふ)人、能(よく)飯綱の法を行(おこなふ)。

 或時、友、相集(あひあつま)りて、酒、半醉(はんすゐ)に及びける折、所右衞門、あをのきて空を詠(なが)め、友をかへり見、語りけるは、

「昨夕の雨に、銀河(ギンガ)、水、增して、桂陽(ケイヨウ)の武丁(ブテイ)兄弟、浮木(うきき)に乘りて、すなどりを、なす。われも行(ゆき)て、天の川より、魚をすくふて歸り、おのおのを、もてなすべし。」

と云(いひ)て、笠をかぶり、網を提げ、はけごを腰に付(つけ)、わらんじをはいて、天へ、のぼる。

 暫(しばらく)有(あり)て、又、空より歸り來(きた)る姿、しとゞ濡(ぬれ)て、腰のはけどより、大魚、數多(あまた)取出(とりいだ)し、則(すなはち)、料理して、皆皆へ、ふるまひけり。

 是は其座に有(ある)人の、ものがたりなり。

 又、寛文拾年の夏、ある國へ、現世(ゲンセ)居士・未來(ミライ)居士といふ、幻術者、來(きた)り、樣々の不思義をなし、諸人をまよはす。

 其國主、是を聞召(きこしめし)、

「左樣の者、國にあれば、諸人、亂を發すの元也。」

とて召(めし)とられ、刑罪せらるゝ折、彼(かの)兩人の者ども申けるは、

「我等、只今、最期に及(および)候。仕殘したる術一候。見物の各々へ見せ可申(まうすべし)。かく嚴敷(きびしき)警固の人々、鑓(やり)・長刀(なぎなた)にて取(とり)かこみおはしまし候得ば、外へのがるべき樣もなし。少し、繩を御ゆるし候得。」

と、いふ。

 警固の者ども、聞(きき)て、

「靑天白日なり。少し繩をゆるめたればとて、いづくへ行(ゆく)べき。」

とて、少し、なわをゆるめければ、未來居士、則(すなはち)、なわをぬけ、壹の鼠となり、はり付(つけ)柱の橫木あがり、うづくまり居たり。

 現世居士、鳶と成り、虛空に飛(とび)あがり、羽をかへし、空に舞ふ。暫く有(あり)て落懸(おちかか)り、彼(かの)鼠をさらひ、行方知らず成(なり)たり。

 警固のもの、大きに驚き、爰かしこ、尋(たづね)けれども、なわは、しばりし儘に殘り、身斗(ばかり)ぬけたり。

 其刑罪の場へ出(いで)し固(カタメ)の役人・足輕迄、いましめを蒙りたりと、いへり。

 かゝる怪敷(あやしき)者、ゆるがせにすべからず。必(かならず)、急に殺すべし。魔術を行ふ場へ牛馬鷄犬によらず、何(なんの)獸(けもの)の血にても、振(ふり)そゝぎ、或は糞水(くそみづ)をそゝぎ懸(かく)れば、妖術、忽(たちまち)、滅して、魔法幻術、かつて行はれず。また、鐵砲を打(うち)はなてば、其法、破(やぶ)ると、いへり。是、古人の祕法也。

 またいつの頃にや有けん、武州川越の御城主、秋元但馬守殿領分、三の丁と云處行脚の僧壱人來り、宿をかりけるに、あるじ、けんどん成る者にて、宿をかさゞりけり。

 僧、ひたすらに歎き、

「日はくるゝ、いたく草臥(くたびれ)、一足も引(ひか)れ不申(まうさず)。せめては軒の下なりと御かし候へ。夜、明(あか)ば、早々、出行可申(いでゆきまうすべし)。」

と云。

 主(アルジ)、是非なく、しふしぶ立て戸を開き、態(わざ)と灯をも立(たて)ず。

 坊主、内へ入(いり)、水を求(もとめ)、手足を洗ひ、たばこを呑(のみ)、休息し、

「灯は、なく候哉(や)。」

と、いふ。

「是、なし。」

と、いふ。

 其時、坊主、左の手をいろりの内へ差入(さしいれ)、五のゆびを火にもやし、灯となし、目を張(はり)、こぶしを握り、鼻の穴へ入るゝ事、ひぢまで也。

 其後、鼻をしかめ、口をあき、くさめをすれば、長(たけ)二、三寸斗(ばかり)の人形共、弐、三百、吐出(はきいだ)す。

 此(この)人形共、立上(たちあが)り、てん手(で)に鍬(くは)を以(もつて)座中をからすき、忽(たちまち)、苗代田(なはしろだ)の形をなし、水を引(ひき)、籾を蒔(まき)、靑田となし、穗に出(いで)てあからむを、人形共、鎌を取(とり)、大勢にて刈取(かりとり)、つきふるひ、數升の米と、なしたり。

 其後、坊主、人形共をかき集(あつめ)、大口をあき、一のみに飮納(のみをさめ)、

「鍋來(きた)れ、鍋來れ。」

と呼(よぶ)に、庭の片角の竃(かまど)にかけし鍋、おのれとおどりて、坊主が前に來りければ、坊主、ふたを取(とり)、米・水を鍋に入(いれ)、左右の足を踏(ふみ)のべ、いろりの緣(フチ)へ當て、傍(カタハラ)に有(あり)ける大なたを以て、膝、節より打碎(うちくだ)き、打碎き、薪(たきぎ)となし、火にくべて、程なく、飯を焚納(たきをさ)め、數升の米、不殘(のこらず)喰盡(くらひつく)し、水を一口、吞(のみ)、いろりに向ひ、吹出(ふきいだ)しけるに、忽(たちまち)、いろり、泥水と成り、蓮の葉浮び出(いで)て、蓮の花、一面に咲(さき)、數百の蛙(かはづ)、集り、かまびすしく泣(なき)さわぐ。

 あるじ、みて、大きに驚き、ひそかに表へ出(いで)て、若き者共を呼集(よびあつ)め、件(くだん)の事共を語りければ、聞(きく)者ども、

「夫(それ)は慥(たしか)に化物なるべし。取逃(とりにが)すな。」

と訇(ののし)り、てん手(で)に棒・まさかりを取持(とりもち)て、くつ強(きやう)の若男、十四、五人斗(ばかり)、家の内へ押入(おしいり)、見る。

 坊主、ゆたかに伏(ふし)て、いびきの音、高し。

「しすましたり。」

と、坊主が伏たる跡先を取(とり)かこみ、手足をとらへ、頭を強く押(おさ)へからめ、是をとらへんとするに、坊主、目を覺し、押へける手の下より、

「ふつ。」

と拔出(ぬけいで)る。

 是をみて、てん手に棒をふり上(あげ)、たゝき伏せんとするに、かげろふ・いなづまのごとく、飛𢌞(とびまは)り、手にたまらず、片原(かたはら)に有(あり)ける大きなる德利の内へ飛入(とびいり)たり。

「取逃(とりにが)すな。」

と訇(ののし)り、この德利をとり上(あげ)るに、おもくして、あがらず、德利、おのれと、こけまわる。

「さらば。打碎(うちくだけ)。」

と、棒・まさかりを振上(ふりあぐ)るに、德利の中より、黑煙(くろけぶ)り吹出(ふきいだ)し、德利の中、鳴(なき)はためき、終(つゐ)に二にわれたり。

 其ひゞき、大雷のごとし。

 十四、五人の者そも、氣を取失(とりうしな)ひ、爰かしこに、倒れ、ふす。

 このさわぎの内に、坊主は、いづかたへ行(ゆき)たりけん、跡形もなく、失(うせ)けり、となり。

 昔、松永彈正久秀、永祿の頃、多門の城にありし時、果心(クハシン)居士といふ魔術者、久秀をまどはしける事あり。果心も此類にや。

 

[やぶちゃん注:「飯綱(イヅナ)の法」「飯綱」(いづな)は管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐」によれば、『日本の伝承上における憑き物の一種』とされるもので、『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」などと『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。なお、実在する食肉目最小種である哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ型亜目イタチ科イタチ属イイズナ(飯綱) Mustela nivalis(「コエゾイタチ」とも呼ばれる)が同名で実体原型モデルの一つではあるが、同種は本邦では北海道・青森県・岩手県・秋田県にしか分布しないので、寧ろ、イヌ型亜目イヌ科キツネ属 Vulpes をモデルとした広義の狐の妖怪(妖狐)の一種と採る方がよい。なお、所謂、「妖狐」の分類については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』の私の注を参照されたい。

「疑(うたがひ)多き」(民俗学的な意味で)妖しい魔性部分の多い。

「聲、患(ウリヤウ)る時は」何か思い通りにならなかったり、悲しかったり、或いは心身を病んでいる時には。

『白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老たり 化して女と成(なり)顏色よし」「見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)』白居易の詩「古冢狐(こちようこ(こちょうこ))」(「古塚の狐」の意)冒頭の二句(「古冢狐妖且老 化爲婦人顏色好」)と途中の一句(見者十人八九迷)。サイト「龍神楊貴妃伝」の『白居易の「任氏行」・「古冢狐」』で原詩と訓読文及び訳が読める。

「飯綱(イヅナ)の法」標題では実は底本は「イツナ」なのであるが、ここは表記通り、「イヅナ」と濁点がある。それで統一した。

「けつさい」「潔齋」。

「遊び」逍遙しつつ探索し。

「子に名を付(つけ)て」底本はこの文を地の文としているが、後と呼応しないので従えない。母狐の台詞とすべきである。

「とんよく」「貪欲」。

「小金井の宿」「奥州筋」とあるから、これは現在の栃木県下野市小金井にあった旧小金井宿である。日光街道及び奥州街道に設けられた下野国の宿場。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧州二本松」現在の福島県二本松市内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中山の三郎狐」この「中山」は同二本松市渋川中山か(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「ふくせる」「服せる」。命令に従う。

「ふすま」「衾」。体の上に掛ける寝具。木綿・麻などで縫い、長方形或いは衣服同様に袖や襟があるものもある。現在の「掛け布団」の原型。

「奧深き處」屋敷内の、であろう。

「猪狩所右衞門(ゐがりしよゑもん)」不詳。読みは幾つかの実名例から推定した。

「桂陽(ケイヨウ)の武丁(ブテイ)兄弟」室町中期の応永三〇(一四二三)年頃に成立した一条兼良著の有職故実書「公事根源(くじこんげん)」の七月七日の七夕を語った条に、

   *

おほよそ、今日は牽牛(ケンギウ)織女(シヨクジヨ)二つの星の相遭ふ夜なり。鳥鵲の天の川に來たりて、翅をのべ、橋となして、織女をわたすよし、「准南子」と申す書に見えたり。又、「續齋諧記」に云ふ、桂陽城の武丁といひし人、仙道を得て、弟に語りて曰はく、『七月七日に、織女、河を渉る事あり』。弟、問ひて、『なにしに渡るぞ』といひければ、『織女、しばらく、牽牛に詣づ』と答へき。是れを「織女牽牛の嫁 (トツ) ぐ夜となり」と、世の人申し傳へたるなり。

   *

とある。「續齋諧記」は梁の呉均によって書かれた志怪小説集で、これは仙人になって天界へ行ったとされる兄弟である(以上は、サイト「オリガミオドットコム」のこちらのページ他を参考にした)。「桂陽」は湖南省郴州(とんしゅう)市桂陽県か(ここ(グーグル・マップ・データ))。仙人だから天の川で漁が出来るわけである。

「浮木(うきき)に乘りて」浮いた流木である。考えて見れば、天の川に舟があったのでは、牽牛織女伝説に都合が悪いと、思わず、私は膝を打ったものである。

「すなどり」「漁る」。

「はけご」「佩籠」。腰に着けて用いる竹や藁で編んだ籠。ここは魚籠(びく)である。

「わらんじ」「草鞋」。

「寛文拾年」一六七〇年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「現世(ゲンセ)居士・未來(ミライ)居士」不詳。トンデモない自称で、見るからに、妖しい。

「はり付柱」「磔柱」。

「急に殺すべし」「急に」は「つとに」「すぐに」などと当て読みしたい。

「牛馬鷄犬」総て音読みでよい。

「何(なんの)獸(けもの)」底本は『なにじゆう』とルビするが(底本のルビは現代仮名遣であるから正確には「なにじゅう」である)、従えなかった。

「糞水(くそみづ)」ここも底本は『ふんすい』だが、従えなかった。糞と尿(すばり)。この辺りの汚穢を以って幻術や魔術を破る方法は、民俗社会では汎世界的にかなりメジャーなものである。

「武州川越の御城主、秋元但馬守殿」武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した川越藩の藩主秋元家は初代の秋元喬知(たかとも:正徳元(一七一一)年に川越城を賜わっているが、三年後の正徳四年八月に死去)と、その後を継いだ子の喬房(但し、彼の但馬守への遷任は享保一〇(一七二五)年十二月で、元文三(一七三八)年九に死去している)がともに但馬守である。時間のスパンの長さから、ここは喬房の代と考えてよかろう。

「三の丁」不詳。識者の御教授を乞う。

「けんどん」「慳貪」。ここは無慈悲なこと、愛想がないことの意。

「日はくるゝ」「日は暮るる」。

「ひぢ」「肱」。

「くさめ」「嚏」。くしゃみ。

「まさかり」「鉞」。刃先幅が広い斧。

「ゆたかに伏(ふし)て」大の字になって呑気に。

「いびき」「鼾」。

「しすましたり」「なんとも! うまい具合だぜ!」。

「跡先」前後。

「かげろふ・いなづま」「陽炎・稻妻」。

「片原(かたはら)」「傍」。

「德利」「とくり」或いは当時は既に「とっくり」。酒などを入れる陶製・金属製などの、口の細い容器。お銚子(ちょうし)のこと。

「こけまわる」ママ。「こけ𢌞る」。転げまわる。

「鳴(なき)はためき」鳴り響き。響き渡り。「はた」はオノマトペイア(擬音語)。

「松永彈正久秀」(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)は専横の限りを尽くした戦国武将。当初は三好長慶(ながよし)の家老として権勢を揮い、信貴山(しぎさん)城・多聞城にあって大和を支配したが、長慶死後は将軍足利義輝を弑(しい)し、三好三人衆と対立した(彼らとの戦いによって東大寺大仏殿が焼失している)。永禄一一(一五六八)年に織田信長に降伏して大和を安堵されるも、直に信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もって、信長が欲しがった平蜘蛛茶釜とともに爆死したことで知られる。

「永祿」一五五八年から一五七〇年。

「多門の城」多聞山城。現在の奈良県奈良市法蓮町にあった平山の城塞。(グーグル・マップ・データ)。

「果心(クハシン)居士といふ魔術者」歴史的仮名遣は「くわしんこじ」(かしんこじ)で誤り。生没年不詳の室町末期の話柄に登場する伝説の幻術師。ウィキの「果心居士」によれば、『七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。筑後の生まれともされ、『大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆』「古老茶話」によると、慶長一七(一六一二)年七月、『因心居士』(彼の別名ともされるもの)『というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八歳と答えたとする。また、『天正一二(一五八四)年六月に『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とするが、『果心居士に関する資料の多くは江戸時代に書かれたものであり、これらの逸話は事実とは考えられないが、奇術の原理で説明できるものとして「果心居士=奇術師」という説もある』とある。私の好きな妖しい幻術者である。興味のある方は、柴田宵曲 妖異博物館 果心居士をお読みあれかし。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(8) 縁切・不吉な橋その他

 更に東京附近にある數例を擧げて見れば、武藏比企郡吉見村大字江綱の鎭守元巢大明神の社の前は、嫁入には通行をしなかつた。是は神樣の名がモトスであつて「戾す」の音に近いからと説明されて居るが、同じく南足立郡舍人(とねり)村の諏訪社に於ては、夫婦杉と稱ヘた二本の杉の木の前を嫁入の行列は避けて通らなかつた。此杉は幸にして後に枯れたが、此の如き俗信の起るに至つたのは、今から百九十年前の享保十三年三沼代用水の堀割の時二本の夫婦杉の中間に溝を掘つてから後であると云ふ。是は自分の結論の爲に入用たる一例である。八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂は、村の南部で大藏院と云ふ寺の前の坂であつたが、此坂でも之を通つて緣附いた者は必ず還されると傳へられて居た。以上の三件は共に新編武藏風土記稿に載つて居る。或方面の人には今でも有名な下板橋の緣切榎のことも同じ書中に記してある。是も岩ノ坂と稱する坂路の側で、其榎は第六天の祠の御神木であつた。今では此木の削り屑を戴いて歸り、別れたいと思ふ相手の者に窃(そつ)と服ませると忽ちだと信じ、背中合せの男女を描いた繪馬札を賣る店屋までが出來たさうだが、是は事ろ神の惡德を利用した江戸の人間の働きで、元は他の村々と同樣な困つた障碍であつた證據には、此地が仲仙道の往來であるにも拘らず、現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、𢌞り路にわざわざ臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度では無かつた。東京の眞中でも今の甲武線の水道橋停車場の附近に、つい近頃まであつた三崎稻荷の社は、一名を緣切稻荷と稱し、婚禮婿入に此前を通れば必ず離別するとて通らなかつたと江戸志にある。又王子の町から北に當る荒川の豐島の渡でも、嫁入婿取には決して之を渡らず、双方川向へ緣組をするに上の渡又は小代河岸へ迂囘(まはりみち)をしたと、遊歷雜記二編中卷にある。其昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衞門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を著せられて豐島家を追出され、歸りに荒川の淵に於て十二人の侍女と共に身を投げた。其怨念が今も消えぬのだと云つたさうであるが、其事實の有無は未定としても、此渡場の少し上に足立姫嫁入の時、父の宰相が特に架けさせたと云ふ橋の跡があつて、近昔まで橋杭が殘つて居たとあるのは、やがて亦此地も橋姫の勢力範圍であつたことを想像せしめる。新宿の西青梅街道の上、井頭(いのかしら)用水に架けられた淀橋と云ふ橋は、小さな橋だが町の名と成つて人がよく知つて居る。 中野長者と云ふ人此橋の向に渡つて財寶を土中に埋め、祕密の洩れんことを恐れて伴の下男を殺したと云ふ傳説があり、橋の名も元は姿不見橋と呼んだのを、何代かの將軍鷹野の時に是は吉くない名だと仰せられ、ちやうど橋の袂に水車小屋があつたので、淀の川瀨の水車の緣を以て淀橋と云ふ名を下すつた。其にも拘らず此橋でもやはり緣組を嫉み、廂髮の女學生上り迄が御嫁に行くのにどうしても爰を通過せず、えらい大𢌞りをしたり又は田の中の小路を步いたりして居つた。大正二年の十一月二十一日(自分が今此事を書いて居るのも四年目の同じ日であるのは又一つの不思議である)、右の水車の持主で淀橋銀行の頭取もして居る淺田さんといふ長者の家で、嫁御を東京から迎へるにどうしても此橋を渡らねばならぬ際、いつそ此序にと云ふわけで盛大な鎭祭を擧行し、自分も傳説を知つて居ると云ふ廉で其式に招かれて行つた。祭場は橋から下手へ掛けて水の上に大きな棧敷を構へ、あんな立派な祭は曾て見たことが無い。其時の神官の祝詞及び來賓名士の演説は奇天烈を極めたものであつた。さうして其次の日には何臺かの自働車はブーブーと、花嫁さんを乘せて花々しく此橋を渡つたのである。自分は單に民衆心理の研究から、窃かに其後の成績に注意して居ると、一年も經たぬ内に早近所では御嫁さんは病氣ださうなとか、其他色々の不吉な事ばかり噂をして居る。確かな人の話で其は全く虚誕と判明したが、しかもかの方面の人々が其後自由に此橋を通つて緣組して居るかどうか。自分などはやつぱりだらうと思つて居る。

[やぶちゃん注:「武藏比企郡吉見村大字江綱の鎭守元巢大明神」埼玉県比企郡吉見町江綱(えつな)に現存する元巣神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。柳田が引く「新編武蔵風土記稿」(巻之百九十八)にある江綱村の条には(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、「元巢明神社」として載り(句読点と濁点を追加した)、

   *

村ノ鎭守ナリ。祭神詳ナラズ。當社ノ戾ノ訓ニ近キトテ、嫁娶ノトキハ社前ヲ避忌ト云。

   *

とある。しかし、個人サイト(サイト主は社会科の教員であられるようだ)「ばらさ日本史」の「流行神・元巣(はやりがみ・もとす)神社」の記載によれば、これが恵方へ後に逆転した時があったという。もともと『「元に戻る」にあやかって、病気平癒(元の健康体に戻る)や家出人の発見、離婚などを願う人々の信仰も水面下にはあったと』されるが、『俄然』、『注目をあびるのは近代になってからで、まさに「元巣」(つまり、戦地から元の巣である家に無事戻ってきてほしいの意)がゆえに急速に人々の信仰を集める、いわゆる「流行神(はやりがみ)」となって』いったというのである。以下、少し引用を続けさせて貰うと、『「流行神」とは、民俗学上の用語で、ある特定の時代背景の下、一過性の流行がみられる信仰対象のことで』、『特に、近代以降の度重なる戦争を背景に、表面的には武運長久を祈願しつつ、その実、弾丸除けや徴兵逃れ、出征兵士が無事に帰還することなどをひそかに祈る神社が流行し』、『有名なところでは、龍爪(りゅうそう)大権現[=穂積神社。静岡市]、方広寺半僧坊大権現[静岡県引佐町]、大山祇神社(おおやまつみ)[茨城県高萩市]、大魔王天神社[山梨県鳴沢村]、高越(こうつ)大権現[徳島県山川町]などがあり』、『埼玉県でも、この元巣神社をはじめ、同じ比企郡内の嵐山町にある鬼鎮(きじん)神社、同郡小川町の半僧坊』『などがあり』、『この他、戦時中には、出征兵士の武運長久を祈って、八幡神社を順に』八『つ参拝する「八幡八社参り」、それぞれの地域を代表する』八『つの神社を参拝していく「八村八社参り」、近隣』三十三『の神社を参拝する「三十三社」参り、神社などに参拝して千社札を貼り付けていく「千社参り」などが、個人や家族、隣組、青年団等でさかんにおこなわれ』たという(以下、同神社で発見された祈願者の名簿発見によって、太平洋戦争の戦局が悪化するにつれて、祈願者が膨れ上がっていったという事実が記されてある。必見!)。『実は、この元巣神社』は『日露戦争』『のころに、徴兵逃れの祈祷中に憲兵から踏み込まれ、神職が追放された上に、社名を地名に由来する「江綱神社」に強制的に改称されられたという歴史をもって』いるともある。『しかし、こうした国家の弾圧はあっても、人々の祈りまで圧殺することができなかったことは、前述の祈願者の数字が雄弁に物語って』おり、敗戦の年昭和二〇(一九四五)年十二月『には元巣神社の名称に復帰し』たともある。最後にサイト主は『元巣神社は、今は黙して語らず、といった雰囲気ですが、そのかみ、実は無数の人々の切実な願いや祈りで埋め尽くされていた場所だったのです』と記しておられる。

「南足立郡舍人(とねり)村の諏訪社」現在の東京都足立区舎人に現存する舎人諏訪神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。「新編武蔵風土記稿」(巻之百三十八)にある舎人町(「村」ではない)の条には(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認した)、「諏訪社」として載り(句読点と濁点を追加した)、

   *

西門寺ノ持ナリ、此社地ニ夫婦杉ト唱ヘテ二樹アリシガ、三沼代用水堀割ノ時コノ二樹ノ間ニ溝ヲ開キシヨリ、土人婚嫁ノ時、前ヲ過ルハキラヒシトテ、此道ヲ避ルト云。此杉、今ハ枯タリ。

   *

とある。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の同神社の解説によれば、それ以前に具体的な因果伝承が存在することが判る。この神社、鳥居が社殿の前になく、神殿のに対して左斜めに位置にあるが(リンク先に画像有り)、『舎人諏訪神社の創建年代は不詳で』あるが、『毛長川の名称にまつわる伝承から新里毛長神社の男神に比定して女神とされて』いるとされ、「ブックレット足立風土記舎人地区」による舎人諏訪神社の由緒によれば、『昔、舎人に嫁いだ新里村(草加市、毛長川の対岸)の娘が、姑との不仲で川に入水し、後を追って夫も自害した。その川からは娘の長髪が見つかり、それを神体としたのが新里毛長神社で、その川も毛長川と呼んだという。舎人諏訪神社の社殿が鳥居に対して斜めに建っているのは、夫婦の霊を慰めるため、諏訪神社(男神)と毛長神社(女神)の方向に向けたためだという』とある。これはこれで私には別な意味で非常に興味深い。

「享保十三年」一七二八年。

「三沼代用水」見沼(みぬま)代用水(だいようすい)。享保十三年に幕府役人井沢弥惣兵衛為永が、新田開発のために武蔵国に普請した灌漑農業用水。灌漑用溜池であった見沼溜井(武蔵国(現在の埼玉県さいたま市及び川口市にあった広大な沼を利用した、一種の灌漑用ダム)の代替用水路であった。流路は現在の埼玉県行田市付近の利根川より取水され、東縁代用水路の方が東京都足立区に、西縁代用水路は埼玉県さいたま市南区に至っている。参照したウィキの「見沼代用水」によれば、『埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称されている』とある。

「八王子市の東南南多摩郡忠生村大字圖師の釜田坂」「忠生」は現代仮名遣で「ただお」と読む。現在の東京都町田市忠生の北に接する東京都町田市図師町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。「釜田坂」はここ(グーグル・マップ・データを使用した「坂学会」による作成の水色部分)。参照した「坂学会」公式サイト「全国・坂のプロフィール」の「鎌田坂」(別称に「釜田坂」とある)によれば、『木曽宿を横切り、図師原を貫き、鶴見川の河谷へ向かって下るのが鎌田坂で』、『坂の途中から矢倉沢街道(大山みち)が南西方向に分岐しているが、そこに縁切り不動があり、この坂を、たまに縁切り坂とも呼ぶことがある』とあって、但し、その『縁切り不動は、坂上の簗田寺に移されている』とある。とすれば、この坂の縁切呪術はその不動の呪力によるものであり、今は既にその呪力は失われているとも採れよう。

「大藏院」現認出来ない。

「下板橋の緣切榎」かなり有名であるから、多くの記載がある。ここは画像の豊富な、サイト「東京DEEP案内」の縁切榎 (東京都板橋区)をリンクさせておく。場所は東京都板橋区本町。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「日本伝承大鑑」の「縁切榎」によれば、この縁切伝承の起原には語の訛とするしょぼい定説があるとし、『江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この』二『本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち』、『「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい』とある。なお、流行り神対象となった初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存)、現在は三代目であるともある。

「岩ノ坂」「坂学会」公式サイト「全国・坂のプロフィール」の「岩ノ坂」を参照されたいが、この坂は或いは、それ自体にも不吉な呪力があるのかも知れない。そこには『かつて坂の左側に榎の大木が聳え』、『奥に第六天社があった。今は反対側に移され』て「縁切榎」と呼ばれているが、『坂の両側から覆いかぶさる樹木により昼なお薄暗く』、『不気味な坂であったので』、『「いやな坂」が訛って「いわの坂」と呼ばれた』とあるからである。

「第六天」ウィキの「第六天神社」より引く。『関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社。なお、神社によっては第六天を「大六天」と表記する場合もある』。『元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)』(仏道修行を妨げる天魔。三界の欲界の最高位で、且つ、六道の天道(天上界)の最下部とされる六欲天の第六天に住む、欲界の天主大魔王第六天魔王波旬(はじゅん)のこと。仏教で通常、天魔と言った場合は、狭義には彼を指す)『を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)』に『祭神を変更し』てしまった。「新編武蔵国風土記稿」には三百二十余社が、「新編相模国風土記稿」には百四十余社が、「増訂・豆州志稿」には四十余社の『「第六天神社」を確認でき』、『江戸時代末までは関東を中心に多く存在したが』、『前述の神仏分離によって改称』や『他の神社』へ合祀され等してしまい、粗末な『祠のようなものも数えれば』、『現在でも三百余社あるものの』、『宗教法人格を持つような独立神社としては珍しい存在となっている』。『なお、現在では東京都と千葉県の県境近辺に多く所在しており、神奈川県内において神社庁下の独立神社は二社に留まる』。『また、千葉県香取市の山倉大神は前述の神仏分離まで大六天王(第六天魔王と同一)を祀っており(現在では近距離に所在する真言宗山倉山観福寺に遷座)、大六天王社の総社とされていた』。『一方、第六天神社が所在する分布にも大きな特徴があり、東日本において関東の旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などに存在するが』、『西日本では皆無となっている』。これは一説に、『戦国時代の覇者である織田信長が篤く信奉していたとされることから、天下統一の跡を継いだ豊臣秀吉が第六天の神威(しんい)を恐れ、拠点としていた西日本の第六天神社を尽く廃社したためと』もされる。『なお、信長が信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされるのは、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で紹介されている、武田信玄と信長が書状のやり取りをした際の話からきており、それによると「信玄がテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのに対して、信長は仏教に反対する悪魔の王、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)と署名して返した」とされるが、実際に自ら名乗っていたという文献などは他に存在しない』。『この他、祭神については前述の第六天魔王から神世七代第六代の神に変更されたケース以外に、東京都墨田区押上や葛飾区西亀有の高木神社(旧称:第六天社)のように高木の神(タカミムスビ:日本書紀では高皇産霊神、古事記では高御産巣日神)を祭神としている場合』『や宮城県名取市の第六天神社のようにそもそも第六天魔王とは関係がなく天神を祀っている神社もある』。また、『さいたま市岩槻区にある武蔵第六天神社で』は『御使役の天狗様や社殿に宿る大天狗・烏天狗など天狗と関連付けられている』とあり、これはこれで、またまた私には興味深い事実である。

「現に京都の姫宮が將軍家へ降嫁せられた時にも、𢌞り路にわざわざ臨時の新道を造つて榎の下を避けられたことが一度では無かつた」先に挙げたサイト「日本伝承大鑑」の「縁切榎」によれば、文久弐(一八六二)年二月に実現した孝明天皇の妹和宮親子(ちかこ)内親王と第十四代将軍徳川家茂との結婚で、和宮降嫁の際、『「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話』が最も知られ、『この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、』第十『代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子』(閑院宮直仁親王の第六王女。京都所司代牧野貞通が朝廷と交渉して家治との縁組が決定され、寛延二(一七四九)年二月に京都を発ち、三月に江戸へ到着している)『の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい』とある。

「甲武線」現在の中央本線の旧称。

「江戸志」近藤義休の著になる江戸地誌「新編江戸志」。寛政年間(一七八九年から一八〇一年)の刊行。

「荒川の豐島の渡」隅田川(嘗ての隅田川は荒川の分流であるからこの謂いは正しい)の「六阿弥陀の渡し」の別称。六阿弥陀詣で(春秋の彼岸の入りや中日或いは彼岸のうちの一日(いちじつ)、江戸近郊の六ヶ所の阿弥陀如来を巡拝する行事。実際には物見遊山が主目的)で霊場を巡る際に必ず使う必要があったため、この名で呼ばれ、付近の地名から「豊島(としま)の渡し」とも称された。現在の豊島橋の上流二百メートルほどの、隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」と呼ばれる場所にあった。大正一四(一九二五)年の豊島橋架橋によって廃止されている。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「上の渡」隅田川の「豊島の渡し」の上流にあった「宮堀の渡し」。「神谷の渡し」とも称されたのを、柳田は略して「かみのわたし」としたものであろう。現在の新神谷橋付近にあって、主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小代河岸」「おだいがし」と読む。隅田川の「豊島の渡し」の下流にあった「小台(おだい)の渡し」のこと。「尾久の渡し」とも称された。現在の小台橋付近にあり、江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わい、参照したウィキの「隅田川の渡し」によれば、『江戸期は両岸の農民が半月交代の当番制で渡していたという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「遊歷雜記」遊歷雜記」小石川の隠居僧十方庵(じっぽうあん)敬順が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に著わした江戸市中見聞録。国立国会図書館デジタルコレクションの「江戸叢書」の同書の「二編中卷」を探して見たが、どこに載るのか見出せなかった。識者の御教授を乞う。

「其昔足立郡の領主宮城の宰相、一人娘の足立姫を豐島の左衞門尉に嫁がせたが、姫は無實の罪を著せられて豐島家を追出され、歸りに荒川の淵に於て十二人の侍女と共に身を投げた。其怨念が今も消えぬのだ」東京都足立区扇にある浄土宗龍燈山貞香院性翁寺の公式サイト内の由緒に、『寺伝の縁起や絵巻(ともに足立区文化財)などによれば』、『「性翁寺は六阿弥陀発祥の地にして根元の旧跡である。」』とし、『今からおよそ』千三百『年前の神亀』二(七二五)年、『この地に居住の足立之荘司宮城宰相』の『娘「足立姫」と下女』十二『人水死の難に遭った』。『父・荘司は悲嘆のあまり』、『諸国廻行に出て』、『熊野権現より霊木を授かり、海中に投げ入れると、霊木は当処へ流れ着いていた』。『(旧来、熊の木の地名あり)』。『この霊木を当地に行化の行基菩薩の御手で、六道流転化益に当たって六体の阿弥陀仏を彫刻し、六つの村里に安置して』十三人の亡き『女子のため』、『又、末代衆生利益のため』に行われるようになったのが、『六阿弥陀の始まりである』という。『なお、余り木をもって娘成仏の御影として阿弥陀一体を刻して、荘司屋敷の傍らに草庵を建立して安置したのが当寺開創であり、木余り如来の由縁である』。『その後』、明応元(一四九二)年になって、『当地に来た龍呑上人が姫の墓処の菩提樹の木に毎夜、龍燈のかかるのを見て、守護処に一寺改転を願い出て、龍燈山貞香院性翁寺と給わり、浄土宗寺院として開山され』、『以来、女人往生の霊場として春・秋彼岸の「江戸六阿弥陀巡り」が盛んとなった』とある。

「淀橋と云ふ橋は、小さな橋だが町の名と成つて人がよく知つて居る」「姿不見橋」地名としては旧東京府豊多摩郡淀橋町。東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。橋はここ(グーグル・マップ・データ)。現在は東京都新宿区北新宿二町目内。因みに、ヨドバシカメラの淀橋はこの地名に由来する。ウィキの「淀橋」によれば、『淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので』(後注参照)『、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)』。一説は、『姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた』、或いは、『放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから淀橋と改名した』、別説では、『豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となった』とか、『柏木、中野、角筈、本郷の』四つの村(四戸)の『境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した』というものがあるという。

「中野長者と云ふ人此橋の向に渡つて財寶を土中に埋め、祕密の洩れんことを恐れて伴の下男を殺したと云ふ傳説」「中野区」公式サイト内のなかの物語 其の四 中野長者伝説を御存じですか?に以下のようにある。一部のアラビア数字を漢数字に代えさせて貰った。

   《引用開始》

今は昔、応永の頃(一三九四~一四二七)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。

さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。

金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。

しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。

九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし[やぶちゃん注:中略。]

ところで、淀橋つまり姿見ず橋は、大正時代まで縁起の悪い橋とされ、婚礼などのめでたいことには絶対使われることはありませんでした。大正二年[やぶちゃん注:一九一三年。これはまさに本文に出る話である。]、土地の旧家浅田氏が親族の婚礼のときに、民俗学者柳田国男に講演をお願いするなど盛大な浄め式を行いました。これは「淀橋の迷信打破」と称され、新聞などに報道され広く話題を呼んだそうです。

   《引用終了》

「淀の川瀨の水車の緣」ウィキの「城」に、『淀城の西と北側に直径九間』(約十六メートル)『の大型水車が』二『基設けられていた。二の丸の居間や西の丸の園池に水を取り入れていたのに使用されていたと思われている。当時山城国の人々から「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われた』とあるのを指す。

「淀橋銀行」まさに旧東京府豊多摩郡淀橋町に本店があった、大正期の私立銀行。ウィキの「淀橋銀行によれば、明治三〇(一八九七)年に『群馬県利根郡沼田町で沼田銀行』『の名称で設立』され、ここに出る話の翌年の大正三年には、『経営陣も入れ替わり、淀橋町に移転し、淀橋銀行に改称』したが、昭和二(一九二七)年の『金融恐慌の』煽りを受け、翌昭和三年に『名古屋銀行(東海銀行の前身の一つ)に営業譲渡後』、『解散した』とある。

「頭取」「淺田さん」不詳。

「自分などはやつぱりだらうと思つて居る」柳田國男は今現在も、婚礼の際には「やつぱり」相変わらず、忌避している「だらう」と推察しているのであると思われる。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(18) 雀 三 / 雀~了

 

       

 

 子供の時分に雑誌で読んだきりだから、何に出ている話か知らない。中山公明卿の弟の某という少年が、光格天皇の御側にあった時、歌を詠んで見せよとの仰を蒙って、折からの初雪を題に「初雪に雀の足はつめたかろわれは積るが嬉しかりけり」という一首を奉った。叡感浅からず御嘉賞の御言葉を賜ったが、時にその少年は八歳だったというのである。

[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。

「中山公明」この人物そのものが不詳。羽林家の家格をもつ公家で藤原北家花山院家の支流の中山家(花山院忠宗の子中山忠親を祖とする)の系統の人物かと思って調べたが、支流にも見当たらない。識者の御教授を乞う。

「光格天皇」(明和八(一七七一)年~天保一一(一八四〇)年)は江戸時代の第百十九代天皇で、在位は安永八年十一月二十五日(一七八〇年一月一日)から文化十四年三月二十二日(一八一七年五月七日)で第十一代将軍徳川家斉の治世であった。参照したウィキの「光格天皇」によれば、『傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人でもあった』とある。]

 こういう話は一種の人物伝説に属するから、仮令(たとい)昔の本に出所が明記してあったところで、直に実話と断ずるわけには往かぬ。この少年は後来有名な歌人になったというのでもなし、惜しいことにその名も伝わらぬというあたり、何だか事実らしくもあるが、別の点から疑問とせざるを得ないのは、元禄十六年版の『当座払』に

 

 雪降や雀の足がつめたかろ   つや女

 

の一句が存することである。『当座払』は惟然(いぜん)に師事した千山の撰集で、全巻を通じて方言俗語を用いた句が非常に多い。この句も肩書に「大津」とあるだけで、大人とも子供とも断ってないが、子供の句でなくても誰も怪しまぬほど、この書には同じような調子の句が充ちている。つや女の一句を土台にして、中山公明卿の弟という少年に附会した伝説が生れたか、雪を踏む雀の足の冷たさを思い遣るが如きは、子供の考(かんがえ)としてむしろ普通なものだから、偶然暗合したに過ぎぬか、いずれにせよ元禄に先蹤(せんしょう)があるとすれば、後の名歌の影は薄くなる。「雀の足がつめたかろ」までは童謡的思想と解し得ても、「われは積るが嬉しかりけり」は一度大人の頭を透過した子供らしさである。かたがた以て歌の方は疑問としなければならぬ。尤も雪に雀はあらゆる配合の中で最も平凡なものである。

[やぶちゃん注:「元禄十六年」一七〇四年。第五代将軍徳川綱吉の治世。]

 

 初雪や雀の足の三里たけ       其角

 初雪や雀の扶持(ふち)の小土器(こかはらけ)

                   同

 朝雀雪はく人をはやしけり      支考

   別莊

 初雪や竹に雀をかざるほど      支考

 

というような有名な作家の句をはじめ、

 

 雪の井に雀聲する野中かな      一笑

 日を荷ふ雪の雀の背中かな      りん女

 雪の松一かい下は雀かな       東潮

 雪に猶(なほ)なぞわらやのむら雀  露紅

 竹の雪落(おいち)て夜るなく雀かな 塵交

 よそ外に思はぬ雪の雀かな      千川

 雪降て馬屋にはひる雀かな      鳧仙(ふせん)

 牛の尾にくるふ雀や雪の上      臥高

 雪を待(まつ)雀の觜(はし)や小雀口(すずめぐち)

                   助然

   芭蕉翁十三囘忌追善

 雪ちるや竹に雀はおさだまり     使帆

 

という風に、いくらでも出て来る。しかもその多くが平凡で面白くない。雪の降り積った野中の井のほとりに雀の声がするという一笑の句が、平凡な中でやや生趣がある位のものである。「竹に雀はおさだまり」であるばかりではない。雪の雀もまた「おさだまり」たることを免れぬ。特に雪と竹とを併せ配したものに至っては平凡の二乗で、十一歳という肩書のある少年ですら、

 

 枝ながら雀折たし雪の竹       吟朔

 

の如き月並句を遺している。少年俳句が常に純真で清新なものと心得るのは、少年の通弊たる追随性や模倣性を勘定に入れぬ人の錯覚であろう。

[やぶちゃん注:「三里」灸点の一つである足三里。膝頭の下、約三寸(約六センチ)の脛骨の外側部にある。

「芭蕉十三囘忌」宝永三(一七〇六)年。芭蕉の逝去は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)であるから、宝永三年の祥月命日は一七〇六年十一月十六日に相当する。]

 雪の句の平凡なのに比べると、同じ冬季でも他の風物に配した句の方が遥に特色を具えている。

 

 食堂)じきだう)に雀啼(なく)なり夕時雨(ゆふしぐれ)

                    支考

 こがらしや廊下のしたの村雀      夕兆

 冬空や雨もとぎれてむら雀       野坡

 雹(あられ)にも怪我せぬ雀かしこさよ 杉風

 みぞれふる庇(ひさし)の間(あひ)や友雀

                    昌房(まさふさ)

 刈蕎麥(かりそば)の跡の霜ふむ雀かな 桐奚(とうけい)

 

 これらはいずれも天文に属する句であるが、一つ一つが生々と動いている。寺の食堂に啼く時雨の夕雀、木枯の吹き荒(すさ)む廊下の下の雀、霙(みぞれ)降る庇間になく雀――舞台は建築物の一角に限られており、大体の空気も似たり寄ったりであるにかかわらず、雪の雀のような常套的の感じでない。雨がとぎれてなお晴れやらぬ空の下の雀なども、漠然たる中に冬らしい寒さを捉えているから妙である。童心に触れるという点からいっても「雀の足がつめたかろ」よりは「雹にも怪我せぬ雀」の方が清新であるかも知れぬ。この雹はヒョウでなしにアラレの方である。

 竹に雀は陳腐であるが、柳に雀となると、配合の上で僅に常套を脱して来る。殊に蕭条たる冬枯の柳になれば尚更である。「枯柳雀止りて色もなし 水巴」という明治の句は、色彩の上からこの配合を見て、何ら目立たしいところのない趣を詠んだものであろう。元禄の俳人は同じ配合に目をつけながら、色彩に重きを置かず、

 

 枯柳雀の腹の見えにけり   旦藁(たんこう)

 

という句にしている。「枯柳腹の見えけりむら雀」となつている本もあるようだが、句意に大した変りはない。「むら雀」といえば、その柳の雀の複数であることがはつきりするまでの話である。枯柳に止る雀が色彩の上で目に立たぬというのも、白い腹が目につくというのも、蕭条たる冬の眺として同じことになるのかも知れぬ。

 狂言の「酢薑(すはじかみ)」に「住吉の隅に雀が巢をかけてさぞや雀はすみよかるらん」という歌が出て来る。酢売が引用するだけあって、すの字を畳みかけたところが身上なのであろうが、俳諧にも二、三この歌を据えたものがある。

 

 住よしの隅に雀や松かざり     專吟

 住吉のすみに雀やす蛤(はまぐり) 才麿

 

 これが更に一転すると、其角の「隅に巢を鷺こそねらへ五月雨」になるので、雀を離れると同時に、趣向の上でも其角らしい転化を見せている。但(ただし)この事については柳亭種彦が『足薪翁記(そくしんおうき)』の中に多くの句を引いて、一流の考証を試みているから、ここには省略しよう。『足薪翁記』には「す蛤」の句の作者が「正俟(せいし)」となつているが、何方がいいのかわからない。

[やぶちゃん注:『狂言の「酢薑(すはじかみ)」』小学館「日本大百科全書」の油谷光雄氏の解説に拠れば、『藁苞(わらづと)に薑(山椒(さんしょう)または生姜(しょうが)の古名)を入れて売り歩く男と、竹筒に入れた酢を売る男(シテ)が出会い、自分に挨拶(あいさつ)なしには売らせないと互いに言い張り、商人司(あきうどのつかさ)(商人の元締め)になったそれぞれの由緒を披露して争う。薑売りは「からこ天皇の御時」に始まる薑の辛さにちなんだから尽くしで述べ立てると、酢売りは「推古(すいこ)天皇の御時」とす尽くしで対抗する。これではらちがあかぬと、都へ上る道すがら「から」と「す」との秀句合戦を繰り広げるが、みごとな洒落(しゃれ)の応酬に意気投合し、笑って別れる。酢と薑の商売物にちなんだことば遊びが小気味よいテンポで繰り広げられ、一服の清涼剤のような狂言に仕上がっている、とある。宵曲の引く和歌は、酢売りの由緒話に出る。

   *

さても、推古天皇の御時、一人の酢賣り、禁中を賣り步く、帝、これを聞こし召し、「あれは如何に」と御じようある。「參候、あれは酢と申していかにも酢き物にて候」と申し上げられければ、「さあらば、その酢を召せ」とて召されしに、すい門を、するりと通り、すの子緣に出で畏まる。帝、墨繪の、襖を、スルスルと開けさせ給い、するすると御出あつて、その時の御詠歌に、

 住吉の 隅に雀の巢を組みて さこそ雀の 住みよかるらん

と遊ばされ、その後、いかにも、好き、御酒を、下されてより此の方、酢は賣り物の司じやほどに、某(それがし)へ一禮なくば、そのはじかみは賣らすまい。

   *

という台詞に出てくる(以上の原文は「立命館大学能楽部」公式サイト内の『狂言「酢はじかみ」研究』の電子データを加工させて貰った)。

「足薪翁記」江戸後期の戯作者柳亭種彦(天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)の考証随筆(遺稿か)。当該部は「上」の「四 一 角(すみ)に雀」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。但し、草書写本。其角の句は同条の一番最後に出る。ここ。]

 雀に関する文学としては大正年代に北原白秋氏の『雀の生活』及『雀の卵』がある。前者は散文詩、後者は歌集で、各々描く所を異にするけれども、雀に対してこれほど多くの観察を試み、これほど多くの作品を収めた書物は前後に見当らぬ。俳諧の雀はかなり多方面にわたっているにかかわらず、斯の如く一点に集中した書物はない。雀文学の巨擘(きょはく)としては何人も白秋氏の二著を推さざるを得ぬであろう。

[やぶちゃん注:「雀の生活」大正九(一九二〇)年刊。宵曲は「散文詩」などと言っているが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見て戴ければ判る通り、壮大な目次と内容で、これは北原白秋の雀の随想大成であり、恐らくは文芸的な雀の博物誌的著作の大著と言ってよい。

「雀の卵」大正一〇(一九二一)年、白秋が三十六歳の頃の歌集。「青空文庫」のこちらで読める。

「巨擘」原義は親指で、転じて、同類の中でも特に優れた人物、指導的立場にある人を指す。]

 

 名月や竹を定むる村雀        其角

 月代(つきしろ)や雀こそつく藪の中 囘虎

 

 これらは俳諧にあっても珍しい月夜の雀である。「月讀(つくよみ)の光の紅(あか)く射すところ雀は啼けり軒の古巢に」とか、「巢の中にいくつ卵をまもればか雀は寢ぬぞ春の月夜に」とかいう白秋氏の歌に比べたら、抒情味は乏しいにせよ、とにかく元禄期の俳人が已にこの世界を窺っていることを認めなければなるまい(白秋氏の歌に近い点からいえば、子規居士の「寐(ね)おくれて鳴くや月夜の雀の子」という句も、ここに挙げて置いた方がいいかも知れぬ)。

[やぶちゃん注:「月讀(つくよみ)の光の紅(あか)く射すところ雀は啼けり軒の古巢に」先の歌集「雀の卵」の「序歌」の「二」に出る一首。

「巢の中にいくつ卵をまもればか雀は寢ぬぞ春の月夜に」同前で、「春は軒の雀が宿の巢藁にも紅あかき毛糸の垂れて見えけり」を第一首として前の歌の次に並んで載る。「序歌」の「二」はその三首のみである。

「寐(ね)おくれて鳴くや月夜の雀の子」明治二八(一八九五)年の句と思われる。]

 俳人の中にも白秋氏の如く特に雀に興味を持った人がいたかどうか、事実の上の調査は第二として、雀の句を多く遺した人に野坡がある。野坡の句はこれまでも度々引用してあるが、最後にやや毛色の変ったものとして左の数句を挙げなければならぬ。

 

   草庵を盜人におそはれて

 垣穿(うが)つ雀ならなくゆきのあと   野坡

   五十年に近き人の初子を

   儲けられけるを眞兒と名

   をつけて

 孫も子も分らぬ雪のすゞめかな      同

   伊賀の山里に石を燒木(たきぎ)

   とすることあれば香に匂へうに

   掘岡の梅の花といにしへ翁の吟

   じ給へる此石に其色はことなり

   といへ共筑前木屋の瀨と云(いふ)

   邊りは石を煙らせて朝夕用る宿

   にとまりて

 薪石(まきいし)や薰(くんず)る軒の花 同

 

 一番目と二番目は雀に人事を寓したのであるが、こういう場合に雀を持出すということが、野坡と雀との交渉について何かを語るものであろう。三番目は石炭文学らしいことが注目に値する。筑前とあれば土地柄も想いやられる。当時は固(もと)より煤煙の天を焦すようなものではなかったろうから、旅人たる野坡はその事に興味を持ち、雀や軒の花に配して一句に取入れたのである。「薪石」は野坂の造語であるかどうか、手近の辞書を調べて見たが記載がない。

[やぶちゃん注:「香に匂へうに掘岡の梅の花」「有磯海」に載る芭蕉の句。「有磯海」の表記は(前書有り)、

   *

 

   伊賀の城下にうにと云(いふ)ものあり

   わるくさき香(か)なり

 香にゝほへうにほる岡の梅のはな

 

   *

で、貞亨五(一六八八)年春、「笈の小文」の旅で伊賀で越年した、梅の咲く頃の作。「うに」は「雲丹」で、当時の伊賀・伊勢・尾張地方で低品質の亜炭や泥炭を言う語。当時は特に伊賀古山で採掘していた。]

 しかし最初に述べた通り、雀は鳥の最も平凡なものである。特異な興味は姑(しばら)く措(お)き、何人も多少の交渉を有するのが当然であろう。芭蕉七回忌に詠まれた次の句を見れば、芭蕉も閑居の徒然に任せ、庭前の雀を友とした消息を知ることが出来る。

 

   亡師の閑座をとひ來る小鳥ども

   あはれみ給ふを思ひ出て

 枯庭に米くれられし雀ども   岱水(たいすい)

 

[やぶちゃん注:「芭蕉七回忌」元禄一三(一七〇〇)年。芭蕉の逝去は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)であるから、元禄十三年の祥月命日は一七〇〇年十一月二十二日に相当する。]

2017/12/04

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム 馬の主人 (その3) / 馬の主人~了 

 

 三哩ほど行くと、長い厩のやうな→一つの〕建物がありました。それは材木を地に打込んで、橫に木の枝を渡したもので、屋根は低く、藁葺でした。

[やぶちゃん注:「三哩」四キロ八百二十八メートル。]

 馬は私に先に入れと合図しました〔す〕。

 なかに入つてみると、下の床は滑らかな粘土のたたきになつて〔ででき〕ていて、壁〔に〕は大きな秣草棚や秣草槽がいくつも並んでゐます。そこには仔馬が三匹と、牝馬が二匹ゐましたが、〔ゐます。〕別に物を食べてゐるのでもなく、ちやんと、腿を折りおしりを床の上につけて、坐つてゐるのす。〔です。〕私はびつくりしました。

 もつと驚いたのは、他の馬たちが、みんなせつせと家の仕事をしてゐることでした。見たところ普通の家畜とちがはないのに、なにしろ、馬をこんな風に教え、しこむことのできる人間なら、餘程偉い人間〔主人〕にちがいないありません。→ないと、〕と、思つて、私はこの家の主人に感心してゐました。

[やぶちゃん注:現行版では「見たところ普通の家畜とちがはないのに、」はカットされている。]

 その時、私の後から入つて來た靑毛の馬が何か命ずるやうに五六土いななきました。すると他の馬はみんな何かそれに答へてゐました。

[やぶちゃん注:以上の一段落は全体に、×と抹消の斜め線二本が上に引かれてあり、現行版では存在しない。]

 この部屋の向には、まだ三つ部屋がありました。二つ目〔私たちは二つ目〕の部屋〔を通つて、〕三つ目の部屋へ近づいて行きましたが、〔。〕靑毛〔は〕、そこで〔私に〕待つてをるやうに〔れ〕〔と〕合圖して〔ました。〕私は戸口で待ちながら、この家の主人〔と〕奧さんに贈るつもりで、小刀を二つ、眞珠の腕環を三つ、小さな鏡、それから〔眞〕珠の首飾などを用意しておきました。

 靑毛は、その部屋に入つて、三四度いなないて 〔き〕ました。すると、彼の声よりもつと甲高い声で、誰かがいなないて〔き〕ました。人間の声はまだ聞えません。しかし、私は向の部屋に、どんな貴い人が住んでゐるのだらうか、と考へはじめました。てゐました→ました。〕面会を許してもらふのに、こんな手數がかかるのでは、この國でも、よほど位のいい人がゐる〔な〕のでせう。だが、それにしては、そんな貴い人が、馬だけを〔家來に〕使つてゐるのは、少し変におもはれます。〔です。〕

[やぶちゃん注:「誰かがいなないて〔き〕ました」の箇所は実際には「誰かがいなないて〔き〕ました」である。恐らくは「誰かがいなないて」を「いななき」に訂する際に「て」の字に筆を加えて「き」にしたのまでは良かったが、うっかりその前の箇所を消すのを忘れたものと断じ、民喜に好意的にかく示した。]

 これは私の頭の方がどうかしたのではないかしらといふ氣がして來ました。〔おもひました。〕私は〔今〔、〕立つてゐる〕部屋のなかを〔よく〕よく見廻してみました。〔入口部屋 の模樣は最初の部屋とあまり違つてゐませんでした。〕〕何度、眼をこすつてみても、そこは前と変らないのです。夢ではないかしらと思へるので、眼が覺めるやうに、〔脇〕腹を抓つてみました。が、夢でもなささう〔いの〕です。それでは、これはみんな魔法使の仕業にちがいない、と私はきめました。

 丁度その時、靑毛が戸口から顏を出して、私にはいれと合図しました。私はなかに入つて〔みて、私は〕驚きました。上品な牝馬が一匹、それに仔馬が一匹、小ざつぱりした筵の上にきちんと坐つてゐるのです。

 牝馬は筵から立ち上ると、私の傍へ來て、私の手や顏をジロジロ眺めまはしてゐました。それから、いかにも私を馬鹿に侮蔑馬鹿→輕蔑〕するやうな顏つきで、靑毛の

 「ヤーフ」とつぶやきました。そして〔、〕靑毛の方を顧みると→ては〕、お互に何回となく、このヤーフといふ言葉を繰り返しました〔てゐるのです〕。私は一番はじめに覺えたこの言葉の〔何の意味だかまだこの時はさつぱ〕りわからなかつたのですが、その後間もなく、ヤーフといふ意味がわかつてみると、これは實に厭な厭なものでした。

[やぶちゃん注:この段落の最後の一文は現行版では完全にカットされている。]

 靑毛は私の方へ首をむけて、フウン、フウンと頻りにくりかへしました。これは、ついてこい、といふ合図なのでした。そこで私は彼について、中庭のところへ出ました。家から少しはなれたところに、また一棟、建物がありました。そこへ入つてみて、私はびつくり〔あツと思ひま〕した。

 私が上陸してすぐ出くはした、あの厭つたらしい動物が、〔ゐたのです。〕その三匹の動物は〔が〕、今、木の根つこや、何か動物の生肉をしきりに食つてゐました。彼等〔三匹〕は頸のところを丈夫な紐でくくられ、〔柱〕につながれたまま、食べものを左右の前足の爪で摑んでは、齒でひきさいてゐるのです。

 主人の馬は、召使の馬に命じて、三匹〔こ〕の〔動物の〕なかから一番大きい奴を、とり〔ひつぱ〕はずして、庭のなかへ連れて來させました。私とこの動物〔と〕は、一ところに並んで立たされました。〔そして→れから〕主人と召使の二人は〔、〕私たち〔の〕顏を〔じつとよく〕見比べてゐましたが、その時もまたしきりに「ヤーフ」といふ言葉がくりかへされたのです。

 私はそばにゐる厭らしい動物が、そつくり人間の恰好をしてゐるのに氣がついて、ハツと〔どきつ→びつくり〕しました。この動物〔は〕顏が〔人間より少し〕平たく、鼻は落込んでゐて、唇が厚く、口は廣く割れてゐます。だが、これくらいの違ひなら、野蠻人にだつてあるはずです。ヤーフの前足〔は〕私の前足の違ふところは〔より〕、爪〔が〕長さとと〔くて〕、掌が粗くゴツゴツしてゐて、色がちがつてゐました。〔とにかく〕この動物は人間より毛深くて〔皮膚の〕色が少し変つてゐるだけで、あとは身躰中すつかり人間とちがはないのです。

 だが、二匹の馬には、私が洋服を着てゐるので、ヤーフとは違つてゐるやうにおもへたのです。〔この〕洋服といふものを、馬は〔まるで〕知つてゐないのでした。で、どうも〔ので、〕〔彼等は〕非常に 合點〔合點〕がゆかないのやうでした。

 そこで〔ふと〕栗毛の子馬が、木の根つこを一本、私の方へ差出してくれました。私は手にとつて、一寸臭を嗅いでみましたが、すぐ叮嚀に返してやりました。

 すると、彼は今度はヤーフの小屋から、驢馬の肉を一片持つて來てくれました。これは臭くてたまらないので、私は顏をそむけてしまひました。しかし彼がそれをヤーフに投げてやると、ヤーフはおいしそうに食べてしまひました。

 その次には乾草を一束とからす麥を私に見せてくれました。しかし、私はどちらも〔自分の〕食物ではないことを示すために〔と〕、首を振つてみせました。私はもしこれで同じ人間に出會はなかつたら、いづれ餓死するのではないかと、そのことが心配になりだしました。

[やぶちゃん注:最後の削除されている一文は、現行版では、ほぼ同じような、

   *

私はもしこれで同じ人間に出会わなかったら、いずれ餓死するのではないかと心配になりました。

   *

で、復活している。]

 すると〔この時、〕主人の馬は蹄を口許へ持つて行つて、私に、どんなものが食べたいかといふやうな身振りをしました。だが、なにしろ私は相手にわかるやうな〔に〕返事ができません〔でした〕。

 ところが丁度いいことに、〔いま〕表を一匹の牝牛が通りかかりました。そこで、私はそれを指ざしながら、一つ牛乳をしぼらせてくれといふ身振りをしました。これが相手にわかつてもらへたのです。彼は私を家の中へつれて帰ると、澤山の牛乳が陶器や木の器に入れて、きちんと綺麗に並べてある部屋へつれて行きました。そして大きな茶碗に牛乳を一杯注いでくれました。私はグツと一息に飮み干すと、はじめて生返つたやうな氣持がしました。

 正午頃、一臺の車が〔、〕四人のヤーフに曳かれて家の前に着きました。車の上には身分のいいらしい老馬が乘つてゐました。彼は左〔の〕前足を怪我してゐたので、後足から先に降りました。

 老馬〔彼〕は非常にていねいに迎へられて、一番いい部屋で〔みんなは〕食事することになりました。部屋の眞中に秣桶を円く並べ、みんなはそのまはりに、藁蒲團を敷き、尻餅をついたやうにその上に坐るのでした。そして〔、〕馬〔ど〕もは、それぞれ、自分の乾草や燕麥と牛乳の煮込みなどを、行儀よくキチンと食べるのでした。

 仔馬でも非常に行儀がいいのです。〔とくに〕お客をもてなす主人夫妻のやりかたは、〔とても〕快活で、ていねいで、氣持のいいものでした。〔そのうち→ふと〕靑毛が私〔を〕ところへやつて來て、〔招いて、〕〔こちらへ來て〕立てと命じました。客たちは〔、〕しきりに私の方を見ては、ヤーフといふ言葉を云つてゐます。〔これは〕私のことを今いろいろ話しあつてゐるのでせう。

 丁度、その時、私が牛袋を〔は〕めてゐました。それを主人が見つけて、不思議でたまらないらしく、蹄で三四度、牛袋に觸りました。そ〔こ〕で私は牛袋をとつて、ポケツトにおさめました。〔私が〕こんなことをするのが、みんなをすつかり喜ばしたのです。

[やぶちゃん注:以上の段落は全体が現行版には存在しない。]

 彼等は私に知つてゐる言葉を云つてみよといひます。そして、主人は食卓の上にある、〔まはりにある、〕燕麥、牛乳、火、水などの名前を教へてくれました〔す〕。私はすぐ彼の後について云へるやうになりました。

 食事がすむと、主人の馬は私を脇へ呼びました。そして言葉やら身振りで、私の食いものがないのが、とても心配だといひます。燕麥は、この國私は燕麥のことをフルウンと呼ぶのをいふのだと教へられ燕麥〔のことは〕フルウンと呼ばれてゐます〔るのでした〕。そこで、私は二三度 「フ

 「フルウン、フルウン」

と呼んでみました。〔これは燕麥のことです。〕はじめ私は燕麥など、とても食べられさうになかつたのですが、これでなんとかパンのやうなものをこさへようと考へついたのです。

[やぶちゃん注:現行版はダブりが整序されて、

   *

 食事がすむと、主人の馬は私を脇へ呼びました。そして言葉やら身振りで、私の食物がないのが、とても心配だと言います。私はそこで、

「フルウン、フルウン」

 と呼んでみました。『フルウン』というのは、『からす麦』のことです。はじめ私はからす麦など、とても食べられそうになかったのですが、これでなんとか、パンのようなものをこさえようと考えついたのです。

   *

となっている(太字は傍点「ヽ」)。]

 すると主人は、召使に云ひつけて、木の盆に燕麥をどつさりのせて持つて來させました。私はこれを〔はじめ、〕火でよく暖めて、もんで殼を〔と〕りました。〔、〕それから〔それを〕石で擂りつぶし、水を混ぜて、お菓子のやうに〔して〕火でやいて、牛乳と一緒に食べました。

 これははじめは、とても、まづくて食べにくかつたのですが、そのうちに、どうにか我慢できるやうになりました。〔そして私はこの國にゐた間ぢう、身躰の工合が悪かつたことなど一度もなかつたのです。〔私は〕たまには、兎や鳥を捕へて〔つて〕食べたり、藥草を集めてサラダにして食べたこともあります〔ました〕。一番〔私がこの國へ來た〕はじめ頃は〔頃は〕、塩がないので〔私は〕大変困りました。が、それも慣れてしまふと、〔間もなく氣にならなくつてしまひました。〔あまり不自由ではなかつたのです。〕

 夕方近くなると、主人の馬は、私の寢る場所をきめてくれました。それは家から六ヤードばかり離れてゐましたが、ヤーフどもの小屋とは別になつてゐました。私は藁を少し貰ひ、洋服を上にかけて、ぐつすり眠りました。

[やぶちゃん注:この最後の段落も現行版ではカットされている。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 死相(葛巻義敏編集)

 

[やぶちゃん注:底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠った。葛巻氏の推定(底本では本文末に彼の推定クレジットがある)によれば、本篇の執筆時期は先に電子化した狂人とほぼ同時期か少し後の、明治四二(一九〇九)年或いはその翌年とされる。芥川龍之介十七、八歳、府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)五年生(当時の旧制中学は五年生)か、東京帝国大学予科第一高等学校一年生の時のもので、同じく、青年期の芥川龍之介の最初期の本格小説の一篇と言える。但し、葛巻氏は恣意的な文脈合わせのための複