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2009/07/12

江南游記 十四 蘇州城内(中)

       十四 蘇州城内(中)

 我我は北寺(ほくじ)の塔を見てから、玄妙觀を見物に行つた。玄妙觀はさつき通つた、寶石屋の多い往來から、ちよいと横町をはいつた所にある。觀前(かんぜん)の廣場に露店の多い事は、上海の城隍廟(じやうくわうべう)と違ひはない。うどん、饅頭、甘蔗(かんしよ)の莖、地栗(デリイ)! さう云ふ食物店(くひものみせ)の間には、玩具屋や雜貨屋も店を出してゐる。人出も勿論非常に多い。が、上海と違ふ事は、これ程ぞろぞろ練(ね)つてゐる中に、殆(ほとんど)洋服の見えない事である。のみならず場所も廣いせゐか、何だか上海のやうに陽氣でない。華やかな靴下が並べてあつても、韮(にら)臭い湯氣が立つてゐても、いや、漆のやうに髮が光つた、若い女が二三人、鶸色(ひわいろ)や薄紫の着物の尻をわざと振るやうに歩いてゐても、何處か鄙びた寂しさがある。私は昔ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時も、こんな氣がしたのに違ひないと思つた。

 その群集の中を歩いて行つたら、突きあたりに大きい御堂(おだう)があつた。これも大きい事は大きいが、柱の赤塗りも剥げてゐれば、白壁も埃にまみれてゐる。その上參詣人もこの堂へは、たまに上つて來るばかりだから、一層荒廢した感じが強い。中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いづれも安物の懸け軸が、惡どい色彩を連ねてゐる。と云つても書畫の奉納ぢやない。皆新しい賣物である。店番は何處にゐるのかと思つたら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐つてゐた。しかしこの懸け物の外には、香花は勿論尊像も見えない。

 堂を後へ通り拔けると、今度は其處の人だかりの中に、兩肌脱ぎの男が二人、兩刀と槍との試合をしてゐた。まさか刄(は)はついてもゐるまいが、赤い房のついた槍や、鉤(かぎ)なりに先の曲つた刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗(すこぶる)見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落されると、隙間もない太刀先を躱(かは)し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴上げた。相手は兩刀を握つた儘、仰向けざまにひつくり返る、――と、まはりの見物は、嬉しさうにどつと笑ひ聲をあげた。何でも病大蟲薛永(びやうだいちうせつえい)とか、打虎將李忠(だこしやうりちゆう)とか云ふ豪傑は、こんな連中だつたのに相違ない。石段の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸傳らしい心もちになつた。

 水滸傳らしい――と云つただけでは、十分に意味が通じないかも知れない。一體水滸傳と云ふ小説は、日本(にほん)にも馬琴の八犬傳を始め、神稻水滸傳(しんとうすゐこでん)とか本朝水滸傳とか、いろいろ類作が現れてゐる。が、水滸傳らしい心もちは、そのいづれにも寫されてゐない。ぢや「水滸傳らしい」とは何かと云へば、或支那思想の閃きである。天罡地煞(てんこうちさつ)百八人の豪傑は、馬琴などの考へてゐたやうに、忠臣義士の一團ぢやない。寧(むしろ)數の上から云へば、無賴漢の結社である。しかし彼等を糾合(きうがふ)した力は、惡を愛する心ぢやない。確(たしか)武松(ぶしよう)の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは嚴密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、區區たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善惡を脚下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れてゐる。模範的軍人たる林冲(りんちゆう)も、專門的博徒たる白勝(はくしよう)も、この心を持つてゐる限り、正に兄弟だつたと云つても好(よ)い。この心――云はば一種の超道德思想は、獨り彼等の心ばかりぢやない。古往今來(こわうこんらい)支那人の胸には、少くとも日本人に比べると、遙に深い根を張つた、等閑に出來ない心である。天下は一人(にん)の天下にあらずと云ふが、さう云ふ事を云ふ連中は、唯(ただ)昏君(こんくん)一人(にん)の天下にあらずと云ふのに過ぎない。實は皆肚(はら)の中では、昏君一人の天下の代りに彼等即ち豪傑一人(にん)の天下にしようと云ふのである。もう一つその證據を擧げれば、英雄頭(かうべ)を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある。神仙は勿論惡人でもなければ、同時に又善人でもない。善惡の彼岸に棚引いた、霞ばかり食ふ人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確にこの點では一囘頭(くわいとう)すると、神仙の仲間にはいつてしまふ。もし譃だと思ふ人は、試みにニイチエを開いて見るが好い。毒藥を用ゐるツアラトストラは、即ちシイザア・ボルヂアである。水滸傳は武松が虎を殺したり、李逵(りき)が鉞(まさかり)を振廻したり、燕青(えんせい)が相撲をとつたりするから、常人に愛讀されるんぢやない。あの中に磅礴(ほうはく)した、圖太い豪傑の心もちが、直に讀む者を醉はしめるのである。………………

 私は又武器の音に目を見張つた。あの二人の豪傑は、私が水滸傳を考へてゐる内に、何時か一人は青龍刀を、一人は幅の廣い刀をふり上げながら、二度目の切り合ひを始めてゐる。――

[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。私は「江南游記」の中でも、本篇が殊の外、気に入っている。それはここで語られる芥川の「善悪の彼岸」、豪傑の哲学に魅せられるからである。私は今の中国や中国人の中に、連綿と続くこの「力」を感じるし、それに一種の羨望さえ抱いていると言ってもよいのである。なお、本篇には沢山の「水滸伝」中の人物が登場するが、私はまともに「水滸伝」を読んだことがなく、ドラマ等も完全に通して見たことはない。そのため、それらの登場人物の事蹟については、大々的にウィキの「水滸伝」関連の記載を参照させて頂いた(その際、一部の難解な漢字に私が振ったことが分かるように《 》で読みを補った箇所がある)。なるべく芥川の叙述と関わる内容を心掛けたため、恣意的な一部の引用になっていることをお断りし、また、ここで美事な解説をなさっているウィキの執筆者の方々に心から敬意を表するものである。

・「玄妙觀」西晋の咸寧年間(275280)に創建された道教寺院。という呼称は元代以降(それまでは真慶道院)。明の1371年に道教の聖地として興隆し、盛時は建物三十数棟、敷地面積4haに達したと言われる。太平天国の乱等により、多くの建物・文物の損壊・修復を繰り返したが、宋から清にかけての道教文化を伝えるものとして、また長江以南に現存する最大の建築群として、現在、全国重点文物に指定されている(以上と以下の「大きい御堂」の注は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「玄妙観の記載を参照した)。

・「上海の城隍廟」中国の民間信仰である道教の土地神たる城隍神を祀るための廟所。上海城隍廟(俗に老城隍廟)は現在の黄浦区南部の豫園及びその商店街に隣接した地に建つ。芥川龍之介「上海游記」の「七 城内(中)」を参照。

・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。

・「地栗(デリイ)」“dìlì”は水生多年草の単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属クワイ(慈姑)Sagittaria trifolia。「地栗」は上海での呼び名で、中日辞書ではクワイはやはり「慈姑」で、拼音(ピンイン)は“cígū”、「ツク」である。

・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。

・「ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であったLouis Marie-Julien Viaudルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(18501923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治181885)年と明治331900)年の二度の来日しているが、ここで言う彼の浅草観音来訪の様子は、明治181885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「江戸」の章にある。

・「大きい御堂」玄妙観の主殿である三清殿。南宋の1179年の造立、設計は著名な北宋の画家趙伯駒(ちょうはくく)。神田由美子氏の岩波版新全集注解では、『中国最古最大の御堂』であるとする。

・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。

・「病大蟲薛永」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「薛永」によれば、渾名の「病大蟲」とは「病」が『顔色が薄黄色い事、またはそれに『~匹敵する』という意味。大虫とは虎の事である。没落武官の孫で、槍棒の使い手』であったがその演武を見世物にした膏薬売りに身を落としていたところを、宋江に見出される。

・「打虎將李忠」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李忠」によれば、渾名の打虎将とは虎殺しの意で、棒術の使い手であった。薛永同様、『膏薬売りなどをしつつ、各地を放浪していた』が、魯智深との縁で入山する。

・「神稻水滸傳」文政121829)年より明治141881)年頃まで刊行され続けた読本。28140冊。岳亭定岡・知足館松旭作、岳亭定岡他画。「水滸伝」を室町時代の結城合戦(永享121440)に関東で勃発した室町幕府に対して結城氏を中心とした豪族が起こした反乱)に翻案したもの。正しくは「俊傑神稲水滸伝」。

・「本朝水滸傳」安永21773)年に建部綾足(享保41719)年~安永31774)年)が死の前年に発表した、「水滸伝」を換骨奪胎するとともに日本史をも改変した伝奇小説の先駆的作品。

・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。

・「武松」行者武松(ぎょうじゃぶしょう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人であり、また「金瓶梅」等にもスター・システムのように登場する一種の侠客である(渾名は修行者の格好をしていることから)。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターである。なお、「水滸伝」では林冲の死を見取り、80歳で天寿を全うしたことになっているが、浙江工商大学日本文化研究所のHP「中国の日本研究」の王勇氏の「《水滸伝の文化誌》 第十六回 武松の墓を再訪して」に、筆者の幼少の頃に聴いた話として、『湧金門の水城を攻めるとき、両腕を失った武松は杭州を放浪中、宿敵に遭遇して両足を切り取られ、「瓢箪人間」となり、西湖に身を投げて命を絶ったそうである。また一説では、四肢を失った武松は魯智深の手を借りて、惨めな生涯を閉じたとも言われる。『水滸伝』とは逆に、武松は魯智深より先に逝ったことになる』という興味深い伝承を伝えている(「湧金門」は「十二 靈隠寺」の同注参照)。

・「區區たる」小さくてつまらないさま。

・「糾合」ある目的のために人々を寄せ集め、纏めること。

・「林冲」豹子頭林冲(ひょうしとうりんちゅう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人0。渾名はヒョウのように鋭く勇猛な顏の意。梁山泊中、武芸はトップクラス、槍棒を得意技とする。ウィキの「林冲」によれば、『首都開封で禁軍の教頭として妻と暮らしていたが、その妻を上司である高俅《こうきゅう》の養子、高衙内《こうがない》に横恋慕されてしまう。林冲の親しい友人であった陸謙らの協力を得て高衙内は夫人に迫るが、間一髪の所で林冲に見破られ未遂に終った。しかし、それを知った高俅により罠に嵌められ、滄州へ流罪となった。護送中に命を狙われるが魯智深により助けられる。流刑先では柴進《さいしん》の世話になり、まじめに刑に服していたが、開封から陸謙らに命を狙われ、彼らを返り討ちにして逃亡する』という生涯の前段を見ても、芥川の言うように高潔な軍人である。妻との悲恋のエピソード等、日本人にはその悲劇性故に人気が高い人物である。

・「白勝」白日鼠白勝は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「白勝」によれば、「白日鼠」という名は『昼間からこそこそつまらない悪さばかりしていたのでこの渾名がついた。この威厳の無い渾名通り非力で、これと言った特技も』ない上に、官憲に捕縛されて同賊の名前を自白する等、芥川が言うところの「専門的博徒」=『博打好きのチンピラ』として『席次は梁山泊でも最下位に近い人物だが』、芥川が「九 西湖(四)」で取り上げた『「智取生辰綱」《ちしゅせいしんこう》という、有名な場面で重要な役回りを演じた男であり、また使い走りとしては非常に良く働き、時たま思わぬ手柄を立てる事もあるので意外と出番は多く読者認知度もかなり高い』(「智取生辰綱」の内容については「九 西湖(四)」の「阮小二」の私の注を参照されたい)。そのウィキに記された演技力や奇策を見るに、決してただの『博打好きのチンピラ』とは思われない。

・「昏君」道理に暗い主君。愚かな君主。

・「英雄頭を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある」筑摩全集類聚版は出典未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは北宋の詩人・書家として「詩書画三絶」と讃えられた黄庭堅の「絶句」の結句である。

   絶句

半竿春水一蓑煙

抱月懐中枕斗眠

説與時人休問我

英雄囘首即神仙

○やぶちゃんの書き下し文

半竿の春水 一簑(りふ)の煙(えん)

月を懐中に抱きて 斗に枕して眠る

説與(せつよ)す 時人(じじん) 我に問ふを休せよ

英雄 首を囘せば 即ち神仙

○やぶちゃんの現代語訳

竿半分 春まだ浅き川流れ 粗末な蓑の一つきり 霞の中の小舟の上(へ)

さても月を 懐に抱きしめて 北斗を枕に 一眠り

言っておきたいことがある――世の者たちよ この儂(わし)に 訊いてくれるな

英雄の そっ首 ぐるりと回したら あらら 見る間に 即 神仙――

黄庭堅(10451105)は、字は魯直、号は山谷。23歳で進士に登第、地方官を経て国史編修官となったがが、王安石(10211086)ら新法派(財政・軍事・農業・教育行政に及ぶ改革派)と対立し、四川の辺境に流謫されて没した。蘇門四学士(張耒(ちょうらい 10541114)・晁補之(ちょうほし 10531110)、秦観(10491100))中の第一、蘇軾は弟子としてではなく友人として接したという。因みに、宋の釈恵洪(しゃくえこう 10711128)はその著「冷斎夜話」(見聞雑記であるが多くは詩話)で黄庭堅の言葉として「然不易其意、而造其語、謂之換骨法。窺入其意、而形容之、謂之奪胎法。」(然るに其の意を易へずして、而して其の語を造る、之れ、換骨法と謂ふ。其の意を窺ひ入れて、而して之を形容す、之れ、奪胎法と謂ふ。)を引く。これこそが、芥川文学の核心を成すところでもある、「換骨奪胎」の語源である。

・「シイザア・ボルヂア」Cesare Borgiaチェーザレ・ボルジア(14751507)はイタリアルネサンス期の専制君主。枢機卿からロマーニャ公となり、権謀術数をもって支配領域を拡大したが、父であった教皇Alexander VIアレクサンドロ6世(14311503 Rodrigo Borgiaロドリーゴ・ボルジア)の死とともに失脚した。弟妹の暗殺疑惑やボルジア家秘伝の毒と呼ばれた“Cantalera”「カンタレラ」(かつて屍毒とされたが、現在は一種の細菌毒と考えられている)による政敵の毒殺等、私には芥川の言わんとするようなピカレスクなロマン性よりは、異常なサディスト・殺人嗜好症の変質者の印象が強い。

・「李逵」黒旋風李逵は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗《きそう》の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。

・「燕青」浪子燕青(ろうしえんせい)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「燕青によれば、渾名の浪子は『伊達者を意味』し、『年齢は登場時で22歳と、時期的に考えて梁山泊でも最年少の部類に入る。体格は小柄で細身、色白で絹のような肌を持った絶世の美青年。全身に見事な刺青を入れている。多芸多才な人物で弩《いしゆみ》の腕は百発百中、小柄ながらも相撲(拳法)の達人であり肉弾戦も強い。また遊びや音楽、舞踊等の芸事、商売人の隠語や各地の方言にまで精通している。頭の回転も非常に速く、ここぞというときに機転を利かせることができる。また、粗暴なことで知られる李逵を制御する事ができ「天才」といっても過言ではない人物である。故に人気は非常に高い』。『梁山泊の朝廷への帰順の最大の功労者となった』が、最後には不思議な蒸発をする。この若衆も、その消え方といい、芥川はしびれたに違いない。

・「磅礴」は「旁礴」「旁魄」とも書く。混ぜて一つとすること、の意と、広く満ちて限りないさま、の意があるが、ここは渾然一体となって、水滸伝世界に遍く広がっている、というダブルの意を示していよう。]

2009/07/11

「日暮死」

なればこそ……

考えてみると梅崎春生の「桜島」のあのシーンで、僕は勝手に蜩の声(ね)を聴いていたのだと気がついた――

骸子形の鍾乳石

ロローズ・セラヴィよ、くしゃみをしたな?!

協力者

僕には中国語が読めない。早速、僕の疑問に答えて、中文サイトを読んで教えてくれた知人がいた。早速、修正了。多謝!

僕は現世を呪う

数値で人を評価する奴

真剣な仕事をパロディにして売り物にする奴

おためごかしの言葉で真摯な若者を篭絡する奴

僕はこの一週間で

現世を心から呪うことを覚えたのだ

それで沢山だと思う――

大好きな大滝秀治氏へ――「家庭教師のトライ」のCMに抗議を!

「家庭教師のトライ」の「特捜最前線」の映像を使ったCM、あなたはギャラを貰っていますか。映像の著作権を持っている民放会社が許可を出したのでしょうから、貴方はあんなものがTVで流れていることを、御存知ないかも知れません。しかし、酷過ぎます。犯人の説得に来た母親、犯人に走り寄ろうとする彼女を止める貴方――貴方の、そして彼女の演技を笑い飛ばすCM――私は貴方から抗議して、あの愚劣で不快なパロディCMを放映差し止めを断固要求すべきだと思います。演技者の演技が、あのように使われることは、権利以前の、役者の演技への冒瀆以外の何物でもない。私は役者の端くれ(教師とはそのようなものと心得ています)として断じて許せません。

言っておく。

僕は本気で怒っている――

江南游記 十三 蘇州城内(上)

       十三 蘇州城内(上)

 驢馬は私を乘せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狹い往來の南側には、例の通り招牌(せうはい)が下つてゐる。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子(けうし)も通る、人通りも勿論少くはない、――と云ふ次第だつたから、私は手綱を引張つたなり、一時は思はず眼をつぶつた。これは臆病で何でもない。あの驢馬に跨つた儘、支那の敷石道を駈けて行くのは、容易ならない冒險である。その危なさを經驗したい讀者は、罰金をとられるのを覺悟の上、東京ならば淺草の仲店、大阪ならば心齋橋通りへ全速力の自轉車を驅つて見るが好(よ)い。

 私は島津四十起氏と、今し方(がた)蘇州へ來たばかりである。本來ならば午前中に、上海を立つつもりだつたが、つい朝寢坊をしたものだから、晝の汽車に間に合はなかつた。――それも一汽車乘り遅れたのぢやない。都合三列車乘り遅れたのである。其處へ島田太堂先生なぞは、その度に停車場(ていしやじゃう)へ來られたと云ふのだから、今思ひ出して恥ぢ入らざるを得ない。しかも私を送る爲に、七絶を一首頂いた事は、愈(いよいよ)恐縮すべき思い出である。………

 私の前には意氣揚揚と、島津氏が驢馬を走らせてゐる。尤も島津氏は私のやうに、始めて驢馬に乘つたのぢやない。だから腰の据り方が違ふ。私は島津氏を御手本に、内心は何度も冷や冷やしながら、いろいろ馬術の工夫をした。但しその後落馬したのは、正に御弟子の私ぢやない。御師匠番の島津氏自身ある。

 狹い往來の左右には、――實は最初の何分かは、何があるのか見えなかつた。が、その何分かが過ぎた後には、經師屋(きやうじや)と寶石屋とが何軒(なんげん)もあつた。經師屋の店には山水だの花鳥だの、表装中の畫(ゑ)が並べてある。寶石屋の店には、翡翠や玉(ぎよく)が銀の飾りなぞときらめいている。それがどちらも姑蘇城らしい、優美な心もちを起させた。しかし、あの優美な心もちも驢馬の背中に躍つてゐないと、もつと嬉しかつたのに相違ない。實際一度なぞは縫箔屋(ぬひはくや)の店に、牡丹だの麒麟だのを縫ひとつた、紅い布が壁に吊してある、――それを見ようと思つたら、もう少しで目くらの胡弓彈きと、衝突してしまふ所だつた。

 しかし驢馬を走らせるのも、平な敷石の上ならば、まだしも我慢が出來ない事はない。それが橋を渡るとなると、いづれも例の反り橋だから、上りは尻餠をつきさうになるし、下りも運が惡ければ、驢馬の頭越しにずり落ちかねない。おまけに橋の多い事は、姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋の語が、文字通りほんたうでないにもせよ、満更譃ばかりではなささうである。私はやむを得ず橋へかかると、手綱なぞを控へる代りに、驢馬の鞍へしがみついた。それでも橋を渡る時は、汚い白壁の並んだ間に、細細と蒼い運河の水が、光つてゐるのだけ眼にはいつた。

 そんな道中を續けた後(のち)、やつと我我の辿りついたのは、北寺(ほくじ)の塔の前である。聞けば蘇州七塔の中、登覧する事の出來るのは、僅にこの塔ばかりだと云ふ。塔の前の草原(くさはら)には、籃(かご)を携へた婆さんたちが、二三人摘草に耽つてゐる。この草原は案内記によると、昔の死刑場だと云ふ事だから、草も人血に肥えてゐるのかも知れない。しかし白堊(はくあ)に日の光を浴びた、九層の塔の聳える前に、青服(あをふく)の婆さんが三三五五、静かに草を摘んでゐるのは、頗(すこぶる)悠悠とした眺めである。

 我我は驢馬を飛び下りると、塔の最下層の入り口ヘ行つた。其處には支那の寺男が一人、格子戸の中に控へてゐる。それが二十鏡の銀貨を貰つたら、大きい錠を外した上、おはいりなさいと云ふ手眞似をした。塔の二階へ上る所には、埃臭い暗闇の中に、カンテラが一つともつてゐる。が、梯子を上(のぼ)りかけると、もうその光はさして來ない。その上手(うへて)すりへつかまつたら、この塔へ詣でた善男善女何萬人かの手垢の名殘が、ぺとり冷たいのには辟易した。しかし二階へ登つてしまへば、四方に口もついてゐるし、もう暗いのに困る事なぞはない。塔の内部は九層とも、皆桃色の壁の間に、金色の佛が安置してある。桃色と金と――かう云ふ色の配合は、妙に肉感的な所があるだけ、如何にも現代の南國らしい。私は何だかこの塔の上には、支那料理でもありさうな心もちがした。

 十分の後、我我は塔の頂上から、蘇州の市街を見下してゐた。市街は黒い瓦屋根の間に、鮮かな白壁を組みこんだなり、思つたより廣廣と擴がつてゐる。その向うに霞を帶びた、高い塔があると思つたら、それは孫權が建てたとか云ふ、名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)町の外はどちらを向いても、水光(みづひか)りと緑との見えない所はない。私は欄干によりかかりながら、塔の下に草を食つてゐる、小さい二頭の驢馬を見下した。驢馬の側には驢馬引きの子供も、二人ながら石に腰かけてゐる。

 「おおうい。」

 私は大きい聲を出した。が、彼等はふり向きもしない。高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである。

[やぶちゃん注:蘇州行は西湖から帰った3日後の5月8日。本文にあるような次第のために蘇州到着は夕方となった。芥川は「今し方蘇州へ來たばかり」と言っているが、それでは嘱目は夕景となる。しかし、本描写にはそのような印象は全くない。それどころか次の「十四」では続いて玄妙観に回っている。これは実は翌日の5月9日の午前中の体験と思われる。蘇州滞在は5月10日迄で、同日深夜12時頃、蘇州駅から次の目的地鎮江へと向かった。

・「招牌」看板。

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

・「島津四十起」(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和231948)年)。俳人・歌人。明治331900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が上海の里見病院入院中の芥川の病床で開いた句会での芥川の作が、岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。

・「島田太堂」本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)新聞人。太堂は号。当時の日本語新聞『上海日報』の主筆。二松学舎(現・二松学舎大学)卒業後、郷里熊本の済々黌(せいせいこう:現・熊本県立済々黌高等学校)で教員(総監)となる。明治331900)年頃、渡中して井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年:熊本出身の新聞人。)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊した。後、井手が創刊した『上海日報』主筆となり、凡そ30年に亙って編集業務に従事した。『上海日報』》は『上海日日新聞』『上海毎日新聞』と並ぶ、上海3大日本語新聞の一つ。

・「姑蘇城」蘇州の別名。春秋時代の呉の都。南西にある姑蘇山から附いた。当時の都の位置は現在の江蘇省呉県、蘇州市の南に当たる。

・「縫箔屋」刺繍と摺箔(すりはく:布に糊や膠(にかわ)等を用いて模様を描いてそれに金箔・銀箔を押しつけたもの。)を組み合わせて布地に装飾模様を施す店屋。

・「姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋」姑蘇の城内には3,600橋(きょう)の橋があり、その周縁部(姑蘇城内を除いた)である呉江蘇省呉県の範囲には更に390橋の橋がある、という意味。

・「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に造立(247250頃)された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた(筑摩全集類聚版の「報講寺」は誤りと思われる)。諸注が孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(502557年頃)のものらしいが、芥川が言うように損壊と再建が繰り返され、ここで芥川が登った現在の八角形九層塔は、南宋時代の1153年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ76m、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。

・「蘇州七塔」友人が中文サイトを調べてくれたところによると、六朝時代に始まった「七塔」の名数は時代や数え方で何種類もあるらしい。現在の観光名所としての名数では北寺塔・大同塔・瑞光塔・白塔・双塔(×2)・石塔を指すが、芥川が訪れた時代の名数が同じとは必ずしも言い難い。友人は古跡を含めた白塔・孟子堂の東にある塔・虹塔・司獄司署内にある塔・雄塔・雌塔と、それに妙湛寺にあった塔(現存せず)という記載がそれに近いのではないかと教えてくれた。これだと7つを数えることが出来るのだが、しかし、芥川の謂いの北寺塔が含まれない。とりあえず、前者現代の観光版と同じととっておく。

・「孫權」呉の太祖(182252)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。

・「瑞光寺の古塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m

・「高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである」私はこのヴィジュアルなエンディングが如何にも印象的で好きである。パースペクティヴに富んだ彼の視線の映像と声が鮮やかに聞こえてくる。そうしてその最後の言葉は芥川龍之介版「第三の男」の哲学である。]

2009/07/10

江南游記 十二 靈隠寺

       十二 靈隠寺

 私は薄汚い新新旅館の二階に、何枚かの畫(ゑ)はがきを認めてゐる。村田君はもう寢てしまつた。暗い窓硝子(まどがらす)の一角には、不思議な位鮮かに、一匹の守宮(やもり)がひつ附いてゐる。それを見るのが嫌だから、私は全然わき見をしずに、ずんずん萬年筆を走らせ續ける。………

 豐島與志雄に。

 今日靈隱寺(れいいんじ)に出かける途中、清漣寺と云ふ寺を覗いたら、大きい長方形の池の中に、眞鯉、緋鯉が澤山ゐた。此處は玉泉魚躍とか號して、五色の鯉に名高い寺だと云ふ。尤も五色と云つた所が、實際は精精三色しかない。池に臨んだ亭の中には、籐椅子や卓子(テエブル)が並べてある。其處に腰をかけてゐると、坊主が茶や菓子を持つて來てくれる。くれると云つても唯ぢやない。つまり坊主は鯉を養つてゐるやうだが、實は鯉に養はれてゐるのだらう。君は染井の釣堀に、夜通し絲を垂れる豪傑だから、この寺の鯉を見さへすれば、釣りたくなるのに違ひない。

 小穴隆一に。

 靈隱寺に詣(いた)る。途中小石橋(せうせきけう)あり。橋下(けうか)の水(みず)佩環(はいくわん)を鳴らすが如し。兩岸皆幽竹。雨を帶ぶるの翠色、殆(ほとんど)人に媚ぶるに似たり。石谷(せきこく)の畫境に近きもの乎(か)。僕大いに詩興を催す。然れども旅嚢(りよのう)「圓機活法」なし。畢(つひ)に一詩なき所以(ゆゑん)。ない方が仕合せかも知れない。

 香取秀眞(かとりほづま)氏に。

 靈隱寺は中中大きい寺です。總門をはいつて少し行つた所に、天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)が飛んで來たと云ふ、來峯と號する山があります。(實は山と云ふよりも、大岩と云ふ方が好(よ)いのですが。)其處の石窟(せきくつ)にある佛は、宋元の佛だと云ふ事です。が、僕にはどの佛も、好いのだか惡いのだかわかりません。難有いと思つたのはたつた一つです。尤も石窟の一部分は、連日の雨に水が出てゐましたから、中へはいらずにしまひました。今日も時時雨が來ます。高い杉檜、苔の蒸した石橋(せきけう)、――まあ、この寺の大體の感じは、支那の高野山と思へばよろしい。

 小杉未醒氏に。

 靈隱寺を見ました。杉の幹に栗鼠の駈け上(のぼ)る所なぞは、如何にも山寺らしい閑寂なものです。雨天だつたせゐか、赭(そほ)塗りの大雄寶殿なぞも、甚(はなはだ)落着いた氣がしました。駱賓王(らくひんわう)がゐたと云ふのは、傳説かも知れないが、一應尤らしい氣がします。此處の空氣には何となく、駱賓王じみた所がある。あなたはさう思ひませんか? もう一つ次手に申し上げたいのは、この寺の五百羅漢です。これも勿論御覧だつた事と思ひますが、少くとも二百位は、殆あなたと瓜二つです。冗談でも何でもない、實際あなたにそつくりです。聞けばこの五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像があるさうですが、まさかあなたの遠つ祖(おや)はマルコ・ポオロだつた次第でもないでせう。が、僕は萬里の異域に、あなたと相見(しようけん)する事が出來たやうな、愉快な心もちになりました。

 佐佐木茂索に。

 靈隱寺に詣りし歸途、鳳林寺一名喜鵲寺(きじやくじ)を訪(と)ふ。烏窼(うさう)禪師のゐた寺なり。寺は殆(ほとんど)見るに足らず。唯(ただ)葬ひか何かありしならん、鼠色の袈裟に海老茶の袈裟かけし坊主、何人も經を讀みながら、歩みゐたり。白樂天、烏窼に問ふ。如何か是(これ)佛法の大意(たいい)。烏窼答へて曰、諸惡莫作(まくさ)、衆善奉行。樂天又云ふ。三尺の童子も之を知れり。烏窼笑つて曰、三尺の童子も之を知れど、八十の老翁も行ひ難し。樂天即ち服すと。かう手輕く服された日には、烏窼禪師も氣味が惡かつたらう。寺門の前に支那の子供大勢あり。前綵(ぜんさい)の花を持ちて遊ぶ。雨後夕陽愛すべし。

 手紙を書いてしまつたら、幸ひ守宮も見えなくなつてゐた。明日は杭州を去る豫定である。湧金門(ゆうきんもん)、囘囘堂(くわいくわいだう)、――そんな物を見る暇はないかも知れない。私は多少の寂しさを感じながら、シヤツ一枚になつた後(のち)、ベツドの毛布へもぐりこもうとした。が、思はず飛びのきながら、「こん畜生」と大きい聲を出した。白いべツドの枕の上には、碁石程の蜘蛛がぢつとしてゐる! これだけでも西湖は碌な處ぢやない。

[やぶちゃん注:靈隠寺は雲林寺とも呼ばれ、杭州市街及び西湖の西にある霊隠山の麓に位置する、杭州一の名刹にして中国禅宗十大古刹の一つ。臨済宗。東晋時代、インドから来朝した僧慧理によって開山された(326年)。慧理が杭州の連山を見て「ここは仙霊が宿り隠れている場所である」と言ったことから霊隠寺と名づけられたとする。五代十国時代、杭州が呉越国(907978)の中心であった当時は3000人を越える学僧が修行していたとされ、他に類を見ない大規模な伽藍を誇ったが、相次ぐ火災や戦災、特に太平天国の乱の折に大部分が崩壊し、芥川が当時見たものは清末に再建されたものであった。南側にある石灰岩でできた岩山には沢山の洞窟が掘られ、芥川が「飛来峰の磨崖仏」と呼んでいる五代十国から元代にかけて彫られた338体の石仏が安置されている。特に五代十国の末期の951年に造立された青林洞西岩壁上座像が著名である。但し、私の感触ではここで芥川が「難有いと思つたのはたつた一つ」と言うのは、これではないように思われる。なお、本篇は複数の手紙文を組み合わせた書簡体形式であるが、実際には類似した各人宛の手紙は現在残されておらず、これは書簡体を意識した創作と思われる。

・「豐島與志雄」仏文学者・作家(明治231890)年~昭和301955)年)。東京帝国大学仏文科在学中の大正31914)年2月に芥川龍之介らと第3次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女小説「湖水と彼等」を寄稿している。ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(191819年新潮社刊)やヘッセ「ジャン・クリストフ」(1921年新潮社刊)等の翻訳で知られる。芥川より2歳年上。

・「清漣寺」神田由美子氏の岩波版新全集注解では『現在の玉泉寺』とあるが、ネット上の記載を見ると、現在は寺としては機能していない模様で、杭州植物園の一角として単に「玉泉」と呼ばれているようであり、池のある庭園施設のように紹介されている。玉泉は西湖三大名泉の一つで、今は現地名産の茶をこの玉泉で淹れたものが人気であるとある。

・「玉泉魚躍」「チャイナネット」200271日の記事『中国でよく知られた魚を観る観光スポット(2) 杭州の「玉泉魚躍」』を以下に全文引用する。『玉泉は西湖の三大名泉の1つであり、いままでずっと魚の観賞で有名になり、玉泉は泉の水が緑の玉のようであり、一年中涸れず、四角形の池に集まり、池の中の百尾はいると思われるアオウオが、すぐ後に続いて泳いでおり、群れをなして東へ泳いだり西へ泳いだりし、沈んだり浮かんだりし、和らいだ気持ちで悠々自適であるように見える。池のほとりのあずまやの廊下には明代の著名な書家董其昌の題字である「魚楽図」が掲げられており、池のほとりにホールがあり、大理石の欄干で囲まれている。観光客はお茶をたしなみながら、手すりによりかかって魚を観、「魚が楽しくて人も楽しく、泉が清らかで心がさらに清らかである」という面白みを深く体得するのである。』。文中の「アオウオ」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ソウギョ亜科アオウオMylopharyngodon piceus。中国原産の淡水魚で中国四大家魚(アオウオ・ソウギョ・コクレン・ハクレン及びこれらの魚を同一の池で飼うことによる理想的食物連鎖養魚システムの名称でもある)の一。成魚は2mに及ぶ。コイに似た形態を有するが、ヒゲはない。口はやや下方に伸びており、ベントス食に適す。体色がコイに比べて青みがかっていることからの名称であるが、実際には黒い印象である(以上は主にウィキの「アオウオ」の記載によった)。「董其昌」(とうきしょう 15551636)は明末の文人画家・書家。その書を後の第4代皇帝康煕帝(16541722)が敬愛したため、清朝正統の書ともされた。南宗画を興隆させ、後世、芸林百世の師と呼称されるに至った(以上は主にウィキの「董其昌」の記載によった)。

・「染井」は本郷区染井、現在の東京都豊島区駒込。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、豊島与志雄は大正6(1917)年9月より『本郷区駒込千駄木町に住んでいた』とある。彼の釣好きは彼の諸作品によく現れ、小品「鯉」では夜間に帝大の池に鯉をこっそり釣りに行くさまが描かれている(青空文庫「鯉)。因みにこの染井にある染井霊園を抜けたすぐの豊島区巣鴨にある慈眼寺(日蓮宗)は、芥川龍之介の墓所でもある。

・「小穴隆一」(おあな りゅういち、18941966)洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川より2歳年下。

・「橋下の水佩環を鳴らすが如し」「佩環」は佩玉で、帯び玉、貴人が腰に帯びる飾りの玉の輪を言う。水の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。私はここを「橋下の水珮と爲す」として李賀の「蘇小小墓」を思い出してはくれなかった芥川龍之介を深く恨むものである(「七 西湖(二)」注参照)。唐の柳宗元の「至小丘西小石潭記」に「如鳴佩環」とあり、田山花袋の「山水小記」(大正7(1918)年富田文陽堂刊)の「日光」の中の鬼怒川を描写する一節にも「水の鳴ること佩環の如く」とある。

・「石谷」王翬(おうき 16321717)清初の画家。石谷は字。南宋・北宋の画風を統一して清の新たな正統的様式を完成、世に画聖と称された。

・『「圓機活法」』王世貞校正・楊淙(ようそう)参閲になる明代の作詩用辞書。24巻。天文・時令・節序・地理などの44門を更に細目化し、それぞれについて叙事・事実・品題・大意等を解説、その下に故事成句等を配す。「円機詩韻活法全書」等、異名多し。神田由美子氏の岩波版新全集注解に芥川の蔵書の中には1884年刊本があるとする。これは明治17年山中出版舎刊行になる石川鴻斎訂正版の和本であろう。和訳本には「詩学筌蹄」「和語円機活法」等がある。

・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和291954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。芥川より18歳年上。

・「靈鷲山」インドのビハール州の中央部に位置する山。釈迦在世時はマガダ国の首都王舎城の東北、尼連禅河(にれんぜんが)の側であった。釈迦はここで8年の間、無量寿経や法華経を説いたとされる。一説にその頂上が平らになっており、それがハゲワシの形をしているからという(ウィキの「霊鷲山による)。

・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん、明治141881)年~昭和391964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。{帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。

・「赭塗り」赤の顔料を塗った壁の意。「赭」は本来は「赭土」(そおに)で、赤色の土・赤土を指し、上代には顔料等に用いた。

・「大雄寶殿」霊隠寺の本殿。ここで芥川が見たのは民国初年に再建されたもの。後、解放直後に倒壊し、内部の仏像も壊れた。現在のものは1956年に再建されたもの。

・「駱賓王」(640?684?)は初唐の著名な詩人。「初唐四傑」の一人。性格は傲慢にして剛直。官僚となって武則天(則天武后 623?705)に対し、数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷された。出世の望みを失い、官職を棄てて去った後、684年に名将李勣(りせき)の孫であった李敬業が武則天に謀叛を起こすと、その一味として武則天を誹謗する檄文を起草、その罪を天下に伝えんとした。武則天はその檄を手に入れると、部下に読ませた。「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」の辺りまでは笑っていたが、「一抔土未乾、六尺孤安在」(一抔の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る:武則天に殺された王族の墓の土は未だに血の湿りをもって乾かない――ああその遺児たちはいったいどこでどうしているのだろう。)の句に至って、愕然としてその作者の名を問い、かの駱賓王であることを知ると、逆に「このような才人を流謫不遇の徒としたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱平定後は、行方不明となったが(一説には誅殺されたとする)、ここ霊隠寺に隠れ住んでいたという伝説もある。宋子問に「靈隠寺」と題する詩があるが、これはその駱賓王隠棲伝承に因む曰く附きの詩である。石九鼎氏の「千秋詩話 16 駱賓王」をお読みあれかし。

・「この五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像がある」本邦の盛岡にある報恩寺の五百羅漢にはマルコ・ポーロやフビライ・ハンの像が入っているらしいというので調べてみると、第百番善注尊者と第百一番法蔵永劫尊者の像が中国で1840年頃からマルコ・ポーロ像、ジンギスカンの孫フビライ像といわれるようになったという記事を発見した(「盛岡歴史探究館」の「羅漢曼荼羅」内)因みにMarco Poloマルコ・ポーロ(12541324)は杭州を「世界で最も美しく華やかな土地」と讃美している。

・「佐佐木茂索」(明治271894)年~昭和411966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和211946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。芥川より2歳年下。

・「烏窼禪師」は鳥窠道林(ちょうかどうりん 741824)のこと。中唐の禅僧。円修禅師と諡(おくりな)された。径山道欽(どうきん)の法灯を受く。後、杭州の秦望山に隠棲し、鳥の巣のように松の枝葉が茂った庵に住んだことから鳥窠禅師・鵲巣(じやくそう)和尚と呼ばれた。白居易との交流は極めて著名で、ここで芥川が綴るエピソードは人口に膾炙する禅問答・公案である。大意を示すと、ある時、杭州太守であった白居易が鳥窠禅師に仏法の真意とはと尋ねたところ、禅師は「諸惡作(な)すこと莫(な)かれ、衆善(しゆぜん)奉行」(ぶぎやう)せよ」(悪いことはするな、ただひたすらに良いことをせよ)という「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)の一節をもって答えた。それを聞いた白居易がうっかり「それは三つの童子も知るところですね」と答えたところが、禅師は笑って、「三つの童子でも知っているが、八十の老人であってもそれをまことに行なうことは難しい」と言った。それを聞いた白居易は即座に悟って、西湖孤山に竹閣(「六 西湖(一)」の「孤山寺、今の広化寺」の注参照。現在の広化寺)を建て、そこに鳥窠禅師を招いて朝夕に参禅したという。

・「剪綵」綾絹を花鳥形に切りぬいたもの。又は色糸で作った造花。「綵」は繊維や布が彩られたさま。人形(ひとがた)た花鳥に切り抜いたものは古来からあり、玩具や飾り、天井装飾などに用いられた。

・「湧金門」西湖の四水門の一。西湖東岸にあるが、芥川がこの地名を出したのは「水滸伝」絡みと推測する。その第四一話「魂帰湧金門」で、南軍への使者に立った水軍の頭、張順が兄弟たちの見守る中、身をもって矢襖(やぶすま)となった場所が、ここである。

・「回回堂」筑摩全種類聚は未詳、岩波版は注に挙げてさえいないが、これは杭州中山中路に現存する武林真教寺、通称で鳳凰寺と呼ばれるイスラム教のモスクの別称である。唐代に建立され、元初期にペルシア人によって再建された。建物の外観が羽を広げた鳳凰の姿に似ていることから鳳鳳寺と呼ばれることが多い。礼拝堂である無梁架はメッカに向かって建てられており、中央の壁には1451年に刻まれたアラビア文字のコーラン(中国語「古蘭經」)が嵌め込まれている。中国東南沿海域の4大イスラム寺院の一つ(以上は複数の中文サイトを参照にした)。

・「これだけでも西湖は碌な處ぢやない」最後に、西湖に禍々しい守宮と蜘蛛を配して、生理的な嫌悪の対象と化した西湖に唾棄する。]

2009/07/09

感懐

君は僕が嫌いだね

僕にはそれがよく分かる

しかし

――それでも僕が君を好きなことを

君は分かっていない――

それでも

いいんだ

だって僕は 君は誰かを 総ての人に繋がる「誰か」を 愛していることを

僕は知っているから――

随分 御機嫌よう

またね!

「先生も褌(ふんどし)ですか?」

先日、国語科の歓送迎会があったが、仕事が遅くなって、同僚の女教師と一緒に会場に向かうために校門の前でタクシーを待っていた。

彼女はまだ20代である。後で知ったのだが、僕とちょうど二周り違うのであった。

タクシーはなかなか来ない。待っている僕の左側の少し後ろで彼女は楚々として佇んでいた。

私が左肩にかけたザックの下方には、母がくれた私の干支である縮緬細工の鶏のストラップがぶら下がっている。

彼女はそれをくりっとした澄んだ眼で見下ろしながら――それは丁度私の臀部あたりにぶら下がっていた――徐ろに僕に訊いたのであった。

「先生も褌(ふんどし)ですか?」

……僕は思わず反射的に応えてしまった……

「え! 貴女(あなた)、褌はいてるの!?」

……僕は二年前の暮、ベトナムに旅した際、航空性中耳炎のために左耳の聴力が低下しているのである。勿論、彼女は

「先生も酉年(とりどし)ですか?」

と訊いたのであった……

――しかし僕はそれが下着の線が出ないことから外國の女性の間で流行(はや)つてゐるといふことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雜誌か新聞かで讀んでゐたやうな氣がした。――

*   *   *

……こんな馬鹿なことを綴っているうち、丁度10分前、4:34に小鳥と鴉の声に交って、あの……彼岸の声が……蜩が、鳴き出していた……白んでくる空を背景に、僕の左目の金魚鉢の中のメダカも、蜩の音(ね)に元気よく泳ぎまわり始めている……

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