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2016/12/09

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 大人國(7) 猿にからかはれて(Ⅱ) 現行通行本に存在しない「牛の糞」パートが存在した!!!

 

 これなかなか〕〔は〕面白かつたのが、〔かつたとも、〕癪にさわつたと〔も〕いふのか、〔けることなのですが、〕とにかく、私が一人で步いてゐると、小鳥でさへ〔、〕私を怖がらないのです。まるで〔、〕人がゐないときと同じやうに、〔私から〕一ヤードもない近い〔ところを、〕平氣で、蟲や餌を探して〔、〕跳びまはつてゐました。ある時など、一羽のつぐみが、〔これは〕実にずうずうしいつぐみで、私がグラムダルクリツチから貰つた菓子を、ひよいと、私の手から浚つて行つてしまひました。捕へてやらうとすると、相手は却つて私の方へ立ち向つて來て〔、〕指を啄かうと〔し〕ます。〔それで〔、〕〕私が指をひつこめると、こんどは〔、〕平氣な顏をして〔で〔、〕〕蟲や蝸をあさり步いてゐるのでした。

[やぶちゃん注:「一ヤード」九十一・四四センチメートル。

「つぐみ」原文は“thrush”。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ツグミ科 Turdidae のツグミ類の総称であるが、ここはツグミ属 Turdus まで絞ってよかろう。

「啄かう」「つつかう」。

「蝸」ママ。「蝸牛」の脱字であろう。現行版では「かたつむり」とひらがな書きである。]

 だが、ある日たうとう〔、〕私は太い棍棒を持ち出して、一羽の紅雀めがけて〔、〕力一ぱい投げつけると、うまく命中して〔、〕相手は伸びてしまひました。〔で〕〔〕早速〔、〕首の根つ子をつかまへ、乳母のところへ〔、〕喜び勇んで〔、〕持つて行かうとしました。

[やぶちゃん注:「紅雀」スズメ目カエデチョウ科ベニスズメ属ベニスズメ Amandava amandava であるが、本種は北アフリカ・中東・インド・中国南部を含む東南アジアに分布する鳥で、ちょっと怪しい気がした。そこで、原文を見ると、ここは“linnet”で、これはスズメ目スズメ亜目ズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ属ムネアカヒワ Carduelis cannabina を指すことが判った。同種はヨーロッパ・西アジア・北アフリカに分布する。ウィキの「ムネアカヒワ」によれば、『スリムな鳥で、長い尾を持つ。上半分は茶色で、喉は汚れた白色、嘴は灰色である。夏季の雄は首筋が灰色、頭の斑点と胸は赤色である。雌や幼鳥には赤色はなく、下半分が白色で胸には淡黄色の筋がある』とある。グーグル画像検索「Carduelis cannabinaをリンクさせておく。ああっつ! 確かに! 「紅」の「雀」だ!]

 ところが〔、〕鳥は一寸目をまはして氣絶してゐただけ〔なの〕で、ぢきに元氣を取りもどすと、〔兩方の〕翼で、私の頭をポカポカなぐりだしました。爪で引つかかれないやうに、私〔は〕持つて〔手〔を〕ず〕つと前へ〔のば〕して〔、〕〔つ〕かまへてゐたのですが、よつぽどのことで〔もう〕放してしまはうかと思つたのです。しかし、そこへ私の〔、〕召使の一人がかけつけて來て、鳥の頸(クビ)をねぢ切つてしまひました。そして翌日、私は〔私は〕王妃の 晩餐〔で〕その〔それ〕〔を〕〔御馳走してもらつて〕食べました。

[やぶちゃん注:「私の頭を」現行版は『私の顔を』となっている。

「そして翌日、私はそれを御馳走してもらつて食べました。」現行版は『そして翌日、私はそれを料理してもらって食べました。』となっている。]

 

 王妃は、私から航海の話を〔〕聞いたり、また私が陰氣にしてゐ〔たりす〕ると、〔いつも〕一生〔しきり〕に慰めて下さるのでしたが、ある時、〔ある時〕からおたづねになりました。〔私に、帆やオールの使ひ方を〕知つてゐるか、少し舟でも漕いでみたら〔、〕健康によくはあるまいか、とお尋ねになりました。私は〔、〕普通の船員の仕事もしたことがあるので、帆でもオールでも使へます〔、〕とお答へしました。だが、この國の船ではどうしたものか、それはちよつとわかりませんでした。一番小さい舟でも私たちの國の第一流軍艦ほどもあるので、私に漕げるや〕やうな船は〔、〕この國の川に浮べられさうもないのです。〔ありません。〕しかし王妃は〔、〕私が〔ボートの〕設計をすれば、お抱への指物師にそれを作らせ、私の乘り𢌞す場所もこさへてあげる〔、〕と言はれました。

[やぶちゃん注:「私に漕げるや〕やうな船」はママ。現行版では『私に漕げるような船』である。]

 その〔そこで、〕器用な指物師〔が、〕私の指圖にしたがつて、十日かかつて、一〔隻〕の遊覽ボートを造り上げました。船具も全部揃つてゐて、ヨーロツパ人なら八人は乘れる〔さうな〕ボートでした。それが出來上ると〔、〕王妃は非常に喜び、そのボートを前掛に入れて〔、〕國王の所へ駈けつけました。國王は〔、〕先づ試めしに〔、〕私をそれに乘せ〔、〕水桶に水を一ぱい張つて浮かせてみよ〔、〕と命じられました。しかし〔、〕そ〔こ〕の水桶〔で〕は狹くて、うまく漕げませんでした。

 ところが〔、〕王妃は〔、〕〔ちやんと〕前から〔、〕別の水槽を考へてゐられたのです。指物師に命じて〔、〕長さ三百呎、幅五十呎、深さ八呎の、〔木の〕箱を造らせ、水の漏らないやうに〔、〕うまく目張りして、宮殿の部屋の壁際に置かせられ〔いてあり〕ました。〔そして、〕水は〔、〕二人の召使が〔、〕半時間もかかれば直ぐ一杯にすることができます。そして、その箱〔の〕底に〔は〕栓があつて、水が古くなると拔けるやうになつていました。

[やぶちゃん注:この部分の後半は最初、

   *

〔そして、〕その箱〔の〕底に〔は〕栓があつて、水が古くなると拔けるやうになつていました。水は〔、〕二人の召使が〔、〕半時間もかかれば直ぐ一杯にすることができます。

   *

と書いたものを『次ノ行ト入レカヘ』と指示してあるのに従って、私が書き直したものである。

「長さ三百呎、幅五十呎、深さ八呎」長さ九十一・四四メートル、幅十五・二四メートル、深さ二メートル四十四センチメートル弱。]

 私はその箱のなか〔を漕ぎ𢌞つて、〕自分の氣晴しをや〔り〕、王妃や女臣達を面白がらせました。彼女たちは〔、〕私の船員ぶり〔姿〕〔を〕すつかり〔たいへん〕喜びます。それに時々、帆を揚ると、女官たちが扇で煽り〔風を〕送つてくれます。私はただ舵をとつてゐ〔れ〕ばいいわけでした。彼女らが〔煽ぐのに〕疲れると、今度は侍童たちが口で帆〔を〕吹くのです。すると、私はおも舵〔を引いたり〕、とり舵を引いたりして、〔思ふままに〕乘りまわすのでした。それがすむと〔、〕グラムダルクリツチは〔、〕いつも私のボートを自分の部屋に持〔つて〕帰り、釘にかけて干かすのでした。

[やぶちゃん注:「女臣」はママ。現行版では『女官』となっている。

「かけて」の「か」は「閑」の崩し字である。]

 この水箱は〔、〕三日おきに水を替へることになつていましたが、ある時、水を替へる役目の召使が、うつかりしてゐて、一匹の大蛙を〔、〕手桶から流しました〔一緒に流しこんで〕しまひました。はじめ〔、〕蛙はじつと隱れてゐたのですが、私がボート〔に〕乘りこむと、うまい休み場所が出來たとばかりに、ボートの方に匍ひ上つて來ました。船はひどく一方へ傾くし、私はひつくり返らないやうに、〔その〕反對側によつて〔、〕うんと力を入れてゐなければなりません。

 いよいよボートの中に入りこんでくると、今度は〔一とびし〕ボートの長さの半分ぐ〔いきなりボートの半分の長さ〕をひよいと跳びこし、それから私の頭の上を前や後へ頻りに跳び越えるのです。そしてその度に〔蛙は〕あの厭な粘液を、私〔の〕顏や着物に塗りつけ〔るので〕す。その顏つきの大きなことといつたら、こんな醜い動物が世の中にあるか〔ゐたのか〕と驚かされます。しかし私が竿 〔オール〕の一本を取つて暫く打ちのめしてやつてゐるうちに、蛙は〔た〕うと〕う、ボートから跳び出してしまひました。

 

 私がこの國で〔、〕一番あぶない目にあつたのは、宮廷の役人の一人が飼つてゐた〔〕猿が〔、〕〔私に〕いたづらしたときのことです。 あの時、〔ある日、〕グラムダルクリツチは、用があつて〔たしに〕出かけて行くので、〔箱のなかの〕私〔の箱〕を自分の部屋に入れて〔、〕鍵を下ろしておきました。大變暑い日でしたが、部屋の窓は開け放しになつてをり、私の住まつてゐる箱の戸口も窓も、開い〔たままになつ〕てゐました。〔(私が)〕机に向つて靜かにものを考へてゐ〔る〕と〔、〕部屋〔何か〕窓から何か〔跳び〕込んで、部屋の中をあちこち步き𢌞るやうな音がするのです。私はひどく驚きましたが、じつと椅子に座つたまま、〔それを〕見てゐました。

[やぶちゃん注:「私の住まつてゐる箱の戸口も窓も、開い〔たままになつ〕てゐました」は現行では『私の住まっている箱の戸口も窓も、開け放しになってました』である。

「〔(私が)〕机に向つて」ここはママ。特異点で、挿入記号ではなく、マスの右に丸括弧附きでかく書かれてある。現行は『私が机に向って』で「私が」は地の文で生きている。]

 今、部屋に入つて來た猿は、いゝ氣になつて、跳ね𢌞つてゐるのでした。そのうちに、〔たうとう〕猿は私の箱のところへやつて來ましたるとました〕。彼は彼は彼は〕その箱がさも珍しいものか〔この箱がよほど氣に入つたのか〕、さも嬉し〔面白く珍し〕そうに戸口〔戸〕や窓から〔、〕いちいち覗きこむのです。私は箱の一番奧の隅へ逃げ込んでゐましたが、猿が四方からのぞきこむので、怖くて〔たまりません。〕すつかりあわててゐました。〔たので、〕ベツトの下に隱れることにも氣つかなづかな〕〔づきませんでした。〔がつかなかつたのです。〕〔しばらく〕猿は覗いたり、齒を剝き出したり、ベチヤベチヤ〔ムニヤムニヤ〕喋舌つたりして〔ていまし〕たが、たうとう私の姿を見つけると、丁度あの猫が鼠にするやうに、戸口から前足を片方突出し前足を 片手 片〔手方〕を伸して來ま〕した。しばらく私はうまく避けまはつてゐましたが〔たのです〕が、〔たうとう〕上衣の垂〔れ〕をつかまれて、引きずり出されました。

 彼は私を右手で抱き上げると、丁度あの乳母が子供に乳房をふくませるやうな恰好で私を抱へました。〔私が〕あがけばあがくほど、〔猿は〕強くしめつけるので、これは〔、〕じつとしてゐた方がいいと思ひ思ひ〕ました。〔一〕方の手で〔、〕猿は何度も〔、〕やさしげに私の顏を撫でてくれます。それはきつと〔てつきり〕私を〔同じ〕猿の子だと間違つてゐるらしいのでした。〔感ちがひしてゐるのでせう。〕〔かうし〕て〔、〕彼がすつかりいい氣持になつてゐるところへ、突然〔、〕誰か部屋の戸を開ける音がしました。すると〔、〕彼は急いで窓の方へ駈けつけ、三本足でひよいひよいひよことつととひよいひよい〕と步きながら、一本の手では私を抱いたまま、樋をつたつて、とうたう隣の大屋根〔まで〕攀ぢ上つてしまひました。

[やぶちゃん注:「三本足でひよいひよいひよことつととひよいひよい〕と步きながら」かなりオノマトペイア(擬態語)に苦労しているあ、現行決定版では実はここでは抹消されている『とっとゝ』が採用されている。

「とうたう」はママ。民喜はしばしばこの歴史的仮名遣を誤って直しており、特異的に苦手だったことが窺える。]

 私は猿が〔この〕私をつれて行くのを見〔ると〕、グラムダルクリツチはキャツと叫びました。彼女は氣狂のやうになつてしまひました。それからあたり 宮廷すらは上を〕〔すつかり〕〕〔間もなく宮廷は〕大騷ぎになりました〔つたのです〕。召使は梯子を取りに駈け出しました。猿は屋根の上に腰を下すと、まるで赤ん坊のやうに片手に私を抱いて、もう一方の手〔頰の顎の袋か〕ら何か吐き出して、それを私の口に押込んで〔まう〕とします。

 〔そして今、〕屋根の下では數百人の人々が、この光景を見上げてゐます。るのでしたるのです。〕私が食べまいとすると、猿は〔母親が子を〕あやすやうに〔、〕〔私を〕輕く叩ましたます〔くのです〕。それを見て〔、〕下の群衆はみんな笑いだしました。實際〔、〕これは誰が見ても馬鹿馬鹿しい光景だつたでせう。なかには猿を追ひはらうと〕〔ふつも〕りで、石を投げるものもゐましたが、これはすぐ禁じられました。

 やがて梯子をかけて、數人の男が登つて來ました。猿はそれを見て、いよいよ囲まれたとわかると、三本足では走れないので、今度は私を棟瓦の上に〔殘して〕おいて、ひとりでさつと逃げてしまひました。私は地上三百ヤードの瓦の上にとまつたまま、今にも風に吹き飛ばされるか、眼がくらんで墜ちてしまふか、〔まる〕で生きた心地はしませんでした。が、そのうちに乳母さん召使の一人が、私をズボンのポケツトに入れて〔、〕無事に下まで降してくれました。

 私はあの猿が〔私の咽喉に〕無理に押込んだ何か汚い食物で、息がつまりさうでした。しかし私の乳母が小さい針で一つ一つそれをほじくり出してくれたので、やつと樂になりました。だがひどく私の〔身躰が〕弱つてしまひ、あの動物に抱きしめられ〔てゐ〕たため〔、〕兩〔脇〕が痛くてたまりませんでした。私はそのため二週間ばかり〔病〕床につきました。王、王妃、そのほか、宮廷の人たちが、毎日見舞に來てくれました。〔そして、あの〕猿は殺され〔、〕ました。〔そして〔これからは〕〔、〕今後は〕〔今後〕こんな動物を宮廷で飼 つてはいけないことに〔ならないこ〕〔りま〕した。

[やぶちゃん注:末尾はママ。現行は『飼ってはならないことになりました』。]

 〔さて、私は〕病氣が治ると〔ると、私は〕王にお禮を申上げに行きますと、きました。〕

 〔すると〕王はおもしろ〔うれし〕さうに、今度のことをさんざおからかひになります。〔るのでした。〕猿に抱かれてゐた間どんな氣持がしたか、あんな食物の味はどうだつたか、どんなふうにして食べさすのか、などとお尋ねになります。そして、

 「あんな場合、ヨーロツパではどうするのか」と王は御たづききになりました。そこで、〔私は、〕

 「ヨーロツパには猿などゐません。ゐてもそれは物好きが遠方から捕つてきたもので〔、〕そんなものは実に可愛らしい奴です。それは〔んなの〕なら十匹や十五匹一緒〔十二匹ぐらい束〕になつてやつて來ても私は片付けてしまひます。〔負けはしません。〕先日こないだ〕の あの〔なに、〕此の間のあの恐ろしい〔大きな〕奴だつて、あれが私の部屋に片手を差込んだ時、〔あの時〔も〕私はじつとしてゐたのですが、もと〔平氣だつたのです。〕〕私がほんとに怖いと思つ〔のなら〕たら、〔この〕短劍で叩きつけたでせう〔ます〕。さうすれば、な■■すぐに〕相手に傷ぐらい負はせて、〔すぐ〕手を引つこめさせたでせう。」と、私はきつぱりと申し上げました。けれども私の話は〔そのこと〔はに〕〕、

けれども、みんなは私のそのことに、みんなは〔どつと〕噴きだしてしまひました。〔その〕側にゐた人人まで、愼みを忘れて、ゲラゲラ笑ひだすのでした。これで私はつくづく考へました。はじめから問題にならないほど差のある連中のなかで、いくら自分を立派に見せようとしても、それは無駄駄目だといふことがわかりました。

[やぶちゃん注:以上の猿から救助された後のパートはかなり原稿に苦渋した感じが見てとれる。以下に現行版を示す。

   *

 病気が治ると、私は王にお礼を申し上げに行きました。王はうれしそうに、今度のことをさんざ、おからかいになるのでした。猿に抱かれていた間どんな気持がしたか、あんな食物の味はどうだったか、どんなふうにして食べさすのか、などお尋ねになります。そして、あんな場合、ヨーロッパではどうするのか、と言われます。そこで、私は、

「ヨーロッパには猿などいません。いてもそれは物好きが遠方からつかまえて来たもので、そんなものは実に可愛らしい奴です。そんなのなら十二匹ぐらい束になってやって来ても、私は負けません。なに、この間のあの大きな奴だって、あれが私の部屋に片手を差し込んだとき、あのときも私は平気だったのです。私がほんとに怖いと思ったら、この短剣で叩きつけます。そうすれば、相手に傷ぐらい負わせて、手を引っ込めさせたでしょう。」

 と、私はきっぱり申し上げました。

 けれども、私の言うことに、みんなはどっと噴きだしてしまいました。これで私はつくづく考えました。はじめから問題にならないほど差のある連中の中で、いくら自分を立派に見せようとしても駄目だということがわかりました。

   *]

[やぶちゃん注:驚くべきことに、以下ので挟んだ太字にした部分は、現行版には全く存在しない貴重なパートである。]

 

 私は每日何か一つは笑ひの種にされてゐたやうなのです。グラムダルクリツチなども私を非常に可愛がつてはくれましたが、やはりちよつと意地わるなところがあり、私が何かヘマをやると、〔これはいい笑〕それをすぐ王妃らに云ふのです。一度など、郊外へ馬車で氣晴しに行つた時のことですが、野原の小徑で馬車をとめると、グラムダルクリツチは私を箱から出して、外に地面へ下してくれました。

 私〔が〕ぶらぶら步いて行くと丁度道〔のまんなか〕に牛の糞が一つありました。私は身輕いそれを飛び越さうとしたのですが、生憎、牛糞の眞中にスツポリと嵌つてしまひました。やつと〔そこから〕這ひ出しては來ましたが、身躰中汚れたくると、從僕の男がハンケチは來ましたが、身躰中〔汚れてゐました。汚物だらけです。〕〕從僕がハンケチできれいに拭いてくれましたが、乳母は家に帰るまで私を箱の中に押しこめてしまひました。ところが〔こ〕の話はすぐ王妃の耳に入〔り〕、それから從僕がみんなに喋つて𢌞るので、〔つたのです。〕〔それは〕大変でした。

四五日というもの、〔この話は〕みんな■■■〕大笑いで〔の種にされま〕した。

 

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 田鼈


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たがめ

     俗云髙野聖

田鼈

 

△按此蟲背文似高野僧負笈之形故俗呼曰高野聖蓋

 腹蜟之屬也在溝池濕地形似蟬而灰黒色有甲露眼

 正黒色六足前二足如蟹螫其行也不疾終背裂化生

 蜻蛉

 

 

たがめ

     俗に「髙野聖(かうやひじり)」と云ふ。

田鼈

 

△按ずるに、此の蟲、背の文〔(もん)〕、高野僧(はうし)の笈(をひ)を負ひたるの形に似たり。故に俗、呼んで「高野聖」と曰ふ。蓋し、腹蜟〔(にしどち)〕の屬なり。溝・池・濕地に在り。形、蟬に似て、灰黒色。甲、有り。露(あら)わなる眼、正黒色。六足、前二足は蟹の螫(はさみ)のごとく、其の行くこと、疾(と)くならず。終〔(つひ)〕に、背、裂けて、蜻蛉(とんばう)を化生す。

 

[やぶちゃん注:日本最大の水生昆虫にして日本最大のカメムシ類の一種である(成虫体長は五~六・五センチメートル。♀の方が大型)、

半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科タガメ亜科タガメ属タガメ Lethocerus deyrollei

である。現行でも「田鼈」と漢字表記する(「水爬虫」とも書く。「爬」は「這う・引っ掻く」の意)。「鼈」はカメの一種であるスッポン(爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン(キョクトウスッポン)Pelodiscus sinensis)を指す語である。私は二十年ほど前、法師温泉の帰りに田圃道を歩いている折り、見つけた個体が、目の前で羽を広げて飛ぶのを見、激しく感動したのを思い出す(実はそれまで私はタガメが飛ぶとは思っていなかった。You Tube の飛翔画像はmushikerasanタガメの離陸がよい。これはもう、蟬デッショウ!?!)。ウィキの「タガメによれば、『基本的にあまり飛行しない昆虫だが、繁殖期』(成虫は春に越冬から目覚め、五~六月頃に性成熟する)『には盛んに飛び回り(近親交配を避けるためと考えられる)、灯火に集まる走光性もあってこの時期は夜になると強い光源に飛来することが多い。飛行の際には前翅にあるフック状の突起に後翅を引っ掛け、一枚の羽のようにして重ね合わせて飛ぶ。この水場から水場に移動する習性から、辺りには清澄な池沼が多く必要で、現代日本においてその生息域はますます狭められることとなっている』とある。

「髙野聖(こうやひじり)」ウィキの「高野聖より引く。『中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものだった』。『遊行を行う僧は奈良時代に登場したが、高野山では平安時代に発生。始祖としては小田原聖(おだわら ひじり)の教懐、明遍、重源らが知られる。高野聖は複数の集団となって高野山内に居住したが,その中でも蓮華谷聖(れんげだに ひじり)、萱堂聖(かやんどう ひじり)、千手院聖(せんていん ひじり)が三集団が最も規模の大きいものとして知られる』。『こうした聖は高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。時代が下ると学侶方や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして文芸活動も行ったため民衆に親しまれた。しかし一部においては俗悪化し、村の街道などで「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と声をかけたため「夜道怪」(宿借)とも呼ばれた集団もあった。また「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」と俗謡に唄われているのはこのためである』。なお、織田信長は天正六(一五七八)年に畿内の高野聖を千三百八十三人も捕え、殺害している事実はあまり知られているとは思われない。『高野山が信長に敵対する荒木村重の残党を匿ったり足利義昭と通じたりした動きへの報復だったというが、当時は高野聖に成り済まし』、『密偵活動を行う間者もおり、これに手を焼いた末の対処だったともいわれている』。『江戸時代になって幕府が統治政策の一環として檀家制度を推進したこともあり、さしもの高野聖も活動が制限され、やがて衰えていった』とある。引用中の「夜道怪(やどうかい)」「宿借(やどかい)」という妖怪(というか、実在した可能性の高い「人攫い」)についてもウィキの「夜道怪から引いておく。これは一般には、『埼玉県の秩父郡や比企郡小川町大塚などに伝わる怪異の一つ』とされ、『何者かが子供を連れ去るといわれたもので、宿かい(やどかい)、ヤドウケともいう』。『子取りの名人のような妖怪として伝承されており、秩父では子供が行方不明になることを「夜道怪に捕らえられた」「隠れ座頭に連れて行かれた」という』。『比企郡では「宿かい」という者が白装束、白足袋、草鞋、行灯を身につけて、人家の裏口や裏窓から入ってくるといわれる』。『民俗学者・柳田國男の著書においては、夜道怪の正体は妖怪などではなく人間であり、中世に諸国を修行して旅していた法師・高野聖のこととされている』。『武州小川(現・埼玉県比企郡小川町)では、夜道怪は見た者はいないが、頭髪も手入れされておらず、垢で汚れたみすぼらしい身なりの人が、大きな荷物を背負って歩く姿を「まるで夜道怪のようだ」と言うことから、夜道怪とは大方そのような風態と推測されている』。『実際に高野聖は行商人を兼ねていたため、強力(ごうりき; 歩荷を職業とする者)のように何もかも背負って歩き、夕方には村の辻で「ヤドウカ(宿を貸してくれ、の意)」とわめき、宿が借りられない場合には次の村に去ったというが、彼らが旅を通じて次第に摺れ、法力(仏法による力)を笠に着て善人たちを脅かすようになったために「高野聖に宿貸すな、娘取られて恥かくな」という諺すら生まれ、そうした者が現れなくなって以降は単に子供を脅かす妖怪として解釈されるようになったと、と柳田は考察している』。『江戸時代後期の大衆作家・十返舎一九による読本『列国怪談聞書帖』には、高野聖は巡業の傍らで数珠を商いし、民戸に立っては宿や米、銭を乞う者で、俗にこれを「宿借(やどうか)」というとある』。また、『同書には、道可(どうか)という僧がこのような修行を始めたため、すべての高野聖を「野道可(やどうか)」と呼んだという説も述べられている』とある。

「背の文〔(もん)〕」「背の紋」。ウィキの「タガメによれば、『体色は暗褐色で、若い個体には黄色と黒の縞模様がある』とある(下線やぶちゃん)。

「高野僧(はうし)」「はうし」は「僧」一字へのルビ。

「笈(をひ)」動詞「負う」の連用形「負い」の名詞化したもの。修験者や行脚僧が仏具・衣類などを入れて背に負うた脚・開き戸附きの箱。グーグル画像検索「をリンクしておく。

「腹蜟〔(にしどち)〕」これは半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫を指すと私は考えている。前出の腹蜟を参照されたい。大雑把なカメムシ類(半翅(カメムシ)目 Hemiptera)では正しくないとは言えぬが、良安は「蟬に似て」いるから、かく言ったわけで、やはり誤りと言わねばならぬ。

「前二足は蟹の螫(はさみ)のごとく」ウィキの「タガメによれば、『前肢は強大な鎌状で、獲物を捕獲するための鋭い爪も備わっている。中・後肢は扁平で、遊泳のために使われる』とある。また、『肉食性で、魚やカエル、他の水生昆虫などを捕食する。時にはヘビやカメ等の爬虫類やネズミ等の小型哺乳類をも捕食する。鎌状の前脚で捕獲し、針状の口吻を突き刺して消化液を送り込み、消化液で溶けた液状の肉を吸う(「獲物の血を吸う」と表記した図鑑や文献もあるが、体外消化によって肉を食べているのであり、血のみを吸っているわけではない。タガメに食べられた生物は、骨と皮膚のみが残る)。自分より大きな獲物を捕らえることが多い。その獰猛さから「水中のギャング」とも呼ばれ、かつて個体数が多かった時には、養魚池のキンギョやメダカ等を食い荒らす害虫指定もされていた』。『北海道を除く日本全土に分布するが局所的。国外では台湾、朝鮮半島、中国に分布する』。なお、『中国では漢方薬の原料として用いられる他、国内では佃煮にされていた地方もあった』とある(下線やぶちゃん)。

「疾(と)くならず」素早くはない。

「終〔(つひ)〕に、背、裂けて、蜻蛉(とんばう)を化生す」最後には背部が裂けて、そこから別種である蜻蛉(とんぼ)に化生(けしょう)する。通常の仏教上の生物学では「四生(ししょう)」と称し、「胎生」・「卵生」・「湿生」(湿気から生ずること。蚊や蛙がこれに相当すると考えられた)・「化生」(自分の超自然的な力によって忽然と生ずること。天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指す)の四種に発生説を分類する。無論、タガメはトンボ(昆虫綱蜻蛉(トンボ)目 Odonata にはならぬから大間違いなわけだが、前に述べたように迂闊な私が幼い頃にタガメの飛び立つのを見たら、「そりゃ、トンボになった!」と叫んだことであろう。]

芥川龍之介 手帳6 (5)

 

○泉 白雲泉 盃盂泉 ○魚樂 ギボシユ 玫瑰 佛 藻をとる男 ○トタンの管 玫瑰の落花 亭 呉中第一水 藻 龍髯

[やぶちゃん注:「白雲泉」先に続いて、天平山(蘇州市西方約十四キロの所にある山で、標高三百八十二メートル(二百二十一メートルとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる)山麓にある中唐の白居易(七七二年~八四六年)の命名による泉。天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉で、盛唐から中唐にかけて生きた作家で「茶経」を著したことから「茶聖」と呼ばれる陸羽(七三三年~八〇四年)が、この白雲泉を「呉中第一泉」と認定したと伝えられる。後の「呉中第一水」と同じ。現在は「白雲池」とするようである。

「盃盂泉」不詳。天平山には小さな池塘が沢山あるが、現行の案内図ではこの名を探し得なかった。或いは、龍之介の誤記か?

「魚樂」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」で龍之介は、「呉中第一泉」の『まはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない』と皮肉っている。

「ギボシユ」擬宝珠。ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花は夏であるから、咲いてはいない。

「玫瑰」既注であるが、再掲する。日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」を指していよう。

「藻をとる男」繁殖して悪臭を放つ藻を除去している者か。

「トタンの管」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」の「呉中第一泉」の描写で「その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐる」とある。

「龍髯」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花はこれも夏七月であるから、あの淡い紫の花は咲いていない。]

 

○窓 燈籠 窓外 藤 竹 萬笏朝天の一部 見山閣 ○莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休 〇七級塔

[やぶちゃん注:「萬笏朝天」これ自体は「空に突き出る万の笏」の謂い。「笏」は束帯などの公式正装の際に右手に持つ細長い薄板であるが、ここは所謂、中国の奇景の一つとしてしばしば見られる尖塔状の柱状節理の奇岩を指しているのであろう。

「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」に、「呉中第一泉」に失望した直後、『しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。』と珍しく褒めている場所である。

「莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休」これは「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」にも出る詩句である。しかしこれ、当該注でも示した通り、筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるらしい。暴虎馮河なれど、諸注のそうした態度が気に入らない。意地で読む。書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る

何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)

恨むらくは 十萬の橫磨劍(わうまけん)の無きを

倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに

○やぶちゃんの現代語訳

遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――

一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――

恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣(おうまけん)が無いこと――

ああ! 倭奴(わど)を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――

 後晋の軍人にして宰相であった景延広(八九二年~九四七年)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。「倭奴」は古代よりの中国人や朝鮮人の日本人に対する蔑称。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。

「七級塔」不詳。七層塔の意か。]

 

○跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君 江蘇巡撫程德全

[やぶちゃん注:「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君」この詩句は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に以下のように出る。かの張継の「楓橋夜泊」で知られる寒山寺(蘇州中心部から西方五キロメートルの楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(五〇二年~五一九年)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(六二七年~六四九年)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある)へ見物に出かけた龍之介が、寒山寺をこき下ろす中で、『殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね』という中に、である。そこで私は、「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」と訓じ、「あなたはわざわざ海の遙か彼方から、この古き寺に、敬虔にも、過ぎし総ての過去の死者の魂を弔いに来られた。そのあなたを、この何もない私は、ただ、あの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って、送別するばかりです。」という意か。

「江蘇巡撫程德全」は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督であった程徳全(てい とくぜん 八六〇年~一九三〇年)。「巡撫」(じゅんぶ)は明・清代に存在した官職名で、清代では明の制度を踏襲し、巡撫は省の長官とされ、総督とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した、とウィキの「巡撫」にある。ウィキの「程徳全」によれば、彼は清で貢生(明清代に生員(秀才:国子監の入試である院試に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得た者)の優秀な者で国子監で学ぶことを許可された者)となり、『主に黒竜江において政治的経歴を積み重ね、主に事務、文書起草の任に就』き、その後、黒竜江巡撫・奉天巡撫を経て、一九一〇年に『江蘇巡撫に異動した』。辛亥革命勃発後の一九一一年十一月には『周囲から推戴され、江蘇都督とな』り、翌年一月三日に『南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章炳麟(章太炎)、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織し』、同四月には『臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命された』。五月に『統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党』、民国二(一九一三)年の二次革命(第二革命)では『江蘇省の独立を宣言した。しかし、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏し』く、同年九月の『二次革命の敗北とともに、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った』とある。「江蘇巡撫」という片書からは、これが彼の詩句であるとすれば(すれば、である)、一九一〇年から翌一九一一年十一月前の作となるか。彼は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に出る。]

 

○途中村落 柳 鵞 鴨

[やぶちゃん注:「鵞」鵞鳥。ここで龍之介が嘱目したのは、カモ目カモ科マガン属サカツラガン Anser cygnoides を原種とする中国系家禽のそれ。]

 

○虎邱 海陵陳鐵坡重建 古眞孃墓 癈塔傾く 鴉嘸聲 パク 鳥ナリ(九官ノ一種) 御碑亭ト客殿

[やぶちゃん注:「虎邱」蘇州北西の郊外約五キロメートルに位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~紀元前四六三年)が父王闔閭(こうりょ ?~紀元前四九六年)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからともいう)。標高三十六メートル。五代の周の九六一年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記する。

「海陵陳鐵坡重建」不詳。「海陵」現在の江蘇省中部に位置する泰州市は古くは「海陵」と称した。「陳」は地区名の「陳鎮」誤りか(「蘇陳鎮」という地名が現在の泰州市にある)。「坡」は堤の意で地名によく使われる。「重建」は復興再建の謂いであろう。但し、虎邱や寒山寺とは南南東に百四十五キロメートルも離れている。

「古眞孃墓」真娘とは中唐の蘇州で歌舞の名手であった美妓の名。蘇州城西北郊外にあった武丘西寺(西武丘寺)に埋葬されたという。ここはその遺跡であろう。サイト「中国詩跡」の植木久行氏の「蘇州真娘墓詩跡考」に詳しい。

「鴉嘸聲」「カラスの、まさにその、声」の意か。但し、現代中国語では「パク」ではなく、「ヤーヤー」である。或いは「パク」は以下の「九官ノ一種」の「鳥」の名か、その声か?

「御碑亭」皇帝や高貴な人物の碑を建てた四阿(あずまや)のことであろう。]

 

○白壁 運河 新樹 蛙 鵲 北寺の塔 暮色 小呉軒

[やぶちゃん注:「鵲」「かささぎ」。スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラス(高麗鴉)とも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島ではごく一般的な鳥。

「北寺の塔」「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に二四七年から二五〇年頃に造立された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように「報恩寺」と名づけられた。孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(五〇二年~五五七年頃)のものらしいが、損壊と再建が繰り返され、この時、芥川が登った現在の八角形九層塔は南宋時代の一一五三年の再建になるもので、高さ七十六メートルあり、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。私も登ったことがある。

「小呉軒」北寺にある清の第四代聖祖(康熙帝:一六五四年~一七二二年)及び第六代皇帝高宗(乾隆帝:一七一一年~一七九九年)が南巡の際に立ち寄った行宮の一部である。龍之介は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」で北寺『塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ』と珍しく非常に素直に感懐を綴っている。]

 

○酒棧 (京莊花雕) 白瓶(赤瓶上酒) 正方形の卓(タメ塗ハゲタリ) 同じやうな腰かけ 白壁 煤柱 土間 瘦犬 錫 筋(茶碗程の盃 底に靑蓮華) 辮髮の男 黑衣靑袴 深靑衣濃靑袴の杜氏 卓上の菜 電燈 天井比較的高し 豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男 中に醬油瓶アリ 菜は正方形の新聞紙上におく(二錢位) 田螺 梯子(呉城𨤍品 京莊紹酒) 驢の鈴 轎子のかけ聲 拳をうつ聲

[やぶちゃん注:「酒棧」(きゃくさん)は居酒屋。江南游記 二十一 客棧と酒棧の本文(題名ではない)では『酒棧(チユザン)』と中国音で読んでいる(現代標準語では「Jiǔzhàn」で「ヂォウヂァン」)。

「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」「花彫酒」という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と雅びやかな彩色を施して婚家へ持参したことによる。中文記事等を斜め読みすると、「京荘酒」というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は「恭しく奉る・厳かにして高品質の」と言った意味合いではなかろうか。「白瓶(赤瓶上酒)」も含め、江南游記 二十一 客棧と酒棧に、『我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた』とあり、さらに(改行部部を「/」で示した)『其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。/「何です、これは?」/「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」/島津氏は銅貨を二枚出した。/「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」/私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。』として、同「二十一 客棧と酒棧」(「酒棧」パートは後半半分)は終わっており、この「豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男」もちゃんと生かされている。このたった百五十七字のメモと記憶を文章映像に美事に仕立て上げてしまう芥川龍之介は、やはり凄いと私は思う。

「タメ塗リ」「溜め塗り」は漆塗りの一種で、朱漆・青漆などで下塗りをしてその上を木炭で艶消しした上、透漆を塗ったもの。下塗りの色が透けて見えるようになっている。江南游記 二十一 客棧と酒棧に、『机や腰掛けは剝(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした』と出る。

「杜氏」不詳。或いは「とうじ」で、紹興酒の醸造責任者のことを指しているか。

「梯子」先に示した通り、「向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある」のであるから、それを順に積み上げ、また下ろすのに「梯子」が必要なわけである。

「呉城𨤍品」三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝呉をシンボルとした名であろう。「𨤍」は音「レイ・リョウ」で、古え、現在の湖南省にあった酃(れい)湖の水を使って醸した酒の名で、透き通った美酒「𨤍醁(レイリョク)」(「𨤍」は「醽」「𨣖」「𨠎」とも書く)というのがあったというから、「𨤍品」で美酒の謂いらしい。

「驢の鈴」驢馬につけた鈴。その音。

「轎子」「けうし(きょうし)」と読む。お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐り、前後を八~二人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮に古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高い山の観光地などで見かけることがある。中国語では「Jiàozi」で「ジャオズー」。

「拳」拳(けん)遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。]

 

○對聯 獨立大道 共和萬歳 文明世界 安樂人家

[やぶちゃん注:「對聯」は「ついれん」と読み(中国語では「duìlián」(ドゥイリエン))、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評(或いはその皮肉)が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。「江南游記 二十六 金山寺」の冒頭に、『「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」/「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」』と出る。]

2016/12/08

譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事

 

同領地十二所の人家に錢をふらす事

○同郡十二所(じふにしよ)と云(いふ)所は、其(その)世臣(せいしん)茂木(もてぎ)氏代々預り支配する城下也。支配の給人(きふにん)に正直成(なる)ものあり、寶曆五年正月二日妻にかたりて云(いはく)、昨夜大黑天にあたまを槌(つち)にてうたるゝと夢見たりと。妻もよき事なるべしといへるに、七種の粥(かゆ)くふ時に、錢五六文たゝみのうへに有(あり)、後にはいろりの灰にまじりてあり、又土藏の内に錢おほく出來(いでき)てあり、日々にいづくよりもてくる事ともなく、只(ただ)家の内にそこらこゝらにあり。時々は錢のふる音すれば、それを見るに誠(まこと)に錢おちてあり。此を聞傳(ききつた)へて群集をなせり、國守の聽に達し、檢使を付(つけ)てたゞされけるに僞造にあらず。かくして五六ケ月もへて拾ひ集たる錢七十貫文程に及べり。其後主人歿したれば錢の降る事も止たりとぞ。又同所鯉川(こひかは)と云(いふ)所に夫婦にて貧窮の者あり、その家内にある日、いづくともなく聲ありてものいふ形は見えず、はじめは恐れけれども、後々はなれて物がたりなどしけり。食物(くひもの)など夫婦のものの望(のぞみ)にまかせて、何にてもその家の内に出來(いでく)る、それに合せて近郷にて餅あるひは食物等不時(ふじに失する事あり、さては狐狸のたぐひのしわざにやといへり。その聲に就(つき)て向來(かふらい)の事をとふに、吉凶悉く答ふる事違(たが)はず、往々しるし有(あり)ければ、群集して錢穀(せんこく)をもち來(きた)り占(うらなひ)をとふ。又人ありてその聲につきてとりとめんとすれば、かたちは見へざれども、ねぢあひ角力(すまふ)とる體(てい)也。此(この)化(ばけ)もの甚(はなはだ)力(ちから)すぐれて人に負(まく)る事なしとぞ。後いづくともなく此(この)化物失(うせ)たり、是も寶曆七年の事也。

[やぶちゃん注:「同領地十二所」前条の久保田藩(秋田)の出来事を享けての「同」であるから、同久保田藩領であった秋田郡の十二所(現在の秋田県大館市)。

「茂木氏」当時あった十二所城は茂木氏の所預であった。ウィキの「茂木氏」によれば、茂木氏は、元は中世下野国を根拠とした武家で、『常陸国守護を務めた八田氏の一族で八田知家の三男・知基が下野国芳賀郡茂木郷(茂木保、現在の栃木県茂木町)の地頭職を継承して「茂木」を号したことに由来する。後に茂木城を築城して本拠とした。承久の乱の軍功によって紀伊国賀太荘の地頭職を与えられたが、宝治合戦では三浦氏に加担した疑いをかけられ、茂木荘の一部に北条得宗家の進出を許した。南北朝時代には北朝方について、南朝方の攻撃や同じ北朝方の小山氏などの押領などに悩まされたが、小山氏の乱で鎌倉公方方、永享の乱・結城合戦で室町幕府について国人領主としての地位を安定させた。戦国時代には宇都宮氏・那須氏・佐竹氏などの間で揺れ動いたが、最終的には佐竹氏に従う。文禄の役中に行われた佐竹氏家臣の配置換えで』、『常陸国茨城郡の小川城(現在の茨城県小美玉市)に移され、関ヶ原の戦い後の佐竹氏の秋田藩移封に従った。以後、同藩の重臣として明治維新まで存続している』とある(下線やぶちゃん)。

「給人」大名から知行地或いはその格式を与えられた家臣。

「寶曆五年正月二日」グレゴリオ暦一七五五年二月十二日。

「七種の粥(かゆ)くふ」七草粥は人日(じんじつ)の節句(旧暦一月七日)の朝に食べ「國守」第七代藩主佐竹義明(よしはる)。

「同所鯉川」大館市にはない。現在の秋田県山本郡三種町(みたねちょう)に鯉川がある(八郎潟東岸中央部)。か(グーグル・マップ・データ)。

「聲に就(つき)て向來(かふらい)の事をとふに」そのが発せられたのに応じて、これからの未来の事柄について予言を問うてみると。

「往々」かなり、しばしば。そうなることが多いさま。

「錢穀」銭や米。

「その聲につきてとりとめんとすれば」(目には見えねど、)その声のする辺りを目印に、いざ、取っ組んで捕えようとしたところ。

「ねぢあひ」見えぬ相手も、こちらの腕や身体を捩じ伏せんとし。

「角力」相撲。とる體(てい)也。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 茅蜩


Higurasi

ひくらし  茅【當作字】

茅蜩

     【和名比久良之】

ミヤウ゜チヤウ

 

本綱茅蜩小而青綠色蟬也

△按深山中有之人家近處希有也至晩景鳴聲寂寥

     月淸
                 後京極

 日くらしのなく音に風を吹添て夕日凉しき岡のへの松

 

――[やぶちゃん注:ここに本文完全閉鎖の縦罫が入る。]――

 

寒蟬【寒蜩◦寒螿◦𧕄】 本綱小而色青赤者名寒蟬【和名加無世美】月令

 云七月寒蟬鳴者是也

啞蟬         本綱未得秋風則瘖不能鳴者

 △按此蟬如土用中則觸物如言吃吃而不能鳴立秋

 始鳴然不如常蟬蓋和名抄所謂奈波世美是乎

冠蟬【胡蟬 螗蜩】  本綱頭上有花冠蟬也

 △按詩大雅曰如蜩如螗蓋蜩尋常蟬也螗則冠蟬也

螓【麥】      本綱小而有文蟬也

蜋蜩         本綱五色具蟬也

𧑗母         本綱小於寒蟬二三月鳴者也

 △按蟬之類有數種而其初所化之蠐螬腹蜟等亦不

 一故有大小遲速之異

 

 

ひぐらし  茅〔(ばうせつ)〕【當(まさ)に「」の字に作るべし。】

茅蜩

     【和名「比久良之」。】

ミヤウ゜チヤウ

 

「本綱」、茅蜩は小にして青綠色の蟬なり。

△按ずるに、深山の中に、之れ、有り。人家近き處には希れに有り。晩景に至りて鳴く聲、寂寥たり。

    「月淸」
                 後京極

 日ぐらしのなく音〔(ね)〕に風を吹き添へて夕日凉しき岡の邊(へ)の松

 

―――――――――――――――――――――

寒蟬(かむせみ)【寒蜩寒螿𧕄】 「本綱」、小にして、色、青赤き者を寒蟬と名づく【和名「加無世美」。】「月令〔(がつりやう)〕」に云ふ、『七月に寒蟬鳴く』と云ふは、是れなり。

啞蟬(なはせみ) 「本綱」、未だ秋風を得ざれば、則ち、瘖〔(いん)にして〕、鳴くこと能はざる者なり。

 △按ずるに、此の蟬、土用の中〔(うち)〕は、則ち物に觸れて、「吃吃〔(きつきつ)〕」と言ふがごとくにして、鳴くこと、能はず。立秋に始めて鳴く。然〔れど〕も、常の蟬のごとくならず。蓋し、「和名抄」〔に〕所謂〔(いはゆ)〕る「奈波世美〔(なはせみ)〕」は是れか。

冠蟬(かむりせみ)【胡蟬 螗蜩】 「本綱」、頭の上に花冠〔(くわかん)〕有る蟬なり。

 △按ずるに、「詩」の「大雅」に曰く、『蜩(ちやう)のごとく、螗〔(たう)〕のごとし』とあり。蓋し、「蜩」は尋常(よのつね)の蟬なり。「螗」は則ち、冠蟬なり

螓(あやせみ)【麥】 「本綱」、小にして文〔(もん)〕有る蟬なり。

蜋蜩(いろどりせみ) 「本綱」、五色具(そな)はる蟬なり。

𧑗母 「本綱」、寒蟬より小さく、二、三月に鳴く者なり。

 △按ずるに、蟬の類、數種有りて、其の初〔めて〕化する所の「蠐螬〔(きりうじ)〕」・「蠐螬〔(にしどち)〕」等、亦、一〔(いつ)〕ならず。故、大小・遲速の異、有り。

 

[やぶちゃん注:私がその声を偏愛する、

セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis

及び他のセミ類の附記である。但し、最後の他の蝉は「本草綱目」からのごく短い抄録であって、同定も放棄している。なお、私がどれぐらい偏愛しているかというと、私は実はもうこの五年近く、好きなバッハもジャズも殆んど実は聴いていないのである。パソコン前での作業中(一日延べ八時間以上)は専ら、Tomoki BGM ViluReef Group の録音になる「川のせせらぎとひぐらしの鳴き声3時間版/作業用BGM・勉強用BGMYou Tube)や【作業用BGM】ひぐらしの鳴き声1時間を流しているのである。私は一年中、蜩の声を聴いていて飽きない人種なのである。いや、人と話すのはおろか、人の作った音楽も最早、私の心を和ませてはくれないのだとも言えるのである。

「茅【當(まさ)に「」の字に作るべし】」割注は「(「」の字は)「」の字を用いねばならない」の意。調べて見ると、「」は「」の俗字らしいので、それを言っているものか。或いは、「」はネットの中文サイトの辞書を見ると「青緑色の蟬」の意の他に、海産のある種の蟹をも意味するので、そこで良安はかく主張しているのかも知れぬ。

「月淸」「秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)」。公卿で繊細で気品のある新古今風の歌人として知られる九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年:摂政関白九条兼実次男で従一位・摂政・太政大臣。「後京極殿」と号した)の自撰家集。四巻。元久元(一二〇四)年成立。

「日ぐらしのなく音に風を吹き添へて夕日凉しき岡の邊の松」よか、歌じゃて。

「寒蟬(かむせみ)」「かんぜみ」。音は「カンセン」。本邦では秋に鳴く蟬で、先行するヒグラシ・ツクツクボウシなどを指す。

「寒蜩」「寒螿」「𧕄」以上、現代仮名遣で「カンチョウ」・「カンショウ」・「ヨウ」と読む。以下、印したものは同じ処理を施したものなので、この注記は略す。

「月令〔(がつりやう)〕」五経の一つである、「礼記(らいき)」の内の、年間行事を理念的に述べた「月令篇」。「げつりょう」と読んでも構わないようだが、私は昔からこうしか読んだことがない。

「七月に寒蟬鳴く」「礼記」「月令篇」に「孟秋之月」の条に『涼風至、白露降、寒蟬鳴』(涼風至り、白露(びやくろ)降り、寒蟬鳴く)とある。「七月」は旧暦であるから秋。

』と云ふは、是れなり。

「啞蟬(なはせみ)」基本、種ではなく鳴かないの蟬を指す語である。先行する「蚱蟬」の私の注を参照のこと。

「瘖」声が出ないこと。

「土用」五行に由来する暦の雑節の一つである立秋直前の夏の土用(二度ある場合は二度目の「二の丑」)現行の新暦では通常、八月七日より前である。

「吃吃〔(きつきつ)〕」これはが身体を動かす際の羽音の擦れるオノマトペイアであろう。

「鳴く」これはの蟬。

「常の蟬のごとくならず」それは普通の蟬の鳴き声とは違っている。ということは、寧ろ、後期に鳴くか、他の蝉が静まって鳴き声が判り始める、やはり、ヒグラシ・ツクツクボウシなどの類が想起される。言っておくが、ここは良安の附記部分であるから、本邦の蟬に限って考えてよいのである。

『「和名抄」に所謂る「奈波世美」』「蚱蟬」の私の『「和名抄」、「蚱蟬」【和名「奈名波世美」】、以つて雌蟬(めせみ)にして鳴くこと能はざる者と爲る』注を参照のこと。

「冠蟬(かむりせみ)」これは「頭の上に花冠」から、多くの主がその胸部背面や頭部上面に、実に変わった多様な形状(烏帽子形・剣形・瘤のついた樹木の枝状で、色も多様である種もある)を成す「ヘルメット」と呼ばれる構造を持っている、セミ型下目ツノゼミ上科ツノゼミ科 Membracidae の類を私は直ちに想起した(それが当たっているかどうかは知らぬ)。グーグル画像検索「Membracidaeをリンクしておく。なお、この「冠蟬」は文字からも納得出来るが、現代中国語では「蟬花」などとも称し、特定の蟬に附着する冬虫夏草(例えば、本邦では、セミ亜科ニイニイゼミ族ニイニイゼミ属ニイニイゼミ Platypleura kaempferi の幼虫に寄生する菌界ディカリア亜界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルディケプス科オフィオコルディケプス属セミタケ Ophiocordyceps sobolifera など)に対する名ともなっているようである。

「胡蟬」「コセン」。

「螗蜩」「トウチュウ」。

「詩」「詩経」。

『「大雅」に曰く、『蜩(ちやう)のごとく、螗〔(たう)〕のごとし』とあり』。「蕩之什」の一節に「如蜩如螗、如沸如羹。小大近喪、人尚乎由行」(蜩の如く、螗の如し、沸くが如く、羹(こう)するが如し。小・大、喪(ほろ)ぶに近きも、人、尚ほ、由りて行く)とある。

「麥「バクサツ」。

「文〔(もん)〕」紋。

「蜋蜩」不詳。「五色具(そな)はる蟬」なら見て見たいのだが、「蜋蜩」で画像検索をかけたら、トホホ! 自分のサイトの挿絵が、これ、いっぱいだわ!(本「蟲類」の目録に載せた字を拾ってしまうため)

𧑗母」「デイボ」。

「寒蟬より小さく、二、三月に鳴く者なり」本邦の種として類似するものを当てるとすれば、セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua がよく一致する。私は二十年ほど前、法師温泉で満山に亙るその鳴き声を聴いたことがある。彼らの声も、とても、好きだ。

「蠐螬〔(きりうじ)〕」・「蠐螬〔(にしどち)〕」先行する「蚱蟬」の私の注及びそのリンク先を参照されたい。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟪蛄


Kutukutuhousi

くつくつはうし  蛁蟟 蜒蛛

         螇 蛥

蟪蛄

        【和名久豆久豆保宇之】

ホイ クウ

 

本綱蟪蛄青紫色蟬秋月鳴者也

按小於蟬而畧團其頭褐色身及羽淺青色鳴聲如言

 久豆久豆法師故名之關東則多有而畿内希

 

 

くつくつはうし  蛁蟟 蜓

         螇 蛥

蟪蛄

        【和名「久豆久豆保宇之〔(くつくつばふし〕」。】

ホイ クウ

 

「本綱」、蟪蛄は青紫色の蟬。秋月、鳴く者なり。

按ずるに、蟬より小さくして、畧〔(ほぼ)〕團〔(まる)〕く、其の頭、褐色、身及び羽、淺青色。鳴き聲、「久豆久豆法師」と言ふがごとし。故に之れを名づく。關東には則ち、多く有りて、畿内には希なり。

 

[やぶちゃん注:セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera。但し、良安が最後で「關東には則ち、多く有りて、畿内には希なり」と言っているのは不審である。本種は温・亜熱帯性の分布を示すからで、ウィキの「ツクツクボウシによれば、『北海道からトカラ列島の』横当島(よこあてじま:鹿児島県のトカラ列島最南端ある無人島)『までの日本列島、日本以外では朝鮮半島、中国、台湾まで、東アジアに広く分布』し、『平地から山地まで、森林に幅広く生息する。地域によっては市街地でも比較的普通に発生する(盛岡市など)が、基本的にはヒグラシと同じく森林性(湿地性)であり、薄暗い森の中や低山帯で多くの鳴き声が聞かれる。この発生傾向は韓国や中国でも同様である。成虫は特に好む樹種はなく、シダレヤナギ、ヒノキ、クヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。警戒心が強く動きも素早く、クマゼミやアブラゼミに比べて捕獲が難しい』。成虫は七月から『発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる』八月下旬から九月上旬頃には『鳴き声が際立つようになる』。九月下旬には『さすがに数が少なくなるが、九州などの西南日本では』十月上旬に『鳴き声が聞かれることがある』とある。なお、『ツクツクボウシはアブラゼミやニイニイゼミと比べて冬の寒さに弱いので、元来北日本では川沿いのシダレヤナギ並木など局地的にしか分布していなかった。しかし近年、盛岡や仙台においてこのセミが増えつつある。特に盛岡ではアブラゼミが激減している(仙台でもかなり減少している)が、ツクツクボウシは逆に増えている。これは地球温暖化が原因と考えられるが、生態学的に優位な立場にあるアブラゼミの数が減ったことで、ツクツクボウシが繁殖しやすくなったという原因もある』。『なお、青森市や八戸市でもアブラゼミが激減(ほぼ消滅)しているが、盛岡や仙台と異なり今のところツクツクボウシが増加する兆候はない。これは、盛岡などと異なり盛夏でもあまり暑くならない青森県の気候が原因と考えられている。 本種は本来北海道には生息しないとされてきたが』近年、進出が確認され、『各地で鳴き声が聞かれるようになった』ともある。この引用にある、ツクツクボウシの「鳴き声」が「他のセミにかき消されて目立たない」という叙述から、或いは良安はかく誤認したものかも知れない。所謂、蟬が蟬らしく鳴く時期だけに蟬に耳を傾ける、インセクタでない通常人であった良安には、「蟬」の季節が過ぎた時期の彼らの鳴き声に注視しなかったか、その頃にならないと聴こえないから、実は数が少ないと誤認していたものかも知れない。因みに、寺島良安は大坂城の御城入(おしろいり)医師を勤めていたから、彼はまさに「畿内」の人間であったのである。

「くつくつ」は副詞で、おかしくてたまらず、押しころすようにして笑う声を表わすオノマトペイア(擬音語)であろう。但し、他にも同語は物の煮えたつ音を表したり、ふざけてくすぐる際の「こちょこちょ」という擬態語の他、痰などが咽喉につかえて鳴る音を表す擬音語でもあるから、そうした意味の複合可能性も考えるべきかもしれない。

「蛁蟟」「蜓」「螇」「蛥」漢名なので歴史的仮名遣で表記する意味をあまり感じないから、ここで東洋文庫版を参考に現代仮名遣で順に示す。「ちょうりょう」「ていぼく」「けいろく」「せつけつ」。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟬蛻


Senzei

せんぜい  蟬殻  枯蟬

      金牛兒 蟬退

蟬蛻

     【和名 世美乃毛奴介】

チヱン トイ

 

本綱蟬蛻【鹹甘寒】治皮膚瘡瘍風熱驚癇眼目翳膜及啞病

夜啼皆宜用馬蟬之蛻

按腹蜟蠐螬等冬蟄夏出背裂而爲墠出去殻也紀州

 越州之産爲佳形大而馬蟬之殻也藥肆所售者多常

 蟬蛻也

     源氏

       うつ蟬の身をかへてける木の本に猶人からのなつかしき哉

 

 

せんぜい  蟬殻  枯蟬

      金牛兒 蟬退

蟬蛻

     【和名「世美乃毛奴介〔(せみのもぬけ)〕」。】

チヱン トイ

 

「本綱」、蟬蛻は【鹹甘、寒。】皮膚瘡瘍(そうちやう)・風熱を治す。驚癇〔(きやうかん)〕・眼目の翳膜〔(かすみ)〕及び啞病〔(おし)〕・夜啼き、皆、宜しく馬蟬(むませみ)の蛻〔(ぬけがら)〕を用ふべし。

按ずるに、腹蜟(にしどち)・蠐螬(きりうじ)等、冬、蟄(すごもり)、夏、出でて、背、裂けて墠〔(せん)〕と爲り、出でて去りし殻なり。紀州・越州の産、佳と爲す。形、大きくして、馬蟬(にしどち)の殻なり。藥肆〔(やくし)〕に售(う)る所の者は、多く、常の蟬(きりうじ)の蛻(から)なり。

    「源氏」

       うつ蟬の身をかへてける木〔(こ)〕の本〔(もと)〕に猶〔(なほ)〕人がらのなつかしき哉

 

[やぶちゃん注:半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea に属するセミ類の幼虫の脱皮した殻。

 なお、平凡社東洋文庫版現代語訳(一九八七年刊。杏林堂版を底本とする)では、良安の解説の冒頭が私の所持するもの(五書肆名連記版影印)とは異なる。幾つかの画像アーカイブを見たが、当該の杏林堂版原文を見出せないので、現代語訳を引用しておく。

 

思うに、『本草綱目』に、あるいは腹蜟を蟬蛻とする、とあるのは誤りである〔腹蜟とはまだ蟬となる前の名である〕。およそ蟬蛻は』[やぶちゃん補注:以下、「紀州」と続くが、そこは訳から見て同一と思われる]。

 

内容から見て、杏林堂版は、五書肆名連記版を改稿したものと思われ、良安の最終意見はこちらに落ち着くものか

「枯蟬」(こせん)「金牛兒」(きんぎゅうじ)「蟬退」(せんたい)は孰れも言い得て妙の別称ではないか。こういう感覚が現代生物科学から失われたのは、私は非常に淋しい気がしている。

「「世美乃毛奴介〔(せみのもぬけ)〕」「蛻」は、現行でも「もぬけ」と訓ずる。噓だと思ったら、「もむけ」と打って変換して見られよ。

「瘡瘍」瘡(かさ)や腫瘍。

「風熱」風邪の中でも重症のもので、特に高い熱を発する病態及びそれよって生する合併症をも含む症状。

「驚癇」」癲癇(てんかん)。

「馬蟬(むませみ)」セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis 前項参照。

「腹蜟(にしどち)」これは半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫を指すと私は考えている。前出の腹蜟を参照されたい。とすると、これを杏林堂版でかく修正したのは誤りと私は思う

「蠐螬(きりうじ)」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫を指すと私は考えている。前出の「蠐螬」を参照されたい。さすれば、こちらは杏林堂版でかく修正したのは正しいと私は思う。総合的に見て、杏林堂版の方が現代の生物学的知見からは無難な線とは言える。

「越州」越後国・越中国・越前国の総称。

「馬蟬〔にしどち〕」ルビは何故か、左側に配されてある(底本は「ニシトチ」と清音)。前の注での私の比定からは「ニシトチ」は広義には正しいとは言えるが、「馬蟬」に振るのは誤りである。

「藥肆〔(やくし)〕」薬屋。

「售(う)る」売る。

「蟬(きりうじ)」ルビは左側に配されてある(底本は「キリウシ」と清音)。但し、こちは、右に「ノ」「カラ」と送り仮名とルビを振った結果、書けなくなったために過ぎない。この「キリウシ」の方は前の注での私の比定からは「蟬」に振るのは全くの誤りであると言わざるを得ない。

「うつ蟬の身をかへてける木〔(こ)〕の本〔(もと)〕に猶〔(なほ)〕人がらのなつかしき哉」「 空蟬の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」言わずもがな、「源氏物語」の第三帖「空蟬」のエンディング、源氏が、逃げ去る際、空蟬が脱ぎ捨てた衣を持って帰り、そのせつない思いを詠んで、空蟬に贈った印象的な源氏の一首である。良安先生、大好き

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚱蟬


Umazemi

むませみ  【音】 馬蜩

蚱蟬

     【俗云 無末世美】

 

本綱五月始鳴黒色而大蟬類雖多獨此一種入藥醫方

多用蟬殻亦此殻也

按和名抄蚱蟬【和名奈名波世美】以爲雌蟬不能鳴者非也此據

 陶氏之本草謬然矣蓋蚱蟬卽馬蟬也形長大於蟬身

 深褐色羽畧厚美灰白色聲大而緩不如蟬之連聲也

 

 

むまぜみ  【音[やぶちゃん字注:欠字。]】 馬蜩〔(ばてう)〕

蚱蟬

     【俗に云ふ「無末世美〔(むまぜみ)〕」。】

 

「本綱」、五月、始めて鳴く。黒色にして大なり。蟬の類、多しと雖も、獨り、此の一種〔のみ〕、藥に入る。醫方、多く蟬の殻を用ふる〔は〕亦た、此の殻なり。

按ずるに、「和名抄」、「蚱蟬」【和名「奈名波世美〔(なはせみ)〕」】、以つて雌蟬(め〔す〕せみ)にして鳴くこと能はざる者と爲〔(す)〕るは、非なり。此れ、陶氏が「本草」の謬〔(あやまり)〕に據つて然〔(しか)〕る。蓋し、蚱蟬は卽ち馬蟬なり。形、蟬より長大にして、身、深褐色。羽、畧〔ほぼ〕厚く、美にして灰白色。聲、大にして緩〔(ゆる)〕く、蟬の連聲には若(し)かざるなり。

 

[やぶちゃん注:この「馬蟬」とは本邦種としては「熊蟬」、

昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis

である。同種は日本特産種で、体長六~七センチメートルにも及び、本土ではセミ類の最大種である(本邦の最大種はクマゼミの近縁種であるヤエヤマクマゼミCryptotympana yayeyamanaで、沖縄県石垣島及び西表島に分布する固有種。鳴き声はミンミンゼミに似、本記載の「本草綱目」のそれと判断してよい、大陸や台湾の低山帯に分布するタイワンクマゼミ Cryptotympana holsti の近縁種でもある。体長はクマゼミよりさらに大きく、日本最大のセミである)。以上はウィキの「クマゼミ」他に拠った。

『「和名抄」、「蚱蟬」【和名「奈名波世美〔(なはせみ)〕」】、以つて雌蟬(め〔す〕せみ)にして鳴くこと能はざる者と爲〔(す)〕る』源順「和名類聚抄」の「虫豸(ちゅうち)類」の部に、

 

蚱蟬 本草云蚱蟬【作禪二音和名奈波世美】雌蟬不能鳴者也

 

と確かにある。なお、この条の次に、

 

馬蜩 爾雅注云馬蜩一名【音綿和名無末世美蟬中最大者也】

 

ともあり、この後の極めて正確な叙述と合わせると、良安がかくも論(あげつら)って指弾するほどの誤りとは私には思われない。寧ろ、中国では鳴かぬ「馬蜩」(「蚱蟬」の)を「蚱蟬」として区別していたとすれば、古来の博物学上では納得がゆくではないか。というより、小学館の「日本国語大辞典」を見ると、「蚱蟬」を鳴かない雌の雌を指す語としており、「本草和名」(「蚱蟬 一名瘂【雌蟬不能鳴者】)をも引いており、古語辞典でも雌の蟬として「蜻蛉日記」のも出ているから、寧ろ、こうした現象的分類としては私はすこぶる腑に落ちる。そもそもが博物学的分類や命名はそういった現象的分類命名であったからである。但し、「なは」が「鳴かない・啞(おし)の」の意味であることは探し得なかった。

『陶氏が「本草」の謬に據つて然る』「本草綱目」の「蟲之三」(化生類)の「蚱蟬」の「集解」中に『弘景曰、蚱蟬、啞蟬、雌蟬也。不能鳴。』(弘景曰く、「蚱蟬、啞蟬、雌蟬なり。鳴く能はず。)とあるのを指す。陶弘景(四五六年~五三六年)は六朝時代の道教の茅山派の開祖で医学者・科学者。ウィキの「陶弘景によれば、山林に隠棲し、フィールド・ワークを中心に、本草学を研究、『今日の漢方医学の骨子を築』き、『また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』人物でもある。彼は『前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して、五〇〇年頃、「本草経集注」を著した。『この中で薬物の数を』七百三十種類と従来の二倍に増やし、また、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。この分類法はいまなお使われている』とある。

「畧」少しく。

「蟬の連聲には若(し)かざるなり」通常の蟬の鳴き声とは似ていない。]

2016/12/07

谷の響 序 (二種) / 全目録

 

   序

 

俗間有燈基暗之語。謂燈能照他而不能照其基也。今人稱宿學老儒而口徒誦讀西土之卷册。而目未曾見皇國之典籍者比有焉。是卽燈基暗之謂也。如吾蘆川畫伯則否。既能通覽西土之卷册亦能披閲皇國之古今。又能探討吾闔境之事實且記錄旃圖畫旃。若此撰亦一班耳。可謂不愧于世俗之所誹者矣。此予所喜以辨一言于篇端也。

 

  庚申仲秋下澣日  石居々士題於樂吾草盧

 

[やぶちゃん注:筆者「石居居士」(「せききよこじ(せきしょこじ)」)について、底本の森山泰太郎氏の補註には、『津軽藩幕末の儒者兼松誠。字は成言、号は石居。代々津軽藩江戸定府の士で、文化七年江戸本所の津軽藩上屋敷に生まる。長じて昌平黌に入り』、『佐藤一斉に学ぶ。和漢の学を兼ね、藩邸の子弟教育を命ぜらる。安政三年』、『弘前に帰って藩校稽古館督学となり、藩中に経史・風雅の交りを広めた。廃藩後』、『東奥義塾の創設にあずかって人材輩出に努め、また藩史編さんに従事した。明治十年没、六十八歳。魯僊と親交厚く、「魯仙小伝」を草している』とある。平尾より二歳年下である。

 以下、まず、我流で書き下す。自信はない。

 

   序

 

俗間、「燈臺、基(もと)暗し」なる語、有り。謂ふこころは、「燈、能く他を照らすも、其の基(もとい)を照らす能わず」となり。今人(きんじん)、宿學・老儒と稱するも、口、徒(いた)づらに西土(せいど)の卷册を誦讀するのみにして、目、未だ曾つて皇國の典籍を見ざる者、比(こ)れ、有るなり。是れ、卽ち、「燈臺、基暗し」の謂ひなり。吾が蘆川畫伯のごときは、則ち、否(いな)。既に、能(よ)く西土の卷册を通覽し、亦(また)、能く皇國の古今(ここん)を披閲(ひえつ)す。又、能く吾が闔境(かふきやう)の事實を探討(たんたう)し、且つ、旃(こ)れを記錄し、旃れを圖畫す。此の撰も亦、一班のごときのみ。世俗の誹(そし)る所の者に愧(は)ぢずと謂ふべし。此れ、予、一言を篇端に辨ずるを喜びとする所以(ゆゑん)なり。

 

  庚申(かのえさる)仲秋下澣(かかん)の日  石居々士、樂吾草盧にて題す

 

・「宿學」多年に亙って業績があるとされる学者。以前から名声高くして尊敬されている学者。

・「西土」「もろこし」と訓じてもよい。

・「闔境」総ての時空間。

・「一班」そうした広汎な著述考察の一つ。

・「下澣」月の二十日以降。下旬。

・「樂吾草盧」「らくごさう(そう)ろ」と音読みしておく。自邸の雅号。

 自信はないものの、まあ、それなりに自分では意味は採れたと思う。]

 

 

 

天地能内爾有常有流事物、一登而怪不有波無矣。凡人能智持弖伊加弖悉爾知可得劍。然有矣理乎究牟禮婆、阿夜志伎事無那登云閉流學風牛鳴有波、言布二毛不足痴言爾己曾。此爾我學徒平尾魯仙奴斯伊毛呂々々能書乎著波石花流中爾、其怪布架中能一際怪布事矣緊要跡、撰備目頰布事乎毛交兄弖如斯書整閉多流波、啻爾異布有事矣好牟庭有良傳、理乎究牟知布輩能幽事乎不辨、鬼神乎蔑如志神道能奇靈在事乎疎忽爾須流乎驚佐牟常、聞賀麻爾々々見賀麻爾々々鬼二二多流此能書爾社。其乎谷能毘伎跡霜託多流波、空谷能聲乎傳布登加言閉流如久、有賀中爾波不有空言毛交里多良牟加登、心志多流王邪爾己曾阿禮。歡伎加毛此書、勉志加毛此奴斯。

 

  萬延元庚申年九月十三日  鶴舍有節識

 

[やぶちゃん注:筆者「鶴舍有節」(「つるや・うせつ」)について、底本の森山泰太郎氏の補註には、『幕末津軽の俳人。弘前の商家に生まれ、本名武田乙吉、号』を有節、また、『千載庵。俳諧・和歌をよくし、また国学を好んで安政四年』、『江戸の平田鉄胤に入門し、篤胤没後の門人帳に名を連ねた。著書多く、魯儒とは青年時代から親交を重ね』、『誘掖』(ゆうえき:力を貸して導くこと。)『する点多く、魯僊の生涯に最も大きな影響を与えた人物である。明治四年没、六十四歳』とある。平尾と同い年である。

 さても、困った。万葉仮名は大学二年生以来、すっかり忘れている。それでもやらずんば得ず! 我流で書き下したが、どうしても読めない部分は□で囲って太字とし、不審な箇所は□や〈 ?〉で囲っておいた。正しい訓読がお判りの方、是非、御教授あれかし。

 

天地(あめつち)の内(うち)に有りと有る事物、一(ひとつ)として怪(くわい)有らざるは無し。凡そ、人の智もて、いかで悉(ことごと)くに知り得べけん。然か有る理(ことはり)を究(きは)むれば、あやしき事、無きなど云へる學風むあるは、言ふにも足らざる痴言(たはごと)にこそ。此こに、我が學徒平尾魯仙奴(やつばら)し、もろもろの書を著はせば、中に、其の怪しきが中の、一際(ひときは)、怪しき事、緊要(きんえう)と、撰(えら)び、目ぼしき事をも交えて、斯くのごとく書き整へたれば、啻(た)だに異(あや)しく有る事、好(この)むにはあらで、理を究むに、知しき〈=知識?〉の輩(うから)、幽(おくぶかき)事を不辨(わきま)へず、鬼神を蔑(さげす)むを志の如くし、神道の奇(く)しき靈(みたま)在(あ)る事を疎忽(そさう)にするを、驚かさむと、聞くがまにまに、見るがまにまに、鬼ににた〈=似た〉る、此の書にこそ。其れを「谷のひびき」としも託(たく)したるは、空谷(くうこく)の聲を傳ふとか言へる如く、有るが中には有らざる空言(そらごと)も交りたらむかと、心したる王邪(おに)にこそあれ。歡(よろこばし)きかも、此の書、勉(まさり)しかも、此の奴(やつばら)し。

 

  萬延元庚申(かのえさる)年九月十三日  鶴舍有節識(しる)す

 

前の序と同様、自信はないものの、やはりそれなりに自分では意味は採れたと思っている。

 以下、目次は全巻一括で示す。]

 

 

 

  谷の響 一之卷

    目錄

 一 沼中の管弦

 二 地中の管弦

 三 山女

 四 河媼

 五 怪獸

 六 龍尾

 七 蛇を播く

 八 蛇塚

 九 木簡淵の靈

 十 虻人を追ふ

十一 鬼祭を享く

十二 神靈

十三 自串

十四 子杼を脱れ鷹葉を貫く

十五 猫寸罅を脱る

十六 猫の怪猫恩を報ゆ

十七 猫讐を復す

十八 龜恩に謝す

   畢

 

  谷の響 二之卷

    目錄

 一 大章魚屍を攫ふ

 二 章魚猿を搦む

 三 蛇章魚に化す

 四 怪蚘

 五 蟹羽を生ず

 六 變化

 七 海仁草 海雲

 八 燕鳥繼子を殺す

 九 蝦蟇の智

 十 蜘珠の智

十一 夢魂人を嚙殺す

十二 神の擁護

十三 犬無形に吼ゆ

十四 蟇の妖魅

十五 山靈

十六 怪蟲

十七 兩頭蛇

   畢

 

  谷の響 二之卷

    目錄

 一 大骨

 二 壘跡の怪

 三 壓死

 四 震死

 五 天狗子を誘ふ

 六 踪跡を隱す

 七 死骸を隱す

 八 異魚

 九 奇石

 十 化石の奇

十一 巨薔薇

十二 ネケウ

十三 大躑躅

十四 大藤

十五 骨牌祠中にあり

十六 陰鳥

十七 樹血を流す

十八 落馬の地

十九 鬼火往來す

二十 妖魅人を惱す

廿一 妖魅

   畢

 

 谷の響 四の卷

   目錄

 一 蛙 かじか

 二 氷中の蟲

 三 水かけ蟲

 四 大毒蟲

 五 狂女寺中を騷かす

 六 鬼に假裝して市中を騷がす

 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す

 八 存生に荼毘桶を估ふ

 九 人をして不具に爲る

 十 戲謔長じて酒殽を奪はる

十一 題目を踏んで病を得

十二 賣僧髮を截らしむ

十三 祈禱の禍牢屋に繫がる

十四 閏のある年狂人となる

十五 半男女

十六 肛門不開

十七 骨髮膿水に交る

十八 奇病

十九 食物形を全ふして人を害す

二十 天狗人を攫ふ

廿一 一夜に家を造る

   畢

 

 谷の響 五の卷

   目錄

 一 羹肉己ら躍る

 二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す谷の響

 三 皮を剝ぎ肉を截れて聲を發てず谷の響

 四 狼の力量貒谷の響

 五 怪獸谷の響

 六 狢讐を報んとす

 七 メトチ

 八 河太郎

 九 沼中の主

 十 雩に不淨を用ふ

十一 大蝦蟇 怪獸

十二 石淵の怪 大蟹

十三 

十四 蛇皮

十五 龍まき

十六 旋風

十七 地を掘て物を得

十八 地中に希器を掘る

十九 假面

   畢

譚海 卷之二 佐竹家醫師神保荷月事

 

佐竹家醫師神保荷月事

○佐竹家の醫者に神保荷月(じんぼかげつ)と云(いふ)外科あり。治方(ぢはう)神(しん)の如し、大守の寵愛し給ふ鷹、鶴に脚を折(おら)れたるをつぎ愈して、用をなすこともとの如し。江戸にて用人馬より落(おち)て足をうち折り、骨の折(おれ)たる所うちちがひに外へまがり出たりしを、在所へ下り荷月が療治を得てもとのごとく愈(いえ)、二度(ふたたび)江戸に登りて馬上などにて往來したるをみたり、大島佐仲(すけなか)と云(いふ)用人也。其外うち身くぢきをなをす事、愈へずといふ事なし。家に傳方(でんぱう)の祕書一卷あり、川太郎傳(つたへ)たるものとてかなにて書たるもの也、よめかぬる所もありとみたる人のいへり。此神保氏先祖厠(かはや)へ行たるに、尻をなづるものあり、其手をとらへて切(きり)とりたるに猿の手の如きもの也。其夜より手を取に來りて愁(うれふ)る事やまず。子細を問(とひ)ければ川太郎なるよし、手を返して給はらば繼(つぎ)侍らんといひしかば、其(その)方(はう)ををしへたらんには返しやるべしといゝしかば、則(すなはち)傳受せし方書(はうしよ)なりとぞ。

[やぶちゃん注:「佐竹家」久保田藩(秋田藩)藩主佐竹氏と思われる(秋田の伝承譚サイトにこの記事が載るからである)。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記であるが、本条は明らかに津村の現在時制で書かれているから、当代の藩主は第八代佐竹義敦(よしあつ)或いは第九代藩主義和(よしまさ)である。

「神保荷月」不詳。

「大守」藩主。前注参照。

「うちちがひに外へまがり出たりしを」強く打ったために、本来ありえない向きに外側(がいそく)に折れ出っぱってしまったのを。但し、開放骨折だと、感染症などもあって難治であるから、この医師の他の施術法と回復の速さから考えると、単純骨折或いは骨折ではなく、強い非解放性脱臼であったものと推定される。

「二度」読みは私の推定。

「大島佐仲」不詳。読みは私の推定。かなり下の用人である。久保田藩の歴代の家老格には大島姓はいない。

「川太郎」河童。所謂、〈河童の詫び文〉型の伝承で、そこで斬られた腕を返す代わりに、その密着接合整復術や金創(かなきず)などの万能秘薬を伝授されるという常套的パターンで、日本全国で広汎に見られる河童奇譚の類型である。

「よめかぬる所もあり」どうにも何と書いてあるのか判読出来ない箇所もある。いや、だから河童の書いたものとしてリアルに伝承されるのであり、その判読不能の箇所こそが秘伝の薬剤の調合法や整復法が記してあるものと人々は考えたのである。

「方」処方。

「方書」処方書き。]

甲子夜話卷之三 20 木七、竹八、塀十郎

 

3-20 木七、竹八、塀十郎

木七竹入塀十郞と云諺ありとぞ。これは木は七月に伐り、竹は八月に截り、塀は十月に塗れば、久遠に耐るとの教なり。

■やぶちゃんの呟き

「木七、竹八、塀十郎」「きしち、たけはち、へいじふらう(へいじゅうろう)」。静山の述べているように、頻繁に採取される植物である木や竹の伐採及び塀を塗る最も適した時節を、人名に擬えて語調よく覚え易くした俚諺。言わずもがな、月は孰れも陰暦であるので注意されたい。木や竹は熱暑の夏から初秋頃にかけて生長の方を抑え始めるので、樹質が安定し、繁茂による伐採の難がやや楽になり、土や板塀はこの初冬の雨が少なく、空気もかなり乾燥した時期に塗ると、乾きが早いからであろう。但し、別に「木六竹八塀十郎」とも言うようである。

「と云諺あり」「といふことわざあり」。

「久遠に」「とはに」と訓じておく。

「耐る」「たゆる」。

「教」「おしへ」。

甲子夜話卷之三 19 樅板物音を阻る事

 

19 樅板物音を阻る事

奧州の人の云に、樅の板は人語をよく通さぬものなり。家居を板羽目にするか、又間より間を隔つる板戸に樅を用ゆれば、近き人語も徹せざるものなりと。此事聞たるまゝにて未だ試みずと、述齋語れり。

やぶちゃんの呟き

「樅板」「もみいた」。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma から製材した建築材。「爽建ハウス株式会社」公式サイト内の天然モミの木の内装材に、『植物塗装仕上げのモミの木の床や壁は光の反射量が適当で瞳孔の開きが一定し、ストレスを感じません』。『また、現代の家は気密性が高く音が反響しやすくなっています。これが小さなお子さんに無意識のうちにストレスを与え、イライラしやすくなるなどの悪影響を及ぼします。モミの木の板は音を吸収するため室内の音が反響しませんので、ストレスなく大音量でオーディオを流したり楽器を演奏したりできます』とある。

「阻る」「さえぎる」と訓じておく。

「云に」「いふに」。

「家居」「いへゐ」。

「間」「ま」。部屋。

「徹せざる」「とほせざる」

「聞たる」「ききたる」。

「述齋」お馴染みの盟友林述斎。

甲子夜話卷之三 18 蘭奢待、初昔の文字

 

3-18 蘭奢待、初昔の文字

蘭奢待と云名香は、東大寺の寶物なれば、東大寺の文字を隱て名としたる也。宇治の初音、後昔の名あるも、何とか時節ありて、其時より廿一日前に摘たるを初音と云ひ、夫より廿一日後に摘たるを後昔と云ふとぞ。是も廿一日の字を合せし也。

やぶちゃんの呟き

「蘭奢待」「らんじやたい(らんじゃたい)」は「蘭麝待」とも書く、東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香として知られる。ウィキの「蘭奢待等によれば、『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は』、ここで静山が「東大寺の文字を隱て名としたる也」(「東大寺」のそれぞれの文字を総て隠し入れて香の名としたもので、「蘭」の(もんがまえ)の内に「東」が、「奢」の(かんむり)に「大」が、「待」の(つくり)に「寺」の字を配した雅名である。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。重さ十一.・六キログラムの『錐形の香の原木』で、成分からは伽羅(きゃら:東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ(アキラリア)属アキラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha などの「沈香木」類などが風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際、その防御策としてダメージを受けた内部に樹脂を分泌し、蓄積したもの。それを乾燥させ、木部を削り取ったものがこれ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになるため、これが「沈(水)」の由来となっている。幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道に於ける組香での利用に適している)に分類されるものである。但し、本品は『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿』『で削られ』て『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の』加工法は九〇〇年頃に始まったものであるので、本「蘭奢待」は『それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)『に中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十世紀以降と『する説が有力である。一説には』推古天皇三(五九五)年という説もあるが、先の処理法から見て採れない。『奈良市の正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。近年では、二〇〇六年一月に『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八ヶ所の『切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十回以上は『切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測される』とある。

「初昔」「はつむかし」これは後で「宇治の」と静山が記しているので判る通り、茶葉(正確にはそれから製した抹茶)の呼称で、茶摘みの最初の日に摘んだ茶葉で製した抹茶の銘である。但し、これは本来、江戸初期の造園家で遠州流茶道の祖としてしても知られる小堀遠州が、従来の白みを帯びた色の茶を名付けたものという。なお、「蘭奢待」の隠し字同様、「昔」を「廿」「一」「日」の合字と捉え、八十八夜前後の「二十一日」間の前半・後半に葉を摘んだものを「初昔」・「後昔(のちむかし)」とする俗説もあり、静山はここではそれを挙げて述べることで興じているのである。

「云」「いふ」。

「隱て」「かくして」

「後昔」「のちむかし」。前注参照。

「何とか時節ありて」何かと、茶葉とそれからこしらえる美味玄妙なる抹茶の風合いに時節それぞれの微妙な違いがあって。

「其時」八十八夜。前注参照。

「夫より」「それより」。

「摘たる」「つみたる」。

甲子夜話卷之三 17 文祿二年禁中御能番組

 

3-17 文祿二年禁中御能番組

或古小册に、文祿二癸巳年十月五日、禁中御能番組と記す。其中目にとゞまる所を抄書す。先づ初日と云、番組の中に、源氏供養、羽柴肥前守【加賀守利家弟、三十三萬石と注書す】、脇如丈、笛奈良禰宜助竹友、小鼓江戸中納言秀忠公、大鼓岡田新八。野野宮、家康公江戸中納言、脇淺野彈正少弼長政、笛竹友、小鼓畠山信濃守、大鼓同修理大夫。二日目番組と云に、老松、家康公、ツレ金春大夫、脇中田帶刀、寅菊次右衞門、岩本雅樂、笛八幡助左衞門、小鼓觀世又次郞、大鼓樋口石見守、太鼓小崎彦三郞。狂言耳引、太閤秀吉公、羽柴肥前守、江戸中納言家康公。三日目雲林院、家康公、脇永井右近大夫直勝、笛春日市右衞門、小鼓觀世又次郞、大鼓高安與右衞門、太鼓淺野左京大夫幸長。次に舞臺の圖を出す。紫宸殿の側なると見ゆ。其次に各地謠歟と記する名書あり。先づ近衞前太政大臣信基公、二條前關白煕實公、九條前左大臣兼孝公、梶井殿、大谷宰相、伏見殿、八條殿、其外あり。此餘は毛利秀元等武家の歷々なり。此擧、秀吉太閤の所爲なるべけれど、珍しき事なり。且この前年より、太閤已に朝鮮を攻て、此年は吾大軍他邦に在の間なり。この時世の人氣は想像すべし【家康公の下、中納言と記す。又江戸中納言家康公と云も、疑らくは、中は大の書誤なるべし】。

■やぶちゃんの呟き

 このキャスティング、凄過ぎ!!

「文祿二年」一五九三年。

「文祿二癸巳年十月五日」「癸巳」(みづのとみ/キシ)。新暦では十一月二十七日。

「其中目にとゞまる所」「そのうち、めに留まる所」。特に目の止まったところ。

「源氏供養」ウィキの「源氏供養」によれば、『作者については世阿弥説、河上神主説(以上『能本作者註文』)、金春禅竹説(『二百十番謡目録』)があ』り、『豊臣秀吉は能楽の中で特にこの源氏供養を好み』、この前年の文禄元年からこの文禄二年にかけてだけでも、自ら七回も『舞った記録が残されている』とする。紫式部をシテとした複式夢幻能。

「羽柴肥前守【加賀守利家弟、三十三萬石と注書す】」加賀藩初代藩主前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)。彼は天正一三(一五八五)年九月に秀吉から羽柴の苗字を賜っている。

「脇」「ワキ」。「源氏供養」では「安居院(あぐいの)法印」役。

「如丈」私は不詳。本記載と同じ「文祿貮【癸巳】年【十月五日】於禁裏御能番組(但し、演目は総て)を載せる「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」(グーグル・ブックス。以下、同じ)では「山岡如犬」と載るが、「犬」は流石におかしかろう。調べて見ると、「山岡如軒」がいる。これだろう。生没年未詳であるが、安土桃山時代の武将で豊臣秀吉の馬廻り役を勤め、この翌文禄三年に摂津西成郡の検地を奉行している。事蹟は思文閣「美術人名辞典」に拠った。

「奈良禰宜助竹友」不詳ながら、「奈良」の「禰宜助」(禰宜の助役か)の「竹友」なる人物で、著者不詳の寛政元(一七八九)年の「松浦古事紀」の中の、「四十三 文禄三甲午年秋九月十八日」の「大阪西御丸御能之事」に「野守」の演目で笛方に「竹友」とある。まさしく彼であろう。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「貞光竹友」と載る。

「小鼓」「こつづみ」。

「江戸中納言秀忠公」徳川秀忠。

「大鼓」「おほつづみ」或いは「おほかは」。能や長唄で囃子に用いる大形の鼓(つづみ)。左の膝の上に横たえ、右手で打つ。能では床几(しょうぎ)に腰かけて打つ。

「岡田新八」私は不詳。

「野野宮」能「野宮(ののみや)」。「源氏物語」の六条御息所をシテとする複式夢幻能。

「家康公江戸中納言」徳川家康。最後で静山が注しているように、「中納言」は「大納言」の誤り。家康は先立つ天正一五(一五八七)年八月に従二位権大納言に任ぜられている。なお、この時に「羽柴」姓をも下賜されている。

「淺野彈正少弼長政」豊臣政権下の五奉行筆頭で、後の常陸真壁藩主浅野長政(天文一六(一五四七)年~慶長一六(一六一一)年)。「野宮」のワキ「旅僧」役。

「畠山信濃守」私は不詳。

「同修理大夫」畠山修理大夫なら、能登畠山氏第九代当主畠山義綱がいるが、私にはよく判らぬ。但し、「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では前の人物を「畠山」とするのに対して「畑山」と表示が異なる。

「老松」世阿弥作の老松の神霊をシテとする長寿を言祝ぐ複式夢幻能。

「金春大夫」金春流宗家六十二代金春安照(天文一八(一五四九)年~元和七(一六二一)年)か。豊臣秀吉の能指南役を勤め、絶大な庇護を受け、慶長元(一九五六)年には大和で五百石の知行を得、徳川家康の愛顧も受けて金春座繁栄の基礎を築いた。

「中田帶刀」私は不詳。思うに、「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」から見ると、「甲田帯刀」の誤りか。

「寅菊次右衞門」長府藩能役者の知られた名跡。表きよし氏の論文「長府藩の能楽」(PDF)に詳しい。後の金春座の虎菊大夫か。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「虎田治右衞門」と記す。

「岩本雅樂」底本では「雅樂」には「うた」とルビする。私は不詳。

「八幡助左衞門」不詳。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「助」を「介」とする。

「觀世又次郞」観世又次郎重次。信長から朱印状を拝領した彦右衛門豊次の子。江口文恵氏の論文「勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵」(PDF)に拠る。

「樋口石見守」大鼓方能役者で樋口流大鼓の祖。近江の郷士で豊臣秀吉の近習頭となった。観世信光に大鼓を学んだ。彼は後に秀吉の命で朝鮮出兵に従い、陣中で死去している。

「太鼓」「たいこ」。二枚の牛皮と欅(けやき)などをくり抜いた胴を調緒(しらべお)と呼ばれる麻紐で固く締め上げた打楽器。能の演奏では専用の台に載せて床に据え、二本の撥を用いる。

「小崎彦三郞」私は不詳。

「耳引」現在の狂言「居杭」(いぐい:「井杭」とも書く)の原型とされる。清水寺の観音に「隠れ頭巾」を授かった男が、姿を消し、周囲の人々を翻弄するストーリー。参照したウィキの「居杭」に、まさにこの時に演じられたそれがプロトタイプであると推定されているとある。

「雲林院」在原業平をシテとする複式夢幻能。

「永井右近大夫直勝」後の下総古河藩初代藩主永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二六)年)。

「春日市右衞門」(しゅんにちいちえもん 天正六(一五七八)年~寛永一五(一六三八)年)は笛方能役者。父は三好家家老として将軍足利義輝を殺害させて畿内に実権を揮った松永久秀の家臣であった。松永氏の滅亡後に能笛を家業とし、徳川家康から「春日」の号を与えられたとも、或いは春日太夫道郁(どうゆう)に名字を貰って、笛方春日流二代を継いだともされる(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「高安與右衞門」能の大鼓方の流派の一つで、室町末期に高安与右衛門道善を流祖とした嫡流。

「淺野左京大夫幸長」後の紀州藩初代藩主浅野幸長(天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)。

「歟」「か」。疑問の係助詞。

「名書」「ながき」。名簿。

「近衞前太政大臣信基」近衛信尹(のぶただ 永禄八(一五六五)年~ 慶長一九(一六一四)年)の初名。ウィキの「近衛信尹によれば、『幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたと』され、『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』したため、『天皇や秀吉の怒りを買い』、この翌文禄三(一五九四)年四月には『後陽成天皇の勅勘を蒙っ』て、『薩摩国の坊津に』三年の間、配流となったとある。後、慶長元(一五九六)年には勅許が下って京都に戻った。慶長五(一六〇〇)年九月には『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴』ったが、敗北して薩摩に帰国した。しかし、その後、『関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付け』、慶長六(一六〇一)年には左大臣に復職、四年後の慶長十年には念願の関白となっている。

「二條前關白煕實」秀吉の前に関白であった二条昭実(あきざね 弘治二(一五五六)年~元和五(一六一九)年)であろう。

「九條前左大臣兼孝」(天文二二(一五五三)年~寛永一三(一六三六)年)は豊臣秀次の後に関白となった九条家第十七代目当主。

「梶井殿」私は不詳。現在の京都市左京区大原にある天台宗三千院は古くは「梶井門跡」と呼ばれたから、その親王の系統上の人物か。

「大谷宰相」大谷吉継(永禄八(一五六五)年或いは永禄二(一五五九)年~慶長五(一六〇〇)年)か。

「伏見殿」私は不詳。ウィキの「によれば、北朝第三代崇光天皇の『第一皇子栄仁親王は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった』。栄仁親王王子の第三代『貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が』四『代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった』とあるので、この親王の系統上の人物か。

「八條殿」私は不詳。或いは「八条殿」を称した八条宮智仁(としひと)親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)か。ウィキの「八条宮智仁親王」によれば、『八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。幼称は六宮・胡佐麿(古佐麿)・員丸、通称は幸丸・友輔。一般には八条の皇子と呼ばれた』。『邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も』天正一四(一五八六)年に『今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし』天正一七(一五八九)年に『秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり』、同年十二月に『秀吉の奏請によって八条宮家を創設した』とある。

「毛利秀元」(天正七(一五七九)年~慶安三(一六五〇)年)は後の長門長府藩初代藩主。

「此擧」「このきよ」。この絢爛豪華な能狂言の催し。

「太閤已に朝鮮を攻て」文禄の役。天正二〇(一五九三)年(但し、十二月に文禄に改元)四月十二日に本邦の一番隊であった宗義智(そう よしとし)と小西行長が七百艘の大小軍船で対馬・大浦を出発、同日午後に釜山に上陸している。

「在」「ある」。

「この時世の人氣は想像すべし」このような国外出兵という未曽有の大変事の中、世の歴々の太閤に対する人気(評価)は想像を絶するレベルのものであったと知れる。

「書誤」「かきあやまり」。

2016/12/06

谷の響 五の卷 十九 假面 / 谷の響 ~ 全電子化注 完遂

 

 十九 假面

 

 又、この百澤寺の什物にいと古き面七枚あり。往古(むかし)延曆・大同の年間(ころ)、坂上田村麿東夷征伐の時、軍師にかむらしめ賊を威して、大いに勝利を得たるものと言ひ傳へたれど、これによれる書物もなく緣起もあらず。されば二百年三百年の古きものと見得ず。漆の色のさびたる、彫れるあとの俗をぬけ、ことに形の異相などいといと古く雅(みやび)にして、中々中古(むかし)や近き世の人の手に成れるものにはあらざるなり。又、常の物より大ぶりにて長は八寸又は九寸もありぬべし。材は桂のごとく見ゆるなり。こもいと珍しければその形をここに内(おさ)む。又いふ、荒川村の妙見堂の神體は同じく十二枚の古き假面なるよしなり。いとくすびなるものにて、これが宮をひらくとき、必ず風雨雷電すさまじくおこりぬるとて、かたく禁(いましめ)て人に見することなかりしとなり。

 

[やぶちゃん注:本条を以って「谷の響」全巻を終わる。

「この百澤寺」前条を受ける。岩木山神社の別当寺。述べた通り、おぞましき廃仏毀釈により廃寺。

「什物」「じふもつ(じゅうもつ)」。寺院の秘蔵する道具類。

「古き面七枚あり」底本の森山氏の補註に、『いま岩木山神社に古い舞楽面が三枚あり、年代・作者・伝来すべて不明であるが、坂上田村麿が奉納したと伝える。これをさすのであろう』とある。教え子から指摘があって、ブログ「ライター斎藤博之の仕事」の奥大道と平泉(3-2)岩木山神社の舞楽面を紹介された。まさに! これだ!!

「延曆・大同」七八二年から八一〇年まで。

「坂上田村麿」(さかのうえのたむらまろ 天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)は平安初期の武官。近衛将監から近衛少将を経、延暦一〇(七九一)年、征東副使に任命され、同十三年には征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討った。同十五年、陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守、さらに鎮守府将軍、同十六年(七九七年)に至って征夷大将軍に任ぜられた。

「東夷征伐」ウィキの「坂上田村麻呂によれば、延暦二〇(八〇一)年に『遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた』。その後、一度、帰京し、翌延暦二一(八〇二)年に『確保した地域に胆沢城』(いさわのき)『を築くために陸奥に戻り、そこで阿弖流為』(あてるい)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)ら五百余人の『降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し』て遂に二人を処刑している。延暦二二(八〇三)年には志波城(しわのき)を築城している。延暦二三(八〇四)年に、再び、『征夷大将軍に任命され』、三『度目の遠征を期した。しかし、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた』とある。

「軍師」参謀格の大将。

「かむらしめ」「被(かむ)らしめ」。被らせて。

「威して」「おどして」。

「されば二百年三百年の古きものと見得ず」不審。後の「中古(むかし)や近き世の人の手に成れるものにはあらざるなり」という感想と矛盾している。

「俗をぬけ」後で「いといと古く雅(みやび)にして」と言っているから、俗っぽい粗野さが全くなく、の意で採る。

「中古(むかし)」二字へのルビ。

「長」「たけ」。面の長径。

「八寸又は九寸」二十四センチ強から二七センチ強。

「桂」ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum

「こもいと珍しければその形をここに内(おさ)む」前条で述べた通り、平尾の絵図を我々は最早、見ることは出来ない。岩木山神社に行くことがあったなら、是非とも見て見たいものだが、そんな機会は多分、私には訪れぬであろう。

「荒川村」現在の青森市荒川(あらかわ)。(グーグル・マップ・データ)。

「妙見堂」現在の荒川地区の東にある青森市問屋町の大星神社。(グーグル・マップ・データ)。底本の森山氏の補註に、『坂上田村麻呂が』『蝦夷平定後、横内(よこうち)の地(いま青森市横内)に鬼面七箇を納めて妙見社を祀ると伝える。明治三』(一八七〇)年に、『大星神社と改称した』とある。Yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の大星神社・妙見宮・追分石 (北斗寺  青森市問屋町)が画像豊富! それによれば、やはり最初は平尾の言う通り、「十二」面あったらしい。そうして菅江真澄が「栖家乃山(すみかのやま:寛政八(一七九六)年の紀行)で次のように記していると現代語訳して呉れている。この妙見堂には『そのむかし、天台宗の北斗寺という寺があったという。神主阿保某のもとに代々伝わる獅子頭があり、また古い仮面が』七『つ蔵されている。神主阿保安政が語るには、「田村麿が征夷大将軍として蝦夷人をおびやかそうとしたとき、大勢の兵士らが着けた面だとか、北斗七星になぞらえて神事の舞がおこなわれたときの』七『つの面だとも言い伝えられており、むかしは』十二『面あったとかいわれています。この面を人に見せてはならないと、遠い先祖のころから唐びつのなかに深くひめかくして、さらに見せたことがありません」という』とあり、平尾の時代には既に七面しかなかったのである。

「くすびなるもの」「くすび」は上代語の「奇(くす)し」で「神秘的だ・不思議だ・霊妙な力がある」の意。畏れ多く神威を保持した神聖なるものの謂いである。だからこそ、「かたく禁(いましめ)て人に見することなかりし」なのである。]

谷の響 五の卷 十八 地中に希器を掘る

 

 十八 地中に希器を掘る

 

 天保の末年にて有けん、獨狐村の長左衞門と言へるもの、その村の領なる若狹館といふ處をほり、この地より龜ケ岡産に等しき磁器出るなり。掘りて鏡の形なるものを得たりけるが、それにある人形は岩木山の上にある本尊の脇師の神に似たるとて、百澤寺に納めたりしとなり。往ぬる丙辰の五月この寺に參詣し時、乞得て見たりけるに錢にて鑄たる物にして、はだいとあらく鍋の地はだにひとしかるが、徑(わたり)五寸許にして表の方に二重の緣(ふち)あり、中に二人の人形の居たるを鑄出して、丈各一寸七分許り膝の厚さは三四分もあるべく、烏帽子をかむり扇の如きを持てる形なり。裏の方は椽(ふち)なく、人形の處は少し凹みたれど打出せるものにあらず。又、上に五分許りの耳二ツありて穴をうがてり。こを斜に見るときは、綠色の光ありていと古きものと見らる。されど何に用ひたることを知らず。處の人たゞ鏡なりといへども、全く鏡にあらず。その全圖を玆に出し、後學のためにすべし。

 

[やぶちゃん注:「希器」「キキ」と音読みしておく。稀れにして珍らかなる器。

「天保の末年」「天保」は十五年までで、グレゴリオ暦では一八三〇年から一八四五年(通常は末年を一八四四年とするが、天保十五年は旧暦十二月二日に弘化に改元しており、これはグレゴリオ暦で一八四五年一月九日に相当するので、九日分が一八四五年に含まれる)。

「獨狐村」底本の森山氏の別の補註によれば、『弘前市独狐(とっこ)。弘前の西北郊四キロ。鯵ヶ沢街道に沿うた農村部落』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。エンディングに近いから再度、言い添えておくが、それにしても凄い村名だなあ。独鈷が元かしらん?

「若狹館」秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の笹森館に、そこが別称を「若狭館」と称すること住所がまさに、弘前市独狐笹元であることから、ここに同定出来る。それによれば、『築城時期・築城主体ともに不明』ながら、「津軽一統誌」によると、元亀・天正年間(一五七〇年~一五九二年)、『大浦(津軽)為信の津軽統一に与力した砂子瀬勘解由が軍功により若狭館を給されたとされ、以後 勘解由は笹森氏を称し、若狭館は笹森館と呼ばれました。なお勘解由はその後、菊池刑部・山上衛門佐・七戸修理等ともに大間越奉行を務め、「小野茶右衛門の乱」を鎮圧したと伝えられます』とある。

「龜ケ岡」現在の青森県つがる市の津軽平野西南部の丘陵先端部にある、縄文晩期の集落遺跡で、非常に知られた遮光器土偶が出土したことで有名な「亀ヶ岡石器時代遺跡」のこと。ウィキの「亀ヶ岡石器時代遺跡によれば、この遺跡は津軽藩第二代藩主津軽信枚(のぶひら)が元和八(一六二二)年に、『この地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したことにより発見された。この地は丘の部分から甕が出土したことから「亀ヶ岡」』『と呼ばれるようになったという』。『また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。亀ヶ岡城は造りかけの状態で一国一城令が出たため、やむなく廃城となった』。『江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ』、『遠くオランダまで売られたものもあ』り、実に一万個を『越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという』とある。

「磁器」土器。

「人形」「ひとがた」。彫琢された人の形。

「あるひと、岩木山の上にある本尊」弘前市百沢の岩木山の南東麓にある岩木山(いわきやま)神社奥宮。神仏習合の当時は岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の三つの堂があったというから、この「人形」とは、或いは、その観音菩薩を指すか。直後に「脇師」とあり、これは「わきじ」で「脇侍」であるから、取り敢えず観音を候補としたのであるが、しかし、後の方で烏帽子を被っているとするから、或いは神像ででもあったものか。後の平尾の観察部分の注も参照されたい。

「百澤寺」「ひやくたくじ」と読む。廃仏毀釈によって廃寺となった。ウィキの「岩木山神社によれば、岩木山神社の『創建については諸説があるが、最も古い説では』、宝亀一一(七八〇)年に『岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる』。延暦一九(八〇〇)年、『岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた』。『このときの祭神の詳細は不明だが、別天津神五代、神代七代、地神五代の集団神と推測される三柱の神であるとする説がある』。『また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる』。寛治五(一〇九一)年、『神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている』。前に述べた通り、岩木山山頂には、当時、『阿弥陀・薬師・観音の』三つの『堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された』という。しかし、天正一七(一五八九)年、『岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼することとなり、以後、再建が進められることとなった』。『江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ』。『特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(当時は百沢寺の本堂とされた)や本殿(当時の下居宮)が再建された』とある。

「丙辰」安政三(一八五六)年。

「乞得て」「こひえて」。拝観を乞うて許され。

「はだいとあらく」「膚(鏡面)、いと粗く」。

「鍋の地はだにひとしかるが」「鍋(なべ)の地膚に等しかるが」。

「徑(わたり)五寸許」「許」は「ばかり」で、直径十五・一五センチメートルほど。

「中に二人の人形の居たるを鑄出して、丈各一寸七分許り膝の厚さは三四分もあるべく、烏帽子をかむり扇の如きを持てる形なり」平尾の観察である。

――その鏡の面の中に、二人の人形(ひとがた)の像がもともと鋳出(いだ)されてあって、その人物の背丈は孰れも五センチ強ほどの座像であって、その膝の厚さは九ミリから一センチ二ミリほどもあるように見え、二人とも、烏帽子を被っており、扇のようなものを持っているような姿に見えた。――

ともかくも、これは所謂、魔鏡(鏡面に神像を彫り込んで、それがある角度から見ると髣髴とするように見えたり、或いは光りを反射させて壁などに映し出すと、そこに人形が浮かび出るもの)の仕掛けであったのではないかと考えられる。「扇のようなもの」とは束帯の時に持つ笏(しゃく)かも知れぬ。さすれば神像である可能性が高いか。

「五分」一センチ五ミリ。

「斜」「ななめ」。に見るときは、綠色の光ありていと古きものと見らる。

「その全圖を玆に出し、後學のためにすべし」前にも述べたが、「谷の響」の自筆本は伝わらず、既に焼失したものと考えられている(底本の森山氏の冒頭の解題に拠る)。平尾は絵師であったのだから、さぞ、美事なものであったろうに! 残念至極也!!]

谷の響 五の卷 十七 地を掘て物を得

 

 十七 地を掘て物を得

 

 文化の末年のころ、越水村の百姓ども、それが領なる天津澤の内へ野堰を掘りたることありしが、三尺ばかりの下に深さ三尺餘り長さ二十間ばかりの間、不殘(みな)蜆貝にてありしとなり。又この越水村の山中より人の骨の燒きたるもの、及錢屑(かなくそ)・炭・ふいごなど出たり。又菰筒村の山中にもこの蜆貝・炭等出る所、所々にありて越水村の彌助といへる老父の話也。

 相馬村の澤目、大助村と關ケ平村の間の田の中に低き處ありて、そこに鴫の澤と言へる岩あり。この岩の中に田の水を落し、その下は流になれり。この岩に帆立貝の小さきもの幾つもついてあり。又この所の内に龍毛岱といへるあり。古年(ふるとし)この處崩れて、天秤(はかり)・圭鑽(けさん)などその外色々の器物出たりとなり。又、相馬藤澤村の後の山に女(め)ノ子館(こだて)といへるあり。此廓の中より燒米の半(なかば)石になりたるもの多く出るとなり。又、この燒米の石に化(な)れるものは飯詰村なる茶右衞門館、森山【西濱邑】なる茶右衞門館【同名也】、この二ケ處よりも出る也。

 天保九戊の年の四月のよし、小泊村の龜老母(うば)といへるもの、その領砂山の中より古錢十二貫文ばかり掘り出せり。箱といふもなくて久しく埋れるものから、たゞ一塊(ひとかたまり)となりてこれをくだくに百にして七十をそこねしと。さるに其錢は大小ありて大きなるは一寸より一寸三分あまり、小なるは六七分、中なるは常の大きさにしてたいてい浩武なりしと。好事の者通用錢と取りかえて、今は老母の處に一錢もなかりしとなり。その大小の二ツのものは極めて珍らしき物なるべきに、奈何なりしか。又、文政の年間(ころ)一ツ森村の六兵衞と言へる者、大然村の畑をしひて古錢二貫文ばかり掘り得たりしが、大體永樂錢なりとぞ。又、天保の頃飯詰村の源八と言へるもの、あぜを崩して古錢一貫文ばかり掘り得しとなり。又、同町なる角田傳之助と言へる人、自分の屋敷なる稻荷堂の後を掘りたるに、二斗計なるべき甕の三つありけるが、皆口きわまて錢の有りければいく百年へぬるにや、ひとかたまりとなりてくだくまにまに全きもの一錢もあらざれば、元のごとく埋めて置しとなり。こは文政三年にてありし。

 文政の年間(ころ)、八幡崎村の八幡宮の境内を掘りて甕を多く得たりと。この甕の出る處多くあり、二(つぎ)々にあぐへし。その中一ツの甕に五色の絹糸みてりとなり。又、この廓を掘りて帆柱出たるを、掘り上ぐることをとゞめてその柱の先きに堂を建て、粟嶋大明神を祝へりと。又、嘉永のはじめ小栗山村の者、畑をおこして古き鍬七枚得しと。又、この畑より人のどくろに似たる石多く出でたりと。又、同四年のころ田舍館邑の者、堰を掘りて一ツの箱を得たるが、その内に紫なる馬の三繫(さんかい)ありしが、取あぐるやいなや粉になりて形を損ひしと。又、安政五年の三月堅田村の者、常源寺の寺跡を畑におこせしに、鏡一面得たりし。徑(わたり)八寸ばかり裏は松竹梅に鶴龜の模樣にて、撮(つまみ)に附けし絹糸の揚卷の緒の、未だ朽もやらでありけるが、そが菩提の爲めとて常顏寺に納めしとなり。又、この鏡の出たる穴より短刀一口、長さ一尺許りのものなるがいたく朽ちて鐡の心のみ殘り、鍔はこぶしの如くなりて錢屑(かなくそ)にひとしかりしとなり。又、この處よりいと大きなる人の骨出たり。そは前に擧げしなり。

 

[やぶちゃん注:「文化の末年」文化は十五年であるが、同年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)に文政に改元している。

「越水村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡木造町越水(こしみず)。津軽半島の基部で、木造新田(きずくりしんでん)の西端に当り、屏風山を隔てて日本海になる』とある。現在はつがる市木造越水。ここ(グーグル・マップ・データ)。鰺ヶ沢の北東直近。

「天津澤」不詳。識者の御教授を乞う。

「野堰」「のぜき」。簡易水路。

「三尺」約九十一センチメートル。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「蜆貝」「しじみがい」。この部分に限るなら、縄文・弥生の貝塚であった可能性が一つ、疑われはする。

「及」「および」。

「錢屑(かなくそ)」。鉄精錬の際に飛び落ちるかす。スラグ。

「ふいご」「鞴」。これらは金属精錬を生業とした古代の民の遺物ととれる。

「菰筒村」底本の森山氏の補註に、『木造町菰槌(こもつち)。越水の北方』とある。現在はつがる市木造菰槌(きづくりこもつち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「相馬村の澤目、大助村と關ケ平村の間」現在の弘前市大助はここ、その南の相馬川上流の弘前市藍内関ケ平はここ(孰れもグーグル・マップ・データ)であるから、このロケーションは、その中間点附近(「澤目」「鴫の澤と言へる岩」とあるから、相馬川沿いの沢の分岐附近か。「関ケ平」の西方に「鴫ケ沢山」という山がある)に当たるものと思われる。

「この岩に帆立貝の小さきもの幾つもついてあり」これは先史時代の化石である。

「龍毛岱」「りうげたい」と読むか。「岱」はピークの意。位置不詳。

「圭鑽(けさん)」「卦算・圭算」で「けいさん」とも読み、文鎮のこと。易の算木(さんぎ))の形に似ることによる呼称。

「相馬藤澤村」現在の弘前市藤沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の「大助」の東北直近。

「女(め)ノ子館(こだて)」不詳。嘗てそうした名の館跡があった(とする伝承からの)地名であろう。

「此廓」「このくるは」。同地区内。館跡とされる遺跡内部。

「燒米」弥生頃の調理或いは祭祀加工物の、塊りの米の炭化して堅く石のようになったものか。

「飯詰村」底本の森山氏の別の補註に、『五所川原市飯詰(いいずめ)。戦国時代この地の高楯城に土豪朝日氏が拠っていたが、天正十六年津軽為信に亡ぼされた。藩政時代この地方開発の中心地であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「茶右衞門館」前と同じく遺跡地名。次注参照。

「森山【西濱邑】なる茶右衞門館」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡岩崎村森山は日本海に臨むところで、慶長頃、土豪(また海賊ともいう)小野茶右衛門がここに拠ったと伝える。その館跡から焼米が出る、いわゆる白米城伝説がある』とある。現在は西津軽郡深浦町森山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「白米城(はくまいじょう)伝説」とは、古く、水攻めにされて窮した山城で、水が豊かにあるように敵方に見せかけるため、白米で馬を洗ったり、崖上から滝のようにそれを流して敵を欺いたという伝説を指す。一般には、その事実が密告されたり、或いはそうした米に烏や犬が群がって露顕して落城するという結末を持つ。「青森県歴史観光案内所」公式サイト内の「深浦町」の森山城(茶右衛門館)に詳しい。

「天保九戊の年」天保九年は一八三八年。

「小泊村」底本の別の補註に、『北津軽郡小泊(こどまり)村。津軽半島の西側に突出た権現崎の北面が小泊港である。古く開けた良港である。大間は大澗で入江のこと』とある。現在は青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊である。この「小泊港」周辺である(グーグル・マップ・データ)。

「龜老母(うば)」「かめうば」と称する以上は土地の古くから土着していた一族で、老女しか生き残らなかったものであろうか。

「その領砂山」その自身の有する耕作地である砂山の謂いであろう。

「一寸より一寸三分」三~四センチメートル。

「六七分」一センチ八ミリ~二センチほど。

「浩武」「洪武」(こうぶ)の誤り。底本の森山氏の補註でも、『浩武銭、つまり浩武通宝のこと。中国明の大祖が浩武年間に発行した銅銭で、わが国でも民間に通用した』とあるが、「洪武」は明代の元号で一三六八年か一三九八年。

「文政」一八一八年~一八三〇年。

「一ツ森村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡鰺ケ沢町一ツ森。赤石川上流の山村』とある。現在は鰺ヶ沢町(まち)一ツ森町(まち)。(グーグル・マップ・データ)。

「大然村」底本の森山氏の補註に、『一ツ森部落の近くの大然(おおじかり)』とある。現在の一ツ森町の南に「白神大然河川公園」というのがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「しひて」不詳。「敷(し)く・布(し)く」で「耕す」の意か。

「永樂錢」底本の森山氏の補註に、『明の成祖が永楽九』(一四一一)『年に鋳造した青銅銭。室町時代からわが国でも流通し、足利義持は国内通用の永楽銭を鋳造した』とある。

「天保」一八三〇年から一八四四年。

「屋敷なる」屋敷内にある。

「二斗計」「にとばかり」。三十六リットルほど入る。

「甕」「かめ」。

「口きわまて」「まて」はママ。「口際まで」。

「文政三年」一八二〇年。

「八幡崎村」底本補註を見ると、『南津軽郡尾上町八幡崎(やわたざき)』とあるのであるが、とすると、現在の尾上町は、附近(グーグル・マップ・データ)となる。しかし、この「八幡崎」なる地名も「八幡宮」も見当たらぬ。そこで調べてみると、現在の尾上町の西方の平川市八幡崎宮本に八幡宮を見出せた。(サイト「日本神社」の同八幡宮のページ)ではあるまいか?

「二(つぎ)々にあぐへし」以下、挙げて見よう。

「みてり」「滿てり」。

「粟嶋大明神」恐らくは現在の弘前市城東北にある「淡島神社」であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「嘉永のはじめ」嘉永は一八四八年から一八五四年。

「小栗山村」底本補註に、『弘前市小栗山(おぐりやま)。岩木山神社・猿賀神社と共に、古来』、『津軽の農民の信仰厚い小栗神社がある』とある。附近(グーグル・マップ・データ)。

「鍬」「くは(くわ)」。

「どくろ」「髑髏」。

「同四年」嘉永四年は一八五一年。

「田舍館邑」「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「馬の三繫(さんかい)」底本補註に、『馬具。面繫(おもがい)(くつわをつなぐために馬の頭から両耳を出してかける組糸又は革の装具)、胸繫(むながい)(胸から鞍橋にかけわたす緒)、尻繋(しりがい)(尻にかけて車の轅』(ながえ)『や鞍橋を固定させる緒)の三つを総称していう』とある。

「安政五年」一八五八年。

「堅田村」底本の森山氏の別の補註によれば、『現在の弘前市和徳堅田(かただ)』とある。現在は和徳町と堅田にわかれているようだが、この附近(グーグル・マップ・データ)。

「常源寺の寺跡」曹洞宗白花山常源寺。この寺は移転(慶長一六(一六一一)年。これはYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の記事に拠った)にしたので「寺跡」なのであるが、現在も弘前市西茂森に現存する。(グーグル・マップ・データ)。

「徑(わたり)八寸」直径約二十四センチメートル。

「揚卷」揚巻結びの緒。左右に輪を出し、中を石畳のようにした飾り結び。鎧・御簾(みす)などに用いる。

「朽もやらで」「くちもやらで」。腐り落ちることもなく。

「そ」出土した鏡を指す。古来、鏡は神聖な物とされた。

「鍔」「つば」。

「こぶし」「拳」。

「この處よりいと大きなる人の骨出たり。そは前に擧げしなり」谷の響 三の卷 一 大骨を参照。]

谷の響 五の卷 十六 旋風

 

 十六 旋風

 

 嘉永二年の七月のよし、上野につむじ風おこりて茂森波立の椛屋某が蕎麥をうゑたる畑二枚、そのあたり百坪あまりちりものこらず卷上げて、その跡深さ一丈ばかり掘れて一尺ばかりよりこぶしばかりまでの石數多吹飛ばし、東へなぐれて昇りしがその塵埃は黑雲の如く見得しとなり。この上野のうちにも石森といふあたりは、おりおり有ことにてかく種物を損ふことまゝある事とぞ。己れあげまきの折、母と倶に笹淸水の明神に參詣しける時、いと強き旋風に遭ひしことあり。こを書たるものも龍卷の下留(したどめ)と倶に見得ざれば、こも又暫く略しつ。

 又、嘉永六年の七月にて有けん、紺屋町の鍛冶金次郎といへるものゝ細工場の隅より、晝少し下(すぎ)に旋風起りて少しく塵芥を卷上げけるが、やがて止みては又起り三度目になりて遂に卷おふせて、其まゝ街道へぬけ出で、凄じく埃を卷いて向ひの家なる靑海源兵衞の門に入りて、臺所なる道具を吹き散らし直に裏へつきぬけて、堀越屋軍兵衞といへる染屋の背戸に張りたる白木綿を五六反卷き上げ、その内二反は埃と俱に高く登り遙かの空にひらめき𢌞りていよいよ遠く行けるが、染屋の主人僕共をはしらせてその跡を追はせたるが、八幡宮の側なる反畝(たんぼ)の上に至り次第次第に落下りしを、早くもとるものありて酒に代へて貰ひしとなり。

 又、弘化二年の六月の事なるが、己が向ひなる熊谷又五郎といへる人の圍爐の角(すみ)より少しく旋風の起ること每日のよしなるが、四五度の後每(いつも)より少しく大きく起りけるに、其まゝ庭へ吹𢌞りて塵埃を捲きあげ、庇の檐(のき)に釣したる鳥籠を吹落し、直に大道へひろごり出で高くもあがらで通りのまゝに卷きめぐりしが、三十間ばかりにして止みたりき。

 又、天保二三年の頃、己が先師五鳳先生の話に、頃日祕めおける紛本のいたくまつれるから取りそろへてありけるが、箱の中より旋風起りてあたりにおける紛本どもを吹きまはし、座敷を騷がし庭にぬけ出て凄まじく草木をゆり鳴らせるが、遠くも至らで背裏(せと)の中にしてつひに止みたりき。いとあやしき事もありけるなりと語られき。かゝれば旋風は野原にのみ限るにあらず、これ氣の然らしむるものなるべけれど、鍛冶場の隅、圍爐の隅あるは箱の内より登れるもいとあやしかりし事どもなり。

 

[やぶちゃん注:「旋風」「つむじかぜ」。

「嘉永二年の七月」同年旧暦七月一日は閏四月があったため、グレゴリオ暦では一八四九年八月十八日に相当する。

「上野」底本の森山氏の補註に、『弘前市常盤坂付近の上野(うわの)』とある。常盤坂地区はここ(グーグル・マップ・データ)。

「茂森波立」「波立」は不詳だが、弘前市茂森町は、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「椛屋」「かうじや」。

「一丈」約三メートル。

「一尺」約三〇センチメートル。

「こぶし」「拳」。

「數多」「あまた」。

「なぐれて」横にそれて。

「石森」底本の森山氏の補註に、『名の通り石山で、慶長十六年弘前築城の際、石垣など石材を多く運んだ』とある。

「種物」「うえもの」か。栽培物。

「己れあげまきの折」「われ総角の折り」。以前にも注した通り、私(平尾)が少年の頃。「笹淸水の明神」青森県弘前市自由ケ丘にある笹清水九頭龍神社のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。先の常盤坂の南直近である。

「下留(したどめ)」前条で既注。下書き・メモランダ。

「嘉永六年の七月」一八五三年。同旧暦七月一日は新暦で八月五日。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「卷おふせて」「まきおほせて」が正しい。「卷果(おほ)す」で、完全に旋風を巻いて小龍巻となって、の意。

「靑海源兵衞」「せいかいげんべゑ」。底本の森山氏の補註に、『津軽藩御抱え蒔絵師の家で、初代源兵衛(天和ころ)以来代々襲名。二代源兵衛が津軽塗の技法を始めたという』とあり、多くの津軽塗サイトには彼の名が出る。

「直に」「ぢきに」すぐに。

「背戸」後で「せと」とルビする。屋敷店の裏手。

「僕共」「しもべども」。

「八幡宮」現在の青森県弘前市八幡町にある弘前八幡宮であろう。紺屋町より、東北方向に一キロメートルほどはあるが、旋風が運ぶのだから、それくらいはなくては!

「早くもとるものありて酒に代へて貰ひし」ここがリアルで面白い!

「弘化二年の六月」一八四五年。同旧暦六月一日は新暦で七月五日。

「圍爐」「いろり」。

「每(いつも)」一字へのルビ。

「通りのまゝに」町の通り筋に沿って。

「三十間」五十四メートル五十四センチ。

「天保二三年」一八三一、一八三二年。

「五鳳先生」底本の森山氏の補註に、『工藤五鳳、名は俊司、化政期津軽の画人。魯僊は文政二年十二歳頃、就いて画技を学んだ』とある。「光信公の館」公式サイト内の収蔵品ギャラリーで師弟両人の絵(工藤五鳳筆「秋草図」と平尾魯仙筆「岩木山参詣図」)が見られる!

「頃日」音は「ケイジツ」。近頃の意で、そう訓じている可能性も高い。

「紛本」昔、胡粉(ごふん)を用いて下絵を描き、後に墨を施したところから、東洋画の下書きのことを指す。別に、後日の研究や制作の参考とするために模写した絵画も指す。ここは保管が雑であるところからは後者であろう。

「いたくまつれるから」(気が付いたら)ひどくごちゃごちゃと乱雑になって溜まっておったによって。

「取りそろへてありけるが」それを綺麗に整頓して、取り揃えていたところ。現在進行形で読んだ方が腑に落ちる。

「背裏(せと)」裏庭。]

谷の響 五の卷 十五 龍まき

 

 十五 龍まき

 

 文化十四年の事にてありけん、御嶽堂の堤普請ありし時、七月の頃にや俄に大雨もの凄じく降り來りて、黑雲渦を卷き中天(なかぞら)におほひたりしが、普請の人夫共數百人すは龍卷ぞとて、ときの聲をあぐること三四度なりしが、その卷ける雲橫にそれて品川町の上に覆ひかゝりけるに、人家二軒廂抔(など)多く卷きあげ卯辰をさして、龍の下りしものと世うはさの風説なりき。この時己も幼少の時にて、その卷きたる雲を遙かに見たりしなり。これより先き天明中に鳥海山より龍卷の出たることあり。そのしたとめの見得ざるは、暫く玆にもらしぬ。

 

[やぶちゃん注:「文化十四年」一八一七年。

「御嶽堂」不詳。識者の御教授を乞う。以下で「堤普請」(人工水路の藩による事業と思われる)とあることから、堂宇の名ではなく、地名か? 後に出る「品川町」は現在の弘前市品川町であるから(ここ(グーグル・マップ・データ))、この地区の外縁にあったと考えてよい。

「七月」グレゴリオ暦では同年旧暦七月一日は八月十三日である。

「廂」「ひさし」。

「卯辰をさして」底本では「さして」にママ注記するしかし「卯辰」は東北東であり、そちらに向かって竜巻が動いたと解釈すれば、不審はない。或いは編者の森山氏は、前の「廂」から、これを方位としての「卯辰」ではなく、「梲・卯建」(うだつ・うだち:民家の両褄に屋根より一段高く設けた小屋根附きの土壁及びこれにさらに附属させた袖壁の称。家格の豊かなるを示し、装飾だけでなく防火をも兼ねた)と採り、それを「さす」というのはおかしいから、「壊して」の意味の誤記かと考えられたのではなかろうか?

「この時己も幼少の時にて」平尾魯僊は文化五(一八〇八)年生まれであるから、満九歳。少年の日のトラウマとしての実見記憶である。

「天明」一七八一年から一七八九年。

「鳥海山」現在の山形県と秋田県に跨がる、標高二千二百三十六メートルの山。出羽富士。

「そのしたとめの見得ざるは、暫く故にもらしぬ」「下留(したと)め」(下書きしたもの・メモ)で、それが手元にあるはずなのだが、見当たらないので、しばらくはここに記すことが出来ぬ、の謂い。次条に「下留(したどめ)」と出る。

譚海 卷之二 藤堂家士の子切取たる化者の足の事

 

藤堂家士の子切取たる化者の足の事

○藤堂家の藏屋敷大坂鈴鹿町にあり。その預り桑名又右衞門といへる人の子供、十七八歳のころ切取(きりとり)たる化(ばけ)ものの足とて、同所天滿別當(べつたう)方(かた)に納め置(おき)たり。うしろ足と見えてふしの所より切(きり)たるもの、犬の爪の如し、月山の刀にて切(きり)たりとて、その刀もそへて納置(おさめおき)たり。

[やぶちゃん注:「藤堂家」伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)の津(つ)藩当主。

「藏屋敷」幕府・大名・旗本が年貢米や特産物などを保管・取引した場所。江戸・大坂・堺・敦賀・大津・長崎・酒田などに置かれたが、特に大坂に集中し、本作刊行の後ではあるが(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞記)、天保年間(一八三〇年~一八四四年)には百二十五棟も存在た。

「大坂鈴鹿町」不詳ながら、後に出る「同所天滿別當方」が大阪府大阪市北区天神橋に大阪天満宮の別当寺を指すと思われるから、その近くであったとは思われる。

「桑名又右衞門」不詳。

「ふし」関節。

「月山の刀」「月山」は「がつさん(がっさん)」で、ウィキの「月山(刀工)によれば、『月山は日本刀の刀工の一派。 鎌倉期から室町にかけて活躍した刀工とその一派。出羽国月山を拠点とした。その中で幕末に大坂に移住した系統が、現代まで残っており』、奈良県を拠点として活動している』とある。『伝承によれば、出羽国月山の霊場に住んだ鬼王丸(鬼神太夫とも呼ばれる)を元祖とする。以来月山のふもとでは刀鍛冶が栄え、軍勝、寛安、近則、久利などの名人を輩出した。鎌倉期から室町期にかけて、月山の銘を刻んだ刀剣は実用性の高さと綾杉肌の美しさの両面から全国に広まり、この刀工集団を「月山鍛冶」、その作品を「月山物」と呼んだ』。『室町期には相州伝との技術的な交流があり、双方合作の太刀が伝わる』。『出羽国山形の領主最上義光は織田信長への献上品として白鷹、馬などとともに刀工月山が打った槍』十本を『送ったという』が、『戦国時代が終わり、江戸期に入るとそれはいったん途絶えた。そのため』、『江戸初期以前の作品を便宜上「古月山」と呼ぶことがある。幕末、一門の弥八郎貞吉は大坂に移住。以来、月山家は、関西を拠点として作刀活動を行』ったとある。]

譚海 卷之二 同駒ケ嶽瀑布幷音羽兒が淵の事

 

同駒ケ嶽瀑布幷音羽兒が淵の事

○京都東山の奧に入(いり)て駒ケ嶽といふ所あり。瀑布あり、瀧壺の石の色赤銅(しやうどう)をのべたる如く、甚(はなはだ)奇石也。佳景の地ゆへ好事(こうず)のもの時々遊山(ゆさん)するに、往々飄風(へうふう)あり、辨當(べんたう)のわりごなど吹(ふき)ちらさるゝ事也。魔所なるよしいへり。又同所の音羽(おとは)のうしろに兒(ちご)が淵といふあり、大佛と淸水寺との際(きは)を三十町ばかり入(いり)て東へ行けば、しし谷(がたに)越(ごし)に出づ、夫(それ)より九十町ばかり奧に有(あり)、魚甚(はなはだ)おほけれども、是をとれば大蛇祟(たたり)をなすとて行(ゆく)人なし。

[やぶちゃん注:「同駒ケ嶽瀑布」「同」は前条の前半の「京白河」を受ける。以下の地理記載から見て、これは現在の山科川を遡ったところにある「音羽の滝」か((グーグル・マップ・データ)、その東方の小さな沢筋にある「仙人の滝」を指すのではないかと思われる((グーグル・マップ・データ))。

「音羽兒が淵」淵と称するからには、前注の「音羽の滝」附近であろう。

「駒ケ嶽」不詳。現行のピーク名はこの名はない。前で比定した「音羽の滝」「仙人の滝」附近では、北に「音羽山」、両滝を東に登った滋賀県との境に「牛尾山」、「音羽の滝」の西方に「行者ケ森」というピークがあるから、この孰れかであろう。滝との連関から「牛尾山」か。

「飄風」疾風(はやて)。突風。

「わりご」「破子」「破籠」。食物を入れて持ち運ぶ容器。

「大佛」方広寺。

「三十町」約三キロ二七三メートル。

「しし谷(がたに)越(ごし)」志賀越道(しがごえみち)。京七口の一つである荒神口から近江へ至る街道。

「九十町」約九キロ八百十八メートル。]

2016/12/05

谷の響 五の卷 十四 蚺蛇皮

 

 十四 蛇皮

 

 文政三四年のころ、弘前一番町に古物店ありて、そこに蛇の斑文(かた)あるものゝいと大きなるが一枚ありき。何物にかあるらんとそが主人に尋ぬれば、蛇の皮なりと言へるから、いと見まほしくて乞ひ得てつらつらうち見るに、長二尺三四寸幅一尺七八寸計りにして、厚さは鞣皮(なめしかは)の如く色は黃に黑みおびたるが光澤(つや)ありてすきとほれり。背の中筋(すじ)より腹の中心(まなか)にかけてすぐにきり割りたるものにて、背の方は黑くまだらなる文(かた)あり。これを内にたむればうろこあきらかに見えて、方みな一寸四五分もあるべきか。端(はし)はみな腹の割をならべたるが如し。又、斑文一つはうろこ三四片をおふへり。又はりのいるところ凹(くぼか)なるから、ひろめて置く時は縱橫に撫づるとも手に觸らず。又腹のきさめの一片は一寸七八分もあるべし。厚さは背と等しかるがその伸縮(のびちゞみ)するところ、六七分は色薄くことにすきとほりて厚は背の半なり。又筋はいとこわきものにして、これをたゝくにとんとんと鳴つて太鼓に等しき音なりき。己れこを見て初めて蛇の大きなるを知れり。さるからに主人にそが出所を尋ぬるに、主人己が揚卷なるをあなどり有らぬ妄言(そらごと)を言へるによりて、今にその本は知らずなりぬ。いかなる人の手に得しものかいと稀なるものなり。

 

[やぶちゃん注:「蛇皮」「うはばみのかは」と訓じておく。音では「ゼンタピ」か。前話に次いで大蛇譚であるが、平尾魯僊自身の若き日(平尾は文化五(一八〇八)年生まれ)の実体験談である。最後に出所を聴いたところが、平尾が未だ少年であるのをよいことに、侮(あなど)って、少年である私でさえ噴飯物の大嘘をこいたによって、今に至るまで、その出所は不明である、と言っている。しかし私は、以下の、特徴的な黒い大きな斑紋を持つ異様に大きな蛇皮とある以上、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae 或いはヘビ亜目ボア科 Boidae の仲間のそれ、則ち、当時の南蛮或いは中国から秘かに渡来した蛇皮ではなかったかと推理している。そう考えると、骨董商の「主人」は、平尾の「揚卷なるを」(後注参照)「あなどり有らぬ妄言(そらごと)を言」ったのでは、実はなく、鎖国である当時、入手が非合法であったからこそ作り話をせねばならなかったのではなかったかとも思えてくるのである。遙か南の熱帯雨林に錦蛇の皮が寒さ厳しき弘前の御城下の直近の店先に並んでいた、その映像を想起するだけでも、私は何だかわくわくしてくるのである。

「文政三四年」一八二〇、一八二一年。

「弘前一番町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「斑文(かた)あるもの」斑紋が明瞭に出ているもの。

「一枚」前例に徴すると「枚」は「ひら」と訓ずる。

「つらつら」つくづく。よくよく。念を入れて。

「長二尺三四寸幅一尺七八寸計り」全長は七〇~七三センチメートル弱、幅は五二~五五センチメートル弱ほど。

「鞣皮(なめしかは)」獣の皮から皮下組織などを除去し、タンニンなどで処理し、皮を構成するタンパク質の変質腐敗を押さえ、耐水性・耐熱性・耐磨耗性を高めるよう、人為的に加工した皮革原材を指す。

「文(かた)」斑紋。

「これを内にたむれば」これを内側に曲げて観察してみると。

「方みな一寸四五分」四・三~四・五センチメートル四方。

「端(はし)はみな腹の割をならべたるが如し」ここ、よく意味が解らぬ。腹部で割(さ)いたのを、人為的に加工職人が綺麗に切り揃えたかのような感じである、という意味か? 識者の御教授を乞う。

「斑文一つはうろこ三四片をおふへり」「おふへり」は「蔽(おほ)へり」の誤りであろう。ということは、有意に大きな黒い斑紋の大きさは十三・二~十七・六センチメートルほどの大きさがあることになる。

「はり」キール。背の筋。

「いる」「入る」筋の入っている部分。

「凹(くぼか)なるから」なだらかにへこんでいるために。

「ひろめて置く時は縱橫に撫づるとも手に觸らず」それを平らに広げて置いた場合には、縦方向でも横方向でも、手で注意深く撫でてみても、その背の筋は手に触れるような感じ(違和感のある感じ)は全く認められない。

「腹のきさめ」腹部の左右に広い鱗。所謂、「蛇腹」部分の鱗。

「一寸七八分」五・二~五・四五センチメートル。蛇腹部分の鱗の横幅であろう。

「厚さ」蛇腹の厚さ。

「六七分」一・八~二・一センチメートル。

「厚は背の半なり」蛇腹のその部分の厚さは均一な背の鱗の「半」(なかば)、半分であった。

「筋」体内側(則ち、加工されたものの裏のキール部分)の筋。

「いとこわきものにして」大変、堅いもので。

「己れ」「われ」。

「さるからに」そこで。

「揚卷」「あげまき」。「総角(あげまき)」で、本来は古代の少年の髪形。古代のそれは頭髪を中央から二分し、耳の上で輪の形に束(たば)ねて二本の角のように結ったもので、「角髪(つのがみ)」とも言った。但し、ここは「少年」の代名詞として使ったに過ぎない。前に注した通り、当時の平尾は満で十二、三歳であった。

「本」「もと」。出所。]

谷の響 五の卷 十三 蚺蛇

 

  十三 

 

 相澤村の長三郎と言へるもの、薪を採らんとて山路一里餘り登りしが、行く先の路にあたりて徑(わたり)三尺もあるべき松の古木橫はれり。これを踏み越えんとすれど足とゞかねば、如何かはせんとしたりけるに、其松樹おのづから動くやうに見得しかば、いとあやしみ目をとゝめて見やりたるに、松樹にはあらで蛇にてぞありける。松皮の如く見ゆるは皆鱗にて、一つ一つにおこれるがゆふゆふと動き出して紆(うね)り行く勢なるが、ひつかへされてはたまらずと其まゝ逃て反りしとなり。こは文政六七年のことなりと千葉某の話なりき。

 中村澤目橫澤村に嘉兵衞と言へるものあり。專ら直(なほ)く又強かる性質(さが)にして、假りにも僞のことあらず。ある日木樵(きこり)に出て岩木山の澤のうち芦の左の澤といへる處に休らひて、晝飯を喰ひ水を飮んと笹むらを押分け谷に下りて水を汲みたるに、風の林を吹きわたるが如き音あるから何事ならんと見あぐれば、頭の上僅(わづか)四五尺離れて徑(わたり)三尺もあるべき蛇の、兩山の谷合四五尺ばかりの間に蟠(わだか)まりて、恰も橋を架けたる如くなるに、見る見る其尾を谷中にひきおろし、するすると紆(うね)りて側なる山の高藪に入りぬ。この嘉兵衞なみなみの者なりせば其まゝ倒れもすべかりしを、生來強勇なるものから恐しとも知らで、かへりてこれが行先を見屆けんとそがゆける跡を傳へ行しに、の通りしあとは笹むら左右へ亂れ靡きて一條(すじ)の徑路(みち)をひらけり。かくて嘉兵衞は已に五六町も來つらんとおぼしきころ、俄に山鳴り谷へひゞきて、雲霧しきりに湧發(わきおこ)り山一杯にひろこりて、四面皆暗く咫尺間も分ち難きに、流石の嘉兵衞も進むことなし得で、道を索(もと)めて反りしとなり。こは、以前安永の末の年なるよし。芦萢村の孫左衞門と言へる老父の話なりき。

 

[やぶちゃん注:「蛇」は既出。「うはばみ」(蟒蛇)と読む。大蛇。

「相澤村」現在の青森市浪岡大字相沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「徑(わたり)三尺」直径九〇・九センチメートル。

「橫はれり」「よこたはれり」。

「如何かはせん」「いかにかはせん」。

「見得しかば」「みえしかば」。

「目をとゝめて」凝っと目をとめて。

「おこれるが」「起これるが」。立ち起きているのが。

「ゆふゆふと」ゆらゆらと。オノマトペイア(擬態語)。

「紆(うね)り行く」上下・左右に大きく波打つように蠕動しつつ動いてゆく。

「勢」「いきほひ」。

「ひつかへされては」その蟒蛇が長三郎に気がついて引っ返してこられたりしては。

「逃て反りし」「にげてかへりし」。

「文政六七年」一八二三年か一八二四年。

「中村澤目橫澤村」現在の西津軽郡鰺ヶ沢町浜横沢町(はまよこさわまち)と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「專ら直(なほ)く」すこぶる実直で。

「假りにも僞のことあらず」「かりにも」、「いつはりのこと」には「あらず」。

「木樵(きこり)」ここは木材伐採の作業の意。

「岩木山の」「芦の左の澤」不詳。識者の御教授を乞う。

「飮んと」「のまんと」。

「四五尺」一メートル二十一センチから一メートル五十二センチ弱。

「兩山」その沢の両方の尾根の謂いであろう。

「側」「そば」。

「傳へ行しに」後をつけて行ったところ。

「條(すじ)」ルビはママ。正しくは「すぢ」。

「五六町」五四六~六五五メートルほど。

「ひろこりて」ママ。「廣ごりて」。広がって。

「咫尺」「しせき」。「咫」は中国の周の制度で八寸(周代のそれの換算で十八センチメートル)、「尺」は十寸(同前で二十二・五センチメートル)を言い、距離が非常に近いことを指す。

「安永の末の年」安永十年で西暦一七八一年。但し、この旧暦四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)に天明に改元している。

「芦萢村」「あしやちむら」は既出。現在の鯵ヶ沢町芦萢町(あしやちまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹

 

 十二 石淵の怪 大蟹

 

 紺屋町の端なる茶屋町と言ふに、茂助といへる者あり。從來(もとより)水練をよくして、水底にある事剋(こく)を亘れるとなり。往ぬる天保六乙未の年の四月なるよし、あらたに羅(あみ)を制(つく)りて下ろし初めに鱒を捕るべしとて、同志(どうやく)の者五六輩を促がし、地形村の傍なる石淵と言ふ處に至りて網を曳たりしに、何物にか障りけん四五尺ばかり破裂(やぶれ)て魚みな洩るゝのみならず再び用ふる事なり難きに、茂助甚(いた)く不審(いぶか)り何物の所爲(しわざ)なるにか見屆け來るべしと、其まゝ淵の中に沒りけるが、稍剋(とき)を遷せども出來らざるに、安之・仁三郎といふ二個(ふたり)のもの同じく水底に潛り尋るに、茂助は鱒一杯(ひら)を捕へながら宙にかゝれるもの人如く、足地に附かず首水に浮まずして水中に立てり。二個の者これを見て卽便(そのまゝ)抱きかゝえて援け揚けるに、少時(しばし)は物も言ひ得ざるが稍心落つきて語りけるは、淵の中隈なく尋ね搜せども妨害(さまたげ)すべきと思ふもの一個(ひとつ)もなく、只百あまりの鱒の縱橫に泳げるからに、二枚(ひら)捕へて浮まんとする時何やらん水の中に物有りて、脚を絆ひて柾(ひく)よと覺えけるが忽ち全身動くことなり難く已に命も危うかりしに、幸ひにして兩個(ふたり)が惠援(なさけ)に由て全く活(いき)ることを得たりきとあるに、伴侶(つれ)の者ども奇異の思ひをなしたるが、かくては鱒も捕られずとて、やがてその地(ところ)を戾りしとなり。こは此茂助・仁三郎二個の話なりけり。

 然(さ)るに、其後己れ相馬に往しころ、石淵のことを問(たづ)ぬるに、その者の曰、紙漉澤村の者と路連(みちづれ)になりてこのこの石淵なる統司(ぬし)てふものは、大きなる蟹なりと言へることは往古(むかし)よりの言ひ傳へにて、當下(いま)も快晴閑亮(てんきよくしづか)なる日は窂々(たまたま)見る事あるものにて、いと怪しきものなりとぞ。茂助ごときの難に遇へるはこの主の咎にして、往古より多かることなるが中には死に至るものもまゝありき。されどこの淵の水殊に淸冷(きよらか)にして、鱒及び雜魚も多く群聚(あつま)れるところなれば、前(さき)の災を顧るものなく年々网(あみ)を下し釣をたれあるは水底を搜るものも多かり。實に危むべき事なり。又、この災に遇ずとも淵中を潛りて手足を太(いた)く傷くことありき。さるに此奴剃刀をもて截るが如く、深さ一寸ほどに至るものもあれど、疵口啓壞(ひらか)ずして疼痛(いたむ)こと少なく、血も亦多く出ず。俗(よ)に言鎌鼬(かまいたち)に遇ひしものゝ如し。土(ところ)の人こを主(ぬし)の劍(やいば)に觸れしものなりと言へりと語りしなり。

 因にいふ、往ぬる文化の初年のよし、鳥井野村なる鮎簗に、いと大きなる蟹一つ落ちたりき。その甲の徑(わたり)一尺二三寸、兩足張りたる處は五尺あまりと見得たるが、簗の上をのかのかとはひ涉りて、水の深みに入りたりけり。簗を守れる者共恐をなして捕へんとする者もなく、たゞ舌を卷いて看たるばかりとぞ。こは石切忠兵衞といへるもの、この鳥井野村にありてはたらきたる折に、したしく聞けることゝて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:以下の注のロケーションからも判る通り、この大蟹は純粋に淡水域に棲息している。本邦産の川蟹の類で、有意に大型になるのは節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica しか考えられないが、それでも甲幅は七~八センチメートルで十センチを越えるものは、まず、いない(体重も一八〇グラム程度)。しかし最後の段落のシチュエーションにのみ実視認個体(とするもの)が登場するものの、それでも甲幅は三十七~三十九センチメートルもあり、両肢を開脚した状態で一メートル五十二センチ弱とする。これは凡そモクズガニでも絶対にあり得ないサイズである。恐らくは、北方海辺で獲れるタラバガニ(抱卵亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科タラバガニ科タラバガニ属タラバガニ Paralithodes camtschaticus)等(同種は成体甲幅は標準で二十五センチほどであるが、脚を広げると一メートルを超える)を見聞きした者が同様の蟹が川にもおり、主(ぬし)となって深い淵底に潜んでいるものと想像したのであろう。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「茶屋町」不詳。この町名(内町名)は現存しない模様。

「從來(もとより)」元来。

「水底」「みなそこ」。

「剋(こく)」狭義の時間単位では現在の三十分に相当するが、ここは漠然とした、普通の人が耐え得る以上の長い時間という意味であろう。但し、「ギネス」世界記録登録者では、あるデンマーク人男性が二十二分間の水中での息止めに成功しているとあるから、強ち、実際の一刻も絶対にあり得ないとは言えぬかも知れぬ。

「天保六乙未の年の四月」「乙未」は「きのとひつじ」で一八三五年。同年の旧暦四月一日はグレゴリオ暦で四月二十八日である。

「羅(あみ)」「網」。

「下ろし初め」漁での使い初(ぞ)め。

「鱒」「ます」。現行の辞書的な第一義では、条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する「樺太鱒」(サケ科タイヘイヨウサケ属カラフトマス Oncorhynchus gorbuscha)・「桜鱒」(タイヘイヨウサケ属サクラマス Oncorhynchus masou。「山女」(ヤマメ)は本種河川残留型(陸封型)に対する呼称であり、学名は無論のこと、一緒である)・琵琶湖固有種である「琵琶鱒」(タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus)などのように、「鱒(ます)」という和語を和名に有する魚類の俗称であって、単一種を指すわけではない。「鱒の介」(タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)や「紅鱒」(タイヘイヨウサケ属ベニザケ(ヒメマス)Oncorhynchus nerka:本邦には近代以降に移植)とその陸封型の「姫鱒」、或いは「川鱒」(イワナ属カワマス Salvelinus fontinalis)・ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss)をも指すこともある。なお、その中で狭義に限定する場合は「サクラマス」を指すとする。こここはロケーションと描写(水中で二尾を捕まえて浮上しようとした)から見ると、一匹の個体が相応に大きいと考えられ、そうなると、大型個体もしばしば見られるニジマス Oncorhynchus mykiss 辺りを念頭においてよいように私には思われる。

「同志(どうやく)」同僚。

「地形村」現在の青森県弘前市紙漉沢(かみすきさわ)地形(じかた)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「石淵」不詳。しかし、前注の場所であれば、岩木川の淵か、現在の地形(じかた)の南端で合流する支流との境辺りであろう(前の地図を参照)。

と言ふ處に至りて網を曳たりしに、

「障りけん」「觸りけん」が正しいように思われるが、恐らくは何かに触れてそれが障害(さわり)となって網が破れたことから、かく表記したものであろう。

「四五尺」一メートル二十二センチから一メートル五十二センチメートルほど。

「沒り」「いり」。「入り」。

「稍」「やや」。

「尋るに」「たづぬるに」。

「杯(ひら)」「枚(ひら)」と同じく、「ひら」は薄く平らなものの数詞。

「捕へながら」「つかまへながら」。

「宙にかゝれるもの人如く」「宙」は「そら」と訓じているかも知れぬ。空中に紐か何かで、ぶら下がっている人間のように。

「地」川底。

「援け揚けるに」「たすけあげけるに」。

「稍心落つきて」「やや、こころおちつきて」。

「浮まん」「うかまん」。

「絆ひて」読み不詳。続く動詞が「引く」の謂いであるから、或いは「なはゆひて」「繩結うひて」の謂いかも知れぬ。「絆(きづな)」は物を繫ぎ止めるものの謂いだからである。

「柾(ひく)」「引く」。引っ張る。

「惠援(なさけ)に」二字へのルビ。

「由て」「よりて」。

「かくては」網が破れた上に、水練上手の茂助がかくも怪異な体験をしたからには。

「その地(ところ)を戾りし」そこを去って帰った。

「此」「この」。

「己れ」「われ」。

「相馬」弘前市相馬。ここ(グーグル・マップ・データ)。さっきの地形(じがた)の下流域から南の支流一帯の旧地名らしい。

「往し」「ゆきし」「行し」。

「紙漉澤村」底本の森山氏の別な補註に、『中津軽郡相馬村紙漉沢(かみしきざわ)。古く天文年間にこの地名があり、往昔ここで紙を漉いたという伝えがある』とある。現在は弘前市紙漉沢で読みは「かみすきさわ」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。地形(じかた)の西南対岸一帯。

「統司(ぬし)」二字へのルビ。

「てふものは」と言うものは。

「快晴閑亮(てんきよくしづか)なる」四字へのルビ。

「窂々(たまたま)」二字へのルビ。「偶々」。

「咎」「とが」と読んでいるか。「(罰するべき)悪しき行い」の謂いか。しかしそれは蟹のやるしわざが「咎」なのか、その淵に立ち入って無暗に川漁を成す人間の行為を「咎」と称しているのか、よく判らない。取り敢えずは、前者の謂いで採っておくが、続く内容からは暗に後者の意味を、訓戒を込めて含ませているようにも私には読める。古老の話とは往々にしてそうした両義性を持つものである。

「多かること」多くあること。

「群聚(あつま)れる」二字へのルビ。

「顧る」「かへりみる」。

「あるは」「或は」。

「實に」「まことに」。

「危む」「あやぶむ」。

「災」「わざはひ」。

「遇ず」「あはず」。

「傷く」「きずつく」。

「此奴」「こやつ」。

「剃刀」「かみそり」。

「截る」「きる」。

「一寸」三・〇三センチメートル。

「啓壞(ひらか)ず」二字へのルビ。

「疼痛(いたむ)」二字へのルビ。

「言」「いふ」。

「鎌鼬(かまいたち)」「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」の私の「かまいたち」の注を是非、参照されたい。概ねウィキの「鎌鼬」からの引用であるが、最後には私が目の前で見た怪しい(それは別な意味でも「怪しい」である)「かまいたち」現象についても綴ってある。

「文化の初年」文化元年は一八〇四年。

「鳥井野村」現在の弘前市鳥井野(とりいの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の地形(じがた)の東方。

「簗」「やな」。河川の両岸又は片岸から、杭や石などを列状に敷設して水流の一部を堰き止め、そこに作った狭隘部分(「梁口(やなぐち)」などと呼ぶ)に木や竹製の簀(す)や網、筌(「うけ」「うえ」。私は「うつぼ」(形状から)と読みたくなる)と呼ばれる漁具などを置き、誘い込まれて来た魚類を捕獲する仕掛け。「梁」とも書く。

「のかのかと」不詳。「のこのこと」か。或いは「平然と」の意の「ぬけぬけと」の訛りかも知れぬ。

「石切忠兵衞」「石切」は石を切り出すのを職業とした者がそのまま姓としたものであろう。]

谷の響 五の卷 十一 大蝦蟇 怪獸

 

 十一 大蝦蟇 怪獸

 

 金木村に彌六といへるものありけり。稟質(うまれつき)豪毅なるが、兼ねて修驗に由りて九字の印呪など學び得て、寰内(よのなか)に怕きものなしと誇れるとぞ。何(いつ)の頃にか有けん、大澤平の溜池【周圍二里餘】なる竇樋(とひ)破れて堤防(つゝみ)大ひに決壞(くづ)れし事ありけるに、土(ところ)の人ども言ふ、この池の主の出る由緣(ゆゑ)なるべしとあるに彌六が曰、池の統司(ぬし)ならんには池を護りてあるべきに、隨意(わがまゝ)に堤防を壓壞(おしやぶ)り、吾曹(とも)に不意(ゆくりな)き勞煩(わづらひ)を被負(おはす)ることいと憎き奴なり。活(いか)しておくべきものに非ず。いでいで其統司を捕獲(とらへ)んとて、腰に緒索(をなは)を繰着(くゝりつ)け引かば曳けよと言ふて、樋の壞門(やぶれ)の漲水賁激(みなぎりたける)中心(たゞなか)に躍沒り幾乎(しばらく)水底に在けるが、いと巨大(おほ)きなる蝦蟇を捉へて浮み出たり。その蝦蟇の大さ居丈二尺に餘りて、兩の眼金色を帶びて嗷々(ごうごう)と咽喉を鳴らし、搖動(うごき)もやらず座したるはしかすがにこの池の主とも想像(おもひやら)れて、看(みる)もの舌を卷しとなり。さるに彌六は此を殺さんとて鉞をもて立向ひたるに、衆々(みなみな)後の祟害(たゝり)あらんといふておし歇(とゞ)めて、舊の池に放下(すて)しとなり。

 又、この彌六一日(あるひ)同志(とも)のもの兩三輩(にさんにん)と、金木村の山中大倉ケ嶽の溪流(さは)に漁獵(すなどり)して有けるが、迥(はるか)の水源(みなかみ)より白浪高く發(おこ)りて矢を射る如くに下りしが、傍なる淵灣(ふち)に至りて其浪啓(ひら)くと見るうち、ひとつの物の小狗(いぬ)の如きが現はれて、頭の上に兩(ふたつ)の角を載き眼圓くしていと光れるが、毛みな黃紅にして虎文(とらふ)のごとき黑き文あるものなるが、此方を白睨(にらみ)て直に淵の底にぞ沈沒(しづみ)けり。伴侶(とも)のものどもは恐怖(おそれ)を爲して逃皈らんとすれど、彌六は更に物の屑とも爲さず、却てこれを捕獲んと淵頭(ふちのほとり)に座を占て、印を結び呪を念じ其まゝ淵中(ふち)に躍り入り、聊且(しばらく)ありて浮み出て言へらく、遍く水の中を搜るといへども手に遮るものつやつやなし。さはれ此淵より外に住むべき處なければ日を累ねても捕ふべしとて、伴侶の者を賴みそが家より米と鍋とを取り賦(くば)らせ、自ら炊き食ひて六日が間家にも歸らず淵の中を窺しかど、遂に見る事なくして止みたりけりと。こは金木村の坂本屋仁三郎といへるものゝ語りなり。

 

[やぶちゃん注:「大蝦蟇」「おほがま」と読んでおく。本邦の主に北部(東北地方から近畿地方及び島根県東部までの山陰地方北部)に自然分布する固有亜種である両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus formosus であろうが、同種は大型個体でも体幹全長二〇センチメートル程度で、こんなに大きい(「居丈二尺」「居丈」とは蹲った背までの高さであろう。それが「二尺」=六〇センチメートルとなると、体幹全長は一メートルはあろう)もあるというのは、かの「自来也」の世界で、こんな実在個体はまず考え難い。魚類ならまだしも、両生類でこの体型ではおよそ自重を支え切れず、自滅してしまうからである。

「怪獸」後者のそれは「小狗」(こいぬ)程度の大きさで、水中より出現し、淵の底に潜って姿を消している頭部上方に目立つ二本の角を有し、眼はまん丸で、毛は全体が黄褐色で虎斑(とらふ)に似た黒い紋があるとある。これを「彌六」(やろく)は出現と退去が水中であったことから完全な水中生物と認識して探索しているのであるが、これは、幾つかの特徴から見て、哺乳綱ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus の可能性が高いように思われる。ウィキの「テン」によれば、同種の体毛は『夏季は毛衣が赤褐色や暗褐色で、顔や四肢の毛衣は黒、喉から胸部が橙色、尾の先端が白い(夏毛)』。『冬毛は毛衣が赤褐色や暗褐色で頭部が灰白色(スステン)か、毛衣が黄色や黄褐色で頭部が白い(キテン)』である(下線やぶちゃん)。眼も黒く真ん丸で、顔面前部が白いために一際、際立って見える。頭上に二本の「角」があるとするが、テンが渓流を上流から索餌行動をとって来て水に濡れた場合、頭部左右に有意に突き出た尖った耳介は、より尖って見え、角と見間違えたとしてもおかしくない。但し、虎斑があるというところはテンらしくはなく、単に野生化した大型の猫ともとれぬことはない。しかし、やはりテンが水に濡れて不均等に毛羽立った場合、それが虎斑に見えぬとも限らぬようには感ずる。個人的にはテンは水に濡れるのは好まないように思われるが、何か、より大きなクマなどの獣に追われて逃げていたものかも知れぬ。さすれば、濡れ鼠であったこと、危機意識から耳がよりピンと角の如くに立っていたこと、人を見て新たな脅威を覚えて淵に飛び込んだこと(向こう岸に逃げ去ったのであろう)などが総て説明出来るように思うのである。

「金木村」底本の森山氏の別な補註に、『北津軽郡金木(かなぎ)町。津軽半島中央南部の中心地。元禄十一年金木新田の開発に着手した』とある。現在は五所川原市金木町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「修驗に由りて」山伏に教えを乞いて。

「九字の印呪」「くじのいんじゆ」は、本来は「九字護身法(くじごしんぼう)」と称する本邦の密教が依拠する経の一つである「大日経」の実践法として知られる「胎蔵界法」に於ける「成身辟除結界護身法」が、誤った形で民間に流布し、種々の宗教や民間信仰の考え方と習合、山伏らが自然の猛威や種々の災い・変化(へんげ)の物の怪から護身するものとして使うようになった呪術法の一つである。ウィキの「九字護身法」によれば、『もとは印契の符牒(隠語)であった文字が、道教を源とする「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」』の九文字『から成る呪文「九字」に変化し、それに陰陽道の事相である』「六甲霊壇法」なるものと『組み合わされて今日に知られるような「四縦五横」の九字切り等の所作を成立させて発展したとされる日本の民間呪術である』とある。

「怕き」「こはき」。

「大澤平の溜池【周圍二里餘】」恐らくは現在の青森県鶴田町廻堰(まわりぜき)にある廻堰大溜池(おおためいけ:「津軽富士見湖」とも呼ぶ)のことと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。これは万治三(一六六〇)年に津軽藩主津軽信政によって西津軽の新田開墾の灌漑用水源として築造された人工の溜め池で、現行の堤の全長は実に延長四・二キロメートルに及び、これは『日本最大の長さである』とウィキの「津軽富士見湖にある。しかも、私が現在の池岸の周囲を実測して見たところ五キロメートルはあり、作られた当初の形状や周囲へ湿潤した浅瀬などの存在の可能性を考るならば、昔のこの溜め池の全周が現在よりも三回(八キロ余り)りほども広かったとしても不自然ではないと思われる。何より、ここの西部沿岸の字地名には「大沢」が現存するのである。金木からは南南西に十六キロメートルほど離れてはいる。しかし、任侠を旨とし、意気に感ずる剛毅の弥六が、そこの決壊に駆けつけたとしても少しもおかしくない距離であると私は思う。

「竇樋(とひ)」二字へのルビ。樋。ここは土掘りした人工の水路。

「吾曹(とも)」「わがとも」。私と同じい庶民の謂いであろう。

「不意(ゆくりな)き」思いがけない。不意の。突然の。

「勞煩(わづらひ)」二字へのルビ。

「引かば曳けよ」繩が急激に引かれた場合には、それを儂(わし)の合図と見做して、皆して力一杯曳け、の意。

「漲水賁激(みなぎりたける)」四字へのルビ。動詞として訓じている。

「躍沒り」「をどりいり」。

「幾乎(しばらく)」二字へのルビ。

「水底」「みなそこ」。

「在けるが」「ありけるが」。

「巨大(おほ)きなる」二字へのルビ。

「嗷々(ごうごう)と」「嗷」は正確には歴史的仮名遣では「ガウ」(現代仮名遣なら「ゴウ」)が正しく、意味は「騒々しいさま・声の喧(かまびす)しいさま」で「囂囂(ごうごう)」と同義であるが、ここは寧ろ、オノマトペイア、擬音語と採った方がリアルである。

「搖動(うごき)」二字へのルビ。

「しかすがに」(化け物並の大きさの畜生たる蝦蟇(がまがえる))とは言うものの。

「鉞」「まさかり」。

「舊」「もと」。

「大倉ケ嶽」五所川原市金木町川倉の大倉岳。標高六百七十七メートル。(グーグル・マップ・データ)。直線で金木の東北十キロメートルほどの位置にある。

「漁獵(すなどり)」川漁。

「其浪」「そのなみ」。

「黃紅」「きあか」と訓じておく。

「文」「もん」。紋。

「此方」「こなた」。

「白睨(にらみ)て」二字へのルビ。

「直に」「ぢきに」。

「逃皈らん」「にげかへらん」。

「屑」「くず」。

「聊且(しばらく)」二字へのルビ。

「遍く」「あまねく」。

「手に遮る」「てにさへぎる」。水中で淵であるから、視認よりも触診である。

「つやつや」全く。

「さはれ」そうは言っても。

「取り賦(くば)らせ」それぞれの者の家にある「米」や「鍋」などを少しずつ分担させて持ってきて貰い。無論、以下は、彼が単独で実に六日間に亙って淵の中を隅から隅まで探索したのである。

「窺しかど」「うかがひしかど」。]

甲子夜話卷之三 16 同牡丹の上意、婦人言上の事

 

3-16 同牡丹の上意、婦人言上の事

又當御代、何れの御坐所にか牡丹を植置せられしが、數珠の中、色うつろひたるを、上意には、これは衰たり。見るべくも非とありけるを、婦人に有しとやらん申上るには、牡丹は夫にても能く候。召つかわるゝ女中も、色衰候て、御寵もつき候も是亦然べくも候半。表向御政事にたづさはらん臣共は、色移ろひ候時より社御用には立申べし。仕へ初し頃は、誰も時めきて見え候が、漸々と年久くなり目立申さず、花の移ひ候如に候。外臣等は此所より先きが御用に立ち申すべき御見所に候と言上せしとぞ。其時上意には、さても能ぞ申たり。此牡丹なくば其詞をも聞まじ。牡丹こそ媒よと仰ありしと也。御盛德仰奉るべし。又その婦女も有がたき賢媛なりき。

■やぶちゃんの呟き

 前条に続き、「當御代」今上将軍家斉のエピソード。

「婦人」ここは単にその場にいた御付きの上﨟衆の一人であって、正・則室などではあるまい。

「言上」「ごんじやう(ごんじょう)」。

「植置せ」「うゑおかせ」。

「衰たり」「おとろへたり」。

「非」「あらず」。

「夫」「それ」。

「候半」「さふらはん」。

「御政事」「おんまつりごと」。

「共」「ども」。

「より社」これで「よりこそ」(係助詞「こそ」)と訓ずる。

「立申べし」「たちまうすべし」。

「初し」「はじめし」。

「目立」「めだち」。

「移ひ」「うつろひ」。

「如に」「ごとくに」。

「外臣等は此所より先きが御用に立ち申すべき御見所に候」「外臣」は「ぐわいしん(がいしん)」で、ここは特に縁故ではなく実力で昇進し、且つ、特に派閥を持たないような自立した家臣の謂いであろう。「御見所」は「おんみどころ」。「独立独歩を旨として参った家臣などは、まさに、そのように見かけがなってより(老衰してより)先にこそ、上さまのお役に立てるような面目(めんぼく)を十二分に発揮出来るように成るので御座いまする。」といった謂い。

「能ぞ」「よくぞ」。

「其詞」「そのことば」。

「聞まじ」「きくまじ」。聴けなかったであろう。

「媒」「なかだち」。

「仰」「おほせ」。

「盛德」立派なる徳。

「仰奉る」「あふぎたてまつる」。

「賢媛」「けんゑん」。才媛。

甲子夜話卷之三 15 當上樣、諸葛亮の御繪の事

 

3-15 當上樣、諸葛亮の御繪の事

當御代、御慰に、紺地に金泥を以て、諸葛亮の像を御筆に畫せられ、御自贊をもあそばされて、吹上の瀧見の御茶屋とか申に掛させられて、御遊のとき、良久くこれを御覽の後、御歎息の體にて、今は斯人の若き者の無きはよと上意あり。又莞爾と御わらひ、是もまた上に玄德のなき故によと仰有しと。正しく奧勤の人の、御側にて窺奉しを竊に聞く。いと難ㇾ有御事なり。

■やぶちゃんの呟き

「當上樣」「たううえさま」。第十一代将軍徳川家斉。

「諸葛亮」(一八一年~二三四年)は三国時代の蜀漢の政治家・戦略家。字は孔明。徐州琅邪(ろうや)郡の陽都(現在の山東省沂水県)の出身。豪族の出であったが、早く父と死別し、荊州(湖北省)で成人後、名声高く、「臥竜(がりょう)」と称せられた。二〇七年、魏の曹操に追われて荊州に身を寄せていた劉備玄徳から「三顧の礼」をもって迎えられ、天下三分の計(劉備が荊州と益州を領有し、劉備・曹操・孫権とで中国を大きく三分割した上で孫権と結んで曹操に対抗し、天下に変事があった際に部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し、漢王朝を再興出来るとした)説いて、これに仕えた。

「畫せられ」「かかせられ」。

「吹上の瀧見の御茶屋」現在の皇居の御苑にあった、江戸城内の庭園の茶屋。ウィキの「吹上御苑」によれば、『江戸城築城後』、ここには『番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築された』が、明暦三(一六五七)年一月に発生した「明暦の大火」で全焼、当時、『財政難であった幕府は』、『ほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し』、『都市の再建を優先』し、『このあたりは江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備される運びとなった』とある。

「申に」「まうすに」。

「良久く」「ややひさしく」。しばらくの間。

「體」「てい」。

「今は斯人の若き者の無きはよ」「いまは、このひとのごときものはなきよ」。「今はもう、この人のような名臣たる者はおらぬことよのぅ。」。

「是もまた上に玄德のなき故によ」「これ(名臣不在)もまた、上に劉備玄徳のようなる君子たる主君がおらぬゆえであることなればじゃのぅ。」

「仰有し」「おほせありし」。

「正しく」確かに。「聞く」に係る。

「奧勤」「おくづとめ」。

「窺奉し」「うかがひたてまつりし」。

「竊に」「ひそかに」。

「難ㇾ有」「有り難き」。勿体ない。

2016/12/04

谷の響 五の卷 十 雩に不淨を用ふ

 

 十 雩に不淨を用ふ

 

 飯詰村の山中に雨地といふがありて、旱天(ひでり)の年は里人どもこの池の邊(ほとり)に葬送の器械(どうぐ)及び産室の不淨物を運び、或は牛馬の骸骨(ほね)などを投げ入れ種々(くさぐさ)不潔(けがらは)しき業(わざ)を作すに、忽ち大ひに雨あることは往古(むかし)よりしかりと言うて雨地と號(よべ)りとなり。斯有(かゝ)るからに、往ぬる嘉永四の亥の年も亦旱魃の災ひありけるから、村里の農夫どもこの池の邊に簇聚(むれつど)ひ、種々の不潔しき物を持賦(くば)りて雩(あまこひ)の業を營みけるが、一個(ひとり)の壯漢(をのこ)手に馬の骨を擎げて忌はしき事ども百般(いろいろ)いひながら、池の中に飛び入り中嶋近く泳ぎけるに、いかにしけん暴卒(にはか)に身を轉(かへ)して水底に沈沒(しづ)み再び浮み出る形の見えざれば、同侶(どうやく)の漢(もの)甚(いた)くあやしみいざや援け來んとて、同じく池の中に躍り沒(い)り浪を披(ひら)いて游ぎ往き、間なく中嶋に近つきしにこも亦沈淪(しづ)みて姿は見えずなりにけり。

 農夫(ひやくしよう)ども大いに驚轉(おどろき)騷ぎ、衆人(みなみな)謀りて急卒(にはか)に筏を造り池の中を隈なく尋索(もとむ)れども、夫と見るべきものつやつやあらねば、詮(せん)術(すべ)なくて止已(やみ)たりき。さるに其後五日可(ばかり)も過たる頃、此池故なきにいたく洪湧(さわ)ぎ水溢れて、二個(ふたり)が死骸を汀頭(みぎは)に搖り着けて有けるを、舁(かつ)きもて來りて葬れりとなり。こもこの食川村の淸助が語りしなり。汚穢不淨のものをもて雩をする事は、何れの國にもまゝある事ながら極めて爲すべき業にあらざる事なり。そは鬼神論に載(あ)ぐべくとおもへばここに略す。

 

[やぶちゃん注:「雩」本文を見ての通り、「あまごひ」「雨乞」と読む。

「飯詰村」底本の森山氏の補註に、『五所川原市飯詰(いいずめ)。戦国時代この地の高楯城に土豪朝日氏が拠っていたが、天正十六年津軽為信に亡ぼされた。藩政時代この地方開発の中心地であった』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「雨地」附近の池か(グーグル・マップ・データ)。

「嘉永四の亥の年」一八五一年。

「農夫」あとで「ひやくしよう」と読んでいる。

「持賦(くば)りて」「もちくばりて」。

「雩(あまこひ)」ルビはママ。

「擎げて」「ささげて」。

「暴卒(にはか)に」二字へのルビ。

「同侶(どうやく)」仲間。

「援け來ん」「たすけこん」。

「驚轉(おどろき)」二字へのルビ。

「尋索(もとむ)れども」「たづねもとむれども」。

「夫」「それ」。

「つやつや」一向に。

「止已(やみ)たりき」二字へのルビ。

「洪湧(さわ)ぎ」二字へのルビ。

「舁(かつ)きもて來りて」皆して担(かつ)いでもち帰って。

「こもこの食川村」前話を受ける。そこで述べた通り、旧「喰川(しょくかわ)村」で、五所川原駅南西直近の、この附近かと考えられる(グーグル・マップ・データ)。

「汚穢不淨のものをもて雩をする事は、何れの國にもまゝある事」ウィキの「雨乞い」の「日本の雨乞い」の項によれば(下線やぶちゃん)、『様々な雨乞いが見られる。大別すると、山野で火を焚く、神仏に芸能を奉納して懇請する、禁忌を犯す、神社に参籠する、類感(模倣)呪術を行うなどがある』。『山野、特に山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いは、日本各地に広く見られる。神仏に芸能を奉納する雨乞いは、近畿地方に多く見られる。禁忌を犯す雨乞いとは、例えば、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものや、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものであり、一部の地方で見られる。神社への参籠は、雨乞いに限らず祈祷一般に広く見られるが、山伏や修験道の行者など、専門職の者が行うことも多い。類感呪術とは、霊験あらたかな神水を振り撒いて雨を模倣し、あるいは火を焚いて煙で雲を表し、太鼓の大音量で雷鳴を真似るなど降雨を真似ることで、実際の雨を誘おうとするタイプの呪術である。このタイプの雨乞いは、中部地方から関東地方に多い』とある。

「鬼神論」。底本の森山氏の補註に、『魯僊が鬼神の実在を論証しようとしたのであろうが、この書名の著書はない。あるいは「幽府新論」(慶応元年』(一八六五年)『)のことかも知れぬ』とある。]

谷の響 五の卷 九 沼中の主

 

 九 沼中の主

 

 食川村の淸助といへるものゝ話に、往ぬる天保の年間(ころ)六七月にて有けん、暑を避けんとてそが村頭(むらはし)なるアシケ沼といふ邊(ほとり)に徜徉(あそ)び、蠶の殼を投入れ小魚(ざこ)の跳躍(はねあがる)をなくさみゐたりけるに、忽ちに水の面(おも)の大に搖れて渦文を疊めるからに、何ものにかあらんと近く進みて水底を窺ひ見れば、大きなる牛の如きもの有て全身(みうち)白く頭面(かしら)また牛とひとしかるが、兩眼鼻口麁省(あらあら)に見えたりければ、此こそ聞傳へたる沼の主ならめと思ひしが、寒嘆(ぞつ)して身の毛逆立早く脱(にげ)んとする時境(をりから)、沼の中俄然(にはか)に潮の發(おこ)れる如く鳴り響き、大浪逆卷て汀(みぎは)の路に溢れしかば、彌々怕しくやうやうに遁歸れるなり。

 却説(さて)、この沼は往昔はいと廣大なりしよしにて、慶長の末年(すえ)とかや當村某なるものゝ畜(やしな)ひたる馬(あしけうま)ありけるが、一日(あるひ)暴(にはか)に狂氣(くる)ひ出てこの沼の中に躍沒(い)り、遂にこの處の主に變(な)れりといひ傳へて、五六十年の前(さき)まては罕々(まれ)に水底を游げるを見ることありと聞つれど、近き頃は見たりといふ者もなく、又この沼は小魚多かるからに、里人ども網を下し釣を埀るゝもの每(つね)なれども、靈異(あやしきもの)に遇へるといふ風説(うはさ)もなければ、かゝる事のあることは夢おもはざりしに、今現にこの怪しきことの有るを看て、古人の遺談の誣(しふ)べからざるを知れり。誠に二百五十年の今に至る迄、かゝる怪しき事を爲すは怪(おそろし)きものと語りしなり[やぶちゃん字注:「」=「馬」+「忽」。]。

 

[やぶちゃん注:「食川村」底本の森山氏の補註に、『いま五所川原市内』とあるが、これは旧「喰川(しょくかわ)村」である。かなり手こずったが、五所川原駅南西直近の、附近かと考えられる(グーグル・マップ・データ)。この変わった名は岩木川による河川浸食の謂いである。

「天保」一八三〇年から一八四四年。

「アシケ沼」もし、上記の「喰川村」の位置が正しいとすれば、にそれらしい池塘らしきものはある(グーグル・マップ・データ)。

「渦文」これで「うづ」と訓じておく。

「疊める」「たためる」。重ねる。

「大きなる牛の如きもの有て全身(みうち)白く頭面(かしら)また牛とひとしかる」同定不能。淡水魚で、閉鎖された状況下(これだけ大きいとこの池沼から自由に往来は出来まい)で、この時代では、比定候補となる魚類そのものがいない。事実とすれば、アルビノ個体ではある。

 当初は条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科チョウザメ亜科チョウザメ属 Acipenser の仲間で、本邦の北海道や東北近海で現在でも漁獲されることがある本邦固有種ミカドチョウザメ Acipencer mikadoi(北海道では昭和初期まで遡上が確認されている)、或いは近年本邦での棲息が確認されたチョウザメ亜科ダウリア属ダウリアチョウザメ Huso dauricus を考えたが、陸封されて、ここまで大きくなって生存しているというのは考えにくい

 或いは、新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus (本邦産在来種は三種のみで、青森にいるとしたら、これしかいない)超大型アルビノ個体か?

 条鰭綱スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus argus も九十センチメートルにも巨大化するが、残念ながら、同種は近代(大正一二(一九二三)年から翌年頃)になって朝鮮半島から人為的に持ち込まれた、中国産亜種で、全くの新参外来種であるから、候補にはならない

「麁省(あらあら)に」漢字から見ると、大まかではあるが、まあ、明らかに、の謂いか。

「聞傳へたる」「ききつたへたる」。

「寒嘆(ぞつ)して」二字へのルビ。

「逆立」「さかだち」。

「時境(をりから)」二字へのルビ。

「俄然(にはか)に」二字へのルビ。

「潮」海の波。

「逆卷て」「さかまきて」。

「彌々」「いよいよ」。

「遁歸れる」「にげかへれる」。

「往昔」「むかし」。

「慶長の末年(すえ)」慶長は二十年までで、同年はグレゴリオ暦一六一五年

馬(あしけうま)」(「」=「馬」+「忽」)。ルビはママ。「葦毛馬(あしげうま)」であろう。馬の毛色の名で、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢(とし)とともに次第に白くなる。しばしば駿馬の代名詞ともなる。但し、ここは奇怪なアルビノの未確認動物の白さと合わせた伝承のようである。

「躍沒(い)り」「をどりいり」。

「五六十年の前(さき)」「二百五十年の今に至る迄」本「谷の響」は幕末の万延元(一八六〇)年成立であるから、後者は、まあ、正確な謂い。ここから五、六十年前となると、

「まては」ママ。一八〇〇年か一八一〇年で、元号では寛政十二年から、享和を経て、文化七年に相当する。

「罕々(まれ)に」二字へのルビ。

「誣(しふ)べからざる」でっちあげや作りごとをしたのでは全く、ない。]

谷の響 五の卷 八 河太郎

 

 八 河太郎

 

 この高瀨某と言へる人、文化初年の夏岩木川なる地藏淵にて釣せしが、得物の多ければ竹畚(たけかご)に入れて水にひたし放下(おき)けるに、獲りしよりも足らぬやうに覺ゆれば、いと不審(いぶか)しとて瞳を放さで窺ひたるに、水際より小兒のごとき細腕をさし延べ竹畚なる魚を抓んで引きとるから、然(さて)こそ妖物(ばけもの)御座んなれと隨卽(そのまゝ)裸躰(はだか)になり、刺刀(あひくち)拔て待設けしに又しも小腕を延べたる故、不疎(すかさず)これを抓(ひつつか)むに渠(かれ)に曳れて計らず水流(かは)に落沒(おちいり)、ひかれ行事二十間ばかりと覺えしが、その疾き事矢を射る如く忽ち物に撞(つき)中りしかば、直ちに小腕を截り採り浮み出けるに、地藏淵の邊(あたり)にあらで紙漉澤村の傍に(ほとり)てありつるに、いといと怪しくて道を速(いそ)ぎ歸りしなり[やぶちゃん字注:「」=「扌」+「正」。後の「」も同字。]。

 さるに、その夜夢とも現ともなく、五歳ばかりの童子の髮蓬頭(おどろ)に被りたるが枕邊に跪踞(ひざまつき)て言へりけるは、吾は河童(かつぱ)にて侍るなり。乞萬(なにとぞ)今日の無調法を免(ゆる)され腕を得さし玉はるべしと潛然(さめざめ)と哭泣(なき)けるに、高瀨氏いたく罵る聲と倶に眼は覺めつるがそのまゝ河童も見えずなりぬ。夫よりして連夜來りて倍罪(わぶる)事既に五日を累ねたれば、この人惻隱(ふびん)の情起りていへるは、斯まで切懇(ねんごろ)に乞求るも可憐(ふびん)なれば返し得さすべし、その報に何事をか爲(す)ると問(たつ)ぬるに、河童の曰、凡(およ)そ當家はもとより一族(け)親屬婚(るいゑん)家(るゐ)の人に至るまで、永世(ながく)水難の患(わづらひ)なかるべし堅く誓ひを立てぬるから、卽(やがて)與へて遣りたるにいたく怡びて、再び三囘(みたび)禮拜みてそのまゝ見えずなりしなり。且説(さて)この腕は四五歳の小兒の腕の如くなれど、指は四本にて根もとに蹼(みづかき)あり。爪は尖利(するどく)して鳥の嘴(はし)の如く、肌膚(はた)みな錢苔(こけ)のことき斑なる文(かた)ありて、色淡(うす)靑く皂(くろみ)を帶たり。この人世の風説(うはさ)にならん事を厭ひてふかく祕(つゝみ)て人にも語らねど、千葉氏は從來(もとより)の懇意なるからこの縡(こと)を語り腕を見せしなりと千葉氏の語りしなり。因(ちなみ)にいふ、寛政の年間(ころ)外崎某といへる人、御徒町の川端邊にて河童と組(ひつくみ)、そが髮を一束(つかみ)拔いて家に藏めし話、及び享保の頃間(ころ)梅田村の長十郎と言へる者、河童を捕らへて御上へ獻りしといふ事は、往昔(むかし)より言ひ傳へて人々知れる事なり。

 

[やぶちゃん注:「河太郎」河童のかなり知られた別称。ルビがないので、訛りなく「かはたらう(かわたろう)」と訓じているものと採る。ここの出る話は、〈河童の詫び文〉型の起請文のない誓證のみのタイプで、かなり全国的なオーソドックスなものである。さればあまり面白いとは言えないが、何度も詫びに来るのが夢の中でのように描かれているのは特異点である。

「この高瀨某と言へる人」前話の七 メトチ」の間接的な情報提供元であるから「この」と指示語を附してある。さても、この「メトチ」を語った高瀬なる人物が、前で「メトチ」(みづち・水蛇・蛟)を言い出しておいて、ここで別に如何にもズバリ「河童」らしい「河太郎」を語り、しかも西尾自身がこの最後で「河童」と用字していることから考えても、前条の底本にある森山泰太郎氏の註には悪いのであるが、高瀬も千葉(前話の直接提供者)も平尾も「メトチ」と「河太郎」を全く別個な水怪と考えていたことは明白ではないか? 私は少なくとも「谷の響」内に於いて、則ち、平尾魯僊にとっては、蛇形の水怪「メトチ」とヒト童子型妖怪「河太郎」は同じ物の怪としての「河童」ではないと断ずることが出来ると考えるものである。

「文化初年」一八〇四年。

「地藏淵」不詳。識者の御教授を乞う。一つ言えることは、最後のシーンで高瀬は水怪と格闘、腕を切り落としてそれを奪取、浮かび上ったのであるがが、そこはさっきまでいたはずの「地藏淵の邊(あたり)にあらで紙漉澤村の傍に(ほとり)」であったことを「いといと怪し」と感じている。もし、この「紙漉澤村」(かみすきさわむら:後注参照。ここは位置が判明している)よりも「地藏淵」なる場所が岩木川下流に存在するのであれば、高瀬は、「いといと怪し」とは感じないはずである。従って、この「地藏淵」よりも遙か上流に「紙漉澤村」があるのだとは読めるように私は思うのである。

「竹畚(たけかご)」底本の森山氏の補註に、『かけご。竹又は蔓などで作り、腰に下げる籠。魚籠。津軽・秋田・岩手はカケゴだが、以南の地方ではハケゴと呼ぶところが多い』とある。「畚」は普通は「もっこ」「ふご」と読み、繩を網状にしたものの四隅に綱をつけて土・石などを入れて運ぶ「モッコ」、或いはより広義には、竹・藁などを編んだ容器、ここでのように獲った魚を入れておく「魚籠(びく)」を指す。

「放下(おき)けるに」二字へのルビ。放っておいたところ。

「瞳を放さで」「めをはなさで」。「目を離さで」。

「刺刀(あひくち)」「匕首(あいくち)」。小刀。

「拔て待設けしに」ぬきて、まちまうけしに」。

「又しも」「しも」は副助詞で「よりによって・折りも折り・まさに丁度」の意で、「またも(注視して待ち構えていた)その折りも折り」。

「不疎(すかさず)」間髪を入れず。

抓(ひつつか)む」(「」=「扌」+「正」)「」の字は不詳(「廣漢和辭典」にも載らない)。「ひっつかむ」(引っ摑む)から考えると、「抓」(つねる)が「ひつ」に相当し、「つかむ」が「」であるとすれば、「摑」(掴)或いは「把」であろう。「」の字に変字したとするなら、「把」の可能性が高いように思い私には思われる。

「渠(かれ)」「彼」。その童子形の水怪。

「曳れて」「ひかれて」。

「計らず」思いがけず。

「行事」「ゆくこと」。

「二十間」三十六メートル強。

「疾き事」「はやきこと」。

「撞(つき)中りしかば」「つきあたりしかば」。

「紙漉澤村」底本の森山氏の補註に、『中津軽郡相馬村紙漉沢(かみしきざわ)。古く天文年間にこの地名があり、往昔ここで紙を漉いたという伝えがある』とある。現在は弘前市紙漉沢で読みは「かみすきさわ」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蓬頭(おどろ)に」二字へのルビ。髪などがぼうぼうに乱れて縺(もつ)れているさま。

「被りたるが」「かぶりたるが」。

「乞萬(なにとぞ)」二字へのルビ。

「得さし」「得さす」はア行下二段活用動詞「う(得)」の未然形に使役の助動詞「さす」がついた連語。「手に入れるようにさせる」で「与える」の意。実は和文の古語では、「與(あた)ふ」は一般には使用されず、「得さす」「取らす」「授(さづ)く」などが用いられた。

「潛然(さめざめ)と」二字へのルビ。

「哭泣(なき)けるに」二字へのルビ。

「高瀨氏いたく罵る聲と倶に眼は覺めつるがそのまゝ河童も見えずなりぬ」ここが本話柄のオリジナリティのある面白いところである。初回の河童の謝罪来訪は事実であったのか、それとも単に河童に襲われた高瀬の見た夢であったのか、判然としない処理が施されているからである。いや、寧ろ、河童を激しく叱り罵る自分の声で高瀬が目を醒ますというのは夢オチ的であって、「実際には河童など謝りになぞ来てはいないのではないか?」と読者に逆に思わせる企みが意図的(話者である高瀬の)になされているようにさえ思われるからである。

「倍罪(わぶる)事」二字へのルビ。「倍」の字は不審。識者の御教授を乞う。

「累ねたれば」「かさねたれば」。

「惻隱(ふびん)」二字へのルビ。

「斯まで」「かくまで」。

「切懇(ねんごろ)に」二字へのルビ。

「乞求るも」「こひもとむるも」。

「報」「むくひ」。代わり。弁償。その誓約を求めるところがステロタイプなのである。

「問(たつ)ぬるに」ルビはママ。「たづぬるに」。

「一族(け)親屬婚(るいゑん)家(るゐ)の人に至るまで」「いちけ・おや・るいゑん(類緣)・るゐ(類)のひと、に、いたるまで」。主人公たる高瀬を家長とする主家一族とその末裔・高瀬の父母・親族及び姻族・高瀬家に仕える家来及び下男下女といった人々に至るまで総て全員洩れなく。

「永世(ながく)」二字へのルビ。形容詞として訓じている。

「水難の患(わづらひ)なかるべし」こと「堅く誓ひを立てぬるから」。

「與へて」切り落して奪い取った河童の腕。

「遣りたるに」「やりたるに」。もどしてやったところ。

「怡びて」「よろこびて」。私は漠然と『河童は両生類的であるから、足が切断されてもイモリのように強い再生能力を持っているに違いない』などと勝手に思い込んでいたが、よく考えてみると、この〈河童の詫び證文型〉では切り傷の万能薬の製法を伝授したりしてもおり、ここでも腕を返してもらって非常に喜んでいるところをみると、彼らは切断された手足を(或いは頭部も)接着して復元させるという能力を備えているのだ、ということに今頃になって気がついた。

「禮拜みて」これで「おがみて」と訓じている。

「肌膚(はた)」二字へのルビ。「はた」はママ。「はだ」。

「錢苔(こけ)」「ぜにごけ」。植物界ゼニゴケ植物門ゼニゴケ綱ゼニゴケ亜綱ゼニゴケ目ゼニゴケ科ゼニゴケ属ゼニゴケ Marchantia polymorpha

「ことき」ママ。「如き」。

「斑」「まだら」。

「文(かた)」「型」「形」。紋。

「皂(くろみ)」「黑味」。

「帶たり」「おびたり」。

「この人」高瀬某。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「御徒町」弘前市徒町(おかちまち:「御」はつかないので注意)。(グーグル・マップ・データ)。旧徒歩衆が住まいした地域。

「川端邊にて」現在同地区北に接して、文字通り、「徒町河端町」がある。(マッピン地図データ)。

「藏めし」「おさめし」。戦利品として家蔵した。

「享保の頃間(ころ)」「頃間」で「ころ」とルビする。一七一六年から一七三五年。

「梅田村」恐らくは現在の北津軽郡鶴田町の附近(グーグル・マップ・データ)。

「獻りし」「たてまつりし」。]

谷の響 五の卷 七 メトチ

 

 七 メトチ

 

 寛政の年間(ころ)、若黨町某なる人の兒(こ)、後なる小川にて溺れ死ければ、その屍を場(には)に寢かして水を吐せんとて種々(さまさま)手を盡しぬるに、肚(はら)の裏(うち)喁々(ぐうぐう)と鳴り忽ち肛門より拔け出るものあり。その形狀(かたち)蛇の如く長さ一尺六七寸、躰扁(ひらた)く頭大きなるがとく走りて四邊(あたり)を狂へるに、有合ふ人どもそれ擊捕れと木太刀や雜薪(ざつぱ)をもて追ひたれど、輕捷(はや)逃れて擊得ざるに裏なる川流(かは)に跳入て遂に形狀を見失ひけり。こは俗に言ふメトチなるべしとの話なりと、高瀨某の語りしとて千葉氏の語りしなり。

 又、この高瀨氏なる人、文化の年間(ころ)朋友某と川狩に出たるに、時境(をりから)冷熱(あつさ)堪へがたかれば俱に水を浴たるに、某は水底に沒(い)りて聊且(しばし)見えず。高瀨氏あやふみゐたるうちやうやう浮出(あが)りて言へりけるは、水を浴ること止みぬべし、今に膩油(あぶら)うくべしと言ふうち、はや水の上に泡沫(あは)のごとき脂油(あぶら)いと多く浮み上りぬ。高瀨氏あやしみいかなるゆゑぞと問(たづ)ぬれば、さればとよ、水中を泳ぎゐたるに帶の如きものありて、自(おのづか)ら寄り來り己が腹を纏へる事兩匝(ふたまはり)なりしが、漸々(しだいしだい)に締て吾を曳いて水底に至り、その頭と覺しき處を石の上に置住(あげ)たる故、熟(とく)と看得(みすまし)手ごろの石を取り力に任せてその頭を擊碎くに、忽ち纏ひ解け水冥(くら)みてその物見えず、寔に苛(から)き難を脱れたり。こは俗に言ふメトチとも言ふものか、怕るべき物なりと語りしとなり。

 

[やぶちゃん注:「メトチ」底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『津軽では河童のことをメドチといった。ミヅチ(水の霊)の訛語』とある。ウィキの「河童」によれば、『水蛇(ミヅチ)の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメ、北海道ではミンツチカムイなどがある』とある。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「若黨町」現在の弘前市若党町(わかどうちょう)。名は身分の低い下級武士の住居区であったことに由来するとウィキの「若党町」にはある。弘前城北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「その形狀(かたち)蛇の如く長さ一尺六七寸、躰扁(ひらた)く頭大きなる」「一尺六七寸」は四十八・四八~五十一・五一センチメートル。動きが「とく走りて四邊(あたり)を狂へる」「輕捷(はや)逃れて擊得ざるに裏なる川流(かは)に跳入て遂に形狀を見失ひけり」と異様に早いところからは、水棲の吸血性ヒルである環形動物門ヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル Hirudo nipponia を想起するが、彼等の通常体長は五センチメートル程度で、延伸性が驚くほどあるが、それでもちょっと長過ぎる。長さと頭部の形状を特異な平たさと見るなら、扁形動物門渦虫綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル(笄蛭))亜目コウガイビル科コウガイビル属 Bipalium の仲間ならば、一メートルにも及ぶ個体もある(私はその程度のものを山で実見したことがある)がしかし、こんなに運動性能はよくない。以前に注で出した脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea の一種でも、こんなに逃げ切ることはなく、この敏捷さは寧ろ、蛇のそれで、水辺を好み、よく泳ぎ、魚類をも捕食する有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus の黒化個体(通常個体なら見馴れており、誤認する可能性は少ない)かも知れぬ。そもそも森山氏の補註でも「メドチ」は『ミヅチ(水の霊)の訛語』と言っている。「みづち」はこれ、「水蛇(みずち)」であって、もともとはヒト型の河童ではなく、蛇龍が原型であったと私は思っている。ィキの「(みずち)にも、『南方熊楠は、『十二支考・蛇』の冒頭で、「わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意〔こころ〕でミヅチと呼んだらしい」とし』、『南方はミズチを「主(ヌシ)」などと、くだけた表現を使うが、その原案は、本居宣長(『古事記伝』)が、「チ」は「尊称」(讃え名)だとする考察であった』。『ヌシだとする立場は南方の見立であって、宣長本人によると、ミズチ、ヤマタノオロチ、オロチの被害者たちであるアシナヅチ・テナヅチのいずれにつくチも「讃え名」である、と』した。『南方は、「ツチ」や「チ」の語に、自然界に実在する蛇「アカカガチ」(ヤマカガシ)の例も含めて「ヘビ」の意味が含まれると見』、『柳田國男は「ツチ」(槌)を「霊」的な意味に昇華させてとらえた』。『南方が収集したミヅシ(石川県)、メドチ(岩手県)、ミンツチ(北海道)(ほか『善庵随筆』にもメドチ(愛媛県)、ミヅシ(福井県)』『)などの方言名は、「ミズチ」に音が似てこそあれ、どれも河童(カッパ)の地方名だった。南方はしかし、カッパという存在は「水の主(ヌシ)」が人間っぽい姿に化けて人間に悪さをしたもので、ただ、元のヌシの存在が忘れ去られてしまったのだ、と考察した』とあり、熊楠好きの私としてもこれを全面的に賛同するものである。

「有合ふ」「ありあふ」。居合わせた。

「擊捕れ」「うちとれ」。

「木太刀」「きだち」。木刀。

「雜薪(ざつぱ)」薪雑把(まきざっぱ)。薪にするために切ったり、割ったりした木切れ。

「文化」一八〇四年から一八一八年。

「川狩」川漁。

「冷熱(あつさ)」二字へのルビ。両極を出して、片方の意味を強める手法か? この手の一方的な筆者の対偶的表現はしかし、私は非常に不快で厭である。

「浴たるに」「あびたるに」。

「聊且(しばし)」二字へのルビ。

「あやふみゐたる」「危ふみ居たる」。

「浮出(あが)りて」二字へのルビ。

「膩油(あぶら)」二字へのルビ。「膩」(音「ニ・ジ」)も「あぶら」或いは「脂っこい」の意。

「うく」「浮く」。

「脂油(あぶら)」二字へのルビ。

「浮み」「うかみ」。

「水中を泳ぎゐたるに帶の如きものありて、自(おのづか)ら寄り來り」、「己」(わ)「が腹を纏」(まと)「へる事」、「兩匝(ふたまはり)」(:ぐるぐると二重に巻き付いたことを指す。当時の標準成人男子の胴回りを五十五センチメートルほどとしても、巻きついてしかも水中で体勢を保ち、巻ついた対象をさらに川底に引き込むためには一メートル四〇センチ以上はないと無理であろう。)なりしが、漸々(しだいしだい)に締て吾を曳いて水底に至り、その頭と覺しき處を石の上に置住(あげ)」(二字へのルビ)「たる故、熟(とく)と看得(みすまし)手ごろの石を取り力に任せてその頭を擊碎」(うちくだ)「くに、忽ち纏ひ解け水」(みづ)「冥(くら)みてその物見えず」これもヤマカガシ Rhabdophis tigrinus であろう。水中での不正確な視界とパニックで、蛇と視認出来なかったのではあるまいか。

「寔に」「まことに」。]

谷の響 五の卷 六 狢讐を報んとす

 

 六 狢讐を報んとす

 

 これ又卯の年の九月なるが、砂子瀨村の權八と言へる者、川原平村より半里許り先鍋倉澤と言ふ土(ところ)にて狢を見當り、將(いざ)捕(と)らんと追𢌞せしかど早くも脱去りて遂に見失ひぬ。さるに其歸路(かへるさ)一里許りも下りしに、柳の古木數株(ほん)ありてその根に柳茸といふものいとさはに生へてありしかば、權八好き獲物とて採り來りて妻子に交與(あた)へ、翌る旦(あした)又このあとの茸を摘(とら)んと立出てその土(ところ)に至れども、茸なく柳も見えざれば不審に思ひ、不圖昨日の狢に心付、負たる簀(かご)をふるひて見るに二三枚落たる茸は、柳茸にあらで名もしらぬ毒茸にしあれば、然(さて)は狢めが騙したるものならん、家内どもが食ひては大事なり、いでとく放下(すて)さすべしとて卽便(そのまゝ)駈歸りて内に來りしに、妻子ら早くも喰ひて苦痛煩悶(くるしみもだし)、四隣(きんじよ)のものども寄り集りて藥よ水よと喧々起(さわぎた)つてありしにいたく愕き、萬般(いろいろ)術をつくしてやうやうに癒ゆることを得たりしとなり。すべて是等の獸どもはさなくとも人を惱ますものなれば、虛弱(よわき)人は必ず心しらひすべき事なり。

 

[やぶちゃん注:「狢」狸。

「讐」「あだ」。

「これ又卯の年の九月」前話を受ける。安政二年の九月。同月一日はグレゴリオ暦一八五五年十月十一日。

「砂子瀨村」底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『中津軽部西目屋村砂子瀬(すなこせ)。岩木川の上流最も奥地にある山村。隣接して川原平(かわらたい)部落がある。昭和三十四年ダムのため旧部落は水没し、いま残留した村民が付近に新しい部落を形成している』とある。ここが現行の「砂子瀬」(マピオン地図データ。遙か南西方向に西目屋村「砂子瀬」の小さな飛び地が孤立して現存し、グーグル等の地図データで検索すると、そちらがかかってしまうようなので注意されたい)で、現在、ダムによって形成された大きな人造湖「津軽白神湖」の北岸と西岸にある。

「川原平村」やはり、底本の森山氏の以前の補註に、『西目屋村川原平(かわらたい)。目屋村の最南端の部落で、弘前市まで三二キロ、秋田県境まで一六キロという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「半里」約二キロメートル。

「鍋倉澤」幾つかの情報から、先の津軽白神湖の上流にある「大川」の奥にある沢と同定出来る。大川は(グーグル・マップ・データ)。

「追𢌞せしかど」「おひまはせしかど」。

「脱去りて」「にげさりて」。

「柳茸」「やなぎたけ」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目モエギタケ科スギタケ亜科スギタケ属ヌメリスギタケモドキ Pholiota adiposa の俗称。無毒(但し、川魚のような生臭さい臭いがあるので灰汁抜きが必要)。個人サイト「北海道の外遊び」の「北海道のキノコ狩り」のヤナギタケ(ヌメリスギタケモドキ)を参照されたい。それによれば、『ヤナギタケは食感が良いので、三升漬けに混ぜたり』、『中華料理など濃厚な味付けをすると美味しく食べられます』とある。

「いとさはに」たいそう沢山。

「好き」「よき」。

「交與(あた)へ」二字へのルビ。

「二三枚」「に、さんひら」。

「落たる」「おちたる。

「駈歸りて」「かけかへりて」。

「内」「うち」。自宅。

「苦痛煩悶(くるしみもだし)」四字へのルビ。

「喧々起(さわぎた)つて」三字へのルビ。]

谷の響 五の卷 五 怪獸

 

 五 怪獸

 

 安政二乙卯の年の九月、目屋野澤中畑村の忠吉といへるもの、川狩に出て安門の澤に登りしに、秋の日の早くも暮近くなれば今宵は此處に明すべきとて、とある木蔭にやすらひたりき。さるに、空中に大鳥のかけるひゞきして、そばなる樹の上に落て形は見えずなりし故、忠吉いぶかしく思ひ其樹に登りて見れば、二股になれる處に徑(わたり)一尺もあるべき穴ありてよほどの空洞(うつろ)と見ゆるから、その口に木をふさぎてかたく封じ、根元にも空洞の穴の少しある故枯葉をとり集めてしきりにいぶし立たるに、空洞の中をかけ𢌞(めぐ)る音しばしばなりしが次第に音も靜まりたれど、既に日も暮れ仕舞に物の黑白も分たざれば其まゝに捨置て、明る旦(あした)、鍵をさしのべてひきあけて見れば、狢(むじな)ばかりの大きさの獸死して有しが、それが四足いと短く口箸とがり尾長くして、未だ見もせぬ獸なれば持來りて村の年寄に見せければ、誰ありて名をだに覺へたるものなし。忠吉怪しき獸なりとて皮を剝ぎ弘前へ持來りしを、三ツ橋某したしく見たりと語りしなり。世に雷獸と言へる獸よく空をかけるとあれば、それにやと思はれし。

 

[やぶちゃん注:「安政二乙卯の年の九月」安政二年「乙卯」(きのとう)の九月一日はグレゴリオ暦一八五五年十月十一日。

「目屋野澤中畑村」「目屋野澤」は「めやのさは」で、以前に「雌野澤」と出たものと同じであろう。底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に、『中津軽郡西目屋村・弘前市東目屋一帯は、岩木川の上流に臨んだ山間の地で、古来』、『目屋の沢目(さわめ)と呼ばれた。弘前市の西南十六キロで東目屋、更に南へつづいて西目屋村がある。建武二年』(ユリウス暦一三三四年)『の文書に津軽鼻和郡目谷』(太字「目谷」は底本は傍点「ヽ」)『郷とみえ、村の歴史は古い』。「メヤ」の『村名に当てて目谷・目屋・雌野などと書き、本書でも一定しない。江戸時代から藩』が運営した『鉱山が栄えたが、薪炭や山菜の採取と狩猟の地で、交通稀な秘境として異事奇聞の語られるところでもあった。本書にも目屋の記事が十一話も収録されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)が西目屋村であるから、注の東目屋とはその地域の東北に接した現在の弘前市地域である。先のマップを拡大すると、弘前市立東目屋中学校(行政地名は弘前市桜庭(さくらば)清水流(しみずながれ))を確認出来る。現行の「中畑村」は現在の青森県弘前市中畑で、(グーグル・マップ・データ)。

「川狩」川漁。

「安門の澤」森山氏の補註に、『中津軽郡西目屋村の川原平部落から西方十キロの深山の中にかかる滝を暗門(あんもん)(安門)の滝という。三段にかかり一段ごとに方位を異にするといわれる。それぞれ五〇~七〇メートルの高さで壮絶である』とある。地図と滝(第二の滝)の画像が載る「白神山地ビジターセンター」公式サイト内の「暗門渓谷ルート(旧暗門の滝歩道)」で確認されたい。同ルート図(PDF)がある。この何処かがロケーションである。

「明す」「あかす」。

「空中に大鳥のかけるひゞきして、そばなる樹の上に落て形は見えずなりし」「其樹に登りて見れば、二股になれる處に徑(わたり)一尺」(三〇センチメートル)「もあるべき穴ありてよほどの空洞(うつろ)」(二字へのルビ)「と見ゆる」「狢(むじな)」(タヌキ)「ばかりの大きさの獸死して有し」「四足いと短く口箸とがり尾長く」これらの形状と生態(特に飛翔出来る点)及び樹上の空洞に営巣する点からは、日本固有種(本州・四国・九州に分布)で本邦に棲息するネズミ目の在来種では最大とも言われる(以下の引用を参照)、

哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys

に同定したくなる。ウィキの「ムササビ」によれば、『長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができる。手首には針状軟骨という軟骨があり、普段は折りたたまれているこの軟骨を、滑空時に外側に張り出すことで、飛膜の面積を増やすことができる』(この飛膜面積が広い点は忠吉が見かけ上「四足いと短く」と見たこととよく符合すると私は思う)。『長いふさふさとした尾は滑空時には舵の役割を果たす』。頭胴長二七~四九センチメートル、尾長二八~四一センチメートル(「尾長く」と一致)体重七〇〇~一五〇〇グラム(最大個体ならば、木の空洞の直径「一尺」で遜色なし)と、『近縁のモモンガ類』(モモンガ属 Pteromys)『に比べて大柄で』(日本固有種のリス亜目リス科モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momongaは頭胴長一四~二〇センチメートル、尾長一〇~一四センチメートル、体重一五〇~二二〇グラムしかない)、『日本に生息するネズミ目としては、在来種内で最大級であり、移入種を含めても、本種を上回るものはヌートリア位しかいないとされる』(下線やぶちゃん。以下同様)。『山地や平地の森林に生息』し、『特に、巣になる樹洞があり、滑空に利用できる高木の多い鎮守の森を好む』。夜行性で完全な樹上生活者である。『冬眠はしない』。一二〇メートル『以上の滑空が可能で、その速度は秒速最大』十六メートルにもなる(「大鳥のかけるひゞき」と一致)。『ケヤキやカエデなどの若葉、種子、ドングリ、カキの果実、芽、ツバキの花、樹皮など、季節に応じてさまざまな樹上の食物を食べる』。『地上で採食はしない。大木の樹洞、人家の屋根裏などに巣を作る』。『漢字表記の「鼯鼠」がムササビと同時にモモンガにも用いられるなど両者は古くから混同されてきた。両者の相違点としては上述の個体の大きさが挙げられるが、それ以外の相違点としては飛膜の付き方が挙げられる。モモンガの飛膜は前肢と後肢の間だけにあるが、ムササビの飛膜は前肢と首、後肢と尾の間にもある』。『また、ムササビの頭部側面には、耳の直前から下顎にかけて、非常に目立つ白い帯がある』(「口箸とがり」とあるが、実際には画像を見る限りではムササビはズングリとした丸顔ではある。しかし鼻部が有意に丸く突き出ており、また、この白帯紋があることから、顔は実際よりも見かけ上、尖って私には見える

 ただ、この私の同定にははなはだ大きな問題がある。それは、これを見た「村の年寄」でさえ、誰一人として名指すことが出来ない=見たことも聴いたこともない「怪獸」だ、とした点である。同ウィキにも、『ムササビは、日本では古くから狩猟の対象であった』とし、『縄文時代では、青森県青森市に所在する三内丸山遺跡において、縄文集落に一般的なシカ・イノシシを上回るムササビ・ウサギが出土しており、巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していたことを示していると考えられている』。『時代によっては保護の対象ともなり』、「日本後紀」には『ムササビの利用を禁ずるとする記述がある』。『特に、保温性に優れたムササビの毛皮は防寒具として珍重され、第二次世界大戦では物資が不足する中で、ムササビ』一『匹の毛皮は、当時の学校教員の月給に匹敵するほどの値段となった』。『被毛は筆の材料としても利用され、他にはない粘りと毛先に独特の趣がある』とある。これだけ古代から北の民が接してきたムササビを誰もムササビと名指せないというのは如何にもおかしい。或いは、頭部奇形或いは疾患を起こして有意に尖った面相がムササビに見えなかった、毛色や質も異なった変異個体であった(一晩、ある特定の成分を持つ植物の枯葉で燻されてしまった結果、毛が特異的に変質した可能性は大いにあるとは思う)というようなことか? 最後の弘前に持ちこまれたものは引き剝いだ皮だから「雷獸」(後注参照)としたのは頷けるとしても、村の老人が見たのは死んで半日も経たない完全個体である。また、後の「雷獸」の引用にも出る、食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン 日本固有亜種ホンドテン Martes melampus や、食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata などは生態・形状などはここまで一致しないし、前者ならば毛皮の有用性はモモンガ以上に古くから知られて狩猟対象であったから、老人が名指すことが出来なかったはずはなく、また、後者のハクビシンは、私は近代以降の外来種と考えているから、そもそもが同定候補たり得ないのである。他に比定し得るより相応しい四足動物が存在するのであれば、御教授戴きたい。

「仕舞に」「しまひに」。遂には。

「黑白も分たざれば」「こくびやくもわかたざれば」。真っ暗闇になってしまったので。

「其まゝに捨置て」と言っても、忠吉はこの近くで野営したのである。だから、その「怪獸」が、その後に、何らかの別な動物に襲われ、例えば顔面や四足が損壊して尖ったり短かくなったりした、などという事態は考えにくいことになる。そうした事態があれば、その騒ぎが忠吉に聴こえ(それなりに彼は翌朝まで注意していたに違いない)、また、空洞の入口等に有意な痕跡が必ず残るはずであるからである)。しかし、「明る旦(あした)、鍵をさしのべてひきあけて見れば」とある通り、忠吉は樹上・樹下の通じている空洞(ほら)をその夜、木切れなどで完全に閉塞させており(さればこそ、先に可能性を考えた燻煙によるミイラ化のような変質はあったかも知れぬ)、封鎖した空洞はそのままの状態だったのである(「鍵をさしのべて」という表現が少し分らぬが、これは木片などで封じた「鍵」を「押し外して」の意で採った)。

「雷獸」。ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん。前者は「甲子夜話卷之八」の8の「鳥越袋町に雷震せし時の事」を指す)。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」及び電子化注甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事もご覧あれかし。特に後者はロケーションが本話とすこぶる近い。]

2016/12/03

谷の響 五の卷 四 狼の力量幷貒

 

 四 狼の力量

 

 狼といふもの體に似合はぬ力量のあるものにて、去ぬる天保七申の年の二月永代村の辨助といへるもの養ふところの馬死たれば、皮を剝とりそのむくろを湯船川に捨んと、柴雪舟といふものにのせて六人の男ども精力を出して三四丁の路を捨たりき。さるに何處より來れるにや、一疋の狼ありて人の去るを見てしづかに歩行(あゆみ)より、かの馬の足をくはへてひきつり行くに、力を勞する氣しきもなく一の岱といふをこして次なる澤へ持行しが、その路程六七丁となり。又、去ぬる己亥年同村なる藤次郎といへるものゝ馬死して、そのむくろを山に捨置しが、狼に喰はれて腰の肉と二つの足のみ殘れりたるに、是を餌にして狼をとらんと所のもの共四五人語り合せ、かの馬をひきゆきて程よきところに捨置しに、果して一疋の狼來りてこれをくはへ、首さしあげてゆふゆふと往き過ぎるを見て、二人一同に鐡砲を打かけしに一つは胸にあたり一つは股を貫きたれど、さしてよわる氣色もなく馬を銜へながら十六七間走りしが、つひにそこにて倒れたり。この者共得物を提けて立向へば、狼は手負ひながら立上りてくらひつかんとするを、皆々立かゝりて終に殺せり。實に牛馬もかなはぬものなれば、斯ることもあるべきなりと永代村の彌左衞門といへるもの語りしなり。

 又、貒(まみ)といへる獸もいといと力量ありて、二人の男の動かし得ざる程の岩をいと易く押のくるとなり。この獸岩岸の岩洞(あな)に巣みて狢(むじな)ごとくなるが、狢より口箸(くちはし)とがり前足短く後足高く形なり。齒牙と四爪(つめ)はいと鋭く、これにふるれば死に至るものも有と言へり。性いたく烟を忌るからに、こをとるものその洞穴の口に蕎麥(そば)の殼などをいぶして、しきりに烟を吹き入るれば洞穴に耐へずして駈出るを、矢庭に命門(きふしよ)をうつて殺せるとなり。又この獸前足短かなる故、とく走り得ずとなり。赤倉の岩岸(くら)盲人岩(めくらいは)にはいと多くすめるとなり。

 

[やぶちゃん注:「貒」本文でルビするように、「まみ」と読み、これは後の本文に出る形態描写とその燻しによる狩猟法から、食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma である。ウィキの「ニホンアナグマによれば、『日本の本州、四国、九州地域の里山に棲息』。十一月下旬から四月中旬まで『冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある』。体長は四〇~五〇センチメートル、尾長六~十二センチメートルであるが、地域や個体差により、かなり異なる。体重は四~十二キログラム。『指は前肢、後肢ともに』五本あり、親指は他の四本の『指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。 食性はタヌキ』((ネコ)目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoide)と殆んど同じである。『特にミミズやコガネムシの幼虫を好み、土を掘り出して食べる。 巣穴は自分で掘る。 ため糞』『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は』タヌキ同様、『擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』とあり、『タヌキと本種は混同されることがある』『が、その理由の一つとして、同じ巣穴に住んでいる、ということがあるのではないかと推察される。本種は大規模な巣穴を全部使用しているのではなく、使用していない部分をタヌキが使用することもある』。『昔の猟師は本種の巣穴の出入口を』一『ヶ所だけ開けておき、残りのすべての出入口をふさぎ、煙で燻して本種が外に出てくるところを待ち伏せして銃で狩猟した。そのときに本種の巣穴の一部を利用していたタヌキも出てきたことも考えられ、このことがタヌキと本種を混同する原因の一つになったと思われる』とある(下線やぶちゃん)。本文に「狢より口箸(くちはし)とがり」とある通り、本種はタヌキより遙かに頭部前部が尖っている

「天保七申の年の二月」天保七年は丙申(ひのえさる)で一八三六年。同年の旧暦二月一日はグレゴリオ暦の三月十七日に相当する。

「永代村」現在の鰺ヶ沢町長平町(ながたいまち)。(グーグル・マップ・データ)。前条に出た「芦萢(あしやち)村」の尾根を越えた東方。

「湯船川」「ゆぶねがは」。長平を通る(「川の名前を調べる地図」のデータ)。

「柴雪舟」一応、「しばゆきぶね」と訓じておくが、これは舟ではなく、簡易に仕立てた橇(そり)様の運搬装置らしい(さればこそ次の運搬難渋の様子が腑に落ちるのである)。底本の森山泰太郎氏の補註に、『しばぞり。木の枝を切ったものをそのまま「そり」の代りにして物をのせ、引いて運んだものであろう。いわば枝ぞりであり、飛騨地方でいう柴ぶねというものと同じか』とあるからである。

「三四丁」三百二十八~四百三十六メートル。

「ひきつり行く」ママ。「引き摺(ず)り行く」であろう。

「氣しき」「氣色」。

「一の岱」「いちのたい」。これで場所を指す固有名らしい(具体な位置は不詳)。「岱」は一般に山の上にある湿原或いは草原様の箇所を指す語である。

「持行しが」「もちゆきしが」。

「六七丁」六百五十五~七百六十四メートルほど。

「去ぬる己亥年」天保一〇(一八三九)年。「己亥」は「つちのとい/キガイ」。

「銜へながら」「くはへながら」。

「十六七間」二十九~三十一メートルほど。

「得物」鉄砲或いは鉈などであろう。

「提けて」ママ。「さげて」。手に。

「立向へば」「たちむかへば」。

「實に」「まことに」。

「押のくる」「おしのくる」。「押し退くる」。

「岩岸」後で「くら」と読んでいる。しばらくそれに従う。

「岩洞(あな)」二字へのルビ。

「狢(むじな)」狸。

「性」「しやう(しょう)」。

「忌る」「いめる」、或いは「いやがる」と訓じているかも知れぬ。

「洞穴に耐へずして駈出るを」「洞穴に」籠れるに「耐へずして」駈出」(かけいづ)「るを」。

「矢庭に」「やにはに」。間髪を入れずに。

「命門(きふしよ)」「急所」。

「とく」「疾く」。早くは。

「赤倉の岩岸(くら)」岩木山東北の赤倉沢((グーグル・マップ・データ))の切岸か。ここを下ると、青森県弘前市百沢東岩木山の赤倉山神社があり、ここは岩木山の登山口でもある。

「盲人岩(めくらいは)」不詳。こうした古い差別地名は、今のうちに同定しておかないと永久に所在が判らなくなってしまうと私は内心、危惧している。識者の御教授を乞う。]

谷の響 五の卷 三 皮を剝ぎ肉を截れて聲を發てず

 

 三 皮を剝ぎ肉を截(きら)れて聲を發(た)てず

 

 何れの御邸第(おやしき)にや名は忘れたれど、酉藏と言へる仲間頭のものありき。一日飴(あるひ)餘所(よそ)へ出て夜亥剋(よつとき)のころ歸りしが、時境(をりから)月いと澄わたりて明亮(あきらか)なるに、不圖塀の内なる松を向上(みあぐ)れば、平素(つね)に見もせぬ瘤あるに怪しく思ひ、門の裏に入りて看改(みなほ)せど紛れもあらぬ大きなる瘤なりき。酉藏は卽便(そのまゝ)松に登り帶たる木刀にて彼瘤を暴栗(したゝか)に擊ければ、狐ありて脇の枝に遷りたり。然(さて)こそあれと犬を呼びしに大きなる犬ども六七疋かけ來れば、酉藏は枝を拂ひて嚴しく逐たてしに、堪へえでや忽ち地上に墮たるを、數疋の犬やがて嚙つき已に殺すべかりしを、犬を追ひ退け狐を捕へて部屋に携來り、仲間共にしかしか語りていまだ活あるものを皮剝しかど、苦痛の容子もなくすこしも聲を出さず。かくて皮を剝畢(はぎお)ひぬるに其狐はむくむくと起(おき)て立んとするを、又擲きふせ肉を截扮(けづり)汁に焚(たい)て噉ひしかども死なでありけり。世の話に狐死に迨ぶとも苦聲を發することなしと言へるは實(まこと)なることなりと、この酉藏語りしとて山内與之吉といへる人語りしなり。こは天保二三年頃なるよしなり。

 又、僕又吉の語りけるは、弘化二年にてありけん、中村の山中にて芦萢(あしやち)村の者共狼の子の未だ幼氣(をさなげ)なるもの二三疋狩出して、卽便(そのまゝ)叩きふせ肚を剝き背を割りて寸々(ずたずた)に屠れども、さらに一聲も發(いだ)さずして死せるとなり。狼と狐は苦痛をよく堪へて死に迨るといへども聲を發(た)てることなしと、老夫(としより)の語なりと語りしなり。實にさることのあるにこそ。

 

[やぶちゃん注:「酉藏」「とりざう(とりぞう)」と読んでおく。音なら「いうざう(ゆうぞう」であるが、一般的とは思われない。

「仲間頭」「中間頭」。「ちうげんがしら」。

「亥剋(よつとき)のころ」二字へのルビ。午後十時頃。

「時境(をりから)」二字へのルビ。

「不圖」「ふと」。

「裏」「うち」。

「暴栗(したゝか)に」二字へのルビ。

「擊ければ」「うちければ」。

「遷りたり」「うつりたり」。

「逐たてしに」「おひたてしに」。

「墮たるを」「おちたるを」。

「嚙つき」「かみつき」。

「携來り」「たづさへきたり」。

「仲間共」支配の中間(ちゅうげん)ども。

「しかしか」ママ。

「活」「いき」。息。

「剝しかど」「はぎしかど」。

「剝畢(はぎお)ひぬるに」ルビはママ。「はぎおはんぬるに」の意。

「立ん」「たたん」。

「擲きふせ」「たたき伏せ」。

「截扮(けづり)」二字へのルビ。動詞として訓じている。

「噉ひしかども死なでありけり」不審。――「噉(くら)ひしかども」「死」ぬるま「で」(切り刻んで鍋にすっかり姿形を失ってしまう、その直前まで狐は)聲立てず「ありけり」――の謂いであろう。肉鍋にして喰らっても生きていたら、これはもう、無惨を通り越して、シュール過ぎる。

「迨ぶ」「およぶ」。「及ぶ」。

「苦聲」「くしやう」。狐を悼んでかく訓じておく。

「與之吉」「よのきち」と読んでおく。

「天保二三年」一八三一、一八三二年。

「僕」「しもべ」。

「又吉」「またきち」。

「弘化二年」一八四五年。

「中村の山中」前に出した底本の森山泰太郎氏の「中村澤目」の補註で、『中村川(西津軽郡鯵ケ沢町の東を流れ、舞戸で日本海に注ぐ)に沿う山間地帯をいう。中村・横沢・芦苑』(あしや)『(いずれも鯵ケ沢町に属す)などが主な部落である』とある中の「中村」であろう。現在の鯵ケ沢町の鯵ケ沢街道に沿った中村町。附近(グーグル・マップ・データ)。

「芦萢(あしやち)村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡鯵ケ沢町芦萢(あしやち)。中村川を滑った山間の村落』とある。現在の鯵ヶ沢町(あじがさわまち)芦萢町(あしやちまち)。(グーグル・マップ・データ)。

「狼」絶滅した食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax

「肚を剝き」「はらをむき」とと取り敢えずは訓じておく。但し、平尾はしばしば濁点を打たないこと、標題から見るなら、「はらをはぎ」と読んでいる可能性が高い。

「屠れども」「はふれども」。ほふる。体を切ってばらばらにする。

「迨る」「およべる」「及べる」。

「實に」第一段落との対表現であるから、「まことに」。]

甲子夜話卷之三 14 伊達綱宗、作刀の事

 

3-14 伊達綱宗、作刀の事

予が家藏に無銘の短刀あり。帳面に嘉心作とのみ記して、其人詳ならず。或曰、光彩凡ならず。鑑するに、網宗朝臣なるべしと。因て同席の伊達若狹守に【伊豫富田三萬石】問たれば、本家綱宗、隱居後嘉心と稱せしと答ふ。始て此刀の作者を知けり。思ふに篤信君隱退して仙臺侯としばしば懇會ありしと。その時請得られし者なるべし【後に官の史局の記を聞に、綱宗万治三年隱居願ふ處、平生行狀不ㇾ宜につき、逼塞仰付らる。寬文九年名を若狹守と更め、剃髮して嘉心と號と。此時を考るに網宗年二十一、又新刀辨疑の所載は、綱宗朝臣の戲作世に稀なる者也。地鐵細に、小錵有て、匂深し。大和守安定に似たり。中龜文に出來たるは、南紀重國に似たるも有。又莖の銘を見はす文に、於武州品川仙臺國司陸奧綱宗】。

■やぶちゃんの呟き

「詳」「つまびらか」。

「或曰」「あるひと、いはく」。

「鑑するに」「かんがみするに」と訓じておく。鑑定する限りでは。

「網宗」陸奥仙台藩第三代藩主伊達綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)。第二代藩主伊達忠宗六男。ウィキの「伊達綱宗」によれば、母は側室貝姫であったが、彼女が後西(ごさい)天皇の『母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。六男であったが、兄・光宗の夭折により嫡子とな』り、万治元(一六五八)年、『父・忠宗の死により家督を継』いだが、一般には十八の若さで藩主となり、『酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされ』、幕命により万治三(一六六〇)年七月に、不作法の儀により二十一歳の若さで『隠居させられ』、家督は綱宗の二歳の『長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ』。『この間の経緯であるが、池田光政(備前岡山藩主)、立花忠茂(筑後柳川藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、幕府の老中・酒井忠清に願い出て』、『酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらう事で一致したが、綱宗は酒井の強』い意見にも全く『耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは』『綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出』、『「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞』(ひっそく):武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された)『を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている』。なお、その翌日には『宗勝の命令で綱宗近臣』四人が『成敗(斬殺)され』ている。『綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居し』、『作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、わずか』数え二歳の『長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになったのである。だが、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされ』、また、『綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。実際綱宗は風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」(六曲一双 紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。また、藩主交代そのものが仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある』とある(下線やぶちゃん)。

「伊達若狹守」「【伊豫富田三萬石】」伊予吉田藩(現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に陣屋を置いた)第六代藩主伊達若狭守村芳(安永七(一七七八)年~文政三(一八二〇)年)。静山より十八年下。

「綱宗、隱居後嘉心と稱せし」個人のサイト「宮城県ナビ」の伊達綱宗のページに、逼塞を命ぜられた後は『一切の政事から身を引き,不遇の生涯を江戸品川藩邸で酒を断ち、頭を丸め』て『「嘉心(かしん)」と号し』、『謹慎して書画、和歌、能、茶道等』、『芸術三昧に生き』、『絵画だけでなく』、『工芸や刀剣など各分野に本格的な技量を発揮した』とある(下線やぶちゃん)。

「始て此刀の作者を知けり」「はじめて、このかたなのさくしやをしりけり」。

「篤信君」肥前平戸藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六 (一七五七)年)。静山の曽祖父。正徳三(一七一三)年に養父棟(たかし)の隠居により、家督を相続、享保一二(一七二七)年に病気を理由として家督を長男有信に譲って隠居している。この後に出る

「仙臺侯」篤信の同時代人の陸奥仙台藩第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)であろう(次代の伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)では篤信との年齢差が激し過ぎる)。

「請得られし」「こひえられし」。

「官」公儀。

「史局」幕府内の史書編纂に当たった役所。

「聞に」「きくに」。確認をとってみたところ。

「平生行狀不ㇾ宜につき」「へいぜい、ぎやうじやう、よろしからざるにつき」。

「寬文九年」一六六九年。まさにかの伊達騒動の勃発直後。

「號」「がうす」。

「考るに」「かんがふるに」。

「新刀辨疑」「しんとうべんぎ」は江戸で安永八(一七七九)年に板行された川越候松平大和守家臣であった鎌田魚妙著になる「新刀」(慶長(一五九六年~一六一五年)頃から安永(一七七二年~一七八一年)頃までに作刀された当時から見て新しい刀を指す。この「新刀」という語は既に享保(一七一六年~一七三五年)頃から盛んに用いられ始めていた)の鑑定解説書。原文を確認されたい方は、「埼玉県」公式サイト内の参照したここでPDFで見られる。本記載も見られるものと思われるが、私は刀剣への興味が全くないし、探すのも骨折るばかりで、誰も褒めてはくれまいから、やらぬ。御自身でお探しあれかし。

「戲作」乍ら、「世に稀なる者也」と言うのでろう。

「地鐵」「ぢがね」と読む。日本刀は鍛錬によって刀身本体の表面に美しい地紋が現われるが、その肌模様を「地肌」と称し、その素地を「地鉄」と称する。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の刀剣を見るための基礎知識が非常に分かり易い。

「細に」「こまかに」。

「小錵」「こにえ」と読む。刀剣の刃に生じた粒状の紋様を指し、「沸(にえ)」とも書く。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「刀剣を見るための基礎知識」に、『刃文は、熱した刀身を水に漬ける焼き入れの際に、急速冷却されることによって鋼の成分が変化してできる「沸(にえ)」や「匂(におい)」と呼ばれる細かな粒子で構成されて』おり、『沸は、文様を構成する白い粒子が粗めで、肉眼で視認できる程度の大きさのものをいい、匂とは肉眼での視認が難しい程度の微粒子で、見た目は白い霞のようにみえるものを』指し、『刃文が沸主体でできていれば「沸出来(にえでき)」、匂い主体であれば「匂出来」と呼』ぶとある。

「有て」「ありて」。

「匂」「にほひ」。前々注参照。嘉心(綱宗)作の紋様の粒子が極めて細かなものであったことが判る。

「大和守安定」「やまとのかみ やすさだ」は、ウィキの「大和守安定」によれば、『江戸時代の武蔵国の刀工。新刀上々作にして良業物』(よきわざもの)の名人。『生まれは越前国というのは最近では誤伝とされ、紀伊国石堂の出である。現に石堂出身であることを裏付ける資料も確認されている。通称は「宗兵衛」』。『彼の刀に石堂の作風は見当たらない物が多く、石堂出身でありながら康継一門と相当密接な関係があったといわれ、初代康継の門人であったと言われている。ただ、小笠原信夫は著書「長曽祢乕徹新考」において、康継一門よりは和泉守兼重と深い関わりがあったとしている(安定の作刀銘より考えて、生年は』元和四(一六一八)年『であり、初代康継が没したのが』元和七(一六二一)年『であるから師弟関係が成立する事は考えにくい)』。『安定の刀は茎に裁断銘が多くあり』、『切れ味がよかった。山野加衛門が江戸幕府始まって以来五つ胴を切ったとされる刀もある。遊撃隊の伊庭八郎や新撰組の沖田総司、大石鍬次郎の愛刀としても有名。作風としては、虎徹に似る』。『明暦元年に伊達家の招きで仙台に招かれ、徳川家康の命日に仙台東照宮に一振り、伊達政宗の命日に瑞鳳伝に一振り安定とその弟子達の合作である脇差が奉納刀として収められている。 瑞鳳伝の奉納刀は戦後伊達家より改めて瑞巌寺に奉納されている。 また、大和守安定の弟子である安倫はその後仙台で刀工として明治まで続いている』とある。

「中龜文」「ちうきもん」と音読しておく。太刀(太刀は刃を下にして腰から吊り下げて身に付ける)では刀と異なり、体の外側が「佩表(はきおもて)」となり、その佩表の「茎(なかご:刀身の柄に被われる部分)」に亀甲紋(きっこうもん)があるという謂いであろう。刀剣売買のサイトの「亀甲貞宗」の解説及び画像を見られたい。それによれば、『亀甲紋は出雲神社の神紋である。亀甲貞宗の紋も出雲神社と直接的でなくても、何らかの関係がありそうである』として亀甲の家紋についても詳述されている。

「南紀重國」「なんきしげくに」は紀州藩御抱え刀工とその一派を指す。幕末まで十一代続いた。ウィキの「南紀重国によれば、『狭義では、初代の重国(文珠と称す・通称は九郎三郎)個人や、その製作刀を指す場合が多い。広義では、二代以降の重国や、その製作刀を含むことも多く曖昧な呼称である』。『大和伝手掻派の末裔であるという初代重国は、新刀期屈指の名工であったと伝えられる。本国は大和国であったが駿府の徳川家康に召されたのち、紀州徳川家の家祖徳川頼宣に従って紀州に移り、その後は十一代にわたり御抱え刀工となった』。『作刀期は元和の頃が多いとされる』。『大和や駿府などで製作され、その旨を切銘された刀身も現存しているが、紀州で製作され現存している刀身には「於南紀重国造之」「於南紀重国」の銘が多い』。二代重国は『初代重国の実子で金助(通称は四郎右衛門)』で、『父の業績を慕ってか、製作刀の銘に「文珠」の文字を切ったものが多く、特に区別して文殊重国と呼称される。徳川頼宣の相手鍛冶を勤めたと伝えられる』。『作刀期は明暦の頃が多いとされる』。四代重国は紀州出身の第八代『将軍徳川吉宗に江戸に召し出され』、『浜御殿で作刀し、その技量の高さを認められ葵一葉紋を茎』(なかご)『に刻むことを許される栄誉を受けた。(他に吉宗に葵一葉紋を許された刀工は、一平安代、主水正正清、信国重包のみ)』とある。

「莖」「前注の通り、「なかご」と訓ずる。

「見はす文」これで「あらはすぶん」と読む。

「於武州品川仙臺國司陸奧綱宗」「武州品川に於いてす。仙臺の國司・陸奧綱宗」と訓ずるか。

譚海 卷之二 京白河牛石幷加茂川石の事

 

京白河牛石幷加茂川石の事

山城の白川(しらかは)は、如意天台の川より流れくる谷川也、往古(むかし)志賀の山こえせし道と云(いふ)。白川村の山中を入(いる)事二里ばかりにして川中に牛石(うしいし)と云(いふ)あり、長さ九尺斗(ばか)り橫五六尺あり、牛のかたち彷彿(はうふつ)たり。背の筋など分明にありといふ。下加茂みたらしの中にも石蠶(せきさん)といふものあり、口などもあり、水あるときは動き行くをみる、水なき時はすべて小石の如し。

[やぶちゃん注:「山城の白川は、如意天台の川より流れくる谷川也」淀川水系鴨川支流の白川は現在の滋賀県大津市及び京都府京都市を流れが、その流域の殆んどは京都市東山区及び左京区に属する。滋賀県と京都府との境界付近に連なる東山の山々の中の、天台宗延暦寺のある比叡山と、如意ヶ岳の間に位置する滋賀県大津市山中町の山麓、俗に「白川山」と呼ばれる場所に源を発する(以上はウィキの「白川(淀川水系)」に拠る)。附近(グーグル・マップ・データ)。

「白川村」旧京都府愛宕郡白川村附近。現在は京都市左京区の一部であるが、旧村域は非かなり広い。ウィキの「白川村によれば、『東山山中から発する白川が京都盆地東北角に入』ることで形成された『広大な扇状地(北白川扇状地)を中心とする』地域で、『北は愛宕郡修学院村(現在の左京区一乗寺地区)、東は滋賀県、南は京都市上京区吉田町・浄土寺町(現在の左京区吉田地区・浄土寺地区)、西は愛宕郡田中村(現在の左京区田中地区)に囲まれており、村の境域は現在の京都市左京区南部の北白川地区(北白川を町名に冠する地域)にほぼ一致する』とある。

「牛石」「都名所圖會」の「卷之三 左靑竜」に『北白川は銀閣寺の北なり。里の名にして、川は民家の中を西へ流れる。これなん名所三白川のその一なり』とし、『この里は洛(みやこ)より近江の志賀坂本への往還なり。志賀の山越えといふ。素性法師が「君が代までの名こそありけれ」とつらねし白川の滝は道の傍らにありて日陰を晒し、川の半ばに橋ありて、はじめは右手(めて)に見し流れもいつとなく弓手(ゆんで)になりて、谷の水音浙瀝(せつれき)として深山(みやま)がくれの花を見、岩ばしる流れ淸く澄みて皎潔(きやうけつ)たる月の影鬧(いそがは)しく、橋のほとりに牛石(うしいし)といふあり。形は牛の臥したるに似たり。これよりひがしに山中(やまなか)の里あり。比叡(ひえ)の無動寺へはこの村はづれの細道より北に入る。右のかたの一つ家(や)に川水を筧(かけひ)にとりて水車めぐる』とあることで位置が概ね判る(「浙瀝」は「物侘びしい興趣を添えること」か。「皎潔」は「白く清らかで汚れのないさま」「鬧」は「五月蠅いこと」で月光が川流れにきらきらちらちらすることを却って小五月蠅いものと形容したのであろう)。現行、白川の流れの中にはこの石があるという情報がない。直近にある京都府京都市左京区北白川仕伏町(しぶせちょう)の北白川天神宮((グーグル・マップ・データ))には視認は出来なかったが、ネット上の情報では「牛石」があるらしい。移されてここに祀られたものか? 識者の御教授を乞う。

「九尺」二メートル七七十三センチ弱。

「五六尺」一メートル五十二センチから一メートル八十二センチ弱。

「下加茂みたらし」下賀茂神社(正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の手水とされる御手洗川。

「石蠶」以下の「口などもあり、水あるときは動き行くをみる、水なき時はすべて小石の如し」という叙述から、これは前の牛石のシミュラクラなんどではなく、昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫であることが判る。最も知られるものとしては、砂礫で作られた蛹巣(ようそう)を人形に見立てた山口県岩国市の民芸品「石人形」で知られる(和名の由来もそれ)、トビケラ目ニンギョウトビケラ科ニンギョウトビケラ属ニンギョウトビケラ(人形飛螻蛄)Goera japonica などが知られる(本種は幼虫期、細かい砂を分泌物で綴り合わせて筒状の巣を作り、さらにその側面に大きな砂粒を人形の手足の様に附ける)。さても、これを説明をし出すと、また、諸君に飽きられる長々しいものとなるので(私は楽しいのだがね)、そうさ、幾つかあるのだが、私の大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶の本文及び私の注などを是非、参照されたい。]

句集更新

拙句集「鬼火」の本年度分を更新。

2016/12/02

譚海 卷之二 隱岐國駒とりの事

 

隱岐國駒とりの事

○出雲より隱岐へは渡海七里程あり。隱岐に牧駒(まきごま)有(あり)、年々繁殖するを、春ごとに駒をとりて出雲へ牽來(ひききた)り遣ふ事也。その母馬(ははうま)を一疋取得(とりえ)て四蹄(してい)を縛(ばく)し舟に乘すれば、その子馬はみなみな跡に隨(したがひ)て舟に乘り來ると云(いふ)。

[やぶちゃん注:この話、そこはかとなく哀しくなってくる。

「出雲より隱岐へは渡海七里程」誤り。隠岐諸島は島根半島の北方約五〇キロメートルに位置する。

「牧駒」放牧されいた隠岐馬。島根大学の「汽水域研究センター」公式サイト内の隠岐によれば、『隠岐馬は、奇蹄目の日本馬の一種で、体高が低い隠岐在来の矮小馬である。足は細く、蹄が強いため蹄鉄を打たなくてもよく、首は太く、たてがみは直毛で弾力があり、毛色は鹿毛(茶褐色)や青色(純黒色)が多かった。また、神経質で性急にして怒りやすく、ややもすれば人を噛んだり、蹴ったりすることもあり、御しがたい性質の馬であった』が、明治三九(一八九九)年と昭和一一(一九三六)年の二回に『わたる日本馬政局の馬政計画の実施により、隠岐馬の雄はすべて去勢され、絶滅』させられてしまったとある。リンク先には現存する十二歳の雄馬の骨格標本の画像がある。]

タルコフスキイの葬儀から埋葬までを見て

Андрей Арсеньевич Тарковский(アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキイ)は、この12月29日で三十周忌を迎える。
 
今回、イタリア語版の葬儀から埋葬までを撮った

「Funeral of Andrei Tarkovski - 1987」(英語字幕附)
を見た。

出棺後、ロストロポーヴィチが追悼にためにバッハの無伴奏を弾く映像を見ているうち、涙が止まらなくなった――

譚海 卷之二 同國大社祭禮の事

 

同國大社祭禮の事

○出雲の大社は天(あめ)の日隅(ひすみ)の宮(みや)と號す。神主(かんぬし)國造(くにのみやつこ)を千家(せんげ)と號す。此(この)千氏中古より兄弟兩家にわかれ、兄の家は鶴山(つるやま)といふ所に住す。弟の家は龜山(かめやま)といふ所に住す。此(この)龜山をば八雲山ともいふ、いづれも千家と稱す。兄の一家中古已來斷絶して、そのわかれより繼(つぎ)しゆへ、今は却(かへつ)て弟の家を本家と稱し、つる山をば北島千家と稱する事也。又千家の外に別火と稱する家あり、二百石を領す。毎年十月四日の神事に、大社の沖を五十田狹(いそたさ)と號する所あり。此沖十里ばかりに鹽燒島といふ所へ此別火其夜浪を踏(ふみ)て至り、燒鹽を取來(とりきた)りかはらけにもり供する神事あり。此夜諸人出行(いでゆく)を禁ず。いそたさは遠淺ゆへ舟なき所なるに奇異の事也。同月十一日の神事に錦色の蛇いそたさに出現すといへり。

[やぶちゃん注:「同國」前条を受け、出雲国。
 
「天の日隅の宮」「日本書紀」での出雲大社の呼称。

「千家」先行する底本の竹内氏の注に、『出雲大社の神官の長たる国造家、天穂日命』(あめのほいのみこと)『の後で、近世は千家と北島家にわかれ、大社に奉仕した。古代のクニノミヤツコ(国造)の名が踏襲されてきたのである』とあり、以下の「千家」家及び「北島千家」(北島家)も含め、ウィキの「出雲国造」に詳しい。現在は千家系が大社を主管している。その近代の経緯(は私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)』の明治期の第八十一代出雲国造(いずものくにのみやつこ)であった「千家尊紀」(せんげたかのり)氏についての同ウィキその他を用いた注なども参照されたい。

「鶴山」出雲大社の背後の社殿に向かって左(西側)にある山。

「龜山」出雲大社の背後の社殿に向かって右(東側)にある山。

「此龜山をば八雲山ともいふ」不審。現在は社殿の背後中央にあるピークを八雲山と呼称している。

「別火と稱する家あり」現在も出雲大社祠官家の姓に「別火(べっか)」という姓がある。この「別火」とは、「日常の穢れた火とは違う神聖な別な火」、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意である。そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕する、という極めて古形の神式に基づく儀式から派生した神職及びそれを掌った一族に与えられた姓と考えられる。私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)の本文及び注も是非、参照されたい。

「十月四日の神事」出雲大社の最重要の神事の一つである神迎祭で、現在も旧暦十月十日に行われている(今年二〇一六年は十一月九日に行われた)。

「五十田狹(いそたさ)」現在の通称で「稲佐の浜(いなさのはま)」と呼ぶ砂浜。出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、

   《引用開始》

弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。

塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。

屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。

つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみなかたのかみ)」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。

   《引用終了》

があると記す。

「此沖十里ばかりに鹽燒島といふ所」とあるが、これは「島」という語尾と、伝聞自体のの誤りである(「十里」(約四十キロメートル弱)というのは全く以っておかしい)。前注した「塩掻島」であるが、これは少なくとも現在は島嶼ではなく、稲佐浜北部にある海岸の一部を指す。こちらの絵地図(PDF)で確認されたい。なお、古い絵葉書などを見ると、この現在は「塩掻島」と呼ばれている岩場は「鹽燒島」とも呼ばれており、神代に於いて、ここで初めて塩が作られた場所とされる。

「かはらけ」「瓦笥」或いは「土器」と書く。素焼きの盃。

「もり」「盛り」

「此夜諸人出行(いでゆく)を禁ず」やはり、私の小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)の本文及び注を参照されたい。この前後の神事は、すでに本来の意義を追求し得ず、不思議なものが実は多い。

「いそたさは遠淺ゆへ舟なき所なるに奇異の事也」この逆接の接続助詞「に」は不審。或いは前の「此沖十里ばかりに鹽燒島」があるという誤認から、そこへ向かうには船がなくては無論、行けないはずなのだが、「いそたさ」「五十田狹(いそたさ)」=「稲佐の浜」は遠浅で(これは事実)小舟さえも着けられないから、そこからは舟を出すことは出来ない「のに」どうことだろう? 「奇異の事」なり=訳が分からぬ、というのであろうか。取り敢えず、そう私は採りたい。

「同月十一日の神事」神在祭。現行では同時に出雲大社教龍蛇神講大祭が行われており、龍蛇神は神迎祭で大国主神様の使者として八百万の神を迎え、稲佐の浜から出雲大社まで先導される神とされているので、以下の「錦色の蛇いそたさに出現す」という叙述と合致する。この蛇については、小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)の本文及び私の注も参照されたい。]

谷の響 五の卷 二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す

 

 二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す

 

 文政の年間なるよし、合田某と言へる人錢砲の名手なるが、ある日殺生打に出て八幡宮の林に至り、鴛鴦鴨(をしがも)のあるを見て一放に打とめ、卽(やが)て立よりその鳥を視るに咽首(のどくび)に中り、頸は斷切(ちぎれ)て其あたりに見えざれば、其まゝ打棄て歸られき。さるにあくる年のこの月日に、圖らず又八幡宮の林に至りて鳥や居ると看眺(ながむ)るに、又鴛鴦鴨のありければ否や打とめ摘擧(とりあげ)て見るに、こたびは雌鳥にてその羽がひに骨ばかりなる鴛鴦鴨の首を匿せり。合田氏不圖(ふと)去年のことを想像(おもひだし)、滿身(みうち)寒粟(ぞつ)として覺えず冷汗を流せしが、其肉を喫ふに忍び得で屍を埋みて歸りしなり。さてこのことを子供に語りて殺生打を禁令(いましめ)、今に此家にては殺生打は爲さぬよしなりと、水木某の語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「羽交(はがひ)」単に鳥の羽の意味もあるが、狭義には鳥の左右の翼が重なる箇所を指す。ここも、話柄とその映像的イメージの哀感とともに、その狭義の方で採るべきである。

「匿す」「かくす」。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。

「合田某」弘前藩の鉄砲組の者であろう。

「殺生打」「せつしやううち」。生きた獣を狙撃すること。

「八幡宮」単にかく言う場合は、現在の弘前市八幡町にある弘前八幡神宮であろう。弘前城の鬼門(北東)の押さえとして八幡村(旧岩木地区。原型の創建は、平安初期に坂上田村麻呂が東夷東征の際に岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請、戦勝祈願をしたものとされる)から遷座されたもので、藩政時代は領内の総鎮守として筆頭の神格を持っていた。

「鴛鴦鴨(をしがも)」鳥綱カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata。馴染みの鳥類では性的二型の際立つ種である。

「一放」一発。

「卽(やが)て」直ぐに。

「立より」「立ち寄り」。

「其まゝ打棄て歸られき」ここは首を打ち捨てて帰った、ととっておく。首尾一体でない獲物は狩りでは本来は忌み嫌われるから、本体も打ち捨ててとも採りたいのだが、そうすると、エンディングの雰囲気に微妙に上手くないと私は思うからである。

「あくる年のこの月日に、圖らず又八幡宮の林に至りて」共時的で共空間であることから、これ自体が共感呪術的現象であることに注意。

「看眺(ながむ)るに」二字へのルビ。

「否や」「や否や」と同義。即座に。

「摘擧(とりあげ)て」二字へのルビ。

「去年」「こぞ」と読みたい。

「想像(おもひだし)」二字へのルビ。動詞として訓じている。

「寒粟(ぞつ)として」二字へのルビ。

「冷汗」「ひやあせ」。

「喫ふ」「くらふ」。喰らう。

「屍」「かばね」であるが、私として「むくろ」と訓じておきたい。

「埋みて」「うづみて」。

「禁令(いましめ)」二字へのルビ。]

谷の響 五の卷 一 羹肉己ら躍る

 

谷の響 五の卷

 

        弘府 平尾魯僊亮致著

 

 

 一 羹肉己ら躍る

 

 弘化三年の頃のよし、御藏町木匠(だいく)小之吉といへるもの、板柳村の井筒屋宇兵衞に償(やと)はれて掙(はたら)き居たりけり。一夜(あるよ)同僚(どうやく)ども語りて思はず更かしたるに、みな醉も醒め肚(はら)も空きたれば改飮(のみなほ)して寢(い)ぬべしと、杜人(とうじ)より酒は貰ひたれど酒菜(さかな)なければ奈何はせんとするに、一個(ひとり)のいへる、鷄こそよき酒菜なるべしとあるに、みなそれよとて暗密(ひそか)に塒(ねぐら)より鷄一羽捕來りて、やがて料理して煮たりけるが、肉も稍(やゝ)熟して酒を燗すべしとするうち、鳥屋(とや)なる鷄一聲高く謳ひしに、鍋の中なる煮ゑたる内おのれと躍あがりて圍爐裡の四邊(あたり)に散敷(ちらはり)たるに、衆々(みなみな)膽を寒(ひや)し興もさめて不覺(そゞろ)に身の毛逆立て誰食ふべくといふものもなく、攫ひあつめて裏なる堰に棄けるなり。かく執念の深きをば目下(まのあたり)に見たればいと怕しきなりとて、夫より鷄は卵子も嚙(く)ひたることなしとこの小之吉が語りしなり。

 又、これと等しからねど似よりたる一語(はなし)あり。そは嘉永二己酉の年、劇場(しばゐ)の歌舞妓者(やくしやども)蟹田村に投宿(とまれ)るが、辨七・大吉などいへる三人の宿にて嶋メクリと言へる小魚を燒きたるに、片身はよく燒けぬればとて反(かへ)して又の片身を燒をりしに、この魚六枚(むひら)なるが不殘(みな)跳り出して串よりはなれ、灰(あく)の中に落て魬躍(はため)きたるに、歌舞妓者(やくしやども)奇異の思ひをなして採り上げて見れば、その動くものには中骨が附てありける故、其まゝこの魚を摘み出て洋(うみ)に放下(はなし)たるに、ひらひらと泳ぎて行衞なくなりしとなり。この時三國屋惣左衞門も居あはせ、親しく視たりしとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「羹肉」第二例にはそぐわぬが、「あつもの」と当て訓しておく。「羹」は「熱物(あつもの)」と訓じ、魚肉・鳥肉・野菜などを入れた熱い吸い物を指す。

「己ら」「おのづから」。

「弘化三年」一八四六年。

「御藏町」現在の青森県弘前市浜の町。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「小之吉」「このきち」と読んでおく。

「板柳村」北津軽郡板柳(いたやなぎ)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「暗密(ひそか)に」二字へのルビ。

「捕來りて」「とりきたりて」。

「謳ひしに」「うたひしに」。

「おのれと」自然と(自発の意)。誰かが箸で摑んだわけでもないのに。

「躍」「をどり」。

「圍爐裡」「ゐろり」。

「散敷(ちらはり)たるに」ルビはママ。

「膽」「きも」。

「不覺(そゞろ)に」二字へのルビ。何とも言えず。

「逆立て」「さかだちて」。

「攫ひ」「さらひ」。「浚ひ」。

「堰」「せき」。水路。

「棄ける」「すてける」。

「嘉永二己酉の年」一八四九年。「己酉」は「つちのととり/きゆう」。

「歌舞妓者(やくしやども)」四字へのルビ。

「蟹田村」現在の東津軽郡外ヶ浜町の蟹田地区周辺。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「辨七・大吉」役者の芸名であろう。

「嶋メクリ」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン属キュウセン Parajulis poecilopterus の地方名。海産生物同定等でしばしば参考にさせて戴いている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑の「キュウセン」の「地方名・市場名」の項に、『シマメグリ/山形県鶴岡市由良漁港』とあり、また、『シマクサブ』・『シマメグク』の名を見出せる。キス釣りでよくかかる虹色鮮やかな魚で、色の関係で好まぬ人が多いように思われるが、焼いて食うと、実は美味い。

「魬躍(はため)きたるに」二字へのルビ。]

甲子夜話卷之三 13 松平加賀右衛門家の事

 

3-13 松平加賀右衛門家の事

御旗本衆の中に、松平加賀右衞門と稱る人あり。大給松平の流なり。此人の名は嚴廟の時、上意にて賜しと云。其故は、此人の容貌前田の松平加州に能肖たるとて、人皆加賀々々と呼しを、卽上意にて名乘しと云。

■やぶちゃんの呟き

 前条の「松平加賀守」で軽く連関する。

「松平加賀右衛門家」不詳。

「旗本」「はたもと」。原義は「軍陣で主将旗のある本陣」の意であるが、転じて、主将の旗下にある直属の近衛兵を指すようになった。江戸期には、将軍直属の家臣(直臣(じきしん))として大名・旗本・御家人の別があるが、旗本は知行高一万石以下で御目見(おめみえ:将軍に謁見出来ること)以上の格の者を称した。旗本と御目見以下の御家人とを総称して「直参(じきさん)」「幕臣」と称した(但し、一万石以下のではあるが、名家の子孫で幕府の儀礼を司った「高家(こうけ)」と参勤交代の義務をもつ「交代寄合」は別格で、老中支配に属した)。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った。

「稱る」「しよう(しょう)する」。

「大給松平」底本編者は「大給」に「おほきふ」とルビする。ウィキの「大給松平家より引く。『大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」にはある。当主は武勇に優れ、「藩翰譜」にはあちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている』。『江戸時代には譜代大名』四『家のほか、数多くの旗本を出した。なお』、『新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する』。前々条に出た岩村藩の乗政系はこの流れに入る。

「嚴廟」第四代将軍徳川家綱。彼の諡号「厳有院」に基づく。

「賜しと云」「たまはりしといふ」。

「前田の松平加州」加賀藩藩主の前田(松平)加賀守家当主であるが、この家綱の代ならば、前田利家の曾孫で第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)である。

「能」「よく」。

「肖たる」「にたる」。

「卽」「すなはち」。

甲子夜話卷之三 12 松平加賀守辻番人、心入の事

 

3-12 松平加賀守辻番人、心入の事

或の話しは、松平加賀守家風は武邊を忘れぬことなり。一日かの辻番の前にて、白刃を拔て騷ぐものありしかば、番人一人出て、棒を以てこれを制す。時に餘の二人、其後に立て見て構はず。其中に一人の者、棒にて白刃を打落し、その者を搦め取たり。往來の人々不審に思て、立居し二人へ、いかに危きことなりしを助け玉はざりしやと問へば、答るには、敵は一人に候。それに多勢かゝりては、初に出し者の武邊に邪魔いたし候ゆへ、構申さずと云たりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「松平加賀守」加賀藩前田(松平)家。「甲子夜話」起筆当時(文政四(一八二一)年)なら、第十一代藩主前田斉広(なりなが)。

「辻番人」狭義には辻番(つじばん)は幕府によって江戸城下の武家屋敷周辺の辻々に置かれた辻番所詰めの警備隊を指す。ウィキの「辻番」によれば、『幕府の負担による公儀辻番(公儀御給金辻番)、大名によって設置される一手持辻番(大名辻番)、いくつかの大名や旗本が共同して設置する組合辻番(寄合辻番)があった。辻番はそれぞれの担当地域を巡回し、狼藉者などを捕らえた。辻番所には昼夜交代で勤務し、番所は夜中も開かれていた』とある。但し、ここは金沢城(現在の金沢市内)の城下の辻番所ともとれないことはないが、往来の庶民が不審がって問うところや、それを敢えてかく書いてこれを称揚するのであれば、やはり江戸のそれであろう。

「心入」心遣い。配慮。心得。

「或」「あるひと」。

「話しは」「はなせしは」。

「一日」ある日。

「白刃」「はくじん」。抜き身の刀。

「拔て」「ぬきて」。

「其後」「そのうしろ」。

「立て」「たちて」。

「構はず」手出しをしなかった。

「其中に一人の者」「そのうちに」最初に立ち向かった「一人の者」が、とうとう。

「打落し」「うちおとし」。

「搦め取たり」「からめとりたり」。

「思て」「おもひて」。

「初に」「はじめに」。

「構申さず」「かまひまうさず」。

「云たりし」「いひたりし」。

2016/12/01

私は



あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)


甲子夜話卷之三 11 岩村侯の老臣黑岩某、味岡某の事

 

3-11 岩村侯の老臣黑岩某、味岡某の事

岩村侯【松平能登守】の家老に黑岩氏あり。世世六郞兵衞と襲稱す。もと生駒の臣なり。生駒減地のとき浪人となり、岩邑に仕ふ。其人額上に毛剝て生ぜざる所あり。其故を聞くに、少年の時浪人し、片田舍に住み、母に事て孝あり。夜は必ず其臥處に就て侍養す。一日他行して遲く歸り、まづ母の臥處に往き、蚊帳に顏をあてゝ安否を問に、母答へず。不審に思ふと、一男子の帳より出るを見る。六郞卽これを遂ふ。その人塀を越んとす。六郞後より裾を執る。その人、上より六郞が前髮をつかんで引揚ぐ。しばし引合内に、前髮抽て流血眼に入る。そのとき六郞、脇指を拔て一刀に切落す。能見れば、前年まで其家に使し僕の、常に母の貯金ありしを知りて、殺害して金盜たりしにぞありける。此時拔れし痕、遂に髮毛を生ぜざりしと云。此六郞兵衞頗幹事の才ありて、侯家に功あり。金森氏改易のとき、郡上の城受取を侯に命ぜらる。侯に從て行く。入城のとき春色方に盛に櫻花爛開す。因て人々其花を賞觀す。黑岩獨凄然として、乃一首の哥を詠ぜり。

 

 よそながら慰かねつ櫻花

      ちりぢりになる人を思へば

 

常に風騷をも好めり。此詠秀逸には非れども、時にとりての餘情深し。今の六郞兵衞は其孫なりと林氏語れり。又岩村の家老に味岡氏あり。高天神にて、武田信玄を鐵砲にて狙擊し足輕の裔也と云。珍しき家なり。

■やぶちゃんの呟き

 和歌の前後は空けた。

「岩村侯」「【松平能登守】」これは美濃国岩村藩主のことであるから、思うに、前話の続きでこれも林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)から得た情報ではあるまいか彼の実父は美濃国岩村藩第三代藩主松平乗薀(のりもり 享保元年(一七一六)年~天明三(一七八三)年)だからである。乗薀は伊勢亀山藩主松平乗邑の三男であったが、岩村藩世嗣の乗恒が早世したため、第二代岩村藩主松平乗賢の養子となり、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任されている。問題は時制的には岩村藩主は後代となっていることであるが(「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年であるから執筆当時の岩村藩藩主は乗薀の養子となった第四代松平乗保(のりやす))、しかし、後に出る「金森氏改易」宝暦八(一七五八)年。後注参照)から判断するに、やはり私はここの「岩村侯」は述斎が語った少し前の話柄当時の乗薀と判断するものである。但し、以下の「黑岩某」の初代六郎兵衛が岩村藩に仕官したのは時制的(以下の注の「生駒騒動」参照)に見て、松平家では四代も前の初期岩村藩第二代藩主(岩村藩はその間に丹羽家が五代、乗薀の前に二人の藩主が入る)松平乗寿(のりなが 慶長五(一六〇〇)年~承応三(一六五四)年)の時でないとおかしい。即ち、最初の黒岩六郎兵衛の話、〈額の上に禿があった黒岩六郎兵衛〉は、その〈少年時代に浪人経験のある初代の六郎兵衛の古い伝え聞き〉であろうと思われるのである。

「老臣黑岩某」不詳。

「味岡某」「あじおかなにがし」。不詳。「岐阜県」公式サイト内のこちらの古文書データに、後の慶応二(一八六六)年の交通手形で『松平能登守内味岡杢之允』なる人物の名を見出せるが、彼の子孫かも知れぬ。

「世世」「よよ」。代々。

「襲稱」「しふしやう」。(黒岩六郎兵衛を)受け継いで通称すること。これが本話柄をややこしくしているのだと私は思うのである。

「生駒」讃岐高松藩生駒家。同藩第四代藩主生駒高俊(おこまたかとし 慶長一六(一六一一)年~万治二(一六五九)年)の時、彼を廻って「生駒騒動」と称するお家騒動が起こり、同家は改易された。ウィキの「生駒高俊」によれば、彼は元和七(一六二一)年七月、『父正俊の死去により、家督を相続した』が、幼少であったため、『外祖父藤堂高虎の後見を受けることになった』。その後、『成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興に専ら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こ』り(これを「生駒騒動」と呼ぶ)。寛永一四(一六三七)年、『生駒帯刀らが土井利勝や藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した』。寛永一六(一六三九)年、『幕府は騒動の詮議を始め』、翌寛永一七(一六四〇)年七月二十六日に『幕府は藩主高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で』一万石を『堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた』(これを静山は「生駒減地」と称しているのであろう。下線やぶちゃん)。『なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった』とある。

「岩邑」「岩村」に同じい。

「額上」「ひたひがみ」。額の上の方。

「毛剝て」「けはげて」。

「事て」「つかへて」。

「臥處」「ふしど」。

「就て」「つきて」。

「侍養」「じやう(じよう)」。身辺にいて世話をすること。

「一日」ある日。

「他行」「たぎやう」。外出。

「問に」「とふに」。

「帳」「とばり」。

「卽」「すなはち」。

「遂ふ」「おふ」。追う。

「塀を越んとす」「へいをこえんとす」。

「裾」「すそ」。

「引揚ぐ」「ひきあぐ」。

「引合」「ひきあふ」。

「抽て」「ぬけて」。

「流血」「りうけつ」。

「眼」「め」。

「脇指」「脇差」。

「拔て」「ぬきて」。

「切落す」「きりおとす」。

「能」「よく」。

「使し僕」「つかひししもべ」。

「盜たり」「ぬすみたり」。

「拔れし痕」「ぬかれしあと」。

「頗」「すこぶる」。

「幹事」重職の纏め役。

「侯家」岩村家。

「金森氏改易」美濃八幡藩第二代藩主金森頼錦(よりかね 正徳三(一七一三)年~宝暦一三(一七六三)年)と思われる。ウィキの「金森頼錦」他によれば、父の可寛(よしひろ)は『初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが』、三十七歳で家督を継がずに死去したため、享保二一(一七三六)年に祖父の死去によって家督を継ぎ、延享四(一七四七)年には『奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた』という。『頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため』、宝暦四(一七五四)年、『年貢の税法を検見法』(けみほう/けんみほう:年貢徴収法の一つで、田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法)『に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動』(いとしろそうどう:宝暦年間に同藩が管轄していた越前国大野郡石徹白村(現在の岐阜県郡上市)で発生した大規模な騒動。騒動の中で石徹白の住民の約三分の二に当たる五百余名が追放され、七十名以上が餓死した)『まで起こって藩内は大混乱』を呈し、遂に宝暦八(一七五八)年十二月二十五日に頼錦が幕命によって改易されてしまったのである、とある。

「郡上の城受取を侯に命ぜらる」前の注から判る通り、「金森改易」は宝暦八(一七五八)年である。ということは、ここ以後の〈黒岩六郎兵衛〉は、前の〈額の上に禿のある黒岩六郎兵衛〉の後裔と読まないと辻褄が合わない。即ち、第三代藩主松平乗薀の代の額には禿のない〈黒岩六郎兵衛〉としないとおかしいと思うのである。

「從て」「したがひて」。

「方に盛に」「まさにさかりに」。

「獨」「ひとり」。

「凄然」もの淋しく痛ましいさま。

「乃」「すなはち」。一首の哥を詠ぜり。

「よそながら慰かねつ櫻花/ちりぢりになる人を思へば」「慰かねつ」は「なぐさめかねつ」。――他家にお上の断ぜられたことにてあればこそ、その不運を表立って慰むるというわけには参らぬ。……されど、かく散り流れゆく桜の花の如く、散り散に別れて行く人々のことを思うと、これ、胸の痛むことにてはあることじゃ――

「非れども」「あらざれども」。

「時にとりての」その、改易・城明け渡しという厳粛にして、しかし、もの淋しき雰囲気にあっては。

「今の六郞兵衞は其孫なり」以上の叙述を漫然と読むと、

〈①額の上部に禿のある少年時代に浪人経験をし、岩村に仕官した黒岩六郎兵衛〉=〈②金森改易の際に幕命によって郡上城の受け取りに岩村侯に従って一首を詠んだ黒岩六郎兵衛〉=〈③現在の岩村藩にいる黒岩六郎兵衛のは①=②の孫〉

としか読めない。しかし実は、

①≠②=③´

であって、

①が数代前の岩村藩黒岩家の祖であり、その孫が②である(③は②と同一人物であるのを誤って叙述した)

か、或いは

①≠②≠③

①が数代前の岩村藩黒岩家の祖であり、その孫が②であり、現在の岩村藩で「黒岩六郎兵衛」を名乗っている人物はさらにその②の孫である

の孰れかではなかろうか? 私は正直、

①≠②≠③

を採りたい気がしている。何故なら②の歌を詠んだ黒岩はかなり老成している気がするからで、その彼が次の代の家老としているというのが、ちょっと不自然な気がするからである。

 以下、私の疑義を纏めてみる。

 

1640年:生駒騒動により生駒家改易・断絶。

     :その直後に未だ少年の先祖の黒岩六郎兵衛が浪人する。

     :その時に母を殺害した下僕を討って頭が禿げた。

     :それからしばらくして岩村藩に仕官した。

      ↓

しかし、その仕官した岩村藩は時制から見て、初期岩村藩第二代藩主松平乗寿(のりなが)の治世でないとおかしい。乗寿の治世は、

 

1614年~

1654年

 

である。この間(生駒家改易から岩村藩仕官)は14年で、少年浪人が再度、仕官する期間としては違和感がない。ところが、その後に続いて語られるのは、

 

1756年:金森氏改易

     :黒岩六郎兵衛は「岩村候」の幕命による郡上城明け渡しに従う

      ↓

しかし、金森氏改易時の「岩村候」とは岩村藩第三代藩主松平乗薀(のりもり)であり、彼の治世は、

 

1746年~

1781年

 

である。実に初期岩村藩第二代藩主松平乗寿の治世の最後からこの金森改易までは、実に

102年ものスパンがある

のである。しかも、本書「甲子夜話」の起筆は

 

1821年

 

でこれを足すと、実にその閉区間は、

142年にも及ぶ

のである。これは信長ではないが、

人生五十として、①が元祖「黒岩六郎兵衛」で、②が①の同名の孫、③がさらに②の同名の孫

と読んで、しっくりくるとは、言えないであろうか? 大方の御叱正を俟つものではあるが、私はそう考えないと、本条を納得することが出来ないのである。

「高天神」「たかてんじん」。遠江国城東郡土方(ひじかた:現在の静岡県掛川市の土方地区)にあった今川氏次いで小笠原氏(家康に服属した国衆)の支城となった高天神城。ウィキの「高天神城」によれば、『戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた』とある(下線やぶちゃん)が、ここで信玄狙撃というのは、史実上の事実ろするならば、永禄一二(一五六九)年以降、今川氏と甲斐国の武田氏の『同盟が手切となり、武田信玄は三河の徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、これにより今川氏は滅亡する。小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興、小笠原氏助父子は徳川氏の家臣となった。しかし、まもなく武田・徳川両氏は敵対関係に入り、駿河・遠江の国境近くにある高天神城もその角逐の舞台とな』った際、小笠原氏に与していた足軽が、この味岡氏であったおいうことになるか。

「裔也と云」「えい(:末裔。子孫。)なりといふ」。

谷の響 四の卷 廿一 一夜に家を造る

 

 廿一 一夜に家を造る

 

 又此玄德寺の話に、同登の時越後國砂戸(すなと)村と言ふに投宿(とまり)けるに、其宿に戸鍵といふはあらざれば不審(いぶかし)くて主に問(たづ)ぬるに、主の言へる是にはいと奇(めづ)らかなる説話(はなし)のありき。そは長譚(ながきものがたり)なれど旅の慰に聞玉へとて語りけるは、然(さて)この村の先なるも砂戸村といふて此村の原邑(おやむら)なりしが、其處の百姓其の子二十三年以前(まへ)に家を出て天狗になりしとて、此四年前それが親疾病(たいべう)の時存問(みまひ)に來りし事ありしが、既に年は四十近くになれど宿昔(むかし)十八歳にて家を出たる顏のごとしと。さるに話は二刄(ふたは)になれどよく聞れよとて語りけるは、公田某邑に觀音堂ありてこは由緣ありて將軍家(こうぎ)の御修造なりけるに、數十年の間修理(ていれ)もなきゆゑ朽頽に及びぬれど、御修補の御許しもなくさりとて尋常(なみなみ)ならぬ造營(ふしん)にしあれば、自分(みづから)の手に及び難くて一兩年も過つるが、こゝに此社司に勤るものありて言へりけるは、觀音堂の山中なる温泉(いでゆ)は名湯と言ふ。殊に四方の通路もよければ此土(ところ)に好き舍(いへ)を建て闢(ひら)かんに、浴する人も多かめれば決(きめ)て年々興旺(はんじやう)して御堂修補の料物は生れぬべし。賴(さいは)ひ柏崎にとり係ると言ふものあれは、年限を定めて讓り玉へとあるに、いと好きことなれば其商議(さうだん)に決定(きはめ)て三年にて金千兩に交附(うりわた)しき。されば貿(かひ)得たるもの、温泉の修理(ていれ)は元より宿舍(やどや)などいと莊麗(きらゝか)に建連ね、且(また)娼妓(あそびめ)なども數多抱へたるに數百人のもの寄集(つど)ひて謳ひつ舞ひつ日に興隆(はんじやう)は增りける。さるに其年の九月の下旬(すゑ)に至り、人も多からざるが一(ある)夜戌近くなりて卒(にはか)に大風樹を拔き大雨篠を亂し客舍不殘(みな)搖り動きしかば、宿れるものども一個(ひとり)も居耐得で衆(みな)この社司が家に脱(にげ)來りて恐ろしき夜を明かしけり。かくて風稍々(やや)收り雨も歇て靜に夜も開ぬれば、温泉地に至りて視るにさしも莊麗(きらゝか)に建列ねたる數十軒の客舍迨(およ)び湯壺の石猿篗(いしわく)踏石まで、たゞの一片も存(のこ)れるものなく宛爾(さながら)大水の址(あと)を見るが如くに地を拂へり。また其温泉は壁苗代の如く太(いた)く渾濁(にご)りて有りけるに、見る者憫然(あきれ)て膽を潰さざるはなくたゞ人に過傷(けが)なきを怡び居るのみなりき。

 左有(さる)に、此温泉を買ひたる柏崎の者共社司に申しけるは、造作(ふしん)及諸々(もろもろ)の費(つくなひ)已に千金餘りの損毛にて、望子(もとで)を失ひ家眷(かない)養育(はぐくむ)術(すべ)ければ、萬乞(どうぞ)五百金返し玉はるべしと歎きけれども、この金は經營(ふしん)の手當に大略(あらあら)拂ひ盡せれば返すといふ事にもいたり不得(かね)、左右(とかく)謀慮(しあん)をめぐらし言へりけるは、甚麼(いづれ)好しく計ふべき旨趣(むね)もあれば四五日の間扣へらるべしとて、自ら山中に至り大音聲にて申しけるは、神にもあれ天狗にもあれよく某が言ふ事を聞れよ、そも當山は鎭守觀世音の境裏(けいだい)にして、忝も將軍家の御朱印を賜りたる地なり。然るに御堂破損に及ぶといへども御修覆の御沙汰御遲延に相成、彌々廢頽に至れるを歎くところに、得落(さひわひ)にして温泉の望人(のぞみて)あるによりて御堂修造(とりたて)の料物も調ひたれば、彼に許して温泉場を闢墾(ひらか)せしものなり。もとこれ御堂再建の故にして吾が私の爲にあらず。然(さ)るに斯の如く狼藷に及びぬること言語同斷の擧動(ふるまひ)なれば、今より將軍家に訴へ樹を伐盡し山中殘らず燒拂ふべし[やぶちゃん字注:「言語同斷」の「同」はママ。]。此段申し延ん爲め特々(わざわざ)推參いたしたり、覺悟あれよと言ひ捨て歸りたりき。さるに其翌くる日社司が玄關に案内するものあり。客室(ざしき)に通して對面するに、記年(とし)十八九歳ばかりの修驗の容貌にして軒刺(りゝしき)ものなるが、吾は山住明神の御使なり。足下(そこもと)に憑(たの)みたきことありて來れるなりといふ。社司の曰く、山住明神とは孰れに住まはせ玉ふ御神にて、什麼(いづれ)の鎭守にましますぞ。修驗應(こた)へて、氏子なければ鎭守といふにあらざれど、この温泉(ゆ)の山の中に數百年住せ玉ひたるなれば、汚穢(けがれ)を拂ふも自らの區中(くるは)の如くなしつるに、以近(このころ)温泉を闢くからに不淨の俗人多く聚(つど)ひ、花を摘み菜を摘るとて神の區中を近く荒らし、且(そこへ)娼妓などいふ淫(たは)れたる者までもありて、あらぬ淫奔(きたな)き行を爲せり。明神いたく忌せ玉へれば、眷屬(したがふ)神等見るに堪えで斯の如く破却たるなり。原來(もと)これ明神の爲さしめたる行にあらず。さるに足下(そこもと)こを憤りて將軍家の武威をかりて燒拂はんとす。明神のいたく歎かせ玉ふ處なれば、その憤りを和(なご)めん爲に吾を使に越(こ)されしなり。こを了諾(しやうち)し玉はゞ今宵のうちに舊(もと)のごとく修造してまゐらすべしとありければ、社司が曰、實(まこと)しからんには商議(さうだん)すべしとて先づこれを皈らしめ、柏崎の者にかゝることありと語りければ、柏崎の者も詮(せん)術(すべ)なき時なれば不審ながらその事に究(きは)まりぬ。かくてその翌る日、かの修驗の來るを待て了諾(しやうち)の旨趣(むね)を聞かせければいと歡喜(よろこび)て歸りけるに、その夜又風雨して凄しく荒れたるから、あくる旦(あした)社司と柏崎の者と俱に温泉の地に至りて見れば、言ひしに違(たが)はで湯覆(ゆぎち)はじめ數十軒の寄舍(ちやゝ)舊(もと)の如くに建續き、紙門(ふすま)戸障子踏檀の果迄些(すこし)も缺くる處なかりければ、視る者再び愕き舌を卷たるばかりなり。さるから此の事泉宇(よのなか)に廣く話説(はなし)ありければ、聞くもの怪しきことにおもひけるにや、以前(さき)の如く繁開(にぎやか)にならざりしが、程なく三年の年限も濟みぬれば柏崎のもの共は客舍を引はらひて、今は往古(むかし)のごとく成りしなり。

 さてこの社司の了諾に及びし時、修驗謝して申しけるは、何なりとも所望(のぞみ)あらば叶ひ得させんとあるに、社司戲れながら吾が氏子の村々にて戸鍵さゝずとも盜賊の患なくば足りぬべく、また吾に長く薪を贈りなば此上なき慶(よろこび)なりと演(のべ)ければ、いと易き事なりと諾ひて歸りけり。さるに、其后盜兒(ぬすびと)ありてある家に入り、着類を搔きさらひ荷作りして背負たれども、その家を出る事ならで遂に黎旦(あけかた)に及びて家内の者に見咎められ、いたく縛ばられたるものありけるが、又後に這入りし盜兒(もの)も四五人あれど、みなかくその家を脱走(にげ)得ずして囚れとなりしなり。夫よりこの社司の氏子なる村々は、戸鍵を鎖(さ)さずとも盜賊の患なければ、見らるゝ如く戸鍵はあらざるなり。又火ひとつ水一盃のものなりとも、そが家に告げずして用ふる時は、同じくその家を出る事ならざるは今猶爾(しか)なり。又此の社司薪盡ぬれば裏に出て手を叩くに、その夜のうちに半卷(まき)ばかり積おく事每々(つねつね)なりしが、こは此社司一代の約束の由にて、今の社司の代よりはその事なし。

 さてこの修驗はしめて社司と對面の時、社司熟々山伏の相貌を見るに、どこか認得(みしり)のあるやうに思はるゝ故その由を問ぬるに、山伏應(こた)へて、さればとよ我は上砂戸村某の子にて二十年以前十八歳の時なるが、山に入りて神に仕へ今では大概自在を得れど、十八年火食の穢今に脱れずして空中の飛行なり難けれど、樹より樹に遷移(うつ)る事は七里ばかりの間は交睫(またゝ)くうちに至れるなりとあるに、社司申しけるは、さほど通力を得たる事ならば足下(そこもと)の父の病氣を知れりやと問ふに、とくその事は知りてあれど未だ省(みまひ)する時至らず。併(しか)し今二十日ばかりの間なればその時また謁見(おめにかゝる)べしとて歸りけるが、果してその日限になりて親の存問(みまひ)に來りしとて家内親屬いと悦び、長く留住(とゞめ)んとてくれぐれ言へども、神の祟(たゝり)を聞かして諾はず、五六日逗留して歸りしなり。さて此の滯留中火食することなく、皆生にて喰ひしかど、魚肉はもとより野菜と言へども汚れあるものは忽ち知りて口に入るゝ事なし。さるにその父病も癒えたりければ、年々正月元日には祝儀に來りしが、二三年さき親死してより已降(このかた)は來らざりしなり。戸鍵をさゝぬはこの故とて、長々しく物語れるとか。こも玄德寺物語りしなり。

 

[やぶちゃん注:情報提供者が前の「二十 天狗人を攫ふ」と同一の「玄德寺」住持であること、内容にやはり「天狗」のようなるものに「攫」われて山神の手下となり、天狗のようなる秘術を執り行うという点、冒頭自体が「又此玄德寺の話に」とある直後に「同登の時」の体験とすることからも(「同登の時」は「おなじきのぼりのとき」で「二十 天狗人を攫ふ」で、話者の玄徳寺住持が「弘化午の」三「年」(一八四六年)に本山である京の西本願寺で修行をするために上洛した時、の謂いである)、前話と全く同時期に採取したものとも思われる。

「越後國砂戸村」不詳。後の業者が現在の新潟県柏崎市であるから、そこからさして遠くない山間部と思われるが、「砂戸」という地名自体を現認出来ない。さらにこの砂戸村の最も最初からあった起源となる「原邑(おやむら)」=親村=原村(げんそん)である狭義の砂戸村の近くにある、本話柄の大事なロケーションたる観音堂は江戸幕府将軍の直命によって造られたとし、後の展開からも、その観音堂及び社祠及びその背後に広がる森の神域・境内は悉く幕府直轄領であると考えるのが自然である(「御修補の御許しもなく」とあり、後半で社司が山神に言上げする最後通告の内容(「將軍家の御朱印」(公の認定書)「を賜りたる地」その他)もそれを明確に示唆している)。そもそもが、本文にもその原村の近くにあるその村に名を「公田某邑」(くでんなにがしむら)としているのは、恐らくは中古或いは中世頃、かつてはここが京の朝廷・公家或いは武家の公田であったことを意味しているからでもある(但し、ここは当寺は既に「公田」ではなく、地名としてのみ残っている可能性が高いようには思われる)。にも拘らず、場所が特定出来ないのはすこぶる不審なのである。新潟柏崎周辺の郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。廃仏毀釈でなくなっているかも知れぬが「觀音堂」があったか或いはある所で、その「山中」には「名湯と言」われる「温泉(いでゆ)」がある所、「殊に四方の通路もよ」い場所である。どうか、よろしくお願い申し上げる。

「戸鍵」「とかぎ」後を読むと分かるが、家屋に戸締り用の鍵総てが存在しないである。

「某」ここは「なにがし」と訓じておく。

「二十三年以前(まへ)」弘化三(一八四六)年からだから、文政六(一八二三)年となる。

「此四年前」天保一三(一八四二)年。

「疾病(たいべう)」二字へのルビ。「大病(たいびやう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「存問(みまひ)」二字へのルビ。「見舞ひ」。

「宿昔(むかし)」二字へのルビ。

「二刄(ふたは)」二つの一見、別な話。

「朽頽」「きうはい(きゅうはい)」。

「興旺(はんじやう)」二字へのルビ。

「料物」「れうもつ(りょうもつ)」。費用。

「建連ね」「たてつらね」。

「數多」「あまた」。

「寄集(つど)ひて」「よりつどひて」。

「增りける」「まさりける」。

「戌」「いぬ」。午後八時頃。

「不殘(みな)」二字へのルビ。

「居耐得で」「ゐたへえで」。屋内で退避して凝っとしていることにも耐えられず。

「收り」「おさまり」。

「歇て」「やみて」。

「靜に」「しづかに」。

「開ぬれば」「あけぬれば」。

「温泉地」「ゆち」と読んでおく。

「石猿篗(いしわく)」三字へのルビ。湯船の石で囲った枠。

「其温泉」「そのゆ」。

「壁苗代」「かべなはしろ」「壁」は壁土に用いたことから「泥(どろ)」の謂いで、稲を植える際のどろどろの苗代の意。

「太(いた)く」ひどく。

「渾濁(にご)りて」二字へのルビ。

「怡び」「よろこび」。

「損毛」「損耗」。

「望子(もとで)」二字へのルビ。「元手」。

「萬乞(どうぞ)」二字へのルビ。どうか、後生なれば。

「五百金返し玉はるべし」既に三年間貸与という期限附きで千両が社司に支払われているが、そのせめて半分を返還して貰いたいというのである。この損壊事故は温泉落成から未だ半年も経っていないものと思われ(契約成立と温泉宿落成の「其年の九月」とあるからである)、当時としては、この要求は必ずしも不当とは思われない。

「經營(ふしん)」「普請」。観音堂と祠の修理。

「大略(あらあら)」二字へのルビ。

「不得(かね)」二字へのルビ。

「左右(とかく)」二字へのルビ。

「謀慮(しあん)」二字へのルビ。「思案」。

「甚麼(いづれ)好しく計ふべき旨趣(むね)もあれば四五日の間扣へらるべし」「扣へ」は「ひかへ」(控へ)。「ともかくも、そうさ、近いうちによきように計らうこと、今、我ら、内々に思う所あればこそ、どうか、四、五日の間、お待ち下されたい。」。

「大音聲」「だいおんじやう」。

「某」「それがし」。

「聞れよ」「きかれよ。

「忝も」「かたじけなくも」。

「相成」「あひなり」。

「彌々」「いよいよ」。

「得落(さひわひ)」「幸(さひはひ)」。歴史的仮名遣は誤り。

「温泉」「ゆ」と当て訓しておく。以下で同様の訓が振られているからである。

「望人(のぞみて)」「望み手」。

「修造(とりたて)」二字へのルビ。

「彼」「かれ」。締約した柏崎の業者。

「温泉場」ここは「ゆば」と当て訓しておく。

「伐盡し」「きりつくし」。

「燒拂ふべし」「やきはらふべし」。焼き払わんとぞ思う。

「延ん」「のべん」。「述べん」。

「翌くる日」「あくるひ」。

「案内するものあり」訪ねて来た者がある。

「記年(とし)」二字へのルビ。

「修驗」前話に徴して以下総て「やまぶし」と訓じておく。

「軒刺(りゝしき)もの」二字へのルビ。「凛々(りり)しき者」。

「山住明神」「やまずみみやうじん」。

「御使」「みつかひ」。

「足下(そこもと)」二人称。当時は武士が使った。そなた。

「憑(たの)みたきこと」「賴みたきこと」。

「氏子なければ鎭守といふにあらざれど」これはその「山住明神」なる神が人間によって祀られたものではないことを意味する。

「温泉(ゆ)」二字へのルビ。以下、総てかく読む。

「住せ玉ひたる」「いませたまひたる」と訓じておく。「います」は「居る」の尊敬語で、最高敬語として採る。

「區中(くるは)」「廓(くるは)」。支配域。神域内。

「且(そこへ)」「其處(そこ)へ」。

「淫(たは)れたる者」「戲(たは)れたる」。忌まわしくも異性とみだらな遊びを致すような者。遊蕩者。

「淫奔(きたな)き」二字へのルビ。

「行」「おこなひ」。

「忌せ玉へれば」「いませたまへれば」。不浄なる穢れとしてお遠ざけ、お嫌い遊ばされたによって。

「眷屬(したがふ)」二字へのルビで、ここはこれで動詞「從ふ」で当て訓しているのである。

「破却たるなり」「やぶりたるなり」と当て訓しておく。

「原來(もと)」二字へのルビ。

「行にあらず」「おこなひにあらず」。ここで彼は、温泉場の完膚なきまでの破却は、明神自身の怒りとして成したのではなく、それに従う眷属(明神が支配する下級の自然神)が明神が忌避感を強くお持ちであることを慮って、独自にやった仕儀であると言っているのである。

「使」「つかひ」。

「越(こ)されしなり」寄越されたのである。

「實(まこと)しからんには商議(さうだん)すべし」「今、申したことが、まっこと、その通りであるのであるなら、こちらも今少し、伐採・焼却の御願いを出だすを猶予し、仲間と相談致そうぞ。」。

「皈らしめ」「かへらしめ」。「歸らしめ」。帰らせ。

「その事」明神の使者の言に取り敢えず従うこと。

「待て」「まちて」。

「凄しく」「はげしく」と訓じておく。

「湯覆(ゆぎち)」湯口(ゆぐち:源泉の吹き出すところ)か?

「寄舍(ちやゝ)」「茶屋」。

「建續き」「たてつづき」。

「紙門(ふすま)」「襖」。

「踏檀」「ふみだん」「踏み段」階段などの踏んで上り下りする階段や段。

「の果迄」「のはてまで」。に至るまで。

「卷たる」「まきたる」。

「さるから」「然るから」。接続詞で、この場合は逆接で、「しかしながら」。

「泉宇(よのなか)」二字へのルビ。「泉」は不審。

「患」「わづらひ」。惧れ。

「薪」「たきぎ」。

「演(のべ)ければ」「陳べければ」。申し立てたところ。

「諾ひて」「うべなひて」。

「其后」「そののち」。

「盜兒(もの)」二字へのルビ。

「着類」「きもの」と当て訓しておく。

「背負たれども」「せおひたれども」。

「その家を出る事ならで」次の「みなかくその家を脱走(にげ)得ずして」「又火ひとつ水一盃のものなりとも、そが家に告げずして用ふる時は、同じくその家を出る事ならざる」とともに、ここがまた、実に面白い怪異である。映像を想像されたい。

「黎旦(あけかた)」ルビはママ。夜明け方。

「囚れ」「とらはれ」。

「夫より」「それより」。

「半卷(まき)」「はんまき」であるが、不詳。或いは「半薪」で薪一束の半分の分量ということかとも考えたが、それでは如何にも神霊の所為としてはショボ臭い。一年分必要な量の半分とでもとっておく。

「積おく」「つみおく」。

「はしめて」ママ。「初めて」。

「熟々」「つくづく」。

「認得(みしり)」二字へのルビ。

「問ぬるに」「たづぬるに」。

「穢」「けがれ」。俗世間で生活した十八年間で身に染みてしまった穢れ。

「脱れずして」「のがれずして」。抜けないために。

「七里」二十七キロ四百九十メートル。

「交睫(またゝ)くうちに」二字へのルビ。「瞬くうちに」。

「とく」早くから。

「省(みまひ)する」「見舞ひする」。

「今二十日ばかりの間なればその時また謁見(おめにかゝる)べし」「今から二十日ほど経ったならば、父上にもお目に懸かり、お見舞い致すこと、これ、出来申そう。」。今回の使者としての役目を成し遂げたことで、山住明神から近々、特別に実父見舞いを許されることとなっている、というようなニュアンスであろう。

「日限」「にちげん」。彼がそう言った、まさに二十二日後。

「存問(みまひ)」二字へのルビ。「見舞ひ」。

「留住(とゞめ)ん」二字へのルビ。

「諾はず」「うべなはず」。

「汚れ」「けがれ」。

「二三年さき」宿屋主人の語りの時制が弘化三(一八四六)年であるから、その二、三年前。逆にその頃まで、この四十を超えているにも拘らず、十八ほどの年恰好にしか見えぬ凛々しい若者姿の彼は、毎正月になると、実父に新年の挨拶に実際に訪ねていた、それを宿屋主人も見かけたというのである! 最後の最後にリアルな描写である。

「玄德寺」先の玄徳寺の住持。]

2016/11/30

谷の響 四の卷 二十 天狗人を攫ふ

 

 二十 天狗人を攫ふ

 

 弘化午の年、新寺町玄德寺の住職京師に昇り本山【本願寺なり。】の學寮にありしとき、最上のもの四人同道にて本山參りを致し、其うち一個(ひとり)の者四月二日に御剃刀といふを頂くとて出けるが、その日黃昏(くれあひ)に及べども來らず。同行のものいと不審(いぶかり)て人を雇ひて探索(たづねもとむ)れども、遂に踪跡(ゆくえ)しれずして三日を過たりしに、本山より其者を最上の寮へ遣はしていへるには、此もの發狂せしと見ゆるなればよくよく介抱すべしとて、醫師を添へられて送りたるに衆々(みなみな)いと愕然(おどろ)き、種々(いろいろ)劬(いたは)れども顏色靑ざめて物も得言はず、たゞ慴(ふるえ)怕(わなゝ)き動(やゝ)もすれば駈出んとするを、手を捕り足を押へて停留(とゞめ)置にき。されど日數ふるまゝに看病のものも勞疲(くたびれ)て耐へ得ざれば、本山の下知にて寮に居合せたるもの代々に晝夜とも傍にあらしめて扱ひさせたるに、十四五日ばかり過て漸々正氣なりければ、そのありし事址(こと)ども尋ぬるにいらへけるは、御剃刀を頂き廊下を通れる時、五十あまりの老人と覺しき修驗(やまぶし)のいと尊ふとげなるが一個(ひとり)來りて、我に善き廰堂(ざしき)を見すべし此方へ來よといふて、手を採ると覺えしが卽便(そのまゝ)飛鳥の如く走りて何處といふ差別も分らざりしに、修驗のいへるにはその着たる肩衣を取り棄てよと言へるから直(すぐ)に脱ぎすてたりしに、又暫くして懷中のものも棄てよとありければ、是は私先祖より傳へ來れる佛像にて、臺座の缺損(いたみ)を修覆せんためわざわざ大衢(みやこ)まで持來りしことなれば免許(ゆるし)玉はれと言ひしかど、更に諾(うべな)はずして彌(いよいよ)棄よと言ひしから、私も手を折りて萬般(さまさま)に願(ね)ぎたりしかば、さらば己れを棄つべしとてそのまゝ頸筋を摑(つかま)へて杳(はるか)に抛(なげ)られたりと覺しが、夢の覺たる意氣(こゝち)にて四邊(あたり)を觀望(みまは)せば、※廰(ざしき)の結構言はん方なく障子を開て見れば樓閣(にかい)とおぼしき故、梯子を索(たつ)ねて下りて見るに又※廰(ざしき)ありて初のごとし[やぶちゃん字注:「※」=「濵」より(さんずい)を除去したもの。]。こは何處にてあらんとその下を望觀(のぞみみ)るに、男か女かわからねど色淸らかにいと尊とげなる人の白き裝束を服し玉ひたるが獨御在(はし)て、私を囘視(かへりみ)玉ひて人を呼で過傷(けが)ばしさせぬやうに計ふべしと宣(のり)玉ひしを聞けるが、何とやらん凌懼(ものおそろ)しく身の毛逆立樣に覺しが、又昏迷(たふれ)てそのあとは知らずなりしと語りしなり。

 こはこれ嚮(さき)の修驗は天狗にて、その投墮されたる處は萬惶(もつたい)なくも内裡の御層樓(さんかい)にて、白き御裝束を穿(め)し玉ひたるはいといとかしこかれど今上皇帝にわたらせ玉ひしとなり。然るに檢非違使の御方にてこれを禁綱(いましめ)按察(ぎんみ)あれど、狂氣して何の辨へもあらざればそが懷中を査(あらた)め視るに、御剃刀頂戴の時御ながれを下さるよしにて其土器(かはらけ)が有しかばへ是必(さだめて)一向宗の徒(もの)なるべしとて本山へ屆けられしとなり。さるに此係りの醫師の話に、龍顏を上より拜する時は必ず死するものなり。されど狂氣の中は幾年も活延(いきの)べけれど、本性となりては活助(たすかる)ものなし。疾く國元へ下すべしとて、卒(にはか)に整點(したく)させて寮を退去(さらせ)けるとなり。こは此玄德寺も介抱してその者より直に聞たるとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「攫ふ」「さらふ」。

「弘化午の年」弘化三年丙午(ひのえうま)。一八四六年。

「新寺町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「玄德寺」既出既注であるが、再掲する。底本の森山氏の補註に『弘前市新寺町にある浄土宗法源寺塔頭であった大会山玄徳寺。文禄四年』(一五九四年)『南津軽郡浪岡に開創、慶安三年』(一六五〇年)『弘前に移転したという。今はない』とある。法源寺は同町の真教寺の真西に専徳寺という寺を挟んで現存するから(先のYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」にはこの「遍照山法源寺(弘前市新寺町・大浦城の移築門)」もある)、この法源寺の周辺(グーグル・マップ・データ)にあったのであろう。それにしても、まさに新寺町というだけに現在も軒並み、寺が密集している。

「本山【本願寺なり。】」通常は単にこう書いた場合、京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町にある、浄土真宗本願寺派の本山龍谷山(りゅうこくざん)西本願寺を指す。

「最上」出羽国最上郡地方のことであろう(底本の森山氏もそう推定されておられる)。最上郡は現存する群であるが、古くのそれは遙かに郡域が広く、本書の記載に近い幕末時点では、出羽国に属し、全域が新庄藩領であった。ウィキの「最上郡」を参照されたい。

「四月二日」グレゴリオ暦では四月二十七日。

「御剃刀」「おかみそり」。元来は戒師が出家する者に戒を授けて髪を剃ることを指すが、ここは現行「帰敬式」と呼ばれている、宗祖親鸞の「教え」に基づき、仏・法・僧の三宝に帰依することを誓う儀式と思われる。東本願寺の公式サイト内の「帰敬式」によれば、受式すると仏弟子としての名前である「法名」(釋○○あるいは釋尼○○)が生前に授与されるとある。

「最上の寮」或いは天理教の「おやさと(親里)」のように、西本願寺には各地方(国・郡)に分けられた宿泊所(或いはそれを含む大きな奥羽レベルでの宿所で、さすれば、弘前の修行僧が一緒であるのも納得がゆく)があったものかも知れない。

「劬(いたは)れども」「勞はれども」。「劬」には「疲れる」の外に「労わる」の意がある。

「駈出ん」「かけいでん」。

「停留(とゞめ)置にき」「とどめおきにき」。二字へのルビ。

「ふる」「經る」。

「勞疲(くたびれ)て」二字へのルビ。

「代々に」「かはるがはるに」。

「傍」「そば」。

「過て」「すぎて」。

「漸々」「ようよう」。漸(ようや)く。

「事址(こと)」二字へのルビ。

「尊ふとげ」「たふとげ」。

「廰堂(ざしき)」二字へのルビ。

「此方」「こなた」。

「卽便(そのまゝ)」二字へのルビ。

「飛鳥」「ひてふ」。

「何處といふ差別も分らざりしに」何処(いづこ)へ参るかということさえも判らずに。周りが全く見えぬほどの速さで連れ行くその途中に。

「肩衣」「かたぎぬ」。ここは袈裟の意。

「大衢(みやこ)」二字へのルビ。「衢」は訓「ちまた」で、人が大勢集まっている、賑やかな通りの意から、町中、ここは「おほやちまた」で京都を指す。

「免許(ゆるし)」二字へのルビ。

「棄よ」「すてよ」。

「萬般(さまさま)に」二字へのルビ。「さまざまに」。いろいろと。

「願(ね)ぎ」「ねぐ」「祈ぐ」で、本来は神仏に向かって祈る・祈願するの意。仏像の破却はどうか御容赦あれと冀(こいねが)い。

「己れを」「おのれを」。お前を。

「覺たる」「さめたる」。

「意氣(こゝち)にて」二字へのルビ。

「觀望(みまは)せば」二字へのルビ。

「※廰(ざしき)の結構言はん方なく」(「※」=「濵」より(さんずい)を除去したもの)その座敷の間の入り口の様子の驚くべき広さと豪華さは謂いようもないほどで。

「開て」「あけて」。

「樓閣(にかい)」二字へのルビ。

「梯子」「はしご」。階段。

「索(たつ)ねて」読みはママ。手で支えてつつ。

「初のごとし」「はじめ」。先に見た座敷と、これまた同じような、豪華絢爛なる広座敷があった。

「何處」「いづく」。

「獨御在(はし)て」「ひとり、おはして」。

「呼で」「よんで」。

「過傷(けが)ばしさせぬやうに計ふべし」「けが(を)ば、しさせぬ樣にはからふべし」。怪我などを、致さぬように、はからってやるがよい。

「聞けるが」「ききけるが」。

「凌懼(ものおそろ)しく」二字へのルビ。

「逆立樣に覺しが」「さかだつやうにいおぼえしが」。

「昏迷(たふれ)て」二字へのルビ。

「嚮(さき)の」最初の。「嚮」は「向」に同じい。

「投墮されたる」「なげおとされたる」。

「萬惶(もつたい)なくも」二字へのルビ。「勿體なくも」。畏れ多くも。

「裡」「うち」。内裏。

「御層樓(さんかい)」「ごさんかい」三層構造の内裏の最上階の謂いか。但し、これが二条城ということにあるが、同城の天守は、取付矢倉が付属する層塔型五重五階の天守であったものの、これは寛延三(一七五〇)年に落雷で焼失、それ以降は再建されていない。それとも、江戸後期に三層階の建物が禁裏の中にあったものか。識者の御教授を乞う。

「穿(め)し」「召す」。「着る」の尊敬語。

「今上皇帝」恐らくは孝明天皇である。先代の仁孝天皇は弘化三年一月二十六日に崩御しているからである。

「檢非違使」「けびいし」。禁裏内の警察機構の長であるが、この当時のそれは有名無実と思われ、捕縛は判るが、以下のような尋問・聴取も任されていたかどうかは、甚だ疑問と思うが、如何?

「禁綱(いましめ)按察(ぎんみ)あれど」それぞれ二字へのルビ。

「辨へ」「わきまへ」。

「御ながれ」不詳。次に「土器(かはらけ)」とあるから、酒席で貴人や目上の人から杯を受けて、これに注いで貰う酒。辞書によれば、古くは飲み残しの杯を渡されてそのまま飲んだとあることを指すか。肉食妻帯を宗旨として許す真宗は酒を飲むことは禁じていないと思われる。或いは、酒に見立てた水盃かも知れぬが、まあ、識者の御教授を乞う。

「有しかば」「ありしかば」。

「是」「これ」。

「此係り」「このかかはり」。これに関わった。

「龍顏」天皇の顔。

「中は」「うちは」。

「本性」正気に戻ること。

「活助(たすかる)」二字へのルビ。

「疾く」「とく」。早く。

「下す」「くだす」。

「整點(したく)させて」二字へのルビ。私はピンとこない熟語である。

「こは此玄德寺も介抱して」これはこの、当時、修行僧として西本願寺に修学した、現在の住持も、彼の介護を輪番で担当して。

「直に」「ぢかに」。]

北條九代記 卷第十 一院崩御 付 天子二流 竝 攝家門を分つ

 

      〇一院崩御  天子二流  攝家門を分つ

 

同二月十七日、一院後嵯峨〔の〕法皇、崩御あり。寶算(はうさん)五十三歳、初(はじめ)、御位を後深草院に讓り給ひて後も、なほ、院中にして政事(せいじ)を聞召し給ふ事、二十餘年、世聞、物靜(ものしづか)にて、天下四海、穩(おだやか)なりければ、宸襟(しんきん)、御物憂(う)き事もおはしまさず。御遊(ぎよいう)、歌の會、諸方の御幸(ぎよかう)に月日を送らせ給ふ。御(ご)果報、いみじき天子にて渡(わたら)せ給ふ。この分にては何時(いつ)まで存(ながら)へさせ給ふとも、愈(いよいよ)、めでたき御事なるべしと雖も、人間(にんげん)愛別の歎(なげき)、四大離散の悲(かなしみ)は誰(たれ)とても遁(のが)まるじき習(ならひ)なれば、忽(たちまち)に無常の風、荒く吹きて、有待(うだい)の花、萎落(しぼみおち)させ給ひ、鼎湖(ていこ)の雲、治(をさま)りて、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふこそ悲しけれ。御遺勅ありけるは、「これより後の皇位は、新院後深草院と、當今龜山院と、御兄弟の二流、代々(かはるがはる)卽位あるべし」と仰せ置(おか)れしと、世には申し傳ふれども、實(まこと)には北條時宗、朝廷を分けて、二流とし、其勢(いきほひ)を薄くし奉らんが爲に、かの二流、代々(かはるがはる)、御治世あるべしと、計(はからひ)申しけるとぞ聞えし。是より以前、後鳥羽院、承久の亂の時、西園寺公經卿(さいおんじのきんつねのきやう)、志を鎌倉に通(かよは)し、左京大夫北條義時に心を合せて、京都の手術(てだて)を計(はか)られしかば、天下、静(しづま)りて後に、義時、其志を感じて西園寺を推擧し、禁中の事を執賄(とりまかな)はせ參らせしかば、公經卿より、子孫、榮え、官位高く昇進し、大相國(だいしやうこく)に經上(へあが)り、太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)、後嵯峨院の中宮となり、この御腹(おんはら)に後深草、龜山兄弟を生み參(まゐら)せらる。是等も皆、關東の計(はからひ)に依(よつ)て、この西園寺を執(しつ)せらる〻所なり。又、往初(そのかみ)は、攝政關白になり給ふは近衞殿、九條殿、只、二流なりけるを、四條〔の〕院仁治三年に良實公、關白になり給ふ。是(これ)、二條殿の御先祖なり。後嵯峨〔の〕院寛元四年に實經公、關白となり給ふ。是、一條殿の御先祖なり。後深草院建長四年に兼平公、攝政となり給ふ。是、鷹司殿の先祖なり。今に傳へて五攝家とは申習(まうしなら)はしける。是も鎌倉最明寺時賴入道の執權せむより、攝政關白の御家を數多に分けて權威を磷(ひすろ)げ參らせける所なり。今、又、相摸守時宗、執權の世に當(あたつ)て、天子の御位をも、二流に分ち奉り、變る變る、王位を繼がせ奉る事、偏(ひとへ)に皇孫、兩岐にして、王威(わうゐ)を恣(ほしいま〻)にさせ奉るまじき方便(てだて)なり。只、西園寺の家のみ、殊に當時は天子の御外戚となり、淸華(せいくわ)の家には肩を竝(なら)ぶる人なく、權威、高く輝きて、朱門金殿、甍(いらか)を磨き、榮昌(えいしやう)、大にす〻みて、紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)、軒(のき)を合せたり。如何なる王公大名といへども、禮を厚く、敬を盡し、その心を取りて、崇仰(そうがう)せらる。出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける。

 

[やぶちゃん注:標題中の「攝家門を分つ」の「門」は「かど」と訓じている。

「同二月十七日」文永九年(ユリウス暦一二七二)。前章後半の「二月騒動」(同年一月)を受けているので「同」となる。グレゴリ暦換算では三月二十七日。

「寶算(はうさん)」天皇の年齢を言う場合の尊称。

「宸襟(しんきん)」天子の御心(みこころ)。

「御(ご)果報」仏教的な前世からの御果報、の謂い。

「有待(うだい)」「うたい」とも読む仏語。「人間の体」の意。衣食などの助けによって初めて「待」(頼みとして期「待」されること)が「有」(保たれて「有」る)ものであるところから、かく言う。

「鼎湖(ていこ)」中国の伝説上の皇帝で五帝の第一とされ、漢方の始祖的存在である黄帝の亡くなった場所で盛大にして豪華な葬儀もそこで行われたという地の後の称。皇帝はここから龍に乗って登仙したともされるから、この「雲、治りて」はその情景を後嵯峨院の葬送の儀が滞りなく行われたことに擬えたものであろう。

「蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隔り給ふ」「蒼梧」は湖南省寧遠県にある山で、中国古代の五帝の一人である舜の墓があるとされる地であるから、ここも前の「鼎湖、雲、治りて」との対句表現で後嵯峨院が、春霞とともに(前に示した通り、旧暦二月十七日でグレゴリ暦換算では三月二十七日である)白玉楼中の人となって永遠に去ったことを示す。

「承久の亂の時」ユリウス暦一二二一年。

「西園寺公經」(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)は第四代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇中宮姞子の祖父であり、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・幕府第五代将軍藤原頼嗣曾祖父となった稀有な人物で、姉は藤原定家の後妻で定家の義弟にも当たる。既注であるが再掲しておく。源頼朝の姉妹坊門姫とその夫一条能保の間に出来た全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから鎌倉幕府とは親しく、実朝暗殺後は、外孫に当る藤原頼経を将軍後継者として下向させる運動の中心人物となった。承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されたが、事前に乱の情報を幕府に知らせて幕府の勝利に貢献、乱後は幕府との結びつきを強め、内大臣から従一位太政大臣まで上りつめ、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。『関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であり、公経が養育していた道家の次男の二条良実をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。処世は卓越していたが、幕府に追従して保身と我欲の充足に汲々とした奸物と評されることが多く』、『その死にのぞんで平経高も「世の奸臣」と日記に記している』(平経高は婿道家の側近であったが反幕意識が強かった)。『なお、「西園寺」の家名はこの藤原公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった』(引用を含め、ウィキの「西園寺公経」に拠った)。

「大相國(だいしやうこく)」太政大臣。

「太政大臣實氏公の御娘(おんむすめ)」公経の子西園寺実氏の長女大宮院(おおみやいん)姞子(きつし)。

「四條〔の〕院仁治三年」四条天皇の一二四二年。

「良實公、關白になり給ふ」弟に第四代鎌倉将軍藤原頼経を持った二条良実(建保四(一二一六)年~文永七(一二七一)年)は、西園寺公経の推挙で同年一月二十日に関白宣下を受けている。但し、公経が死去とともに朝廷は実父(次男)でありながら、仲の悪かった九条道家に掌握されてしまい、不本意ながら、父の命で寛元四(一二四六)年一月に関白を弟一条実経に譲った。ところが寛元四(一二四六)年の宮騒動で父道家は失脚し、道家の死後(建長四(一二五二)年)、再び勢力を盛り返して、弘長元(一二六一)年には再び関白に返り咲いた。その後、文永二(一二六五)年に再び弟の一条実経に関白職を譲ってはいるものの、以後も彼は内覧として朝廷の実権を掌握し続けた。

「後嵯峨〔の〕院寛元四年」一二四六年。前注参照。

「後深草院建長四年」一二五二年。

「兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)は関白近衛家実四男。

「磷(ひすろ)げ」既出既注。「磷」(音「リン」)は「流れる・薄い・薄らぐ」の意で「擦れて薄くする」「力の集中を弱らせる」の意。

「變る變る」「代わる代わる」。

「兩岐にして」二流に分岐させて(内部で対立を起こさせて朝廷のコアの部分をも弱体化させ)。

「淸華(せいくわ)の家」狭義の「清華家(せいがけ)」は公家の家格の一つで、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する格式の家系を指す。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る当時の七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「榮昌(えいしやう)」栄華。繁栄。

「紺宇玉砌(こんうぎよくぜい)」紺色で美しく彩色したかのように見える豪華な軒や、宝玉を彫琢して作られた階(きざはし)。孰れも貴人の絢爛たる豪邸を指す。

「その心」西園寺家当主の御心。

「を取りて」に取り入って。

「崇仰(そうがう)」崇(あが)め奉り、ありがたく拝み申し上げること。

「出で入る輩(ともがら)までも餘の人は眉目(みめ)として、羨しくぞ思ひける」西園寺家に出入りするというだけのことで、その人々までも、他の人々はそれだけでも「眉目」(みめ:面目・名誉の意)として、羨ましく思うたのであった。]

谷の響 四の卷 十九 食物形を全ふして人を害す

 

 十九 食物形を全ふして人を害す

 

 安政二乙卯の年のことなるが、上十川村の百姓某といへる者、腹の内にかたまりありていたくなやみけるが、醫藥もしるしなくほとほと死なんとして家内の者にいへりけるは、吾死して腹中にこの病をたくはへたらんにはうかぶよしなし、すみやかに腹をさいて塊物(かたまり)を取除くべしとてつひにむなしくなりにけり。さるにそのあくる日、屍を葬場へかついでひそかに腹をさいてそのこゞりを取出しこれをといて見るに、世にサモタチといふ茸の笠の徑(わた)り二寸餘りなるもの一ひらありて、この茸少しのきずもなく形狀そのまゝにてありしとぞ。斯ばかりの茸たゞに呑むべきよしもなく、又きりわらで食ふべきこともなき筈なるに、いとあやしきことなりとて、これが療治せる桑野木田の醫師島田某の語りしなり。又この醫師の話に、蕨に中(あて)られて苦しむもの、大かたは一本のまゝの蕨をはくことありき。こもきりたゝでくふべきものにあらざれど、數人を見るにみなしかありしなりと言へりき。

 さて、これによりて思ひ出ることあり。さるは文政の年間、同町に田中屋淸兵衞といへる豆腐屋ありしが、主淸兵衞なるもの性好んで鯡の子を食(くら)へつること數十年なりしに中(あて)られたることなかりしが、ある日これに中られいたく腹をなやみ、四日の間夜晝のわかちなく苦しみて、わづかの飮食も呑ともくだらず藥もしるしなさゞりしに、病て四日といふ夜に至りげつといふて吐下(はきくだ)せるものあり。こをとりて見るに一枚(ひとひら)の數の子の少しも缺損(かけいた)まぬ其まゝのものにて有りしとなり。病人はこの物を吐いてよりちとばかり落ちつきたる樣子なれども、精氣盡きたりけん其明方に失せにけりとなり。

 又これも同じ事なるが、文政の末年近隣なる高瀨屋三郎右衞門と言へるもの、小章魚(たこ)を食ひてこれに中てられ、又夜晝のわかちなく苦しみけるに病みて七日といふに、當れる小章魚の脚の八九寸なるもの一すぢを吐き出せり。これ亦痛みなく生のまゝにてありしなり。さるにこの人年六十にあまりて常によわき生れつきゆゑか、二日目に空しくなりぬ。又天保の年間、井桁屋小太郎といへるもの何にくひあてられしや、こも食ひたるものをそのまゝに吐きいたせる話ありしが、病みて三日にして失せたりき。こを醫師にたづぬれど、うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり。さりとはあやしきことなり。

 

[やぶちゃん注:第一例(第一段落の主記載のもの)については、腹部を剖検して出ているところから、内臓に出来た巨大ポリープ(死因がそれならば癌であって播種していたのかも知れぬ)の可能性が高いように思われる。一部のポリープは素人が肉眼で見ても茸によく似ているからである。その後の蕨の例、数の子の例及び蛸の足の例は孰れもよく判らない。特に後者は二例とも死亡しており、気にはなる(数の子や蛸それ自体がその死因ではないと思われるが)。数の子のケースは実は鯡の卵巣ではなく、フグ類のような何らかの強い毒性を持った魚の卵巣、或いは深海性のワックス(高級脂肪酸)を多量に含んだ魚類の内臓や身の過食などが想起はされるものの、不明である。識者の御教授を乞う。

「全ふ」「全(まつた)う」が歴史的仮名遣としては正しい。

「安政二乙卯の年」安政二年は乙卯(きのとう)でグレゴリオ暦では一八五五年。

「上十川村」青森県黒石市上戸川(かみとがわ)村。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「ほとほと」殆んど。

「うかぶよしなし」死んでも浮かばれぬ。余程、痛みが激しかったのであろう。

「こゞり」「凝り」。凝り固まったもの。しこり。

「といて」「解いて」。内臓との癒着が激しかったことから、かく表現したものか。

「サモタチ」秋田県生まれの永田賢之助氏の紹介になる秋田の茸の詳述サイト内の「サワモダシ(俗称)」を見ると、標準主要種を「ナラタケ」としつつ、『近似種にナラタケモドキ、ヤチヒロヒダタケがある。これらをいっしょくたにサワモダシと呼んでいる』と記されてあり、『サワモダシは消化が良くないので食べ過ぎないこと。また、生だと中毒を起こすので料理には注意が必要サワモダシの幼体に似ているのが猛毒ニガクリタケ』と注意を喚起してある(下線やぶちゃん)。なお、

「ナラタケ」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica

「ナラタケモドキ」はナラタケ属ナラタケモドキ Armillaria tabescens

「ヤチヒロヒダタケ」はナラタケ属ヤチヒロヒダタケ Armillaria ectypa

で、

猛毒で死亡例も多い「ニガクリタケ」はハラタケ目モエギタケ科モエギタケ亜科クリタケ属ニガクリタケ Hypholoma fasciculare

である。「サワモダシ」と「ワモタチ」は音が近似しているように私は感じるので(特に東北方言ではこの二語は実はかなり似て聴こえるように思うのである)、これを最有力候補として掲げておく。

「二寸」六センチメートル。

「一ひら」「一枚」。「ひら」は薄く平らなものの数詞。

「斯」「かく」。

「きりわらで」「切り割らで」。

「桑野木田」現在の青森県つがる市柏(かしわ)桑野木田(くわのきだ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。五所川原の南西。

「蕨」「わらび」。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinumウィキの「ワラビ」によれば、『牛や馬、羊などの家畜はワラビを摂取すると中毒症状を示し、また人間でもアク抜きをせずに食べると中毒を起こす』。また、『ワラビには発癌性のあるプタキロサイド(ptaquiloside)』が約〇・〇五~〇・〇六%含まれる』。『また、調理したものであっても大量に食べると全身が大量出血症状になり、骨髄がしだいに破壊され死に至る。しかし、ワラビ中毒がきのこ中毒のように問題にならないことから判るように、副食として食べている程度ならば害はない。またアク抜き処理をすればプタキロサイドはほとんど分解される』とあり、一九四〇年代に、『牛の慢性血尿症がワラビの多い牧場で発生することが報告され』、一九六〇年代には、『牛にワラビを与えると急性ワラビ中毒症として白血球や血小板の減少や出血などの骨髄障害、再生不能性貧血、あるいは血尿症が発生』『し、その牛の膀胱に腫瘍が発見された。これが現在のワラビによる発癌研究の契機となった』とある、更にウィキの「ワラビ中毒」によれば、『人でも適切にアク抜きをせずに食べると中毒を起こす(ビタミンBを分解する酵素が他の食事のビタミンBを壊し、体がだるく神経痛のような症状が生じ、脚気になる事もある)。また、調理したものであっても大量に食べると体じゅうが大量出血症状になり、骨髄がしだいに破壊され死にいたる。しかし、ワラビ中毒がきのこ中毒のように問題にならないことから判るように、副食として食べている程度ならば害はない。一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンBを分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』ともある。ダブるが、後者の最後の部分が面白く、示しておきたかったので敢えて引いた。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。平尾は今まで「年間」を「ころ」と和訓している。

「同町」これは前提示の町を指すのではなく、筆者平尾魯僊の実家のあった紺屋町(現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ))と「同」じ「町」の謂いである。

「主」「あるじ」。

「性」「しやう」。生まれつき。

「鯡の子」「にしんのこ」。条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii の卵巣である数の子。当時(江戸以前)のそれは、現在のそれとは異なり、の腹から取り出した卵塊を天日干しした「干し数の子」(水で戻して食する)である。私が小学生の頃までは、干し数の子が乾物屋の前で山積みされて、えらく安い値で売られていたのを思い出す。ウィキの「数の子」によれば、『日本以外の地域では近隣のアジア諸国、およびニシンの漁獲量が多い北米、ロシア、欧州などの地域でも、カズノコを食用にする習慣は一般的ではない。それらの地域では日本に輸出を開始する以前はカズノコを廃棄していた』とある。なお、数の子の有毒化というのは聴いたことがなく、同ウィキには、『数の子にはコレステロールが含まれているが、そのコレステロールを消し去るだけのEPA(エイコサペンタエン酸)が含まれている。コレステロール値が減少する結果も出ている。また痛風の原因となるプリン体は、ごくわずかしか含まれていない』とある。魚卵=尿酸値上昇とする馬鹿の一つ覚えは、やめたが、いい。私は好物である。

「食(くら)へつる」ママ。「くらひつる」。

「呑ともくだらず」「のむとも下らず」。大小便の排泄が停止しているようである。排便がないのはいいとしても、小水が出ていないとなると、これは重篤な腎不全が疑われ、それが彼の直接の死因なんではあるまいか?

「しるしなさゞりしに」「驗成さざりしに」。効果が全く見えなかったところが。

「病て」「やみて」。

「文政の末年」一八三〇年。文政は十三年十二月十日(グレゴリオ暦では翌一八三一年一月二十三日に天保に改元されている。

「近隣なる」これも紺屋町である。

「小章魚(たこ)」「こたこ」或いは「ちさきたこ」。「たこ」は「章魚」二字へのルビ。

「これに中てられ」何らかの細菌性食中毒(サルモネラ菌や腸炎ビブリオ)は別であるが、蛸の生食による蛸自体の病原性中毒は知られていないと思う。

「痛みなく」腐っておらず、しかも噛み砕いたりした損傷、切ったり調理したり痕が全く見られない、という謂いであろう。

「常によわき生れつきゆゑか」死因は別にありそうに私には思われる。

「天保の年間」一八三〇年から一八四四年。

「井桁屋小太郎といへるもの何にくひあてられしや、こも食ひたるものをそのまゝに吐きいたせる話ありしが、病みて三日にして失せたりき。こを醫師にたづぬれど、うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり」確かに。何食ったか分らんわ、吐いたものがどんあもんだっか分らんわ、死ぬまでの三日間がどんな症状だったかも分らんでは、これ、「うへのぶべきあげつらひもあらざりしなり」(以上の事例で述べたような議論する素材も何もなく、如何なる判断も推理も出来ない)に決まっとるがね!

「さりとはあやしきことなり」最初の巨大ポリープ以外は、後に行けば行くほど、実は、「そうはいってもさ、これってさ、なんか、えらい怪しいなあ? もしかして、これらの何人かは、食中毒じゃあなくて、誰かに毒殺されたんじゃあ、ねえの?」って呟きたくなる私(藪野直史)がいるんですけど。]

谷の響 四の卷 十八 奇病

 

 十八 奇病

 

 安政元甲寅の年、藤崎村の左四郎と言へる者、ゆゑなくして兩眼つぶれたりき。醫藥さらにしるしなけれど痛むことなく、又手足言舌常のごとく食もかはらでありけるが、十日餘りにして言舌まわらずなれるが、その日のうちに死せりとなり。こは卒中病の中心にありたりしものと、療治したる御番醫佐々木氏の語りしなり。

 又、佐々木氏の話に、覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】なる鎌田甚齋と言へる人、ゆゑなふして右の手をなやみけるが、瘡櫛(ねぶと)の如きもの一つ出てしだいしだいに腫れあがり、こぶしを付たるごとくなれど醫藥もしるしなくして破(やぶれ)もやらず、三四年のうちに冬瓜の大きさばかりになりたりき。さるにこの腫物は大指の根におこりて掌中文の外へわたらず、又腕首及差指へもわたらず。これをさぐり見るにかたくして頭骨(あたま)にふるゝが如く、重さ錢二十貫ばかり手にのせたるごとしとなり。この人かふきの生付にて、いたくなやめるときはこの腫物を抱へながら市中をかけめぐり、すこしくおこたるをまつてかへれりとなり。かゝる大きなるものゆゑ常に右手をふところにして左手をして抱へてありしが、ある日あやまりて臺所の板の間へ腫物をしいて倒れしが、忽ち破れて膿血二升ばかり出たりしが、さして腫物は小さくもならず。しかして一二年の後、癆症とおぼしくつひにやせおとろへて、いぬる丙辰の年身まかりしかどその腫物はかわることなしとなり。實に一奇病なるべしと語りけり。扨、この腫物は大指のもと二寸にたらぬところ、斯く大きく腫あがりしからにめきめきいたくのびて、四五分より七八分までありしとなり。

 

[やぶちゃん注:第一症例は恐らく、藩医佐々木の言うように(「卒中病の中心にありたりしもの」)、恐らくは脳の中心部で発生した脳卒中(脳梗塞(脳の動脈の閉塞或いは狭窄のために脳虚血をきたして脳組織が壊死或いはそれに近い状態になる症状の広義な呼称)の内、急性で劇症型のもの)であって、最初に脳の後頭葉にある視覚中枢が侵されて失明し、その後に左脳の側頭葉前方にあるブローカ中枢(言語野の一つ)がやられて失語、そこから梗塞が脳幹へと急速に進み、呼吸を掌る脳橋(中脳と延髄の間で小脳の前方)や延髄がやられて死に至ったものかとも思われる。

 第二症例は何だろう? 悪性腫瘍(皮膚癌か骨肉腫のようなもの)の一種で、一、二年後にはひどく瘦せ衰えている点からは、最後はこれが全身に播種して死に至ったものか? それとも鎌田の死因とこの腫れ物は直接の関係はないか(本文では「癆症」(労咳=結核)「とおぼしく」と記してもいる)? にしても、腫瘍が異様に重く(「重さ錢二十貫ばかり」(後注参照)を手に載せたような感じ)、異様に硬い(外側から触れると頭骨に触れるような感じがある)というのはどうか? 当初はガングリオン(Ganglion Cyst:結節腫)を考えたが、調べてみると、これにより該当しそうなものとして、手足の指に発生する良性腫瘍で「腱鞘巨細胞腫 (けんしょうきょさいぼうしゅ)」というのがあり、親指の付け根に生じ、少しく大きくなったとする点では、この症状と一致するようには見える(「古東整形外科・内科」公式サイト内の腱鞘巨細胞腫。外見所見及びレントゲン写真有り)。但し、これは腫れるものの、痛みはあまりないともあり、最大でも四~五センチメートルと、この叙述より小さい。本記載では最後に転倒して腫れ物の一部が破れ、多量の膿と血が噴き出したとし、しかも、腫れ物自体のコアの部分の大きさはそれほど小さくならなかったという叙述からすると、この「腱鞘巨細胞腫」に毛嚢炎等が併発したものであったものか? 専門医の御教授を乞うものである。

「安政元甲寅」(きのえとら)「の年」一八五四年。

「藤崎村」現在の弘前市藤崎町(ふじさきまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】」現在の青森県弘前市覚仙町(かくせんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「覚仙町によれば、元禄一三(一七〇〇)年から享保六(一七二一)年に『かけて町名が覚勝院前之町・覚勝院町・横鍛冶町と変わり、平行して修験の正学坊が学勝院から覚勝院と変わり、寛政年間に現在の町名である覚仙町の町名が固定したもの(弘前侍町屋敷割・町絵図・分間弘前大絵図)』とある。

「鎌田甚齋」不詳。

「ゆゑなふして」「故無くして」。歴史的仮名遣はおかしい。「のうして」という音変化からの慣用表記か。

「瘡櫛(ねぶと)」「根太」で「固根(かたね)」とも称し、背部・腿部・臀部などにできる毛囊炎。黄色ブドウ球菌の感染によって毛包が急性炎症を起こしたもので、膿んで痛む。 前に出た「癰(よう)」「癤(せつ)」も基本的には同じい。但し、ここでは、それに似たものであって、以下の所見からはただの毛囊炎とは到底思われない。

「こぶしを付たる」「拳をつけたる」。

「冬瓜」「とうがん」。スミレ目ウリ科トウガン属トウガン Benincasa hispida。品種によって異なるが、果実は大きいもので短径三〇、長径八〇センチメートル程にもなり、重さは二 ~三キログラムから一〇キログラムを超える巨大果まである。以下の叙述からすると、左手で抱えなければならないほどであり、しかし掌には及んでいないとする以上、直径十センチほどか。

「この腫物は大指の根におこりて掌中文」(てのひらのもん)「の外へわたらず、又」、「腕首及」び人「差指へもわたらず」というのは先に示した「腱鞘巨細胞腫」の属性とよく一致するようには見える。

「ふるゝ」「觸るる」。

「重さ錢二十貫ばかり」この叙述が実はちょっと解せない。銭一貫文というのは永楽銭千個を穴に紐を通して一繋ぎしたもので「千匁(もんめ)」、現在の三・七五キログラムで七十五キログラムにもなってしまう。しかし乍ら、永楽銭は慶長一四(一六〇九)年までに幕府令によって使用が禁止されており、その後は「永銭一貫文」は「鐚(びた)銭四貫文」(鐚銭とは原義は「粗悪な銭」で、ここでは寛永鉄銭)とするようになっているから、これで単純換算するなら、十八・七五キログラムで、これならば、まあ、辛うじて掌に載せ得る重さではあるが、やはり重過ぎ、誇張が疑われる。

「かふき」かぶき者。遊侠。伊達(だて)者。

「生付」「うまれつき」。

「おこたる」「怠る」。痛みがおさまる。

「二升」拳大・冬瓜大の腫れ物が潰れて出る膿血としては異様に多過ぎる。やはり誇張が疑われる。

「いぬる丙辰の年」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年となり、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。

「二寸」六センチメートル。親指の分岐する手首の辺りからの距離であろうから、腫瘍は第二関節(老婆心乍ら、言っておくと指先に近い方が第一関節である)にあったものと思われる。

「腫あがりしからに」腫れあがってきて、その後には。

「めきめきいたくのびて」みるみるうちにひどく腫れがひどくなって。

「四五分より七八分まで」一センチ二ミリ~一センチ五ミリから二センチ一ミリ~二センチ四ミリ。]

譚海 卷之二 雲州松江の城幷源助山飛火の事

雲州松江の城幷源助山飛火の事

○雲州松江の城は堀尾山城、繩張(なはばり)せしとぞ。則(すなはち)松江の湖水に臨て美景の地なり。城下の足輕町をさいか町と云(いふ)。白潟(しらかた)と云(いふ)濱べにて、橋より北の町を末沼町と云。その際(きは)に山あり、源助山といふ、兀山(はげやま)なり。往昔(むかし)源助といふもの所帶せしが、強訴(がうそ)の事により死刑に所(しよ)せられ、其(その)庽たゝりをなすゆへ塚に封じ鎭め祭りしとぞ。されど雨夜陰晦(あまよいんくわい)の時は、飛火(とびひ)となりて湖上を往來(ゆきき)す。源助山の飛火とて、はなはだ恐るゝ事也。湖水の廣井さ二里已上に及ぶ、その際(きは)に飛火出現すといふ。

[やぶちゃん注:「堀尾山城」出雲松江藩第二代藩主堀尾山城守(やましろのかみ)忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年)。なお、彼には男子がなく、従兄弟の宗十郎を末期養子に立てることを望んだものの認められず、堀尾宗家は断絶、翌寛永十一年、若狭小浜藩より京極忠高が入部している。

「足輕町」江戸時代の武士の最下層に位置づけられた足軽は、居住地も城下郭外に置かれた。

「さいか町」現在の松江市雑賀町。(グーグル・マップ・データ)。町名は中世日本の鉄砲傭兵・地侍集団の一つである雑賀衆(さいかしゅう)に由来する。紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成された集団で、高い軍事力を持ち、特に鉄砲伝来以降は数千挺もの鉄砲で武装し、海運や貿易も営んでいたが、天正一三(一五八五)年の豊臣秀吉による紀州征伐で解体された。その後、残党が松江城の築城に関わった豊臣政権の三中老の一人堀尾吉晴(忠晴の祖父)により、松江へ迎えられ、松江城守備のための鉄砲隊をここに住まわせたとされる。

「白潟」この宍道湖東端で大橋川に湖水が流れ入る、(グーグル・マップ・データ)。松江市灘町一帯。

「末沼町」これは現在の松江大橋北詰一帯の島根県松江市末次本町(すえつぐほんまち)のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。因みに、ここは後に、かの小泉八雲が松江中学に赴任した当初、住んでいた地である。私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江』のパートなどを参照されたい。

「源助山」こういう山は現在は知られていないが、「源助柱(ばしら)」なら、かなり有名で、現在の松江大橋南詰に碑がある。小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八では(リンク先は私の電子化注テクスト)、吉晴の治世、一向に架橋が成功しないため、人柱として生き埋めにされたのが「源助」だったとし、しかも彼は雜賀町に住む足軽人足であったともいうから、本話柄の前半との親和性が認められる。

「所せられ」「處せられ」。

「庽」不詳。私はこれは「厲」(音「レイ」)の誤字ではないかと疑っている。「災いを齎す悪鬼・疫病神・祟りを成す物の怪」の意であるが、その音を「靈(霊)」に通じさせたのではないか?

「雨夜陰晦」ひどく暗い雨夜(あまよ)。]

甲子夜話卷之三 10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣

 

3―10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣

蕉軒云ふ。風俗の時に從ひ移易すること、其一を言はん。某が幼年のとき、每春風鳶の戲を今に囘想すれば、信に盛を極しと云べし。そのときは擧世一般のことゆへ、誰も心付く者も無りし。其頃は實家の鍛冶橋の邸に住しが、南は松平土佐守、北は松平越後守にて、土州の嫡子、越州の弟、某と鼎峙して、各盛事を盡したり。且又、互に風鳶をからみ合せ、贏輸せしときは、附の者、伽の子共など計には無して、家中の若輩皆集りて、力を戮せ、人々戲には無ほどの氣勢にて、一春の間は誠に人狂するが如し。風巾の大なるに至りては、紙數百餘枚に至れり。其糸の太さ拇指ほどもありき。風に乘じて上る時は、丈夫七八人にて手に革を纏ひ、力を極めてやうやくに引留たり。或時手を離さゞる者あるに、誤りて糸をゆるめたれば、其者長屋の屋脊へ引上られ、落て幸に怪我なかりしが、危事なりとて、家老より諫出て止たりしこともあり。流石土州は大家のことゆゑ、種々の形に作り成したるもの數多ありしが、扇をつなぎたる數三百までに及べり。又鯰の形に作たるを、某が爭ひ得しに、其長さ、頭より尾までにて邸の半ありける。風箏なども奇巧を盡し、鯨竹唐藤の製は云までもなし。銅線などにて其音の奇なるを造れり。世上皆此類にて、枚擧するに遑あらず。天晴風和する日、樓に上りて遠眺すれば、四方滿眼中、遠近風巾のあらぬ所は無き計なり。今は小兒に此戲するも少く、偶ありても、小き物か、形も尋常なるのみなり。高處に眺矚しても數るほどならでは見ず。かく迄世風も變るものかと云ける。

■やぶちゃんの呟き

 最初に告白しておく……私は凧を揚げたことがない……揚がった凧を見上げた至福の思い出がない……ただ唯一の記憶がある……幼稚園の頃だ……新聞紙の長い脚を附けた奴凧をずるずると地面に引き摺りながら……泣いている独りぼっちの私だ…………

「林子」「蕉軒」前に注した林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。既に述べた通り、彼の実父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、初名は松平乗衡(のりひら)、養子後の本名は林衡(はやしたいら)。寛政五(一七九三)年、満二十五の時に林錦峯(はやしきんぽう)の養子となって林家を継いだ。これは岩村藩上屋敷での幼少時の思い出である。

「風鳶」底本では「たこ」とルビする。凧。当時は「いかのぼり」とも称した。

「移易」「いえき」。移り変わること。

「某」「それがし」。

「戲」「たはむれ」。

「信に盛を極しと云べし」「まことにさかんをきはめしといふべし」。

「擧世一般」「きよせいいつぱん」。世を挙げて、ごくごく当たり前のこと。

「誰も心付く者」その(これから述べるような、一種狂的(ファナッティク)な)驚異的な流行りの実体を奇異に感じたり、批判をしたりする者。

「無りし」「なかりし」。

「鍛冶橋」現在の東京駅南西直近。

「住しが」「すみしが」。

「松平土佐守」時制から見て、土佐藩第九代藩主山内(松平)土佐守豊雍(とよちか 寛延三(一七五〇)年~寛政元(一七八九)年)か? 明和五(一七六八)年、家督継承。

「松平越後守」同じく時制的に見て、美作津山藩第五代藩主松平越後守康哉(やすちか 宝暦二(一七五二)年~寛政六(一七九四)年か? 宝暦一二(一七六二)年、家督継承。

「土州の嫡子」前注から、豊雍嫡男で、後の第十代土佐藩となる山内豊策(とよかず 安永二(一七七三)年~文政八(一八二五)年)か? であれば、乗衡より五歳年下である。

「越州の弟」当主が松平康哉であるとすれば、ウィキの「松平康哉によれば、康哉には直義・長賢・長裕・金田正彜という弟がいるものの、生年見て、直義(宝暦四(一七五四)年生まれ)ではないであろう(乗衡より十四歳も年上だからである)。

「鼎峙」「ていじ」。]鼎(かなえ)の脚のように三方に相い対して立つこと。鼎立。

「各」「おのおの」。

「盛事を盡したり」凧揚げを盛んに競い合ったものであった。

「贏輸」「えいしゆ」(「えいゆ」は慣用読み)。勝負。

「附の者」「つきのもの」。所謂、藩主子息の家臣から選ばれた子守役。

「伽の子共」「とぎのこども」。遊びや話し相手として特に選ばれた子ども(家臣の子弟らから選ばれた)。

「計には無して」「ばかりにはなくして」。その子らの者だけでは、これ、なくして。

「戮せ」「あはせ」。「合はせ」。

「戲には無ほどの氣勢にて」「たはむれにはなきほどのきせいにて」。遊びとは思えぬばかりに、大真面目にエキサイトして。

「人狂するが如し」「ひと、きようするがごとし」。まるで人々、これ、凧に関わっては誰もが狂ったかのようになったものであった。

「風巾」「たこ」。

「拇指」「おゆび」。親指。

「上る」「あがる」。

「丈夫」屈強の成人男子。

「纏ひ」「まとひ」。滑り止めと、摩擦による擦過傷を防ぐために革を手に巻いたのである。

「引留たり」「ひきとめたり」。

「屋脊」音なら「ヲクセキ」であるが、ここは「やね」或いは「むね」と訓じたい。

「引上られ」「ひきあげられ」。

「落て」「おちて」。

「幸に」「さひはひに」。

「危事」「あやふきこと」。

「諫出て」「いさめいでて」。

「止たりし」「やみたりし」。

「流石」「さすが」。

「數多」「あまた」。

「扇をつなぎたる數三百までに及べり」本物の扇を数珠繋ぎにした凧があって、その扇の数たるや、何と三百面にも及ぶ長大なものであった。

「鯰」「なまず」。

「邸の半」「やしきのなかば」。私の実家の屋敷地の半分もの大きさ。

「風箏」底本では「ふうさう」とルビする。これは以下の素材から見て、唸り凧、音を発するような構造や笛に類した仕掛けを施したものと思われる。現代中国語では凧は「風箏」と呼ぶことが多い。

「鯨竹唐藤の製」前者から「鯨竹」は判る。凧の鯨骨や鯨の髭や竹を凧の支え構造や唸りの装置に附属させて作製した凧であろう。「唐藤」は不詳。唐藤空木(フジウツギ科フジウツギ属トウフジウツギ Buddleja lindleyana)があるけれども、これ、草体から見て、凧の素材にはならないように見える。私の推測だが、或いはこれ、「唐籐」(からとう)で、籐椅子などの素材とする、熱帯性の蔓性植物である単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連Calameae に属するトウの類の静山の誤記ではあるまいか? あれなら、強靱で軽く、凧の素材や唸りの装置にもってこいであるように思われるのだが?

「云までもなし」「いふまでもなし」。

「此類」「このたぐひ」。

「枚擧するに遑あらず」「まいきよするにいとまあらず」。数え上げるに、きりがない。こういっている儒学者述斎の少年のような目の輝きが見えるようだ……私にはその喜びの記憶がない分、かえってそれを強く感ずるのである……

「天晴風和する日」「てん、はれ、かぜ、わするひ」。晴天で風はあるが、決して強風ではない(私には分らないけれど、凧を揚げるに最も相応しい風具合を述斎は言っているのであろう)穏やかな日。

「樓」「たかどの」。見晴らし台。

「遠眺」「えんてう(えんちょう)」。遠望すれば。

「四方滿眼中」四方、これ、見渡す限り。

「遠近」「をちこち」。遠きも近きも。

「計」「ばかり」。

「此戲するも少く」「このたはむれするもすくなく」。

「偶」「たまたま」。

「小き」「ちさき」。

「高處」「たかきところ」。

「眺矚」「てうしよく(ちょうしょく)」。「矚」は「注意して見つめる」の意。隅々まで眺めて、よく観察してみること。

「數るほどならでは見ず」「數る」は「かぞふる」。底本では「かぞゆる」とルビするが、採らない。上げられている凧は、これ、数えられるほど、少ししか、見えない。ちょっと淋しそうな少年乗衡が、ここに、いる…………

諸國百物語卷之五 二十 百物がたりをして富貴になりたる事 / 「諸國百物語」電子化注完遂!

 

     二十 百物がたりをして富貴(ふつき)になりたる事


100hukki

 京五條ほり川の邊に米屋八郎兵衞と云ふものあり。そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが、あるとき、子どもに留守をさせ、大津へ米をかいにゆかれけるが、子どもに、

「よくよく留守をせよ、めうにち、かへるべし」

と、いひをかれける。その夜、あたりの子ども、七、八人、よりあひ、あそびて、古物がたりをはじめけるが、はや、はなしの四、五十ほどにもなれば、ひとりづゝ、かへりてのちには、二、三人になり、咄八、九十になりければ、おそれて、みなみな、かへり、米屋のそうりやうばかりになりけり。惣領、おもひけるは、

『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』

とて以上、百物かたりして、せどへ小べんしにゆきければ、庭にて毛のはへたる手にて、しかと、足を、にぎる。そうりやう、おどろき、

「なにものなるぞ、かたちをあらはせ」

といひければ、そのとき、十七、八なる女となりて、いふやう、

「われは、そのさきの此家ぬしなり。産(さん)のうへにてあひはて候ふが、あとをとぶらふものなきにより、うかみがたく候ふ也。千部の經をよみて、給はれ」

と云ふ。そのとき、かのそうりやう、

「わが親はまづしき人なれば、千ぶをよむ事、なるまじきぞ。ねんぶつにて、うかみ候へ」

と云ふ。かの女、

「しからば、此せどの柿の木に金子をうづめをき候ふあいだ、これにてよみて、給はれ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。夜あけて、親八郎兵衞、かへりけるに、よいの事どもかたりきかせければ、さらば、とて、柿の木の下をほりてみれば、小判百兩あり。やがて、とりいだし、ねんごろにあとをとぶらひける。それより、米屋しだいにしあわせよくなり、下京(しもぎやう)一ばんの米屋となりけるとなり。

 

    延寶五丁巳卯月下旬

         京寺町通松原上ル町

             菊屋七郎兵衞板

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「百物語して福貴□成事」。文中の『ばけ物のしやうれつ見んための古物がたりなるに、むけうなる事也。さればわれ一人にて、百のかずをあわせん』は底本では二重鍵括弧はなく、本文続きであるが、特異的にかくした。

「京五條ほり川」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「そうりやう十六をかしらとして、子ども十人もち、久しくやもめにてゐられけるが」「惣領十六を頭(かしら)にとして、子供、十人持ち、久しく鰥夫(やもめ)にて居るらけるが」。本篇ではこの貧しかった当時の米屋の父に尊敬語を用いている。正直、五月蠅く、ない方がよい。

「かいにゆかれけるが」「買ひに行かれけるが」。行く先が大津であるのは、問屋ではなく、名主や庄屋から直接に仕入れ買いに行ったようである。

「めうにち」「明日(みやうにち)」。歴史的仮名遣は誤り。

「古物がたり」「ふるものがたり」。

「しやうれつ」不詳。仮名表記と文脈に合うものは「勝劣」(百話で出現する物の怪の恐ろしさ具合が優れて恐ろしいか、或いは、意外にも大したことのない劣ったものであるかを見極める)であるが、これではあまりに余裕があり過ぎ、また「從列」「生列」(百話に合わせて物の怪が百鬼夜行となって列を成して次々と生まれ出現してくる)という語と造語してみても何だか締りがなくて弛んでしまう気もする。しっくりくる熟語があれば、是非、お教えいただきたい。差し換える。

「むけう」「無興」。

「せど」「背戸」。裏口の方。

「小べん」「小便」。

「そのさきの此家ぬしなり」「この今よりも以前の、そなたの住まうところの、この家の女主人で御座いました。」。

「産(さん)のうへ」異常出産のために子とともに亡くなったのであろう。夫も直前か直後に亡くなり、それ以前の子もなかった後家であったものか。

「あとをとぶらふものなきにより」「後(世)を弔ふべき者無きにより」。

「うかみがたく候ふ也」「成仏出来ずにおるので御座います。」。

「延寶五丁巳卯月下旬」延宝五年は正しく「丁巳」(ひのとみ)でグレゴリオ暦一六七七年。旧暦「卯月」はグレゴリオ暦で五月一日、同月は大の月で五月三十日はグレゴリオ暦五月三十一日に相当する。第四代将軍徳川家綱の治世。

「京寺町通松原上ル町」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菊屋七郎兵衞」板木屋七郎兵衛(はんぎやしちろべえ 生没年不詳)。「菊屋」とも号した。京で出版業を営み、後に江戸にも出店した地本(じほん)問屋(地本とは江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本・草双紙・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などがあった。草双紙の内訳としては赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻が含まれる)。主に鳥居清信の墨摺絵や絵本などを出版している(ここはウィキの「板木屋七郎兵衛」に拠った)。

「板」板行(はんぎょう)。版木を刻して刊行すること。

 

 これが、本「諸國百物語」の擱筆百話目である。さて……今夜、あなたのところに起こる怪異は一体、何であろう……何が起きても……私の責任では、ない……ただ私の電子化に従って読んでしまったあなたの――せい――である…………

御無沙汰御免

回線業者の変更に伴い、昨日昼前から現在までネットと繋がらず、諸氏に御迷惑をおかけした。只今、無事接続した。これより「諸國百物語」第百話の公開作業に入る。くどいが、怪異出来は自己責任で――

2016/11/29

諸國百物語卷之五 十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力

 

     十九 女の生靈の事付タリよりつけの法力(ほふりき)

 

 相模の國に信久(のぶひさ)とて高家(かうけ)の人あり。此奧がたは土岐玄春(ときげんしゆん)といふ人のむすめ也。かくれなきびじんにて、信久、てうあひ、かぎりなし。こしもとにときわといふ女あり。これも奧がたにおとらぬ女ばうなりければ、信久、をりをり、かよひ給ふ。ときはは、それよりなをなを、奧がたに、よく、ほうこういたしける。あるとき、奧がた、うかうかとわづらひ給ひて、しだひにきしよくおもりければ、信久、ふしぎにおもひ、

「もしは、人のねたみもあるやらん」

とて、たつとき僧をたのみて、きとうをせられければ、僧、經文をもつて、かんがへて申しけるは、

「此わづらひは人の生靈、つき申したり。よりつけといふことをし給はゞ、そのぬしあらはれ申べし」

と云ふ。信久、きゝ給ひて、

「よきやうに、たのみ申す」

とありければ、僧、十二、三なる女を、はだかにして、身うちにほけ經をかき、兩の手に御幣をもたせ、僧百廿人あつめて法花經をよませ、病人のまくらもとに檀をかざり、らうそく百廿丁とぼし、いろいろのめいかうをたき、いきもつかずに經をよみければ、あんのごとく、よりつきの十二、三なる女、口ばしりけるほどに、僧は、なをなを、ちからをゑて、經をよみければ、そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり。僧のいわく、

「まことのすがたをあらはせよ」

との給へば、ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、火のきゆると一度に、奧がたも、むなしくなり給ふ。信久、むねんにおもひ、かのときはをひきいだし、奧がたのついぜんにとて半ざきにせられけると也。

 

[やぶちゃん注:「信久」不詳。本話柄の時代設定は最後の私の注を参照されたい。

「高家(かうけ)」由緒正しき家系の家。

「土岐玄春」不詳。医師っぽい名ではある。

「てうあひ」「寵愛」。

「こしもとにときわといふ女あり」「腰元に常盤(ときは)といふ女有り」。歴史的仮名遣は誤り。

「をりをり、かよひ給ふ」しばしば常盤の部屋にお通いになっておられた。これは必ずしも秘かにではなく、正妻も承知の上のことであったかも知れぬが、話柄の展開上は、不倫事としないと全く面白くない。

「これも奧がたにおとらぬ」美人の、である。

「うかうかと」心が緩んでぼんやりしているさま、或いは、気持ちが落ち着かぬさまを指し、ここは心身の状態がすこぶる不安定なことを言っていよう。

「しだひにきしよくおもりければ」「次第(しだい)に氣、色重りければ」。次第次第に病「ねたみ」「妬み」。

「たつとき」「尊き」。

「きとう」「祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「僧、經文をもつて、かんがへて」僧が経文を唱えてて、それに対する病者の様子(反応)などを以って勘案してみた結果として。

「よりつけ」「依付(よりつけ)」。患者に憑依している物の怪を、一度、別な「依代(よりしろ)」と呼ばれる人間に憑依させ、それを責め苛み、而して正体を白状させた上で調伏退散させるという呪法。

「そのぬし」「其の主」。憑依して苦しめている物の怪。この場合は実際に現世に生きていて生霊を飛ばしている(意識的にか無意識的には問わない)人物。

「十二、三なる女」依代には若い処女の少女が向いているとされた。

「身うち」全身。

「ほけ經」「法華經」。

「御幣」「ごへい」。

「檀」密教で呪法に用いる護摩壇。

「らうそく」「蠟燭」。

「めいかうをたき」「名香を焚き」。

「いきもつかずに」息をしないかの如く、一気に。

「あんのごとく」「案の如く」。

「口ばしりける」その生霊が憑依して不断の調伏の祈禱によって依代から逃げ出すことも叶わず、苦しんで思わず、生霊自身が依代の少女の口を借りて、苦悶の言葉を吐き始めたのである。

「そのとき、ときは、檀のうへにたちいでたり」私は正直、この箇所は、上手くない、と思う。せめて、

 

 其の時、女の樣なるものの苦しめる姿(かたち)、朧(おぼ)ろけに檀の上に立ち出でたるが如く、幽かに見えたり

 

としたい。さすればこそ、「まことのすがたをあらはせよ」が生きてくると言える。さらに言っておいくと、迂闊な読者の中には、下手をすると、ここに実際の腰元の常盤がどたどたと登ってきてしまうというトンデモ映像を想起してしまうからでもある。

「ときは、ゑもんひきつくろひ、うちかけをしていで、うへなる小そでをばつとしければ、百廿丁のらうそく、一どにきへけるが、」ここも「常盤」を出してしまっては、B級怪談である。ここは例えば、

 

 かの面影(おもかげ)に見えし女、衣紋(えもん)引き繕ひ、打掛(うちかけ)をして出で、上なる小袖を、

「ばつ!」

としければ、百二十丁の蠟燭、一度に消えけるが、

 

としたい(複数箇所の歴史的仮名遣は誤り)。「打掛」帯をしめた小袖の上に羽織る丈の長い小袖で、武家の婦人の秋から春までの礼服であったが、江戸時代には富裕な町家でも用いられた。この蠟燭が一斉に消えるシーンは圧巻! 撮ってみたい! いやいや! それ以上に本話が語り終えたその時、九十九本目の蠟燭が消されることにも注意されたい! 残りは一本! いよいよ怪異出来(しゅったい)まで残り、一話!

「むねんにおもひ、かのときはをひきいだし」「無念に思ひ、かの常盤を引き出だし」。

「ついぜん」「追善」。

「半ざき」「半裂き」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に、『罪人の手足に二頭、または四頭の牛をしばりつけ牛を走らせて、体を裂く処刑。室町時代の処刑法の一つ』とする。こういう注を高田氏はわざわざ附しているということは、本話の時制を室町時代まで遡らせているということになる。]

2016/11/28

谷の響 四の卷 十七 骨髮膿水に交る

 

 十七 骨髮膿水に交る

 

 文政の年間、岩木川の渡守佐左衞門といへるものゝ妻、1疽(ようそ)と言腫物腰に出ていたくなやみけるが、二十日許りにて破れたるが、膿水に交りて髮毛及骨のくだけたる如きもの數日のうち出でたりしが、しだいしだいに痛もいえて本復せしとなり。伊香某こを評してこの病は女子にまゝあることにて、橘南溪が東西遊記にのせたる婦人胎中の子、死して不墮胎腐らんとして腫物となり、骨髮膿水と共に出るといへるものなりしと言へるはさる事なるべし。[やぶちゃん字注:「1」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「邕」。]

 又、己が近所に熊谷又五郎といへる人、黴毒(かさ)の爲に久しくわづらひしが、二年ばかりも過ぎて股にて有けんその瘡が出で、そのやぶれより骨の碎けたるもの多く出でたり。その後股は膝の如く二つに折れて有りしとなり。かさの骨にすみつくものにして、世間にまゝあれどみな難治の病なりと御番醫佐々木氏の言はれしが、果してこの人いえずしてつひに身まかれり。こは弘化年中のことなり。又、文政の年間己が家につかはれし三介といへるもの、ある夜龜甲町にて2(むか)骨を犬にかまれたるとていたくなやみ、勤ならずとて親元に行き療治せしが、彌增いたみてすでに死ぬべきほどに見得たるに、十日ばかりありてこの疵にはりたる膏藥に骨のくだけたるごときもの三ひらついて出たるに、そはみな犬の齒にてありしと言へり。ねんひは知らざれども、夫よりしだいしだいにいえて本にふくせるなり。醫師は龜甲町の吉村某氏なり。[やぶちゃん字注:「2」=「月」+「行」。]

 

[やぶちゃん注:第一段落の症例は、手塚治虫(私はアトム世代で特異的に手塚先生を尊敬しており、「鉄腕アトム」は全作、「ブラック・ジャック」はその殆んどを所持している)の「ブラック・ジャック」で助手となっているピノコで知られる(但し、ピノコのケースは女性患者が寄生性二重体症で、双生児の片割れを自分の体内に持ち続けて成人となった症例であり、ピノコはその嚢胞に封入された双子の胎児(女性)のばらばらになったものを人工的に少女に仕立てたものである。なお、ピノコのように人体の全パーツが殆んど揃って出てくることは実際にはない。ここの症例は、あくまで患者の婦人の卵巣に生じた一般的な良性卵巣腫瘍の中の一つである)、胚細胞性腫瘍の一種である「奇形膿腫」、正式には「卵巣成熟囊胞性奇形腫」、別名「皮様囊腫」、産婦人科医が「デルモイド」(dermoid cystと呼称するものである。これは良性卵巣腫瘍では実は最も多いものであり、その点、本文で伊香(「いか」と読むか)という医師が「女子にまゝあること」と言っていることとも符合する。なお、卵巣はその機能的性質上、ヒトの体内の中でも最も多彩な腫瘍(良性・悪性ともに)を作り出す臓器である。参考にさせて貰ったサイト「産婦人科の基礎知識」の「良性卵巣腫瘍」の「一般的な卵巣腫瘍について」によれば、この『奇形腫を取り出してメスで切ってみると』、『中から黄色い脂肪、髪の毛、骨や歯、時には皮膚の一部がどろどろと出てきます。 初めて見ると髪の毛などが入ってますのでとてもインパクトがあります。一般的に中に入っている髪の毛は数本ではなく大量で、hair ball といって、お風呂の排水溝に詰まった髪の毛の塊のようになって出てくることも多いです』とある。ここでも腫瘍が潰れた際に最初に出てきたものを「髮毛」とする。

 第二例に出る腫瘍は「黴毒(かさ)」、則ち、「梅毒」の、第三期(末期)に特有な肉芽腫であるゴム腫と思われる。ゴム腫は内臓・骨・筋肉・皮膚などに発生するゴム様の弾力のある大小の結節で、一般には顔面、特に鼻・唇・前額部・頭蓋骨に好発するものであり、大きさは粟粒大から鶏卵大以上にもなる。中央部は凝固壊死を起こして灰黄色を呈するが、その周囲は灰白色の結合組織層が取り巻いている。これはその壊死した中央部の組織や、その周囲の結合組織を、骨と見間違えたものではなかろうか? 直後にその腫れ物のあった大腿部の骨が「膝の如く二つに折れて」いたとあるから、大腿骨などが骨髄まで変性してしまい、骨自体が崩壊していた(即ち、腫れ物から出た骨は実際の自分の骨が変性して潰れ砕けたもの)のかも知れない。

「骨髮膿水に交る」「こつぱつ、のうすいにまぢる」と読んでおく。

「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。

「岩木川の渡守」恐らくは最も知られた現在の五所川原市西部の岩木川右岸の寺町と左岸の小曲(こまがり)との間にあった「五所川原の渡し」であろう。

1疽(ようそ)」(「1」=「疒」+(「やまいだれ」の中に)「邕」)「癰疽」に同じい。漢方では十五センチ以下の中型の腫脹で、上皮が薄く、光沢があって、腫脹した頂点が黄色く化膿しているものを「癰」、それ以上で三十センチほどまでを「疽」と称し、こちらは上皮が硬く、光沢がなく黒っぽいものと区別するようである。

「言」「いふ」。

「腫物」「はれもの」と訓じておく。

「及」「および」。

「骨」「ほね」。