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2017/09/20

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 𧓡蠓(まくなぎ) 附 蠁子(さし)


Makunagi

かつをむし 醯雞

まくなき

𧓡

      【和名加豆乎蟲

       又云末久奈木】

モツ モン

 

三才圖會云小蟲生酒及食醯亂飛者也列子云生朽壤

之上因雨而生覩陽而死

爾雅注云飛磑則風舂則天雨言將風則旋飛如磑一上

一下如舂則雨

△按𧓡蠓腐肉食醯溝泥中多有之形似蠅而小翅身皆

 灰色背窄其大婦過一分

――――――――――――――――――――――

さし

蠁子

 和名抄引蔣魴切韻云蠁子【和名佐之】酒醋上小

 飛虫也

△按蠁子醬醋腐肉中初生蛆羽化爲小蠅身黒羽灰黃

 色大不過一分以蟲眼鏡視此與蠅無異然非蠅子而

 一類二種【卵生化生】爲異

 

 

かつをむし 醯雞〔(けいけい)〕

まくなぎ

𧓡

      【和名、「加豆乎蟲」。又、「末久奈木」と云ふ。】

モツ モン

 

「三才圖會」に云はく、小さき蟲。酒及び食-醯〔(す)〕に生じて、亂れ飛ぶ者なり。「列子」に云はく、『朽壤〔(きうじやう)〕の上に生じ、雨に因りて生じ、陽〔(ひ)〕を覩(み)て死す。』〔と〕。

「爾雅」の注に云はく、『飛びて、磑(うすひ)く〔ときは〕、則ち、風、ふく。舂(うすつ)くときは、則ち、天、雨ふる。言(いふこころ)は、將に風ふかんと〔せば〕、則ち、旋(めぐ)り飛びて、磑(〔うす〕ひ)くがごとく、一〔(ひと)〕つ上り、一〔(ひとつ)〕は下りて、舂(〔うす〕つ)くごとき〔とき〕は、則ち、雨ふる。』〔と〕。

△按ずるに、𧓡蠓〔(まくなぎ)〕は、腐りたる肉・食-醯(す)・溝泥の中に多く之れ有り。形、蠅に似て、小さく、翅・身、皆、灰色。背、窄(すぼ)く、其の大いさ、一分に過ぎず。

――――――――――――――――――――――

さし

蠁子

「和名抄」に蔣魴〔(しやうばう)〕が「切韻」を引きて云はく、『蠁子【和名「佐之」。】酒・醋の上、小にして、飛ぶ虫なり。』〔と〕。

△按ずるに、蠁子は醬〔ひしほ)〕・醋〔(す)〕・腐肉の中、初め、蛆(うじ)を生じ、羽化して、小蠅と爲る。身、黒く、羽、灰黃色。大いさ、一分に過ぎず。蟲眼鏡(むしめがね)を以つて視るに、此れ、蠅と異なること、無し。然れども、蠅の子に非ず、一類にして二種【卵生・化生。】、異と爲す。

 

[やぶちゃん注:「まくなぎ」は一般に小さな羽虫の総称である。他に「めまとひ」「めまわり」「めたたき」などとも呼ぶのは蚊柱由来である。「まくなぎ」は「日本書紀」に既に虫として用例が出るもので、「ま」は「目」で、彼らが眼の前を群れを成して飛び交うために思わず「瞬く」ことから出来た語とも、目先が「目暗(メクラミ)」「目眩み」するから生じたとする説があるようだ。しかし、「くなぐ」(古形は「ぐなぐ」)が動詞なら、これは断然、「男女が交合する」の意の動詞「婚(くな)ぐ」だろう。古形が「まぐなき」ならますます「まぐはひ」に近い。そう思ってネットを調べてみると、高野ムツオ氏のサイト「小熊坐」のこちらで、『糠蚊が目に入ることを、「くなぐ」と見たという説もあるが』、蚊柱として『蚊が一塊になるのはオスとメスの交接のためだから、小さな蚊の性の饗宴を、「くなぐ」と言ったのかも知れない』とあるのを見つけた。この解釈も(古人が蚊柱を性の競演と認識したかどうかは別として)、また、洒落た一興ではないか。

 さて、前にも注したが、これらは、主に蚊柱を立てる、現在のヌカカ(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidae:糠蚊で糠のように小さい意。が激しく吸血する)や、刺さないユスリカ(蚊柱の様から「揺り蚊」)及びガガンボダマシの類に相当する。ここは特に吸血を特筆していないので、広義のそれらで採るのがよいか

と思ったのであるが、しかし、である。どうも、おかしい。

内部別項で後に立てた「蠁子(さし)」(因みに、東洋文庫版では、これに「きょうし」とルビを振るが、原典ははっきりと「さし」と振っており、完全な誤りである。三省堂の「大辞林」も「さし」の見出しに「蠁子」で漢字を当て、「①魚の頭などで人工的に繁殖させたキンバエの幼虫。釣りの餌(えさ)に用いる」「②糠味噌(ぬかみそ)・酒粕(さけかす)などにつく小さい蛆(うじ)。ショウジョウバエの幼虫」とする)では、珍しく虫眼鏡を持ちだした良安先生が、はっきりと「外形上は蠅と何ら異なるところがない」と言い切っている。採取する際にも刺されたり、それを警戒した風もさらさらない。さらに「まくなぎ」も含めてその発生場所を見るに、これにはまさに正しい蠅、それも有意に小さな蠅、ほれ、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ミギワバエ上科ショウジョウバエ科 Drosophilini族ショウジョウバエ属 Drosophila のショウジョウバエ類が主に含まれている見るべき

なのではなかろうか? ウィキの「ショウジョウバエ」を見ても、『ショウジョウバエ属は』『十七亜属に分類され、日本には』七『亜属が生息する。多くの種は体長』三ミリメートル『前後と小さく、自然界では熟した果物類や樹液およびそこに生育する天然の酵母を食料とする。酵母は果実や樹液を代謝しアルコール発酵を行うため、ショウジョウバエは酒や酢に誘引されると考えられる。大半の種は糞便や腐敗動物質といったタイプの汚物には接触しないため、病原菌の媒体になることはない』(本文には「腐肉」「溝泥」とも必ず添えられるが、これは普通の蠅の蛆からの敷衍憶測であって正確な観察ではないと考えてよい)。『ショウジョウバエの和名は、代表的な種が赤い目を持つことや酒に好んで集まることから、顔の赤い酒飲みの妖怪「猩々」にちなんで名付けられた日本では一般には俗にコバエ(小蝿)やスバエ(酢蝿)などとも呼ばれる。学名の Drosophila は「湿気・露を好む」というギリシャ語』『(drosos) + 』『(phila) にちなむ。これはドイツ語での通称が「露バエ」を意味する Taufliegen (Tau + Fliegen) であることによる。英語では俗に fruit fly (果実蝿)、 vinegar fly (酢蝿)、 wine fly (ワイン蝿)などと呼ばれる』(下線やぶちゃん)とあるから、ますます、決まりだぁね!

 

「醯」酢。

「かつをむし」「日本国語大辞典」に「和名類聚抄」(十巻本)を引用して糠蚊の古名とするが、何故「かつを」なのかは不明である。識者の御教授を乞うものである。

「食-醯〔(す)〕」食酢。

「列子」「朽壤の上に生じ、雨に因りて生じ、陽〔(ひ)〕を覩(み)て死す」「列子」の「湯問第五」に『朽壤之上有菌芝者、生於朝、死於晦。春夏之月有蠓蚋者、因雨而生、見陽而死。』(朽されたる壤(つち)の上に菌芝(きんし)なる者、有り、朝(あした)に生じて、晦(ゆふべ)に死(か)る。春・夏の月、蠓蚋(まうぜい)なる者、有り、雨に因りて生じ、陽を見て死す。)とある。「菌芝」は茸(きのこ)の名。「死(か)る」は「枯る」。「蠓蚋」は𧓡蠓に同じい。

「飛びて、磑(うすひ)く〔ときは〕、則ち、風、ふく。舂(うすつ)くときは、則ち、天、雨ふる。言(いふこころ)は、將に風ふかんと〔せば〕、則ち、旋(めぐ)り飛びて、磑(〔うす〕ひ)くがごとく、一〔(ひと)〕つ上り、一〔(ひとつ)〕は下りて、舂(〔うす〕つ)くごとき〔とき〕は、則ち、雨ふる」彼らが群れ飛んで臼を挽くように、空間内で回転して飛ぶ時は、風が吹く前兆であり、その群れが、回転ではなく、臼を搗くように有意に空間を上下する時は、雨が降る前兆である、と言っているのである。

『蔣魴〔(しやうばう)〕が「切韻」』不詳。「切韻」は隋の陸法言が撰した作詩家のために提供された、反切法による韻引きのための辞書。六〇一年序。六朝時代の韻書の集大成であるが、現在では失われた中国に於ける中古音を再現するための不可欠な資料となっている。東洋文庫の書名注にも『不詳』とする。要するに、確かに「和名類聚抄」には「切韻」として知られた陸法言のそれ以外に、孫愐なる人物の「切韻」とか東宮の「切韻」なるものが登場するものの、その正体は既に判らなくなってしまっているということである。知られた「切韻」は増補改訂されており、その間に原本を含め、散逸したものが多数あるから、その中の断片を指しているものとは思われる。

・「醬〔ひしほ)〕」嘗め味噌の一種。大豆・麦・麹・塩などから作る。また、その中に茄子や瓜などを漬け込んでお新香を作った。

「一類にして二種【卵生・化生。】」姿形は全く同じなのに、蠅は卵生でも、蠁子は化生だと言い張る良安先生なのであった。単に小さいのは観察するのが面倒だから、みんな十把一からげに化生にしているんじゃありませんか? 先生?!]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 竹蝨(やぶじらみ)


Yabujirami

やぶじらみ 竹佛子

      天厭子

竹蝨

      【俗云 藪蝨】

チヨ スヱツ

 

本綱生竹及草木上初生如粉點久能動百千成簇形大

如蝨蒼灰色或云濕熱氣化或云蟲卵所化

 

 

やぶじらみ 竹佛子

      天厭子

竹蝨

      【俗に「藪蝨」と云ふ。】

チヨ スヱツ

 

「本綱」、竹及び草木の上に生ず。初生、粉を點ずるかごとく、久しくして能く動き、百千、簇〔(むれ)〕を成す。形ち、大きく、蝨〔(しらみ)〕のごとく、蒼灰色。或いは云ふ、濕熱の氣化、或いは云ふ、蟲の卵の化する所なり。

 

[やぶちゃん注:極めて小さいこと、爆発的な繁殖力を有することから見て、節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目ケダニ亜目ハダニ上科 Prostigmata 或いはその下位のハダニ科 Tetranychidae に属する種と思われる(ハダニ上科には他にヒメハダニ科 Tenuipalpidae とケナガハダニ科 Tuckerellidae がある)。ただ、こうした植物摂餌性のハダニ類は多くが摂餌対象植物を特化しており、挿絵が竹の葉に附着したそれを描いており、本文もまず「竹」とするのが気になり、調べて見たところ、ハダニ科ナミハダニ亜科ナミハダニ族 Tetranychini にスゴモリハダニ属 Stigmaeopsisがあり、そこにササ・タケ類を食害する「タケスゴモリハダニ」なる種を見出せた(但し、学術論文を縦覧すると、分類学上、ここに属させて Stigmaeopsis celarius とする記載と、新属としてタケスゴモリハダニ属タケスゴモリハダニ Schizotetranychus celarius とする二様の記載が見出せた)。さらに「日本応用動物昆虫学会」の運営する「むしコラ」の斉藤裕氏の福建省タケ害虫問題の顛末を読むと、学名は不明ながら、高級竹材である孟宗竹を枯死させる到る種としてナンキンスゴモリハダニ・イトマキハダニ(これは恐らくは現在、「イトマキヒラタハダニ」に改称されたナミハダニ亜科ヒロハダニ族ヒラハダニ属イトマキヒラタハダニ Aponychus corpuzae)及びタケトリハダニ、さらにハダニ類に近縁のフシダニの名が挙げられてある。ただ、やや気になるのは「蒼灰色」とある体色であるが、ウィキの「ハダニには、『ハダニ類の体色には黄色、黄緑、赤、橙など様々な色のものがある。また、食物の摂取状態や季節によっても色が変わり、見た目が全く異なることがある』とあるから、青みを帯びた灰色もアリか。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚋子(ぶと)


Buyu

ぶと  蜹【同】 蟆子

    【俗云布止】

蚋子

 

ナ ツウ

 

本綱蚋子小蚊也又小而黒者爲蟆子微不可見與塵相

浮上下者爲浮塵子皆巣巴蛇之鱗中能透衣入人肌膚

囓成瘡也惟搗楸葉傅之則出

按蟆子夏月在山谷中似蚊而小脚亦短黒色晝多出

 螫人腫痛最烈和名抄以蜹訓太仁者非【太仁者壁蝨也見卵生下】

 

 

ぶと  蜹【同。】 蟆子〔(まくし)〕

    【俗に「布止〔(ぶと)〕」と云ふ。】

蚋子

 

ナ ツウ

 

「本綱」、蚋子は小さき蚊なり。又、小さくして黒き者を「蟆子(まくし)」と爲す。微にして見るべからず。塵と相ひ浮きて上下する者を「浮塵子〔(ふじんし)〕」と爲す。皆、巴蛇〔(はだ)〕の鱗〔(うろこ)の〕中に巣〔(すく)ふ〕。能く衣を透(とほ)して人の肌膚〔(はだへ)〕に入りて囓(か)み、瘡を成すなり。惟だ、楸葉〔(ひさきば)〕を搗(つ)き、之れを傅〔(つ)く〕れば、則ち、出づ。

按ずるに、蟆子(ぶと)、夏月、山谷の中に在り。蚊に似て、小さく、脚、亦、短く、黒色。晝、多く出でて人を螫す。腫れ痛むこと、最も烈(はげ)し。「和名抄」に「蜹」を以つて「太仁〔(だに)〕」と訓ずるは非なり【太仁は「壁蝨〔(へきしつ)〕」なり。卵生下に見ゆ。】

 

[やぶちゃん注:吸血性の双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeの昆虫の総称ウィキの「より引く。『関東ではブヨ、関西ではブトとも呼ばれる』。『成虫は、イエバエの』四分の一ほどの小ささ(約三~五ミリメートル)で『透明な羽を持ち、体は黒っぽく丸まったような形をしているものが多い。天敵はトンボなど。日本では約』六十『種ほどが生息しており、主に見られるアシマダラブユ』(ブユ科ブユ亜科ブユ族アシマダラブユ属Simulium亜属アシマダラブユ Simulium japonicum)『は全国各地に、キアシオオブユ』(オオブユ族 ProsimuliumProsimulium yezoense)『は北海道、本州、九州に分布する』。『春に羽化した成虫は交尾後、水中や水際に卵塊を産み付ける。卵は約』十『日で孵化し、幼虫は渓流の岩の表面や水草に吸着し』、三~四『週間で口から糸を吐きそのまま水中で蛹になり、約』一『週間ほどで羽化する。成虫になると基本的に積雪時を除き一年中活動するが、特に春から夏』(三月~九月)『にかけて活発に活動する。夏場は気温の低い朝夕に発生し、昼間はあまり活動しない。』但し、『曇りや雨など湿気が高く日射や気温が低い時は時間に関係なく発生する。また、黒や紺などの暗い色の衣服や雨合羽には寄ってくるが、黄色やオレンジなどの明るい色の衣服や雨合羽には比較的寄ってこない』。『上記のようにブユの幼虫は渓流で生活しているため、成虫は渓流の近くや山中、そうした自然環境に近いキャンプ場などで多く見られる。また、幼虫は清冽な水質の指標昆虫となるほど水質汚染に弱いため、住宅地などではほとんど見られない』。『カやアブと同じくメスだけが吸血するが、それらと違い』、『吸血の際は皮膚を噛み切』って『吸血するので、多少の痛みを伴い、中心に赤い出血点や流血、水ぶくれが現れる。その際に唾液腺から毒素を注入するため、吸血直後はそれ程かゆみは感じなくても、翌日以降に(アレルギー等、体質に大きく関係するが)患部が通常の』二~三『倍ほどに赤く膨れ上がり激しい痒みや疼痛、発熱の症状が』一~二『週間程現れる(ブユ刺咬症、ブユ刺症)。体質や咬まれた部位により腫れが』一ヶ月以上『ひかないこともままあり、慢性痒疹の状態になってしまうと』、『完治まで数年に及ぶことすらある。多く吸血されるなどした場合はリンパ管炎やリンパ節炎を併発したり』、『呼吸困難などで重篤状態に陥ることもある』(私はワンダーフォーゲル部の引率で丹沢で刺されたことがある。三ヶ月近く痕が消えず、女生徒の中には無数に手足を刺されて長く痛々しい姿であったのを思い出す)。『予防に関しては、一般的なカ用の虫除けスプレー等は効果が薄いので、ブユ専用のものを使うことが有効である(ハッカ油の水溶液でもよい)。また長袖や長ズボン、手甲や脚絆などを身につけ、素肌を露出させないことも重要である。吸血された場合は傷口から毒を抜いてステロイド系の薬(ステロイド外用薬)を塗る。また、掻くと腫れが一向に引かなくなり(結節性痒疹)、治ったあともシミとして残るので、決して傷口を触らないこと』が肝要である、とある。

「微にして見るべからず」あまりに微小であるために視認することが出来ない。

「浮塵子〔(ふじんし)〕」本邦ではこの熟語は普通、カメムシ目ヨコバイ亜目 Homoptera の属するウンカ類(群)に当てる。ウィキの「ウンカによれば、『カメムシ目ヨコバイ亜目の一部のグループで、アブラムシ、キジラミ、カイガラムシ、セミ以外の、成虫の体長が5mm程のものである。そのような範疇の昆虫のいわば典型の一つがウンカであるため、この仲間にはウンカの名を持つ分類群が非常に多い。なお、「ウンカ」という標準和名を持つ生物はいない』とし、『遠く東南アジア方面から気流に乗って毎年飛来する。時に、大発生して米の収穫に大打撃を与えるだけでなく、ウイルスなどの伝播の媒体ともなる。江戸時代に起きた享保の大飢饉や天保の大飢饉の原因とされ、稲作文化圏では忌避される』。『ウンカ類を餌とする小型のトンボ類は益虫とされている』。半翅目同翅亜目頸吻群(Auchenorrhyncha)ハゴロモ上科ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科 Nilaparvata 属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科 Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus『などがイネの害虫である。これらはいずれも良く跳びはね、また良く飛ぶ虫である。しかし翅多型をあらわし、定着時には羽根の短いいわゆる短翅型がでる。これは繁殖力が強く、その周辺一帯で大発生を起こすため、水田には丸く穴が空いたように枯れた区画を生じる。これを俗に「坪がれ」と呼ぶ』。『また、アブラムシ同様に排泄物がすす病を引き起こすことが多い』。これら三種のうちで、『ヒメトビウンカは寒さに強いため』、『日本の冬を越すことが可能で、他のイネ科植物にも寄生できる。なおかつ』、『イネ縞葉枯病、イネ黒すじ萎縮病などのウイルス病を媒介するので一番』、『問題となる』、。『対策としては、ネオニコチノイドなどの殺虫剤や、油を使って窒息死させる物理的駆除が行われる。江戸時代には、鯨油を水田に張り』(一アールにつき、二、三滴というごく少量)、『ウンカを叩き落して駆除する手法が筑前地方から広まっていった』とある。あまり知られているとは思われないので附言しておくと、ウンカやヨコバイ類(頸吻群セミ型下目ツノゼミ上科ヨコバイ科Cicadellidae)は、しばしば、人を刺す。無論、彼らは植物吸汁性であって、その習性を、人の皮膚上でたまたま起こすに過ぎず、吸血しないものの、口針を挿入した際に唾液が人体に注入され、これにより体質によっては大変な痒みを生じ、黒い痣となって一年以上も完治しないことがある(最後の部分は(株)今村化学工業白蟻研究所公式サイト内の記載に拠った)。従って、この「蚋子」の項にウンカが入っていても、何ら問題がないのである。

「巴蛇〔(はだ)〕」伝説上の大蛇。「黒蛇(こくだ)」「黒蟒(こくぼう)」とも称する。ウィキの「(はだ)によれば、『『山海経』海内南経によると、大きなゾウを飲み込み』、三『年をかけてそれを消化したという。巴蛇が消化をしおえた後に出て来る骨は「心腹之疾」』『の薬になるとも記されている。また、『山海経』海内経の南方にある朱巻の国という場所の記述には「有黒蛇 青首 食象」とあり、同じよう大蛇が各地に存在すると信じられていた。『山海経』の注には「蛇(ぜんだ)吞鹿、鹿已爛、自絞於樹腹中、骨皆穿鱗甲、間出、此其類也」とあってゾウの話は蛇(大蛇)がシカなどを飲み込むような事を示したものであろうと書いている』『『聞奇録』には、山で煙のような気がたちのぼったのを見た男があれは何かとたずねたら「あれはヘビがゾウを呑んでるのだ」と答えられたという話が載っている』。『ゾウ(象)を食べるというのはウサギ(兔)という漢字との誤りから生じたのではないかとの説もある』。とあって、最後には『『本草綱目』では蚋子(蚊の小さいもの)は巴蛇の鱗の中に巣をつくる、と記している』とここに挙がる一節も出されてある。

「楸葉〔(ひさきば)〕」「楸」(「ひさぎ」とも)はキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus のこと。その葉は「野梧桐葉(やごどうよう)」として「日本薬局方」に記載の生薬で、漢方サイトによれば、葉を搗き砕いて貼ると、種々の腫物・乳腺炎・痔・湿疹・頭瘡・あせも・かぶれ・痒み止めに効果があるとある。

「則ち、出づ」という表現から見ると、刺した蚋が傷口から侵入して中にそのまま巣食っていると考えたものか。

「太仁〔(だに)〕」節足動物門鋏角亜門クモ綱ダニ目 Acari に属するダニ類。但し、次注参照

「壁蝨〔(へきしつ)〕」なり。卵生下に見ゆ」先行する壁蝨を参照されたい。そこで私は鋏角亜門クモ綱ダニ目マダニ亜目マダニ科 Ixodidaeのマダニ類を考証の射程に入れつつも、この「壁蝨」を、最終的には、吸血性寄生昆虫である、所謂、ナンキンムシ、半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ下目トコジラミ科トコジラミ属トコジラミ Cimex lectularius に比定した。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 孑孓(ぼうふりむし)


Bouhura

ぼうふりむし 蛣 蜎蠉

       赤蟲 釘倒蟲

       【俗云棒振蟲

 

三才圖會云夏秋間積水惡濁則生之其身既短好聳腰

而上群浮水際遇人暫下其行一曲一直獨以腰爲力若

人無臂故曰孑【孑人無右臂也人無左臂也】經日稍久則蛻而爲蚊

△按孑溝泥中濕熱相感生小蟲長二三分灰黑色微

 似科斗形而常一曲一直如振棒狀故名之經日羽化

 爲蚊

五雜俎云𧓡蠓之育於醯醋芝櫺之産於枯木蛣之滋

於泥淤翠蘿之秀於松枝彼非四時所創匠也皆因物成

形自無而生有耳

 

 

ぼうふりむし 蛣〔(きつけつ)〕 蜎蠉〔(けんけん)〕

       赤蟲〔(あかむし)〕 釘倒蟲〔(ていたうちゆう)〕

       【俗に「棒振蟲」と云ふ。】

 

「三才圖會」に云はく、『夏・秋の間、積水、惡濁〔して〕、則ち、之れを生ず。其の身、既に短くして、好く腰を聳へて上り、群(むらが)り、水際(きは)に浮かぶ。人に遇へば、暫く下り、其の行くこと、一曲一直、獨り、腰を以つて力と爲す。人の臂〔(ひじ)〕の無きがごとし。故に「孑」と曰ふ【「孑」は人〔の〕右の臂無きなり。「」は人〔の〕左の臂無きなり。】日を經ること、稍〔(やや)〕久しきときは、則ち、蛻〔(もぬけ)〕して、蚊と爲る』〔と〕。

△按ずるに、孑は、溝泥の中、濕熱、相感して、小蟲を生〔ぜるもの〕。長さ、二、三分、灰黑色。微〔(かすか)に〕科斗(かいるのこ)の形に似て、常に一曲一直、棒を振る狀のごとし。故に之れを名づく。日を經て、羽化して蚊と爲る。

「五雜俎」に云はく、『𧓡蠓(まくなぎ)、醯-醋(す)に育(そだ)ち、芝櫺(れいし)の枯木に産(は)へ、蛣(ぼうふりむし)の泥-淤(どろ)に滋(しげ)る。翠-蘿(つた)の松枝〔(まつがえ)〕に秀(ひい)づる。彼、四時の創匠する所に非ず。皆、物に因りて形を成し、無よりして有を生ずるのみ。

 

[やぶちゃん注:前項の双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae に属する蚊類(亜科はオオカ亜科 Toxorhynchitinae・ナミカ亜科 Culicinae・ハマダラカ亜科 Anophelinae に分かれる)の水棲幼虫である「ボウフラ」良安が、連続させるとは言え、全くの別項として立てるのは、今までも見て来た通り、彼がトンデモ化生説の熱烈な信望者だからである。則ち、彼はここで述べているように、「ぼうふら」は汚ない汚水の溜まった溝泥の中で湿気と熱気が相感応して忽然と生じた生物であり、それが日を経ると、また、忽然と羽化して「蚊」になると信じているからである。何故、成虫の蚊が水際や水面に産卵したものが、「ぼうふら」を経て、蛹(オニボウフラ)となって、成虫の蚊となる、という筋道を外の虫のように辿れないのかは判らぬ。或いは、良安は目が悪く、蚊の微小な卵を観察出来なかったからかも知れぬ。というより、彼の論理の系の中では基本的には完全変態の生活環を認めることに強い違和感があり続けたとするのが正しいのかも知れない。なお、ウィキの「によれば、『蚊の幼虫のボウフラは水中の有機物を分解し、バクテリアを食す。バクテリアも有機物を分解するが、排泄物で水を汚すため、バクテリアが増えすぎると水中の酸素が少なくなり』、『生物が住めなくなってしまう場合がある。ボウフラはバクテリアを食べ、呼吸は空気中から行うことで、水環境を浄化する作用がある』とある。ここに出るボウフラの運動については、ミリ波氏のブログ「プロムナード」の夏休みの自由研究ボウフラ観察のススメがよい。それによれば、彼らはかなり巧緻な『重力センサーを体内に持っている』と思われ、その一見、『無駄な動きのように見える彼等のクネクネ運動』(本文の「一曲一直」)も、実は『意味のある』精緻な『運動情報として遺伝子上にプログラミングされ、代々に渡って伝承されているという』とある。まさに、たかがボウフラ、されどボウフラ、である。

 

「孑」「孑」は音「ケツ・ケチ・キチ・キツ・(慣用音)ゲツ」で、」(音「ケツ・クワチ(カチ)・キヨウ(キョウ)・ク・クツ・クチ)は「孒」が正字と思われる。「廣漢和辭典」によれば、孰れも象形で、「孑」は『子の右ひじを欠き、いとけないひとりの意を表す』とし、「孒」は『子どもの左うでを切りとった形にかたどる』とする。ウィキシュナリーの「には『奴隷階級の子供を逃さないように、腕を切り取ったものか』という驚くべき説が載る。

「赤蟲」これは刺さない蚊で、蚊柱を作ることで知られる、カ下目ユスリカ上科ユスリカ科 Chironomidae のユスリカ類の幼虫を指している。ウィキの「ユスリカによれば、『幼虫はその体色からアカムシまたはアカボウフラと呼ばれるが、カの幼虫である本来のボウフラとは形状が大幅に異なる。通常細長い円筒形で、本来の付属肢はない。頭は楕円形で、眼、触角、左右に開く大腮や、そのほか多くの付属器官があり、これらの微細な形態が幼虫の分類に使われる。口のすぐ後ろには前擬脚と呼ぶ』一『つの突起があり、その先端には多くの細かい爪があって付属肢の様に利用する。腹部末端にも』一『対の脚があり、やはり先端に爪があり体を固定したりするのに役に立っている。また通常、体の後端には数対の肛門鰓をもっており』、ユスリカ亜科ユスリカ属Chironomus『など一部のグループには腹部にも血鰓(けっさい:血管鰓とも言う)を有するものもある』とあり、また、『非常に種類が多く、世界で』約一万五千種、本邦では約二千種ほどが『記載されて』おり、これは『水生昆虫の中で』も一『科で擁する種数が最も多いものの一つである』とある。

「蛻〔(もぬけ)〕」脱皮。読みは先行の本文ルビに拠った。

「科斗(かいるのこ)」蝌蚪(おたまじゃくし)。しかし……あんまり似てるとは思わんがなぁ……

𧓡蠓(まくなぎ)」小さな羽虫。現在のヌカカ(ユスリカ上科ヌカカ科 Ceratopogonidaeが激しく吸血する。私は山や海でさんざん刺された。後から異様に痒くなり、傷の治りも悪いのを特徴とする。次の次に独立項として出る)や、刺さない先に挙げたユスリカ及びガガンボダマシ(糸角(カ)亜目ガガンボダマシ科ガガンボダマシ属 Trichocera。「ダマシ」で判る通り、形状は似ているものの糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae とは縁遠い。ガガンボは春から夏に見られるのに対し、ガガンボダマシは主に冬に出現する)の類に相当する。

「芝櫺(れいし)」ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ(茘枝)Litchi chinensis か、或いはモクレン目バンレイシ科バンレイシ属バンレイシ(蕃茘枝)Annona squamosa か。「櫺」の字は櫺窓(れんじまど:連子格子の窓)のそれで、そのゴッツさからは後者のように思われるものの、枯れ木に実るという意味がよく判らぬ。

「翠-蘿(つた)」 これは蔓性植物の蔦類ではなく、緑色で「松の枝に秀(ひい)」でるような形状ととるなら、「蘿(かげ)」という別称を持つ、広義のシダ植物(但し、巨大な苔のように見える)で、近くで見ると、松の花のようにも見える、ヒカゲノカズラ植物門ヒカゲノカズラ綱ヒカゲノカズラ目ヒカゲノカズラ科ヒカゲノカズラ属ヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum ではなかろうか? ウィキの「ヒカゲノカズラの画像を参照されたい。

「彼」彼ら。

「四時の創匠する所に非ず」自然の運行たる四季の変化が創出した産物ではない。

「物に因りて形を成し、無よりして有を生ずるのみ」ある対象或いは現象が契機となってそれに感応して形状を成し、全くの無から忽然と有を生じたものに過ぎない。化生説である。]

2017/09/19

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊(か) 附 蚊母鳥(ヨタカ?)


Ka

か     暑※ 白鳥

      【和名加】

【音文】

      ※𧉬蚊蚉

ウヱン   皆同字

[やぶちゃん注:「※」=「螽」-「冬」+「民」。以下、同じ。]

 

本綱蚊冬蟄夏出晝伏夜飛細身利喙人膚血大爲人

害化生于木葉及爛灰中産子于水中爲孑蟲仍變爲

蚊也龜鼈畏之螢火蝙蝠食之故煑鼈入數枚卽易爛也

三才圖會云長喙如針性惡烟以艾燻之則潰其生艸中

者尤利而足有文彩號豹脚蚊字亦以有文也

    【堀川百首】蚊遣火の煙うるさき夏の夜はしつのふせやに假り寢をばせし 師賴

△按※以昏時出入故字从昬省蓋産子于水中爲孑

 冬蟄夏出之説竝非也其孑濕生而汚水爲熱感所

 生者也羽化爲蚊四月始生九月盡終也晝隱昬出羣

 飛上下如舂以翅鳴人血痕脹甚痒也其毒烈於蚤

――――――――――――――――――――――

豹脚【俗云藪蚊】 竹木葉濕熱所蒸生小蟲亦羽化爲蚊大倍

 常蚊足有班文又有一種小而黑者此二種寺院藪林

 多有之晝亦出不鳴嚙人最猛

 凡避蚊燻榧鋸屑可也然蜈蚣喜榧香來爾雅所謂菖

 蒲去蚤蝨而來蛉窮之類也五月五日午時書儀方二

 字粘屋柱則避蚊又灌酒篠葉挿傍隅則蚊皆集其篠

 凡蚊至深秋喙拆瑯琊代醉曰古諺云霧滃蠏螯枯露

 下而蚊喙拆月虛而魚腦減

嶺南有蚊子木葉如冬青實如枇杷熟則蚊出

塞北有蚊母草葉中有血蟲化而爲蚊

江東有蚊母鳥毎吐蚊一二升【見于水禽部】

 

せうめい

蟭瞑

ツヤ◦ウ ミン

 

三才圖會云江浦之間有麼蟲巣蚊睫再乳而

蚊不覺毎生九卵伏成九子俱去蚊不知列子

云海上有蟲集蚊睫離朱子羽望之不見形𧣾

愈師曠聽之不聞其聲【此四人古聰明者然不得視之聞之】

△按春秋所謂齋景公與晏子極細者之問答蟭瞑是也

 莊子所謂大者鯤魚鵬鳥小者蟭瞑是也恐皆寓言

 

 

か     暑※〔(しよぶん)〕 白鳥〔(はくちよう)〕

      【和名、「加」。】

【音、文〔(ぶん)〕。】

      ※〔(ぶん)〕・𧉬〔(ぶん)〕・蚊〔(ぶん)〕・蚉〔(ぶん)〕、皆、同字なり。

ウヱン

[やぶちゃん注:「※」=「螽」-「冬」+「民」。以下、同じ。]

 

「本綱」、蚊は、冬は蟄〔(あなごもり)〕し、夏、出づ。晝、伏〔(ふく)〕し、夜、飛ぶ。細き身、利〔(と)〕き喙〔(くちばし)〕、人の膚の血を〔(す)〕ふ。大いに人の害を爲す。

木の葉及び爛灰〔(らんばひ)〕の中に化生して、子を水中に産む。「孑蟲(ぼうふりむし)」と爲る。仍つて變じて蚊と爲るなり。龜・鼈〔(すつぽん)〕、之れを畏る。螢火〔(ほたる)〕・蝙蝠(かはもり)、之れを食ふ。故に鼈を煑るに數枚を入るれば、卽ち、爛れ易し。

「三才圖會」に云はく、長き喙、針のごとく、性、烟〔(けぶり)〕を惡〔(にく)〕む。艾〔(もぐさ)〕以つて之れを燻ずるときは、則ち、潰(つ〔ひ〕)ゆる。其れ、艸〔(くさ)〕の中に生ずる者、尤も利(と)くして、足に文彩〔(もんさい)〕有り。「豹脚〔(へうきやく)〕」と號(な)づく。「蚊」の字〔も〕亦、文〔(もん)〕有(あ)るを以つてす。

【「堀川百首」】蚊遣火〔(かやりび)〕の煙(けぶり)うるさき夏の夜はしづのふせやに旅寢をばせじ 師賴

[やぶちゃん注:一首は最終句に誤まりがあるので、特異的に訓読で訂した。誤りは「假り寢」の部分で「旅寢」が正しい。

△按ずるに、※〔(か)〕は昏時〔(くれどき)〕を以つて出入〔り〕す。故に字、「昬〔(コン/ゆふべ)〕」の省くに从〔(したが)〕ふ。蓋し、『子を水中に産みて、「孑(ぼうふり)」と爲〔(な)〕る』、『冬、蟄〔(あなごもり)〕し、夏、出づる』といふの説、竝〔(とも)〕に非なり。其孑は濕生にして、汚水、熱の爲めに感じて所生する者なり。羽化して蚊と爲る。四月、始めて生じ、九月、盡〔(ことごと)〕く終る。晝は隱れ、昬〔(ゆふ)〕べに出でて、羣飛して、上〔(のぼ)〕り、下り、舂(うすつ)くごとし。翅を以つて鳴き、人の血をふ。痕(あと)、脹〔(は)〕れて、甚だ痒し。其の毒、蚤(のみ)より烈〔(はげ)〕し。

――――――――――――――――――――――

豹脚【俗に「藪蚊」と云ふ。】 竹木の葉、濕熱に蒸されて小蟲を生ず。亦、羽化して蚊と爲る。大いさ、常の蚊に倍す。足に班文〔(はんもん)〕有り。又、一種、小にして黑き者、有り。此の二種、寺院・藪・林に多く之れ有り。晝も亦、出でて、鳴かずして人を嚙む。最も猛し。

凡そ、蚊を避くる、榧〔(かや)〕の鋸屑(をがくず)を燻(ふす)べて可〔(よ)〕し。然れども、蜈蚣〔(むかで)〕、榧の香、喜んで來〔(きた)る〕。「爾雅」、所謂(いはゆ)る、『菖蒲〔(しやうぶ)〕、蚤・蝨〔(しらみ)〕を去れども、蛉窮(げぢげぢ)を來(き)たす』といふの類〔(たぐひ)〕なり。五月五日、午〔(うま)〕の時、「儀方」の二字を書きて屋柱〔(やばしら)〕に粘(は)れば、則ち、蚊を避く。又、酒を篠(ささ)の葉に灌(そゝ)ぎ、傍隅(かたすみ)に挿(さ)せば、則ち、蚊、皆、其の篠に集まる。凡そ、蚊、深秋に至れば、喙〔(くちばし)〕、拆(くじ)く。「瑯琊代醉(ろうやだいすゐ)」に曰く、『古〔き〕諺に云はく、「霧、滃(こまやか)にして、蠏〔(かに)〕の螯(はさみ)、枯れ、露、下〔(お)〕りて、蚊の喙、拆け、月、虛にして、魚、腦、減〔(げん)〕ず」といふ』〔と〕。

嶺南に「蚊子木〔(ぶんしぼく)〕」有り。葉、冬青(まさき)のごとく、實、枇杷〔(びは)〕のごとし。熟すれば、則ち、蚊、出づ。

塞北〔(さいほく)〕に「蚊母草〔(ぶんもさう)〕」有り。葉の中に、血蟲(けつちう)有り。化して蚊と爲る。

江東に蚊母鳥〔(ぶんもてう)〕有り。毎〔(つね)〕に蚊を吐くこと、一、二升【水禽〔(すいきん〕の部の部を見よ。】

 

せうめい

蟭瞑

ツヤウ ミン

 

「三才圖會」云はく、『江浦の間に麼蟲〔(バチユウ/こまかきむし)〕有り。蚊の睫(まつげ)に巣(すく)ふ。再たび、乳〔(う)めども〕、蚊、覺えず。毎〔(つね)〕に九卵を生み、伏〔(ふく)〕して、九子、成〔らば〕、俱に去りて、蚊、知らず。』〔と〕。「列子」に云はく、『海上に蟲有り、蚊の睫に集まる。離朱・子羽、之れを望むれども、形を見ず、𧣾愈〔(ちゆ)〕・師曠〔(しくわう)〕之れを聽けども、其の聲を聞かず』【此の四人は、古〔(いにし)〕へ、聰明なる者にして、然れども、之れを視、之れを聞くことを得ず。】〔と。〕

△按ずるに、「春秋」に所謂〔(いはゆ)〕る、齋の景公と晏子〔(あんし)〕と、極細なる者の問答の「蟭瞑」、是れなり。「莊子」に所謂る、大なる者、鯤魚・鵬鳥、小なる者、「蟭瞑」、是れなり。恐らくは、皆、寓言〔(ぐうげん)〕なり。

 

[やぶちゃん注:双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科 Culicidae に属する蚊類。亜科はオオカ亜科 Toxorhynchitinae・ナミカ亜科 Culicinae・ハマダラカ亜科 Anophelinae に分かれるが、良安は人から吸血するものと限定しているから、も吸血行動をとらないオオカ亜科 Toxorhynchitinae は外れる。御存じのことと思うが、吸血するのはだけで、は植物の蜜や果汁などの糖分を含む液体を吸っている

 

「白鳥〔(はくちよう)〕」蚊の別名。「本草綱目」の「蜚〔(ひばう)〕」(キンイロアブ Tabanus sapporoensis が形態的には近い)の「附録」の条に「蚊子」があり、そこに『一名白鳥也』とある。

「蟄〔(あなごもり)〕し」音読み(「チツ」)してもよかったが、一読で判り易さを考え、東洋文庫版の訳のルビを援用した。

「利〔(と)〕き喙〔(くちばし)〕」鋭い口吻。

人の膚の血を〔(す)〕ふ。大いに人の害を爲す。

「爛灰〔(らんばひ)〕」時間が経って熱が去り、焼け残った物の腐敗が進んだ汚れた灰。

「孑蟲(ぼうふりむし)」蚊の幼虫。漢字はママ。ウィキの「カ」によれば、『幼虫は全身を使って棒を振るような泳ぎをすることから、古名の「棒振り」「棒振り虫」が訛ってボウフラ(孑孒、『広辞苑』によれば孑孑でもよい)となった』。『地方によってはボウフリの呼称が残る。ボウフラは定期的に水面に浮上して空気呼吸をしつつ、水中や水底で摂食活動を行う。呼吸管の近くにある鰓は呼吸のためではなく、塩分の調節に使われると考えられている』。

「螢火〔(ほたる)〕」下の「蝙蝠(かはもり)」(コウモリ)との釣り合いから、二字で「ほたる」と読んでおいた。但し、ホタルの成虫が蚊を摂餌するというのはどうだろう? 何故なら、ウィキの「ホタル」には、『多くの種類の成虫は、口器が退化しているため、口器はかろうじて水分を摂取するぐらいしか機能を有していない。このため』、ほぼ一~二週間の『間に、幼虫時代に蓄えた栄養素のみで繁殖活動を行うことになる』とあるからである。しかしその直後に『海外の種の中には成虫となっても他の昆虫などを捕食する種類がいる』とあるから、中国産の中には蚊を捕食する種がいるのかも知れぬ。識者の御教授を乞う。

「枚」数詞。匹。

「艾〔(もぐさ)〕」これは灸に使用されるヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の葉の裏にある繊毛を精製した「艾炷〔(もぐさ)〕」であろう(「炷」は音「シユ(シュ)」で灸に用いるための「もぐさ」の灯心状のものの一本分を指す)。

「潰(つ〔ひ〕)ゆる」全滅する。

「尤も利(と)くして」最も口吻の針が鋭くて。

「足」脚。

「文彩〔(もんさい)〕」模様。

「豹脚〔(へうきやく)〕」ここについては、中国の記載であるから、ナミカ亜科ヤブカ属 Aedes や、同じ様に紋を持つハマダラカ亜科 Anophelinae 類を含むとしておくのがよいが、まあ、我々にとってお馴染みのそれは、後の良安の説明に出るところの「豹脚」はヤブカ属シマカ亜属ヒトスジシマカ Aedes (Stegomyia) albopictus である。

「蚊遣火〔(かやりび)〕の煙(けぶり)うるさき夏の夜はしづのふせやに旅寢をばせじ」読み易く整序すると、

 

 蚊遣火の煙五月蠅(うるさ)き夏の夜は賤(しづ)の伏屋(ふせや)に旅寢をばせじ

 

である。言わずもがなであるが「旅寢をばせじ」は「旅寝なんぞは、これ、するものではない」の意。

「師賴」源師頼(もろより 治暦四(一〇六八)年~保延五(一一三九)年)は平安後期の公卿で歌人。正二位大納言。「小野宮大納言」と号した。和歌の速読を得意としたらしい。

「昏時〔(くれどき)〕」日暮れ時。

「昬〔(コン/ゆふべ)〕」「昏」の異体字。

「蓋し、『子を水中に産みて、「孑(ぼうふり)」と爲〔(な)〕る』、『冬、蟄〔(あなごもり)〕し、夏、出づる』といふの説、竝〔(とも)〕に非なり。其孑は濕生にして、汚水、熱の爲めに感じて所生する者なり。羽化して蚊と爲る」良安の悪い癖である化生説をブチ上げてしまい、折角の王圻(おうき)の「三才図会」の生物学的に正しい観察を否定してしまっている。残念至極。

「其の毒、蚤(のみ)より烈〔(はげ)〕し」これはちょっと大袈裟に見える。蚤の方が痒い。なお、当時の日本には未だ蚊が媒介するマラリアが本邦にも流行っていたのであるが、マラリアが蚊(ハマダラカ亜科 Anophelini 族ハマダラカ属 Anopheles のハマダラカ類)の媒介する感染症であることが判明するのは近代(一九〇二年・明治三十五年)のことだから、この「毒」をマラリアの症状を指すととるわけには残念ながら、いかない。

「竹木の葉、濕熱に蒸されて小蟲を生ず。亦、羽化して蚊と爲る」くどいね、誤りもここまで繰り返されると、ムッとしてきますぜ、良安センセ!

「晝も亦、出でて、鳴かずして人を嚙む」これは夜の静けさの中で羽音がよく聴こえることによる錯覚と思われる。

「榧〔(かや)〕裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera。カヤ材は碁盤や将棋盤の最高級品とされる。

「蜈蚣〔(むかで)〕、榧の香、喜んで來〔(きた)る〕」ホンマかいな?!

「菖蒲〔(しやうぶ)〕、蚤・蝨〔(しらみ)〕を去れども、蛉窮(げぢげぢ)を來(き)たす」同前。これらって、恐らくは陰陽五行説辺りで牽強付会させたもので、信じない方がいい部類の話である。

『五月五日、午〔(うま)〕の時、「儀方」の二字を書きて屋柱〔(やばしら)〕に粘(は)れば、則ち、蚊を避く』当時は一般に知られた端午の節句の習慣で、紙に「儀方」の二字を書いて壁や柱などに貼れば蚊をよせつけないとされた。仲夏の季語に「儀方書く」がある。

「瑯琊代醉(ろうやだいすゐ)」東洋文庫の書名注に、『瑯琊代酔編』として『四十巻。明の張鼎(てい)思編。経史の考証や雑事を漫然と記した随筆の類』とある。「瑯琊」は中国の古地名。

「蚊、深秋に至れば、喙〔(くちばし)〕、拆(くじ)く」蚊は晩秋になると、口吻が折れてしまう。ホンマかいな?!

「霧、滃(こまやか)にして、蠏〔(かに)〕の螯(はさみ)、枯れ、露、下〔(お)〕りて、蚊の喙、拆け、月、虛にして、魚、腦、減〔(げん)〕ず」これも陰陽五行の知ったかぶりの捏造であろう。

「嶺南」中国南部の「五嶺」(越城嶺・都龐(とほう)嶺(掲陽嶺とも称す)・萌渚(ほうしょ)嶺・騎田嶺・大庾(だいゆ)嶺の五つの山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当し、部分的には華南とも重なっている。更に、かつて中国がベトナムの北部一帯を支配して紅河(ソンコイ河)三角州に交趾郡を置くなどしていた時期にはベトナム北部も嶺南に含まれていた。

「蚊子木〔(ぶんしぼく)〕」現行、漢名(中文名)で「蚊母樹」があり、これを蚊子木と同義とし、ユキノシタ目マンサク科イスノキ属イスノキ Distylium racemosum を指す

「冬青(まさき)」現行、「冬青」と漢字表記するのは、バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属ソヨゴ Ilex pedunculosa である。「まさき」、則ち、ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ Euonymus japonicus はニシキギ目 Celastrales で共通するものの、目レベルでは近縁とは言えない。イスノキの葉はソヨゴと似ているが、マサキとは似ていないと私には思われる。

「實、枇杷〔(びは)〕のごとし」イスノキの実は表面が黄褐色の毛で覆われており、先端に雌蘂が二裂した突起として突き出て、枇杷の実に似ていないとは言えない

「熟すれば、則ち、蚊、出づ」出ません! 但し、イスノキにはしばしばアブラムシ類(半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea)の寄生によって虫癭(ちゅうえい)が出来るから、それを誤って伝えたものか?

「塞北〔(さいほく)〕」現在の中国の北部中央域の古い呼称。中文ウィキの「塞北」で確認されたい。

「蚊母草〔(ぶんもさう)〕」現行、これはシソ目オオバコ科クワガタソウ属ムシクサ Veronica peregrina を指す。これもまた、時に虫癭(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ゾウムシ科ゾウムシ亜科ムシクサコバンゾウムシGymnetron miyoshii の寄生に拠る)が出来ることから「虫草」の名がついたとされる点に私は注目する。ここに出る「血蟲(けつちう)」というのもその幼虫を見誤ったものではないか?

「江東」長江下流域南岸域。

「蚊母鳥〔(ぶんもてう)〕」「水禽〔(すいきん〕の部の部を見よ」この名は昆虫類を捕食するヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ亜科ヨタカ属 Caprimulgus の総称として生きている。この電子化注が鳥類に及ぶのはまだまだ先なので、この際、水禽部の「蚊母鳥(ぶんもちやう)」(「ちやう」は原典のママ。歴史的仮名遣は「てう」が正しい)を電子化する。

    ★

Bunnmotyou

ぶんもちやう 吐蚊鳥

       鷆【音田】

蚊母鳥

 

ウエン モウ ニヤ◦ウ

 

本綱蚊母鳥江東多之生池澤茄蘆中大如鷄黑色其聲

如人嘔吐毎吐出蚊一二升夫蚊乃惡水中蟲羽化所生

而江東有蚊母鳥塞北有蚊母樹嶺南有母草此三物

異類而同功也

蚊母鳥【郭璞曰似烏𪇰大黃白襍文鳴如鴿聲異物志云吐蚊鳥大如青鷁大觜食魚物】時珍曰有數説也豈各地之異耶

△按二説所比𪇰鷁並鸕鷀之種類而與雞不甚遠物也此圖據三才圖會

 

 

ぶんもちやう 吐蚊鳥〔(とぶんちやう)〕

       鷆〔(でん)〕【音、田。】

蚊母鳥

 

ウエン モウ ニヤ

 

「本綱」、蚊母鳥、江東に多し。之れ、池澤〔の〕茄蘆〔(かろ)の〕中に生ず。大いさ、鷄のごとし。黑色。其の聲、人、嘔吐するがごとし。毎〔(つね)〕に、蚊、一、二升ばかりを吐き出だす。夫〔(そ)〕れ、蚊は、惡水の中にある蟲、羽化して生〔ずる〕所にして、而〔しか〕も江東に蚊母鳥有り、塞北には蚊母樹有り、嶺南には母草〔ばうもさう)〕有り。此の三物、異類〔にして〕而〔(しか)〕も功(わざ)を同じくすと。

蚊母鳥【郭璞〔(かくはく)〕曰く、『烏𪇰〔(うぼく)〕に似て、而も大きく、黃白〔の〕襍文〔(しふもん)ありて〕鳴けば鴿〔(いへばと)〕の聲のごとし』〔と〕。「異物志」に云はく、『吐蚊鳥〔(とぶんちやう)〕、大〔いさ〕、青鷁〔(せいげき)〕のごとく、大〔なる〕觜〔(はし)あり〕、魚物〔(ぎよぶつ)〕を食ふ。』〔と〕。】時珍、曰く、『數説有〔るも〕、豈に、各地の差〔(さんさ)〕、異〔(こと〕な)るや。』〔と〕。

△按ずるに、二説に比する所の、𪇰〔ぼく〕・鷁〔げき〕並〔びに〕鸕鷀〔(ろじ)〕の種類にして、而も、雞〔(にはとり)〕と甚だ遠からざる物なり。此の圖、」三才圖會」に據る。

   ★

以下、簡単に「蚊母鳥」に注しておく。

・「茄蘆」不詳。取り敢えず音読みしただけ。東洋文庫訳は『あかねぐさ』とルビするが、どうも従えない。これはキク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi の別称であろうが、池や沢の近くに生えるとする本文とどうも相性が悪いように感ずるからである。識者の御教授を乞う。

・「其の聲、人、嘔吐するがごとし」先に同定したヨタカはウィキの「ヨタカ」によれば、『鳴き声は大きく単調な「キョキョキョキョ、キョキョキョキョ」。鳴き声からキュウリキザミやナマスタタキ、ナマスキザミなどの別名もある』とあるが、嘔吐の音には似ていない。

・「塞北には蚊母樹有り、嶺南には母草〔ばうもさう)〕有り。此の三物、異類〔にして〕而〔(しか)〕も功(わざ)を同じくすと」「功(わざ)を同じくす」というのは、生きた蚊を多量に吐き出し、この世に送り込んでくるという習性・性質を指している。ここに東洋文庫では注を附して、「本草綱目」(虫部・化生類・蜚蝱)に『次のようにある。「嶺南には蚊子木がある。葉は冬青(もちのき)のようで實は枇杷に似ている。熟すと蚊が出てくる。塞北には蚊母草がある。葉中に血があり、虫が化して蚊となる」また、木は木葉の中から出てくる。飛んでよく物を囓(かじ)る。塞北にもいるが、嶺南には極めて多い、ともある』。しかし既に私の電子化でも見たように、『とはあぶのことである。良安の文はこれらを混同したものであろうか』としている。確かに、ここの部分、おかしい。なお、「冬青」に「もちのき」とルビするのには従えない。

・「烏𪇰〔(うぼく)〕」東洋文庫の注に、『水鳥で』(サギ類か)『に似ていて短頭。腹と翅は紫白。背は緑色、という』ある。同定不能。中文サイト「百度百科」を見ると、これは「𪇰」と同じであって、郭璞は(東洋文庫の注はそれを不完全に引いたものである)水鳥の一種でに似ているが、頸が短く、腹と翅は紫白、背の上が緑色であり、江東では「烏𪇰」と呼ぶ、とあった。

・「襍文」「(しふもん)」「襍」は「入り混じる」の意。東洋文庫訳では『雑文(いりまじったもよう)』と裏ワザのようなルビが振られてある。

・「鴿〔(いへばと)〕」東洋文庫のルビに従った。普通に我々が「ハト」と呼んでいるハト目ハト科カワラバト属カワラバト Columba livia のこと。カワラバトとヨタカなら鳴き声は似ていないこともない

・「異物志」「嶺南異物志」。東洋文庫書名注に、『一巻。孟琯(もうかん)撰。嶺南地方の珍奇な生物などについて記述したもの』とある。

・「青鷁〔(せいげき)〕」不詳。「鷁」は想像上の水鳥で、白い大形の鳥。風によく耐えて大空を飛ぶとされ、船首にその形を置いて飾りとしたことで知られるから、実在する鳥に比定すること自体が無理である。鷁の羽色の青みを帯びたものとしか言いようがない。

・「數説有〔るも〕、豈に、各地の差〔(さんさ)〕、異〔(こと〕な)るや」時珍が「本草綱目」で珍しく不満をぶつけている部分。東洋文庫訳では『数説あるが、どうして各地でこのような差異があり得ようか、と李時珍』『は言っている』となっている。

・「鸕鷀〔(ろじ)〕」これは実在する海鳥、カツオドリ目ウ科 Phalacrocoracidae の鵜類を指す。

 では、「蚊」の注に戻る。

 

「蟭瞑(せうめい)」以下にまことしやかに書いている、蚊の睫毛に巣を作り、そこで子を生むという想像上の微細な虫の名。

「麼蟲」「こまかきむし」の訓は私が東洋文庫のルビ『こまかいむし』を元に「細かい虫」の意で添えたもの。

「乳〔(う)めども〕」卵を生んでも。

「蚊、覺えず」そもそも見えないぐらいにごく小さな虫なんだから、その卵なんぞが判ろうはずがなかろうが!

「伏〔(ふく)〕して」東洋文庫訳は『抱き伏して』と訳しているが、私は親がその卵と一所に睫毛の中に「潜伏して」の意で採る。

「蚊、知らず」蚊自身にさえ判らんものが、何で、人に判るんじゃい?!

『「列子」に云はく……』以下は「湯問第五」に出る。

「離朱」東洋文庫の注によれば、伝説時代の黄帝の治世の人で『百歩離れたところからでも、ごく細い毛末を見ることができたという、目のよい人』とある。

「子羽」東洋文庫の注によれば、『春秋時代の人。目がよくきいた』とある。

𧣾愈〔(ちゆ)〕」東洋文庫の注によれば、『耳のよく聞こえた人』とある。

「師曠〔(しくわう)〕東洋文庫の注によれば、『春秋時代の晋(しん)の平公の楽師。音律に明るかった』とある。

「春秋」「晏子春秋」。は、中国春秋時代の斉において、霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった抜群の記憶力を持った合理主義者晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)に関する言行を後人が編集した書。単に「晏子」とも呼ぶ。編者未詳。全八巻。儒教の他、墨家的思想も含まれる。以下は東洋文庫の注に『「公曰。天下有極細乎。安子對(コタエテ)曰。有。東海有ㇾ蟲。巣於※睫。再乳再飛而※不爲驚。臣嬰不ㇾ知其名。而東海漁者。命(ナヅケテ)曰焦冥」(『安子春秋』巻四外篇)』とある(「※」=「螽」-「冬」+「民」)。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 䖟(あぶ)


Abu

あぶ   蝱【同】 魂常

【音萠】

マン

 

本綱從木葉中出卷葉如子形圓著葉上破之初出如白

蛆漸大子化折破便飛卽能牛馬血謂之木

【蜚飛也】 小於木如蜜蜂腹凹褊微黃綠色能飛

 牛馬血

鹿【一名牛】 小者大如蠅囓牛馬亦猛又南方溪澗中多

 水蛆長寸餘色黒夏末變爲螫人甚毒

 

 

あぶ   蝱【同。】 魂常〔(こんじやう)〕

 

【音、萠〔(ばう)〕。】

 

マン

 

「本綱」、木の葉の中より出でて、葉を卷き、子のごとくして、形、圓く葉の上に著〔(つ)〕く。之れを破れば、初〔め〕出〔づるに〕白〔き〕蛆のごとし。漸〔(やうや)〕く大にして、子、化〔し〕、折破〔(せつぱ)〕して、便〔(すなは)〕ち、飛び、卽ち、能く牛馬の血を(す)ふ。之れを「木〔(もくばう)〕」と謂ふ。

〔(ひばう)〕【「蜚」は「飛」なり。】 木より小さく、蜜蜂のごとく、腹、凹(なかくぼ)に褊(ひらた)く、微〔かに〕黃綠色。能く飛び牛馬の血をふ。

鹿〔(ろくばう)〕【一名、「牛〔(ぎうばう)〕」。】 小さき者、大いさ、蠅のごとく、牛馬を囓むこと、亦、猛し。又、南方、溪澗(たに)の中に、水蛆〔(すいしよ)〕、多し。長さ寸餘、色、黒。夏の末、變じてと爲り、人を螫〔(さ)〕す。甚だ、毒あり。

 

[やぶちゃん注:現在、広義には双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目 Brachycera のミズアブ下目 Stratiomyomorpha・キアブ下目 Xylophagomorpha・アブ下目 Tabanomorpha 及びハエ下目 Muscomorpha の中の一部を指す。実際には、これらの中で人や獣類を刺して吸血するアブ(吸血するのは総て)は凡そ三十種である。因みに、吸血性のハエ類は本邦ではハエ下目 Muscoidea 上科イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族サシバエ属サシバエ Stomoxys calcitrans・イエバエ科イエバエ亜科サシバエ族ノサシバエ属ノサシバエ Haematobia irritans の二種である(私の愛読書である学研の「危険・有毒生物」(二〇〇三年刊)の記載に拠る)。

 

「木の葉の中より出でて、葉を卷き、子のごとくして、形、圓く葉の上に著〔(つ)〕く」この時珍の叙述は葉を巻いて蛆虫のような形に成して、それが子となると読めてしまい、トンデモ化生説のように読めてしまうが、「著く」がミソで、これはそこに産卵して附着させるという謂いとも読める。なお、後に「水蛆」とあるようにアブ類の幼生は水棲のものも多い。

「初〔め〕出〔づるに〕白〔き〕蛆のごとし」アブ類の幼虫は画像検索をかけると判るが、かなり特異な形状を成すものが多い。中でも既に出た蟲部 天漿子し)(双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini に属するナミハアナブ類の幼虫で、通称「尾長蛆」と呼ばれるもの)が尾を持っていて面白い。

「折破〔(せつぱ)〕」完全変態の一過程であるところの脱皮・羽化。

「能く牛馬の血を(す)ふ」人獣類を襲って吸血する種は、アブ下目アブ上科アブ科アブ亜科ツナギアブ属イヨシロオビアブ Hirosia iyoensis・アブ属キンイロアブTabanus sapporoensis・アブ属ウシアブ Tabanus trigonus ・アブ属ヤマトアブ Tabanus rufidens・ニッポンシロフアブ Tabanus nipponicus 及びスズメバチ類にそっくりなアブ属アカウシアブ Tabanus chrysurus やアブ亜科ゴマフアブ属ゴマフアブ Haematopota pluvialis等が代表格であろう。イヨシロオビアブは「オロロ」(刺された時のうろたえるさまを形容する名らしい)とも呼称し、私は栃木県日光市川俣の加仁湯の露天の休憩所で蠅叩きを用いて多量に叩き殺し、湯守の方からコップ酒一杯を献呈された経験がある(譚海 卷之一 羽州深山つなぎ蟲の事の「つなぎむし」というのも恐らくそれである)。ウシアブは土中や水田にいる幼虫も人を刺す。なお、調べてみると、刺されて最も痛いのはアカウシアブのようである。

「木〔(もくばう)〕」時珍の記載なので、軽々に同定は出来ない。良安は略しているが、「本草綱目」の以上の記載は「集解」の中の陳蔵器の見解部分で、最初の「別録」という所からの引用では『生漢中川澤』とあって、この記載だと、幼虫は水棲となり、食い違うことになる。

「蜚〔(ひばう)〕」先に示したキンイロアブ Tabanus sapporoensis が形態的には近い。

「鹿〔(ろくばう)〕」「「牛〔(ぎうばう)〕」名前からは前掲のウシアブ Tabanus trigonus に比定したくはなるが、寧ろ、「小さき者」で「蠅のごとく」とすれば、やはり前掲した狭義のハエの一種で無数に牛馬にとりつくサシバエ Stomoxys calcitrans やノサシバエ Haematobia irritans のを挙げたくなる。後者は画像で見たが、その群がり方は半端なく強烈である。

「南方、溪澗(たに)の中に、水蛆〔(すいしよ)〕、多し。長さ寸餘、色、黒。夏の末、變じてと爲り、人を螫〔(さ)〕す。甚だ、毒あり」不詳。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚉蚉(ぶんぶんむし)


Bunbunnmusi

ぶんぶんむし 正字未詳

蚉蚉

 

△按蠅之屬形如蠅而大圓肥黃黒色屎蟲脱化成此蟲

 夏月蕪菁花開時多有之草花露無螫嚙之害以翼

 鳴其聲如曰蚉蚉

 

 

ぶんぶんむし 正字未だ詳かならず

蚉蚉

 

△按ずるに、蠅の屬。形、蠅のごとくして、大〔きく〕圓〔く〕肥〔え〕、黃黒色なり。屎蟲(くそむし)、化して脱(ぬ)け、此の蟲と成る。夏月、蕪菁(なたね)の花の開〔く〕時、多〔く〕之れ有り。草花の露を(す)ふ。螫嚙〔(せきがう)〕の害、無し。翼を以つて鳴く。其の聲、「蚉蚉(ぶんぶん)」と曰ふがごとし。

 

[やぶちゃん注:名前から察するならば、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina(又は PseudotorynorrhinaRhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina japonica(又は Pseudotorynorrhina (Rhomborrhina) japonica

であるが、良安は「蠅の屬」と断定し、しかも「形、蠅のごとくして」と二重に既定、そうして、大きくて丸く肥えており、黄黒色を呈しており、便所の蛆が幼虫とするからには、金属光沢を呈する大型の、

双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科キンバエLucilia Caesar

が挙げられる。しかし、私は「ぶんぶん」という羽音の大きさ及び花の蜜を吸うという点に着目する。そうして、その姿が蠅のようにも見えぬこともない、しかし巨大で丸々として、花粉を体に附着させるためにしばしば黄黒色を呈するところの、

細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科クマバチ亜科クマバチ族クマバチ属 Xylocopa

熊蜂(私は「クマンバチ」と呼称する)の類を想起するのである。但し、良安の「螫嚙〔(せきがう)〕の害、無し」(人間に対して刺したり、噛み付いたりすることがない)という断定はこれを否定する。クマバチ類は非常に性質が大人しく、通常では人を刺すことはないないが(毒針を有するのは♀のみ)、不用意に巣に近寄ったり、♀個体を強く握ったりすれば刺すからである。しかし、私自身は六十年生きてきて、クマンバチに刺されたとする知人を知らない。印象的な出来事は、小学校六年生の時、母が干していた毛糸の靴下の中に、二匹の大きなクマンバチが潜りこんでいて、それを知らずに触れた母がひどく驚いたことである、しかし、その時も母は刺されなかった。私は私の母の思い出とともに、これをクマンバチに比定したい欲求を強く持っている。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 叩頭蟲(こめふみむし)


Kometukimusi

こめふみむし 叩頭蟲

       【和名沼加

        豆木無之】

       【俗云米踏】

叩頭蟲

 

ぬかつきむし

 

本綱蟲大如斑蝥而黒色按後則叩頭有聲能入人耳灌

 以生油則出又云咒令叩頭又令吐血皆從所教殺之

 不祥佩之令人媚愛

△按狀如吉丁蟲而小純黒頸下背上有折界毎點頭作

 聲音如言保知保知其貌似踏碓者故俗曰米踏蟲如

 仰之輒乍跳反俛飛則甲擴翅開翅下黃赤色也額突

 者稽首也低頭形似稽首故名之

 

 

こめふみむし 叩頭蟲〔(こうとうちゆう)〕

       【和名、「沼加豆木無之〔(ぬかづきむし)〕。】

       【俗に「米踏」と云ふ。】

叩頭蟲

 

ぬかつきむし

 

「本綱」、蟲の大いさ、斑蝥のごとくにして、黒色。後〔(しり)〕へを按〔(お)〕せば、則ち、頭を叩く聲有りて、能く人の耳に入る。灌〔(そそ)〕ぐに生油を以つてすれば、則ち、出づ。又、云はく、咒して頭を叩かしめ、又、血を吐かせしむ。皆、教ふる所に從ふ。之れを殺せば、不祥なり。之れを佩〔(お)〕ぶれば人をして媚愛(かはゆ)からしむ。。

△按ずるに、狀、吉丁蟲(たまむし)のごとくにして、小さく、純黒。頸の下・背の上に折界(をれめ)有り。毎〔(つね)〕に點頭(うちうなづ)いて聲を作〔(な)〕す。音、「保知保知〔(ぽちぽち)〕」と言ふがごとし。其の貌〔(かたち)〕、碓(からうす)を踏む者に似たり。故に、俗、「米踏蟲」と曰ふ。如〔(も)〕し之れを仰(あふのけにす)れば、輒〔(すなは)〕ち、乍〔(たちま)〕ち跳び反〔(かへ)り〕て俛(うつむ)く。飛ぶときは、則ち、甲、擴(ひろ)げ、翅、開く。翅の下、黃赤色なり。額突(ぬかづき)とは稽首〔(けいしゆ)〕なり。頭を低(たる)ゝ形、稽首に似たる故、之れ、名づく。

[やぶちゃん注:オノマトペイア「保知保知〔(ぽちぽち)〕」の部分は原典では二箇所の「保」の右上に破裂音記号のような「◦」が打たれているだけであるが、以上のように読みを振った。なお、東洋文庫訳でも『ぽちぽち』と振っている。]

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属するもので、仰向けにすると、自ら跳ねて元に戻る能力を有する小型の甲虫の総称(但し、以下に記すように、そうした行動をあまりとらない種もいるようである)であって、和名を単に「コメツキムシ」とする種は存在しない。現在の和称は米を搗く動作に似ていると見たことに由来する。ウィキの「コメツキムシ」によれば、『コメツキムシには普段は草や低木の上などに住む種が多い。石の下に住むものもいる。天敵に見つかると足をすくめて偽死行動をとる(世に言う「死んだふり」)。その状態で、平らな場所で仰向けにしておくと跳びはね、腹を下にした姿勢に戻ることができる。(胸-腹の関節を曲げ、胸を地面にたたきつけると誤解されるが、頭-胸を振り上げている。地面に置かず手に持つことで確認できる』。『この時はっきりとパチンという音を立てる。英語名の Click beetle はクリック音を出す甲虫を意味する』。『天敵などの攻撃を受けてすぐに飛び跳ねる場合もある。これは音と飛び跳ねることによって威嚇していると考えられている。この行動をとらないコメツキムシ科の種も存在する』とある。各属はリンク先を参照されたい。

 なお、御存じの通り、清少納言も、かの「枕草子」の「虫尽くし」の章段で、

   *

額(ぬか)づき虫、また、あはれなり。さる心地(ここち)に道心(だうしん)起して、つきありくらむよ。思ひかけず、暗き所などに、ほとめき步(あり)きたるこそ、をかしけれ。

   *

と綴っている。私は虫嫌いであるが、このルナールの「博物誌的記載には強く共感する(リンク先は私の古い仕儀である岸田国士訳の附原文+やぶちゃん補注版)。

 

「斑蝥」ここは「本草綱目」の記載あるから、現行、本邦で呼ぶ真正の「ハンミョウ」類ではなく、鞘翅(コウチュウ)目Cucujiformia 下目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類である。有毒昆虫として、またハナバチ類(膜翅(ハチ)目細腰(ハチ亜)目ミツバチ上科 Apoidea に属するハナバチ(Anthophila)の類)の巣に寄生する特異な習性を持つ昆虫類で、ツチハンミョウ亜科Meloe属マルクビツチハンミョウ Meloe corvinusなどが知られる。触ると偽死をして、この際、脚の関節から黄色い液体を分泌する。この液には毒成分カンタリジン(cantharidinが含まれる。カンタリジンはエーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種で、カルボン酸無水物を含む構造を持つ毒物であり、含有する昆虫が属する鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ジョウカイボン(浄海坊:平清盛の出家名に由来するという)科(Cantharidae)に因んで命名され、一八一〇年に初めて単離された。昇華性がある結晶で、水には殆んど溶けず、皮膚に附着すると痛みを感じ、水疱が生じる。中国では暗殺に用いられたともされる。一方で、微量を漢方薬としても用い、イボ取り・膿出しなどの外用薬や、利尿剤などの内服薬とされた歴史がある本邦に棲息するツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科マメハンミョウ族マメハンミョウ属マメハンミョウ Epicauta gorhamiもカンタリジンを持ち、その毒は忍者も利用したとされ、ツチハンミョウ・ジョウカイボン類の他、鞘翅目多食(カブトムシ)亜目ゴミムシダマシ上科カミキリモドキ科Oedemeridaeのカミキリモドキ類・多食(カブトムシ)亜目アリモドキ科 Anthicidae のアリモドキ類・多食(カブトムシ)亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科 Staphylinidaeハネカクシ類などの甲虫類が分泌する体液に含まれ、本邦での事故は夜間に灯火に飛来する甲虫目カミキリモドキ科ナガカミキリモドキ属アオカミキリモドキ Xanthochroa waterhousei による水疱性皮膚炎による事故が多い。ヨーロッパに分布するゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科 Lyttini 族ミドリゲンセイ属スパニッシュフライ Lytta vesicatoria は乾燥した虫体を服用すると、含まれているカンタリジンが尿中に排泄される過程で、尿道附近の血管を拡張させて充血を引き起こし、これが性的興奮に似ることから、西洋では古くから催淫剤として用いられてきた歴史があり、「スパニッシュフライ」はそうした媚薬(及び暗殺事件及び自殺事件の毒物)としても、その名をよく見かける(先行する斑猫を参照。ここではそのハンミョウに形が似ていると言っているだけなのであるが、私は、どうもそれは、加えて別な意味を持っているとも読むのである。後注参照)。

「後〔(しり)〕へを按〔お)〕せば、則ち、頭を叩く聲有りて、能く人の耳に入る。灌〔(そそ)〕ぐに生油を以つてすれば、則ち、出づ」この部分、東洋文庫訳は『後(しりえ)をおさえれば頭を上下させてぬかずく。鳴き声は人の耳に聞こえる。生油をそそぐと出てくる』とするのだが、これはおかしくはないか? 「灌〔(そそ)〕ぐに生油を以つてすれば、則ち、出づ」というのが、この訳では続かないからである。これ、小学生が考えても、虫が耳の中に入り込んでしまったのを、油を注いで引き出すという療法を述べているとしか私には読めないコメツキムシが耳の中に入るのはヘンだってか? おう! それじゃ、訳注「 卷之四 耳へ虫の入りし事を読んでもらおうじゃあねえか! どうでぇい!

「咒〔(じゆ)〕して頭を叩かしめ、又、血を吐かせしむ」「咒して」は呪文を唱えて。ここ、よく判らないが、或いはこれも、耳にコメツキムシが入った時の、中国の民間療法の別処方なのではあるまいか? コメツキムシを耳から追い出す呪文があり、それを咒した後に耳にコメツキムシの入った者の頭を叩かせる、すると、耳から出血(人間の方の、である)が起こり、その血と一緒にコメツキムシが耳から出てくるというのではないか? やや私の都合のよい訳し方のようにも見えるが、そうしないと、またしてもあとが続かないからである。ここも東洋文庫はコメツキムシを主語(主体)として訳しており、『咒文(じゅもん)を唱えて頭を叩(ぬかず)かせ、また血を吐かせる』とあるだけで、呪文によって米搗き運動をやらせて、コメツキムシに血を吐かせるというのだ。何だ? この悪戯は?! では、この訳者に聞きたい。コメツキムシが血を吐いたら死ぬ危険はないか? 死ぬだろう! だのに直後に「之れを殺せば、不祥なり」とあるのはなんだ?! 是非ともお答え戴きたい!!!

「皆、教ふる所に從ふ」民間ではコメツキムシが耳に入った場合の処方としては、この孰れかに従がうの意で採る。何故なら、殺して取り出すのは「不祥」だからさ!

「之れを佩〔(お)〕ぶれば、人をして、媚愛(かはゆ)からしむ」これは、或いは先に形状が「斑蝥」(ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ(土斑猫)類)に似ていることからの類感呪術ではないか? 則ち、カンタリジンの媚薬効果を持つそれに似ているから、このコメツキムシにも催淫・媚薬的呪力があると考えられたという私の解釈である。そうでなければ、もっと即物的に考えてもいいぞぅ! コメツキムシのバッキンバッキンという運動を男根の勃起運動に擬えたというのも一興じゃて! さても、私の猥雑なる解釈、大方の御叱正を俟つものではある。

「吉丁蟲(たまむし)」前の同項を参照されたい。

「折界(をれめ)」折れ目。

「碓(からうす)」搗き臼の一種である唐臼(からうす)。ウィキの「唐臼によれば、『臼は地面に固定し、杵をシーソーのような機構の一方につけ、足で片側を踏んで放せば、杵が落下して臼の中の穀物を搗く。米や麦、豆など穀物の脱穀に使用した。踏み臼ともいう』。

「輒〔(すなは)〕ち、乍〔(たちま)〕ち」後者も「すなはち」と訓読出来るが、かく読んでおいた。]

2017/09/18

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 金龜子(こがねむし)


Koganemusi

こがねむし  【音別】 蟥

金龜子

       【俗金蟲】

キンクイツウ

[やぶちゃん注:「龜」は原典では「亀」の中央の一本の縦画を二本にしたものであるが、本文注のそれは正字である。]

 

本綱此亦吉丁蟲之類媚藥也大如刀豆頭靣似鬼其甲

黒硬如龜狀四足二角身首皆如泥金裝成蓋亦蠹蟲所

化者五六月生草蔓上行則成雙死則金色隨滅故以粉

養令人有媚也

 

 

こがねむし  【音、別。】 蟥〔(くわうへい)〕

金龜子

       【俗、金蟲(こがねむし)。】

キンクイツウ

 

「本綱」、此れも亦、吉丁蟲(たまむし)の類。媚藥なり。大いさ、刀豆(なたまめ)のごとく、頭靣〔(とうめん)〕、鬼に似たり。其の甲、黒く硬(かた)くして、龜の狀〔(かたち)〕のごとし。四足、二角。身首〔(しんしゆ)〕、皆、泥金(でいきん)を裝(かざ)り成(な)せるがごとし。蓋し、亦、蠹蟲(きくひむし)の化する所〔の〕者〔なり〕。五、六月、草蔓〔(さうまん)〕上に生じ、行くときは、則ち、雙〔(さう)〕を成し、死するときは、則ち、金の色、隨ひて滅す。故に粉を以つて養ひて、人をして媚〔(び)〕有らしむなり。

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidae の属する広汎なコガネムシ類を指すが、狭義のそれはスジコガネ亜科コガネムシ属コガネムシMimela splendens である(外見上は前肢基節間に前胸突起があることで広義のコガネムシ類と区別出来る)。但し、やや気になるのは、本邦に棲息するコガネムシMimela splendens(他に東シベリア・朝鮮半島・中国・台湾・ミャンマー等に分布する。体長は十七~二十三ミリメートル)は強い金属光沢は持つが、多くは金緑色(時に赤紫色を帯び、稀に赤紫色や黒紫色を呈する個体もある)で、「本草綱目」の明記する「泥金(でいきん)を裝(かざ)り成(な)せる」(「泥金」は金泥(きんでい)に同じい。金粉を膠(にかわ)の液で泥のように溶かした金色の顔料。日本画・装飾・写経等で用いられる)ような色、「金の色」というのと必ずしも合致しない。寧ろ、本邦で純粋に黄金色をしたコガネムシ類に出逢うことは、実は稀であるとも言える。ただ、全然いないわけではない。星谷仁氏のブログの「黄金色(こがねいろ)のコガネムシ」に載る個体の画像は緑色を含むものの、確かに黄金(こがね)色と言える固体である(二〇一四年八月東京での撮影で、星谷氏はコガネムシ科スジコガネ亜科サクラコガネ Anomala daimiana に『似ている気もするが』、『正確なところはわからない』と述べておられる)。本記載は「本草綱目」のものであるから、中国産で黄金色の種を示すのが最も確度が高くなるのだが、上手く探せないのであきらめた(Scarabaeida(コガネムシ科)で中国語のみの検索設定にし、画像検索で黄金色の個体画像を載せるページを縦覧したのだが、それは世界中のコガネムシを蒐集している中国人のインセクタのページであってお手上げであった)。因みに、私の知る限りでは、本当に金で細工したように見える種群は中南米産のコガネムシ科プラチナコガネ族プラチナコガネ属 Plusiotisなどのプラチナコガネ類(現生種は約六十種)が挙げられる。例えば、キンイロコガネ Plusiotis resplendens で画像検索して見れば、私の謂いが大袈裟でないことが判る。なお、この手の明確にゴールドの個体を本邦で見つけたとする記事や画像もあるにはあるが(視認は神奈川県内などが挙がっている)、どうもそれらは現代の人為的に持ち込んでしまった外来種のようである。

 コガネムシの記載は「日本大百科全書」のそれが詳しいので、以下に引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。まず、狭義のコガネムシ Mimela splendens について(体長や分布は前に記した)。『卵形で六~七月に現れ、クヌギ、ナラ、サクラなどの広葉樹の葉を食べる。幼虫は地中にすみ、木の根を食べ、卵から成虫まで一、二年かかる』。『コガネムシ科Scarabaeidaeは、およそ二万五千種が知られており、世界中に広く分布しており、日本にも約三百種が産する。この科の甲虫は、体長二ミリメートルほどの微小なものから、ヘラクレスオオカブト』(コガネムシ科カブトムシ亜科ヘラクレスオオカブト属ヘラクレスオオカブト Dynastes hercules)『の十六センチメートルまでさまざまな大きさの種類があり、卵形から楕円(だえん)形のものが多いが、円形や長い円筒形の種類もある。触角は八~十節、先端の三~七節は片側に長く伸びていて互いに密着でき、えら状か球状。腹部は六節認められ、背部先端の尾節板は大きくて強く傾斜し垂直のことも多く、上ばねから露出することが多い。脚(あし)の跗節(ふせつ)は五節である』。『この類は、大別して食糞類(しょくふんるい)と食葉類(しょくようるい)に分けられ、後者が植物質を食としているのに対して、前者は主として動物の糞や死肉に集まり、幼虫は地中で成虫によって運ばれた糞塊や肉塊を食べて育つが、キノコや腐植土を食べるものや、朽ち木の皮下、草の根際、アリ、シロアリの巣にすみ特殊化したものなどがある』。「食糞類」の項。『この類には次の二亜科が含まれる』。まず、一つが『ダイコクコガネ亜科』(Scarabaeinae)で、『糞球を転がすので有名なタマオシコガネ』『の類、雄の頭胸背部に角(つの)や突起をもつダイコクコガネ』(ダイコクコガネ亜科ダイコクコガネ族ダイコクコガネ属ダイコクコガネ Copris ochus)・『ツノコガネ』((タマオシコガネ亜科とも)ツノコガネ族ツノコガネ属 Liatongus phanaeoides・『エンマコガネ』(ダイコクコガネ族エンマコガネ属Caccobius)『の類など典型的な糞虫がここに属し、ナンバンダイコク属Heliocoprisのような大きい種類もある』。二つ目が『マグソコガネ亜科』Aphodiinae で、『小形で円筒形の種類が多く、糞に多いが、枯れ木の皮下やアリ、シロアリの巣にすむものもあり、ニセマグソコガネ』(Aegialia nitida)『の類は川岸の砂地などにみられる』。以下、「食葉類」の項。『この類には六亜科が含まれ、すべて植物質を食べるので人目につく種類が多い』。(一)『カブトムシ亜科』Dynastinae 『カブトムシ』(真性カブトムシ族カブトムシ属カブトムシ Trypoxylus dichotomus)をはじめとして、『ヘラクレスオオカブト』や『アトラスオオカブト』(真性カブトムシ族アトラスオオカブト属アトラスオオカブト Chalcosoma atlas)『など大形種を含むが、クロマルコガネ』(クロマルコガネ族クロマルコガネ属クロマルコガネ Alissonotum pauper)『のような十ミリメートル前後のものもある。幼虫は朽ち木や腐植質を食べて育つ』。(二)『コフキコガネ亜科』Melolonthinae 『長形の種類が多く、植物の葉を食べる。ヒゲコガネ』(コフキコガネ族コフキコガネ亜族ヒゲコガネ属ヒゲコガネ Polyphylla(Gynexophylla) laticollis laticollis)・『シロスジコガネ』(ヒゲコガネ属シロスジコガネ Polyphylla(Granida) albolineata)『のように白い模様のある種類もあるが、一般には褐色から黒色のクロコガネ』(コフキコガネ族クロコガネ亜族クロコガネ属クロコガネ Holotrichia kiotoensis)『の類のように単色のものが多い。成虫は灯火によく集まり、幼虫は地中にいて木の根を食べている』。(三)『ビロードコガネ亜科』Sericinae 『卵形から長卵形の小形の種類が含まれ、背面の光沢が鈍く、ビロード様の感じを与えるものが多い。草木の葉を食べるが夜間活動し、灯火にもよくくる。幼虫は地中で根を食べている』。(四)『スジコガネ亜科』Rutelinae 『夜間灯火に集まる金属光沢をもつ卵形の種類で』、最初に掲げた狭義のコガネムシをはじめとして、『ドウガネブイブイ』(スジコガネ族スジコガネ亜族スジコガネ属ドウガネブイブイ Anomala cupera。私の好きな和名で漢字では「銅鉦蚉蚉」と書く)・『スジコガネ』(スジコガネ属スジコガネ Anomala testaceipes)・『ヒメコガネ』(スジコガネ属ヒメコガネ Anomala rufocuperea)『などがこの類に属する』。(五)『ハナムグリ亜科』Cetoniinae 『四角張った体でよく飛ぶ。ハナムグリ』(ハナムグリ族ハナムグリ亜族ハナムグリ属ハナムグリ亜属 (独立属とすることもある)ハナムグリ Catonia (Eucetonia) pilifera)・『カナブン』(カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina(又は PseudotorynorrhinaRhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina japonica(又は Pseudotorynorrhina (Rhomborrhina) japonica)『など花や樹液に集まるものが多く』アフリカに棲息する『巨大なゴライアス』ハナムグリ類(ハナムグリ亜科オオツノハナムグリ属 Goliathus)『もこの類である。トラハナムグリ』(トラハナムグリ亜科トラハナムグリTrichius japonicus)・『ヒラタハナムグリ』(ヒラタハナムグリ亜科ヒラタハナムグリ Nipponovalgus angusticollis)『も花に集まるが、それぞれ別亜科とされることが多く、ヒゲブトハナムグリ』(ヒゲブトハナムグリ亜科ヒゲブトハナムグリ Amphicoma pectinata)等も『別亜科または別科とされる』。(六)『テナガコガネ亜科』Euchirinae 『沖縄のヤンバルテナガコガネ』(テナガコガネ属ヤンバルテナガコガネ Cheirotonus jambar)『は、日本最大種として有名』。以下、「民俗」の項。ファーブルの「昆虫記」で『知られるスカラベ・サクレ(タマオシコガネの一種)』(コガネムシ科ダイコクコガネ亜科 Scarabaeini 族タマオシコガネ属ヒジリタマオシコガネScarabaeus sacer。本種は「昆虫記」のベストセラーとともに「タマオシコガネ」や「フンコロガシ」という和名が当てられて紹介されて本邦でも有名となったが、その後、「サクレ」はファーブルの誤同定であったことが判明し、和名もヒジリタマオシコガネへ改められている。ここはウィキの「スカラベ」に拠った)『は、古代エジプト人にとって神聖な昆虫であった。土の中に入り、のちにまるで生き返ったように現れる生態から、この虫は不死の象徴となり、ミイラに添えて葬られた。この習俗の起源はきわめて古く、先王朝期』(紀元前三五〇〇年以前)『の墓からも発見されている。花崗岩(かこうがん)や宝石をこの虫の形に刻んだ御守りもあり、それには、魂の裁判のとき神々が敵意をもたないことを願う文字が彫られているものもある。ヘリオポリスの人々によって祀(まつ)られた神ケプリ(ケペリ)は、この虫の神格化で頭部を虫の形にした男、あるいは顔の部分を虫にした男、頭上に虫をのせた男などの姿で描かれ、一匹の虫の形で表現されることもある。ケプリという語には、「スカラベ・サクレ」と同時に「自ら生成するもの」という意味があり、生命の更新を表す神として崇拝された。太陽を運行する神とも考えられ、この虫が玉を転がすように、巨大な虫の姿で太陽を転がしているとも想像された。特定の甲虫類を御守りにする習俗は世界各地にあった。ヨーロッパではシレジア人が、季節の最初のコフキコガネ属』(コフキコガネ族クロコガネ亜族クロコガネ属 Holotrichia)『の一種をとらえ、小さな布袋に縫い込んで発熱の際の御守りにした。中国では愛される呪(まじな)いに甲虫類を飼う習俗があり、コガネムシの一種も用いたらしい。日本では、よくコガネムシの胴を糸で結び子供のおもちゃにした』。江戸後期の心学者布施松翁の「松翁道話」(文化一一(一八一四)年成立)には、『平安後期の盗賊熊坂長範(くまさかちょうはん)が子供のとき糸につけて遊んでいたコガネムシが銭箱に入ったので引き上げると銭をつかんできた、それが盗みの始めであると書かれてある。金銭にしがみつく人間を例えてコガネムシともいう。日本では一般にコガネムシは珍重されなかった。ヒメコガネなどコガネムシ類を集め、干してニワトリの餌(えさ)にした地方もある』とある。

 なお、本項は「本草綱目」の引用(実は同書でも独立項でなく、先の「𧒂螽」(本邦産はイナゴに同定)の附録にあるという場違いな出現法で示されてある。しかも良安のこれは、珍しくも、『金龜子 時珍曰、此亦吉丁之類、媚藥也。大如刀豆、頭面似鬼、其甲黑硬如龜狀、四足二角、身首皆如泥金裝成、蓋亦蠹蟲所化者。段公路「北戸錄」云、金龜子、甲蟲也。出嶺南。五、六月生草蔓上、大如楡莢。背如金貼、行則成雙。死則金色隨滅。故以養粉令人有媚也。』という部分をほぼ丸ごとそのまま引いている(良安の「本草綱目」の引用はそのままであることは実は稀であって、かなり恣意的に取捨選択したり、大胆に省略したりしており、時には大事な所をカットしてしまったために意味が通じなくなっていたり、誤った叙述に変形しているものさえある)。但し、原書では後にまだ二倍ほどの引用が続く)だけで、良安が評言を附さない点で特異点である。本邦にいない種ならばまだしも、これは甚だ不審ではある。

 最後に。

 以下は四年前に私がブログ記事としたことがあることである。

 誰もが知っている野口雨情作詞で中山晋平作曲の童謡「黄金虫」があるが、近年、この「コガネムシ」は真正の「コガネムシ」ではなく、「チャバネゴキブリ」(オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ亜科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica)だという説が出た。当初、それを読んだ時には「なるほど!」と膝を叩いたものだったが、やっぱりどうも、チャバネゴキブリでは、キモくて、絵本で絵にならないので、直に「しょぼん……となり、憂鬱にもなった。ところが、そのすぐ後で、先に挙げた星野氏のブログの中の、童謡『黄金虫』の謎を読むや、「すっきり!」とし「快哉!」と思わず、叫んだのであった。それによれば、あの童謡「コガネムシ」とはの玉虫(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia 下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae に属する種群。狭義にはタマムシ(ヤマトタマムシ)Chrysochroa fulgidissima)だったのである!

 

「吉丁蟲(たまむし)」前項参照。

「刀豆(なたまめ)」マメ目マメ科マメ亜科ナタマメ属ナタマメ Canavalia gladiataウィキの「ナタマメ」によれば、「鉈豆」とも書き、「刀豆」は「とうず」「たちまめ」(太刀豆)、「帯刀(たてはき)」とも呼ばれた。古くから『漢方薬として知られており、近年では健康食品、健康茶としても一般的に知られるようになった』。『アジアかアフリカの熱帯原産とされ、食用や薬用として栽培される。日本には江戸時代初頭に清から伝わった。特に薩摩では江戸時代は栽培が盛んで、NHK大河ドラマ『篤姫』のワンシーンでも長旅の無事を祈る餞別として送られていた』。『夏に白またはピンク色の花を咲かせる。実の鞘は非常に大きく』、三十~五十センチメートルほどになる、とある。

「蠹蟲(きくひむし)」現行の昆虫学では狭義には昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指すが、本書では既出で、そこでは木質部や紙を有意に食害する多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科 Anobiidae に属する「死番虫」の仲間や書物を食害するとされた昆虫綱シミ目 Thysanura の「紙魚」(実際には顕在的な食害は認められないのが事実である)の仲間をも含んでいる語と踏んでいるが、ここはそれらの総称ではなく、それが「化する所の者なり」と言っている通り、所謂、土中のコガネムシ類の幼虫類を指していると考えるべきである。あまり知られていないが、コガネムシ類は幼虫も成虫も庭園の草木類や栽培果樹類の有意な食害虫である。

「草蔓〔(さうまん)〕」草本類や蔓性植物。

「雙〔(さう)〕を成し」雌雄で対を成し。摂餌で群がる性質をかく言ったか。

「死するときは、則ち、金の色、隨ひて滅す。故に粉を以つて養ひて、人をして媚〔(び)〕有らしむなり」「粉」は何の粉なのかは不明。ともかくも玉虫同様の媚薬(催淫或いは恋愛成就の呪(まじな)い)効果としてのそれは、この「金の色」にこそある、と考えていることが判る。だからこそ粉をもって飼って生かしておき、いざという時に、金色の失せぬうちに、服用するか、呪術に用いるということを述べているのであろう。]

2017/09/17

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 吉丁蟲(たまむし)


Tamamusi_2

たまむし 【俗云玉蟲】

吉丁蟲

 

キッテイン チヨン

 

本綱甲蟲也背正緑有翅在甲下人取帶之令人喜好相

愛媚藥也

△按俗云玉蟲是也江州及城州山崎攝州有馬多有之

 婦女納鏡奩以爲媚藥用白粉汞粉藏之歷年不腐雄

 者全體正綠光色縱有二紅線腹亦帶赤色潤澤可愛

 長一寸二三分頗似蟬形而扁小頭其頸有切界露眼

 六足也雌者長一寸許全體黒光澤帶金色縱有同色

 筋脈數行蓋雄者多雌少

    【新六】花咲は露よりけなる玉虫のからを留めて筐とやみん 知家

 

 

たまむし 【俗、「玉蟲」と云ふ。】

吉丁蟲

 

キッテイン チヨン

 

「本綱」、甲蟲なり。背、正緑。翅、有りて、甲の下に在り。人、取〔りて〕之れを帶〔(お)〕ぶ。人をして好相〔(がうさう)〕を喜〔ばし〕、媚藥(こび〔のくすり〕)を愛せしむ。

△按ずるに、俗に云ふ「玉蟲」、是れなり。江州及び城州の山崎・攝州の有馬に、多く之れ有り。婦女、鏡の奩(いへ)に納(い)れて、以つて媚藥と爲す。白粉〔(おしろひ)〕・汞粉(はらや)を用ひて之れを藏(をさ)むれば、年を歷て〔も〕腐ちず。雄は、全體、正綠色に光り、縱(たつ)に二〔(ふたつ)〕の紅線(べにすぢ)有り。腹にも亦、赤色を帶びて、潤澤、愛しつべし。長さ一寸二、三分。頗〔(すこぶ)〕る蟬の形に似て、扁〔(ひらた)〕く、小さき頭〔(かしら)〕、其の頸(くびすぢ)に切界(きれと)有り。露(あらは)なる眼〔(まなこ)〕、六足なり。雌は長さ一寸許り、全體、黒くして、光澤、金(こがね)色を帶ぶ、縱(たつ)に同色の筋脈〔(すぢ)〕數行〔(すうぎやう)〕有り。蓋し、雄は多く、雌は少なし。

【「新六」】はかなさは露よりけなる玉虫のからを留めて筐〔(かたみ)〕とやみん 知家

[やぶちゃん注:「雄は、全體、正綠色に光り、」の部分は原典は「雄者全-體正--色」となっているが、これでは読めないので、敢えて書く読み変えてみた。因みに、東洋文庫の訳は『雄は全体に正緑色で光り、』となっており、私の読み変えたものと同じように訓読したものと思われる。また、最後の和歌は「新撰和歌六帖」(一首の作者である藤原知家が定家の没後に定家の次男藤原為家や家良・光俊らとともに寛元元(一二四三)年に詠んだもの。全部で二千六百三十五首に昇り、所収する知家の詠歌は五百を超える)の「第六」の「虫」にあるが、調べてみると、初句が「花咲は」ではなく、「はかなさは」であるので、特異的に訂した。]

 

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia 下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae に属する種群を広く指すが、中でも、美しい外見を持つことから古来より珍重されてきたのはタマムシ(ヤマトタマムシ)Chrysochroa fulgidissima である。ウィキの「タマムシによれば、『細長い米型の甲虫で、全体に緑色の金属光沢があり、背中に虹のような赤と緑の縦じまが入る。天敵である鳥は、「色が変わる物」を怖がる性質があるため、この虫が持つ金属光沢は鳥を寄せ付けない』とあり、『上翅と下翅のサイズ、面積が大きく違わず、翅を閉じる際には下翅を折りたたむことなく上翅の下に収納する。また、下翅を展開する必要がない分だけ、翅を開いてから飛び立つまでに要する時間も短くて済む』とある。また、媚薬の話はないものの、『この種の上翅(鞘翅)は構造色によって金属光沢を発しているため、死後も色あせず、装身具に加工されたり、法隆寺宝物「玉虫厨子」の装飾として使われたりしている。加工の際には保存性を高める為にレジン』(樹脂)『に包む事もある』とあり、また、『日本には「タマムシを箪笥に入れておくと着物が増える」という俗信がある』と記す。

 なお、次の
「金龜子(こがねむし)」の冒頭注の終りも! 必ず! お読みかれし!! 中には大いにびっくりする人もいるだろう。

……玉虫厨子……ああ……小学校の教科書で読んだ「玉虫の厨子の物語」(平塚武二作)……主人公は「若麻呂」だった……また、読みたくなったなぁ……

 

「好相〔(がうさう)〕」相好(そうごう)に同じい。顔つき・表情。但し、ここは特に男女の戯れを指すようである。

「媚藥(こび〔のくすり〕)」原典では「こび」が「媚」の横に打たれているのでかく読むしかなかったが、まあ、意味では「媚薬(びやく)」ととって良かろう。特にこの場合は、具体的な交合するための精力剤を指しているようである。

「江州」近江国。

「城州」山城国。

「山崎」現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「攝」摂津国。

「有馬」有馬温泉のある現在の兵庫県神戸市北区有馬町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「奩(いへ)」鏡を仕舞い置く(入れて蓋をする)匣(こばこ)・容器。元「奩」(音「レン」)は漢代の化粧用具の入れ物(青銅製或いは漆器)で身と蓋とから成り、方形や円形を呈する。この中に鏡や小さな香合に詰めた白粉・紅・刷毛・櫛などを入れた。

「以つて媚藥と爲す」これは先の精力剤ではなく、呪的なそれで、その虹色の光りで以って、女性の顔に男性を誘う媚(こび)、一種のオーラを与えると信じられたのであろう。

「汞粉(はらや)」おしろいの一種で、水銀に明礬・塩・にがり等を加えて加熱して得られる昇華物(塩化第一水銀の白色粉末)。十三世紀頃から、主に伊勢国飯南郡射和村で生産されたため、「伊勢白粉(いせおしろい)」の通称が知られた。白粉以外にも利尿剤・下剤或いは梅毒の治療薬としても用いられた。有毒な水銀ならば、殺菌作用はあるから、玉虫の翅が「年を歷ても腐ち」ないというのはあり得る話ではある。

「縱(たつ)」「縦(たて)」に同じい。

「潤澤」虹色の潤ったような輝きを指す。

「一寸二、三分」三センチ七ミリから約四センチメートル。

「蟬の形に似て」私は全然、似ていると思わない。分類学上も半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea で遙かに縁遠い。

「切界(きれと)」読みの「きれと」は「切戸」で有意な溝状の切れ目のこと。

「露(あらは)なる眼〔(まなこ)〕」眼が飛び出していることを指す。

「筋脈〔(すぢ)〕」私は敢えて二字に「すぢ」と当て訓した。東洋文庫訳は『きんすじ』とするが、その重箱読みは気持ち悪い。私はしたくない。

「雄は多く、雌は少なし」んなこたぁ、ねえ。♂♀が判別し難いだけだべ。判別法は腹部先板の形状の違いで、は交尾器を出すために、先の表面が腹側に凹んでいる

「知家」藤原知家(寿永元(一一八二)年~正嘉二(一二五八)年)は公家・歌人。藤原北家魚名流。正三位・中宮亮。「大宮三位入道」などとも呼ばれた。新三十六歌仙の一人に選ばれている。藤原定家に師事したが、死後、「新撰和歌六帖」でともに詠唱した、定家の後を継いだ藤原為家と不仲となり、反御子左(みこひだり)派の立場に立つようになった。藤原為家の判詞に反論して「蓮性(れんしょう)陳状」(蓮性は彼の法号)を著わした。勅撰集には実に百二十首が入る。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 鑣蟲(くつわむし)


Utuwamusi

くつわむし 轡蟲【俗字】

      【正字未考】

鑣蟲【音標】

 

△按此蟲莎雞之類翅青腹黃色前脚長疾走跳毎出入

 於穴故多難獲秋鳴聲似馬鑣音因以名之蓋松蟲鈴

 蟲鑣蟲等世賞之而本草不載之唯羅山文集云一蟲

 號轡大無幾誰知鞭策是蒲葦恰似蒼蠅附驥來但在

 口吻不在尾【夫木】駒とめて梺ののへを尋ぬれはをくらにすたくくつわ虫哉 匡房

 

 

くつわむし 轡蟲【俗字。】

      【正字、未だ考へず。】

鑣蟲【音、標。】

 

△按ずるに、此の蟲、莎雞(きりぎりす)の類。翅、青、腹、黃色。前脚、長く、疾〔(はや)〕く走り跳ぶ。毎〔(つね)〕に穴に出入〔す〕。故に多〔くは〕獲り難し。秋、鳴く。聲、馬の鑣(くつわ)の音を似〔す〕。因りて以つて之れを名づく。蓋し、松蟲・鈴蟲・鑣蟲等は世に之れを賞す。而るに、「本草」之れを載せず。唯、「羅山文集」に云〔はく〕、

 

 一蟲號轡大無幾

 誰知鞭策是蒲葦

 恰似蒼蠅附驥來

 但在口吻不在尾

 

  一蟲 轡(くつは)と號す 大いさ 幾(いくばく)も無く

  誰か知らん 鞭策〔(へんさく)〕 是れ 蒲葦〔(ほゐ)〕なるを

  恰か〔(あたか)〕も 蒼蠅〔(さうやう)〕 驥〔(き)〕に附きて來たるに似たり

  但だ 口吻に在りて 尾に在らず

 

〔と〕。

【「夫木」】駒とめて梺〔(ふもと)〕ののべを尋ぬればをぐらにすだくくつわ虫哉 匡房

[やぶちゃん注:読み易くするために、林羅山の七絶は前後を空け、各句を白文でまず示し、その後に原典の訓点に従った書き下し文を配した。]

 

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス上科キリギリス科 Mecopoda 属クツワムシ Mecopoda nipponensis。鳴き声は別名ともなっている「ガチャガチャ」が一般的なオノマトペイアであるが、私はこの激しい五月蠅い印象の擬音語には幼少期から抵抗がある。私にはクツワムシの鳴き声は「シャッカシャッカシャッカシャッカ」或いは「ジッカジッカジッカジッカ」時に「ジッジッジッジッ」「ジカジカジカジカ」を、ギュッと圧縮して続けたような感じに聴こえる。私の書斎の下の崖には彼らの好物である葛(くず)が繁茂しており、よく鳴いているが、まあ、確かに、松虫や鈴虫のようにずっと聴いていたい部類の鳴き声ではなく、ちょっと五月蠅いと思わないこともない。

 

「翅、青、腹、黃色」ウィキの「クツワムシ」によれば、クツワムシは『体色の個体変異が大きく、緑色の個体(但し、の背面にある発音器付近は褐色を帯びる)と褐色の個体がある。保護色と考えられるが、両者は同所的に混在し、生息フィールドごとに同じ色の個体群が安定して棲んでいるわけではない』とある。

「本草」「本草綱目」。

『「羅山文集」に云〔はく〕』東洋文庫版の割注に『『詩集』巻五十七、十二虫、轡虫』とある。

「轡(くつは)と號す」ここの「くつは」のルビはママ。轡の歴史的仮名遣は「くつわ」が正しい

「大いさ 幾(いくばく)も無く」本邦のクツワムシは直翅目の中では相対的に大型の部類で(体長は五~六センチメートルほどで、キリギリス科ササキリ亜科カヤキリ属カヤキリ Pseudorhynchus japonicus の七センチメートル弱に次ぐ)、特に体高が高くてずんぐりとしているために、その体側の面積は日本の剣弁(キリギリス)亜目 Ensifera 中では最大である。

「鞭策〔(へんさく)〕」漢詩なので音読みしておいた。東洋文庫訳ではこの二字に『むち』とルビしている。「策」も警策で判る通り、「鞭・杖」の意がある。

「蒲葦〔(ほゐ)〕」東洋文庫訳では『蒲(がま)や葦(あし)なるを』と訓読(ここは和歌などと同じく原典をある程度尊重してある)しているが、これはやり過ぎで、私は従えない。

「蒼蠅〔(さうやう)〕」青蠅(あおばえ)。双翅(ハエ)目ヒツジバエ上科クロバエ科 Calliphoridae のハエ類の中で緑色や青色を呈した種群の俗総称。キンバエLucilia Caesar(以前にも注したが、間違えてはいけないのは、この「金」とは「ゴールド」の意味ではなく、「金」属光沢の蠅の謂いである)が代表格。

「驥〔(き)〕」駿馬。ちょっと意味がとり難いが、轡虫をまさに轡から馬に擬え、鎧を付けたような「蒼蠅」をそれにとまらせた映像を思い浮かべて騎乗の武士に譬えたものであろう。

「但だ 口吻に在りて 尾に在らず」「ただね、馬の轡は口に嚙ませるせるんだから、口の所にあって「がちゃがちゃ」と鳴るのであって、轡虫のように尾の方(前述した通り、♂の発音器は背面にある)にはないぜ」と洒落たのである。可笑し味のなかに羅山の細かな観察力の一端が窺える。

「駒とめて梺〔(ふもと)〕ののべを尋ぬればをぐらにすだくくつわ虫哉」読み易く整序すると、

 

 駒止めて麓の野邊(のべ)を尋ぬれば小倉に集(すだ)く轡蟲かな

 

である。「小倉」現在の京都市右京区嵯峨亀ノ尾町にある小倉山(標高二百九十六メートル)。(グーグル・マップ・データ)。「集(すだ)く」は「虫などが多く集まって鳴く」の意の動詞。

「匡房」大江匡房(長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年)は公卿・儒学者で優れた歌人としても知られた。正二位権中納言。江帥(ごうのそつ)と号した。平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較されたという。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 金鐘蟲(すずむし)


Suzumusi

すゝむし 金鐘蟲

     月鈴兒

金鐘蟲

     【俗云鈴蟲】

 

△按此亦蟋蟀之類眞黒似松蟲而首小尻大脊窄腹黃

 白色夜鳴聲如振鈴言里里林里里林其優美不劣於

 松蟲

    【夫木】 振立てならし㒵にて聞ゆなる神樂の𦊆の鈴虫のこゑ 範光

 

 

すゞむし 金鐘蟲

     月鈴兒

金鐘蟲

     【俗に「鈴蟲」と云ふ。】

 

△按ずるに、此れも亦、蟋蟀(こほろぎ)の類。眞黒なり。松蟲に似て、首、小さく、尻、大きく、脊、窄(すぼ)く、腹、黃白色なり。夜鳴く聲、鈴を振るがごとく、「里里林〔(りりりん)〕、里里林」と言ふ。其の優美(やさし)さ、松蟲に劣らず。

【「夫木」】 振り立〔て〕てならし㒵〔(かほ)〕にぞ聞ゆなる神樂〔(かぐら)〕の𦊆〔(をか)〕の鈴虫のこゑ 範光

[やぶちゃん注:和歌の上句中七は原典は前の通り、「ならし㒵にて」であるが、「夫木和歌抄」(「巻十四」の「秋五」)を調べると、「に」ではなく「ぞ」が正しいので、訓読文では特異的に訂した。]

 

[やぶちゃん注:直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus

 コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus との逆転説についてはこれを私は採らない詳細は前項「松蟲」の私の冒頭注を必ず参照されたい

 

「窄(すぼ)く」すぼまって細い。先の方に向かって細くなっているさま。

「腹、黃白色なり」スズムシの翅の下の腹部の上面は黄白色に見える。

「振り立ててならし㒵〔(かほ)〕にぞ聞ゆなる神樂〔(かぐら)〕の𦊆〔(をか)〕の鈴虫のこゑ」読み易く整序すると、

 

 振り立ててならし顏にぞ聞こゆなる神樂の岡の鈴蟲の聲

 

で、「神樂〔(かぐら)〕の𦊆〔(をか)〕」は地名で神楽岡(かぐらおか)。京都市左京区南部の、吉田神社の東方直近にある吉田山(標高百五メートル)の古称である。ここ(グーグル・マップ・データ)。「ならし顏」というのは恐らく「狎(馴・慣)らし顏」で、「狎れ過ぎて相手を侮る・横柄になる」の意の「ならす」を形容詞風にして顏と結合させた名詞で、鈴虫が沢山、遠慮せずに五月蠅い程に(これ見よ(聴け)勝ちに)鳴き立てている様子を指しているものと私は読む。さらにこの歌、「振り立てて」「ならし」(鳴らし)「聞こゆ」「神樂」「鈴」が縁語である上に、「鈴蟲」の「鈴」を山名の「神樂」から実際の神楽舞(かぐらまい)を舞う際に巫女が手に持って振り鳴らす巫女「鈴」・神楽「鈴」に掛けてもあるのであろう。但し、技巧に過ぎていい感じはしない。

「範光」藤原範光(仁平四(一一五四)年~建暦三(一二一三)年)は公卿。従二位権中納言・民部卿・東宮権大夫。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 松蟲


Matumusi

まつむし  正字未考

      【末豆無之】

松蟲

 

△按松蟲蟋蟀之類褐色而長髭腹黃在野草及松杉籬

 夜振羽鳴聲如言知呂林古呂林甚優美也凡松蟲鈴

 蟲晝難得夜照燈則慕光來捕之畜于蟲籠用竹筒盛

 水投鴨跖草二三葉毎旦新換水及草掃糞其屎如胡

[やぶちゃん注:「旦」は「且」であるが、意味が通らないので特異的に訂した。]

 麻大暑以後始鳴九十月止

    【古今】 栬葉の散てつもれる我宿に誰を松虫こゝら鳴くらん 無名

 

 

まつむし  正字、未だ考へず。

      【「末豆無之〔(まつむし)〕」。】

松蟲

 

△按ずるに、松蟲は蟋蟀(こほろぎ)の類、褐色にして、長き髭、腹、黃、野草及び松・杉の籬(かき)に、夜、羽を振〔るひ〕て鳴く。聲、「知呂林〔(ちろりん)〕、古呂林〔ころりん)〕」と言ふがごとく、甚だ、優美なり。凡そ松蟲・鈴蟲、晝、得難し。夜、燈を照らせば、則ち、光を慕(した)ひて來る。之れを捕へて、蟲籠(むしこ)に畜〔(か)〕ふ。竹の筒を用ひて水を盛り、鴨跖草(つゆくさ)二、三葉を投〔じ〕、毎旦、新たに水及び草を換(か)へ、糞を掃(はら)ふ。其の屎〔(くそ)〕、胡麻〔(ごま)〕のごとし。大暑以後、始めて鳴く。九、十月、止む。

【「古今」】 栬葉〔(もみぢば)〕の散りてつもれる我〔(わが)〕宿に誰〔(たれ)〕を松虫こゝら鳴くらん 無名

 

[やぶちゃん注:ズバリ、結論、から言おう。これは図及び鳴き声から見て、正しく、現在の、

直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科 Xenogryllus 属マツムシ Xenogryllus marmoratus

である。高校の古文の教科書の注には、まことしやかに(或いは十把一絡げに)平安時代(国文学者の「源氏物語」「古今和歌集」の注釈や「広辞苑」の記載等)、或いは、もっと広げて、江戸時代以前は現在のマツムシはスズムシ(コオロギ科 Homoeogryllus 属スズムシ Homoeogryllus japonicus)であったとし、一部の近現代の教養書籍類では、明治時代にそれぞれの当該種に和名を与える際に逆に命名してしまったという〈トンデモ真相〉を鼻高々に掲げてあったりする。かく言う私も、かつてそう授業で言い続けて来た付和雷同の凡百の一人であるのだが、例えば、この「和漢三才図会」のこの記載を見るにつけ、

現在の私は、この説はほぼ完全に誤りであると断言したい

のである。

 まず、一部の古典籍に於いて、両者に混同があったという記載は確かにある。これに就いては幾つかのネット記載が解説を記しているが、私は個人サイト「タコツボ通信」の中の「文学にでてくる昆虫 古典編」の『「松虫」と「鈴虫」の呼称について』が最も判り易く、優れたものであると感じている(なお、フェイスブックの「古典一般」という方のこちらの記載に平安期の逆転肯定説(国文学者今西祐一郎氏のもの。但し、「広辞苑」に載る逆転説を『試案』と留保しての肯定)をうまくコンパクトに纏めた「平安時代、鈴虫はなんと鳴いたか」もある)。この「タコツボ通信」の方は、私と同じく、逆転などしていないという結論を提示されている。そこで、逆転説の有力な証左の一つとして、江戸末期の松浦静山の随筆「甲子夜話」の一節(百巻の第三話の後半。因みに私は「甲子夜話」の電子化注も手掛けている。全然、進まないが)の梗概を現代語訳されておられるが、ここは私が原典を引いておくこととする。底本は東洋文庫を用いたが、恣意的に漢字を正字化し、二重鍵括弧は鍵括弧に代えてある。踊り字「〱」「〲」は正字に変えた。但し、この「松虫鈴虫の弁」というのは静山の文章ではなく、成嶋勝雄(本条の前半はその父成嶋道筑の和歌が主体)なる人物の文章の引用であるので注意されたい。下線太字は私が附した。

    *

  松蟲鈴蟲の辨

物の名などおぼつかなきを、しゐてあなぐりもとめんこそ、いとものぐるをしけれ。俊成卿のしのゝ藥草、いかなるものぞともさだかならねど、たゞその名のゑんにやさしければ、ちらすなよとはよませられけん、ゆくにうるはしき道のをしへなるべき。されど又登蓮法師がまそほしの薄とみに尋ゆきけんも、さるかたにすきたる心のやうゐありてまたおかし。このほどそれの御つぼねより、都にしては松むしといへるは色くろく、鈴むしはあかきをいへり。あづまの人はおほくそのとなへたがひたり。いづれかいつれか、そのよしわきまへよとあれど、武さし野のかぎりなきおろかさにして、いかでそのなのりのたがひめわきまへ侍らん。なれどしゐていなみがたくて、をのづからさることや見出るとて、ふづくえのあたり所せきまで、ふみどもひもときちらしぬ。抑蟲のねをことにめでおはしましけるは、堀河院の御時にして、藏人頭以下を嵯峨野に逍遙せさせて、松蟲、鈴蟲を奉らしめ給へるよし、順德院の「禁祕抄」に見え、「公事根元」にもむしゑらみの事同じ如くしるさる。又「堀河院次郎百首」の題にも松蟲、鈴蟲を出され、松蟲は「古今集」に貫之の人まつ蟲とよめるによりて、俊賴、忠房その餘の人々も皆野原の夜寒によせ、常盤山の麓のさびしさにつけて侘ぬるよしを詠じ、鈴蟲は、はしたかの尾ぶさの鈴かと聞まがふよしを顯仲よみ、驛路の鈴かとおぼめしなど仲實のよまれける。その外世々の撰集、あるは順の「和名」をはじめ、「袖中抄」「八雲御抄」「藻鹽草」などにも、まつといひ鈴といふ、ゆかりにつきたることのはのみあまたあつめて、これがすがたのかうやうにして、そのなくこゑのかくこそはなけと、さだかにしるせしはつやつや見る所なし。まいて漢がたのふみには、「本草綱目」よりはじめ、きりぎりす、はたをりのうへのみあきらかにしるし置て、この二蟲の事は露あらはさず。近き比の陳淏子(チンカウシ)が「花鏡」に、金鐘兒燈(トウ)稜々(リヤウリヤウ)となき小鐘のごとしとかけるを、平賀といへるがまつむしといへる訓をつけし。こや都の手ぶりにならひしなるべし。白石といへりし人の「東雅」といへるふみには、螽斯のたぐひといへるのみしるし、貝原篤信といへる翁が、しきしまの『やまと本草』には、松むしはきりぎりすに似てひげあり。鈴蟲はそのさま西瓜といへるものゝ種のごとく、黒くひらひらして、首さゝやかに、ひげなかば白く二條ありといへり。翁は筑前の人にて都よりはじめ東のはてまでもあまねくあそびありきて、かゝるものゝ上もひろく見、せちにあきらめたる翁ぞかし。これやあづまうどのいへるにかなひたるらんと覺ゆ。こゝに「源氏物語」のすゞむしの卷に、六條院のことばにいへらく。聲々聞えたる中に鈴蟲のふり出たるほど、はなやかにおかし。秋の蟲の聲いづれとなき中に松蟲のなんすぐれたるとて、中宮のはるけき野邊を分て、いとわざと尋とりつゝ、はなたせ給へる、しるくなきつたふがこそすくなかなれ、名にはたがひて、命のほどはかなきむしにぞあるべき。心に任て人きかぬおく山はるけき野の松原に、聲おしまぬもいとへだて心ある蟲になん有ける。鈴蟲は心やすく、いまめひたるこそらうたけれとかけり凡松蟲は人げ遠き所にひとり心ぼそげに鳴おれるより、人まつ名にたちそめ、鈴蟲はをのが名を聲にふり出たるなるべし。さればいさゝか此ものがたりに、此むしどものこゑのやうをしなわかたれしを證とし、かの貝原翁が説にしたがひ、しばらくあづまうどのいひつぎのまゝに心うべきにや。猶ものさだめのはかせに、とほまほしくこそ。

   *

この内容の冒頭の部分の下線太字だけを見ると、「たこつぼ通信」氏が纏める通り、松虫と鈴虫は『江戸時代には京都と東京で呼称が逆になってしまっ』ていたということになり、『当然ながら、前提として京都の呼称が伝統的に正しいと考えるから』、本来の松虫と鈴虫は『今と逆だったという結論になる』ことになってしまうのである。

 以下、「たこつぼ通信」氏はそれぞれの鳴き声のオノマトペイアの表記記載や体色を主として、江戸(鈴虫と松虫の逆転を語るものが多い)から平安の「源氏物語」まで遡って行かれるているのである(引用したい強い欲求にかられるが、多くの書籍を渉猟され、考証なさっておられ、軽々に引用することが私には憚られる(それほど素晴らしい)。その過程はリンク先をじっくりとお読み戴きたい)。

 それでは逆転説の濫觴とも言える「源氏物語」ではどう書かれてあるか? 「たこつぼ通信」氏は実に逆に逆転説を否定するために「鈴虫」の帖を引くのである。その前後の「源氏物語」の原典を大幅に引いて以下に示す。光(院)が出家した正妻女三の宮(尼)のために六条院の彼女の屋形のそばに庭を新造し(『秋頃、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせ給へり』)、彼女を誘うために、『この野に蟲ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、 渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたま』ふたが、固辞するという前段を経て、光が八月十五夜、逆に三の宮がその庭を眺めつつ、誦経をするところに光が訪れる。台詞の頭に人物を示した。下線太字は私が附した。

   *

十五夜の夕暮に、佛の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦し給ふ。若き尼君達二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏(あかつき)の音(おと)、水のけはひなど聞こゆる、さま變はりたる營みに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡り給ひて、

光「蟲の音(ね)、いと繁(しげ)う亂るる夕(ゆふべ)かな。」

とて、我れも忍びてうち誦(ずん)じ給ふ阿彌陀の大呪(だいず)、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、聲々聞こえたる中に、 鈴蟲のふり出でたるほど、はなやかにをかし。

光「秋の蟲の聲、孰(いづ)れとなき中に、松蟲なむ優れたるとて、中宮の、遙けき野邊を分けて、いと、わざと、尋ね取りつつ、放たせ給へる、しるく鳴き傳ふるこそ少なかなれ。 名には違(たが)ひて、命のほど、はかなき蟲にぞあるべき。心にまかせて、人聞かぬ奧山、遙けき野の松原に、聲惜しまぬも、いと隔(へだ)て心ある蟲になむありける。鈴蟲は、心易く、今めいたるこそ、らうたけれ。」

などのたまへば、宮、

 

 おほかたの秋をば憂しと知りにしを

       ふり棄てがたき鈴蟲の聲

 

と忍びやかにのたまふ、いとなまめいて、あてにおほどかなり。

光「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ。」

とて、

 

 心もて草の宿りを厭へども

       なほ鈴蟲の聲ぞふりせぬ

 

など聞こえ給ひて、琴(きん)の御琴(おほんこと)召して、珍しく彈き給ふ。宮の御數珠(ずず)、引き怠り給ひて、御琴(こと)に、なほ、心入れ給へり。

   *

「たこつぼ通信」氏はこの下線太字部分の幾つかから、そこで優れていると光が言う「松虫」について、

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に字間を入れたり、除去したりさせて貰った。]

1 遠くの野辺まで特別に探して採って来た

2 生命力の弱いはかない虫

 これは現在の松虫そのものではないか。

 鈴虫は家庭で誰もが簡単に飼える生命力の強い虫だから明らかにここに述べられた虫とは違う。

 松虫は今でも飼育に成功した人はほとんどいない。庭に放しても殖えることはない。

 結論=源氏物語のころの鈴虫松虫は今と同じものを指していた。ただし、一般庶民はどちらがどう鳴くかなどほとんど興味はなく、鈴虫なら縁語として「ふる」「なる」などを用い、松虫なら「待つ」と掛け詞にして使うという詞の上のイメージだけは共通していた。

   《引用終了》

と述べておられるのである。激しく同感した。私は向後、国語教科書から、かの逆転断言注は断然、排除すべし! と訴えておく。「広辞苑」も「とする説がある」と附記すべきである!

 最後に一言言っておくと、実は現在はもっと面倒なことが起こっている。それは全然別種で、姿(全身が鮮やかな緑一色(但し、は背中部が褐色を呈する)で体型は紡錘形を成す)も鳴き声も異なる、しかも明治期の外来侵入種と推定されているコオロギ科マツムシモドキ亜科マツムシモドキ族 Truljalia 属アオマツムシ Truljalia hibinonis なる輩が都市部を中心に爆発的に繁殖しており、現在ではこれもマツムシと混同されてしまっているおいう呆れ果てた事実があるのである。

 

「鴨跖草(つゆくさ)」単子葉植物綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ属ツユクサ Commelina communis。この表記(「おうせきそう」現代仮名遣)は漢名で、本邦では主に本種を天日乾燥させた生薬名として用いられるようである。花の色が鳥のカモ(鴨)の頭に似ていることに由来する。現在、一般には圧倒的に「露草」で知られるが、ウィキの「ツユクサによれば、『朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。英名の Dayflower も「その日のうちにしぼむ花」という意味を持つ。また「鴨跖草(つゆくさ、おうせきそう)」の字があてられることもある。ツユクサは古くは「つきくさ」と呼ばれており、上述した説以外に、この「つきくさ」が転じてツユクサになったという説もある。「つきくさ」は月草とも着草とも表され、元々は花弁の青い色が「着」きやすいことから「着き草」と呼ばれていたものと言われているが、『万葉集』などの和歌集では「月草」の表記が多い。この他、その特徴的な花の形から、蛍草(ほたるぐさ)や帽子花(ぼうしばな)、花の鮮やかな青色から青花(あおばな)などの別名がある』とある。私は、昔、臼 で搗いて染料としたとも聞くから「搗き草」だと思っていた。

「大暑」二十四節気の第十二。通常は旧暦六月の内で、ここは期間としてのそれであるから、陽暦に換算すると、七月二十三日頃から立秋(旧暦では六月後半から七月前半)の前日八月六日までとなる。

「栬葉〔(もみぢば)〕の散りてつもれる我〔(わが)〕宿に誰〔(たれ)〕を松虫こゝら鳴くらん 無名」「古今和歌集」の「巻第四」の「秋歌上」に出る詠み人知らずの一首(二〇三番歌)。「栬」は「紅葉」(もみじ)と同義。老婆心乍ら言っておくと、「こゝら」は場所ではない。副詞で「こんなに多く・頻りに」の意である(昔、試験によく出した)。男が訪ねてこなくなった女が来ぬ男を「待つ」悲愁を詠ったもの。]

2017/09/16

「河童曼荼羅」火野葦平画河童図二葉 / ブログ・アクセス1000000突破記念として火野葦平「河童曼荼羅」をこれにて完遂とする

[やぶちゃん注:既に「後書」の注で述べた通り、底本国書刊行会による復刻版に敬意を表するため、同書に挿入された全部の火野の河童の絵や詩篇・揮毫類を画像化することは敢えてしない。ご自分で金を払って購入されたい。ここでは私が特に気に入っている冒頭の挿絵群の最初の一枚「河童孤獨」と最後の一枚「河童合戰圖」を示して、取り敢えず、二〇一二年七月二十一日に開始した、カテゴリ『火野葦平「河童曼荼羅」』は終りとしたい。この二枚に就いては画像補正を加えていない。或いは、気が向いたら、手書きの詩篇や戯文は活字電子化するかも知れぬ。……五年か……長いようで、短かったな……]


Kappakodoku

Kappakassenzu


火野葦平「河童曼荼羅」敘   佐藤春夫

 

Orikutisinobukappa

 

[やぶちゃん注:標題頁左下に配された折口信夫の河童の絵。池田彌三郎蔵品。後書」を参照されたい。]

 

 火野葦平は才情を兼ね備へて多藝多能な文人である。その人重厚にして放膽、朴訥にして任俠の風あり襟度の大なる僕の最も欽慕するところ。檀一雄が彼の爲人を稱して戲れに九州の大統領と呼ぶも亦故なきに非ず。

[やぶちゃん注:「襟度」(きんど)とは、立場や考えなどが異なる人を受け入れるだけの心の広さのこと。「度量」と同義。

「欽慕」(きんぼ)とは、敬い慕うこと。「敬慕」に同じい。

「爲人」老婆心乍ら、「ひととなり」と訓ずる。]

 彼の奔放不羈超凡の詩想は世上低俗の人情風俗を爲すを以って足れりとせず、假るに河童のローマン的生態を以つてして人生を寓し、また胸中の磊塊を遣る。

[やぶちゃん注:最初の「以って」の拗音はママ。

「奔放不羈」(ほんぱうふき(ほんぽうふき))の「羈」は「馬を繫ぐ」の意で、「不羈」は、そこから転じて、束縛を受けずに自由なことを指すから、常識や規範にとらわれずに、自分の思うままに振る舞うことを指す。

「磊塊」は「らいかい」と読み、「磊嵬」「磊磈」等とも表記する。見て通り、「多くの石が積み重なっていること」の意で、転じて、胸中に積み重なった不平を指す。]

 芥川龍之介のカッパはその知性によって成る人間生活の諷刺であったが、火野の河童はひとり知性のみの産物ではなく、その情意を傾けて成る。その人の相違は自ら文の差となって現はれ、火野の河童の生態が芥川が白眼を以って見たるものと異るは言を俟たぬ當然であるが、僕が芥川の白眼に見たるカッパを喜ばず寧ろ火野が靑眼を以つて河童を見るを愛好するのは、僕が火野とともに南國の田舍者として、その性情の芥川に遠く火野に近いものがあるためか。その故は自らも未だつまびらかにしないが、火野川の河童の芥川のそれに優るとも劣らぬ詩美のあるは疑はぬところである。

[やぶちゃん注:「僕が」「南國の田舍者」佐藤春夫は和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)生まれである。]

 僕、一昨年筑後野に櫨紅葉を探つて一日、火野らの導くがままに博多の旅亭の水炊きに名を得たる水樓に赴くに、席上、火野が描くところの水墨河童合戰圖の衝立があつた。傍人の私語によれば、火野の初戀びとが現にこの樓に來り働いてゐるため、火野はしげしげと足をここに運んで酒を呼び、杯を重ねて興の到る每に河童の軍勢を少しつつ描き添へ寫し加へて終にこの兩軍雲霞の大兵の混戰となると、蓋し敗戰昔時の鬱懷を屁のカツパとここにこの戲畫を成したのであらう。宴酣に及んで火野は僕をしてこの圖に贊をせしめた。僕も醉餘の惡筆を捧つて卽興の戲詩を題するを辭しなかつた。

[やぶちゃん注:「櫨紅葉」「はぜもみぢ」と読む。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の葉は秋美しく紅葉する。

「水樓」湖水や河川に臨んで立つ楼閣。後書」にあるように、鶏の水炊きで知られる「新三浦」。現在の福岡県福岡市博多区石城町の御笠川川畔にある。

「酣」老婆心乍ら、「たけなは(たけなわ)」と読む。]

 今また彼の河童曼荼羅の成らんとするに當つて敍文を僕に徴するも亦、先年、河童合戰衝立に惡詩を題せしめた因緣のつづきであらうと、禿筆を一呵してここに不文を敢て辭退せぬ所以である。

 

   昭和丙申秋はじめ

                  信州北佐久山中延壽城にて

                          佐藤春夫話す

 

[やぶちゃん注:「禿筆」(とくひつ)は穂先の擦り切れた(ちびた)筆で、転じて、自分の文章や筆力を謙遜していう語。

「昭和丙申」丙申(かのえさる)は昭和三一(一九五六)年。本書刊行は翌年五月。

 以下、「目錄」が続くが省略する。但し、その標題左下に配された宇野浩二の河童図を最後に示しておく。]

 

Unokoujinopkappa

 

「河童曼荼羅」 後書 河童獨白   火野葦平

 

Marukisuma

 

[やぶちゃん注:以上は標題頁の左下に添えられた丸木スマ(明治八(一八七五)年~昭和三一(一九五六)年)の絵。彼女は七十歳を過ぎてから絵を描き始め、以下の本文で火野が言うように、実際に「おばあちゃん画家」として有名になった女性画家。かの「原爆の図」で知られる画家丸木位里の母で、彼とその妻俊の勧めで絵筆を執った。原爆の図丸木美術館公式サイト内の「丸木スマ」によれば、『長く家業の船宿や野良仕事をしながら』、『子どもを育ててきたスマは、以来、八十一歳で『亡くなるまでに』、七百点を『超える厖大な数の絵を描』いた。『「そんなに描いたら疲れるでしょう」と俊がいうと、「畑の草取りにくらべたら遊んでいるようなものだ」と答えた』といい、『その天衣無縫で奔放な作風は画壇に認められ』、昭和二六(一九五一)年に『初めて日本美術院展に入選』し、その二年後には『院友に推挙され』た、とある。]

 

   後書 河童獨白

 

[やぶちゃん注:「河童曼荼羅」の後書き。なお、この後に、出版当時、葦平の秘書であった仲田美佐登氏の「跋 編集覺書」(クレジット:昭和三二(一九五七)年四月一日)が載るが、恐らく氏の著作権は存続しているものと思われるので、電子化しない。その後に「畢」と書かれたページがあり、その次(白紙)の次が奥付となる。奥付に捺された印は『河伯淵主』と読める。その右には筆者の家紋か(火野の本名は玉井勝則)「橘紋」が印刷されてある。

 本篇中には多くの人名・地名・書名及び河童の異名が出るが、それら総てに注をしているとエンドレスになるので、原則、私が全く知らないもののみに限った。失礼乍ら、私も実は河童フリークであり、通常の方よりは河童に詳しいので、悪しからず。]

 

 

 あなたは何の年ですかときかれると、私はカツパの年だと答へることにしてゐる。「カツパの年なんてありますか」「ありますとも。ネ、ウシ、トラ、ウ、タツ、ミ、カツパ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、ヰ」もつとも、私は干支(えと)なんて信用してゐないし、易(えき)でいふやうに、人間の性格や運命が生まれ年のエトによつて左右されるなどと考へたこともないから、なんの年だつてかまはない。しかし世間には案外十干十二支にこだはつてゐる人たちが多いし、よくたづねられるので、カツパの年と答へることにしてゐるわけである。私は明治三十九年十二月三日生、いはゆる丙午(ヒノエウマ)である。だから、カツパをミとヒツジの問にしてゐるのである。しかし、私は正式な戸籍面では明治四十年一月二十五日生になつてゐる。なぜさうなつてゐるかは、「花と龍」といふ小説に詳述したので、ここでは繰りかへさない。

[やぶちゃん注:「花と龍」昭和二七(一九五二)年四月から翌年五月まで『読売新聞』に連載された長編小説。明治中期から太平洋戦争後の北九州を舞台とした著者の父玉井金五郎(若松(現在の福岡県北九州市若松区)の沖仲仕で玉井組組長)と妻のマンの夫婦を主人公とした実録に近い大河小説で葦平自身の自伝性も強い。以上はウィキの「花と竜」を参照した。但し、私は未読なので、生年が異なる理由は知らない。]

 また、私にむかつて、よく、カツパは實際にゐるものですかときく人も多い。私がカツパを主人公にした作品をたくさん書き、酒席などで興がいたるとやたらにカツパの繪を描きちらすからであらう。しかし、この質問ほど私を當惑させるものはない。仕方なく、私は、どうぞ私の作品を讀んで下さいと答へる。すこしおどけて、作家は眞實を語るものであるから、作品にあらはれてゐるとほりですといふ。さういへば、私もこれまでずゐぶんカツパ作品を書いて來たものだ。今ここに集めてみて、ためいきのやうなものを感じる。最近はカツパブームとやらがはびこつてゐるさうだが、無論、私のカツパはそんなブームや流行とはすこしも關係がない。私はどんな場合でも流行や風潮やオポチユニズムからは背をむけてゐたいと考へてゐる。カツパが跳梁(てうりやう)するのは、たいてい亂世か、上に惡い政府や大臣がをり、これが愚劣な政治家たちといつしよになつて、國民を苦しめてゐる惡政の時代といはれてゐるから、現在のカツパの跋扈(ばつこ)はそのためにちがひない。私が最初のカツパ作品「石と釘」を書いたのは昭和十五年であつた。これは古くから私の郷里の街、九州若松に傳はつてゐる話に多少の潤色を加へたものだが、背中にカツパ封じの釘を打たれた石地藏は、現在でも、高塔山(たかたふやま)の頂上にある。高塔山は海拔わづか四百尺、若松市街地の背後にそびえてゐるが、丘の親分ほどの高さなので、散步にはちやうどよく、この頂上からの見晴らし、特に夜景は東洋一だと私はすこし冗談めかしていく度も作品のなかに書いたことがある。數年前から、祇園の夏祭といつしよにカツパ火祭といふ行事がはじまつた。町内でそれぞれ獨創的なカツパ人形を作り、コンクールをやるのである。夜は八時くらゐから、數千本の炬火(たいまつ)をかざした群衆が列をなし、列中にカツパ人形を加へて高塔山に登る。この火の行進は美しい。公園になつてゐる頂上では、「石と釘」の傳説にちなんで、山伏たちやカツパの群がページュントをやり、炬火は全部燒いてしまふ。別に祭壇をしつらへて、中央にカツパ大明神を安置し、皿用特級水の一升びんや胡瓜を獻じて、祭文を奏上する。このカツパ祭文を私が讀む。去年のは、カツパの神通力とヒユーマニズムとをもつて、この地球上から原水爆と戰爭の恐怖を驅逐(くちく)してもらひたいといふ意味のものであつた。冥土の芥川龍之介や佐藤垢石老から花環が來たり、關門海映の女カツパ頭目海御前(あまごぜ)から挨拶狀が來たりする趣向である。古くからカツパ祭をやつてゐるのは、大分の下毛郡(しもげぐん)下郷(しもがう)や、日田(ひだ)の八幡神社、久留米(くるめ)水天宮などをはじめ少くない。カツパはかうして私たちのなかに生きてゐる。小學生のころ、母たちに、川や海に行くときには、カツパに尻を拔かれないやうにといつも注意された。どこの誰それはカツパに引かれたといふ話もきかきれた。その時分から、すこしづつカツパは私の體内に棲みこむやうになつたのかも知れない。全國にあるさまざまのカツパの傳説を調べることは、私の樂しみの一つになつた。カツパの話を古老にきくために、わざわざ出かけたことも一皮や二度ではない。そして、この瓢逸な傳説の動物のよろこびや悲しみや怒りやが、しだいに私自身のよろこびや悲しみや怒りと合致する氣配を感じるやうになつたとき、カツパは私の宿命となつたのである。もともと私は妖怪變化のたぐひが好きであつたが、カツパのやうに、私の身内深く入りこんで來たものはなかつたし、カツパのやうに、私の救ひになつたものもない。詩と小説との間を彷徨(ほうこう)しながら苦しんでゐたとき、私にむかつて灯をさしだしてくれたのがほかならぬカツパであつた。しかし、それが作品の形になつてあらはれたのは、前述したとほり、「石と釘」が最初である。その同じ年「魚眼記」を着いた。これは昭和十五年十一月號の「文藝」に發表されたものだが、同じ月の「改造」には、「幻燈部屋」が載つてゐる。私はこのむづかしい作品で苦吟してゐる最中に、「魚眼記」を書いたのである。詩と小説との結び目ににじみでる憂愁のかげりがカツパの形を借りたのかも知れない。かういふ風にして、戰爭中にも、「白い旗」「千軒岳にて」などのカツパ作品を次々に書いた。長い恐しい戰爭が敗北に終つても、私の愛するカツパは幸にして生きのこつた。そして、戰後も機會あるごとに、私はカツパを書きつづけて來たのであるが、いま集めてみると、最近作「花嫁と瓢簞」まで、長短あはせて四十三篇、四百字詰め原稿紙にして千枚を超えてゐる。もつとも十五年間に書いたものとすれば、さうおどろくほどの量ではなく、むしろ少いといへるかも知れない。もつとカツパに夢中になつてゐたならば、百篇を超え、枚故も三千枚に達してゐたであらう。しかし、これらの作品は私が小記を書く片手間仕事だと人々に思はれ、私自身もそんなにカツパぱかりを昔いてゐることはできなかつた。けれども私はけつしてカツパを片手間に書いたわけではなく、どんな短い作品にも打ちこんで取り組んだし、すこし大仰にいへば、一つのカツパ作品ができあがることは、五百枚の長篇が完成されると異らないほどのよろこびであつた。そして、いま思ふのである。毀譽褒貶(きよはうへん)はともあれ、これはたしかに、私のライフ・ワークの一つである、と。

[やぶちゃん注:本段落内で語られている祭りは現在も「若松みなと祭り」の中の「高塔山火まつり」として行われている。若松区の公式サイト内のこちらを見られたい。また、筆者が高塔山の夜景を推奨しているので、グーグル画像検索「高塔山 夜景」をリンクさせておく。私は残念ながら、修学旅行の引率や乗換えの待ち時間のために福岡駅周辺に足を降ろしたきりである。]

 十五年間の世のうつりかはりに、私のカツパもさまぎまの影響を受けた。しかもこの十五年間は平和の時代とはちがつてゐたために、私のカツパもよろこびよりも悲しみの方が深かつたやうに思はれる。私のカツパ作品の悲しさや重苦しさを批評家に指摘されたこともある。しかし、カツパがいつもよろこびや樂しさをうしなふまいとし、美しいもののためにはどんな獻身をもいとはなかつたことも認められなければならない。また、カツパは正義と信義と眞實とをも愛してゐる。カツパが現實と象徴との問題を解明する一つの役を果さうとしたこともあらう。さういふカツパの眞摯な姿は、外目には滑稽や道化やとぼけたものに映りがちだが、そして、それがどんなにをかしからうとも、カツパがまじめであることに變りはない。暗愚なるものはカツパであるといはれても、その暗愚さこそがカツパの生命なのである。しかし、私はカツパを觀念化して、無理に諷刺(ふうし)の具にしたくなかつた。結果においてなにかの諷刺になつたとしても、血肉の通つたカツパそれ自體の喜怒哀樂を、自然のままに放置することをつねに心がけた。つまり、あまり鹿爪らしい屁理屈をカツパ作品にこじつけまいと考へたわけである。私は芥川龍之介の「河童」を愛讀はしたけれども、あんな風にカツパを諷刺のみのために踊らせることは好まなかつた。私のカツパは混亂してゐるかも知れない。しかし、それでよいのだと思つてゐる。ただ、次々に書いて行きながら、その形式、スタイルやレトリツクには多少の工夫をこころみた。このため、小説、散文詩、物語、對話、獨白、演説、手紙、芝居、などとさまざまな形になり、一人稱、二人稱、三人稱と、必然的に、これも數とほりに分れた。十五年間を經てゐるので、文章や文字の使ひかたにも統一を缺いてゐるし、出來不出來もあるが、それは改めないことにした。一つ一つ、そのときどきの思ひ出があり、書いたときの氣分があらはれてゐるので、それを尊重したのである。ただ、假名づかひだけは舊假名に統一した。なにも歷史的假名づかひにこだはるものではないが、新舊入りまじつてゐてはみつともないからである。作品の配列は製作年代順によらず、同じスタイルのものが重複しないやうに目次を作つた。また、一つ一つが獨立した短篇ではあるけれども、多少は連關したり、續いたりしてゐるものもあるので、それは前後しないやうにした。とはいつても、詩集のやうに、どこから讀んでもらつてもかまはないのである。むしろ、氣まぐれに開いたところを好手に讀んでもらつた方が、カツパの變幻自在さにかなふものかも知れない。ただ、作者としては、自分の才能のまづしさが眞にカツパの變幻自在な本領を書きつくし得なかつたことを悲しむのみである。

 カツパの傳説は全國いたるところにある。古い文獻の中にもカツパはいくらでも探しだすことができる。「和漢三才圖會」「甲子夜話」「水虎義略」「物類稱呼」「利根川圖志」「本草綱目釋義」「善庵隨筆」「倭訓栞」「本朝食鑑」「ありのまま」「筑庭雜錄」「本朝俗諺誌」「閑窓自語」その他のなかには、いろいろなカツパが紹介されてゐる。また、カツパは日本だけではなく、西洋にも、ニクゼン、ワツセルロイテといふカツパに似た水中動物がゐるといふし、中國には、あきらかに、水虎や河伯がゐる。水蘆、水唐、水もカツパの一族にちがひない。「西遊記」で、三藏法師のお伴をして行く孫悟空、猪八戒、沙悟淨のうち、悟淨はカツパといはれてゐるし、五朝小説の「神異經」のなかには、赤い鬣(たてがみ)のある白馬にまたがり、十二人の家來をしたがへて、風のごとく水上を疾走して行く河伯が書かれてゐる。「酉陽雜俎」には、馬でなくて二頭だての龍を駁して行く河伯が活躍し、「事文類聚」には、女に惚れてこれを女房にしようとしたが、まんまと逃げられた助平カツパのことが出てゐる。私は「兀然堂(きつぜんんだう)」のカツパといふ張子人形を持つてゐるから、朝鮮にもゐるにちがひない。琉球でも、川にゐるカーガタモ、ガジユマルの樹に棲むキジムナー、火をもてあそぶ喜如嘉(きじよか)のブナガヤなど、カツパの類と思はれる。しかし、カツパは日本において、(琉球もむろん九州の沖繩縣ではあるが)もつとも獨特で溌溂とした存在になつたのである。しかし、各地方で生態はすこしづつちがひ、名辭も異つてゐる。私たちの北九州では、カツパといつてゐるが、南九州に行くと、鹿兒島では、ガラツパ、宮崎では、ヒヨウスンボ、大分では、カワノトノ、佐賀ではヒヨウスへといふところがある。橫山隆一君の話によると、土佐ではシバテンと稱するさうだ。ガアツパ、ガタロ、ガワラ、川小僧、川太郎、カワコ、ガゴ、ミヅシ、エンコウ、ガソ、コマヒキ、ゴンゴウ、ネネコ、など、地方によつて、さまざまに呼ばれる。そして、概して北方のカツパは孤獨で思索的であり、南方のカツパは集團をなして行動的であるやうだが、頭に皿があり、これが生命力の根源で、皿に水のあるときは強いけれども、水がなくなると弱くなる點はどこも共通してゐるやうだ。宮崎地方のカツパについては、中村地平さんがよく書いてゐるが、ヒヨウスンボは空を飛び、樵夫(きこり)の小屋を打ちほがしたり、風呂に入つたりするらしい。秋口になると、集團をなして烏のやうに鳴きながら川をくだるといふ。また、全國いたるところに、カツパから傳授されたといふ傷膏藥があり、カツパの手と稱するものや、カツパの詫證文も、方々に殘つてゐる。カツパは古くから文獻にもあらはれてゐるから、江戸時代の浮世繪にも多く描かれてゐる。歌麿にも面白いカツパの繪がある。私は嘗て、西田正秋氏(藝術大學教授)の家をおとづれて、その豐富なカツパ繪と文獻の蒐集におどろいたことがあるが、カツパを愛する人は昔からたくさんあつた。小川芋錢、佐藤垢石、芥川龍之介、淸水崑といふやうな人たちは、カツパによつてユニークな藝術境をひらいたものといへよう。特に、芋錢子の「カツパ百態」は私をうならせる。芋錢はカツパの實在を信じきつてゐたといふから、そのカツパには不思議な迫眞力がある。美しいのはいふまでもない。最近、名取春仙畫伯のきもいりで、私も芋錢のカツパ七枚を手に入れ、時折とりだしては悦に入つてゐる。長崎の旅亭「菊本」にある芥川龍之介の「河童晩歸の圖」には肌を冷えさせるやうな鬼氣がある。銀屛風に墨一色でかかれた瘦せ細つたカツパは、日暮れてどこへ歸るのであらうか。私にはどうも地獄へのやうに思はれ、芥川龍之介の文學の悲劇を象徴してゐるやうで、見てゐるのが息苦しい。明朗潤達なのは淸水崑君のカツパだ。最近は女カツパにすさまじい色氣さへ出て來た。しかし、昆君はへソと耳とをわざとかかないことによつて、エロチシズムの節操を保つてゐる。私はこれまで、カツパ作品を集めた本を數册出してゐるが、早川書房版「河童」(昭和二十四年刊)には、淸水君が二十數葉の插繪をかいてくれた。ところが、その繪は簡單にできたのではない。本文はとつくに刷りあがり、出版社はただ繪の完成を待つばかりになつてゐたのに、崑君がなかなかかかない。ほつたらかしてゐるわけではなく、苦心慘憺してゐる樣子だつた。本屋の方は鎌倉に行つて泊りこみ、となりの部屋でがんばつてゐるが、崑ちやんはかいては破り、破つてはかき、一向にすすまない。たうとう繪のために出版が半年おくれてしまつた。しかし、できあがつたカツパの繪はすばらしかつた。それから、淸水君は急に自信がついたやうに猛烈にカツパをかきだし、現在のやうに、カツパといへば崑ちやんみたいになつてしまつたのだが、その直接の動機が私の本のためなので、いまでも、淸水君は私をカツパの親分などといふのである。むろん私がゐなくたつて淸水君はカツパをかいたであらうし、私のためでもなんでもないのだが、カツパにおいては淸水君と私との因緣が淺くないことはたしかである。しかし、淸水君のカツパも天下に流行するにいたつてずゐぶん變化した。愛されるカツパになつたのである。戰爭中にも、カツパ作品集「傳説」(小山書店阪・昭和十八年刊)を出した。このときは、中川一政畫伯にみごとな挿繪を九枚かいてもらつた。かうしてみると、私のカツパの歷史も長く、幾變遷を經てゐるが、いま、これまでに書いたカツパ作品四十三篇が一册に集められて刊行されることに對しては、いひあらはしがたいよろこびにつつまれてゐる。自分の本の出版にこれほどのうれしさと樂しさとを感じたことはめつたにはない。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」私の電子化注「卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎」を参照。

「ありのまま」「有の儘」。芳宜陸可彦著・飯田備編・雪仙春嶺画になる随筆。全四巻。文化四(一八〇七)年刊。

「ニクゼン」これは石田栄一郎「河童駒引考」の第二章の頭書「ゲルマン族 水の雄牛」の部分に出るイギリスの『水精ニックス Nix』のことか。三瀬勝利氏のこちらデータPDF)によれば(石田氏の当該書を基礎とした叙述とするが、引用元はトンデモ本飛鳥昭雄・三神たける共著『「失われた異星人グレイ河童」の謎』なので確度は留保する)、『世界の河童類としては、チェコスロバキアのウッコヌイ、インドのバインシャースラ、ハンガリーの水魔、フィンランドのネッキ、ロシアのヴォジャノイ、スコットランドのケルピー、スペインのドゥエンデ、ディルガディン、ドイツのワッセル、ロイテ、ニッケルマン、ブラジルのサシペレレ、エジプトのドギルが知られている』が、『なかでも、日本の河童に似ているのが、ヨーロッパの水の精「ニクス」で』水精『ニクスは、ドイツ』や『イギリスなどに棲んでいた先住民ケルト人の間で信じられていた妖精で、女性の姿をしたものを「ニクシー」と呼ぶ』。『ニクスは人の姿をしているが、皮膚の色は緑色。男ニクスは、緑の歯に緑の帽子』。『女ニクシーは、金髪巻き毛の美人。言葉を理解するが、人間にとっては危険な存在である』。『なにせ、川の近くを通りかかった人間をいきなり襲い、水の中に引き込んでしまう』。『ことニクシーは男性を誘惑し、一緒にダンスを踊り、そのまま一緒に水中に入ってしまう』。『当然ながら、水中に引き込まれたら、最後。人間は、お陀仏である』。『妖精とはいっているが、日本でいえば、ほぼ間違いなく河童と呼ばれるといっても過言でない』とはある。

「ワツセルロイテ」不詳。前注の資料では「ドイツのワッセル、ロイテ」と分離されてあるから、二種或いは二様の呼び名のようにも見えるのだが、“Wasser” はドイツ語で「水」であり、ドイツ語の辞書を引くと、似たような発音のものには“Wasserratte”(ヴァッサァ・ラッテ:川鼠(ヌートリの類か)・比喩で「水泳の上手な人」の意)があり、河童のドイツ語版を見ると、“Wasserchlange”(ヴァッサァ・シュランゲ:伝説上の怪物である海蛇)の文字を見出せるから一語である。やはり「ワッセルロイテ」で一語である。善意で解釈すれば「ワッセル、ロイテ」は「ワッセル・ロイテ」のつもりなのであろう。

「水虎や河伯」御存じの方も多いと思うが、言っておくと、これらは本来は河童とは別な中国の妖怪或いは神(神怪)である。「水虎」はウィキの「水虎によれば、『湖北省の川にいたという妖怪』で、『外観は』三、四『歳の児童のようで、体は矢も通さないほどの硬さの鱗に覆われている』。『普段は水中に潜っており、虎の爪に似た膝頭だけを水上に浮かべている』。『普段はおとなしいが』、『悪戯をしかけるような子供には噛みつき返す』。『この水虎を生け捕りにすることができれば、鼻をつまむことで使い走りにすることができるという』とある。ここ様態は中国で食用や薬用とされる哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae のそれによく似ているように私には思われ、ウィキにも妖怪絵巻でとみに知られる鳥山石燕も「今昔画図続百鬼」で以上の『記述を引用しており、水虎の鱗をセンザンコウにたとえて表現している』とある。『日本には本来、中国の水虎に相当する妖怪はいないが』、『中国の水虎が日本に伝えられた際、日本の著名な水の妖怪である河童と混同され、日本独自の水虎像が作り上げられている』。『日本では水虎は河童によく似た妖怪』『もしくは河童の一種とされ』、『河童同様に川、湖、海などの水辺に住んでいるとされる』。『体は河童よりも大柄かつ獰猛で』、『人の命を奪う点から、河童よりずっと恐ろしい存在とされる』などとして、以下、殊更に河童との差別化叙述をウィキはしているが、私は賛同出来ない。「河伯」もウィキの「河伯」から引いておく。中国語では Hébó(ホーポー)で『中国神話に登場する黄河の神』の名である。『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こ』とされ、『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』。古く「史記」の二十九巻「河渠書第七」にも、『「爲我謂河伯兮何不仁」と「河伯許兮薪不屬」と言う記述があ』り、「楚辞」「九歌」にも『河伯の詩がある』。『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六世紀末から七世紀『にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』。以下、ウィキにも書かれている通り、火野が言っている「西遊記」の沙悟浄も、日本では専ら、河童として語られたり、描かれたりしているけれども、中国ではこの神怪としての「河伯」と認識されているので、安易にそれをイコールとするのは私は正しいと思っていない

「水蘆」不詳。一部のネット記載では中国で河童様妖怪の呼称とするが、怪しい。

「水唐」不詳。同前。

「水」日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、辻雄二「キジムナーの伝承-その展開と比較-」『日本民俗学』第百七十九号(平成元(一九八九)年八月日本民俗学会発行。但し、それも文献引用で東洋文庫「南島雑話」(昭和五九(一九八四)年刊)を引用元とする)を出典として、読みは『スイイン』とし、他に「カワタロ」「ヤマワロ」「ケンモン」を併置する(当漢字は現在では使用される頻度の著しく低い字であるから、寧ろ、音読みのそれで呼ばれることはないであろう)。採集地は沖縄県恩納村で『水(カワタロ、山タロ)は好んで相撲をとる。その姿をみたものはすくないが、きこりについていって木を負うなど加勢をするという。人家をみれば逃走する』とある。ケンムンなら私はよく知っており、沖繩の妖怪の中でも「キジムナー」と並んで好きな一人であるので、長くなるが、例外的にウィキの「ケンムン」を引いておく。『ケンムンまたはケンモン(水)とは、奄美群島に伝わる妖怪。土地ごとに相違があるものの、概ね河童や沖縄の妖怪であるキジムナーと共通する外観や性質が伝えられている』。『古くは』江戸末期の文献である「南島雑話」に「水(けんもん)」として記述されてある。『相撲好きで人に逢えば挑戦するとされ(河童と共通)、画では頭に皿があって河童と同様な姿である』。『かつては人害を及ばさず』、『木こりや薪拾いが運ぶのを手伝う、目撃はまれで人家や人っ気の多いところから退散する、と記される』。『別名「カワタロ」「山ワロ」との付記もみえ、ケンムンの一種に宇婆があるとしている』。『昔と今では、ケンムンの概念の変遷が生じている。すでに幕末の頃から、有益無害だという伝承は失われつつあった』が、『時代を経るにつれ、ケンムンは一転して危険で忌避すべき存在となった。木運びを手伝うなどの伝承は語り継がれなくなっている』。『ケンムンは、河童の原型が核となっている。金久正』(昭和三八(一九六三)年)『によって収集された伝承でも、河童的要素が色濃いと評されている。また、本土の河童伝承が加わった部分も否めない』。『ケンムンはしかし、水の精でもあるが、同時に木の精でもあり』、『沖縄に伝わる木の精キジムナーとも多くの共通性がみられる』。『すなわち、海にも山にも目撃される。これは季節によって生息場所を変えるためといわれる』。『まず形状に限って言えば』、『体と不釣合いに脚』(腕も含まれるケースがある)『が細長く(膝を立てて座ると頭より膝の方が高くなるほどあり』『)先端が杵状だといわれ、頭の皿に力水』(或いは油ともする)『を蓄えている』。『しかも姿を変える能力を持っており、見た相手の姿に変化したり、馬や牛に化けたりする』。『周囲の植物などの物に化けたり、姿を消して行方をくらますこともできるとも言われる』。『ケンムンは発光する、または怪しい灯りをともす、といわれる。これは涎が光るためだとも、指先に火をともすためだともいう』。『または頭の皿が光るか』、『頭上の皿の油が燃えるのだとも、説明される』。『海にも山にも現れるケンムン火は、ケンムンマチ(ケンムン[]マツ)とも呼ばれている』。『一部で伝わるところによれば、大きさは子供の身の丈のほどで』、『顔つきは犬、猫、猿に似ている』とし、『目は赤く鋭い目つきで、口は尖ってい』て、『涎は悪臭を放ち、涎が青光るのは燐成分によるという』。『髪は黒または赤のおかっぱ頭。肌は赤みがかった色で』、『全身に猿のような体毛がある』。『体臭は山芋の匂いに似ている』。『ガジュマルの木を住処としており、木の精霊ともいわれる』。『この木を切ると、ケンマンに祟られると恐れられる』。『ケンマンに祟りの遭うと、目を病んでしまう(目を突かれてように腫れ上がってしまい、失明寸前になることもある』『)、または命を落とすこともある』。『魚や貝を食料としており、漁が好きで、夜になると海辺に現れ、(指に)灯りをともし岩間で漁をする』。『夜に漁に出た人間が鉢合わせすることもある』。『特に魚の目玉を好む(キジムナーと同様)。漁師が魚を捕りに行くとなぜか魚がよく捕れたが、どの魚も目玉を抜かれていたということもある』。『カタツムリ、ナメクジも食べる。カタツムリは殻を取って餅のように中身を丸めて食べる』。『ケンムンの住んでいる木の根元にはカタツムリの殻や貝殻が大量に落ちているという』。『蛸とギブ(シャコガイ)を嫌う』。『ケンムンを追い払うには蛸を投げつけるか、虚偽でも何か別の物を蛸と称して投げるか、投げると脅すと効果がある』。『なお』、『キジムナーも蛸が嫌いである』。『相撲好きな習性は河童やキジムナーと共通する』。『河童同様に皿の水が抜けると力を失う。相撲を挑まれた際に逆立ちをしたり礼をしてみせると、ケンムンもそれを真似るので、皿の中身がこぼれて退散する』。『悪口を言われることが嫌いで、体臭のせいか、山の中で「臭い」といったり、屁のことを話すことも嫌っている』。『ケンムンは本来は穏健な性格で、人に危害を与えることはない。薪を運んでいる人間をケンムンが手伝った話や、蛸にいじめられているケンムンを助けた漁師が、そのお礼に籾を入れなくても米が出てくる宝物をもらったという話もある。加計呂麻島では、よく老人が口でケンムンを呼び出して子供に見せたという』。『しかし河童と同じように悪戯が好きな者もおり、動物に化けて人を脅かしたり、道案内のふりをして人を道に迷わせたりする』。『食べ物を盗むこともあり、戦時中に空襲を避けた人々がガジュマルの木の下に疎開したところ、食事をケンムンに食べられたという話が良く聞かれた。その際のケンムンは姿を消しており、カチャカチャと食器を鳴らす音だけが聞こえたという』。『石を投げることも悪戯の一つで、ある人が海で船を漕いでいたところ、遥か彼方の岸に子供のような姿が見えたと思うと、船のそばに次々に巨大な石が投げ込まれたという話がある』。『山中で大石の転がる音や木が倒れる音を立てることもある』。『さらに中には性格の荒い者もおり、子供をさらって魂を抜き取ることがある。魂を抜かれた子供はケンムンと同じようにガジュマルの木に居座り、人が来ると木々の間を飛び移って逃げ回る。このようなときは、藁を鍋蓋のような形に編んでその子の頭に乗せ、棒で叩くと元に戻るという。大人でも意識不明にさせられ、カタツムリを食べさせられたり、川に引き込まれることもある』。『これらの悪戯に対抗するには、前述のように蛸での脅しや、藁を鍋蓋の形に編んでかぶせる他、家の軒下にトベラの枝や豚足の骨を吊り下げる方法がある』。但し、『ケンムンの悪戯の大部分は、人間たちから自分や住処を守ろうとしての行動に過ぎないので、悪戯への対抗もケンムンを避ける程度に留めねばならず、あまりに度が過ぎると逆にケンムンに祟られてしまう』。『ケンムンの由来伝説は多々あり、以下の』の『「蛸」の例のほか、福田晃が挙げた』四『タイプがある』。

「蛸にいじめられて樹上生活者となったとする説」

『月と太陽のあいだに生まれたケンムンは、庶子だったので天から追放され、はじめ岩礁に住まわされた。しかし蛸にいじめられたので、太陽に新しい住処を求めたところ、密林のなかで暮らせと諭され、ガジュマルの木(や同属のアコウの木)に住まいを求めるようになった』。

「藁人形の化身説」

『ある女性が、この地の大工の神であるテンゴ(天狗)に求婚された。女性は結婚の条件として』、六十『畳もの屋敷を』一『日で作ることを求めた。テンゴは二千体の藁人形に命を与え、屋敷を作り上げた。この藁人形たちが後に山や川に住み、ケンムンとなった』。

「人間の化身――殺人者が罰せられた姿とする説」

『ネブザワという名の猟師が仲間の猟師を殺し、その妻に求愛した。しかし真相を知った妻は、計略を立てて彼を山奥へ誘い込み、釘で木に打ちつけた。ネブザワは神に助けられたが、殺人の罰として半分人間・半分獣の姿に変えられた。全身に毛が生え、手足がやたら細長い奇妙な姿となった彼は、昼間は木や岩陰の暗がり隠れ、夜だけ出歩くようになった。これがケンムンの元祖だという』。

「孤児の姉弟説」

『ノロ神の姪・甥が孤児が、山へススキ刈りに行かされ難儀していたところ、老人が通りかかり、海で貝を取って暮らせと勧めた。冬の海は寒く、山に舞い戻ってくると、こんどは老人が来て』、『山・川・海に季節ごとに暮らせと指示し、姉弟をケンムンと名付けた』。

「虐げられた嫁説」

『嫁いびりに』遭って、『五寸釘でガジュマルの木に打ち付けられた女性がなった』。

『第二次世界大戦以後は、ケンムンはそれまでに比べてあまり目撃されなくなったが、その大きな要因は近年の乱開発によってガジュマルなどの住処を失ったためといわれている』。『GHQの命令で奄美大島に仮刑務所が作られる際、多くのガジュマルが伐採されたが、島民はケンムンの祟りを恐れ「マッカーサーの命令だ」と叫びながら伐採した。後にマッカーサーがアメリカで没した際、島民は「ケンムンがいなくなったのは、アメリカに渡ってマッカーサーに祟っていたためだ」と話した。しばらく後にまた』、『ケンムンが現れ始め』、『「ケンムンがアメリカから帰って来た」と噂がたったそうである』。『ケンムンの名は「化け物」「怪の物」の訛りとされ、得体の知れない霊的な存在を意味している』。『沖永良部島では、ヒーヌムン(木の者)と呼ぶ』。『別名としてクンモン、クンム、ネブザワともいう。また一説によれば、本来この妖怪の名は仮名では正しく表記できない発音であるため、仮にケンムンという表記を当てているともいう』とある。

「事文類聚」中国の類書(百科事典)。全百七十巻。宋の祝穆(しゅくぼく)の編。一二四六年成立。先行する「芸文類聚」の体裁に倣って古典の事物・詩文などを分類したもの。後に元の富大用が新集三十六巻と外集十五巻を、祝淵が遺集十五巻をこれに追加して、現行のものは総計二百三十六巻に及ぶ。

「兀然堂(きつぜんんだう)」不詳であるが、直後に「朝鮮にもゐるにちがひない」とするから、朝鮮半島製であることは間違いない。「兀」は通常は「コツ・ゴツ」と読む。不審。朝鮮語の音か?

「カーガタモ」不詳。このような沖繩の妖怪は知らないが、「カー」は沖繩方言で「川」であり、「ガタモ」は本土でも河童の異称として「ガタロ」(河太郎)によく似ている。或いは「川(カー)の方(ガタ:方面の。領域の。)の者(モん)」の略かも知れぬ。

「喜如嘉(きじよか)」地名。現在の沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ブナガヤ」大宜味村公式サイト内のこちらの「ブナガヤの素顔」より引く。その特徴は、『からだ全体が赤くて、子供のように小さい』。『赤い髪をたらしている』。『赤い火を出したり、火のように飛んだりする』。『山や川や木の上でみかける』。『漁が上手で、魚やカニを食べる(魚は目玉だけ)』。『すもうをとるのが好きである』。『木(薪)を持つなど人の加勢はするが、里には入らない』。『人なつっこく、自ら人に害を加えることはしない』。『祈願によって追い払うことができる』とある。次に「ぶながやと友達になる法」。『ぶながやの世界の要素である山や川や海や木や土や風や水や動物が好きであること』。『ぶながやは自然そのものであるが、雷や嵐は恐がるし、大きな音はきらいであるので、大きな音はたてないこと』。『ぶながやの心は清純そのものであるので、悪ふざけをしたり、何かの目的に利用しないこと(すればたちまちいなくなる)』。『ぶながやは人の心を直観でき、心が優しいので童心でつき合うこと』。『ぶながやは威張ったり、いい身なりをしたりはしないし、特に力があるのでもないが、どこかで出会ったら、顔笑みをなげかけるか、できたら手を差し出して握手をすること。同情する必要はない。そうすれば友達になれる』。『ぶながやと友達になったら、邪心や策心や偽心や威心を捨てて真に豊かな発想を楽しむこと。そうすればぶながやは逃げたりはしない』。『ぶながやの得意な漁を一緒に楽しむのもよい。また、取った魚をくれたりするので喜んでもらい、たまには一緒に食事をすると』、『なお』、『よい』。ウィキの「ブナガヤ」によれば、『人間の子供が誤ってブナガヤの手を踏んでしまうと、その』子の『手にブナガヤ火(ブナガヤび)と呼ばれる火をつける。また』、ブナガヤの『足を踏むと、同じようにブナガヤ火によって火傷させる。このブナガヤ火は通常の火と異なり、青みがかった色をしているという。かつてはブナガヤ火で子供が火傷をすると、土地の年寄りたちが呪文を唱えて火傷を消したという話もある』。『沖縄本島北部の大宜味村では戦後まで、旧暦』八『月頃に巨木の上や丘の上に小屋を立てて』、『ブナガヤの出現を夜通し待つ「アラミ」という風習が行われていたという』。『人間と関わった数少ない事例では、大正』七、八『年頃、砂糖を作る農民の元に毎晩来ていたブナガヤを捕まえて、サーターグルマ(砂糖車)の圧搾口へ押し込んだら、潰れたらしく、血まみれになったという話がある』とある。但し、所持する千葉幹夫編「全国妖怪語辞典」の沖繩県の「ブナガ」の項には、『本島で木に宿る怪をい』い、『国頭地方でいうキジムン』(キジムナーと同じ)『と似たモノ』で、『ボージマヤともいう。大宜味間切高里村の某家の主人としかしくなった』が、『後に主人が交際を絶とうと烏賊をぶつけたら驚いて逃げ』(先のケンムンが蛸を嫌うのとよく似る)『二度と現われなかった』とする一方、折口信夫の「沖繩採訪記」からとして、『大宜味村ではキジムンそのもののこと。ブナガルは髪を振り乱すの意』とする。

「中村地平」酒の害についてで既注。

「歌麿にも面白いカツパの繪がある」私が思い浮かぶのは喜多川歌麿の春画(水中で海女が二匹の河童に強姦されているもの)である。ネット上でも見られるが、猥褻なのでリンクしない。

「西田正秋」(明治三四(一九〇一)年~昭和六三(一九八八)年)は人体美学(美術解剖学)者。大正一五(一九二六)年から東京美術学校で「西田式美術解剖学」の講義を行った。]

 さらに、このよろこびを助長させてくれたのは、諸先輩、友人知己の厚情だ。特に、武者小路實篤先生が題字を書いて下さり、佐藤春夫先生はありがたい序文を下さつた。ともに私が中學生時代から畏敬してゐた大先達なので、私は夢のやうな心地である。文學をやらうと心に定めて、大正十二年春、早稻田第一高等學院に入學したとき、私の文學の偶像は佐藤春夫であつた。大學に進み、田畑修一郎、中山省三郎、寺崎浩、丹羽文雄などと、同人雜誌「筏」をはじめたとき、私が發表した作品はことごとく佐藤春夫の影響を受けてゐた。昭和三年、學校をやめるとともに、私は勞働運動に沒頭し、しばらく文學から遠ざかつた。そして、昭和十三年、思ひがけなく、「糞尿譚」で芥川賞を受けたとき、審査員佐藤春夫先生の批判を胸をとどろかせて讀んだ。その後、「麥と兵隊」を書いてから、はじめて先生にお逢ひしたとき、僕の作品から出發して、かういふ境地をひらいたことをよろこぶといはれて、淚の出る思ひを味はつた。その佐藤先生から、「河童曼陀羅」に序文をいただける日が來ようとは夢想だにしなかつたことである。また、その序文が過分のもので、身體がすくむ心地である。先年、檀一雄君とともに先生のお伴をして、柳川に白秋遺跡をたづねたとき、先生は、僕は中學時代はカツパといふ綽名をつけられてゐたといつて笑はれた。その歸途、博多の水だき屋「新三浦」で、私がカツパをかいた衝立(ついたて)に、贊をして下さつたのである。さらに、この本のために、私は諸先輩に奇妙奇手烈なお願ひをした。四十三篇をそれぞれ異つた人たちのカツパ・カツトで飾りたかつたからである。これまで一度もカツパをかいたことのない人たちが多かつたにちがひないし、多分、私の依賴は突飛で變てこな無理難題であつたであらう。それにもかかはらず、承諾して下さつた方々が次々にカツパのカツトを寄せられ、私を狂氣させた。特に、つけ加へておきたいのは、お婆さん畫家丸木スマきんのカツパが入つたことである。八十數歳で繪をかきはじめた丸木さんは私をおどろかせたが、畫集が出版されるとき、私はすすんで推薦文を書いた。すると、よろこんだスマきんが、火野さんはカツパ好きだからといつて、生まれてはじめてといふカツパの繪を彩色入りでかいて下さつた。ところが、そのスマさんは、氣の毒なことに、まもなく不慮の死を遂げたので、カツパの繪が形見みたいになつてしまつた。また、折口信夫先生の河童圖は、特に池田彌三郎氏から拜借願つたものである。折口先生も今は鬼籍に入られた。しかし、この二人の故人のカツパは溌溂としてゐて生きてゐるやうである。それぞれの人のそれぞれのカツパ、それこそが眞に絢爛(けんらん)たるカツパ・マンダラといへやうか。どんなに感謝しても感謝しきれない氣持である。ありがたうございました。

[やぶちゃん注:「田畑修一郎」(明治三六(一九〇三)年~昭和一八(一九四三)年)は島根県出身の小説家。早稲田大学英文科に入学するも中退し、後、宇野浩二に師事した。大学在学中、火野が述べている通り、彼らと同人誌『街』を創刊している。代表作は昭和八(一九三三)年に発表した「鳥羽家の子供」で、芥川賞候補にもなった。死因は病死と思われる(ウィキの「田畑修一郎に拠る)。

「中山省三郎」(明治三七(一九〇四)年~昭和二二(一九四七)年)は詩人でロシア文学の翻訳家として知られた人物。茨城県生まれ。ウィキの「中山省三郎によれば、同郷の詩人『横瀬夜雨の薫陶を受けて詩作を始め、田畑修一郎の勧めで早稲田大学露文科に進み原久一郎に学ぶ。火野葦平・田畑とともに同人誌をやり、ロシア文学を翻訳・研究し、他に詩を書き、長塚節研究などをした』。死因は『持病の喘息の発作』であった。私は彼のツルゲーネフの作品の訳を心朽窩館」で多量に公開している

「寺崎浩」(明治三七(一九〇四)年~昭和五五(一九八〇)年)出生地は岩手県盛岡市であるが、出身は秋田とする詩人・小説家。早稲田大学文学部仏文科中退。大学在学中に火野らと『街』を創刊、また、西條八十に師事して同人詩誌で小曲風の象徴詩も発表している。昭和三(一九二八)年頃から横光利一に師事し、昭和十年文壇にデビューした。以後は小説に専念した。代表作に短編集「祝典」、長編「女の港」、「情熱」、詩集「落葉に描いた組曲」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

『博多の水だき屋「新三浦」』現存する。明治四三(一九四三)年創業の鶏の水炊き屋。公式サイトはこちら

「折口信夫先生の河童圖」この後で電子化する佐藤春夫の「敘」に添えられたもの。後で掲げる。]

 この本には、私の繪も添へた。繪かきでない私の繪など恥かしい思ひであるが、專門家でない故に笑つて見ていただけるかも知れない。亡友中山省三郎の家に、私の畫集四卷がある。中山は私が九州から上京するたび、畫帖に一枚づつ繪をかかせてゐたが、それが昭和十五年以後、昭和二十二年、彼が聖ヨハネとして昇天するまで、「徂徠(そらい)集」「矢音(しおん)集」「愛日集」と三春たまつた。彼の沒後はそのことば跡絶(とだ)えてゐたが、富士子未亡人が夫がゐなくてもつづけて欲しいといふので、最近また帖をおこし、「遊魚集」として四册目をかきはじめてゐる。この本の卷頭にのせた繪のうち、「河童果物皿登之圖」「河童龍乘之圖」「河童竹林遊魚之圖」の三枚は、中山家の畫帖から撰んだものである。あとはこの本のために、新に描いた。私は死ぬまでカツパから脱れられないと觀念してゐるので、これからも折にふれて、カツパの繪は描きたいと考へてゐる。いや、多分、かかずにはをられないであらう。因果なことである。

[やぶちゃん注:ここで火野が挙げている三枚の絵は電子化しない。それはせめても、底本国書刊行会による復刻版に敬意を表するためである。底本はなかなか高かった(一万六千二百円)。私も大枚をはたいて買ったのだから、どうしてもその絵を見たいという人は是非とも買って戴きたい。調では、在庫もあるようだ。]

 最後になつたが、この本の出版について、多大の犧牲をはらひ、豪華本の完成に全力をそそいで下さつた四季社の社長松本國雄氏、編集長藤崎斐虎張氏に、多大の謝意を表さなくてはならない。また、編集や校正等の面倒な仕事をいとはずにやつてくれた仲田美佐登さんにも禮をのべなくてはならない。三氏の熱情がなかつたならば、このやうな美しい本はできあがらなかつたであらう。ともあれ、この「河童曼荼羅」は私の數多くの著書のうち、もつとも私をよろこばせたもので、私の生涯の記念になるかも知れない。うれしさのあまりか、つい後書が長たらしくなつてしまつた。

 

   昭和三十二年一月二十五日

            釣魚庵主人葦平記

 

[やぶちゃん注:「藤崎斐虎張」名前の読み方は不詳。識者の御教授を乞う。

奥付によれば、原本の発行は昭和三二(一九五七)年五月十日である。因みに、私は同年二月十五日生まれである。]

河童音頭 火野葦平

 

[やぶちゃん注:底本「河童曼荼羅」の本文掉尾。十二番まである。太字は底本では傍点「ヽ」。]

 

 

小雨(こさめ)降る宵春の雨

なかなしむや川太郎

ひとり音〆(ねじめ)の爪(つま)びきに

ふるへて靑し絲柳

 

[やぶちゃん注:「音〆(ねじめ)」は本来は三味線・琴などの弦を締めて、音調を整えることを指すが、ここはそこから派生したもので、三味線の音(ね)の冴えや音色を謂う。]

 

 

ここの館(やかた)に棲むものは

世の常ならぬ川太郎

色とりどりの酒の味

空靑きを戀ふるなれ

 

 

びいどろびんのレッテルに

とぢこめられてこの月日

胡瓜(きうり)ひときれ口にやせぬ

レッテル悲し空戀し

 

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「口にやせぬ」は「口にゃせぬ」と唄う。]

 

 

しよせんしがない河童ゆゑ

逢うてうれしいひとときも

岩の衾(しとね)が身につまり

苔の靑さに吐息つく

 

 

口のへらずが怪我のもと

八方眼(はつぽうまなこ)も盲とさ
耳の敏(さとい)も聾なら

見まい聞くまい語るまい

 

 

蓮の行燈(あんど)の水あぶら

筆のはこびもよどみがち

百本千本つぶて文

書いて瘦せればしよんがいな

 

 

たかが河郎(かむろ)の分際で

繪をかき詩をかき歌うたひ

果ては女に惚れるとは

身のほど知らぬ橫道者(わうどもの)

 

 

浮かれ女の尻子玉(しりこだま)

拔いて食べての腹くだし

草津のお湯でもなほりやせぬ

醫者に見しようも恥かしい

 

 

かうといつたん決(き)めたらば

どうでも取らねば氣がすまぬ

沼に落ちたる月ひとつ

靑い目のよな月ひとつ

 

 

眼(まなこ)光らし腕ふつて

かたる言葉はみだるとも

酒と戀とが命なら

いつ果てるぞやこの宴(うたげ)

 

 

手に手に葦の太刀(たち)かざし

ほむらに乘れる者の群(むれ)

數は百萬風のごと

ひようひようひようと鳴つてゆく

 

 

われもと雲の性(さが)なれば

かかる塵(ちり)の世なんであろ

いざ胸をはり風に乘り

空のかなたに去(い)なむかな

宮澤賢治「心象スケッチ 春と修羅・第二集」 一六六 薤露青 一九二四、七、一七 末尾

 
 
  ……あゝ いとしくおもふものが
   そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
   なんといふいゝことだらう……
 
かなしさは空明から降り
黑い鳥の鋭く過ぎるころ
秋の鮎のさびの模樣が
そらに白く數條わたる
 
 

2017/09/15

ブログ・アクセス1000000突破記念 火野葦平 妖術者




[やぶちゃん注:底本「河童曼荼羅」では、この後に「河童音頭」全十二編番が配されて、本文が終わっている。

 本篇は戯曲であるので表記が相応の配置となっているが、ブログのブラウザでの不具合を考え、ト書きは特定字数で改行した。また、台詞が二行以上に渡る場合、底本では、二行目以降が一字下げとなっているが、無視した。なお、台詞内の丸括弧のト書きを含め、ト書きは総てややポイント落ちであるが、本文と同ポイントで示した。傍点「ヽ」は太字とした。

 文中に出る「がんがさ」は「雁瘡」で、慢性湿疹或いは痒疹(ようしん)の一種で難治性の非常に掻痒性の皮膚疾患。雁の来る頃に起こり、去る頃に治るところから称するという。

 「シンデリイラ」はママ。無論、シンデレラのこと。

 本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百万アクセスを突破した記念として公開する。【2017年9月15日 藪野直史】]

 

 

 妖術者

 

 

 登場人物 三角帽をかぶつた妖術者のほか、

      大勢の河童たち。

 舞  臺 水邊。靑空と、樹と、草と、花と

      を、幻想的に。中央に岩。

 

   幕あくとだれもゐない。蛙、蟬、鳥の聲。

 

   二匹の河童、右手から登場。一匹は老河

   童、眼鏡、蕗(ふき)の菜の鞄をぶら下

   げてゐる。醫者である。一匹は跛(びつ

   こ)をひきひき、ときどき頭に手をやる。

 

河童醫 これこれ、そんなに觸(さは)つてはいけないつてば。なんど言うたら、わかるんぢや。

河童一 どうも、ひりひりしましてな。

河童醫 痛むのは仕方がないよ。でも、がまんせんことにや、手の毒でもはいつて、敗血症でもおこしたら、どうする?

河童一 おどろきましたな。あんなことは、生まれてはじめてですよ。ほんとに、おどろいた。皿が腐るやうなことはないでせうな?

河童醫 わしの腕を信用せんといふのかな?

河童一 いえ、あなたの醫者としての名聲を疑ふわけではないのですが、……どうも、頭の具合がただごとでありませんでな。ひりひりするうへに、かう、まんなかのところが、はち割れるやうな氣がしますんでな。氣分も惡いんですよ。だいぶん、ひどい故障ができとりますか。

河童醫 なに、大したことはない。ぢき、なほるよ。

河童一 さうですか。わたしを安心させようと、輕くいひなさつとるのとちがひますか。わたしにや、どうも、取りかへしのつかぬ、飛んでもないことがおこつとるやうな氣がして、仕方がないんですが……

河童醫 よい藥が塗つてあるから大丈夫ぢや。

河童一 たいそうしみる藥ですが、どんな妙藥です?

河童醫 うるさい患者だな。さつぱり醫者を信用しをらん。お前さんの皿に塗つたのは、わしの祖先から傳はつた家傳の特效藥でな、ゼラチンとカストリとをねりあはせたもんぢや。萬々まちがひはないと思ふが、そんなに心配なら、念のため、もうひとつ療法を教へとくから、おぼえときなさい。三日も經つて、ひりつくのがやまなんだり、變色する氣配があつたら、ええかな、金魚藻を石でくだいてな、その綠いろの汁を皿にすりこむんぢや。ぢやが、けつして、ぢかに手でやつてはいかん。熊笹の葉でやるんぢや。

河童一 金魚藻を石でくだいて、熊笹の葉で、皿に、……わかりました。それで安心しました。……だが、おどろいたな。あんな馬鹿なことつて、あるもんぢやない。畜生、生意氣なおたまじやくし奴が!

河童醫 おたまじやくし?

河童一 さうですよ。おたまじやくしが天から降つて來やがつたんだ。そんなことつて、ありますか。わたしは水から首を出して、ぼんやりしてたんだ。ぼんやり、(にやつと笑つて)ぢやなくて、考へごとしてたんだ。

河童醫 ふん、また、あの娘(こ)のことぢやらう。

河雲 勿論ですよ。あの娘(こ)のこと以外に、考へることがありますか。あの娘はすばらしいな。あの美しい皿、まるで牡丹の花のやうぢやないか。あの娘の皿のやうにすばらしい皿をもつた女が、この沼のどこにゐますか。太陽にあたつたら、きらつきらつと、金いろに光る。朝陽、夕陽で、まるきりダイヤモンドのやうにかがやく。さうでせう。こんなすばらしい天氣の日に、彼女のことを思ふのは、われわれ靑年の特權でせう。それは靑春の歌だ。わたしは水面に浮かんで、彼女の夢を見てゐたんだ。そして、きつと、彼女もわたしのことを考へてゐるにちがひない、さう思つて、うつとりしてたんだ。なんたることか。靑天の霹靂(へきれき)とはこのことだ。天から、なにかが降つて來て、わたしの瞑想(めいさう)をぶつこはしたんだ。そればかりぢやない。大事な皿を破壞してしまつた。こんな馬鹿なことがありますか。……ああ、痛い、痛い。また、ひどく疼きだした。……打ちあけますが、情なくて、泣きたいのですよ。皿が割れたことは、わたしの靑春の破壞なんだ。こんなぶざまな恰好になつて、どうして、二度と、あの娘に會へますか。ああ、俺はもう駄目だ。戀人をあいつにとられる。あいつも狙つてるんだ。畜生、おたまじやくし奴!……だが、變だな、おたまじやくしが天から降るなんて? ぴつくりして見たら、ただ一匹のおたまじやくしが、ちよろちよろ泳いでゐるだけなんだ。爆彈でも落ちて來たかと思つたのに……

河童醫 (笑ひだす)

河童一 なにがをかしいんです?

河童醫 そりや、お前さん、森靑蛙(もりあをがへる)だよ。

河童一 森靑蛙?

河童醫 頭のうへに、木の枝が出てゐなかつたかい?

河童一 さういへば、出てゐた。

河童醫 廣い葉つぱはなかつたかい?

河童一 ありました。

河童醫 そんなら森靑蛙にちがびない。森靑蛙は、木のうへに卵を生むんだよ。しかも、水のうへにさし出してゐる枝にな。本能的に知つてゐるんだな。そして、おたまじやくしになつてから、水のなかへ落ちるんぢや。單なる動物の生態にすぎんよ。自然現象にすぎんよ。その眞下にゐたお前さんが、運が惡かつただけだ。

河童一 とぼけちやいけませんよ。そんなことぢやないですよ。わたしには、ちやんとわかつてるんだ。陰謀だ。あいつの陰謀だ。あの娘を狙つてるあいつが、戀敵(ライバル)の俺を不具者にしようとしたんだ。畜生、負けるもんか。……あいた、あいた。やけに疼きやがる。……まちがひないでせうな。熊笹を石でくだいて、その汁を、金魚藻で……

河童醫 あべこべだよ。

河童一 うん、あべこべだ。ちよつと、まちがつてみたんだ。金魚藻、熊笹、……金魚藻、熊笹……

 

    河童一、左手に去る。

 

河童醫 どうもこのごろの連中はひねくれてゐる。まともな心をどこかに忘れてしまつた。なにかの墮落がはじまつてゐる。でなかつたら、おたまじやくしくらゐで、負傷する筈がない。おまけに、賤しうなりをつて、昔なかつたやうな下品な病氣ばかりしをる。内臟だけならよいが、不潔な皮膚病が流行するには閉口だ。がんがさ、ひぜん、たむし、風眼、兎唇(みつくち)、梅毒、水むし、……ああ、きたない、きたない。

 

    呟きつつ左手に去る、蛙、蟬、鳥の

    聲。左手から、三角帽をかぶつた河

    童、蓮の葉の大きな袋をもつて出て

    來る。あたりをうかがひ、中央の岩

    石のうへにそれをひろげる。中から、

    多くの首。ならべる。

    そこらを步きながら、長い葦笛を喇

    叭(らつぱ)のやうに、四方へ鳴ら

    す。

    大勢の河童左右から登場。

 

三角帽 さあさ、皆さん、お立らあひ。よく、お集り下きつた。わが輩も本望。わが輩は香具師(やし)ではありません。ごらんのとほり、わが輩も諸君の眷族(けんぞく)、この沼に籍のある者ではないが、遠からぬところの他にすむ同族の河童です。機を得ず、諸君とはいまだ面識がなかつた。そのわが輩が、このたび、わざわざ諸君の沼へやつて參りましたのは、やむにやまれぬわが輩の義俠心、道義心、同情心、美へのあこがれ、靑春への讚歌、眷族の幸福をねがふ博愛心、つまり、實にロマンチシズムの精神の然らしむるところなのであります。わが輩は晦澁(くわいじふ)なことをいつて、諸君を困惑せしむるものではない。諸君の顏に、あきらかにあらはれてゐるその疑念をといてください。わが輩はきはめて、簡明直截な用件で參つたものだ。つまり、諸君を美しくするために、やつて來たのです。

 

    河童たち、おたがひの顏や姿を見あ

    つて、動搖。

 

三角帽 (聽衆を見まはしながら、大仰に)聞きしにまさる慘狀だ。これほどまでとは思はなかつた。まるで、化物屋敷ぢやないか。いや、失禮、お氣にさはつたらお許しくだきい。諸君を輕蔑したわけではない。率直にわが輩のおどろきと感想を述べたまでです。それにしても、ひどいものですな。まつたく、同情にたへない。わが輩は生涯を美にささげてゐる者です。美とともに生命はある。然るに、この沼は、諸君の慘狀は、全然美とは隔絶してゐる。それは、生命と絶緣してゐるといふことだ。お氣にさはつてもしかたがない。怒られてもよいです。お世辭にも、その諸君のざまを見て、美しいなどとはいへないぢやないですか。もつとも美しいと思へる顏だつて、さうですな、この顏と(一つの首をとりあげる)くらべたら、古いたとへだが、まるきり月とすつぽんですな。種も仕掛けもない。諸君の眼がしかと見てゐるとほりです。ところが、ごらんください。この顏は、わが輩がここにならべた首のなかでは、もつとも最下等でせう。どうです、これらの首のかがやくばかりの美しさは? まるで、巨大な寶石をならべたやうではありませんか? いや、あわてないでください。わが輩は諸君をなぶりに來たのではない。諸君を救ひに來たのです。わが輩の目的は、諸君を美しくするにある。美こそ、生命です。(思はせぶりに、ならべた首の頭の毛を櫛でなでつけたりしながら)それにしても、諸君はひどいですな。もはや哀れといふやうなものではない。さつきから諸君の顏を見てゐたら、嘔氣(はきけ)をもよほして來ましたよ。はじめは乞食ばかり集つたのかと思つた。かさかき、眼くされ、面瘍(めんちやう)、兎唇(みつくち)、ひびわれ皿、田蟲、しらくも、口ゆがみ、拔け毛、禿、耳だれ、にきび、鼻まがり、……醜惡むざん、まるきり、疫病(えきびやう)の展覽會ぢやないか。この沼には、智者はゐないと見えますな。智者がゐたとしても、これぢや匙(さじ)をなげるほかはあるまい。多少の治療はできようが、根本的な療治は到底むつかしい。まして、どんな名醫でも、金輪際(こんりんざい)、手に負へぬことがある。若さ、これです。老衰はとどめようがない。諸君のなかにも、相當おいぼれたのが見える。齒も拔け、嘴も折れ、眼もかすんでゐるらしい。死期も遠くはないでせう。ああ、見るに耐へぬ。待つてください。わが輩の心もせいて來ました。美こそ生命、何度でもいひます。若さこそ、永遠の幸福、たれが疑ふ者がありませう。この臺のうへを見てください。すべて、若さと美、靑春の豐饒(ほうぜう)さ、かがやかしい生命力の充實、橫溢(わういつ)、……いえ、この贈りものを諸君にさしあげます。……まあ、まあ、そんなに、あわてないで。……もはや、諸君の顏は醫學の及ぶどころではない。整形術の限界をはみだしてゐる。首をすげかへる以外に、絶對に方法はないです。ここにある首は、わが輩の精根こめた作品です。これによつて、諸君を美と若さの幸福のなかへみちびき入れてあげる。……これこれ、そんなにあわてなさんなといふに……

少年河童 小父ちやん、その首、どうしてこしらへたの?

三角帽 いやいや、さやうなことは輕々しくは申されんな。わが輩のみの祕傳だからな。また、諸君には用のないことだ。諸君に必要なことは、この美しい首がここにあるといふこと、そして、やがて、諸君のそのうすぎたない首と交換するといふことだけだ。

少女河童 その首、眼をつぶつてるわね。盲目とちがふの?

三角帽 (得意氣にけらけら笑つて)なるほど、もつともだ。眼をつぶつてる。(一個とりあげる)ほらごらん。(頭をさういひながら、ばんとたたく。眼、ぽちつとひらく。感歎のつぶやき。)どうです。ぱつちり澄んだ眼をひらいた。どれ、まづ、これを孃ちやんにあげるかな。なんと、孃ちやんの顏はきたないなう。そのただれ眼はどうしたんだ。眼やにがうんこのやうにたまつとる。可哀さうに、食べものが惡いんで、榮養失調だな。顏色が靑くて、毛に艷がない。鼻もまがつとるぢやないか。諸君、いま、わが輩が最初の實驗を行ふ。ことはつておくが、わが輩は最初に述べたやうに、香具師(やし)ではない。商賣人ではない。美と生命の使徒、藝術家、救世主、ロマンチシストだ。代價など貰はうとは思はない。商取引などは、考へても蟲唾(むしず)がはしる。だが、お待ちなさい。わが輩もこれだけの作品をものするには、若干の實費を要してをる。奇特の士あつて、應分の喜捨をたまはらば、辭退するものではない。(三角帽のさしだす蓮の葉に、皆、あらそつて金錢、品物を投げる。)これはこれは、多大の志、ありがたく頂戴いたす。(置く。)さて、では、孃ちやん、もつと、こつちへ。おう、臭いこと。虱もわいとるな。よくもまあ、こんなみつともない首を、がまん強うこれまでつけとつたもんだ。さ。(とりかへる。皆感歎のつぶやき。)おう、立派になつたぞ。まるで、お伽噺(とぎばなし)のお孃さまだ。シンデリイラもかなはぬぞ、すばらしい、すばらしい。

老河童 わしも、ひとつ顧みます。

三角帽 やあ、これは、なんとよぼよぼ爺さん、もう、棺桶に半分足を入れてござつとるな。

老河童 さやう、今年、六百七十三歳になるでな。

三角帽 それぢや、餘命いくばくもない。ひとつ、若がへりと行きますかな。

老河童 うんと若いところをな。

三角帽 さて、このあたりかな。

老河童 もつと、若いの、賴みてえな。

三角帽 うふん、爺さん、若がへつて、もう一ぺん娘つ子口説(くど)くといふ算段とみえる。よろしからう。靑春の快復だ。生命の讚歌だ。これにするかな。(老河童の首と靑年河童の首とかへる)ほう、これはどうだ。わが輩が娘つ子なら、ひと目でふるひつくぞ。

河童一 僕も願ひたいですが……

三角帽 やあ、あんたの皿はどうなさつた?

河童一 なにね、油斷してて、おたまじやくし奴にやられましてね。

三角帽 おたまじやくしに? ほう、それは御災難、奇妙な膏藥張つてなさるが……

河童一 ゼラチンとカストリの混合液を塗つたんです。それでもひりつくのがなほらんので、さつき、金魚藻を石でくだいて、熊笹の葉で……

三角帽 馬鹿な! たれがそんな阿呆な療法を教へたのだ。籔醫者がをるとみえるな。よろしい、よろしい。そんな手間ひまはいらん。すこぶる健康、美的な皿のある首ととりかへてあげる。……これ、よろしいか。

河童一 結構です、結構です。(おしいただいて泣く)ありがたい。

三角帽 ほれ、(首、とりかへる)やあ、二十世紀のダンデイ、ドン・ファン。

婆河童 わたくしにも、ひとつ……

三角帽 なんかいうたですかな? 齒が拔けとるで、なにいうとるのかわからんわ。

婆河童 たのみまつする。(拜む)

三角帽 さつぱりわからん。だが、首をかへてくれといふんだらう。なんと、この婆さんの皺くちやぶりはどうだ。まるきり、しなびた冬瓜(とうがん)だ。わかつた、わかつた。思ひきり若くしてあようワ。(若い娘の首とかへる)ほう、すばらしい美人になつた。わが輩が惚れたくなつたぞ。靑春の復歸だ。これから、思ふ存分、戀を語りなさるがよい。

 

    三角帽、心配げに、臺上の首をしら

    べる。見物と首との數を見くらべて、

    小首をかたむける。

 

三角帽 (さりげない風で)諸君、わが輩の美の實驗は、眼のあたり、ごらんのとほりだ。もはや、わが輩をうさんくさい眼で見る者はあるまい。わが筆が諸君の救世主であることはわかつただらう。ところで、諸君は、いづれも、首のとりかへを望まれるか。

群集 勿論。あたしも。俺も。わしも。賴む。どうぞ。ぜひ……(などと異口同音に)

三角帽 希望者は手をあげてください。(皆、手をあげる)はて、全部ですな。(首をひねつて、しばらく考へる振り)どうも、困つた。……弱つたな。名案が浮かばぬ。……諸君、諸君の熱望に、わが輩も大いに感動しました。全部の諸君の期待に添ひたい思ひは山々なのだが、……ごらんのとほり、さつきから數へてゐるのだが、どうも、首の數が足りない。(群衆に動搖がおこる。)わが輩もうかつでした。もつと作つてくればよかつたのだが、今となつては……

 

    にはかにどよめいた群衆は、われさ

    きに臺上におしよせて、勝手に首を

    とらうとする。

 

三角帽 これこれ、そんな亂暴な、……諸君、……おい、諸君、無茶せんで、わが輩のいふことを……

 

    群衆はきき入れず、めいめい首をと

    つて、自分でつけかへる。臺上は古

    い首と新しい首とが入りみだれ、血

    迷つた河童たちはもう首を選擇して

    ゐる餘裕がない。ただ、とりかへれ

    ばよいといふあわてかたで、古い首

    でもなんでもつけかへる。混亂の後、

    左右へ散つて、誰もゐなくなる。い

    つの間にか、岩のうしろ側にかくれ

    てゐた三角帽の河童が、頸を出す。

    散らばつてゐる首を蓮の葉につつみ、

    石のおもりをつけて沼の底へ沈める。

    [やぶちゃん注:ここは改行。]

    三角帽河童、中央に出て來て、岩石

    に腰をおろし、けらけらと奇妙な聲

    をたてて、長いこと、笑ふ。岩のう

    しろへ姿を消す。

    蛙、蟬、鳥の聲。

    一匹の女河童そはそはと右手から出

    て來る。あたりを見まはしながら、

    木かげに來て、沼のなかへ、立小便

    をする。

    その左手から、河童一、出て來る。

 

河童一 (おそるおそる)もしもし、たいへん失禮ですが、御婦人の方が立小便なさるのは、どうかと思ひますな。

女首河童 御婦人? たれが?

河童一 あなたですよ。

女首河童 冗談いつちや困るよ。僕は男ですよ。立小便はわるかつたが、つい、癖だもんだから、……君は警官ぢやないでせう。

河童一 警官ぢやないが、……をかしいな。……さうか。あなたもまちがつたのだ。

女首河童 なにが?

河童一 鏡を見ましたか。

女首河童 鏡なんか見ないよ。

河童一 見てごらんなさい。

女首河童 (沼に顏をうつしに行つて)あつ、大變だ。女の首だ。

河童一 美人には美人だが、首だけぢや……

女首河童 いつたい、こりやどうなるんだ。俺は男か、女か?

河童一 わたしも弱つてるんです。わたしはあの三角帽の男にちやんとかへて貰つたんで、まちがひはなかつたんですが、わたしの惚れてゐたあの娘がゐなくなつてしまつたんです。あの娘に氣に入られたいばかりに、首をとりかへて貰つたのに、あの娘がどこに行つたかわからなくなつた。なんのためかわからないんだ。きつと、あの娘も首をとりかへたんだ。

女首河童 ひとのことなんかどうだつていい。俺はどうなるんだ。俺は男か、女か?

 

    頭をかかへて右手にかけ去る。

    入れちがひに、ひとりの婆河童出て

    來る。

 

婆首河童 ここにいらしたわ。うれし。(河童一にとびかかる)

河童一 あなたはどなたです?

婆首河童 ひどいわ、あたしよ。あたしがわからないの?

河童一 あなたのやうなお婆さんには……

婆首河童 お姿さんですつて……

河童一 (氣づく)あつ、……(慄然として、左手へ逃げだす)

婆首河童 どうして逃げるの? とうなさつたの? 待つてよ、待つてよ。

 

    追つて入る。

    ひとりの少女河童、泣きながら左手

    から出て來る。

 

少女河童 母ちやんがわからない。母ちやんがわからない。母ちやんがゐなくなつた。母ちやん、母ちやん……

 

    右手に入る。

    若い男河童、左手から出て來る。

 

男河童 僕はほんたうに幸福に思ひます。こんなうれしいことはないです。あなたのやうな美しいひとは、生まれて一度も見たことがありません。

女河童 まあ、お上手ばつかり。それはあたしの申しあげることですわ。あたし、もう、あなたのおそばにゐるだけで、太陽を仰いでゐるやうにまぶしくて……

男河童 あなたは虹です。あなたにお會ひしたとき、僕は明瞭に七色のかがやかしい色彩が、眼のなかに流れこんで來るのを感じました。もう僕の網膜にやきついたあなたの映像は、永久に消えません。永久に、さうです。永久にです。僕の申しあげる意味がおわかりでせうか。

女河童 わかりますわ。あたし、……もう、あなたのためなら……

男河童 どんなことでも聞いてくれますか。

女河童 はい。

男河童 僕は生活のあらたな勇氣がわきました。あなたとなら、どんな苦難にも耐へて、永久に、さうです。何度でもいひます。永久に、暮してゆける自信ができました。僕たちのかたい結ばれを信じてもよろしいですね。

女河童 ええ。

男河童 僕たちの戀愛は淸純です。ロミオとジュリエット、太陽と虹との絢爛(けんらん)たる結合です。なんといふすばらしいことか。僕たちは靑春をあらんかぎり滿喫するんだ。(二人、すこしづつ寄り添ふ)すべてを、あなたは許して下さいますね。

女河童 ええ。

男河童 接物も……

女河童 ええ。

男河童 それから、……あの、……あれも……

女河童 (恥かしさうに、うつむいて、うなづく)

男河童 僕は幸福で卒倒しさうです。唇がふるへて、うまく言葉が出ない。しかし、僕たらはもう餘計な言葉はいらないのだ。もはや、すべてを許しあつたのだ。(あたりを見まはし)幸ひ、ここには誰もゐない。もう、僕はがまんができない。

 

    男河童、女河童をひきよせる。兩方か

    ら、同時に、びつくりして飛びはなれ

    る。

 

男河童 (おののきながら)なんたることか。ああ、心臟が止まるやうだ。(女河童の身體を見、自分の身體をつくづく見て身ぶるひする)なんといふ老ひさらぼうた身體か。若さなんかどこにもない。乾からびた、しなびた手足、胸、腰、からからだ。うすぎたなく、ふき出ものまで出てゐる。ああ、恐しい。ぞつとする。首だけいくらとりかへても駄目だ。顏は二十歳でも身體は六官歳だ。靑春の快復なんか、どこにあるか。あの女、顏は虹のやうに美しいのに、身體は、……身體は……俺と同じだ。爺と婆だ。靑春の血などてんで湧きはしない。冷たい骸(むくろ)だ。ああ、畜生、精神と肉體の分裂だ。新しい苦惱の誕生だ。

女河童 さよなら。

 

    右手へ駈け去る。

    男河童、働突する。よろめきながら、沼に投身する。その昔。

    右手から爺河童、登場。そのあとを、婆河童、追つて來る。

 

婆河童 たうとう、見つけた。こんなとこ、うろうろしくさつて。なんちゆう不精たらしい爺さんぢやろか。(後首をつかむ)

爺河童 これこれ、なにしなさる?

婆河童 なにするもないもんぢや。わしがあれだけいひつけといたのに、どうして、胡瓜の芋葉煮(いもばに)を作りなさらん? もう出來たころと思うて、歸つてみりや、まあだ皮もむいてない。どうする氣ぢや。

爺河童 變ないひがかりつけなさんな。胡瓜の芋葉煮なんて、わしの知つたことか。

婆河童 しぶとい爺さんぢやなう。朝から五へんも六ペんも念押してあるぢやないか。知らん振りをしようとて、今日は許さん。わしばかり仕事させて、それでよう氣が安まるこつちやなう。さあ、とつとと歸つて……

爺河童 こら、離せ。どこの糞婆か知らんが、なんちゆう因念つけるか。蹴とばしてくれるぞ。

 

    そこへ右手から、一匹の婆河童來る。

    爺河童左手へ去る。婆河童同志、顏

    見あつて、しばし無言。

 

婆河童 おや、あんたはわしではないか。

婆河童 なにをいひなさる? わしがあんたであるもんか。

婆河童 いんや、あんたはわしにちがはん。わしがどこに行つたかわからんで、探しまはつとつたのに、こんなとこにをつた。さあ、あんたはわしで、わしはあんたぢやから、早う家に歸んなさい。

婆河童 わしがあんたなんて、あんたとわしがどんな關係があるか。わしはあんたなんか知らんがな。わしはわしぢやよ。

婆河童 わからんわしぢやなう。あんたはわしといふとるのに、何べんいや、わかるか。わしのことをわしが勝手にするのに、誰からも文句はいはせん。こら、わし、わしのところへ歸れ。

婆河童 わしはわしぢやが。なんの、わしがあんたぢやろか。離しておくれ。

婆河童 わしよ、わしについて來い。

 

    ぐんぐん右手へひきずつで行つてし

    まふ。

    蛙、蟬、鳥の聲。

    左右から、大勢河童が出て來て、誰

    が誰やらわからず、口口にわめきあ

    ひ、からみあひ、なぐりあひする。

    めちやめちやである。

    左右へ散つてしまつたあと、岩石の

    かげから、三角帽の河童姿をあらは

    す。退屈でたまらぬやうに、長い欠

    伸(あくび)をする。木かげから、

    醫者河童とびだす。

 

河童醫 貴樣、俺たちをたぶらかしやがつて、貴樣、ほんたうに俺たちの眷族か? 河童か? 惡魔ぢやないのか? 皿があるかないか、見せろ! その三角帽をぬいでみろ!

 

    醫者河童、帽子に手をかける。三角

    帽は抵抗しないで、岩の向かふから、

    身體を前方に曲げる。

    帽子がとりはらはれると、頭に皿は

    なく、二本の角が出る。

    その角から、もうもうと靑い煙が出

    て、舞臺中にひろがる。醫者河童、

    尻餅をつく、

[やぶちゃん注:読点はママ。]

    煙につつまれて見えなくなつたなか

    で、三角帽河童の奇妙な笑ひ聲の、

    長々しくひびくなかに。

 

                   幕

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟿螽(はたはた)


Hatahata

はたはた  螇蚸

蟿螽

      【俗波太波太】

 

△按蟿螽卽𧒂螽之屬長三四寸身甚瘦方首兩額有眼

 目上有二髭翅灰赤色黒點腹下白善跳難捕本艸綱

 目謂似螽斯而細長曰蟿螽者是也

 

 

はたはた  螇蚸〔(けいれき)〕

蟿螽

      【俗に「波太波太」。】

 

△按ずるに、蟿螽は、卽ち、𧒂螽(いなご)の屬。長さ三、四寸。身、甚だ瘦(や)せて、方なる首、兩の額に、眼、有り。目の上に二〔つ〕の髭、有り。翅、灰赤色、黒點あり。腹の下、白く、善く跳びて捕へ難し。「本艸綱目」に『螽斯(はたをり)に似て細長〔(ほそなが)〕を蟿螽と曰ふ』と謂ふ者(〔も〕の)、是れなり。

 

[やぶちゃん注:短い叙述なのに悩ましい。まず、挿絵を見ると、立派なバッタだ。それも所謂、泰然自若とどっしりとした、雑弁亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria 然としたそれで、疑いようがない。考えてみると、私はここまで、孰れも実はトノサマバッタと比定同定していないから、もってこいだ。

 ところが、だ。

 これ、その本文を虚心坦懐に読むと、その確信安堵の様相が一変するのである。本種の属性は、

・身体が非常に瘦せている。トノサマバッタは大名のように鱈腹喰うて太った印象であって、少なくともこうは絶対に表現しない。以下で良安は概ね前面から対象昆虫を観察している。トノサマバッタの顔は、寧ろ、デブって丸くなった殿様顔である。

・首は方形である。「方」は対象が四角いことであるが、これは、その属性としての角張っていることをも指し、必ずしも四角形や箱形であらねばならないわけではない。寧ろ、前提で「非常に痩せている」としている以上、体幅が有意にある四角なのではなく、異様にスマートで角稜がくっきりと出ている頭胸部である、或いは、顔つきをしているという意味でとった方がしっくりくる

・両方の額に眼が存在し、その直上に一対の髭がある。この「兩額」というのは注意する必要がある。トノサマバッタのような前面が人の顔のようにのっぺりとした一平面としてある場合、その「額」を「兩」とは表現しない。我々額を「右の額と左の額」としてまず区別しないのと同じである。トノサマバッタを正面から観察すると、人の顔に譬えた場合、確かに眼は左右にあると言え、その上に一対の髭はあるものの、「額」は左右二つ、「兩額」ではなく、人間のそれと同じで前面に「額」があるのであって、左右「兩」面に分離した「額」が存在するとは私なら表現しない。では、「兩額」に眼があるとはどのような形状を指すか? 言わずもがな、「額」が前面からはないように見え、左右に「額」が分離して存在するようにしか見えず、そこに眼が左右に――前面からはっきりは見えず、ほぼ完全に「左右」に――あるように見え、しかも、そのすぐ真上から一対の触覚がすっくと伸びているのである。

・翅は灰赤色で黒点を有する。これのみは、かなりトノサマバッタっぽくはある。

・腹の下が白い。

・非常に高く強く跳び、捕えるのが難しい。以上の三点はトノサマバッタ類に認められるものであるが、ではトノサマバッタに特異的であるかというと、そうではない。これは寧ろ、バッタ類の多くの種或いは体色変異個体に広く認められるものである。

・「本草綱目」にさえ「螽斯」(はたをり)=直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属 Gampsocleis キリギリス類「に似て」いるが、有意に「細長」く、異様にスマートだというのである。繰り返すが、トノサマバッタを私はスマート、いやさ、瘦せてガリガリだなどとは逆立ちしても言わない

 もう、お判りであろう。

 これらの叙述の属性を殆んど総て(敢えて言うと、「翅は灰赤色で黒点を有する」というのはによく見られる褐色個体で前半はクリアー出来ても、「黒点」はちょっと無理か)保有する、ぴったりくる種は唯一つ既に蠜螽(ねぎ/しょうりょうばった)出た

有翅昆虫亜綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科ショウリョウバッタ亜科 Acridini 族ショウリョウバッタ属ショウリョウバッタ Acrida cinerea

(或いは性的二形で大型の同種の以外にはいないと私は断言出来るのである。

 附言すれば、「はたはた」「蟿螽」「螇蚸〔(けいれき)〕」、特に「はたはた」と「螇蚸」は古くから現代に至るまで、広義にはイナゴやバッタの総称であったが(「螇蚸」を「ばった」或いは「はたはた」と読ませるケースは俳句などで非常に多い)、その中でも有意に狭義に「ショウリョウバッタの異名」として好んで用いられてきた経緯があるのである。

 「本艸綱目」と珍しくフル・ネームで出し、しかも何時ものように先には出さず、自身の評言のみで項立てしたこの特異点の項目「はたはた」は、そろそろ、「似たようなものばかり並んで、正直、飽きたわ」という良安先生の内心がキチキチ、基、ヒシヒシと私には伝ってくるのである。

 因みに、「本草綱目」の「螽斯(はたをり)に似て細長〔(ほそなが)〕を蟿螽と曰ふ」というのは、「𧒂螽」(本電子化中の𧒂螽」は本邦ではイナゴ類に限定同定した)の「集解」の中に記されてある。]

2017/09/14

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蝗(おほねむし)


Oonemusi

おほねむし

      【和名於保

       祢無之】

【音黃】

ハアン

 

本綱蝗亦螽類大而方首首有王字沴氣所生蔽天飛性

畏金聲一生八十一子其子未有翅者名蝮一名蝝【音延】

不因牝牡腹中陶冶而自生故曰蝮

爾雅集註云蝗怱名也食苗心曰螟食葉曰𧊇【當作𧈩並同

[やぶちゃん字注:「」は原典では「虫」を「貝」上に上げ、「代」と並べた字体。後も同じ。

食節曰根曰蝥【當作𧐙字蟊亦同

[やぶちゃん注:「𧐙」は原典では「虫」の上に「務」。

三才圖會云枉法令卽多螟乎言其姦冥冥難知也吏乞

貸則生言假貸無厭也吏抵冒取民財則生蟊

桃李中蠹赤頭身長而細

唐書云太宗貞觀二年有蝗害田帝捕蝗曰天若罪我汝

能害我黎民何罪祝畢呑之蝗果不害

五雜組云江南無蝗過江卽有之此理之不可暁者當其

盛時飛蔽天日雖所至禾黍無復孑遺然間有留一二頃

獨不食者

△按蝗之屬甚多而首有王字者甚希也蓋蝗害苗者未

 有之如爲害則災也但六七月霖雨不晴雖霽冷則生

 蟲大如蚇蠼綿蟲屬而微黒食苗心所謂螟者是乎

 

 

おほねむし

      【和名、「於保祢無之」。】

【音、黃。】

ハアン

 

「本綱」、蝗も亦、螽(しう)の類。大にして、方なる首。首に「王」の字、有り。沴氣〔(れいき)〕生〔ずる〕所、天を蔽ひて飛ぶ。性、金聲〔(きんせい)〕を畏〔(おそ)〕る。一たび、八十一の子を生む。其の子、未だ翅有らざる者、「蝮〔(ふうたう)〕」と名づく。一名、「蝝」【音、延。】。牝牡〔(めすおす)〕に因らず、腹中にて陶冶して、自〔(おのづか)〕ら生〔(しやう)〕ず。故に「蝮〔(ふくたう)〕」と曰ふ。

「爾雅集註」に云く、『蝗は怱名なり。苗の心を食ふを「螟〔(めい)〕」と曰ひ、葉を食へるを「𧊇(とく)」と曰ふ【當に「〔(たい)〕」の字に作るべし。「」〔と〕「𧈩」〔とは〕並びに同じ。】。節(ふし)を食ふを「〔(そく)〕」と曰ひ、根を食ふを「蝥〔(ぼう)〕」と曰ふ【當に「𧐙」の字作るべし。「蟊〔(ぼう)〕」も亦、同じ。】。』〔と〕。

[やぶちゃん字注:「」は原典では「虫」を「貝」上に上げ、「代」と並べた字体。後も同じ。「𧐙」は原典では「虫」の上に「務」。]

「三才圖會」に云く、『法令を枉(ま)ぐるときは、卽ち、「螟〔(めい)〕」多し。言ふこころは、其の姦(かたま)しきこと、冥冥として知り難き〔なれば〕なり。吏、貸〔(たい)〕を乞へば、則ち、「」を生ず。言ふこころは、貸を假〔(か)〕りて厭はず〔なれば〕なり。吏、抵冒〔(ていばう)〕して民の財を取るときは、則ち、「蟊」を生ず。「」は、形、桃李の中の蠹〔(きくひむし)〕に似て、赤頭、身、長くして細し。』〔と〕。

「唐書」に云く、『太宗の貞觀二年、蝗〔(こう)〕、有りて、田を害す。帝、蝗を捕へて曰く、「天、若〔(も)〕し、我れを罪〔(つみ)〕せば、汝、能く我を害せよ。黎民〔(れいみん)〕、何の罪かある。」〔と〕。祝し畢〔(おは)〕りて、之れを呑む。蝗、果して害をせず。』〔と〕。

「五雜組」に云く、『江南には、蝗、無く、江を過ぐれば、卽ち、之れ有り。此の理〔(ことはり)〕をして、之れ、暁(さと)すべからざる者なり。其の盛んなる時に當りて飛び、天日を蔽ふ。至る所の禾黍〔(かしよ)〕、復た孑遺(のこす)こと無しと。然〔りと〕雖も、間(まゝ)、一、二頃〔(けい)〕、留〔(とど)〕めて、獨り、食はざる者、有り。』〔と〕。

△按ずるに、蝗〔(おほねむし)〕の屬、甚だ多し。而〔れども〕、首に「王」の字有る者、甚だ希〔(まれ)〕なり。蓋し、蝗の、苗を害〔せる〕者、未だ之れ有らず。如〔(も)〕しし、害を爲すは、則ち、災〔ひ〕なり。但し、六、七月、霖雨、晴れず、霽〔(は)〕るゝと雖も、冷〔(ひゆ)〕れば、則ち、蟲を生ず。大いさ、蚇蠼(しやくとり〔むし〕)・綿の蟲の屬のごとくにして、微〔(かすかに)〕黒く、苗の心を食ふ。所謂、「螟」といふ者、是れか。

 

[やぶちゃん注:この「蝗(おほねむし)」「螽」(しゅう)の仲間というのは、逆転の繰り返しとなるが、今度は、前項の「𧒂螽」(本邦の直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目イナゴ科 Catantopidae(イナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae)に属するイナゴ類ではなく

中国やアフリカで大群で穀類を襲う「飛蝗(ひこう)」として恐れられる、ワタリバッタ類(雑弁亜目バッタ下目バッタ上科バッタ科 Acrididae のバッタ類の内、サバクトビバッタ(バッタ科 Schistocerca属サバクトビバッタ Schistocerca gregaria:アフリカ大陸呼び中東、アジア大陸に棲息するが、本邦にはいない)やトノサマバッタ(バッタ科トノサマバッタ属トノサマバッタ Locusta migratoria:無論、本邦に普通に棲息するそれであるが、群体相を示すことはまずない)のように、大量発生などによって相変異を起こして群生相となったもの

を指す。これら、一部のワタリバッタ類の群体相が大群を成して集団移動する現象を「飛蝗」これによる穀類の、時に壊滅的ともなる草体部の食害を「蝗害」と呼ぶのである。

 従って、良安が引く中国の書の記載は、中国での「飛蝗」、本邦にいないか種或いは個体、或いは、いても群体相化しないそれらバッタ類を指しており、しかも古い記載である上に非生物学的であり、沢に出てくる虫偏の類は同定すること自体、少なくとも本邦では(或いは私のこの電子テクストに於いては)、労多くして益なきものであることは言を俟たない(私が中国の博物学史家や昆虫類の研究者であるのならば、それをする意義は大いにあるとは言える)。されば、それらの注は附さない。良安の評言が、今一、何時ものようにパンチがないが、彼もこの虫偏の漢字やそこに記載された生態・習性等に、正直、困った感じを抱いているからだろうと私は踏んでいるのである。

 

「大にして、方なる首」これで褐色を呈すれば、まさにワタリバッタ類の群体相の形態にそっくりである。

『首に「王」の字、有り』挿絵にもはっきり描かれてある。ワタリバッタ類のラテン語学名で画像を見てみたが、何せ、生態写真の殆んどは、側面からのものばかりで、背部が明白に写されてあるものが、実は少ないため、「王」の字を見出だすことは出来なかった。ヨーロッパ・ロシア地域で頻繁に目撃されたUFO(未確認飛行物体)の船底に「王」の字を刻んだ円盤のあったことは、よう、知っとるんやけど、なあ……

「沴氣〔(れいき)〕生〔ずる〕」中国語の文語(古語)表現で「沴」には「悪しき気・不健康な空気」、動詞で「損なう・傷つける」の意がある。東洋文庫訳では『自然の気が乱れる』とある。腑に落ちる。

「金聲〔(きんせい)〕」東洋文庫訳では『金属の音声』とする。そういえば、古えの中国の飛蝗襲来の際に盛んに鉦(かね)を叩くというシーンを何かの伝奇の中で読んだ記憶がある気がする。

「一たび、八十一の子を生む」例えば「飛蝗」のチャンピオン、サバクトビバッタでは成虫は四日間隔で卵を産むが、砂の中に尻尾を差し込むようにして一度に五十から百個ほどを纏めて産卵するとあるから、この数値は平均値として見るならば非科学的ではない。ただ、群体(群生)相では卵の数は孤独相の時よりも少なく、その代わりに大きな卵を産むと専門研究者前野ウルド浩太郎氏についての記載の中にあったNational Geographic のこちらの記事内(複数ページに及ぶ)。

「牝牡〔(めすおす)〕に因らず、腹中にて陶冶して」「陶冶」に東洋文庫訳は『そだてて』とする。も卵を体内で形成するというのは、無論、あり得ない

「爾雅集註」中国最古の類語辞典・語釈辞典である「爾雅」(著者不詳・紀元前 二〇〇年頃成立)を南北朝の梁(五〇二年~五五七年)の沈璇(しんせん)が注した「爾雅沈璇集注」。

「怱名」(そうめい)は総称のこと。

「心」芯。茎の蕊(ずい)の部分。

「螟〔(めい)〕」誤り。これは昆虫綱 Panorpida上目チョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目メイガ上科メイガ科 Pyralidae に属するニカメイガ(二化螟蛾)Chilo suppressalis の幼虫など、水稲などの茎や芯葉に食入して食害する害虫を指す(食害されると枯死したり、不稔になったり、米が小さくなったりする)。和名は年二回発生(二化)することに由来する。本邦のイナゴ類の幼虫も同様の寄生をして食害することはあるが、ニカメイガの比ではないと私は思う。この辺りから、稲の茎を食害する多種の幼虫を「蝗」類とする誤りが展開し、その摂餌対象が苗の蕊か葉か、成長したものの節か根かで分類して漢名をつけて別種として分類してしまうという中国本草学のトンデモ分類学にまで至ってしまうのである。何をか注せんや、という感じである。

「三才圖會」王圻(おうき)とその次男思義によって編纂された絵を主体とした中国の類書(百科事典)。明の一六〇七年に完成し、二年後に出版された。全百六巻。「三才」とは「天・地・人」を指し、「万物」を意味する。世界の様々な事物を天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の大項目十四部門に分けて説明しており、各項目に図が入る。本「和漢三才図会」は本書に触発されて編著されたものではあるが、ここまでお付き合い下さると判る通り、本草部(動植物類)のパートは殆んどの主記載が李時珍の「本草綱目」に拠っている。

「法令を枉(ま)ぐるときは、卽ち、「螟〔(めい)〕」多し」載道的な自然現象解読。儒教的道徳律でそれらを説明しようとしている。

「其の姦(かたま)しきこと、冥冥として知り難き〔なれば〕なり」そうした邪悪で非道な行為が、民や国王・皇帝に分らぬように竊かに暗々裏(「冥冥」)に遂行されるために、人の目につき難いからである。その悪しき気を天が察して「螟」を多量に発生させるのだと言うのである。

「貸〔(たい)〕」東洋文庫訳では、この字に『(金品の用立て)』と割注する。無辜の人民から役人がプライベートに必要なものを税金としてではなく、全く以って不当に吸い上げ、それを提出させることを無理強いすることといった感じであろう。但し、それは表向きはあくまで合法的に「借りる」(貸借の字は互換性がある)のであって、後の略奪とは異なる(結果は略奪なのだが)。

「貸を假〔(か)〕りて厭はず〔なれば〕なり」東洋文庫訳では、『貸を仮(か)りて厭(いと)わないという意味あいである』という半可通な訳になっている。前注の私の謂いを参照。

「吏、抵冒〔(ていばう)〕して民の財を取るときは」東洋文庫訳では『役人が民の財を侵奪すれば』と訳す。実務レベルで実行支配する民の物は俺たちの物的発想の確信犯という意味であろう。

「唐書」「新唐書」北宋の欧陽脩らの奉勅撰になる唐代に関わる正史書。全二百二十五巻。一〇六〇年成立。五代の後晋の劉昫(りゅうく)の手になる「旧唐書」(くとうじょ)と区別するために「新唐書」と呼ぶが、単に「唐書」とも呼ぶ。「旧唐書」は唐末五代の頃の戦乱の影響によって、武宗以後の皇帝の実録部分に欠落があるなど、史料不足による不備が大きかったことから、宋代になって新出の豊富な史料に拠ってその欠を補った書である。以下は同書の「五行志第二十六 五行三」に載る。

   *

貞觀二年六月、京畿旱、蝗。太宗在苑中掇蝗祝之曰、「人以穀爲命、百姓有過、在予一人、但當蝕我、無害百姓。」。將吞之、侍臣懼帝致疾、遽以爲諫。帝曰、「所冀移災朕躬、何疾之避。」。遂吞之。是歳、蝗不爲災。

   *

「太宗の貞觀二年」ユリウス暦六二八年。太宗は第二代皇帝李世民(六二六年~六四九年)のこと。無論、ここで「蝗」を飲み下したのも彼である。

「黎民〔(れいみん)〕」「黎」は「諸々・多い」の意で人民・庶民の意。

「祝し」咒(まじない)をして。

「五雜組」既注であるが、再掲しておく。明の謝肇淛(しゃちょうせい)の十六巻からなる随筆集であるが、殆んど百科全書的内容を持ち、日本では江戸時代に愛読された。書名は五色の糸で撚(よ)った組紐のこと。以下は同書の「卷九」に、

   *

江南無蝗、過江卽有之、此理之不可曉者。當其盛時、飛蔽天日、雖所至禾黍無復孑遺、然間有留一二頃、獨不食者、界畔截然、若有神焉。然北人愚而惰、故不肯捕之。此蟲赴火如歸、若積薪燎原、且焚且瘞、百里之内、可以立盡。江南人收成後、多用火焚一番、不惟去穢草、亦防此等種類也。

   *

の前半部。

「此の理〔(ことはり)〕をして、之れ、暁(さと)すべからざる者なり」東洋文庫訳では『この理由をあきらかにすることができない』とある。

「禾黍〔(かしよ)〕」食用とする稲と黍(きび)。

「孑遺(のこす)」「孑遺」は音「げつい」で「僅かに残るもの」の意。

「獨り」は限定の意。

「一、二頃〔(けい)〕」これは田の面積の単位で一頃(けい)は百畝で九千九百十七平方メートル弱であるから、一万から一万九千八百三十平方メートルに相当する。野球のグラウンドで一つか二つ分に相当する。

「食はざる者、有り」「者」は「物」で敷地を指す。

「害を爲すは、則ち、災〔ひ〕なり」良安はそのような大規模な本邦産のイナゴの食害を見たことがないから、それは想像を絶した虫害である、と言っているのである。

「六、七月、霖雨」梅雨及び秋雨の長雨。

「蚇蠼(しやくとり〔むし〕)」既注であるが、狭義には鱗翅目シャクガ(尺蛾)科 Geometridae に属するガの幼虫の通称「尺取虫」類等を指す。「蝗」とは全く無縁。

・「蝥〔(ねきりむし)〕」同じく既注であるが、「根切り虫」は鱗翅目ヤガ科モンヤガ亜科 Agrotis 属カブラヤガ Agrotis segetum・同属タマナヤガ Agrotis ipsilon など、茎を食害するヤガ(夜蛾:ヤガ科 Noctuidae)の幼虫の総称で、一見すると、根を切られたように見えることから、かく呼ばれているようである。同じく「蝗」とは全く無縁。

「綿の蟲」半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科コナカイガラムシ科 Pseudococcidae のことか。しかし黒いとあり「苗の心を食ふ」というのは本種とは思われない。別種か? コナカイガラムシだとして、やはり「蝗」とは全く無縁。

「所謂、「螟」といふ者、是れか」だからね、良安先生、それはニカメイガだっつうの!]

演じてみたい役 追加

 

僕が今もベケットの「クラップ最後のテープ」を演じてみたいことは以前にも何度も書いたが、昨夜、寝しなにふと、
 
「あれなら――是非やりたい。急にやりたくなったのだ。」
 
と思った役があったのだ。
 
漱石の「こゝろ」の「ある役」だ。
 
「先生」では無論、ない。もう「先生」の年齢の倍近く生きてしまったからね(「先生」を爺さんだと思っている愚かな連中がいっぱいいるが、先生が自殺したのは満で35歳ぐらいだよ。私の論考を見給え)。だから「K」も「私」も無理だ。「私」の「父」も魅力ない。
 
もういないだろうって?
 
いや、僕の年でもやれる役がある。しかも頗る魅力的なのだ。
 
多分、誰も当たらない。台詞もないチョイ役だからだ。
 
でも無性にやりたいと思ったのだ。
 
僕の初出の電子化から引こう。例の雑司ヶ谷で「私」が「先生」に再会するシークエンスに登場する「彼」だ――
 
   *

 
  先生の遺書

 
      (五)
 
 私は墓地の手前にある苗畠(なへばたけ)の左側(ひだりかは)ら這入つて、兩方に楓を植ゑ付けた廣い道を奧の方へ進んで行つた。すると其(その)端(はづ)れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て來た。私は其人の眼鏡の縁が日に光る迄近く寄て行つた。さうして出拔(だしぬ)けに「先生」と大きな聲を掛けた。先生は突然立ち留(ど)まつて私の顏を見た。
 
 「何うして‥‥、何うして‥‥」
 
 先生は同じ言葉を二遍繰り返した。其言葉は森閑とした晝の中(うち)に異樣な調子をもつて繰り返された。私は急に何とも應へられなくなつた。
 
「私の後を跟(つ)けて來たのですか。何うして‥‥」
 
 先生の態度は寧ろ落付いてゐた。聲は寧ろ沈んでゐた。けれども其表情の中には判然(はつきり)云へない樣な一種の曇りがあつた。
 
 私は私が何うして此處へ來たかを先生に話した。
 
 「誰の墓へ參りに行つたか、妻が其人の名を云ひましたか」
 
 「いゝえ、其んな事は何も仰しやいません」
 
 「さうですか。――さう、夫は云ふ筈がありませんね、始めて會つた貴方に。いふ必要がないんだから」
 
 先生は漸く得心したらしい樣子であつた。然し私には其意味が丸で解らなかつた。
 
 先生と私は通(とほり)へ出やうとして墓の間を拔けた。依撒伯拉(いさべら)何々の墓だの、神僕ロギンの墓だのといふ傍(かたはら)に、一切衆生悉有佛生(いつさいしゆじやうしつうふつしやう)と書いた塔婆などが建てゝあつた。全權公使何々といふのもあつた。私は安得烈(あんどれ)と彫(ほ)り付けた小さい墓の前で、「是は何と讀むんでせう」と先生に聞いた。「アンドレとでも讀ませる積でせうね」と云つて先生は苦笑した。
 
 先生は是等の墓標が現す人(ひと)種々(さまざま)の樣式に對して、私程に滑稽もアイロニーも認めてないらしかつた。私が丸い墓石だの細長い御影(みかげ)の碑だのを指して、しきりに彼是云ひたがるのを、始めのうちは默つて聞いてゐたが、仕舞に「貴方は死といふ事實をまだ眞面目に考へた事がありませんね」と云つた。私は默つた。先生もそれぎり何とも云はなくなつた。
 
 墓地の區切(くき)り目に、大きな銀杏(いてう)が一本空を隱すやうに立つてゐた。其下へ來た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。此木がすつかり黄葉して、こゝいらの地面は金色(きんいろ)の落葉(おとば)で埋まるやうになります」と云つた。先生は月に一度づゝは必ず此木の下を通るのであつた。
 
 向ふの方で凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男が、鍬の手を休めて私達を見てゐた。私達は其處から左へ切れてすぐ街道へ出た。
 
 是から何處へ行くといふ目的(あて)のない私は、たゞ先生の歩く方へ歩いて行つたた。先生は何時もより口數を利かなかつた。それでも私は左程の窮窟を感じなかつたので、ぶら/\一所に歩いて行つた。
 
 「すぐ御宅へ御歸りですか」
 
 「えゝ別に寄(よる)所もありませんから」
 
 二人は又默つて南の方へ坂を下(おり)た。
 
 「先生の御宅(おたく)の墓地はあすこにあるんですか」と私が又口を利き出した。
 
 「いゝえ」
 
 「何方の御墓があるんですか。―御親類の御墓ですか」
 
 「いゝえ」
 
 先生は是以外に何も答へなかつた。私も其話しはそれぎりにして切り上げた。すると一町程歩いた後で、先生が不意に其處へ戻つて來た。
 
 「あすこには私の友達(ともたち)の墓があるんです」
 
 「御友達(ともたち)の御墓へ毎月御參りをなさるんですか」
 
 「さうです」
 
 先生は其日是以外を語らなかつた。
 
   *
 
そうだ。
 

雑司ヶ谷の墓地の中で「凸凹の地面をならして新墓地を作つてゐる男」だ。「鍬の手を休めて」「私」と「先生」を凝っと見つめている男だ。
 
あれを演じたい。

何故かって? 僕はね、やっぱり彼は「Kの亡靈」だと思うからだよ(それは確信犯で僕のフェイク小説「こゝろ佚文」にも登場させたんだからね)、「Kの亡靈」なら、六十の爺でいいんだ、いや、寧ろ、六十の爺の方がいいんだよ…………

北越奇談 巻之六 人物 其十一(安平、海中より大金を得る)・其十二(京極為兼と初君このと)・其十三(雑)/「北越奇談」~了

 

    其十一

 

Yasuheikawazaihuwohirohu

 

[やぶちゃん注:葛飾北斎最後(同時に「北越奇談」の最後の)の絵。キャプション「捨身して 安平 海中に 金を得たり」。]

 

 村松濱に安平(やすへい)と云へる者あり。家、貧しくして、漁(すなどり)、藻鹽垂(もしほた)れて、その日を送りぬ。

 一年(ひとゝせ)、春、和波(なぎ)の豐かなるに至り、女房に向(むかつ)て云へるは、

「我れ、年久しく參宮の志願(しぐはん)あれども、錢(ぜに)の乏しきを以(もつて)果たさず。今年は、少し、世の業(わざ)も緩やかなれば、道すがらは、人々に手の中(うち)の助けをも得て、伊勢に參るべし。五十日は待(また)すべからず。」

とて、独(ひとり)、藁苞(わらづと)に旅裝(たびよそほ)ひして、遂に、遙々(はるばる)と艱難を得て、伊勢山田御師(おんし)某が元(もと)に着(つ)きぬ。

 扨、かの地、參詣の群聚(ぐんじゆ)、その繁花、云はん方(かた)なく、中にも、太太(だいだい)の講中(かうぢう)、その勢ひ、侯家(こうけ)のごとく、花美(くはび)量(はかり)なきを見て、安平、甚だこれを羨み、

アヽ、とても參宮の志(こゝろざし)あらん者は、かゝる大祭(たいさい)を行ひてこそ目出たかるべけれ、世に貧(ひん)ほど悲しきはあらじ。」

と、つくづく頭(かしら)を低(たれ)て思ひ入(いり)たる折節、御師(おんし)の手代(てだい)、來りて、安否を問ふ。

 安平、云ふ。

「太太神樂(だいだいかぐら)を上(あげ)候には、金子(きんす)、何(なに)ほどかゝり候事ぞ。」

と問ふ。手代、云(いふ)。

「一人にして七(しち)両二分候。」

荅(こた)ふ。

 安平、頭(かしら)を撫でて、

「金あらば、我も太太を行(おこなは)んものを。」

と、打笑(うちわら)ひば、手代の云(いふ)。

「御志(こゝろざし)候はゞ、甚(はなはだ)安きことに候。金子(きんす)は、只今、無しとも、苦しからず。秋中(あきぢう)、御(おん)國元へ參り候節(せつ)、返濟有ㇾ之(これある)に於ゐては、取替(とりかへ)可ㇾ申(まうすべし)。」

と云ふにぞ、何の思慮もなく、

「さらば、太太打(うち)可レ申(まうすべし)。」

と云へば、俄(にはか)に御師より、衣服を出(いだ)し、坐を改め、其(その)馳走(ちそう)、誠に「三日長者」とも云(いつ)つべし。

 扨、奉幣(ほうへい)・宮巡(みやめぐ)り・名所見物等(とう)相濟(あいす)み、又、元(もと)の破笠(やぶれがさ)に出立(いでた)ち、遂に國元へ立帰(たちかへ)りけるが、もとより貧しき業(なりは)ひに打ち紛れて、其事(そのこと)となく、忘れ居(ゐ)けるが、何時(いつ)しか、秋の末に至りて、伊勢より、御師(おんし)の手代、村長(むらをさ)の家に來り、

「此村に安平と申(まうす)人、當寺參宮いだされ、太太の金子七両二分取替(とりかへ)たれば、請(うけ)取りたし。」

と申

 村長、大に驚き、

「貧窮の安平、何として、太太打ち候ことぞ。さらさら、訝(いぶか)しく候。」

とて、安平を召す。

 安平、心なく、出來り、手代の顏を見て、初めて驚くと雖も、如何ともすること、なし。

 村長、安平に其故を問(とふ)。

 安平、隱すこと能(あた)はず、

「如何樣(いかさま)、七両二分、借用致し、太太、打(うち)候。」

と荅ふ。

 村長、甚(はなだだ)感賞(かんせう)し、

「扨々、其方(そのほう)、貧困の身として、太太打つ手段(しゆだん)あらんとは、此(この)老(おひ)に至(いたつ)て、猶、知らず。誠に羨しき男かな。」

とて、家に帰す。

 安平、立帰り、つくづく思ひけるは、

「我れ、百錢をさへ、不ㇾ得(えず)。まして、太太、何としてか、誤りけん。所詮、返金せざれば、神罪(しんばつ)、逃れがたし。又、家を賣(うる)とも、猶、七金(しちきん)は不ㇾ可ㇾ得(うべからず)。これ、即(すなはち)、神明(しんめい)の、我に死を給ふ時なるべし。」

と、覺悟しけるが、

「とてもの名殘(なごり)に、手代・村長にも一飯(いつはん)の麁膳(そぜん)を振舞(ふるまへ)、わが生前(しようぜん)の思ひ出にせばや。」

と、一子(いつし)を村長の家に使(つかは)せしめ、女房に向(むかつ)て、

「我れは海邊(かいへん)に到り、魚(うほ)にても、鮑(あわび)にても、取來(とりきた)るべし。汝は飯(めし)炊(た)き、膳の用意して待つべし。」

とて、釣竿・網など携へ、独(ひとり)、海邊(かいへん)に出(いで)て、彼方此方(あなたこなた)と、網、下げ、釣を下(くだ)すと雖も、魚一尾(いちび)をも得ることなく、又、海底を潛(くゞ)り、岩間(いはま)・汐瀨(しほせ)の辨(わきま)へなく、尋ね求(もとむ)れども、蠣(かき)・蛤(はまぐり)の一ツをだに、得ることなし。

 女房は、内にありて、何の理由(わけ)とも知らず、膳椀など隣に借(かり)、飯を炊(か)しぎ、汁ばかり幾度(いくたび)か煮立てゝ、日の暮(くるゝ)まで、待てども待てども、帰り來らず。

 かの手代・村長は腹を押(おし)、口を鳴らして待つと雖も、いまだ、其沙汰なし。

 然るに、安平、日の暮るゝまで心力(しんりよく)を盡くして尋ね求(もとむ)れども、終(つゐ)に一物(いちもつ)の得る所なし。

 安平、つくづく思ひけるは、

「扨も。是、皆、我(わが)積悪(せきあく)の成る故に、神明の捨(すて)給へるなるべし。今日已に暮(くれ)て、一物の得ることなく、何を以つてか、家に歸ることを得ん。とても、天命の盡(つく)る所。身を沈めて死すべし。」

と、覺悟を極め、海岸、尤(もつとも)深(ふかい)所に至り、可ㇾ憐(あはれむべし)、終(つゐ)に白波の底に飛入(とびいり)たり。

 扨、千尋(ちひろ)の深き岩間に沈みたれども、身に重石(おもり)なきが故に、又、浮(うか)み出んとす。自(みづから)、

「浮むまじ。」

と岩角(いはかど)にとり付きたれば、忽(たちまち)、其岩角と共に波上(はしよう)に浮み出たり。

 安平、一息つきて、かの取付(とりつき)たる岩角と思ひし物を見れば、岩にはあらで、古き皮財布(かはざいふ)なり。

 安平、驚き、もとの岸に上がり、これを開き見るに、黄金(わうごん)、數百(すひやく)あり。

 あまりの嬉しさに、夢路のごとく飛帰(とびかへ)り、物をも不ㇾ言(いはず)、家に入れば、女房は、頻りにいらち喚(わめ)くを、靜(しずか)に制し、

「早く、村長の家に到りて、客(かく)人を迎ひ來(きた)るべし。」

とて押出(おしいだ)し、扨、膳を見るに、飯あるのみ、さらに一菜(いつさい)の用意なし。

 安平、竊(ひそ)かに膳を備(そな)ひて待つに、已にして、両人、出來り。

 一義(いちぎ)にも及ばず、膳に着(つ)き、飯を食(しよく)し、扨、汁の蓋(ふた)をとれば、金(きん)一兩、在(あり)。

 平(ひら)の蓋をとれば、又、金あり。

 坪(つぼ)を開けば、同じく、金あり。

 皆々、大に驚き、其故を問ふ。

 安平、淚を流し、始末、盡(ことごと)く、是を語り、悦び合(あへ)り、と。

 今、猶、其家、富榮(とみさかへ)て繁昌せり。

 誠に、一奇の果報と云ふべし。

 

[やぶちゃん注:「村松濱」現在の新潟県胎内市村松浜。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藻鹽垂(もしほた)れて」塩を採るために海藻に海水をかけて。歌語としては「泣く」の意の「しほたる」と掛けて多く用いられる。本話の安平の最後の死を決した危機一髪のシークエンスの伏線とも言えよう。

「世の業(わざ)も緩やかなれば」世の中の景気も悪くないので。

「道すがらは、人々に手の中(うち)の助けをも得て、伊勢に參るべし」伊勢参宮の者には道中にて参詣者に対し、途中の民草が結縁のために、宿や食及び介抱などの施しをするのが通例であった。

「五十日は待(また)すべからず」当時の新潟からの伊勢参りの往復の日数が、これで知れる。

「藁苞(わらづと)」藁を束ねて中へ物を包むようにした旅行用の携帯具としての入れ物。また、その苞(つと)で包んだ土産物・贈り物を指すから、ここは伊勢神宮へのささやかな奉納品(金)をも含まれていよう。

「伊勢山田」三重県伊勢市山田(やまだ)地区。ウィキの「山田(伊勢市)」によれば、『伊勢神宮外宮の鳥居前町として成熟してきた地域であり、現在の伊勢市街地に相当する。古くは「ようだ」「やうだ」などと発音した』とある。

「御師(おんし)」神社(当時は神仏習合であるから神寺)の参詣や祈禱等を手助けすることを業務とした者を指し、一般には身分の低い神職や社僧が兼務した。熊野三山・伊勢神宮・阿夫利神社・江ノ島などでは、宿坊の経営や参詣人の案内を兼ね、信仰の普及にも寄与した。伊勢以外では通常は「おし」であるが、伊勢では特別に「おんし」と称する。野島出版補註には、『神社の祈禱師の敬称。大神宮、石清水、春日神社等にある。大神宮の下級の神人の』何々「太夫」と称した者を『いう。年々御祓箱を国々の人家に配り、初穂を求め、各地より参宮する時は、宇治、山田に在る其御師の家に宿泊する例であった』とある。

「太太(だいだい)の講中(かうぢう)」「伊勢太太講・伊勢代代講」のこと。室町時代以後に生じた無尽講(一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期に掛け金を払い込ませて抽選や入札により金品を給付する民間の扶助組織)のような仕組みで、交代で伊勢参りをして「伊勢太太神楽(だいだいかぐら)」を奉納する費用を積み立てた組合。江戸時代に盛行した。「伊勢講・太太講」とも略した。野島出版補註には、『伊勢大神宮へ庶民が奉る神楽を太太という。この神楽を奉る組合仲間を講中という』とある。

「侯家(こうけ)」大名のこと。

「御師(おんし)の手代(てだい)、來りて、安否を問ふ」この場合の手代は、御師の下で雑務や客との直接交渉(ここに見るように全国を行脚して営業も行った)や世話を勤めた役の者。安平の愁鬱な様子を見て、相談に乗ったのある。

「七(しち)両二分」「北越奇談」刊行当時の江戸後期とするなら、一両は現在の五万円ほどで、「一分」はその一両の四分の一であるから、三十七万五千円ほどとなる。但し、野島出版補註では、『二分金は文政元年鋳造したもので二枚で両にあたる。一両を今の二万円とすれば七両二分は十五万円となる』ともっと安く見積もっている。江戸時代の貨幣価値は変動著しく、換算対象で激しく変わるので、この解説を最低額と見て、二者の平均で二十六万円前後を示しておくこととする。

「取替(とりかへ)」立て替え。

「黄金(わうごん)、數百(すひやく)」後で膳椀の中に金一両宛入れているから、数百両と採ってよかろう。「數」(私は六掛けを基本とするが)を少なく見積もって三百両としても、先の五万円換算なら一千五百万円、野島出版版補註の換算値二万円としても六百万円となり、最後に「其家、富榮(とみさかへ)て繁昌せり」というには充分な値である。

あり。

「いらち喚(わめ)く」野島出版補註には「いらだち」『の誤記であろう。気が烈しくなる。甚だしく急ぐ。わめくは大声を出す。どなる。叫ぶ』とあるが、これは「苛(いら)つ」(自動詞タ行四段活用)で「いらいらする・いらだつ」の意で誤りでも何でもない。

「一義(いちぎ)にも及ばず」「一議に及ばず」で、「あれこれ議論するまでもなく・ある対象を問題にするまでもなく」の意。ここは手代も村長も、異様に長く待たされたことに対してこれといって文句や不満を言うこともなく、の謂いであろう。]

 

 

 

    其十二

 

 初君(はつぎみ)、寺泊の遊女なり。古(こ)冷泉(れいぜい)□□□爲兼(ためかね)卿(きよう)を送奉るの和歌、皆、世の知る所なり。其碑、今、寺泊堺町(さかひまち)と云へる、人家の傍(かたは)らにあり。

「玉葉集」 物思ひ越路が浦の白波も立(たち)かへるならひありとこそきけ

 

[やぶちゃん注:「□□□」は底本の脱字を再現した。野島出版版にはない。元が何であるかは不詳。或いは何か誤り(事実、「冷泉」は実は誤りである。後注参照)を差し替えるために版木を削って彫り直した際、誤って字を入れ損なって空欄となっただけかも知れない。

「初君(はつぎみ)」野島出版補註に、『寺泊の遊女であると書いたものが多い(崑崙もそう書いている)。しかし』、『所謂』、『遊女が身分の高い為兼卿のお相手をして歌など読める筈がない』。これは誤伝であって、恐らくは『良家の娘で五十嵐家』(寺泊の豪族)『に頼まれてお給仕した娘であったのだろう』とある。詳しくは次注を参照されたい。

「古(こ)」「いにしへ」の意か。

「冷泉(れいぜい)」「爲兼(ためかね)」野島出版脚注に鎌倉後・末期の公卿で歌人の『京極為兼卿の誤であろう』とする。ウィキの「京極為兼」によれば、京極為兼(建長六(一二五四)年~元徳四/元弘二(一三三二)年)は『名前の読みを「ためかぬ」とする説もある』とする。藤原定家の曾孫。『京極家の祖・京極為教の子に生まれる。幼少時の初学期から従兄の為世とともに祖父為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。為兼の「兼」は実兼からの偏諱であると考えられている』。建治二(一二七六)年には『亀山院歌会に参会し、為兼和歌の初見となっている』弘安三(一二八〇)年には『東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、持明院統側公家として皇統の迭立に関与したことから』、永仁六(一二九八)年に『佐渡国に配流となった』。嘉元元(一三〇三)年に『帰京が許されている。勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て』、正和元(一三一二)年に「玉葉和歌集」を『撰集している』。翌正和二年、『伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚』、『のちに静覚と称した』。しかし二年後の正和四(一三一五)年十二月二十八日のこと、『得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁』されてしまい、翌正和五年正月十二日、『得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま』、『河内国で没した』。二度の『流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある』。『歌風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ』。「玉葉和歌集」「風雅和歌集」に『和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる』とある(下線やぶちゃん)。もし、この条のそれが事実とすれば、永仁六(一二九八)年から嘉元元(一三〇三)年の間ではなく、配流された際の途次、或いは赦免されて京に戻る際のエピソードとなろうから、このそれぞれの年の孰れかと考えるのが自然であり、前の野島出版補註及び次の注の現在の碑の解説板に従うならば、前者、即ち、永仁六(一二九八)年に佐渡へ向かう前に土地の豪族五十嵐家に逗留し、そこで初君と邂逅、相聞歌を交わしたことになる。更に、個人サイトと思われる「新潟県:歴史・観光・見所」の「長岡市:初君旧歌碑」には、為兼が佐渡配流の折り、『寺泊に風待ちの為に』、『一月余り滞在し』、『そこで出会ったのが初君(寺泊の才色兼備の遊女)で、玉葉和歌集に載っている初君の和歌』、

 

 もの思ひ越路の浦のしら浪もたちかへるならひありとこそ聞け

 

は、『この時為兼に贈られたと考えられてい』るとし、『天候が回復し』て、『佐渡島に旅立つ日』、『為兼は初君に対し』、

 

 逢ふことをまたいつかはと木綿(ゆふ)たすきかけしちかひを神にまかせて

 

『と詠み、その返答として』初君は上記の『和歌を詠んだとされ』ていると記す(下線やぶちゃん)。「木綿(ゆふ)」たすき」は「木綿(ゆう:木綿ではないので注意。楮(こうぞ)の木の皮を剥いで蒸した後、それを水に晒して白色にした繊維)で作った襷。その白さから清浄なものとされ、神事に奉仕する際、肩から掛けて袖をたくし上げるのに用いたのが最初。和歌では「かく」を導く序詞ともする。ここもそれ。

「其碑、今、寺泊堺町(さかひまち)と云へる、人家の傍(かたは)らにあり」野島出版脚注に、『初君の碑は前にあったものが火事に焼けたので、更に享和二年(一八〇二)の秋、聖徳寺の住職円雅が建てたのが今の碑である。これには、国上寺の客僧、万元の碑文や初君の歌などが刻まれている。磯町愛宕神社の傍に在る』とある。若槻武雄氏のサイト「蝦夷(えみし)・陸奥(みちのく)・歌枕」のこちらのページに三種の初君関連の碑の画像があり、キャプションでは、『寺泊は佐渡遠流(島流し)の風待ちの地である』。『藤原(京極)為兼と遊女初君の別れの歌碑がある』。『もの思ひ 越路の浦の しら浪も たちかへるならひ ありとこそ聞 初君』とあり(野島出版補註にも「北越奇談」本文の「越路が浦」の「が」は「越路の浦」の誤りであるとある)、また『あふことを 又いつかはと ゆうだすき かけし誓いを 神にまかせて 為兼』とし、五年後に『許されて都へ還った為兼の勅撰集である玉葉和歌集に彼女の歌を載せたのである』(下線やぶちゃん)。『越後の人で勅撰集の載せられたのは彼女一人である(説明板)』とある(前注参照)。

「玉葉集」「玉葉和歌集」はこの京極為兼の撰になる鎌倉後期の第十四勅撰和歌集。全二十巻。応長元(一三一一)年に為兼に伏見院の院宣が下り、翌正和元年奏覧の上、改訂されて正和二年に完成した。収録歌数は二千八百一首。伏見院・藤原定家・西園寺実兼・従二位為子(ためこ:為兼の姉)・藤原俊成・西行・藤原為家,永福門院,為兼らがおもな採録歌人で、「万葉」時代と「新古今」時代及び為兼の同時代の作品を重視して採っている。歌風は、叙景歌は客観的・写生的で、恋歌などの抒情歌は心理的・観念的傾向が著しい。声調よりも印象の清新さを狙っており、後の名歌集「風雅和歌集」(室町時代の第十七勅撰集。貞和四(一三四八)年までに成立)とともに、「十三代集」の中では異彩を放ち、後世、「玉葉・風雅歌風」などと呼ばれる。宮廷歌壇の対立を反映して、反対派の二条派から「歌苑連署事書」などの論難書が発表されたが、近年は高く評価されている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」の記載に拠った)。

「物思ひ越路が浦の白波も立(たち)かへるならひありとこそきけ」既に示した通り、「越路が浦」の「が」は「越路の浦」の誤り。野島出版補註には、さらに、『「玉葉集」上は「読人知らず」となって居り、初君の名は出ていない』とある(下線やぶちゃん)。]

 

 

    其十三

 

 柏崎中濱村の産(さん)、宦女(くはんじよ)辰子ノ傳、幷ニ水原堤村(つつみむら)百姓某(それがし)、入宮門(きうもんにいる)話等(とう)は、今、聊(いさゝ)か憚(はゞか)るところあれば、略ㇾ之(これをりやくす)。

 

[やぶちゃん注:以上を以って「北越奇談」の本文は終わっている。

「柏崎中濱村」現在の新潟県柏崎市中浜。(グーグル・マップ・データ)。

「宦女」「官女」に同じい。

「辰子」不詳。ただの官女なので「たつこ」と訓じおく。識者の御教授を乞う。

「水原堤村(つつみむら)」現在の妙高市の附近かと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「入宮門(きうもんにいる)話」百姓が、あろうことか、何かの理由で宮中に参内したということであろうが、不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

北越奇談巻之六 大尾

――――――――――――――――――――――

橘崑崙茂世著

            古器 産物 名所旧跡

  北越奇談後編 續出 山勝 海絶 奇事

             其外諸話夛く集む

――――――――――――――――――――――

 同

              寫木彩色

  同郡縣地理山川路程全圖 六尺八尺

     附佐州之図     大圖 一枚出来

 

 

 

  北越 橘崑崙茂世著述 ㊞

  東都 柳亭 種彦挍閲 ㊞

  同  葛飾 北齋補畫 ㊞

[やぶちゃん注:㊞はそれぞれ「崑崙」、「柳亭」、「雷辰」。北斎のそれは沢山あった彼の号の一つである。]

 

[やぶちゃん注:最後の奥付と、そこに挟まる形の関連広告(書名は原典では有意に大きい)のみを電子化した。]

北越奇談 巻之六 人物 其十(蜂のもたらした夢を買って大金を得た仁助)

 

   其十

 

Nikitigousei_2

 

[やぶちゃん注:北斎の挿絵。キャプション「仁助 大蜂の夢を買て 樹根に金を得る」。放射する金光の白抜きに残したそれが素晴らしい。左右を合成する際には、専ら、その光線の具合をのみ考慮した。その合成の違和感を軽減させるために、上部の枠を恣意的に除去してある。]

 

 間瀨(ませ)の濱(はま)は、伊夜日子山(いやひこやま)、海磯(かいぎ)に浸(ひた)りて、絶巖露根(ぜつがんろこん)、引連(ひきつらな)、一望(いつぼう)數(す)十里、佐州の遠山(ゑんざん)、波上(はしよう)に浮(う)かみて、景色(けいしよく)はかりなき地なり。漁樵(ぎよせう)、凡(およそ)三百余家(か)、冬、暖(あたゝか)に、夏、凉し。

 爰(こゝ)に仁助と云へる壯年の者あり。家貧しく、父母老(おひ)たれども、いまだ、妻(さい)を不ㇾ迎(むかへず)、富家(ふか)某(それがし)の下(もと)に身を賣(うり)、漸(やうや)くにして父母を孝養せしが、ある夏の末、朋輩の男と、後(うしろ)なる山に柴を刈(かり)てありけるが、あまりの暑(あつさ)に、

「いざ、凉(すゞみ)なん。」

とて、木蔭(こかげ)に立寄(たちより)、松根(しやうこん)を枕として、朋輩の男は遂眠(ねふ)れり。

 かの仁助は、眠ること能(あた)はず、海面(うみづら)遙かに詠(なが)め居(ゐ)たりしに、忽(たちまち)、佐州の方より、赤き大蜂(おほばち)一ツ、飛來(とびきた)りて、かの眠れる男の鼻の上に止(とま)り、二、三度、左右へ𢌞(めぐ)りけるが、その蜂、鼻の穴の中(なか)へ跂入(はいり)たり。

 仁助、是を見て驚き、呼び起さんと思ひども、あまりによく眠れる故、

「今に、かの蜂の刺したるならば、などか目を覺(さま)さゞらん。」

と打詠(うちながめ)たるに、やゝ半時(はんじ)ばかりにして、其蜂、鼻の穴より跂出(はへいで)、又、鼻の上に登り、二、三遍(べん)、左右に𢌞(めぐ)りて、忽(たちまち)、羽(は)を振るひ、海上(かいしよう)遙(はるか)に、飛去(とびさ)りぬ。

 されども、かの男、いまだ不ㇾ覺(さめず)。

 仁助、たまり兼ねて、搖すり起し、

「扨も、よく眠る男哉(かな)。汝、頻りに鼾(いびき)高く、寐語(ねごと)せしが、何ぞ、夢は見ずや。」

と、問ふ。

 かの男、漸々(やうやう)起上がり、目を擦(す)り擦り、

「莫迦(ばか)な夢を見しことかな。」

と云ふ。仁助、

「いかなる夢ぞ。」

と問ふ。彼(かの)男、

「いやとよ。赤き衣(ころも)着たる老僧一人來りて、

『我は佐州榎木谷(えのきだに)正光寺(しやうくはうじ)と云へる僧なり。佛殿の前に榎の大木(たいぼく)あり。其根下(ねのした)に金(かね)あり。是を汝に授(さづ)くるほどに、早く來りて掘(ほる)べし。遲き時は、他人の手に渡るべきぞ。』

と、言捨(いひすて)て歸りたり。夢妄想(ゆめまうぞう)とは此(この)ことならん。」

と云ふ。

 仁助、聞(きゝ)て、

「そんな莫迦な夢は、早く人に賣(うる)がよい。」

と云へば、かの男、

「誰(たれ)が夢を買(かふ)ものぞ。」

と答ふ。仁助、

「我れ、買ふべし。」

と云ふ。かの男、

「しからば、錢(ぜに)を出せ。賣(うる)べきぞ。」

と。

 爰(こゝ)に於て、酒二升に約し、遂に、仁助、村の酒店(しゆてん)に至り、二斤(きん)の酒を求め、山に歸り來り。夢を買(か)ふかの男、大に喜び、終(つゐ)に、両人、是を呑盡(のみつく)して歸る。

 扨、仁助、主人に暇(いとま)を乞(こひ)、親の元(もと)に立帰り、一年の許しを得て、江戸に出(いで)稼(かせ)ぎて見たき由(よし)を願ひ、已に旅立(たびたち)の裝(よそほひ)を成し、村を離れ、密かに新泻の湊より便舟(びんせん)して、佐州に渡り、榎木村と云へるを尋(たづ)ぬるに、

「水津(すいつ)より、三里、北山(きたやま)の中(うち)にあり。」

とて、直ぐに其所(そのところ)に到り見れば、正(まさ)しく正光寺と云へる禪院、在(あり)。

 仁助、即(すなはち)、寺に奉公せんことを求む。和尚、喜び、

「幸ひ、近頃、僕(ぼく)に暇(いとま)やりて、人を抱(かゝ)へんと思ふ折節なり。」

とて、遂に是を許す。

 扨、仁助、精心を盡(つ)くし、給仕して、其樣子を窺ひ見るに、門前に、大なる榎木ありて、中庭、皆、蔭(かく)す。

 一日(いちじつ)、和尚に謂(いつ)て曰(いはく)、

「此(この)大樹(たいじゆ)、半(なかば)朽(くち)て、良材になるべからず。地(ち)、蔭(かげり)て、苔(こけ)、厚し。只、切(きつ)て薪(たきゞ)と成(なせ)ば、よろしからんか。」

と問ふ。和尚、是を許す。仁助、

「人を雇ふに不ㇾ及(およばず)。我(われ)よりより、是を根より掘倒(ほりたを)し切(きら)ん。」

と。

 日を經て、根の周(まは)り、盡(ことごと)く土を穿(うがち)、大木、倒(たを)るゝばかりにして、扨、打捨置(うちすておく)事、又、數日(すじつ)、ある日、和尚始(はじめ)、寺中(じちう)、皆、出(いで)て不ㇾ居(おらず)、仁助獨り、留主居(るすゐ)して、人無きを窺ひ、急(いそぎ)、かの大樹を掘りて引倒(ひきたを)すに、忽(たちまち)、盤囘(ばんくわい)の根下(こんか)、一壺(いつこ)の金光(きんくはう)、燦然として、仁助、密(ひそか)に是を納(おさむ)。

 時に、和尚、歸り來りて、大樹を伐(き)りたることを労(ねぎら)ふ。

 仁助、僞(いつわ)つて曰(いはく)、

「父、重病の由(よし)にて、今日、人を以つて、我を召す。願(ねがは)くは、三月(みつき)の暇(いとま)を得、帰りたし。」

と乞ふ。

 和尚、其孝を感じて許す。

 仁助、又、曰、

「父、常に砂糖を好めども、家、貧にして、飽(あか)しむること、能(あた)はず。願くは、給銀(きうぎん)を以つて求めたし。」

と請ふ。

 和尚、又、是を許す。

 仁助、即(すなはち)、砂糖一壺(いつこ)を求め、かの金(かね)の壺と取替(とりかへ)て荷作り、遂に、便船して國に歸る。

 是より、家富榮(とみさかへ)て、今、猶、繁昌せり。

 

[やぶちゃん注:日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちら(夢・蜂)によれば、柳田國男「初夢と昔話」(昭和一二(一九三七)年二月発行『旅と傳説』第百十号所収・但し、この論文、所持する「ちくま文庫」版全集には所収しない)に(以下は日文研の要約)『九州のほうでは、日向の外録の金山を開いた三弥大蓋という人の出世譚として伝えられている。越後では間瀬村の仁助という長者の話だといい、夢の峰はすなわち、四十九里の波の上を渡って佐渡の榎木谷の正光寺の庭で黄金の壷を捜しあてたことになっている』とあり、本邦に外に酷似した伝承があることが判る。話柄としては唐代伝奇辺りに濫觴を求められそうな匂いがするように私は思う。なお、個人サイト「西蒲原怪奇研究所」のこちらによれば、一九九六年刊の小山直嗣「新潟県伝説集成 下越篇」からとして、この仁助は『寺から持ち帰った金でたくさんの田畑を買い、御殿のような家を建てて住んだ。人々は仁助を「間瀬の長者」と呼んで敬ったという』ともある。最後の、仁助が佐渡から金子の入った壺を持ち出すに際しての砂糖壺との取り替えの謀略などは、明らかに西欧或いは中国の説話等の臭気がプンプンして、却って作り話臭く、私は厭味な気がした。

「間瀨(ませ)の濱(はま)」現在の新潟県新潟市西蒲区間瀬(まぜ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。佐渡島を正面に見据える。

「伊夜日子山」多数既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山のこと。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。間瀬の南南東四・五キロメートル弱。

「海磯(かいぎ)に浸(ひた)りて」海浜や磯の水面に映って。

「絶巖露根(ぜつがんろこん)」切り立った絶壁で巨岩がその根を露わにしているさま。

「漁樵(ぎよせう)」漁師と木樵(きこり)・杣人(そまびと)。

凡(およそ)三百余家(か)、冬、暖(あたゝか)に、夏、凉し。

「跂入(はいり)たり」正確には「はひいりたり」と読むのが正しい。「跂」(音「キ・ギ」)は「這(は)う・這って歩く」の意。

「半時(はんじ)」現在の一時間相当。

「跂出(はへいで)」読みはママ。

「佐州榎木谷(えのきだに)正光寺(しやうくはうじ)」不詳。まず、現在の佐渡に「榎木谷」或いは「榎谷」「榎」の地名或いはその痕跡を見出せない。また、現在の新潟県佐渡市羽吉(はよし)ここ(グーグル・マップ・データ)。大佐渡の両津の北直近)にかつて羽黒山正光寺という寺は存在したが、ここは水津(現在の両津の東方、小佐渡北端の姫崎の灯台の段丘下にある天然の良港。ここ(グーグル・マップ・データ))からは確かに有に「三里」(以上)はあるものの、元は天台宗で、上杉景勝の佐渡入府によって真言宗に改宗するも、寛永一七(一六四〇)年に寛永寺末寺となって天台宗に復帰、明治の初めに廃寺となっていて(ブログ「佐渡広場」の本間氏のこちらの記載に拠る)、「禪院」ではない。なお、本文では「北山」とあるが、佐渡でこう呼称するのは、金北山(きんぽくさん:大佐渡山地のほぼ中央に位置する標高一一七一・九メートルの島内で最も高い山。古くは「北山(ほくさん)」と呼ばれていたが、江戸初期に佐渡金山が発見されてより、現在の名で呼ばれるようになった。ここ(グーグル・マップ・データ))で、羽吉地区はちょっと東にずれる。但し、山号にもなっている同地区の羽黒山ここ(グーグル・マップ・データ))は金北山の五キロ東北東にあって「北山」を中心とする大佐渡山地の中の一ピークであるから、「北山(きたやま)の中(うち)にあり」は表現としてはおかしくはない。問題はやはり「禪院」である。佐渡は偏愛する地であるので(特にカテゴリでの「佐渡藻鹽草」の完全電子化注によってドップリはまってしまった)、今少し探索して見ようとは思うが、この寺、今はまだ比定同定出来ない。但し、正直言うと、寧ろ、類似伝承が濫觴であることを意識した架空の寺のようにも思われる。別に禅宗の正光寺が佐渡にあった事実があるのであれば、是非、御教授あられたい。

「二斤(きん)の酒」何故、こう書き変えているか分らぬ。二升(体積単位。一升=一・八リットル)と二斤(重量単位。一斤=六百グラム)は酒では一致しない。ルビもそれぞれちゃんと区別してつけてあるのだが、「升」は崩した場合、「斤」と見間違い易い。ここも「二升」が正しいのではなかろうか。

「夢を買(か)ふかの男」「買」はママ。売った男の方を指す。当時、「売買」という語は互換性があり、これは誤りではない。

「盤囘(ばんくわい)」周囲を廻り繞(めぐ)ること。]

2017/09/13

北越奇談 巻之六 人物 其九(徳人百姓次郎兵衞一家)

 

    其九

 

 正直は殊に夛(おほ)きものなれども、罸(ばつ)は擧(こぞつ)て是を論じ、賞(しよう)は隱れて傳へざるものなり。

 爰に、蒲原郡中才村百姓次郎兵衞(じろべゑ)と云へる者、天性の正直にして、近郷遍(あまね)く是を知る所なれども、其(その)先、僅か四斗前(しとまへ)の田地を父兄より分(わか)ち得て、夫婦、農事を營むこと、他の人に倍せり。

 常に田畑を耕して歸る時、復(また)來(きた)るべき所には、鍬・鎌なんど、皆、捨置(すておけ)り。人、其(その)失(うしなは)んことを氣遣ふ。次郎兵(じろべゑ)へ[やぶちゃん注:「へ」は崑崙独特の衍字めいたダブり。以下、同じ。]云(いふ)、

「何ぞ、人の物を取る心掛(が)けの者、あらんや。」

とて、更に不ㇾ疑(うたがはず)。

 又、人の求(もとむ)る處あれば、己(おのれ)が用を省(はぶき)ても、是を與(あた)ふ。

 一日(いちじつ)、大豆六斗を馬(むま)付(つけ)て、市(いち)に賣る。其價(あたひ)、二貫文を得て、袋に入(いれ)、鞍に結(ゆ)ひ付(つけ)、自(みづか)ら、馬に乘(のり)て歸る。家の前に至り、馬より下(お)り、かの錢(ぜに)を見れば、巳に失(しつ)して、なし。家人、早く立戻(たちもどり)て、其(その)遺(おとしたる)錢を尋求(たづねもとめ)んことを催促(さいそく)す。次郎兵へ、即(すなはち)、もとの道に尋ね戾りしが、一丁ばかりにして、やがて、立歸(たちかへ)りぬ。家人、問ふ、

「遺錢(ゆいせん)ありしや。」

と。次郎兵の曰(いはく)、

「錢(ぜに)なしと雖も、我(われ)、是を失(うしな)ふて愁へば、人、是を拾得(ひろひえ)て喜ぶべし。」

とて、又、尋(たづぬ)る心、なし。家人も、是(これ)を然りとして、止(やみ)ぬ。

 又、ある日、米十余俵(ひよう)をもて、三條の商人(あきびと)に賣(うる)。時過(ときすぎ)て、商人、來り、云ふ。

「米直段(こめねだん)、此比(このごろ)、殊の外、引下(ひきさげ)て、先(さき)、買得(かひえ)し米、大に損あり。」

と告ぐ。次郎兵への曰(いはく)、

「それは氣の毒なり。損あらば、此方(こなた)より、償(つぐの)へ參らすべし。」

と。商人(あきびと)、辭して不ㇾ受(うけず)。又、云(いふ)。

「公(こう)等(ら)は、賣買の利を以つて世渡(よわた)る者が、損ありては、不ㇾ叶(かなはざる)こと也。是非、償(つぐの)へ遺(つかは)し可ㇾ申(まうすべし)。」

と、相爭ふて不ㇾ止(やまず)、終(つゐ)に俵(たはら)を作り替(かへ)て、其損を補ふ。

 其余(そのよ)、徳行(とくこう)、擧げて云(いふ)べからず。

 子四人あり。皆、正直至孝、長子五郎次(ごらうじ)、妻を迎(むか)ひて、子、なし。二男八郎に嫁(めと)る。家内、皆、孝貞和順(こうていわじゆん)、鷄犬猫子(けいけんめうし)に至るまで、皆、相和して不ㇾ爭(あらそはず)。食を共にし、地を同(おなじう)して眠(ねふ)る。

 五郎次、犬を好(このん)で四(し)疋を養(やしな)ふ。五郎次、外(ほか)に出(いづ)る時は、四犬(しけん)、相送(あいおくつ)て、二ツは川を越(こえ)て隨ひ行(ゆき)、二ツは家に帰る。又、更に他(た)の犬と相争ふこと、なし。皆、相馴(あいなれ)て遊ぶ。歸るに及(およん)で、二ツの犬、已に路(みち)に出迎(いでむか)ふ。如ㇾ此(かくのごとき)事、其(その)常なり。

 其徳化(とくくは)、又、艸木(さうもく)に及(およぼ)して、年每(としごと)の耕作、其穀を得ること、他(た)に倍せり。

 故に、家、富(とみ)て、父次郎兵へ一代の間(あいだ)に、十二石の祿を殖(ふや)しぬ。

 過(すぎ)し年、其徳行を聞慕(きゝした)ひ、かの家に尋ね到り、相見るに次郎兵へなる者、鶴髮松姿童顏(くわくはつせうしどうがん)、眞(しん)の仙客(せんかく)を見るがごとく、年壽(ねんじゆ)已に八十二歳とぞ。

 誠に羨ましき人と云ふべし。

 

[やぶちゃん注:「蒲原郡中才村」現在の新潟県新潟市西区新通仲才(なかさい)か。(グーグル・マップ・データ)。

「四斗前(しとまへ)」十升=百合=一斗で約十五キロ、四斗=四十升=四百合=一俵で約六十キロであるが、当時の感覚ではこれよりも有意に少なく、しかも「前」というのは未満という意味と採れるから、一俵に見るからに足りないほどの米しかとれないほどの面積の田という意味であろう。

「六斗」前の米換算なら、九十キログラムだが、大豆の場合は、信頼出来るサイト(醸造器具メーカーの大豆換算表を確認)によると七十八キログラムである。

「二貫文」江戸後期、一両は十貫文で、これが現在の金額に換算して五万円相当とするサイトがあるから、凡そ一万円相当となる。

「一丁」百九メートル。

「孝貞和順(こうていわじゆん)」野島出版補註に『孝は孝行、貞は心が正しく惑わない。和はおだやか。順は目上の人にしたがう』とある。

「十二石」一石は十斗であるから、二トン二百五十キログラム相当となる。

「鶴髮松姿童顏」野島出版補註に『鶴髪は髪の毛の白いこと。松姿は松の木が常緑で色をかえないことから長寿の姿をいう。童顔は児童のような顔』とある。]

北越奇談 巻之六 人物 其八(悲劇の孝子新六)

 

    其八

 

 蒲原郡釈迦塚村、新六と云へる貧民あり。

 母に仕へて至孝實直類(たぐひ)なしと雖も、家、貧なるが故に、身を賣りて、谷江氏(たにゑうぢ)に仕ふ。

 妻を不ㇾ迎(むかへず)、母一人、家にあり。新六、日々、農事を營み、寸隙(すこしひま)ある時は、即(すなはち)、母のもとに行(ゆき)て安否を問ふ。風雪炎暑といへ共、母を不ㇾ問(とはず)と云ふこと、なし。

 母、常に雷(らい)を恐る。もし、雷電(らいでん)する時は、如何なる暗夜(あんや)・暴雨と雖も、起出(おきいで)て、母の家に至り、傍(かたはら)に侍す。

 又、其身、貧乏に苦しむといへ共、貪慾の心、一点も、なし。主人の家を出(いで)て外(ほか)に遊ぶ時は、先(まづ)、主人並(ならび)ニ朋輩の見る前にて、自(みづか)ら衣(ころも)を脱ぎ、塵を拂ひなどして、且、着て、出去(いでさる)。其意、偏(ひと)へに人の疑はんことを憚るのみ。

 後、母、病(やん)で目盲(めしゆ)。

 依ㇾ之(これによつて)、主人に暇(いとま)を請受(こひうけ)、家に歸り、母を介抱す。又、僅かに耕作を營み、朝(あした)に出(いで)て、暮に歸る。其一日の努(つと)むる所、皆、以(もつて)、母に談(かた)り、慰(なぐさ)む。

 又、母、盲なるが故に、新六が勞(らう)する所を知らず、不時(ふじ)に酒食魚肉等(とう)を求む。即、風雨・暗夜・日暮を不ㇾ論(ろんぜず)。今町(いままち)の市(いち)に走(はしり)て是を買ふ。其行程(ぎやうてい)、凡(およそ)二十余丁也。且、家貧なるが故に、價(あたひ)、僅か十錢(じつせん)に不ㇾ過(すぎず)と雖も、其勞を厭はず。

 後に、母、亡(ほろ)ぶ。

 新六、悲泣して不ㇾ止(やまず)、終(つゐ)に如ㇾ狂(くるふがごとく)、依(よつ)て農事を努(つと)めず、家、益々、困乏(こんぼう)、自(みづか)ら、人に寄りて、食を求む。又、雇れて食(しよく)す。

 如ㇾ此(かくのごとき)こと、三年、病(やん)で茅屋に臥す。

 只、谷江氏、爲ㇾ之(これをがために)、食を贈るのみ。

 不日(ふじつ)にして、卒(そつ)す。

 誠に可ㇾ愍(あはれむべし)。

 過(すぎ)し頃、其孝直(こうちよく)を聞(きゝ)、相尋(あいたづぬ)るに、已に沒して、子孫なし。涕淚(ているい)すれども、不ㇾ及(およばず)。

 於ㇾ此(こゝにおいて)、一(ひとつの)論、あり。

 前(さき)の春松(はるまつ)は、孝を以つて、一日千金(いちじつせんきん)の富(とみ)を得、此(この)新六は、至孝正直(せいちよく)にして、困乏、餓死す。

 アヽ 天 孝子を愍(あはれむ)とならば 何ぞ 此新六を困(こん)せる

 悼(いたま)しいかな 新六 惜(おし)いかな 新六

 

[やぶちゃん注:人間崑崙の悲憤慷慨は司馬遷が「史記」伯夷・叔斉の悲劇の生涯に投げかけた最後の言葉、「天道是邪非邪」(天道、是か非か)を想起させるほど、激しく私の胸を打つ。それを受け、詠ずるように、最後は句読点を恣意的に打たなかった。

「蒲原郡釈迦塚村」現在の新潟県見附市釈迦塚町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「谷江氏」この人物、の章に登場する人物である。崑崙の知人であったのである。

「先(まづ)、主人並(ならび)ニ朋輩の見る前にて、自(みづか)ら衣(ころも)を脱ぎ、塵を拂ひなどして、且、着て、出去(いでさる)」言わずもがな乍ら、主家から一銭の金さえも持ち出していないことを示すための仕草である。

「今町(いままち)」現在の新潟県見附市今町であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。釈迦塚の北、直線で二・五キロメートルほど

「二十余丁」二十四町で二・六キロメートル

「不日(ふじつ)にして」日を経ずして。

「前(さき)の春松(はるまつ)」七」の孝子春松。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「狐の化け損ね」

 

 狐の化け損ね

 

 狐の化け損つた話で最も愛敬のあるのは、「寓意草」の中の一話であらう。鳥取の士坂川彦左衞門が雉子打ちに出た時、松原の中から現れたのを見ると、下僕の形をしながら顏は狐であつた。今日は御狩でございますか、私も暇でございますからお供を致しませう、といふので、鐡砲を持たせることにした。知人の門に來て、その狐に雉子を見張つて居れと命じ、自分は中に入り、今をかしなやつが來るが實はぬやうに、と注意して置いた。錢砲持ちの狐はやがてやつて來て、鳥はどこにも見えません、と云ふ。家の人も心得て笑はずに茶を出す。私は水をいたゞきたいと云ふので、その通り水を注いだ茶碗を差出したが、その水にうつる顏を一瞥するなり、狐はあわてふためいて逃げ出した。居合せた人はどつと笑ふ。坂川彦左衞門は翌日も雉子打ちに出たところ、草むらの中から彦左衞門の名を呼び、昨日はをかしうございました、と云つて笑ふ者がある。化け損ねの狐にきまつてゐるが、姿は遂に見せなかつた。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段)から視認出来る。それを読むと、不審に思った「雉子を見張つて居れ」の箇所が合点した。原話では坂川は『いで奴雉子のありやなしやみをりてのこれ』(いで、奴(やつこ)、雉子(きじ)のありや、なしや、見居りて殘れ)で、「さあ、従者(ずさ)よ、獲物に出来る雉子がいるかいないか、ここに暫く残って探索しおれ。」と命じたのである。]

 

 筑前國福岡の城下を一里餘り離れた岡崎村といふところに、高橋彌左衞といふ馬乘りが住んで居り、夕方から用事で城下まで出かけたが、夜になると間もなく歸つて來た。妻女はいさゝか不審を懷き、どうして早くお歸りなされたかと尋ねると、いや、先方の家の近くまで行つたら、用事は濟んだといふ使ひの者に出逢つたので、直ぐ引返した、と云ふ。何しろ疲れたからと直ぐ臥所に入り、供に連れた下僕も食事を濟まして寢てしまつた。その時年久しく使はれてゐる老婆が妻女の袖を引いて、旦那樣のお眼が違つて居ります、とさゝやいた。高橋は片眼盲(めし)ひて居つたが、それは右眼であるのに、今歸つたのは左眼だといふのである。妻女も驚いたけれど、しかと見極めた上にしたいといふので、婆が急に腹痛を起しました、藥を飮ませて下さい、と云つて起した。こんなに疲れてゐるのに、とぶつぶつ云ひながら目をさましたのを見れば、成程左眼が潰れてゐる、最早妖怪に紛れもないと、雨戸をさし固め、脇差を咽喉に當て、老婆はうしろから續け樣に撲り付け、こんこんくわいくわいと鳴いたところを突き殺した。供に化けた狐は家來どもに殺された。――「新著聞集」にあるこの話は、主人に化けて家族をたぶらかすつもりだつたのであらうが、うつかり眼を取り違へた爲に一命を失つたのである。狐が化けるに當り眼を取り違へた話は、他にも例がないことはない。

[やぶちゃん注:「岡崎村」不詳。

「高橋彌左衞」以下に見る通り、「高橋彌左衞門」の誤り

「こんこんくわいくわい」底本では「くわい」の後半のみに踊り字「〱」があり、これでは「こんこんくわいくわいこんこんくわいくわい」となるが、以下の原典に従い、「くわい」のみを繰り返した。

 以上は「新著聞集」の「第十七 俗談篇」の冒頭に置かれた以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○鈍狐害をかふむる

筑前福岡の城下より、一里あまり過て、岡崎村に、馬乘の高橋彌左衞門といふ者あり。用事有て、入相のころより、城下に出ゆきしが、夜に入とひとしく歸りしかば、いかで早く歸りたまふと、妻のとひしに、されば、道今すこしになりて、かの方より、用も足れりとてとめ侍りし。餘りにつかれたるとて、閨に入り、供の僕は物くふて臥りぬ。此家に、年おひたる婆ありけるが、妻の袖をひき、主人、常は右の目、盲たまへるに、只今は、左の目、盲たるこそいぶかしと告げければ、妻おどろき、さらば、少し出し見んとて、姥が俄に腹痛しぬ。藥をあたへられよといひしかば、かく疲れていねたるにとつぶやき、漸くに出しをみれば、左の目盲たり。さては疑もなき妖ものなりしかば、妻かいがいしくも、最早婆も快く侍りしまゝ、いねさせよとて、ねやの戸をしめ、四方のかこみを、嚴しくたてこめ、脇指を、臥たる上より咽にあて、姥は後より、たゝみかけ打ければ、こんこんくわいくわいと鳴し所を、つき殺しける。又家來の老共は、供の狐をたゝき殺しけり。未熟の狐にや。妖け損じけるこそおかしかりし。

   *]

 

「文化祕筆」に出てゐるのだから、時代は大分後である。豐後國岡といふところの或人が、鐡砲を持つて山へ出かけ、狐を一疋打つて歸つた。然るに四五日ばかりして殿樣より使ひがあり、その方去る何日何山に於て狐を打つた由であるが、右の狐は殿樣御祕藏のものである。不屆の次第につき切腹仰せ付けられる、といふことであつた。君命は如何ともしがたい。畏りました、然らば家内の者に暇乞ひを致し、その用意を仕りまするから、暫時御猶豫下されい、と答へ、勝手に行つて母親に委細を話した。母親の云ふのには、狐を一疋殺したぐらゐの事で切腹仰せ付けられるのは、何分合點が往きかねる、一つ御使ひの樣子を見屆けよう、とあつて唐紙の隙から窺つて見た。使ひに來た大目付の何某は右の片眼である筈なのに、左の片眼であるのみならず、左に差すべき大小を右に差してゐる。心を落ち著けて見たらよからうと云はれ、自分も覗いて見ると正にその通りである。これは狐の仕業に相違ないと思つたから、刀を拔いて唐紙を押し開いた。狐は忽ち正體を現し、塀を飛び越して逃げるところを斬り付けたが、遂に取り逃したといふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:「豐後國岡といふところの或人」同国直入(なおいり)郡竹田(現在の大分県竹田市)に藩庁をおいた外様藩岡藩の藩士であろう。

「文化祕筆」著者不詳。所持しないので提示出来ない。]

 

 その人の特徴である片眼を捉へて化けながら、左と右とを取り違へるなどは、やはり爭はれぬ獸の智慧で、狐の顏のまゝ鐡砲を持つて供をした鳥取の狐と兄たり難く弟たり難いものであらう。智慧の點では遙かに狐を上𢌞つてゐるつもりの人間にしても、凌雲院の名を騙つて松江侯の玄關に乘り込む芝居の河内山が、高頰の黑子といふ特徴を閑却してゐるやうなもので、由來化けるといふことは、かうした手落ちを伴ひ勝ちのものなのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「凌雲院の名を騙つて松江侯の玄關に乘り込む芝居の河内山」「天保六花撰」と称されたアウトローたちの生き様を描く歌舞伎の世話物の傑作「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」。河竹黙阿弥作で初演は明治一四(一八八一)年。私は歌舞伎が嫌いなので、の梗概をどうぞ。

「高頰」頬の高くなった部分。複数の諸解説を読むと、芝居では河内山宗俊が自分のトレード・マークである黒子を隠し忘れてしまい、凌雲院大僧正に化けて松江出雲守をうまく騙すのであるがが、最後の最後にその黒子でばれるという設定だそうである。]

 

「窓のすさみ」にある話は、延寶頃といふから、今まで擧げた中では一番古い。これは疱瘡の藥を作るために狐の生き肝(ぎも)を取るといふ一條があるので、狐の恨みを買ふ度合も強いわけであるが、その家第一の重臣である中川某が物頭の許(もと)に乘り込んで、一通の書付けを示した。その内容は狐などには關係なく、物頭が靑年時代より壯年に至る間に犯した過失を書き上げたものであつた。物頭は全部見了つて、これは血氣時代の仕損じでござる、只今の事でないからと申して、申し開きの致しやうはござらぬ、と答へるに、然らば切腹候へ、と申し渡された。「文化祕筆」と同じ成行きである。家族にその旨を告げ、家の中は俄かに滅入つてしまつたが、切腹に先立つて沐浴すべき湯を沸かしてゐた下僕が、ひよいと亭の庭を見たところ、塀の上に多くの狐が頭を竝べて覗いて居り、まだかまだかと云ふのに、供の士が手を振つて、まだと答へた。この事を主人にさゝやいたので、そんな事もあらうと思つた、この上は使者を斬り捨て、もし間違つたならば、その時こそ切腹して果てよう、と決心して亭へ出て來たら、早くもその氣を悟つたと見えて、狐は一疋もゐなくなつてしまつた。

[やぶちゃん注:「延寶」一六七三年から一六八一年まで。徳川家綱及び徳川綱吉の治世。

「物頭」「ものがしら」と読む。諸藩に於いては、歩兵である足軽や同心などから編成された槍(長柄(ながえ))組・弓組・鉄砲組などの頭たる「足軽大将」を指し、侍組(騎兵)の頭(侍大将)である番頭(ばんがしら)に次ぐ地位にあった。

「窓のすさみ」以前に述べた通り、所持しないので原典は示せない。]

 

 この話には左右の眼を取り違へるといふやうな破綻はない。重臣に化けた狐は、過去の失策を算へ立てた書付けを持參し、それに對し申開きは出來ないと云つたのだから、八九分通り成功したものと見てよからう。最後の一段に至つて失敗に導いたのは、塀の上に頭を竝べた腹心の狐どもである。同じ話を何遍も例に引くやうだが、最後に革袋に入つてアリ・ババの邸内に運ばれた三十七人の盜賊が、悉くモルギアナのために返り討ちに遭ふのも、袋の中から聲を出して、もう飛び出してもいゝかどうかを尋ねたからであつた。塀の上の狐はそれほどへまを演じたわけではないけれど、とにかく彼等の擧動によつて狐の一黨であることを看破され、主人は切腹すべき刀を以て使者を斬らうとする逆轉作用を見るに至つた。こゝまで破綻なしに詰め寄せながら、最後の一段に至つてやり損ふところに、化けることのむづかしさがあるわけであらう。

[やぶちゃん注:NHK「アリババと40人の盗賊」 アラビアンナイト(語り:戸川京子)の「scene06 三十七このかめ」でシークエンスが判る。盗賊の頭と女奴隷モルギアナを勘違いし、隠れていた手下が「おかしら、もうじかんですかい」と声を発してしまい、ばれるのある。]

芥川龍之介 手帳7 (2) 孔子廟・文天祥祠

 

○大成門 赤 靑綠金天井 南側 石鼓あり 大理石段 欄も然り 碑に李鴻章の物あり 支那人教ふ 黃瓦 赤壁 白石階

[やぶちゃん注:ここからは雍和宮の東直近にある孔子廟の描写。大成門はその第一の主殿門。サイト「www.naturalright.org」(日本語)が判り易く、大きな画像も豊富。

「李鴻章」既出既注。]

 

○大成殿 同洽大道(黎元洪)黑へ金 (柱朱)(□壇 朱)至聖先師孔子神位(朱へ金) 左右に四聖賢〔亞孟子 宗曾子 復顏子 述聖孔子(子思)〕 床に棕櫚氈 梁 天井 金綠 靑銅鼎1 燭架2 花瓶2 (大理石臺)

[やぶちゃん注:「同洽大道」大成殿内の正面中央の孔子像上部に掲げられた額であるが、但し、これは芥川の記載の誤りである。前に出したサイトの画像(サムネイルの右から十二コマ目)で判るが、「道洽大同」である。Tサイト「中国耽美紀行大成殿も参照されたい。

「黎元洪」既注

「顏子」孔門十哲の一人で、孔子が自らの後継者と見なしていた顔回のこと。

「棕櫚氈」棕櫚(しゅろ)で織った敷物。シュロの樹皮は強靭で湿気に強い。]

 

○乾隆玉座 雅誦於樂(御筆)黑ニ金 ○道流仰鏡(咸豐帝)藍ニ金 ○誦詠聖涯(蓮光亭)黑ニ金 ○國橋教澤(大理石)丹壁 ○御碑亭(白大理石 綠黃瓦) ○辟雍 大理石欄 ○康熈大學石刻 ○十三經石刻 ○石時計

[やぶちゃん注:「御碑亭」先のサイト「www.naturalright.orgの孔子廟の画像によって大成殿前の左右に多数の碑亭があることが判る。画像には廟内配置図もあり、それで数えると、現在は十一の碑亭と思われるものがある。]

 

○木 柏のみ 槐二三 朱 黃瓦 綠藍彫

[やぶちゃん注:先のサイト「www.naturalright.orgの孔子廟の画像の、右から三コマ目と四コマ目に木肌が瘤のように突出した異形の古木のアップがある。芥川龍之介もこの木肌を眺めたに違いない。]

 

○古誼忠肝の額 文天祥像 朱と金 宋丞相信國公文公之神位 陶燭臺2 陶香爐一 鐵香爐一 埃滿堂

[やぶちゃん注:「古誼忠肝」は「こぎちゅうかん」で「誼」は「義」「意」と同義であるから、恐らくは「忠肝義胆(ちゅうかんぎたん)」(主君や国家に忠誠を尽くして忠節を守り正義を貫こうとする固い決意)と同義かと思われる。

「文天祥」(一二三六年~一二八三年)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。一度は下野したが、一二七六年に復帰し、『右丞相兼枢密使とな』なっ『て元との和約交渉の使者とされるが、元側の伯顔との談判の後で捕らえられ』てしまう。しかも彼が『捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落し、張世傑・陸秀夫などは幼帝を奉じて抵抗を続けていた。文天祥も元の軍中より脱出し』、『各地でゲリラ活動を行い』、二年以上に亙って『抵抗を続けたが』、一二七八年に『遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。『その後は死ぬまで獄中にあり、厓山に追い詰められた宋の残党軍への降伏勧告文書を書くことを求められ』たが、「過零丁洋」という『詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ」と』いった内容の詩篇であった。『宋が完全に滅んだ後も』、『その才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受ける。この時に文天祥は有名な』「正気の歌(せいきのうた)」を詠んだ(ウィキソースで全篇が読める)。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れ』ず、『朝廷でも文天祥の人気は高く』、『隠遁することを条件に釈放しては』という『意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし』、『文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり』、『南(南宋の方角)に向かって拝して』、『刑を受けた。享年』四十七。『クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた』。『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、その「正気の歌」は『多くの人に読み継がれた。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が』「靖献遺言」に評伝を載せ、『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などは』、それぞれが自作の「正気の歌」を『作っている』とある。なお、芥川龍之介は「北京日記抄」の「五 名勝」でこの文天祥祠を訪れ、以下のように感懐を綴っている。『文天祥祠(ぶんてんしようし)。京師(けいし)府立第十八國民高等學校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信國公文公之神位(そうじようしやうしんこくこうぶんこうのしんゐ)なるものを安置す。此處も亦塵埃の漠漠たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(らうゆかう)か何か作る所ならん。僕は勿論發句一つ出來ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は氣の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし』。サイト版「北京日記抄 附やぶちゃん注釈に教え子が撮った文天祥祠の写真を公開している。祭壇「古誼忠肝」扁額が見られる。なお、芥川龍之介が「楡」と言っているのは「棗」の誤認(芥川龍之介は「?」としているから批難には値しない)である。これが古木であり、の写真である。教え子のこの写真で初めて明らかになった事実で、誰もこの誤りにはそれまで気づいていなかったものと思われる。]

 

○右ニ碑 衣帶ノ賛を上書せし文公像 ○劉崧(明) 壁桃色

[やぶちゃん注:「衣帶ノ賛を上書せし」所謂、「衣帯中(いたいちゅう)の賛(さん)」の故事。文天祥が処刑されるに際し、衣服帯の中に残した文章のこと。文天祥の帯の中には死に臨む賛の文章が残されていたといい、転じて仁義や忠節を守り通すことを指す語となった。像は写真を参照。

「劉崧」(りゅうすう 一三二一年~一三八一年)は元末明初の詩人で官僚。江右派の代表詩人。

2017/09/12

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅴ) 多聞院 木曾塚 他 /「新編相模國風土記稿卷之九十八」~了

 

[やぶちゃん注:今回より、句読点は底本のものではなく(底本には句点はない)、読み易さを考え、私の判断で自由に変更・追加することとした。]

○多聞院 天衞山福壽寺と號す〔山之内村瓜ケ谷に、觀蓮寺屋舗と唱る白田あり、當寺の持とす。觀蓮は、蓋、當寺の舊號にや。〕。古義眞言宗〔手廣村靑蓮寺末。〕本尊毘沙門〔長三尺、弘法作。〕。

[やぶちゃん注:古義真言宗で現在は大覚寺派で、正式には天衛山(てんえいさん)福寿寺多聞院と称する。本尊毘沙門天。北方を守護する神将毘沙門天は多聞天とも称するので、寺名の由来はそれ。ウィキの「多聞院(鎌倉市)」では、寺伝によれば、『多聞院は鎌倉市山ノ内瓜ヶ谷にあった観蓮寺が前身で、永享の乱』(永享一〇(一四三八)年に鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に対して起こした反乱。義教は今川氏らに討伐を命じ、翌年、持氏は自害した)『で衰えた際に甘粕長俊』(玉繩北条氏家臣。後に出る「甘糟」氏と同じ。甘粕一族は相模平氏の出である)『が現位置に移転して名を改め、南介僧都を迎えて』天正七(一五七九)年に『創建したと伝えられている』。ここに記されているように、元は『鎌倉市手広の青蓮寺の末寺』であったが、昭和二五(一九五〇)年に『青蓮寺の前住職である草繋全宜』(くさなぎぜんぎ)『が京都大覚寺の門跡』(初代官長)『となったため、同寺の末寺となった』とある。東京堂出版の白井永二編「鎌倉事典」では、寺の創建以降の近世までの沿革は不分明であるとする。隣接する明治の神仏分離までは隣接する熊野神社の別当寺あった。この熊野社は前の『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山 他』に出ており、その冒頭に『村の鎭守なり。束帶の木像を安ず〔座像長八寸許。古は畫像を安ぜしと云ふ。其像は今舊家小三郎の家に預り藏す。〕。臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は、則、小三郎が祖なり。〕』とあるように、実はこの神社も、というかこの熊野社が先に永く甘粕家の篤い信仰を受けて栄え、それを管理する寺として多聞院が創建されたと考える方が自然なように思われる『「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)』の「能勢靭負佐」の注で出したが、再掲しておくと、「神奈川県神社庁」公式サイトの熊野神社の由緒のところに、『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』(下線やぶちゃん)とある。

「白田」「はくでん」畑(はたけ)のこと。「白」は「水がなく乾いている」の意で、そもそもが「畠」という漢字は、この「白田」を合わせて合字として作られた国字である。]

○地藏堂 運慶の作佛を安ず〔長二尺餘。〕。村持。下同。

[やぶちゃん注:同寺には巣鴨(曹洞宗萬頂山高岩寺。本尊地蔵菩薩(延命地蔵))から移したとされる「とげぬき地蔵」木造地蔵菩薩立像が知られるが、造立は江戸時代であり、経緯から見ても、これではあるまい。他に木造地蔵菩薩半跏像と木造地蔵菩薩立像があるが孰れも江戸時代であるからこれも外れる(これらの仏像類のデータはウィキの「多聞院(鎌倉市)」に拠った)。これらとは別に木造地蔵菩薩立像(延命地蔵尊)があり、これは室町時代の造立と推定されているから、ここに示されたのはこれであろう。]

○不動堂 弘法の作佛を置〔長三尺餘。〕。

[やぶちゃん注:現在、多聞院には年代不詳の木造不動明王像と江戸時代の造立になる木造不動明王及び両脇侍立像(三体一組)がある。前者か。]

○觀音堂 十一面觀音を置。運慶の作なり〔長三尺。享保四年に記せる緣起に據に、染屋太郎太夫時忠の兒、三才の時、鷲に※搏せられ、其喰餘の骨を、此地に落せしかば、菩提のため、觀音を彫刻し、殘骨を御首中に納む。後、回祿に罹り、御首のみ燼餘に得しを、運慶、其模像を刻し、彼御首を胎中に納むとなり。是に鎌倉塔辻の故事に基き、作意せしなり。〕。祐天の名號一幅を藏す。

[やぶちゃん注:「※」「爴」の左右を逆転させた字。音「カク」で「摑(つか)む・攫(さら)う」の意。「搏」も「手で打って取る・対象に手を当てて素早く摑む」の意。「カクハク」と音読みしておく。なお、現在、同寺には木造十一面観音菩薩坐像及び木造十一面観音立像があるが、孰れも江戸時代の造立である。不審。

「據に」「よるに」。

「喰餘」「くひあまり」。或いは「くらひのこし」か。

「燼餘」「じんよ」。燃え残り。

「享保四年」一七一九年。縁起がこの年に書かれたものとすると、実はそれ以前(江戸初期)に造立されたものに縁起を合わせたとも考えられる(とすれば前の不審は解消するし、本書の作者も割注からそう考えていることが判る)。さすれば、前の疑問は解ける。但し、「かまくら子ども風土記」(平成二一(二〇〇九)年刊第十三版)の「多聞院」の項には、本尊毘沙門天の『脇には、山ノ内にあった岡野観音といわれる十一面観音があり、由井の長者の染屋太郎大夫時忠(そめやたろうたゆうときただ)の子の遺骨を納めたといわれてい』るとあり、岡戸事務所のサイト「鎌倉手帳」の同寺の記載には、『由井の長者といわれた染屋時忠の娘が大きな鷲にさらわれ、その後、娘の残骨が六国見山の南で発見されたため、時忠は』、そ『の地に岡野観音堂を建立し、その菩提を葬ったと伝えられている』。『その堂に安置されていたのが胎内に娘の骨を埋めたという十一面観音』であったとし、『明治の神仏分離により多聞院に安置された』と移転経緯を記す。『染屋時忠の娘に関する伝説は』鎌倉の各地に散在し、来迎寺・魔の淵の地蔵(鎌倉宮参道の右側に現存。同サイト内の当該の地蔵の解説によれば、横を流れる川が嘗て「魔の淵」と呼ばれており、『青黒い水が流れ、多くの人がここに住む魔物の餌食になったため、杉本寺の住職の発願でここにお地蔵さまを安置したのだと』するが、別の『一説には、染谷時忠の娘が鷲にさらわれたとき、その血がしたたり落ちていた場所ともいわれている』ともある)・辻の薬師堂・妙法寺・六国見山及び塔ノ辻(本文にもこれを挙げるように、この場所が最も知られる染屋長者伝承地であると私は思っている)等『にも残されている』とある。

「染屋太郎大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」には、華厳宗の僧で東大寺開山の良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年)~宝亀四(七七四)年)の父とあるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠「の父」が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。良弁は相模国の柒部(漆部)氏の出身とも、近江国の百済氏の出身とも言われるが、後者の伝承では、赤子の時、野良に出ていた母が目を離した隙に鷲に攫われ、奈良二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、法相宗の高僧義淵に拾われて弟子として養育されたとも伝えられる。これは時忠と思しい由比長者の伝承の中に、子どもを鷹に攫われて殺され、その屍骸の落ちた鎌倉の複数の箇所に供養の塔を建てたという「塔の辻」伝承と結構が類似するから、そこから派生した類型伝承の派生連が認められるように思われる。

「祐天」(寛永一四(一六三七)年~享保三(一七一八)年)浄土宗大本山増上寺第三十六世法主で、江戸のゴーストバスターとしても、とみに知られた人物。この寺、経緯や寺宝にいろいろな宗派が錯綜していて面白い。]

 

○木曾塚 義高の舊塚なり〔高さ二尺、周徑三尺餘。〕。上に五輪の頽碑あり。塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん。常樂寺の條、併見るべし〔此塚より少許を隔て、五輪の頽碑あり。由來を傳へず。〕。

[やぶちゃん注:常楽寺の裏山粟船山に残る木曾冠者義高の塚と伝えるもの。「五輪の頽碑」はかろうじて一部の残欠が残り、割注のある不詳の五輪塔もあるにはある。サイト「テキトーに鎌倉散歩」(名称で侮ってはいけない。どうして凡百有象無象の鎌倉案内サイトなどは足元にも及ばぬ非常に優れたサイトである)の「常楽寺」が勘所を押さえた画像も豊富にあって現状を確認するに最適である。必見。以下に注で示すように、ここは江戸時代につくられたもので、本当の義高の首塚ではない

「塚邊を木曾免と云を見れば、古は免田などありしならん」義高は政子によって逃がされたものの、入間川河原で捕えられて、首は鎌倉に送られ、常楽寺の南西三百メートルほどの位置にあった田圃の中の塚に葬られた。この経緯は私の「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」に詳しい。是非、読まれたい。先に挙げた「かまくら子ども風土記」によれば、延宝八(一六八〇)年(徳川家綱が死去して綱吉が将軍となった年)に、『ある村人がこの塚』(元の塚の附近)『を掘ったところ、人骨の入った青磁(せいじ)の瓶(かめ)が出てきたので、常楽寺境内に塚を築き、これを納めた』と伝え、『これが現在の「木曾義高の墓」と呼ばれているもので』あるとし、『「木曾塚」と呼ばれた元の塚は周囲が』三メートル『ほどで、一本のエノキが植えられていたそうで』、『場所は大船中学校の東側にある栄町公園のあたりで』あったが、昭和一三(一九三八)年から翌年頃に『埋め立てられて、何も残ってい』ないとある。ここ(グーグル・マップ・データ。一画面に常楽寺と現在の木曾義高の墓が入るようにした)。]

 

○兒塚 六國見の南方山上にあり。上に石碑を建〔半は地中に陷入れり。面に悉曇の字、仄かに見ゆ。〕。染屋太郎大夫時忠が兒の墳なりと傳ふ。

[やぶちゃん注:宝篋印塔の基礎と笠だけの欠損した石塔が残る。

「陷入れり」「おちいれり」。

「悉曇の字」梵字の種字。]

 

○最藏坊塚 村北、白田間にあり。塚上に石人を置〔高四五尺。〕。鶴岡の職掌鈴木主馬が祖先の墓なりと云〔鈴木家傳を按ずるに、祖鈴木左近重安、治承中、鶴岡の職掌となり、戰國の間、永享中、當村に移住し、鶴岡社役を兼帶し、最藏坊と唱へ、村内熊野社神職を勤めし、となり。故に今も熊野社の神職を兼ぬ。〕。

[やぶちゃん注:現在は多聞院境内に石塔らしきものは移されている個人サイト「小さな旅のアルバム」のこちらで画像が見られるが、見るも無残な状態で、「石人」なるものも現認出来ない。

「鈴木左近重安」詳細不詳。

「治承」一一七七年~一一八一年。

「永享」一四二九年~一四四一年。]

 

○北條泰時亭跡 【東鑑】仁治二年十二月の條に泰時巨福禮の別居と載す〔曰、十二月三十日前武州渡御于山内巨福別居。〕。巨福禮は、卽、隣村小袋谷なり。されど、彼村内に其舊跡を傳へず。當村大船山上に平衍の地あり〔濶八段餘。〕、亭跡のさま、彷彿たり。又、其東方、小名、大明神の田間に古井あり、近きあたりに檜垣・御壺谷と云小名あれば、此二所の内、泰時の邸跡なるべし。

[やぶちゃん注:以上の「吾妻鏡」は仁治二(一二四一)年十二月三十日の条。

   *

卅日癸未。前武州、參右幕下・右京兆等法花堂給。又、獄囚及乞食之輩有施行等。三津藤二爲奉行。其後、渡御于山内巨福禮別居。秉燭以前令還給云々。

   *

卅日癸未(みづのとひつじ)。前武州、右幕下(うばくか)・右京兆等の法花堂へ參り給ふ。又、獄囚(ごくしう)及び乞匃(こつがい)の輩(ともがら)に施行(せぎやう)等、有り。三津藤二(みつのとうじ)、奉行たり。其の後、山内(やまのうち)巨福禮(こぶくれ)の別居に渡御、秉燭(へいしよく)以前に還らしめ給ふと云々。

   *

以上の「前武州」は北條泰時、「右幕下」は源頼朝、「右京兆」は北條義時のこと。「乞匃」は乞食。「秉燭以前に」灯を点すよりも前に。暗くなる前に。

「平衍」「へいえん」と読む。平らで有意に広いこと。

「濶八段餘」「ひろさ、はつたんあまり」。「段」は「反」に同じい。約七千九百三十四平方メートル以上。

「小名」「こな」で地名の小字(こあざ)のこと。

「大明神」位置も名も不詳。識者の御教授を乞う。

「檜垣」「ひがき」。檜の薄板を網代に編んで造った垣根で、これは普通の民間人の家には見られない高級なそれであるから挙げたものであろう。常楽寺の東方では御家人らの住居があったとも聞かない。同前。

「御壺谷」鎌倉であるから「おつぼがやつ」と読んでおく。「御壺」は通常、御所などの貴人の屋敷に設けられた中庭である。同前。]

 

○舊家小三郎 里正なり。甘糟を氏とす。先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏に屬せしと云へど、口碑のみにして、家系舊記等を傳へず。唯、家に舊き木牌を置けり。一は土佐守淸忠〔面に、道本禪門、背に、甘糟土佐守平朝臣淸忠、文明九丁酉天二月十一日と刻す。〕、一は備後守淸長〔面に月廣道順禪門、背に甘糟備後守平朝臣淸長、永正二乙巳天七月八日と刻す。按ずるに、【上杉家將士列傳】に、甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし。〕、一は佐渡守長俊〔面に、隨岫寶順禪定門、背に、甘糟佐渡守平朝臣長俊、天正十壬午天三月十三日と刻す。〕等なり。長俊、始、太郎左衞門と稱せり。卽、永祿十年、常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕、天正七年鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕。是等、最古を徴するに足れり。又、玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり。此家の傳へに、大永六年十二月、北條氏綱が兵と、里見義弘、戸部川の邊に戰ひ、北條勢三十五人、討死す。かりて其首級を合せ堙し、榎を植て、標とす。此家の祖先某、其一にして、且、其魁たり。故に甘糟塚の名ありと云ふ。其名諱を傳へざれど、年代をもて推考するに、備後守淸長が男なるべし。又、天正十三年閏八月、圓覺寺廓架再興助力人の列に、甘糟外記の名あり。是も祖先のうちなりと云へど、系傳を失ひたれば、詳にし難し。古鞍一背を藏す。是、上杉氏授與の物と云ふ〔一通は天正九年、北條氏より、當村代官・百姓中に與へし物なり。全文は村名の條に註記す。其餘の數通は永仁・正和・應安・康曆・應永・永享等の文書、及、上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり。傳來の由來、詳ならず。〕。

[やぶちゃん注:古鞍の図が載る。以下は国立国会図書館デジタルコレクションの底本の画像をトリミングした。下部の居木(いぎ:鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)を繫ぐ部品)と思われるものの左端には「永祿五年三月日」(永禄五年は一五六二年)の記銘が視認出来る。輪(恐らく前輪)の山形の海の中央にある紋は笹とは見えるものの、「上杉笹」のようには見えない。現物が見たいものだ。「二寸四分」は七センチ強で、これは書かれた位置から、輪の中央の楕円状に繰り抜かれた部分(州浜或いは鰐口と呼ぶ)の下部の間隙(左右幅)を指していると思われる。中央右手にあるのは花押のように見えるが、その手の知識を持たないので誰のものか判読は出来ない。識者の御教授を乞う。なお、「甘糟」は「甘粕」とも書き、「あまがす」「あまかす」二様に読む資料があるので、これらは皆、同一である。

「里正」(りせい)本来は律令制下に於いて霊亀元(七一五)年に施行された郷里(ごうり)制の下に於ける「里」の長を指す(国・郡・郷・里の四段階に変更したが、天平一二(七四〇)年には里が廃されて郷制となった。近世には「里正」は庄屋や村長をかく称した)。孰れにせよ、「先祖は上杉氏に仕へ、後、北條氏」(無論、扇谷上杉氏及び後北条氏である)「に屬せし」とあるからには土着の有力豪族である。

「家」現在、「甘糟屋敷」が大船宮前地区にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。こちらに現在の訪問記が画像入りである。それに『甘糟家が大船に館を構えたのは、室町時代で当時上杉管領に仕えていた甘糟土佐守平朝臣清忠という人で、当時拝領した上杉家の家紋入りの鞍が保存されてい』るとあるから、ここに描かれた鞍は現存することが判る。『江戸時代には医者を輩出しており、江戸後期には大船村名主となり、当地では一番の資産家で駅へ行くのに他人の土地を通らずに行けたと云われて』おり、『現当主の小三郎氏は工学博士で甘糟株式会社社長を』務め、東京在住とある(平成一六(二〇〇四)年の記載)。この条の柱は「舊家小三郎」であるが、この現当主の名も「小三郎」である。

「文明九丁酉天二月十一日」一四七七年。「天」は日付の謂いであろう。この年は山内上杉氏の関東管領上杉顕定(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)が有力家臣であった長尾景春が古河公方と結んで離反、五十子(いらこ/いかご)の戦いで大敗退を喫し、古河から撤退せざるを得なくなった年である(道長尾景春の乱は文明一二(一四八〇)年に扇谷上杉家上杉定正の家宰であった名将太田道灌の活躍によって鎮圧され二年後の文明十四年には古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立し、三十年近くに及んだ享徳の乱が終息したが、山内家の上杉顕定の主導で進められたこの和睦に定正は不満があり、さらに道灌の名声が高まったことから忠臣であった彼に猜疑を抱くに至り、遂には主君定正によって道灌は暗殺されてしまう)。

「甘糟備後守平朝臣淸長」不詳。

「永正二」一五〇五年。

「甘糟備後守淸長の名あれど、是は慶長の頃、在世たれば、時代、殊に違へり。同名別人なるべし」これは越後上杉氏の家臣で越後上田衆の一人、甘糟景継(天文一九(一五五〇)年~慶長一六(一六一一)年)のことと思われる。彼は晩年に「清長」と改名しているからである。

「隨岫寶順禪定門」「ずいしゅうほうじゅんぜんじょうもん」(現代仮名遣)と読んでおく。

「甘糟佐渡守平朝臣長俊」先の「鎌倉手帳」の「高野の切通」に、『甘糟氏は玉縄北条氏に仕えた一族で、大船の鎮守熊野神社を勧請したのは甘糟家の祖先の甘糟長俊と伝えられている』とある。

「天正十壬午」一五八二年。

「永祿十年」一五六七年。

「常樂寺文殊の像を修飾し〔像の胎中に收むる木牌に記す。〕」ウィキの「常楽寺(鎌倉市)」に、『木造文殊菩薩坐像』とあり、『鎌倉時代の作で神奈川県の重要文化財に指定されている。秘仏として文殊堂に安置されており、毎年』一月二十五日『に行われる文殊祭の時以外は開帳されない』あって、その後に永禄十年に『甘粕長俊によって修理が施された』とある。

「天正七年、鎭守熊野社の神體を再興せしは此人なり〔神體の台座に記す。〕」冒頭注参照。

「是等、最古を徴するに足れり」これらの記載は最も古い時代の甘糟氏の事蹟を引き出しており、これらの事実の証拠とする足るものである。

「玉繩岡本村に首塚、或は甘糟塚と唱ふるあり」現在の岡本の戸部橋の近くの、六体の地蔵と古い五輪塔などが祀ってある「玉繩首塚」のこと。史跡碑文「玉縄首塚由來」を電子化して示す。こちらの画像を視認させて貰った。最後の二人の記名は判読出来ないので近いうちに、現場に行って確認した上で追記する。但し、この碑文、重大な複数の誤りがある(後述)

   *

今を距る四百四十餘歳 大永六年(一五二六)十一月十二日南總の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと欲し鶴岡八幡宮に火を放ち 府内に亂入せるを知るや時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫) 豪士大船甘糟  渡内福原両氏と俱に里見の軍勢を此處戸部川畔に邀擊し合戰數合之を潰走せしめ鎌府を兵燹より護る この合戰に於て甘糟氏以下三十有五人は戰禍の華と散り 福原氏は傷を負ひ里見勢の死者その數を知らず  干戈收て後城主氏時彼我の首級を交易し之を葬り塚を築き塔を建て以て郷關死守の靈を慰め怨親平等の資養と為し玉縄首塚と呼称す 經云我觀一切普皆平等

   昭和四十二年八月 玉縄史跡顯彰會

   *

「距る」は「へだつる」或いは「へだてる」。「里見義弘」は父里見義堯(よしたか 永正四(一五〇七)年~天正二(一五七四)年)の誤り。嫡男義弘(享禄三(一五三〇)年~天正六(一五七八)年)は大永(たいえい)六(一五二六)年にはまだ生まれていない。義堯は安房の戦国大名で安房里見氏第五代当主。上杉謙信や佐竹義重等と結び、後北条氏と関東の覇権を巡って争い続けた。房総半島に全体に勢力を拡大し、里見氏の全盛期を築き上げた人物である。「北條氏時」(?~享禄四(一五三一)年)は早雲(伊勢盛時)の「孫」ではなく、子である。初代玉繩城主。ウィキの「北条氏時等によれば、享禄二(一五二九)年八月十九日附文書が残っており、それは『相模国東郡二伝寺(藤沢市)』(私の家のすぐ裏山である)『宛てのもので』、『この時には玉縄城主になっていたこと』が判るとある。大永六年十一月十二日(一五二六年十二月十五日)に『安房国の里見義豊』(義堯の兄。兄とともに参戦した。これは「鶴岡八幡宮の戦い」(或いは「大永鎌倉合戦」)と称するが、これは当初、里見軍が玉繩城を目標としたものの、まさにこの場所で激しい抵抗を受け、逆走して鎌倉に突入、その兵火が鶴岡八幡宮に燃え移って焼失したことに由来する)『が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされて』おり、この戦闘の直後、両陣営は『首を交換し』(碑文の「交易」はそれ)、『それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている』とある。……こう、書かれてあるが、ごく直近の私の得た情報では(私は現在、植木町内会の役員をしている)「首塚まつり」の方は、実は実行委員会の内紛によって存続が風前の灯らしい……いやはや……首級の泣き声が聴こえるようだ…………。「渡内ノ福原」「氏」は有力な土豪。私の毎日のアリスとの散歩コースに当たる場所に現在も子孫の方々が沢山住んでおられる。「邀擊」「えうげき(ようげき)」と読む。迎え撃つこと。迎撃。「兵燹」「へいせん」と読む。「燹」は「野火」の意。戦争による火災。兵火。「干戈收て」「くわんかをさまりて(かんかおさまりて)」で「干」は「楯(たて)」と「戈」は「矛(ほこ)」の意で武器・武力から、転じて「戦争」の意。「郷關」郷里。「怨親平等」敵も味方も等しく同じく扱うこと。「資養」人が自分自身の心を養うこと。死者の供養という点では恩讐による差はあってはならないという捉え方。「經」法華経。「我觀一切普皆平等」「がくわんいつさいふかいびやうどう」。「妙法蓮華経薬草喩品第五」に出る。「我、一切を観ること、普(あまねく)く皆、平等なり」の意。

「かりて」ママ。別本も見たが、同じ。「かくて」の誤りではあるまいか?

「堙し」音「イン」。土を被せて見えなくする。

「榎」現在も大きなエノキが聳えている。

「標」「しるべ」。

「其一」「そのひとり」と訓じておく。

「其魁」「そのかしら」と当て訓しておく。頭領。

「名諱」「メイヰ」と音読みしておく。通称や俗名及び「諱(いみな)」死後の称号或いは戒名。

「備後守淸長が男」清長の子。

「天正十三年」一五八五年。

「廓架」境内を区切る外壁のことか。

「甘糟外記」不詳。この資料元も不詳。少なくとも「鎌倉市史」資料編の円覚寺関連文書を縦覧してみたが、見当たらなかった。

「百姓中」「中」は「うち」で等(ら)の意であろう。

「全文は村名の條に註記す」「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)の本文に出る。

「永仁」一二九三年~一二九八年。鎌倉時代。甘糟氏族の古さが判る。また「多く鶴岡に關係するもの」とあるから、甘糟氏が古くから鶴岡八幡宮寺と強い関係を持っていたことが推測される。

「正和」一三一二年~一三一七年。これも鎌倉時代。

「應安」一三六八年~一三七五年。南北朝の北朝の元号。

「康曆」一三七九年~一三八一年。これも北朝の元号。

「應永」一三九四年~一四二八年。室町時代。

「永享」一四二九年~一四四一年。

「上杉氏・小田原北條氏等の文書を、多く鶴岡に關係するものなり」「を」はママ。別本も同じ。しかしこの助詞は繋ぎが悪い。或いは「(ニ)シテ」の約物の判読の誤りではなかろうか?]

 

Amagasukekura

 

新編相模國風土記稿〔卷之九十八〕終

 

2017/09/11

北條九代記 卷第十一 城介泰盛誅戮

 

      ○城介泰盛誅戮

 

同四月に、北條貞時を相模守に任ぜらる。父時宗の世に替らず、執權相勤め、道を正しく禮を專(もつぱら)とし、仁慈を以て惠(めぐみ)を施し、政理(せいり)を行ふに、私欲を省き給ひければ、諸方の貴賤、その德に歸し、靡かぬ草木もなく、世は淳厚(じゆごう)の風に隨ひ、人は正直の心を勵(はげま)す所に、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛は、外祖の威を假(かつ)て、恣(ほしいまゝ)に勢(いきほひ)に誇り、榮耀(ええう)に飽盈(あきみ)ちて、奢(おごり)を極め、諸侍に向ひては、目銛(みぎら)を立て、百姓を責虐(せきぎやく)して、貪(むさぼり)を逞(たくまし)く、欲を深くして、「世の憤(いきどほり)、人の怨(うらみ)、誠に亂根(らんこん)の萠(きざし)なり」と、心ある輩は彈指(つまはじき)をしてぞ、疎(うと)みける。相模守貞時の御内(みうち)に、管領(くわんれい)平左衞門尉賴綱と云ふものあり。泰盛が行跡(ありさま)を目醒(めざま)しく思ひければ、その事とはなくして、中(なか)、不和に快らず、權(けん)を爭ひて、勢(いきほひ)に乘らんとす。泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景は、父に勝りて大に驕(おご)り、世を世とも思はぬ躰にて、山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹・逍遙に法令を破り、式目に背き、我儘を振舞ふこと、諸人の目にも餘りけり。「今、見よ、世の中の大事は、この家よりぞ起らんずらめ」と、危き中にも惡(にく)まぬ人はなし。家運の傾(かたぶ)く習(ならひ)、非道の行(おこなひ)、重疊(ぢうでふ)して、あらぬ心も付く物にや、奢(おごり)の餘(あまり)に、「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」とて、先祖より相續しける藤原の姓を改めて、源氏になり、家中の作法、偏(ひとへ)に執權の如し。馬・物具(もののぐ)の用意、既に分際に過ぎて多く拵へ、腕立(うでだて)・力量ある溢者(あぶれもの)共、數百人を招集(まねきあつ)め、軍事・兵法の稽古を致す事、日比に替りて聞えけり。左衞門尉賴綱は、泰盛父子が缺目(けぢめ)を伺ひ、「少の子細もあれかし」と、内々、工(たく)みける事なれば、此有樣を見聞くより、「究竟(くつきやう)の事こそあれ」と思ひ、潛(ひそか)に相模守に訴へけるやうは、「泰盛父子、逆心を企(くはだて)候事、粧(よそほひ)、色にあらはれ候。その故は、先祖數代相續せし藤原の姓を改めて、源氏になり候。是は偏(ひとへ)に鎌倉を傾(かたぶ)け、將軍に成(なり)て世を持(たも)たんとの結構なるべし。弓矢、馬、物具の用意夥しく、力量逞しく腕立を好む溢者共數百人を集め、非常の行跡(ふるまひ)、是、只事にあらず。諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候。國家の大事、起(おこ)り立ち候はぬ中(うち)に、憚りながら、御思案も候へかし」とぞ申しける。貞時、熟々(つくづく)と打聞きて、「實(げ)にも」と思はれ、「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」とて、同十一月八日、潛(ひそか)に人數を揃へて、殿中に隱置(かくしお)かれたり。泰盛父子は露計(つゆばかり)も思寄(おもひよ)らざる事なれば、出仕の威儀を刷(かいつくろ)うて、參られし所を、「ひしひし」と搦捕(からめと)りて、誅せらる。その館(たち)へは、また、人數を遣(つかは)し、家中悉く追捕(つゐふ)し、一味同類を聞出し、召捕(めしと)りて誅戮(ちうりく)せられけり。俄(にはか)の事にてはあり、女・童(わらは)・老いたる者共、周章慌忙(あはてふため)き、啼叫(なきさけ)びて、逃げ出でたりければ、傍(あたり)近き、地下(ぢげ)・町人ばら、「こは、そも、何事ぞ」とて、上を下に騷立(さはぎた)て、資財雜具(ざふぐ)を持運(もちはこ)びける程に、遠近(ゑんきん)、共(とも)に肝を消(け)し、魂(たましひ)を失(うしな)うて、騷動しけれども、事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり。是より、左衞門尉賴綱一人、愈(いよいよ)、威を振ひ、勢(いきほひ)高くなりけるが、「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず」と云ふことを思ひけるにや、同十二月二十七日に剃髮して、法名果圓(くわゑん)とぞ號しける。北條修理亮兼時は、相模守時賴の六男宗賴の嫡子にて、今年、京都に上洛して、六波羅の南の方にぞ成られける。世の中、今は京都・鎌倉、物靜(しづか)なるやうにて、諸國の有樣(ありさま)は、政道、行足(ゆきた)らざる事あり。「堯・舜も猶、病めり」とは是等をや申すべき。

 

[やぶちゃん注:「同四月」弘安八(一二八五)年。前章准后貞子の九十の慶賀の式は弘安八年に行われており、第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年:北条時宗嫡男)は執権就任(弘安七(一二八四)年四月四日。未だ満十三歳であった)から一年後の弘安八年四月十八日に左馬権頭から相模守に遷任している。

「淳厚(じゆごう)」普通は「じゆんこう(じゅんこう)」。「醇厚」とも書く。人柄が素朴で人情にあついこと。

「秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八年十一月十七日(一二八五年十二月十四日))のこと。「秋田城介」(北辺鎮衛司令官の官職名)は彼の官位。安達義景の三男。彼は源頼朝の流人時代からの側近であった有力御家人の筆頭であった安達盛長の直系の曾孫である(これが後の「我が曾祖(そうそ)景盛は賴朝卿の緣(ゆかり)あり」の謂いとなる)。妻は北条重時の娘。邸宅は鎌倉の甘繩にあった。建長五(一二五三)年に引付衆、翌年に秋田城介を継ぎ、康元元(一二五六)年には引付頭人及び評定衆となって第五代執権北条時頼を補佐した。父義景の死の前年(建長四(一二五二)年)に産まれた異母妹(覚山尼)を猶子として養育して、彼女を弘長元(一二六一)年に時宗に嫁がせ(正室で潮音院殿とも呼び、貞時の母である)、北条得宗家との関係を強固なものとした(本文の「外祖」とはこれを指す。話柄内現在の執権貞時の外祖父(事実上は伯父)に当たる)。弘長三(一二六三)年に時頼が没すると、時宗が成人するまでの中継ぎとして執権となった北条政村や北条実時とともに得宗時宗を支え、幕政を主導する中枢の一人となっていった。文永元(一二六四)年から同四年までは新設の越訴(おっそ)方(訴訟担当機関)の主力を勤め、同九年以降の官位は没するまで肥後国守護であった。著名な「蒙古襲来絵詞」の中で竹崎季長の訴えを鎌倉の邸宅で聴くシーンは建治元(一二七五)年の恩賞奉行の時の姿(四十四歳)である(一部参照にしたウィキの「安達泰盛」にこの絵巻の部分画像が有る)。文永三年の将軍宗尊親王追放の合議に加わっており、弘安年間(一二七八年~一二八八年)にはそれまで北条氏が占有していた陸奥守にあったことから判る通り、幕府の中枢に位置していた。これとともに、安達一族が引付衆・評定衆に進出、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていったことが、後の「霜月騒動」の遠因とも言える。源家相伝の名剣を保持し、実朝の後室八条禅尼から京都西八条遍照心院の保護を委ねられるなど、実際、源家との繋がりが深かった。弓馬に優れ、御所昼番衆の番文を清書するなど、書も達者であり、世尊寺経朝から「心底抄」を伝授されたことは、鎌倉の書風が世尊寺流書道へと流れてゆくの契機となったとされる。宗教面では高野山の檀越の有力な一人として参詣道整備等を積極的に援助し、奥院に後嵯峨天皇供養の石碑を建立、高野版の開板事業も行っている。信仰面では弘安三年に甘縄無量寿院で法爾上人から伝法灌頂を受けて同七年に出家したが、対立する平頼綱(後注)の讒言により、同八年の霜月騒動で一族諸共、滅ぼされた。この霜月騒動により、鎌倉末期の得宗専制体制が固定して行くこととなる(以上はおもに主文を「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠った)。「北條九代記」の筆者は狡猾な人物として叙述しているが、これはかなり悪辣な粉飾である。

「目銛(みぎら)を立て」不詳。底本(有朋堂文庫)頭書には『苛察なるをいふ』とある。「苛察」は「細かい点にまで立ち入って厳しく詮索すること」を指す語である。

「亂根(らんこん)」世が乱れるその種。

「御内(みうち)」御内人は北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の通称。この頼綱の辺りから特に「内管領」(うちかんれい)とも呼ばれるようになる。但し得宗家の執事、得宗被官である御内人の筆頭という「得宗家の家政を司る長」の意であって、幕府の役職名ではない。鎌倉末期には概ねこの内管領が権勢を持ち(特に頼綱の一族である長崎高綱(円喜))、得宗家を凌駕するまでになるのである。

「平左衞門尉賴綱」(?~永仁元(一二九三)年)は北条泰時・時頼の侍所所司で得宗被官御内人であった盛綱或いは盛時孰れかの子とされる。得宗時宗の侍所所司で内管領として「天下の棟梁」(日蓮書状)と目され、幼い執権貞時の乳母の夫として勢力を得た。弘安八(一二八五)年、幕政の実権を握っていた安達泰盛の子宗景が謀反を企てていると讒言し、その一族を滅ぼした(霜月騒動)。幕政での優位を確立した得宗勢力を背景に、諸人が恐れおののく専制的な政治を行ったが、永仁元(一二九三)年、次男の飯沼資宗(助宗)を将軍にしようと企てている、と嫡男宗綱から密訴され、貞時が差し向けた討手に攻められて鎌倉経師谷(きょうじがやつ)の屋敷で一族諸共、自害した(平頼綱の乱)。密告した宗綱は佐渡に配流されたが、後に内管領に復帰し、その後、概ね、同族であった長崎氏が鎌倉末期まで内管領の地位を占有した(ここまでは同じく「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。ウィキの「霜月騒動」によれば、貞時が『執権となると、蒙古襲来以来、内外に諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って』安達泰盛と平頼綱『両者の対立は激化する。貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった泰盛は弘安徳政と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令である「新御式目」を発布した。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威の発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので』、『得宗被官である頼綱らに利害が及ぶものであった』とし、ウィキの「安達泰盛」によれば、ここに記されてあるように、頼綱は泰盛の子『宗景が源姓を称した事をもって将軍になる野心ありと執権・貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得』。弘安八年十一月十七日、『この日の午前中に松谷の別荘に居た泰盛は、周辺が騒がしくなった事に気付き、昼の』正午『頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出向き、貞時邸に出仕した』ところ、そこで『待ち構えていた御内人らの襲撃を受け、死者』三十名、負傷者十名『に及んだ。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所は延焼』午後四時頃に『合戦は得宗方の先制攻撃を受けた安達方の敗北に帰し、泰盛とその一族』五百『名余りが自害して果てた。頼綱方の追撃は安達氏の基盤であった上野・武蔵の他、騒動は全国に波及して泰盛派の御家人の多くが殺害された』とある。

「泰盛が嫡子左衞門〔の〕尉宗景」(正元(一二五九)年~弘安八(一二八五)年)は安達泰盛嫡男。秋田城介を継いでいた。ウィキの「安達宗景」によれば、父泰盛二十九歳の時の子で、第八代執権『北条時宗より偏諱を受けて宗景と名乗』った。建治三(一二七七)年二月に検非違使に任官し、弘安四(一二八一)年に引付衆、翌年には『泰盛が陸奥守に任官するのを機に』二十四『歳の若さで評定衆とな』った。弘安六年に秋田城介に就いた。翌年四月に『執権北条時宗の死去に伴って泰盛が出家しているので、この時に宗景が家督を継承したと見られ、泰盛が長年務めた五番引付頭人も引き継いでいる』。同年五月に『高野山から幕府に宛てた報告書の宛名は宗景となっており、時宗の嫡子貞時が』七『月に執権職に就くまでの空白期に宗景が執権職を代行していた』ことが判るという。弘安八(一二八五)年の霜月騒動で死亡、享年二十七であった。「保暦間記」によれば、『霜月騒動の原因は、宗景が曾祖父の安達景盛が源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓したところ、平頼綱が執権貞時に「宗景が謀反を企て将軍になろうとして源氏に改姓した」と讒言したためとしている』とある。

「山野、海上(かいしやう)、鵜・鷹」山野での狩猟及び海上での水魚類の漁獲及び鵜飼や鷹狩り。

「逍遙」物見遊山。

「法令を破り、式目に背き」殺生戒を無制限に破っていることを指す。

「あらぬ心も付く物にや」教育社の増淵勝一氏の訳では『とんでもない(謀反の)心が取つ付くものなのであろうか』とある。

「物具(もののぐ)」武具。

「缺目(けぢめ)」足をすくえるところの致命的な欠陥・誤りの意。

「少の子細もあれかし」「ちょっとでもよいから致命的な結果を招き得るしくじりをしてくれればよいぞ」の意。

「工(たく)みける」企んでいた。

「究竟(くつきやう)の事こそあれ」「すこぶる都合がよいことではないか!」。

「色」現実の行動・様態。

「諸人の取沙汰、世上の聞(きこえ)、皆、以て、雷同致し候」増淵氏の訳は『人々の取沙汰や世間の評判も皆(泰盛父子の行為を危ぶむ点で)一致しております』とある。

「その義ならば如何にも思案あるべき事ぞ」増淵氏の訳は『そういうわけなら』、『なんとか』、安達一族を滅ぼす『計画を練りたい』とある。

「追捕(つゐふ)」犯罪者と見做した者を追いかけて捕えること。

「地下」ここは下級官人の意。

「遠近(ゑんきん)」鎌倉御府内の周縁は勿論、それより有意に隔たった地域。

「魂(たましひ)を失(うしな)うて」非常に驚いて。

「事、故(ゆゑ)なく靜(しづま)りたり」騒動はあっという間に治まったのであった。

「大名(たいめい)」高名(こうみょう)。この前後の頼綱寄りのいい話は全く事実ではないウィキの「頼綱によれば、霜月騒動で安達一族を滅ぼした後の『頼綱は、泰盛が進めた御家人層の拡大などの弘安改革路線を撤回し、御家人保護の政策をとりながら、暫くは追加法を頻繁に出す等の手続きを重視した政治を行っていたが』、弘安一〇(一二八七)年に第七代『将軍源惟康が立親王して惟康親王となってからは恐怖政治を敷くようになる(この立親王は惟康を将軍職から退け京都へ追放するための準備であるという)。権力を握っていても、御内人はあくまでも北条氏の家人であり、将軍の家人である御家人とは依然として身分差があり、評定衆や引付衆となって幕政を主導する事ができない頼綱は、幕府の諸機構やそこに席をおく人々の上に監察者として望み、専制支配を行ったのである』とし、『頼綱は得宗権力が強化される施策を行ったが、それは頼綱の専権を強化するものであり、霜月騒動の一年後には』、『それまで重要政務の執事書状に必要であった得宗花押を押さない執事書状が発給されている。若年の主君貞時を擁する頼綱は公文所を意のままに運営し、得宗家の広大な所領と軍事力を背景として寄合衆をも支配し、騒動から』七『年余りに及んだその独裁的権力は「今は更に貞時は代に無きが如くに成て」という執権をも凌ぐものであった。頼綱の専制と恐怖による支配は幕府内部に不満を呼び起こすと共に貞時にも不安視され、ついに』正応六(一二九三)年四月、『鎌倉大地震の混乱に乗じて経師ヶ谷の自邸を貞時の軍勢に急襲され、頼綱は自害し、次男飯沼資宗ら一族は滅ぼされた。これを平禅門の乱という。 頼綱の専制政治は、都の貴族である正親町三条実躬が日記に「城入道(泰盛)誅せらるるののち、彼の仁(頼綱)一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候」と記しており』、『恐怖政治であったことを伝えている』。『晩年は次男資宗が得宗被官としては異例の検非違使、更に安房守となっており、頼綱は自家の家格の上昇に腐心していたようである。資宗の検非違使任官の頃、頼綱とその妻に対面した後深草院二条が記した』「とはずがたり」に拠れば、『将軍御所の粗末さに比べ、得宗家の屋形内に設けられた頼綱の宿所は、室内に金銀をちりばめ、人々は綾や錦を身にまとって目にまばゆいほどであった。大柄で美しく、豪華な唐織物をまとった妻に対し、小走りにやってきた頼綱は、白直垂の袖は短く、打ち解けて妻の側に座った様子に興ざめしたという』。『頼綱滅亡後、一族である長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となっている。鎌倉幕府最末期に権勢を誇ったことで知られる長崎円喜は光綱の子である』とある。因みに、『室町時代に禅僧の義堂周信』(正中二(一三二五)年~元中五年/嘉慶二(一三八八)年:土佐国高岡(現在の高知県高岡郡津野町)生まれの名僧。義堂は道号で、周信は法名。空華道人とも号した。当初は台密を学んだが、後に禅宗に改宗して上京、夢窓疎石の門弟となった。延文四(一三五九)年に室町幕府が関東の統治のために設置した鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ下向、康暦二(一三八〇)年まで滞在した。基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務め、公明正大にして厳正中立な人格者として賞讃された。その後に帰京して第三代将軍足利義満の庇護の下、相国寺建立を進言し、建仁寺や南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。春屋妙葩や絶海中津と並ぶ中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧として知られる。ここはウィキの「義堂周信に拠った)『が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」このように頼綱の死後』八十『年以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた』のであった、と記す。この「北條九代記」の筆者の頼綱贔屓は歴史上の事実に全くそぐわず、特異的に極めて不快であると言っておく。

「北條修理亮兼時」(文永元(一二六四)年~永仁三(一二九五)年)は北条時宗異母弟北条宗頼の子。ウィキの「北条によれば、弘安三(一二八〇)年に『長門探題であった父の死に伴い』、『長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴』き、弘安の役から三年後の弘安七(一二八四)年、『摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた』(下線やぶちゃん)。正応六(一二九三)年一月に『探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び蒙古襲来の危機が高まったため、同年』三『月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり』、五月三日『に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた』。翌永仁二(一二九四)年三月、兼時は異国用心のために『筑前国と肥前国で九州の御家人達と』「とぶひ(狼煙)」『の訓練を行い、軍勢の注進、兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は』、永仁三(一二九五)年四月二十三日に『鎮西探題職を辞して』、『再び鎌倉に帰還した』(『翌年には北条実政が鎮西探題に派遣され』ている)。その後、『兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の』五ヶ月後の九月十八日に死去した。享年三十二。

「今年、京都に上洛して」誤り。霜月騒動の前の弘安七年である。筆者の表現上の美味しい辻褄合わせが深く疑われる。その辺りがやはり、実作者を浅井了意と非常に深く疑わせる。

「物靜(しづか)なるやうにて」意味は最後は逆接。「なるやうなれども」。

「堯舜も猶、病めり」。増淵氏訳は、中国の天下を太平とさせたとする伝説上の『堯や舜のような偉大な聖帝もやはり広く天下の人々を救うことは困難としていた』とされる。]

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(25) 禮拜と淨めの式(Ⅲ)

 

 公然に行ふ奉祭の性質は、神々の位に從つて相違して居る。供物と祈禱とはすべての神神に捧げられたのてあるが、大きな神々は非常な儀式を以て禮拜された。今日では通例供物は、食物と酒と、昔から風習として供へられて居た高價な織物を表はす象徴的の品物から成つて居る。又儀式には行列、音樂、歌謠及び舞踊が入つて居る。極小さな社では儀式も少い――只だ食物が供へられるのみてある。併し大きな神社には神官と女の神官(巫女)――通例神官の娘である――との一團の司祭があり、儀式も念が入り嚴肅である。かかる儀式の古風な趣を尤も都合よく研究し得るのは、伊勢の大廟(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)か、出雲の大社に於ててある。佛教の大波は、一時古い信仰を殆ど葬り去つたのであるが、それにも拘らず、この伊勢と出雲とに於ては、何十世紀以前のままに萬事が殘つて居る、――この特別な聖い境内にあつては、神仙談の中にある魔の宮殿に於けるが如く、過ぎ行く時も眠つて居たのかと思はれるやうである。建築の形そのものが、不思議に高く聳え、その見なれない姿で、人の目を驚かす。この社の内にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。奧にあるそれ等の御幣の數に依つて、その場所に捧げてある神々の數を知る事が出來る。其處には空間と、緘默と、過去の暗示との外、何も人の心を動かすものはない。最奧の神壇には幕がかかつて居る、恐らくその内には、靑銅の鏡と古い劍と、八重に包まれて居る何か他の品があるのであらう。それだけである。蓋しこの信仰は諸〻の偶像よりも古いのであるから、人の姿などを要しないのである。其神は亡靈である。そしてその社の何もない靜けさは、耳目に觸れ得る代表物に依つて起こされうるよりも、遙かに深い嚴肅の感を起させる。少くとも西洋人の眼には、其奉祭、禮拜の型、神聖なる品物の形は、いづれも甚だ異樣に感じられる。神火は決して近代式の方を以て點ぜられるのではない――神々の食物を料理するその火は、それは木をもつて作つた火を發しさせる錐のやうなものを以て尤も古い仕方で默火される。神官の長は神聖な色――白――の上衣を着、今日では他所には見られない形の頭の裝をつける、――昔の大公、王子等の着けた高い帽子である。ぞの補助の人達はその位に應じて各種の色をつける。そしていづれの人の顏も全く髯を剃つたのはない――或る人はすつか顎髯を生やし、また或るものは口髯のみを生やして居る。この種の教僧の行動も、態度も、威嚴を備へて居るが、而も一寸文字にあらはせない程に古風な處がある。その身の動かし方は、一々古くからの傳統に依つて定められてあるので、神主たる職務を十分に行ふには、長い準備の訓練が要せられるのである。この職務は父子相傳で、その訓練は少年の時代に始まる。そしてやがてその感情を表現しない樣子が習得されるのであるが、それは實際驚くべきものである。その職を行つて居る神主は。人間といふよりも、むしろ立像のやうに見える、――目に見えない何物かに依つて動かされて居る姿である――そして神と同じく神主は目ばたきをしない……。嘗て長い神道の行列に際し、多くの日本の友人と共に、私は、どれ位長い間、若い神主が目ばたきをしないで居られるかを見ようと思つて、その馬上の姿を注目して居た。而も私共の一人も、吾々が見て居た間に、神主の馬が止つてしまつたに拘らず、その眼若しくは眼瞼の最小の運動たりとも發見したものはなかつた。

[やぶちゃん注:「高價な織物を表はす象徴的の品物」所謂、「幣帛(へいはく)」である(但し、これには広義には前に出る食物と酒も含まれる)。本来は織り上げた衣服・漉いた和紙及び農耕具などを飾った。ここで言うのは「布帛(ふはく)」で絹を主として古くは木綿や麻でできた布地(きれじ)であったが、実際にはこれが本文でも述べている通り、シンボル化して幣(ぬさ)となったものである。今の日本人のどれだけの者が、御幣が、そうした具体な供物の象徴物の変形したものであると知っているだろうか? 我々は素直に小泉八雲の足下に跪かねばならないと私は思う。

「(この神宮の婦人の高い神官は天皇の娘であつた)」これは訳が不全である。原文は“(where, down to the fourteenth century the highpriestess was a daughter of emperors)”であるから(この“highpriestess” “High Priestess”で「女教皇」「女祭司長」の意)、「ここでは、十四世紀末に於いては、その最高位の司祭長としての巫女(みこ)は天皇の娘であった」という意味であり、この「十四世紀末」(頃まで)「に於いては」がないと、事実として非常おかしくなる。所謂、斎宮(いつきのみや)のことである。ウィキの「斎宮」によれば、『平安時代末期になると、治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後復活したが(もう一つの斎王であった賀茂斎院は承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定』(ぼくじょう:先代の斎宮が退下(たいげ)すると、未婚の内親王又は女王から候補者を亀卜(きぼく:亀の甲を火で焙って出来た罅で判断する卜占)により新たな斎宮を定めたことを指す)『さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇においては置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行』(狭義には斎宮が任地伊勢国へ下向することを指す語)『せずに野宮』(ののみや:斎宮や斎院に卜定された後に一定期間籠る施設で、宮城内に設けられた)『から退下したのを最後に途絶した』(退下は建武三(一三三六)年)とある。八雲の「十四世紀末」の謂いはかなり正確であると言える。

「この社の内にはすべてが、さつぱりとして何もなく、至純である、目に見るべき物の姿もなければ裝飾もなく、象徴もない、――只だ供物の象徴であり、また目に見えないものの不思議な御幣が、眞直ぐな棒にかけられてあるのみである。」原文は“Within, ail is severely plain and pure : there are no images, no ornaments, no symbols visible — except those strange paper-cut-tings (gohei), suspended to upright rods, which are symbols of offerings and also tokens of the viewless.”。「目に見えないものの不思議な御幣」は日本語として生硬でよくない(但し、全体を読むと言わんとする意味は解る)。平井呈一氏の訳は、『社殿の内部は、これまた万事が峻厳なくらいに簡素で、純潔で、神の像だの、装飾など、目に見える象徴物などは何一つなく、ただまっすぐな木の棒に、白い紙を切った奇妙な物(御幣)が下がっているだけで、この御幣が供え物をかたどったもので、目に見えない物のしるしとなっている』と訳しておられ、非常に自然に神社の屋内の情景が髣髴としてくるのである。戸川秋骨の訳のまずい部分は、正確に訳そうとする結果、やや英単語の逐語的意味に拘り過ぎ、実際に小泉八雲が描こうとしている実景を再現するという基本的立ち位置を忘れてしまっている点にあると私は思っている。

「其神は亡靈である」確かに原文は“its gods are ghosts ;”ではある。あるが、しかし、やはりしっくりこない。この“ghosts”は「亡くなった人の霊」である。私はやはり平井氏の『その神とは、御霊』(みたま)『である』がしっくりくるのである。

「其奉祭」「其の奉祭」で、その、神を奉って供物を捧げる祭儀全体のこと。]

明恵上人夢記(オリジナル訳注) 55

 

55

 同年二月十五日、所存有るに依りて出でず。其の夜、聊か眠り入る。夢に云はく、覺嚴(かくごん)法師、數多の人數を具して來りて、予に教訓せしめむと欲す。予、教訓せざれば、人皆興無し。仍りて佛事を他所へ移さむとす。即ち涅槃會を移さむとすと覺ゆ。

 同十六日後朝に、前の正月の夢を思ひ合するに、卽ち此の二月十五日に出でざる事を見る也。卽ち前年の夢想と同じと云々。此の年、潤(うるふ)二月あり。仍りて行じて之に入るべしと云々。

[やぶちゃん注:「同年」建保七(一二一九)年。

「覺嚴(かくごん)法師」不詳。夢の内容から見ると、必ずしも明恵の親しんでいる(好ましく思っている)僧ではないように夢の中では存在しているように思われる。現実でも、事実、そうなのかもしれない。

「涅槃會」釈迦入滅の日とされる陰暦二月十五日に釈迦の徳を讃えて行う法会。涅槃図を掲げて遺教経(ゆいききょうぎょう)を読誦する。因みに現在は三月十五日に行われる。「更衣(きさらぎ)の別れ」などとも呼ぶ。

「後朝」「こうてう」と音読みしておく。但し、これは単なる翌朝ではなく、涅槃会を行った翌朝の謂いである。

「前の正月の夢」これは直前にある建保七年正月の「54」を指していると考えてよい。但し、「54」のどこがこの夢と絡み合い、或いは次の注で示す通り、〈予知夢〉であるのかは、残念なことに私には分らない

「此の二月十五日に出でざる事を見る也」意味がとりにくい。一つ、冒頭にある「所存有るに依りて出でず」という事実を受けているとするならば、正月の夢は涅槃会の日にある強い思いがあったために寺から出なかったことの予知夢であったという意味で採れる。明恵はしばしば予知夢(或いはそう彼が解釈した夢)を見ていることから、そう解釈しておく。

「前年の夢想「51」「52」「53」が建保六年の夢と思われるが、これらのどれかを指している確証はない。本「夢記」は後人による断章の寄せ集めであり、ここで指している夢はこれらとは限らないからで、寧ろ、これらではないと私は感ずる。

「此の年、潤(うるふ)二月あり」「潤」は底本の用字。建保七年には閏二月がある。因みにこの建保七年は四月十二日に承久に改元されている。

「仍りて行じて之に入るべし」意味がとりにくい。まず文脈上は「仍りて」は唐突に語られる、この年には閏二月がある、という事実を指して「仍りて」であることを指すとしか読めないことである。とすれば、これは涅槃会が一ヶ月後に今一度あることを指していると採れるように思う。だから、その事実をよく認識してこれより一ヶ月の間(この年の二月は小(因みに閏二月も小)であるから、それぞれの十五日を数に入れるとかっきり三十日となる)修法を堅固に「行じて」その観想の中にしっかりと貫入せねばならぬ、という自戒なのではなかろうか? 大方の御叱正を俟つ。]

□やぶちゃん現代語訳

55

 同じ建保七年二月十五日、ある強い思いがあったによって、一日(いちじつ)、寺から一歩も出なかった。

 其の夜、聊(いささ)か眠りに落ちた。

 而してこんな夢を見た。

 

……覚巌(かくごん)法師が、数多(あまた)の人々を伴にして来たって、私に教訓を垂れんとした。

 私は、俄然、その教訓を受け入れなかったため、その場にいた人々は、皆、不興となって私を責めるような目つきでいた。

 覚巌法師とその与(くみ)する一党は、そこで、仏事を他所へ移して行おうとするのであった。

 即ち、涅槃会の会場を、私のこの寺から別の所へ強いて移そうとするのであった……

 

というところで、覚醒した。

 同年二月十六日、即ち、涅槃会の明けた翌日のこと、以前、本年正月に私が見た夢と今回の夢を思い合わせて解釈してみたところが、即ち、正月の夢はまさに、この前日の涅槃会の二月十五日に、私がある覚悟から、寺に籠って一歩も出なかったという事実を予知している夢であったと読めたのである。即ち、前年にあった予知夢の夢見と同じ現象であったのであると判ったと……。この年は閏二月がある。だから、これより一月(ひとつき)の間は修法を堅固に行じて、その観想の中にしっかりと貫入せねばならぬ、と知ったのであると……。

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅶ) 昭和五(一九三〇)年三月・四月

 

[やぶちゃん注:昭和五年二月の日記には詩歌はない。]

 

 三月三日 月曜 

 

◇地理學者に知られてゐない國がある。

  そこ王樣は木乃伊だといふ。

 

 

 

 三月十一日 火曜 

 

◎格言を日記にいくつ書き止めて

  けふなまけたる罪をつぐなふ

 

 

 

 三月十六日 日曜 

 

◇手や足は消耗品と聞くからに

  いよいよ赤し製鐡所の空

 

[やぶちゃん注:「いよいよ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

◇世界は平たい。世界の涯はホンタウに

  泥海ですよと燕等は云ふ。

 

 

 

 三月十九日 水曜 

 

◇自殺した女の死骸に云つて遣る

  お前の虛榮に俺は敗けたと

 

 

 

 三月二十日 木曜 

 

◇デパートの倉庫の鍵を俺は持つてゐる

  賣子女の貞操の鍵を

 

◇彼女を殺した短劒を埋めて

  その上に彼女の好きな花を埋めておく

 

 

 

 三月二十八日 金曜 

 

◇心中をする馬鹿せぬ馬鹿出來ぬ馬鹿

  なんかと云( )氣取る大馬鹿

 

[やぶちゃん注:丸括弧空欄は底本のママ。これは判読不能字ではなく、実際に日記にこのように記されてある。「へば」「ふと」「ひて」などを考えあぐんだ空欄か。]

 

 

 

 四月三日 木曜 

 

◇慈善鍋に十戔玉を投げ込んで

  すこし行つてから冷笑をする

 

◇小父さんの顏によく似た樫の樹の

  瘤が小雨に眼をつぶつてゐる

 

 

 四月五日 土曜 

 

人間の顏によく似た木の瘤が

 ある夜ひそかに眼をあけてみる

 

[やぶちゃん注:四月三日のそれを改稿したもの。この対象素材は気に入っていたことが判る。]

 

 

 

 四月九日 水曜 

 

◇酒を飮んで氷の海を沖の方へ

  どこまでも行くと氣持ちよく死ぬ

 

[やぶちゃん注:これはもう言わずもがな、私の偏愛する夢野久作の小説「氷の涯」(リンク先は私のオリジナル全電子化注のPDF縦書版。本ブログ・カテゴリ「夢野久作」でも分割公開(二〇一五年六月二十七日から七月六日までの二十二回)してある)のエンディング・イメージである。しかし、同作の公開は昭和八(一九三三)年二月刊の『新靑年』であるから、実におよそ三年前には本作の構想があったものと考えて良かろう。

 

 

 

 四月十日 木曜 

 
 
◇教會入口をヂツと見てゐると

  ダンダン惡魔の顏に似てくる

 

[やぶちゃん注:「ダンダン」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

 

 

 四月十四日 月曜 

 

◇ポンペイのまだ掘り出されぬ十字路に

  惡魔の像が舌出してゐる

 

 

 

 四月十九日 土曜 

 

春の夜のそこはかとなき隈々に

 黑きもの動くわが心かも

 

 

 

 四月二十日 日曜 

 

にんげんの牡と牝とが政権を

 爭ふといふ世も末なれや

 

[やぶちゃん注:これは恐らく、この七日後の昭和五(一九三〇)年四月二十七日に市川房枝らが尽力して開催された「第一回全日本婦選大会」(当時は未だ婦人参政権はなかった)や、同年、婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で可決されるも、貴族院の反対で実現に至らなかった事実を受けた感懐であろう。]

 

 

 

 四月二十五日 金曜 

 

◇米國には惡魔の塔があるといふ

  冨士山しか無き日の本あはれ

 

[やぶちゃん注:「冨」の字は底本の用字。

「惡魔の塔」スティーヴン・スピルバーグ(Steven Allan Spielberg 一九四六年~)の映画「未知との遭遇」(Close Encounters of the Third Kind:「第三種接近遭遇」。一九七七年公開。本邦公開は翌年)で異星人の宇宙船が降下する場所として知られる、ワイオミング州北東部に存在する岩山、通称「デビルスタワー」(Devils Tower)のことであろう。ウィキの「デビルズタワー」によれば、『地下のマグマが冷えて固まり、長年の侵食によって地表に現れた岩頸と呼ばれる地形で』標高は千五百五十八メートルであるが、麓からの比高は三百八十六メートル程度である。頂上は九十一×五十五メートルの広さがあるという。『アラパホ族など先住民族が主に熊信仰の対象として様々な呼び名を付けていた。アメリカ先住民族の口承によると、デビルスタワーの縦筋はグリズリーベア』(Grizzly bear:食肉目イヌ亜目クマ下目クマ小目クマ上科クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種ハイイログマ Ursus arctos horribilis)『によって付けられたものという。この地を探検した米国軍人の通訳が初め「悪神のタワー」と誤訳したことで、後にデビルスタワーと呼ばれるようになった。近年、名称変更の動きがあったが、政府は観光客減少による地域経済への影響から変更に反対した』という(アメリカ・インディアンの聖地をかく名付けるアメリカ人は如何にも「野蛮」であると私は思う。今も元の意味に近い「ベア・ロッジ・ビュート」(Bear Lodge Butte:「ビュート」は米国西部の平原に孤立する周囲の切り立った丘」を指す語)や「グリズリー・ベア・ロッジ」(Grizzly bear lodge)と呼ぶ人もあるというではないか(英語版ウィキや後のリンク先等を参照))。ここはアメリカで最初に国定記念物に指定されたスポットでもある。サイト「スピリチュアブレス」の「悪魔の塔と呼ばれる聖地! デビルズタワーを満喫するポイント5選」がよく書かれてあり、写真も美しい。]

 

◇うゝつなきうつゝとなりて眼に殘る

  息づまり行く吾が兒の泣き聲

 

 

 

 四月二十六日 土曜 

 

眼を閉ぢて寢返りすれば

 あの寶石が闇にズラリと並ぶ

 

 

 

 四月二十八日 月曜 

 

◇吾が居ねば兒等と一所に草摘みて

  夕餉を作る吾妻いとしも

 

◇遠ざかる舟の行く手を見守りて

  吾れとしもなくぬる吾が心

 

[やぶちゃん注:後者の下の句は用語法が上手くない。]

 

 

 

 四月二十九日 火曜 

 

◇豆腐菩薩豆で四角でやわらかに

  白くおはせどアクで固まる

 

[やぶちゃん注:「やわらかに」はママ(次歌も同じ)。底本では「ま」が右に転倒しているが、誤植と見て特異的に訂した。]

 

◇豆腐菩薩豆で四角でやわらかに

  年寄りの齒をすくひたまふや

北越奇談 巻之六 人物 其七(孝子春松)

 

    其七

 

 孝子門左衞門は荒川村【新發田に近し。】百姓丑之助が男(なん)なり。上(うへ)より其(その)至孝を賞せられて、白銀(はくぎん)七(しち)枚を賜ふ。世の美談あるによつて傳を略す。

 近來、葛塚に豆腐を賣(うつ)て業(なりはひ)とする者、春松(はるまつ)と云へる者あり。家、貧して、老父【多助と云ふ。】、足痿(なへ)て久しく不ㇾ起(たゝざる)に事(つか)へて孝なり。初め、妻を迎ひ、一子を産して死す。春松、又、後の妻を不ㇾ迎(むかへず)。幼児を背負(せおひ)ながら業を營み、父を介抱し、二便(にべん)の用に至るまで、盡(ことごと)く其手を離るゝことなしと雖も、露ばかりも疎(うと)ましき色、面(おもて)に表はるゝことなく、益(ますます)孝養を盡(つ)くして、又、近隣と善(よし)。然(しか)れば、其至孝を賞すること、東都(とうど)に達しぬるより、過(すぎ)し文化二ツの年か、忽(たちまち)、上命(しようめい)ありて、忝(かたじけな)くも白銀三枚を下(くだ)し給(たまは)りしより、貴となく賎となく、其孝を賞しあやかりて、金(こがね)を贈(おくり)、錢(せん)を贈る者、幾千万と云ふことを知らず。誠に是、至孝の徳、天の然らしむる所、誰(たれ)か羨(うらやみ)思はざらん。も過(すぎ)し年、其家に訪ね至り、徳を賞し、幸(さいはひ)を祝し、且、其人を見るに、即(すなはち)、昨日(きのふ)の貧(まずしき)を忘れず。賤しき業(わざ)して、父と小児とを介抱し居れり。

 

[やぶちゃん注:「孝子門左衞門」野島出版補註は『不詳』とする。

「荒川村」現在の新潟県新発田市荒川であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「白銀七枚」「白銀」は銀を長径約十センチメートルの平たい長円形に成形したものを紙に包んだもので、多くは贈答用として用いられた。通用銀の三分(ぶ)に相当する。「一分銀」は四枚で一両であるから、二両弱、現在の九万円ほどの換算になる。

「葛塚」既出既注。現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西方、新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「春松」野島出版補註は『不詳』とする。

「二便」大小便。

「盡(ことごと)く其手を離るゝことなし」常時、付っきりの介護が必要であることを言っている。

「東都(とうど)」「ど」は原典のママ。江戸。

「文化二ツの年」一八〇五年。本書の刊行は文化九(一八一二)年春であるが出版にかなりの時間がかかっていることを考慮すると、当時としては、本書の崑崙の叙述が、かなりアップ・トゥ・デイトものであったことが判る。]

2017/09/10

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第七章 生存競爭(1) 序・一 競爭の避くべからざること

 

    第七章 生存競爭

 

 自然界は常に略々平均を保つて、或る一種の動植物だけが盛に增加することはなかなか出來ぬやうになつて居るが、動植物各種の實際に子を生む數は甚だ多いのが普通である。而して、自然界の平均が保たれて居るのは、全く一對の動物からは、平均二疋の子、一本の草からは、平均僅に一粒だけの種が生存して、たゞ親が自然界に占領して居た位置を受け繼いで守るの結果であるから、殘餘のものは無論每囘實際に死に絶えて居るので、我々が之に心附かぬは單に注意の行屆かぬためである。

 

 假に雀が十年間每年十個づゝの卵を生むと考へても、一生涯には百疋の子を生ずるが、年々歳々雀の數に著しい變化のないのを見れば、その中平均九十八疋ずつは何かの理由によつて死んでしまふに相違ない。他の動植物とても之と同じ理窟で、一生涯に數百萬も卵を生む魚類なども、先づその中から平均二疋だけが生き殘つて、他は悉く死んでしまふが、このものがどうして死ぬかと考へるに、之には種々の原因がある。例へば寒暑・風雨の如き氣候上の關係から死ぬものも澤山ある。水に溺れて死ぬものもあれば、浪に揉(も)まれ、岩に碎けて死ぬものもある。また他の動植物のために直接に命を奪はれるものも澤山にあり、食物が足らぬために死ぬものも無數にある。

 

     一 競爭の避くべからざること

 

 地球上には動植物各種をして自由に增加せしむべき餘地は少しもない。その所へ動稙物の各種が遠慮なしに多數の子を生むのであるから、互の間に劇しい競爭の起るは見易い道理ではあるが、その有樣を詳しく論ずるには、先づ諸生物の生活する有樣から考へてかゝらなければならぬ。

 

 動物の中には獅子・虎・狐・狸のやうに肉を食ふものもあれば、牛・馬・羊・鹿の如くに草を食ふものもあるが、獅子・虎等の餌となるものはやはり草を食ふ動物故、動物の食物は直接にか間接にか必ず植物より取るの外はない。また海産の動物を取つて見るに、三尺の魚は一尺の魚を食ひ、一尺の魚は三寸の魚を食ひ、三寸の魚は一寸の蟲を食ひ、一寸の蟲は三分の蟲を食ふといふやうな具合で、どれもこれも皆肉食動物ばかりのやうであるが、最も小さな蟲類は大洋の表面全體に浮いて生活する無限の微細藻類を餌とするから、この場合にも動物の食物の根元はやはり植物界にある。然らば植物は何を食ふかといふに、陸上の植物ならば空中より炭酸瓦斯を取り、地中より水と鹽類とを取り、水中の植物ならば水中より總べての養分を取り、孰れも日光の力を借りて之を自分の體質に造り換へ、生長し繁殖するのである。それ故、綠色を呈する植物は全世界の生物總體に對し、食物供給の役を務めるものといつて宜しい。

 

 斯くの如き有樣故、植物なしには草食動物は生きて居られず、草食動物なしには肉食勤物は生きて居られぬ。草を食はなければ生命が保てぬのが草食動物の天性であるから、草食動物を飼ふ人は初より每日若干の草を犧牲に供する積りでなければならず、また他の動物を食はなければ生命が保てぬのが肉食動物の天性であるから、肉食動物を飼ふ人は初より日々若干の動物を殺す覺悟でなければならぬ。草と草食動物と肉食動物とが相竝んで互に犯さず、共に生存して行くといふことは到底出來ぬことである。

 

 昔、釋迦が印度の山中で難行苦行をして居られる處へ、惡魔が試(ため)しに來た話がある。先づ鳩に化けて飛んで來て、「お釋迦樣、今鷹が私を捕つて食はうと追ひ掛けて來ます。どうか憐れと思うて御肋け下さい」といつたので、釋迦は直に鳩を懷に入れて隱してやつた。所へ、また惡魔が直に鷹に化けて飛んで來て、「お釋迦樣、私は久しく物を食はず、非常に腹が減つて居ります。今追ひ掛けて來た鳩を食はなければ必ず直に餓死します。どうぞ憐れと思うて今の鳩を出して下さい」といつたから、釋迦はどうしたら宜しからうと思案した後、自分の腿の肉を少し殺(そ)ぎ取つて之を鷹に與へ、遂に鳩をも鷹をも助けられたといふことである。素より之は苛も慈悲忍辱を旨とするものはこの心掛けでなければならぬといふ譬で、教訓としては最も妙であるが、實際この方法で鳩も鷹も助けられるかといふに、なかなかさやうには行かぬ。若し世の中に鳩も一疋、鷹も一疋よりなく、之を僅に一日だけ助けるのならば、この方法で差支はないが、總べての鳩と總べての鷹とを兩方ともに何時までも助けることは決して出來ぬ。幸ひ惡魔が一囘だけより鳩と鷹とに化けて來なかつたから宜しいやうなものの、若し根氣よくこの試しを何囘も繰り返し、また鳩に化けて來て隱して貰ひ、また鷹に化けて來て腿の肉を殺いで貰つたらば、一度に半斤づゝとしても、十囘には五斤となつて、今度は釋迦が死んでしまふ。

[やぶちゃん注:ここに示された、釈迦と鳩と鷲の物語は、元はインドの叙事詩「マハーバーラタ」に登場するシビ王の物語である。ウィキの「シビによれば、この構成は『多くの仏典に取り入れられ』、シビ王とは『釈迦が過去世において菩薩として檀(布施)波羅蜜を修行していた時の名とされた。漢訳経典では「尸毘」、「尸毘迦」と音訳される。「シビ王の捨身」「シビ王と鷹と鳩」などの物語で知られる』。『シビ族にウシーナラという高徳な王がいた。雷神インドラ(帝釈天)と火神アグニは彼を試すために、インドラは鷲に変身し、アグニは鳩に変身した。アグニは鷲から逃げた鳩を演じ、ウシーナラ王のもとに庇護を求めた。 鷲は王に言った。「諸王はあなたのことを法(ダルマ)を本性とするものと言っている。なぜ法に背くことをするのか?」 王は鷲に言った。「この鳩は庇護を求めて来たのだ。この鳩を守らねば、非法(アダルマ)となるだろう。この鳩は震え、救いを求めて私のもとに来た。助けなければ私は非難されるだろう。」 鷲は言った。「すべての生き物は食べ物によって生きている。人は財物を失っても生きるが、食事を捨てたら生きられない。食べ物を奪われたら俺は死ぬ。俺が死ぬと息子や妻も死ぬだろう。あなたがこの鳩を保護すれば多くの生命を殺すことになる。それは法ではなく悪法だ。何ものをも妨げることなき法が真の法だ。」 王は言った。「お前は法をよくわきまえている。しかし庇護を求めてきたものを捨てることは正しいだろうか。お前の目的は食べ物を得ることだが、他の方法によっても、もっと多くの食べ物を得ることができる。牛や猪や鹿や水牛、何でもお前のために用意してやろう。」 鷲は言った。「俺は猪や鹿や水牛なぞ食わぬ。俺のために鳩を放せ。鷲は鳩を食うものなのだ。もしあなたが道理を知っているなら、バナナの幹に登ってはならない(道理に背いてはならない)。」 王は言った。「お前が望むなら、シビ族の王国を統治してもよい。お前の望むものは何でもやろう。しかし庇護を求めて来たこの鳩をやるわけにはいかぬ。私にできることがあったら言ってくれ。」 鷲は言った。「そんなに鳩が愛しいなら、自分の肉を切って、秤にかけて鳩と同じ重さの肉を俺にくれ。俺はそれで満足する。」 王は言った。「今すぐ自分の肉を秤にかけてお前にやる。」 そして、王は自分の肉を切って、鳩とともに秤にのせた。しかし秤の上の鳩はだんだん大きくなっていった。王は自分の肉をさらに切り続け、ついに鳩とつり合う肉が無くなってしまうと、王は自ら秤に乗った。 すると鷲は告げた。「私はインドラで鳩はアグニだ。我々は今日、法に関して汝を試すためにやって来たのだ。自分の身体から肉を切り取るとはすばらしい。この世で汝の名声は永遠に存続するだろう」』というのが「マハーバーラタ」の話であるが、正確にはこれは『実はシビの父ウシーナラの物語であるが、写本によってはシビ自身の話としても収められている』という。『この話は、後世、仏の布施を称賛する比喩として』「大智度論」・「賢愚経」・「仏本行経」・「十住毘婆沙論」・「六度集経」など、『多数の漢訳仏典に好んで引用された』。「ジャータカ」・「大智度論」など『では、シビ自身の話となっている』とある。

「慈悲忍辱」「じひにんにく」と読む。「慈悲」は「慈しみ深い心」、「忍辱」は「苦難を耐えて忍ぶ」ことで、情け深く、如何なる苦難も耐えて忍ぶことを指す。

「半斤」一斤は六百グラムだから三百グラムで、「五斤」は三キログラムとなる。]

 

 また長閑な春の日に野外に散步して見ると、草木の靑々と茂り、花の美しく咲いて居る處に、蝶が面白さうに飛び廻り、小鳥が樂しさうに歌うて居る。詩人は之を詩に作り、畫家は之を繪に畫いて、ともにこの世の樂しさを賞め讃へるが、之は極めて皮相な感じで、少し丁寧に考へて見たらば、世の中は決して斯く無事平穩なものではない。鳥が斯く歌うて居られるのは今日までに數千萬の蟲を食ひ殺した結果で、歌ひながらも尚蟲の命を取らうと探して居る。また蝶が斯く舞うて居られるのも幼蟲の頃に澤山の菜類を食ひ枯らした結果である。而してあそこの樹の枝には蝶を捕へて殺し食はうと蜘蛛が巧に網を張つて待つて居り、こゝの樹の頂上には小鳥を捕へて殺し食はうと鷹が鋭い目を張つて狙つて居るから、蝶の命も、小鳥の命も、殆ど風前の燈の如く、一つ油斷すれば忽ち食ひ殺されてしまふので、なかなか氣樂に遊んでばかりは居られぬ。動植物は總べて斯くの如く相殺し相食つて、自然界の平均を保つて居るのである。

 

 斯かる所へ、年々歳々動植物の各種が夥しく子を産むのであるから、その多數は無論他の動物のために餌として食ひ殺され、生き殘るものも餌を得るために甚しく相爭はなければならぬ。動植物の增加力は前にも述べた通り實際無限であるが、それは代々生れる子が悉く生存し繁殖するものと假定した上のことで、現在の如く每囘生れる側(そば)から他の動物にその大部分を食はれてしまふ場合には、素より著しい增加の出來る筈がない。尚その上に一地方に於ける各種の動物の食物の總量には常に制限があつて、生き殘つたものを皆養ふことは到底出來ぬが、假に兎が一疋居るのを大が二疋で見附けたとしたならば、先に兎を捕へた大は飽食し、後れた方は餓死せねばならぬ譯故、如何なる動物も食ふための競爭は免れぬ。また兎の二疋居る所へ犬が一疋來れば、速く逃げた兎は生き殘り、遲い方は食はれてしまふ譯故、大抵の動物は食はれぬための競爭も避けることは出來ぬ。動植物ともに各自皆食ふやうに、食はれぬやうに、殺すやうに、殺されぬやうにと競爭して居るのが實際の狀態である。

 

 英國のマルサスといふ經濟學者は「人口論」といふ書物を著したので有名な人であるが、この書の要旨は略々下の如く、「凡そ國の人口は幾何級數の割合で增加するが、之に對する食物その他の需要品は多く見積つても算術級數の割合よりかは殖えぬ。それ故、必ず近い内に食物の不足する時が來る。その時には營養不良のために身體は弱くなり、隨つて病氣も殖え、生活の困難なるために強盜・竊盜・詐欺その他總べての罪惡が劇しく蔓延つて、如何とも出來ぬ世の中となる。これを防ぐには今より結婚を制限し、獨身生活を奬勵し、子の生れる數を減ずる工夫をするより外には致し方がない」といふのである。ダーウィンもこの書を讀んで、動植物はどうであるかと考へ、自然淘汰の理に氣が附いたといつて居るが、自然淘汰説はつまりマルサスの「人口論」を廣く動植物界に當て嵌めたやうなものである。尤もこの書の始めて出版になつたのは今より百何年も前のことで、その中には根據のないことや、實際と違つたことが幾らもある。倂し、人口の增加の急劇なるベきこと、隨つて生存のために競爭が起らざるを得ぬといふだけは、誰も眞理と認めねばならぬ。動植物は前にも述べた如く現在既にこの有樣に達して居るのであるから、如何なる種類と雖も、苛も生存して居る間は決して競爭以外に立つことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:『マルサスといふ經濟學者は「人口論」といふ書物を著した』イングランドのサリー州ウットン出身の、古典派経済学を代表する経済学者トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus 一七六六年~一八三四年)が一七九八年に発表したAn Essay on the Principle of Population(「人口の原理に関する一考察」:この時の初版は小冊子で匿名であったが、一八〇三年には大幅な訂正増補を加え、著者名を付して第二版を出版、以後、版を重ねるごとに増補を加え、一八二六年に出した最後の第六版では初版の約五倍の語数に達した)。参照したウィキの「人口論によれば、まず、『マルサスは基本的な二個の自明である前提を置くことから始める』。それは『第一に食糧(生活資源)が人類の生存に必要である』という命題で、『第二に異性間の情欲は必ず存在する』である。『この二つの前提から導き出される考察として、マルサスは人口の増加が生活資源を生産する土地の能力よりも不等に大きいと主張し、人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する、という帰結を導く』(太字はママ)。而して『次にマルサスは』、『このような人口の飛躍的な増加に対する制限が、どのような結果をもたらすかを考察している。動植物については本能に従って繁殖し、生活資源を超過する余分な個体は場所や養分の不足から死滅していく。人間の場合には動植物のような本能による動機づけに加えて、理性による行動の制御を考慮しなければならない。つまり経済状況に応じて人間はさまざまな種類の困難を予測していると考える。このような考慮は常に人口増を制限するが、それでも常に人口増の努力は継続されるために人口と生活資源の不均衡もまた継続されることになる。人口増の制限は人口の現状維持であり、人口の超過分の調整ではない』。『このような事実から人口増の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。なぜなら人口が多いために労働者は過剰供給となり、また食料品は過少供給となるからである』。これは現状の必然的帰結であり、社会制度の改良によっては回避され得ないとした。これを一般には「マルサスの罠」と呼ぶ。『このような状況で結婚することや、家族を養うことは困難であるために人口増はここで停滞することになる。安い労働力で開墾事業などを進められることで、初めて食料品の供給量を徐々に増加することが可能となり、最初の人口と生活資源の均衡が回復されていく。社会ではこのような人口の原理に従った事件が反覆されていることは、注意深く研究すれば疑いようがないことが分かるとマルサスは述べている』。『このような変動がそれほど顕著なものとして注目されていないことの理由は』、『歴史的知識が社会の上流階級の動向に特化していることが挙げられる。社会の全体像を示す、民族の成人数に対する既婚者数の割合、結婚制度による不道徳な慣習、社会の貧困層と富裕層における乳児の死亡率、労賃の変化などが研究すべき対象として列挙できる。このような歴史は人口の制限がどのように機能していたのかを明らかにできるが、現実の人口動向ではさまざまな介在的原因があるために不規則にならざるをえない』とする。こうしたマルサスの思想は産児制限で最貧困層を救おうとする考えに発展し、そうしたものを「マルサス主義」と称するようになって、マルサスは一躍、有名人となった。ウィキの「トーマス・ロバート・ルサによれば、「人口論」は『次のような命題につながる。人口の抑制をしなかった場合、食糧不足で餓死に至ることもあるが、それは人間自身の責任でありこれらの人に生存権が与えられなくなるのは当然のことである』。『戦争、貧困、飢饉は人口抑制のためによい』。『これらの人を社会は救済できないし、救済すべきでないとマルサスは考えた』。『これらマルサスによる生存権の否定は、ジャーナリストのウィリアム・コベット』(William Cobbett 一七六三年~一八三五年:マルサスと同じサリー州のファーナム出身)『などから人道に反すると批判を受けた』。『人口を統計学的に考察した結果、「予防的抑制」と「抑圧的抑制」の二つの制御装置の考え方に到ったが、この思想は後のチャールズ・ダーウィンの進化論を強力に支える思想となった』(ダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)が進化論を明確に主張した「種の起源」(原題On the Origin of Species」)は一八五九年十一月二十四日(安政六年十一月一日相当)の出版)。『特に自然淘汰に関する考察に少なからず影響を与えている』。『すなわち、人類は叡智があり、血みどろの生存競争を回避しようとするが、動植物の世界にはこれがない。よって』、『マルサスの人口論のとおりの自然淘汰が動植物の世界には起きる。そのため、生存競争において有利な個体差をもったものが生き残り、子孫は有利な変異を受け継いだ』、『とダーウィンは結論したのである』。『またマルサスは救貧法について、貧者に人口増加のインセンティブ』(incentive:欲求の動機付け)『を与えるものであり、貧者を貧困にとどめておく効果があるとし、漸進的に廃止すべきであると主張していた』ともある。なお、『マルサスの悲観的な予言にも拘らず、マルサスの』主張以降、『人口爆発が起こっており、特に先進国では食糧不足も起こっていないため、マルサスの予言は外れたようにみえる』。『このような結果をもたらしたのは科学技術の発展により、農作物の生産量やその輸送方法が劇的に改善したからであ』り、『なかでも、ハーバー・ボッシュ法』(ドイツの、物理学者フリッツ・ハーバー(Fritz Haber 一八六八年~一九三四年)と化学者カール・ボッシュ(Carl Bosch 一八七四年~一九四〇年:後に百五十年の歴史を持つ、かの世界最大の総合化学メーカーBASFの代表となった)が一九〇六年に開発した「ハーバー=ボッシュ法」(Haber–Bosch process)。鉄を主体とした触媒上で水素と窒素を高温・高圧状態に置き、直接反応させてアンモニアを生産する工業法。所謂、大気中の遊離窒素を取入れて窒素化合物を生成させる「空中窒素固定」(fixation of atmospheric nitrogen)の画期的技法である)『などによって化学肥料が発明された事の役割がきわめて大きい』とある。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(3) 「變てこな人たち」(Ⅲ) /「變てこな人たち」~了

 

 私の服がみすぼらしいといふので、私の世話人が、翌朝、洋服屋を呼んで來ました。ところが〔、〕その洋服屋のやり方が、ヨーロッパの寸法の取り方とは、まるで違ふのでした。彼は定規とかコンパスで〔私の身躰をはかり、〕いろんな數學■〔學上のけい算〕を紙に書きとめました。〔■〕 〔■は〕〔そして服は〕六日目に出來上つて〔りま〕したが、その恰好はてんでなつていないのでした。なんでも計算の數字を間違へたのださうです。〔し〕かし、そんな間違はいつもあることで、誰も気にするものはないといふこと〔の〕で、私も少し安心しました。

 私は病氣で五六日引き籠つてゐましたが、その間に〔、〕だいぶこの國の言葉を勉強しました。それでその次に宮廷へ行つた時には、国王のいふこともわかれば、〔私も〕いくらか返事をすることもできたのです。[やぶちゃん注:現行版はここで改行。]陛下は、〔この〕島を〔、〕北東東にに進ませて、ラガード(下の大地にあるこの国の首都)の上にもつてゆくよう〔、〕お命じになりました。ラガードは約九十リーグであるから、四百三十四キロ五百二十メートルとなる。]ほど離れてゐたので、この航空〔旅行〕には四日半かかりました。〔そして〕旅行中、この島が空中を進行してゐるやうな氣配はちよつとも感じられないのです。〔でした。〕三日目の朝、十一時頃、國王は自ら貴族、廷臣、役人どもを從へられ、それぞれ樂器の調子を整へると、それから三時間、休みなしに演奏されました。私はもう耳が聾になりさうでした。

[やぶちゃん注:「北東東にに」の「にに」はママ。衍字。また、現行版では最後の一文の頭には「騷々しくて、」が挿入されてある。

「ラガード(下の大地にあるこの国の首都)」この丸括弧内は、原稿では当初、丸括弧なしで、「ラガード」の前に書かれてあったものを、丸括弧を追加した上で「ラガード」の下に矢印で移行記号が書かれてある。校正記号のように全体が囲まれていないから、移行には丸括弧が生きる。

「約九十リーグ」以前に注した通り、「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」であるから、四百三十四キロ五百二十メートルである。]

 首都ラガードへ行〔く途〕中、陛下は〔、〕ところどころの町や村の上に〔、〕〔この〕島をとめるよう〔、〕お命じになりました。これは〔、〕それぞれ〔、〕人民の訴へごとを、おききになるためでした。小さい錘のついた紐が〔、〕〔この〕島から〔おろ〕されると、下にゐる人民はそれに請願書〔手紙〕を括りつけます。そして〔そして〕紐は〔すぐ〕また吊上げられるのです〔ます〕。丁度、子供が凧の絲のはしに、紙片を結びつけるやうなものです。時には〔、〕下から〔持つてくる〕酒や食料〔が〕〔、〕滑車で引上げられることもあります。

 彼等の〔この國の人たちは、〕家の作り〔方が〕非常に下手です。壁は歪み、どの室も直角になつてゐません。彼等は定規や鉛筆で〔する〕紙の上の仕事は大変もつともらしいのですが、實際のやりかたでは〔地にやらしてみると〕、この國の人間ぐらゐ下手で不器用な人間はゐません。ただ 〔彼等は〕 數樂と音樂 に〔→は〕熱 中して、〔→心ですが〕その〔ただ數學と音樂は別ですが、〕他のことが〔→問題→に〕まるで■〔駄目なのです。〕なると、これくらゐ、ものわかりの悪い、出鱈目な人間は〔あり〕ません。理窟を言はせれば、さつぱり筋が通らないし、〔むやみに〕反対ばかりします。彼等〔は〕頭〔のなかにも〕も心〔も〕も[やぶちゃん注:衍字。]、數學と音樂しかわからないのです。

[やぶちゃん注:推敲が混乱しているさまが見てとれるように示した。現行版ではここは、

   *

 この国の人たちは、家の作り方が非常に下手です。壁はゆがみ、どの室も直角になっていないのです。彼等は、定規や鉛筆でする紙の上の仕事は大へんもっともらしいのですが、実地にやらしてみると、この国の人間ぐらい、下手で不器用な人間はいません。彼等は数学と音楽には非常に熱心ですが、そのほかの問題になると、これくらい、ものわかりの悪い、でたらめな人間はありません。理窟を言わせれば、さっぱり筋が通らないし、むやみに反対ばかりします。彼等は頭も心も、数学と音楽しかわからないのです。

   *

と整序されている。]

 それにこの國の人たちは、いつも何か心配してゐるのです。〔て、〕〔そのために心は〕一分間も心が 落着てゐること〔心は安らかで〕〔→が〕ないのですが、その不安の原因といふの 実は彼等〕〔その不安〕他の人間から見たら〔それはそれは〕何でもないことを心配してゐる〔わけな〕のでした→す〕。

[やぶちゃん注:「〔その不安〕」の挿入は生きているが、下と続かない。現行版は、

   *

 それに、この国の人たちは、いつも何か心配していて、そのために一分間も心は安らかでないのですが、他の人間から見たら、それは何でもないことを心配しているのでした。

   *

となっている。]

 その心配の種といふのは、天に何か変つたことが起きはすまいかといふことから〔です。〕です。たとえば〔、〕地球は絶えず太陽に向つて近づいてゐるのだから、今に吸込まれるか、呑み込まれてしまふだらう〔、〕とか、〔あるひは〕〔、〕太陽の表面には〔、〕ガスがだんだんかたまつて來て〔、〕今に光がなくな〔地球を■らさ〕陽がささなくなる時が來はすま いか〔るだらう〕〔、〕〔と〕〔、〕とか[やぶちゃん注:衍字の連続。]、この前の彗星の時は、地球は星の尻尾に撫でられないで助かつたが、今度、三十一年後に現れるはずの〔に〕彗星では〔が現れると、〕たぶん、われわれも〔、〕いよいよ滅する〕〔ぼされる〕だらう〔、〕とかいふいふ心配なの→いふ〕のです。さうかと思へば〔、〕太陽は毎日光線を出してゐるので、やがては〔、〕蠟燭のやうに溶けて無くなるだらう、さうすると〔、〕地球も月もみんな無くなつてしまふだらう、などといふ〔心配〕でした。

[やぶちゃん注:この段落の頭は一字空けでないが、この部分が改頁となっている点、前の原稿14の加筆末尾から考えて、ここは改行と考えて一字空けを施した。なお、現行版も改行している。

「この前の彗星の時は、地球は星の尻尾に撫でられないで助かつたが、今度、三十一年後に彗星が現れると、たぶん、われわれも、いよいよ滅ぼされるだらう」これは思わずハレー彗星のことだろうと思ってしまう。ハレー彗星は約七十六年周期であるが、「ガリヴァー旅行記」の初版は一七二六年、その前のハレー彗星の接近は一六八二年九月十五日でスウィフトは一六六七年で十五歳、イギリスの天文学者エドモンド・ハレー(Edmond Halley 一六五六年~一七四二年)が“Synopsis Astronomia Cometicae”(「彗星天文学概論」)でハレー彗星の存在とその回帰性を主張し、再び一七五七年地球に接近するという予言を含めて発表したのは一七〇五年、実際の再来最接近はハレーの予言よりも二年ずれた一七五九年三月十三日であったが、ここで「ガリヴァー旅行記」の初版発行の一七二六年三十一年足すと、一七五七年となることに気づく。これは確かにあのハレー彗星のことを言っているのである。]

 彼等は朝から晩まで〔、〕こんなふうなことを考へて〔、〕ビクビクしてゐます。夜も〔、〕よく眠れないし、この世のたのしみを味はうともしないのです。朝、人にあつて、第一にする〔挨〕拶は、[やぶちゃん注:「■」は「挨」の字を書こうとして気に入らず、書き直しただけと思われる。]

 「太陽の工合はどうでせう。日の入、日の出に、変りはございませんか」

 「今度、彗星がやつて來たら〔、〕どうしたものでせうか 助かなんとかして助かりたいものですな〔あ〕」

とこんなことを云ひ合ふのです。それは丁度、子供が幽靈やおばけの話が怖くて寢れないくせに聞きたがるやうな気持でした。

 私は一月もたつと〔、〕この國の言葉がかなりうまくなりました。国王の前に出ても〔、〕質問は大概答へることができました。陛下は〔、〕私の見た國々の法律、政治、風俗などのことは少しも聞きたがりません。その質問といへば、數學のことばかりでした。私が申上げる説明を、時々〔、〕たたき役の助けをかりて聞かれ〔ながら〕、いかにも〔、〕つまんなさうな顏つきでゐられました。

[やぶちゃん注:この後の行間上罫外に「>」で「三章」とあるが、現行版にはない。]

 私は〔、〕この島のいろいろ珍しいものを見せてもらひたいと〔、〕陛下にお願ひしました。早速、お許しが出て、私の先生が一緒に行つてくれることになりました。私はこの島の樣々の運動が何の原因によるものなのか、それが知りたかつたのです。

 この飛島は〔、〕直徑約四マイル半の〔まん〕円い島なのです。面積は〔、〕一万エーカー、島の厚さは三百ヤードあります。一番〔島の一番〕底は滑らかな石の板になつてゐて、その上に、鑛物の層があり、そのまた上に土が蔽さつてゐます。

[やぶちゃん注:段落冒頭は一字下げがないが、空けた。

「四マイル半」七キロ二百四十二メートル弱。

「一万エーカー」六十・六四八平方キロメートル。

「三百ヤード」二百七十四・三二メートル。]

 島の中心には〔、〕直徑五十ヤードばかりの裂け目が一つあります。ここから、天文學者たちが〔下り→洞穴(ほらあな)へ〕へ下りて行きます。それで天文學

[やぶちゃん注:「五十ヤード」四十五・七二メートル。]

 〔その〕洞穴の中には〔、〕二十箇のランプが〔、〕いつもともつてゐます。そこには、望遠鏡や〔天体〕觀測器や〔、〕その他、天文學の器械が備なへてあります。

[やぶちゃん注:段落冒頭は一字下げがないが、空けた。]

 この島の運命をつかさどつてゐるのは〔、〕一つの大きな磁石です。磁石のまんなかに心棒があつて、〔誰れでも〕、ぐるぐる𢌞すことが出來るやうになつてゐます。

 この磁石の力によつて、島は〔、〕上つたり下つたり、一つ場所から〔、〕他の場所へ〔、〕動いたりするのです。〔つい〕 〔といふのは〕磁石の一方のはしは、〔島の〕下の領土に対して、とおざかる力をもち、もう一方のはしは、近寄らうとする力を〔も〕つてゐます。[やぶちゃん注:現行版はここで改行する。]もし近寄らうとする力を下にすれば、島は下つてゆきます。〔その〕反対にすれば、島は上つてゆきます。斜にすれば、島は斜に動きます。〔そして〕磁石を土〔面〕と水平にすれば、島はとまつてゐます。

[やぶちゃん注:抹消字「」は恐らく「持」という漢字を書こうとして(てへん)だけを書いて消したものではないかと推定する。

「斜」は二箇所とも現行版では「斜め」と「め」を送っている。]

 この磁石を預かつてゐるのは〔、〕天文學者たちで、彼等は王の命令で、時時、磁石を動かすのです。

[やぶちゃん注:現行版では「預かつてゐるのは」の箇所が「あずかっているのは」とおかしな表記になっている。不審。]

 もし、〔この島の〕下の都市が謀

 もし〔、下の〕都市が謀叛を起したり、税金を納めない場合には、国王は、その都市の眞上に〔、〕この島を持つて來ます。〔かう〕すると〔、〕下では陽もあたらず雨も降らないので〔、〕住民達は苦しんでしまひます。[やぶちゃん注:改行記号らしきものがあるので、改行した。現行版は以下が続いている。]

 また、場合によつては、下の都市に〔上からどしどし〕大石を〔都市めがけて〕落します。これには〔かうされては、〕住民たちは、地下室に引込んでゐるよりほかはありません。それにも

 だが、それでもまだ王の命令にしたがはないと、最後の手段〔を〕取ります。それは〔この〕島を彼等のまうへから→頭のまうへに〕うへに、ぢかにおとしてしまふのです。かうすれば家も人もなにもかも一ぺんに潰されてしまひます。[やぶちゃん注:現行版はここで改行。]しかしこれはよくよくの場合で、〔滅多に〕こんなことになる せん。はしま→はなりません。〕[やぶちゃん注:ここで最初は改行し、「 それは この島をこの都市」と書いて以上のように結果的に全抹消し、以下を改行せずに前に続けて書き足している。]王もこのやり方は喜んでゐません。それにもう一つ、これには困ることがあるのです。つまり都市には高い塔や柱などが立ちならんでゐるので、その上に島をおとすと、島の底の石が割れるおそれがあります。もし底の石が割れたりすると、磁石の力〔が〕なくなつて、忽ち島は地上に落つこちてしまふことをです。

[やぶちゃん注:最後の一文は現行版では、『もし底の石が割れたりすると、磁石の力がなくなって、たちまち島は地上に落っこちてしまうことになるのです。』である。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(6) 対立する神々の祟り

 

 此例はまだいくらもある。中でも珍しいのは日次記事の三月の條に、京都の西の松尾の人は紀州の熊野へ參らず、熊野の人も松尾明神には參詣してはならぬ。此禁を破れば必ず祟があるとある。畏多いことであるが、伊勢の大廟にも、在原姓の者は參宮をしなかつたと云ふ話がある。其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた。京都粟田口明神社の坊官鳥居小路氏の如きは卽ち其家で、參宮が成らぬ故に別に此宮を建てたと粟田地誌漫錄に見え、上州群馬郡の和田山極樂院の院主も、先祖の長野右京亮が在五中將の末であつた爲に、今に至るまで伊勢大神宮に參詣かなはずと山吹日記と云ふ紀行にある。此外守屋氏の人は物部連守屋の子孫らしき爲に信濃の善光寺に詣ずれば災あり、佐野氏の人は田原藤太の後と云ふことで神田明神の祭に逢ふと惡いと云ふ話が、松屋筆記卷五十に出て居り、その平將門の子孫と傳ふる今の相馬子爵の先祖が、奧州から江戸へ參覲する道で、常陸の土浦を通る日は必ず風雨又は怪異があつたのは、將門に殺された叔父國香の墓が此町に在つて、國香明神と祭られて居たからだと新治郡案内にあるが如き、或は東京西郊の柏木村の人は、鎧大明神の氏子で其神は將門の鎧を御神體とすると傳ふる故に、敵の田原藤太秀郷の護持佛だつたと云ふ成田の不動へは參らなかつたと山中共古翁の日錄にあるが如き、何れも謎の如く又下手(へた)な歷史の試驗問題のやうであるが、實は皆此系統の話である。此頃出來た奈良縣高市郡志料に、此郡眞菅村の宗我神社は蘇我氏の祖神を祀つたかと思はれるが、俗には入鹿宮と稱して氏子等は今尚多武峯に參らぬ者が多いとある。是は多武峯には藤原鎌足の廟が有る爲であるが、更に注意すべきは此山から五六里も東、大和と伊勢の國境の高見山に、蘇我入鹿の首が飛んで來て神に祭つたと云ふ言傳へのあることである。此山の神を信心する者は多武峯に參ることの成らぬは勿論、卽事考と云ふ書の卷一には、鎌を持つて登つてさへ、必ず怪我をするか又は山が鳴るとある。是などは明白に山の爭が神の爭となつた一つの證據で、此近邊で秀でゝ居るのは此の二つの山のみである所から、多武峯の競爭者なら高見山は入鹿と云ふことになつたのであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「日次記事」「ひなみきじ」と読む。江戸前期の京都を中心とする年中行事の解説書。十二巻。儒学者で医師であった黒川道祐(くろかわどうゆう)の編で、延宝四(一六七六)年の林鵞峰(はやしがほう)の序がある。月ごとに日を追って、節序・神事・公事・人事・忌日・法会・開帳の項を立て、行事の由来や現況を解説してある。

「松尾」「松尾明神」現在の京都府京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。ここに記された禁忌に就いて柳田は子供向けに書かれた「日本の傳説」の「神いくさ」の中で以下のように、その禁忌の意味を分かり易く記している。底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた。

   *

[やぶちゃん注:前略。]昔の人は氏神といつて、殊に自分の土地の神樣を大切にしてをりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お參りをするやうになつても、信心をする神佛(かみほとけ)は土地によつて定まり、どこへ行つて拜んでもよいといふわけには行かなかったやうであります。同じ一つの神樣であつても、一方では榮え他(ほか)の一方では衰へることがあつたのは、つまりは拜む人たちの競爭であります。京都では鞍馬の毘沙門樣へ參る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があつて、もとはこれを福惜(ふくを)しみの毘沙門などといつてをりました。せつかく鞍馬に詣(まゐ)つて授かつて來た福を、惜しんで奪ひ返されるといつて、鞍馬參詣の人はこの堂を拜まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るやうにしてゐたといひます。同じ福の神でも祀つてある場所がちがふと、もう兩方へ詣ることは出來なかつたのを見ると、仲の善くないのは神樣ではなくて、やはり山と山との背競(せくら)べのやうに、土地を愛する人たちの負け嫌ひが元でありました。松尾のお社(やしろ)なども境内に熊野石があつて、こゝに熊野の神樣がお降(くだ)りなされたといふ話があり、以前はそのお祭りをしてゐたかと思ふにも拘らず、こゝの氏子は紀州の熊野へ參つてはならぬといふことになつてゐました。それから熊野の人もけつして松尾へは參つて來なかつたさうで、このいましめを破ると必ずたゝりがありました。これなども多分双方の信仰が似てゐたために、かへつて二心(ふたごころ)を憎まれることになつたものであらうと思ひます。(都名所圖會拾遺。日次記事)

   *

「其は先祖の業平が伊勢物語にある如く神聖たる齋の宮に懸想をした爲であつた」「伊勢物語」の第六十九段に、「齋宮(いつきのみや)なりける人」という呼称で登場し、業平らしき男と禁断の悲恋をする女性は、実在した第三十一代伊勢斎宮となった恬子内親王(てんし/やすらけいこ/やすこ 嘉祥元(八四八)年)頃?~延喜一三(九一三)年:父は文徳天皇で同母兄弟に惟喬親王がいる)。彼女は貞観元(八五九)年に清和天皇の即位に伴って斎宮に卜定され、貞観三(八六一)年に伊勢に下った。貞観八(八六六)年二月、母親の静子が亡くなったが、斎宮退下(たいげ)の宣勅は下らず、十年後の同十八年に清和天皇が陽成天皇に譲位したことによって、ようやく退下している。ここはウィキの「恬子内親王」を参照した。リンク先には「伊勢物語」のその箇所の梗概も載る。

「京都粟田口明神社」現在の京都市東山区粟田口鍛冶にある粟田神社(ここ(グーグル・マップ・データ))の末社である大神宮のこと。「粟田神社」公式サイト内の「神社案内」によれば、『大神宮は元々、青蓮院の坊官である鳥居小路家の旧宅地の鎮護神でしたが、勧請された時期は不明です。鳥居小路家の先祖は高階師尚と云い、師尚の母が伊勢の斎宮であったときに在原業平と密通してできた子供でした。この為お伊勢さんのお怒りに触れてその子孫が伊勢に参宮しようとしても、途中で病気になったり、災難にあったりして参宮することができませんでした。そこで大神宮を宅地内に奉斎して参詣するようになったとのことです。その後、明治になって当社の境内に遷座されました』とあるから、旧来の鎮座位置は恐らく、南西直近の青蓮院門跡の近くであったと考えられる。なお、この『高階師尚』については、先のウィキの「恬子内親王」に、「伊勢物語」では、「狩の使」(内親王の従姉(紀有常女)の夫であり、平城天皇の孫でもあった在原業平と考えられている)の男『と「斎宮なりける人」はついに逢瀬を遂げることは出来なかったことになっている。が、「斎宮なりける人」を恬子内親王とみて、この一夜の契りにより』、『内親王が懐妊、前代未聞の不祥事が発覚することを恐れた斎宮寮が、生まれた子供を伊勢権守で斎宮頭だった高階峯緒の子、茂範の養子とし、それが後の高階師尚であるということが、古来流布されており、後の藤原行成の』「権記」『によると、行成は一条天皇から立太子について、定子皇后腹の敦康親王と彰子中宮腹の敦成親王(後の後一条天皇)のどちらにすべきかについて意見を聞かれた時、「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と定子皇后の母が高階家出身ということを理由に敦成親王を立太子すべきと奏上したとある。事実かどうかは別とし