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2016/08/28

暴力ぎらい   梅崎春生

 

 福岡市は私の故郷である。いや私の故郷は福岡市である。言葉にすれば同じようなものだが、ニュアンスが少しちがう。

 私は福岡市に生れ幼時を福岡市に過した。福岡を私は大好きであった。青春に私は福岡が嫌いになった。福岡を脱出しようと思い、福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた。

 五高から九州大学に行かずに、東京大学に行った。だから私の思い出は中学(修猷館)までということになる。

 戦後また福岡が好きになる。二年に一度ぐらいおとずれる。しかしもはや家はない。旅人としてである。

 室生犀星の詩に、

 

  ふるさとは遠きにありて思ふもの

  そして悲しくうたふもの

  よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

  帰るところにあるまじや

 

 とうたった心境が私の青春期にもあったわけだ。私の生れた頃の福岡は人口十万ぐらいの都市であった。那珂川をはさんで福岡と博多に分れていた。今はそんな区別はない。なにしろやたら広がって、人口も十万から七十万近くなった。那珂川なんかもののかずではなくなった。なにしろ私が小学校時代遠足に行った香椎や今宿が、今や住宅街になっている。

 昔日の姿は無いのである。

 私は簀子(すのこ)町に生れ、荒戸町四番丁で育った。西公園の下である。親父は二十四連隊の将校で、毎日馬で連隊に通った。当時連隊は福岡城(舞鶴城)にあった。今はそこが競技場や平和台球場になっている。私は簀子小学校に通っていた。私の家の前は、九州女学校である。その九州女学校から私の家が見下ろせた。(その頃の九州女学生は今は六十位のおばあさんになっているだろう。)その視線をさけるために家ではいろんな果樹を栽培した。実に沢山の果樹があった。柿(二本)、ザボン、金柑子、夏蜜柑(みかん)(三本)、蜜柑、ビワ(三本)、ダイダイ、イチジュクその他いろいろ。お隣の中山さんとの垣根は竹で、春になるとたけの子が生えた。家の前には下水溝があり石垣で作られていた。そこでは小さな魚が泳ぎ、石垣の穴には赤い弁慶蟹が数千匹住んでいた。この家は今でもある。しかし裏庭は他の家が建っている。下水溝は埋められて、なくなっている。十日ほど前私は福岡に行き、家をみて来た。溝に住んでいた蟹や魚たちは何処にいったのか。滅びてしまったのか。感傷が私の胸を突きさす。

 私がよく泳ぎにいったのは西公園の下の伊崎の浜である。今とちがってその頃は、海水が透きとおり二メートルぐらいは、みとおせた。泳ぎがあきると私たちは、魚を釣ったり、伊崎の漁夫の地引網の手伝いをした。手伝いをすると、バケツ一杯ぐらい雑魚をくれた。

 メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴなどが釣れた。また大濠に行ってフナやコイやウナギを釣った。また福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)附近の波止場でいろんなものが釣れた。現代の子供のようにテレビもなくラジオもなく、遊ぶ対象は自然であった。だから夜は八時頃寝た。はたして今の子供たちとどちらが幸福だろうか。

 春秋には遠足がある。お弁当はにぎり飯で、黒ゴマをまぶしてある。おかずはせいぜいコオナゴ(福岡ではカナギという)のつくだ煮と、タクアン(コンコンとよんだ)ぐらいのもので、勿論電車やバスはつかわず歩いていって歩いて帰って来た。前記の香椎や今宿、あるいは竹下などである。

 太宰府まで往復歩いたこともある。これは修猷館時代のことだ。

 先日の旅行で観世音寺に寄った。あそこらもみんな畠だったのに今では家が建っている。

 

  菜の花の花ばたけに 入り日うすれ

  見わたす山の端 霞ふかし

  春風そよふく 空をみれば

  夕月かかりて におい淡し

 

  さとわの燈影も 森のいろも

  田中の小みちを たどる人も

  かわずのなく音も 鐘の音も

  さながらかすめる おぼろ月夜

 

 その歌をうたうたびに、私はその頃の観世音寺附近の景観をありありと思い浮べる。今はその面影もない。鐘の音だけが昔のままである。

 修猷館の校風といおうかモットーといおうか、それは「質朴剛健」というのである。それから五高は「剛毅朴訥(ぼくとつ)」という。私は質朴剛健でもなければ剛毅朴訥でもなかった。硬派でも軟派でもなく、平凡でめだたない生徒にすぎなかつた。美貌と若さをほこるような生徒でもなかった。そのかわり丈夫で長もちするたちである。

 その修猷館時代に、私は福岡が厭になった。福岡というより学校が厭になったのである。修猷館は、九州の名門校と今はいわれているが、昔も名門校であった。けれども当時の修猷館は野蛮でファッショ的傾向があった。軍人や政治家になった者は沢山いたが、文学に志す者など寥々(りょうりょう)たるもので、文士といえば故豊島与志雄先生、つづいて私、若い世代では宇能鴻一郎君ぐらいしか出ていない。校則はきびしくて和服で街も歩けない。父兄同伴でなければうどん屋にも入れない。私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる。

 校則だけでなく校風も厭であった。新学期はじめに、今でいう部活動をしている以外の者は、応援の練習と称して裏の百道(ももじ)松原で数十日にわたって、応援歌の練習をさせられた。つまり応援というよりは下級生いじめなのである。その間に時々個人的にひっぱり出され、鉄拳制裁をうけるのだ。軍隊と同じで、反抗は出来ない。一人を数人がかりでなぐったり蹴ったり、押したおして顔を下駄でふみにじるのだ。血がだくだく出て白砂に吸いこまれる。

 私は一度も鉄拳制裁をうけたどとはない。しかし何十度となくその現場を見て、暴力を呪った。その気持は今でも同じである。私の戦争ぎらいはその暴力ぎらいから来ているのだろう。その暴力から逃げるために、私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった。

 五高は「剛毅朴訥」をモットーとしていたが、そういうものではなかった。修猷館にくらべるとはるかに自由で、気楽な学校であった。

 私ははじめて青春の楽しさを感じ、文学に志すようになった。

 福岡市内には西公園と東公園がある。西公園に登ると博多湾が一望に見渡せる。海の中道。志賀島。能古島。鵜来島など。こんな美しい湾をもった都市は日本でも数えるほどしかあるまい。夏になると西公園に行って蟬(せみ)をとった。東京にはいないが、そこには熊蟬がいる。私たちはそれをワンワンと呼んだ。ワンワンと鳴くからである。シャアシャア蟬と呼ぶ地方もある。大きな蟬で油蟬の三倍ぐらいあって、つかまえて頭を手にもつと、羽翅(はね)をふるわせて、ワンワンと鳴きさけぶ。その震動で手がふるえる程であった。

 冬は福岡では雪が降らない。降ってもすぐ消えてしまう。そこでスキーやスケートは出来ない。だから冬の戸外での遊びはというと凧あげか独楽(こま)まわし。独楽は名島独楽といって福岡独特のものがある。それを敵のまわっている独楽にぶっつけて割ってしまう。その割るのが私の得意の芸だった。

 正月の雑煮は東京風とちがって丸餅を使う。それからブリとかカツオ菜とかいろんな野菜を入れる。親戚の家にいって雑煮を御馳走になり、あと百人一首とかトランプとか加留多とかとるのが正月の楽しみであった。

 オキウトというのを人はあまり知らないだろう。海藻からとった食べものである。朝早く子供が、

 「オキュウトわい」

 「オキュウトわい」

 と売りに来る。花がつおをかけて食うのだが、味はたんぱくでまあ味が無いといってもよろしい。それをおかずに朝めしを食うのである。もっとも私の家は父母とも佐賀の出で、朝は茶がゆに高菜の古漬をおかずにして、さらさらとすする。昼は弁当。おかずは蒲鉾の煮たのにコンコンぐらいのものだ。福岡の蒲鉾(かまぼこ)はおいしい。(今はどうか知らない。)スボつき蒲鉾など逸品であった。蒲鉾製造株式会社などはなく、各魚屋で自家製のを売った。一本五銭だったと思う。

 うどん。これがまた逸品。東京ではうどんなどは車夫馬丁が食うものだと思っているようで、そばを尊ぶ。福岡ではそばも食わせるが余りうまくない。うどんが主体なのである。これも一杯五銭か三杯十銭である。汁はうす味でやたらに旨(うま)い。この間食べて来たが、あんまりうまいので東京生れの女房もびっくりしていた。思うに、そばは寒冷の地に育つ。つまり地味がやせている所にしかとれないのだ。それだけ福岡の風土は豊かなのである。

 米もうまい。天下第一等の米は肥後の菊池米といわれているが、九州全土平均してどの県もうまい。

 それからフグ。本場である。福岡では街の魚屋でも売っている。それを買って帰って手料理で食うのである。先日福岡にいった二日前、相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだが、あれは福岡人じゃないので、料理の仕方をまちがえたのである。福岡人は料理の仕方をよく知っている。だから魚屋でフグを売っているのである。しかも値段が安い。東京でフグ料理を食うと、目玉のとび出るほどとられるが、九州では大衆魚である。福岡では安くてうまいのが、フグという魚の特徴である。

 水たき。これも福岡のもの。

 それから福岡の女。これがまた逸品である。情に厚くて濃(こま)やかで夫人型である。今福岡の特徴や文化は殆ど失われ、支店文化になってしまった。

 で、東京から若い男が赴任してくる。昔は菅原道真が福岡に流されたように、福岡は辺土であった。私の中学時代も急行で行って、東京まで一昼夜以上かかった。今はジェット機で一時間である。流されたという気分は全然しない。その若い男が博多の女に惚れられて、あるいは惚れて一緒になる。そして仲よくくらす。男は一生幸福である。それほど福岡の女は優秀なのである。

 さきに支店文化と書いたが言葉づかいも、テレビやラジオによって東京化されて来た。

 それでもまだいくらか残っている。

 編集者から電話がかかって来る。

「梅崎先生ですか」

 先生をシェンセイと発音する。それで忽ち九州人だとわかる。

「あのですねえ……」

 とくれば大体福岡人である。

 博多弁の特徴はちょっと語り難い。熊本弁はドイツ語に似ている。鹿児島弁は、知らない人は驚くと思うが、フランス語の様にやわらかいのである。博多弁は、どちらかというと女性的である。男でも、

「なになにしなさい」

 というところを、

「なになにをおしがっしゃい」

 というのだ。私が中学校時代プールに石を投げ込んで遊んでいると、上級生の恐いのがやって来て、

「なんばしよるとな?」

 というので、私が恐縮してだまっていると、その上級生は、

「これからそげなことせんごとおしがっしゃい」

 といい捨ててどこかに行ってしまった。おこる時でもかくの如く言葉は優しいのである。

 しかし今は(おしがっしゃい)という言葉も滅びてなくなった。これすべて支店文化のせいであり、テレビ・ラジオのせいである。

「ふてえがってえ」

 という言葉もある。意味はない。驚いた時とかあきれた時に、使う間投詞である。

 この間福岡に帰った時、旧友に、

「今でもそんな言葉つかうのか?」

 と訊ねたら、

「もう近頃あんまり聞かんな」

 と答えた。私はびっくりして曰く、

「ふてえがってえ」

 このあいだは福岡に二晩泊った。一晩は中洲の和風旅館、翌日はそのお隣の日活ホテル。和洋南風の味を味わったわけだ。二日目の夜は、修猷館の同窓生たちが会を開いてくれ、フグを食べさせられた。佐渡ヶ海の死んだ直後なので、少しためらったら、

「お前はあたるとでも思っているのか」

 と笑われた。さすがに博多のフグはうまかった。そのあと「フクロウ」というバーで、大酒を飲んだ。ここのマダムが、私の簀子小学校の後輩である。博多を訪れる人があったら、是非立寄って頂きたいと私はねがう。マダムは美人だし、酒もそれほど高くない。

 飲みすぎたせいか、翌日は二日酔で、南高宮の医師山崎図南君に注射してもらった。山崎君は修猷館出の同級生である。やはり、故郷はありがたいものだ。

 注射のおかげで気分回復、午前のジェット便で一時間後には東京に戻った。同じジェット機で、漫画家の清水崑さんと一緒だったが、あれは相撲のために来福したのだろうか。つい聞くのをわすれた。

 しかしコンさんも、齢をとったなあ。白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年三月刊の『えきすぷれす』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「福高(旧制)を受けずに、熊本の五高をうけた」後で事実(「私は四年の時福高を受けた。しかしおっこちた。五年になって我をはって福高をうけずに五高をうけた。そしてとおった」が正確な事実)を語っているように受けなかったわけではなく、県立福岡高等学校を受験したものの、不合格で一浪、翌昭和七(一九三二)年に熊本五高を受けて合格、同年四月に文科甲類に入学したのである。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」室生犀星の第二詩集「抒情小曲集」「小景異情」の全六章からなる「その二」の前半部である。この箇所のみが知られ、全体が読まれることが少ない(高校の教科書でさえ全篇を載せないものが多かった)ので、以下に総てを示す。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの初版(大正七(一九一八)年感情詩社刊)のそれを視認した(「かたい」のルビはママ。歴史的仮名遣では「かたゐ」が正しい)。

   *

 

 小景異情

 

  その一

 

白魚はさびしや

そのくろき瞳はなんといふ

なんといふしほらしさぞよ

そとにひる餉(げ)をしたたむる

わがよそよそしさと

かなしさと

ききともなやな雀しば啼けり

 

  その二

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

歸るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ淚ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

 

  その三

 

銀の時計をうしなへる

こころかなしや

ちよろちよろ川の橋の上

橋にもたれて泣いてをり

 

  その四

 

わが靈のなかより

綠もえいで

なにごとしなけれど

懺悔の淚せきあぐる

しづかに土を掘りいでて

ざんげの淚せきあぐる

 

  その五

 

なににこがれて書くうたぞ

一時にひらくうめすもも

すももの蒼さ身にあびて

田舍暮しのやすらかさ

けふも母ぢやに叱られて

すもものしたに身をよせぬ

 

  その六

 

あんずよ

花着け

地ぞ早やに輝やけ

あんずよ花着け

あんずよ燃えよ

ああ あんずよ花着け

 

   *

「那珂川」「なかがわ」と読む。現在の福岡県福岡市早良(さわら)区大字板屋(いたや)の脊振山(せふりさん)に源を発し、南東に流れて筑紫郡那珂川町と佐賀県神埼(かんざき)郡吉野ヶ里町(よしのがりちょう)との県境を形成している。下流の福岡市博多区住吉附近で二手に分流して中州を形成し、ここを「中洲」と呼称、福岡県のみならず、九州最大の歓楽街として知られる。東側分流を博多川と称するが、下流の須崎橋付近で再び本流那珂川と合流する。中洲の左対岸の天神も繁華街として知られる。

「人口も十万から七十万近くなった」現在(二〇一六年)の福岡市の人口はこの当時(一九六四年)の二倍を越え、約百五十五万人で、その人口増加数は地方都市では第一位、全国では東京二十三区に次いで第二位である。

「香椎」「かしい」と読む。現在の福岡県福岡市東区の北部に位置し、神功皇后所縁の「香椎宮(かしいぐう)」があって古い歴史を持つ一方、戦後は海岸部の埋め立てが進み、福岡市東部の副都心の一つとなっている(ウィキの「香椎」に拠った)。

「今宿」「いまじゅく」と濁る。現在の福岡市西区の地名。旧糸島郡。ウィキの「今宿(福岡市)」によれば、『博多湾の内湾である今津湾の奥部に面し』、『北に向かって開けた平地部にあり、西区内では西部の副次的中核地域になっている』。

「簀子(すのこ)町」既注。「すのこまち」と読む。現在の中央区大手門簀子地区。名の由来など、梅崎春生の「水泳正科」の私の注などを参照されたい。

「荒戸町」旧簀子小学校(統廃合で閉校)前の那の津通りを西に三百メートルほど行くと、現在の福岡市中央区荒戸地区である。生地の簀子町の隣りと言ってよい。これらの町の位置関係は梅崎春生の「昔の町」辺りを読むと概ね判る。

「親父は二十四連隊の将校」梅崎春生の父梅崎健吉郎は春生の生まれた当時は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐であった。

「九州女学校」私立九州高等女学校。現在の福岡市中央区荒戸三丁目にある私立の女子校である福岡大学附属若葉高等学校の前身。

「弁慶蟹」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ属ベンケイガニ Sesarmops intermedium 

「伊崎の浜」現在の福岡県福岡市中央区伊崎附近と思われるが、現在の行政上地名の伊崎は埋立てによって内陸化しており、現在の伊崎漁港(福岡市中央区福浜)の東(福岡都市高速環状線の海側)に広がる浜の手前の陸側に相当するかと思われる。梅崎春生の「伊崎浜」を参照されたい。

「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス Sillago japonica の異名。

「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。ただ、ここでは小学生が釣るものであるから、ごく幼魚の小型のスズキの、子ども仲間での通称であろうとは思う。

「福岡港(当時は漁港)のドン打ち場(午砲)」梅崎春生の「午砲」(「どん」と読む)が思い出される。

 

「コオナゴ(福岡ではカナギという)」スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ(玉筋魚/鮊子)Ammodytes personatus のこと。本種は異名が多く、東日本では稚魚を「コウナゴ(小女子)」、西日本では同じものを「シンコ(新子)」と呼び、成長した個体は北海道では「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、春生の言う「カナギ(金釘)」などとも呼ばれる。「カナギ(金釘)」という呼称は恐らく、イカナゴの幼魚(新子)の調理法として知られる、醤油や味醂・砂糖・生姜などで水分がなくなるまで煮込んだものが、茶色く曲がって「錆びた釘」に見えることによるものと思われる(所謂、「釘煮」である)。

「タクアン(コンコンとよんだ)」「お新香」「香の物」「香香(こうこう)」から「こうこ」「こうのもん」などとなり、音変化して「こんこ」「こんこん」となったものであろう。

「竹下」福岡県福岡市博多区竹下か。直線で五キロほどある。

「太宰府」修猷館中学からは直線でも十八キロメートルほどある。

「観世音寺」太宰府跡東方、現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。

「菜の花の花ばたけに 入り日うすれ/見わたす山の端 霞ふかし/春風そよふく 空をみれば/夕月かかりて におい淡し//さとわの燈影も 森のいろも/田中の小みちを たどる人も/かわずのなく音も 鐘の音も/さながらかすめる おぼろ月夜」文部省唱歌「朧月夜」(作詞:高野辰之・作曲:岡野貞一)。大正三(一九一四)年(春生の生年の前年)の「尋常小学唱歌 第六学年用」に初出する。

    *

 

一、

菜の花畠に 入日薄れ

見わたす山の端(は) 霞ふかし

春風そよふく 空を見れば

夕月(ゆふづき)かかりて にほひ淡し

 

二、

里わの火影(ほかげ)も 森の色も

田中の小路(こみち)を たどる人も

蛙(かはづ)のなくねも かねの音も

さながら霞める 朧月夜

 

   *

「里わ」」は「里曲・里廻・里回」で本来は「里曲」が元であって、「さとみ」と読むのが正しいが、それがかく平安時代以降蜿蜒と誤読されて「さとわ」と慣用読みになってしまったもの。意味は「人里のある辺り」。

「質朴剛健」誠実でしかも飾り気(け)がなく、逞(たくま)しい上にしっかりしていること。

「剛毅朴訥」気性が強く、決して屈しぬ心の持ち主で、無口で飾り気なく無骨なこと。「質朴剛健」と何ら変わらぬ。

「寥々(りょうりょう)たる」もの淋しいさま。

「故豊島与志雄」仏文学者で作家の豊島与志雄(明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)は福岡県下座郡福田村大字小隈(現在の朝倉市小隈)生まれで、修猷館から第一高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を出た。梅崎春生より二十五先輩で、心筋梗塞のため、この九年前に満六十四で亡くなっている。

「宇能鴻一郎」(昭和九(一九三四)年~)は北海道札幌市出身。ウィキの「宇能鴻一郎」によれば、昭和三〇(一九五五)年に県立修猷館高等学校(新制)から東京大学文科Ⅱ類に進学、同学文学部国文学を卒業後、同学大学院に進学、学位論文「原始古代日本文化の研究」で文学修士となり、昭和四三(一九六八)年に同大学院博士課程を満期退学している。『大学在学中に『半世界』の同人』 となり、昭和三六(一九六一)年には『自らの同人誌『螺旋』を創刊。同誌に発表した短篇『光の飢え』が『文学界』に転載され、芥川賞候補作となった』。翌年、鯨神で第四十六回『芥川賞受賞。同作は直ちに大映で映画化された(監督:田中徳三、主演:本郷功次郎、勝新太郎)』。『濃厚なエロティシズムを湛えた文体と、評論や紀行文等で見せる博覧強記ぶりも知られ』たが、後は『純文学の筆を折り、官能小説の世界に本格的に身を投じた』。『「あたし〜なんです」等、ヒロインのモノローグを活用した独特の語調は、夕刊紙やスポーツ新聞への連載で一時代を築き、金子修介の劇場公開初監督作品『宇能鴻一郎の濡れて打つ』など、数十本が日活ロマンポルノなどで映画化されている』。二〇一四年には「夢十夜」で『純文学作家として復活』した、とある。

『私の弟忠生は、友だちとうどん屋に入り金が無くて食い逃げし、それが学校に知れて退学になった。それから忠生は東京に奉公に行き、兵隊にとられて蒙古で自殺をした。この話を軸に私は「狂い凧」という小説を書いた。余裕があれば買って読んでもらいたい。つまり修猷館の校則が忠生を自殺に追いやったのである。私はその修猷館を憎んでいる』忠生のことはここまでの随筆でも何度も出てきた。「狂い凧」はこの記事の前年、昭和三八(一九六三)年『群像』一月号から同年五月号に連載されている。梅崎春生にしてはかなり激しい言い方である。ただの自身の自信作の宣伝文句とは思われない。

「百道(ももじ)松原」百道浜(ももじはま)。かつては「百道松原」と称される松の人工林と海水浴場で知られたが、現在は埋め立てと宅地化が進んで海水浴場の面影は全くない。福岡市博物館公式サイト内の「百道浜ものがたり」がよい。

「西公園」現在の福岡市中央区にある公園及び地名。ウィキの「西公園(福岡市)によれば、公園は『全体が丘陵地で展望広場からは博多湾が一望できる。園内は自生のマツ・シイ・カシが茂り、またサクラ・ツツジが植栽された風致公園である。サクラは』約三千本が植えられている、とある。

「東公園」現在の福岡市博多区にある公園及び地名。梅崎春生の「幾年故郷来てみれば――福岡風土記――」に出た亀山上皇と日蓮上人の銅像が建つ公園である。

「海の中道」「うみのなかみち」と読む。現在の福岡市東区にある、志賀島(後注)と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州。全長約八キロメートル、最大幅約二・五キロメートルの日本でも有数の巨大な砂州で、北が玄界灘、南が博多湾(ウィキの「海の中道」に拠る)。

「志賀島」「しかのしま」と清音で読む。現在の福岡市東区に所属する島で、博多湾北部に位置し、海の中道と陸続き。ウィキの「志賀島」によれば、『古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であ』るとある。

「能古島」「のこのしま」と「の」を補って読む。現在の福岡市西区に所属する島で、博多湾の中央に浮かんでいる。ウィキの「能古島」によれば、『大都市の目の前にありながら僅か』十分の『船旅で都会の喧噪を忘れられるとあって、福岡市民の身近な行楽地として親しまれる。福岡でも屈指の菜の花・桜・コスモス・水仙の名所で、満開のころは一年で最も混雑する』とある。

「鵜来島」「うぐじま」と読む。西公園西北の海岸近くに浮かぶ、ごく小さな島で、国土地理院の地図で現認出来る。福岡県中央区福浜一丁目に所属する。

「熊蟬」昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis 。成虫の体長は六~七センチメートルほどで、アブラゼミ(次注)やミンミンゼミ(セミ亜科ミンミンゼミ族ミンミンゼミ属ミンミンゼミ Hyalessa maculaticollis)に比べると頭部の横幅も広い。「油蟬の三倍ぐらい」はやや大袈裟に聴こえるが、子どもの手の中での激しい運動やその質感或いは激しい鳴き声を加味して考えるなら、決しておかしくない感覚と思う。

「油蟬」セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata 。成虫の体長は 五・六~六センチメートルで前者クマゼミよりも一回り小さい。

「名島独楽」「なじまごま」と読むと思われる。博多独楽は心棒に鉄を用い、現在の曲独楽の発祥地とされるが、ここで春生が言っているのは所謂、喧嘩独楽、本体が重厚な玉子型をした「佐世保独楽」の一種であろうか。「名島」は現在の福岡県福岡市東区の地名で、戦国時代の水軍の根城として知られた名島(なじま)城跡で知られる。

「カツオ菜」私の所持する二〇〇三年小学館刊の柳町敬直「食材図典 生鮮食材篇」の「カツオ菜」によれば、『福岡県の博多地方で古くから栽培してきた在来タカナで、タカナとしてはやや小さい。しかし、煮ると味がよく、正月の雑煮などに用いられ、かつお節のかわりになるとしてカツオ菜の名が』生まれたとし、『葉は鮮緑色で葉面に縮みがあり、質がやわらかで、』先に示した雑煮の他、『ちり鍋などには欠かせない野菜になっている』とある。これは私はフウチョウソウ目アブラナ科アブラナ属カラシナ変種タカナ Brassica juncea var. integrifolia の改良品種か或いは地方変異、又は、それ以前にカラシナ Brassica juncea からタカナとは別系統か傍系で発生した変種ではないかと思う。困るのは、私の所持する書物及びネット上の記載の多くが「タカナの近縁種」とすることで、だとすると、学名は異なったものが無くてはならないのに、いくら調べても「カツオナ(鰹菜)」の学名が見当たらないのである。ウィキに「カツオナ」にあるが、上記以上のこれといった新情報は、ない。「ブラッシカ・ジュンセア」「ブラッシカ・シネンシス」を学名とするとするこんなページを見つけたが、「ブラッシカ・ジュンセア」は上記のカラシナの学名のまんまでしかなく、「ブラッシカ・シネンシス」に至っては、阿呆くさ、アブラナ属ラパ 変種タイサイ(チンゲンサイ)Brassica rapa var. chinensis の原種の種小名と変種指示を取り去った、実にいい加減な学名音写であって、信じるに足らぬ。識者の御教授を乞うものである(別種らしいけど、学名は実はついてないのかも知れんな)。

「オキウト」「オキュウト」既注であるが、流れで、再掲しておく。最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。

「スボつき蒲鉾」スボは藁すぼ、麦藁(むぎわら)のこと。農民が作業の合間に食するのに、蒲鉾を汚れた手でも持てるように麦藁で巻いたものをかく言う。現在は多くが人工のストローの簀(す)に変わってしまった。

「肥後の菊池米」現在の熊本県菊池市(地域)産の米。サイト「菊池まるごと市場」の「菊池のお米・新米」によれば、『日本名水百選にも選ばれた菊池渓谷と、香りが高く甘味と食感のある美味しいお米の生産地として有名な熊本県菊池市。県北部を流れる菊池川の上 流に位置し、阿蘇外輪山に源流を持つなどいくつもの美しい水源があり、ミネラル分を含んだ豊富な湧水と肥沃な土壌、稲作りにふさわしい気候など、美味しいお米を作るに適した環境が整っています。菊池平野は 内陸の盆地で、朝夕の気温差が激しいため、お米の旨 味成分のひとつである澱粉が効率的に蓄えられます』。その美味しさは三百年前の『江戸時代から有名で、大阪のお寿司屋さんから特別な注文が来ていたと文献に残っているほど。天下の台所・大坂(現在の大阪市)堂島で取引される藩の蔵米中で、菊池米は特別な値がつくほど人気を博しておりました。東の大関が加賀米ならば西の大関が菊池米といわれ、米相場を決定する際の基準にも指定され、天下第一の米としてとても評判でした。将軍の御供米として、また、南北朝時代から後醍醐天皇への献上米として今に伝わっている伝統のあるお米です』とある。

「相撲の佐渡ヶ海がフグ中毒で死んだ」これはやや記載が不全。四股名としても誤りであり、仮に部屋名としても正しくない(「が」とあるから梅崎春生は明らかに四股名で書いている)。ウィキの「佐渡ヶ嶽部屋フグ中毒事件」より引く。これはこの記事(昭和三九(一九六四)年三月)の前年末、昭和三八(一九六三)年十一月十一日に大相撲佐渡ヶ嶽(さどがたけ)部屋で発生したフグ中毒による死傷事故を指す。同日午後九時十分頃、『現在の福岡市東区にあった佐渡ヶ嶽部屋の宿舎にて、夜の食事(ちゃんこ)としてフグを食べたところ、力士養成員』六名(三段目二名、序二段三名、番付外一名)に『中毒症状が発生』、六名『全員が救急搬送され、三段目の佐渡ノ花が』翌十二日に、序二段の斎藤山が同月十四日に死亡した中毒事故である(残る四名は生還)。六名は福岡市での大相撲十一月場所二日目を『終えた後、ちゃんこ番として他の関取がフグ鍋を食べ終わった後に、当時は食用を禁止されていなかったフグの肝を追加して食べていた』。四名は十一月場所を『途中休場し、また師匠である佐渡ヶ嶽は勝負検査役を担当していたが、事件の責任を取って検査役を退い』ている。『当時、十両から幕下に陥落していた長谷川(長谷川勝敏)も同日のちゃんこ番だったが、食事前から腹の調子が悪かったことから、ちゃんこ代わりとしてうどんを食べに外出していた。このため長谷川は奇跡的に難を逃れ、後に入幕、関脇まで昇進した』とある。その後、各地方条例によってフグ調理の安全管理が行われていったが、昭和五八(一九八三)年の厚生省通知により、全国的に毒のある危険な部位(例えばトラフグの肝臓・卵巣など)の的確な除去による消費者への提供が義務化された。ここで梅崎春生が書いている状況は、今から考えると、トンデモないことである。こんなだったのか、当時は! ちょっと吃驚、である。

「南高宮」現在の福岡市南区高宮か。

「山崎図南」国立国会図書館の書誌データで検索したところ、恐らく昭和三四(一九五九)年九月『医学研究』に「近年の女子の初潮と体格の推移」という論文を書いている山崎図南氏と同一人物であろうと思われる。同誌の出版社大道学館出版部の住所が福岡だからである。

「清水崑」(こん 大正元(一九一二)年九月二十二日=昭和四九(一九七四)年)は「河童の漫画家」として知られる。本名は清水幸雄。長崎県長崎市出身。福岡出身の「河童の作家」火野葦平とも親しかった(私は火野葦平「河童曼陀羅」の電子化も手掛けている)。

「白髪雨害を被り、肌膚また実たらず。陶淵明の詩のその感を深うした」陶淵明の知られた五言古詩の「責子」(子を責む)冒頭の二句であるが、恐らく、編者が春生の原稿を読み違えたものであろう、意味不明の「雨害」となっている。ここは「両鬢」である。編者さえしっかりしていれば、高校の漢文で習うことさえあるこの有名な詩を、こんな無様な誤植で晒すことはなかったろうに。コーダであるだけに、惜しい瑕疵である。

   *

 

  責子

 

 白髮被兩鬢

 肌膚不復實

 雖有五男兒

 總不好紙筆

 阿舒已二八

 懶惰故無匹

 阿宣行志學

 而不好文術

 雍端年十三

 不識六與七

 通子垂九齡

 但覓梨與栗

 天運苟如此

 且進杯中物

 

   子を責(せ)む

 

  白髮 兩鬢(りようびん)に被ひ

  肌膚(きふ) 復(ま)た(じつ)實ならず

  五男兒 有ると雖も

  總て 紙筆を好まず

  阿舒(あじよ)は已に二八なるに

  懶惰(らんだ) 故(もと)より匹(たぐ)ひ無し

  阿宣(あせん)は 行(ゆくゆ)く 志學なるも

  而も文術を好まず

  雍(よう)と端(たん)とは 年十三なるも

  六と七とを識(し)らず

  通子(つうし)は九齡(きゆうれい)に垂(なんな)んとするに

  但(た)だ 梨と栗とを覓(もと)むるのみ

  天運 苟(いやし)くも此(か)くのごとくんば

  且(しば)しは杯中の物を進めん

 

   *

淵明には実際に五人の男子があったが、ここに出るのは総て、その幼名。「實ならず」とは色艶(いろつや)が失われて弛(たる)できたことを指す。「懶惰」は「だらしがないこと・怠けること・怠惰の意。「二八」は掛算で十六歳。「志學」は十五歳のこと(「論語」「爲政篇」に基づく)。「六と七とを識らず」とは「六」と「七」との数の区別さえも出来ないの意であるが、足すと、彼らの年齢の「十三」になることから、それを洒落た謂いともされる。「苟くも」仮定の辞。「且(しば)しは」「かつうは」と訓じてもよい。「~せん」で呼応し、「まあ、~でもすることとしよう。」の意。]

諸國百物語卷之一 六 狐山伏にあだをなす事

     六 狐山伏にあだをなす事


Yamabusikitune

 ある山伏、大みねよりかけ出でて旅をしけるに、みちにて、狐、ゆたかにひるねしてゐけるをみて、たちより、耳のはたにて、ほらの貝をたからかにふきければ、狐、きもをつぶし、行きがたなく、にげうせけり。山伏もおかしくおもひて行くほどに、いまだ日も高かりしが、にはかに日くれ、野中のことなればとまるべき宿もなし。いかゞせんと思ふ所に、かたはらに墓所(むしよ)のありけるを、おそろしくはおもひけれども、せんかたなくこの墓所の天井にあがりて、その夜をあかしける。すでにその夜も夜半ばかりに、むかふのかたより火あまたみへけるが、しだいにちかくなるをみれば、此墓所へきたる葬禮なり。人數二三百人ほどうちつれ、そのてい美々(びゝ)しく、長老、引導をわたし、鉦(どら)、鐃鉢(めうはち)をならし、なかなかいかめしきとりをこなひにて、つゐに死人(しにん)に火をかけて、をのをの、かへりぬ。さて死人も、やうやうやけて、塵灰(ちりはい)とならん、と、おもふ折ふし、火の中より死人、身ぶるいしてたち出でける。山伏、これを見て、氣も、たましいも、うせて、とやせん、かくや、と、おもふ所に、かの死人(しにん)、火屋(ひや)の天井を見あげて、此山伏を見つけて、そろそろと、はいのぼる。山伏、いよいよおそろしくて身をちゞめゐけるに、かの死人、

「それには、なにとて、ゐるぞ」

とて、山伏を天井より、つきおとす。山伏も氣をとりうしなひ、しばらく絶死(ぜつじ)して、やうやう氣つき、目をあきてみければ、晝の七つ時分にて、ある野なかに、たゞ一人、ふしゐたりしが、腰のほねをうちぬきて、ほうほう、本國にかへりけると也。そのほらの貝にておどされたる狐、たちまちあだをなしけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻一の「十 狐を威(おど)してやがて仇をなす事」と同話。挿絵の右キャプションは「山伏狐のひるねをおどろかす事」。

「大みね」広義には、奈良県の南部の、古くから修験道の山として山伏の修行の場であった大峰山(おおみねさん:吉野山から熊野へ続く長い山脈全体の通称)であるが、ここは特に吉野郡天川村の旧名金峯山(きんぷせん)、山上ヶ岳(さんじょうがたけ:標高千七百十九メートル)とするべきであろう。この頂上付近には修験道の根本道場である一乗菩提峰大峯山寺(おおみねさんじ)山上蔵王堂があり、山全体が現在も聖域である。

「ゆたかに」如何にも警戒心なく、ゆったりと。

「墓所(むしよ)」読みは古語では普通。墓場。

「墓所の天井」ここは少し不親切である。後で「火屋(ひや)の天井」と言い換えているように、これは「火屋」(火葬場の付帯施設として墓所の傍らに立っている三昧堂(ざんまいどう:墓所にある葬儀用の堂)である。「曾呂利物語」では、その墓所の『三昧(さんまい)に行きて、火屋(ひや)の天井に上がりて臥しにけり』とある。

「引導」葬儀の際に僧が死者に解脱(げだつ)の境地に入るようにと法語を与えること。

「鉦(どら)」鉦(かね)。葬儀や法会(ほうえ)に用いる打楽器の一つ。金属性の円盤を紐で吊るしたもの。桴(ばち)で打って鳴らす。

「鐃鉢(めうはち)」現代仮名遣では「にょうばち」と発音する。やはり葬儀や法事の際に用いる打楽器で銅製で丸い皿のような、シンバルに酷似したもの。実際、二枚をシンバルのように打ち鳴らしたり、合わせて擦ったりして音を出す。

「いかめしきとりをこなひ」荘厳(そうごん)なる葬儀式。

「とやせん、かくや」「とやせん、かくやせん」の略。「とやせん」の「と」は接続助詞、「や」は詠嘆・反語の係助詞、「せ」はサ変動詞「為(す)」の未然形に推量の助動詞「む」がついて表記が「ん」と変わったもので、「かくや」は「このように」の意の副詞「斯(か)く」に前と同じ係助詞「や」がついたもので「どうしよう! どうしようもない!」の強調形驚愕表現、対処不能の心内の叫びである。

「それには、なにとて、ゐるぞ」「……オ前ハ……何ノタメニ……ソンナトコロニ……居ルクワッツ!?!」

「晝の七つ時分」不定時法で季節によって異なるが、挿絵の雰囲気、狐の昼寝から春秋と考えてよいでろうから、概ね申の刻前後、午後三時から午後四時辺りと考えてよかろう。

「ある野なかに」「と或る野中に」の意。

「腰のほねをうちぬきて」腰が抜けてしまって。]

2016/08/27

甲子夜話卷之二 2―9 蘭人獻上驢馬の事

2―9 蘭人獻上驢馬の事

寛政の比、驢を蘭人の官に獻じて、御厩の中に畜置れぬる由聞及ぬ。此事を思出れば、淸五郎に其形狀何にと問しに曰。鹿に似て較(ヤヽ)大なり。耳の長きこと壱尺ばかり。尾は枯て牛尾の如し。其餘は馬に異らず。蠻名をヱーシルスと云。予又乘用を問しに曰。其性鞍轡を受るに堪へず。因て驅行せん時は、繩を以て其首にかけて牽く。若し騎らんと爲るにも、手にて其耳をとり、徒(タヽ)脊に跨るのみ。然ども長ひくきが故に、乘者の足地につけり。因て足を屈して腹側につくれば、體の重さ倍するが故に、それを負こと能はず。脊傾て地につく。因て乘者の足地につけば、即跨下を脱け出づ。故に乘用に足らず。負ものゝかさ、僅に炭俵二つ位なりとぞ。某年小金に御狩せられし前、御召の御馬に鹿を見せ試んとて、御馬預り共の議せし時、急に野鹿を取獲べきならねば、比ヱーセルスを御厩の庭中に放ち、驅逐して御馬を試みしと云。然ば鹿に類して小なること想ひ料るべし。其走行くさま、跳ながら步すこと鹿に似たり。たゞ其行ことの遲きのみなり。又その尿、藥用になる迚、馬舍の内に樋を設て尿を取たりと。是以て思へば、唐畫に驢に騎たる人を圖したるは、此ヱーセルスにては非ざるか。本草者流にたゞし見るべきものぞ。又かの獸、馬舍の内にて子を産せりとなり。然ども牝多して牡少(マレ)なり。牽こと群行に非れば爲がたし。其聲高ふして轆轤の如く、甚きゝぐるしと云ふ。以上倶に鶴見氏が語なり。

やぶちゃんの呟き

 前項「28 富士馬の事」に登場した御馬預(おんうまあづかり)役の「鶴見淸五郎」からの聴き書きの完全連作。

「寛政」一七八九年から一八〇一年まで。第十一代徳川家斉の御世。

「驢」「ろ」。驢馬。哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属ロバ Equus asinusウィキの「ロバによれば、『中国には、全世界で飼育されているロバの』三分の一に『相当する頭数が飼われているにもかかわらず、古代から中国の影響を受けてきた日本では、時代を問わず、ほとんど飼育されていない。現在の日本のロバは』二百頭『という説もあり、多くとも数百頭であろう。極暑地から冷地の環境にまで適応し、粗食にも耐える便利な家畜であるロバは、日本でも古くから存在が知られていた。しかし、馬や牛と異なり、日本では家畜としては全く普及せず、何故普及しなかったのかは原因がわかっていない。日本畜産史の謎とまでいわれることがある』。『日本にロバが移入された最古の記録は』、「日本書紀」推古天皇七年(五九九年)、『百済からラクダ、羊、雉と一緒に贈られたとするものである。この時は、「ウサギウマ」』一疋が『贈られたとされ、これがロバのことを指していると考えられている。また、平安時代に入ってからも、幾つか日本に入ったとする記録が見られる。時代が下って江戸時代にも、中国やオランダから移入された記録がある。また、別称として「ばち馬」という呼び名も記されている』とある。

「蘭人の」この「の」は主格の格助詞。オランダ人が。

「官」幕府。

「畜置れぬる」「かひおかれぬる」。

「聞及ぬ」「ききおよびぬ」。

「思出れば」「おもひいづれば」。私(静山)が、このことをふと思い出しによって。

「何に」「いかに」。

「壱尺」三〇・三センチメートル。

「枯て」「かれて」。尾は馬と驢馬の最も形状が異なる箇所では、馬は全体がふさふさしているのに対し、驢馬はその先端にだけ毛が生えて(その尾の主幹の貧毛状態を「枯れて」と言っている)、しょぼく房状になっているだけである。

「ヱーシルス」驢馬はオランダ語では“ezel”(エーゼル)であるが、これはどうも学名の Equus asinus(エクゥス・アシヌス)という日本人には最も聴き取り難い発音(摩擦するs音が多い)を、かく聴き、かく音写したのではあるまいか?

「轡」「くつわ」。

「受る」「うくる」。装着する。

「騎らん」「のらん」。

「徒(タヽ)」「ただ」。

「跨る」「またがる」。

「長」「たけ」。丈。驢馬の体高(蹄から首の付け根まで)は七十九センチから高くても百六センチメートル程度で、概ね子どもの背丈ほどしかない。

「乘者」「のるもの」。

「足地につけり」「足(あし)、地につけり」

「因て足を屈して腹側につくれば」そこ(足が地面についてしまう状態を指す)で、騎手がその地面についてしまった足を曲げて驢馬の腹側にぴたりとくっつけてしまうと。

「體の重さ倍する」騎手の体重がそのまま丸ごと、地面に足がついている状態のほぼ二倍「負」「おふ」。

「脊傾て」「せ、かたむきて」

「即跨下を」「すなはち、こかを」「跨下」は股の下・またぐらの意。

「負ものゝかさ」「おふものの嵩(かさ)」。「嵩」は「量」でもよい。

「某年」「ぼうねん」。とある年。

「小金」「こがね」で、現在の千葉県北西部の松戸市北部の地区の古名。かつては水戸街道沿いの宿場町であったが、近世には江戸幕府直営の馬の放牧地「小金五牧(こがねごまき)」があった。

「御召の御馬に鹿を見せ試ん」「おめしのおんうまにしかをみせ、こころみん」。その時、将軍様が当日乗用することになっておられた御愛馬に「こやつに見たことがない鹿を見たなら、どのような反応を示すであろう? 事前に試みてその様子をみたい。」と仰せになった、というのであろう。自分の思うように操れないような過剰な反応を示して暴れるかも知れぬといった、不測の事態を想定したのである。家斉、なかなか用心深いぞ。

「御馬預り共の議せし時、急に野鹿を取獲べきならねば、比ヱーセルスを御厩の庭中に放ち、驅逐して御馬を試みしと云」直ちに御馬預(おんうまあずか)り役である我々が協議し、急に今すぐ、野生の鹿を「取獲」(「とりう」(獲得)と訓じておく)る(捕獲してくる)というのは、これ、とても出来難いことであるから、この野生の鹿と変わらぬ大きさである驢馬を、御厩(おんうまや)の庭の中に放って、我々がその驢馬を追い掛け回し、まさに鹿が飛び跳ねるようにさせて、御馬を試みて御座った、と鶴見が言った。

「然ば」「しからば」。

「料る」「はかる」。

「其走行くさま」「その走り行く樣」。

「跳ながら步すこと」「とびながら、あゆます(る)こと」。

「其行ことの」「その行くことの」。

「尿」「いばり」と訓じておく。薬効は不詳。但し、漢方では実際に「童子尿」として少年の小便が薬用に用いられており、民間でも健康法としての尿の飲用療法を今もよく耳にはする。

「樋」「ひ」或いは「とひ(とい)」。

「設て」「まうけて」。

「是以て思へば、唐畫に驢に騎たる人を圖したるは、此ヱーセルスにては非ざるか」これは驢馬には乗馬出来ないはずなのに、南蛮の驢馬の図には完全に蛮人が悠々と騎乗している。されば、それは「驢馬」と称しながら、実際の驢馬、即ち、ここで言っている「ヱーセルス」ではないのではないか? 驢馬であるはずの「ヱーセルス」とは違う別な「驢馬」がいるのではないか?

「本草者流にたゞし見るべきものぞ」本草学者(この場合は動物関係に詳しい博物学者)流(りゅう)に、種を判別考証同定し、異種か同種かを糺してしかるべき重大な問題であるぞ!

「馬舍の内」幕府の御馬預りの厩舎(きゅうしゃ)内。

「然ども」「しかれども」。

「牝多して牡少(マレ)なり」「メスおほくして、オス稀れなり」。これは単なるその♂♀のケースに過ぎない。ロバにそのような現象は見られないと思う。それはしかし、ロバ同士の場合である。いや、或いはこれは、厩の中でのロバがのウマと交雑して雑種を産んだのではないか? この場合、ロバが生んだとしか読めないから、とすれば、この最初出産のケースは、のロバとの馬の雑種であるウマ科ウマ属ケッテイ Equus caballus × Equus asinus の本邦での最初の誕生事例を記していることになる!(但し、彼ら(のロバとのウマの交雑種であるウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballusを含む)は一般に不妊であるが、が多く、が稀れなわけではないと思う)

「牽こと群行に非れば爲がたし」「牽(ひ)くこと、群行(ぐんかう)に非ざれば爲(な)しがたし」牽いて行こうとしても、群れて活発に行動する性質(たち)ではないので、牽くのはすこぶる難しい。事実、ウィキの「ロバによれば、『ロバとウマは気質に違いがあると言われる。ウマは好奇心が強く、社会性があり、繊細であると言われ、反してロバは新しい物事を嫌い、唐突で駆け引き下手で、頑固であると言われる』。『実際、ロバのコミュニケーションはウマと比較して淡白であり、多頭曳きの馬車を引いたり、馬術のように乗り手と呼吸を合わせるような作業は苦手とされる』。『野生のウマは、序列のはっきりしたハレム社会を構成し群れを作って生活するが、主に食料の乏しい地域に生息するノロバは恒常的な群れを作らず、雄は縄張りを渡り歩き単独で生活する』。『ロバの気質はこうした環境によって培われたものと考えられる』とある。

「高ふして」高(たこ)うして。

「轆轤」「ろくろ」。この場合は、井戸の釣瓶(つるべ)を上下するための滑車、重い物の上げ下ろしに用いる滑車類などを指し、その軋(きし)る音にロバの鳴き声が似ているというのであろう。

「甚」「はなはだ」。

「語」「かたり」。

譚海 卷之一 江戸下金商賣御掟の事

江戸下金商賣御掟の事

○江戸に下金(したがね)商賣免許の者六十六人有(あり)、上より符(ふ)を給はり居る也。世間流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。此中(このうち)古金(こきん)と稱する品四十三種あり、慶長金も此品の内也。慶長已來通用の金は四十四種より段々ありといふ。今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの也とぞ。甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也。

[やぶちゃん注:「下金商賣」下金屋(したがねや)と言って、江戸時代には各地方から買い集めた金・銀の地金(じがね)を金座・銀座に売り込むことを商売にしていた者がいたが、その商人(あきんど)のことである。

「世間流布する所の金の品三百六十五種」これは結局、金銀の含有量の異なる貨幣、或いは同じでも、違った形・違った名称・違った時期の金銀含有貨幣の内、現在(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)でも実用通貨価値を保有する貨幣種数を指すと考えてよかろう。

「符」「絵符」「会符」などと書いた「えふ」江戸時代に街道運送の優先的取扱を図るために公家や武家などの荷物につけた、何よりも輸送で最重要とされて優先処理される御用札のことであろう。

「古金(こきん)」この読みは甲斐で天正年間(一五七三年~一五九二年)以前に鋳造されたとされる貨幣の一種(大判)である「古金大判(こきんおおばん)」から推定した(これは天正一六(一五八八)年初鋳とされる「天正大判」(主に豊臣家が金細工師後藤四郎兵衛家に鋳造を命じた大判貨幣。「天正菱大判(てんしょうひしおおばん)」・「天正長大判」及び「大仏大判(だいぶつおおばん)」が知られる)より古い時代のものとされるそうである)。

「慶長金」慶長大判のことか。江戸時代の初期の慶長六(一六〇一)年から発行された大判貨幣で、墨書・金品位及び発行時期などによって数種類に細分類される。参照したウィキの「慶長大判」によれば、『慶長大判、慶長小判および慶長一分判、慶長丁銀および慶長豆板銀を総称して慶長金銀(けいちょうきんぎん)と呼び、徳川家康による天下統一を象徴する貨幣として位置付けられる』とある。

「今世通用の小判は銀を四步(しぶ)ほどまじへたるもの」この「歩」は広義の「歩合」の意で全体の四割の謂いであろう(狭義では千分の一になっておかしくなるからである)。当時(「譚海」刊行の寛政七(一七九五)年前)「通用の小判」というと、最新の発行小判では「元文小判(げんぶんこばん)」である。元文元(一七三六)年五月から鋳造が始まり、同年六月十五日から通用開始された一両の額面を持つ小判で、参照したウィキの「元文小判によれば、金が六十五・三一%、銀が三十四・四一%(雑〇・二八%)とあるからドンブリで銀四割ほどというのはおかしいとは思われない。

「甲州金」狭義には日本で初めて体系的に整備された貨幣制度及びそれに用いられた金貨の称。ウィキの「甲州金より引く。『戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間』(一八一八年~一八三〇年)『まで鋳造されていた』(戦国期の前史は省く。リンク先を参照されたい)。『武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て』、再び、『幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという』。甲州金は元禄九(一六九六)年)に一時、『通用停止されるが、武田氏時代から近世初頭に鋳造されていた甲州金は古甲金と呼ばれ、以後の新甲金と区別される』。『近世の甲州金は』、慶長一三(一六〇八)年)から翌慶長一四(一六〇九)年に『かけて、武田氏時代の金座役人四氏のうち松木氏が独占的に鋳造を行い、形態や品位が多様であった規格も統一される改革が行われているが、これは』慶長六(一六〇二)年に『慶長小判が鋳造されていることから、幕府による全国的な金貨に対する鋳造・流通の統制策を反映していると考えられている』。『江戸時代には川柳においても甲州金が詠まれ、「打栗のなりも甲州金のやう」「甲州のかしかり丸くすます也」など、甲州銘菓の「打ち栗」や丸形の金貨として認識されている』。『幕府は文政から天保・安永・万延年間にかけて金貨の改鋳を相次いで行い、金位・量目ともに低下した』。『このため、甲州金の両替相場は小判に対して高騰し、市場に流通する量は少なくなった。一方、甲州金固有の「小金」と呼ばれた少額金貨である弐朱判・壱朱判は名目金貨として大量に吹き立てられ、全国的に流通した』。文久元(一八六一)年には『甲州金の四倍通用令が出され、甲州金が一挙に二万両余り引き換えられたという』とある。

「甲州金壹步たりとも潰す時は公儀へ訴へつぶす事也」推測であるが、これは、甲州の金座で、金をたった一割しか含有しない、古くなって使用に堪えなくなった鋳造貨幣を一枚だけ潰そうという時(そして無論、そこから金を抽出出来れば、するのであろう)でも、必ず事前に潰すことを公儀に伺いを立てた上で潰すという風に読んでおく。何か、誤りあれば、識者の方、御教授を願う。]

諸國百物語卷之一 五 木屋の助五郎が母夢に死人をくひける事

     五 木屋(きや)の助五郎が母夢に死人(しにん)をくひける事

 

 京北野へんに木屋の助五郎と云ふものありけるが、その母けんどん第一にてぜんこんの心ざしなく、つねにあさ茶をのみて、人ごとのみをいひ、人のよき事をそねみ、あしき事をよろこびて、後世(ごせ)をねがふ心つゆほどもなし。ある時、こゝちあしきとて、いつよりもあさねをしけるに、助五郎、用の事ありて、あさ、とく、一條もどり橋までゆきけるに、戾橋の下に、年よりたる女の死人(しびと)を、引きさき、引きさき、くひけるを、よくよくみれば、わが母に、すこしもたがわず。助五郎、ふしぎに思ひ、いそぎわが家にかへり、母のいまだふしていられけるを、おこしければ、母おどろき、おきあがり、

「さてさて、おそろしき夢を見つるものかな」

と云ふ。助五郎、聞きて、

「いかなる夢をみ給ふや」

ととへば、

「されば一條もどり橋の下にて、われ、死人(しびと)を引きさき、くふ、と見て、かなしさ、かぎりなき折ふし、おこと、よくも、おこし給ふものかな」

とかたられける。そのゝち、ほどなくわづらひ付きて、死にけるとや。まことに今生(こんじやう)より地ごくにおちければ、來世(らいせ)の事、おもひやられて、助五郎、かなしぶこと、かぎりなし。助五郎も後には出家になりけると也。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻一の「七 罪ふかきものの今生より業(ごふ)をなす事」に基づくが、息子に名前がなく、しかもこのエンディングにある発心譚を持たない点で、カニバリズム描写に趣向をおいている純粋ホラーにより近いと考えてよい。

「けんどん」「慳貪」。「慳」は「物惜しみすること・吝嗇(りんしょく/けち)」、「貪」は「むさぼる」意で、思いやりがなく心が荒々しいこと。具体的に異様に物惜しみをして、吝嗇で欲深であることを指す。

「ぜんこん」「善根」。よい報いを受ける原因となる行いを努めてしようとする志し。

「あさ茶」これは「朝茶」ではないだろう(後に「朝」が畳みかけられるので自然にそう読んでしまうのであるが、実は朝茶は仏教に於いて功徳を受ける行為とされるからである)。恐らく「淺茶」で薄い茶、この母の吝嗇さを示す小道具と私は読む。

「一條もどり橋」延暦一三(七九四)年の平安遷都とともに架けられたと伝えられる一条通の堀川に架橋されている橋(京都府京都市上京区堀川下之町及び晴明町)。安倍晴明が式神を住まわせたことで知られ、他にも鬼女伝説や異界への通路として、或いは「戻る」の禁忌から避けるられたりするいわくつきの京の古くからの心霊スポットである。

「おこと」元は「御事」。相手に対して親しみの情をこめて呼ぶ際の二人称。そなた。

「地ごく」「地獄」。]

わが兵歴   梅崎春生

 

 佐世保鎮守府に召集されて、相ノ浦海兵団に入れられたのが、昭和十九年六月一日。私は二十九歳。同日に召集された中では、比較的老兵に属する。佐二補水九六八九号という兵籍番号を与えられた。その翌日新入団兵の半分は海兵団を出て、南方の島々に持って行かれた。

 私はその選にもれて、十日間を相ノ浦で過し、針尾海兵団に移された。学校出(専門学校以上)ばかりの分隊で、そこで予備学生の志願を勧められた。若い連中はたいてい志願したが、私は断った。断った心境や事情はいろいろあるけれど、要するに兵隊でいた方が気楽と思ったからである。

 兵隊でも何か特技をつけていた方がいいというので、暗号特技講習員として防府通信学校に行く。実際にそこにいたのは十日間ぐらいで、履歴表によると、「昭和十九年海人三機密第一号ノ一四四二依リ第二回暗号術特技兵臨時講習員ヲ免ズ」

 とある。第二号ノ一四四とは何か、今もって判らないが、推察するところサイパンも取られたし、暗号などを教えるのをやめて南方へ廻せ、というような内容だったらしい。佐世保海兵団に戻された。いつ南方に持って行かれるか戦戦兢々(せんせんきょうきょう)としていると、佐世保通信隊で暗号術講習があり、幸いそれにもぐり込むことが出来た。十一月に講習終了、実務につくことになった。それからだんだん水兵としての苦労が身にしみて判るようになる。

 苦労というのは、仕事のことじゃない。吊床訓練とか甲板掃除(陸上の兵舎でも甲板という)そして罰直。バッタと称して、つまり丸太で力まかせに尻をたたくのである。私は五本ぐらいなら辛抱出来たが、それ以上になると脳貧血を起した。私は生来痛さに弱い。バッタを受けて死んだ老兵も私は知っている。

 尻が痛くて、吊床であおむきに寝られないこともあった。吊床というやつは宙に浮んでふらふらと不安定で、私たち老兵の海軍生活の象徴みたいなものであった。

 十九年から二十年にかけて、私は指宿(いぶすき)海軍航空隊にいた。ここの勤務は最低であった。甲板(通信室と居住区)は広いし、吊床のフックは高いとこにあるし、若い獰猛(どうもう)な兵長らがいるし。先年西日本新開に指宿のことを書いたら、当時の兵長から手紙が来た。その一節。

「私が兵長時代、先生にもバッタを与えました由、時の流れとはいえ、すまん思いであります」

 たまりかねて下士官志願。三月、四月と講教を受けて、五月一日海軍二等兵曹となる。これで生活は楽になった。バッタも掃除も免ぜられ、食事も兵隊が運んで呉れる。それから鹿児島に転勤。各基地を転々とし、最後は桜島で終戦を迎えた。復員後すぐ小説「桜島」を書く。

「桜島」は私小説か実録のように思われるかも知れないが、出て来る人物、吉良兵曹長、見張りの兵、耳のない妓など、皆架空の人物である。私がつくり出したのだ。もっとも架空なのは「私」という人物で、実際の私は遺書も書かなかったし、美しく死にたいなどと思ったことは一度もない。

 第一死に直面していなかった。米軍が関東に上陸しても、また吹上浜に上陸しても、敵が兵力をさいて桜島を攻略する筈がない。地図を見れば判るが、九州の下端にぶら下った余計者のような島で、全部が洞窟陣地で、爆撃にあっても平気である。実際一度も爆撃を受けなかった。本土九州が全部平定されてから桜島攻略にとりかかるだろうというのが私の予想で、自分の生死について私ははなはだ楽天的であった。それに海軍は食糧をたくさん蓄積していて、三度三度たっぷり食べることが出来た。(その点陸軍は窮屈で、一度の食事が湯呑み一杯ぐらいだと、鹿児島で会った陸軍の兵隊から聞いた)

 通信は三直制(三度に分れて交替で当直に立つこと)で、私は直長。兵隊は皆私の直(ちょく)に入りたがった。私は部下を決して殴(なぐ)らなかったし、居眠りをしていると表へ引きずり出すふりをして居住区に帰らせるし、人気の点では最高であった。しかし上の方からは、私の直は能率が上らないと、時々文句を言われる。こちらを立てれば、あちらが立たぬ。

 ある日、夜の当直が終った時、涼を取るために近くの丘に登った。兵の一人が私に向かって、

「一体これから戦況はどうなるか。日本はどうなるのか」

 と質問した。私は考えて、

「何か急な事態が起って、アメリカとソ連と戦争を始めたら、日本は放っとかされて、おれたちは生き延びるだろう」

 と説明した記憶がある。今思うと、何と虫のいいことを考えたものか。でも私には無条件降服ということは、あり得ないと思っていた。あの頑迷な軍人どもが、降服する筈がない。国民を道連れにして、やけ戦さを続けるに違いない。

 そういう心境で終戦を迎えたから、私はうれしかった。八月十五日午後昼寝をして、夕方六時からの当直に立つために暗号重に入る。義務として暗号控えを調べたら「終戦」の二字が眼に飛び込んで来て、私はいささか動転。暗号士に「ほんとですか」と確かめ、真実だと判ると、私は壕を飛び出し、そこらあたりをぐるぐる歩き廻った。とても暗号なんか翻訳している気分にはなれなかったのである。

 九月一日付で海軍一等兵曹となる。実際は八月二十六日に復員した。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。名作「櫻島」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)のモデル事実や、実際の梅崎春生の感じ方などに、やや意外の感を受ける諸君も多いかも知れない。

「相ノ浦海兵団」現在の長崎県佐世保市大潟町にある陸上自衛隊相浦駐屯地の前身。

「針尾海兵団」佐世保湾と大村湾に挟まれた針尾島の南端にあった新兵及び海軍特別年少兵教育を主目的とした海兵団。戦後は陸上自衛隊針尾駐屯地となったが閉鎖、跡地が例のハウステンボス(長崎県佐世保市ハウステンボス町)である。

「防府通信学校」昭和一八(一九四三)年に開設された防府海軍通信学校のこと。現在の山口県防府市航空自衛隊防府南基地が跡地。

「指宿海軍航空隊」ひろ兄氏のブログ「海とひこうき雲」の「指宿海軍航空基地跡」が写真(当時の施設配置図有り)が豊富で必見。昭和二〇(一九四五)年には特攻基地に変貌、知覧基地・鹿屋基地同様、沖縄戦への本土最前線の要衝となった。]

2016/08/26

片山廣子第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入

片山廣子の第一歌集「翡翠」に佐佐木信綱の序文を挿入した。電子化した時(2009年4月29日)には彼の著作権が存続していたため、省略していたが、二年前にパブリック・ドメインになっていたことを最近知った。遅まきながら、これで――「全」――である。

私のノイローゼ闘病記   梅崎春生

   私のノイローゼ闘病記

 

 ノイローゼにもいろんな種類や症状があるらしい。ここでは私の場合を書く。

 昭和三十三年秋頃から、調子がすこしずつおかしくなり始めた。

 その遠因として、血圧のことがある。その一年ぐらい前、囲碁観戦のために鶴巻温泉に行った。観戦の余暇にある人と碁を打っていたら、急に気分が悪くなって来た。何とも言えないいやな気持で、痙攣(けいれん)のようなものがしきりに顔を走る。横になって医師を頼んだ。医師が来て血圧をはかったら、最高が百七十あった。根を詰めて碁を打ったせいだろう。二日ばかり安静にして東京に戻った。血圧は百三十に下っていた。

 それに似た発作が、その後三度ばかり起きた。街を歩いて起きると、あるいは起きそうになると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。または医者を呼んでもらう。注射してしばらく安静にしていると、元に戻る。

 いつ発作が起きるかという不安と緊張で(このことが血圧に悪い)だんだん外出するのがいやになり、ことに独りで歩くのがこわくなって来た。他人に会うのもいやで、厭人感がつのって来る。一日の中一時間ほど仕事をして、あとはベッドに横になり、うつらうつらとしている。考えていることは「死」であった。

 死と言っても、死について哲学的省察をしているわけではない。また自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。やり切れなくなって酒を飲む。口の端に歌がうかび上って来る。

「……北風寒き千早城」

 軍歌の一節だが、この文句が一番頻繁に出て来た。私は今でもこの一節をくちずさむと、当時の荒涼とした不安な状態を思い出す。

「これはおかしい」

 と私は思った。私は身近に何人もノイローゼの患者を知っているし、私自身青年時代にその状態になったことがある。青年の時のは被害妄想を伴っていて、下宿に住んでいたが、壁の向うや廊下で私の悪口を言うのが聞える。何でおれの悪口を言うのかと女中を難詰したり、揚句の果て下宿の婆さんを椅子で殴って、留置場に一週間入れられたことすらある。それにくらべると今度のは執拗に憂鬱で、その憂さを晴らすすべもない。

「これはやはり病的だ」

 私はついに旧知の広瀬貞雄君(その頃松沢病院勤務の医師)の自宅を訪ねて、相談をした。広瀬君はいろいろ私の話を聞いて、やはりノイローゼと診断した。

「すぐ入院した方がいい。早けりゃ早いほどなおりが早いですよ」

 私は納得した。が、すぐ入院するわけには行かない。今は精神安定剤などがあるが、当時としては持続睡眠療法や電気ショックが主で、持続睡眠療法は退院後半年か一年ぐらい精密な仕事が出来ないとのことである。

 私は給料生活者ではないので、入院費と一年徒食する金を用意しなければならぬ。当時私は三社連合(西日本、中部、北海道新聞)に連載小説を書いていた。それを書き終えれば大体一年分ぐらい徒食出来るだろう、という計算で、他の仕事は全部断ることにした。一回分が一時間で書ける。苦虫をかみつぶした表情で、おろかしい人間たちの絵そらごとを書く。「人も歩けば」という題で、もし読者の中にこれをお読みになった方があれば、私がそんな状態で書いていたことを了解して下さい。苦虫はかみつぶしていても、サービス精神はよろしきを得たとみえ、割に評判がよく、二百五十回の予定が三百四十回ぐらいに伸びた。映画にもなって、徒食の我が家の家計をたすけた。一日一時間の仕事。あとは家人につきそわれて散歩や、ベッドに横になって読書。むつかしい本やまとまった小説は読めない。集中力が散漫して、手に取る気もしない。せいぜい随筆集や旅行記、雑誌や週刊誌のたぐいで、もっぱら心をまぎらわすためである。またはテレビ。

 テレビを子供たちと見ていると、おかしい場面が出て来ると子供らは笑う。私だけが笑わない。おかしくないからである。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのであるが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻(どんま)している。私から笑いはなくなった。その癖ひどく涙もろくなる。気分としては荒涼たるものだ。酒を飲んでもなぐさまない。悲しい歌ばかりが口に出て来る。

「……北風寒き千早城」

「……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」

 この病的な状態を、精神力で直そうというのは無理だ。かえって悪化させるだけだ、というのが広瀬君の説だ。それには私も賛成である。一刻も早く入院したかったが、経済的その他の事情で、半年頑張り、五月二十一日下谷のE病院に入院することになった。

 入院するに当って、私は条件をひとつつけた。持続睡眠はいいけれども、電気ショックだけはしないで下さい。私は電気ショックの如何なるものか知っていたので、自分をああいう目にあわせたくなかった。医師はそれを承諾した。私の病名は、

 鬱状態(不安神経症状)

 というのである。

 それからもう一つ心配ごとがあった。

 ズルフォナールという薬がある。これを朝昼晩と服ませられる。この薬は睡眠薬だけれど、持続性があってなかなか覚めない。それを次々に服むから、だんだん蓄積されて、ついには一日中ほとんど眠るという状態になる。同時に抑圧がとれる。抑圧がとれて、酩酊(めいてい)状態になる。つまり酔っぱらいと同じことになる。精神も肉体もだ。御機嫌になってペらぺらしゃべるし、またエロ的にもなるらしい。それが私には心配であった。エロ的になって看護婦さんなんかに抱きついたりしたら、みっともない。

 出来るだけそんな状態におちいりたくない、という心構えというか抵抗というか、そんなのが私に働いていたらしい。素直な気持で療法を受ければいいのに、そんな変な頑張り方が、なおりを遅らせたのかも知れないと思う。無用な虚栄心であった。私は入院中日記をつけた。かんたんに眠らせられてたまるかという虚栄心からである。

 病室は北向きの個室で、窓から基地が見える。内臓その他の精密な検査を経て、その病室に入る。酒たばこは禁じられた。酒はそうでもないが、たばこだけはつらくて、禁止を解いてもらった。私は軍隊でも経験があるが、酒はすぐあきらめられるが、たばこはやめられない。

 この病院にも、アル中患者が何人かいた。やはり持続睡眠療法でなおそうというのである。しかし彼等は入院して酒を断(た)たれても、けろっとしている。麻薬中毒患者みたいな禁断症状はあまりないらしい。外国人はジンやウォッカなど強い酒をストレートでたしなむから、相当ひどいのもあるようだけれど、日本人はそうでない。気の弱さから酒をたしなむ。タコちゃんと呼ばれる中年男とてんぷら屋の息子という青年、両者ともアル中で当時入院していた。聞いてみると、彼等は朝から酒を飲んでいる。飲み出すとやめられない。一日中酩酊状態で、仕事が出来ない。そこで自発的に、あるいは肉親にすすめられて入院して来る。

「退院しても禁酒を続行出来るかどうか、心もとないですな」

 私の質問に答えて、タコちゃんはそう言って笑った。

 アル中の話はそれくらいにして、日記のことだが、結局私は毎日書き通した。字が乱れて判読出来ないところもあるが、とにかく書くことは書き通したのである。その日記によって治療経過を書く。

 

 五月二十二日夕方からズルフォナールを服(の)み始めた。二十三日の日記(抄)

「薬のせいかねむい。昨日からこの部屋をしばしばのぞき込む女。今朝は電話番号を教えて呉れという。電気治療で自宅の電話番号を忘れてしまったのだ」

「もうふらふらする筈なのに、しつかりしている。ビールを一本飲んだ程度。酒できたえたせいか」

 もうそろそろ利(き)き始めているのである。二十四日には、

「まだ利いて来ない。(やや足はふらつくけれど。抑圧は取れず、気分はむしろ憂鬱に傾く)」

 などとレジスタンスを試みている。

「午睡二時間、熱三十九度ぐらいある如し。(実際には六度三分)頭がぼんやりしている。一向にはればれしくなし」

 二十五日には、

「ややメイテイの傾向あり。けれどヨクアツはまだとれぬ。身体だるし。七時半(私の秘密)を見る。ちらちらして不快、ダレス死す」

 私の病室は二階で、テレビは階下の待合室にある。ふらふらするので、手すりにすがって階段を登り降りするのだ。特別見たいわけではないが、まだ覚めているぞという気持なのである。二十六日には、そろそろ音(ね)を上げている。

「ようやくふらふら(心身共に)して来た。ものが二重に見える。酔っぱらった時と同じ。新聞を読むのがつらい。薬いよいよ利いて来たのか。便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠っているからダメだとのこと。腸が眠るとは初耳なり、前代未聞なり」

 投薬と同時に通じがとまった。持続睡眠療法については、医学書であらかじめ調べて置いたのだが、便秘のことは書いてなかったので、怒っているのである。まことに厄介な患者だ。この日あたりから字が乱れ始めている。

「二十七日。便秘のことF医師に相談すると、十日や二十日の便秘は平気の由。少しムチャだと思うが致し方なし」

「テレビ見ようか、うちへ電話かけようかと思うけど、メソドウくさい気分あり。つまり酔っているのだ」

 ようやく酩酊を自覚している。

「F医師頭クラクラしないかと聞く。しないと答える。いずれクラクラする状態になるらしい」

「看護婦さんスカートまくり上げる。行儀悪いねとたしなめる」

 ここらはもちろん記憶にないが、あとで読んでぎょっとした。私がエロ的になって、看護婦のスカートをまくり、たしなめられたのかと思ったのだ。つきそいの人に調べてもらったら、看護婦が暑いから自発的にまくったことが判り、ほっと安心した。

 二十八日。

「十一時回診。黒幕をつける。まっくらになる」

 とある。外界からの刺戟をさえぎるためだろう。そのために墓地が見えなくなった。

「午後ぐつすりと眠る。夕方コツコツと音がする。はいと答えるとタコちゃんよりKさん(つきそいの人の名)へと手拭い。タコさんというのは酒屋主の由。持続。予よりあとに入る」

 字体も乱れているが、文章もへんになって来た。

「E先生数え年にて、四十一、なりとぞ。おどろき也。日記もこれでおしまいらしい」

 部屋はまっくらな筈だが、書いているところをみると、時々カーテンをあけてもらったのか。しかし日記欲は強く、二十九日も長々と書いている。我ながらあっぱれだ。

「七時起床。早くヨクアツが取れなきゃこまると思う。まだとれてない。眠る。十二時起きる。月見そば。うまくもまずくもなし。ただ食べるだけ」

 ほんとにこの頃は食物は口に押し込むだけで、うまさなんか全然感じなかった。義務で食っている。

「夜プロレスを見る」

 まだ頑張っているところがいじらしい。ぼんやりした記憶では、テレビが二重に見えるので、片目で見ていた。そんな状態でテレビが面白い筈はない。

 五月三十日になると、半分ぐらいは何を書いてあるか判らない。みみずののたくったような字で、書こうとする努力だけは判るが、意味が判らない。やっと読めるのは、

「三週間もやられたらゼツボウ也」

 何をやられたらなのか、とにかくゼツボウしている。

「夕方S君と碁を打つ。初め対にて次に六目。共に勝つ。S君二・二六事件の時のジキカン長(オヤジが也)三十七歳」

 碁を打っているし、つきそいのKさんの補筆によれば、夜テレビで巨人対国鉄戦を見ている。夢遊状態でありながら、一応人並みのことをしている。S君というのは銀行勤務で、何の症状で入院していたのか記憶にない。いい青年(?)であった。

 六月一日。

「朝食赤飯。ツイタチだから。タコちゃん文春別冊(デンワの写真)を持って来る。どういうわけか」

「昼食後医書をたずさえ、先生のところに談判に行く。便ピのことやいろいろ」

 Kさんの話では、もうこの頃は呂律(ろれつ)が廻らなくなっていたそうだ。酔っぱらいと同じくれろれろで、先生も迷惑だったろう。でも談判におもむくとは、意気さかんと言うべきだろう。いや、意気さかんというより、泥酔者と同じく鼻息が荒くなっていたのだろう。

 六月二日。Kさんの補筆で、

「朝食前、タコちゃん、キリン(S君のあだ名)と話す」

 とある。何をしゃべり合ったか知らないが、厭人癖はなおったらしい。同病相憐れむという気分なのかも知れない。酩酊状態から覚めても、私は彼等と親しくつき合った。私の字で、

「昼食エビライス(カミヤ)ケレドネ、ウドンだったので、それを食う」

エビライスを注文したが、病院の食事がうどんだったので、その方を食べたという意味だ。食欲が減退していて、エビライスよりウドンをえらんだのである。

「今日が一番足がふらつくような気がする」

 しかし字体から見ると、三十日と一日がもっとも乱れていて、二日以後の字は割にはっきりしている。峠を越したので、ふらつきの自覚が出て来たのだろう。極端にふらついている時は、かえってふらつきを自覚しないものだ。

 あとで人に聞くと、私は廊下を歩く時、大手をひろげて歩いていたそうだ。平均をとるために、そうしたのだろう。

 六月三日。

「朝回診ありたれど、眠っていたので通過。十一時半まで眠る。昼食後ひる寝。その後週刊誌のクイズを考える。夜(事件記者)を見て眠る」

 よく眠りに眠っているが、クイズを考えたりテレビを見たり、知的(?)な活動をしている。これからもう覚める一方である。

 五日にはもう散歩を許されている。ふらつく感じはほとんどなくなったが、頭はまだぼんやりしている。散歩が許されて嬉しかったので、雑誌だの果物だの、いろんなものを買い求めて戻って来た。もう死のことはあまり念頭になかった。木々の緑や街のにおいが、私にはなつかしかった。この頃から生活は快適になる。仕事はしないでいいし、寝たけりゃ寝ればいいし、散歩も出来る。やはり効果があったのである。

 しばしば大部屋に遊びに行って、花札をやったり碁を打ったりした。そして各患者とつき合い、彼等の生態を観察する余裕も生じた。だんだん散歩の範囲もひろがって、動物園に行ったり、入谷(いりや)鬼子母神の朝顔市に行ったりした。足を伸ばして本郷竜岡まで本因坊戦第一局を見に行ったこともある。つきそいのKさんを連れて行ったら、今は亡き村松梢風先生が、Kさんを私の女房と思ったらしく、ていねいにあいさつをされた。

「この人、僕の女房じゃないんです」

 と説明するわけにも行かず、私は困った。

 七月十日に退院。皆と別れるのがつらかった。退院に当って先生の指示は、

 一、食事後四十分は横になること

 二、酒は秋まで飲まぬこと

 の二条であった。

 七月十日の日記。

「空は曇り、今日より自由はわが手に戻る」

 などと書いてある。帰宅して翌日、蓼科(たてしな)高原に行った。一夏をそこで過した。半年か一年仕事が出来ないということが頭にこびりついていて、あるいはそれを利用して、毎日遊び暮した。ある日蓼科に映画会社の人が来て「人も歩けば」を映画化したいと言う。早速承諾して、金が入り、結局持ち金が全部なくなるまで、一年近く仕事をしなかった。生来怠け者なのである。

 指示の第一条は今も守っている。第二条の方は、秋とは何か。立秋をもって秋となすと都合よく解釈して、八月七日頃から飲み始めた。それを某雑誌に随筆に書いたところ、先生がそれを読んで、

「秋というのは九月頃からという意味だったのに、立秋とは一杯食わされました」

 と電話がかかって来た。

 以上が私のノイローゼ闘病記である。

 教訓。病気にかかったら、どんなことがあっても自己診断をせず、早期に専門医にかかること。私の場合は入院がすこし遅過ぎた。ことにノイローゼなどは、自分の精神力にたよってはいけない。医者に体をあずけてしまうに限る。ひとりでじたばたすればするほどひどくなる。

 それから鬱病、鬱状態は、朝起きた時が一番憂鬱である。ふつうの人間なら、朝は一日の初めであるし、活気に満ちている。活気に満ちるほどではなく、とにかくやろうという気持になっている。それなのに、

「ああ。また一日が始まるのか」

 と気分が鬱屈し、沈滞した気分におそわれるのは、あきらかに病的である。そんな自覚がある人は、直ぐさま専門医に相談する方がいい。ただし宿酔の場合は別である。あれは体の不調と自己嫌悪で心が真黒になっているのだから、一時的なものである。放って置けばなおる。しかし毎日宿酔ばかりしているような人は、アル中のおそれがあるから、診断を受けるべきだろう。

 私の場合一年間仕事をせず、損をしたような気がするが、また得がたい経験だと思えばそう損でもない。

 思えば私は体の具合の変る時、つまり青年期、それから厄年に不調がやって来た。これからしばらくは平穏状態が続くだろう。六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ。すると私の場合は野球にたとえると、二塁の曲り角だったんだろう。そんなところでわが結論は終る。

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年六月号『主婦の友』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本別巻の年譜によれば、梅崎春生は昭和三四(一九五九)年五月に本篇に「K病院」として出る台東区下谷にある近食(こんじき)病院に『入院し、持続催眠療法を受ける。七月に退院し、蓼科山荘にて身を養う』とあり、この年の八月にはやはり本文に出る「人もあるけば」が中央公論社より単行本で刊行されている(新聞三紙での連載開始は昭和三十三年五月で連載完結は翌昭和三十四年の入院直後の六月であった。なおこの作品は底本全集には不載で私自身、読んだことがない。梗概は後の注のリンク先を参照のこと)。当時、春生は四十四歳であった。なお、梅崎春生ファンならすぐにお気づきであろうが、ここに書かれた入院中の事実は、かなりの部分が、遺作となった「幻化」(私のマニアックなオリジナル注附きのPDF全篇版はこちら。同ブログ分割版はこちら)で、主人公久住五郎の精神病院入院回想シークエンスの各所にリアルに生かされてあることが判る。なお、この近食病院にはこの前年の昭和三十三年の五月に妻恵津が心因反応の病名で翌六月まで入院しており、同年譜には、本篇冒頭に書かれている通り、その記事に続いて、『梅崎自身も秋ごろから心身の違和を覚えるようになる』とある。妻の「心因反応」と春生の「鬱病」には強い連関性が認められるように感じられる。或いは、春生の鬱病(彼の発症にはアルコール性精神病の関与も私は疑っている。但し、妻恵津はこれを強く否定している)は実はこの年から始まっており、それに敏感に感応した結果、恵津は境界例である「心因反応」を起こしたのではなかろうか?

「広瀬貞雄」廣瀬貞雄(大正七(一九一八)年~平成一九(二〇〇七)年)は知られた精神科医で後に日本医科大学名誉教授となった人物であるが、この医師はかなり問題のある人物である。所謂、「臺実験(うてなじっけん)」事件に於ける執刀医だからである。ウィキの「臺実験」によれば、一九五〇年頃に東京都立松沢病院において発生した人体実験事件で精神科医の臺弘(うてなひろし:後の東京大学教授)の指揮の下、当時の松沢病院勤務の精神外科医であった廣瀬が、精神外科手術に便乗して約八十人の患者から無断で生検用脳組織を切除した事件で、『ロボトミー後に機能を停止すると予測された部分から、組織採取を行った。つまり、実際の手術の手順は、組織採取が先で、ロボトミーが後であ』った。その約二十年後の石川が昭和四六(一九七一)年三月に日本精神神経学会に於いて臺を当時東大講師であった精神科医石川清がこれを『告発したことから、東京大学や日本精神神経学会を巻き込んた論争が起こった』とある。

「松沢病院」東京都世田谷区にある精神科専門病院である東京都立松沢病院。

……北風寒き千早城」遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものに少し手を加えて再掲しておく(リンク先はブログ分割版の出現箇所)。これは、大正三(一九一四)年作の海軍軍歌で、所謂、「桜井の別れ」、河内の武将で後醍醐天皇の名臣楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死したが、その今生の別れとなった正成・正行父子が訣別する西国街道桜井駅(櫻井の驛)での逸話に基づく「楠公父子(なんこうふし)」(作詞・大和田健樹/作曲・瀬戸口藤吉。著作権は詞曲ともに消滅している)の二番の末尾の一節であるが、実は「旗風高き千早城」で、「北風」ではない。「幻化」も「北風」でこれはどうやら梅崎春生自身の記憶違いか、海軍内での替え歌かも知れぬ。天翔氏のサイト「天翔艦隊」の軍歌のデータベースの「楠公父子」から全歌詞を引くが、恣意的に漢字を正字化した。仮名遣も歴史的仮名遣にしようとしたが、実際の歌曲として詠んでもらうために特異的に現代仮名遣のままとした(リンク先ではミディで曲もダウロード出来る)。

   *

   楠公父子

一、

天に溢(あふ)るるその誠

地にみなぎれるその節義

楠公父子(なんこうふし)の精忠(まごころ)に

鬼神(きじん)もいかで泣かざらん

二、

天皇(すめらみかど)の御夢(おんゆめ)に

入るも畏(かしこ)き笠置山(かさぎやま)

百萬の敵滅ぼして

旗風高き千早城

三、

七度(ななたび)人と生まれ出で

殲(つく)さで止まじ君の仇(あだ)

誓いの詞(ことば)雄雄しくも

千古(せんこ)朽ちせぬ湊川(みなとがわ)

四、

その名もかおる櫻井の

父の遺訓(おしえ)を守りつつ

葉はその陰に生い立ちし

楠の若葉のかぐわしさ

五、

再び生きて還らじと

かねて思いし合戰に

四條畷(しじょうなわて)の白露(しろつゆ)と

消えても玉の光あり

六、

忠勇義烈萬代(よろずよ)の

靑史を照らす眞心は

死せず滅びず永久(とこしえ)に

日本男兒の胸の血に

   *

なお、「千早城」は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早に鎌倉末から南北朝期にあった楠木正成の城で、元弘二/正慶元(一三三二)年の正成の奇策防衛戦で知られる「千早城の戦い」で名高い。

……赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下……」明治三八(一九〇五)年に作られた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)。日露戦争時の戦闘を背景とする歌詞で全一四番から成る。この知られたフレーズは、その第一番の後半部。

   *
 

一、

此處(ここ)は御國を何百里

離れて遠き滿洲の

赤い夕陽に照らされて

友は野末(のずゑ)の石の下(した)

 

   *

全歌詞はウィキの「戦友軍歌を参照されたい。私はこの歌というと、栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)で「きっちゃん」(松本喜一)が歌うそれが忘れられない。

「ズルフォナール」やはり遺作「幻化」にも出る。私が「幻化」で注したものを再掲しておく(リンク先はブログ分割版の初出箇所)。持続性熟眠剤スルホナール(Sulfonal)であろう。この綴りだと、近年まで医事で使用されたドイツ語では発音が「ズルフォナール」に酷似するのではないかと思う。平凡社「世界大百科事典」(第二版二〇〇六年刊)の「催眠薬 hypnotics」には「スルホナール」を挙げ(コンマを読点に代えた)、『バルビツレート以前に使用されているが、現在は特殊な場合以外には使わない。安全域が小さく、排出が遅い。精神科疾患に一回』〇・五グラムとある(この「バルビツレート」(barbiturate)は不眠症や痙攣の治療、手術前の不安や緊張の緩和のために用いられる中枢神経系抑制薬物で、向精神薬群を総称する「バルビツール酸系」薬物とは同義同語である。ウィキの「バルビツール酸系」によれば、『構造は、尿素と脂肪族ジカルボン酸とが結合した環状の化合物で』、『それぞれの物質の薬理特性から適応用途が異なる』。『バルビツール酸系の薬は治療指数が低いものが多く、過剰摂取の危険性を常に念頭に置かなければならない』。一九六〇年代には、『危険性が改良されたベンゾジアゼピン系が登場し用いられている。抗てんかん薬としてのフェノバルビタールを除き、あまり使用は推奨されていない』。『乱用薬物としての危険性を持ち、向精神薬に関する条約にて国際的な管理下にある。そのため日本でも同様に麻薬及び向精神薬取締法にて管理されている』とあり、以下にチオペンタール・ペントバルビタール・アモバルビタール・フェノバルビタールといった薬剤名が示されている)。また、同じく「世界大百科事典」の、五郎が受けたところの「持続睡眠療法continuous sleep treatment」の項に、『鎮静・催眠性の薬物を投与して持続的な傾眠ないし睡眠状態にすることによって精神障害を治療する方法。ウォルフ O. Wolff』(一九〇一年)『がトリオナールを用いたことに始まるが,さらにクレージ J.Kläsi』(一九二一年)『がソムニフェンを使用して早発性痴呆や錯乱状態の患者を治療したことで精神病に対する一つの治療手段となった。日本でも下田光造』(一九二二年)『によって躁鬱(そううつ)病患者の治療にスルホナールが用いられ,これが盛んに行われた時期がある。治療期間は』十日から二十日前後で、『主として鬱病や躁病,精神分裂病の興奮状態などがその治療対象となった。しかし,精神障害の治療に向精神薬が導入されてからは定式的なこの療法が行われることはなくなっている』ともある(下線やぶちゃん)。ネット上の信頼出来る現在の精神医学・薬学系サイトなどでは、スルホナールは睡眠導入剤(睡眠薬)としては現在は全く使用されていないと断言している記載が多い。因みに、梅崎春生の小説を読んでいると、こうした「ズルフォナール」のような薬剤名や、前に注した「ヴァスキュラー・スパイダー」(vascular spider:クモ状血管腫)、「ハビバット」(halibut:ハリバット。春生は確か「鰈」の英語としているが、これは厳密には北洋産の超巨大(全長一~二メートル、大きい個体では三メートルを越えるものもざらである)カレイである条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科オヒョウ属 Hippoglossus のオヒョウ類を指す)等の、一般的でない外来語の特定単語の発音に対する、一種のフェティシズムを私は強く感じる。これは彼を病跡学的に検証する際の特異点であるように思う。

「ダレス死す」悪名高き日米安全保障条約の「生みの親」とされるアイゼンハワー大統領の国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles 一八八八年~一九五九年)は、この年(昭和三十四年)の五月二十四日(春生が入院したはまさに五月)にワシントンD.C.で癌のために死去している。

「呂律(ろれつ)」本来は「りょりつ」と読んだ。「呂(りょ)」も「律」も雅楽の音階名で、雅楽合奏の際に呂の音階と律の音階が上手く合わないことを「呂律(りょりつ)が回らぬ」と言っていたものが、訛化して「ろれつ」となり、しかも物を言うときの調子や言葉の調子の謂いに広がったものである。

「入谷鬼子母神」「いりや(の)きしもじん」と読む。東京都台東区下谷にある法華宗仏立山真源寺のこと。仏教を守護するとされる夜叉鬼子母神を祀り、この通称で古くから有名。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落でも知られる(以上はウィキの「真源寺」に拠る)。

「朝顔市」前の注でも参照したウィキの「真源寺」によれば、『当寺院の名物である朝顔市で有名になったのは明治時代に入ってからで、江戸後期頃から当地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、当寺院の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源である。明治時代を中心に、入谷界隈で朝顔作りが盛んになり数十件が軒を連ねたという。当地の朝顔は全国でも指折りの出来であったといい、朝顔のシーズンになると、入谷界隈には朝顔を見物しに、多くの人でごったがえしたという(無論、植物園などと違い、商品として栽培しているので』、『そのまま商売となった)。その後、宅地化の流れにより入谷界隈での栽培が難しくなり』、大正二(一九一三)年に『なって最後の栽培農家が廃業して、朝顔市は廃れてしまったが』、敗戦後の昭和二三(一九四八)年になって、『地元の有志と台東区の援助の元、再び入谷で朝顔市が復活することになり、現在では例年、七夕の前後』三日間(七月六日・七日・八日)に『当寺院と付近の商店街で開催され、下町の夏の風物詩としてすっかり定着している』とある。本篇の日付とも一致する。

「村松梢風」(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一)は小説家。静岡県生まれ。『電通』の記者を勤める傍ら、「琴姫物語」(大正六(一九一七)年) で滝田樗陰に認められ、情話作者として出発、「正伝清水次郎長」 大正一五(一九二六)年~昭和三(一九二八)年)その他の考証的伝記風作品を多く書いた。新派の演目となり、映画化(初回は戦前の昭和一四(一九三九)年で溝口健二監督)もされた「残菊物語」(昭和一二(一九三七)年)などの小説も多いが、後の「本朝画人伝」「近世名勝負物語」などは克明な人物伝として評価が高い(ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『「人も歩けば」を映画化したいと言う』私の好きな川島雄三の脚色及び監督(配給・東宝)で翌昭和三五(一九六〇)年二月九日に公開された。主人公砂川桂馬役をフランキー堺、彼の婿入りした先の姑を沢村貞子が演じている。梗概は「Movie Walker」の「人も歩けば」を。

「六十歳ぐらいにまた変調が起きるという説をなすものもいる。そこを過ぎると、長生きするのだそうだ」残念ながら梅崎春生は、この記事を書いた二年後の昭和四〇(一一九六五)年七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となった。]

諸國百物語卷之一 四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

     四 松浦伊予が家にばけ物すむ事

 

 會津の國若松といふ所に松浦伊予と云ふ人あり。此人の家にはいろいろふしぎなる事をゝし。

 まづ一どは、あるよのことなるに、にはかにぢしんのゆるごとくに、その家をゆりうごかすことおびたゞし。

 さてつぎのよは、なに者ともしらず、屋敷の内へ道もなきに來たりて、うらの口の戸をたゝき、

「あらかなしや」

と大ごゑをあげて、よばはる。あるじの女ばう、聞きつけ、

「何物なれば夜(や)中にきたりてかく云ふぞ」

としかりければ、ばけ物しかられて、すこし、しりぞき、又、かたはらの入口、おりふしあけてありけるをみて、かけ入らんとする。そのすがたをみれば、色白き女の、はだには白きかたびらをきて、たけながき髮をさばき、すさまじきこと、云ふばかりなし。あるじの女ばう、たゞ事ならず、と、をもひ、天照太神(てんしやうだいじん)の御祓(おはらい)をなげつけければ、そのまゝきへうせけり。

 三日めには申の刻ばかりに、かの女、大がまのまへに火をたきてゐけり。

 四日めには、となりの女ばう、せどへ出でければ、かの女、垣(かき)に立ちそひ、家の内を見いれいたり。となりの女ばう、大きにおどろきて、内にかけ入りければ、たちまちきへうせける。

 五日めの夜は臺所に來たりて、杵(きね)をもつて庭を、とうとう、と、うちけり。

 なにともせんかたなく、此うへは佛事祈禱より外のこと有るまじとて、さまざまいのりければ、まことに佛神のきどくありて、その次の日はきたらず。

「もはや來たること有るまじ」

と、いひもはてぬに、こくうより、

「五度にはかぎるまじ」

とよばはる。

 扨(さて)、その夜の事なるに、あるじのいねたる枕もとに來たり、すがたをあらはし、蠟燭をふきけしける。あるじの女ばう、をどろきて、しばらく、ぜつじしける。

 七日めの夜は、伊予ふう婦、いねたる枕もとに立ちより、ふう婦の頭をとりて、うちあて、又、すそよりつめたき手にて、ふう婦の足をなでけるを、ふう婦をどろき、氣をうしなひ、ふう婦ともに物ぐるはしくなりて死にけると也。いかなるゆへともわきまへがたし。

 

[やぶちゃん注:七日間に及ぶ怪異の記録(六日目にも虚空から呪詛(予言)の言葉が聴こえるという怪異がちゃんと起こっていることに注意)であるので、特異的に段落を施した。本話も「曾呂利物語」巻二の「三 怨念深き者の魂迷ひありく事」に基づく、ほぼ同話であるが、原話では、四日目の怪異で、亡霊が居るのを見つけた隣家の女房が『胆を消し、「隣りの化け物こそ爰に居て候へ」と呼ばはれば、化け物、いひけるは、「汝が所へさへ行かずば、音もせで居よ」と云ひて、又、消え亡せぬ』と亡霊が会話し、描写が妙に詳しい部分が大きく異なる。私のポリシーとして怪異のキモからいうと、「お前のところには(恨みはないので)近寄らぬから、何だかんだと声をあげずに、静かにしてな!」と叫ぶのは、妙に理屈っぽく亡霊らしくなく、却って怪異性を逆に削ぐ。「諸國百物語」の筆者がカットした気持ちが私はよく判る。また、主人の名を『いよ』と平仮名書きすること、亡霊が二度目の登場の際、ここに出る「あらかなしや」ではなく、『初花(はつはな)、初花』と叫んでいる点が有意に異なる。しかも、この原話の「初花」は、その「いよ」の女房の名とは読めず、恐らくは一般名詞の「初花」、「年ごろになったばかりの娘」という謂いかも知れぬ(としても謎めいた言上げではある。因みに「初花」は「初潮」の隠語でもある。何か、そうした霊に隠された、ある種の性的な背景を私は嗅ぎ取る)

「ぢしんのゆるごとくに」「地震の搖(ゆ)る如くに」なお、古語「搖る」は四段活用動詞なのでこれで正しい。

その家をゆりうごかすことおびたゞし。さてつぎのよは、なに者ともしらず、屋敷の内へ道もなきに來たりて、うらの口の戸をたゝき、

「あらかなしや」

と大ごゑをあげて、よばはる。あるじの女ばう、聞きつけ、

「何物なれば夜(や)中にきたりてかく云ふぞ」

「をもひ」「思(おも)ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「御祓(おはらい)」厄除けの御札。

「申の刻」午後四時前後。

「大がま」厨(くりや)の「大釜」。

「となりの女ばう」目撃者を隣家の女房とすることで怪異のリアリズムを格段に上げてある。

「せど」「背戸」。家の裏口或いは裏手。

「家の内を見いれいたり」隣りの家の敷地内に立って伊予の家の方を「見入れ居(ゐ)たり」(歴史的仮名遣誤り)の謂いであろう。怨念のベクトルを考えれば、伊予の家の敷地内から隣りの家を覗き見入っていたのでは、そのパワーが殺がれてしまう。

「杵(きね)をもつて庭を、とうとう、と、うちけり」原話にもあるが、SEとして絶妙にして、意味不明であるところがもの凄く、すこぶるよい。意味不明と書いたが、この女の怨念は実はこの動作にヒントが隠れているような気はする。杵で地面を打つ、という民俗的行為(これは子どもに任された豊作を祝う予祝行事である「亥の子」、「もぐらもち打ち」に酷似する)に何かがありそうに思うのである。識者の御教授を乞うものである。

「きどく」「奇特」。既注。神仏の霊験(れいげん)。

「こくう」「虛空」。

「五度にはかぎるまじ」「五度では、終りにはすまいぞ!」。

「ぜつじ」前話に出た「絶死」。失神。

「ふう婦」「夫婦」。

「わきまへがたし」「辨(わきま)へ難し」。現象を道理によって理解することが出来ない。全く見当もつかない。]

ヌカゴのことなど   梅崎春生

 

 私はヌカゴの味に秋を感じる。もちろん松茸や栗やサンマにも感じるけれど、近ごろ彼らは罐詰などになり、一年中食えるから、それほど強くは感じない。ああ、これが今年の松茸か、というようなもんである。ヌカゴの罐詰には、まだお目にかかったことがない。

 ヌカゴは零余子と書いて、自然薯(じねんじょ)や山芋の実(正確には肉芽)である。東京人はあまり食べないし、店でも売っていない。いや、一度だけ下高井戸の八百屋で売っているのを見て、私は買い占めて一人で食べた。なつかしい味がした。

 どうしてヌカゴに秋の味を感じるか。私の育った家(福岡)に生垣があって、それに蔓(つる)が巻きついて、秋になるとヌカゴがたくさん粒をつける。それを採っておふくろに煮てもらって食べる。その味の記憶がいまでも残っているからだろうと思う。とり立ててうまいというものではない。もさっとして素朴な味である。

 そのころはヌカゴが自然薯の実だとは知らなかった。知ったのは、その家を引っ越した後である。知ってりゃ自然薯を掘り出して、うまいうまいと食べたのに、といま思って残念である。

 東京に来て、前記八百屋のときだけで、ずっとヌカゴの味に接しなかった。ところが世田谷から練馬に引っ越して来ると、畠があちこちにあり、山芋を栽培している。秋になるとヌカゴが実る。その時節になると、私は袋を用意して、散歩に出かける。誰もいない畠から勝手にヌカゴを取るのは気がひけるので、農夫のいる畠を探す。声をかける。

「この山芋の実、売ってくれませんか」

 彼らは売ろうとしない。ただでくれる。

「ああ、そんなものなら、いくらでも持っていきな」

 しめたとばかり畠に踏みこみ、袋にどっさり詰めて帰る。彼らが栽培するのは、根を売るためなので、実なんか問題にしないのだ。食べることを知らないのもいる。ある若い農夫が私に反問した。

「それ、どうするんだね。子供の玩具にでもするのかい」

 かくして獲得したヌカゴを、醤油で薄味に煮て、つまようじで一粒一粒つき刺して食べながら、もって酒の肴とする。大して栄養のあるものではなかろうが、味が軽くて、前菜としては好適である。山本健吉の歳時記(さいじき)によると、

「とって炒(い)ったり、茹(ゆ)でて食べるが、(ヌカゴ飯)にもする」

 とあるが、私にはやはり薄味に煮たのがいい。郷愁と原料がただであることが、さらに酒の味を倍加させる。

 次は、椎(しい)の実。これも東京ではあまり見かけない。子供のときは近くに椎の実があったし、また果物屋でも売っていた。一升でいくらだったか覚えてないが、栗よりははるかに安かった。拾って来たり買ったりして、焙烙(ほうろく)で焙(あぶ)って食べると、香ばしくて甘い味がする。一昨年だったか、「西日本新聞」での連載随筆の中で、椎の実が食べたいというようなことを書いたら、読者から続々として椎の実が送られてきた。南は鹿児島から北は対馬産まで。大げさに言うと、うちは椎の実だらけになった。とても私一人では食べられない。家族に強制して食わせたり、来る人来る人に進呈したりした。これはめずらしいと喜んで受け取る人もあれば、迷惑そうに受け取る人もある。椎の実に執するのに個人差があるらしい。つまり幼ないときに食べたか食べなかったかによるのだろう。

 送られてきた椎の実は、送られてきた土地によって、大小や形に変化があるのは面白かった。一番見事だったのは対馬のもので、これは大粒で格別の甘みがある。椎の実は対馬に限る。

 椎の実にそえたあちこちの便りでは、九州ではいまでも椎の実を売っているそうである。行商人もいるということだ。

「椎の実はいらんか」

 というような呼び声をかけて、売り歩く。椎の実の問屋など、どうせありそうに思えぬから、どこかで勝手に拾ってきて、売って歩くのだろう。そう言えば私の子供のときも、椎の売り屋さんがいたように思う。そのころ私たちは椎の実は食べられるが、ドングリを食うと血を吐いて死ぬ、と教えられていた。しかし戦争末期や敗戦直後には、ドングリ粉の混ったパンを食べさせられたから、血を吐いて死ぬとはうそだったに違いない。でも、死なないにしても、ドングリは決してうまいものではない。

 それからヒシの実。私の両親が佐賀の出身で、秋になるとよくヒシの実が送られてきた。佐賀の町は縦横に堀割があって、そこにヒシが群生している。これも東京では売っていない。栗よりもずっとうまい、と言う人もいる。私のおやじもそうだった。若い青いうちはなまで食えるが、老熟すると茹(ゆ)でなきゃ食べられない。

 ただ栗と違うところは、栗はかんたんに皮がむけるのに、ヒシにはするどい棘(とげ)がある。つまりヒシ形にとがっている。それを口に入れて、歯で割れ目をつけて、中身を押し出す。その作法がむつかしい。うっかりすると口の中にトゲがささる。盆からつまみ取るときも、用心しないと手にささる。南京豆みたいに、ぽいぽいと口に運ぶわけにはいかない。苦心して食べるところに、そのうま味があって、私はそれを食べるたびに、秋の夜長という言葉を感じた。子供のくせに、生意気なことを感じたものだと、いまは思う。

 どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年十一月号『随筆サンケイ』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私は本篇を読んで何故、私が梅崎春生を偏愛するかがすこぶる腑に落ちた気がした。何故なら「ヌカゴ」(ムカゴ)も「椎の実」も「ヒシの実」もどこれもこれも私の大好物だからである。この三つが大好物だという人間は私と同じ世代には寧ろ、いや、極めて、稀だと思う。「ヌカゴ」は小学生の頃、裏山で、よく母と採った。「椎の実」は今でも、見つけると必ず拾って食べる。「ヒシの実」の美味さは小学校二年生の夏に母の実家のあった鹿児島の大隅町岩川の山間(やまあい)の沼で採って食べて以来、忘れ難い私の神の食物だ。二十数年前、タイはスコータイの寺院門前の道端で、老婆が竹を編んだ籠に入れた黒焼きにしたそれを売っていた。「チップチャン」(タイ語で「蝶」の意)という名の十九歳のガイドの娘さんが、私が「ヒシだ! ヒシだ!」と歓喜して叫んでいるのを見るや、「ヒシ」という日本語を手帳にメモした後、ポケット・マネーでそれを一籠買って、私にプレゼントして呉れたのが今も忘れられない。……「どうも人間というものは、子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……私は今、五十九歳……「子供時分に食べたものを食べたくなる時期があるらしい。だいたい私がいま、そんな年齢なのである」……

「ヌカゴ」「零余子」珠芽とも書く。ウィキの「むかご」によれば、『植物の栄養繁殖器官の一つ』で、『主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成され、離脱後に新たな植物体となる』。『葉が肉質となることにより形成される鱗芽と、茎が肥大化して形成された肉芽とに分けられ、前者はオニユリ』(単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium)などで、後者はヤマノイモ科(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科 Dioscoreaceae)の種などで見られ、『両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なり、前者は小さな球根のような形、後者は芋の形になる』。『食材として単に「むかご」と呼ぶ場合、一般には』ヤマノイモ(ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモDioscorea japonica)やナガイモ(ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea batatas)などの『山芋類のむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩ゆでする、煎る、米と一緒に炊き込むなどの調理法がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』とある。なお、「ぬかご」という読みもあり、梅崎春生の訛りではない。「零余子」という表記については、私が恐らく最もお世話になっている、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の日刊こよみのページ スクラップブック (PV 415 , since 2008/7/8)の「零余子」の解説中に、『零余子の「零」は数字のゼロを表す文字にも使われるように、わずかな残りとか端といった小さな量を表す文字ですが、また雨のしずくという意味や、こぼれ落ちるという意味もあります』。『沢山の養分を地下のイモに蓄えたその残りが地上の蔓の葉腋に、イモの養分のしずくとなって結実したものと言えるのでしょうか』とあり、私の中の今までの疑問が氷解した。

「椎の実」ブナ目ブナ科クリ亜科シイ属 Castanopsis の樹木の果実の総称。ウィキの「シイによれば、シイ属は主にアジアに約百種が分布するが、日本はこの属の分布北限で、ツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate :関東以西に分布。果実は球形に近く、次のスダジイに比べ小さい)とスダジイ(ナガジイ/イタジイ)Castanopsis sieboldii :シイ属中、最北に進出した種。大木では樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県・新潟県佐渡島にまで生育地を広げた。果実は細長い。琉球諸島のスダジイを区別して亜種オキナワジイ(Castanopsis sieboldii ssp. lutchuensis)とする場合がある。沖縄では伝統的に「イタジイ」の名が和名として用いられてきたが、両者が共存する地域ではこの「スダジイ」が海岸近くに、先の「コジイ(ツブラジイ)」が内陸に出現することが多い)の二種が自生する。他に日本では本シイ属に近縁のクリ亜科『マテバシイ属(Lithocarpus)のマテバシイ(Lithocarpus edulis)もこの名で呼ばれている』(このマテバシイ Lithocarpus edulis も生食可能である。果実の形状は前の「シイ」より遙かに「ドングリ」である)。同ウィキには『果実の椎の実は、縄文時代には重要な食料であったと言われている。近年では子供のおやつに用いられた。現在でも博多の放生会や八幡(北九州市)の起業祭といったお祭りでは炒った椎の実が夜店で売られている』とある。春生の郷里福岡周辺との強い親和性が窺われる。

「ヒシの実」一年草の水草で葉が水面に浮く浮葉植物(後述引用する通り、完全な「浮草」ではないので注意)であるフトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ(菱) Trapa japonica の果実。本邦では同属のヒメビシ Trapa incisa、及び変種オニビシ Trapa natans var. japonicaも植生する。ウィキの「ヒシ」より引いておく。『春、前年に水底に沈んだ種子から発芽し、根をおろし茎が水中で長く伸びはじめ、水面に向かって伸びる』。『よく枝分かれして、茎からは節ごとに水中根を出し(これは葉が変化したものともいわれる)、水面で葉を叢生する』。『葉は互生で、茎の先端に集まってつき、三角状の菱形で水面に放射状に広がり、一見すると輪生状に広がるように見える』。『上部の葉縁に三角状のぎざぎざがある』。『葉柄の中央部はふくらみがあって、内部がスポンジ状の浮きとなる』。『その点でホテイアオイに似るが、水面から葉を持ち上げることはない。また、完全な浮き草ではなく、長い茎が池の底に続いている』。『花は両性花で、夏から秋の』七 ~十月に『かけて、葉のわきから伸びた花柄が水面に顔を出して、花径約』一センチメートルの『白い花が咲く』。『萼(がく)、花弁、雄蕊は各』四個。『花が終わると、胚珠は』二『個あるが一方だけが発育し大きな種子となる。胚乳はなく、子葉の一方だけが大きくなってデンプンを蓄積し食用になる。果実を横から見ると、菱形で両端に逆向きの』二『本の鋭い刺(とげ。がくに由来)がある』。『秋に熟した果実は水底に沈んで冬を越す』。『菱形とはヒシにちなむ名だが』、葉の形に由来する、実の形に由来する、という両説があって、はっきりしない』。平地の溜め池、『沼などに多く、水面を埋め尽くす。日本では北海道、本州、四国、九州の全国各地のほか、朝鮮半島、中国、台湾、ロシアのウスリー川沿岸地域などにも分布する』。『ヒシの種子にはでん粉』が約五十二%も含まれており、茹でるか、蒸して食べると、『クリのような味がする。アイヌ民族はヒシの実を「ペカンペ」と呼び、湖畔のコタンの住民にとっては重要な食糧とされていた』とある。]

2016/08/25

交友について   梅崎春生

 

 先日、高等学校の友達四人があつまって酒を飲んだ。高校と言っても、今のシステムでなく、旧制のだから、年齢的にはすこし上になる。私は十七歳で入学した。私のクラスは文学好きが多くて、級友の十人ぐらいが相談して、同人雑誌を出すことになった。三号まで出したと思う。四人(H、M、S、それに私)はその同人誌の残党で、現在在京しているのは、この四人だけだ。あとは戦死、病死したり、自殺したり、地方にとどまったり、行方の知れないのもいる。それを思うと、昔の仲間なんかはかないものだ。

 飲んだ場所は銀座。Hが選んだ。Hは東芝に勤めていて、銀座にくわしい。

 久しぶりに会うと、皆それぞれの形で老けている。なぜあつまったかというと、Mが九州の竹田から上京して来たからだ。彼は東大英文を卒業後、勤めることはせず、家業をついで、造り酒屋の旦那になっている。今度息子が東京の大学を受験するというので、息子につきそって東京にやって来た。もうそんな息子があるのかとおどろくが、おどろく私にしても、鬢髪(びんぱつ)に若干白いものが交っているのだから、おどろく資格はない。

 銀座のその店は、話し合うのにうるさ過ぎた。座を変えようと言うので、本郷に行き、「松好」という飲屋に行った。戦前からあった店で、さすがにここは静かである。そこでいろいろ話し合ったが、ふと気がついてみると、昔の話ばかりしている。

「なんだ。おれたちは昔話ばかりしているじゃないか」

 と私が言ったら、皆同感した。誰かが言った。

「昔の話する以外に、話がないじゃないか」

 前記の三人は、学生時代の友人としては、私はもっとも親しい。その親友たちとも、前向きの話題でなく、回顧談一本槍になるというのが、何かわびしい気持がした。

 小学校時代の親友と、仕事の上では別の道を歩きながら、終生相変らぬ友情と交渉を保ち続けている例が、時にはある。しかし現代のように、変転が烈しい時代には、まれと言うべきではないだろうか。私(現在四十七歳)も小学校時代の友達と、今つき合っているのは一人もいない。同窓会も開かれていないようである。交友が成立するためには、ある程度の共通の基盤が必要である。同じ小学校に学んだということだけでは、薄弱である。おそらく同窓会が開かれたとしても、もう誰がそれであるかは、弁別出来ないだろう。やっと思い出したとしても、話は小学校時代のいたずらや先生のことなど、すべで後向きの話題に終始するだろう。

 でも、子供時代に返ったような気持になって、

「ああ、愉快だった」

 と一夜の歓を尽し、それで四方に別れ去るだろう。六年間の友情は、数十年経つと、一夜の歓で終るのだ。それは過去の交友であって、現在の交友ではない。

 もっとも昔の友達がなつかしいという感情には、個人差があるらしい。テレビの「私の秘密」という番組に、御対面というのがある。あれで昔の友達が出て来る。ひどくなつかしそうに、手を取り合って、

「おお、君だったのか。すっかり見違えて」

 と感激する型もあれば、ああ、君か、とひどく冷淡なのもいる。観ている側からすれば、もちろん前者の方が好ましいが、私自身をかえりみると、どちらかというと後者に近い。現在にかかわりないことには、あまり興味を持てないのである。まだ後向きの姿勢になりたくない気持もある。これが普通の現代人の感情じゃないだろうか。

 それと同じ意味で、私は戦友との交際はひとつもない。近頃読者の連絡欄みたいなものが、各新聞に新設されたが、あの中に「何々部隊の人に告ぐ。会合を開きたいから連結して下さい」というような文句がよく出ている。あつまって苦労の当時をしのぼうという趣向だろう。あれから十七年も経つし、生活も安定したし、その気持はよく判る。

 私も一年半ばかり海軍に召集された。応召の下級兵士としてである。血気盛んな兵長や下士官にぎりぎりとしぼり上げられた。その当時我々(いっしょに応召して来た)はたいへん仲が良かった。さまざまの職業や経歴の人たちがあつまっていたが、軍隊に入ったとたんに、そういう条件はすっぽりと剝脱され、兵士という一単位になってしまう。同じ釜の飯を食い、同じ訓話を受け、同じような制裁を受ける。親愛の情がそこに湧かないわけがない。

「一度でいいから畳の上で、ちゃんとした蒲団にくるまって寝たい」

 海軍で寝るところはハンモックだから、そんな嘆きが出て来る。私たちに共通した嘆きであった。しかし、そんな時でも私は、

「これは友情というものじゃない。被害者同士の連帯感だ。つまり奴隷(どれい)の友情に過ぎないのだ」

 という思いが、いつも胸から去らなかった。で、昭和二十年初秋に復員、それから戦友に会いもしないし、文通することもない。お互いに被害者の身分を解き放たれて、自由な生活に戻ると、共通感はとたんに解消してしまうのである。特に私たちは当時三十前後の、兵隊としては老兵で、皆ちゃんとした職業を持っている。復員してしまうと、心の通いようがないのだ。つまり彼等は、私の心の中で生きているだけで、現実に相わたることがない。交友というものは、現実に相わたるものがある時、初めて成立するものであって、死んだ過去のつながりは条件として成立しないように思う。

 いい友人を持つということは、その人の一生の幸不幸を決定する、なんて言葉もあるけれど、どうもそれは疑わしい。所詮人間は孤独なものであるし、よき友達が出来るのも、偶然がそれを決定する。というと、私にはよき友人がいないように響くかも知れないが、私は割に友人運に恵まれていたような気がする。学校時代には級友、卒業して勤めると職場の友人、という具合に、たすけたりたすけられたりして、今日までやって来た。やって来たつもりである。

 与謝野鉄幹にこんな詩がある。

 

  妻をめとらば才たけて

  顔(みめ)うるわしくなさけある

  友をえらばば書を読んで

  六分の侠気四分の熱

 

 明治ののんびりした空気が感じられるが、そんな都合のいい女房や友人が、おいそれと見つかるものでない。鉄幹子はこれを現実としてでなく、理想のものとして歌い上げたものだろう。私個人の好みからすれば、六分の侠気四分の熱、などを持った男と、あまり友人になりたくない。親分風を吹かせてがらがらしたような男が眼に浮んで来る。

 友情なんてものは、誤解の上に成り立つのではないか。そんなことを私は考えたことがある。高等学校最後の一年、私は素人(しろうと)下宿にいた。止宿人は四人。皆仲よくやっていた。その中にKという私の下級生がいた。私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである。私という人間を、徹底的にやっつけてあるのだ。書いてある条件や環境は、そっくり事実だが、Kの受け取り方が違う。私が好意でやったり、しゃべったりしたことを、Kは私の悪意からの所業だという風に書いてあるのである。おどろくというより、愕然としたと言った方が正しい。

「ああ、Kのやつは、そんなことを考えていたのか」

 それを見抜けなかった私の人の好さもあるだろう。でも、人間は本質的に他人を理解出来ないものだ。その思いが強く私に迫って、その考えは今でもそう変らない。人間は自分のことだってよく判らない。まして他人のことなど、判りっこはないのである。

 それと逆の場合が、交友だの恋愛だのに起るらしい。惚れて通えばあばたも笑くぼ。そういう風なものだ。人間はすべてのことを、大体自分の都合りいいように解釈するものである。(都合の悪い方に解釈するようになると、その人はノイローゼという病名を与えられる。)友情だってその例外ではない。おれとあいつは無二の親友だ、と考えることは、誤解であり、さもなくば誇張された悲壮感である。私は信用しない。

 と言えば、みもふたもない。が、根本的にそんな自覚があれば、重大な破局に際し、おれはあいつに裏切られたと、怒ったり嘆いたりすることはないだろう。

 先ほど交友というものは、ある程度の共通の地盤がないと成立しないと書いたが、あまり共通し過ぎると、かえって成立しない。友達というより、競争相手としてあらわれるからだ。ことに現在は、小さな島に一億もの人間がひしめき合っている。人を蹴落さねば、自分の存立があぶない。虎視耽々(たんたん)としてそのチャンスをねらっている、という事情が成立しかかっている。その点で言うと、子供時代の交友が一番純粋で、大人のそれはさまざまのニュアンスや陰翳(いんえい)を含んでいる。

 交友について書けと言われて、書いている中に妙にペシミスティックになってしまった。私の考え方は偏していて、おそらく一般的でないだろう。だからこの文章は読み捨てて、新しくいい友人を持ちなさい。人間の一生がかけがえがないのと同時に、良い友達もまたかけがえがないものだ。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年六月刊の『電信電話』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「妻をめとらば才たけて/顔(みめ)うるわしくなさけある/友をえらばば書を読んで/六分の侠気四分の熱」與謝野鐡幹の明治『三十年八月京城に於て作る』(明治三十年は西暦一八九七年)の添え題を持つ「人を戀ふる歌」の第一連。こちらで全篇が読める。

「私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである」熊本第五高等学校の学校誌「龍南会雑誌」しかないが、「熊本大学附属図書館」公式サイトのこちらで閲覧出来る。梅崎春生卒業前後に欠本は、ない。私は、或いはこれか? と感じる一篇を見つけたが、自信はない。興味のあられる方は、どうぞお探しあれ。]

押し売り   梅崎春生

 

 私の家は東京の練馬区で、新開地のせいか、ずいぶん押し売りのたぐいが多かった。一昨年あたりまでは、平均二日に一度ぐらいはやって来て、家人を悩ました。それが昨年あたりからしだいに減り始めて、今年になってはほとんどやって来ない。

 来なけりや来ないで、淋しいものである。実は私は押し売りだのにせ電球売りだのをかまうのが大好きで、そんなのが来ると仕事を中止して物かげに身をひそめ、家人に応対させて、さて最高潮に達した時、ぬっと姿をあらわす。私は五尺七寸、今は着ぶくれをしているから、結構強そうに見える。たいていの押し売りはぎょっとして、態度が軟化し、こそこそと退散してしまう。弱きをたすけ強きをくじく、という感じがして、いい気分のものである。ほどよきレクリエイションとなり、仕事の進みも早いようだ。

 でも、なぜ近頃押し売り類が少なくなったか。考えてみると、減り始めた時期は、人手不足、求人難の時期と大体重なっているようである。つまり押し売り人口が、人手不足の方に吸収されて、そこで減ったものと考えられる。何も押し売りみたいな、人に厭がられる、また危険率の多い仕事に従事せずとも、収入のいい正業がいくらでもあるのだから、転向するのも当然である。まあ喜ばしい傾向だと言えるだろう。

 ここに哀れをとどめたのは(かどうかは知らないが)元締めで、今まで手下を使って押し売りをさせ、そのかすりで生活していたのに、手下の志望者がぱったりとなくなってしまった。元締めとしてはめしの食い上げである。という風に、つれづれなるままに想像して、その哀れで間の抜けた元締めを主人公にして、小説に仕立ててやろうと、この間から私は計画している。うまく行くかどうか。一昨日、久しぶりに押し売りがやって来た。ゴム紐でなく、箒(ほうき)売りである。例によって家人に応対させ、私はかくれていたら、女一人とあなどったのか、だんだん言葉がぞんざいになる。初め一本五百円だと言っていたが、しだいに値下げし始めた。四百円から三百円、ついには五十円になった。それでも家人が買おうと言わないので、彼は業を煮やして、言葉も荒く、「三十円。三十円でどうだ。それでも買わねえと言うのか。それじゃ十五円!」いくらいんちき品でも、一応の座敷箒である。十五円で売れる筈がない。いんねんをつける気なのである。そこで私がぬっと姿をあらわした。

「十五円か。よし。買おうじゃねえか」

 と私が言ったら、箒売りは急にしどろもどろとなり、幸か不幸かその時郵便屋さんが書留を持って玄関に入って来たので、あたふたと逃げて行ってしまった。私は十五円で箒を買いそこねた。

 案外あんなのが昔の元締めで、手下に去られて、個人営業(何だかタクシーみたいだ)に踏み切ったんじゃないかと、私は想像している。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年五月号『婦人生活』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「五尺七寸」約一メートル七十三センチ。

「かすり」とは「掠り」「擦り」などと書き、上前(うわまえ:江戸時代に神領などで諸国の年貢米を通す際に取った通行税「上米(うわまい)」からの転。代金・賃金の一部から仲介者が搾取する手数料)をはねること、口銭(くちせん/こうせん:手数料・仲介料)を取ること、その「もうけ」の謂いである。]

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異 

 

     一 昆蟲類の變異

 

[變異と適應]

Henitotekiou

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。学術文庫版ではこの図は省略されてしまっている。以下、キャプションを電子化する。

 

【右図外】

地方的變種の例

1「こひをどしてふ」中部ヨーロツパ産

2同南部ヨーロツパ産

3同北部ヨーロツパ産

【左図外】

季節的變種の例

4「あかまだら」夏形

5同冬形

變異の例

6789「はなばち」の一種、

雌雄二形、

10蝶の一種雌

11同雄

【図下部外】

水中生活に適する動物の例 12 13「かげろふ」の幼蟲と成蟲 14「まつもむし」

水中生活に適する植物の例 15 16「ひし」とその實 17「うめばちも」の一種

 

 以下の注で本図の生物の同定を試みるが、図自体がモノクロ(色彩変異が判別出来ない)な上に外国のものらしく、種までの正確な同定は困難である。

「こひをどしてふ」本邦産の、

昆虫綱双丘亜綱有翅下綱長節上目鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ族 Aglais 属コヒオドシ(小緋縅)Aglais urticae

のヨーロッパ産の別種、或いは同族か同属の仲間、或いは近縁種、或いは丘先生が執筆された当時は近縁種とされた別種と思われる。但し、図の三つともに前翅前縁にある紋様はコヒオドシ Aglais urticae のそれとよく一致する。なお、本種コヒオドシ Aglais urticae には「姫緋縅(ヒメヒオドシ)」の別名もある(ある学術データでは、これをアカタテハ属コヒオドシとし、学名を Vanessa urticae f. connexa とするのであるが、“f.”(品種)というのは解せないので採らない)。ウィキの「コヒオドシ」及びグーグル画像検索「Aglais urticaeをリンクさせておく。

「あかまだら」タテハチョウ科サカハチチョウ属アカマダラ Araschnia levana ウィキの「アカマダラ」によれば、分布は日本『国内では北海道のみで、渓畔に多いサカハチと違い平地・低山地にも広く生息する』。『国外では中央~東ヨーロッパの低地に広く分布し、その分布範囲を西ヨーロッパにも広げつつある』とし、本種は『春型と夏型で全く外見が異な』り、『夏に生まれたものは黒地に白の模様でイチモンジチョウ』(タテハチョウ科イチモンジチョウ亜科イチモンジチョウ族オオイチモンジ属イチモンジチョウ Limenitis camilla 。同種も固有のかなり異なった個体色彩変異(季節変異は不明瞭とどの記載にもあるからこれは地域変異か)を持つ。ウィキの「イチモンジチョウ」の画像を参照されたい)『を小型にしたような姿であり、春型にあるようなオレンジ色が見られない。これは幼虫時代の日照時間の長さが影響する(日を短くして飼育すると春型になる)』とある。ウィキの「アカマダラ」の画像で、その別種としか思えない季節二形が、よく判る。必見。

「はなばち」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科 Apoidea に属する蜂類の内、幼虫の餌として花粉や蜜を蓄える種群の総称。私にはこの図ではこれ以上の同定は不能である。

「かげろふ」有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeroptera の仲間。幼虫は総て水生。現在、二十三科三百十属二千二百から二千五百種が確認されており、この図からさらに限定することは私には出来ない。

「まつもむし」狭義には有翅下綱節顎上目カメムシ目カメムシ亜目タイコウチ下目マツモムシ上科マツモムシ科マツモムシ亜科マツモムシ属マツモムシ Notonecta triguttata を指すが、本邦だけでも三属(マツモムシ属・Anisops属・Enithares属)九種が棲息するから、本図のそれはマツモムシ属 Notonecta、或いはマツモムシ亜科 Notonectidae のレベルで留めておくのが無難であろう。

「ひし」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 或いは近縁種(本邦でもヒメビシ Trapa incisa・変種オニビシ Trapa natans var. japonica が植生する)。

学名

「うめばちも」「梅鉢藻」或いは「梅花藻」と表記する「ウメバチモ」は、日本固有種であるキンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ属バイカモ亜属イチョウバイカモ変種バイカモ Ranunculus nipponicus var. submersus の別名であるから、この図のそれはバイカモ亜属 Batrachium のバイカモ類の一種としておくのがよい。

「雌雄二形」典型的な性的二形の例を示したものであろうが、もっと極端に異なった全く違う生物に見えるもの種(昆虫類でも数多くある)を示した方がよかったとは思う。一枚図版で処理しようとしたために、却って性的二形の実体の驚愕が伝わってこないのは遺憾である。]

 

 凡そ如何なる動植物の種類でも、標本を數多く集めて之を比較して見ると、一として總べての點で全く相同じきもののないことは、今日の研究で十分に解つて居るが、その互に相異なる點の性質によつては、特別の機械を以て精密に測らなければ解らぬやうなこともある。身長の差違、體重の差違等でも、天秤や物指しを用ゐなければ、明には知れぬが、況して體面の屈曲の度とか凸凹の深淺の割合とかの相違を調べるには、特にそのために造られた複雜な器械を用ゐなければならぬ。たゞ彩色・模樣等の相違は眼で見ただけでも一通りは解るから、野生動植物の變異性のことを述べるに當つては先づ模樣の變化の著しい例を第一に擧げてみよう。それには我が國何處にも普通に産する小形の黄蝶などが最も適切である。[やぶちゃん字注:最後の一文中の「どこにも」は底本では「どにこも」となっている。錯字と断じて特異的に訂した。]

 注ぎに掲げたのは黃蝶の圖であるが、翅は一面に美しい黃色で、たゞ前翅の尖端の處だけが黑色である。幼蟲は荳科の雜草の葉を食ふもの故、この蝶は到る處に澤山居るが、春から夏へ掛けて多數を採集し、之を竝べて見ると、翅の黑い處の多い少いに著しい變化があり、或る標本ではこの圖の(左上)のものの如く前翅の端が大部分黑く、後翅の緣も黑い程であるが、また他の標本ではこの圖の(右下)[やぶちゃん字注:これは「右上」或いは「右上と右下」とするべきである。]のものの如く翅は前後ともに全く黃色ばかりで、黑い處が殆どない。それ故、初めはこの蝶には幾種もあると思ひ、實際黑色の部の多少によつて之を數種に區別し、各種に一々學名を附けてあつたが、岐阜の名和氏、橫濱に居たプライヤー氏などの飼養實驗によつて、悉く一種内の變化に過ぎぬことが判然したので、今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある。

[やぶちゃん注:「荳科」「マメか」。普通のマメ目マメ科 Fabaceae のこと。

「名和氏」ギフチョウ(アゲハチョウ科ウスバアゲハ亜科ギフチョウ族ギフチョウ属ギフチョウ Luehdorfia japonica)の再発見者(命名者)として知られる昆虫学者名和靖(安政四(一八五七)年~大正一五(一九二六)年)。美濃国本巣郡船木村字十五条(現在の岐阜県瑞穂市重里)生まれ。

「プライヤー氏」イギリスの動物学者ヘンリー・プライアー(Henry James Stovin Pryer 一八五〇年~明治二一(一八八八)年)。明治四(一八七一)年に中国を経て来日、横浜の保険会社に勤務する傍ら、同地で急逝するまで、昆虫類(特に脈翅目類(蝶・蛾))や鳥類を採集・研究した。単なるコレクターではなく、蝶を飼育して気候による変異型を明らかにした研究は高く評価されている。主著は日本産蝶類の初の図鑑「日本蝶類図譜」(一八八六年~一八八九年。本書の英文には和訳が添えられており、採集地に敬意を表した彼のナチュラリストとしての見識が窺える)、ブラキストン線で知られる、北海道に滞在したこともあるイギリスの貿易商で博物学者トーマス・ライト・ブレーキストン(Thomas Wright Blakiston 一八三二年~一八九一年)との共著「日本鳥類目録」(一八七八年~一八八二年)がある。

「今では之に種々の變化を現す黃蝶といふ意味の學名が附けてある」以下に注するように、現行のキチョウの学名はEurema hecabeであるが、これはリンネの命名によるものであるから、このような意味がこの種小名にあるはずはない(これはギリシア神話に登場するイリオスの王プリアモスの妻女王ヘカベー(ラテン語:Hecuba)の名由来であると思うが、この女王にはそのような伝承はない。或いは、彼女が十九人もの子を産んだことに由来するか? ウィキの「ヘカベーを参照されたい)。不審。或いは、以前に別な種小名(シノニム)があったものか? 識者の御教授を乞う。因みに属名はギリシャ語の「発見・発明」の意の“heurema”の語頭の“h”を省略したもの)。]

 

Kityounoheni

[黃蝶の變化

(翅端の黑き部分の有無多少を示す)]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。本種は普通に見られる、

鱗翅目Glossata亜目Heteroneura下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema hecabe

であるが、ウィキの「キチョウ」によれば、『従来「キチョウ」とされていた種は、キチョウ(ミナミキチョウ、南西諸島に分布)とキタキチョウ(Eurema mandarina、本州~南西諸島に分布)の』二種に『分けられることになったが、外見による識別は困難』とする。前翅長は二〇~二七ミリメートルで、『近縁のモンキチョウ』(モンキチョウ属モンキチョウ Colias erate)『よりもやや小さい。翅は黃色で、雄の方が濃い色をしている。前翅、後翅とも外縁は黑色に縁どられ、裏面に褐色の斑点がある。夏型と秋型があり、前者は外縁の黑帯の幅が広いが、後者は黑色の縁が先端に少し残るか、もしくはない。成虫は年に』五、六回『発生し、越冬も行う。早春には活発に飛び回る姿が見られる』とある。]

 

 黃蝶のみに限らず、蝶類は一體に甚だ變異の多い動物で、目本に普通な「べにしゞみ」といふ奇麗な小蝶も、採集の時と場所とに隨つて、紅色の著しいものもあり、また黑色の勝つたものもある。また揚羽蝶(あげはてふ)の中には産地によつて後翅から後へ出て居る尾のやうなものが有つたり無かつたりする種類もある。他の昆蟲類とても隨分變異が著しい。或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある。また昆蟲類の變異は成蟲に限る譯ではなく、隨分幼蟲や蛹などにも盛な變異があり、或る學者の調によると、一種の蛾の幼蟲に十六通りも變異があつた場合がある。今日昆蟲學者と稱して昆蟲を採集する人は世界中に何萬人あるか知らぬが、多くはたゞ新種らしきものを發見し記載することばかりに力を盡し、この面白い變異性の現象を學術的に研究する人は、西洋でも比較的甚だ少い。

[やぶちゃん注:「べにしゞみ」アゲハチョウ上科シジミチョウ科ベニシジミ亜科ベニシジミ属ベニシジミ Lycaena phlaeas ウィキの「ベニシジミによれば、『春に日当たりの良い草原でよく見られる小さな赤褐色のチョウである。成虫の前翅長は』一・五センチメートルほどで、『前翅の表は黒褐色の縁取りがあり、赤橙色の地に黒い斑点がある。後翅の表は黒褐色だが、翅の縁に赤橙色の帯模様がある。翅の裏は表の黒褐色部分が灰色に置き換わっている。時に白化する場合もある』。『成虫は年に』三~五回ほど、『春から秋にかけて発生するが、特に春から初夏』、四月から六月にかけて『多く見られる。春に発生する成虫(春型)は赤橙色の部分が鮮やかだが、夏に発生する成虫(夏型)は黒褐色部分が太く、黒い斑点も大粒になる』とある。

「揚羽蝶(あげはてふ)」アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae に属するアゲハチョウ類。世界で五百五十種ほどが知られる。

「或る甲蟲類では翅が有つたり無かつたりする程の甚だしい變異を一種内に見ることがある」甲虫類(鞘翅(コウチュウ)目 Coleoptera)に限定され、しかも「翅が」退化したのではなく、「無」いとなると、昆虫の苦手な私には直ぐには浮かばない(性的二形での翅が退化していて飛べない種なら、例えば鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科ホタル属ヒメボタル Luciola parvula がいる)。識者の御教授を乞う。

「調」「しらべ」。]

諸國百物語卷之一 三 河内の國闇峠道珍天狗に鼻はぢかるゝ事

    三 河内の國闇峠(くらがりとうげ)道珍天狗に鼻はぢかるゝ事


Dautin


 河内の國くらがり峠と云ふ山のをくに、十二、三町ほど行けば、山中に宮あり。此みやに道珍と云ふ人、たゞ一人すまひしける。この道珍、五十一の年まで、つゐにおそろしきと云ふことをしらず。あわれ、ちとおそろしき事にもあひたき、などゝ思ひ、人にも抗言(かうげん)しける。ある時、今口(いまくち)と云ふ在所へ非時に行きけり。折ふし雨ふり、つれづれなるまゝに、日ぐれがたまで咄しゐてかへりけるが、山のをく、七、八町ほどゆけば、道に石橋(いしばし)あり。はじめは此橋になにもなかりけるに、もどりには、死人、よこたをれ、ゐけり。道珍ふしぎにおもひけれども、おそろしきことしらぬ人なれば、死人(しびと)の腹をふみてとをりけるに、此死人、道珍がすそをくわへて、引きとむる。道珍、此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる、とおもひて、又、腹をふみければ、口、あきぬ。道珍、おもひけるは、此死人、ひんなるゆへに寺へもゑやらず、こゝにすてたるとみへたり。さらば、うづめてとらせん、とて、死人を引きをこし、せなかにおひて、わが屋に歸りて、おもふやう、此死人、すそをくわへて引きたるとがあれば、そのくわたいに、こよひは、しばりをき、夜あけてうづめん、とおもひて、さし繩をぬひて、松の木に死人をしばりつけ、道珍は、ねやに入りて、ねにければ、夜半のころ、門のほとりより、「道珍、道珍」とよぶ聲、きこへける。道珍、目ざめ、ふしぎにおもひ、

「夜ふけて此山中にたづねきたるものはなに物ぞ」

ととへば、

「なにとてわれをしばりけるぞ。□□□繩をとくべし」[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(はやく)』という推定補注が附されてある。]

と云ふ。道珍いよいよふしぎにおもひ、お□□せずしてゐけるに[やぶちゃん注:判読不能字の右には校訂者による『(とも)』という推定補注が附されてある。]、

「ぜひ繩をとかずは、それへ行ぞ」

といひもあへず、繩をふつふつときるをとしければ、さしもがうなる道珍も心すごくなり、ひごろたしなみける大わきざしをとり出だし、戸かきがねをかため、身をちゞめて居たりける。かゝる所に、はや戸をあけ來る。道珍、かなわぢ、とやおもひけん、脇指をぬき、なんどの口にまちいたり。かの死人、こゝかしことたづぬるを、道珍よこさまより、てふどきれば、死人、かたうできられてうせにけり。きりたる手を取りあげ見ければ、針のごとくなる毛はへ、なかなかおそろしき手也。道珍、此手を大事として長持に入れをきけるに、その夜もほのぼのとあけぬ。いつも道珍が母、かの宮へ里より毎朝さんけいせらるゝに、此朝、いつよりはやう來たり、道珍、いまだ、ねてゐたりしを、たゝきおこせり。道珍、目さめ、いそひでおき、

「いつより、けさは、はやく御まいり候ふ」

と申せば、母、かたりけるは、

「こよひ、ゆめみあしかりしが、ゆふべ、なにごともなかりけるか」

と、とふ。道珍、はじめをはりの事ども物がたりしければ、母おどろきたるふぜいにて、

「その手をみせ給へ」

といふ。道珍、見せ申す事なるまじきよし申せば、ぜひとも、と所望し給ふゆへに、ぜひなく取り出だし見せければ、母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり、

「是れこそ、わが手なり」

とて、けすがごとくにうせにけり。今まではれやかなるそら、にわかにくらやみとなり、こくうに鬨(とき)のこゑをつくりて、どつと、わらひける。さしもがうなる道珍も、氣をうしなひ、絶死(ぜつじ)しける。その間に、まことの夜あけて、いつものごとく、母、みやへさんけいせられ、道珍が所に來たり、道珍が死してゐけるを見ておどろき、里へをりて、人をともなひ來たり、氣つけなどのませ、いろいろとしければ、しばらく有りて道珍、いきかへり、いかゞ、とゝへば、はじめをわり、しかじかの事ども、物がたりしけり。それより道珍、日本一のをくびやうものとなりけるとなり。是れも、道珍、あまりにかうまん有りけるゆへ、天狗のなすわざなりける、となり。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻二の「七 天狗の鼻つまみの事」に基づく、完全な同話。但し、主人公を『參河の國』の『道心』とし、年齢も示さず、挿絵ではマッチョでかなり若く見える(「五十一」では剛腕さや傲慢さが生きにくいから原話の方がよい)。また社のある場所を『平岡の奥』とすること、また後半に登場する重要な役割の「母」も原話では縁者でなく、単に『老女』となっている。挿絵の右キャプションは「道珍しびとのはらをふむ事」。この底本の挿絵は擦れと汚損がひどいので外側の枠を除去するなど、私が恣意的に大幅な補正を行っている。

「河内の國闇峠(くらがりとうげ)」今の暗峠(くらがりとうげ)。奈良県生駒市西畑町と大阪府東大阪市東豊浦町との境にある峠。標高四百五十五メートル。ウィキの「暗峠によれば、この不吉に響いて、ここでのロケーションとしては最適の名称「くらがり」の『起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」、「鞍換へ」あるいは「椋ケ嶺峠」といったものが訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返ることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られている』とある。

「道珍」実は底本ではこれに「どうちん」とルビを振る。読みを附さなかったのは、敢えて振る必要を感じなかったことに加え、歴史的仮名遣は正しくは「だうちん」だからである。

「天狗に鼻はぢかるゝ事」「鼻彈ぢ」くで、これは軽くは「軽くいなしてからかう」の謂いであるが、ここではもっと強い、所謂、「鼻を折る」(驕った高慢な心を挫(くじ)く・得意がっている者を凹(へこ)ませて恥をかかせる)と完全な同義として用いている。原話と同じく「傲慢」な主人公に「天狗」と「鼻」を絶妙に上手く掛けてあるのである。

「十二、三町」一キロ三百から四百キロメートルほど。

「宮」神仏習合であるから、この道珍なる僧はこの山中の社僧である。話柄から判る通り、神主・堂守を兼ねた独居ということになる。

「抗言(かうげん)」相手に逆らって言い張ること及びその台詞自体を指す。

「今口」不詳。現行の暗峠の周辺に似たような地名を見出せない。識者の御教授を乞う。

「非時」夕食(だから帰りが夜)。僧侶の食事は「齋(とき)」と呼ぶが、本来の仏教の基本戒律に於いては、僧や修行者は正午を過ぎての食事を禁じており、午前に一度だけの正式な食事を「斎食(さいじき)」「斎・時食(とき)」「おとき」と称し、それが正しい唯一の正式に許された食事の意の「時(とき)」なのである。しかしそれでは実際には体が持たないため、時間外の摂食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と称して許し、早くから僧も夕食を摂るのが普通になったのであるが、この二つの呼び名が孰れも時刻に関わる呼称であったことから、仏家に於いては食事のことを「とき」と呼ぶようになった。ここは或いは麓で何か法会などがあって彼が出向き、そこで供された精進料理、施食(せじき)ででもあったのかも知れぬ。毎夜、こうして夕食を摂っていたわけではあるまい(いや、傲慢不遜なる坊主ならそれもありか)。

「七、八町」七百六十四~八百七十二メートル。

「よこたをれ、ゐけり」「橫斃れ、居けり」。

「すそをくわへて」「裾を銜(くは)へて」。歴史的仮名遣の誤り。

「此死人の腹をふみたるゆへに、口ふたがりて引きとむる」「此」は「これ」と読んでおく(原文にはご覧の通り、「此」の後の読点はないから、「此の」と下へ続けて読ませている可能性もあるけれども私はとらない)。腹を踏んだから、単に物理的に開いていた顎が閉じて、裾を銜えた結果、死人(しびと)が意志で銜えて引き留めたよう見えたに過ぎぬ。

「此死人」ここは「このしびと」。

「とが」「咎・科(とが)」。道珍はあくまで現実主義者であるから、死人のくせに僧衣を穢したと考えたのであろう。死体であってもそうなってしまった事実は罪ととったのである。

「くわたい」「科怠」。とがむべき怠慢。怠けてすべき行い(ここではするべきでない僧衣を穢すという行い)をしない結果として発生した過失。ただ、死体に「怠慢」は流石に「ない」と思うが、ね。

「しばりをき」「縛り置き」。

「さし繩」「差し繩・指し繩」で「捕り繩」のこと。太刀の鞘に付けた組紐のことで、本来は刀を帯びる際に腰に結び付ける繩である。「帯取(おびとり)」「足緒(あしお)」などとも呼ぶ。

「ぬひて」「縫ひて」ではおかしい。これは「拔きて」の語記ではあるまいか。

「ねや」「閨(ねや)」。

「お□□せずしてゐけるに」推定補注通り、「音もせずして居けるに」ととってよい。夜半の訪問者という怪しい者に、凝っと音をさせぬように用心して聴き耳を立てていたところが。ここぐらいまではまだ道珍は、死人を装った生きた盗賊の類いなどを可能性においており、物の怪と思っているわけではないと私は思う。

「行ぞ」「ゆくぞ」。

「繩をふつふつときるをと」優れたSE(サウンド・エフェクト)。ここがまず、ホラーの最初のクライマックスである。

「さしもがうなる」「然(さ)しも剛(がう)なる」「然しも」は副詞(〔副詞「さ」に助詞「し」「も」が付いた語)で、「程度が並ではないことを誰もが認めているさま・あれほどの」今も「さしもの」と同様、多くの予想に反した結果について用いる。

「心すごくなり」慄っとするほど恐ろしくなり。

「ひごろたしなみける大わきざし」「日頃、嗜みける大脇差」。「嗜む」は「愛用している」の意。

「戸かきがね」「戸掛き金」。

「かなわぢ」ママ。「かまわじ」。

「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。

「てふどきれば」「丁(ちやう)ど斬れば」の誤り。一般知られる、物が強くぶつかり合うこと、或いは太刀を打ち下ろした際などのオノマトペイアである「ちやうと(ちょうと)」は、古くは「ちやうど」と表記した。「ハッシ!」と斬りつけたところ。

「はじめをはりの事」昨夜の一部始終(但し、ここも変化(へんげ)の物の怪のフェイクで、実際には世は明けていないのであるが)。

「見せ申す事なるまじきよし申せば」これは母を疑っているのではなく、それがあまりにまがまがしいものであるから、母を驚かせまいと気遣ったのである。

「母はかた手をぬき入れ、かた手にて件(くだん)の手をひつたくり」拘った描写に注目。母の、一方の片腕は袂に隠れて見えないのである。

「けすがごとくにうせにけり」「消すが如くに失せにけり」。驚くべき短時間、瞬く間に姿を消失したさまを、かく言った。

「こくう」「虛空」。

「絶死(ぜつじ)」気を失うこと。後の「道珍が死してゐける」も同様。失神しているのであって死んだのではない。

「をくびやうもの」「臆病者」。歴史的仮名遣では「おくびやうもの」が正しい。

「かうまん」「高慢」。]

あさって会   梅崎春生

 

 十一月十三日に「あさって会」をやるというので、新宿のメイフラワーに出かけて行った。久しぶりの会合である。今回は椎名麟三、武田泰淳、堀田善衛が中国に行くから、その送別の意味もかねた。昔ならかねるどころでなく、送別一本やりのところだが、今は飛行機でしゅーっと行ってしゅーっと戻って来る。君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカランと、うたう気持にもなれない。便利な世の中になったものだ。

 堀田、武田とも元気だし、気づかわれていた椎名麟三も血色がよく、好調の様子であった。あちらは寒くはないかと心配していたが(寒いと心臓にこたえる)、大したことはなかろうということで送別の辞は終り、あとは料理を食べながら酒を飲み、とりとめもない雑談を交し、無事散会した。いつもあさって会は、何となくあつまり、とりとめもない会話で終始してしまう。特別の目的を持った会でないので、それでいいのだろう。

 成り立ちからそうだった。あれは昭和三十一年だったか、雑誌「文芸」で三カ月にわたる座談会をひらいた。メンバーは前記三人の他、埴谷堆高、野間宏、中村真一郎、それに私。(私は事情があって最初の会は欠席して、二回目から出た。)「文芸」の方では、最初から三回を予定していたのか、第一回が面白かったので三回に伸ばしたのか、多分後者だと思うが、よく言えば談論風発で、一斉に三人も四人も発言して、速記の人を困らせた。とりとめがないくせに、割に実があって、

「あれは面白い座談会だった」

 と、いろんな人に言われた記憶がある。やはり面白かったので、三回に引き伸ばしたのだ。

 三回が終って、これから時々あつまろうじゃないかと、誰かが言い出して、皆それに賛成した。三回も続けると、お互いの気心も知れて、まだ話し足りないような気分に、皆がなっていたのだろう。会合をするには、会の名前があった方が便利だというので、色々考えて「あさって会」ときめた。実は名前がなくてもいいようなものだけれど、会合の場所などを予約するのに、個人名より会名の方が押しがきくという利点がある。

 あさってとは別に意味はない。明日の次の日のことである。

「あの人の眼は、あさっての方向をむいている」

 視線のおかしい人のことを、そう表現することがある。その意味に解されても、別に不都合はない。ただの符牒だと、私は考えている。でも「おととい会」と名付けなかったところを見ると、やほりおれたちの眼は前向きについているという意味はある。

 会場は新宿のメイフラワーをよく使う。あまりはやっていないので贔屓(ひいき)にして呉れと、其方面(どの方面だったか忘れた)から申し入れがあり、それでえらんだ。その頃はほんとにはやっていなくて、みすぼらしかったが、この二三年の間に隆々と発展してきれいになり、大食堂も満員の盛況である。地下鉄開通その他で新宿が発展、それに応じてメイフラワーも繁昌(はんじょう)におもむいたのだろう。決して我々が贔屓にしたせいじゃないが、向うでは古いお客なので、サービスにこれ努めて呉れる。居心地がいいし、会員の住所が大体新宿を中心としているので、何かというとここにあつまる。

 しかし同じところばかりでは変化に乏しいので、時には遠出する。昨年秋は東京湾にハゼ釣りに行った。東劇下の掘割から船を出し、夢の島のあたりをぐるぐる廻って釣った。これを提案したのは私で、私はもともと釣りが好きである。だから皆にも釣りの醍醐味を体得させようと思ったが、これは成功しなかった。一日かかって一人あたり二十匹平均で、意気が上らなかった。天候が良好でなかったせいもある。夢の島に上陸して、皆並んで長々と立小便して(その情景を私がカメラにおさめ、秘蔵している)船に戻り、てんぷらを食べてウイスキーを飲んだ。私をのぞく六人は、飲み食いには熱心だけれど、釣りには熱心ではなかった。おおむね人事には情熱的で、鳥獣魚介には無関心のようである。(埴谷雄高は小鳥に熱心である)

 で、その日は全然むだだったかというと、そうでない。結構それを生かして使っている。たとえば武田泰淳「花と花輪」の書出し。

「東京の黒い河。

 昭和三十五年。十月はじめの、ある朝。大劇場と高級ホテルにはさまれた、黒い河のどんづまりは、ことさら黒く見えた」

 そこで船に乗って、登場人物の面々が、ハゼ釣りに出かけるのである。今でも、してやられたような気がしないでもない。あの日の勘定は、武田泰淳に持ってもらおうじゃないかと、誰も言い出さないが、書記長の川島勝(講談社勤務)が武田泰淳居住のアパート見学というプランを立て、皆で押しかけて、いろいろ御馳走になった。その席上埴谷雄高がカクテルをつくって、私も飲まされた。複雑なカクテルで、最後の仕上げを粉末ガーリックでやったから、異味異臭をともない、全部はとても飲めなかった。一室にあつまって談論風発もいいが、時には機動的に動いたがいい。今年の秋は簀立(すだ)てを予定していたけれど、うつかりチャンスをうしなって、とうとう行けなかった。動くためには、朝から夜まで、時間をまるまるあけて置かねばならない。それがなかなか調整出来ないのである。今年あたりは、工場やダムなどを見学したいし、また飛行機を一台チャーターして、八丈島に行こうという計画もある。

 この雑誌が出る頃、中国行きの三人もそろそろ戻って来る。また皆あつまって、お土産の分配をしたり、向うの様子を聞いたり、という会を開くことになるだろう。どんなお土産(物心両面の)を持ち帰って来るか、私は今からたのしみにしている。

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年一月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「十一月十三日」の後には「(昭和三十六年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカラン」言わずもがな、盛唐の王維の以下の七言絶句の転・結句の引用。別に「渭城曲」、或いは、春生もやらかしているように、結句末を三度畳かけると伝えられる(実際にはその反復法は一定しておらず、これが定式法では実は、ない)ことから「陽関三畳」という題でも呼ばれる。

 

   送元二使安西

 

 渭城朝雨裛輕塵

 客舍靑靑柳色新

 勸君更盡一杯酒

 西出陽關無故人

 

   元二の安西に使(つか)ひするを送る

 

  渭城(ゐじやう)の朝雨(てうう) 輕塵を裛(うるほ)す

  客舎(かくしや)靑靑(せいせい) 柳色(りうしよく)新たなり

  君に勸む 更に盡くせ 一杯の酒

  西のかた 陽關(やうくわん)を出づれば 故人 無からん

 

「談論風発」話や議論を活発に行うこと。

「東劇」現在の東京都中央区築地に今もある映画館「東京劇場」。高層ビル化された現在、松竹本社が入っている。

『武田泰淳「花と花輪」』本記事の前年、昭和三六(一九六一)年の作品。

「簀立(すだ)て」事前に遠浅の沿岸の海中に簀を立てておき、干潮時に逃げ遅れた魚を捕らえる古式の漁法。「木更津 すだて 網元 つぼや」公式サイト内の「簀立遊びの仕組み」を参照されたい。海岸生物フリークの私だが、残念なことに未体験である。]

道と人権   梅崎春生

 

 戦後の日本には、自動車がむやみやたらにふえた。道というものは元来、人間が歩くものなのに、バスやトラックやオート三輪や神風タクシーがびゅんびゅんと飛ばして行く。人道があるところならいいが、人道のないところでは、人間は両側の家の軒下をくぐるようにして歩いている。

 狭い道を大型バスがわが物顔に通って行く。私の家の近くの沼袋へんでは、道幅が三間くらいなのに、大型バスの路線になっている。幅が三間であるからして、バスとバスのすれ違いがたいへんで、どちらかが適当な場所まで後退して、やっとすれ違うということになる。そのバスの移動にくっついて、あまたのトラックやオート三輪が同じ動き方をするから、大騒ぎとなる。車掌さんも懸命で、左オーライ右オーライと夢中で叫んでいるうちに、車体と電柱に頭をはさまれ、即死した例がこの間あった。

 こういう騒ぎになると、人間なんか物の数でなくなる。うろちょろしていると、ひき殺されるので、みな商店の日除けから日除けをくぐって往来する。道において、人間の価値の下落したこと、当代におよぶものはあるまい。

 だから当代の人間は、自動車を警戒することを、自然のうちによく訓練されている。狭い道でも、横切る時は、必ず左右前後を見廻すことを忘れない。

 昔はそんな必要はなかった。子供のころ私たちは、無鉄砲に道路を走り廻って遊んだ。自動車や自転車の数が、いまよりもずっと少なかったからだ。

 私の同級生で、ある日、人力車にひかれて怪我をしたのがいた。人力車にひかれるなんて、それほどさように、昔の子供はのんびりしていた。いまの子供で、人力車にひかれるような間抜けは、いないだろう。

 子供のころの私を、かりにそっくりそのまま、いまの東京にあらしめば、多分三日と保たずして、神風タクシーにひき殺されるだろう。

 とにかくあの神風タクシーというやつは、スピードを出し過ぎる。あるいは、他車を抜き過ぎる。急ぐために抜くというよりは、他車を抜くために抜くというのが多い。前に他車があると、もういらいらしてきて、あらゆるチャンスを見逃さず、やっと強引に抜く。抜き去って前方の視野が開けると、ぐっとスピードを落すのだ。抜くために抜くのだということが、これをもって判る。こういうのが、とかく人をはね飛ばし、ひき殺す。

 道における人権を回復せよ!

 

[やぶちゃん注:初出未詳。推定執筆年は昭和三七(一九六二)年。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。既に電子化した「うんとか すんとか」連載第五十五回目の『週刊現代』昭和三六(一九六一)年五月七日号掲載分の「人通行止」がかなり似た内容を持つ。

「沼袋」東京都中野区の北部で西武池袋線練馬駅とJR新宿駅との最短直線上に位置し、現在、沼袋一丁目から沼袋四丁目までがある。

「三間」約五メートル四十五センチ。

「車掌さんも懸命で、左オーライ右オーライと夢中で叫んでいるうちに、車体と電柱に頭をほさまれ、即死した例がこの間あった」「人間通行止」に同じ事件が出る。

「神風タクシー」先の「街に死ぬ覚悟」の私の注(といってウィキの引用だが)を参照されたい。]

男兄弟   梅崎春生

 

 近頃日本にはやたらに人が多いという感じがする。街に出れば人がうようよ、タクシーに乗れば歩くより遅いし、汽車に乗れば満員で立ち通し。たまたま私が出かけると、混むのかも知れないが、うっとうしくてかなわない。

 実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている。しかし街や山や海に行ってみると、三倍か四倍になっているようにしか思えない。人が動き廻るせいであろう。以前は人々は家の中にひっそりしていて、あまり出歩かなかった。今は派手に動き廻るので、実際以上に多く見える。どさ廻りの芝居の捕り手みたいに、同一人が入れかわり立ちかわりあらわれる。実際は五六人だが、切り殺されてもごそごそ這って、袖からまた、

「御用。御用」

 と出て来るから、十何人もいるように見える。それに似ている。

 それと戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった。小さいのがうろちょろするのなら、うるさいという感じだけだけれども、大きいのがぶつかり合いながら右往左往する。うっとうしい感じは、そこからも来るようだ。

 人口が二倍近くになったと言ったが、どこで誰がそんなに生んだのだろう。私の友人や知己や近所の家庭を見ると、たいてい一人か二人、多くて四人どまりで、子供のいない家庭もずいぶんある。だからそれほど殖える筈はないのに、実際は殖えている。私の知らないところで、大量的に生んでいる人々がいるに違いない。

 もっとも医学や医薬の発達で、人間がなかなか死ななくなった。(子供も青年も中年も老人も。)生れて来る子供の六割か七割か何割かは知らないが、それが毎年人口のプラスになって行く。そういう事情もあるだろう。

 子供は昔の方が多かったような気がする。私の祖母(父方の)は十五人きょうだいで、その大部分が女であった。十五人も子供がいるなんて、私には想像が出来ない。私んとこは今二人だが、それの七倍半だ。子供はよくめしを食うから、いっぺんに二升やそこらはたかねばならないだろう。その十五人がそれぞれ嫁に行って、また子供をたくさん生んだ。で、私にはふたいとこが実にたくさんいる。もっとも十五人というのは、特別の例だろう。皆がそんな風(ふう)だったら、あの頃の日本の人口は飛躍的に増加した筈だ。

 おやじが結婚して、子供を六人生んだ。みんな男である。お婆さんの時はほとんど女ばかりだったのに、今度は全然男ばかりだ。今度は女を、今度こそは女を! という切ない予想を裏切って、男ばかりが出て来るものだから、お婆さんが嘆いた。

「どうしてこんなに、かたよるんじゃろか」

 六人もの男児をかかえて、おやじたちの苦労もたいへんだっただろうと、私は今にして考える。十五人は想像に絶するが、六人もの子供を育てる自信は、私にはない。今の二人だけでも、もて余している。今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである。当人たちがそう言っているんだから、間違いはない。(頑是ない子供たちに、反抗期なんて言葉を教えたのは、どこのどいつだろう。週刊誌あたりじゃないかと、私はにらんでいる)

 何か言いつけたって、素直に聞いたためしがない。口答えをする。

「自分のことは、自分でせよ」

「立っているものは、親でも使え」

 かえってこちらが使われる。怒ればふくれるし、ぶてば泣く。気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると、

「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」

「ぼくは第一反抗期だ」

 その反抗期がいつ頃終るのかと訊ねると、よく判らないけれどあと一年半ぐらいはかかるだろう、という返答である。そう言えば私たちにも反抗期はあった。第一第二と段階があったかどうか忘れたが、さまざまに反抗した。六人から入れかわり立ちかわり反抗されて、さぞや御両親さまはつらかったであろうと、私はお墓参り(めったに行かないが)の度に同情する。

 六人の中の次男が私である。姉も妹もない。だから私は女というものを、あまり知らない。青年になって女とつき合ったこともあるが、その時は主観的要素がずいぶん加わるし、向うも弱いところやマイナスの部分をひたかくしにしているので、真相はつかみにくい。やはりこんなことは、子供の時から観たり感じたりしないことには、見方が根なし草になる。

 女を知らないから、女が書けない。女が書けなきゃ一人前の小説家ではない、という俗説があって、同人雑誌を読むと、せっせと女を書いたりセックスを書いたり、勉強これ励んでいる向きもあるようだが、どうもその俗説に乗せられているんじゃないか。もちろん女が書ければ、それに越したことはないけれど、このことにのみ執するのは、事の根本をあやまるものである。女が書けなくても、小説家になれる。女抜きの小説を書けばいい。私みたいに。

 六人兄弟の中、上三人が戦争にかり出され、三男(忠生という名)が戦病死した。今五人生き残って、東京にいる。歩留りとしては、良好の方だ。忠生の戦病死について、当時隊長から手紙があり、急に死んだとあったが、病名は書いてなかった。終戦後その戦友が私を訪ねて来たので、いろいろ事情を聞いた。

 それによると忠生の部隊は蒙古にあり、太平洋戦争で香港作戦に転じ、また蒙古に戻って来た。そして内地帰還の令が出た。内地に戻って、召集解除である。よろこびにあふれた出発前夜、忠生は皆の前で白い錠剤をたくさんのみ、寝についた。翌朝見たら、死んでいた。忠生は衛生軍曹だから、薬は自由になる。白い錠剤は、睡眠薬であった。量を間違えたわけでなく、覚悟の自殺である。なぜそんな嬉しい日に、自殺をしたか。その理由を書こうと思ったら、もう紙数が尽きた。これは小説の方に廻そう。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十一月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「実際に人口も殖えた。終戦の頃にくらべると、二倍近くになっている」二倍というのはドンブリもいいところ。統計局の公式データによれば、敗戦の昭和二〇(一九四五)年が七千二百十四万七千人であったものが、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で九千四百三十万二千人であるから、一・三倍である。因みに現在(統計局最終数値二〇一四年現在)は一億二千七百八万三千人で敗戦時の一・七六倍であるから、現在と比較するなら二倍近いとは言える。梅崎春生に好意的に、この数字を別な方向から見るならば、敗戦時の日本本土を除くアジア各地に於ける外地(当時の占領地区であった台湾などを含む)にいた日本人は、軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)及び民間人がそれぞれ約三百三十万人で、合合計六百六十万人、当時の日本の人口の一割近くだったと見られているこちらの記載による)とあるから、これらを当時の人口から無理矢理引いてみると、六千五百五十四万七千人であるが、それでもやっぱり当然ながら一・四倍にしかならない。しかし本土の人間の数を逆立ちしても「人口」とは言わない。やはり無理がある。春生が言うのは、終戦から少したった頃の落ち着いてきた市街を歩く人の多さと、昭和三十五年頃の銀座のの賑わい辺りの漠然とした「人ごみ印象」から出した「二倍」としか思えない。くどいが、厳密な「人口数」に基づく謂いではない。

「戦後の日本人の体格の向上で、背も高くなり、横幅もそれにしたがってひろがった」これも普通に読めば納得してしまうが、平均統計の数値でみると違って見える。例えば、昭和二〇(一九四五)年の二十歳の平均身長は男性で百六十五、女性で百五十三・二センチメートル、体重は男性が五十五・三、女性が五〇・七キログラムであったのに対し、その十五年後である本記事の一年前の昭和三五(一九六〇)年で二十歳の平均身長は男性で百六一・一、女性で百五一・五センチメートルで逆に下がっている。無論、これは単なる統計上の数字であって、僅かながらも着実な体躯向上は確かにあった。例えば、厚生労働省の三十歳代の男女の身長・体重を一九四五年から二〇一五年までグラフ化したこちらのデータを見ると、それは非常によく判る。これだと敗戦から十五年で男性で平均身長が約二センチ、女性で一センチ強、体重は男性で凡そ一・五キログラム増えている(但し、女性は微増か殆んど変化がないレベルである)。しかし、一センチと一・五キログラムは見た目、「高く」「ひろがっ」ては見えない。だからこれも前と同じく、大多数の栄養失調のガリガリの、ペラペラの薄い服で尾羽打ち枯らした感の国民や復員兵が意気消沈して力なく歩く敗戦後の巷と、復興し、「もはや戦後ではない」と言われた昭和三十年代初頭(昭和三一(一九五六)年、経済企画庁は経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述)の銀ブラ連中のガタイと煌びやかな恰好、踵が高くなった靴やハイヒールでカサ上げされたそれを感覚印象している、と私は思うのである。

「今うちのは上が中学二年、下が小学四年。上が第二反抗期に入って、下が第一反抗期にあるのだそうである」発達心理学上は精神発達の過程で著しく反抗的態度を示す時期を「反抗期」と呼称し、「第一反抗期」は自我意識の強まる三~四歳児の時期を指し、青年初期或いはそのプレ期に於いて、塞ぎ込むような非社会的様態が見られたり、一見、理由なく人に逆らって乱暴を働いたりしたりする反社会的行動をとる時期を「第二反抗期」と呼ぶ。これに照らせば、小学四年の第一反抗期は異様な発達遅滞ということになり、中学二年の女子で「自分のことは、自分でせよ」「立っているものは、親でも使え」と「かえってこちらが使われ」、しかも「怒ればふくれるし、ぶてば泣く」という単純で判り易い感情反応を示し、「気を鎮めて、こんこんと説き聞かせると」、「あたしは今第二反抗期だから、仕方がないわ」という如何にも理路整然とした反応で応対するのは「理由なき反抗」の非でも反でもない、当たり前の誰にでもよく判る陳腐にして正常な屁理屈の「社会的行動」であるから、「第二反抗期」とは言えない。私が言いたいのは、「反抗期」であることを表明して或いは理由にして反抗する口実とするというのは、本来の「反抗期」の必要条件を全く以って満たしていない、ということである。

「これは小説の方に廻そう」これは二年後の昭和三八(一九六三)年『群像』連載(一月号~五月号)を指す。但し、実録小説ではなく、ここに書かれたような異様な形で戦地で自殺した実弟忠生をモデルとした人物を中心に配したモデル小説であり、仮託しつつも実の弟忠生の自殺の真因を明らかにした心理小説とは私には思えなかった(但し、読んだのは三十数年前のことで記憶が定かではない。近いうちに再読し、この記憶に誤りがあれば、後日、追記する)。なお、私は、梅崎春生の、こうした「書こうと思ったら、もう紙数が尽きた」という、彼がしばしば随筆擱筆でやらかす、無責任な(彼は無責任と自覚していないであろうが)書きっぱなしのエンディングはあまり好きではない(連載記事でそれを次の回の記事に書いたのなら、それは上手い書き方であり、実際、そうした書き方も彼はしている。それは彼のマジックにまんまと乗って読み続けさせられる点で少し癪だが、心憎くもとても好きな手法である)。紙数は云々は言い訳に過ぎない。私が言いたいのは本気の作家であるのなら、「今書かねばならないと思ったことを先送りするな」、である。明日があるかどうかも分からぬのに。これは、梅崎先生、あなたが一番、判っておられたはずでしょう……ただ、このケースでは小説のネタバレはしたくない、小説を読んでくれ、という含みとするなら許せなくはない。にしても、二年後は遅過ぎますよ、梅崎先生。……だってそれが「幻化」の後の予定作品だったら、どうしますか?……(昭和四〇(一九六五)年六月号及び八月号『新潮』であるが、梅崎春生はその間の同年七月十九日に入院先の東京大学病院上田内科に於いて肝硬変で急逝している)]

2016/08/24

懲治部隊   梅崎春生

 

 四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いたことがある。その男の自ら語る経歴によれば、学習院から江田島の海軍兵学校に入り、在学中脱走、東京をうろついていたら陸軍の憲兵につかまった。東京には海軍経理学校があったが、経理生徒の帽子には白線が入っている。そこで怪しまれたのだ。(ここらの話し方は実にリアリティがあって、これは本当かも知れないと思ったほどだ。)陸軍から海軍に引き渡され、横浜の大津刑務所に未決囚として入れられた。

「軍法会議にかかると、大変ですからねえ。服役して、それが済んでも、娑婆(しゃば)には帰れない。十一分隊というのに入れられる。十一分隊というのは、囚人上りばかりの部隊です。もしそこまで行けば、おれの運命も変ったかも知れないが、幸いに未決のまま終戦となりました」

 その会話をそっくり小説の中に取り入れようと思ったが、相手が名代のうそつき男だから、大津刑務所だの十一分隊だのが実在したものかどうか、疑わしいと思ったので、新聞社に調査を依頼した。すると新聞社の報告では、大津刑務所はたしかに実在したが、十一分隊というのはどうも怪しい。懲治分隊というのを十一分隊と聞きあやまったのではないかとのこと。そう言えば、懲治と十一は発音が似ている。だから小説では、懲治部隊として出した。

 それから二年ほど経って、野口富士男氏『海軍日記』が出版され、一冊が送られて来た。こちらも海軍で苦労した組なので、身につまされて読み進んで行くうちに、十一分隊が出て来たのでおどろいた。横須賀海兵団には十一分隊という特別の部隊が実在したのである。同書に曰く。

「十一分隊というのは、軍刑務所から戻って来たメムバアによって構成されており、胸に附けている名札の書体が活字風の明朝体になっていたので、誰にでも一目でそれとわかった。……」

 懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った。

 私も兵隊の頃しばらく佐世保海兵団にいたことがあるが、佐団にも軍刑務所出身ばかりを集めた部隊があった。何分隊だったか(九分隊だったような気もする)思い出せない。とにかくその分隊員に会ったら用心するように、と班長などから呉々(くれぐれ)も注意されていた。軍刑務所を出ると、兵曹でも兵長でも全部二等水兵になって、その分隊に入って来るのだ。海軍における出世の希望を全部とざされた連中だから、何をし出かすか判らない。その分隊の二等兵が、よその分隊の下士官をぶん殴(なぐ)っても、殴られた方の下士官があやまって引き退るというような状態で、私たちなんか遠くからその分隊員を見ただけで、びくびくしていた。

 もっとも彼等は私ども如きの小者を相手とせず、反抗しがいのある相手を探し求めて、肩で風を切りながら、団内を横行していたようである。彼等の心事や行動を、一篇の小説に仕立ててみたいと、今思わないでもないが、なにぶんにも分隊の名称も忘失してしまったくらいだから、手のつけようがない。やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年二月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。『風景』は昭和三五(一九六〇)年に刊行された、「紀伊國屋書店」創業者の田辺茂一が発案した来店者に無料で配布するタイプの小冊子型文芸雑誌で、作家舟橋聖一を中心とした「キアラの会」が編集・発行した。

「懲治部隊」梅崎春生は「懲治部隊だなんて、どうも私も変だと思った」と述べているが、実際にこの名を持つ、このような部隊は実在したウィキの「陸軍教化隊」によれば、陸軍教化隊とは『日本軍の部隊の一つで、犯罪傾向の強い兵士や脱走兵などを集めた特別の部隊である。問題とされた兵士を一般部隊から隔離して軍紀を維持し、特別教育と懲罰を加えて更生を図ることが目的であった』とし、そこには大正一二(一九二三)年以前は「陸軍懲治隊(りくぐんちょうじたい)」と呼称したとあるのである。

「四年ほど前、あるウソツキ男を主人公にした新聞小説を書いた」恐らくは昭和三一(一九五六)年三月二十三日号から同年十一月十八日号まで連載した長篇「つむじ風」のことである。このモデルの男については、梅崎春生は先に電子化した「モデル小説」でも述べているので参照されたい。

「横浜の大津刑務所」恐らく、現在の神奈川県横須賀市大津町にあった「横須賀海軍刑務所」のことと思われる。デビット佐藤氏のサイト「東京湾要塞」の「横須賀海軍刑務所」を参照されたい。

「野口富士男」(明治四四(一九一一)年~平成五(一九九三)年)は小説家。戸籍名は「平井冨士男」。ウィキの「野口富士男」によれば、東京麹町生まれ。大正二(一九一三)年に『両親が離婚。慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいた。慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進むが』留年して昭和五(一九三〇)年に中退の後、文化学院文学部に入り直して昭和七(一九三三)年に卒業、『紀伊国屋出版部で『行動』の編集に当たったが』、昭和一〇(一九三五)年、『紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社。昭和十年代、『あらくれ』『現代文学』などの同人雑誌に執筆』した。後に一年ほど『河出書房に勤務』した(その昭和一二(一九三七)年に母方の籍に入って平井姓となっている)。『第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けた。栄養失調となって復員』、昭和二五(一九五〇)年頃になると、『創作上の行き詰まりを感じ、徳田秋声の研究に専念』、約十年を『費やして秋声の年譜を修正。次いで無収入同然で秋声の伝記を執筆し、「我が家は三人家族だが四人暮らしである。妻と一人息子の他に徳田秋声という同居人がいる」と語っ』ている。この頃、『東京戸塚(現在の東京都新宿区西早稲田)の自宅の一部を改造して学生下宿を営』。昭和四〇(一九六五)年、千五百枚の「徳田秋声伝」で『毎日芸術賞。このころから創作の道に復帰し』、「わが荷風」「かくてありけり」(読売文学賞)、「なぎの葉考」(川端康成文学賞)などを書いた。他の代表作に小説「暗い夜の私」(昭和四四(一九六九)年)などがある。『膨大な日記が残されているが、息子の平井一麦』氏が「六十一歳の大学生、父野口富士男の遺した一万枚の日記に挑む」(文春新書、二〇〇八年)『で一端を明らかにした』。二〇一一年、野口冨士男生誕百年記念出版として、昭和二〇(一九四五)年八月十五日から昭和二二(一九四七)年一月十二日までの日記(一九四五年八月十五日から同年八月二十四日までは『海軍日記』から転用)が、『越谷市立図書館と野口冨士男文庫運営委員会(会長、松本 徹)の編集により、『越ヶ谷日記』の表題で刊行された』とあり、「やはり野口さんみたいにくわしいメモを取って置くべきであった」という梅崎春生の謂いがよく判る]

蓼科秋色   梅崎春生

 

 八月二十七日

 蓼科(たてしな)高原に来て、もう月余になる。来た当初はニッコウキスゲの花盛りだったが、立秋の頃からだんだん秋の草にかわり、今は吾亦紅(われもこう)、松虫草、ゲンノショウコなどが色とりどりに咲いている。毎年ここに来て、帰る頃になると私はたいへん植物通になって、これは何の木、あれは何の花と、全山ほとんどの花卉(かき)を弁別出来るようになるが、帰京して冬を越し、次の年の夏にやって来ると、もうすっかり忘れてしまっていて、

「あれ、何という名の花だったっけ」

「あれはニッコウキスゲよ」

というような具合で、また初歩から覚え直さねばならぬことになる。身を入れて覚え込まないせいだろう。

 虫の名もそうだ。私の山小屋の庭には各種の虫がいて、これはマイマイカブリ、これはゴマダラカミキリと、現在はすらすらと名前を呼べるが、来年になるとすっかり忘れ果て、子供を呼んで、

「これ、何という虫か知ってるか?」

 と忘れたという顔では訊ねない、ためしに訊ねているんだ、という顔で訊ねることになるだろう。子供はおやじと違って、記憶力が確かだから、

「これはアカハナカミキリ」

「それはマツノキクイムシ」

 と即座に答える。そうか、よく覚えていたな、と私は子供の頭を撫でてやりながら、ついでに自分もしっかり覚え込む。毎年その繰返しである。

 夏休みもあと数日しか残っていないから、小学三年生の息子が、宿題の自由研究をまだやってない、どうしたらよかろう、と騒いでいるから、アリジゴクの研究でもやれと命じたら、手伝って呉れという。

 私の山小屋の軒下にアリジゴクがたくさん巣をつくっている。いつか何かの雑誌で、軽井沢に蟻がいるかいないかが問題になっていたことがあったが、わが蓼科には蟻はたくさんいる。蟻がいるからアリジゴクがいるのであって、また逆に言えば、アリジゴクがいるから蟻がいるということにもなる。

 アリジゴクの巣と書いたが、これはじょうご型の砂のくぼみで、蟻がそこに落ち込むと、這い上れない。もう少しで這い上れそうになると、くぼみの一番底からアリジゴクが鋏を出して、ばさっばさっと砂の具合を調節するからたちまち蟻はずり落ちて、力尽きて鋏にはさまれ、アリジゴクの餌食となってしまう。なんとも憎たらしい虫で、その状況を眺めていると、蟻をそこに投げこんだのが自分であるにもかかわらず、義憤がむらむらと起って来るからふしぎなものだ。

 その鋏で砂を調節しているところを、移植ごてでごそっとすくい上げ、五匹のアリジゴクを捕獲した。ブリキの菓子箱いっぱいに砂を張り、その中に入れる。すると彼等は砂にもぐつて、巣をつくり始める。

 アリジゴクの世界にも働き者となまけものがあって、働き者は三十分もあれば巣をつくり終えるが、なまけものはなまけなまけやるから、半日ぐらいかかる。蟻をつかまえて来て、早く出来たものから御褒美に、一匹ずつ入れてやる。半日もかかった奴には、何もやらない。蟻を入れてやるのは、蟻に対して残酷な気がしないでもないが、観察のためだから仕方がない。

 子供も一所懸命に観察し、何かせっせと書きつけていた。昼寝している間に、そっとそれをのぞくと、次のように書いてあった。

 イ、からだの色はうす茶色で、砂の色によくにている。

 ロ、足が六ぽんと、大きなほさみがあり、すきとおっている。

 ハ、どうたいには、九つのふしがあり、ふしには毛がはえている。

 ニ、前にはすすまなくて、うしろだけにすすむ。そしてうらがえしにすると、すぐもとにもどる。

 ここまで書いてくたびれて、昼寝ということになったらしい。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年十月号『風報』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「八月二十七日」の後には「(昭和三十五年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。

「ニッコウキスゲ」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ゼンテイカ(禅庭花)Hemerocallis dumortieri var. esculenta 。一般には「ニッコウキスゲ(日光黄萓)」の方が通り名としてはより知られている。忘れっぽい梅崎先生みたような人のために総てに以下のような画像リンクを張っておく。グーグル画像検索「Hemerocallis dumortieri var. esculenta

「吾亦紅(われもこう)」双子葉植物綱バラ目バラ科バラ亜科ワレモコウ属ワレモコウ Sanguisorba officinalisウィキの「ワレモコウ」によれば、『草地に生える多年生草本。地下茎は太くて短い。根出葉は長い柄があり、羽状複葉、小葉は細長い楕円形、細かい鋸歯がある。秋に茎を伸ばし、その先に穂状の可憐な花をつける。穂は短く楕円形につまり、暗紅色に色づく』とあり、この名は「源氏物語」にも『見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的で』、『名の由来には諸説あるが』、植物学者『前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)』(日本の家紋の一種で瓜紋(かもん・うりもん)ともいう。卵の入った鳥の巣の様子に似ているとされる)『を割ったように見えることからの命名と』する『ほか、「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある』と記す。グーグル画像検索「Sanguisorba officinalis

「松虫草」双子葉植物綱キク亜綱マツムシソウ目マツムシソウ科マツムシソウ属マツムシソウ Scabiosa japonica グーグル画像検索「Scabiosa japonica

「ゲンノショウコ」双子葉植物綱フウロソウ目フウロソウ科フウロソウ属ゲンノショウコ Geranium thunbergii グーグル画像検索「Geranium thunbergii

「マイマイカブリ」昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目食肉亜(オサムシ)亜目オサムシ上科オサムシ科オサムシ亜科マイマイカブリ属マイマイカブリ Damaster blaptoides Kollar グーグル画像検索「Damaster blaptoides Kollar」。

「ゴマダラカミキリ」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科ゴマダラカミキリ属ゴマダラカミキリ Anoplophora malasiaca グーグル画像検索「Anoplophora malasiaca

「アカハナカミキリ」多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ科ハナカミキリ亜科アカハナカミキリ Aredolpona succedanea グーグル画像検索「Aredolpona succedanea

「マツノキクイムシ」多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科カワノキクイムシ亜科マツノキクイムシ Tomicus piniperda グーグル画像検索「Tomicus piniperda

「アリジゴク」先の梅崎春生「アリ地獄」の私の注を是非、参照されたい。グーグル画像検索「アリジゴク」。]

郵便のことなど   梅崎春生

 

 私が世田谷から練馬に引越して来てもう五年にもなるが、練馬郵便局の郵便の遅配には、ほとほと手を焼いている。引越し当初はそうでもなかったが、一年ぐらい経ってから遅れ始め、そのまま、慢性便秘のような状態となって今日に及んでいる。初めのうちこそやきもきしたり、怒ったり、郵便課長に抗議を申し込んだりしていたが、いくら抗議を申し込んでも向うはあやまるだけで事態は好転しないので、近頃では黙って眺めている。

 二月二十日付「読売新聞」、福原麟太郎氏の「暦日なし」という随筆の中に「うちでは最近さきほどの日曜に一枚のはがきも来ず、あまり不思議だから郵便局へ電話をかけてたずねたら云々」という一節があるが、わが練馬局においては郵便が全然来ない日は、二三年前からざらであって、めずらしくも何ともない。二日間続けて来ないことだって、一月の中に二度や三度はある。三日四日無配という日もあって、五日目あたりに厚さ一尺ほどの郵便物をどさりと投げ込んで行く。一休どういうことになっているんだろうと思う。

 それから他の局区内の住民の話を聞くと、郵便は午前便と午後便と二度来るそうであるが、私のところは一日一回だけ。大体午後三時頃一遍で、その時刻までに来なきゃ、その日は欠配である。一日に二度来ることが一年に何度かあるが、めずらしいことがあればあるものだと、そんな日は我が家ではお赤飯をたくならわしになっているくらいだ。日曜日の局員の勤務は午前中だけだから、私の家まで廻り切れないらしく、日曜祭日は原則として配達はない。

 平常の配達状態がこれだから、昨年末の全逓(ぜんてい)争議による混乱はものすごかった。遅れのひどかったのは、都内では中野、足立、葛飾、練馬だったそうで、五日とか六日とかの遅れ方ではない。配達の順序も混乱していて、つまらないデパートの広告などが割に早く着き、重要なのがなかなかやって来ない。雑誌、単行本、新聞のたぐいは全然遅配。余りのことに郵便課に電話をかけたら、当方で只今取り扱っているのは普通郵便とはがきだけで、雑誌新聞のたぐいには手が廻らなくて、そこらに積み重ねてあるという。ではこちらからいただきに上りたいがと言ったら、取りに来ても、積み重ねたまま整理してないから、むだだとの答えであった。だから私はあきらめた。その中練馬局が郵便や小包だらけになって、人間のいる場所がなくなって、局長や課長や局員は建物の外で執務しなければならなくなるだろう。その日まで待つ他はない。

 普通郵便物も大いに遅れた。会合、試写会、告別式の通知などが、ほとんど期日過ぎて到着した。もっとも私は出不精で、いろんなことに義理を欠く傾向があるが、昨年の十二月に限り郵便遅配という大義名分があって、正々堂々と義理を欠くことが出来た。よろこんでいいのか、悲しんでいいのか。

「新潮」の新年号(十二月初めに発行)などが手元に届いたのは、年末から年始にかけてである。アルバイトはも少し早く入っていたらしいが、私の家は午後三時頃の組なので、かく遅れたものだろう。一日に四回も、どさっ、どさっと投げ込まれる日もあって、私たちの眼を見張らせた。しかし雑誌だの単行本だのというものは、毎日少しずつ送られて来るからこそ読む気になるものであって、いっぺんに何十冊と送られて来たら具合の悪いものである。正月ちょっと信州に行き、五日に戻って来たら、また雑誌のたぐいが(年賀状は別にして)二尺五寸ぐらいたまっていた。完全に月遅れ雑誌である。

 それですっかり届いたかというと、今日(一月二十三日)に到るまで未着の郵便が若干ある。破損したのか抜き取られたのか判らない。「週刊現代」から十二月五日付はがきで、某菓子店の菓子を送ったと言って来たが、現物は未だに到着しない。途中で誰かに食べられてしまったのだろう。「週刊現代」の方では、私が食ったと思っているだろうから、割の合わない話である。

 このような未着をのぞいて、年末年始の突貫工事で一応遅配はおさまったようだが、正月を過ぎてアルバイトが引揚げたとたんに、また遅配が始まった。てきめんなものである。たとえば今日でまるまる三日間、私は一過の郵便物も受取っていない。

 どうしてこんなことになるかと言えば、練馬局区内は以前は田畑が大部分を占めていたが、東京都の人口増加につれて急速に家が建ち、郵便量が激増したからである。郵便物が激増すれば、どうすればいいか。配達人を激増させる以外に手はない。ふやさなければ郵便物はたまるにきまっている。これは小学生にも判る理窟だが、実際にはふやされていないらしい。行政機関職員定員法という法律があって、ふやせないのだそうであるが、法律というのは人民を守るためにあるもので、人民を困らせるためにあるのではないと私は思う。政治の貧困と言えば結論として月並だが、生活の不便を私たちに押しっけて平然としているものがどこかにあり、その平然さを支えているどす黒いものがその背後にあり、そいつらと当分対決して行かなければならないことだけは確かだ。

 三年ほど前私はメーデー事件の証人となり、通計五日間証言を行なった。証言なんてずいぶんくたびれる仕事で、日当として三百円前後支給されるが、三百円ぐらいではおぎないがつかない。そのメーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった。真実を述べますと宣誓して、真赤なうそを述べたのだから、もちろんこれは起訴されねばならぬ。ところが検察側は、これを不起訴処分にした。被告団や弁護側が怒るのは当然の話で、偽証しても起訴されないのなら、すねに傷持つ証人は皆自分の都合のいいうそを並べ立てるにきまっている。さらに裁判長が「同証人を不起訴にした検察側の態度は、今後証人として立つ警察官の偽証防止の見地からみて、はなはだ遺憾であった」と見解を述べたら、東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した。何が影響をおよぼす性質のものでないのか。大いに影響をおよぼすことは、中学生にだって判ることだ。こういうむちゃなどす黒い談話が平然と語られることに、私たちは強く注意を払わねばならない。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年三月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「私が世田谷から練馬に引越して来て」の後には「(昭和三十年転居)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、本文中で日曜の配達がないという不満が綴られているが、この当時は日曜の郵便配達が普通に行われていた。総務省公式サイト内の「情報通信統計データベース」の昭和四八(一九七三)年版「通信白書」のこちら(PDF)によれば(コンマを読点に代えた)、『郵便の配達は、明治以来毎日行われてきたが』、昭和二六(一九五一)年一月、『事業合理化の見地から一部の局で一時日曜配達の廃止を試みた。その後、我が国においても日曜週休制が普及し、日曜配達の必要性は次第に希薄となり、また日曜日に到着する郵便物も減少してきたため』、昭和四〇(一九六五)年五月から『東京神田局をはじめとして速達郵便を除き、日曜配達休止が試行され』、昭和四三(一九六八)年からは『本実施された』とある(下線やぶちゃん)。ネット上の外のデータでも一九六五年五月九日に東京神田の郵便局が全国に先駆けて一般郵便物の日曜配達を中止した、とする記載を現認出来た。因みに、私は幼稚園児であったが、この時、春生と同じ練馬区大泉学園に住んでいた。

「福原麟太郎」福原麟太郎(明治二七(一八九四)年~昭和五六(一九八一)年)は英文学者で名随筆家としても知られた。

「昨年末の全逓(ぜんてい)争議」「郵政労働運動の戦後史」(PDF)という資料によれば、この前年の昭和三四(一九五九)年十二月の項に、『全逓、団交権再開闘争で時間外拒否闘争。滞貨』(未配達滞留郵便貨物)全二千万通を『超える』とある。

「二尺五寸」七十六センチ弱。

「突貫工事」年末までの二千万通に、膨大な年賀状が加わったことから、完全に郵便システムがマヒしてしまうことを恐れ、推定だが、非組合員とアルバイトが年末年始に不眠不休レベルの作業をこなしたことをかく言っているものと思う。

「行政機関職員定員法」昭和二四(一九四九)年五月三十一日附法律第百二十六号。郵政省は二十六万六百五十五人とある。なお、この法律は翌年の昭和三六(一九六一)年四月一日から「国家行政組織法」となって廃止されている。

「メーデー公判で、先般検事側証人渡辺警視が偽証を行なった」梅崎春生も現場でルポルタージュした(私の電子テクスト「私はみた」及び「警官隊について」などを参照されたい)昭和二七(一九五二)年五月一日の第二十三回メーデーで、皇居前広場に入った一部のデモ隊に対し、警察官が拳銃を発砲、デモ隊に死者一名(都職労の一人で背中か心臓を撃ち抜かて即死)の他、法政大学生警棒で殴打されて死亡、警官らによる暴行障害行為によって千人を超える多数の重軽傷者が出た「血のメーデー事件」公判(デモ隊からは千二百三十二名が逮捕され、内、騒擾罪で二百六十二人が起訴された。裁判は検察側と被告人側が鋭く対立したために長期化し、昭和四五(一九七〇)年一月の東京地裁による一審判決は騒擾罪の一部成立を言い渡したものの、昭和四七(一九七二)年十一月の東京高裁による控訴審判決では騒擾罪の適用を破棄、被告の内、十六名が暴力行為等の有罪判決を受けた以外は無罪が言い渡され、検察側が上告を断念して確定)に於いて、警察官の拳銃発射が問題となった。発砲した警視庁第七方面第三中隊五名の内、四名の発砲は不法なもの(銃使用が許容される生命の危険に関わる緊迫したケースではない)であったが、彼らの隊長であった渡辺政雄警視(後に公安二課一係長)は「一人の巡査を助けに、止むを得ずピストルを撃った」旨の噓の「拳銃発射報告書」をこの四人の巡査に書かせ、その虚偽の報告書に基づいて渡辺政雄警視本人が昭和三二(一九五七)年七月と八月の二回、証人に立って、「五人ののがピストルを撃ったが、そは一人の警官がデモ隊に暴行さ、殺さそうになったので、その巡査を助けだ。これらの警官はいずれも地面とを狙って撃ったので、危害は加えていない。私は五人の警官に別個に会って、そういう報告を聞いた」と証言した。とこが、後の公判で当の四人の巡査らがそれが噓であったこと認めてしまう。渡辺警視は弁護団か厳しく追及され、「部下の発砲が不法なのであるらしいとわかったので、噓の報告書を部下に書かせた」と、法廷で自偽証したことを認た。弁護団は渡辺警視を偽証罪で告発、裁判長公正な裁判のたに厳正な処分を検察側に要求したが、その結果は渡辺警視は逮捕ず、不起訴処分となった(以上は『「冤罪と誤判」 前坂俊之著 田畑書店』(一九八二年五月刊)の一部(PDF)他、複数の資料を参照した)。

『東京地検公安部長が早速「裁判長がそんな見解を述べるのは、裁判所のいわば越権と言ってよいと思う。不起訴処分には理由があり、メーデー公判自体に影響をおよぼす性質のものでない」との談話を発表した』この当時の、とんでもない東京地検公安部長の姓名を調べようとしたが、行き当たらなかった。御存じの方は是非、お教え願いたい。その不法にして不道徳な男を永遠に忘れぬよう、名をここに刻したいと思う。]

諸國百物語卷之一 二 座頭旅にてばけ物にあひし事

     二 座頭旅にてばけ物にあひし事


Zatoukuwaru

 ある座頭みやこのものにて有りけるが、田舍へ下るとて弟子を一人めしつれ、かた山里をとをりしに、日くれ、とまるべき宿なくて、ある辻堂にとまりけるに、夜半すぐるほどに、女の聲にて、

「これはいづくよりの御きやくにて侍るぞ。わが庵みぐるしくは候へども、是れに候はんよりは一夜をあかし給へ」

といふ。座頭きゝて、

「御心ざしのほど忘れは侍れども、たびのならひにて候へば、こゝとてもくるしからず候ふ。そのうへ、夜のほども、ちかく候へば、參るまじき」

といふ。弟子、申すやう、

「御心ざしのほどにて候ふに、かやうなる所に御とまり候はんよりは、たき火などにもあたり、湯水のたよりよく候はんまゝ御越し候へ」

と申す。かの女もひらにと、申しけれども、とかく、われらはこゝがよく候ふとて、物もいわずゐければ、

「しからば、此子を、すこしの間あづかり給はれ」

といふ。

「いやいや盲目のことなり、ことに夜中にて候へば、あづかり申す事なるまじき」

と、かたぎつて申しければ、

「それはあまりにつれなき事にて候ふ、ぜひにあづけ申す」

とて、さし出だす。弟子申すやう、

「少しの間にて候はゞ、それがし、あづかり候はん」

と申せば、師匠きゝて、大いにいかり、

「無用也」

と申せども、

「別のしさいあらじ」

とて、弟子、子をあづかり、ふところにいだきゐければ、女、かへりぬ。少しの間に此子ふところにて大きになりければ、師匠に、かく、といふうちに、此子、十四、五さいほどの子となりて、かの弟子をくひにかゝる。弟子、

「こはなにごとぞ」

とかなしむうちに、ほどなく、くひころしけるに、又、さいぜんの女の聲にて、

「師匠の座頭どのに、いだかれよ」

と云ふ。座頭きもをつぶし、家につたわるわきざし、□□箱にありけるが、取り出だし[やぶちゃん字注:底本では二字の判読不能字の右に『琵琶』と編者注する。]、

「なに物にても我にかゝらば一さし」

と、ぬきもちゐければ、此脇指(わきざし)に、をそれて、よりつかず。女、

「なにとていだかれぬぞ」

としかりければ、子のこゑとして、

「何としてもそばへよられず」

と云ふ。しばらく問答して、かの女も、いづくとなく歸りぬ。座頭、おもふやう、扨(さて)もおそろしき事にあひつるものかなと、脇指をはなさずもちゐけるほどに、夜もすでにあけぬ。さらば、立ち出でんとおもひ、道にかゝりてあゆみ行く、しかる所に、だれともしらず、人にゆきあひけるが、此人申すやう、

「いかに、座頭どの、今日はいづれより出でられ、いづれかたにとまり給ふぞ」

ととふ。座頭、有りし事ども物がたりしければ、

「それには、ばけ物のすむ所なり。ふしぎのいのちをたすかり給ふものかな。まづまづこなたへ入らせ給へ。くはしく御物がたりをも承り候はん」

とて家に入れ、いろいろの馳走(ちそう)をして、

「さて件(くだん)の脇指を一目(ひとめ)御みせ候へ」

といふ。座頭しあんして、

「いや此脇指は人にみせ申す事なり申さず」

とて、はばきもとをくつろげゐければ、又、かたはらより、

「見せずは、くひころせ」

と云ふ聲、あまた聞へける。扨(さて)は件(くだん)のばけ物ぞと心得、脇指をぬき、四方八方、きりはらひければ、しばらく有りて世間もしづかにそらもはれて、まことの夜こそ明けにける。それより座頭は、あやうき命をたすかり、やうやう都へ歸りけると也。此脇指、三條小かぢがうちたる銘の物なるゆへに、そのきどくありけると也。

 

[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻三巻頭「いかなる化生(けしやう)の物も名作の物には怖るゝ事」に基づく、完全な同話。挿絵の右キャプションは「座頭ばけ物にくいころさるゝ事」。

「御きやく」「御客」。

「御心ざしのほど忘れは侍れども」不審。「忘れずは侍れども」ではなかろうか? 「ずは侍り」は「ずはあり」の丁寧表現ととれ、「ずはあり」は「ずあり」の強調表現であるから、「有り難いお志しの程は、これ、深く心に刻みおいてはおりますけれども」の謂いである。

「ひらに」何卒。是非とも。

「とかく、われらはこゝがよく候ふとて」ここも会話記号を附さないのは頷ける。「物もいわずゐければ」と後へ続く以上、上記の台詞は女にあからさまに答えたものではなく、弟子がそっちへ行きたいとぐずるのを、内輪で諭す師匠の言葉だからである。「我らはここが分相応なので御座るぞ、よいな。」というのである。

「かたぎつて」「かたきる」で「日本国語大辞典」に一方的に相手との交際や連絡を絶つという謂いを見出せる。出来ないときっぱり強く断って。ここまでの師匠の固辞があるのに、今度は子を預かて呉れなどとは言語道断という生理的拒絶感を思うと、自然な表現である。

「別のしさいあらじ」「しさい」は「仔細」で、ここは「不都合」「差し障り」の意。「別に、どうってこと、ありませんよ」。

「かく」「お、おっ師匠さま! こ、子(こお)が! な、何やらん、お、大きゅうなって参りまする!!」といったように叫んだのである。

「こはなにごとぞ」「こ、これっは! な、なんじゃあッツ!!!」

「かなしむうちに」歎き悲しみ、阿鼻叫喚する間(ま)もなきうちに。

「さいぜん」「先前」。

「なに物にても我にかゝらば一さし」「物の怪であろうが、盗賊の如き者であろうが、如何なるものをも我に襲いかかってきたら! これにて! 一刺し!」彼は座頭で目が不自由であるから、その子がみるみるうちに大きくなって頭から弟子を食い殺した(挿絵に従う)ことも知らず、女や子が変化(へんげ)のものと現認識しているわけではない点に注意しなくてはならぬ。それが後半の怪異のツボでもあるからである。

「ぬきもちゐければ」「拔き持ち居ければ」。

「をそれて」「恐れて」。但し、歴史的仮名遣では「おそれて」。

「はなさずもちゐけるほどに」「離さず持ち居けるほどに」。

「夜もすでにあけぬ」ものは見えずとも光りあるを僅かに感ずることはでき、また、虫の集く声の止んで、早朝の鳥の声が聴こえてきたのであろう。無論、それは総てが物の怪による演出、フェイクであることも知らんずに、なのである。なお、この時点で座頭は手探りして弟子の姿が消えており、多量の出血のあることなどを認知したであろうから、この時、かの女と子は、確かな人食いに鬼、変化のものと認識はしたはずである。

「いづれかた」「孰れ(が)方」。

「しあん」「思案」。

「はばきもとをくつろげゐければ」「はばき」は「脛巾」「行纏」「半履」などと書き、「脛巾裳(はばきも)」の略。旅行や外出の際に防護目的と、疲れを防止させるとして脛(すね)に巻きつけた布製のもの。後世の脚絆(きゃはん)と同じい。座頭がこの者(座頭が全く警戒しなかったのは声の主が男のそれであったからであろう)に気を許して、「はばき」のきつくまいたそれを緩めて足をくつろげ、ゆったりと座っていたところが。

『又、かたはらより、「見せずは、くひころせ」と云ふ聲、あまた聞へける』この声こそ、かの「女怪」の声なのである。それが「男」の「かたはらより」するということは、前の接待した「男」とは、それこそ、弟子を食い殺したかの「児怪」であったと読める。「あまた」というのは物の怪が複数いるというよりも、おどろおどろしく何重にも声が反響するという表現と読む。

「三條小かぢ」「三條小鍛冶」平安時代の伝説の刀工三条宗近(生没年未詳)の流れを汲む刀工或いはその工房(古く、製鉄業者を相称して「大鍛冶(おおかじ)」と称したのに対し、特に刀鍛冶のことを限定して「小鍛冶(こかじ)」と呼んだ)。ウィキの「三条宗近」を参考までに引いておく。『山城国京の三条に住んでいたことから、「三条宗近」の呼称がある』。『古来、一条天皇の治世、永延頃』(十世紀末頃)『の刀工と伝える。観智院本銘尽には、「一条院御宇」の項に、「宗近 三条のこかちといふ、後とはのゐんの御つるきうきまるといふ太刀を作、少納言しんせいのこきつねおなし作也(三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり)」とある』。『日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の代表的名工として知られている。一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。実年代については、資料によって』「十~十一世紀」・「十二世紀」等と幅があるとする。『現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」と「三条銘」とがある。代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」』である。

「きどく」「奇特」。神仏の霊験(れいげん)。]

2016/08/23

諸國百物語 附やぶちゃん注 始動 / 諸國百物語卷之一 一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事

諸國百物語 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:カテゴリ「諸國百物語 附やぶちゃん注」を創始し、全百話の電子化注を開始する。

 「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻で各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である。この後の「百物語」を名打った現存する怪談集には実は正味百話から成るものはないから、これはまさに怪談百物語本の嚆矢にして唯一のオーソドックスな正味百物語怪談集と言えるのでる。但し、著者・編者ともに不詳である(以下に示す「序」によれば信州諏訪の浪人武田信行(たけだのぶゆき)なる人物が旅の若侍らと興行した百物語を板行したとするが、仮託と考えてよい)。ウィキの「諸国百物語」によれば、『伝本はきわめて少数であり、現存する完本は東京国立博物館の蔵本が唯一』とし、特徴としては「諸国」とある通り、『地域を特定せず、北は東北地方から南は九州まで日本各地の怪異譚を扱っていることである』。『本書の内容は、それ以前に刊行された怪談集から引き写したとみられる話も多く、中でも』寛文三(一六六三)年の作者不詳の「曾呂利物語」『からの採用といわれる話は』二十一話にも及び、他にも先行する「沙石集」「奇異雜談集」「因果物語」「宿直草」などの古書を出所とする話も多い。以上の記載でも参考にさせて頂いた、基礎底本(後述)の太刀川清氏の解題によれば、『本書の怪異は幽霊が圧倒的に多く、全体の三分の一を占める』とあればこそ、十二分に怪異を味わって戴けるものと存ずる。

 底本は昭和六二(一九八七)年国書刊行会刊の「叢書江戸文庫」の第二巻太刀川清氏校訂「百物語怪談集成」に所収するそれを基礎底本としつつ、私のポリシーに従い、概ね漢字を恣意的に正字化して示すこととする(底本は新字旧仮名遣仕様)。読みは私が振れると判断したもの、或いは難読と判断したものに限った(一部に歴史的仮名遣の誤りがあるがママとし、原則、注記しなかった)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。本文は平仮名が多く、そのために却って読みにくくなっている箇所があるので、読点を私が一部に追加し、また、直接話法箇所は改行を施して読み易くした。一部に添えられてある挿絵は基礎底本に載ものをトリミングし、汚れを除去して各標題の後に示した。目録下の底本編者の附した丸括弧入りのノンブルは省略した。注は怪異をかったるくさせぬよう、なるべくストイックを心掛けることとするが、若い読者をターゲットとする注なれば、識者には言わずもがなの注も多かろうとは存ずる。悪しからず。【2016年8月23日始動 藪野直史】]

 

 

諸國百物語序

 

そもそも此百物語の出所を尋ぬるに、信州諏訪と云ふ所に武田信行といへる浪人あり。ある夜、雨中のつれづれに、伴なふ旅の若侍(わかさぶらひ)三四人よりあひ、四方山(よもやま)の咄をするついで、信行いへるやうは、昔より百物語と云ふことをすれば、かならずその座に不思議なる事ありといへり。いざ、こよひ語りて心見んとて、をのをの車座になみゐて、眞中に燈心百筋たてゝ、灯(ともしび)をとぼし、さて、咄をはじめ、順々にまわし、咄ひとつにて燈心一すぢづゝのぞきけるほどに、すでに咄も九十九になり、燈心も今一すぢとなり、何とやらん物すごき折ふし、座敷の天井へ大磐石(だいばんじやく)などのおつるごとく、おびたゞしき音して灯もきへければ、をのをのおどろきけるに、信行、さはがず、心得たり、といふまゝにとつておさへ、ばけ物はしとめたり。大きなる人の股(もゝ)にてあるぞ、火をともせといへば、手に手に灯をたてゝこれをとれば、その座につらなりし侍(さぶらひ)の股をとりふせゐたりけり。みなみな、どつと笑ひて退出しけり。そのとき執筆(しゆひつ)の書きしるしたる咄の書(しよ)を、今梓(あづさ)にちりばめ、世にひろめて老若男女(ろうにやくなんによ)のなぐさみ草とす。當時(そのとき)すでに百物語と云ふ雙紙(さうし)あれども、わらんべのもてあそび草にして、出所(しゆつしよ)正しからず。今、此雙紙は、その國々の諸人も聞きおよび、見及びたる咄の證據たゞしきをあつめ、五卷として諸國百物語と名付くると、しか云ふ。

 

[やぶちゃん注:「梓(あづさ)にちりばめ」その百話を書物に鏤(ちりば)め。上梓すること。「梓」は落葉高木の木大角豆(きささげ:シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata)の別名で、中国で本種を版木として用いたことに由来する。

「出所(しゆつしよ)正しからず」その話の出所(でどころ)がどれも正確でなく、話柄の一部にも事実は思われない不審な箇所が多い、というのである。本書の筆者の格別の自負が窺える附言である。

 

 なお、以下に全十巻分の目録が並ぶが、それぞれ各巻の頭に配することとした。]

 

 諸國百物語卷之一目錄

 

一  駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事

二  座頭旅にてばけ物にあひし事付タリ三小鍛冶(こかぢ)が銘の刀(かたな)の事

三  かわちの國くらがり峠道珍(どうちん)天狗に鼻はぢかるゝ事

四  松浦伊豫(まつうらいよ)が家にばけ物すむ事

五  木屋(きや)の介五郎が母夢に死人(しびと)をくいける事

六  狐山伏にあだをなす事

七  蓮臺野二つ塚(つか)のばけ物の事

八  後妻(うはなり)うちの事付タリ法花經の功力(くりき)

九  京東洞院(ひがしのとうゐん)かた輪車(わくるま)の事

十  下野の國にて修行者亡靈にあひし事

十一 出羽の國杉山兵部が妻かげの煩(わづらい)の事

十二 するがの國美穗が崎女の亡魂の事

十三 越前の國永平寺の新發意(しんぼち)が事

十四 せつちんのばけ物の事

十五 敦賀のくに亡靈の事

十六 栗田源八ばけ物を切る事

十七 本能寺七兵衞が妻の幽靈の事

十八 殺生をして白髮(はくはつ)になりたる事

十九 會津須波(あいづすは)の宮(みや)首番(しゆばん)と云ふばけ物の事

二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事

 

 

諸國百物語卷之一

 

     一 駿河の國板垣の三郎へんげの物に命をとられし事


Itagaki

 するがの國の住人に儀本(よしもと)といふ人あり。あるよのつれづれに、家の子らうどうをあつめ、しゆゑんゆふけうをせられし折ふし、儀本、仰せられけるは、

「たれにてもあれ、此内に、せんげんの上のやしろまで、こよひ行きたらんや」

と、の給へば、日ごろ手がらをいふものども、おゝしといへども、是れは、きこゆるましやうのすむ所なれば、たやすく見て參らんといふもの、一人もなし。こゝに甲斐の國の住人板垣の三郎とて、代々ゆみやをとりてかくれなく、ぶゆうのほまれある人ありけるが、

「それがし參らん」

と申す。儀本、なのめならずおぼしめし、すなはちしるしを給はりければ、板垣は御前(ごぜん)をたち、大かうの人なれば、物のてともせず、すぐに淺間へまいられける。ころは九月中旬のことなれば、月さへわたる森のうち、嵐はげしき落葉のおと、すさまじき山みちを、心ぼそくもすぎゆきて、上のやしろの御まへに、しるしを立てをき、歸られける。かゝる所へ、いづくともなく白きねりのひとへきぬをかづきたる女ばうに行きあひたり。扨(さて)は、おとにきく、へんげの物、我を心みんとおもふにやと、板垣、はしりかゝつて、かづきのきぬを引きのけて見ければ、まなこは一眼(いちがん)にて、ふりわけがみの下よりもならべる角は、かずをしらず、うすけしやうに、かねくろくつけ、おそろしきこと、たとへていはんかたもなし。されども板垣はさわがずして、なにものなればとて、腰の刀に手をかくれば、けすがごとくに、うせにけり。板垣はしづかに立ちかへり、儀本の御まへに參り、

「しるしをたておき歸り候ふ」

と申し上げれば、御前の人々、

「板垣なればこそ、つゝがなくかへり候ふ」

と、をのをの、かんじあひけり。

「扨(さて)めづらしき事はなかりけるか」

と、御尋ね有りければ、

「いや、なに事も御座なく候ふ」

と申し上げる所に、さしもくまなき月の夜、にわかにそらかきくもり、ふる雨、しやぢくのごとく、はたゝがみなり、おびただし。一座の人々、儀本をはじめ、けうをうしなふ所に、こくうより、しわがれたる聲にて、

「いかに板垣さんげせよ」

と、たからかに、よばはりける。その時、御まへなる人々、

「見申されたる事あらば、御前にて有りのまゝ申し上げられよ」

と、をのをの申されけるゆへ、板垣このていならば、とてもいのちはあるまじとおもひ、淺間にての有りさま、のこらず申し上げけれども、雨風なをもやまずして、いかづち、おびたゞしくなり、時々、いなびかり、殿中にみちみちて、すさまじきこと、いふばかりなし。

「いかさま此ていならば、板垣をとられんとおもふぞ、いそぎ長持へ入れよ」

とて、板垣を長持に入れ、をのをの、まわりに番をしけるに、やうやう、そらはれ、夜もあけゆくほどに、板垣を長持より取り出ださんとてあけゝれば、中には、なにも、なし。

「是れはいかなることぞ」

と、おのおの、ふしんをなして儀本に、かくと申し上げる所に、こくうより二三千人の聲として、一度に、どつと、わらひけるを、はしり出でてみければ、板垣がくびを、ゑんの上へおとして、そのすがたはみへずなりにける、となり。

 

[やぶちゃん注:「曾呂利物語」(冒頭注参照)巻一巻頭「板垣の三郎高名の事」に基づく。原典では「駿河の國大森、今川藤(いまがはふじ)」を主人(城主)とするが、コンセプトは全く変わらない。挿絵の右キャプションは「いたがき參郎へんげの物にあふ事」であろう。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子論文「曾呂里物語』の類話によれば、江本裕氏の指摘として、『「儀本」には今川義元、「板垣の三郎」には武田信玄の重臣板垣三郎佐衛門信形が想起されるとする。なお、板垣が化物と遭遇したという「千本」の上の社(不明)は、『諸国百物語』には「浅間」とある。現在の静岡浅間神社(静岡市)のことか。この浅間神社については、信玄と義元がそれぞれ当社との関わりを重視していた(『静岡県の地名』日本歴史地名大系、平凡社)。本話は、信玄の家臣板垣三郎が、府中の今川義元のもとで、その勇者ぶりを示すために肝試しに出かけた話か』と記しておられる。

「らうどう」「郎等」。

「しゆゑんゆふけう」「酒宴遊興」。

「せんげん」後に出る「淺間」で、概ね、富士山を信仰崇拝の対象とする浅間(せんげん)信仰に基づく、各地の山や周辺一帯の地域で最高地点に近い箇所にそれを祀った。

「ましやう」「魔性」。

「ぶゆうのほまれ」「武勇の譽れ」。

「なのめならず」「斜めならず」で「格別な気勢なりと」。

「しるし」後日、そこに行ったことを確かに示すために遺留し置く証拠となる物品。

「大かう」「大功」(既に非常な勲功を立てていること)或いは「大巧」(非常に武勇に長けていること)。

「物のてともせず」文法的構造に不審があるが、「物ともせず」の意でとっておく。

「白きねりのひとへきぬ」真白な上質の練糸で織った絹織の単衣(ひとえ:裏を打っていない衣)。

「かづきたる」被っている。

「女ばう」「女房」。

「心みん」「試みん」。

「うすけしやう」「薄化粧」。

「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。

「なにものなればとて」校訂者の太刀川清氏がここに会話記号を附さなかった意図は私は判る。怪異は場合によっては最初に言上げすることによって負けることがあるからで、ここも私は心内語ととりたい。

「さしも」副詞で「その時まであれほどにすっきりと」。

「しやぢく」「車軸」。

「はたゝがみなり」「霹靂神(はたたがみ)鳴り」鳴り轟く雷鳴(神鳴り)の意の一語の名詞としてとる。その方が朗読のリズムに合い、怪異の勘所を崩さぬからである。

「けうをうしなふ」「けう」は「興」であろうが、だとすると歴史的仮名遣は誤りで「きよう」である。しかし、ある意味、主人が物好きでやらねばよいのにやってしまった座興の興の余裕が驚くべき雷鳴によって失われるの謂いとしては自然である。或いは、「興」が忽ち、「消えてなくなる・ふっとんでしまう」の「消失(けう)す」が頭にあってかく記してしまったものとも読める。

「こくう」「虛空」。

「さんげ」「懺悔(さんげ)」。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは我ら(変化(へんげ)のもの)に遇ったことを、主人に「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となった。

「てい」「體(てい)」。様子・状態。

「ふしん」「不審」。

「そのすがた」物の怪の姿であるが、実体として見えていた訳ではないから、物の怪の気配が辺りの急速な鎮静静寂化とともに消え失せたと読むべきであろう。]

ハゼ釣り記   梅崎春生

 

 本誌先号の巻頭「絵と随想」欄に、私は「釣好き」と題する文章と画をかき、莫大(と言うほどではないが)の稿画料を貰った。これをどう費消すべきや。少時頭をかたむけて、私ははたと膝をたたいた。これは魚で得た稿画料だから、魚釣りに使ってやろう。あの文章にも書いた通り、私はほとんど東京では釣りに行ったことがないから、これが絶好の機会というものだ。

 早速家族をあつめて相談してみると、皆賛成で、ことに子供たちは大賛成で、魚釣りは社会科ならびに理科の勉強になるから(舟宿の仕組みや釣師の生態が社会科で、魚の分布状態や生態が理科だそうだ)学校を休んでも行きたいとの熱の入れ方である。その向学心の旺盛(おうせい)なこと、私の小学生の時にそっくりで、血は争えないものだとつくづく思った。

 でも、家族四人だけで舟一艘を借り切るのはもったいないから、遠藤周作君に電話で口をかけてみたら、

「もし舟がひっくり返ったら、かなづちで泳げないし、それに、ぼ、ぼくはあの、ミミズのたぐいが恐いものですから……」

 ミミズが恐いだなんて、日本男児にもあるまじきことだと思うが、折角恐がっているものを、無理に連れて行くわけにも行かない。

 で、十月二十三日。当日はいい天気で、風もなく、絶好の釣日和である。車を駆って浅草橋の舟宿に着いたのが午前九時半。同行者は新潮社のT君とS君、講談社のK君という顔ぶれで、うちと合わせて合計七人だ。

 目的はハゼ。私一人なら、も少し専門的な魚釣りをしたいのだが、うちのも前記三青年も釣りには初心者ばかりなので、大衆的なハゼ釣りというところに落着いた。つき合いだから、仕方がない。

 さわやかな河風を切ってと言いたいところだが、実状はどぶくさい河水をかきわけて、われらが乗舟はエンジンの音も軽やかに走り出した。途中で餌宿に寄ったら、ゴカイは売切れで、余儀なくイソメを買う。今年はゴカイは全国的に品薄の由である。何故品薄か。これは社会科の方に属するから、ここでは省略する。

 大きな橋を二つくぐって、海に出る。海に出ても、潮のにおいはしない。するのは芥(ごみ)のにおいだけ。見ると彼方に芥で島をつくっている。こんなところで釣るのはいやだから、更に遠出して大森沖に行き、釣り出したのが午前十一時。水深は二尋(ふたひろ)ぐらいのところだ。

 先ず最初に釣り上げたのがうちの長男で、四寸ばかりの型のいいやつである。それから長女、それから家内と、釣り上げるのは女子供ばかりで、男たちは顔を見合わせて苦笑、かつはあせっているうちに、私の竿にぶるると手ごたえがあり、三寸ぐらいのを引っぱり上げた。

 毎度のことながら、釣り上げる時の気持はこたえられない。

「フグだ。フグが釣れた」

 と、T君が騒ぎ立てたので、見たら一寸五分ぐらいの可愛らしいメバルであった。メバルと判っても、彼は気味悪がって、船頭さんに頼んで外(はず)して貰っていた。

 外道(げどう)としては他に長男が、スマートな魚を一匹釣った。舟中大騒ぎして(私と船頭は別だ)アユだヤマメだと評定していたが、東京湾にアユだのヤマメだのがいるわけがない。マルタの子供なのである。長男は大騒ぎされて、にこにこと鼻をうごめかしていた。

 あちこち移動して戦果を上げ、午後一時半、昼飯にしようということになった。船頭がテンプラの準備をしている間、私たちはウイスキーを傾けた。今夏信州の霧ガ峯に登った時もそうだったが、こんなところで飲むウイスキーは、安ウイスキーでも、スコッチみたいな味がするものである。男四人でまたたく間に一瓶空にしてしまった。

 船頭さんのてんぷら。これがまた絶品で、銀座の一流店もこれには及ばない。潮風に吹かれながら食べるから絶品なのであって、前記ウイスキーと同様である。

 てんぷらはハゼだが、そのハゼは舟宿から用意して来たもの。われらが釣ったのは、あとで他人に見せびらかすのに必要でもあるし、惜しくて供出する気にはなれない。

 こういう具合に、一時間ばかりかけて、われらは大いに飲み、大いに食って、陶然となった。

 ウイークデイだから、海面に釣舟はちらほらと見えるだけで、日はうららかに照っているし、四辺はしんと静かだし、全くいい気分である。

 午後はまた場所を移動して釣り始めた。

 時々他の釣舟とすれ違う。どのくらい釣り上げたか、お互いに探り合うような眼付きで、すれ違う。

 四時半になって、夕風がやや肌にしみて来たから、竿をおさめた。おのおの釣果をしらべてみると、K君が六十匹ぐらい、私もその程度、新潮組は意外に振わず、T、Sの両君を合わせて五十匹程度であった。新潮社はハゼには弱いらしい。

「でも、メバルを釣ったのは、僕だけだから……」

 いくらメバルでも、一寸五分じゃ話にもなりはしない。

 家内は三十匹。子供たちもそれぞれ二十匹ずつ釣った。

 新聞の釣欄によると、東京湾のハゼは大繁昌で、一束二束は楽だと書いてある。今日の釣果ではちょっと恥かしいというわけで、他人に発表する時は百匹を足すことにしようと、相談は一決した。その計算で行くと、私の釣果は百六十匹ということになる。

 舟脚も軽く浅草橋に戻って来た。静かな海面から戻って来ると、都会とは何とうるさいところだろうと、身にしみて判る。

 女子供は先に家に帰し、男たち四人で新宿におもむき、行きつけの店を二三廻って、獲物を見せびらかした。入れものの中では、ハゼがひしめき合い、まだ生きているのもいて、ほんとにハゼという魚は可愛らしい顔をしている。

 最後に「梅平」に落着き、ハゼを空揚げにして貰って、それを肴(さかな)に祝盃を上げ、それから解散した。

 その翌日から三日間、私は晩酌の肴に、ハゼばかりを食っていた。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年一月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「本誌先号」の後には「(昭和三十四年十二月号「小説新潮」)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。なお、その先月号に梅崎春生が書いたという「釣好き」という文章は底本全集には所収しない。

「ハゼ釣り」東京湾には条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種が棲息するが、一般に東京湾内で「ハゼ釣り」の対象として人気があり、天麩羅にして美味いものはゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼ Acanthogobius flavimanus ではある。

「ゴカイ」現在は環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科カワゴカイ属のヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイHediste atoka・アリアケカワゴカイHediste japonica の三種に分割されているものの総称通称。かつてはカワゴカイ属ゴカイHediste japonicaの正式単一和名と学名で示されてきたが、近年の研究によって、同属の近縁なこれら三種を一種と誤認していたことが判明、「ゴカイ」という単一種としての「和名」は分割後に消滅して存在しないので注意されたい。

「イソメ」多毛綱 Polychaeta に属する多様な種を釣り餌として「ゴカイ」「イソメ」と呼ぶが、狭義の「ゴカイ」とは縁遠い種を「ゴカイ」と平気で呼び、「イソメ」でないとんでもない種を広汎に「イソメ」と今も名づけているので、現物を見ないと分からぬが、ゴカイが「売切れで、余儀なく買う」と言っている以上、釣餌としては明らかに格下がりで(その代り安い)、体が柔らかく、直(じき)に切れたり、針から外れてしまう印象の謂いからは、私はこれはゴカイ科 Nereididae Tylorrhynchus 属イトメ Tylorrhynchus heterochaetus ではないかと思う。前記のカワゴカイに似るが別種で、「バチ」「エバ」などと呼称する種で、大潮時に起こる群泳生殖で知られる。私がブログ・カテゴリ「博物学」で十回に分けて電子化注した新田清三郎氏の『「いとめ」の生活と月齢との関係――附・「いとめ」精虫及び卵、并びに人類の精虫電気実験に就きて』に出て来るそれで、まさにその研究対象の「いとめ」棲息地はこのロケーションの近くである(なお、カワゴカイ類と本種の違い等については同第一回目の私の注を参照されたい)。なお、現在では、「イソメ」と称する格安の釣り餌は朝鮮・中国産で本邦に産しない多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ科アオゴカイ Perinereis aibuhitensis であるが、本記事の頃に既にこれが一般流通していたかを考えると、やや疑問なので外しておきたく思う。

「今年はゴカイは全国的に品薄の由である。何故品薄か。これは社会科の方に属する」梅崎春生が「社会科」と言っているのは所謂、廃液による水質の汚染問題であろう(因みに、「公害」という単語は一九六〇年代前半には国語辞典には載っていなかった)。東京湾のカワゴカイ類の棲息していた東京湾奥の河口附近は家庭や工場のゴミや廃液の投棄によって有害物質(後の「ヘドロ」)が多量に堆積し、生物化学的酸素要求量(Biochemical oxygen demandBOD)が異様に高くなっていたと考えられ、この頃にはカワゴカイが激減していたものと思われる。多毛類は水質悪化にもかなりの耐性を持つ種が多いが、あの時代のそれは想像を絶していたと思われる。今一つ、それに連動して全国的にゴカイ採取が割に合わなくなって、ゴカイ採取に従事する人間が減ったとも考えてよいであろう。邦画の名作三本に私が必ず入れる小栗康平監督の映画「泥の河」(一九八一年自主制作)の中で、「ゴカイじいさん」がゴカイ獲りの小舟から落ちて死ぬシークエンスがあるが(舞台は大阪)、あの時代設定は昭和三〇(一九五五)年であった

「大きな橋を二つくぐって、海に出る」浅草橋で乗船しており、隅田川をそのまま下って大森沖へ向かっているから、永代橋と勝鬨橋と思われる。

「芥で島をつくっている」隅田川河口から東京湾に乗り出たところから真西六キロメートルほどの位置に現在の夢の島が見えたはずである。

「二尋(ふたひろ)」三メートル六十三センチほど。

「四寸」十二センチ。

「三寸」九センチ。

「一寸五分」三センチ。                        

「メバル」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis 或いは同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni・クロメバルSebastes ventricosus の孰れか。

「マルタの子供」条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属マルタ Tribolodon brandtii のこと。マルタウグイとも呼ぶ。本邦では神奈川以北の太平洋側及び富山以北の日本海側の、主に沿岸部から河川河口部の汽水域に棲息し、春の産卵期には川を遡上する遡河回遊魚。幼魚は一年ほど、河口付近で過ごして七~九センチメートルほどに成長してから海に降る。参照したウィキの「マルタウグイ」によれば、寿命は十年ほどと、比較的、長命で、『動物食性で、貝類やゴカイ類、エビなどの甲殻類といった小動物を捕食する』とある。

「一束二束」「いっそくにそく」で魚数で「百尾二百尾」のこと。「一束」は元は野菜などを十本(個)を一把(わ)とし、その十把を一束(そく)とするところから、広く数の「百」を指す語として、特に多い漁獲量の魚種の釣りなどに於いて「ハゼ一束半〔百五十尾〕の釣果」などと好んで使うようになった。

「梅平」不詳。現在、新宿や池袋(梅崎が帰路経由するはず)辺りにはこの名の飲み屋や割烹はない模様である。]

未見の風景   梅崎春生

 

 実を言うと、私はあまり風景には興味がない。子供の時からそういう傾向があった。遠足などに行き、失しい景色に接すると、ああきれいだなあと眼を輝かしはするが、三十秒も見ていると、倦きてしまうのが常であった。人間と違って、変化がないから、倦きてしまうのである。

 だから現在の私の小説には、あまり風景は出て来ないし、出て来ても描写に生彩を欠いでいる。(といって、人間描写に生彩があると、威張っているわけではない)

 しかし、昭和二十二三年頃書いた小説には、大いに風景を取入れた。その頃私は戦争小説をいくつも書いたから、そして戦争というものは室内で行われるものでなく、大体風景の中で行われるものだから、小説の中に風景を取入れざるを得なかったのである。

 その頃私は、行ったことのない国々、たとえばフィリッピンやブーゲンビル、またはシベリアなどを舞台とした戦争小説を度々書いた。そういう異国の風物を叙述するのに、たいへん苦労した。いろいろと人に聞いたり本で調べたりして、苦心を重ねたが、そのかわり張り合いがあつた。眼で見ぬ風景の描写だから、張り合いがあったのだろう。これがこの眼で見た風景なら、さほどの情熱は湧かなかっただろうと思う。

 で、その未見の風景描写は成功したかというと、半分成功し、半分成功しなかった。たとえばフィリッピン小説の場合、私同様フィリッピンに行ったことのない読者からは、実に現地にいるようだとほめられたが、フィリッピン行きの経験のある読者からは、首をかしげられた。

「日の果て」を書いたあと、しばらくして野間宏に会ったので感想を訊ねると、「フィリッピンで人間はあんなに速く歩けるもんかねえ」と首をかしげられたので、私はたちまち狼狽、あとの感想を聞く元気をうしなった。いくら技巧をこらしたって、やはり体験者にはかなわない。すぐに見破られる。

 今度未見の風景描写をやるとすれば、火星小説でも書く他はない。火星に行った人はまだ誰もいないのだから、その小説における私の風景描写は、おおかたの好評を博するであろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年四月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私は結果的に梅崎春生の遺作となった畢生の名作「幻化」の風景描写は、どこも皆、飛び抜けて優れていると思っている(リンク先は私の『梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注』PDF一括縦書版。ブログ版分割がよろしければこちらで)。

「フィリッピンやブーゲンビル、またはシベリアなどを舞台とした戦争小説」例を挙げると、「フィリッピン」は「ルネタの市民兵」(昭和二四(一九四九)年八月『文芸春秋』初出)、「ブーゲンビル」は「B島風物誌」(昭和二三(一九四八)年八月刊『作品』(季刊誌)初出)、「シベリア」は「赤帯の話」(昭和二四(一九四九)年『文学界』初出。リンク先は私の電子テクスト)などである。

「日の果て」昭和二二(一九四七)年九月刊『思索』(季刊誌)初出。

『野間宏に会ったので感想を訊ねると、「フィリッピンで人間はあんなに速く歩けるもんかねえ」と首をかしげられた』野間は昭和一六(一九四一)年に応召し、中国やフィリピンを転戦している。野間と梅崎は同年齢で誕生日も、八日、梅崎の方が早いだけである。]

流感記   梅崎春生

 

 とうとう流感にとっつかまってしまった。

 今度の流感はたちが悪く、熱が一週間も続くという噂だったので、私はおそれをなして極度の警戒、外出もあまりせず、うがいもおこたりなく、暇さえあれば蒲団にもぐり込んでいたのに、とうとうやられてしまった。十一月二十七日のことだ。

 私は他人にくらべて、仕事の量はすくない方だが、週刊誌の連載を一本持っているので、一週間も寝込めば、たちまち休載の羽目になる。それにその時は「新潮」新年号の小説の〆切りも控えていた。

 朝ぞくぞくするから、熱をはかってみると、七度四分ある。これはたいへんだと、直ちに風邪薬を服用、蒲団にもぐり込んだ。それから刻々上って、午後には八度五分まで上った。その頃「新潮」編集部の田辺君から電話がかかって来た。原稿の催促である。

 家人が出て、熱が八度五分もある旨を伝えると、あと三日間でどうしても一篇仕立てろ、との答えだったそうだ。つまり田辺君は私の病気を、にせ病気だと疑っているのである。

 何故彼が疑うか。それにはわけがある。一週間ほど前、私は彼に冗談を言った。十一月二十七日の文春祭に行くつもりだが、きっとそこの人混みで風邪がうつり、翌日から寝込んで、お宅の仕事は出来なくなるかも知れないよ。冗談じゃないですよ、と田辺君はにがい顔をした。

 二十八日から寝込む予定だったのが、一日繰り上って、二十七日にかかったばかりに、私は文春祭に行きそこなった。

 翌二十八日の朝は、養生よろしきを得たか、七度二分まで下り、午後になっても七度五分どまりであった。そこへ田辺君が足音も荒くやって来た。そこで病室に通ってもらった。

 ちゃんとした病人であるから、枕もとには薬袋や薬瓶、体温計、水差しにコップ、うがい薬など、七つ道具が置いてある。一目見れば、これは単なるふて寝でなく、病臥であることが判るようにしてあるから、田辺君はがっかりしたような声を出した。

「ほんとに風邪ひいたんですか」

「ほんとだよ」

 私は努めて弱々しい、かすれ声を出した。

「見れば判るだろ」

「熱は?」

「うん。熱は八度七分ぐらいある」

 七度五分などと本当のことを言えば、たちまち起きて書くことを強要されるにきまっているから、とっさの機転で一度二分ばかりさばを読んだ。

「そうですか。八度七分もあるんですか」

 田辺君は信用した様子である。

「氷枕をしたらどうです?」

「うん。九度台まで上れば、氷枕を使うつもりだよ。八度台で使うと、くせになる」

「探偵小説なんか読んでんですか?」

 枕もとに積み重ねた探偵小説に、彼は眼をとめた。

「うん。読もうと思ったんだが、熱のせいかどうしても頭に入らない」

 なに、田辺君が来るまで、せっせと読みふけっていたのであるがそんなことはおくびにも出さない。おれは八度七分もあるんだぞと、自分に言い聞かせながら、かなしげな声を出す。

「詰碁の本もひろげたが、やはり八度七分じゃだめだ」

「そりゃそうでしょう」

「碁の話で思い出したが、尾崎一雄二段を二目に打ち込んだ話をしたかね?」

「え? 二目に打ち込んだんですか?」

「そうだよ。環翠で打ち込んだんだ。打ち込んで二子局の成績は、三勝三敗で打ち分けさ。まあ順当なところだろうな」

「それはお気の毒に。あんまり弱い者いじめはしない方がいいですよ」

「うん。弱いものいじめはしたくないが、そうそうサービスばかりもしておれないからな」

「大岡昇平さんとはどうですか」

「うん。あれもそのうち先に打ち込んでやるつもりだ」

 そんな具合に碁の雑談などして、

「ではお大事に」

 と田辺君は帰って行った。原稿はあきらめたらしい風であった。

 以上までは平凡な日記であるが、ここからがたいへんなことになる。

 田辺君が帰って直ぐ、何気なく体温計をつまみ上げ、脇の下にはさんで、五分間経って取出して見て、私はあっと叫んだ。水銀が八度七分を指していたのである。

「わあ。たいへんだ」

 と私は大狼狽したが、その八度七分の熱は、一時間ほど経つと、また元の七度五分に戻ったのは不思議である。

 思うに、田辺君との対話中、おれは八度七分あるんだぞ、八度七分もあるんだぞと、心中きりきりと念じていたものだから、身体がそれに感応して、あるいは義理を立てて、たちまち八度七分まで上ったに違いない。念ずるのをやめたら、たちまち元に戻ったことでも、それが判る。

 これで田辺君にうそをつかなかったことになり、良心の呵責(かしゃく)を受けずにすむことにもなる。両方おめでたい。

 以上、人間思い込んだら、どうにでもなれるという、お粗末の一席。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年一月号『風報』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。『風報』は文芸雑誌で、「ふうほう」と読む。昭和二二(一九四七)年九月に尾崎一雄と尾崎士郎によって創刊され、創刊の前段階では坂口安吾が深く関わっていたらしい(昭和二十二年六月のクレジットで『国府津にて 風報編集会議』とキャプションのある両尾崎と安吾の三人の映った写真をネット上で現認出来る)。昭和三七(一九六二)年十月の通巻百号を以って終刊している。第二段落末の「十一月二十七日」の後には「(昭和三十二年)」とある。ややポイント落ちであるから、これは底本全集編者による割注と断じて除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。「二目に打ち込んだ」「二子局」(いろいろ見て見たが「にしきょく」と普通に読んでよいようである。碁石を数える数詞として単に「二子」と書いた場合は「にもく」と読むらしい)は全く判らないが、囲碁を学ぶつもりはないので一切、注しない。珍しく、特異的に意味も分からず、注もせずに放置する。悪しからず。

「環翠」神奈川県足柄下郡箱根町塔之澤にある「元湯 環翠楼」のことであろう。]

本日の「青空文庫」公開は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」

本日の「青空文庫」公開は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」だ。

ゲス谷崎の中でも名品の一つ。

しかしこれは是が非でも正字正仮名で讀まねば禮讚たるまい――

2016/08/22

空費された青春   梅崎春生

 

 青春を空費したことが、一番くやまれる。応召した間だけでなく、その前後の生活が、青春もなにもないものだった。弟が戦病死したのも悲しい。

 しかし、あの組織体のなかに入って、人間の極限状態を見たこと、人間とは、こういうものなんだなと分ったことは、いま小説を書いていて、役にたっているかも知れないが、当時は情ない気持だった。

 軍隊では、おとなしい人が残忍なふるまいをする。他人の苦痛に鈍感になり、たとえば、人がなぐられても、おれでなくって良かったと思ったりするのだ。海南島へ行ってきたという下士官が、こんな話をした。海南島で一人のスパイがつかまったのだ。日本軍は見せしめのために、彼をしばり、便所の横につないでそばに棍棒を置いた。用を足しに行く兵隊は、その棒で一つずつ彼をなぐれというのである。無抵抗のスパイは、なぐられ続けて三日ほどで死んだという。私は、この話を聞いてやり切れんと思った。

 実に、軍隊は人間の生地をさらけ出して見せるところだ。南京の虐殺事件も、普通の日本人なら考えられない行為なのだが、軍隊に入った人には出来たのだ。軍隊は、市民的良心を棄てさせてしまう。人間の欲望が表面に出てくる。ふだん高潔な人が、残飯あさりをやったりもする。

 戦争の悲惨さと同時に、人間の存在や生活の深さが、よく分った。私個人でもそうだ。ああ、おれも結局はこういう悪い感情を持ち、悪いことをするんだなと思うことがある。硫黄島へ部隊の一部が行って、一カ月あまりで玉砕したときは、「自分がそのなかに入っていなくて良かった」という気持が、「かわいそうだ」という気持といっしょに出てきたりした。自己嫌悪に襲われた。

 たとえば、私は戦争中、戦友を殺して肉を食うようなすさまじい場合になったならば、たぶん食われるほうになっただろうが、そこまで行かない場合は、真っ先に餓死するかどうかは自信がないのである。自分が食事当番になったときは、あさましいと思いつつ、自分の食器だけには飯を押しつけて沢山入るようにしたことがある。

 私などは生命の危険はなかった。桜島は洞窟陣地だったから、空襲の心配もない。苦労といえば、なにかといえば、精神棒のお見舞をうけるつらい内務班生活だった。その点、特攻隊は、われわれとは別の世界であった。あってみると、彼らは相当すさんでいた。朝から酒をのんでいたり、われわれがそばに寄ると「コラッ」とどなったりした。

 それもこれも、みな戦争のせいである。非情で同情心のない一種の変質者である職業軍人と、奴隷(どれい)のような部下。そこにある感情は、友情とは別のものだ。戦友とは文通もないし、会わない。会いたいとも思わない。

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年八月四日号『週刊朝日』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「弟が戦病死した」梅崎春生の実弟梅崎忠生(昭和四(一九二九)年~昭和二〇(一九四五)年)は彼をモデルにした「狂い凧」によれば、出征中に喘息の治療薬として用いた麻薬の中毒に罹患し、敗戦直前に自殺している(この内、病態は金剛出版昭和五〇(一九七五)年刊の春原千秋・梶谷哲男共著「パトグラフィ叢書 別巻 昭和の作家」の「梅崎春生」(梶谷哲男氏担当)を参考にし、生年は「松岡正剛の千夜千冊」の第一一六一夜「『幻化』梅崎春生」の『長兄と末弟には17歳の歳のひらきがあった』という記載から逆算、没年は底本年譜に『終戦直前に自殺』という記載から推定した。彼忠生については事蹟記載がすこぶる少ない)。底本の別巻にはこの忠生のさらに下の弟(梅崎家は男ばかりの六人兄弟)であった梅崎栄幸氏の「兄、春生のこと」が載るが、そこに『戦後五年ほどして忠生兄の死は、実は戦死ではなくて睡眠薬による自殺であったことを聞いた』とある。喘息の治療薬による中毒からの自殺ならば、広義の「戦病死」という謂い方(というよりも軍歴上の処理)はおかしくはない。しかし、春生は感情的にも「自殺」とは書きたくなかったのであろう。]

夜戦   梅崎春生


 太平洋海戦史をひもとくと、電波兵器の発明が、海戦の様相を大きく変化させたことが判る。日本の軍艦にも電波探知機はあったが、米艦のそれにくらべると、精度に雲泥の差があった。

 もともと日本海軍は夜戦が得意で、碧い眼よりは黒い眼の方が夜はよく見えるという関係もあり、また数十年の伝統、それから数十年の猛訓練で、夜戦では絶対勝利の信念を持っていたらしいのだが、電探以下の電波兵器の出現によって、すっかりだめになってしまった。いくら黒い眼がよく見えたって、その前に電波の方が見てしまうのだから、勝負にもなりやしない。

 数十年の伝統と猛訓練が、一挙にくつがえり、何のための猛訓練だったか、わけがわからないことになった。

 近代戦というものは、もはや体力や精神力の優劣で争われるものでなく、器械や技術で戦われるものだから、器械や技術に一歩先んじられたら、それまでだ。

 文学は海戦とは違うから、同一にとりあつかうことは許されぬが、文学にもそれに似た現象があるように思う。小説とは自分の生活をきびしく見詰め、それを文章に表現することだという信念で、十年の苦節を積み、社会から疎外された場所に自分を置き、一剣を磨き来たっても、小説の方で変化してしまえば、十年の一剣も帝国海軍の夜戦と同じで、もう使いものにならなくなってしまう。

 小説というものは、文章の巧拙でなく、生き方や感じ方や考え方、それらを根幹として成り立っている。生き方とか感じ方は、時代によって変るし、変らざるを得ない。不動の生き方というようなものは、当今のように変転のはげしい時代には、存立を許されないだろう。

 だから、十年苦節も学校出たての若僧も、時代の曲り目ごとにおいて、同じスタートラインに立たされることになる。その点では、十年苦節組の方が、年齢によって硬化しているだけに、損なのである。損になっているだろうと私は思う。

 映画の方にも、そんなことがあるだろうと思う。映画の世界のことはよく知らないが、映画はエジソン(だったかな)が発明して以来、短時日に急速に発展、変転してきた。トーキーになったのはこの間のような(それほどでもないが)気がするのに、色彩、シネマスコープ、シネラマと、次々に変り行く気配がある。

 その変るたびに、映画製作に直接たずさわる人々は、大げさに言えば、やはり同じスタートラインに立たされることになる。

 折角黒白画面に美を盛り上げることに苦労して会得したのに、皆が色彩映画になれば、その技術はとたんに御破算になるのである。

 全体の発展のためには余儀ないとしても、個人として見れば残念なことであろう。

 人造米というのがあった。あれも苦労して考案し、パテントか何かとったらしいが、とたんに米が豊富に出廻って、器械の持ちぐされになった。帝国海軍の夜戦と同じである。

 あることを書こうとして筆を進めていたら、紙数が尽きた。以上はまくらである。

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年四月号『世界』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。展開が脱線的で面白い。しかし最後に「あることを書こうとして筆を進めていたら、紙数が尽きた。以上はまくらである」とした、本論が何だったのか、判らぬのが、消化不良ではある。

「映画はエジソン(だったかな)が発明」一応、正しい。ウィキの「映画史」から引く。一八九三年(明治二十六年)に『アメリカのエジソンが自動映像販売機(映写機)キネトスコープを一般公開。さらに、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し』、一八九五年三月に『パリで開催された科学振興会で公開』、同年十二月二十八日に『パリのグラン・カフェと言う名称のカフェ(現ホテル・スクリーブ・パリ)で有料の試写会を開いた』のを嚆矢とする。『他にフランス人のルイ・ル・プランスも同時期に映写装置を開発していた。しかし、透明で柔軟性に富むフィルム材料が手に入らず一時、頓挫していた』。『エジソンが開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる』。『リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『ラ・シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など』の計十二タイトルで、『いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると、一人の少年がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むと少年が足を離して散水夫がずぶぬれになり、散水夫は少年を追いかけ折檻するという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった』とある。

「トーキーになったのはこの間のような(それほどでもないが)気がする」ウィキの「トーキー」によれば、“talkie”は『映像と音声が同期した映画のこと。talkie という語は talking picture から出たもので、moving picture movie と呼んだのにならったもので』、『発声映画が最初に上映されたのは』一九〇〇年(明治三十三年)の『パリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに』十年以上を『要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり』、一九二三年(大正十二年)四月に『ニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された』。『発声映画の商業化への』第一歩はアメリカで一九二〇年代後半(大正末から昭和最初期)に始まり、“talkie”という名称も、この頃に生まれたものである。『当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた(しゃべらないので「トーキー」ではない)。世界初の長編トーキーは』、一九二七年(昭和二年)十月に公開されたアメリカ映画「ジャズ・シンガー」(The Jazz Singer:アラン・クロスランド(Alan Crosland)監督/ワーナー・ブラザーズ製作・配給)『であり、ヴァイタフォン方式』(Vitaphone:ワーナー・ブラザーズが開発したフィルム映像と録音された音を同期させるトーキー映画のシステム名)だった。『これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった』。翌一九二八年に、『サウンドトラック方式を採用した』、かのウォルト・ディズニー(Walt Disney)の監督した「蒸気船ウィリー」(Steamboat Willie)が公開された。これは『短編ながら、初のサウンドトラック方式による映画であると共に、トーキーとして初めてのアニメーション映画でもある』。

一九三〇年代(昭和五年から同十三年代)に入ると、『トーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った(アメリカ合衆国の映画参照)。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった』。日本映画では昭和六(一九三一)年の「マダムと女房」(五所平之助監督・田中絹代主演・松竹キネマ製作)が『初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった』とあり、同ウィキの「アジアにおける移行」によれば、一九二〇年代から一九三〇年代(大正九年から昭和一四年)の日本は『世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋よりも長かった』。実は本当の日本初のトーキー映画は劇作家として知られる小山内薫が監督した「黎明」(昭和二(一九二七)年・松竹)であったが、『技術的問題から公開には至らなかったともいわれている』。『サウンド・オン・フィルム方式のミナ・トーキー(=フォノフィルム)を使い、日活は』昭和四(一九二九)年に二本の部分トーキーの映画「大尉の娘」(落合浪雄監督・水谷八重子主演)と「藤原義江のふるさと」(溝口健二監督)を『製作した。次いで松竹は』昭和六(一九三一)年に『初の国産サウンド・オン・フィルム方式(土橋式トーキー)での製作をおこなっ』ている。その間、二年の『月日が流れているが、当時の日本の映画はまだ』八割が無声映画で、『当時の日本映画界をリードしていた』二人の『監督、成瀬巳喜男と小津安二郎がトーキーを製作したのは』実に、それぞれ昭和一〇(一九三五)年と昭和一一(一九三六)年のことであった。その後、昭和一三(一九三八)年の段階でも、日本(国産の謂いであろう)では三分の一の映画が無声映画だった(以上、下線はやぶちゃん)。『日本で無声映画の人気が持続した背景には活動弁士の存在がある。活動弁士は無声映画の上映中にその内容を語りで解説する職業である。黒澤明は後に活動弁士について、「単に映画の筋を語るだけでなく、様々な声色で感情を表現し、効果音を発し、画面上の光景から喚起される説明を加えた(中略)人気のある活弁士は自身がスターであり、贔屓の活弁士に会うにはその劇場に行く必要があった」と語っている』。『映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べている』。『西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた』。『同時に、活動弁士という職業があったおかげで、映画会社はトーキーへの設備投資をゆっくり行うことができ、製作スタッフも新技術に慣れる期間を十分にとることができた』。以上の記載から考えると、梅崎春生が映画がトーキーになったと感じたのは昭和一〇(一九三五)年から昭和一三(一九三八)年の間辺りと考えてよく、丁度、この頃、春生は熊本五校を卒業して、東京帝大に進学(昭和一一(一九三六)年三、四月)、無頼風の大学生活を送っていた時期と一致する。そこから本記事までは十九から二十二年ほどしか隔たっていないから、「トーキーになったのはこの間」という感覚は、必ずしもおかしくはないと言える。

「人造米」ウィキの「人造米」から引く。『米の代用食料として「麦」や「とうもろこし」などのでんぷん質から作った米状』食品。『戦後の食糧難の頃に食料問題を解決する手段として麦やトウモロコシのでんぷん質を加熱糊状にしてから』、『米粒の形に圧縮成型する方法で米の代用品を製造する方法が開発された。この米の代用品は人造米と呼ばれ』、昭和二八(一九五三)年十月二十七日の『閣議では「人造米育成要綱」『が決議されるに至り、国は国内にある多くの食品メーカーに人造米の製造を奨励した。人造米はその製法が簡単であり製造ラインに多額の投資をする必要もなかったため、人造米を作る工場はこのような国の働きかけも後押しするかたちで急速にその規模を拡大した。また、ビタミン等を添加した強化米を作るにも、原料に練り込むだけでよいという利点があった』。『しかし、国民の人造米に対する評価は「外米より不味い」とか「うどんを細かく刻んだようだ」など散散なものであったため、発売当初は物珍しさなども後押ししてそれなりに売れたものの「人造米育成要綱」の決議からわずか数ヵ月後の』昭和二九(一九五四)年の『春を過ぎた頃から全く売れなくなり、次第に製造量は減少した。そして』昭和三十年代前半には『市場から姿を消した』とある(私は昭和三十二年生まれで、食ったことはおろか、見たこともない)。『普通の米とまったく同じように炊く事ができ』るもので、『国などは、味が不味いのをごまかす方法として「米と人造米を同量混ぜて炊くと美味い」などと盛んに喧伝したが、売れ行きが向上する事はなかった』。『発売当時の価格は』一キログラム当たり八十円から八十五円程度で(昭和二十九年の本物の米価を調べると、一キロ当たり百二十円相当である)、製造のピークは昭和二十九年一月頃で、月産約四百トンほどだった、とある]

悪酒の時代――酒友列伝――   梅崎春生

   悪酒の時代

    ――酒友列伝――

 

 私が酒を飲みだしたのは、十代の末期、学生の頃であるが、今考えると、飲み出したというほど大げさなものでない。何かというと街に出て、おでん屋かどこかで、わいわい騒いだり歌ったり、それで他愛なく酔っぱらって、かついだりかつがれたりして帰る程度のもので、なにも切に酒を欲して飲むといった飲み方ではなかった。もっとも十代や二十代の初期くらいの年頃で、生理的に身体が酒を欲する、あるいは精神が切に酩酊(めいていい)を欲する、などというのは先ず異例のことだろう。

 私はその頃、酒は飲んでも、酒の味は判らなかった。ただ酩酊の味だけを少し知っていた。現在でも私は、酒の味はよく判らない。甘口と辛口、濃い薄いが弁別出来る程度で、もっぱら酩酊専門である。やはり飲み始めの頃の飲み方が、一生を決定してしまうものらしい。

 なんだか若い頃は、酒を飲めるということがたいへん得意で、酒の飲めぬ友達を軽蔑したり、おれは酒飲みの血筋だから一升酒はらくにいけると大言壮語してみたり、いろいろ威張ってはいたが、今にして当時の私の酒の腕前をかえり見ると、文壇囲碁会の位に直すと、さしずめ大岡昇平二段格といったところで、広言の割には実力がともなわなかったようである。

 私の腕前がおのずから輝き出したのは、戦争でそろそろ酒がなくなりかけてからのことである。

 外国の山登りの言葉に、何故山に登るかと問われて、そこに山があるからだというのがあるが、現在の私の心境もややそれに近い。何故酒を飲むか。そこに酒があるからである。

 ところが当時、つまり戦争中(昭和十七年以降)の私の心境は、今の心境と正反対であった。すなわち、何故酒を飲むか。そこに酒がなかったからである。

 

 戦争が進行してゆくにつれ、だんだん物資が少なくなる。酒もその例外でない。個人には配給制度になり、店には割当制となる。その割当量もだんだん減って行く。

 商人の良心、あるいは悪心というやつが、そうなると露骨に出て来るようになる。良心的な店は、客の都合やふところ具合を考えて、なるべく免税点(一円五十銭)以内で、客を満足させようとする。つまり貧しい酒飲みにとっては、肴というものはあまり必要でない。乏しいふところで酔うには、肴を犠牲にしてその分だけ飲みたい、ということになる。商人の側からすれば、割当の酒量はきまっているから、それをフルに活用して、つまり肴と抱き合わせにして、一儲けしたいというところなのである。

 かくして酒を飲むということは、楽しみにあらずして、闘いということになって来た。

 折角儲(もう)けのチャンスなのに、それを押さえて良心的営業をすることは、これは並たいていのことでない。すなわち戦争遂行につれて、良心的な店は寥々(りょうりょう)たるものになった。その良心的な店を探すのが一仕事で、またその店が今日は休みか開店か、今日は如何なる種類の酒を飲ませるか、ということを探るのが一仕事であった。そしてその良心的な店の前には、午後五時(六時?)の開店をひかえて、行列が出来るようになった。

 私の手元に昭和十八年の日記があるが、それを読むと、酒の記事がほとんどを占めている。一週間の中五日は酒を飲んでいる。飲むだけではなくて、必ず酩酊している。酩酊せざるを得ないのは、時代のせいで鬱屈したものがあったからである。乏しい給料で、そんなに酩酊出来たというのも、数少ない良心的飲屋のおかげであり、そこで出した焼酎やドプロクや泡盛のおかげである。当時の私たちは、ビールや清酒は軽蔑して、あるいは敬遠して、これを近づけなかった。それらが酩酊をもたらすには、多額の金を必要としたからである。

 日記に、店の名がいくつも出て来る。笠原。堀留。タルウ(太郎という名の沖縄読み)。はるみ。のろくさ。ゆんべ呼んだ子。飯塚。その他。

 本当の名のもあれば、私たちがつけたのもある。たとえば「のろくさ」というのは本郷の餌差町にあって、至極良心的な店だったが、主人夫婦の動作がにぶくて、皆をいらいらさせ、そしてこういう名がついた。飯塚というのは新潮社の近くにあって、ドブロクを飲ませた。そこで製造して売る。官許ということになっていて、ここもまことに繁昌(はんじょう)、大行列が出来た。店の前で行列をつくると、警察なんかがうるさいので、近くのしろがね公園というところに集結、定刻になると四列縦隊をつくり、ああ堂々の大行進を開始する。多い時は千名を越す状態だったかと思う。ここのドブロクは実力があった。焼酎が混ぜてあるという定連の話であった。

 飯塚酒場は、今でもある。元の場所で、ドプロクは製造していないが、こぢんまりと営業している。今でもこんな安い店は、東京でもざらにはなかろう。ここで五百円飲み食いするには骨が折れる。この間私は新潮に「飯塚酒場」という小説を書き、ここのおばあさんに見せたところ、ぷっとふくれた。飯塚のドブロクには焼酎が混ぜてあった、という箇所が気に入らなかったのである。

「焼酎なんか混ぜるもんですか。うちのは、つくり方がよかったから、よく利(き)いたんですよ」

 おばあさんはそう言って大いにむくれた。この飯塚のおばあさんとおじいさんの昔話は、いつ聞いても面白い。ここで昔話を聞こうと思ったら、まずおじいさんに話しかけるといい。おじいさんが話し出す。おばあさんは遠くでじっと聞き耳を立てている。おじいさんがちょっと間違ったことでも言うと、

「おじいさん。そりやあ違いますよ。そうじゃなくて、こうですよ」

 とおばあさんが割り込んでくる。そうなれば話はとめどもなくなって、そのとめどもない話を肴にして、六本か七本飲み、てんぷらだの山かけなどをいくつかおかわりをしても、五百円紙幣からおつりが来るのである。ここで腰を落ちつけると、梯子(はしご)がきかない。

 ここのドブロク時代に、私は一夜に四回行列に並んだことがある。一回に二本ずつ飲ませるから、計八本。あそこの徳利は大きくて一合二勺ぐらい入ったから、一升近く飲んだことになる。さすがにその夜は、まっすぐに歩いて帰れなかった。坂なんかは這って登った。

 

 そういう飲んだくれの生活をつづけていて、十九年にいきなり海軍に引っぱられ、てんでアルコールのない生活に入れられたわけだが、アルコールを断たれたということにおいて大へんつらかったかというと、そうでもなかった。まだアル中の域に達していなかったせいでもあるが、兵隊生活そのものがつらくて、思いをアルコールに馳(は)せる暇がなかったからである。断たれるつらさにかけては、酒は到底たばこの敵ではない。

 戦争の最末期には、急ごしらえの下士官になっていたから、すこしは余裕がつき、他の下士官などからすすめられて、燃料アルコールなんかを飲んだ。その頃燃料アルコールを飲むのは法度(はっと)になっていたけれども、かくれて飲んだ。あちこちの基地で、アルコールを飲んで失明した者があるという噂も聞いたが、その頃の私にはそれがよく納得出来なかった。つまり私は、アルコールに、メチルとエチルとがあるということを知らなかったのである。アルコールというからには、どれもこれも同じだと思っていたのだ。海軍航空用二号アルコールというのを、ずいぶん飲んだが、これがメチルかエチルであったか、今もって私は知らない。眠がつぶれなかったところをみると、メチルではなかったんだろう。

 石油としか思われないにおいのものを、一度鹿児島の谷山基地で飲んだが、その翌日は眼やにがどっきり出た。どうもあいつはメチルだったに違いない。湯呑み一杯で止めたから、失明をまぬかれたものらしい。

 どうも我が酒歴をふり返ると、悪酒の歴史ばかりで、戦争時代が過ぎると、今度はカストリ時代とくる。

 それまでにずいぶん口を慣らして置いたから、カストリというのも、それほど飲みにくいものではなかった。ただカストリの酩酊の仕方は正常な酒にくらべると、螺旋(らせん)状にやって来る。ふつうの酒の酔い方を針金とするならば、カストリのは有刺鉄線である。だからそれでずいぶん失敗したけれども、その頃のかずかずの失敗は、思い出すだに自己嫌悪のたねとなるばかりで、書く気持にはなれない。

 

 私には酒友というのはいない。元来がひとり酒である。ひとりで飲む分にはペースが乱れないが、たくさんの人と一緒に飲むと、どうも調子が悪い。

 戦後派という言葉が出来た頃、いわゆる戦後派の人たち、あるいは近代文学派の人たちは、あまり酒類を愛好しなかったようだ。(今はそうでもない。)椎名麟三も、今は大酒を飲むようであるが、私が知り合ったその頃は、全然飲まなかった。そして瘦せていた。野間宏も瘦せていた。

 何の会合の流れだったか記憶にないが、そこらでいっぱいやろうというわけで、椎名、野間、埴谷雄高その他二三名で、新宿のある飲屋に入ったところ、先客が五六人いて、河盛好蔵、井伏鱒二、その他中央線沿線在住の作家評論家が、ずらりと並んでカストリか何かを飲んでいた。私たちはその傍で、一杯ずつぐらい飲み、すぐに飛び出して他の店に行った。他の店に行って、異口同音に発したのは、

「あいつら、肥ってやがるなあ」

 という意味の嘆声であった。それほどさように、当時の戦後派の肉体は、やせ衰えていて、彼等のボリュームに完全に圧倒されたのである。私は今、当時の野間や椎名の身体や風貌を思い出そうとしてうまく思い出せないのであるが、その時の皆の嘆声だけは、ありありと思い出すことが出来る。それから十年経った今はどうであるか。十年の問にこちらの肉体はずいぶんふくらんで、野間、椎名、武田泰淳、中村真一郎と並べてみても、堂々たる体格ぞろいで、中央棟沿線をはるかにしのぐだろう。今思うと、あの時の中央線沿線にしても、私たちの眠から見たからこそ肥っているように見えたので、その実はそれほどでもなかったのだろう。中肉中背か、それ以下だったかも知れない。

 とにかくあの頃は、肥っているということはうしろめたいことであり、あるいは悪徳ですらあった。新聞の投書欄か何かで、外食券食堂の女中さんが肥っているのはけしからぬ、という意味の記事を読んだ記憶がある。肥ったって瘦せたって、当人の勝手である筈であるが、それがそうでなかった時代があったということは、いつまでも記憶されていていい。

 

 カストリという酒について、私は法廷に立って、証言したことがある。

 私の友人にMという男がいて、その頃私はMの住んでいる家にころがり込んで、同居していたわけだが、そのMがカストリを飲み、柿ノ木坂において通行の女性をおびやかし、金品を強要しようとして、とらえられた。それで裁判になった。昭和二十二年のことである。

 公判はたしか東京地裁の十二号法廷というところで、今メーデー裁判が開かれているのと同じ部屋であったと思う。だだっ広い法廷で、裁判官席の前に証人席がある。この間メーデー事件の証人に立った時、どうもこの場所に前にも立ったことがあるという感じがしたが、考えてみるとそれだったのである。

 裁判長が私に聞いた。Mがこんな犯行をしたのは、友人として貴下はどう思うか。私は答えた。それはカストリという酒のせいである。

 そして私は、カストリという酒を飲んでその酔い方、頭のしびれ方、ぎすぎすした気持になって何かいたずらでもやりたくなるという特徴、そんなものについてるると証言した。最後に裁判長が私に聞いた。貴下のその証言は、科学的に根拠のあることか。私は答えて曰く。科学的根拠はないが、もっぱら私の体験に即して申し上げたのです。よろしい、というわけで、私の証言は済んだ。Mは執行猶予になった。私の証言がどのくらい力があったのか判らない。私の前に伊藤整が証人に立ち(Mは伊藤整の弟子であったから)その証言がきいたのかもしれない。私は伊藤証言を聞くことはできなかった。(法廷の規則でそうなっている。)だから後日、どんな証言だったかをMから聞いた。なんでも私小説家の運命、破滅型と調和型、そんなことについて伊藤整は大弁論をふるったらしいのである。かねてから考えていたことをMにあてはめて証言したのか、Mの行動を合理化するためにあみ出したのか、知らないけれども、その弁論を聞けば私も勉強になっただろうと、今思っても残念である。

 Mは執行猶予中に、また同じような犯行をして、ついに実刑を科せられた。二度目となれば、私のカストリ説もききそうにないので、拱手傍観せざるを得なかった。やはりMは破滅型だったのであろう。

 さいわい私は破滅せず、今日までどうにか生きて来た。酒は相変らず飲んでいる。が、もう歳も歳なので(というほどでもないが)悪酒に手を出さず、わざわざ悪酒に手を出さずとも良酒が巷(ちまた)にあふれているので、それを毎夜静かに飲み、時には飲み過ぎて二日酔をしたりして、毎日を過している。

 今年の正月の某新聞から、今年は何をやりたいかとアンケートを求められ、どうも酒を飲み過ぎて二日酔をする傾向があるから、最後の一本をやめることにする、と答えたら、友人からそんなこと可能かどうかという抗議を受けた。これは可能である。我が家で飲む場合、最後の一本をつけさせ、それを飲まずに台所の料理用に下げ渡してしまう。料理用なら爛冷しで結構だし、むだにはならない。爛冷しが毎日一合ずつ出る勘定だから、料理にもじゃんじゃん使えて、料理そのものが旨くなる。二日酔はしないし料理は旨くなるし、一挙両得というものである。

 が、実際には、最後の一本をつけさせ、それを下げ渡すのが惜しくて惜しくて、ついそれを飲んでしまい、毎朝二日酔の状態にあるというのが、私の実状のようである。酒の乏しい時代に酒飲みとなったものだから、酒惜しみの根性がどうしても抜けきれないものらしい。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十二月号『小説新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「寥々(りょうりょう)たる」元来は、もの淋しいさまであるが、ここはそうした店が殆んど少なくなって感覚的に荒涼と淋しくなったというのみでなく、そうした店が実際に仕舞た屋になって眼前にその荒れた様が見えるという謂いでなくてはならない。そうでなくては、その後に「その良心的な店を探すのが一仕事で」とあるのが屋上屋になってしまうからである。現実のリアルな映像的表現を梅崎春生はここでしているのである。

「本郷の餌差町」現在の東京都文京区小石川にあった。旧町名の「えさし」とは、古く慶長年間(一五九六年~一六一五年)のこと、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕えることを司った「御餌差衆(えさししゅう)」の屋敷が置かれたことに由来する。

「海軍航空用二号アルコール」「ア号燃料」と呼ばれたアルコール。高志氏のブログ「国民年金の花柳な生活」の「ア号燃料」によれば、『原料は主としてサツマイモだったが、玉蜀黍を始め種々の雑穀類も使われた』とあるので、幸いにしてエチルであった(因みに、メチル・アルコールは木材由来による木酢液の蒸留・石炭或いは天然ガスの部分酸化で製造した一酸化炭素に酸化銅―酸化亜鉛/アルミナ複合酸化物を触媒として高圧高温状態で水素を反応させて製造する。なお、別に戦時中に航空機燃料として試作されたものの、効率が異様に悪く実用化に至らなかった「松根油」は、テレピン油等を含んだ油状物質でアルコールではない)。梅崎春生「幻化」「白い冒頭の回想シークエンスに「海軍航空用一号アルコール」というのが出てはくる。二号があるのだから、一号もとうぜんあるのであろうが、こちらは「幻化」の注を附した際(リンク先はそれ)にもよく判らなかった。再度、識者の御教授を乞うものである。

「メチル」「カストリ」ウィキの「メタノール」(メチルアルコール:methyl alcohol)の「各国の中毒における事例」の「日本」によれば、戦前の昭和八(一九三三)年に『メタノールで増嵩しした粕取り焼酎の飲用から』三十名以上の『死者が出たほか、第二次世界大戦後の混乱期には安価な変性アルコールを用いた密造酒によるメタノール中毒もしばしば起きた』。『エタノールは酒税の課税対象となるが、エタノールにメタノールなどを加えた変性アルコールは非課税であり、これらは安価であった。このエタノールにメタノールが混入された変性アルコールを蒸留して、すなわち、"メタノールとエタノールの沸点は異なるので、適切な温度で蒸留したら分離できるだろう"という目論見で、変性アルコールを加熱・蒸留してエタノールを分離しようとしたものを密造酒として供することが横行した。しかし、メタノール-エタノール混合溶液は共沸混合物であり、メタノールとエタノールの沸点が異なっていても、混合溶液となったものを単純に加熱してメタノールを取り除くことは不可能で(共沸)、この結果、メタノールを除去できていない変性アルコールがカストリ酒となって広く出回り、中毒事故が多発した。メタノールとエタノールは沸点が異なっていても、その混合溶液を蒸留してエタノールだけを得ることは不可能であるので、留意が必要である』。『失明者が多く出たことから、メタノールの別称である「メチルアルコール」を当てて「目散るアルコール」や、その危険性を象徴してバクダン等と呼ばれた』とあるのであるが、私が以前に読んだもの(書名失念。発見次第、明記する)によれば、「バクダン」とは先の引用可能な海軍航空機用燃料(或いは素材)である「ア号燃料」に引用できないようにするためにガソリンを混入したものが戦後に闇市に出回り、火をつけてガソリンを燃やし飛ばして飲料用にしたが、ガソリンが溶け込んでいて(航空用ガソリンは有鉛ガソリンで強い毒性を持つ)、混入したそれを多量に飲むと危ないところから、そうした処理をしたものを「バクダン」と呼んだという確かな記憶がある。これは教員時代の先輩からも実話として聴いたから、かなり確かなものである。「カストリ」は原義は新酒の粕を蒸籠で蒸留して取る焼酎であるが、ここはそれとは全く無縁な粗悪な密造焼酎の俗称である。

「河盛好蔵」(かわもりよしぞう 明治三五(一九〇二)年~平成一二(二〇〇〇)年)はフランス文学者で評論家。ウィキの「河盛好蔵」によれば、大阪府堺市生まれ。京都帝国大学仏文科を卒業後、関西大学でフランス語を教え、昭和三(一九二八)年、学校騒動(前年十月に起った理事排斥で千二百名の学生が同盟休校した学生紛争)で関西大学を辞職して渡仏、ソルボンヌ大学に学び、昭和五(一九三〇)年に帰国、堺の生家でジャン・コクトーの「山師トマ」を翻訳、その後、上京してファーブルの「昆虫記」を三好達治と共訳した。昭和六(一九三一)年には立教大学教授に就任、昭和一八(一九四三)年までフランス語を教えた。同年、随筆「新釈女大学」がベストセラーとなっている。『戦後は東京教育大学教授、共立女子大学教授を歴任し、主にモラリスト文学を研究』したとある。

「M」以下、最後には「Mは執行猶予中に、また同じような犯行をして、ついに実刑を科せられた。二度目となれば、私のカストリ説もききそうにないので、拱手傍観せざるを得なかった。やはりMは破滅型だったのであろう」(「拱手」は「きょうしゅ」と読み、両手を組み合わせること・手をこまぬくこと。転じて、手を下さず何もしないでいることの意)とこのエピソードを結んでいるのであるが、当初、この人物は梅崎をして「破滅」してしまったと呼ばしめた作家であり、これらの強姦未遂と思しい犯罪及びその実刑刑期も終えているであろうことから、個人情報と本人の名誉のためにも、調べずに注も附さないつもりでいたであるが、ところが試みにちょっと調べてみたところが、実は本人がそれを小説にして発表している事実、当人は既に故人となっており、「破滅」どころか作家として永く生きたことを知るに至り、これは名前も出して注してよい(寧ろ、梅崎春生が「破滅型」と評したことへの反論となる)と考えるに至ったこの「M」とは作家八匠衆一(はっしょうしゅういち 大正六(一九一七)年~平成一六(二〇〇四)年)である。ウィキの「八匠衆一」によれば、北海道旭川市生まれで本名は松尾一光(「まつお」で「M」である)。日本大学芸術科卒で、名古屋の同人誌『作家』に「未決囚」(これがその自身の強姦未遂事件をモデルとした小説である)を発表、これがまさに昭和三〇(一九五五)年の直木賞候補となっている梅崎春生はこの前年の下半期第三十二回直木賞を「ボロ家の春秋」で受賞している。但し、春生は自身、純文学作家としての強い矜持を持っていたことから、受賞辞退も真剣に考え、多くの友人作家に相談をしていたことは特記してよい)。昭和三三(一九五八)年には「地宴」で作家賞、昭和五七(一九八二)年には「生命盡きる日」で平林たい子文学賞受賞している(梅崎春生の逝去は昭和四〇(一九六五)年)。ウィキには最後にわざわざ『梅崎春生と親しかった』とまで記されているのであるが、不審なのは、この春生の文章は、その「未決囚」の翌年の発表になるものである点であり、八匠衆一はウィキの著書リストを見ても晩年まで作品を書いており、作家として「破滅」なんぞしてはいないのである(満八十七歳で逝去した破滅型作家というのは奇妙である)。なお、彼はこの「M」であり、小説「未決囚」が自分が起こした強姦未遂事件をモデルとしていること、彼が後も作家として精力的に活動し続けたことは、個人ブログ(ツイッターHN:pelebo)「直木賞のすべて 余聞と余分」の一度どん底まで落ちて。彼に小説を書く道がのこされていて、ほんとよかった。 第34回候補 八匠衆一「未決囚」に、詳細に書かれてあり必読である。そこには、ここで春生が「Mは伊藤整の弟子であった」と記している通り、伊藤整も、そして梅崎春生も登場する。それによれば、梅崎春生はこれよりずっと以前の昭和二四(一九四九)年五月号『新潮』に発表した「黄色い日日」で「八匠衆一」を「竹田春男」という名で登場させていたこと、さらには何と! 八匠衆一はその「未決囚」の中で、主人公「松井田」(八匠衆一)が、かつての友人「竹田」(梅崎春生)の書いた「黄色い日日」を読んで、ある感慨を述べる、というシークエンスがあるという驚天動地の事実を知った。これは実に面白い! その感懐は『あの頃は竹田も危険だったのだ。その危険を避けるために彼は自分から離れてゆかねばならなかったのだ。(引用者中略)しかし、もう一つ松井田には釈然としないものが残っていた。仮りにそうであっても、そういう状況をつくり出したのは竹田だといえないこともなかった。が、竹田が意識してそんな状況をつくり出したわけでもなかったし、彼は自分の至らなさを責めるより他に仕方がなかった。』と引用されてある。これは小説であるから何とも言えぬが、梅崎春生と八匠衆一はこの事件を契機に疎遠になったのかも知れないし、実際にはずっと仲が良かったのかも知れない(わざと「M」のことを意地悪く掛けるのはかえって親しかった故の作家仲間の悪戯とも読めるのである)。識者の御教授を乞うものではある。]

現代への執着   梅崎春生

 

 大学には四年いた。三年のところを勝手に一年引き伸ばしたのだから、学資を仰いでいた伯父に、もう一年分続けてくれとは言いにくく、自分で働いてやることにした。アルバイト生活である。

 神田駿河台に政府外郭団体の東亜研究所というのがあって、学生課の紹介で、そこの書庫で働くことになった。時間給二十銭というきめだ。時間給というのは、学生だから講義に出席せねばならない、だからそれを除いて、働いた時間だけ給料を呉れるという仕組みである。しかし毎日通って全時間を勤務しても、総額四十数円にしかならない。その頃といえども四十数円というのは、大学生としては最低の生活費である。私は他に収入は皆無なのだから、講義は放棄してそこに通わねばならなかった。書庫は地下室にあり、仕事は書籍の整理や貸出し。東亜研究所というのは、たしか近衛文麿が所長で、東亜各国の資料を集め調査研究をし、侵略の手づるにしようというあまりよろしくない団体だ。夏が過ぎ、秋ともなり、やがて卒業論文提出期が近づいてきた。

 以前に届けておいた論文題名は「森鷗外論」だ。私は不勉強な学生で、講義にも欠席ばかりしていたので明治以前の国文学についてはほとんど知るところがない。第一あの原典のぐにゃぐにゃした仮名や字が判読できない。だから森鷗外を選んだのだが、由来明治大正文学を選ぶのは、よほどの勉強家か怠け者ということになっていた。怠け者がとかく選びたがるのは、樋口一葉とか芥川龍之介。全著書を集めても大した量はないからである。私の森鷗外もそれに近い。と言うのは、私は鷗外の全著作を対象としたのではなく、もっぱらその範囲を鷗外の現代小説だけに限ったからだ。あの尨大(ぼうだい)な鷗外全集を読みこなす根気もなければ暇もなかった。すなわち翻訳を省き、論文も省く。史伝も省くし、詩歌も省く。小説の中でも初期文語体で書かれたのは敬遠。「大塩平八郎」のような歴史小説も同じ。残るのは「雁」とか「鷗」とか平明にして判り易い現代小説ばかりである。これならそう参考書や資料も要らないし、短時間に仕上げがきく。

 提出期がいよいよ切迫して、あますところ二週間ぐらいになってしまった。今度はアルバイトの方は放棄して朝から東大図書館にこもり、参考書を三四冊借り出し、ぶっつけに原稿用紙に書く。下書なんかこしらえる余裕はない。十日ばかりの間に八十枚ほど書き上げ、大急ぎで製本屋に頼んで製本し、研究所倉庫に行ってナンバリングで頁を打ち、そしてぎりぎりの日に提出した。こんな粗雑な論文でも、どうにか通過したからふしぎなものだ。

 この論文は、学校に保存されると大変だから、卒業時に取返して、ちゃんとしまって置いた。終戦時まであったが、この稿を書くために探したが、どこにしまったか見当らない。見当らない方が身の為である。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月三十日号『近代文学』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」の『エッセイ Ⅰ』に拠った。これをここ(前後は同底本の『エッセイ Ⅳ』)に挟むのは当該底本の編集権を侵害しないようにするためで、他意はない。但し、私は編集権とは底本を一冊丸ごと、同配列同文オリジナル注釈なし、PDFなどで同じ版組にして電子化した場合等に限って問題となると認識しているので、ブログ単発オリジナル注附きの現行の私の電子化を編集権侵害とは微塵も思っていないことを附け加えておく。

「大学には四年いた」梅崎春生は昭和一一(一九三六)年四月に東京帝国大学文学部国文科に入学、昭和一五(一九四〇)年三月に卒業している。当時は大学は三年制であったが、梅崎春生は自分の意志で一年留年(何年次をダブったのかは不明)している。但し、ここで彼はあたかも大学の講義には欠かさず出ていたかのように書いているが、底本全集別巻の年譜(常住郷太郎氏編と思われる)によれば、『大学生活は自分で留年をした一年間を通してほとんど教室に出なかった』とあり、また『十二年には幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり』、『一週間留置された』という驚天動地のエピソードを記す。

「東亜研究所」昭和一三(一九三八)年九月一日に企画院(戦前の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関)管轄の外郭団体(財団法人)として設立され、第二次世界大戦終結後まで存続した大日本帝国の国策調査・研究機関。略称を「東研(とうけん)」と呼んだ。ウィキの「東亜研究所により引く。『総裁には近衛文麿、副総裁には大蔵公望(満鉄理事、貴族院議員)、常務理事に唐沢俊樹らが就任したが、事実上の所長として運営を切り回していたのは大蔵であった。人文・社会・自然科学の総合的視点に立ち、東アジア全般の地域研究に加え、ソ連・南方(東南アジア)・中近東など、当時の日本の地域研究においてほとんど手つかずだった諸地域の研究を進め、日中戦争(支那事変)の遂行および、これらの地域に対する国策の樹立に貢献することが期待された』昭和一五(一九四〇)年『以降、満鉄調査部と共同で、中国社会に対する最初の総合的現地調査である「中国農村慣行調査」(華北農村慣行調査)を行ったことで知られている。太平洋戦争(大東亜戦争)期の南方占領地軍政においては』、第十六軍『(ジャワ軍政監部)のもとで柘植秀臣を班長として旧蘭印(インドネシア)のジャワ占領地における調査活動を担当した』。『所員としては講座派』(日本資本主義論争において労農派と対抗したマルクス主義者の一派で、岩波書店から一九三〇年代前半に出版された「日本資本主義発達史講座」を執筆したグループが中心となったのでこう呼ばれる)『経済学者の山田盛太郎など、日本内地の言論弾圧により活動の場を失った左派・リベラル派の知識人が多数採用されており(そのせいか企画院事件』(昭和一四(一九三九)年から一九四一年にかけて多数の企画院職員・調査官及び関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された複数の事件の複合呼称)『で検挙された所員もいる)、より若年の世代では内田義彦・水田洋など、第二次世界大戦後の社会科学研究に学問貢献した高名な学者を多数輩出した。 また、敗戦後、新政府への奉職、貿易会社・商社勤務、新聞記者など実務家として活躍した者が数多くいる』。なお、敗戦後も「東研」は暫く存続し、戦後も資料収集を継続、『敗戦時の混乱で政府から正式な解散認可も出ないまま』昭和二一(一九四六)年三月辺り『(正確な月日は不明)に解散、その所蔵資料と土地資産は財団法人政治経済研究所に継承された。その後、主に、都内・駿河台近隣の旧制大学に所属する学者の論考を発表する場を提供してきた』とある。

「鷗」私は岩波版の新書版選集しか所持せず、熱心な読者でさえないのであるが(因みに私が高校教師時代に最初に担任した女子生徒であった大塚美保さんは現在、聖心女子大学日本語日本文学科教授として本邦トップ・クラスの森鷗外研究家となっておられる)、森鷗外に「鷗」という現代小説があったようにはどうも思われない。これは思うに、「鷄(にわとり)」(明治四二年(一九〇九)八月『スバル』第八号初出)の誤植ではあるまいか?(梅崎春生の誤りではなくである)「鷄」は小倉に赴任した少佐参謀石田小介が主人公の現代小説で、福岡生まれの春生の郷里との親和性もあるからである。それとも鷗外に「鷗」という小説があるんだろうか? 大塚さんに聴くのも恥ずかしい。誰か、こっそり教えてくれないか?]

2016/08/21

合歓の花…………

あぁ……合歓の花……見たいなぁ…………

幾年故郷来てみれば ――福岡風土記――   梅崎春生

   幾年故郷来てみれば

     ――福岡風土記――

 

 今度の「故郷に帰る」の係りの本誌の丸山泰治さんが、事前の相談にあたってこぼした。「他の見なら、まだ行ったことがない県でも、すらすらとスケジュールが立つのに、福岡県だけはどうにも手がつかない」

 福岡というのは雄大にして複雑な県で、力点があちこちにあり、どこかをぎゅうと押さえれば判るというような簡単な県ではないのである。

 私も福岡の出身だが、福岡市とその周辺を知っているぐらいなもので、福岡県全体となると、旅人と、あまり大差がない。

 何はともあれ福岡市に直行。そこに待機中のカメラの小石清さんと落合い、行程を相談し、大まかなところを決定した。

 第一日日は八月二十二日。福岡市のあちこちを見物というスケジュール。

 朝七時、宿舎にて起床。

 この旅行のために、ここ一箇月早寝早起の訓練をしたから、七時と言っても別に苦にならない。

 朝食に私の注文でオキウトが出る。海藻からつくった博多独特の食物で、私など口になつかしき限りだが、他国人にはこの味は判らないらしい。丸山さんなど一片一片箸でつまんで止めにした。九時、自動車が来る。

 福岡市はまん中に那珂(なか)川が流れ、それから東を博多と呼び、西地区を福岡と呼ぶ。博多は町人街、福岡はさむらいの街。その西地区の中央に福岡城がある。戦前までは連隊が占拠していたが、敗戦と共にたちまち平和台と名をかえ、野球場や競技場がつくられた。競技場は四百米トラックが整備中で、なかなか立派なものである。

 そこから隣接した大濠公園に向かう。案内して呉れるのは西日本新聞の草場毅君。小学校からの友人で、心易い。

 大濠公園は城の濠を中心に整備した公園で、私が中学に入った年につくられた。その頃を思い出しながら、ぶらぶらと歩く。

 西公園もすぐ近く。平和台と大濠公園と西公園、この三つをもっと有機的につなげば、おそらく日本一の立体的な公園になるだろうと思うが、今はまだばらばらで統一がない。

 西公園に向かう途中、私が生れて中学二年まで過した家がある。荒戸町四番丁。今は東さん御一家が住んでいて、頼んで中を見せてもらう。間取りは昔と同じ。庭にも私の見覚えのある樹がいくつか立っている。玄関前の柿の木。私の幼ない時も、秋になるとこの柿は実をたわわにつけて、私たちを喜ばせた。今でもたくさん実るという。大へんサービスのいい樹だ。あまり大きな樹ではないが、樹齢は五十年以上であろう。「故郷の廃家」という小学唱歌を思い出した。もちろんこの家は廃家でなく、東さん御一族がちゃんと住んでおられるのだけれども。

 生れた家というものには、どうも小学唱歌のにおいがあちこちにしみついている。

 車にて修猷館(しゅうゆうかん)高校に向かう。私が学んだ頃は修猷館中学と言ったが、今では高校となり、男女共学となった。しかし男子学生は私の頃と同じ帽子をかぶっている。帽子だけが元のままというのが、ちょっと異様な感じであった。

 この中学は、政治家や軍人には大物をたくさん出したが、文士というと、豊島与志雄氏亡きあと、私ぐらいなもので、一向にふるわないのである。

 安住正夫先生に会う。先生から私は英語を教わった。先生は私を見て、年を取ると梅崎君みたいな高級文学は面倒くさくて読めなくなった、と言われる。いえいえ、何が高級なもんですか。

 辞して今度は、博多の街を横断、東公園に向かう。

 東公園には、亀山上皇と日蓮上人の銅像が立っているが、この日蓮銅像が異色である。銅像だけの高さは三十五尺。台座まで入れると七十尺で、奈良の大仏を抜く。私は幼ない時、初めてここに連れられて、もう帰ろうよとおやじにせがんだ記憶がある。あまりにも大きいので、怖かったのである。像の前にひざまずき、線香を立て、経を誦(ず)している信者が何人もいた。それから筥崎(はこざき)宮に廻る。

 形のいい巨松を撮(と)ろうと、カメラの小石さんと一緒にずいぶん探したが、上記のコースのどこにも見当らなかった。戦前はずいぶんいい松があったのに、どういうわけか、戦後はすっかりあとを絶ってしまった。残念なことである。

 博多の街に戻ってぶらぶら歩き。

 戦後街筋も変化し、また大きな建物があちこちににょきにょきと建って、私の記憶の博多から大変貌をとげている。それから空を飛び交うジェット横。博多名物は、もう博多人形やにわかせんべいではなく、このジェット機だと言った人があるが、迷惑な名物もあればあったものだ。九州大学を始め各学校も、この狂騒音には手を焼いている由。

 午後の汽車で門司に向かう。門司港着。小石さん、指をあげて、

「あ。興安丸だ」

 と叫ぶ。

 興安丸が夕焼けの海を、今しずしずと出港して行く。

 

 八月二十三日

 朝九時半、関門国道事務所門司出張所におもむく。

 西村技官から約三十分、国道トンネル工事の説明を聞いた後、門司竪坑(たてこう)からエレベーターでトンネルに降りる。海底六十米の深さである。

 自動車道、人道とあって、前者の幅は七米五〇、後者は三米八〇ある。下関の近くまで徒歩で往復したが、なかなか大規模の工事である。これが出来上ると、ずいぶん便利になるだろう。三十三年三月完成の予定だそうである。

 辞して和布刈岬に登る。公園になっていて、早柄の瀬戸、門司港が一望に見おろせて、眺望が佳い。厳流島も見える。早柄の瀬戸というのは、本州と九州の最短距離のところで、潮が早い。

 国道トンネルはつまり丁度この下を通るのである。

 自動車にて八幡。腹がへってきたので、八幡の町をぶらぶら歩き、行き当りばったりに小さなうどん屋に飛び込む。瓢六(ひょうろく)うどんという屋号で、その味推奨するに足る。値段もたいへん安い。東京ではとてもこんな手打ちうどんは食べられない。

 腹ごしらえをすませて、八幡製鉄所に向かう。

 なにしろ東洋第一の大工場であって、敷地も広大だし、従業員も三万五千人、並び立つ巨大な煙突が七色の煙をはいている。

 自動車であちこち案内されたが、やはり花形は熔鉱炉。これも見学したが、こわいみたいなものである。熔鉱炉の中心部は千八百度あるという。そこから熔かされた銑鉄(せんてつ)が、ぎらぎら光りながら、どろどろの小川になって流れてくる。ちょっと近寄ってたばこの火を拝借、というわけには行かない。その流れですら千四百度ある。線香花火の火花を百倍ぐらいにしたような大きな火花が、ばさっばさっと飛んでいる。

 写真を撮られるために辛抱したが、ほんとに地獄のように熱かった。

 製鉄所の車で戸畑の埠頭(ふとう)まで送っていただく。

 連絡船にて洞海湾を若松に渡る。所要時間三分。切符代十円也。

 若松港の貯炭場より、石炭を船に積み込む作業。

 軽子(かるこ)がもっこにて運ぶという原始的作業だ。それを見て小石さんがカメラに撮っていると、軽子の群のあちこちから、写真に撮ってはだめだ、というような声があがる。彼等は働いているのに、私たちがのんびり眺めたり撮(うつ)したりしているのが、しやくにさわったらしい。

 だから早々にして退散。若松の街に行き、紅卯(べにう)という喫茶店でミルクセーキを飲む。若松に来たからには火野葦平親分にあいさつしなくては、と丸山氏、紅卯より電話をかける。ところが親分は、夏期大学講師として佐賀に行き、留守であった。紅卯の美しき女主人も、火野親分の親戚にあたる由。

 小雨を冒して、高塔山に登る。ここも山頂は公園になっていて、眺望絶佳の由であるが、小雨のため眼界は煙っている。八幡の製鉄所が真下に見える。

 河童(かっぱ)堂というのがあり、河童封じの地蔵尊が本尊で、この地蔵尊の中にあまたの河童が封じてある。地蔵尊の背中に釘が打ち込んであり、そのために河童が出られないのである。よっぽどその釘を引抜いてみようかと思ったが、生憎(あいにく)釘抜きを持って来なかったし、またぞろぞろと河童が出て来たら私の責任にもなるので、残念ながら止めることにした。

 下山し、連絡船にて戸畑に戻り、国鉄のディーゼルカーにて福岡に戻る。

 今日はあちこちとずいぶん歩き廻ったので、福岡まで一時間半、満員で立ちん坊はすこしつらかった。国鉄職員あるいは組合員とおぼしき一群(駅に着くたびに駅員に通信筒みたいなものを渡していた)が、満員の中に悠々と席をしめ、騒いだりしていたのは、言語道断であった。

 

 八月二十四日。

 細雨の中を宿舎発、都府楼に向かう。つまりこれは、昔の鎮西の役所太宰府の跡であって、建物は全然残っていない。大きな礎石があちこちに残っているだけであるが、その礎石の大きさから、昔日の盛観を偲ぶことが出来る。草が茫々(ぼうぼう)と生い茂っている。小学生の頃ここに遠足に来たら、附近の田んぼから、当時の瓦の破片が拾えたが、今ではもうそれも拾いつくしたらしい。

 

  菜の花ばたけに入日うすれ

  見渡す山の端かすみ深し

 

 小学唱歌のこの歌を聞くと、私は必ずこの都府楼附近の春色も思い浮べる。そのような地勢であり、風景なのである。

 それより観世音寺に向かう。鏡西一の名刹(めいさつ)であり、歴史も古い。

 閑寂な境内に入り、右手に国宝の鐘がある。菅原道真の詩に、

 

  都府楼纔看瓦色

  観音寺只聴鐘声

 

 というのがあるが、これがその鐘であって、国宝になっている。石田住職の許しを得て、私はそれを突いてみた。小雨の筑紫野に、鐘声はしずかに拡って行った。いい音である。

 この寺には実に仏像が多い。薄暗い講堂の中に、屋根裏につかえるばかりの巨大な観音像五体を始め、大小さまざまの像があちこちの建物に充満している。石田住職の案内で、私たちは次々に見て廻った。

 雨はやんだり、また降り出したり。晴れ間には熊蟬やつくつく法師が啼(な)く。丸山氏は熊蟬の啼き声は初めてらしく、めずらしそうに耳を傾ける。

 私たちはこの蟬のことを、わしわしと呼ぶ。東京では聞けない。

 ところでここに困ったことがおきた。丸山氏が貴重な金ぶちの眼鏡を落したという。都府楼徘徊(はいかい)中にちがいないというので、車を戻し、草の根を分けて探したが見当らず、千載(せんざい)の恨みを残して、大宰府へと向かう。(後日この眼鏡は、近所の子供に拾われ、石田住職の手を通して、丸山氏の手に戻った由。めでたし)

 太宰府天満宮は道真公をまつった神社。丹青の本殿、楼門、廻廊、池、反(そ)り橋など、観世音寺の閑寂にくらべて、すべてきらびやか豪華に出来ていて、したがって、俗臭紛紛といった傾向がないでもない。

 裏は梅林になっていて、私たちは茶店で小憩、茶をすすり、梅枝餅を食べた。

 ここで私が最も感心したのは、社務所近くにある巨大なく樟(くすのき)で、大きいのなんのって、ちょっと見には丸ビルぐらいある。樹齢千年也という。

 千年と一口に言うけれども、千年もひとつところに動かず、そしてこんなに大きくなったということは、大したことである。真似の出来ることではない。

 二日市を経て、急行電車にて久留米。昼飯を食べようと適当な店を探したがなし。駅近くの大衆食堂に入る。ここはサービスも悪いし、ひどいものを食わせた。もっとも駅近くの食堂というやつは、どこでもひどいものを食わせるものだから、あながち久留米ばかりを責めるわけには行かないが。

 石橋文化センターに向かう。ここはブリヂストンの石橋正二郎氏がつくって、久留米市に寄贈したもの。中央に庭園があり、体育館、美術館、プールがその三方にある。敷地約一万坪で、たいへん立派なものである。美術館では丁度(ちょうど)郷土出身の青木繁、坂本繁二郎両画伯の作品展が開かれていて、たいへんたのしかった。作品もよく集められていた。

 二時半、水天宮に向かい、筑後川を眺め、また急行電車にて柳川に向かう。

 柳川では、殿様経営にかかるところの料亭「於花(おはな)」に泊る予定であったが、いかなる手違いにや、ぬる茶一杯飲みたるだけで、部屋なしと無情にも追い出さるる。一行三人、無念やるかたなく、近所の若松屋なるうなぎ屋に押し上り、うなぎを食べ、酒を飲む。風貌姿勢プロレスの東富士にそっくりの仲居ありて、名を問えば西の富士と答う。大いに東と張り合っているつもりらしい。柳川はうなぎの名産地だというが、私の舌にはたれが少し甘過ぎた。みりんのかわりに飴を用いるという。値段は安く、東京の半分以下である。

 柳川は掘割が縦横に通り、古くてうつくしい町である。

 白秋の碑を見る。この碑はたしか長谷健等が、ねばりにねばってこさえ上げたものである。詩碑には詩が彫ってあるだけで、横に廻ってもうしろに廻っても、他には字は一つも彫ってない。さっぱりしたもので、さすがは長谷親分の仕事だけある。

 車にて船小屋温泉に向かう。ここは矢部川に沿った含鉄炭酸泉で、風光も明るく、予定外の掘出しものであった。樋口軒に泊る。矢部川を隔てた対岸の堤は、樺の大木が二里もつづいていて、壮観である。

 これは植林で、すべて樹齢三百年に及ぶという。

 若松屋でうなぎを詰め込んだので、腹いっぱいでお酒では酔わない。ウイスキーを持って来させ、ここの含鉄炭酸泉水に混ぜ、ハイボールにして飲んだ。いささか鉄のにおいが気になるが、そのうち結構酔っぱらってきた。「於花」で追い出されたばかりに、鉄くさいハイボールを飲むことになろうとは、思いがけぬめぐり合わせで、旅情ここにおいていよいよ深まった感がある。

 

 明くれば八月二十五日。行程最後の日である。

 いささか二日酔の気味で、つい寝過した。

 丸山、小石の両氏は、朝早々と起き出で、そこら一帯を散歩してきたという。

 朝食がわりにビールを一本飲み、身仕度して対岸に渡る。

 ここの樟並木はうっそうとして、ほとんど日も通さない。

 国鉄船小屋駅に行き、汽車で大牟田に行く。ここは有明湾の東岸に位する本県最南端の工業都市であり、三池炭山の所在地である。ここで炭鉱を見ようとのスケジュールだ。

 三井鉱山の人に案内されて、第二人工島に行く。

 ここではすでに地下の石炭は掘り尽して、今は海底を掘っている。そのための換気坑が必要で、人工島をつくった。第一のはすでに完成、三池港の沖合二キロの地点にあり、初島と名付けられている。第二のが今つくられつつあるところで、防波堤の先を埋立てたへんてつもない島の相である。

 戻って会社のクラブで、五高で一緒だった石田朴君(三池鉱業所勤務)より昼飯の御馳走となる。

 午後、いよいよ入坑。

 入坑するには、やはりふつうの服装では入れない。巻頭のグラビヤにあるような恰好となる。丸山さんも小石さんもそういう恰好になったら、もう鉱夫と見分けがつかなくなった。

 人車に乗り、三川鉱の斜坑を、一気に千七百米まで降る。人車というのは、トロッコに天井をつけたもので、遊園地などにある子供電車みたいなものと思えばいい。それが数十台つながって、轟々と斜めにくだって行くのである。

 慣れると何でもないだろうが、初めてだとちょっと悲壮な感じがある。人車を降りて、坑内のあちこちを歩く。巨大な地下変電所などがある。温度も、とても暑い坑と涼しい坑がある。

 涼しい坑では、つめたい風が吹き抜けていて、気分がいい。

 一時間ばかりあちこち歩き、待合所に戻って、上り定期便を待つ。待合所には、八時間の仕事を終えた鉱夫たちが、たくさん群をなして待っている。その人々の動作や表情には、地下で働く人とは思えぬほどの明るさとにぎやかさがある。もっとも明るい気分を保持してないと、とても陽(ひ)のささぬ場所では働けないだろう。

 やがて人車が来た。皆乗り込み、轟々と音を立てて登って行く。人車がとまり、真昼の外に出る。

 わずか一時間ばかりの入坑であったが、その日の光がありがたかった。地上にうつる自分の影が、実に新鮮であった。冷たい水を貰って、むさぼり飲む。

 かけ足の四日間ながら、これで福岡県の大略か上っ面かを、ほぼ見て廻った。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年十一月号『小説新潮』初出で、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に再録された(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。文中冒頭の「本誌」の後には「(小説新潮)」、「グラビヤ」の後には「(昭和三十一年十一月号「小説新潮」)」という丸括弧附きのポイント落ち割注が入るが、これは底本全集編者の挿入と思われ、或いは「馬のあくび」では入っているのかも知れないが、初出形を想定して除去した。

 今まで通り、馬鹿正直に注を附すことも考えたが、生家附近の町名などは既に注してきたので、今回は気になったものだけをストイックに注した(つもりが、やっぱり長くなった。悪しからず)。

「そこに待機中のカメラの小石清さん」福岡で落ち合ったカメラマンの「小石清」となると、これはかなり知られた(私でさえ知っている)不世出の写真家小石清(こいしきよし 明治四一(一九〇八)年~昭和三二(一九五七)年)のことではあるまいか? ウィキの「小石清」から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『日本の戦前を代表する写真家。戦争のために創作の機会を奪われた末に早世した悲劇の天才として知られる』。『大阪で高級雑貨商の家に生まれる。高等小学校を卒業後の一九二二年に浅沼商会大阪支店技術部に入社して本格的に写真の技術を学んだ。一九二八年に浪華写真倶楽部に入会。一九三一年には大阪にスタジオを開設し、写真家として独立。この間、浪展、国際広告写真展、日本写真美術展などで次々と入選。同年には大阪で行われた独逸国際移動写真展で新興写真に触れ、大いに刺激を受けた』。『一九三二年、写真及び自作の詩を収めた「初夏神経」を浪展に出品、翌年、ジンク板の表紙及びリング閉じにより出版。一九三六年、これまでに培った前衛写真の手法を集大成した解説書「撮影・作画の新技法」を発表』。『一九三八年、政府による写真情報誌「写真週報」の写真を担当。日中戦争に従軍写真家として赴いた際に撮影された写真をまとめた連作「半世界」(一九四〇ねん)でも前衛手法を用いて斬新な表現を試みているが、その後戦時下では小石の前衛手法は制限を余儀なくされた。だがその最中にあっても、一九三九年に南支において現地住民の写真を多数撮影し、『南支人の相貌』と題して雑誌「カメラ」に発表している』。『戦後は福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に移り、門司駅付近にカメラ屋「小石カメラ」を創業する一方で門司鉄道管理局嘱託として活動を続けたが』、『ほとんど作品を残せなかった。晩年の小石と話をした中藤敦によれば、小石からは「昔程の作画意欲と夢が喪失した」と感じたという。そして一九五七年、門司駅構内での転倒で頭を打ったことが原因で七月七日に同市の病院で死去した。小石は酒好きだったためにメチルアルコールに手を出して視力を悪化させたのが事故死の原因だといわれている。死の直前には内田百閒の取材に同行して写真を残しており、内田は小石との別れについて「千丁の柳」(『ノラや』(中公文庫)に収録)に記している』。『戦前の小石はあらゆる写真的技術を軽々と使いこなし、芸術写真、新興写真、前衛写真、報道写真と、ジャンルを問わず作品を残している。なかでも、一九三三年に刊行された写真集『初夏神経』は、その装幀、各作品、そして各作品に使われた二重露光、フォトグラム、ソラリゼーションなどのテクニックから考えて、日本の戦前の写真集の一つの到達点ともいえる』とある。もし彼なら(彼であろう)、不慮の死の凡そ一年前の仕事であったことになる。

「オキウト」「おきゅうと」として最近はスーパーでも普通に見かける全国区となった海藻加工食品であるが、元は福岡県福岡市を中心に食べられてきたもので、私の好物でもあり、海藻フリークの私としては注せざるを得ない。ウィキの「おきゅうと」から引くと、漢字では「お救人」「浮太」「沖独活」などとも表記されるそうで、『江戸時代の『筑前国産物帳』では「うけうと」という名で紹介されている』。『もともとは福岡市の博多地区で食べられていたようだが、その後福岡市全体に広がり、さらには九州各地に広がりつつある。福岡市内では、毎朝行商人が売り歩いていた』。『作り方は、原料のエゴノリ(「えご草」、「おきゅうと草」、博多では「真草」とも呼ばれる)』(紅色植物門紅藻綱イギス目イギス科エゴノリ属エゴノリ Campylaephora hypnaeoides)『と沖天(イギス、博多ではケボとも呼ばれる)』(紅藻綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi)『やテングサ』(紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae に属する海藻類の総称であるが、最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)『をそれぞれ水洗いして天日干しする』(状態を見ながら、干しは一回から五回ほど繰り返したりする)。この時の歩留まりは七割程度であるが、『この工程を省くと味が悪くなり黒っぽい色のおきゅうとができるため、手間を惜しまない事が重要である(ただし、テングサは香りが薄れるので自家用の場合は洗う回数を減らすことがある』)。『次に天日干しした』エゴノリと同じく天日干ししたイギス(或いはテングサ類)を、凡そ七対三から六対四の割合で混ぜて、よく叩く。『酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し常温で固まらせる』。『博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られている』。『おきゅうとの良し悪しの見分け方として、あめ色をして、ひきがあるものは良く、逆に悪いものは、黒っぽいあめ色をしている。また、みどり色をしたものは、「おきゅうと」として売られているが』、全くエゴノリが『使われていないものもあり』、テングサ類が『主原料の場合は「ところてん」であり』、『「おきゅうと」ではない』(これは絶対で、舌触りも異なる)。『新潟県や長野県では』、エゴノリのみを『原料とした』殆んど「おきゅうと」と『製法が同じ「えご(いご)」「いごねり(えごねり)」が食べられている』。「おきゅうと」との『製法上の相違点は』、エゴノリを『天日干しせず、沖天を使用しないところである』。食べ方は、五ミリから一センチの『短冊状に切り、鰹節のうえに薬味としておろし生姜またはきざみねぎをのせ生醤油で食べるか、または芥子醤油やポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的である。もっぱら朝食の際に食べる』。この奇妙な『語源については諸説あり』、『沖で取れるウドという意味』・『キューと絞る手順があるから』・『享保の飢饉の際に作られ、「救人(きゅうと)」と呼ばれるようになった』・『漁師に製法を教わったため、「沖人」となった』、『などが挙げられる』とある。

「大濠公園」「おおほりこうえん」と読む。

「安住正夫先生」昭和三六(一九六一)年にここにも出る、『西日本新聞』に連載した「南風北風」の第三十三回目の二月五日附分「伊崎浜」にもその名が出る、梅崎春生にとって忘れられぬ修猷館の名物先生のようである(リンク先は私の電子テクスト)。まだ現役で勤務されておられたものかと思われる(としても定年間近であられたか)。

「東公園には、亀山上皇と日蓮上人の銅像が立っている」何故、この二人の銅像なのか?しかも金のかかっていそうな巨大なものが? と、疑問に思って検索してみたところ、駄田泉氏のブログ記事「なぜ亀山上皇像なのか」で氷解。まず建立は日露戦争が始まった明治三七(一九〇四)年で、戦意高揚のために元寇に際して重要な役割を担ったとしてこの二人が選ばれたとあるが、駄田泉(「ダダイズム」のパロディっぽい)氏も記されておられる通り、『蒙古襲来を予見した日蓮はともかく、時の為政者として元寇に対処したのは執権・北条時宗である。なぜ、時宗像ではなく亀山上皇像なのだろうか』と疑問は頻り。以下、引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、段落間の行空きを省略させて戴いた)。

   《引用開始》

 八尋七郎氏という方が一九九二年に『県史だより』に書かれた「亀山上皇銅像について」という文章を最近読む機会があり、疑問が解けた。やはり、最初は「馬に乗る時宗」像建立が計画されていたようなのである。それがなぜ上皇像に変わったのか。このあたりの経緯が『福岡県議会史 明治編下巻 附録』に記されており、八尋氏の一文はこれを紹介したものだ。

 県議会史に収録されている原典は福岡日日新聞記者の執筆で、孫引きで申し訳ないが、面白い話なので八尋氏の一文から要約させてもらう。

 元寇記念碑(時宗像)建立の計画が持ち上がったのは安場保和知事(在任期間はウィキペディアによると一八八六~一八九二年)の時代だったという。当時の福岡署長だった湯地丈雄が知事に命じられて資金を集めたが、この金を安場知事が第二回衆院選(一八九二年)での選挙干渉に流用してしまった。選挙干渉とは、明治政府よりの政党を勝利させるため、知事自ら警官隊を動員して立憲自由党や立憲改進党の選挙活動等を妨害したという悪質な事件だ。死者さえ出している。

 この資金流用は、後々福岡県政の負の遺産となったが、安場の十年後に知事を務めた河島醇(在任期間は一九〇二~〇六年)の時代、日蓮宗の僧侶から願ってもない許可願が出された。それが日蓮像建立のための資金集め。河島知事は許可する代わりに、これ幸いと「像二つ分」の資金集めを持ちかける。ただ、日蓮を迫害した鎌倉幕府の執権では具合が悪いだろうということで、時宗から亀山上皇の像に計画を切り替えたのだという。

 建立を巡って巷間伝わっている話とはずいぶん違い、信ぴょう性については分からないが、少なくとも「なぜ亀山上皇なのか」の疑問には十分に答えてくれる内容だとは思う。

   《引用終了》

私も十二分に納得出来た。銅像だけに如何にも金(かな)っけ臭いリアリズムがあるではないか。

「三十五尺」十メートル六十一センチ弱。

「七十尺」約二十一メートル二十一センチ。

「興安丸」敗戦後の引き揚げ船として知られるた昭和を代表する船で、この当時も未だナホトカ・ホルムスクと舞鶴の引き揚げ船としても現役で使われていたようである(ウィキの「興安丸」の「戦後」の項を参照されたい)。

「自動車道、人道とあって、前者の幅は七米五〇、後者は三米八〇ある。下関の近くまで徒歩で往復したが、なかなか大規模の工事である。これが出来上ると、ずいぶん便利になるだろう。三十三年三月完成の予定だそうである」関門トンネル国道二号は戦前の昭和十二(一九三七)年に試掘導坑の掘削を開始し、二年後に完了。同年中に本坑掘削に着工して昭和一九(一九四四)年十二月に貫通はしたものの、第二次世界大戦による相次ぐ戦災によって昭和二〇(一九四五)年の六月或いは七月には工事が中断していた。敗戦後の昭和二七(一九五二)年、「道路整備特別措置法」による有料道路として工事を再開、ここで述べられている予定通り、昭和三三(一九五八)年三月九日に開通している(以上はウィキの「関門トンネル(国道2号)」に拠った)。

「和布刈岬」「和布刈」は「めかり」と読み、福岡県北九州市門司区門司にある岬で、この和布刈公園の西直下に「和布刈神事」で知られる和布刈神社がある。ウィキの「和布刈神社」に、『神社名となっている「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われる』。和銅三(七一〇)年には『神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残って』おり、現在、この神事は『福岡県の無形文化財に指定されている』とある。因みにこの神事、私には中学生の頃に貪るように読んだ松本清張の一作「時間の習俗」以来、耳馴染みの神事である。壇ノ浦に面した海岸に鳥居が建っている。

「早柄の瀬戸」「はやとものせと」と読む。福岡県北九州市門司区と山口県下関市壇ノ浦の間にある水道で、関門海峡の最狭部に当たる(幅は約六百五十メートル)。潮流が最高八ノットに達する航行の難所で、源平の古戦場として知られる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「軽子(かるこ)」魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んで畚(もっこ)のようにつくった軽籠(かるこ)と呼ばれる運搬具を用い、これに荷物を載せ、棒を通して担いで運んだところから、この称が出た(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「河童(かっぱ)堂というのがあり、河童封じの地蔵尊が本尊で、この地蔵尊の中にあまたの河童が封じてある。地蔵尊の背中に釘が打ち込んであり、そのために河童が出られないのである」私の電子テクスト火野葦平の「石と釘」の注を参照されたい。「地蔵尊」とあるが、正しくは「虚空蔵菩薩」。公開当時、パブリック・ドメインとしての使用が許可されてあった、参照させて頂いた『大雪の兄』氏の「若松うそうそ」の「カッパ封じ地蔵」の写真(打たれた釘もしっかり見える)も掲げてあるので、是非、ご覧あれ。

「都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声」菅原道真の以下の七言律詩の頷聯。

 

   不出門

 一從謫落在柴荊

 萬死兢兢跼蹐情

 都府樓纔看瓦色

 觀音寺只聽鐘聲

 中懷好逐孤雲去

 外物相逢滿月迎

 此地雖身無儉繫

 何爲寸步出門行

 

    門を出でず

  一たび謫落(たくらく)せられて 柴荊(さいけい)に在りしより

  萬死(ばんし) 兢兢(きようきよう)たり 跼蹐(きよくせき)の情

  都府樓は 纔(わづ)かに 瓦色(ぐわしよく)を看(み)

  觀音寺は 只(ただ) 鐘聲(しやうせい)を聽く

  中懷(ちうくわい)好し 孤雲を逐ひて去り

  外物(がいぶつ) 相ひ逢ひて 滿月 迎ふ

  此の地 身(み)に檢繫(けんけい)無しと雖も

  何爲(なんす)れぞ 寸步(すんぽ)も門を出で行かん

 

簡単に語釈する。「柴荊」柴や茨作りの粗末な門を持つ陋屋。「萬死」(無実ながら、帝より)万死に当たる罪(を給い、かく左遷させられたこと)。「兢兢」恐れ慎むさま。「跼蹐の情」身の置きどころのないこの境涯に陥った思い。「觀音寺」太宰府の東方にあった、ここに出る現在の福岡県太宰府市観世音寺にある天台宗清水山(せいすいざん)観世音寺のこと。「中懷」 胸中の思い。「檢繋」束縛。

「梅枝餅」ウィキの「梅ヶ枝餅」によれば、『小豆餡を薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った鉄板で焼く焼餅で』、『出来上がると中心に軽く梅の刻印が入るようになっている。その名称は太宰府天満宮の祭神である菅原道真の逸話に由来しており、梅の味や香りがする訳ではない』。『よく饅頭と勘違いされることがあるが、実際は餡』『入りの焼餅である』。『菅原道真が大宰府へ権帥として左遷され悄然としていた時に、安楽寺の門前で老婆が餅を売っていた。その老婆が元気を出して欲しいと道真に餅を供し、その餅が道真の好物になった。後に道真の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが始まりとされている』が、『別の説では、菅原道真が左遷直後軟禁状態で、食事もままならなかったおり、老婆が道真が軟禁されていた部屋の格子ごしに餅を差し入れする際、手では届かないため』、『梅の枝の先に刺して差し入れたというのが由来とされており、絵巻にものこっている』とある。

「長谷健」(はせ けん 明治三七(一九〇四)年~昭和三二(一九五七)年)は小説家・児童文学者。ウィキの「長谷健」より引く。『福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。因みに、東宮永小学校は大関琴奨菊の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊』。大正一四(一九二五)年、『福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をした』後、昭和四(一九二九)年に『上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする』。昭和七(一九三二)年、『浅草区浅草小学校に転勤』。昭和九(一九三四)年には同人誌『教育文学』を、昭和一一(一九三六)年には『白墨』を創刊している。『小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う』。昭和一四(一九三九)年、『浅草での教師体験をもとにした『あさくさの子供』を『虚実』に発表し、第九回芥川賞を受賞』した。昭和一九(一九四四)年、『柳川へ疎開し、国民学校に勤務する。同人誌『九州文学』の同人として』五年間を『郷里で過ごした後、再び上京』、『火野葦平の旧宅に同居し、日本ペンクラブ、日本文芸家協会の要職につく。児童文学の著述とともに、北原白秋を描いた』「からたちの花」「邪宗門」などを発表した。本記事発表の一年後、『東京都新宿区西大久保にて、忘年会の帰りに寄った屋台を出て道路を渡ろうとしたところ、タクシーにはねられる交通事故に遭』って死去した、『葬儀委員長は火野葦平が務め』ている。梅崎春生より十一年上。

「船小屋温泉」「ふなごやおんせん」と読む。福岡県筑後市南部にある温泉。源泉温度が十九しかない冷鉱泉。

「第二人工島」「第一のはすでに完成、三池港の沖合二キロの地点にあり、初島と名付けられている」「大牟田の近代化遺産」で各所の往時の写真が見られる。必見!

「人車」「じんしゃ」。]

烏鷺近況   梅崎春生

 

 どうも碁について書くと、自慢話になる傾向がある。

 それは私だけでなく、自分の余技について語る時、たいていの人はそうなってしまうようだ。まれには卑下の形をとることもあるが、それは自慢の裏返しなので、慇懃(いんぎん)無礼というのと同じ形式である。

 人間は、自分の余技について語る時、何故必ず自慢話になってしまうか。

 余技とは、専門以外の芸の謂(い)いであり、つまり専門以外であるから、自分の力量について、誤算する傾きを生ずるのだろう。人間は誤算する場合、たいてい自分の都合のいいように誤算するものだ。だから正直なところを語っているつもりでも、はたから見れば自慢話ということになる、ということも考えられるだろう。

 それからもう一つ、人間が余技において自慢するのは、本業においては自慢しにくいという事情にもよるらしい。

 私の場合で言えば、どうだ、おれの小説はうまかろうと、人に語ったり物に書いたりするわけには行かないということがある。内心ではそう思っていても、それを外には出せないのである。比較的謙譲な私ですら、内心奥深くではそう思っているのであるから、私以外の大部分の同業者、また同業者以外の連中も、ほんとは本職において威張りたいのである。

 ところが、本職において威張るのは、周囲の事情が許さないから、余儀なくその余技において威張るということになる。メンスのかわりに鼻血を出すようなもので、つまり余技自慢は抑圧から生ずるものであり、代償性のものなのである。

 それからもう一つ、余技が碁や将棋の場合は、どうせこれは遊びであるから、競争心や敵慌心(てきがいしん)がないと面白くない。競争心がないところに、勝負の面白さはない。だから余技を語る時に、実際以上に自分を強しとし、実際以下に相手をけなしつければ、その相手はなにくそと奮起し、次の勝負が面白くなるだろう。余技自慢というのは、そういう効用も持っている。

 

 私が今まで碁を打った相手で、一番打ちにくかったのは、故豊島与志雄氏である。

 打ちにくかったというのは、豊島さんが強かったという意味ではない。その頃の私と実力はおっつかっつか、幾分私の方が強かったかも知れない。

 何故打ちにくかったか。それは豊島さんに全然競争心、または敵愾心というのがなかったからである。

 相手が競争心を持たないのに、こちらばかりが競争心を燃え立たすということは、至難のわざであり、不可能のことである。

 では豊島さんはやる気がないのかと言えば、それはそうでない。大いにやる気はあったのである。いつか一遍泊りがけで遊びに行った時、夜中の十二時になっても一時になっても離してくれないので、弱ってしまったことがある。

 つまり豊島さんの碁は、相手に打ち勝とうという碁ではなく、石を並べることそれ自身が面白いのだ。相手があっても、ひとりで並べても、同じようなもので、人間の碁というよりは、仙人の碁に近い。

 私はと言えば、相手に打ち勝つことを唯一の楽しみとする棋風だから、やはり仙人棋客とは打ちにくかった。

 

 現在文壇囲碁会というのがあり、私もそれに属しているが、年に数回囲碁会が開かれる。一昨日もそれが日本棋院で行われた。

 私も出席して、力戦敢闘して、賞品をもらった。私がもらったのは、高級ウイスキーだ。

 参考までに他に成績の良かった人たちの賞品をあげると、大岡昇平二段格がシロップ、高田市太郎三段がビスケット、三好達治初段が並級ウイスキー、ここらが目ぼしいところで、尾崎一雄二段などは全敗で、手拭一本しか貰えなかった。

 賞品が全然ないのも張合いがないし、また沢山あり過ぎても困る。この程度が適当というところであろう。

 この会も、その前の会においても、大岡二段格は大いに敢闘、好成績をとった。

 昨年某新聞に、私は文人囲碁の面々について書き、大岡二段格については、

「大岡初段は、互先の碁は不得手のようで、われわれと打つと、大岡初段の石はとかく俘虜(ふりょ)となる傾向がある。対局態度は坂田栄男九段にそっくりで、典型的なぼやき型である。ただ違うところは、坂田九段がぼやきながら勝つに反し、大岡初段はぼやきながら負けるのである」

 この私の昨年の評価は、訂正する必要があるように思う。この前の碁会では、大岡初段は久しぶりに出席、相変らずぼやきながらも面々をなぎ倒し(私も不覚にもなぎ倒された)全戦全勝、優等賞を小脇にかかえて揚々と帰って行った。昨年はそれほど強いと思わなかったのに、今年は俄然(がぜん)強くなったのは、あるいは人にかくして猛勉強をしたせいかも知れない。そこで衆目の一致するところ、大岡初段は二段格ということに格上りをした。

 三好達治初段もいい成績を振ったが、前述の某新聞の碁随筆において、私は三好初段のことを、

「風格正しき碁を打つ三好達治初段」

 と書いたが、これも取消した方がよさそうだ。

 自分の書いた文章を取消したり訂正したり、あまりそういうことをしたくないのだが、やはり事実に反したことを書いたことには、責任を持たねばならない。

 では、どこを取消すかというと「風格正しき」という部分であって、この前の碁会で対局して見たら、三好初段の碁は一向に風格正しくはないのである、相手の目に指を突込んでくるような、猛烈なけんか碁であった。

 では、何故昨年「風格正しき」などと書いたかというと、それまで私はあまり三好初段と手合わせしたことがなく、したがってその棋風をよく知らなかった。だからその文章を書くにあたって、私はその棋風を、三好初段の詩業から類推したのである。

「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」

 この詩人が、一目上りの碁になると、俄然人が変ったようになるんだから、判らないものであるという他はない。

 もっとも碁風とか棋風とかは、その人の性格と一致しているかどうか、性格という言葉の解釈にもよるけれども、一致してないことの方が多いようだ。

 たとえば、女は男よりおとなしい(いやいや、そうではないぞと言う人もあるだろうが)とされているが、碁においては、女の碁打ちというのは、猛烈なけんか碁が多いのである。女流専門棋士からアマチュア女流にいたるまで、大体そういうのが多い。だから碁風でもってその人の性格を忖度(そんたく)したり、その人の性格からその棋風を類推したりす

ることは、たいへん危険で誤りが多いという結果になる。その誤りをおかしたという点で、私は前述某新聞の文章の一部を、訂正し取消す。

 

 では最後に、私の棋風はと言えば、これも私の性格とは正反対で、相当に荒っぽいのである。定石通り打って地を囲い合うというのではなく、敵の陣地の中に打ち込んでむりやりに荒すのが好きで、またそういうけんかが得意である。けんかという点では、文壇碁会の面々におくれをとらない。

 どうしてそんなけんかが得意になったかというと、大学生時代に毎日碁会所通いをしたからで、またその碁会所にけんか碁の得意な老人がいて、それからもまれたせいである。碁会所流と言えば、けんかが上手で、手の早見えがする。私の碁も、形において欠けるところがあるが、力闘型で早見えがする方だ。

 いつか某新聞で新聞碁(素人の)を打った時、日本棋院の塩入四段が観戦記で、私のことを次のように書いた。

「素人(しろうと)で梅崎サンだけ打てれば、何処へ出しても恥かしくないし、田舎へでも行けば立派な先生格である。だが若し人に教えるとすれば、適任者でないかも知れない。よい力はしているが、まだ形が整備しない点が多いからである。少し本を読んだり専門家のコーチを受けたりしたならば、強さが増すことと思う。云々」

 私もあまり自慢はしたくないのだけれども、専門家の塩入四段がそう書いているんだから仕方がない。田舎に行けば先生格になれるというのはありがたいことだ。その中に小説の方がだめになれば、田舎に行って、碁の師匠として余生を送ろうかとも思う。もっとも弟子がつくかどうかは不明であるけれども。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年七月号『新潮』初出(書誌は以下の底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。私はスポーツを含み、勝負事に一切興味関心がない。碁は愚か、将棋の金銀の駒の動かし方も知らない。されば、「烏鷺」以外、ここでは知ったかぶりの囲碁用語及び棋士の注をつけるのは一切止めとする。無論、よく知っている作家連中の注も附さない。

「烏鷺」「うろ」と読み、原義の「カラスとサギ」から転じて「黒と白」、そこから更に碁の異名となった。

「高田市太郎」(明治三一(一八九八)年~昭和六三(一九八八)年)はジャーナリスト。滋賀県生まれ。米国ワシントン大学卒業、東京日日新聞社に入社、米英など諸外国特派員・ニューヨーク支局長・渉外部長・欧米部長・編集局次長・編集局顧問などを歴任した(全く私の知らない人物なので「はてなキーワード」を参照した)。]

強情な楽天家 ――妻を語る――   梅崎春生    

  強情な楽天家

    ――妻を語る――

 

 昭和二十二年春に結婚して、もうほぼ十年になる。結婚当時はひどい貧乏で、その後もいろいろ苦労したし、糟糠(そうこう)の妻といえるだろう。

 苦労した割には、彼女は老けていない。もともとあまりくよくよしない性質で、苦しくてもねを上げない。どちらかというと、楽天的な性格だ。

 といっても、強情な面がないでもない。結婚以来、彼女が私に頭を下げてあやまったことは一度もない。なんか失敗しても、自分の非を間接的には認めるが、頭を下げてあやまることを絶対にしないのである。その点ちょっとNHKに似ている。

 なかなか器用なたちで、絵も描くし、詩や俳句もつくるし、料理もうまいし。

 その他いろいろと声を大にして語りたいこともあるが、あとは被写体に譲るとします。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年三月『週刊朝日』初出(書誌は以下の底本解題に拠る)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。]

日記のこと   梅崎春生

 

 昭和十九年五月召集令状が来たとき、日時が切迫していたので、持ち物を整理する余裕もなく、そのほとんどをHという友人に預けて出発した。終戦後復員、その年の十月に上京してみると、Hの行方が判らない。さんざん苦労して、やっと川崎市のはずれの稲田堤の農家の二階にいるのを探しあてた。で、私もその二階に居候になってころがりこみ、三カ月ばかりそこで暮した。この頃の生活のことは「飢えの季節」という小説にも書いたが、毎日毎日が空腹の連続で、ことに階下の百姓一家は鬼の牙のような白飯をたらふく食べているのだから、とてもやり切れた生活ではなかった。

 しかしここでは空腹のことを書くのが目的でなく、荷物のことなのだが、Hもいろんな事情で住居を転々とした関係上、私の荷物もHの友人たちに分散されていて、布団だの衣類だのの生活必需品は一応戻ったが、書籍その他は大体焼けてしまったらしい。この方はほとんどと言っていいほど戻って来なかった。

 その戻ってこない物品の中で、私は今でも痛惜にたえない品物が一つある。それは昭和七年以来書きためた日記帳のことだ。

 私はもともと几帳面(きちょうめん)な性分でなく、毎日毎日はきちんと日記をつけるたちではない。気まぐれなつけ方で何も書かないのが半年もつづくと思えば今度はやけに詳しく、一日分を十数頁にわたって書いたりする。昭和七年高等学校入学当初から昭和十九年までだから大型ノートとか自由日記とりまぜて十数冊はあったと思う。Hはその日記類だけとりまとめて、Aという女友達に保管を託した。A女は終戦時まで確実にその日記類を保管していた。戦災は蒙(こうむ)らなかったわけだ。

 そこで私は上京後直ぐA女に連絡して、それを返還してもらえばよかったのだが、なにしろ時勢が時勢で、昔の日記どころのさわぎでない。生きるため食うためにじたばたせねばならぬ時代だから、ついそのまま放っておいた。それが悪かった。

 そして私がA女(未だ会ったことがない)に連絡の手紙を出したのは、翌年の春のことだ。そのA女の返事は私をすっかりがっかりさせ、またむしゃくしゃさせた。A女は私の日記をとりまとめて、二カ月ほど前屑屋に売ってしまったというのだ。

 焼けたら焼けたであきらめがつくが、屑屋とはあきらめ切れない。あんなものは、書いた当人にとっては絶大の価値があるが、他人にはいささかのねうちもないだろう。屑屋だってそれを紙屑並みの目方で買って行ったにちがいない。

 それにその後文筆を業とするようになって、昔のことを書くような場合も出てくる。そんな場合、私はあまり記憶力がいい方ではないから、あの日記帳が残っていたら、と思うことがしばしばだ。あの日記帳や大型ノートには単に日常の記録のみならず、小説の習作みたいなのも書いてあった筈だし、まことに痛恨極まりない。

 そういう関係上私はがっかりして戦後はしばらく日記をつける気にもならなかったが、近頃またすこしずつ書く習慣をつけてきた。近頃のは自由日記ではなく、毎日毎日が一頁におさまる当用日記というやつで、これは主情的な記述は全然入れず、人の来往、食事のおかずのことまで、簡単に書き入れる。

 誰にも経験があることと思うが、日記というやつはそういうやり方の方が長つづきするものだ。

 そしてそんな簡単な記述でも、文字として残しておく限り、何年経ってもその日のことを想い出すめどとなる。人間の記録などというものは、堆積(たいせき)する雑多の日常におしつぶされて空々漠々としているが、それでも何かめどなりヒントなりがあれば、割にあざやかに過去を再現出来るものだ。やはり生きてきた過去を記憶の彼方に押し流してしまうのは、私にとってはやり切れない気がする。

 といって、私はここで別に日記の効用を説く心算は全然ない。私の場合をただ書いてみただけである。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。昭和二九(一九五四)年二月の執筆クレジットを持ち(推定)、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。ここに記された内容では、昭和七(一九三二)年から昭和一九(一九四四)年までの梅崎春生の日記は完全に消失したかのように読めるが、底本の解題によれば、昭和七・八・九・十年度分の日記が一冊の厚表紙ノートに記載されたものが残っており、また昭和十一・十四・十六・十八年(昭和十二・十三・十五が欠損か)がそれぞれ「当用日記」記載で残っており、昭和十九・二十・二十一・二十二年度分は一冊の大学ノートに合わせて記入したものが残っているとある(但し、同底本全集本文にはそれらから抄録されたそれが載っているだけである)から、どうもおかしい。ここで語ったものとは別に記した日記が、どこかに保存されて残っていたと考えるしかない。

「H」底本全集の別巻の年譜によれば、『川崎の稲田登戸の友人、波多江』とある。

「飢えの季節」昭和二三(一九四八)年一月号『文壇』初出。]

小品 メシ粒   梅崎春生


   
小品 メシ粒

 

 歯を抜いたあと、歯ぐきに大きな穴ができた。右下側の、第一白歯である。

 重助は、毎日、歯医者に通った。肉の盛上りがわるくて、なかなか穴がふさがらないのである。それも歯医者のせいのような気がして、重助は面白くなかった。

「へえ。今日は仁丹が入っていますな」

 ちょび髭(ひげ)を生やして、眼鏡をかけた歯医者は、ピンセットでつまみ出して、にやにやと笑った。

「呑んだつもりでも、ちゃんとここに入っているですな」

 次の日は、こんにゃくのかけらをつまみ出したし、その次は、鯨肉の破片をつまみ出した。牛肉じゃないということは、そのにおいか何かで、判るらしかった。

「おや、今日は御飯粒だよ」

 と医者は、ピンセットではさみ上げた。

「形が細長いから、こりや外米ですな。なるほど、なるほど」

 家へ戻っても、重助ははなほだ面白くなかった。俺が貧乏だから、きっとばかにしてやがるんだ。なんだい、あのちょび髭め!

 彼は翌朝、女房に言いつけた。

「うちになければ、隣の大坪さんから、借りてこい。糊にしますから、四五粒でいいってな」

 女房が、内地米のめし粒を借りに行ったあと、重助は鏡の前に大口をあいて、歯ぐきの穴を眺めていた。借りためし粒を、どうやってこの穴に押し込もうかと考えたり、それをつまみ出す医者の手付きを想像したり、またそのことに、急に腹立たしくなったりしながら。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。以下の底本解題によれば、昭和二九(一九五四)年の作とする。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。言っておくが、これは底本の『エッセイ Ⅳ』のパートに所収されており、小説扱いでは、ない。]

昔の町   梅崎春生

 

 昨年秋、九州旅行の途次、博多駅に下車した。ふと思い立った気ままな旅で、福岡では少年時代のあとを、熊本では高等学校、鹿児島では軍隊の陣地のあとなど、そんなものを見て歩こうという予定であった。義務も責任もない、気楽なひとり旅である。

 博多駅前でタクシーをひろい、黒門橋からずっと伊崎の方に入ったお寺の前で止めてもらった。掘割の橋をわたり、荒戸町に入る。小学校中学校時代を過した家が、荒戸町四番丁にある。旧師範学校の運動場から、東へ二軒目の家だ。その家が今もって健在であるかどうか、焼失していないか、それは判らなかった。歩がそこに近づくにつれて、なんだか身内がじんじんと湧き立ってくるような気がした。

 師範学校の運動場の土手に登り、あたりをずっと見渡した時、いきなり三十年前の風景を眼前にして、突然涙が出そうになった。ポプラや栴檀(せんだん)の木のたたずまいも、昔のままだし、そのひとつひとつの枝ぶりにも、はっきりと手ごたえのある記憶があった。子供たちがたくさん遊んでいたが、それらも三十年前と全く同じである。五分間ばかり私はそこに佇(た)ち、あかずその景色に眺め入っていた。その五分間の感じは、どうも文章では書けそうもない。

 私の家は、焼け残っていた。私の家と言っても、もう今は他人の家で、見知らぬ表札がかかっている。内部を見せて貰いたいと思って玄関にまで入ったが、案内を乞う元気がどうしても出ず、そのまま外に出た。表から見ると、思っていたよりも案外小さな家である。よほど大きな家に住んでいた記憶が、完全に裏切られた。庭の柿や蜜柑(みかん)の木などの丈も、記憶の中のそれとくらべると三分の一ぐらいしかない。子供は子供なりに自分の身長で大きさをはかっていたのだろう。

 そこから西公園の通りに出、港町、簀子町、大工町ととうとう天神町まで徒歩で歩いた。夜は西日本新聞の木村節夫先輩から、おいしいフグと酒を御馳走になり、大へん酩酊(めいてい)した。昔の町を歩き廻った関係上、酒席の間でも私はいくらか感傷的になっていたと思う。

 この次福岡に行く時は、修猷館(しゅうゆうかん)を見ようと思っている。どうも私は人見知りをするたちだし、卒業後二十年余り経つので、修猷館には手懸りがない。それでつい昨秋は行きそびれた。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月刊『修猷』八十六号初出(同誌は修猷館高校発行の学校誌と思われる)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。このエンディングの記事で『修猷』に載せるというのは如何にもシャイな梅崎春生らしい。春生の感傷に水を差したくないので、注は控える。幸い、殆んどの地名については過去の私の注で考証しているのでそちらを参照されたい。]

博多美人   梅崎春生

 

 博多美人と言えば、下町風の美しさであり、理智的というよりは、はなはだしく情緒的である。博多小女郎の昔から、その実は連綿とうけつがれているのだろう。

 大体博多の文化は、上方系統であって、それに長崎方面から来た異国文化がこれに加わる。両方の微妙な混交が博多文化の特徴である。その市民の嗜好や好尚が、かくて万国無比(大袈裟(おおげさ)な!)の博多美人をつくり出し、幾多の男たちの魂を震蕩(しんとう)せしめた。

 しかしまあこんな美というものは、時代と共に当然亡ぶべき美なのだから、それ故にこそ切々たる哀艶を加えているとも言えるだろう。

 

[やぶちゃん注:初出誌未詳。昭和二七(一九五二)年七月の執筆クレジットを持ち(推定)、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「博多小女郎」「はかたこじょろう」は近松門左衛門作の浄瑠璃「博多小女郎波枕(なみまくら)」の登場人物。博多柳町奥田屋の遊女で、京都の商人小町屋惣七に身請けされて夫婦になる。惣七は毛剃九右衛門(けぞりくえもん)を首領とする密貿易を海賊の一味に加わることとなるが、公儀に露見、惣七の父惣左衛門の機転で二人は都から手に手をとって逃れようする。しかし惣七は道行きの途中で追手に捕らえられ、即座に覚悟の自害をしてしまうが、そこに検非違使が到着、天皇即位の恩赦として死罪一等減刑と伝えられるも、時すでに遅し、後に残された小女郎は狂ったように独り嘆き悲しむ(以上は講談社「日本人名大辞典」の記載と「南条好輝の近松二十四番勝負」の其の二十「博多小女郎波枕」に拠った。後者は梗概がより詳しいので参照されたい)。

「震蕩」は「震盪・振盪」に同じい。激しく揺り動かすこと。]

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   飛行(ひぎやう) 人に在り 鳥羽の海 / 宗祇諸國物語~了

    飛行(ひぎやう)在ㇾ人(ひとにあり)鳥羽海(とばのうみ)

 

猿はよく樹にのぼり、水獺(かはうそ)は水にかしこく、鳥の雲に遊び、蟲の池底に集(すだ)く、皆、天性(てんしやう)の得たる所、それすら、人の教ふれば、輪をぬけ、舞をまひ、さまざまの藝を、なす。人は猶、能事の一藝有るべし。一とせ東國行脚の頃、志州(ししう)鳥羽の長汀(ちやうてい)、巡見しける、ある磯部に遊戯(ゆげ)の體(てい)とみえて、侍二十餘人、松陰(まつかげ)の席(せき)を設け、餉(かれいひ)よそひ、魚鳥を鹽梅(あんばい)し、十六、七なる扈從(こじう)の若者にわたす、此の者、とりて波上を靜々(しづしづ)と半町計りゆく。怪しや、化生(けしやう)の所爲(しよゐ)なるべしと、物かげより見居れば、又、沖の方より、四十計りの男、狩衣(かりぎぬ)に太刀帶びたる、此の中にては主人と見えしが、波を步みて則ち水に座して、食器をひかへ、酒飯(しゆはん)を味(あじは)ふ事、常の人の、席(むしろ)に座せる如し。若者、又、配膳給仕する事、波の上の往來(ゆきき)、先のごとくして、後(のち)、主從ともに岸に上る、侍共、皆首(かうべ)をたれ、渇仰(かつがう)す。主人の云く。今日は海上(かいじやう)風なくて波たゝず、無興(ぶきよう)也、歸らんにはしかじ、と、各、率(ひき)ゐて磯づたひに行きぬ。是迄も猶、人のやうには、おもはざりし。爰に此のあたりの蜑(あま)の子とみえて、寄藻(よりも)かく童部(わらはべ)ども、ふたり、みたり、來ぬ。子供よ、今、かゝるふしぎを見しは、と、いへば、夫(そ)れは當所に隱れなき大淀雲藏(おほよどうんざう)殿とて武勇の人、若者は玉繩(たまなは)兎(う)の助、主人におとらず、共に水練の上手と語りしにぞ、扨は人にて有りける、と、しりぬ。月日經て下の野州(やしう)にくだり、千葉常緣(ちばのつねより)に逢ひて、萬の物語りの次で、此の事をいひ出で、人にはかゝる拔群の一藝、あらまほし、と、いへば、常緣、きゝて、祇公もすぐれたる隱し藝はなきか、と、たはふる、予が藝こそ多く侍れ、食を飽迄(あくまで)たうべ、茶をしぶく好み、身、温かに着て、行きたき方に行く、かしかましく口をきく事、此の外、此類ひの藝、數ふるに不ㇾ足(たらず)、と、いへば、笑ひになりて止みぬ。

 

■やぶちゃん注

 末尾に「宗祇諸國物語卷之五大尾」とある。本篇を以って「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注」を終わる。

・「能事の一藝」生涯に於いて必ず成し遂げるべき、修練によって身につけたところの、特別の一つの技能・技術・技芸。

・「長汀(ちやうてい)」長い水際(みぎわ)・海浜。

・「遊戯(ゆげ)」ここは物見遊山の謂い。

・「扈從(こじう)」貴人につき従う家来。

・「半町」凡そ五十四メートル強。

・「渇仰(かつがう)す」心から敬愛して仰ぎ慕って丁重に挨拶しているさまを指す。

・「寄藻(よりも)かく」浜辺に寄せる食用に供する藻を搔き獲っている。

・「大淀雲藏(おほよどうんざう)」不詳。

・「玉繩(たまなは)兎(う)の助」不詳。

・「千葉常緣(ちばのつねより)」宗祇に古今伝授をした東常縁(とうのつねより 応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年?)のこと。ウィキの「東常縁」により引く。『室町時代中期から戦国時代初期の武将、歌人。美濃篠脇城主。官職が下野守だったため一般には東野州(とうやしゅう)と称される』。『東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、藤原定家の血を受け継いでいる』(下線やぶちゃん)。『室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが』、宝徳二(一四五〇)年、『正式に二条派の尭孝の門弟となる』。康正元(一四五五)年、『関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため』、第八代『将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った』。『更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという』。文明三(一四七一)年、『宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている』(下線やぶちゃん)。『常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある』。宗祇より二十年上。

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   千變萬化

    千變萬化

 

越後に居し時、ある夜、雨のつれづれ、野本外記、音づれ、なにはの物がたりし侍り。外記の云く。凡そ此の世に生をうる物、胎、卵、濕、化(け)の四つに限る。此の内に化生(けしやう)は神變にひとしく、形ち、自在を顯す物としれたれば、不思議、却(かへつ)てふしぎならず。胎、卵、濕の三つは、各(おのおの)、定まりあり。其の中にして、希に異形あるこそ、誠にふしぎに侍れ。祇は日本國中、ひろく巡り給へば、をかしき物も珍しき物も見給はん、と、此の國にも、ある百姓の娘に目の一つある者あり、と、いふ。祇、さも有なん、東國にて手の三つ有る男を見し、二つは常のごとく、今ひとつは背に有りて、指のならびは右の手におなじ。又、飛驒(ひだ)の國にて、女の髮の二丈にあまるあり。俗に、髮の長きは毒蛇の相なり、と、いふほどに、己れも、うるさくおもひて、能きほどに切りて捨(すつ)れど、一夜の内に、もとのごとくなるとぞ、上野佐野(かんづけさの)の西には、女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ。あはぢの國には、面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり。食類(しよくるゐ)、よのつね、五人ほど、おほく食ふ、と、いふ。讃岐(さぬき)には手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり。是らは皆、賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り。此の外、よき人の家にもさまざまの不具の人、有り、と聞けど、みぬきはゝかたるにたらず。人間ならぬ者にも、天性(てんしやう)の外(ほか)、生れつくもの、多し。是も讃州(さんしう)に、一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)あり。豐前にては三足の犬を見たり。若狹(わかさ)にては鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなきを釣りたり。阿波(あは)に馬に角(つの)生(お)たるを三疋迄、見たり。其のわたりには珍しともいはず。播磨(はりま)にて猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり。是は生(むま)るゝ時、おや猫、穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし。さもあらんか、又、人畜の外、非情の類ひにも多し。つの國、川尻(かはじり)の北に、椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり。實を取りて外に植うれども、生(お)ひつかず、と、いひし、陸奧(むつ)の仙臺に、赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし。伊豆の北條(ほうでう)にて、七葉(えふ)の松をみたり。五葉三葉は世におほし。是さへ、ことやうなりかし。同所に栢(かや)の菓(このみ)を松に結びし事あり。此の外、少し計りのけぢめどもかぞふるにいとま非ず。

 

■やぶちゃん注

・「野本外記」「怪異(けい)を話(かた)る」で既出の「情報屋」。

・「胎、卵、濕、化(け)の四つ」通常の仏教上の生物学では、これを「四生(ししょう)」と称する。「胎生」と「卵生」は現行の認識とほぼ同じと考えてよいが、「湿生」は湿気から生ずることで、例えば蚊や蛙がこれに相当すると考えられ、「化生(けしょう)」とは、それ自体が持つところの、一般的には人知の及ばない、超自然的な力によって忽然と生ずることを指す。天人や物の怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどをも広汎に指す。

・「目の一つある者あり」実際の奇形とすれば、先天奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)である。また、民俗社会の「一つ目」の象徴性についてなら、私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で『柳田國男「一目小僧その他」』の電子化注を行っているので、そちらも参照されたい。

・「手の三つ有る男」多手(肢)症。実際に奇形(結合胎児ではなく)として存在するが、正常位置にない三本目の腕は意志によって動かすことが困難な場合が多い。

・「二丈」六メートル強。但し、この話は「一夜の内に、もとのごとくなる」で眉唾。

・「上野佐野(かんづけさの)」現在の群馬県高崎市内の旧佐野村地区。

・「女のくびに、釣瓶(つるべ)の繩を卷きたるほどにふとき筋あり。是も俗に、ろくろくびとかや、いふ」これは轆轤首伝承ではしばしば聴くもので、単に頸部の皺が色素沈着を起こして赤黒くなっているのを、首が外れる(切れて飛翔するタイプの中国系の飛頭盤型)或いは延びる箇所と気味悪がったに過ぎぬ。

・「面に大きなる口ひとつあつて目も鼻も耳もなき者あり」先に示した先天性奇形の単眼症(cyclopia:サイクロピア)の変形型では絶対にあり得ないことではないが、通常の食物を食し、しかもその量が成人の五人分も食すというのであるから、全くの眉唾である。

・「手足の指、各、三つゞ生れつきたるあり」四肢欠損児はサリドマイド児や合指(複数指が癒着したもの)など、それほど稀な奇形ではない。逆の多指症もやはり同様である。

・「賤しきものゝ類ひ人ちかく見侍り」「たぐひびと」で結合した語句か。続く部分からも、賤民に特に業(ごう)によって奇形が起こるとする誤った仏教的差別認識が強く臭う。

・「みぬきはゝかたるにたらず」見ぬ際(実見し得ぬ高貴な家柄の内輪の事柄)は語るに足らぬ、空言である。

・「人間ならぬ者」人間以外の外の動物。

・「天性(てんしやう)の外(ほか)」本来の正常な状態以外の形状。

・「一頭(づ)にして四足(そく)四翼(よく)の鷄(にはとり)」二羽の結合奇形であろうが、これは摂餌もままならず、生育し得ないと思われる。或いは、成鳥になる過程かなった後に、何らかの羽根状及び脚状の腫瘤や腫瘍が形成され、それが別な対の羽、後肢に見えただけかとも思われる。

・「三足の犬」これは普通に奇形として出現する。

・「鰤(ぶり)とやらんいふ魚の、跡先(あとさき)に首あつて尾のなき」双頭で尾部を持たないブリ(条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata というのであるが、プラナリア(Planaria:動物界扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida に属するウズムシ類。頭部に三つの切れ込みを入れると三つの頭を再生させる)じゃあるまいし。

・「馬に角(つの)生(お)たる」伝説上に角を持った馬の話があり、角質化した皮膚腫瘤が角状になるというのはあり得ぬことではない。しかしここで宗祇が「三疋迄、見たり」というのは、民俗風習か何かで、馬の頭に何かを被せたものを誤認したと見る方が自然である。「其のわたりには珍しともいはず」というのが却ってそれである可能性が深く疑われることを、よく示していると言える。

・「猫二疋、橫ばら、ひとつにとぢつきて、二疋一度に起臥(おきふし)するあり」猫の先天性結合胎児奇形。

・「穢血(ゑけつ)をくらはず、暫し捨て置たるおこたり也と、いひし」「穢血」は胎児に附着した後産の胞衣(えな)などのことであろう。母猫が、それを食べ嘗めて、双生児の小猫を綺麗にしてやらず、そのままに放置していたから、そのままに弾きが横腹の部分で癒着してしまったのだ、とまことしやかに説明しているのである。

・「非情の類ひ」仏教では人間と動物を「有情(うじょう)」とし「山川草木」は非情とする。

・「つの國、川尻(かはじり)の北」摂津国で「川尻」に相当する現在の地名は、大阪府豊能郡豊能町川尻と、同地の十六キロメートル西方の兵庫県宝塚市下佐曽利川尻があるが、前者か。識者の御教授を乞う。

・「椿の花の、赤白黃紫(しやくびやくくわうし)の四色に咲分けたるあり」挿し木にすれば普通に生ずる。稀なケースではない。

・「赤白に染分けたる桃の花、在りし、珍らしく見しが、漸(やうや)う此の頃は世に多くなり侍れば、後々(のちのち)は目にたつべくもなし」既にこの文章を記している時制に於いて、もう少しも珍しくなっている、と宗祇本人が述べている通り、これも全く以って今は珍しくも何ともない。

・「伊豆の北條(ほうでう)」現在の伊豆の国市韮山一帯。

・「七葉(えふ)の松」伊豆では確認出来なかったが、調べてみると、新潟県新発田市上館加治山に伝わる伝説に「七葉の松」というのがあった(個人サイト「登山日記  静かな山へ」の「要害山~箱岩峠」を参照されたい)。通常の松は二葉。

・「五葉」裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属ゴヨウマツ Pinus parviflora は和名の通り、五葉。

・「三葉」現に私の家の居間に、二十年も前に京都の寺で拾った三葉の松の葉(千切ったのでは断じてない)が飾ってある。

・「栢(かや)」マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera はご覧の通り、マツ目ではあるが、マツにカヤの実は生えない。たまたま直近にカヤの木があって、枝が混成していたか、或いは松の洞(うろ)などの中にたまたまカヤの種子が落ちて根付き、成長して実をつけたものか。

・「けぢめ」本来は、ある物と他の物との相違・区別の謂いであるが、ここでは、次第に移り変わってゆく対象物の、前と後の相違、の意も含んでいる。

あまり勉強するな   梅崎春生

 

 夏休みも終りに近づいて、うちの子供たちも、たまっている夏休みの宿題の整理に大わらわである。おやじも協力を要請されて、手つだったりしているが、どうもいまの子供たちの宿題の量は、私たちが子供の時のそれよりも、ずっと多いようだ。つまりいまの子供は、昔の子供より、ずっと多量の勉強を課せられているようである。そうなった一因は、戦後とみに激烈になった入試競争にたえて行かねばならぬことであろうが、しかしこの競争というやつは、とかく人間を非人間的に育てるものである。

 現今の大学の入試競争というのは、たいへんなものらしい。

 私が東大文科に入学したのは昭和十一年で、定員四百人に志望者が三百人そこそこで、もちろん無試験で、のんびりしていた。そのころ法科の方は、四倍か五倍の競争率で、四人か五人の同輩を蹴落して入学、さらにがりがりと猛勉強、同輩をぬきん出て役人の試験に合格したのが役人となる。

 官僚というものの非人間的なつめたさ。中にひそむいやな立身主義などの一因は、その構成分子の役人たちが、学生時代に凄惨(せいさん)な競争をしてきたからではないのか。勝つためには相手をおとしいれるのも辞さぬという、あまりにも非人間的な競争の場に、若い時からしょっちゅう臨んできたからではないか、と私は思っている。

 青年よ。あまり勉強をするな! 勉強が過ぎると、人間でなくなる。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月二十九日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇を以って底本の「憂楽帳」パートは終わっている。]

合歓の花

僕はもう十数年、僕の偏愛する合歓の花の咲いている景色を生で見ていない――だから夏が淋しいのだ――と昨日、気づいた……

2016/08/20

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   貧福、定まり有り

    貧福有ㇾ定(ひんふくさだまりあり)


Hinphukusadameari

此世の有樣、能きもあしきも前業(ぜんごふ)による事、いふは更なれど、殊に貧福の分ち計り正しきはなし、都京極春日のわたりに、甚六といふ者あり。俄かに家とみ、豐かなれば、世に沙汰する。此の男、工商の家業もなく、士農の勤めもせず、醫(い)にあらず、巫(ぶ)ならず、何によつて德をつき、かく富裕に成りぬらん。疑ふらくは盜賊(たうぞく)の徒(と)か、博奕(ばくえき)の手利(てきゝ)か、と、いふほどに、其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて、一和尚(わじやう)三太夫といふ者に、ひそかに此の不審を問はする。甚六が云く。疑ひはさる事に侍り、我れ、衣服、金銀のゆたかなる事、大事の所作(しよさ)によつて也。他人は申すにおよばず、妻子從者(じうしや)にも深く包みて申さぬ事なれども、各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り。我れ、元來、家、貧しく、身、つたなければ、朝(あした)の煙(けむ)り、たえだえに、夜の肌、衾(ふさま)、薄し、ねらぬまゝに思ひ出づるは、賣買(ばいばい)も、道、うとく、細工も刀(かたな)きかず、さる無骨(ぶこつ)の身は、奉公せんも扶持(ふち)する人なし。強盜は又、さすが、恥しくもおそろし、果報を天に任せ、人の落したらん物を拾はんと思ひ、夜每に小路々々(こうぢこうぢ)をありくほどに、或時は帽子、かづら、紙扇(かみあふぎ)の小分(せうぶん)を、ひろふ折りもあり。宵より朝(あした)迄、一物(もつ)も得ぬ事も、又、多し。ある夜、さる所にて金子三百兩をひらふ。それより、かやうの有德と成り侍る。今に至りて、月夜には、そことなく縱橫(じうわう)に、ありく。されど、身の貧しき時のごとき、更くる迄も、をらず、歸る也、と、かたる、もとより、三太夫は欲心無道の男、うらやましく、扨、珍しき事をもたくみ出で給ふ事よ、と、いひて、甚六は歸しぬ。扨、つくづくと思ふ。此の事、人に披露せば、外(ほか)に此のたぐひの者、出來べし、と暫し包みて、己(おの)れ、又、甚六を眞似て、ひろひに出で、傾城町こそ、金銀もてる若き者共の往來(ゆきゝ)する所なれば、落し置く事もあらめ、と、才覺(さいかく)らしく九條の町に行くに、畑(はた)の細路(ほそみち)を黑面(こくめん)にうつむきて、爰を大事と目をくばる、道の左右(さう)に相向(むか)うて革袋(かはぶくろ)などやうの物ふたつ有り、月さへ入りてくらき夜なれば、定かならねど、嬉しさ限りなく、兩の手にて、一度に、つかむ。見れば、一つは古き馬の沓(くつ)、ひとつは大きなる蟇(ひきがへる)にて在りし、驚きてなげ捨て、猶、こりずまの、淋しきかたこそ心惡(にく)けれ、と、あわてありく、ある人の門に、くろき小袖とみえし在り、あはや、と立ちよつて、引きあぐれば、人くふ犬の黑きが、餘念なくねいり居たる、なじかはこらふべき、散々にくらひつかれ、はうはう逃げて歸るとて、若侍の、遊女町より醉(ゑ)たゞれて歸るに、情(なさけ)なく行きあたる、惡(にく)きものゝしわざ、と刀(かたな)を拔きて追ひつくるに、足は早くて逃(のが)れ去りぬ。あくる夜も猶、殘り多く思ひ、又、出る。今夜は觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ、東畑(ひがしはた)を、さすらふ。爰かしこ、みぬくまもなく、搜せども、ちり計りの物も、ひろはず。打腹立(うちはらだ)ちて歸り足に、白川堤(しらかはづゝみ)の柳かげに、女のかづら有り、是よ、と、いひて、引きあぐれば、黑蛇の、俗に、からすぐちなは、といふ物也けり。取るや否や、腕くびにまとひつきて、ふれども投(なぐ)れども更に解けず。片手を添へて、もぎはなさん、とすれば、同じくまき添へて兩手(りやうしゆ)ひとつにしむる。せんかたなく其さまながら宿に歸り、人の力(ちから)にて漸々(やうやう)とき捨てけり。此の後、おのが貧分(ひんぶん)の因果を知りて、おもひとゞまりにけり。おもふに蛇は陽蟲(やうちう)にて、夏出で、冬蟄居し、晝、ありき、夜、かくるゝ物なるに、夜かげに是が手にかゝる事、貪心(どんしん)のまよひを天のにくみ給ふより、災難にあひける物ならし。

 

■やぶちゃん注

 今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「都京極春日」現在の京都府京都市西京区大原野南春日町附近か。他にも「春日」と名うつ場所はあるが、孰れも「京極」と冠するのが不審であるからである。この「京極」とは通り名ではなく、平安京に於ける東西の果て(の外)の謂いと読む。

・「巫(ぶ)」「神降ろし」をする下級の神職、或いは民間の祈祷師。

・「德をつき」この「つき」は他動詞の「付く」で「身につける」の意。

・「手利(てきゝ)」手業(てわざ)の優れている者。腕利き。

・「其の町、上(かみ)を恐れ、後難をはかつて」その町方の甚六の家の者以外の者どもが、彼が何か不法な行為に手を染めて裕福になったのだと邪推し、それによって町方一同が連帯責任を負わされて罰せられる(知っていたのに訴え出なかったという不作為犯である)かも知れない、とお上を恐れ、そうした後の難儀を想定、それを防ぐために合議して。

・「一和尚(わじやう)」狭義にはかく読んだ場合は、律宗・法相宗・真言宗で授戒の師となることの出来る修行を積んだ高僧を指すのであるが、名を「三太夫」と称し、後に本文で「三太夫は欲心無道の男」と出、何より、挿絵に出るその「三太夫」の姿形(どう見ても遊び人である)から、この「和尚」とは一種の、ある程度、その時代の裏世界にも通じた、いろいろなトラブルの際の交渉人、何でも屋「三太夫」という手合いと見てよかろう。

・「大事の所作(しよさ)」さる重大なある出来事に遭遇したこと。

・「各(おのおの)、後(のち)を憚り給ふ所を聞きて申すに侍り」今、あなたのおっしゃったように町衆が皆、後々に降りかかるかもしれない禍いなどを心配し、あなたに私を質すよう依頼したということを知りまして、申し上げるので御座います。

・「かづら」頭髪の少ないのを補うために添える毛髪。かもじ。添え髪。

・「小分(せうぶん)」とるに足らない金にもならぬ物。

・「傾城町」「けいせいまち」と読み、所謂、遊里遊郭、「いろまち」のこと。

・「才覺(さいかく)らしく」小賢しく智恵を働かせたつもりで。

・「九條の町」現在の京都市営地下鉄烏丸線「九条駅」(烏丸通と九条通が交差する九条烏丸交差点の地下)のある京都市南区東九条南烏丸町附近か。

・「馬の沓(くつ)」蹄(ひづめ)を保護するための藁(わら)や皮革・和紙などで作った馬用の履物。

・「こりずまの」「懲りずま」で一般には副詞として「懲りずまに」で用いられる。「ま」は「~のような状態である」の意を表す接尾語で、全体で「前の失敗に懲りもせずに・性懲りもなく」の意である。

・「淋しきかたこそ心惡(にく)けれと、あわてありく」傾城町に入る、畑中の淋しげな細道だったからこんないぶかしくもつまらぬ拾い物をこそしたのだ、と、慌てて相応な屋敷のある方へと向かって歩いてゆく。

・「なじかはこらふべき」反語。主語主体は「犬」。どうして野良の狂犬が「こらふ」、耐える、ただ静かなままにされていることがあろうか、いや、あろうはずがない。

・「とて」格助詞で「~しようとした際に」。

・「醉(ゑ)たゞれて」すっかりだらしなく酔っ払ってふらふらして。

・「情(なさけ)なく」あきれたことに運悪く。

・「殘り多く思ひ」やはり大枚を拾えるかもしれぬという未練が多く残って。

・「觀世音阿彌(くわんぜおんあみ)が猿樂(さるがく)の棧敷(さじき)の砌(みぎり)に心がけ」猿楽能役者の三世観世大夫音阿弥(「おんなみ」とも 応永五(一三九八)年~文正二(一四六七)年)の猿楽興行(ここは一般庶民向けであるから勧進興行)を見るために高く作った桟敷席の軒下辺りを目当てとして。音阿弥は室町時代の猿楽能役者。観世三郎元重。観阿弥の孫、世阿弥の甥に当たる。ウィキの「音阿弥によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『足利義教の絶大な支援の下、世阿弥父子を圧倒し、七十年近い生涯を第一人者として活躍した。世阿弥の女婿・金春禅竹らとともに一時代を担い、他の芸能を押しのけて猿楽能が芸界の主流となる道を作って、祖父観阿弥、伯父世阿弥が築いた観世流を発展されることに成功した』。『その芸は連歌師心敬に「今の世の最一の上手といへる音阿弥」と評されたのを初め、同時代の諸書に「当道の名人」「希代の上手、当道に無双」などと絶賛され、役者としては世阿弥以上の達人であったと推測されている』。『実父は世阿弥の弟四郎。この四郎については詳しい来歴は知れず、諱も清信とする後代の伝書、元仲とする近世の系図、久次とする説など一致を見ない。世阿弥・音阿弥という天才の間に埋もれた「殆ど見るべきものの無い存在」と見る向きもあったが、世阿弥から著書『風姿花伝』を相伝されたことが分かっており、最近では観世座の脇之仕手として兄を支えて大夫にも匹敵する活躍をしていた人物と考えられている。子の大成後はそのワキも務めたようだ』。『音阿弥の少年時代については不明だが、「三郎」の通称は祖父の観阿弥、伯父の世阿弥も使用したものであり、これを継承していることから、幼くして伯父・世阿弥の養嗣子になっていたと考えられている。間もなく世阿弥には実子の元雅が生まれるが、音阿弥の元服に際してこの「三郎」の名を与えたことからも分かるように、世阿弥は観世座の後継者として音阿弥を考えていた時期があると思われる』。『その期待に応えて成長した音阿弥は、二十代前半の応永二十年代からその活動記録があり、若くして観世座の次世代の担い手として活躍を始めていたことが分かる』。『しかしながら、応永二九年(一四二二年)、観世大夫の地位を受け継いだのはいとこの元雅であった。しかしこの頃世阿弥父子はその創作活動の充実と反比例するように、田楽の増阿弥などに圧され、将軍家の寵を失いつつあった。一方で音阿弥は青蓮院門跡義円の寵愛を受け、応永三四年(一四二七年)には義円の後援の元で勧進猿楽を行い、成功を収めた』。『正長二年(一四二九年)、この義円が還俗して将軍・足利義教となったことで、観世座の運命は大きく変わることとなる。義教は音阿弥を熱烈に支援する一方で世阿弥父子を冷遇し、永享元年(一四二九年)には、世阿弥と元雅の仙洞御所での演能が中止となり、翌年には世阿弥の有していた醍醐寺清滝宮の楽頭職が剥奪され、音阿弥に与えられている。またこの年の興福寺薪猿楽では、前年の元雅に代わり、音阿弥が大夫として参勤している。なおこの際、興福寺は彼の都合に合わせてか日程の変更・延長まで行っており、その権勢のほどがわかる。こうして「観世大夫両座」と言われるように、音阿弥の活動も独立性を強め、ついには観世座の主導権を握るに至った』。『そんな中で永享四年(一四三二年)元雅は伊勢で没し(暗殺説も)、同六年には世阿弥自身が佐渡に流罪となる。かくして観世座から世阿弥父子の勢力は一掃され、これを受けて永享五年、音阿弥は正式に観世大夫の地位に就き、名実ともに能楽界の第一人者となる』。『永享五年四月、音阿弥の大夫就任披露の勧進猿楽が、京の糺河原で挙行された。これを祝って人々が義教の元に参上していることから、この催しが義教の手で行われたものであり、音阿弥が将軍家の御用役者として認められていたことが分かる。諸侯は義教の意を迎えるためもあって音阿弥を厚遇し、将軍をもてなす席には音阿弥の能が欠かせぬほどであった』。『我が世の春を謳歌する音阿弥であったが、一方で同九年、突如義教の勘気を蒙っている。この事件は貞成親王の耳にまで届き、「不定之世毎事如此」と驚嘆させしめたが、赤松満祐のとりなしで十日ほどで許されている』。『嘉吉元年(一四四一年)、その赤松満祐が、自邸で義教を暗殺するという挙に出る(嘉吉の乱)。それはまさに、饗応のため呼ばれた音阿弥が能「鵜羽」を舞うさなかでの出来事であった』。『最大の後援者を失った音阿弥は一時困窮し、私的な勧進能を行うなどしてその打破に努めたようだ。文安元年(一四四四年)の勧進能では観客席の値段を下げるなどの努力をしている。一方で金春座とともに幕府に訴えて、他座が京で猿楽を舞うのを妨害したりもしている』(下線やぶちゃん)。『しかし義教の子・足利義政が長じて後の享徳元年(一四五二年)頃からは、その厚遇を受けることになる。応仁の乱の中でも能を見ていたほどの愛好家である義政は音阿弥を高く評価し、再び表舞台に引き上げた』。『六十歳を迎える長禄二年(一四五八年)頃には子の又三郎正盛に大夫の座を譲って出家し、以後法名の「音阿弥」を名乗るこの名は観阿弥・世阿弥の後継者としての自負を示すものであろう(一字目を並べると「観世音」となる)世阿弥同様に出家の後も第一線で活動を続け、寛正五年(一四六四年)には正盛が義政の後援で行った糺河原での勧進猿楽でも、「邯鄲」「恋重荷」「二人静」「養老」など二十九番のうち十二番でシテを務めている。この催しには義政・日野富子夫妻は無論のこと、関白二条持通、また有力守護大名たちが臨席し、観世座の権威を見せ付けた。同年には後花園院の御前で能を舞い、「老いて益々健在である」と義政を感嘆させた』。『とはいえ政情の不安もあり、暮らし向きはそれほど楽でなかったようで、文正元年(一四六六年)には相国寺の蔭涼軒を訪ね、押し売り同然に小歌・小舞を披露したことが記録に残っている』(下線やぶちゃん)。『翌二年に死去。一休宗純に帰依してその引導を受けたと『四座役者目録』などに語られるが、疑わしい』とある。宗祇(応永二八(一四二一)年~文亀二(一五〇二)年)より二十三も年上で、宗祇が四十六の時に死んでいる。本篇はそもそも宗祇が出て来ないから、歴史的事実との齟齬などの問題の生じようはない。あるとすれば、ここで勧進興行をしている音阿弥は上記のどの時期のことかという点一つであろう。下線を引いた中期の足利義教暗殺直後の辺りの不遇な時期と考えると面白いが、話者の宗祇が如何にも若過ぎる(満二十歳)。寧ろ、この本文ではっきりと「音阿彌」と呼称していることを考えれば(引用の後の下線部分)、彼が隠居後、実際に「音阿彌」を名乗った長禄二年(一四五八年)頃から、経済的には苦しかったとする死去までの九年間辺りを措定すると、自然な感じにはなる気がする。

・「みぬくまもなく」「見ぬ隈もなく」。見なかった物蔭は一ヶ所としてないほどに。

・「歸り足」帰りがけ。

・「白川堤(しらかはづゝみ)」鴨川右岸の祇園白川の堤。

・「黑蛇」「からすぐちなは」俗称と黒い個体という条件から考えると、気性の荒い無毒蛇シマヘビ(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata)の黒化型(メラニスティック)個体と断定してよい。ウィキの「シマヘビによれば、『黒化型(メラニスティック)もいて、「カラスヘビ」(烏蛇)と呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあり、『主に耕地や河川敷に住み、草原や森林にも住む。危険を感じると尾を激しく振るわせ、地面を叩いて威嚇す』行動をとり、『あまり木に登らず、地表を素早く動く』。『本種はアオダイショウ、ヤマカガシとともに、日本国内の農村でよく見られるヘビである。シマヘビの食性はヤマカガシよりも幅広いが、やはり主にカエル類を主食とするため、稲作の発達と共にカエルの分布が拡大し、それに伴い本種の生息範囲も広がった。木に登ることがほとんどなく、地表を這い回るため、交通事故に遭いやすく、生息域が道路や塀などで分断されてしまうとそれを越えることができなくなり、現在では都市の周辺では見かけなくなってきている』。『性質には個体差はあるものの、アオダイショウやヤマカガシに比べると神経質で攻撃的な個体が多いとされる。また、無毒ではあるが、歯は鋭く、咬まれると痛い。他のヘビに比べ動きも素早く、油断すると危険。口内から破傷風菌が検出されたとの報告もあるので、咬まれたら』、『患部を水でよく洗い、消毒すること』が肝要である、とある。なお、本属の和名「ナメラ」は学名の音写ではなく(属名Elapheは音写すると「エラフェ」)、純粋な和称で、この属の鱗の特徴である「滑(なめ)」らかな甲「羅(ら)」の意味(「甲羅」の「羅」は鱗の意の外、「表面」の意もある)である。眉唾と思われる方は、どうぞ、ウィキの「ナメラ属の解説をご覧あれかし。

・「貪心(どんしん)」「西村本小説全集 上巻」では右に「とんしん」、左(二字全体に)に「むさぼる」とルビする。

譚海 卷之一 水戸家軍器等の事

水戸家軍器等の事

○水戸家用(もちひ)らるゝ諸帳面は皆西(にし)の内紙(うちがみ)也。國産なる故也。扨(さて)勘定濟(すみ)たる帳面反古をば諸役所より經師(きやうじ)の役所へ納(をさむ)る。其役所にて經師數人右の反古を以て毎日諸器物を張立(はりたて)、柹澁(かきしぶ)にてこしらふる也。反古にて張立たる船三人乘らるゝやうに製したるあり。常は疊み仕舞(しまひ)て進退し安き樣にしたるもの也。その外軍器甲冑等に至るまで、紙細工にて仕立(したて)るものあり。享保中日光御社參の御供の大名小屋ふしん懸合(かけあひ)に造るも、日をわたり混雜せし事なるに、水戸家の小屋ばかりは着日已前まで取懸(とりかか)る沙汰なし。其時に臨(のぞみ)て竹木を伐(き)り柱となし、屋根は右紙細工の澁引(しぶびき)にしたる折手本(をりてほん)のやうに長く續(つづき)たる紙を重ねて屋根となし、暫時に小屋出來(しゆつたい)せり。霖雨(りんう)に遇ふても五六日は防(ふせが)るゝ事とぞ。退散の時も居小屋(ゐごや)取崩(とりくず)さず、そのまゝにて立退(たちのき)たる奇特(きどく)の事也と申せし。又同家中鳥銃(つつ)稽古にあるき、鵜鳥(う)の類うち得たるを皆々其役所へ納る、即それを役所にて弓師數人ありてそのはねを矢にこしらゆる事、日々に數千本に至る。矢の出來不出來に構はず、只矢かずの多く出來るため製し貯置(ためおく)事とぞ。

[やぶちゃん注:「西の内紙」もと水戸藩内であった、現在の茨城県常陸大宮市西野内で産した、質はやや粗いものの、非常に丈夫な生漉き(きずき/きすき:楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(がんぴ)だけを原料にして紙をすくこと)の和紙。明治以降には選挙の投票用紙や印鑑証明用紙に指定されて全国的に知られるようになった。

「反古」現行は「ほご」と読むが、古くは「ほうぐ」「ほうご」「ほぐ」「ほんぐ」「ほんご」などと多様に読んだので、確定出来ない。不要な紙。

「經師(きやうじ)」書画・屛風・襖などの表装を担当する表具師。ここは「役所」とあるから、水戸藩内の公の表具担当者。

「進退し安き樣に」移動(保存管理及び収納引出)させ易いように。

「享保中」一七一六年~一七三六年。

「大名小屋」これは将軍の供をする大名が一時的に休憩するための日差しや雨風を凌ぐための仮小屋であろう。

「ふしん」普請。

「懸合(かけあひ)に造るも」指名された複数の藩が分担して造営したのであるが。

「着日」大名が実際に到着するまさにその日。

「霖雨(りんう)」何日も降り続く長雨。

「退散の時」将軍家御社参が終わって片付けとなった折り。

「居小屋(ゐごや)」前の「大名小屋」に同じい。

「奇特(きどく)の事也と申せし」恐らくは現地の大名小屋管理の担当者に仕舞い方を伝え、何かの折りに再利用なされよと伝えたのである。だからこそそれを聴いた人々が「奇特」無駄のない感心ななされようだと、讃嘆したのである。

「鳥銃(つつ)稽古」読みは私の推定。生きた鳥を狙いとした鉄砲の稽古。

「鵜鳥(う)」読みは私の推定。くだくだしいので、二字で「う」と読んでおく。

「其役所」先の「經師の役所」。

「そのはねを矢にこしらゆる」矢羽は一般には鷲や鷹の羽根が風合いもよく、耐久性があるため最良とされる。「矢の出來不出來に構はず」と述べているように、要は太平の世になって実践で使うことがなくなってしまったが、用意はしておかねばならぬ弓矢の「矢かず」をともかくも安価に(素材仕入れ代がこの場合は全く無料である)「多く」作製し、それを余裕の予備矢として多量に「貯置(ためおく)」ことが出来るというのである。]

甲子夜話卷之二 2-8 富士馬の事

2-8 富士馬の事

先年【寛政己未】御馬預鶴見淸五郎の宅に立寄たるに、出逢て物語に及ぶ。予云ふ、先年旅路蒲原の驛にて聞しは、富士の麓に馬を産す。其馬の始は賴朝卿の放たれし種の蕃生せしにて、今も尚其性神駿にして、山谷を飛行し迅速なる事常に異りと。其後の旅行に原の驛に宿せしに、岩本内膳正に仰て、此馬を取て乘用となさしめらるゝ迚、これを繋ぎをく處などしつらへたるを見たり。此事思出しかば、取らせられし馬の何かゞなりしや、果して駿逸にやと尋しに、鶴見云は、我も其頃見しまゝにて、預ならねば其後は知らず。見し頃には彼駒の三歳の時にて有しが、長三尺ばかり、犬の大なるが如し。父馬は三尺にもこへ四尺にも及なん、少しく大なりしと語る。因其性はいかにと問に、殊に勝れたるとは覺えず。常馬に違ふことなし。仙南の産に比すれば、劣れること多しと答ふ。然ば先年聞しはひが言にてやありし。

■やぶちゃんの呟き

「寛政己未」「つちのとひつじ」は寛政一一(一七九九)年。第十一代将軍徳川家斉の治世。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜(十七日)であるから、二十二年前で、静山の隠居は文化三(一八〇六)年であるから、未だ平戸藩第九代藩主現役の頃の話柄である。

「御馬預」「おんうまあづかり」は幕府実用需要分及び諸大名以下へ下賜するための御馬及び御馬具の修繕を掌った役職。

「鶴見淸五郎」不詳。

「蒲原の驛」東海道五十三次十五番目の宿場である蒲原(かんばら)宿のこと。現在の静岡県中部の静岡市清水区内。

「蕃生」「はんせい」と読み、繁殖に同じい。

「常に異り」「つねにことなれり」。

「原の驛」江東海道五十三次十三番目の宿場である原(はら)宿。現在の静岡県沼津市内。ウィキの「原宿(東海道)」によれば、『宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた』とある。

「岩本内膳正」幕臣で寛政一一(一七九九)年当時、西丸側衆であった岩本正利のことか。なお、彼の娘の「お富」は一橋徳川家の第二代当主徳川治済(はるさだ/はるなり)の側室であった。

「仰て」「おほせて」。将軍が主語主体であろう。

「預ならねば」私の担当の御馬ではなかったので、の謂いか。

「長三尺」「長」は「たけ」で馬の場合は、馬の場合は蹄(ひづめ)から背までの高さを指す。九十一センチ弱。「犬の大なるが如し」は言い得て妙。

「四尺」一メートル二十一センチ。

「及なん」「およびなん」。

「因」「よつて」。

「問」「とふ」。

「常馬」「つねのうま」。

「仙南」仙台藩の南部を表わす地名。仙台は古えから馬産に適した土地として知られ、駿馬を輩出したが、特に伊達政宗が兵馬育成に熱心に取り組み、藩内の産馬の改良や増産訓練に努め、第四代藩主綱村の代には馬政の大綱「仙台藩産馬仕法」を定め、勘定奉行支配の下に「馬生産方」という役方を配置し、二歳駒の登録、馬市の開設などを行って、仙台藩における産馬事業は藩行政の大きな柱となった(以上は「仙台藩における馬の歴史(馬政史)、宮城県の馬政史について」(PDFファイル)に拠った)。

「然ば」「しからば」。

「聞し」「ききし」。

「ひが言」間違い。

街に死ぬ覚悟   梅崎春生

 

 近ごろあちこちで飛行機が落ちたり、汽車が衝突したりして、たくさんの人が死んでいる。またそういう派手なのではなく、そこらの交番の掲示を見ると、死亡何人、重傷何人と、毎日着々ひき殺されたり、はね飛ばされたりしている。

 交通機関に関する限り、現代は乱世時代と呼んでいいだろう。

 昔乱世の武士たちは、弓矢や刀剣をとる身として、いかに立派に死ぬべきかを、真剣に考え、修養し、自己訓練をした。

 現代における我々も、いかにひかるべきか、いかに立派にはね飛ばさるべきかを、本気で考えるべき時期が来たようである。ぶざまなひかれ方をしてはならぬ。

 たとえば下着について。

 神風タクシーにはねられて救急車で病院に運ばれる。衣服をぬがされる。その際よごれた下着を着用していては、日ごろのたしなみがしのばれる。外出の際には、さっぱりした下着に坂換えるのが得策というものである。

 ところがこれと反対の考え方をする人がいる。私の知人で、外出に際して、下着を全部よごれたのに取換えるのがいる。よごれたのを着ていたら、もしはね飛ばされた時、大いに恥をかくから、精神が緊張して、タクシーやオート三輪に用心するようになるそうだ。自分の廉恥心を利用して、注意力、警戒力を鋭敏にさせるというやり方である。

 なるほど。それも一法といえるだろう。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月二十二日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「近ごろあちこちで飛行機が落ちたり、汽車が衝突したりして、たくさんの人が死んでいる」まず、この記事掲載の十日前に、大きな航空機墜落死亡事故が発生している。ウィキの「全日空下田沖墜落事故。これは『全日本空輸が創業後はじめておこした人身死亡事故(航空事故)で』、一九五八年八月十二日、『東京・羽田空港発名古屋飛行場(小牧空港)行きの全日空25便はレシプロ双発旅客機であるダグラスDC-3(機体記号JA5045)で運航していた。伊豆半島下田市沖上空を飛行中の午後830分ごろ、たまたま近傍を大阪発東京行きとして飛行していた同僚機16便に対し、左側エンジンが不調になり停止したこと、これから羽田空港に引き返すことを伝えた後、午後855分の通信を最後に消息を絶った』。『翌日になって、伊豆下田沖の利島付近の海上に25便が墜落しているのが発見されたが、乗員3名、乗客30名のあわせて33名全員が犠牲になった。最終的には犠牲者18名の遺体が収容されたが、残りの犠牲者と機体の大部分は収容されなかった。また機体は水深600mの海底に沈んでおり、当時の技術では引き上げることは不可能であった』(下線やぶちゃん)。『当時の航空機にはフライトデータレコーダーやコックピットボイスレコーダーなどといった装備は取り付けられておらず、事故原因が完全に解明されることはなかった。ただし回収されたトイレの扉がロックされた状態であったことから、事故直前に使用していた乗客がいたと思われ、トラブル発生から僅かな時間で墜落したと見られている。また事故原因になったと思われるトラブルについてはエンジンの不調に加え、手動式ジャイロコンパスも不具合になったとの説もあった。また地上からの目撃証言には残された右側エンジンも出火したというものもあった。そのため同時に多数のトラブルが発生したため墜落に至ったとの推測があった。しかしながら、いずれにしても事故原因を解明するには至らなかった。92日に運輸大臣に提出された事故調査報告書もこれらの可能性を指摘した上で、原因を特定するのは困難であると結論付けていた』。後に『唱えられた説に、水平儀のポンプが不調になり、操縦士が切り替えに失敗して不作動になり、盲目飛行になり夜の海に墜落したというものがある。当時の全日空は資金に乏しく、所有していたDC-3はアメリカの航空各社から中古機を集めたものであったため、仕様が統一されていなかったという。そのため操縦室の計器板やスイッチ類の配置も機体によって違いがあり、操縦者が戸惑っていたという。左右エンジンのいずれかが作動しなくなった場合に水平儀を回す真空ポンプをスイッチで切り替える必要があったのは、事故当時就航していた9機のDC-3のうち事故機のみであったという(ほかの機体は片方のエンジンが止まっても切り替える必要が無かった)。そのため、操縦者が切替スイッチがどこにあるかがわからず、水平儀を不作動にしてしまったというものである。ただし操縦席部分のサルベージは行われなかったため、真偽は不明である』とある。次の汽車の死亡事故であるが、恐らく、記事の二ヶ月前、一九五八年六月十日午後三時二十八分に発生した「山陰本線列車バス衝突事故」のことと思われる。ウィキの「日本の鉄道事故1950年から1999により引く。山陰本線八木駅と千代川駅間の『愛田川関踏切で、園部発京都行き普通列車に京都交通の貸切バスが衝突、引きずられ大破し麦畑に転落した。この事故でバスに乗っていた亀岡市立亀岡小学校5年生一行のうち、4名が死亡38名が重傷、50名が軽傷を負った。列車側も牽引していたC55蒸気機関車が転覆し、客車2両が脱線』した(下線やぶちゃん)。実はこの記事掲載の八日前一九五八年八月十四日午後二時三分にも国鉄山陽本線南岩国駅と岩国駅間の菊池踏切で「特急かもめ米軍トレーラー衝突事故」が発生している(同ウィキによれば、博多発京都行の特急「かもめ」(十両編成)に米海兵隊岩国基地所属の米軍人が運転するトレーラー・トラックが衝突、トレーラーは五十メートル引きずられて大破し、「かもめ」側も『牽引蒸気機関車(C62 4)と1両目客車(ナハフ11 9)が脱線し「く」の字状に転覆した。また後続の客車2両も脱線した』『事故原因はトレーラーの運転手の警報無視による。これは下り貨物列車の通過後、引き続いて上り特急列車が通過する警報が出ていたのを無視して横断を強行したため。また踏切には遮断棒がなく事故現場が緩やかなカーブであったのも災いした』とある)が、この事故では特急の乗員乗客四十三名が重軽傷を負っているものの、死亡者は出ていないので一応、除外はされる。但し、春生の意識の中には当然、想起された事故ではあろう。

「そこらの交番の掲示を見ると、死亡何人、重傷何人と、毎日着々ひき殺されたり、はね飛ばされたりしている」ウィキの「交通事故によれば、『戦後の高度経済成長期に自動車保有率の上昇と呼応して交通事故が増加し』、本記事のまさに翌年の一九五九年には年間交通事故死者数が一万人を突破、『戦争でもないのに膨大な人数が犠牲となることから、「交通戦争(第一次交通戦争)」と比喩される事となった』とある。

「神風タクシー」ウィキの「神風タクシーより引く。主に昭和三〇年代(一九五五年~一九六四年)に、『日本で交通法規を無視し、無謀運転を行っていた日本のタクシーを』呼ぶ語(死語)。一九五〇年代(昭和三〇年代前半)になると、『日本はモータリゼーションの進行に伴い、道路渋滞も起き始めた。歩合給を稼ぐために、速度制限無視、急停車、急発進、赤信号無視、強引な追い越しなどを行って、早く客を拾い、あるいは一瞬でも早く目的地に着いて、客回転を上げようと、無謀な運転を行うタクシードライバーが増加した』。『この無謀な運転ぶりを「神風特別攻撃隊」になぞらえて、人々は『神風タクシー』と呼んだ。その命名は誰によるものかは不明だが、「週刊新潮」の記事からと思われる』。『この無謀運転の主な原因は、運転手の固定給の少なさや、ノルマ制などの労働条件であった。これが社会問題になると共に、タクシー労働組合などの運動によって、神風タクシーは基本的に無くなった』。昭和三四(一九五九)年八月十一日に『優良運転者に個人タクシーが初めて認可された。これも神風タクシーが無くなった要因となった』。また同年には、昭和三九(一九六四)年の『東京オリンピック開催が、国際オリンピック委員会総会で決定されたこともあり、国家規模で日本のイメージアップのため、道路交通法が厳しく運用され、神風タクシーは警察の取締りにより厳しく摘発され、その姿を消した』とある。]

左耳劣化

 

……今朝、寝床で気づいた。

左を枕にしていると、軒を打つ雨の音の彼方に蜩の声が聴こえる……

 
しかし……
 
右をまくらにしてみると……軒を打つ雨の音のしか聴こえない……蜩かと思うのは「シーン」というこの数年来の耳鳴りだけだ……
 
私の左耳は蜩を聴けなくなった――それを半分淋しく思った……

2016/08/19

北條九代記 卷第九 時賴入道諸國修行 付 難波尼公本領安堵

       ○時賴入道諸國修行  難波尼公本領安堵

 

時賴入道の政道、理非分明にして、奉行、頭人、評定衆、其掟、少(すこし)は古風に立歸るかと見えしかども、諸國の守護、地頭等(ら)は、猶も私欲非義の事あり。訴論、更に絶遣(たえや)らず。時賴入道、是を歎き、頭人、評定衆を集めて宣ひけるは、「諸國無道の科人(とがにん)を罪罸(ざいばつ)に行ひし事、數百人なり、三浦泰村父子叛逆(ほんぎやく)より以來(このかた)、是程に人多く損じたる事はなし。奉行、頭人、評定衆の奸曲(かんきよく)なるが致す所、其罪、既に我が愚にして、下(しも)の歎(なげき)を知らざるに起れり。萬民を惱(なやま)し、惡徒を損ず。 我、何の面目ありてか諸人に見(まみ)えて、國家を治むと云ふべき。然るに時賴入道が天下の執政たる事は、時宗未だ幼稚なるに依(よつ)て、代官として暫く諸事を綺(いろひ)はべりき、時宗、幸(さいはひ)に、今、成長して、しかも執政の器量に當り給へり。外には學問を好み、内には道德を嗜(たしな)み、進みては仁を專(もつぱら)とし、退(しりぞ)きては行(かう)に失(しつ)あらんことを悔省(くひかへりみ)て、賢君子の德、備(そなは)れり。今は早(はや)、世の中の事、心易く存(ぞん)ずるなり。我が愚案を以て、久しく諸人を苦むべきは、天道の譴(せめ)、遁(のがれ)難し。向後の事は、太郎時宗に讓り侍る。將軍家の執政として、頭人、評定衆の邪(よこしま)を禁じ、泰時(やすとき)の政理(せいり)に從ひて、國家を治め給へ」とて、涙をぞ流されける。暫(しばらく)ありて、また、宣ひけるは、「某(それがし)が愚の一つに依(よつ)て、現當(げんたう)二世を失はんとす。佛神の冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に恐るべし。父祖の善惡は、必ず子孫に報ゆ、と云へり。因果の道理、遁(のが)るまじければ、我が愚を以て、多少の人を損害せし故に、子孫の後榮(こうえい)も賴(たのみ)なし。未來もさこそ悲(かなし)かるべけれ」とぞ宣ひける。是を承りし輩(ともがら)は、只、理に屈して申すべき言葉なく、坐(そゞろ)に涙を催しけり。時賴入道は天臺、法相(ほつさう)、律、三家の智識に逢(あ)うて佛法の奧義を極め、又大覺禪師に謁し、その外、數多(あまた)の禪師に相看(しやうかん)して、心地(しんぢ)を大悟(たいご)せられたり。實(じつ)に理世安民(りせいあんみん)の爲にや、諸人の中にして、かく仰のありける殊勝(しゆしよう)さよと、心ある人は申合へり。その後は一室に閉籠(とぢこも)り、親しきにも對面無し。靑砥(あをとの)左衞門尉藤綱、二階堂信濃入道と只二人計(ばかり)、常は參りてはべりしが、幾程なく時賴禪門、死に給ひけり。二階堂入道悲(かなしみ)に堪(たへ)ず、後世の御供せんとて自害致されけり。左馬頭時宗、歎(なげき)の色深く、樣々の佛事をなし給ふ。鎌倉中は云ふに及ばず、諸國の貴賤、是を歎く事、赤子(せきし)の母を喪(うしな)ふが如し。實(まこと)には然らず。世にはかく披露して、二階堂入道、只(たゞ)一人を召倶(めしぐ)し、密(ひそか)に鎌倉を忍び出で、貌(かたち)を窶(やつ)して、六十餘州を修行し給ふ事三ヶ年、在々所々の無道殘虐を聞出さんが爲とかや。中にも哀(あはれ)なりける事は、或時、攝津國難波(なには)の浦に至り給ふ、世渡る業(わざ)の苦しさは何國(いづく)も同じ事ながら、殊更、難波の蘆の屋の鹽汲(しほくむ)海郎(あま)の暇(いとま)なみ、營む事の易からぬ、身の有樣こそ哀(あはれ)なれと、愈(いよいよ)、心に感慨し給ふ。日、既に西に傾きて、人の往來(ゆきゝ)も稀々(まれまれ)なり、鳴送(なきおく)る蜩(ひぐらし)の聲も遠近(をちこち)淋しき暮に及びて、とある所の家に立寄り、宿を借(か)らんと見給ふに、昔はさもありける人の住荒(すみあら)しけん跡と見えて、垣(かい)、間疎(まばら)に、軒、傾(かたぶ)き、時雨(しぐれ)も月も漏るらめや、さこそ侘しき草の戸差(とざし)、露深く閉ぢられて、いとゞ袂は霑(ぬる)る計(ばかり)なるに、立入りて宿を借り給ひければ、年闌(た)けたる尼公(にこう)の、杖に縋(すが)りて出でられ、「御宿(おんやど)借し奉るべき事は易けれども、佗(わび)て住(すむ)なる賤(しづ)の伏屋(ふせや)、藻鹽草(もしほぐさ)ならでは敷忍(しきしの)ぶべき物もなく、磯菜(いそな)より外には進(まゐ)らすべき設(まうけ)も候はねば、中々、御宿參せても甲斐(かひ)なくこそ」と聞えけるを、「さりとては日も早(はや)、暮(くれ)過ぎたり。來方(こしかた)遙(はるか)に、往前(ゆくさき)も覺束(おぼつか)なし、枉(まげ)て一夜を明させて給(た)べ」と云佗(いひわ)びてぞ留(とゞま)り給ひける。旅寢の床(とこ)に秋深(ふ)けて、浦風(うらかぜ)渡る浪の音、夜寒(よさむ)の衣、袖冴(さ)えて、夢も結ばず、明(あか)されたり。朝朗(あさぼらけ)の霧間(きりま)より起出(おきい)で給へば、主(あるじ)の尼公、手つがら飯匙(いひがひ)とる音して、椎の葉を折敷(をりし)きたる上に飯盛りて持出でたり。甲斐甲斐しくは見えながら、斯(かゝ)る業(わざ)なんどに馴れたる人とも見えねば、覺束なく覺えて、「などや御内に召仕(めしつか)はるゝ人は候はぬやらん」と問ひ給へば、尼公さめざめと打泣(うちな)きて、「左(さ)候へばこそ。尼は親の讓(ゆづり)を得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫(をつと)にも子にも後(おく)れて、便(たより)なき身と成果(なりは)て候ひし後、惣領某(ないがし)と申す者、關東奉公の權威を以て、重代相傳の所帶を押取(おさへと)りて候へども、京、鎌倉に參りて訴訟申すべき代官も候はねば、此二十年、家、衰へて窶(やつやつ)しく、麻(あさ)の衣の淺ましく、樵積(こりつ)む柴のしばしばも存(ながら)へ住むべき心地もなく、袖のみ濡るゝ露の身の、消えぬ程とて世を渡る、朝食(あさげ)の煙(けぶり)の心細さ、只、推量(おしはか)り給へ」とありければ、抖藪(さう)の聖、熟々(つくづく)と聞給ひ、「其(それ)は御痛(おんいたは)しき御事なり。押領(おふりやう)せられし人の御名をば誰とか申し候ぞ」と問はれたり。尼公、申されしは、「その先は、右大將賴朝卿、平家追罸の時、難波の六郎左衞門と申せし者、梶原景時の手に屬(しよく)して、軍功を抽(ぬきん)でたりしかば、勸賞(けんじやう)行はれて賜(た)びたりける所領なるを、尼が世迄は斷絶なく相傳して、夫(をつと)にて候難波三郎兵衞尉、身罷りて、世を嗣ぐべき子さへ打續(うちつゞ)きて死に候へば、尼が身の置所なく、悲しさは限(かぎり)もなし。何しに命の存(ながら)へて憂目を三保の浮海松(うきみる)の、今は寄邊(よるべ)もなき所に、尼が爲には小舅(こじうと)にて候、瓜生(うりふの)權(ごんの)頭に、押領せられ、斯る有樣に潦倒(おちぶ)れて、甲斐なき身と成果てて候ぞや」とて涙にのみぞ咽(むせ)びける。聖は餘(あまり)に哀(あはれ)と覺えて、笈(おひ)の中より小硯(こすゞり)取出(とりいだ)し、卓の上に立ちたりける位牌の裏に一首の歌をぞ書かれける。

  難波潟潮干(しほひ)に遠き月影のまたもとの江に澄まざらめやは

聖(ひじり)は尼公に暇乞して、「もし鎌倉殿に對面申す事あらば、忘置(わすれお)かず披露して參らせん」と白地(あからさま)に云ひ置きて、宿を立出で給へば、尼公も名殘惜(をし)げに見送り奉りぬ。斯(かく)て時賴禪門、諸國抖藪(とそう)畢(をは)りて鎌倉に歸り給ふ。軈(やが)て、彼の位牌を召出し、瓜生が所帶を沒收(もつしゆ)して、尼公が本領に副(そへ)て賜りけり。是のみなず、諸國の間に三百四餘人の非道の者を記して歸られ、皆、各々、召上せて、賞罸正しく行はれ、先代忠勤の家督を相續せしめ給ひけり。是に依(よつ)て、諸國の武士共、近年、鎌倉の奉行、頭人の私欲奸曲なるに恨(うらみ)を含みし輩(ともがら)、一朝に憤(いきどほり)を散じ、望(のぞみ)を達して、時賴禪門を慶賀し進(まゐら)せたり。邪曲(じやきよく)の奉行、頭人に媚諂(こびへつら)ひける者共、身を抱き、先非を悔いて、正道に入りける有難さよ。靑砥左衞門申しけるは「この事、今十年とも御沙汰なかりせば、叛逆(ほんぎやく)の者、多かるべし、誠に貴(たうと)き賢才(けんさい)かな」と感じ奉りけるとかや。

 

[やぶちゃん注:くどいが、最初に再度、述べおく。前章注の冒頭で述べた通り、この時頼諸国回国譚は素人が「吾妻鏡」を見ても判然とする通り、あり得ない笑止千万な話である。

 ともかくも私は糞狸爺北条時頼が大嫌いである。

 本章の後半の難波の尼公との邂逅譚は「太平記」巻三十五「北野通夜物語の事 付 靑砥左衛門が事」に基づく。このシークエンスが優れているのは参考元自体が「平家物語」などを参考にして、よく書けているからである(無論、「北條九代記」の筆者の書き換えも上手い)。冒頭に当該箇所を引いておく。同章はかなり長いが、以下は見るように、泰時逝去(「太守逝去」がそれ)から、世が乱れることを簡単に述べて枕とし、一気に時頼の諸国回国に繋がっている。底本は「新潮日本古典集成」の山下宏明校注「太平記 五」(昭和六三(一九八八)年刊)を参考底本としつつ、読点を適宜追加し、恣意的に漢字を正字化し、記号の一部を変更した。一部、読みも追加してある。

   *

しかるに太守逝去の後、父母を背き、兄弟を失はんとする訴論(そろん)出で來て、人倫(じんりん)の孝行、日に添うて衰へ、年に隨ひてぞ廢(すた)れたる。一人(いちじん)正しければ萬人それに隨ふ事、分明(ぶんみやう)なり。しかるあひだ、なほも遠國の守護・國司・地頭・御家人、如何なる無道猛惡(ぶだうもうあく)の者有りてか、人の所領を押領(あふりやう)し、人民百姓を惱すらん。みづから諸國を囘りて、これを聞かずは叶ふまじとて、西明寺(さいみやうじ)の時賴禪門(じらいぜんもん)、ひそかに貌(かたち)を窶(やつ)して六十餘州を修行したまふに、ある時、攝津國難波(せつつのくになには)の浦に行き至りぬ。鹽汲(く)む海士(あま)の業(わざ)どもを見たまふに、身を安くしては一日も叶ふまじきことはりをいよいよ感じて、すでに日暮れければ、荒れたる家の、垣間(かきま)、まばらに、軒(のき)、傾(かたぶ)いて、時雨(しぐれ)も月もさこそ漏らめと見へたるに立ち寄りて、宿を借りたまひけるに、内より年老たる尼公(にこう)一人出て、「宿を貸したてまつるべき事は安けれれども、藻鹽草(もしほぎさ)ならでは敷く物もなく、磯菜(いそな)より外はまゐらすべき物も侍らねば、なかなか宿を借したてまつても甲斐(かひ)なし」とわびけるを、「さりとては日もはや暮れはてぬ。また問ふべき里も遠ければ、まげて一夜を明かしはべらん」と、とかく言ひわびて留(とま)りぬ。旅寢の床(ゆか)に秋深(ふ)けて、浦風寒くなるままに、折り焚く葦の通夜(よもすがら)、臥しわびてこそ明かしけれ。朝に成りぬれば、主(あるじ)の尼公、手づから飯匙(いひかひ)取る音して、椎(しひ)の葉折り敷きたる折敷(をつしき)の上に、餉(かれいひ)盛りて持ち出で來たり。甲斐甲斐(かひかひ)しくは見へながら、かかるわざなんどに馴(な)れたる人とも見えねば、おぼつかなく覺えて、「などや御内(みうち)に召し仕はるる人は候はぬやらん」と問ひたまへば、尼公、泣く泣く、「さ候へばこそ、われは親の讓りを得て、この所の一分の領主にて候ひしが、夫(をつと)にも後(おく)れ、子にも別れて、たより無き身と成りはて候ひし後、惣領(そうりやう)なにがしと申す者、關東奉公の權威を以つて、重代相傳(じゆうだいさうでん)の所帶を押さへ取りて候へども、京・鎌倉に參りて訴訟申すべき代官も候はねば、この二十餘年、貧窮(ひんぐう)孤獨の身と成りて、麻の衣(ころも)のあさましく、垣面(かきも)の柴のしばしばも、ながらふべき心地(ここち)はべらねば、袖のみ濡(ぬ)るる露の身の、消ぬ程とて世を渡る。朝食(あさけ)の煙(けぶり)の心細さ、ただ、推し量(はか)り給へ」と、くはしくこれを語りて、淚にのみぞ咽(むせ)びける。抖擻(とそう)の聖、つくづくと是を聞きて、あまりに哀れに覺えて、笈(おひ)の中より小硯(こすずり)取り出だし、卓(しよく)の上に立てたりける位牌(ゐはい)の裏に、一首の歌をぞ書かれける。

  難波潟(なにはがた)鹽干(しほひ)に遠き月影(つきかげ)のまたもとの江にすまざらめやは

禪門(ぜんもん)、諸國抖擻ををはつて、鎌倉に歸りたまふとひとしく、この位牌を召し出だし、押領(あふりやう)せし地頭が所帶を沒收(もつしゆ)して、尼公が本領の上にそへてぞこれをたびたりける。このほか到る所ごとに、人の善惡を尋ね聞きて、くはしくしるし付られしかば、善人には賞を與へ、惡者には罰を加へられける事、あげてかぞふべからず。されば、國には守護・國司、所には地頭・領家(りやうけ)、威(ゐ)有りて驕らず、隱れても僻事(ひがごと)をせず、世、淳素(じゆんそ)に歸し、民の家々、豐かなり。

   *

本文と重ならない箇所(一部例外有り)を「・」で簡単に注しておく。

・「身を安くしては一日も叶ふまじきことはり」己が一人の身の安楽ということを考えたとすれば、一日として生きて行くことはかなわない(現実世界での「安楽」は「絶対に」「ない」からである)という、この世の道理。

・「領主」参考底本の山下宏明の頭注に『「領主」は「地頭」が正しい。もともと一人の地頭が統轄していた荘や郷を複数で相続するため、分散したそれぞれの地頭。小地頭』とある。「小地頭」とは「子地頭」とも書き、鎌倉時代に地頭職の分割相続によってその一部分を持つこととなった地頭のことで、「半分地頭」「三分二(さんぶに)地頭」などとも呼ばれた。同じ誤りを「北條九代記」もしているので、ここに注しておく。

・「訴訟申すべき代官」幕府の御方へ訴訟を起こし申し上げるにしても、その代理となって呉れる者。この「代官」は官職ではなく、訴訟の起こすために京の六波羅探題や鎌倉に行って実際に訴訟を行うための代理人である。

・「抖擻(とそう)の聖」修行僧・行脚僧の意(本来は「一所に定住している僧」の対語で非定在性の行脚を修行の本分とする僧を指す)。本文の「抖藪」(とそう)」及び頭陀袋の「頭陀」に同じい。梵語の漢訳で、衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にすること、また、その修行。或いは、雑念をはらって心を一つに集めること。

・「卓(しよく)」参考底本の山下宏明の頭注に『仏壇の、本尊の前に置いて花や燭などを供える机。よみは宋音』とある。「宋音」は宋以降の漢字音で、現在の「唐音」と同じ。室町時代には「唐音」は「宋音」と呼ばれ、現在でも「唐宋音」とも呼ばれる。遣唐使の中止によって一時、途絶えた形になった日中間の交流が、平安末から鎌倉初期に再開、その後も室町・江戸を通じて盛んになって禅宗の渡来僧や留学僧及び民間貿易の商人たちによってもたらされた、比較的新しい中国語音である(一部、ウィキの「唐音に拠った。リンク先の唐音の例が勉強になる)。

 

以下、本文注に入る。

 

「頭人」狭義には評定衆を補佐して訴訟・庶務を取り扱った引付衆の長官を指すが、ここは結果的に引付衆全体を指すと読むべきであろう。

「其掟」「そのおきて」。

「三浦泰村父子叛逆(ほんぎやく)」宝治元(一二四七)年六月五日の三浦氏が滅ぼされた宝治合戦(ほうじかっせん)であるが、「父子」というのはややおかしい気がする。泰村には景村・景泰・三浦駒孫丸などの子はいるが、合戦の表舞台には出て来ず、実際、年齢も若かったものと思われ、寧ろ、宝治合戦に於ける三浦方の主戦派はプレの宮騒動にも確信犯で加担していた弟の三浦光村である。彼は、最後まで優柔不断であった兄泰村に合戦の敗因はあると考えていたに違いなく、その死にざま(一族が頼朝の法華堂内で一気自刃した)も幕府方が検分出来ぬように自身の顔をずたずたに斬り刻んだ後に自害している強者であった。ここは彼の執念のためにも「三浦兄弟叛逆」とすべきところである。

「奸曲」心に悪だくみのあること。

「惡徒を損ず」(好き好んでやったのではないが、一見、残虐に)悪い輩を(数多く重く)罰することとなった、罰せざるを得なかった、そういう最悪の事態に自らを追い詰めてしまったのだ、というニュアンスであろう。しかし文脈上はやや不自然である。

「綺(いろひ)はべりき」「いろふ」は「関わる・口出しする・干渉する」の意。執権を退いたものの、引き続き、執権の実務にいろいろと口出しをして参ったのであった。

「現當(げんたう)二世」ここは表向きは現実社会の現在と未来の事実の状態を指しながら、しかし後文への因果応報の、業としての父子への応報、北条氏滅亡への予感をも含んでいる(「子孫の後榮(こうえい)も賴(たのみ)なし。未來もさこそ悲(かなし)かるべけれ」)。まあ、しかしここは歴史的事実を知っている後世の本作者の筆が、言わずもがなに滑った感じではある。時頼が嫌いな私としては、私が彼以降の北条の関係者だったら、「こいつに言われたくないよ!」という気はする。

「坐(そゞろ)に」知らず知らずのうちに。

「法相(ほつさう)」法相宗は唐の玄奘(げんじよう)が伝えた護法・戒賢の系統の唯識説を、その弟子の窺基(きき)が大成したもので、一切の存在・事象を五位百法に分類し、すべての実在の根源は「阿頼耶識(あらやしき)」にあるとするもの。日本へは白雉四(六五三)年に道昭により初めて伝えられ、その後もさらに三度、伝来されている。元興寺・興福寺を中心に奈良時代に盛んに行われた。現在の本山は興福寺と薬師寺。「慈恩宗」「唯識宗」とも呼ぶ。

「律」中国で興った仏教の一宗。戒律を絶対の拠り所として受戒を成仏の要因と考える。日本へは天平勝宝六(七五四)年、鑑真によって伝えられた。本山は唐招提寺。

「智識」有徳の高僧。

「大覺禪師」蘭渓道隆。

「相看(しやうかん)」対面。

「心地(しんぢ)を大悟(たいご)せられたり」悟りの境地に達せられた。

「理世安民(りせいあんみん)」絶対正当な、真の仏法に基づく道理を以って世を治め、人民総てを心の底から安んじさせること。

「仰」「おほせ」。

「二階堂信濃入道」既注であるが再掲しておくと、政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。彼は文永二(一二六五)年に鎌倉幕府政所執事で引付衆となって、文永五(一二六八)年に従五位下で信濃守に叙爵されているが翌年には死去しており、引付衆であったのはたった四年であった。北条時頼は安貞元(一二二七)年生まれで弘長三(一二六三)年没(ここでは生きていることのなってはいるが)であるから、彼が引付衆となったのも、信濃守になったのも、孰れも歴史上は時頼が死んだ後であり、この二人回国の相手が二階堂行実という設定自体が如何にもな噴飯物であることが判るのである。

「二階堂入道悲(かなしみ)に堪(たへ)ず、後世の御供せんとて自害致されけり」言うまでもないが、こんな事実はない。前注参照。

「攝津國難波(なには)の浦」現在の大阪市中央区の海浜地帯の広域古名。

「草の戸差(とざし)」粗末な戸。教育社版の増淵勝一氏の訳は『戸をとざし』とするが、採らない。底本は「とざし」のルビであり(「と」「さし」ではない)、しかも「露深く閉ぢられて」がそれを受けるのであれば、ここは扉・戸の意の名詞でなくてはならないからである。

「年闌(た)けたる」だいぶ年をとった。

「尼公(にこう)」尼君。

「伏屋(ふせや)」棟の低い小さな家。粗末な家。みすぼらしい家。

「藻鹽草(もしほぐさ)」塩を作るために焼く海藻。古くは神馬藻(ほんだわら:不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum)などの海藻類を簀子に並べ、海水を注ぎ掛けて塩分を多く含ませた上で、乾燥、さらにそれを焼いて水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を製した。

「敷忍(しきしの)ぶべき物」寝床として敷くに適した物。

「磯菜(いそな)」神馬藻(ホンダワラは食える。私は好物である)や鹿尾菜(ひじき:ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme)のように岩礁帯に生え、食用となる海藻類。

「飯匙(いひがひ)」杓文字(しゃもじ)。

「椎の葉を折敷(をりし)きたる上に飯盛りて持出でたり」「太平記」の「椎(しひ)の葉折り敷きたる折敷(をつしき)の上に、餉(かれいひ)盛りて持ち出で來たり」の「折敷」(おしき:薄く剝いだ木の板を折り曲げて四方を囲った盆)を消失させて、より貧家のリアリズムの宿を描いて秀逸。「餉(かれいひ)」は一度軽く煮た米を保存出来るように干したもの。

「この所の一分の領王」この辺りを管轄した惣地頭(先の「太平記」の山下氏の頭注に、『一分地頭の上位に発って軍役などを統轄する、一族の惣領地頭』とある)。先の「太平記」の注も参照のこと。

「惣領」夫の一族の惣領。

「所帶」官職や所領。

「樵積(こりつ)む柴のしばしばも存(ながら)へ住むべき心地もなく」前半は「しばしば」もを引き出すための序詞的表現。樵(きこり)が切り出し、それを截ち切り、小枝のように細かになったそれを積み上げた柴(しば)、「しばしば」、暫く短い間だけでも生き永らえて住もうという気力さえなくなってしまい。

「抖藪(さう)の聖」行脚の僧。先の「太平記」の「抖擻(とそう)の聖」の私の注を参照されたい。

「難波の六郎左衞門」「北條九代記」の筆者が以下をもとに創出した架空の人物であろう。歌舞伎や錦絵では、実在したとされる平清盛の家来難波(なんばの)三郎経房(源義平を処刑した人物で、仁安二(一一六七)年に平家一門で布引の箕面滝(みのおたき/みのおのたき/みのおだき:現在の大阪府箕面市の「明治の森箕面(みのお)国定公園」内にある滝)に訪れた際に落雷により落命したとされる)その子の六郎経俊(父と混同された伝承が残る)をモデルとした、難波六郎経遠・難波六郎常任・南場六郎、難波六郎・難波六郎常利・難波六郎経俊などが知られていた。五代目徳左衛門氏のブログ「難波一族」の難波六郎とは何者か?を参照されたい。「梶原景時の手に屬(しよく)して」とあり、景時は平家の出身であり、彼の家来であったとすれば元平家方の武士であったとしても少しもおかしくはない。

「勸賞(けんじやう)」「かんじやう(かんじょう)」と読んでもよい。所謂、論功行賞。功労を褒めて官位・領地・物品を与えること。

「難波三郎兵衞尉」前の「難波の六郎左衞門」を参照。

「憂目を三保の浮海松(うきみる)の」「三保」憂き目を見るの「み」を掛け、「三保の」「松」(原)を引き出してさらに、その浜辺に漂着する「浮き」(ダメ押しで「憂き」をたたみ掛ける)「海松(みる)」(緑色植物亜界緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile 。本海藻は「海松布」と書いて「みるめ」とも呼ぶので、またしても「憂き目」を「見る」が掛けられるようになっている)で、テツテ的に「憂き目を見る」の多重化がなされており、リズムとともに優れた章句と思う。

「小舅(こじうと)」ここは亡き夫の兄弟。

「瓜生(うりふの)權(ごんの)頭」一応、調べては見たが、不詳。やはり架空人物であろう。

「潦倒(おちぶ)れて」は落魄(おちぶ)れた様子。「窮途潦倒(きゅうとろうとう)」(辛い境遇の中で落ちぶれた様子・行き詰まって望みが叶わずにがっかりしている様子)などと使う。

「卓」先の「太平記」に従い、「しよく(しょく)」と読んでおく。前の「太平記」注参照。

「難波潟潮干(しほひ)に遠き月影のまたもとの江に澄まざらめやは」――難波(なにわ)潟の引き潮で今は遠くにある海の水面(みなも)を照らして輝いている月の光(もともとの尼君の領地、その正当な一分地頭としての所有権を譬える)が、また元通り、満ち満ちた入り江のすぐ眼前に曇りなく美しいその月の姿を映さないはずがあろうか、いや、必ず、潮の満ちて、皓々たる美しき栄えある月光が貴女の面前にたち現われれるであろう――予祝の和歌である。

「白地(あからさま)に」はっきりと。

「召上せて」「めしのぼせて」。召喚して鎌倉に出頭させ。]

外人の眼   梅崎春生

 

 旅行に出る。

 汽車に乗る。乗った直後は、列車内はさっぱりしている。それが三時間とたたぬ間に、床は紙くず、弁当のあきがら、果物の皮、その他いろいろで、まるでごみためみたいになってしまう。外国人はこれをどう感じているかと思うと、身を切られるように恥かしい。

 沿線の風景はどうか。景色はいいが、あの広告看板はどうだ。どんな山間辺地に行っても、鉄道が通っている限り、あの無神経な看板がべたべた並んでいて、風景をめちゃめちゃにしてしまう。外国にはあんな無神経な看板は立っていない。恥かしいことだ。

 宿屋に泊る。すると団体客が必ず来ていて、大広間で飲めや歌えやの大騒ぎ。それも九時ごろまでですめばいいが、深更まで騒いでいる。外国人が見て、その野蛮さにあきれている。ああ、恥かしい。

 というふうな調子の文章が、時々雑誌や新聞に出ることがあるが、これはちょっとおかしいのじゃないか。

 列車がごみためになる。これはよろしくないことだ。しかしそれは、外人が見ているからよくないのではなく、見た目も悪く不潔で、我々日本人が迷惑するから、よくないことなのである。

 広告看板だって、外人が見て美観をそこねるからいけないのではなく、我々が見て不快だからいけないのだ。わかり切ったことだ。

 自分の中に、やたらに外人の眼を想定するな!

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月十五日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。昨今のニュースは、ますます外国人観光客誘致ばかりを主眼とした都会や地方の対策を報じ、国政自体が四年後のオリンピックに向けて「外人の眼」ばかり気にしている。今は車内も沿線風景も旅館も見た目は改善されたが、しかし我々はますます「自分の中に、やたらに外人の眼を想定する」ようになった。いや、それは最早、日本人は外人となり、日本人ではなくなった証左なんだ、と考えれば、私は「フン」と微苦笑出来る。それで、沢山だ。]

アリ地獄   梅崎春生

   アリ地獄

 

 私の家の軒下の砂地に、小さなじょうご状の穴が並んでいるのを見つけた。数えてみると、十三ある。十三のアリ地獄が、こうしてアリの通るのを待っているのである。

 ところがここらは、あまりアリが歩き廻らない地帯で、十三のアリ地獄は目下のところ開店休業といった状態である。アリ地獄といえども、何か食っていないと、生きてはゆけないだろう。も少しアリがいる地帯に、穴をつくればいいのに、彼らの心事は不可解である。

 穴ぼこばかり見ていては何も面白くないので、わざわざ遠くからアリをつまんできて、穴に入れてやる。するとアリは必死になって、はい上ろうとする。ところが砂地だから、しがみついた砂がアリの重さでころがり落ちる。あわてて別の砂にしがみつくが、それもころがるという仕掛けで、なかなかはい出られない。はい出られそうになると、穴の一番底のところで、アリ地獄の奴が鋏か何かでぼこっぼこっと砂を調節するから、たちまちアリはずり落ちて、アリ地獄の餌食になってしまうのだ。

 いま問題になっていることの一つに、ぐれん隊がある。ぐれん隊に一度なるとなかなか更生できないものだそうであるが、やはり彼らの世界にもアリ地獄に似た仕掛けがあるのだろう。ぐれん隊といっても、生れた時からぐれん隊というのはいないはずだ。だから個々を補導するより、アリ地獄に似た仕掛けを壊滅させることに、主力をそそぐべきである。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月八日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「アリ地獄」アリジゴクは昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類の一部の種の幼虫形態を指す(本科の全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけではないので注意されたい)。体長は凡そ一センチメートルで鎌状の大顎を持ち、乾燥した土を擂鉢状に掘って巣を作り、底に潜んで、落ちたアリ及びダンゴムシ・クモ・各種甲虫類などの節足動物を捕らえて摂餌(体液吸引)する。なお、彼らの捕食用に用いる毒成分は極めて高い毒性を持つことは余り知られていないので、以下に主にウィキの「ウスバカゲロウ」の「アリジゴク」の項から引いて記しておく(一部は私が加筆した)。『このグループの一部の幼虫はアリジゴク(蟻地獄)と呼ばれ、軒下等の風雨を避けられるさらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住み、迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として捕らえることで有名である。捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸い取る。この吐き戻し液は獲物に対して毒性を示し、しかも獲物は昆虫病原菌に感染したかのように黒変して致死する。その毒物質は、アリジゴクと共生関係にあるエンテロバクター・アエロゲネス』(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属エンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes:グラム陰性桿菌で土壌や水中に棲息する)『などに由来する。生きているアリジゴクの』嗉嚢(そのう)状器官に『多数の昆虫病原菌が共生しており』、その殺虫活性は、なんと、かの強毒で解毒剤のないフグ毒としてよく知られるテトロドトキシン(tetrodotoxinTTX:ビブリオ属(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱ビブリオ目ビブリオ科ビブリオ属 Vibrio)やシュードモナス属(γプロテオバクテリア綱シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属Pseudomonas)などの一部の真正細菌によって生産されるアルカロイド毒。フグの場合は現在では、海中の有毒渦鞭毛藻(アルベオラータ上門渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する種の内で有毒物質を産生する種群)などの有毒プランクトンや、ここに示された一部の真正細菌が産生したそれが、フグの摂餌対象となる貝類やヒトデなどの底性生物を通して生物濃縮され、体内に蓄積されたものと考えられている)の百三十倍もあると言われている。但し、主実験はゴキブリを用いたもので、あくまで節足動物に対する毒性であって人に同様に作用するわけではない。アリジゴク咬傷による死亡例は世界のどこからも報告はされていないのでご安心を。『吸い取った後の抜け殻は、再び大あごを使ってすり鉢の外に放り投げる。アリジゴクは、後ろにしか進めないが、初齢幼虫の頃は前進して自ら餌を捉える。また、アリジゴクは肛門を閉ざして糞をせず、成虫になる羽化時に幼虫の間に溜まった糞をする。幼虫は蛹になるとき土中に丸い繭をつくる。羽化後は幼虫時と同様に肉食の食性を示す』。『かつてはウスバカゲロウ類の成虫は水だけを摂取して生きるという説が存在したが、オオウスバカゲロウ』(ウスバカゲロウ科オオウスバカゲロウ属オオウスバカゲロウ Heoclisis japonica)『など一部の種では肉食の食性が判明している』。『成虫も幼虫時と同じく、消化液の注入により体組織を分解する能力を備えている。ウスバカゲロウの成虫は』真の「かげろう」であるカゲロウ(有翅亜綱旧翅下綱Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraのカゲロウ類の『成虫ほど短命ではなく、羽化後二~三週間は生きる』。『一般にはアリジゴクは、羽化時まで糞だけでなく尿も排泄しないということが通説化していたが』、二〇一〇年に『これが覆されたと報道された』。『報道によれば、千葉県袖ヶ浦市在住の小学校』四年生が『アリジゴクの尻から黄色い液体が出ることを発見し、日本昆虫協会に報告した』。一九九八年には『研究者が「糞は排泄しないが尿はする」ことを調べ、尿の成分に関する論文も発表していたが』、多くの人が長年、『確かめようとしなかった昆虫の生理生態を小学生が自力で発見したことが評価され、この研究に対して協会より「夏休み昆虫研究大賞」が』この少年に授与されている。彼は千葉県袖ケ浦市の小学四年生吉岡諒人君(九歳)である。二〇一〇十一の「アメーバニュースを参照されたい。なお、真正の「蜉蝣(カゲロウ)」類と、本種群のように「カゲロウ」を名の一部に持つ「真正のカゲロウ」に酷似しているが、種としては全く縁遠い「真正でないカゲロウ」類の昆虫については、私は各所で散々書いてきたので、ここでは省略するが、例えば「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の注などを参照して戴けると幸いである。

「ぐれん隊」愚連隊。ネット上の日本語俗語辞書から引く。『暴力や不正行為を行う不良少年の一団のこと』。『不良になるという意味の「ぐれる」と「連帯」の合成語である。戦後、暴力行為やゆすり、たかりといった不正行為をしていた不良少年の一団で、後にテキヤや博徒と並び、暴力団(ヤクザ)の起源のひとつとな』った。現行では死語に近いと思われる。]

腹芸   梅崎春生

 

 暑い東京を逃げ出して、今ある高原にきている。

 昨年ここにわずかの土地を借り、小屋みたいなものを建てた。小屋から見える風景は、絶佳にして雄大で、南アルプスその他の山々が一望の中にある。

 居は気をうつすの言葉どおり、東京ばかりにいると考え方や感じ方が固定するから、時々環境を変える方が、精神衛生上にもよろしいようだ。時々村の人たちが、私の小屋を訪ねてくる。そして感嘆する。その方言を標準語に直すと、次のとおりになる。

「ほう。何といういい景色だろう。まるで坪庭みたいだ」

 ところが村の人が感嘆しているのは、南アルプスの雄大な眺望なのではない。それに背を向けて感嘆しているのである。

 私の庭の一隅に、自然岩が露出していて、それにひねこびた松の木が数本、くねくねと寄生している。村の人が嘆賞おくあたわないのは、この岩と松の眺めなのだ。

 どんなに眺望絶佳の地方に住んでいる人でも、それが日本人であるからには、庭石趣味と松の木趣味から脱却できないものらしい。

 雄大なもののかわりに、こぢんまりしたもの。剛直なもののかかわりに、ひねくれたもの。素直なもののかわりに、渋いもの。そういう日本人の好尚が、たとえば政治にあっては、率直な話し合いのかわりに、腹芸としてあらわれるのだろう。

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月一日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。梅崎春生はこの前年の夏、蓼科高原に別荘を新築、以来、毎年の夏をここで過ごすようになった。東京の家が近く、家族ぐるみで親しかった作家遠藤周作(春生より八つ年下)も同じく蓼科に別荘を持って、ここでも交流、互いを「蓼科大王」「狐狸庵主人」と呼び合ったという。

「腹芸」(はらげい)とは、芝居で役者が台詞や動作に拠らず、感情を内面的に抑えて逆にその人物の心理を表現する演技を指すが、そこから転じて、謀(はか)り事を一切、言動に出さずに、腹の中で企(たくら)むこと。また、直接の言葉では指示せずに、度胸や迫力で物事を処理すること、或いは、そうしたやり方を指す。]

2016/08/18

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注   化女 苦し 朧夜の雪

    化女(けじよ)苦(すご)し朧夜(おぼろよ)の雪


Yukionnna

きくならく、越路(こしぢ)は年ごとの雪、深く、去年(こぞ)の名殘の村消(むらぎえ)より、ことしの雪降つゞくとかや。其の國の人は馴れこし身のならはしに、物うくも思はざらん、我は南紀の陽國(やうこく)にそだち、花洛(くわらく)の中央にありし程だに、故郷に增(まさ)りつめたかりし、越後にむつまじくいふ人の來よ、と物する、老苦さへあるに、と暫(しば)しまからず侍るを、さりとて、風厭(いと)ふ計りのしつらひは心安かんものを、無下(むげ)に憶病(おくびやう)の人哉(かな)、と物せられ、行きて二とせを送りにけり。初めのとしの雪、わきておびたゞしく、所の人も近き年に稀れなり、と、いひき。長月の末、蝶の羽うつ計り、大ひらに降りそめてより、神無月(かんなづき)の最中(もなか)は野路(のぢ)の草葉ひとつも見ゆるなく、山邊の木立(こだち)も七尺計りより下はふりうづみぬ。今さへかゝれば、極寒の末いか計り、と思ひやれど、はや、往來(ゆきき)の道たえて、袖打はらふ陰(かげ)もなしといひし人の、又、其かげさへなければ、京にも得歸らざりけり。霜月の始めは、民家、悉く、埋れて、屋の棟(むね)より出入するほど也。されど、祇は人の情(なさけ)にたすけられ、身に衣服を取重ね、口に羹(あつもの)を飽(あ)く、此の年、漸うくれて、陸月(むつき)も寒く、二月(きさらぎ)もさえかへれど、誠は冬のやうにもなし。南面は稍(やゝ)きえにけり。ある曉、便事(べんじ)のため、枕にちかきやり戸押しあけ、東の方を見出でたれば、一たん計りむかふの竹藪の北の端(はし)に、怪しの女、ひとり、たてり。せいの高さ一丈もやあらん。かほより肌、すきとほる計り、白きに、しろきひとへの物を着たり。其の絹、未だ此國にみなれず、こまかにつやゝか也。糸筋(いとすぢ)、かくやくとあたりを照し、身を明らかに見す。容貌のたんごんなるさま、王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え。かくや姫の竹にあそびけん、かくやあらん。面色(めんしよく)によつて年のほどをうかゞはゞ、二十歳(はたとせ)にたらじ、と見ゆるに、髮の眞白(ましろ)に、四手(しで)を切りかけたるやうなるぞ、異(こと)やうなる、いかなるものぞ、名をとはん、とちかづき寄れば、彼(か)の女、靜かに薗生(そのふ)に步(あゆ)む。いかにする事にや、見屆けて、と思ふほどに、姿は消えてなく成りぬ。餘光(よくわう)、暫し、あたりを照して、又、くらく成りし、此の後、終(つひ)に見えず。明けて、此の事を人に語りければ、夫は、雪の精靈、俗に雪女といふものなるべし。かかる大雪の年は稀れに現はるといひ傳へ侍れど、當時(たうじ)、目(ま)のあたり見たる人もなし。ふしぎの事に逢ひ給ふかな、と、いはれし、予、不審をなす。誠(まこと)、雪の精ならば、深雪(しんせつ)の時こそ出づべけれ、なかば消失(きえう)せて春におよびて出づる事、雪女ともいふへからず、と、いへば答へて、去る事なれど、ちらんとて花うるはしく咲き、おちんとて紅葉(こうえふ)する、燈(ともしび)のきえんとき、光り、いや、ますがごとし、と、いはれし、左もあらんか。

 

■やぶちゃん注

 恐らく「宗祇諸國物語」の中でもよく知られた一篇であり、いろいろなところで、学術研究者を含め、この一篇をかの小泉八雲の「怪談」の名品「雪女」の原典とし、鬼の首を獲った如くに賞揚すること頻りなのであるが、どこがどう原典なのか、どこをどうインスパイアしたら、あの名品に書き換えることが出来るのか、私にはさっぱり分らない。これは小泉八雲の「雪女」の原典(素材の一つとして参考にしたとしても)ではあり得ない。但し、この話柄は話柄として、私は雪女を語る一話として嫌いではないと言い添えておく。なお、終りの方の「予、不審をなす。」の箇所は底本では「予れ不審をなす。」となっているが、これでは読めない。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「予(よ)不審(ふしん)をなす。」となっており、自然に読める。特異的に訂した。今回も挿絵は「西村本小説全集 上巻」のそれを用いたが、今回は、雪女イメージを押し出すため、図の枠部分を恣意的に除去し、汚れも可能な限り、除去して白くした

・「村消(むらぎえ)」「斑消(むらぎ)え」という名詞で、雪などが斑(まだ)らに消え残ることを指す。従って、昨年の斑らとはいえ、残雪が消えぬうちに、翌年、雪が降り出すというのである。

・「風厭(いと)ふ計りのしつらひは心安かんものを」寒風を嫌がるぐらいのことは承知の上、そのための防寒の備えについては心配せずともちゃんとしておるのに。

・「長月」旧暦九月。

・「大ひらに」非常に大きな平たい切片になって。

・「神無月」旧暦十月。

・「七尺」二メートル十二センチメートル。

・「袖打はらふ陰(かげ)もなしといひし人の、又、其かげさへなければ」「袖打はらふ陰(かげ)もなし」は言わずもがな、「新古今和歌集」「卷第六」の「冬歌」の藤原定家(六七一番歌)、

 

   百首歌奉りし時

 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

 

である(「佐野」は大和国のどこかの渡し場で歌枕とされる)。この歌では馬を留めている主人公の姿だけは吟詠の映像の中にいるわけだが、その一人の人影(「人の形」の謂いで、これが怪異の伏線になっている)さえも、七尺も積もってしまった雪だらけの景色の中には全く見出せないというのである。

・「得歸らざりけり」「得」は呼応の副詞の「え」に当て字したもので、帰京しようと思うのに帰京それが全く以って出来なくなってしまった、の謂い。

・「霜月」旧暦十一月。

・「埋れて」「うもれて」。

・「羹(あつもの)」元は「熱物(あつもの」で、ここは野菜を煮込んだ熱い吸い物。

・「漸う」「やうやう」。

・「陸月(むつき)」ママ。「睦月」で旧暦一月。

・「さえかへれど」厳しく冷え込みはするが。暦上では春になっているけれど、寒さがぶり返しはする、しかし。

・「便事(べんじ)」厠へ行くこと。

・「一たん」十二メートル五十センチメートル。

・「一丈」約三メートル。

・「かほより肌」顔より顎や首、胸の合わせの間の露出している肌部分。

・「かくやく」既出既注。「赫奕」で、光り輝くさま。

・「たんごん」既出既注。「端嚴」で、きちんと整っていて威厳のあるさま。

・「王母(わうぼ)が桃林(たうりん)にま見え」不老長寿の妙薬たる桃の生い茂った仙境