フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

2018/05/22

冬の明け方   中原中也

 

  

 

殘んの雪が瓦に少なく固く

枯木の小枝が鹿のやうに睡い、

冬の朝の六時

私の頭も睡い。

 

烏が啼いて通る――

庭の地面も鹿のやうに睡い。

――林が逃げた農家が逃げた、

空は悲しい衰弱。

     私の心は悲しい……

 

やがて薄日が射し

靑空が開(あ)く。

上の上の空でジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る。

――四方(よも)の山が沈み、

 

農家の庭が欠伸(あくび)をし、

道は空へと挨拶する。

     私の心は悲しい……

 

[やぶちゃん注:「殘んの雪」「のこんのゆき」。「殘んの」は古語の連体詞で「残りの」の転訛したもの。「残っている」の意。

「林が逃げた農家が逃げた」はサイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説がよい。『これは、中也がよく使うレトリックの一つ』で、『林が逃げた、というのは、林がどこかに行ってしまった、というのではなく』、『林もまだ目覚めておらず』、『そこにあるのだけれど、ないのも同然という、不在感を表現したもの』であり、最終連の『農家も、同様に解すことができ』、『林も農家も』、『まだ、冬の朝に、目覚めていないので』あるとされておられる。

「ジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る」遠い寒雷の雷鳴と採ってもよい。それを天空神ジュピターJupiter:ローマ神話の最高神ユピテル(ラテン語:Jūpiterの英語名。気象現象(特に雷)を司る神)が「太陽」を打ち出した火砲の砲弾にをかく言ったもの(雷鳴とは敢えて採らない)だとどこかで思っていた。いや、今もそう思っている、と言い添えておく。]

冷たい夜   中原中也

 

  冷 た い 夜

 

冬の夜に

私の心が悲しんでゐる

悲しんでゐる、わけもなく……

心は錆びて、紫色をしてゐる。

 

丈夫な扉の向ふに、

古い日は放心してゐる。

丘の上では

棉の實が罅裂(はじ)ける。

 

此處では薪が燻つてゐる、

その煙は、自分自らを

知つてでもゐるやうにのぼる。

 

誘はれるでもなく

覓(もと)めるでもなく、

私の心が燻る……

 

[やぶちゃん注:「棉」「わた」と訓じていよう。「綿」に同じい。

「薪」「まき」か「たきぎ」か、確定不能。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の本篇では『まき』とルビするが、サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の電子化本文では『たきぎ』と読みを添える。「薪」の字は本詩集ではここにしか用いられていない。そこで、第一詩集「山羊の歌」(昭和九(一九三四)年十二月文圃堂刊)を調べてみたところ、「生ひ立ちの歌」の「Ⅱ」の第一連の三行目「薪の燃える音もして」とあり(やはり「薪」の字はここのみ)、この「薪」には上記新潮社「日本詩人全集」版や岩波文庫版では『たきぎ』のルビを附してある。しかし乍ら、所持する、底本と同じく中原中也記念館館長中原豊氏の打ち込みになるベタの電子テクスト・データの「山羊の歌」(底本は復刻版「山羊の歌」昭四五(一九七〇)年麥書房刊)には、この「薪」にルビは入っていない。さればこそやはり確定出来ない

「燻つてゐる」「くすぶっている」(現代仮名遣)と読む。

「覓(もと)める」「求める」に同じい。]

秋の日   中原中也

 

    秋  の  日

 

 磧づたひの 竝樹の 蔭に

秋は 美し 女の 瞼(まぶた)

 泣きも いでなん 空の 潤(うる)み

昔の 馬の 蹄(ひづめ)の 音よ

 

 長の 年月 疲れの ために

國道 いゆけば 秋は 身に沁む

 なんでも ないてば なんでも ないに

木履の 音さへ 身に沁みる

 

 陽は今 磧の 半分に 射し

流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる

 野原は 向ふで 伏せつて ゐるが

 

連れだつ 友の お道化た 調子も

 不思議に 空氣に 溶け 込んで

秋は 案じる くちびる 結んで

 

[やぶちゃん注:「磧」「かはら」。河原。川辺の水が枯れて砂や石が多い場所。

「竝樹」「なみき」。並木。

「泣きも いでなん」「美し」い「秋」であるが、その「空」は「今にも泣き」出し「も」しそうに見える、雨を降り出させそうな「空」の比喩ではある。「女の 瞼(まぶた)」はその形容表現の反側的な配置であろう。しかし、この「女」はただの比喩ではなく、詩篇全体に「女」の影を詩想全体に及ぼすための、確信犯的な企(たくら)みと私は踏んでいる。

「長の」「ながの」。

「年月」「としつき」と読みたい。

「いゆけば」「い行けば」。「い」は語調を調える接頭語。

「なんでも ないてば」「てば」は「と言へば」の音変化したものが、係助詞風になったもの。相手の言葉を改めて話題として示す意。「何でもないと言おうなら、確かに」。

「なんでも ないに」「に」は接続助詞で逆接の確定条件。「何でもないのだけれども」。

「木履」「ぼくり」。通常は下駄を指す。ここも実際には主人公と「連れだ」って国道を歩いている男の「友の」「お道化た」「調子」の「カラン! コロン!」という、乾いた軽快にして滑稽な、その下駄の「音」が現実の音なのであろうが(だから副助詞「さへ」を用いているのである)、しかし、ここではまた、第一連で比喩表現で匂わされた「女」の感覚的イメージから、主に少女が用いた、材の底を刳(く)り抜いて後ろ側を丸くし、前の方は前のめりに仕立て、漆で黒や赤に塗った駒下駄(こまげた)の一種の「ぽっくり」「ぼっくり」の音をも、読む者の意識の中に響かせようとしているのではないか? と私は読みたくなるのである。

「流れを 無形(むぎやう)の 筏は とほる」「筏」は「いかだ」であるが、ここは実際に筏が通っているのでは、無論、ない。それは「無形の」「筏」=不可視の筏=漂泊する詩人の魂のようなものの換喩であろう。それは直下で「野原は 向ふで 伏せつて ゐるが」という擬人法を用いている辺りからも漂ってくるのである。

「秋は 案じる くちびる 結んで」――唇をむつかしく「ぎゅっつ」と結んで、あれこれと、男の詩人たち(この友もまた詩人であろう)を考えあぐまさせるのであるよ、「秋は」――と私は採る。その反側として艶っぽい「女」のイメージが詩の背後に潜んでいると私は採るのである。そも「秋」である。「淮南子(えなんじ)」(前漢の淮南王(わいなんおう)劉安の撰になる思想書。二十一編が現存する。道家・陰陽家・法家などの諸学派の説を総合的に記述編修輯したもの)の「繆稱訓(びゅうしょうくん)」に言う、「春女思、秋士悲、而知物化矣。」(春、女は思(かな)しみ、秋、男は悲しみ、而して「物化」(万物の無常の変化)を知る。)のである。]
 

冬の日の記憶   中原中也

 

  冬の日の記憶

 

晝、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、

夜になつて、急に死んだ。

 

次の朝は霜が降つた。

その子の兄が電報打ちに行つた。

 

夜になつても、母親は泣いた。

父親は、遠洋航海してゐた。

 

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。

北風は往還を白くしてゐた。

 

つるべの音が偶々した時、

父親からの、返電が來た。

 

每日々々霜が降つた。

遠洋航海からはまだ歸れまい。

 

その後母親がどうしてゐるか……

電報打つた兄は、今日學校で叱られた。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の創作は推定で昭和一〇(一九三五)年十二月とし、この死んだ子は四歳の『中也の次弟・亜郎』(つぐろう/通称/あろう)であり、従ってここに出る「兄」が長男であった中原中也自身であるとあり、『亜郎が亡くなったのは』大正四(一九一五)年一月九日で中也八歳の時であったという。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、この時、この次男亜郎の詩を悼んで歌(本詩篇ではない)を作っており、それが中也の最初の詩作であったとする。この詩はそういう意味で、中原中也にとっての近親者の死によるトラウマの起点であったと同時に、彼の文学的出発点でもあったということになろうか。

「父親は、遠洋航海してゐた」事実の文学的虚構。当時、父耕助は金沢の聯隊付から朝鮮の龍山(ヨンサン)(現在の大韓民国ソウル特別市中央部の漢江北岸にある龍山区。ソウル駅がある)聯隊陸軍医長に栄転し、前年大正三年三月から赴任しており、家族は同時に金沢から山口に戻っていた(耕助はその後、上司に申し出て、八月、家族のいる山口の衛戍病院長に転任して帰還した。因みにその二ヶ月後の十月、彼は中原家と養子縁組をし、中原家の戸主となり、ここで初めて中也は柏村から中原姓となったのであった。ここはウィキの「中原に拠る)。

「つるべ」
「釣瓶」。井戸で水を汲み上げる際に用いる、繩・綱を取り付けた桶などの容器を狭義には指すが、後にはそれを引き上げる天秤状の釣瓶竿や滑車など機構全体を指すようになった。井戸は古来、死者の国としての黄泉(よみ)の国や冥界に通底する通路とされたから、ここでそれが何故か音を立てたというところには、民俗的なそうした意識が働いていることを見逃してはなるまい。

この小兒   中原中也

 

    こ の 小 兒

 

コボルト空に往交(ゆきか)へば、

野に

蒼白の

この小兒。

 

黑雲空にすぢ引けば、

この小兒

搾る淚は

銀の液……

 

     地球が二つに割れゝばいい、

     そして片方は洋行すればいい、

     すれば私はもう片方に腰掛けて

     靑空をばかり――

 

花崗の巖(いはほ)や

濱の空

み寺の屋根や

海の果て……

 

[やぶちゃん注:太字「もう片方」は原詩集では傍点「ヽ」。「この小兒」とは精霊「コボルト」(後注参照)の変じた長男文也を具体なイメージの一つとしながら、それが詩の半ばで詩人自身にグラデーションを以ってメタモルフォーゼするかのようである。

「コボルト」(ドイツ語:Kobold:カタカナ音写:コォゥバァルドゥ)はドイツの民間伝承に由来する醜い悪戯好きの妖精或いは鉱山の地霊などの、精霊群を指す汎用名称。ウィキの「コボルト」より引く。『コボルトはドイツ語で邪な精霊を意味し、英語ではしばしばゴブリンと訳される』(Goblin。広く西欧で信じられている、森や洞窟に住むとされる醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊の汎称。このドイツの「コボルト」の他、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である)。『最も一般的なイメージは、ときに手助けしてくれたりときにいたずらをするような家に住むこびとたちというものである。彼らはミルクや穀物などと引き替えに家事をしてくれたりもするが、贈り物をしないままだと』、『住人の人間にいたずらをして遊んだりもする。また、一度』、『贈り物をもらったコボルトはその家から出て行ってしまうと言われる。もうひとつあるコボルトのイメージは、坑道や地下に住み、ノームにより近い姿である』『金属元素コバルトの名はコボルトに由来する』が、これは『コバルト鉱物は冶金が困難なため』、十六『世紀頃のドイツでは、コボルトが坑夫を困らせるために魔法をかけて作った鉱物と信じられていたからである』とある。

「黑雲」「こくうん」「くろくも」孰れとも読める。因みに本詩篇の上の定位置に記された第一連・第四連は総てが初行と最終行の頭をカ行音で合わせてある。個人的には、次行の「この小兒」の「こ」と響き合わせて、独特の硬質感(後で地球が割れればいいといい、最終連に花崗岩が出る辺りも含め)を出したい気がするので「こくうん」と私は読みたい。

「そして片方は洋行すればいい」「すれば私はもう片方に腰掛けて」「靑空をばかり――」やや分かり難いが、厭世的詩人は言い放つ。『地球が二つに割れてしまえばいい、割れてしまったら、その一方はどこか遠い宇宙のどことなりへと旅立って(「洋行」)しまえばいい、旅だって俺独りになったなら、その一方は私の足下に残っている、そこで「私は」その片割れの半地球に徐ろに「腰掛けて」「靑空をばかり」眺めて居たい』というのである。さてもこれは私の偏愛する尾形龜之助の、あの詩集色ガラスの街」(大正一四(一九二五)年十一月惠風館刊。リンク先は私が二〇一四年に作った〈初版本バーチャル復刻版〉)の一篇、

   *

 

    不幸な夢

 

「空が海になる

私達の上の方に空がそのまま海になる

 ―― 

そんな日が來たら

 

そんな日が來たら笹の舟を澤山つくつて

仰向けに寢ころんで流してみたい

 

を私は直ちに想起する。

「花崗」「くわこう(かこう)」。花崗岩。以下、「濱の空」「み寺の屋根」「海の果て」とかなり具体なロケーションが続くので、この第四連は特定の場所がイメージされていることは間違いない。ここかと思うところはあるのだが、本詩篇の創作時期が何時であったを調べ得ないので断定出来ない。もし、文也夭折の後の創作とするならば、没する昭和一二(一九三七)年の一月に強度のノイローゼ(当時の診断名)で入院した千葉市千葉寺療養所、及び、そこから退院後に移った鎌倉(扇ヶ谷(おおぎがやつ)寿福寺裏)が候補となるようには思う(但し、鎌倉には際立った「花崗」岩の「巖」はない)。]

幼獸の歌   中原中也

 

    幼 獸 の 歌

 

黑い夜草深い野にあつて、

一匹の獸(けもの)が火消壺の中で

燧石を打つて、星を作つた。

冬を混ぜる 風が鳴つて。

 

獸はもはや、なんにも見なかつた。

カスタニエットと月光のほか

目覺ますことなき星を抱いて、

壺の中には冒瀆を迎へて。

 

雨後らしく思ひ出は一塊(いつくわい)となつて

風と肩を組み、波を打つた。

あゝ なまめかしい物語――

奴隷も王女と美しかれよ。

 

     卵殼もどきの貴公子の微笑と

     遲鈍な子供の白血球とは、

     それな獸を怖がらす。

 

黑い夜草深い野の中で、

一匹の獸の心は燻る。

黑い夜草深い野の中で――

太古は、獨語も美しかつた!……

 

[やぶちゃん注:太古の古代人幻想詩篇。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇は本『詩集の前の方に配されてい』るものの、創作時期は、没する前年の昭和一一(一九三六)年六月頃『と推測される』もので(中也二十九歳)、昭和一一(一九三六)年八月号の『四季』に発表されたもの、とある。

「黑い夜草深い野にあつて」現代仮名遣で「くろいよる//くさぶかい/のにあって」と読む。

「獸」これは獣類を指していないことは以下で火打石を打っていることからも判る。古代の野人の一人の成人の大人である。

「火消壺」「ひけしつぼ」。

「燧石」「ひうちいし」。

「カスタニエット」カスタネット(英語:castanet:英語をカタカナ音写するなら「キャスタネット」が近い)。元はスペイン語「castaña」(カスターニャ)で「クリの実」の意。形が似ていることに拠るといい、平凡社「世界大百科事典」によれば、実際に本来は原料にクリ材を用いるとあり、小学館「日本大百科全書」によれば、スペイン式カスタネットの起源は古代エジプトに溯るとある。古代エジプトの国家形成は紀元前三千年頃で、本邦では縄文時代中期から後期に当たる。本詩篇の幻想は本邦というよりは、この語の使用によって、一見、古代西洋的なニュアンスを感じさせるが、しかし、当時の縄文期も集落が大型化し、三内(さんない)丸山遺跡のような巨大集落が現われ、植林農法も進化して、それまでのドングリよりも、そのまま食べられるクリに変わって大規模化しているから(ここはウィキの「紀元前3千年紀に拠った)、これを私は繩文幻想と採りたい気が強くしている

「目覺ます」「めざます」。

「卵殼もどき」「らんかくもどき」。つるんとした傷一つない綺麗な(「貴公子」だから)の頰の形容。どことなく文弱な感じだが、それはそれで内在する貴種の力を思せる。それが知力は「遲鈍」であっても、やはり強靱なパワーを伏在させている野人の「子供」と対となると私は思う。

「白血球」は外敵を鋭く感知し、攻撃し、食い尽くすから、これはその古代の民の普通の「子供」の中に生得的に天賦されて内包されている、新たな世代の強靱な「血」=魂=霊力を換喩しているものと私は読む。

「それな獸を怖がらす」「な」は強調して念を押す間投助詞と採る。「それこそが」未だただの獣である常に力ある何者かに平伏す野人の大人を生理的に恐れさせる、の謂いと私は採る。

「燻る」「くすぶる」。

「獨語」「どくご」。しかし実は、そうした未だ野人の大人の、誰に言うでもないモノローグでさえも、既にして実はアニミスティクな呪的な超自然力を持った言霊(ことだま)なのであり、だからこそそれでさえも「美しかった!」のである。こういう、言葉が本来持っていたはずの呪的詩的パワーを我々は失って久しいのである。中也がこの詩で言いたかったのはそんな思いではなかったろうか? しかも、それでこそ、実はうわべだけでない、真正のダダイズム的詩篇として私は本詩篇を詠むのである。]

夏の夜   中原中也

 

    夏  の  夜

 

あゝ 疲れた胸の裡を

櫻色の 女が通る

女が通る。

 

夏の夜の水田(すゐでん)の滓、

怨恨は氣が遐くなる

――盆地を繞る山は巡るか?

 

裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、

開いた瞳は をいてきぼりだ、

霧の夜空は 高くて黑い。

 

霧の夜空は高くて黑い、

親の慈愛はどうしようもない、

――疲れた胸の裡(うち)を 花瓣が通る。

 

疲れた胸の裡を 花瓣が通る

ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物に觸れて。

靄はきれいだけれども、暑い!

 

[やぶちゃん注:初行の「裡」にはルビがない。「水田(すゐでん)」の「ゐ」、「をいてきぼり」の「を」、はママ。

「滓」「おり」と読む。

「遐くなる」「とほくなる(とおくなる)」。「遠くなる」に同じい。

「繞る」「めぐる」。

「銅鑼(ごんぐ)」銅鑼(どら)。「ゴング(gong:マレー語語源の英語)」の当て読み。]

春の日の歌   中原中也

 

    

 

流(ながれ)よ、淡(あは)き 嬌羞よ、

ながれて ゆくか 空の國?

心も とほく 散らかりて、

ヱジプト煙草 たちまよふ。

 

流(ながれ)よ、冷たき 憂ひ祕め、

ながれて ゆくか 麓までも?

まだみぬ 顏の 不可思議の

咽喉(のんど)の みえる あたりまで……

 

午睡の 夢の ふくよかに、

野原の 空の 空のうへ?

うわあ うわあと 涕くなるか

 

黃色い 納屋や、白の倉、

水車の みえる 彼方(かなた)まで、

ながれ ながれて ゆくなるか?

 

[やぶちゃん注:「嬌羞」「けうしう(きょうしゅう)」と読み、原義は「女性の嬌(なまめ)かしい恥じらい」の意。

「午睡」新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『ひるね』とルビするが、であれば、中也はルビを振ったであろう。響きからも私は「ごすい」と音で読みたい。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の電子化でも『ごすい』とされておられる。

「涕く」「なく」。]

春   中原中也

 

    

 

春は土と草とに新しい汗をかゝせる。

その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲る。

瓦屋根今朝不平がない、

長い校舍から合唱は空にあがる。

 

あゝ、しづかだしづかだ。

めぐり來た、これが今年の私の春だ。

むかし私の胸摶つた希望は今日を、

嚴めしい紺靑(こあを)となつて空から私に降りかゝる。

 

そして私は呆氣てしまふ、バカになつてしまふ

――藪かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?

藪かげの小川か銀か小波か?

 

大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに

一つの鈴をころばしてゐる、

一つの鈴を、ころばして見てゐる。

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、本詩篇の初出は、昭和四(一九二九)年九月号『生活者』とある。さても、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜によれば、まさにこの年の春四月、当時二十二歳になった中原中也を中心とし、河上徹太郎・大岡昇平・阿部六郎ら『九人の文学青年が、十円の同人費を持ち寄って』、同人雑誌『白痴群』を創刊している(誌名は『野心を持ちたくても持てない馬鹿の集りの意』ともある)。

「隲る」「のぼる」と読む。

「瓦屋根今朝不平がない」「かはらやね//けさ/ふへいがない」(斜線は切れを示し、二重斜線はより有意な切れを示す)と読んでおく。

「胸摶つた」「むねうつた(むねうった)」と読む。

「紺靑(こあを)」紫色を帯びた暗い青色(或いは「鮮やかな明るい藍色」とも表現できる)。但し、紺青は「こんじやう(こんじょう)」と読み、「こあを(こあお)」という読み方はしない。「こんあを」をこんな風には略さないから、ここは同じような濃い青色を意味する「濃青(こあを(こあお))」の読みを「紺靑」に韻律上から当て訓したものと私は採る。

「呆氣てしまふ」「ほうけてしまふ(ほうけてしまう)」。]

雨の日   中原中也

 

    雨  の  日

 

通りに雨は降りしきり、

家々の腰板古い。

もろもろの愚弄の眼(まなこ)は淑やかとなり、

わたくしは、花瓣の夢をみながら目を覺ます。

 

     *

 

鳶色の古刀の鞘よ、

舌あまりの幼な友達、

おまへの額は四角張つてた。

わたしはおまへを思ひ出す。

 

     *

 

鑢の音よ、だみ聲よ、

老い疲れたる胃袋よ、

雨の中にはとほく聞け、

やさしいやさしい唇を。

 

     *

 

煉瓦の色の憔心の

見え匿れする雨の空。

賢(さかし)い少女(をとめ)の黑髮と、

慈父の首(かうべ)と懷かしい……

 

[やぶちゃん注:これも幼年記憶の追幻想の一篇である。

「腰板」(こしいた)とは、建物の壁面の仕上げや構造が上部と下部で異なる場合の下部の壁面を「腰」と称し、その腰の部分に張られた板を「腰板」と称する。腰羽目(こしばめ:壁の下部に板を平らに張ったもの。「羽目」は当て字で動詞「塡(は)める」の連用形由来とされる)としてよく用いられ、壁の下部を保護するとともに意匠的意味を持つ。腰板の上部に「笠木(かさぎ)」を、下部に「添え木」を施すのが通例(小学館「日本大百科全書」他に拠った)。

「淑やか」「しとやか」と読む。

「古刀」音数律のリズムから見て「こたう(ことう)」と訓じていよう。新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」では『刀』でこれなら「かたな」であるが、残念ながら、同書は本詩集「在りし日の歌」を底本としているから、ただの脱字である。

「舌あまり」舌が短くて一部の発音が上手くいかない「舌足らず」の反対で、舌が長過ぎるために同様の現象が起こる、そうした長い舌、などと、まことしやかにネット上に書かれてあるが、「舌足らず」は「舌が短いために発音がおかしいこと」の意ではなく、一部の発音が正常に出来ないことをかく言っているに過ぎない。「舌あまり」は恐らくその方言であろう(但し、「日本国語大辞典」には載らない)。

「鑢」「やすり」と読む。

「煉瓦の色の憔心の」「憔心」は「せうしん(しょうしん)」であるが、一般的な熟語ではない。「憔」は「憂い悩む」であるから「憔悴した心」の状態をさすとは読める。無論、ここは「見え匿れする雨の空」の眼前の暗く重い雨空の感覚的形容であり、謂わずもがな、同時に主人公の心象風景の反転画像である。]

六月の雨   中原中也

 

    六 月 の 雨

 

またひとしきり 午前の雨が

菖蒲のいろの みどりいろ

眼(まなこ)うるめる 面長き女(ひと)

たちあらはれて 消えてゆく

 

たちあらはれて 消えゆけば

うれひに沈み しとしとと

畠(はたけ)の上に 落ちてゐる

はてしもしれず 落ちてゐる

 

        お太鼓叩いて 笛吹いて

        あどけない子が 日曜日

        疊の上で 遊びます

 

        お太鼓叩いて 笛吹いて

        遊んでゐれば 雨が降る

        櫺子(れんじ)の外に 雨が降る

 

[やぶちゃん注:第三・四連の有意な字下げはママ。サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、原詩篇は昭和一一(一九三六)年四月(満二十九歳直前か。中也の誕生日は明治(一九〇七)年四月二十九日)の創作と推定されているとあるから、長男文也は昭和九年十月十八日生まれであるから、一歳半あまりで、後半部の「あどけない子」は一見、文也のようにも思われるが、創作時期が「六月」よりも前であり(但し、同解説では本詩篇の初出が昭和一一(一九三六)年の『文學界』六月号であったとあるから、それが発行される梅雨時を意識して詩篇内時制を設定した投稿(依頼原稿ではない。後述)である可能性は非常に高いとは言える)、前の詩篇「三の記憶」の後に配されてある時、自ずと、これも中也自身の幼年期の記憶の中の映像のように私には感ぜられるのである。いや、「中原中也・全詩アーカイブ」のサイト主もここにそのようなオーバー・ラップを見ておられる。また、何かで読んだが、中也は子どもと一緒に遊ぶよりも、遊んでいる子どもを見ているのが好きだったともいう。しかしそれでもやはり、第四連でモノクロームの映像が後退し、上方の古風な櫺(れんじ)窓からの梅雨の午前の減衰した外光だけが差している部屋で、太鼓を叩き、笛を吹いて遊んでいるのは、独りきりの幼児であり、やはりそれは文也ではなく、あどけない失われた日の詩人自身であると私は思う。因みに、同じくサイト主によれば、本詩篇は翌月の『文學界』七月号で発表されることになっていた第六回「文學界賞」の応募作であったとあるので、「六月の雨」という時制設定は詩想の中の確信犯ではあったと言えよう。しかし、本詩篇は第六回「文學界賞」では選外二席に終っており、『この時の受賞作は、岡本かの子の小説「鶴は病みき」で』、『中原中也が受賞を逃した作品として知られてい』るとある(かの子の、故芥川龍之介との鎌倉ホテルでの避暑生活での交流を素材としたモデル小説「鶴は病みき」も同じ『文學界』六月号に初出している)。それ以外にも、「中原中也・全詩アーカイブ」のサイト主は、この「たちあらはれて」は「消えてゆく」ミラージュの「眼(まなこ)うるめる」「面長き女(ひと)」を、中也の昔の恋人で、親友小林秀雄と奇体な三角関係にあったことで大いに知られる女優長谷川泰子か、と言い添えておられる。彼女の顔は確かに面長ではある。

「菖蒲」ルビがないことから、「しやうぶ(しょうぶ)」と読んでよかろう。これはつまらぬ注ではない。「菖蒲」と書いて「あやめ」と読ませることが有意に多く(古文では「あやめ」の訓が圧倒的。そもそもが古文では「あやめ」は現在のショウブを指したのである)、近代作家の作品でも「あやめ」と訓ずる場合が相当数見られるので、必ず何と訓じているかは厳密な確認或いは確定が常に必要だからである。因みに私は、「あやめ」はその混同が厭なことから決して「菖蒲」とは書かず「綾目」或いは「文目」、「しょうぶ」は「菖蒲」と書く。なお、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」でも『しやうぶ』と振られてある。因みに、「綾目」と「菖蒲」と「杜若(かきつばた)」の見分け方は、

被子植物門単子葉綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属アヤメ Iris sanguinea →〈花弁内を覗いて見て、網目型の綾目模様があれば、アヤメ

単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属ショウブ変種ショウブ Acorus calamus var. angustatus →〈花弁内に綾目がないことを確認した上で葉に触れて見て、そこに硬い中肋がはっきりと感じられれば、ショウブ

アヤメ属カキツバタ Iris laevigata →〈花弁内に綾目がないことを確認した上で葉に触れて見て、葉に中肋がなく、平滑でぺらっとしていれば、カキツバタ

によって、子どもでも区別ができる。私は高校二年の時、これを植物好きの化学の先生から教えて貰った。その時、私はその化学の先生を初めて尊敬した。自身の専門でない、しかし自身の好きなことを、自信を持ってしかも心から楽しんでいる表情で人に伝えることが如何に素晴らしいことかを教えて下さったからである。しがない国語教師である私が生物学好きであるのもその後天性獲得形質に依ると言える(そう言えば、教育実習を母校でやった時、他の先生から、その化学の先生は酒癖が悪いと耳打ちされた。そこも全くその後の私と同んじだったのだ)。]

2018/05/21

御伽百物語卷之六 勝尾の怪女

 

   勝尾の怪女

 

Kationokaijiyo

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを用いた。]

 

 津の國勝尾寺(かちおじ)の前の里を名付けて勝の郷(がう)といへり。此筋はおほく湯治の人、有馬にかよふの海道または西國の大名、武江(ぶこう)に往還の道すぢとして、驛路の鈴も、おとづれを絶(たゝ)ず。是れも繁榮の地なりければ、一村に指おりの富貴者(ふうきしや)とかぞへらるゝものも又おほかりける。

 こゝに忠五郎といふ者あり。田畠(でんぱた)あまた持ちて農業を事とし、家は美麗に造りなして、國主參勤の本陣を承りければ、家門、日に添へて榮へ、衣食・眷屬にいたるまで、年ごとに彌(いや)增(まさ)るたのしみをぞ盡しける。

 さる程に、忠五郎、一人のむすめをもふけ、是れを育てさせんとて似合(にあは)しき乳母(うば)を尋ねけるに、折ふし、芥川の里に貧家(ひんか)の娘あり、同じ里の農民の家に嫁し、一人の子あり。夫(それ)は高槻(たかつき)の城下に未進(みしん)の事ありて、是れに驅(か)りとられ、人夫となり、在江戸(ざいえど)して、病死したり。かゝりける程に、母子ともに世をわたるべき便(たより)なくなりて、

「いづかたにも、宮仕へせばや。」

とおもふ心つきて、彼方此方(かなたこなた)と、さまよひありきけるを、不憫の事に思ひ、幸い我が子と同じ年なる子持ちなりければ、呼び寄せて我が娘をやしなはせ、母子ともにかくまへ置きけるに、忠五郎が妻も情ある者にて、乳母の子をも、我が子とおなじく、いつくしみ愛して、衣類食物にいたるまで、かならず、一やうにそろえてとらせ、寵愛しけるが、ある時、此妻、たまたま、物へまうでたる歸りに、林檎をたゞ一つ袖にいれて歸りしが、餘り寵愛のあまりに、たはぶれながら、我が子ばかりに此林檎をとらせける時、乳母、大きに怒り、腹たちて、

「今、君がむすめ、やうやう我が世話によりて成長し、四つばかりにもなり、はや、物くはせても、そだつ程になりたれば、我が恩をわすれ給ふよな。何ぞ今までありつるやうに、兩人ひとしくは、したまはざる。我(われ)なくとも、其(その)子あらば、あらせよ。」

と、拳を握り、牙(きば)をかみて、主人の子をとらへ、打ち殺しもすべきありさまに見えしかば、忠五郎夫婦をはじめ、有りあふ者ども、驚き、さはぎ、

「こは、いかに。氣ばし違ひたるか。さほど迄、腹たつる事かは。」

と、先づ、忠五郎がむすめを引きわけ、抱きとりけるに、不思議や、忠五郎が子と、乳母が子と、いさゝかも、違はず、俄におなじ器量になりて、顏貌(あほかたち)、物いひ迄、そのまゝの、乳母が子也。

 忠五郎夫婦、あきれながら、何とやらん、恐しくおぼえければ、俄に手をつかね、詞(ことば)をいやしくして、さまざまと詫言(わびごと)し、なだめける時、乳母、やうやう心やはらぎ、主人の子を抱きて、首より足まで撫(なで)おろしけるにぞ、忠五郎が娘のかたちとなりける。

 是れに懲りてより、忠五郎、心におもひけるは、

『何さま、此乳母は只ものにあらず、我をたぶらかし欺きて、我が家(いへ)を亡(ほろぼ)さんとする狐狸(きつねたぬき)の災(わざはひ)なるべし。いかにもして殺さばや。』

と思ひ、先づ、しもおとこをかたらひあはせ、ある日ぐれに、乳母一人、門(もん)に立ち居たるを、

『よき折から。』

とおもひ、鍬(くは)を取りのべ、此うばが頭(かうべ)を、

「みぢんになれ。」

と打ち付けさせしに、正しく打ちこみける鍬の飛びかへりて、門の扉にあたりて、扉を半(なかば)うちひしぎたり。

 乳母、また、大きに怒り、

「いかに忠五郎。我をおそろしく見、にくき者におもひたりとも、幾度(いくたび)も、かゝる事にて失はるゝ物にてなきぞ。後(のち)に恨(うらみ)ましき心ならば、いかにもして、我を憎み、追ひ、失ふたくみを、せよ。」

とぞいひける。

 忠五郎も、今はせんかたなく、おそろしさ、彌(いや)增(まさ)りて、是れより後(のち)は、主(しゆう)のごとく、神(かみ)のごとく、つゝしみおそれて、終に心ざしをそむく事なかりしが、それより十ケ年もありて、乳母も子も、いづくへ行きけるにか、かいくれて、見ゑずなりぬ。また其家もつゝがなく、何のふしぎもなかけるとぞ。

[やぶちゃん注:「勝尾寺」現在の大阪府箕面(みのお)市粟生間谷(あおまたに)にある真言宗応頂山勝尾寺(かつおうじ/かつおじ/かちおじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。中央南方に有馬温泉を位置させた。

「芥川の里」現在の大阪府高槻市芥川町及びその西を北西から南東に流れる芥川(淀川に合流)一帯であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「高槻(たかつき)の城下」高槻藩の城下。現在の大阪府高槻市市街地。芥川の東直近

(グーグル・マップ・データ)。

「未進(みしん)の事」有意な額の年貢の未納。

「驅(か)りとられ」未納分を賦役で代替させられて。

「かくまへ置きける」ここは特に「匿ふ」でとらずともよい。「雇い入れて養っておく」でよい。

「餘り寵愛のあまりに」ママ。くどいが、当時の口語的古文ではしばしば見られる。

たはぶれながら、我が子ばかりに此林檎をとらせける時、乳母大きに怒り、腹たちて、

「我(われ)なくとも、其(その)子あらば、あらせよ」「万一、私が世を去っても、その子が存命であったなら、そのようせよ!」。

「牙(きば)をかみて」ぎりぎりと歯噛みをして。

「手をつかね」手を合わせて拝むように。

「詞(ことば)をいやしくして」言葉づかいも遜(へりくだ)って。

「しもおとこ」下男(げなん)。

「うちひしぎたり」押し潰してしまった。

「幾度(いくたび)も」何度やろうが。

「後(のち)に恨(うらみ)ましき心ならば」これでもまだ懲りずに恨みがましい心を我に持っておるのであったなら。

「たくみ」企(たくら)み。]

三歲の記憶   中原中也

 

    

 

緣側に陽があたつてて、

樹脂(きやに)が五彩に眠る時、

柿の木いつぽんある中庭(には)は、

土は枇杷いろ 蠅が唸く。

 

稚厠(おかは)の上に 抱えられてた、

すると尻から 蛔蟲(むし)が下がつた。

その蛔蟲(むし)が、稚厠の淺瀨で動くので

動くので、私は吃驚しちまつた。

 

あゝあ、ほんとに怖かつた

なんだか不思議に怖かつた、

それでわたしはひとしきり

ひと泣き泣いて やつたんだ。

 

あゝ、怖かつた怖かつた

――部屋の中は ひつそりしてゐて、

隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!

隣家(となり)は空に 舞ひ去つてゐた!

 

[やぶちゃん注:「中庭(には)」は二字へのルビ。

「唸く」「うめく」。意味は「唸(うな)る」でよい。

「稚厠(おかは)」「おまる」のこと。小学館「日本国語大辞典」に「まかわ(歴史的仮名遣:おかは)」で載り、『子供用または病人用の楕円形の便器』とあり、『「お」は接頭語、「かわ」は「かわや(厠)」の略』とある。当初、家の側を流れる川畔に文字と通りの「かわや」がある、だから「浅瀨」とも読んではみたのだが、それではどうにもシチュエーションがおかし過ぎるのだ。何故なら、第一連は屋敷内の中庭に面した縁側のある部屋であり、最終連も「部屋の中は」「ひつそりしてゐ」るのだ。そこで「蛔蟲(むし)」「が下が」るのを見、「その蛔蟲(むし)が、稚厠の淺瀨で動く」のを見たからこそ「あゝあ、ほんとに怖かつた」! 「なんだか不思議に怖かつた」! だから「わたしはひとしきり」「ひと泣き泣いて やつたんだ」! と、遠い記憶を思い出しつつ、詩人は心の内に叫ぶのである。先に示した石川敏夫氏のサイト「詩のある暮らし」の「わたし流 近代詩の読み」の中原中也のパートの「第1部 父への反抗 第1話 奇蹟の子」中原家見取り図でも(年譜を調べると、三歳当時はここにいたことが確認出来る)、中庭に引き込んだ小流れなどはない感じで、そもそもが図の下(方位表示がないのでこう言っておく)と右が病室(病棟)であり、左は台所である。とすれば、この額縁の中の第二連と第三連が、中庭に降りて屋敷の外にある小川(あるかどうかも知らない。ただ、下方向は田圃ではあるから、そちらの方には用水用の小流れがあった可能性はある。しかし、自然のそこを子供用の厠に常時していたというのは、これ、ひどく潔癖で厳しい医師である父耕助が許そうはずもないではないか?!)というのでは、「吃驚」りしようがない! というより、驚きが、これ、ひどく間が抜けたものとなってしまうではないか?! やはりこれは「おまる」なのだ。その「おまる」の「浅くなったところ」(乾いていていいのである)に「蛔蟲(むし)」が動くの見たのである! これは人工のそれである故にこそ、三歳児にもつぶさに観察できたのだ! だから驚いたのだ! 小流れの浅瀬で抱えられて用を足している子が、その直後、有意な時間、観察など出来ようはずがないではないか?! 下手すりゃ、落ちて溺れて、詩人中原中也になるまえに死んでしまっているかも知れんぞ?! 冗談? 冗談じゃねえよ! 詩篇「月」の注を見て貰おうじゃあねえか! 父謙助は中也が小学校になっても、学校から帰った彼を出来うる限り、外へ出させないようにしてたんだぜ?! その結果、泳ぎも出来なかったんだぜ? 反論があるなら、受けて立とうじゃねか!

「蛔蟲(むし)」線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ Ascaris lumbricoides と同定してよかろう。安心なされよ。ここで詳細注をするつもりはさらさらないから。しかし、和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)の私の注をリンクさせておくこととはしよう。]

靑い瞳   中原中也

 

   靑  い  瞳

 


         
 1 夏 の 朝

 

かなしい心に夜が明けた、

  うれしい心に夜が明けた、

いいや、これはどうしたといふのだ?

  さてもかなしい夜の明けだ!

 

靑い瞳は動かなかつた、

  世界はまだみな眠つてゐた、

さうして『その時』は過ぎつつあつた、

  あゝ、遐い遐いい話。

 

靑い瞳は動かなかつた、

  ――いまは動いてゐるかもしれない……

靑い瞳は動かなかつた、

  いたいたしくて美しかつた!

 

私はいまは此處にゐる、黃色い燈影に。

  あれからどうなつたのかしらない……

あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!

  碧い、噴き出す蒸氣のやうに。

  2 冬 の 朝

 

それからそれがどうなつたのか……

それは僕には分らなかつた

とにかく朝霧罩めた飛行場から

機影はもう永遠に消え去つてゐた。

あとには殘酷な砂礫だの、雜草だの

頰を裂る(き)やうな寒さが殘つた。

――こんな殘酷な空寞たる朝にも猶

人は人に笑顏を以て對さねばならないとは

なんとも情ないことに思はれるのだつたが

それなのに其處でもまた

笑ひを澤山湛えた者ほど

優越を感じてゐるのであつた。

陽は霧に光り、草葉の霜は解け、

遠くの民家に鷄(とり)は鳴いたが、

霧も光も霜も鷄(とり)も

みんな人々の心には沁(し)まず、

人々は家に歸つて食卓についた。

    
(飛行機に殘つたのは僕、

     
バットの空箱(から)を蹴つてみる)

 

[やぶちゃん注:「湛えた」はママ。「遐い遐いい話」は口語的詠嘆表現としての確信犯表記であろう。「とほいとほいいはなし(とおい~、とおいぃ、はなし……)」である。

「罩めた」「こめた」。

「バット」知られた安煙草ながら愛煙されている「ゴールデンバット」(Golden Bat)のこと。]

月   中原中也

 

     

 

今宵月は蘘荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる

濟製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ

石灰の匂ひがしたつて怖(おぢ)けるには及ばぬ

灌木がその個性を砥いでゐる

姉妹は眠つた、母親は紅殼(べんがら)色の格子を締めた!

 

さてベランダの上にだが

見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかァ

これは今日晝落とした文子さんのだ

明日はこれを屆けてやらう

ポケットに入れたが氣にかゝる、月は蘘荷を食ひ過ぎてゐる

灌木がその個性を砥いでゐる

姉妹は眠つた、母親は紅殼色の格子を締めた!

 

[やぶちゃん注:「ァ」「ッ」は後続詩篇の通常表記と大きさを比べて確定した

「今宵月は」「こよひ」、「つきは」。

「蘘荷(めうが)」は「茗荷」に同じい。被子植物植物門単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ミョウガ Zingiber mioga。この詩篇全体が、落語の「茗荷宿」などで知られる「茗荷を食べると物忘れがひどくなる」という俗信のパロディとしてあるように思われる。但し、これは「本草綱目」の巻二十六の「菜之一」の「生薑」(同属の生姜(Zingiber officinale))の記載の中の「弘景曰、『久服少志少智。傷心氣。今人噉辛辣物。惟此最常。故論語云、每食不撤薑。言可常食。但不可多爾。有病者是所宜矣』とあるのを本邦で茗荷に当ててしまった誤りらしく、しかもショウガもミョウガもそのような悪しき成分は無論、含まれてはいない。

濟製場」「さいせいば」と読む。吉竹博氏の論文「中原中也の身体意識(2)――血について――」PDF)の注に、中原中也の弟中原思郎氏が吉田熈生編「中原中也必携」(昭和五六(一九八一)年学燈社刊)の中で、『当時の医院には済製場(さいせいば)があった。包帯、ガーゼ、脱脂綿などを洗濯、消毒する部屋である。直径一メートルもある消毒釜に水を入れ、沸騰させ、汚れものを煮沸する。約賓は石炭酸で、蒸気いっぱいの部屋は石灰臭い』とある。これで「石灰」は腑に落ちた。軍医であった中也の父謙助は軍役を退いた後、郷里山口に帰って、大正六(一九一七)年四月(中也十歳)に中原家のある湯田町に併設されていた個人病院(中也の母中原フクの父助之の弟が「湯田医院」として開院していた。助之は三十三で若死しており、フクは政熊の養女となっている)を継いでいる。石川敏夫氏のサイト「詩のある暮らし」の「わたし流 近代詩の読み」の中原中也のパートの「第1部 父への反抗 第1話 奇蹟の子」には、その医院と中原家全体の見取り図が載せてあるが、そこに「済生場」とあるのがそれであろう。

「紅殼(べんがら)色の格子」「紅殼」は赤色顔料の一つ。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。ここは単に濃い赤味の褐色を指している。赤黒く塗った入口の格子戸というのは、私は即座に天然痘(疱瘡)除けの色彩を想起する。上記リンク先の見取り図を見ていると、同医院にあった独立棟の病室(或いは使用人や看護婦の住む長屋など)の戸口ではあるまいか? と、ふと思ったりした。

「屋根にブラ下つた琵琶」月の隠喩であろう。

「文子さん」第一連の姉妹の一人であろう。病人か看護婦か使用人か。前の「紅殼色の格子」から、私には家族ぐるみ(付き添い看護の可能性もある)で住んでいるうちの、一少女のようにも思われる。前の石川氏の解説に『父謙助は、湯田が温泉観光地のため、色町で環境が悪いと言って、学校から帰った中也を一歩も外へ出しませんでした。中也はついに自転車にも乗れず、泳ぎもできなかったのです。二時間くらいで予習・復習をやってあとはすることがありません。所在ないので習字をし、絵を描きました』とあり、新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」の年譜(大正七年の条末)にも中也の言葉として『父は私の小さい時から、内から外へは出来得る限り出さなかった。外から来る子供だって、大抵は追ひ帰してしまふのであつた』とあるから、この「姉妹」「文子さん」こそが、彼の数少ない年齢の近い交流相手であったことが判る。或いは、この「姉妹」の「母親」が「格子を締め」るというのは、それさえも大人たちによって遮断されるという、中也自身の異様な孤独感の表出がこの詩全体を覆っているのかも知れぬ。]

早春の風   中原中也

 

   早 春 の 風

 

  けふ一日(ひとひ)また金の風

 大きい風には銀の鈴

けふ一日(ひとひ)また金の風

 

  女王の冠さながらに

 卓(たく)の前には腰を掛け

かびろき窓にむかひます

 

  外(そと)吹く風は金の風

 大きい風には銀の鈴

けふ一日(ひとひ)また金の風

 

  枯草の音のかなしくて

 煙は空に身をすさび

日影たのしく身を嫋(なよ)ぶ

 

  鳶色の土かほるれば

 物干竿は空に往き

登る坂道なごめども

 

  靑き女(をみな)の顎(あぎと)かと

 岡に梢のとげとげし

今日一日(ひとひ)また金の風……

 

[やぶちゃん注:サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の本詩篇の解説によれば、原詩篇は昭和三(一九二八)年(二十一歳)の創作と推定されているとある。しかし、初出は『帝都大學新聞』(『東京大学新聞』の前身)の昭和一〇(一九三五)年五月十三日号とあるから、実に八年もの間、熟成させたということになる。なお、そこには、『帝都大学新聞へ、この作品を送ったとき』、担当の『学生が、もう時季が早春ではないから何とか変えてくれ、と、タイトルの変更を申し入れてきたことにふれ、後に詩人は、「帝都大学新聞が詩を浴衣の売出しかなんかのように心得ているとはけしからん。文化の程度が低いのである」と、メモを残したエピソードが伝わってい』る、とある。

第二連「冠」は韻律から見て私は「くわん(かん)」と音読みしていると思う。

第三連「嫋(なよ)ぶ」しなやかに、なよなよとしていて、もの柔らかな動きをする。]

夜更の雨  ――ヹルレーヌの面影――   中原中也

 

     夜 更 の 雨

       
――ヹ ル レ ー ヌ の 面 影――

 

雨は 今宵も 昔 ながらに、

  昔 ながらの 唄を うたつてる。

だらだら だらだら しつこい 程だ。

  と、見るヹル氏のあの圖體(づうたい)が、

倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

 

倉庫の 間にや 護謨合羽(かつぱ)の 反射(ひかり)だ。

  それから 泥炭の しみたれた 巫戲けだ。

さてこの 路次を 拔けさへ したらば、

  拔けさへ したらと ほのかな のぞみだ……

いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

 

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、

  あかるい 外燈(ひ)なぞは なほの ことだ。

酒場の 軒燈(あかり)の 腐つた 眼玉よ、

  遐くの 方では 舍密(せいみ)も 鳴つてる。

 

[やぶちゃん注:「護謨合羽(かつぱ)」は四字への、「反射(ひかり)」「外燈(ひ)」「軒燈(あかり)」は孰れも二字へのルビである。本篇はポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine 一八四四年~一八九六年)の一八七四年の詩集“Romances sans paroles”(「言葉なき恋歌」)の中の“Ⅲ”、“Il pleut doucement sur la ville (Arthur Rimbaud)”(「街にしめやかに雨が降る(アルトゥール・ランボー)」のエピグラフを持つ有名な詩をもとにしている(詩集はこちらで読めるPDF)。この詩集は彼が前年にランボーを二度銃撃しようとし(一度目は一九七三年七月十日のブリュッセルで、実際に撃ち、ランボーの手首に軽傷を負わせている)たため、ランボーに訴えられて入獄していた一年半の中に友人の手で刊行され、獄中の彼のもとに手渡されたものである。なお、私が中学二年の時に買った中込純次訳「ヴェルレーヌ詩集」(一九七〇年三笠書房刊)の本詩(訳題(「ぼくの心に雨が降る……」)の作品解題によれば、この『ランボーのエピグラフは』ランボー『の作品のなかに見当らない。最初はロングフェローの「雨が降っている。風は少しもおとろえない」というエピグラフがついていたという。ロンドン滞在中』(一八七二年九月から翌年七月初め)『の作である』とある)。無論、中也は原詩で読んでいる。しかし、これは堀口大學の訳詩集「月下の一群」(大正一四(一九二五)年第一書房刊)の名訳で知られ、少なくとも読者としての我々は、それを無化して読むことは出来ず、というより、寧ろ、堀口のあの訳詩のフィルターを通して読まざるを得ない人々が有意に多いと考えるのでここに掲げておくこととする。これは本詩をよりよく正しく味わうための、読者にとって実は極めて必要と思われるものであるから、著作権侵害には当たらない適切な〈引用〉と認識する(実際、ネット上には表記のいい加減なそれが馬糞のようにゴロゴロしている)。講談社文芸文庫の「月下の一群」を底本とするが、恣意的に漢字を正字化した。堀口はランボーのエピグラフはカットしている。彼は「われの心に淚ふる」を題であるかのようにして附しているが、私はこういうやり方を、実は、好まない。

   《引用開始》

 

  われの心に淚ふる

 

巷に雨の降るごとく

われの心に淚ふる。

かくも心に滲(にじ)み入る。

この悲しみは何ならん?

 

やるせなき心のためには

おお、雨の歌よ!

やさしき雨の音は

地上にも、屋上にも!

 

消えも入りなん心のうちに

故もなく雨は淚す。

何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?

この喪(も)その故を知らず。

 

故(ゆゑ)しれぬかなしみぞ

實(げ)にこよなくも堪へがたし、

戀もなく恨もなきに

わが心かくもかなし。

 

   《引用終了》

この詩と、中原中也のこのヴェルレーヌへのオードとしての本篇を並べて読んでみると、どちらがヴェルレーヌの陥った極度の悲哀と抑鬱気分をリアルに捉えているかは一目瞭然である。堀口大學のそれは洒落たアンブレラを差しかけ、一滴の雨にも濡れることなく、シャンゼリゼを軽快に歩くスタイリストのデカダンを気取った三文詩人でしかない。原詩の湿度とその雨を含んだ重みはそこでは致命的に減衰してしまっている。翻って、この中也のヴェルレーヌのモノクロームの肖像画はと言えば、これ、驚くべきリアリズムの映像で、落魄した、しかし、しかも執拗に何かに縋ろうとする詩人が、路地を肉の塊りのような図体を引き摺りながら彷徨(さまよ)う姿を撮りきっているのである。なお、最後に言っておくと、私はその中二の時の中込純次訳「ヴェルレーヌ詩集」で彼を知り、その解説から、直ぐに同じ三笠書房の高橋彦明訳「ランボー詩集」を求め(書庫の紙魚の餌になったらしく、こちらは見当たらない)たのが、最初のヴェルレーヌ→ランボー体験なのであった。今ではランボーの訳集の方が所持している冊数は多いけれど、しかし、今でも実は、私は美少年ランボーの詩よりも、禿げ上がった金柑頭の胡乱な目つきのビア樽みたような図体のヴェルレーヌの詩の方が、好きかも知れない。

第二連「巫戲けだ」「ふざけだ」と読む。

第三連「遐くの」既出既注。「とほく(とおく)」で「遠くの」に同じ。

「舍密(せいみ)」「舍密」とは幕末から明治期にオランダ語の「chemie」(ケェミイ)の音訳漢字表記で「化学」の旧称であるが、このままでは意味が採れない。山田兼士氏の小論「ヴェルレーヌと中原中也―音楽的化合について」(二〇〇三年十一月発行『國文學』所収)では、本詩を後半で採り上げ、『一杯の安酒を求めて街を彷徨するうらぶれた詩人晩年の姿だ。だが、それでも人は生き続けることができる。ノンシャランと言えば言えるし、タフと言えばそうとも言える、人生に病み疲れた果ての磊落なストイシズム』『が晩年のヴェルレーヌの真骨頂だ。そしてここに(影のようになって)流れ続けている雨の唄こそが中也=ヴェルレーヌの音楽の原基だ。リズムやメロディのことではない。魂の奥底に流れ続ける通奏低音のような音楽のことだ。その音楽に導かれ、詩人は一軒の酒場に逢着する。このとき中也は、いわば晩年のヴェルレーヌに化合している。「遐とおく」で鳴る「舎密せいみ』『」とは二人の詩人の音楽的化合の喩なのである』とされる(但し、この山田氏が繰り返す「晩年の」という謂いにはやや違和感を覚える。“Romances sans paroles”中のかの詩篇は一八七二年の作品で、この時のヴェルレーヌは未だ二十八、彼は五十一まで生きている。彼の晩年の複数の娼婦のヒモ生活をすることになる属性が既に内包として決定していて、寧ろ、過去の詩篇の謎の語句をそれが逆照射するというのは、ヴィトゲンシュタインの鏡像理論のようで面白くはあるが、やや作品論的器械油の臭いがして私は好かない)。而して、山田氏はこの謎の語「舍密」に注されて、『上田敏訳によるラフォルグの詩「お月様のなげきぶし」に「宇宙の舎密が鳴るのでせう」の用例がある』とされる。これは「牧羊神」の中の一篇で、冒頭の「星の聲」(台詞形式)の第五連目、

   *

――もう、もう、これで澤山よ、

おや、どこやらで聲がする。

――なに、そりや何(なに)かのききちがひ、

宇宙の舍密(せいみ)が鳴るのでせう。

   *

を指す。全篇を読む必要がある。これは「青空文庫」がよい(正字正仮名)。これはしかし、「化学」(ケミストリー)というより、その語源であるところの、宇宙の不可知な錬金術的(アルケミー)な超化学的変性の際に発せられる深奥摩訶不思議な音として私は腑に落ちる。以下、山田氏は続けて、『「同音を借りて蝉の意か」(飛高隆夫「中也詩語辞典」『國文学』一九八三年四月号)、「神の現れとしての有機的かつ無機的な現象」(小山俊輔』『)等諸説がある。私見では、ヴェルレーヌ『叡智』第三章第一三篇の一節「忽ち鐘の音の波、/笛の如、渦巻き上り」(河上訳)に見られるように、距離を隔てて「鐘の音」が「笛」のように聞こえる(さらには波や渦と化す)現象の意を読み取りたい。空気や風や雨によって音楽的化合(=舎密)が生じる、と。パリのヴェルレーヌにとっては鐘の音、東京の中也にとっては遠くの化学(舎密)工場から聞こえるサイレンか何かの音かもしれない』と纏めておられる。私はかつて読んだ時は「遠い空の彼方から幻のように聴こえてくる鐘の音(ね)」の意と読んだ。しかし、それは実際の教会の鐘である必要は、ない。逆に、遠雷のゴロゴロという音(おと)でも、構わない。ともかくもそれが何らかの予兆――ツルゲーネフの「猟人日記」の“Живые мощи”(「生ける聖遺体」)のルケリヤの最期の「その音が教會からではなく、『上から』聞こえて來ると言つたさうだ、――おそらく、彼女は敢へて『天から』とは言はなかつたのであらう」(中山省三郎譯。リンク先は私の全電子化)を思い出すが、この時の中也にとってのそれは、そんな瑞兆の摩訶不思議なイオンの匂いはしない。寧ろ、鼻を撲(う)つ粘膜を焼け爛らす強いオゾンの臭いが漂ってくる気が私にはしているのである……。]

 

2018/05/20

むなしさ   中原中也

 

    む な し さ

 

臘祭の夜の 巷に墮ちて

 心臟はも 條網に絡み

脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)は

 よすがなき われは戲女(たはれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて

 この日頃 闇を孕めり

遐き空 線條に鳴る

 海峽岸 冬の曉風

 

白薔薇の 造化の花瓣

 凍(い)てつきて 心もあらず

 

明けき日の 乙女の集(つど)ひ

 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形=聚接面そも

 故弓の音 つづきてきこゆ

 

[やぶちゃん注:強力な個人サイト「中原中也・全詩アーカイブ」の「むなしさ」の解説では、『「含羞」の次に配置された「むなしさ」は』大正一五(一九二六)年『の作とされ』中原中也自身が死の一ヶ月前に書いた本詩集の自筆「後記」に『最も古いのでは大正十四年のもの』とすることから、本詩篇は『「在りし日の歌」の中では「最も古い」作品の』の一つであり、しかも『「在りし日の歌」の編集当初は』、まさにこの『「むなしさ」を冒頭に配置する計画で』あったが、『発行に至る間に長男文也が急逝したことによって「在りし日の歌」全体の構成を変えることになり』、『追悼詩としての「含羞(はぢらひ)」が冒頭に置かれ』たとある。則ち、当初の中也の詩想の中では、『「在りし日の歌」は元をたどれば「むなしさ」にはじまったので』あると述べておられる。なお、同鑑賞ではこの詩篇のロケーションを横浜中華街と設定しておられる。驒一連の「戲女(たはれめ)」(ここは「よすがなき われは戲女」で自身を「寄る辺なき街娼」に擬えたのではあるが、現在の中華街の北西直近には大きな花街があった)、第二連の「海峽岸」、最終連の「偏菱形=聚接面」(後注参照)「胡弓」から見て、至当であろう。サイト主は『横浜は詩人の母フクが生まれ』、七『歳まで育った土地で』あった『し、祖父助之が客死した土地で』もあり、中也は『横浜にも由縁』の者があったことから、『折りあるごとに遊びに出かけ』ると、『その足はおもむくままに娼婦街へと向か』ったものであったともあり、横浜ロケ物とする確かな補強がなされてある。

「臘祭」「らふさい(ろうさい)」と読む。大晦日のこと(本来は、古代中国の風俗に於いて当時の後の第三の戌(いぬ)の日に、猟(「獵」の音通)をし、それで得た獲物を神々や祖先の霊に捧げて祭りを営んだことに基づく呼称)。

「條網」「でうまう(じょうもう)」。大晦日の、色とりどりの、切り抜かれて線条や網の目になったテープ状の紙飾りか。

第二連「遐き」「とほき(とおき)」。「遠き」に同じい。

第二連「海峽岸」「かいけふぎし(かいきょうぎし)」と私は読みたい。音韻的にも、発音として聴いての意味も採り易いからである。

第二連「曉風」「げうふう(ぎょうふう)」暁(あかつき)の陸風。

第三連「白薔薇の 造化の花瓣」実景と娼婦の置換的イメージ。

第五連「偏菱形=聚接面」「偏菱形」は「へんりようけい(へんりょうけい)」で「菱形(ひしがた)」が強い傾きをもって潰れた形で、これは所謂横軸が縦軸より長い(反対でもよい)、我々が普通に呼ぶ菱形で、「聚接面」は「しゆうせつめん(しゅうせつめん)」で「多くの対象が集まって接する面」の意であって、それが等記号で結ばれているのであるから、菱形模様を、多数、接合、繋げて集めた、目くるめくような同形反復の意匠・デザインの謂いで、これは中国系の人々が好む紋様・模様と思われるが、如何であろう。

「そも」接続詞。但し、ここは「さても、それに加えて」の意の合いの手的挿入。]

 

含羞(はぢらひ) ――在りし日の歌――   中原中也

 

   

 

 

    含  羞(はぢらひ)

          
――在 り し 日 の 歌――

 

なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ

秋 風白き日の山かげなりき

椎の枯れ葉の落窪に

幹々は いやにおとなび彳ちゐたり

 

枝々の 拱(く)みあはすあたりかなしげの

空は死兒等の亡靈にみち まばたきぬ

をりしもかなた野のうへは

あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

 

椎の枯れ葉の落窪に

幹々は いやにおとなび彳ちゐたり

その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

 

その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは

わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……

 

[やぶちゃん注:太字「あすとらかん」は原典では傍点「ヽ」。一九九二年二月発行の『国文学 解釈と教材の研究』の「現代詩を読むための研究事典」内の長野中原中也 含羞――在りし日の歌PDF)の解題によれば、初出は『文学界』昭和十一年一月号で、創作『されたのは前年の十一月十三日』を閉区間とし(則ち、本詩の「死兒」のイメージは文也の死を踏まえたものではない)、『その時には副題はなかった。副題は詩集編纂時に添えられたもので、その点から見ても、詩集全体の意置に深く関わっている』とある。

「彳ちゐたり」「たちいたり」と読む。

「あすとらかん」ロシア南部のカスピ海北西岸にあるアストラハン(astrakhan:ヴォルガ川右岸の河口デルタに位置する。(グーグル・マップ・データ))を主産地とし、広く中近東に産するところの、カラクール(karakul)種と呼ぶ羊の腹子(はらご)又は、生まれたての黒い巻き毛の子羊から獲って素材化した毛皮(帽子やコートなどに使う)を本来は言う。しかし、ここはその間合いを幻想の「古代の象」(されば私にはマンモスかナウマンゾウのように視える)が縫うように歩むのであるから、「あすとらかん」はそれを獲る、この世に生を受けて直ちに人に嬲り殺されて皮を剝がれてしまう子羊を指すと考えてよいであろう。前に示した長野隆氏の「研究の展望」によれば、『吉田煕生に依れば、《「あすとらかん」は極めて短命な運命にある子羊であり、「象」の力強さ、長い生命とは対照的な存在であって、やがては「死児」の列に加わる生物》』であるが『ゆえに《この第二連の世界は、不吉な原初的世界としての像を明確にする》』と解釈しているとある。また、池田純溢は、『「あすとらかん」は〈子羊たちの姿をした白い雲〉で、「古代の象」は〈巨大な象の姿に似た山〉でいのではないか。「死児等の亡霊」から目をそらしたときに、〈山〉と〈雲〉がそのような「夢」、つまり〈幻覚〉としてむこうの「野のうへ」に見えたのだ》』『と、平凡だが無理のない見解を提出している』とある。私は前者の吉田氏の説に強く共感する

最終連「仄燃え」「ほのもえ」と読む。

最終連「あざやぐ」「鮮やぐ」で「色などが際立って見える・鮮やかに見える」の意。]

中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)始動 /「目次」まで

 

[やぶちゃん注:本電子化は昭和一三(一九三七)年四月十五日発行の中原中也(明治四〇(一九〇七)年)四月二十九日~昭和一二(一九三七)年十月二十二日:山口県吉敷郡山口町大字下宇野令(しもうのりょう)村(現在の山口市湯田温泉)生まれ。旧姓は柏村(大正四(一九一五)年改姓)であるが、これは最終的に陸軍軍医であった父謙助が妻のフクの実家と養子縁組した結果の改姓である。この父自身、「小林」→「野村」→「柏村」→「中原」と生涯に三度も姓を変えねばならなかった。その経緯はウィキの「中原謙助を参照されたい。なお、中也の死因は急性(現在は結核性とされる)脳膜炎で、満三十歳と六ヶ月、ぎりぎり夭折の詩人であった)の没後六ヶ月後の出版となった第二詩集「在りし日の歌」を、可能な限り、正規表現で復元したものである。底本は所持する昭和五八(一九八三)年八月日本近代文学館刊の「名著復刻 詩歌文学館」〈紫陽花セット〉の同詩集を用いた。但し、私の電子データ・ストックの中にある、中原中也記念館館長中原豊氏がかつて電子化されて配布されておられた、同詩集の、歴史的仮名遣表記で漢字が新字体となっているベタ・テクスト・データ「在りし日の歌」(底本は昭和四八(一九七三)年日本近代文学館刊「復刻版『在りし日の歌』」及び昭四六(一九七一)年五月角川書店刊「中原中也全集」第一巻)を加工用に使用させて戴いた(一九九七年七月入手)。ここに御礼申し上げる。但し、この電子データは現在はネット上では入手出来ない模様である。

 読みは今まで通り、( )で後に同ポイントで添えた。但し、今回の字体は原著に近い明朝で示すことにした。さらに、今までの私の電子化と異なり、使用可能な旧字フォントは総て使用するため、そちらの使用環境によっては表示されない字が出てくるのはお許しあれ。また、傍点(巻頭の「含羞」に出るが、全体的には極めて少ない)は出来ないことはないのだが、不具合が生ずることが多いため(上手くいっても、後に修正することが難しい上に、デバイスや環境によってズレが生じるらしい)、例外的に太字とし、後注を附すことにした。なるべく字のポイント・字配り・字間も復元するように心がけたが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて、必ずしも正確には再現していない箇所もある。それが極端に異なる場合は注を入れた。また、読みなどの不審な箇所は、所持する新潮社「日本詩人全集」第二十二巻「中原中也」等を参考にして注を附した。また、ネット上では以上ない強力な個人サイト「中原中也・全詩アーカイブがあり、これは各詩篇に解説がついていて、それがまた、非常に鑑賞に有益な情報を提供して呉れている。引用ページ明記の上でこれも参考にさせて戴く。

 テクストだけでなく、ヴァーチャルな部分でも復元しておきたく思うので、冒頭に箱・表紙・口絵写真をスキャン画像で表示した。

 なお、これは詩集「在りし日の歌」の正規表現の復元電子化を意図したものであるので、私の注は極力、排したいと考えているが、中には作詩背景、表現や特殊な語句で必要な箇所が出てくる。そこは出来得る限り、ストイックに注したいと考えてはいる。なお、このためにブログ・カテゴリ『中原中也詩集「在りし日の歌」(正規表現復元版)』を設けた。【2018年5月20日始動 藪野直史】]

 

  中原中也著

 在りし日の歌

      創元社

 

 在りし日の歌 中原中也

 

Hako

Hakose_3

[やぶちゃん注:箱の表及び背。現物は実際には、背の右側の部分と同様に(ここでは画像読み取りする際、綺麗に正立させることしか意識しなかったので、ガラス画面の縁に寄せたため、殆んど映り込んでいない)、表の斜め縞のデザイン模様の右部分は折り返した四ミリメートル程が、箱の内側に折り込まれてある。]

 

 

 在りし日の歌   中原中也

 

Hyousiseurabyous

 

[やぶちゃん注:本冊の表紙・背・背表紙。]

 

 

  中 原 中 也 著

 

   在 り し 日 の 歌

 

             創元社

 

[やぶちゃん注:扉。]

 

    亡き兒文也の靈に捧ぐ

 

[やぶちゃん注:扉裏の献辞。次の口絵写真の右頁。以下の写真で間紙(あいし)を透かして見える。文也(ふみや)は、昭和八(一九三三)年十一月(中也二十六歳)に結婚した遠縁の上野孝子(六歳歳下)との間に翌昭和九年十月十八日に生まれた長男。しかし、昭和十一年十一月十日、僅か二歳で小児結核のために急逝した。翌月十二月十五日には次男愛雅(よしまさ)が生まれたが、文也喪失の悲哀は激しく、中也はこの死の直後に幻聴を含むかなり重い精神変調を来している。なお、次男愛雅も中也の没した翌年一月、やはり一歳とわずかで病死している。]

 

Kenjikutie

 

[やぶちゃん注:口絵肖像。以下の目次末尾にある通り、著者十九歳の折りの写真。非常に知られたものであが、ウィキの「中原中也」の同写真のキャプションに、大正一四(一九二五)年、上京した満十八歳頃のもので、銀座の有賀写真館で撮影されたとある。

 以下、「目次」を示すが、附しても全く意味がないので、リーダとページ・ナンバーは省略した。]

 

      目  次

 

在りし日の歌

 

  含羞

  むなしさ

  夜更の雨

  早春の風

  月

  靑い瞳

    
 1. 夏の朝

     
2. 冬の朝

  三の記憶

  六月の雨

  雨の日

  春

  春の日の歌

  夏の夜

  幼獸の歌

  この小兒

  冬の日の記憶

  秋の日

  冷たい夜

  冬の明け方

  老いたる者をして

  湖上

  冬の夜

  秋の消息

  骨

  秋日狂亂

  朝鮮女

  夏の夜に覺めてみた夢

  春と赤ン坊

  雲雀

  初夏の夜

  北の海

  頑是ない歌

  閑寂

  お道化うた

  思ひ出

  殘暑

  除夜の鐘

  雪の賦

  わが半生

  獨身者

  春宵感懷

  曇天

  蜻蛉に寄す

 

永訣の秋

 

  ゆきてかへらぬ

  一つのメルヘン

  幻影

  あばずれ女の亭主が歌つた

  言葉なき歌

  月夜の濱邊

  また來ん春

  月の光 その一

  月の光 その二

  村の時計

  或る男の肖像

  冬の長門峽

  米子

  正午

  春日狂想

  蛙聲

   
後記

  (口繪肖像著者十九

            裝幀 靑山二郎

[やぶちゃん注:「
青山二郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和 五四(一九七九)年)は装丁家・美術評論家。中也とは昭六(一九三一)年五月に知り合い、中也が結婚後に四谷区花園町の花園アパートに住んだ際も、同じところに青山も住んでおり、小林秀雄や大岡昇平らがよく訪ねて来て、文芸サークル的雰囲気を成していたようである。

2018/05/19

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 「万葉集巻十六」

 

     「万葉集巻十六」

 

 二月二十七日から三月一日まで、三回にわたって居士は「万葉集巻十六」を『日本』に掲げた。歌論の当初において『万葉集』の尊重すべきを論じ、「五七五七七」の中でも調子の問題に関して述べてはあるが、いずれかといえば断片的な見解が多く、やや纏ったものとしてはこの「万葉集巻十六」がはじめである。居士は劈頭先ず「『萬葉集』は歌集の王なり」と喝破し、『万葉』崇拝を以て任ずる真淵を評して「『萬葉』を解せざる者と斷言するに躊躇せざるなり」といっている。真淵は趣向の半面を見て調子の半面を見得なかった、『万葉集』の歌は如何なる凡歌といえども、真淵の歌のように調子の抜けたものではない、いわんや真淵は趣向の半面すらその一部分を得たに過ぎぬ、『万葉』の歌は真淵の歌の如く変化の少いものではない、その証拠は巻十六を閑却しているのでわかる、という論法である。

[やぶちゃん注:「万葉集」の巻第十六(三七八六番から三八八九番までの全百四首で、内訳は長歌八、短歌九十二、旋頭歌三、仏足石歌一首である)は「由縁ある雜歌」の標題で、伝説歌・戯笑歌・民謡及び特定の語句の詠み込み歌など、当時の歌の諸相を見せ、題詞や左注などによって作歌事情を伝える。「万葉集」の第二パートの最終巻とされ、白鳳・平城・天平十六年頃(六五〇年か六六一年か六七二年頃から七四四年頃)までの歌群である(ここは中西進編「万葉集事典」(昭和六〇(一九八五)年講談社文庫刊)に拠った)。

「万葉集巻十六」正岡子規のそれは「青空文庫」のここで正統な正字正仮名で読める。以下の引用は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。校訂は国立国会図書館デジタルコレクションのアルス刊の「竹里歌話 正岡子規歌論集」の当該論に当たった。「青空文庫」版で校合しないのは、「青空文庫」のブラウザでの表記法及びその縛りを好まないことから、そのデータそのものの信頼性を深く疑うからである。]

 

 眞淵以後『萬葉』を貴ぶ者多少之れ有り。されども其『萬葉』に貴ぶ所は其簡淨なる處、莊重なる處、高古なる處、眞面目なる處に在りて、曾て其他を知らざるが如し。簡淨、莊重、高古、眞面目、此等が『萬葉』の特色たる事は予亦異論無し。『萬葉』二十卷、殊に初の二、三卷が善く此特色を現して秀歌に富める事は予も亦之を是認す。只『萬葉』崇拜者が第十六の卷を忘れたる事に向つて予は不平無き能はず、寧ろ此一事によりて予は所謂『萬葉』崇拜者が能く『萬葉』の趣味を解したりや否やを疑はざるを得ざるなり。

 

『万葉』尊重は居士の見識であった。而していわゆる『万葉』崇拝者と伍を与(とも)にしなかったのは、更に居士の見識といわなければならぬ。真淵の説で事足るような万葉論ならば、居士は最初から声を大にする必要を認めなかったであろう。

 居士は世人が巻十六の歌を採らざる理由を以て趣向の滑稽なる点にありとし、日本人が表に真の滑稽趣味を解せざることに言及した。真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を誇るに足らぬ、否、滑稽の趣を解せなければ、真面目な趣を解することも出来ない、というのである。殊に巻十六の特色は滑稽に限られたわけではない。「複雜なる趣向、言語の活用、材料の豐富、漢語俗語の使用、いづれも皆今日の歌界の弊害を救ふに必要なる條件ならざるはあらず。歌を作る者は『萬葉』を見ざるべからず。『萬葉』を讀む者は第十六卷を讀むことを忘るべからず」というのが居士の結論であった。

 「万葉集巻十六」を草してから間もなく、居士はパリ滞在中の福本日南(ふくもとにちなん)に一書を送った。書簡の末に「イタツキニワレハフシヲルフランスノタマノウテナニキミハスムトフ」一首が記されていたのに対し、日南氏が「暫(しばし)待て萬葉十六茶漬飯食ひては語り語りては食はん」と酬(むく)いたのは、遥にパリにあって居士の所論を読み、共鳴するところがあったものであろう。日南氏は愚庵和尚と同じく、居士の先輩の中で最もよく『万葉』を解し、万葉調の歌を詠む一人だったからである。

[やぶちゃん注:「福本日南」(安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)は筑前(福岡県)出身のジャーナリスト。既出既注であるが、再掲しておく。本名は誠。司法省法学校中退。「政教社」同人をへて明治二二(一八八九)年に新聞『日本』を陸羯南らと起した(子規が同紙の記者となるのは、その三年後の明治二十五年)。アジア問題に関心を持ち。明治二四(一八九一)年七月には白井新太郎とともに発起人となり、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いだ。後、『九州日報』社長兼主筆や衆議院議員(国民党)となった。著作に「元禄快挙録」などがある。因みに、彼の欧州(パリ・ロンドン)への遊学は前年の明治三一(一八九八)年からこの年にかけてであったが、ロンドンでは南方熊楠と出逢い、この時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を後の明治四三(一九一〇)年、『大阪毎日新聞』に連載、これが熊楠を日本に初めて紹介した邦語の記事とされている。

「イタツキ」「勞
き・病き」で病気のこと

 

 三月十四日、子規庵に歌会を催した。この前俳人ばかりの歌会を開いてから、丁度一年ぶりのわけであるが、この時は俳人側は殆ど加わっていない。香取秀真、岡麓、山本鹿洲、木村芳雨、黒井恕堂の諸氏のうち、恕堂氏の外は皆「新月集」の仲間である。この歌会の記事はどこにも発表されなかったが、居士の「垣」の歌は『日本』に、その他の人の歌の一部は『ホトトギス』に載せられた。

[やぶちゃん注:「木村芳雨」(明治一〇(一八七七)年~大正六(一九一七)年)は福島県生まれの鋳物師で歌人。明治三一(一八九八)年に発足した正岡子規の「根岸短歌会」に当初から参加し、子規没後の歌誌『アララギ』にも関係した。銅印の篆刻に優れた。

「黒井恕堂」不詳。識者の御教授を乞う。「恕堂」は「じょどう」であろう。

「新月集」不詳。識者の御教授を乞う。

『居士の「垣」の歌』(国立国会図書館デジタルコレクションのアルス版「子規全集」第六巻の当該部)。]

 

 三月二十日漱石氏宛の手紙を見ると、『ホトトギス』の原稿などでも、四頁以上のものを書く場合には何時も徹夜する、「小生は前より夜なべの方なれども身體の衰弱するほど愈〻畫は出來ず、夜も宵の口は餘り面白からず、十一、二時頃の頃よりやうやう思想情態活潑に相成候。徹夜の翌日は何も出來ず不愉快極り候。翌夜寐て其又の日は又原稿のために徹夜せざる可らざるやうに相成、月末より月始にかけては實に必死の體(てい)に候」と書いてある。年始以来寒気に悩まされて終日臥褥(がじょく)することも少くないというが、それほど元気がなかったわけでもない。殊にこの二、三日前には車で神田まで出かけ、虚子氏が不在であったため、飄亭氏のところで蒲焼を食べたりした。これが「今年の初旅」とある。それ以前引籠っていたのも主として寒気を恐れたので、病気に累せられたのではなかった。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(6) 六 最近の狀況 / 第十五章 ダーウィン以後の進化論~了

 

     六 最近の狀況

 

 以上はたゞダーウィン以後には種々の相反する議論が絶えず鬪はされて居たことを、二三の例に就いて示しただけであるが、大體は斯かる有樣で今日まで繼續して來た。但、最近十四五年間はその以前に比べると、著書にも議論にも著しく趣の異なつた所が出來た。その理由は、この頃から遺傳の實驗的研究が急劇に盛になつて、生物學の舞臺の正面に出たため、多數の人はこの方に注意を惹かれ、生物進化の大問題は却つて暫く等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]にせられたからである。尤も實驗的研究といつても、單に相異なる品種間に雜種を造つて、その結果を見るだけであつて、植物では特に行ひ易いから、近來は大に流行の氣味で、植物園とか、農事試驗場とかいふ所では、盛に行はれ、隨つて、近頃急に多數に出版せられる遺傳に關する書物も、その内容は大概この種類の實驗の結果で充たされて居る。何故斯く急に盛になつたかは次の章に述べるが、かやうな書物を讀み議論を聞く時に、特に忘れてならぬことは、事實と學説とを明に區別することである。多數の人々が、種々の材料を用ゐて熱心に實驗を行へば、それだけ遺傳に關する事實上の知識が增すこと故、學問の進步の上に極めて喜ぶべきことで、その事實に就いては疑を插むべき理由はないが、之を基として學者の考へた理論や學説の方は、素より各個人によつて、相異なるを免れぬ故、互に批評し講究すべき餘地は十分にある。遺傳に關する近頃の書物を讀んで見るに、雜種研究者は兎角、長い間に於ける生物の進化を忘れ、僅に二三代に亙る實驗の結果から推して、一々の性質を固定せるものの如くに見倣し、性質の組合(くみあはせ)はどうにもなるが、一々の性質そのものは一定不變のものである如くに考へる傾[やぶちゃん注:「かたむき」。]がある。後天的性質の遺傳を否定して居る者の多いのも、その爲ではないかと思ふ。素より今日も力を靈してラマルク説を主張する學者は相變らず有るが、數の上からいふと、親の新に得た性質は子に遺傳せぬと論ずる人の方が遙に多いであらう。現に我が國の著書を見ても、石川氏の進化新論はいふに及ばず永井氏の生命論、池野氏のローマ字書き實驗遺傳學など、皆この組に屬するもので、之に反對の考へを有する者は殆ど本書の著者人の如き有樣である。

[やぶちゃん注:「石川氏」動物学者で進化論学者の石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年:石川千代松(ちよまつ 万延元(一八六〇)年~昭和一〇(一九三五)年:明治四二(一九〇九)年に滋賀県水産試験場の池で琵琶湖のコアユの飼育に成功し、全国の河川に放流する道を開いた業績で知られる。以下、ウィキの「石川千代松によれば、『旗本石川潮叟の次男として、江戸本所亀沢町(現在の墨田区内)に生まれた』が明治元(一八六八)年の『徳川幕府の瓦解により駿府へ移った』。明治五年に『東京へ戻り、進文学社で英語を修め』、『東京開成学校へ入学した。担任のフェントン(Montague Arthur Fenton)の感化で蝶の採集を始めた』(明治一〇(一八七七)年十月には当時、東京大学教授であったエドワード・シルヴェスター・モースが蝶の標本を見に来宅したことがモース著石川欣一訳「日本その日その日」の「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 49 教え子の昆虫少年を訪ねる」に出る。リンク先は私のオリジナル注附きの全電子化の一部)。翌明治十一年、東京大学理学部へ進んだ。明治一五(一八八二)年、動物学科を卒業して翌年には同教室の助教授となっている。その年、明治一二(一八七九)当時のモースの講義を筆記した「動物進化論」を出版しており、進化論を初めて体系的に日本語で紹介した人物としても明記されねばならぬ人物である。その後、在官のまま、明治一八(一八八五)年、新ダーウィン説のフライブルク大学』(正式名称は「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク」(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)『アウグスト・ヴァイスマン』(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年:フライブルク大学動物学研究所所長で専門は発生学・遺伝学)の下で学び、『無脊椎動物の生殖・発生などを研究』、明治二二(一八八九)年に帰国、翌年に帝国大学農科大学教授、明治三四(一九〇一)年に理学博士となった。『研究は、日本のミジンコ(鰓脚綱)の分類、琵琶湖の魚類・ウナギ・吸管虫・ヴォルヴォックスの調査、ヤコウチュウ・オオサンショウウオ・クジラなどの生殖・発生、ホタルイカの発光機構などにわたり、英文・独文の論文も』五十篇に上る。『さかのぼって、ドイツ留学から帰国した』明治二十二年の秋には、『帝国博物館学芸委員を兼務』、以降、『天産部長、動物園監督になり、各国と動物を交換して飼育種目を増やした。ジラフを輸入したあと』、明治二八(一九〇七)年春に辞した。「麒麟(キリン)」の和名の名付け親であるとされる。

「進化新論」石川千代松が明治二四(一八九一)年敬業社から刊行したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇。進化論が日本の生物学者に消化され、紹介され、論じられる時代の第一歩となる著作とされる(以上は八杉龍一「進化論の歴史」(一九六九年岩波書店刊)の評言)。

「永井氏の生命論」医学者で生理学者の永井潜(ひそむ 明治九(一八七六)年~昭和三二(一九五七)年):広島県賀茂郡下市村(現在の竹原市)出身。明治三五(一九〇二)年、東京帝国大学医科大学を卒業後、翌年からドイツのゲッティンゲン大学に留学、冬眠動物の代謝生理の研究を行い、四年後に帰国、大正四(一九一五)年には東京帝国大学医科大学生理学教室第二代教授に就任した。その前後から、一般雑誌や婦人雑誌などに、盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数、発表し、昭和五(一九三〇)年に「日本民族衛生学会」を設立、理事長として優生学研究の推進と、悪名高き「国民優生法」(昭和一五(一九四〇)年の前身である「民族優生保護法案」の提出に大きな役割を果たした。昭和九年、東京帝国大学医学部長となり、昭和一五(一九三七)年に定年退官するが、その後も海外に赴任して、台北帝国大学医学部長・京城帝国大学医学院名誉教授を歴任している(以上はウィキの「永井潜に拠る))が大正二(一九一三)年に洛陽堂から出版した「生命論」か。国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇

「池野氏のローマ字書き實驗遺傳學」植物学者・遺伝学者の池野成一郎(せいいちろう 慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年:明治二三(一八九〇)年、東京大学植物学科卒業。明治二九(一八九六)年ソテツの精子を発見し、同年、平瀬作五郎を指導してイチョウの精子も発見させている。この植物学上重要な研究発見により、種子植物とシダ植物が系統的に近いことが明らかにされた。明治三九(一九〇六)年にドイツ・フランスに留学、帰国して東京大学教授となった。彼は熱心なローマ字普及論者としても著名で、主著の一つであるこの「実験遺伝学」(大正七(一九一八)年「日本のローマ字社」刊)は総てローマ字で書かれており、書名も無論、Zikken-Idengaku」である(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。圧倒的に読み難いと思われるにも拘らず、評判が良くて売れ、再版まで出ていることが、新著紹介資料PDF。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)で判る。内容は植物の実験遺伝学のようである。]

 

 生物進化の理を明にするには先づ以て、遺傳及び變異の現象を詳[やぶちゃん注:「つまびらか」。]にすることは無論必要であるが、品種間の雜種を造つて研究する方法は、たゞ已に存在する性質が如何に子孫に傳はるかを調べるのであるから、遺傳に關する一部分のことを知り得るだけである。されば、飼養動植物の品種の改良を圖るに當つては、この種類の研究は甚だ有益なものであるが、長い年月の間に、自然に生物各種が進化し來つた原因を探るためには、他に之よりも更に重大な問題がある。それは、先づ人工的に生活狀態を變へて、或る生物に新しい變異を起させ、それが少しでも子孫に遺傳するか否かを試して見ることであるが、ダーウィン以後の論爭の中心點ともいふべき後天的性質の遺傳に關する疑を解くには、之が最も大切な實驗的研究である。この方面の研究も近年は幾らも行つた人があるが、品種間の雜種を造るのとは違つて、稍大仕掛けの設備と費用とを要する故、到底雜種研究の如くに手輕くは行はれず、隨つてその結果の發表せられた數はまだ比較的に少い。倂し、この方面の研究の結果は、殆ど皆外界から生物個體に及ぼす影響は、たゞその一代に止まらず、後の代にまで及ぶことを示すものばかりである。遺傳及び變異に關する最近研究の結果は次の二章に略述するが、現今の生物學理論界の狀況を一言でいへば、雜種研究に重きを置いて、後天的性質の遺傳を否認する多數者と、人工的飼養實驗によつて後天的性質の遺傳を證明せんとする少數者との戰の最中であるというて宜しかろう。然もその爭の大部分は、事實に就いての爭ではなく、同一の事實を眼の前に控へながら、その説明を異にするとか、用語の意味が違ふとかの爲に相爭つて居るのである。

[やぶちゃん注:本箇所より以降、底本で「」を「々」としていたのを、原本通りに表示することとした。]

御伽百物語卷之六 桃井の翁

 

   桃井の翁

Momoinookina

[やぶちゃん注:ここは、最終巻に入ったので、一度も使用していない小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」(昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊)の大判の挿絵を使用して見た。]

 

 

 禪師隆源といふ僧あり。曹洞の所化(しよけ)なり。久しく豫州宇和島の等覺寺(とうかくじ)にありて、江湖(こうこ)をつとめ、此たびは美濃の慈照寺にとおもひたち、錫(しやく)を飛ばせ、芒鞋(ぼうあい)を踏みて、先づ、上(かみ)がたへと心ざしける序(ついで)、故郷なりければ、若州(じやくしう)のかたへも寄りて、兩親の無事をも尋ねばやとおもひて、三條なる宿(やど)より、北をさして急がれしが、誰(たれ)いそぐ道にもあらず、心にまかせたる旅といひ、且は此僧の俗姓(ぞくしやう)、若州においては双(ならび)なき武士なり。其身、また、武勇を好み、就中(なかんづく)、半弓(はんきう)の手だれなりしかば、朝暮(てうぼ)、殺生を好み、鳥・獸(けだもの)はいふに及ばず、咎(とが)なきものといへども、一旦の怒(いかり)に心ざしを奪ひ、殺害(せつがい)殘忍の惡業(あくがう)にほこりけるゆへ、二親(しん)も、これにもてあまし、後生(ごしやう)を恐れて出家させし人なりとぞ。されば、此ゆへに、かゝる轉蓬(てんぽう)の身となりても、猶、宿習(しゆくしう)の兆(きざ)すところふかく、常に半弓をはなさず、旅には、かならず、これを身にそへて出でけるゆへ、心剛(こゝろがう)なるにまかせて、夜の道ぞ難所ぞと物えらみする事なく、おもひたちし本意(ほい)は、かたの如く遂(とぐ)る人なりけるまゝに、今度(こんど)、都にのぼりし序(ついで)、國許(くにもと)へも赴くなれば、道すがら見ぬ所を行くも、一つの慰(なぐさみ)なるべしなどおもひて、俄に下賀茂より左につきて鞍馬山へまふで、こゝかしこ拜みめぐりて惣門に出づれば、日は、はや、七つにさがりけるに、泊るべき心もなく、なを、北をさしてあゆみ行くほどに、桃井坂(もゝゐさか)の山口(やまぐち)にいたりぬ。是れよりは山道のみにて、又やすむべき人屋どりもなく、二里が程は險しき山坂(やまさか)ぞと聞きて、しばらく、その邊の葛屋(くづや)に立ちいり、煮茶(にちや)など乞ひてやすみしが、主(あるじ)と見ゆるものは法師にて、大杉を伐(きり)たふし、これが杉皮を剝ぐなりけり。此翁(おきな)、隆源をつくづく見て、

「何と御坊はこの晩景におよびて、猶、北に行くの氣(け)しき也。これよりさきは山坂のみ相つゞきて、咽(のんど)をうるほすべき谷水だに遠し。夜(よ)にいりぬれば、狐狼(こらう)おほく、又は八升(やます)・奧瀨(おくせ)・久田(くた)・婆梨畠(はりはた)などいふ里々(さとさと)の惡黨ども、おのれおのれが、友をかたらひ、往反(わうへん)の柴賣(しばうり)・木賣(きうり)など、暮れて歸るものあれば、切りたふし、突き留(と)め、わづかなる錢、少しの糧(かて)をも情なく剝ぎとるぞや。是非、こよひは泊りて、明日おくへは、通り給へ。」

とかたりけれども、隆源は生得不敵なる心から、

「我に一藝あり。さやうの惡黨は、しりぞくるに易し。」

といひて、暮れかゝる空をいとはず、その家を、たちわかれぬ。

[やぶちゃん注:「禪師隆源」「曹洞の所化」不詳。「所化」は修行僧のこと。「禪師」は後年の称号ということになろう。

「豫州宇和島の等覺寺(とうかくじ)」現在の愛媛県宇和島市野川(のがわ)にある臨済宗龍華山(りゅうげさん)等覚寺(とうがくじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。宇和島藩主伊達家菩提寺。宗派が違うが、禅宗は極めて個人主義的な宗教で、本来は宗派(禅宗内ではなおさら)の違いを問題にしないから、全くおかしくない。例えば、藪野家の墓のある臨済宗の円覚寺白雲庵は、鎌倉幕府第九代執権北条貞時に招かれて渡来した、元の僧東明慧日(とうみょうえにち 一二七二年~一三四〇年の隠居所(彼は円覚寺・建長寺などの住持を歴任した)であるが、彼は終生、曹洞宗の僧であった

「江湖(こうこ)」禅宗で修学参禅を行う学問僧を指す。馬祖道一(ばそ どういつ 七〇九年~七八八年中唐の禅僧で後継は臨済宗と関係が深い)が揚子の西に、石頭希遷(せきとう きせん 七〇〇年~七九〇年:六祖慧能と行思(ぎょうし)に師事し、後、衡山の南寺の石上に庵を結んで坐禅をしたことから「石頭和尚」と呼ばれた。江西の馬祖と並んで「湖南の石頭」と称された)が洞庭の南に住し、参禅の徒は、その間を往復した故事に基づく。従って、この「つとめ」は職務に「務め」たのではなく、学問に「努め」たのである。

「美濃の慈照寺」岐阜県瑞浪市日吉町にある曹洞宗恵日山慈照寺か。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、岐阜県内には今一つ、揖斐郡大野町下磯に臨済宗玉臺山(ぎょくだいさん)慈照寺がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「芒鞋(ぼうあい)」草鞋(わらじ)の別称。

「若州(じやくしう)」若狭国。

「三條」京の三条。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「半弓(はんきう)」和弓の長さによる分類で、六尺三寸(約百九十一センチメートル)を標準としたもの。七尺三寸(約二百二十一センチメートル)の大弓(通常の和弓のこと)よりも短いものを言う。威力は大弓に劣るものの、コンパクトで座って引き放つことができることから、即射や狭い所(屋内も含まれる)では非常な効果を発揮する。

「轉蓬(てんぽう)」風に吹かれて切れ、根を離れて転がる蓬(よもぎ)の意からそれこそ「転」じて、流浪すること及び旅人の身に喩える。

「宿習(しゆくしう)」本来は「前世で積み重ねた善悪の行為の応報」の意。しかし、ここで露水は明らかに俗人であった頃の因果な過去の習癖の意を含めている。

「桃井坂(もゝゐさか)の山口(やまぐち)」現在の京都府京都市左京区大原百井町百井峠の登り口であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「葛屋(くづや)」草葺きの民家。

「八升(やます)」現在の京都府京都市左京区花脊八桝(はなせやますちょう)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奧瀨(おくせ)」不詳。国土地理院地図で調べたが見当たらない。しかし、現在の花脊八桝町と次の久田地区の間と考えてよいから、この中央附近(グーグル・マップ・データ)の古い地名と推測はされる。おお! ここは! 私がもう一度逢いたい超美人の若女将のいる料理グンバツの「美山荘」のあるところではないか!!!

「久田(くた)」婆梨畠(はりはた)」京都府京都市左京区久多(くた)地区。ここの附近国土地理院地図)。

「婆梨畠(はりはた)」不詳。但し、久田地区から国土地理院地図を北上してみると、福井県小浜市中ノ畑とか、その南東には、滋賀県高島市朽木麻生地区と思われる場所に熊ノ畑という地名を見出せるから(リンクは孰れも国土地理院地図)、この周辺であろうと私は推測する。]

 

 はや、半里ばかりもや過ぎぬらんとおもふに、折しも廿四日の夜(よ)の星のひかりさへ、雲かくれて、跡さきも見えず。遠近(をちこち)のたつきもしらぬ山中を、とぼとぼと分けつゝ行くうしろに、思はずも、人のひそかに蹐(ぬきあし)して跡をしたひ來るもの有り。

 隆源、

『すは。癡者(しれもの)よ。』

とおもひ、立ちとゞまり、聲をかけて、

「何やつなれば、かくはするぞ。」

と、あらゝかにとがむれども、應諾(こたへ)もせずして、同じやうに立ちとゞまるを、雲すきに透(すか)して見るに、いと大きなる男の、太刀、ぬきそばめて、立つる也。

『こは、惡いやつ。』

と、例の半弓をうちつがひ、矢つぎ早(ばや)に射かけけるに、一筋もあだ矢なく、手ごたへしてあたりけれども、彼の男、きくもせず、猶、こたへて衝立(つゝた)ちたり。

[やぶちゃん注:「癡者(しれもの)」これはてっきり、かの老人が言った追い剥ぎと合点した隆源が「(この手練(てだ)れ儂と知らずに、なんと)馬鹿な大阿呆な奴」と傲岸不遜にも思って、心の内でせせら笑ったのである。これは本話が最後に種明かしするところの非常に重要なポイントなのである。

「雲すきに透(すか)して見るに」雲の隙間から少し指す月光にに透かして見てみたところ。

「きくもせず」(放った矢が悉くその体に刺さったことは間違いないにも拘らず、それが)利いて風も見えず。

「こたへて衝立(つゝた)ちたり」こちらに対して、『お前の矢の腕前とはその程度なのか?』とでも応ずるように、平然と突っ立って、痛がったり、屈んだり、よろめいたりすることがなかったのである。]

 

 隆源も、今はせんかたなく、逸足(いちあし)を出だして馳せぬけんとする程に、日暮より催したる雨の、俄にはらはらと降り出づるに、風さへ橫ぎりに、はげしく吹き落ち、袖・笠もためず、目もあかれねば、とある大木の杉の、四、五本、茂り立ち、枝さしおほひたるをうれしき物におもひ、いそぎ、木のもとに立ちかくれ、雨(あま)やどりしたる所に、電光、おびたゞしく、隆源が跡をしたひて、此木影(こかげ)にいたり、あやまたず、彼の杉の木ずゑに、ひらめきわたる事、あたかも繪にかける輪寶(りんほう)のどとし。此ひかりの度(たび)ごとに、

「ばたばた。」

と落ちかゝるものあり。

 何やらんとおそろしくて、口に、理趣分(りしゆぶん)、とだへなく唱へ、わなゝくわなゝく、さしのぞき見るに、大きなる杉皮なり。

 しばらくの間に、杉皮の積る事、膝にいたりて、猶、落ちやまず。

「かくては、なかなか降り埋(うづ)まれ、はてはいかなる恥にかあはんずらん。」

と、強勢(がうせい)の氣をひるがへし、天にあふぎて拜し、滅罪の咒(じゆ)を誦(しゆ)し、陀羅尼品(だらにほん)・心經(しんきやう)、さまざまと、おもひ出(いづ)るに任せ、よみつらね、纔(わづか)に金剛經をよみかゝる時、やうやう、電光、うすらぎ、次第に空へまひあがるとおもへば、雨風もしづまり、やゝ星のひかり見えそめたり。

「こは、うれし。有難や。」

とふりあふのきて見るに、さしも、茂りあひつる大木の杉枝(すぎえだ)も葉も、只、今の雨風に吹き折れしにや、禿(かふろ)になりて、竿をたてたるやうになりぬ。

 隆源、いよいよ、いきほひを失ひ、心ほれて、すゝみ行くべき心ちもせざりければ、そろそろと、もとの道に歸り下り、最前とゞめたりし翁(おきな)の許(もと)まで、やうやうと歸り着きて、窺ひ見るに、なを、杉皮を剝ぎて居たりしを、戸を敲きて内に入り、いひしにも似ず、手を束(つか)ね、

「さきに君の教(をしへ)いましめ給ひつるを聞かずして、かゝる難に逢ひ、からき命たすかり、やうやうと歸りたり。今は、我、得心(とくしん)しぬ。そのうへ身も草臥(くたび)れ侍るなれば、教にそむきたる罪のほどをも見ゆるし、こゝに一夜をあかさせて給(た)べ。」

と詫びけるに、翁は、こたふ詞(ことば)なく、只、すこし、うち笑みながら、

「よし。こゝにやすみ給へ。いらざる僧の腕(うで)たてにこそあれ。佛道に入り、三衣(え)を着(ちやく)する身のすべき態(わざ)かは。けふよりして、ゆめゆめ、かゝる心な持ち給ひそ。護法善神(ごほうぜんじん)も如法(によほう)につとむる者をこそ、加護はしたまふなるぞかし。」

とて、かたはらより、大きなる杉皮を、壹枚、とり出だして見せけるに、彼(か)の、最前、くせものに射かけたる矢ども、ことごとく立ちてありしにぞ。

 隆源も、いよいよ、感淚をながし、

『扨は。我、たまたまあひがたき御法(みのり)にあひ、入りがたき釋門(しやくもん)の徒(と)になりながら、いたづらに信施(しんせ)を受け、心は、なを、惡にまみれて、假(かり)にも殺生(せつしやう)の態(わざ)を好むを、いましめ懲(こら)さんと、護法(ごほう)の、今こゝに現じ給ひ、まのあたり、我を善所に導き給ふにぞありけめ。』

とおもへば、一しほ、有りがたき。

「我がための善知識にて侍るぞや。」

とて、終宵(よもすがら)、かたりあかし、明(あく)れば、故郷のかたへと暇(いとま)こひて、出でぬ。

 そのゝち、國よりの歸りに、彼の翁、こひしく、問(とは)まほしくて、態々(わざわざ)、此道にかゝり、彼(か)の有家(ありか)を尋ねけれども、いづくの程にかありけん、それに似たる家もなく、まして翁を知りたる人もなければ、終に、あはでぞ歸りける。

[やぶちゃん注:「逸足(いちあし)現行では「いっそく」と読んで、「足の速いこと・駿足」の意。

「橫ぎり」「橫切り」で、刀で横に斬り払うかのような、猛烈な勢いで風が吹き荒ぶこと。

「袖・笠もためず」これは「溜めず」と採る。目的語は「雨水」で、降っているそれが横殴りの強風のせいで、吹き飛んでしまい、袖や笠に「留まって溜まることもなく」の意と採るのである。「矯む・揉む」の「伸ばしたり曲げたりして形を整える」の意で、強風のために、笠や袖がそれぞれあるべき位置で形を成さずに横流しになっている、という意味も考えたが、どうも苦しい。

「輪寶(りんほう)」現行では「りんぼう・りんぽう」と読む。インドの神話で正義によって世界を治める理想的帝王とされる転輪聖王(てんりんじょうおう)が所有する七宝の一つ。金・銀・銅・鉄の四種がある。元来は車輪の形をした、八つの突起を持った、投擲して相手を傷つける古代インドの武器であったが、仏教に取り入れられて、仏法を害せんとするものを、仏に先行して四方に亙って制するとされる仏具となった。仏教に集合した転輪聖王は、世俗世界の主(あるじ)として、真理界の帝王たる仏にも譬えられる地位を与えられ、三十二相・七宝を具備するとされ、天から感得した輪宝を転がして四州を治める。所持する輪宝の違いで鉄輪王・銅輪王・銀輪(ごんりん)王・金輪王の四輪王がいるとされる。

「理趣分(りしゆぶん)」「般若波羅蜜多理趣百五十頌(はんにゃはらみったりしゅひゃくごじゅうじゅ)」、略して「理趣経」。「金剛頂経」十八会の内の第六会に当たる「理趣広経」の略本に相当する密教経典で、主に真言宗で読誦される常用経典。その言うところは、一切万物の本質が本来清らかなものであることを強調し、如何にして仏国土をこの世に実現すべきかが説かれている。

とだへなく唱へ、わなゝくわなゝく、さしのぞき見るに、大きなる杉皮なり。

 しばらくの間に、杉皮の積る事、膝にいたりて、猶、落ちやまず。

「強勢(がうせい)の氣」威丈高であった態度。

「滅罪の咒(じゆ)」サンスクリット語音写をそのまま唱える陀羅尼(だらに)の一つの「七仏滅罪真言」か。過去七仏が説いたとされるで、「光明真言」と同じく滅罪に極めて大きな効験がある真言とされるものである。

「陀羅尼品(だらにほん)」「法華経」の「陀羅尼品第二十六」。非常に強い威力を持つ経とされ、読むに達していない者が読むと狂人となるとさえ言われる経文である。

「心經(しんきやう)」般若心経。

「金剛經」「金剛般若波羅蜜経」。大乗経典。全一巻。鳩摩羅什(くまらじゅう:西域のクチャ(亀茲(きじ))国出身の翻訳僧。サンスクリット名「クマーラジーバ」)訳が著名。一切法の空(くう)・無我を説き、特に禅宗で重んじられる。

「禿(かふろ)」禿(は)げ。

「腕(うで)たて」粗暴極まりない腕(腕力)自慢。

「三衣(え)」は「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に僧衣のこと。

「護法善神(ごほうぜんじん)」仏法を守護する鬼神。梵・帝釈天・四天王・十二神将・十六善神・二十八部衆などを総称する。

「如法(によほう)」「法のごとし」で、仏の教法に叶っていることを指す。

「御法(みのり)」仏さまのありがたい教え。

「信施(しんせ)」信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施。

「善知識」人を導いて仏道・悟りに導き入れる師としての僧。

「有家(ありか)」「在處(ありか)」。]

ブログ1090000アクセス突破記念 梅崎春生 やぶれ饅頭



やぶれ饅頭   
梅崎春生 

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年十二月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。因みに、梅崎春生はこの翌年、昭和四〇(一九六五)年七月十九日、五十歳で肝硬変のために亡くなっている。

 幾つかについて、先に注しておく。

 初めの方に出る「原子力潜水艦が日本に寄港するという記事が新聞に出た」というのは、この前年の昭和三八(一九六三)年一月九日、アメリカ政府が日本政府に対し、原子力潜水艦の日本寄港を要請、反対の気運が盛り上がる中、翌年、アメリカ政府は日本の情勢を考慮したとされる「外国の港に於ける合衆国原子力軍艦の運航に関する合衆国政府の声明」及び「エード・メモワール(原子力艦船の安全性に関する覚え書き)」を送り、①日本政府の意志に反して行動しない。②安全確保に広範な措置をとる。③燃料交換や動力装置の修理を日本では行わない。④休養と補給を寄港の目的とすると表明、日本政府はこの声明が担保されるならば安全上は問題ないとして原子力潜水艦の入港を認め、この昭和三九(一九六四)年八月にアメリカ側に寄港の受け入れを通告、本作が発表される直前の昭和三九(一九六四)年十一月十二日、原子力潜水艦「シードラゴン」USS Seadragon, SSN-584/二千三百六十トン/排水量(水上)二千五百八十トン・(水中)二千八百六十一トン/全長八十二メートル/全幅七・六メートル/吃水六・八三 メートル/最大速二十ノット(時速三十七キロメートル)/乗員九十五名/母港・ハワイ・オアフ島真珠湾)が長崎県の佐世保港に入港したことを指す。この潜水艦はこの四年前の一九六〇年八月二十五日、北極点に到達、薄い氷を破って浮上した初の潜水艦として知られる(一九八三年退役・一九八六年除籍・一九九四年十月一日原子力艦再利用プログラムによる解体開始・一九九五年九月十八日解体完了)。因みに、当時、私は小学校二年生で、本作に出る第十八回オリンピック(昭和三九(一九六四)年十月十日~十月二十四日の記憶(白黒テレビだったので色が着色していないが)は鮮明だが、この「シードラゴン」寄港に纏わるものは残念ながら全くない(しかし、この潜水艦はその怪物めいた(実際にはタツノオトシゴの仲間である条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科ヨウジウオ亜科 Phycodurus 属のシードラゴン類の英名由来)と持っていた小学館の図鑑(「地球の図鑑」か)の単色の絵と一緒にこちらも何故か鮮明に覚えている)ので、「原水爆禁止日本国民会議」公式サイト内のここと、「毎日新聞社」公式サイト内の「昭和のニュース」のこちら、及びウィキの「シードラゴン(原子力潜水艦)」を参照した)。

 オリンピックについての主人公の台詞に「とくに閉会式なんか、哀感がただよっていて、涙が出た」とあるのには、激しく共感した。小学二年生の私でさえ、あの入場の最後のシークエンスには驚き、そして強く打たれ、同じように涙が出たことを今も忘れないからである。

 今一人の登場人物の一人野原の台詞の中に「北朝鮮やインドネシヤをしめだして何がオリンピックですか」という下りがあるが、これは、ウィキの「オリンピックのインドネシア選手団」によれば、『オリンピックインドネシア選手団は』一九五二年の第十五回『ヘルシンキオリンピックから参加し』ていたが、一九六二年に行われた『アジア競技大会で』、先進国への不満と社会主義諸国への親和性を強めていた当時の『インドネシア政府が』、『イスラエルと中華民国の参加を拒否したため、翌』『年に国際オリンピック委員会から一時資格停止処分を課された』。一九六四年六月には、この『資格停止処分は取り消され』、『東京オリンピックへの参加を予定していたが』、その『インドネシア選手団』の中に『新興国競技大会』(英語:The Games of the New Emerging Forces/略称:GANEFO。先の事件後、インドネシアはIOCと対立して脱退を宣言、社会主義国・アラブ諸国・アフリカ諸国にオリンピックに対抗し得る総合競技大会の開催を呼びかけて一九六三年十一月にインドネシアで開催されたスポーツ大会。IOCはこの大会に出場する選手はオリンピックに参加する資格を失うと宣言していた)『の問題で資格停止処分となった選手が含まれていたため』、『東京オリンピックに参加することなく』、『帰国を余儀なくされた』ことを指す。また、冨田幸祐氏の論文「東京オリンピックにおける参加国・地域に関する史的研究」(PDF)によれば、『北朝鮮は GANEFO に東京オリンピックにも参加予定の選手を多数派遣していた』とあり、全く同じ理由で参加出来なかったことが判る(結局、朝鮮民主主義人民共和国の夏季オリンピックへの初参加は一九七二年の第二十回ミュンヘンオリンピックからの参加となった(但し、冬季はこれより遥か前の一九六四年の第九回インスブルックオリンピックが初参加)。

 「チャンピオンフラグ」は「championflag」で優勝旗。但し、和製英語。

 「床頭台」「しょうとうだい」と読む。病院の病室の患者用ベッド近にある、例のテーブルや小間物入れ等の附いたもののこと。

 「昇汞(しょうこう)」は塩化水銀IIHgCl2(塩化水銀)のこと。極めて有毒であるが、千倍から五千倍(〇・一~〇・〇二%)に薄めた水溶液は、かつては種々の殺菌・消毒に用いられた。

 あまり前に注すると、読むあたたが面白くないだろうから、一部は、概ね、本文中のパートの切れ目に挿入した。

 また、本篇では主なシークエンスを主人公の入院していた病院とするのであるが、描写内容から見て、梅崎春生がこの前年、昭和三八(一九六三)年九月に吐血後、そのまま不摂生のために同年十二月に東京都武蔵野市境南町にある武蔵野日赤病院に入院、一ヶ月後のこの年の一月に東大病院に転院(三月まで治療継続)した入院の実体験をまずは下敷きとしていると考えられる(季節も合致し、武蔵野日赤病院なら富士山が見えておかしくない)。但し、それ以前の、昭和三四(一九五九)年の五月に精神的変調を起し、五月から七月まで台東区下谷の近食(こんじき)病院に入院し、持続睡眠療法を受けた折りの、やや古い体験も或いは援用されていると考えてもよい(特に最後の方の野原の体験談の一部にはその感じが私にはする)。それは、遺作となってしまった一九六五年六月発表の「幻化」(リンク先は私のマニアック注釈附縦書版。ブログ版もある)では、この後者の精神科入院体験が大きなモチーフの一つとなっているからである。なお、前者の実体験は梅崎春生の随筆「病床日記」(私の注附き電子化)に詳しい

 なお、本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1090000アクセスを突破した記念として公開する。【2018年5月19日 藪野直史】]

 

   やぶれ饅頭

 

 ある日の夕方のこと。やや肌寒くて、火鉢を入れた。

 この頃急に日が短くなって、あれよあれよという間に陽が落ち、あたりが薄暗くなる。春と秋とをくらべると、私はどちらかというと、春の方が好きだ。春はものがだんだん伸びて成熟して行く。秋はその反対で、しぼんだり枯れたり、やがて寒い冬がそれにつづく。つまり私は寒さがきらいなのである。

 私は広縁に食台を持ち出し、ひとりで酒を飲んでいた。家内は子供をつれて、久しぶりに実家に帰っている。枯葉でうずまった庭の、小さな木戸を押しあけて、男が一人ぬっと顔をつき出した。

「こんちは。お留守ですか」

 私の顔を見ながら言った。顔を見ているくせに、お留守ですかとは、全く人をくった質問だ。私はすこし怒った。

「留守であるかどうか、見りや判るだろ。玄関に回りなさい。そしてベルを押すんだ」

 悪質のセールスマンや物乞いが、とかく木戸から入って来る。この間、原子力潜水艦が日本に寄港するという記事が新聞に出た翌日、もう寄港反対の署名簿を持ってあらわれた中年女がいた。これは署名すればいいというものではない。署名をすれば、電球を買取らねばならぬ。そういう仕組になっている。この女も玄関から入りにくいとみえ、木戸から入って来た。この男もそれかと思った。

「玄関で何度もベルを押したんですけどね」

 男は庭に足を踏み入れた。

「お宅のベルの電池が、きかなくなっているんじゃないですか」

「そ、それはそうだが――」

 私はどもった。うちのブザーは夏の頃から調子が悪くなり、押しても鳴らぬ時がある。私が実験してみると、まっすぐに押しては絶対鳴らない。すこし斜めに押すと鳴る。斜めといってもその日によって右斜め、左斜め、下斜めと、鳴らし方が違う。どういうわけでそんな具合になるのか、私には判らない。接触か何かが悪いのだろう。また時ならぬ時にブザーが鳴り渡り、玄関に出ると、誰もいない。外に飛び出しても、姿は何も見えない。

 八年前にこの家を建てた時、これを取りつけたのだが、家の古びにともなって、ブザーも化物(ばけもの)じみて来たらしい。

「あれには押し方があるんだ」

 と私は言った。

「でも、鳴らなきゃ、玄関に入って、案内を乞えばいいじゃないか。それをわざわざ裏木戸に回って――」

「ずいぶん乞いましたよ」

 男はのそのそと縁側に近づいて来た。

「応答がないので、庭に回って――」

 近づいて来る男の顔を、私は見た。そしてはっと思い当った。

「ああ。君は、暑さの冬の――」

「そうです。先輩。あの時の野原です」

 今年の冬は、やけに暑かった。日本全体が暑かったわけではない。私たち、野原を含めて暑かったのである。何故私どもが暑かったのか。病院に入っていたからだ。なぜ病院が暑かったのか。暖房がきき過ぎていた。なぜきき過ぎたのか?

「まあ上れよ」

 私は野原を招じ入れた。遠慮の気配を示している。

「今日はみんな留守で、ぼく一人だ。上んなさい」

 野原はあたりを見回して、縁側にずり上った。坐り直して頭を下げ、菓子包みみたいなものを差出した。

「これはほんの手土産です」

「そんなムリをしなくてもよかったのに」

 私は受取りながら言った。立ち上って台所から盃(さかずき)を持って来た。野原は盃を受取り、にらむような妙な顔をして私を見た。

「飲んでもいいんですか?」

 ためらっている。遠慮しているのかと思って、私は酒をなみなみとついでやった。盃と言っても大型のもので、ぐい飲みに近い。

「へんな遠慮はするなよ。君らしくもない」

「別に遠慮はいたしませんがね、そうあなたが勧めるなら、飲むことにしましょう」

 野原はぐいと飲み干し、眼をぱちぱちさせて、おそるおそるあたりを見回した。私はまたついでやった。

「涼しくなりましたね。庭ってものは、ほんとにいいもんだ」

「いいってもんじゃない。うちのは掃除しないから、落葉だらけだよ」

 私は苦笑して言った。

「オリンピックが済んだとたんに、葉の散り方が多くなったようだ」

「オリンピック?」

「うん。そうだよ。多少の手落ちやいざこざがあったけれど、曲りなりにも済んでよかったねえ。とくに閉会式なんか、哀感がただよっていて、涙が出た」

「北朝鮮やインドネシヤをしめだして何がオリンピックですか。ところで、閉会式のキップがよく手に入りましたねえ」

「キップで見たんじゃない。テレビでだ」

「何だ。テレビですか。つまらない」

 野原は盃を置いた。もう空(から)になっているので、私はまたついでやった。

「さあ。飲めよ。肌寒いだろ。寒い時は外から暖めるより、熱爛で内側から暖める方がききめがある。かけつけ三杯という諺(ことわざ)もあるしね」

「飲めよとおっしゃるなら、飲みますがね」

 野原は恩着せがましく盃を取上げた。

「オリンピックが済んだのは、何も日本の役員がうまく運営したからじゃない。終りの時間が来たから、済んだんです。何も涙を出す必要はありませんよ」

「そりゃそうかも知れないが――」

「葉だって、散る時期が来たから、散ったんですよ。オリンピックとは全然関係ないです」

 言うことがへんに理屈っぽくなって来たので、おどろいて野原の顔を見ると、もう相当にあかくなっている。屁(へ)理屈上戸なのか。髪の生え際にニキビ状のものがあり、そこらがきわだって赤い。このニキビはあの暑さの冬の頃からあった。ずいぶん持ちのいいニキビだと思って訊(たず)ねてみた。

「そのニキビ、まだ直らないのかね」

「これはニキビじやありません」

 野原はそこを拒で押すようにした。

「これはね、バスクラスパイダーと言うんです」

「バスクラスパイダー?」

「そう。バスクラスパイダー。これをニキビと間違えられると、ぼくは嬉しいような、哀しいような、忌々しい気分になるんです。何かの読み違いで、桂馬で王将をぽいと取られたような――」

「そうか。ただのニキビじゃないのか」

 私はまじまじとそのニキビ状のものを見た。

「そりやスパイダー君に悪かったな。しかし、スパイダーとは、たしか英語で蜘蛛(くも)のことじゃなかったかな」

「蜘蛛ですよ。蜘蛛だから困るんです」

 彼は盃のふちをなめるようにして、洒をすこし含んだ。抑えられて白っぽくなったそのスパイダーに、徐々に血が戻って来て、元通りの色になった。

「閉会式の聖火みたいに、パッと消えてしまえばいいんですがね、そううまくいかないのが悩みなんです」

「なぜ?」

[やぶちゃん注:「バスクラスパイダー」肝障害が起こると、手掌紅斑(palmer erythema:手のひらの小指側の丘が紅潮する症状)の他、皮膚に蜘蛛状血管腫vascular spiderを認めることが多い(「vascularは形容詞で「血管の」の意)。これは春生が示すように前胸部に発症し易い。音写は「バスキュラー・スパイダー」が正しい。ウィキの「クモ状血管腫」によれば、『顔面や前胸部などの上大静脈領域に蜘が足を広げたように血管が拡張して、中心部の血管が拍動しているもの』で、『拍動している中心部を鉛筆などで押さえると、血管腫が消失したように見える。肝硬変などの肝疾患で見られる』とあり、画像も見られる。]

 

 その病室は四階にあった。南向きの部屋でベランダがついている。ベッドと椅子と洋服簞笥(だんす)、それだけでいっぱいで、人が動き回る余裕はほとんどない。中にしきり戸があり、それをあけると、バス、洋風便所がある。バスとトイレは専用ではなく、隣室と共用になっている。

 だからこのバストイレ室は、二つ扉を持っている。私の方に通じるのと、隣室へ通じるのとだ。一緒に入ると具合が悪い。片方が風呂に入っている時、片方が便所を使うような事態になると、たいへん具合が悪い。

「使用する時は、かならず電燈をつけて下さい」

 婦長に聞くと、そう教えて呉れた。

「すると向うじゃ遠慮して、入らないことになっています。くれぐれも注意することは、電燈をつけ放しにしないこと。つけ放しにして置くと、向うが便意をもよおしても、扉をあけられない。じだんだを踏んでベッドの上でのたうち回り、とうとうベランダに放出した例があります」

 なるほど、と私は合点々々をする。私だってのたうち回って、揚句はベランダに放出するだろう。私は訊ねた。

「そのベランダに放出したのは、男ですか。それとも女――」

「そんなことをあなたが心配する必要はありません。要はつけ放しにしないこと」

 ベランダは高い手すりがついていて、部屋から一メートル余り突出している。私は高所恐怖癖があるので、下をのぞくと眼が回りそうだ。ここから富士山が見える。晴天の時には白富士。夕方になると黒富士。夕焼を背にした黒富士は格別の趣きがあった。しかし私はこのベランダをもっぱら冷蔵庫がわりに使用していた。

 部屋はやたらに暑かった。

 スチームのせいである。

 初めはちゃんとパジャマを着ていたが、それも脱ぎ、毛布も蹴飛ばして、時には真裸になって寝た。それでもまだ暑い。最高の時は二十五六度あったと思う。私は訊ねた。

「どうにかなりませんか」

 スチームの元が私の部屋に通っている。洋服簞笥のうしろと窓ぎわを通っている。スチームの起点がそこらにあるらしく、簞笥をあけると、服などがほかほかにむれている。むし風呂に入っているみたいだ。ここが起点であるから、熱さをやわらげるわけには行かない。ぬるくすると末端まで行き届かない。

「寒いよりはましでしょ」

 と婦長は言うが、あんまり暑いのも困りもんだ。買置きの牛乳や見舞品の果物などが、すぐに腐ってしまう。だからそれらをベランダに陳列しておく。必要に応じてベランダから坂り出す。いつか夜中に雨が降り出し、パンや丸ボーロにかかって、食べられなくなってしまったことがある。油断もすきもならない。

 隣室の患者が、この野原であった。初対面のベランダの上で、野原の方からあいさつをした。

「お暑うございます」

「ほんとに、ねえ」

 と私はその季節外(はず)れのあいさつに応じた。

「時々ここに涼みに出なきゃ、体がもたないですな」

「そうですよ。全く」

 野原は渋うちわで、自分の顔をわさわさとあおいだ。夏炉冬扇(かろとうせん)という言葉があって、辞書で調べると、時にあわぬ無用の事物のたとえとある。しかし野原の冬扇は無用のことでなかった。

「自然に反することは、やはりいけないことですねえ。病身にいい影響を与えない」

「お宅もそんなに暑いかね」

 私は言った。

「スチームの起点だから、こちらだけが暑いのかと思った。どうです。いっぺん遊びに来ませんか」

 と言うようなきっかけから、野原との交際が始まった。ベランダには胸空向さほどの仕切りがあり、そこからの往来は出来ない。いったん廊下に出て、扉をこつこつと叩き、訪問したり訪問されたりするのである。

 それを婦長に見付かった。

「なんですか、野原さん。あなたは安静の身でしょ。よその部屋に遊びに行って、将棋をさすなんて、飛んでもない話です。院長さんに言いつけますよ」

 と婦長に叱られたらしい。彼はがっかりした表情で、私に報告した。

「もう当分将棋はさせませんな。ほんとに残念です」

「いや。ちょっと待てよ」

 と私は腕組みをして、首を傾けた。

「消燈後、便所でやるのは、どうだろう?」

 この病院の消燈は午後九時ということになっている。九時になると自発的に燈を消して眠らねばならぬ。もし燈がついていると、看護婦が回って来て、扉をたたいて注意する。

「消燈の時間ですよ」

 病室と廊下の仕切りの上辺が曇りガラスになっていて、煙がついているかどうか、すぐ判るのだ。ところが共通のバストイレ室は、さらに扉がついていて、その中の電燈の光は洩れないようになっている。だから病室の燈は消し、二人ともそこに入り、洋風便所の上に将棋盤を置く。そこで存分にさせるのではないか。

「それはいい考えですな」

 野原は膝を打って感心した。

「あそこなら看護婦に見つかるおそれはない。今夜からそうしましょう」

 そう相談がまとまって、消燈時が来ると、両方からトイレ室に入って行く。棋力は丁度(ちょうど)いいとこで、勝ったり負けたり、半々というところだ。十二時頃まで指す。スチームは十時頃停めるので、部星の温度も少しは下っている。寝巻を着て、毛布にくるまる。午前七時頃にスチームが復活するので、夜のしらじら明けに寒さが忍び寄って来る。その時の用心のために、蒲団は足のところに置いてある。

 朝、スチームが復活すると、先ず脈取り看護婦が入って来る。

「何か変ったことはありませんか」

 彼女はそう言って脈を取り、体温計をさし込んで、病状を聞く。前日の便の回数などを記入する。こうして病院の一日が始まるのだ。

 食事と診察をのぞくと、あとは暇になる。読書をするか、うとうとと眠るか、それ以外にない。陽があたると、カーテンをかける。私の場合、うつらうつらしているか、夜の勝負にそなえて将棋の本を読むかしている。一日ぼんやりしていることは、私には苦にならない。むしろ望むところだが、それは自発的にぼんやりする場合であって、強制的にぼんやりを押しつけられると、さすがのなまけものの私といえども、うんざりする。野原も同じ思いらしい。

「実際退屈ですなあ。そう思いませんか。先輩。頭がぼけるようだ」

 彼は私のことを先輩と呼ぶ。理由は私が一日だけ早くここに入院したからである。職業や学校の先輩でなく、病人として先輩だというわけだ。

「ぼくもそう思うよ。何しろ暑いからね」

「暑いから? なぜ?」

 なぜ、と開き直られると、私も返答に窮した。南洋の土人たちは暑いから退屈する。退屈してごろごろ寝たり、夜中には踊ったりする。生産への意欲はわかず、そのため文明度が低い。そういうことを言いたかったのだが、めんどうくさいからやめにした。それを言うと、野原にまた食い下られるおそれがあった。

「食事のことも――」

 野原は追究をやめて、話題を転じた。

「不満ですねえ。朝食がすむと間もなく昼飯、そして四時半には夕食でしょう。あのテンポにはついて行けませんや」

 同感である。

 朝が七時半。昼十二時。夕食四時半とは、スケジュールが詰まり過ぎていて、腹の減る間がない。朝食だけはうまくて、むしゃぶり食う。あとの二食はおつき合いで食べるようなものだ。人間は食べたい時に食べるのが理想であり、幸福というものだ。

 その不満を婦長に訴えると、

「組合がありましてね、超過勤務はしないことになっているんです」

 涼しい顔をして答えた。調理人たちの責任であって、看護婦たちの責任ではない、という言い分だ。どちらの責任にしろ、おかげで食事時間は昼間に圧縮され、残りの十五時間は何も食べられない。夜中になると腹が減ってたまらない。ぐうぐうと鳴る。それに私たちは南京虫のように、消燈後に動き出すのだが、どうしても補食としてパンや牛乳を、ベランダに冷やして置かねばならない。必要に応じて、取り出して食べる。それは病院側も黙認していた。それをいいことにして、私はウィスキー一本を、胴体を風呂敷でくるんで、ベランダの隅に安置していた。寝酒としてグラス一杯、水割りにして飲むためだ。人目をはばかって飲むウィスキーは、身に沁みてうまかった。

 

 燈を消すと、しめし合わせたようにバストイレ室の燈がともる。二人はベッドを降りて、姿をあらわす。平たい将棋盤をトイレの蓋の上に乗せる。おのおの小椅子に腰をおろして、駒を並べ始める。

 最初の中は私の方がいくらか分が悪かった。

 ただで指すのは、張合いがないので、物品を賭けることにした。リンゴやバナナ、クッキーや花束などを賭ける。もちろん決済はその場ではやらない。受渡しは翌日の昼、ベランダの上でやる。到来物であるし、ベランダに冷やしてあるので、かんたんである。生(なま)のパイナップルなどは、何度ベランダの仕切りを往来したか判らない。

 見舞品で、身銭を切ったものでないから、取られてもそうつらくはないが、ベランダの陳列品の山がすこしずつ減り、向うのがだんだん高くなることは淋しく、口惜しかった。ことにパイナッブルは、ここではチャンピオンフラッグになっていた。

 通貨の役目は、大体リンゴが果していた。リンゴは割にくさったり、いたんだりしなかったからである。パイナップルは私への到来もので、初めリンゴ三箇という相場だったけれども、野原の手に渡ると、今度はリンゴ三箇にバナナ一本という値につり上った。脈取り看護婦がまずそれをいぶかった。

「おかしいわねえ。この。パイナップル、昨日は野原さんの床頭台にかざってあったのに。もらったの?」

「うん」

 私はにやにやしながら答えた。

「もらったんじゃなくて、借りたんだ」

 その夜の将棋で、私は負けて、パイナップルは野原の床頭台に逆戻りした。

 こうして夜の将棋だけが、私たちの唯一の愉しみになった。ことに雪隠(せっちん)詰めなどがよかった。なにしろ雪隠(洋式便所だって雪隠だろう)の上で、敵を雪隠詰めにするのは、また格別の趣きがある。敵を雪隠詰めにすると、無条件でパイナップルを取る約束になっていた。

「うわっ。またおトイレ詰めか」

 野原は頭をかかえる。雪隠詰めのことを、おトイレ詰め。桂馬のふんどしのことを、桂馬のパンティ、と彼は呼称する。

「すべて近代的に、スマートに行きましょうや」

 とは彼の言い分だが、桂馬のパンティなどをかけられると、気分的にこちらは腐ってしまう。

 それで私は面会に来た家人に命じて(ここは完全看護になっているので家族の寝泊りは出来ない)将棋の本を一冊買って来させた。昼間それを読んで、手の研究をする。

 最初のころはこちらが押されて、果物だの菓子を持って行かれたが、本を読み始めて以来、逆転して、こちらが押し気味になった。

「おかしいな。どうも先輩は近頃、急に手を上げましたね」

「そうかね。そちらが弱くなったんじゃないかね」

「いや。どうもおかしい」

 そりやおかしい筈だ。昼間研究した新手やハメ手をその夜使うのだから、効果はてきめんである。五日間ほどで敵のベランダの品物は半減し、その分だけ私のはふくれ上った。たまりかねた野原は、掃除の雑役婦に贈り物をして、私の身辺をスパイさせたらしい。

 掃除の間私がベランダに待避していると、掃除婦が手を休めて床頭台の将棋の本をばらばらめくっている。私はとがめた。

「おい。何をしているんだい?」

「えヘヘ。ちょっと」

 雑役婆さんはごまかして、また掃除を開始した。その報告を聞いて、野原はあわてて婆さんに頼み、本を取り寄せた気配がある。二、三日過ぎた頃から、彼の受け手は正確になり、ハメ手にもひっかからなくなった。その時初めて私は掃除婆さんの不審な挙動に思い当ったのだ。

「君も近頃、急に手を上げたようじゃないか」

 何くわぬ顔で私は聞いた。

「そうですか。そっちが弱くなったんじゃないのですか」

 しらばくれている。

「勝負が済んでベッドに戻って、眠ろうとしても眠れないですな。そこでうつらうつらと指し手を考える。明日はどの手で勝ってやろうかとね。きっとそれが腕の上った原因ですよ」

 ぬけぬけとそういうことを言う。

「ねえ。先輩はすぐ眠れますか?」

「眠れるね。寝酒をこつそりとしまってある。ウィスキーだ」

「寝酒?」

 彼はおどろいて声を高くした。

「しっ。誰かに聞えるとまずい。酒の持込みは禁止されてるんだよ」

「そりや知っていますよ。でも、飲みたいなあ。グラス一杯でいいから、飲ませてくれませんか?」

「グラス一杯ねえ」

 私は首をかしげた。

「よろしい。そのかわりリンゴ三箇だよ。でも体にさわりはしないか?」

「ええ。でもグラス一杯ぐらいなら、差支えないでしょう。入院前まではジャカスカ飲んでたんだから」

「では、そういうことにするか」

 それから三四日後、昼間、便所に入ると、婦長のじゃけんな、また聞きようによっては愉しそうな声が、野原の部屋から聞えて来た。あえぐような音がそれに混る。

「野原さん。あんたは男でしょ。男なら辛抱出来ないわけがありません。誰も辛抱してやって来たんだから」

 そして部屋を出て行く婦長の足音がした。そっとのぞいて見ると、野原だけのようだ。私は足を忍ばせ、彼の部屋に入った。他には誰もいない。野原は黒いゴム管を口にくわえて、ベッドに横たわっている。ゴム管の尖端は胃に届いているらしい。

「どうしたんだね?」

 野原は眼をぎろぎろ動かしただけで、声を出さない。出すとよだれが出るので、口をきけないのだ。私は彼の枕もとに近づき、床頭台の上の本をめくった。本は三冊あって『定跡入門書』『詰めの研究』『はめ手のかけ方と破り方』という題だ。私はすばやくその奥付をしらべ、著者と発行元と値段をメモに写し取った。野原は残念そうに足をばたばたさせ、私をにらみつけたが、ゴム管のために手が動かせないし、口もろくにきけない。

 どうせ話しかけても返事出来そうにないので、私はメモをにぎり、トイレ室を経由して、急いで自分の部屋に戻って来た。

 その夜の消燈後、私がトイレ部屋に入って行くと、やがて野原が姿をあらわした。すこしやつれて見える。

「先輩。ずるいよ」

 声がかすれている。

「黙って部屋に侵入して、断りもなく他人の読書傾向を調べるなんて」

「断りもなくと言うが、最初のあいさつの時、君は返事しなかったじゃないか」

 私はきめつけた。

「一体君は黒い管をくわえて、何をしていたのかね?」

「見たから判るでしょう。胃液を採取してたんだ。先輩はやられたこと、ないんですか?」

「胃液はまだ採られたことはないね。バリュウムはのまされたけれど」

 私は答えた。

「バリュウムよりつらいのか?」

「へっ。バリュウムなどとは、くらべものになりませんや」

 バリュウム服用はかなりつらいと、かねてから聞いていたが、私にはそうでもなかった。のみにくいという点では、子供の時のまされたヒマシ油の方がはるかに上であった。バリュウムはどろどろした液体で、果汁か何かで味がつけてある。のんだ後、医師が胃の辺を押したり引っぱったりする。のむことよりその方がよほどつらかった。

「バリュウムはのむだけで済むが、胃液は管を入れて、三時間ぐらいじっとしてなきゃいけないんですよ」

 野原は忌々しそうに説明した。

「管をのみ込む時が、一騒ぎです。自分でのみ込むのが、たいへんむつかしい」

「むつかしいたって、あれは細いゴム管だろう。うどんかマカロニをのむ要儀でいけないのか?」

「うどんやマカロニなどは、終点が、つまり切れ目があるでしょう。ゴム管には終点がないんですよ。終点は試験管につながって、胃液が出るのを待っている。その間よだれが流れ出るし、咽喉(のど)の内部がこすられてヒリヒリするし、呼吸は困難になるしね」

「なぜ胃液をしらべるんだね?」

「入院前に少々吐血したんですよ。コーヒー色のね」

 野原は便器の上の将棋盤に、駒をパチパチと並べ始めた。

「どうもここの婦長や看護婦たちは、サディストじゃないかしら。ことに婦長と来たら、僕の苦しんでいるのを見て、首を長くしてよろこんでる風(ふう)ですよ」

「おい、おい。あの人は生れつき首が長いのだ。君のひがみじゃないか」

 私も駒を並べながら言った。

「しかし驚いたねえ。将棋の本が三冊とは」

「お互いさまでしょ。しかも本を買い込んだのは、先輩の方が先ですよ」

[やぶちゃん注:「雪隠詰め」相手の王将を盤の隅に追い込んで詰め、手を指せなくさせること。

「桂馬のふんどし」「桂馬の両取り」とも呼ぶ。将棋の初歩的な手筋を解説して呉れているこちらによれば、『敵の駒』二『枚、或いはそれ以上の駒が取れる状態にあることで、相手は取られないためには取られそうな駒を逃げることになるが一度に二つの駒を動かすわけにはいかないので必ず一つは取ることが出来る。このような状態に持っていく手を両取りを掛けると言う』とある。恐らくは多くの方には不要な注と思われるが、何せ、私は金と銀の駒の動かし方さえ知らぬ阿呆なれば、自分のためにした注と思われたい。悪しからず。]

 

 野原の経歴や年齢を、私は知らない。別に知りたいとも思わない。いつか彼は、自分はラジオやテレビのシナリオライターだと洩(も)らしたことがある。忙しい商売で、時には演出もやるので、生活が不規則になり、胃腸や肝臓をいためて、ここに入院したとのことであった。

 年齢は三十から四十の間か。近頃他人の齢が、私には判らぬようになった。昔なら青年は青年らしく、老人は老人らしい風格があって、それと見当がついたが、近頃では、ことに戦後では、それが狂って来ている。分別あるらしい口をきくから、五十代かと思うと三十代だったり、派手な洋服を着て酒場で騒いでいるので若いのかと思うと、六十代の爺さんだったりする。

 野原の場合もそれと同じだ。顔は病気のため色が悪い。しかし笑うと笑くぼができ、童顔になる。額の髪の生え際に、大きなニキビがある。人見知りをしない性質で、押しが強い。楽天家のくせに、小ずるいところがある。それで案外もてるらしいのである。

 私と野原は将棋でつながっているだけだ。いや、深夜のウィスキーの酒宴という秘密を分け合っている。その内に量が殖え、底を尽きかけたから、掃除婆さんに頼んで密輸入することになった。

「飛んでもない。婦長さんに見付かると、病院を追い出されてしまいますがな」

 と言うのをなだめすかして、ウィスキーの内容をシロップ瓶に詰めかえること、値段は市価の二倍を出すという条件で、やっと婆さんに承知させた。シロップ瓶なら、誰もとがめることはなかろう。この手は私が発明して、野原が実行に移したのである。野原だからそれは成功したので、私が頼んだらたちまち拒絶されただろうと思う。

 で、野原が婦長以下をサディズムだと称するが、彼女たちにしては、とっつきやすく、かまいたくなるのである。私はぼさっとして模範患者(?)なので、話してみても面白味がない。その点野原は違う。つき合いやすいし、ついからかいたくなるのだろう。

「君は彼女たちがサディズムだと言うが、けっこうそれを利用してんじゃないのかね」

「飛んでもない。迷惑しています」

 彼は口をとがらせた。

「ぼくをいじめて愉しがっているんですよ。看護婦だけじゃなく、先生も――」

「へえ。先生が君をいじめるんだって、まさか」

「いや。そりや本当です。近頃先生がぼくの腹を断ち割ろうと、そればかりすすめるんですよ」

 将棋が済んで深夜のウィスキーをなめながら、彼は話し出した。話すといっても、ささやくような声だ。うっかり地声を出すと、見回り看護婦なんかに聞えるおそれがある。トイレの宴が見つかると、たいへんだ。

 つまり彼の症状は、採血やその他の検査から、肝臓に重点がおかれるようになった。バリュウムや胃液検査は大体白で、一時的な胃炎であり、潰瘍の徴候はなかったそうである。バリュウムと胃液検査でさんざん苦しい目に合って、彼は少々怒っているようであった。

「何も異状がないから、先生は今度肝臓に眼をつけたらしいですな」

 肝臓検査の結果が面白くない。なにしろ肝臓は大きな臓器で、機能検査ぐらいでは、悪化の状態がつかめない。胸から腹を切り開いて、実体を眺めるのが、一番確実なやり方である。

「病気の治療ならともかく、ただの検査のためですからねえ。腹を断ち割るなんて、むちゃですよ。身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。孔子さまもそう言っているし、頑張ってるんですがねえ」

「で、先生は何と言った?」

「あえて毀傷するんじゃない。調査のために開いて見るんだから、大義名分はちゃんと立つと言うんですな。どうも医者というのは、切ったり削ったりすることが好きですねえ」

「そうだね。検査のために切り開くというのは、少々乱暴なようだね」

「そうでしょう。ぼくもそう言ったら、切らずに小さな穴をあけて、鏡のついた管を入れて、潜望鏡みたいに内臓を見回す。そんな方法があると言うんです。こちらは切り開くということに反対の重点を置いていたわけでしょう。それが小さな穴になってしまったんで、イヤとは言いにくくなってしまった」

 野原は忌々(いまいま)しそうにグラスをあおった。トイレの酒宴も近頃量が殖え、おのおの二杯ずつになっていた。肴(さかな)はチーズだの南京豆だのだ。

「それを腹腔鏡というんです」

「で、承諾したのかい?」

「いえ。この病院にはその設備がないというんでね、それで一安心しました」

「そりやよかったね」

 私もグラスをあけた。

「そのかわりにね、超音波と言うのがあって、その検査を受けることになりました。こいつは先生の話では、痛く痒くもないとのことで――」

「痛くないのならけっこうじゃないか」

「ええ。けっこうだとは思います。でも、その設備がここにはないんですよ」

「何だか夢みたいな話だなあ」

 私は嘆息した。

「ここにないものばかり勧めるんだなあ。なけりゃ検査出来ないじゃないか」

「だからその設備を持った病院に行けというんです。つまり一時的に委託されるんですな」

「いつ行くんだね」

「明日です」

「明日? そりゃ早いな」

 その日の会話はそれで済み、おのおののベッドに入って眠った。翌朝の十時頃、彼は友人に付添われて、この病院を出て行ったらしい。

 野原にとって都合が悪かったことは、その外出時に大掃除が行われ、れいのウィスキー瓶が発見されたのである。ベランダの品物の下にかくして置けばよかったのに、彼はずぼらをきめこんで、ベッドの下にころがして置いたのがまずかった。ウィスキー瓶やシロップ瓶などは、栓のしめ方がゆるいと、匂いを発散するものだ。掃除中に折悪しく、看護婦が一人入って来た。この看護婦はたいへん嗅覚の発達した警察犬のような女で、廊下からそれを嗅ぎ当てて入って来た。

「おや。へんな匂いがするわ」

 くんくん嗅ぎ回って、ついにベッド下の瓶を探り当てた。

「まあ。坊やがウィスキーをかくれ飲みしてたんだわ。道理で治りが遅いと思ってた」

 私はベランダでその声を聞いた。掃除のため窓があけ放されているので、声は直接に私の耳に届いた。野原は彼女たちに、坊や、と呼ばれているらしい。

「婦長さんに報告してやるわ」

 足音も荒々しく看護婦が出て行ったと同時に、掃除婆さんが大あわてして、トイレ室を抜けて、私の部屋に入って来た。

「旦那さん。旦郵さん。たいへんなことになりました」

 婆さんに聞かずとも、事情はよく判っている。私も大急ぎでシロップ瓶を、リンゴ箱のリンゴをかき分けて、見えないように隠してしまった。

「あたしが持ち込んだことは、内緒ですよ。秘密ですよ。しゃべられたら、あたしゃクビになる」

「判ってる。決してしゃべりやしないよ」

 私はベッドにもぐりながら、約束した。

「野原君もしゃべらないと思うよ。だから平気でふるまいなさい。顔や態度に出すと、かえって怪しまれる」

 やがて隣室に婦長が入って来た。きんきん声が聞える。野原は外出禁止になっているので、どこからこれが持ち込まれたか、議論をしている。掃除婆さんは掃除を終えて、向い側の部星の掃除にとりかかったらしい。やがて婦長が私の部屋に、ことこと足音を立てて入って来た。

「異状ありませんか?」

 婦長は探るような目付きで私を見た。

「あなたの退院は明後日でしたわね」

「ええ」

 何食わぬ顔で、私は答えた。

「この一冬、寒さ知らずに過させていただいて、ほんとにたすかりましたよ」

「あなたはよく指示をお守りになった」

 婦長は椅子に腰をおろしながら、ベッドの下をのぞくようにした。私は聞いた。

「お隣の人、どうかしたんですか。さっきから何かざわざわしてるようだが――」

 私は首を上げた。

「まさか、凶(わる)いことでも――」

「野原さんは今神田のJ病院に、検査に行かれたんです。その隙(すき)に何か――」

「なに? その隙に何か――」

「いや。何でもないんですけれどね」

 婦長は私の部屋をじろじろと見渡した。

「あなたは野原さんとつき合いがありましたか?」

「いいえ」

 私はウソをついた。

「ベランダで顔を合わせる時、あいさつをかわす程度です」

「そう。ベランダでね」

 婦長は立ち上って、ベランダに出た。私も起きてパジャマをまとい、婦長のあとに続いた。天気のいい日で、疎林の彼方に白富士がくっきりと浮び上っている。婦長が言った。

「野原さんの部屋を掃除していたら、ウィスキー入りのシロップ瓶が出て来たんです」

「きれいな富士ですね。あれを見ると心が洗われるような気がする」

 私は眼を細めて、富士山の方を見た。

「シロップ瓶の内容が、ウィスキーに化けてたということですか?」

「そうなんですよ。おとなしい患者(クランケ)だから、油断しているとウィスキーを盗み飲みしたりして――」

「ちょっと待って下さい」

 私は彼女の言葉をさえぎった。

「野原って、どんな人物か知りませんけれどね、あの部屋も暑いでしょう。そこでシロップが醱酵(はっこう)して、酒になったんじゃないですか」

「へえ。そんなことがあるんですか。それは初耳ですわ」

 そこで私は猿酒、猿が果物を醸(かも)して酒をつくるやり方を、うろ覚えながら説明した。

「果実汁に一定の条件を与えると、酒になるし、また違った条件では酢になる。これは常識ですよ」

 婦長はうたがわしそうに、私の顔を見ている。私は富士山の方ばかりを見ていた。

「あんな秀麗な富士の姿を見ていると、下界の人間はこせこせと何をしているのかなあ、と思うね。婦長さんは時にそんなことを考えたり、感じたりしませんか?」

 誤解のないようにつけ加えるが、私は富士山が大嫌いである。形も月並みだし、趣向も単調だし、それに山の上は登山客の捨てた紙屑や空き罐で、足の踏み場もないそうである。しかしこの場合、婦長の心境を変えるために、富士をほめ讃えざるを得なかったのである。

「そうですね」

 仕方がないと言った表情で、婦長は不承々々(ふしょうぶしょう)うなずいた。

「富士山もいいけれど、治療の方も大切ですからね。も一度よく調べて見ましょう」

 午後四時頃、野原は意気揚々と戻って来た。久しぶりに街や人を眺め、気分が高揚したらしい。鼻歌まじりに部屋に入ったところを、待ちかまえた婦長にとっちめられた。

「何です。このウィスキーは!」

 野原はあっと鴬いた。

「どこから仕入れて来たんです!」

 感心なことには、彼は掃除婆さんのことを自白しなかった。まして私のことや、トイレ台上の将棋のことなど、ひたかくしにして、自分の友人からの到来ものという風に頑張ったらしい。そして今度だけは院長に報告しない。現物は没収するという軽い処分で終ったのは、彼の人徳によるものだろう。

 その夜消燈後、ひそやかに野原はトイレ室に姿をあらわした。

「ひでえ目に合いましたよ」

 彼はこぼした。

「がみがみ叱られるし、現物は没収されるし、超音波の結果は面白くないし、散々ですよ。こちらはひたすら謝りの一手」

「うん。結果としてはその方がよかっただろうな」

 猿酒のことを教えようと思っていたが、まだ人生経験の浅い野原がそんな小細工めいた言辞を弄(ろう)すると、たちまち見破られてしまうに違いない。婦長の権限は絶対だから、素直に非を認めるのが最上の方法であった。

 しかもその超音波の結果が、凶と出たのである。超音波の検査って、どういうことをやるんだねと訊ねたら、

「何だかジイジイと音を立てる器械があって、それにカメラみたいなのがくっついていて、聴診器をあちこちに当てていましたよ」

 まるで子供の答えである。

「ぼくは器械が嫌いでね」

 検査の間野原は、窓の外の建物や雲の動きばかりを、ひたすら眺めていたらしい。そんな傾向は私にも若干ある。私は注射が好きでない。注射そのものが稚いでなく、見るのが嫌いなのだ。だから注射の時はそっぽ向いている。

「そんなことじゃダメだな」

 私は訓戒を垂れた。

「自分が今何をされているか、どんな具合にあつかわれているか、眼をかっと見開いて見届けるべきだよ。そうしないとひどい目に合うよ」

「そうでしょうか。やはりそうでしょうな」

 野原は頭髪をもじゃもじゃとかき上げながら、へんに光る眼で私に言った。

[やぶちゃん注:「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」「孝経」(これは永く孔子が曾子に孝について述べたものを曾子の門人が記録した書とされてきたが、近年の研究によれば、戦国時代の作と推定されている)の「開宗(かいそう)明義章第一」の中の一節、「身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也。」(身体髪膚、之れを父母に受く。敢へて毀傷せざるは、孝の始めなり。)に基づく。

「猿酒」猿が木の洞(うろ)や岩石の窪みなどに蓄えて置いた果実や木の実が自然発酵して酒のようになったものとされる伝説上の酒。「ましら酒」とも呼ぶ。但し、野生の猿が食料を貯蔵する習性はないので、これは虚偽である。]

 

 その検査とはつまり超音波を発して、肝臓の大きさや形を調べる様式のものらしい。野原の肝臓はそれによると凸凹があり、全体的に畸形(きけい)化している傾きがある。畸形化は先天的なものか後天的なものか判らないから、腹腔鏡などで調べる必要がある。以上のような診断書を持たされて、野原はここに戻って来た。

「超音波の技師というか医師というか、おそろしく非情なものですな。ぼくの肝臓を散々悪く書いたくせに、ぼくには、御大事になさい、との一言も言わないんですからねえ。無表情で診断書を渡して、それっきりです」

「医者としては患者に一々同情しては勤まらないんだろう。あまり気にしなさんな」

 その夜は将棋もささず、ウィスキーもグラス一杯にとどめて、おのおの寝についた。

 結局その翌々日、私の尿も糖が完全に出なくなって退院、野原はQ病院に移ることになり、荷物の整理をした。私のシロップ瓶は中味を便所に捨てて、ごぼごぼと洗い流してしまった。惜しかったが仕方がない。残ったリンゴや菓子類は看護婦たちにプレゼントした。

 野原の荷物は、彼の奥さんがまとめた。奥さんはてきぱきした性格のようで、見たところ野原よりも年長だ。なるほど、野原みたいなのが姉さん女房を持つのかと、私は思ったが、もちろん口には出さない。

 私は野原夫妻をQ病院まで、私の自動車で送り届けることにした。久しぶりにハンドルを握ったので、運転感覚が急に戻らず、病院の門柱をこすったりしたが、あとは用心して操縦したので、無事にQ病院にたどりついた。途中私がシロップ瓶についてしゃべろうとしたら、野原があわてて私の横腹を小突いた。まだ奥さんに知らせてないことが、それで判った。

 Q病院はさすが有名な病院であって、富士見の病院とはおよそけたが違う。車寄せで二人と荷物をおろし、私は言った。

「今度こそへマをやるんじゃないよ。よく病院の規則を守って、早く退院するんだね」

「ええ。今度は個室じゃなく大部屋ですから、我がままはききません。覚悟はしています。時に先輩、名刺を一枚いただけませんか。退院したら一度おうかがいします」

 私は名刺を手渡した。そして彼が姿をあらわしたのが、冒頭の秋の日の暮れのことだ。

[やぶちゃん注:以上の展開と梅崎春生自身の直近の入院経過を見る限り、この野原の肝臓の状態は肝硬変で逝った梅崎春生のそれであり、野原というキャラクターは梅崎春生自身のトリックスターの一面を持つものであることが判る。]

 

「で、腹腔鏡の検査は、あれから直ぐに受けたんだね?」

「受けましたよ」

 野原は盃をうまそうにあけた。

「でも、直ぐにじゃありません。どうも病院というとこはおかしなところですねえ。富士の見える病院からの所見や診断書を持って行ったんですが、それをそのまま鵜(う)吞みにしないですな。も一度初めから検査をやり直す。バリュウムなどもまた飲ませられた。バリュウムはQ病院の方がうまかったです。Qのにはオレンジ味に、バニラが少し入っていたようです。バリュウムは病院によって味が異う」

「そういうこともあるだろうね」

「採血だって、ずいぶん変ったのをやりましたよ。うちの女房を来させてね、女房と僕のとを同じ時間に採血する。大部屋ですから、皆の眼がこちらを向いている。今に何かおこるぞと、好奇のまなざしがぼくらに集まっている。私のは先生が、女房のには看護婦が取りついていて、針を静脈にさし込み、ヨーイドンの合図で血を吸い上げる。吸い上げると、先生がその二つの管を大切そうに持って、病室を飛び出し、廊下をバタバタと走って行くんです」

「へえ。面白いことをやるんだねえ。それ、どんな意味だい?」

「その血を調べる機械か薬品だか知らないけれど、日によって誤差が出るというんですね。それで健康人のと私のとを比較して、つまり健康人のを基準として、ぼくの血液をはかる。血液中のアンモニアの量を調べるんだと、隣のベッドのヘチマ爺さんが教えて呉れたんですがね、とにかく平素は落着いた先生が、構っ飛びにすっ飛んで行くのは見物(みもの)でしたよ。実際あれは面白かったなあ」

「何故先生が走るんだね?」

「時間が経つと血液が変質したり蒸発したりして、正確な価が出ないということでしょうね。とにかくいろんな検査をして、腹腔鏡もやって、三箇月目に退院してもよろしいと言われた時は、ほっとしましてね。もっとも全快じゃなく、条件つきでしたが――」

「どんな条件だね?」

「ええ。まず高蛋白、高ビタミンの食事をとること。脂肪分はよくないが、とにかく御馳走を食べることですな」

「いい条件だね。うらやましいくらいだ」

「食後はしばらく安静にすること。精神も安定にして、人の言うことに逆らったり喧嘩したりしないこと。やはり精神が大切なんですねえ。それから――」

 彼は言い淀んだ。私はうながした。

「それから?」

「それから、刺戟物、幸子(からし)やワサビを摂(と)らないこと、そして酒なども――」

「酒もだと?」

 私は大声を出した。

「見ていると君はさっきから、がぶがぶ飲んでるじゃないか。辛子やワサビより、酒の方を強く禁止されたんだろ!」

「え。ええ」

 盃を持ったまま野原は横を向き、ごまかすようなせきばらいをした。

「まあそう言うことですがね、先輩はさっきぼくに向って、かけこみ三杯とか何とか、むりやりに勧めたじゃないですか。人の言うのに逆らっちゃ悪いと思って――」

「都合のいいことを言ってるよ。もうごまかされないよ」

 私は彼の盃をもぎ取った。

「酒は出さないから、水でも飲みなさい。台風二十号のおかげで、栓をひねれば水はいくらでも出る」

「意地が悪いですなあ。まるでヘチマ爺さんみたいだ」

 手持無沙汰に彼は手をうろうろさせた。

「富士見の病院じゃ、ウィスキーをたのしく飲み交したじゃないですか」

「あの時はあの時、今は今だ。君は退院後もちょくちょく飲んでいるのかね?」

「いえ。慎しんでいます。大体においてね。甘いもの専門です。禁酒をすると、奇妙なほど甘いものが欲しくなるもんですねえ。ですから今日持参したのも、甘味品です」

「ほんとかね」

 彼が持参した紙包みを、私はごそごそと開いた。中には饅頭が入っている。白い皮が斑(まだら)について、中から饀(あん)が露出している。子供の時私はこれが大好きで、小づかいをくすねて買食いをしたものだ。今は下戸ではないので、食べるチャンスはないが、時々店頭に並んでいるのを見ると、郷愁が湧く。わざわざ銭を出して買おうという気にはならない。

「なるほど。酒をやめると、こんなのを食いたくなるのか」

 私は合点々々をした。

「この駄菓子の名、東京では何というのかい」

「ふぶき、と呼びますね。ぼくの買いつけの菓子屋では」

「ふぶき。なるほど。そう言えば吹雪という感じがする。白い皮がちらちらしているね」

 私はその一箇をつまんで、裏表を調べた。

「おれの故郷ではこれを、やぶれ饅頭と言ったよ」

「やぶれ饅頭?」

 野原は大声で笑い出した。

「そう言えば皮が破れていますね。破れて身がはみ出ている。即物的な名前ですな。田舎人らしい呼び方だ」

「田舎、田舎と、あんまり都会人ぶりはよしなさい」

 少々気を悪くして、私はたしなめた。彼は笑いを収めた。私は話題を戻した。

「で、さっきの爺さんのこと、そんなに意地が悪いのかね」

「ええ。大部屋で、ベッドでその爺さんと隣り合わせてね、顔がヘチマに似てるから、ヘチマ爺さんと皆が呼んでいるんです。病室というところは妙なところで、大部屋では病歴の古いほど威張っている。ま、古いから病院の様子やしきたりをよく知ってるせいでもあるんです。つまり忠臣蔵の吉良上野介みたいにね」

「その爺さん、何病だね?」

「元の病気は知りません。腎臓か何かが悪かったのかな。そんな話も耳にしたけれど、僕が入った時のはもっぱら打撲傷、それに神経痛です」

「打撲傷とは、病院で受けたのか?」

「そうです。ベッドから転がり落ちたんですな。それが一度でなく、三度もです。治りそうになると、また転がり落ちて、肩をいためたり、腰骨を打ったりする。そして退院が伸びる。あの病室では、最古株となりました」

「退院したくないんじゃないか?」

「そりや当然の疑問ですな。皆もその疑問を持っていて、もうそろそろ転がり落ちるよと噂していると、案の定がばと落っこちて、筋や骨をいためる。あんな大病院になるとおうようなもので、爺さん、また落っこちたか、てなもんで手当をして呉れる。その結果退院が伸びて、ヘチマ爺さんはこの部屋の名主になってしまった。それとベッドで隣り合わせたんですからねえ。苦労しましたよ」

 野原はぱくとやぶれ鰻頭に食いついた。

「爺さんは町田市の本町田あたりに自宅があるらしい。病院の風呂に入るたびにこぼしていました。おれんちの風呂は、こんな薄汚ない場所にはない。これじゃまるで牢獄のようだ。おれんちのは広々して、洗い場から山や雲や飛んでいる小鳥が見える、なんてね。これもほんとかウソか判らない」

[やぶちゃん注:「ふぶき」吹雪。昔風の薄皮の田舎饅頭にこの呼称が今も広く使われている。グーグル検索「ふぶき 饅頭」をリンクさせておく。

「やぶれ饅頭」宮崎県延岡市の「延岡観光協会」オフィシャルサイトの「やぶれまんじゅう」によれば、『小麦粉で作った皮(延岡ではガワともいう)のところどころから、中のアンが見える薄皮まんじゅうで、延岡名物のお菓子の』一つとし、他の記載でもここを発祥の地とする。その由来は、慶長一〇(一六〇五)年に『延岡の製菓店が売り出したのが始まりで、中町にあった佐々木磯吉菓子店が受け継ぎ広ま』ったとし、『その由来は、天岩戸に隠れたアマテラスオオミカミをアメノウズメノミコトが木の小枝を持って面白おかしく舞い踊り外の世界へ導いたという神話で、この時の小枝が皇賀玉(おがたま・招霊)の木で、現在でも神事にはこの木が使われていることに基づいて、このオガタマの実を形どって』たのが、この「やぶれ饅頭」で、そこから別に『「オガタマまんじゅう」とも言われ』る、とある。リンク先には製法や「やぶれ饅頭」の写真もある。見れば、「ああ、あれか!」という品物である。梅崎春生は同じ九州の福岡生まれであるから、腑に落ちる。]

 

 野原は饅頭を吞みこみ、水をぐっとあおった。酒を飲んだあとに、よくそんな芸当が出来るもんだ。

「ぼくがいよいよ決心して腹腔鏡の検査を受ける前の日、ヘチマ爺さんが言いましたよ。テレビの赤穂浪士の滝沢修みたいな言い方でね、あれは痛いもんだぞ、なにしろ穴をあけて、棒で内戚をかき回すんだからな、あれで悲鳴を上げなきゃ人間じゃないと、そんな具合にです。こちらが何も聞きもしないのに、そんないやがらせを言うのが、ヘチマ爺さんの趣味でした。つまりウソツキなんですな」

「いやな爺さんだね」

 私も面白くなって、盃を含んだ。他人の悲話や苦労話は、たしかに洒の味をうまくするものだ。のろけだの幸福話は、決して酒のサカナにはならない。洒とはふしぎなものである。

「それで、案の定、痛かったかね」

「そりや多少は痛かったですよ。でも、悲鳴を上げるほどのものじゃない」

[やぶちゃん注:「テレビの赤穂浪士の滝沢修」これも私には注はいらぬのであるが、若い人のために言い添えておく。これは、この年、NHKで放映された大河ドラマ第二作目の「赤穂浪士」(一九六四年一月五日~十二月二十七日の毎日曜放映)で滝沢修が吉良上野介役を演じたことに基づく(大石内蔵助役は長谷川一夫)。先に野原は「ヘチマ爺さん」を「吉良上野介みた」ような厭味なことを言う奴と表現しており、彼はここでもそれに洒落たのである。因みに、あの作品は私には映像よりも、芥川也寸志作曲のオープニング・テーマの鞭を用いた曲が痛烈な印象を残している。それにしても本小説は最終回放映の前(同月号)に発表されているから、非常な読者サーヴィスとも言えよう。ドラマの詳細データはウィキの「赤穂浪士(NHK大河ドラマ)」を参照されたい。そこに載るキャストを見るだけで、思わず、「懐かしい!」と叫んでしまう還暦過ぎた私がいる。]

 

 以下は野原の話。

 腹腔鏡の検査はレントゲン室で行われた。台の上に横たわる。裸になる必要はない。着ているものをたくし上げ、ずり下げて、腹部だけを空気にさらす。看護婦が布を顔にかぶせる。野原はそれを拒否した。

「僕は見ていたいんですよ。どういう風に検査されるか」

「そうですか」

 看護婦は布を取る。喜怒哀楽の表情は、全然ない。ただ見おろしているだけだ。自分が材木か何かになったように、野原は感じる。でもまだ手足は動ける。台から降りて、病室に戻ろうと思えば、出来ないことはない。

 下腹部の左側がつめたいもので拭われる。密室なので、しんとしている。聞えるのは人間の息使いだけだ。消毒された部分に、麻酔の注射が打たれる。そして今度は太い注射針が押し込まれる。すでに麻酔しているので、格別痛いとは感じない。

「まるで儀式みたいだ」

 と彼は思う。思いながら、首を少し持ち上げるようにして、それを見ている。

「式次第もうまく行っているようだな」

 下腹の横のすこし高いところに、気腹器がある。それから空気が注射針を通って、腹に入って行く。腹膜と内臓との間に注入させ、空間をつくるためだ。空気は管を通る時、液体を一度通過する。そのためぽこぽこと泡を立てる。もう動けないな、式が始まったんだからなと、彼は考える。

「そのぼこぼこと泡が立つのは、何ですか」

「昇汞(しょうこう)ですよ」

 マスクでくぐもった声で医者が答える。

「空気の消毒をするんです」

 腹がだんだんふくらんで行くのが、目でも見えるし、息苦しい感じでも判る。膜が押し上げられているのだ。レントゲンで空気の入れ方をしらべる。

「もうチョイ」

「もうチョイ」

 測量技師と同じ仕事だな、と彼は思う。もう存分にふくらんだ。看護婦が野原の額の汗を拭いた。

「苦しいですか?」

「いいえ」

 彼と看護婦と医師と、この密室で何か悪事をたくらんでいる。そんな錯覚に彼はとらわれる。それを打ち破るために、彼は誰にともなく話しかける。

「ずいぶんふくらみましたね。殿様蛙のようだ」

「え。ええ」

 空気注入は終った。医師の手が意味ありげに腹を撫でる。短い外国語が振り交される。そしてへソのすぐ上に麻酔が打たれ、メスが切りを入れる。角度の関係で、もう眼では見えない。仕方がないので天井を見ている。空気の注入、それから金属棒を差し込むこと。その順序はあらかじめ知らされていた。知らされるというより、こちらからこまごま質問をして、知っていた。金属棒には豆電燈がついている。深夜のように暗い内臓を照らすためだ。医師が命令する。

「大きく息を吸って」

 彼は吸う。

「今度は吐いて」

 彼は吐く。

「はい。大きく吸って」

 彼は大きく吸う。

「吐いて」

 吐く。

「大きく吸って」

「はい。吐いて」

「はい。大きく吸って」

 彼は吸う。その瞬間にガッという衝撃が来た。棒の先が腹膜を突き抜けたのである。

 

「あれは計算外でしたなあ。もちろん金属棒を入れるんだから、少しは感じるだろうと思っていたんですがね。衝動が全身にとどろき渡りましたよ。膜といえどもばかにはならんです」

 野原は手真似入りで説明した。

「あれ以来、ぼくは女性に同情を感じるようになったですな」

「なに? 膜と女性と、一体どんな関係があるんだ?」

「いや、なに、それはこちらの話です」

 彼はあわててごまかした。彼は時々突拍子もないことを口走るくせがあって、私は理解に苦しむ。

「で、棒を色々動かして、肝臓の色や形を見るわけですね。ところが先端に豆電球がついている。そいつはかなり熱いのです。直接内臓に触れたら、火傷(やけど)をする。火傷しないとしても、火ぶくれが出来る。そうなったらたいへんですからねえ。熟練した医師でないと、いけないんです」

「君は大丈夫だったのか?」

「ええ。ぼくのはその方の名人と言われるような医師でね、時々棒の動きを止めて、こちらの端にカメラをつけ、パチパチと写真をとりました。これがその一枚です。記念のために、ゆずり受けました」

 彼はポケットから大事そうに、色彩ネガフィルムを取り出した。私はかざして見たが、何だかよく判らない。彼は得意げに説明した。

「こちらの茶褐色のかたまりが、ぼくの肝臓です。ヤキトリのレバーに似てるでしょう。これが悪くなると、豆板みたいに凸凹になる」

[やぶちゃん臨時注:「豆板」は「まめいた」で、炒った豆を並べ、それに溶かした砂糖をかけて固めた菓子。グーグル画像検索「豆板 菓子」をリンクさせておく。]

「ふうん。そう言えば凸凹はないな。しかしぶつぶつして、やぶれ饅頭みたいだ」

「縁起でもない。やぶれ饅頭みたいだなんて」

 彼は興ざめた風(ふう)に、フィルムを取り返し、大切そうにポケットにおさめた。

「そりや若い時にくらべりゃ、すこしはつぶつぶが出来ますよ。先輩のだって切って見れば、必ずつぶつぶが見える筈です」

「何を証拠にそんなことを――」

「いえね、さっきから先輩の胸のはだけたとこを見てたらね」彼は私の胸を指差した。

「その肩甲骨の横っちょに、赤い斑点が見えますね。それ、たしかにバスクラスパイダーです。間違いありません。肝臓が悪いと、それが出来るんですよ」

「なになに」

 こちらの倉に火がついたので、私はあわて声を出し、首を前屈した。

「これのことか」

「そうですよ」

 彼はベルを押すように、その斑点を押して、パッと放した。押されて血の気を失ったそれは、やがてじわじわと血色を取り戻して来た。

「ね。ふつうのニキビなら、押しても白っぽくならないでしょう。だから先輩の肝臓はいたんでいるんです」

 彼は得々として説明した。

「バスクラスパイダー、すなわち蜘蛛(くも)様血管腫は、毛細管がクモの足のようにひろがっている。肝臓の赤信号ですな。すこし酒をつつしんで、やぶれ饅頭でも食べたらどうですか。糖分は肝臓にいいのです」

「なるほど。蜘蛛様血管腫か。イヤな名前だねえ」

 私は自分が腹腔鏡検査を受けている状態を想像した。が、まだ実感はなかった。

「腹に穴をあけたあとを、見せて呉れないかね。まだ残っているか」

「ええ。残っていますよ」

 彼は前をはだけて私に示した。長さ一センチほどの傷あとが、そこについている。眼を彼の胸に戻すと、たくさんの斑点が取りついていた。

「君の胸にはずいぶんスパイダーがいるじゃないか。ひとつ、ふたつ、みっつ。まるで北斗七星みたいだ」

「いえ。なに」

 彼はあわてて胸をかくした。

「これは数ではきまらないんです。その人の体質によって、たくさん出る人と出ない人と――」

「医者がそう言ったのか」

「いえ。あのヘチマ爺さんが言いました」

「そのヘチマ爺さんは、意地悪でウソツキだと、さっき君は言ったね。そんな爺さんの説を信用するのかい?」

「ええ。それよりも――」

 彼は返事に困って、掌をひらひらと振った。

「現在では手術の傷口は、糸では縫わないんですね。針金でちょいと止めちゃうんです。止めてから、そのまま動き出しました」

「傷口が動き出したのかね?」

「傷口が動くわけがありません。ぼくがですよ」

「つまり起き上ったのか?」

「そうじやないですよ。何も判っちゃねえなあ。動き出したのは、台です」

「君を乗せたままか。それなら判る。台には車がついてんだろ。テレビの医者ものでよく見るよ」

「そうあれです。ガラガラ音をさせてね、廊下を通る。廊下に待っている連中、治療を待っている連中ですな、そいつらが立ち上って、ぼくの顔を見る。ものめずらしさと、お可哀想にという気分が、入り混った顔ですね。そんな表情で見る」

「よく他人の表情が、君に読めるもんだね」

「そりゃ判りますよ。今までぼくもそんな顔で、のぞいていたから」

 野原は舌打ちをした。

「のぞかれる身になると、癪(しゃく)にさわるですなあ。今にお前らもこうなるんだぞと、ぐっとにらみつけると、たいていの患者は狼狽して眼をそらしますね」

「そりやそらすだろう」

「そらさない奴も、中にはいます。それはきまって女です。中年の女。これはにらみつけても、ほとんど効果がないですな。平然としてにらみ返します。ことに付添いの女、これは見慣れているんでしょう」

「なるほど」

「こうして廊下を幾曲りして、元の大部屋に戻りました。やっとこさストレッチャー、ごろごろ車のことです。その車からベッドに移された時、どっと疲労を感じましたねえ」

 野原はそう言いながら、肩を落した。もう夜も更(ふ)けて、風がガラス戸をかたかたと鳴らす。私は盃を口に持って行きながら言った。

「いろいろ苦労したもんだね」

「ええ。苦労はしたが、勉強になったですな。ぼくは軍隊の経験はないけれど、人間がたくさん集まって生きたり、死んだり、その間の感情の起伏、経験しなきゃ判りませんね。たとえばあのヘチマ爺さん、あんな爺さんにめぐり逢い、一緒に生活をすることは、病気にでもならなきゃ不可能でしょう」

「そうだろうね」

 私はしみじみと同感した。

「そのヘチマ爺さんのことは、小説になるね。でも、大部屋というのは、男ばかりだろう。女が恋しくならなかったかい」

「女には女ばかりの大部屋がありますよ」

 彼は坐り直して、にやにやと笑った。

「女については、また別の日にくわしくお話しいたしましょう。もうそろそろ夜が更けましたね。では、また」

 にやにや笑いのまま、彼はやぶれ饅頭を、ぽいと口の中に放り込んだ。
 


2018/05/17

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(5) 五 ローマネスとヘルトヴィッヒ

 

     五 ローマネスヘルトヴィッヒ

 

 所謂新ダーウィン派の説に反對する學者はなかなか大勢あつて、專門の學術雜誌上で之を攻擊した人も餘程澤山にあるが、纏まつた書物を書いて、その中でウォレースヴァイズマン等の説を駁したのは、イギリスローマネスドイツヘルトヴィッヒなどである。また近頃ではヘッケルの後を次いでエナ大學の動物學教授になつたプラーテもその著「淘汰説」の中にヴァイズマンの説を排斥して居る。

[やぶちゃん注:「ローマネス」ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes  一八四八年~一八九四年)はカナダ生まれのイギリスの進化生物学者・生理学者。ウィキの「ジョージ・ロマネス」によれば、『比較心理学の基盤を作り、ヒトと動物の間の認知プロセスと認知メカニズムの類似性を指摘した。姓は』ローマネスや『ロマーニズとも表記される』。『彼はチャールズ・ダーウィンの学問上の友人の中でもっとも若かった』(ダーウィンより三十九歳歳下)。『進化に関する彼の見解は歴史的に重要である。彼は新たな用語「ネオダーウィニズム」を提唱した。それはダーウィニズムの現代的に洗練された新たな形を指す用語として、今日でもしばしば用いられている。ロマネスの早すぎる死はイギリスの進化生物学にとって損失であった。彼の死の』六『年後にメンデルの研究は再発見され、生物学は新たな議論の方向へ歩み出した』。『ロマネスはカナダのオンタリオ州キングストンで、スコットランド長老派の牧師ジョージ・ロマネスの三男として生まれた。二歳の時に両親はイギリスに帰国し、彼はその後の人生をイギリスで過ごした。当時の英国の博物学者の多くと同様、彼も神学も学んだが、ケンブリッジで医学と生理学を専攻することを選んだ。彼の一家は教養があったが、彼自身の学校教育は風変わりであった。彼はほとんど学校教育を受けず、世間について知識がないまま』、『大学に入学し』、一八七〇年に卒業した。『最初にチャールズ・ダーウィンの注意をひいたのはケンブリッジにいるときであった。ダーウィンは「あなたがとても若くて大変嬉しい!」と言った。二人は生涯』、『友人でありつづけた。生理学者マイケル・フォスターの紹介で、ロマネスはユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのウィリアム・シャーペイとジョン・バードン=サンダーソンのもとで無脊椎動物の生理学について研究を続け』、一八七九年、三十一歳の『時にクラゲの神経系の研究を評価され、ロンドン王立協会の会員に選出された』。『しかしロマネスの、経験的なテストよりも、逸話的な証拠を重視する傾向は心理学者ロイド・モーガンによって警告され』てういる。『青年であった頃、ロマネスは敬虔なキリスト教徒だった。そして最後の病気の間に、いくらか』、『信仰を取り戻したようであるが、彼の人生の半ばはダーウィンの影響によって不可知論者であった』。『彼が晩年に書いた未完の原稿では、進化論が宗教を捨てさせたと述べている』。『ロマネスは死去する前にオックスフォード大学で公開講座を開始した。それはしばらく後にロマネス・レクチャーと名付けられ、現代でも引き続き行われている』。一八九二年の『初回には首相グラッドストンが、第二回には友人のトマス・ハクスリーが講義を行った。テーマは科学だけでなく、政治、芸術、文学など幅広い。チャーチルやルーズベルト、ジュリアン・ハクスリー、カール・ポパーなども講義を行っている』。『ロマネスは』、『しばしば進化の問題に取り組んだ。彼はほとんどの場合、自然選択の役割を支持した。しかし彼はダーウィン主義的進化に関する次の三つの問題を認めた』。『自然の中の種と人工的な品種の変異の量の違い。この問題は特にダーウィンの研究に関連する。ダーウィンは進化の研究に主に家畜動物の変異を扱った』。『同種を識別するために役立つ構造は、しばしばどんな実用的な重要性も持たない。分類学者は分類の目安にもっとも目立ちもっとも安定した特徴を選んだ。分類学者には役に立たなくても、もっと生き残りに重要な形質があるかも知れない』。『自由交配する種がどのようにして分裂するかという問題。これは融合遺伝に関する問題で、ダーウィンをもっとも困らせた問題である。これはメンデル遺伝学の発見によって解決され、さらに後のロナルド・フィッシャーは粒子遺伝が量的形質をどのように生み出すかを論じた』。『ダーウィンはその有名な本のタイトルに反して自然選択がどのように新種を造り出すのかを明らかにしなかったが、ロマネスはこの点を鋭く指摘した。自然選択は』、『明らかに適応を作り出すための「機械」であり得たが、新種を造り出すメカニズムは何か』? という疑問への『ロマネス自身の回答は「生理的選択」と呼ばれた。彼の考えは、繁殖能力の変異が親の形態の交雑防止の主な原因で、新種の誕生の主要な要因である、ということだった』但し、『現在、多数派の見解は地理的隔離が種分化の主要な要因(異所的種分化)で、交雑種の生殖能力の低下は第二以降の要因と考えられている』とある。

「ヘルトヴィッヒ」オスカー・ウィルヘルム・アウグスト・ヘルトウィヒ(Oskar Wilhelm August Hertwig(一八四九年~一九二二年)はドイツの発生学者・細胞学者。イェナ・チューリヒ・ボン各大学で医学・動物学を学び、イェナ大学では先に出たエルンスト・ヘッケルに師事した。一八七五年イェーナ大学講師となり、六年後に教授に就任、その後、ベルリン大学の解剖学及び進化学教授となった(一八八八年~一九二一年)。受精に於いて、精子と卵子のそれぞれの細胞核が合体することを発見し、また、生殖細胞が造られる際の細胞分裂で、染色体の数が半減し、受精によって元の数に戻ることを明らかにした。これらの発見は、形質の遺伝を決定する物質が染色体に存在することを示唆するものであり、遺伝学の形成に大きな影響を与えた。また、発生学での業績も多く、胚を構成する個々の細胞の性質は、その細胞に含まれる物質によってではなく、それが胚全体の中で占める位置によって決定されると主張した。進化に関しては、獲得形質の遺伝を認め、淘汰説を批判している(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、以下は「岩波生物学辞典」第四版・小学館「日本大百科全書」及びドイツ語ウィキ()等を参照に付け加えた。後文で言及されるからである)。彼の弟リチャード・ウィルヘルム・カール・テオドール・リッター・フォン・ヘルトウィヒ(Richard Wilhelm Karl Theodor Ritter von Hertwig 一八五〇年~一九三七年)も動物学者で、兄とともに多くの研究を行った。ケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)・ボン・ミュンヘンの各大学の教授を歴任、兄とともに体腔説を提唱した。また、無脊椎動物の諸類、特に原生動物の研究から細胞学の研究に進んだ他、カエルの性に関する研究なども行っている。一八九一年に書いた動物学の教科書Lehrbuch der Zoologieは名著の誉れが高い。

「プラーテ」ルートヴィッヒ・ヘルマン・プラーテ(Ludwig Hermann Plate 一八六二年~一九三七年)はドイツの動物学者。ヘッケルの後を継いでイェナ大学教授(一九〇九年)となり、ヘッケルの創設した「系統博物館」館長となった。輪形動物・軟体動物及びその他の無脊椎動物の系統論的研究を行い、環境の定向的変化との関係に於ける定向進化に注目、「定向淘汰」の語を作った。但し、彼は一方で優生学や人種(民族)衛生学に強い関心を持ち、これは彼をして、ナチズムの反ユダヤ主義政策を積極的に推し進める役割を担ってしまった。]

 

Romanes

[ローマネス]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。]

 

 ローマネスは今より三十四年ほど前に「ダーウィン及びダーウィン以後」と題する三册續の書物を書いた。その第一册にはダーウィン自身の説いた通りを紹介し、先づ生物進化の證據を列べ、終りに自然淘汰説の大要を述べたもので、圖畫なども澤山に插し入れ、その頃の最も新しい材料を選んで用ゐ、文句も極めて平易に書いてあるから、進化論の一般を知りたい人が始めて讀むには最も適當な書物であらう。實はダーウィン自身の書いた「種の起源」を讀むよりは、先づこの書を讀んだ方がダーウィンの説が明瞭に解る位である。第二册にはダーウィン以後の進化論が述べてあるが、その大部分はウォレースヴァイズマンとの説の批評で、所謂新ダーウィン派の議論の穩當でない所を指摘してその誤れる點を明に示して居る。第三册目はたゞ或る假説を述べてあるだけで、最も重要な部分ではない。ローマネスは今より三十二年前に僅に四十六歳で世を去つた。上述の書物の第三册目は、死後友人の手で纏めたものである。

[やぶちゃん注:「ダーウィン及びダーウィン以後」一八九二年から一八九七年まで五年かけて刊行したDarwin, and after Darwin。]

 

 ローマネスがこの書の中に書いたことは、たゞダーウィン自身の説を紹介し、ダーウィン以後に出た進化に關する學説を批評しただけで、別に新しい説を發表したのではないから、こゝには改めて述べる程のこともないが、その要點を摘んでいへば、やはりダーウィン自身と同じく生物の進化は自然淘汰と後天的性質の遺傳とによつて起るとの考であつた。ローマネスは特に心理學の方面に興昧を持ち、「動物の智惠の進化」・「人間の智惠の進化」・「動物の知力」などといふ書物を著したが、孰れも頗る面白いものであつた。若し長命であつたならば、更に有益な研究が出來たであらうと思ふと、彼が比較的若くて死んだことは實に惜まざるを得ない。

[やぶちゃん注:「動物の智惠の進化」一八八三年刊のMental evolution in animals, with a posthumous essay on instinct by Charles Darwin(「動物の精神上の進化、及びチャールズ・ダーウィンの本能に関する死後に刊行されたエッセイについて」)。

「人間の智惠の進化」一八八八年刊のMental evolution in Man

「動物の知力」以上の著作より前の一八八一年に刊行したAnimal Intelligence(「動物の知能」)。]

 

 ドイツにはヘルトヴィッヒといふ有名な生物學者が兄弟二人あつて、兄はベルリン大學に、弟はミュンヘン大學に教授を務めて居るが、その中、兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興昧ある書物を著し、その中に「生物發生説」といふ假説を掲げた。この假説は實驗上確に知れたことだけを基として、餘り甚だしく想像を加へてない故、ヴァイズマン説の如く細かい所まで完結したものでもなければ、またかの如く著しい特徴もないが、或はそれだけ眞に近いものかも知れぬ。全體、この書は頗る面白く出來て居るが、全く專門的のもの故、一通り組織學・細胞學・發生學等を修めた者でなければなかなか解りにくい。その中の生物發生説も同樣で、その大部分は全く細胞・組織等に關することであるが、ヴァイズマンとは反對で、生物の身體を生殖物質と身體物質とに分ける如きことを爲さず、後に子となる部分も、他の働きを爲す體部も、最初は全く同性質であるが、發生の進むに從い、その間に次第に相違が生じて相別れたもの

であると論じ、隨つて遺傳に就いての説もヴァイズマンとは正反對で、やはりヘッケルローマネススペンサー等と同じく、親が外界から受けた身體上の影響は確に子孫にも傳はると論じて居る。

[やぶちゃん注:『兄の方は先年初めに「細胞と組織」と題し、後に「生物學通論」と改めた極めて興昧ある書物を著し』前者は一八九二年から一八九八年まで五年をかけて刊行したDie Zelle und die Gewebe、後者はそれの第二版に当たる一九〇六年刊のAllgemeine Biologie。]

 

 またウォレースヴァイズマン等の新ダーウィン派と反對の極端論には、コープオズボーンの等の如き化石學者が主として唱へる説がある。之は所謂新ラマルク派の議論で、生物の進化には自然淘汰位では到底間に合わぬ。寧ろ主として一代每に新に獲た性質が遺傳して進化し來つたのであらうと説いて居る。また之とは別に、生物各種にはそれぞれ進化し行くべき方角が僅め定まつて居て、眞直にその方に向うて進んで行くと論ずる人もある。尚やう々な議論があるが、煩はしいから他は略する。

[やぶちゃん注:「コープ」エドワード・ドリンカー・コープ(Edward Drinker Cope 一八四〇年~一八九七年)はアメリカの古生物学者・比較解剖学者。定向進化論者であり、その仮説「コープの法則(Cope's law)」(同じ系統の進化の過程に於いて大きなサイズの種がより新しい時代に出現する傾向があるとする法則)に名を残している。彼の事蹟はウィキの「エドワード・ドリンカー・コープを参照されたい。

「オズボーン」ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(Henry Fairfield Osborn 一八五七年~一九三五年)はアメリカの古生物学者・地質学者・優生学論者でもあった。ウィキの「ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンによれば、一八七七年、『プリンストン大学を卒業後』、『イギリスに渡り、動物学者の』『バルフォア』や『ハクスリーらに師事した。帰国後』、一八八三年、『プリンストン大学の比較解剖学の教授に』、一八九一年には『コロンビア大学の生物学の教授に就任し、また』、一八九六年からは『動物学の教授を務めた』。一八九一年には『アメリカ自然史博物館のキュレーター』(学芸員としての専門職と管理職の兼帯職)『に就任し、自らが長を務める古脊椎動物部門を設置』、一九〇八年から一九三三年の『長きに』亙って『館長を務め、在任中には同博物館に世界最高レベルの化石コレクションを収集した』、一八七七年の『コロラド州とワイオミング州を筆頭に、北アメリカ西部をはじめアジア、アフリカに意欲的に化石発掘団を派遣した』。研究の専門は化石哺乳類(サイ、ブロントテリウム、長鼻類、ウマ)で』、『これらの研究から適応放散、平行進化などの概念を立てた。 また、数多くの恐竜類の命名、記載者としても知られ』、『ティラノサウルス・レックス』(爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱 恐竜上目竜盤目獣脚亜目テタヌラ下目 Tetanuraeティラノサウルス上科ティラノサウルス科ティラノサウルス属Tyrannosaurus rex)、『ペンタケラトプス』(恐竜上目鳥盤周飾頭亜目角竜(ケラトプス)下目ケラトプス科カスモサウルス亜科ペンタケラトプス属 Pentaceratops)、『ヴェロキラプトルなど』(テタヌラ下目ドロマエオサウルス科ヴェロキラプトル亜科ヴェロキラプトル属 Velociraptor)は皆、彼の命名になる。『特にデイノドンの可能性があった』『標本に対し、より状態の良い標本に響きもよいティラノサウルス・レックス(暴君竜の王)をあたえ』、『普及させた功績は大きい』。『自身の研究活動や、研究支援活動を通じてアメリカの古脊椎動物学の発展に大きく貢献し指導的立場にあった。本人も大いに自負し』、『時には尊大と思われる行為も行ってはいるが』、『評価は得ている』。『一方で』、『オズボーンの寄与には』、現在は『ほとんど評価を受けていないものもある。化石哺乳類とくに絶滅長鼻類の研究から、今日では疑わしい説とされるラマルキズムに傾倒した定向進化説を支持したことや、そこから派生した優生学に関する活動がこれらに該当する』とある。私は不学にして、かの知られた恐竜の命名者である、この古生物学者を全く知らなかった。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(42) 大乘佛教(Ⅰ)

 

  大乘佛教

 

 この場合哲學的佛教の、概賂の考察が必要になる、――二つの理由があつて。第一の理由に、本問題に就いての誤解或は無知識が、日本の知識階級は無神論者であるといふ批難を可能ならしめたからである。第二の理由は、日本の平民――卽ち國民の大部分を占めて居る人々――が熄滅としての涅槃[やぶちゃん注:原文は“Nirvâna as extinction”。「消滅たるところの涅槃」という意味にしか採れない。しかし、本書の読者である西洋人一般には「消滅」が判りがいいのだろうが、どうも、ここは本来は「涅槃」そのもののサンスクリット語「ニルヴァーナ」の意、即ち、「煩悩の境地を離れて悟りの境地に入ること」の別表現・形容でないとおかしい。私には「消滅」というのは如何にも無への帰一のニュアンスがあってしっくりこない。輪廻から解き放たれた解脱としての現世上の幻化としての存在の消失である。というより、小泉八雲が以下で語るのもそういう単純な「断絶・滅消」という話にならない《致命的誤謬》をしてはいけないと言っているからである。日本人である私(本質的個人としては無神論者であるが)としては邦訳ならば、平井呈一氏の『寂滅としての涅槃』がやはりよいと考える。](事實上から云へば、此の言葉の意味すらも、人民の大多數には、知られて居ないのであるが)の教義を信仰し、此の教義が、それから生ずると假定され鬪爭に對する無能力を作り出すが故に、人々は諦めて地上から全然消滅する事を甘んじて居ると、考へて居る人々が多少あるからである。苟も聰明なる人が少しでも眞面目に考へたならば、そんな信仰が、野蠻人でも文明人でもの宗教となり得たとは考へられない筈である。然るに、多くの西歐人は、何等深く考へる所なくして、かくの如き不可能の記事を常に容認して居る、故に 若し私が、眞に大乘佛教の教義が、如何に普通の考へとかけ離れて居るかを、讀者に示す事が出來たならば、それは眞理と常識のために、多少の仕事をつくした事になるであらうと思ふ。なほこの問題に關して述べた以上の理由の外に、此處に第三のしかも特殊なる一つの理由がある、――卽ちこの問題が近世哲學の研究者にとつて、異常の興味を與へるものの一つであるといふ事である。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 話しを進めるに先き立つて、私は諾君に次の事を御注意したい、則ち重要なる多くの經典は歐洲の各國の國語に飜譯され、且つ未だ飜譯の出來て居ない經典の原文の大部分も、既に絹輯され公刊されて居るのであるから、佛教の形面上學は、日本に於けると同じ樣に、他の如何なる國々に於ても、研究し得ると云ふ事である。日本佛教の原文は、漢文である、それ故、ただ漢學の出來る人のみが、本問題の細微な特殊の方面に就いて光明を投じ得るのである。七千卷から成る漢文の佛教の經典は、これを讀破することすら、一般には不可能の業と考へられるのである――よしそれは、日本に於て、既に成されて居たのではあるが。その上、註釋書や、各宗派のいろいろの解釋書や、後代になりて加はつた教義やらで、經典は混亂に混亂を重ねる有樣となつた。日本佛教の複雜は、それこそ測り知られないほどで、それを解いて見ようとするものも、大抵は忽ちにその餘りに細かい途路の中に陷つて、どうも恁うもならなくなつてしまふ。斯樣な事は、今の私の目的として居る處と何等の關係もない事である。私は日本の佛教が、他の佛教とどれほど異つて居るかに就いて何も言ふまい、又宗派の匹別に關しても全然觸れないつもりである。私は高遠な教義に關する普通の事實――かかる事實の中から、其の教義の説明に役立つもののみを選擇して説くつもりである。なほ涅槃の問題は重要であるに拘らず、此處では論じない――此の問題は既に『佛門拾遺』“Gleanings in Buddha-Fields”の中で、出來るだけ詳しく論じて置いたから――ただ、私は佛教の形而上學的結論と、現代の西洋思想の結論との、或る程度の類似點を論述することにとどめる。

[やぶちゃん注:「『佛門拾遺』“Gleanings in Buddha-Fields”」「仏陀の畑(国)の落穂」。明治三〇(一八九七)年刊。]

 

 英文で書かれた佛教に關する單行本で、今日迄の所一番良いと云はれて居る書物【註】の中で、故ヘンリイ・クラアク・ヲレン氏は云つてゐる。『私が佛教研究中に經驗せる興味の大部分は、私が智的風物の不思議とでも呼ぶ所のものから生じたものである。すべての思想、議論の樣式、假定されたのみで論議されて居ない推定等は、常に不思議に感ぜられ、日頃私が馴れてゐたものとは、全くかけ離れてゐたものであるが故に、私は恰も神仙の國を步いてゐる樣に感じた。被害洋の思想と觀念とがもつ多分の魅力は、私の考へでは、それが西洋思想の範疇に合致する處の少いが爲めである、と思はれる』……。佛教哲學の異常な興味は、これ以上に言ひ現はすことはできない。眞にそれは、『智的風物の不思議』であり、内外と上下との顚倒した世界の不思議さであつて、それが從來主として西洋の思想家達の主なる興味を惹いたのである。併し結局、佛數概念の中には、西洋の範疇に合致し、或は殆ど合致せしめ得る概念の一團があろ。蓋し大乘佛教は、一元論(モニズム)の一種である。そしてそれは、ドイツ及びイギリスの一元論者の科學的學説と一致する教義を、驚くべきほどに含んでゐるのである。私の考へる所では、此の問題の最も奇妙な部分竝びにその特に興味の深い點は、此等の一致點に依つて表明されて居る、――特に佛教の結論は、何等科學上の知識の助けを受けることなく、又西洋の思想の知らない精神上の徑路に導かれて、到達したというふ事實を眼中に置いて見る場合さう考へられる。私は敢て自ら、ハアバアト・スペンサアの學徒と呼んでゐるが、抑も[やぶちゃん注:「そもそも」。]私が佛法の哲學に、ロマンテイツク以上の興味を認めるやぅになつた原因は、私が綜合哲學に親しんでゐたが爲めである。抑も佛教も亦進化の説である、よし吾が科學的進化(同質より異質への進步の法則)の中心となる大思想は、現世の生命に關する佛教の教理の内にうまく一致するやうに含まれては居ないとしても。吾々が考へるやうな進化の道程は、ハツクスレイ教授に從へば、『臼砲から、打ち上げられた彈丸の軌道の樣な線を描くに相違ない、そして彈道の下り半分と同じものであるやうに、進化の道程に於てもその通りである。』 と。彈道の最高點は、スペンサア氏が呼ぶ所の平衡點を示す――それは發展の最高點で、衰退の時期のすぐ前にある、併し佛教の進化に於ては、此の最高點が涅槃なるものの内に沒してゐるのである。私が最も旨く佛法の地位を説明するには、諸君が彈道線を逆に考へる事を望めば宜い[やぶちゃん注:「よろしい」。]と思ふ。――則ち無窮から降下し來たつて、地上に觸れ、更に再び神祕の中へと上昇する線である……。とは云へ、或る種の佛教思想は、吾々の時代の進化思想と、驚く可き類似點を持つてゐるのである。而して西洋思想より最も隔絶せる佛法思想さへも、近代科學から借用した例證と言葉との助けによつて、最も要領良く説明される。

 

註 『飜譯佛教』ヘンリイ・クラアク・ヲレン著(一八九六年マサチユウセツツ州、ケムブリツヂ)ハアバアト學刊行

[やぶちゃん注:「ヘンリイ・クラアク・ヲレン」アメリカのサンスクリット語及びパーリ語学者で仏教学者であったヘンリー・クラーク・ウォーレン(Henry Clarke Warren 一八五四年~一八九九年)。最後の註の原文は“Buddhism in Translations by Henry Clarke Warren (Cambridge, Massachusetts, 1896). Published by Harvard University.”で、これはパーリ聖典から重要な名句集抄出して英訳したもの。

「一元論(モニズム)」“Monism”。世界と人生との多様な現象を、その側面乃至全体に関して、ただ一つの(ギリシア語の「モノス」monos)根源・原理・実在から、統一的に解明し、説明しようとする立場。二つ及びそれ以上の原理乃至実在を認める二元論・多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立。一切を精神に還元する「唯心論」、物質に還元する「唯物論」。精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の「同一哲学」などがこれに属する(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「ハツクスレイ教授」「ダーウィンのブルドッグ(番犬)」と異名をとった強烈な進化論支持派のとして知られる、イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。詳しくは私の、ごく最近の仕儀である「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケル」の本文と注を参照されたい。]

 

 思ふに既に述べた理由に因り、涅槃の教義を除いて――大乘佛教の最も著しい教は、次の如きものであると考へられる。

 實在は一ツ在るのみ。

 自覺は眞實の我に非らず。

 物質は、行爲と思想との力に依りて、創造せられたる現象の總和なり。

 一切の客説的竝びに主我的存在は、業報に依りて生ずるものなり、――現在は過去の創造物にして、現在と過去との行爲が、相結んで將來の境地を決定する……(換言すれば、物質内世界と〔有限の〕精神の世界とは、其の進化の道程に於て、嚴然たる道德的秩序を顯現する)

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)

 

昆布 奥州松前エゾナトノ海中有之石ニツキテ生ス長

 數丈水上ニ浮フ是ヲ以家ヲフク傳ヘテ若狹ニイタリ市

 人コシラヘウル若狹昆布ト云名産トス若狹ノ海ニハ生

 セス京都ノ市ニ昆布ヲ刻ミウル者多シ細麤アリ細ク切

 ル事金絲烟ノコトクナルアリ凡昆布ヲ煮ルハ銅鍋ヨシ

 鐡ナヘヲ用ユヘカラス楊梅瘡ヲ患ル者昆布ヲ食スレハ

 面ニ瘡生セスト云

○やぶちゃんの書き下し文

「昆布」 奥州松前・エゾなどの海中に之れ有り。石につきて生ず。長さ、數丈。水上に浮かぶ。是れを以つて、家を、ふく。傳へて、若狹にいたり、市人〔(いちびと)〕、こしらへ、うる。「若狹昆布」と云ひ、名産とす〔るも〕、若狹の海には生ぜず。京都の市に昆布を刻み、うる者、多し。細麤〔(さいそ)〕あり。細く切る事、金絲烟(きざみたばこ)のごとくなるあり。凡そ、昆布を煮るは、銅鍋、よし。鐡なべを用ゆべからず。『楊梅瘡〔(ようばいさう)〕を患へる者、昆布を食ずれば、面〔(つら)〕に、瘡〔(かさ)〕生ぜず』と云ふ。

[やぶちゃん注:「昆布」は不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae に属する多数のコンブ類の総称である。ウィキの「コンブ」を見ると、我々が、普段、食する馴染みのコンブ類は以下を記載する。

マコンブ(真昆布) Saccharina japonica

オニコンブ(羅臼昆布) Saccharina diabolica var. diabolica

リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina ochotensis var. ochotensis

ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina religiosa var. religiosa

ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布) Saccharina angustata

ナガコンブ(長昆布=浜中昆布) Saccharina longissima

ガッガラコンブ(厚葉昆布)Saccharina coriacea

ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus

ガゴメコンブ(籠目昆布) Saccharina sculpera(シノニム:Saccharina crassifoliaKjellmaniella crassifolia

ところが、別なコンブの学術論文をみると、これら上記の馴染みのコンブ類の学名を、総て Laminaria とするものを見出す(例えば、川井唯史・四ツ倉典滋「北海道産コンブ属植物の系統分類の現状リシリコンブを中心に(PDFファイル)。マコンブは Laminaria japonica と記載する)。ウィキもよく見ると、以上には概ね「コンブ属」という和名を併記してあり、この辺の分類は確定していないことが分かる。なおこの属名 Saccharina(サッカリナ)はサッカリン(saccharin:但し、これは完全な化学合成による人工甘味料の一つ)と同じで、「砂糖」の意のラテン語“saccharum”由来で、コンブのグルタミンの持つ甘みに由来するものであろうかと思われる。

「數丈」一丈は三・〇三メートル。私の「數」の感覚での一般的不定値は六掛けであるので十八・一八メートルであるが、上記の本邦産コンブ類の中で藻体が最大になるのは、名にし負う「ナガコンブ」で、標準は五メートル程度であるが、最大個体では二十メートルを超すものもあるので、これは誇張とは言えない。世界的には実に五十メートル以上にもなる英名の「ジャイアント・ケルプ」(Giant Kelp)で知られた、コンブ科オオウキモ(大浮藻)属オオウキモ Macrocsytis pyrifera が、コンブ科どころか、既知の藻類の中では最大種とされるが、これはアラスカ半島からカリフォルニア湾にかけての北東太平洋や南半球の高緯度地域に植生するもので、本邦の海域では見られないし、ジャイアント・ケルプそれ自体は近年まで食用に供されることはなかった(恐らく硬い)が、アメリカを中心に同種に含まれる食物繊維の一種アルギン酸(Alginic acid:褐藻類などに含まれる多糖類)がサプリメントなどの材料として持て囃されるようになって乱獲が始まり、沿岸海域の埋立てや水質汚染・海水温上昇などと相俟ってアメリカ沿岸のオオウキモは激減している(ここは主にウィキの「オオウキモ」に拠った)。なお、嘗ての私は、常時、五種類以上のコンブを用意し、それをそのまましゃぶるのを至福としていた昆布フリークである。今も三種はある。

「是れを以つて、家を、ふく」いろいろ調べて見たが、奥州北端や旧蝦夷地で屋根を葺くために昆布を用いていた事例を探し得なかったが、十分にあり得ることと思う。コンブではなく海産顕花性植物の海草であるが、王嶺・坪郷英彦共著になる論文「中国山東省膠東地域海草屋の技術文化研究」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、山東省沿岸地域(膠東(こうとう)。ここ(グーグル・マップ・データ))では民家の屋根に海草類である、被子植物門単子葉植物綱オモダカ亜綱イバラモ目アマモ科アマモ属アマモ Zostera marina(九州から北海道の内湾に植生)・スゲアマモ Zostera caespitosa(同じく北海道・本州北部及び中部)・エビアマモ Phyllospadix japonicus(本州中部・西部)などを用いて屋根を葺いているからである。同論文によれば、『海草屋は冬は暖かく、夏に涼しいという特徴』があり、それらが含む海水の「にがり」成分の効果で、『海草と黄泥で固めてある屋根は』百『年たっても腐乱せず、耐久性にも優れている』上、『海草は燃えにくいので、火事にも強いという』利点から、『威海市では、元・明・清時代には海草屋が最も盛んに作られたとされ』、一九四九年(昭和二十四年相当)『以前は、山東省沿岸部の青島地区、煙台地区、威海地区の農村と漁村の主な住宅の屋根形式であった』(各地域は先のグーグル・マップ・データを拡大すると、山東半島の主要地区にあることが判る)とあるからである。また、「人民網日本語版」の『世にも珍しい中国の「海藻の家」を訪ねて 山東省』でも、現在も立派な住居として実際にそれが使われていることが写真で判る。そこには、『海藻の家は主に山東半島東端にある栄成沿岸一帯の漁村に点在しており、強い地域特性を備えた珍しい中国の伝統家屋である。海藻の家は天然石の塊で壁を築き、近海で生育した海藻で屋根をふいている。また、雨風を凌ぐことができるほか、保温、断熱、防腐、防虫に優れ』、百『年の間、耐久可能だ。今や、栄成市で現存している海藻の家の数は限られており、中でも最古の家は数百年の歴史を持ち、すでに修復保存作業を開始している』。『大勢の村民はボロボロになった海藻の家の修繕にとりかかり、古い家にエアコンなどの電化製品を装備したり、また古い家の部屋にカラオケなどの娯楽設備を設置したりしている』。『観光客は海藻の家の床暖房の上で眠ったり』して、『山東半島東部の小さな漁村で』、『独特な冬の風情を堪能することができる』(中国新聞網伝)とあるのである。昆布もまた然りであろう! 素敵な海草屋の写真が必見! 行って見たくなった!

「若狹昆布」若狭国小浜(おばま)で加工された昆布。小浜は中世以来、近世には北廻り回船による、北海道の宇須岸(うすけし:現在の函館)との間の商船の往来があり、北海道産の「宇賀昆布」(宇賀は室町時代の函館の外海の汐首岬周辺の古称)「蝦夷昆布」がここに運ばれ、小浜で加工されて「若狭昆布」の名で全国に販売された。

「京都の市に昆布を刻み、うる者、多し」所持する宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」によれば、『コンブの需要は、室町末期までは普遍的ではなく、京の都とその周辺に集中していた。その後』、『大坂、堺の町が発展すると、広く近畿地方一帯に拡がってい』き、『京は消費地であると同時に集散地として』、室町時代からコンブを取扱品目としていたという』松前屋などの『コンブ商や加工業者が多く現われる』ことになったのである、とある。

「細麤〔(さいそ)〕」「麤」は「肌理(きめ)が粗い」ことを意味する。

「金絲烟(きざみたばこ)」刻み煙草(莨:たばこ)。

「昆布を煮るは、銅鍋、よし。鐡なべを用ゆべからず」それぞれのイオンに関係するもので、鉄イオンは昆布の成分とは反応せずに発色をしないらしく、実際、昆布を銅鍋で煮ると、色良く仕上がると、現在の昆布製造者の記載にもある。

「楊梅瘡〔(ようばいさう)〕」梅毒の古名。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ■トダイ (イシダイ?)

 

■トダイ

 

Isigaki2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。またしてもキャプションの名称の頭が虫食いで読めない。頭部や鱗の大きさ及び尾鰭の形状に違和感はあるが、魚体の後半部の形状からみると、

スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus

に似てはいる。同種は典型的な鯛型を呈し、体側にくっきりとした白黒の横縞を有することで一般に知られているが、成長すると、この縞は消え、老成魚では全体に燻し銀或いは、一見、黒っぽい色合いとなって、口の周辺が特に黒くなる。末の「トダイ」で検索して見たが、本種に限らず、「~トダイ」という異名は現在は如何なる種にもないように思われる。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十二年 歌人来訪

 

   明治三十二年

 

     歌人来訪

 

 明治三十二年(三十三歳)[やぶちゃん注:一八九九年。この年の十月十四日で満三十二歳。]の初も比較的平穏であった。盥に飼った鴨を羯南翁の池に放つため、居士も人の背に負われて行って、「鴨の羽ばたき幾度となくしては遂に石の上で安らかに眠って居たのを見とどけて」帰って来た。人の背に負われてにもせよ、元日匇々戸外に出るなどということは、何年にもなかったことであろう。

 一月の『ホトトギス』に居士は「明治三十一年の俳句界」及「俳句新派の傾向」を掲げた。今まで『日本』に掲げていた前年俳句界の総評を『ホトトギス』に移したのは、俳句方面の仕事が大体ここに集中されたためであろうが、三十一年の俳句界について居士の説くところは極めて簡単であった。力を用いたのはむしろ「俳句新派の傾向」の方で、居士はこの一策において「明治二十九年の俳諧」以来の精細な批評を試みた。居士は先ず明治俳句の複雑性を古句に対比して説き、二箇の中心点を有する句とか、人事を詠じた句とか、印象明瞭の句とかいうに及んだが、特に明治の新趣味として挙げたのは、曖昧未了の裡に存する微妙な感を捉えた句で、油画における紫派、小説におけるスケッチ的短篇などと共通する傾向だといっている。例えば虚子氏の「宿借さぬ蠶(かひこ)の村や行き過ぎし」という句の如きもので、これを蕪村の「牡丹ある寺行き過ぎし恨(うらみ)かな」「宿借さぬ火影や雪の家つゞき」などの句に比べれば、その差は自(おのずか)ら明瞭になる。「行き過ぎし恨をいふにもあらず、宿借さぬ時の光景を述ぶるにもあらず、蠶飼(こがひ)に宿ことわられし前の村は既に行き過ぎて、宿借すべき後の村は未だ來らず、過去を顧(かへりみ)ず末來を望まず、中途に在りて步む時、何となく微妙の感興る。芭蕉・其角は勿論、蕪村・太祇もこゝに感得する能はざりしなり」というのである。普通の読者はこの種の句を読んでも、さほどに興味を感ぜず、明治俳句の新趣味がこういう曖昧未了の間に存するなどとは気がつかずに通過してしまう虞(おそれ)がある。居士が力説したのはそのためなので、「俳句新派の傾向」一篇は明治俳句の研究者に対し、多くの示唆を与えるもののように思われる。

[やぶちゃん注:『「明治三十一年の俳句界」及「俳句新派の傾向」』国立国会図書館デジタルコレクションの大正五(一九一六)年籾山書店刊の「合本俳諧大要」の、前者はここで、後者はここで読める。この「合本俳諧大要」は「俳諧大要」に「俳人蕪村」をカップリングした上、子規の俳句論「俳句問答」に始まり、「第五篇 明治三十二年の俳句界」までを附録で収める優れもので、無論、正字正仮名である。

「紫派」(むらさきは)は黒田清輝を中心として形成された明治期の洋画の傾向と、その画家たちを指す。ネットの「徳島県立美術館」の「美術用語集」から引く。フランスの外光派の画家ラファエル・コランに学んで、明治二六(一八九三)年に『帰国した黒田は、印象派の技法と伝統的な主題を折衷したサロン系の外光表現を日本に伝えたが、それまで日本の画壇は脂派』(やには)『と呼ばれる』、『褐色を基調として明暗のコントラストを鳶色と黒で描いた暗く脂っぽい表現が主流となっていたため、黒田の明るく感覚的な外光描写は若い画家たちに清新な感動をもって迎えられた。黒田は久米桂一郎とともに天真動場、次いで白馬会を創立し、また東京美術学校教授として後進の指導にあたり、それらの活動を通じて外光描写は当時唯一の官展であった文部省美術展覧会(文展)の画風を支配するに至った。名称の起りは、陰の部分を青や紫で描いたことを、脂派に対して正岡子規が紫派と揶揄したことによる。ほかに脂派との対比から新派、南派、正則派とも呼ぶ』とある。

「牡丹ある寺行き過ぎし恨(うらみ)かな」「蕪村遺稿」所収。所持する岩波文庫「蕪村俳句集」(尾形仂校注・平成元(一九八九)年刊)では、

 牡丹有(ある)寺行き過しうらみ哉

の表記。安永六(一七七七)年四月十三日の作。

「宿借さぬ火影や雪の家つゞき」「蕪村句集」所収。所持する「新潮日本古典集成 与謝蕪村集」(清水孝之校注・昭和五四(一九七九)年刊)の頭注によれば、句稿では、

 宿借さぬ灯影や雪の家つゞき

と書いて改めている、とある。前記の岩波文庫「蕪村俳句集」によれば、明和四(一七六七)年十一月四日の作。数え五十三歳。また、清水氏は上記頭注で東北行脚の体験に基づく作と推定されておられる。蕪村の奥羽遊歴は巻末の清水氏の年譜によれば、句作から溯る二十五年も前の、二十七、八歳の折り、寛保二(一七四二)年秋か冬に始まり、約一年間と推定されておられる。傍観的言い放ちの写生なんぞではない、溜めに溜めて熟成させた詠句ということになる。個人的には私は正岡子規の賞揚には激しい違和感を感ずる(そもそも私は虚子嫌いであるせいもあるが)。虚子のこの句は面白くもなんともないし、子規の言うような糞のような『微妙の感』など微塵も覚えぬ。比較に出した蕪村のこの二句の方が遙かに名句である。]

 

 この月「俳諧叢書」の第一編として『俳諧大要』がほととぎす発行所から刊行された。

[やぶちゃん注:俳諧叢書第一編。「ほとゝぎす発行所」刊。明治三二(一八九九)年一月二十日発行。同年二月二十五日発行の再版の一部画像が「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館」で視認できる。また、先に示したが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、最も古いもの(大正五(一九一六)年籾山書店刊)として、「合本俳諧大要」がここで読める(無論、正字正仮名)。新字旧仮名で良ければ、「青空文庫」のこちらで電子化翻刻が読める。]

 二月は居士が前年「歌よみに与ふるの書」を公にした月である。居士の歌論は一世を聳動(しょうどう)[やぶちゃん注:驚かし動搖させること。恐れ動搖すること。この場合の「聳」は「そびえる」ではなく「おそれて立ちすくむ」の意。]し、居士の作歌も「百中十首」以後引続き『日本』に現れたが、これに呼応して起(た)つ者は存外多くなかった。碧梧桐、虚子、露月らの諸氏の歌は『日本』にも『ホトトギス』にも出ておらぬことはないが、子規庵における歌会が一度開かれたきりで、その後絶えているところを見ると、俳句のような熱はなかったのであろう。然るにこの年の二月になって、機運は俄然到来した。香取秀真(かとりほずま)、岡麓(おかふもと)の諸氏が居士を訪ねるようになったのがそれである。

[やぶちゃん注:「香取秀真」(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は千葉県印旛郡生まれの鋳金工芸師で歌人・俳人。明治三〇(一八九七)年に東京美術学校鋳金科を卒業後、東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員を歴任、文化勲章も叙勲されている。「アララギ派」の歌人としても知られ、かの芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは隣人であると同時に、非常に親しい友人でもあった。

「岡麓」(明治一〇(一八七七)年~昭和二六(一九五一)年)は書家で歌人。東京本郷生まれ。本名は三郎。東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)中退。この明治三二(一八九九)年に正岡子規に入門している。明治三六(一九〇三)年には短歌雑誌『馬酔木(あしび)』(一九〇三年六月~一九〇八年一月/通巻三十二冊/「根岸短歌会」発行。正岡子規の翌年、その門下生らの機関誌として伊藤左千夫の主唱により始められ、左千夫の他には香取秀真・岡麓・長塚節(たかし)らが初期編集同人で、斎藤茂吉・古泉千樫・島木赤彦・石原純・中村憲吉らを育てた。子規の写生道・万葉主義を受け継いだが、次第に同人が減って衰退しため、明治四二(一九〇九)年に左千夫が新たに『アララギ』を創刊した。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の編集同人となる。節や茂吉らと交わり、大正五(一九一六)年からは『アララギ』に短歌を発表した。大正一五(一九二六)年に処女歌集「庭苔(にわごけ)」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)を刊行、戦後に日本芸術院会員となっている。]

 

 香取氏らは前に『うた』という雑誌を出していたことがあり、三十二年一月からは雑誌『こゝろの華』の編輯員に名を列ねてもいた。年に因んで三十二番歌合なるものを作り、山本鹿洲氏を使者として居士の判を乞うたのは、この年の一月中であったが、それが最初の機縁になって、遂に居士を訪うに至ったのである。「歌よみに与ふる書」当時の反響は一時にとどまり、真に歌を作ろうとする仲間を見出しかねていた時分だから、この訪問はひどく居士をよろこばした。自ら師長[やぶちゃん注:師と長上。先生と目上の人。]を以ておらぬ居士は、当時香取氏らのやっていた「新月集」という互選の巻にも直に歌を寄せる、香取、山本両氏が鋳金家であるところから、鋳物に関する話を興味を持って聞く、という調子で直に親しくなった。

[やぶちゃん注:『こゝろの華』歌人佐佐木信綱を中心とする短歌結社「竹柏会」の機関誌として明治三一(一八九八)年二月に創刊された短歌雑誌。現在も続く。現行の『心の花』誌名の方が通りがよい。初期には正岡子規・伊藤左千夫らの「根岸短歌会」や、落合直文・与謝野鉄幹らの「あさ香社」、さらには旧派の歌人たちの寄稿もあって、短歌総合誌の感があった。しかし 明治三六(一九〇三)年からもともと編集人であった石榑千亦(いしくれちまた)が独りで編集担当を始めてからは、純然たる「竹柏会」機関誌となった。温雅な歌風ながら、個性を生かす信綱の指導の下、川田順・木下利玄・片山廣子(芥川龍之介が最後に愛した女性である。私は龍之介と廣子の言わば「追っかけ」である)・柳原白蓮・九条武子らの優れた歌人を育てた(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。なお、正確には貞光威氏の論文「伊藤左千夫考(上)」(PDFでダウン・ロード可能)によれば、秀真と麓は鶯蛙吟社の発行していた短歌雑誌『詞林』(明治初期短歌界の名家で元官僚の鈴木重嶺が発行)の編集員だったものが、『詞林』が『心の花』に合併し、そのまま移ったものである。

「山本鹿洲」根岸短歌会の初期メンバーとして載るが、詳細事蹟不詳。]

 

 二月の『ホトトギス』に出た「繪あまたひろげ見てつくれる歌の中に」という十首は香取、岡両氏が訪問する以前のもので、この年になって最初の歌であるかどうかわからぬが、とにかくこれ以前に発表されたものは見当らぬようである。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの全集第六巻の画像のから校訂した。]

 

 なむあみだ佛つくりがつくりたる佛見あげて驚くところ

 もんごるのつは者空三人(みたり)二人立ち一人坐りて楯つくところ

 岡の上に黑き人立ち天の河敵の陣屋に傾くところ

 あるじ馬にしもべ四五人行き過ぎて傘持ひとり追ひ行くところ

 木(こ)のもとに臥せる佛をうちかこみ象蛇どもの泣き居(を)るところ

 うま人のすそごのよそひ駒立てて遠くに人の琴ひくところ

 かきつばた濃きむらさきの水滿ちて水鳥一つはね搔くところ

 いかめしき古き建物荒れはてゝ月夜に獅子の壇登るところ

 星根の無き屋かたの内にをとこ君姫君あまた群れゐるところ

 看板にあべかは餅と書きてありたび人ふたり餅くふところ

 

[やぶちゃん注:「裾濃」同系色で、上方を淡くし、下方をしだいに濃くする染め方や織り方を指すが、ここは上方を白く、次を黄として次第に濃い色に下げて彩どった、甲冑の威(おどし)であろうと私は読む。]

 

 これらの歌は居士の創意に出ずるものであろう。すべてが画の内容を説明する程度でなしに、鮮にポイントを捉えて生々(いきいき)と表現してある。従ってこの歌を誦(よ)むと、まだ見ぬ画が直(ただち)に眼前に繰りひろげられるものの如く感ぜられる。画の内容は一枚ずつ異っているが、全体を貫くもののあることは、「足立たば」「われは」などの歌と同じである。居士の歌として注目すべきものの一たるを失わぬ。

2018/05/16

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 イシワリダイ (イシガキダイ?)

 

イシワリダイ

 石割鯛

 

Isiwaridai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。顔つき・眼球の大きさ・鱗の形状が総て誇張されたものと大胆に考えるなら、背鰭と尻鰭の後部が有意に肥大して異様に突き出るところなどは、「イシワリダイ」の名に近い、

スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus

ではなかろうか。そういえば、この如何にもでっかいウロコウロコみたようなのは、実は鱗ではなくて、イシガキダイ特有の、灰白色の地に、大小の黒褐色円斑紋、石垣模様のデフォルメなんだと思うと、何だか腑に落ちるのだ。あり得ねー!とか言う御仁のために一言だけ言い添えておこう。この図は前にも出した「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の田中誠氏の「栗本丹洲」のパートの図(これは百九十九ページ)にも掲載されており、田中氏は私と同じく、『イシガキダイ?』を推定候補とされておられるのである。そのキャプションで田中氏は『意外にも丹洲の魚図に不正確なものが散見されるのは、実物を写生しないで、他の図を写したものがある』ために拠るもの述べておられ、或いは、これもそうした実物を目の前に置いての写生(彼がしばしば「眞寫」と記すのがそれ)ではなく、下手な写生者が描いたものを元に複写した結果が、こうした漫画チックな各部のデフォルメになってしまったとも言えるのかも知れない。なお、本種がイシガキダイであった場合、腹が白くなっているのは老成個体の特徴だが、そうすると、♂の場合は、斑紋が同時に消えてしまうことと、吻部の周囲が有意に白くなる点(イシガキダイの別称「クチジロ」はそれに由来。但し、♀の老成個体はこれらの特徴を持たない)で、本図とは一致しない。悩ましい。なお、本種は磯釣りで人気の高級魚であるが、二〇〇〇年後半から本邦各地で、かなり重症なシガテラ中毒(ciguatera熱帯亜熱帯・性の海洋に棲息するプランクトンが産生する毒素に汚染された魚介類を摂取することで発症する食中毒。 などの有毒渦鞭毛藻(渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する、例えば Gambierdiscus toxicus 等)が原因であることが多い)事例が増えてきているので、注意が必要ではある。但し、本種だけではない他の近縁関係にない複数の種群で発生しており、彼らを取り立てて主犯にするのは間違いである。

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 赤目鯛 キントキ (キンメダイ)

 

赤目鯛 今え戸俗称キントキ

 

Akamedai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いたが、本図は魚体尾鰭の先が僅かに切れて分断されて載っているため、合成した。この合成処理はかなり上手くいった。翻刻部であるが、「え」は「盈」の崩し字としての「え」と採った。「え戸」で「江戸」の意とした。但し、「今え」の二字は経年劣化によるものとは思われない、明らかに上から薄い和紙を貼って叩いて抹消したようなに見える。しかし、だったら、下の「戸」も一緒に消しそうなものだとも思うが、では「戸俗」という熟語があるかというと、ない。不審である。消さなかったとして、

「赤目鯛〔(アカメダイ)〕」 今、江戸〔にて〕、俗〔に〕「キントキ」〔と〕称〔す〕。

と推定訓読しておく。なお、本来、「鯛」の歴史的仮名遣は「たひ」であるが、既に本「魚譜」で丹洲は「タイ」と表記しているのでそれに従った。さても、これはまず、お馴染みの、

キンメダイ目キンメダイ科キンメダイ属キンメダイ Beryx splendens

と同定してよかろうと思う。但し、「キントキ」は「金時」で金太郎(坂田金時)が赤ら顔であったとされること、或いは、坂田金時の幼少時をモデルとした歌舞伎の山姥(やまんば)物に登場する子役「怪童丸(快童丸)」が赤い衣装を着けたことから、広く「赤い色」を意味する言葉として用いられたことによる。また和名の頭の「キンメ」は「金目」で、深海魚であるキンメダイが、眼球の網膜と脈絡膜の間に集光作用を持つ輝板(きばん:英語:tapetum:タペタム)を持っているために、光を受けると、金色に輝いて見えることに由来する。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 紅■■ (イサキ)

 

Isakikansei

 

紅■■ 奇鬣之異品

    日東魚譜ハナ

    キ■■■是ナルヘ

    シ是鰭尾黄色

    因テ黄檣魚

    充ツ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いたが、本図は魚体が分断されて載っているため、合成したのであるが、それぞれのフィルムが微妙にずれているために上手く合成出来なかった。悪しからず。キャプションは虫食い甚だしく、判読が困難。肝心の冒頭の名前すら読めない。四行目の「是」は当初は「背・脊」或いは「只」と判読してみたものの、前者は意味は腑に落ちるものの、どうも崩し方がおかしく、後者では繋ぎが悪い(というか、意味があんまり感じられない)ので、「是」で採ったに過ぎない。推定で整序してみると、

   *

「紅■■」 奇〔なる〕鬣〔(ひれ)の〕異品。「日東魚譜」にはなき、「■■■」、是れなるべし。是れ、鰭・尾、黄色。因つて、「黄檣魚」に充つ。

   *

となるか。「日東魚譜」は神田玄泉(生没年不詳:江戸の町医。出身地不詳)の著の、全八巻から成る本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもの。魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。「黄檣魚」直前が、そこで同定したスズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属キグチ Larimichthys polyactis ではあり得ない。「最早、お手上げ」と言いたいところなのだが、実はこの図、所持する「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)の田中誠氏(東京衛生局)の「栗本丹洲」のパートの図(百九十八ページ)に掲載されており、田中氏によって『イサキ(ただし体色は異常)』と同定されてあるので、

スズキ目スズキ亜目イサキ科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum

としておく。確かに、体色以外はよくイサキに合う。他人の褌相撲であるが、これも悪しからず。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ヒメ小鯛・黄檣魚 (キグチ)

 

 ヒメ小鯛

 

黄檣魚■

福州府志云ヽヽヽ

鬣黄色トアリ

此モノ眞ノ黄檣

魚ナルベシ

 

Himekodai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。先に翻刻について述べておくと、一行目の最後は虫食いと剥離による破損で判読不能であるが、感じとしては(なべぶた)らしき小さな字が右に寄っているように見えるので、割注かもしれない。「檣」は原画では(へん)が「禾」であるが、二つの背鰭を「帆柱」に見立てた名と見て、それで示した。二行目の「ヽヽヽ」であるが、こんな点々は今まで丹洲の記載では見たことがない。不審。原本にあることは覚えていたが、記載時に確認出来なかったものを意識的に欠字様表記したものか?

 さて、これもよく判らぬが、体型と、名及びその鰭の黄色から見て、

スズキ目スズキ亜目ニベ科キグチ属Larimichthys(シノニム:Pseudosciaena

ではないかと踏んだ。同属の本邦産では、

キグチ Larimichthys polyactis

フウセイ Larimichthys crocea

がいるが、両者はよく似ている。ただ、諸記載を見ると、尻鰭はキグチでは、通常、九~十軟条であるのに対し、フウセイは八軟条しかないとあることから、丹洲の描き方が正しいと信ずるなら(ただ、尻鰭の前方部はなんだかちょっとヘン)、九条以上はあると見て、キグチで採ることとした(但し、赤焼けしたような体色は普通ではない。死後の変色かも知れない)。Maruha Nichiro公式サイト「おギャラリの「キグチ」によれば、体長は三十センチメートル(最大で四十センチメートル)、西日本から東シナ海・黄海にかけて広く分布し、『口はわずかに受け口。体色は黄色味の強い銀白色。水深』百二十メートル『以浅の大陸棚上の泥底にすみ、夜になると表層に昇って、オキアミなどの動物プランクトンを食べる』。『中国、朝鮮半島西岸においては、食文化を代表する魚として古くから親しまれており、特に朝鮮では、本種の干物を神事の供え物として用いるほど特別な存在であった。近年、本種の水揚げが激減するに従って』、『その伝統も薄れつつあるようだが、今でも韓国の魚市場に行くと、藁でくくられた干物が店先に下げられているのが目に付く』とあり、さらに『中国では、フウセイとともに「黄魚(ホアンユィ)」、「黄花魚(ホアンフアユィ)」と呼ばれ、最も好まれる魚の一つ』とある。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 散文における新天地 / 明治三十一年~了

 

     散文における新天地

 

 『ホトトギス』第二巻第一号は十月に入って発行を見た。色刷の表紙、石版の裏画(うらえ)、写真版の口画、すべて面目一新した上に、紙数も松山時代に比べるとよほど多くなった。居士がこの号のために筆を執ったものは、次のような多種類に上っている。

[やぶちゃん注:「『ホトトギス』第二巻第一号は十月に入って発行を見た」発刊日は十月十日(後掲する同号目次画像内のクレジットに拠る)。

「色刷の表紙、石版の裏画」「ホトトギス」社公式サイトこちら(両画像有り。但し、モノクロームによれば、表紙は下村為山の「月」をモチーフとしたもの裏絵(私はどうも「画」を「え」と読むことを好まない)は中村不折の「螽とり」の絵で、右欄外に「先へ先へ行くや螽の草うつり 樗堂」と印刷されてある洒落たもの(後に示す同サイトの同号目次から、宵曲も後で述べているが、「写真版の口」絵というのも、下村の「豐年」と中村の「菌狩」(「きのこがり」のことであるが、後の子規の作品に合わせて「たけがり」と訓じているようだ。後の本文でもそうルビがある)の絵のそれであることが判る)。この句は松山の酒造業者で俳人であった栗田樗堂(くりたちょどう 寛延二(一七四九)年~文化一一(一八一四)年)の句。樗堂は加藤暁台に学び、近世伊予第一の俳人と讃えられた俳人で、小林一茶・井上士朗らとも親交があり、子規も彼を「過去四國一の俳人」と賞賛したという。樗堂の事蹟はこちらにリンク先の別ページを含めて非常に詳しい。必見。

「紙数も松山時代に比べるとよほど多くなった」上記サイトの「過去の俳誌より」の第一号を見ると(全頁画像閲覧可能)、本文は三十七頁。第一巻二十号の目次を見ると、推定で二十数頁しかない模様である。第二巻第一号は不明だが、目次(以下のリンク先の画像を参照)が上下二段目一杯に亙っていることから推しても、相当なページ数であることは間違いない。なお、以下については、同じ目次画像で表記(作者を含む)を確認してここのみ正字化し、記載されていない別なメンバーの書いたものも、概ね私が【 】に入れて補足してみた。新規まき直しの初号の雰囲気を味わって戴きたいがためである。前後を一行空けた。]

 

 【祝詞(鳴雪)】

  ほとゝぎす第二卷第一号の首に題す(某)

  古池の句の辨(獺祭書屋主人)

 【蕪村句集講義(鳴雪・子規・碧梧桐・虛子・墨水】

  俳諧無門關(俳狐道人前)

 【雜話(坂本四方太)】

  小園の記(子規子)

  土達磨(つちだるま)を毀つ辭(子規子)

 【淺草寺のくさぐさ(高濱虛子)】

[やぶちゃん注:ここに『募集俳句』欄が入り、「蜻蛉」と題した「子規選」・「螽」と題した「四方太選」・「きりぎりす」と題した「霽月選」・「蚯蚓鳴」(みみづなく)と題した「虛子選」となっている。]

 【東京俳况】

 【各地俳况】

 【夜長の欠び(五百木飄亭)】

 【文學美術漫評(白雲・九鳥山人・ねずみ)】

 【新體詩(四篇)(虛子・竹の里人)】

 【和歌(十九首)(碧梧桐・竹の里人)】

[やぶちゃん注:以下の二篇は後の宵曲の記載から、前者「花賣る歌、豐年の歌」(これこれ)が上記の新体詩の、後者「蕈狩」(これ。以上のリンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの「子規全集」第六巻の画像)が和歌の欄のものである。]

  花賣る歌、豐年の歌(竹の里人)

  蕈狩(たけがり)(竹の里人)

  朝顏句合(くあはせ)(子規判【碧梧桐・虛子】)

[やぶちゃん注:以下は「附錄」の部。但し、目次ではただ『俳句分類』とあるのみである。これは先からの分載であるから、宵曲の記すものが、内容的には正確であると思う。]

  俳句分類乙號(獺祭書屋主人)

 

 この外従来の「輪講摘録」を「蕪村句集講義」と改めて、その筆記も居士が書いているし、「文学美術漫評」の中にも「ねずみ」の名で何か書いている。正に三面六臂の働(はたらき)である。居士は最初虚子氏に対して「初(はじめ)は俳句が主になること勿論であるが少くも韻文だけは包含して置きたい、今少し小生をして望ましめば初めから新体詩と歌と俳句と平等にやって行きたい(小説などはあってもなくても善い事として)。しかし俳句さえ困難なのだからとてもその外は覚束ない、やはり俳句八分その他二分位で始めねばなるまい」[やぶちゃん注:ここは引用元が不明であり、以下、「いっていた」とあるから、正字化を見送って、ママとした。]といっていたが、その割合はともかく、文学の範囲はほぼ予定通り備っているといわなければならぬ。

 「古池の句の弁」はかつて「芭蕉雑談」において説いたところを、更に委しく、更に歴史的に述べたものである。古池の句の評論としては最も精到なるものの一であろう。「土達磨を毀つ辞」は題名を見てもわかるように、在来の俳文系統に属するものであるが、「小園の記」は居士の手によって新に生れた美文である。こういう種類の文章は居士の従来書いたものの中には見当らない。二、三カ月前に発表された「十年前の夏」と対比しても、その差は明に看取することが出来ると思う。

[やぶちゃん注:「古池の句の弁」「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。

「土達磨を毀つ辞」同じく「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。

「小園の記」同じく「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。]

 この号の為山氏の口画は「豊年」不折氏のは「菌狩(たけがり)」であった。新体詩「豊年の歌」及「蕈狩(たけがり)」の和歌ほ、いずれもこの口画に因んだものである。「俳句分類」の項目と、その次の募集句の題とは必ず同じものが選んである。「俳句分類」は単に古句を示すにとどまらず、作句者に取っては一種の作例にもなっている。こういう点に関して居士は常に周到の用意を怠らぬ人であった。

 多大の努力を覚悟し、多大の努力を払っただけあって、東遷後最初の『ホトトギス』を手にした時は、居士も愉快を禁じ得なかったらしい。虚子氏に寄せた手紙の封筒に「天氣はよくなる雜誌は出來る快々」と書いて来たほどであった。韻文だけは包含して行きたいという最初の予定も、和歌や新体詩は後援続かずの感があり、居士自身も三号までで新体詩の作を絶つような結果になってしまったが、予定以外に新な天地が開拓されたのは散文の方面である。松山時代の『ホトトギス』には時に紀行とか、随筆とかいう種類の文章が見えるだけで、居士もこの方面には手を著けたことがなかった。然るに東遷後は「小園の記」を振出しにして、「車上所見」「わが幼時の美感」という風に、号を逐うてこの種の文章を掲げた外に、毎号「雲」とか「山」とかいう題を課して短文を募っている。一行乃至数行の短文を主としたものであるが、追々長い文章が加わって来て、従来にない自由な表現を試みることになった。後年単行本にするに当って、「小園の記」風のものを『寒玉集』と名づけ、短文の方を『寸紅集』と名づけた。居士の唱道した写生文なるものは、大体この二つの流から生れたので、その端緒は東遷直後の『ホトトギス』に已に見えている。

[やぶちゃん注:「わが幼時の美感」は「青空文庫」のこちらで新字正仮名で読める。]

 

 新体詩にしても『ホトトギス』所載のものは概ね短く、在来の作品のように一篇の趣向が目に立たなくなって来た。その代表的なものとして、最も短い一篇を掲げるならば次の如きものである。

[やぶちゃん注:以下は、国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「子規全集」第六巻のここからの画像で校訂した。]

 

   芒(すすき)老ゆ

 芒老いて菊はつぼむ

 萩を刈りて菊は開く

 白き薔薇に晴るゝ小雨

 葉雞頭に散る夕榮(ゆふばえ)

 蝶來らず居らざる蜘(くも)

 靜かなるは秋行く園

 くさる落葉うるほふ土

 四十雀はひそかに在り

 病みて三年庭を蹈まず

 窓にもたれ景を弄す

 雲は過ぐる上野の杉

 山氣骨にしみて寒し

 

 押韻の迹はここにも見えるが、眼前小園の風物の外、何者も取入れていない。こういう傾向を更に進めて行ったら、あるいは写生文に併行(へいこう)すべき写生詩が生れていたかも知れぬ。居士がこの辺を限りとして新体詩に遠ざかったのは、そういう野心を捨てたというよりも、病牀筆硯多忙の結果、余力が及ばなくなったものと解すべきであろう。

 この年後半における『ホトトギス』以外の仕事はあまり多くない。歌の調子を論じた「五七五七七」とか、『心の花』の歌を評した「一つ二つ」とか、天長節に因んだ「賀の歌」とかいうものが『日本』に掲げられてはいるが、前半期の歌論の華々しかったのに此べるとやや寂寞の感がある。『日本』に出る歌も九月以後は著しく減少した。上野元光院に月を見、「立待月」百句を『日本』に掲げた時も、俳句ばかりで文章はなかった。『日本人』に寄せた新体詩「菊合せ」は一年ぶりの作品であったが、これ以後『日本人』には何も出なくなっている。他の方面の仕事が減少したのは、『ホトトギス』に精力を傾注したために外ならぬ。

[やぶちゃん注:『天長節に因んだ「賀の歌」』「天長節」と前書した八首のか(国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「子規全集」第六巻の内。前書はこの前のページ末にある)。]

 

 三十一年は多事であったにかかわらず、居士の身辺は比較的無事であった。年末に虚子氏の贈った鴨を室内の盥(たらい)に浮べ、燈下にじっとしている鴨の様子に目を遣りながら、夜遅くまで筆を執ったりするうちに、この年は静(しずか)に暮れてしまった。

[やぶちゃん注:この最後の映像は何かはなはだ印象深い。]

2018/05/15

大和本草卷之八 草之四 龍鬚菜 (シラモ)

 

【外】

龍鬚菜 王氏彙苑曰生海中石上莖如繒長僅尺

 許色始靑居人取之沃於水乃白又名繒菜人頗

 珍之今按備前ニ白藻アリ細絲ノ如ニシテ靑白水ニ

 浸セハ白クナル煮食シ或水ニヒタシスミソニテ食ス潔白ナリ

 若水曰又北土及他州ニモ有之ソウナト云

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

「龍鬚菜(シラモ)」 「王氏彙苑」に曰はく、『海中の石の上に生ず。莖、繒(きぬいと)のごとく、長さ僅かに尺許〔(ばか)〕り。色、始め靑し。居人、之れを取り、水に沃(そゝ)げば、乃ち白し。又、「繒菜(ソウナ)」と名づく。人、頗〔(すこぶ)〕る之れを珍とす』〔と〕。今、按ずるに、備前に「白藻(シラモ)」あり。細き絲のごとくにして靑白。水に浸せば、白くなる。煮て食し、或いは水にひたし、すみそにて食す。潔白なり。若水〔(じやくすい)〕曰はく、『又、北土及び他州にも之れ有り、「ソウナ」と云ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:最近まで、本種は紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属シラモGracilaria bursa-pastoris(属名はラテン語「gracilis」(「細い」の意)由来。種小名は「bursa」が「袋」で、「-pastoris」が「羊飼いの」の意)とされてきたが、鈴木雅大サイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」ページに、『本種はこれまで地中海をタイプ産地とするGracilaria bursa-pastorisと同定されてき』たが、二〇〇八年の研究論文によれば、『日本と韓国』当該種『として報告されてきた種は』、『果皮の細胞の形態とrbcL遺伝子を用いた系統解析の結果から』、『ハワイをタイプ産地とする』、

紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属シラモ Gracilaria parvispora

に相当することが判明した、とあるので、それで示した(当該ページでは上位タクソンが細かに、紅藻植物亜界 Subkingdom Rhodobionta紅藻植物門 Phylum Rhodophyta 紅藻植物亜門 Subphylum Rhodophytina 真正紅藻綱 Class Florideophyceae マサゴシバリ亜綱 Subclass Rhodymeniophycidae オゴノリ目 Order Gracilariales と示されてある)。本種は、水によく溶けて粘性が高いことから食品用の糊料・安定剤・乳化剤として広汎に利用されているカラギーナン(carrageenan)精製の原藻としてよく知られる(なお、英名は、この成分の利用がアイルランドのカラギーン(Carrageen)村で始まり、各国に広まったことに由来する)。現在でも、茹でて、刺身のツマにしたり、酢味噌和えで食されている。但し、「心太(ココロフト=トコロテン)の項で示した通り、オゴノリ類の中毒死亡例が複数あること、それを説明するとされる、prostaglandin E2(プロスタグランジンE2)摂取に始まる人体内機序とは別に、ハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程では、その原因の一つにPGE2過剰等ではなく、アプリシアトキシンaplysiatoxinという消化管出血を引き起こす自然毒の存在が浮かび上がってきている。これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリアCyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分である。即ち、本邦の死亡例も、オゴノリに該当アプリシアトキシンを生成蓄積した藍藻がたまたま付着しており、オゴノリと一緒に摂取してしまった、とも考えられるのである以上、本種の種がアプリシアトキシン中毒例のあるオゴノリ属に含まれるかも知れない(そうでなくても「たまたま付着」は同種である条件を必要としない)、ハワイ産種に切り替えられた点と合わせて、別に、本種への安全神話がやや揺らいでくる観は否めない気はするのである。

「龍鬚菜(シラモ)」通常の漢字表記は「白藻」であるが、先の鈴木氏の記載にも『龍髭菜』とあるので、現在でも生きている。

「王氏彙苑」「彙書詳註」の別題。全三十六巻。恐らくは、明代の政治家で学者であった王世貞(一五二六年~一五九〇年)の著になる類書ではないかと思われる。

「繒(きぬいと)」(音「ソウ・ショウ」)圧織りの絹布。また、広く絹織物の総称。

「居人」そこに住む土着の民の謂いか。

「若水〔(じやくすい)〕」医師・本草学者・儒学者であった稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)のことか。「若水」は号。益軒より二十五歳も年少であるが、没しているのは益軒死去の翌年である。ウィキの「稲生若水によれば、『父は淀藩の御典医稲生恒軒、本名は稲生正治。江戸の淀藩の屋敷で若水は生まれた』。『医学を父から学んだ。その後、本草学を大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学んだ』。『元禄のころになると、彼の学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心であった加賀金沢藩主前田綱紀も彼の名声を知り』、元禄六(一六九三)年に『彼を儒者として召抱えられることとなった』。『その際、彼は姓を中国風の一字で稲と称した。前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、当時における本草学のバイブルであった「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得た。そのため、彼は隔年詰』(づめ)『という』、『一年おきに金沢で出仕する特別待遇を与えられた。彼はその知遇に応えるべく』、『京都で研究に努め、支那の典籍』百七十四『種に記載されている動植物関係の記述を広く収集し、統合や整理、分類を施して』、元禄一〇(一六九七)年に『執筆を始め』三百六十二巻を書き上げて、『京都の北大路の家で死去した』。『後に八代将軍徳川吉宗の下命で、若水の子、稲生新助や弟子の丹羽正伯らが』六百三十八『巻を書き上げて、計』一千『巻にわたる大著が完成した。稲生若水は漢方、薬物などを中心とした本草学に、動植物全体を対象とする博物学への方向性を備えさせたといえる』とある。益軒は実は壮年の頃に京に遊学しただけで、その生涯の殆んどを福岡藩で送った。従って、この話も若水から書簡で得た情報であろうと推定される。

「ソウナ」「惣菜」ではあまりに芸がない。海藻で惣菜に使い勝手のよい「藻菜」ぐらいにしておこう。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(42) 佛教の渡來(Ⅴ) / 佛教の渡來~了

 

 一方、人民は何れの信條によつてその祖先を禮拜するも自由であつた。そして若し大多數の人が佛教祭典を選んだとすれば、その選擇は佛教が祖先祭祀に與へた特殊な情味ある魅力から來たものである。細目に至る事以外には、この兩祭式は殆ど異つたものではなかつた。而して古い孝順の思想と、新しい祖先禮拜と一緒になつた佛教の思想との間には、何等の爭ひもなかつたのである。佛教は、死者も讀經に依つて救はれ幸福になり得る、そして亡靈の慰めは多く食物供養に依つて獲られると教へた。亡靈には酒や肉を供へてはならなかつた。併し果物や、米や、菓子や、花や、香を以て、それを悦ばす事は至當な事であつた。その他、極めて粗末な供物でも、讀經の力で、天の神酒や美味に變はらせられた。併し特にこの新しい祖先祭祀が、一般に氣受け[やぶちゃん注:「きうけ」。「受け」に同じ。世間の人がそれに接した際に抱く気持ち。評判。]の良かつた所以のものは、それが古い祭祀の式には見られなかつた多くの美しい、心に感銘を與へるやうな慣習を包有してゐたと云ふ事實に依るのであつた。到る處で人々は直に死者の年每の訪れのために百八つの迎へ火を焚く事を知つた、藁で作つた、若しくは野菜などから作つた小さな人形を、靈に供へ、それで牛や馬の役をさせる事を知つた【註一】――又先祖の靈魂が海を越え冥土へ還るための亡靈の船(精エ靈船)を作る事を覺えた。それから又盆踊り、則ち死者の祭の踊りや、墓に白い提燈を懸け、家の門には彩つた提燈をつけ、訪れて來た死者の行きに歸りを照らすといふ習慣が作られた。

 

註一 茄子に木の切れを四本つけて足の形としたものが通例牛を表はし、同樣に胡瓜に足をつけたのが馬とされる……。人は昔ギリシヤで犧牲[やぶちゃん注:「いけにへ」。]をする場合、異樣な動物の代用物の用ひられた事を思ひ起す。則ちセベスに於けるアポロの禮拜の際、足や角をあらはすため、木切れをさした林檎が羊に代用されて供物とされた事がある。

註二 舞踊そのもの――見て極めて不思議に又面白い――は佛教よりも遙かに古いものである。併し佛教はそれを今述べた三日間續く祭の一つの附屬物とした。盆踊りを見た事のない人は日本の踊りの何を意味するかといふ事を了解し得ない、日本の踊りは通例云ふ踊りとは全然異つたものである、――何とも名狀しがたい古風な變なしかも面白いものである。私は踊り通す農夫を終夜[やぶちゃん注:「よもすがら」と訓じたい。]見て居た事が幾度もある。斷わつて置くが日本の踊り子は踊りはしない、只だ身體の姿勢をかへるのみである。併し百姓は踊るのである。

[やぶちゃん注「死者の年每の訪れのために百八つの迎へ火を焚く事を知つた」旧盆行事の一つである「百八燈(ひゃくはっとう)行事」。最も知られているのは、重要無形民俗文化財指定されている埼玉県児玉郡美里町(みさとまち)猪俣の堂前山(どうぜんやま)の尾根で行われる「猪俣百八燈」であろう。

[やぶちゃん注:「セベス」原文“Thebes”で、これは古代ギリシアにあったポリス(都市国家)の一つで、現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァに当たる「テーバイ」(ラテン文字転写:Thēbai)のこと。ウィキの「テーバイ」によれば、アテナイやスパルタと覇権を争った最有力の都市国家の一つで、精鋭を謳われた「神聖隊」の活躍も知られ、ギリシャ神話では「七つの門のテーバイ」として名高く、オイディプス伝説などの舞台となっている。位置はリンク先を参照されたい。

「盆踊り」「佛教よりも遙かに古いもの」小学館「日本大百科全書」の「盆踊り」を引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、下線は私が引いた)。『盆に踊る民俗芸能。祖霊、精霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊り唄(うた)にのって集団で踊る。手踊、扇踊などあるが、歌は音頭取りがうたい、踊り手がはやす。太鼓、それに三味線、笛が加わることもある。古く日本人は旧暦の正月と七月は他界のものが来臨するときと考えた。正月は「ホトホト」「カセドリ」などいわゆる小(こ)正月の訪問者がこの世を祝福に訪れ、七月は祖霊が訪れるものとした。盆棚で祖霊を歓待したのち、無縁の精霊にもすそ分けの施しをし、子孫やこの世の人とともに楽しく踊ってあの世に帰ってもらうのである。こうした日本固有の精霊観に、仏教の盂蘭盆会』『が習合してより強固な年中行事に成長した。盆に念仏踊を踊る例もあるが、念仏踊は死者の成仏祈願に主眼があり、一般に盆踊りとは別個の認識にたつ』。『十五世紀初頭に伏見』『の即成院や』、『所々で踊ったという盆の「念仏躍(ねんぶつおどり)」「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」』(「看聞御記(かんもんぎょき)」の記載に拠る)『は、まだ』、『後の盆踊りというより』、『念仏の風流(ふりゅう)』(平安末期から中世にかけて流行した、祭礼などの際に行われる華やかな衣装の群舞や邌(ね)り物を主体とした芸能)『の色彩が濃いものであったが、同世紀末に昼は新薬師寺、夜は不空院の辻(つじ)で踊られたという「盆ノヲドリ」』(「春日権神主師淳記(かすがごんかんぬししじんき)」に拠る)『は盆踊りの色彩を強めたものであったろう。盆踊りはそのほか』、『伊勢(いせ)踊なども習合することになったらしいが、にぎやかで華やかな踊りで、異類異形の扮装(ふんそう)をしたとあり、まさに風流(ふりゅう)振りである。十六世紀中』頃『には小歌(こうた)風の盆踊り唄がつくられていた』(「蜷川家御状引付(にながわけごじょうひきつけ)」に拠る)。『江戸時代以降』、『いよいよ盛んになり、全国的にそれぞれの郷土色を発揮して、いまに行われている』。『今日みる異類異形の盆踊りには、鳥獣類の仮装はなく、秋田県の「西馬音内(にしもない)盆踊」のひこさ頭巾(ずきん)(彦佐頭巾、彦三頭巾とも書く)のように』、『覆面姿が多い。これは亡者の姿といい、また佐渡の「真野(まの)盆踊」のように石の地蔵を背負って踊るものもあり、人と精霊がともに踊ることに意義をみることができる。長野県阿南(あなん)町の「新野(にいの)盆踊」では、最終日に村境まで群行して踊って行き、そこで新盆(にいぼん)の家の切子灯籠(きりこどうろう)を燃やし、鉄砲を撃って踊り』、『神送りをする。精霊鎮送の形がよくわかるが、道を踊り流して歩く形は』『、徳島市の「阿波(あわ)踊」にもよく表れている。新盆の家々を回って踊る例もある』。『八重山』『列島では「盆のアンガマ」といって、老人姿の精霊仮装が出る』とある。なお、私の注附きの『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第六章 盆踊』((最後の二回は合わせてある)を是非、読まれたい。小泉八雲の盆踊り初体験の幻想的感動がよく伝わってくる絶品である。]

 

 併し佛教の國民に對する最大の價値は恐らくその教育にあつた。由來神官は教育者ではなかつた。古い時代にあつては、彼等は多く貴族、則ち氏族の宗數上の代表者であつた、故に平民を教育するなどと云ふ觀念(かんがへ)は彼等には起りもしなかつたのである。然るに佛教は萬人に對して教育の利福を與へた――ただに宗教上の教育のみならず、支那の藝術や學問についての教育を與へた。寺院はやがて普通の學校となり、若しくは學校が寺院に附屬して出來た、而にてそれぞれ管内の寺で村の子供達は、ほんの名計りの費用で、佛教の教義、漢字の知識、手習ひ、繪畫、その他いろいろな事を教へられた。次第に次第に殆ど全國民の教育が佛教の僧侶の支配の下に置かれるやうになつた、そしてその道德上の効果は立派なものであつたのである。武人階級にとつては、素より別に特殊の教育法が存してゐたのであるが、併しさむらいの學者は、有名な佛教の僧侶の下にあつてその知識を完うする事を力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]。又皇室そのものが僧侶の侍講[やぶちゃん注:「じこう」皇帝や主君に対して学問を講じること。また、その人。]を聘用した。通常の人民にとつては、到る處で佛教の僧が學校の先生であつた、そしてその宗教上の役目のためからと共に、教師としてのその職業のために、佛僧はさむらいと同格に置かれたのであつた。日本人の性格に、その最も良い處として殘つてゐるものの多くは――その人を惹きつける優雅な點は―佛教の訓練の下に發達したものと考へられる。

 佛教の僧がその教師としての公務に加へて、公共の戸籍吏たる公務を行つたといふ事は、極めて自然な事であつた。所領奉還の時迄、佛教の僧は國中に宗教上竝びに公務上の役人をして居た。彼等は村の記錄簿を預り、必要に應じて、出生、死亡、或は系圖の證明書を交付したのである。

[やぶちゃん注:「所領奉還」原文は“disendowment”。これは「(教会や学校などの持つ)基本財産を没収する・基金を取り上げる」の意である。平井呈一氏は『寺領返上』と訳しておられるが、ピンとこない。江戸時代を通じて、「宗門人別改帳」は現在の戸籍原簿や租税台帳であった。改帳の作成自体は町村毎に名主・庄屋・町年寄が行うことになっていたが、そこには檀徒として属する寺院名が記載されており、これはその寺院がそれが正しいこと証明している点で、その寺が公的な準役人として機能していたことは明白である。さすれば、ここで八雲が言っているのは、そうした戸籍制度が維新によって「寺→藩→幕府」という戸籍の流れが廃されたこと、明治新政府が政治改革の一環として行った、全国の藩がその所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した「版籍奉還」(明治二年六月十七日(一八六九年七月二十五日勅許)のことを言っているのではるまいか?

 以下、一行空け。]

 

 佛教が日本に及ぼした夥しい文化の影響について少しでも正常な考を獲ん[やぶちゃん注:「えん」。得よう。]とする人には、恐らく非常に澤山の書册を要するであらう。唯一般的な事實を述べてその影響の諸〻の結果を概説するのさへ、殆ど不可能である――何故とならば概要の敍述では、爲し遂げられたその仕事の全體の眞相を明らかにし得ないからである。道德上の力として佛教は、その力に依り、もつと古い宗教が作り得たよりも、遙かに大きな希望と恐怖とを起さして、權威にさらに力を與へ、服從といふ事に人を教養したのである。教師として、それは倫理上に於いても審美上に於いても、日本人の最高のものから最下賤のもの迄を教育した。日本に於いて藝術といふ名の下に類別されるものは凡て、佛教に依つて移植れたか又は發達せしめられたものであつた、又神道の祝詞や古詩の斷片を除けば、眞に文學上の價値を有つて居る殆どあらゆる日本文學についても、同樣な事が云はれ得るのである。佛教は戲曲、詩的作物及び小説、歷史、哲學の高尚なるものを傳へた。日本人の生活の精華はすべて、佛數の傳へたもので、少くともその娯樂慰安の大部分はさうであつた。今日でさへ、この國で出來たものの内、興味ある物、又は美しい物にして、幾分でも佛教の力に負ふ處のないものは殆どないのである。恐らくこの恩惠の過程を述べる最善にして又最短の方法は、佛教に支那文化を全部日本に齎した、そして後にそれを日本人の要求に合ふやうに氣長に作り變へて行つたのであると言へば足りるであらう。この古い文化は日本の社會構造の上に只だ重ねられた計りでなく、うまくそれに適合せしめられ、完全にそれに結合させられたので、その繼ぎ目、接合線は、殆ど全く跡形[やぶちゃん注:「あとかた」。]を失つたのである。

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(41) 佛教の渡來(Ⅳ)

 

 衆生に涅槃を説く代りに、慈悲の得らるべき事と苦雖の避けらるべき事、則ち無量光明の王たる阿彌陀の樂土と、等活と稱する八熱地獄、頞部陀(アブダ)といふ八寒地獄の事を人々に説いたのである。未來の罰に就いての教へは實に恐ろしいものであつた、私は弱い優しい神經の人にはこの日本の、否、寧ろ支那の地獄に就いての話説を讀ひ事をすすめたくない。併し地獄は極度な惡るいものに對してのみの罰でありて、罰は永遠のものでもなく、惡魔そのものも終には救はれるのであつた……。天國は善行の報いであつた、如何にもこの報いはいつまでも殘るの爲めに、幾多のつぎつぎの再生を過ぎ通てて行く間延ばされて居るかも知れない、が併し又一方に、その報いは唯一つの善行に依つて、現世に於て獲られるかも知れないのであつた。その他、この最高の報いの時期に達せざる以前にあつて、つぎつぎの再生每に、その生は聖い[やぶちゃん注:「きよい」。]道に於ける絶えざる努力に依つて、その前の生よりも幸福にされ得たのである。この有爲轉變の世の中に於ける狀態に關してさへ、德行の諸〻の結果は決して無視すべからざるものであつた。今日の乞食も明日は大名の御殿に生まれ代るかもしれず、盲目の按摩も、その次の世では、一國の大臣になるかも知れないのである。報償はいつも功績の量に比例してゐるのであつた。この下界に於て最高の德を行ふのは困難なことであつた、從つて大なる報いを獲る事は難いことであつた。併しあらゆる善行に對して報償は確にあるものであり、而も功績を得られないといふ人は、一人もないのであつた。

 神道の良心に關する教義――正邪に關する神與の觀念――をさへ佛教は否定はしなかつた。併しこの良心は、各人の心の内に眠つて居る佛陀の本來の智慧と解せられた――その智慧なるものは無智に依つて暗くされ、欲望のために塞がれ、のために縛られてゐるのであるが、いづれは十分に醒まされ、且つ光明を以て心を溢れさす運命になつて居るものである。

[やぶちゃん注:太字(「業」)は底本では傍点「ヽ」。以下、煩瑣なので、最後まで、原則、この注は省略する

「等活と稱する八熱地獄」これは「倶舎論」「大智度論」等の古代インドの仏典に出はするが、釈迦自身は、地獄の具体性については述べておらず(永く続く闇の世界とはするようである)、バラエティに富んだ地獄思想は主に中国で形成された。「等活と稱する八熱地獄」と八雲は「等活」を「八熱(はちねつ)地獄」の別称として述べているが、これは誤りで、等活地獄は八熱(大)地獄の一つである。パーリ語経典の「長部」(ディーガ・ニカーヤ)に相当する「長阿含経(じょうあごんきょう」によれば、八熱地獄は「想地獄」を第一の地獄として、以下、順に「黒繩(こくじょう)地獄」・「堆圧地獄」・「叫喚地獄」・「大叫喚地獄」・「焼炙(しょうしゃ)地獄」・「大焼炙地獄」とあって最後に「無間地獄」の命数となっているものの、その具体的な内容は記されていない。現行では、この最初の「想地獄」が「等活地獄」とされ、殺生の罪を犯した者が墜ちる地獄とされる。後に形成された八熱(大)地獄の具体的内容はウィキの「八大地獄」を参照されたい。

「頞部陀(アブダ)といふ八寒地獄」八寒地獄(はちかん(はっかん)じごく)は上記の「八熱地獄」とは別に対存在(灼熱の総体地獄に相対化された寒冷に責め苦しめられる八種の氷の地獄)する地獄とされるが、現在ではマイナーである(以下に見る通り、サンスクリット語の漢訳が変化していないことからもそれが窺われる)。ここも八雲の言い方は間違いで、「頞部陀(アブダ)」は「八寒地獄」の異名ではなく、その第一の地獄で、以下、順に「尼剌部陀(にらぶだ)地獄」・「頞唽吒(あせった)地獄・臛臛婆(かかば)地獄・虎虎婆(ここば)地獄・嗢鉢羅(うばら)地獄・鉢特摩(はどま)地獄」・「摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄」があるとされ、これらは八熱地獄のそばにあるとする。具体的内容はやはり、ウィキの「八大地獄」の参考部の「八寒地獄」を参照されたい

 以下、一行空け。]

 

 あらゆる生物に對し親切なるべき義務と、あらゆる受難に對して憫みを盡つべき義務とに就いての佛の教は、その新宗教が世間一般から受納される前に、すでに國民の慣習風俗の土に強大な功果を及ぼしたと考へられる。早くすでに六七五年に、天武天皇に依つて一つの訓令が發布された、それは人民に、『牛や、馬や、犬や、猿や、家禽類の肉』を食ふ事を禁じ、又獲物を捕へるに係蹄[やぶちゃん注:「けいてい」。罠。「わな」と訓じてもよい。]を用ひ、陷穽[やぶちゃん注:「かんせい」。落とし穴のこと。「おとしあな」と訓じてもよい。]作ることを禁じたものであつた【註】。あらゆる種類の肉を禁じなかつたと云ふ事は、この天皇が兩方の信仰を保持するに熱心であつた事に依つて恐らく説明されよう、――蓋し絶對の禁制は神道の慣例を破るものであり、正に神道の傳統と相容れないことであつたらう。併し魚は普通の人の食品の一つとして用ひられて居たとしても、この頃から國民の大部分は、その食事の古い習慣をやめて、佛教の教に從ひ、肉食を斷つたと云つて然るべきであらう……この教へはあらゆる生あるものはみな、一に歸すといふ教義にその基礎を置いて居るものであつた。佛教はあらゆるこの世の事象をの教義に依つて説明した――その義を一般世人の了解に適應するやうに簡單にして。あらゆる種類の動物は――鳥類も、爬蟲類も、哺乳類も、昆當類も、魚類も――のそれぞれ異つた結果を表はしてゐるに過ぎないとしたのである。これ等一々のものの魂魄の生活は一つであり同じものであり、最下等の動物にも、神性のいくらかの片影は存在してゐたのである。蛙も蛇も、鳥も蝙蝠も、牛も馬も、――あらゆるものは何時か過去に於ては人間の(恐らくは又超人間のであるかも知れぬが)形をもつ特權を有つて[やぶちゃん注:「もつて」。]をたのであつた。彼等の現在の狀態は昔の過失の結果に過ぎなかつたのである。又如何なる人と雖も、同樣な過失のため、後には口のきけない禽獸の狀態に堕とされるかもしれないのである――爬蟲類か、魚類か、鳥類か、又は荷を負ふ獸類として生まれかはるかも知れないのである、。如何なる動物でも、それを酷使した結果は、その酷使者が同じ獸類となつて再生するやうになり、同じ殘酷な扱ひを受けるやうになるかも知れない。突かれたり剌されたりする牛や、鞭うたれたりする馬や、或は殺される鳥が、以前は近親の一人――祖先か、親か、兄弟か、姉妹か、或は子供でなかつたとは、誰れが斷言出來たであらう。

[やぶちゃん注:「六七五年に、天武天皇に依つて一つの訓令が發布された」天武天皇四年四月十七日(ユリウス暦五月十六日)に発布された、狩猟の規制、及び、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁ずる詔(みことのり)を指す。「日本書紀」原文(巻第二十九の天武天皇四年四月庚寅(かのえとら)の条)は以下。

   *

庚寅。詔諸國曰。自今以後。制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後。九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛・馬・犬・猿・鷄之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。

(庚寅。諸國に詔して曰はく、「今より以後、諸(もろもろ)の漁(すなど)り獵りする者を制(いさ)め、檻(おり)・穽(ししあな)造り、及び機槍(ふみはなち)[やぶちゃん注:動物が踏むと自動的に矢や槍が放たれる機械仕掛けの罠。]等の類ひ、施(お)くこと莫(な)かれ。亦、四月朔(ついたち)以後、九月三十日以前、比滿沙伎理梁(ひまさきりのやな)[やぶちゃん注:よく判らないが、これ全体で一般名詞で、後の網代式の、川の中に足場を組み、木や竹で簀子状の台を作って、魚介類を自動的に一網打尽式に多量に生捕る仕掛けを指すものと思われる。]を置くこと莫かれ。且つ、牛・馬・犬・猿・鷄(にはとり)の宍(しし)を食ふこと莫かれ。以-外(ほか)は禁-例(かぎり)に在らず。若し、犯す者有らば、之れを罪(つみ)せむ。)

   *

 この後、何故か、註との間が一行空けになっている。注の後はなっていない。版組の誤りと採り、註の後も一行空けた。]

 

註 アストン氏『日本紀』の飜譯第二卷三二八頁參照

 

 これ等の事は凡て言葉でのみ教へられたのではなかつた。神道は何等の藝術をも有つては居なかつたと云ふことを記憶して置かなければならない、則ちその拜殿は、閑寂であり裝飾一つないものであつた、然るに佛教はそれと一緒に彫刻とか繪畫とか裝飾とかのあらゆる藝述を齎した。黃金の中に微笑む菩薩の御像――佛教の極樂の保護者[やぶちゃん注:梵天・帝釈天・吉祥天・弁才天といった天部の護法神。]、又地獄の審判者、女性の天使[やぶちゃん注:広義の中国の神仙思想由来の天女、或いは、諸仏の周囲を飛行遊泳して礼讃する飛天。]及び恐ろしい鬼神の姿等は未だ何等の藝述と云ふもののに馴れてゐなかつた人々の想像を驚かせたに違ひなかつた。寺院に懸けられてある大きな繪畫、その壁や天井を彩る大壁畫は、言葉でするよりも以上によく六生の教へや、未來の賞罰の教理を説明した。竝べて懸けられてある懸物の中には、靈魂の審判の王國への旅に於ける色々な事件や、種々雜多な地獄のあらゆる恐ろしいことが描かれてあつた。或る者は、何年も何年もの間血の滴る手でもつて、死の泉の邊[やぶちゃん注:「ほとり」。]に生えて居るきざきざした[やぶちゃん注:ママ。]竹の笹葉をむしり取つてゐなければならぬ不貞な妻の亡魂を描き、或る者は人を誹謗したものが、惡魔の釘拔きで舌を拔かれて苦しんでゐる樣を描き、又或る者は色慾の強い男が、火の女の抱擁から逃れんとしてもがき、又は剱の山の急阪を、狂亂して攀ぢ登らうとしてゐる樣を描いたのであつた。その他、餓鬼の世界の種々な圈内の有樣や、饑ゑたる亡魂の苦しみや、又爬蟲類や、獸類の形に生まれ代つたものの苦痛やが描かれてあつた。而もこの初期の繪畫の藝術は――その多くは今尚ほ保存されてゐるが――決して下級な藝術品ではなかつた。吾吾は、閻魔(Yama)則ち死者の審判者の顰蹙した眞紅の顏――又はすべての人にその生涯に於ける非行を反映さして見せると云ふ不思議な鏡[やぶちゃん注:浄玻璃(じょうはり)の鏡。]の幻影――又は『見る目』といふ婦人の容貌を表はして、審判席の前にゐる兩面に顏のある首の恐ろしい想像、又惡事のあらゆる臭ひを嗅ぎ分けると云ふ『嗅ぐ鼻』と云ふ男の幻等が、さういふ事に馴れて居ない人の想像に及ぼした効果の、どんなものであつたかは殆ど考へる事は出来ない……。親としての情愛は、描かれて居た子供の亡靈の世界の説話に深く動かされたに違ひない――その小さな亡靈は、鬼の監督の下に、靈の河の磧で苦難を嘗めなけばならないのである……。然しこの描かれた恐怖と竝んで、一方には慰安が描かれてあつた、――慈悲の白い女神なる觀音の美しい姿――幼見の亡靈の友である地藏の慈愛深い微笑――光彩陸璃[やぶちゃん注:ママ。「陸離(りくり)」の誤り。美しく光りきらめくさま。]たる虹色の翼を以て飛躍する天津乙女の魅力などがそれであつた。佛畫を描いた人は、單純な想像力の人に、天の宮殿を開き、又人の希望を、寶玉の樹の園を通つて、天福を享受した魂が、蓮の花の内に再生し、天使達にかしづかれでゐる湖水の岸に迄も導いたのである。

[やぶちゃん注:「閻魔(Yama)」閻魔は仏教・ヒンドゥー教などに於ける地獄・冥界の主とされる存在で、サンスクリット語及びパーリ語の「ヤマ」の漢音写。「ヤマ」は「縛」「雙世」「平等」などと和訳され、「縛」ならば「罪人を捕縛する」の意、「雙世」は「苦楽の二つの報い」の意、「平等」は「罪人を平等に裁く」との意と、ウィキの「閻魔」はある。

「『見る目』といふ婦人の容貌を表はして、審判席の前にゐる兩面に顏のある首の恐ろしい想像、又惡事のあらゆる臭ひを嗅ぎ分けると云ふ『嗅ぐ鼻』と云ふ男の幻」これは「見る目嗅ぐ鼻」と実際に呼ばれる、先の「浄玻璃の鏡」と並んで、地獄の閻魔庁にあるアイテムとしてよく知られる「人頭杖(じんとうじょう)」或いは「人頭幢(にんずどう)」と呼ばれるものを、分割して解説してしまったものである。幢(はたほこ)の上の皿に男女の首をのせたもので、亡者の善悪を判断するとされる。私の偏愛する円応寺の鎌倉国宝館寄託のそれをご覧あれ(リンク先画像は個人サイト「日本初の禅専門道場~鎌倉:建長寺~」内のもの)。私の記憶する限りでは、実はこの女の首の方が実は亡者の生前の悪事を総て語り、三つ目の憤怒相の天部の神めいた男の首の方が、却って亡者の数少ない善行を語るはずである。]

 

 更に又、神道ののやうな簡素な建築物に馴れてゐた人々にとつて、佛教の僧に依つて建てられたこの新しい寺院は、幾多の驚異であつたに相違ない。巨大な立派に守られた壯大な支那式の門、銅や石の唐獅子や燈籠、振り棒で鳴らされる巨大な吊鐘、廣い屋根の蛇腹の下に群がる龍の形、佛壇の目を射るやうな光彩、讀經や。燒香や、異樣な支那樂と共に行はれる儀式――それ等は歡喜と畏敬の念と共に、人々の好奇の念を煽らずには居なかつた。日本に在る初期の佛閣が、今尚ほ西歐人の眼にさへ、最も感銘を與へるものであると云ふのは注意に値する事である。大阪に在る四天王寺――それは一度ならず建て直されたものであるがなほ原型を止めてゐる――は紀元六〇〇年來のものである、が、奈良の近くに在る法隆寺と云ふ、更に著名な寺院は六〇七年頃の建立である。

[やぶちゃん注:「廣い屋根の蛇腹」この前後部分は原文では“the swarming of dragon-shapes under the eaves of the vast roofs”である。但し、戸川の「蛇腹」は変な用法ではなく、建物の軒や壁の最上部などに帯状に巡らした、刳形(くりかた)のある突出部分を指す日本建築の正しい用語で、「胴蛇腹」「軒蛇腹」などがあるが、素人にはよく判らない。平井呈一氏は『切妻』と訳しておられるのだが、これも切妻に限定してしまうと、私にはピンとこない。ここ(「屋根の蛇腹」「切妻」)は「軒下」とした方が今の我々には通りがいいのではないか? 所謂、軒の一番奥の上の角、建物の垂木の端が突き出た部分(隅尾垂木)や尾肘木(おひじき)等に施された、龍の立体的な彫刻物を指していると私には読めるからである。

「四天王寺」聖徳太子の建立した七大寺の一つとされる荒陵山(あらはかさん)四天王寺は、「日本書紀」によるならば、推古天皇元(五九三)年に造立が開始されたことになっている。

「法隆寺」「六〇七年頃の建立」同じく聖徳太子七大寺の筆頭とされる本寺(斑鳩寺とも呼ぶ)は、「日本書紀」によるならば、厩戸皇子(聖徳太子)が推古九(六〇一)年に飛鳥から、この地に移ることを決意、宮室の建造に着手し、推古一三(六〇五)年にその「斑鳩宮」に移り住んだとし、現行では一応、寺自体は推古一五(六〇七)年の建立とされるが、種々の疑問点があり、建造はこれよりも後の七世紀後半以降と考えられている。]

 

 勿論、有名な繪畫や大きな彫像は寺院にだけしか見られなかつた。併し佛師達はやがて最も邊鄙の場處に迄佛陀や菩薩の石像を置くに至つた。かくして始めて、今尚ほ路傍の到る所から旅人に微笑みかけてゐる地藏の像が出來た――又その三匹の表象的な猿と共に公道の保護者である庚申の像――それから百姓の馬を保護する馬頭觀音の像――その他粗笨ではあるが印象深きその技術の中に、尚ほ印度の起原を想はせるやうな幾多の像が作られたのである。次第に墓場は夢みるやうな佛陀や菩薩――石の蓮華の上に坐し、眼を閉ぢて崇高なる靜寂の微笑をたたへてゐる聖なる死者の守護者――で以て群がるやうになつた。都會は到る處、佛彫師が店を開き、各種の佛教宗派の禮拜する本尊の像を敬虔な家庭に備へ附けた。そして位牌、則ち佛數に於ける死者の標なる板牌の製造人は、神棚の製造人等と同じく、その數を增し繁昌したのである。

[やぶちゃん注:「その三匹の表象的な猿と共に公道の保護者である庚申の像」庚申塔のことであるが、「公道の保護者である」とするのは後に、道教由来の唐渡りの庚申信仰とは全く異なる、それ以前からあった「塞ノ神」信仰や、豊穣を祈る原型が性神化しそれが道途の地神となり、道祖神信仰として混淆集合した結果であって、庚申信仰自体には道や旅人を守るという属性はない。

 以下、一行空け。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(40) 佛教の渡來(Ⅲ)

 

 佛教の教が特に魅力ある所以のものは、その筒單にして巧みな自然に就いての解釋である。神道が嘗て設明せんとしや事もなく、又説明し得なかつた無數の事柄を、佛教は微細に而も一見矛盾のないやうに解説したのである。 その出生、生命、竝びに死の神祕に關する幾多の説明は、直に純なる心の慰安となり、よく惡念に對する非難となるのであつた。それは、死者が幸福であるか不幸であるかは、生者が死者に對して注意するか、しないかに直接由るのではなく、死者が現世に在る時の過去の行ひに由るのであると教へた【註】。それは相次いでの再生に關する高い教義を教へんとはしなかつた――人々は到底それを理解する事は出來なかつた――只がそれは何人でも理解し得た輪𢌞の簡單な表象的な協議を教ヘんとしたのみである。死ぬと云ふ事は、自然に融け戾つて終ふ[やぶちゃん注:「しまふ」。]事ではなく、再び他に生を享ける事であつた。この新しい肉體の性質は、その新しい存在の諸條件と共に、現在のこの身體に於けるその人の行ひや考への性質によるのである。あらゆる存在の狀態や事情は悉く過去の行爲の結果なのである。或る男は今や富貴であり威勢をもつて居る。何故ならば前世に於てその男は寛容であり慈愛に富んでゐたからである。又或る男は病を獲[やぶちゃん注:「え」。]、貧困である。何故ならば前世で、その男は肉慾に耽り、利己的であつたからである。或る女はその夫や子供等と共に幸福に暮らして居る。何故ならばその女は以前の生涯の時、愛らしい娘であり、貞淑な配偶者であつたからである。又一人の女は難儀をし子子供がない。何故ならばその女は前世で娯妬深い妻であり殘酷な母であつたからである。『汝の敵を憎むことは、愚な事であると共に誤れる事である。汝の敵に、汝が汝の友たらんと欲した前世に於いて、汝が彼に加へた奸計のためにのみ、今や汝の敵たるのである。汝の敵が今汝に加ふる危害に身を任せよ。それを汝の過去の過誤の償ひとして受けよ……。汝が娶らんと欲したこ女を彼女の兩親が拒んだとせよ、――他人に與へられたとせよ 併し、他生に於て、何時かは、彼女は約束に依つて汝のものたるべし、而して前に與へた契約を破り得るのである……。汝の子供を失ふ事は苦しい事に相違ない。併しその喪失は前世に於て、汝が同情を呉與ふべき場合に、それを拒んだ報いなのである……。災變に遇つて身を害ひ[やぶちゃん注:「そこなひ」。]、汝は最早以前の如く汝の生活の道を得られない。而もこの不幸たるや、正しく前世に於て、何時か汝が思ふままに肉體上の危害を、人に加へたと云ふ事實によるのである。今や汝自身の行ひの惡が汝に返つて來たのである。汝の罪を侮いよ、而してその業の現在の苦行に依つて償はれん事を祈れ』と佛教の僧は教へる……。かくの如くして人間のあらゆる悲哀は説明され慰められた。生命は、無限の旅、――その路の後方は過去の闇夜に、その前方は未來の神祕の中に延びてゐる――その無限の旅の一階段を示すものとしてのみ説明せられた、――忘れられたる永劫から、今後に存在すべき永劫に迄延びてゐる路の一階段である。そして世界それ自身が一旅客の休み場、路傍の一旅宿として考へられるのみであつた。

 

註 疑ひもなく讀者はどうして佛教がつぎつぎの再生の教を祖先禮拜の思想と妥協させ得たかを怪むであらう。人の死ぬのはその再生のためだとすれば、その再生する靈に供物を捧げ、祈禱をする必要が何處にあらう。この疑問に對するに、死者は大抵直に再生するのではなく、先づと宙宇[やぶちゃん注:ママ。後注を必ず参照されたい。]と稱する特殊の狀態に入るので、死者は百年間この無形の狀態にとどまり、その後に再生するのであると彼等は教へた。死者に對する佛教の奉仕はそれ故百年に限られて居た。

[やぶちゃん注:この原注は、輪廻転生するための期間を「百年」としたりしていて、本邦独自に広汎に定着している四十九日という今の我々の感覚からすると、非常な違和感を覚えるのであるが、仏教の伝播過程や宗派によってこの期間は本来は異なっており、考えてみれば、現実世界の時間と冥界での時間の経過は全く異なっているのであるからして、そこは問題としないでよいとも思う(しかし、百年はやはり永過ぎる。私がそういう理由は、著名人でない限り、血統宜しき或いは家系興隆の者でもなければ、百年も後裔が仏事を営んで供養し続けることなど、不可能だからである。永代供養と宣伝しているのに騙されてはいけない。連絡がとれなくなれば、十数年でも瞬く間に合葬されてしまい、個人としての供養は行われなくなる。墳墓も連絡不達告知広告が成され、あっという間に平地となって、新墓地として売りに出される。核家族化・少子化が進行した現今、墓地管理は被葬者にとっては切実な風前の灯状態なのである。因みに、私は無宗教で献体もしており、自己の墳墓を持たないから何らそれを不安に思わぬ)。しかし、実は戸川の訳(漢字表記)に問題があって、本文中の『宙宇』は「中有」のこととしか読めないのだが、こんな表記は少なくとも私は知らない。「宙宇」という言葉がないではない。例えば、私が知っているのは宮澤賢治が晩年(彼は昭和八(一九三三)年没)の昭和二(一九二七)年に出身校である『盛岡中學校校友會雜誌』から寄稿を求められて書き始めたものの、遂に完成に至らず、その稿が残された「一九二七年に於ける盛岡中學校生徒諸君に寄せる」の中に出る。筑摩書房旧校本全集第六巻で『断章六』とする部分の中間の一行で、『宙宇は絶えずわれらに依つて變化する』という表現がある。しかし、これは賢治特有の詩語(或いは彼独自の宇宙間言語)としての変容を受けた「宇宙」の意味として、躓かずに読めるし、ここの使用ケースとは全く異なる(なお、脱線になるが、これは賢治の没後かなり絶ってから発見され、戦後の昭和二一(一九四六)年四月号『朝日評論』で初めて公開されたものであるが(公開時の原画像が、私が毎週巡回を欠かさない渡辺宏氏のサイト賢治童話詩 森羅情報サービス」で見られる)、この初出公開版は『朝日評論』の編者が草稿に恣意的な削除・追加を加えて、明確な校訂法も立てずに整序してしまったものであって、最早、宮澤賢治の作とは言い難いものである。草稿原稿は賢治特有の異常に拘った推敲痕があり、再現自体が難しいものであるが、かなり忠実に整序・再現されたものが、上記サイト内「宮沢賢治作品館」の「資料編」の「その他」にあり、校本全集によれば、この詩の本当の姿は、次のようですとあ以下である(それよりもより原稿に沿って再現したものは、サイト「宮澤賢治の詩の世界で見られる)。さて、本線に戻る。しかし、この戸川のこの訳は、本邦で「中陰(ちゅういん)」「中有(ちゅうう)」「中蘊(ちゅううん)」と訳すそれ以外には読めないのである。されば、この「宙宇」(ちうう:歴史的仮名遣)は戸川の「中有」(ちゆうう:歴史的仮名遣。これらの言葉は所詮、サンスクリット語の当該語の漢訳に過ぎぬから、荒っぽく言ってしまえば、漢字表記など何でもいいことになるのだが、しかし歴史的仮名遣の表記がこの二つでは変わってしまうのは非常に拙いと私は思う)」の漢字表記の記憶違いか誤植であると考えざるを得ないと私は思う。因みに、原注原文は“Chū-U”である。]
 

2018/05/14

明恵上人夢記 64・65

 

64

一、夢に、殊勝なる殿に到る。池等、處々二三ありと思ふ。悦びの意の朋友等、之在り。

[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「63」夢との連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三或いは十四日以降の夢としておく。

「殊勝なる」格別に設計されて手入れも行き届いた。

「之在り」「これ、あり」。]

□やぶちゃん現代語訳

 こんな夢を見た。

 格別に勝れた建築で手入れも行き届いている仏殿に辿りつく。

『心を静謐にさせる池なども、ところどころ、二つも三つも配されているではないか。』

と瞬時に判った。

 傍らには、心底から悦びの思いを湛えている朋友らが、ともにあるのである。

 

 

65

一、夢に、母堂に謁す。尼の形也。常圓房、其の前に在りと云々。

[やぶちゃん注:クレジットなし。しかし、「64」の連続と採り、承久元(一二一九)年七月十三日或いは十四日以降の夢としておく。本記載を持って、一つのパートが終わっており、以下は連続した記載ではない。但し、次の冒頭には「承久二年 同八月十一日」のクレジット記載があるから、時系列上の連続性は問題がない。

「母堂」明恵は治承四(一一八〇)年正月、数え九歳で母を失っており(病死)、八ヶ月後の九月には父平重国(元は高倉上皇の武者所の武士)が上総で敗死している。因みに、「63」で示した、明恵が自身にとって最も安定的で問題のない修法とする「仏眼法」とは、実は密教の女神である「仏眼尊」「仏眼仏母」を観想する修法であり、「仏眼仏母」は般若の智慧を象徴した神格で、仏陀を出生させる母であるともされ、一切諸仏の母とさえされる存在なのである。胎蔵界曼荼羅遍知院中央一切如来知印の北方、並びに釈迦院中央釈迦牟尼仏の北方列第一位に在って、菩薩形で結跏趺坐している。息災延命を祈る修法の本尊とされる。河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」(一九八七年京都松柏社刊)で、この明恵が若き日より強く指向し続けた仏眼仏母との一体感は、強烈にストイックな修行者としての明恵の修行の中にあってさえ、実は『愛人としても体験されたのではないかと思われる。もちろん、ここで愛人といっても、それは母=愛人の未分化な状態であり、性心理學的表現で言えば、母子相姦的関係であったと言える』と述べておられる。この見解に私は激しく共感するものである。ここで明恵の母が尼僧の姿であるのは、実は明恵の永遠の愛人=母=原母=仏眼仏母であることを意味しているのではあるまいか?

「常圓房」底本注に『明恵の姉妹の一人』とある。さて、実は河合隼雄氏は「明惠 夢に生きる」でこの短い夢を明恵の特異点の夢として挙げ、分析しておられる(河合氏はこれら「63・64・65」夢を同一時制内で見たものと捉え、建保七年(一二一九)七月十三日の夢と推定されておられる)。ここでは、それを総て引用させて戴く

   《引用開始》

 常円房は明恵の姉妹である。この夢は数多くの明恵の夢の記録のなかで、唯一つ、彼の母と姉妹が出現している珍しい夢である(父親の夢は一つも記録されていない)。これは非常に珍しいことで、特に明恵のように十九歳という若いときから夢を記録していると、たとえ両親が死亡していても、夢には両親が少しは顔を出すものである。九歳のときに乳母の夢を見ているが、あるいは、十九歳までは彼も家族の夢をよく見たのかも知れない。十六歳で出家したとき、釈迦が父に、仏眼仏母が母になって、肉親としての父母は、彼の内界においてあまり意味をもたなくなったのであろう。ところが、ここでは突如として、母がその娘と共に登場している。

 これは女性との「結合」を経験し、以後のより深い世界へと突入してゆこうとする明恵にとって、一度はその肉親に会うことが必要だったということであろう。遠くに旅立つ人が両親に挨拶に帰るように、このようなことは夢に割とよく生じることである。これは時に妨害的にはたらき、深層への旅立ちや、未知の女性との接触を、何らかの方法で肉親(特に母親)が妨害する夢として生じてくる。

 明恵の場合は、そのような意味でなく挨拶、あるいは、慰めの意味で母に会ったのであろう。母は既に尼になっていて、仏門に帰依している。明恵は安心して深層への旅を志したであろう。

   《引用終了》]

□やぶちゃん現代語訳

65

 こんな夢を見た。

 母上に謁する。

 母上は尼の姿なのである。

 そうして、その場には私の姉(妹)の常円房が、母上の前にいるのである……。

 

明恵上人夢記 63

 

63

一、其の十三日、かの行法の後、□夢想を轉じて見せばやと思ふに、内野(うちの)の如くなる處にて二三丁許りを隔てて上皇を見奉る。□□□□□隱し奉る。卽時に片方へ行きて諭し□□□□□處に到る。今は此(ここ)にとも□□□□□思ふ。隱しおほせつと□□□□□。

[やぶちゃん注:□は判読不能部分。これだけあると、最早、訳しようがないが、一応、逐語的には訳しておいた。

「其の十三日」ここまでの流れと、前の「62」夢の原注に従うなら、「62」夢の翌日、承久元(一二一九)年七月十三日の夢となる。通常の人間の夢は(少なくとも私の場合は)日を続けて見た夢だからといって、それに同一人物が登場したとしても、それが一連の夢(解釈)として連続しているものではない。しかし、明恵のような特異な人物の場合、その連関性を積極的に認めてもよいようには思う(「積極的に認めなくてはならない」というわけではない)。しかし、この場合、同じ「院」=「上皇」=後鳥羽上皇が登場しているのには、かなり強い強連関性のメッセージが表わされている、と夢を見た明恵自身は当然、考えた。だからこそ、書きとめていると言える。

「かの行法」これ以前で彼が自身に課した「行法」について述べているのは「42」であり、十三年前の建永元(一二〇六)年十二月一日より開始している(詳細はそちらを参照)。そこで明恵は、その行法を「宝楼閣法」と「仏眼法」と称しており、「宝楼閣法は二つの刻限に修して、朝と夕、仏眼法も二つの刻限に修し、こちらは後夜(ごや)と」し(私の訳で示す)、「但し、午後の部の始める時刻は孰れも、宵の口を修法の開始としている。これは本修法が基本的には己れ自身のためにする行法であるが故であり、さればこそ、式礼の如く強いて、修するに吉凶の時を占って撰ぶということをしていない。そもそも、これらは遙か以前より私が個人的に行なってきた修法であって、今まで一度たりとも不都合なることはなかったが故である」と述べているから、この午前四時に修めた「仏眼法」の後に一睡した時の夢という風に読める。しかも、この時、明恵はこの「仏眼法」が「遙か以前より私が個人的に行なってきた修法で」、「今まで一度たりとも不都合なることはなかった」私の精神に(即ち、夢にも)活性的な力を持つものであったから、それを修した後に徐ろに夢見すれば、どうも昨日までの夢見の落ち着きが悪いのを、「夢想を轉じて見」ることが出来ると思った=半可通な夢を転じて見てみたい「と思」って、寝に就いた、と読むことが出来るのではあるまいか? 何? 今までだって彼が見た夢は皆、その修法を終えてからの夢だったのではないのかって? それは大きな誤りだ。今までの私の注にも述べているが、彼が見る夢は、休息のごく短い間の観想中のものもあり、時には覚醒時幻覚のようにして見たものも既に含まれているのだよ。そういう半可通なことを言うあんたは、私のこの「明恵上人夢記」を読んできていないことがバレたね……哀しいことに……。

「内野」京都市上京区南西部の旧地名。平安京大内裏のあった所。

「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。

「□□□□□隱し奉る」目的語は不詳だか、敬語から後鳥羽院の目から隠したことは判る。

「片方」不詳。少なくとも以下に敬語が全く使用されていない以上、単に後鳥羽院本人の方という意味ではあり得ない

「諭し」補語(誰に)も目的語(何を)も不詳。]

□やぶちゃん現代語訳(丸括弧内は判読不能部。一部は仮想の自然と思われる語を補ってみた)

63

 その翌日の十三日のこと、何時もの通りの仏眼法まで総てを終えた後で、

『(さても。どうも昨日までのすっきりしない)夢想を転じて見てみたいものだ。』

と思って一睡した。その時、こんな夢を見た。

 大内裏の内野(うちの)のようなところである、二、三町ほど隔てて、後鳥羽上皇さまを見申し上げている。

 私は(思わず、(  )を)隠し申し上げた。

 そして、直ちにとある一方へ行って(  )を諭(さと)し、(  )の処(ところ)に到ったのである。

 その時、

『今は此処(ここ)にとも(に(  )であろう)。』

と私は思ったのである。

『よかった。隠し遂(おお)せることができたのだ。』

と(  )。……

 

御伽百物語卷之六 木偶人と談る

御伽百物語卷之六

 

     木偶(もくぐう)人と談(かた)る

 

Mokuguu_2

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右中央の枠や雲形の一部を除去して使用した。しかし、原画が中央の分離部で連続性を無視した致命的なミスを犯しているため、よく見ると、足が截ち切れたりしている。しかしまあ、「木偶」(木製の人形)というなら、それはそれでよかろうかい。]

 

 城南(せいなん)壬生(みぶ)の邊に玉造善藏といふものあり。生得の心ばへやさしく、手跡算勘(さんかん)の道に長じ、儒のむねとする所を學びつたえ、佛者のつねに説くの經意(きやうい)を窺ひ、あまねく人のする程の事、學ばずといふ事なく、其(その)道の頤(おきろ)をきはめずといふ事なし。萬(よろづ)につきて才幹なりけるまゝに、近邊の者ども、珍しき人におもひ、此德になつきて馴れむつびけるゆへ、酒宴遊興のむしろに交りをなし、圍碁將棊(いごしやうぎ)の會(くわい)にも、かならずと招かれて、朝暮(てうぼ)たのしみの中(なか)に年月を經(ふ)る身とぞなれりける。

[やぶちゃん注:「城南(せいなん)」通常は「城南の離宮」の略で、現在の京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽上皇の離宮「鳥羽殿(とばどの)」を指すが、ここは京都御所(京城)或いは二条城の南の一般名詞の意である。

「壬生」現在の京都市中京区西部の一地区。東は大宮通、西は西大路、北は三条通、南は松原通までの地域(この附近(グーグル・マップ・データ))。地名は、古来より、湧き水が多かったことから「水生」と呼ばれたことの転化。平安京の壬生大路 (現在の壬生川通付近)が東寄りを南北に通る。低湿なため、明治期まではセリ・ミブナなどを産する近郊農村であった。

「玉造善藏」不詳。

「算勘」算木(さんぎ)の占いによって考えること。]

 

 是れに親(したし)く語りける友の内、苗村寸鐵(なむらすんてつ)といひしもの、五十にあまりける迄、子なき事を悲しみ、洛中洛外の神社、いたらぬ隈なく、驗者(げんじや)と聞(きこ)ふる方には、悉く、あゆみをはこび、およびがたき願(ぐわん)など立てて、さまざまと祈りけれども、終に夢ばかりのしるしもなくて、思ひ歎きける折しも、其ころ、東山泉涌寺(せんゆじ)の奧にあたりて、稻荷塚とかやいふ所を見出だし、洛中の貴賤、これ一と足を空にし、心をひとつにして、色々の願ひをかけ、思ひ思ひの望みを乞ひ、あるひは終宵(よもすがら)、法施(ほつせ)をまいらせ、または、七日まいりの志をおこしなど、面々のちからを盡しけるに、みなみな、ねがふ所、かなひて、悦(よろこび)の眉をひらく事、渡りに船を得たる思ひ、商人(あきびと)の主(ぬし)を得たるがごとく也と聞きて、

「いざや、我もそこにあゆみをはこびつゝ、せめて露ばかりの示現(じげん)にもあはゞ、子ありとも、子なしとも、それを此世の思ひ出にせばや。」

の心、おこりけるまゝ、善藏をさそひて、

「道すがらのはなし伽(とぎ)に。」

とうちつれつゝ、まふで初(そめ)ぬ。

[やぶちゃん注:「苗村寸鐵」不詳。

「東山泉涌寺(せんゆじ)の奧にあたりて、稻荷塚とかやいふ所」泉涌寺(現行では「せんにゅうじ」と読まれることが多い)は京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)にある真言宗東山(とうざん)又は泉山(せんざん)泉涌寺。ここ(グーグル・マップ航空写真)。「稻荷塚」は不詳。伏見稲荷はここの南東の少し離れた位置にあるが、「奥」というのは泉涌寺寺域の北・東・南方の後背である山地を指すのであろう。

「商人(あきびと)の主(ぬし)を得たるがごとく」商人(あきんど)が御用達の富貴な顧客を得たように。

「はなし伽(とぎ)」話し相手。]

 

 第七日にあたれる夜は、ことさらに潔齊して例の善藏と共にまふでつゝ、その夜は通夜したりけるに、夜ふけ、月かたぶき、松ふく風も心ぼそく、子をおもふ猿の叫ぶ聲、梢にひゞき、いつとなく、馴れこし故郷(ふるさと)のそらなつかしう、過ぎし月日の數はおほふれど、徒(いたづら)に積みし頭(かしら)の雪は、富士のみねにさへ殘さぬといふ水無月の照(てり)にも消(きえ)ゆかで、いやまさるものは身のねがひ、疎(うと)くなり行くは後の世のいとなみなど愚(おろか)に暮(くら)し、身のあやまり迄、つぶつぶと胸にうかび、人しらぬ淚、袖に落ちて物がなしう覺えしまゝ、善藏も袂なる念珠とり出で、靜(しづか)におし摺(す)り、我(われ)も寶前にむかひて、しばらく法施を參らせ、咤枳尼天(だきにてん)の咒(じゆ)など繰り出でたるに、此庵(いほ)のまへに、忽然と、人の來て立てるあり。

[やぶちゃん注:「咤枳尼天(だきにてん)」枳尼天は仏教の天部の神で夜叉の一種とされる。サンスクリット語のダーキニー(神格としての原型はヒンドゥー教或いはベンガル地方の土着信仰に於ける魔女で、裸身で虚空を駆けて人肉を食べるとされた)を音訳したもの。本邦では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に「白狐に乗る天女の姿」で表わされ、性的な意味での信仰を受けた。

「我(われ)も寶前にむかひて」善蔵はただの付き添いであるが、苗村の切願に心打たれて、この日は一緒に徹宵の祈願をしたのである。]

 

 年の程八十ばかりにもやあらんと見ゆるが、二尺ばかりの脇指をよこたへ、括頭巾(くゝりづきん)に八德の袖、すこし、しぼりあげたり。善藏きつと見とがめ、

『あやしき有樣かな。とがめばや。』

と思ひけるが、

『まて、しばし。是れも、のぞみある人の、宵より籠り居たるが、曉のつとめせんとて出で來たるにや。』

とさしのぞくに、此老人、善藏にむかひていふやう、

「餘り、此ほど、心ざしを違へず、あれなる寸鐵にいざなはれ、何の望(のぞみ)もなきに、此さびしき山中迄まふで給ふが、いとおしければ、あれなる休み所より招き給ふ人あり。こなたへ來たり給へ。」

といふに、善藏は、何心なく、よき事とおもひて、不圖(ふと)たちけるを、彼(か)の老人、かろがろと善藏をかきおひて、此宮の後(うしろ)のかたへ行くとおもへば、大きなる屋形(やかた)有り。

[やぶちゃん注:「括頭巾(くゝりづきん)」頭の形に合わせて丸く作り、縁を絞った頭巾。老人・隠居などが被った。大黒頭巾。

「八德」俳諧の宗匠や画工などが着用した胴服(どうぶく)。羽織の古称或いは原型であるが、ここは羽織でよかろう。]

 

『こはいかに。此(この)ほど、かゝる所ありとも覺えぬに、如何なる人の住みけるにか。』

と思ふに、表門と覺しき所は、いと強くさしかためて、入るべくもなければにや、少し北の方に、いとひきく、ちいさき穴門(あなもん)のあるより、二人ともに、はい入れば、右につきて、道あり。

[やぶちゃん注:「ひきく」「低(ひき)く」。

「穴門」築地塀(ついじべい)や石垣などを刳り抜いて設けた低い小さな門。埋(うず)み門。]

 

 十間ばかりも行くむかふは玄關なりける。是れよりいらんとするに、さはやかに出でたちたるさぶらひども、七、八人なみ居しが、善藏を見て、みな、ばらばらと數臺におりて敬ひ居たり。

[やぶちゃん注:「十間」十八・一八メートル。]

 

 かくて、奧の間に立ちいれば、あるじとおぼしき人は女にて、したには白き御衣(おんぞ)に唐綾(からあや)の裝束(さうぞく)、しおん色の大褂(おほうちぎ)、くれなゐのはかま、めされたるが、木丁(きてう)のほころびより、はれやかに見とをされたるを、少しそばみて、桧(ひ)あふぎをさし隱してより、臥し給へり。その外、なみ居たる女郎(ぢやらう)たち、みな、いろいろの袖口ども、そよめきかさなりて、帳(ちやう)のかたびらより、こぼれ出でたるも、いとなまめかしくなつかし。

[やぶちゃん注:「しおん色」紫苑色。薄紫。

「大褂(おほうちぎ)」「褂」(「うちき」と清音でも呼ぶ)平安時代の女房装束で、唐衣(からぎぬ)の下に着る衣服。多くは袷(あわせ;単衣(ひとえ))仕立てで、色目(いろめ)を合わせて何枚も重ねて着た。普段でも上着しても用いた。ここはその裄(ゆき:着物の背縫いから肩先を経て、袖口までの長さ。肩ゆき)・丈などを大きく仕立てたもの。

「木丁(きてう)」「几帳」。

「ほころび」「綻び」。几帳の掛け布の(後に出てくる「かたびら」)、縫い合わせずに間を透かせてあるところ

「桧(ひ)あふぎ」檜(ヒノキ)の細長い薄板を重ねて、上端を糸で、下端を要(かなめ)で留めた扇。近世の板数は、公卿が二十五枚、殿上人は二十三枚、女子は三十九枚と決まっていた。男子用は白木のままとするが、女子用は大翳(おおかざし)・衵扇(あこめおうぎ)とも称し、表裏ともに美しく彩色して親骨に色糸を長く垂らして装飾とした。

「なつかし」心が引かれる。]

 

 やゝありて、奧より、御めのと[やぶちゃん注:「乳母」。]を出だして、善藏に仰(おほ)せありけるは、

「此度、寸鐵が願ひをかけ、あゆみをはこびつる心ざしさへ、たぐひなく哀(あはれ)とおもふに、今、善藏が何のねがふ事もなきに、寸鐵が心ざし、遂げさせん事をおもひ、もろともに我が前に來たり。夜もすがら、他念なくおこなひすましたる心ばへのうれしければ、寸鐵がねがひをもかなへ、善藏にも貴人となるべき子だねを授けさせ給ふ也。」

とて、御かはらけ[やぶちゃん注:素焼きの盃。]をたびけるなり。

[やぶちゃん注:「かはらけ」素焼きの盃(さかづき)。]

 

 善藏、

『さては。此塚の神叱棋尼天の御示現にこそ。』

と、ありがたくて、淚もそゞろにこぼるゝばかりなれば、數多度(あまたゝび)、盃をかたぶけて醉を催しけるに、最前の老人、

「つ。」

と立ちていで、

「今宵の客人(まろうど)に珍しき放下(はうか)して見せ申さん。」

と、後なる障子をおしあくれば、庭のてい、美をつくしてさまざまと作りなしたるに、山あり、川あり、入海のけしきあり、民の家、軒をならべ、市の店をかざり、繁花なる町の體(てい)もあれば、棟門(むねかど)美々(びゝ)しく、つなぎ馬・乘馬、ひまなく立ちつどひ、いかさま故ありと見ゆるかたもありて、

『目のおよぶ所、心にうかぶ風景、繪にかけりとも、よも、かくは寫さじ。』

とながめ居たるに、程なく、いりあひのかねたそがれの空に音づれ、ねぐらもとむる鳥のね、いそがしく、やゝ暮過ぐる宵の月、ひがしのみねにすみのぼれば、木がらしの風に木々の葉のこりなく吹きつくし、山のすがたやせたりと、いにしへ人の詠(なが)めつるおもかげまで、つくづくと移り來る目のまへに、はやふけ過ぐるにやあらん、遠近(をちこち)の里に打ちつるきぬたの音もしづまり、野寺のかねもひゞきをおさめ、辻の火(ひ)のひかりも、寢入る色、ほそくなりわたるに、何とはしらず、旗指物、袖しるし一やうに鎧ひたる武者五十騎ばかり、いづれも、そのたけ、壹尺四五寸ばかりもやあるらんとおもふ兵ども、つき山の陰より、こなたさまにおしかけたり。

[やぶちゃん注:「放下(はうか)」室町から近世にかけて見られた大道芸の一つで元は田楽法師の伝統を受け継いだ雑芸。曲芸や奇術の類い。

「壹尺四五寸」四十二・四二~四十五・四五センチメートル。]

 

「あれはいかに。」

と見る程に、泉水の橋のもとにて後馳(をくれはせ)の士卒を待ちあはせ、五十騎を二手にわけ、彼(か)の屋形を目にかけ、しのびやかにおしよせ、大手の門に着くとひとしく、

「曳(ゑい)や。」

聲(こえ)を出だし、責め皷(つづみ)を打ち、大手搦手(おほてからめて)もみあはせ、鑓・長刀(なぎなた)・打ちかたな、おもひおもひの得物をおつ取り、

「われ、一。」

と込みいりけるに、屋形の内には動轉の氣色にて、

「すは、夜討(ようち)こそ入りたれ。」

と、上を下へと周章騷(あはてさは)ぎて、弓をとるものは矢を忘れ、太刀はとれども、鞘ながら討ちあひ、

「火をあげよ。」

といへども、誰(たれ)聞きわくべきもあらねば、炬火(たいまつ)のひとつをも、さし出ださず。相詞(あひことば)を辨(わきま)へざれば、何(いづ)れ味方と議(はか)りがたくて、只、おなじ所に、同士うちするばかりなる内、寄手(よせて)は兼て心をひとつにし、筒(とう)の火さしあげ、あい詞(ことば)をつかいて、奧のかたにみだれ入る、と見えしが、何とはしらず、しばしが程に悦びの鯨波(とき)をあげ、手々(てんで)に分捕(ぶどり)の首、かずあまた、さしつらぬき、いさみすゝみて表に出で、行列をほぐさず、もとの道にかへるよ、と見えしが、早、あけわたる星のひかりも、あかねさす日のかげにしらけて、ありつる庭も殘りなく、霧、たちかくし、

『跡なごりおし。』

と見かへりたるに、ありし老人も、たちまち、うせ、稻荷塚のうしろ、とおもひしも、いつの間に歸りけん、寺町誓願寺の地藏堂に、あまたの人形を枕とし、その夜の夢はさめたりとぞ。

[やぶちゃん注:「後馳(をくれはせ)の士卒」後から徒歩(かち)で走ってくる配下の兵卒。

「彼(か)の屋形を目にかけ」「目にかけ」は「目がけて」であるが、ここの鷺水の上手さは、「彼の屋形」というのが、その盆景のような庭にある豪家の屋形であると同時に、それは恐らくは、この屋形のミニチュアと善蔵には見えたのに違いない。則ち、ここで時空間の現実と非現実が善蔵の意識の中で境がなくなっていってしまうのであると私は思う。いわば、幻想的非現実が善蔵の(儒教的な堅固であるはずの)現実世界を侵すところに本話の面白さがあるのではないかと私は思うのである。

「筒(とう)の火」江戸時代に発明された携帯用の特殊な提灯の一種である龕灯(がんどう)の灯であろう。金属製又は木製で桶状の外観をしており、内部は二軸ジンバル(英語:Gimbal:一つの軸を中心として物体を回転させる回転台の一種)構造によって、二本の鉄輪が回転し、内側の鉄輪の中央に固定された蠟燭は龕灯をいかなる方向に振り回しても、常に垂直に立って、火が消えないような構造になっている。正面のみを照らし、持ち主を照らさないことから、強盗が家に押し入る際に使ったとか、逆に目明かしが強盗の捜索に使ったともされることから「強盗提灯(がんどうちょうちん)」とも書かれ呼ばれた(以上はウィキの「龕灯に拠った)。

「寺町誓願寺の地藏堂」中京区新京極通三条下ル桜之町にある浄土宗誓願寺。(グーグル・マップ・データ)。この西直近を南北に走る通りは寺院が多く、現在も寺町通と現在も呼ぶ。地蔵堂は現存するようであるが、「あまたの人形」というのはよく判らない。夭折した児童を弔うための簡素な木造彫像であろうか。しかしだったら、「木偶」とは言わないようにも感じられる。或いは早世した子らの玩具として遺族が供物として捧げた玩具の人形で、ここには当時、そうした供物をすることが盛んであったものか? 識者の御教授を乞うものである。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 姫小ダイ (ウミヒゴイ)

 

猩々鯛ノ類

俗ニ姫小ダイ

 

Himekodai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。左上部に出る鰭は、前のこの上に描かれた「赤目魚」(コバンヒメジに同定)の腹鰭で、無関係である。これは、まず間違いなく、

スズキ亜目ヒメジ科ウミヒゴイ(海緋鯉)属ウミヒゴイ Parupeneus chrysopleuron

と思う。サイト「WEB魚図鑑」の「ウミヒゴイには、本邦では『千葉県以南の太平洋岸、山口県以南日本海岸、九州西岸に普通に』棲息し、『まれに青森県、琉球列島、小笠原諸島』でも見られるとし、『体色は赤っぽく、眼から後ろに』一『本の黄色・橙色・赤色の縦帯があることが特徴。腹部、頭部、尾部に青い斑紋が見られることも特徴』とある。本図でも黄色の縦帯がはっきり描かれている。解説後半の青い斑紋は見られないが、リンク先の複数の写真を見ても、有意は斑紋は見られない。或いはホウボウのように死亡後に速やかに褪色してしまうのかも知れない。なお、「姫小」鯛は、現行ではスズキ目スズキ亜目ハタ科ヒメコダイ亜科ヒメコダイ属ヒメコダイ Chelidoperca hirundinacea の標準和名であるが、本図とは似ても似つかない。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 赤目魚 (コバンヒメジ)

 

Akameuo

 

赤目魚

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。下部の尻鰭の直下に突き出た背鰭と、右端の「俗」とあるキャプションはこの図の下に貼り付けられた別な魚の図の一部で、本図とは無関係である。「赤目魚」では、スズキ目スズキ亜目アカメ科アカメ属アカメ Lates japonicus がいるが、下顎の鬚及び尾鰭の形状、及び紅色を呈する鰭から見て、本図はそれではない。鬚が最大の特徴で、他に頭頂部が尖らずに鈍角であること、尾鰭の根のくびれ(尾柄部)の上部に有意な黒斑紋があることから、私はこれは、

スズキ目スズキ亜目ヒメジ科ウミヒゴイ属コバンヒメジ Parupeneus indicus

ではないかと思う。サイト「WEB魚図鑑の「コバンヒメジを見ると、体側の第一背鰭下から第二背鰭下にかけて楕円の黄色斑見られ(この図では、その辺りの後ろに黒い斑点が描かれているのとやや一致を見る)、尾柄部に見られる一個の黒色斑が特徴とあり、しかも『体色は淡い灰色や茶色から赤色や緑色までと幅広く変化する』とあって、さらにリンク先にある複数の個体の写真を見ると、多くの眼の黒目の周囲が有意に赤く見える(遊泳する生体写真でも)のである。本種は『八丈島、千葉県以南の太平洋岸、山口県以南の日本海沿岸。琉球列島』及び済州島、インド~太平洋に広く棲息する、とある。]

明恵上人夢記 62

 

62

  
七月十二日か

一、夢に、將に史廳を出でむとす。然るに、心に任せて怖畏無し。其の夜、院之中に見參に入らむと思ふ。

[やぶちゃん注:「60」夢を私は建保七年二月二十九日とした。これがそれに繋がるものとすれば、承久元(一二一九)年七月十二日の夢となる。この年は建保七年であったが、四月十二日(ユリウス暦一二一九年五月二十七日)に改元している。因みに、前にちょっと述べたが、この年は年初の建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に鶴岡八幡宮社頭にて第三代鎌倉幕府将軍源実朝が公暁に暗殺されている。或いは少なくとも「55」以下の夢の意味には、この事件の影が潜んでいる(分析の際の解釈素材としての潜在性がある)可能性もないとは言えないとは私は考えている。

「史廳」(してう(しちょう))はよく判らぬが、これは直後に「然るに、心に任せて怖畏無し」というのだから、出たその「史廳」なる場所は、通常の人なら怖れ畏まってすごすごと退出する場所と採って初めて文意が(そことは)繋がると思う。とすれば、私はこれは、検非違使(京都の犯罪や風俗取締りなどの警察・裁判業務を統括担当した長官)が執務を行う役所を略称する「使廰」ではないかと読んだ。但し、初めは左右衛門府内(後に左のみ)に置かれていたが、それも、ウィキの「検非違使によれば、『平安時代後期には』『検非違使庁における事務は』検非違使別当(検非違使庁長官。同疔を統括するものの、実務の責任者である検非違使ではない。ここはウィキの「別当に拠った)『の自宅で行われるようになった』。『平安時代末期になると』、『院政の軍事組織である北面武士に取って代わられ、更に鎌倉幕府が六波羅探題を設置すると』、『次第に弱体化し』た、とある。さても、六波羅探題は、ご存じの通り、この二年後の承久三(一二二一)年に後鳥羽院が起した「承久の乱」の後に、幕府がそれまでの京都守護を改組して、京都六波羅の北と南に設置した出先の警察・裁判機関(但し、「探題」と呼ばれた初見は鎌倉末期で、それまでは単に「六波羅」と呼ばれていたであり、まさにこの夢の前後の時制が、京の武装警護集団や刑事警察・裁判機構が幕府側の管理主体へと大きく移行される過渡期の前史に当たっていることが判る(ここではウィキの「六波羅探題も参照した)。

「院」この時制が正しいならば、後鳥羽上皇の院政期である。明恵は建永元(一二〇六)年に後鳥羽院から栂尾山高山寺の別所を賜わっており、先の「56」夢では、自身の自信作「摧邪輪」を後鳥羽院に進上しようとしている点から見ても、彼が後鳥羽院と親しみ、直接に接触する機会が多かったことが判る。とすれば、この夢は実は、明恵が何かを後鳥羽院に奏するために、確信犯の覚悟を持って(それが現実の朝廷方懲罰機関である「史庁」がシンボルするものである)、後鳥羽院に「見參」しようとしていると読め、私はそれは、後鳥羽院へある諫言するためであったのではないか、と読む。即ち、後鳥羽院が近い将来、鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げようとしていることを、明恵は感じ取り、それを諫めるための「見參」ではないと読むのである。「承久の乱」の発生は承久三(一二二一)年五月十四日は後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣に火蓋を切る。わずか二年後である。そもそも、この年初の実朝暗殺以降、幕府と朝廷の関係は急速に悪化し、幕府からの宮将軍の要請も後鳥羽上皇の拒絶にあっているのである。しかし、明恵にそれを後鳥羽院が明かしたり、口を滑らすことは考え難い。しかし、聡明にして鋭い明恵はそれを第六感的には漠然と感知し得た。されば、この夢は、おぞましき朝廷方の完敗と三上皇らの配流に終わる「承久の乱」の予知(警戒)夢なのではないか? と私は思うのである。]

□やぶちゃん現代語訳

62

  
(承久元年七月十二日のことか)

 こんな夢を見た。

 今しも、私は大きな覚悟を持って、世間に怖れられている検非違使庁の門を胸を張って出ようとしているのである。しかし、私は心にまかせて、そうした朝廷の武威に対し、何らの畏怖も、これ、全く感じていないのである。

 歩きながら、

『今夜、後鳥羽院の御殿の中(うち)に、拝謁するために入ろう。』

と強く思っていた。……

 

2018/05/13

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 猩々鯛 (同定不能)

 

猩々鯛

 

Syoujyoudai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。

 判らん。体色がえらい黒ずんでいるが、通名が「猩々鯛」(前の、この図の真上に描いてある「猩々鯛 肥後熊本方言」は私としては、かなり自信を持ってヒメジ科ウミヒゴイ属ホウライヒメジ Parupeneus ciliates に同定したが、これは同じ名でも全然、魚体が異なる)ならば、これは死後の体色変化ととって、鮮やかな朱紅色にして想像してみたところでは、

スズキ目スズキ亜目フエダイ科フエダイ属ヨコフエダイ Lutjanus malabaricus

が似ているようにも思えたが(一応、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」のヨコフエダイ」をリンクさせておく)、この魚、背鰭(後端)と尻鰭の根元がシーラカンスみたように不気味に突き出ているのが奇怪で、如何ともし難い。或いは、この魚、赤いのはそれこそ猩々の髪だけ、則ち、胸鰭を除く総ての鰭が赤く、本体はもともと、くすんだこの暗い葡萄色なのだろうか? お手上げ。識者の御教授を乞う。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 水雞 (クイナ・ヒクイナ)

Kuhina

くひな   鼃鳥

水雞

      【和名久比奈】

 

△按水雞大如鳩而頭背翅皆有蒼黑斑帶淡黃赤色眼

 上有白條觜蒼而長頷胸之間白有白黑斑尾短脚長

 淡黃夜鳴達旦聲如人敲戸蓋在水邊告晨故名水鷄

  拾遺たたくとて宿の妻戸を明たれは人もこすゑのくひななりけり

赤水雞【又名緋水雞】 頭背黃赤色胸腹脚皆赤觜黑其肉味

 淡不美夏月焼食之

鼠水雞 形色畧似而有黑斑見人則竄岸塘之間如鼠

 逃竄故名之乎八九月出

大水雞 形大而似鶉以上三種俱無敲戸之聲

 本綱秧雞【肉甘溫】大如小雞白頰長嘴短尾背有白斑多

 在田澤畔夏至後夜鳴逹旦秋後卽止【蓋是此云大水雞乎】

 一種 雞 秧雞之類也大如雞而長脚紅冠雄大

 而褐色雌稍小而斑色秋月卽無其聲甚大【本朝未見如此鳥】

 

 

くひな   鼃鳥〔(あてう)〕

水雞

      【和名、「久比奈」。】

 

△按ずるに、水雞、大いさ、鳩のごとくにして、頭・背・翅、皆、蒼と黑き斑有りて、淡黃赤色を帶ぶ。眼の上に白條有り。觜、蒼くして長し。頷〔(あご)と〕胸の間、白くして、白黑〔の〕斑有り。尾、短かく、脚、長し。淡黃にして、夜、鳴きて、旦〔(あした)〕に達す。聲、人の戸を敲(たゝ)くごとし。蓋し、水邊に在りて、晨〔(あさ)〕を告ぐる故に「水鷄」と名づく。

「拾遺」

 たたくとて宿の妻戸〔(つまど)〕を明けたれば

    人もこずゑのくひななりけり

赤水雞(あかくいな)【又、「緋水雞〔(ひくひな)〕」と名づく。】 頭・背。黃赤色。胸・腹・脚、皆、赤くして、觜、黑。其の肉味、淡く、美ならず。夏月、焼きて之れを食ふ。

鼠水雞(ねずみ〔くひな〕) 形・色、畧ぼ似て、黑斑有り。人を見るときは、則ち、岸・塘〔(つつみ)〕の間に竄(かく)るゝこと、鼠、逃(に)げ竄(かく)るがごとし。故に、之〔(これ)〕、名づくるか。八、九月、出づ。

大水雞〔(おほくひな)〕」 形、大にして鶉〔(うづら)〕に似たり。

以上の三種、俱に戸を敲くの聲、無し。

「本綱」、「秧雞〔(あうけい)〕」【肉、甘、溫。】大いさ、小さき雞〔(にはとり)〕のごとし。白き頰、長き嘴、短き尾、背、白斑有り。多く、田澤の畔に在り。夏至の後は、夜、鳴きて、旦(あした)に逹し、秋の後、卽ち止む【蓋し、是れ、此〔(ここ)〕に云ふ「大水雞」か。】。

一種 「雞〔(とうけい)〕」 「秧雞」の類なり。大いさ、雞のごとくして、長き脚、紅-冠(〔と〕さか)。雄は大にして褐-色(きぐろ)、雌は、稍や小にして斑〔(まだら)〕色。秋月は、卽ち、無し。其の聲、甚だ大なり【本朝、未だ此くのごとき鳥を見ず。】

[やぶちゃん注:現行の生物種としてのクイナは、

鳥綱ツル目クイナ科 Rallidae クイナ属クイナ Rallus aquaticus

であるが、本邦で見られるのは、

亜種クイナ Rallus aquaticus indicus

で(朝鮮半島・日本(本州中部以北)・シベリア東部などで繁殖し、冬季に本州中部以南へ南下して越冬)、最後の「本草綱目」の叙述に出るのは、

亜種 Rallus aquaticus korejewi

(イラン東部・インド北部・中華人民共和国北西部(新疆・甘粛・青海・四川等)で繁殖し、冬季にアフガニスタン・イラク・中華人民共和国中部へ移動して越冬)となろうかと思ったのであるが、しかし、ところがどっこいウィキの「クイナ」を読むと、『日本の古典文学にたびたび登場する「くひな」「水鶏」は、別属のヒクイナを指していることが多い』(太字やぶちゃん)とあるから、結果、ここは本文に出る「緋水雞」、

クイナ科ヒメクイナ属ヒクイナ Porzana fusca

をまず挙げておいて、それから、やおら、クイナ Rallus aquaticus indicus としておくのが、少なくとも前の良安の叙述部に限っては、よいようである。ヒクイナは幸い、中華人民共和国東部・台湾。日本などで繁殖し、冬季になると、インドシナ半島・中華人民共和国南部・日本(本州中部以南)へ南下し、越冬するとあるから、問題なく、一種とする「雞〔(とうけい)〕」の「紅-冠(〔と〕さか)」という、頭部が有意に赤味を帯びるところとも一致するから問題ない。

 先にウィキの「ヒクイナ」から引いておくと、全長十九~二十三センチメートルで、翼開張は三十七センチメートル、体重百グラム程度。『上面の羽衣は褐色や暗緑褐色』、『喉の羽衣は白や汚白色』、『胸部や体側面の羽衣は赤褐色』、『腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る』。『虹彩は濃赤色』。『嘴の色彩は緑褐色で、下嘴先端が黄色』。『後肢は赤橙色や赤褐色』。『卵の殻は黄褐色で、赤褐色や青灰色の斑点が入る』とあり、『湿原、河川、水田などに生息する』。『和名は鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来し、古くは本種とクイナが区別されていなかった』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、昆虫、軟体動物、カエル、種子などを食べる』。『古くは単に「水鶏」(くひな)と呼ばれ』、『連続して戸を叩くようにも聞こえる独特の鳴き声』『は古くから「水鶏たたく」と言いならわされてきた』。『「水鶏」は「敲く」とするから「扉」の縁語になって』おり、『夏の季語』とするとあり、以下の例が掲げてある。

   *

「くひなのうちたたきたるは、誰が門さしてとあはれにおぼゆ」(紫式部「源氏物語」「明石」)

たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては來む(菅原孝標女「更級日記」)

「五月、菖蒲ふく頃、早苗とる頃、水鷄の叩くなど、心ぼそからぬかは」(卜部兼好「徒然草」)

此宿は水鷄も知らぬ扉かな(芭蕉)

   *

鳴き声はこれは確かに少し離れていれば、戸を叩く音に聴こえる

 次にウィキの「クイナも引いておく。全長二十三~三十一センチメートル、翼開長三十八~四十五センチメートル。体重百~二百グラム。『上面の羽衣は褐色や暗黄褐色で、羽軸に沿って黒い斑紋が入り縦縞状に見える』。『顔から胸部にかけての羽衣は青灰色』。『体側面や腹部の羽衣、尾羽基部の下面を被う羽毛は黒く、白い縞模様が入る』。『湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息』し、『半夜行性で』、『昼間は茂みの中で休む』。『和名は本種ではなく』、『ヒクイナの鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来し、古くは本種とヒクイナが区別されていなかった』。『驚くと』、『尾羽を上下に動かし、危険を感じると茂みに逃げ込む』。『食性は雑食で、昆虫、クモ、甲殻類、軟体動物、魚類、両生類、小型鳥類、植物の茎、種子などを食べる』。『虹彩は赤』く、『嘴は長い』。『嘴の色彩は褐色で、基部は赤い』。『後肢は褐色や赤褐色』。『卵の殻は黄褐色で、赤褐色や青灰色の斑点が入る』。『繁殖期は嘴が赤い』とある。鳴き声サイトサントリーの愛鳥活動の「クイナ」がよい。「ヒクイナ」とは間違えようがないほど、違う。しかし、半夜行性なのはこっちだ。夜っぴいて鳴くのは寧ろ、こっちだ。私まで混乱してきたわい。

 なお、良安が特異的に先に自分の解説を持ってきて、「本草綱目」を後に回したのは、恐らく、「秧雞」「」が、今までのように、巻四十七の「水禽部」ではなく、巻四十八の「原禽類」に入っていること、彼から見て、雞」は本邦の「くひな」とは全く思われなかったこと(「とさか」と訓ずると、形状が甚だ異なり、雄鶏みたようになる)、しかもそれが「秧雞」の一種というならば、実は「秧雞」も「くひな」とは異なる鳥を指しているのではないかという強い疑義を持ってしまったからではなかろうか? しかし言っておくと、現代中国語ではクイナ科は今でも「秧鷄科」なのである。

 しかし、私は本邦で混同されていた「クイナ」と「ヒクイナ」が、中国でも永く同じように混同されていたと考えるなら、「本草綱目」の記載もそれらを指していると読めるし、そもそもが、良安が総論で「水雞(くひな)」という一種を挙げ、他に「赤(緋)水雞」と「鼠水雞」の二種、都合、三種の「くひな」がいるかのように書いているのも、種の混同に加えて、繁殖期の色彩変化をまで別種と見てしまった結果ではなかったかとも思うのである。

「たたくとて宿の妻戸〔(つまど)〕を明たれば人もこずゑのくひななりけり」「拾遺和歌集」の巻第十三「戀三」に載る「よみ人知らず」の一首(八二二番)、

 叩くとて宿の妻戸〔(つまど)〕を開けたれば人もこずゑの水鷄(くひな)なりけり

謂わずもがな、「梢」と「人も來ず」を掛ける。]

進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン

 

     四 ウォレースヴァイズマン

 

Wores

[ウォレース]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を明度を上げて補正して使用した。裏の字が透けるため、補正を加えた。本図は学術文庫版では省略されている。(以下のヴァイズマンも同前)。]

 

 ウォレースダーウィンと同時に自然淘汰説を發表した人で、後にまた「ダーウィン説」と題する書を著して生物の進化を通俗的に論じたから、進化論の歷史に於ては最も有名な一人であるが、その説く所はダーウィンに比べると、甚だしく違つた點が幾つもある。その主なるものを擧げれば、ダーウィンは自然淘汰以外にも尚生物進化の原因があると明言して、後天的性質の遺傳をも認めて居るが、ウォレースは全く後天的性質の遺傳を否定し、自然淘汰以外には生物進化の原因はないやうに説いて居る。またダーウィンは人間も他の獸類と同じ先祖から起り、同じ理法に隨つて進化し來つたもので、身體の方面に於ても精神の方面に於ても、他の獸類と同じ系統に屬すると論じたが、ウォレースは進化論は他の生物には一般に適するが、人間には當て嵌まらぬ、人聞だけは一種特別のもので肉體の方は他の獸類と共同の先祖から降つたが、精神の方は全く別の方面から起つたものであると説いて居る。その他、動物の彩色の起源、雌雄淘汰の説などに就いても、種々意見の違ふ所があるが、こゝにはたゞ自然淘汰に關することだけを述べて見るに、ウォレースの考では、生物の進化し來つたのは全く自然淘汰のみの働による。それ故、動植物の有する性質は、如何に些細な點でも、必ず今日生存上に必要であるか、或は昔一度必要であつたもので、一として生存競爭上に無意味なものはない。たとひ一個の斑點、一本の線と雖も、自然淘汰の結果として今日存するのであるから、必ず競爭上有功であつたものに違ひないとのことであるが、之は實際如何であらうか。我々は今日の不十分な生態學上の知識を以て、動植物の或る性質を捕へて、之は生存競爭上確に無益なものであるとの斷定は勿論出來ぬが、如何に些細な點でも必ず生活上有益なものであるといひ切ることもまた決して出來ぬ。昔何の役に立つか解らなかつた構造・彩色等も、生態學上の研究が進むに隨つて、その功用が知れた例は澤山にあるが、さりとてこれらより推して、總べての構造・彩色は悉く生存競爭上に一定の意味を有するものであると論ずる譯には行かぬ。ウォレースの著したダーウィン説といふ書物は、野生動物の變異性のこと、動物の彩色のことなどに關しても、種々面白い事項が載せてあつて、確に研究者の一讀を價する書ではあるが、前に掲げた二點に就いては、議論が頗る怪しいやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「ウォレース」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)については一度注しているが、再掲し、少し補足しておく。以下、ここで丘先生が言及している点をウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」に拠って補ったが、詳しくはリンク先を通読されんことを強く望む。『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(The Malay Archipelago1869)として出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』。『ダーウィンはウォレスの論文が基本的に自分のものと同じであると考えたが、科学史家は二人の差異を指摘している。ダーウィンは同種の個体間の生存と繁殖の競争を強調した。ウォレスは生物地理学的、環境的な圧力が種と変種を分かち、彼らを地域ごとの環境に適応させると強調した。他の人々はウォレスが種と変種を環境に適応させたままにしておく一種のフィードバックシステムとして自然選択を心に描いているようだと指摘した』。一八六七年に『ダーウィンは、一部のイモムシが目立つ体色を進化させていることについて自身の見解をウォレスに話した。ダーウィンは性選択が多くの動物の体色を説明できると考えていたが、それがイモムシには当てはめられないことを分かっていた。ウォレスはベイツと彼が素晴らしい色彩を持つ蝶の多くが独特の匂いと味を持つことに気付いたと答えた。そして鳥類と昆虫を研究していたジョン・ジェンナー・ウィアーから、鳥が一部の白い蛾は不味いと気付いておりそれらを捕食しないと聞いたことも伝えた。「すなわち、白い蛾は夕暮れ時には日中の派手なイモムシと同じくらい目立つのです」。ウォレスはイモムシの派手な色は捕食者への警告として自然選択を通して進化が可能であると思われる、と返事を書いた。ダーウィンはこの考えに感心した。ウォレスはそれ以降の昆虫学会の会合で警告色に関するどんな証拠も求めた』。一八六九年に『ウィアーはウォレスのアイディアを支持する明るい体色のイモムシに関する実験と観察のデータを発表した。『警告色は、ウォレスが動物の体色の進化へ行った多くの貢献のうちもっとも大きな一つである。そしてこれは性選択に関してダーウィンとウォレスの不一致の一部でもあった』。一八七八年の『著書では多くの動植物の色について幅広く論じ、ダーウィンが性選択の結果であると考えたいくつかのケースに関して代替理論を提示した』。一八八九年に刊行した「ダーウィニズム」(Darwinism: An Exposition of the Theory of Natural Selection, with Some of Its Applications(「ダーウィニズム:自然淘汰理論の解説、及びその適用例」)。ここで丘先生が「ダーウィン説」として示しているものである)では、『この問題を詳細に再検討している』。この「ダーウィニズム」では『自然選択について説明し』、『その中で、自然選択が二つの変種の交雑の障害となることで生殖的隔離を促すという仮説を提唱した。これは新たな種の誕生に関与するかも知れない。このアイディアは現在ではウォレス効果』(Wallace effect)『として知られている。彼は』一八六八年という『早い時点で、ダーウィンへの私信で自然選択が種分化に果たす役割について述べていたが、具体的な研究を進めなかった。今日の進化生物学でもこの問題の研究は続けられており、コンピューターシミュレーションと観察によって有効性が支持されている』。一八六四年には「人種の起源と自然選択の理論から導かれる人間の古さ」(The Origin of Human Races and the Antiquity of Man Deduced from the Theory of 'Natural Selection)という論文を発表し、『進化理論を人類に適用した。ダーウィンはこの問題についてまだ述べていなかったが、トマス・ハクスリーはすでに』「自然の中の人間の位置」(既注済み、一八六三年に刊行したEvidence as to Man's Place in Nature(「自然界に於ける人間の位置に関する証拠」)のこと)を『発表していた。それからまもなく』、『ウォレスは心霊主義者となった。同時期に彼は数学能力、芸術能力、音楽の才能、抽象的な思考、ウィットやユーモアは自然選択では説明できないと主張した。そして結局、「目に見えない宇宙の魂」が人の歴史に少なくとも三回干渉したと主張した。一度目は無機物から生命の誕生、二度目は動物への意識の導入、三度目は人類の高い精神能力の発生であった』。『また』、『ウォレスは宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩であると信じた。この視点はダーウィンから激しく拒絶された。一部の史家は自然選択が人の意識の発達の説明に十分でなかったというウォレスの信念が直接心霊主義の受容を引き起こしたと考えたが、他のウォレス研究家は同意せず、この領域に自然選択を適用するつもりは最初から無かったのだと主張した。ウォレスのアイディアに対する他の博物学者の反応は様々だった。ライエルはダーウィンの立場よりもウォレスの立場に近かった。しかし他の人々、ハクスリー、フッカーらはウォレスを批判した。ある科学史家はウォレスの視点が、進化は目的論的ではなく、人間中心的でもないという二つの重要な点で新興のダーウィン主義的哲学と対立したと指摘した』。以下、「進化理論史におけるウォレスの位置」の項。『進化学史ではほとんどの場合、ウォレスはダーウィンに自説を発表させる「刺激」となったと言及されるだけであった。実際には、ウォレスはダーウィンとは異なる進化観を発展させており、彼は当時の多くの人々(特にダーウィン自身)から無視することのできない指導的な進化理論家の一人と見なされていた。ある科学史家はダーウィンとウォレスが情報を交換し合って互いの考えを刺激し合ったと指摘した。ウォレスはダーウィンの』一八七一年の「人間の由来」(“The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex”(「人間の由来と、性に関連した選択」))で、『もっとも頻繁に引用されているが、しばしば強く同意できないと述べられている。しかしウォレスは残りの生涯を通して自然選択説の猛烈な支持者のままであった』。一八八〇年までに『生物の進化は科学界に広く受け入れられていた。しかし』、『自然選択を進化の主要な原動力と考えていた主要な生物学者はウォレスとアウグスト・ヴァイスマン、ランケスター、ポールトン、ゴルトンなどごく少数であった』とある。彼はしばしばダーウィンによって埋もれさせられた(貧乏籤を引いた)と同情されるが、私はこれは多分に彼の心霊主義への執拗な偏頗が齎した自業自得であると考えている(次段以降で丘先生も指摘しておられる)。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。]

 

 尚ウォレースの説に就いて不思議に感ずるのは、その結論である。ダーウィン説の最後の章を讀んで見ると、「生物の進化し來る間に自然淘汰で説明の出來ぬことが三つある。卽ち第一には無機物から生物の生じたこと、第二には生物中に自己の存在を知るものの生じたこと、第三には人類に他の動物と全く異なつた高尚な道德心の生じたことであるが、これらは如何に考へても自然の方法で發達したものとは思へぬ。必ず物質の世界の外に靈魂の世界があつて、そこから生じたものに違ひない」と書いてあるが、かやうな論法は事物を理解しようと勉める科學の區域を脱して、最早宗教的信仰の範圍に蹈み込んだものと見倣されねばならぬ。さればこの書は表題に「ダーウィン説」とあるが、その内容はダーウィンの説とは大に異なり、人類の進化に關することに就いては、全くダーウィンとは反對の説が載せてあるから、この書を先に讀む人は彼此[やぶちゃん注:「かれこれ」。]相混ぜぬやうに注意せねばならぬ。

 ウォレースはまた先年「宇宙に於ける人類の位置」と題する書を著して、奇怪な説を公にした。その大要をいへば、我が太陽系は宇宙の中心に位する。地球は宇宙の中心の特別の位置にあるから、他の星とは異つて、靈魂を有する人類の發生すべき特殊の條件を具へて居たのであらうといふやうな意味であるが、太陽系を以て宇宙の中心にあるものとは、何を基にして考へたか。現今天文學で知れて居る星の在る所だけを以て、宇宙と見做せば、太陽系がその中央に位するは無論であるが、之は五里までより見えぬ望遠鏡を用ゐて四方を見れば、自身は直徑十里ある圓形の宇宙の中央に位するやうな心持がするのと同じで、實は少しも意味のないことである。往年南アメリカインド諸島を探險し、「島の生活」、「動物の地理的分布」などを著した人が、老後斯かる論文を公にするやうになつたのは、實に惜しむべきことである。ウォレースは先年九十一歳の高齡で世を去つたが、死ぬときまで絶えず著作に從事して、數多くの書物を公にした。倂し老後の著作は概して平凡なもので、新進の壯年學者の著書に比しては、遙に劣つたやうである。最後に著した「社會的周圍と道德の進步」と題する書物の如きも、現代文明の缺陷を竝べた所は聊か痛快であるが、その救濟の考案に至つては頗る幼稚なやうに感じた。宗教家はウォレースが靈魂を説くのを見て大に悦び、進化論の泰斗、自然淘汰の發見者でさへ靈魂の存在を唱へるから、之は確であるなどというた人もあるが、晩年のウォレースは餘程不思議な方面へ傾いたから、ダーウィンと竝べて論ずることは到底出來ぬ。

[やぶちゃん注:「宇宙に於ける人類の位置」一九〇四年刊のMan's Place in the Universe

「島の生活」一八六九年刊のThe Malay Archipelago(「マレー諸島」)のことであろう。

「動物の地理的分布」一八七六年刊のThe Geographical Distribution of Animals

「社會的周圍と道德の進步」没年の一九一三年刊のSocial Environment and Moral Progress

ウォレースは先年九十一歳の高齡で世を去つた」ウォレスは一九一三年没で、本書は東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行されたものである。今までは、いちいちこの注をつけていたが、煩瑣になってきたので、本書の一九二五年刊行をここで覚えて戴きたい。以下ではこうした注は省略する。悪しからず。

 

Wizman

[ヴァイズマン]

 

 ウォレースの如く自然淘汰を以て生物進化のたゞ一の原因と見倣す人々のことを、今は「新ダーウィン派」と名づけて居るが、その最も有名な代表者は、近頃までドイツフライブルグ大學の動物學教授を勉めて居たヴァイズマンである。この人は若いときから進化論に心を注ぎ、先に「進化論の研究」と題する有益な書物を著し、今より二十四年前にまた「進化論講義」といふ一部一册の立派な本を書いて、大に進化論を鼓吹したが、嘗て「自然淘汰全能論」といふ小册を公にしたこともある位で、自然淘汰以外には生物進化の原因は決してないとの極端な説を取つて居る。而してかやうな説を取る論據は何であるかと尋ねれば、全く自分の考へ出した一種の遺傳説で、その大要は略々次の如くである。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマン」ドイツの動物学者(専門は発生学・遺伝学)でフライブルク大学(正式には「アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)。(グーグル・マップ・データ))ドイツ南西部バーデン=ヴュルテンベルク州フライブルク・イム・ブライスガウにある国立大学)動物学研究所所長であったフリードリヒ・レオポルト・アウグスト・ヴァイスマン(Friedrich Leopold August Weismann 一八三四年~一九一四年)。十九世紀、ダーウィンに次いで重要な進化理論家であり、同時に自然選択を実験的に検証しようとした最初の一人とされる以上はィキの「アウグスト・ヴァイスマンに拠る)。以下は「岩波生物学辞典」第四版の記載に拠る(ピリオド・コンマを句読点に代えた)。『ゲッティンゲン大学で医学を修め、のち』、『ギーセン大学で』『動物の発生学および形態学を学んだ。フライブルク大学の準教授』(一八六六)年、同大教授(一八七一)年となる。『諸種の無脊椎動物の発生を研究したが、眼疾のため』、『主として理論家として遺伝・発生・進化などに関する理論を展開するに至った。彼の考察には遺伝・発生の染色体学説を予見するものが多くある。粒子説(デテルミナント)』(determinant:「決定子」とも称する。ヴァイスマンが生物の遺伝と発生を支配する細胞内の基本の粒子的単位として仮定したもの。彼は単位的構造が順次に「いれこ」となって構成されると考えた。則ち、最小の単位は「ビオフォア」(biophore)であり、これが組み合わさって「デテルミナント」となり、次いで後者が集合して「イド」(Id)となり、さらに「イド」が集って、これが現在の遺伝子概念に対応するが、異なる「デテルミナント」が各種分配されることにより、細胞の分化が起こると考えた点で、遺伝子の同じ組合せが全身の全細胞に配られるという事実と異なっている。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)『的見解に基づいて生殖質の連続を主張し、獲得形質の遺伝を否定した。進化に関して自然淘汰の理論を拡張適用し』、自説を「ネオダーウィニズム」(neo-Darwinism/ドイツ語:Neodarwinismus)と称した、とある。「ネオダーウィニズム」は丘先生の言われる「新ダーウィン派」と同義で、同辞典によれば、『ダーウィンの学説内容のうち』、『生存闘争の原理だけを強調し』、『変異とその遺伝に関するダーウィンの見解を根本的に改めた』ヴァイスマン『の考え。すなわち、彼は生殖質の独立と連続の思想にもとづき、獲得形質の遺伝、つまり、いわゆるラマルキズム的要因を絶対的に否定した。これがネオダーウィニズムとよばれたが,現代の自然淘汰説も』、『その観念の発展の上にあると見て同様の名でよばれ、現在では主にそれを指す』とある。

「進化論の研究」一八七五年刊のStudien zur Descendenz-Theorie. I. Ueber den Saison-Dimorphismus der Schmetterlinge(「進化論に関する研究:蝶の季節的二型性に就いて」)及び翌年のStudien zur Descendenztheorie: II. Ueber die letzten Ursachen der Transmutationen(「進化論に関する研究:変異の最後の要因に就いて」)であろう。

「進化論講義」一九〇二年にフライブルク大学で行われた講義に基づくVorträge über Deszendenztheorie

「自然淘汰全能論」一八九三年刊のDie Allmacht der Naturzüchtung : eine Erwiderung an Herbert Spencer。著名なイギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)への回答という形式を採っている。]

 

 ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年[やぶちゃん注:単純計算すると、一八八五年頃になるが、ヴァイスマン]ほども前のことであるが、その後屢々説を改めたゆえ、前のと後のとを比べると、餘程違つた所がある。細胞學上の細い研究に關する學説は暫く省いて、その全部を摘んで述べて見るに、ヴァイズマンは生物の身體をなしてゐる物質を生殖物質と身體物質との二種に分ち、後に子孫となつて生まれ出ずべき物質を生殖物質と名づけ、その他身體の全部をなせる物質を身體物質と名づけて、この二者を區別した。而して生殖物質といふものは、一個體の生涯の中に新に出來るものではなく、生れるときに既に親から承け繼いで來て、子が孫を生むときには、またそのまゝに孫に傳はつて行く。卽ち親が子を生むときには、親の身體の内に在つた生殖物質が親から離れて獨立の個體となるのであるが、その際、親の生殖物質の一部は變じて子の身體となり、一部は變ぜずして、そのまゝ子の生殖物質となる。それ故、今日生物の有する生殖物質といふものは、皆各々その先祖の有して居た生殖物質からそのまゝ引き繼いで來たものである。生殖物質は生物の初から連綿として存するもので、代々生れたり死んだりするのは、たゞ身體物質の方だけであるとの説故、これを「生殖物質繼續説」と名づけた。この考によると、生物の身體は恰も前の代から引き繼いだ生殖物質を後の代に讓り渡すために、暫時これを保護する容器の如きもの故、一生涯の間に如何に身體が外界から直接の影響を被つても、その子は先祖代々の生殖物質から出來るのであるから、之には少しも變化を起さぬ。恰も重箱に傷が附いても、その中の牡丹餅(ぼたもち)に變化が起らぬ如くに、身體物質に起る變化は生殖物質に對して何の影響も及ぼさぬから、親が一生涯の間に得た身體上の變化は、決して子には傳はらぬとの理窟になるが、之が卽ちヴァイズマン説の徽章(はたじるし)とも見るべき「親の新に得た性質は子に遺傳せぬ」といふ考の根據である。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマンが始めて遺傳に關する考を公にしたのは、今より四十年ほども前のことである」本書刊行から単純計算すると、一八八五年頃になる。ィキの「アウグスト・ヴァイスマンの「進化生物学への貢献」の一八八二年から一八九五年のパートの記載よれば、『ヴァイスマンが獲得形質を最初に否定したのは』一八八三年に『行われた「遺伝について」と題された講義で』、それ以降、彼は『強固な選択万能論者に転向した。彼は生物の全ての特徴が自然選択によって形作られると宣言した』とある。]

 

 斯く生殖物質といふものが、生物の初から今日まで直接に引き續いて居て、代々の個體がその生涯の中に得た新しい性質は少しも生殖物質の方に變化を起さぬとすれば、生物は如何にして今日の有樣までに進化し來つたか、生物には變異性といふものがあるから、自然淘汰も行はれ得るのであるが、この變異性は如何にして生じたかとの問が、是非とも起らざるを得ぬが、之に對するヴァイズマンの答は卽ち雌雄生殖説である。ヴァイズマンの考によれば、雌雄生殖の目的は甲乙二個體の生殖物質を種々に合せて無限の變化を起し、以て自然淘汰に材料を供給することであるが、その論據とする所は、近年急に發達した細胞學的研究、特に生殖作用に關する顯微鏡的研究の結果で、なかなか複雜な議論である。先づヴァイズマンの説を摘んでいへば、「生物の進化し來つた原因は全く自然淘汰ばかりで、淘汰が行はれるためには、生存競爭をなす多數の個體の間に多少の相違が無ければならぬが、この相違は雌雄生殖により、異なつた個體の生殖物質が種々の割合に混ずるによつて生じたものである。生殖物質と身體物質とは常に分かれて居るから、身體物質に生じた變化は生殖物質には關係せず、隨つて子孫に傳はらぬから、生物進化の原因とはならぬ」とのことである。

 右の説を實際に照して見ると、なかなか之によつて説明の出來ぬ場合、若しくは之と反對する場合などが澤山にあるが、ヴァイズマンは自分の説を維持し、且これらの場合をも解釋するために、更に種々の假想説を考へ出しては追加した。それ故、之まで人の考へた生物學上の學説の中で、凡そヴァイズマンの説ほど假説の上に假説を積み上げた複雜なものはない。本書に於ては到底その詳細な點までを述べるわけには行かぬが、以上掲げた大體のことだけに就いて考へて見るに、第一身體物質と生殖物質とを判然と區別するのが既に假説である。生長した生物の體内には特に生殖のみに働く物質のあることは事實であるが、この物質が先祖から子孫まで直接に引き續くとのことは、實物で證明することも出來ねば、また否定することも出來ぬ全くの想像である。素より學術上には假説といふものは甚だ必要で、或る現象の起る原因のまだ十分に解らぬときに當り、先づ假説によつて之を説明することは、その方面の研究を促し、隨つて眞の原因を見出す緒ともなるもの故、學術の進步に對して、大に有功な場合もあるが、假説はどこまでも假説として取扱はねばならぬ。而して假説の眞らしさの度は之を以て説明し得べき事項の多少に比例するもの故、若し一の假説を以てそれに關する總べての事項を説明することが出來る場合には、差當り之を眞と見倣して置くが至當であるが、それを以て説明の出來ぬ事項が過半もある時には、之を誤と見倣して棄てるの外はない。ヴァイズマンの説の如きは事實と衝突する點も少からぬやうで、今日の所、尚幾多の論者が之に反對を表して居ること故、直に之を取つて推論の根據とするわけには行かぬ。蛙や鷄の發生を調べて見るに、最初の間は生殖の器官もなければ他の器官もなく、全く何の區別もないが、發生の進むに隨ひ、身體の各部が漸々分化し、腦も出來れば、肺も出來、胃も心臟も追々現れ、それと同時に生殖の器官も生ずる。之だけは眼で明に見えること故、確な事實であるが、かやうに分化せぬ前にも生殖物質と身體物質とは全く分れて居て、後に生殖の器官となるべき部には、初から特別な生殖物質が存して居るといふのは單に想像に過ぎぬ。

 また雌雄生殖を以て無限の變異を生ずるための手段と見倣すことも頗る受取り難い説である。ヴァイズマンは「雌雄生殖によれば、二個の異なつた個體の生殖物質が組み合つて子の生殖物質が出來るから、斯くして生じた子が自分と同樣な相手を求めて孫を生めば、孫の代には父方の祖父母と母方の祖父母と都合四個の生殖物質が組み合ひ、三代目には八個の個體の生殖物質が組み合ひ、代々益々多數な個體の生殖物質が組合つた結果、生殖物質の種類が無限に出來るが、子孫の身體は總べてその親の體内にあつた生殖物質から生ずるもの故、生殖物質に斯く無限の種類があれば、生れる子孫にも無限の變異が現れる。而してこれ等のものが生存競爭をして、その中最も適するものだけが生き殘るから、その生物の種屬は漸々進化する」と論ずるが、若し個體間の變異が單にかやうにしてのみ生ずるものならば、その變異は如何に多くても、決して一定の範圍を超えることは出來ぬ。先祖の性質を種々に組み合せれば、幾らでも變異を造ることは出來るが、先祖の性質以外のものが新に生ずることがないから、この中から代々どれが選ばれようとも、先祖に見ぬやうな全く別な性質が發達する望はないやうである。尚ヴァイズマンの説に對する批評は、別に後の章に述べるから、こゝには略するが、同説は前にも論じた通り、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質の方は先祖より子孫へ直接に繼續し、身體物質の方は一代每に新に生殖物質から分かれ生ずるものであるとの假定を根據とし、この假定を護るために必要に應じて樣々な假説を附け加へたものであるから、若しこの根本の假定が誤であつたとすれば、他の部分は皆これとともに不用と成るべき性質のものである。またヴァイズマンは前以て幾度も論文を發表して、如何なる種類の後天的性質でも子に遺傳する如くにいうた傳來の俗説を見事に敗り終つた後に、生殖物質繼續説を著して、更に理論上から後天的性質の遺傳を否定したから、その功果は著しく現れ、多數の學者は之に化せられて、ラマルク説を全く度外するに至つた。今日親が新に獲た性質は子に遺傳せぬと論じて居る學者は隨分澤山にあるが、皆ヴァイズマンの説を採つて居るのであるから、この説は、ダーウィン以後の學説の中で、確に最多數の人に對して最大な影響を及ぼしたものであらう。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(39) 佛教の渡來(Ⅱ)

 

 佛教には多くの形式があり、近代の日本には十二からの主なる佛教の宗派がある、併し今爰處[やぶちゃん注:「爰處」で「ここ」。]では、最も概括的に、一般的な佛教に就いて話せば足りるであらう。一般的な佛教は哲學的な佛教と區別されるものであるが、それに就いては次の章で觸れる事にする。大乘佛教は、何時如何なる國でも、多數の信じ奉者を獲る事が出來なかった。その特有の教義――涅槃の教への如き――が普通の人に教へ込まれたと想ふのは誤りである。人々に教ヘ込ま込まれたのは只だ極めて素朴な心にも解るやうに、又好かれるやうに説かれた教義の種類に渦ぎない。『人見て、法を説け』と云ふ佛教の諺がある――その意味は教を聽者の能力に適應させよと云ふのである。日本では、支那でもさうであるが、佛教はその教を、未だ抽象的觀念に馴らされてゐない大きな階級の人々の心意の能力に順應させなければならなかつた。現在でさへ、民衆は涅槃と云ふ言葉の意味をよくは知らない、彼等は宗教の極簡單な形式だけしか教へられてゐない、これ等の事を考へて見れば、宗派とか教義とかの相違は考へる必娶はないと思ふ。

[やぶちゃん注:「近代の日本には十二からの主なる佛教の宗派がある」小泉八雲は最後で「宗派とか教義とかの相違は考へる必娶はないと思ふ」と述べているが、例えば、藤井正治著「仏教入門」に拠るとする個人サイト内の日本仏教宗派一覧表では、法相宗・華厳宗・律宗(以上は奈良仏教(教学系))・天台宗・真言宗(以上は密教系)・融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗(以上は浄土教)・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(以上は禅宗)・日蓮宗の十三宗を挙げている。この中から八雲が数えなかった融通念仏宗であろうか。私は少なくとも名数に入れない。]

 

 佛教の教が一般民衆の心に及ぼした直接の影響を了解するには、神道には輪𢌞の教へがないと云ふ事を記憶して置かなければならない。前にも云つたやうに、死者の靈魂は、日本の古い考へに從へば、つづいて世の中に存在して居るのである。死者の靈魂は、どうかして自然の目に見えない力と混じり合ひ、且つ自然の力を通じて働いて居るのである。一切の事がこの靈魂の――善惡兩樣の  ――仲介に依つて起るのである。生存中惡るかつたものは、死後も尚ほ惡であり、生存中善良であったものは、死後も善神になる、併しいづれにしても兩者共に奉祭を受けるのである。佛教の渡來前は、未來で賞罰を受けるといふ思想はなかつた。何等天國とか地獄とか云ふ觀念はなかった。亡靈や神々の幸福は、生きて居る者の禮拜と供物とに懸かつてゐると考へられてゐたのである。

 これ等の古い信仰に對して、佛教は僅にそれを敷衍し、説明する事に依つて、それに關する事を企てた――それを全然新しい知識の下に解釋する事に依つて。則ち變形は成就し得た。併し抑壓は出來なかつた。佛教は古い信仰の全體を受け入れたとさへ云つていい位であつた。この新しい教へは云つた。死者は視界の外に存在を績けると云ふのは眞實だ、それは萬人皆・晩かれ早かれ佛――神の狀態――の路に入るべき運命にあるもの故、神になつたと考へるのは誤りではないと。佛教は神道の大なる神々を、その性賀や位と共に、認めた――而して言ふ、それは佛陀若しくは菩薩の權化であると、かくて太陽の女神は大日如來 Tathâgata  Mahâvirokana と同一に視られ、八幡宮は阿彌陀 Amitâbha とに同一に視られた。又佛教は妖魔や惡神の存在をも否定はしなかつた、それ等は  Pretas(餓鬼)や ârakâyikas(魔)と同じに視られた、妖魔則ち Goblin に當たる目本の普通の言葉で言ふ、魔といふ言葉は、今日この同一視された事を想ひ起させる。惡靈に就いては、前世の惡業に依り自業自得で、永遠の饑餓の圈内に追ひ込まれる運命にある Pretas――餓鬼――として考へらるべきであつた。昔いろいろな惡疫の神――熱病、疱瘡、赤痢、肺病、咳、風邪の神――に供せられた生贄は、佛教の是認する所となつて存續した。併し改宗した者はかかる害あるものを Pretas(餓鬼)と看倣し、且つ Pretasに捧げられるやうな食物の供物のみを、それ等の神々に供へる事を命ぜられた――それは贖罪のためではなく、亡靈の苦しみを救ふ目的のためであつた。この場合は、祖先の霊魂の・場合と同じく、讀經は寧ろ亡靈のために唱へられるので、亡靈に向つて唱へられるのではないと佛教は定めたのである……。讀者はロオマの舊教が、同じ條件をつけて、昔のヨオロツパの祖先禮拜を、今尚ほ實際に存續さしてゐると云ふ事實を想ひ起すであらう。而して西歐諸國の何處でも、農夫達は尚ほその死者を萬靈節の夜に祭つでゐるのであるから、吾々は何處にもその禮拜が絶滅して居るとは考へ得ないのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。サンスクリット語のラテン文字転写のそれらの綴りは、総て原典で確認したが、「Mârakâyikas」は「Mârâyikâs」と、「Goblin」は「Gobliw」となっていたので、特異的に原典で訂した

「大日如來 Tathâgata Mahâvirokana」現行の大日如来の原語「マハーヴァイローチャナ」(「一切を照らし出す、偉大なる(前の「マハー」)存在」の意)のラテン文字転写では「Vairochana」或いは「Mahāvairocana」である。頭にあるのは「タターガタ」(「至上の尊者」の意)で現行では「tathāgata」と転写され、「如来」の意である。)

「阿彌陀 Amitâbha」現行の阿弥陀(如来)の原語「アミターバ」(「量り知れぬ光を持つ存在」の意)は「Amitābha」に、或は別に「アミターユス」(「量り知れぬ寿命を持つ存在」の意)とも称し、そちらは「Amitāyus」と音写する。

Pretas(餓鬼)」原語「プレータ」の転写「peta」の複数形。現行では「六道の内の餓鬼道に生まれた者」の意。本来の意味は広く「死者の霊」を指したが、仏教で輪廻転生の六道に組み込まれた結果、かく変容した。

「Mârakâyikas(魔)」「マーラ(Māra)」は、釈迦が悟りを開く禅定に入った際に、その瞑想を妨げるために現れたとされる魔神の名で「破壊者」の意である。英文サイトでは「マーラ」の正規表現としてこの文字列を見る。

Goblin」ゴブリン。西欧で信じられている、森や洞窟に住むという醜い小人の姿をした悪戯好きの精霊。ドイツで「コボルト」(Kobold)、フランスでは「ゴブラン」(Gobelin)と呼んだりする。映画で有名になったグレムリン(gremlin)もゴブリンの一種である。]

 

 併し佛教は舊い奉祭を存續した以上の事を爲したのである。佛教はその奉祭を更に立派なものに仕上げた。その教の下に、新しい麗はしい形式の家庭的祭祀が生まれた。そして近代日本に於ける祖先禮拜の、感動させるやうな詩情は、佛教の傳道者の教化に依つて得られた事を知る事が出來る。日本の佛教に改宗した者達は、その死者を古い意味での神と看倣す事は止めたけれども、努めてその存在分信じ、尊敬と情愛とを以てそれに呼びかけることはした。Pretas の教義が昔の家庭的奉祭を怠る事を恐れる感情に、新しい力を與ヘたと云ふ事は注意に値する。一般に嫌はれたる亡靈は、神道で用ふる言葉の意昧での『惡神』ではないかも知れない。併しながら惡念のある餓鬼は惡神よりも確に恐れられたのである――と云ふのは佛教は餓鬼の加害力を凄じいものと定めたからであつた。各種の佛教の葬式に於て、死者は實際に今でも餓鬼として呼びかけられてゐる――それは憐むべきものであるが、又恐るべき名ものである――これは人間の同情と救濟とを大いに要するものであるが、併し又靈力に依つて供養者に恩返しをする事の出來るものなのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、底本は一行空け。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十一年 『ホトトギス』東遷

 

     『ホトトギス』東遷

 

 三十一年後半の出来事として、特筆すべきものは、『ホトトギス』の東遷であろう。『ホトトギス』は創刊以来一年たったところで、巳に一度停頓の状を示したことがあった。極堂氏が多忙のため『ホトトギス』の仕事に鞅掌(おうしょう)[やぶちゃん注:忙しく立ち働いて暇のないこと。「鞅」は「担う」の意。]することが出来ず、編輯を他人に任そうかといって来た時である。居士はこれに対して種々の意見を具陳し、「何にもせよ小生はたゞ貴兄を賴むより外に術なく貴兄もし出來ぬとあれば勿論雜誌は出出來ぬことと存候」といい、また「一時編輯を他人に任すはよろしけれど到底それは一時のことにして再び貴兄の頭上に落ち來るは知れたことと存候」ともいっている。同じ手紙の中に「然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果少くと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思ふ存分の事出來申候」ということがある から、東遷の事は多少問題に上ったのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「極堂」正岡子規の同年の友人で、当時、海南新聞社員であった柳原極堂。既出既注。『ほとゝぎす』(創刊時はひらがな表記。カタカナ書きの『ホトヽギス』への改名は四年後の明治三四(一九〇一)年十月からで、則ち、この明治三十一年時点では『ほとゝぎす』であるので注意が必要)は明治三十年 『ホトトギス』生るに出た通り、明治三一(一八九七)年一月十五日に彼が松山で創刊した。]

 

 居士が『ホトトギス』の第四巻第一号に書いた文章によると、それから半年ほどたって、何分にも忙しくて困るが、雑誌は東京で引受けてやらぬか、ということを極堂氏からいって来た、東京でやるなどということは思いもよらぬので断ったが、当時帰郷中であった虚子氏が引受けてやることを思い立ち、居士に相談して来た、という経緯が述べてある。『ホトトギス』東遷の事はこの時決定したのである。

 二十六年の『俳諧』二十七年の『小日本』、居士の関係した新聞雑誌は皆早く挫折した。居士の念頭には常にこの事があったから、三度目の『ホトトギス』が出なくなるということについては、居士は人知れぬ苦痛を感ぜざるを得なかった。虚子氏に答えた長文の手紙にはこういう一節がある。

[やぶちゃん注:底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。底本の本表記は口語文の書簡であるため、歴史的仮名遣が総て現代仮名遣に書き換えられてしまっている。何時もの通り、原本「子規居士」に拠って正字化を含めて復元した。]

 

今一つ氣になつて居るのは『俳譜』といひ『小日本』といひ小生の關係した物は盡く失敗に終つた、尤も小生が自ら發起した者は無い。小生自ら發起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生はなかなか發起などせぬ、併し幾ら他人に誘はれたものでも三度となると少しは小生の男にもかゝる。『ホトトギス』は三度目ぢやけれ代りの雜誌が出來りや格別、さうでなければどうかして倒さぬやうにと心がけて居る。それであるから今度の計畫に就いても二の足を蹈む次第ぢや。併し男ぢや、只貴兄の決心次第ぢや。

[やぶちゃん注:「小生自ら發起した事があるならそれは小生の生命と終始すべきものであるけれ小生はなかなか發起などせぬ」「けれ」以下の繋ぎはママ。已然形の逆説用法だが、不全。当時の松山方言かも知れぬが、後の方の順接法の「ぢやけれ」はすんなり読めるので、私には不審。]

 

 居士は『ホトトギス』の存続について異常な執著を持っている。しかし自分でやって行くという段になると、幾多躊躇逡巡すべき理由がある。虚子氏に念を押すのはそれがためで、「つまり貴兄と小生と二人でやって行かねばならぬ、若し小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」その決心がついているかどうか、というのである。春以来此較的工合がいいといっても、居士の状態はそう平穏なわけでほない。「數日前寒暖計が九十五度に上つた、暑いのはそれ程苦まぬ小生も餘り苦し過ぎると思ふて驗溫器を取ると卅八度七分あつた。卅八度七分の熱を熱と知らないで天気の熱いと間違へて居る位ぢやけれ平生いかに苦に馴れて居るかは分るであらう、苦に馴れるといふほいつも苦んで居るといふ事ぢや」という位であった。極堂氏に発行を続けるように賴んだだけでも、一種の責任を感じて前より原稿を書くのに努力する居士としては、この病体を提げて絶対責任の地位に立つことを躊躇するのは、むしろ当然といわなければならぬ。

[やぶちゃん注:検温器の方の彼の体温三十八度七分は摂氏であるが、寒暖計の方は華氏。華氏「九十五度」は摂氏三十五度。]

 

 けれども『ホトトギス』の東遷は遂に実行された。はじめはこの機会に雑誌の名も改め、面目一新するつもりであったらしいが、結局いい思いつきもないため、『ホトトギス』[やぶちゃん注:くどいが、正しくは『ほとゝぎす』。]の名を継続して、松山で出た間の二十号までを第一巻とし、東遷後を第二巻と改むることに落着いた。

[やぶちゃん注:「『ホトトギス』の名を継続して」くどいが、正しくは『ほとゝぎす』。後の改題が『ホトヽギス』というただのカタカナ変更である以上、私はここは正しく書かなければ意味をなさぬと思うのである。残念なことに原典の「子規居士」でも同様に処置してしまっており、「ゝ」「ヽ」も正字化されてしまっているから、同俳誌の標題変遷過程を事前に全く知らない読者は困る。これは私にとっては下らない指摘ではなく、重大な疑義なのである。]

 

 『ホトトギス』東遷の事が決してから、居士が各方面に発した手紙を見ると、殆どどれにも『ホトトギス』に関することが記されている。「死地に踏み込む心持」といい「死を決し申候」というような言葉が見えるのも、居士にあっては決して誇張の言ではない。それだけ将来の責任を予想してかかったので、軽々に著手せず、一大決心を要した所以もここに存するのである。一度決心した以上は、雑誌の体裁から原稿の取捨に至るまで、悉く居士自身当らなければならぬ。中村不折、下村為山(いざん)(牛伴(ぎゅうはん))両氏の口画(くちえ)が意に満たぬため、画き直しを頼んだりする事件もこの間に起っている。何事もいい加減に配すことの出来ぬ居士は、不折氏の書いてくれた広告の文字まで、自分で書き改めたものに替えるほどの熱心さであった。

[やぶちゃん注:「中村不折」既出既注

「下村為山(牛伴)」(慶応元(一八六五)年~昭和二四(一九四九)年)は洋画家・俳人。後年は俳画(近代南画)へ転身して、その第一人者となった。松山藩士の次男として松山城下に生まれ、明治一五(一八八二)年に上京し、本多錦吉郎・小山正太郎(彼の起した不同舎では後輩に前の中村不折がいた)に洋画を学び、同郷の正岡子規と知りあって俳句を嗜むようになり、俳諧研究に手を染め、彼の絵画に於ける写生論が、逆に子規の俳句革新に大きい影響を及ぼしたとされる。中村不折とは同門の双璧と讃えられた。]

2018/05/12

北條九代記 卷第十二 相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸

 

      ○相摸守高時出家 付 後醍醐帝南北行幸

嘉曆元年三月に、高時、既に剃髮し、法名をば宗鑒(そうかん)とぞ號しける。舍弟左近大夫泰家を鎌倉の執權として、金澤修理大夫貞顯と連署せさせんとしける所に、長崎新左衞門尉高資、同心せず、押(おさ)へて泰家を出家せしむ。泰家、大に憤妬(いきどほりねた)みて、貞顯を殺さんと計る。貞顯、思ひけるは、『枝葉(しえふ)の職に居て、身を苦め、心を惱(なやま)し、人の嘲(あざけり)を蒙(かうぶ)らんは、偏に世の亂根となり、家門の爲、然るべからず』。これとても、俄に入道して、相模守守時と北條左近太郎維貞(これさだ)と兩人を以て執權とす。泰家は、鎌倉、亡びて後に還俗し、西園寺の家に忍びでありけるが、刑部卿時興(ときおき)と名を替へて、謀叛しける人なり。維貞は、翌年十月に病死せられたりければ、自(おのづから)遺恨も止みて、別事(べつじ)なく成りにけり。元德二年二月に、主上、思召立ちて、南都に行幸ましましけり。同月の末に及びて、還御あり、又、北嶺に行幸(ぎやうかう)あり。是(これ)、更に佛法信心の爲にあらず、東夷(とうい)征伐の評議を以て衆徒の心を傾けられん謀(はかりごと)とぞ聞えし。當時、山門の貫主(くわんしゆ)は、主上第六の皇子、御母は大納言公廉(きんかど)卿の娘にて、梨本(なしもと)の門跡に御入室あり。承鎭(しようちん)親王の御門弟となり、圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に、實相眞如(じつさうしんによ)の月を弄(ろう)し、荊溪(けいけい)玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)を汲んで、本有常住(ほんうじやうじう)の德を澄(すま)しめ給ひし所に、主上、思召立つ事有りてより、行學修道(ぎやうがしゆゆだう)の勤(つとめ)を捨てて、勁捷武勇(けいせふぶよう)の稽古の外、他事(たじ)なし。大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王とは、この御事を申すなり。主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける。その中にも、大塔宮は殊に武勇智謀に長じ給ひ、主上の御爲、柱礎爪牙(ちうそさうげ)の猛將にて渡らせ給ひける所に、運命、空(むなし)く閉ぢて、後に關東に引下され、直義(なほよし)が爲に殺せられ給ひけるこそ口惜(くちをし)けれ。同五月、二階堂下野〔の〕判官、長井遠江守、二人、關東より上洛す。法勝寺(ほふしようじの)圓觀(ゑんくわん)上人、小野文觀(をのゝもんくわん)僧正、南都の知教(ちけう)、教圓(けうゑん)、淨土寺の忠圓僧正を六波羅へ召捕りたり。是は去ぬる比、主上中宮、御産の御祈(いのり)に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ、猶、主上御謀叛の子細を尋ねられん爲なり。又、二條中將爲明(ためあきら)は主上の近臣なりとて、六波羅へ召捕りて、拷問・水火(すゐくわ)の責(せめ)に及ばんとせし所に、

 

   思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは

 

常盤(ときは)駿河守範貞、この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。忠圓、文觀、圓觀の三僧は、關東へ倶せられて、主上御謀叛の事、具(つぶさ)に白狀せられければ、後に遠流(をんる)に所(しよ)せられけり。君の御隱謀、今は疑ふ所なしとて、同七月、俊基朝臣、重ねて鎌倉へ召下され、粧坂(けはいざか)にして斬れ給ふ。日野中納言資朝〔の〕卿は、佐渡の配所にして、本間山城〔の〕入道に仰せて、斬せられしかば、資朝の子阿新殿(あにひどの)、本間を殺して、父の仇(あだ)を報ぜられけり。資朝、俊基兩人は、殊に隱謀密策の張本(ちやうぼん)なる故とぞ聞えし。

[やぶちゃん注:和歌は前後を一行空けた。

「嘉曆元年三月」十三日。一三二六年。正確には正中三年である。正中三年は後の四月二十六日に嘉暦に改元するからである。

「舎弟左近大夫泰家」第九代執権北条貞時四男で第十四代執権北条高時の同母弟である北条泰家(?~建武二(一三三五)年頃?)。ウィキの「北条泰家」より引く。『はじめ、相模四郎時利と号した』。ここで『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』第十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。正慶二/元弘三(一三三三)年、『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗』(彼が関東申次で親幕派であったことによる)『の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』(高時の遺児時行が御内人の諏訪頼重らに擁立されて幕府再興のために挙兵した「中先代(なかせんだい)の乱は、この二ヶ月後の七月)。その後、建武三年二月、『南朝に呼応して信濃国麻績御厨』(おみのみくり)『で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には』建武二年末に『野盗によって殺害されたとも言われて』おり、「太平記」でも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「金澤修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。「卷第十二 金澤家譜 付 文庫」に一部を注したので、それに続けて、ウィキの「北条貞顕」から引く(一部、前の「舎弟左近大夫泰家」の注とダブる)。正和五(一三一六)年七月に『北条高時が執権になると、病弱な高時を補佐することになった』。この時、『高時が病気で執権職を辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と高時の弟の北条泰家(後の時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する』。三月十六日、『貞顕は内管領・長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて』第十五『代執権に就任する。このとき』、『貞顕は「面目、極まりなく候」と素直に喜び、執権就任の日から評定に出席するなど』、『精力的な活動を見せた』。しかし、『貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家し』ている。『これにより』、『貞顕暗殺の風聞まで立ったため』、『窮地に立たされた貞顕は』十『日後』『に執権職を辞職して出家した(法名は崇顕)』。『そして新たな執権には』、四月二十四日に『北条守時が就任した』(嘉暦の騒動)。『出家後の貞顕は息子の貞将・貞冬らの栄達を見ることを楽しみにしていたとい』い、『六波羅探題南方として在京する貞将に鎌倉の情勢を伝えたりする役目も勤めている。なお、金沢流は貞顕の出世のため、貞将・貞冬の時代にも幕府の中枢を担うようになっていた』。元徳二(一三三〇)年閏六月頃、『貞顕は眼病を患っており』、閏六月三日付の『書状では子の貞将宛にそれを』伝えている。『新田義貞が上野で挙兵して鎌倉に攻め寄せ』た時には、『貞顕の嫡子の貞将と』、『その嫡男の北条忠時ら金沢一族の多くは』、『巨福呂坂を守備して新田軍と戦い』、『奮戦したが討死にした。そして』五月二十二日、『崇顕貞顕は高時と共に北条得宗家の菩提寺である鎌倉・東勝寺に移り最後の拠点として北条一族の多くと共に新田軍と少し戦った後、自刃した(東勝寺合戦)』享年五十六であった。

「相模守守時」第六代執権北条長時の曾孫にあたる北条(赤橋)守時 (永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「北條左近太郎維貞(これさだ)」第十一代執権北条(大仏(おさらぎ))宗宣の子で大仏流当主となった北条維貞(弘安八(一二八五)年或いは翌年?~嘉暦二(一三二七)年)。朝直の曾孫。ウィキの「北条維貞」より引く。嘉元二(一三〇四)年に『引付衆に任じられる。以後は小侍奉行、評定衆、引付頭と順調に出世を重ね』正和四(一三一五)年には『六波羅探題南方に任じられて西国・畿内の悪党の取り締まりに尽力した』が、元亨四(一三二四)年に『探題職の辞任を命じられ、鎌倉への帰還を命じられたが、このときに後任の北条貞将への引き継ぎ、さらに空白の合間をぬって後醍醐天皇一派によって』、九月には「正中の変」が『引き起こされている。そ』の『変後の』十月三十日には『評定衆に返り咲い』ている。正中三(一三二六)年四月二十四日に『連署となり、第』十六『代執権の北条守時を補佐した。しかしこれは同年の嘉暦の騒動』を受けての、『内管領として幕政を主導していた長崎高資らによる融和策の一環として維貞が利用されたものとされる。そしてほどなくして病に倒れ、出家して』亡くなった』。『家督は嫡子の高宣(たかのぶ)が継いだが』、翌年に『早世し、弟の家時(いえとき)が家督を継いだ。大仏一族はのち、家時が鎌倉幕府滅亡時に自決し、貞宗、高直らが降伏後に処刑されている』とある。

「維貞は、翌年十月に病死せられたり」誤り維貞の逝去は嘉暦二年九月七日(一三二七年九月二十二日)である。

「元德二年二月」誤り三月。「元德二年」は一三三〇年。

「南都」東大寺と興福寺。

「北嶺」延暦寺。

「山門の貫主」ここは延暦寺の貫主、天台座主(ざす)のこと。

「主上第六の皇子」これは最後に「大塔宮護良(だいたふのみやもりなが)親王」とするので、かの悲劇の後醍醐天皇の皇子護良親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年七月二十三日鎌倉:「もりよし」とも読む)ということになる。「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に代えた。『母は権大納言源師親の娘親子』。『鎌倉幕府追討のため』、『有力社寺との連絡を考慮した後醍醐天皇の意を受け、梶井門跡の大塔に入室』、嘉暦元 (一三二六) 年、落飾して尊雲法親王と称し、世に大塔宮といわれた。同』二年には『天台座主となり、関東調伏の祈祷をし、山門衆徒の収攬に努めた』元徳三 (一三三一) 年の「元弘の乱」が起こると、翌年、『還俗して護良と改名、吉野に兵をあげた。楠木正成の赤坂城が落ちてからは』、『幕府の追及を逃れて十津川。吉野。熊野などに転じ、各地の武士や社寺に反幕府の決起を促した。元弘三/正慶二 (一三三三) 年後醍醐天皇の京都還御とともに入洛して征夷大将軍となり、兵部卿に任じられたが、まもなく足利尊氏との反目が起り、その勢力削減をねらって楠木、新田、名和氏らと画策したが』、『失敗』、『一方、成良親王の皇太子が廃止されるのを恐れた後醍醐天皇の後宮藤原廉子 (のちの新待賢門院) の讒言もあって』建武元 (一三三四) 年には『鎌倉に流されて幽閉され、同』二年七月に「中先代の乱」が『起ると、足利直義の命を受けた淵辺義博に弑殺された』。なお、彼が『大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである』とウィキの「護良親王」にある。

「大納言公廉(きんかど)卿の娘」そうなると後醍醐天皇の室の一人、二条為子を指すであるが、これは誤り二条為子の父は二条為世(ためよ)である(「大納言公廉」とは阿野(藤原)公廉で、その娘は後醍醐天皇の別な寵妃で後村上天皇(義良親王)などを産んだ阿野廉子である)。そもそもが、為子は尊良親王や宗良親王の母であって、護良親王の母ではない。ここは、北畠師親(村上源氏中院流)の娘で後醍醐のやはり別な室であった北畠親子でなくてはおかしいのである。因みに、どうしてこんな混乱が筆者に起こったのかを推理してみると、後醍醐天皇には室が大勢おり、皇子もさわにあって、しかも、それらの名が皇族であるから仕方がないのだが、「~良親王」という一字違いの名であること、護良親王と同じような働きをした皇子がおり、それがまた天台座主を勤めていたからではないかと思うのである。それが直前に出した、第百二十世・第百二十三世天台座主で後醍醐天皇の皇子で還俗した宗良親王(むねよし/むねながしんのう 応長元(一三一一)年~元中二/至徳二(一三八五)年?)なのである。彼は、当初、妙法院に入室し、出家して尊澄法親王と称し、同門跡を嗣ぎ、さらに天台座主となった(就任は元徳二(一三三〇)年)。父である後醍醐天皇が討幕活動を開始すると、行動をともにし、「元弘の変」(一三三一年)後、幕府方によって讃岐へ流されたが、幕府の滅亡と建武の新政で京に戻り、天台座主に還任した。しかし、南北朝内乱が始まると、また還俗して宗良と名乗り、父天皇の軍事面の一翼を担った。まず、伊勢に赴いて、その後、遠江井伊城に入った。一時、吉野に戻って、暦応元/延元三(一三三八)年九月には北畠親房らとともに、船で伊勢大湊から東国を目指したが、台風によって親王の一行のみ、遠江に漂着、再び井伊城に入り、以後、信濃を中心に北陸・関東に転戦した。南朝勢力が下降すると、信濃小笠原氏に押され、同国伊那地方に籠もったが、その間、何回か南朝行宮(あんぐう)に赴いている。和歌に秀で、歌集「李花集」があるほか、南朝関係者の和歌を集め、勅撰集に準ぜられた「新葉和歌集」を編集している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)という人物だ。これはどちらにも悪いが、何とも紛らわしいのである。

「梨本(なしもと)の門跡」増淵氏の割注に『現在の大原三千院。天台三門跡(皇子などの居住する特定の寺』で、後の二つは青蓮院と妙法院である)『の一』つ、とある。ウィキの「護良親王」によれば、六『歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した』とあり、この叙述と一致する。六歳というと、正和二(一三一三)年頃となる。

「承鎭(しようちん)親王」増淵氏の割注に『後宇多院養子、岩倉宮の子』とある。

「圓頓止觀(ゑんとんしかん)の窓の前に」「圓頓止觀」は通常「えんどんしかん」と濁る。人格を完成させた完璧な悟りの境地を指す語で、総ての真存在の理法を完全に具備し(あらゆる存在がそのまま全体(円)として直ちに真実の法則に合致すること)、雑念なく、直ちに悟りに到る境地のこと。主に天台宗で「漸次止観」「不定止観」と合わせて「三種止観」と呼ばれる。「窓の前に」は、それを学ぶことの比喩。以下も同じ。

「實相眞如(じつさうしんによ)」「實相」と「眞如」は同じ存在体を異なる立場から名づけたもの。万有の本体。永久不変にして平等無差別なもの。即ち、涅槃・法身・仏性(ぶっしょう)を指す。

「荊溪(けいけい)」中国の天台宗の第九祖で天台中興の祖とされる湛然(たんねん 七一一年~七八二年)のこと。「荊渓尊者」「妙楽大師」と称された。初祖智顗(ちぎ)の著述の研究とその教学の宣揚に努めた。「溪」や「湛然」という名(「湛然」は一般名詞で「静かに水をたたえているさま・静かで動かないさま」の意)から、「玉」露の「泉」の比喩を成したのである。

「本有常住(ほんうじやうじう)」現行では諸宗派は「ほんぬじょうじゅう」と読んでいる。本来固有にして生滅変化することがなく、三世に亙って常に存在すること。仏性が一切の有情非情に本来的に平等に備わっており、無始無終の存在であることなどを意味する。

「勁捷武勇(けいせふ)」強靱にして素早いこと。

「主上は男女に付きて、皇子(みこ)九人、皇女十九人までおはしける」後醍醐の子女は、ウィキの「後醍醐天皇」のデータで数えてみると、実に二十一人の皇子と二十三人の皇女がいる

「柱礎爪牙(ちうそさうげ)」ある対象(事物・行動)の大黒柱や土台石、重要な基本部分や根幹となるもの、また、外部からの攻撃や抵抗勢力に対する、爪や牙のような非常に強力な武器となることを言う。

「直義(なほよし)」足利直義(あしかがただよし 徳治元(一三〇六)年~観応三/正平七年二月二十六日(一三五二年三月十二日))足利貞氏の子で兄尊氏とともに建武政権樹立に貢献、建武二年の「中先代(なかせんだい)の乱」に際し、護良親王を殺害したことから、建武政権と決別、室町幕府創設後は尊氏を補佐したが、後、執事高師直(こうのもろなお)と対立し、兄尊氏とも不和となってしまう(観応の擾乱)。一時は和睦したが、再び尊氏と戦って降伏、鎌倉で四十七歳で死去した。兄による毒殺とされる(概ね、講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

「同五月」叙述からは元徳二(一三三〇)年になってしまうので、誤り元弘元(一三三一)年

「二階堂下野〔の〕判官」二階堂時元(?~暦応元/延元三(一三三九)年)。二階堂元重の孫で行元の子。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『二階堂一族の一員として鎌倉幕府の政務官僚をつとめていた』。「太平記」ではこの『「元弘の変」の際に幕府の使者として「二階堂下野判官」』『時元が長井遠江守と共に上洛したと書かれているが、史実ではこの時の幕府の使者は別の二人と確認されており、時元が実際に上洛したかは不明である』とある。その後、正慶元/元弘三(一三三三)九月には『畿内の討幕派鎮圧のために派遣された幕府軍に参加(同族の二階堂道蘊もいた)。恐らく吉野や千早城の攻撃に参加し、そのまま幕府の滅亡を迎えて後醍醐側に投降したと思われる。他の二階堂一族と同様にその政務能力を買われていたはずである』とし、『足利幕府が発足するとこれに参画し、建武四/延元二(一三三七)年には『幕府の内談衆メンバーにその名がみえる』とある。調べてみると、二階堂氏の中には足利氏に転じて命脈を保った流れが結構あるようである。

「長井遠江守」不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『鎌倉幕府の実務官僚を多く出した長井氏の誰かと思われるが』、『実名不明』とある。

「法勝寺」(ほっしょうじ)は平安時代から室町時代まで平安京の東郊白河(現在の岡崎公園・京都市動物園周辺。この附近(グーグル・マップ・データ))にあった六勝寺(同時代に建立された「勝」の字を持つ勅願寺六ヶ寺)の筆頭とされた寺。白河天皇が承保三(一〇七六)年に建立した。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後に衰微廃絶した。

「圓觀(ゑんくわん)上人」弘安四(一二八一)年~延文元/正平一一(一三五六)年)は南北朝時代を代表する天台宗の高僧で、「太平記」作者説もある人物。サイト「南北朝列伝」のこちらに詳しく、『皇室の帰依も受け、後伏見・花園・後醍醐に円頓戒を授け、とくに後醍醐の信任を受け嘉暦元年』(一三二六年)『の中宮安産祈願にかこつけた倒幕の祈祷に文観とともに参加している』。ここにあるように、その一件が露見して『捕えられ』、六『月に取り調べのため』、『鎌倉に送られた』が、『「太平記」によれば』、『鎌倉についた円観は北条一門の佐介越前守に預けられ、文観・忠円が拷問にかけられ』、『白状したあと』、『円観も拷問にかけられようとしたが、北条高時が夢に比叡山の神獣・猿たちが円観を守ろうとする光景を見て、さらに佐介越前守が円観の様子を見に行ったところ』、『障子越しの円観の影が不動明王の姿に見えた。これらの奇跡を見て恐れをなした高時は円観の拷問を中止させ、当初遠流に決定していたところを奥州・白河の結城宗広に預けるという軽い処分で済ませた』とある。後に『幕府が滅ぼされ』、『建武政権が成立すると、円観は』『京に戻った』。『法勝寺住持に返り咲いた円観は、同じく流刑地から戻った文観と共に後醍醐から厚く遇せられ』、『「権勢無双」と称され、「法勝寺の僧」と聞いただけで関所の兵士たちが弓を伏せうずくまったと伝えられる』とある。

「小野文觀(をのゝもんくわん)僧正」(弘安元(一二七八)年~延文二/正平一二(一三五七)年:「もんがん」とも)は、やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の腹心となった僧侶。邪教とされる「真言立川流」の大成者とされ、その人脈と存在感から「南北朝動乱の影の演出者」「怪僧・妖僧」とまで呼ばれる』とある。「小野」は京都市山科区小野(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗小野随心院。小野小町所縁の寺としても知られる。珍しく私も行ったことがある。

「南都の知教(ちけう)」尊鏡(そんぎょう 文永二(一二六五)年~?)のこと。やはりサイト「南北朝列伝」のこちらに詳しい。冒頭に『後醍醐天皇の討幕計画に参加した律宗僧。『太平記』では「知教」、花園天皇の日記では「智暁」、『鎌倉年代記裏書』では「智教」と表記されているが、その正体は西大寺の智篋房(ちぎょうぼう)尊鏡であることが近年研究者により解明されている』とある。

「教圓(けうゑん)」これは「太平記」に記載する名で、サイト「南北朝列伝」のこちらを見るに、慶円(ぎょうえん 文永元(一二六四)年~暦応四/興国二(一三四一)年)である。冒頭に『後醍醐の討幕計画に関与した唐招提寺の僧』とある。

「淨土寺」かつて銀閣寺(正式名称は慈照寺)の場所にあった天台宗寺院か。

「忠圓僧正」は生没年不詳。サイト「南北朝列伝」のこちらを参照されたいが、それによれば、「太平記」『では忠円自身は呪詛には参加していなかったが、後醍醐に近い立場にあって仏教界に顔が広く、陰謀について知らないはずがないというのが逮捕の理由であったとされる(』『実際には呪詛に関与した可能性が高い)』。『忠円は円観・文観と共に鎌倉に送られ、足利貞氏(尊氏の父)の屋敷に預けられた』が、「太平記」によると、『忠円は元来』、『臆病な性格であったため拷問されそうになると』、『たちまち後醍醐の陰謀についてすべて白状してしまったという。幕府は忠円を越後国へ流刑にしたというが、その後の消息は不明である』とある。また「太平記」巻二十五では、『「観応の擾乱」の前触れとして仁和寺に護良親王ら南朝方の怨霊が集まり世を乱す陰謀を語る逸話があり、ここで忠円は峰僧正春雅・智教上人(尊鏡)と共に天狗の姿になって登場、怨霊たちがそれぞれに幕府の有力者にとりついて世を乱そうと提案している。忠円自身は高師直・高師泰兄弟の心にとりついて足利直義と争わせたことになっている。こうした描写からすると、忠円は配流先の越後で死去したということだろうか』と記しておられる。

「主上中宮」後醍醐天皇の中宮西園寺禧子(きし 嘉元元(一三〇三)年~元弘三(一三三三)年)。太政大臣西園寺実兼の三女。

「御産の御祈に事寄せて、鎌倉調伏の法を行はれしと聞えければ」ウィキの「西園寺禧子」に、『禧子は』正和四(一三一五)年に『第二皇女、懽子内親王(のちの光厳上皇妃、宣政門院)を出産しているが、その後は自身の上臈であった阿野廉子に天皇の寵愛を奪われたこともあってか、子女を産むことはなかった』。『なお、天皇がしばしば中宮御産の祈祷を行ったとされ、通説ではこれを「関東調伏」の祈祷の口実とするが』、歴史学者『河内祥輔は関東申次として幕府にも強い影響力を及ぼした西園寺家を外戚とする親王が誕生すれば、将来の皇位継承から除外された後醍醐天皇の皇子といえども』、『鎌倉幕府がこれを無視することが困難になるため、禧子所生の親王の誕生を必要としたとする説を提示している』とある。

「二條中將爲明(ためあきら)」二条為明(永仁三(一二九五)年~貞治三/正平一九(一三六四)年)。二条為藤の子で、歌壇の中心人物として活動し、後光厳天皇から「新拾遺和歌集」の撰集を命じられたが、撰の途中で死去した。歌は「続(しょく)千載和歌集」などにあり、勅撰入集数は計四十五首ある。

「思ひきや我が敷島の道ならで浮世のことを問(とは)るべしとは」水垣久氏のサイト「やまとうた」の「千人万首」の「二条為明」に「太平記」所収として、本歌を載せ、「補記」で、

   《引用開始》

太平記巻二「僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事」。元徳三年=元弘元年(1331)、後醍醐天皇の討幕計画が漏れた際、為明は側近の歌人として六波羅に捕われた。拷問にかけられようとした時、硯を所望し、料紙にこの歌を書いた。幕府の使者たちはこれを読んで感涙し、為明はあやうく責を遁れたという。和歌としてすぐれた作ではないが、南北朝の政争に翻弄された歌人為明の人生を象徴するという意味では彼の代表作となろう。為明の歌人としての名声はこの一首によって高まったという(近来風体抄)

   《引用終了》

 

「常盤(ときは)駿河守範貞」北条範貞(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)。北条氏極楽寺流の支流常盤流の当主。父は北条時範、重時の曾孫である。北条貞時が得宗家当主であった期間内(一二八四年~一三一一年)に元服し、「貞」の偏諱を受けたと見られる。正和四(一三一五)年に引付衆に任ぜられて幕政に参画。元応二(一三二〇)年には評定衆に補充された。元亨元(一三二一)年、六波羅探題北方に任命されて上洛、元徳二(一三三〇)年、北条仲時と交替するまで九年間、務めた。同年、帰還した鎌倉で三番引付頭人に就任した。元徳元(一三二九)年に駿河守に任ぜられている。「太平記」によれば、新田義貞による鎌倉攻めに際し、他の北条一族と共に自害して果てた(東勝寺合戦)とする。同じく「太平記」では北条貞将とともに六波羅探題留任の要請を謝絶したこと、謀叛の廉で捕らえられた二条為明への尋問を行い、為明の披露した歌を聞き、無実であると裁定を下して釈放したことなどが記されている。彼は歌人でもあり、勅撰集に三首収録されている(以上はウィキの「北条範貞」に拠った)。

この歌を見て、關東の兩使と共に感淚を流し、卽ち、許されて、過(とが)なき人になりたり。「所(しよ)せられけり」処罰された。

「同七月」これも前が元弘元年なので誤りで、月も違う日野俊基の処刑は元弘二(一三三二)年六月である。

「俊基朝臣」日野俊基(?~元弘二/正慶元年六月三日(一三三二年六月二十六日))刑部卿日野種範の子。既出既注であるが、再掲しておく。文保二(一三一八)年の後醍醐天皇の親政に参加し、蔵人となり、後醍醐の朱子学(宋学)志向に影響を受けて、討幕のための謀議に加わった。諸国を巡り、反幕府勢力を募ったが、六波羅探題に察知され、正中の変で同族の日野資朝らとともに逮捕された。彼の方は処罰を逃れ、京都へ戻ったが、この「元弘の乱」の密議で再び捕らえられて、得宗被官諏訪左衛門尉に預けられた後、鎌倉の葛原岡(ここでは「化粧坂(けはいざか)」とするがこの切通しは葛原岡の南の上り坂口ではあるものの、そこで処刑されたのではないから、やはりおかしい)処刑された。

「日野中納言資朝」(正応三(一二九〇)年~元弘二/正慶元(一三三二)年)日野俊光の子。やはり既出既注であるが、再掲しておく。後醍醐天皇の信任を得て、元亨元 (一三二一) 年に参議となり、院政をやめて親政を始めた天皇が、密かに計画した討幕計画に同族の日野俊基らと加わり、同三年、東国武士の奮起を促すために下向した。しかし、翌正中元 (一三二四) 年九月に討幕の陰謀が漏洩し、六波羅探題に捕えられ、鎌倉に送られ、翌二年に佐渡に流された (正中の変) 。その後、この後醍醐天皇の再度の討幕計画の発覚 (元弘の乱)した際、配所で処刑されている。

「本間山城〔の〕入道」(?~正慶元/元弘二(一三三二)?)は佐渡守護代。サイト「南北朝列伝」のこちらによれば、『本間氏は北条氏大仏流の家臣。佐渡守護の大仏家に代わって守護代として佐渡支配にあたっていた。実態としては守護代というより』、『現地地頭と言った方がいいとの意見もある』。『本間山城入道は』「太平記」巻二に登場し、『「正中の変」で佐渡へ流刑となった日野資朝を預かっていたが、「元弘の乱」が起こったために幕府の命を受けて資朝を処刑する役回りである』。「太平記」では元徳三/元弘元年の『うちに処刑される展開になっているが、史実では乱がひとまず鎮圧され』、『後醍醐天皇が隠岐へ流された後の』正慶元/元弘二(一三三二)年六月二日に『処刑が執行されている』。「太平記」では『処刑直前に資朝の子・阿新丸が佐渡までやって来て、本間山城入道は哀れには思って丁重に扱いつつも』、『父子の面会は許さぬまま』、『処刑する。そのために阿新丸に父の仇として命を狙われるが』、『代わりに息子の本間三郎が殺されてしまうという展開になっている』。『雑多系本間氏系図では』、『この山城入道に該当しそうな人物として「泰宣」がいる。この系図では彼が「山城兵衛尉」であったとしているためだが、「正慶元年六月十日死」と注記されており、これが事実であれば』、『資朝処刑の直後に死去したことになる』。しかし『一方』では新田の『鎌倉攻めで、大仏貞直に従って極楽寺切通しで奮戦した本間山城左衛門と同一人とする見方もある』とある。ともかくも、このサイト「南北朝列伝」の人名録は感服するほど素晴らしい!

「資朝の子阿新殿(あにひどの)」増淵氏の訳では、この「阿新殿」に対して『くまかわどの』のルビが振られており、平凡社「世界大百科事典」でも「阿新丸」として「くまわかまる」と訓じている。それによれば(コンマを読点に代えた)、元応二(一三二〇)年生まれで正平一八/貞治二(一三六三)年没とし、『鎌倉時代末の公家日野資朝の子。資朝は後醍醐天皇の討幕計画に参加したが、事が漏れて捕らえられ、佐渡に流された』十三『歳の阿新は従者』一『人をつれて佐渡に渡り、守護本間入道に父子の対面を願ったが』、『許されず、父は殺されてしまった。復讐の機をねらう阿新は、ある夜』、『本間の寝所に忍び込んだが、入道は不在で果たせず、父を斬った本間三郎を殺して巧みに逃げ、山伏に助けられて都に帰った話が』「太平記」『にくわしく記されている。その後』、『阿新は邦光と名のって南朝の忠臣となり、中納言に任ぜられた』とある。]

 

御伽百物語卷之五 人、人の肉を食らふ

 

     人 食人肉

 

 

Jinnnikuwokuu

 

[やぶちゃん注:挿絵は「叢書江戸文庫二 百物語怪談集成」のものを、左右合成し、上下左右中央の枠や雲形の一部を除去した。これは、またしても左右の絵が上手く繋がらない