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2018/06/25

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「仰臥漫録」

 

     「仰臥漫録」

 

 「墨汁一滴」連載中は、前年のような気力はないにしても、執筆を妨げるほどの容体もなかったらしく、厄月(やくづき)の五月もまたどうやら通過した。『ホトトギス』にも「死後」「吾寒園の首に書す」「病牀俳話」「くだもの」など、比較的多くの文章を発表している。「くだもの」に関する記憶を叙した一篇は、枯淡の基に精彩があり、過去の事実を語っているにかかわらず、現在その境にあるの思(おもい)あらしむるものであった。俳句の選も中途共選となり、共選も困難になって他の選句の上に「規」の一字を記すのみと変ったが、その後は長く選から遠ざからざるを得なかった。但(ただし)鳴雪翁の許(もと)に催される『蕪村句集』輪講だけは、あとから筆記を閲(けみ)して自己の意見を書加えていたようである。

[やぶちゃん注:「死後」は自己の死・葬送空想の恐怖を諧謔的に反転映像させた怪作である(しかし初読時、私は、度に過ぎたその滑稽に、逆に子規の内奥の絶対的に孤独な真正の死への恐怖を哀しく見たのを記憶している)。新字新仮名なら「青空文庫」等にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「花枕 子規選集」(大正五(一九一六)年新潮社刊)のそれがよかろう。明治三四(一九〇一)年二月初出。

「吾寒園の首に書す」「吾寒園」はこの年の二月一日に亡くなった、既出既注の子規の幼馴染みの友人竹村鍛(きたう 慶應元(一八六六)年~明治三四(一九〇一)年:河東碧梧桐の兄(河東静渓(旧松山藩士で藩校明教館の教授であった河東坤(こん)の号)の第三子で、河東銓(静渓第四子)の兄)。帝国大学卒業後、神戸師範から東京府立中学教員を経て、冨山房で芳賀矢一らと辞書の編集に従事し、亡くなる前年、女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授となった。号は錬卿(れんきょう)・黄塔)の作品で、本篇はその追悼文でもある。

「くだもの」新字新仮名なら「青空文庫」にあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(明治三七(一九〇)年俳書堂刊「子規遺稿 第三編 子規小説集」)の画像から正字正仮名で読める。同年四月初出。]

 

 四月中『寒玉集』の第二編が出版され、五月には『春夏秋冬』の春の部が出た。『春夏秋冬』は『新俳句』に次ぐ俳句の選集で、居士は病をつとめて春の部だけの選抜を了え、序及凡例も自ら草した。この序及凡例は『春夏秋冬』の巻首に掲げられるに先って「墨汁一滴」に掲げられた。

[やぶちゃん注:「春夏秋冬」俳句選集。明治三四(一九〇一)年~明治三六(一九〇三)年刊。春・夏・秋・冬と新年の四季四冊。正岡子規一門による『日本』派の句集。子規が撰した春の部より刊行を始めたが、続刊の三冊は子規の病状悪化のため、河東碧梧桐と高浜虚子の二人が共撰した。全体に定型が守られており、穏やかな安定感に富む絵画的な句が多い(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。同「序」は「墨汁一滴」明治三四(一九〇一)年五月十八日クレジット分に載るが、ここでは一つ、所持する「春夏秋冬」復刻版(全四巻)で翻刻しておくこととする(私は近い将来、この「春夏秋冬」全巻も電子化翻刻したいと考えている)。

   *

春夏秋冬

     序

春夏秋冬は明治の俳句を集めて四季に分ち更に四季の各題目によりて編たる一小册子なり。

春夏秋冬は俳句の時代において「新俳句」に次ぐ者なり。

新俳句は明治三十年三川の依托より余の選拔したる者なるが明治三十一年一月余は同書に序して

[やぶちゃん注:以下の引用部は、原典では全体が一字下げ。]

(畧)元祿にもあらず天明にもあらず文化にもあらず固より天保の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ來るを見る(畧)しかも此特色は或る一部に起りて漸次に各地方に傳播せんとする者この種の句を「新俳句」に求むるも多く得難かるべし。「新俳句」は主として模倣時代の句を集めたるには非ずやと思はる(畧)但特色は日を逐ふて多きを加ふ。昨集むる所の『新俳句』は刊行に際する今已にその幾何か幼稚なるを感ず。刊行し了へたる明日は果して如何に感ぜらるべき。云々

といへり。果して新俳句刊行後新俳句を開いて見る毎に一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は新俳句中の佳什を求むるに十の一だも得る能はず。是に於いて新に俳句集を編むの必要起る。然れども新俳句中の俳句は今日の俳句の基礎をなせる者宜しく相參照すべきなり。

新俳句編纂より今日に至る僅に三四年に過ぎざれども其間に於ける我一個又は一團體が俳句上の經歷は必ずしも一變再變に止まらず。しかも一般の俳句界を槪括して之を言へば「蕪村調成功の時期」とも言ふべきか。

蕪村崇拜の聲は早くも已に明治二十八九年の頃に盛なりしかど實際蕪村調とおぼしき句の多く出でたるは明治三十年以後の事なるべし。而して今日蕪村調成功の時期といふも他日より見れば如何なるべきか固より豫め知る能はず。

太祇蕪村召波几董らを學びし結果は啻に新趣味を加へたるのみならず言ひ廻しに自在を得て複雜なる事物を能く料理するに至り、從ひてこれまで捨てゝ取らざりし人事を好んで材料と爲すの異觀を呈せり。これ余がかつて唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」といふ議論を事實的に打破したるが如し。

春夏秋冬は最近三四年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思へり。しかも俳句切拔帳に對して擇ばんとすれば俳句多くして紙數に限りあり遂に茫然として爲す所を知らず。辛うじて擇び得たる者亦到底俳句界を代表し得る者に非ず。されど若し新俳句を取つて之を對照せば其差啻に五十步百步のみならざるべし。

  明治卅四年五月十六日   獺祭書屋主人

   *]

 

 この時分の居士は寝返りすることも困難になっていた。畳に二三ヵ所麻で簞笥の鐶(かん)の如きものを拵え、これにつかまって寝返りを扶けようという方法を講じたことが、五月十日の事を記した「墨汁一滴」にある。苦痛は想像の外である。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「墨汁一滴」初出切貼帳冊子で電子化しておく(一部で濁点を加えた)。

   *

五月十日、昨夜睡眠不定、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を明けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度[やぶちゃん注:華氏。十六・六度。]、昨日は朝來引き續きて來客あり夜寢時に至りしため墨汁一滴を認むる能はず因つて今朝つくらんと思ひしも疲れて出來ず。新聞も多くは讀まず。やがて僅に睡氣を催す。蓋し昨夜は背の痛く、終宵体溫の下りきらざりしやうなりしが今朝醒めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。

睡る。目さませば九時半頃なりき。稍心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使して神田に持ちやらしむ。

十一時半頃午餐を喰ふ。松魚のさしみうまからず半人前をくふ。牛肉のタヽキの生肉少しくふ、これもうまからず。齒痛は常にも起らねど物を嚙めば痛み出すなり。粥二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五六箇。蜜柑五箇。

神田より使歸る。命じ置きたる鮭のカン詰を持ち歸る。こは成るべく齒に障らぬ者をとて擇びたるなり。

週報應募の牡丹の句の殘りを檢す。

寐床の側の疊に麻もて簞笥の環の如き者を二つ三つ處々にこしらえ[やぶちゃん注:ママ。]しむ。疊堅うして疊針透らずとて女ども苦情たらだらなり。こは此麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶けんとの企なり。此頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのために斯る窮策を發明したる譯なるが、出來て見れば存外便利さうなり。

繃帶取替にかゝる。昨日は來客のため取替せざりしかば膿したゝかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、輕く拭はるゝすら堪へ難くして絶えず「アイタ」をぶ。はては泣く事例の如し。

浣腸すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結せしと見えたり。進退谷まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。此二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。

著物二枚とも著かふ、下著したぎはモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。

三島神社祭禮の費用取りに來る。一匹やる。

繃帶かへ終りて後体も手も冷えて堪へ難し。俄に燈爐をたき火鉢をよせ懷爐を入れなどす。

繃帶取替の間始終右に向き居りし故背のある處痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥のまゝにて牛乳一合紅茶略同量、菓子パン數箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち來る。

豆腐屋蓑笠にて庭の木戸より入り來る。

午後四時半体溫を驗す、卅八度六分。しかも兩手猶冷此頃は卅八度の低熱にも苦むに六分とありては後刻の苦さこそと思はれ、今の内にと急ぎて此稿を認む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱發してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。

雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹は皆散りて、西洋葵の赤き、をだまきの紫など。

   *

「西洋葵」は思うに、双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属アメリカフヨウ(草芙蓉(くさふよう))Hibiscus moscheutos(英語: rose mallowmallow はアオイ科、或いは特にゼニアオイ(Malvaceae 亜科ゼニアオイ属ゼニアオイ Malva mauritiana を指す語)である)辺りではなかろうか

 なお、この前日のリンク先を見られたい。

 やはり、この切貼帳はただものではないのだ! 切貼りではなく、何と! 正岡子規自筆(!)と思しい原稿が貼り付けられてあるではないか!

   *

 墨汁一滴(五月十一日記) 規

試に我枕もとに一包若干の毒藥を置け。而して余が之を飲むか飲まぬかを見よ。

   *

この文章を原稿で見ると、痛烈である。]

 

 八月二十六日、子規庵に俳談会なるものが催された。突然の催であったが、それでも二十人ばかり集った。前年末の蕪村忌以来、絶えてなかった会合だけに、はじめて居士を見るというだけで満足した人もあったらしい。席上居士は庭前の糸瓜及夕顔の句を五句ほど作り、これを追加の話題にした。

 

 「仰臥漫録」の筆を執りはじめたのは九月に入ってからである。「仰臥漫録」は居士の日記であるが、単純な日記ではない。三度の食事や間食に至るまで、日々の食物が克明に記されているかと思うと、突として何かの感想が出て来る。画があり、歌があり、句がある。居士の日記として現在伝わっているのは、前にもちょっと記したように、二十五、六年と三十年の一部に過ぎぬが、「仰臥漫録」の内容は従前の日記の如きものではない。人間の手に成ったこの種の記録として、「仰臥漫録」ほど真実味に富んだ、しかも興趣の多いものは他に類例が少いのではあるまいかと思う。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は総て全体が二字下げ。何故か、ネット上には「仰臥漫録」の正字正仮名で読めるデータが画像を含めて存在しないので、「子規居士」で校合した。但し、「子規居士」ではひらがながカタカナであるため、読み易さを第一として、底本のひらがなを原則、採用した。なお、一部、底本は引用に増補がしてある。]

 

絲瓜の花一つ落つ 茶色の小き蝶低き雞頭にとまる 曇る 追込籠のジヤガタラ雀いつの間にか籠をぬけて絲瓜棚松の枝など飛びめぐるを見つける 鄰家の手風琴聞ゆ

ジヤガタラ雀隣の庭の木に逃げる 家人籠の鐡網を修理す 蟬ツクヽヽボーシの聲暑し 日照る 蜻蛉一つ二つ 揚羽、山女郎(やまぢよらう)或は去り或は來る 梨をくふ

 

というような平穏な観察もある。

[やぶちゃん注:九月九日の条より。

「ジヤガタラ雀」既出既注。スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。]

 

今年の夏馬鹿に熱くてたまらず、新聞などにて人の旅行記を見るとき吾もちよいと旅行して見ようと思ふ氣になる、それも場合によるが谷川の岩に激するやうな涼しい處の岸に小亭があつてそこで浴衣一枚になつて一杯やりたいと思ふた。

『二六』にある樂天の紀行を見ると每日西瓜を食ふて居る、羨ましいの何のてヽ

大阪では鰻の丼を「マムシ」という由、聞くもいやな名なり、僕が大阪市長になったら先づ一番に布令を出して「マムシ」という言葉を禁じてしまふ。

 

というような超然たる感想もある。

[やぶちゃん注:九月十六日の条より。

「『二六』にある樂天の紀行」大衆紙『二六新報』に記者で門弟でもあった中村楽天が同紙に載せた紀行記事と思われる。中村楽天(慶応元(一八六五)年~昭和一四(一九三九)年)は播磨国辻井村(現在の兵庫県姫路市)出身の俳人でジャーナリスト。本名は中村修一。ウィキの「中村楽天」によれば、明治一八(一八八五)年に上京し、二十六歳の時、『徳富蘇峰の主宰する国民新聞に記者として入社、のち『国民之友』の編集者となる。国木田独歩と交流し』、『青年文学』を刊行している。三十二歳になって『俳句を学び』初め、子規の『ホトトギス』同人となって『子規門として教えを受け』た。明治三一(一八九八)年、『子規が直野碧玲瓏、上原三川とともに出版した「日本派」最初の類題句集『新俳句』(民友社)の編集や刊行にも尽力する。その後、和歌山新報の記者を経て』明治三三(一九〇〇)年に『秋山定輔の二六新報に入社。そこで主宰した二六吟社が楽天の名を高めることにな』った。『二六新報』の『売れ行きも相まって、与謝野寛(のちの与謝野鉄幹)や伊原青々園、喜谷六花など、多くの作家、歌人、俳人を輩出した。子規亡き後は同門である篠原温亭や嶋田青峰が主宰した『土上』の同人となり、晩年は自身も俳誌『草の実』を創刊、主宰した』。『口が悪く』、『皮肉や毒舌を公言して憚らない人物』で、『実際に伊藤博文首相を侮辱した罪で、禁錮』二『ヶ月の刑を受け』、服役した経験がある。なお、彼は『奇しくも』、『師である子規と同月同日の』昭和十四年九月十九日、七十四歳で没している。]

 

 そうかと思うとまた、自分の喰べる梅干の核(ため)から出発して

 

貴人の膳などには必ず無數の殘物(のこりもの)があつてあたら掃溜(はきだめ)に捨てらるゝに違ひない、肴の骨には肉が澤山ついてゐるであらう、味噌汁とか吸物とかいふものも皆迄は吸ひ盡してないであらう、斯ういふ者こそ眞に天物(てんぶつ)を暴(ぼう)何とかする者と謂ふべしだ。之を彼(かの)孤兒院とか養育院とかに寄附して喰はすやうにしたら善いだらう。自分の内でも牛乳を捨てることが度々あるので、いつでも之を乳のない孤兒に吞ませたらと思ふけれど仕方がない。何か斯ういふ處へ連絡をつけて過を以て不足を補ふやうにしたいものだ。

兵營や學校の殘飯は貧民の生命であるといふから家々の殘飯も集めて廻るわけに行かないだらうか。さう思ふと犬や猫を飼ふて牛肉や鰹節をやるなどは出來たことでない、小鳥に粟をやるさへ無益な感じがする。

 

という風に、対社会的な意見となって現れることもある。病牀に釘付にされて寝返りも自由に出来ず、日夜呻吟している人の書くものとは思われない。

[やぶちゃん注:九月十九日の条より。

「天物を暴何とかする」は「(天物を)暴殄(ぼうてん)す」であろう。「暴殄」自体が「天の物を損ないたやすこと」或いは「物品を大切にせず、あたら消耗すること」を言い、「殄」は「尽きる・尽くす・絶つ・悉く」の意である。]

 

 病苦の問題にしてもそうである。居士は病のために苦しむことは苦しんでも、病のために役せられてはいない。「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕樣がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は默つてこらへて居るかする。其中で默つてこらえて[やぶちゃん注:ママ。]居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる」と『墨汁一滴』にある通り、強いて平気を装ったりはしないが、病に任しながら時に病を離れるところがある。

[やぶちゃん注:「役せられてはいない」「えきせられてはいない」で使役されて、使われてはいない、の意。

「墨汁一滴」からの引用は四月十九日の全条。。]

 

こんなに呼吸の苦しいのが寒氣のためとすれば此冬を越すことは甚だ覺束ない。それは致し方もないことだから運命は運命として置いて醫者が期限を明言してくれゝば善い。もう三ケ月の運命だとか半年はむつかしいだらうとか言ふてもらひたい者ぢや。それがきまると病人は我儘や贅澤が言はれて大に樂(らく)になるであらうと思ふ。死ぬる迄にもう一度本膳で御馳走が食ふて見たいなどと云ふて見たところで今では誰も取りあはないから困つてしまふ。若しこれでもう半年の命といふことにでもなつたら足のだるいときには十分按摩してもらふて食ひたいときには本膳でも何でも望み通りに食わせてもらふて看病人の手もふやして一擧一動悉く傍(そば)より扶けてもらふて西洋菓子持て來いといふとまだ其言葉の反響が消えぬ内西洋菓子が山のやうに目の前に出る、カン詰持て來いといふと言下にカン詰の山が出來る、何でも彼でも言ふ程の者が疊の緣(へり)から湧いて出るといふやうにしてもらふ事が出來るかも知れない。

 

という「仰臥漫録」の一節だけ見ても、居士の心境が如何なるものであったかを知り得るであろう。こう書いた居士がこの年の誕生日に当って岡野の料理を取寄せ、平生看護の労に酬いんがため、特に家内三人でこれを食い、「蓋し亦余の誕生日の祝ひをさめなるべし」として会席膳の献立を記しているのを読むと、われわれも涙なきを得ない。

[やぶちゃん注:前の長い引用は九月二十九日の条より。

「この年の誕生日」これは非常に探しづらい。何故なら、この誕生日は旧暦で換算した日であるからである。正岡子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)で、明治三四(一九〇一)年の旧暦九月十七日は新暦十月二十八日に当たる。ところが、さらに実は、この年はその誕生日の祝いを繰り上げて、前日に祝っており、宵曲の言っている記載は十月二十七日の内容だからである。やや長いが、「仰臥漫録」の十月二七日と二十八日の記事を翻刻する。岩波文庫版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

十月廿七日 曇

 明日は余の誕生日にあたる(舊曆九月十七日)を今日に繰り上げ晝飯に岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食ふ。これは例の財布の中より出たる者にていささか平生看護の勞に酬いんとするなり。けだしまた余の誕生日の祝ひをさめなるべし。料理は會席膳に五品

 さしみマグロとサヨリ 胡瓜 黃菊 山葵

 椀盛 莢豌豆(さやゑんどう) 鳥肉 小鯛の燒いたの 松蕈(まつたけ)

 口取 栗のキントン 蒲鉾 車鰕(くるまえび) 家鴨 蒲鉾 煮葡萄

 煮込 アナゴ 牛蒡 八つ頭 莢豌豆

 燒肴(やきざかな) 鯛 昆布 煮杏(にあんず) 薑(はじかみ)

 

 午後蒼苔來る。四方太來る。

 牛乳ビスケツトなど少し食ふ 晩飯は殆んど食へず。

 料理屋の料理ほど千篇一律でうまくない者はないと世上の人はいふ。されど病狀にありてさしみばかり食ふて居る余にはその料理が珍らしくもありうまくもある。平生臺所の隅で香の物ばかり食ふて居る母や妹には更に珍らしくもあり更にうまくもあるのだ。

 去年の誕生日には御馳走の食ひをさめをやるつもりで碧四虛鼠四人を招いた。この時は余はいふにいはれぬ感慨に打たれて胸の中は實にやすまることがなかつた。余はこの日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ庭の松の木から松の木へ白木棉を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するからこの白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫とさしたので右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 待ちかねた四人はやうやう夕刻に揃ふてそれから飯となつた。余は皆に案内狀を出すときに土産物の注文をしておいた。それは虛子に「赤」といふ題を與へて食物か玩具を持つて來いといふのであつたが虛子はゆで卵の眞赤に染めたのを持つて來た。これはニコライ會堂でやることさうな。鼠骨は「靑」の題で靑蜜柑、四方太は「黃」の題で蜜柑と何やらと張子の虎とを持つて來た。碧梧桐は茶色、余は白であつたが何やら忘れた。食後次第に話がはずんで來て余は晝の間の不安心不愉快を忘れるほどになつた。余は象の逆立(さかだち)やジラフの逆立のポンチ繪を皆に見せうと思ふて頻りに雜誌をあけて居ると四方太は張子の虎の髯(ひげ)をひねり上げながら「獨逸皇帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

帝だ獨逸皇帝だ」などと言ふて居る。實に愉快でたまらなんだ。

 それに比べると今年の誕生日はそれほどの心配もなかつたが余り愉快でもなかつた。體は去年より衰弱して寐返りが十分に出來ぬ。それに今日は馬鹿に寒くて午飯(ひるめし)頃には余はまだ何の食慾もなかつた。それに昨夜善く眠られぬので今朝は泣(な)かしかつた。それでも食へるだけ食ふて見たが後はただ不愉快なばかりでかつ夕刻には左の腸骨のほとりがく痛んで何とも仕樣がないのでただ叫んでばかり居たほどの惡日であつた。

 

 

十月廿八日 雨後曇

 午後左千夫來る 丈の低き野菊の類を橫鉢に栽ゑたるを携へ來る

 鼠骨來る

 包帶取換の際左腸骨邊の痛み堪へ難く號泣又號泣 困難を窮む

 この日の午飯は昨日の御馳走の殘りを肴(さかな)も鰕も蒲鉾も昆布も皆一つに煮て食ふ これは昨日よりもかへつてうまし お祭[やぶちゃん注:前日の誕生祝いを指す。]の翌日は昔から さい[やぶちゃん注:「采」。]うまき日なり

 晚餐は余の誕生日なればにや小豆飯なり 鮭の味噌漬けと酢の物(赤貝と烏賊)の御馳走にて左千夫鼠骨と共に食ふ

 食後話はずむ 余もいつもより容易(たやす)くしやべる 十時頃二人去る

    *

因みに、「春耕俳句会」公式サイト内の子規の四季 (73) 201610月号 子規の誕生日には、この「仰臥漫録」を引いて、詳しい説明が載るが、その原文を見ると、岩波版とは表記に異同があり、やはり原文を見たい気がしてきた(「仰臥漫録」を電子化したい強い思いがあるのだが、これでは、正規表現のものをどこかで手に入れなくては、という気がした)。「例の財布」については、『子規が「突飛な御馳走」を食べるための小遣錢が欲しくなり、虛子から借りることにした』二十『圓のうちの』十一『圓と、所藏の俳書すべてを讓渡する約束で、岡麓から受け取った前金』二『圓などを入れて寢床の上にぶら下げていたもの。律が縫った赤と黃の段ダラの袋狀の財布に、麓がくれた更紗の錢入れ袋もそのまま入れてあったらしい』とある。さらに『岡野の料理』二『人前を』三『人で食べたとあるから』、一『人前を子規が食べ、母と妹でもう』一『人前を食べたのであろう。豪華な會席膳は、病床で刺身ばかり食べている子規にも珍味であった。まして平生は香の物ばかりで濟ませている八重と律にとっては、この上ないご馳走であったろう』とある。なお、ここで回想される一年前の誕生日祝いは、正しく明治三三(一九〇〇)年十一月八日(旧暦九月十七日)に行われたが、これは既に先の最後の写真撮影にも出た部分である。虚子の持って来たのは、所謂、復活祭の卵、「イースター・エッグ」(Easter egg)である。]

2018/06/24

大和本草卷之八 草之四 海蘿(フノリ)

 

【和品】

海蘿 順和名抄云不乃利〇處々ノ海濱ノ石ニ付テ

 生スチイサキヲ小ブノリト云羹トシテ食ス其味甘シ

 其大ナルヲ水ニ洗干シ貯テ糊トス紙工コレヲ用ユ民

 用多シ又火ニ煨シ柿漆ニ和乄紙ヲツギ合スルニ用ユ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

海蘿(フノリ) 順、「和名抄」に云はく、「不乃利」。〇處々の海濱の石に付きて生ず。ちいさきを「小ブノリ」と云ふ。羹〔(あつもの)〕として食す。其の味、甘し。其の大なるを、水に洗ひ干(ほ)し、貯へて糊〔(のり)〕とす。紙工、これを用ゆ。民用、多し。又、火に煨し、柿-漆(しぶ)に和して、紙をつぎ合はするに用ゆ。

[やぶちゃん注:私が殊の外好きな、紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属 Gloiopeltis のフノリ類(フノリという和名種はいないので注意)。本邦産種は、

ハナフノリ Gloiopeltis complanata

フクロフノリ Gloiopeltis furcata

マフノリ Gloiopeltis tenax

であるが、食用に供されるのは後者のフクロフノリ・マフノリの二種である。マフノリは藻体内部に粘液が詰まって中実で、分布がやや北に偏るのに対し、やや大型の前者フクロノリは内部が空洞である。食感が異なり、私は孰れも好きである。ウィキの「フノリには、『「布海苔」と漢字で書くこともあるが、ひらがなやカタカナで表記されることのほうが多い。貝原益軒の『大和本草』の中では「鹿角菜」や「青角菜」と記されている。中国語では「赤菜」と書かれる』(下線太字やぶちゃん。とあるんだが、ここにちゃんと「フノリ」はあるぞ?! この筆者が言っているものの内、「鹿角菜」の方は、この「大和本草卷之八」の海藻部の最後にある「鹿角(ツノマタ)菜」のことだが、これは取り敢えず「ツノマタ」とあるんだから、紅藻植物門紅藻綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus と考えていいだろうに? 「青角菜」? どこにも出てこんで、そんなもん!)『マフノリはホンフノリと呼ばれることもある。マフノリ、フクロフノリなどは食用とされ、狭義にはこれらのみをフノリと呼ぶこともある』。『岩礁海岸の潮間帯上部で、岩に付着器を張り付けて生息する。日本全国の海岸で広く見られる』。『フノリは古く』は『食用よりも糊としての用途のほうが主であった。フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の』一『つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた』。『ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする』。現在の食用のそれは、二月から四月に『かけてが採取期で、寒い時のものほど風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある』。『乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると』、『溶けて粘性が出るので注意が必要である』。『その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある』とある。

「煨し」読み不詳。「廣漢和辭典」を見ると、音は「ワイ」だが、どうもそう読んでいるとは思われない。意味は「火種を持った灰の中に埋めて焼く」であるが、どうもこれもピンとこない。現代中国語の「とろ火でとろとろ煮る・茹でる」の意がしっくりくるんだが。「いぶし」(熏し)とか読んでるのかなぁ。]

 

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 イトヨリ・黃イトヨリ (ソコイトヨリ)

 

仝イトヨリ

 

黃イトヨリ

Sokoitoyiri

 [やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。かく、この二図は上下で並んでいるが、但し、貼り交ぜたもので、一枚の紙には書かれていないので注意されたい。「仝」は謂わずもがなであるが、「同」の異体字である。前の図の「糸ヨリ鯛」(私はイトヨリダイに同定)と同じ、と言っているわけだが、ここはよく観察しなくてはいけない。上の魚はまず、下顎後部位置(胸鰭下)から尾部へ向かって一本、腹下部(もう少し下で逢ってほしいのだが)に有意に尾部へ向かって一本、計二本の黄色い縦縞が現認出来る。下の図は黄色くないが、しかし標題に「黃イトヨリ」とある。この二図の魚は体型は極めて酷似する。されば、上図は特徴的な黄縞から、

スズキ目スズキ亜科イトヨリダイ科イトヨリダイ属ソコイトヨリ Nemipterus bathybius

と同定する。而して、その縞が描かれていなくても、黄色いイトヨリを意味するキャプションを附している以上は、下部のそれも同種としておきたい。下の魚を何故、そう安易に同定出来るんだ、と文句を言われる向きもあろうかと思うが、さっきもちょっと言い添えたように、ソコイトヨリの下腹部の非常に鮮やかな黄色い縦縞は(腹部が白いために上の筋(こちらは赤い鱗によって実は個体によっては全く目立たない)より遙かにはっきり見える。どれだけ鮮やかかは「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ソコイトヨリ」やWEB魚図鑑」の「ソコイトヨリの画像群を見られたい)、実は腹部のずっと下方にあるので、向きによってはそれは見えなくなるからである。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(五) 五 突然變異説 / 第十六章 遺傳性の研究~了

 

     五 突然變異説

 

 親子兄弟の間でも幾らかの相違のあることは常であるが、稀には親とも兄弟とも飛び離れて著しく違つた者が生ずることがある。例へば普通の親から六本指の子供が出來るとか、普通の綠葉を持つた植物から白斑[やぶちゃん注:「しろふ」。]入りの變り物が出來るとかいふ類であるが、これ等は昔からたゞ變異中の特殊の場合と見倣すだけで、別に名稱も定めてなかつた。所が、ド・フリースは之に突然變異といふ新しい名を附け、性質が子孫に遺傳するのはこの類の變異のみであると論じ、之に依つて、生物各種の生じた原因を説明しようと試みた。突然變異説と呼ばれる今日名高い學説は卽ち之である。

 

Tukimisou_2

 

[月見草 (右)原種(左)變種]

[やぶちゃん注:左の図が非常に暗いので、飛ぶほどに明るさを大きくした。種は段落末の後注参照。]

 

Sidahensyu

 

[羊齒の一種中に現れた著しい變異]

[やぶちゃん注:種は不明。]

 

Koutyuuheni

 

[甲蟲の一種中に生ぜる最も著しい突然變異]

[やぶちゃん注:三図とも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた(後の蝸牛も同じ)。昆虫は苦手なのだが、背部の独特の模様から見ると、甲虫(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ(葉虫)上科ハムシ科レプチノタルサ属コロラドハムシ Leptinotarsa decemlineata か、その近縁種かなぁ?]

 

 前にも述べた通りド・フリースは遺傳や變異のことを研究するに都合のよい植物を探して居るとき、不圖[やぶちゃん注:副詞「ふと」。]月見草の一種に面白い變異のあるものを見附け、早速之を大學の植物園に移して多年その研究に從事して居たが、突然變異説の根抵とする事實はこの間に得たことである。その大要を述べて見ると、澤山に植ゑた月見草の中から稀に一見して他と異なつたものが一二本生ずることがあり、これから種子を取つて蒔いて見ると、その性質が純粹に子孫に傳はつて、一の新しい品種を造ることが出來た。例へば葉の滑かなもの、雌蘂の殊に短いもの、莖が太くて節の短いもの、葉脈が紅色を帶びて居るもの、葉の色の薄いもの、全體に小形なものなど、樣樣な品種が出來たが、ド・フリースは、これから論を立てて、自然界に於ける生物各種の出來たのも、自然淘汰によつて長い年月の間に漸々變化して生じたのではなく、各種ともに初は月見草の各品種と同じく、一囘の突然變異で起つたものであると説いて居る。實はかやうな例は月見草で初めて知れた譯ではなく、ダーウィンの著書にも已に幾つか掲げてある。脚の短い羊や角のない牛の品種が、斯くして出來たことは、已に第三章に述べたが、その他にも上顎の短い牛、蹄の一つよりない豚など、飼養動物の方にも幾らかの例があり、また園藝植物の方には更に澤山ある。野生の動植物に於ける突然變異の例を一二擧げれば、羊齒類の一種には、上圖に示してあるやうな樣々の著しい變異を示すものがあり、アメリカに産する甲蟲の一種にも幾通りもの變異がある。その他探して見たら色々のものがあるに違ひない。然しながら概していふと、突然變異は比較的に甚だ稀なもので、ド・フリースも月見草を見附ける前に樣々の植物を培養して見たが、一つも著しい變異を生ずるものはなかつた。

[やぶちゃん注:「前にも述べた通り」「第十六章 遺傳性の研究(一) 序・メンデルとド、フリース」参照。そこで私はこの「月見草」をこの場合は、リンク先のド・フリースの前注で示した通り、フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera stricta に同定した。その後、マツヨイグサ類の品種改良史などを管見しても見ても、また、ここで改めて示された原種と変種の図を見ても、私は同定を変える必要はない、と考えている。挿絵の原種と変種の違いは、見る限りでは、草体上部に見られる花の蕾の形状に大きな違いが認められるようには思う。]

 

 さてド・フリースは普通の變異のことを彷徨變異と名づけ、之と突然變異とは全く別種のものと見倣して、突然變異の方はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異の方は決してその性質を子孫に傳へることはない。隨つて彷徨變異なるものは生物の進化には何等の關係もない。新しい種屬の起る源は、全く突然變異のみに限ると説いて居るが、多くの事實に照らし合せて見ると、之は餘程疑はしい。先づ第一に、所謂彷徨變異と突然變異との相違を考へて見ても、前者には極端から極端までの間に細かい移行があり、後者には全くかやうな移行がないといふが、之も材料を極めて多數に集めて見たらばどうであらうか。例へば月見草にしても、一植物園内だけから材料を取れば、葉の大小、莖の長短などの彷徨變異は、一本一本の間の相違は眞[やぶちゃん注:「まこと」。]に僅であるに反し、突然變異の方は他との相違が顯著であらうが、世界中の、月見草を殘らず比べて見たならば、所謂突然變異もやはり細かい移り行きの階段によつて原種と相繋がつて居るのではなからうか。また所謂彷徨變異の方でも個體の數の少い場合には、一個一個の間の相違はやはり幾分か一足飛びなるを免れず、時には相應に著しいこともあらう。突然變異といひ彷徨變異といふも、實は單に程度の問題で、程度の低い突然變異と極端な彷徨變異とは、到底區別が附くわけのものではない。また從來突然變異と名づけ來つたものの中には、無數に生じた變異を培養者が若干の組に分けて、その中から各組の模範と見倣すべきものを選り出して、互に最も相異の著しいものを竝べたやうな場合も少くない。前に例に擧げたアメリカ産の甲蟲なども之である。彷徨變異と突然變異とを嚴重に區別する人は、ダーウィンは突然變異を度外した如くに論ずるが、ダーウィンは變異といふ中に、無論所謂突然變異をも含ませて考へた、倂し突然變異なるものは生ずることが極めて稀であるから、人が特に之を保護して子孫を繼續させる場合の外は、恐らく忽ち他に壓倒せられて、その性質も後には殘らぬであらうから、生物種屬の進化には比較的重要なものでないと論じたのであつて、著者の意見は全く之と同じである。

[やぶちゃん注:「彷徨変異」(fluctuation)。環境変異(environmental variation)。或いは個体変異(差)。生育環境の差や発育の途上で起る偶然的要因などの影響により、同一生物集団内の個体間に生ずる量的変異。遺伝的変異と対する。一般に、変異の大きさは、ある値を中心に連続的に分布する。この変異は遺伝しない(以上は「岩波生物学辞典」)。以下、平凡社「マイペディア」の「彷徨変異」では、全く同じ遺伝子構成をもつ個体の集りの中で見られる形質の違い。一本の植物に実った種子の大小・軽重などが、その例であり、形質の変動は、ある値を中心として両側に次第に減少していく山形の曲線、所謂、正規分布を示す。山の両端、則ち、値の小さいもの、或いは、大きいものを採って、子孫の形質の変動を調べても、中心値は変わらず、再び、同様の曲線を示す。単一の遺伝子群が環境条件の影響のもとに生み出すところの表現型の確率論的な変異と解すべきもの。現在では、この語は、殆んど用いられない、とある。]

 

Katatumurinoheini

 

[蝸牛の變異]

 

 また突然變異はその性質を子孫に遺傳するが、彷徨變異はその性質を遺傳せぬといふが、前にも述べた通り、低度の突然變異と極端の彷徨變異とは、區別が出來ぬのみならず、若し性質を子孫に遺傳する變異を總べて突然變異と見倣すならば、之と彷徨變異との區別は愈無くなつてしまふ。前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如きも、彷徨變異の兩端に位するものであつた。卽ち圖に示す通り、樣々の移行の階段のある變異の中から最も相異なつたものを取つて、その間に雜種を造つて見たら、その殼の色、模樣などが、一定の規則に隨つて子孫に傳はつたのである。かやうな例は他にも素より澤山にあるが、之から推し考へると、所謂突然變異なるものは、變異中の極端な場合を指すのであつて、普通の變異とはたゞ程度が違ひ、種屬の平均の性質に比して相違が著しいだけに、その遺傳が培養者の目に觸れるのであらうと思はれる。

[やぶちゃん注:「前にメンデルの分離の法則を述べるに當つて、例に擧げた蝸牛の二品種の如き」を参照。]

 

 ド・フリースの説に對して、こゝに詳しい批評を試みることは出來ぬが、著者は決して全然之に反對するといふ譯ではない。突然變異が生物新種屬の生ずる原因と成ることも無論あるべき筈で、現に一囘の突然變異が基となつて、新しい品種の出來ることは、ド・フリースの實驗にもその他にも幾つも確な例がある。また天然に於ても、或る突然變異が生じた場合に、丁度それがその時の生活狀態に適し、且その性質が優勢を以て遺傳して、第二代以後に純粹な一變種を成すといふ如きことがないとは限らぬ。併しながら著者の考へによれば、たとひかやうな場合があるとしても、之はやはりダーウィンのいうた自然淘汰の中に當然含まるべきもので、決してその範圍以外の別種の現象とは見倣されぬ。同時に生じた多くの變異の中から、生存競爭の結果として、適者のみが生き殘ることを自然淘汰と名づけるのであるから、その變異が突然變異であらうとも、彷徨變異であらうとも、孰れも自然淘汰のために材料を供給するものなることに違ひはない。たゞ突然變異と彷徨變異とを強いて區別し、性質の遺傳するのは突然變異のみに限るといふ説に對しては、前に簡單に述ベた如き理由により、到底賛成を表することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:現在でも突然変異を進化の原動力と考えている人がいるが、これは全くの誤りである。DNARNA上の塩基配列に変化が生ずる遺伝子突然変異や、染色体数や構造に変化が生ずる染色体突然変異は別だが、当たり前のことながら、多細胞生物の突然変異は生殖細胞で起こらない限りは遺伝はしない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十六章 遺傳性の研究(四) 四 各性質の獨立遺傳

 

     四 各性質の獨立遺傳

 

Endoudainidai

 

[碗豆の第二代雜種

(上右)靑、丸、(上左)黃、皺、(中)第一第雜種、黃、丸]

[やぶちゃん注:豆の様態が判り易い、学術文庫版を用いた。]

 

Toumorkosizatu

 

[「たうもろこし」の雜種]

[やぶちゃん注:学術文庫版を用いた。但し、原本では縦に配されてある図が学術文庫版では横に配されているので、九十度回転させ、立てて示した。]

 

 メンデルの實驗研究によつて明にせられたことの中で最も有益なのは、兩親の各性質がそれぞれ獨立に分離し、遺傳することである。前には兩親が何かたゞ一つの點で相異なつた場合を例に擧げて、その第二代以後に分離することを述べたが、初め兩親が二つ以上の點で相違するときには如何といふに、メンデルの實驗によれば、この場合には、兩親の相異なる各性質は、他に構(かま)はず獨立に分離し遺傳する。例へば、豆が靑くて丸い碗豆と豆が黃色で表面に皺のある碗豆との間に雜種を造つて見ると、靑に對しては黃、皺に對しては丸が優勢であると見えて、第一代雜種には悉く黃色で丸い豆ばかりが生ずるが、更に第二代となると、黃色で丸いもの、黃色で皺のあるもの、靑くて丸いもの、靑くて皺のあるものの四種類が出來て、然もその數が約九と三と三と一との割合に生ずる。これは何故かといふに、メンデルの考へた如くに、黃性と靑性と、若しくは丸性と皺性とが、同一の生殖細胞内に雜居せぬものとすれば、第一代雜種が成長して花の咲く頃には、その花粉にも胚珠にも、右の四種類のものが出來て、これが相合する時には十六通りの異なつた配合が行はれるが、混合性のものは、何時も外見上優勢の性質だけを現すから、之を通算すると以上の如き數の割合となるのである。ここに圖を掲げた「たうもろこし」の果實は、粒の色と形との二點で異なつた二品種間の第二代雜種であるが、粒に四種類あることは前の碗豆に於けると少しも違はぬ。動物界から同樣な例を一つ擧げれば、曾て外山氏が蠶に就いて行つた明瞭な實驗がある。卽ち、體が白くて黃色い繭を造る品種と、體に黑い橫紋があつて白い繭を造る品種との間に、雜種を造つたら、第一代のものは悉く體には橫紋があつて黃色の繭を造つたが、第二代には體に橫紋があつて黃色の繭を造るもの、體に橫紋があつて白い繭を造るもの、體が白くて黃色の繭を造るもの、體が白くて白い繭を造るものとの四種が、約九と三と三と一との割合に出來た。總べてこれ等の場合にも、初め兩親の相異なつた性質、例へば、豆の色の黃と靑、豆の表面の丸と皺、もしくは蟲の體の白と斑[やぶちゃん注:「まだら」。]、繭の色の白と黃の如くに相對した性質か二組づゝ別に離して考へると、孰れもメンデルの「分離の法則」に隨つて遺傳して居るが、各組が他に構はず恰も自身だけであるかのに分離し、遺傳するから、それが同一體の内で重なり合つて斯く樣々の性質の組合(くみあはせ)が出來るのである。また以上は各組の兩性質の間に優劣の判然したものに就いて述べたのであるが、若しも各組の兩性質の間に優劣の差が十分でない場合には、純優性のものと混合性のものとが外見上已に明に違ふから、第二代に於て相異なる種類の數が更に多く出來て、複雜になるはいふを待たぬ。

[やぶちゃん注:「外山氏」遺伝学者で蚕種改良家でもあった外山亀太郎(慶応三(一八六七)年~大正七(一九一八)年)。蚕を用いて、世界で初めて、動物で「メンデルの法則」を確認した学者として知られる。相模国愛甲郡小鮎村生まれ。明治二五(一八九二)年、帝国大学農科大学卒業。在学中に養蚕学教室で動物学教授石川千代松の指導の下、蚕の精子形成を研究し、明治三三(一九〇〇)年、その遺伝学的研究に着手した。主としてこの研究は農商務省の蚕業技師長としてシャム(現在のタイ)帝室養蚕研究所へ派遣されていた間(一九〇二年~一九〇五年)に行われた。研究成果は明治三十九年の大学紀要で発表されており、メンデルの遺伝研究の価値の「再発見」(一九〇〇年)からわずか六年後という早さは高い評価の対象となっている。大学卒業後、同助手・水産講習所教師を勤めた。明治二十九年には福島県蚕業学校の校長となるが、研究に熱中してしまい、排斥運動を受け、明治三十二年に退職、その後にシャムへ渡り、帰国後の明治三十九年に農学博士の学位を受け、明治四十一年に帝大助教授、三年後には原蚕種製造所の技師を兼務した。同年、ヨーロッパの養蚕事情視察に赴き、大正元(一九一二)年に帰国、大正六年には東京帝国大学教授となったが、この頃から、脊髄の病いに侵され、加療するも効なく、五十二歳で他界した。著書「蚕種論」(明治四一(一九〇九)年刊)で蚕の第一代雑種利用を提唱し、日本の蚕種業の発展に貢献、帝国発明協会から恩賜記念賞を贈られている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

 次に兩親が三つの點で相異なつて居る場合には如何といふと、之も全く前のと同樣で、第一代雜種には總ベて優勢の方の性質のみが現れ、第二代になると二の三乘卽ち八種の異なつたものに分れる。誰も知る通り碗豆には一粒每に外面に一枚の皮があり、内部は半球形の子葉二つで充ちて居るが、メンデル自身が行ふた例を擧げると、形が丸く、子葉が黃色で、外皮が茶色の碗豆と、表面に皺があり、子葉が綠色で、外皮の白い碗豆との間に、雜種を造つたら、第一代には形が丸くて、子葉の黃色い、外皮の茶色の豆ばかりが出來、第二代には次の八種類に分れた。文句を略して、表面の形と子葉の色と外皮の色とを各一字づゝ竝べて書くと、丸黃茶のもの、丸黃白のもの、丸綠茶のもの、丸綠白のもの、皺黃茶のもの、皺黃白のもの、皺綠茶のもの、皺綠白のものとの八種であるが、然も之が豫期の通りの數の割合に生じた。豫定の割合とは二十七、九、九、九、三、三、三、一の割合であるが、丸と皺、黃と綠、茶と白といふ如き相對して角力をとるべき二つの異なつた性質が、同一の生殖細胞内に雜居せぬとすれば、第一代雜種の生じた花粉にも胚珠にも、性質の組合せの異なつたものが各八種類づゝ出來て、これが相合する時には六十四通りの配合の仕方があり、而して混合性のものは總べて外見上優勢の性質を現すとすれば、以上の如き割合に成るべき筈であるから、之も學説の豫期する所と、實地試驗の結果とがよく一致したのであつて、メンデルの説の正しい證據と見倣すことが出來る。各組の兩性質の間に優劣の著しくない場合には、第二代雜種が外見上更に複雜になることはいふを待たぬ。

 かやうに兩親が二つ以上の點で相異なる場合に、それらの相異なつた性質が、各獨立に分離して遺傳するといふことは、メンデルの發見の最も大切な部分であつて、培養植物の品種改良を圖るに當つては頗る有望なものである。已に英國の或る學者はこの知識を應用して小麥の改良を試みた。卽ち收穫は多いが、白錆という黴[やぶちゃん注:「かび」。]のための病に罹り易い小麥と、收穫は稍少いが、この病に對して一向平氣な小麥との間に、雜種を造り、第二代に現れた種々の性質の組合の違ふものの中から、收穫が多くて白錆に罹らぬものを選び出し、終にこの兩性質を兼ね具へた新しい品種を造ることに成功した。かやうな例は今日の所では植物にもまだ極めて少く、動物には一つもないが、今後は恐らく同樣の方法で動植物ともに種々の良種が造られ得るであらう。

[やぶちゃん注:「白錆という黴」一般の植物の錆(さび)病は、カビ(黴)の仲間である担子菌門 Basidiomycota サビキン(錆菌)亜門 Pucciniomycotina サビキン目Pucciniales(またはUredinales)に属する種によって引き起こされる病気で、日本では五十六属約七百五十種が知られており、ムギ・マメ・マツ・ナシなど、多くの重要な農作物や林木に寄生して被害を与える(寄生を受けた植物は葉や茎に胞子の塊(胞子層)を多数作るが、そのの胞子の塊が金属に生じた錆によく似ていることに由来する)。しかしながら、ここで丘先生の言われるムギの「白錆」病は、調べる限りでは、真正のサビキン類ではなく、全く別の不等毛類 Heterokonta に属する卵菌門 Oomycota シロサビキン目 Albuginales シロサビキン科 Albuginaceae に属するる菌類によって引き起こされるものである。ところが、ムギの白さび病で調べてみても、出てこない。寧ろ、サビキン目の錆菌類によって引き起こされれるムギ類の「黒さび病」「黄さび病」(サビキン目Puccinia属であるが、それぞれ発生する植物種により菌種も異なる)がある。或いは、丘先生は何か勘違いをしておられる可能性があるのかも知れない。失礼乍ら、「白」は余計なのかも知れない。なお、この時代、「白錆病」(根菜類に多く見られるらしい)がサビキン目の種によるものと考えられていた可能性は高いように思われる。]

 

 以上は雜種を造る兩親が、ただ二つか三つの性質だけで相異なるものと假定して述べたのであるが、實際に於てはかやうなことは極めて稀であつて、たとひ同一種に屬する個體と雖も、單に一點もしくは二三の點だけで相異なり、他の點に於ては悉く絶對に相同じといふ如きものは滅多にない。されば假に總べての性質がメンデルの考へた通りに第二代以後に分離すると見倣しても、實際に於て兩親の孰れかと寸分違はぬ子孫の出來る望みは極めて少ない。兩親がたゞ一つの性質で相異なる場合には、第二代に至つて兩親の各と相同じものが總數の四分の一づゝ出來る勘定であるが、兩親が二つの性質で相異なる場合には、第二代雜種の中、兩親の何れかと相同じものが僅に十六分の一づゝよりなく、兩親が三つの性質で相異なる場合には六十四分の一づゝ、四つの性質で相異なる場合には、二百五十六分の一づゝよりない。若し兩親が十の性質で相異なるとすれば、孫の代には約百萬の中に一つづつだけより、兩親の何れかと全く同じものがない勘定になる。かやうな次第であるから、一個一個の性質は分離するものとしても、個體としては皆兩親の性質の種々に相混じたもののみである。メンデルが特殊の材料について實驗するまで、誰も遺傳する性質の分離に氣が附かなかつたのもこの故であらう。

 遺傳する性質の優劣にも不完全なものが多く、分離にも不十分なものが幾らもある如く、各性質が獨立に遺傳するといふても、決して總べての場合に獨立に遺傳する譯ではない。近來の研究によると、二つ以上の性質が組み合つたままでなければ遺傳せぬこともあり、また他の性質から影響を蒙つて左右せられることもある。これ等に就いて詳しく述べることは略するが、遺傳の現象はなかなか複雜なもので、研究すればするほど一定の型に嵌まらぬものが出て來る。今日遺傳を研究する學者は、斯かる場合をもメンデルの型に嵌めて説明せんと試み、樣々の想像的の性質を考へ出した。例へば、雜種の第二代に色の變異が豫定通りにならぬ場合には、色を生ぜしめる性質の外に、色の發生を止める性質、色の發生を軟げる性質、色の發生を促す性質、色を深くする性質など、やう々な性質が兩親に具はつてあつたものと假定し、これ等の性質の組合によつて眼前の變異が生じたものと考へて居る。

 メンデルの發見した優劣の法則でも分離の法則でも、またはメンデル以後の雜種研究でも、兩親が已に有した性質が如何に子孫に傳はるかを調べるだけであるから、生物の進化を説明するに當つては、寧ろ間接に相觸れるのみである。幾億萬年の昔から今日までの間に、極めて簡單な先祖から次第に進化して複雜な生物各種が生じたのは、常に新しい變異が現れ、新しい性質が附け加はつて、子孫に傳はるの外に途はないから、新な變異は如何にして起るかといふ問題の方が、進化論に對しては遙に大切である。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  歌また歌

 

     歌また歌

 

 五月十三日、左千夫氏に与えた居士の書簡に「藤の歌山吹のうた歌又歌歌よみ人に我なりにけり」という歌がある。前年末に作りた「雪」の旋頭歌を新年の『日本』に揚げて以来、居士は殆どその歌を示さなかったが、四月二十八日に至って

 

 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

 

の歌にはじまる藤の十首が先ず「墨汁一滴」に現れた。これに端を発して、山吹の歌、岩手の孝子の歌、かしわ餅の歌、ほととぎすの歌という風に、十首ずつの短歌が引つづき発表されたが、五月四日の「しひて筆を取りて」という一連の歌がその中の絶唱であろう。

[やぶちゃん注:名吟「瓶(かめ)にさす」の載るそれを以下に初出(国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子)で示す。私は中学二年の時、この一首を詠んで落涙するほどの感銘を覚えたのを忘れない。

   *

夕餉したゝめ了りて仰向に寢ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有樣なり。艷にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。斯道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

  甁にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上

  にとゞかざりけり

  甁にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上

  に垂れたり

  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみか

  どの昔こひしも

  藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫

  さんと思ふ

  藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべか

  りけり

  甁にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れ

  んとす

  去年の春龜戸に藤を見しことを今藤を見て思

  ひいでつも

  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲き

  いでにけり

  この藤は早く咲きたり龜井戸の藤咲かまくは

  十日まり後

  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花

  よみがへり咲く

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

   *

「十日まり後」は「とをかまりのち」で音数律合わせのために「十日あまり後」を約したもの。「八入折の酒」「やしほりのさけ」で上代語。「何度も繰り返して醸(かも)した芳醇な酒」のこと。「八醞」「八塩折」或いは「やしぼり」と濁って読んだりもする。]

 

 佐保神の別れかなしも來ん春にふたゝび逢はんわれならなくに

 いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす

 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも

 別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ繪にかけるかも

 夕顏の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも

 くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに

 薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ

 若松の芽だちの綠長き日を夕かたまけて熱いでにけり

 いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 

 居士はこの歌の終(おわり)に「心弱くとこそ人の見るらめ」の一語を加えている。暮春の情と病牀の居士と、庭の風物とが渾然として一つのものになっていること、この一連の如きは少い。藤の歌の中にも「藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫さんと思ふ」「藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべかりけり」とあり、ここにまた「藤波の花の長ふさ繪にかけるかも」とあるが、この藤を画(えが)いて歌を題したものが今でも遺っている。紅の薔薇のふふむにつけても、五月という厄月(やくづき)の到ることを思い、夕顔の棚を作ろうとしながらも、秋まで持つべき命であるかということを念頭に浮べる。しかも居士は秋の草花の種を庭に蒔かしめ、命あらばそれを見ようとしているのである。この一連の歌を誦(しょう)して、居士の心持を直に身に感ぜぬというならば、その人は畢(つい)に詩を談ずるに足る人ではない。

[やぶちゃん注:「佐保神」(さほがみ(さおがみ))は「佐保姫」とも称し、春を司る神の名。奈良の都の東方には佐保山があったが(現在の奈良市佐法蓮佐保山附近であるが、開発が徹底的に進行してしまい、山の面影はない。ここ(グーグル・マップ・データ))、この方角は五行説で春に当たることに由来する。

「いちはつ」一初。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。屋根菖蒲。種小名 tectorum (テクトルム)はラテン語で「屋根の」の意味。和名はアヤメ類の中で一番先に咲くことに由来する。

「ふゝみぬ」蕾が膨らんだ。

「薩摩下駄」駒下駄に似た形を成すが、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多くは杉材で作る。

「いたつき」「勞(いたつき)」は病気。

「知らに」万葉以来の連語。「知る」の未然形に打消の助動詞「ず」の古型の連用形「に」が付いたもの。「知らないで・知らないので」であるが、ここは「知らず」がよかろう。

この藤を画いて歌を題したものが今でも遺っている」不詳。ネット上では捜し得なかった。

 

 五月九日の「墨汁一滴」にはこういうことが書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

今になりて思ひ得たる事あり、これ迄余が橫臥せるに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼の力與(あづか)つて多きに居りし事を。嚙みたるが上にも嚙み、和らげたるが上に和らげ、粥さへ嚙み得らるゝだけは嚙みしが如き、あながち偶然の癖にはあらざりき。斯く嚙み嚙みたるためにや、咀嚼に最(もつとも)必要なる第一の臼齒左右共にやうやうに傷(そこな)はれて此頃は痛み強く少しにても上下の齒をあはす事出來難くなりぬ。かくなりては極めて柔かなるものも嚙まずに呑み込まざるべからず。嚙まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、膓胃直に痛みて痙攣を起す。是に於いて衛生上の營養と快心的の娯樂と一時に奪ひ去られ、衰弱頓に加はり晝夜悶々、忽ち例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

 

 次の長短歌はこの文章の末に記されたものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ、初出では二字下げであるが、長歌が不具合を生ずるので、特異的に完全に行頭に上げて示した。なお、「虫」は初出のママ。]

 

さへづるやから臼なす、奥の齒は虫ばみけらし、はたつ物魚をもくはえず、木の實をば嚙みても痛む、武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の、ほそり行くかも

下總の結城の里ゆ送り來し春の鶉をくはん齒もがも

菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も來ずくらしかねつも

 

 居士の唯一の療養法は「うまい物を食う」にあった。この「うまい物」は多年の経験との一時の情況とによって定(さだま)るので、他人の容喙(ようかい)[やぶちゃん注:横から他人が口を出すこと。]を許さぬ底(てい)のものであったが、この療養法によって居士は垂死の病軀に一脈の活気を注入し、力を文学の上に伸(のば)し得たのである。かつて『ホトトギス』の「消息」において、一流の御馳走論を述べたこともあった。その御馳走を摂るべき第一関門たる歯が傷(そこな)われたのでは、居士の病牀生活は暗澹たらざるを得ない。「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」という歎声も、決して誇張の言ではないのである。

[やぶちゃん注:「さへづるやから臼なす」よく判らぬが、食事をするために口を動かすことを「さへづる」とし、咀嚼しようとしてみるのだけれど、ああっ!(間投助詞「や」)私の「臼」歯は役立たずで「から」(空)踏みするばかりの意か。「から臼」は「唐臼」を前提として「空」を掛けていよう。

「はたつもの」「畑つ物」で「はたけつもの」に同じ。粟・稗・麦・豆などの畑から穫れる農作物のこと(「つ」は「の」の意の上代の格助詞)。対義語は「たなつもの」(穀つ物)で対語的には稲を限定的に指す(但し、これは広く前者を含めた穀類を指す語でもある)。

「武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の」やはりよく判らぬが、全く咀嚼が不能になった結果、「粥汁」には「武藏野の甘菜辛菜を」「まぜても煮」ることが出来なくなったので(噛み切れぬから)、いや! 何とまあ! 何の美味そうな混ぜものもない「白」ら「け」きった熱い白粥、それを口に含んでは「我つく」落胆の溜「息の」白さ(粥の温度が高いから五月でも白い息となる)よ! という意味か。]

 

 「墨汁一滴」から会心の条を摘記(てっき)して行くとなれば、まだまだ容易に尽くべくもないが、三十四年には他に記さなければならぬものを控えているので、遺憾ながら割愛して先へ進もうと思う。「墨汁一滴」の稿は七月二日まで続いた。終らんとするに先って不折氏洋行の事があり、数日を費して送別の辞を述べた。『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事なども、この文中にある。

[やぶちゃん注:「『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事」明治二十七年の「『小日本』創刊の章のこと。初会のエピソードは六月二十五日クレジットの条に書かれてあり、そこから六月三十日までが中村不折の送別の記となっていて、短い七月一日と二日の記事で「墨汁一滴」は終わっている。漱石洋行に続く盟友の洋行(渡仏。不折の帰国は明治三八(一九〇五)年、で漱石同様、子規の死の床には居合わせることが出来なかった)といった友人の勇躍せんとして旅立つそれは、再び逢えないという感懐も含めて、子規にとっては非常に辛く淋しいものであったことは、彼の送別の語りや詩歌によって判り切ったことではあるが、強烈な芸術家意識を持った彼にはそれ故にこそ、激烈に耐え難いことだったのである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  「墨汁一滴」

 

    「墨汁一滴」

 

 「墨汁一滴」が『日本』に出はじめたのは一月十六日からである。居士がこれを草することを思立って、二回ほど文章を送ったところ、一向新聞に出ない。この事は大に居士を失望せしめた。そこで鼠骨氏に書を送って、場所は択ばぬ、欄外でも差支ない、欄外を借りて欄外文学なども洒落れているが、欄外二欄貸さないだろうか、といった。毎日書くつもりではじめた「墨汁一滴」が載らないようでは新聞も読みたくない、病中は楽(たのしみ)が少いから、一の失望に逢った時慰めようがない、というのである。この書簡が十五日附のもので、その翌日から「墨汁一滴」は紙上に現れたのであった。

[やぶちゃん注:「墨汁一滴」はここに書かれた通り、新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載された。それは、以前にも紹介した国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で総てが見られる。それにしても、二回分のそれが、一向に掲載されなかったのは何故なのか? 或いは最初のそれ(前章注に電子化してある)に、編集者である当の鼠骨の贈った地球儀の話が出ることから、これを原稿というよりも彼宛ての年初の挨拶吟と誤認したものか? 二回目の原稿(翌日一月十七日のクレジット)の原稿も一月七日の会に岡麓が持ち来った年始祝いの七草を植えた竹籠の話で、最後に、

 あらたまの年のはじめの七くさを籠に植ゑて來

 し病めるわがため

という歌で締めくくっており、或いは、鼠骨は、この「墨汁一滴」と表題した二つの原稿は単なる歳旦の言祝ぎの二篇であり、まだ多少は続くかも知れぬから、孰れどこかでその標題で完結するであろうものを纏めて発表しよう考えていたのかも知れぬ。ところが、上記のような本格連載ものとして子規が考えていたことを知って、慌てて掲載したものではなかったか?]

 

 「墨汁一滴」は最初から一行以上二十行以下ということを大体の限度としていた。その日その日思いついたことを記して行く点は『松蘿玉液』などに似ているけれども、文の短いに反して含蓄は甚だ多い。『松蘿玉液』以後における五年間が、単に居士の病苦をのみ募らしめたものでないことは、どの箇所を開いて見て明な事実である。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の第十二回目の一月三十一日クレジットのもの。切貼帳で校合した。句読点は底本と切貼のそれを合わせて用いた。以下も同じ。]

 

人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確實になるならならひなり。我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く步行(ある)き得ずともよし、庭の内だに步行き得ば、といひしは四、五年前の事なり。其後一、二年を經て、步行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに餘りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ程になりぬ。しかも希望の縮小は猶こゝに止まらず。座る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり。此次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釋迦は之を涅槃といひ耶蘇は之を救ひとやいふらん。

 

 こういう世界は『松蘿玉液』時代の居士の想像を許さぬところであった。「墨汁一滴」の人に与える感銘が『松蘿玉液』の比でないのは固より当然といわなければならぬ。

 居士は『日本』紙上におけるあらゆる執筆を廃し、「墨汁一滴」に一切を集中しようとした。歌に関する問題も俳句に関する問題も、やはり「墨汁一滴」で埒(らち)を明けようとした。格堂氏から預ったままになっていた平賀元義の歌を天下に紹介したのも「墨汁一滴」においてであった。居士は世に知られず、不遇の裏(うち)に一生を了った元義の歌が醇乎(じゅんこ)[やぶちゃん注:「純乎」とも書く。全く雑じり気のないさま。]たる万葉調なるを見て「一たびは驚き一たびは怪し」んだが、広くその歌を知らしめんとしてこの筆を執ったのである。「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」といい、

 

四家の歌を見るに、實朝と宗武とは氣高くして時に獨造[やぶちゃん注:初出に拠る。岩波文庫版もママ。底本は「独創」。]の處ある相似たり。但宗武の方、霸氣稍きが如し。曙覽は見識の進步的なる處、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但技倆の點に於いて調子を解する點に於いて曙覽は遂に元義に如かず。故に曙覽の歌の調子とゝのはぬが多きに反して元義の歌は殆ど皆調子とゝのひたり。されど元義の歌は其取る所の趣向材料の範圍餘りに狹きに過ぎて從つて變化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以なり。彼にして若し自(みづか)ら大歌人たらんとする野心あらんか、其歌の發達は固より此に止(とど)まらざりしや必せり。其歌の時に常則を脱する者あるは彼に發達し得べき材能の潛伏しありし事を證して餘あり。惜しいかな。

 

という。居士の結論は常に断々乎としている。平賀元義は居士にょって顕揚(けんよう)せられた最後の歌人であった。「墨汁一滴」十二回を費(ついや)した元義の事は、直(ただち)に『心の華』に転載せられた。

[やぶちゃん注:前にも述べたが、平賀元義の賞揚は「墨汁一滴」の二月十四日(クレジット)から始まり、二月二十六日までの、十二回、一日のブレイクもなしに連載されている。以上の長い引用部は最後の二月二十六日分の最終段落総てで、その前に本文中で引用されてある「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」という箇所も同日分の第三段落の冒頭部である。]

 

 歌に関する文章は必ずしも元義の事にとどまらぬ。有名な「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」という言葉もこの中にあり、短歌会の諸子に対する警策もまたこの中にある。或時の短歌会で、最もいい歌は誰にも解せらるべき者だという主張と、いい歌になるほどこれを解する人が少くなるという主張とが対立した一ことがあった。居士はこれを聞いて、「愚かなる人々の議論かな。文學上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて實地に就きて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ實地の歌を擧げよ。其歌の選擇恐らくは兩者一致せざるべきなり。歌の選擇既に異(こと)にして枝葉の論を爲したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか靑きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に屬すべきものならば赤き蛙も靑き蛙も兩方共にあるべし。我は解し易きにも善き歌あり、解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に」と「墨汁一滴」に書いた。こういう問題に対する居士の所論は、坦々たる中道を行くの概(おもむき)があった。

[やぶちゃん注:前者「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」は一月二十五日クレジットのもの。全文を初出で電子化する。ここは句読点もママとした。

   *

去年の夏頃ある雜誌に短歌の事を論じて鐵幹子規とへ並記し兩者同一趣味なるかの如くいへり。吾以爲へらく兩者の短歌全く標準を異にす、鐵幹是ならば子規非なり子規是ならば鐵幹非なり、鐵幹と子規とは並稱すべき者にあらずと。乃ち書を鐵幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は明星所載の短歌を評せん事を約す。葢し兩者を混じて同一趣味の如く思へる者の爲に妄を辯ぜんとなり。爾後病牀寧日少く自ら筆を取らざる事數月未だ前約を果さゞるに、此の事世に誤り傳へられ鐵幹子規不可並稱の説を以て尊卑輕重に因ると爲すに至る然れども此等の事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をして稍歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益〻加はり殊に筆を取るに惱む。終に前約を果す能はざるを憾む。若し墨汁一滴の許す限に於て時に批評を試るの機を得んか猶幸なり。

   *

また、後者の長い引用は、三月二十七日クレジット分のほぼ全文である。宵曲が訳してしまった以下を頭の附ければ、全文となる。

   *

先日短歌會にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに從ひいよいよ之を解する人少き者なりと。他の人は之に反對し遂に一場の議論となりたりと。

   *]

 

 落合直文氏の歌に対し、精細なる批評を試みたのも「墨汁一滴」においてであった。居士は毎日一首、多くても二首位の都合で、一々これを解析して微に入り細を穿つ評語を加えた。こういう精細な歌評は、居士以前に誰も企てぬものであったろうと思われる。

[やぶちゃん注:歌人で国文学者であった落合直文(文久元(一八六一)年~明治三六(一九〇三)年:陸前伊達藩の重臣鮎貝の家に生まれたが、国学者落合直亮(なおあき)の養子となった東京大学古典講習科中退。叢書「日本文学全書」の刊行や「日本大文典」などの国語辞典編輯等、国文学者としての業績の他に、「青葉茂れる桜井の」「孝女白菊の歌」の作者として知られ、和歌改良を目指して『浅香社』を結成、与謝野鉄幹・尾上柴舟らの門下を育てた。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)の歌への「墨汁一滴」での批評は三月二十八日クレジット分から始まり、七日連続で四月三日分まで行われている。]

2018/06/23

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  昨年今年明年

 

   明治三十四年

 

    昨年今年明年

 

 明治三十四年(三十五歳)[やぶちゃん注:一九〇一年。]には、前年の「新年雑記」にあるような軽快な事柄は見当らない。

 

 うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寐ずて年明にけり

 

というような状態で新年を迎えたのである。居士の枕頭には巻紙・状袋などを入れる箱があり、その上に置いた寒暖計に小さい輪飾が括りつけてあった。

 

 枕べの寒さ計(はか)りに新玉(あらたま)の年ほぎ繩をかけてほぐかも

 

という歌はこれを詠んだのである。

[やぶちゃん注:「うまい」は万葉語で「熟寢(寐)」「味眠」などの漢字を宛て、「快く眠ること・熟睡」の意の名詞である。この後者の一首は、直後の「墨汁一滴」の巻頭(底本は朱の手書きで一月十六日のクレジットが入る。)に載っている。以下に国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で翻刻したが、読み易さを考え、一部に句読点を追加して打った。

   *

病める枕邊に卷紙狀袋など入れたる箱あり、其上に寒暖計を置けり。其寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは、病中、いさゝか、新年をことほぐの心ながら、齒朶の枝の左右にひろごりたるさまも、いとめでたし。其下に橙を置き、橙に竝びて、それと同じ大きさ程の地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて、鼠骨の贈りくれたるなり。直徑三寸の地球をつくづくと見てあれば、いささかながら、日本の國も特別に赤く書く[やぶちゃん注:底本は手書きで二重線でそれを抹消して「そめら」に修正。底本の切貼帳の製作者は不明であるが、或いは、子規に非常に近い人物で、子規の命によって、初出を改稿したものの原本である可能性もあるか。以下の改稿部も総て現行の「墨汁一滴」の通りだからである。]れてあり。臺灣の下には新日本と[やぶちゃん注:手書きで「記」を挿入。]したり。朝鮮滿洲吉林黑龍江などは紫色の内にあれど、北京とも天津とも書きたる處なきは餘りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀は、此赤き色[やぶちゃん注:手書きで「と」を挿入。]紫色との如何變りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに狀袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、是れ、我病室の蓬萊なり。

  枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ繩を掛けてほ

  ぐかも

   *]

 

 この年『日本』にはじめて掲げたのは「書中の新年」及「御題の短歌を新年の紙上に載することにつきて」の二篇であった。「書中の新年」というのは「家人に命じて手に觸るゝ所の書籍何にても持ち來らしめ、漸次にこれを關してその中より新年に關する字句を拔抄(ばつしやう)」するという趣向のもので、その冒頭には次のように記されている。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。]

 

 明治卅四年は來りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病牀に在りて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せり。今年も亦病牀にありて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病牀にあり得るや否や。屠蘇を飮み得るや否や。雜煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を喰ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。發熱を犯して筆を執り、病苦に堪へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切に此苦の永く續かん事を望むなり。明年一月余は猶此苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を執りて復諸君に紙上に見(まみ)ゆる事を得るは實に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。

 

 「新年雑記」に記されたところと大体似ているけれども、前年に比べるとどこか迫った点がある。一年間に著しく進んだ病苦が自ら然らしむるのであろう。

 一年前にはじめて「新年雑詠」の短歌を募集し、『日本』に掲げた居士は、今年は旋頭歌を募ってその結果を新年の紙上に発表したが、選に入った者は僅に七人、各一首ずつに過ぎなかった。これは居士の病苦が多くの歌を選むの労に堪えなくなったのではない。居士の歌に臨む標準が次第に高く、一年前とは全く程度を異にするためである。この傾向は已に歌会を廃する少し前あたりからの評語にも見えているが、旋頭歌の選に至って更に顕著になった。旧来の惰性によって歌を作る者は、勢い振落されざるを得ぬ。一面からいえばこの傾向は、居士の歌の世界を前より狭くしたように見えたかも知れない。居士の選歌の標準が高まったということも、外聞からは容易に窺い得ぬものであるだけに、これに従って進む者は固より不退転の勇気を必要とする。居士の晩年になればなるほど、その選に入る顔触が少数者に限られた観があったのは、全くこのために外ならぬのであった。

 一月の『ホトトギス』には「初夢」及「蕪村寺再建縁起」が出ている。「初夢」は睡中(すいちゅう)に見た夢というよりも、むしろ居士が胸裏に描いた夢の方であろう。新年と共に病から脱却して方々年賀に歩いたり、汽車に乗って帰郷したりする、これらの夢は居士に取っては実現すべからざるものになってしまった。富士山を下りながら砂を踏みすべらして真逆様に落ちたと思えば、腰の痛み、背の痛み、足の痛み、身動きもならぬ現実に還らざるを得ない。軽快な「初夢」の文章が読む者にいうべからざる悲哀を感ぜしむるのはこのためであろう。

[やぶちゃん注:「初夢」は「青空文庫」のにあるが、新字新仮名で、国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂の「子規遺稿 第編 子規小品文集をお薦めする。

「蕪村寺再建縁起」の方は本文は小さくて読めないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」で不折の俳味に富んだ挿絵が見られる。それによれば、『蕪村宗の俳阿弥という行脚僧が、化物や狐狸と力を合わせて月並村の妨害をはねのけ、荒れ果てていた蕪村寺をみごと再建するというストーリー』とある。]

 

 「蕪村寺再建縁起」は黄表紙に擬したもので、不折氏が挿画を画いている。こういう趣向を新聞雅誌の上に凝すことは、居士得意のしところであったが、病苦はその余力をこういう方面に用いることを困難ならしめた。「蕪村寺再建縁起」は最後の趣向と見るべきものである。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 最後の写真撮影 / 明治三十三年~了

 

     最後の写真撮影

 

 『ホトトギス』はこの年十月を以て第四巻に達した。居士はこの雑誌に「『ホトトギス』第四巻第一号のはじめに」という一文を掲げ、その感想を述べている。その末段に東京の文学界は長く東京人の占むる所となっていることをいい、田舎から出て来た者が何年もかかって東京風俗を研究し、苦辛(くしん)して東京化して見たところが、畢竟第二流小説家となるに過ぎず、第一流は依然江戸児(えどっこ)の専有物になっている、文学界に東京閥が尊敬されることが久しいだけ、東京の文学がいよいよ腐敗して鼻持もならぬようになって来ることを論じた一節がある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「「子規居士」で校合した。]

 

兎に角我々の希望は都會の腐敗した空氣を一掃して、田舍の新鮮なる空氣を入れたいのである。東京言葉と衣服の流行が分らない者は小説家の資格が無いだの、戀でなければ文學でないだの、花は菫、蟲は蝶、此外には詩美を持つて居る花も蟲も無いだの、といふやうな、狹い、幼稚な不健全な思想を破つてしまひたい。流行は美でない、喝采は永久でない。我々は都會人士に媚びて新聞雜誌の上で賞められたくない。我々は斃(たふ)れて後に已(や)むの決心を以て進むばかりである。併しながら永く都會に住んで居ると自然と腐敗して來る事は世の中に實例が多い。萬一我々が都會の腐敗を一掃する前に軟化して勇氣が挫けたといふやうな事があつたら、其時には第二の田舍者が出て來て必ず我々の志を繼いでくれるであらうといふ事を信ずる。その第二の田舍者といふ奴は今頃何處かの山奧で高い木の上に上つて椎の實をゆすぶり落して居るかも知れない。

 

 これは『ホトトギス』の使命を説くと共に、文学における居士の態度を闡明したものである。自己の病漸く篤きを知りながら、山の木に上って椎の実をゆすぶり落しているような継志者を思いやるあたりは、居士その人に触れるような気がする。

 八月の喀血以前、居士は『ホトトギス』に掲げた「消息」で「小生近日元氣消耗甚しく候につき回復策として百二歳の賀筵(がえん)[やぶちゃん注:祝賀の宴席。]にても開かんかと存候。小生百二歳は明治百一年に當り候につき本年に繰上げ候はば六十八年前取りする譯に相成候。賀筵はまだ早退ぎると申す人も有之候へども小生は時期既におくれたりと存候。それにつき何か善き趣向もがなと考居候」といったことがある。百二歳賀筵の名は用いられなかったが、この年の誕生日(旧暦九月十七日)[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では一九〇〇年十一月八日。子規は慶応三年九月十七日(一八六七年十月十四日)生まれ。]には碧梧桐、虚子、四方太、鼠骨の諸氏を招き、赤、青、黄、白、茶というような題を課して、各〻その色の食物か玩具を持寄る趣向とした。翌年の『仰臥漫録』にこの日の事を回顧して、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合したが、そこではひらがながカタカナ表記で読み難いので、底本のひらがな表記を採用した。]

 

余は此日を非常に自分に取つて大切な日と思ふたので先づ魔の庭の木から松の木へ白木綿を張りなどした。これは前の小菊の色をうしろ側の雞頭の色が壓するから此白幕で雞頭を隱したのである。ところが暫くすると曇りが少し取れて日が赫(かつ)とさしたので、右の白幕へ五、六本の雞頭の影が高低に映つたのは實に妙であつた。

 

と書いてある。この会は非常に愉快であったらしい。

 十一月以降、子規庵における和歌、俳句の例会は皆廃することになった。「なるべく靜養を旨としたる上にて病氣に多少の間あらば『日本』と『ホトトギス』との上に力を盡すべく、此新聞此処雜誌に小生の名現れ候間は六疊の病室に籠りてガラス越の日光を浴びつゝなほながらへ居候ものと御推察被下度候」などという「消息」を読むと、居士の身辺が俄に寂しくなったように思われるが、事実は必ずしもそうではない。日光へ紅葉を見に行った歌の仲間が、夜に入って二度まで居士を驚かしたようなこともあり、新嘗祭(にいなめさい)には雞頭闇汁会(やみじるかい)なるものが歌の方だけで催されてもいる。諸会廃するの後も『蕪村句集』輪講だけは隔月に子規庵で催すことになっていたし、少人数の山会(文章会)などは時に枕頭で開かれた。この年から病牀に煖炉(だんろ)を焚くことになったので、十一月三十日には煖炉据付祝(すえつけいわい)などということもあった。

[やぶちゃん注:「新嘗祭」本来は旧暦十一月二十三日に天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する祭祀。神人共食の始まり。]

 

 蕪村忌も例年通り催されたが、運座を廃することにした。写真撮影の際三十八人とあるから、前年よりやや少い勘定である。但(ただし)風が強かったため、居士は写真に加わることが出来ず、翌日単独に撮影した。現在最も広く行われている横向の写真がそれで、居士最後の写真となったわけである。

 『寒玉集』及『寸紅集』が出版されたことも、この年掉尾(ちょうび)の出来事に数えなければなるまい。従来単行本になったものは、いずれも俳句方面のものに限られた。文章方面の収獲はこれを以て嚆矢とする。『寒玉集』の巻頭には『日本』に出た「叙事文」一篇が載せられた。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 喀血後の興津移転問題

 

     喀血後の興津移転問題

 

 八月十三日の朝、居士は突然喀血した。二十八年以来の多量の喀血であったので自他共に驚いたが、幸に一回だけで済んだ。帰省中の格堂氏が平賀元義の歌を発見して、居士の許に送り来ったのはこの際の事である。居士は直に端書を出してその歌を集めんことを勧め、「上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二人」「血をはきし病の床のつれづれに元義の歌よめばうれしも」の二首を書添えた。

[やぶちゃん注:「子規居士」を見ると、二首の歌はひらがながカタカナな書きであるが、読み難く佶屈聱牙な感じになるので、底本のままとした。]

 

 喀血後は疲労甚しく、二十二日夜の『蕪村句集』輪講の際にも、黙聴して時に意見を述べるにとどめたほどであったが、この間(かん)にあって力(つと)めて筆を執ったのは『ホトトギス』九月号の「消息」である。六号活字で雑誌四頁にわたる非常な長文で、喀血の前夜に筆を起し、十七日、二十日、二十一日、二十二日と四度(よたび)稿を継ぎ、最後の一段は口授筆記せしめて漸く完成した。国語伝習所に行われた俳句講習会の事に関し、門下の士の不勉強を警(いまし)めるのが主なる目的であったらしいが、一転して「俳句分類」の事に及んでいる。自分の事業を新聞雑誌に現れた文字だけで測る人には、この三、四年間における事業は年々同一分量を示すもののように思うであろうが、その実自分の事業は三、四年来、病気の進歩と反比例に分量を減じている、それ外面に現れぬ「俳句分類」が著しく分量を減じた故である、この事業は最近三、四年の中に一年一年と怠りがちになり、昨年以来は全く事業中止の有様になっている、というのである。「俳句分類」稿本の嵩(かさ)は、見る者をして瞳目せしめねば止まぬものであるが、大体二十四年から三十二年にわたる、前後九年間の努力に成るものと見ていいのであろう。

 八月の喀血は外面に現れる居士の事業をも減少せしめずには置かなかった。左千夫氏らの首唱にかかる興津移転問題はこの後に起り、居士の病軀を気候の変化の少い、空気のいい海岸の地に移して、来客その他の煩を逃れることにしたらどうかということになった。居士も一度移転断行と決心し、決心した晩は眠らんとしても眠られなかった位で、借りる家までもきまっていた模様であったが、居士の周囲は殆ど皆この移転を危んだ。十月四日夜、『蕪村句集』輪講の席上でこの問題を議したところ、鳴雪翁が正面から反対を唱えた。その結果は激論となって、解決を見なかったが、その後居士も意を翻(ひるがえ)し、興津移転問題は実現に至らなかった。しかし当時の居士を刺激したこと、この問題の如きはなく、誰に宛てた手紙を見ても大概興津の事が記されている。

 九月八日、漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した。『ホトトギス』の消息に「小生は一昨々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る每に最早再會は出來まじくといつも心細く思ひ候ひしに、其人次第々々に歸り來り再會の喜(よろこび)を得たる事も少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、迚も今度はと獨り悲しく相成申候」と見えている。熊本から東上した漱石氏は出発に先って居士の病牀を訪い、久々に会談の機を得たのであった。

[やぶちゃん注:手紙文は「子規居士」で校合した。

「漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した」この明治三三(一九〇〇)年五月十二日、漱石は英語教授法取調べを目的とした(英文学研究ではないので注意)文部省第一回給費留学生として満二ヶ年のイギリス留学を命ぜられた(当時の文部省専門学務局長上田万年の計らいであるが、貴族院書記官長であった妻鏡子の父中根重一の陰の力もあったと推定されている)。七月二十日に妻と娘筆とともに熊本を去り、中根家に滞在、子規を訪ねたのは上京早々の七月二十三日の午後四時頃で、その日の午後九時までいた。これから、九月七日の横浜出航前日頃までに、子規から「萩すすき來年あはなさりながら」ほか一句を受け取っている。船は神戸・長崎から、上海や香港などを経て、インド洋・スエズ運河・地中海を通り、ジェノヴァで上陸、アルプス山脈を汽車で抜けてパリへ到り、一ヶ月半余りかかって、十月二十八日午後七時頃、ようやくロンドンに到着している。しかし、漱石は明治三五(一九〇二)年の八月頃から精神変調をきたし、九月に入ると重くなって、九月十二日に受け取った鏡子の手紙の返事で、自ら「近頃神經衰弱」と称し、この時、彼女に送らせていた新聞を九月一杯でやめるように認めているから、この時、帰国を決意しているように感じられる。そうして、実に、この九月の十九日、午後一時、正岡子規は自宅にて死去した。漱石が子規逝去の報知を受けた時の様子は伝えられていないが、彼の精神疾患(現行では一般に強迫神経症と診断するようだが、私は彼の関係妄想の激しさや、後の後遺症としか思われない他虐性の強い反応性激発症状などを見るに、統合失調症であった可能性も濃いように感じている)を増悪させたことは間違いない後、漱石は同年十二月五日にロンドンを日本郵船の「博多丸」で出航、今回はそのまま海上を地中海・スエズ運河経由で、翌明治三六(一九〇三)年二十三日に神戸に上陸している(一時よくなっていた精神状態は船中で再び悪くなったらしい)。以上は集英社「漱石文学全集」別巻の荒正人氏の驚異的な労作「漱石研究年表」によったが、ウィキの「夏目漱石では、その精神変調へと向かう下りを、日本人である自分が『英文学研究』をすること『への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々と』した。明治三四(一九〇一)年になって、『化学者の池田菊苗と』二『か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり』、『研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば』、『下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り』、明治三五(一九〇二)年九月に『芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか』、『「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる』(実は死んだという誤情報も流れたようである)。『漱石は急遽』、『帰国を命じられ』たが、『帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一が』、偶然、『同乗して』いたことから、『精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという』とある。]

 

 漱石氏出発に関する「消息」の出た『ホトトギス』に居士は「『水滸伝』と『八犬伝』」及「『水滸伝』雑詠」を掲げた。「『水滸伝』と『八犬伝』」は雑誌にして二十六頁を超えているから、居士としては前後にない長篇である。『水滸伝』は居士の愛書の一であったらしく、三十年の大患の際にもこれを読み、この年もまた読み返している。『八犬伝』との比較に筆を起し、居士自身の文章観の上から『水滸伝』の文章の妙を説いたのである。この稿を草するに先(さきだ)ち、愚庵和尚に「病島無聊時々『水滸』を讀む、今や僅々(きんきん)末三、四巻を餘すのみに有之候」ということを申送ったのは、和尚が壮時好んで『水許伝』を読み、殆どその文句を諳記(あんき)していたというような事実を知っているためであろう。

諸國里人談卷之三 立山

 

    ○立山

立山は越中國新川郡(にゐかはのこほり[やぶちゃん注:ママ。「新川」の正しい歴史的仮名遣は「にひかは」。])なり。祭神、伊弉諾尊(いさなみのみこと)。力尾社(ちからをのやしろ)は手力雄命(たちからのみこと)也。是、麓(ふもと)の大宮(おほみや)也。此より絶頂まで三里余、其間、旧跡多し。此嶽(たけ)は佛尊の貌(かたち)に似たり。膝を「一の越(こし)」とし、腰腹(こしはら)を「二の越」、肩を「三の越」、頭を「四の越」、頂上佛面(ぶつめん)を「五の越」とす。市の谷(や)へ行道に、「小鏈(こぐさり)」[やぶちゃん注:「鏈」は「鎖」に同じい。]・「大鏈(おほぐさり)」とて、鏈(くさり)に縋(すが)りて登る所、有〔あり〕。此鏈は三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)が作る所なり。「地獄道(ぢごくみち)」に地藏堂あり。每年七月十五日の夜、胡蝶(こてふ)、あまた、此原に出〔いで〕て舞遊(まひあそぶ)ぶ。これを「精霊市(しやうりやういち)」といふ也。「一の越」より「五の越」まで、各堂あり。一宇一所づゝに、暖(あたゝか)なる地あり。これを「九品(くほん)」といふ也。行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也。

「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる、となり。

元祿のころ、江戸牛込、小池何某、同行〔どうぎやう〕三人、禪定(ぜんぢやう)しけるに、歸路に趣く時、行(ゆき)くれて、道の邊(ほとり)の木陰に一夜(や)をあかし、夜すがら、念佛して居たるに、誰人(たれひと)ともしらず、

「これこれ、同者衆、食事、まゐらせん。」

と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す。

「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」

と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしなひ、

「かほど近くに人家あらば、宿(やど)せんずるに、しらざれば、是非なし。」

など、いひて、夜、明(あけ)たり。

「かの椀を歸さん。」

と、邊(あたり)を見れども、人倫たへたる[やぶちゃん注:ママ。]所にて、人家、なし。

やうやうにして、一里ばかり下(くだ)りて、五、七軒の里、あり。或家に入〔いり〕て、湯茶を設け、夜中(やちう)の事をかたるに、

「その邊には、中々、人里、なし。」

となり。

件(くだん)の椀を出〔いだ〕し、見せければ、主(あるじ)、興をさまし、

「これは。向ふなる家の息(むすこ)が椀也。頃日(このごろ)、死(しゝ)て、今日、則(すなはち)、一七日〔ひとなぬか〕なり。」

と、かの家に伴ひ行て、しだいを語りければ、兩親、大に悲歎し、朝餉(あさがれひ)をすゝめて饗應しける、と也。

[やぶちゃん注:最後の「俗云、此山にして願へば……」以下の部分は原典では改行がないが、直接話法が多く、特異な怪奇談なれば、恣意的に改行を施した

「立山は越中國新川郡なり」現在は富山県中新川郡の立山町芦峅寺(あしくらじ)内である。標高は雄山(おやま)が三千三メートル、大汝山(おおなんじやま)が三千十五メートル、富士ノ折立(ふじのおりたて)が二千九百九十九メートルの三峰から成る総山体を「立山」と呼ぶ(或いは雄山と大汝山に南側の浄土山(二千八百八十七メートル)と北側の別山(べつさん:二千八百八十二メートル)を加えたもの)。立山はいずれも古期の花コウ。雄山のみを立山と呼ぶのは厳密には誤りである。立山連峰に「立山」という名の単独峰は存在しないからである。私は後に出る剣岳(二千九百九十九メートル)を含め、総て登攀した。

「祭神、伊弉諾尊」まずは、現在の雄山神社。霊峰立山自体が神体であり、立山の神として伊邪那岐神(江戸時代までは立山権現雄山神で本地阿弥陀如来)・天手力雄神(あめのたぢからおのかみ:同じく太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀ったもので、神仏習合の時代は神道よりも仏教色が強い、立山修験の神聖な道場であった。現行では、峰本社(みねほんしゃ)・中宮祈願殿(ちゅうぐうきがんでん)・前立社壇(まえだてしゃだん)の三社を以って雄山神社とする。各社の位置などは「立山大権現 雄山神社」公式サイトを見られたい。

「力尾社(ちからをのやしろ)」原典は①も③も確かに「力尾社」なのであるが、どうも読んだ当初から、魚の骨が咽喉に刺さったような違和感があったのだ。沾涼は後で「麓(ふもと)の大宮(おほみや)也」と言ってしまっているから、「ここは大きな前立社壇(ここ(グーグル・マップ・データ))を指していると読んで、何の不都合がある?」と文句を言われそうなのだが、しかし、やはり、どうもすっきりしないのだ。実はもっとおかしいこともある。それは、沾涼は後で「此より」本社のある雄山「絶頂まで三里余」と言っている点である。この短い距離では、中宮祈願殿でさえも遠過ぎるのである(地図上の直線でも二十キロメートルを超えてしまう)。思うに、沾涼は立山に実際には行ってないのではないか? 誰彼からの不確かな情報を無批判に繫ぎ合わせてしまったのが、この解説なのではないか? という疑惑である。しかも、この私の猜疑心の火に油を注ぐのは、本条の記載の幾つも箇所が、またしても、先行する寺島良安の「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」との有意な一致を見るのである。確かに雄山神社は本殿で天手力雄神も祀りはする。しかし、「雄山神社前立社壇」や「中宮祈願殿」が江戸以前は「力尾社」と呼ばれていたというのであれば引き下がるが、調べた限りではそのような事実はないようである。そうして彼の別名は前注で見る通り、太刀尾天神剱岳神である。則ち、私はこの「社」とは、雄山神社の併祀する彼を指しているのではなく、天手力雄神=太刀尾天神剱岳神を主祭神として祀っている神「社」を指しているのではないか? という疑義であり、最初に思ったのは本当に「力尾社」なのか? という疑いだったのである。そう、これは実は「刀尾社」なのではないか? という、謂わば〈烏焉馬の誤り〉的推理だ。調べてみると、あるのだ! 「刀尾神社」が! 「たちおじんじゃ」と読み、場所は芦峅寺内ではないが、富山市太田南町で、立山参りのアプローチ地点に当たる位置にあり(ここ(グーグル・マップ・データ))、サイト「北陸物語」の青木氏の記事「刀尾神社」によれば(写真有り。今は田舎の静かな社といった感じ)、立山の開山者である慈興上人が雄山神社の『前立の神としてこの地に社殿を作ったと言い伝えられて』おり、『手力男命(たぢからおのみこと)を主祭と』しつつ、その権現化されたところの『剱岳の地主神刀尾天神 (刀尾権現)を祀』っているとあり、しかも『昔は、西国方面からの立山参詣者は必ず立ち寄ったと言われてい』いるとあるのである。なお、他にも「刀尾宮」はありはする(例えばここ(グーグル・マップ・データ))。最後に極めつけと思しいものを掲げておく。沾涼が秘かに引いたのであろう「和漢三才図会」の地誌の巻六十八の「越中」の「立山權現」の頭の部分には、原典では確かに、

   *

力尾權現社手力雄命(タヂカラヲノミコト)也

   *

とあるのだが、東洋文庫版現代語訳では、ここがわざわざ、

   *

『刀尾(たちお)権現社の祭神は手力雄命(たぢからおのみこと)である。

   *

と訳してあるのである。東洋文庫の訳者が、今度は、「力」を「刀」に見間違えたんですかねえ? わざわざルビまで振ってですよ? 如何? さても大方の御叱正を俟つものである。

「三條小鍛冶(さんじやうこかぢ)」平安時代の名刀工三条宗近(むねちか 生没年未詳)の通呼称。永延(九八七年~九八九年)頃、京都三条に住したと伝え三条小鍛冶。現存作は極めて少なく、御物の「宗近」銘の太刀と、「三条」銘の名物「三日月宗近」の太刀がよく知られる。ことに後者は室町以来、天下五剣の一つに挙げられており、細身で小切先、反りの高い太刀姿は日本刀の中では、最も古雅にして品格があるものと評される。因みに、能の「小鍛冶」で、白狐を相槌に、太刀を鍛える刀工は、この宗近である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「地獄道(ぢごくみち)」地獄谷(ここ(グーグル・マップ・データ))に向かうルートであろう。

「地藏堂」「和漢三才図会」では、「立山」の概説部の『○室堂』の条の中で、現在の「ミクリガ池」らしき『神池』の後に、

   *

地獄道追分地藏堂毎歳七月十五日夜胡蝶數多(アマタ)出遊於此原生靈市髙率塔婆(タカソトバ)無緣菩提

   *

とあり、後の「地獄谷」の項の下にも割注で『有地藏堂』とあるから、確実にこの地蔵堂は地獄谷の中にあると読める。万葉の昔より、蝶は虚空を舞う奇体なもの、魂のシンボルとされていたと思われる。また、花同様に死体に群がることもある点で、蝶は美しいものとしてよりも、古くは忌まわしいものとしての認識が強かったと推察される。因みに、以上の引用からも、沾涼が、性懲りもなく、またまた「和漢三才図会」を丸ごと引用していることが、よぅく判る

「精霊市(しやうりやういち)」「市」は意味有り気に群集することを指すのであろう。

「九品(くほん)」五箇所の地熱の高い温まれる場所(或いは名数として九箇所あったのかも知れない)を、仏教に於ける往生の仕方の階級様態(下品下・中・上生から上品上生に至る九階梯)である「九品往生」に擬えたのであろう。「雄山神社」公式サイト白鷹伝 立山開山縁起(略記)にも『阿弥陀如来と不動明王の二尊』の御告げの中に『我、濁世の衆生を救わんが為、十界をこの山に現し、幾千万年の劫初より山の開ける因縁を待てり。この立山は峰に九品の浄土を整え、谷に一百三十六地獄の形相を現し、因果の理法を証示せり』という一節が出る。

「行人(ぎやうにん)、杖・草鞋を措(おき)て、本社に參る也」それぞれの参詣登山をする者は、それぞれ自身の様子を見計らって、これらの各堂のどこかで、それまで身を助けた杖や草鞋を置いて山上の本社に参るのである。

『「地獄谷」【地藏堂あり。】・「八大地獄」【各十六の別所あり。】「一百三十六地獄」・「血の池」は、水色赤く、血のごとし。所々に、猛火、燃立(もへたち[やぶちゃん注:ママ。])て、罵言(ばり)・號泣の聲聞えて、おそろしきありさま也。北に劔(つるぎ)の山あり。岩石、峙(そばだち)て、鉾(ほこ)のごとく、嶮岨、言(ことば)に絶(たへ)たり』「和漢三才図会」に、

   *

○地獄谷【有地藏堂】八大地獄【各有十六別處】共百三十六地獄血池【水色赤如ㇾ血】處處猛火(キヤウクハ)燃起(モヘタチ[やぶちゃん注:ママ。])罵言(メリ[やぶちゃん注:ママ。])號泣(ガウキウ)ノ如ク人潰(ツブ)ㇾ肝(キモ)劔(ツルキ)【山腰石塔不思儀石塔】岩石峙(ソバタ)鋒過刃(キツサキ)嶮岨不ㇾ可ㇾ言

   *

とある。沾涼、流石にマズいと思うたか、ちょこちょこっと言い方を変えているところが、セコいね。

「俗云、此山にして願へば、思ふ人の亡霊、影のごとくに見ゆる……」以下の話は沾涼のオリジナルか。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「江戸牛込」現在の東京都新宿区神楽坂周辺。

「禪定(ぜんぢやう)」この場合、一般には「修験道の行者が霊山に登ってする修行」を本来は指すのであるが、転じて、単に霊山の参詣登山を言っている。

「趣く」「赴く」。

「行(ゆき)くれて」下山が遅かったために、歩いているうちに日が暮れてしまい。

「同者衆」これは「同じ修験参詣のお方衆」という謂いではなく、恐らく「道者衆」のことと思われる立山では禅定登山には「道者衆(どうしゃしゅう)」と「参連衆(まいれんしゅう)」と二つの区別があったのである。こちらのむかしあったとぉ~(立山のちょっと昔の話) 道者衆と参連衆についてというページ(家が古くからの立山の「日光坊」という宿坊であった方の少年期の回想である)によれば、『宿坊に来られた人達は、道者衆と参連衆に分けることができました。宿坊の衆徒たちが、毎年各地の檀那場に出向き、立山曼荼羅を掛けて絵解き(解説)を行い』、『布教します。信者の方々が感動して』、『ぜひ』、『現地で体験したいと、少人数のグループで立山においでになります。この人達のことを道者衆(どうしゃしゅう)と言います』。『道者衆は、白装束で「立山禅定」と書かれた網代笠をつけ、布教を受けた衆徒の宿坊に』、『特別に村の講社の事務所を通さず』、『直接』、『宿泊ができます。子供の頃、父に「○○様お迎え」と書いた西洋紙をもらって』、『駅の待合室で電車を待ち、その紙をはにかみながら』、『顔の前に差し上げたことを覚えています。すると』、『向こうから「私です」と声がかかり、「お迎えに来ました」と先頭に立って、途中簡単な説明をしながら「ここが日光坊です」と、家まで案内しました。道者衆は、敷台(来客専用玄関)で草鞋を脱ぎ、足を洗って家に入り、衆徒と対面し、久しぶりの挨拶を交わします』。『一方、檀那場以外(担当布教地区外で師壇関係のない地区)から来られた人達を参連衆(まいれんしゅう)と言い、身につける衣類も』、『黒か紺の生地で、上着とズボン(タッツケ)に分けられ、笠も「立山登拝」と書かれた普通の笠をつけます。参連衆は、講社の事務所に宿泊を届け出、そこで指定された宿に行き、前の小川で足を洗って広間に入ります』。『食事は、道者衆が、宿代無料で』、『朱塗りのお椀とお膳でサービス付きであったのに、参連衆は、有料で』、『黒塗りのお椀とお膳でセルフサービスと接待の差があったことが脳裏に浮かんできます』とある。ここで、無賃で「食事、まゐらせん。」「と、椀に高く盛(もり)たる一器(き)を出〔いだ〕す」のを、その通りに、「御志(おんこゝろざし)、かたじけなし。」「と、何心(なにごゝろ)なくうけとり、三人、これを分(わけ)て食し、疲(つかれ)をやしな」ったとあるのは、まさに「道者衆」ならではと思うのである。

「人倫」ここは単に「人間」の意。

「一七日〔ひとなぬか〕」「いつ(いち)しちにち」とも読む。初七日のこと。]

今朝方見た奇妙な夢――

 

教え子の女性の葬儀が、ある教会で行われる、という通知を受けて私は出かけようとする。
母は何故か、「行かない方がよい」と制止するのだったが、振り切って、出かけた。

外人のシスターが待っていた。
参列者は、何故か、私一人らしい。
シスターは、彼女は自死であったことを私に告げ、遺品一式――

何かが書かれた手札大の薄い木片のようなもの・私へ宛てた煌びやかな便箋一枚・赤ワイン一本・卵三個

の入った段ボールを渡し、礼拝堂へ案内した。
何人もの葬儀が行われており、彼女のそれはずっと後だということであった。

私は私宛の便箋を読んだ。それは遺書ではなく、彼女が何処か外国から私へ宛てて書いたものであって、記されたそれは聞いたことのない国名なのであった。しかし、添えられた絵はインドか東南アジアの、ヒンズー教か仏教の寺院らしい建物が、極彩色の色鉛筆で美事に描かれているのであった。内容は、それらの美しさと神秘性を私に伝える敬体の文章であり、如何にも旅を楽しんでいる便りなのであって、自死の気配は微塵もないのであった。

ただ、末尾に、
「そんな旅先で不思議なものを見つけました。先生に読み解いて貰えたらと思いい、同封します。」
とあるのであった。どうも今一つの遺品の木片様のものがそれであるらしい。手に取ると、それは木をごく薄く削いで圧縮した、人工の木製紙で出来ていた。

しかも、そこには何故か、漢字仮名混じりの古文が三行(五十字程であった)に亙って書かれていた。

「其時■■須■威出で給ひ……」で始まっていた。

[やぶちゃん注:本夢は私の夢の特異点で、その文字列を、覚醒した時には全文はっきりと覚えていたのであった。しかし、急速に記憶から消えてしまった。直ぐに書き取ればよかった。非常に残念である。]

私は彼女の葬儀が始まるまで、熱心に、それを現代語訳した。

[やぶちゃん注:覚醒時はその訳も確かに覚えていたのだが、これも忘れた。ただ、その内容は、まさに彼女の自死を予言する内容であったことは確言出来る。しかも今、これを書きながら(遅まきながら)、私にはこの木片は、例のインドにあるとされる「アガスティアの葉」であることが明確に理解された。紀元前三千年の昔に実在したとされるインドの聖者アガスティアの残した全人類各個人の情報(自身の過去・現在・未来)について全てが記されているという「木の葉」である。ネットを調べれば判るが、事実、ある、のである。但し、すこぶる怪しいものではある。しかし、正に木簡のようなものなのである(私は実際の朴のような大きな葉っぱに書かれているのだと思っていたが、今、調べてみたところが、例えばここでは、まさに木簡状であった)。]

彼女の葬儀が始まる。
やはり私一人なのであった。彼女の親族はいない(来ない?)らしい。
式を行うのは先のシスター一人であった。
祈禱を終えると、シスターが、遺体はこちらの墓地に埋葬する旨を語った後、
「遺品はどうなさいます?」
と訊ねてきた。
私が躊躇して黙っていると、
「こちらで貴方が天へ送られるのが、よろしいでしょう。」
と言い、礼拝堂の裏手へと導くのであった。
そこには霊安室のような、殺風景な部屋があった。

私はそこで、小さな釜の中にワインを流し込み、便箋と木片をそれに浸した上、三つの卵を、割り入れた。

ところが、三つ目の卵を割ると、そこからは黄色い色をしたアーモンド形の種子のようなものが出てきた。

 
私はそれらが、ぐつぐつと釜の中で煮られるのを

――凝っと

見つめていた…………
 

2018/06/22

「北條九代記」完遂への追記とお願い

本電子化注には足掛け五年半余りかかった。初期には本ブログのブラウザ機能では表記出来なかった漢字が、途中で表記出来るようになったり、私自身が最新のユニコードによる正字を使用するようになった(比較的最近。例えば「海」「僧」等)結果、初期の頃の電子化したものと、後期のものとでは、有意な漢字表記の差が生じていることはお断りしておく。また、サイト版は以前から申し上げている通り、「卷第三」以降は作成しないので、それ以降の部分で本文の誤り等を見出された方は、是非、御連絡戴きたい。よろしくお願い申し上げる。

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 歌の写生的連作

 

     歌の写生的連作

 

 俳句の会は月二回ときまっていたが、歌の方はそうでなくなった。殊に四月以来『万葉集』輪講が企られるようになってからは、輪講に集った顔触だけで必ず歌を作ることになり、歌会は期せずして月二回になった。五月二十日の如きは、『万葉集』輪講のあとで「舟中作」十首を作ったところ、夜に入って俄に雨となったため、左千夫、茂春(もしゅん)、格堂、一五坊(いちごぼう)の諸氏は遂に子規庵に一泊した。翌日払暁、庭前を眺めて先ず雨中即景の歌を作り、更に興に乗じて煙十首を作った。従来短歌に限られていた歌会の作品が、長歌、旋頭歌に及んだのはこの時である。

 

  五月二十朝雨中庭前の松を見て作る

 松の葉の細き葉每に置く露の千露(ちつゆ)もゆらに玉もこぼれず

 松の葉の葉每に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

 綠立つ小松が枝にふる雨の雫こぼれて下草に落つ

 松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るも

 靑松の橫はふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉もなし

 もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし處白玉結ぶ

 玉松の松の葉每に置く露のまねくこぼれて雨ふりしきる

 庭中(にはなか)の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず

 若松の立枝(たちゑ)はひ枝(ゑ)の枝(ゑだ)每の葉每に置ける露のしげけく

 松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る

 

 この一連の歌は雨中庭前の風物の中で、その低い若松に注意を集中し、その松の中でも雨の雫が松の葉に玉を結ぶという一点に観察を注いだもので、そこに著しい特色がある。こういう観察の微細にわたったものは、居士の歌に見当らぬのみならず、在来の歌人の窺い知らぬ世界であった。

[やぶちゃん注:歌は「子規居士」で校訂した。後も同じ。

「茂春(もしゅん)」日本画家で歌人の桃澤如水(ももざわにょすい 明治六(一八七三)年~明治三九(一九〇六)年)。本名は桃澤重治(しげはる)で、画名を如水又は桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)と称した。ウィキの「桃澤如水」によれば、先『祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる』とし、『長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれ』、『桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった』とある。明治二一(一八八八)年、十五歳で『飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった』。しかし、二年後の明治二十三年四月、十七歳の時、上野で行われていた第三回『内国勧業博覧会を見ると偽って上京、そのまま橋本雅邦に師事し、同年』八『月東京美術学校(現東京芸術大学)絵画科に入学し、校長岡倉天心をはじめ雅邦の指導をうけた。同じクラスに結城素明、鋳金科に転科した香取秀真がい』た。一方、在学中には、『神田の夜学校大八洲学会に通い、国文学者黒川真頼について国文や和歌を学んだ。旧知の春草とは、夏休みに天竜川の船下りなどを共にした。在学中、短歌や雅楽、篆刻や剣舞、更に芝の白山道場で南隠禅師について禅を学んで居士号を得るなど』、『学業を殆ど放棄していたため、通常』五『年で卒業するところを』七『年かかって明治三〇(一八九七)年七月に、『ようやく美術学校を卒業した』。『如水は、また』、『早くより和歌に親しみ』、『多くの詠草がある。正岡子規に直接教えをうけ、伊藤左千夫、長塚節らと共に活躍した。子規没後、病の療養のため』、『三重県津市に移り、そこで一身田の真宗高田派総本山専修寺附属の教師兼舎監となって国文学を教えた。その間、曾我蕭白を研究し、伊勢地方に遺る蕭白の作品とその製作過程における逸話を収集して「日本美術」誌に論文を発表している。蕭白が語られる時、伊勢地方での作品は必ず言及されるが、如水の論文は伊勢地方と蕭白との関係を調査した最初の文献として高い評価を受けている』。しかし、『次第に病が悪化し』、『三重県桑名病院にて長逝した。享年』三十三。

「一五坊(いちごぼう)」新免一五坊(しんめんいちごぼう 明治一二(一八七九)年~昭和一六(一九四一)年)は教師で俳人。ウィキの「新免一五坊」によれば、『本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る』。『岡山県出身。小石川哲学館を卒業』。明治三一(一八九八)年の『夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。一五坊と同じ哲学館出身の子規門人として真言宗僧の和田性海(不可徳)がいる』。『一五坊は』、明治三十二年・明治三十三年の『正岡子規・伊藤左千夫の一五坊宛書簡の宛名に拠れば、東京日本橋数寄屋町(中央区日本橋)の長井医院に住』んでおり、『根岸派の新進歌人として活躍』、明治三十二年十月の『菊十句会では子規から幹事を任されて』おり、翌明治三十三年一月七日の『一月短歌会にも参加』している。『一五坊は幕末期の歌人・平賀元義の和歌が万葉調であることを、同郷の赤城格堂を通じて子規に伝え』、『このことは、子規の『墨汁一滴』において大きく取り上げられ』ることとなった(同作の「二月十四日」から「二月二十六日」部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖の画像のここから読める)。明治三四(一九〇一)年に『山梨県南都留郡明日見村(富士吉田市明日見)の永嶋医院に居住し、医学を学ぶ。この頃に父親を亡くしている。その後同郡谷村町(都留市谷村)へ移り、山梨において俳句会を指導する。山梨県は伊藤左千夫が長野県諏訪、静岡県沼津を並び活動の拠点とした地で、主に「馬酔木(あしび)」「アカネ」「アララギ」などの同人活動に加わった地元歌人が中心として活動を行った。一五坊は左千夫よりも入門が早く、また左千夫と面識のあった人物として』、『山梨における活動を主導した。山梨転居後も子規との交流も続き』、明治三五(一九〇二)年には『病床の子規に谷村のヤマメを届けており、子規は』「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)の中で、

 一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より

なまよみの、かひのやまめは、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみなを、わにおくりこし

と長歌でもって謝意を表している(国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖(前のものとは別物(但し、作成者同一人と思われる)なので注意されたい)の画像のここをから読める)。視認子規はこの一ヶ月後、九月十九日に逝去した。『一五坊はその後』、『山梨を離れ、故郷岡山へ戻』って『結婚し、教員とな』った、とある。]

 

 この歌と相俟って注意すべきものは左の一連の作である。

 

   六月七日夜病牀卽事

 ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の外面(とのも)を見ればよき月夜なり

 ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根に月うつる見ゆ

 ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ

 ガラス戸の外の月夜をながむれどラムプの影のうつりて見えず

 紙をもてラムプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ

 淺き夜の月影淸み森をなす杉の木末の高き低き見ゆ

 夜の床に寐ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月更けわたる

 小庇(こびさし)にかくれて月の見えざるを一目を見んとゐざれど見えず

 照る月の位置かはりけん鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ

 月照す上野の森を見つゝあれば家ゆるがして汽車往き返る

 

 ほととぎすの声が聞えたので、首を上げてガラス戸の外を眺めることにはじまる月夜の風物の観察が、遺憾なくこの一連に収められている。ラムプの光がうつるため、ガラス戸の外が見えないので、紙でラムプを蔽うと、はじめて月下の物象が明(あきらか)に眼に入るという変化も面白いが、最初は見えていた月が何時の間にか庇に隠れてしまって、病牀で身をいざらせても眼に入らなくなり、鳥籠の屋根に映っていた月影もなくなったという時間的推移の窺われるのは更に面白い。われわれはこの一連の歌を読むことによって、その夜の病牀の空気を如実に感じ得るのである。文学における写生の主張が歌の上に現れたのは、固(もと)よりこれらの歌にはじまるわけではないが、十首をつらねて或(ある)場合の空気を髣髴するという行き方は、この辺に至って十分成功の域に達したもののように思われる。

 「『万葉集』輪講」は輪講そのままの筆記でなしに、別に居士の「『万葉集』を読む」となって『日本』に現れた。「文字語句の解釋は諸書にくはしければここにいはず。唯我思ふ所をいささか述べて教を乞はんとす」という態度を以てこれに臨んだので、学者的講説を離れ、どこまでも歌として見る。解釈者の側から見る歌でなしに、歌を詠む者の側から歌を見るということが大きな特色をなしている。「『万葉集』輪講」は九月まで引続き行われたが、「『万葉集』を読む」は前後四回『日本』に掲げられたに過ぎなかった。『歌よみに与ふる書』を提(ひっさげ)て起ってから三年目で、漸く著手した『万葉集』の細評が、欝幾何(いくばく)も進行せずに了ったのは、居士のみならず、歌界としても遺憾であったといわなければならぬ。

[やぶちゃん注:「『万葉集』を読む」は国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「竹里歌話 正岡子規歌論集」のこちらから読める。]

 

 「『万葉集』を読む」と前後して「短歌二句切(ぎり)の一種」「竹里歌話」など、歌に関する文章が『日本』に発表された。『日本』以外にも『心の華』『大帝国』『国力』などの如く、居士及(および)短歌会の人々の作品を載せる雑誌の出来たことも、何となく居士の身辺を賑(にぎやか)にした。前年あたりから地方に俳句雑誌の簇出(ぞくしゅつ)[やぶちゃん注:これは慣用読みで「そうしゆつ」が本当は正しい。「むらがり出ること」の意。]する傾向があり、居士も交渉がないではなかったけれども、新(あらた)に勃興せんとする過程にあっただけ、歌の方が活気に充ちていた。短歌会の顔触はそう増加したわけでもなかったが、長塚節(ながつかたかし)、安江秋水(やすえしゅうすい)、森田義郎(もりたぎろう)諸氏の如く、有力青年歌人の相次いで投じ来ったのも、活気を加えた所以であったろう。

[やぶちゃん注:「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は余りにも知られた歌人で小説家なれば、生年月日だけを示す(一応、ウィキの「長塚節」をリンクさせておく)。

「安江秋水」既出既注であるが、再掲しておく。生没年は確認出来なかった。歌人で『馬酔木』創刊時の編集同人であることのみ判った。

「森田義郎」(明治一一(一八七八)年~昭和一五(一九四〇)年)は歌人で国粋主義者。愛媛生まれ。本名は義良。国学院大学卒。明治三三(一九〇〇)年、根岸短歌会に参加し、『馬酔木』の創刊にも関わったが、意見の対立により、離脱。従来から関係していた『心の花』に移った。後、右翼の政治運動に加わり、日本主義歌人として活動した。万葉振りの作風で、論客としても知られた。著書に「短歌小梯」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)など。]

 

 六月三日に岡麓(おかふもと)氏のところに園遊歌会があり、これに赴いたのが居士最後の外出であった。即事十首の代りに成った「歌玉(うただま)」の歌は、前の松の露やガラス戸の月夜とは全く異った種類のものであるが、一方に偏せざる居士の歌の世界を窺う上から看過すべからざるものであろう。「歌玉」の中に詠み込まれた歌人は、秀真、左千夫、格堂、巴子(はし)、麓、茂春、節、一五坊、不可得、潮音(ちょうおん)、三子(さんし)の十一人であるが、来会者は以上にとどまらなかったことと思われる。

[やぶちゃん注:「歌玉」の子規の詠草は「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」のこちらで読める。

「巴子(はし)」西田巴子(生没年不詳)子規門下。

「不可得」既出既注の兵庫県出身の真言宗の僧和田性海(しょうかい 明治一二(一八七九)年~昭和三七(一九六二)年)の雅号。

「潮音(ちょうおん)」柘植潮音(明治一〇(一八七七)年~?(確認出来なかったが、研究者がいるので不明ではあるまい))東京生まれ(元大垣藩主戸田氏共邸で生まれた。父が氏共の家令(執事)であったため)。名は惟一。明治二九(一八九六)年、第一高等学校に入学、句作を始める。この前年、明治三十二年に初めて子規庵を訪れて、入門、句会・短歌会に参加し、交遊を深めた。明治三四(一九〇一)年、故山大垣へ戻り、俳人として活躍。子規亡き後も、河東碧梧桐・長塚節・伊藤左千夫ら子規の門人であった人々が潮音を訪ねてきた、と文教ち 大垣平成二九二〇一七月号/PDFにある。

「三子」不詳。]

諸國里人談卷之三 燒山

 

    ○燒山(やけやま)

陸奧國南部領八戸にちかし。大畑(おほはた)といふより登る事、三里半也。此山、時として燒(やく)る事あり。よつて、しかいふ。爰(こゝ)に慈覺大師の作る所、一千体の石地藏あり。中尊は長(た)五尺あまり、他(た)は、みな、小佛なるによりて、人、これを取(とり)去りて、僅に殘りけるが、近きころ、圓空と云〔いふ〕僧あつて修補し、今、千体に滿(みち)たり。巓(いたゞき)に「地獄」といふ所あり。「三途川(さんづかは)」・「賽河原(さいのかはら)」、小石を以〔もつて〕塔を作る。「修羅道」は、地の面(おもて)、みな、石にして、凡(およそ)長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈。其石に血色(ちいろ)のごとくなるもの、散り染(そま)りたり。「劒(つるぎ)の山」は、石、悉く尖りて、刀鉾(とうほこ)を連(つらね)て比(なら)べたるがごとし。「藍屋(あいや)の地獄」・「酒屋(さかや)、麹屋(こふじや[やぶちゃん注:ママ。])の地獄」といふは、それぞれの色をあらはせり。【玆に「柏葉石」と云〔いふ〕あり。「石の部」に見〔みゆ〕。】

[やぶちゃん注:最後の割注で思い出されるであろう、これは先の「卷之二」の「㊂奇石部」に出た「柏葉石」で、ロケーションもそれと同じ恐山(及び曹洞宗釜臥山恐山菩提寺)である。まず、そちらの注を参照されたい。「慈覺大師」等はダブっては注さない。

 いや! しかし、である。それ以前(「この文章に対して大真面目にまともに注する以前」の謂いである)に、この文章は、その全体が沾涼のオリジナルではない。何故なら、とんでもなく(「呆れるほど」の含みを持つ)酷似した先行する文章が存在するからである。

 それは、私が水族・虫類・禽類などの電子化注を手掛けている例の、大坂の医師寺島良安が約三十年もの歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)に完成させ、大坂杏林堂から板行した百科事典「和漢三才図会」(全百五巻八十一冊)の地誌部の巻第六十五「陸奥」の中の、ズバリ、「燒山」である。本「諸国里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、「和漢三才図会」は三十一年も前の出版である。ともかく、その原文を見て戴くに若かず、だ。

   *

燒山   在南部領【自大畑登三里半許】

 此山不時有燒故名之 開基慈覺大師作千体石地

 藏中尊長五尺許其他小佛而人取去今僅存

 近頃有僧圓空者修補千体像

 商賈有竹内與兵衞者用唐銅作彌陀日藥師三像

 安之

 頂上有三塗川及塞河原層小石爲塔形又有一百三

[やぶちゃん注:「頂」は原典では「頂」の上に「山」がつく字体。]

 十六地獄而名修羅者地靣皆石而凡長二十五六丈

 幅五六丈其石靣如血色者散染亦一異也名劔山者

 滿山石悉有劔尖而如刀鉾然其余酒造家藍染家麹

 造家等之地獄皆現其色狀凡有硫黃山必火煙出温

 泉涌故自可謂地獄者有之殊當山與肥前溫泉嶽見

 人莫不驚歎【諸地獄詳于山類下】

 慈覺護摩執行時無莚席取檞葉敷石上于今其石方

 二丈許薄※而幅一寸長二寸半許形如檞葉而有文

[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。]

 理又當山有異鳥鳴聲如言佛法僧日光及高野亦有

 此鳥

○やぶちゃんの書き下し文(原典の訓点は完備していないので、一部の送り仮名は私が過去の同書の訓読経験に照らして妥当と推定されるもので補っている。〔 〕は私が同じ観点から補った読みである)

燒山(やけ〔やま〕)

南部領に在り。【大畑より登ること、三里半許り。】

此の山、不時〔ふじ〕に燒くること、有り。故に之れを名づく。

開基慈覺大師、千体の石地藏を作る。中尊、長〔た〕け五尺許り。其他は小佛にして、人、取り去りて、今、僅かに存す。

近頃、僧・圓空といふ者有りて、千体の像を修補す。

商賈〔しやうか〕[やぶちゃん注:商人(あきんど)。]竹の内與兵衞といふ者有り、唐銅(からかね)を用ひて、彌陀・大日・藥師の三像を作り、之れを安(を)く。

頂上に「三塗川(さうづがは)」及び「塞河原(さいの〔かはら〕)」有り。小石を層(かさ)ねて塔の形〔かた〕ちに爲〔な〕す。又、「一百三十六の地獄」有り。「修羅」と名〔なづ〕くる者は、地靣、皆、石にして、凡〔およそ〕長さ二十五、六丈、幅五、六丈。其の石の靣(おもて)、血の色のごとくなる者、散り染(そ)むも亦、一異なり。「劔(つるぎ)山」と名くる者は、滿山の石、悉く、劔-尖(とが)り有りて、刀-鉾(きつさき)のごとく然〔しか〕り。其の余、「酒造家(さかや)」・「藍染家(あをや)」・「麹造家(かうじや)」等の「地獄」、皆、其の色の狀〔かたち〕を現はす。凡そ硫黃〔いわう〕有る山は必ず、火煙、出でて、温泉、涌く。故、自〔おのづか〕ら、「地獄」と謂ひつべき者、之れ、有り。殊に當山と肥前の溫泉嶽(うんぜんのたけ)[やぶちゃん注:長崎の雲仙岳。]、見る人、驚歎せずといふこと莫〔な〕し【諸地獄は山類の下に詳らかなり。】。

慈覺、護摩執行〔しふぎやう〕の時、莚席(えんせき)無し。檞-葉(かしは)を取りて、石の上に敷く。今に、其の石、方二丈許り、薄く※[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。](へ)げて、幅一寸、長さ二寸半許り、形、檞〔かしは〕の葉のごとくにして文理〔もんり〕[やぶちゃん注:筋目。]有り。又、當山に異鳥有り。鳴く聲、「佛法僧」と言ふがごとし。日光及び高野にも亦、此の鳥、有ると云云(うんぬん)。

   *

どうであろう? これは正直、参考にしたという程度では、最早、ない。現代なら、良安から著作権侵害を訴えられるレベルである。しかも、これによって、先の「柏葉石」も結局、この「和漢三才図会」の記載の最後をお手軽に切り取って離して貼り付けたとしか言いようがない。引用元を示していればよかったものを、これははっきり言ってひどい(江戸の考証随筆ではちゃんと引用元の書名を記している筆者は実は結構いるのだ。江戸時代だからと言って好意的に甘く見るのはだめ!)。ひど過ぎるあきまへんて! 沾涼はん!!!

「大畑」青森県むつ市大畑町(おおはたまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中尊は長(た)五尺あまり」慈覚大師円仁は夢告によって恐山に来たって六尺三寸の地蔵菩薩を刻んだとされるが、それは現存しないようである。

「圓空」(寛永九(一六三二)年~元禄八(一六九五)年)江戸初期の僧侶で、私の偏愛する名仏師である。小学館「日本大百科全書」から引く。美濃国『竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中島町)に生まれた。若くして仏門に入り、天台僧として修験道』『を学んだともいうが、一宗一派にとらわれぬ自由な信仰の持ち主であったらしい。つねに諸国遍歴の旅を続け、その足跡は、北は北海道から、西は四国、中国にもわたっており、ほとんど日本全土に及んだかと思われる』元禄八年、『故郷美濃へ帰り、自ら中興した弥勒寺』近辺で同年七月十五日、六十四歳で没した。断食の上、土中に穴を掘って入り、即身成仏したと伝えられる。『彼をとくに有名にしたのはその造像で、一生に』十二『万体造像を発願したが、現在までに二千数百体が発見されている。大は名古屋荒子観音寺の』三・五『メートル余の仁王像、小は』二~三『センチメートルの木端(こっぱ)仏まで種々に及び、像種もさまざまである。丸木を四分、八分した楔(くさび)形の、荒く鑿(のみ)を入れただけの材からつくりあげることが多く、原材における制約をそのままに利用し、また鑿の痕(あと)をそのままに残すというように、大胆直截(ちょくせつ)な輪郭や線条で構成された彫像をつくりあげた。一見稚拙なようだが、当時のまったく形式化した作風の職業仏師たちの作に比し、熱烈な信仰の所産だけに、新鮮な魅力を備えており、激しく心を打つものがあって、現代にも通ずる素朴な美と力強さが認められる』。

 ちょっと脱線して円空について語りたい。

 彼の人生は必ずしも明らかでない。ただ、私は七歳で長良川の洪水によって母を失ったその心傷が、彼に仏体十二万彫琢の発願をさせたのだと深く信ずるものである。円空の彫った一部の女性的な仏体の表情やそのフォルムは明らかに慈母のイメージである。

 なお、彼が一所に永くは定住した痕跡がないのは、行脚修行以外に何か別な理由があったのではないかということも、彼に関心を持った学生の時以来、ずっと私の考えてきたことであった。

 例えば、まさにこの青森まで来た円空は、弘前藩から退去命令を受ける(これは、幕府の宗教政策によって寺を持たない僧侶の布教活動が禁止されていたから、と羽葉茶々氏のブログ「今日は何の日?徒然日記」の「多くの仏像を残した修業僧・円空」にはあるが、これは追放根拠としては私には承服出来ない)。これについては、滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」(PDFでダウン・ロード可能)によると、現存する「弘前藩庁日記」の寛文六年正月二十九日(一六六六年三月四日の条に(漢字を恣意的に正字化した)、『圓空と申僧壱人長町ニ罷有候處ニ御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而其段申渡候所今廿六日ニ罷出、靑森へ罷越、松前ヘ參由』とあるものの、この追放と言うべき理由について滝尻氏も『その理由は記されていない』、『国に指し置きまじ由』『ということから』見て『尋常ではなかった』理由であったといった旨、言い添えられておられる。但し、その後で弘前藩の修験が当山派であったのに対し、円空は白山の本山派であり、円空が藩内で行った加持祈禱などがそうした地元の修験者に嫌われて讒言された可能性を示唆してはいる。

 ところが、それでおとなしく南に戻るわけでなく、逆に、上記の通り、当時は松前藩があった渡島半島一帯のごく一部以外は一般人の渡航が許されていなかった蝦夷地に(先の羽葉茶々氏のブログに拠る)アウトローに渡っているその強烈なパワーは、どこか、日常からことさらに離れようとする強い意志を感じてきたのである。それは仏教的厭離穢土などの末香臭い教説などとはまた別なものとして、である。なお、あまり知られていないが、或いは、円空は当時、業病として忌み嫌われ、不当に差別されていた(現在も実は変わらない)ハンセン病患者だったのではないかという説をかつて読み、私は個人的には非常に腑に落ちたものがあったことを言い添えておく。

 支線を辿り過ぎた。本線に帰って、恐山の円空に話を戻す。

 先に示した滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」では、まさに「和漢三才図会」の私が電子化した箇所の頭から商人竹内のところまでが現代語で紹介され、その後に、むつ市大畑の在地資料「原始漫筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)」(文化一〇(一八一三)年癸酉三月八日の条にも(漢字を恣意的に正字化し、一部のルビを排除した)、

   *

『寛文六年』(一六六六年)『圓空渡海有て円仁』(慈覚大師)『作物の損せし木像を模して九体を刻み安置』……『堂宇に多くの作佛は、實は圓空の作ならんか。鉈削りやうにて、わきて殊勝に』

   *

とあると記された後、『円空は海を渡って北海道有珠山の善光寺に寄宿した。そこで慈覚大師円仁の作仏したという仏像が破損していたことから、この仏像に似せて』九『体の仏像を彫ったという。その後、恐山にやって来た。地蔵堂に安置されている仏像は円空の作で、筆者村林源助は「わきて(とりわけ)殊勝(優れている)」と絶賛している』。『そして、円空来村の約』百『年後に下北を巡った紀行家菅江真澄は』紀行「牧の冬枯」の寛政四(一七九二)年『霜月朔日の条で』(同じく漢字を正字化した)、

   *

そもそも此のみやまは慈覺圓仁大師のひらき給ひて、本尊の地藏ぼさち』(菩薩)『を作給ひ、一字一石のほくゑ』(法華)『經をかいて、つか』(塚)『にこ』(込)『め給ひ』、『として今に在り。はた』、『惠心』[やぶちゃん注:平安中期の天台僧で浄土教の基本仏典「往生要集」の作者源信(げんしん)。]『の佛も、なかごろの圓空のつくりたるぶち』(佛)『ぼさち』(菩薩)『もある也』

   *

『と記している』とされる。その後、滝尻氏は、かつて、円空は『下北半島には立ち寄って』おらず、『円空は津軽から北海道に渡り、そのまま秋田経由で帰っており』、『下北地方には立ち寄っていない』、『いま確認されている円空仏は江戸時代の海運によって運ばれて来た』ものであって、『現在、下北に現存する古文書は偽書で、それを菅江真澄らは円空が来村したものと信じて疑わず、来村したの』だ、と『考えたこともあったが、これだけ地方文書が残っていれば、下北地方を巡錫したことは確かである。円空の足取りを探る記録はこれだけで、あとは残された仏像から知るより術(すべ)はない』と述べておられる。

 この滝尻氏の叙述からみて、残念ながら、現在の恐山には少なくとも円空が「修補し」た「千体」仏というのは残っていないものと思われる。

 但し、恐山菩提寺の院代(住職代理)の方のブログ「恐山あれこれ日記」の「恐山の円空仏」に、『恐山の開山堂に奉安してある円空和尚の作になる観音像』が写真附きで掲げられており(右側は拡大出来ない)、『左が十一面観音、右は腰掛けて片足を上げている、観音像ではあまり多くない半跏思惟像で』、『恐山のものは、研究では初期に属するとされ、鉈で叩き割って作ったのかいう感さえある後期の作品にくらべれば、仕上げは丁寧』であるとある。私は十七年前に恐山に行っているのであるが、哀しいことに、これを見た記憶がない。見なかったようである。

「長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈」長さ七十五メートル七十五センチ、幅十八強から二十一メートル二十一センチ。]

2018/06/21

北條九代記 卷第十二 相摸太郎邦時誅せらる 付 公家一統

 

      ○相摸太郎邦時誅せらる  公家一統

 

新田〔の〕小太郎義貞、鎌倉を攻干(せめほし)て、その威、遠近に輝く。東八國の諸將・諸侍、隨ひ屬(つ)く事、風に靡く草の如し。平氏恩顧の者共は降人(かうにん)になり、遁世すといへども、枝葉(しえふ)を枯(から)して殺さるる者、數知らず。五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)は、相摸〔の〕入道の重恩の侍にて、入道の嫡子相摸〔の〕太郎邦時は、宗繁が妹の腹の子なれば、甥(をひ)なり、主(しゆ)なり、何れに付けても、「貳心(ふたごゝを)あらじ」と深く賴みて、邦時を預けられけるを、「子細候はじ」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ。平氏、滅亡して、その枝葉の殘りたるをば、皆搜し出(いだ)して誅しければ、宗繁、思ふやう、「果報、盡はてたる人を隱置(かくしお)きて、我が命を失はんよりは」とて、邦時は討手向ふ由を語り、「伊豆の御山(おやま)の方へ落ち給へ」とて、五月二十七日の夜半許(ばかり)に鎌倉を忍出(しのびいだ)し、中間(ちうげん)一人に太刀持(もた)せて、編笠・草鞋(わらんぢ)にて、足に任せて行き給ふ。宗繁は船田〔の〕入道が許(もと)に行きて、相模〔の〕太郎の訴人(そにん)を致しける。二十八日の曙に、相摸河の端(はた)に立ちて、渡し舟を待たれたり。討手の郎從、宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へけるに任せて、透間(すきま)なく、三騎まで走寄(はしりよつ)て、邦時を生捕(いけど)り、馬の乘せて、白晝に鎌倉に入れ、翌朝(よくてう)、竊(ひそか)に首を刎(は)ね奉りけり。宗繁は源氏に忠あるに似て、重恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし。因果歷然の道理は、踵(くびす)を囘(めぐ)らさず、と惡(にく)まぬ人は、なかりける。都には五月十二日、千種(ちくさの)忠顯・足利高氏・赤松圓心等(ら)、追々に早馬を立てて、六波羅滅却の由、船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。同二十三日、先帝、既に船上を御立ち有りて、山陰(さんいん)の東に催(うなが)されけり。播州書寫山より、兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)に入御ありけるに、新田義貞の早馬三騎、羽書(うしよ)を捧ぐ。相摸、沒落して、相摸〔の〕入道以下の一族、從類、不日(ふじつ)に追討し、東國靜謐(せいひつ)の由を注進す。主上を始め奉り、上下、喜悦の眉をぞ拓(ひら)き給ふ。楠多門兵衞正成、七千餘騎にて兵庫に參向し、是より、楠、前陣(せんぢん)として、六月五日の晩景に東寺まで臨幸あり。此所にて行列を立てられ、禁門にぞ入り給ひける。同七日に、菊池・小貳・大伴が早馬、同時に來り、「九國の探題英時を退治し、九州の朝敵、殘る所なく伐干(うちほ)し候」とぞ奏聞(そうもん)しける。束西南北一統して、公家の政道に皈(かへ)りけり。先帝重祚(てうそ)の後、「正慶の年號は廢帝(はいだい)の改元なり」とて捨られ、本(もと)の元弘にぞなされたる。同二年の夏、天下、賞罰・法令、悉く、公家の政(まつりごと)に出でしかば、諸方の流人を召返(めしかへ)され、諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し、太平の世とぞ響に成りにける。

 

  旹延寶三乙卯年冬吉旦

 

         書林

           梅林彌右衞門

 

鎌倉北條九代記卷第十二

 

[やぶちゃん注:最後の奥書部分は早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原典延宝三(一六七五)年板行本)こちらの画像で翻刻した。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十一巻頭の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎(相摸太郎を賺(すか)す)事」(「賺す」は「騙(だま)す」の意)、及び、「将軍記」巻五の「義貞」「廿七日」、及び、「日本王代一覧」巻六を元としているとある。本章を以って「北條九代記」は全篇が終わっている。私が「北條九代記」の電子化注を始めたのは、二〇一二年十月二十九日のことであったから、実に完遂に五年七ヶ月余りがかかったことになる。「和漢三才図会」のようなものを除き、単品の作品電子化注では今までは最も時間がかかった(しかもこれは教師を辞めてからの完全野人となってから仕儀である)。サイト版の作成を巻第一と巻第二で断念したが、残念な気はしていない(サイト版は誰からも讃辞は寄せられなかったし、その割にルビ付け作業が異様に大変だったこと、しかも理由不明(ソフトのバグと推定される)の突然の不具合によるルビ・タグ書き換えによる修正作業が死ぬほど辛かった(二日徹夜した)からである)。ともかくも最後に、最もお世話になった(特に「吾妻鑑」を元とした前半で)先の論文を書かれた湯浅佳子氏に改めて御礼を申し上げたい。また、ほぼ毎回、実に全二百五十四回の連載を読んで呉れた古い教え子にも心から感謝するものである。「ありがたう」。なお、標題の「公家一統」とは、本来の在り方であるべき朝廷・公家に政権が戻って天下が統一された、という謂いらしい。直に、武家に奪還されちゃうんだけどねぇ。

「相模太郎邦時」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。前章で既出既注

「平氏」平氏である北条氏。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。前章で既出既注

「子細候はじ」逐語的には「異議は御座らぬ」だが、まあ、「ご安心召されよ」「畏まって存ずる」の意。

「領掌(りやうじやう)」受諾。承知。

「鎌倉合戰の最中に、新田の方へに出でけるこそ情(なさけ)なけれ」「太平記」巻第十一の「五大院右衞門宗繁、賺相摸太郎事」の「と領掌して、降人とぞなつたりける」という叙述を変質させている「太平記」のそれは、恐らく、宗繁は北条一党自害の前に、高時の懇請通り、東勝寺から邦時とともに鎌倉御府内のどこかに連れて行って隠した上で、自らは新田軍にわざと降伏した、というのである。それは、当初は邦時を今後、何とかもっと安全な所へ逃すための、自分がある程度は自由に動ける身にしておくための方途であったのであり、それは「情けな」い行為ではないのである。しかし、取り敢えず命は助かって、ある程度、身の自由な積極的投降者を演じながら、それとなく様子を見ていると、滅亡直後から厳しい北条の残党狩りが行われ、そうした者を新田軍に差し出した「捕手(とりて)は所領を預かり、隱せる者は忽ちに誅せらるる事多」(「太平記」の記載。次も同じ)きを見るにつけ、「五大院右衞門、これを見て、『いやいや果報盡き果てたる人を扶持(ふち)せんとて、たまたま遁れ得たる命を失はんよりは、この人の在所を知つたる由、源氏の兵(つはもの)に告ぐて、ふたごころなきところを顯はし、所領の一所をも安堵せばや』と思」ったからこそ、ここにある通り、「情な」くも、邦時を騙し、結局、新田義貞に密告するのである。そうした人の微妙な心の揺らぎを筆者は無視している。最後に至って、私はここを読んで、やや不快になった。多分、私が郷土鎌倉に強い愛着を持っていることと(私は荏柄天神の境内に生まれ、六地蔵の側で育った)、後醍醐が大嫌いなことと無縁ではあるまい。

「伊豆の御山(おやま)」現在の熱海市の伊豆山。伊豆山神社を中心に、頼朝が流人時代から崇敬していた伊豆山権現を祀り、その峻嶮な地勢と僧兵らを以って一つの勢力を形成していた。

「五月二十七日」既に見た通り、幕府滅亡は元弘三(一三三三)年五月二十二日である。

「船田〔の〕入道」。新田義貞の執事船田義昌(?~建武三(一三三六)年)。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、執事は『武家にあって、その家政に従事する者の長』とし、この船田は『群馬県山田・勢多(せた)両郡の地の豪族』で『義貞が去就に迷っていた時の相談相手になっていた』とある。後も義貞に仕え、義貞が足利軍に制圧された京都の奪還を目指した戦いの最中、戦死している。

「訴人(そにん)」ここは「訴え出ること」を指す。「太平記」は、

   *

五大院右衞門は、かやうにして、この人をば賺し出だしぬ。

『われと打つて出ださば、「年來(としごろ)、奉公の好(よしみ)を忘れたる者よ」と、人に指を差されつべし。便宜(びんぎ)好からんずる源氏の侍(さぶらひ)に討たせて、勳功を分けて知行せばや。』

と思ひければ、急ぎ、船田入道がもとに行きて、

「相摸の太郎殿の在所をこそ、くはしく聞き出でて候へ、他の勢を交へずして、打つて出でられ候はば、定めて勳功、異に候はんか。告げ申し候ふ忠には、一所懸命の地を安堵つかまつるやうに、御吹擧(ごすゐきよ)に預り候はん。」

と云ひければ、船田入道、心中には、

『惡(にく)き者の言ひやうかな。』

と思ひながら、

「まづ、子細非じ」

と約束して、五大院右衞門尉もろともに、相摸太郎の落ち行きける道をさへぎつてぞ待たせける。

   *

とある。ここで既に、船田でさえ、宗繁の欲絡みの慇懃無礼な物の言い方に不快を覚えている。しかし、ここまで来れば、まさに毒を喰らわば皿まで、である。以下、その辺の悲惨のリアルな映像を、ちゃんと見よう。

「討手の郎從」船田の郎等である。

『宗繁が、「すはや、件の人よ」と教へける』「太平記」は、

   *

相摸太郎、道に相ひ待つ敵ありとも思ひ寄らず、五月二十八日曙に、殘ましげなる窶(やつ)れ姿にて、

『相摸河を渡らん。』

と、渡し守を待つて、岸の上に立ちたりけるを、五大院の右衞門、餘所(よそ)に立つて、

「あれこそ、すは、件(くだん)の人よ。」

と教へければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透き間もなく、生け捕りたてまつる。

 にはかの事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬に乗せ、舟の繩にて、したたかにこれをいましめ、中間二人(ににん)に馬の口を引かせて、白晝に鎌倉へ入れたてまつる。これを見聞く人ごとに、袖を絞らぬはなかりけり。この人、未だ幼稚の身なれば、何程(なにほど)の事かあるべけれども、朝敵の長男にておはすれば、

「さしおくべきにあらず。」

とて、則ち、翌日の曉(あかつき)、潛かに首を刎ねたてまつる。

   *

この処刑された時、「北条系図」では邦時は数え十五とするが、現在の推定される誕生日からは未だ満八歳であった。

「宗繁は源氏に忠あるに似て」宗繁は平氏北条を滅ぼしたる源氏(新田ら)に忠義を尽くしたかのように見えながら。

『恩の主君を殺させける事、貴賤上下、惡(にく)みければ、義貞も惡(にく)まれ、「之をも誅すべし」と内議定りければ、宗繁、所領忠賞(ちうしやう)の望みは何地(いづち)去(い)ぬらん、鎌倉を逃げ出て此彼(こゝかしこ)、吟(さまよ)ひつゝ、遂に乞食に成りて、破れたる苫(とま)、古き菅薦(すがこも)を身に纏ひ、道の巷(ちまた)に飢死にけるとぞ聞えし』「太平記」は前章の注で示した通り、

   *

年來(としごろ)の主(しゆ)を敵に討たせて、欲心に義を忘れたる五大院右衞門が心のほど、

「希有なり。」

「不道なり。」

と、見る人ごとに、爪彈(つまはじ)きをして憎みしかば、義貞、

「げにも。」

と聞き給ひて、

「これをも誅すべし。」

と、内々、その儀、定まりければ、宗繁、これを傳へ聞いて、ここかしこに隱れ行きけるが、梟惡(けうあく)の罪、身を譴(せ)めけるにや、三界廣しと雖も、一身を置くに所なく、故舊(こきう)と雖も、一飯を與ふる人無くして、遂に乞食(こつじき)の如くに成り果てて、道路の岐(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞えし。

   *

と終わっている。

「踵(くびす)を囘(めぐ)らさず」踵(かかと)をくるっと回すほどの僅かの時間もない、の意で、ここは「瞬く間」の意。応報迅速であること。

「播州書寫山」現在の兵庫県姫路市の書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗書寫山圓教寺(えんぎょうじ)。、康保三(九六六)年に性空(しょうくう)が創建したと伝える。中世には比叡山・大山(だいせん)とともに、『天台宗の三大道場と称された巨刹で』あり、『京都から遠い地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』とウィキの「圓教寺にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「兵庫の福嚴寺(ふくごんじ)」現在の兵庫県神戸市兵庫区門口町にある臨済宗巨鼈山(こごうさん)福厳寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「福厳寺」によれば、『開創年代は不明。開山は仏僧国師約翁徳倹』。「摂津名所図会」に元弘三(一三三三)年五月『晦日に後醍醐天皇が』『京へ戻る途中に入り』、六『月朔日、大般若経を転読させたとある』。『赤松則村(円心)父子、楠木正成と部下七千騎が』後醍醐をこの寺で『出迎えた』という。

「禁門」皇居。宮中。

「菊池」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、かの道長の長兄『藤原道隆の子孫、菊池二郎武時の息、武重か』とある。

「小貳」(読みは「せうに(しょうに)」)同前の山下氏の注によれば、『源平時代、藤原(武藤)頼兼が太宰少弐に任ぜられ』、『この地に土着したことから』、『これを称する。大友氏とともに鎮西奉行を世襲。貞経(法名妙慧(みょうえ))がその息頼尚(よりなお)とともに英時討伐に参加している』とある。

「大「大友」の誤り元鎌倉幕府鎮西奉行であった大友貞宗(さだむね ?~元弘三/正慶二(一三三四)年)。同前の山下氏の注によれば、『藤原秀郷(ひでさと)の子孫、親時(ちかとき)の息貞宗。鎮西奉行として、九州の御家人を支配した』とある。ウィキの「大友貞宗によれば、大友氏第六代当主。『「貞」の字は鎌倉幕府の執権・北条貞時から賜ったものと思われる』。応長元(一三一一)年、『兄の貞親が死去したため、その後を継いで当主となる。幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時に仕えて』、元弘三/正慶二(一三三三)年三月、菊池武時が『後醍醐天皇の密命を受け』、『攻め寄せた』時には、『英時や少弐貞経らと』とも『敗死させ』ている。『その後も九州における討幕軍の追討に務めたが』、同年五月、『足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津氏らと』ともに、『英時から離反し』、逆に『これを攻め滅ぼした。その功績により』、『豊後国の守護』『を与えられたが、同年十二月三日、『京都で急死した』。『その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった』とある。

「九國の探題英時」北条(赤橋)英時(?~正慶二/元弘三年五月二十五日(一三三三年七月七日)。父は、北条長時の曾孫北条久時。幕府最後の執権となった北条守時の弟。既出既注

「先帝重祚(てうそ)」親後醍醐の筆者にしてこれは甚だ誤った言い方である。後醍醐は光厳天皇の皇位を全否定して、親政(建武の親政)を開始するのであって、後醍醐は、あくまで自身の譲位を認めていないのであり、溯る十五年前の文保二年二月二十六日(一三一八年三月二十九日)の即位からずっと継続して在位していると、この時、主張したのである。従って当然、自らの「重祚」(復位)という言い方自体を後醍醐は認めないのである。

「廢帝(はいだい)」光厳院。

「同二年」元弘三年の誤り

「諸卿、各(おのおの)、本官に歸(き)し」旧幕府や親幕派公卿によって不当に官職を追われていた公家の方々は、それぞれ以前の官職に戻り。

「旹」「時」の異体字。「ときに」と訓じていよう。

「延寶三乙卯」「乙卯」は「きのとう」。グレゴリオ暦一六七五年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「初冬」陰暦十月の異称。

「吉旦」「吉日」。

「書林」書肆。出版元。

「梅林彌右衞門」京都の本屋であること以外は不明。]

北條九代記 卷第十二 新田義貞義兵を擧ぐ 付 鎌倉滅亡

 

      ○ 新田義貞義兵を擧ぐ  鎌倉滅亡

 

新田(につたの)太郎義貞は去ぬる三月十一日、先帝後醍醐の綸旨を賜はり、千劍破(ちはや)より虛病(きよびやう)して本國へ皈り、竊(ひそか)に一族を集めて、謀叛の計略を囘(めぐ)らさる。相摸〔の〕入道、舍弟四郎左近大夫泰家入道に、十萬餘騎を差副へて、京都へ上せらる。軍勢兵粮の爲とて、近國の莊園に臨時の夫役(ふやく)をぞ課(か)けらる。中にも新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)へ、「五日の中に六萬貫を沙汰すべし」と下知して譴責(けんせき)す。義貞、怒(いかつ)て使を討殺(うちころ)す。相撲入道、大に憤(いきどほり)て、武藏・上野の勢に仰せて、「新田太郎義貞、舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)を討つべし」と下知せらる。義貞、聞きて、當座の一族百五十騎、同五月八日に旗を擧げ、利根河に打出でしに、越後の一族里見・鳥山・田中・大井田の人々、二千餘騎にて來りたり。豫(かね)て内々相觸れける故なれば、甲・信兩國の源氏等、五千餘騎にて馳來る。東國の兵共、悉く來付(きたりつ)きて、その日の暮方には、二十萬七千餘騎にぞ成りにける。同九日、鎌倉より、金澤武藏守貞將に五萬餘騎を差し副へて、下河邊へ下され、櫻田治部〔の〕大輔貞國に六萬餘騎を副へて、入間河へ向けらる。同十一日より、軍、初り、鎌倉㔟、度々(たびたび)打負けて、利を失ふ。相摸入道、驚きて、四郎左近入道惠性(ゑしやう)を大將として、十萬餘騎を下さる。義貞、分倍(ぶんばい)の軍に打負け給ひしが、同十六日には鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す。東國の勢、新田に馳付く事、六十萬七千餘騎とぞ記しける。是より、三手に分けて鎌倉に押寄せて、藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘所に火を掛け、三方より攻入りけり。鎌倉にも、三手に分けて防がせらる。同十八日巳刻より合戰始り、互に命を限に攻戰ふ。萬人死して一人殘り、百陣破れて一陣になるとも、何(いつ)終(はつ)べき軍(いくさ)とも覺えす。今朝、洲崎へ向はれし赤橋相摸守は、數萬騎ありつる郎從も討たれ落散りて、僅に一、二百餘騎に成る。侍大將南條左衞門高直に向ひて仰せけるは、「この軍(いくさ)、敵、既に勝(かち)に乘るに似たり。盛時は足利殿には女性方の緣者たり。相摸人道も、その外の人々も、心を置き給ふらめ。我、何の面目かあらん」とて、腹切りて臥し給ふ。同志の侍九十餘人、同じ枕に自害しける。この手より、軍、破れて、義貞の官軍、山内まで入りにけり。すはや、敵は勝に乘りて、深く攻入りたりと云ふ程こそあれ。鎌倉勢諸手、皆、勢を失ひけり。極樂寺の切通へ向はれし大館(おほだちの)二郎宗氏は、本間(ほんまの)山城左衞門に討たれて、軍勢、片瀨へ引きけるを、義貞、二萬餘騎にて、同二十日の夜半に極樂寺坂にうち望む。稻村崎、道狹く、兵船を浮べ、櫓を搔きて、數萬の軍兵、防ぎけるが、鎌倉の運の盡(つく)る所、潮(うしほ)、俄に干瀉となり、二十餘町は平沙渺々たりし。漕浮(こぎうか)べし兵船は、潮に隨(したが)うて、遙の沖に漂へり。大將義貞、大に悦び、軍兵を進めらる。濱面(はまおもて)の在家に火を掛けたりければ、濱風に吹布(ふきしか)れ、二十餘所、同時に燃上る。相模〔の〕入道、千餘騎にて、葛西谷(かさいがやつ)に引籠(こも)られしかば、諸大將の兵共、東勝寺に充滿(みちみち)たり。大佛陸奧守貞直、三百餘騎にうちなされ、極樂寺の切通(きりどほし)にして、鎌倉殿の御屋形(やかた)に火の掛りしを見て、「今は是までなり」とて、郎從共は自害す。貞直は脇屋〔の〕義助の陣に蒐入(かけい)り、主從六十餘騎、皆、討たれ給ひけり。金澤武藏守貞將も、山〔の〕内の軍(いくさ)に手負ひければ、東勝寺に皈り、相摸〔の〕入道に暇乞ひし、大勢の中に掛入りて、討死せらる。普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)は、假粧坂(けはいざか)の軍に、二十餘騎に打なされて自害せられけり。鹽田陸奥入道道祐(だういう)、子息民舞〔の〕大輔俊時も自害し、鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)、子息三郎左衞門忠賴も腹切りて果てらる。相摸入道は諏訪(すはの)三郎盛高に向ひ、二男龜壽(かめじゆ)殿を預けらる。盛高、抱きて信濃に下り、諏訪〔の〕祝部(はふり)が本に隱置(かくしお)きけるが、建武元年の春、關東を劫略(ごふりやく)し、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大將相模二郎と云ふは、是なり。嫡子萬壽殿をば、五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)、預りて、落行きたり。長崎〔の〕二郎高重、大剛武勇(だいがうぶよう)の名を現(あらは)し、東勝寺に立皈り、相摸〔の〕入道の前に來りて、「今は是迄候。早々(はやはや)御自害候へ。高重、先(さき)を仕る」とて腹切りて臥したり。長崎入道圓喜も死す。相摸入道も腹切り給へば、一族三十四人、惣じて門葉二百八十三人、皆、悉く自害して、屋形に火を掛けしかば、死骸は燒けて見えねども、殘る人は更になし。元弘三年五月二十二日、軍家北條九代の繁昌、一時(じ)に滅亡して、源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり。

[やぶちゃん注:遂にカタストロフがやってくる。但し、後醍醐の謀反以降の描写で判るように、筆者は平板な尊王年表的直線的記録の先端にぶら下がっている〈当然の終結展開の一事件〉としてしかこれを捉えておらず、修羅の鎌倉の惨状は、正直、呆れるほどにストイックにしてドライで、血の匂いもしない、パノラマ館の小さなジオラマのようにしか見えない。「平家物語」のような風情感懐的余韻を伴った文学的香気もなく、「太平記」のようなカット・バックを多用した講談的活劇の面白さも、一切、ない。真実、年代記として本書が書かれたものならば、それは寧ろ当然と言えるのであろうが、しかし、あの頼朝の奥州攻めでの、「吾妻鑑」を自在にマルチ・カメラに変えたリアリティに富んだ活劇性や、時頼を屋上屋で得宗の理想的権威者として塗りたくった狂信的パワーに比し、終盤、高時をテツテ的に愚昧な偏狂者として堕(だ)し、幕府滅亡の薄っぺらい罪状高札として掲げている辺り、残念乍ら、こと、ここに来たって、筆者の筆力の衰退或いは飽き性を物語っていると言えるように私は思う。特に「主上笠置御籠城 付 師賢登山 竝 楠旌を擧ぐ」以降の本文が、進むにつれて、恥も外聞もなく、「太平記」の〈貼り交ぜ日記〉調となっているのは誰が見ても明らかで、正直、ここまで電子化注を進めて来て、あと一章を残すのみ、という段になって、かなり、私は、内心の淋しさを感じざるを得ないのである。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第十の二項目の「新田義貞謀叛事 付 天狗催越後勢(えちごぜいをもよほする)事」から「高時幷(ならびに)一門以下於東勝寺自害事」及び「将軍記」巻五の「同八日」、「保暦間記」や「日本王代一覧」を元としているとある。

「新田(につたの)太郎義貞」(正安三(一三〇一)年~延元三/暦応元(一三三八)年)の正式な名は源義貞。河内源氏義国流新田氏の本宗家八代目棟梁。新田朝氏の長男。以下、主に小学館「日本大百科全書」によって記す(但し、本シークエンス部分は、詳しいウィキの「新田義貞」から引く)。上野(こうずけ)国新田荘(しょう)(旧新田郡。現在の群馬県太田市・伊勢崎市・みどり市の各一部。郡域はウィキの「新田郡を参照されたい)を拠点とする豪族新田氏の惣領であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらも持たぬほどの、鎌倉幕府からは冷遇された一御家人に過ぎなかった。元弘の乱では「太平記」によれば、当初、幕府軍の一員として千早城攻撃に加わったが、その途中、帰国したとされる。ウィキの「新田義貞」によれば、『義貞は』鎌倉幕府『大番役として在京していたが』、『河内国で楠木正成の挙兵が起こると』、『幕府の動員命令に応じて、新田一族や里見氏、山名氏といった上野御家人らとともに河内へ正成討伐に向かい、 千早城の戦いで』『河内金剛山の搦手の攻撃に参加していたが』、この元弘三/正慶二(一三三三)年三月、『病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまう』。ところが「太平記」では、この河内出兵中に、『義貞が執事船田義昌と共に策略を巡らし、護良親王と接触して北条氏打倒の綸旨を受け取っていたという経緯を示している』のであるが、歴史学者『奥富敬之は、「護良親王がこの時期河内にいた事は疑わしい」、「文章の体裁が綸旨の形式ではない」などの根拠を提示して、これを作り話であると断定しているが、親王から綸旨を受領したことについては完全に否定はしていない』。歴史学者山本隆志も、「太平記」の『記述にある義貞宛の綸旨は体裁が他の綸旨と異なり、創作ではないかと疑義を呈しながらも、当時、他の東国武士にも倒幕を促す綸旨が飛ばされたことから、義貞が実際に綸旨を受け取っていた可能性はあると指摘している』。一方で、『義貞は後醍醐天皇と護良親王の両者から綸旨を受け取っていたとも言われる』。しかし、「太平記」には『後醍醐天皇が義貞宛に綸旨を発給した記述はなく、綸旨の文章で書かれた令旨であったということになっている』とある。さて、ここで『義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使者との衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった』。『楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した』。同年四月、『新田荘には金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の淵名荘から赴いた』。『金沢と黒沼は「天役」を名目として』、六『万貫文もの軍資金をわずか』五『日の間という期限を設けて納入を迫ってきた』。『幕府がこれだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである』。『両者の行動はますます増長し、譴責の様相を呈してきたため、義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を笠に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で』、『世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で』は、『一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は』、『長年』、『世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった』。『また、長楽寺再建の完了時に幕府が楠木合戦の高額な軍資金を要求したことは、多額の再建費用を負担した義貞や世良田の住民にとっても許容しがたい行為であった』。『そのため、遂に義貞は憤激し、金沢を幽閉し、黒沼を斬り殺した』。『黒沼の首は世良田の宿に晒された。金沢は船田義昌の縁者であったため助命されたと言われるが、幕府の高官であったため、殺害すると』、『幕府を刺激する』、『と義貞が懸念したとも考えられている』。『これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を、挙兵した日である』五月八日付で『長楽寺に寄進する文書を発給した』。『これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった』。『この文書が長楽寺にもたらされたのは義貞』が兵を進発させた『数日後であったと考えられている』とある(ウィキ引用はここまで)。ともかくも、こうして北条氏に背いて義貞は挙兵し、上野・越後に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら:現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら:現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、五月二十二日、鎌倉を攻め落とし、幕府を滅亡させたのであった。その功によって建武政権下では重用され、越後などの国司・武者所頭人、さらに昇進して左近衛中将などに任ぜられたが、やがて足利尊氏と激しく対立するようになり、建武二(一三三五)年、関東に下った尊氏を追撃するも、「箱根竹の下の合戦」で大敗、しかしその直後、上洛した尊氏を迎撃して「京都合戦」で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とした。延元元/建武三(一三三六)年、再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(現在の兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐天皇方は楠木正成らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金ヶ崎(えちぜんかながさき)城(現在の福井県敦賀市在)を拠点に再起を図ったが、翌年、これを失い、嫡男義顕(よしあき)も自刃した。その後、越前藤島(現在の福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺(へいせん)の衆徒の軍と合戦中、伏兵の急襲を受けて戦死した。義貞は、鎌倉攻めのために上野を出た後、遂に一度も故地上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義を中心に一族が纏まって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さも勿論だが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、僅かに弟脇屋義助(わきやよしすけ)・大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏ら、本宗系の庶子家しか動員し得なかった点に、既に義貞の非力さが存在した。にも拘らず、義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路を辿ることになったのであった。

「虛病(きよびやう)」仮病。

「舍弟四郎左近大夫泰家入道」北条泰家(?~ 建武二(一三三五)年?)。第九代執権北条貞時の四男で、第一四代執権北条高時相摸入道の同母弟。既出既注であるが、再掲しておく。ウィキの「北条泰家」によれば、『はじめ、相模四郎時利と号した』。正中三(一三二六)年、『兄の高時が病によって執権職を退いたとき、母大方殿(覚海円成)と外戚の安達氏一族は泰家を後継者として推すが、内管領長崎高資の反対にあって実現しなかった。長崎氏の推挙で執権となった北条氏庶流の北条貞顕が』十五『代執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家、多くの人々が』、『泰家と同調して出家した。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は出家してわずか』十『日で執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった(嘉暦の騒動)』。『幕府に反旗を翻した新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いてこれを迎撃し、一時は勝利を収めたが、その勝利で油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の横溝八郎などの奮戦により』、『鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と』は『行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びている』。『その後、京都に上洛して旧知の仲にあった西園寺公宗の屋敷に潜伏し』、建武二(一三三五)年六月に『公宗と共に後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図って挙兵しようと計画を企んだが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている』。その後、翌年の二月に『南朝に呼応して信濃国麻績』(おみの)『御厨で挙兵し、北朝方の守護小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武』二『年末に野盗によって殺害されたとも言われて』おり、事実、「太平記」にも建武二年の『記述を最後に登場することが無いので、恐らくはこの前後に死去したものと思われる』とある。

「新田莊(につたのしやう)世良田(せらだ)」現在の群馬県太田市世良田町附近(グーグル・マップ・データ)。

「舍弟脇屋次郎義助(よしすけ)」(嘉元三(一三〇五)年~興国三/康永元(一三四二)年)新田朝氏の次男で新田義貞の弟。ウィキの「脇屋義助」によれば、兄義貞に従い、『鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した』。『長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから』、『名字を「脇屋」と称した』。『兄義貞が新田荘にて鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵すると、関東近在の武家の援軍を受け』、『北条氏率いる幕府軍と戦う。鎌倉の陥落により、執権北条氏が滅亡した後は、後醍醐天皇の京都への還御に伴い、上洛。諸将の論功行賞によって』、同年八月五日、『正五位下に叙位され、左衛門佐に任官した』。『また、同年、一時期、駿河守にも補任され、以後、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正大弼などの官職を歴任した。また、この』頃に『設置された武者所では兄の義貞が頭人に補せられたのに伴い、義助も武者所の構成員となり、同所五番となった』。『その後も常に義貞と行動をともにし、各地で転戦した』。延元三/建武五(一三三八)年、『義貞が不慮の戦死を遂げると』、『越前国の宮方の指揮を引き継いだ。兄・義貞亡き後の軍勢をまとめて越前黒丸城を攻め落としたものの、結局室町幕府軍に敗れて越前から退いた』翌年九月には『従四位下に昇叙』している。興国三/康永元(一三四二)年、『中国・四国方面の総大将に任命されて四国に渡り、伊予の土居氏・得能氏を指導し、一時は勢力をふるったが、伊予国府で突如』、『発病し、そのまま病没した。享年』三十八であった。

「里見」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県群馬郡榛名町里見』(現在は高崎市上里見町)『の武士』で『新田の一族』とあり、『以下孰れも新田の一族』とする。

「鳥山」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県太田市鳥山の武士』とある。

「田中」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『群馬県新田郡新田町田中の武士』とある。現在は太田市内。

「大井田」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『新潟県十日町市の武士』とある。

「下河邊」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、利根川の『下流、埼玉県』北葛飾郡『の地の総称』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「櫻田治部〔の〕大輔貞國」北条(桜田)貞国(弘安一〇(一二八七)年?~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)或いは同年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条氏一門。ウィキの「桜田貞国」によれば、『得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる』が、『その後の貞時・高時政権期の活動は不明である』。この時、『新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたった』『が、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れ』、『大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った』後、同月二十二日に『北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した』。『しかし、以上』は「太平記」に『見られるものであり、実際の史料ではそれより前の』、五月九日、『北条仲時らと共に』遙か離れた滋賀で『自害したとされる』。『いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである』とある。

「分倍(ぶんばい)の軍」五月十五日の一戦で「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」の第一次戦。分倍(ぶんばい)は現在の東京都府中市分梅(ぶばい)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。分倍河原(ぶばいがわら)はそこに含まれる。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)には、この日の敗退について、以下のようにある。幕府はこの前哨戦である小手指原及び久米川での幕府軍の『敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく』先に出た通り、『北条高時の弟北条泰家を大将とする』十『万の軍勢を派遣』して、『分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した』が、実は『義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた』。五月十五日、二日間の『休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始』したが、『援軍を得て』、『士気の高まっていた幕府軍に迎撃され、新田軍は堀兼(狭山市堀兼)まで敗走した。本陣が崩れかかる程の危機に瀕し、義貞は自ら手勢を率いて幕府軍の横腹を突いて血路を開き』、撤退している。『もし、幕府軍が』そのまま彼らを『追撃を行っていたら、義貞の運命も極まっていたかもしれないと指摘されている』。『しかし、幕府軍は過剰な追撃をせず、撤退する新田軍を静観した』とある。

「同十六日には、鎌倉勢、分倍河原(ぶんばいがはら)にして、打崩されて、引返す」同第二次戦。ウィキの「分倍河原の戦い (鎌倉時代)によれば、前日に『敗走した義貞は、退却も検討していた』。『しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢』六千『騎で義貞に加勢した』。『大多和氏は北条氏と親しい氏族であったが、北条氏に見切りをつけて義貞に味方した』もので、『また義勝は足利一族の高氏から養子に入った人物であり、義勝の行動の背景には宗家足利氏の意図、命令があったと指摘されている』とある。ともかくも、『義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる』ため、『忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばした。翌』十六『日早朝、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した』とある。

「藤澤・片瀨・腰越以下、五十餘ケ所に火を掛け」「太平記」巻第十「鎌倉合戰〔の〕事」によれば、この「鎌倉合戦」緒戦を予告する狼煙ともいうべき包囲放火は「五月十八日の卯の刻」(午前六時前後)とする。

「三方より攻入りけり」北の巨福呂坂切通(現在の北鎌倉の山内(やまのうち)の建長寺門前から東山上を抜ける旧切通。現在は中間部が保存されておらず、通行も出来ない)・西中部からの化粧坂(けわいざか:洲崎・梶原を経て源氏山から扇ガ谷へ抜けるルート)・極楽寺坂(南西。稲村ヶ崎の要害で鎌倉合戦の最大の激戦地の一つ)の三方。

「同十八日巳刻より合戰始り」鎌倉幕府は、

元弘三年五月十八日から同月二十二日まで

の五日間の攻防(狭義の「鎌倉合戦」)で滅亡した。同旧暦は当時のユリウス暦で

一三三三年六月三十日から七月四日

に当たる。因みに時期的認識のために試しに現在のグレゴリオ暦に換算してみると、

一三三三年七月八日から七月十二日

に相当する。「巳刻」は午前十時前後

「赤橋相摸守」最後の執権北条(赤橋)守時。

「南條左衞門高直」御内人であった武将南条左衛門尉高直(?~正慶二/元弘三(一三三三)年)はサイト「南北朝列伝」のこちらの記載によれば、『南条氏は伊豆・南条を名字の地とする一族で、北条得宗被官(御内人)のうち重要な地位を占めたものと考えられている。得宗専制が強まるとともに幕府内で頭角を現したとみられ、「太平記」でも鎌倉末期の情勢の中で「南条」一族が何人か登場している。だが』、『その系図はまったく不明である』。『「太平記」で南条高直が初登場するのは巻二、二度目の討幕計画が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた時で、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門に預けさせた人物として「南条左衛門高直」の名が明記されている。なお、北条貞時の十三回忌法要』(元亨二(一三二二)年)『のなかに「南条左衛門入道」の名があるので、これが高直ではないかとする推測もある』。この鎌倉攻めの火蓋が切られた五月十八日、『執権・赤橋守時は巨福呂坂から洲崎(鎌倉北西部、山を越えた地域と思われる)へ出撃して新田軍と交戦、激戦の末に自害して果てた。「太平記」では自害の前に守時は南条高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏の妻だから、高時どの以下、みな』、『私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語った。守時の自害を見とどけた高直は「大将がすでにご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供つかまつろう」と言ってただちに腹を切った。これを見て』、その場にあった九十『余名の兵たちも一斉に腹を切ったという』。『「梅松論」でも赤橋守時と同じ場所で命を落としたとして「南条左衛門尉」の名を挙げている』とある。本文の守時の述懐はその通りである。

「大館(おほだちの)二郎宗氏」(正応元(一二八八)年~正慶二/元弘三年五月十九日(一三三三年七月一日)は新田氏の支族の武将。ウィキの「大館宗氏」によれば、『祖父は新田政義、父は大舘家氏』。『鎌倉時代末期、岩松政経の代官である堯海と田嶋郷の用水を巡り』、『争論となり、控訴されて敗れる。この折りは『総領である新田家を無視し、大舘・岩松両家は幕府に直接裁定を申し出ている』。この時は『義兄弟にもあたる新田義貞を旗頭に、子息らや他の新田一族と共に鎌倉幕府に対し』、挙兵した。『宗氏は極楽寺切通しから突入する部隊の指揮を任され』、五月十八日、『稲村ヶ崎の海岸線から』『鎌倉市街突入を敢行しようとし』、一『度は北条軍を破って突破したが』、『大仏貞直が態勢を立て直すと』、『その配下の本間山城左衛門との戦闘で討死した』。「梅松論」に拠れば、同十八日『未明に稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉にいったん進入するも、諏訪氏、長崎氏らの幕府方との戦闘となり、宗氏らは稲瀬川付近で戦死し、新田軍はいったん退却した、と記されている』。五月十八日を討ち死にの日とするのは「尊卑文脈」に『よるものだが』「太平記」は『死去の日時を』五月十九日としている。享年四十六。『宗氏の討死によって』、『この方面軍の指揮系統が消失したため、一旦』は『息子の氏明が軍を率いたが、宗氏討死の報を聞いた義貞が化粧坂方面を弟の脇屋義助に任せ』、二十一日に『極楽寺方面へ布陣してきたため、義貞が以降の指揮を取ることとなった』。『その後、義貞は防御の堅い極楽寺切通しの突破ではなく』、「梅松論」が『伝えるところの宗氏の突入と同じルート、すなわち稲村ヶ崎の海岸線から』二十一『日未明に鎌倉市街に突入したとされている』。『戦死した宗氏ら十一人は当初、御霊神社の付近に葬られ十一面観音が祭られたが、のちに改葬され、現在の稲村ヶ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られているとされる』とある。

「本間(ほんまの)山城左衞門」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『村上源氏か』とある。日野資朝を処刑した佐渡守護「本間山城入道」の名が見えるが、彼は資朝処刑直後に死去しているとする系図資料があり、同一人物かどうかは不明。

「二十餘町」二十町は約二キロ百八十二メートル。

「平沙渺々」平らな砂浜が広々と広がるさま。

「濱面(はまおもて)」由比ヶ浜の正面。

「葛西谷(かさいがやつ)」現在の宝戒寺境内の南の、滑川(流域呼称は青砥川)を越えた東南の谷。山下に臨済宗青龍山東勝寺(北条泰時創建。この後、廃寺となり(次注参照)、現在は遺跡の一部の発掘後、埋め戻されて当該発掘地は平地(立入禁止)となっている)があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東勝寺」この時、建造物は焼失したが、直ちに再建されており、暫くは存続した。貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)によれば、『当寺がいつ廃したかは明らかではない。けれども永正九年(一五一二)五月二十日、古河公方足利政氏は妙徳を東勝寺住持に任じており(「東山文庫記録」)、この時まで存在していたことがわかる』とある。

「大佛陸奧守貞直」北条(大仏(おさらぎ))貞直(?~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は大仏流北条宗泰の子。ウィキの「北条貞直により引く。『得宗・北条貞時より偏諱を受けて貞直と名乗る』。『引付衆、引付頭人など要職を歴任して幕政に参与した』。元弘元(一三三一)年九月、貞直は『江馬越前入道(江馬時見)、金沢貞冬、足利高氏(のちの尊氏)らと共に大将軍として上洛し』、同月二十六日には『軍を率いて笠置に向けて進発し』、二『日後に攻め落とした(笠置山の戦い)』。十月の『赤坂城の戦いに勝利して戦功を挙げたことから、遠江・佐渡などの守護職を与えられ』ている。元弘二/正慶元(一三三二)年九月には、再び、『北条高時が派遣した上洛軍に加わり』、翌年二月から勃発した『千早城の戦いにも参加している』。『このとき、貞直は寄せ手の軍勢が大打撃を受けたことを見て、赤坂城攻めの経験から水攻め、兵糧攻めの策を講じている』。この時、『新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に攻め込んでくる(鎌倉の戦い)と』、『極楽寺口防衛の大将としてその迎撃に務め』、『新田軍の主将の一人である大館宗氏と戦い』一『度は突破を許したが』、『態勢を立て直して宗氏を討ち取り』、『堅守し』た。しかし、力及ばず、五月二十一日深夜、『攻防戦の要衝である霊山山から撤退するが、この時に残っていた兵力は』三百騎にまで減っていた。翌二十二日、『宗氏に代わって采配を取った脇屋義助(義貞の弟)の攻撃の前に遂に敗れて戦死した』。この時、『弟の宣政(のぶまさ)や子の顕秀(あきひで)らも共に戦死している』。彼は『武将としての能力だけでなく、和歌にも優れた教養人であったと伝わる』。『「太平記」でも北条一族の主要人物のひとりとして登場しており、鎌倉防衛戦においては巨福呂坂の守将・金沢貞将と共に最期の様子が描かれている』とある。

「金澤武藏守貞將」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。既出既注

「普恩寺前(さきの)相摸入道信忍(しんにん)」北条基時(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。普恩寺(ふおんじ)基時とも呼ぶ。「信忍」は法名。既出既注

「鹽田陸奥入道道祐(だういう)」北条(塩田)国時(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は北条一門の武士。ウィキの「北条国時」によれば、『父は極楽寺流の分流で塩田流の北条義政』(六波羅探題北方や連署を務めた北条重時(北条義時の三男)の五男。鎌倉幕府第六代連署(在任:文永一〇(一二七三)年~建治三(一二七七)年)。信濃国塩田荘に住したことから、義政から孫の俊時までの三代は塩田北条氏と呼ばれる)。徳治二(一三〇七)年、『二番引付頭人に就任』、応長元(一三一一)年、『一番引付頭人に就任』したが、二年後に辞任している。『元弘の乱における鎌倉幕府滅亡の際には鎌倉に駆けつけて宗家』北条氏『と運命を共にし、子の藤時・俊時らと共に自害した』。なお、元弘三(一三三三)年五月、『国時の子と見られる「陸奥六郎」が家人と共に籠城していた陸奥国安積郡佐々河城で宮方の攻撃を受けて落城している。また』建武二(一三三五)年八月一四日、『駿河国国府合戦では、国時の子と見られる「塩田陸奥八郎」が生け捕られている』とある。

「子息民舞〔の〕大輔俊時」(?~~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条国時の嫡男。ウィキの「北条俊時」によれば、元徳元(一三二九)年に『評定衆に任じられ、同』三年には『四番引付頭人に就任し』ている。「太平記」巻十「鹽田父子自害事」に『よると、父・国時の自害を促すため、自分の腹を掻き切り』、『自害して果て』ている。

「鹽飽(しあく)新左近〔の〕入道聖遠(しやうをん)」塩飽聖遠(しあくしょうえん/しょうおん ?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日))は北条得宗家被官(御内人)。「太平記」の「鹽飽入道自害事」によれば、東勝寺で北条氏に殉じて、聖遠も自刃している。『自刃の際、嫡男である忠頼』(本文の「子息三郎左衞門忠賴」)『に出家をして生き延び』、『自身の弔いを促すも、忠頼は拒絶し』、『袖の下から抜いた刀で』、即座に『自害した。忠頼の弟である四郎も兄に続こうとするが』、『聖遠が制止し、自らの辞世の漢詩を書き付けた後、四郎に首を落とさせたと』ある(引用はウィキの「塩飽聖遠」)。この「太平記」の一章は短い章であるが、一読、忘れがたい

「諏訪(すはの)三郎盛高」「太平記」によれば、「諏訪左馬助入道が子息諏訪三郎盛高」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、この「諏訪(左馬助入道)」は『諏訪下社の神主家』とある。次注も参照されたい。

「二男龜壽(かめじゆ)殿」「中前代(なかせんだい)の大將相模二郎」北条高時の次男北条時行(?~正平八/文和二(一三五三)年)。当時は、兄(後注参照)の生年から考えると、満七歳以下である。以下、ウィキの「北条時行」から引く。この時、『時行は母』二位局『によって鎌倉から抜け出し、難を逃れていた。兄の邦時も鎌倉から脱出して潜伏していたが、家臣の五大院宗繁の裏切りによって新田方に捕らえられ』、『処刑されている』。『時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。時行を庇護した諏訪氏は代々諏訪大社の神官長を務めてきた家柄であり、頼重は時行に深い愛情を注いだようで、時行は実の父のように頼重を慕っていた』。幕府滅亡の二年後、『北条一族である北条泰家や鎌倉幕府の関係者達が北条氏の復興を図り、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立つ。泰家は得宗被官(御内人)の諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた』。「太平記」に『よれば、盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ』て『処刑された兄邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅し』、『二位局らを困惑させている隙に』、『時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後、二位局は悲観して入水自殺したという』。建武二(一三三五)年七月、『成長した時行は、後醍醐天皇による親政(建武の新政)に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、諏訪時継や滋野氏らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった』。『建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し』、七月二十二日には女影原(おなかげはら:現在の埼玉県日高市)で『待ち構えていた渋川義季と岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原(埼玉県所沢市)で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見(横浜市鶴見区)で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へ進軍』、『ついに尊氏の弟である足利直義を町田村(現在の町田市)の井出の沢の合戦で破』って、七月二十五日に『鎌倉を奪回した』。その二日前、『直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王を殺害しているが、時行が前征夷大将軍である親王を擁立した場合には、宮将軍・護良親王-執権・北条時行による鎌倉幕府復活が図られることが予想されたためであった』。『鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか』という『議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった』。『直義と合流した尊氏は西進してくる時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび』に『破れ』、『退却を余儀なくされた』。『そして、ついには鎌倉にまで追い詰められ、時行軍は壊滅』、八月十九日に『諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら』四十三『人は勝長寿院で自害して果てた』。『自害した者達は皆顔の皮を剥いだ上で果てており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと思われた』(事実は生き延びた)。『時行が鎌倉を占領していたのはわずか』二十『日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ』、『支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる』。『また、この合戦は尊氏と後醍醐天皇の間に大きな禍根を残した。尊氏は鎌倉攻めで功績のあった武将に勝手に褒美を与えるなどしたため、後醍醐天皇の勘気を被った。両者の亀裂は次第に深みを増してゆき、ついに尊氏は天皇に対して反旗を翻すこととなり(延元の乱)、南北朝時代の幕開けとなった』。延元二(一三三七)年、時行は姿を現わし、『後醍醐天皇方の南朝に帰参し』て『勅免の綸旨を得ることに成功した』。『足利尊氏にとって、時行の挙兵は帝の疑心を招き、新田義貞や弟・直義との関係を悪化させるなどしたが、勝長寿院で自害したと思われていた時行が実は今だ生きており、しかも後醍醐天皇に拝謁して朝敵を赦免され、南朝と結託したことは、さらに尊氏を驚かせた』。『時行が朝廷の許しを得るための交渉過程は詳しく判明していないが、後醍醐天皇より南朝への帰属を容認された上、父高時に対する朝敵恩赦の綸旨も受けている。時行による高時の朝敵撤回に関しては、後世に時行の子孫を自称した横井小楠から「この上ない親孝行である」と礼賛されている』。『時行が鎌倉に攻め入って幕府を直接滅ぼした新田義貞らが属する南朝、いわば仇敵と手を組んだ理由は、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるものだといわれるが、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説もある。これに対し』、もともと、『時行は持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、中先代の乱後に上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換し、尊氏と戦ってきた時行はこれを上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と結んで尊氏と戦う道を選んだと解』する見解もある。『朝廷への帰参を果たした時行は、今度は南朝方の武将として各地で転戦した。時行の復活劇は世間をも仰天させ、人々は時行を称揚した』。『南朝へ帰順した時行は東国へ向かい』、『北畠顕家の征西遠征軍に加わり、美濃青野原の戦いなどで足利軍と闘う。しかし、顕家は同時に尊氏を挟撃していた形の新田義貞と連携を取らず、足利方の諸軍との連戦で疲弊した末に和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。総大将の敗死により、北畠征西遠征軍は結果として瓦解してしまった』。『顕家が戦死したことにより』、『北畠軍は四散したが、時行は再び雲隠れし、今度は義貞の息子新田義興の軍勢に加わるなど、足利方に執拗に挑み続け』、正平七/文和元(千三百五十二)年には、『南朝方の北畠親房は北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる』。同年閏二月十五日には、『時行は新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに、上野国で挙兵し』、『また、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵』、三日後の閏二月十八日、『時行や新田義興・脇屋義治らは三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉に入り占拠した(武蔵野合戦)』が、『別に戦っていた新田義宗が敗れて旗色が悪くなると』、三月二日に『鎌倉を脱出し、再び姿を晦ました。水面下でなおも尊氏をつけ狙う時行の執拗さに、尊氏は辟易を通り越して恐怖すら感じていたとも伝わっている』。そして、「鶴岡社務録」などの『史料によれば、鎌倉を逃げた時行は遂に足利方に捕らえられ』、正平八(一三五三)年五月二十日、『鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わる。このとき、彼に付き従っていた長崎駿河四郎、工藤二郎も共に殺害された』とする。しかし、洞院公賢の日記「園太暦」や今川了俊の「難太平記」などに『よると、ここでも時行は脱走し、その行方を晦ましたとある。足利氏としては、未だ蠢動を続ける北条の残党を完全に鎮圧するために、残党が旗頭と仰ぐ時行を殺したということにして、何としてでも北条氏を根絶やしにしたという既成事実をつくりたかったのであろう、とする説がある』。『以上のように』彼は『処刑されたことになっているが、時行の末路については、不明瞭な点が多い』とある。

「諏訪〔の〕祝部(はふり)」「太平記」では「はぶり」とルビする。諏訪神社の神官。

「建武元年」建武二年の誤り。一三三五年。

「劫略(ごふりやく)」古くは「こうりゃく」とも読んだ。脅して奪い取ること。

「嫡子萬壽殿」北条高時の嫡男北条邦時(正中二年十一月二十二日(一三二五年十二月二十七日)~元弘三/正慶二年五月二十九日(一三三三年七月十一日)。ウィキの「北条邦時」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は御内人五大院宗繁の妹(娘とする系図もある)』。『邦時の死後、中先代の乱を起こした北条時行は異母弟』。『元徳三年/元弘元年(一三三一年)十二月十五日に元服した時は七歳であり、逆算すると』、『生年は正中二年(一三二五年)となるが、同年十一月二十二日付の金沢貞顕の書状によれば、「太守御愛物」(高時の愛妾)である常葉前が同日暁、寅の刻に男子を生んだことが書かれており、貞顕が「若御前」と呼ぶこの男子がのちの邦時であったことが分かる。同書状では高時の母(大方殿・覚海円成)や正室の実家にあたる安達氏一門が御産所へ姿を現さなかったことも伝えており、嫡出子ではない(庶長子であった)邦時の誕生に不快を示したようである』。『翌三年(一三二六年、四月嘉暦に改元)三月十三日に高時が出家。その後継者として安達氏は高時の弟・泰家を推したが、泰家の執権就任を阻みたい長崎氏(円喜・高資など)によって邦時が後継者に推される。但し、当時の邦時は生後三カ月(数え年でも二歳)の幼児であって得宗の家督を継いだとしても』、『幕府の役職に就くことはできず、邦時成長までの中継ぎとして同月十六日に』、『長崎氏は連署であった貞顕を執権に就けるが、安達氏による貞顕暗殺の風聞が流れたこともあって貞顕は僅か十日で辞任(嘉暦の騒動)、代わって中継ぎの執権には赤橋守時が就任した』。『この後』、『元徳元年(一三二九年)の貞顕(法名崇顕)の書状には「太守禅閣嫡子若御前」とあって最終的に高時の後継者となったようであり、慣例に倣って七歳になった同三年(一三三一年)十二月に元服が行われた。儀式は幕府御所にて執り行われ、将軍・守邦親王の偏諱を受けて邦時と名乗った』。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月、 元弘の乱で新田義貞が鎌倉を攻めた際、邦時は父が自刃する前に伯父である五大院宗繁に託され』、鎌倉御府内に潜伏したが、『北条の残党狩りが進められる中で、宗繁が褒賞目当てに邦時を裏切ろうと考えた。邦時は宗繁に言いくるめられて別行動をとり、二十七日の夜半に鎌倉から伊豆山へと向かった。一方、宗繁がこれを新田軍の船田義昌に密告したため、二十八日の明け方に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川にて捕らえられてしまった。邦時はきつく縄で縛られて馬に乗せられ、白昼』、『鎌倉へ連行されたのち、翌二十九日の明け方に処刑された。享年』僅か九歳であった。『「太平記」では、連行される邦時の姿を見た人やそれを伝え聞いた人も、涙を流さなかった人はいなかった、と記している』。『ちなみに、宗繁は主君であり自身の肉親でもある邦時を売り飛ばし、死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され』、新田『義貞が処刑を決めたのち』、『辛くも逃亡したものの、誰一人として彼を助けようとはせず、時期は不明だが』、『餓死したと』される。

「五大院〔の〕右衞門宗繁(むねしげ)」(生没年未詳)は北条氏得宗家被官(御内人)。「五大院高繁」とも呼ばれる。ウィキの「五大院宗繁」を一部、引いておく。元亨三(一三二三)年十月二十六日に『円覚寺で行われた九代執権北条貞時の十三回忌供養では禄役人の一人として名を連ねる』。『元弘の乱における幕府滅亡時に、妹婿である北条高時から嫡男の邦時(宗繁の甥にあたる)を託された』。「太平記」『巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によると、宗繁は高時から長年にわたり』、『恩を受けてきた人物であり、邦時を託される際に高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる』が、前の引用にあるようにそれを裏切って、邦時は処刑されてしまう。而して、先の通り、新田義貞の処刑命令を受けて逐電したが、『旧友らにも一椀の飯すら与えられず』、『見捨てられ、最期は乞食のようになり果てて』、『路傍で餓死したとされる』とある。

「長崎〔の〕二郎高重」(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は北条氏得宗家被官(御内人)。かの最後の幕府の権力者、内管領長崎高資(長崎円喜の嫡男)の嫡男である。私には「太平記」の鎌倉合戦の中でも、最も忘れ難い、ヒップな武将である。同書巻第十の十四項目にある「長崎高重最期合戰〔の〕事」は途轍もなく凄い(「面白い」というよりも確かに「凄い」のである)。かなり長いが、私は七年前の二〇一一年十二月二十六日、私の新編鎌倉志卷之七の「崇壽寺舊跡」の条の注で、掟破りに全文電子化し、注と現代語訳まで附している。本「北條九代記」の鎌倉合戦の粗雑さを補うためにも、是非、お読みあれかし!!!

「源氏多年の蟄懷(ちつくわい)、一朝に開(ひら)けたり」言わずもがなであるが、北条氏は平氏であり、北条義時以降、その意のままに幕政が続いてきた。頼朝開幕以来、源氏を奉じてきた源氏を出自とする新田氏や足利氏らにとっては、まさに長年の「蟄懷」(ちっかい:心中の不満。潜在的な恨み)が、この一日(いちじつ)にして晴れたのである。]

2018/06/20

北條九代記 卷第十二 足利高氏上洛 付 六波羅沒落

 

      ○足利高氏上洛  六波羅沒落

 

鎌倉には、先帝宮方軍兵、駈付けて、京都を攻むべき由、聞きて、相摸〔の〕入道、評定有りて、名越尾張守を大將として、外樣の大名二十人を催さる。その中に、足利治部大輔高氏は父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て、しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず、上洛の催促、度々に及びしかば、心中に憤(いきどほり)を含み、『先帝の御味方に參り、六波羅を攻亡(せめほろぼ)さん』とぞ思立(おもひた)たれける。相摸入道、この事は思寄(おもひよ)らず、一日に兩度の催促をぞ致されたる。足利殿、異義に及ばず、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」と聞えしかば、長崎入道圓喜、怪(あやし)み思ひて、「相模入道に心を入れつゝ、起請文を書きて、別心なき旨、不審を散(さん)ぜらるべし」と申遣す。高氏、愈(いよいよ)欝胸(うつきよう)しながら、舍弟民部大輔直義(なほよし)に意見を問はれければ、直義、思案して、「御臺は赤橋殿の御娘なり。公達は御孫なれば、自然の事もあらんには、見捨て給ふべからず。又、その爲に郎從を殘置(のこしお)かれ、隱し奉るに難(かた)かるべからず。先(まづ)、相摸入道の不審を散じて、御上洛有りて、大義をも思召立ち給へかし」とあり。高氏、「實(げに)も」とて、子息千壽王殿と御臺とを赤橋相州に預け、起請文を相摸入道に參らせらる。相摸入道、不審を散じ、高氏を招請し、御先祖累代の白旗(しらはた)あり、錦の袋に入りながら參らせらる。足利殿兄弟・吉良・上杉・仁木(につき)・細川・今川以下の一族三十二人、高家(かうけ)の一類四十三人、その勢三千餘騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ちて、名越尾張守高家に三日さきだちて、四月十六日に京著し、次の日、船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を參らせ、綸旨をぞ賜りける。名越尾張守は、大手の大將として、七千六百餘騎、鳥羽の作道(つくりみち)より向はる。足利治部大輔高氏は搦手の大將として、五千餘騎、西郊(にしのをか)より向はれけり。八幡・山崎の官軍、是を聞きて、三手に分けて待掛けたり。尾張守高家、その出立(いでたち)、花(はなやか)に人目に立ちて見えけるが、官軍の中より、佐用(さよの)左衞門三郎範家とて、の精兵(せいびやう)、步立(かちだち)に成りて、畔(くろ)を傳ひ、籔(やぶ)を潛(くゞ)り、狙寄(ねらひよ)りて、一矢、射ければ、高家の甲(かぶと)の眞甲(まつかふ)の端(はづれ)、眉間の眞中に中(あた)りて、腦、碎け、骨、烈(さ)け、項(うなじ)へ、矢鋭(さき)、白く射出しける間(あひだ)、馬より落ちて、死に給ふ。官軍は鬨を作りて攻掛(せめかゝ)る。名越殿の七千餘騎、大將を討(うた)せて、狐河(きつねがは)より、鳥羽の邊迄、皆、伐干(うちほさ)れて臥(ふ)しにけり。足利殿は桂河の西の端に下居(おりゐ)て軍(いくさ)をも初(はじめ)ず、「大手の大將、討たれたり」と聞えしかば、「さらば」とて、山崎を外(よそ)に見て、丹波路を西へ、篠村(しのむら)を差して赴き給へば、軍兵、馳付きて、二萬三千餘騎になる。同五月七日、官軍、「既に攻べし」とて、三方に篝(かゞり)を焚きて取囘(とりまは)す。東山道一方計(ばかり)ぞ開(ひら)けたる。足利殿、篠村を出でて、右近馬揚(うこんのばゝ)に至り給へば、軍兵五萬餘騎に及べり。六波羅には六萬餘騎を三手に分けて差向けらる。赤松入道圓心は、三千餘騎にて、東寺に押寄せけるに、内野も東寺も軍に打負けて、皆、六波羅に逃籠(にげこも)る。四方の官軍、五萬餘騎、六波羅を圍みつ、態(わざ)と東一方をば、開(あ)けたり。城中、色めき立ちて、夜に紛れて落失せければ、僅に千騎にも足らざりけり。主上・上皇・國母・女院、皆、步跣(かちはだし)にて城を落出で給ふ。六波羅の南の方、左近將監時益、行幸の御前(みさき)、仕り、北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら、城を出でて、十四、五町にして、顧みれば、敵、早、六波羅の館に火を懸けて、雲煙と燒上(やきあが)る。苦集滅道(くすめぢ)の邊にして左近將監時益は、野伏(のぶし)の流矢に頸の骨を射られて死ければ、力なく、その日、漸(やうや)う篠原の宿に著き、是より千餘騎の軍兵、落ちて、七百騎にも足らず。龍駕(りうが)、已に番馬の峠を越(こゆ)る所に、數千の敵、峠に待掛けたり。後陣も續かねば、麓(ふもと)の辻堂に下居(おりゐ)て、進退此所に谷(きは)まりつゝ、越後守仲時、自害せらる。是を初として、佐々木隱岐前司淸高父子・高橋〔の〕九郎左衞門・隅田(すだの)源七左衞門を宗(むね)として、一族郎從、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切りにける。主上・上皇は、忙然としておはしましけるを、五〔の〕宮の爲に囚はれて、都へ皈(かへ)り上らせ給ふ。楠正成が籠りし千劍破(ちはや)の城の寄手、「六波羅、沒落す」と聞きて、南都を差して落行きけるが、野伏共(ども)に討たれて、大將計(ばかり)ぞ辛じて遁れける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第九の巻頭「足利殿御上洛〔の〕事」から、同巻の八項目「越後守仲時以下於番馬(ばんばにおいて)自害事」の拠るとする。

「先帝宮方軍兵」先の後醍醐天皇と護良親王方の軍兵。

「相摸〔の〕入道」元執権北条高時。

「名越尾張守」北条(名越)高家(?~元弘三年四月二十七日(一三三三年六月十日)。ウィキの「北条高家」によれば、名越流北条時家の子。『「尾張守」の官途名は文保元』(一三一七)年三月三十日付の関東御教書(みぎょうしょ:鎌倉幕府の発給文書の一つで、一般政務や裁判などの伝達を行った奉書形式のもの)に『おいて見られ、これ以前の任官であると考えられている』。嘉暦元(一三二六)年には『評定衆の一員となっている』。この四月、謀反鎮圧部隊として足利高氏(後の尊氏)ともに派遣されたが、「太平記」巻第九「山崎攻事付久家繩手合戰事」によれば、『久我畷(京都市伏見区)において、宮方の赤松則村、千種忠顕、結城親光らの軍勢と激突するが、赤松の一族で佐用城主の佐用範家に眉間を射抜かれ、あえなく戦死を遂げた(久我畷の戦い)』とし、「太平記」の描写によるならば、ここにある通り、『その余りに華美に過ぎるいでたちによって大将軍であることを敵に覚られ、集中的に攻撃を受けることとなった』結果ともされる。『没年齢は不明だが』、「太平記」には『気早の若武者』と記されていることから、二十代『前後と推定される』。『そもそも生誕年が分かっていないが、諱の「高」の字は』、『得宗の北条高時から一字拝領したものである』『ことから、元服の時期は高時が得宗の地位にあった』一三一一年から一三三三年の『間と推定できる』。「難太平記」に『よると、今川氏の祖である今川国氏の娘である妻との間に高範という遺児がおり、中先代の乱の際に伯父である今川頼国に保護されて養子となり』、『今川那古野家を名乗ったという。安土桃山時代の武将で歌舞伎の祖とされている名古屋山三郎はその子孫とされており、その末裔は加賀藩に仕えた』とある。

「足利治部大輔高氏」後の室町幕府の創設者で初代将軍となる足利尊氏(嘉元三(一三〇五)~延文三/正平一三(一三五八)年)の初名。源頼朝の同族の名門として鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流に生まれた。現在、生地は栃木の足利ではなく、母の実家丹波国何鹿(いかるが)郡八田郷上杉荘(現在の京都府綾部市)とされる。父は貞氏(因みに、貞氏の祖父頼氏は足利泰氏と北条時氏(第三代執権泰時の長男であったが、病気のために執権職を継がずに早世(二十八歳)した)の娘との間に出来た北条氏と足利氏のハイブリッドである。ここは私が補足した)、母は上杉清子。元応元(一三一九)年十月十日に十五歳で従五位下・治部大輔となり、同日、元服、得宗北条高時の偏諱を受けて、「高氏」と名乗ったとされる。十五歳での叙爵は北条氏であれば、得宗家や赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば、圧倒的に優遇されていたと言える(下線部はウィキの「足利尊氏に拠る)。妻は最後の執権北条守時の妹登子(とうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二〇(一三六五)年:幕府滅亡時は数え二十八歳)。元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、高氏は天皇軍討伐の幕命を受けて上洛、事件が落着して、一旦、鎌倉に帰っている。後、この醍醐軍の再起によって、再び、出兵を命ぜられると、ここにある通り、丹波で、突如、反幕の旗を揚げ、京都の六波羅探題を急襲、殲滅した。その半月後、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐は京都に帰還して建武新政を開始し、高氏は討幕の殊勲者として天皇の諱である尊治の一字を与えられて「尊氏」と改名、高い官位と莫大な賞賜を得たばかりでなく、鎌倉に嫡子義詮(よしあきら)を留めて、関東制圧の拠点を固めた。後醍醐は尊氏に破格の待遇を与えた半面、その実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ、また、北畠顕家に愛児義良親王をつけて奥州に派遣し、関東の足利勢力を牽制しようとした。しかし、尊氏は直ちにこれに対抗、成良親王を鎌倉に下し、弟直義を以って輔佐せしめた。この間、新政の失敗が重なり、武士の輿望が尊氏に集まるにつれ、後醍醐と尊氏の対立が高まり、新政開始から僅か二年後の建武二(一三三五)年七月、北条氏残党の鎌倉侵入(中先代(なかせんだい)の乱:北条高時の遺児時行が御内人諏訪頼重らに擁立されて鎌倉幕府再興のために挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、ごく一時的(二十日余り)に鎌倉を支配したことから「中先代」と呼ばれる)を転機として尊氏は新たな幕府創建の志を明らかにし、後醍醐の制止を無視して鎌倉に下り、北条氏残党を掃蕩した。次いで、後醍醐の派遣した新田義貞を破って上洛したものの、奥州軍に敗れて九州に逃れ、再挙東上して後醍醐軍を追いつめ、後醍醐より持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位という条件で後醍醐と和睦するとともに、建武式目を制定し、建武三(一三三六)年十一月、京都に新しい幕府を開いた。二年後、正式に征夷大将軍となっている。他方、後醍醐は吉野に走り、光明の皇位を否定し、尊氏打倒を諸国に呼びかけ、ここに吉野の南朝と京都の北朝の対立が始まる。 尊氏は幕府の運営に当たって、武士に対する支配権と軍事指揮権は自身で握り、裁判その他の政務は弟直義に委ねるという二頭政治を布いたが、この体制は直義を中心に結集する官僚派と、尊氏を頂く高師直ら武将派との対立をひき起こし、やがてはこれが尊氏と直義の対立に発展、さらに南朝が第三勢力として加わったために、直義が死んだ(尊氏による毒殺ともされる)後も、直義党は諸国で根強い反抗を続け、この間、南朝軍や直義党が三度も京都に侵入するなど、争乱は長期化・全国化の様相を呈した。尊氏は三度目の京都侵入軍を駆逐して畿内と周辺地域の鎮定を実現してから、三年後に、京都で病死した。死因は背中の癰(よう:悪性の腫れ物)であったが、晩年の五、六年は、たびたび大病を病み、往年の精彩は失われていた。尊氏は洞察・決断・機敏の才を兼ねた上、その信仰上の師夢窓疎石の評した如く、豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備え、人間的魅力に溢れた人物ではあったという。以上は主要部分を「朝日日本歴史人物事典」に拠った。

「父の憂(うれへ)に丁(あたつ)て」「太平記」に拠っているのであるが(「梅松論」も『今度は當將軍、淨妙寺殿』(「淨妙寺殿義觀」は貞氏の戒名)『逝去一兩日の中なり。未だ御佛事の御沙汰にも及ばず、御悲淚にたへかねさせ給ふおりふしに』(引用は所持する一九七五年現代思潮社刊「新撰 日本古典文庫 梅松論」から)とあるのであるが)、高氏の父貞氏は元弘元/元徳三年九月五日(一三三一年十月七日)で、本時制の二年も前で事実に反する。新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『高氏寝返りの原因を高時の難題に求めようとする虚構か』と注されておられる。しかし、どうもこれは当時の素人が読んだとしても、おかしな話で、説得力が、ゼンゼン、ないと私は思う。武将ならば、武将であった父の喪の最中であれ、主君のために戦さに出て、武運を挙げてこそ、なんぼのもんじゃろ! 「しかも我が身、病に罹り、起居(ききょ)快(こゝろよか)らず」だったのが本音だったんだってか? ところがね、山下氏も注しておられるんだが、「梅松論」には『高氏が当時』、『病に苦しめられていた事は見えない』んだよね。そもそもが、こんな感情的な理由で「心中に憤(いきどほり)を含」んだ上、しかも尊王思想があるわけでもなんでもなく、鎌倉幕府なんか裏切っちゃえ、濃ゆい縁戚の北条氏も亡ぼしちゃおっと、なんて考えたっていうのは、よほどイカれたアブナい男としか思えないんだけど! 「太平記」は言うに及ばず(そちらでは高氏が「俺は北条時政の末孫(ばつそん:末流の子孫)だぜ!? 何で、こんな戦さに行かにゃならんの? 訳判らん!」とかホザイテいる)これで納得してる、本「北條九代記」の筆者の気も知れねえな。寧ろ、先見の明があった高氏が、冷徹に諸状況を勘案して鎌倉幕府の滅亡をいち早く予期していたことを語った方がすっきりするぜ! これじゃ、第二次世界大戦前の「国賊尊氏」と大して変わらない佞人並みだんべ!

「足利殿、異義に及ばず」流石にここまで催促されたからには、異議を差し挟むことは最早せず、出兵を受諾した。ところが、と逆接で続く。しかし、「一族・郎從・御臺(みだい)・若君までも、殘らず上洛す」というのは、あり得ません! 円喜! 「起請文」如きで、お目出度過ぎだっつう、の!

「相模入道に心を入れつゝ」高時様の御不審・御不安を配慮なさって。

「欝胸(うつきよう)」憂鬱。

「舍弟民部大輔直義(なほよし)」足利直義(ただよし/なおよし 徳治元(一三〇六)年~正平七/文和元年二(一三五二)年)は高氏の実弟で一つ違い。本「北條九代記」の注としては、兄の注で事足りるので、ウィキの「足利直義をリンクさせるに留める。悪しからず。

「赤橋殿」既出既注であるが、悲劇の武将(と私は感じる)なれば、再掲しておく。第六代執権北条長時の曾孫に当たり、第十六代、最後の幕府執権となった北条(赤橋)守時 (永仁三(一二九五)年~正慶二/元弘三年五月十八日(一三三三年六月三十日)。ウィキの「北条守時」によれば、『父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる』。徳治二(一三〇七)年十月一日、僅か十三歳で『従五位下左近将監に叙任されるなど』、『その待遇は得宗家と変わらず、庶流であるにもかかわらず、赤橋家の家格の高さがうかがえる』(『赤橋流北条氏は、北条氏一門において』、『得宗家に次ぐ高い家格を有し、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが』、『元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた』)。応長元(一三一一)年六月には、『引付衆就任を経ずに』、『評定衆に任命され』ている。この『嘉暦の騒動の後、政変に対する報復を恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人にあった守時が』第十六代執権となったが、『実権は、出家していた北条得宗家(元執権)の北条高時(崇鑑)や内管領・長崎高資らに握られていた』。正慶二/元弘三(一三三三)年五月に『姻戚関係にあった御家人筆頭の足利高氏(のちの尊氏)が遠征先の京都で幕府に叛旗を翻し、六波羅探題を攻め落とし、同母妹の登子と甥の千寿王丸(のちの足利義詮)も鎌倉を脱したため、守時の幕府内における立場は悪化し、高時から謹慎を申し付けられ』ている。五月十八日、『一門から裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため』、『新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、鎌倉中心部への交通の要衝・巨福呂坂に拠り』、『新田勢の糸口貞満と激戦を繰り広げて一昼夜の間に』六十五『合も斬りあったとされるが、最期は衆寡敵せず』、『洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)で自刃した』。『一説に北条高時の思惑に配慮して退却せずに自刃したともいわれる』。『子の益時も父に殉じて自害した』。享年三十九。

「公達は御孫なれば」御子息(千寿王。後の足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年:後、室町幕府第二代将軍。当時は未だ満三歳未満)は守時様の御甥子(「孫」はおかしい。或いは、赤橋流北条氏の「末孫(ばっそん)」の意で筆者は使ったものかも知れぬ)であられるので。

「自然の事もあらんには」事態が自然の成り行きとして大きく変ずるようなことがあっても。具体的には、ここでは狭義に未だ北条への謀反のニュアンスではあろう。

「その爲に郎從を殘置かれ、隱し奉るに難かるべからず」その万一の時のためにも、逆に配下の者どもを鎌倉に残しておかれれば、いざという事態が生じた折にも、御子息や御台所を安全にお隠し申し上げることは、決して難しいこととは思われませぬ。事実、高氏の妻登子と幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され、鎌倉を脱出、新田義貞の軍勢に保護されている

「吉良」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流』で、現在の『愛知県幡豆(はず)郡吉良町に住んだ』とある。

「上杉」同前の山下氏の注によれば、『藤原高藤(たかふじ)の子孫。足利氏の外戚で、高氏の母もその出身』とある。

「仁木(につき)」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市仁木町に住んだ』とある。

「細川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。岡崎市細川町に住んだ』とある。

「今川」同前の山下氏の注によれば、『清和源氏、足利氏の一流。三河の守護足利義氏の孫。国氏から今川を号した。西尾市今川町に住んだ』とある。

「高家(かうけ)」同前の山下氏の注によれば、『天武転王の皇子、草壁(くさかべの)皇子の子孫と称する高階(たかしな)氏』とある。

「名越尾張守高家」既注であるが、ここ、直前の「高家」(こうけ)とは関係ないので、注意されたい

「船上(ふなのうへ)」後醍醐の行在所である船上山。

「綸旨」討幕の綸旨(りんじ)。綸旨は蔵人が勅旨を受けて出す奉書形式の文書で、初見は万寿五 (千二十八) 年の後一条天皇のそれであるが、宣旨に代って多く用いられるようになり、特に南北朝時代には頻繁に用いられた。通常は薄墨紙(宿紙(しゅくし)。平安末期に反古 (ほご) 紙を漉き直して作った薄い鼠色の紙で,鎌倉時代以降に綸旨・宣旨 などを書くのに専ら用いられた) が用いられたが、白紙の場合もあった。

「鳥羽の作道(つくりみち)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『九条朱雀(すじゃく)の四塚(よつづか)から鳥羽までの道。京と西国とを結ぶ重要な道として平安遷都の際し』、『造られらので「作道」と言う。現在は残らない』とある。ウィキの「鳥羽作道(つ」によれば、『平安京の中央部を南北に貫く朱雀大路の入口である羅城門より真南に伸びて鳥羽を経由して淀方面に通じた古代道路』とあり、『平安遷都以前からの道とする説や鳥羽天皇が鳥羽殿が造営した際に築かれたとする説もあるが、平安京建設時に淀川から物資を運搬するために作られた道であると考えられている』。「徒然草」に『おいて、重明親王が元良親王の元日の奏賀の声が太極殿から鳥羽作道まで響いたことを書き残した故事について記されているため、両親王が活躍していた』十『世紀前半には存在していたとされる(ただし、吉田兼好が見たとされる重明親王による元の文章が残っていないために疑問視する意見もある)』。『鳥羽殿造営後は平安京から鳥羽への街道として「鳥羽の西大路」(この時代に平安京の右京は荒廃して朱雀大路は京都市街の西側の道となっていた)と呼ばれた。更に淀付近から淀川水運を利用して東は草津・南は奈良・西は難波方面に出る交通路として用いられたと考えられているが、その後の戦乱で荒廃し、現在では一部が旧大坂街道として残されているものの、多くの地域において経路の跡すら失われている』とある。以上のウィキの叙述に従うなら、この中央南北附近にあったものと思われる(グーグル・マップ・データ)

「西郊(にしのをか)」「太平記」では「西岡」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『賀茂川と桂(かつら)川が合流する羽束師(はつかし)の西南、淀(よど)の西方一帯を指す』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「八幡」現在の京都府八幡市の北西端であろう。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」既出既注。現在の京都府乙訓郡大山崎町附近(グーグル・マップ・データ)。八幡からは川筋を隔てた北西。

「佐用(さよの)左衞門三郎範家」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『赤松の一族で『赤松系図』によれば為範の息』子とある。

畔(くろ)」田の畦(あぜ)。

「籔(やぶ)」「藪」に同じ。

「眞甲(まつかふ)の端(はづれ)」兜(かぶと)の真正面のすぐ下。

「烈(さ)け」「裂け」。

大將を討(うた)せて」大将を討ち取られてしまって。

「狐河(きつねがは)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『山崎から八幡へ渡る渡し場。川の流れに変化があるので現在いずれとは定め難い』とある。腑に落ちた。実はネットの「太平記」の複数の現代語訳サイトでは、これを平然と、全くの方向違いである、現在の京都府京田辺市田辺狐川と注しているのだ。古文の誤訳ならまだしも、彼らは地名を考証する手間も惜しむどころか、現在の地図上で少しもそこを確認していないことが、よぅく判った。諸君も騙されぬように気をつけられたい。

「大手の大將」正面の討手の大将名越高家。

「山崎を外(よそ)に見て」合戦の場である山崎の方を遙かに見やったかと思うと、そこを北に大きく迂回して方向違いの丹波路を、と続くのである。

「篠村(しのむら)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『京都府亀岡市の東部、王子・森・浄法寺の辺』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。山下氏の挙げる三つの地名はこの区域に現存する。確認済み)。

「既に攻べし」ターゲットは京の両六波羅探題。

「東山道一方」「太平記」では「東一方」で、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、本文で後に出る『苦集滅道(くすめじ)(六波羅から鳥部野の南を経て清閑寺(せいかんじ)方面へ通ずる道)方面への道』とある。これは渋谷(しぶたに)街道(渋谷通・渋谷越)とも呼び、東山を越えて洛中と山科を結ぶ京都市内の通りの一つであるから、ここは「ひがしやまみち」と読みたくなるが、筆者はやはり広義の「とうさんだう(とうさんどう)」と読んでいようこの国道一号線の部分ルートに近いであろう(グーグル・マップ・データ)。「苦集滅道」は本来は「くじふめつだう(くじゅうめつどう)」で仏教の根本教理を示す語で「四諦(したい)」を指す。「苦」は生・老・病・死の「苦しみ」を、「集」は苦の原因である迷いの心の「集積」を、「滅」は「苦」・「集」が「滅」した(取り払われた)悟りの境地を、「道」は悟りの境地に達する「道」としての修行を指すが、ここにそれが当てられたのは、ここが沢の水が絶えず、落ち葉なども多くあって、非常に滑り易い困難な通りであったことや、古えの葬送の地であった鳥部野との関連が私には想像される。

「右近馬揚(うこんのばゝ)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、内裏の『右近衛府の舎人(とねり)が馬術の練習をした所。西大宮大路の北端、北野神社の東南にあった』とあるから、この中央附近である(グーグル・マップ・データ)。

「内野」京都市上京区南西部の平安京大内裏のあった場所。個人ブログ「ミステリアスな日常」のこちらの地図で旧位置を確認されたい。

「主上」光厳天皇。

「上皇」後伏見院と花園院。

「國母」西園寺寧子(ねいし/やすこ 正応五(一二九二)年~正平一二(一三五七)年。後伏見上皇女御。光厳天皇及び後の光明天皇の実母。広義門院。

「女院」藤原実子(永仁五(一二九七)年~延文五/正平一五(一三六〇)年)は花園院の妃。正親町(おおぎまち)実明の娘。祖父の太政大臣洞院公守(とういんきんもり)の養女として花園天皇の後宮に入った。寿子内親王(徽安(きあん)門院)・源性入道親王・直仁親王・儀子内親王を生んだ。宣光門院。

「行幸の御前(みさき)」天皇以下の御皇族方のお出ましの先駆け。

「北の方越後守仲時も、夫妻の別を悲しみながら」六波羅北探題であった北条仲時(既出既注)も、北の方(ここは奥方の意)との別れを悲しみながら。「太平記」には、このシークエンスが詳しく描かれている。

「十四、五町」一キロ五百二十八メートルから一キロ六百三十六メートル。

「野伏(のぶし)」新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『農民の武装したゲリラで、敵陣を奇襲したり、敗残の兵などを襲ったりした』とある。

「篠原の宿」同前の山下氏の注によれば、『伊賀健野洲(やす)郡野洲町篠原』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「龍駕(りうが)」「りようが(りょうが)」とも読む。天皇の乗り物を指す。

「番馬の峠」現在は滋賀県米原市番場にあった番場宿の位置と、北条仲時一門が自決した蓮花寺の位置から考えて、航空写真であろう(グーグル・マップ・データ)。

「宗(むね)として」中心に。

「忙然」「茫然」。

「五〔の〕宮」「太平記」もこうなっているが、これだと、後醍醐天皇の皇子で後の後村上天皇、当時の義良(のりよし/のりなが)親王を指すことになってしまうが(増淵氏の現代語訳も義良親王とするのであるが)、この当時、彼は満でも五歳の子どもで如何にもおかしい。調べたところ、新潮日本古典集成「太平記 二」の山下宏明氏の注によれば、『「五宮」は誤り』とあり、神田本「太平記」に『傍記する「五辻ノ兵部卿親王宮」が正しい。五辻宮は、亀山天皇の皇子、守良親王。四品(しほん)兵部卿で法名覚静』とある。但し、この守良(「もりよし」と読んでおく)は生没年未詳で一応、講談社「日本人名大辞典」を見ると、鎌倉から南北朝時代の皇族で、亀山天皇の皇子とし、母は三条実任の娘。四品(しほん)・兵部卿。後に出家し、法名は覚浄。五辻宮(いつつじのみや)家(初代)と呼ばれたとあって、「太平記」に見える、この北条仲時ら六波羅勢を全滅させた官軍中の「先帝第五の宮」というのはこの守良親王と見られている、とあるばかりで、どうも注の最後なのに、すっきりしない。]

諸國里人談卷之三 妙義

 

    ○妙義

上野國妙義山は岩山にて、岑々(みねみね)、鋭(するど)に尖(とがり)て嵒々(がんがん)とし、鉾を立たるがごとく、樹木なく、たゞ繪にある唐(もろこし)の山に似たり。東の方、厩橋惣社(まへばしさうじや)の邊(へん)より此山を見れば、峰ちかき所に、眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也。土人(さとびとの)云〔いはく〕、「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」と云(いへ)。山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也。或(あるいは)云〔いはく〕、人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事にて、かく峙(そびへ)たる嶮山(けんさん)の滴(したゝり)にて育(そだ)人は、其心、極(きはめ)て劍(するど)也。又、京・奈良などの寬(ゆるやか)なる山の水にて養(やしなは)れたる人の心は、柔和(にうわ)なり。江戸、大坂などの曠野(くはうや)大河(たいが)の流(ながれ)を飮(のむ)人、心は至(いたつ)て廣しといふは、その理(ことわり)、なきにしもあらず。

 ふとん着て寐たるすがたやひがし山   嵐雪

都の山の悠(ゆう)なるすがたを、よく、いひ課(おほ)せたり。

[やぶちゃん注:これは本文の始まるページに「妙義山」とキャプションする挿絵がある(①)。妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に展開する日本三大奇景の一つとされ、赤城山・榛名山と合わせて上毛三山の一つに数えられる山である。ここ(グーグル・マップ・データ)。複数のピークから成るが、最高峰は表妙義の稜線上にある相馬岳で標高千百三・八メートルである(但し、妙義山系全体の最高峰は裏妙義の谷急山(やきゅうやま)で千百六十二・一メートル)。私は登ったことはないが、車窓から見るその山容を、殊の外、愛するものである。私は、また、妙義というと芥川龍之介の「侏儒の言葉――病牀雜記――」(大正一四(一九二五)年十月発行『文藝春秋』初出。リンク先は私の古い注附き電子テクスト。なお、本作は単行本「侏儒の言葉」には収録されていない「侏儒の言葉」である)の一節(『九』)、『室生犀星、碓氷山上よりつらなる妙義の崔嵬たるを望んで曰、「妙義山と言ふ山は生姜に似てゐるね。」』という絶妙な犀星の評言を思い出すのを常としている(「崔嵬」:「さいくわい(さいかい)」と読み、山の様子が岩や石でごろごろしていて険しいさまを言う語である。また、これは、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」によれば、大正一四(一九二五)年八月二十三日に避暑に赴いていた軽井沢にて堀辰雄と三人して碓氷峠に登った折りのことされる)。

「岑々(みねみね)」「峰々」。

「嵒々(がんがん)」「嵒」は「岩石・大石・ごつごつして堅い岩」の他に、「山の嶮しいさま」を言う語である。

「厩橋惣社(まへばしさうじや)」「厩橋(まへばし)」は「厩橋(まやばし)」とも読む。平凡社「マイペディア」によれば、上野国の中央の利根川左岸の群馬郡の古地名で、無論、元は「うまやばし」であったものが、「う」が脱落して「まやばし」となり、さらに江戸初期に「まへばし」「前橋」と記されるようになって定着し、現在の群馬県前橋市の名に引き継がれたとする。この古称は東山(とうさん)道群馬駅(くるまのえき)近くにあった川(利根川の前身)に架けられていた橋の名に基づくともされる。戦国時代には厩橋城(前橋城)が築かれ、上杉謙信・武田信玄・北条氏康らが関東の支配権を巡って争った際の拠点の一つとなったとある。従がって、この「厩橋惣社」とは、現在の前橋市元総社町にある上野総社神社(こうずけそうじゃじんじゃ)のことである(ここ(グーグル・マップ・データ))。妙義山は西南西二十八キロほどの位置になる。

「眞丸(まんまる)なる穴、あり。月輪(ぐわちりん)を見るがごとし。あなたの雲行(くもゆき)、たゞしく見ゆる也」「山の麓、安中・松井田より見れば、此穴、なし。是は、巖(いはほ)と巖との行合(ゆきあひ)にて、ふりによつて嵌(やまのあな)のやうに見ゆる也」これを読むと、沾涼は穴は実際には存在せず、岩の形状と形状、ハングしたものが距離を隔てて、たまたま重なりあった結果として、ある方向から見ると(「ふりによつて」の「ふり」とは「方位や角度をずらすこと・ずれていること・振(ぶ)れ」の意であろう)、穴が開いているように一見見えるだけであると言っているのであるが、調べてみると、この穴は、実際に、ある「国際山岳ガイド タナハシ TANA-アルパインガイドオフィス」のこのページの「表妙義縦走」の次の「妙義山 星穴岳」を見られたい。そこに『星穴伝説』として『その昔、百合若大臣が今の横川から妙義山に向かって放った矢が、みごとに射抜いたという“射ぬき穴”』及び『そのお供の男がお結びを力いっぱい投げつけて開いたという“むすび穴”』があり、『横川には百合若大臣の足跡と言われている石がある』とし、これは『星穴岳に強弓を射った折り、踏んでいた石が凹んだ』ものと伝え(サイト「バーチャル中山道で、当該の「百合若足跡石」が見られる。なお、後注も参照のこと)、さらに『妙義神社には鉄の弓と矢が奉納されている』とあって、『右がむすび穴、左が射ぬき穴』というキャプションを持った、麓から撮った崖に確かに二箇所の穴の開いた絶壁の写真がある。以下、ロック・クライミングで実際にその穴へ向かう写真が続き、「射ぬき穴」に現着。穴は横幅約二メートル、高さ三メートルほど。その「射ぬき穴」から「むすび穴」へは、「射ぬき穴」南側にある垂壁を四十メートルほど懸垂下降して到達、「むすび穴」の方は横幅十メートル高さ十メートルと、かなりの大きさがあって、『穴から北側を覗くと』、『表妙義の峰々が眺めます』とある。別にサイト日本の奇岩景+」の「穴」でも、より大きな画像で、この巨大な「むすび穴」が見られる(右に人が立っているのでスケールがよく判る)。さても、この挿絵にある丸い穴は想像図に過ぎぬのであろうが、私はこの「むすび穴」こそ、その穴であろうと思う。但し、この穴が前橋から見えるかどうかと言えば、それはちょっと無理だろうかとは思う。

「百合若大臣(ゆりわかだいじん)の射拔(いぬき)たる箭(や)の跡なり」「百合若大臣」は室町後期に形成されたと思しい貴種流離譚の伝説上・語物上の英雄「百合若」のこと。小学館「日本大百科全書」によれば、幸若や説経で「百合若大臣」として呼称されて活躍し、後に浄瑠璃・歌舞伎は勿論、地方の踊り歌にまで脚色された。主たる伝承では、嵯峨天皇の治世(天皇在位:大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年)、長谷観音の申し子として生まれた百合若は、蒙古襲来に出陣し、大勝するが、帰途、玄海の孤島で一休みしている間に、家臣の別府兄弟の悪計で置き去りにされてしまう。兄弟は帰国後、百合若の死を告げ、九州の国司となるが、百合若の形見に残した緑丸という鷹が孤島にきて、妻との連絡もつき、孤島に漂着した釣り人の舟によって帰国し、別府兄弟を成敗して、宇佐八幡宮を修造して日本国の将軍となるというトンデモ話である。この伝説は、本来、山口県以南に分布していて、九州を本貫(ほんがん)とする説話が諸芸能によって全国に分布するようになったものと思われている。伝説には諸種あって、例えば、百合若の足跡石という巨石を伝えたり、別称ダイダラボウシの名をもって祀られた百合若塚などもある。何れも、巨人伝説を踏襲するものであり、その他にも、緑丸の遺跡という鷹に関したものも多く、鷹を神使とする民俗の参与が考えられるという。また、壱岐島には「いちじょー」という巫女が、祭りの神楽として語る「百合若説経」と称するものがあり、これは五十センチほどの竹二本を、黒塗りの弓と「ユリ」という曲物(まげもの)を置いて、それを、叩きながら行うもので、病人祈禱の際にも同じことをする。「百合若」以外の話も語ったらしいが、今は他に残っていない。筋も他の百合若伝説とほぼ同様で、桃の中から生まれたり、壱岐島の鬼を退治したり、桃太郎の話との混交はあるが、宇佐八幡と柞原(ゆすはら)八幡の本地(ほんじ)物となっている。百合若説話の成立には、宇佐の海人(あま)部の伝承と八幡信仰との関係で民俗学的に注目されている、とある。なお、百合若とダイダラボッチについては、柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 ダイダラ坊の足跡 四 百合若と八束脛の本文及び私の注も是非、参照されたい

「或(あるいは)云〔いはく〕……」以下、妙義山から離れてしまい、山水の人格形成に与える何だかなの影響論へと語りが致命的にズレていってしまうのは残念である。しっかり妙義山を語れよ、沾涼さん、よ!!!

「人のうへに自(みづから)といふ事は、水柄(みづから)といふ事」個人の「人」の「身の上」の「事」柄を「自(みづから)と」呼称するのは、「みづから」=「水柄(みづから)」=「みづがら」で、水=山水(さんすい)の質によって、その人の人「柄」=性質は決定されるという「事」を指す、と謂いたいのであろう。

「峙(そびへ)たる」「峙」は「そばだつ」と訓じ、これは「聳つ」とも書き(「聳」は「そびえる」とも訓ずる)、元は「稜(そば)立つ」の意であて、山や峰が、角張って一際高く目立って嶮(けわ)しく屹立する、聳(そび)えるの意である。

「嶮山(けんさん)の滴(したゝり)」峻嶮なる山岳の齎すところの水。

「ふとん着て寐たるすがたやひがし山」「蕉門十哲」の一人である服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年:江戸生まれ。名は治助(はるすけ)。武士から俳諧の宗匠となり、穏健な俳風で、江戸俳壇を其角と二分した)の代表的な句の一つで、京風物句としも人口に膾炙している一句である。句集「枕屛風」所収。

   東山晩望

 蒲團着て寐たる姿や東山

堀切実氏は(一九八九年岩波文庫刊「蕉門名家句選(上)」)、『おそらく元禄七』(一六九四)年冬、師芭蕉の『死の直後に京へ出た時の見聞による吟であろう』とされる。――ほう。なるほど。とすれば、この寝姿には芭蕉涅槃図の影があるのかも知れぬ――

「いひ課(おほ)せたり」「おほせる(おおせる)」は「果せる」或いは「遂せる」が一般的。「言いおおせる」で「美事に句として謂い遂せている」「すっかり表現し尽くしている」の意。]

2018/06/19

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 金線魚 糸ヨリ鯛 (イトヨリダイ)

 

金線魚 此名出閩書

 糸ヨリ鯛

 

Kiitoyoridai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これはもう、尾鰭上端の糸状に伸びた特異点と、ややくすんでいるものの、体側表面の黄色筋状の模様から(「金線魚」という異名は実は尾の旒状部分に由来するのではなく、恐らくは泳いでいる際、この縦縞模様が金糸を織ったように美しく見えるからである)、

スズキ目スズキ亜目イトヨリダイ科イトヨリダイ属イトヨリダイ Nemipterus virgatus

に同定して間違いない。とても美しい魚である。是非、WEB魚図鑑」の「イトヨリダイ」の画像群を見られたい。

「此名出閩書」は『此の名、「閩書(びんしよ)」に出づ』で、「閩書」とは明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌「閩書南産志」のこと。]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 アカサギ (アカイサキ)

 

アカサギ

 

Akazagi

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。これは正直、同定したくなくなるほど、丹洲にしては絵が拙い。全体の形状と「アカサギ」という名称から、何となく、何とはなしにイサキ(スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum)っぽいものが臭ってくること、背鰭の棘条部の先端を有意に黒くしようとした跡が窺えることなどが、せめてもの特徴か。「真っ赤なイサキはいねえしなぁ」と思いながら調べてみると、いや! いるんだよ! 「アカイサキ」が!

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハナダイ亜科アカイサキ属アカイサキ Caprodon schlegelii

だ。しかも、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「アカイサキ」を見ると、神奈川県三崎での呼び名に「アカイサギ」(「赤伊佐磯」で「伊佐磯」は「イサキ」のことである)があると書かれている。さらに「アカイッサキ」「アカイセギ」もあるとある。こうなると、これ、「アカサギ」への転訛は、もう半歩だ! WEB魚図鑑」の「アカイサキ」を見ると、『胸鰭が長い。尾鰭は湾入しない。雄の体側には黄色斑が多数あ』り、『眼の周辺に黄色線がある』が、『雌は赤みを帯びる。雄の背鰭棘部には黒色斑が』一『つある。雌には数個の黒色斑が背鰭から体側の背部にかけてある』とある。本図の胸鰭は長い。尾鰭の湾入は「WEB魚図鑑」の多数の画像を見ると、本図と同じものはある。本図がアカイサキのならば全体の赤い色は納得出来る(例えば写真と図を比較されたい)。また、解説にある通り、同種は背鰭の棘条部の先の方の間膜が有意に黒くなっている個体が見受けられ、これは本図の微かな特徴と類似しているように私には思われるのである。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 未完の小説、焼かぬ自像

 

     未完の小説、焼かぬ自像

 

 二月三月合併号を出した『ホトトギス』は、創刊以来最初の臨時増刊を発行して、これを補うことになったので、居士はそのために小説「我が病」を草することを思立った。「曼珠沙華」以来三年目の試みである。題名の示す通り、日清戦争従軍を背景にした事実に、多少の小説的色彩を点じたもので、居士の自伝的な意味をなす上からいっても、極めて珍重すべきものであるが、惜むらくは金州の舎営までで筆を投じてある。居士はこの小説において、はじめて写生文の筆法によって事実を描こうとした。「我が病」の本題たる病がまだ顔を出していない位だから、果してどれだけの長さになる予定だったかわからぬけれども、もしこれが完成していたら、恐らく居士の作中第一の長篇になったであろう。居士がこれまでに書いた小説とは、全くその世界を異にするものである。

 『ホトトギス』の増刊は四月上旬に出る予定であったが、都合で六月に延期された。『日本』に出た「週刊記事」の中に

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げ。]

 

  三月二十九日(「我病」を草す)

ともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん

 

とあるから、この時分執筆にかかっていたものであろう。『ホトトギス』の写生文なるものは、従来短篇に限られていたが、寒川鼠骨(さむかわそこつ)氏の「新囚人」が出るに及んで、漸く長きに向わんとする勢を示した。『ホトトギス』の増刊が殆ど三篇の文章によって埋められている一事を見ても、慥にこの傾向を卜(ぼく)することが出来る。但(ただし)「我が病」はこの号に間に合わなかったため、未完のまま遺(のこ)ることになってしまった。

[やぶちゃん注:「寒川鼠骨」(明治八(一八七五)年~昭和二九(一九五四)年)は正岡子規門下の俳人(子規より八つ年下で同郷)。ウィキの「寒川鼠骨」より引く。『病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした』。『元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)』『の三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという』明治二〇(一八八八)年、番町小学校から県立松山中学校に入』り、六年後、十八で『三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上で』、三『人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた』。三高は明治二七(一八九五)年に中退、『京都日の出新聞の記者になった。子規を慕って上京したり』、『大阪朝日新聞に勤めたりしたが』明治三一(一八九八)年、『陸羯南社長の了承と、子規の勧めで日本新聞記者になった。その時の『最も少ない報酬で最も多く最も真面目に働くのがエライ人なんだ』という子規の教えを座右の銘とした』。翌年、『田中正造を取材で知り、彼の足尾鉱毒事件への取り組みを紙面から支援した』。この明治三三(一九〇〇)年二十五歳の時、『日本新聞の社説が第』二『次山県内閣への官吏誣告罪に問われ、雑誌の署名人だったために、』十五『日間収監された』が、その体験記がここに出る「新囚人」である(翌年、出版。下線やぶちゃん)。明治三五(一九〇二)年九月、『子規の臨終を看取り、その葬儀の執行にも参画した。翌年から俳句の入門書を多く出版した。日本新聞を退いた』。大正二(一九一三)年、『山谷徳治郎の週刊紙『医海時報』の編集者にな』り、翌年には『政教社の客員となり、『日本及日本人』誌を編集した。日本新聞の俳句選者にもなった』。大正七(一九一八)年には本「子規居士」の作者『柴田宵曲を門弟とした。この年』、『ホトトギス社が始めた宝井其角の五元集の輪講会の座長となり、下谷区上根岸』三十八『(現・台東区根岸)の自宅を主会場にした。柴田に筆記・編集させ』、「其角研究」の題名で『ホトトギス』に連載した(大正一〇(一九二一)年終了)。大正一三(一九二四)年、『子規の命日の毎月』十九『日に『子規庵歌会』を催すことに定め、その記事を『日本及日本人』誌に載せ』ている。『前々からの子規庵を保存し、子規の遺業を伝える案件が』、大正一二(一九二三)年九月の『関東大震災後に具体化し、敷地買収や庵の修改築作業』を経て、昭和二(一九二七)年に『落成した。その資金』を得る目的で『アルスから出版した』のが「子規全集」全十五巻であった。『碧梧桐・虚子・香取秀真が編集委員となっているが、実務は鼠骨と宵曲と』が担当している。翌昭和三年には『子規庵の隣に移り住ん』でいる。昭和二〇(一九四五)年(七十歳)、四月の『空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られ』、戦後も十『月には歌会を再開した』翌年の九月に『焼跡に仮宅が建つまで』、子規庵の『斜め向かいの書道博物館に仮寓し』、毎晩、『土蔵を盗難から守った』。『生来虚弱で、直腸狭窄、腎盂炎、蛋白尿、神経痛を病んでいた』が、昭和二六(一九五一)年から『歩行困難となり、子規の行事には臥床のまま』、『参加するようになった』。昭和二九(一九五四)年、九月の『子規忌を気にしながら』、丁度、一月前の八月十八日、『肺炎のために没した』。戒名は鼠骨庵法身無相居士である。]

 

 「我が病」は出来上らなかったが、この時分の居士は、そう病苦が甚しかったわけではない。四月中には粘土を捏ねて自像の首を造り、その首の置物台を造り、湯ざましようの器を造ったりしている。土は秀真(ほつま)氏が今戸から壺に入れて齎(もたら)したものであった。前後三日を費して自像の首を造り上げた居士は、これを缶(かん)に入れて秀真氏の許まで届けさせた。居士の考は窯で焼いてもらうつもりであったが、中が空虚になっていないから焼けにくい。首は焼かずに石膏に取ることになった。この粘土細工に関し、居士は三回にわたって歌の手紙を秀真氏に寄せている。粘土は骨が折れるせいか、画ほど永続(ながつづき)はしなかったけれども、居士はこういうものの上に直に興味を発見し得る人であった。

[やぶちゃん注:残念ながら、この子規遺作の石膏頭部像は現存しない模様であるが、「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」で自作土像(秀真へ)六首が読める。]

 

 病室の前に金網の大鳥籠を据えたのも、やはり四月中の出来事である。或人の庭に捨ててあったのを、浅井黙語(忠)氏の周旋で借りることになったので、亜鉛屋根のついた、円錐形の籠の中には、先ずキンバラの雄一羽、ジャガタラ雀の雌一羽、鶸(ひわ)の雄一羽が放たれた。居士はこの籠の中に五尺ばかりの李(すもも)の木を植え、来年の春花が咲いた時分に、花の中を小鳥の飛ぶ様を見るつもりであったが、小鳥は木の葉を片端からむしってしまうので、希望は全く外れてしまった。この大鳥籠の歴史――最後にカナリヤが矮雞(ちゃぼ)に変り、矮雞の声もまた病牀の居士を悩ますようになって、遂に庭隅に移されるまでの変遷は、「病牀苦語」というものに委しく述べてあるが、この大鳥籠の出現はガラス障子に次ぐ出来事であり、居士の眼を集しませることも少くなかったに相違ない。

[やぶちゃん注:「浅井黙語(忠)」洋画家。既出既注

「キンバラ」「キンパラ」の宵曲の誤り。「病牀苦語」では子規自身ちゃんと「キンパラ」と書いている。スズメ目カエデチョウ科キンパラ(金腹)属キンパラ Lonchura atricapilla。南アジア及び東南アジアに分布する留鳥で、本邦には棲息しなかったが、明治四三(一九一〇)年頃に、東京都で野生化した群れが見つかって以降、各地で見つかっている外来種である。画像はウィキの「キンパラ」を。

「ジャガタラ雀」スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。

「鶸(ひわ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する一部の種群の総称。「ヒワ」という種はいないが、知られた種としてはヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinus がいる(マヒワの画像ならはウィキの「マヒワ」で)。

「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「矮雞(ちゃぼ)」言わずもがなであるが、ニワトリ(キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus)の品種。画像はウィキの「チャボ(鶏)」を。

「病牀苦語」後の『ホトトギス』第五巻第八号(明治三五(一九〇二)年五月二十日発行)に掲載。「青空文庫」のこちらで、新字新仮名であるが、読める。]

 

 四月二十九日、好晴に乗じて本所茅場町に左千夫氏を訪問することになった。左千夫氏が居士の許に来はじめたのはこの年一月の歌会からである。「人々に答ふ」の文中で「あまりの事に答へんすべも知らず」といい、「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」と手厳しくやっつけられた春園は、二年後に至って居士の教を乞う人となったのであった。この日先ず到った赤木格堂氏が一足先に行くこととし、居士は秀真氏と共に車をつらねて出かけた。左千夫氏不在のため、三人で亀戸天神に詣で、再び茅場へ引返した。根岸へ帰ったのは夜半過だったらしい。この日の記事が「亀戸まで」「車上の春光」の二篇になっている。

[やぶちゃん注:「左千夫」言わずもがな、かの歌人で名品「野菊の墓」等の小説家としても知られる伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年:子規より三つ年上)である。出生時は幸次郎、養子縁組した川島家から復籍して幸治郎。ここに出る「春園」は左千夫の号の一つ。農家で小学校教員の四男として上総国武射(むさ)郡殿台(とのだい)村(現在の千葉県成東町)に生まれた。明治一四(一八八一)年に政治家を志して上京、明治法律学校(明治大学の前身)に入学するも、眼病を病んで中退し、帰郷。明治十八年、再び上京して牛乳店で働いた後、明治二十二年に独立し、本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)に牛乳搾取業を営んだ。三十歳の頃から、同業の伊藤並根に茶の湯と和歌を学び、「春園」と号した。明治三一(一八九八)年の「非新自讃歌論」などで小出粲(にいでつばら)・正岡子規と論争し、この明治三三(一九〇〇)年の『日本』に短歌三首が入選したのを機に子規に入門、師事した。根岸短歌会・万葉論講会などに加わり、写実的手法を学び、子規没後、根岸短歌会機関誌『馬酔木』を明治三十六年に創刊、明治四十一年一月に同誌を廃刊すると、同年十月に創刊された『アララギ』に協力し、翌年には自宅をその発行所とし、編集兼発行者として中心的立場に立った。『アララギ』の基盤を作り、後進の育成に当たった功績は大きい。他に写生文二十四篇・小説三十篇を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「人々に答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの上と同じ画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。「あまりの事に答へんすべも知らず」「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」という激烈な一撃は「其十二」の中の一節。

「赤木格堂」(あかきかくどう 明治一二(一八七九)年~昭和二三(一九四八)年)はジャーナリスト・俳人で衆議院議員。ウィキの「赤木格堂によれば、『本名は亀一』(かめいち)。『岡山県児島郡小串村(現在の岡山市南区)出身』で、『東京専門学校(現在の早稲田大学)に在学中、正岡子規に俳句を師事し、『日本附録週報』の代選を任せられた』。明治三五(一九〇二)年に『卒業した後は、『九州日報』の主筆を務め』、『その後、フランスに』三『年間留学し、植民政策学を専攻した』。『さらに雑誌『青年日本』を経営し、『国民新聞』『大阪朝日新聞』に寄稿し』、大正六(一九一七)年、『衆議院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした』。『その後、『山陽新報』主筆に就任し』、『小串村長も務めた』とある。

「亀戸まで」「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」ので読める。

「車上の春光」「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。]

北條九代記 卷第十二 先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

 

      ○先帝船上皇居軍 付 赤松京都に寄す

正慶二年閏二月、隱岐判官淸高、近國の地頭・御家人等を催し、宮門を警固し、先帝後醍醐を嚴しく守護し奉る。同下旬、佐々木富士名(ふじなの)判官義高、竊(ひそか)に心を寄せ奉り、「楠正成、伊東〔の〕大和二郎・赤松圓心・土居・得能、皆、御味方に參り候。聖運(せいうん)の啓(ひら)けん事、近きにあり。君、願(ねがは)くは配所を忍び出で給ひて、千波湊(ちなみみなと)より御舟に召され、出雲・伯耆の方へ赴き給ひ、 然るべき武士を御賴(おんたのみ)あるべし。義綱も軈(やが)て御味方に參り候はん」と申す。是より、富士名、竊に鹽冶(えんやの)判官高貞・名和〔の〕太郎長年を語(かたら)ひ、 朝山(あさやまの)八郎が禁門の當番の夜(よ)、是に心を合せて忠顯(たゞあきの)卿に申入れ奉りければ、君、卽ち、忍びて配所を出(いで)給ひ、 千波湊より御舟に召して、伯老國名和湊に著きたまふ。六條少將忠顯一人、名和又太郎長年が館(たち)に行(ゆき)て、頼思召(たのみおぼしめ)す由を宣へば、一族二十餘人一同に御請(おう)け申して、御迎(おんむかひ)に參り、船上山(ふなのうへさん)へ入れ奉り、兵粮五千餘石を用意して、その勢、百五十騎にて、船上(ふなのうへ)の皇居を守護し參(まゐら)せけり。隱岐〔の〕判官淸高・佐々木彈正左衞門尉、三千餘騎にて押寄せ、一戰に利を失ひ、佐々木は射殺され、淸高は小舟に乘りて風に任せて、越前の敦賀に吹寄(ふきよ)せせられ、六波羅沒落の時に、江州番馬の辻堂にて自害したり。その後、鹽冶・富士名、一千餘騎、淺山二郎八百餘騎、金持(かなぢ)の一黨三百餘騎、大山(だいせん)の衆徒七百餘騎、其外、出雲・伯耆・因幡・石見・安藝・美作以下、四國・九州の軍兵、殘(のこり)なく馳付(はせつ)けけり。六渡羅には、是を聞きて、「さらば先(まづ)、赤松を退治せよ」とて、佐々木判官時信・常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)に五千餘騎を差副(さしそ)へて、摩耶(まや)の城へ向けらる。求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)より押寄せけるが、城兵五百餘人、打て出でたるに追崩(おひくづ)され、僅(わづか)に、千騎計(ばかり)に討ちなされて、京都にぞ引返しける。六波羅より、又、一萬餘騎にて討手を向けらる。赤松城を出でて、久々知(くゝち)・酒部(さかべ)に出向ふ所に、尼崎より、舟を上りける、阿波の小笠原が三千餘騎と、赤松、僅に五十騎にて戰ひて、父子六騎に打(うち)なされ、小屋野(こやの)の宿に控へたる味方三千餘騎が中に馳入り、虎口の死をぞ遁(のが)れける。六波羅勢は瀨河(せがは)の宿に陣を取る。赤松、三千餘騎が中より子息筑前守貞範以下、只、七騎にて南の山より、散々に射る。寄手、多く射落されて色めく所を、赤松が軍兵七百餘騎、掛出でて戰ふに、寄手、崩れて、大半、討たれ、僅に京都に引返す。赤松、追ひ縋(すが)うて攻上(せめのぼ)る。三月十二日、淀・赤井・山崎邊、三十餘ヶ所に火を懸けたり。兩六波羅、驚きて、隅田・高橋に左京の武士二萬餘騎を相副へ、西朱雀に向けらる。兩陣、桂川を隔てて、矢軍(やいくさ)に時を移す。赤松が子息帥律師則祐以下、只、五騎にて桂川を渡しければ、父圓心を初(はじめ)て、三千餘騎、打渡す。六波羅、勢氣を吞まれて、引立ちしかば、赤松が勢、追掛り、大宮・猪熊・七條邊に火を掛けたり。主上持明院殿は、六波羅へ臨幸なる。兩六波羅は七條河原に打出でて、敵を相待ち、隅田・高橋に三千餘騎を副へて、八條口へ向けらる。河野・陶山(すやま)は二千餘騎にて蓮花王院へ遣(つかは)す。赤松、前後の敵に揉合(もみあ)うて、備(そなへ)亂れて打負け、僅の勢に成りて、山崎へ引返す。同十五日、六波羅勢、五千餘騎にて山崎に差向ふ。赤松、三千餘騎を二手に分けて、善峯・岩倉に出向うて、散々に射る。向明神(むかうのみやうじん)の邊にて、赤松が軍勢百騎、二百騎前後より蒐出(かけい)でしに、京勢、捨鞭(すてむち)を打ちて、引返す。同四月三日、赤松、又、京都に押寄せしかども、一族郎從八百餘騎、討たれて、又、山崎へ引返す。

[やぶちゃん注:標題の「先帝船上皇居軍」は「せんてい ふなのうへくわうきよ いくさ」で「後醍醐天皇、船上山行在所に於ける戦さ」の意。清湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」の巻第七の六項目「先帝船上(ふなのうへへ)臨幸〔の〕事」から巻第八の六項目「四月三日合戰事 付 妻鹿(めが)孫三郎勇力事」に拠るとある。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「隱岐判官淸高」隠岐守護佐々木清高(永仁三(一二九五)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十日))。ウィキの「佐々木清高」によれば、『宇多源氏流佐々木氏の一族で父は佐々木宗清』。『治承・寿永の乱で源氏方として活躍した佐々木秀義の』五『男義清の末裔で、義清-泰清-時清-宗清-清高と至る。この家系は代々隠岐守護を相伝(世襲)する家柄であった。船上山の戦いで清高と敵対した塩冶高貞』(後注参照)『は、時清の兄弟である塩冶頼泰の孫であり、清高とは又従兄弟(はとこ)の関係にあたる。また、後の南北朝時代において婆沙羅大名として著名な佐々木道誉(高氏)をはじめとする京極氏一族や、室町時代に近江守護として君臨した六角氏一族は義清の兄定綱の末裔で清高と同族(遠戚関係)である』。『鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)内の前半には『元服し、その高時と烏帽子親子関係を結んで偏諱(「高」の字)を受けた』『とみられている』。『父から受け継いで』、『隠岐守護、更には引付衆となり』、正中二(一三二五)年十二月には『幕府の使者として入京した』。元弘二/正慶元(一三三二)年、『鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ』、『隠岐国に流されると(元弘の変)、同国守護をしていた清高』『は隠岐へ下向し』、『領内の黒木御所に天皇一行を幽閉した。当時は西日本を中心に悪党と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていたため、清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視』したが、この時、『天皇一行は突如として黒木御所から姿を消し、隠岐を脱出してしまった』。『天皇は伯耆の武士名和長年一族に迎えられ、伯耆船上山にて挙兵』、『これに対し、焦った清高は隠岐の手勢を率いて船上山に攻め寄せ』、『長年らと戦うが、寄せ手の将佐々木昌綱が流れ矢を受け戦死し、同族(はとこ)で出雲守護の塩冶高貞が寝返って天皇方につくなど』、『悪条件が重なり、結局』、『攻めきれずに敗退してしまう(船上山の戦い)』。『その後、敗戦の責任から隠岐を追われ』、『海路で北国に逃れ』、『六波羅探題北条仲時の軍に合流し』、同年五月九日、『近江番場の蓮華寺にて仲時らと共に自害した』。享年三十九。『子の泰高も父と共に自害したと伝えられる』。

「佐々木富士名(ふじなの)判官義高」富士名雅清(永仁四(一二九六)年~建武三(一三三六)年)は若狭守護。ウィキの「富士名雅清」によれば、「太平記」では富士名義綱・富士名判官の古称で知られる。『富士名氏は佐々木氏から出た湯氏の支流で、出雲八束郡布志名(富士名)の地頭』であった。『後醍醐天皇が隠岐へ流刑とな』ると、『雅清は、北条氏の命により』、『後醍醐の警固役の一人となったが』、『翻意し、後醍醐の隠岐脱出を計画』(「太平記」巻第七「先帝船上臨幸事」)、『脱出に向けて雅清は、同族で出雲守護塩冶高貞の助力を請おうと出雲へ帰還するが、高貞により幽閉された』、しかし、翌年のこの時、『雅清の帰島を待たず』、『隠岐を脱出した後醍醐は、名和長年に迎えられ』、『船上山に築いた行宮へ入り、追跡してきた隠岐守護佐々木清高と交戦する(船上山の戦い)。この情勢を知り、腹を括った高貞は雅清と共に後醍醐の元へ馳せ参じた。その後も、後醍醐に随行し』、『上洛するなど』、『宮方として倒幕に貢献し』、『建武政権では若狭守護に補任された』。『南北朝の争乱が起こると、南朝側として足利尊氏ら北朝方と各地で戦い』、建武三(一三三六)年正月、『京都で二条師基軍の武将として北朝方と戦うも戦死した』。

「千波湊(ちなみみなと)」「ちぶりみなと」が正しい。隠岐諸島の南端にある知夫里島の、恐らくは、南側の現在の知夫漁港或いはその東の姫の浦港ではないかと推定するが、実際には後醍醐の行在所(配流場所)は島後の現在の西郷町池田にあった国分寺内であり、これは「太平記」による創作ではないかと思われる。

「鹽冶(えんやの)判官高貞」(?~興国二/暦応四(一三四一)年)は出雲守護。ウィキの「塩冶高貞」によれば、前の「隱岐判官淸高」の引用で見た通り、当初は幕府方に与しようとしたが、結局、時局を計って、『後醍醐天皇の挙兵に呼応し、鎌倉幕府との戦いに貢献する。建武の新政ののちは、足利尊氏に味方し、南朝方制圧に力を奮ったが』暦応四年三月、『京都を出奔』し、それを謀反とされて『北朝に追討され、同年翌月』、『出雲国で自害した』。『生誕年は不明だが、鎌倉幕府第』十四『代執権の北条高時が北条氏得宗家当主であった期間』(一三一一年~一三三三年)『内に元服』『して、高時と烏帽子親子関係を結んで』、『その偏諱(「高」の字)を受けた』『人物とみられる』。鎌倉幕府滅亡後、建武二(一三三五)年に起こった『中先代の乱後、関東で自立した足利尊氏を討つべく東国に向かう新田義貞が率いる軍に佐々木道誉と参陣』したが、『箱根竹ノ下の戦いでは道誉と共に新田軍から足利方に寝返り、室町幕府においては出雲国と隠岐国の守護となった』。しかし、『高師直の讒言』により、『謀反の疑いをかけられたため』、『ひそかに京都を出奔し』、『領国の出雲に向かうが、山名時氏らの追討を受けて、妻子らは播磨国蔭山』『で自害した。高貞は』辛うじて『出雲に帰りついたものの、家臣らに妻子の自害した旨を聞』いて、『出雲国宍道郷の佐々布山で自害』『したという。これにより、高貞の子弟殆ど』は『共に討ち取られるか』、『没落した』が、『息子の塩冶冬貞』『(ふゆさだ)が家督および出雲守護を引き継いだとされ』、『冬貞は足利直冬・山名時氏ら南朝勢力と結び(「冬」の字も直冬から偏諱を受けたものとみられる)、一時的に塩冶郷を支配する立場にあったが、叔父(高貞の弟)の時綱(ときつな)と家督を巡』っての抗争をしてから後は、『時綱およびその子孫が新たな惣領となった』。『この家系を後塩冶氏と呼ぶことがあり』、『将軍の近習として存続した』。なお、『出雲守護となった近江佐々木氏流の尼子経久は、時綱の子孫の貞慶(さだよし)を攻めて追放し、経久の三男興久に塩冶氏を継がせ』ている。因みに、「塩冶判官」というと、誰もが「仮名手本忠臣蔵」を思い出すが、あれは、赤穂事件を描きつつ、筋書きを「太平記」の世界に仮託することで、公儀の咎めを回避しているため、『播州赤穂藩主・浅野長矩は「塩谷判官」』『として(播州の名産品「赤穂の塩」からの連想)』あるのであり(『幕府高家肝煎吉良義央を「高師直」としたのは「高家」からの連想である)、『物語の発端が赤穂事件の実情とは異なる色恋沙汰となっているのも、塩冶判官の妻・顔世御前に対する師直の横恋慕という伝承を』、『そのまま』、『物語に取り入れているからである』とある。

「名和〔の〕太郎長年」(?~延元元/建武三(一三三六)年)初名は長高。伯耆守。父行高の代までは伯耆国長田に居住して長田氏を名乗っていたが、長高の時、同国汗入(あせり)郡名和(鳥取県名和町)に移って名和氏を称した。良港名和湊を領有し、日本海沿岸の商業活動によって富を蓄えた。この時、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆に上陸すると、長高は天皇を迎えて船上山に布陣し、佐々木清高の率いる幕府軍の攻撃を退けた。この功により、天皇から「年」の字を与えられて、長年と改名、同時に家紋をも賜ったと伝えられている。同年五月二十三日、天皇が船上山を出発して京都に向かうと、長年も天皇軍に随従した。建武政権下では、記録所・雑訴決断所の寄人などに任命され、天皇の身辺警護に当たるなど栄耀を極め、世人はその栄華を「三木一草」(後醍醐の忠臣四人の称)と称して羨んでいる。子義高も戦功により肥後国八代荘を与えられた。建武元(一三三四)年十月、天皇の命令により、護良親王を清涼殿で捕縛し、鎌倉へと送った。建武の乱では、一旦、足利尊氏軍を破って九州へと敗走させたが、勢力を盛り返した尊氏軍が入京するや、天皇を奉じて叡山に避難した。建武三/延元元(一三三六)年六月三十日、京中へ打って出たものの、大宮通り一条の合戦(「梅松論」では「三条猪熊の合戦」とする)で戦死を遂げた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「朝山(あさやまの)八郎」不詳。この名は「太平記」にも出ないようである。そもそも、後醍醐の隠岐脱出自体には、前に述べた通り、「太平記」でも義綱は関与出来なかった。以下に、後醍醐に与して馳せ参じた「淺山二郎」の同族か。

「六條少將忠顯」既出既注

「船上山(ふなのうへさん)」現行では「せんじょうさん」と読み、鳥取県東伯郡琴浦町にある標高六百八十七メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐々木彈正左衞門尉」「昌綱」とも。諸本、不詳とする。佐々木清高の一族であろう。

「江州番馬の辻堂」既出既注。現在の滋賀県米原市番場の蓮花寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淺山二郎」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『大伴氏の子孫で、現在の島根県出雲市朝山町に住んだ武士』とする。

「金持(かなぢ)」前掲書に、『島根県日野郡日野町金持(かもち)に住んだ武士』とある。

「大山(だいせん)の衆徒」鳥取県西伯郡大山町伯耆大山中腹にある天台宗角磐山(かくんばんざん)大山寺(だいせんじ)の僧兵。当時は修験道場として知られ、ここの『座主は比叡山から派遣され、ここでの任期を勤めた後、比叡山に戻って昇格するという、僧侶のキャリア形成の場』であった、とウィキの「大山寺」にある。

「佐々木判官時信」六角(佐々木)時信(徳治元(一三〇六)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は近江国守護。佐々木氏嫡流六角氏第三代当主。ウィキの「六角時信」によれば、『佐々木頼綱(六角頼綱)の子として誕生』、『廃嫡された長兄・頼明や早世した他の兄達に代わって』、『嫡子となり』、延慶三(一三一一)年の父の死後、『家督を継ぎ、近江守護となった』。正和三(一三一四)年)に元服して『時信と名乗』る。『朝廷との関わりは深く』、元徳二(一三三〇)年の『後醍醐天皇の石清水行幸の際には橋渡を務めているが』、元弘元(一三三一)年の「元弘の乱」では『鎌倉幕府方につき』、同年八月の『近江唐崎にて後醍醐天皇に応じた延暦寺衆徒と戦い敗れる』『ものの、後醍醐天皇が内裏を脱出して笠置山に挙兵した際(笠置山の戦い)には鎮圧に加わり、六波羅探題軍に加勢して山門東坂本に攻め寄せた。戦後は、捕縛された尊良親王(後醍醐天皇の皇子)の身を預かっている』。元弘三(一三三三)年の『後醍醐天皇流罪後も続いた反乱軍鎮圧では摂津国天王寺に参陣している。しかし、六波羅探題が宮方についた足利高氏(尊氏)によって陥落されると、探題北条仲時が近江で討死したという誤報を受けて宮方に投降した』。『幕府滅亡後の建武の新政では雑訴決断所の奉行人、南海道担当の七番局を務め、尊氏の新政離反にも従うが、室町幕府においては近江守護職を一時庶流の京極氏当主佐々木道誉に奪われるなど』、『不遇をかこつことになり、出家して家督を子・氏頼に譲り』、四十一『歳で死去したという』。

「常陸(ひたちの)前司時知(ときとも)」六波羅の頭人(とうにん)であった小田時知。サイト「南北朝列伝」によれば、『常陸国に拠点を置く小田一族の一人だが』、『傍流で』、『代々六波羅探題に勤めた系統である。父の知宗も弟の貞知も六波羅探題で引付頭人を務めている。名の「時」は得宗の北条貞時の一字を受けたとみられるが、「貞」字は弟が受けており、弟の方が嫡流とされていたようである』。『後醍醐天皇の討幕計画が発覚(正中の変)すると、時知は二階堂行兼と共に六波羅探題の使者として北山の西園寺邸を訪れ、事件の首謀者として日野資朝・日野俊基の二名を引き渡すよう朝廷に要請している』。元徳三(一三三一)年八月二十四日、『後醍醐が倒幕挙兵を決意して未明に宮中を脱出したが、その夜に時知が兵を率いて宮中の捜索、乱暴に騒ぎたてた様子が』「増鏡」に『描写されている』。二十七日には、『時知は貞知らと共に琵琶湖東岸の唐崎浜に出陣し、比叡山の僧兵と戦っている。その後の笠置攻撃にも参加し、後醍醐に同行して捕虜となった東大寺東南院の僧・聖尋の身柄を時知が預かり、のちに鎌倉に護送している』。本詩クエンス時(三月一日)には『時知は佐々木時信と共に六波羅勢を率いて、摂津の摩耶山にこもった赤松円心を討ったが』、『敗退』し、『勝ちに乗って京へ攻め込んできた赤松軍と京で攻防戦を繰り広げている』。『このように六波羅軍の主力として戦った時知だが、同年』五『月の六波羅勢の逃亡、近江番場での集団自決には同行しておらず、六波羅陥落前後に後醍醐方に投降したとみられる』とあり、さらに「尊卑分脈」の『小田氏系図を見ると時知の子・知貞の母について「実父大納言経継卿云々」と注があり、時知が公家の中御門経継の娘を妻に迎えていたことを推測させる。時知はあるいは』、『そのつてを頼って』、『後醍醐方に投降したのではないか』とサイト主は推理されておられる。事実、『建武政権では時知は弟の貞知と共に雑訴決断所の職員に名を連ねている』、但し、『その後の詳しい動向は不明である』とある。

「求塚(もとめづか)」現在の兵庫県神戸市灘区都通附近(グーグル・マップ・データ)。私の偏愛する、かの「菟原処女(うないおとめ)」の伝承が残る地である。

「八幡林」灘区八幡町附近。求塚の東北。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「久々知(くゝち)」尼崎市久々知(くぐち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「酒部(さかべ)」尼崎市上坂部(久々知の北に接する)・下坂部附近(久々知の北東に接する)。ここ(グーグル・マップ・データ)・

「阿波の小笠原」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『清和源氏、甲斐長房(かいながふさ)が阿波の国(徳島県)守護に任じてから阿波の豪族となった』とする。

「父子六騎に打(うち)なされ」筆者は「太平記」をコンパクトに圧縮するあまり、ここではリズムが崩れている。この父子とは赤松円心とその子息則祐のことで、二人を含めて、たった六騎までに小笠原㔟に討たれて減ってしまったというのである。

「小屋野(こやの)の宿」現在の兵庫県伊丹市昆陽(こや)にあった山陽道の宿場町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「瀨河(せがは)」現在の大阪府箕面瀬川。ここ(グーグル・マップ・データ)。昆陽の東北、猪名川を隔てた位置。

「子息筑前守貞範」(徳治元(一三〇六)年~文中三/応安七(一三七四)年)円心の次男。ウィキの「赤松によれば、嘉暦元(一三二六)年頃は『摂津国長洲荘の荘官を兄・範資と共に務め、父が後醍醐天皇の倒幕に参加した時は共に従った』。建武二(一三三五)年には『中先代の乱を平定するため』『、関東に向かう足利尊氏軍に加わり、戦後に尊氏が反新田義貞を主張して挙兵した時も従う。箱根・竹ノ下の戦いで竹ノ下に展開していた貞範の軍は』三百『騎で脇屋義助』七千『騎に突撃を敢行した。これを見て』、『義貞方の大友貞載』(さだとし/さだのり)『が寝返ったため』、『戦況が逆転し、尊氏軍が勝利した。この時の恩賞として丹波国春日部荘ほか』、『播磨国の所領を与えられたという』。『室町幕府の確立に尽力し』、正平元/貞和二(一三四六)年には『姫路城の基礎である城を築い』ている。正平六/観応二(一三五一)年に兄範資が『亡くなった時、弟・則祐が幕府から播磨と家督を安堵されたが、貞範が選ばれなかった理由は』、室町『幕府から疎まれていたためとされる』。正平一一/延文元(一三五六)年に『美作守護を任命されていた事があり、尊氏の庶長子・足利直冬と山名時氏が東上の構えを見せた際、貞範は出陣してこれを攻めた。しかし』、正平一八/貞治二(一三六三)年に『時氏が幕府に帰順すると』、『美作を時氏の末子・時義に交替させられ』ている。彼の『子孫は春日部荘を相続、足利将軍家の近習に選ばれた赤松持貞・赤松貞村を輩出した』。

「淀」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『京都市伏見区淀。桂川・宇治川・木津川にのぞむ水郷』とある。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「赤井」同前の山下氏注によれば、『淀から羽束師(はつかし)・樋爪(ひづめ)までの間、桂川にのぞむ地』とある。桂川右岸(グーグル・マップ・データ)。

「山崎」同前の山下氏注によれば、『淀・羽束師の西方一帯を指す』とあるから、現在京都府乙訓大山崎町附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「隅田」隅田(すだ)通治。既出既注

「高橋」未詳既出既注

「大宮」大宮大路。朱雀大路の東の最初の南北に走る東大宮大路のこと。その南端で南北に走る、南から二本目(最南端が九条大路)の「七條」大路辺りまでの閉区間で火を放ったということであろう。次も同じ。

「猪熊」猪熊小路。東大宮大路の東の最初の小路。

「主上持明院殿」光厳天皇。

「河野」九郎左衛門尉通治(みちはる)か。

「陶山(すやま)」既出既注の陶山藤三義高であろう。或いは、その一族かも知れない。

「蓮花王院」所謂、三十三間堂の正式な寺名。なお、六波羅探題はにあった(グーグル・マップ・データ)。

「善峯」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『釈迦岳の支峰を善峰と言い、また中腹に善峰寺がある』と記す。寺は、(グーグル・マップ・データ)。

「岩倉」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『西京区大原野石作(いしづくり)町岩倉。金蔵寺の辺』とする。寺は、(グーグル・マップ・データ)。

「向明神(むかうのみやうじん)」「向日明神」が正しい。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『小塩山にある天台宗の金蔵寺の守護神』とあるから、前の注のリンク先附近。]

諸國里人談卷之三 阿蘇

 

    ○阿蘇

肥後國阿蘇山は、則(すなはち)、阿蘇郡(あそのこほり)なり。社(やしろ)は麓にあり。

神池(みいけ) 每日、猛煙、起聳(おこりそび)え、山谷、鳴動す。○「大明一統志」云(いはく)、『日本国阿蘇山、石火起接ㇾ天。俗異而禱ㇾ之。有如意寶珠大如鷄卵。色靑夜有ㇾ光。』。

[やぶちゃん注:「大明一統志」の返り点は③に従った。①では「有如意寶珠大如鷄卵」の「有如意寶珠」の一・二点が存在せず、吉川弘文館随筆大成版はそれを受けて「有」を前の「禱ㇾ之有」としているが、これは中国語としておかしいと感じた。中文サイトで「大明一統志」の原文を調べたが、現行の同書にはこの文字列を見出せなかった。しかし、黒木國泰氏の論文「壽安鎭國考―册封体制小論―」(『宮学短大紀要』第六号(平成二五(二〇一三)年度)の中に、「月令廣義」の一条を引かれ(一部の漢字が正字でないのはママ)、

   《引用開始》

統志(大明一統志カ)日本國阿蘇山、石火起接天、俗異而禱之、有如意寶珠、大如鶏卵、色青、夜有光、永樂初年、封為壽安鎭國山。

   《引用終了》

とあるのを見出せたので、かくした。なお、これはずっと先立つ「舊隋書」(唐の六五六年成立)の「卷八十一」「列傳第四十六」「東夷」「倭國」の条の、

   *

有阿蘇山。其石無故火起接天者。俗以爲異因行禱祭。有如意寶珠。其色靑大如雞卵。夜則有光。云魚眼精也。新羅百濟皆以俀爲大國。多珎物並敬仰之恆通使往來。

(阿蘇山、有り。其の石(せき)[やぶちゃん注:岩山。]、故(ゆゑ)無くして、火、起こり、天に接する者(こと)あり。俗、以つて異と爲(な)し、因(よ)りて禱祭(たうさい)を行ふ。如意寶珠、有り。其の色、靑く、大いさ、雞卵のごとくして、夜、則ち、光り有り。云はく、「魚(うを)の眼精(ぐわんせい)なり。」と。新羅・百済は、皆、俀(わ)[やぶちゃん注:倭。]を以つて、大國と爲す。珎物(ちんもつ)多く、並びに、之れを敬仰して、恆(つね)に通使し、往來す。)

   *

の古い記事を孫引きしただけなのではないかと私は疑っている。

「大明一統志」明の英宗の勅撰地理書(但し、先行する景泰帝の命じた一四五六年完成の「寰宇通志」の改訂版)。一四六一年に完成。全九十巻。最終の二巻は「外夷」(朝鮮国・女直・日本国・琉球国他)に当てられているが、説明は沿革・風俗・山川・土産のみで、簡略である。

 以下、原典③の訓点に従って「諸國里人談」所収の漢文を書き下す。

   *

日本国、阿蘇山、石火、起り、天に接(まじ)はる。俗、異(い)にして、之を禱(いの)る。如意寶珠(によいほうじゆ)、有り、大きさ、鷄(とり)の卵(かいご)のごとし。色、靑く、夜(よる)、光り、有り。

   *

「接(まじ)はる」高く昇って天に「交はる」。「俗、異(い)にして」民はこの噴火を異常な凶兆として捉え、の意であろう。「如意寶珠」はサンスクリット語の「チンターマニ」(「チンター」は「思考」、「マニ」は「珠」の意)の漢音写で、仏教で霊験を表わすとされる宝の珠(たま)で「意のままに願いを叶える霊宝」の意。但し、この宝珠は不詳。阿蘇神社にも現存しない模様である。個人ブログ「吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流」の阿蘇神界と火山神で、吉田氏は『如意宝珠については謎ではあるが』、『私は阿蘇の火口の寶池のことだと勝手に理解している。というのも以前飛行機から火口の寶池を見た際にエメラルドグリーン色の丸い眼のようだと思ったことがあるからだ』と述べておられ、共感出来る。それに火口と宝池とで火と水とのペアになる』「かいご」の「かい」は「殻」の意で、小鳥や鶏などの殻のついたままのたまごを指す古語。上代から鎌倉・南北朝期頃までは、「卵」は「たまご」ではなく、「かいご」と呼ばれていた。国語辞典編集者神永曉氏のブログ「日本語、どうでしょう?」の「たまご」は「卵」か「玉子」か?によれば、源順の平安中期の辞書「和名類聚抄」には、「卵 陸詞曰、卵【音「嬾」・加比古。】、鳥胎也」とあり、『「嬾」は「ラン」、「加比古」は「かひこ(かいこ)」で』、『「かひ(かい)」は「貝」や「殻」と同語源であろう』とされ、また、近世初期、日本イエズス会が宣教師の日本語修得のために刊行した辞書「日葡(にっぽ)辞書」(慶長八~九年(一六〇二年~一六〇五年)刊)には、『「Tamago (タマゴ)〈訳〉鶏卵。カミ(上)ではCaigo(カイゴ)という」という記載があることから、近世初期までは「かいご」「たまご」が併用されていたことがわかる』『(「カミ」とは近畿方言のこと』)とある。沾涼は伊賀の生まれであるから、彼が「卵」を「かいご」と訓じても、これ、何らおかしくないと私は思う。

「社(やしろ)は麓にあり」阿蘇山の東北麓の熊本県阿蘇市一の宮町宮地にある阿蘇神社。(グーグル・マップ・データ)。

「神池(みいけ)」先の吉田氏の述べられた、阿蘇の火口の宝池のことであろう。]

諸國里人談卷之三 淺間

 

    ○淺間

信州淺間嶽は佐久郡(さくのこほり)也。頂(いたゞき)、常に燃(もゆ)る。往昔(そのかみ)、大きに燒(やけ)たる時、吹出(ふきいだ)したる石也とて、輕井澤・沓掛(くつかけ)の間の曠原(くはうげん)に、燒石(やけいし)、限りなくありける。每年四月八日潔齊して登山(とうさん)するなり。人、皆、竹の筒に水を貯へ、草鞋を浸(ひた)して、火氣を防ぐ便(たより)とす。麓より四里半登るといへども、佐久郡は、多く、淺間山の内なり。上州より碓氷峠まで、自然(じねん)、上(あが)りにして、凡(およそ)四里ほど登る也。峠より輕井澤へは半里くだる也。是によつて考ふれば、上州地〔じやうしうぢ〕よりは、巓(いたゞき)まで、凡〔およそ〕八里の高山なり。富士は登る事、九里也。さのみかはらず。

[やぶちゃん注:二文目に現われる「頂」は原典では「頂」の上全体に(やまかんむり)が附された字体であるが、表記出来ないので、これに代えた。浅間山(あさまやま)は、現在の長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある成層火山で標高は二千五百六十八メートル。(グーグル・マップ・データ)。現在でも活発な活火山で、今二〇一八年現在、火口周辺規制(噴火警戒レベル2)で山頂と火口付近は入山禁止である。

「每年四月八日」は①・②に拠った。③では「四月四日」なのであるが、調べてみると、古来の浅間山の「山開き」の日は「卯月八日」と称し、旧暦四月八日と決まっていたからである(例えば寺子屋サロン氏のブログ「”現在・過去・未来” 歴史の日暦」の浅間山大噴火を見られたい。なお、そこにも少し記されてあるが、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から四十年後の「天明の大噴火」の最大の噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)で、山開きの翌日であった(実際にはその二日前の七月六日から噴火活動は続いてはいた)。溶岩流出・火山灰噴石降下・火砕流・土石流が発生、それらによって吾妻川が閉塞、直に決壊し、大洪水を引き起こし、被害は利根川にまで及んだ。この時の犠牲者は千六百二十四人(内、上野国一帯だけで千四百人以上)・流失家屋 千百五十一戸・焼失家屋五十一戸・倒壊家屋百三十戸余りであった(以上はウィキの「浅間に拠った)。

「沓掛」浅間山の南東麓の軽井沢町にある旧宿場町。東方に碓氷峠を控え、軽井沢・追分とともに中山道の浅間三宿として知られた。現在の長野県中軽井沢。(グーグル・マップ・データ)。]

2018/06/18

諸國里人談卷之三 ㊄山野部 富士

 

諸國里人談卷之三   菊岡米山翁著

 ㊄山野部(さんやのぶ)

     ○富士

駿河國富土山は、相傳ふ、孝靈帝五年に、一夜(や)に、地、坼(さけ)て、大湖(たいこ)となる。是、江州琵琶湖也。其土、大山(たいざん)となる。駿河の富士、是也。江州三上山(みかみやま)は、簣(あじか)より溢(〔あ〕ふれ)て成。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に、其形、似たりと云々。每年六月、登山(とうさん)するに、百日の潔齋也。江州の人は七日の潔齋也と云。山の荒(ある)る時、近江の土を蒔(まけ)ば、則(すなはち)、鎭(しづま)るとなり。【當山の事、諸書に委〔くはし〕ければ略ㇾ之〔これをりやくす〕。】

[やぶちゃん注:以下の長歌部分は原典では全体が一字下げ。前後を一行空けた。清音は清音のままに表記した。後の二首も同じ処理をした。「万葉」「西行法師」は小さく書かれているが、同ポイントで示した。「西行法師」は下一字上げインデントであるが、引き上げてある。]

 

「万葉」

 天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を

 

秀吉公、朝鮮を征す時、加藤淸正、兀良哈(おらんかい)におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、一人を捕(とら)ふ。名を「世琉兜宇須(せるとうす)」と云〔いふ〕。元、日本松前の人なり。風飄(ふうひやう)して、濟州(さいしう)にある事、二十年也。淸正、悦(よろこん)で導(みちびき)とす。改(あらため)て、後、「藤次郞」と号す。次郞が云〔いはく〕、「此地、天、晴(はる)る時は、富士を見るに、甚(はなはだ)ちかし」。

又、朝鮮人來朝の時、駿河にて富士をさして、「此山、我國に見ゆる」と云〔いふ〕。凡(およそ)、日本に富士にひとしき山、二ツあり。一ツは奧州津輕弘前(ひろさき)の南、岩城山(いはきやま)といふ高山あり。形、富士に違(たが)はず。

 

                西行法師

 ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの

 

又、薩州穎娃郡(ゑのゝこほり[やぶちゃん注:ママ。])に高山あり。「うつほ嶋」と云〔いふ〕。是、又、富士に同じ。

 

 さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん

 

按(あんず)に、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは「さつまふじ」なるべき歟〔か〕。

[やぶちゃん注:富士山」とキャプションする本条の挿絵がある(①)。富士誕生伝承については、吉田信氏の論文「富士山と琵琶湖についての言い伝えをめぐって」(PDF)が非常に精緻で、必読。そこにしばしば引かれる江戸時代の文献として、浅井了意の「東海道名所記」(万治四・寛文元(一六六一)年頃刊)の一節が引かれてあるが、それを参考に漢字を正字化したりして示すと、

   *

諺(ことわざ)に、むかし、富士權現、近江(あふみ)の地をほりて、富士山をつくりたまひしに、一夜のうちに、つき給ヘり。夜、すでにあけゝれば、簣(もつこ)かたかたを、爰(ここ)にすて給ふ。これ、三上山なりといふ。さもこそあるらめ。いにしへ、孝靈(かうれい)天皇の御時に、此あふみの水うみ、一夜のうちに出(いで)きて、その夜に,富士山、わき出(いで)たり。その時しも、三上山も出來にけり。一夜の内に山の出(いで)き、淵(ふち)の出き、又は、山のうつりて、餘所(よそ)にゆく事、物しれる人々は、ふかき道理のある事也。故なきにはあらず、と申されし。

   *

で、次に今一つ、吉田氏は大坂の医師寺島良安の百科事典「和漢三才図会」を現代語訳で引くが、ここは氏の訳された当該原典部分を私が翻刻して示し、訓点に従って書き下したものを添える(因みに、私は同書の水族関連の八巻の電子化注をサイトのこちらで完遂しており、このブログでも「蟲類」(完遂)や「禽類」(作業中)を手掛けている)。同書は約三十年の歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃に完成したものである。

   *

相傳孝靈帝五年始見矣蓋一夜地坼爲大湖是江州琶湖也其土爲大山駿州富士也【國史等無其事亦非無疑】四時有雪絶頂有烟江州三上山自簣溢成故形畧似富士

○やぶちゃんの書き下し文

相ひ傳ふ、「孝靈帝五年、始めて見る、蓋し、一夜に、地、坼(さ)けて、大湖と爲(な)る。是れ、江州の琶-湖(みづうみ)なり。其の土、大山と爲る。駿州の富士なり【國史等、其の事、無し。亦、疑ひ無きに非ず。】。四時、雪、有り。絶頂に、烟、有り。江州三上山は簣(もつこ)より溢(こぼ)れ成れる故、形、畧(ほぼ)富士に似れり。」と。

   *

以下、吉田氏はこの伝承の文献上のルーツを遡ろうとされるのであるが、この濫觴探索はなかなか難しく、残念ながら、探しきってはおられない。ともかくも、同論文に引用されている、博学こだわり倶楽部編「あっぱれ!富士山 日本一の大雑学」(二〇一三年KAWADE夢文庫刊)からの引用の孫引きでここは終わりたい(コンマは読点に代えた)。『富士山成立に関する伝説「日本一の山と湖」ではつぎのとおり。その昔、日本の神々が集まって、日本一高い山と日本一大きい湖をつくることにした』。『神々は日本一高い山をつくる場所を駿河(するが)国、制限時間を』一『日と決め,力自慢の神々が近江(おうみ)国から掘った土をもっこ(土石運搬に用いる道具)に入れて駿河国に運んだ。その土を盛(も)って山をつくろうというのだ』。『夕方からはじまった山づくりの作業は、明け方近くになって、あとひともっこで山ができ上がるところまできた。しかし,最後のひともっこを時間内に積み上げられなかった。そのため、富士山の山頂は尖(とが)った形でなく平らになってしまった』。『いっぽう、近江国の土を掘った跡地には日本一大きな琵琶湖ができた。積み上げられなかった最後の一杯の土は、琵琶湖近くにこぼれて近江富士となった』――どんとはらい――

「孝靈帝五年」「古事記」「日本書紀」に第七代天皇と伝える。西暦への機械的換算では、これは紀元前二八六年。

「江州三上山(みかみやま)」滋賀県野洲市三上にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高四百三十二メートル。一般に「近江富士」の別名で知られる。

「簣(あじか)」「あじか」と読むと「竹で編んだ籠や笊」を指すが、ここはしかし、この漢字の第一義である、「土砂を運ぶための運搬用の箕(み)や籠」のもの、則ち、「畚(もっこ)」のことである。

「天地(あめつち)の……」は「万葉集」巻第三「雜歌」の山部赤人の長歌(三一七番)である。添えられた有名な短歌(三一八番)も添えて示す。

   *

  山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)の不盡山(ふじのやま)を望める歌一首幷(あは)せて短歌

天地(あめつち)の 分(わか)れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影(かげ)も隱(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り繼(つ)ぎ 言ひ繼ぎ行かむ 不盡(ふじ)の高嶺は

  反歌

田子(たご)の浦ゆ打ち出いでて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける

   *

「い行き」の「い」は接頭語で、動詞に付いて意味を強める。悠々たるはずの白雲も高峰の富士の高嶺には流石に流れ泥(なず)んでしまい、の意。「時じくぞ」「時じ」で形容詞で「時を選ばない・時節にかまわない」の意。何時(いつ)と時を定めることなく、いつでも。

天地(あめつち)のわかれし時に神さひて高く導き駿河なるふしの高根を天(あま)の原(はら)ふりさけ見ればわたる日の影もかくろひてる月の光りも見えず白雲もいゆきはゝかり時しくそ雪は降(ふり)ける語りつきいひつきゆかんふしの高根を

「兀良哈(おらんかい)」後の旧満州、現在の中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。この元である「ウリャンカイ」(モンゴル高原北部周辺にいた民族集団の一つの呼び名)とは元来は興安嶺周辺の中国東北部北部からシベリア南部一帯の森林地帯に住んでいた狩猟民の総称であったと考えられ、現地のツングース語で「トナカイを飼育する民」を意味する発音などがモンゴル語風に訛ったものとも推測されており(ウィキの「ウリャンカイ」に拠る)、それに漢字を当てたものである。

「捕(とら)ふ」吉川弘文館随筆大成版は『捕ゆ』とする。採らない。

「世琉兜宇須(せるとうす)」この前後の話は、後、水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:号は中陵)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記「中陵漫録」の巻之三の「富士を望(のぞむ)」にも出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化し、読点を追加し、一部の歴史的仮名遣で読みを加えて示す。

   *

    ○富士を望

日本の高岳は富士より高大なるはなし。しかれども、是を望む事、二百里に過ず。奥州にては仙台の富の観音より、天晴を待(まち)て遙(はるか)に望む事、有り。故に此處を富と呼ぶ。此處を去(さり)て十里なれば、人の目、力及ばずして、望むと難(かたく)、見る事なし。西にては大阪より希に見る事、有り。大抵人の眼力にかぎりあればなり。然ども、濟州の世琉兜宇須は、本(も)と日本松前の人なり。彼(かの)國に至(いたり)て日本の富士を見る事、甚(はなはだ)近きに有(あり)と云ふ。此説、疑はし。若(もし)海を隔(へだて)て望めば、水氣に因(より)て見る事、有り。いまだ決しがたし。又、日本にても南部の富士、薩摩の富士、其外出羽の三山、鳥海山のごとき、富士に似たる高山、有り。此等を遠望して富士と見誤るか。異邦より望みし事は、甚だ疑はし。又、「五雑爼」に、天竺の雪山を見ると云ふ。雪山は二百里已外(いがい)に有りと見えたり。彼(かの)人の眼力も日本に相(あひ)同じ。甚だ遠ければ、絶(たえ)て見る事なし。此他、紀行の書にも、塞外の雪山、塞外の諸峰を見ると云説有り。此等も二百里已外と見えたり。

   *

「二百里」七百八十五キロメートルであるが、これはあり得ない。富士を中心とした円の直径としても三百九十二・五キロメートル圏内で見えることになるが(「仙台の富の観音」がどこを指すか私には不明だが、地図上は圏内には入るが)、これも事実とは異なる(仙台では見えないと思う)。こことか、ここのサイトで富士山の見える範囲が示されているが、単純な数理計算によれば、半径二百二十キロメートル圏内、大気の光学上の屈折作用からはその辺縁外側でも見られるとあり、最北可視位置は福島県相馬郡飯舘村の花塚山で(ここ(グーグル・マップ・データ))、現行で最も遠い可視位置としては、南西の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある色川富士見峠(標高約七百メートル)とされ、距離は約三百二十三キロメートルである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

なお、井上泰至・金時徳共著「秀吉の対外戦争 変容する語りとイメージ 前近代日朝の言説空間」(二〇一一年笠間書院刊)の金時徳氏の「朝鮮で加藤清正言説はどのように享受されたか」に『済州に漂着した「日本人」世流兜宇須は誰か』という章があるらしい。いつか立ち読みしたら、追記する。

と云〔いふ〕。

「風飄(ふうひやう)して」海上で暴風に遭遇して朝鮮半島へ漂着したということらしい。

「濟州(さいしう)」山東省にも旧済州 はあるが、ここは大韓民国の南に浮かぶ済州(チェジュ)島のことか。

「岩城山」「津軽富士」とも呼ばれる。標高千六百二十五メートル。

「ふし見てもふしとやいはんみちのくの岩城の山の雪のあけほの」「西行法師」とあるが、彼の歌集にはなく、彼の歌とも思われない(どうも本書に西行の歌として出るぐらいらしい)。一応、整序しておくと、

 富士見ても不二とや言はむ陸奥の岩城の山の雪の曙(あけぼの)

か。

「薩州穎娃郡(ゑのゝこほり)」通常は「頴娃(えい)」と読む。薩摩国及び旧鹿児島県薩摩半島先端の西南部分で、現在の指宿市の一部(開聞(かいもん)各町)と南九州市の一部(頴娃(えい)町各町)に当る。位置は参照したウィキの「頴娃郡」の地図を見られたい。

「うつほ嶋」標高九百二十四メートルの「薩摩富士」開聞岳の別称の一つ(「うつぼ嶋」「空穗島」)。この名は貞觀一六(八七四)年にこの山で発生した「貞観の噴火」によって山頂に空洞(うつぼ)が生じたことに由来するものとされる。私が結婚したばかりの新妻と二人で完全登攀した(私は普通の革靴だった)唯一の山である。

「さつまかた穎娃(ゑの)の郡(こほり)のうつほ嶋これやつくしの富士といふらん」これは安土桃山から江戸初期の公家近衛信伊(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)の一首である。ウィキの「近衛信尹」によれば、初名を信基・信輔と称し、号は三藐院(さんみゃくいん)。天正五(一五七七)年に『元服。加冠の役をつとめたのが織田信長で、信長から一字を賜り』、『信基と名乗る』。天正八年に内大臣、天正十三年には『左大臣となる。関白の位をめぐり』、『二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。秀吉が秀次に関白位を譲ったことに』、『内心』、『穏やかではなく、更に相論の原因を作り、一夜にして』七百『年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深め』、それに『苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり』、文禄元(一五九二)年正月、『左大臣を辞した』。『幼い頃から父』(関白近衛前久(天文五(一五三六)年~慶長一七(一六一二)年:彼は関白職にありながら、永禄三(一五六〇)年に越後に下向、更に永禄四(一五六一)年の初夏には越山し、景虎の関東平定を助けるため、上野・下総に赴くなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一、越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物であった)『とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたという』。『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って』、『信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』『したため』、『天皇や秀吉の怒りを買い』、文禄三年四月、『後陽成天皇の勅勘を蒙』り、信尹は薩摩国の坊津に、三年間もの間、配流となってしまう(『その間の事情は』日記「三藐院記」に詳述されている)。京より四十五人の『供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定』『)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿』の秋祭(現在の坊津町坊八坂神社の秋祭り。「坊ほぜどん」と呼ばれ、毎年十月第三日曜日に行われる。小京都風の振袖姿で「サイセンバコ」と呼ばれる桶を頭に掲げた少女たちの「十二冠女(じゅうにかんめ)」の行列で知られる)や、『御所言葉、都の文化を伝播。鹿児島の代表的民謡』である「繁栄節(はんやぶし)」の『作者とも伝えられる。また』、『この時期』、『書道に開眼したとされる』。『配流中の世話役であった御仮屋守噯(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている』。『遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう』一、二年いたい旨、『書状に残すほどであった』。慶長元(一五九六)年九月、勅許が下り、京都に戻ったが、慶長五年九月の『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠』七『代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍』するも、九月十五日に敗北、『撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事』、『枕崎に戻ることができた。また』、『島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事』、『薩摩に帰国した』。『信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付けた』。慶長六(一六〇一)年に『左大臣に復職』、慶長十年七月には『念願の関白となる』。翌年十一月には『関白を鷹司信房に譲り辞するが、この頻繁な関白交代は秀吉以降』、『滞った朝廷人事を回復させるためであった』慶長十九年より、『大酒を原因とする病に罹っていたが』、同年十一月二十五日に薨去、享年五十であった。

 歌を整序してみると、

 薩摩潟穎娃(ゑい)の郡(こほり)のうつぼ嶋是や筑紫の富士といふらん

であろうが、幾つかの資料を見ると、

 薩摩がた波の上なるうつぼ島これや筑紫の富士といふらむ

の表記も見る。前の句形は文化三(一八〇六)年序の「薩藩名勝志」が出典であるようだ。これ以上の検証は私には出来ない。悪しからず。

「按(あんず)に、玆(こゝ)を以て見れば、朝鮮に見ゆるは、「さつまふじ」なるべき歟〔か〕」という認定が出来る根拠が私にはさっぱり判らぬ。何方か、私に御教授あられたい。]

諸國里人談卷之二 片輪車 / 諸國里人談卷之二~了

 

     ○片輪車(かたわぐるま)

近江國甲賀(こうか)郡に、寬文のころ、「片輪車」といふもの、深更に車の碾(きしる)音して行(ゆく)あり。いづれより、いづれへ行〔ゆく〕を、しらず。適(たまたま)にこれに逢ふ人は、則〔すなはち〕、絶入(ぜつじゆ)して、前後を覺えず。故に、夜更(よふけ)ては、往來(ゆきゝ)、人、なし。市町も門戸(もんこ)を閉(とぢ)て靜(しづま)る。此事を嘲哢(ちやうろう)などすれば、外(そと)より、これを詈(のゝし)り、

「かさねて左〔さ〕あらば、祟(たゝり)あるべし。」

などいふに、怖恐(おぢおそれ)て、一向に聲も立(たて)ずしてけり。

或家の女房、これを見まくほしくおもひ、かの音の聞ゆる時、潛(ひそか)に戸のふしどより、覗見(のぞき〔み〕)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて、車をとゞめ、

「我を見るよりも、汝が子を見よ。」

と云〔いふ〕におどろき、閨(ねや)に入〔いり〕て見れば、二歳ばかりの子、いづかたへ行〔ゆき〕たるか、見えず。歎悲(なげきかな)しめども、爲方(せんかた)なし。明の夜、一首を書〔かき〕て、戸に張りて置(おき)けり。

 罪科(つみとが)は我にこそあれ小車〔おぐるま〕のやるかたわかぬ子をばかくしそ

その夜、片輪車、闇にて、たからかによみて、

「やさしの者かな。さらば、子を皈(かへ)すなり。我(われ)、人に見えては、所にありがたし。」

といひけるが、其後、來らずとなり。

 

里人談二終

[やぶちゃん注:特異的に改行を加えた。知られた妖怪「片輪車」譚である。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館「不思議な車」』で本条を電子化しており、そこには類話の中国版(但し、私はこれらが「片輪車」の原型だとは考えていない)や、本邦の類話(これは全通底)を纏めていて手っ取り早く流れを摑めるという点ではよい。無論、それぞれに原典を私が注で翻刻してある。また、そこに出る「諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事」カテゴリ「諸國百物語」(完遂)で独立して電子化注しているので、必ず比較参照されたい。何故なら、この「諸國百物語」(著者不詳)の「片輪車」が板行された現存する本妖怪の「片輪車」と確かに名指された最古形で(本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるが、「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊で六十六年も前である)あり、本「諸國里人談」や、宵曲が先の「不思議な車」で紹介し、私が原典を示した、それと酷似した構成(ロケーションが「信州某村」となっている以外はそっくり写されていると言ってよい)の津村淙庵(そうあん)の「譚海」(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞録)「片輪車」が、《子どもが無事に返される大団円和歌霊験譚》であるのに対し、原型である「諸國百物語」「いかに、それなる女ばう、われをみんよりは内に入りて、なんぢが子を見よ」と云ふ。女ばう、をそろしくおもひて内にかけ入りみれば、三つになる子を、かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける。女ばう、なげきかなしめども、かへらず。かの車にかけたりし股(もゝ)は、此子が股にてありしと也。女の身とて、あまりに物を見んとする故也」をコーダとする真正の《子どもが同時に問答無用で引き裂かれる猟奇凄惨怪奇譚》だからである。私? 和歌嫌いの私は無論、「諸國百物語」版「片輪車」に軍配を上げる

「近江國甲賀(こうか)郡」①は「こうか」、③は「こうが」。正しい①で採った(但し、①はルビでは濁点を打たない傾向は強い)。現在の滋賀県甲賀(こうか)市((グーグル・マップ・データ))と湖南市((グーグル・マップ・データ))の全域及び蒲生郡日野町下駒月(しもこまづき:(グーグル・マップ・データ))が旧郡域。因みに、「甲賀」を「こうが」と読むのは正確には《昔も今も誤り》で、清音「こうか」と読まねばならない。「こうが」とも読むのではなく、「こうが」は、本来、あくまで誤読であることを知っている人は実は少ないと思う。しかし、ウィキの「甲賀市によれば、『市内の公共施設における「甲賀」はほぼ「こうか」と発音する』とあるのである。「伊賀」は「いが」でよく、時代劇の「伊賀者」は「いがもの」でよいが、対する「甲賀者」は「こうかもの」でなくては正しくないのである。と、偉そうに言っている私も、つい先日まで「こうが」と読んでいた。この驚愕の事実は、朗読ボランティアをしている妻から知らされたものであった。

「寬文」一六六一年~一六七三年。第四代徳川家綱の治世。因みに、最古形を載せる「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊であるが、その話は「京東洞院通に、むかし、片輪車と云ふ、ばけ物ありけるが」で始まる。則ち、原型は最低でも江戸初期、安土桃山時代頃までは溯る話柄として設定されていると読むべきであろう。

「碾(きしる)音」「軋る音」。

「絶入(ぜつじゆ)」失神。

「嘲哢(ちやうろう)」対象を馬鹿にして軽口をたたいて嘲(あざけ)ること。ここは「片輪車」の存在を信じて忌み籠っている者を馬鹿にし、そんな妖怪なんぞいるはずがないと豪語することを指す。

「外(そと)より、これを詈(のゝし)り」無論、以下、これは、その妖怪「片輪車」が、その嘲弄した者に言いかけた脅し文句である。

「かさねて左〔さ〕あらば」再び、そんなことを口にしたら。

「祟(たゝり)あるべし」必ずや、祟りのあると思え!

「戸のふしど」これは「戸の」とある以上、「節所」で節穴のことであろう。

「覗見(のぞき〔み〕)れば、牽(ひく)人もなき車の片輪なるに、美女一人、乘(のり)たりけるが、此門にて、車をとゞめ、

「我を見るよりも、汝が子を見よ」「我を」の「を」は③。①には「を」は、ない。

「二歳」数え。

「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車〔おぐるま〕のやるかたわかぬ子をばかくしそ」畏れ多き御車(おくるま)を覗いた罪咎(つみとが)は私にこそあるけれども、御車がどこへ行ったやら判らぬのと同じに、ああっ! 私の可愛い幼(おさな)子も、どこか判らぬ知らぬところへと、隠されてしまった!]

2018/06/17

諸國里人談卷之二 木葉天狗

 

     ○木葉天狗(このはてんぐ)

駿遠(すんゑん)の境(さかひ)、大井川に天狗を見る事、あり。闇なる夜、深更におよんで、潛(ひそか)に封疆塘(どてつゝみ)の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに、翅(つばさ)の徑り、六尺ばかりある大鳥のやうなるもの、川面(かはづら)にあまた飛來り、上りくだりして、魚をとるのけしきなり。人音(ひとおと)すれば、忽(たちまち)に去れり。是は俗に云〔いふ〕術(じゆつ)なき「木の葉天狗」などいふ類ひならん。

[やぶちゃん注:「封疆塘(どてつゝみ)」三字へのルビ。「疆」は「境」の意で、通常、「封疆」(ほうきやう(ほうきょう))は「国境(くにざかい)」を指す。ここはその意味でも(駿河国と遠江国の国境)一致している。「塘」は「堤」に同じ。

「六尺」一メートル八十二センチ弱。因みに鳶(タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans)の翼開長は一メートル五十センチから一メートル六十センチ程である。

「術(じゆつ)なき」はかばかしい神通力を持っていないこと。但し、ウィキの「木葉天狗を見ると、『江戸時代の随筆や怪談など各種文献に多く名が見られる天狗の一種。境鳥(さかいどり)とも呼ばれる』として、本書の本条を引いた上で、『人に似た顔と手足を持ち、くちばし、翼、尾羽を備えているとの説もある』。松浦静山の随筆「甲子夜話」巻七十三の六項には、『静山の下僕・源左衛門が』七『歳の頃に天狗にさらわれたとされる天狗界での体験談が述べられており、その中に木の葉天狗の名がある。それによれば、天狗界では木の葉天狗は白狼(はくろう)とも呼ばれており、老いた狼が天狗になったものとされ、山で作った薪を売ったり』、『登山者の荷物を背負ったりして、他の天狗たちが物を買うための資金を稼いでおり、天狗の中でもその地位はかなり低いという』。『また』、『山口県岩国の怪談を収集した書物』「岩邑怪談録」には『木の葉天狗が人間をからかった話がある。宇都宮郡右ェ門という猟師の前に木の葉天狗が小僧に化けて現れ』、『「銃を撃ってみろ」とからかい、郡右ェ門が小僧を木の葉天狗と見抜いて銃を撃つと、木の葉天狗は少しも驚くことなく「弾はここだ」と言って弾を返して姿を消したとある(当時の銃は火薬と弾を別に仕込むので』、『弾を抜いて空砲にする事が出来た)。このことから、地位の低い天狗といっても』、『変化能力などの神通力がある程度は備わっていたと解釈する説がある』。『一方では、河鍋暁斎による錦絵』「東海道名所之内 秋葉山」には、『樹上で寛ぐ木の葉天狗たちの姿が描かれていることから、術を持たない人畜無害な存在とする説もある』とある。]

諸國里人談卷之二 天狗遊石

 

    ○天狗遊石(てんぐのあそびいし)

伊賀國岡山に、むかしより、「天狗の遊び石」といひつたへたる石あり。方八尺ばかりにして、上、眞平(まつたひら)に切立〔きりたて〕たるごとくなるが、山の崕岸(がけぎし)にありて突落(つき〔おと〕)さば、おつべかりける場所也。寶永のころ、大守、庿所(びやうしよ)の禮拜石(れいはいせき)に宜(よろし)きとして、𢌞〔めぐ〕りの土を穿(うがち)て、谷へつきおとしければ、何の事なく、落たり。大勢の人夫をして、日每に、これを引〔ひき〕て、上野(うへのゝ)城下の坂口まで一里ばかりの所へ引付〔ひきつけ〕たり。其日、俄(にわか)に大白雨(〔おほ〕ゆふだち)して、雷(いかづち)、地を覆(くつがへ)す。よつて、人夫を引く。夜に入〔いり〕て、益(ますます)、やまず。やうやう、明方に靜(しづま)りける。然(しかる)に件(くだん)の石、夜中(やちう)に、元の山上へ、引戾(〔ひき〕もど)して、あり。依(よつ)て、其事を止(とゞ)む。

[やぶちゃん注:「天狗の遊び石」同名の菓子を現地の伊賀菓庵山本が販売しており、そこには『伊賀民話銘菓』と銘打っているので、伝承は残っている。「伊賀國岡山」三重県伊賀市寺田の附近(グーグル・マップ・データ)。「岡山口」というバス停や「岡山遊園地」があった。更に調べた結果、やはりここでよかった。個人サイト「View halloo!!ページを見られたい。石がこの園地内にあることもここで判った。最初の案内板の写真の右のピークの中腹やや上に「天狗の遊び石」とある。更に解説(案内板の翻刻か)を引かせてもらうと、『その昔、伊賀国の殿様が亡くなった時』(本条は亡くなる前でやや異なる)、『重臣たちは立派なお墓をつくろうと、四方八方を尽して石探しをした。その時、この岡山の石が選ばれたが、多くの人夫を使って運搬の途中、にわかに雷鳴をとどかす大雨が降った。その日はやむなく作業を中止し、翌朝雨がやんだので現地に行ってみると、何と運んできた筈の石が姿を消していた。石はいつの間にか元の岡山へ戻っていたので、これはきっと、普段この石を遊び道具に使っていた天狗が、大雨を降らせて取り返したのだと、里人がうわさをしたそうな』とある。

「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。

「大守」伊賀は津藩(つはん)の領有地で、宝永年間の藩主は第四代藤堂高睦(たかちか)と養子の第五代藤堂高敏の孰れかである。

「庿所(びやうしよ)」廟所。

「禮拜石(れいはいせき)」墳墓の手前に敷く石であろう。吉川弘文館随筆大成版はここを『礼許石』と翻刻するが、採らない。

「上野(うへのゝ)城下の坂口」上野城は、現地の西方、現在の三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった伊賀上野城。(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之二 窟女

 

     ○窟女(いはやのをんな)

勢州壱志郡川俣川、劔(つるぎ)が淵に、方一丈余の岩窟あり。寬文のころ、此窟の中に人、あり。川向(〔かは〕むかひ)の家城村より、これを見て、あやしみ、里人、筏(いかだ)を組(くみ)て、その所に至る。三十(みそじ)ばかりの女、髮をみだし、そらざまにして、髮のさきを、上の岩に漆膠(しつこう)を以〔もつて〕付〔つけ〕たるごとくに釣(つる)して、くるしげもなき躰(てい)にて、中(ちう)にあり。里人、抱きおろさんとするに、髮、はなれず。中(ちう)より髮を切(きつ)ておろし、里につれ行〔ゆき〕、水、そゝぎ、藥などあたへければ、正氣となりぬ。しだいを問ふに、前後をしらず。美濃國龍が鼻村の長(おさ)の妻なるよしを云〔いふ〕。此所は津(つ)の領分なれば、政所(やくしよ)に訴ふ。國主より濃州へ通じられける。迎(むかい)の者、大勢、來り、ぐして歸りぬ。

[やぶちゃん注:「勢州壱志郡川俣川」「壱志郡」は一志(いちし/いし)と読み、伊勢国及び旧三重県にあった郡。しかし、「川俣川」という川は不詳。「川俣」という地名はあるが、ここは旧一志郡内ではない。しかし、後の「川向(〔かは〕むかひ)の家城村」が判った。これは「いえきむら」で、現在の三重県津市白山町南家城を中心にした一帯である。(グーグル・マップ・データ)。現在、ここを貫流する川の名は「雲出川」であるが、一つのロケーションの可能性は雲出川が東へ屈曲する辺りか。東から支流が入って俣になっているからである。この川、ストリートビューで見ると、確かに岩盤河床が広がっている。

「一丈余」三メートル超。

「寬文」一六六一年から一六七三年まで。

「そらざまにして」上を向いているのであるが、これは何と、窟の上の方の岩に、髪の毛の先を漆(うるし)か膠(にかわ)で以って付着させたかようにして、そこから髪の毛だけで身体を吊るして、しかも一向に苦しそうな様子もせず、そのままぶら下がって、空中にいる、のである。なお、吉川弘文館随筆大成版は「漆膠」を『漆膝』と翻刻する。――ジーパンの末期風に――「何んじゃあ? こりゃあ!」

「中(ちう)より」髪の途中部分から。

「美濃國龍が鼻村」不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之二 皿屋敷

 

     ○皿屋敷

正保年中、武士の下女、十の皿を一井に落〔おとし〕たる科(とが)によつて、害せられ、其亡魂、夜々(よなよな)、井の端にあらはれ、一より九まで算(かぞへ)、十をいはずして、泣叫(なきさけぶ)と云〔いふ〕事、普(あまね)く世に知る所也。此古井の屋敷は、江戸牛込御門の内にあり。又、雲州松江に件(くだん)の井あり。又、播州にもあり。其趣、皆、同じ事也。いづれか一所は、其〔それ〕、眞(まこと)あるか。三所ともに同じ。皿碎(さらわり)の亡灵〔ばうれい〕、附會の説なり。

[やぶちゃん注:お馴染みのお菊皿屋敷。ヴァリエーションの詳細はウィキの「皿屋敷」を参照されたい。因みに、その出典「42」は私のブログ版「耳囊 卷之五 菊蟲の事」である(私がリンクさせたものではない。私は「ウィキペディア」のライターの一人であるが、「ウィキペディア」では公正性を欠く虞れから、自分の書いたネット記事やページへのリンクは出来ない決まりとなっているのである)

「正保年中」一六四五年から一六四八年まで。徳川家光の治世。

「江戸牛込御門の内」現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「皿屋敷」によれば、『江戸の「皿屋敷」ものとして最も広く知られている』ものは、宝暦八(一七五八)年に講釈士馬場文耕が書いた「皿屋敷弁疑録」を元として形成された怪談芝居「番町皿屋敷」で、『牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた』。承応二(一六五三)年(但し、作中設定)『正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち』一『枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された』が、『その後もなお』、『屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという』。『この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず(『定役加役代々記』による』『)、火付盗賊改の役職が創設されたのは寛文二(一六六二)年と『指摘されている』。『その他の時代錯誤としては、向坂甚内が盗賊として処刑されたのは』、慶長一八(一六一三)年で『あり、了誉上人にいたっては』実に二百五十年も前の応永二七(一四二〇)年に『没した人物である』。また、『千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿であった』とある。また、「番町皿屋敷」より以前に「牛込の皿屋敷」なる怪談群が先行して存在し、これは『皿屋敷伝説の、重要要素である』十『枚の皿のうちの』一『枚を損じて命を落とす部分』が共通するとし、『早い例は』正徳二(一七一二)年の宍戸円喜作の「当世智恵鑑」という『書物に収録され』ており、『要約すると、次のような話である』。『江戸牛込の服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、妾が南京の皿の十枚のうち』、『一枚を取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買』い『換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが』、五『日たっても死なない。ついに手ずから絞め殺して、中間に金を渡し』、『骸を棺に入れて運ばせたが、途中で女は蘇生した。女は隠し持った』二百『両があると明かして命乞いするが』、四『人の男たちはいったん』、『金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し』、『野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち』は『既に呪い殺したこと、どう治療しようと』、『服部の妻は死ぬことを言い伝えた』。『三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている』。『また、「牛込の御門内、むかし物語に云』う、『下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を』言わずに、『泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり』」と享保一七(一七三二)年の『「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる』とある。

「雲州松江に件(くだん)の井あり」ウィキの「皿屋敷」によれば、『正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来』、『消滅した』(元禄二(一六八九)年「本朝故事因縁集」)とある。

「播州にもあり」ウィキの「皿屋敷」によれば、主に「播州皿屋敷実録」に基づくもので、同作は『成立時は明らかではないが』、『江戸後期に書かれた、いわば好事家の「戯作(げさく)」であり』、『脚色部分が多く加わっている』。『姫路城第』九『代城主小寺則職の代』(永正一六(一五一九)年以降。但し、作中設定)、『家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし、鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る』。『乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく』、『弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。以前からお菊に惚れていた弾四郎はこれを好機としてお菊を脅し、妾になれと言い寄るが、お菊に拒まれる。その態度を逆恨みした弾四郎は、お菊が管理を委任されていた』、十『枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿「こもがえの具足皿」のうちの一枚をわざと隠す。そして皿が紛失した責任をお菊に押し付け、ついには責め殺して古井戸に死体を捨てた』。『以来』、『その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという』。『やがて衣笠元信達(則職の家臣)によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後』、三百『年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』。なお、『姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に』は事実、『「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する』。「お菊虫」が出てきたところで、私の 之五 菊蟲の事及びその続編である菊蟲再談の事をリンクさせておく。

「其趣、皆、同じ事也。いづれか一所は、其眞(まこと)あるか。三所ともに同じ。皿碎(さらわり)の亡灵〔ばうれい〕、附會の説なり」「その趣向の核心部分は、これ、孰れも皆、同一の内容である。孰れか一箇所の怪談話には、真実性があるのだろうか? しかし、三ヶ所とも、どれもこれも展開さえも基本、同じではないか! こんなに似通った変な話が、お目出度くも、三箇所で別々に、別な時代に起こるなんてことは、あり得ない! 皿が割れることを主調とするところの亡霊話とは、全くのコジツケ話に過ぎず、信ずるに足りない! と、ここは、沾涼、珍しく、現実的な批判をして、バッサリ、斬って捨てた感がある。何故かは知らぬが、沾涼は「皿屋敷」怪談総体が嫌いだったように見受けられる。]

諸國里人談卷之二 鬼女

 

     ○鬼女

享保のはじめ、三河國保飯(ほいの)郡舞木(まひき)村、新七といふものゝ女房【「いわ」と云〔いふ〕。年、二十五。】、京都より具して來りけるが、常に心、尖(するど)にして、唯、狂人のごとくなるに、夫、これを倦(あき)て、出奔しけり。其跡をしたひ、遠州新井まで追來りけれども、御關所を通る事、あたはず、むなしく歸りしが、有し所に住(すん)で、益(ますます)、瞋恚(しんい)の焰(ほのを[やぶちゃん注:ママ。])、さかんにして、亂心のごとくなり、折節、隣家(りんか)に死せるものあり。田舍の習ひにて、あたり近き我(わが)林の中にして、火葬しける。彼(かの)女、此所に行〔ゆき〕て、半燒(なかばやけ)たる死人(しにん)を引出〔ひきいだ〕し、腹を裂(さき)、臟腑をつかみ出〔いだ〕し、飯子(めしつぎ)やうの器(うつは)に入〔いれ〕て、素麺(さうめん)などを喰(くふ)ごとくに喰ひ居〔を〕る所へ、施主のもの、火のありさまを見に來り、此躰(てい)を見て、大きに驚き、村中、棒・滕木(ちぎりき)にて、これを、追ふ。女、大〔おほき〕に怒(いか)り、「かほど、味(あぢは)ひよきもの、汝等もくらふべし」と、躍り狂ひて、蝶鳥(ちやうとり)のごとく翔翔(かけり)て、行方(ゆきかた)なくなりぬ。その夜、近き所の山寺に入〔いり〕て、例のごとく、持(もち)たる器(うつは)より、肉を出〔いだ〕して、喰(くら)ふ。僧侶、驚き騷ぎ、早鐘(はやがね)にて里へしらせければ、村民、翔(かけ)あつまる。彼女、此躰(てい)を見て、「また、爰(こゝ)もさはがし」とて、後〔うしろ〕の山の、道もなき所を、陸路(ろくち)を行〔ゆく〕ごとく缺登(かけのぼり)て、失(うせ)ぬ。生(いき)ながら、鬼女となりたる事、目代(もくだい)へ訴へければ、件(くだん)を事書(じしよ)にして、村々へ觸られけるなり。

[やぶちゃん注:「享保のはじめ」享保は一七一六年から一七三六年まで。

「三河國保飯(ほいの)郡舞木(まひき)村」「保飯郡」は八世紀の律令制以降は「寶飫(ほお)郡」であったが、これが「寶飯(ほい)郡」と誤記された。しかし「舞木村」は不詳。表記の誤りが疑われるが、事件が猟奇的なだけに、これ以上、探索するのはやめておく。

「遠州新井」現在の静岡県湖西市新居町。浜名湖海開部の西岸。(グーグル・マップ・データ)。同地区内に「新居関跡」がある。(グーグル・マップ・データ)。正式名称は「今切関所(いまぎれせきしょ)」。

「飯子(めしつぎ)」飯櫃(めしびつ)。おはち。

「滕木(ちぎりき)」ウィキの「契木術によれば、『契木(ちぎりき)は、樫などの堅い木の棒に鉄製の石突と鎖分銅がついた武具・捕具で』、『鎖は、単に棒の先端に固定されているものと、棒の中の空洞に収まっていて振り出し式になっている振り杖と呼ばれるものがある。分銅で相手を打ったり、巻きつけて動きを封じるといった使用法がある』。『また、ほぼ胸の高さに達する長さ(ほぼ四尺:』一メートル二十センチ『前後)であることから「乳切木」とも表記される。「諍い果てての棒乳切木」という慣用句が示すように、かつての農村における喧嘩の道具としては』、『棒と並んで一般的なものであった。ただし、日常的には重い物の運搬時に肩にかける棒や』、『物の重さを計測するために使用される民具であり、鎖分銅を取り付けた「乳切木」は武芸に使用するために改造されたものである』。『武器として使用されるに至る歴史には不明な点が多く、特殊な武術といえる。鎖鎌と同じく一流派としては独立することなく、あくまでも総合武術の一部として取り入れられ、長さも使用者によりまちまちであった』とある。

「陸路(ろくち)」ここは平地の意味であろう。

「目代(もくだい)」代官。

「事書(じしよ)」要件を箇条書きにした文書。]

諸國里人談卷之二 河童歌

 

     ○河童歌(かはらうのうた)

肥前國諫早(いさはや)の邊〔あたり〕に、河童(かはらう)、おほくありて、人を、とる。

 ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

此哥を書(かき)て、海河(かいか)に流せば、害をなさず、と也。「ひやうすへ」は兵揃(ひやうすへ)にて、所の名也。此村に天滿宮のやしろあり。よつて、「すがはら」といふなるべし。○又、長崎の近きに澁江文太夫といふ者、河童(かはらう)を避(さく)る符(ふ)を出〔いだ〕。此符を懷中すれば、あへて害をなさず、と云〔いふ〕。或時、長崎の番士、海上に石を投(なげ)て、其遠近(ゑんきん)をあらそひ、賄(うけもの)して遊ぶ事、はやる。一夜(あるよ)、澁江が軒(のき)に來りて曰(いはく)、「此ほど、我(わが)栖(すみか)に、日每〔ひごと〕、石を投〔なげ〕ておどろかす。是(この)事、とゞまらずんば、災(わざはひ)をなすべし」となり。澁江、驚き、これを示す。人、皆、奇なりとす。

[やぶちゃん注:崎の河童とキャプションする本条の挿絵がある(①)。ここは何より、私の根岸耳囊 卷之七 川狩の難を遁るゝ歌の事」の私の注を是非、参照されたい。本条も電子化しているし、類話も掲げてあるからである。

「ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原」一部では菅原道真の作と伝承される。この歌、意味が採れないのであるが、まずはこれは河童封じの呪文・呪歌であるからして、そもそもが意味が採れるような代物では呪力が知れるというもの、といなしておく。と言っても、実は前のリンク先で類型の呪歌を幾つか拾ってあるのでそれを示すと、まず「耳囊」のそれは(写本二種で微妙に異なるので二つ並べる)、

 ひふすべに飼置(かひおき)せしをわするゝな川立(かはだち)おとこうぢはすがわら

 ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら

で、「物類称呼」(俳人越谷吾山編になる方言辞典。安永四(一七七五)年刊)に、九州で川下りをする際に唱えるものとしてものは、

 古(いにしへ)の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

である。佐藤中陵の随筆「中陵漫録」(佐藤中陵は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などをへ経て、弘道館本草教授となった)の「河太郎の歌」(リンク先に本文も電子化してある)、のそれは、

 ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

で完全に本条の歌と一致する。「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であり、リンク先の本文を読んで貰えば判るが、佐藤は恐らく、本書を元にこの歌を記したのだと思われる。さて、この一連の歌の意味であるが、まず、菅原は当然、菅原道真で、大宰府周辺現地での道真には河童伝承が纏わる。彼が治水事業で河童を使役したとか、九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承があり、これらの歌もそれを受けたものであって、「川立ち男」というのは、水中でも陸と同じように立つ男、泳ぎの上手な男の意で、河童も勝てない水練の達人菅原道真(とその子孫)の謂いである。則ち、これらの歌は「ひょうすべ(河童)たちよ! 古えの誓いを忘れてはおるまいな?! 水練の手練れ男は、誰もが、菅原道真の子孫なのだ! 私もだ! 恐れ入れ!」といった意味合いを含ませた呪歌・呪文なのである(詳しくはリンク先の私の注(引用)を読まれたい)。

『「ひやうすへ」は兵揃(ひやうすへ)にて、所の名也。此村に天滿宮のやしろあり』柳田國男は「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「ヒヨウスヘ」で「笈埃(きゅうあい)随筆」(江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四年)の紀行随筆)から引いて(巻之一の「水虎」)、『肥前諫早(イサハヤ)在ノ兵揃(ヒヤフスヘ)村天滿宮ノ神官渋江久太夫ノ家ノ歷史トシテ此話』(本条に書かれた内容)『ヲ傳ヘタリ』と記しながら、その直後に、『自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵揃(ヒヤウスヘ)ト云フ村ノ名無シ。恐ラクハ亦傳聞ノ誤ナラン』とし、『大宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスベ」ノ宮アリ』として例の歌二種を掲げた上、『之ヲ以テ見レバ、「ヒヤウスヘ」本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル』と述べているのである(太字やぶちゃん)。或いは、ここでの沾涼の謂いが、或いは、この誤伝の元凶であったものかも知れぬ

「賄(うけもの)」ここは金を出し合って、それをかけ物とすることか。

『澁江が軒(のき)に來りて曰(いはく)、「此ほど、我(わが)栖(すみか)に、日每〔ひごと〕、石を投〔なげ〕ておどろかす。是(この)事、とゞまらずんば、災(わざはひ)をなすべし」となり。澁江、驚き、これを示す。人、皆、奇なりとす』これ、よく考えてみると、おかしい。河童は呪符を発行(販売)する超苦手な渋江のところ行くまでもなく、投石遊びをする連中の所に出て、脅した方が、遙かにまどろっこしくなく、効果的であろうと思われる。寧ろ、これによって大衆が渋江に対して、彼の河童に対する霊験的抗力を再度、知らしめることとなり、またまた呪符が飛ぶように売れたに相違なく、私はこれは、真正の怪異譚ではなく、そうした見え透いた渋江の一芝居の擬似怪談のように思われるのである。]

諸國里人談卷之二 雇天狗

 

   ○雇天狗(てんぐにやとはる)

正德のころ、江戸神田鍋町、小間物商(あきな)ふ家の、十四、五歳の調市(でつち)、正月十五日の暮かた、錢湯へ行〔ゆく〕とて、手拭など持〔もち〕、出〔いで〕けり。少時(しばらく)して、裏口に彳(たゝず)む人、あり。

「誰(たれ)ならん。」

ととがむれば、かの調市也。股引(もゝひき)・草鞋(わらじ)の旅すがたにて、藁苞(わらづと)を杖にかけて、内に入〔いり〕けり。主人、了(さと)き男にて、おどろく躰(てい)なく、

「まづ、わらんじを解(とき)、足をすゝぐべし。」

といへば、かしこまりて足をあらひ、臺所の棚より、盆を出〔いだ〕し、苞(つと)をほぐせば、野老(ところ)なり。これを積(つみ)て、

「土産なり。」

とて出〔いだ〕しぬ。主人の云〔いはく〕、

「今朝(けさ)は、いづかたよりか、來れる。」

「秩父の山中(さんちう)を、今朝(けさ)出〔いで〕たり。永々(ながなが)の留主(るす)、御事かけにぞ侍らん。」

といへり。

「いつ、家を出〔いで〕たる。」

と問ふに、

「舊臘(ふゆとし)十三日、煤(すゝ)をとりての夜、かの山に行〔ゆき〕て、きのふまで、其所に、あり。每日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物(ちんぶつ)を給はる。客は、みな、御出家にて侍る。きのふ、仰(あふせ)つるは、

「明日は江戸へかへすべし。家づとに野老(ところ)をほるべし。」

とあるによつて、これを掘(ほり)ける。」

など、語りぬ。その家には、此もの、師走、出〔いで〕たる事を、曾て、しらず。其代(そのかはり)として、いかなるものか、化(け)してありけると、後にこそは、しりぬ。其後〔そののち〕、何の事もなく、それきりにぞ、すみける。

[やぶちゃん注:会話が多いので特異的に改行した。本話は既に柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(1)の私の注で電子化してある。リンク先は天狗の神隠し風の話をよく集めてあり、それを読み易く現代語訳してもあるので、未読の方は同「(2)」と合わせてお薦めである。

「正德」一七一一年から一七一六年まで。

「神田鍋町」現在の東京都千代田区神田鍛冶町三丁目。この附近(グーグル・マップ・デ「調市(でつち)」「丁稚」(でっち)。 「でっち」の語源は諸説あり、弟子が変化した「でっし」の転じたとする説や、若者や身分の低いことを意味する漢語「丁稚(ていち)」の転訛とする説、他に「小者」であることから、双六で二つの骰子(さい)の目がともに一になる意味の「重一・調一・畳一」(総て「でっち」と読む)の転訛とする説等がある。従がって漢字表記は当て字と考えた方が無難で、他にここに出る「調市」の他、「丁兒」「童奴」等がある。

「藁苞(わらづと)」藁を編んで物を包むようにしたもの。そこから転じて「土産物」の意ともなった。

「野老(ところ)」ここは広義の山芋のこと。

「御事かけにぞ侍らん」ご迷惑をお掛け致しました。

「舊臘(ふゆとし)」音で「きうらふ(きゅうろう)」で「臘」「臘月」で陰暦十二月の意であるから、新年になってから、「昨年の十二月」の意で用いる語である。

「十三日、煤(すゝ)をとりての夜」年末、正月に備えて、家の内外を大掃除する「煤払い」のこと。江戸時代には十二月十三日に行うのが恒例であった。

「家づと」「家苞」。土産。]

諸國里人談卷之二 髮切

 

     ○髮切(かみきり)

元祿のはじめ、夜中に、徃來(ゆきし)の人の、髮切る事、あり。男女共に、結(ゆひ)たるまゝにて、元結際(もとゆひぎは)より切〔きり〕て、結たる形にて、土に落(おち)てありける。切られたる人、曽て覺へ[やぶちゃん注:ママ。]なく、いつきられたるといふをしらず。此事、國々にありける中に、伊勢の松坂に多し。江戸にても切られたる人あり。予がしれるは、紺屋町(こんやちやう)金物屋の下女、夜(よる)、物買(ものかひ)に行きけるが、髮を切られたる事、いさゝかしらず、宿(やど)に皈(かへ)る。人々、髮のなきよしをいふにおどろき、氣をうしなひたり。その道を求(もとむ)るに、人のいふに違(たが)はず、結たるまゝにて、落てありける。其時分の事也。

[やぶちゃん注:「元祿のはじめ」元禄は一六八八年から一七〇四年まで。

「紺屋町」神田紺屋町であろう。(グーグル・マップ・データ)。現在、南北に分離してあるが、これはウィキの「紺屋町によれば、『それまで神田北乗物町の南部のみであった神田紺屋町の住民に対し』、享保四(一七一九)年(本書刊行より前であるが、ここは元禄初めとあるから、話柄内時制では分離していなかった南部方向周辺のみの紺屋町である)に『町の防火のために江戸幕府の命令で一部分の住民が神田北乗物町の北部に移されたことに由来する』とある。

「宿(やど)」奉公している主家たる金物屋。

「その道を求(もとむ)るに」その帰ってきた道筋を辿って探し求めてみたところが。

「其時分」冒頭に述べた元禄初め。]

諸國里人談卷之二 森囃

 

     ○森囃(もりのはやし)

享保のはじめ、武州相州の界(さかひ)、信濃坂に、夜每に囃物(はやしもの)の音(おと)あり。笛・皷(つゞみ)など、四、五人聲〔ごゑ〕にして、中に老人の聲、一人ありける。近在、又は、江戸などより、これを聞(きゝ)に行く人、多し。方十町に響(ひゞき)て、はじめは、その所、しれざりしが、しだいに近くきゝつけ、其村の産土神(うぶすな)の森の中なり。折として篝(かゞり)を焚(たく)事あり。翌日(あけのひ)見れば、靑松葉の枝、燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])さして、境内に、あり。或はまた、靑竹の大きなるが、長一尺あまり、節をこめて切〔きり〕たるが、森の中に捨(すて)ありける。「これは、かの皷(つゞみ)にてあるべし」と、里人のいひあへり。たゞ囃の音のみにして、何の禍(わざは)ひもなし。月を經て、止まず。夏のころより、秋・冬かけて、此事、あり。しだいしだいに間遠に成〔なり〕、三日、五日の間、それより、七日、十日の間を隔(へだて)たり。はじめのほどは、聞〔きく〕人も多くありて、何の心もなかりけるが、後々は、自然とおそろしくなりて、翌年(あくるとし)、春のころ、囃のある夜は、里人も門戸(もんこ)を閉(とぢ)て、戸出(とで)をせず、物音も高くせざりしなり。春のすゑかた、いつとなく、止みけり。

[やぶちゃん注:後に「天狗の囃」とキャプションする図が掲げられているが(①)、これはどう見ても本話の挿絵である。ということは文中には全く出ないけれども、この囃子の原因を沾涼は天狗の仕業と考えていたことになる。本話は既に、私の『柴田宵曲 妖異博物館 「狸囃子」』の注で電子化してある(リンク先には宵曲の現代語訳が載る)。宵曲はこれを怪異「狸囃子」の最古形と位置付けている(『この囃しの正體は無論わからない。場所は産土神の境内とわかり、時に火を焚くとか、遺留品があるとかいふ事實がありながら、何者の所爲か突き止められぬところを見れば、やはり人間の囃しではないのであらう。時代はこれが一番古い』)が、しかし、私は寧ろ、そこで前に彼が紹介している、鈴木桃野(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年:幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子として生まれ、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授に就任している。射術を好む一方、随筆・絵にも優れた)の「反古(ほご)のうらがき」(桃野が嘉永三(一八五〇)年頃までに完成させた怪奇談集。本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、百七年後ではある)の中の、ある人物が、この所謂、「本所七不思議」の一つとしての「狸囃子」の『正體を突き止めたいと思つて、市谷御門内より三番町通り、麹町飯田町上あたりまで、一晩中尋ね步いたけれども、遂にわからず、夜明け近くなると共に止んでしまつた。果して化物の所爲であると恐れをなしたが、その後桃野が人の話に聞いたのは、番町ほど囃子の好きな人の多い場所は稀である、今日は誰の土藏、明日は誰の穴藏といふ風に、殆ど每晩やつてゐるといふことであつた。世にいふ化物太鼓は卽ちこれで、あたりの聞えを憚つて、土藏や穴藏で囃すから、近くへ行けば却つて聞えず、風につれて遠方に聞えるのであらう、と桃野は解釋してゐる』という部分に逢着する、現実的人間である。原文を示す(一部に私が推定で歴史的仮名遣で読みを振った)。

   *

   ○化物太鼓の事

 「番町の化物太鼓」といふことありて、予があたりにて、よく聞ゆることなり。これは、人々、聞(きき)なれて、別に怪しきことともせぬことなり。霞舟翁がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜、其聲の聞ゆる方をこゝろざして尋行(たづねゆき)けるに、人のいふに違(たが)はず、こゝかとおもへば、かしこ也、又、其方に行てきくに、又、こなた也、市ケ谷御門内より、三番町通り、麹町、飯田町上あたり、一夜の内、尋ありきしが、さだかに聞留(ききとむ)る事なくて、夜明(よあけ)近くなりて、おのづからやみぬ。果して化物の所爲なりとて、人々にかたりておそれあへり。予が中年の頃、番町の武術の師がり行て、其あたりの人々が語りあふをきくに、「凡(およそ)太鼓・笛の道は、馬場下に越(こえ)たる所なし、稻荷の祭り・鎭守の祭りとうにて、はやしものする人をめして、すり鉦・太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは稀なり。まして他處(よそ)の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと打いでゝ、其所々々の風あり、馬場下の人はそれにことなり、其一とむれはいふに及ばず、他處の人なれば、其所々々の風に合(あは)せて打(うつ)こと、一手も、たがひなし、吾輩かく迄はやしものに心を入(いれ)て學ぶといへども、かゝる態(わざ)は得がたし」といゝけり。予、これをきゝて、「扨は。おのおの方には、はやしものを好み玉ふにや、されども、稻荷の祭りの頃などこそ打玉ふらめ、其間には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことのかたきなるべし」といゝければ、「いや、さにあらず、吾輩がはやしは每夜なり。凡(およそ)番町程、はやしを好む人多きところも稀なり、けふは誰氏の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時はすくなし」といへり。予、これにて思ひ合するに、「かの化物太鼓はまさにこれなり、たゞし、あたりのきこへを憚るによりて、土藏、穴藏に入りて深くとぢこめてはやすなれば、其あたりにては、かへりて聞ヘずして、風につれて遠き方にて、きこゆるにきわまれり。さればこそ、其はやしの樣(さま)、拍子よく面白くはやすなりけり。これを『化物太鼓』といふも、むべなる哉」とて笑ひあへり。先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり、これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みなケ樣のことのあやまりなりけり。

   *

最後の「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」とあるのは、「卷之二」の「物のうめく聲」で、鈴木桃野自身の実体験談。高田馬場で二百メートル以上離れた民家の病人の呻き声がすぐ間近に聴こえたという疑似奇談を指す。

 されば、本「諸國里人談」のこれも、最後の伝承者である古老が、祭りの笛・皷の特殊な奏法、或いは、特殊な神楽の演奏仕儀などを、それが絶えるのを惜しく思い(しかしこの手の妙法は本来は秘伝であり、演奏者から盗み取るものとされるなどということはよく聴くことである)、秘かに選んだ若者たちにつけてやっているのではないか? それが、憚るが故に、高窓しかない土蔵の奥であったり、深夜の鎮守の森であったのであろう。位置が定まらなかったり、ごく近くに聴こえるのに姿が見えないのは、発生した逆転層による現象で説明がつく(事実、後の「狸囃子」については、科学的にはそれで説明されることがすこぶる多い)。何より、篝火の炎(篝火の跡が翌日ないのなら怪異だが(但し、これも同じく逆転層で説明可能である)、事実あるのだから、そこに昨夜、化け物ではない「人」がいたと考えるのが普通である)や人工的な竹の「皷(つづみ)」が慰留品として出るのは、説明不能な怪異であるよりも(「何の禍(わざは)ひもなし」というのも何だかなだし、続かずに「春のすゑかた、いつとなく、止みけり」というエンディングも怪異として如何にもショボい)、そうした裏話が透けて見える証左であると私は採る。なお、桃山人(戯作者桃花園三千麿か)作・竹原春泉画になる幕末の妖怪画集「絵本百物語」(天保一二(一八四一)年)には「野宿火(のじゅくび)」と称する怪火が挙げられており、ウィキの「野宿火によれば、『本文の記述によれば、田舎道、街道、山中などで、誰かが火を焚いたかのように現れる細い火であり、特に人が集まって去った後や遊山に行った人が去った後に現れ、消えたかと思うと燃え上がり、燃えたかと思えば消え、これを繰り返すとある』。『「雨の後(のち)などに然立(もえたち)たるを木(こ)の間(ま)がくれにみれば、人のつどひてものいふさまなどにことならず』『」とあることから、雨降りの後などに木々の間から野宿火をそっと覗くと、その周囲から人の話し声が聞こえたとする説もある』。『鬼火の一種であり、火と言っても熱は発さず、周囲の木を燃やしたりすることはないとする解釈もある』としつつ、何と、「諸國里人談」の書名を挙げ、『「森囃」(もりばやし)と題して以下のような話が述べられて』いるとつつも、実はこの「絵本百物語」の『「野宿火」は、この「森囃」を描いたものと考えられている』とあるのである(下線太字やぶちゃん)。まさにお里が知れて、何だい! という感じである。

「享保のはじめ」享保は一七一六年から一七三六年まで。

「武州相州の界(さかひ)、信濃坂」FUKUSHI Kojiサイト「FUKUSHI Plazaページによれば、これは「品野坂」の別名で、『戸塚方面への下り坂で、松並木が見事であった』。『信濃坂、科野坂とも表す』とされ、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の有名な一枚、東海道程ヶ谷」は『品濃坂を視点に描かれたものと推定されている。樹間に枠取られた富士山に、馬子の視線が注がれている』とあり、現在、坂の『一部は失われ』、『階段や歩道橋になっている』とある。附近(グーグル・マップ・データ)。

「方十町」一キロ九十一メートル四方。

「節をこめて切〔きり〕たる」節と節の間で節を残して切り取ったもの。中が空洞になり、鼓のようにはなる。

「自然と」「おのづと」と読みたい。]

2018/06/16

私のブログがたかだか一ヶ月で一万アクセスを越える理由

 
恐らく、心ある私の知り合いたちは、私のこんな下らぬブログが、一ヶ月余りで一万人訪れることに、内心、疑問を覚えている諸君も多いと思う。
 
いや、私自身でさえ、これは意想外である。
 
しかし、猜疑するあなたのために言っておくと、私は私自身の過去記事を確認するため、私の過去記事を頻繁に見るが、残念ながら、私は私自身のアクセス、統計から除外する仕儀を行っており、それはカウントされていないのだ。
 
而して、簡単に言えば、この有意なアクセスは――私の記事が色気が多く、博物学的に多岐に亙っていることと、それ以上に、教科書や大学の諸先生方が扱う作品と関わっていることに強く由来している、と私は思っている。
 
それは、例えば、今月半月の私のブログ記事のアクセス・ランキングを見ても、一目瞭然なのだ。

1位は「Blog鬼火~日々の迷走」で763アクセスであるが、これは上記の通り、多様なワードやフレーズ検索の結果である。そもそもが、私が不明な語を検索すると、呆れたことに、私のブログがそこに上がってくるのだから、これは、まんず、ご愛嬌というべきだろう。しかし、以下、
 
2位 「柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫」  199アクセス
 
3位 『梶井基次郎「檸檬」授業ノート』  193アクセス
 
4位 「芥川龍之介の出生の秘密」 119アクセス(芥川龍之介フリークには要チェックだろうからね)
 
5位 カテゴリ「怪奇談集」 93アクセス (これは概ね奇特でフリーキーな読者であろうと思われ、嬉しい)
 
6位 カテゴリ「夢野久作」 75アクセス(同前。感謝)
 
7位 カテゴリ「梅崎春生」 73アクセス(同前。感謝)
 
8位 『「今昔物語集」卷第三十一 本朝付雜事 太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一』 52アクセス
 
9位 『「枕中記」原文+訓読文+語注』 46アクセス
 
10位 カテゴリ「北條九代記」 44アクセス(これも、まず、好事家で感謝)
 
11位 カテゴリ「中島敦」 42アクセス
 
12位 『黃粱夢 芥川龍之介 附 やぶちゃん注 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈』 42アクセス
 
13位 『大手拓次詩集「藍色の蟇」【完】』 36アクセス(これも、まず、好事家で感謝)
 
14位 カテゴリ「北原白秋」 35アクセス(同前)
 
15位 『「こゝろ」初版本表紙の謎』 32アクセス
 
16位 カテゴリ「芥川龍之介」 27アクセス(4位と同じ。彼はファンが多いからね)
 
二つ飛ばして、
 
19位 『芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定』 27アクセス(同前)
20位 「殴られ土下座をした白洲次郎」 26アクセス(これは恐らく、私ブログ・アクセス・ランキングの三本槍の一つで、過去、トンデモなく閲覧数が多い)
 
という状況だ。さても、この内、2・3・8・9・11・12・15のそれらは、孰れも、高等学校や大学の授業で使用される教材であることに気づかれるであろう。
 
そうなんだよ、ね。
 
ここに来る連中の半数近くは実は、悪意を以って推理するなら、或いは、授業中の先生のノートを疎かにし乍ら、試験やその他で不安になって、ちょいと、覗きに来た連中が大半なんだな、と私は思うのである。
 
そんな連中のために、私はブログを書いているのではないから、そいつらを、私は、大いに軽蔑しているとは言えるのだが、しかし、私の記事を読んで、たった一人でも全く違った地平を見出せる者がいたかも知れぬ、と思ったりもする。されば、その人には私は「恩幸、これに過ぎたるはない」と言おうと思うのである――李徴のように――だ…………

諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會

 

 ㊃妖異(よういの)部

    ○成大會(たいゑをなす)

永承の頃、西塔(さいとう)の僧、京に出て、歸るに、東北院の北の大路にて、童部(わらんべ)ども、あつまり、古鳶(ふるとび)を縛りからめて、杖にて打〔うつ〕などしけり。此僧、慈悲を起して、扇などを童どもにやりて、鳶を乞(こひ)て、放しやりけり。その行先の藪の中より、異(こと)なる法師、出〔いで〕て、いふ。

「先ほどは、御憐(あはれみ)を以て、からき命をたすかり侍る。その禮を謝せん。」

となり。

僧、おもひよらず、

「さる事は侍らず。人や違ひ侍らん。」

「さこそはおほすらん、東北院の大路にて、うき事見たる古鳶なり。吾、神通(じんづう)を得たれば、此よろこびに、何事なりとも、御望みに任(まか)すべし。」

となり。

さては、たゞの鳶にてはあらざるをさとり、

「我、出家の事なれば、世に望む事なし。しかし、釈迦如來、靈山(りやうせん)にて説法し給ひし粧(よそほ)ひを見せ給へ。」

と云〔いふ〕に、

「いとやすき事なり。」

とて、下松(さがりまつ)のうへの山に具して登り、

「茲(こゝ)に目を閉(とぢ)て居給ひ、説法の御聲(みこへ[やぶちゃん注:ママ。])、きこえん時、ひらき給へ。かならずしも、『貴(たつと)し』と思ひ給ふまじ。信を起し玉はゞ、己(わ)がために、惡(あし)し。」

と云〔いひ〕て、去りぬ。

しばらくありて、御法(みのり)の聲、聞えければ、目をひらくに、山は、則(すなはち)、靈山となり、地は金瑠璃(こんるり)、草木は七重寶樹(しちぢうはふじゆ)となりて、釈尊、獅子の坐(ざ)にましまし、文殊・普賢、左右に座し、菩薩・聖衆(しやうじゆ)は雲霞のごとく、空より、四種(じゆ)の花ふり、芬芳(かんばしき)風、吹(ふい)て、天人、雲に列(つらなつ)て、微妙(みめう)の音樂を奏し、如來、甚深(たんしん)の法門を演説し給ふありさま、信、肝(きも)にめいじ、隨喜の淚をうかめ、渴仰(かつがう)の思ひ、骨に徹(とをり[やぶちゃん注:ママ。])、おもはず、掌(たなごゝろ)をあはせ、歸命頂禮(きめうてうらい)するほどに、山、鳴動して、ありつる大會(たいゑ)、かき消すごとくに失(うせ)て、たゞふかき山中也。

あるべきにあらねば、山に皈(かへ)るに、水飮(みづのみ)の程に、ありつる法師、來り、

「さばかり、『信を發(おこ)し給ふな』と契(ちぎ)りしに、その約、たがへ給ふにより、護法天童(ごほうてんどう)くだり給ひ、『斯(か)ばかりの信者を誑(たぶら)かすぞ』とて、われらを禁(いま)しめ給ふより、伴ふ小法師原(ばら)も迯(にげ)さりぬ。我もからきめにあひて、術(じゆつ)なし。」

といひて、去りぬ。【「本朝語園」。】

[やぶちゃん注:特異的に改行を施した。

「大會」一般には規模の大きい法会(ほうえ)を指すが、ここは特別に如来となった釈迦自身の説法を指している。

「永承」一〇四六年から一〇五二年まで。後冷泉天皇の御世。

「西塔(さいとう)」比叡山延暦寺の西塔地区のこと。転法輪堂(釈迦堂とも呼ぶ)を中心とした比叡山の主要な三地区の一つ(他は南直近の東塔と北方の横川(よかわ))。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「東北院の北の大路」「東北院」は現在、京都市左京区浄土寺真如町にある、時宗の雲水山東北院であるが、この当時は現在の京都市上京区荒神口通寺町東入の北側(現在の京都御所の東(大内裏直近外側の鴨川右岸縁)にあった天台宗法成寺(ほうじょうじ:平安中期に藤原道長によって創建された摂関期最大級の寺院であったが、鎌倉時代に荒廃し、現存しない)に付属する天台宗寺院であった。なお、この東北院は道長の娘で一条天皇中宮であった、かの上東門院彰子所縁の寺である。従って、この「北の大路」とは大内裏北端の一条大路から一本北へ下がった大路である土御門大路と考えられる。

「古鳶(ふるとび)」年老いたトビ。タカ目タカ科トビ属トビ Milvus migrans

「異(こと)なる法師」甚だ異様な感じのする僧。後の原話で判るが、これは実は妖魔の天狗である。従がってここでの装束は高い確率で山伏姿と考えてよい。

「靈山(りやうせん)」「りやうぜん(りょうぜん)」とも読む。霊鷲山(りょうじゅせん)の略称。インドのビハール州のほぼ中央にあり、釈迦がここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる。「鷲峰山(しゅうぶせん)」とも別称し、本邦に見られる同名・類似の山名はこれに擬えたものが多い。

「粧(よそほ)ひ」情景。

「下松(さがりまつ)のうへの山」これは「一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)」のことであろう。現在、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある(ここ(グーグル・マップ・データ))。平安の昔から、近江から京に通じる交通の要衝。「一乗寺」は平安中期から南北朝頃までこの地にあった一乗寺に因む。ここから東直近から東北の先の比叡山に向かっては、多数の「一乗寺」を冠した稜線や谷が多数連続する。

「己(わ)がため」後に見るように、この異形僧自身のため。

「御法(みのり)」説法の尊称。ここはまさに釈迦本人の声(と聴こえるだけだが)であるから、僧にとっては殊更に格別である。

「金瑠璃(こんるり)」色ではなく、仏教の七宝の一つ金緑石のこと。実在するラピスラズリ(lapis lazuli)とする説もある。

「七重寶樹(しちぢうはふじゆ)」歴史的仮名遣は正しくは「しちぢゆうほうじゆ」。極楽浄土にあるとされる金樹・銀樹・瑠璃樹・玻璃樹・珊瑚樹・瑪瑙樹・硨磲(しゃこ)樹が、七重にも並らび生えた宝樹林、又は、黄金の根・紫金(しこん)の茎・白銀の枝・瑪瑙の条・珊瑚の葉・白玉の花・真珠の果実から成った宝の木とも言われる。

「獅子の坐(ざ)」場の上座のこと。

「菩薩・聖衆(しやうじゆ)」諸菩薩及び声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)或いは比丘などの多くの修行者や聖者の集団を指す。

「四種(じゆ)の花」「四華・四花(しけ)」で、仏の説法などの際に、瑞兆 として天から降るとされる四種類の蓮 の花。白蓮華・大白蓮華・紅蓮華・大紅蓮華とされる。

「芬芳(かんばしき)」二字へのルビ。

「微妙(みめう)」すこぶる趣深く、非常に繊細であること。

「甚深(たんしん)」古くは「じんじん」とも読んだ。非常に奥が深いこと。意味や境地などが深遠であること。

「信、肝にめいじ」自身の「信」仰の正しさを確かにしっかりと受けとめ、それを「肝に銘じ」たのである。

「歸命頂禮(きめうてうらい)」頭を地につけて仏を礼拝し、帰依の気持ちを表わすこと。

「山」比叡山。

「皈(かへ)るに、水飮(みづのみ)の程に」舌っ足らずである。「皈(かへ)る」さ「に、水、飮」まんと休まんとせし「程に」、突如、である。

「ありつる法師」「ありつる」は連語(ラ変動詞「あり」連用形+完了の助動詞「つ」の連体形)で比較的近い過去にあったことを示す。さきほどの法師。

「さばかり」副詞。「それほど・その程度に」「たいそう・非常に」。ここは「あれほど」の意。

「護法天童(ごほうてんどう)」護法善神。仏法に帰依して三宝を守護する、主に天部の神々。のこと。しばしば童子姿で語られたり、造型されたりすることから、護法童子・護法天童などの呼び名で名指すことが多い。

「原(ばら)」複数を表わす接尾語。天狗の眷属。

「術(じゆつ)なし」どうしようもなく、困り果てている。

「本朝語園」筆者不詳の全十巻からなる随筆。宝永三(一七〇六)年板行。但し、ここに出る話は、鎌倉中期に成立した教訓説話集「十訓抄」の「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条である。実は私は既に柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)の注で原典を電子化している(リンク先には宵曲の現代語訳が載る)が、煩を厭わず、以下、三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したものを示す。

   *

 後冷泉院御位(みくらゐ)の時、天狗あれて、世の中さはがしかりけるころ、比叡山の西塔にすみける僧、あからさまに京に出でて歸りけるに、東北院の北大路に、わらはべ五六人あつまりて、古鳶(ふるとび)のよにおそろしげなるを、しばりからめて、棒もて打さいなみけり。

「あらいとほし。などかくはするぞ。」

といへば、

「殺して、羽とらむ。」

と云ふ。この僧、慈悲をおこして、扇をとらせてこれをこひうけて、ときゆるしやりつ。

「ゆゆしき功德造行(くどくざふぎやう)。」

と思ひて行くほどに、切堤(きれつつみ)のほどに、いやうなる法師のあゆみいでて、おくれじと步みよりければ、けしきおぼえて、片方(かたへ)へたちよりて、過ぐさむとしけるとき、かの法師、ちかくよりていふやうは、

「御あはれみ蒙(かうぶ)りて、命生きてはべれば、その悦び、きこえむとてなん。」

など云ふ。たちかへりて、

「えこそおぼえね。誰人(たれひと)にか。」

ととひければ、

「さぞおぼすらむ。東北院の北の大路にて、辛き目みて侍りつる老法師(らうはうし)に侍り。生きたるものは、いのちに過ぎたるものなし。とばかりの御心ざし、いかでか報じ申さざらん。しかれば、なにごとにても、懇ろなる御ねがひあらば、一事(ひとこと)叶へ奉らむ。小神通(せふじんつふ)をえたれば、なにかはかなへざらん。」

と云ふ。

「あさましく、めづらかなるわざかな。」

とむづかしくおもひながら、

「こまやかにいへば、やうこそあらめ。」

と思ひて、

「われはこの世の望み、さらになし。年七拾になれりたれば、名聞利養(めうもんりよふ)もあぢきなし。後世(のちのよ)こそおそろしけれど、それはいかでかかなへ給ふべき。されば申すにをよばず。但し、『釋迦如來の、靈山にて法をときたまひけむこそ、いかにめでたかりけめ』とおもひやられて、朝夕(あさゆふ)心にかけて見まほしくおぼゆれ。其ありさま、まなびて見せたまひてんや。」

といふ。此法師、

「いとやすき事也。さやうのものまねするを、おのれが德とせり。」

といひて、さがり松の上の山へぐしてのぼりぬ。

「ここにて目をふさぎてゐ給へ。佛の説法し給ひてん聲のきこえんとき、目をば見あけ給へ。但し、あなかしこ、貴(たふと)しとおぼすな。信(しん)だにも起こしたまはば、をのれがためあしかりなむ。」

といひて、山の峯のかたへのぼりぬ。とばかりして、法(のり)の御こゑきこゆれば、目を見あけたるに、地、紺瑠璃となりて、木は七重寶樹となりて、釋迦如來、獅子の座上(さしやう)におはします。普賢・文殊、左右に座したまへり。菩薩・聖衆、雲霞のごとく、帝釋・四王・龍神八部、掌(たなごころ)を合せて圍繞(いにやう)せり。迦葉・阿難等の大比丘衆一面に座せり。十六大國の王、玉冠を地に付けて恭教(けうけい)し給へり。空より四種(ししゆ)の花降りて、かうばしき香四方にみちて、天人、空につらなりて、微妙(びめう)の音樂を奏す。如來、寶花(ほうげ)に座して、甚深(じんじん)の法門を宣りたまふ。そのこと、大かた、こころもことばも及びがたし。しばしこそ、

「いみじくまねび似せたるかな。」

と、興(けふ)ありて思ひけれ。さまざまの瑞相(ずいさう)を見るに、在世の説法の砌(みぎり)にのぞみたるがごとく、信心、忽ちに起こりて、隨喜のなみだに浮かび、渇仰(かつがう)の思ひ、骨にとをるあひだ、手を合せて心をひとつにして、

「南無歸命頂禮大恩教主釋迦如來。」

と唱へて恭教禮拜(らいはい)するほどに、山、おひただしくからめきさはぎて、ありつる大會(たいくわい)、かき消(け)つやうに失せぬ。夢のさめたるがごとし。

「こはいかにしつるぞ。」

と、あきれまどひて見まはせば、もとありつる山中の草深(くさふか)なり。あさましながら、さてあるべきならねば、山へのぼるに、水のみのほどにて、この法師、出で來て、

「さばかりちぎりたてまつりしことをたがへたまひて、いかで信をばおこし給へるにか。信力(しんりき)によりて、護法天童(ごはふてんどう)下り給ひて、『かばかりの信者をば、みだりにたぶろかす』とて、われら、さいなみ給へる間、雇ひ集めたりつる法師ばらも、からき肝つぶして逃げ去りぬ。をのれ、片羽(かたはね)がひ、打たれて、術(じゆつ)なし。」

といひて、失せにけり。

   *]

諸國里人談卷之二 御福石

 

     ○御福石(ごふくいし)

上州榛名山(はるなさん)に「御福石」と云あり。竪橫(たてよこ)凡(およそ)七尺ばかりの大石なり。これを、手を以てゆすれば、動く事、奇也。○「神足(しんそく)石」 一尺四、五寸に、六、七寸あり。足の跡、一足半、あざやかに付たり。これ、權現の御(み)足の跡なりと云。○「大神(おほかみ)石」 三間ばかりの石也。「疣水(いぼすい)」。石の窪(くぼみ)の水也。疣を洗へば、愈(いゆ)る事、神變なり。

[やぶちゃん注:この条、書き方が杜撰。どうも後の「神足石」と「大神石」は「榛名山」ではない模様である。

「榛名山」の「御福石」は不詳。ネット検索でも現在記録記事になく、現存する感じがしない。識者の御教授を乞う。福石は各地にある。今、私の近くなら、江ノ島にある。私の新編鎌倉志卷之六の「江島」の「福石」を見られたい。

「七尺」二メートル十二センチ。

「神足(しんそく)石」サイズが記されてある以上、具体などこかのそれであることは確かだが、しかし何の「權現」(仏が衆生を救うために神や人(巨人でも構わぬ)など、仮の姿を以ってこの世に現れたもの。「権化」も基本的には同義)なのかも判らぬ。人工物か自然物かも不明。この一足分の完全な足跡と(全長が「一尺四、五寸」(四十三~四十五センチ)とドデカい)、一足の半分の跡(それが「六、七寸」(十八~二十一センチ)なのであろう)があるそれを、具体的に御存じの方、是非、御教授あられたい。神足石も各地にある。

「大神(おほかみ)石」hamadas-2ブログ巨石・東北以外の巨石に、長野県諏訪市湯の脇にある児玉神社神社境内にある「諏訪の七石」の一つの数えられている五個の大石があり、その中の『拝殿前にある二つの大石は「いぼ石」と呼ばれ』、『神社のシンボルとなっている。大石は祭神の御霊代』であるとされ、『大石の凹にたたえられている水で「いぼ」を洗うと』、『治癒すると言い伝えられている』とある。写真を見るに、「三間」(五メートル四十五センチほど)というサイズとも一致する感じはする。]

諸國里人談卷之二 鸚鵡石

 

     ○鸚鵡石(あふむせき)

伊勢國度會(わたらへ[やぶちゃん注:ママ。])郡山田より西南五里がほど、一の瀨の鄕中村の里に【宮川ノ水上也。】「鸚鵡石」と云あり。石面(せきめん)、平(たひら)にして石塀(せきへい)のごとし。高さ九間、北面(おもて)にて、南は山に埋(うづ)めり。東西の長〔ながさ〕二十四間、西は高く、東は低し。此石の傍(かたはら)にして、琴(きん)・簫(しやう)・鐘皷(しやうこ)、或(あるは)、謠(うたひ)・小唄等、一時(いちじ)に發するに、前後をわかたず、石に響(ひゞき)て、その聲、少しも混(こんぜ)ず、音律(をんりつ)・絃管(げんくはん)、あきらかにうつる事、却(かへつ)て、こなたの聲よりも至つて鮮(あざやか)なり。唯、石中(せきちう)に神人(しんじん)あつて然(しか)るがごとし。日本無雙の奇石也。むかしは「物言(ものいひ)岩」といひしが、好事の者、これを名付て、今、「鸚鵡石」と云〔いへ〕。その謠所(うたひ〔どころ〕)の場は、西の方、石より三十間也。聞(きく)所は、石より十間斗〔ばかり〕脇也。

[やぶちゃん注:「一の瀨の鄕中村の里」現在の三重県度会郡度会町南中村(グーグル・マップ・データ)で、この石、現存する。サイト「伊勢志摩きらり千選」の『南中村「鸚鵡(おおむ)石」(度会町南中村)』によればここ(同ページの地図。グーグル・マップ・データでは「腰掛岩」とあるのが「鸚鵡石」である)、この『南中村地区の南側の山中にある大きな一枚岩』で、高さ三十メートル、幅六十メートル。「度会町史」によれば、亨保一五(一七三〇)年に、『藤堂藩の儒者、伊藤東涯が詩を作って道案内の村人に与えたが、その詩を、後に霊元上皇』(一六八七年~一六九六年)『が画工宗仙に屏風に画かせ、東涯がそれに序文を書いたという』。『さらに竹田出雲の浄瑠璃に語られたため、鸚鵡石は広く世間に知られるようになった』とあり、さらに、『この石に呼びかけるときは、石の右手約』三十『メートルの所にある小さな岩がありますので、その上に立ち、そこから呼びかけるのが最もよくこだまします』(本文は「三十間」で五十四メートル五十四センチ。不審)。『江戸末期の斉藤拙堂(津藩有造館の督学)によると』、『「石はかすかな声で歌いかけると、一言一笑でも』、『必ず答える。ただ』、『大声で怒鳴ってメロディーがないのは』、『答えようとしない。緩やかに抑揚をつけることだ」(度会町史)とあります』とあるので、この石は非常に繊細な音楽家であることが判る。非常に緻密な岩塊(注の最後に示したウィキの引用参照)で、石全体の形も関わって、前面の平滑面に当った音が反射し易いのであろう。

「宮川」ここを流れる一之瀬川は北方で、伊勢神宮の北西へと流れ下る宮川に合流する。

「二十四間」四十三メートル六十三センチ。幅だとすると、風化ではなく、損壊したものか。有意な損壊が事実なら、最も反響する位置が極端に短くなったのも腑に落ちる気もしないでもない

「簫(しやう)」竹管を用いた縦笛(たてぶえ)。

「鐘皷(しやうこ)]「鉦皷(しやうこ)」の誤りであろう。これは既出既注であるが、再掲すると、「しょうご」とも読んで、本来は、雅楽に用いる打楽器の一つを指す。青銅又は黄銅製の皿形のもので、釣り枠につるして凹面を二本の桴(ばち)で打つもの。大(おお)鉦鼓・釣(つり)鉦鼓・荷(にない)鉦鼓の三タイプがあるが、通常は釣鉦鼓を指す。中型の銅鑼(どら)のような形態を考えればよい。また、別に仏家で勤行・法会の際に敲く円形で小型の皿状をした青銅製の鉦(かね)も指し(雅楽のそれのように吊るす中型のものも仏具にはあるが)、ここは後者であろう。

「一時(いちじ)に」ちょっと。

「發するに」「に」は逆接の接続助詞であろう。楽器や唄をほんの少しだけ、小さな音で奏でたり、歌ったりしただけなのに。

「前後をわかたず」間髪を入れず。

「少しも混(こんぜ)ず」そこで実際に鳴らした楽器の音や人の声と、調子が外れたり、濁ったりすることが少しもなく、の謂いであろう。実際の音と混じり合わない、というのでは、意味不明だからである。「音律(をんりつ)・絃管(げんくはん)、あきらかにうつる事」と続くのを見ても、そういう意味である。

「こなたの聲よりも至つて鮮(あざやか)なり」やはり、これは反響を起している岩自体がよほど緻密な組成でないと起こらない現象である。

「十間」十八メートル十八センチ。

 最後に、ウィキには「鸚鵡石」があるのでそれを引いておく。『鸚鵡石(おうむいし)は、その石にむかって声や音を発すると、オウムのようにその声や音のまねをするとされる石である。その原理は、山彦に似る』。『日本の各地に鸚鵡石やその類と伝えられる石があるが、有名なのは三重県志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡岩(おうむいわ)』『で、霊元天皇の叡覧に供したという』。以下、全国にある鸚鵡石の例として、福島県須賀川市大栗の「鸚鵡石」・愛知県田原市伊川津町の「鸚鵡石」を挙げた後に、本三重県度会郡度会町南中村の「鸚鵡石」が挙げられてある。次いで、三重県志摩市磯部町恵利原の「鸚鵡岩」と続き、最後の「鸚鵡岩」について解説がある。『伊勢志摩国立公園に属』し、幅百二十七メートル、高さ三十一メートルの『一枚岩で、「語り場」で声を発したり、備え付けの拍子木を打つと、約』五十メートル『離れた「聞き場」にいる人には』、『あたかも岩から音が発されているように聞こえる』。『地質学的には秩父層群のチャートでできている』とある。チャートchert)は「角岩(かくがん)」とも称する堆積岩の一種で、主成分は二酸化ケイ素(SiO2石英)で、この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積して出来た岩石(無生物起源のものがあるという説もある)。断面をルーペで見ると、放散虫の殻が点状に見えるものもある。非常に硬い岩石で、層状を成すことが多い(ここはウィキの「チャート岩石)に拠った)。しかし、この『霊元天皇の叡覧に供した』という部分は、本「鸚鵡石」の記載と同じであるから、この志摩の「鸚鵡石」と、この「中村の里」の「鸚鵡石」は、混同されて伝聞していた可能性が高いと思われる。大きさや位置距離が現状と有意に異なるのも、その錯雑に拠る疑いが濃厚な気がするのである。]

諸國里人談卷之二 神石窟

 

     ○神石窟(しんじやくのいはや)

出羽國秋田の北、男鹿嶋(おがしま)は、五、六里がほど、海へさし出たる所にて、窪田よりは陸路十余里、舩路(ふなぢ)は五里ばかりなり。本山(ほんざん)・新山(しんざん)、兩山(りやうざん)の間に男鹿村といふ湊あり。此山の麓、海崕(うみぎは)に岩窟あり。「神石窟」といふ。俗に「鬼(おに)が窟(いはや)」といふ。方十間ばかりの洞(ほら)にて、上は、五色の大石、洞の口に復(おほ)ひたり。舩にて入事、一町餘り、奧に少しの平地あり。左に、方、八、九尺の穴あり。先年、山伏の行者兩人、此穴に入。松明(たいまつ)にて、凡(およそ)一里がほども行けるが、猶、その奧、はからずして皈(かへ)りたり、といひつたへたり。○取上岩(とりあげいは) 大石のうへに、ひとつの石、かさなりて、海岸にあり。風波はげしき時は、上の石を、浪にて打落す也。程經て、また、前のごとくに、をのれと、石のうへに上事、奇也。土人(ところのひと)の言葉に、「此ほどの嵐は、よほどの事なり。取上岩の落(おち)たり」など云へり。○舩隱窟(ふなかくしのいはや) 此洞に舩を入れば、出事、あたはず。よつて、此所へ船をちかづけず。打つ浪の強き所なるゆへなり。○蝙蝠窟(かうもりのいはや) 蝙蝠、おびたゞしく、あり。此窟にて、七、八人、叫(さけべ)ば、數(す)百人の樹神(こだま)す。○大山橋(おほさんきやう) 小山橋(こさんきやう) 鳥居のごとく、大石、水上に出たる所、凡(およそ)高さ、四間ばかり、その間を舩にて潛(くゞ)る也。其外、二十間、三十間、大岩の嶋々、三十三嶋あり。風景、松島・象潟(きさがた)に越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。嶋𢌞(めぐ)りの舩路、三里半。○本山は興福寺と云。天台宗也。女人結界(けつかいの)地。此山の鹿、男(お)は峰(みね)へ登れども、女(め)は登らず。

[やぶちゃん注:これは山名・地名などから総合して考えるに、男鹿半島の西南の海岸(南磯海岸)にある、現在の男鹿国定公園の一部である秋田県男鹿市船川港(ふながわみなと)本山門前(ほんざんもんぜん)祓川(はらいかわ)の海食洞「孔雀の窟(こうじゃくのいわや)」(孔雀ヶ窟(こうじゃくがくつ/くじゃくがくつ)」とも呼び、「孔雀」を「蒿雀」とも書くようだ。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」も参照されたい。写真の他、本窟に纏わる神話も紹介されてあるが、それによれば、この「窟」の元の名は「空寂(くうじゃく)の窟」とする。これは「孔雀」(くじゃく/こうじゃく)が当て字である可能性が格段に高まり、されば「神石」(こうじゃく)アリ! ということにもなろう。後文参照を中心とした海食洞群を指しているのではないかと推定する。なお、北西部の戸賀の海岸線から、この辺りにかけては多数の海食洞があり、各個同定は出来ないが(私はそもそも行ったことがない)、それらもこの記載の中に含まれているのではないかと思われる。国土地理院の地図を見ると(中心に孔雀窟。南北に図を動かして見て貰いたい)、無数の有名・無名の島(岩礁)があることが判り(「大岩島々、三十三島」に合致、また、北から「カンカネ洞」・「棧橋」(本文の「大山橋」と推定)などとづけられた、海食洞や海食台を認めることが出来る。なお、「男鹿市観光商工課」公式ブログ「男鹿ブロ」の「男鹿半島 海岸線めぐり」も見られたい。そこではここでは私は挙げなかった、男鹿半島北方部の戸賀周辺の海岸線の奇岩景勝が判る)。

 なお、ここで私がかく限定的に同定したのは、現在の「こうじゃくがくつ」という呼称にある。「神」は「神々(こうごう)しい」などの用例で判る通り、「コウ」と読め、また、「石」は「盤石(ばんじゃく)」のように「ジャク」とも読める。則ち、「神石窟」は「孔雀窟」と同じく「コウジャククツ」と音読み出来るからである。

 小学館の「日本大百科全書」他によれば、「孔雀窟」は、幅八メートル、奥行三十メートル、高さ十五メートルで、天井からは鍾乳石が垂れ下がり、洞内には数千匹のコウモリ(キクガシラコウモリ(哺乳綱獣亜綱翼手(コウモリ)目コウモリ亜目 Rhinolophoidea 上科キクガシラコウモリ科キクガシラコウモリ亜科キクガシラコウモリ属キクガシラコウモリRhinolophus ferrumequinum)とユビナガコウモリ(コウモリ亜目ヒナコウモリ科ユビナガコウモリ属ユビナガコウモリMiniopterus fuliginosus))が棲息するとある(「蝙蝠窟」の叙述と一致する)。戸賀から遊覧船が出るが、小舟でないと中には入れない、ともある。

「窪田」現在の秋田市。かつて秋田は羽後国秋田郡久保田と呼ばれた(秋田藩は藩庁のあった場所から久保田藩とも呼ばれた)。孔雀窟まで実測してみると、確かに五十キロメートル(「陸路十余里」)はある。「舩路は五里ばかり」とあるのはやや短めであるが、凡そ、秋田から直線で三十キロメートルほど航行すれば、対象海域に到達出来る。

「本山(ほんざん)・新山(しんざん)、兩山(りやうざん)の間に男鹿村といふ湊あり」男鹿半島の西海岸寄りには、ドーム状に、主峰「本山」(ほんざん:標高七百十五メートル)を中心として、北に「真山」(しんざん:標高五百六十七メートル)、南に毛無山(けなしやま:標高六百七十七メートル)が連なる(ここ(国土地理院地図))。これは「男鹿三山」と呼ばれ(但し、男鹿市では三つ目は「毛無山」ではなく「寒風山」とするようである。(グーグル・マップ・データ))、古くから、赤神権現を祀る信仰の山として知られ、平安末以来、修験者の道場として栄えた。ここでこの窟に入った山伏たちもその修行者であったのであろう。但し、「男鹿村といふ湊あり」とあるのは、やや不審で、現在の「男鹿」の中心は、秋田県男鹿市船川港船川(ふながわみなとふながわ)で、男鹿半島の南東の内側であり、ここを「本山・新山、兩山の間」とは言わないだろうし、孔雀窟の辺りに幾つかの集落があるからそれも当時は「男鹿村」村内ではあったとは思うが、これもそうは表現出来ない。不審。

「海崕(うみぎは)」「崕」は「崖」に同じ。海食崖である。

「鬼(おに)が窟(いはや)」先に示したサイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」には、『この窟には鬼が住んでいるので船を入れるとき』舷(ふなばた)『を叩く』とある。

「方十間」十八・一八メートル四方。

「上は五色の大石、洞の口に復(おほ)ひたり」サイト「男鹿なび」の「孔雀の窟」の左画像を見られたい。言っている意味が腑に落ちる。

「一町」百九メートル。

「方、八、九尺」二メートル四十三センチ~二メートル七十二センチ四方。

「はからずして」探索することを断念して。果て知れぬ様子だったからであろう。

「をのれと」ママ。「己と」「自と」。自然と。

『土人(ところのひと)の言葉に、「此ほどの嵐は、よほどの事なり。取上岩の落(おち)たり」など云へり』これはそのまんまなら、つまらぬ平凡な記載であるが、私はこの言葉(言いかけ)にある呪的な意味が含まれているのではないかと推理する。或いは、こうした謂いをすることで落ちていない「取上岩」は「落ちた」ことになり、そう認識された上で、落ちていないそれを見て「岩が登った」と考えることで、奇瑞譚が形成され、伝承されるのではなかったか?

「此洞に舩を入れば、出ル事、あたはず」「打つ浪の強き所なるゆへなり」だったら、他にも同じような海食洞は無数にあるはずなのに、ここにのみそう付けられているのは、やはり、ここだけにそうした現象が特異的に起こるからである。海食洞の奥の潮下帯下の岩礁に海側へ向けて曲折した海中隧道が存在し、それが、洞の入口直下の海底に開口して、内側に向かって常時、循環性の海流が生じているか、或いは、海食洞の途中に、他の海食洞と通底した穴があり、それらに入った波が輻輳してこの洞の奥に流れ込むのかも知れない。或いは、洞の形状から、左右の壁面に当った波が中心に向かって強く干渉波を起こすのかも知れない。

「樹神(こだま)」木霊(こだま)に同じい。

「大山橋(おほさんきやう) 小山橋(こさんきやう)」先ほど地図から拾った以外にも「立岩」などという岩礁もあった。しかし、「鳥居のごとく、大石、水上に出たる所、凡(およそ)高さ、四間ばかり、その間を舩にて潛(くゞ)る」(「四間」は七メートル二十七センチ)というのは、先に挙げた「男鹿市観光商工課」公式ブログ「男鹿ブロ」の「男鹿半島 海岸線めぐり」の七枚目の写真の「大棧橋(だいさんきょう)」の写真とその説明、『まぁるい大きな穴がポッカリ空いて、橋のようになっていることから大棧橋と呼ばれています。戸賀の遊覧船に乗ってくぐることも出来るんですよ!』とあるのと美事に一致するように思う。対照スケールがないので写真ではよく判らないのだが、それなりの観光船がくぐることの出来るアーチは七メートル四方は必要だから、名前の類似性だけでなく、その大きさからも、ここに同定してよいだろう。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。

「大岩の嶋々、三十三嶋あり」ここはもう、北の戸賀からこの南海岸までの海岸線全体と考えてよいであろう。

「嶋𢌞(めぐ)りの舩路、三里半」既にこの時代、観光船が出ていたことが判る。しかも、「三里半」(十三キロ七百四十七メートル)とあるからには、現在の男鹿ではあり得ない(片道だけで二十キロかかってしまうからである)。その出航先は、現在のように、北の戸賀ではなかったか?

「興福寺」「天台宗」このような名の天台宗寺院は現在は本山にはない。近くの「男鹿三山」の一つ、真山には現在、真山神社(しんざんじんじゃ)があるが、ウィキの「真山神社によれば、『社伝によれば、景行天皇の御代、武内宿禰が北陸地方諸国視察のため男鹿半島へ下向の折、涌出山(わきいでやま、現在の男鹿真山・男鹿本山)に登り』、『使命達成と国土安泰・武運長久を祈願して瓊瓊杵命・武甕槌命を祀ったのが始源とされる。平安時代以降』、『仏教の伝播が男鹿へも至り、貞観年中』(八五九年~八七七年)『には慈覚大師』が『涌出山を二分し、北を真山、南は本山としたと伝えられる。以来修験の信仰が昂り、天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安部氏・清原氏・藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。江戸時代には国内十二社に指定され、佐竹候の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽藍が営まれてきた。明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた』とある。さて慈覚大師円仁は天台宗の僧である。彼が『涌出山を二分し』て『北を真山』とし、『南は本山としたと』するなら、それぞれに寺或いは堂が設けられたと考えるのが自然であり、だからこそ、『南北朝時代には』一方の『真山別当光飯寺は真言宗に転じ』と読めるわけで、この本山には天台宗の寺院或いはその仏教祭祀施設が廃仏毀釈まで存在したと考えるのが、これまた、自然である。しかし、いくら調べても本山にあったという天台宗の「興福寺」は見当たらない。現地の郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

「此山の鹿、男(お)は峰(みね)へ登れども、女(め)は登らず」読み違える人はいないと思うが、老婆心乍ら言っておくと、「女人結界(けつかいの)地」だから、この山の「鹿」(本物のシカである)の雄のシカは峰を登って駆けるけれども、雌のシカは山の一定以上から上へは登らない、というのである。]

2018/06/15

ブログ・アクセス百十万突破記念 梅崎春生 熊本弁


 
[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『新潮』に発表された。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 謂わずもがなであるが、梅崎春生は熊本五高出身である。また、事実上の主役である「川路」は「関門海峡の某島」(伏せてある)で第二次世界大戦中に兵役に就き、「いじめられ」たと語るところは、春生自身の戦争体験と美事にダブっており、川路が作者の分身の一人でもある印象を与える

 本作のメイン・ロケーションは梅崎春生自身をモデルとする主人公「ぼく」の「信州の山居」であるが、梅崎春生も昭和三二(一九五七)年の夏、蓼科高原に別荘を新築し、それ以降、概ね、毎夏をここで過ごし、か「蓼科大王」と呼ばれた。

 また、作中、引用される(小説中への俳句の引用というのは梅崎春生にしては非常に珍しい)杉田久女(ひさじょ 明治二三(一八九〇)年~昭和二一(一九四六)年)の句は、大正九(一九二〇)年八月の信州での「信州吟」(病中吟ともに百六十五句の句群)の中の初めの方にある一句で、これらは大正九年八月に信州松本に久女の実父の骨を納骨に行った際(恐らくは二人の子を連れて)の嘱目吟である。この直後、彼女は腎臓病を発症し、東京上野の実家へ戻って入院加療に入り、そのまま実家で療養に入った(この時、専ら、久女側からの意志で、夫杉田宇内(旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家)との離婚問題が生じた)。この時の夫との別居は約一年に及んでいる(小倉への帰還は大正十年七月)。久女は結婚後の大半を小倉で過ごし、福岡県立筑紫保養院で亡くなっており、福岡生まれの梅崎春生は、ある種の親和性を彼女に抱いていたことが、ここから判る。私は久女を偏愛し、彼女の全句集(ブログ版PDF縦書版他)や小説・随筆もブログ(先のリンク先)で手掛けているので、興味のある方は見られたい。

 文中で主人公の「ぼく」が、「雅楽」の「型の一つに、背をやや前屈し片袖で顔をおおうようなのがあった」と述べているが、これは雅楽ではなく、能の「シオリ」を指しているように思われる。泣いていることを表わす所作で、指を伸ばした手を、顔より少し離れた前方へ、目を覆うように上げて、零れる涙を押さえる動きを指す。

 「ぼく」が学生時代に語学が不得手だったと述べるシーンがあるが、春生自身、語学が苦手だったかどうかはさておき、遺作「幻化」の中の印象的なシークエンスの末尾に、主人公「五郎」がドイツ語の単位を落として落第したというエピソードが出る(リンク先は私のブログ版電子化注の当該部分。なお、梅崎春生も事実、熊本五高で三年進級に落第してダブっている)のを、私は思い出した。

 後半、「去年の十月、ぼくは自宅の階段からずっこけて背骨を打ち、しばらく静養した」と出るが、これも事実で、昭和三七(一九六二)年十月、子どもふざけていて転倒し、第十二胸椎を圧迫骨折し、さらにギックリ腰になって難渋した。本作はその翌年夏の発表だから、謂わば、非常に共時性の強い作品であることも判る。

 後半で「ぐれはまな」という語を川路は使うが、これは熊本弁ではない。「ぐりはま」の転訛で、貝の「はまぐり」(蛤)を用いた古来からの「貝合わせ」の遊びからきた江戸言葉(東京方言)で、「食い違うこと」や「あてが外れること」を意味する。サイト「日本語俗語辞書」のこちらによれば、『貝の中でもハマグリは殻がしっかりし、形状が波形なため、もともと一緒だった殻同士でないとピッタリと合わないことから』「貝合わせ」に『用いられた。そして、ピッタリ合わなかったものを』「ぐりはま」『(ハマグリの倒置)と呼び、『蛤』をそのまま』百八十度』回転させた(逆さにした)漢字も存在した。ここから』、「貝合わせ」に『関係なく、先述のような意味で』「ぐりはま」が『使われるようにな』り、また、『後にこれが訛った』「ぐれはま」という『言葉が使われるようになり、現在も使われる『ぐれる』という動詞に通じ』ている、とある。この川路の謂いは、自身の性格についての謂いであり、寧ろ、今の「グレる」と同じ用法であるように思われる。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百十万アクセスを突破した記念として公開する。【2018年6月15日 藪野直史】]

 

 

 熊本弁

 

 

 川路君のことについて書こうと思う。彼は酔っぱらうと、よく熊本弁を使った。初対面でいっしょに飲んだ時、ぼくは彼が熊本出身者だとばかり思っていたほどだ。

 川路をぼくの信州の山居(というより山小屋に近い)に伴って来たのは、大和君という年少の旧友だ。大和は昔ある出版社に勤めていて、そこで友達になった。何故友達になったかというと、大和は酒飲みで、そんな縁からだったと思う。酒の酔い方、飲みっぷりが、つまりぼくの肌に合ったのだ。その出版社は間もなくつぶれた。が、大和との交友は続いた。

 前ぶれもなく彼等が信州にやって来たのは、八月の終りか、九月に入っていたかも知れない。

 紫陽花(あじさい)に秋冷いたる信濃かな

 という杉田久女の句があるが、まさしく秋冷という感じの気候の頃だった。盛夏なら避暑客や登山族でいっぱいになるけれど、その頃は宿も割にすいていて、二人は一部屋を確保し、荷物を置いてぼくの山小屋にやって来たのだ。松虫草がたくさん生えている斜面の径(みち)をごそごそと登って来て、大和が窓から首を出した。ぼくはびっくりして昼寝の姿勢から起き上った。

「やあ。ごめん下さい。これ、川路てんです」

 大和は恐縮してそばの男を紹介した。

「ぼくの友達で、H大学でフランス語を教えています」

 川路はまぶしそうな表情で頭を下げた。ちょっとふしぎな印象を受けた。体の割りに頭が大きい。いや、頭の割りに体が小さく瘦せているのである。愁(うれ)いを含んだ眼で、そのくせいつも顔はわらっているように見えた。

 も少し山の上にある先輩を訪ねて行くというので、

「では帰りに寄りなさいよ。洒とビールを用意しとくから」

 と大和に言ったら、川路はからかうような声で、

「何だ。君の大酒飲みは、こんなところにまで響き渡っているのか」

 と笑った。それでぼくは何となく川路という人は酒をたしなまないんだなと思ってしまった。

 夕方二人は山からぼくの小屋に降りて来た。遠慮する二人を招じ入れて、卓についた。ゴザを敷いた粗末な板の間で、彼等はきちんと坐る。いくら膝をくずしなさいと勧めても、遠慮してくずさない。ビールが二本目にかかった頃、やっとあぐらをかいた。

 酒は飲まないとの予想で、ぼくは川路のために、肉や塩魚や山菜などの手料理を用意していた。ところが川路は飲むのである。グイグイと言うより、ゴシゴシとコップを口に持って行く。ぼくは言った。

「大和君を大酒飲みだとからかっていたが、君も案外飲むじゃないか」

「こいつ、ぼくより大酒飲みなんですよ」

 大和がかわって説明した。川路はにやにやと笑って頭をかいた。

 一時間ほどしたら、二人ともがくんと酔ってしまった。天気にたとえると、黄昏(たそがれ)というものが短いのである。素面(しらふ)の白光から、突如として酔いの闇に入るようなものだ。大和はだいたいそんな酔い方をするが、川路のもそれと同じだった。類は友を呼ぶのか。

「わしゃ九州人は好かんですたい」

 ぼくが九州の福岡出身と判ると、川路の表情が一瞬動いた。そしてそう応じた。

「何故好かんのかね?」

 ぼくは訊ねた。ぼくも少しは酔っていた。

「どぎゃんもこぎゃんもなかですたい。好かんもんは好かん」

「こいつ、酔うと、すぐ熊本弁が出るんです」

 大和が傍から口を出した。

「おい。川路。まだ熊本弁は早いぞ」

「よか。よか。お前は口ば出すな」

 川路は手を振った。

「ビールじゃいっちょん酔わん。はよ酒ば出してくだはりまっせ」

 彼は熊本弁をやめなかった。うるさいほどそれに執した。やがて二人は完全に酔っぱらって、宿に戻るというので、懐中電燈を貸してやり、それでも心配なのでぼくも下まで降りることにした。ぼくの懐中電燈の光の輪の中で、山道を降りる川路の頭が、ラッキョウを逆さにした具合にぐらぐらと揺れる。

「よか月ですなあ」

 ぐらぐらしているくせに、川路は天を仰いでそんな嘆声を上げる。

「星がむごうたくさん見ゆるばい」

 だから足を取られて、両三度辷(すべ)り転んだ。たすけ起すと、川路の腕はなよなよとして細かった。宿の玄関まで送り届けて、ぼくは小径をのぼり、小屋に戻って来た。板の間で飲み直した。

 

 二人は翌日の正午頃、また山小星に訪ねて来た。ぼくは丁度(ちょうど)起きたばかりで、小屋の外で歯ブラシを使っていた。

 ぼくは雅楽を実際には見たことがない。しかしテレビでは見たことがある。その型の一つに、背をやや前屈し片袖で顔をおおうようなのがあった。川路と大和はそれと同じ恰好(かっこう)で、背広の袖で顔をかくすようにしながら、小径を登って来た。日射しをさけるためでなく、上から見ているぼくの視線をはばかってである。

「昨夜はたいへん失礼しました」

「それにたいへん御馳走になりまして」

 と、こもごもしおらしげに挨拶をした。昨夜の酔態をてれているのである。小屋の前の平たい岩に腰をおろして、しばらく雑談をした。

「川路君は熊本県のどこの出身だね?」

 昨夜問い忘れたことを、ぼくは訊ねてみた。

「ぼくは熊本出身じゃありません。中国地方の――」

「でも熊本弁が使えるじゃないか。熊本に住んだことがあるの?」

「いえ。軍隊で半年ほど――」

 召集されて関門海峡の某島に勤務していた。その隊の大半が熊本出身者で占められていて、そこで覚えたのだという。ぼくは熊本に四年住んだことがあるが、熊本弁をほとんど使えない。たった半年の経験で、少々おかしいところもあるが、とにかく使いこなせるのは大したもんだ。それを言うと、川路は気弱そうに笑いながら答えた。

「ええ。ずいぶんいじめられましたからねえ」

 その体で兵隊勤めはつらかっただろうと考えたが、それは口に出さなかった。

 それから二人で先輩の家に行くと言うので、

「夕方には寄りなさいよ。また洒の用意をして置くから」

「ありがとうございます。でもあの肉はイヤですよ」

「なぜ?」

「あれ、馬の肉だそうじゃないですか。今朝宿の主人に聞きましたよ。どうも味がへんだと思っていた」

「馬肉はきらいなのかい? もりもり食べたじゃないか」

 ここら地方では、肉というとおおむね馬肉のことなのである。

「好き嫌いの問題じゃありませんよ。肉を食うなんて、それじゃあ馬が可哀そうだ」

 川路は頭をかかえた。

「ぽくに食われた馬が、気の毒でしょうがない」

「気にしない。気にしない」

 と大和が川路の肩をたたいてなぐさめた。大和は馬肉の件では平気らしい。

「さあ出かけようよ」

 川路は頭から手を外し、ていねいな挨拶をして、二人は小径を登って行った。案外冗談や誇張が好きな男だと、その後ろ姿を見送りながらぼくは思った。

 夕方、待っていたがやって来ないので、馬肉をさかなにして、ビールを飲み始めた。三本ほど飲んでも、まだまだ姿を見せない。昨夜のことで遠慮して、まっすぐ宿に戻ったんじゃないか。そう思って山道を降り、宿の玄関で女中に訊ねると、

「そのお二人さんなら、バーの方にいらっしゃいます」

 バーヘ行くと二人はたのしそうにしゃべりながら、酒を飲んでいる。ぼくの姿を見ると、ぴょんと止り木から飛び降りてあわてて挨拶をした。

「こんなところで飲んでいるのか。来るかと思って待ってたんだよ」

「ええ。毎晩々々お世話になるのも悪いと思いまして――」

 もうそろそろ酔っている。

「それで遠慮をばいたしました」

「仕方がないね。ではぼくもここで飲むとするか」

 実を言うと、ぼくも独り酒に飽きて、相手が欲しかったのである。席を卓の方に移して、川魚などをさかなにして飲み始めた。ホームグラウンドだから、彼等は昨夜ほど急激に酔いはしない。それでもだんだん回って来て、また熊本の話になった。

「四年間も住んでいて熊本弁をしゃべれないなんて、何ちゅうことですか」

 川路はぼくにからんだ。

「あんたはきっと学生の時、語学が不得手だっただろ」

「そうだね。得意じゃなかったな」

「そうだろ。そうだろ」

 川路は合点々々をした。

「わしの学生でも、語学が下手なのは、とかく不器用なのが多かですたい」

「何を言う。君だって不器用じゃないか。昨夜も三四度転んだよ」

「そら慣れん山道だけん、仕方なかです」

「軍隊でも君はうまくやれたとは、ぼくは思わないな」

「軍隊?」

 川路の表情は歪んだ。

「軍隊の話はやめましょう」

 その中にバーの閉店時刻が来て、ぼくは外に出、彼等は部屋に戻った。ふらふら歩いている中に、帽子を忘れたことに気がついて宿に戻る。バーはしまっているので、二人の部星に行き、ノックもせず入って行くと、二人とも寝床にあぐらをかいて、ウィスキーを汲み交していた。

「あっ。いけねえ」

 れいの雅楽の型で顔をかくした。さっき別れ際に、あんまり深酒するんじゃないよ、と先輩面して忠告したばかりなのである。二人はバーの閉店時刻を承知していて、部屋に予備のをかくしていたらしい。

 

 翌朝九時頃、二人はリュックサックをかついで、わが山居にやって来た。酔うと無頼になるけれども、素面(しらふ)だと彼等は借りて来た猫みたいにおとなしい。

「いろいろお世話になりました」

 これから東京に戻るのでおいとま乞いに参ったと言う。

「ちょっと上れよ。昨日用意したビールや料理が手つかずで残っているから」

「でも昨晩は、酒は飲むなと――」

「そうは言わないよ。深酒はするなと言っただけだ」

 宿酔気分で迎え酒をやろうかと思っていたところなので、リュックを手繰り寄せ、強引に部屋に引き上げた。彼等は観念したかどうかは知らないが、顔を見合わせて、のこのこと上って来た。そこでビールの栓を抜いた。

「いい景色ですなあ」

一本ずつあけた時、川路が窓の外を見て言った。顔がいくらか赤くなっている。迎え酒だから、よくきくのだ。

「今まで景色を眺めなかったのか」

 ぼくはあきれて言った。

「一体この三日間、何をしてたんだね?」

「え? ええ」

 川路は大和の顔を見た。

「おれたち、何をしてたかなあ」

「うん」

 大和も腕を組んで、何かを考え出そうという表情になった。

「東京の暑さにぼけてしまったんじゃないか」

 ぽくはビール瓶を買物籠に五六本詰め込んだ。ついでにさかなも。

「いい景色のところに連れてって上げる。そこで飲みましょう」

 山小屋から十五分ほど登ると、通称見晴し台という場所がある。三百六十度が見渡せる大景観で、アルプスや八ヶ岳やその他の諸山、平地、湖などが見える。さすがの二人も感心したらしく、ビール瓶をぶら下げたまま、しばらく佇立(ちょりつ)していた。ややあって川路が言った。

「いい景色だなあ。一体ここは何県ですか?」

「おい、おい。バカな質問はよせよ。長野県にきまってるじゃないか」

 大和がたしなめて、ぼくに弁解した。

「ここに来る汽車の中で飲みつづけだったんで、すこし見当が狂っているんです」

「そうだ。長野県だった」

 川路は芝草に腰をおろして、ビール瓶の口飲みをした。秋風が川路の長い髪の毛に吹いてばらばらにする。男のくせに絹糸みたいに柔かい毛だった。

 持参したビールはそこで全部平らげ、ぼくの山居に戻り、二人はリュックを背負った。

「おみやげにこれを持って行きます」

 と、松虫草の花を一つずつ手折り、胸にさした。ぼくはその二人をバスの停留場まで送って行った。

 四五日経って大和から礼状が来た。同封の大和夫人の文章では、

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げとなっているが、ブラウザでの不具合を考え、無視した。]

 

 御礼、遅れて申しわけございません。なんですか、川路氏とうちのダンナがお邪魔に上りましたそうで、こちらへ着くと、帰還祝いだか何だか新宿でしこたま飲んで、わが家の玄関をあけて入るなり「最高だった」「大感激」「そりやもう大変なもんだった」等々まるでもう天国から帰ったようなはしゃぎようで、揚句のはて私の感激のしようが足りないと怒り出す始末。日頃モテない男が、たまにもてなしを受けると、こうなんだからイヤんなっちゃいます。

 

 云々とあった。三日も家をあけた照れかくしの気分もあったのだろう。

 

 今年の一月の末、大和から電話がかかった。川路と同行、お見舞いに参上したいと言うのである。そしてその翌日、二人はつれだってやって来た。早速酒を出した。

「背骨をいためたというのに、酒飲んでもいいんですか?」

 率先してぼくが飲み始めたので、大和が心配そうに言った。

「いいんだよ。骨と酒とは関係ないよ」

「しかし深酒はいけませんよ。おやじもそう言ってました」

 去年の十月、ぼくは自宅の階段からずっこけて背骨を打ち、しばらく静養した。見舞いとはそのことである。

「おやじさんって、お医者さんかね?」

「ええ。元軍医です」

 川路君の顔は昨年の夏にくらべて、いくらか暗鬱で力なく見えた。それを言うと、

「ええ。学校の方が忙しいんでね、くたびれているんです」

 軍医のことから軍隊の話になった。昨夏のようなグイグイ飲みでなく、盃(さかずき)をあけるピッチが遅い。

「軍隊じゃいじめられましたよ」

 熊本県出身の下士官や古兵にひどいいじめ方をされた。それはそうだろうと、ぼくは思う。こんなひよわな体格で、重量物も持ち上げられないし、動作だって不器用だ。軍隊に適するわけがない。しかし古兵にとっては、怠けている、さぼっているという風に見られ勝ちなものだ。そこで徹底的にいじめられる。軍隊とはそういうところだ。半年経ってとうとう病気になり、除隊になった。

 その頃のラジオは、朝の起床ラッパから放送が始まる。それが耳に入ると、除隊の身分も忘れて、川路はがばとはね起きる。母親はそれを見て、

「そんなにまで苦労したのかい。じゃラジオのつけ放しはやめる」

 と涙ぐんだそうだ。母親の話をしている頃から、だんだん盃のピッチが早くなった。

「そうか。そりやたいへんだったねえ」

「ひでえしくじりですたい」

 そろそろ熊本弁が出始めた。

「そんなにいじめられたんなら、熊本弁は聞きたくもないし、またしゃべりたくなくなるのが普通だろう」

 ぼくも盃をかさねながら言った。

「君は逆だね」

「逆ですかね」

 川路の眼は一瞬するどく光った。それは何かひたむきな執念のようなものを、ぼくに感じさせた。

「でも酔うと、すぐそうなっちゃうんですよ。わしゃあもともと、ぐれはまな性分のごたるな」

 そこらあたりを境にして、川路はがくんと酔ったらしい。歩いて帰れそうにないので、家内がハイヤーを呼んで、二人を押し込んだ。

 それから五日ほど経って、大和夫人から電話がかかった。

「川路さんが突然亡くなられたそうです」

 ぼくは愕然とした。

「え? 何で?」

「何か判りませんけれど、知らせを受けて大和はすっ飛んで行きました。くわしいことが判ったら、またお知らせします」

 電話を切って、ぼくは部屋中をうろうろと歩き回った。そして思いついてH大学の事務局に電話をかけた。事故死だということが判った。

 その夜ひとりで酒を飲みながら、川路のことを考えていると、急に涙が出て来た。ごまかすために、鉛筆を持って来て、弔電(ちょうでん)の文章を考えて、原稿用紙に書きつけた。

『カワジクン、キミハ……』

 彼の家族とは面識ないので、どうしても川路に呼びかける文章になる。書きながら、

「こんなキザな電報を――」

 と思ったり、

「弔電を打っても意味ないじゃないか」

 と考えたが、結局電話を通じて打ってしまった。何かしめくくりのようなものがないと、やり切れなかったのである。

 それから二週間後、大和から手紙が来た。

[やぶちゃん注:以下も、底本では全体が一字下げであるが、先と同様に処理した。]

 

 啓上

 その節は大へん御馳走になりまして、御礼の言葉も失したまま、御無沙汰いたしました。

 そこへ突然の川路君の急死で、あなたも奥様もびっくりなさったことと存じます。ぼくも、今もって何をするにつけ、あの人が出てきてやり切れません。実感が来ないというよりも、いつもそこにいるようで、かないません。

 それにしても、あなたとは川路君はへんな御縁だったと思います。一度どっかへ逃げたいな、というので、ぼくが信州へ連れ、その三日間というものおもてなしにあずかりまして、川路君にしても、とても楽しかったようでした。今年の夏も是非、と楽しみにしていたところなのです。あの夜も、あんなに愉快そうにはしゃいだ彼を、ぼくはめったに見たことはありません。

 こちらも御好意に甘えっぱなしで、今度はこちらでまたお礼しなければ、など二人で話し合っていたのです。奥様に車を呼んでいただき、渋谷で降りようと川路君が誘って、二人でバーを一軒のみました。その夜は、川路君宅へ泊ってしまいました。

 翌朝、二日酔いながら気分はよろしく、ひる近くまでブドウ酒をのみ、あなたの噂話など、川路夫人にお喋りして、別れたのが最後でした。

 それから事故のあった二月二日まで、あまり酒はやらなかったようです。試験の採点で忙しく、過労の極にあったとききました。あの人は、教師としてはマジメでしたので、採点も疲れるまでじっくり見たようです。

 二日夜、パリで知り合ったS紙の政治部長とかいう人に、あちらでお世話になったからと、一席もうけられ、その何軒目かに、銀座の何とかビルの二階にある、何とかいうバーヘ連れて行かれたのだそうです。弟というのがS紙の政治部にいて、つまり弟さんの上司なわけです。弟も同席していれば、とこれはあとになって思うことですが、途中で弟さんが電話で「そろそろ迎えに行くから」といったのに、川路君は「大丈夫だ、もうじき帰るから来なくてもいい」と返事したんだそうです。もう例の熊本弁が出ていたので、弟は定量へきてるよ、とは考えたそうですが。弟が迎えに来る間に、階段から落ちました。

 相手が目上の人だったのと、はじめてのバー(高級)だったことなどで、酒をコロシテのんでいたのではないか、と奥さんはいっていました。階段のことを失念して、バーから一歩目が道だと錯覚したんじゃないか、と弟さんはいっていました。

 急な階段で(多分、新宿なんかのと違い、コンクリートの硬いやつなんでしょう)真逆さまだったようで、すぐ救急車で京橋病院へ担ぎこまれもう(十二時二十分)意識不明で、翌三日午後六時、絶命とか。奥さんはすぐ駈けつけたそうです。その間、何度もすごい(聞いてはいられない)うめき声をあげ、そして大量の血を何度も吐いたそうです。脳の骨(脳底骨とか?)が折れ、もうどうにもダメで、はじめはわからなくて、翌日(三日)脳手術をして判明したんだそうですが、医者も、こんな運の悪い骨折の人はいない、と奥さんにいったそうです。外傷、何一つなしで。

 呼吸が絶えても心臓はしばらく動いていたそうです。頭だけぐんぐんふくらんでいったそうです。

 出棺の時、見ました。いつもの二日酔いの朝の眠っている顔でした。

 どうもくどくどと書きなぐつてしまいました。一言御報告をと思いながら乱文おゆるし下さい。葬式には、二百人近くの沢山の人が来ていました。小学生一年の男の子と幼稚園の妹と、めずらしそうに、ひょこひょこ庭を、はねていました。奥さんは大学でぼくの二年後輩で、川路君とは、高女での教え子だったんです。泣けないといっていました。ただ、遺体に向って、「ばかやろう!」と一言いいたいだけだ、といっていました。

 ほんとうに、死ぬというのが、こんなにあっけないものかと、おどろいています。

 何か、ぼくなんかの分を、代表でやってしまってくれたような、いたたまれない悲しい気持です。

 

 川路君と深いつき合いはなかったが、彼の死はひどくぼくにこたえた。若い人の死はつらい。それはぼくの歳のせいかとも思う。

北條九代記 卷第十二 赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

      ○赤松圓心蜂起 付 金剛山の寄手沒落 竝 千劍破城軍

 

播磨國の住人、赤松次郎則村(のりむら)入道圓心が子息、律師則祐(そくいう)は、大塔宮に付纏(つきまと)ひ奉りて、年來、奉公の忠勤あり。しかも近年は、武功の粉骨を盡しけり。宮は南都の般若寺より虎口を遁れて、紀伊國に赴きつ〻、十津河を經て、吉野の大衆を語(かたら)ひ、野長瀨(のながせの)六郎兄弟を賴み給ひ、愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて籠らせられ、赤松圓心が本(もと)へ令旨を下さる。律師則祐、使節として、父圓心が館(たち)に來る。入道圓心、嫡子範資、早く御請(おうけ)申して、佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)に城を構へければ、與力同心の軍兵、馳集りて、一千餘騎にぞなりにける。畿内・西國の凶徒、日を逐(おつ)て蜂起せしかば、高時入道、大に驚き、一族・他門の大名、東八ヶ國の軍勢を催促して、差上(さしのぼ)せらる。宗徒(むねと)の大名百三十二人、都合その勢、三十萬七千五百餘騎、元弘二年九月二十日に鎌倉を立ちて、十月八日に京著(きやうちやく)す。その外、西國・九州・北陸(ほうろく)七國、諸國七道の軍勢、我も我もと馳上り、翌年正月晦日に、諸國の軍勢八十萬騎を三手に分けて、吉野・赤坂・金剛山、三(みつ)の城へぞ向ひける。赤坂の城へは、阿曾(あその)彈正少弼、その勢、八萬餘騎、城の四方を取圍みて攻むれども、寄手のみ討たれて、城中には、ものともせず。然る所に、播磨國の住人吉河八郎が思案に依(よつ)て、城中、水の手を取切(とりき)られたり。城の本人平野(ひらのゝ)將監入道は、矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)が甥なり。楠正成、養子として、この城を預けしが、水に渇(かつ)えて堪難(たへがた)く、軍兵二百八十二人、共に降人(かうにん)に成て出でけるを、六波羅より計(はから)ひ、六條河原に引出し、一人も殘らず、首を刎(は)ねて梟(か)けられけり。降者(くだるもの)をば殺さずとこそ云ふなれ、吉野の金剛山に籠りたる兵共、是を聞きて、愈(いよいよ)、心を堅くして、一人も降人に出でんと思ふ者は、なかりけり。正慶二年正月に、大塔宮の罷り給ふ吉野の城へは、二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)、六萬餘騎を引分て押寄せ、同十八日より軍(いくさ)初(はじま)り、夜晝(よるひる)七日が間(あひだ)、息をもつがず、相戰ふ。寄手八百餘人、討たれたり。城兵も、三百餘人は手負ひ討たれしかども、少も弱る色なし。かゝる所に、搦手(からめて)より吉野の執行(しゅぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、百五十人の足輕を步立(かちだち)になし、後の山より愛染寶塔の上に忍上りて、鬨の聲を揚げ、在々所々に走𢌞(はしりめぐ)りて、火をさしければ、大手の五萬餘騎、三方より攻上(せめのぼ)る。村上〔の〕彦四郎義光、宮の御鎧(おんよろひ)・直垂を賜り、御諱(おんいみな)を犯して自害す。その間に、宮は城を落ち給ひ、高野山に忍入(しのびい)り給ふ。大將二階堂道蘊は、宮を打泄(うちもら)し奉りて、安からず思ひながら、楠正成が籠りたる千劍破(ちはやの)城へぞ向ひける。去程(さるほど)に、楠正成は、赤坂の城を落ちて、一族等(ら)を引率(いんそつ)し、紀伊と河内の境なる金剛山にぞ入りにける。この山に、城郭を構へ楯籠(たてこも)りしかば、東國八十萬騎、陸奥〔の〕右馬〔の〕助を大將として、赤坂、吉野の寄手、是に加り、百萬餘騎に成りて攻寄(せめよす)る。城中は僅に千人にも足らずして、防戰(ふせぎたゝか)ふこそ不敵なれ。寄手、一日の中に、五、六千人討たれしかば、軍勢、戰(たゝかひ)を止めて、陣々をぞ構へたり。度每(たびごと)の軍(いくさ)に寄手のみ多く討たれ、手懲(てごり)してぞ覺えける。この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり。赤松二郎入道圓心、播磨國苔繩〔の〕城より打ち出でて、その㔟、一千六百餘騎、山里(やまのさと)・梨原(なしはら)に陣取る。三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟、宮方に成りて、三石山に城を構へ、備前の守護加治〔の〕源二郎左衞門を負落す。是より、西國の道、塞(ふさが)りて、西園の軍勢、六波羅へ上る事を得ざりしかば、赤松、又、軍兵を進めて、高田兵庫〔の〕助が城を攻干(せめほ)し、山陽道を差して攻上る。路次の軍勢、馳付(はせつ)きて、七千餘騎にぞなりたる。赤松、大になりて、兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺に城を拵へて、楯籠る。六波羅、聞きて、誰(たれ)をか討手に向へんと、評定する所に、又、伊豫國の住人土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)三郎、宮方に成りて、長門の探題上野〔の〕助時直(ときなほ)を打平(うちたひら)ぐ。四國の勢、皆、土居・得能に屬(しよく)して、六千餘騎、京都に攻上らんとぞ用意しける。

[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻第六の四項目「赤松入道圓心賜大塔宮令旨事」(赤松入道圓心、大塔宮令旨、賜はるる事」)から巻第七の五項目「河野謀叛事」に基づくとする。標題の「千劍破城軍」は「ちはやのいくさ」と読む。

「播磨國」兵庫県。

「赤松次郎則村(のりむら)入道圓心」赤松則村(建治三(一二七七)年~正平五/観応元(一三五〇)年)。円心は法名。播磨国佐用荘の地頭の一族であったが、護良親王の令旨を受け、山陽地方では最も早く宮方(南朝方)につき、ここに出る通り、正慶二/元弘三(一三三三)年一月、苔縄城に挙兵した。次いで、山陽道を攻め上り、五月足利高氏(尊氏)とともに六波羅を攻め落とした。その功により、建武政権で播磨守護職を与えられたが、間もなく、理由なく取り上げられ、新政に不満を抱くようになった。建武二(一三三五)年、尊氏が新政権に反して、関東に向かうと、これに応じ、次男貞範を同行させた。翌年二月、尊氏が京都で北畠顕家らに敗れて九州に西走する際、光厳上皇の院宣を奉じて朝敵となるのを免れたのは、この則村の発案によると言われている。次いで、播磨白旗城に立て籠って、新田義貞率いる尊氏追討軍の進撃を阻み、尊氏の再上洛を助けた。十一月に尊氏が室町幕府を開くと、播磨守護に復帰、長男範資は摂津、次男貞範は美作の守護に任ぜられた。観応元/正平五(一三五〇)年の「観応の擾乱」では、尊氏・高師直方に与し、播備国境の船坂峠を固めて足利直冬の進軍に備えたが、その直後、京都七条の自邸で病死した。禅に深く帰依し、京都より雪村友梅を招いて苔繩に法雲寺を建ている。また宗峰妙超が京都紫野に大徳寺を開くと、最初の檀越となってこれを援助するが、それは妙超が播磨出身であるのみならず、姉の子であったことにもよると考えられている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「律師則祐(そくいう)」(のりすけ 正和三(一三一四)年~建徳二/応安四(一三七二)年)は赤松則村の子。ウィキの「赤松則祐によれば、後醍醐天皇の「元弘の乱」勃発時、『則祐は比叡山延暦寺に入って律師妙善と称しており、その縁によって後醍醐天皇の皇子で天台座主であった護良親王に付き従い、熊野、十津川、吉野城などで転戦した』。ここにある通り、元弘三(一三三三)年、『護良親王の使者として倒幕の令旨を父・円心(則村)に届け、赤松氏は播磨で挙兵、父に従って東上』、『瀬川合戦にも従軍、京都の六波羅探題を攻撃』した。『則祐には武勇伝が多く、『太平記』にも幾つか記されている。熊野や十津川では護良親王を守って善戦。父に従っての高田兵庫輔頼重との戦いにおいては、後方撹乱を実行し、西条山城に突入して勝敗を決めた。また、洛中での桂川の戦いでは、増水した桂川に単騎で踊りこみ、敵陣一番乗りを果たした。京都においても相撲人としての武勇伝があったという(『梅松論』)』。『建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻すと』、『父や兄らと共に尊氏に味方し』、建武三(一三三六)年に『尊氏が後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れ、九州へ落ち延びた後は父と共に播磨で待ち構えた』。これは、『後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐこと』が目的『で、父は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し』、『感状山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促』している。正平五/観応元(一三五〇)年、「観応の擾乱」の最中、『父が没し、長兄・範資が当主及び播磨・摂津守護となるが』、翌年、急死し、その『遺領は分割され、摂津は甥の光範に与えられ、則祐は当主・播磨守護となる』。『この決定の理由については、舅(しゅうと)が幕府の実力者佐々木道誉だったことと、長年』、『父の下で功績を積み重ねてきたことが挙げられる。次兄・貞範が幕府に疎まれていたことも家督相続に繋がった』。同年七月に『護良親王の皇子・陸良親王を推載、南朝に降った。このため』、『尊氏の嫡男・義詮の討伐を受けるが、直後に義詮の叔父・直義が京都から出奔したため、この軍事作戦は謀略で則祐の降伏は偽装ともされるが、真相は不明。翌年の正平一統で南朝が京都を占領、北朝の皇族を連れ去って義詮が諸大名の動員を命じると』、『これに応じて帰順』、正平八/文和二(一三五三)年に『南朝への備えとして城山城を築城した』。正平一〇/文和四(一三五五)年には『松田氏に代わって備前守護に任じられた』。正平一四/延文四(一三五九)年)、第二代将軍『義詮の南朝征討に従軍』、正平一六/康安元(一三六一)年には『幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨の白旗城へ避難させた』。『この時』、『則祐は義満の無聊を慰めるため、家臣に命じ』、『風流踊り「赤松ばやし」で接待した』。『これを大いに喜んだ義満は将軍になった後も毎年』、『赤松屋敷を訪ねてこれを見たという』。翌正平一七/貞治元(一三六二)年には『山名時氏と戦い』、建徳元/応安三(一三七〇)年、禅律方(室町幕府に置かれた禅宗・律宗寺院(個人としての禅僧・律僧も含む)関係の訴訟等を取り扱った機関。室町幕府はこれを設けることで禅律寺院を保護・統制したと推測されている)に任命され、『管領の細川頼之を補佐した』。『死因は肺炎だったとされる』。

「野長瀨(のながせの)六郎兄弟」野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡。ウィキの「野長瀬氏」によれば、『赤坂城の戦いに敗れた尊雲法親王(のちに還俗して大塔宮護良親王)が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき』、彼ら兄弟が『軍勢を率いて援けた。危機の連続であった大塔宮護良親王が下赤坂城を逃れて以来』、『はじめて配下に収めた軍勢で、これを機に宮方を一旦離反しかけた十津川も』、『再び』、『大塔宮護良親王に従い、玉置山衆徒も味方につき、大和の宇智、葛城の郷士達も味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援の体制ができあがった。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後、横矢氏も称するようになった』。『野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた』。『その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続』したとある。

「愛染寶塔(あいぜんはうとう)を城に構へて」愛染明王の宝塔を槇野の城に建てて。槇野城は現在の五條市にあったが、手狭であったために、後に吉野城に移っている(移転は元弘二(一三三二)年六月二十七日以前。ここはウィキの「吉野城」に拠った)。

「嫡子範資」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は赤松則村(円心)の嫡男(則村の弟という説もあるらしい)。赤松氏五代当主。ウィキの「赤松範資によれば、初め、弟貞範とともに摂津長洲荘の代官として派遣されたが、この時、『父が鎌倉幕府討幕のために挙兵した際、父に従って京都での戦いで武功を挙げた。ところが、その後の後醍醐天皇の建武の新政で赤松氏が行賞で冷遇されたため、父と共に足利尊氏に与し、朝廷軍と各地で戦って武功を挙げた。それにより室町幕府成立後、尊氏から摂津守護に任じられた』。正平五/観応元(一三五〇)年の『父の死により家督を継いで当主となる。同年、尊氏の弟・足利直義と高師直の対立である観応の擾乱では尊氏・師直側に味方して直義軍と戦い、打出浜の戦いに参戦している』が、翌年、『京都堀川七条の自邸にて急死』した。『摂津は嫡男・光範が、家督と播磨は弟・則祐が継いだ。他の子らはそれぞれの所領から改姓して一門衆になったとされる』とある。

「佐用莊(さよのしやう)苔繩山(こけなはやま)」現在の兵庫県赤穂(あこう)郡上郡町(かみごおりちょう)苔縄(こけなわ)にあったとされるが、位置は不明。一応、この中央附近とされるが(グーグル・マップ・データ)、遺構は発見されていない。

「宗徒(むねと)の」主要な。

「阿曾(あその)彈正少弼」北条(阿蘇)治時(文保二(一三一八)年~建武元(一三三四)年)。得宗家の傍流阿蘇家の第四代当主。父随時が二十八歳の時、鎮西で誕生、第十四代執権北条高時の猶子となっている。「太平記」では、この時に差し向けられた鎮圧軍の筆頭に北条一門として彼の名が挙げられており、楠奪還後の第二回の赤坂城攻略戦では、大将として出陣しているが、ウィキの「北条治時」によれば、満十五歳と、『若年であるため、軍奉行として御内人長崎高貞(長崎高資の弟)が補佐。苦戦の末に水源を絶ち、これを陥落させた』とある』。『続いて楠木正成の本拠地千早城を攻めたが(千早城の戦い)、楠木勢の頑強な抵抗に遭って落とせず』、五『月になって京都の六波羅探題が陥落したため、討伐軍は自壊する。治時と高貞は大仏貞宗・高直兄弟らとともに興福寺に篭り』、『抗戦を続けた』が、『鎌倉陥落の報を聞き』、六月五日、『般若寺で出家して降伏するが』、建武元(一三三四)年七月九日、『京都阿弥陀寺で高貞、貞宗、高直らとともに処刑された』。享年十七。

「吉河八郎」「太平記」では「吉川」。新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『藤原南家、工藤氏の一門』とする。

「城の本人」城主。

「平野(ひらのゝ)將監入道」同前の山下氏の注によれば、『河内の豪族』とする。

「矢尾(やをの)別當顯幸(けんかう)」八尾城(現在の大阪府八尾市内。正確な位置は不明)を築いて城主として権勢を持ち、後に楠木正成八臣の一の家来となり、大いに南朝方に尽した武士。権僧正でもあった。正成が湊川で戦死した後は和田・恩智両氏とともに正成の子正行を助けたが、延元三(一三三八)年に八尾城で病死したと伝えられる。

「正慶二年」元弘三年。一三三三年。

「二階堂出羽〔の〕入道道薀(だううん)」既出既注

「吉野の執行(しゅぎやう)」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の注によれば、『吉野の金峰山(きんぷせん)寺蔵王(ざおう)堂にあって、事務や法会(ほうえ)をとりしきる官』とある。「吉野」とあるからといって後醍醐方と誤ってはいけない。この「岩菊丸(いはぎくまる)」(事蹟不詳)は立派な鎌倉幕府方である。

「村上〔の〕彦四郎義光」彦四郎。同前の山の注によれば、『清和源氏』『「義日」とも書く』とある。

「御諱(おんいみな)を犯して自害す」御名前を詐称して。親王の装具を著け、身代わりとなって自害したのである。

「千劍破(ちはやの)城」千早城に同じ。現在の大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早にあった、四方を絶壁に囲まれ、要塞堅固を誇ったとされる連郭式山城。先の「金剛山」の注でも少し述べたが、四方の殆んどを深いに谷に囲まれ、城の東北後背のみが金剛山の山頂に峰で連絡する要害の地である。ここ(グーグル・マップ・データ)。この時、奇策で幕府軍を嘲弄したそれはウィキの「千早城」に詳しいが、要所を引くと、『上赤坂城で勝利した鎌倉幕府軍は、一気に攻略しようと、ろくに陣も構えず、我先にと攻城した。千早城では櫓より大石を投げ落とし応戦し逃げ惑う兵に矢と飛礫が降りそそぎ、谷底に死体の山がうず高く重なった』とされ、「太平記」には「長崎四郎左衞門尉(ざゑもんのじやう)、軍(いくさ)奉行にてありければ、手負・死人の實檢をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人、夜晝三日が間(あひだ)、筆をも置かず記せり」とある。『鎌倉幕府軍は、上赤坂城の例にならい』、『水源を断ち持久戦に切り替えたが、城内には大木をくり抜き』三百『もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えていた。長引く籠城戦で士気に緩みが見えてくると、楠木正成は策をめぐらし』、『わら人形を』二十~三十体『作らせ、甲冑を着せ』、『弓や槍を持たせた。その人形を』、『夜のうちに城外の麓に並べ、後ろに兵』五百人を『潜ませ、夜明けになると』、『鬨の声をあげさせた。鎌倉幕府軍は決死の攻撃と思いこみ』、『攻め寄せた』ため、五百の伏兵は『矢を放ちながら』、『徐々に城内に引き上げた。鎌倉幕府軍がわら人形に到達した所を見計らい、大量の大石を投げ落とし』、この一時だけで、三百名が即死、五百名が負傷している。『鎌倉幕府軍の持久戦に対して、同年』三月四日には、『鎌倉より厳しい下知が届き、将士を督励することになった。そこで鎌倉幕府軍は近くの山より城壁ヘ橋を掛けて一気に攻め上ろうとした。京都より大工衆』五百『余人を呼び集め』、巾十五尺(四・五メートル)、長さ百尺(三百メートル)もの橋を『造り、大縄をつけて城内へ殺到した。楠木正成は、かねてより用意していた水鉄砲の中に油を入れ橋に注ぎ、それに松明を投げた。城内にたどり着こうとしていた兵は後ろに下がろうとしても後陣が続いており、飛び降りようにも谷深く、もたもたしていると』、『橋けたの中ほどより折れ、数千名が猛火に落ち重なって火地獄になったと』、「太平記」には記載されている。但し、「太平記」『以外の史料に』この『「長梯子の計」の記述が無いことから』、『信憑性に疑問があるが、本丸の北側の渓谷は谷が深く、北谷川上流の風呂谷には「懸橋」という地名が残っていることから』、『「太平記には誇張はあるにしても実際に実行されたと考えられる」と』する肯定説もある。

「陸奥〔の〕右馬〔の〕助」北条(金沢)貞将(乾元元(一三〇二)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は十五代執権北条貞顕の嫡男。私の非常に好きな武将である。ウィキの「北条貞将より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『母は北条時村の娘』。『鎌倉時代末期の倒幕運動の中で幕府軍の将として各地を転戦して活躍したが、新田義貞軍に敗れてこの時、父と同じく壮烈な最期を遂げた』。『兄に顕助がいるが』、『庶子扱いされているので、正室(北条時村の娘)の長男である貞将が嫡子である』。『文保二年 (一三一八年)、評定衆となり、引付五番頭人などを務める。この頃に出自は不明であるが』、『正室を迎えている。また』、『この頃には従五位下の位階と右馬権頭の官位を持っていたとされ、文保二年の六月二十五日に評定衆に列し、官途奉行を兼任した。十二月には引付衆五番頭に就任している』。『正中元年(一三二四年)九月十九日、正中の変が発生すると、十一月十六日に六波羅探題南方となり上洛するが、この時に貞将は五千騎の軍勢を率いて上洛した。貞将は以後、執権探題として京都の動静を探り職務を遂行していった。上洛してわずか三日後に六条坊門猪熊から出火した火事を鎮火している。嘉暦四年(一三二九年)八月一日に越後守から武蔵守に転任する』。『元徳元年(一三二九年)より父・貞顕の根回しもあり、元徳二年(一三三〇年)四月に探題職辞任が決定し、七月十一日に正式に辞任して京都を出発した。鎌倉に帰還した後の七月二十四日に引付一番頭人に任じられ』ている。『元弘三年/正慶二年(一三三三年)五月八日、新田義貞が隠岐を脱出した後醍醐天皇に呼応して上野新田庄の生品神社で挙兵すると、十日に幕府軍の大将として防衛のため』、『下総下河辺荘を目指して進発し、六浦庄で軍勢を整えたが、武蔵鶴見川付近(横浜市鶴見区)で義貞に与した従兄の千葉貞胤や小山秀朝の軍勢に敗れて鎌倉に引き返した』。『鎌倉に戻ると』、『鶴見の敗戦』を受けて、『軍勢を再編成していたが、洲崎の戦いで執権の赤橋守時軍が新田軍に敗れて壊滅すると、守時軍に代わって巨福呂坂を防備する。ここには新田氏の一族である堀口貞満に攻められ、戦いは五月二十日から五月二十二日まで激しく攻め続いたという』。『軍記物語「太平記」巻第十の「大仏貞直金沢貞将討死事」では貞将軍は連戦で兵力が八百人にまで減少し、自身も七か所に傷を負ったため、北条一門の篭る東勝寺に撤退して得宗の北条高時に最後の挨拶を行なった。この時に高時からそれまでの忠義を賞されて、六波羅探題の両探題職と相模の守護職を与えられたとしている。だが、当時の貞将は引付頭人一番の職にあり、また六波羅探題職もかつて在職経験があるため』、『逆に左遷に近い恩賞を与えられている事になる(恩賞になるのであれば』、『父・貞顕と同じ連署か執権への就任だけである)。それゆえ、「太平記」記述の両探題職は当時の著「沙汰未練書」の記述から六波羅探題ではなく、もう一つの意味の執権・連署を指し、連署には北条茂時がおり、一方で執権が赤橋守時の戦死によって空席の状況下、武蔵守から執権の殆んどが任官する相摸守への異動により、執権(第十七代執権)に任用されたと解する説がある』。『その後、貞将は「冥土への思い出になるでしょう」と御教書を受け取って戦場に戻り、新田軍に対して突撃を敢行し、嫡男の忠時ら』、『多くの金沢一族と共に戦死した。その最期は「太平記」に壮烈な描写で記されており、高時から与えられた御教書の裏に「棄我百年命報公一日恩」(我が百年の命を捨て、公の一日の恩に報いる)と大文字で書き、それを鎧に引き合わせ(胴の合わせ目)に入れたのち、敵の大軍に突撃して討死にしたという。その姿に敵味方問わず』、『感銘を受けたとされる』。

「不敵」大胆不敵。敵になるものがないかのごとく、大胆にして恐れを知らぬさまを指している。

「この間に、兵粮(ひやうらう)に詰(つま)りて、皆、本國に引いて皈る。初(はじめ)、八十萬餘騎と聞えしかども、今は僅に十萬餘騎にぞなりたり」やや先走るが、ウィキの「千早城」によれば、このように『幕府が千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、後醍醐天皇(先帝)が』三月二十三日(或いは閏二月二十四日か?)に『隠岐国の配所を脱出、討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた守護が相次いで帰国した。関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡することとなる。鎌倉幕府が滅亡するのは』、ここでの百日戦争『(千早城の戦い)が終了した』、僅か十二『日後のことであった』とある。

「山里(やまのさと)・梨原(なしはら)」の間。「山里」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)山野里(やまのさと)。「梨原」は現在の兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原(なしがはら)。この中央附近か(グーグル・マップ・データ)。

「三石(みついし)の住人伊東〔の〕大和次郎兄弟」新潮日本古典集成「太平記 一」の山下宏明氏の「大和次郎」の注によれば、『吉備(きび)』(吉備国は現在の岡山県全域と広島県東部及び香川県島嶼部と兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部)を含む)『の豪族』とある。

「三石山」現在の岡山県備前市三石(東近くに兵庫県県境)にあるここ(グーグル・マップ・データ)。標高は二百九十七メートルと低い。

「加治〔の〕源二郎左衞門」先の山下氏の注によれば、姓としては「加地」が正しいようである。『宇多源氏の佐々木盛綱の子孫。盛綱が藤戸渡りの功』(「藤戸の戦い」は「治承・寿永の乱」での一戦。備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で、寿永三/元暦元年十二月七日(一一八五年一月十日)に行われた戦いで、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約五百メートルの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かったが、「吾妻鏡」によれば、波濤が激しく船もなかったことから、盛綱らが浜辺に轡を並べて躊躇していたところ、平行盛がしきりに挑発、盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま、郎従六騎を率いて、藤戸の海路三町(約三百二十七メートル)余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたとされる。ここはウィキの「藤戸の戦い」に拠った)『児島を賜ってから、この土地の豪族となった。現在、岡山市に可知の地名が残る』とある。

「高田兵庫〔の〕助が城」同じく山下氏の注によれば、『兵庫県赤穂郡上郡町に古くから高田郷の地名があった。その土地の豪族であろう。苔繩の東方に当る』とある。

「兵庫の北なる摩耶(まや)と云ふ山寺」現在の兵庫県神戸市灘区の六甲山地中央にある標高七百二メートルの摩耶山(まやさん)山頂には、現在、近くに移転している(放火による全焼のため)真言宗佛母摩耶山忉利天上寺があった。

「伊豫國の住人土居(どゐの)二郎」(?~建武三(一三三六)年)は、まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県松山市土井町の豪族。土居通益(みちます)』とある。ウィキの「土居通増」によれば(「益」「増」の違いはままある)、『土居氏は河野氏の傍流で、伊予久米郡石井郷南土居に所領を構えていた』。元弘三(一三三三)年閏二月十一日、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である得能通綱・忽那重清』(くつなしげきよ 生没年未詳:伊予(愛媛県)忽那諸島を本拠とする水軍。後醍醐に呼応して挙兵、足利尊氏が建武政権に反すると、足利軍の追討に当った。建武三/延元元(一三三六)年、尊氏が九州から京都に向かうと、足利方に転じ、京都・安芸などで戦っている)『・祝安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した長門探題北条時直を、石井浜で敗走させた』。同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』その十一日後の三月十二日には、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた。また』、五月には『讃岐まで遠征』、『幕府方の勢力を破っている』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、伊予権介、続いて備中守に任官。南北朝の争乱が起こると、通増は通綱と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三年二月十日の『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した』。『また、同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破』っており、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍している』。同年十月十日、『南朝勢力再建のため』、『北国へ赴く義貞に従い、越前へ向かうが、その途中、険しい山路で知られる越前荒乳で斯波高経の襲撃に遭』い、『予想外の降雪による寒波と兵糧の不足する中、高経の攻撃を受け、通増は一族と共に戦死した』とある。

「得能(とくのうの)三郎」(?~延元二/建武四(一三三七)年)まず、同じく山下氏の注によれば、『河野氏族で、愛媛県周桑(しゅうそう)郡丹原(たんばら)町徳能の豪族。得能通綱(みちつな)』とある。ウィキの「得能通綱によれば、『得能氏は伊予の河野氏の一族で、桑村郡得能荘を所領としていた』。この時、『鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である土居通増・忽那重清・祝』(ほうり)『安親らと共に挙兵し、伊予守護宇都宮貞宗の府中城を攻略。次いで、反幕勢力討伐のため』、以降、殆んど先の土居と同行しているが、煩を厭わず引いておくと、伊予へ進軍した長門探題北条時直を』『石井浜で敗走させ』、同年三月一日には、『喜多郡にある宇都宮貞泰の拠る根来山城を攻撃』、『十日余りで陥落させ』、『再び伊予へ侵攻してきた北条時直を星岡で破り』、『長門まで撤退させた』。五月には『讃岐まで遠征し』、『幕府方の勢力を破っている。また、村上義弘や忽那義範と共に水軍を指揮して幕府の糧道を封鎖する等、倒幕へ貢献した』。『建武政権では、従五位下に叙爵され、備後守に任官。南北朝の争乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり』、『新田義貞に属し』、建武三(一三三六)年二月十日、『摂津での豊島河原合戦では足利軍を撃破した。同月、風早郡で挙兵した赤橋重時を打ち破り』、五月二十五日の『湊川の戦いにも従軍した』。『南朝勢力再建のため北国へ赴く義貞に従い』、十月十三日に『越前金ヶ崎城へ入城するが、北朝方の斯波高経に城を包囲される(金ヶ崎の戦い)。通綱は奮戦したが』、翌年三月六日に戦死した。

「長門の探題」鎌倉後期、モンゴルの襲来に備えて、長門・周防防衛のために設けられた幕府の出先機関。長門周防探題とも称し、鎮西探題に準じて設けられた。建治二(一二七六)年に北条得宗家の北条宗頼(時頼の子で、時宗の異母弟)を長門・周防両国の守護として派遣し、敵襲の防衛に当らせたのが、事実上の初めで、以後、北条一族がその地位を相伝し、諸国の守護以上の強力な権限を与えられた。「探題」という称呼は、最後の同職に就いた北条時直在職 (一三二三年~一三三三年) の時に初めて見える。元弘三/正慶二 (一三三三) 年五月、時直が後醍醐天皇に降伏、長門探題は滅びた(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「上野〔の〕助時直(ときなほ)」北条(金沢)時直(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)。金沢流(実質初代。始祖は実時の父実泰であるが、実泰は若くして出家しているため)北条実時の子。ウィキの「北条時直」によれば、嘉禎三(一二三七)年に式部大輔に叙任、寛元四(一二四六)年から建長三(一二五一)年まで遠江守となる。永仁三(一二九五)年から文保元年(一三一七)年まで上野介・大隅守護を務めており、永仁五年には鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐している。元亨三(一三二三)年、周防・長門の守護に任命され、長門探題となった。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月十一日及び三月十二日に、『祝安親・土居通増・得能通綱・忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ、長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する』。しかし、五月、『厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れ』たが、海上にあるうちに、『六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び』、『孤立無援となった』。このため、五月二十六日、『朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された』が、『程なく没した。死因は病死であったという』。因みに、彼の年齢は、嘉禎三(一二三七)年の式部大輔の叙任から推定して、生年は当然、嘉禎年間(一二三五年から一二三七年)より十年以上は前と考えねばならぬから、亡くなった時は優に百歳を越えていたと考えないと、辻褄が合わない。]

2018/06/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 書中落涙

 

     書中落涙

 

 二月十二日、居士は熊本の漱石氏宛に長文の手紙したためた。病中の心境をこまごまと述べたもので、「決して人に見せてくれ玉ふな。若し他人に見られてハ困ると思ふて書留にしたのだから」と断ってあるが、惻々(そくそく)として人を動かすところが多い。羯南翁に関する左の一節の如きは、特に看過すべからざる文字である。

[やぶちゃん注:「惻々として」身にしみて感ずるさま。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後一行空けた。前の引用を含め、「子規居士」で校合した。特異的にカタカナ表記の「子規居士」版を採り、約物「ヿ」(コト)も採用した。異様な長さのリーダもそのままである。底本は十字分(三十点)しか打たれていない。]

 

『日本』ハ賣レヌ、『ホトヽキス』ハ賣レル。陸氏ハ僕ニ新聞ノヿヲ時々イフ(コレハ只材料ヤ體裁ナドノヿ)ケレドモ僕ニ書ケトハハイハヌ。『ホトヽキス』ヲ妬(ねた)ムトイフヤウナヿハ少シモナイ。僕ガ『ホトヽキス』ノタメニ忙シイトイフヿ十分知ツテ居ル故………………………………………………………………………………………………(此間落泪(らくるい))

僕ニ『日本』ヘ書ケトハイトハイハヌ、ソウ[やぶちゃん注:ママ。]シテイツデモ『ホトヽキス』ノ繁昌スル方法ナドヲイフ。ソレデ正直イフト『日本』ハ今賣高一萬以下ナノダッカラネ(賣高ノヿハ人ニイフテ呉レ玉フナ)。僕カライヘバ『日本』ハ正妻で『ホトヽキス』ハ權妻(ごんさい)トイフワケデアルノニ、トカク權妻ノ方ヘ善ク通フトイフ次第ダカラ『日本』ヘ對シテ面目ガナイ。ソレデ陸氏ノ言ヲ思ヒ出スイツモ淚ガ出ルノダ。德ノ上カライフテ此樣ナ人ハ餘リ類ガナイト思フ。(其陸ガ六人目ニ得タ長男ヲ失ツテ今日ガ葬式デアツタノダ、天公(てんこう)是カ非カナンテイフ處ダネ)

 

 居士が社会の人となって以来、『日本新聞』社員として終始した所以のものは、何よりも羯南翁の徳に感じたところが大きかったろうと思う。羯南翁と居士との関係は、普通一般の社長対社員の如きものでなかったのは勿論、性格が合うとか、意見が一致するとかいう点で結ばれているものでもない。もっと深い情の契合(けいごう)であった。夜半この一書をしたためるに当り、掲南翁の事を思い浮べて覚えず落涙するというところに、津々(しんしん)として尽きざる情味が窺われる。

[やぶちゃん注:「契合(けいごう)」合わせた割り符のように、二つの対象が完全にぴったりと一致すること。

「津々(しんしん)として」つぎつぎと溢れ出てきて、尽きることがないさま。

 次の段落の引用も同前の処置をした。]

 

 同じ手紙の中に

 

『日本』ヘ少シ書ク。歌ノ方ヲ少シ研究スルト歌ニノリ氣が出來テ俳句ノ方ヘ少シ疎遠ニナル(貴兄ノ謠ト俳句ト兩方ヘハトイツタヤウナ處デモアラウ)。二月分ノ『ホトヽキス』ノ原稿ハマダ一枚モ出來ンノダ。察シテクレ玉ヘ、僕ガコノ無氣力デ此後一週間位ノ間ニ『ホトヽキス』ヲ書イテシマハネバナラヌト思フテ前途ヲ望ンダ時ノ僕ノ胸中ヲ。

 

といウことが書いてある。『ホトトギス』二月号は遅延のため遂に休刊し、三月号と合併して出すことになった。居士はこの号のために「糞の句」「奇想変調録」「一句一題」その他、比較的多くの原稿を寄せたが、これを境界として『ホトトギス』に居士の名を見ることが少くなった。「俳句分類」もこの号限りで出なくなっている。歌に力を用いるようになった結果、俳句の方に疎遠になったところもあるかも知れぬが、それよりも居士の健康が以前のように諸事を併行(へいこう)しむるわけに行かなくなったためだろうと思われる。

 『日本』には短歌会記事や募集短歌の外に、「短歌愚考」「『草径集』を読む」「『磐之屋歌集』を読む」など、歌に関するものがぽつぽつ現れた。『草径集』は大隈言道(おおくまことみち)、『磐之屋集』は丸山作楽(まるやまさくら)の歌集である。作楽は居士が当代の歌において、僅に敬意を払い得た一人であった。「要するに氏は歌人にあらず、從つて其歌變化に乏し。然れども飽くまで『万葉』の高きを學びて今の世に得難き佳什(かじゅう)を残したるは却て其歌人ならざりしがためのみ」といっている。

 当時の歌人の畠には居士を満足せしむる者は見当らなかったのである。

[やぶちゃん注:「大隈言道」(寛政一〇(一七九八)年~慶応四(一八六八)年)は江戸後期の歌人。福岡の商家の出。

「丸山作楽」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)は外交官・実業家・政治家。江戸生。島原藩士の長男。漢学・洋学を修め、国学を平田鉄胤に学び、影響を受けた。勤王の志士とともに国事に奔走、。明治二(一八七〇)年には外務大丞として樺太でロシアと交渉した。しかし、同四年、征韓論に同調して、一時、投獄されている。明治十五年には「立憲帝政党」を組織して、日本帝国憲法や皇室典範の制定に参画した。明治二〇(一八八七)年のアメリカ外遊後、元老院議官・貴族院議員となった。万葉調の歌人としても知られる。

「佳什」優れた詩歌。立派な文学作品。「什」は「詩経」の「雅」(「詩経」の六(りくぎ:同書に於ける六種の分類。内容上の分類に相当する「風」・「雅」・「頌しょう)」、及び、表現上の分類に相当する「賦 」・「比」・「興きょう)」の六部立) の一つ。周王朝の儀式や宴席でうたわれた詩歌。大雅・小雅に分かれる。)と「頌」(しょう:同じく「詩経」の六義 の一つ。祖先を祀った宗廟そうびょう)に於いて祖先の徳を讃える詩)の十篇をいう「篇什」に基づく語で、「詩篇」の意。]

諸國里人談卷之二 星糞

 

     ○星糞(ほしくそ)

信濃國岩村田の邊〔あたり〕に「星糞」といふ石あり。春、田耕(たがや)すころ、土中より、掘出(ほり〔いだ〕)す也。色、うす鼡(ねずみ)にして、性(しやう)は水晶石に似たり。大きなるは稀也。燧石(ひうちいし)の欠(かけ)たる程の石角(いしかど)だちたる也。此地は、他所(たしよ)より、流星(りうせい)、多き所なり。すぐれて流星あるとしは、此石もまた、おほし。これを「星糞」といふ。

[やぶちゃん注:「信濃國岩村田」現在の長野県佐久市岩村田(いわむらだ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 さて、前の「月糞」で引いた天中原長常南山(中野得信)編「山家鳥虫歌」の私の翻刻を再掲する(「黑き燒石の如くもの」は頭注に従い、訂した)。

   *

美濃國、心やはらかにしてよき風なり。此の國、月吉村といふ所に長さ、一、二寸ばかりある、薄白き寶貝(ほらかひ)の如き、「月糞」といふ石あり。同所、村田の邊に「星糞」と云ふものあり。上天の星は末代かはらず、「流星」は、地中より出づる陽氣にて空へあがり、「冷際」と云ふ大寒の所あるにあたり、すれて光を發し、落つるものを「流星」と名づけいふなり。土中の陽なるゆゑ、土氣を含み、のぼる。大なる「流星」は地まで、火光、とゞく。ともし火のしんあるが如く、陽は發し、土氣はかたまりて、黑き燒石の如きもの、地へ落つる。これを「星糞」といふなれば、岩村に限りてあるとは、いぶかし。

   *

ここでは「同所」となっていて、それだと、「美濃國」の「村田」という場所になるが、最後のところで「岩村」とあるから、ここは「岩」の脱字で「岩村田」という地名か、「岩村〔の〕田(た)の邊(あたり)」、或いは「村田」自身が「岩村」の誤りとも読める。しかし、まず、現在の岐阜県内には「岩村田」という地名はない。「村田」というありそうな地名もちょっと見つからない。但し、「岩村」ならば、岐阜県恵那市岩村町があるここ(グーグル・マップ・データ)。私の注の最後に関わるので太字とした)。しかし、何より、沾涼ははっきりと「信濃國岩村田」と記している訳で、まずはそれで考証するのがここは筋である。前条で引かせて戴いた「山家鳥虫歌」を素材としたMineralhunter氏のサイト「Mineralhunters」内の『「山家鳥虫歌」にみる石と鉱物』でも、実は同じように、この記載にとまどっておられ、「月糞」の考証の後で(一部の空欄や記号を詰めたり、変えたり、させて貰った)、

   《引用開始》

 しからば、『星糞』とは何だろう。「山家鳥虫歌」には、『同所岩村田の辺……』[やぶちゃん注:これはサイト主が底本とした岩波文庫による補正と思われる。]に産する、とある。『同所』は、前文を受け、美濃の国(現岐阜県)を指すはずだが、岐阜県には岩村田という地名を見いだせない。

 逆に、『星糞』、という地名を探すと、長野県の長和町に「星糞峠」なる地名があり、佐久市岩村田のすぐ近くだ。[やぶちゃん注:(国土地理院地図)。「星糞峠黒曜石原産地遺跡」がある。但し、岩村田からは南西に二十七キロメートルは離れているので、失礼乍ら、現在の感覚では「すぐ近く」とは言い難い。]

 星糞峠近くにある、「黒耀石体験ミュージアム」のHPを閲覧すると、「星糞という言葉」の記事が載っている。「人の手が加わって割れた黒耀石のかけらは、光をあびてキラキラと輝く。この黒く半透明の輝く石を、いつの頃からか、人は『星糞』という素朴な名前で呼び親しんできた」、とある。

 同時に、「江戸時代の会津藩の古文書の中に、黒耀石を方言で『星糞』とも呼んでいるという情報が寄せられた」、ともある。

 つまり、『星糞』とは、古代人が石器の材料として黒曜石を掘り出したり、加工したときに生まれた剥片を指しているようだ。

   《引用終了》

私も「黒耀石体験ミュージアム」を覗いてみた(アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

星のようにキラキラと輝く美しい黒耀石。鷹山にある黒耀石の原産地を、いつの頃からか、人々は星糞峠と呼ぶようになりました。

割れ口が鋭く加工しやすい黒耀石は、およそ三万年もの間、石器の材料として利用されてきました。産地の限られる貴重な黒耀石をもとめて、この鷹山の地にはたくさんの人々が集まり、星糞峠からそのふもとの一帯には、黒耀石の流通に関係した、大きな遺跡がいくつも残されています。全国各地へと、遠い道のりを持ち運ばれていった黒耀石。

この地は、まさに、その「ふるさと」なのです。

[やぶちゃん注:小見出しを省略した。]

およそ八十七万年前の噴火でできた星糞峠の黒耀石。旧石器時代には、そのふもとに石器工場のような遺跡が、縄文時代には、峠の付近で黒耀石を掘り出した鉱山のような大規模な遺跡が残されました。

   《引用終了》

とある。以上から、この「星糞」とは黒曜石、それも沾涼が「大きなるは稀也。燧石(ひうちいし)の欠(かけ)たる程の石角(いしかど)だちたる」ものであると言っていることから、縄文以降、人々によって鏃や石器に加工された遺物としてのそれらであったことが判明するのである。私は小さな頃、父に連れられて、練馬の大泉学園の川添いの寺院の墓地の裏手の丘陵や(幼稚園時)、今居る近くの戸塚小雀の浄水場近くの休耕畑から(小学生低学年時)、驚くほど多量の黒曜石の鏃を発掘した経験がある(前者のある場所は、地面を蔽ってしまうほどに露出していた)。かつての古代人の住居であった田圃から鏃が出てきて、何ら不思議はないのである。