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2018/02/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一五 / 隱れ里~了

 

    一五

 

 近江の東小椋村から出て國々の山奧に新隱里を作つた人々は、米合衆國の獨立みたように、折々は郷里の宮寺にある舊記を裏切るような由緒書を作つて居る。東北では會津地方が殊に木地屋の多い處であるが、これは蒲生家が領主であつた時、郷里の近江から何人か連れて來たのを始めとするさうで、後年までこの徒は一定の谷に居住せず、原料の木材を逐うて處々を漂泊し、この地方ではそれを「飛び」といつたこと、新編風土記に詳しく出て居る。

[やぶちゃん注:蒲家云々の箇所は前章の私の「日野椀」注を参照。「新編風土記」とは「新編會津風土記」のことであろう。会津藩官選。全百二十巻。享和三(一八〇三)年から文化六(一八〇九)年にかけて編纂された。]

 一方には會津から越後へかけての山村に多い高倉宮の古傳には、やはりいろいろの右大臣大納言が從臣として來たり、猪早太輩と功を競ひ、又其子孫を各地に殘して舊家の先祖となつて居る。其中には小椋少將などと云ふ人もよく働いて居る。越後の東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵などは、土地の名を小倉嶺といい、山下の中山村十三戸は皆淸野氏で、御連枝四の宮の從臣淸銀太郎と云ふ勇士の子孫である。

[やぶちゃん注:「東蒲原郡上條谷の高倉天皇御陵」新潟県東蒲原郡阿賀町東山((グーグル・マップ・データ))にある古墳らしいが、見当たらない。国土地理院の地図でも見たが、それらしいものは見出せなかった。ネット上では論を書いている人はいても、その所在を明らかにするように書かれてはいない。以下の「中山村」なども判らぬ。お手上げ。識者の御教授を乞う。は「高倉宮以仁王御墳墓考」(岩城宮城三平編越後小柳傳平校再校正・「尾瀬三郎物語を守り育てる会」)というのはある。

「淸野氏」不詳。

「御連枝」(ごれんし)は貴人の兄弟を指した敬称。

「淸銀太郎」前で引いたページには清銀三郎貞方、別名尾瀬三郎房利とある。]

 又大和吉野の川上の後南朝小倉宮の御事跡は、明治四十四年に林水月氏の著した吉野名勝誌の中に委曲論評を試みてあるから、自分は次の二つの點より外は何も言はぬ。其一は此山村に充滿する多くの舊記類は何れも二百年此方の執筆であること、其二は小倉宮の御名は洛西嵯峨の小倉の地に因む筈であるにも拘らず、此宮は一時近江の東小椋村君ケ畑の土豪の家に御匿れなされ、その家の娘を侍女として王子を御儲けなされたことである。

[やぶちゃん注:「後南朝小倉宮」小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう 応永一三(一四〇六)年頃~嘉吉三(一四四三)年)は室町前期の皇族で、後南朝勢力の中心人物。ウィキの「小倉宮聖承によれば、小倉宮家二代であるが、個人としての「小倉宮」は、一般に、この聖承を指すことが多い。樋口宮とも呼ぶ。『聖承は出家後の法名であり、俗名は不明である。時に良泰(よしやす)や泰仁(やすひと)とされることがあるが、何れも近世に作られた南朝系図に拠るもので信用できない』。『南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫で、小倉宮恒敦(恒敦宮)の子。子に小倉宮教尊』(きょうそん)『などがいる』。正長元(一四二八)年七月、『旧北朝系の称光天皇が嗣子なく』、『危篤状態に陥ると、その父の後小松上皇は北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたので、この動きに不満を持った聖承は、伊勢国司で南朝方の有力者である北畠満雅を頼って居所の嵯峨から逃亡する。満雅はこの当時』、『幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、聖承を推戴して反乱を起こすが、持氏が幕府と和解したことにより頓挫』、同年十二月二十一日、『満雅は伊勢国守護・土岐持頼に敗れて戦死する』。『その後も聖承は伊勢国に滞在したまま』、『抵抗を続けるが』、永享二(一四三〇)年に『満雅の弟・顕雅が幕府と和睦したため、幕府の懇望もあって京に戻されることとなる。この際の和睦条件が、聖承が「息子を出家させること」、幕府は「諸大名から毎月』三『千疋を生活費として献上させること」であったため、同年』十一『月に当時』十二『歳の息子は出家し、将軍足利義教の猶子となって偏諱(「教」の字)の授与を受け』、『「教尊」を名乗り、勧修寺に入ることとなった。しかし一方で、幕府からの生活費の保障は守られることがなく、京に戻った後の暮らしは困窮の極みだったようである。その後』、永享六(一四三四)年二月に『海門承朝(長慶天皇皇子)を戒師として出家し、この時点から「聖承」を名乗った』とある。

「明治四十四年」一九一一年。

「林水月」(安政五或いは六(一八五九)年~昭和四(一九二九)年)。大坂生まれ。名は海音、水月は号。明治中頃から末にかけて、奈良県吉野郡上北山村西原の宝泉寺、続いて同じ吉野小橡(ことち)の龍川寺の住職となり、川上・北山の後南朝史を研究した曹洞宗の僧。「吉野名勝誌」は彼の労作とされる。]

 右の二箇所の事例とは全然無關係に、自分は今左の如く考へて居る。木地屋には學問があつた。少なくとも麓にいて旅をしたことのない村民よりは識見が高かつた。木地屋の作り出した杓子や御器は如何なる農民にも必要であつて、しかも杓子の如きは山で山の神、里でオシラ神などの信仰と離るべからぎるものであつた。新たに村の山奧に入り來たり、しかも里の人と日用品の交易をする目的のあつた彼等は、相當の尊敬と親密とを求めるために、多少の智慮を費すべき必要があつた。必ずしも無人貿易をせねばならぬ程に相忌んでは居なかつた彼等も、少しも技巧を用ゐずには侵入し得なかつたのは疑いがない。そこで更に想像を逞しくすると、彼等は往々岩穴や土室の奧から、鮮やかな色をした椀などを取出して愚民に示し、是を持つて居れば福德自在などゝ講釋して彼等に贈り、恩を施したことが無いとは言はれぬ。常州眞壁の隱里から貸した椀が、金で四つ目の紋を附けたのは一つの見處である。四つ目は卽ち近江の一名族の紋所であつた。斷つておくが自分はまだ證據を捉へぬから決してこの假定を主張するのでは無い。假に鳥居氏の言はれたのに近い交通があつたとしても、此場合には相手の方が旨(うま)く遣つたので、同氏の所謂文明のステージが違ふと云ふのは、ちやうど逆樣に違ふのだから、いさゝか滑稽で無いかと言ひたいのである。

 常民が食器に白い陶器を使ふのはむろん新しい變遷である。其以前は木器であらうと信ずるが、少なくも朱椀などは手が屆かぬ上流の用であつたであらう。其が次第に容易く生産せられるやうになつたのも、さして古い事とは思はぬ。漆器の歷史を調査する人は、必ず我輩の隱里物語を其基礎の一つにせねばなるまい。又かの多情多恨の椀久と云ふ淨瑠璃曲中の好男子が、苗字は小椋で後の屋號が伊勢屋であつたか否か、これを明白にして下さるのは上方の學者方の任務である。

   (大正七年五月、東京日日新聞」)

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一四

 

     一四

 

 伊勢の龜山の隣村阿野田の椀久塚は、また一箇の椀貸塚であつて、貞享年中までこの事があつたと傳へて居る。土地の口碑では塚の名の起りは椀屋久右衞門或は久兵衞と云ふ椀屋から出たと云ふ。この椀久は大阪の椀久のごとく、ある時代の長者であつたらしく、數多の牛を飼ひ品物を送り五穀を運ぶ爲に、險岨の山路を道普請して牛の往來に便にしたと云ひ、今も牛おろし坂と云ふ地名が遺つて居る。椀久は農家ながら多くの職工を扶持して椀盆の類を造らせ、これを三都諸州へ送つて利を收めた。其家斷絶の後舊地なればとてその跡に塚を築きこれを椀久塚と名づけた。村民の客來などの爲に膳椀を借らんとする者は、やはり前日にこの塚へ來てこれを祈つたと云ふ事である。さて此話を解釋するためには、最初に先づ塗物師が器を乾かすために土室を要した事を考へねばならぬ。[やぶちゃん注:←ここは底本では読点であるが、特異的に訂した。]次には木地師の本國が近江の愛知郡東小椋村であつたことを注意する必要がある。龜山在から山坂を越えて行くと云へば行先は近江南部の山村である。而して東小椋村の中君ケ畑と蛭谷との二大字は、數百年以前から今日まで引き續いての木地屋村で、其住民は中世材料の缺乏して後、爭うて郷里を出で、二十年三十年の間諸國の山中を巡歴し、到る處において轆轤の仕事をしたことは人の略知る所である。諸國の木地屋は其故に今でも大多數は小椋或は大倉等の苗字をもつて居る。日本全國大抵分布せぬ地方は無い中にも、伊勢は山續きで最も行き易かつたらしく、南伊勢から紀州へかけて小椋氏の在住して木地を業とする者今も多く、色々の古文書の寫しを傳へ藏し、同族のみで山奧の部落を作る爲に、尚若干の異なる習俗を保持して居るらしい。自分は六七年前の文章世界に木地屋の話を書いたことがある。近日又少しばかりの研究を發表したいと思つて居る。近江の檜物莊の成立ち、及び中世盛んであつた日野椀、日野折敷の生産と關係があるかと思ふが、いまだ確かな證據を發見せぬ。

[やぶちゃん注:かの幻想作家澁澤龍彦の最期の机上にあったメモは木地師についてのものであった。柳田國男のインキ臭いそれらより、シブサワの書かれなかった次回作を私は切に渇仰するものである。

「阿野田の椀久塚」既出既注だが、最後に近くなったので再掲しておく。現在の三重県亀山市阿野田町(ここ(グーグル・マップ・データ))の内。三重県公式サイト内の「椀久塚」に、その伝承譚が書かれてある。

「大阪の椀久」(生没年未詳であるが、没年は延宝四(一六七六)年七月三十一日(菩提寺円徳寺過去帳に拠る)の他、翌延宝五年とも、さらに後の貞享元(一六八四)年の諸説がある)は江戸前期の実在した商人。大坂堺筋の富商で椀や皿を商った。大坂新町の傾城松山と深い仲になり、豪遊の末、発狂して水死したともいう。西沢一鳳の「伝奇作書」では、盆には正月遊びと称し、自ら年男に扮して、豆の代わりに一歩金を座敷から座敷へ撒いて歩くなどの放蕩を繰り返したため、座敷牢に押し込められて、狂死したという井原西鶴はこの稀代の放蕩者をモデルに浮世草子「椀久一世の物語」を書き、浄瑠璃・舞踊の素材としても好まれ、数多くの作品に作られた。紀海音作浄瑠璃「椀久末松山」や長唄「其面影二人椀久」が知られる。

「土室」「つちむろ」と読む。土で周囲を塗り固めて作ったムロ、或いは穴倉状に土中に掘り固めて作った保湿された特殊なムロを指す。漆は湿度が高いほど乾き易いという特殊な性質を持つ(気温が摂氏二十五度以上で、しかも湿度八十%以上であることを硬化の条件とする)。因みに、完成した漆器も適度の湿度を与えておかないと状態よく保存出来ない。

「近江の愛知郡東小椋村」滋賀県の旧愛知(えち)郡東小椋村(ひがしおぐらむら)は、現在の東近江市の愛知川上流右岸、この附近(グーグル・マップ・データ)。柳田國男の謂いは、地図を下げて行くと納得出来る。また「木地師の本國が」ここであったことは、まさにこの地に惟喬親王御陵があることからも判る(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「木地師」によれば、九『世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた』文徳天皇の第一皇子『小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある』のである。また、実際、この『蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ』。『木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り』、『山の』七『合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証する』、『とされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった』。『綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで』、『時とともに』その「お墨付き」なるものが『実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた』のであった。『木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら』、『木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り』、『焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に』七千戸ほどもいたと『言われ、 明治中期までは美濃を中心に』、『全国各地で木地師達が良質な材木を求めて』、二十年から三十年の単位で『山中を移住していたという』。また、『石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)地区』『は惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わり、時代を経て何通かの御綸旨で森林の伐採を許された主に木地師達の小村落であったり、山中漆器の源とされる。朝倉氏の庇護もあったが』、天正元(一五七三)年八月の、織田信長と朝倉義景の間で行なわれた「一乗谷城の戦い」『以降は庇護も無くなり』、『一部の木地師達は新天地を求めて』、『加賀から飛騨や東北地方に散って行ったとされる』とある。

「東小椋村の中君ケ畑と蛭谷との二大字」国土地理院の地図のこちらで、二つの集落地名を現認出来る。

「小椋或は大倉等の苗字をもつて居る」試みにその手の全国の名字分布サイトでランキングを調べると、現在は「小椋」は福島(先の引用の流れて行った東北地方と一致)・岡山・鳥取に多く、次いで岐阜・滋賀である。「大倉」は新潟・岡山、次いで三重・奈良・岐阜などが続くから、柳田の言いは当たらずとも遠からずではある。

「自分は六七年前の文章世界に木地屋の話を書いたことがある」明治四四(一九一一)年一月の『文章世界』に発表した「木地屋物語」。本「隱れ里」の初出は大正七(一九一八)年の『東京日日新聞』。

「近江の檜物莊」檜物荘(ひもののしょう)は近江国甲賀郡(現在の滋賀県湖南市。ここ(グーグル・マップ・データ))にあった荘園。野洲(やす)川流域に位置する、平安期からの摂関家領で、長櫃(ながびつ)・折敷(おしき)・柄杓などの檜製の物品を進納したところから、その名がついたものらしい。

「日野椀」ウィキの「日野椀」によれば、『滋賀県蒲生郡日野町』(ここ(グーグル・マップ・データ)。前の湖南市の東)『とその周辺で生産された漆器』で、『平安時代に日野地域が「檜物庄」と呼ばれていたという記録が残ることから、この時代には既に檜物製造が行われていたと考えられている。』天文二(一五三三)年に『領主蒲生氏が日野城下町の町割を実施し、堅地町(現金英町)・塗師町(現御舎利町)に木地師・塗師を住まわせ』た。天正一八(一五九〇)年に『伊勢松ヶ島へ転封していた蒲生氏郷が会津に移るにあたり、漆器職人を会津に招いたため、日野の漆器製造は一時期衰退する。なお、このため』、『会津塗器は日野塗の技術導入により』、『発展したと考えられている。 元和年間』(一六一五年~一六二三年)、『日野商人の活躍により、日野塗が復興』し、正保二(一六四五)年刊と『考えられている松江重頼の俳諧作法書「毛吹草」にも、近江日野の名物として「五器(ごき)」が挙げられている。その後、日野商人の主力商品が薬に代わったことや』、宝暦六(一七五六)年に発生した『日野大火(市街地の約』八『割を焼失)で打撃を受け徐々に衰微、天保年間』(一八三〇年~一八四三年)『に日野椀の製造は途絶えた』。『初期に生産され今も残存する器は祭器が多く見られ、厚手・高い高台を特徴とする。 安土桃山時代には、千利休らが愛用したという記録が残っている。 江戸時代に庶民使いの漆器として、日野商人による行商で全国へ広まった。 最近の研究によれば、日野椀は日野だけで製造されていたわけではなく、日野商人が全国に点在する木地師や塗師に技術指導をした上で製造委託をし、日野椀ブランドを付けて流通させていた可能性が指摘されている』とある。]

 伊勢にはまた安濃郡曾根村東浦の野中に椀塚と稱する丘があつた。東西十五間南北十間[やぶちゃん注:「十五間」は二十七メートル強、「十間」は約十八メートル。]で頂上に大松があつた。これには椀貸の話はあつたと云はぬが、昔は神宮の御厨(みくりや)の地で、秋葉重俊なる者近江より來たり住し、文曆元年には判官職であつた。其後片田刑部尉重時の時、兵亂に遭つて御厨は退轉した。其時は太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのが此椀塚であつたと傳へて居る。此言傳へが、椀久系統の人の口から出たことは、僅かながら證據がある。小椋の人々はどうした譯か以前から、あまり歷史には名の見えぬ物々しい人名を引合に出す風があつた。君ケ畑蛭谷の二村に今も大事にしており、諸國の舊い木地屋が必ず一組づゝ傳寫して居る多くの古文書、それから此地の舊記や社寺の緣起類は、持主の眞摯なる態度に敬意を表し、新聞などで批評をすることは見合せる。此村では淸和天皇の御兄皇子小野宮惟喬親王、都より遁れて此山奧に入り、山民に木地挽く業を教へたまふと言ひ傳へ、此宮を祭神とする御社は今も全國木工の祖神であるが、此由緒を述べた仁和五年酉五月六日とある古記錄等には、親王に隨從して此地に落着いたと云ふ人々が、大藏大臣惟仲、小椋大臣實秀などゝ署名して居る。この實秀は太政大臣とも云ひ、今の小椋一統の先祖である。一説には小椋信濃守久良、[やぶちゃん注:←の読点は底本にはないが、読み難いので特異的に打った。]小椋伯耆守光吉、親王より此藝を教へらるゝともある。作州苫田郡阿波村の木地挽が舊記には、奧書に承久二年庚辰九月十三日とあつて、やはり大藏卿雅仲、[やぶちゃん注:←の読点は底本にはないが、読み難いので特異的に打った。]民部卿賴貞等の署名がある。伊勢でも多氣郡の藤小屋村などでは、杓子を生業として惟喬王子倉橋左大臣を伴ひ此地に匿れたまふ時、土人に此業を傳へたまふと言つて居た。右の外北近江でも吉野でも紀州でも飛彈でも、親王の曾て御巡歷なされたことを眉じて居て、あまりとしても不思議に思はれるが、既に明治の三十一年に田中長嶺と云ふ人が小野宮御偉蹟考三卷を著して、全部東小椋村の舊傳を承認し、本居・栗田等の大學者が序文や題辭を與へられた後であるから、自分には誠に話がしにくい。詳しくは右の書に就いて考へられんことを、讀者中の物好きな人に向つて希望する。

[やぶちゃん注:「安濃郡曾根村東浦」既出既注であるが、意図的に再掲する。三重県津市安濃町曽根。(グーグル・マップ・データ)。「椀塚」は確認出来ないが、同地区の北直近の安濃町田端上野には明合(あけあい)古墳(主丘が一辺六十メートルの方墳で北東と南西部に造り出しを持つ全国的に見ても希な形の双方中方墳である)を中心に、周辺に多くの古墳が存在した(一部は消滅)とウィキの「明合古墳」にあるから、この「椀塚」も古墳の可能性が濃厚である。

「御厨」本来は神饌を調理するための屋舎を意味するが、ここは神饌を調進するための領地の意。

「秋葉重俊」不詳。

「文曆元年」一二三四年。

「片田刑部尉重時」不詳。鎌倉時代で前の秋葉重俊もこれも孰れの名もヒットしないというのはかなりおかしい。「歷史には名の見えぬ物々しい人名」はやっぱり実在しなかった可能性が高いね。

「太刀神鏡輿一連及び庖厨一切の器具を埋めたのが此椀塚であつたと傳へて居る」というのを何で無批判に信じるかね? 高い確率で古墳だっっつーの!

「此宮を祭神とする御社」滋賀県東近江市君ヶ畑町にある大皇器地祖神社(おおきみきぢそじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大皇器地祖神社」によれば、『木地師の祖神として惟喬親王を祭る。神紋は十六菊』。寛平一〇(八九八)年『の創祀と伝わる。明治五(一八七二)年まで正月・五月・九月に』『国家安泰・皇家永久の祈祷符を宮中に納めていた。惟喬親王がこの地に住んでいた際、小椋信濃守久長と小椋伯耆守光吉に命じて木地の器を作らせたという。この伝承によって、当社を木地師の根源社と称している。同様に木地師の根源社と称す筒井八幡(現筒井神社)と木地師に対する氏子狩を行い、全国に散っていた木地師に大きな影響力を持っていた。「白雲山小野宮大皇器地祖大明神」とも称したが』、明治十五年に現社名に改められている、とある。

「仁和五年酉五月六日」八八九年。仁和五年は己酉(つちのととり)。

「大藏大臣惟仲」不詳。「大臣」は「おほおみ(おおおみ)」と読んでおく。

「小椋大臣實秀」不詳。木地師関連の記載には藤原実秀とか大納言とか太政大臣と書いてあるのだが、一次史料には殆んど見えない。

「小椋信濃守久良」不詳。上のウィキでは「久長」である。「良」は「なが」とも読む。

「小椋伯耆守光吉」不詳。

「作州苫田郡阿波村」岡山県の北部(苫田郡)に位置し、鳥取県と境を接していた阿波村(あばそん)。現在は津山市阿波地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「承久二年庚辰九月十三日」一二二〇年。確かに同年は「庚辰」(かのえたつ)ではある。

「大藏卿雅仲」大蔵卿で高階雅仲なる人物はいるが、南北朝まで生きてるから違うわね。

「民部卿賴貞」不詳。

「多氣郡の藤小屋村」三重県多気郡(たきぐん)。郡域はウィキの「多気郡」を参照されたい。「藤小屋村」は不詳。

「倉橋左大臣」不詳。

「明治の三十一年」一八九八年。

「田中長嶺」(ながね 嘉永二(一八四九)年~大正一一(一九二二)年)は在野の菌類学者で農事・林業家(椎茸栽培・製炭事業の指導者)。越後国三島郡才津村(現在の長岡市)生まれ。絵画を学ぶべく、江戸に出たが、途中で帰農。農事の傍ら、植物採集・写生・菌学を研究、明治二三(一八九〇)年には我が国初の菌類学書「日本菌類図説」(共著)を、その後さらに人工接種による椎茸栽培法について研究、「香蕈培養図説」(明治二五(一八九二)年)などを著している。また、製炭法の改善を考究、同じ明治二十五年に「十余三産業絵詞」を著し、三年後の明治二十八年には愛知県八名郡にて田中式改良窯を考案、これをもとに「炭焼手引草」(明治三一(一八九八)年)を公刊、我が国の製炭の技術的基礎の確立に貢献した。その後も椎茸栽培及び製炭技術改善のため、全国各地を行脚し、名古屋市内で客死した。

「小野宮御偉蹟考三卷」明治三三(一九〇〇)年八月近藤活版所刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇が読める。柳田國男の言う通りなら、読みたいとはあんまり思わないけれど、そのエネルギッシュな生き方には正直、脱帽する。「讀者中の物好きな人に向つて希望する」などという人を食った言辞で皮肉る御用学者なんぞよりは数百倍、私は敬意を表したくなる。

「本居」国学者本居豊穎(もとおりとよかい 天保五(一八三四)年~大正二(一九一三)年)。本居宣長の義理の曾孫にあたる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の冒頭で確認した。

「栗田」国学者・歴史学者栗田寛(ひろし 天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年)。幕末には水戸藩に仕えた。元東京帝国大学教授。「大日本史」の最後まで未完であった「表」「志」の部を執筆したことで知られる。号は栗里。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の冒頭で確認した。]

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一三

 

     一三

 

 福井縣大野郡の山村は、これまた平家谷口碑のいたつて數多い地方である。その中で下味見(しもあぢみ)村大字赤谷の平家堂と云ふは、崖の中腹にある二尺四方の岩穴で、穴の中は古墳である。土人最もこれを尊崇し每年二月十九日に祭をする。この窟の石戸は人力では動かぬが、世の中に何か事があると自然に開閉するのを、村民は「平家樣が出られる」と云ふ。日淸・日露兩度の戰役中、この石戸の常に開いていたことは誰も知らぬ者が無いと云ふ。此話を發表した人は自分の知人にして且つ此村の住人である。其誠實はよく知つて居るが、而も如何せん此話には傳統がある。奧羽地方に於てはこの種の岩穴を阿倍城(あべしやう)と謂ひ、岩戸の開閉の音を聞いて翌朝の晴雨を卜する例が多い。中央部では鬼ケ城などゝも云ひ、山姥が布を乾すと云ふことになつて居り、やはり里の者の神意を察知する話が少くない。更に其昔を辿ると山姫佐保姫の錦を織ると云ふ言ひ傳へにも關聯するものであらう。蓋し屋島壇浦の殘黨のみに對してならば、所謂平家樣の崇敬は些しく過分である。故に如何にしても安德天皇を奉じ來ることの能ぬ[やぶちゃん注:「かなはぬ」。]東北地方に於ては、一門の尼公と稱し又は以仁王と申上げて、其缺陷を補はんとしたのではあるまいか。併し農民は昔も今も虛言を述べ得ぬ人である。さうして最も人の言を信じ易い人である。然らば最初果して何人あつて斯くも多い平家谷の話を全國に散布したのであるか。是が椀貸傳説と交渉ある唯一つの點で、同時に鳥居氏の無言貿易説の當否を決すべき重要な材料であるように自分は思ふ。

[やぶちゃん注:「福井縣大野郡」「下味見(しもあぢみ)村大字赤谷の平家堂」現在の福井県福井市赤谷町。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在も「平家堂」という石窟の社があり、平惟盛を安置すると伝えているという記載を見かけたので、現存するようである。ここは安心して、柳田先生、「古墳」と書いてる。椀貸伝説がないからね、それに話を頭の無言貿易の批判にあっさり戻してるからね

「阿倍城(あべしやう)」ルビはママ。ちくま文庫版全集では「あべじょう」。]

  鳥居氏の御意見と云ふものが、若し此等各地方の異傳を親切に考察した上で發表せられたものであつたならば、自分等は假令末梢の問題に於て觀察の相異があるにしても、斯樣な失禮な批評文は出さなかつたであらう。何となればいわゆる椀貸の話には限らず、多くの傳説の起源は常に複雜なもので、時代々々の變化又は新たなる分子の結合は有勝ちであるから、最初長者と打出小槌と古墳と水の神の信仰とが、この不可思議なる岩穴交通の話の基礎であつたとしても、別に又或事情の下に、鬼市若くは默市と稱する土俗の記憶が、同じ物語の中に織込まれたことは絶無と斷定し能はぬからである。民俗學の現在の進步程度では、殘念ながら消極的にも積極的にも、何の決定をも下し得ぬことが明白であるからである。

 自分が主として證明せんとしたのは、單に膳椀の持主又は貸借の相手が、アイヌその他の異民族であつたらしい痕跡がまだ一つもないと云ふ點であつた。此以外に於て何か手掛りとなるべき特徴では無いかと思ふのは、話の十中の九まで前日に賴んで置いて翌朝出してあつたと云ふこと、卽ち先方が多くは夜中に行動をしたと云ふ點である。それよりも尚一段と肝要なのは、僅かな例外を以て貸した品が、常に膳椀その他の木製品であつたことである。隱里から出すには他に物もあらうに、木地の塗物のと最も土中水中に藏置するに適しない品のみが常に貸されたことは、何か特別の仔細が無くてはならぬ。陸中の遠野などではフエアリイランドの隱里の事をマヨヒガと稱し、マヨヒガに入つて何か持つて來た者は長者になると云ふ話がある。そうして自分の採錄した話の中には、やはり其隱里の椀を授かつて富貴になつた一例がある。高知縣長岡郡樫野谷の池は、村民が元旦に此水を汲む風習あり、また村に不吉の事起らんとする時には、水底に弓を引く音が聞えたと云ひ、時としては赤い椀の水面に浮ぶことがあると云ふ、此くの如き場合に迄いつも椀といふものの附いて𢌞るのは、果して何を意味するであらうか。

[やぶちゃん注:「マヨヒガ」私が佐々木喜善の語った遠野の物語(私は「遠野物語」を柳田國男の作品とすることを認めない人間である)で最も偏愛する奇譚である。それは山中のさっきまで人がいたような長者屋敷へと迷い込む「迷ひ家(が)」の謂いであり、そこから何かを持ち出すことで、主人公が富貴となるという基本設定を持つ。但し、欲を持った者は失敗し、二度とはそこに行き当たることはないのである。佐々木喜善が自ら綴った「山奥の長者屋敷」(大正一二(一九二三)年『中学世界』)及び「隠れ里」(昭和六(一九三一)年刊「聴耳草紙」所収)の二話をウィキの「マヨイガで読める。

「高知縣長岡郡樫野谷」現在の高知県長岡郡は(グーグル・マップ・データ)。「樫野谷」は不詳。]

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一二

 

     一二

 

 播州書寫山の登路にも、袖振山の北の端を隱(かくれ)が鼻(はな)と稱して山腹に大きな岩穴があり、大昔老鼠が米を搗いた故跡と言ひ傳へて居る。東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟、あるいは羽後の男鹿半島寒風山の隱里、陸中小友の土室神社の如き、岩窟に隱れ里と云ふ老のあるものは多いのだが、それが曾て皆右樣の傳説を伴なつて居たか否かは疑はしい。ことに次に列擧する如き多くの隱里と云ふ地名などは、一々皆是であつたとも思はれぬ。恐らくは山を隔てた世に遠い小盆地で、單に年貢が輕かつたと云ふ他に、何の特長も無かつた只の隱れ里も多いこゝと思ふ。

    相摸中郡吾妻村二宮隱里

    常陸那珂郡隆郷村高部隱里

    陸前遠田郡成澤村隱里

    陸奧下北郡川内村隱里

    羽前東田川郡橫川村隱里

    羽後雄勝郡輕井澤村隱里

[やぶちゃん注:ここでちょいと、所持する松永美吉著「民俗地名語彙辞典」から「カクレザト」の項を引用してみようか(私のそれは一九九四年三一書房刊「日本民俗文化資料集成」のもので、平成元(一九八九)年刊の私家版「地形名とその周辺の語彙」の増補版。一部の字位置を変更した)。

   《引用開始》

カクレザト 隠れ里というのは各地にある。

 茨城県真壁郡開城町舟玉にある古墳。昔この塚に頼むと、なんでも必要な品物を貸してくれたが、ある時借りた物を返してくれない者がいたので、それからは貸してくれなくなった。

 下妻市高道祖にある塚。昔、この塚に頼むと膳椀を貸してくれらが、ある時不心得者が借りた物を返さなかったので、貸してくれなくなったという。ズコー塚、隠れ塚、お膳塚、十二膳ともいわれる。

 猿島郡五霞村川妻にある地名。昔、ここに山姥が住んでいて、頼むと膳椀を貸してくれたが、やはり返さない者がいて貸してくれなくなったという〔『茨城方言民俗語辞典』〕。

   《引用終了》

最後のは柳田が既に挙げているが、①②が出ないののはおかしくはないか? これは「隠れ里」+「椀貸伝説」なのに? 古墳と塚じゃね、柳田センセーにとっちゃ、都合が悪いわけよ。この章、どっかの愚劣な科学者やド阿呆な政治家がやるように、自分の御説に合わせて実証資料を操作する非学術的な柳田國男の学者としてのおぞましい一面がスケスケに見えるものと相成ったと言ってよい。非常に不快なので、早々に終らせたくなった。今日中に終らせたい。

「播州書寫山の登路」「袖振山の北の端」とは、現在の兵庫県姫路市(山吹或いは上手野)の振袖山(蛤山)の北の稜線部のことであろう。国土地理院図のここ、又は「グーグル・マップ・データ」航空写真のここを参照されたい(後者の写真で見ると、市街地に忽然とある丘陵で、それらしい岩穴がありそうな雰囲気はある)。但し、誤解してはいけないのは(私は誤解した)、書写山圓教寺はここからさらに直線でも北へ三・五キロメートル離れた位置にあり、その間は夢前川を挟んだ盆地であって、ここが尾根で書写山に繋がっているわけではない点である。

「東部日本でも江戸學者の隨筆によく見る越後蒲原のオコツペイの窟」不詳。私は越後に特化した越後の文人橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年頃~?)の筆になる文化九(一八一二)年春、江戸の書肆永寿堂から板行された随筆「北越奇談」(全六巻)の全電子化注をここで完遂しているが、「越後蒲原のオコツペイの窟」なんて、出て来ないし、ネット検索にも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「羽後の男鹿半島寒風山」秋田県男鹿市脇本富永寒風山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸中小友の土室神社」岩手県遠野市小友町はここ(グーグル・マップ・データ)だが、そんな名前の神社はない。「岩窟」でここと言ったら、巌龍(いわたき)神社とその後背に凄絶に屹立する不動岩なんじゃねえかなぁ?ここ(グーグル・マップ・データ。そこには「巌篭神社」とあるが、誤り))個人ブログ「昔に出会う旅」のこちら、また、モノクロ写真故に強烈なリアリズムで迫る個人サイト「巨石巡礼」のこちらもお薦め!

「相摸中郡吾妻村二宮隱里」現在の神奈川県中郡二宮町二宮のこの附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。

「常陸那珂郡隆郷村高部隱里」旧村名は「嶐郷村」(りゅうごうむら)が正しい。恐らくはこの中央、埼玉県に突出した一帯と推定される(グーグル・マップ・データ)。

「陸前遠田郡成澤村隱里」現在の宮城県遠田郡涌谷町成沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「陸奧下北郡川内村隱里」現在の青森県むつ市川内町川内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽前東田川郡橫川村隱里」現在の山形県東田川郡三川町横川。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽後雄勝郡輕井澤村隱里」現在の秋田県雄勝郡羽後町軽井沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 近世の記錄に隱れ里を發見したと云ふ實例の多いことは、人のよく知る通りである。九州では肥後の五箇庄、日向の奈須及び米良(めら)などは今もつて好奇の目をもつて見られ、周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)は、天文の頃獵師の發見した隱里だなどと云ふが、その多くのものやはり東の方にあつた。例へば羽前と越後の境の三面(みおもて)、岩代信夫郡の水原、同伊達郡の茂庭(もには)なども其だと云ふ。水原は谷川に藁が流れて來たので之を知り、よつて水藁と名づけたと云ふ話があり、茂庭はアイヌ語かと思ふが、始めて役人が往つてみたときには村長が烏帽子を着て居たなどゝ云ふ話もある。この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ。會津と越後の境大沼郡本名村の三條と云ふ部落などは、越後の方とのみ交通していて福島縣の人は存在を知らず、明治九年の地租改正の時始めて戸籍に就いたと云ふ。語音が會津式の鼻音でないために三條の鶯言葉などと言はれて居る。江戸の鼻先の武州秩父でさへも、元文年間に、始めて見出した山中の一村があつた。雨後に谷川に椀が流れて來たのでこれを知つたと云ふなどは一奇である。此他何時となく里を慕つて世に現われた村で、地方(ぢかた)役人の冷やかな術語では隱田(おんでん)百姓と稱し、亂世に立ち退いて一門眷屬とともに孤立經濟を立てゝ居たと云ふものが、まだ幾らともなく山岳方面にはあつたやうである。

[やぶちゃん注:「肥後の五箇庄」「ごかのしょう」(現代仮名遣)は「五家荘」とも書き、現在の熊本県八代市(かつての肥後国八代郡)東部の久連子(くれこ)・椎原(しいばる)・仁田尾・葉木・樅木の五地域の総称。この一帯(グーグル・マップ・データ)。

「日向の奈須及び米良(めら)」後者は現在の宮崎県児湯郡西米良村附近(グーグル・マップ・データ)。前者は、その北の宮崎県東臼杵郡椎葉村(しいばそん)辺りか((グーグル・マップ・データ))。よく判らぬ。椎葉はウィキの「椎葉によれば、『伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされ』、建久二(一一九一)年、『追討のため那須大八郎宗久が下向するが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め帰国。椎葉滞陣中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせたという。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するとい』い、この一帯はその後の『戦国時代には那須氏が支配して』いた。所謂、隠田集落村である。

「周防の都濃郡須々萬(すゞま)村の日比生(ひびふ)」「都濃」は「つの」と読む。。現在の周南市須々万(すすま)本郷・須々万奥。附近(グーグル・マップ・データ)。

「天文」一五三二年~一五五五年。室町末期。

「羽前と越後の境の三面(みおもて)」現在の新潟県村上市三面。(グーグル・マップ・データ)。

「岩代信夫郡の水原」現在の福島市松川町水原。(グーグル・マップ・データ)。

「同伊達郡の茂庭(もには)」現在の福島県伊達郡川俣町小島茂庭。(グーグル・マップ・データ)。

「茂庭はアイヌ語かと思ふ」ブログ「仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル」の仙台のアイヌ語地名に茂庭について、『北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ』とある。

「この茂庭の一村民が、本年の冬忰の近衞に入營するのを送つて來て電車に乘り、荷車の材木と衝突して東京の眞中で死んだ」だから、何だ! 柳田國男! 厭な奴っちゃなあ! お前は! 文化から取り残された民の非業の死をかく平然と書きたてて、何が面白いかッツ!!!

「大沼郡本名村の三條」現在の福島県大沼郡金山町本名。(グーグル・マップ・データ)。三条は廃村となって現存しない。

「明治九年」一九八七年。

「三條の鶯言葉」もときち氏のブログ「tabi & photo-logue vol.2」の霧来川・三条は平家の落人集落ではないが非常に詳しく、しかもどこかの学者の記載と違い、心が籠ってしみじみとしてよい。個人ブログ「真冬本線:会津線・只見線の途中下車のシリーズ 〔ひとり旅〕」の秘境  奥会津の金山町 "廃村になった三条部落" 2016には、『この三条部落の言葉の発音は独特であり』、『北陸から京都方面の尻上がりのアクセントにどこか似て』、『三条のウグイス言葉、三条の京言葉と云』ったとある。孰れも貴重な記録である。

「元文」一七三六年~一七四一年。徳川吉宗の治世。]

 平家の落人の末と稱して小松を名乘り、あるいはまた重盛の妹が姪に當るやうな尼公の信心話を傳へ、世上の同情と尊敬とを博せんとした僻村は大部分右のごとき隱れ里の發達したものらしい。或は同じ平家でも平親王將門の子孫郎黨の末と云ふものがある。信州には三浦氏の落武者と云ふのが處々にある。御嶽南麓の瀧越部落のごときも其一であるが、地名のミウレは方言で水上を意味するらしく、ちつとも相模平氏の流れらしい證據は無い。會津の南半分から下野と越後へかけて、高倉宮以仁王御潛行の故跡充滿し、渡邊の唱や競や猪早太等、およそ賴政の家來で強さうな人は皆網羅し、しかも一方ある部分は畏れ多くも高倉天皇の御事として、其御陵の事まで云々して居るのは、西の方の府縣や平家谷と云へば忽ち安德天皇二位尼の御隱家と主張するのによく似て居る。歷史家諸先生のとんだ御迷惑をせられるのも恐らくは此點で、現に宮内省でも御陵墓參考地と云ふやうな不徹底な榜示を、何箇所となく立てゝ置かれる。兼葭堂雜錄の中には安德帝御舊跡と云ふ地を七八箇所も擧げて居て、今日では更に若干を增加して居る。自分は之に就いても少々の意見があるが、關係地方の人たちの心持を考へると、やはり十分に之を論辯することが出来ぬ。仍て爰には只此口碑と隱里椀貸と、どうしても關係のある部分だけを述べて置き、其以外は最近の機會に、今些し閑靜な處で發表したいと思つて居る。

[やぶちゃん注:慇懃無礼な最後の謂いが甚だ気に入らぬ。

「御嶽南麓の瀧越部落」現在の長野県木曽郡王滝村滝越。(グーグル・マップ・データ)。同地図にはまさに「三浦旅館」という宿がある。

「地名のミウレは方言で水上を意味する」先に引いた松永美吉著「民俗地名語彙辞典」には、確かに、『ミウレ 中部日本の山地で水上をいう』とある。

「渡邊の唱や鼓や猪早太」ちくま文庫版全集では『唱(とのう)や競(きおう)や猪早太(いのはやた)』とルビがある。渡辺唱(となう・とのう)・渡辺競(きおう・きそう)も猪早太(いの はやた:本姓は猪鼻とも)源頼政の家臣の名。

「兼葭堂雜錄」大坂の雑学者として聞こえた木村蒹葭堂(けんかどう 元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年)の手になる江戸末期の考証随筆。安政六(一八五九)年刊。全五巻。著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理・抜粋して刊行した。ここで柳田國男が言っているのは同書の巻之四の冒頭にある「筑前國長命婦人(をんな)幷(ならびに)螺(ほらの)由緒」とおいう長大な考証の終りの方。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認できる。そこで木村は安徳天皇の墓所として、丹波・豊前(『かくれ簑の里。安德庵』としている)・肥後(二箇所)・日向・因幡・対馬の七つ(本文は肥後を一つと数えて六箇所とする)を挙げている。]

2018/02/22

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一一

 

     一一

 

 隱れ里の分布に至つてはこれを列擧するだけでも容易な仕事でない。只どうしても些しく言はねばならぬのは、西日本の隱れ里には夢幻的のものが多く、東北の方へ進むほど追々其が尤もらしくなつて來る點である。例で述べる方が話は早い。薩藩舊傳集には無宅長者の話がある。有馬と云ふ薩摩の武士、鹿籠(かご)の山中に入つて、四方の岩が屛風の如く取繞らす處を見つけ、獨り其内に起き伏しをした。眞冬にも雪積らず、暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた云々。日向では土人霧島の山中に入つて、時として隱國(かくれぐに)を見ることがある。地を淸め庭を作り柑子の類實り熟し、佳人來往し音樂の聲聞ゆ、重ねて其地を尋ぬれば如何にするも求め得ず。[やぶちゃん注:←句点は底本にはないが、私が特異的に補った。]肥後では舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)と云ふ邊に昔仙家があつて、仙人の井と云ふが獨り遺つて居る。今も元旦日の出の時刻に阿蘇の山頂から遠望すると、一座の玉堂の雲霞の中に映々たるを見ると云ふ。佐渡の二つ山とよく似た話である。

[やぶちゃん注:「薩藩舊傳集」「さっぱんきゅうでんしゅう」(現代仮名遣)と読む。薩藩叢書刊行会が「薩藩叢書」の第一編として明治四一(一九〇八)年に刊行したもの。

「無宅長者」不詳。しかしどうもこの話、胡散臭い。後に出る「鹿籠」というのは鹿籠村で現在の枕崎市であるが、ここには天和年間(一六八一年~一六八三年)に郷士有川夢宅なる人物によって鹿籠金山が発見されて、島津藩が開発している。「眞冬にも雪積らず」なんて言ってるが、もともと鹿児島のこの辺り、雪なんざ、十数年に一度降るか降らぬかだ。「暗夜に徴明あるに心付けば、四方の石は皆黃金であつた」ってのもイヤに金山と絡むぜ! 椀貸伝説なんぞより、そっちの方が文字通りの「金」気(きんき)がプンプンでおはんど! 柳田っつサ!

「日向」「霧島の山中」「隱國」不詳だけどね、しかし、このフレーズ、一目瞭然、「天孫降臨」「日向」「高千穂」「天の岩戸」じゃあねえの?! 柳田っサ! これはそっちの神話で解明した方がよかごはんど!

「肥後」「舊合志(かはし)郡油古閑(あぶらこが)の群塚(むれづか)」現在の熊本県合志(こうし)市幾久富(きくどみ)油古閑(あぶらこが)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「群塚」は不明。何だか、この名前、古墳群クサくね? しかも、柳田先生、先生の嫌いな、先生が椀貸伝承では結びつけるのを激しく嫌悪してた古墳が、この地域の北西には群れ成して、ありますゼ!(このグーグル・マップ・データを見よ! 地図上の右中央下(東南)部分が油古閑)

「佐渡の二つ山」既出既注。]

 能登で有名なる隱里は、鹽津村の船隱し人隱し、これは單に外から見ることのできぬ閑靜な山陰があるので、之に託して色々の話を傳へたものと見えるが、別に又同國小木の三船山の如きは、全山空洞の如く踏めば響あり、一方に穴あつて甞て旅僧が之に入り宮殿樓閣を見たと云ふ話もある。尾張名古屋の隱里と云ふのは、近頃の市史に出たのは謎のやうな話であるが、別に安永三年の頃高木某と云ふ若侍が、鷹狩に出て法(かた)の如き隱里を見たこと沙汰無草の中に見えて居る。伊勢では山田の高倉山の窟に隱里の話のあつたこと、古くは康永の參詣記にあると神都名勝志に之を引用し、さらに多氣郡齋宮村の齋宮の森に、除夜に人集まつて繪馬に由つて翌年の豐凶を占う風あること京の東寺の御影供などゝ同じく、昔はその繪馬を隱里から獻上したと云ふ話が勢陽雜記に出て居る。近江では犬上郡長寺の茶臼塚に鼠の里の昔話があつた。京都でも東山靈山の大門前の畠地を鼠戸屋敷と謂ひ、鼠戸長者鼠の隱里から寶を貰ひ受けて富み榮えたと云ふ口碑があつた。因幡岩美郡大路村の鼠倉は、山の岸根に在つて亦一個の鼠の隱里であつたと云ひ、「昔此所に鼠ども集まり居て、貴賤主從の有樣男女夫婦のかたらひをなし、家倉を立て財寶を並べ、市町賣買人間浮世の渡らいをまなぶ云々」と因幡民談にあるのである。

[やぶちゃん注:「鹽津村」現在の石川県七尾市中島町(なかじまちょう)塩津(しおつ)、七尾西湾の湾奧北の位置。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船隱し人隱し」不詳。

「同國小木の三船山」鳳珠(ほうす)郡能登町(のとちょう)字小木(おぎ)の御船神社のある丘のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近頃の市史」東京帝国大学教授上田萬年を顧問として大正四(一九一五)年から翌年にかけて刊行された「名古屋市史」全十巻。本「隱れ里」の初出は大正七年の『東京日日新聞』である。但し、同書を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、地名として出るそれは少しも「謎のやうな話」ではなかった。不審。

「安永三年」一七七四年。

「沙汰無草」「さたなしぐさ」。随筆。詳細書肆不明。

「伊勢」「山田の高倉山」不詳。関係あるかどうか知らんが、伊勢神宮北境内外の三重県伊勢市八日市場町に「神宮司庁神宮高倉山幼稚園」というのはある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「康永」南北朝期北朝方の元号。一三四二年から一三四四年まで。

「神都名勝志」東吉貞・河崎維吉(いきち)著。明治二八(一八九五)年吉川弘文館刊。

「多氣郡齋宮村」「さいくうむら」と読む。現在の三重県多気郡明和町の南半分に相当する。素敵な「齋宮(さいくう)の森」は明和町斎宮に一応「斎王(さいおう)の森」(ここ(グーグル・マップ・データ))として現存する。私は正直、「いつきのもり」と読みたかったなぁ。

「御影供」「みえく」と読む。東寺のそれは真言宗祖弘法大師御影供で、空海が入定(にゅうじょう)した三月二十一日(承和二(八三五)年)の「正(しょう)御影供」法会のそれ。これは祖師空海の御影を奉安し、その報恩謝徳のために修するものである。この叙述から見ると、東寺のそれでは隠れ里から何かの供物を搬入して供えたということらしいが、よく判らぬ。

「勢陽雜記」江戸後期の山中為綱の編輯になる伊勢地誌。

「近江」「犬上郡長寺の茶臼塚」現在の滋賀県犬上(いぬかみ)郡甲良町(こうらちょう)長寺(おさでら)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「茶臼塚」は不詳。

「東山靈山」ようわかりまへんけど、今の京都府京都市東山区下河原町の、京都東山霊山観音(りょうぜんかんのん)はんのあるとこ辺りでっしゃろか? ここでおす(グーグル・マップ・データ)。

「因幡岩美郡大路村の鼠倉」現在の鳥取市の、この附近(グーグル・マップ・データ)であろうと思われる、旧米里(よねさと)地区である。「鼠倉」と「米里」とは相性の好い地名ではないか。

「因幡民談」「因幡民談記」因幡国に関するものとしては最古とされる史書。貞享五・元禄元(一六八八)年完成し。全八部十巻。原本は焼失して現存しないが、写本が複数伝えられている。作者は鳥取藩の小泉友賢(元和八(一六二二)年~元禄四(一六九一)年)元は岡山藩の池田光仲の家臣の家に生まれたが、光仲が岡山から鳥取藩主へ国替えになってそれに従い、因幡国へ移った。二十歳の頃、『京都で諸子百家や稗史など文学・史学を修め、江戸へ出て儒学者林羅山に師事し、さらに医術を学んだ』。三十一歳から五年に亙って『鳥取藩で典医として仕えたあと、病を得て辞職した。その後は鳥取に暮らして在地の文化人と交わり、江戸時代初期の鳥取における文化を担った』という。彼は二十年を『費やして因幡国各地をめぐり、現地に伝わる史料や古書、伝記を収集し』それを纏めたものが本書である(以上はウィキの「因幡民談記」に拠った)。電子化画像が複数あるが、管見下限りでは今のところ、見出せない。発見し次第、追記する。孰れにせよ、これは所謂、「鼠浄土」譚の一つであることは間違いない。]

 何故に鼠ばかりに此の如き淨土があるのか、これと佐渡の團三郎貉とはどれだけの關係があるのか、ここでは不本意ながらまだ詳しく答へ得ぬ。ただし鼠倉又は長者の倉のクラは岩窟を意味する古い語であつて、多くの府縣の椀貸傳説とともに、隱里が洞の奧乃至は地の底にあつたと云ふ證據にはなるのである。攝陽群談の傳ふる所に據れば、大阪府下にも少なくも一箇所の隱里はあつた。卽ち豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)の南に當つて、昔此地に長者あり、萬寶家に滿ちて求むるに足らずと云ふこと無しと雖も、終に亡滅して名のみ隱里と云へり。今も此地にて物を拾ふ者は必ず幸ありとある。神戸に近い武庫郡の打出にも、打出の小槌を拾ふと云ふ話があつて、今でも地上に耳を伏せて聞くに、饗應酒宴の音がするなどゝ記して居る。後世に至つて隱里の愈々人界から遠ざかるは自然の事であつて、多くは元旦とか除夜とかの改まつた時刻に、何處とも知れぬ音響を聞き、之に由つてせめて身の幸運を賴んだのである。朱椀を貸したことのある駿州大井川入の笹ケ窪でも、享保の始頃、ある百姓雨の夜に四五人で拍子よく麥を搗く音を聞き、翌朝近所の者に問ふに之を知る者がなかつた。或僧の曰くこれ隱里とて吉兆である。先年三河にもこの事があつたと。其家果して大に富み、後は千石餘の高持となつたと云ふ。今でも子供の話に鼠の淨土の歌を聞いて居た男、猫の鳴聲を眞似て難儀をしたことを言ふのは、考へて見るとやはり椀をごまかして怒られたと云ふ結末と、同調異曲の言傳へのやうである。

[やぶちゃん注:「攝陽群談」岡田溪志が伝承や古文献を参照に元禄一一(一六九八)年から編纂を開始し、同一四(一七〇一)年完成した摂津国の地誌。全十七巻。江戸時代の摂津地誌としては記述が最も詳しい。

「豐能郡池田の北、細川村大字木部(きのべ)」恐らくは現在の大阪府池田市木部町(きべちょう)であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「武庫郡の打出」不詳。武庫郡は現在の西宮市の大部分と、尼崎市の一部及び宝塚市の一部に当るが、「打出」という地名は見出せなかった。

「笹ケ窪」既出既注であるが、再掲しよう。現在の島田駅から、大井川の少し上流の静岡県島田市伊太に笹ケ久保という地区を認める。ここであろう(グーグル・マップ・データ)。

「享保」一七一六年~一七三六年。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 世に出た「月の都」

 

     世に出た「月の都」

 

 『小日本』には創刊号から斎藤緑雨の小説「弓矢神(ゆみやがみ)」が作者不詳として連載された外、居士も卯之花舎(うのはなや)の署名の下に「月の都」を掲げた。自ら「まづ世に出づる事無かるべし」といった「月の都」が、意外な機会で世に出ることになったのである。この原稿は露伴氏の一閲を乞うたり、羯南翁や自恃(じじ)居士、二葉亭四迷の手に渡ったという稿本のままであるが、『小日本』に掲げるに当って更に推敲を重ねたものか、その辺の消息はわからない。とにかく現在伝わっている「月の都」は『小日本』所載のものである。二年前全力を傾注して世に問おうとした小説が、自己の主宰する新聞紙上に現れる様子を、居士はどんな気持で眺めつつあったか、当時の書簡などを点検しても、この点に触れたものは見当らぬように思う。「月の都」は三月一日を以て完結した。「弓矢神」と違って、挿画は時折入るに過ぎなかったようである。

[やぶちゃん注:「斎藤緑雨」(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は小説家・評論家。本名は賢(まさる)。伊勢国神戸(かんべ。現在の三重県鈴鹿市内)の生まれ。別号に「江東みどり」「正直正太夫,」「登仙坊」など。仮名垣魯文に認められて『今日新聞』『めさまし新聞』に執筆、坪内逍遥・幸田露伴・森鷗外らとも相識った。本格的な批評は「小説八宗」(明治二二(一八八九)年発表)からで、当時の作家を見事に裁断、「初学小説心得』」「正直正太夫死す」(とも翌明治二十三年)もパロディ精神旺盛である。明治二四(一八九一)年に小説「油地獄」を『国会』に、「かくれんぼ」を『文学世界』に書き、力量を示した。油の鍋に女の写真を投げ込む趣向など、思わず息を呑む。鷗外らとの合評時評『三人冗語』『雲中語』に参加し、樋口一葉とも僅かな期間であったが、交友があり、一葉没後の「一葉全集」は緑雨の校訂になる。『万朝報』に連載「眼前口頭」(明治三一(一八九八)年から翌年)を書く。「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」(「青眼白頭」明治三三(一九〇〇)年)の文句は当時の彼の心意気を示す言葉として、よく知られる。転居を繰り返し、本所横網町で病没する直前には、友人馬場孤蝶に「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段廣告仕候也」という広告文を口述している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「自恃(じじ)居士」元官僚でジャーナリストであった高橋健三。既出既注。当時は大阪朝日新聞客員論説委員(主筆と同格待遇)。]

 「月の都」に次いで居士は「一日物語」という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨澹たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥に首肯し得るものであったが、「一日物語」は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないかと思われるところがある。当時学業を一擲して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携っている居士としては、小説に思(おもい)を凝(こら)しているような時間を持合せなかったのであろう。

 新聞小説としての「月の都」は、西鶴張の文章に馴れていた当時にあっても、相当むずかしかったに違いないが、「一日物語」の方は最初から新聞の読者を対象としただけに、文章も大分わかり易くなっている。居士が前年歩いた奥州の天地を舞台にしてあるけれども、得体の知れぬ女に導かれて山中の孤屋に宿る一段は、固より居士の空想に成ったもので、この辺に漂う空気は露伴氏の『対髑髏(たいどくろ)』あたりと哀相通ずるものであろう。「一日物語」の筋は発展しそうで発展せず、結末において最初の筋に還るのであるが、場面に何らかの山を作り、場面に変化あらしめたのは、新聞小説における用意だろうと思う。この時の署名は黄鸝村人(こうりそんじん)であった。

[やぶちゃん注:「対髑髏」幸田露伴が明治二三(一八九〇)年年一月から二月にかけて雑誌『日本之文華』に発表した、私の好きな幻想怪奇短篇小説(初出時のタイトルは「縁外縁」)。菊池真一サイト内で読める。

「黄鸝」は高麗鶯(ススズメ目コウライウグイス科コウライウグイス属コウライウグイス Oriolus chinensis)の漢名。]

 居士はこの時分比較的健康状態がよかったらしい。こういう小説を執筆する傍、原稿の検閲、絵画の註文をはじめ、編輯上の仕事に鞅掌(おうしょう)しながら、余力があると艶種(つやだね)の雑報などにも筆を執ったという。二月十七日虚子氏宛の端書に「東京圖書館へ御出掛の節火事消防火消し等に關する書物御調査被下(くだされ)まじくや、もし出來るなら早き方よろしく御坐候。是非ともと申わけには無之候」というのがあるのは、『小日本』の材料として必要だったのであろう。日々の仕事を渋滞なく処理するが如きは、むしろ居士得意のところで、筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)の裡(うち)に安(やすん)じて自己の責任を果して行ったに相違ない。

[やぶちゃん注:「鞅掌(おうしょう)」名]忙しく立ち働いて暇(いとま)のないこと。この場合の「鞅」は「担う」の意。

「艶種(つやだね)」男女間の情事に関する話題。

「筆硯匇忙(ひっけんそうぼう)」物を書くのに慌ただしく忙しいこと。]

 『小日本』の編輯に任ずるようになって、居士の生活にも多少の余裕を生じた。三月八日大原恒徳氏宛の書簡に「私月俸三十圓迄に昇進仕候故(つかまつりさふらふゆゑ)どうかかうか相暮し可申(まうすべく)とは存候得共(ぞんじさふらえども)、こんなに忙がしくては人力代に每月五円を要し、其外社にてくふ辨當の如きものや何やかやでも入用有之(これあり)、又交際も相ふゑ(芝居抔にも行き申候)候故三圓や五圓は一朝にして財布を掃(はら)ふわけに御座候。近來は書物といふもの殆んど一册も買へぬやうに相成申候」とある。社会の人となるに及んで、書物が買えなくなるというのは、必ずしも居士のみの歎でないような気がする。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(30) 禮拜と淨めの式(Ⅷ) 一年神主

 

 起原の上から、淨めの式と關聯して、神道の種々な禁慾的な行ひがある。神道は必らずしも本來禁慾的な宗教てはない。則ち神々に肉と酒とを掠げる位である。そしてその定めたる克己の形は、たまたま古來の慣習と普通の品位とが要する位の程度のものに過ぎない。が、それにも拘らず、信者の中には、特別な場合に、非常な峻嚴な事を行ふものもある、――峻嚴とはその内に冷水浴の事が多く包藏されて居るのである。熱心なる禮拜者が、裸體で、冬の最中に氷の如くに冷い瀧の下に立つて、神に祈るといふやうな事は決して珍らしい事ではない……。併しこの神道の禁慾主義の尤も不思議な點は、今なほ邊阪の地方に行はれて居る慣習に依つてよく解る。この慣習に依ると社會の組合は年每にその市民の一人を選び、其者をして他のものに代つて、全然身を神々に捧げさすのである。その獻身の期間、此仲間の代表者は、その家族から分かれ、婦人に近づかず、戲れ、慰みの場所を避け、神の火を以て料理された食物のみを食ひ、酒を禁じ、一日幾囘も新鮮な冷い水の中に浴し、或る時間の間特別な祈禱をあげ、或る夜には徹宵祈願をしなければならないのである。そのものが特殊の時期の間、上記のやうな禁慾と淨めの務を果たし終ると、それは宗教上自由の身となり、つづいて別の人がそれに代って選ばれる。それでその地方の繁榮はその代表が、定められたる務を正確に守るに依ると考へられて居り、若し何か公共の不幸が起る事があれば、その代表者が誓を破つたのてはないかと疑はれる。昔は共同の不幸の起つた場合、代表者は殺されたものである。私が此慣習を始めて聞いたのは、美保關の小さな町に於てであつたが、その地方の代表は Ichinen gannushi 『一年願主』 one-year god-master. と呼ばれて居り(ガンヌシならば願主と考へられるが、ゴッド・マスタなれば神主である、暫くそのままにして置く)、その代表となって贖ひをする期間は十二箇月である。私の聞いた處に依ると、この務に選ばれるものは、通例年長者てあつて――靑年は減多に選ばれないさうである。古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつた名を以て呼ばれて居た。この慣習に關する説話は、日本についての支那の記錄の内にあつて、それは日本の有史以前に始まつた事であるといふ。

[やぶちゃん注:丸括弧部分は訳者戸川(秋骨)明三の割注。非常に正しい疑義で、これは「一年神主」である。なお、「である」の後の読点はママである。これは別に「当屋」「頭屋」などとも称し、八雲も微かに、民俗社会的な合理的好意的解釈として「昔は共同の不幸の起つた場合、代表者は殺された」と仄めかしているように、古代に於いては、或いは、地域によっては、祭祀が終了した時点で、追放されたり、殺されたりしたケースも多々あったと考えてよい。実際、「一年神主」にはそういう属性を本質として持った場合が私は多かったと考えており、そうした生贄としての結末を用意する時には、共同体の内部からその人物を選ぶのではなく、外界から訪れた放浪者や異邦人を特に選び(その殆どは賤民として差別された階級に属すると見做される者)、それが生贄であることを神は無論、共同体内の誰が見ても一目瞭然であるような処理を施した。それが例えば、片眼を潰すスティグマであったのであろう。柳田國男もそうした識別的行為が古えにあったことを「一目小僧その他」で(リンク先は私の同著作の電子化注〈作業中)の一部)、微かにシンボライズして述べているし、実際、近世及び近代初期の地方の祭祀の中には、そうした形で「一年神主」ならぬ、即席の消耗品としての生贄用の代替人を作って、村落の境界(現実とは異なり、日常とは無関係な異界へのトバ口に相当)である橋や河原に於いて無残に突き落したり、暴行を加えて半殺しにして置き去りにしたブラッキーな祭りが、現に行われていた。或いは、心優しい八雲にそれらを語ることを彼の周囲の誰彼は遠慮したかも知れず、また、八雲自身もそうした残虐性を肯定し得ないであろうから、幸いにもそうした言及には至っていないが、しかし、塞(さい)の神の古形ともされる(私は寧ろ、さらに溯ったごくごく古形のアニミズム信仰と思われる)ミシャグジウィキ記載には、『この神を祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また』一『年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に』、『人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る』ともする。八雲は「一年神主」には「靑年は減多に選ばれない」と記している。四歳で母と生き別れ、父方の大叔母の下で厳格なカトリック教徒として強いて育てられた孤独な彼が、この伝承を知ったら、きっと卒倒したのではないかとも私は想像するのである。

「私が此慣習を始めて聞いたのは、美保關の小さな町に於てであつた」昭和五〇(一九七五)年(四十七版)東京堂出版刊柳田國男監修「民俗学辞典」の「神役(カミヤク)」の項に、『今日では神主は單なる職員の一人ということになつているが、出雲美保神社の一年神主の如き、祭祀の中樞におかれて忘我の境に入り、時に託宣を傳えるというのが本來の神主である』とある。

「古代にあつてはこの代表者は『禁慾者』といふ意味をもつた名を以て呼ばれて居た」相当する呼称は確かではないが、前に引いた「民俗学辞典」の同じ「神役」の項に出る、「日本書紀」の「神代記」や「神武記」に出る「齋主」(いはひぬし(いわいぬし))・「齋(いはひ(いわい))の大人(うし)」を指すか。

「日本についての支那の記錄」不詳。卑弥呼の妖しい宗教的祭儀を記した「魏志倭人伝」を指すとしても、ここに記された内容とは一致しない。]

進化論講話 丘淺次郎 第十二章 分布學上の事實(1) 序

 

    第十二章 分布學上の事實

 

Kajitutosyusitonosanpu

[果實と種子との散布]

[やぶちゃん注:この図は講談社学術文庫版ではカットされている。キャプションは右上から左下へ、

「もみぢ」・「ぬすびとはぎ」・「ほんせんくわ」

「なんてん」・「きんみづひき」・「こくさぎ」

「かたばみ」・「やぶじらみ」・「すみれ」

「あれちのぎく」・「やし」

である。以下、総て学名を示す。丸括弧内は漢字表記の一例を示す。

「もみぢ」(楓・紅葉)植物界被子植物門双子葉植物綱ムクロジ(無患子)目ムクロジ科カエデ属 Acer に属する種群の総称。多くはアジアに自生し、約百二十八種が記載されている。

「ぬすびとはぎ」(盜人萩)マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ヌスビトハギ亜連ヌスビトハギ属亜種ヌスビトハギ変種ヌスビトハギ Desmodium podocarpum subsp. oxyphyllum

「ほんせんくわ」(鳳仙花)フウロソウ目ツリフネソウ科ツリフネソウ属ホウセンカ Impatiens balsamina

「なんてん」(南天)キンポウゲ(金鳳花)目メギ(目木)科ナンテン亜科ナンテン属ナンテン Nandina domestica

「きんみづひき」(金水引)バラ目バラ科バラ亜科キンミズヒキ属シベリアキンミズヒキ変種キンミズヒキAgrimonia pilosa var. japonica

「こくさぎ」(小臭木)ムクロジ目ミカン科コクサギ属コクサギ Orixa japonica

「かたばみ」(方喰・酢漿草)カタバミ目カタバミ科カタバミ属Oxalis亜属 Corniculatae 節カタバミ Oxalis corniculata

「やぶじらみ」(藪虱)バラ亜綱セリ目セリ科ヤブジラミ属ヤブジラミ Torilis japonica

「すみれ」(菫)

「あれちのぎく」(荒地野菊)キク目キク科キク亜科 Astereae 連イズハハコ(伊豆母子)属アレチノギク Conyza bonariensis

・「やし」(椰子)被子植物門単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科 Arecaceae に属する種群の総称。熱帯地方を中心に二百五十三属約三千三百三十三種がある。本邦でもシュロ(シュロ属 Trachycarpus)など六属六種が自生する.

 

 動植物各種の地理的分布を調べて見ると、生物進化の證據といふべき事實を發見することが頗る多い。先づ動植物の移動する方法を考へるに、之には自ら進んで移るのと、他物のために移されるのとの二通りがある。植物は通常固著して動かぬもの故、その移動は總べて他物によるが、種子などは種々の方法によつて隨分遠方までも達することが出來る。「たんぽぽ」の種子の風に飛ばされることは人の知る通りであるが、種子にはかやうな毛が生じたり、翅狀の附屬物が附いてあつたりして、特に風に吹き散らされるに都合の好い仕掛けの出來たものが多い。また或る種類では果實の色が美しく、味が甘いので鳥が之を食ひ、種子だけが諸方へ散るやうになつて居る。その他椰子の果實などは、海に落ちたものが潮流に隨つて非常に遠い島まで流れて行くこともある。種子の時代には活動もせぬ代りに何年も何十年も死にもせず、全く浪や風次第で何處へでも生きながら移される故、植物は自身に運動の力が無くてもその傳播することは却つて動物よりは容易で、迅速である。動物の方には通常かやうな時代がないから、運動の力はあつても種々の事情で制限せられ、何處までも行くことの出來ぬものが多い。小い蟲類は隨分遠方までも風に吹かれるもので、陸地から何百里も隔てた大洋の中央にある汽船に、蝶が澤山に飛び込んだこともあるが、稍々大きな動物になると、風に吹き飛ばされて遠方へ行く望のあるのは、鳥と蝙蝠だけに過ぎぬ。また常に陸上に生活する動物は長く水中に居れば溺死を免れぬから、到底潮流に隨つて遠方まで流されて行くことも出來ぬ。それ故、植物の傳播に最も有力な風と潮流とは稍々大きな動物に對しては全く無功である。倂し之はたゞ一般から論じただけのことで、尚詳細に調べて見ると隨分思い掛けぬやうな方法により、動物が一地方から他の地方に移ることがある。陸上の獸類が廣い海を越えて隣の島に移ることは先づ出來ぬことであるが、絶對にないとは斷言が出來ぬ。また現に熊の如き身體の重い獸類でさへ、北海道の岸から五里ほども隔つたリシリ島へ游いで渉つた所を獵師に補へられたことがある。熱帶地方の大河では、洪水の際に上流の岸が壞れ、そこに生えて居た樹木が筏の如くなつて流れ下ることが常にあるが、或る時南アメリカモンテヴィデオ市の眞中にかやうな筏に乘つて黑虎が四疋も漂着し、市中大騷ぎをしたこともあるから、獸類が之に乘つたまゝで海へ流れ出し、隣の島に著したとすれば、隨分移住の出來ぬこととも限らぬ。その他木片が海岸に流れ著くことは常のことで、千島邊では之を拾ひ集めて一年中の薪とし、尚餘る位であるが、若し斯かる木片に昆蟲の卵などが附いて居て、萬に一も尚生活力を保つて居たならば、之も打ち上げられた處で繁殖せぬとも限らぬ。特に今日では人間の交通が盛になり、荷物の運輸が夥しいから、之に紛れ込んで知らぬ間に或る地方に入り込んだ動植物も既に澤山にある。

[やぶちゃん注:「熊の如き身體の重い獸類でさへ、北海道の岸から五里ほども隔つたリシリ島へ游いで渉つた所を獵師に補へられたことがある」二〇〇九年八月、礼文島と利尻島に行った際、「利尻島郷土資料館」で、そのヒグマの剥製を見た。こちらでその「解説シート」(PDF)が読める。それによれば、渡って来たのを発見されて撲殺されたのは(リンク先にその際の写真が載る)、明治四五(一九一二)年五月二十四日のことで、の成獣で体長は二・四メートル、体重三百キログラムであったという(当時の新聞記事によれば、同年五月二十二日頃には既に渡島していたらしく、推定では利尻島の対岸天塩から島に泳ぎ渡って一度上陸、その後に再び海に入り、再び上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを漁師たちに発見されたものらしい)。最終捕獲地である北海道利尻郡利尻富士町鬼脇旭浜(ここ(グーグル・マップ・データ))から利尻隧道を最短で北海道内地と計測しても十九キロメートル強ある。私は剥製になった彼を見ながら、彼がどんな思いとどんな目的でこの海を渡ったのかを考え、その悲惨な最期に思いを致した時、何か、しみじみとした思いに沈まざるを得なかったのを思い出す。

モンテヴィデオ市」モンテビデオ(スペイン語: Montevideo)は南アメリカ南東部に位置するウルグアイ東方共和国(República Oriental del Uruguay)の首都。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑虎」発見された場所から見て、人の飼っていたものが逃げ出したものでないとするなら、哺乳綱食肉目ネコ型亜目ネコ科ヒョウ亜科 Pantherini 族ヒョウ属ジャガー Panthera oncaのに黒変種個体(比較的しばしば見られる)群(家族群)か。

 

Sigikarasugai

[鴨の足に挾み著いた烏貝]

[やぶちゃん注:脚が挟みこまれたしまったもので、事実として他者から聴かれたものではあろうが、この絵を挿入する際の丘先生には、当然、かの「戦国策」の「燕策」に載る故事「漁夫の利」が念頭にあられたことは想像に難くない。これは講談社学術文庫の絵を採った。

「鴫」チドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae

「烏貝」「からすがい」であるが、これは斧足綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイCristaria plicata 及び同属の琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)と、イシガイ科ドブガイ属 Sinanodonta に属する大型のヌマガイ Sinanodonta lauta(ドブガイA型)と、小型のタガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)の二種を広義に指す。カラスガイとドブガイとは、その貝の蝶番(縫合部)で識別が出来る。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は貝の縫合(蝶番)部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」 の「蚌(どぶがい)」及び「馬刀(からすがい)」の項の注で詳細に分析しているので参照されたい。]

 

 特に意外の傳播法の具はつたものは、淡水産の動物で、微細な下等動物のことは略し、稍々大きなものだけに就いていつても、その例は隨分多い。貝類の子は何にでも介殼を以て挾み著く癖のあるもので、水鳥の足・羽毛等に附著して、なかなか遠方まで行くことが常であるが、嘗て鴫の足に大きな鳥貝の挾み著いて居るのが、獵で取れたこともあるから、生長し終つたものでも往々この方法で移轉するものと見える。また魚類の卵も同じく鴨や雁の足に泥と共に附著して遠方へ行くもので、これらの水鳥の足を水で洗ひ、その水を器に入れて置くと、實に種々の動物がその中で生ずるが、之は孰れも卵・幼蟲等の形で泥の中に混じてあつたものである。また颱風の際に貝や魚が水と共に卷き上げられ、他の場所に降つて落ちることがある。著者の友人は現に斯くして降つた泥鰌を拾ひ取つた。斯くの如く種々の傳播法があつて、常に諸地方のものが相交るから、淡水産の動物はどの國のも大同小異で、同一の種類がヨーロッパにも日本にも居ることが決して珍しくない。鯉・鮒などはその例である。ダーウィンも世界週航の際、南アメリカで淡水産の微細な動物を採集して、そのイギリス産のものに餘り善く似て居るのに驚いたというて居るが、かやうな微細な種類になると、恰も植物の種子に相當する如きものが生じ、この物が風に吹かれて何處へでも達する故、世界中到る處に同種同屬のものが産する。

 斯くの如く、動物の傳播のためには種々の手段があるが、淡水産の動物を除き、陸上の鳥類・獸類だけに就いて考へて見るに、獸類が狹い海峽を游いで渡ることは往々あるが、廣い海を越えて先の島まで行くことは偶然の好機會が無ければ出來ぬこと故、實際に於ては先づないといふて宜しい。また鳥の方は獸類に比べると移轉は遙に容易であるが、同じ鳥類の中にも飛ぶ力の強いものもあり、弱いものもあり、翼の力には各種にそれぞれ制限がある故、遠く隔たつた處に移るには、風の力によらなければ、到底出來ぬものが多い。かやうに鳥獸の類では、海を越えて移ることは餘程困難で、一地方の産と他の地方の産とが混じ合ふことも隨つて甚だ少いわけ故、動物分布の有樣を調べるに當つては、先づこれらの動物から始めるのが便利である。次に述べる所も、主として鳥類・獸類の分布に關することである。

 動物の分布を論ずるに當つて豫めいうて置くべきは、土地の昇降、海陸形狀の變遷のことである。今日陸である處は決して昔から始終陸であつたとは限らず、また今日海である處も決して昔から始終海であつたとは限らぬ。桑田の變じて海となることは古人も既に注意した所で、我が國でも東海岸の方には年々新しい田地が出來るが、西海岸の方は少しづ降つて海となり、有名な安宅(あたか)の關も今では海から遠い沖の中程になつてしまつた。それ故、今日は相離れて居るが、昔陸續(りくつゞき)であつた處もあれば、もと相離れて居た處が後に連絡する處もある。今日の地質學者一般の説によれば、地殼の昇降は遲いながら曾て絶えぬが、大洋の底が現れて大陸となつたり、大陸がそのまゝ急に降つて大洋の底となる程の大變化は無かつたらしい。卽ち今日の大陸の大體の形だけは、既に餘程古い頃から定まつて、その後はたゞ地殼の昇降により、海岸線の模樣が常に變化し來つただけのやうに思はれる。之によつて考へて見ると大陸と島との間、または島と島との聞の海の深さを測つて見て、餘り深くない處は元は地續であつたものと見倣して差支なく、また、間の海が非常に深ければ之は元來全く離れて居て一度も互に連絡しなかつたものと見倣すのが至當である。たゞ表面から見ると、どこの海も單に深いと思はれるだけであるが、その深さを數字で表せば、處により實に非常な相違で、日本・支那などの間はどこでも大抵百尋[やぶちゃん注:長さの単位である「尋」(ひろ)は五尺(約一・五一五メートル、乃至、六尺(一・八一六メートル)であるが、水深に用いる場合は六尺とされるので、ここは百八十一・六メートルとなる。]位に過ぎぬが、奧州の海岸を少し東へ距つた處では、海の表面から底までの距離が二里[やぶちゃん注:七千八百五十四・五二メートル。]以上もある。尤も二里以上といふ深さの處は餘り多くはないが、凡そ大洋と名の附く處ならば、大概一里[やぶちゃん注:三千九百二十七・二六メートル。]以上の深さは確にある。二里と百尋とではその間の割合は四十倍以上に當るから、殆ど四尺と一寸程の相違であるが、大洋に比べると大陸沿岸の海の深さは實に斯くの如くで、殆ど比較にもならぬ。それ故、假に海水が二百尋も低く下つたと想像すると、日本の列島は勿論、ジャヴァスマトラボルネオ等の東印度諸島は皆アジアと陸續になつてしまひ、島として殘るのは遠く陸地を離れた、グァムサイパンマーシャル群島の如き所謂南洋の孤島ばかりである。大陸の岸に沿うた島は、かやうに考へて見ると、大陸と頗る關係の密なもので、實際種々の點から見ても、もと大陸の一部であつたものが後に離れたといふのが確なやうである。

[やぶちゃん注:「安宅(あたか)の關も今では海から遠い沖の中程になつてしまつた」現在、かの安宅の関所跡は石川県小松市安宅町の(グーグル・マップ・データ)に史跡としてあるが、丘先生の言われるように、海岸線の変動などによって、ここよりも二、三里沖の海中であったとも言われている。]

 以上はその道の專門學者の研究した結論で、今日皆人の信ずる所であるが、現在の動物分布の有樣を調べ、それをこの考に照し合せて見ると、生物進化の證據といふべき事實を、到る處に發見することが出來る。例へば生物各種は皆共同の先祖より樹枝狀に進化して分かれ降つたものとすれば、獸類も蛙類も各々その一枝をなすこと故、世界中の獸類・蛙類は各々その共同の先祖から降つたものでなければならず、而してその子孫たるものは生活の出來る處ならば、何處までも移り廣がるべきであるが、兩方とも飛ぶことも、長く泳ぐことも出來ぬもの故、海濱に達すれば、そこで移住力が止まり、最早進むことは出來ぬ。それ故、大洋の眞中にある如き、初めから大陸と全く離れて居た孤島には、到底移ることが出來ぬ理窟である。所で、實際分布の有樣は如何と調べて見ると、全くその通りで、大洋中の離れ島には、發見の當時、獸類・蛙類の居た例がない。海鳥は隨分多く居るが、その他は風で飛んで來る昆蟲の類か、然らざれば蟹・寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。]の如き海から陸上に移つたものばかりである。之は決して斯かる島は獸類・蛙類の生活に適せぬからといふ譯ではない。後に牛・山羊等を輸入した處では、孰れも盛に繁殖したのを見ると、寧ろ或る獸類の生活には最も適當な場所といはねばならぬ。斯く適當であるに拘らず、實際全く獸類を産せぬといふことは、進化論から見れば必然のことであるが、天地開闢の際に適當の場所に各々適當の動物が造られたといふ説とは全然矛盾する事實である。

2018/02/21

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(5) 四 所謂自然分類 / 第十一章 分類學上の事實~了

 

     四 所謂自然分類

 

 動植物の種屬を分類するには、如何なる標準によつても出來ることで、恰も書物を分類するに、出版の年月によつても、版の大きさによつても、國語分けにも、著者の姓名のいろは分けにも出來る如く、雄蘂の數・雌蘂の數・葉の形または外形・住處、運動法等の孰れを取つても出來ぬことはないが、斯くして造つた分類表は、所謂人爲分類で、檢索に多少の使があるだけで、單に目錄としての外には何の意味もない。之に反して、當今、分類學を研究する人の理想とする所は、所謂自然分類で、完成した曉には各種屬の系圖を一目瞭然たらしめる積りの分類法である。今日の所では生物學者であつて生物進化の事實を認めぬ人は人もないから、分類に從事する人も單に種類の數を多く列擧するばかりでは滿足せず、その進化し來つた路筋に就いて白分の推察する所を述べ、之によつて種屬を組に分ち、同じ枝より起つたものは同じ組に入れ、別の枝より生じたものは別の組に離して、恰も樹の枝を起源によつて分類するのと同樣な心持ちで分類して居るが、之が卽ち所謂自然分類である。素より孰れの方面でもまだ研究の最中故、詳網の所まで少しも動かぬやうな自然分類は到底出來ぬが、大體の形だけは略々定まつたものと見て宜しい。當今の動物學書・植物學書の中に用ゐてある分類は、各々その著者の想像した自然分類で、彼此相比[やぶちゃん注:「かれこれあひくら(かれこれあいくら)」。]べて見ると尚隨分著しく相違した處もあるが、生物全體を一大樹木の形に見倣して分類してあることは、皆一樣である。之だけは最早動かぬ所であらう。また脊椎動物・節足動物・軟體動物等を各々太い枝と見倣すことも皆一致して居るが、之も先づ動くことはない。今より後の研究によつて確定すべきは、之より以下の點のみである。

 この自然分類といふものは生物進化の事實を認めて後に、初めて意味を有するもの故、之を以て直に生物進化の證據とすることは出來ぬが、今日までの分類法の進步を調べると、進化論を認めると認めないとに拘らず、一步づゝ理想的自然分類に近づき來つたことが明である。初は單に外形によつて分類して居たが、解剖學上の知識が進んで來ると、内部の構造を度外視するのは無理であるといふ考が起り、之に基づいて分類法を改め、次に發生學上の知識が進めば、また發生學上の事實を無視した分類は眞の分類でないといふ考が生じ、更に之に隨つて分類法を改め、漸々進んでいつとなく今日の自然分類になつたので、生物進化論が出てから、急に分類法を一變して組み改めた譯ではない。今日では分類を試みるに當つて、初めから進化の考を持つてかゝるが、所謂自然分類の大體は進化論の出る前から既に出來て居て、單に最も適當な分類法として用ゐられて居た、その所へ進化論が出て、それに深遠な意味のあることが初めて解つたといふだけである。

 自然分類その物だけでは、生物進化の證據といへぬかも知れぬが、進化論に關係なく、たゞ一般の生物學知識の進步の結果として出來た分類が、進化論を基礎とした理想上の分類と丁度一致したことは、やはり進化論の正しい證據と見倣さなければならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(4) 三 所屬不明の動植物

 

     三 所屬不明の動植物

 

 現今生存して居る動植物の種類は實に何十萬といふ程であるが、この中から最も相似たものを集めて、各一屬に組み合せ、屬を集めて科を作り、科を集めて目を造ろうと試みると、實際孰れの方へ編入して宜しいやら判斷の出來ぬやうな屬・科・目等が幾らもあることを發見する。それ故、全動植物を二大分類系統の中に奇麗に組み込んでしまはうとすれば、その際所屬の解らぬ屬・科等が幾つか剩つて[やぶちゃん注:「あまつて(あまって)」。余って。]大いに困ることが屢々ある。かやうなものは據なく[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]孰れかの綱・目に附屬として添へて置く位より致し方もないから、今日の動物學書・植物學書を開いて見ると、その類の部には必ず若干の所屬不明の動植物の例が擧げてあるが、その各々を何類の附屬として取扱うかは、全くその著者の鑑定のみによることで、その見る所が各々違ふ、結果同一の動植物が甲の書物と乙の書物とでは、分類上、隨分相隔たつた處に編入してあることが往々ある。現今の多數の動植物學者の著書を比べて見るに、分類の大體は既に略々一定した有樣で、脊椎動物・節足動物・軟體動物といふやうな明な門或はその中の明な各綱等に就いては、最早何の議論もないやうであるが、こゝに述べた如きものになると、その分類上の位置に關する學者の考がまだ樣々で、少しも確なことは知れぬ。

 

Kagimusi

[かぎむし]

 

Hoya

Hoyakoudansyagakujyu

[海鞘]

[やぶちゃん注:前者は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。後者はその国立国会図書館デジタルコレクションの画像と講談社学術文庫版の両方を並べた。底本が写真で、後者が絵で、異なるからでもあるが、実は私はホヤを激しく偏愛しているからというのが正直な理由である。例外的に「カギムシ」も「ホヤ」も種明かしは段落後の注に回そう。その方が面白いからね。]

 

 かやうな動植物の例は今日相當に多く知れてあるが、その大部分は人間の日常の生活には何の關係もない類故、普通の人は氣が附かぬ。一二の例を擧げて見ると、我が國の海岸の泥の中などに澤山に産する「いむし」と稱するものなどもやはりこの仲間で、何の類に入れて宜しいか善くは解らぬ。この蟲は、鯛を釣るための餌として漁夫の常に用ゐるものであるが、恰も甘薯[やぶちゃん注:サツマイモ。]のやうな形で、表面にも内部にも少しも節はないから、通常、蚯蚓・「ごかい」などの類に附屬させてはあるが、この類の特徴ともいふベき點は全く訣けて居る。また西印度・アフリカニュージーランドなどに産する「かぎむし」といふものは、恰も蜈蚣(むかで)と「ごかい」との間の如き蟲で、一對の觸角を有し、陸上に住して空氣を呼吸する點は、蜈蚣と少しも違はぬが、足に節のないこと、その他内部の構造などを考へると、寧ろ「ごかい」の方に近いかと思はれる位で、いづれに組み入れて宜しいか全く曖昧である。またこゝに圖を擧げた海鞘(ほや)の如きも、單に發生の途中に一度脊椎動物らしい形態を具へた時期があるといふだけで、その生長し終つた後の姿は少しも脊椎動物に似た處はない。それ故その分類上の位置に就いては種々の議論があつて、なかなか確定したものと見倣す譯には行かぬ。

[やぶちゃん注:ここと次の段落は私にとっては恍惚となるほど嬉しい箇所である。私の偏愛する海産生物が立て続けに登場するからである。

「いむし」現行の正式和名は「ユムシ」で、ここは諸叙述から、動物界 Animalia 冠輪動物上門 Lophotrochozoa ユムシ動物門 Echiura のユムシ目 Xenopneusta ユムシ科 Urechidae ユムシ属 Urechis ユムシUrechis unicinctus に同定してよい。漢字では「螠虫」で「ゆむし」と表記する。ここでは主に小学館の「日本大百科全書」から引こう。環形動物門ユムシ綱Echiuroideaに属する海産動物の総称(ユムシ類は世界で約百五十種ほど)、又はその中の上記した一種を指す。ユムシ類は総てが海産で、泥の中に掘ったU字形の穴や岩の隙間などに棲む。体は円筒状又は卵状を成し、吻部と胴部とに分かれる。体の表面には多くの小さな疣(いぼ)状の突起があるが、環節や疣足・触手も持たない。口のやや後方の腹側に、一対の腹剛毛があり、さらに肛門の周りに一つか二つの環列を成した尾剛毛を有する。頭部の先端には箆(へら)状の吻があるが、これは体内に引き込むことは出来ない。吻が長いものではキタユムシ目Echiuroineaキタユムシ科Echiuridae イケダ属 Ikeda サナダユムシIkeda taenioidesのように、体長四十センチメートルに対して、吻の長さが一・五メートルにも及ぶものもいる。多くの種では吻の表面に繊毛が密生しており、海水や微小な餌が繊毛溝を伝わって口へ運ばれるようになっている。消化管は長く、螺旋状に巻いており、体の末端にある肛門に続く。排出器は一~四対であるが、例外的に上記のサナダユムシには二百~四百対もある。雌雄異体で、卵は海中に放出され、ばらばらに海底に沈んで受精される。幼生は軟体動物門の貝類に特徴的なトロコフォラ型である、浮遊生活をした後に変態して成体となる。また、キタユムシ目ボネリムシ科Bonellidae ボネリアBonellia を代表とするボネリムシの類は、著しい性的二型を示すことで知られ、は非常に小さく、の咽頭或いは腎管中に寄生しており、は幼生の状態のままにとどまって、精巣だけが発達している幼体成熟(ネオテニー:neoteny)の最たるものである。ユムシ類は環形動物の多毛綱 Polychaeta・貧毛綱 Oligochaeta・ヒル綱 Hirudinoideaなどとは体制が非常に異なっていることから、分類学上、独立した一つの門 Echiura とする学者もいるが、ユムシの発生の途中で体節構造がみられることから、環形動物門 Annelida に含める学者も多い。私も現時点では前者を支持する。但し、近年の分子生物学的研究では完全に環形動物門多毛類に属しているとする主張もあるという。一方、種としてのユムシUrechis unicinctusは、体長十~三十センチメートルで、吻は短い円錐状を成し、体表は赤みを帯びた乳白色で、多くの皮膚乳頭を有する。口のすぐ後方に一対の腹剛毛があり、肛門の周囲にも九本から十三本の尾剛毛が一環列に並んでいる。北海道から九州までの沿岸の砂泥中にU字状の穴を掘ってすみ、穴の両端は低い襟状に隆起している。非常に古くから、タイ・カレイ・クロダイなどの釣り餌として用られている。最後はウィキの「ユムシ動物」も参考にして述べよう。そうした有用魚の餌としての利用の古さから地方名が多く、「アカナマコ」・「カキムシ」・「ユ」・「ムジ」・「コウジ」・「ルッツ」(北海道)・「イイ」(和歌山)・「イイマラ」(九州)などとも呼ばれる。この「マラ」は形状が男根に酷似することに由来すると考えてよいであろう。丘先生の「いむし」も単に「ゆむし」の訛りともとれるが、最後の二つの異称などとの親和性もある。「イイ」「イイマラ」は私は矢張り、男根を意味する「㔟(セイ)」の「イ」ではないかと推理している。『体部は細長い円筒形で、前端に吻をもち、その吻の付け根に口がある。付属肢も疣足もないが、わずかに剛毛がある』。『干潟などの浅い海域の砂地に棲息し、縦穴を掘ってその中に生息し、干潮時には巣穴に隠れる』。『韓国では、砂地の海底で鈎状の漁具を曳いて採り、「ケブル(개불)」と称して沿岸地域で刺身のように生食したり、串焼き、ホイル焼きなどにされ、割と一般的に食される。中国の大連市や青島市などでは「ハイチャン(海腸、拼音: hǎicháng)」と称して、ニラなどと共に炒め物にしたり、茹でて和え物にして食べる。日本でも北海道の一部などで、刺身、酢味噌和え、煮物、干物など食用にされるが、いわゆる珍味の一種であり、一般的な食材ではない』。『グリシンやアラニンなどのアミノ酸を多く含むため、甘味があり、コリコリした食感で、ミル貝に似た味がする』。『クロダイやマダイ釣りの釣り餌としても使われる』。私はさる本邦の店で特に予約注文をして取り寄せて貰い、刺身を食してみたが、まことに美味であった。すこぶる附きでお薦めの食材である。また、二十数年前、金沢八景の海の海岸で潮干狩りをした際、岸から程遠からぬ場所で数十センチメートルの本種を巣ごと現認、何か、とても嬉しかったことを覚えている。以下に、廣川書店平成六(一九九四)年刊の永井彰監訳 Thomas M.Niesen“The MARINE BIOLOGY COLORING BOOK”「カラースケッチ 海洋生物学」の「海産環形動物 ユムシ類」のレジュメと私が彩色した図を掲げる。こんなカラーリングを三十七歳の高校国語教師が嬉々としてやっていたさまを想像して見るがいい。私が如何にとんでもない海産無脊椎動物フリークであったかがお分かり戴けるであろう。

 

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「かぎむし」現在は独立した動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa脱皮動物上門 Ecdysozoa有爪(ゆうそう)動物門 Onychophora に、彼らだけで同門にカギムシ綱 Onychophoridaカギムシ目 Euonychophora として単独で配されている(ペリパツス科 Peripatidae・ペリパトプシス科 Peripatopsidae の二科)を作っている。ウィキの「有爪動物」によれば、『森の落ち葉の下などに棲んでいるカギムシ類のみが知られ』、『細長くて柔らかい動物である。全身は赤褐色、黒、緑など様々だが、黒紫色のものが多いらしい。発見当初はナメクジの』一『種として記載された』。『体は細長く、やや腹背に扁平、背面は盛り上がり、腹面は平らになっている。全身がビロード状の柔らかい皮膚に覆われる。頭部には』一『対の触角があり、その基部には眼がある。頭部の下面には口があって、その側面に』一『対の付属肢がある』。『頭部以降の胴体には、対を成す付属肢が並ぶ。付属肢は円錐形に突出し、先端には鈎爪がある。腹部末端に肛門がある。生殖孔は最後の附属肢の間の腹面中央か、もう一つ前の附属肢の間に開く』。『呼吸は気管によって行われる。体表のあちこちに気門が開き、その内部にはフラスコ型の気管嚢がある。気管はここから』二~三『本が体の内部へと伸び、それらは互いに癒合することがない』。『雌雄異体で、体内受精によって生殖する。雄は精包を雌の体表に貼り付け、精子はその皮膚を貫いて雌の体に侵入し、卵を受精させる。卵を産み出す場合と、体内で孵化するものがある。また、一部の種では胎盤が形成される胎生を行う』。『熱帯多雨林の地表や朽ち木の中などに生息する。肉食性で、小型の昆虫等を捕食する。餌をとるときは口のそばにある粘液腺から白い糸のように見える粘液を噴出し、これを獲物に引っかけて動けなくする。場合によっては』三十センチメートル『ほども飛ぶ。この粘液は防御のためにも使われる』。『触角や付属肢の配置等は節足動物のそれにほぼ一致する。体内の構造にも腎管の配置などに体節制を感じさせるものがある。しかし、見掛け上も内部構造にも体節が存在せず、付属肢も関節が無い。節足動物に似た点が多いもののこのような点で異なることから、緩歩動物、舌形動物(五口動物)と併せて』、『側節足動物という群にまとめられることもある』。『環形動物の多毛類に似ている点として、付属肢が疣足状であること、平滑筋であること、生殖輸管や腎管に繊毛があることなどが挙げられる。かつては節足動物が環形動物から進化したと考えられたため、この両者をつなぐ位置にあるものと考えられたこともある』。『バージェス動物群の一つであるハルキゲニア(Hallucigenia)やアイシュアイア(Aysheaia)は、この有爪動物門に属するものと考えられ』てい『る。バージェス頁岩だけでなく、中国などのカンブリア紀の地層からも類似の動物化石が見つかっている。節足動物と類縁の原始的な動物門と考えられている』但し、『ハルキゲニアやアイシュアイアは海に生息していたが、現生種では海中に生息しているものは』一『種も存在しない』とある。ここに出るカギムシの捕食行動は多くの動画で見ることが出来る。私が昔見たのは、“Bizarre Slime Cannon Attack | World's Deadliest”でその技に大いに感動した。但し、ワーム(蠕虫)系が苦手な方は見ない方がよかろうとは思う。

「海鞘(ほや)」ここに掲げられた個体は、写真も図も孰れも、動物界 Animalia脊索動物門 Chordata尾索動物亜門 Urochordataホヤ綱 Ascidiaceaマボヤ目 Pleurogona マボヤ亜目 Stolidobranchiaマボヤ科 Pyuridae マボヤ属 Halocynthia マボヤ Halocynthia roretzi である。あげな、不可思議な形をしよるに、我々、人間に近い生物なんやで! 要するに、微小な幼生期(オタマジャクシ型を成す)に我々の脊髄の元となるものと同じ脊索が形成されるんやで! 私が本種及び海鞘類について語り出すと、徹夜になるから、これはこれ、自粛致すこととしよう。そこで例えば、以下の私の記載を読まれんことをお薦めする。しかし、それらの私の注に目を通すだけでも、夜が明けてしまうかも知れぬ。

海産生物古記録集2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

海産生物古記録集4 後藤梨春「随観写真」に表われたるボウズボヤ及びホヤ類の記載

海産生物古記録集5 広瀬旭荘「九桂草堂随筆」に表われたるホヤの記載

大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 ホヤ

『博物学古記録翻刻訳注 13 「本朝食鑑 第十二巻」に現われたる老海鼠(ほや)の記載』

毛利梅園「梅園介譜」 老海鼠このマボヤの絵は絶品!

『武蔵石寿「目八譜」の「東開婦人ホヤ粘着ノモノ」』これには実は私は副題で「真正の学術画像が頗るポルノグラフィとなる語(こと)」というのを添えてある。しかし私は非常に美しいと思っている

『神田玄泉「日東魚譜」老金鼠(ホヤ)』

最後の三つの絵だけを見るのも一興であろう。]

Gibosimusi

[ぎぼしむし]

[立体感があるので、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの図を採用した。]

 その他海岸の砂の中に住む「ぎぼしむし」といふものがあるが、この蟲は恰も紐の如き形で、長さが一尺から三尺位までもあり、極めて柔で切れ易く、殆ど完全には捕れぬ程で外形からいへば、少しも脊椎動物と似た點はないが、これを解剖してその食道・呼吸器等の構造を調べて見ると、多少魚類などに固有な點を見出すことが出來る。食道から體外へ鯉孔が開いて、こゝで呼吸の作用を營む動物は、魚類の外には先づ皆無といふべき有樣であるが、この「ぎぼしむし」は食道が多數の鰓孔で直に、體外に開いて居る外に、詳しく比較解剖して見ると、なお脊椎勤物に似た一二の性質があるから、現今ではこれをも脊椎動物に近いものと見倣す人が甚だ多い。倂し、この動物と普通の脊椎動物との間の相違は如何にも甚だしいから、これを以て脊椎動物に最も近いと見倣す考が正しいか否かは、まだ容易に判斷することは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「ぎぼしむし」新字で漢字表記するなら、「擬宝珠虫」である。あの橋などの欄干の飾りの「擬宝珠」(ぎぼし・ぎぼうしゅ)である。動物界 Animalia半索動物門 Hemichordata腸鰓(ギボシムシ)綱Enteropneusta に属する純海産の動物群の総称。ギボシムシを知っている方は殆どおられぬであろうから(ウィキにさえ「ギボシムシ」の項はない)、ここに主に保育社平成七(一九九五)年刊「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の西川輝昭先生の記載から生物学的な現在の知見を詳述する。

  半索動物門の現生種にはもう一つ、翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaがあるが、そこに共通する現生半索動物門と二綱の特徴は以下の通り(西川氏の記載に基づき、一部を省略・簡約し、他資料を追加した)。

体制は基本的に左右相称。前体(protosome)・中体(mesosome)・後体(metasome)という前後に連続する三部分から成り、それぞれに前体腔(一個)・中体腔(一対)・後体腔(一対)を含む。これらは異体腔であるが、個体発生が進むと体腔上皮細胞が筋肉や結合組織に分化して腔所を満たすことが多い。前体腔及び中体腔は小孔によってそれぞれ外界と連絡する。

後体の前端部(咽頭)側壁に、外界に開き繊毛を備えた鰓裂(gill slit)を持つ。鰓裂を持つのは動物界にあって半索動物と脊索動物だけであり、両者の類縁関係が推定される[やぶちゃん注:下線やぶちゃんウィキの「半索動物」によれば現在、18SrDNAを用いた解析結果などによると、ギボシムシ様の自由生活性動物が脊索動物との共通祖先であることを支持する結果が得られている。この蚯蚓の化け物のようにしか見えない奇体な生物は、正しく我々ヒトの祖先と繋がっているということなのである。]。

口盲管(buccal diverticulum)を持つ。これは消化管の前端背正中部の壁が体内深く、円柱状に陥入したもので,ギボシムシ類では前体内にある。口盲管はかつて脊索動物の脊索と相同とされ、そのため半「索」動物の名を得た。現在ではこの相同性は一般に否定されているが(ウィキの「半索動物」によれば、例えば脊索形成時に発現するBra遺伝子が口盲管の形成時には認められないなどが挙げられるという)、異論もある。

神経細胞や神経繊維は表皮層及び消化管上皮層の基部にあり、繊維層は部分的に索状に肥厚する。中体の背正中部に襟神経索(collar nerve cord)と呼ばれる部分があるが、神経中枢として機能するかどうかは未解明である。

開放血管系を持ち、血液は無色、口盲管に付随した心胞(heart vesicle)という閉じた袋の働きで循環する。

排出は前体の体腔上皮が変形した脈球(glomerulus)と呼ばれる器官で行なわれ、老廃物は前体腔を経て外界に排出される。

消化管は完全で、口と肛門を持つ。

一般に雌雄異体。生殖腺は後体にあり、体表皮の基底膜と後体腔上皮とによって表面を覆われている。外界とは体表に開いた小孔でのみ連絡する。但し、無性生殖や再生も稀ではない。

体表は繊毛に覆われ、粘液で常に潤っている。石灰質の骨格を全く欠き、体は千切れ易い。

 腸鰓(ギボシムシ)綱 Enteropneusta は、触手腕を持たず、消化管が直走する点で、中体部に一対以上の触手腕を持ち、U字型消化管を持つ翼鰓(フサカツギ)綱Pterobranceiaと区別される。

以下、西川先生の「ギボシムシ綱 ENTEROPNEUSTA」の記載に基づく(アラビア数字や句読点、表現の一部を本テクストに合わせて変更させて戴き、各部の解説を読み易くするために適宜改行、他資料を追加した)。

  細長いながむし状で動きは鈍く、砂泥底に潜んで自由生活し、群体をつくることはない。全長数センチメートル程度の小型種から二メートルを超すものまである。

 前体に相当する吻(proboscis)は、外形がドングリや擬宝珠に似ており、これが本動物群の英俗称“acorn worm”[やぶちゃん注:“acorn”は「ドングリ」。]や「ギボシムシ」の名の由来である。吻は活発に形を変え、砂中での移動や穴堀りそして摂餌に用いられる。

 中体である襟(collar)は短い円筒形で、その内壁背部に吻の基部(吻柄)が吻骨格(proboscis skeleton:但し、これは基底膜の肥厚に過ぎず、石灰化した「骨格」とは異なる)に補強されて結合する。吻の腹面と襟との隙間に口が開く。
 後体は体幹あるいは軀幹(trunk)と呼ばれ、体長の大部分を占めるが、その中央を広いトンネル状に貫いて消化管が通る。途中で肝盲嚢突起(hepatic saccules)を背方に突出させる種もある。

 生殖腺は体幹の前半部に集中し、ここを生殖域と呼ぶが、この部分が側方に多少とも張り出す場合にはこれを生殖隆起、それが薄く広がる場合にはこれを生殖翼と、それぞれ呼称する。

 彼等は砂泥を食べ、その中に含まれる有機物を摂取するほか、海水中に浮遊する有機物細片を吻の表面に密生する繊毛と粘液のはたらきにより集め、消化管に導く。この時、鰓裂にある繊毛が引き起こす水流も役立つ。消化し残した大量の砂泥を紐状に排出し、糞塊に積みあげる種も少なくない。

 鰓裂は水の排出経路としてはたらくだけでなく、その周囲に分布する血管を通じてガス交換にも役立つ。鰓裂は背部の開いたU字形で、基底膜が肥厚した支持構造を持つ点、ナメクジウオ類の持つ鰓列と似る[やぶちゃん注:「ナメクジウオ類」は、やはり我々脊椎動物のルーツに近いとされる「生きた化石」の、脊索動物門頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオ目ナメクジウオ科ナメタジウオ Branchiostoma belcheri とその仲間を指す。]。鰓列は種によって異なるが(十二から七百対)、鰓裂のそれぞれは鰓室という小室を経て触孔(gill pore)と呼ぶ小孔で外界と連絡する。各鰓裂に、微小な鰓裂架橋(synapticula)がいくつか備わることもある。

 本種の際立った特徴である、虫体が発するヨードホルム臭と形容される独特の強いにおいは、ハロゲン化フェノール類やハロゲン化インドール類によるものである。

 また、過酸化型のルシフェリンルシフェラーゼ反応による発光がみられる種もある。

 雌雄異体で体外受精する。トルナリア(tornaria)と呼ばれる浮遊幼生の時期(最長九ヶ月を超す)を経た後、適当な砂泥底に降りて変態する種のほか、こうした時期を経ず直接発生する種も知られている。後者では、一時的に肛門の後ろに尾のような付属部(肛後尾 postanal tail)が現れ、その系統学的意味づけが議論を呼んでいる。有性生殖のほか、一部の種では再生や,体幹の特定の部分から小芽体が切り離される方式による無性生殖も知られている。

 体腔形成の様式はまだよくわかっていない。[やぶちゃん注:中略。]

 潮間帯から深海にいたる全世界の海域よりこれまでに七十種以上が知られ,四科十三属に分類される(目レベルの分類は提唱されていない)。わが国からは三科四属にわたる七種が記録されているが、調査はまだきわめて不十分であり、将来かなりの数の日本新記録の属・種が報告されることは確実である。[やぶちゃん注:二〇〇八年の“An overview of taxonomical study of enteropneusts in Japan. Taxa 25: 29-36.”によると全十六種を数える。]

 以下、本邦四科を示す。

  ハネナシギボシムシ科 Spengeliidae

 ギボシムシ科 Ptychoderidae

 ハリマニア科 Harrimaniidae

 オウカンギボシムシ科 Saxipendiidae

 以上、「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の西川輝昭先生の記載に基づく引用を終わる。実は以上は既に私が六年前、「生物學講話 丘淺次郎 六 泥土を嚥むもの~(1)」で注したものを援用したものである。そこで私は以下のように擱筆した。その思いは今も変わらぬので、そのまま引いておく。『刊行されてすぐに購入したこの二冊で五万円した図鑑を、今日、初めて有益に使用出来た気がした。本書をテクスト化しなければ、私はこの、素人では持て余してしまう』、『とんでもない図鑑を使う機会もなかったに違いない。再度、丘先生と西川先生に謝意を表するものである』。]

 海鞘・「ぎぼしむし」などには實際少しも脊椎といふものがないから、これらまでを脊椎動物に合して、之を總括した門を置くとすれば、之を脊椎動物と名づける譯には行かぬ。それ故、別に脊索動物門といふ名稱を造り、脊索動物門を分ちて幾つかの亞門とし、第一の亞門には海鞘類、

點が發見になると、之をもその部類に附け添えるが適當であるとの考が起るが、さて之を加へ込むと、その第二亞門には「ぎぼしむし」を當て嵌め、第三の亞門を脊椎動物と名づけて、更に之を哺乳類・鳥類云々と分けるやうにして居る人が今日ではなかなか多いが、斯くすれば分類の階段がこゝにも一つ增す。前の節にも述べた通り、研究の進むに隨つて分類の階段を漸々增さざるを得ぬに至る理由は多くはこの通りで、所屬の明でない動物の解剖・發生等を取調べた結果、從來確定して居る或る動物の部類に多少似た點が發見されると、之をもその部類に附け添へるが適當であるとの考が起るが、さて之を加へ込むと、その部類の範圍が廣くなる故、先づ之を大別してかからなければならず、終に新な階段を設ける必要が生ずるのである。また植物の方でも、從來顯花植物と隱花植物とは、その區別が割合に判然で、種子を生ずるのは顯花植物のみである如くに思はれて居たが、近來の化石植物研究の結果によると、古代の外形が羊齒類に極めてよく似ている或る種の大木は、確に種子を生じたものであることが明に知れた。今日ではこれらの化石植物を「羊齒種子植物」と名づけて居る。

[やぶちゃん注:植物界 Plantae シダ種子植物門 Pteridospermatophyta シダ種子植物綱 Pteridospermopsida。丘先生の言うように現生種はなく、化石種(絶滅種)のみからなる。ウィキの「シダ種子類」によれば、約二億五千万年前の『デボン紀後期から栄え、白亜紀に絶滅した。典型的なものでは』、『現生のシダに似た葉(栄養葉と胞子葉が分化していない)に種子がついているが、その他に形態的には異なるが関連すると考えられる多数の種類を含む』。『胞子は雌雄の区別(大胞子と小胞子)があり、大胞子は葉上で発生して胚珠を形成し、ここに小胞子が付いて発生し受精が行われたと思われる。より進化したとされるものでは栄養葉と胞子葉が分化している』。『系統関係は明らかでなく、現生裸子植物の祖先もしくは近縁と考えられるものや、被子植物の祖先に近いともいわれるものを含み、原始的な種子植物からなる側系統群と見られている』とある。私は化石種の場合、琥珀に丸ごと閉じ込められたものや、完全冷凍になった遺体といった特殊なケースを除いて、概ね、旧態然とした形態比較からしか分類が出来ないことから、現行の最新の分類学と同等に扱うことは出来ないと考えているので、ここでは綱以下の学名を示さないこととする。]

 

Sidasyusisyokubutu

[羊齒植物(復元圖)]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫の図を採った。]

 

 分類といふことは、元來人間が勝手に行ふことであるから、個體を集めて之を種に分ちとき、種を集めて之を屬に分つとき、屬を集めて之を科に分つときなどに、若干の曖昧なものが後に剩つたからというて、之を以て直に生物進化の證據と見倣すベからざるは勿論であるが、斯かる所屬不明の動植物が皆他の大きな綱目等の特徴を一部分だけ具へ、中には二個以上の大きな綱目の特徴を一部分づゝ兼ね具へて、恰も二個以上の綱目を繋ぎ合せる如き性質を帶びて居るものがあるのは如何なることを意味するものであらうか。例へば動物を脊椎動物と無脊椎動物とに分けようとすれば、海鞘・「ぎぼしむし」の如き脊椎動物の特徴の一小部分だけを具へたものがその間にあつて、孰れにも明には屬せず、分類の標準の定め方次第にて、或は脊椎動物の方へも或は無脊椎動物の方へも入れられるといふことは、何を意味するものであらうかと考へるに、生物各種を全く互に關係のないものとすれば素より何の意味もないが、生物は總べて同一の先祖から分かれ降つたとすれば、斯かる曖昧な種類は、二個以上の綱目の共同の先祖の有して居た性質をそのままに承け繼いで降つた子孫、或は一綱・一目の進化の初期の性質をそのままに承け繼いで來つたものと見倣して、その存在する理由を多少理會することが出來る。一々例を擧げて説明すれば、こゝに述べたことを尚明に示すことは出來るが、所屬不明の動物の最も面白い例は多くは海産・淡水産等の下等動物で、顯微鏡で見なければ解らぬやうな類もあり、普通に人の見慣れた動物とは餘程違ふものが多い故、こゝには略して置くこととした。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(3) 二 幾段にも分類を要すること

 

     二 幾段にも分類を要すること

 

 分類の單位なる種の定義を確に定めることは、なかなか容易でなく、場合によつては到底出來ぬこともあるが、實際分類するに當つては、兎に角、種といふものを定めて之を出發點とし、更に屬に組み、科に合せて、系統に造つて居る。而してその系統といふものを見れば、孰れも大群の内に小群を設け、小群を更に小な群に分ち、每段斯くの如くにして數段の階級を造り、最下級の群の中に各種類を編入してあるが、追々研究が進み、分類が細かになつた結果、門・綱・目・科・屬・種等の階級だけでは到底間に合はなくなり、今日の所では門の次に亞門を設け、綱の次に亞綱を置き、亞目・亞科・亞屬・亞種等の階段までも用ゐ、尚足らぬ故、更に區とか、部とか、組とか、隊とか名づける新しい階段までを造つて、十數段にも分類してある。似たものは相近づけ、異なつたものは相遠ざけるといふ主義に從うて、澤山の種類を分類すれば、その結果として組の中にまた組を設け、終に斯く多數の階段を造らなければならぬに至ることは、抑々如何なる理由によるものかと考へて見るに、之は生物種屬不變の説と敢へて雨立の出來ぬといふ譯ではないが、生物各種を初めから全く互に無關係のものとすれば、たゞ何の意味もないことになる。然るに、生物各種は皆共同の先祖から樹枝狀に分かれて進化し降つたものと見倣せば、分類の結果の斯くなるのは必然のことで、理窟から考へた結論と、實物を調査した結果とが、全然一致したことに當る故、理窟の正しい證據ともなり、また之によつて分類といふことに尚一層深い意味のあることが解る。

[やぶちゃん注:現行の旧来の階級分類でも「」((界の下層階でウイルスのみに使用。英語はgroup/一部の細菌で門の下層階に使用。英語はsection))、及び綱の下層で「」、その下で「」(これは魚類分類ではよく見かける)、科の下で「」(植物では「」)、植物のみで「連」の下に「」を、そのさらに下に同じく植物のみで「」や「」をよく見かける。また、他に「」(超科は貝類分類ではしばしば見かける)「」(後掲するカンガルを見よ)・「」や「」(上(下)目や上科は一般的)の他、魚類の「上目」と「目」の間の「」(近年(と言ってもこの魚類の「系」自体の初提唱は一九六六年)の魚類分類で、棘鰭上目 Acanthopterygii とスズキ目 Perciformesの間に、スズキ系 Percomorpha を見かけることが多くなった。調べてみると、棘鰭上目は現行ではボラ系 Mugilomorpha・トウゴロウイワシ系 Atherinomorpha と、このスズキ系の三群に分けられているようである。まあ、確かに魚類の大部分が十把一絡げにスズキ目だったのには正直、疑問はあった)なども見る。また以前に述べた通り、今はまだ一般人は聞き慣れない「スーパーグループ(supergroup」という階級単位様群集団が、ドメインの下層階や、それ以下の階級に顔を出し始めている。]

 元來天然に實際存在してあるものは、生物の各個體ばかりで、種とか屬とかいふものは素より天然にはない。個體の存在して居ることは爭はれぬ事實であるが、種とか屬とかいふのは、たゞ我々が若干の相似た個體を集め、その共通の特徴を抽象して腦髓の内に造つた觀念に過ぎぬ。屬・種以上の階段も無論同樣である。而して我々が初めて造る觀念は、分類の階段中孰れの段かと考へるに、最上でもなく、最下でもなく、中段の處で、それより知識の進むに隨ひ、上の段も下の段も追々造るやうになつた。恰も望遠鏡が良くなるに隨ひ、益々大きな事も知れ、顯微鏡の改良が出來るに隨つて、益々小い事も知れるに至るのと同樣で、何事も先づ最初は手頃な邊から始まるものである。本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤いなどといふときの熊といふ考は、決して今日の所謂一種ではなく、寧ろ屬か科位な所であるが、初めは皆この位な考で、多數の動植物を知つてもたゞ之を禽・獸・蟲・魚位に區別し、一列に竝べて置くに過ぎなかつた。然るに研究が進むに隨つて、一方には尚之を細に分つて、屬・種・變種等に區別し、一方には之を合して目・綱等に組立て、組の中にまた組を設ける必要が生じて、リンネーの「博物綱目」には綱・目・屬・種の四段分類を用ゐてあるが、尚その後に門を設け、科を置きなどして、遂に今日の如き極めて複雜な分類法が出來るに至つたのである。分類は斯くの如く全く人間のなす業で、四段に分けようとも十六段に分けようとも、天然には素より何の變りなく、學者の議論が如何に定まらうとも、柳は綠、花は紅であることは元のまゝ故、一々の分類上の細かい説を敢へて取るに及ばぬが、解剖學上・發生學上の事實を基として似たものを相近づけ、異なつたものを相遠ざけるといふ主義で行ふ今日の分類法に於て、斯く幾段にも組の中にまた組を造らねばならぬことは、卽ち生物各個體の間の類似の度が斯かる有樣であることを示すもの故、之は生物種屬の起源を尋ねるに當つては、特に注意して考ふべき點である。

[やぶちゃん注:「本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤いなどといふときの熊といふ考は、決して今日の所謂一種ではなく、寧ろ屬か科位な所である」正直、この譬え話は適切とは思われない。何故なら、本邦の「本州」には動物界 Animalia脊索動物門 Chordata脊椎動物亜門 Vertebrata哺乳綱 Mammalia食肉目 Carnivoraクマ科 Ursidaeクマ属 Ursusツキノワグマ Ursus thibetanus しか棲息しておらず、北海道にはツキノワグマは棲息せず、クマ属 Ursusヒグマ Ursus arctos亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis しかいないからで、この「本州の熊は黑いが、北海道の熊は赤い」という命題は地名を出すことによって、存在する熊の種自体が完全に限定され、相互に誤認しようがないわけで、しかも黄褐色系個体がよく見られるのは確かに後者であるのだから、自ずと、結果的には全く異なる生物種を示していることに他ならない(誤認や誤解やいい加減な言説(ディスクール)たりえない)からである。寧ろ、同一種を違うとする誤った見解例(例えば、「本土狐と四国・九州の狐では警戒心が違う」とか「本州の狸と佐渡島の狸では毛並が違う」(私が勝手に作った作文である))を示すべきであると私は思う。

『リンネーの「博物綱目」には綱・目・屬・種の四段分類を用ゐてある』既注であるが、大分前(「第二章 進化論の歷史(1) 序・一 リンネー(生物種屬不變の説)」)なので、再掲しておくと、「分類学の父」と呼ばれるスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(Carl von Linné:ラテン語名:カロルス・リンナエウス Carolus Linnaeus 一七〇七年~一七七八年)が一七三五年、二十八歳の時に、動物・植物・鉱物の三界を扱って、分類を試みた「自然の体系」(Systema Naturae 第一版。ここで言っている「博物綱目」)を出版、「動物命名法」の基準は、その二十三年後に出た第十版(一七五八年刊)に発表され、他に一七三七年の「植物の属」(Genera Plantarum)、一七五三年の「植物の種」(Species Plantarum:この第一版が「植物命名法」の基準となった)といった著作の長い期間に亙る刊行と、その流布の結果として近代分類学の一大改革は行われた。]

 生物は總べて共同の先祖より漸々進化して分かれ降つたものとすれば、その系圖は一大樹木の形をなすべきことは、既に度々言つた通りであるが、假に一本の大木を取つて、その無數にある末梢を各起源に潮つて分類し、同じ處から分かれたものを各々一組に合せ、同じ枝から生じたものを各々一團として、全體を分類し盡したと想像したならば、如何なる有樣の分類が出來るかと考へるに、幹が分れて太い枝となる處もあり、また細い枝が分かれて梢となる處もあり、股に分かれる處は幹の基から梢の末に至るまでの間に殆ど何處にもあるといふわけ故、最も末の股で分かれたものを束ねて各々小い一組とすれば、次の股で分かれたものは更に合せて梢々大きな組とせなければならず、全體を分類し終るまでには、實に多數の階段が出來るに相違ない。これと同樣の理窟で、生物各種が皆進化によつて生じたものとすれば、これを分類するに當つて夥多の階段の出來るのは必然のことである。今日實際の分類法に於て門・亞門・綱・亞綱等の多數の階段を用ゐ、常に組の中にまた組を設けて居るのは、進化論の僅期する所と全然一致したことといはなければならぬ。

 

Kamonohasi

[鴨の嘴とその卵]

[やぶちゃん注:学術文庫版の絵を用いた。「鴨の嘴」とは無論、動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 原獣亜綱 Prototheria 単孔目 Monotremata カモノハシ科 Ornithorhynchidae カモノハシ属 Ornithorhynchus カモノハシ Ornithorhynchus anatinus。現生種は一科一属一種。ウィキの「カモノハシによれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『オーストラリア(クイーンズランド州東部、ニューサウスウェールズ州東部、ビクトリア州、タスマニア州)』のみに分布し、『分布域内では、熱帯雨林、亜熱帯雨林、ユーカリなどの硬葉樹林、高山地帯などの淡水の河川や湖沼などに生息している』。『カモノハシがヨーロッパ人により最初に発見されたのは一七九八年のことであり、カモノハシの毛皮やスケッチが第二代ニューサウスウェールズ州総督であったジョン・ハンターによりグレートブリテン王国へと送られた。イギリスの科学者達は、当初はこの標本は模造品であると考えていた。一七九九年に』“Naturalist's Miscellany”へ『この動物について最初に記載をおこなったジョージ・ショーは、「それが本物であることを疑わずにはいられない」と主張し、ロバート・ノックスはアジア人の剥製師による物と信じていたという。誰かがビーバーのような動物の体にカモのくちばしを縫い付けた物であると考えられ、ショーは縫い目がないかどうかを確認するために、毛皮に切り込みを入れた』という。『英語の一般名である“platypus”はギリシア語で「平たい」を意味する』語と、『「足」を意味する』語と『からなり、「扁平な足」を意味する。ショーは記述に際して、リンネの分類の属名としてplatypusを当てたが、この語はすぐにキクイムシ科の昆虫のPlatypus属につけられていることが分かったため、一八〇〇年にヨハン・ブルーメンバハにより、ジョゼフ・バンクスから送られた標本に基づき Ornithorhynchus paradoxus として記述され、後に先取権の原則により Ornithorhynchus anatinus と学名がつけられた。 Ornithorhynchus anatinus という学名はギリシア語で「鳥の口吻」を意味する』種名と、『ラテン語で「カモのような」を意味する』種小名『anatinusからなる』。『全長はオスで最大六十三センチメートル、メスで最大五十五センチメートル、尾長は八・五~十五センチメートル、体重はオスで一~三キログラム、メスで〇・七~一・八キログラム。全身には一立法センチメートル当たり六百本以上の柔らかい体毛が生えている。体毛の色は背面は褐色から茶褐色で、腹面は乳白色である。外側の毛は水を弾き、内側の毛は保温性に優れている』。『名前の通りカモのように幅が広く、ゴムのような弾性のあるくちばしを持ち、外見上の大きな特徴の一つとなっている。このくちばしには鋭敏な神経が通っていて、獲物の生体電流を感知することができる。一方、カモノハシには歯がなく、長らく謎とされてきたが、三重大学などの共同研究チームの調査で、くちばしの向きや電気感覚を脳に伝える三叉神経が発達したために』、『歯の生える空間が奪われ』、『歯の消滅につながったと考えられている』。『四肢は短く、水掻きが発達している。オスの後脚には蹴爪があり、この蹴爪からは毒が分泌されている。メスも若い時には後脚に蹴爪があるが、成長の過程で消失する』。『哺乳類ではあるが乳首は持たず、メスが育児で授乳の際は、腹部にある乳腺から乳が分泌される』。『カモノハシはオスもメスも蹴爪を持って生まれるが、オスのみが毒の混合物を分泌する蹴爪を持っている。この毒は主にディフェンシンのようなタンパク質類(DPL)で構成されており、その中の三種はカモノハシ特有のものである』。『このディフェンシンのようなタンパク質はカモノハシの免疫機構により』、『生産されている。イヌのような小動物を殺すのには十分な強さの毒で、ヒトに対しては致死的ではないものの、被害者が無力になるほどの強い痛みがある。その痛みは大量のモルヒネを投与しても鎮静できないほどであるという。毒による浮腫(むくみ)は傷の周囲から急速に広がり、四肢まで徐々に広がっていく。事例研究から得られた情報によると、痛みは持続的な痛みに対して高い感受性を持つ感覚過敏症となり、数日から時には数ヶ月も続くことが指摘されている。だが、ヒトがカモノハシの毒で死亡した例は報告されていない。毒はオスの足にある胞状腺で生産されており、この腎臓の形をした胞状腺は後肢の踵骨の蹴爪へ、管によってつながっている。メスのカモノハシは、ハリモグラ類と同じで、未発達の蹴爪の芽があるが、これは発達せずに一歳になる前に脱落し、足の腺は機能を欠いている』。『毒は哺乳類以外の種によって生産される毒とは異なった機能を持つと考えられている。毒の効果は生命に危険を及ぼすほどではないが、それでも外敵を弱めるには十分な強さである。オスのみが毒を生産し、繁殖期の間に生産量が増すため、この期間に優位性を主張するための攻撃的な武器として使われると考えられている』。『群れは形成せず単独で生活し、夕方や早朝に活動が最も活発になる薄明薄暮性である』。『水中では目を閉じて泳ぐが、くちばしで生体電流を感知し獲物を探す。動かなければ最大で十一分ほど』、『水中に潜っていることができるが、通常は一~二分程度である。食性は肉食性で昆虫類、甲殻類、貝類、ミミズ、魚類、両生類等を食べる』。『陸上を移動する場合、前足が地面に着く時に水掻きのある指を後ろに折りたたむようにして歩く』。『水辺に穴を掘り巣にする。巣穴の入り口は水中や土手にあり、さらに水辺の植物等に隠れ、外からはわからないようになっている』。『繁殖期は緯度によるが八月から十月である。繁殖形態は哺乳類では非常に珍しい卵生で、巣穴の中で一回に一~三個の卵を産む。卵の大きさは約十七ミリメートルで、卵殻は弾性があり』、『かつ』、『粘り気のある物質で覆われている。卵はメスが抱卵し、約十~十二日で孵化する』。『子供はくちばしの先端に卵嘴を持ち、卵嘴を使用して卵殻を割って出てくる。成体の四分の三程度の大きさになるまでに離乳し、約四ヶ月で独立する』。『メスは約二年で成熟する。寿命は最大で二十一年』とある。]

 

 また知識の進むに隨つて、分類に用ゐる階段の追々增加することも進化論の豫期する所である。前の樹木の枝を分類する譬によるに、昨晩薄暗い時に分類して置いたものを今朝明るい處で見れば、或は一旦二本に分かれ、更に各々二本に分かれて居る枝を、同時に四本に分かれたものと見誤り、單に一束として、階段を一つ飛ばしてあつたことを發見することもあれば、或は細い枝が一本橫へ出て居るのに氣附かずして、そのため階段を一つ脱(ぬ)かしたことを見出すこともあつて、細かく調べる程、階段の數は增すばかりであるが、實際の分類法が次第に變遷して複雜になり來つた模樣は全く之と同樣である。一二の例を擧げれば、從來脊椎動物門を分つて哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類と平等に五綱にしてあつたが、發生を調べて見ると、蛙・蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]等を含む兩棲類は甚だ魚類に似て、蜥蜴[やぶちゃん注:「とかげ」。]・蛇・龜の類を含む爬蟲類は甚だ鳥類に似て居ることが解つたので、脊椎動物を直に以上の五綱に分けるのは穩當でないとの考から、今日では先づ之を魚形類・蜥蜴形類・哺乳類の三つに分け、魚形類を更に魚類と兩棲類とに分ち、蜥蜴形類を更に爬蟲類と鳥類とに分つことになつて、分類の階段が一つ增した。また哺乳類も從來は單に猿類・食肉類云々と云ふ十二三の目に分けて、孰れも悉く胎生のものとしてあつたが、今より三十五年程前にその中の或る種類は卵を産むといふことが確に發見せられた。卵を産む獸といふのはオーストラリアタスマニヤ邊に産する「鴨(かも)の嘴(はし)」といふ猫位の動物で水邊に巢を造り、恰も河獺[やぶちゃん注:「かはうそ(かわうそ)」。]の如き生活を營んで居るが、鷄卵よりも稍々小い卵を産む。また同じく胎生するものの中でも、詳細に調べて見ると、發育の模樣に大きな差があり、人間の胎兒は九箇月間も母の胎内に留まつて發生するが、殆ど人間と同じ大きさ位の「カンガルー」の胎兒は、僅一箇月にもならぬときに生み出され、殘後の八箇月分は母の腹の前面にある特別の袋の内で發育する。この獸の生れたばかりの幼兒は實に小なもので、我々の親指の一節程よりない。之が袋の中で、乳首に吸ひ著き、親の乳房と子の口とが癒着して一寸引いても離れぬやうになる故、初めて之を發見した人は誤つてこの獸は芽生すると言ひ出した。これらの獸類はたゞ子の生み方ばかりでなく、他の點に於ても著しく異なつた處が多いから、斯かるものを皆平等に一列に竝べて分類するのは、理に背いたことであるといふ考から、今日では哺乳類を別つて原獸類・後獸類・眞獸類の三部とし、第一部には「鴨の嘴」を入れ、第二部には「カンガルー」の類を入れ、第三部には總べて他の類を入れて、更に之を從來の如く十何目かに分けるやうになつたので、こゝにも一段分類の階段が增した。かやうな例は各門・各綱の中に幾らでもあるが、分類の階段の增して行く有樣は皆この通りで、先に樹木の枝に譬へたことと理窟は少しも違はぬ。

[やぶちゃん注:『今日では哺乳類を別つて原獸類・後獸類・眞獸類の三部とし、第一部には「鴨の嘴」を入れ、第二部には「カンガルー」の類を入れ、第三部には總べて他の類を入れて、更に之を從來の如く十何目かに分けるやうになつたので、こゝにも一段分類の階段が增した』現行ではこれがまた修正されている。現在の動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia原獣亜綱原獣亜綱 Prototheria 及び後獣下綱 Metatheria真獣下綱 Eutheriaの階級の異なる三群に分かれている。これは当初作った異獣亜綱 Allotheria が絶滅種の亜綱に変更され、現生種の原獣亜綱原獣亜綱以外の哺乳類を獣亜綱 Theria に移して後獣下綱及び真獣下綱に配したからである。既に示した通り、カモノハシは原獣亜綱単孔目 Monotremata へ(カモノハシ目は現生種ではハリモグラ科 Tachyglossidaeハリモグラ属 Tachyglossusの四種と合わせて五種しか現存しない)、一般に呼ばれるところのカンガルーは後獣下綱オーストラリア有袋大目 Australidelphia 双前歯目 Diprotodontia カンガルー形亜目 Macropodiformes カンガルー上科 Macropodoidea カンガルー科 Macropodidae に配されている。]

 斯くの如く、種の境の判然せぬものが澤山にあることも、分類するには數多の階段を設けて、組の中にまた組を造らねばならぬことも、また研究の進むに隨つて分類の階段の增すことも、總べて進化論から見れば必然のことであるが、實際に於ても現にその通りになつて居る所から考へると、我々は是非とも生物進化の論を正しいと認め、これらの分類上の事實を生物進化の證據の一と見倣すより外は致し方がない。自分で何か或る一目・一科の標本を集め、實物に就いて解剖・發生等を調べ、之を基としてその分類を試みれば、誰も生物進化の形跡を認めざるを得ぬもので、今日斯かる研究に從事した人の報告を讀んで見ると、必ず、解剖上・發生上の事實から推してその進化し來つた系圖を論じてある。つまり、生物種屬の不變であるといふ考は、何事も細かく研究せぬ間は不都合も感ぜぬが、聊でも詳細な事實を知ることとなれば、到底之を改めざるを得ぬものである。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(2) 一 種の境の判然せぬこと

 

     一 種の境の判然せぬこと

 

 以上述べただけから見ると、動植物を分類するのは何でもないことで、誰にでも直に出來そうであるが、實際澤山に標本を集めてして見ると、非常に困難で、決して滿足に出來るものではない。種類を知ることの少い間、標本の多く集まらぬ内は、蹄の一つあるものは馬である、角に枝のあるものは鹿であると、簡單にいうて居られるが、今日の如くに種類の多く知られて居る時代に、十分に標本を集めて調べ始めると、分類の單位とする種の境を定めることが、既になかなか容易でない。

 既に第五章でも説いた如く、動植物には變異性と名づける性質があつて、溫帶のものを熱帶に移したり、海濱のものを山奧に持つて行つたりすると、著しく變化するもので、風土が異なれば、假令同種のものでも多少相異なるを免れぬ。靑森の林檎を紀州に移し、紀州の蜜柑を靑森に植ゑ換へれば、種は一つでも全く異なつたものとなつてしまふ。土地每に名物とする固有の天然物のあるのは、つまり他に移しては、そこの通りに出來ぬからである。されば博く標本を集めると、一種の中でも種々形狀の異なつたものがあり、往々別種かと思はれる程に違つたものもあるが、斯かる場合には分類上之を如何に取扱ふかといふに、中開に立つて相繫ぎ合せるものが存する限りは、兩端にあるものが如何に相異なつても、その間に判然と境が附けられぬから、總べてを合せて一種となし、形狀の相違するものを各々その中の變種と見倣すのが、殆ど學者間の規約になつて居る。それ故今日二種と思ふて居るものも、その中間に立つものが發見せられたために、明目は一種中の二變種と見倣されるに至ることも甚だ屢々で、その例は分類學の雜誌を見れば、每號飽くほどある。また實際中間に立つものが無く、境が判然解つて居ても、その間の相違が他の種類の變種の相違位に過ぎぬときは、之を一種中に收めて單に二變種と見倣すことも常であるが、この場合には二種と見倣すか一種中の二變種と見倣すかは、分類する人の鑑定次第で、孰れともなるもの故、人が違へば説も違つて、爭の絶えることがない。

 斯くの如き有樣故、種とは決して一般に世間の人の考へる如き境の判然と解つたものではない。この事は諸國の動物志・植物志などを開いて見さへすれば、直に氣の附くことで、同一の實物を研究しながら、甲の學者は之を十種に分け、乙は之を二十種に分け、丙は之を五十種に分けるとか、また丁は之を總べて合して一種と見倣すとかいふことは幾らもある。ヨーロッパで醫用に供する蛭の如きも、當時は先づ一種二變種位に分ける人が多いが、一時は之を六十七種にも分けた學者がある。樫類の例、海綿類の例は前にも擧げたが、特に海綿の類などは、種の範圍を定めることが非常にむずかしく、之を研究した學者の中には、海綿にはたゞ形狀の變化があるだけで、種の境はないと斷言した人もある位で、現に相州三崎邊には、俗に「ぐみ」及び「たうなす」と呼ぶ二種類の海綿があつて、一は小い卵形で、恰も「ぐみ」の果實の如く、他は球を扁平にした形で、全く「たうなす」の名に背かぬが、一年餘もこの研究ばかりに從事した人の話によると、如何に調べても區別が附かぬとの事である。種とは何ぞやといふ問題は、昔から幾度となく繰り返して議論せられたが、ここに述べた如き次第故、何度論じても決着するに至らず、今日と雖も例外を許さぬやうな種の定義を下すことは到底出來ぬ。

[やぶちゃん注:「醫用に供する蛭」現行では環形動物門 Annelida ヒル綱 Hirudinoidea ヒル亜綱 Hirudinea無吻蛭(顎ヒル)目 Arhynchobdellidaヒルド科 Hirudidae ヒルド属 Hirudo ヒルド・メディシナリス Hirudo medicinalis をタイプ種としており、ほかに同属のHirudo orientalisHirudo troctinaHirudo verbena の三種、また別属らしい Hirudinaria manillensisMacrobdella decora という二種の名を英文ウィキのHirudo medicinalisに見出せる。後者二種が前の三種のシノニムでないとするならば、現在の医療用ヒルは六種を数えることが出来ることになる。

「樫類の例」直前の「第十一章 分類學上の事實 序」を参照。

「海綿類の例」「第五章 野生の動植物の變異」の「三 他の動物の變異」の冒頭であるが、『下等動物には變異の甚だしいものが頗る多い。中にも海綿の類などは餘り變異が烈しいので、種屬を分類することが殆ど出來ぬ程のものもある。現に海綿の或る部類は種屬識別の標準の立て方次第で、一屬三種とも十一屬百三十五種とも見ることが出來るといふが、これらの動物ではたゞ變異があるばかりで、種屬の區別はないといつて宜しい』とあるだけで、ちょっとしか述べられていない。

「ぐみ」動物界Animalia海綿動物門 Porifera 普通海綿綱 Demospongiae四放海綿亜綱 Tetrectinomorpha螺旋海綿目Spirophoridaマルガタカイメン科Tetillidae Tetilla 属グミカイメンTetilla japonica。形状の類似からの「茱萸海綿」である。所持する保育社平成四(一九九二)年刊西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[]」の記載に基づいたものを示す。高さ一~三・五センチメートル、径〇・五~二センチメートル。煉瓦色から橙黄色の卵形の単体を成し、頂端に一個の大きな孔が開く。下端には根毛様の束があり、これによって海底の砂上に起立している。内部は大孔から胃腔へ向かって溝が放射状に分かれており、鞭毛室に続いている。骨格を形成する主な大骨片は、桿状体・前向きの三叉体・後ろ向きの三叉体が束になって、体中央のやや上部の一点を中心にして放射状に配列する。根毛束には長さ二センチメートルに達する長い後ろ向きの三叉体がある。本州沿岸の浅海に普通に見られ、卵は体外に放出されて体外受精して、直接、発生する。グーグル画像検索「グミカイメン」をリンクさせておくが、原物写真は初めの五枚ぐらいしかない。

「たうなす」同じTetilla 属のトウナスカイメンTetilla serica。「トウナス」はやはり形状類似からの「唐茄子海綿」(南瓜(かぼちゃ))である。同じく西村三郎編著「原色検索日本海岸動物図鑑[]」により記載する。高さ五~六センチメートル、径八~九センチメートルに達する単体の海綿で、色彩も形も本邦のカボチャに似ている。生時は赤褐色から黄褐色を呈し、上端中央の窪んだ部分に大きな孔が開いており、そこから放射状に溝がある。下端には房状の根毛束があり、これによって砂泥上に定座している。骨格を形成している主な大骨片は桿状体と前向きの三叉体で、放射状に束になって配列している。根毛束には長さ六センチメートルに達する後ろ向きの三叉体がある。本州沿岸の浅海の砂泥底に普通に棲息し、前種と同じく卵生で、直接、発生する。同じくグーグル画像検索「トウナスカイメンをリンクさせておくが、やはりそれらしいのは数枚しか見当たらない。解剖学的所見は酷似するが、見た目の形状と色は全くの別種としか思われないところが、非常に興味深いではないか

「一年餘もこの研究ばかりに從事した人」これは恐らく、研究場所は現在の東京大学三崎臨海実験所で、研究者は確定は出来ないものの、海綿研究の嚆矢として知られる生物学者飯島魁(いいじまいさお 文久元(一八六一)年~大正一〇(一九二一)年)ではなかろうか? 彼は近代日本の生物学黎明期の学者で、鳥類や寄生虫に関する研究も多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした(海洋生物フリークの私にとっては)著名な人物である。]

 さて斯くの如く分類の單位なる種の範圍・境界が判然せぬ場合の多くあるのは何故であるかと考へるに、動植物各種が初めから別々に出來たものとすれば、少しも譯の解らぬことである。元來博物學者が種の境の判然せぬことを論じ始めたのは、割合に近い頃で、殆どダーウィンが自然淘汰の説を確めるために、野生動植物の變異性を研究したのが發端である。その以前の博物家は、動植物各種の模範的の形狀を腦中に畫き定め、採集に出掛けても、之に丁度當て嵌まるやうな標本のみを搜し求め、之と少しでも異なつたものは出來損じの不具者として捨てて顧みぬといふ有樣であつたから、目の前に幾ら變異性の證據があつても、之に注意せず、隨つて種の範圍の判然せぬことにも氣が附かなかつた。生物種屬の不變であるといふ考は、地球が動かぬといふ考と同じく、知識の狹い間は誰も免れぬことで、いつ始まつたといふ起源もなく、誰が主張し始めたといふ元祖もなく、たゞ當然のことと信じて濟ませて居たもの故、無論種の境の判然せぬことに氣の附かぬ前からのものであるが、今日から見ると極めて不都合で、最早到底維持することは出來ぬ。天地開闢のときに境の判然せぬ種類が澤山造られ、そのまゝ降つて今日に至つても尚境の判然せぬ種類があるといへば、それまでであるが、初の考は素よりさやうでは無く、たゞ若干の明に區別の出來る種類が造られて、そのまゝ今日まで存して居るといふ簡單な考であつたので、實際種の境の解らぬものが澤山に見出された以上は、決してそのままに主張し續けられるものではない。之に反して生物各種は共同の先祖から進化し來つたものとすれば、今より將に二三種に分かれようとする動植物は、恰も樹の枝の股の處に當るもの故、總體を一種と見ればその中の相違が甚だし過ぎるから、若干の變種を認めなければならず、また形の異なつたものを各々獨立の一種と見倣せば、その間に中間の形質のものが存在して、判然と境を定めることが出來ぬといふ有樣になるのは、當然のことである。この考を以て見れば、所謂變種といふものは、皆種の出來かゝりで、現在の變種は未來は各々獨立の一種となるべきものである。樹の枝の股の處は一本から二本または三本に分かれかゝる處で、一本とも二本或は三本とも明には數へられぬ如く、二三の著しい變種を含める動植物の種は一種から二三種に分かれかゝりの途中故、一種とも二種或は三種ともいへず、その間の曖昧な時代である。それ故斯かるものまでも込めて種の定義を下そうとするのは、到底無理なことで、今日まで議論の一定せぬのも素より當然のことといはねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十一章 分類學上の事實(1) 序

 

    第十一章 分類學上の事實

 

 動植物の中には、殆ど區別の出來ぬ程に相似たものもあれば、また少しも類似の點を見出すことの出來ぬ程に全く相異なつたものもあつて、その間には相類似する程度に無數の階級がある。鰈(かれひ)と比目魚(ひらめ)とは隨分間違える人があり、楢(なら)と樫(かし)との區別の出來ぬ人も澤山あるが、また一方で橙[やぶちゃん注:「だいだい」。]と昆布とを比べ、人間と蚤とを比べなどして見ると、殆ど共通の點を見出すことが出來ぬ程に違ふ。所で、何十萬もある動植物の種類を一々識別することは出來もせず、また生活上必要もないが、動植物は日夜我々の目に觸れるもので、食物も衣服も悉く之から取ること故、普通のものだけは是非區別して名を附けて置かねばならぬ。犬・猫・牛・馬・鳥・雀等の如き、一種每に全く別の名の附いてあるのは斯かる類であるが、このやうなもののみでも相應に數が多い故、尚その中でも相似たものを合せて、總括した名を造つて置かぬと極めて不便が多い。從來毛を以て被はれ、四足を用ゐて陸上を走るものを獸と名づけ、羽毛を以て被われ、翼を用ゐて空中を飛ぶものを鳥と名づけ、鱗を以て被はれ、鰭を用ゐて水中を泳ぐものを魚と名づけたのも、斯かる必要に應じてなした分類の初步である。

[やぶちゃん注:以下の生物では比較を明確にするために各分類階層のラテン名も示した。但し、比較対象と同一の階層のそれではラテン名は省略し、区別される上位の同一階層を和名のみで示した。

「鰈(かれひ)」動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 魚上綱 Pisciformes条鰭綱 Actinopterygii カレイ目 Pleuronectiformes カレイ科 Pleuronectidae 或は上位のカレイ目に属する多様な種群の通称。

「比目魚(ひらめ)」カレイ目亜目カレイ亜目 Pleuronectoideiヒラメ科 Paralichthyidaeヒラメ属 Paralichthysヒラメ Paralichthys olivaceus 或はヒラメ科に属する種群。一般に「左ヒラメに右カレイ」と言われ、実際、通称のヒラメ類の目は多くの種で成体では両眼ともに頭部の左側半分に偏ってついているから区別出来ると言われるが、実際には、カレイ類に属するもので左側眼の種や個体はいるので、これは絶対の識別法ではない。例えば、カレイ科ヌマガレイ属 Platichthys ヌマガレイ Platichthys stellatus(本邦に北部分に広く分布するが、食用価値が低いために流通しない)はカレイであるが、眼は左につく。また、和名でも流通でも「カレイ」の和名を持っているカレイ目ダルマガレイ科 Bothidaeは全種で眼は左側につく。他にも頭部の左側に目を持つカレイもおり、更に、カレイ目ボウズガレイ亜目 Psettodoidei ボウズガレイ科 Psettodidae(一科一属三種。捕獲報告はあるようであるが恐らくは本邦には産しないようである。但し、近くでは台湾に分布するから、迷走個体は南西諸島にいないとは言えない。背鰭の起き始める部分が眼の位置よりも有意に後ろにあって、カレイ目の中では最も原始的な特徴を残す)は右側眼の個体と左側眼の個体がほぼ同数で出現する。別な形状で言うと、ヒラメはカレイに比べて口が大きいこと、歯も一つ一つが大きくて鋭いという点で、対称比較的な特徴は持つ。

「楢(なら)」植物界 Plantae 被子植物門Angiosperms 双子葉植物綱 Magnoliopsida ブナ目 Fagales ブナ科 Fagaceaeコナラ属 Quercus コナラ亜属subgenesis Quercus に属する中で、落葉性の広葉樹の総称。英語名はオーク(oak)。本邦ではコナラ(小楢)Quercus serrata を指すことが多い。秋には葉が茶色くなることで知られている。

「樫(かし)」植物界被子植物門双子葉植物門ブナ目ブナ科コナラ属 Quercusの中の、常緑性の種を「カシ」と呼ぶが、本邦では、また、同じブナ科のマテバシイ(馬刀葉椎)属 Lithocarpusのシリブカガシ(尻深樫)Lithocarpus glaber も「カシ」と呼んでいる。また、身近なシイ属 Castanopsis も別名でクリガシ(栗樫)属と呼び、これらを「カシ」と呼んでいる人も実際に多いのが事実である(私はかつてアリスの散歩の途中で出逢った、地方出身の私より年若の婦人が落ちている「椎の実」を頻りに「樫の実!」と言っていたのを思い出す)。また、全く異なる種であるクスノキ類(被子植物綱クスノキ目 Laurales クスノキ科 Lauraceae)の一部にも葉の様子などが似ていることから、「カシ」と呼ぶものがある(以上はウィキの「カシ」に拠る)から、丘先生の「區別の出來ぬ人も澤山ある」というのは、民俗社会では少し厳し過ぎる謂いと言える。植物学的な詳細な相違は、「広島大学」公式サイト内の「地球資源論研究室」の「ブナとナラとカシ」がよい。必見!

「橙」植物界 Plantae被子植物門 Magnoliophyta双子葉植物綱 Magnoliopsidaムクロジ目 Sapindalesミカン科 Rutaceaeミカン属 Citrusダイダイ Citrus aurantium。正月飾りに用いられる、お馴染みの柑橘類である。

「昆布」植物界ストラメノパイル群Stramenopiles 不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae コンブ目 Laminariales コンブ科 Laminariaceae のコンブ類。生物学的分類以前からの呼称であり厳密な定義は不能であるが、葉の長細い食用のものが「昆布」と呼ばれる傾向はある。

「人間」動物界 Animalia 真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini(真猿亜目 Simiiformes)狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒトHomo sapiens

「蚤」動物界節足動物門 Arthropoda 昆虫綱 Insecta 隠翅(ノミ)目 Siphonaptera のノミ類。ここは隠翅目ヒトノミ科 Pulicidae Pulicinae亜科ヒトノミ属 Pulexヒトノミ Pulex irritans としてよかろう。但し、本種はヒトだけに寄生するわけではなく、哺乳類や鳥類等を広く寄生主としている。]

 動植物學に於ても、初めは之と同じ位な分類法を用ゐ、植物を分ちて喬木[やぶちゃん注:「けうぼく(きょうぼく)。高木(こうぼく)。]・灌木[やぶちゃん注:「くわんぼく(かんぼく)。低木。]・草の三部とし、動物を分ちて、水中に住むもの、地上に住むもの、空中を飛ぶものと僅に三部にした位に過ぎなかつたが、漸々知識の進むのに隨つて、分類の標準も追々に改まり、單に外部の形狀のみによらず、内部の構造をも斟酌するやうになつて、今日に於ては比較解剖學上・比較發生學上の事實を標準として分類の大體を定めるに至つた。この間の分類方法の變遷を調べて見ると、知らず識らず一步づゝ生物進化論に近づいて來た形跡が歷然と現れて、頗る興昧のあることであるが、之を詳しく述べるには、高等から下等まで動物・植物の主なる部類を殘らず記載せなければならず、到底本章の範圍内に於ては出來ぬ故、省略するが、初め魚類の中に編入してあつた鯨を後には哺乳類に移し、初め貝類の中に混じてあつた「ふぢつぼ」を後には甲殼類に組み入れたこと、初め人間だけを別物としてあつたのを後には哺乳類中の特別な一目と見倣し、更に降つては猿類と合して同一中に入れるやうになつたことなどは、たゞその中の一斑に過ぎぬ。

[やぶちゃん注:既に私の注に述べたが、現代の分類学は、分子生物学の急速な発展によって、アイソザイム(Isozyme:酵素活性がほぼ同じでありながら、タンパク質分子としては別種(アミノ酸配列が異なる)酵素)分析(アイソザイムは遺伝子型を反映していることから、間接的な「遺伝子マーカー」として利用出来る)や直接のDNA解析が進み、その新知見に基づく最新の科学的系統学の知見を反映させた新体系に組み替える動きが盛んである。]

 今日我々が動植物を分類するには、先づ全部を若干の門に大別し、更に各門を若干の綱に分つことは、一度述べたが、尚その以下の分類をいへば、各綱を更に若干の目に分ち、目を科に分ち、科中に若干の屬を置き、屬の中に種を收め、斯くして、世界中にある總べての動植物の種類を一大分類系統の中に悉く編入してしまふ。而して斯く分類するに當つては、何を標準とするかといふに、解剖上・發生上の事項を比較して、異同の多少を鑑定し、異なるものは之を離し遠ざけ、似たものは之を近づけ合せるものである。例へば犬と狐とは無論二種であるが、頗る相似たもの故、之を犬屬といふ中に一所に入れ、猫と虎とは素より種は違うが、甚だ相似た點が多い故、之を猫屬といふ中に一所に入れる。世界中を搜すと、犬屬とも違ふが他の動物屬によりも遙に犬屬の方に近いといふやうな動物が幾らもあるが、これらと犬屬とを合せて更に犬科とし、猫屬の外にも猫に稍々似た類が種々あるが、これらと猫屬とを合せて更に猫科とする。犬科の動物と猫科の動物とは素より著しく相異なる點はあるが、之を牛・馬等に比べて見ると、遙に相似たもの故、犬科・猫科等を合せて食肉類と名づけ、之を哺乳類といふ綱の中の一目とする。されば分類の單位とする所のものは犬・猫・虎・狐といふやうな種であつて、その以上の屬・科・目・綱の如きものは、たゞ若干の種を倂せ稱する名目のみである。

[やぶちゃん注:「綱」英語で“class”、ラテン語で“classis”

「目」英語で“order”、ラテン語で“ordo”

「科」英語で“family”、ラテン語で“familia”

「屬」英語・ラテン語ともに“genus”

「種」英語・ラテン語ともに“species”

「犬」動物界 Animalia 真正後生動物亜界Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 顎口上綱 Gnathostomata 哺乳綱 Mammalia 獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Fissipedia イヌ下目 Cynoidea イヌ科 Canidae イヌ亜科 Caninae イヌ族 Canini イヌ属 Canis タイリクオオカミ Canis lupus 亜種イエイヌ Canis lupus familiaris。以下では共通する最後の上位階層を除いて、省略する。

「狐」明確な生物学的定義は実はないが、イヌ亜科 に属するキツネ類で、現行現生種ではキツネ属 Vulpes・オオミミギツネ属 Otocyon・カニクイキツネ属 Cerdocyon・クルペオギツネ属 Pseudalopex・ハイイロギツネ属 Urocyon に含むキツネ類である。但し、狭義には、この中のキツネ属 Vulpes を指すことが多く、我々の馴染みの「狐」はそのキツネ属のアカギツネ Vulpes vulpes の亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica である。

「猫」食肉目Carnivoraネコ型亜目 Feliformia ネコ科 Felidae ネコ属 Felis ヨーロッパヤマネコ Felis silvestris 亜種イエネコ Felis silvestris catus

「虎」ネコ科 Felidaeヒョウ属 Pantheraトラ Panthera tigris

「牛」哺乳綱 Mammalia 鯨偶蹄目Cetartiodactyla 反芻(ウシ)亜目 Ruminantia ウシ科 Bovidae ウシ亜科 Bovinae ウシ族 Bovini ウシ属 Bos オーロックス Bos primigenius 亜種 ウシ Bos primigenius Taurus

「馬」哺乳綱 Mammalia 奇蹄(ウマ)目 Perissodactylaウマ科 Equidae ウマ属 Equus ウマ Equus caballus。]

2018/02/20

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十七年 『小日本』創刊

 

   明治二十七年

 

     『小日本』創刊

 

 明治二十六年は「芭蕉雑談」執筆中に暮れた。『日本』に俳句を載せはじめたのを第一として、『俳諧』の発刊、「はてしらずの記」旅行、「芭蕉雑談」の執筆など、居士の身辺は頗る多事であったが、この年居士は句を作ること最も多く、「寒山落木」に存する句数が三千に垂(なんな)んとしている。それも少からざる抹消を経た結果であるから、元来はよほどの数だったので、『獺祭割書屋俳句帖抄』の序に「明治二十六年最(もつとも)多く俳句を作つた年でその數は四千以上にもなつた」とあるのが原数に近いものであろう。一年三千句という例は居士の一生を通じて他にない。

[やぶちゃん注:「明治二十七年」一八九四年。]

 二十七年(二十八歳)を迎えると共に、居士の身辺は前年よりまた多事になった。それは『小日本』創刊の事で、一月八日大原恒徳氏宛の手紙に「私身の上に付ては内々心配致し居候ところこの度(たび)一事業起り一身をまかすやうに相成申候。一事業とは日本新聞社にて繪入小新聞を起す事に御座候(勿論表向きは別世帶に御座候)。ついては私が先づ一切編輯担當の事とほぼ内定致し來月十一日より發行のつもりに御座候」とある。『小日本』の刊行は『日本』の頻々たる発行停止に備えるため、別働隊として計画されたのであるが、同時に上品な家庭向の新聞を作ろうという目的であった。多士済々たる日本新聞社中にも、家庭向の新開となると存外適任者がない。仙田重邦氏を事務総裁とし、編輯主任には思いきって居士を抜擢することになった。古嶋一雄氏などが推薦者であったが、成果を危む人は社内にも少くなかったそうである。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」ジャーナリストで後の衆議院議員・貴族院議員となった子規の盟友古島一雄(慶応元(一八六五)年~昭和二七(一九五二)年)であろう。但馬国豊岡(現在の兵庫県豊岡市)生まれ。古島家は旧豊岡藩士で勘定奉行を務める家柄であった。小学校を卒業した後、明治一二(一八七九)年に上京、濱尾新の元で共立学校、同人社などに学んだ。明治一四(一八八一)年に郷里に一度戻って漢学私塾の宝林義塾に学んだが、その後、再度上京、明治二一(一八八八)年に三宅雪嶺主宰の雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』に改題)の記者となり、ジャーナリズムに身を置いた。さらに日本新聞社の記者となり、日清戦争では同僚の正岡子規と従軍、戦況を報道した。明治三一(一八九八)年、玄洋社系の『九州日報』の主筆を一年半つとめた後、日本新聞社に復帰、明治四一(一九〇八)年)には『万朝報』に移った。後、衆議院議員に当選、以後、当選六回を数えた。立憲国民党・革新倶楽部を経、立憲政友会に所属した。一貫して犬養毅の側近として行動をともにし、また、玄洋社の頭山満と組んで、孫文を援助、辛亥革命を蔭から助けた。大正一〇(一九二一)年の「宮中某重大事件」にも介入、山縣有朋の権威失墜に一役買っている。第二次護憲運動では犬養を補佐し、政友会・憲政会との護憲三派連合の成立に尽力した。大正一三(一九二四)年には犬養逓信大臣の下で逓信政務次官となったが、初の普通選挙となった昭和三(一九二八)年の衆議院議員総選挙で落選した。後、昭和七(一九三二)年に貴族院議員に勅選され、昭和二二(一九四七)年の貴族院廃止まで在職した。戦後の幣原内閣の組閣の際には入閣を要請されたが固辞、昭和二一(一九四六)年五月に日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放となった際には後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳から就任を懇請されるが、老齢を理由に固辞し、幣原内閣で外相であった吉田茂を強く推薦、以後、占領期の吉田の相談役となり、「政界の指南番」と称された。「創価教育学会」(創価学会の前身)の設立にも積極的な役割を果たしたことでも知られている(以上はウィキの「古島一雄」に拠った)。]

 『小日本』に従事するに先って、居士は二月一日に上根岸八十二番地――現在の子規庵――に居を移した。はじめて根岸に来た時から算えると満二年、母堂令妹を迎えて一家の主人になってから一年余、八十八番地の家に住んでいたわけである。移転といっても車で運ぶ必要のないほどの近距離だから、直ぐ片づいたことと思われるが、羯南翁の玄関にいた佐藤紅緑氏が手伝に行って、自筆の写本の量に一驚を喫したというのはこの時であった。紅緑氏は引越が済んでから、居士と飄亭氏と三人で新宅で昼飯を食ったという。飄亭氏は前年末除隊、帰郷の途次京都に碧、虚両氏を訪れて、見るもの悉く句になる連吟に両氏を驚かしたりしたが、一月中上京、『小日本』に入社することになっていた。『小日本』入社を勧めた者は無論子規居士で、飄亭氏はこれを機会に、開業免状まで持っていたにかかわらず、厭で堪らなかった医者というものを抛擲したのである。

[やぶちゃん注:「子規庵」現在の東京都台東区根岸二丁目内。

「佐藤紅緑」(こうろく 明治七(一八七四)年~昭和二四(一九四九)年)はジャーナリストで劇作家・小説家・俳人。現在の青森県弘前市親方町生まれ。本名は洽六(こうろく)。父佐藤弥六は幕末に福沢諭吉の慶應義塾で学び、帰郷して県会議員となって産業振興に尽力、また、「林檎圖解」「陸奥評話」「津輕のしるべ」などの著作もあり、森鷗外の史伝「澁江抽齋」にも郷土史家として登場する弘前を代表する人物であった。明治二三(一八九〇)年に東奥義塾を中退して青森県尋常中学校(現在の弘前高等学校)に入学。明治二六(一八九三)年、遠縁に当たる陸羯南を頼って上京し、翌年には日本新聞社に入社した。その頃、先輩の正岡子規の勧めで俳句を始めた。明治二八(一八九五)年に病により、帰郷、東奥日報社に入社して小説・俳句などで活躍、その後、東北日報社・河北新報社の主筆を経て、明治三三(一九〇〇)年、報知新聞社に入社、大隈重信に重用された。記者活動の他、俳人としても活躍、また、大デュマやヴィクトル・ユーゴーなどの翻訳なども手掛けた。明治三十八年に記者を止め、「俳句研究会」を起こし、小説「あん火」「鴨」など自然主義風の作品を発表して注目を浴び、明治四一(一九〇八)年には創作集「榾(ほだ)」を刊行している。一方、明治三九(一九〇六)年から大正三(一九一四)年までの足掛け八年の間は新派「本郷座」の座付作者も勤めている。大正四(一九一五)年、劇団「新日本劇」の顧問となり、大正一二(一九二三)年に映画研究のために渡欧した後、翌年には「東亜キネマ」の所長に就任している(二年後、退任)。大正八(一九一九)年から昭和二(一九二七)年にかけては新聞雑誌に連載小説「大盜傳」・「荊の冠」・「富士に題す」を書いて一躍、大衆小説の人気作家となった。昭和二(一九二七)年からは『少年俱樂部』に少年小説「あゝ玉杯に花うけて」を連載して好評を博し、その後も「少年讚歌」「英雄行進曲」などで同誌の黄金期を築いた。また、編集長加藤謙一に漫画の掲載を進言して田河水泡の「のらくろ」が誕生する契機も作っている(以上はウィキの「佐藤紅緑」に拠った)。]

 『小日本』は『日本』と同じく紀元節を以て世に生れた。この時分の事に関して、居士自身はあまり語っておらぬが、後年飄亭氏の話されたところによると、日本新聞社の筋向――中川という牛肉屋の並びに蕎麦屋があった、その隣の角家(かどや)で奥に土蔵がある、その土蔵の二階が『小日本』の編輯室だったので、八畳あるかなしの狭い部屋だったそうである。ここに陣取った顔触(かおぶれ)は、居士と飄亭氏の外に、古嶋一雄、斎藤信両氏が二面担当、仙田重邦氏が会計経営の外に、多少貰経済記事を書く。外に荒木という相場記者一人、三面担当の飄亭氏が探訪を二人ほど使う、という程度の小人数であった。建物は別になっているけれども、工場は勿論日本新聞社のを使う。こういう段取(だんどり)の下に『小日本』は呱々(ここ)の声を挙げることになった。

[やぶちゃん注:「斎藤信」不詳。

「荒木という相場記者」不詳。

「探訪」「たんぼう」。明治時代の新聞記者の下で、実地取材に当たった担当者を指す語。「出省方」(「しゅっしょうがた」と読むか)などとも呼ばれ、記者とは厳然と区別された。記者自身は余程の大事件・難事件でない限り、取材はせず、記者はこうした探訪が見聞してきた資料や報告を記事にしたり、英字新聞の翻訳・投書の取捨選択・論説の執筆などに当たっていた(平凡社「世界大百科事典」の「新聞記者」の記載に拠った)。

「呱々(ここ)の声を挙げる」赤ん坊が産ぶ声をあげることで、転じて、新しく物事が始まること、発足することを言う。]

 『日本』は侃々諤々(かんかんがくがく)の筆陣を張る傍(かたわら)、「文苑(ぶんえん)」に詩歌俳句の如き閑文字(かんもじ)を載せることは怠らなかったが、紙面は一切振仮名なしで、小説などは全然これを闕(か)いていた。『小日本』はその別働隊であるというものの、最初から家庭向の新聞たることを標榜していたから、全面ルビ付であるのは勿論、小説もあれば挿画(させ)もある。挿画は浮世絵系統の人によって間に合すのもあったが、どうしても社内に画家を必要とするというので、浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))氏推挙の下に入社したのが中村不折氏であった。後年居士が『墨汁一滴』に書いたところによると、「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」とある。不折氏が挿画に腕を揮ったのは『小日本』創刊以来ではなかったけれども、新進の洋画家を採用するなどということは、従来の新聞社の敢てしなかったところであろう。当時まだ下宿屋の一隅にくすぶっていた不折氏の画がはじめて新聞に現れたのは実に『小日本』紙上においてであった。一たび相識った居士と不折氏との関係が、新聞編輯者と挿画画家の程度にとどまらなかったのはいうまでもない。『墨汁一滴』に「後來(こうらい)余の意見も趣味も君の教示によりて幾多の變遷を來(きた)し、君の生涯も亦此時以後、前日と異なる逕路(けいろ)を取りしを思へば此會合は無趣味なるが如くにして其實前後の大關鍵(だいかんけん)たりしなり」とあるように、慥に重要な意義を有する出来事であった。

[やぶちゃん注:「侃々諤々(かんかんがくがく)」正しいと思うことを堂々と主張するさま。又、盛んに議論するさま。

「文苑(ぶんえん)」新聞『日本』の文芸欄の名であろう。

「閑文字(かんもじ)」「かんもんじ」とも読み、原義は無意味な文字・文章・無益な言葉であるが、ここは投稿を含めた文芸作品や肩肘張らないコラムの謂いであろう。

「浅井黙語(もくご)(忠(ちゅう))」(安政三(一八五六)年~明治四〇(一九〇七)年)は洋画家。江戸生まれ。父は佐倉藩士。明治八(一八七五)年に国沢新九郎に師事し、翌年、工部美術学校に入学、お雇い外国人でイタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 一八一八年~一八八二年)に師事、明治二二(一八八九)年、日本初の洋画団体「明治美術会」を創立し、明治三一(一八九八)年には東京美術学校教授に就任した。明治三三(一九〇〇)年からフランスに二年間、留学。帰国後、京都高等工芸学校教授に就任して「関西美術院」を創立した。渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また、水彩画にも多くの佳作を残した。門下に安井曾太郎・梅原龍三郎らがいる。

「中村不折」(慶応二(一八六六)年~昭和一八(一九四三)年)は洋画家で書家。太平洋美術学校校長で、裸体画や歴史画を得意とした。書家及び書の収集家としても著名で、六朝風を得意とし、書道博物館(現在の台東区立書道博物館)の創設者でもある。また、島崎藤村「若菜集」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、伊藤左千夫の「野菊の墓」の挿絵なども描いている。

「余の始めて不折君と相見(まみえ)しは明治廿七年三月頃の事にして其場所は神田淡路町小日本新聞社の樓上にてありき」「墨汁一滴」の六月二十五日の条に出る。後の引用も合わせて、国立国会図書館デジタルコレクションにある、初出の切貼帳冊子を参照して訂した。読みは私が新たに歴史的仮名遣で追加した

「大關鍵(だいかんけん)」物事の最も大きな重要な場面・要所。]

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(5) 五 生物發生の原則 / 發生學上の事實~了

 

     五 生物發生の原則

 

 動物各種の發生中に現れる性質を丁寧に調べて、彼此相比べて見ると、前節に説いた如く、先祖代々の性質が、子孫の發生の中に順を追うて現れると考へるより外に致し方がないが、動物學者は多數の動物の發生を研究した結果、之より歸納して一の原則を造つた。この原則は生物發生の原則と名づけるもので、短くいへば、個體の發生はその種屬の進化の徑路を繰り返すといふのであつて、尚詳しく言へば、凡そ生物は皆共同の先祖から漸々進化して分かれ降り、終に今日の姿に達したものであるが、今日の一粒の卵から動物の一個體が出來るときには、何億年か何兆年かの間にその動物の種屬が經過し來つた通りの變化を、極めて短く略して繰り返すもので、例へば鯨が今日の姿までに進化し來る途中に一度齒のある時代があつたとすれば、鯨の卵から鯨の兒が發生する途中にも一度齒の現れる時期があり、人間が今日の姿までに進化し來る途中に一度鰓孔のある時代があつたとすれば、人間の卵から人間の兒が發生する途中にも一度鰓孔の生ずる時期があるといふのである。この原則は今日でも種々の學科に應用せられ、心理學・社會學・兒童研究などでも、常に之を唱へるやうになつたが、元は動物學者が動物の發生を調べていひ出したものである。

 若しこの原則を文字通りに解釋して間違ひのないものならば、一種の動物の發生を十分に調べさへすれば、その動物の進化し來つた徑路が明細に解る筈であるが、天然はなかなかさやうな簡單なものではない。實際に於てはたゞ各種の動物の進化歷史中の若干の著しい性質が飛び飛びにその發生の中に現れるだけで、決して發生中の各々の時期が進化歷史中の各時代を寸分も違へずそのまゝに寫し出して居るとは思はれぬ。之は素よりさもあるべきことで、生物が何億年・何兆年の間に漸漸進化し來るときには、その間の各個體は餌を求め、敵から逃れ、且生殖の作用をもなしながら代々極めて少しづゝ變化し來たものであるに反し、數日間或は數週間という極めて短い時の間に、卵から一個體の生ずるときには、敵から逃げることも無く、滋養分は他から供給を受け、生殖作用は全く知らずに、たゞ迅速に形が變化して出來ること故、その間の事情や境遇が全く違ひ、境遇事情が違へば勢い變化の模樣にも著しい相違のあるのは、先づ當然と考へなければならぬ。されば詳細の點までこの原則に照して論じようとするのは無理であるが、この原則を認めなければ説明の出來ぬことが甚だ多くあり、またこの原則を認めさへすれば、初め不思議に思はれたことも多くは容易に理窟が解る所から考へれば、大體に於てはこの原則は正確なものと見倣さなければならぬ。然るにこの原則は生物進化の事實を認めた後に初めて意味を有するもの故、この原則を正確なりといふのは、卽ち生物の進化は無論のこととして、尚その一つ先の點を論じて居る譯に當る。生物種屬不變の説とこの原則との兩立せぬことは、素よりいふまでもないことである。

 本章に述べた事實は、この原則によれば總べて一應理窟が解るものばかりである。發生の途中に一度或る性質が現れて後に再び消えることも、退化した動物が發生の途中に却つて高等の體制を有することも、同門・同綱に屬する動物は生長後如何に形狀の異なるものでも、發生の初めには著しく相似ることも、また發生の進むに隨うて動物の形狀が漸漸樹枝狀に順を追うて相分かれることも、皆この原則の中に含まれたことで、總べて之によつて説明が出來る。尚この原則はたゞ卵殼内または親の胎内に於ける間の發生に適するのみならず、生れて後の變化も之によつて支配せられるもので、南アメリカのペングィンが生長し終れば、ただ泳ぐばかりで、飛ぶ力はないが、雛の頃には能く飛ぶこと、また人間の幼兒が猿類の如くに足の裏を互に内側へ向け合せて居ることなども、この原則に隨つた事實であらう。尚一層推し擴げると、兒童の心理、社會の發達等も之によつて幾分かその理を察することが出來る。實に原則の名に背かぬ生物學上最も重大な一法則といはねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

     四 發生の進むに隨ひて相分れること

 

 同じ部類に屬する動物は、如何に形の異なつたものでも、發生の初期には極めて相似た形狀を有することは、前に述べた通りであるが、この相似た形を有する時代から漸々發生して種々の異なつた動物の出來上るには、如何なる順序に變化して進むものであるか。例へば第三〇〇頁の圖[やぶちゃん注:前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。キャプションと一緒に前のリンクで参照されたい。]に示した如く、初人間も、兎も、牛も、豚も、鷄も、龜も、蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]も、魚も皆殆ど同一の形をして居るが、何時頃から相分れて、人間は人間、牛は牛と區別の出來るやうになるものであるかといふに、多少の例外と見えるものはあるが、先づ相異なつたもの程、早くその間に相違が現れ、相似たもの程同一の形狀を保つ時代が長く續くのが、一般の規則のやうである。

 

Sekituidoubutuhatuseihikaku

[脊椎動物の發生經過の比較]

[やぶちゃん注:立体感がある底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をやや補正して示した。図中のキャプションは左から、

「魚類」・「ゐもり」・「龜類」・「にはとり」・「ぶた」・「うし」・「うさぎ」・「人間」

である。]

 

 こゝに掲げた脊椎動物發生比較の圖は、以上八種の脊椎動物の發生の中から、略々相當した時代を三つづゝ選んで、竝べて畫いたものであるが、上の段は既に前に一度掲げたもの[やぶちゃん注:やはり、前章「三 發生の初期に動物の相似ること」『脊椎動物の胎兒の比較』の図を指す。]と同じで、人間で云へば先づ一箇月の末位の所で、中の段は一箇月半、下の段は三箇月位の所に相當する。上の段では皆總べて相似て居るが、中の段ではは魚と蠑螈とだけは既に識別が出來る。倂し、龜以上のものはまだ略々同樣である。然るに下の段になると魚と蠑螈とは素より、龜も鷄も明に區別が出來、哺乳類は尚甚だ相似ては居るが、既に各種の特徴が現れて居る。之は僅に三段だけの比較であるが、尚詳細にこれらの動物の發生を比べて見ると、略々次の如くである。

 先づ最初暫くの間はこれら八種の動物は、殆ど識別も出來ぬ位に相似て居るが、少し發生が進むと魚と蠑螈とは一方へ、餘の六種は他の方へ向うて進むので、二組に分かれる。一方の幼兒は魚か蠑螈かになるといふことだけは解るが、その中、孰れになるかはまだ解らず、他の方の組は魚または蠑螈にはならぬといふことだけは解るが、他の六種の中の何になるかは、まだ全く解らぬ。尚少し發生が進むと、魚と蠑螈との區別が出來て、圖の中段の如き有樣となる。また少し先へ進むと、他の六種の中、龜と鷄とは一方へ、餘の四種は他の方へ進んで二組に分れるが、その頃には一方は龜か鷄かになるといふことだけは解るが、孰れが龜になるか孰れが鷄になるか、まだ解らず、また他の方は哺乳類になるといふことだけは解るが、その中の何になるかはまだ少しも知れぬ。更に發生が進めば龜には固有の甲が現れ、鷄の前足は翼の形となつて、二者の間に明な區別が生じ、また哺乳類の方にも一種每に特徴が見えるやうになつて、終には前の圖の下段に示した如くに、牛・豚・兎・人間と識別の出來るやうな姿になるのである。

 

Hasseihikakunohyou

[發生比較の表]

[やぶちゃん注:キャプションがある関係上、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正して用いた。図中のキャプションは左から、

「魚」・「蠑螈」・「龜」・「鷄」・「豚」・「牛」・「兎」・「人」

である。この図の原図は進化論生物学者ジョージ・ジョン・ロマネス(George John Romanes 一八四八年~一八九四年)が一八九二年にDarwin, and After Darwinに描いたものである。サイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかを参照されたい。]

 

 右の有樣を表に書いて示すと、略々上の圖の如くである。この表では下端を古とし、上端を新とし、時は下より上へ向うて進み行くと假定し、形の似たものは相近づけ、形の異なるに隨つて之を相遠ざけ、各種の發生の徑路を線で現してあるが、これらの種類は發生の進むに隨ひ、順を追うて互に相分かれるから、この方法によつて表を作れば、勢い斯くの如き樹枝狀のものが出來る。また表中に書き加へた三本の橫線は前圖に示した位の發生の時代を現す積りのもので、最下の橫線は圖の上段、中の橫線は同じく中段、上の橫線は同じく下段に示した位の發生の時期に相當する積り故、前の圖と照し合せて見たならば、尚この表の意味が明に解るであらう。

 斯くの如く發生の有樣を比較して表に作れば、樹枝狀のものが出來ることは、無論以上の動物に限る譯ではなく、何門・何綱の動物を取つても皆この通りである。また如何なる動物と雖も、その發生の最初は皆一粒の卵であるから、こゝまで溯つて比較すれば、總べての動物は皆同一の形を有するといはねばならぬ。卵には鷄の卵の如く大きなものも、人間や犬・猫の卵の如く小いものもあるが、抑々鷄卵の中で眞に卵といふべきはどの部であるかといふに、牝鷄の卵巢の内で出來るのは、たゞ蛋黃ばかりで、これが輸卵管を通過して出て來る間に、その周圍に蛋白が附け加わり、生れる前に少時輸卵管の末端に留まる間に、その外面へ卵殼が出來るのであるから、鷄卵の中で眞に卵と名づけて他の動物の卵と比較すべきものは、ただ蛋黃ばかりである。その蛋黃が鷄では直徑七八分[やぶちゃん注:二・一~二・四センチメートル]もあり、人間・犬・猫の卵は僅に一分[やぶちゃん注:三ミリメートル。]の十五分の一[やぶちゃん注:〇・二ミリメートル。]も足らぬが、之は何故かと尋ねるに、全く滋養分を多く含むと含まぬとによることで、またその理由を探ると、各々發生の場所及び發生の狀況が違ふのに基づくことである。人間の子は母の胎内で、母の血液に養はれながら發生すること故、午前に母の食ふた滋養物は午後は既に子の養となるといふ具合に、絶えず母から滋養分が廻つて來るから、最初から卵の中に澤山の滋養分を備へて置く必要はないが、鷄の方は之と反對で、まだ少しも發生の始まらぬ卵が早くも母の體から離れて生み出され、その後は全く卵の中にある滋養分ばかりに賴つて發生し、酸素だけは空中から取るが、その他には何も外界から取らずに雛までに生長するのであるから、最初から餘程十分に滋養分が貯へられてなければならぬ。人間は極めて小い卵から發生しながら、生れる時は既に八百匁[やぶちゃん注:三千グラム。]位もある相當に大きな幼兒となるが、鷄の方は初め卵の大きなのに聯らず、雛以上の大きさになれぬのは、全くこの理窟に原因することである。つまる所、卵の大小の相違は、その中に含む滋養分の多少に基づくだけのこと故、大きな卵と小な卵とは、恰も饀の多い饅頭と饀の少い饅頭との相違だけで、斯かる副貳的[やぶちゃん注:「ふくじてき」。「副次的」に同じい。]の性質を省き、眞に卵たる點だけを比べて見ると、何動物の卵も殆ど全く同一で區別は出來ぬ。それ故、若し動物の發生を極最初まで溯つて比較したならば、その出發點に於ては、如何なる動物も皆同樣な形狀を有するものと考へなければならぬ。

[やぶちゃん注:現行のヒトの出産時の正常出生体重は二千五百グラムから四千グラム未満とされる。

「副貳的」「副弐(ふくじ)」と同義であるが、元来「副弐」とは正本に対して、その写本を意味した。]

 同門・同綱に屬する動物の發生を比較して表に示せば、樹枝狀に分岐した圖が出來ることは、前に述べたが、尚溯つて發生の極最初卽ち卵の時代までを比較すると、總べての動物が皆略々一樣の形狀を呈し、發生の根本はたゞ一の形に歸する故、若し假に現今地球上に住する動物各種の發生が、悉く完全に調べられたと考へて、その發生の徑路を前に述べた方法によつて圖に作つたと想像したならば、その結果は一大樹木の形となり、根本は發生の初期なる卵時代を現し、太い枝は各門・綱等の基部を示し、末梢端は各一種の生長した動物種屬を代表するものが出來る筈である。今日直に斯かる圖を誤らぬやうに作ることは勿論出來ぬが、研究が十分屆いた後にはかやうなものが出來るといふことだけは疑がない。

[やぶちゃん注:所謂、「系統樹」である。旧来の形態比較上の系統分類学の時代は主に進化を示すために描かれたが、近年の分岐分類学(分岐学)における系統樹は「分岐図」乃至は、「クラドグラム」(cladogram)と呼ばれる厳密なものとなり、分子生物学の発達によって旧来の楽観的な「生命の木」的発想は驚異的に大きな変更を迫られ、一部は無効となってさえいる。]

 動物發生の研究は前にも述べた如く、なかなか容易なことではなく、材料も十分になければならず、時間も餘程掛けねば出來ず、また之に從事して居る學者は決して少いとはいへぬが、動物の種類は何十萬もあること故、今日略々完全に發生の知れてあるものは、まだ甚だ小部分だけに過ぎぬ。倂し犬の發生が解れば、狐・狸の發生は之より推して略々想像することが出來、鷄の發生が解れば、雉・孔雀の發生も之より推して察することが出來るから、動物各種の發生が悉く調べ上げられるまで待たなくても、各綱目から若干づゝの代表者の發生が解りさへすれば、ここに述べた動物發生の大樹木の枝振りの大體は知れる筈で、既に今日までに學者の研究した種類だけから論じても、大體の形だけは確めることが出來る。今日發生學者の間に議論の一致せぬ點は、たゞ何の枝の分かれる處が上であるか下であるかとか、或は某の小枝は甲の枝から分かれたものか、乙の枝から分かれたものかといふやうなことばかりで、全體が樹枝狀を呈するといふ點に至つては、疑を懷く人は一人もない。

[やぶちゃん注:一般的な系統樹が楽天的に適用することが不可能なケースが既に判っている。則ち、生物進化の過程の中で生じた非常に重要な寄生・共生による進化の実際である。ウィキの「系統樹」によれば、『今日の進化的知見に基づく、系統樹作成の問題の一つが、細胞内共生説で』、『つまり』、『葉緑体やミトコンドリアが独立生物起源であり、独自のゲノムを持つことがわかったことである』。『これまでの進化論では生物進化は種分化の積み重ねと考えられてきた。したがって、その系統を図示すれば樹状になるのは当然と考えられてきた。しかし、共生によって二つあるいは三つの生物が一つにまとまるとすれば、この根拠は崩れる。ただし、当初はこの共生は、真核細胞形成段階の一回きりのものと見なされ、それ以外の部分での変更はなかった。むしろ、葉緑体やミトコンドリアの系統を明らかにすることで、新たな展開が開けた部分がある』。『しかし、その後、共生がさらに何度も独立に起こったらしいことが知られるようになった。しかも細胞内共生をおこなった真核細胞が細胞内に共生している例など、大変に入り組んだことが起こっているのがわかってきた。個々の部分ではとにかく、これによって原生生物全体の系統樹は非常に描きにくいものとなった』。『さらには、遺伝子の水平伝播も細菌などでは普遍的に起こっていることが明らかになり(他の生物にもそれらしい例がある)、これを厳密に考慮すれば、系統「樹」ではなく甚だ複雑なネットワークとなってしまう』のである。『ヘッケルの描いた系統樹は広葉樹の大木のようだった。太い幹は何度か枝分かれしつつも、上に向かって伸びていた。ジャン=バティスト・ラマルクが』、『もし』、『系統樹を書いていれば、多分』、『針葉樹のようなものを描いたであろう』。植物生態学の専門家で、植生分布の環境傾度分析の手法を確立して極相パターン説を提唱、「五界説」の提唱者でもあった二十世紀後半を代表するアメリカの生物学者『ホイッタカーの系統樹は、根元で枝分かれした灌木の形であった』。しかし、『現在では、生物進化が本質的に枝分かれだけで表現できないことを踏まえ、車輪樹法という系統樹表現法も提唱されている』。『また』、『類似の問題として、同一種内の亜種や人類集団のように互いに混合が』生じ得る或いは実際に生じる『集団の場合、従来の枝分かれのみの系統樹では近縁度のみを示すだけで、複雑な分岐、混合を経た歴史を表すことはできない。系統樹上で姉妹関係と出た』二『つの集団が』、『純粋に共通集団から分岐した後に他集団と全く混合していないか』、『別ツールの集団の双方に共通の集団が混合したため』、『見かけ上の姉妹関係のように表されているか』、という現象は、実は『全く判別できない』、分岐図を示せない、のである。従って、しばしばまことしやかに見かける、例えば、人類集団に於けるそうした頻繁に生じた『混合を無視して』、『単一祖先からの分岐のみで説明しようすることは実態を反映していない』のである。『単一祖先からの分岐のみを仮定する系統樹は』、『生殖隔離が成立している種間の系統のみで適用可能であり、生殖隔離が成立していない種内の集団については個体レベルでは系統樹を描くことは原理的に不可能である』『(単一の遺伝子指標のみでは可能である』)(下線やぶちゃん)という点も〈整然とした幸福な〉「系統樹」は、はなはだ非科学的なのである。]

 前にはたゞ脊椎動物中から八種を選んで例に擧げただけで、煩を避けるために、他の例は全く省いたが、孰れの門・綱を見ても略々同樣なことを發見する。前に掲げた甲殼類の發生でも、二枚貝・卷貝類の發生でも、また「ひとで」・「うに」・「なまこ」類の發生でも、之を表に現せば、皆基は一本で、先が分れた樹木の形となる。特に種類の數を尚少し增して、甲殼類の例に「かめのて」・寄居蟹[やぶちゃん注:「やどかり」。]・「しゃこ」・船蟲の如きものを添へなどすれば、その中には或は早く相分かれるもの或は晩くまで相伴うて進むもの等があつて、全く脊椎動物の例で見たと同樣な圖が出來る。倂し多數の動物の中には例外と思はれるものがないでもない。例外の例を一つ擧げれば、前にも述べた通り、軟體動物は總べて發生の初期に於ては、幼蟲が纖毛を動かして水面を泳ぐものであるが、章魚・烏賊の類は發生の初から、他の動物と違ひ、かやうな時代を經過せずに、直に章魚・鳥賊の形に發生する。また田螺(たにし)はかやうな時代を親の殼内で經過し、田螺の形に出來上つた頃に始めて生れ出る。されどかやうな例外は甚だ少數で、且多くは例外となつた特殊の理由を多少察することの出來るもの故、これらを論據として全體の形勢を否定することは勿論出來ぬ。

[やぶちゃん注:私は頭足類が何ゆえにトロコフォアやベリジャー幼生期を経ないのか、また、腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類が何故に卵胎生なのかという「特殊の理由を多少」なりとも「察すること」は「出來」ない。識者の御教授を乞うものである。]

 さて斯くの如く動物各種は發生の初には皆相似て、發生の進むに隨ひ、樹枝狀に追々相分れることは、如何なる意味を有するものかと考へるに、若し動物各種が最初より全く互に關係なく、別々に出來たものとしたならば、少しも解らぬことで、前に掲げた數多の事實と同樣に、いつまで過ぎても理窟の知れる見込もない。若し天地開闢の際から、人間は人間として、牛は牛として、鷄は鷄として、魚は魚として出來たものならば、これら四種の動物が發生の初に於て殆ど同樣な形狀を呈し、人間も、牛も、鷄も、魚同樣に數對の鰓孔を有し、少し進むと魚だけは區別が附くが、他は尚同樣で、皆左右の動脈弓を備へ、更に進めば鷄には右の大動脈だけ、人間・牛には左の大動脈だけとなつて區別が生じ、尚餘程後になつて牛は五本の指の中で、中指と藥指のみが特別に發達して殆ど二本指となり、人間は五本の指がその儘に發達して、孰れが牛、孰れが人間と識別が出來るやうになることは、實に不可思議極まることである。之に反して、若し動物は皆共同の先祖より進化し降つたものと見倣さば、發生中に現れる性質は、皆先祖の性質が遺傳によつて傳はつたものとして、この現象も一通りは理窟が解る。卽ち先祖といふ中には千代前の先祖も五千代前・一萬代前または一億代前の先祖もあるが、古い先祖の有して居た性質は發生中の早い時代に現れ、後の先祖の性質は發生中梢々遲く現れ、先祖代々の性質が順を追うて子孫の發生中に現れるものとすれば、同じ子孫の中でも古く相分れて今は既に著しく相異なるものは、その發生に於ても早く相分れ、比較的近頃になつて相分れて、今尚餘程相似たものは、その發生に於ても晩くまで相伴ふ筈故、發生比較の表が斯く樹枝狀となるのは當然のことである。實に發生學上の事實は、生物の進化を認めなければ理窟の解らぬことばかりであるから、今日の發生學上の知識を少しでも有するものは、到底生物不變の説を信ずることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ドイツの生物学者エルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel 一八三四年~一九一九年)の「個体発生は系統発生を繰り返す」という「反復説」である。これは次章で続いて語られる。未だに、これを非科学的学説として退ける輩が多いが、私は敢然と正しいと表明する。ここでそれを語ることは控えるが、先に示したサイト「永井俊哉ドットコム」の個体発生は系統発生を繰り返すのかは是非、読まれたい。「個体発生は系統発生を繰り返す」という命題の在り方そのものが確かに真であると私は信じて疑わない。なお、ヘッケルはまた、分類上の「門」や皆さんお好きな「生態学」などの用語の最初の提唱者でもある。]

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(3) 三 發生の初期に動物の相似ること

 

     三 發生の初期に動物の相似ること

 

 凡そ甲殼類は、蝦・蟹の如く生涯活潑に運動する類でも、「ふぢつぼ」の如く岩石の表面に固著して生活する類でも、また他の動物に寄生して何か解らぬやうな形に退化したものでも、その發生の初期には孰れも三對の足を有し、形狀の極めて相似た時代のあることは前に述べたが、之は甲殼類に限ることではない。總べて他の動物の部類でも全く之と同樣である。

 當今の動物分類法では、先づ動物總體を大別して若干の門とし、各門を更に綱・目に分つが、同門・同綱に屬する動物は、皆その發生の初期には形狀が頗る相似て、容易に識別の出來ぬ位なものである。門の數は分類者の意見によつて多少違ふが、通常八つか九つと見倣して置いて差支へはない。その中には形が小くて見えぬために、普通人の知らぬものもあれば、また人間の生活に直接の利害の關係の少いために、人の注意せぬものもあるが、その主なるものを擧げれば、第一には人間を始め鳥・獸・蛇・蛙・魚類等の如く、身體の中軸に脊骨を有する動物を總括する脊椎動物門、第二には蝦・蟹類・昆蟲類・蜘蛛・百足等の如き身體の表面が堅くて澤山の節があり、足にも各々若干の關節を具へた動物を總括する節足動物門、第三には蜆・蛤・榮螺・田螺または章魚(たこ)・烏賊(いか)の如く、身體は柔くして全く骨骼なく、單に表面に介殼を被るだけの動物を總括する軟體動物門、第四には、「うに」・「ひとで」・「なまこ」等の如く、皮膚の中に夥多の石灰質の骨片を具うる動物を含む棘皮動物門、第五には蚯蚓・「ごかい」等の如き、骨がなくてたゞ身體に節ある動物等を含める蠕形動物門などである。これらの中から同門・同綱に屬する動物を幾つか取出して、その發生を調べて見ると、多少の例外はないこともないが、大部分は全く前に述べた通りで、その初期に當つては極めて相類似して居る。

[やぶちゃん注:「動物分類法」現代の分類学は分子生物学の急速な発展によって、アイソザイム(Isozyme:酵素活性がほぼ同じでありながら、タンパク質分子としては別種(アミノ酸配列が異なる)酵素)分析(アイソザイムは遺伝子型を反映していることから、間接的な「遺伝子マーカー」として利用出来る)や直接のDNA解析が進み、その新知見に基づく最新の科学的系統学の知見を反映させた新体系に組み替える動きが盛んであるが、基本的には丘先生の時代の旧来のリンネ式の生物分類は、概ね、一般的には有効に維持されてはいる。以下、丘先生は分類階層を動物の「門」(英語:phylum, division/ラテン語:phylum, divisio)から始めておられる。我々の日常の生物分類では、この「門」の上の階層は植物と動物と何となく細菌みたようないい加減な認識であって、あまり問題とされないが、現代の生物分類学に於いては最上階に「ドメイン」(英語:domain/ラテン語:regio(レギオー))があり、そこでは基礎的なゲノムの進化の違いを反映して、現行で一般的なものとしては、三つのタクソン(taxon:生物分類に於いて「ある分類階級に位置づけられる生物の集合」を指す。分類群)に分け、「真核生物ドメイン」・「真正細菌ドメイン」・「古細菌ドメイン」とする(嘗ては「域」と訳されたが、現行では「ドメイン」が一般化した)。次に「門」の上の「界」(英語:kingdom/ラテン語:regnum)となる。伝統的にはここで「動物界」と「植物界」の二つのみが長く認められてきた(二界説)が、これはある意味で最早、科学的とは言えなくなりつつあり、その後、動物界・植物界・原生生物界の三界説を経て、一九六九年以降の五界説が登場する。これは「モネラ界 Kingdom Monera」(原核生物の細菌類及び藍藻類。後の一九七七年以降にリボソームRNAの研究で原核生物が「真正細菌界」と「古細菌界」に分けられ、それがさらに最上階層の「ドメイン」に上層変更された)・「原生生物界 Kingdom Protista」・「植物界 Kingdom Plantae」・「菌界 Kingdom Fungi」・「動物界 Kingdom Animalia」に分けられる。少なくとも、現行の論文等でもこの五界説に拠る記載を見ることが多いので、我々一般人はこの説の分類認識で特に困ることはないと私は考えている。なお、私は私の好きな海産生物の正式な分類や種同定では、「国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)」の「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life:海洋の生物多様性情報、特に生物地理情報を扱うデータシステム)を使用することにしているが、その分類では二〇〇五年の「国際原生動物学会」で示された真核生物の新しい見た目六つのスーパーグループ(supergroup:旧来の「界」ではなく、一九八〇年代頃より提唱され始めた真核生物の高次分類群)にほぼ基づいたツリーで分けられている。

「門の數は分類者の意見によつて多少違ふが、通常八つか九つと見倣して置いて差支へはない」というのは、文脈から動物に限っての謂いであるが、現行の「門」のタクソンは生物全体では百門近くに分けられている。詳しくはウィキの「門」を参照されたいが、そこを見ても三十五門を数える。例えば、高等学校の生物学の参考書と冒頭から筆者が謳う岡村周諦著「生物學精義」(大正一四(一九二五)年瞭文堂刊)の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)の動物の分類」(リンク先はその冒頭頁)を見ても、「原生動物」(多様な原始的な微細な単細胞生物で動物的なものの投げ入れ場所。現在では分類群名としては使われず、大まかな総称として生き残っているだけである)・「海綿動物」・「腔腸動物」・「扁蟲動物」(現在の扁形動物門)・「圓蟲動物」(現在の線形動物門)・「環蟲動物」(現在の環形動物門)・擬似軟体動物(シャミセンガイ等の腕足動物門やコケムシ(外肛動物門)等をゴチャ混ぜにしたトンデモ玩具箱のような門)・棘皮動物・環蟲動物(現在の環形動物門)・節足動物・軟體動物・脊索動物門の十二にしか分類していないしかも、この内の原生動物と特に擬似軟体動物はご覧の通りの生物学者自身が口にしたくないブラック・ボックス的存在であり、そうポピュラーな生物たちではなかった。また、原生動物や環蟲動物は一般的には微細であって虫眼鏡や顕微鏡によらないと細かな観察出来ないから、それら三つを外すと「九つ」となり、丘先生の謂いがしっくりくる。実際、小学生の頃の私も、その程度の認識だった。本書「進化論講話」の初版は明治三七(一九〇四)年、底本は、その同じ大正一四(一九二五)年九月刊の『新補改版』(正確には第十三版)で、そもそもが、これは御大層な教科書ではなく、一般大衆向けの進化論の解説書なのである。

「章魚(たこ)・烏賊(いか)の如く、身體は柔くして全く骨骼なく、單に表面に介殼を被るだけの動物を總括する軟體動物門」やや問題がある。ウミウシのような後鰓類やイカ類の場合は表面ではなく、体内に殻(の痕跡)を有するからである。

「夥多」「くわた」。おびただしく多いこと。或いは「あまた」と当て訓している可能性もある。

「蠕形動物門」現在の環形動物門。]

 

Sekituidoubutunotaiji

[脊椎動物の胎兒の比較

(上段左より)魚 蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。] 龜

(下段左より)豚 牛 兎 人間]

[やぶちゃん注:底本はブラック・バックでおどろおどろしく見えてしまう(と私が判断し)、講談社学術文庫版の画像を用いた。]

 

 人間の一二箇月の胎兒と鷄卵を、二三日溫めた頃の雛の出來かゝりとが互に相似て居ることは、既に前にいうたが、人間と鷄とだけに限らず、他の鳥類・獸類は素より、蛇でも、龜でも、魚類でも、凡そ脊椎動物なればその發生の初期には大體に於て皆相似たものである。こゝに掲げた八つの圖は脊椎動物の中から八つの違つた種類を選み出して、その發生中、人間の一箇月位の胎兒に相當する頃の形狀を列べ寫したものであるが、上の段の左の端にあるのが魚、次が蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]、次が龜、右の端が鷄で、下の段では左の端が豚、次が牛、次が兎、終りが人間の胎兒である。孰れも實物から寫生したものであるから、略圖ではあるが決して間違ひはない。この通り萬物の靈と自稱する我々人間も、我々の常に打ち殺して食ふ牛・豚・鳥・魚なども、この時代にあつては殆ど區別は附かぬ位で、あれとこれとを取り換へて置いても容易には解らぬ位に好く似て居る。

 節足動物中の甲殼類のことは前に例に擧げたが、次なる軟體動物は如何と見るに、之も同樣で、蛤でも牡蠣でも榮螺でも鮑でも、發生の初期には皆極めて小い幼蟲で、體の前端にある纖毛の輪を振り動かして海面を泳いで居るが、その狀は孰れも同じやうで、なかなか識別は出來ぬ。寒冷紗[やぶちゃん注:「かんれいしや(かんれいしゃ)」荒く平織に織り込んだ布。織り糸には主に麻や綿などが用いられたが、現在ではナイロンにとって変わった。ここは所謂、プランクトン・ネットのことである。]で囊を造つて海の表面を引いて步くと、目に見えぬ程の小いものが澤山に入るが、之を顯微鏡で調べると、かやうな幼蟲が幾らでも見える。その中には蛤になるべきものも、牡蠣になるべきものも、榮螺になるべきものも、鮑になるべきものもあらうが、形が似て居るから實際生長させて見なければ何になるか前からは解らぬ。特に蜆・蛤の如き二枚の介殼を有する類と、榮螺・鮑の如きたゞ一個の卷いた介殼を有する類とに別けて論ずるときは、かやうに相似た時期が更に長くて、愈々二枚貝の幼蟲とか卷貝の幼蟲とかいふことが解るだけに生長してからも、尚餘程の間は二枚貝の中の何といふ種類の子であるか、卷貝の中の何といふ種類の子であるか解らぬ。海岸に打ち上げられて居る介殼だけを見ても、貝類には形狀の異なつたものの甚だ多いことが直に解るが、その發生の初め幼蟲として海面を泳ぐ時代に互に善く似て居る具合は、人間・牛・豚などが胎内發生の初めに暫時同じ形を呈するのと毫も違はぬ。

[やぶちゃん注:ここに出る貝類のそれは、軟体動物の殆んど(頭足類は除く。次の章で丘先生も例外として挙げられておられる)で見られるトロコフォア(Trochophore:担輪子(たんりんし)。軟体動物や環形動物の幼生に多く見られるライフ・ステージの一時期)及び、通常ではその次のステージであるベリジャー幼生(veliger larva:被面子幼生。概ね、鰭のように広がった部分に繊毛を生やして浮遊生活を行う)を指している。特にここでは後者を指示していると読むべきであろう。]

 

Kyokuhidoubutu

[棘皮動物の例

 一 ひとで  二 うに  三 なまこ]

[やぶちゃん注:キャプションの数字が画像の中に打たれており、講談社学術文庫とは指示数字が異なることによる。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を補正(異様に暗いのでハレーションのように明度を上げた)して示した。ちょっと見づらいが、ヒトデは「一」の左下に一個体、その左後方の岩(或いは海綿か)の上に一個体が描かれている。但し、ナマコはいいとして、左のウニは口器を正面に向けており、生態画としてはあり得ない、おかしな絵である。]

 

 棘皮動物の中に含まれてゐる「うに」・「ひとで」・「なまこ」は生長の終つたものを互に比べて見ると、隨分甚だしく違つたものである。「うに」は稍々扁平な球形をなし、表面全體に棘が生えて恰も刺栗[やぶちゃん注:「いがぐり」。]の如く、「ひとで」は五本の腕を有し、圖に書いた星の通りであるから、西洋諸國では之を海の星と名づける。また「なまこ」は細長い圓筒形で、澤山の細かい突起が縱に五本の線をなして列んで居る故、頗る胡瓜に似て居る。斯く互に違ふものであるが、その發生を調べると、初めの間は實に甚だしく相似たもので、孰れも親とは全く形狀が違ひ、纖毛の列を振り動かして、海の表面に浮いて居る。貝類の幼蟲でもこの類の幼蟲でも、極めて小い透明なもの故、實際生きたものを顯微鏡で見なければ、なかなか想像することもむずかしい。

[やぶちゃん注:棘皮動物の発生初期の幼生は概ね、ウニとクモヒトデ類(棘皮動物門 クモヒトデ(蛇尾)綱 Ophiuroidea)ではプルテウス幼生(pluteus larva)と呼び、特にウニのそれはエキノプルテウス幼生(echinopluteus larva:当初は四本の腕を持ち、六腕期を経過後、八腕期で変態して稚ウニとなる)、クモヒトデではオフィオプルテウス幼生(Ophiopluteus larva:「く」の字型の中央に、短い六本の腕が付いた形状を成す)と呼ぶ。通常のヒトデ類ではビピンナリア幼生(bipinnaria larva:体表面に複雑な曲がりくねった形の繊毛帯を有し、その一部が三対の突起となって突き出した状態を指す。後にそれが有意に長い突起として伸び出したものを別にブラキオラリア幼生(brachiolaria larva)と呼ぶ)、ナマコ類ではアウリクラリア幼生(auricularia larva:五対の突起を有し、各突起の基部には球状体がある。さらに最後端の両側の突起の基部には星形の骨片を持つ。この幼生はさらに樽形のドリオラリア幼生(doliolaria larva)となり、さらに変態して触手をもったペンタクラ期(pentacularia)を経て成体となる)と呼んで区別する。

「うに」は英語で“sea urchin”(海の針鼠)が一般的だが、“sea chestnut”(海の栗)とも呼ぶ。

「ひとで」は英語通称で“sea star”“star fish”“starfish”(海の星)。

「なまこ」は英語通称で“sea cucumber”(海の胡瓜)。]

 以上は極めて簡單に、動物は發生の初めに當つて互に著しく相似るものであることを説いたに過ぎぬ。詳細なことに至つては素より白身で實物を研究しなければ到底明に知ることは出來ぬが、大體は先づこゝに述べた通りに考へて誤はない。そこで斯くの如く、生長してしまへば全く異なる動物が、發生の初めだけ揃つて相似るといふことは、決して偶然なこととは思はれぬ。一つか二つより例のないことならば、或は何か偶然の原因で生じたかとも思はれるが、孰れの門、孰れの綱の動物を取つても、その大部分が、かやうな性質を示すのを見れば、之には何か全部に通じた一大原因が無ければならぬ。若し同門・同綱に屬する動物は皆共同の先祖より降つたものとしたならば、この原因は直に解るが、生物各種を萬世不變のものと見倣すときは、斯かる現象の起る理由は到底何時までも解らぬであらう。

復活のアリス――

昇天から二ヶ月後に舞台に復活したアリス――
 
父原作の「ひとみ座」公演「ぼくらのジョーモン旅行」より。
 
ひとみ座提供(©ひとみ座)
 

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2018/02/19

北條九代記 卷第十二 後醍醐帝踐祚

 

      ○後醍醐帝踐祚

 

正和五年七月に、北條高時、十四歳にして、初(はじめ)て將軍守邦親王の執權となりて、評定の座に出でらる。北條相模守基時、執權の職を辭す。後に入道して信忍(しんいん)と號し、普恩寺と稱す。翌年三月に改元有りて文保元年と號す。高時、十五歳にして相摸守に任ず。然るに、高時は其天性(うまれつき)、甚(はなはだ)輕忽(きやうこつ)にして、智慮、尤(もつとも)、後れたり。頗る執權の器量に相應せすといへども、前代武州泰時より以来、嫡子相續の掟(おきて)あるを以て、秋田〔の〕城〔の〕介時顯、長崎』〔の〕入道圓喜、是を守立(もりた)てんとし、様々、計略を致し、諸人の心を執宥(とりなだ)め、高時の行跡(かうせき)を教へ參らせ、世を靜め、家を齊(ととの)ふとはすれども、兩人の内管領(ないくわんれい)、私欲深く、奢侈(しやし)を好み、權威を振ふ事、邪(よこしま)多かりければ、人望(にんぼう)に背く事、少からず。恨(うらみ)を負ふ、報(むくひ)を待つ者、近習、外樣(とざま)に、いくらも、あり。同二年二月二十六日、京都には御讓位の御事あり。主上、今年二十二歳、春宮(とうぐう)は既に三十歳に餘り給ふ。是は後宇多院第二の皇子、尊治(たかはるの)親王と申し奉る。御母は談天門院参議忠繼卿の御娘なり。皇子、既に春宮に立ちて、御年三十一歳に成らせ給へば、後宇多法皇を初め奉り、其方樣(かたさま)の人々は待兼(まちか)ねさせらるべし、とて、關東より計ひ申して、同二十九日、尊治親王、御位に卽(つ)き給ふ。先帝は花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す。時移り、事改(あらたま)り、此君、御位に卽き給ひ、内には仁慈の思(おもひ)深く、外には萬機(ばんき)の政(まつりごと)を施し、近代の明君、當世の賢王にておはしましければ、遠くは延喜天曆の跡を慕ひ、近くは後三條延久(えんきう)の例(れい)に任せ、記錄所(きろくしよ)へ出御(しゆつぎよ)有りて、直(ぢき)に訴陳(そちん)を決し給ふ。德澤(とくたく)、一天に覆ひ、恩惠、四海に蒙(かうぶ)り、絶えたるを繼ぎ、廢れたるを興し、悪を宥(なだ)めて、善を賞し給ひしかば、儒佛の宏才(くわうさい)、皆、共に望(のぞみ)を達し、寺社の碩學(せきがく)、各(おのおの)、既に所を得たり。誠に是(これ)、天に受けたる明君(めいくん)、地に奉ぜる聖主(せいしゆ)なりとて、上下、其化(くわ)に誇り、遠近(ゑんきん)、具德を仰がざるは、なかりけり。卽ち、是を、後醍醐天皇とじ申し奉りける。

[やぶちゃん注:「正和五年」一三一六年。

「北條高時」(嘉元元(一三〇四)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十四代執権(在職:(正和五(一三一六)年 ~正中三(一三二六)年)。ウィキの「北条高時」より引く。第九代執権北条貞時三男。延慶二(一三〇九)年に七歳で元服している。『元服に際しては烏帽子親の偏諱』『を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の』一『字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖』(あやか)『ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説』『を唱えたものの』、『根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、北条時宗(高時の祖父)の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたり』、『その正統性を主張するために、祖にあたる北条義時を武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと』『や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・資宗(助宗とも書く)の名字(名前の』一『字)を平資盛に求めた可能性があること』『を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に、貞時も嫡男の名字を高望王に、それぞれ求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時・高時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず』、『得宗家当主である貞時の「貞」の字や高時の「高」の字が他の御家人に与えられる図式が』、『この時代に成立していたことが御家人の名前から窺え』、『これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している』。応長元(一三一一)年、九歳の『時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで三代の中継ぎ執権』『を経て』、この正和五(一三一六)年に父と同じ十四歳で、第十四代執権となった。しかし、『その頃には』既に『円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた』。『在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起き』正中元(一三二四)年、『京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された』。しかし二年後の正中三年には病と称して二十四歳で『執権職を辞して出家』して崇鑑(すうかん)と名乗った。『後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こ』り、三月には非得宗の『金沢貞顕が執権に就任する』もたった十日で辞任、四月に非得宗の最後の執権(第十六代)赤橋守時が『就任することで収拾』した。元弘元(一三三一)年には、『高時が円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起こる』。同年八月、『後醍醐天皇が再び倒幕を企てて』、『笠置山へ篭り、河内では楠木正成が挙兵する元弘の乱が起こると』、幕府は『軍を派遣して鎮圧させ、翌』年三月には、再び、『後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基らを処刑する。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立て』ている。元弘三/正慶二(一三三三)年閏二月、『後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する』が四月に『高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って』、五月七日に『六波羅探題を攻略。同月』八『日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する』十八『日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると』、二十二『日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年』二十九の若さであった。『後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君または暗君として書かれる傾向にあり、江戸時代から明治にかけての史学でもその傾向があった』が、『高時の実像を伝える当時の史料は少なく、これらの文献に描出される高時像には、足利尊氏を正当化し』、『美化するための誇張も』多く『含まれている』。「太平記」では、『高時が妖霊星を見て喜び踊り、一方で藤原仲範が妖霊星は亡国の予兆であるため』、『鎌倉幕府が滅亡することを予測したエピソードが挿入されている』。『更に、北条氏の礎石を築いた初代執権の北条時政が江島に参籠したところ、江島の弁財天が時政に対して時政から』七『代の間』、『北条家が安泰である加護を施した話を記載し、得宗で』七『代目に当たる高時の父貞時の代にその加護が切れたと記載する』。「太平記」は『高時は暗愚であった上、江島弁財天の加護まで切れてしまったのだから、鎌倉幕府の滅亡は至極当然のことであった、と断じている』。こうした「太平記」に於ける『高時像は、討幕を果たした後醍醐天皇並びにその一派が、鎌倉幕府の失政を弾劾し、喧伝する中で作り上げたものという側面もある』。『では』、『実際の高時はどのような人物だったのかというと』、「保暦間記」は『高時の人物像について』、『「頗る亡気の体にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「正体無き」と記している。一族である金沢貞顕が残した』金沢文庫古文書でも『彼が病弱だったことが強調されており、彼の病状に一喜一憂する周囲の様子をうかがわせる。また貞顕の書状には「田楽の外、他事無く候」とも書かれており、田楽を愛好していたことは確かである。彼の虚弱体質の原因として、祖父・時宗さらには高祖父・時氏まで遡る安達氏を正室とした血族結婚にあると思われる。実際、彼の正室も安達氏である。また』、二条河原の落書には『「犬・田楽ハ関東ノホロ()フル物ト云ナカラ」と書かれており、鎌倉幕府滅亡から間もない時から高時が闘犬・田楽を愛好したことが幕府を滅ぼした要因の一つだとされてきたことが伺える』とある。『父の貞時の場合、その父である時宗が没した時には』十四『歳であり、政務に勤しむ父親の姿を知っており』、二十三『歳の時に平禅門の乱で実権を掌握してからは政務に勤しんで得宗専制を確立したが、高時の場合は彼が』三『歳の時に起きた嘉元の乱以来』、『貞時が政務に対する意欲を失って』、『酒浸りの生活になっていたうえ、高時が』九『歳の時には父は世を去っていたため、高時は政務を行う父の姿を知らなかった』。『また、晩年の貞時が酒浸りになって政務を放棄したため、高時が家督を継いだ頃には幕府は長崎円喜らの御内人・外戚の安達時顕・北条氏庶家などの寄合衆らが主導する寄合によって「形の如く子細なく」(先例に従い形式通りに)運営されるようになっており、最高権力者であったはずの得宗も将軍同様装飾的な地位となっていたため、高時は主導的立場を取ることを求められていなかった』。『その一方で』、『高時は夢窓疎石らの禅僧とも親交を持ち、仏画などにも親しんだことが知られている』。また、「増鏡」でも、『高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった、体調が優れている時は、田楽・闘犬に興じることもあったと記して』あり、『また、田楽・闘犬を愛好したのは執権を退い』て『以降であったと記している』とある。実は彼もまた、権力闘争の中にあって形骸だけが利用された滅びの一族の一人であったのである。

「翌年三月に改元有りて文保元年と號す」「二月」の誤り。正和六年二月三日(ユリウス暦一三一七年三月十六日) に大地震などにより、改元。

「輕忽(きやうこつ)」軽率。

「兩人の内管領(ないくわんれい)」この場合は(元)内管領長崎円喜とその嫡男で(現)長崎高資を指す。現在では正和五(一三一六)年頃に、父から内管領の地位を受け継いで、幕府の実権を父とともに握ったと考えられている。文脈から秋田城介時顕と円喜と採っては誤りである。安達時顕は名門御家人の一族であって内管領ではない

「同二年二月二十六日」文保二年は一三一八年。

「主上」花園天皇。

「談天門院参議忠繼卿の御娘」後醍醐天皇の母五辻忠子(いつつじちゅうし 文永五(一二六八)年~元応元(一三一九)年)。「談天門院」(だんてんもんいん)は彼女の院号。後宇多天皇の後宮、女院(にょういん)。大覚寺統。

「後宇多法皇」大覚寺統。

「花園〔の〕院と號し、萩原〔の〕院と稱す」彼の御所は仁和寺の花園御所であったが、ここを寺に改めて妙心寺を開基している。正平三(一三四八)年十一月に、この花園萩原殿で死去した。

「萬機(ばんき)の政(まつりごと)」「萬機」は政治上の多くの重要な事柄であるが、特に帝王の政務を指す。

「延喜天曆」「延喜」醍醐天皇の治世。この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたことから、後に「延喜の治」と呼んで理想的な治世として賞賛されるようになった。「天曆」村上天皇の治世。彼は天慶九(九四六)年に即位した後、暫くは藤原忠平を関白に置いていたが、天暦三(九四九)年に忠平が没すると、以後は摂関は置かず、天皇親政の形をとった。後世、「延喜の治」と並称して聖代視された。しかし、ウィキの「天暦の治」によれば、『忠平の後に実際に政務をリードしたのは』、『太政官筆頭である左大臣藤原実頼であり、村上治世を天皇親政の理想の時代とするのは』、十一『世紀以降に摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族による意識的な喧伝だったのだと考えられている』とある。

「後三條延久(えんきう)」後三条天皇(長元七(一〇三四)年~延久五(一〇七三)年/在位:治暦四(一〇六八)年~延久四(一〇七三)年)の「延久の親政」。ウィキの「後三条天皇」によれば、彼は『桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を打ち出した。さらに大江匡房らを重用して一連の改革に乗り出』し、『画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置』、『絹布の制』・『延久宣旨枡や估価法の制定等、律令制度の形骸化により弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等』、『摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。この事が官や荘園領主、農民に安定をもたらし』、「古事談」では、『これを延久の善政と称えている。一方、摂関家側は頼通・教通兄弟が対立関係にあり、外戚関係もなかったため』、『天皇への積極的な対抗策を打ち出すことが出来なかった』。『また、同時代に起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島や下北半島までの本州全土が朝廷の支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすようにな』った、とある。

「記錄所(きろくしよ)」政務実務室相当。

「訴陳(そちん)」訴人の告訴内容と被告側の弁明陳述。

「宏才(くわうさい)」広汎な知識を学んだ才人。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 『警鐘「芭蕉雑談」』

 

    警鐘「芭蕉雑談」

 

 明治二十六年は芭蕉歿後二百年に相当する。この年しばしば旧派俳人に接触した居士は、到る処で二百年忌に関する話を耳にしたのであろう。十一月六日の『日本』に地風升の名を以て「芭蕉翁の一驚(いっきょう)」なる一文を掲げた。芭蕉が地獄と極楽の中頃の処からぶらりと出て、俳諧師のところへ来て見ると、そこに集った連中が、今年の二百年忌には廟を建てようか、石碑にしようかという相談をしている。芭蕉が癇癪(かんしゃく)を起して中に入り、「汝ら集りて何をか語る、われこそ松尾芭蕉なれ」と叱りつけたところ、一同喜んで「誠に善くこそ御光來下された、先づさしあたり今年の儲(まう)けは廟が善いか石碑が善いか御當人樣の御差圖(おさしづ)を願いとうござります」といったので、芭蕉もあっけに取られて匇々(そうそう)立去ってしまった。その翌日六道の辻の黄泉社(こうせんしゃ)より発行する『冥土日報』第十万億号を見ると、二号活字で

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「芭蕉翁の一驚」のこの箇所は、セセエト氏のブログ「林誠司 俳句オデッセイ」の正岡子規「芭蕉翁の一驚」についてで前略されているが、読める。そこをも参考にしつつ、本文を校訂し、さらに正字化を行った。]

 

近頃拙者名義を以て廟又は石碑抔を建立する由言ひふらし、諸國の俳人にねだり金錢を寄附せしむる者有之由聞き及び候得共、右(みぎ)者(は)一切拙者に關係無之候得(これなくさふらえば)左樣御承知被下度(くだされたく)この段及広告(くわうこくにおよび)

也。

 大日本明治二十六年 月 日  松尾桃靑 白

 

という広告が出ていたというのである。当世の宗匠連(そうしょうれん)の愚劣を諷したもので、一場の戯謔(ぎぎゃく)に過ぎぬようであるが、居士が次いで筆を執った「芭蕉雑談」を読む前に、先ずこの文章を一瞥する必要がある。

[やぶちゃん注:「明治二十六年は芭蕉歿後二百年に相当する」松尾芭蕉は寛永二一(一六四四)年生まれで、元禄七年十月十二日(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日)に亡くなっている。明治二十六年は西暦一八九三年であるが、数えで二百年となる。

 「芭蕉雑談」は十月十三日から『日本』に現れて、翌年の一月二十三日に漸く了った。前後二十五回の長篇である。名は雑談であるが、居士が古俳人に対して下した最初の評論と見るべく、『獺祭書屋俳話』よりも更に響(ひびき)が大きい警鐘であった。

 居士は「芭蕉雑談」において、その佳句を称揚するより前に、悪句を指摘した。「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ、上乗と称すべき者はその何十分の言る少数に過ぎず。否、僅に可なる者を求むるも寥々(れうれう)晨星(しせい)の如し」という劈頭(へきとう)の断案は、月並宗匠の胆(きも)を奪ったのみならず、世人を瞳目せしめたに相違ない。居士はその理由として、芭蕉の俳諧は古を模倣したのでなく自ら発明したのである、貞門、談林の俳諧を改良したというよりも、むしろ蕉風の俳諧を創開したという方が当っている、その自流を開いたのは歿時を去る十年前、詩想いよいよ神(しん)に入ったのは三、四年前であろう、「この創業の人に向つて僅々(きんきん)十年間に二百以上の好句を作出せよと望む。また無理ならずや」といっているが、当時にあってこれを読む者は、こういう推論に耳を傾けず、一国に大胆なる放言としたものと思われる。

 居士は具体的な実例として、世に喧伝せらるる芭蕉の句十余を挙げ、その多くは悪句であると断定し、「さまでに名高からぬ句を取(とり)てこれを評せんには、芭蕉家集は殆ど駄句の掃溜(はきだめ)にやと思はるゝほどならんかし」とまで極言した。これは正に破天荒の言で、芥川龍之介氏の評した通り「芭蕉の円光を粉碎し去つた」ものでなければならぬ。居士は先ず如是(にょぜ)の断案を与えて置いて、然る後徐(おもむろ)に佳句を列挙した。最も特筆大書したのは豪宕(ごうとう)雄壮なる種類のもので、「夏草やつはものどもの夢のあと」「五月雨を集めて早し最上川」「あら海や佐渡に橫たふ天の川」以下数句を以て俳詩壇上を潤歩するものとし、「吁嘻(ああ)芭蕉以前已に芭蕉なく芭蕉以後芭蕉なきなり」と歎賞しているのである。

[やぶちゃん注:「芥川龍之介」底本は「芥川竜之介」であるが、こればかりは気持ちが悪いので、原本通りに訂した。

「芭蕉の円光を粉碎し去つた」これは芥川龍之介の草稿「芭蕉雜記」の「偶像」の一節であって、生前に発表された「芭蕉雜記」(初出形は「芭蕉雜記」及び「續芭蕉雜記」として大正一二(一九二三)年十一月・十三年五月・同年七月発行の『新潮』各号に分載)中のそれではない

   *

 この偶像崇拜に手痛い一擊を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を説盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ。

   *

「豪宕(ごうとう)」気持ちが大きく、細かいことに拘らず、思うままに振る舞うこと。豪放。]

 居士が芭蕉の佳句と認めるものは、固よりただ豪宕雄壮の世界に限られたわけではない。自然、幽玄、繊巧(せんこう)、華麗、奇抜、滑稽、蘊雅(うんが)、羈旅の実況を写せる者、やや狂せる者、字余りの句、格調の新奇なる者、一瑣事一微物の実景実情をありのままに言い放してなお幾多の趣味を含む者、その他の諸項について芭蕉の句百十余を挙げた上、「百種の變化(拙劣なる者をも合して)盡(ことごと)くこれを一人に該(か)ぬる者は實に芭蕉その人あるのみ。けだし常人の觀念において兩々全く相反し到底並立すべからざるが如き者も、偉人の頭腦中にありては能くこれを包容混和して相戾るなきを得るがためなり」と評している。果然居士が悪句を抑えるに急であったのは、後の佳句を揚ぐるに力あらしめんがためであった。

[やぶちゃん注:「蘊雅(うんが)」よく判らぬが、奥底に潜む雅(みや)びなものの謂いか。]

 「芭蕉雑談」の所論は世人を驚かすと共に、多少の疑問を招いたらしい。「惑問(わくもの)」の項を設けて言これに答えたのは、その反響を語るものである。居士は「芭蕉雑談」における自己の態度について、「芭蕉を文學者とし俳句を文學とし、これを評するに文學的眼孔を以てせば則ち此の如きのみ」といい、「佳句を埋沒して惡句を稱揚する者、滔々たる天下皆然り。芭蕉豈(あに)彼らの尊敬を得て喜ぶものならんや」と喝破している。要するにこの一篇は「主として芭蕉に對する評論の宗匠輩に異なる所を指摘せし者」で、豪宕雄壮なる趣味について力説したのも、逆に宗匠輩の短所を衝いたものに外ならぬ。俳壇に新旗幟(しんきし)を翻さんとする居士の面目は、何よりも「芭蕉雑談」に強く現れている。後に居士は人の問に答えて、「拙著芭蕉談も隨分亂暴なる著述にて自ら困り居候」といったことがあるが、語気の強かったのは警鐘乱打の意味でやむをえまいと思う。芭蕉二百年忌を記念する仕事として、「芭蕉雑談」以上のものはどこにもなかったはずである。

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(29) 禮拜と淨めの式(Ⅶ)

 

 近代の家族の祓の形は極めて筒單である。各神道の教區の社は、その教區の者則ち氏子に『人型』といふ影繪のやうな男、女、子供の姿を現はす小さい紙の切れをくれる――この紙は白紙で、不思議な折り方をしたものてある。家々はその家の人數に應じて幾個かの人型を貰ふ――男と男の子には男の形をしたのを、女と娘とには女の形をしたのを。家の各人は、其人型を一つ取つて、自分の頭や、顏や、手足、身體にそれを觸はらす、其間神道の祈禱を唱へ、神々に向つて、知らずし爲したる犯行のために被る不幸や病氣の(神道の信仰に從ふと病氣と不幸とは、神罰てあるといふのであるから)神樣の慈悲に依つて除けられるやうにと祈るのである。人型の上には、それを受け取つた人の年齡と男女孰れかといふ事が書かれる(名は書かない)。そしてその上で人型はすべて教區の社にかへされる。すると其處で淸めの式と共にそれが燃やされるのである。こんな風にして社會は六箇月每に『不淨を拂はれる』のである。

[やぶちゃん注:「觸はらす」やや不審。原典は単に“touches”であるから「觸貼らす」では無理がある。「觸(ふ)れ這(は)はらす」ではあるまいか? 平井呈一氏は『をなでて』と訳しておられる。]

 昔のギジシヤ、ラテンの都會にあっては淨めの式に伴なつて人名登簿といふ事があつた。式への各市民の出席は、極めて必要な事で、故意に出席しないものは、笞刑に處せられ、または奴隷として賣られた程であつた。これに缺席するのは市民權の喪失となるのである。古い日本に於ても、社會の各員は、式に出席する事を以て責任とされて居た。併し私はその折に人名登簿が爲されたかどうかまだ知らない。恐らくそれは不用な事であつたらう、日本の個人は官廰の方からは認められなかつたのであるから。家族の一團のみが責任を有したので、その家の各個の出席は、家の一團の責任に依つてきめられた事であらうと思はれる。人型を用ふる事――それに禮拜者の名を記さず、只だその男女孰れかと年齡とをのみ記す――は恐らく近代的の事で支那起原の事であらうと思ふ。官廳の登簿なるものは極古い時代にもあつた、併しそれは御祓ひとは何等特別な關係はなかったらしい。そしてその登簿なるものは、神道でもつて居たのではなく、佛教の教區の僧に依つて保存して居たらしい……。御祓ひについての、これ等の意見を終るにあたつて、私は偶然に宗教上の汚れを招いた場合、竝びに或る一人が公共の祭祀の規則に關して罪を犯したと判斷された場合には、特別な儀典がそのために爲されたのは言ふまでもない事てある事を一言する。

[やぶちゃん注:「各市民」は底本では「各 民」と植字が落ちている。原文は“The attendance of every citizen at the ceremony”なので「市民」とした。平井氏も『市民』である。

「その登簿なるものは、神道でもつて居たのではなく、佛教の教區の僧に依つて保存して居た」檀信徒の名簿となる過去帳、及び、切支丹や日蓮宗の不受不施派を取り締るために江戸幕府が強制していた宗門改帳を指している。]

明恵上人夢記 58

 

58

一、同二月廿七日の夜、夢に云はく、上師、賀茂に於いて、一帖の紙上をふまへて、墨を以て之に點ず。神主、傍に在りて之を見る。卽ち、兩人共に相(あひ)談話すと云々。案じて云はく、釋迦・明神と云々。

 

[やぶちゃん注:前の「57」を建保七(一二一九)年と推定したので、これも同年二月二十七日と採っておく。

「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたことになる。

「賀茂」既に注した通り、賀茂別雷神社の後背地の塔尾の麓に賀茂別雷神社の神主松下能久が建てて明恵に施与した僧坊がある。ここはそこであろう。

「神主」松下能久と採る。

「ふまへて」「強く押さえて」と採る。

「墨を以て之に點ず」限り無く濃い墨の一点を真っ白な紙にただ一つ確かに打った。これは永遠の時空間のシンボルと私は採る。だからこそ、そこに居合わせた二人が真の実在を示すところの神仏と認識されるのである。これはそういう意味では、前の「56」と強い確信の連関を有しているように思われる。]

□やぶちゃん現代語訳

58

 同年二月二十七日の夜、こんな夢を見た。

 

 上師上覚房さまが、賀茂の僧坊に於いて、一帖の大きな紙を広げられてそれを強く押さえておいて、墨を以ってこれに、

――タン!

と一点を打たれた。

 神主の松下能久さまが、その傍らに在られて、これを凝っと見ておられる。

 と、その直後、御両人ともに、互いを正視せられ、徐(おもむろ)にお互いに何かを談話なさっている……。

 夢の中で、その時、私は思った。

『――これは――上覚房さまと能久さま――ではない。……御釈迦様と大明神様なのだ――』と……。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇

 

     一〇

 

 椀貸の穴が水に接すれば龍宮と云ひ乙姫と云ひ、野中山陰に在るときは隱里と云ひ隱れ座頭と云つたのは、自分には格別の不一致とも思はれぬ。龍宮も隱里もともに富貴自在の安樂國であつて、容易く人間の到り得ぬ境であつた。浮世の貧苦に惱む者の夢に見うゝつに憧れたのは、出來る事なら立ち歸りにでも一寸訪問し、何か貰つて歸つて樂しみたいと云ふに在つたこと、兩處共に同樣である。否寧ろ龍宮は水中に在る一種の隱里に外ならぬ。話が長くなつたが此事を今些し言はうと思ふ。

 三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石と云ふ石は亦昔膳椀を貸したさうである。人の惡い者が返さなかつた爲に中止となつたこと例の通りである。鸚鵡石は人の言語を答へ返す故に起つた名で、是又國々に多い話であるが、椀を貸したのは爰だけかと思ふ。人のよく知る鸚鵡石は伊藤東涯翁の隨筆で有名になつた伊勢度會郡市之瀨の石であるが、此附近にも尚二三の同名の石があつた外に、江州の蒲生郡、越前敦賀の常宮浦、東國では伊豆の丹那村、武州御嶽の山中等にもあり、飛彈の高原郷で鳴石、信州伊那の市之瀨同じ更級の姨捨山で木魂石(こだまいし)、福島縣白河附近の小田倉村でヨバリ石、さては南津輕の相澤村でホイホイ石、西部にあつては、土佐の穴内の物言石、備後安藝山村に多い呼石の類、或は言葉石と云ひ答へ石と云ひ、又は三聲返しの石と云ふが如きも皆同じ物である。元は恐らく反響をコダマ卽ち木の精と信じた如く、人の口眞似するのを鬼神の所爲としたのであらうが、其はあまり普通の事と分つてから後は、いやコダマではなく返事をするのだとか、又は一度呼べば三度呼び返すとかいつて、強ひて不思議を保持せんとして居る。甚しきに至つては和漢三才圖會に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石、八月二十七日の祭の日に限り、人がこれに向つて「物もう」と言へば「どうれ」と應へるなどゝいつて、醴酒と芒の穗を供へたとさへも傳へて居る。

[やぶちゃん注:「三河の渥美半島福江町の附近、山田の鸚鵡石」現在の愛知県田原市福江町ではなく、その東方の愛知県田原市伊川津町(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう。サイト「おでかけトヨタ」のこちらに『愛知県伊川津の山中にある岩石』とし、『岩が音を反響させる様子がおうむの人まねに似ていることから名づけられ』たもので、高さ・幅ともに約十五メートルほどあるという。『昔、この地方の郡司であった渥美大夫重国の娘玉栄(たまえ)には婚約者がい』たが、『婚約者の心が次第に離れてしまい』、『玉栄には憎しみの気持ちが芽生え』、『やがて』、『玉栄は母の形見の唐竹でできた横笛とともに岸上から投身自殺を図り、それ以来』、『この岩は笛の音だけは反響しないという昔からの言い伝えがあ』るとする。また、サイト「東三河を歩こう」の「鸚鵡石(おうむせき) 愛知県田原市伊川津町鸚鵡石」では画像で当地が見られる。

「伊藤東涯」(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は江戸中期の儒学者。名は長胤(ながつぐ)、東涯は号。知られた儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂二代目。古義学興隆の基礎を築き、父仁斎の遺した著書の編集・刊行に務め、自らも「訓幼字義」などを刊行した。中国語・中国制度史・儒教史などの基礎的な分野の研究にも力を入れ、また、新井白石・荻生徂徠らとも親交が深かった。彼の随筆は「秉燭譚」が知られるが、ざっと見たところでは見当たらない。発見し次第、追加する。

「伊勢度會郡市之瀨の石」現在の志摩市磯部町恵利原にある鸚鵡石(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう(ここは旧度会郡域である)。「伊勢志摩きらり千選」のこちらこちらで詳しく説明されてある。

「越前敦賀の常宮浦」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「飛彈の高原郷」岐阜県北西部。現在の飛騨市神岡町・高山市上宝町・奥飛騨温泉郷附近に該当する。

「信州伊那の市之瀨」現在の長野県伊那市長谷市野瀬(はせいちのせ)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「福島縣白河附近の小田倉村」福島県西白河郡西郷村小田倉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南津輕の相澤村」青森県浪岡町大字相沢か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「土佐の穴内」高知県安芸市穴内(あなない)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「和漢三才圖會に、會津若松城内の鎭守諏訪明神の神石……」「卷第六十五」の「陸奥」にある以下。原本より訓読して引く。一部読みを歴史的仮名遣で補った。但し、「ものも(う)」のルビは原典のママ。【 】は割注。

   *

諏訪大明神 會津若松に在り【城内の鎭守と爲す。】

祭神 健御名鋒命(たけみなかたのみこと)【大巳貴(おほむなちの)命の子(みこ)。信州の諏訪と同じ。】

社の傍(かたはら)に神石有り。髙さ六尺、幅三尺許(ばかり)。籬(いかき)をを以つて之を圍ふ。八月二十七日、祭の日に限り、人、之れに向(むかひ)て、「物申(ものも)う」と謂へば、石、答へて、「誰(どれ)」と曰(い)ふの音、有り。此の日、醴酒(あまざけ)に芒(すゝき)の穗(ほ)を挿(はさ)んで、之れに供す。

   *]

 其鸚鵡石がさらに進んで膳椀借用の取次までもしたと云ふのである。是などは多分他の家具の岩屋などゝは異なり、地下にも水底にも通ずる穴が無かつたであらうから、コロボツクルとも土蜘蛛とも説明はし難かろうと思ふ。白山遊覽圖記に引用した異考記と云ふ書に、今より六百八十何年前の寛喜二年に、六月雪降りて七日消えず、國中大凶作となつた時、白山の祝(はふり)卜部良暢、窮民を救はんがために山に上つて斷食し、幣を寶藏石と云ふ岩に捧げて禱ること三日、忽ち白衣玉帶の神人現れ、笏をもつてその石を叩けば石門洞然と開いて、内は丹楹碧砌の美しい宮殿であつた。其時一條の白氣其中より出でゝ麓の方に靡き、村々の竹林悉く實を結んで餓ゑたる民、食を繋ぐことを得た云々。亞刺比亞夜譚の隱里の物語と、日を同じくして談ずべき奇異である。之に就いて更に考へるのは、上州利根の奧で食器を貸したと云ふ龍宮の出張所が、其名を吹割瀧と呼ばれたことである。是は亦水で造つた仙俗二界の堺の塀であつたのが、時あつて二つに開くことあるべきを意味したものであらう。廣島縣山縣郡都志見の龍水山に、駒ケ瀧一名觀音瀧と稱して高さ十二丈幅三丈の大瀧あり、其後は岩窟で觀音の石像が安置してあつた。始め瀑布の前に立つ時は水散じて雨の如く、近づくことは出來ぬが、暫くして風立ち水簾轉ずれは、隨意に奧に入り佛を拜し得る、之を山靈の所爲として居たさうである。日光の裏見の瀧などは十餘年前の水害の時迄は、水後にちやんと徑があつたが、又以前は此類であつたらう。美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧も、自分は嘗て往つて見たが、同じく亦水の簾が深く垂れ籠めてあつた。これを繪本西遊記風に誇張すれば、やがて又有緣の少數者にのみ許された隱里に他ならぬ。現に今昔物語の中の飛彈の別天地などは、浮世の勇士を賴んで猿神を退治して貰ふ程のしがない桃源ではあつたが、やはり導く者あつて跳つて入らねば、突破ることのできない程の瀧の障壁が構へられて居たのである。

[やぶちゃん注:「白山遊覽圖記」「しらやまゆうらんずき」と読む。文政一二(一八二九)年序・金(子)有斐(仲豹)撰になる加賀白山の紀行地誌。「国文学研究資料館」のこちらの画像で全篇が読める(但し、漢文白文。ADSLで表示に時間がかかるので引用箇所の探索は諦めた。ご自分でお探しあれ。悪しからず)。

「異考記」不詳。

「寛喜二年」一二三〇年。

「卜部良暢」不詳。読みは「うらべよしのぶ」或いは「うらべりょうちょう」(現代仮名遣)。

「丹楹碧砌」「たんえいへきぜい」。朱塗の柱と緑玉で出来た石畳。

「亞刺比亞夜譚」「アラビアンナイト」。

「上州利根の奧で食器を貸したと云ふ龍宮の出張所が、其名を吹割瀧と呼ばれた」既出既注

「廣島縣山縣郡都志見の龍水山」ちくま文庫版全集でも『竜水山』となっているが、これは現在の広島県山県郡北広島町中原龍頭山(りゅうずやま)の誤りではなかろうか? ここ(グーグル・マップ・データ)。北広島町都志見(つしみ)の北境界外直近がピークである。

「高さ十二丈幅三丈」高さ三十六・三六メートル、幅九メートル十センチほど。

「美濃長良川の水源地にある阿彌陀の瀧」岐阜県郡上市白鳥町(しろとりちょう)(前谷まえだに)にある阿弥陀ヶ滝(あみだがたき)。(グーグル・マップ・データ)。

「繪本西遊記」文化三(一八〇六)序~天保八(一八三七)年頃に最終刊行か。口木山人(西田 維則)訳。大原東野(とうや)/葛飾北斎ら絵。

「今昔物語の中の飛彈の別天地」「今昔物語集」の「卷第二十六」の「飛彈國猿神止生贄語第八」(「飛騨の國の猿神(さるかみ)、生贄(いけにへ)を止(とど)むる語(こと)第八)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。]

 此等の事柄を考へ合せて見ると、膳椀の貸借に岩穴あり塚の口の開いたのがあることを必要とし、中に人が居て出入を管理する筈と考へるやうになつたのは、或は信仰衰頽の後世心かも知れぬ。これを直ちに元和寛永の頃まで、その邊に姿を見せぬ蠻民がいた證據の如く見るのは、或は鳥居氏の御短慮であつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「元和寛永」一六一五年から一六四五年。

「後世心」「ごしやうごころ(ごしょうごころ)」。後生の安楽を願う心。来世の安楽の種になるような功徳(くどく)をしたいと思う気持ち。「後生気(ごしょうき)」とも言う。ここは要は信仰が廃れた結果として後世(ごぜ)だけでなく、専ら現世でも悪影響が及ぶことを恐れた人心の謂いであろう。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸂𪄪(おほをしどり)〔オシドリの大型雌雄個体か〕

Ooosidori

大をしとり 紫鴛鴦

      溪鴨

𪄪

 

キイ チヨツ

 

本綱鸂𪄪狀大于鴛鴦而色多紫人家畜之毛有五采首

有纓尾有毛如船柁形性尋邪而逐害此鳥專食短狐乃

溪中勑逐害物者其游于溪也左雄右雌羣伍不亂似有

式度者

△按鸂𪄪【鴛鴦之類大者】未見之

 

 

大〔(おほ)〕をしどり 紫鴛鴦

           溪鴨〔(けいあう)〕

𪄪

 

キイ チヨツ

 

「本綱」、鸂𪄪の狀、鴛鴦〔(をしどり)〕より大にして、色、多〔くは〕紫。人家、之れを畜ふ。毛に五采有り、首に纓〔(えい)〕有り。尾に、毛、有りて、船の柁〔(かぢ)〕の形のごとし。性、邪〔(よこしま)なる〕を尋ねて害を逐ふ。此の鳥、專ら、短狐〔(いさごむし)〕を食ふ。乃〔(すなは)ち〕、溪中〔にて〕物を害する者を勑〔(いまし)め〕逐ふ〔ものなり〕。其の溪〔(たに)〕に游〔する〕ことや、左は雄、右は雌。羣伍〔して〕亂れず、式度〔(しきど)〕有る者に似たり。

△按ずるに、鸂𪄪【鴛鴦の類の大なる者。】未だ之れを見ず。

 

[やぶちゃん注:これは良安も見たことがないと言っており、辞書類でも「鸂𪄪(けいちょく)」はオシドリ(鴛鴦)よりも、やや大型で雌雄の仲睦まじいとされる、紫がかった色を訂した水鳥とあるばかりで、特に現代中国でも特定種を指示していないようであるから、鳥綱 Avesカモ目  Anseriformes カモ科 Anatidae オシドリ属オシドリ Aix galericulata の大型の雌雄個体と採るしかないようである。附図もオシドリにしか私には見えない。

 

「纓〔(えい)〕」冠の後ろに突き出ている巾子(こじ)の根元を締めた紐の余りを背に垂れ下げたもの。東洋文庫訳では『くびげ』とルビする。腑に落ちる。

「短狐〔(いさごむし)〕」蜮(こく)。想像上の動物で、形は亀に似て三足を有し、水中に住んで、砂を含んでは、それを人に吹きかけて害を与えるという有毒虫。「射工」「射影」などとも称した。私は種々の人体寄生虫症、卵や幼虫・成虫の経口感染のみならず、皮膚から直接侵入するタイプのフィラリア症及び日和見感染でも重篤な症状を引き起こす他生物の寄生虫の感染症などを含むものと推理している。私の和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蜮(いさごむし) 附 鬼彈を参照されたい。

「羣伍」整然と並び連なって群れること。

「式度」法式や節度。]

譚海 卷之二 勢州豬を狩幷獵法事

勢州豬を狩幷獵法事

○勢州下村といふ邊(あたり)、山中に田畑多し、猪(ゐの)しゝ・鹿(しし)など、麥(むぎ)くふを追ふとて、里の子、犬をひきて山へゆく事也。鹿は人に怖れてにげ去れども、猪はいかりもがきてをり、人におそるゝ事なし。犬二疋ばかりにて驅(かく)れば、犬にたしなめられて、猪、うろたへる所を、獵師、鐡炮にて打(うち)て取る事也。

[やぶちゃん注:標題は「勢州、豬(ゐのしし)を狩(かる)、幷びに、獵法の事」と読む。

「勢州下村」三重県伊勢市矢持町下村か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

甲子夜話卷之四 4-24 鎗の鞘の説

 

4-24 鎗の鞘の説

鎗は古代は皆ぬき身なり。今用る鞘の始め不詳。或人曰。其始は油紙にて包たるなるべし。今、井伊家の黃革の鞘、本多中書の油革の鞘など中結をせし製、乃油紙にて包たる時の形歟と。いかさま御開創の舊家なれば然るべし。

■やぶちゃんの呟き

 当時の鎗は既に木製の鞘(布や革で覆われていることが多い)や革製の鞘で、一部には金属が使われてもいた(刃先の差入口や鞘の先(鐺:こじり)の部分は損傷し易いため、金属で補強された(ウィキの「鞘」に拠る)。

「不詳」「つまびらかならず」。

「包たる」「つつみたる」。

「井伊家」家康の功臣で「徳川四天王」の一人で、井伊家を再興した上野国高崎藩初代藩主・近江国佐和山藩(彦根藩)初代藩主井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)は槍の名手でもあり、ウィキの「井伊直政によれば、天正一二(一五八四)年の『小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備え』(あかぞなえ:戦国から江戸にかけて行われた軍団編成の一種で、主に構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を赤や朱を主体とした色彩で整えた編成集団を指す)『を率いて武功を挙げ、名を知られるようになる。また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた』とある。

「本多中書」同じく家康の功臣で「徳川四天王」の一人として槍の名手でもあった、上総大多喜藩初代藩主・伊勢桑名藩初代藩主本多忠勝(ほんだただかつ 天文一七(一五四八)年~慶長一五(一六一〇)年)。彼の官位は従五位下・中務大輔で中務省の唐名は中書省。彼の戒名も西岸寺殿前中書長誉良信大居士である。

「製」「つくり」と訓じていよう。

「乃」「すなはち」。

「油紙にて包たる時の形歟と」以上から、「井伊家の黃革の鞘」や「本多中書の油革の鞘など」「中結をせし」というのは、鞘が木製であるにも拘わらず、黄色の皮で表面を蔽ったり、油革で蔽った上に中結びを施した(或いは描いた)鞘はその名残なのではないか? という意味であろうか。それらの鞘を現認出来ないのでなんとも言えぬ。識者の御教授を乞う。

 

2018/02/18

進化論講話 丘淺次郎 第十章 發生學上の事實(2) 二 退化せる動物の發生

 

     二 退化せる動物の發生

 

Nauplius

[甲殼類の幼蟲]

Hujitubo

[ふぢつぼ]

[やぶちゃん注:二枚とも講談社学術文庫版をトリミングした。前者は所謂、甲殻類に共通した最も初期の幼生ノープリウス幼生(Nauplius)である。]

 

 所謂退化の現象に就いては既に第八章に述べたが、斯かる退化した動物の發生を研究して見ると、また極めて面白いことがある。先づ前に例に擧げた「ふぢつぼ」に就いてその發生の有樣を見るに、卵から出たばかりの子は、上の圖に示す如く三對の足を具へて活潑に海水中を泳ぎ廻つて、聊もその親に似た處はない。「ふぢつぼ」は前にもいうた通り、蝦・蟹等と同じく甲殼類といふ部類に屬するが、この類のものは總べて發生の初期には斯かる形を有し、他の動物の幼蟲とは直に識別することが出來る。蝦・蟹等の中でもこの時代を卵殼の内で經過し、孵化したときには、既に尚一步進んだ形態になつて居るものもあるが、大體この幼蟲から如何に變化して蝦・蟹等の生長した姿が出來るかといふに、この幼蟲は生長の進むに隨ひ、體の大きくなると同時に、初三對あつた足の後(うしろ)に新しい足が何對も出來て、最初水中を泳ぐ役を務めた足は、漸次働が變じ、第一對は二岐に分れた短い方の鬚となり、第二對は枝分かれせぬ長い方の鬚となり、第三對は物を嚙むための顎となつてしまひ、新に生じた方の足の中で幾對かが眞に後まで步行する足となる。「ふぢつぼ」の發生も最初はこの通りで、三對ある足の後に續々新しい足が生じ、暫くの間は海水の中を泳いで廻るが、やがて岩の表面・棒杭等に頭の方で附著し、周圍には石灰質の介殼を分泌して、終に生長した「ふぢつぼ」の形となつてしまふ。而して數對あつた足は孰れも役目が變り、たゞ海水を口の方へ跳ね送り、その中に浮べる微細の藻類等を口に達せしめる働きを務めるやうになるが、働が變れば形も之に應ずるやうに變ぜざるを得ぬ譯故、この類の足は蟹や蝦の步くための足と違ひ、恰も「ぜんまい」か葡萄の蔓の如くに見える。「ふぢつぼ」の生きて居るのを海水の中に飼ふて見て居ると、介殼の口の如き處から絶えずこの足を澤山に出したり入れたりし續けて休むことはない。その動く具合から考へると、多分呼吸器の役をも兼ね務めるらしく思はれる。

[やぶちゃん注:『前に例に擧げた「ふぢつぼ」』「第八章 自然淘汰(4) 四 所謂退化」を参照されたい。「生物學講話 丘淺次郎 一 止まつて待つもの」も楽しい。]

 斯くの如く出來上つてしまへば、「ふぢつぼ」は殆ど牡蠣や蛇貝の如き固著した介殼と紛らわしい位なものになるが、その發生の初めには足もあり、目もあつて、餌を追ひ敵を避けて、活溌に運動する有樣は、到底親の及ぶ所ではない。所謂退化した動物は總べてこの通りで、發生の初め或は途中の方が、生長したときより遙に高等の體制を示すものである。退化したといはれる動物は大抵固著の生活を營むもの、或は他の動物に寄生するもの等であるから、かやうな動物の發生を調べると、幾つでもここに述ベた如き事實を見出すことが出來るが、その中でも最も甚だしいのは、甲殼類の中で寄生生活をなす類である。

[やぶちゃん注:「蛇貝」狭義には、軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科に属する巻貝 Serpulorbis 属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus などを指すが、一般的な認識の中では、形状からは、同目ミミズガイ科に属する巻貝ミミズガイ Siliquaria (Agathirses) cumingi なども「ヘビガイ」と通称される範囲に含まれるであろう。オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus は北海道南部以南を生息域とし、沿岸の岩礁などに群生する。螺管が太く一二~一五ミリメートルに達し、最初は右巻きであるが、後は不規則に巻いて他物に固着する。和名は恰も蛇がとぐろを巻いているように見えることがあることに由来する。表面は淡褐色で、結節のある螺状脈と成長脈を持つ。殻口は円形を成し、口内は白色で蓋はなく、潮が満ちて来ると、蜘蛛のように殻口から粘液糸を伸ばして有機性浮遊物を捕捉・摂餌する。一方、ミミズガイ Siliquaria (Agathirses) cumingi はオオヘビガイよりも遙かに小さく、螺管は六~七ミリメートル以上には太くならず、初めは徐々に増大して小さく巻き込むが、その後方は巻き方が大きくなり、幾分、曲った直管になる。螺管自体は巻くものの、密着することはなく、従って、層を形成しない。縦の螺脈の成長襞も不規則である。蓋は角質の円形で、厚く縁取られており、中央は折り畳み状に螺旋している。多くは海綿の体内に棲息し、しばしば微少貝類に交じって打ち上がったものを採取することが出来る(以上の貝類学的記載は主に保育社昭和三四(一九五九)年刊の吉良哲明「原色日本貝類図鑑」に拠った)。]

 

Uokiseikoukakurui

[魚に寄生する甲殻類]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版をトリミングした。私は実は海棲のこうした寄生性生物はかなりの守備範囲と自負はしているのだが、ここに示された二種の寄生虫は、なかなか同定が難しい。それでも試みる。

 まず、右のそれはその特徴的形状から推して、高い確率で節足動物門甲殻亜門顎脚綱カイアシ亜綱新カイアシ下綱後脚上目シフォノストム目 Siphonostomatoidaヒジキムシ(ペンネラ)科 Pennellidae ウオノカンザシ属ホシノノカンザシ Cardiodectes asper か、或いは同じヒジキムシ(ペンネラ)科のメダマイカリムシ属Phrixocephalus の一種ではないかと考える。上の部分が頭部の突起で根状を成し、中央にあるのが胴部、下に伸びる二つのコイル状のものは卵囊である。

 次に左のそれであるが、下部はやはり卵囊と思われ、ここのそれは、まさにヒジキによく似ているから、やはりヒジキムシ(ペンネラ)科 Pennellidae の一種で、頭部が少しシンプルであること、卵囊の先にある翼状体が不審であるが、幾つかの画像と比べて見ると、イカリムシモドキ(レルナエエニクス)属Lernaeenicus の一種ではないかと私は推測する。]

 

 抑々甲殼類の身體は前後に列んだ多數の節より成り、これより生ぜる數多の足にはまた幾つもの關節があり、一對の眼と二對の鬚とを具へ、運動は活潑で、感覺も鋭敏な方故、無脊椎動物の中では餘程高等なものである。然るにこの類の中でも他の動物に寄生する種類になると、實に非常な退化の仕樣で、眼は勿論足も全くなくなり、體の節の境まで消えて、一寸見ては甲殼類か否か解らぬのみならず、一疋の動物であるか否か知れぬ位になつてしまふ。ここに圖を掲げたのはその二三の例であるが、その右圖は鯒(こち)・鰈(かれひ)等の眼に屢々附著して居るもので、その形は恰も小い[やぶちゃん注:「ちひさい」。]碗豆に二本の撚絲[やぶちゃん注:「ねりいと」。]を附けた如くに見える。その左圖の方も、同じく他の大形の魚類の皮膚に附著して居るものであるが、これはまた鳥の羽毛一本と殆ど同じやうな形を呈して居る。孰れも甲殼類に屬するものであるが、斯く生長し終つたときには、甲殼類の特徴ともいふべき點は一つも見えぬ。また次頁の圖に示したのは、蟹類の胸と腹との境の處に時々附著して居る寄生物であるが、單に團子の如きもので、眼・鼻は固より足もなければ尾もなく、背と腹との區別もなく、どちらが前やらどちらが後やらも解らぬ。たゞ一箇處で蟹の體に附著して居るが、この處から蟹の體内へ探つて行くとこの動物の身體の續きは恰も植物の根の如くに屢々分岐し、各々細く長く延びて蟹の全身に行き渡り、足の爪から鋏(はさみ)の先までに達し、到る處で蟹の血液から滋養分を吸ひ取つて生活して居る。これらに至つては誰に見せても、之が甲殼類であらうといふ判斷は出來ぬ。然るにこれらの動物の發生を調べると、孰れも卵から出たばかりには數對の足を有し、頭の前端には目を具へ、自由白在に水中を游泳して、その時の有樣は「ふぢつぼ」・蝦・蟹等の幼蟲と殆ど同様である。たゞ生長が稍々進んで他の動物の身體に寄生し始めると、忽ち形狀が變化し、今まであつた運動・感覺の器官は追々無くなり、寄生生活に必要な部分のみが發達して終に斯くの如きものになつてしまふのである。今日、分類上これらの動物を甲殼類の中に編入してあるのも、畢竟かやうな發生を調べた結果で、まだ發生の模樣の解らぬ頃には、皆誤つて他の部類に入れてあつたのを、一旦發生を研究して見ると、その獨立生活をなし居る幼蟲時代には如何しても蝦・蟹類の幼蟲と分離することが出來ぬから斯く改めたのである。

 

Hukuromusi

[蟹に寄生する甲殼類

右圖の「寄」は寄生蟲 左圖は寄生蟲のみ取離したもの]

[やぶちゃん注:ここでは指示線入りのキャプションがあるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して示した。

 この蟹の寄生虫は顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱根頭上目Rhizocephala のケントロゴン目 Kentrogonida 及びアケントロゴン目 Akentrogonida に属する他の甲殻類に寄生する寄生性甲殻類であるフクロムシ類である。本邦での分類学的研究は昭和一八(一九四三)年以降、殆んど行われていないが、ここで丘先生が挙げておられるのは、日本固有種で主にイワガニ類に寄生するケントロゴン目フクロムシ科ウンモンフクロムシ Sacculina confragosa と考えてよいと思う。何故なら、丘先生が「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 二 消化器の退化」でこれを挙げておられ、そこで示しておられる種と、私は基本的に同一のものと判断されるからである。なお、これは、多くの人は卵を持った蟹と誤認しているケースが多いと思われる(何故なら、その付着部位や見た目の形状・色彩が個体によって蟹の抱卵する卵塊と酷似する場合があるからである)。西村三郎「原色検索日本海岸動物図鑑[]」(保育社)の記載によれば、空豆形で、個体によって白・黄・茶色などの多彩な色を持つ。柄は短く、外套口(丘先生の左図の瓶の口のような上部)は中央にあり、突出する。表面には棘を欠き、一面に波模様の隆起を持つ。周囲も波形に縁どられている。大きさは宿主の腹部の大きさによって変化し、長径五ミリメートルから三センチメートル前後と幅がある。複数個体が附く場合も稀ではない。本文の記載を読んだ方は気がつかないだろうか?――私は最初に映画の「エイリアン」を見た時――あの幼虫期の寄生性のエイリアンの寄生形態は、このフクロムシがヒントだな、と思ったものである。]

 

 以上二三の例によつても解る通り、固著生活・寄生生活等を營む所謂退化せる動物の發生を見ると、皆初は獨立の生活をなし、運動・感覺の器官をも具へて居て、然もその頃の形狀は他の終生運動して獨立の生活を營む動物の幼時と、殆ど寸分も違はぬ程に似て居ることが甚だ多いが、この現象は生物種屬不變の説から見れば眞に譯の解らぬことである。芝蝦も「ふぢつぼ」も蟹の腹に附著して居る團子も、卵から出たときには、皆揃つて三對の足を有し、額の中央に眼を具へて、水中を泳ぎ廻ることは、若しこれらの動物が互に初から緣のないものとしたならば、單に不思議といふに止まるが、共同の先祖より進化し降つたものと見倣せば、斯く發生の途中に同一の性質の現れるのも無理でないと思はれ、漠然ながらその理由を察することが出來る。

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 「春色秋光」

 

    「春色秋光」

 

 「はてしらずの記」を草した後、少しの間居士は『日本』紙上に沈黙を守っていたが、十月九日から地風升の名を以て「春色秋光」を連載、二十八日十回を以て了った。春と秋との比較を種々の点から論じたもので、漢詩、和歌、俳句をほじめ、西洋文学の一端にも及んでいる。春といえば直(ただち)に愉快、活潑(かっぱつ)、隆盛、生成、綺麗、繁華などを聯感(れんかん)し、秋といえば直に悲哀、沈衰、零落、殺伐、雅潔(がけつ)、寂寞(せきばく)などを聯感するようになっているけれども、こういう感情は太古より一般に有し来ったものでなく、後世に至って次第に発達したもので、「支那にては唐朝以後に盛んに、我邦にては『古今集』以後に盛んなるが如し」といい、「試みに唐以前の詩歌、『古今』以前の國詩を繙(ひもとき)て見よ。春光の熙々(きき)たるを喜ぶ者多かれど、秋色の凋落を悲む者は少し。秋色の凋落を悲まざるのみならず、秋光を喜ぶこと春色に等しきもの亦少からず。唐以後『古今』以後は春色を愛するも其熙々雍々(ようよう)の處を愛するに非ずして濃艷華麗の處を愛するなり、秋光を悲むも一陰漸く現れて濃艷褪(たい)し華麗休むを悲むに非ずして金氣(きんき)肅殺(しゆくさつ)木摧(くだ)け消ゆるの極處を悲むなり」といったのは傾聴すべき言である。殊に『古今集』の「世の中に絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」を以て愉快の極を反言したるもの、「月見れば千々にものこそかなしけれわが身一つの秋にはあらねど」を以て悲哀の極を直叙したるものとし、

[やぶちゃん注:以上の引用文は、原典に当たることが出来ないため、「子規居士」原本(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)によって正字化した。但し、鍵括弧はあった方が読み易いので、底本のママとした。また「艷」は「艶」かどうかを拡大しても判らなかったので、正字で表記した。読みも原本にはないが、底本に従って歴史的仮名遣で一部を挿入しておいた。

「雅潔(がけつ)」目にしない熟語であるが、現代中国語では存在し、「質素で奥ゆかしいこと」の意である。それでよかろう。

「熙々」広がっていて如何にも和らいでいて楽しめる感じ。

「雍々」落ち着いていて和らぐさま。

「金氣」秋の気配。五行説では「金」が秋に当たる。

「肅殺」秋の気が草木を枯らすことを謂う。

「極處」底本はルビを振らぬから、「きよくしよ(きょくしょ)」と読むのであろう。

「世の中に絶えて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし」「古今和歌集」の「巻第一 春歌上」(五三番歌)の在原業平の著名な一首。『渚(なぎさ)の院にて櫻を見てよめる』の前書を持つ。

「月見れば千々にものこそかなしけれわが身一つの秋にはあらねど」「百人一首」の二十三番に採られている、「古今和歌集」の「巻第四 秋歌上」(一九三番歌)の大江千里の著名な一首、「古今集」では『是貞のみこの家の歌合(うたあはせ)によめる』の前書を持つ。

 以下は、底本では全体が二字下げである。前後を一行空けた。同前の仕儀で訂した。]

 

これを『万葉集』中の春を喜び秋を悲むの歌に比すれば甚だその差あるを見ん。『万葉』の歌に

 いはばしる垂水の上の早蕨(さわらび)のもえいづる春になりにけるかも

 けさのあさけかりがね聞きつ春日山もみぢにけらし我心いたし

春光は和氣洋々、秋色は西風寂寞、敢て『古今集』の一は雀躍し一は悲泣するが如く甚しからざるなり。

 

と道破したのは、簡単ながら詩歌の妙諦に触れている。この時代における居士の歌に対する意見は、後年の如く確立していなかったかも知れぬが、この春色秋光に対する『万葉』『古今』の比較を見れば、後の歌論の萌芽と認むべきものは已に存在しているように思う。

[やぶちゃん注:「いはばしる垂水の上の早蕨(さわらび)のもえいづる春になりにけるかも」「万葉集」の「巻第八」巻頭(「春の雜歌(ざうか)」)を飾る、志貴皇子(しきのみこ)の一首(一四一八番)。『志貴皇子の懽(よろこび)の御歌(みうた)一首』の前書を持つ。

「けさのあさけかりがね聞きつ春日山もみぢにけらし我心いたし」同じく「万葉集」の「巻第八」の、「秋の雜歌」に載る、『穂積皇子(ほづみのみこ)の御歌二首』の前書を持つ第一首目(一五一三番)。詠み易く整序すると、

 今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)聞きつ春日山(かすがやま)黃葉(もみぢ)にけらしわが情痛(こころいた)し

である。]

 

 「春色秋光」における春秋の比較は、かなり多方面にわたっているにかかわらず、俳句の引例が甚だ少く、むしろ他の足らざるところを補う程度に止っているのは、俳句が季節を生命とする詩である関係上、殊更にこれを避けたものであろう。ただ「近者(きんしや)古俳句を取(とり)てこれを四季に分類し見たる結果は、春季の句最も多く秋季之に次ぎ夏季之に次ぎ冬季之に次ぐ事を發見したり。其比例は概略春八、秋六、夏五半、冬五位なるべし」といったのは、俳句分類の経験より得来った実際の言として注目に値する。居士はまた西洋人を評して「人事の刺激を受くる事多きが爲に天然界の觀察精細ならず」といい、彼らの大多数が艶麗なる春色を愛して冷淡なる秋光を愛せざる理由をそこに帰し、一転して「秋光を愛すとは秋光を悲む事につきて愉快を感ずるなり。卽ち秋光のあはれを愛するなり。快を快とするは則ち普通なり。哀を快とするに至りては則ち普通ならず」と論じ、「快を快とするの快と哀を快とするの快と快の種類を異にす。故に敢て秋光を以て春色に勝れりとは言はず。然れども春を愛するを知(しり)て秋を愛するを知らざるは其趣味に於て未だ發達せざる所ありと明言するを憚らざるなり。而して此の一事に於ては西洋よりも東洋の早く發達したるを見る」と断言している。書物や他人の訳によって意見を立てず、どこまでも自己の見解を以て進む居士の態度は已にこの頃から顕著になっているように思う。「春色秋光」の看過すべからざる所以は、主としてこの点にある。

 

北條九代記 卷第十二 金澤家譜 付 文庫

 

      金澤家譜  文庫

 

同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる。基時は、是(これ)、相摸守重時には曾孫たり。彈正少弼業時には孫にて、新別當(しんべつたう)時兼が嫡男なり。貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり。後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す。後に稱名寺とぞ號しける。その子越後守顯時より、金澤を家號とし、稱名寺の内に文庫を立てて、和漢の群書を集められ、内外兩典、諸史、百家、醫、陰(おん)、神(しん)、歌(か)、世にある程の書典には、殘る所なし。金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり。讀書講學望(のぞ)みある輩は、貴賤道俗、立籠(たちこも)りて、學文(がくもん)を勤めたり。金澤の學校とて、舊跡、今も殘りけり。越後守顯時は、文武の學を嗜みて、書典の癖(へき)とぞなりにける。その子、貞顯、本(もと)より、學業の勤(つとめ)、怠らず。作文、詩章には、當時に名を得し人なりければ、執權の職に居しても恥(はづか)しからずとぞ聞えける。

 

[やぶちゃん注:「同月二十八日、北條相摸守基時、同修理大夫貞顯、執権と成りて連署せらる」月日及び表現に誤まりと問題がある。非得宗の先の執権熈時が病没し、北条基時が第十三代執権(非得宗)となったのは、正和四(一三一五)年七月十一日で、言わずもがなであるが、基時が「執權」であり、その「連署」となったのが「貞顯」である。判り切っていても、表現がおかしいものはおかしいと言わねばなるまい。

「金澤家譜」底本では標題には「かなざはかふ」とルビするが、本来は「かなさは」が正統。北条氏の一族金澤(かねさわ)流北条氏のこと。「金澤」は鎌倉時代の武蔵国久良岐郡(くらきのこおり)六浦庄(むつうらのしょう)金沢郷(かねさはごう:現在の神奈川県横浜市金沢区)の地が家名の由来とされているが、通称として使われるのは南北朝以後のことである。第二代執権北条義時の五男北条実泰(初名は実義)から分かれ、家格は実泰の同母兄であった政村(義時の五男)の嫡系に次ぐもので、実泰の嫡男実時が政村の娘を、その子の貞顕が時村(政村の子)の娘を正室に迎えて姻戚関係を形成している。居館は、顕時が鎌倉赤橋邸を賜り、以後も使われ、菩提寺は「金澤文庫」のある真言律宗金沢山(きんたくさん)称名寺である。以下、参照したウィキの「北条 (金沢流)」より引くが、言葉で理解するより、系図で見るのが一発で理解出来るので、リンク先にある「系図」をまずは参照されたい。『始祖は実泰であるが、実泰は若くして出家しているため、家勢の基礎を形成した』金沢流二代目に当たる『実時が実質的初代ともされる。実時は北条氏の総領得宗家の庇護を受けて有力御家人となり、叔父にあたる政村の娘を正室に迎える』。第三代『顕時は、執権・北条時宗の死後に幕政を主導していた安達泰盛の娘婿』となっていたため、弘安八(一二八五)年、『得宗家被官の内管領・平頼綱の策謀で泰盛派が粛清される霜月騒動が起こると、事件に連座して失脚、出家して隠棲している』が、永仁元(一二九三)年に第九代得宗執権の『北条貞時が頼綱を滅ぼして得宗家主導の幕政を復活させ、失脚していた泰盛派を復権させ、顕時も幕政に復帰』している。第四代『貞顕は連署として北条高時政権を支え、一時的に第十五代執権に就任している(後注参照)。『学問の家柄としても知られる金沢氏は明経道』(みょうぎょうどう:律令制の大学寮に於いて儒学を研究教授した学科)の『清原氏の家説に学び、実時は隠居した後に別居した金沢郷に和漢書を収集し、金沢文庫の基礎を作』り、『六波羅探題として京都に赴任した貞顕も本格的に文献収集している』。『金沢氏の家名とされる六浦庄は、六浦郷、釜利谷郷、富岡郷、金沢郷から構成される』建保元(一二一三)年の和田合戦以降に『北条氏の所領となり、はじめは将軍家の関東御料で、金沢氏はその地頭職を勤めていたと考えられている。実政が鎮西探題として赴任』(文永一二・建治元(一二七五)年)『して以来は九州にも所領を持ち、幕府滅亡に際して鎮西探題が滅ぼされた後も、規矩高政』(きくたかまさ(北条高政) ?~建武元(一三三四)年七月?:父は金沢流で鎮西探題を務めた北条政顕(実政の子)であったが、鎌倉幕府最後の第十六代執権北条(赤橋)守時の弟で鎮西探題であった北条英時の養子となった。豊前国規矩郡 (現在の福岡県北九州市)を領したのでかく呼ばれる)『らが北九州を中心に北条残党を集めて抵抗している(規矩・糸田の乱)』。『初代・実義は将軍・源実朝を烏帽子親としてその一字を与えられたが、のちに得宗家の当主である長兄・泰時の一字を受けて「実泰」と改名している。以降も』第二代『実時が同じく泰時を』、第三代『顕時が時宗を』、第四代『貞顕が貞時を烏帽子親として一字を付与されていることから、北条氏一門の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられていた得宗家と赤橋流北条氏に対し、金沢流北条氏の当主は大仏流北条氏の当主とともに』、『それよりも一段階低い』、「得宗家を烏帽子親とする家系」と『位置づけられていたことが指摘されている』(下線やぶちゃん)。

「文庫」「金澤文庫」。北条実時が設けた日本最古の武家の文庫。当時の建築物は現存しない。ウィキの「金澤文庫」によれば、成立時期は実時が晩年に金沢の館で過ごした建治元(一二七五)年頃と推定されている。『北条実時は明経道の清原氏に漢籍訓読を学ぶ一方で嫡系の北条政村の影響で王朝文化にも親しんでいた文化人で、実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設』、『文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり』、『収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し』、『「善本」の収集に努めた。また、貞顕は菩提寺の称名寺を修造しているが、貞顕が文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書が残り、また貞時を金沢文庫創建者とする文書も見られることから、貞顕が文庫の再建を行っている可能性も指摘される。金沢氏を含め北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継』ぎ、『室町時代には上杉憲実が』一度、『再興して』はいるものの、その後、文庫施設そのものは廃滅、やはり称名寺』が資料の管理を行った。現在の「神奈川県立金沢文庫」はその資料を受け継いだ県立歴史博物館であって当時の文庫そのものではない。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺〔附金澤文庫の舊跡 御所が谷 金澤の八木〕」前後の本文と私の詳しい注を参照されたい。或いは、私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 金澤文庫」も、特に近世近代以降の視点から参考になるはずである。

「北條相摸守基時」(弘安九(一二八六)年~正慶二/元弘三年五月二十二日(一三三三年七月四日)は第十三代執権(非得宗:在職:正和四年七月十一日(一三一五年八月十一日)~正和五年七月九日(一三一六年七月二十八日))。「普恩寺(ふおんじ)基時」とも呼ぶ。ウィキの「北条基時」によれば、『父は普恩寺流の北条時兼』(北条義時三男の重時の子業時(なりとき)の子)で、『子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる』。正安三(一三〇一)年六月七日に『六波羅探題北方として上洛』、乾元二(一三〇三)年十月二十日、『六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り』、『評定衆に列する(評定衆になっていない』とする『説もある)』嘉元三(一三〇五)年八月二十二日に引付衆となり、延慶三(一三一〇)年には『信濃守護に任命された』。この時、執権として就任し』ているのは、煕時と彼が第七代執権(非得宗)『北条政村を曽祖父に持』ち、『血縁的にはとこの関係にあった』ことに拠るか。七日後の七月十九日を以って『正五位下相模守に転』じた。しかし既に何度も述べている通り、『幕政の実権は内管領の長崎高資に握られていた』。しかも、翌正和五(一三一六)年になると、早くも『得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ』、この年の七月九日に、僅か満十一歳の『北条高時に執権職を譲り』、十一月二十日に出家、『以後は一線から離れたようで』、『中央政界に活動の様子は無い』。元弘元(一三三一)年九月、『後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こると、北条高時が畿内の反幕勢力討伐に派遣した討手に加わっている』。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、北条貞顕や安房・上野・下野の御家人らと共に化粧坂の守備を務めた』。『基時はよく防衛したが』、五『日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため』、この合戦の二週間前、『近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した』。享年四十八歳で、辞世の歌は、

 待てしばし死出の山邊の旅の道同じく越えて浮世語らん

『であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる』とある。

「同修理大夫貞顯」北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)はここに出る通り、第十二代連署となり、そのままそれに続けて、第十四第執権高時が病気で職を辞したのを受けて、形の上で、たった十日間だけの第十五代執権(非得宗:在職:正中三年三月十六日(一三二六年四月十九日)~正中三年三月二十六日(一三二六年四月二十九日))となった。父は金沢流北条顕時(実時の子)。ウィキの「北条貞顕」によれば、『名の貞顕は北条貞時の「貞」と顕時の「顕」を組み合わせたものといわれる』。永仁二(一二九四)年十二月二十六日に『左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された』但し、『この官職は北条一門では低い』方『で庶子扱いであり、出仕が』十七『歳の時というのも遅いものである。これは』弘安八(一二八五)年十一月の『霜月騒動で父の顕時が連座して失脚(顕時の正室は安達泰盛の娘・安達千代野である)していたことが影響していたとされる』。永仁四(一二九六)年四月十二日に『従五位下に叙され』、直近の四月二十四日に『右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった』。五月十五日には『左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる』。正安二(一三〇〇)年十月一日には『従五位上に昇進し、これにより』、『霜月騒動以来の昇進の遅れを取り戻した』、正安三(一三〇一)年三月に『父が死去すると、北条貞時より』、『兄らを飛び越えて』、『嫡子に抜擢されて家督相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる』。正安四(一三〇二)年)七月、『六波羅探題南方に就任』し、その後、『中務大輔に転任』、嘉元元(一三〇三)年に『探題北方が北条基時から北条時範に交代すると、事実上の執権探題として京都の政務を仕切った』。『在京時代には叔父で鎮西探題であった北条実政が死去したため』、『金沢一門に訃報を伝えたり、後深草院の崩御により』、『時範と共に弔問に訪れたりして』、『後伏見上皇より勅語を授かったりしている。また多くの公家や僧侶と交遊して書写活動を行うなど』、『文化的活動を精力的に行なっている』(ここに「嘉元の乱」の際の話が載るが(貞顕の正室は北条時村の娘)、省略する)。延慶元(一三〇八)年十二月、『大仏貞房と交替して六波羅探題南方を辞任』、延慶二(一三〇九)年一月に『鎌倉へ帰還した』。延慶二(一三〇九)年一月二十一日の北条高時の元服の式では『御剣役(元服する者の傍で御剣を侍して控える役)を務めた』。『この役は北条一門の中でも要人が務めることが常であったため、貞顕は北条一門の中で重要な人物と見られていたことがわかる。その後』、三月には引付頭人三番に『任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して』三『ヶ月ほどの貞顕が』『兄の甘縄顕実(』七『番)より上位にあることは』、『貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている』。四月九日には『北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった』。延慶三(一三一〇)年二月十八日に引付衆の再編によって『貞顕は引付頭人を辞職』、六月二十五日には、再び、『六波羅探題北方として上洛、その後、正和三(一三一四)年十二月に六波羅探題を退任して、帰鎌、翌正和四年七月十一日、ここにある通り、北条基時が執権になると同時に、貞顕は連署に就任している(以下は、以降で再び注することとする)。

「彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年又は仁治三(一二四二)年~弘安一〇(一二八七)年)は六波羅探題北方や連署を勤めた北条重時(義時三男)の四男。ウィキの「北条業時」によれば、『兄弟の序列では年下の異母弟・義政の下位に位置づけられ、義政が四男、業時が五男として扱われた。しかし』、第八『代執権北条時宗の代の後半の義政遁世以降からは、義政の死により空席となっていた連署に就任し』、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は極楽寺流嫡家の赤橋家の下、弟の義政(塩田流)が(業時(普恩寺流)より上位の)』二『番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降は業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ』二『番手の家格となっている』とある。

「新別當(しんべつたう)時兼」北条(普恩寺)時兼(文永三(一二六六)年~永仁四(一二九六)年)父は業時。母は北条政村の娘。父が陸奥守であったことから「陸奥三郎」と呼ばれた。弘安九(一二八六)年に四番引付頭人、永仁三(一二九五)年に評定衆であったことが確認される。「新別當」の呼称の意は不詳。普恩寺は所在地不詳の鎌倉御府内にあった寺(廃絶)であるが、これは彼の子である基時の創建であるから、実際の寺との関係性はない。或いは、基時が普恩寺を創建し、一門の名を「普恩寺」とした際、想像であるが、一流の始祖である祖父北条業時を初代「別当」と擬え、その息子の父を「新別当」と呼んだのかも知れない

「貞顯は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人なり」意味は取り違えようがないが、「なり」がまずい。「貞顯」(が一門の濫觴)「は、又、是、義時の五男に五郎實泰と云ひし人」の「あり」、「この方」、「後に龜谷殿(かめがやつどの)と稱して、溫良仁慈の聞(きこえ)あり。その子越後守實時は、金澤に居住す」と続いて意味が通る。北条実泰(承元二(一二〇八)年~弘長三(一二六三)年)は北条義時四十六歳の時の子。ウィキの「北条実泰」によれば、元は実義(さねよし)を名乗った。元仁元(一二二四)年、十七歳の時に『義時が急死し、母伊賀の方が同母兄政村を後継者に立てようとした伊賀氏の変が起こり、政村・実義兄弟は窮地に立たされる。伊賀の方は流罪となるが、政村と実義は異母兄泰時の計らいによって連座を逃れ、実義は父の遺領として武蔵国六浦荘(現在の横浜市金沢区)に所領を与えられた。泰時から偏諱を与えられて実泰に改名した』『のもこの頃とみられる』。寛喜二(一二三〇)年三月四日、『兄重時の六波羅探題就任に伴い』、二十三『歳で後任の小侍所別当に就任する』。『しかし』、『実泰は伊賀氏の変以降の立場の不安定さに耐えられず、精神の安定を崩したと見られ』、四年後の天福二(一二三四)年六月二十六日の朝には、『誤って腹を突き切って度々気絶し、狂気の自害かと噂されたという』(「明月記」同年七月十二日条)。また、彼には怪異現象や妖しい発言などがあったらしく、「明月記」の著者藤原定家は「北条一門は毎年六月に事が起きる」と述べているという。同六月三十日、『病により家督を』十一『歳の嫡男・実時に譲って』二十七『歳で出家した』とあるから、「溫良仁慈の聞(きこえ)」どころか、尋常な様子でさえ、ない。「越後守實時」(元仁元(一二二四)年~建治二(一二七六)年)は金澤流北条氏の実質初代で、母は天野政景(石橋山の戦いに父と参戦した直参の御家人)娘。ウィキの「北条実時」によれば、天福元(一二三三)年、十歳にして、伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第』三『代執権の北条泰時の邸宅において元服』、『烏帽子親も務めた泰時から「時」の字を受けて実時と名乗る(「実」字は父から継承したもの)』。翌文暦元(一二三四)年、『出家した父から小侍所別当を移譲される。若年を理由に反対の声があったが、執権泰時はそれを押さえて実時を起用した。その頃、泰時の子時氏・時実が相次いで早世し、泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐ事になっており、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図ったのである。泰時は』二『人に対し』、『「両人相互に水魚の思いを成さるべし」と言い含めていた』(「吾妻鏡」に拠る)以後、三度に『わたって同職を務め』さらに第四代執権北条経時及び第五代北条時頼の『政権における側近として引付衆を務め』、建長五(一二五三)年には評定衆となっている。文永元(一二六四)年には『得宗家外戚の安達泰盛と共に越訴頭人となり幕政に関わり』、第八代執権の『北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった』。『文永の役の翌建治元』(一二七五)年『には政務を引退し、六浦荘金沢(現在の横浜市金沢区)に在住』、『蔵書を集めて金沢文庫を創設』したが、翌年に逝去した。『文化人としても知られ、明経道の清原教隆に師事して』、『法制や漢籍など学問を学び、舅の政村からは和歌など王朝文化を学』んだ。『源光行・親行父子が校訂した河内本』「源氏物語」『の注釈書を編纂する』などもしている。

「顯時」金澤(北条)顕時(宝治二(一二四八)年~正安三(一三〇一)年)は、正室が安達泰盛の娘千代野で安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより、縁戚連座で逼塞を余儀なくされたが、その後に第九代執権北条貞時の信頼を回復して復権、顕時の代に、金沢流北条氏は全盛期を迎えている。ウィキの「北条顕時によれば、文応元(一二六〇)年に『将軍家庇番衆となって宗尊親王に仕え、歌学などの学問を学』んだ。弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」では』、『金沢家の領地であった下総埴生庄に隠棲』、『出家して「恵日」(えにち)と名乗ったが、実際は謹慎処分であり』、『出家したため』、『助命されている』。永仁元(一二九三)年四月に『執権北条貞時が平禅門の乱で頼綱を滅ぼし』、その僅か五日後の四月二十七日、『顕時は鎌倉に戻って幕政に復帰』(「武家年代記」)、十月には『貞時が引付を廃止して執奏を新設し、顕時は北条宗宣らと共に任命された』。永仁二(千二百九十四)年には引付四番頭人、二年後には三番頭人となって、『赤橋館を与えられ』ている。『晩年は長年の激務から胃病を患って政務を退くが、貞時の信頼は厚く度々諮問を受けたという』。『顕時は父に似て好学で』、『金沢文庫の成立に寄与した』。彼の死去後は、『跡を子の貞顕が継ぎ、金沢北条家は引き続いて』、『得宗家の厚い信任と抜擢を受け続けることになる』のであった。

「内外兩典」仏教の正式なものと認められた経典である「内典」と、仏教以外の書物である「外典(げてん)」。本来はインドの外道(げどう)の書物を指したが、日本では主としてフラットな意味での仏教経典以外の参考に供し得る儒学書を指す。

「陰(おん)」陰陽道(おんみょうどう)の関係書。

「神(しん)」神道系の関係書。

「歌」和歌集や歌学書。

「殘る所なし」余す所なく、蒐集した。

「金澤の文庫といふ印を拵へ、儒書には黑印(こくいん)、佛書には朱印、卷(まき)每ごと)に押されたり」私の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」「金澤文庫舊跡」に印像があるので見られたい。但し、そこには『或はいふ、儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とあり、そこで私は注して、『これらは幕府崩壊後、室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押された蔵書印とも言われるが、日本最古の蔵書印であることに変わりはない』とも述べた。

「學文(がくもん)」「學問」に同じい。

「書典の癖(へき)」愛書家。古書蒐集家。読書家。]

 

北條九代記 卷第十二 北條相撲守貞時卒す 付 高時執權家督 竝 北條凞時病死

 

 ○北條相撲守貞時卒す  高時執權家督  北條凞時病死

 

同十月二十六日[やぶちゃん注:応長元年。ユリウス暦一三一一年十二月六日。この年は閏六月があったために西暦とのズレが大きい。執権師時の死後三十三日後(前月九月は小の月)で、ほぼ一ヶ月後でまさに後を追うように亡くなっている。]、北條相摸守貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既注通り、「崇演」の誤り。]病死し給ふ、年四十一歳[やぶちゃん注:誤り。享年数えでも四十歳。満三十九歳。]、最勝園寺(さいしようおんじ)と號す[やぶちゃん注:正式な戒名は「最勝園寺覺賢」。]。年來、所勞[やぶちゃん注:病気がちであること。]の氣に依て、引籠られけれども、天下の政理を大事に思はれ、世の怨(うらみ)、人の憤(いきどほり)負をはぬやうに、と思はれければ. 小大となく遠慮深(ふか)くおはしましけるに、終(つひ)に行く道は誰(たれ)とても遁れざる事なれば、是非なく、白日(はくじつ)の本(もと)を辭して、九泉(きうせん[やぶちゃん注:「幾重にも重なった地の底」の意で、死後の世界。黄泉(こうせん)。黄泉路(よみじ)。])に赴き給ふ。去ぬる弘安七年[やぶちゃん注:一二八四年。]より、正安三年[やぶちゃん注:一三〇一年。]に至る、執權の當職十八年、剃髪の後十ヶ年、首尾二十八年、晝夜に心を勵(はげま)し、思(おもひ)を凝(こら)して、世を取靜(とりしづ)め給ひけり。嫡子太郎高時、僅に九歳なり。北條陸奥守宗宣(むねのぶ)、同じく相摸守の熈時(ひろとき)、兩人、執権、連署(れんじょ)致されしに、内管領(ないくわんれい)長崎入道圓喜と、高時の舅(しうと)秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)と貞時入道の遺言を受けて、高時を輔佐す。圓喜は平左衞門賴綱が甥にて、光綱と云ふ者の子なり。然るに、正和元年六月[やぶちゃん注:一三一二年。]に北條宗宣、俄(にはかに)に死去せられしかば、諸事の政理、悉く、熈時一人、是を勤めらる。長崎圓喜、城〔の〕介時顯、漸々に威を振ひ、京、鎌倉の支配、大名、小名の式禮、皆、既に濫吹(らんすゐ[やぶちゃん注:致命的に秩序が乱れること。斉(せい)の宣王は竽(う)という笛を聞くのが好きで、楽人を大勢、集めていたが、竽を吹けない男が紛れ込み、吹いている真似をして俸給を貰っていたという「韓非子」の「内儲説 上」の故事に基づく故事成句。「濫竽(らんう)」とも言う。])して賄(まひなひ)に耽り、私欲に陷り、侈(おごり)を好みて肆(ほしいまゝ)なり。萬(よろづ)、往始(そのかみ)にもあらず覺えて[やぶちゃん注:万事が以前とはすっかり様変わりしてしまったように感ぜられて。]、古(いにしへ)を慕ひ、今を恨むる人も多かりけり。か〻る所に、同四年[やぶちゃん注:正和四(一三一五)年。]七月上旬の比より、北條熈時、瘧病(ぎやくへい)[やぶちゃん注:瘧(おこり)。マラリア。]の患(うれへ)に罹り給ひ、其、發(おこ)る時には、寒戰(かんせん)[やぶちゃん注:振戦(しんせんせん)。激しい痙攣的な震(ふる)え。]の甚しき事、屋室(おくしつ)も共に震動し、壯熱(さうねつ[やぶちゃん注:激しい発熱。])する事は、火に燒くが如し。時々、譫言(せんげん[やぶちゃん注:うわごと。所謂、アルコール中毒症状の後期などに見られる振戦譫妄(せんもう)様状態と同じ。])ありて、鬼物(きぶつ)を見るに似たり[やぶちゃん注:熈時自身が恰も物の怪を見て恐れ戦いているかのようにさえ見受けられた、の意。]。典藥頭(てんやくのかみ)盛國、藥石の妙術を盡し、順逆(じゆんぎやく)二劑[やぶちゃん注:体温を下げる作用を持つ薬と、その逆に、体温を上昇させる作用を持つ薬の二剤。]、攻補(こうほ)[やぶちゃん注:熱を積極的に下げる治療に、下がり過ぎる体温を一定値で保持することを言っているか。]、兼用(かねもち)ひて、百計すれども、効(しるし)なし。陰陽師(おにゃうじ)泰元(やすもと)、符(ふ)を書きて、禳祭(じやうさい)の法[やぶちゃん注:「禳」は「厄を払う」こと。]を行ひ、諸社寺、諸社の祈禱、肝膽(かんたん)を碎きけるに、靈鬼の形(かたち)、幻(まぼろし)に見えて、恐しさ、限なし[やぶちゃん注:熈時自身の気持ちになって書いている。明らかに彼は怪しい霊や悪鬼を幻覚に見て恐れているのだと筆者は理解しているように読める。]。辛うじて瘧病(ぎやくへい)は截(き)りたりけれども[やぶちゃん注:マラリア(の激しい発作症状)は断ち切ることが出来たけれども。但し、マラリアは回帰性で、無論、これは快癒したのではない。]、食事、打絶えて、起臥(おきふし)も叶はず。只、朦々(もうもう)として[やぶちゃん注:朦朧として。ぼんやりと腑抜けのようになってしまって。]、漸々、病勞羸瘦(びやうらうるゐそう[やぶちゃん注:病的に異常に瘦せ細って。])し、同二十六日[やぶちゃん注:誤り。七月十一日(一三一五年八月十一日)。]に、遂に卒去し給ひけり。極樂寺に葬送して、新(あらた)に一堆(たい)靑塚(せいちよ)[やぶちゃん注:一山(ひとやま)の新しい塚(つか)。]の主(ぬし)となし參らせ、法名をば道常(だうじやう)とぞ號しける。近比(このころ)、京都鎌倉の有樣、何事に付きても心を延(のぶ)る樂(たのしみ)はなく、眉(まゆ)を顰(ひそ)め、息(いき)を伏(ふく)し、冷笑(にがわらひ)にて月日を送り、打續きたる無常の憂(うれひ)[やぶちゃん注:訃報。]に、世は末になり、運は傾(かたぶ)きぬと、未然を計つて[やぶちゃん注:これからのこの世の暗雲立ち込めたるようなる行く末を思って。]、歎く人も、ありとかや。

 

[やぶちゃん注:「北條陸奥守宗宣(むねのぶ)」かっちりと独立して注していないのでここで掲げておく。基本はウィキの「北条宗宣に拠った。北条(大仏(おさらぎ))宗宣(正元元(千二百五十九)年~正和元(一三一二)年七月十六日)鎌倉幕府第十一代執権(非得宗:在職:応長元年十月三日(一三一一年十一月十三日)~正和元年五月二十九日(一三一二年七月四日))。北条宣時(彼は北条大仏流の祖である朝直の子であり、朝直は北條時政の子で義時の異母弟時房(幕府初代連署))の子である)。『大仏家の総領として、弟や子らと共に、幕府の要職を歴任した。元服時に得宗家当主の北条時宗より一字を賜り、宗宣と名乗』った。弘安九(一二八六)年に引付衆となり、永仁五(一二九七)年からは、『六波羅探題南方に就任』、乾元元(一三〇二)年まで在京した。嘉元三(一三〇五)年四月二十二日に発生した北条宗方の謀叛、『嘉元の乱においては得宗の北条貞時』『の命令で北条宗方を討っ』ている。同年七月二十二日、『その戦功により』、『連署となる』。応長元(一三一一)年九月二十二日、『執権であった北条師時の死去により』、十月三日に『連署から昇格して第』十一『代執権に就任した』。実際には永年、『貞時と対立した宗宣』であったが、そ『の執権就任は貞時がすでに病身だったためと思われる。しかし幕政は内管領・長崎円喜に実権を握られ』、事実上は全く『政治をみることができなかった』と言ってよい。正和元(一三一二)年五月二十九日に『執権職を北条煕時に譲り』、出家、六月十二日に享年五十四で逝去している。歴史学者『細川重男は嘉元の乱の背景』自体『に宗宣の蠢動があったことを指摘し、宗宣は貞時に反抗的であったという論陣を展開している。この理由に関しては大仏家の始祖は第』三『代執権である北条泰時の叔父に当たる北条時房にまで遡り、時房は泰時を補佐する連署として幕政に重きを成したが、その後は』、『時頼・時宗・貞時と得宗家』三『代にわたって幕政で軽んじられた存在に甘んじていたので、嘉元の乱を契機として』、『大仏流の巻き返しを目論んで貞時と対立したとしている』。『これに対しては』『鈴木宏美が』「北条氏系譜人名辞典」で『反証して』おり、『時房の子・朝直は泰時の娘を妻としたことで』、『北条一族のなかで重んじられていたとする』のであるが、『実際は伊賀氏の変に伴う泰時の意向に屈服して愛妻(前妻の伊賀光宗の娘)との離縁を余儀なくされているようであり(朝直が当初、泰時の意向に反対していたことが史料にみられる』『)、朝直以降の大仏流北条氏の当主も、代々』、『幕府政治の要職に就くことはできた』『ものの、将軍を烏帽子親として一字を与えられる得宗家と赤橋流北条氏の当主に対して、家格的にはそれよりも一段低い、得宗家を烏帽子親とする家と位置づけられていたことが指摘されている』。『宗宣の後も貞宗(のち維貞)―高宣と同じく得宗の偏諱を受けている』。『ことから、要職には就ける代わりに』、『得宗への臣従を余儀なくされていた可能性があり、内管領・平頼綱を排除した(平禅門の乱)後』、『貞時が得宗家への権力集中を目指した政治を行った』『ことに宗宣が反感を抱いていた可能性も否定はできない』とある。

「長崎入道圓喜」(?~元弘三/正慶二年五月二十二日(一三三三年七月四日)北条氏得宗家被官である御内人(みうちにん:北条得宗家に仕えた武士・被官・従者の総称)の内管領(ないかんれい:北条得宗家の執事で得宗被官である御内人の筆頭位置の者を指し、「御内頭人(みうちとうにん)」とも称した。「得宗の家政を司る長」の意で、幕府の役職名ではない)。長崎氏(平清盛の孫資盛の系統と称した北条得宗家の家令となった平禅門の乱で知られる平盛綱を祖とする)の一族。父は長崎光綱(平頼綱の近親者とされるが、頼綱の弟(父は平盛綱又は平盛時)とする説や、長崎光盛の子で頼綱の甥又は従兄弟とする説があって確定していない)。円喜は法名で、俗名は系図類では高綱(たかつな)とされるが、当時の文書では盛宗(もりむね)と記されている。以下、概ね、参照したウィキの「長崎円喜より引く。「太平記」「保暦間記」において、『嫡子高資と共に、北条得宗家以上の絶大な権力をふるった様子が描かれている』。『史料上の初見は一族である平頼綱が滅ぼされた平禅門の乱の翌年』、永仁二(一二九四)年二月、第九代執権『北条貞時の使者として御持僧親玄を訪れた記録である。同年、貞時の側室播磨局の着帯の儀式に父光綱と共に主席者筆頭として参列している』正安四(一三〇二)年には『得宗家の分国である武蔵国守護代を務めている記録がある』。永仁五(一二九七)年に『父光綱が没しているが、光綱が務めた世襲の職である得宗家執事(内管領)・侍所所司は工藤杲禅』(こうぜん)と『尾藤時綱が任じられており、高綱は父の地位を継ぐ事はなく、光綱没後の数年間は長崎氏不遇の時代であった』。嘉元三(一三〇五)年、『嘉元の乱で貞時が内管領の北条宗方を滅ぼした後』、徳治二(一三〇七)年頃には『宗方に代わって高綱が内管領・侍所所司に就任し』ていると推定される。延慶二(一三〇九)年四月には『尾藤時綱と共に寄合衆を務めており、この頃には出家して円喜と号し、「長入道」と称された。出家により侍所所司を長男の高貞に譲ったと見られる』。応長元(一三一一)年の『貞時死去にあたり、安達時顕と共に嫡子高時の後見を託され、幼主高時を補佐して幕政を主導した。老齢により』、正和五(一三一六)年頃には『内管領の職を嫡子高資に譲っている』ようである。『長崎氏は幕府の軍事・警察権を握る侍所所司、執事として得宗家家政の財政・行政・司法権を一族で掌握し、円喜は子息が実権を握る侍所所司と内管領の権力を背景に寄合衆を主導した。表面的には集団指導体制で運営される高時政権の一員であるが、世襲によって侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握ったのである』。正中元(一三二四)年に『正中の変を起こした後醍醐天皇の弁明のため、鎌倉へ下向した万里小路宣房に安達時顕と共に対面し、時顕の詰問に宣房が狼狽したことが』、「花園天皇宸記」に出る『が、京都ではこの際に比較的穏便な処置がなされたのは、円喜の意向によるものと噂された』。『鎌倉幕府が滅亡した際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害した』。

「秋田城介時顯(あいだのじやうのすけときあき)」安達時顕(?未詳(弘安八(一二八五)年頃か?)~元弘三/正慶二年五月二二日(一三三三年七月四日)幕府の有力御家人。ウィキの「安達時顕より引く。『安達氏の一族で、父は霜月騒動で討たれた安達宗顕(むねあき、顕盛の子)』。弘安八(一二八五)年の『霜月騒動で』、『父宗顕をはじめ』、『一族の多くが滅ぼされたが、幼子であった時顕』『は乳母に抱かれて難を逃れた。その後は政村流北条氏の庇護下にあったようであり』、徳治二(一三〇七)年『までには』、『その当主・北条時村を烏帽子親に元服し』、『「時」の字を賜って時顕を名乗ったとされている』.永仁元(一二九三)年の「平禅門の乱」で『平頼綱が滅ぼされた後に安達一族の復帰が認められると、やがて時顕が安達氏家督である秋田城介を継承したが、これを継承できる可能性を持つ血統が幾つかある中で時顕が選ばれたのも』、『政村流北条氏、すなわちこの当時』、『政界の中枢にあった北条時村の影響によるものとされている』。『史料で確認できるところでは、時顕の初見は』「一代要記」徳治二(一三〇七)年一月二十二日の条であり、翌徳治三年(後、延慶元年に改元。一三〇八年)『の段階では秋田城介であったことが確実である』。応長元(一三一一)年、第九代『執権北条貞時の死去にあたり、時顕は貞時から長崎円喜と共に』九『歳の嫡子高時の後見を託された』。文保元(一三一七)年には、『霜月騒動で討たれた父宗顕の』三十三『回忌供養を行』っている。正和五(一三一六)年、十四歳で『執権職を継いだ高時に娘を嫁がせ』、『北条得宗家の外戚となり、また時顕の嫡子高景は長崎円喜の娘を妻に迎え、内管領とも縁戚関係を結んで』、『権勢を強めた』。正中三(一三二六)年三月の、『高時の出家に従って』、『時顕も出家し』、『法名の延明を称する。高時の後継者を巡り、高時の妾で御内人の娘が産んだ太郎邦時を推す長崎氏に対し、高時の舅である時顕と安達一族が反対して高時の弟泰家を推す対立が起こり、北条一門がそれに巻き込まれる事態となっている(嘉暦の騒動)。最終的には邦時が嫡子の扱いとなっている』。『幕府滅亡に際し、東勝寺で北条一門と共に自害した』。

「極樂寺」鎌倉市極楽寺にあるは真言律宗霊鷲山(りょうじゅさん)極楽寺。正式には霊鷲山感應院極樂律寺。開基は北条重時(北条義時の三男)開山は忍性。]

2018/02/17

北條九代記 卷第十二 北條師時頓死 付 怨靈

 

      ○北條師時頓死 付 怨靈

 

北條貞時入道宗瑞[やぶちゃん注:既に注した通り、「崇演」の誤り。]は、出家の身として、政事を執行ふに及ばず。師時、凞時(ひろとき)、既に執権の連署を勤めらる[やぶちゃん注:この言い方もやはりおかしい。師時は既に正式な執権であるのに、これでは貞時が執権のままであるように読めてしまい(実権は事実上はそうであるが)、師時と凞時が執権の連署を勤めているようにしか読めないからである。増淵氏もここの記載の奇妙さを感じて、『師時』『と凞時』『とがすでに執権・連署の核を勤めらた』と訳しておられる。]威勢高く、門前に市をなし、出入る輩(ともがら)、日夜に絶間(たえま)なし。然るに、師時、如何なる故かありけん、鶴ヶ岡の別常総正を初(はじめ)て、眞言師(しんごんし)の僧に仰せて、各(おのおの)七日の護摩を修(しゆ)せしめ、門戸(もんこ)には符(ふ)を書きて、押させらる。何事と知る人なし。後に聞えしは、去ぬる七月[やぶちゃん注:後の場面から応長元(一三一一)年七月と読める。]の比より、北條宗方[やぶちゃん注:卷第十一 貞時出家 付 北條宗方誅伐参照。師時とは従兄弟同士。]が亡靈、來りて、師時に怨(うらみ)を報ずべき由、喚(よば)はる聲、餘人の耳には聞えず、師時一人是を聞くに、定(さだめ)て狢(むじな)狐(きつね)の致す事かと思はれしに、後には形(かたち)を現(あらは)し、蜻蛉(かげろふ)[やぶちゃん注:ここは「陽炎」と表記する方が判りがよい。]の如く、あるかなきかのやうに見えたりければ、師時、是(これ)に依(よつ)て、祈禱を致し、鎭祭(ちんさい)、護摩を修せらる〻に、その效(しるし)なし。他人に向ひて語らば、臆病神の俤(おもかげ)に立ちたるもの、と笑はんも口惜しかるベし、如何(いか)にもして、禳鎭(はらひしづ)めばや、と思はれけるが、漸々(ぜんぜん)に憔悴せられ、諸人、奇しみ思ひけり。同九月十一日[やぶちゃん注:応長元(一三一一)年。]、師時、只一人、亭に坐して、庭を見ておはしける所に、宗方が怨靈、形(かたち)顯(あらはし)て、長刀を橫(よこた)へ、直(ぢき)に廣庇(ひろひさし)に走掛(はしりかゝる)。師時も太刀押取(おつと)りて、立たれしが、胸の邊(あたり)を刺(さゝ)れたりと覺えて打倒(たふ)れ、血を吐(はく)事、一斗(と)計(ばかり)にして其儘、絶入(ぜつじゆ)し給ひけり。家内上下、周章慌忙(あはてふため[やぶちゃん注:「周章慌忙」四字へのルビ。])き、扶起(たすけおこ)しければ、少し、人心地付きて、只、口惜(くちをし)さよ、とのみ、云はれしが、其日の暮程に、遂に事切れにけり[やぶちゃん注:応長元年九月二十二日(ユリウス暦一三一一年十一月三日)の誤り。また、貞時の死(次章)の凡そ一ヶ月前に当たるこの日に出家し、同日に死去したとされる。享年三十七歳で、ウィキの「北条師時によれば、『評定中』、『その座でそのまま』、『死去したと伝わる』とあるから、この怨霊話は如何にも作り話臭い。]。世には頓死と披露しけれども、實(じつ)には怨靈の所爲(しわざ)とぞ聞えける。昔、周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる。後秦(ごしん)[やぶちゃん注:底本は「後奏」とあるが、原典を確認して誤植と判明したので訂した。後も同じ処理をした。]の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅(ふきん[やぶちゃん注:原典もママ。「ふけん」であろう。])を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す、と云へり。師時、如何なれば、か〻る怨(うらみ)の報(むくい[やぶちゃん注:ママ。])を受けて、生年三十七歳にて卒去せらる。昔も今も例なき事ならず、と恐(おそれ)、思はぬ人は、なし。

 

[やぶちゃん注:「周の宣王(せんわう)、その臣杜伯(とはく)を殺しければ、亡魂、形を顯(あらは)し、宣王を射て、中心を貫くと覺えし、王、果(はたし)て、崩ぜらる」周朝の第十一代宣王(せんおう ?~紀元前七八二年)に纏わる伝承。ウィキの「王(周)によれば、父厲(れい)王は前八四二年に暗殺を主眼とした暴動のために国から『逃亡し、以後は王が不在のまま』、『共和制が敷かれていた。紀元前』八二八『年に厲王が崩御した後、厲王の子である』彼『が王として立てられた。治世前期は周定公』と『召穆公』『を輔政とし』、『国勢が中興し、宣王中興と称される時期を築いた。 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を鄭に封じたことが事蹟として挙げられる』が、『軍事面では秦仲や杜伯といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出した』ものの、『こちらは徐々に劣勢となり、紀元前』七八九『年の千畝(せんぽ)の役で姜戎』(きょうじゅう)『に大敗するなど、あまり思わしくなかった。 治世後期には政治面でも』、父『厲王にみられ』たような『君主独裁化が進み、魯の継嗣問題介入、杜伯の処刑など』、『諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。その末路は定かではないが』、「墨子」の「明鬼篇」によれば、『杜伯を処刑した』三『年後に、鬼神の力を借りた杜伯によって射殺されている。賛否両論の分かれる王ではあるが、結果から言えば』、『父の厲王や子の幽王と同じく、周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない』とある。墨子」原文で読めるが、個人ブログ「七つの回廊」の霊魂が、死後も実在していることの証明? その一で、その箇所の非常に分かり易い現代語訳が載るので、引用させて戴く。

   《引用開始》

 周の宣王(せんおう)は、臣下の杜伯を死罪としたが、それは無実の罪であった。そこで、杜伯は、(死の直前)次のように復讐を誓った、

『わが主君は、私を処刑しようとしているが、私は無実である。もし、死者には知覚する霊魂がないのであれば、(復讐も)やめる他はない。だが、もし、死後も知覚があるのならば、三年以内に、必ずや、わが君に死者の怨念を思い知らせてやろう』

 三年目のある日、周の宣王は、諸侯を集め、圃田(ほでん)で大掛かりな狩りを催した。(その総勢は)戦車が数百台、お供の者が数千人で、狩り野は人であふれた。

 その真っ昼間に、杜伯は、白馬に牽かせた白木造りの戦車に乗って、突然、姿を現した。朱の衣服をまとい、朱の冠をかぶり、朱塗りの弓を手に取り、朱塗りの矢を小脇にはさんで、周の宣王を追いかけ、車上の宣王を狙撃した。

 杜伯の放った矢は、宣王の心臓に命中し、さらに、背骨までも打ち砕いた。宣王はもんどり打って車の中に倒れ、弓袋に突っ伏して絶命した。

 この時、直接、宣王につき従っていた周の人々で、杜伯の姿を目撃しなかった者はなく、また、離れた所にいた人々でも、事件の物音を聞かなかった者はいなかった。

 (そこで、この事件は、紛れもない事実として)記録されて、周の歴史記録である『春秋』に今も見ることができる。

 君主の立場にある者は(周の『春秋』をひもとき)、この事件を材料に臣下を教導し、父の立場にある者は、この事件を教訓に息子たちを教戒して、次のように諭した、

『慎めよ、戒めよ。罪なき人を殺す者は、皆、不吉な出来事に見舞われる。鬼神が降す誅罰は、こんなにも迅速だぞ』

 この周の『春秋』の記録から判断するならば、『鬼神』の実在は、どうして、疑ったりできようか」

   《引用終了》

「後秦の姚萇(えうちやう)、既に前秦の苻堅を伐ちければ、怨靈、顯れて、白晝に姚萇を刺すに、血を吐きて死す」「姚萇」(ようちょう 三三一年~三九四年)は五胡十六国時代の後秦の創建者で羌(きょう:古代より中国の西北部に住んでいる民族)の出身。ウィキの「姚萇」によれば、『父』『は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦の苻堅と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦は』、『おもに西燕の慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。「苻堅」(ふけん 三三八年~三八五年)は同じ五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝(大秦天王)ウィキの「苻堅によれば、氐(てい)族(古代より中国の青海湖(現在の青海省)周辺にいた民族)出身で、『宰相の王猛を重用し』、『前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上』、『東晋の益州を征服して』、『前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指し』、三八三『年に大軍を南下させたが、諸因により』、「淝水(ひすい)の戦い」で『東晋に大敗した。以後』、『統治下の諸部族が反乱・自立する』に及んで、『前秦は衰退』し始め、三八五年、『羌族の部下』であった『姚萇に殺害された』とある。ウィキの「姚萇」の「晩年」の条に、『死の直前、長安に移動する途中』、『病床にあった姚萇が夜に見た夢に、苻堅が天官の使者の鬼兵数百を連れて訪れた。宮人がそれを迎え撃ったが、宮人が持っていた矛が』、『誤って』、姚萇の『陰部に刺さった。鬼兵が急所だ、と言い、矛が抜かれて』、『大量に出血したところで目が覚めると、陰部が大きく腫れ上がっていて夢の中と同じように出血していた。錯乱した姚萇は』、『苻堅の命を奪ったのは姚襄』(姚萇の兄)『であると叫んだという』とある。]

 

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 「はてしらずの記」旅行

 

     「はてしらずの記」旅行

 

 六月になって居士は瘧(おこり)を病んだ。八日に鳴雪翁と共に今戸に鋳地蔵を尋ね、帰来発熱甚しかったが、数日後にその瘧なることを知った。二十日以後出社したところ、二十六日に至りまた瘧を発し、連日これに悩まされた。三十日の日記に「瘧落」とあって「瘧落ちて足ふみのばす蚊帳かな」の句を録しているから、この時全く退散したものであろう。この月は「時事俳評」を掲げた外、何も『日本』に筆を執っていない。

[やぶちゃん注:「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]

 七月十九日、居士は飄然奥州旅行の途に上った。今少し早く出発するつもりであったのが、病のため遷延したものらしい。奥羽は居士に取って未知の天地である。出発に先(さきだ)って「蕉翁の『奥の細道』を寫しなど」しているのを見ても、『奥の細道』の迹(あと)をたずねる意味のあったことはいうまでもない。芭蕉は出発に当って「前途三千里の思ひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の淚をそゝぐ」といい、「人々は途中に立ならび後かげの見ゆるまではと見送るなるべし」という有様であったが、「鐡道の線は地皮(ちひ)を縫ひ電信の網は空中に張る」明治の世の中にあっては「行く者悲まず送る者歎かず。旅人は羨まれて留まる者は自ら恨む」わけで、上野駅に居士を送った者は、折ふし来合せた飄亭氏一人、居士自身も「松嶋の風に吹かれんひとへ物」とか「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」とかいうほどの気軽さであった。

[やぶちゃん注:明治二六(一八九三)年七月一九日から翌八月二十日までの約一ヶ月間、正岡子規は東北地方を旅した。]

 居士はこの旅行に上るに先って、林江左(こうさ)(和一)を介して三森幹雄(春秋庵)に逢っている。幹雄の添書を貰って各地に旧派の俳人を訪ねたのは、不案内の地において便宜を得るためもあったろうが、旧派俳人の実際がどの程度にあるかを打診する意味があったのではないかと思う。しかし出発後三日目、郡山の旅宿から碧梧桐氏に宛てた左の手紙を見ると、このこころみは全く失望を繰返すに過ぎなかった模様である。

[やぶちゃん注:「林江左(こうさ)(和一)」林和一(文化一五・文政元(一八一八)年~明治二九(一八九六)年:子規より四十九歳も年上)は江戸生まれで旧幕臣、衆議院議員。江左は俳号。

「三森幹雄(春秋庵)」(文政一二(一八二九)年~明治四三(一九一〇)年:子規より三十八歳も年上)十一世春秋庵。ウィキの「三森幹雄によれば、福島県石川町(当時は形見村)の『農家に生まれた。本名は三森寛、幼名は菊治。染物屋で徒弟を務めた後、半田銀山や宮城県岩沼の藍染商人の手代として働いた。その間、地方の師匠のもとで俳句を学ぶ』。二十六『歳で、江戸に出奔』、『志倉西馬に弟子入りし』、明治六(一八七三)年、幹雄四十四歳の時、明治政府が『文化政策として大衆教化のために教導職を設け、俳諧師も教導として選考することになり、試験が行われることになった。当時の有名な俳諧師匠が受験に消極的な』中で、『幹雄は俳人としては鈴木月彦とともに訓導として選ばれることによって、俳句界での地位を得ることになった。明倫講社を組織し』、明治一三(一八八〇)年、雑誌『俳諧明倫雑誌』を創刊した。明治一七(一八八四)年、『教導制度が廃止されると「神道芭蕉派明倫協会」に改組』して教派『神道の一派として独立させ、教導資格の発行という方法で会員を増やした。明倫講社の経営が独善的であったことや、政府の意向をうけて俳句を国民教化という目的で解釈することなどが』正岡子規の『攻撃対象となった。それでも明治』三十『年代の都新聞や、雑誌「太陽」での俳人の人気投票では上位をしめた』(この奥州行以前のことであるから、正岡子規自身、必要なところではちゃっかり彼の援助を受けていることが判る)。この明治二六(一八九三)年に春秋庵を継いだ、とある。所謂、旧派俳人の権威の象徴的存在であった。

 以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

小生この度の旅行は地方俳諧師の内を尋ねて旅路のうさをはらす覺悟にて、東京宗匠の紹介を受け已に今日までに二人おとづれ候へども、實以て恐入つたる次第にて何とも申やうなく、前途茫々最早宗匠訪問をやめんかとも存候ほどに御座候。俳諧の話しても到底聞き分ける事も出來ぬ故、つまり何の話もなくありふれた新聞咄どこにても同じ事らしく、そのくせ小生の年若きを見て大(おほい)に輕蔑し、ある人はぜひ幹雄門へはいれと申候故少々不平に存候ところ、他の奴は頭から取りあはぬ樣子も相見え申侯。まだこの後どんなやつにあふかもしれずと恐怖の至(いたり)に候。

 

 この新旧両者の対坐は明に滑稽を帯びている。「文界八つあたり」の中で「何ぞ近時の宗匠の無學無識無才無智卑近俗陋平々凡々なるや」と罵倒した居士は、旧派俳人の現状について、全然予備知識を欠いていたわけではないが、なおかつ驚かされるものがあったと見える。居士は一転して「せめてはこれらの人々に内藤翁の熱心の百分の一をわけてやりたく候」といい、旅中の自己を省みて次のように述べている。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

半(なkば)紳士半行脚の覺悟故氣樂なれども面白き事はなく第一名句は一句とても出來ぬに困り候。小生は今日において左の一語を明言致し申候。

 名句・菅笠を被り草鞋を著けて世に生るゝものなり。

 

 居士のこの旅行は宇都宮、那須を経て福島県に入り、白河、須賀川(すかがわ)、郡山、本宮(もとみや)、福嶋、飯坂(いいざか)、桑折(こおり)、岩沼、笠嶋などの各地を歴遊、仙台から松嶋に及んだ。以上が七月中の事で、この間に浅香沼(あさかぬま)とか、満福寺とか、荵摺(しのぶずり)の石とかいうような名所故蹟をも一見、『日本』に五回ほど「はてしらずの記」を送っている。仙台に一週間ほど滞在したのは、旅中の疲労を医(いや)するためと、槐園(かいえん)という文学上の談敵がいたためと、両様の理由によるものらしい。八月五日より出羽に向い、作並、楯岡(たておか)を経て大石田に到り、川船によって最上川を下った。途中古口(ふるくち)一泊、九日に酒田に達している。十日下駄を捨てて草鞋を穿(うが)ち、吹浦に沿うて歩いた結果、行暮れて大須郷というところに泊った。海岸の松原にある怪しげな宿屋に泊って、どんなものを食わされるかと憂慮していたら、膳の上に酢牡蠣がある、椀の蓋を取るとこれも牡蠣で、非常にうまいのに驚いたという『仰臥漫録』の中の話は、この大須郷のことであるらしい。象潟(きさかた)一見の後、本庄、道川(みちかわ)を経て秋田に入った。このあたりは大分疲れて、人力車、馬車などの便を利用したようである。十五日秋田を発して大曲(おおまがり)一泊、六郷(ろくごう)から岩手へ出る新道を辿り、路傍の覆盆子(いちご)を貪り食いながら麓(ふもと)に下って、湯田(ゆだ)という小さな温泉に宿った。黒沢尻(くろさわじり)に著いた翌日は七夕であったが、風雨のために終日降込(ふりこ)められてしまった。翌日汽車で水沢に向い、夜汽車でまた東京に向った。上野駅に着いたのは二十日の正午であった。

[やぶちゃん注:サイト「俳聖 尾芭蕉・みちのくの足跡で、山形県内における八月六日から九日までの「はてしらずの記」(楯岡・東根・大石田・最上川下り(烏川・本合海・古口・仙人堂・白糸の滝・清川)の抜粋が読める。

「槐園」国学者で歌人として知られる落合直文の実弟で、歌人であった鮎貝槐園(あゆかいかいえん 文久四(一八六四)年~昭和二一(一九四六)年:正岡子規より三つ年上)。陸前国気仙沼(宮城県)生まれ。本名は鮎見房之進。槐園は号。東京外語朝鮮語科卒。兄落合直文がこの明治二十六年に「あさ香社」を創設した際、与謝野鉄幹とともに活躍した。『あさ香社詠草』に多くの歌を発表し、『二六新報』の和歌欄の選者もした。翌年に渡鮮し、京城に五つの小学校を創設、その総監督を務めた。後に京城で実業家となり、朝鮮総督顧問も務めた。その一方で、朝鮮の考古学・古美術研究にも力を注いだ(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「仰臥漫録」のそれは九月十九日の条に出る。ブログ「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」の子規が食べた奥州の牡蠣に当該箇所の引用がある。]

 

 以上が「はてしらずの記」の旅程の概略である。『日本』紙の紀行は前後二十一回にわたり、九月十日に至って漸く完結した。「歌風や旅の浮世のはてしらず」というのが結末の一句であるが、居士としては未曽有の大旅行であり、また前後にない長篇の紀行でもあった。紀行は松嶋の条に最も多くの紙数を費しているけれども、全篇にわたり実景実情より得た句が多く、前年のそれに比して慥に数歩を進めている。

 

 短夜の雲をさまらずあだゝらね

  飯坂溫泉

 夕立や人聲こもる溫泉(ゆ)の煙

  松嶋

 涼しさや嶋かたぶきて松一つ

  作並山中

 山奇なり夕立雲の立めぐる

 鳥海にかたまる雲や秋日和

  湯田溫泉

 山の溫泉(ゆ)や裸の上の天の川

芥川龍之介 手帳補遺 / 芥川龍之介 手帳~全電子化注完遂!

 

手帳補遺

 

[やぶちゃん注:以下は、岩波旧全集に上記名称で載るもので、岩波新全集では第二十三巻の『ノート』パート(同巻には既に電子化注した手帳「1」から「12」が載るが、それは『ノート』パートの後に『手帳』パートとして別に項立てされている)に仮題『細木香以ノート』として「手帳」扱いせずに載るものである。新全集がこれを『手帳』ではなく『ノート』扱いにした理由は、この原本が所謂、手帳タイプのものに記されたものでないからで、新全集『後記』によれば、便箋三枚に黒インクで書かれたものだからで、この扱いは、手帳でないという事実からして至当ではある

 以上の理由から、これを私の芥川龍之介の手帳電子化注の最後に入れるに際しては、やや戸惑った。

 しかし、は今まで、芥川龍之介の電子化については概ね、正字正仮名の旧全集を唯一の正統な拠り所として来た経緯があり、これを新字正仮名という如何にも中途半端な気味の悪い(私は芥川龍之介が見たら、「これが私の全集?」と首を傾げると受け合う)新全集の、その区分けに従って外すということ自体が、旧知の盟友を裏切るのと同じ気がして如何にも増して気持ちが悪いのである

 そうして何より、最早、正しき正字体の以下の旧全集「手帳補遺」は、旧全集でしか読めなくなってしまっているのである。新字体正仮名という、途轍もなく気持ちの悪い新全集仮題『細木香以ノート』というヘンなものを我々は読むしかないということに、私は絶望的な思いがするからである

 しかも、実は新全集は写真版原資料(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版1・2」(一九九三年同文学館刊)を底本として(私は非常に不思議に思うのだが、新全集では新たに起された多くの新資料がこの本の写真版を元にしているというのは何故だろうと感じる。原物は同文学館が所蔵しているはずなのに、何故、次代の大衆に残すべき全集の校訂のために原資料に当たっていないのか? という素朴な疑問である。万一、同文学館が保存主義で閲覧を拒否しているからとすれば、これは文学館としてあるまじき仕儀だと思う。劣化や損壊を恐れて死蔵保管を目的として誰も見ることが出来ない資料など、あってもないのと同じだからである)いるが、その写真版にはない部分が旧全集には現に存在しているからである。新全集は無論、そこの部分は旧全集に拠って新字正仮名で記号を挿入して活字化している。最後の「*」以降の部分がそれであるが、それらを読んで戴くと判るが、これは明らかに――細木香以関連の記載ではない――。また、この「*」は芥川龍之介が打ったものとは思われず、旧全集編者が「手帳一」から「手帳十一」(旧全集には「手帳12」は存在しない。詳しくは「手帳12」冒頭の私の注を参照を作成した後に、それらから脱落してしまってどの手帳にあったものか分らない、或いは、紙質から見て全くのバラの手帳断片(一連のものとは読めるように思える)が見つかり、それを編者が「*」を附して「手帳補遺」の最後に付け足したと考えるべきものである。さればこそ、この「*」以下は、寧ろ、新全集の仮題『細木香以ノート』なんぞに附すべきものではなくて、真正の「手帳補遺」として新全集の「手帳12」の後にこそ、旧全集からとして、附すべきものだったのではないかと私は深く感ずるのである。

 以上の三つ、「*」以下が細木香以との無関係性の一件を独立させるならば四つ、の思いから、2014年3月7日から開始した、芥川龍之介の手帳類のオリジナル電子化注の掉尾を、敢えて、この資料を以って飾りたいと考えるものである。

 以下、芥川龍之介とこの大半のメモの対象者である細木香以の関係について述べる。

 芥川龍之介の養母儔とも:しばしばカタカナ表記の「トモ」を見かけるが、それは芥川家の女性の名の表記に合わせた誤りである)の母須賀は細木(さいき)藤次郎の娘であるが、その弟藤次郎(父の名の二代目を継いだ。本名は鱗(りん))は森鷗外の史伝で知られる、幕末の江戸の大通として「山城河岸(やましろがし)の津藤(つとう)」「今紀文(いまきぶん)」の呼び名で知られた、細木香以(さいきこうい 文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)であった。彼は通称、摂津国屋藤次郎(二代目)、一鱗堂と号し、俳号を仙塢(せんう)、狂名を桃江園(とうこうえん)、鶴の門雛亀(つるのとひなかめ)などと称した。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎龍池(りゆうち)の子。儒学を北静廬に、書を松本董斎に、俳諧を鳳朗・逸淵に学び、俳諧師の善哉庵永機・冬映、役者の九代目市川団十郎、狂言作者の河竹黙阿弥、合巻作者の柳亭種員のほか、書家・画工・関取などと広く交わった。その末、家産を失って晩年は千葉の寒川に逼塞し、四十九歳で没した(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。則ち、芥川龍之介の養母儔は香以の娘須賀と伊三郎(本文に出る)の子であるから、香以の姪であり、龍之介から見ると、系譜上は香以は(養母方の)大叔父(祖母弟)に当たる。しかも、これは孰れの龍之介研究書も全く問題としていないのだが、実は、龍之介の実父新原(にいはら)敏三の末の弟元三郎の妻ゑいの父は細木香以の息子桂二郎の娘である。則ち、芥川龍之介の実の叔父の義理の祖父が、やはり細木香以なのである(新全集宮坂覺年譜に附された系図及び翰林書房「芥川龍之介新辞典」の系図を見よ)。則ち、姻族を含む親族及びその中で行われた養子縁組上の関係を合わせると、芥川龍之介は生家である新原家及び養家である芥川家ともに、二重に細木香以と所縁(ゆかり)があるということになるのである。

 なお、芥川龍之介には主人公『自分』と細木香以との関係を冒頭で明記した上で、彼を主人公にした語り風一人称小説「孤獨地獄」(『新思潮』大正五(一九一六)年四月)があり(「青空文庫」のここで読めるが、新字正仮名である)、本資料はその直接の構想メモではないものの(同作の草稿は別に存在する)、それに先立つ記録メモであることは間違いなく、幾つかの部分が「孤獨地獄」に生かされている(私の本文注を確認されたい)。また、香以については、事実を述べた随想「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の雑誌『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで、表記の題で掲載された・リンク先は私の電子テクスト)でも『母は津藤の姪』と、ちらっと述べている。そもそもが、森鷗外の「細木香以」(『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』大正六(一九一七)年九月から十月初出。「青空文庫」のこちらで新字新仮名なら読める)では末尾に細木香以の縁者として芥川龍之介が鷗外自らによって紹介されているのである。なお、ここは別な意味で非常に興味深い。それは鷗外のその後書きを読む限り、芥川龍之介は儔を実母として鷗外に説明している点である(そこでは鷗外は事前にそのことは小島政二郎から聞いていたとするが、私はこれは芥川龍之介が小島に鷗外には実母であると言っておいてくれと頼んだのだと考えている)。しかもその直後、鷗外が香以の墓に詣でる老女のことを彼に尋ねると、龍之介は、それは『新原元三郎といふ人の妻』で、『ゑいと云』い、彼女は『香以の嫡子慶三郎』(桂三郎の誤り)の娘であると鷗外に教授しているのである。これだけのことを言っておきながら、龍之介は実の父新原敏三の末の妹がそのゑいだとは言わない(言えない)というわけである。言えない訳は龍之介が実母の発狂のことを医師である鷗外には決して伝えたくなかったのだと読めるのである。

 以下の資料は、新全集『後記』によれば、『このメモがいつ頃記されたのかは判然としないが、養母か親戚の誰かから聞いた事の覚書と推察される』とある。

 底本は基本、原資料画像をもととした新全集に拠りつつ、旧全集を参考にして総てを概ね正字漢字表記に復元したもので示す。従って、これは旧全集の「手帳補遺」とも、新全集の仮題『細木香以ノート』とも、実は異なる電子データということになる

 改行毎にオリジナルの注を附したが、内容が通人の関連描写なので、判らぬ部分も多々ある。識者の御教授を俟つ。なお、ここでは注の後の一行空けを附さなかった。

 以上を以って私の「芥川龍之介 手帳」電子化注の総てを終了する。四年に及ぶお付き合い方、忝く存ずる。【2017年2月17日 藪野直史――六十二歳の第二日目に――】]

 

 

梅が香の句

[やぶちゃん注:森鷗外の「細木香以」の後書きで、芥川龍之介が鷗外に教えた、細木香以の真の辞世の句(鷗外は本文の「十三」で仮名垣魯文の記した「おのれにもあきての上か破芭蕉」を掲げていた)、

 梅が香やちよつと出直す垣隣

である。]

                 
モト山王町

山城河岸四番地 家も地面も賣りて 日吉町十番地に來る 兩家とも火事に燒く 二三日に死す 夜十二時 若紫コトお房に腹がへつた故 むすびを三つ拵へてくれろと云ひ それを食ふ 芝居話をし 「河竹も老いこんだな ××に信乃をさせることはない」 十二時すぎに寐 三時に起上る おフサお上水ですかと云ふ バタリと仆れる 鼾つよし だんだん靜かになる 鍼醫をよぶ 駄目と云ふ 棺は別拵へにしたり 湯灌する時に見れば兩腕に彫ものあり 一は鳥かごの口あき小鳥立つところ(田舍源氏の若紫) 一は牡丹に揚卷の紐のかかれるところ 朱の入りしホリモノ 葬式はさびし 一切伊三郎 願行寺に葬る

[やぶちゃん注:「山城河岸四番地」筑摩書房全集類聚版の「孤獨地獄」の「山城河岸の津藤」の脚注に『中央区銀座五丁目に住んでいた豪商津国屋藤兵衛』とある。の地区内(グーグル・マップ・データ)。

「モト山王町」は「日吉町」の右注。「日吉町」は不詳だが、旧山王町は恐らく現在の銀座八丁目(先の五丁目の南西直近の新橋寄り)のことではないかと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「若紫」「お房」「おフサ」は香以が吉原から引いた妾(めかけ)の一人で後妻となった女性の源氏名及び呼び名であろう。森鷗外の「細木香以」の「八」に(岩波の選集をもとに漢字を正字化した)、

   *

 香以は暫く吉原に通つてゐるうちに、玉屋の濃紫(こむらさき)を根引(ねびき)した。その時濃紫が書いたのだと云つて「紫の初元結に結込めし契は千代のかためなりけり」と云う短册が玉屋に殘つてゐた。本妻は濃紫との折合が惡いと云つて木場へ還された。濃紫は女房くみとなり、次でふさと改めた。これは仲の町の引手茶屋駿河屋とくの抱(かゝへ)鶴が引かせられたより前の事である。

   *

とあるからである。

「河竹」歌舞伎作家河竹黙阿弥(文化一三(一八一六)年~明治二六(一八九三)年)。

「××」底本新全集にはママ注記がある。

「信乃」滝沢馬琴の「南總里見八犬傳」の八犬士の一人である犬塚信乃(いぬづかしの)か? 河竹黙阿弥作では慶応四(一八六八)年五月市村座初演の「里見八犬傳」(三幕)や明治七(一八七四)年七月東京守田座初演の「里見八犬士勇傳」などがあるが、後者は香以の没後だから、前者ととっておく。黙阿弥は若い頃に馬琴を読み漁った。

「田舍源氏」柳亭種彦の未完の長編合巻(ごうかん)「偐紫田舍源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(挿絵・歌川国貞/文政一二(一八二九)年~天保一三(一八四二)年刊)。種彦の筆禍事件(本作が江戸城大奥を描いたと噂され、「天保の改革」によって版木没収となった)とその直後の死によって、第三十八編(百五十二冊)で終わった。時代を室町時代に移し、将軍足利義政の妾腹の子光氏(みつうじ)を主人公とした「源氏物語」の翻案パロディ。

「伊三郎」香以の姉須賀の夫で、山王町の書肆であった伊三郎。香以は晩年をこの夫婦の家に送った。冒頭注で述べた通り、この夫婦の間にできた娘が芥川龍之介の養母儔である。

「願行寺」現在の文京区向丘にある浄土宗の既成山願行寺(がんぎょうじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。香以の墓がある。]

 バラ緒の雪駄 唐棧の道行 五分サカユキ 白木の三尺 襦袢をきし事なし 單ものの重ね着 チヂミでもマオカでも荒磯 足袋をはかず

[やぶちゃん注:「バラ緒の雪駄」江戸時代の上方製の「下り雪駄(せった)」(江戸製のものは「地雪駄」と称した。裏革に「ハ」の字形にそれぞれ三ヶ所、左右六ヶ所を切って、裏に縫って尻鉄(しりがね)をつけたもの)に竹の皮を繩になった鼻緒をすげたものを「ばら緒」と称した(「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」のこちらを参照した)。

「唐棧の道行」「唐棧」(とうざん)は紺地に浅葱(あさぎ)・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。江戸時代、通人が羽織・着物などに愛用した。呼称は、もと、インドのサントメから渡来したことに由来する。「道行」は和装用のコート風のものの一種。襟を四角に繰り、小襟を額縁に仕立てたもの。「道行きぶり」などとも呼ぶ。

「五分サカユキ」当初、前後が衣服であるから、「ユキ」は「裄」で衣服の背縫いから袖口までの長さのことかとは思ったが、「五分」(一センチ五ミリ)はあまりに短い。「或いはこれは『サカヤキ』(月代)のことではないか?」と思って調べてみたところが、「孤獨地獄」の中に(岩波旧全集より引く)、

   *

大兵肥滿で、容貌の醜かつた津藤は、五分月代に銀鎖(ぎんぐさり)の懸守(かけまもり)と云ふ姿で、平素は好んでめくら縞の着物に白木(しろき)の三尺をしめてゐたと云ふ男である。

   *

とあった。但し、「月代」を「さかゆき」と訓ずるケースもあるので誤記ではない。筑摩書房全集類聚版の脚注に『月代が五分程に伸びたた髪。浪人・病人に扮する芝居の髪』とあって、思わず膝を打った。

「白木の三尺」前の「孤獨地獄」の引用に出る。筑摩書房全集類聚版「孤獨地獄」の脚注に『白木屋で売り出した柔小紋の三尺帯』とある。「白木屋」は「しろきや」と読み、現在の東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ(法人自体としては現在の株式会社「東急百貨店」の前身に当たる)。「柔小紋」は不詳。正絹の小紋のことか。「三尺帯」は男物の帯の一種であるが、この「三尺」は鯨尺の三尺なので、一メートル十四センチ弱である。

「單」「ひとへ(ひとえ)」。

「チヂミ」「縮織(ちぢみを)り」。布面に細かい皺(しぼ)を表した織物の総称。特に、緯(よこ)糸に強撚(つよねり)の糸を用いて織り上げた後、湯に浸して揉み、皺を表したものを指し、綿・麻・絹などを材料とする。夏用。越後縮・明石縮などがある。

「マオカ」「眞岡木綿」で「もおかもめん」のこと。綿織物の一種で現在の栃木県真岡(もおか)市付近並びに茨城県下館市にかけて織られていた丈夫な白木綿の織物で、真岡を集散地とした。浴衣・白足袋の地などに用いた。現在は全国的に生産されている。

「荒磯」荒磯緞子(あらいそどんす)であろう。波間に躍る鯉を金糸で織り出した豪奢な緞子(繻子(しゅす:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現れるようにした織物。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢があって肌ざわりがよい)の一つで、経繻子(たてしゅす)の地に、その裏組織の緯(よこ)繻子で文様を表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。「ドン」「ス」ともに唐音。]

    

ツンボの粗中――旅役者

[やぶちゃん注:「素」は「粗」のミセケチ(見せ消ち)であろうが、「素中」も「粗中」も不詳。その旅役者の芸名か。]

                母10

                千代40

千枝――女の俳諧師       藝者 婆さん

          >越後の人

木和――千代の夫           爺さん

[やぶちゃん注:「10」「40」は正立縦書。

「千枝」不詳。

「木和」不詳。

「千代」不詳。或いは次段の最後に出る香以のところに「居候」する者の一群か。]

津藤 小使ひのない時には鐡の棒(鍔のつきし木刀)を持つて「伊」へ來る(この棒は棺へ入れる) 「向う橫町から叔父さんが來たよ」と云へば 子供 奉公人の terror. 米でも何でも「伊」より仕送る 「伊」へ來れば鰻が好いとか鮨が好いとか云ふ 十圓位小使を持たせてやる 居候三四人ゐない事なし

[やぶちゃん注:「津藤」冒頭注で出した通り、細木香以の俗称の一つ。

「伊」は伊三郎。

terror」「恐怖の種」の意。

「十圓」明治初期(香以は明治三(一八七〇)年没)のそれは現在の三十万円から四十万円は優にする。

「居候三四人ゐない事なし」香以の気風から、宿無しの芸人や俳諧師、壮士やヤクザ者が溜まっていたものであろう。]

                   
おせき

吉原の河東節の老太夫連中(三味線びきは婆藝者)來り 「伊」方にて語る これは「伊」に馳走や何か持たせる爲なり 「津」竹の棒にて老太夫のつけ髷をとる 「ダンナ およしなんしよ」と云ふ(伊の妻河東を語る)

[やぶちゃん注:「河東節」(かとうぶし)は浄瑠璃の流派名。十寸見(ますみ)河東(江戸太夫河東)が享保二(一七一七)年二月に江戸で始めた代表的な江戸浄瑠璃。語り口は上品で力強く、三味線もまた、強い弾き方を特徴とする。

「おせき」は「婆藝者」の名であろう。

「伊の妻」芥川龍之介の養母儔の母で香以の姉須賀。]

毛氈をひき 見臺をおき 太夫二人 三味線ひき一人 「助六」などかけ合ふ 百目蠟燭 眞鍮の燭臺 うちのものだけ(親夫婦兄弟三人 婆や二人 店の番頭一人 若いもの四人 小僧二人) 他の家のものを呼ばず 津が何をするかわからぬ故

親類の鳥羽屋(三村淸左衞門 十人衆 義太夫に凝る 三味線ひきは花澤三四郎)「伊」の家に床をかけ 義太夫の揃ひをなす 三四郎の弟子は皆旦那衆 龍池と津伊と相談し 河東節をよぶこととす されど向うの義をきくも詮なしとて三人にて義太夫の急稽古す 鳥羽屋へは祕ミツ 野澤語市を師匠 阿古屋琴責め 三人及び三味線の名貼り出す 三人 肩衣をつけ 龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋 をやる 義太夫の連中のうち これをやる人椽側よりころげ落つ 「こちのや」と云ふ狂歌師なり

[やぶちゃん注:「鳥羽屋」「三村淸左衞門」香以の父龍池(龍也が本名らしい)の後妻(香以の母かよではない。かよはそれ以前に離縁されている)の実家の継嗣であろう。森鷗外の「細木香以」に『鳥羽屋三村淸吉の姉すみを納(れ)て後妻とし』とあり、また、この直後、香以=『子之助は』数え二十歳の『年十二月下旬に繼母の里方鳥羽屋に預けられた』とある。

「花澤三四郎」不詳。

「龍池」既に述べた通り、香以の父。

「津伊」香以(「津」藤)と、彼の姉須賀の夫「伊」三郎。

「義」義太夫。

「野澤語市」不詳。

「阿古屋琴責め」浄瑠璃「壇浦兜軍記(だんおうらかぶとぐんき)」(全五段。文耕堂と長谷川千四の合作。享保一七(一七三二)年大坂竹本座初演)の三段目口(くち)の通称。平家の残党平景清の行方を探す鎌倉方の畠山重忠が、遊女の阿古屋に琴・三味線・胡弓を弾かせ、その音色が乱れていないことから、嘘をついていないことを知るという場面。

「肩衣」「かたぎぬ」。ここは太夫が着る裃(かみしも)のこと。

「龍池 重忠 伊 岩永 津 阿古屋」これは義太夫で、「龍池」が畠山「重忠」を演じ、「伊」三郎が「岩永」(重忠とともに景清を探索する岩永左衛門)を、「津」藤香以が「阿古屋」を演じた、ということを指す。

『「こちのや」と云ふ狂歌師』不詳。

 冒頭注で述べた通り、以下の部分は、新全集の原資料になく、旧全集のものであるが、ここまでの原資料や旧全集の「手帳」の電子化で判明した通り、芥川龍之介は句読点を実際には附していないケースが殆んどである。されば、旧全集のそれらも総て除去して、読点は一字空けとした。総て一字下げはママである。]

 

     *

 

 町を通ると叫聲

 瓶にさした花ありと云ふ なし かへればある

 窓ガラスの外に空中に寢た人

 メヂアム・妙な本の line をよむ

[やぶちゃん注:「メヂアム」“medium”なら、伝達・通信・表現などに関わる「手段・媒体・機関・媒介物・媒質・中間物」の意。“Median”なら「中央値」(有限個のデータを小さい順に並べたとき中央に位置する値)であるが、芥川龍之介は後者の「メジアン」を「メヂアム」とは表記しないように私は思う。

line」文字列・行・短詩。]

 家中が水になつた

 床にはつてゐる男を見る

 收容所の俘虜(支那人)日本軍人の死を見る

 足のかかとでものを見る★

Kakatotetyouhoi

[やぶちゃん注:★の部分に足先を上にした小さな上記の手書き図が入る。]

 外を通る 實在せざる stone-balustrade を見る 後數日實在する

[やぶちゃん注:「stone-balustrade」「石製欄干」。

 これらは――あたかも――アンドレイ・タルコフスキイの映像のようではないか!!!――


 

2018/02/15

芥川龍之介 手帳12 《12―22~12-24》 / 手帳12~了

《12―22》

[やぶちゃん注:以下、最後まで、総てが住所記録欄となり、実際に住所と名前(姓だけが殆んど)となるので、気になる一部のみ(姓名フルに書かれたものは総てに亙って検証した)に注をすることとする。その場合は、今までのようには注の後を一行空けないこととした。中には、芥川龍之介の親しい友人の誰それではないかと思われるありきたりな姓も含まれているが、書簡の記載の住所照らし合わせて一致を見ないものも多いので、比定推定注はごくごく一部に限ってある。]

○榛名  近藤

○阿蘇(神戸氣附)  淸水

[やぶちゃん注:「神戸」の地名気付で「阿蘇」という人物に出すと、「淸水」という人物に渡るというのか? 意味がよく判らない。]

M. 1e Prof. R. R. l'Ecole normale supérieure Paris

[やぶちゃん注:フランスのエコール・ノルマル・シュペリウール(École Normale Supérieure:「高等師範学校」の意)の教授である。]

○京都萬里小路一條上ル 關内上内方  菊地

[やぶちゃん注:菊池寛であろう。彼は明治四三(一九一〇)年に第一高等学校第一部乙類に入った同期には芥川龍之介(但し、菊池は四つ年上。これ以前、東京高等師範学校で授業をサボっていたことから除籍処分を受け、明治大学法科に入るも、第一高等学校入学を志して中退、徴兵逃れのために早稲田大学に籍のみを置いて受験勉強するといった経緯があった)や井川恭(一高卒業後は同じ京大に進んだ芥川龍之介の盟友で後の法学者恒藤(婿養子で改姓)恭)がいたが、卒業直前に「マント事件」(菊池寛が友人が盗んだと推定されるマントを質入れし、窃盗の犯人の身代わりとなったもの)原因となって退学(大正二(一九一三)四月)、その後、友人成瀬正一(芥川の友人でもあった)の実家から援助を受け、京都帝国大学文学部英文学科に入学、大正五(一九一六)年七月に京大を卒業している。本手帳の記載推定上限は、大正五(一九一六)年或いは前年度末(東京電力株式会社の前年大正四(一九一四)年発行の手帳で、一九一五年のカレンダーなどが附されてある)からであるから、この住所欄の初めの方に菊池寛の京都の下宿先が書かれていても、何ら、不思議はない。]

麻布六本木31 長岡 Jones

[やぶちゃん注:31」は正立縦書。以下、二桁半角表記のそれは総て正立縦書なので本注は略す。

Jones」既出既注のアイルランド人の友人でジャーナリストの Thomas Jones(一八九〇年~一九二三年)。岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、大正四(一九一五)年の来日の際には、『新橋驛まで出迎え』、『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』(下線太字やぶちゃん)と述べておられるから、間違いない。大正八(一九一九)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移』ったともある。彼をモデルとした名品「彼 第二」の注で、私は、芥川龍之介とジョーンズとの邂逅を大正五(一九一六)年の冬に措定したが、これは作品の中の描写によるもので、大正五(一九一六)年年初であっても何ら、問題はない(鷺只雄氏の年譜は同年冒頭の部分に、彼らが知り合ったという漠然とした記載がある)。しかもそうすると、前の菊池の住所記載の時期とも矛盾なく一致するからである。]

麻布不二見町31 Playfair

[やぶちゃん注:「Playfair」(プレイフェア)というのは外国人の姓として実際に存在する。]

淺草駒形町61  久保田

○麹町區飯田町三丁目十三番地 中島  市川

○京都上京區聖護院町上リ■■  洛陽館5

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○下谷谷中淸水町十二  依田誠

[やぶちゃん注:「依田誠」(生没年未詳)芥川龍之介の府立第三中学校時代の同級生。二人の担任で英語教師であった広瀬雄(たけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)と龍之介の三人で明治四一(一九〇八)年(或いは前年)の夏休み七月、関西旅行に出かけ、高野山などを訪れている。彼の名は、芥川龍之介の怪談蒐集録「椒圖志異」の「怪例及妖異」の「4」及び「魔魅及天狗」の「3」で、怪談話者(提供者)としても出る(リンク先は私の非常に古い電子テクスト)。]

○府下柏木四三三 聖書學院前  西條

本郷西片町1ノ三 本田  小宮

○横濱市  矢代

○大森不入斗402  加藤

[やぶちゃん注:「不入斗」「いりやまず」と読む。東京府荏原(えばら)郡旧入新井町(いりあらいまち)現在の大田区大森北付近。]

○本郷森川町四七 最上  山宮

○牛込餘丁町一〇九  森口

[やぶちゃん注:東京都新宿区余丁町(よちょうまち)として現存する。]

○〃〃津久戸九 廣井家方  日夏

[やぶちゃん注:後の詩人で英文学者の日夏耿之介(明治二三(一八九〇)年~昭和四六(一九七一)年)であろう。彼は芥川龍之介より二歳年長である(早稲田大学英文科・大正三(一九一四)年卒)が、芥川龍之介は第一短編集「羅生門」(大正六年五月二十三日発行)を彼に贈呈しており(大正六年六月十六日佐藤春夫宛書簡・旧全集書簡番号二九五)、日夏は大正六年六月二十七日の『羅生門』出版記念会にも出席している。]

○神奈川縣三浦久里濱ペルリ  小川傳六

[やぶちゃん注:ペリー上陸記念碑(明治三四(一九〇一)年七月十四日に除幕。太平洋戦争中の昭和二〇(一九四五)年二月八日に引き倒され、その半年後の敗戦から三ヶ月後の十一月に再建)のある、現在の神奈川県横須賀市久里浜七丁目附近と考えられる。「小川傳六」なる人物は不詳。機関学校時代の知人か。]

〇千葉縣東葛飾郡市川町字板木三千二百二十  鈴木定吉

[やぶちゃん注:「鈴木定吉」不詳。同姓同名の児童文学者がいるが、明治四二(一九〇九)年生まれで若過ぎる。]

○府下大久保西大久保四九二  矢内原

[やぶちゃん注:経済学者で後の東京大学総長となる矢内原忠雄(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年)である可能性を否定出来ない。彼は芥川龍之介と一高の同期であり、無教会主義キリスト教の指導者としても知られ、後に出る室賀文武とも知り合いであったからである。但し、彼は大正六(一九一七)年に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社するや、別子銅山に配属されており、大正九(一九二〇)年に母校の経済学部に呼び戻され、助教授となるも、同年秋には欧州留学に出ており、東京にいた時期が非常に限定されるから、そうだとも言えない。]

○本郷森川町四七 最上方  山宮

○小石川スワ町三七 番所  久米

○岡山門内一一〇二 崇雅院  平塚

[やぶちゃん注:「崇雅院」は目を引く固有名詞であるが、全く不詳である。]

○本所淸水町二二  平松

[やぶちゃん注:後に芥川龍之介が帝国ホテルで心中未遂をする芥川の妻文子の幼馴染みであった平松素麻子(ひらまつすまこ 明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)である可能性は、住所からみて、極めて低い。また、彼女が「秋」(大正九(一九二〇)年四月『中央公論』)の情報(女性の手紙の書き方・髪型の種類など)提供者として妻文によって紹介されて、急速に親しくなる時期は本手帳の推定下限より後である。寧ろ、芥川龍之介の幼少・少年期の「本所」であるから、その頃の友人か知人である可能性が高い。]

○東糀町飯田町三ノ一一三 中島  市川

《12―23》

○芝區下高輪五十五  塚本

〇本郷千駄木五七  山本

○中澁谷四二四  ■■

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○橫濱住吉町二ノ三二  矢代

○千葉縣送船隊第六中隊  長島

○松江南殿町内中原御花畑一六七  井川

[やぶちゃん注:盟友井川恭の実家。]

○田端西大通五三三  廣瀨

○牛込天神町一三  松浦

○宇和島町神田川原112  藤岡

○小石川區小日向臺町二ノ二七  奧野

○本郷元町一ノ三 安達  平塚

○森川町一谷三〇三  山本

○駒込曙町十一 はノ八號  奧野

〇牛込廿騎町卅 純勝舍  矢羽

○白山御殿町110  眞心寮■■

[やぶちゃん注:「■■」は底本の判読不能字。]

○上海四川路三物  西村

[やぶちゃん注:芥川の府立三中時代の同級生の友人西村貞吉(ていきち 生没年未詳)でんはなかろうか。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川龍之介は中国特派の際に彼に逢っており、「長江游記 一 蕪湖」の冒頭から実姓名で登場している(リンク先は私のブログ版。「長江游記」全篇サイト版はこちら)。帰国直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。]

○目白臺高田村松木田四八七  平田義雄

[やぶちゃん注:「平田義雄」不詳。]

田バタ吉田牛ノ宮田バタ方

○相州鎌倉坂の下十一  奧野

○小石川戸崎町一二  山宮

○本郷五 廿  松岡

○椛町區須田町6-19  紀愛

[やぶちゃん注:「紀愛」は苗字としては特異だが、読みさえ不詳。「きあい」か。]

○本郷區曙町十三 はノ八  オクノ

○府淀橋町字柏木湖  石田三治

[やぶちゃん注:「石田三治」明治二三(一八九〇)年~大正八(一九一九)年)はトルストイの研究で知られる評論家。北海道に生まれで、青森県七戸町で育った。東京帝国大学哲学科(美学専攻)を卒業、日本基督教青年会同盟主事を務める傍ら、ヨーロッパ文化に対する博識を駆使し、月刊誌『トルストイ研究』を始めとして、『新潮』『帝国文学』『心理研究』『新人』『日本評論』『大学評論』『開拓者』『六合雑誌』等に、客観的且つ実証的な論文及び随想を精力的に発表した。芥川龍之介・菊池寛・豊島与志雄・内村鑑三・南原繁・矢内原忠雄といった著名な作家・政治家・学者らとの多彩な交友関係があったが、病に倒れ二十九歳で夭折した。著書に「トルストイ書簡集』」(大正七(一九一八)年新潮社刊)や「全トルストイ」(大正八年大鐙閣刊)などがある(以上は「青森県近代文学館」公式サイト内のこちらのページを参照した)。]

○本所小泉町30  山内

○麻布市兵工町1の7  長岡 J.

〇四谷北伊賀町17  山宮

○小石川大塚仲町廿七  渡邊半

Schinbashi Komparu Terajimaya Kyobashi Minami Kinroku 1 Tateishi K.

[やぶちゃん注:それぞれ「七番地」「金春」「寺島屋」「京橋」「南」「金六 一」(?)「立石」(最後のイニシャルは名前か)か? この内、南金六町(みなみきんろくちょう)は当時、東京府東京市京橋区に存在した町丁名である。しかもここの旧十四番地と旧十五番地内には「金春屋敷跡」(江戸幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた(他に観世・宝生・金剛の四家)の中で最も歴史のある金春家の屋敷跡。現在も「金春通り」として名が残る)があった(現在の銀座八丁目七番五号及び十三号)。]

○西片町 10(下919  滝田哲太郎

[やぶちゃん注:「滝田哲太郎」は芥川龍之介も多くの作品を発表した『中央公論』の名編集長として知られ、多くの新人作家を世に送り出した滝田樗陰(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)の本名。]

○糀町下六番町27  林原耕三

[やぶちゃん注:「林原耕三」(明治二〇(一八八七)年~昭和五〇(一九七五)年)は英文学者で俳人。福井県出身で旧姓は岡田。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介らを漱石に紹介したことで知られる。東京帝国大学英文科で芥川龍之介の先輩(七つ年上)であったが、大正七(一九一八)年卒と、年下の芥川らが東大を卒業してもなお、数年も在学したことから、「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事し、俳号は耒井(らいせい)と称した。大正一四(一九二五)年に松山高等学校教授となり、その後、台北高等学校教授・台湾総督府在外研究員として欧米に滞在、帰国後は法政・明治・専修・東京理科大学の教授を務めた(以上はウィキの「林原耕三」に拠った)。]

〇本郷彌生町3 はノ三  後藤末雄

[やぶちゃん注:「後藤末雄」(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年)は作家でフランス文学者。芥川龍之介からは『新思潮』の先輩に当たる。東京生まれ。ウィキの「後藤末雄」によれば、『「金座の後藤」と言われる工芸の旧家に生まれ、幼くして母を失う。府立三中、一高を経て、東京帝国大学英文科在学中、和辻哲郎、谷崎潤一郎、木村荘太らと』、第二次『新思潮』の『創刊に参加し、小説家として出発』した。大正二(一九一三)年、東大仏文科を卒業。華々しくデビューした谷崎に対し、他の同人が創作から脱落していく中』、森鷗外らの『愛顧を得て創作を続け』た。大正六(一九一七)年から翌年にかかけて、大作「ジャン・クリストフ」の初訳を刊行したが、『同時期に創作の』方の筆は絶った。大正九(一九二〇)年、『永井荷風の世話で慶應義塾の教員となり』、後、『慶應義塾大学教授』に就任した。昭和八(一九三三)年の博士論文「支那思想のフランス西漸」では、『儒教のフランス近代思想への影響を解明して、比較思想史の先駆的研究となった』とある。]

○東片町111  豐島

[やぶちゃん注:作家でフランス文学者となった豊島与志雄(とよしまよしお 明治二三(一八九〇)年~昭和三〇(一九五五)年)の可能性が高い。東京帝大在学中の大正三(一九一四)年に芥川龍之介・菊池寛・久米正雄らと第三次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女作「湖水と彼等」を寄稿し、注目された。]

○谷中初音町4の141 大久保方  金子保

○小石川大塚仲町廿七  渡邊

〇谷中土三崎南町40 保阪新三郎方

○御宿六軒町26

○橫濱市南太田町二の一六六 米澤方  山内

○府下千駄ヶ谷544 渡邊  蔭山

○牛込矢來町三

〇駒込林町二二  堀義二

[やぶちゃん注:同姓同名の彫刻家はいるが、同一人物かどうかは分らぬ。]

〇京橋加賀町18  新公論社

○本郷追分町19  大學評論社

○東大久保23  室賀文武

[やぶちゃん注:「室賀文武」(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)は芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人。後に俳人として号を春城と称した。山口県生まれ。芥川の実父敏三を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし明治二八(一八九五)年頃には現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と逢っている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ大正六年十月二十一日。これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト)、「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。]

○海岸通 野間榮三郎方

○本郷區駒込千駄木町70 池内藤兵エ方  上瀧

[やぶちゃん注:「上瀧」龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)であろう。一高には龍之介と同じ明治四三(一九一〇)年に第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部卒、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いたと関口安義氏の新全集の「人名解説索引」にある。龍之介の「學校友だち」では巻頭に『上瀧嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門(アモイ)の何なんとか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必ずしもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸(ミノト)と言ふ。上瀧のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり』とある。]

○永井祐之

[やぶちゃん注:不詳。]

《12―24》

○京都市上京區吉田町 神前阪吉野館

[やぶちゃん注:以上で「手帳12」は終わっている。]

芥川龍之介 手帳12 《12―21》

《12―21》

Croce : Æthetic as science of expression & general linguistics

[やぶちゃん注:ヘーゲル哲学と〈生の哲学〉を結びつけ、ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えたイタリアの哲学者・歴史学者ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce 一八六六年~一九五二年)の一九〇二年の著作L'Estetica come scienza dell'espressione e linguistica generale(「表現の科学及び一般言語学としての美学」)の英訳(以上はウィキの「ベネデット・クローチェ」を参考にした)。英訳全文をこちら(PDF)で読める。芥川龍之介よ、凄い時代になったろ?]

 

Stevenson Thrawn Janet

[やぶちゃん注:「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」(The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde(一八八六年出版)で知られるイギリスの作家ロバート・ルイス・バルフォア・スティーヴンソン(Robert Louis Balfour Stevenson 一八五〇年~一八九四年)が一八八一年に発表した短篇怪談「捩じけ首のジャネット」。彼の作品の中でも秀逸のホラーである。]

 

6月14

[やぶちゃん注:今までの記載から見て、恐らくは、予定していた洋書の注文日。]

Russe1, Engravings of W. B.

同上

[やぶちゃん注:編者注で『W.B. William Blake の略』とある。イギリスの詩人で画家(銅版画家)として知られるウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の「Engravings」はここでは銅版画。イギリスの美術史家アーキバルド・ジョージ・ブラームフィールド・ラッセル(Archibald George Blomefield Russell 一八七九年~一九五五年)の一九一二年の著作。]

 

Naidu : Golden Threshold

 Mysteries of Paris   Eugéne Sue

 Wanderring Jew Eugéne Sue

Thomas Y. Crovell & Co. (The Popular Library of Notable Books)

[やぶちゃん注:二つの「{」は底本では大きな一つ。

Naidu」インドの女流詩人で政治(活動)家でもあったサロージニー・ナーイドゥ(Sarojini Naidu 一八七九年~一九四九年)。個人ブログ「トーキング・マイノリティ」のインドの女性活動家たちによれば、彼女は『ベンガル出身のバラモン女性で、南インドの非バラモンと恋愛結婚』したが、当時、『異なるカースト間の結婚でも』、『女のカーストが高い場合は逆毛婚と呼ばれ』て、『特に忌み嫌われたにも係らず、自分の意思を貫いた』人物で、『イギリス留学中から詩人として有名とな』り、『ガンディーの信奉者として民族運動に参加』、一九二五年の『インド女性初の国民会議派議長に選出され、インドにおける女性運動の指導者でもあった』とある。彼女はその詩によって「インドのナイチンゲール」と呼ばれたという。

Golden Threshold」(「黄金の敷居(戸口)」)は彼女の一九〇五年にイギリスで刊行した詩集。“Internet Archive”で英語原典が読める。

Mysteries of Paris」「Eugéne Sue」はフランスの小説家ウージェーヌ・シュー(Eugène Sue 一八〇四年~一八五七年:ウィキの「ウージェーヌ・シューによれば、パリ生まれで、父はナポレオン軍の軍医として知られ、ジョゼフィーヌ皇后が名付け親となったとされる。後、自身も海軍の軍医として働き、一八四二年から翌年にかけて新聞で連載したこの「パリの秘密」(Les Mystères de Paris)で絶大な人気を博した。同作は『パリの貧民や下層社会を描いた社会主義的な作品で、当時』、『その人気はアレクサンドル・デュマ』に匹敵したが、『大衆小説作家とみなされ、その後』は『あまり読まれなくなった』とある(下線やぶちゃん)。

Wanderring Jew」「彷徨(さまよ)えるユダヤ人」。ウージェーヌ・シューの一八四四年から翌年にかけて発表された小説。芥川龍之介には同伝承を素材とした、大正六(一九一七)年六月『新潮』発表の、ペダンチックな随想「さまよえる猶太人(ゆだやじん)」(ルビは以下に示した同作本文に拠る)があり、その冒頭で(岩波旧全集を用いた)、

   *

 基督教國にはどこにでも、「さまよへる猶太人(ゆだやじん)」の傳説が殘つてゐる。伊太利でも、佛蘭西でも、英吉利でも、獨逸でも、墺太利でも、西班牙でも、この口碑が傳はつてゐない國は、殆一つもない。從つて、古來これを題材にした、藝術上の作品も、澤山ある。グスタヴ・ドオレの畫は勿論、ユウジアン・スウもドクタア・クロリイも、これを小説にした。モンク・ルイズのあの名高い小説の中にも、ルシフアや「血をしたたらす尼」と共に「さまよへる猶太人」が出て來たやうに記憶する。最近では、フイオナ・マクレオドと稱したウイリアム・シヤアプが、これを材料にして、何とか云ふ短篇を書いた。

   *

と、彼の名(ユウジアン・スウ)を出している。同随想は「青空文庫」ので読める(但し、新字新仮名)。

Thomas Y. Crovell & Co. (The Popular Library of Notable Books)」最初は出版社名で、括弧内は叢書名(「著名書の大衆図書館」?)であろう。]

 

Félicien Rops: Verlag von Maroquardt & Co. Berlin

[やぶちゃん注:ベルギーのエッチングやアクアチント技法を得意とした版画家で、世紀末の象徴主義やデカダン派の文学運動と関係を持ち、そうした作家たちの詩集にイラストを好んで描いたフェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)の画集か評論書であろう。後半はベルリンの書店であるが、恐らくは「Maroquardt」の綴りはは「Marquardt」が正しい。]

 

○7月15

[やぶちゃん注:同じく注文予定日と推測される。]

 

Ricket : Pages on Art

Ricket : Gustave Moreau

Ricket : Degas

[やぶちゃん注:綴りが違うが、イギリスのイラストレーターとしてビアズリーと並称される画家チャールズ・リッケッツ(Charles de Sousy Ricketts 一八六六年~一九三一年)ではなかろうか? 英文のグーグルブックスの複数の本の注リストに、彼と思しい名とともに一九一三年の著作としてPages on Art、一八九三年の著作としてA Note on Gustave Moreauを見出せるからである。「Degas」はフランスの印象派の画家エドガール・ドガ(Edgar Degas 一八三四年~一九一七年)であろう。]

 

Butcher : Some Aspects of Greek Genius

[やぶちゃん注:アイルランドの古典学者で政治家でもあったサミュエル・ヘンリー」ブッチャー(Samuel Henry Butcher 一八五〇年~一九一〇年)の一九〇四年の著作(「ギリシャ精神の諸相」)。]

 

Andreev, The sorrow of Belgium Mac millan

[やぶちゃん注:ロシアの作家で第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家となったレオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев:ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreev 一八七一年~ 一九一九年)の一九一七年(?)の戯曲「ベルギーの哀しみ」(侵攻するドイツに果敢に戦ったベルギーを讃えたもの)。最後は書店名。]

 

308 急 1932

[やぶちゃん注:意味不明。]

ブログ・アクセス1060000突破+満61歳誕生日記念 梅崎春生 遠足

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年九月号『新潮』に発表。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻を用いた。

 作中、教師の音頭で歌われるのは軍歌「元寇」。明治二五(一八九二)年に発表された旧日本陸軍軍楽隊士官永井建子(けんし(男性) 慶応元年九(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)の作詞・作曲。敗戦まで頻りに歌われた。

 主人公の家庭設定は梅崎春生のそれとは全く異なるが、ロケーションは福岡と考えてよい。それが軍歌「元寇」と響き合うからであり、「大きな寺」は不詳だが、出てくる砂浜と松原は福岡市西区姪浜の白砂青松の景勝地で歌枕でもある、元寇防塁跡がある「生の松原(いきのまつばら)」(神功皇后が新羅遠征の折りに松を植えたとされる)と考えられる。

 本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日2018年2月15日に1060000アクセスを突破した記念と、たまたま本日が私の満61歳の誕生日であることの記念として公開した。【2018年2月15日藪野直史】]

 

 

   遠足

 

 朝は曇って、五月にしては寒かった。

 お母さんははやばやと起きて、台所のかまどの前にしゃがんで、火吹竹などを使って、御飯をたいていた。お母さんの火吹竹の使い方はぎごちない。竹の長さをもて余しているような恰好で、また吹き込む息がどこかで洩れているらしく、へんなところで灰神楽(はいかぐら)が立ったりする。ふだんお母さんは御飯をあまりたかないのだ。たくのは働き女のおふさで、今日はおふさは出来立てのカマボコとか、その他おかずの材料を買いに出かけている。

 今日は僕の遠足の日なのだ。

 だからおかずも、タクアンやそこらで間に合わせるわけには行かない。質屋というれっきとした商売をやっているのに、貧弱なおかずを持たせてやっては、こけんにかかわるというのがお母さんの考え方で、そのくせ誰も見ていない家の中での食事は、たいへん質素だった。かまどの下はちろちろと火がふき、煙は土間を這ってしずかに動いている。釜からぶくぶくと泡がはみ出して来たので、お母さんほあわててかまどの薪を引いた。火消桶の中で、それらはじゅうと音を立てながら、いがらっぽい煙をはいた。上り框(かまち)に立っている僕に、お母さんはつんけんした声で言った。

 「何をしてんだよ。早く顔を洗う!」

 僕は土間に降りて、顔を洗った。うちの土間は広かった。内井戸もあったし、かまどもあるし、その他水がめとか流しとか、いろんな道具が置いてあるのに、まだがらんとした余地がある。井戸の水はつめたかった。僕は耳のうしろを特に念入りに洗った。子供が顔を洗ったかどうか、どのくらい丁寧に洗ったかそそくさと洗ったか、耳のうしろを見れば判るのだ。妙なところが標準になると思うが、大人たちがそう言うのだから仕方がない。

 おふさが買物から戻って来た。なぜか足音を忍ばせるようにして、火の消えた土間の薄暗がりに向って、おびえた声で言った。

「ごりょんさん。こんなのが裏木戸に――」

 おふさは折りたたんだ紙片をひらひらさせた。

 お母さんはしゃがんだ姿勢から立ち上って、立っていた僕をはね飛ばすような動きで、つかつかとおふさに詰め寄った。

 「何があったんだい。何が?」

 答えも待たずに、おふさからその紙片を引ったくった。がさがさと拡げて、窓から入る外光にさらし、眼を近づけた。眠がもう吊り上っている。お母さんがいらいらしているわけは、僕には判っている。お爺さんの姿が一昨日から見えなくなったせいだ。僕は呼吸を詰めてお母さんの顔を見ていた。

「まあ。お前んとこの爺だなんて――」

 お母さんの眼は寄り眼になって、その眼が上下に忙しく動いた。唇の端を嚙んだ。じろりとおふさの顔を見ると、上り框に飛び上り、お父さんの部屋の方にかけて行った。お母さんは肥っているくせに、動作がはやい。学校に参観に来ると、友達が、お前んちのオートバイが来たぞ、などと冗談を言う。お母さんがかけて行ったあと、おどろおどろとした空気が残った。しばらくして、僕はおふさに訊ねた。

「あの紙、どこにあったんだ~?」

「裏木戸の桟(さん)にはさまっていた」

「そして、何て書いたった?」

「読みませんよ、あたしは」

 もうウソを言っている。読まないわけがないじゃないか。そう思って、僕がにらみつけると、

「くねくねしたむつかしい字でしたよ」

 そう言い捨てて、おふさはかまどの方に歩き、釜の蓋をとって、ちよいと中の具合をのぞいた。そこらの薄暗がりから、がさごそと七厘を引っぱり出した。

 向うの部屋から、妹がぐずる声が聞えて来る。

 来年はもう小学校だというのに、妹は寝起きが悪くて、宵っぱりで、いつも朝はねむたがって、泣いたりぐずったりするのだ。それを叱りつけるお母さんの声がした。いつもの声と違って険があるので、ぐずり声は渋々やんだ。

 

 朝食の用意がととのった。それで皆茶の間にあつまった。ふだんならお爺さんの箱膳をつくって、部屋に届けねばならないのだが、今日はお爺さんがいないからその必要はない、僕の弁当をお母さんはつくるつもりだったが、さっきの手紙で気分をこわしたのだろう。弁当つくりはおふさにまかせて、もっぱら茶の間の給仕役に回っていた。お父さんとお母さんは低い声で会話を交していた。お父さんの声は心配げな声というより、何かうんざりした、迷惑そうな声だった。もっともお父さんは、酔っぱらった時を別にすれば、いつもそんな声を出す。営業所に坐っていて、お客が質種(しちぐさ)を持って入って来ると、ひどく気のない迷惑そうな声で応対する。質屋という商売は、調子のいい声を出しては、高貸しするおそれがあると、ある時酔ってお父さんが説明して呉れたのだが。

「何度家出すれば、気がすむんだろうな。実際しようのないお爺さんだなあ」

 お父さんは何だか気のない声を出す。ほんとに気がないのだ。迷惑声を出すのは、実際に迷惑しているからだ。

「誰だろう、あんな変な手紙を書いたのは? 爺さんの身柄は預っただなんて。身柄を預って、どうしようというんだろう?」

 お父さんは顔をしかめる。やせているから、しかめると、頰骨が目立つ。

「今日の御飯は、少しシンがあるなあ」

 お母さんの火の引き方が早通ぎたし、むれている最中におふさが蓋をとったりしたためだ。

「この間から、三度目ですよ、これで」

 飯のことでなく、家出のことだ。

「よそ様に恥かしくてしようがない。まるでお爺さんを虐待しているようで――」

「虐待されているのは、むしろおれたちだよ」

 お父さんは箸を置いて、爪楊枝(つまようじ)を取り上げた。御飯は一杯しか食べなかった。

「警察に届出無用だなんて、黙ってりや警察に届けるとでも思ってるのか――」

 お父さんは小首をかしげて、爪楊枝をしきりに使った。今までの例では、放っといてもお爺さんは三四日目あたりに、とことこと戻って来た。届けなくても、戻って来るから、誰にも届ける必要はない。こつそりと秘密にして置けばいいのだ。しかし、秘密にしても、お爺さんの家出の噂は、すぐに近所にひろまってしまう。それがお母さんの嘆きの種なのだ。

「しかし今度は、へんな男につかまっているらしいな。お爺さんがあんな手紙を書くわけがない」

「お爺さんの筆跡とは違うし――」

 何気なく御飯を嚙むふりをしながら、僕は聞き耳を立てていた。つまり、あの手紙を裏木戸にはさんだのが、そのお父さんの言うへんな男というわけだな。どんな男だろう。あんなお爺さんなんかの身柄を預って、今頃はうんざりしてやしないか。おふさが障子をあけて首を出した。

「遠足のお弁当が出来ました」

「遠足?」

 お父さんがきょとんとした顔で、興味なさそうに僕を見た。

「ふうん。お前、遠足か?」

「犬の食事は、どうしましょう?」

「犬?」

 お父さんは軽蔑的に鼻を鳴らした。

「昨夜の残りの焦げ飯があるだろ。あれをやれ」

 犬というのは、うちの犬じゃない。いや、うちに住んではいるが、飼い主はお爺さんなのだ。お爺さん個人が飼っているのだ。三日前お父さんとお爺さんといさかったのも、その犬のことからだった。一年ほど前、お爺さんがどこからか拾って来た。恰好(かっこう)も悪いし、気持もひねくれている。この間も妹に嚙みついた。着物の上からだから、傷はつかなかったけれども。

「お爺さんは?」

 その妹が間の抜けた質向をした。すこし頭が悪いんじゃないかと思う。

「どこに行ったの?」

 お爺さんがいなくなったことを、やっと今気付いたみたいだ。

「お爺さんはだな、わるい奴に――」

 お父さんはぎろりと眼を剝(む)いて、続く言葉を探した。効果的に妹をおどす言葉を。

「つまりだな、さらわれて行ったんだ。判るな。悪人に連れられて行ったのだ」

「よそに行って、誰にもしゃべるんじゃないよ」

 お母さんも負けずに声を張って、妹をにらみ、次に僕をにらんだ。

「お前もだよ。お爺さんのことを、一言もいうんじゃないよ。おふさ。お前もだ!」

「はい」

 おふさはおそれ入ったように、敷居で頭を下げた。ほんとはおそれ入っていないのだ。ふりをしているだけだ。お父さんが注意した。

「今日は寒いようだから、すこし厚着をさせて、遠足に出しなさい。風邪をひかれちゃ、困る。薬代がかかってしようがない」

 

 朝は寒かったのに、日が登り始めてからだんだんあたたかくなり、登り切ったらひどく暑くなった。厚着をさせられたのがうらめしく、だらだら流れる汗を手拭いでふきふき歩いた。僕だけでなく、たいていの者もそうだった。どうして大人たちは、何かというと、僕たちに厚着をさせるのだろう。やっとのことで市街地を抜けて田舎道に入る。

「上衣を取りたい者は、取ってもよろし!」

 と先生が号令をかけたので、皆よろこんで上衣を脱いだ。思い思いに手に提げたり、腰に巻きつけたりして歩いた。やがて海の見える峠まで来ると、潮風が涼しく正面から吹きつけるので、僕たちはすっかり元気になった。足を引きずるような歩き方はやめて、下り坂になるとひとりでに、足がぴょんぴょんとはねるような気がする。先生の音頭で『四百余州をこぞる十万余騎の敵』という歌を、どなりながら歩いた。いつも遠足というものは、帰り道よりは行きの方がたのしい。僕はうちのこともお爺さんのことも忘れて歩いた。僕は海のにおいが、海風のにおいが大好きだ。

 やがて大きな寺に着いた。参詣(さんけい)をすませ、境内(けいだい)を抜けて、裏の松原に出た。松原の向うは海だ。その松原で昼食ということになった。毎日潮風に吹かれつけているから、松はごつごつと背が低く、海と反対の側にひね曲っていて、根ももりもりと盛り上っている。その板のひとつに腰をおろし、弁当を開きかけたら、棒屋の幸善がやって来て、僕のそばに膜をおろした。棒屋というのは、棒をつくる商売で、幸吉はその家の息子なのだ。

「お爺さん、またいなくなったそうだな。今朝、斑犬がひとりで歩いとったぞ」

 幸吉は僕の弁当をのぞき込んだ。仕方がないから、カマボゴを一片やった。

「あの犬、瘦せてるなあ。餌はちゃんとやっているのかい?」

 餌はちゃんと与えてある。この二三日はお爺さんがいないから、ろくなものは食わせてないが、お爺さんがいると、犬は上等の餌をふんだんに食っている。僕たちよりもおいしい飯を食っている。この間お父さんといさかったのも、それが原因だ。

 お爺さんは少し威張り過ぎるのだ。

 離れの上等の部屋を自分の居間にして、食事も僕たちとはいっしょに食べない。箱膳にして、おふさに持って来させて食べる。食事が済むと、時々茶の間に僕たちの食膳を見に来て、僕たちのおかずがお爺さんのより多かったら、ぷんぷんして、あご鬚(ひげ)をふるわせて怒り出す。

「ろくなものは食わせないで、わしをバカにするのか。わしをいじめるつもりか!」

 その度におふさが叱られて、また箱膳を新しくつくって、離れに持って行かねばならない。だからおふさはお爺さんを嫌っている。面と向き合っては『御隠居さま』と呼ぶが、僕ら子供の前では『爺さん』と呼ぶ。誰もいないところでは『爺い』と言っているらしい。『あの爺い』『ひちやの爺い』[やぶちゃん注:句点や記号なしで終わっているのは、底本のママ。]

 お爺さんが怒ると、一番おろおろするのがお母さんで、放って置くとお爺さんは近所中に聞えるような大声を出すから、おろおろせざるを得ないのだ。お父さんはたいていの場合、知らぬふりをしている。迷惑そうな顔でそっぽ向いている。お爺さんはお父さんから言うと、義父に当るのだ。それではお母さんの実父かというと、そうでない。養父になるのだそうだ。父にもいろいろ種類があって、どうなっているのかはっきりしないが、お爺さんが威張るのも、その辺に関係があるらしい。

 ひとりで威張っているくせに、お爺さんはいつも自分が『いじめられている』『バカにされている』と思っている。だからお爺さんはいつも、とがめるような眼をしているのだ。それが僕にはよく判らない。僕たち子供に対しても、お爺さんはそんな眼付きをする。

 お爺さんは何も仕事をしない。御隠居とは仕事をしない人のことだ。飯だけうちで食べて、あとは将棋さしに行ったり、魚釣りに行ったりする。お爺さんは釣り好きだが、あまり上手じゃない。釣って来た魚も、よほど大漁の時でなければ、僕たちの口に回って来ない。

 この間は一日がかりで、鮒(ふな)を十四五匹釣って来た。城址の堀で釣って来たのだ。お爺さんはそれをおふさに煮させ、おふさの報告によると、五匹は自分で食べ、残りはどうしたかと言うと、全部犬に食わせてしまったのだそうだ。だからお父さんが厭味を言った。れいの迷惑そうな調子で言うから、なおのこと効果があるのだ。

「あんな駄犬に食わせるくらいなら、子供に回して貰えませんかねえ」

 ふたことみこと言葉のやりとりがあって、お爺さんは突然いきり立った。

「わしが釣って来た魚にまで、お前は干渉するのか。それほどわしが憎いのか」

 お爺さんは弾丸のように身体を丸めて、お父さんめがけて突進して行ったが、お父さんが身体をかわしたので、いきなり茶の間の障子にぶち当り、桟(さん)をばらばらにこわしてしまった。お母さんがおろおろと取りしずめている間に、お父さんはぷいと家を出て行ってしまった。障子屋に修繕をたのみに行ったのだ。やがて障子屋がやって来て桟を修繕しているのを、お爺さんは離れから出たり入ったりして、横眼でそれを眺めていたが、ついにたまりかねたと見え、今度はお爺さんがぷいと家を出て行ってしまった。

 それから今日までお爺さんは戻って来ない。つまり、家出をしてしまったのだ。

 

 海岸でしばらく遊んで、帰校ということになった。午後からはますます暑くなり、風もなくなった。弁当は食べたから、それだけ身軽になったわけだが、いっこう身軽になった気がしない。(それにしてもおふさがつくって呉れたお握りの大きかったこと!)足がぼたぼたと重い。足を海にひたして歩いたせいだ。海水の塩がしみ込んで、足がむくんでいる。歩いて行く足並もそろわない。その僕たちを元気づけようとして、先生が『われは海の子』の音頭を取ったが、皆の合唱がひょろひょろ声で、全然揃わないから、先生も呆れたと見え、ついに途中でやめてしまった。

 こんな具合で、行進の速度も遅く、学校についた時は、もう日は沈んでいた。校庭で訓示があって、解散した。妹への土産(みやげ)に海岸で拾った貝殻を、ポケットにじゃらじゃらさせながら、僕はとぼとぼと家路についた。遠足だの運動会だのというものは、始まると気がのびのびするのに、終ってしまうと、何故こんなにいつも気分が滅入ってしまうのだろう。ふだんの日よりもっと心持が沈んでしまう。だから、遠足なんか、やらなければいい。やるとするなら、毎日々々遠足をやる他はないのだ。しかし、毎日遠足をやるような学校は、どこにもないだろう。今のままで我慢する他はない。そんなことを考えながら、僕は裏口から入り、そっと台所に足を踏み入れた。台所には誰もいなかった。土間のかまどのあたりは薄暗い。朝の薄暗さと、薄暗さが違う。そこらからぬっと大入道みたいなものが出て来そうだ。

「お爺さんは帰って来たのかな。それとも、まだかな」

 しんとした周囲の空気を、全身で計るようにしながら、僕は井戸端で足を洗った。長時間歩いたせいか、足指が白くふやけて、自分の足でないような気がする。

心中宵庚申

昨日、観た文楽「心中宵庚申」のエンディングには思わず落涙した。

2018/02/14

芥川龍之介 手帳12 《12―19/12-20》

《12―19》

1219

[やぶちゃん注:突然、説明文のない地図。前後との関係もない謎めいたものである。怪しいぞ! 右上部のそれは「寺」だが、指示線のそれの「下」の下にある字は判読出来ない。「所」「勝」か? しかし、そもそもが、目指す家は中央の斜線の家であるわけだから、その前の「○」のように(電信柱か巨木か?)、「下■」も目安になる「何か」でなくてはならず、その場合、一般人家の名ではなく、一見して分かる何かを意味していると考えるのが妥当であるが、どうも「下」で始まるそれが浮かばない。だから、ますます妖しくなってくる! 後の洋書リストと強いて関係づけるなら、洋書専門店であるが、この時代、洋書を注文出来る書店はごく限られているから、違う気がする。洋書も多く扱う古本屋かも知れない。]

 

Cardinal Farrar  Darkness & Dawn

[やぶちゃん注:「Cardinal Farrar」不詳。

Darkness & Dawn」はアメリカのSF作家ジョージ・アラン・イングランド(George Allan England 一八七七年~一九三六年)の連作“Darkness and Dawn Series”(「暗黒と黎明のシリーズ」)のことか? 英文の彼のウィキによれば、“The Vacant World”(「空虚世界」一九一二年)・“Beyond the Great Oblivion”(「大いなる忘却の彼方へ」一九一三年)・“The Afterglow”(「残光」一九一四年)がある(訳は私のいい加減なもの。以下、同じ)。]

 

Heine  Die Götter im Exils

[やぶちゃん注:ドイツの詩人で作家のクリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の一八五三年の「亡命者の神々」。]

 

Grierson : La Révolte Idéaliste

[やぶちゃん注:「Grierson」はイギリス人の作曲家・ピアニストで、作家でもあったベンジャミン・ヘンリー・ジェシー・フランシス・シェパード(Benjamin Henry Jesse Francis Shepard 一八四八年~一九二七年)のペンネーム、フランシス・グリエルソン(Francis Grierson)である。「La Révolte Idéaliste」はフランス語で「理想主義の革命」で、恐らく一八八九年の作品。内容は不詳。]

 

Grierson : The Humour of the underman

[やぶちゃん注:前注のフランシス・グリエルソンの、恐らく一九一三年の作品。「従属者のユーモア」(?)。内容不詳。]

 

John Pentland Mahaffy : What have the Greeks done for modern Civilization? ": The Lowell Lectures of 1908―1909

[やぶちゃん注:アイルランドの古典主義の学者ジョン・ペントランド・マハフィー(John Pentland Mahaffy 一八三九年~一九一九年)の一九〇九年の著作。「ギリシャ人は現代文明のために何をしたか?」。]

 

William Barry  Heralds of Revolt, studies in Modern Literature & drama

[やぶちゃん注:底本の編者によって、最後の単語は『正しくはdogma』と注がある。イギリスのカトリック司祭で作家であったウィリアム・フランシス・バリー(Barry William Francis 一八四九年~一九三〇年)の一九〇四年の著作。「反乱の先駆者・現代文芸とそのドグマ(主張)の考察」。]

 

H. H. Boysesen : Earl Siguand's Xmas Eve

[やぶちゃん注:ノルウェー生まれでアメリカで作家となったヒャルマー・ヒョルス・ボワイエセン(Hjalmar Hjorth Boyesen 一八四八年~一八九五年)のことであるが、「Earl Siguand's Xmas Eve」(アール・シグアンドのクリスマス・イヴ)は不詳。]

 

Addams Civilization during the Middle Ages

[やぶちゃん注:アメリカの歴史学者ジョージ・バートン・アダムス(George Burton Adams 一八五一年~一九二五年)一八九四年の著作「中世の文明」。]

 

J. A. Symonds : Renaissance in Italy

[やぶちゃん注:イギリスの文芸評論家ジョン・アディントン・シモンズ(John Addington Symonds 一八四〇年~一八九三年)の最初期の一八六三年の評論。]

 

《12―20》

1011

[やぶちゃん注:不詳。大正五(一九一六)年から大正八年までの年譜の当該日を調べたが、特別な予定はない。因みに、大正八年(私がこの手帳の閉区間の下限と考えている年)のその日、路上で自転車とぶつかり、左足を挫いてはいる。まあ、以降の記載から見て、洋書の注文日か、入荷日であろう。]

 

Mauclair  Rodin

[やぶちゃん注:フランスの芸術批評家カミーユ・モークレール(Camille Mauclair 一八七二 年~一九四五年)のフランスの彫刻家フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(François-Auguste-René Rodin 一八四〇年~一九一七年)の評論か。フランス語の彼のウィキに、一九〇四年に書かれたそれらしいもの(複数の芸術家評の一部か)は、ある。]

 

Dunsany  The Book of Wonder

[やぶちゃん注:アイルランドの作家ロード・ダンセイニ(Lord Dunsany 一八七八年~一九五七年)の一九一二年の短編集The Book of Wonder(「驚異の書」)。]

 

Aeschylus   Drama

[やぶちゃん注:古代アテナイの三大悲劇詩人の一人で、ギリシア悲劇の確立者とされるアイスキュロス(ラテン文字転写:Aischylos 紀元前五二五年~紀元前四五六年)のことであろう。]

 

Sapho Crackar shop Wreckage

[やぶちゃん注:「Sapho」古代ギリシアの女性詩人サッポー(ラテン文字転写:Sapphō 紀元前七世紀末~紀元前六世紀初)。英語では「Sappho」とも表記され、「サッフォー」とも呼ばれる。

Crackar shop Wreckage」不詳。「Crackar」は意味不明(クラッカー(cracker)とは綴りが違う)。「Wreckage」は「漂着物・残骸・破片」。]

 

Chaucer Weininger's sex & character

  Feoria Mac's Sin Eater

[やぶちゃん注:「Chaucer」イングランドの詩人で、「カンタベリー物語」(The Canterbury Tales)で知られる、小説家のジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer  一三四三年頃~一四〇〇年)。ウィキの「ジェフリー・チョーサーによれば、『当時の教会用語であったラテン語、当時』、『イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中』世『英語を使って』、『物語を執筆した最初の文人とも考えられている』作家である。

Weininger's sex & character」二十三歳で自殺したオーストリアのユダヤ系哲学者オットー・ヴァイニンガー(Otto Weininger 一八八〇年~一九〇三年)が死の直前(一九〇三年)に著した「性と性格」(ドイツ語:Geschlecht und Charakter)の英訳本。チョーサーの名と並べて書いている理由は不詳。

Feoria Mac's Sin Eater」書名っぽいが、不詳。「sin-eater」というのは「罪食い人」で、昔、英国で死者への供物を食べることによって死者の罪を引き受けてもらうために雇われた人を指す。]

 

l’œvre de Gustave Moreau

[やぶちゃん注:フランス語で「ギュスターヴ・モローの仕事」であるが、誰の本か判らぬ。ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau 一八二六年~一八九八年)は言わずもがな、フランスの象徴主義の画家。]

 

Reliure amateur, coins maroquin du Levant, tête dorée, en plus 40 fr. I. E. Bulloz, Paris

[やぶちゃん注:意味不明。全体では一向分らぬので、分解し、そのフランス語の語句からを推理してみると、「Reliure amateur」は「素人(アマチュア)の製本」でいいだろう。だとすると、「coins maroquin du Levant」というのは、地中海東部及びそこのレバント島或いは沿岸諸国で産した山羊・羊・アザラシなどを用いた高級モロッコ革で出来た、「本のカバー」とか、「本を閉じ収めるベルト」か、或いは、「挿むブック・マーク」か、はたまた、「本の背」ではないか(「coin」は「角・隅・側面」の意があるからな)?! 「tête dorée」は「tête doré」で、こりゃ、もう、天金だろ! となると、豪華だから、「en plus 40 fr.」は並装の値段に「四十フラン追加料金」という意味じゃあるまいか? 「I. E. Bulloz, Paris」はパリの古書店名ということでどうよ?! この僕の解釈、とんでもないかなぁ?……実はそういう、フランス人の素人の方が、並装のフランス語版のボード―レールの「悪の華」を、革装にした、天金に仕上げ、それにオリジナル彩色画挿入を数枚挟んで製本したものを、僕は三十年も前に、古本屋から三万五千円払って買って、今も持ってるんですけど……

 

1)The life of Mary Mag

 2)Work of Apuleius

 3)Andersen's Danish L.

[やぶちゃん注:ここには底本の編者注で『L. Legends の略』とある。]

 4) Chronicles of the Crusades

 5) Gesta Romanorum

 6)Plays of A. S.

[やぶちゃん注:ここには底本の編者注で『A.S. Arthur Symonds の略』とある。]

 7) Bjørnson's Arne

[やぶちゃん注:以上は、一冊の本としては私は不詳。

1」の「The life of Mary Mag」は福音書に登場する、かの「マグダラのマリア(ラテン語:Maria Magdalenaの生涯」だろう。

2」の「Work of Apuleius」は帝政ローマの弁論作家で、奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博したというルキウス・「アプレイウスLucius Apuleius 一二三年頃~?)。代表作とされるMetamorphoses(「変容」)はローマ時代の小説の中で完全に現存する唯一のものだそうである(ウィキの「アプレイウス」に拠る)の仕事」

3」は「Andersen's Danish Legends」だから、デンマークの作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンHans Christian Andersen 一八〇五年~一八七五年:デンマーク語のカタカナ音写:ハンス・クレステャン・アナスン)の「デンマークの民話」

4」は「Chronicles of the Crusades」は「十字軍編年史」。作者不詳。

5」は「Gesta Romanorum」「ゲスタ・ロマノルム」で、十三~十四世紀にイングランドで集められた、民間のラテン語による物語集「ローマ人物語」を指すようだ(執筆者は不詳)。

6」は「Plays of Arthur Symonds」だから、イギリスの詩人・文芸批評家「アーサー・ウィリアム・シモンズArthur William Symons 一八六五年~一九四五年)の事蹟(活動)」。]

 

○六月卅日

[やぶちゃん注:不詳。前と同じく、年譜は見てみた。]

 

Plato:Apology

    {Bannquet――Simposium

    {Cristo

    {Phaedo(phaedorus)

[やぶちゃん注:四つの「{」は底本では大きな一つの「{」。


Plato」古代ギリシアの哲学者プラトン(ラテン語転写:Plato 紀元前四二七年~紀元前三四七年)。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。

Apology」は「ソクラテスの弁明」(ラテン語転写:Apologia Socratis/英語:Apology of Socrates)で、プラトンの著名な初期対話篇。

Cristo」キリスト。キリスト教にもプラトンの思想はよく取り入れられているとされる。

Phaedo(phaedorus)」「パイドロス」(英語:Phaedrus)であろう。プラトンの中期対話篇の一つ(そこに登場する人物の名称で、副題は「美について」)。因みにプラトンの著作では私が最も愛するものである。]

 

○1月註文

[やぶちゃん注:前後孰れかの洋書の注文であろう。]

 

Delacroix

[やぶちゃん注:フランスのロマン主義を代表する画家フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix 一七九八年~一八六三年)。]

 

Zangwill Dramas 3

[やぶちゃん注:イギリスの作家イズレイル・ザングウィル(Israel Zangwill 一八六四年~一九二六年)。ウィキの「イズレイル・ザングウィル」によれば、『父親はロシアから亡命したユダヤ人、母親はポーランド人であった』。『初期のシオニストの一人で指導者ヘルツルのもと、ユダヤ国家樹立のために活動した。その傍ら、ユダヤ人の生活に取材した小説や戯曲を書き好評を博した。しかし』、仲間内の対立から、『シオニズム活動から遠ざかり、世界のどこであれ』、『適切な場所にユダヤ人の国を持とうという領土主義を唱えた』。『アメリカ合衆国のアイデンティティに対し』、『「メルティング・ポット」論(原型が溶かされて一つになる)を唱え、それが』一九〇八年発表の戯曲The melting pot(「坩堝(るつぼ)」)『に表れている。ここから』アメリカを評する『「人種のるつぼ」などといった表現』も『生み出された』という。イギリスの作家で「SFの父」とされる『ハーバート・ジョージ・ウェルズ』(Herbert George Wells  一八六六年~一九四六年)『とは親友であった』とある。『推理小説もいくつか書いており、なかでも』、一八九二年に発表した中篇The Big Bow Mystery(「ビッグ・ボウの殺人」)『は最も古い密室殺人ものとして』、『欧米では有名である』とある。「Dramas 3」とあるから、一つはThe melting potと考えてよいのではあるまいか。]

 

○來月注文

[やぶちゃん注:やはり、前後孰れかの洋書の注文であろう。]

 

Hugo 1

      >Bohn’s Library

 Racine 2

[やぶちゃん注:「Hugo」はフランス・ロマン主義の詩人で小説家のヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)であろう。

Racine」はフランスの劇作家でフランス古典主義を代表する悲劇作家ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine 一六三九年~一六九九年)であろう。但し、意味不明の「Bohn’s Library」(「ボーンの図書館」)とともに、後のユーゴを「1」とし、先行するラシーヌを「2」とする意味も不明。]

 

○同月11

[やぶちゃん注:洋書注文日か、入荷日か。]

 

1)The Tidings brought to Mary  Paul Claudel

2)The Note Book of L. & V.

3)Tolla, the Courtesan by E. Rodocanachi

[やぶちゃん注:「1」はフランスの劇作家で外交官でもあったポール・ルイ・シャルル・クローデル(Paul Louis Charles Claudel 一八六八年~一九五五年)の一九一〇年発表の中世風奇跡劇であるL'Annonce faite à Marie(英訳:The Tidings brought to Mary(「マリアへのお告げ」)。

2」の「The Note Book of L. & V.」は不詳。

3」の「Tolla, the Courtesan by E. Rodocanachi」はフランスの歴史家で作家でもあったと思われるエマヌエル・ピエール・ロドカナチ(Emmanuel Pierre Rodocanachi 一八五九年~一九三四年)の一七〇〇年のロマン主義的書簡体小説“Tolla, la courtisane, esquisse de la vie privée à Rome en l'an du jubilé”(「トラにて、クルチザンヌ、ローマでの私的生活に就いてのエスキス(スケッチ)」。一八九七年発表)か。フランス語の彼のウィキからで、訳はいい加減。「トラ」はよく判らぬが、サルジニア島の北のトレス島の地名ではないかと私は思う。「クルチザンヌ」はフランス語で「高級娼婦」の意であり、特にロマン主義の文学作品などで主題としてしばしば取り上げられた対象である。]

2018/02/13

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治二十六年 『俳諧』『獺祭事屋俳話』

 

    『俳諧』『獺祭事屋俳話』

 

 二月十四日の日記に「痰有血、夜宮本國手(こくしゆ)來」とある。翌十五日には「血痕甚淡」とあり、十七日には、「不見血(ちをみず)」となっているから、大した事もなかったのであろうが、居士は臥褥(がじょく)して外に出なかった。二十五日に至り「仙田氏來、到廣小路(ひろかうぢにいたる)」とあって、

 

 うらゝかや空を見つめる病み上り

 

の句が記されている。仙田氏とあるのは仙田重邦氏であろう。この病臥の間(二月二十日)に一茶、凡兆、素堂、尚白、来山、去来ら古人の調に擬した句を作った。一茶調を除くの外は、「燈火十二カ月」以来の十二カ月の形式を以て、三月以後の『日本』に発表された。

[やぶちゃん注:「仙田重邦」松本島春(とうしゅん)主宰の俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの『子規の俳句(九)』に拠るなら、新聞『日本』社の事務総裁(総務・経理部長か)らしい。]

 居士が社へ出るようになったのは、二月二十八日からであるが、その前二十六日の日記に「片山、伊藤(半)二氏来談、俳諧之事」という記事がある。片山、伊藤は即ち桃雨、松宇の二氏で、『俳諧』というのは新に出すべき雑誌の名である。鬱勃たる居士身辺の俳句熱は、遂に雑誌刊行の機運にまで到ったのであった。

[やぶちゃん注:『俳諧』既注。「桃雨」「松宇」も同リンク先の私の注を参照されたい。]

 『俳諧』という推誌については、居士自身あまり語っていない。後年『ホトトギス』が第四巻第一号を出すに当り、感想を述べた居士の文章の中に「明治二十六年にある本屋の発起で始めて、自分はその一部分を担当したが、二号で潰れてしもうた」とあるのと、『ホトトギス』を東京へ移すに際し、虚子氏に与えた手紙に、ちょっとその事が見えるに過ぎぬ。今日から考えると、『日本』紙上の俳句も掲げられるようになったばかりであり、時期尚早の観があったかと思うが、新派俳句凝議の先鞭を着けたものは、実にこの『俳諧』だったのである。

 『俳諧』第一号は三月二十四日を以て生れた。もしこの雑誌が健全に発達したならば、『日本』の俳句と相俟って、車の両輪の如く進み得たかも知れぬが、遺憾ながら二号で挫折してしまった。五月に入ってからの日記に、二度ほど俳諧雑誌社を訪うことがあり、同二十日松宇氏宛の手紙に「小生獨斷にて新選佳調二頁だけ相ふやしその代り富士をやめ申候。右御諒承奉願(ねがひたてまつり)候。罪はいくらにても小生が負ふつもりに御座候。いまだ校正にも來らず不屆至極に御座候」と見えている。これは『俳諧』第三号のことと思われるが、多分校正も出ず、そのまま廃刊になってしまったものであろう。

[やぶちゃん注:「新選佳調」「富士」孰れも『俳諧』の中の特集かコラムの名であろう。]

 『俳諧』の発刊は椎の友の諸家と盛に往来した二十六年度の一産物で、明治俳諧史の上からいえば慥に注目すべき出来事であったが、居士が何らか痕迹ある仕事を遺すには、あまりにその挫折が早過ぎた。いわゆる新派俳句勃興の機運は已に動いていたにしても、これによって直に一旗幟(きし)を樹立するほどの勢力にはなっていなかったものと思われる。

[やぶちゃん注:「旗幟(きし)」表立って示す立場や態度。主義主張を述べる行動。]

 『俳諧』第一号が出た翌日、居士は鎌倉に赴いた。終列車で藤沢に到り、宿屋に一泊の後、一番列車で鎌倉に行っているのは、交通機関の整備した今日からちょっと想像しにくい事柄であろう。鎌倉には二月の半から羯南翁が病後静養のため滞在中であった。帰来居士の草した「鎌倉一見の記」に「由井が濱に隱士をおとづれて久々の對面」とあるのが羯南翁のことである。

[やぶちゃん注:「由井が濱」実は底本「山井が浜」である。話にならない酷い誤りである。原典当該箇所確認が、ちゃんと「井が濱」となっている。現在の由比ヶ浜であるが、当時はいろいろな表記はした。しかし「山井が濱」などとは逆立ちしても言わない。これは、恰も、原本をOCRで読み込み、それを性能の低劣な、私の持っているような読取ソフトでやったものを修正するのを忘れたかのようじゃないか!? 私も実はよくやるがね……。特異的に訂した。

『日本』明治二六(一八九三)年三月。「青空文庫」ので読める。]

 高等中学生だった虚子氏が京都から徒歩旅行を計画し、刈谷以東は汽車で上京したのもこの三月末のことであった。春の試験休を利用したはじめての上京であったが、滞在十日ほどにわたり、その間俳句の小集なども催されたようである。学校を一擲(いってき)して社会の人となった居士の身辺は、慥に前年より賑になって来た。

[やぶちゃん注:「刈谷」知多半島の東の根っこの現在の愛知県刈谷市か。(グーグル・マップ・データ)。流石は私の嫌いな虚子だね、全く、根性、ねえな。せめて半分ぐらい歩けよ!]

  三月二十二日、地風升(ちふうのぼる)の名を以て「文界八つあたり」を『日本』に掲げた。地風升は通称の升(のぼる)に因んで、居士のしばしば用いた署名である。「文界八つあたり」は緒言、和歌、俳諧、新体詩、小説、院本(いんぽん)、新聞雑誌、学校、文章、結論の諸項に分れ、五月二十四日に至って完結した。俳句以外に及ぶ文学評論はこの文章を以てはじめとする。居士が「俳諧」の条下に月並宗匠の凡愚庸劣(ぼんぐようれつ)を罵倒し、書生仲間から新俳人の出たことを挙げて「俳諧のために太白(たいはく)を浮べて賀せんと欲する所」といっているのは、自ら期する所ある言葉でなければならぬ。

[やぶちゃん注:「院本(いんぽん)」義太夫節の浄瑠璃正本(しょうほん)のこと。「丸本(まるほん)」とも呼ぶ。これは「行院本」の略で、「行院」は中国の金・元代の俳優の居所(楽屋)を指し、そこから同時代に演じられた演劇の一つの名称となり、その脚本の意として用いられたものが、本邦で転訛したもの。

「太白」太白星(金星)のことであろう。新境地開拓の明星の意と採った。]

 居士の最初の著述たる『獺祭書屋俳話』が「日本叢書」の一として刊行されたのはこの五月二十一日であった。前年『日本』に掲げた俳話三十余篇につき、種類によって編次を改め、単行本としての体裁をととのえたのである。僅々七十三頁の小著ではあるが、新派俳句最初の警鐘たる意味において、長く忘るべからざるものであろう。

[やぶちゃん注:「獺祭書屋俳話」日本新聞社の「日本叢書」の一刊行国立国会図書館デジタルコレクションの画像全篇。]

 

北條九代記 卷第十二 後二條院崩御 付 花園院御卽位

 

鎌倉 北條九代記卷   第十二

 

      ○後二條院崩御  花園院御卽位

 

德治三年、主上、御惱(ごなう)に罹らせ給ひ、朝政(てうせい)の御事も叶はせ給はず。御位を東宮富仁(とみひとの)親王に讓りて、同八月二十五日に崩じ給ふ。御年二十四歳なり。在位僅に六年、一朝にして鼎湖(ていこ)の雲を攀(よ)ぢ、蒼梧(さうご)の霞(かすみ)に隱れさせ給ひ、一天、既に諒闇(りやうあん)の有樣、愁(うれへ)の色を見せ侍り。後二條院とぞ申しける。北白川に葬送し奉る。東宮は、是(これ)、伏見院第二の皇子、御母は山階(やましなの)左大臣實雄(さねを)公の御娘、顯親門院藤原厚子(あついこ)とぞ申しける。同年十月に改元あり。延慶(えんきやう)と號す。同十一月二十六日、御年十二歳、寶祚(ほうそ)を踐(ふ)んで御位に卽(つ)きたまふ。花園院と申すは、この君の御事なり。九條關白師教(もろのり)公、攝政たり。伏見上皇、院中にして政道を知(しろ)しめす。武家より計(はからひ)申して、後宇多法皇第二の皇子尊治(たかはるの)親王を春宮(とうぐう)に立參(たてまゐ)らせらる。九條師教公