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2019/08/19

諸国因果物語 巻之四 美僧は後生のさはりとなる事

 

     美僧は後生のさはりとなる事

Bisou



 鎌倉建長寺のかたはらに、念性司(しやうず)といふ所化(しよけ)あり。生れつき美くしく器量よき僧にて學問も人にすぐれ、手をよく書けるほどに、人のもてはやしも、おほく、心ばへ[やぶちゃん注:ママ。]、又、やさしき人がらなれば、若きも老たるも、

「念性、念性。」

と、いひて、馳走し、假初(かりそめ)の齋(とき)・非時(ひじ)にも、かならず呼(よび)、衣類のすゝぎなども、我人と、あらそひて、此僧の事には隙(ひま)をいとふ事なくぞありける。されば、ゆくゆくは事なくぞありける。されば、ゆくゆくは似合しき寺にも肝いりて自他の菩提をも心よくとぶらはればやとおもふ者も、すくなからざりける。

[やぶちゃん注:「建長寺」流石に鎌倉史をずっとやってきた私にして注を附ける気になれない。私の「新編鎌倉志卷之三」をリンクさせておく。「かたはらに」とあるが、建長寺外を考える必要はあるまい。話の展開からも建長寺の塔頭の一つと読んで問題ない。なお、ここにあるような伝承や類似譚は鎌倉には全く現存しない。

「齋(とき)・非時(ひじ)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁じており、食事は日に午前中に一度のみ許される。しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、午後の時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を広く「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になった。それにつれて、破戒僧も等比級数的に増殖したと言えるだろう。]

 此所の地頭より世話をやかれ、龜谷坂のあたりに草堂を取たて、念性司を爰(こゝ)に居(すへ)たりしに、近鄕の百性ども、おのづから此僧になつき、纔(わづか)半年ばかりが間に、樣子よく居黑め、しほらしく住つきけるまゝに、折ふしは、鎌倉一見の旅客(たびゝと)、あるひは、貴人(きにん)の御馬をもよせらるゝ程なり。

[やぶちゃん注:「地頭」江戸時代には知行取りの旗本を指す(又は各藩で知行地を与えられて租税徴収の権を持っていた家臣も指す)。現在の鎌倉や大船地区の多くは、江戸時代はさえない農漁村となっていて、寺社領以外は複数の旗本に、かなり神経症的に細かく分割されて与えられていた。

「龜谷坂」「かめがやつざか」。底本は「谷」の右に『かへ』と振るが、採らない。建長寺門前から百八十メートルほど県道二十一号を大船方向に戻ったところを、左南西に扇が谷(おおぎがやつ)に下る亀ヶ谷坂。坂上の角(北西)に臨済宗建長寺派宝亀山長壽寺がある。]

 爰に粟舩といふ所に、小左衞門後家といふものあり。年、やゝ六十にあまり、七十にちかき身にて、子は一人もなく、纔の田地を人にあてゝ、身のたすけとしけれども、万(よろづ)たのしき後世(ごせい[やぶちゃん注:ママ。「ごぜ」が普通。])なりしかば、あけくれ、寺まいりを事とし、假(かり)にも仏道を忘るゝ事なく、賴(たのも)しき行跡(こうせき)也しかば、

「此人なくては、仏になるべき人もなし。」

などゝ、世のうわさにもいひなしける人也けるに、此後家、過(すぎ)し元祿十年[やぶちゃん注:一六九七年。]の冬、腹をわづらひて死(しに)けるを、彼(かの)念性に賴(たのみ)て、とりをき[やぶちゃん注:ママ。]、位牌なども、此草堂に居(すへ)て、毎日の仏餉(ぶつしやう)、夜毎(よごと)、廻向(えかう)をもうけさせける念性も、油斷なく勤(つとめ)、おこたらぬ人也しかば、朝暮(てうぼ)、佛前のつとめ、かゝさず。

[やぶちゃん注:「粟舩」「あはふね」。底本は「粟」にのみ「あふ」と振るが、採らない。現在の私の住んでいる大船の古い広域呼称。中世前までは現在の境川から柏尾川の筋を深沢やおこ大船地区近くまで粟を満載した輸送用の大型船が進入出来たことに基づくとされる。

「仏餉(ぶつしやう)」「仏聖」とも書き、仏に供える米飯。「仏飯(ぶっぱん)」「仏供(ぶっく)」。]

 ある夜、逮夜に行事ありて、おそく歸り、

「いまだ、けふの勤もせざりけるよ。」

と、いつもの如く、佛前にむかひ、香などもりそへ、燈明のあふらなとさして行ひにかゝらんとせしに、彼後家が位牌、にはかに、手足出來て、うごき出たり。

[やぶちゃん注:「逮夜」(たいや)ここはこの老女の月命日の前夜のことととっておく。]

「こは、いかに。狐狸(きつねたぬき)の我をたぶらかさんとて、かゝるあやしき事をなすにや。」

と、心をしづめ、

「きつ。」

と、座しけるに、此いはい[やぶちゃん注:ママ。「位牌」は「ゐはい」が正しい。]、佛壇よりおりて、念性に、とりつき、

「かなしや、我、此世にありける間は、年の程に恥(はぢ)、人めをおもひて、露ばかりもいはず、死しては、此まよひによりて、成仏(じやうぶつ)に疎(うと)く、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])にまよふこそ悲しけれ、我、念性司の庵に、毎日、おとづれ、佛餉を手づから奉り、衣(ころも)のせんたく、こぶくめの縫くゝり迄、二こゞろなくつとめしを、何と請(うけ)給ひしぞや。語り出すも恥かしながら、我、君(きみ)に心ありて、人しれぬ戀とはなりぬれども、今までは、つゝみ參らせし。今此はかなき姿なりとも、一たびの枕をかはし給はゞ、浮世の妄執、はれて、年ごろのつみ、すこしは消滅すべし。」

[やぶちゃん注:「成仏(じやうぶつ)」「ゆまに書房」版は『処仏』と翻刻するが、これでは意味も採れず、読みもおかしいので、採らない。

「中有(ちうう)」(歴史的仮名遣は「ちゆうう」でよい)は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「こぶくめ」判読・字起こしに非常な時間がかかった。「ゆまに書房版は『とふくめ』とするが、従わない。これは「小服綿(こぶくめん)」の省略形である。「小服綿」とは、僧侶が着用した十徳(じっとく:「直綴(じきとつ)」の転か。男子の上着の一つで、丈は短く、羽織に似る。武家のものは素襖(すおう)に似ていて胸紐がある。鎌倉末期から用いられ、中間や小者は四幅袴(よのばかま)の上に着た。江戸時代には医師・儒者・茶人などの礼服となった)に似た略衣で、白色の袷(あわせ)が通常であったが、尼は紅色を着用することもあり、室町時代頃から用いられた。また、広く「綿入れの着物」の意にも用いる。以上は小学館「日本国語大辞典」によるが、それを確定し辞書を引くに至るまでに、最大の確信を与えて呉れたのは、昭和二三(一九四八)年中央公論社刊の真山青果著「西鶴語彙考証 第一」の「こぶくめ」であった(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。心より感謝する。

などゝ、かきくどきけるに、念性も、今は、心みだれ、おそろしさいふばかりなければ、ふり切(きつ)て迯(にげ)けるに、足もとなる火桶より、雀(すゞめ)、いくらともなく飛出(とびいで)、念性をとりまはし、つゝきかゝりし程に、

「なふ、かなしや、たすけ給へ。」

と、大こゑをあげて、なげきさけびけるこゑにおどろき、近邊の人ども、出あひ、先(まづ)、念性を引すへ、氣付(きつけ)などのませ、聞きゝけるに、右のやうすを語りぬ。

「あまり、ふしぎなる事也。よもや、さほどの怪しみ、あるべき事に、あらず。定(さだめ)て、氣のくたびれしより、物にさそはれ、かゝる怪しき事、見たまひし事ぞ。」

と、藥などのませて、夜ひとよ、人々とりまわしつゝ[やぶちゃん注:ママ。]、守りあかしけるに、何事もなかりしまゝ、みなみな、心ゆるして、歸りぬ。

 又の夜は、近所の人、

「もしや、心あしき事もこそ。」

と、宵の程、かはるがはる、見まひしに、事もなし。

 いよいよ、藥など、すゝめ置て、

「又、明日(あす)こそまいらめ。」

と、いひて、歸りぬ。

 それより、二、三日も過(すぎ)て、ある朝(あした)、久しく草堂の戶のあかぬ事あり。

「いかなる事ぞ。齋(とき)に行(ゆか)れつる体(たい)もなかりしが。」

と、不審して、窓(まど)よりのぞきて、聲をかくるに、答(こたへ)ず。

 戶は、内よりしめたれば、門口よりはいるべき樣もなくて、心もとなきまゝに、生垣(いけがき)をくゞり、庭より簀(す)がきの下(した)へ、人を入つゝ、居間を尋(たづね)させけるに、念性が咽吭(のどぶえ[やぶちゃん注:ママ。])、くひ切(きり)たるあと有て、佛壇の間に、ふんぞりて、死(しゝ)てあり。

「こは、いかに。」

と、あたりを見れば、後家が位牌に、血、つきて、彼(かの)くひかきたる咽ふゑの、皮肉(ひにく)、此まへにありけるこそ、ふしぎなれ。

[やぶちゃん注:位牌に手足が生えて変化した七十歳に近い老女の亡霊から、若き美僧が「一たびの枕をかはし給は」れと言い寄られるシークエンス、コーダの、喉笛を喰いちぎられて死んだ彼のそばに、後家の位牌が血だらけになってあり、その前に美僧の喉笛の皮と肉が飛び散っていたというそれは、想像するだに素敵に慄っとするではないか?!

諸国因果物語 巻之四 願西といふ法師舍利の罪を得し事

     願西といふ法師舍利の罪(ばち)を得し事

Gansai



 山城國新田(しんでん)といふ所に与十郞といふものあり。彼が家にふしぎの本尊あり。御長[やぶちゃん注:「おんたけ」。]、立像二尺ばかりにて、いかさま、名作とは見ゆれど、いかなる仏工の作ともしらず、只、惣身[やぶちゃん注:「そうみ」。]より、ひた物、舍利の分し[やぶちゃん注:「ぶんし」。自然に分かれる。]給ふ事、たとへば、瘡疱(はうさう)の出たるが如くにて、毎日蓮臺のうへに落る所の舍利、七、八粒づゝありて、絕る事なし。

[やぶちゃん注:「山城國新田(しんでん)」現在の京都府宇治市広野町東裏にあるJR「新田駅」(グーグル・マップ・データ)の周辺か。]

 是を聞つたへ見及びたる人は、遠き國、はるかなる道をいとはず、信心のあゆみをはこびて、一たび拜(おがみ)たてまつり、後生の善果を得ん事をねがふ人も、おほく、又は、さまざまの所緣(ゆかり)をもとめて、此御舍利一粒(りう)を乞うけ、七寶の塔をたて、香花をさゝげ、他念なくおこなふ人もすくなからず。

 かゝる人のもとへ入給ひし舍利は、又、おのおの、分(ぶん)つぎて、二十粒、三十粒となり、あるひは、何とぞ、心いれ、あしくなる人、または、不信心になるやうの事ある時は、悉(ことごとく)減(へり)て、もとの一粒になりなどして、㚑驗(れいげん)あらたなりしかば、いとゞ、五幾内に此うはさのみにして、尊(たうと)み、もてはやす事にぞありける。

[やぶちゃん注:「五幾内」大和・山城・河内・和泉・摂津。]

 爰に、南都より引こみける道心あり。願西といひしが、此新田にちいさき[やぶちゃん注:ママ。]庵をもとめ、二、三年ありけるが、彼本尊の驗(しるし)ある事を、うらやみ、そねみて、

『何とぞ、此本尊を我ものにし、世わたる業(わざ)のたねにも。』

と、おもへど、人の信(しん)まさるにつきて、參詣の人めしげく、与十郞は無欲のものにて、人の施物(せもつ)をむさぼる心なけれども、外より何かにつきて心をつけ、それとはいはねど、時おりふしの餘勢も、すくなからず、宥冨(ゆうふく)にくらして、殊に老の身のたのしみ、六十の暮より、隱居をかまへ、ひとへに本尊の守(もり)になりたる樣にて祕藏しければ、心やすく盗むべき手だてもなく、さまざまと心をくだき、やうやうに思ひ付て、都へのぼりけるについで、佛師のみせにありける立像二尺ばかりの古きほとけを買とり、ひそかに是を打わり、与十郞方より緣をもつて貰ひをきたる[やぶちゃん注:ママ。]佛舍利を、胎内にをさめ、惣身(そうみ)に、ちいさき穴をほりあけ、もとのごとく打あはせて、佛前にそなへ、香華をたてまつりて、二月ばかりありしに、彼(かの)造りこめたりし舍利、おほく分(ぶん)つきて、

「ほろほろ。」

と、彼あなより、こぼれ出たりければ、

『扨こそ。日ころの念願はかなひつれ。』

と、おもひ、急ぎ、佛檀をことごと敷(しく)かざり、庵(あん)など、きらひやかに普請(ふしん)しつゝ、さて、其あたりちかき村中へ、ふれをなし、

「我、このほど、都黑谷(くろだに)に法事ありて參りける歸るさ、筑紫(つくし)の善導寺の出家とて、旅の道すがら、打つれ侍りしに、伏見の宿にて頓死したり。同宿せし不肖といひ、僧の役とおもひ、彼(かの)死骸をかきいだきて、㙒道に送り、土葬せんと、暮過てあゆみ出たるに、二、三町も過ぬとおもふ比、殊外、背中輕くなりしやうにおぼへしまゝ、打おろして見るに、棺桶の中には、死骸はなくて、此本尊、おはしましたり。しかも舍利の分などつきて、おそろしくも尊き佛にてまします。いざ、參り給へ。おがませ申さん。」

と、ふれありきけるほどに、

「我も我も。」

と、足を空にしておしあひつゝ、群集(ぐんじゆ)せり。

 誠に、願西がいひしに違(たがは)ず、舍利の分など、所々にふき出て、

「殊勝さ、いふばかりもなし。」

と、めんめんに、珠數(じゆず)さしのばして、佛の御手にうけていたゞき、又は、善の綱にすがりてのびあかりつゝ、後より、佛の御面相をおがまんとして、

「ひた。」

と、おしあひけるほどに、何とかしたりけん、善の綱に、人、おほく取つき、あなたへゆすり、こなたへゆするひゞきに、本尊を引たをし[やぶちゃん注:ママ。]、御手なども打折[やぶちゃん注:「うちをり」。]けるほどに、胎内にこめ置つる佛舍利百粒ばかり、惣身の内にあけをき[やぶちゃん注:ママ。]たりける穴より、一度に、

「ざつ。」

と、こぼれ出たりしを、

「有がたや、舍利の分ありしは。」

といふほどこそあれ、いやがうへに、

「我、一。」

と、おりかさなり、手の上に手を出し、奪ひとり、せりあひて、一粒も殘さず、人の物になりぬ。

 願西は、たくみし事、相違(さうい)し、あまつさへ、舍利は殘なくひらはれける腹立に、本尊を、臺座より、引おろし、もとの繼目(つぎめ)を引はなしける時、右の手の内に、

『ちいさき契(そげ)、ひとつ、しかと立けるよ。』

と、おぼへしが、終に大なる種物(しゆもつ)[やぶちゃん注:ママ。「腫物」。]となり、三、四十日がほど、煩ひて、腐り死したりけるとぞ。

[やぶちゃん注:因みにこの増殖する(信心がなければ、消滅する)仏舎利というのは、何らかのカビか粘菌の類の胞子体ではないかと想像したりした。

「黑谷」京都市左京区黒谷町

「筑紫の善導寺」福岡県久留米市善導寺町飯田にある浄土宗井上山(せいじょうざん)善導寺。建久二(一一九一)年開創。開山は法然上人の直弟子聖光(浄土宗第二祖)。

「同宿せし不肖」亡くなった同宿の名刹の僧侶に対し、自身をとるに足らない愚僧と謙遜したもの。

「二、三町」二百十八~三百二十七メートル。

「足を空に」足が地に着かないほどに慌てて急ぐさま。

「善の綱」実際の仏像の手にかけておき、信者に引かせて仏の功徳に導かれるさまを比喩する綱。

「契(そげ)」「契」には「刻む」の意があり、それに「そげ」(削げ・殺げ:動詞「そげる」の連用形の名詞化。竹や木の薄くそげたもの。ささくれ。とげ)を当て訓したもの。挿絵では派手に右掌から血が噴き出している。]

大和本草卷之十三 魚之下 エツ

 

エツ 筑後柳川寺江ノ海ニアリ海ヨリ河ニノボ

 ル海河ノ間ニアリタチ魚ニ似テ身セハク薄シ長六七

 寸以上一二尺ニイタル色如銀或色淡黑目口相

 近シ鱗小也水上ニ浮ヒヲヨク肉中細骨多乄毛

[やぶちゃん注:「ヲヨク」はママ。]

 ノ如シ骨柔ナリ鱠サシミカマホコ炙トシテ食ス味カロ

 ク乄脆美ナリ多ク食フヘシ夏多シアミニカヽレハウコカ

 ズ死シヤスシ早ククサル今其形狀ヲ詳ニキクニ鰣魚ニ

 ヨク合ヘリ本草綱目考フヘシ彙苑曰鰣魚盛於四

 月鱗白如銀其味甘𦚤多骨而速腐○鰣魚ヲハス

 ト訓シヱソト訓ス皆不可ナリエツノ魚ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

エツ 筑後柳川・寺江の海にあり。海より河にのぼる。海・河の間にあり。「たち魚」に似て、身、せばく、薄し。長さ、六、七寸以上、一、二尺にいたる。色、銀のごとく、或いは、色、淡黑。目・口、相ひ近し。鱗、小なり。水上に浮び、をよぐ。肉〔の〕中に細き骨、多くして、毛のごとし。骨、柔かなり。鱠〔(なます)〕・さしみ・かまぼこ・炙(あぶりもの)として食す。味、かろくして、脆く美なり。多く食ふべし。夏、多し。あみにかゝれば、うごかず、死しやすし。早く、くさる。今、其の形狀を詳かにきくに、「鰣魚〔(じぎよ)〕」によく合へり。「本草綱目」、考ふべし。「彙苑」に曰はく、『鰣魚、四月に盛〔りなり〕。鱗、白く、銀のごとし。其の味、甘〔にして〕𦚤〔(こ)え〕、骨、多くして速く腐る』〔と〕。

○鰣魚を、「はす」と訓じ、「ゑそ」と訓ず、皆、不可なり。「えつの魚」なるべし。

[やぶちゃん注:条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科エツ亜科エツ属エツ Coilia nasus。漢字表記は「斉魚」「鱭(魚)」。ウィキの「エツ」によれば、『東アジアの汽水域に生息する魚で、食用になる』。『成魚は全長30cm-40cmほど』で、『体は植物の葉のように前後に細長く、左右から押しつぶされたように平たい。体側は銀白色の円鱗におおわれ、全体的にはナイフの刃のような外見である。目は頭の前方にあり、口は目の後ろまで大きく裂ける。胸びれ上方の軟条が糸状に細長く伸びる。尻びれは前後に細長く、体の後半ほとんどに及ぶ。尾びれは小さな三角形で、ほぼ尻びれと連続している。顔つきや鱗などは同じ科のカタクチイワシに似るが、上記の優雅に長く伸びるひれの形状もあって、外見はかなり印象が異なって見える』。『渤海、黄海、東シナ海の沿岸域に分布する』が、本邦での棲息域は、筑後川河口域を中心とした有明海の湾奥部及び大河である筑後川にほぼ限られている有明海特産魚である。『中国と朝鮮半島の個体群は亜種 C. n. ectenes Yuan et Quin, 1985、日本の個体群は基亜種 C. n. nasus とされており、ムツゴロウやワラスボなどと同じ大陸系遺存種と考えられている』。『普段は汽水域とその周辺の海に生息し、清んだ透明度の高い水域よりも、大河から流入したシルトや粘土が激しい潮汐によって懸濁して濁って見える水域を好む。プランクトン食性で、おもに動物プランクトンを鰓でろ過して捕食する』。『産卵期は初夏で、産卵を控えた成魚は川をさかのぼり、夕方に直径1mmほどの浮性卵を産卵する。中国の長江では河口から1000kmの所で成魚が見つかった例もある。ただし日本でのエツの繁殖地はもともと大陸的な大河に依存していることもあってほぼ筑後川に限られ、他の河川で産卵することは少ない』。『卵は川を流れ下りながら1日以内に孵化するが、塩分が濃い所まで流されると』、『死んでしまう。稚魚は秋まで塩分の薄い汽水域にとどまって成長し、冬には海水域の深場に移る。寿命は2年から4年ほどで、産卵した親魚はほとんど死んでしまう』。『エツの日本での分布は狭く、絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)に指定されているが、筑後川では筑後大堰の建設でエツの繁殖や成長に適した水域が半減した上、食材として重宝されるために乱獲もされている。エツの漁獲量は1980年代から減少していて、沿岸漁協による放流なども行われているが、改善はあまり進んでいない』。『中国では同属の魚を「鳳尾魚(フォンウェイユー fèngwěiyú)」と総称し、華東、華南の沿岸地域では食品として利用することが一般的である。また、漢方医学の材料として使われる場合もある。上海市や江蘇省では長江周辺で捕れる主にC. mystusが出回っているが、子持ちのものが珍重されるので、産卵期が旬である。浙江省温州市では甌江で取れるものを利用することが多い。広東省では珠江水系のC. grayiがよく利用されており、唐揚げにして味付けしたものが特産の缶詰となって売られている。蒸し魚、唐揚げが一般的であるが、スープなどにも利用される』。『日本では筑後川流域で多く漁獲され、代表的な郷土料理の食材ともなっているが、他地域ではあまり利用されない』。『筑後川では毎年5月中旬から7月中旬にかけて福岡県久留米市城島町付近までエツが遡上し、周辺市町ではこれを狙ったエツ漁が5月1日から7月20日まで解禁される。また、福岡県大川市では漁期に合わせて「えつ供養祭」が行われる。なお、この時期にあわせ』、『国土交通省九州地方整備局は』『漁業協同組合の要請を受ける形で』、『エツの遡上を助ける』ため、『管理する松原ダム・下筌ダムから河川維持放流を行っている』。『流し刺し網や地引き網などで漁獲される。刺身やエツずし、天ぷら、唐揚げ、膾、塩焼き、煮つけなど様々な料理で食べられる』。『小骨が多いので』、『ハモと同様に骨切りを施す必要があり』、『また』、『傷みも早いので手早い調理をしなければならない。そのため、産地では筑後川に浮かべた漁船の上で、観光客などに獲りたてのエツをすぐに調理して供することも行われる』。『「むかし、一人の僧侶が筑後川を渡る際、渡し舟の船頭に払うお金がなかったので、近くに生えていたヨシの葉を取り、それを川に浮かべたところ、たちまち魚(エツ)に変わった。この僧侶はのちの弘法大師(空海)であった。」という伝承が、福岡県、佐賀県の筑後川下流域に伝わる』とある。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のエツのページも必見。残念ながら、私はエツの生体を実検したことがなく、食したこともないので、グーグル画像検索「Coilia nasusをリンクさせておくが、遊泳している成魚画像はごく少ないので、よく見られたい。

「筑後柳川」福岡県柳川市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「寺江」後の本「大和本草」批判を目的の一つとした小野蘭山の「重訂本草綱目啓蒙」(弘化四(一八四七)年の「巻之四十」の「鱭魚」に(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)『鱭魚  ヱツ ウバエツ【筑後小者】』と始まる中に(記号を付加した)、

   *

「エツ」ハ、筑後柳川、及、肥前寺江【今ハ寺井ト云。】ニアリ。海ヨリ河ニノボルモノ。故ニ河海ノ間ニテ取ル。香魚(アユ)ノゴトク一年ニシテ死ス。長サ六七寸、大ナルモノハ一二尺ニイタル。長サ一尺許ナルノモハ濶サ一寸許ニシテ扁ク、背ノ方ハ微シ[やぶちゃん注:「すこし」か。]アツクシテ腹ノ方ハ漸ク薄ク刀刃ノゴトシ腹ノ鱗ハ三角ニシテ尖リテ鰶魚(コノシロ)ノゴトシ。尾ハ狹ク尖レリ。首ヨリ順ニ漸ク狹細ニシテ小刀ノ形ノゴトクシテ銀色ナリ肉ニハ細刺多シ。鱠軒(なますさしみ)[やぶちゃん注:一口大に切った刺身を「軒(けん)」と呼ぶ。]トナシテ食フ。目・口、甚近ク、上脣ノ堅骨、兩吻へ剰り[やぶちゃん注:「かかり」か。]出、左右ノ鰭、ミナ、細ク分レテ、麥芒ノゴトシ。ソノ形狀、他魚ニ異ナリ。鱭魚ヲ、「タチウヲ」ト訓ズルハ非ナリ。「タチウヲ」ハ、形、長クシテ海鰻(ハモ)・鱺[やぶちゃん注:「うなぎ」。]ニ似タリ。閩書ノ「帶魚」ナリ。

   *

とあることから、柳川の北西方の少し内陸の佐賀県佐賀市諸富町大字寺井津のことと考えられる。筑後川が最後に早津江川に分流する地点の現在の右岸に当たる。

「たち魚」スズキ目サバ亜目タチウオ科タチウオ属タチウオ Trichiurus lepturus

「鰣魚〔(じぎよ)〕」条鰭綱ニシン目ニシン亜目ニシン科シャッド亜科テヌアロサ属 Tenualosa ジギョ(仮称)Tenualosa reevesii。中国周辺の回遊性固有種の一種。中国音音写「シーユー」。ウィキの「ジギョ」によれば、『通常』、『海水の上層で回遊している魚であるが、4月から6月になると、長江、銭塘江、閩江、珠江など、中国の川の下流域に産卵のために遡上し、かつ脂が乗っているため、季節的に現れる魚との意味から「時魚」と称し、古来珍重されてきたが、標準和名は付けられていない。明治時代の『漢和大字典』』『には「鰣」に「ひらこのしろ」の注が見られるなど、ヒラコノシロやオナガコノシロと記した字書、辞書、料理書もあるが、根拠は不明。ヒラはニシン目ヒラ科ヒラ亜科』Pelloninae『に分類され、コノシロは』ニシン科コノシロ亜科Dorosomatinae『で近縁種とはいえず、魚類学、水産学の書籍で使っている例は見いだせない。なお、国字の「鰣」は「ハス」と読むが、これは全く異なるコイ科』(条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae。ハスはクセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハス属ハス Opsariichthys uncirostris)『の魚である。広東省では「三黎」、「三鯠」(広東語 サームライ)と称する。古名に「魱」(ゴ、hú)、「鯦」(キュウ、jiù)、「當魱(当互)」、「魱鮥魚(河洛魚)」がある』。『reevesii(レーベシー)という種名』は、『東インド会社の茶の鑑定人で、1812年に広東を訪れ、この魚の記録を残したJohn Reevesの名にちなむ』。『一般的に成魚は、雄が体長40cm前後、体重1.3kg程度、雌が体長50cm前後、体重2kg程度。最大60cm以上になるものもある。体色は銀灰色で、背側が黒っぽく、腹側が白っぽい。体は長いひし形に近く、V字型の長い尾鰭を持つ』。『中国周辺の黄海南部から、台湾、フィリピン西部にかけての海域に生息する。春に淡水域まで遡上した成魚は、5月ごろ産卵した後、海に戻る。一尾で200万粒程度の卵を産む。産卵後1日程度で孵化し、稚魚は淡水域で数ヶ月育ち、秋の9月-10月に海に移動する。3年で成魚となるといわれる』。『長江流域を中心に、かつて、年間数百トン獲れ、1974年には1500トンを超えたともいわれる。当時は湖南省の洞庭湖や、さらに上流でも捕獲できたが、乱獲によって1980年代には年間1トン未満となり、幻の魚と呼ばれるようになった。このため、資源が枯渇するのを防止すべく、中国政府は1988年に国家一級野生保護動物に指定し、現在は捕獲を禁じている』。『

春の、産卵時期より早い4月末から5月ごろが旬で、脂がのっている。川を遡上する途中で、餌はあまり取らないため、上流になるほど脂は落ち、風味も下がるとされる。新鮮なものを、蒸し魚とすることが好まれた。鱗は取らず、湯で表面の臭みを洗ってから、塩などで下味をつけ、ネギなどの薬味を乗せて蒸し、後でたれをかけた「清蒸鰣魚」にする場合と、ブタの網脂で覆い、シイタケ、タケノコ、金華ハムなどを乗せて、鶏がらスープをかけて蒸す場合がある。また、醤油と砂糖を使った煮物や、鍋料理などにも用いられた。鱗を取らないのは、鱗が柔らかくて脂がのっているためとされるが、旧暦の端午の節句を過ぎると硬くなり食べられなくなる』。『20世紀には、特に長江流域の鎮江市から南京市辺りの名物料理とされた』。『後漢の『説文解字』「鯦、當互也」の記載がある。『爾雅』「釈魚」にも「鯦、當魱」の記載がある』。『明以降には皇帝への献上品として用いられた。南京は産地であって新鮮なものが食べられたが、北京に都が移ると輸送が難しくなり、腐敗が始まって臭くなったため、「臭魚」とも呼ばれた』。『清の書籍には具体的な産地や調理法の記録も多くなる。浙江省紹興周辺の言葉を集めた范虎の『越諺』には、「厳瀬、富陽の物が良く、味が倍加する。滋味は鱗と皮の間にある。」と記載されている。『中饋録』には調理法として、「わたは取るが』、『鱗は取らず、布で血を拭き取り、鍋に入れて、花椒、砂仁、醤、水、酒、ネギを加えて和え、蒸す。」と具体的に書かれている。陸以湉の『冷廬雑識』には、「杭州で鰣魚が初物として出回る時には、富豪がこぞって買いにやるため、値が高く、貧乏人は食べられない。」との記述がある。また、清の詩人袁枚は『随園食単』の「江鮮単」で、エツ類と同様に甘い酒の麹や醤油と共に蒸したり、油をひいて焼くのが良い、風味が全くなくなるので、間違ってもぶつ切りにして鶏肉と煮たり、内臓や皮を取って調理してはならない、と述べている』とある。但し、益軒は「本草綱目」の「鰣」(「鱭魚」とは別に載る)の貧弱な記載から相同性を誤認しており、グーグル画像検索「Tenualosa reevesiiで見る限り、エツとは似ても似つかない魚である。

『「本草綱目」、考ふべし』「鱗之三」に載る。

   *

鱭魚【音「劑」。「食療」。】

釋名【鮆魚(音「劑」)・鮤魚(音「列」)・鱴刀(音「篾」)・魛魚(音「刀」)・鰽魚(「廣韻」音「道」。亦作「鮂望魚」。時珍曰、魚形、如劑物裂篾之刀、故有諸名。「魏武食制」謂之「望魚」。】

集解【時珍曰、鱭、生江湖中、常以三月始出。狀狹而長薄、如削木片、亦如長薄尖刀形。細鱗白色。吻上有二硬鬚、腮下有長鬛如麥芒。腹下有硬角刺、快利若刀。腹後近尾有短鬛、肉中多細刺。煎炙或作鮓、鱐、食皆美、烹煮不如。「淮南子」云、『鮆魚飲而不食、鱣鮪食而不飮』。又「異物志」云、『鰽魚初夏從海中泝流而上。長尺餘、腹下如刀、肉中細骨如毛。云是鰽鳥所化、故腹内尚有鳥腎二枚。其鳥白色、如鷖、羣飛。至夏、鳥藏魚出、變化無疑。然今鱭魚亦自生子、未必盡鳥化也』。】

氣味【甘溫無毒】詵曰、「發疥、不可多食」。源曰、「助火、動痰。發疾」。

主治 貼痔瘻【時珍】。

附方 新一。瘻有數孔、用耕垈土燒赤、以苦酒浸之、合壁土令熱、以大鮆鮓展轉染土貼之每日一次【「千金方」】。

   *

これは形状や食用部を見るに、確かにエツを記載していると考えてよかろうとは思う。

「彙苑」「異物彙苑」・明の学者で政治家(最終官位は刑部尚書)の王世貞(一五二六年~一五九〇年)の撰になる類書(百科事典)。

「𦚤〔(こ)え〕」「下腹(したばら)が丸々と肥えている・腹が出ている」の意。]

2019/08/18

諸国因果物語 巻之四 目録・舍利の奇特にて命たすかりし人の事

 

諸國因果物語卷之五

 

舍利の奇特(きどく)にて命たすかりし事

願西といふ法師舍利の罰(ばち)を得し事

美僧は後生の障(さはり)となる事

男の一念鬼の面(めん)に移る事

正直の人蝮(うはばみ)の難を遁るゝ事

  

 

諸國因果物語卷之五

     舍利の奇特にて命たすかりし人の事

Syari



 津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)のほとりに、甚之丞といふものあり。そのかみ、荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城のおりふし、數度(すど)の高名ありて、感狀なども多く、攝津守、つゝがなく在世なれば、瀨川・本町・櫻塚、そのあたり廿鄕ばかりの押領使なりければ、天晴、よき武士となるべかりしに、伊丹沒落の後、やうやう居屋敷ばかりになりて、牢浪の身たりしが、今にいたりて三代、終に家の名を起さず、然も土民の數に入ながら、農業をしらず、心にもあらぬ隱逸の身なりなどゝ、人も問(とは)ぬむりを語り、身を高(たか)ぶりて、年ごろを過(すぐ)すもの、あり。せめてのとりへには、人に無心がましき事いはず、損かけず、何を所作(しよさ)する体(てい)もなけれども、見事、人なみに木綿衣裳さつぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆(しゆ)を呼(よび)て、碁(ご)・將棊(しやうぎ)にあそびなど、いかさま、天道、人を殺さぬためし、かゝる事にこそと、人もいひあへりける。

[やぶちゃん注:「津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)」現在の大阪府箕面市瀬川の千里丘陵西端にある小山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高七十七メートル。西国街道沿いの景勝地で歌枕として知られ、かの「枕草子」の「山は」の〈山尽くし〉の章段にも「まちかね山」として出る。大阪府豊中市待兼山町も山麓に接する。

「甚之丞」後で姓を「山中(やまなか)」と出すが、不詳。

「荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城」安土桃山時代の武将で「利休七哲」の一人とされる摂津伊丹(有岡)城主荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)の織田信長との籠城戦。初め池田氏、後に三好氏に属し、天正元(一五七三)年には織田信長に仕えた。同二年、伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めたが、同六年、信長に背いて籠城(天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日)、攻められては妻子を見捨てて居城を逃れ、毛利氏を頼って落ち延び、尾道に隠棲した。後に剃髪して「道薫」と号し、茶人として豊臣秀吉に仕えた、如何にも厭な奴である。

「感狀」戦さで立てた手柄を讃えて主君や上官が与える書付。

「攝津守、つゝがなく在世なれば」時制上は逆転したおかしな謂いである。

「瀨川」上記の豊中市瀬川の北で大阪府箕面市瀬川も接するのでそこも含むと考えるべきであろう。

「本町」大阪府豊中市本町。待兼山の少し南東に当たる。

「櫻塚」同前の南地区に「桜塚」地区が接して広がっている。

「押領使」暴徒鎮圧・盗賊捕縛などに当たった職。]

 其隣鄕(りんがう)、宮(みや)の森の邊(へん)に、重太夫とて、甚之丞とは無二の友なりけるあり。是は庄屋にて、餘程、下人などもめしつかひ、手まへ、冨裕の者なりしかば、隙(ひま)あるにまかせて、常にそのあたり、心やすき方に行かよい[やぶちゃん注:ママ。]、殊に甚之丞も遊び好(ずき)なると、悅びて、たがひに朋友のまじはり、淺からずぞありける。

[やぶちゃん注:「宮(みや)の森」不詳。但し、一つ、待兼山の西直近の大阪府池田市石橋に「宮の前遺跡」(弥生中期から古墳時代)の名を見出せた。]

 ある朝(あした)、用の事ありて、多田の方へ行けるに、大和河(やまとがは)の端(はた)に高札(たかふだ)を立たるあり、讀てみるに、

     當月十二日の夜此河の端にて金子

     三百兩入たる打替壱つ黑塗の箱

     封付壹つ捨申し間覚ある御かたは目

     祿御持參有りし引合候て本主へ相

     わたし申上候以上

         瀨川の客  山中甚之丞

と、しるしたり。

[やぶちゃん注:高札(ここは単なる私的な告知を書いたもの)の内容は高札らしく漢字のみで示した。以下に整序・訓読したものを示す。

   *

當月十二日の夜(よ)、此河の端(はた)にて、金子三百兩入たる打替(うちがへ)壱つ、幷[やぶちゃん注:「ならびに」。]黑塗(くろぬり)の箱〔封付(ふうつき)〕壹つ、捨(ひらひ)申し間、覚ある御かたは、目祿(もくろく)御持參(ごじさん)有り、し引合候て本主(ほんじゆ)へ相(あひ)わたし申上候。以上。

    瀨川の客(きやく) 山中(やまなか)甚之丞

   *

先にこの高札の注をしておくと、「三百兩」は既に示した一両(六千文)を現在の約七万五千円とする換算なら、二千二百五十万円という莫大な額に相当する。「打替(うちがへ)」は「打飼袋(うちがひぶくろ)」の略。これは本来は、文字通り、鷹・猟犬・馬などの食糧を納めて携行する容器を指したが、後に転じて、旅人の携行する食糧の容器を言う。時には貨幣や鼻紙の類も納めた(軍陣の際、歩卒が一食分の食糧を納めたものを点々と結んで肩に掛けた細長い袋のことを特に「数珠打飼(じゅずうちがい)」と呼んだ。以上は小学館「日本国語大辞典」に拠る)。「目祿」とはここでは、紛失物についての、より細かい形状その他の事蹟・特徴を記したもので、当該物と同一であることを証明するためのものである。「し引合」「仕(し)引き合ひ」ととった。その目録の内容ととくと比較対照して吟味することを言っていよう。

「大和河」不詳。現行の大和川水系は大阪府のずっと南部寄りで、上記ロケーションとは重なる部分がない。地図では幾つかの無名の小流れはあるので、それらのどれかととっておく。

「多田」兵庫県川西市の多田地区か。直後で「有馬行」という語が出るのと合わせると、自然な位置であると私は思う。]

 往來の旅人、有馬行の駕籠の者など、是を見て、

「誠に此札は遠く京海道まで立をきたり。上枚にて始て見たり。」

と、いふに付て、

「我は櫻井にて見たり。」

と、いふもあり、あるひは、

「郡山・芥河・高槻(たかつき)の邊にありし。」

[やぶちゃん注:「上枚」大阪府高槻市神内(こうない)の阪急電鉄京都本線の「上牧(かんまき)」駅のある附近か。

「櫻井」大阪府三島郡島本町桜井か。先の上牧の東北部に接する。

「郡山」大阪府茨木市郡山か。後の「高槻」の南西。

「芥河」大阪府高槻市芥川町或いはその西端を流れる「芥川」。JR京都線「高槻駅」はこの住所内である。

「高槻(たかつき)」狭義の現在の大阪府高槻市高槻町JR京都線「高槻駅」南に当たる。]

など、口々にいふを、重大夫、つくづく聞て、感じ、

『誠に。甚之丞ならずば、かゝる高札も立まじ。さりとは、無欲の仕かた、此ごとく、所に札をたつる程の事を、我に何の沙汰せざりけるも。何とおもひて、語らざりけるぞ。』

と思ふ内にも、欲は、きたなき物かな、

『いで、此高札に付て、何とぞ、似つかはしき事を取繕ひ、自然、手にもいらば、德分よ。』

と、おもひけるより、引返して、甚之丞かたへ行、彼(かの)高札の事を問聞て、いふやう、

「我、手まはりの者、此ほど、池田へ屆(とゞく)る酒代を預り、大坂より歸りしが、荷物、何かと大分の擔(にな)ひものありしゆへ、此打かへをくゝり付しに、しやらとけして、落しを知らず、不念のいたり、其もの、夜前(やぜん)も承りしに、難義に及ぶよし。幸の事也。我に渡し給るべし。」

との挨拶、甚之丞、聞とゞけ、

「然らば、それに僞もあるまじ。殊に貴殿と某(それがし)の中なれば、早速も渡すべし。けれども、ケ樣の事には念入たるが互のため也。其人の口づから、箱の中の色品。上書[やぶちゃん注:「うはがき」。]の樣子、金子は封印に何とありけるぞ、目彔[やぶちゃん注:「目錄」に同じい。以下同じ。]を以て、引合せ、渡し申べし。」

との事也。

[やぶちゃん注:「しやらとけて」しゃらっと(「軽くさらっと」。オノマトペイア)ほどけて。]

 重太夫、聞て、

『是は。心もとなき。目彔、何とあるべしや。』

と、おもひしかども、内に歸り、似合しき案文(あんもん)をしたゝめ、持參せしに、二、三日過て、甚之丞方より、

『成程、目彔に相違なし。但、箱の内は封印のまゝなれば、何とあるも存(ぞんぜ)ざれども、今晚、相渡し申べし。』

との使(つかい[やぶちゃん注:ママ。])、うれしく、早速、うけ取に行けるに、

「金子三石兩封のまゝ。」

と、彼(かの)箱とを、渡しぬ。

 重太夫方より當座の礼として、金子百兩持參しけるを、甚之丞、堅く辭退しけれども、やうやうに渡し、酒など吞(のみ)かはし、夜ふくる迄、語り居て、歸りぬ。

 明(あけ)の日は、早天(さうてん)より起(おき)て、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此金子に灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])など奉り、重太夫、心に人しれぬ笑(ゑみ)をふくみ、氏神を幾度か拜みて、扨、かの封を切けるに、三百兩ながら、悉(ことごとく)眞鍮(しんちゆう)にて作りし似せ小判、壱文が物にもならず。

「こは、いかに。」

と、大に化轉(けでん)し、其まゝ、此金を引さげ、甚之丞が方へ行き、いろいろと穿鑿しけれど、却(かへつ)て、重太夫、言かけ者のやうになりて、樣子あしければ、

『一代の不覚也。』

と、肝をつぶして、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「化轉(けでん)」「怪顚」とも書く。吃驚すること。

「言かけ者」理屈に合わない言いがかりをつける輩。]

 元來、跡かたもない事なけれども、此似金(にせがね)[やぶちゃん注:金子に似せた贋金。]は、甚之丞の工出(たくみいだ)して、渡世の元債(もとで)となしける也。

 かゝる橫道をたくみて、人の金銀を手もぬらさずして取こみしかば、今まで樂々と過しけるに、此事のせんさく有けるより、何とやらん、ひそひそと、村中の取ざた、あしく、人まじはりも疎(うと)くなりしかば、此ほど、住なれたる家も纔(わづか)の金に代(しろ)なし、右の百兩に合て[やぶちゃん注:「あはせて」。]、大坂に下り、元鞚錦(うつぼにしき)丁に、少の由緣(ゆかり)あるを賴み、しばらく、付食(つけめし)に身を隱し、折ふし、北濱の米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て、少々の利分を窺(うかゞひ)けれども、始の程こそ、德分も付つれ、後々(のちのち)は、餘程の蹴込行(けこみゆき)て、次第に下りを請、よろづに心のまゝにとあらぬ矢先、此宿の亭主、ある夜、妻子を道修(だうしう[やぶちゃん注:ママ。])町なる親もとへ遣し、只ひとり、居間に寢もやらず、夜半のころまで、留守を守りて居たり。甚之丞は、其夜、谷(たに)町邊(へん)に用の事ありとて、出たりし跡なり。

[やぶちゃん注:「橫道」「わうだう(おうどう)」。「人としての正しい道に外れていること・邪道」或いは「不正と知りながら行うこと」。

「元鞚錦(うつぼにしき)丁」不詳。前に出た大阪府大阪市西区靱本町辺りか。次の「北濱」は、東北直近で、ごく近い。

「付食(つけめし)」賄い付きの居候か。

「北濱」大阪府大阪市中央区北浜。船場の「北」の「浜」(大阪では河岸(かし)を指す)の意。

「米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て」米の小売りに手をつけ。と言っても、これまでの甚之丞の様子から見ても、誰かを雇ってやらせものであろう。

「蹴込行(けこみゆき)て」舞台の蹴込に落ちるように、がっくりと儲けがなくなり。

「下りを請」「くだりをうけ」。赤字となって、であろう。

「道修町」大阪市中央区道修町(どしょうまち)。江戸時代からの薬種問屋街で、現在も製薬会社が並ぶ。北浜の南直近。

「谷(たに)町」大阪府大阪市中央区町。]

 比は元祿十五年[やぶちゃん注:一七〇二年。]の秋、もはや名月にちかき空、俄にかき曇り、時ならぬ夕立、一通り降(ふり)て、物さはがしくすさまじき折から、庭の沓(くつ)ぬぎの下より、人音して、立出(たちいづ)るもの、あり。

『こは、いかに。盗人にこそあるらめ。』

と思ふより、平生(へいぜい)、物おぢする人なりければ、憶病神(おくびやうがみ)[やぶちゃん注:ママ。]にひかされ、ちつともはたらかず、一念に大悲觀世音の名号をとなへ、

『所詮、此家にある程の宝、たとへ丸剝(まるはぎ)にして行たりとも、命さへあらば。』

と觀念し、他念なく念佛したりける後(うしろ)より、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]、一(ひと)太刀、きり懸(かけ)つる、と覚けるが、其後、夢中(むちゆう)のやうになりて、前後をしらず。

 盗人は、

「仕(し)すましたり。」

と、急ぎ、とゞめをさすべき心に成て、切つけし刀を引に[やぶちゃん注:「ひくに」。]、何に切つけしにや、有無(うむ)に[やぶちゃん注:どうしても。]、切込し所より、ぬけず。

「こは、いかに。」

と、心せきて、大汗(おほあせ)になりて、

「ゑいや、ゑいや。」[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。]

と引ける内、あるじの女房、手代などに送られ、歸りけるが運のつきとて、表の戶をしめざりける儘に、程なく、みなみな、門、一入[やぶちゃん注:「かど、ひとしほ」。]、音(おと)しければ、刀を捨(すて)て迯(にげ)んとせしが、何とかしけん、踏(ふみ)はづして、我着物の裾の破れに足を引かけ、

「どう。」

と、仆(たふ)れけるを、手代ども、見付て、やにはに、とらへて見れば、甚之丞也。

「扨は。きやつが手にかけ、旦那を殺しけるにや。」

と、切こみし刀を引ぬきて見しに、亭主には、露ばかりも疵つかず、持仏堂の戶を切割(きりわり)て、中なる舍利塔(しやりたう)に切先(きりさき)をきりこみて、ありける。

 かたじけなくも、此舍利は、和州法隆寺より申うけて、年比、侘心したりし、生身[やぶちゃん注:「しやうしん」。]の仏舍利にてありしとぞ。

[やぶちゃん注:「侘心」「わびごころ」か。心から静かに祀り拝んできたことを謂うか。

「生身の仏舍利」私も諸寺で見てきたが、高名な寺院のそれ、本物の仏舎利と称するものは、概ね、水晶であった。]

 亭主も此奇特に、性根(しやうね)も付かゝる不思議を得たりし悅に[やぶちゃん注:「よろこびに」。]、甚之丞が命をたすけるに、甚之丞も此瑞現(ずいげん)より、心ざしをあらため、其場にて髻(もとゞり)を切、すぐに道心の身となり、今に玉造(たまつくり)の邊にありとぞ。

[やぶちゃん注:「性根(しやうね)も付かゝる」心底をぶすりと突かれたような、の意でとっておく。

「玉造」大阪府大阪市中央区玉造。個人的には私なら、こんな近くに居てはほしくないね。]

大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)

 

【和品】

鰤 鰤ノ字ハ昔ヨリ国俗ニブリトヨム然モ出處未詳本

 草ニ魚師トイヘルハ別物ナルカ其形狀ヲノセス唐韻

 ヲ引テ曰鰤ハ老魚也ト然ラバ鰤ト魚師ト一物カ又

 本草引山海經曰魚師食之殺人トアリフリハ微毒ア

 レトモ人ヲ殺サレドモ松前蝦夷ノフリハ殺人ト云凡フ

 リハ病人ニ不宜又瘡疥ヲ發シ痰ヲ生ス有宿食及

 癤瘡金瘡人不可食丹後鰤ハ味美ナリ若狹ナト隣

 國ナレドモブリノ味ヲトル丹後フリ油多キ故塩脯トナラス

[やぶちゃん注:「ヲトル」はママ。]

 筑紫ノフリハ塩脯トスヘシ鰤ノ小ナルヲハマチト云江戶

 ニテイナタト云筑紫ニテヤズト云地ニヨリテ名カハレリ皆一

 物也三月ニ多ク捕ルヤズニモ色ノ少シアカキアリ少大

 ナルヲ目白ト云小フリナリブリヨリ小ナル故味ウスク

 毒ナシハマチ丹後若狹攝州等ノ産ハ味ヨシ筑紫ノ

 産ハ味淡ク酸シ目白ハ味ヨシ凡丹後ノサバカレイアヂフ

[やぶちゃん注:「カレイ」はママ。歴史的仮名遣では「カレヒ」。]

 リナト皆脂多味美○一種ヒラマサト云モノアリフリニ似テ

 大ナリフリニ比スレハ味淡ク無毒其小ナルヲサウジト云味

 淡美ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

鰤(ぶり) 「鰤」の字は、昔より、国、俗に「ぶり」とよむ。然も、出處未だ詳らかならず。「本草」に「魚師」といへるは別物なるか。其の形狀を、のせず。「唐韻」を引きて曰はく、『鰤は老魚なり』と。然らば、鰤と魚師と一物か。又、「本草」、「山海經〔(せんがいきやう)〕」を引きて曰はく、『魚師、之れを食へば、人を殺す』とあり。ぶりは微毒あれども、人を殺さず。されども、松前・蝦夷(えぞ)の「ぶり」は人を殺すと云ふ。

凡そ、「ぶり」は病人に宜しからず、又、瘡疥〔(さうかい)〕を發し、痰を生ず。宿食有〔り〕、及び、癤瘡〔(せつさう)〕・金瘡〔(きんさう)〕の人、食ふべからず。

丹後鰤は、味、美なり。若狹など、隣國なれども、「ぶり」の味、をとる。「丹後ぶり」、油多き故、塩脯〔(しほほじし)〕とならず。筑紫の「ぶり」は、塩脯とすべし。

鰤の小なるを「はまち」と云ひ、江戶にて「いなだ」と云ひ、筑紫にて「やず」と云ひ、地によりて、名、かはれり。皆、一物なり。三月に多く捕る。「やず」にも色の少しあかきあり。少し大なるを「目白(めじろ)」と云ひ、小ぶりなり。「ぶり」より小なる故、味、うすく、毒、なし。「はまち」、丹後・若狹・攝州等の産は、味、よし。筑紫の産は、味、淡く酸〔(す)〕し。「目白」は、味、よし。凡そ、丹後の「さば」・「かれい」・「あぢ」・「ぶり」など、皆、脂、多く、味、美なり。

○一種、「ひらまさ」と云ふものあり。「ぶり」に似て、大なり。「ぶり」に比すれば、味、淡く、毒、無し。其の小なるを「さうじ」と云ひ、味、淡美なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiataウィキの「ブリ」によれば、『標準和名「ブリ」については、江戸時代の本草学者である貝原益軒が「脂多き魚なり、脂の上を略する」と語っており』(本書の本条ではない)、『「アブラ」が「ブラ」へ、さらに転訛し「ブリ」となったという説がある。漢字「鰤」は「『師走』(』十二『月)に脂が乗って旨くなる魚だから」、または「『師』は大魚であることを表すため」等の説があ』るとする。別に『身が赤くて「ブリブリ」しているからといった説がある』とある(また、他に、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「ブリ」の記載では、「日本山海名産図会」の説として、「年經(ふ)りたる」の「ふり」が濁音化したものであるという説を示しておられ、これは出世魚(後述)としても腑に落ちる語源説と言える)。本条にも出る通り、本種は出世魚として知られ、『日本各地での地方名と併せて』、『様々な呼び方をされ』(百種前後の異名があるとされる)、

・関東

モジャコ(稚魚)→ワカシ(35cm以下)→イナダ(35-60cm)→ワラサ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)

・北陸

コゾクラ・コズクラ・ツバイソ(35cm以下)→フクラギ(35-60cm)→ガンド・ガンドブリ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)

・関西

モジャコ(稚魚)→ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ツバス・ヤズ(40cm以下)→ハマチ(40-60cm)→メジロ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)

・南四国

モジャコ(稚魚)→ワカナゴ(35cm以下)→ハマチ(30-40cm)→メジロ(40-60cm)→オオイオ(60-70cm)→スズイナ(70-80cm)→ブリ(80cm以上)

を示す(リンク先にはより詳細な表対照のものも載る)。また、『80cm 以上のものは関東・関西とも「ブリ」と呼ぶ。または80cm以下でも8kg以上(関西では6kg以上)のものをブリと呼ぶ場合もある』。さらに『和歌山県は関西圏』であるが、例外的に『関東名で呼ぶことが多い。流通過程では、大きさに関わらず』、『養殖ものをハマチ(?)、天然ものをブリと呼んで区別する場合もある』とある。荒俣氏は上掲書で、「ハマチ」について、「羽持ち」(大きくはないが、胸鰭が有意にスマートで体側後部へ鳥の羽のように伸びるからか)又は「浜育ち」『の意があるという』と述べておられる。ウィキでは養殖物を「ハマチ」と呼ぶとあるのは、現在の流通での区別でしかなく、既に室町時代の「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう:行誉らによって撰せられた百科辞書)で「魬」を「はまち」と読んで出ており、江戸時代には「ハマチ」は普通に「ブリ」を指す語であったから、注意が必要である。但し、現代日本で初めて養殖に成功したのは、富山県氷見市で、私はその近くの高岡市伏木で中高時代を過ごしたが、確かに通常個体は「ハマチ」の呼称が一般的ではあった(塩巻にするような大型個体は「ブリ」であった)。なお、益軒は福岡であるので、現行の北九州のものを示すと、

ワカナゴ・ヤズ(20cm未満)→ハマチ(40 cm未満)→メジロ(60 cm未満)→ブリ(80 cm未満とそれ以上)

となり、益軒の叙述とも一致している。益軒は毒性の記述をしているが、ブリ本体には有毒成分はない。ただ、脂が強いので、多量に食えば、消化不良を起こす可能性があるから、それを謂っているか。但し、悪名高いアニサキス(線形動物門双腺(双線)綱回虫目回虫上科アニサキス科アニサキス亜科アニサキス属 Anisakis の内、Anisakis simplexAnisakis physeterisPseudoterranova decipiens の三種)がブリに寄生するので、それを毒と称している可能性はある。なお、他にブリには特有の大型(長大)のブリ糸状虫(線形動物門双腺綱カマラヌス目ブリキンニクセンチュウ Philometroides seriolae)が寄生するが、これは人体には無害である(但し、見た目は甚だ気持ち悪くはある)。

『「本草」に「魚師」といへるは別物なるか。其の形狀を、のせず』李時珍の「本草綱目」の巻四十四の「鱗之四」に、

   *

魚師【「綱目」】

集解【時珍曰、『陳藏器、「諸魚注」云、魚師大者、有毒殺人。今無識者』。但、「唐韻」云、『鰤、老魚也』。「山海經」云、『歴㶁之水有師魚、食之殺人』。其卽此與。】

   *

とあるのを指すが、絶対属性の形状を「大」「老」と言っており、益軒は種を同定出来る形状記載がないと言っているのであるが、その内容から見ても、明らかにこの「魚師」は「ブリ」ではない時珍は単に「魚」の「師」(老師)、則ち、老いて大魚となったもの(海産淡水産を問わずである)を総称する語として「魚師」と述べているのである(「本草綱目」は一般単独種のみならず、一般名詞も項目として挙げて記しているので何らおかしくない。益軒はそれらをも種名と読む誤謬を犯しているのである)。大型の魚類の中には(特に海産の中・深海性の種群)、高級脂肪酸(ワックス)を筋肉に持っていたり、肝臓に多量のビタミンAを蓄積する種が見られ、これらを過度に食すると、激しい下痢(前者)や皮膚剥落(後者)の症状を発症するケースがまま見られるので、「有毒」というのは腑に落ちるとは言える。

「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された韻書。もとは全五巻。中国語を韻によって配列し、反切によってその発音を示したもので、隋の陸法言の「切韻」を増訂した書の一つ。後、北宋の徐鉉(じょげん)によって、「説文解字」大徐本の反切に用いられたが、現在では完本は残っていない(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「『鰤は老魚なり』と。然らば、鰤と魚師と一物か」どうして短絡的にそうなるかなぁ、益軒先生!

『松前・蝦夷(えぞ)の「ぶり」は人を殺すと云ふ』意味不明。或いはアイヌ語で別の動物を指すのではないかと思い、調べて見たが、見当たらない。

「瘡疥〔(さうかい)〕」ここは広義の発疹性皮膚疾患であろう。寄生虫等によるものではなく、叙述からみて、魚肉アレルギ性のそれと思われる。

「宿食」食べた物が消化せずに胃の中に滞留すること。脂の強いそれなら腑に落ちる。

「癤瘡〔(せつさう)〕」通常は現在の毛包炎、「おでき」を指す。化膿して熱を持っている病態は消化機能も落ちているから、脂の強いものを食するのはよくはない。

「金瘡〔(きんさう)〕」刃物による切り傷。同前。

「丹後鰤は、味、美なり」先の荒俣氏の記載によれば(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ブリは丹後の産が最上とされた。その理由は、《本朝食鑑》によると、東北の海から西南の海をめぐり、丹後の海上にいたるころに、ちょうど身が肥え、脂も多く、はなはだ甘美な味になるから』で、『また、《日本山海名産図会》によれば、丹後与謝の海』(京都府宮津湾奥部、天橋立の砂州で区切られた潟湖の阿蘇海(あそかい)の古い異名)『の海峡にイネという場所があって(現京都府与謝郡伊根町)』(丹後半島の北東部尖端。ここ(グーグル・マップ・データ))、『椎の木が多く』、『その実が海にはいって魚の餌となるから、美味になる、という』とある。但し、ブリは肉食性で、幼魚時はプランクトン食だが、成長するにつれて魚食性になるから、この話は眉唾っぽい。但し、現行の養殖では、飼料に小魚(こざかな)をペレット化したものをやるが、そこにカボスやカカオポリフェノールを含ませるとあるから、絶対に食わないとは言われないかも知れぬ。

「塩脯〔(しほほじし)〕」塩漬けにした一種の干物。脂が強いと向かないとは思う。

『少し大なるを「目白(めじろ)」』ブリはやや大きくなると、眼球の白目部分が有意に見えるようになるからであろう。

「ひらまさ」平政。ブリ属ヒラマサ Seriola lalandi。ブリと『よく似ているが、ブリは上顎上後端が角張ること、胸鰭は腹鰭より長いか』、『ほぼ同長であること、体はあまり側扁しないこと、黄色の縦帯はやや不明瞭なことで区別できる。また』、『ブリは北西太平洋のみに分布するので、他地域ではヒラマサのみになり』(ヒラマサは全世界の亜熱帯・温帯海域に広く分布(但し、赤道付近の熱帯海域には見られない)し、日本近海では北海道南部以南で普通に見られる)、『混乱は起こりにくい。またヒラマサの旬は夏である。ブリとヒラマサはまれに交配することがあり、ブリマサまたはヒラブリと呼ばれる個体が水揚げされることがある』とウィキの「ブリ」にある。ヒラマサには別に「平鰤」という字が当てられることから、「ブリ」よりも「平」たくて、体側の太い黄色縦帯を木の「柾」目(まさめ)に譬えたのが「ひらまさ」の語源であろうと言われる。なお、ブリとは、口部の端外側上部(主上顎骨後縁上部。口端真上の三角形を成す部分)がヒラマサでは丸く角張らないのに対し、ブリでは切り取ったようにかっちり角張っていることで容易に識別出来る。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のヒラマサのページに当該部位の対照写真があるので見られたい。

『其の小なるを「さうじ」と云ひ』同前リンク先に「ヒラソウジ」の異名が載る。「さうじ」「ソウジ」の語源は不詳だが、成長過程で黄帯を持つシマアジ(スズキ目アジ科シマアジ属シマアジ Pseudocaranx dentex)にも「ソウジ」の異名があり、或いは「双」一紋「字」辺りが語源かも知れぬなどと勝手に夢想した。]

2019/08/17

諸国因果物語 巻之四 狸の子を取て報ひし事

  

     狸の子を取て報ひし事

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 加州金沢に弥九郞といふものあり。奇妙の狐(きつね)つり也。

 此おとこ、出て行時は、假初(かりそめ)にも萬の[やぶちゃん注:「よろづの」。]獸(けだもの)、心よく出て遊ふ事、なし。何といふ事なく、一目見つる物をのがさす、悉(ことごとく)つりて、市にはこび、五貫、三貫のあたひを得て、おのが身のたすけとしけるに、ある時、用の事ありて、越前の國福井へ行事ありしに、月津(つきづ)よりとゞろきへ行あひだに、敕使(ちよくし)といふ所有、此邊に「道竹(どうちく[やぶちゃん注:ママ。])」とて、隱れもなき古狸ありて、漸(やゝ)もすれば、人をたぶらかし、化して難義させけるが、折もこそあれ、弥九郞が通りける時、道竹が子ども、二、三疋、此ちよくし川の邊(ほとり)に出て、遊び居けるを、弥九郞、はるかに見付、

「あつぱれ、よき儲(まふけ)や。是を釣(つり)て、道中の酒代に。」

と、おもひ、かたはらなる茨畔(いばらくろ)に這(はひ)かくれ、さまざまと手を盡し、難なく、二疋は釣おほせ、一疋は取逃しぬ。

[やぶちゃん注:「五貫、三貫」本作が刊行された一七〇〇年代で、金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)で、一両を現在の十三万円と換算する例があったのに従うなら、「五貫」で、一両二匁半で十八万二千円、「三貫」だと七匁半で九万七千五百円となる。

「月津(つきづ)」現在の石川県小松市月津町(つきづまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「とゞろき」福井県あわら市轟木

「敕使(ちよくし)」石川県加賀市勅使町(ちょくしまち)。名(旧村名)は花山法皇や一条天皇の勅使の逗留所が在ったことに由来するとされている。

「道竹」不詳。この妖狸の名は伝承や他の怪奇談には出ないようである。

「茨畔(いばらくろ)」川の畔(ほとり)の茨の茂み。]

「口おしき事歟[やぶちゃん注:「か」。「口おしき」はママ。]。我、今まで何ほどか獸をとりけれども、終に仕損(しそん)ぜし事、なし。おのれ、是非に釣(つら)ずして置べきか。」

と、かの二疋を囮(をとり)として、逃うせし狸を待し所へ、五十ばりかと見ゆる禪門、かせ杖にすがりて、此所を通りあはせ、弥九郞が隱れゐたる所へ立より、

「弥九郞、弥九郞。」

と呼(よぶ)。

[やぶちゃん注:「かせ杖」「鹿杖(かせづゑ)」と漢字表記する。先が二股になった杖、或いは、上端をT字形にした杖。撞木(しゅもく)杖。また別に、僧侶などが持つ、頭部に鹿の角をつけた杖。]

 弥九郞、むなさはぎして、

『こは、何ものぞ。』

と、立あがりけるに、禪門のいふやう、

「我、もと人間にあらず。其方も聞およびつらん、此所に年久しく住(すみ)て多(おほく)の人を欺きたぶらかしける、道竹なり。我、今、千年を經たれば、通力、心のまゝにて、よく火に入、水に隱れ、雲となり、霞と化(け)して、自在なる事を得たるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、此國に弥九郞といふ狩人(かりふど[やぶちゃん注:ママ。])ありて、手をつくせども、我、また、變化(へんげ)して、終に其方が手にまはらず。今、あらはれて爰(こゝ)に來(きた)る事、大切なる望(のぞみ)あるがゆへ也。我願ひをかなへ給らば、我、そのかはりに其方が身、一代光耀にほこり、歡樂にほこる樣(やう)をおしへ[やぶちゃん注:ママ。]申さん。」

と、いふ。

 弥九郞、聞(き)て[やぶちゃん注:ママ。]、

「何なりとも、いひ給へ。かなへ申さん。」

と、請合[やぶちゃん注:「うけあふ」。]時、道竹、なみだを、

「はらはら。」

と流し、

「誠に生ある者として子を思はざるはなきぞかし。我、此年ごろ、人を惱し、人に敬(うやま)はれ、恐れを請(うけ)し事あれども、人に詞(ことば)をたれ、人に手をさげし事、なし。弥九郞なればこそ、我も詞をかはし、我なればこそ、子のために顯(まのあたり)かたちを顯しけるぞや。最前、其方に釣(つら)れしは、我が子ぞもの中にても、殊に末子(まつし)なり。常に、我、いましめて、猥(みだり)にあそぶ事なかれ、と制すれども、おさなき心にはやりて、今、此難にあひけるを、親の身なれば、見捨ても置かだく侍り。此心を察して、彼が命をたすけ得させ給ひてんや。」

と、淚にむせびける程に、弥九郞、

「しからば、我、二疋の子をたすけ歸すべし。其悅(よろこ)びには、何をもつて、我に一生の歡樂をあたふべきや。品によりて、免さん。」

といふに、道竹、

「されば、一生の歡樂といふは、過去の因緣に隨ひ、宿習(しゅくしう[やぶちゃん注:ママ。])の福報をうけ、音、德本(とくほん)を植(うへ[やぶちゃん注:ママ。])て、今、冨貴(ふうき)の身となり、尊(たつと)きにいたる也。我、數(す)千歲(ざい)を經て、神通無㝵(じんつむげ)[やぶちゃん注:「無碍」に同じい。]なれども、其宿福をおこして、決定して、貧を轉ずる事、あたはず。只、幻化虛妄(げんけこもう[やぶちゃん注:ママ。])の奇特(きどく)をもつて、假(かり)なる樂(たのしみ)を語るに、術を得たり。今、しばらく、大なる福を受(うく)るといへども、人を惑(まどは)し、魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])を奮(ふるひ)て冨貴を貪(むさぼ)るが故に、未來は、かならず、惡趣(あくしゆ)に落(おち)て苦を受(うく)る事、治定(ぢでう)也。しかれども、我、これを知(しる)といへども、畜生の身を得しかば、本心、また、過去の業(ごう[やぶちゃん注:ママ。])にひかれて、漸(やゝ)もすれば、惡にそみやすく、此妙用を樂しみと思ふ也。かゝる類(たぐひ)の幻術、いくばくともなく、我に備へたれば、其方に命を乞(こひ)て、子をたすけ、其変替りに、歡樂をなさしめ、一生の榮花にほこらせ申さんといふも、此通力の内を、只、ひとつ、授(さづけ)申さんがため也。」

と、いふに、弥九郞も未來を恐れざるにはあらねども、先(まづ)、當分の歡樂といふに、心うつりて、

「さらば、其神通の内を、何にても、我に授(さづけ)よ。」

と望しかば、子を思ふ心の闇にひかれて、道竹は弥九郞をともなひ、ほそろ木の山ちかき熊坂(くまさか)の城あとへ、わけのぼり、さまざまの行ひをさせ、いろいろの勤(つとめ)を敎けるが、一つも、人間の世に聞(きゝ)もしらぬ事ども也。

[やぶちゃん注:「惡趣(あくしゆ)」三悪道。悪業の結果、受ける輪廻転生の存生の様態。狭義に「地獄」・「餓鬼」・「畜生」を指す(但し、広義には六道輪廻自体が煩悩に拠る不全の時空間であるから、広義にはそれに「修羅」を加えて「四悪趣」とも、また「人間」「天上」を加えた六道輪廻全体をもそれとなる)。

「ほそろ木の山」福井県坂井郡にあった細呂木村(ほそろぎむら)か。現在のあわら市の北東部で、北陸本線細呂木駅の周辺に当たる。なお、当該駅から東北に四キロメートル弱の位置に石川県加賀市熊坂町がある。

「熊坂(くまさか)の城あと」上記の熊坂町内には複数の山城跡(土塁・郭・堀)が残る。「熊坂花房砦」・「熊坂菅谷砦」・「熊坂黒谷城」・「熊坂口之砦」を見出せる。よく判らないが、南北朝期以後の山城か。]

 さて、

「此つとめ、毎日、朝日にむかひ、身、おはる迄、行ひ給はゞ、万寶(まんぼう)は心のまゝなるべし。」

と、堅く誓言(せいごん)させ、

「今こそ、其方が經法はかなひたれ。あなかしこ。此事、人に語り給ふな。」

とて、立わかれぬ。

 弥九郞は、何を何とわきまへたる所もなく、いぶかしけれど、此山中を立いづるに、行(ゆき)かふ山人・里人など、弥九郞を、ふりかへり、ふりかへり、見て、

「扨も。美しき女郞(ぢようらう[やぶちゃん注:ママ。])かな。およそ、此近國にあれほどの女をみず。」

と、私語(さゝさき)わたりけるにも、

「扨は。此身ながら、女になりけるにや。」

と、心もとなさに、あたりなる溜池にさしうつぶき、水かゞみ見しに、

『さても、化(ばけ)たり。我ながら、是程には、器量よく、髮のかゝり、爪(つま)はづれのよくも、女とは、なりしよな。』

[やぶちゃん注:「爪(つま)はづれ」「爪外(つまはづ)れ」「褄外れ」で裾のさばき方。転じて、身のこなし・所作の意。]

と、見るより、あまた人の見かへり見とむるを、面白く、福井の町を行返りけるに、年ばへなる女、弥九郞が袖をひかへ、

「みづからは、加州大聖寺(だいせうじ[やぶちゃん注:ママ。])より一里ばかり山代の湯もとに隱れなき『増㙒(ますの)』と申者なり。我、湯もとに年久しく住(すみ)て、あまた、湯治の人を宿し、按摩を所作(しよさ)として、客達の機嫌を取、あるひは、女中・お國住(ずみ)のお局(つぼね)・御國腹(おくにばら)の御姬さまなどに取入(とりいり)、御痞(つかへ)を挲(さすり)、腰をもみて、定(さだま)りの外の金銀をまふけ、活計に暮し、今、六十にちかくなるまで、何のふそくもなき身なれども、夫(おつと)は十年跡(あと)に世を去(さり)、親類とては從兄弟(いとこ)むこ一人のみなり。我家は此所作に名ありて持(もち)つたへし宿や、殊に貴人・高位にも立(たち)まじはる事を專(せん)とすれば、尋常なる人にゆづる事も本意なく、年ごろ、湯本の藥師堂に此事を歎き、祈りけるしるしに、此ほど、正(まさ)しき夢想ありて、『福井まで迎(むかへ)に出べし』との告(つげ)、ありありと人相・衣服まで露ばかりも違(たが)はず。其方は、我家(わがいゑ[やぶちゃん注:ママ。])の跡とり也。いざ、此方(こなた)へ。」

とさそはれ、心はづかしく、

『いかゞ、』

と思へども、

『是や、彼道竹がはからひなるべし。』

と、おもふに任せて、いとやすく請(うけ)あひ、此祖母(うば)と、うちつれて山代へ行けるに、聞(きゝ)しは物かは、家居(いゑい[やぶちゃん注:ママ。])、おびたゞしく、下部(しもべ)なども餘(あま)た出入て、にぎはしく、湯治の男女(なんによ)、ひまなき中にも、幕(まく)の湯(ゆ)・留湯(とめゆ)など、いひのゝしり、女中、ひまなく此家に關札(せきふだ)を打(うち)て、いり込(こむ)に、祖母(ばゞ)は弥九郞を引(ひき)つれ、

「我(わが)むすめ也。」

と、披露しけるは、心にいかばかりおかしけれども、齒をくいしめて、聞いたるに、「平河(ひらかは)の御かた」といふ名をさへ付て、地(ぢ)なしの小袖を打かけさせ、御目見へ[やぶちゃん注:ママ。]させける。

[やぶちゃん注:「大聖寺(だいせうじ)」大聖寺藩の城下町。現在の石川県加賀市中心部。「大聖寺」を冠する町が並ぶ。

「山代の湯もと」石川県加賀市山代温泉

「湯本の藥師堂」行基が開いたとされる山中温泉の、真言宗薬王院温泉寺の本尊である薬師瑠璃光如来像が祀られてあったものであろう。本堂は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行4間、正面3間軒唐破風向拝付き、現在は本堂内陣にあるが、三十三年に一度しか開帳されない秘仏である(次の開帳は二〇四八年である)。

「幕(まく)の湯(ゆ)」不詳。当時の湯治場は開放式(露天)が普通であったから、貴人女性などが入浴するために、幔幕を巡らしたところがあったものか。次注も参照されたい。

「留湯(とめゆ)」不詳。複数ある源泉の中でも最後に入るべき湯のことか。或いは山代温泉は硫酸塩泉系と単純温泉系の二種の泉質の源泉が存在するから、その区別なのかも知れない。

「關札」ここは宿札(やどふだ/しゅくさつ)のこと。大名・旗本などが宿泊する本陣や脇本陣の門又は宿の出入り口に、宿泊者の名を書いて掲げた札。

「平河(ひらかは)の御かた」由来不詳。]

 恥かしき燈臺の陰に綿ぼうしとりかけたるひまより、御客と覺しき御かたを見れば、年のほど、廿二、三と見えて氣高く美しき女中也。さすがに、我はいやしかりし身のかゝる貴人の姬君など、いさゝかにも見たる事なく、そのうへ、此きみの器量、また、類(たぐひ)あるべしとも覺えぬうつくしさに、見とれ、

『何とぞして、此御方に取いり、思ひそめつるかたはしをも、いひしらせ奉り、せめては哀(あはれ)ともいはれ參らせばや。』

の心づきて、夜と共に御かたはらを離れず、湯治の御あかり場(ば)[やぶちゃん注:脱衣所のことであろう。]までも入たちけるにつきて、御浴衣(ゆかた)を參らせける序に、御腰(こし)を、

「しか。」

と、いだき參らすれば、

「こは、いかに。」

と仰られしを便(たより)に、平河、なみだを流し、

「誠は、我、をんなにあらず。弥九郞と申[やぶちゃん注:「まうす」。]獵人(かりうど)なり。去(さる)子細ありて、かゝる女のかたちを作り、此宿のあるじとなる事を得たれば、冨貴榮耀は並びなき身となり候へども、知(ち)あるも、愚(おろか)なるも、たゞ、彼[やぶちゃん注:「かの」。]まどひの一つは忘れがたく、君がありさまを見そめまいらせしより、露(つゆ)わするゝ隙なくて。」

などゝ、搔(かき)くどきけるは、おもひもよらぬ事に、姬君も當惑したまへども、はしたなくも引はなさず、

「誠に御心ざし、無下(むげ)にはなし難(がた)く、いとほしと思へど、かゝる男心ありては、湯治(たうじ)のしるしもなきとかや、湯文(ゆぶみ)にもしるされて待れば、心よく待(また)せたまへ、ひとまはりといふも、暫(しばら)くの事ぞかし、又の年の迎ひ湯には、かならず。」

と、いひて慰め給ふに、弥九郞、面(おもて)の色をかへ、

「よしよし、賤(いやしき)身とおもひて此事をなだめ、いたづらに戀死(こひじぬ)とも、又、あはじとおぼしめす心底にこそ。いでいで、我心ざしを無足(むそく)にし給はゞ、見すべき報(むくひ)こそあれ。」

と、御腰(こし)いだきたる手を、つきはなしけると思へば、俄に、五体、くるしみ、御病氣、おもくなり、物いひ給ふ事もなりがたく、口ごもるやう也けるまゝ、是に恐れて、心よく、身をうき物と思ひながら、假(かり)の枕をかはし給ひしより、人しれぬ通ひ路に、關守も心とけて、あさからぬ中となり給ひける。

[やぶちゃん注:個人的には最後のシークエンスは言葉が足りない気がする。「是に恐れて」の部分で、これは、彼(女に化けた弥九郎)が姫君を突き放したところが、姫の病いが急に重くなってしまい、言葉さえまともに発することが出来なくなってしまった結果(文脈上では弥九郎の神通力によってという風に読めるようには出来ていよう)、「その変事を姫君自身が恐れてしまい、」ということである。]

 かゝる事ありとは夢にもしらず、此度、湯治の御禮せし團佐(だんすけ)といひし侍、この平河が器量になづみ、明暮と心をつくし、隙(ひま)を窺(うかがひ)、

「責(せめ)て、一言のなさけにも預らばや。」

と心かけ居たりしに、ある朝、まだほの暗きに、平河の御かた、姬君の御ねやより、しのびやかに出で歸りけるを、兎(と)ある片陰に引すへけるを、はしたなく聲たてゝ、

「爰に男あり。」

と、のゝしるを、團佐は日比、戀わびし思ひの色、よしや、此女ゆへには、たとひ、命を捨(すつる)とも、露(つゆ)うらみぬ氣になりしかば、ひたすらに、いだき留つゝ、何角(なにか)と聞(きゝ)もわきがたく、言つゞけ、ふところに手をさし入けるに、むないたより、毛、おひ、骨ぐみ、あらゝかなりしかば、恐しき心つきて、

「おのれ、癖者め。のがさじ。」

と、いひしより、人々も出あひ、立かゝりて、吟味せしに、弥九郞が化(ばけ)あらはれ、終に死罪におこなはるゝよ……と……おもへば……夢のさめたる如くにて……勅使川原に……たゝずみ、ける。

 是より、思ひとまりて、長く獵師をとまりしとぞ。

 

 

諸國因果物語卷之四

[やぶちゃん注:エンディングの現実覚醒部分には特異的にリーダを用いた。ここまでの話柄の中では、特異的に、徹頭徹尾、面白さを狙ったものである。構造上は神話伝承に於ける、〈破約のモチーフ〉であるものの、標題自体が「狸の子を取て報ひし事」であるのは、予め、エンディグは決定(けつじょう)されていた夢落ち、まんまと弥九郎は老化狸道竹に騙されたのであった。そもそもが、道竹はその語りに於いて、越前・加賀の獣たちから非道の狩人弥九郎を懲らしめてくれるように頼まれていたに違いないということが、見え見えではないか。とすれば、この子狸三匹でさえも、道竹の子らなんどではなくて、彼の使った陰陽道の式神(しきがみ)みたようなものが演じたダミーだったのではなかろうかと私は考えてさえいるのである。

「湯治の御禮せし」よく判らない。湯治にきて、宿の女将に挨拶にきたということか。

 本話を以って「諸国因果物語」巻之四は終わっている。]

諸国因果物語 巻之四 人形を火に燒てむくひし事

 

     人形を火に燒(たき)てむくひし事

Ningyou



 寛文のころまで世にもてはやされける說經太夫に、「日暮」といひし者は、たぐひなき譽(ほまれ)を殘して、今も片田舍のものは、折ふし、ことの物忘れぐさに、「しんとく丸」・「さんせう太夫」などいひて、愚なる祖母(うば)・口鼻(かゝ)を泣せ、頽廢(すたれ)たる音曲(をんぎよく)に頑(かたくな)なる耳を驚かす事にぞありける。

[やぶちゃん注:「寛文」一六六一年~一六七三年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「說經太夫」中世に勃興して中世末から近世にかけて盛んに行われた語りもの芸能であった説経節(せっきょうぶし)を演じた芸能者。ウィキの「説経節」によれば、『仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(』しょうみょう:『梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である』。『近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し』、京阪では万治(一六五八年~一六六〇年)から寛文(一六六一年~一六七二年)にかけて、江戸では遅れて元禄五(一六九二)年頃まで『がその最盛期であった』。『説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり』、『哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する』。『また、近世』(安土桃山時代)『以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある』。『徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な』五『曲をまとめて「五説経」と称する場合がある』とある。

「日暮」同前より引用。『説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた』。『ささらとは、楽器というより』、『本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである』。『北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂』『といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たして』お『り、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間』であった。説教太夫もそうした中から生じ、発展していったものであった。『近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永』八(一六三一)年『より少し前を想定している』。また、「さんせう太夫」などの説経節の正本(しょうほん)に『のこる演目は、一話を語るにも』、『相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした』『とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない』。『説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社』『の配下となり、その口宣を受けた』。『京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から』「日暮八太夫」や「日暮小太夫」を名跡とする説教者が登場し、『寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている』。『正本の刊行などから推定して』、『寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による』寛文四(一六六四)年の『説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている』。因みに、「日暮小太夫」の名跡自体はずっと後の宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃まで続いたと『推定されている』。『説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては』、『義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され』、江戸にくらべて早い時期に衰退してしまった。『浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわった』結果であった。『上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。『尾張戯場事始』によれば』、寛文五(一六六五)年、『京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行して』おり、『そのときの演目は「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい』とある。

「ことの物忘れぐさ」京阪の都市部では既に、後に出る通り、「頽廢(すたれ)たる音曲(をんぎよく)」となっていたから、日常中では、何となくもう忘れられてしまったような古い話及びその題名として。

「しんとく丸」「信德丸」。伝承上の人物を主人公とした「俊徳丸(しゅんとくまる)伝説」(高安長者伝説)を元にした語り物。ウィキの「俊徳丸」によれば、『河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲の』「弱法師(よろぼし)」、本説教節の「しんとく丸」、人形浄瑠璃や歌舞伎の「攝州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」などが『おなじ説教節』の「愛護若(あいごのわか)」『との共通点も多い』とある。詳しく各種のシノプシスはリンク先を読まれたい。

「さんせう太夫」「安寿と厨子王」伝承や森鷗外の小説「山椒大夫」で知られる。ご存じとは思うが、ウィキの「安寿と厨子王丸」をリンクさせておく。

「口鼻(かゝ)」「嚊」(但し、「鼻息が荒いの意」であって、「母」の意はない)の字を分解したもの。「嬶」(「鼻息の荒い女」の意からできた国字)。「日本語俗語辞書」の「かかあ」の記載によれば、『妻や母に対する親しみを込めた呼び方』で、「はは」や「かか(さま)・かかあ・(おつ)かあ」は、古代には「蛇」の意味で使われていた「かか」が時代とともに転訛していき、庶民間で「母」や「妻」(自他ともに)という意味で使われた。古代に於いては「k」音と「h」音の発音が曖昧であったため、「かか」と「はは」の二種が定着したもとされている、とある。]

 されば、元祿十一年[やぶちゃん注:一六九八年。]の比迄、日暮小太夫という者ありて、美濃・尾張・因幡・筑紫など、いたらぬ所もなく、秋入の時節[やぶちゃん注:陰暦七月。]を窺、雨ごひの悅びを手つだいて、行脚のごとく、國々にめぐりて、說經をかたり、辻打(つじうち)の芝居に傀儡(でく)を舞(まは)して渡世(とせい)としけるが、それも、世くだり、人さかしく成て、如何なる國のはて、鄙(ひな)の長路(ながぢ)の口すさびにも、「あいごの若」などいふ、古びたる事をいはず、只、わつさりと、「時行歌(はやりうた)」・「角太夫ぶし」こそよけれ、と行(ゆく)も歸るも、耳をとらへ、顏をかたぶけて、「七(なゝ)小町」・「杉山兵衞」などゝいふものをしぼりあげ、又は、上がたへのぼりて纔(わづか)に「讀賣(よみうり)」・「歌びくに」などの口まねを、はしばし覺えて、日待の家、祝言(しうげん)の酒に長じて、

「今は、都にても、かゝる歌をこそ諷(うた)へ。」

と、我しりがほに頭をふり、聲をはりてどよめくに、一座の人は、何をいかにと、聞(きゝ)わけたる方もなけれど、

「ようよう。」

と、

「ほめや、いや。」

と。わめきて、說經を聞て、なぐさまんといふもなく、是にうつりて、たまさか、年よりし者の噂するもあれど、

「昔の小太夫は、上手にて、聞(きく)に、袂(たもと)をぬらさぬはなかりき。今の世の若き者どもの、たまたまにかたるは、說經ではなくて、居ざりの物貰ひが、節つけて、袖ごひするに、似たり。」

などゝいやかるに付て、渡世、おのづから、うとく、

「市がけの芝居にやとはれて、せめて人形づかひになりとも行ばや。」

と、かせげども、それも、今時の人形づかひは、「おやま五郞右門」が風ぞ、「手づま善左門」が流(りう)などゝ、さまざまの身ぶりを移し、中々に生(いき)たる人の如く、細やかに氣をつくして遣ふのみか、衣紋(ゑもん[やぶちゃん注:ママ。])といひ、髮形(かみがたち)其まゝの、人形と見えぬを手がらに、「我、一[やぶちゃん注:「われ、いち」。]」と、たしなむほどに、それも望[やぶちゃん注:「のぞみ」。]たへて、次第につまり行、身過(みすぎ)のたね、今は何喰(くふ)べき便(たより)もなく、衰(おとろへ)ゆくに任せて、恥をすて、顏を隱して、袖ごひを仕(し)ありき、今迄、たばひ置し、人形の衣裳を剝(はぎ)て「守袋(まもりぶくろ)」・「けぬき入[やぶちゃん注:「毛拔き入れ」。]」の切(きれ)に賣(うり)、あか裸の人形を相割(わり)て、火に燒(たき)、雪の夜嵐(よあらし)の朝(あした)、石竃(いしくど)にまたがりて、尻をあぶり、食(めし)を燒(たき)て打くらひ、今まで此影(かげ)にて何ほどの身をたすかり、妻子をはぐゝみし恩を思はず、手あしをもぎて、楊枝につかひ、きせるをさらへなどしけるが、中にも、「おやま人形」一つは殘して、在々所々へ持まはり、「地藏の道行」など、やうやうに諷(うた)ひ舞(まは)せて、袖ごひのたねとしけれども、かゝる零落のみぎりには、する程の事、心にたがひて、一人の口にだに、たらぬ米の溜りやうなれば、歸りて、そのまゝ、此人形を石に投付(なげつけ)、足にかけて蹴とばし、人形の科(とが)のやうに恨(うらみ)のゝしりける事、およそ半年ばかり也。

[やぶちゃん注:「傀儡(でく)」操り人形。「木偶(でく)の坊」。もとは平安時代の「傀儡(くぐつ)」という木彫りの操り人形のこと。人形が「木偶の坊」(「坊」は「小さな人」の意であろう)と呼ばれるようになった由来は、「でくるぼう」とも言われたことから、「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説や、「手くぐつ」が訛った「でくる」からなどが有力とされるが、正確な語源は未詳である。

「あいごの若」「愛護の若(わか)」。古い説経節の曲名。また、その主人公。万治四(一六六一)年以前に成立。長谷観音の申し子の「愛護の若」は、継母によ、り盗人の汚名を着せられて自殺するが、後、山王権現として祀られるストーリー。この題材は浄瑠璃や歌舞伎などの一系統として発展した(小学館「大辞泉」に拠る)。

「角太夫ぶし」「角太夫節(かくだいふぶし(かくだゆうぶし))」。古浄瑠璃の一派。寛文(一六六一年~一六七三年)頃に京都で山本角太夫(後に土佐掾(とさのじょう)を名乗る)が創始した。この派から「文弥節(ぶんやぶし)」が生まれた。「土佐節」とも呼ぶ。

「七なゝ小町」小野小町の伝説に取材した七つの謡曲及びそこから派生した芸能の総称。謡曲のそれは「草子洗小町」・「通(かよい)小町・「鸚鵡小町」・「卒都婆(そとば)小町」・「関寺小町」・「清水小町」・「雨乞小町」の七曲で、それに基づく浄瑠璃・歌舞伎・歌謡などが生れた。

「杉山兵衞」もとは「天下一石見掾藤原重信(天満八太夫)」を正本とする説経節。延宝(一六七三年~一六八一年)から元禄(一六八八年~一七〇四年)頃に成立。大津にある石山寺の十一面観音の本地を、蓮花上人の生涯を通して説く物語。ブログ「猿八座 渡部八太夫古説経・古浄瑠璃の世界」の「忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ①」以下六回に亙って詳細なシノプシスが載る。それによれば、「杉山兵衞」はこの蓮花上人の俗名で、明徳(一三九〇年~一三九三年:足利義満の治世)頃の、もと近江の国高嶋郡(滋賀県高島市)の「杉山兵衛の尉」、紀州の藤白(和歌山県海南市藤白)にいた猛悪無道の荒くれ者で「下河辺弾正左衛門国光(しもこうべだんじょうさえもんくにみつ)」と称した人物とある。ここはそれを発展させた古浄瑠璃「江州杉山兵衛国替付(つけた)り石山開帳之事」の後であろう。

「讀賣(よみうり)」江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白く読み聞かせながら、街を売り歩いたもの。唄本なども売り歩き、後には、二人一組みとなって連節(つれぶし)で売って回った。幕末には長編の事件物も売られ、明治の演歌師に引き継がれた(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「歌びくに」近世の下級宗教芸能者。中世の遊行宗教者である熊野の「絵解(えとき)比丘尼」や「勧進比丘尼」が零落したもので、ビンザサラを伴奏とした小歌などを唄い、盛場に出て、売色を専らとしたが、春になると、無紋の地味な小袖に幅広帯を前に結び、黒木綿を折った帽子を頭に、脇に箱を抱え、柄杓を持った小比丘尼を連れて、勧進に出た。江戸中期には年の過ぎた者が「御寮(おりょう)」と称し、山伏などを夫に持って、江戸浅草などで「比丘尼屋」を出し、売色をして繁盛したが、天明年間(一七八一年~一七八九年ま)以降、次第に廃れた(平凡社「世界大百科事典」)。

「日待」集落の者が集まって信仰的な集会を開き、一夜を眠らないで籠り明かすこと。「まち」は本来は「まつり(祭)」と同語源であるが、後に「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意に転じた。期日として正月の例が多い。但し、転じて単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもある。

「居ざり」躄(いざり)。

「おやま五郞右門」義太夫節の創始者で初世竹本義太夫(慶安四(一六五一)年~正徳四(一七一四)年)。始め五郎兵衛、次いで清水(きよみず)五郎兵衛,清水理(利)太夫から竹本義太夫となり、やがて受領(ずりょう)して竹本筑後掾と称した。大坂天王寺村の農民であったが,清水理兵衛(井上播磨掾門下で,近くで料亭を営み「今播磨」と呼ばれた)の門に入り、さらに、京都で人気の宇治嘉太夫(宇治加賀掾)のワキを語った。四条河原での独立興行に失敗、中国筋巡業の後、貞享元(一六八四)年、道頓堀に竹本座を建て、旗揚げし、「世継曽我」を手始めに、「藍染川」「以呂波物語」を興行して成功した。翌年の新暦採用に際し、加賀掾は下坂して井原西鶴作「暦」を上演、一方、義太夫は「賢女手習并新暦」で対抗して好評を得た。次いで、加賀掾は西鶴作「凱陣八島(かいじんやしま)」を出し、近松門左衛門作「出世景清」を演じる義太夫を圧しだしたところ、芝居から火を発したため、加賀掾は京都へ帰ってしまう。これ以後、大坂における義太夫の地盤は固まり、元禄一一(一六九八)年には竹本筑後掾藤原博教を受領、また元禄一六(一七〇三)年の世話物第一作「曽根崎心中」が大当りし、積年の借財を一気に返済し得たと伝えられている。宝永二(一七〇五)年からは、竹田出雲が座本となって竹本座の経営に当たり、近松門左衛門を座付作者に迎えて、「丹波与作待夜のこむろぶし」「傾城反魂香」「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」「嫗山姥(こもちやまんば)」などの名作を上演していった。音声は大音で、生涯に百三十編余の作品と多数の門弟を残した。なお、二世は大坂の生れで、初世義太夫に師事し、近松晩年の世話物などを初演し、「竹本政太夫」を名乗ったが、享保一九(一七三四)年に二世義太夫を襲名、翌年、竹本上総少掾を受領し、のち竹本播磨少掾を再受領しているが、ここは初世でよかろう。「おやま」は人形浄瑠璃で女役の人形のこと。語源はいろいろ説があるが,承応(一六五二年~一六五五年)頃に活躍した女役の人形遣小山次郎三郎の「小山人形」から出たとするのが有力である。ここは竹本義太夫の「おやま」の「クドキ」を真似たことを言うのであろう。

「手づま善左門」「手づま」は「手妻人形」で浄瑠璃の手遣人形の一つ。引き糸により、顔面の変化や五体の一部の早替わりなどの出来る人形。からくりの併用によって、元禄から享保(一六八八年~一七三六年)頃にかけて流行し、大坂の人形遣山本飛騨掾が特に知られた。「善左門」は不詳。

「地藏の道行」江戸初期の遊里を中心として流行した歌謡の一つ。座敷浄瑠璃と称されるものの一つで、謡物に近く、江戸浄瑠璃の初期の姿が窺がわれる。]

 此心いれなれば、いよいよ、乞食し、いよいよ、短氣になりて、ある日の事なるに、朝(あさ)より暮迄ありきけれども、米一つかみ、麥一つふさへもらはず、いたづらにありきくらして、すでに渴(かつへ)に及びけるまゝ、大きに腹だちて、此人形を踏(ふみ)たり、蹴(け)たり、石を以て、さんざんに打敲(たゝき)、なを[やぶちゃん注:ママ。]、あきたらずや有けん、目より高くさしあげ、力にまかせて投げるいきほひに、道々、拾ひためたりし木切・竹の枝・捨薦(すてこも)などを火にたき、菜のはを水に煮て食せんとおもひて燒(たき)たてし炎の中へ、

「ほう。」

と打こみければ、衣裳も、髮も、たまらず、

「めらめら。」

と、やけける間、

「よしよし。是も、ましに、なまじいに、おのれを賴にしてありくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、腹立(はらたつ)事もある也。よいきみ。」

と、いひつゝ、猶、あしにてふみこみけるに、此人形の首、さかんに燃る時、

「ぱちぱち。」

と鳴音(なるおと)して、二つに割(われ)て、飛(とぶ)とぞ、見えしが、その片割(かたわれ)の火、小太夫がむないたに、

「ひし。」

と、取つきぬ。

[やぶちゃん注:「ましに、なまじいに」なまじっか、ますます。]

 あつさ、堪がたく苦しければ、あわてゝ、此火をはらひ落さんとするに、あをたれて[やぶちゃん注:ママ。「煽(あふ)られて」か。]、いよいよ、おこり、いよいよ、焦(こげ)いりけるまゝに、せんかたなく、其ほとりにありける小川へはしり行て、

『水をかゝらばや。』[やぶちゃん注:ママ。]

と思ひ、息をきりて、走り行とて、㙒中の井戶へ、まつさかさまに踏(ふみ)はづして、落(おち)たり。

 此きほひに、つみたる石の井戶側(がわ[やぶちゃん注:ママ。])、くずれて、なんなく、小太夫は、生(いき)ながら、埋(うづ)まれて、死たりとぞ。

[やぶちゃん注:人形浄瑠璃好きの私としてはこの結末は快哉。挿絵も強力に本文を外れて幻想的でオリジナルにいい。]

2019/08/16

諸国因果物語 巻之四 死たる子立山より言傳せし事

 

     死(しゝ)たる子立山より言傳(ことづて)せし事

Tateyamanokotodute



 京都六条の寺内(じない)に木綿(もめん)かせを賣ける市左衞門といふ者、むす子一人あり、市之介といひける。親市左衞門は淨土宗にて、殊外の信心者なり。年毎の山上(さんじやう)も、袈裟筋(けさすぢ)を繼(つぎ)て、大峯(おほみね)にわけいり、若王(にやくわう)寺の補任(ぶにん)も數通(すつう)さづかり、本山の先達(せんだち)となり、又は、水無月の大河(おほかわ[やぶちゃん注:ママ。])を勤(つとめ)て、冨士の山上(せんじやう)も、二、三度に及びぬ。其外、諸寺の靈佛開帳の名尊(めいそん)あると、ある事にかゝりて報謝をなし、寄進を心にかけ、人をも勸(すゝめ)、我も隙(ひま)を盡し、隨分の作善(さぜん)をいとなみける。

[やぶちゃん注:「京都六条の寺内(じない)」「寺内町(じないちょう/まち)は、ウィキの「寺内町」によれば、『室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した』。『寺内町は自治特権を主張または獲得し経済的に有利な立場を得た。これらの特権は』、一五三〇年代(享禄三年~天文八年)に『大坂の石山本願寺』(現在の大阪城本丸の場所にあった浄土真宗の本山。現在は廃寺。明応五(一四九六)年に蓮如が建立、天文元(一五三二)年に山科本願寺が焼かれて後、証如がここを本願寺とした。織田信長と対立し、天正八(一五八〇)年に降伏し、退去の際に焼失した)『が管領細川晴元から「諸公事免除(守護代などがかけてくる経済的あるいは人的負担の免除)」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされる。また、以後』、『これらの特権を「大坂並」とも言うようになった。寺内町がこれらの特権の維持を図って』、『一揆を起こすこともあった』。『商業地である門前町とは異なる』とある。さて、この「寺内」を浄土真宗の西本願寺の寺内町(そこでよいとするならば、個人サイト「古い町並を歩く」の「京都市西本願寺寺内町の町並み」に詳しい。地図もある。それによれば、現在の西本願寺境内外の六条から七条の間の南北に当たる。そう思われる方は以下は無用となるが、私はそれを採らない)ととっても問題はないとは言えるが(浄土真宗とは本来は親鸞が、『師法然の浄土宗の「真」(まこと)の教え』という一般名詞で用いた語で、浄土宗と別個な宗派を指すわけではなかったからである)、あくまで浄土真宗の寺ではなく、浄土宗に拘るとならば、浄土宗で、京都の「六条通」にある現存する知られた寺としては、下京区本塩竈町六条上ル本塩竈町富小路通にある知恩院(京都市東山区)を本山(本文の「本山」はそれでとる)とする負別山(ふべつざん)蓮光寺が挙げられる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「木綿(もめん)かせ」「かせ」は「桛」「綛」などと漢字表記し、紡(つむ)いだ糸(ここは木綿)を、巻き取るためのH型・X型をした道具のこと。

「年毎の山上(さんじやう)」「大峯(おほみね)」奈良県の南部にある大峰山(おおみねさん)か。古くから、山岳信仰や神仙思想・道教・仏教の修行と習合した修験道のメッカである。

「若王(にやくわう)寺」読みとの一致を採るだけならば、滋賀県大津市大石中にある浄土宗金剛山大日院若王寺(にやくおうじ)であるが、特にこの寺が浄土宗門で特別な位置にあった事実は見出せない(この書き方はそういう寺であるとしか読めない)から、違うか。

「補任(ぶにん)」寺社などが、回峰祈誓を実務担当者に託した補任状のことであろう。

「水無月の大河(おほかわ)」不詳。陰暦六月に行われる浄土宗門の何らかの法会の実務主幹か。因みに、現在の知恩院では、法然が師と仰いた初唐の名僧善導大師の忌日法要(祥月命日は三月十四日であるが、知恩院では何故か)を六月中旬に行ってはいる。但し、これがそれだと私は言っているわけではない。識者の御教授を乞うものである。]

 其子市之介をも、十三の歲より、大河をつとめさせ、山上させ、商(あきなひ)のひまには、ともに佛事を手つだはせけるに、元祿十四の年[やぶちゃん注:一七〇一年。]卯月はじめつかたより、時疫(じえき)[やぶちゃん注:流行病。]を煩ひ、もつての外に重り、十死一生と見えけるほどに、一人子なりしかば、父母の悲しみ、尋常(よのつね)ならず、

「何とぞして、此たびの病氣、ほんぷく。」

とて、まどひ、我々の命に替(かへ)ても取とめたく思はれ、あるとある療治、さまざまの祈禱を盡し、昼夜(ちうや)、まくらもとも離れず、看病しけるに、其となりは、又、日蓮宗の信者にて、何事にも、「法花經」ならで功能(くのう)あるものなしと、深くおもひ込し人也ければ、市之介が病氣を見舞ながら來りて、さまざまと勸(すゝめ)こみつゝ、

「此經をたもち、此宗に入る人は、一さいの惡病・厄難もなやます事、あたはず。たとへば、此心を『陀羅尼品(だらにぼん)』に說(とき)給ひし旨をもつて申さば、「『若不順我呪惱亂說法者頭破作(にやくぶじゆんがじゆなうらんせつほうしやづさ)七分(ぶん)』と、仏も、のたまひけり。此心は、『若(もし)、我(わが)此經、意(い)を讚(ほめ)て眞言(しんごん)を述(のべ)し心に違(たが)ひ、此妙法を說(とかん)ものを惱(なやま)し亂(みだり)て障㝵(しやうげ)[やぶちゃん注:既出。「障碍」に同じい。]せば、頭(かしら)より十羅刹女(らせつによ)の手にかけ、七分(ぶん)に破(やぶり)くだき、父母を殺し、人をあざむくに、二舛(ふたます[やぶちゃん注:ママ。])をつかひ、僧を破却(はきやく)せし是らの罪どもを一つにしたる程の殃(わざはひ)をさづくべし』と也。我[やぶちゃん注:話し相手を指す二人称。市左衛門のこと。]、此すゝめを聞て、市之介を日蓮宗になし給はゞ、早速、病氣も平癒し給ふべし。」

と、かきくどきけるにぞ、親の身の悲しき、子を思ふ闇にまよふ心から、

「さらば、受法させて給(たべ)。」

と、曼荼羅を守りにかけさせ、題目をとなへさせなどして、さまざまに氣を盡しけれども、定業(ぢやうごう[やぶちゃん注:ママ。])にやありけん、十八の正月といふに、眠れるが如くして、終に、あだし㙒のけぶりと立のぼりぬ。

[やぶちゃん注:「陀羅尼品(だらにぼん)」「妙法蓮華経陀羅尼品第二十六」のこと。「島根龍泉寺龍珠会」公式サイト内のこちらによれば、「陀羅尼品」(リンク先では「だらにほん」と清音表記である)は、「法華経」を『弘めるにあたって必ずや遭遇するであろうさまざまな迫害や災難を、二人の菩薩と二人の天王と十人の羅刹(らせつ)が秘密神呪(ひみつじんじゅ)をもって守護するということを表明した』ものであるとし、『陀羅尼というのは、インドの古い言葉のダーラニーを音写したもので、一字一字の意味はない。あえて漢訳すれば』、「『すべてをよく保持して忘れないということ』」の意から、「総持(そうじ)」、『あるいはまた』、『悪法をよくさえぎることから』、「能遮(のうしゃ)」とも『訳される。しかし、もともとこの陀羅尼というのは』、『一種の秘密の言葉』、『いわゆる』、『呪文として考えられ、これをただ口にして唱えるだけで、さまざまな障害を除き、数々の功徳が得られると信じられている』とある。その『大意』は『法華経を受持する者を守護するために、薬王(やくおう)菩薩・勇施(ゆうぜ)菩薩・毘沙門天王(びしゃもんてんのう)・持国天王(じこくてんのう)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)及び鬼子母神(きしぼじん)等がそれぞれ咒文(じゅもん)を説かれた。つまり、本品では、迷いと動揺に対し、守護と咒文をもって応えたものと言える』とする。また『陀羅尼には次の四つの力がある』とあって。『病を直す力』・『法を護る力』・『罪を滅す力』・『悟りを得る力』で、『このように、陀羅尼には病気を治す力があり、正法を守護する力があり、人間がつくるさまざまな罪を滅してくれ、そうして最後に悟りを得させてくれる、そういう力があるという』とある。

「若不順我呪惱亂說法者頭破作七分」中文(繁体字)のサイト「千佛山全珠資訊網」の「妙法蓮華經午疑―陀羅尼品第二十六」の最後に(一部表記を改めてある)、

   *

卽於佛前、而說偈言、

若不順我呪  惱亂說法者

頭破作七分  如阿梨樹枝

如殺父母罪  亦如壓油殃

斗秤欺誑人  調達破僧罪

犯此法師者  當獲如是殃

   *

ここに出る文字列と全く同じものを見出だせる。この「陀羅尼品」は、こちらで詳細な現代日本語訳がなされており、そこを拾って(ややダブりが多いので)少し書き変えてみると、

  《引用補足合成開始》

一心に呪を説いて、

「法華経」を受持し、読誦する法師を守護しようとする精神に逆らい、説法者を悩ます者があれば、

その者は罪の報いとして、頭が阿犂樹(ありじゅ)の枝の如く裂けるであろう。阿犂樹の木は、強い風で枝が折れてしまうとき、七分八裂して地に落ちるように、その者の頭が、阿犂樹の枝の如く、裂き割れてしまう。

羅刹女や鬼子母が唱えた呪は、「法華経」の説法者を悩ます者の罪は父母を殺する罪と同じ大罪(たいざい)を犯すことだから、「油を圧(お)す殃(つみ)」と同じだ(昔のインドで自分勝手な非常に悪い譬えとして語られていた用語。当時のインドでは油を絞るとき、原料の植物の上に重し石を置いて造ったが、その原料に虫が湧く。丁度、良い重しの石は虫を圧し潰さないので美味しい油が出来るが、この重し加減が悪いと、虫は圧し潰されて死んで不味(まづ)い油が出来上がることにより、「他の生命を尊重せず、自分だけ良ければいい」という行為を強く戒めた譬えである)。

秤(はかり:目方や量)を誤魔化して人を騙(だま)す罪も、同じような重い罪である。

信仰者の共同体である「僧伽(さんが)」の和合を打ち壊すことは 非常に大きな罪なのである。

「法華経」の説法者を悩乱させる者の罪は、以上のような大罪に等しいのである。

  《引用補足合成終了》

という謂いと考えてよかろう。また、「教えのやさしい解説」『大白法』五百十四号「若悩乱者頭破七分(にゃくのうらんしゃずはしちぶ)」というページに(『大白法(だいびゃくほう)』とは日蓮正宗法華講本部の機関紙である)、「若悩乱者頭破七分 有(う)供養者福過(ふっか)十号」という言葉を解説して、『「若悩乱者頭破七分」とは正法(しょうぼう)誹謗(ひぼう)の罰(ばち)をいい、「有供養者福過十号」とは正法受持の功徳をいいます』。『「若悩乱者頭破七分」は、妙楽大師の『法華文句(もんぐ)記(き)』に説かれた文(もん)で、「若(も)し悩乱する者は頭(こうべ)七分(しちぶ)に破(わ)る」と読みます。これは法華経『陀羅尼品(だらにほん)』に、「若し我(わ)が咒(しゅ)に順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作(な)ること 阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん」(新編法華経』『)と示される、法華経の行者を悩乱する者の頭を鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)が阿梨樹の枝のように破る、との誓いを釈(しゃく)した文です』。『また『種々御振舞御書』に』、『「頭破作七分と申すは或(あるい)は心破作(しんはさ)七分とも申して、頂(いただき)の皮の底にある骨のひゞたぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり(中略)これは法華経の行者をそ(謗)しりしゆへにあたりし罰(ばち)とはし(知)らずや」(御書』『)とあるように、「頭破七分」は「心破作七分」ともいいます。日蓮大聖人は、三大秘法の大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗する者は、頭(あたま)が破(わ)れ、心(精神)が錯乱(さくらん)すると御教示(ごきょうじ)されています』。(中略)『『御本尊七箇之(しちかの)相承』に、「本尊書写の事、予(よ)が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判(ごはん)と書かずんば』、『天神・地神もよも用(もち)い給わざらん。上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)と持国(じこく)と浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)と毘沙門(びしゃもん)との間には、若悩乱者頭破七分有供養者福過十号と之(こ)れを書く可(べ)し。経中の明文(みょうもん)等心(こころ)に任(まか)す可(べ)きか」(日蓮正宗聖典』『)『と御相伝(ごそうでん)のように、両文(りょうもん)は、御本尊の右肩(みぎかた)と左肩にそれぞれ認(したた)められています』(以下略)とあることで、以上から本文の意味は概ね理解できるものと思う。

「二舛(ふたます)をつかひ」そもそもこの「舛」という漢字は「ます」とは読めないことに注意しなくてはならない。「舛」は「枡」ではない。「舛」は「背く・違(たが)う・悖(もと)る」或いは「入り混じる・交り乱れる」の意である。先の中文サイトの「斗秤欺誑人」の「斗秤」(合成引用の「秤(はかり)を誤魔化して人を騙(だま)す」の部分)を鷺水が勝手に解釈(誤訳)してしまったものと推定される。

 二親の歎き、いふばかりなく、明暮、こひこがれ、なきかなしみ、たもとのかはく間もなけれども、いひかひなき事ともなれば、香花の手(た)むけ、心ゆくばかりして、二七日[やぶちゃん注:「ふたなぬか」。十四日。]も過(すぎ)ぬ。

 かゝる所へ、冨士先達の同行なりける人、久しき望(のぞみ)にて、白山・立山の山上を心がけ、彌生のすゑより、思ひたちて、先(まづ)、加州の白山に詣(まふで)、かへるさに、立山を仕舞、樣子よくば、すぐにこれゟ冨士にも、と心がけ、立山にかゝりけるに、山上の、思ひがけもなき所にて、市之介に逢(あひ)たり。

 見れば、さのみ拵(こしらへ)たる旅すがたにもあらず、かろらかなる風流(ふり)して、此先達を見つけ、なつかしげに近より、

「我、此程は冨士山上(せんじやう)いたし、これより立山を拜みにと、すぐに思ひ立[やぶちゃん注:「たち」。]しにまかせ、爰(こゝ)まで、やうやうと參りし也。なを[やぶちゃん注:ママ。]白山・湯殿山なども心にくければ、つゐでに[やぶちゃん注:ママ。「序でに」。]參詣せばやと思ふに付て、故鄕(ふるさと)へ言傳(ことづて)たき物の侍る。これ、參らせん。」

とて、小き紙につゝみたる物一つと、あわせの袖をすこし、おし切て、渡し、道のほど、日數(かず)をつもりたる旅なれば、急ぎ申也。かまへて、よく淚し給り候へ。」

と、いひて、別れぬ。

[やぶちゃん注:「よく淚し給り候へ」聴きなれない言い方であるが、「どうか、格別に、我らとの別れを惜しんで下されませ」という意であろう。霊の別れの言葉となら、不思議ではない。]

此先達、此おりふし、歸り着て、まづ、彼(かの)市左衞門かたへ立より、

「扨も。是の市之介は、若き人の、奇特(きどく)に信心を發して、しかも一人旅と見えつるが、立山にて、逢たり。よくぞ心ざしをたすけて、祕藏子ともいはず、參らせ給ひし。」

などゝ、褒(ほめ)あげ、さて、件(くだん)の言傳(ことづて)し紙つゝみを渡しけるにぞ、人めをも、恥も、二人の親は、聲をあげて泣さけびつゝ、

「羨(うらやま)しや、是下(そこ)には、市之介に、あひ給ひしよな。我は分れてより、夢にだに見ず。戀し戀しと思ふ餘りには、命を仏に奉りても、來世に逢(あふ)と賴みさへあらば、と願ふ方には、つれなくて、此うき便(たより)を聞(きく)事よ。」

と、泣(なき)かなしみけるにぞ、

「扨は。市之介は死(しに)けるか。亡魂(ぼうこん)の出むかひて、我に詞をかはしけるも、心こそあらめ、先、その物、ひらきて見たまへ。」

と、すゝめられ、紙つゝみを、なくなく、開きて見けるに、市之介の末期(まつご)にいたりて、珠數(じゆず)きらせける時、かけさせつる題目の曼荼羅なりけり。

 扨、立山にておし切(きり)て添つる袷(あはせ)の袖は、死するまで着せたりし袷の袖。

 いかにしてか、袖下の切(きれ)たりしとおもひしも、今、引合せて見るに、

「これも、正(まさ)しく、亡者の態(わざ)よ。」

と、思ひしりぬ。

「さては心にもあらぬ事に、むざとは、宗旨をも替まじき事にこそ。」

と、其後は、ひとへに淨土宗門のとぶらひをなしける。

[やぶちゃん注:題目(南無妙法蓮華経)を書いた曼荼羅(挿絵にあるそれ。そこでは左右に梵字の種子(しゅじ)が見え、左は「カ」(地蔵菩薩或いは五大の「風(ふう)」)に近く、右は「キャ」(十一面観音)に近い。まあ、絵師がいい加減に入れたものではあろう。題目の髯文字も上手くないから、絵師は日蓮宗ではない)真言宗などで言うものとは異なるもので、日蓮が始めた題目曼荼羅のこと。題目の周囲に漢字或いは梵字で記された如来・菩薩・仏弟子天台系名学僧或いはインド・中国・日本の神々の名号などを配した、日蓮宗系の諸派で本尊として使用される。「法華経」の世界を図や名号などで表わした「法華曼荼羅」の一種である)を霊となって諸霊山回峰をする市介が返してよこしたということは、それは霊としての彼には意味のないものであったからにほかならない。それが真に有効で霊験あらたかなものであるなら、霊はそれを持ったままで霊としての回峰を続けるはずであるからである。則ち、市之介は日蓮宗の題目曼荼羅を断固拒否したのである(「袖」は、言わずもがな、本人認証の証しである)。また、市之介は、何故、この現世で霊峰登山をしているのかを考えてみるに、まず、彼はこの世にあって迷っているのではないということである。万一そうだったら、彼は霊峰巡りなどは以ての外で、寧ろ、立山の地獄谷で熱湯に煮られているのが関の山となるからである。ということは、彼は極楽往生した後、衆生を済度するために、現世へ戻って回峰していると読むべきであろう。これは所謂、中国の浄土教に於いて、南北朝時代の僧で中国浄土教の開祖とされる曇鸞が「浄土論註」の巻下で説いた、「回向」の二種、「往相(おうそう)回向」と「還相(げんそう)回向」の後者であると私は読むのである。前者が自他の区別をなくして、誰しも皆ともに浄土に往生するもので、対する「還相回向」とは「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生した者が、再び、この世で衆生を救うために、敢えて還りきたる行為を指し、これらは阿弥陀如来の本願力の回向による絶対他力によるものとするのである。即ち、市之介は浄土宗の最も至高の存在となって戻ってきたのであると私は思うのである。それを知ったからこそ、父市左衛門も、再び、浄土宗に戻ったのである。無論、本篇から見ても、筆者青木鷺水は浄土宗の信者であったものと考えてよいように思われる。

2019/08/15

諸国因果物語 巻之四 幡摩灘舟ゆうれいの事

 

     幡摩灘(はりまなだ)舟(ふな)ゆうれいの事

Hunayuurei



 是も大坂立賣堀(いたちぼり)はいや町(てう[やぶちゃん注:ママ。])の住人にて、湯川朔庵といふ儒醫あり。

[やぶちゃん注:標題「ゆうれい」はママ。

「大坂立賣堀(いたちぼり)はいや町」大阪市西区立売堀(いたちぼり)は現存するが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「はいや町」(歴史的仮名遣では「ちやう」が正しい)は不詳。「灰屋」であろうかと推測はする。ウィキの「立売堀」によれば、『江戸時代から地域の南部に立売堀川、北西部に薩摩堀川、西端部に百間堀川が流れていたが、昭和中期に埋め立てられた。江戸時代から』、『材木の集散地として栄え』た。「摂津名所図会大成」に『よると、大坂冬の陣・夏の陣で』、『伊達氏が』、『この付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、その跡を掘り足して川としたことから』、『はじめは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。後に材木の立売りが許されるようになったので』、『漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである』。『江戸時代の町名は三右衛門町(さんえもんちょう)・中橋町・船坂町・薩摩堀中筋町・薩摩堀東之町・納屋町(なやまち)・百間町(ひゃっけんまち)・吉田町・西国町・立売堀一から四丁目・孫左衛門町・助右衛門町・立売堀中之町・立売堀西之町となっていた』とあって、「はいや町」に類似する町名は、ない。]

 生れ付たる器用とて、およそ灘波(なには)の津におゐては、肩を並ぶべき者もなき学者なりしかば、講談、日をかさねて、門弟も多く、醫の道、また、發明にして難治の症、ことに、かならず、卽効(そくかう)の妙をあらはしける程に、人みな、此德になつきて、東西にもてはやし、門(かど)に、藥取の使(つかひ)たゝぬ時なく、席(せき)に敎義の書生なき日もなくて、普(あまね)く西海・東武の人にちなみけるまゝに、其比、伏見兩替町(ふしみれうがへてう[やぶちゃん注:ママ。])邊(へん)にて、小西の何某とかやいひける人の子息も、朔庵の弟子になりて、醫學を稽古しける樞機をもつて、猶、學業のくはしき事をも窺はんために、彼小西の子息を勸(すゝめ)、我(わが)一跡をも引こして、長崎の津に渡りぬ。朔庵の妻女、又、堺の生れにて、占辻(うらのつじ)邊(へん)に名高き人の娘なり。

[やぶちゃん注:京都市伏見区両替町(まち)

「樞機」ここは「縁故」の意。

「堺」「占辻」大阪府堺市堺区市之町大小路(おしょうじ)辻附近。「ホウコウ株式会社」公式サイト「堺意外史」(中井正弘氏執筆)の中の「Vol.36 晴明辻(大小路付近)の信仰」に、『堺の旧市街を南北に分ける摂津と和泉の国境線に当たる大小路と大道に近い、東六間筋との交差点を古くから晴明辻とか占い辻と呼ばれ、ここで吉凶を占うとよく当たると伝えている』「堺鑑(さかいかがみ)」(天和四年・貞享元(一六八四年)に『よると』、かの陰陽師安倍『晴明が泉州信太村(堺・和泉市)から』、『この辻を通ったときに、占い書を埋めて』、『辻占いを行ったと伝えている。しかし、同じ江戸時代の』「全堺群志」(宝暦七(一七五七)年)では、『「皆、拠無の説なり」と、晴明がこの道を往環したから付会したにすぎない、とすでに一蹴している』。『この辻から真東』一・三キロメートルの『ところに摂津泉三国の接点・三国ヶ丘に方違神社がある。ここでも、方位・日時など諸事に忌みがあるとし、今でも出向・引っ越しなどの安全祈願をする人を見かける。いずれも境界にあたるところに、特別な意味を持たせたものと思われる』とある。]

 彼是よき由緣あるに付て、長崎におゐても、又、發向し、彼方此方(かなたこなた)にもてはやされ、殊に療治は、入船(にうせん[やぶちゃん注:ママ。])の異國人を試(こゝろみ)に申免(ゆる)されて、出嶋(でじま)の出入なども自由しけるにぞ、近比の名醫と唐人も感じ、所の衆にも類(たぐひ)なき事にぞ、いひあひける。

 かゝる折しも、朔庵の父、いまだ大坂にあり、今年元祿七年[やぶちゃん注:一六九四年。]の夏也しに、大病を得て、十死一生なるよし、種々、藥を服し、針・按摩にいたる迄、術(てだて)をかへ、治(ち)をつくせども、驗(げん)なし。

『迚(とて)も死すべき命ならば、恩愛の子にも心よく暇乞(いとまごひ)して、なき跡の事をも語らひ置(おか)ばや。』

と狀のほしに聞へしかば、朔庵も心ならず、奉行所に御いとまを願ひ、大坂へと思ひ立けるに、妻も此たびの序(ついで)、嬉しく、舅の病氣をも尋ね、一つは故鄕(ふるさと)の二親にも逢(あひ)まひらせ[やぶちゃん注:ママ。]たければ、

「道すがらの事也、堺へも立よりて。」

と朔庵に願ひて、是も同じ旅にと、物いそぎして、六月廿日餘りより、舟出し、海路(かいろ)つゝがなく、夜を日につぎて、漕(こぎ)わたりけるに、播州赤穗(あこ[やぶちゃん注:ママ。])の御崎(みさき)へかゝらんとする比、何とか仕たりけん、不圖(ふと)、手あやまちを仕出し、朔庵が乘たる住吉丸といふ舩、片時(へんじ)の[やぶちゃん注:瞬く間であること。]炎(ほのほ)となりて、もえあがる折ふし、塩あひにて、舟さしよすべきも便(たより)なし。

[やぶちゃん注:「播州赤穗(あこ)の御崎(みさき)」兵庫県赤穂市御崎

「塩あひ」「潮合」。潮流。]

 其うへに、助舟(たすけぶね)なども如何したりけん、さのみも出ず、卒尒(そつじ)に[やぶちゃん注:急なこととて。]寄(より)つかるゝ物にもあらず、水をいとふは、舩のならひとて、只、いたづらに手をつかねて、多(おほく)の荷物、乘合(のりあひ)の男女、目の前に燒死(やけじに)、あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、炎を恐れ、心まどひ、

「せめて、海にいらば、もしや、たすかる。」

と水心さへしらぬ身の、着のまゝも飛いらず、金銀大小、あるひは、妻や子の手に手を取て、千尋(ちいろ)の海に身を投れば、思はず、潮(うしほ)に呼吸(こきう[やぶちゃん注:ママ。])をきられ、身につけし資財にほだしをうたれ、たちまち、八寒八熱のくるしみ、叫喚阿鼻の呵責を目の前にあらはし、數(す)万の荷物、いくばくの命を捨(すて)けん、誠に舩の火事こそ、殊に哀なる事のかぎり也けれど、人毎(ひとごと)に念佛し、廻向(えこう[やぶちゃん注:ママ。])せぬものは、なかりけれ。

[やぶちゃん注:「ほだしをうたれ」「絆しを打たれ」で「行動の自由を妨げるものとして枷(かせ)の如くに束縛されて」の意。]

 されば、此あまた失(うせ)たりし亡者の中にも、朔庵夫婦は、子もなくて、他國に住居(すまゐ)し、親あれども、孝にうとく、名を思ひ、譽(ほまれ)を願ふ貧欲(とにょく)に着(ちやく)して、日夜になす所、みな化(あだ)たる世の事わざ也しに、一人は老病[やぶちゃん注:老いて病んだ父。]の名殘おしまんため、一人は故鄕のなつかしさ、やるかたなさに、おもひたちたる心ざしをも、遂得(とげえ)ずして、此舟にうかび、此難に逢(あひ)て死期(しご)のかなしさ、いかばかりか。

 『流轉のきづなを生(しやう)せざらんや』と、いひしに違(たがは)ず、それより、後(のち)、大坂堺より通ふ舩とだにいへば、夜にいりて、此沖を過る比、かならず、海の表十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]四方ほどの間は、底より、俄に、火熖(くはゑん[やぶちゃん注:ママ。「くわえん」が正しい。])おこりて、

「くわつ。」

と、燃あがるよとおもふに、男女の聲して、

「なふ、悲しや。」

といふ木玉(こだま)、物がなしく、乘合の者の耳に入けるとぞ。

 此沙汰、そのころ、もつぱら也しかば、大坂堺の舷乘・中間より、僧を請(しやう)じ、流灌頂(ながれくはんてう)をつとめ、法事、一かたならず、とぶらひしより、此炎、二たびおこらざりしとぞ。

[やぶちゃん注:海上の怪火の舟幽霊譚であるが、わざわざ仔細に語った登場人物らの前振りが、あまり成功していないように思われ、ちょっと残念である。

「流灌頂(ながれくはんでう)」歴史的仮名遣は「ながれくわんぢやう」が正しい(現代名遣「ながれかんぢょう」)。川端や海辺に、四方に竹や板卒塔婆を立てて布を吊り広げ、柄杓を添えて、そばを通る人や船客などに水を注がせる法要の一習俗。主として難産で死んだ女性の供養のために行ったが、地方によっては水死者のためにも行い、供養の仕方にも違いがある。布の色や塔婆の文字が消えるまでは死者は成仏出来ないとされる。「あらいざらし」「流水灌頂」とも呼ぶ。]

2019/08/14

諸国因果物語 巻之四 目録・腰ぬけし妻離別にあひし事

 

諸國因果物語卷之四

腰ぬけし妻を離別せし人の事

播磨灘舩ゆうれいの事

死たる子立山より言傳(ことづて)せし事

人形を火に燒(やき)てむくひを請(うけ)し事

狸の子を取(とり)て死罪にあふ事

 

 

諸國因果物語卷之四

Kosinuke



     腰ぬけし妻離別にあひし事

 大坂長町(ながまち)に、京や七兵衞といふ男、きはめて無得心(むとくしん)の者也。元來は京にて丸太町邊(へん)に居たりしが、女房、とし久しく腰氣(こしけ)を煩ひ、さまざま療治せしかども、露ばかりも驗(げん)なく、此一兩年は腰ぬけとなりて、朝夕の食物(くひもの)はいふに及ばず、大小用をさへ、漫器(まる)にとらるゝ身のはて、悲しけれども、七つと四つになる娘まである中也。

[やぶちゃん注:「大坂長町」現在の大阪市日本橋(中央区・浪速区)の旧町名。「名護町」「名呉町」とも書いた。ウィキの「長町」によれば、『豊臣秀吉が大坂から堺へ通う便宜のため』に『開いた町といわれ』、十七『世紀末までには長町と呼ばれるようになった』。『江戸期から明治初期まで貧民窟として知られ』、『幕末・明治初期に長町から日本橋筋に改称された』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「無得心」「むどくしん」とも読む。不人情であること。残忍であること。無情。無慈悲。

「丸太町」京都府京都市中京区丸太町(まるたまち)。「丸太町通」は、現在の京都御所(京都御苑)の南端を走る。嘗つて、この通り沿いの西堀川に沿って材木商が多かったことに由来するといわれている。

「腰氣(こしけ)」現行の「帯下(こしけ)」と同じ。血液以外の女性生殖器からの分泌物が不快感を起こすほどに増量した症状を指す。この女房は女性生殖器に腫瘍や筋腫等と大きな疾患があり、それが悪化して腰が立たなくなったものと推定される。

「漫器(まる)」所謂、「おまる」である、漢字では「御虎子」が知られる。「おまる」は「大小便を排泄する」意の動詞「まる」に基づく便器の古称で、古くは木製の浅い桶で小判形をしていたため、小判を「虎の子」と呼んだところから「虎子」の字が当てられたともいう。「漫」は「みだりに」「締りがない」「一面に広がる」の意があり、音「マン」が「まる」に似ていることから当て字したものであろう。]

 親とては、父ひとり、それも越中の井波といふ所に瑞泉寺といふ一向宗の御堂(みだう)あるを、のぞみて剃髮の後(のち)、承仕(しやうし)の僧となりて彼(かしこ)へ下り給ひぬ。今は、一門とては挨(ほこり)ほどもなき身也。

[やぶちゃん注:「瑞泉寺」戦国時代の越中一向一揆の拠点として知られる、現在の富山県南砺市井波にある真宗大谷派井波別院杉谷山(すぎたにさん)瑞泉寺。明徳元(一三九〇)年、本願寺第五代綽如により建立され、慶長七(一六〇二)年の本願寺の分立では「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派。本山は本願寺(西本願寺))に属したが、慶安二(一六四九)年、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派。本山は真宗本廟(東本願寺))に転派した。

「承仕(しやうし)」読みはママ。「しょうじ」とも読む。歴史的仮名遣では「しようし」或いは「しようじ」となる。堂内の仏具の管理などの用に従事する僧。]

 夫の七兵衞は、近比(ちかごろ)ためしなき情しらぬ者とは兼ても知りたれども、かくなり下りたる因果の程を觀(くはん[やぶちゃん注:ママ。])じて、万に[やぶちゃん注:「よろづに」。]氣をかねて[やぶちゃん注:気兼ねして。遠慮して。]、

「亭主の心に背(そむ)かじ。」

と詞(ことば)をたれ、機嫌をとりて、明(あか)し暮すにも、只、同じくは、

『いかにもして死なば、此世を早く去(さり)つゝ、夫の心をもやすめ、我も思ふ事なくなりてよ。』

と佛にも祈り、心にも願へども、つれなき命は、心にもあらで、長く、夫は尋常なる時さへ、むごくつらかりし者の、今、かゝる腰ぬけとなりては、日比より猶、きびしく、無得心にて、朝夕の食事もおしみ憎みて、思ふまゝには食せず、兎(と)に付、角(かく)につけても、

「業(がう[やぶちゃん注:ママ。])ざらしめよ、賊(すり)めよ。」

[やぶちゃん注:これは罵倒の卑称。前者は、世の業(ごう:歴史的仮名遣は「がふ」が正しい)によってかくも現世に於いて下半身不自由となり、その無様な姿を晒して生きているという『「業晒し」めが!』であり、後者は「賊」に「掏摸(すり)」を当て訓した「盗っ人女郎(めろう)めッツ!」といった、聴くに忌まわしい差別的な罵詈雑言である。]

と、いひのゝしり、又は、

「おのれが親の根性、よからず、一生、欲ばかりさらし、人を取つぶしても、おのれが身の德づかん事をせし報(むくひ)ぞかし。とく、死(しに)うせよかし。夫に漫器(まる)をとらせぬばかりにて、食物(くらいもの[やぶちゃん注:ママ。])まで人にさせ、のけのけとくらふは、よき物ぞ。」

[やぶちゃん注:人物設定が今一つ明瞭でないが、まず、この腰の悪い女房の父こそが、先に語られた、自ら望んで剃髪し、瑞泉寺の承仕僧となっている、宗門の中ではとるに足らぬ存在である、という存生(ぞんしょう)の人物であろう。さすれば、妻(腰の悪い女房の母)はもはやおらず、娘と二人、この丸田町で家を借り、何かの商売をしていたところへ、この七兵衛が婿入りで入ったものと読んでよかろう。さて、その父はこれがまた、現役であった頃は、他人の店を腰砕けに潰してでも儲けるといった、かなりのヤリ手商人(あきんど)であったが(仮定推定)、晩年、そうした自身の欲得尽(づ)くの過去を顧み、ふと、『これ、極楽往生、覚束なし』と思うや、恐懼し、店や娘や婿を放擲して出家し、北の地の承仕法師となって音沙汰なしと相成った勝手さを、七兵衛は自身を棚に上げておいて、ここでは激しく罵倒しているのではあるまいか? と、とって私は初めて腑に落ちるのである。

「とく、死(しに)うせよかし」「さっさと、死に失せちめえッツ!」。無論、腰の立たない妻に言っている暴言である。

「夫に漫器(まる)をとらせぬばかりにて、食物(くらいもの[やぶちゃん注:ママ。])まで人にさせ、のけのけとくらふは、よき物ぞ。」「とりえと言やぁ、夫に『おまる』の始末をさせぬというだけがとりえで、食事の世話さえ人にさせ、のうのうと食ってただただ生きているってえのは、如何にも、まんず、いい御身分じゃあねえかッツ!」といった謂い。]

などゝいひ、二つめには杖・棒をふり、庭へ踏(ふみ)おとし、髮をかなぐりて、門(かど)中へ引出しなど、日に幾度となく、わめきちらし、

『追(おひ)出さばや。』

と思へども、近邊(きんぺん)隣(となり)の衆など、立あひつゝ、七兵衞をなだめ、あるひは、見る目も不便(びん)さに、年寄・家主など呼(よび)付て異見せられしかば、いよいよ、㙒心さしおこり、打敵(うちがたき)など、隙(ひま)なくせしかば、今は家ぬしも、せんかたなさに[やぶちゃん注:「年寄」は狭義の役職としての町方役人を考える必要はあるまい。]、

「宿(やど)をかへ給へ。」

と使(つかひ)を立、少(すこし)の遣銀(つかいぎん[やぶちゃん注:ママ。])までとらせけるに、七兵衞も、是非なく、毎日、

「宿を見立に。」

とて、出けるが、岩神通西(いわかみどをりにし[やぶちゃん注:ママ。])に借屋(しやくや)を極(きは)め、近々に替(かゆ)べきよし、家主へも斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])、妻にもいひ聞せ、何かと、心用意して、着替(きがへ)なども洗濯をあつらへ、

「腰ぬけの役(やく)に仕立(したて)よ。」

[やぶちゃん注:京都府京都市中京区岩上町岩上通六角下る附近。丸太町からは、「堀川通」(この「堀川」の名は本文に後で出る)を真南にわずかに一キロメートルちょっとの、ごく近距離である。

「心用意して」「こころよういして」。心遣いをして。

「腰ぬけの役(やく)に仕立(したて)よ」着替え用の着物を洗い張りをして再び仕立てる際に、「腰が悪い者が着用し易いように配慮して仕立てよ」と命じたのである。]

と、日を操(くり)て[やぶちゃん注:その仕立て直しの日限を急かして。]、いそがせ、漸(やうやう)、宿替(やどがへ)の朝(あした)にもなれば、何(いつ)なき事にて、七兵衞、手づから、飯(めし)などもりて、女房にも食(くは)せ、我も、機嫌よく、酒など吞(のみ)ていひけるは、

「見苦しかるべき物は、そなたの役(やく)に見はからひて、それぞれに荷を認(したゝめ)させ給へ。とても足たゝぬ身の、先だちて行たればとて、埒(らち)もあくまじければ、着物をも着がへ、引繕(ひきつくろ)ひて待(まち)給へ。我、先(まづ)、行て、勝手などもよくかたづけ、其うへにて、駕籠を迎へに參らすべし。日も長(たけ)て時分よくば、爰(こゝ)に飯(めし)もあるぞ。」

[やぶちゃん注:「見苦しかるべき物は」ちょっと人目に触れてはそなたが恥ずかしく思うような日用の生活・台所用品などは、という意。]

などゝ、念比(ねんごろ)にいひ置(をき[やぶちゃん注:ママ。])、さて、錢二百文、あてがひ、

「もしや、日雇賃(ひようちん)などの入事[やぶちゃん注:「いること」。]もあるべし。是、おぬしが腰に付て居たまへ。」

などゝいひて、大かたの道具は車に積(つみ)て、人、おほく雇ひ、手ばしこく仕舞(しまひ)、今、跡に殘る物とては、古き着籠(つゞら)一つ、半櫃(はんびつ)一つと、女房の後(うしろ)にもたれ物とし、あら筵(むしろ)の上につきすゑ、二人の娘も留主(るす)に置(おき)て、出行たり[やぶちゃん注:「いでゆきたり」。]。

 同じ長屋の亭主、近所の内義など、日ごろ、馴染たる人ども、立かはり見舞に來りけるにも、女房、先(まづ)、なみだをおとして、いふやう、

「是(これ)のおやらは御存[やぶちゃん注:「ごぞんじ」。]の通(とほり)、日ごろは白き齒をも見せず、假初(かりそめ)にもむごくいはるゝ人の、何と、思ひなをして[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、心入[やぶちゃん注:「こころいれ」。]なをりけん。今朝(けさ)も、かうかういはれし也。我、この年ごろの恨めしさも、此一言にて千盃(ばい)ぞかし。」

などゝ悅びいさみて、迎(むかひ)の駕籠を待(まち)居けるに、日も、はや、八つに過[やぶちゃん注:「すぎ」。午後二時過ぎ。]、七つ[やぶちゃん注:午後四時。]にかたぶけども、今朝(けさ)行ける雇人(やとびと)も歸らず、まして、亭主も見えねば、あまり心もとなくて、姊娘を隣へやりて、相借(あいじやく)屋の亭主を賴み、岩神の其所(そこ)とかや、聞はつりしを、しるべに見せに遣しけるが程なく、此亭主、引かへして語りけるは、

[やぶちゃん注:「相借(あいじやく)屋」(歴史的仮名遣は「あひじやく」が正しい)同じ棟に借屋すること。相店(あいだな)。]

「今朝(けさ)、この家より車に積て出たる道具どもは、一つも殘らず、堀川の道具やに有りて、市を立、悉(ことごとく)賣(うり)たて、銀(かね)を請取て、本人は歸りたるよしにて、道具や共、打寄(うちより)つゝ、分(わけ)取て行(ゆく)を、見つけたり。岩神には、もとより、借屋の跡かたもなし。」

と、いひけるにぞ、初(はじめ)て仰天の心付(づき)、急ぎ、葛籠(つゞら)をあけて、吟味するに、女房の着替、二つ、三つ、娘の古き着がへ、少々のこして、暇(いとま)の狀を認(したゝめ)入たり[やぶちゃん注:「いれたり」。]。

「こは、如何に。だまされしよ。」

と思ふり、狂氣して、さまざまに泣(なき)のゝしり、狂ひけるが、町内にも、此よしを聞(きゝ)て、哀(あわれ[やぶちゃん注:ママ。])がり、其夜は開家(あきいゑ[やぶちゃん注:ママ。])に一夜、置つゝ、

「腰ぬけなれば、よも、怪我(けが)はあらじ。」

などゝ油斷して置ける夜の間に、二人の娘をしめ殺し、我(われ)も首くゝりて、死(しゝ)たり。

 かくて七兵衞は此大坂に下り、長町(ながまち)に宿を借り、少の商(あきなひ)に取付、かなたこなたと挊(かせぎ)ける内、太左衞門橋[やぶちゃん注:大阪府大阪市中央区宗右衛門町に現存する道頓堀直近の橋。]の邊(へん)にて、歷々の人の後家なるよし、去(さる)子細ありて、逼塞(ひつそく)[やぶちゃん注:落魄(おちぶ)れて世間から隠れてひっそり暮らすこと。]の身となり、東高津(ひがしかうつ)[やぶちゃん注:大阪市天王寺区東高津町(ひがしこうづちょう)。]のほとりに屋敷をかまへ、世を捨たるにはあらで、交(まじは)りを止(やめ)、心に任(まか)せたる髮切[やぶちゃん注:「かみきり」。ここは尼僧。]有しを、何(いつ)の比(ころ)にか、見初(そめ)、露忘るゝ隙もなく、餘りせんかたなきまゝに、色々と媒(なかだち)を賴(たの)みて、兎角(とかく)いひ寄(より)けるに、終に心のごとく、なびきて、

「今宵、かならず。」

との返事、うれしく、出たゝんと思ふにも、衣類のなければ、心やすき方に借(かり)とゝのへ、小者一人、やとひ、度(た)し揃はぬ始末をあはせて[やぶちゃん注:加え揃えることが出来ない格好の悪い部分も何とか始末をつけて。]、東高津へと急ぎけるに、聞(きゝ)しには勝りて夥(おびたゞ)しき居なし[やぶちゃん注:「ゐなし」「居成し」。屋敷の立派さをいう。]、心も詞(ことば)も及(および)がたきに、下女・はした・腰元など、さしつどひ、行(ゆき)歸りて、一かたならぬ饗應(もてなし)も、何くれと過(すぎ)て、夜も、早、八つ[やぶちゃん注:これは定時法のそれで午前二時頃であろう。怪異出来の時刻でもあるからである。]に近からんとおもふ比、玉をみがき、錦をかざりたる床(とこ)の上に、偕老の衾(ふすま)を並ぶるとぞ見へしが……漸(やゝ)ありて、次の間に臥(ふし)たりし小者が手をとり、七兵衞、みづから、顏におしあて、さめざめと泣(なく)を、餘り、不思議さに、手をのばして、ふところへ入て、さぐりけるに、大きなる虵(へび)の、ふしたけ二丈ばかり[やぶちゃん注:「臥丈二丈」。蜷局(とぐろ)を巻いた縮んだ状態の見かけ上でも六メートルは有にある。]もやあるらんとおもふが、七兵衞を、足より胸いた[やぶちゃん注:「胸板」。]迄、

「くるくる。」

と卷(まき)て、鐮首を、もつたて[やぶちゃん注:もたげて。]、七兵衞が咽(のど)をくわへたり[やぶちゃん注:ママ。]。

小者は、肝つぶれ、心まどひ、

「こは、いかに。」

と、おそろしさ、しばらくも溜(たま)られず[やぶちゃん注:とどまって居られず。]、急ぎ、迯(にげ)出んとするに、

『腰元は、ふすはよ。』

と見へかし。

[やぶちゃん注:判読に非常に時間が掛かった。自信はないが、「臥(ふ)すはよ」で、「(人間なのに、べたっと)伏すようじゃないか?!」という小者の目線からの観察であろうと採った。「ゆまに書房」版は『腰元はすはよと見えかし』で、であれば、「腰元は『すはよ』と見えかし」となろうが、これでは、文意が微妙に通らない気がする。「すはよ」は、「今だわ!」の謂いとも採れなくはないが、小者の視線のみから、そのような感情認識表現は私のは無理が感じられるのである。原本はここ(左頁二行目)である。当該部は、印字が何とも怪しいので、私を含めて、判読に誤りがある可能性がある。識者の御教授を乞う。]

 みな、狐などの化(ばか)せしにや、其邊(そのへん)には小虵(こへび)、いくらともなくありて、踏(ふみ)も分(わけ)がたきに、七つばかりなる女の子の声として、

「嬉しや。本望(ほんもう)をとげたり。」

と、いへば、二、三人の声して、

「我も、さあり。本望かな。」

といふに、いとゞ轉(こけ)まどひ、命からがらにて、歸りぬ。

 後に、程へて、樣子を聞けるに、岡山のおくに、人を取(とる)「うはばみ」あり、七兵衞が屍(かばね)を卷立(まきたて)、くらひながら、蝮(うはばみ)も死(しゝ)てありとぞ語りしか。

 誠に、おそろしき怨念にもぞありける。

 正(まさ)しく元祿六年の事也。

[やぶちゃん注:本話のコーダの特異性は、閨房入りの直後から、突如として、名もない小者の視点から描かれていることで(特異的にそこにリーダを挟んだ)、これは、なかなかに面白い。但し、読解には、かなり高度な読者としての第三者的冷静な視点が必要とされ、これは寧ろ、現代の映画的なカメラ・ワークであるように私には思われる。確かに、おぞましい七兵衛の見た目やその感懐なんどは、確かにいらないとは思う。しかし、ただの私の大いなる勘違いかも知れぬ。私の判読・読解にこそ大いなる誤りがあるのかも知れぬ。識者の御叱正を乞うものはである。

「元祿六年」一六三五年。]

2019/08/13

諸国因果物語 巻之三 長谷の空室寮の事

 

     長谷の空室(くうしつ)寮(れう)の事

Hasenokusitu

 長谷の學寮に空室といふ僧あり。出羽の所化(しよけ)なり。

[やぶちゃん注:「長谷」奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(グーグル・マップ・データ)。宗学としての長谷寺は密教及び倶舎(くしゃ)・唯識(ゆいしき)論の学匠が輩出し、諸宗の学徒も、多く参集して賑わった。]

 杉の寮といふ長屋にありけるが、明暮の食事をこしらへ、夜の間の下(した)見・歸見などに心を屈(くつ)し、寢ざめのつれづれにも、物いひ・伽(とぎ)なくては、いとゞさびしさも勝り、學問も物うくおぼゆるまゝ、京なるしるべのかたへ賴[やぶちゃん注:「たより」。手紙。]つかはして、吉之助といふ少人(せいにん)の、十二、三なるを呼下(よびくだ)し、寢起(ねおき)の物いひ・伽(とぎ)とし、男色(なんしよく)の因(ちなみ)、世のつねならず、たがひにむつまじくいひかはし、二、三年を過しけるに、國許より[やぶちゃん注:「空室」の故郷である。]、文をのぼせける便(たより)に聞(きけ)ば、

「一人ある母の今年七十にちかきが、『膈(かく)』といふ病にとりむすび、已に半年におよびて、療治もさまざまと手を盡せども、いさゝかの驗(しるし)もなく、食を斷(たち)て、今、二ケ月あまり也。世に賴なきありさまの内にも、恩愛のきづな、すてがたくや思はれけん、足下の事のみ、なつかしがり、いひ出しては、淚にむせび給ふ也。何とぞ、此便につきて下り、生(いけ)る母の顏、見まいらせましや。」

[やぶちゃん注:「下(した)見・歸見」教学修行に於ける予習・復習のことか。
「膈(かく)」「膈噎(かくいつ)」であろう。厳密には、「膈」は食物が胸の附近でつかえて吐く症状、「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病態を指すが、現在では、現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。ここはまさに進行したそれを考えてよいように思われる。]

と、一門の方より知らせけるに、心動きて、悲しくも、なつかしさも、いや増(まし)ければ、隣の坊にも此事を語り、寮頭(れうがしら)の僧にも此あらましを斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])つゝ、國のかたへと思ひたつに、吉之助も打しほれ、物おもはしき顏ながら、かゝる親子のかぎりある別(わかれ)おしまんために旅だつ人を、引とゞむべきにもあらず、跡に殘りて待(まち)つけん日かずもいつとしらず、心もとなければ、人しれず、こぼるゝ淚に袂のかはく間もなければ、

「まぎらはさん。」

と、硯、引よせつゝ、手ならひのつゐで[やぶちゃん注:ママ。]に、

     くやしともいひてかひなきさきの世を

     今のちきりになけきそへつゝ

[やぶちゃん注:和歌はそのまま写した(以下も同じ)。整序すると、

 悔しとも言ひて甲斐なき前(さき)の世を今の契りに歎き添へつゝ

であろう。これは無論、稚児吉之助の詠歌。]

と、書すさびけるを見て、空室も、さすが離れがたく、おさな心[やぶちゃん注:ママ。]に、かく迄したひけん哀さも引そへて、悲しけれども、召具(めしぐ)して行べき道にもあらず、人のおもはん所も恥かしく思ひわづらひて、一日、二日は、とかくして、延しけれども、迎(むかへ)の人も、間(ま)なく行かよひ、

「などや、遲(おそ)なはらせ給ふ。」

[やぶちゃん注:「遲なはる」は「遅くなる・遅れる」の意の動詞。]

などゝいふまゝに、心づよく思ひつめて、吉之助を寮に殘し、其あたりなる僧どもに[やぶちゃん注:同じ学寮の修行僧たちに。]、いひあはせけるは、

「我、此たび、陸奧(みちのく)に下り、母の病(やまひ)をも問[やぶちゃん注:「とひ」。]、または、限りある命にてもましまさば、これを終(つい[やぶちゃん注:ママ。])の別れの對面(たいめん)どもすべきなれば、引返してのぼるとも、二月餘りには覚束なし。若(もし)また、臨終の砌(みぎり)をも見るならば、七七日(なゝなぬか)のつとめも、十日の程に、よも登り難く覚ゆる也。月忌(ぐわつき)までは、定(さだめ)て國にあるべければ、此冬のさし入には、かならず、此寮に歸るべし。それまでは僧達、かまへて、吉之助を、よくいひ慰め、心をそへて給よ[やぶちゃん注:「たまへよ」或いは「たべよ」。]。下り着なば、先、文して、音信(おとづれ)申べきぞ。万(よろづ)に不自由させ給ふな。穴賢(あなかしこ)、我とおもひて、問[やぶちゃん注:「とひ」。]なぐさめて給(たべ)。」

[やぶちゃん注:この空室の台詞は意味が非常にとり難い。或いは以下、注に誤りがあるかも知れぬ。誤りがあるとならば、是非、御教授、下されたい。

「二月餘りには覚束なし」単に別れの挨拶だけをして(臨終を看取らずに)、往復したとしても二ヶ月余りでも覚束ないであろう。

「七七日(なゝなぬか)のつとめ」四十九日の忌明け法要。

「十日の程に、よも登り難く覚ゆる也」意味不明。「四十九日の法要を十日のうちに詰めて行ったとしても、そう早くは帰ることは出来そうもないように思われる」か。そういう法要の圧縮が、当時、出来たのかどうかは知らない。

「月忌(ぐわつき)」月命日。亡くなって一ヶ月後の同日。

「此冬のさし入」「さしいり」と判読し、冬の初旬、則ち、旧暦十月初旬と読んだ。但し、この部分には原本に汚れがあり、判読に自信がない。「ゆまに書房」版では『さし入にい』であるが、これでは意味が通じない。その頃には「かならず、此寮に歸」らんと思う、と言っているからには、空室が長谷寺を旅立ったのは、最低でもその年の七月中旬以前ということになる。単純往復(二ヶ月+α)に加えて、それに看取りと月命日が加わるからである。

「我とおもひて、問なぐさめて給(たべ)」「僧たちよ、私に成り代わったと思って、吉之助に声をかけ、慰めてやって下されよ」の意か。]

など、念比にたのみをき、主寮(しゆれう)にもいひつゝ、なくなく、立出ぬ。

 吉之助も、心うく、かなしさ、はやるかたなけれども、後(うしろ)すがたの隱るゝまで、見送り、見かへりて、ひとり寮に歸りつゝ、はかなき淚に面かげをいだきて、泣ふしたり。

[やぶちゃん注:「かなしさ、はやるかたなけれども」「悲しみは、それを向けるべき(解消すべき)ものもないけれども」の謂いか。]

 かくて、程へぬれども、いひしは、あだなる誓ひとなりて、そよ、との風のたよりだになくて、いたづらに獨ねの枕さびしく、永き夜、あかしがたきあかつきの空さえ、まさる木(こ)がらしの音に、夢おどろきては、面影を泣(なく)なみだ、數そひて、袂の水、とけやらぬ、むねの内、たれにかたらん友もなければ、

     待かほに人には見らしとはかりに

     なみたの末にしほれてそぬる

[やぶちゃん注:整序すると、

 待顏に人には見らじとばかりに淚の末に萎(しほ)れてぞ寢(ぬ)る

か。泣き尽くして萎れる、というのであろう。]

などゝ思ひつゞけ、また、ある夕暮は、寮の口にたちて、

「もしや。」

と、日をくらし、大門のかたへ立いでなど、心ひとつに待くらして、

     我も人もあはれつれなきよなよなに

     たのめもやますまちもよはらす

[やぶちゃん注:整序すると、

 我も人も哀れなき夜な夜なに賴めも止まず待ちも弱らず

か。「夜な夜な」の「夜」は無常の「世」を掛けていよう。]

など、打ながむるにも、人めわろきまで、淚のこぼるれば、すごすごと立かへり、

『せめて、心や、まぎるゝ。』

と、主寮(れう)の僧の方へ、さしのぞけば、折ふし、了海・義空などいふ若坊主ども、此寮に入りこみて、はなし居られしが、吉之助を見て、了海、立て、さしまねき、

「などや、我は、此ほど色惡(わろ)く、瘦(やせ)て、物おもひ顏なるぞ。氣分のあしきか。又は、淋しさの餘り古里の戀しくて歟(か)。心にかなはぬ事あらば、つゝまず、語りてよな。」

と、慰め、

「國もとより、便もなしや。空室は煩ひもするか。絕て音信もなく、さぞや、待かねぬらん。」

と、情らしくいひかはさるゝにも、先[やぶちゃん注:「まづ。」]、むね、ふくれて、声をも立つべく、悲しけれども、色に出て[やぶちゃん注:「いでて。」]それと見られんも恥かしければ、おしうつぶきて居たるかたはらより、義空のいふやう、

「了海は知り給はずや、一昨日(おとゝひ)の暮つかた、空室方より、飛脚きたりて、主寮(しゆれう)迄、屆[やぶちゃん注:「とどけ」。]すてゝ歸りぬ。

『母の病は終に治(ぢ)せずして、死給ひぬ。その跡のとぶらひをいとなみ、一門の人々、行つどひ、五十日・百ケ日と、さまざまの佛事を空室に任せて、とりおこなひけるまゝに、心ならず、日を過しける内、上がたより下りし去[やぶちゃん注:「さる」、]人の子息にて、義量よき少人(せうにん)を弟子に取しが、此親もとより、同國の内、何とかやいふ寺へ空室を肝煎(きもいり)けるほどに、今は、中々、おびたゞ敷(しき)寺持(てらもち)となり、爰もとの事などは、思ひ出す事にもあらず、明暮、榮耀をなすゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、最早、吉之助などにも隙(ひま)をとらせ、寮をも、近々、に開(あけ)わたすべし。』

との事なり。されば、『寮並びの法師たち、諸事に付て出入もあらば、くわしく[やぶちゃん注:ママ。]書立置(かきたておく)べし、との内意の狀、のぼりたり。」

など、跡かたもなき虛言(うそ)を誠(まこと)しくいひつゞくるに、吉之助、今は聞さへもうらめしく、むねにせきくるなみだの雨、間なく、隙(ひま)なく、袖にみなぎるを、「恥かし。」

と、立かゞよひて、何となく寮に歸り、内外よりのしまり共、よくさしかため、また、昼すぎの日あしを見もはたさず、

「心ち、あしき。」

とて、打ふしたり。

[やぶちゃん注:「立かゞよひて」は「ゆまに書房」版では『立かゝして』であるが、私にはこれでは意味が判らない。原本を見て、以上のように判読したが、文字よりも意味に合わせて読んだ感は免れぬ。ここ(左頁の最後から四行目の末尾)であるが、識者の御教授を乞うものである。

「寮並びの法師たち、諸事に付て出入もあらば、くわしく書立置(かきたておく)べし」空室の寮の並びの修行僧たちで、彼及び彼の稚児である吉之助のために、諸事、いろいろと金品等、支出致いておった分(ぶん)があるならば、詳しく書き出しておくように、という回状である。嘘なのだが、それを空室に請求するという如何にも事実めいた謂い添えである。妄語の極みの義空、極端に救い難い厭な奴である。]

 寮隣(れうどなり)の坊たちも、何心なければ[やぶちゃん注:事態(義空が忌まわしい嘘を吉之助についたこと)を知らないので。]、

「吉之助、はやく寢たりな。心ちにても、あしきや。」

と、いふもあり。または、

『待かねて、例の門口へ行しにや。』

とおもひつゝ、打すぐしぬ。

 かくて、二、三日も過ける、霜月の十四あまり、空室は、國もとの用ども、そこそこにしつらひ、夜を日につぎて、京へとのぼり、吉之助が宿にて、旅すがたをあらため、

「明(あけ)の日は、長谷へ。」

と、心ざして、しばらく、まどろみしに、吉之助がおもかげ、夢に見えて、枕もとに、たてり。

「いかにや。久しく逢(あは)ざりつるが、さぞ待にこそ待(まち)つらめ。」

などいふに、何のこたへもなくて、

     おもひしれ度かさなれる空たのめ

     けにことはりのうらみなりとは

[やぶちゃん注:整序すると、

 思ひ知れど重(かさ)なれる空賴(そらだのめ)げに理(ことは)りの恨みなりとは

か。]

と、いひて、むせかへりつゝ泣(なく)とぞ見えし程も、明にければ、空室も、いとゞ心もとなくて、急ぎつゝ、寮に歸り、人々にもそこそこに物いひなどして、先、日比の舍(やど)りに立いらんとするに、表も裏も、門より堅くしめて、人音、なし。

「こは、いかに。寢たりしや。」

と、しばし敲(たゝけ)ども、こたへず。

 其となりの僧たちに、

「吉之助は、いかゞし侍る。」

と、問(とふ)とも、木のはしのやうに生れつきたる人共なれば、

「何事もしらず。」

といふに、

「さればよ。」

と、心うごきて、今はこらへがたく、入口の戶を引はなして、立入けるに……

……むざんやな、吉之助、義空が虛言(そらごと)を信じて、

――此ほど迄――待よはりつる[やぶちゃん注:「待ち弱りつる」。]心ざしも――無下になりけるよ――

……とおもふ恨(うらみ)のあまり、空室が常にせし手巾(しつきん)にて、首縊(くゝり)て死(しゝ)てあり。

 空室は、是を見るより、氣を失ひ、

「さればよ、かゝる事にてこそ、此ほどの夢は見えつらめ。」

と悲しき身に餘り、やるかたもなければ、此死骸にすがり付、身をもだえ、夜日(よひ)となく、泣(なき)けるを、あたりの僧たち、さまざまにいひなぐさめ、引除(のけ)んとすれど、離れず。

 いよいよ、引ば[やぶちゃん注:「ひけば」。]、いよいよしがみ付て泣ほどに、かくて、二日一夜、なきつゝ、終に、いだき付ながら泣死(なきじに)たり。

「かゝる奇代のためしこそなけれ。よしや、此まゝに取置べし。」

とて、此二人が死骸、そのまゝながら、取おきけるが、是よりして彼(かの)寮には、よなよな、空室・吉之助兩人が姿、

「ありあり。」

と顯れ、泣つ、笑ひつ、おそろしき事ども、多かりしかば、その後(のち)、此寮には、さらに人すむ事なく、只、年(とし)々、主寮(しゆれう)より、空寮(くうれう)にして、

――空室――

と張札(はりふだ)をおしかへ、うち捨て、今に、あり、とぞ。

 

諸國因果物語卷之三

[やぶちゃん注:例外的に最後にリーダとダッシュを用いた。僧と稚児の若衆道の悲恋の怪異譚として、まっこと、上質である。電子化注しながら、思わず、しみじみしてしまった。空室の帰還は、約束より一ヶ月半遅れた。これはしかし、距離と不定性から仕方がなかった。吉之助は空室を信じているべきであった。空室を信じずに、早まったことをしてしまった。確かに、吉之助に宛てて手紙を書かなかった空室にも重い罪はある。しかし、それは少年とはいえ、やはり愚かであったのではないか?――ともかくも――私なら――義空を――阿鼻叫喚地獄に落とす――そうして――空室と吉之助の三世の契りを願う…………

「木のはしのやうに生れつきたる人共なれば」「徒然草」の「あだし野の露」を挙げるまでもなく、本来、愛欲は仏教に於ける最も断ち難い煩悩ではある。従って、この修行僧どもは、普通の凡夫の大衆の持つ当たり前の人情から見れば、仏道を志すからには、木端(こっぱ)のような無愛想な存在なのだということにはなろう。

「手巾(しつきん)」「手巾帶(しゆきんおび(しゅきんおび))」の略。手拭いのような、長さ五尺(約一・九メートル)ほどの布を帯にしたもの。主に僧尼が用い、衣の上から巻いて前で結んだ。

 以上の持って「諸国因果物語」の「巻之三」は終わっている。]

諸国因果物語 巻之三 猫人に祟をなせし事

 

     猫人に祟をなせし事

Mekotatatri

 備後福山にて、淸水何(か)右門といふ人あり。

[やぶちゃん注:「備後福山」福山藩は主に備後国(広島県東部)南部と備中国南西部周辺を領有し、現在の広島県福山市(グーグル・マップ・データ)に藩庁を置いた。]

 元祿元年のころの事なりしに、ひたと物の失(うす)る事あり。魚(うを)・鳥によらず、何にても、料理せんと思ひて、洗はせ、又は、買(かひ)などして、しばらく間あるをば、かいくれて見えず。

[やぶちゃん注:「元祿元年」は貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日に改元している。]

「下部(しもべ)などの内に、心よからぬ者ありて、かゝる手むさき事もあるや。」

と心を付て問聞(とひきゝ)、又、ある時は、物かげより、目代(めしろ)を置(おき)て窺(うかゞは)すれども、誰(たれ)とるとも、知らず、目、ふる間に、失(うす)る、といふ程に、あまりふしぎさに、此度は、

「蛸を料理せん。」

とて、洗はせ、何右門みづから、半弓(はんきう)を持て物かげより見居たるに、此蛸、かいくれて、失たり。

[やぶちゃん注:「目代(めしろ)」代理の者、或いは目付役・監督。

「半弓」通常の弓(大弓)のほぼ半分の長さ或いは大弓より短い弓。大弓は七尺三寸(約二メートル二十一センチメートル)を標準とし、六尺三寸(一メートル九十一センチメートル弱)以下を広義に半弓と呼ぶ。射程距離と威力は劣るが、座位で射ることができ、室内でも使用可能である。]

『扨も。心得ぬ事。』

と、おもひ、猶々、目をはなさず、しばらく其邊のやうすを窺ゐたれば、やゝありて緣の下より、最前の蛸の足を、少くはへて、猫壱疋、

「のさのさ。」

と出(いで)、また、魚板(まないた)の上にありける鰹(かつを)を見て、

「そろり。」

と、あがり、此鰹をくはゆる所を、半弓、引しぼりて、

「ひやう。」

と射られしが、今すこし、手のびして、魚板より飛おるゝ猫の後(うしろ)足にあたりぬ。それも、かすり手[やぶちゃん注:「かすりで」。擦っただけの傷手。]なりけるまゝ、何の事なく迯失(にげうせ)たり。

[やぶちゃん注:「手のびして」手元が狂って。「ゆまに書房」版は『根のひ』とする(この場合は「矢の根」で「鏃」が狙撃位置から延びてしまって左右上下に外れるの謂いとなるか)が、原本を見ると、次の一行の同位置にある「かすり手」の「手」と全く同じ崩し字であるので、採らない。]

「殘念の事。」

と、おもへど、是非もなければ、其分也しに[やぶちゃん注:「そのぶんなりしに」。ここはそれだけのこととして終わったのだが。]、其夜より、何右門が寢間に、あやしき女の忍びいりて、何右門をとらへ、さんざんに恨(うらむ)事あり。

「何やつなれば、かく迄、寢間ふかくしのび入て、我を惱(なやます)や。いで、物見せてくれん。」

と、枕にたてつる、刀、ひきよせん、起(おき)んと、身をもがき、心をはたらけども、いかに仕(し)つる事にか、五體、すくみて、はたらかず。

 口おしさは、かぎりなけれど、此障㝵(しやうげ)[やぶちゃん注:「障碍」(障害)に同じい。]にたぶらかされて、いたづらに臥(ふし)たる体(てい)にもてなしつゝ、いふ事を聞(きけ)ば、彼(かの)女、いふやう、

「おのれ、纔(わづか)なる食のために、我[やぶちゃん注:「わが」。]たのしぶ心ざしを破り、よくも、殺さんとしけるよな。我は同じ蓄(ちく)るひなれども、此里におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、八百歲を經たれば、小神通(せうじんつう)を得て、変化自在(へんげじざい)なる身となりぬ。おのが貪欲(とんよく)の刀(やいば)にかけて奪(うあばは)んとせし命の惜(おし)さと、今、また、おのれを苦しめて取んとする命と、おもひくらべて見よ。いづれが、惜(おし)き。去ながら[やぶちゃん注:「さりなががら」。]、急にとりつめては、本意なければ、こよひより、通ひそめて、幾夜も幾夜も、惱(なやま)し苦しめ、なぶり殺しにすべき也。おもひしれ、おもひしれ。」

といふ声のしたより[やぶちゃん注:声のするそばから。]、五体しびれ、心くるしくなりて、半死半生のくるしみ、せつなさの餘り、

『今は。声をたてゝ、人をおこし、此世の名殘をもおしまばや。』

など思ふ事、千度(ちたび)なるを、又、おもひ返し、

『口おしや[やぶちゃん注:ママ。]、此わづかなる四足の見入に[やぶちゃん注:「みいるに」。「魅入るに」。]なやまされ、比興(ひきやう)なるふるまひを人にも見せ、世にもいひはやされては、何の面目(めえんぼく)ありてか、人に面[やぶちゃん注:「おもて」。]をむくべきや。流石(さすが)に我も、侍ぞかし。』

と、思ひなぐさみて、

「屹(きつ)。」

と身を持かため居たる程に、はや、明がたの鳥の声も、かすかに聞え、廿六夜の月も、光りほのかに、寢間の上なる切窓にさし入りける光りに、きのふ見し猫と覚えて、下より、ふと、飛あがり、窓より外へ行よ、とおもへば、五体のすくみも和らぎ、手足も自由になりけるにぞ。

[やぶちゃん注:「比興(ひきやう)」これは「非拠」或いは「非興」の意ともされ、「不都合なこと・不合理なこと」を意味する。]

『扨は。彼(かの)射そんじたる猫の所爲(しよい[やぶちゃん注:ママ。])なりけり。』

と、いよいよ無念さ勝るに付ても、

『此猫ほどの根性になやまされ、心よはく、人を駈催(かりもよほ)しては、後のそしりをいかゞせん。よしや、此上は、猫と我と運をくらべて、討(うた)ば、討(うつ)べし。』

と、堅く心に誓ひて、かりそめにも、人にいはず、妻子とてもなければ、知るべき人もなく、只、我のみ、さまざまと手を替、術(てだて)をつくして、夜毎に待(まつ)に、此障碍もかならず、夜ごとに來りて惱(なやま)す事、いつもの如くにして、いかにともすべきかたなく、初(はじめ)の程こそ、兎角、心をも盡しけれ、半年ばかりにもや成(なる)らんと思ふ比は、氣もおとろへ、力、よはりて、色わろく、瘦(やせ)つかれ、物もしかじかと食ず[やぶちゃん注:「くはず」。]、日にそひて、顏色もおとろへしかば、てまはりの者なども、心もとながり、種々(さまざま)と機嫌をうかゞひ、尋ねとへども、堅くいはず、只、うかうかと惱まされゐたりしが、与風(ふと)、思ひつきて、

『かゝる時こそ、不動の「慈救呪(じくのじゆ)」の驗(げん)はありぬべけれ。』

と、おもひ、日に二百返づゝ、おこたらず、操(くり)ける事、廿日ばかり也しに、其夜も例のごとく來りて、いつもの如く苦しめ、

「今宵、過なば、命を取べし。扨も、此ほど、さまざまに苦しむるに、心づよく我に敵對して、よくも降參せざるよな。」

と、いひのゝしりて、毎(こと)に[やぶちゃん注:意味は「殊に」。]宵より責(せめ)さいなみけるに、

『五体も、今は、中々に、くだけ、命も限りなるべし。』

と、おもふ程也しが、あまりに强くあたられ、我も身を捨て[やぶちゃん注:何衛門の地の文への一人称敷衍表現。]、爭ひけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にや、草臥(くたびれ)てすこしまどろみける、と覚ええて、しばらく何の事をも忘れたるやうにて、目ざめしかば、手をのばし、足を動かすに、思はず、自由になりぬ。

『こは、嬉し。』

と思ひ、

「そろり。」

と起(おき)て見まわし[やぶちゃん注:ママ。]たるに、彼(かの)ねこも、宵より手ひどくもみあひしに、草臥(くたびれ)てか、現(うつゝ)なく、ね入りたると見えて、ねこの形を顯して、添(そひ)ふしたり。

『すは、天のあたへぞ。』

と、かたはらに、ぬき置て[やぶちゃん注:「拔き置きて」。そっと気づかられぬよう、衾から抜け出して。]、絹羽織(きぬはをり)を打かけ、飛かゝりて、組ふせたれば、是に驚きて、目を覚し、又、頭(かしら)より、次第に、女となるを、强く押へられて、泣(なき)もだへける所を、枕刀(がたな)に懸(かけ)て、指殺(さしころ)し、下々を呼て、此死骸を燒(やき)すてさせしかども、猶、心もとなく、氣味あしくて、眞言寺の僧を請じ[やぶちゃん注:「しやうじ」。]、密符(みつふ)をかけ、祈禱などさせければ、二たび、此あやしみも絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])、其身も、半年ばかり養性(ようじやう)[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。]して息災になりける。

[やぶちゃん注:『不動の「慈救呪(じくのじゆ)」』衆生を慈愛を以って救護するとされる不動明王の大・中・小(呪の長さが異なる)三呪文の一つである「中呪」。この呪文を誦えると災害を免れ、願いが叶うとされる。「ナウマクサマンダ(発音はノウマクサーマンダ) バザラダン センダンマカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カン マン」がそれ。

「密符(みつふ)」真言密教の呪符。恐らくは真言でも梵字でもなく、特殊な呪字(漢字ではない)を書いたものであろう。]

諸国因果物語 巻之三 盗せしもの神罰をかうふる事

 

     盗せしもの神罰をかうふる事

Jyukusigaki

 丹波桑田郡篠村に与八といふ物あり。

[やぶちゃん注:「丹波桑田郡篠村」、京都府南桑田郡にあった村。現在の亀岡市篠町(しのちょう)の各町。この中央周辺(グーグル・マップ・データ)。嵐山の西方で因幡へ越えるルートである。]

 心だてよろしからぬ男にて、神佛をも蔑(ないがしろ)にし、人を人とも思はず。常に雇はれありく身として、何によらず、「ほしき」とおもふ物あれば、盗とりて歸り、後日に恥をかく事あれども、何とも思はず、不敵なるくせ者也。

 同じ心の友とて、其邊(あたり)近く住ける小左衞門といふ者、是も能なしにて、博突(ばくち)といふ事に身を打こみ、方々とかせぎありきけるに、与八も無二の友にて、いづく迄も往來して、酒をのみ、人をむさぼりて、たのしみ暮しける。

 ある時、小左衞門は博突に打ほうけ、仕合、さんざんにて、此ほど、因幡より歸りけるが、

『此まゝにて宿へ歸りては、妻子どもの待うけつる甲斐もなく、飢たる色を見んも心うし。よしや、姿を替、何ものにもあれ、剝(はぎ)とりて設(まうけ)にせばや。』

と、おもひ、新八幡の鳥居なる木隱(こがく)れに、旅すがたのまゝにて、隱れ居たり。

[やぶちゃん注:「新八幡」同篠町篠の上中筋旧村社の篠村八幡宮(グーグル・マップ・データ航空写真)が鎮守の森とともに現存するので、この境内に新たに建てられたか、近隣の林に末社としてあったものであろう。この神社は中世史では足利尊氏縁りの神社として知られたもので、ウィキの「篠村八幡宮」によれば、『社伝や本殿の棟札によれば』、延久三(一〇七一)年に『勅宣によって源頼義が誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請し』、『創建したとされ』、延久四(一〇七二)年五月十三日『付の頼義の社領寄進状も現存する。篠村の荘園は藤原氏によって開かれたものであったが、いつの頃からか源氏が相伝することになり、その荘園に勧請されたものとされる』。現在の主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)で、仲哀天皇と神功皇后を合祀神とする。『当地は足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、亀岡市指定史跡にも指定されている。高氏は』、元弘三(一三三三)年四月二十九日に『篠村八幡宮に戦勝祈願の願文を奉じ』、十『日間滞在したのち、六波羅探題を滅ぼして建武中興の礎を築いた。また後醍醐天皇と決別したのち』、建武三(一三三六)年一月参〇日に『京都攻防戦で敗れたため』、二月一日まで『篠村八幡宮で敗残の味方の兵を集めるとともに』、『社領を寄進して再起祈願を行なっている。そして尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと』、『京都に戻り』、『室町幕府を開くこととなる』のである。『現在も高氏(尊氏)旗揚げの願文(京都府指定文化財)や御判御教書(寄進状)が伝わるほか、境内には矢塚や旗立楊が残されている』。『本殿は一間社流造。境内には、高氏挙兵にまつわる「矢塚」が残』り、「太平記」によれば、『高氏は篠村八幡宮に願文とともに一本の鏑矢を供えたといい、多くの武将もそれに続けて供え、矢がうず高く積み上げられたという。矢塚は、これらの矢を埋納した場所とされ、塚上には椎の木が植えられている』とある(或いは、ここで拝殿に稲を積み上げて奉納しているのは神饌であると同時に、この矢奉納の再現かも知れない)。『尊氏にとっては』二『度の岐路で篠村八幡宮により大願が成就したことから』、貞和五(一三四九)年八月十日には『尊氏自身が当社にお礼参りをしたほか、歴代足利将軍からも多くの社領を寄進され、盛時にはその社域は篠の東西両村に渡ったという』。『この頃、別当職は醍醐寺三宝院門跡が務めていた』。『しかし、のちの応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社伝・社域の多くを失ったという』。『江戸時代に入り』。寛永年間(一六二四年~一六四三年)に『亀山城主・菅沼定芳によって本殿が改修され、以後』、『亀山城主の直轄神社として庇護された』とあるので、新はこの菅沼定芳の新本殿を称している可能性が高い(と言っても本書刊行は再建から八十七年後の宝永四(一七〇七)年ではあるが)。何故なら、次の冒頭に出る「やたつの森」は「矢立の森」で、以上の鎮守の森内の「矢塚」のことではないかとも思われるからである。しかも、以下で、与八が「矢を射かけられた」と言っているのもそれに合致するからである。則ち、本話にはこの篠村八幡宮に纏わる歴史的事実が強く作用しているのである。]

 与八は、又、此「やたつの森」に付たる田刈にて、拜殿に大ぶん、稻を刈(かり)つみけるを見置たれば、

『何てもあれ、今宵のまふけに、一、二荷(か)ぬすみとりて、食物にせんや。』

と思ひ立(たち)、枴(ほうこ)に繩をまきそへて打かたげ、夜中に過(すぎ)たる空の星あかりを侍つけて、宮(みや)の方へ步みけるを、小左衞門、よくすかして見るに、

[やぶちゃん注:「枴(ほうこ)」の歴史的仮名遣は「あふご」が正しい(現代仮名遣「おうご」。「おうこ」とも)。「朸」とも書き、物を担う天秤棒のこと。挿絵参照。]

『与八よ。』

と見るまゝに、日ごろ、心やすき中なれば、後より、そろそろと付て行[やぶちゃん注:「ゆき」。]、与八を目當(めあて)に石を打かけ、

「やれ、賊め。」

と、声をかけけるに、与八は小左衞門が邪興(じやけう[やぶちゃん注:ママ。])にするとは知らず、

『こは見付られしよ。』

と、心まどひ迯(にげ)て、森の方へ隱れんとせしを見て、小左衞門、いよいよ、可笑さに、

「やい、うろたへ者。我なるとは知らぬか、知らぬか。」

と、ひた物、小石を打かけて、追付(おひつく)やうにすれば、与八は、なをなを[やぶちゃん注:ママ。]、迯まどひ、かたはらなる柹(かき)の木に、

「ぼう。」

と行あたりける。

[やぶちゃん注:「ぼう」底本「ほう」。「ボン!」とぶち当たったオノマトペイア。]

 折しも、

『石、ひとつ、首筋の程へあたりしよ。』

と、おもへば、いかゞしたりけん、頭より血のながるゝやうに覺えて、心ち、あし。

 それは先[やぶちゃん注:「まづ」。]、手につきたる物も、腰なる手ぬぐひにて拭(のご)ひ、星の光りにすかし、神前の灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])にてよく見るに、疑もなき、

『血也。』

と思ふより、目まひ、しきりにして、一あしも引れねば、森の入口にて、

「どう。」

と仆(たほれ[やぶちゃん注:ママ。])たる所へ、小左衞門、はしり寄(より)、

「与八が。何とせしにや。」

と問(とは)れて、漸(やうやう)、息の下より、いひけるは、

「我、としごろ、神佛をあなどり、何もなき物と思ひこなして、宮寺(みやでら)の物、おほく盗みとりつゝ、世を渡る便(たより)とせし罪科(つみとが)、今といふ今、身に報ひて、拜殿の刈稻を盗まんと手を懸し所に、社の内より、聲をかけ給ふとおもひしが、あやまたず、白羽の矢、一筋きたりて、我首の骨を射ぬき、あれなる柹の木に射つけられしを、やうやう、迯(にげ)のびたりと思へど、今は、命、ながらふべきやうにも思はず、殊に所もあしければ、夜明(よあけ)て、人の目にかゝり、恥を得ては、いよいよの罪つくりぞかし。日ごろのよしみには、そなたが手にかけて殺してくれよ。」

と、苦しげにいふにぞ、小左衞門も、身の毛たち、おそろしくおぼえ、先、手をあてゝ与八が首すぢを探り見るに、いかにも、血にまみれつゝ、腦なども碎けるにか、肉なども、出たり。

「よしや、思ひきれ、与八。此疵にて、たすかる事、叶ふまじ。汝か跡は、念比(ねんごろ)にとぶらいてとらすべし。觀念せよ。」

と、一かたなに指殺(さしころ)して、歸りぬ。

 夜明て、聞ば[やぶちゃん注:「きけば」。]、

「何ものゝ仕業にや。与八は、宮の森に刺殺(さしころ)してあり。」

と、村中の取沙汰して、我も我もと、集(あつま)りて見るを、小左衞門も、何となく、行(ゆき)て、人の後(うしろ)より、のぞきてみるに、我手にかけし疵ばかりにて、与八が頭には、何の跡も、なし。

 餘りふしぎさに、近々と立寄(たちより)、おし動かして、よく見れば、彼(かの)柹の木に行あたりける時しも、上より、熟柿(じゆくし)一つ落(おち)て、頭(かしら)にあたり、潰れたるを、与八は心に雲りある氣から、白羽(しらは)の矢と思ひて、心よはくなり、我も罪の深きに、『「深手ぞ」と見付て、殺したる也』と合點する程、おそろしく、かなしく、

『これぞ、誠(まこと)の神罰にてありける。』

と、心におもひこみけるより、其場にて、小左衞門は、髻(もとゞり)切(きり)て、遁世し、四國・西國をめぐり、年をへて、二たび、國に歸り、此事をさんげしけるとぞ。

[やぶちゃん注:因みに、私は帰国して「さんげ」(懺悔:本邦では近世まで一貫して「ざんげ」ではなく「さんげ」である)をした(篠村八幡宮神官及び別当寺である醍醐寺三宝院へ出向いたものと思う)小左衛門は処罰されなかった可能性が高いと判断する。まず、与八は神饌を盗もうとした神仏をも畏れぬ悪逆の窃盗罪である(但し、これは未遂(準備を整えて宮に入り、実行行為に移っていたと判断されるから未遂犯である)であるが、死に臨んでの同様の余罪が多いことを白状しており、その自白(懺悔)は相応の価値はあると見做されるものの、寺社は彼の死に至る経緯については情状酌量の余地は持たないはずである)、小左衛門は追剥を計画するも、その与八を見つけて、その実行行為を中断しているから、未遂ではあっても情状酌量の余地がある。また、小左衛門が与八を刺殺したのは、被害者である与八の誤認による嘱託殺人(自殺幇助罪)に相当するものであるが、与八は死ぬ以外に道はない致命傷と誤認し、暗がりの中で、かく依頼されて小左衛門自身も同じく救い得ぬ重傷と迂闊にも誤認した訳で(但し、小左衛門には状況を今少し冷静に判断して与八の命を救うべき手だてがあったという点では非難されるべき有意な責任性はある)、しかも即座に遁世僧となり、西国を行脚して与八の冥福を弔い、而して帰郷し、事実を寺社に対して公的に懺悔した以上、三宝院(京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭・大本山・門跡寺院にして真言宗系修験道当山派を統括する本山。しかも三宝院門跡は醍醐寺座主を兼ねており、真言宗醍醐派管長の猊座にあった)は彼を与八の殺人犯として訴え出ることはなく、寧ろ、懇ろに保護したと考えるのが至当と思うからである。]

2019/08/12

諸国因果物語 巻之三 祖父の死靈祖母をくひ殺す事

 

     祖父(ぢい)の死靈(しれう)祖母(ばゝ)をくひ殺す事

Titikuiyaburi

 これも元祿四年の事也。伊賀の上㙒大つぼとかや、所は忘れたり。甚吉といふ百姓あり。

[やぶちゃん注:「元祿四年」一六九一年。

「伊賀の上㙒大つぼ」三重県伊賀市久米町(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)内に字で「大坪」なら現存する。]

 彼が母一人あり。後づれの親にて、常に心よからぬ事あり。其いはれは、爺(てゝ)の親、死する。此身にありける子、しかも男子なりければ、何角(か)と、和讒(わざん)をいひかけ、弟に生れたりといへども、繼母(けいぼ)のはからひとして、甚吉を押のけ、跡職(あとしき)を我子に繼(つが)せたり。

[やぶちゃん注:「和讒」一方に取り入るために他方を悪くいうこと。「讒言」に同じい。

「跡職」ここは家督と家屋に限っていよう。以下で当初、田地を分離しているからである。]

 田地も少あるを、是迄、弟にと、貪りしかども、庄屋など、一圓(ゑん)心に任せて、「弟に」といはざれば、是非なく、兄甚吉にあたへけれども、猶、欲の心あきたらねば、

「然るべき妻子をも定め、身上[やぶちゃん注:「しんしやう」。]とも、かくもなる迄は、此弟に讓狀を書て[やぶちゃん注:「かきて」。]、渡し置(おく)べし。」

などゝ、いぢりける程に、今は、せんかたなくて、庄屋・肝煎などに心をあはせ、僞りて、讓り狀を書、村中へ出したる分にもてなし、

『何分にも、母と名の付たる人也。繼(まゝ)しきとても、さからふべきにあらず。』

と思ひ、萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]に付て、孝行を盡しけれども、日にそいて、いよいよ邪(よこしま)に、事毎(ごと)に、僻(ひが)事のみ、いひけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、餘りやるかたなく、心うくて、九月の初より、京都にのぼり、室町立賣(たちうり)の邊(へん)にて、久七奉公をつとめ、しばらくの程、母の心をも休め、我も上(かみ)方の風(ふう)を見習ふために、と假初(かりそめ)に勤(つとめ)ける。

[やぶちゃん注:「庄屋・肝煎」既出既注

「繼しき:形容詞「ままし」。継父・継母・継子などの血の繋がらない間柄であることを言う。

「室町立賣(たちうり)」現在の京都市内の東西の通りの一つ「上立売通(かみだちうりどおり)」と「室町通」との交差点辺りは、室町時代に店舗を構えずに商売を行う商人、「立売」が多かったことから、「立売の辻」と呼ばれた。ここ

「久七奉公」「ひさひち」か。不詳。年季奉公の男の奉公人のことか。「七」の字を貰えるのは手代になってからとかつて聴いたが、甚吉は年齢的に丁稚では老け過ぎではある。]

 元來、すなほなる心といひ、影ひなたなき律義もの也しかば、主人も情を懸て遣ひ、甚吉も此旦那を大切にしける程に、けふと暮(くれ)、明日(あす)と過(すぐ)し、十年ばかりも舊功を積けるまゝに、似合敷(にあはしき)妻をも、旦那より、引合せ、金銀・味噌・鹽の世話まで、細やかに氣を付、宿はいり、首尾能(よく)とり繕(つくろ)ひ、仕(し)付られける儘、此うへに何の欲かあるべき。

[やぶちゃん注:「宿はいり」ここは嫁を迎えて、主人の町屋の屋敷内の長屋にでも住むことを謂うか。だとすると、甚吉は番頭格になっていたことになる(手代は結婚が許されなかったはずである)。よく判らぬ。]

 一つは母の心ざしをも逐(とぐ)る爲にと、ある時、みづから、伊賀に下り、彼(かの)田地、ことごとく證文をいたして、弟にゆづり、

『今は、いかなる繼母なりとも、心にかゝり給ふ事あらず。』

と思ひ悅ひて、歸りぬ。

 此間に彼(かの)腹(はら)がはりの弟も、近鄕より妻をむかへなどして、子あり。此甚吉の田地うけ取付る夜(よ)、生れて、しかも男子也ければ、祖母も一しほに悅び、いさみつゝ、しばしも下(した)に置事なく、懷(いだき)かゝへて、かあやかりそだて[やぶちゃん注:ママ。「可愛がり育て」。]、夜(よ)の程も乳を吞(のま)する間(ま)ばかり、娵(よめ)に渡し、其外は祖母の手に取て寢起したりしに、二七夜(や)[やぶちゃん注:生まれて十四日。]も過(すぎ)ぬらんと思ふ比、彼生れ子、祖母の懷に手を延し、乳ぶさをとらへて口に含まんとするを、繼母は嬉しさのあまり、

「恐しの知惠や、此子は早、乳(ち)を探る事よ。」

と、乳ぶさを取て、赤子の口に入けるに、始の程は、

「しかしか。」

くと嚙(かむ)やうに覺えしが、次第に痛く覺えしまゝ、恐しくて、引はなさんとする時、此孫、左の乳ぶさを喰切(くひきり)たれば、祖母(はゝ)は、

「のふ、悲しや。」

と、いひて、絕入(ぜつじゆ)したり。

 夫婦、おどろき、急ぎ、起(おき)て見るに、赤子、俄(にはか)に起(おき)なをり、

「我は汝が父、甚介なり。いかに繼(まゝ)しき事なりとて、惣領たる甚吉を追のけ、此跡職のみか、田地まで、ことごとくおのれらが物にさせたる根性の惡さに、我、今、此家に生(むま)れ、祖母(はゝ)には、思ひしらせ、喰殺しける也。あら、心よや。」

といふ聲そのまゝの甚介にて、『物いひやみしよ』と思へば、やがて、是も、死たり。

 おそろしき事也。

[やぶちゃん注:う~ん、なんだか、珍しく妙に読後感が悪い。実父の変成(へんじょう)した赤ん坊が後妻であった継母の乳房を食い破って殺し、その赤ん坊のままに祖母の声を出して恨みと本懐を述べ、しかしてゴロンと、その赤子も死ぬという一連のコーダが、どうも映像として生理的に気味(キビ)悪いのである。]

諸国因果物語 巻之三 目録・女の執心人に敵を討する事

 

諸國因果物語卷之三

 

女の執心人にかたきを討(うた)する事

祖父(ぢい)の死㚑(しれう)來りて祖母(ばゝ)を喰殺す事

盗(ぬすみ)せしもの神罰(しんばち)をかうふる事

猫の生㚑(いきれう)人に祟をなせし事

長谷の空室(くうしつ)寮(れう)の事

[やぶちゃん注:「㚑」(「靈」の異体字)の「れう」はママ。]

 

 

諸國因果物語卷之三

     女の執心人に敵を討する事

Kyotou

 奧州仙臺役者町(やくしやまち)といふ所に都筑慶元(つゞきけいげん)といふ者あり。名作の脇差を持り[やぶちゃん注:「もてり」。]。

[やぶちゃん注:「仙臺役者町」不詳。古地図を探そうと思ったが、町名を視認可能なものが見当たらない。

「都筑慶元」不詳。]

 此もの、名作を持ける事は、その近き邊(ほとり)に伊達の何とかやいひし武士の後家あり、一門とてもなくて、只、独(ひとり)すみたり。女ながらも、心ざま、かいがいしく[やぶちゃん注:ママ。]、侍の心ばへを失なはず、二たび、何方(いづかた)へも身を寄るなどゝいふ事もなく、卅八、九迄、貞女をたて、紡績(うみつむぎ)、織(をり)ぬふ態(わざ)に氣を盡し、人仕事(ひとしごと)にて渡世しけるが、此をんなに傳(つたは)りて、重代の腰の物あり。「村政」とかやいふ物とぞ。此女、十二、三のころ、此家に嫁しける時、父が手より讓り得しかども、子もなくて、夫に離れけるまゝ、また、此後(このゝち)たれに傳ふべき筋もなく、心にもあらず、月日を送りける所に、慶元その比(ころ)、卅ばかりにて、いさゝか武道を心がけ、劔術(けんじゆつ)に身をよせける比なりしかば、

「天晴(あつぱれ)、うき一腰(こし)もがな。身に添るたましい[やぶちゃん注:ママ。]ともせばや。」

と心がけける折も、此脇差の事を聞(きゝ)いだし、

『何とぞして、是を奪ひ、我たからとなさばや。』

の心ざし起り、幸、我も寡(やもめ)なりけるまゝ、此女に心ある體(てい)にもてなし、中立(なかだち)を賴み、さまざまと文(ふみ)を通はせ、みづからも、折ふしは忍び寄(より)などして、淺からぬ心ばへなど、かきくどき、又は、衣服・金銀の類ひなどを遣(つかは)し、心ばへを引うごかしけれども、更に色ある方の事は見むきもせず。まして衣類・金銀のおくり物、手もふれず、怒り恥かしめて返し、萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]つれなく、はしたなくもてなしけるを、

「時分こそよけれ。」

と、切なき戀に思ひつめて恨(うらみ)いはんため忍びたるやうにもてなし、夜ふけ、人、しづまりて、彼(かの)中だちの人をすかし出(いだ)し、此家に忍ひ込(こみ)、女の寢たりける納戶に入りつゝ、わりなき風情(ふぜい)して泣(なき)うらみけるに、女は、思はずなる姿に肝をつぶし、寢間を迯いでんとするを、引とゞめ、やるかたもなく、何かといひつゞけ、かき口說やうにもてなしけれども、中々、なびくべき氣色ならぬを幸に、

「よしや。今は是迄也。我も思ひつめたれば、今宵かぎりの命ぞかし。おもひ知り給へ。」

などいふまゝに、懷より、九寸五ぶを拔(ぬき)いだし、女の心もとを、乳[やぶちゃん注:「ち」。]の下かけて、切さけ、返す刀にとゞめさして、扨、彼村政を尋ねもとめ、夜の程に逐電し、しばらく、世間を窺ひけるに、段々と沙汰あしく、工(たくみ)の樣子も、誰いふとなく露顯せしかば、貞女を殺すといひ、盗賊の科(とが)、遁(のがれ)がたければ、國許へ歸るべき望みも絕果(たへはて[やぶちゃん注:ママ。])ける故、方々と流浪し、元祿十年の夏の時分より、しかるべき由緖を賴み、越前の敦賀に下り、今橋といふ所に住つきて、猶、習ひこみたる事とて、武藝の指南を表とし、所の若侍をあつめ、小太刀など打せ、立會・入身などおしへつゝ、身を助(たすく)るよすがとはなしける。

[やぶちゃん注:「人仕事(ひとしごと)」人から頼まれた縫い織り仕事。

「村政」伊勢桑名の刀工の村正のことであろう。室町中期以後に代々活躍し、文亀から天文年間(一五〇一年~一五五五年)に同名の刀工が数代あるが、中でも永正年間(一五〇四年~一五二一年)の作品に傑作が多い。相州正宗の弟子とも伝えるが、これは年代的に見て根拠がなく、作風も、寧ろ、美濃物(関(せき)物)の系統に近い。利刃を以って知られたが、徳川家で村正の刀による不祥事が相次いだことから、祟る刀として妖刀伝説が生まれた。私の「耳囊 卷之二 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事/利欲應報の事」でも根岸鎭衞は「村政」と誤っているから、特に鷺水のそれは奇異ではない(或いは彼は創作物としてわざと実在のそれとは名を変えたともとれる)。村正や妖刀伝説については、そちらに私が詳しく注しているので見られたい。

「うき一腰もがな」この「うき」は「愛(う)き」であろう。「愛い奴」のそれで、殆んどは連体形のみで用い、主に目下の者を褒めるに用いる。ここは武家の夫人の持ち物として実父から渡されたもので、脇差でも所謂、小刀(さすが)・懐剣に近い、かなり短いものなのであろう。されば「感心な・殊勝な」の謂いとして判る。

「九寸五ぶ」九寸五分(くすんごぶ)。刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀。鎧通(よろいどお)し(前注の婦人護身用の小刀・懐剣をかく呼ぶこともある)。

「工(たくみ)の樣子」謀略を以って騙した手口。

「國許へ歸るべき望みも絕果(たへはて[やぶちゃん注:ママ。])ける」強盗殺人の重罪人であるから、出身地には真っ先に触れが回る。

「元祿十年」一六九七年。

「越前の敦賀」「今橋」現在のこの附近(福井県敦賀市蓬莱町)(国土地理院図)。

「立會」「たちあひ」。正規の対決同様の心構えで試合をすること。

「入身」「いりみ」。素早く相手の懐に入って、自分の優位な間合をとる動作。]

 此枢機(すうき)を以て去方[やぶちゃん注:「さるかた」。]に仕官すべき事あり。三日市といふ所に化物屋敷ありて、年久しく住人もなく、逢逅(たまさか)も武邊の器量人(きりやうびと)ありといへども、此屋敷に一夜と置ず[やぶちゃん注:「おかず」。]して殺す程に、今は、いよいよ荒まさりて、物寒(すさま)じき[やぶちゃん注:「ものすさまじき」]屋形也。

[やぶちゃん注:「枢機」「枢」は戸の枢(くるる)、「機」は「石弓の引き金」で、「物事の最も大切なところ・かなめ・要所」の意。ここはその武術の評判が幸いしたことを言う。

「三日市」敦賀市の「博物館通り賑わい創出計画」(PDF)のレジュメの「2.博物館通りの変遷」の「(1)奈良・平安~江戸時代」に「江戸時代の敦賀」の地図が載り、狭義の「今橋」(旧橋)の少し上流を三本入った通りに「三日市町」の名を認める。現在の福井県敦賀市相生町(あいおいちょう)附近と思われる。彼の住まい(道場)にごく近いことが知れる。]

「若[やぶちゃん注:「もし」。]、今も此屋敷に住つくべきの器量人あらば、無足にて百石を給り、永代押領すべき、との朱印を給らん。」

との事を屬託(ぞくたく)ありしを、慶元も、一生の安否といひ、武邊をもためさばやの心ざしにて、所の侍を賴み、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、こゝろみに一夜泊りて見たき由いひ込[やぶちゃん注:「こみ」。]、名主などへも披露せず、心やすき門弟四、五人に知らせ、忍びやかに出立て、彼屋敷へ行つ。

[やぶちゃん注:「無足にて……」知行地はなしの藩士で、屋敷のみ永代に与えられ、藩より百石が給付されるというのである。

「屬託(ぞくたく)」「嘱託」に同じい。]

 あれたる軒の板庇、もり來る月の光りのみ昔に替らぬさまして、梟(ふくろう[やぶちゃん注:ママ。])の聲、あるじ顏に鳴出たる書院の塵、手づから掃て、破たる障子、引たて、燭臺に摺火[やぶちゃん注:「すりび」。]打とり、添(そへ)、大蠟燭かゞやかし、打刀[やぶちゃん注:「うちがたな」。]ぬきかけて、膝の下に敷[やぶちゃん注:「しき」。]、「千手陀羅尼」、ひまなくとなへ、

[やぶちゃん注:「千手陀羅尼」「千手千眼大悲心陀羅尼」とも称し、「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(碍)大悲心陀羅尼経」の略称。千手観音の功徳を述べた八十二句からなる呪文で「千手経」などにあることからかく呼ばれるが、元来は青頸観音(しょうきょうかんのん:インドの諸神が不死の妙薬甘露(アムリタ)を求めんとして、乳海を撹拌したが、この時、猛毒が発生し、世界が焼き尽くされんとしたが、これを見たシヴァ神がこの毒を飲んで世を救った。その飲んだ毒のためにシヴァ神の喉は青く焼けたが、これが仏教にとり入れられた観音。信仰するれば、総ての災難・恐怖から救済されるとされる)という別の変化(へんげ)観音のものである。この呪(じゅ)を唱えれば、千手観音の功力(くりき)により、すべての悪業・重罪を消滅するとされる。主に禅宗で誦えられる。]

『今や、此ばけ物、出來る[やぶちゃん注:「いできたる」。]。』

と、四方に目をくばり、心をすまして居たりけるに、夜も、はや、子の刻ばかりにもや、とおもふ比、天井より、いくらともなく、美しく、細き手を出して、

「もやもや。」

とする程に、慶元の鼻を摘(つまみ)ける所を、しや引ぬいて切はらふに、

[やぶちゃん注:「しや引ぬいて」「しゃっぴきぬいて」(現代仮名遣)とオノマトペイアでとった。間投助詞「し」では同じ「や」が落ち着かない。]

「あつ。」

といふ聲して消ると思へば、奧の間より、閑(しづか)にあゆみ來る音して、襖、おしあけ出る者を見れば、十二、三なる禿(かぶろ)の美しさ、玉のやうなるが、慶元を一目見て、

「さればこそ。客の候は[やぶちゃん注:「さふらうは」。]。」

と、いひて、立歸る後(うしろ)すがた、俄(にはか)に曝頭(されかうべ)となりて、庭の方へ飛ちる、と見る程に、廣庭(ひろには)、人音[やぶちゃん注:「ひとおと」。]して、

「慶元、慶元。」

と呼(よぶ)。

「何ものぞ。」

と問(とふ)時、ゑんの障子をあけて、はいるを見るに、さし渡し、七、八尺も有らんと思ふ男の首、白髮頭を惣髮(さうがみ)に結(ゆひ)たるが、苦し氣(げ)なる息をつき、口より火を吹て、來り、いふやう、

「我は此屋敷の主(ぬし)也。子細ありて、人に讒(ざん)せられ、主人の恨(うらみ)を請(うく)る事ありて、しばらく閉門する事ありしに、あまつさへ、讒者(ざんしや)が謀(はからひ)として、此やかたへ斥候(しのび)の者をつかはし、かくの如く、闇打にし、某(それがし)が首を、雪隱の底に埋隱(うづみかく)し、表むきは自滅せし樣に披露せられ、其恨(うらみ)、骨髓に透りて、今にあり。此敵(かたき)、今猶、ありといへども、敵つねに『千手陀羅尼』を信じて、毎日、おこたらず讀誦(どくじゆ)するが故に、我、みづから行て仇(あだ)をなす事、あたはず。其方が武邊、又、世に並びなきを感じて、今、吾(わが)無念を晴さんとおもふ。意趣を語るは、君(きみ)、我ために此かたき打て給らば、此屋敷、永く其方にあたへ、我、また、守神となるべし。」

と、語る。

 慶元。聞とゞけて、いとやすく請合ぬ[やぶちゃん注:「うけあひぬ」。]。

「さて、其敵はいかにして討べき。名は何といふぞ。」

と問。

 こたへて、いふ樣、

「其かたきといふは、今、其方が兵法の弟子、設原(しだら)專(せん)左衞門なり。彼が我を討し時の脇差、今に身を離さず、我方に所持したり。迚もの事に[やぶちゃん注:「とてものことに」。]、此脇差にて討て給[やぶちゃん注:「うちてたまへ」。]。明晚、かならず、持參すべし。」

と、ねんごろに約束し歸りぬ、とおもへば、程なく夜もあけけるまゝに、やがて此やうすを披露し、

「かゝる慥(たしか)なる事を見屆つる上は。」

と、名主・代官などへも斷(ことわり)つゝ、又、一夜(ひとよ)、とまりしに、化物も、此たびは、六十ばかりの侍と顯はれ、慶元にむかひて一礼し、扨、若黨に持せし刀箱より、錦(にしき)の袋に入たる、二尺ばかりの刀の金造(きんづく)りなると、封したる文(ふみ)とを、慶元に渡し、

「此刀を以て、彼(かの)敵(かたき)、首尾よく討(うち)て給るべし。其後、この文を開き、名主へも披露あれ。我意趣、ことごとく、此書中に注(しる)し置し也。かまへて仕(し)おほせ給ふ迄、封じめを、ほどき給ふべからず。」

と、いひ渡すと思ふに、かいくれて、消ぬ[やぶちゃん注:「きえぬ」。]。

 されども、

『敵(かたき)の宿を語らざりしは、麁相(そさう)なる事かな。何ものを、いかに見わけて、本望(ほんもう)とげて得さすべき。』

などゝ思ふ内、又、夜もあけはなれしかば、

「先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此事を披露せばや。」

と、急ぎ、名主がたへ行けるが、彼(かの)ばけ物の得させし刀をも、何心なく、「村政」にさしそへてぞ、出ける。

 名主がたには、慶元がありさまを見るより、何となく、内外(ないげ)[やぶちゃん注:単なる家の表・奥。]、さはぎ立て、先、口々の門戶をかため、取手の者、二、三人、出むかひつゝ、何の事なく、慶元を、からめ捕(とり)ぬ。

「こは、心得ぬ事。」

と、樣子を聞に……

 今宵、代官の刀、ゆへもなきに失(うせ)たり。上を下へ歸して[やぶちゃん注:上へ下への大騒ぎとなって。]、穿鑿も半(なかば)なるに、今、慶元が指(さし)たる刀、主人の腰(こしの)物に紛(まぎれ)なく、改(あらたむ)るほど、盗(ぬすみ)しに極(きはま)り、終にいひわけ立(たゝ)ずして、其日の暮がたに、慶元は首を討れたり。

 扨、ふところより、彼(かの)封したる文を見出し、披(ひらき)て讀(よみ)けるに……

――死して久しき仙臺の役者町 伊達の何がしが後家の怨㚑(おんれう) 「むらまさ」の脇差ゆへに謀(たばか)られし恨(うらみ)を散ぜんため 今 やかたに入り來り 慶元をたばかり殺す――

よし、こまごまと書てありしにぞ。

「女ながらも、恐しき念を通しけるよ。」

と、人みな、おのゝきあへりける。

[やぶちゃん注:最後は特異的にリーダとダッシュを用いた。

 しかし、どうも、腑に落ちぬ。「其かたきといふは、今、其方が兵法の弟子、設原(しだら)專(せん)左衞門なり」と大首妖怪が言った際、都筑慶元は心安くそれを引き受けている。自分の道場の弟子に設原専左衛門(設楽(しだら)なら知っている姓であるが、こんな表記は知らない。天正三(一五七五)年の三河の長篠城を包囲した武田勝頼の軍と織田信長・徳川家康の連合軍とが激突した「長篠の戦い」の行われた設楽原(しだらがはら)を誤記憶したものか?)なる人物がいたか、「しだら」姓の者がいたから、何らの疑念を差し挟むことなく受け負ったのであろう(初日のそこには信頼出来る四・五名の門弟も連れて行っているのだから、その名を誰も知らねば、その連中も後から何か言うだろうに、そんな描写は全くない)。だのに、翌日の本式の依頼後には、「敵(かたき)の宿を語らざりしは、麁相(そさう)なる事かな。何ものを、いかに見わけて、本望とげて得さすべき」なんどと、わけの判らぬことを言っている。これは取りも直さず、「しだらせんざゑもん」(設原専左衛門)などという者は慶元の弟子にはいないし、「しだら」姓も全然、聴いたこともないということだ。藩中に「しだら」姓がいれば、弟子が指嗾できるはずだから、そんな藩士はいないんだ。……さても、鷺水、当初は設原専左衛門という名前だけを書いて書きおろしたものの、巨頭妖怪の台詞にリアリティがないと思って、後から、「今、其方が兵法の弟子」を書き入れて納得してしまい、後の不審に思う部分を書き変えるのを忘れたんじゃないか?……という穿鑿の一つもしたくなるのである。少なくとも、読者に与えられる台詞という生情報上の齟齬は我々にとっては躓きとなり、不快である。怪談なんだから何でもアリでいいという連中とは私は天を同じうしない。真正の怪異は日常の時空間を侵犯してくるからこそ怖い。そのためには見かけ上の大きな流れはリアリズムで固めておく必要があるのだ。相当に緻密に作品を構成する鷺水にして、ここは痛い瑕疵と思う。

「怨㚑(おんれう)」の読みはママ。]

諸国因果物語 巻之二 妄語の罪によりて腕なへたる人の事 / 巻之二~了

 

     妄語(まうご)の罪によりて腕なへたる人の事

Eden

 これも同じく京西洞院三条邊(へん)の事也。

[やぶちゃん注:本篇は底本の「東京大学附属図書館霞亭文庫」の当該板行原本画像が、部分的に(百二十五頁百二十六頁)損壊しており、後半の三分の二(百二十六頁の左頁相当以降)も脱落して存在しない。そこで、それらの部分は「ゆまに書房」版を参考にして、今まで通りの仕儀で翻刻した(一部の漢字はここまでの前例に徴して略字を採用したものもある)。

「京西洞院三条」現在の京都市中京区姉西洞院町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の南直近が「三条通」。]

 坂口小兵衞といふ人あり。殊外(ことのほか)、手を好(すき)て、四十六、七まで、北向雲竹(きたむきうんちく)に通ひて、手跡(しゆせき)をはげみける人也。

[やぶちゃん注:「北向雲竹」(寛永九(一六三二)年~元禄一六(一七〇三)年)は江戸前期の書家。京都の生まれ。姓は林、名は観・正実。通称は八郎右衛門で、別号に渓翁・太虚庵・吸日窩。藤木敦直(あつなお)に大師流を学び、細楷(小さい楷書)に優れた。和歌・俳諧・篆刻にも巧みで、墨竹画も描き、松尾芭蕉に書法を授けたという。剃髪し、明誉了海と名乗った(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

 此近きあたりに、白﨑主膳(しろさきしゆぜん)とて、越後高田の浪人なりしが、今程は小児醫者(せうにいしや[やぶちゃん注:ママ。])を勤(つとめ)て、終に京都の住人となれり。此小兵衞が親とは、すこし所緣(ゆかり)につきて、小兵衞、いまだ千太郞といひし比、奉公に出せしよしみにて、今も猶、ちなみ深く、主從の間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])を忘るゝ事なく、時々、參りあひて、内外(ないげ)の事に付(つき)ても世話にしける。

[やぶちゃん注:「白﨑主膳」不詳。

「内外(ないげ)」ここは朝廷や貴人の家などに出入りすることを指していよう。]

 一年(ひとゝせ)、小河(こかわ[やぶちゃん注:ママ。])の「報恩寺殿圓光大師傳(ほうおんじどのゑんこうだいしでん[やぶちゃん注:ママ。])」をつくり、東武に捧(さゝげ)たてまつらんと思ひ立(たゝ)れけるにつゐて、本寺(ほんじ)たるにより、知恩院に申されしかば、此僧の心ざしを感じ、什物(じうもつ)として、數代(すだい)、文庫に隱されし正本(しやうほん)を借(か)し給ひぬ。報恩寺、これをもつて文章を和らげ、畫(ゑ)はみづから妙を得られしかば、丹靑をほどこし、淸書は宗門の法姪(ほうてつ)なるによりて、雲竹に賴み申さるゝに付(つき)て、雲竹、又、小兵衞をめしつれ、墨、摺(すり)、水をいるゝの役に賴み、草案の校考(かうかふ[やぶちゃん注:ママ。])など申付られし事あり。是によりて、小兵衞も、且は、淨土宗門のありがたき敎化(けうげ)を耳ちかく聞得るを悅び、且は、師匠の根機(こんき)を盡し、筆勢をたしなみて書(かゝ)れし淸書なれば、

『一行(くだり)といへども、是に過(すぎ)たる手本なし。』

と思ひしかば、右の草案を以て、少も違(たが)へず、寫し取(とり)て、是を我家(わがいゑ[やぶちゃん注:ママ。])の宝とおもひ、深く祕して、人にも見せず、もとより、かゝる物ありと語る事もなかりき。

[やぶちゃん注:「小河」京都市上京区小川通寺之内(てらのうちおがわ)下(さが)ル射場町(いばちょう)に浄土宗知恩院末寺の堯天山報恩寺がある。個人サイト「かげまるくん行状集記」の「報恩寺」が非常に詳しい。それによれば、明応三(一四九四)年に慶誉明泉によって開創され、もとは一条の御所の東北に位置してたが、天正一三(一五八五)年までに現在地に移転した。しかし、天明八(一七八八)年の「天明の大火」によって焼失し、本堂が再建されないまま、現在に至っている、とある。第十五代住職で画僧の明誉古磵(みょうよこかん 承応二(一六五三)年~享保二(一七一七)年)がおり、ウィキの「明誉古磵」によれば、『出生地や家系、世俗名などの出自は不明だが、大和郡山出身とする説がある』。『当時』、『浄土宗の僧侶になるには』、十五『歳でどこかの寺院に所属し』、『関東十八檀林での修学を始めるのが普通なため、このころに出家したと考えられる』。『所属は大和郡山の西岸寺とする意見もあるが』、「続緑山志目次」の記述から、『称名寺(奈良市)の可能性がある』。『増上寺で修行したとされ』、貞享元(一六八四)年、三十二歳の時、『敬神の証として自ら』、『大黒天を』一千『体描くことにした、というのが初めてわかる事績である』。一六八〇年代後半から二十年ほど、『京都で画僧として活動していた』らしい。『年次が確実な最も早い作品は』、貞享五(一六八八)年刊の「當麻曼荼羅白記撮要」(「当麻曼荼羅について」の必修概要)と「浄土十六祖伝」の『木版挿絵で、以後もしばしば浄土宗関係の版本の挿絵を手掛けている』。元禄一〇(一六九七)年、『知恩院で浄土宗祖法然が東山天皇から「円光大師」を追贈されたことを祝した記念式典が行われた際、古はこれを記録する「円光大師贈号絵詞伝」制作を任されており、既に画僧として名声を得ていたことを物語っている』とあり(太字下線は私が附した)、しかも彼の代表作である、その知恩院に現存する「円光大師贈号絵詞伝」(全三巻)は、撰文が湛澄(慶安四(一六五一)年~正徳二(一七一二)年:報恩寺住職。国文・和歌に精通し、証賢の「三部仮名鈔」を注解し、また法然の和歌を注釈して「空花和歌集」に纏めた)で、詞書はまさに北向雲竹が書いている。而して、本文に出現する、北向と小兵衛が知恩院秘蔵の法然の絵伝をもとに新作した「報恩寺殿圓光大師傳」なるものは、この絵伝の別名のようにさえ見えるのである。本作(宝永四(一七〇七)年江戸で開版)の話柄には今までのものでも、宝永の前の元禄年間(一六八八年~一七〇四年)を時制とするものが多く見られるから、鷺水が、この明誉古「円光大師贈号絵詞伝」の作画と北向雲竹と詞書執筆の事実を元にして本話を創作したことは間違いない

「東武」江戸幕府。

「法姪(ほうてつ)」「姪」は甥。宗門に連なる正統な僧の謂いであろう。]

 ある夜、与風(ふと)、かの主膳かたへ、見舞、四方山(よもやま)のはなしの序(ついで)、思ほす此事を語りいだせしかば、主膳も、ちか比の信心者にてありければ、

「その『繪傳』、一目おがませてくれよ。」

と、あながちに望(のぞま)れ、是非なく、取(とり)いだして見せけるより、彌(いよいよ)、信(しん)おこりて、

「後(のち)までの記念(かたみ)ともすべし、汝が手にて此通(このとほり)うつしてくれましや。」

との願ひ、默止(もだし)がたく、日を經て、淸書の功をつくし、主膳に遣(つかは)しけるを、主膳も淺からぬ事におもひ、さまざま、莊嚴(しやうごん)して持たるが、餘り有がたく覺えしにや、其年の六月中比にいたりて、卒中風(そつちうぶ)といふ物になやまされ、終に死(しゝ)けるが、その夜より、彼(かの)繪「師傳」も、いづくへか失(うせ)けん、かいくれて見えずなりぬ。

[やぶちゃん注:「莊嚴(しやうごん)」仏具を飾ること。ここはその小兵衛の新たに寫した「報恩寺殿円光大師伝」の装幀。

「餘り有がたく覺えしにや」浄土門では、基本、只管に専修念仏し、速やかに極楽往生することを最善最上とする。

「卒中風(そつちうぶ)」脳卒中。脳動脈等に生じた出血や血栓などの障害のために、突然、意識を失って倒れ、運動・言語などの障害が現われる脳出血・蜘蛛膜下出血・脳梗塞等に起因する疾患の総称。「そっちゅうふう」とも呼ぶ。]

 人々もふしぎの思ひをなし、

「定て亡者の惜(おし)み取て、冥途の土產(どさん)ともなし給ふなるべし。」

などゝいひおりける[やぶちゃん注:ママ。]。

 かくて百ケ日も過ぬと思ふころ、小兵衞は湯あがりの姿ながら、緣がわ[やぶちゃん注:ママ。]につい居て、暮かゝる空のほたる火、竹の葉がくれにひかめく景色など詠(なが)めつゝ、

     すみあらすやとは草葉の深けれは

     あつめぬまとにとふほたるかな

[やぶちゃん注:「ひかめく」ぴかぴかと光る。きらきら輝く。

「すみあらすやとは草葉の深けれはあつめぬまとにとふほたるかな」和歌なのでそのまま映した。整序すると、

 住み荒す宿は草葉の深ければ集めぬ窓に訪(と)ふ螢かな

であろう。「集めぬ窓」とは、人ひとり訪ねても来ぬ(「集めぬ」)この隠棲の棲み家(「窓」)の謂いである。]

「秋、すでに近し。」

などゝ口すさびながら、枕ひきよせて、ねぶるともなく、現(うつゝ)ともなき庭のまがきに、

『何さま、一國一城のあるじに家老職をも勤(つとむ)る人か。』

と見ゆる侍、しとやかに步みより、小兵衝が前にひざまづき、敬ひたる氣色にていふやふ[やぶちゃん注:ママ。]、

「我主人、貴殿に御賴みありたき由、仰らるゝ間、早速、御むかひに參りたり。」

と也。

 小兵衞[やぶちゃん注:ここから後は「霞亭文庫」版は完全欠損。]、はいもんして、起あがり[やぶちゃん注:「はいもん」は「拜問」物を尋ねたり、機嫌を窺ったりすることを遜って謂う語。]、

「それは、我らが事にては、有まじ。そも、いかなる御方よりぞ。」

と問(とふ)に、

「冥途より。」

と、答ふ。

 小兵衛、いよいよ恐れおどろき、

「我らは人間也。此まゝにて參らん事、おそれあり。猶、おさなき子、有[やぶちゃん注:「あり」]、老たる母、我(われ)、冥途にまいらば、誰(たれ)ありて、親をはごくみ、子をあはれまんや。何とぞ、御情(なさけ)に、今十年の命をのべて給(たまは)らんや。」

と、なみだを流して難くに、此使、きゝもいれず、

「冥官(めうくわん[やぶちゃん注:ママ。])の事、すでに極りては、二たび、私(わたくし)にゆるす事、あたはず。いざ、こなたへ。」

と、手を取て、引たつるとおもへば、

『早、我は死(しゝ)たり。』

と覚えて、妻や子の聲して、泣(なき)さけび、母のこゑとして、おめき給ふ音するを聞もかなしく、

『我は、かゝる御使(つかひ)に逢(あひ)て、たゞいま、冥途へ參るなり。今一ど、我すがた、見たまへかし。』

といふと思へども、かゝる亡者となりては、いふ詞(ことば)も聞しらぬにや、只、ひれふし、いだき付て、なく中に、手代どもが聲として、

「いまだむねの間、あたゝかなり。もし蘇生(よみがへり)給ふ事もあるまじきにあらねば、今、しばし、かくて留(とめ)おかばや。かゝる頓死(とんし)の人は、周章(あはて)て動さぬものにこそあれ。」

などゝいふをきくにも、

『哀(あはれ)、何と。そして、今一度、娑婆へ歸る事もがな。』

とぞ思ひみたるゝに、此侍、なさけなく引たて、

「急ぎ給へ。」

と、馬にうちのせたれば、飛ともなく、あゆむともなくて行ほどに、とある所に着たり。

 門がまへ、おひたゞ敷(しく)幡(はた)・鉾(ほこ)、日にかゝやき、玄關には武士ども、あまた居ならび、坪(へいち)・重門・白砂をまきて、ひとへに娑婆の奉行所に似たり。

[やぶちゃん注:「坪(へいち)」「平地」。平らな敷地。]

 かくて、小玄關より廣庇(ひろびさし)に出て、椽[やぶちゃん注:ママ。](ゑん)にかしこまり、庭(てい)上を見わたせば、公事(くじにん)などゝいひつべきもの、あまた、所せく、居ならび、首かせ・手かせなど打たるもの、大庭(おほには)につながれ、あはれなるこゑして、なきさけぶを見るに、たましゐを消(けし)つべし。

 漸(やゝ)ありて、おくより警蹕(けいひつ)のおと、閑(しづか)にして立いで給ふは、此屋形のあるじなるべし。

[やぶちゃん注:「警蹕(けいひつ)」貴人の通行に際して、声を立てて人々をかしこまらせ、先払いをすること。また、その声。「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言った。]

『哀(あはれ)、いかなる罪によりてか、我もあのごとく、手かせ・足かせの苦しみを請(うく)べき。もとより、願ひたる後生(ごしやう)もなし、つとめつる善根(こん)も覚ゑねば[やぶちゃん注:ママ。]、淨土のありかたき道に生(おふ)といふ草の葉にやどる露(つゆ)とだに、やどる事、難(かた)し。しかしながら、十惡といふとも、猶、誘引(いんせう[やぶちゃん注:ママ。])あるべくば、いまの一念といふとも、むなしからんや。』

と、念佛しける内にも、なを[やぶちゃん注:ママ。]、娑婆に殘せし妻子の事、忘れがたく、涙、しきりに落るを、

『もし、見とがめや仕(し)給はん。』

と、恥かしくて、与風(ふと)、見上たれば、此屋かたの主とおもふ人は、主膳どの也。

[やぶちゃん注:「十惡」「身」の三悪(正行(しょうぎょう))の殺生・偸盗・邪淫、「口」の四悪(正語)の妄語・綺語(綺麗事を言って誤魔化すこと)・両舌(二枚舌を使うこと)・悪口(あっく:他人の悪口を言うこと)、「意」の三悪(正思)の貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい;すぐ怒ること)・愚癡(恨んだり妬んだりすること)を指す。

 常に好み給ひつる朱鞘(しゆざや)の大小に、茶小紋(ちやこもん)の上下[やぶちゃん注:「かみしも」。]着て、近習の小性(しやう)に大なる簞笥をかゝせ、立いでたまひ、小兵衞を見て、のたまひけるは、

「我、娑婆にて勤(つとめ)たる善もなし、又、債[やぶちゃん注:「つぐのふ」。「ゆまに書房」版は『つゝのふ』とルビする。]べき科(とが)もなし。但、老後にいたりて、いさゝか淨土宗門を信じ、佛寺を修覆し、藥をあたへて小兒の病をすくひし事、若干(そこばく)なりといへども、多く名聞(めうもん[やぶちゃん注:ママ。])の心をもつてなせし故に、佛果に遠く、成佛に踈(うと)し。去(さり)ながら、たはぶれにも名号を唱へ、淨土のいとなみをなせし功德(くどく)、むなしからずして、今、此所の冥府を預り、人間の命數・罪業の淺深を正(たゞ)して炎魔王宮(ゑんまわうぐう)へ祈(うつたふ)るの役人となれり。されば、我、此土(ど)にして此官を授(さづか)るには、達者の祐筆なくては、每日の文書、とゝのひがたき事也。我、つねに汝が手跡を愛し、汝の才智をしたふ。此ゆへに、今、汝をむかへて此所の祐筆をつとめさせんと思ふ也。是、見よ。」

と、簞笥より出し給ふる見るに、何をとはしらず、黑き事、漆(うるし)を摺(すり)たるごとくなる紙に、朱を以て書たる訴狀・文書、幾千ともなく詰(つめ)たり。

[やぶちゃん注:「ゆまに書房」版は「誥(つめ)たり」とするが、この漢字では意味が通らない(告げる・申し渡す・戒める)ので、「詰」とした。]

 又、いはく、

「報恩寺の作文ありし繪『師傳』、汝が書たる筆授(ひつじゆ)の功德(くどく)には、汝は生々の罪、ことごとく亡(ほろ)びぬ。されども、深く祕(ひ)して普(あまね)く人にほどこし拜(おがま)せざる事、纔(わづか)にのこる科(とが)となりて、死して、又、爰に生(しやう)ずべし。此所緣(ゆかり)によりて、呼(よび)むかへつる也。」

[やぶちゃん注: 「生々」は「しやうじやう(しょうじょう」で、生まれては死に、死んでまた生まれることを永遠に繰り返す輪廻転生のこと。輪廻を解脱しなければ、極楽往生は叶わない。]

と、語るに、小兵衞、身の毛たちて、悲しくも、恐しくもなりけるまゝに、あはてゝ申やう、

「某(それがし)、此ほど、右の手を痛み候ひしが、覺えもなきに、五つの指、痺(しびれ)、なへて、筆を握る事、かなはず、久しく手跡を絕(たち)候。」

と申しけるに、主膳殿、不興なる氣色(けしき)に見えて、

「何の者(もの)。早く歸せ。」

と、のたまひて、立たまふ、と見えしが、侍ども、小兵衞を引たて、

「哀(あはれ)、罪つくる人かな、妄語には舌をぬかるゝ責(せめ)もある物を。」

と、つぶやきつゝ、風のごとくに道をはしるとぞ思ひしに、踏(ふみ)はづして、大なる坎(あな)に落(おつ)ると見えしが、死して三日めのあかつき、蘇生けるが、是より、右の腕(かいな[やぶちゃん注:ママ。])、癰(なへ)しびれて、二たび、筆を持事、叶はずして、今にあり。

 此つみに恐れて、發心(ほつしん)の身とぞ成ける。

 元祿十五年の事也。

 

諸國因果物語卷之二

[やぶちゃん注:思うに、白﨑主膳が坂口小兵衛に描かせた絵「師伝」はどこへどうした? 主膳はそれをまさに言葉通り、冥途への手土産として閻魔大王に賄賂(まいない)として差し出して、うまうまと冥官の一人に就任したのではなかったのか?! などとツッコミを入れたくはなる。小兵衛より、絵「師伝」の正本を数代に亙って文庫に隠して出さなかった知恩院の僧たちこそ、地獄行きじゃあねえか?! などと思うのも私ならでは、か。

「何の者」なんと言う為体(ていたらく)じゃ!

「癰(なへ)しびれて」「癰」(音「ヨウ」)は皮膚・皮下に生ずる急性の化膿性皮膚炎(腫れ物)。癤(せつ)の集合型で、隣接する幾つかの毛包に黄色ブドウ球菌が感染して化膿たものであって項(うなじ)や背中に発症すことが多く、高熱や激痛を伴うものを指すから、ここで「萎(な)へる」に当てるのはおかしい。

「元祿十五年」一七〇二年。明誉古磵作画・北向雲竹詞書になる「円光大師贈号絵詞伝」の成立から五年後の設定である。鷺水は敢えて最後に年を示している。確信犯である。

 これを以って「諸国因果物語 巻之二」は終わっている。]

2019/08/11

諸国因果物語 巻之二 女の執心夫をくらふ事

 

     女の執心夫(おつと)をくらふ事

Syuusin

 京都新在家(ざいけ)烏丸[やぶちゃん注:「からすま」。]の邊(へん)に、何の伊織[やぶちゃん注:「いおり」。]とかやいひしは、元來、江戶の住人にてありけるが、少のしるべによりて、京都に登り堂上[やぶちゃん注:「だうしやう」。公家。]方にたよりを求め、纔(わづか)の扶持(ふち)方を申おろし、牢浪(らうらう)の餘命をつなぎ、出世の時を待れける身也。

[やぶちゃん注:「京都新在家(ざいけ)烏丸」現在の京都府京都市上京区元新在家町((グーグル・マップ・データ。以下同じ)とその東を縦に貫く烏丸通(地下鉄今出川駅の南の端の方の、京都御所北西角の交差点は「烏丸今出川」)の間辺り。]

 そのかみ、江戸に居られし比、數寄屋橋通寄合町にて、去[やぶちゃん注:「さる」。]人のむすめと深くいひかはされし事、何か人しれず、馴(なれ)むつびて、行すゑは夫婦(ふうふ)ともなるべき堅めの誓紙(せいし)までとりかはせし中なりけれども、今、かく逼塞(ひつそく)の折といひ、有付を待(まつ)身として、人のおもはん所もあれば、

「何事も、時を得てこそ表むきのいひかはしはせめ、互ひの心だにかはらずば。」

などゝ忍び忍びに、いひなぐさめつゝ過(すぐ)しけるに、其比、上がたより、

『似合しき有付の口もなきにあらず、先(まづ)、その事、首尾する迄は、かゝる事にも身をよせまじや。』

と、いゝひおこせし人あるに任せて、元祿のはじめの年、霜月中ばに旅だちて、京都へ引こしける也。

[やぶちゃん注:「數寄屋橋通寄合町」江戸切絵図と比較対照してみると、現在の東京都中央区銀座八丁目のこの中央附近に当たる。

「逼塞」落ちぶれて世間から隠れてひっそり暮らすこと。

「有付」「ありつき」。ここはなにがしかの職にありついて、安定した生活を送ることを指す。

「何事も、時を得てこそ表むきのいひかはしはせめ、互ひの心だにかはらずば。」『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法。「如何なることも、それに相応しい時を得てこそ、言い交しはしたのだけれども、なに、お互いのお互いを思う気持ちさえ変わらないならば、離れていても、不安など無用じゃ。」という説得である。しかし、この歯が浮いたような定番の謂い方に、既にして伊織の薄情さは目に見えているとは言えまいか?

「元祿のはじめの年、霜月中ば」元禄元年(貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日改元) の十一月半ばは、グレゴリオ暦で一六八八年十二上旬。旧暦十一月十五日(この月は大の月)は十二月七日である。当時は一般的に徒歩でだと(伊織の場合、金もないから総て徒歩であろう)、江戸―京都間は十三日から十五日前後はかかった。江戸日本橋から京都三条大橋までの距離は約四百九十二キロメートルで、十五日としても一日平均約三十三キロメートルも歩く計算になる(「横浜国道事務所」公式サイト内の「東海道への誘い」の「旅について」に拠った)。]

 その折ふし、彼女も跡をしたひつゝ、

「諸ともに。」

と、泣うらみしかども、世をはゞかる身の、「何の心ありて女まで連(つれ)たるぞ」と京なる親類にも思はれん所を恥(はぢ)て、さまざまといひ慰め、

「よしや。しばし待給へ。上がたへ登り、兎も角も首尾さへ繕(つくろひ)たらば、少の養ひをも請(うく)る便(たより)もある間、いかやうにしても和御前(わごぜ)ひとりは呼(よび)むかへつべし。心ながく待給はゞ、三年がほどには、必(かならず)むかへに文して申べし。」

などゝ、くれぐれいひ堅めて、のぼりぬ。

[やぶちゃん注:「和御前」「我御前」とも書く。二人称。女性を親しんで呼ぶのに用いる。そなた。]

 今、かく新在家に住宅をかまへ、堂上の勤(つとめ)、ひまなく、ある時は西山・ひがし山の花にあそび、小野・廣澤の月にうかれありき、又は、風流なる京をんなの物ごし・つまはづれ、武藏㙒の月にあこがれて、金龍山(きんりうざん[やぶちゃん注:ママ。])の曉(あかつき)の鐘に、おき別れし吉原の色うる里人よりは美しく、詞(ことば)つかひ、何かにつきても、やさしく情(なさけ)あるに、心、うかれ、故鄕の假寢にいひ置(をき[やぶちゃん注:ママ。])し私語(さゝめごと)もいつしか忘れて、三年[やぶちゃん注:「みとせ」。]は夢と暮ゆく、年の矢のたつ春の正月(むつき)は、元祿七年、

「今は、よも、武藏㙒の草のゆかりに賴[やぶちゃん注:「たのみ」。]をきし女を、あらたなる夫(おつと)まふけて、心々の世や經(へ)ぬらん、あはれ、女は、はかなき物哉[やぶちゃん注:「かな」。]、あたふる一言につながれ、『我を見捨じ』と誓紙を書(かき)、親におもひかへても、京へのぼらんといひしよな。其日より、七年のけふ迄、文とても下(くだ)さねば、さぞ恨みにも恨みけん。よし、今は死けんとぞおもふらん。」

と、夕ぐれの淋しさに、つくづくとおもひ出して、心むつかしければ、酒など、あたゝめさせ、近きあたりの友まねきなどして、夜ふくるまで、吞(のみ)ふかしぬ。

[やぶちゃん注:この前の部分、切れ目のない雅文調であるが、鷺水は、その流れに酔うあまり、確信犯で、文としての不全性を露わにしている。「武藏㙒の月にあこがれて」は表向き伊織が江戸の言い交した女や吉原で買った女郎を懐かしく思い出すことを匂わせながらも、その実、前の「京をんなの物」腰や仕草(後注参照)に「あこがれて」いるのである。

「小野」山科区の南端の小野地区。地名はまさにかの小野小町の一族小野氏に由来する。

「廣澤」右京区嵯峨広沢町附近。「広沢の池」で知られる。

「つまはつずれ」「褄外れ・爪外れ」で名詞。裾(すそ)の捌(さば)き方。転じて、身のこなし。所作。

「金龍山(きんりうざん)」不詳。寺の山号ならば、左京区黒谷町にある浄土宗七大本山紫雲山金戒光明寺の塔頭の一つである金龍山瑞泉院がある。

「元祿七年」一六九四年。

「今は、よも、武藏㙒の草のゆかりに賴[やぶちゃん注:「たのみ」。]をきし女を、あらたなる夫(おつと)まふけて、心々の世や經(へ)ぬらん」まず、自分に都合よく勝手な空想をしているのである。「今頃は、もう、武蔵野の若紫の縁(ゆかり)の若かったあの女――私をたのみにしていた女も、別に新しい夫の元に嫁入りし、最早、私のことなど思いもせぬ、離れ離れになってしまった心を抱いて、この世に生きているのだろうか。」といった感じか。

「親におもひかへても」親の心にに背いても。

「よし、今は死けんとぞおもふらん。」「縱(よ)し」は副詞で「仕方がない。ままよ。どうでもいい」の意。「ままよ! あの女、私は今は死んでしまった、とでも思うておるやも知れぬな。」の謂いであろう。

「心むつかし」不快なこと。伊織というこいつ、自分を棚に上げておいて、如何にも自分勝手な厭な奴である。

「吞(のみ)ふかしぬ」「吞み更かしぬ」か。酒を飲みに飲んで、夜更かした。]

 此隣(となり)は、石井の何がしとて、冨貴(ふうき)の家なり。此家の後室(こうしつ)、夜(よ)ふくるまで、手まはりの人をよせつゝ、寢られぬまゝに、歌がるたとらせなどして、慰み、夜半過(すぐ)る比、ねやに入りて臥(ふし)給ひしに、漸(やゝ)ありて、座敷の上の櫺子(れんじ)の障子を、

「さらさら。」

と開(あく)る音しけるに、驚(おどろき)て、与風(ふと)、目をひらき、見あげたるに、廿六、七と見ゆる女の、鐵漿(かね)くろぐろと付たるが、白き着物のうへに、靑き小袖ならん、ぬきがけして、髮うちさばきたるが、此櫺子につくばひ、天井の緣をとらへて、

「しげしげ。」

と見舞し、しのびやかなる聲して、

「伊織殿は、いづくにぞ。」

と、とふ。

 此後室も、何がしの娘なりしかば[やぶちゃん注:相応な高い身分の家の出の娘であったので。]、少もさはがず、起(おき)かへりて、

「伊織殿は此東隣なり。何ものぞ。」

と、いはれて、

「うれしや。よく敎(おしへ)給ひたり。恨(うらむ)事ありて、參りし也。恥かし。」

と、いひて、失(うせ)ぬ。

[やぶちゃん注:「後室」身分の高い人の未亡人。

「櫺子(れんじ)」窓や戸に木や竹の桟を縦又は横に細い間隔で嵌め込んだ格子。

「ぬきがけ」不詳。手を通さずに被るか引っ掛けるかすることか。]

 かくて、夜明しまゝ、何となく、隣りへ人を遣(つかは)して窺(うかゞひ)見するに、

彼(かの)江戶に殘しをきつる女の、いまだ緣にも付ずして[やぶちゃん注:「つかずして」。]、けふ・明日と便りを待し内ゟ[やぶちゃん注:「まちしうちより」。]、くだりける商人(あきびと)、此伊織殿の事をよく知りたる者ありて、

「今は上がたにて仕官したまひ、うつくしき妾(てかけ)などかゝへ、江戶などの事を覚しめし出る事には及ばず。」

と語りしより、此女、

「はつ。」

と、思ひたる氣色にて、打ふしたるが、其夜、生㚑(いきれう[やぶちゃん注:ママ。])の來りて、伊織をとらへ、此年ころのうらみ一つ一つ、いひ出し、かき口說(くどき)ては、喰(くひ)つき、うらみては、喰(くひ)つき、終に、身の内、續く所なく、喰(くひ)やぶりて、果(はて)は、咽(のど)ぶゑにくらひつきて、殺され給ひし、とぞ。

 下々(したした)の、はなしに聞(きゝ)てぞ、人みな、舌をふるはしける。

[やぶちゃん注:或いは読者の中には、この生霊が「廿六、七と見ゆる女の、鐵漿(かね)くろぐろと」、則ち、既婚女性がしたとされる鉄漿(おはぐろ)を附けているのを奇異に感ずるかも知れぬが、ウィキの「お歯黒」によれば、『江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶』し、『また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって』、既婚女性、未婚でも十八〜二十歳以上の女性、『及び、遊女、芸妓の化粧として定着した』とあるのでおかしくはないのである。また、私はこの女(当時の二十六、七ではもう大年増であるが)は、お歯黒を附けることで、伊織以外の男の寄りつくのを断然、拒絶していたのではないか、それほどに伊織に執心していた、だからこそ生霊となって彼を襲いながら、彼は実際に全身を食い千切られて死んだのである。生霊が物理的にはっきりした致命的傷害を与えて怨んでいる人間を殺すというのは、必ずしもポピュラーでなく、それだけに、この最後のスプラッターなコーダは鷺水の独擅場であるとも言えよう。そうして気づく、鷺水は、伊織に捨てられた、この女をちゃんと憐れんでやっているのである。でなくてどうして、標題を「女の執心夫(おつと)をくらふ事」とするであろう。]

諸国因果物語 巻之二 二十二年を經て妻敵(めがたき)を打し事

 

     二十二年を經て妻敵(めがたき)を打し事

Megataki

 下㙒國(しもつけのくに)宇津宮めつた町に重右門といふ者あり。田地なども多く持(もち)て、有德(うとく)のもの也。

[やぶちゃん注:「宇津宮めつた町」不詳。「宇都宮市」公式サイト内の「宇都宮市町名一覧」を見ても、それらしき地名は見出せない。変わった名前なので調べてみると、江戸神田にあった。個人サイト「江戸町巡り」の「【神田②】メッタ町」によれば、『神田多町は古くは「メッタ町」と呼ばれた。由来は田地を埋め立てして町家としたからである。延宝年間』(一六七三~一六八一年)『以降は「田町」と呼ばれ、後に「神田多町」に』なったとある。さすれば、この宇都宮の「めつた」も「めった」で「た」は「田」の可能性がある。「田」の字を含む宇都宮の現在町名ならば、多数ある(「多」はない)。特にちょっと気になるのは栃木県宇都宮市幕田町(まくたまち)である(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此重右門を宿として、京都より年久しく通ふ小道具商人(あきびと)あり。竹屋の庄兵衞といふ也。いつも秋の比(ころ)は爰に下り、宇津宮の町、または、日光山の町々に行(ゆき)、その外、京染物・小間物など迄、調(とゝの)へ持(もち)て要用(ようやう)に立ける程に、輪王寺宮(りんわうじのみや)さまを始(はじめ)、坊舍千人位御屋敷[やぶちゃん注:「位御屋敷」で「くみやしき」と読んでいるようである。]その外、社家(しやけ)樂人衆(がくにんしう)のこる所なく、御出入申せし故、手代なども召連(めしつれ)、まい年(ねん)、おりのぼりの度(たび)には、心やすさの儘、かならず、重右門方に逗留したりしに、去る延宝四年[やぶちゃん注:一六七六年。]の春中(はるなか)、

「のぼりせん。」

とて、宵より荷物したゝめ、馬など、やくそくして、寢(ね)たり。

[やぶちゃん注:「輪王寺宮(りんわうじのみや)さま」東叡大王(とうえいだいおう)のこと。ウィキの「東叡大王」より引く。『三山管領宮の敬称の一つ。江戸時代の漢文の教養のある人々の間で、漢文風にこう呼ばれた。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意味である』。『江戸時代の宮門跡の一つ、上野東叡山寛永寺貫主は、日光日光山輪王寺門跡を兼務し、比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあり、全て宮家出身者または皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略だったとも考えられる。こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)』(北白川宮能久(よしひさ)親王)『の即位として利用している』。『「三山管領宮」「日光宮」「上野宮」「東叡大王」など様々な呼称をもつ。朝廷や公家からは』「輪王寺宮様」、『江戸幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸庶民からは「上野宮様」と呼ばれた。漢文の中では東叡大王ともいう』。十三代、続いた。『そのうち第』七『代に限り、上野宮(寛永寺貫主)と日光宮(日光輪王寺門跡)が別人であるが、第』七『代日光宮は第』五『代の重任であるため、人数の合計』は十四『人にはならない。また出身は閑院宮から』三『人、伏見宮から』二『人、有栖川宮から』三『人、あとはすべて皇子であ』った。『主に上野の寛永寺に居住し、日光には年に』三『ヶ月ほど滞在したが、それ以外の期間で関西方面に滞在していた人物もいる』。但し、『歴代中には例外的に天台座主には就任しなかった人も』おり、十三代中、四『人は早世または在位期間が短いため』、『天台座主を兼任していない。最後の公現入道親王も戊辰戦争勃発のため』、『在任期間が短く、天台座主に就任しなかった一人である。東叡山寛永寺貫主と日光山輪王寺門主とは就任も退任も同時であり』、『この二つの地位は即応である。が、天台座主は他の僧侶も任じられるので、在任中は天台座主でない時期があることになるのである』とある。

「樂人衆(がくにんしう)」社寺に付属する雅楽を奏でる伶人。]

 亭主重右門は、夜半(よなか)よりおきて、出立の世話をやきつゝ、拵(こしらへ)たるに、此重右門妻は、

「おさなき子の、煩熱(ほどおり)たり。」

とて、いまだ納戶に寢たり。

[やぶちゃん注:「煩熱」通常は「はんねつ」で「発熱に苦しむこと、或いは、その熱」を意味する。読みの「ほどおり」は歴史的仮名遣としては正しくは「ほとほり」(現代仮名遣ならば「ほどおり」でよい)で、上代よりある語であって、「熱(ほどほ)る」という動詞の連用形の名詞化したもの。「発熱すること、また、その熱気」を謂う。今の「ほとぼりが冷める」の「ほとぼり」の元である。]

 庄兵衞も手代を起し、出たちのしたためなど、仕舞(しまひ)、馬も荷を付て待て居る程なれば、

「京へたち出る。」

とて、重右門にも暇ごいして出んとしけるが、

「いつも御内義の御目にかゝるに、子ども衆、寢させて居たまへばとて、暇ごひせぬも、心がゝり也。」

とて、態(わざ)々、納戶の口まではいりて、

「やがて下(くだ)り申べし。たゞいま、上方へのぼり申也。」

といへども、返事せず。

『よく寢いり給ひたり。』

と、出(いで)んとする時、何やらん、足に、

「ひやひや。」

と踏(ふみ)つけたり。

 氣味わろく覺えて、立出(たちいで)つゝ、灯(ひ)の影にて見れば、血也。

「こはいかに。」

と、驚(おどろき)て、重右門にも見すれば、重右門も周章(あはて)て、いそぎ、火をとぼし、納戶に行て見れば、女房は何ものか殺しけん、一かたなにさし殺して、首は取てや歸りけん、むくろばかり、有。

「こは、何ものゝ仕業ぞ。」

と家(や)さがしをして尋(たづぬ)れども、斬人(きりて)しれず。

 庄兵衞も、此難義、見すてがたくて、其日は旅立をやめける。

 扨、一門を呼(よび)て、さまざまと談合し、相手を吟味するにいたりて、舅(しうと)のいふやう、

「是程にせんさくすれども、他所(たしよ)より來りたる体(てい)もなく、血のこぼれたる筋もなきは、不思議なり。兎角、心やすき中也。」

とて、人の妻女たる者の寢間へ踏込(ふみこみ)て、いとま乞せしも心得ず。是は庄兵衞が殺(ころせ)しに紛(まぎれ)なし。」

といふ。

 重右衞は、又、日比(ひごろ)の氣だてをも知りたる上に、殺さぬとは知れたる事なれば、達而(たつて)、いひわけを立(たて)、庄兵衞も、さまざま恐しき誓文(せいもん)を立(たて)て、いひわけをすれども、舅は、中々、聞入(きゝいれ)ず。

 剩(あまつさへ)、重右門迄、うらみける程に、是非なく、庄兵衞をつれて、奉行所へ出たり。檢使(けんし)なども請(うけ)しかども、分明(ぶんめう)ならぬにより、終にいひわけ立がたく、庄兵衞は、しばらく牢舍(ろうしや[やぶちゃん注:ママ。])せしかども、誰(たれ)ありて庄兵衞が科(とが)なき樣(よう[やぶちゃん注:ママ。])を申ひらく者なければ、程なく切るべきに極りける故、手代、なくなく、死骸を申請けるに、骸(むくろ)ばかりを給りしかば、新町口の㙒はづれ、海道ちかき所に埋(うづ)め、心ばかりのとぶらひを勤(つとめ)、重右門にも暇こひて、上方へのぼりぬ。

[やぶちゃん注:「新町」栃木県宇都宮市新町か。]

 京には、其おりふし、三才の子あり。庄市郞といひしを、亭主に立て、庄兵衞と名のらせ、後家(ごけ)も、ういうい敷(しく)、後(うしろ)見をして家を治め、手代、また二心なくかせぎけるほどに、分限(ぶんげん)も存生(しやう)の時にかはらず、けふと暮(くれ)、明日(あす)と移りて、庄兵衞も、今は二十二才になりぬ。是また、利發にて親の跡をよく仕にせ、年々の仕込(しこみ)おりのぼりの算用、諸事、手代と心を合せて働けるに、今年、元祿八年のころは、手代も、やうやう、年よりたれば、

「田舍下りも心うし。今よりは、又、珍ら敷(しき)下㙒(つけ)へも下り給へ。」

とて、引付[やぶちゃん注:紹介。]のため、此手代が案内して、庄兵衞をつれ下りぬ。

[やぶちゃん注:「よく仕にせ」「能く仕似(しに)せ」であろう。

「仕込(しこみ)おりのぼり」「仕込(しこみ)」(製品の「原価」か)の「下(お)り上(のぼ)り」で「高低」であろう。]

 いつもの宿なれば、重右門方に落着、庄兵衞をも引渡しける序(ついで)、

「親庄兵衞の墓所をも敎(をしへ)申さん。」

とて、同道したりしに、折しも、此庄兵衞、石塔にむかひ拜み居たるを見て、其あたりを通り合せし百性[やぶちゃん注:ママ。]二人づれにて、此ていを見て、偸(ひそか)にいひけるは、

「誠にあの墓を見るにつきても、いたわしや。無實ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、あたら、商人を殺したりける勘左衞門こそ憎けれ。」

と囁(さゝやき)けるを聞とがめて、庄兵衞、何となく此人に引そふて問(とひ)聞けるに、

「元來、此重右門が妻は、美人にてありし也。蓬萊町にて歷々の人の娘なりしを、此人の方へ呼(よび)むかへて、此杉原町に勘左衞門とて貧なる鍛冶(かぢ)ありしが、筋なき戀を仕かけ、かなはぬを恨みて、ある夜、忍び込て、殺せし也。」

と、語りしかば、是より敵(かたき)の名、露顯して、重右門と心をあはせ、奉行所へ申けるに、早速、勘左衞門はめしとられ、段々の責(せめ)にあひて、科(とが)のほど、顯れ、打首になりぬ。

「扨、庄兵衞には神妙なる仕形、主從ともに、めづらしき心ざしの者也。此度の恩賞に、汝が親庄兵衞を、二たび、歸し下さる。」

との仰也。

 手代も庄兵衞も、不審、晴がたく、

「一度、死罪にあひたる人を、今また、御免(ゆるし)とは。いかゞ。」

と思ふに、程なく、上りやより、白髮の老翁を召つれて來るを、能(よく)見れば、

「なる程。旦那也。」

と、手代のいふに驚きぬ。

「こは。いかなる事にて、此世にはましませしぞ。」

と問(とひ)けるに、奉行所の御發明(はつめい)より出たる事とぞ。其故は、

「重右門が妻は殺されしかども、庄兵衞が科にあらぬ證據は、夫の重右門、『妻敵(めがたき)は庄兵衞ならず』といふにて、明白なり。舅は庄兵衞に科を課(おほせ)しも一理あり。去(さる)によりて、庄兵衞を科に落ざれば、此論(ろん)、長く止(やま)ず。誤(あやまり)て庄兵衞を殺し、後にまことの科人出たる時は、政道あきらかならざる所ある故に、しばらく僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])て、外の罪あるものを庄兵衞と号し、御成敗ありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今、此時節にいたりて、親庄兵衞を渡し給ひたり。」

とぞ、有がたき御仕置(しおき)なるべし。

[やぶちゃん注:名奉行の采配で、めでたしめでたしとなる、如何にも拵えた感のある終わり方である。しかし、斬罪にされるよりはマシとはいえ、十九年の間(後述)、牢屋に入っていた庄兵衛の苦痛を考え、また、百姓たちが真犯人をとっくに知っていたことを思えば、この奉行、ロクな探索もさせず、実はその大呆け振りが逆に見え透いていくるというものであろう。なお、後半部の時制は元禄八(一六九五)年となるが、考えてみると、この標題はおかしいことに氣づく。「二十二年」は子の庄兵衛の年齢であって、重右門の妻が殺害された延宝四(一六七六)年には子庄兵衛(幼名庄市郎)は「三才」だったのだから、ここは「二十二年」ではなくて「十九年」でなくてはおかしいのである。しかも「妻敵(めがたき)を打し事」というのも重右門主体の謂い方であるが、本篇では彼は舞台の奥に見えるだけで、人品も今一つちゃんと描かれていない(ちょっと失敗している)。寧ろ、庄兵衛父子こそが本話の主体者たちなのであるから、「十九年を經て父の敵(かたき)を打し事」の方がより正しいと言えるのではあるまいか?

「蓬萊町」現在の栃木県鹿沼市蓬莱町か。宇都宮の西近くでロケーションとして問題はない。

「杉原町」現在の栃木県宇都宮市塙田(はなわだ)附近と思われる。ウィキの「塙田」の記載に『杉原村の一部』が塙田であること見られたい。

「上りや」「あがりや」で「揚がり屋」のことであろう。江戸にあったそれは、御目見 (おめみえ)以下の武士や僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋。小伝馬町の牢屋敷にあった(対して、五百石以下で御目見 以上の旗本の未決囚を収容した幕府の牢屋は「揚がり座敷」と称し、監房は独居制で、同じ小伝馬町の牢屋敷の一隅にあった)。ここは単なる未決囚の牢のということであろう。]

諸国因果物語 巻之二 虵の子を殺して報をうけし事

 

   虵(くちなは)の子を殺して報(むくい)をうけし事

Kutinaha

 京新町(しんまち)三条の邊に眞苧煮扱(まをにこき)など商ふ人あり。手まへも冨貴なる人にて、手代・小童(こわらう[やぶちゃん注:ママ。])などもつかふ家也。

[やぶちゃん注:「報(むくい)」ママ。但し、江戸期には既に口語的に「むくい」がかなり一般化していたので誤りとは言えない。

「新町(しんまち)三条」現在の京都府京都市中京区三条町附近(グーグル・マップ・データ)。

「眞苧煮扱(まをにこき)」剝いだ麻(アサ)を重曹水等で煮、それを流水に晒して余分な滓を扱(しご)き取って麻繊維とする業者と思われる。]

 元祿十年[やぶちゃん注:一六九七年。]の夏の時分、江州高嶋より、朽木嶋賣(くつきじまうり)または蚊帳賣(かてううり)など、此家に登りつどひて、荷物なども夥しく積置たりける比(ころ)、何として出來(でき)たりけん、小虵(こへび)、あまた湧(わき)て彼(かの)荷物の下より、

「ひらひら。」

と、出けるを、手代・でつちなど、折ふし見付(つく)る度に、拾ひとり、打殺(うちころ)さんとせしを、此旦那は、近比、慈悲(じひ)なる人なりければ、見付次第に拾はせ、曲物(まげもの)に入て、蓋をしめ、偸(ひそか)に袖にいれて、寺まいりのついでに、黑谷・万無寺(まんむじ)などの山にて、彼(かの)まげ物の蓋を取て、草村へ放し、終に殺さする事を嫌ひけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、大かたは手代どもゝ見のがしにして、追迯(おひにが)しなどして置(おく)事も多かりけり。

[やぶちゃん注:「江州高嶋」現在の滋賀県高島市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「朽木嶋賣(くつきじまうり)」前にも出た高島市朽木(くつき)地区は、古くから麻の栽培と麻織物を生業(なりわい)としていた(「高島市」公式サイト内のこちらを見られたい)から、そこで織られた「嶋」は「縞」で、それの入った麻織物を「朽木縞」と呼んだのではないか?

「黑谷」京都市左京区黒谷町

「万無寺」京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町にある法然所縁の善気山法然院萬無教寺。法然院の通称で知られる。黒谷の東北。]

 此おりふし、祇園會ちかくなるまゝに、宵より、道具など片づけ、序(ついで)ながら、

「嘉例なれば、煤(すゝ)をも掃(はく)べし。」

とて、夜の内より、出入のものなど、呼よせ、爰かしこ、洗はせ、埃(ごみ)など掃(はか)せけるに、此旦那の乳母(うば)あり、宿は上の橫町(よこまち)にて、木履(あしだ)やの妻なりしが、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])は去(さる)かたに雇(やとは)れて、加州金澤へ行(ゆき)たり。妻は年久しき出入とて、宵より來り、諸事に心を付て、ともにはたらき、明しける。

[やぶちゃん注:京都府京都市上京区下横町か。

「木履(あしだ)や」足駄屋。下駄屋。]

 彼(かの)荷物どもを積(つみ)たる所は、竃(へつい)と壁一重(ひとへ)へだてたる中の間の庭なりしかば、此荷物どもを取除(のけ)けるに、四寸ばかりなる小虵、いくらともなく此下に蟠(わだかま)りて、

「うやうや。」

として、あり。

 男ども、肝をつぶし、恐れて寄(より)つかず、

「如何(いかん)せん。」

と、あきれて居たるに、此乳母は今年五十ばかりにて、後生(ごしやう)ごゝろもあるべき時分なるに、是を見て、

「皆の衆、それ程こはくて捨(すて)にくきか。いで、我のけて參らせん。」

と大釜に湧立(わきたて)たる熱湯(にえゆ)を大柄杓(おほびしやく)に汲(くみ)て小虵の上へ、

「さつ。」

と懸ければ、

「ひりひり。」

として蜿轉(のたり)けるが、悉く、よはりて、大かた、死(しぬ)るもの、多かりけり。

「今こそ捨たまへ。」

と搔(かき)よせて、捨させける。

 其日も一日はたらき暮して、乳母は、

「宿の事、心もとなし。」

とて歸りぬ。

 明る朝(あした)、はなを祭り、前の拵(こしらへ)とて、いつも、朝、とくより、乳母なども來(き)あつまりて、諸事の世話をやく事也。

 しかるに、今日に限りて、四つ過(すぎ)迄も、乳母の來ぬは、不思議也。

[やぶちゃん注:「前の拵(こしらへ)」祇園祭(葵祭)の店の表の化粧飾り。

「四つ過(すぎ)」定時法なら、午前十時頃過ぎ、不定時法なら、九時半頃過ぎ。]

「もし、心にても惡敷(あしき)か。見て參れ。」

と内義より氣を付られ、下女、はしりて、橫町に行けるに、門の戶なども、夕部(ゆふべ)の儘にて、見せも卸(おろ)さず。

[やぶちゃん注:「見せも卸(おろ)さず」下駄屋の店の方も閉じたままで開けていない。]

「留主(るす)か。」

とおもへば、錠もおろさず、只、内よりしめたり。

 敲(たゝけ)ども、呼(よべ)ども、音のせぬも、心もとなくて、走り歸り、男どもを遣(つかは)し、戶を打破りてはいりけるに、乳母は寢部(よんべ)のまゝにて、蚊帳の内に寢てゐたるを、引(ひき)うごかして見るに、首のまはりより、胸(むな)いた迄、大なる虵(くちなは)、いく重(え[やぶちゃん注:ママ。])ともなく、まとひつきて、鎌首をもつたて、乳母の咽吭(のどぶへ[やぶちゃん注:ママ。])にくい付て、虵(へび)も人も、共に死(しゝ)て居たり。

「子を殺されて、親虵(おやへび)の、かく恨みしも斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])也。」

とぞ、みな人、かたりあへり。

 むごき殺生は、すまじき事なり。

[やぶちゃん注:「夕部(ゆふべ)」「寢部(よんべ)」「昨夜(ゆふべ)」(元は「夕(ゆふ)方(へ)」の意で、上代は「ゆふへ」と清音であった)及び転じた「ゆんべ」→「よんべ」への当て字。]

2019/08/10

諸国因果物語 巻之二 目録・人の妻嫉妬によりて生ながら鬼になりし事

 

諸國因果物語卷之二

 

人の妻嫉妬により生ながら鬼になりし事

虵(くちなは)の子を殺して報(むくひ)を請(うけ)し事

二十二年を經て妻敵(めがたき)を討(うち)し事

女の執心夫をくらふ事

妄語の罪によりて腕なへたる人の事 

 

諸國因果物語卷之二

    人の妻嫉妬によりて生ながら鬼になりし事

Sittooni

 大坂順慶町(じゆんけいまち)五町めに、古手や久兵衞といふ者あり。年ごろつれそひたる女房あるうへに、又、外の妻を持て通ふ事あり。此女は紣屋(くけや)の何がしとかや、貨物(くはもつ)の家に、腰元ながら、妾となりて懷胎(はらみ)しが、產して後金百兩を添(そへ)て隙(ひま)をとらせしとかや。

[やぶちゃん注:「順慶町(じゆんけいまち)」小学館「日本国語大辞典」によれば、現在の大阪市中央区南船場一丁目から三丁目(旧順慶町通。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に当たる。江戸時代は新町遊郭の東口筋に相当した、とある。

「古手や」古手屋。古着や古道具を売買する店。

「紣屋(くけや)」「紣」は「綷」の俗字。音「サイ・スイ」で、絵絹(えぎぬ:五色を合わせ施した絹織物)で「綷雲(さいうん)」(「彩雲」(五色の美しい雲)に同じい)や「綷縩(すいさい)」で「絹擦れの音」の意があるので、ここは或いは絹原材や織物を主に扱うお大尽(手切れ金に百料出せる)の運送業者ととってよいか。

「百兩」本作は宝永四(一七〇七)年開版で、同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータがある。それだと、七百五十万円となる。]

 久兵衞、もとより、色好みといひ、右の妻に心をかけて、何(いつ)となく取いりて、夫婦のかたらひをなしけるより、今は宿の本妻を離別し、この女を呼(よび)むかへば、

『今迄の元債(もとで)のうへに、猶、此百兩を合せてかせがば、よき事。』

と思ひたちしかど、今までの女房、難波にては、父母とてもなし、親類も、皆、死(しに)うせて、かゝるべき便[やぶちゃん注:「たより」。]もなき者也。母かたの從兄弟(いとこ)とて、折々、行かよふ者、やうやう一人ありて、生玉(いくたま)の邊(へん)、かするなる住居せしばかり也。

[やぶちゃん注:「生玉(いくたま)の邊(へん)」大阪府大阪市天王寺区生玉町(ちょう)附近。生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)があることで知られる。

「かするなる」「借(か)するなる」で「借りているとかいう」の意ととる。]

 年比の馴染といひ器量も人なみに勝れたれば、離(はなれ)がたく、心うきながら、百兩に魂をとられて、さまざまと分別を仕出し、漸々に商(あきなひ)をすぼめ、代物(しろもの)[やぶちゃん注:有意な金品。]を後づれ[やぶちゃん注:「のちづれ」。妾。]の方に運び隱して、身上(しんしやう)を不自由に仕かけ、一日一日と、手まへを貧に仕(し)て、人のものを買(かひ)かゝり、間もなき盆の仕舞を掛乞(かけごひ)にせたけられ、ほうほうに十四日を過して[やぶちゃん注:「掛乞」は節季ごとに掛売の代金(掛金)を取立てたこと。ここは八月十五日の盂蘭盆をその支払期限の区切りとしたもの。]、

「今は我運も是まで也。誠に今までは壱錢もすべなき錢を遣(つかは)ず、遊山翫水(ぐわんすい)[やぶちゃん注:野山や水辺で遊ぶこと。郊外に出て、山水を眺めて遊ぶこと。]の栄耀(えよう)事を見ずといへども、不圖(ふと)したる買かけより、損を仕(し)そめて、諸事、なすほどの事、左(ひだ)いまへ[やぶちゃん注:「左前」の訛り。]になるは、前生(ぜんしやう)の業(がう[やぶちゃん注:ママ。])とはいへども、かくては、諸(もろ)ともに乞食(こつじき)するより外はあるまじう覚ゆる也。何と思はるゝぞ、あかぬ中とはいへども、一たん、又、夫婦の中をはなれて、共に奉公の身となり、給銀[やぶちゃん注:「きふきん」。]の少も儲(まふけ)ためて、二たびかせぎてもみばや、とは、おもひ給はずや。」

と、誠(まこと)しく、いひ懸(かけ)けるに、女房もなみだながら、指[やぶちゃん注:「さし」」。]あたりての貧(ひん)にいふべき詞(ことば)もなければ、離れがたき中をなくなくわかれて、奉公の口を聞たて有を[やぶちゃん注:「ききたてある」。奉公人を探しているという噂があったのを。]幸(さいはひ)に、新うつぼといふ所の魚(うを)屋へありつき、腰もと奉公を勤め、出入三年の請狀[やぶちゃん注:「うけじやう」。]まで濟(すま)しぬ。

[やぶちゃん注:「新うつぼ」靱(うつぼ)。現在の大阪府大阪市西区靱本町(うつぼほんまち)及びそこに西で接する江之子島二丁目東部に概ね該当する地域。江戸時代、ここの海部堀川沿いには、海産物市場が形成され、荷揚場は永代浜と呼ばれ、海産物を中心とする問屋街も広がっていた(ウィキの「靱」に拠る)。]

 久兵衞は、たゝみしまゝに仕(し)すまして、心うれしく女房を去(さり)て、いまだ五日も過ざるに、彼(かの)後(のち)づれの妻を呼むかへ、今までの元銀[やぶちゃん注:「もとがね」。]に、妻の百兩をあはせて、手びろく賑はしく見せ店(だな)をかざり、おもふまゝに過(すぐ)しぬ。

 もとの妻は、年ごろの馴染といひあきあかぬ中を、貧ゆへに別れ、久兵衞も男奉公に出る[やぶちゃん注:「いづる」。]よし、いつわりけるを、実(まこと)とおもふより、露わするゝ隙なく[やぶちゃん注:それを全く信じて、知り得る暇とてもなく。]、朝夕の寢ざめにも、人しれぬ淚をこぼし、戀しくなつかしくて、

「いかなる所にか、我つま[やぶちゃん注:「夫」。]の久兵衞どの、いかなる勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]にか、行て仕(し)つけぬ。官仕(みやづかへ)し給ふらん。」

と泣(なか)ぬ日もなく、心もとなき月日を送りながらも、何とぞして、給金の内、すこし宛(づゝ)も溜(ため)て、心ばかりの見繼(つぎ)にもなして、二たび、夫婦ともならばやの心を便(たより)に、隨分と奉公しけるゆへ、主人も、殊外、よろこび、『此をんな、なくては』と萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]に心を付て、不便(ふびん)をくわへ[やぶちゃん注:ママ。]、めし使けるが、有時、主人の妻、

「道頓堀の芝居けん物すべし。」

と、宵より、身ごしらへして、駕籠など借らせ置(おき)、明(あく)れば、食すぎより、物まふでするやうにもてなし、彼(かの)腰元をめしつれつ。

[やぶちゃん注:「見繼」(みつぎ)は「見次」とも書き、この場合は「貢」とも書いて、経済的援助をすることを指す。但し、夫久兵衛とは全く逢っていないから、将来、夫に渡そうと、女中部屋に貯金していたのである。

「食すぎ」朝食の後であろう。]

 村を南へ仁德の稻荷へ參りて、順慶町を東むきにあゆみ、四丁めより三休橋(きうばし)へと、御内義のさし圖に任せ、駕籠をはやむるにつきても、腰元は、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、かの久兵衞を忘れず、

『今さら、何の面目ありてか、五町めを通るべきや。』

と、恥かしくも、悲しくもありながら、

『宮づかへの身は、心に任すべき事にもあらねば、せめて、いにしへの跡、なつかしく、移りかはる世のならひぞかし。今は何人か此家には住けるや。』

と、淚ながら見いれたれば、久兵衞は、何心もなく、くわ箒(ばうき)片手に、塵取(ちりとり)引さけげ、小歌機嫌(きげん)にて、門を掃(はき)に出けるが、折しもこそあれ、互に顏を見あはせ、

「はつ。」

と、思ひたる顏つきにて、久兵衞は内へ迯こみぬ[やぶちゃん注:「にげこみぬ」。]。

[やぶちゃん注:「仁德の稻荷」大阪府大阪市中央区博労町にある難波神社(なんばじんじゃ)。摂津国総社として「難波大宮」「平野神社」「上難波仁徳天皇宮」「上難波神社」「難波上宮」「稲荷社」(「博労稲荷神社」があるため)と呼ばれていたという。境内にある『博労稲荷神社』は『商売繁盛の神様として船場の多くの商人から篤い信仰を受けていた。江戸時代を通じて難波神社は仁徳天皇を祭った神社としてではなく、博労稲荷神社がある神社として有名であり、難波神社のこと自体を指して「稲荷社」と呼んでいた』とウィキの「難波神社」にある。旧順慶町の西端の北直近にある。

「三休橋」現在の三休橋(さんきゅうばし)交叉点旧順慶町の南側ウィキの「三休橋筋」によれば、『道路名の由来となった三休橋が長堀川に架けられていたが』、昭和三九(一九六四)年に『長堀川の埋立に伴い撤去された。三休橋の名称の由来は、長堀川に架かる橋の中で』、『往来の多い心斎橋・中橋・長堀橋の三橋を休めるための橋と言われている』とある。]

 腰元も心ならねば、

『何として、爰に居給ふや。所も多きに、此家へ奉公に出られしも、ふしぎ。』

と、足袋の紐する体(てい)にもてなし、立どまりて、樣子を聞に[やぶちゃん注:「きくに」。窺うに。]、廿ばかりなる女、内より出て、

「なふ、こちの人、今のは、前の御内義さまが。少、見送りてやりませう。」

と、いふ音(をと[やぶちゃん注:ママ。])を聞より、腰元、むね、せきあげ、

『扨々、水くさき男めや。まんまと、我は、だまされて、思はぬ離別せられしよ。』

と、思ひしより、一日の内を幾度か淚をこぼして、狂言も見る空なく、奉公も心にそまず、うかうかと勤(つとめ)て、歸るさの足も覚えなくて、着物も着がへず、すぐに二階へあがり、打ふして、明る日になれども、起ねば、旦那も傍輩(ほうはい)も、心もとながりて、下より呼(よべ)ども、答(いらへ)ず。

 餘り、ふしぎさに、下女を上て見せけるに……恐しや…………

……此腰元の……かほ……

……生ながら……角……はへ出……

……口は……耳まで……引さけ……

……眼(まなこ)より……血の淚をながし……

……其かたち……大きになりたる事……四帖敷(でうじき)に……一盃(ぱい)はゞかりて……

……呻(によひ)ふしたり……

[やぶちゃん注:怪異出来(しゅったい)の要(かなめ)であるので、特異的に太字リーダ改行で示した。

「はゞかりて」「憚る」には「いっぱいに広がる」の意がある。

「呻(によひ)ふしたり」「呻吟ひ臥したり」。現代仮名遣では「によいふしたり」。「によふ」は「うめく・呻吟(しんぎん)する」というハ行四段活用の動詞である。]

 此形に驚きて、誰しも、見る程の人、絕入(ぜつじゆ)せずといふ事なし。

 旦那は、つねづねの彼が、心ざしを盡して、奉公よく勤しに感じて、あまり不便さに、此女を加持させんがために、多田の普明寺(ふめうじ)の龍馬(りうめ[やぶちゃん注:ママ。])にそなへし御供(ごくう)并に御影[やぶちゃん注:「みえい」。]を申うけて、いたゞかせ、漸(やうやう)、人心つきし。

 此久兵衞を呼(よび)よせ、此ありさまを語りけるに、久兵衞かたにも、そのゝち、恐しき事、度(たび)々有しかば、此嫉妬に恐れて、急ぎ、後の妻を送りかへし、又、此女房を呼むかへて、今に有とぞ。

[やぶちゃん注:エンディングが小さくハッピーに収束してしまっていて、意外。正直、久兵衛と妾(こ奴の「なふ、こちの人、今のは、前の御内義さまが。少、見送りてやりませう。」という台詞は私でさえ怒り心頭に発するぞ!)が鬼に変じた本妻にぶち殺されねば、私は、おさまらないが。或いは、鷺水は前に出した生玉辺りに住む従兄弟(伏線かと思ったら、全然、死んでいて、ちょっとおかしい)も繰り出しての展開を考えていたのではなかったろうか?

「多田の普明寺(ふめうじ)の龍馬(りうめ)」兵庫県宝塚市波豆字向井山にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。寺宝として、「有角馬の頭」があり、ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』『雨乞いに使われる』とある。「御影」はその頭骨を描いたものである。角絡みで選んだか。]

2019/08/09

諸国因果物語 巻之一 妻死して賴を返しける事 / 巻之一~了

 

     妻死して賴(たのみ)を返しける事

 長崎浦(ながさきうら)五嶋町(たうまち)といふ所に玄璞(げんはく)といふ外科あり。生國は江州大津の人なり。

[やぶちゃん注:本話は、底本としている「東京大学附属図書館霞亭文庫」の当該板行原本画像の「巻之一」の最終丁(本来なら「20頁」目にあるはず)が欠損しているらしく、結末が現認出来ない。そこでそこからは「ゆまに書房」版を底本とし、恣意的に漢字を正字化して示した。

「賴(たのみ)」結納のこと。

「長崎浦(ながさきうら)五嶋町(たうまち)」現在の長崎県長崎市五島町(ごとうまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。出島(でじま)の北直近。

「玄璞(げんはく)」ネットで調べると、個人の古書の紹介記事で、寛永一二(一六三五)年跋の回生庵玄璞なる人物の漢方医学書(但し、添えられた本文画像を見るともろに易学)「運気論口義」(全五冊)を見出せるが、結末から見て、偶然の一致か。にしても易学書っぽいというのは皮肉で気にはなった。]

 幼少の時分に貨物仲間(くわもつなかま)へ奉公に出けるが、中々、生れつき、發明なりけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、主人小西何がし、手まはりを離さず、長崎まで召連(めしつれ)下りしに、此もの、生特(しやうとく)、讀書(よみかき)を好(すく)のみにあらず、小療治をも心うけける程に、

「ゆくゆく、物にもなるべき者なり。」

とて出嶋(でじま)の出入(いでいり)を御願ひ申て、通事(つうじ)を賴み、紅毛一流の外科を學ばせけるに、中々、是を好(すき)て取まはし、利口に機轉ある者也しかば、阿蘭陀(おらんだ)の祕方を、ことごとく學びつたへけるにつきて、暫(しばらく)、此路(みち)修行のため、とて小西より仕付(しつけ)られ、長崎に住居(ぢうきよ[やぶちゃん注:ママ。])し、緣をもつて、方(ほう)々と療治しそめしが、見たてといひ、才覺といひ、古勞の歷々にも恥(はぢ)ぬほどの名譽を得たりしかば、およそ長崎は八拾町の内には玄璞といふ名、しらぬものなく、茂木(もてぎ)・時津(とぎつ)の邊(へん)までも、大子(たいし)の病証には、かならず迎(むかへ)て見する程の事也。

[やぶちゃん注:「貨物仲間」運送業者。

「茂木(もてぎ)」恐らくは長崎県長崎市茂木町(もぎまち)

「時津(とぎつ)」恐らくは長崎市時津町(とぎつちょう)。「ゆまに書房」版は『時由』とするが、明らかに判読の誤りである。

「大子(たいし)」ここは藩主の嫡男の謂いであろう。]

 かゝるは、まれによりて、手まへも冨貴(ふつき)しけるに付て、

『然るべき妻を持ばや。』

とおもふ心も出來、又、この家をのぞみて、「我も我も」と緣を組(くま)ん事をのぞみ、さまざまと肝煎(きもいり)ける中に、諏訪大明神の神官――名は何とかや聞しかど、忘れたり――此妹(いもと)を肝(きも)いるものあり、玄璞も常に心やすく往來する家にて、心やすく内證(ないしやう)までたち入るほどの中也ければ、此妹の器量もよく知り、殊には彼女の利發をも窺(うかゞ)ひぬきたり。冨貴といひ、彼是(かれこれ)に心かたぶきて、賴など遣し、既に其年の冬、呼(よび)むかへんとやくそくせしに、此舅(すいと)、殊外なる物忌(いみ)しにてありけるゆへ、同じくは、

「我心にいりたる月日を吟味して。」

と、くりかへしくりかへし見極(みきはめ)て、いついつと堅く約束せし内、一門に愁ひの事ありて思はず、日限(にちげん)違(ちが)ひけるより、段々と、さしあひつゞき、婚禮の沙汰も、ひたと延引し、邂逅(たまさか)、何にも指合(さしあは)すとおもふ日は、大さつしよ曆(こよみ)を操(に)て、心かゞりを見出し、玄璞へ斷(ことはり)をたてしかば、心ならず、年も暮(くれ)、明(あく)れば、元祿五年の春もたちぬ。

[やぶちゃん注:話者登場で特異的にダッシュを用いた。

「諏訪大明神」長崎県長崎市上西山町にある例祭「長崎くんち」(十月七日~九日)で知られる鎮西大社諏訪神社であろう。

「内證」内輪の暮らし向き。特に家計を指す。

「物忌(いみ)しにてありけるゆへ」易学・占いに凝りまくって病的なまでに日取りの吉凶に拘る人物であったために。

「大さつしよ曆(こよみ)を操(に)て」意味不明。個人的には「大册・諸曆」で易学書や種々の占いを附帯した暦と採る。「操(に)て」は「ゆまに書房」版ではそう判読しており、私も他の可能性として「も」等を考えた(「操」には「取る・持つ」の意がある)たが、崩し字としてはやはり「に」としか見えない。或いは筆者は「操(にきつ)て」或いは本文を「操つて」とするつもりだったのかも知れない。「操」には「持つ」と並置して「握(にぎ)る」の意があるからである。孰れにせよ、そうした膨大な占い関連書を繰(く)って方角・日付の凶事であることを調べ上げて玄璞にその日ではだめだと知らせてくるのである。ここまでくると、神官だからという好意的見方は出来ず、「禁断の惑星」(Forbidden Planet:フレッド・マクラウド・ウィルコックス(Fred McLeod Wilcox)監督の一九五六年公開のアメリカ映画。ロボットの「ロビー」(Robby the Robot)でとみに知られる)の「イドの怪物」みたような、おぞましい父親のように見えてくるね(「イド」は「id」(ラテン語)で、リビドー(libido:性欲動)と攻撃性の原核部分。具体的には自身の娘アルティラ(Altaira)へ持つ父モービアス(Morbius)博士の近親相姦的潜在意識の増幅実体化したモンスター)。

「元祿五年」一六九二年。]

「わつさりと、珍しきあら玉の祝(いはゐ[やぶちゃん注:ママ。])とゝもに、祝言も取いそぎて、身のかたつきをもせばや。」

と、玄璞方にも取しきりて、此春は、人を遣し、自身も行(ゆき)て望みけるに、舅(しうと)、すこしも動ぜず、

「夫婦(ふうふ)のかたらひは、誠に一生の大事。かろがろ敷(しく)急ぎて、後に二度(たび)あらたむる事、あたはず。念を入たるこそ、よけれ。」

と、猶、引(ひき)しろひて、はたさず。

[やぶちゃん注:「わつさりと」副詞。原義は「拘りや思惑などを含んだところや飾ったところがなく気軽に物事を成すさま・あっさり・さっぱり」で、後、「明るく陽気なさま、にぎやかで威勢のよいさま」などを表わす語となった。ここはハイブリッドでよい。

「身のかたつき」妻を娶って家庭を作って身を固めること。

「引(ひき)しろひて」引き延ばして。

 以下、「一刀(かたな)に」までが、「霞亭文庫」画像に拠るもので、そこからあとは(「霞亭文庫」には以下の画像がなく、落丁している。後述)、冒頭注で述べた通り、昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊・小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」を用いて、漢字を恣意的に正字化し、今まで通りの仕儀で自由に加工してある。なお、同書の原本は編者である小川武彦氏架蔵本である。『□□』はママ。判読不能か、虫食いかは判らぬ。特異的に六点リーダを用いた。実際、ここで改丁されていることが「ゆまに書房」版の翻刻指示(『一刀に(廿一オ)』と『諸國因果物語卷之一終(廿一ウ』。「オ」は表、「ウ」は裏。されば、「霞亭文庫」の落丁は一丁落ちではなく、二十一折りの裏面が破れて落ちていることになる)によって明らかである。

 玄璞、

『はじめの程こそ此詞を用ひつれ、餘り延引して來年にあまれと、猶、はたさぬは、吉凶に事よせて、我を欺(あざむく)にこそ。』

と思ひしかば、有夜(あるよ)、ひそかに忍び込(こみ)、いひ名付(なづけ)せし娘をとらへて、一刀(かたな)にさし殺し、首を引提(ひつさげ)て、我家に歸り、

「あら、心よや。惜(おし)みてくれ□□心の憎さ、今は晴(はれ)たり。」

と、つぶやきける時、此首。

「うこうこ。」

と、はたらきて、いふやう、

「……誠(まこと)に……一たび……いひ名付有(あり)し身なれば……我(われ)とても……爰に來るを嫌ふにはあらねど……さすが……人目もあるに……首ばかり來ては……何の面目かあるべき……所詮……これ迄の緣なるべし……いつぞや……送られつる……賴(たのみ)を……かへすぞ……請取(うけとり)給へ……」

と、いひて、

「さめざめ。」

と泣(なく)に、身の毛たちて、恐(おそろ)しければ、首を庭へ投(なげ)すて、おくへ逃(にげ)て、入らんとする足もとに、我方(わがかた)より遣(つかは)したる賴(たのみ)の絹・樽・肴(さかな)、ありしまゝにて並べ立(たて)たるに、玄璞も、氣をとりうしなひ、しばらく絕入(ぜつじゆ)せしが、それより、うかうかと病(やみ)つきて、終に、廿日ばかり過(すぎ)て、むなしくなりしとぞ。

 

 諸國因果物語卷之一終

[やぶちゃん注:「來年にあまれ」来年に残せ。来年へ回せ。

「惜(おし)みてくれ□□心の憎さ」「おしみて」はママ(歴史的仮名遣は「をしみて」が正しい)。一つ、欠損部は「惜しみてくれざる心の憎さ」が考え得る。

 いやいや! しかし! 最後の最後に、とびっきりの怪奇がセットされている! しかも、ここでさて、一巻全体を見渡すに、五話総てが実は「首」と「眼」という恐怖のアイテムによる、効果的なシークエンス対応で統一されていることに気がつく。鷺水! 恐るべし!

諸国因果物語 巻之一 山賊しける者佛罰を得し事

 

     山賊(やまだち)しける者佛罰(ぶつばち)を得し事

Yamadati

 長門國うけ㙒といふ所より、隆長司(りうちうす)といひし禪の所化(しよけ)、江湖(かうこ)のため、周防(すわう)の岩國の聞えし岩國守の會下(ゑか)へ行ける。

[やぶちゃん注:「山賊(やまだち)」もとは「山立」或いは「山發」で、フラットに狩人や「マタギ」の意もある。中世以降の用法のようである。なお、上に掲げた挿絵は、「ゆまに書房」版の翻刻指示によれば、実は次の「妻死して賴を返しける事」の途中に入れ込まれてある。江戸期のこの手の草子本ではよくあることである。」

「長門國うけ㙒」山口県防府市に江泊浮野(えどまりうけの)がある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ここか。

「隆長司(りうちうす)」歴史的仮名遣では「りゆうちやうす」が正しい。「長司」はちょっと聴かないが、禅宗寺院で何らかの役職の主担当を示すものであろう。よく知られたものでは仏殿の諸式を司る役或いは時報を司る役として「殿司(でんす)」がある。

「所化(しよけ)」師の教えを受けている修行中の僧や弟子。また、広く、寺に勤める役僧を指す。もとは仏菩薩などにより教化(きょうけ)を受けるべき衆生で、対義語は「能化(のうけ)」(教化する仏菩薩を本来は指し、転じて師として教え導く師、宗派の長老・学頭などの意)。

「江湖(かうこ)」川と湖、特に中国の自然を代表する揚子江と洞庭湖から転じて、「世の中・世間・一般社会」の意。

「周防(すわう)の岩國の聞えし岩國守」歴史的仮名遣は「すはう」が正しい。ウィキの「岩国市」の「歴史」によれば、『岩国の名前は万葉集にも見られ、古くから山陽道の交通の要衝であった。守護大名・大内氏が中国地方を統治していた室町期まで、岩国氏・広中氏といった豪族がこの地を治めていた。関ヶ原の戦いの後、長門・周防の』二『国に減封された毛利家前当主・毛利輝元は、東の守りとして、毛利元就の次男・吉川元春の三男で、吉川家を相続していた吉川広家(広家は武断派と言ってよかろう、関ヶ原の戦いにおいて徳川方に通じ、毛利本家を参戦させないように画策した。結果として家康より広家に対して防長』二『州を与えられたが』、『毛利本家安泰のため固辞した)に岩国を与えた。以後、岩国は、吉川家が治める岩国領』六『万石の城下町として発展していく』(当初は三万石)。『関ヶ原敗戦の原因を毛利両川(小早川の裏切りと吉川の内応)のためと考えていた毛利本家から、幕府に対して支藩としての推挙がなかったため、岩国領と称された。吉川氏が諸侯に列し、大名となったのは』、実に幕府滅亡後の明治新政府による認可で慶応四(一八六八)年のことであった。以下はウィキの「岩国藩」より(以上で見た通り、本篇時制上では「岩国領」)。『初代当主・広家によって岩国吉川家の基礎は固められた』。寛永二(一六二五)年に『広家が没すると、子の第』二『代当主・吉川広正が親政を行ない』、寛永一一(一六三四)年には『本家の長州藩主・毛利秀就と不仲になった長府藩主・秀元と共に本家から独立しようとしたが、失敗に終わった。広正は製紙業を起こし』、寛永一七(一六四〇)年には『紙を専売化している』。『第』三『代当主・吉川広嘉のとき、文化事業に尽力し』、延宝元(一六七三)年に『有名な錦帯橋が完成している。第』四『代当主・吉川広紀も藩営による干拓事業の拡張を行い、岩国領は全盛期を迎えた。だが、これが財政難で苦しむ本家長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになっていった』。『第』五『代当主・吉川広逵と第』六『代当主・吉川経永の時代には家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっている。第』七『代当主・吉川経倫の時代になると、正式な大名に列するための運動や凶作により』、『財政が悪化、製紙業の生産高も半減』、『倹約が励行されるようになった。寛政年間』(一七八九年~一八〇一年)『より財政再建に着手し、天保年間』(一八三〇年~一八四四年)『に』なって『一通りの成功をみた』とある(本書の刊行は宝永四(一七〇七)年)。以上の経緯と合わせ、歴代藩主を見ても正式な官位としての「岩國守」を授された人物はいないので、これは単なる通称である。

「會下(ゑか)」「ゑげ」とも読む。「会座 (えざ:法会・講説などで参会者が集まる場所) に集まる門下」の意で、禅宗や浄土宗などで師の僧の下で修行する場所・集まり、転じて広く師の下で修行する僧を指す。]

 此僧は、極て肝ふとく、大力(たいりき)にて武邊も人に超たる人なり。あまり殺生を好み、物の命を取事を何とも思はぬ生れつきゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、親ども、見あまして、出家させし人なり。

 されば、夜道を行、山坂をふみ迷ふといへども、それを苦にする事なく、思ひたちたる事あれば、何時といもはず、踏出(ふみだ)す氣質にまかせ、此岩國へゆくにも、かろがろしき旅すがたにて、假初(かりそめ)のやうに、出ける。

 爰に、あい坂というゟ、今市(いまいち)へかゝる道に山坂あり。人かげもなき所を、秋の日の七つに下(さが)りて、此坂口に行(ゆき)かゝりぬ。

[やぶちゃん注:「あい坂」「今市(いまいち)」現在の江泊浮野から岩国へ向かう山陽道ルートで「今市」を地名に持つ場所としては山口県周南市樋口今市がある(他にも複数あるが、浮野より西であったり、岩国のずっと北方であったりして肯んぜないものが多い)。地図を見ると、この今市地区の西直近に周南市大字呼坂という地名を見出せる。航空写真を見ると、今市地区とこことは張り出した丘陵が三稜ほど見られる。取り敢えず、ここに措定比定しておく。

「秋の日」「七つ」「下(さが)り」定時法なら、午後五時から六時の間、不定時法なら午後六時から六時半となる。]

 餘りに足のくたびれけるまゝに、馬(むま)を借りて打(うた)せしが、馬士(むまかた)のいふやう、

「此道は一里半が間、坂つゞきといひ、殊に暮(くれ)ては、用心も惡(わろ)き所なり。若(もし)もの事あらば、我らを恨み給ふな。」

と、つぶやくを、聞(きゝ)のがしに、ひた物打(うち)たてゝ、いそぎける所に、案のごとく、むかふの坂に、大きなる男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])、大小さし、こはらして、立はだかり、道の眞中(まんなか)を踏(ふみ)ふさぎて、

「こりや、こりや、坊主、酒價(さかて)置(おい)て行(ゆく)べし。」

と、のゝしるを、隆長司は、小いねぶりして、聞(きか)ぬ顏(がほ)に通らんとするを、やにはに、走りかゝり、馬(むま)より引おろして、酒代を乞(こひ)ける程に、いろいろと侘言(わびごと)すれど、聞(きか)ず、剩(あまつさへ)、わきざしを拔(ぬき)はなし、此僧を殺さんとしける時、隆長司の得物なりしかば、かいくゞりて、脇差を奪ひとり、却(かへつ)て追剝(おひはぎ)が眞向(まつかう)を立割(たてわり)にと、拜み討(うち)ふしけるが、手の内(うち)まはりて、肩先より袈裟にかゝりて、胸のあたりまて切(きり)さけられ、

「あつ。」

と、いひて、仆(たふれ)しかば、隆長司は、

『いやいや。此分(ぶん)にて退(のか)ばや。同類も出來(いでき)たらば、難義ぞ。』

と、おもひ、馬(むま)を尋ぬるに、早(はや)、馬士(まご)は迯(にげ)かへりて、跡かたもなし。逸足(いちあし)を出して壱里あまり迯のびけるに、夜(よ)は、はや、四つに過(すぎ)、夜半ごろ也。

[やぶちゃん注:「隆長司の得物」(えもの)「なりしかば」隆長司が最も得意とするところであったので。

「四つに過(すぎ)、夜半ごろ」午後十時を過ぎて午前零時に近い時刻。]

 餘り疲れたりしかば、宿からばや、とおもへども、坂半(さかなか)なる程に、家はなし。爰かしこと知らぬ路を分(わけ)ゆきけるに、遙なる谷に、火の影みえしを幸に(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に、立寄(たちより)て、いろいろと断(ことわり)をいひければ、あるじは留守と見えて、年寄(としより)たる祖母(はゝ)と娵(よめ)ぞとおもふ者、たゞ二人あり。

[やぶちゃん注:「祖母(はゝ)」原文通りとした。当初、「ばゝ」或いは「ばゞ」としたが、後で「母」とも出、ここは年取った「母」の意として濁点を振らないことにした。]

 是らが謀(はからひ)にて、庭にあら筵を敷(しき)て、寢させつ。

 心うき事ながら、寢たりけるに、程なく、表に人音(をと)して、はいる人あり。

 みれば最前の男に、一かさ大なるが、大小をさしこなして、二人、來て、

「御亭(ごてい)は、最早、拵(こしらへ)が出來たか。」

と問(とふ)。

 女房、居ながら、

「いや。是の人は、明(あか)き内より出て、いまだ歸られぬ。」

といふ程に、みなみな、何國(いづく)へか行(ゆき)たりと覺えしが、やゝありて、立歸り、

「是の亭主はさんざんの仕合(しあはせ)にて深手を負(おひ)て居たりし故、我々が肩にかけて歸りし也。ケ樣(かやう)の不覚も有物(あるもの)なれば、何(いつ)とても三人一所に行べし、といひし物を。」

と、いひのゝしりし。

 圍爐裏の側(そば)へおろすを、隆長(りうてう[やぶちゃん注:ママ。])も氣味わろく覚(おぼへ)て、筵の下(した)より見上(みあげ)たれば、疑ひもなく、我手にかけつる山賊也。

『こは、いかゞすべき。』

と、胸(むね)、さはげども、今さら、すべき樣なく、

『南無阿弥陀佛、たすけ給へ。』

と縮(ちゞみ)かへりて居たるに、祖母や女房、

「あ。」

とや、枕にひれふして、泣さけび、

「如何(いかゞ)はすへき。」

などゝ、悲しむ中に、友だちの盜人、印籠(いんらう)より氣付(きつけ)を取(とり)いだして、舐(ねぶ)らせ、手づから、

「水くみに行(ゆく)。」

とて、此旅僧を見つけ、

「是[やぶちゃん注:「この」。]御坊(ごぼう)、さいわい[やぶちゃん注:ママ。]の事也。かゝる所に泊り合せたる不肖(ふせう)[やぶちゃん注:不運。]には、起き、ともどもに看病したまへ。」

と、引たてられ、是非なく此手負の側に寄(より)て世話やくに、手負は此僧を白眼(にらみ)つめて、

「ひた。」

と、おめけども、舌、こはりて[やぶちゃん注:こわばって。]、詞(ことば)の文(あや)も聞えねば、氣味惡き中にも、安堵したる樣にて、兎角する程に、女房も母も詞を揃えていふやう、

「何(いつ)なき事に、宿を借(かす)のみならず、しかも御出家を留(とめ)しも、不思議の緣なり。辿(とて)もの不肖に、此病人の伽(とぎ)を賴(たのむ)べし。そのゆへは[やぶちゃん注:ママ。]、死するには極(きはま)りて、生るに賴(たのみ)なし。山中の事なれば、然るへき療治を賴むの筋なければ也。かならず、今宵の内は守り居て、若(もし)死なば、知らせ給へ。」

と賴まれ、隆長は心ならず、請合(うけあひ)、手負を請取(うけとり)て看病しける程に、妻子(さいし)は次の間の納戶に入りて、臥(ふし)たり。

 手負は、又、深痕(ふかきず)ながら、急処(きうし[やぶちゃん注:ママ。])をはづれたる疵也ければ、次第に心つよく持(もち)なをし[やぶちゃん注:ママ。]、氣を張(はり)て、

「ひた。」

と、此隆長司を見詰(みつめ)、

「おのれ、おのれ。」

という聲も、夜、ふくるに從ひ、何とやらん、文(あや)の聞ゆるやうに成しかば、隆長も口には高々と念佛となへながら、

『哀(あはれ)。』

何ど、そして、

『殺さばや。』

と思ひ、其あたりを見まはしけるに、石臼の挽木(ひきゞ)ありけるを、おつ取(とり)、此ものゝ咽吭(のどぶえ)にさしこみ、力に任せて押(おし)ふせければ、大力(だいぢから)におしこまれ、此挽木、むないたの骨を碎(くだき)て、吭(ふえ)のくさりを留(とめ)けるゆへ、終に死(しゝ)たる時、

「今こそ亭主、落いり給ふ也。」

と大声に呼(よび)おこせしかば、母も女も起出(おきいで)て泣さはぎけるが、剩(あまつさへ)、㙒送りの吊(とふらひ)まで賴み、卅五か日まで、とゞめて、もてなし、歸しけるとぞ。

 此咄(はなし)は、僧の身として、破戒の罪あるに似たれども、年久しく山賊(やまだち)せし因果によりて、今、此僧の手にかゝりて報(むくひ)をうけしも埋(ことは)りなり。

[やぶちゃん注:エンディグはかなり衝撃的で、劇的な奇談に仕上がっている。やはり流石は鷺水、ただものではない。

「文(あや)の聞ゆるやうに成しかば」「何か、意味(具体な恨み言か)を持った言葉のように聴こえるようになったので」か。

「吭(ふえ)のくさりを留(とめ)けるゆへ」肺と喉笛(気管)の繋がりを絶ったため、の謂いか。

「卅五か日」死後五回目の忌である「五七日(ごひちにち)忌」(掛け算で三十五日目の供養)の法要である。現在、一般に知られている「忌明け法要」は「四十九日(七七日(なななのか)忌)」に行うが、現在でも地域・宗派或いは遺族の状況によってはこの「三十五日(五七日忌)」で行う場合がある。ある葬儀社の解説によれば、ケースとしては、「四十九日(忌中)が三ヶ月に跨る場合、それを嫌って、三十五日に繰り上げて「忌明け」とする場合があるらしい。しかし、さらに調べてみると、「始終、苦が身(み=「三」)につく」という単なる言葉の語呂合わせとする説や、大阪商人が月末の忙しい集金日を三月(みつき)もとられてはかなわんから、三十五日に切り上げるようになった、という説さえあった。私自身の葬儀は献体で行わないからして何ら関係ないが。]

2019/08/08

大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)

 

  魚之下【海魚○河海通在ノ魚ハ鱸鯔鰻鱺等也】

[やぶちゃん注:標題下は割注。]

【外】

棘鬣魚(タヒ) 本邦ノ俗用鯛字日本紀神代下赤女ヲ載

 ス即赤鯛也本草不載之閩書曰棘鬣魚似鯽而

 大其鬣如棘紅紫色嶺表錄異名吉鬣泉州謂之

 髻鬣又名竒鬣或曰過臘莆人謂之赤鬃興化志

 曰赤鬃似棘鬣而大則二魚也○棘鬣赤鬃是鯛

 也為海魚之上品本邦諸州此魚多三月至五月

 最多味最美大温無毒補中益氣性峻補實膓胃

 養五藏使人肥盛陽道婦人乳汁少者不通者可

 食然傷寒熱病積聚飲食停滯有瘡癤凡有熱人

 不可食小者性和平微温為脯為塩藏不害于人

 大者其腸及子為醢補肝治内障虛人眼疾小兒

 雀目○順和名抄云崔禹錫食經云鯛都條反和

 名大比味甘冷無毒貌似鯽而紅鰭者也今按稱性

 冷者非也○鯛ニ雌雄アリ雄ハ色淡黑背ニカトアリ雌ハ

 色紅ナリ形ウルハシク性味最ヨシ雄ニマサレリ

 ○延喜式ニ平魚ト云是タヒラナリ婦女ハヒラト云朝

 鮮ニテハ鯛ヲ道味魚ト云又掉尾ト云或曰三車

 一覽平魚ヲノセタリ其形鯛ノ如シ○今案ニ鯛ノ類

 多シ○方頭魚閩書ニ出アマダイトモ云東土ニテ奥津

 鯛ト云閩書似棘鬣而小頭方味美シトイヘリ鼻ノ

 上他魚ヨリ高シ目モ髙ク付ケリ色ハ鯛ノ如ニシテ長

[やぶちゃん注:「高」「髙」の混在はママ。]

 シ鯛ヨリ性カロシ無毒病人ニ宜肉ヤハラカ也故ニ

 塩淹ニ宜シ○金絲魚黃筋アリ是亦方頭魚ノ類

 也無毒味ヨシ性カロシ○烏頰魚閩書曰似竒鬣而

 形稍黒當於大寒時取之性不好或曰其膓有大

 毒不可食頭短ク口小ナリ形ハ鯛ニ似タリ此類亦多

 シ○黃檣魚閩書ニ出タリ又漳州府志曰畧似竒鬣

 身小而薄其尾淡黃性カロシ無毒○ヒヱ鯛淡灰色

 味ヲトレリ性亦不好○海鯽閩書ニ出タリ順和名海

 鯽魚知沼鯛ニ似テ靑黒色好ンテ人糞ヲ食故ニ人賎之

 黑鯛ヒヱ鯛モ其形ハ海鯽ニ似テ別ナリ此類性味共

 ニ鯛ニヲトレリ非佳品○ヒサノ魚鯛ニ似テヒラ

 ク色黑シ又一種ヒサノ魚黑色ノヒサノ魚ニハ異

 ナリ鮒ノ形ニ似テタテ筋アリ其筋ノ色濃淡相

 マシレリ口細ク背ニ光色アリ味ヨシ性未詳○

 ノムシ鯛ノ類ナリ頭鵝ノ如シ大ナルアリ色紫紅ウロ

 コハ鯉ノ如シ味淡シ○寳藏鯛常ニ鯛ヨリ身薄ク味

 淡クシテヨシ色淡白不紅尾ニ近キ處黑㸃多シ牙ハ

 口中ニカクレテ口ヨリ見ヱス尾ニ岐ナク直ニ切タルカ如シ

 常ノ鯛ニ異レリ○黑魚長一尺餘或六寸遍身黑色

 目亦黑其形如鯛黑鯛ニハ非ス味ヨシ味亦鯛ニ似タ

 リ無毒此外猶鯛ノ類多シ不能盡記凡鯛ノ類ノ

 中方頭金絲黃檣ハ性可也其餘非良品

○やぶちゃんの書き下し文

  魚の下【海魚○河海通在の魚は鱸・鯔・鰻鱺〔(うなぎ)〕等なり。】

【外】

棘鬣魚(たひ) 本邦の俗、「鯛」の字を用ふ。「日本紀」〔の〕「神代下」、『赤女(〔あか〕め)』を載す。即ち、「赤鯛」なり。「本草」に之れを載せず。「閩書」に曰はく、『棘鬣魚、鯽に似て大に、其の鬣(ひれ)、棘のごとく、紅紫色』〔と〕。「嶺表錄異」に、『吉鬣〔(きつれふ[やぶちゃん注:現代仮名遣「きつりょう」。])〕と名づく。泉州、之れを髻鬣〔(けいれふ)〕と謂ひ、又、竒鬣〔(きれふ)〕と名づく。或いは、過臘〔(くわらふ)〕と曰ふ。莆人〔(ほひと)〕、之れを赤鬃〔(せきそう)〕と謂ふ』〔と〕。「興化志」に、『赤鬃、棘鬣に似て大なり』と曰ふ。則ち、二魚なり。

○「棘鬣」「赤鬃」、是れ、鯛なり。海魚の上品と為す。本邦の諸州、此の魚、多し。三月より五月に至り、最も多し。味、最美。

大温、毒、無し。中を補し、氣を益す。性〔(しやう)〕、峻補〔(しゆんほ)にして〕、膓胃を實〔(じつ)にし〕、五藏を養ふ。人をして肥ゑ[やぶちゃん注:ママ。]させしめ、陽道を盛んにす。婦人、乳汁少なき者・通ぜざる者、食ふべし。

然〔れども〕、傷寒・熱病・積聚〔(しやくじゆ)〕・飲食停滯、瘡癤〔(さうせつ)〕有る〔等〕、凡そ、熱有る人、食ふべからず。

小なる者、性、和、平、微温。脯〔(ほじし)〕と為し、塩藏と為す。人を害せず。

大なる者、其の腸〔(わた)〕及び子、醢〔(しほから)〕と為す。肝を補し、内障〔の〕虛人・眼疾・小兒の雀目〔(とりめ)〕を治す。

○順が「和名抄」に云はく、『崔禹錫「食經」に云はく、「鯛、都條反」。和名「大比」。味、甘、冷、毒、無し。貌、鯽〔(ふな)〕に似て、紅〔き〕鰭なる者なり』〔と〕。今、按ずるに、性、冷と稱するは、非なり。

○鯛に雌雄あり、雄は色淡黑、背に、かど、あり。雌は、色、紅なり。形、うるはしく、性・味、最もよし。雄にまされり。

○「延喜式」に「平魚」と云ふ。是れ、「たひら」なり。婦女は「ひら」と云ふ。朝鮮にては、鯛を「道味魚」と云ひ、又「掉尾」と云ふ。或いは曰はく、「三車一覽」、「平魚」をのせたり。其の形、鯛のごとし。

○今、案ずるに、鯛の類、多し。

○方頭魚(くずな) 「閩書」に出づ。「あまだい」とも云ふ。東土にて「奥津鯛」と云ふ。「閩書」に『棘鬣に似て、小頭〔にして〕方〔たり〕。味、美〔よ)〕し』といへり。鼻の上、他魚より、高し。目も髙く付けり。色は鯛のごとくにして、長し。鯛より、性、かろし。毒、無し。病人に宜し。肉、やはらかなり。故に塩淹〔(しほづけ)〕に宜し。

○金絲魚(いとよりだひ) 黃筋あり。是れ亦、方頭魚〔(くずな)〕の類なり。毒、無し。味、よし。性、かろし。

○烏頰魚(すみやき/くろだひ[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が左ルビ。]) 「閩書」に曰はく、『竒鬣に似て、形、稍〔(やや)〕、黒し。大寒〔(だいかん)〕の時に當り、之れを取る。性、好からず』〔と〕。或いは曰はく、其の膓、大毒有り、食ふべからず。頭、短く、口、小なり。形は鯛に似たり。此類、亦、多し。

○黃檣魚(はなふえだひ) 「閩書」に出たり。又、「漳州府志」に曰はく、『畧〔(ほぼ)〕竒鬣に似、身、小にして薄し。其の尾、淡黃。性、かろし。毒、無し』〔と〕。

○ひゑ鯛 淡灰色。味、をとれり[やぶちゃん注:ママ。]。性、亦、好からず。

○海鯽(ちぬ) 「閩書」に出たり。順が「和名」に、『海鯽魚 知沼』〔と〕。鯛に似て靑黒色、好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賎〔しむ〕。「黑鯛」・「ひゑ鯛」も其の形は「海鯽」に似て、別なり。此の類、性・味共に、鯛にをとれり。佳品に非ず。

○「ひさの魚」 鯛に似て、ひらく、色、黑し。又、一種「ひさの魚」、黑色の「ひさの魚」には異なり、鮒の形に似て、たて筋、あり。其の筋の色、濃淡、相ひまじれり。口細く、背に光色あり。味、よし。性、未だ詳らかならず。

○「のむし鯛」の類なり。頭、鵝〔(がてう)〕のごとし。大なるあり。色、紫紅。うろこは鯉のごとし。味、淡し。

○「寳藏鯛」 常に鯛より身薄く、味、淡くして、よし。色、淡白、紅ならず。尾に近き處、黑㸃、多し。牙は口中にかくれて、口より見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。尾に岐(また)、なく、直ちに切れたるがごとし。常の鯛に異れり。

○「黑魚」 長さ一尺餘り、或いは六寸。遍身、黑色。目も亦、黑し。其の形、鯛のごとくにして、「黑鯛」には非ず。味、よし。味、亦、鯛に似たり。毒、無し。

 此の外、猶ほ、鯛の類、多し。記すこと、盡〔(つ)〕く能はず。凡そ、鯛の類の中〔(うち)〕、方頭(くずな)・金絲(いとより)・黃檣(はなふれ)は、性、可なり。其の餘は良品に非ず。

[やぶちゃん注:普通に「鯛」「タイ」と言えば、日本人は全員が、条鰭綱スズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major を浮かべるが、御存知の通り、マダイに似ているタイ科 Sparidae の種群のみならず、全く縁のない別種にも本邦では「~ダイ」と附してきたし、現代でも標準和名に「~ダイ」を含む種は多く、マダイを連想させて購買意欲をそそるための偽名異名としてさえ用いられている。例えば、ウィキの「鯛」には、『日本では』「タイ」と言えば(五月蠅くなるのでここではティラピアを除いて学名挿入はしない)、『一般的に高級魚として認知されているが、日本人以外の民族で、この魚を「魚の王」とみなしている例はほぼ皆無である。タイ科にはマダイの他に、クロダイ、キダイ、チダイ、ヒレコダイ、タイワンダイ、アカレンコなどが含まれる。さらに広義には、タイ科以外の魚でも、扁平・大型・赤っぽい体色・白身などの特徴を持つ魚には』「~ダイ」『と和名がついていることが多く、この場合、タイ科とは分類上』、『遠い魚もいる』。『アマダイ、キントキダイ、イシダイなどはタイ科と同じスズキ亜目だが、エボシダイなどはスズキ目の別亜目、キンメダイ、アコウダイ、マトウダイなどは目のレベルでちがう魚である。このように和名にタイと名のついた魚は』実に二百種以上もあるのである。『極端な場合には』、『淡水魚のティラピア』(スズキ目ベラ亜目カワスズメ(シクリッド)科 Cichlidae ナイルティラピア(Nile tilapia)Oreochromis niloticus)『を、その学名ティラピア・ニロチカから「チカ鯛」などと命名したり、「イズミダイ」と称して』現に今、販売されている(その安さに飛びつく人は多いほど安いが、昨年、とある出ざるを得ない安会費の会合で金を出せば相応の刺身を出す店で出されたものを一切れ口に入れただけで、私は完全に勘弁だった)。『こうしたものは「あやかりタイ」などと揶揄される』とある。比較的市販されたり、水族館で見かけるそうした広義の、比較的、食品的にも魚類学的にも許し得る(私は棘鰭上目キンメダイ目キンメダイ亜目キンメダイ科キンメダイ属キンメダイ Beryx splendensを広義の「鯛」としては見做さないし、ティラピアは絶対に許さない!)「~タイ」は、例えば、サイト「キッチン Tips」の「鯛 種類は一般的に24種類。めでたい!ありがたい!と喜びの表現に」を見られんことをお薦めする。さても、従って益軒の叙述も既にしてタイ科 Sparidae からは逸脱しているので注意して読まれたい。因みに、真正のタイ科 Sparidae だけでも全世界で三十六属約百二十五種が属している。

「棘鬣魚(たひ)」「棘」(とげ)の「鬣」(たてがみ)を持った魚とは言い得て妙である。マダイの背鰭は前に十二本の棘条が並び、その後に軟条が十本続く。前部の棘条は鋭く、毒はないが、刺さるとかなり痛む。

『本邦の俗、「鯛」の字を用ふ』。「鯛」は漢語としては音「テウ(チョウ)」で、原義は魚の骨が端が柔らかいことを指す漢字で、次に本邦の狭義にそれと同じく「タイ科 Sparidae」に属する種群を指す。

『「日本紀」〔の〕「神代下」、『赤女(〔あか〕め)』を載す』「日本書紀」では巻第二の三つのパート(別書)、「海彦山彦」伝承の部分で、神に問われて、失くした釣針を示す魚として登場する。

   *

海神乃集大小之魚、逼問之。僉曰。不識。唯赤女【赤女。鯛魚名也。】比有口疾而不來。固召之探其口者。果得失鉤。

   *

是後火火出見尊數有歎息。豐玉姫問曰。天孫豈欲還故鄕歟。對曰。然。豐玉姫卽白父神曰。在此貴客、意望欲還上國。海神於是總集海魚、覓問其鉤。有一魚。對曰。赤女久有口疾。或云。赤鯛。疑是之吞乎。故卽召赤女。見其口者。鉤猶在口。

   *

海神、召赤女・口女問之。時、口女自口出鉤以奉焉。赤女卽赤鯛也。口女卽鯔魚也。

   *

の部分である。

「赤鯛」赤い色をした「鯛」のような魚であるが、これはマダイや、誰が見ても「鯛」と認証するキダイ(タイ科キダイ亜科キダイ属キダイ Dentex tumifrons)・チダイ(タイ科マダイ亜科チダイ属チダイ Evynnis japonica)などとなる。

『「本草」に之れを載せず』「本草綱目」を主引用として記す寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鯛」(流石に巻首に配する)の記載も、困って益軒同様、崔禹錫の「食經」と「閩書」の「南産志」や「日本書紀」を引いている。そちらで既に詳細な注を私は附しているので参照されたい。頭だからすぐ判る。

「閩書」前注で示した通り、その第二巻の「南産志」に載る。「閩書」は明の何喬遠(かきょうえん)撰になる、現在の福建省地方の地誌・物産誌で、全百五十四巻。

「嶺表錄異」唐最末期(九〇七年滅亡)に広州司馬を務めた劉恂(りゅうじゅん)の撰になる華南の地誌。

「吉鬣〔(きつれふ)〕」中国人にとって古来より赤は「吉」、最も目出度い色である。

「泉州」現在の福建省南東部泉州市(グーグル・マップ・データ)。泉州湾に臨む。元代には西方諸国人によってザイトンと呼ばれ、宋から元代にかけては中国最大の貿易港として繁栄したが、港口が浅く、福州・廈門(アモイ)の開港後は急速に衰えた。現在は晋江流域の物資集散地。

「髻鬣〔(けいれふ)〕」「髻」は頭の上部で髪を纏めて立てた「もとどり」を指すので、腑に落ちる。

「竒鬣〔(きれふ)〕」「竒」は「奇」の異体字。

「過臘〔(くわらふ)〕」「臘」臘月で陰暦十二月の異名で、中文サイトの辞書を見るに、「タイ」と思しい魚の名で、十二月に来たって春に去ることからの命名とあった。

「莆(ほ)」現在の福建省中部の莆田(ほでん)市附近(グーグル・マップ・データ。先の泉州市に東北で接する)。

「赤鬃」「鬃」は音「ソウ」で、原義は高く結い上げた髪。馬の鬣の意ともする。

「興化志」「興化府志」。明の呂一静らによって撰せられた現在の福建省の興化府(現在の莆田市内)地方の地誌。

「二魚なり」一方は赤色偏移はマダイでよいが、後はキダイかチダイであろう。鰭の赤みの強いのはキダイであるから、私はマダイとキダイを推す。

「本邦の諸州、此の魚、多し」マダイは本邦近海では北海道以南から南シナ海北部までの北西太平洋に分布する(奄美群島・沖縄諸島沿岸には棲息しない)。漁獲量は東シナ海・瀬戸内海・日本海の順に多く、太平洋側では南ほど多い(ウィキの「マダイ」に拠る)

「三月より五月に至り、最も多し」マダイの成魚は普段は沖合の水深三十~二百メートルの岩礁や砂礫底の底付近に棲息し、群れを作らず、単独で行動するが、産卵期の二~八月(温暖な地域ほど早い)には深みから浅い沿岸域へと移動する(同前)。

「中を補し」漢方で「中」は胃腸を指す。

「峻補(しゆんほ)」不足しているものを補う補法の一つで、専門的には補益力の強い薬物を用いて気血大虚或いは陰陽暴脱を治療する方法を指す。要は滋養強壮効果ということか。

「傷寒」昔の高熱を伴う疾患。熱病。現在のチフスの類。

「積聚〔(しやくじゆ)〕」所謂、「差し込み」で、胸部から腹部にかけての強い痛みを指す。

「瘡癤〔(さうせつ)〕」漢方で毛嚢と皮脂腺の急性炎症症状を指す。原因は熱毒によることが多いとする。

「脯〔(ほじし)〕」干物。

「内障〔の〕虛人」後の二つが眼疾患なので、ここは所謂、現在の白内障・緑内障のような症状を示す虚証(虚弱体質)の人。

『順が「和名抄」に云はく、『崔禹錫「食經」に云はく、「鯛、都條反」。和名「大比」。味、甘、冷、毒、無し。貌、鯽〔(ふな)〕に似て、紅〔き〕鰭なる者なり』源順(みなもとのしたごう)の「和名類聚鈔」の「第十九」の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」に、

   *

鯛 崔禹錫「食經」云、『鯛【都條反。和名「太比」。】味甘冷無毒貌似鯽而紅鰭者也』。

(鯛(たひ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『鯛【「都」「條」の反。和名「太比」。】は、味、甘・冷にして、毒、無し。貌〔(かたち)〕、鯽〔(ふな)〕に似て、紅き鰭ある者なり』〔と〕。)

   *

・『崔禹錫が「食經」』の「食經」は「崔禹錫食経(さいうしゃくしょくきょう)」で唐の崔禹錫撰になる食物本草書。前掲の「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測される。

・「都條反」は「鯛」の漢字音の反切。「都」の「tu」と「條」の「-hu」で「チュウ」。

・「貌」は「かたち」と訓じてよかろう。

・「鯽〔(ふな)〕」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius の鮒(フナ)類である。京の公家は純粋な海産魚の活魚なんどは見たことがないので、比較標準は概ね鯉・鮒・鰻等の淡水魚となる(鱸などはよく遡上するので見知ってはいたであろう)。ここで順が想起しているのは、本邦に最も広く分布するギンブナ Carassius langsdorfii か、或いは、琵琶湖固有種であるゲンゴロウブナ Carassius cuvieri 又は同じ琵琶湖固有種のニゴロブナ Carassius buergeri grandoculis であろう。

「延喜式」「弘仁式」及び「貞観式」(本書と合わせて三代格式と呼ぶ)を承けて作られた平安中期の律令施行規則。延喜五(九〇五)年に醍醐天皇の勅命で藤原時平らが編纂を始め、延長五(九二七)年に完成、施行は実に半世紀後の康保四(九六七)年であった。平安初期の禁中の年中儀式や制度等を記す。三代格式の中では唯一、ほぼ完全に残っている。

「平魚〔(たひ)〕」「平(たひら)」(平たい様子)で略して「タ」、「魚(いを)」で訛って「ヒ」略して「イ」で「タヒ」「タイ」と繋がる。

『是れ、「たひら」なり』益軒に謂いは「延喜式」が「平魚」と書いて「たひら」と読んで「タイ」の固有名としていたと書いている訳だが、現行では「延喜式」の「平魚」はこれで既に「たひ」と読んでいるはずである。

『朝鮮にては、鯛を「道味魚」と云ひ』「財団法人海洋生物環境研究所」発行のパンフレット『海の豆知識』第一号(PDF)の「魚名の由来(その1)――マダイ――」の「3」に「道味(トミ)から変化した」説が示されてある。『タイは、朝鮮の言葉で古くから「道味(トミ)」と呼ばれており、それが変化して今日の呼び名になったという説。ある学者は「万葉時代から、日本ではタイが通称。これは朝鮮』語『でトミと呼ぶので、それが変化したとの説もある。当時の日本の文化人は朝鮮半島の帰化人やその子孫が多かった」と述べてい』るとある。「掉尾」(とうび/ちょうび:元来がこの語は「獲られた魚が死の間際に激しく尾を振り動かすこと」を意味したが、そこから転じて「物事や文章の勢いが最後にきて強く盛んになること」を比喩する語となった)は韓国語ではどう発音するか判らぬが、「トウビ」は「ドウミ」(道味)と日本語の音は似てはいる。

「三車一覽」よく判らないが、南宋以後に成立した易学書のようである。

「方頭魚(くずな)」「あまだい」「奥津鯛」甘鯛。スズキ目スズキ亜目キツネアマダイ(アマダイ)科アマダイ属 Branchiostegus のうちで、本邦近海産は以下の四種。

アカアマダイ Branchiostegus japonicus

シロアマダイBranchiostegus albus

キアマダイ Branchiostegus auratus

スミツキアマダイ Branchiostegus argentatus

孰れも全長は二十~六十センチメートルほど。体は前後に細長く、側扁する。頭部は額と顎が角張った方形で、目は額の近くにあり、何となく、とぼけた或いは可愛らしい顔をしている。食用ではシロアマダイを最美とする。

「塩淹〔(しほづけ)〕」「淹」(音「エン」)はこの場合、「漬ける・浸す」の意。

「金絲魚(いとよりだひ)」スズキ亜目イトヨリダイ科 Nemipterus 属イトヨリダイ Nemipterus virgatusウィキの「イトヨリダイ」によれば、『体は細長くやや側扁する。尾びれは深く二叉し、上端部は糸状に伸びる。体長』は四十センチメートルで、『体色はマダイよりも淡く、ピンク色に近い。体側に黄色い縦縞が』六『本ある』。『うま味が強い白身魚で、美味であるため、経済的価値が高い魚として漁獲、取引される。日本で市販されているものは輸入されたものも多く、その場合鮮度が落ちるので注意が必要。近海物の大型のものは高値で取引される。旬は秋から冬にかけてである』。『日本では高級魚であり、特に関西で珍重する。身がやわらかく崩れやすいため、煮付け料理には向かず、蒸し魚、塩焼きにすることが多い。鮮度の良いものは刺身にもされる』。『台湾では「金線鰱」(ジンシエンリエン)、香港や広東省では「紅衫」(広東語』:『ホンサーム)と称し、中級の魚としてよく食べられている。油で煎り焼きにされることが最も多いが、台湾では、「話梅」(干し梅)の風味をつけた汁をかけたり、香港では落花生油で焼いて、トウチで味をつけるなど、地域によって風味の違いがある。ほかに、蒸し魚、塩焼きなどにする場合もある』とある。私の『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 金線魚 糸ヨリ鯛(イトヨリダイ)』及び『栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 イトヨリ・黃イトヨリ(ソコイトヨリ)』も是非、参照されたい。

「烏頰魚(すみやき/くろだひ)」まず、これは、その叙述の内の、「性、好からず」「其の膓、大毒有り、食ふべからず」という特異な注記から、釣通に人気で美味な「くろだひ」、スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii ではなく、現在でも別名で「スミヤキダイ」と呼ぶ、

スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini

に同定比定する。本邦では各地に分布し、美味い魚であるが、肝臓には大量のビタミンAが含まれており、知っていて少しにしようと思っても、味わいがいい(私も試しに少量を食べたことがあるが、実際、非常に美味い)ため、つい、食が進んでしまうことから、急性のビタミンA過剰症(食中毒)を起こす虞れが高い。症状は激しい頭痛・嘔吐・発熱・全身性皮膚落屑(はくせつ)等であり、食後三十分から十二時間程度で発症する。私の「栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スミヤキダイ(オオクチイシナギ)」も参照されたい。

「黃檣魚(はなふえだひ)」スズキ目スズキ亜目フエダイ科ヒメダイ属ハナフエダイPristipomoides argyrogrammicus体は赤みを帯びており、背部は有意に黄色を交え、体側には青色の線がある。ヒメダイ属の中では体高がやや高い。体長は四十センチメートルに達する。本邦では伊豆諸島及び静岡県以南の太平洋側・琉球列島・南大東島・尖閣諸島・小笠原諸島に分布し、インド洋から太平洋に及ぶが、ハワイ諸島にはいない。深海性のフエダイ類の一種で通常は水深百メートル以深に棲息するが、岩礁域などでも見られる。沖縄などでは、他のヒメダイ属の種群と同じく、釣りや延縄(はえなわ)等で漁獲され、食用とされ、肉は白身で、美味い(以上はWEB魚図鑑」の「ハナフエダイ」に拠った)。

「漳州府志」清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市(グーグル・マップ・データ)一帯の地誌。

「ひゑ鯛」これは「淡灰色」でマダイ型を想起して、ピンときた! スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba だ。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のヘダイのページを見たところ、益軒先生の近くの福岡県福岡市中央卸売市場での採取に「ヒエダイ」がおりました!

「海鯽(ちぬ)」スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegeli の異名として現在も生きている。正しい漢字表記は「茅渟」。これは本来は和泉国の沿岸海域の古称で、現在の大阪湾の東部の堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る一帯であるが、ここでクロダイが豊富に採れたことによる。

「順が「和名」に、『海鯽魚 知沼』」「和名類聚鈔」巻十九の「鱗介部第三十」の「竜魚類第二百三十六」に(先の「鯛」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚鈔」の当該箇所。左頁の終りから四行目。次のコマの頭が「海鯽」)の次(そこが「尨魚(くろたひ)」の次)、

   *

海鯽 辨色立成云、海鯽魚【知沼鯽見下文】。

(海鯽(ちぬ) 「辨色立成」に云はく、『海鯽魚』【知沼。鯽は下文に見たり。】〔と〕。)

   *

「好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賎〔しむ〕」この冤罪はクロダイが、殊の外、悪食であることによる。ウィキの「クロダイ」によれば、何でも『上から落ちてくる物体に喰いつく性質』があり、『釣り餌は悪食な食性に対応して』、『ゴカイ類や甲殻類に始まり、海藻類、小魚、貝類、カイコの蛹、トウモロコシの粒やスイカの小片やミカン等に至るまで、様々なものが用いられている。トウモロコシやスイカと言った』、『本来であれば』、『海中に存在しないエサは他の魚を寄せ付けないため、エサ盗りに悩まされたときの有効手段とされる』とある。しかし、次いで言っておくと、一九七〇年代後半まで、瀬戸内海の牡蠣(カキ)養殖場では、餌として驚くべき多量の人糞が巨大な船でまさに排泄するように撒かれていたのだ。私は実際にそのNHKの映像を見た。まあ、しかし、考えてみれば、昔の野菜の肥料は当たり前に人糞だったし、古く中国ではトイレの下で豚を飼って人糞を餌としていたのだから、実は別に驚くに当たらない。

「ひさの魚」スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus の異名ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のイシダイのページに、「ヒサウオ」の異名を掲げ、「延喜式」には『ひさうお』と記録されており、「ひさ」「は「ひす/ひし」と『同義の古い漁業用語で、海中の』「磯」や「岩礁」と解して『磯の魚』、『岩礁の魚』とも『言えるが、むしろ』、「ひさ」は「いさ」と『同義語であるから、『ひさうお』→『いさうお』→『斑魚』であり、すなわち斑入りの魚、縞鯛の意とみるほうが妥当』であるとする見解が述べられてある(但し、「いさ」を「まだら」の意とするのは一般的な採り方ではないのでちょっと説得力を欠くように思われる)。

『又、一種「ひさの魚」、黑色の「ひさの魚」には異なり。鮒の形に似て、たて筋、あり。其の筋の色、濃淡相ひまじれり。口細く、背に光色あり。味、よし』魚に詳しくない方は、この表現に衍文を疑われるかも知れぬが、知る人は、はた! と膝を打つ記述なのである。即ち、益軒が言っているのは、『黑色の「ひさの魚」』とは別に『一種』有意に異なる別種(実際は同種である)の『「ひさの魚」』がいて、それは『鮒』(フナ)『の形に』よく『似て』いて、特徴的な『たて筋』が『あり』、『其の筋の色、濃淡、相ひまじ』ってくっきりと縞が見える、そうして『口』が有意に『細く』尖っていて、『背に』ははっきりとした『光』沢がある奴がいる! と言っているのである。もう、お判りであろう、これはイシダイの幼魚・若年魚、或いは、♀の成魚や老成魚なのである。ウィキの「イシダイ」より引く。『成魚は全長』五十センチメートル『程度だが、稀に』全長七十センチメートル、体重七キログラムを『超える老成個体が漁獲される』。『体型は左右から押しつぶされたような円盤型で、顎がわずかに前方に突き出る。鱗は細かい櫛鱗で、ほぼ全身を覆う。口は上下の顎ごとに歯が融合し、頑丈なくちばしのような形状になっている』。『体色は白地に』七『本の太い横縞が入るが、成長段階や個体によっては』、『白色部が金色や灰色を帯びたり、横縞が隣と繋がったりもする。幼魚や若魚ではこの横縞が明瞭で、この時期は特にシマダイ(縞鯛)とも呼ばれる。ただし』、『成長につれて白・黒が互いに灰色に近くなり、縞が不鮮明になる。特に老成したオス』では、『全身が鈍い銀色光沢を残した灰黒色となり、尾部周辺にぼんやりと縞が残る程度になる。同時に口の周辺が黒くなることから、これを特に「クチグロ」(口黒)、または「ギンワサ」「ギンカゲ」などと呼ぶ。一方、メスは老成しても横縞が残る』とある。

「のむし鯛」頭部が鵞鳥(ガチョウ)のようで(?!)大型個体も見かける。色は紫がかった赤色で、鱗は鯉にそっくり。味は淡白だそうだ。う~ん? これに適合しそうなのは、スズキ亜目フエダイ科フエダイ属フエダイ Lutjanus stellatus じゃあねえか? ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のフエダイのページをごろうじろ!

「寳藏鯛」体が扁側し、尾に近い位置に明白な黒点があり(但し、益軒はそれが多くあると言っているのが悩ましいのだが)、さらに歯が「口中にかくれて」いて、普通の状態では見えない(これが大事!)『尾に岐(また)』がなく(中央の凹みと上下の伸長が全くない)『直ちに切れたるがごと』き尾鰭を持つ点で、これはスズキ目スズキ亜目フエダイ科フエダイ属クロホシフエダイ Lutjanus russellii と断定していいように私は思う。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のコロホシフエダイのページを是非、見られたい。そこに上顎上顎の口内のイッテンフエダイ(同属のフエダイ属イッテンフエダイ Lutjanus monostigma)との比較画像がある。上顎の近心部の前歯がクロホシフエダイにはないのだ! なお、ぼうずコンニャク氏の解説によれば、本種は『シガテラ毒を持つ確率の高い魚』とある。要注意!

「黑魚」最後になって息が切れてきた。全身黒(或いは黒っぽく見え)で、マダイ型で、しかし、絶対にイシダイじゃない、と言い張るとなると、

スズキ亜目イサキ科コショウダイ属クロコショウダイ Plectorhinchus gibbosus

イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus

辺りか? これを以って、おしまいととする。]

諸国因果物語 巻之一 男の亡念下女の首をしめ殺せし事

   男の亡念(もうねん)下女の首をしめ殺せし事

Ekan

 西六條に惠海といふ僧あり。一向宗なりけれども、何と思はれしにや、始の程は定(さだま)る妻もなく、淸僧をつとめられしなり。其後(そのご)、住(ぢう)惠閑(ゑかん)の代になりて、下女を心に思ひける程に、折ふしのなぐさみとしけり。

[やぶちゃん注:標題の「亡念(もうねん)」はママ。歴史的仮名遣は「まうねん」が正しい。

「西六條」東西本願寺の北直近。

「惠海」「惠閑(ゑかん)」ママ。冒頭の一文を除いて、本文内は以下、「惠閑」で一致しているから、冒頭の「惠海」が誤りである。なお、真宗僧で恵閑を調べてみると、同名の実在僧はいる(広島県広島市安芸区中野東にある浄土真宗本願寺派高峯山隨泉寺の公式サイトの当寺の縁起の中に、慶長九(一六〇四)年に『僧恵閑(えかん)なる人により開基され』たとし、『恵閑師は、賀茂郡熊野跡村(現・広島市安芸区阿戸町)の薬師堂』から『隨泉寺の前身湯原山法専寺に入寺し』たとし、『湯原山法専寺は 真言宗の道場であ』ったが、『恵閑師が真言宗から浄土真宗に改宗』し『た事は確かで』あろうとある。しかし、この実在の僧をモデルとしているとすると、少なくとも本話は江戸開幕前後(慶長八年二月十二日に徳川家康は征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府が開府されている)のえらく古い時代設定となってしまう)のだが、本話末尾に示されたクレジットから彼ではない。]

 下男(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])五助といふもの、若氣の餘りに、是も、比しも女に心をかけ、さまざまといひ寄(より)けれども、旦那の情(なさけ)かけらるゝ事を鼻にあて、却(かへり)て五助をさんざんに輕(かろ)しめ、情なくいふのみならず、万の事につきて、『ものさはり、我こそ』といはぬばかりにさばきければ、中々に、五助も今は、興ざめて、諸事につきても、憎みわたりけるに、ある時、此女、裏の口に出て、脚布(きやふ)をあらひ居ける所へ、五助も用ありて來りしを見かけ、五助に、[やぶちゃん注:「脚布(きやふ)」女性の下着である腰巻。「ゆまに書房」版は「脇布」と判読しているが、それでは読みも意味も通らない。]

「水を汲(くみ)てくれよ。」

といひけるに、五助は、常々、此をんなと、心よからず物ごとに付て、すねあひしかば、

「和御料(わごれよ)が脚布あらふ水を汲(くみ)には來ぬ。そいらは自身(じゝん)汲(くん)でつかやれ。」

と答へしゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、女も、少はらたつる氣色にて、彼脚布をあらひたる灰汁(あく)を手にて、しやくりかけける也。

 男、なかなか、腹にすえかね、

『憎い仕かた、かないで、眞二つにせん。』[やぶちゃん注:原本「かないて」。恐らくは「乱暴に引き倒す・引っ掻く」の意の「かなぐる」(ラ行四段活用)の転訛したものであろう。]

と思ひこみて、我部屋にはいりしが、又、おもひかへしけるは、

『彼(かれ)が腹に旦那の子を孕(はらみ)て、既に八月ばかりぞかし。女にこそ恨みあれ、此子に何の科(とが)もなし。よしよし、時分を待(まち)て、いかやうにもすべし。』

と、心ながら、我と心(むね)をこすりて、扣(ひか)へけれども、いかにしても、胸につかへて、いきどほりの念も止(やめ)がたく、後(つひ)にその明る日の朝、首を縊(くゝり)て死けり。

 書置もなく、何の覺ありて死たりとも知る人もなければ、表むきは亂氣のやうに聞えて事濟(すみ)ぬ。

 さて、彼女も、つゝがなくて、產(うみ)月にもなりぬとおもふ比、ある夜、惠閑と居ならびて、只二人、夜ふくる迄、心よく咄(はなし)など仕て居たりしが、寢所とりて、惠閑を寢させ、我も身繕(づくろ)ひして、小用に立けるが、緣の障子をあけて出ん、とせし時、

「なふ、かなしや、あれ、五助がこわい[やぶちゃん注:ママ。]かほして、參りました。」

と、逃てはいり、惠閑にいだき付けるを、惠閑、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、女をだきすくめ、呼(よび)つけなどして、

「何を分もない事いふぞ、『こわい、こわい』とおもへば、さやうの事ある物なり。」

などゝ、なだめて、寢させけるが、程なく產の氣(け)づきて、二、三日、過(すぎ)けるほどに、產もやすく、何事もなく、女子を產(うみ)ぬ。

 一七夜[やぶちゃん注:「ひとななよ」と読んでおく。七日間。]も過ての夜(よ)より、

「なふ、おそろしや、五助が參りまして、私(わたくし)が首をしめまする。是、引はなして下され。」

と、泣(なき)わめく程に、始(はじめ)のほどは、『血の態ぞ』とおもひ、色々と氣をつけなどしけれど、後は昼もまぼろしにあらはれ、

「ひた。」

と、首をしめけるはどに、さまざまと吊(とふら)ひ祈禱すれども、のかず。

 終に二七夜(や)めに、血をはきて、死(しに)けりとぞ。

 たしかに元祿四年の事なりとかや。

[やぶちゃん注:「血の態」「ちのわざ」。所謂、「血の道」。女性が、思春期・生理時・産褥(さんじよく)時・更年期などに訴える、眩暈・のぼせ・発汗・肩凝り・頭痛・疲労感などの諸症状で、一種の自律神経失調症。

「氣をつけ」気つけ薬を飲ませたりしたのであろう。

「元祿四年」一六九一年。]

2019/08/07

諸国因果物語 巻之一 炭燒藤五郞死して火雷になりし事

 

    炭燒藤五郞死して火雷(ひかみなり)になりし事

Sumiyaki1
Sumiyaki2

 江州龍花村(りうげむら)に惣兵衞とて燒炭(やきすみ)を商賣する者あり。

 此邊(へん)、おほくは「北山炭」とて、洛中に持はこび、銅壺(どうこ)・水風呂などに、早くおこりて、用を達する事をもてはやされ、毎日、往還して、渡世とするが故に、伊香立(いかだち)・仰木(あふぎ)・途中・龍花・鬘河(かつらがわ[やぶちゃん注:ママ。])など、みな、此[やぶちゃん注:「この」。]つゞき、朽木谷(くつきだに)、若狹海道ちかき鴻(かう)坂、崩(くづれ)坂邊の山々に、前金を渡し、炭竃(すみがま)の數を買伏(ふせ)、めんめんの家に運び取事なり。

[やぶちゃん注:「火雷(ひかみなり)」雷撃。

「龍花村(りうげむら)」現在の滋賀県大津市伊香立途中町(いかだちとちゅうちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「途中越」(とちゅうごえ)によれば、京都市左京区大原小出石町と、先の滋賀県大津市伊香立途中町の境に位置する峠(標高三百八十二メートル)を「途中越」「栃生越(とちゅうごえ)」「竜華越(りゅうげごえ)」「途中峠」と呼ぶとあり、『峠の名称は、延暦寺の僧侶で千日回峰行を創始した相応和尚(そうおうかしょう)が』、『それぞれ開山した無道寺』(貞観七(八六五)年『開山、延暦寺山内にある)と、葛川明王院』(貞観元(八五九)年『開山)の中ほどに位置する「龍花村」を「途中村」と命名したことから』、『途中越と呼ばれるようになったと伝えられている』。『この峠を通る国道』三百六十七『号はかつての鯖街道(若狭街道)をおおむね踏襲しているが、京都から出発して最初の難所がこの峠であった』とある。但し、鷺水は「龍花」と「途中」の地名を別なものとして記しており、しかも後半では「下龍花」という地名も出るから、当時の村内でこのような旧地名を冠した大字、それをまた上下(或いは上中下)に区分した小字があったものと推測される。

「伊香立(いかだち)」上記地点の南東に伊香立を冠する町が並ぶので、その辺りであろう。

「仰木(あふぎ)」滋賀県大津市仰木町(おおぎちょう)

「鬘河(かつらがわ)」大津市葛川(かつらがわ)地区。途中町をさら北に向かった位置に当たる。

「朽木谷(くつきだに)」前の葛川をさらに北に向かうと、朽木を冠した地名がたくさん出現する滋賀県高島市内の一部に至る。

「鴻(かう)坂」不詳。当時、滋賀県高島市勝野にあった大溝(おおみぞ)城は別名を鴻湖城と称し、ここから西方に向かうと、前の朽木地区である。或いは朽木からこの方面に下る坂であったと考えてよいのではないかと思う。

「崩(くづれ)坂」gonzo氏のブログ「路面と勾配」の「【大津市】崩坂(国道367号線 旧々道?)」で発見! 藤五郎の住まいの跡らしき如何にもな山道を写真で辿れる! 必見! そこの示された地図から、この附近に藤五郎の家はあったのだ!

 然るに、惣兵衞が買伏(ふせ)たる炭燒の内、崩坂の藤五郞といひける者は、山を多く持たるゆへ、竃數を、又、次第に多く燒出しけるゆへ、前銀[やぶちゃん注:「まへきん」。]とりしは餘所(よそ)事になり、藤五郞方より「ひた」と惣兵衞かたへ馬をつけて、俵(ひやう)數を積(つみ)、結句、山より其價(あたい)を敷(しく)ほどに分限(ぶげん)なるものなり。

[やぶちゃん注:ちょっと判り難いが、藤五郎の家から惣兵衛の家まで炭俵を積んだ馬を隙間なく連ねた分ぐらいの金は軽く持っていたという意味であろう。]

 殊に此惣兵衞には、二、三代も續(つゞき)たる得意といひ、なじみたる家なり。そのうへ、田舍ものゝ習ひとはいひながら、親惣兵衞などは別しての律義もの也しかば、藤五郞も心やすく賴もしう思ひけるほどに、二八月の仕切(しきり)にも[やぶちゃん注:「につぱつぐわつ」で、一年の内で商売が低調で景気が悪いとされる二月と八月の「仕切り」(商売で帳簿又は取引の締め括りをつける決算のこと。]、銀[やぶちゃん注:「かね」。]の入事[やぶちゃん注:「いること」。]なき時は、壱錢も乞事なく、また藤五郞より馬の便りに一筆の斷(ことはり)を聞(きく)時は、廿兩・卅兩の事といへども、早速、惣兵衞が世話にして算用を立(たて)けるゆへ、年々の指引帳面(さしひきちやうめん)[やぶちゃん注:収支決算帳簿。]なども、立會(たちあひ)て吟味する事もなく、互の文通のみにて、心やすくいひかはせし中也けり。

 然るを、今の惣兵衞、また二心なき者にて、いとよく親の仕向(しむけ)しごとく、萬(よろづ)たまかに[やぶちゃん注:誠実に。実直に。]氣をつけて支配しければ、いよいよ心やすくて因(ちなみ)をなしけるに、其身、生れてより、不自由を知らず、金銀の設(まふけ)にくき事をも弁(わきま)へぬ程の身上の中に育(そだち)たる身とて、昼夜遊びつゞくるを苦(く)にし[やぶちゃん注:普通の遊びに完全に飽きて楽しくなくなってしまい。]、冬の日といへども、一日を暮す長さに退屈してさまざまの事をおもひ付、あらゆる慰(なぐさみ)にたづさはり、碁・將棊(しようぎ[やぶちゃん注:ママ。])・鞠・楊弓(やうきう)・手蹟(しゆせき)・讀物、およそ人の学ぶといふ事は、其妙をこそ得ねども、心をなぐさむるの種(たね)に、と氣をつくしてつとめけるが、是も此ほどは、珍しげ、なくなるにまかせて、上方の花ざかり、床しく名にしあふ祇園・淸水も、父が御堂參りの比、おがみしまゝにて、覺束なく、歌舞妓・あやつりの芝居も望におもひけるまゝ、しばらくの逗留にて、京都に登り、今出河寺町邊に炭の得意ありしを賴みて、河原町四條のあたりに借(かり)座敷を構へ、每日の遊山に氣をのぼし、茶屋・旅籠(はたご)屋の飯に美食をくひならひ、是より外の樂しみ、またあらし、とおもひしも馴(なる)れば、やがて面白さも薄く、嶋原の風景、このもしうなりて、假初(かりそめ)に入そめしを、身上の窪(くぼみ)時としそめて、衣服・腰のもの・髮かたちより、万に上がたの風流をみならひて、心いたり、氣高ぶりけるほどに、故郷の事を忘れ、奢(おごり)に目をくらまし、大分の金銀おほかたは、惡性にとられ、剩(あまつさへ)、博奕(ばくち)といふ物に迄、身の皮を剝(はぎ)て打いれしゟ、ほうほう[やぶちゃん注:ママ。]の体(てい)にて、在所に歸り、手前の不自由、今、にはかに目に見え、心に思ひあたりしより、筋もなき欲をおこし、各別の氣にぞなりにける。

[やぶちゃん注:「楊弓(やうきう)」「ゆまに書房」版は「揚弓」とするが採らない。

「是より外の樂しみ」「ゆまに書房」版は「外」を「他」とするが、「霞亭文庫」版は明らかに「他」ではなく「外」の崩し字である。

「惡性」「あくしやう(あくしょう)」。心や振る舞い・身持ちが悪く、特に酒色に耽るような性悪(しょうわる)の連中。

「筋もなき」あり得ないほどに道理を外れた。

「各別の氣」常軌を逸した異常な思い。]

 かゝりける程に、藤五郞方より山價(やまて)・炭竃(すみがま)の仕入などに入用の事ありて、いつもの如く、いひおこせし金、三百兩ありしかども、指替(さしかゆ[やぶちゃん注:ママ。])べき銀[やぶちゃん注:「かね」。]もなく、此手あひになりて、借(かす)人もなければ、兎角と首尾わろく、不屆をいひかけ[やぶちゃん注:「只今、手元不如意につき、用立て出来ない」と返信し。]、

「今は。年々の帳面、立會て、急度(きつと)、勘定すべし。」

と藤五郞方より催促せられ、さしあたりての無分別おこりて、此藤五郞が姪の、幼少より我方に來り、内の賄(まかない[やぶちゃん注:ママ。])して居たりしを、若さかりのころ、寢ざめのつれづれに、何かと、情かましういひかはせし事ありしを、屑(とりへ)に[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「屑」には「俄かに・急に」の意があり、それなら意味は通る。]、さまざまとだましすかして、在所へ達し、藤五郞が判を盜出(ぬすみだ)させて謀判(ばうはん)[やぶちゃん注:花押や押印された文書を偽造すること。]をこしらへけるまゝ、帳面の吟味しまひて、高六十貫匁[やぶちゃん注:本作が刊行された一七〇〇年代で金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)であったから、「匁」を「文」と読みかえれば、二百四十両となる。]の過上ありといひ懸(かけ)られ、藤五郞は覺えなき借り越(こし)に、立腹、よのつねならず、奉行所を經て、戦決(たいけつ)[やぶちゃん注:ママ。]におよぶ。

 此、年貢の納銀[やぶちゃん注:「なうきん」。]を引替て借しける由、跡かたもなき虛言(うそ)に引おとし、公義の上納を不足したりければ、藤五郞理分ながら[やぶちゃん注:藤五郎方の申し立ては理屈は通っていたものの。]、みすみすの空言に言消れ[やぶちゃん注:「いひけされ」。]、判形、まがひなきにいひ分立ずして[やぶちゃん注:「いひわけたたずして」。]、六十貫匁の銀を上納すべしとの仰[やぶちゃん注:「おほせ」。]、おもく、何と、そして、此無實、申わけして、一度、曇りなき旨を露顯したく、種々と歎き、日をこめて[やぶちゃん注:何度も。]、奉行所に訴へけれども、何を證據にいひ出すべき術(てだて)もなければ、延引の科(とが)、いよいよ增り[やぶちゃん注:「まさり」。]藤五郞が家を闕所(けつしよ)あるべきに極りける。

[やぶちゃん注:「闕所」土地・家屋などを没収する財産刑。但し、江戸時代には闕所は庶民に対する死刑・遠島・追放などの付加刑として規定され、その主罰の軽重によって田畑・家屋敷・家財等の範囲で没収に違いがあった。ここは、後の展開からは藤五郎は軽追放で家屋敷と家財の没収であったようである。]

 是を恨におもひて、藤五郞、

「今は。よし。此の謀判によりてかゝる無實にあふとも、おのれ死して、此いきどほりは散ぜんものを。」

と、いそぎ家財をあげて、未進(みしん)につき、立殘る山・林(はやし)を妻子にとらせなどして、かたづけ、其身は、

「三年が内に惣兵衞を取殺し、急度(きつと)、おもひしらすべし。」

との書おきをしたゝめ、山を出て、下龍花(しいもりうげ)に來り、道中に座して、心よく自害して死たり。

[やぶちゃん注:「未進(みしん)につき」未納とされた年貢分を山を売り払ってその支払に当てた。それでも残ったから、「立殘る」(たちのこれる)で、僅かな山林であるが、それを妻子に分け与えることが出来たのである。]

 惣兵衞は、一反[やぶちゃん注:「いつたん」。「一旦」。]、此大事をいひぬけ、理潤(りじゆん)[やぶちゃん注:似非の理屈で利潤(損害を被らずに済んだ)を得た。]になしたるを悅び、いよいよ、非義・不理屈を好みて、身上をかせぎけるが、藤五郞が死期(しご)の一念、こはく心にかゝりけるまじ[やぶちゃん注:「まじ」は中世以降、打消推量ではなく、単純な推量(「む」に同じ)に用いられた。ここもそれ。]。終に何ほどの事あれども、下龍花に行[やぶちゃん注:「ゆく」。]事なく、二年あまりつゝしみゐけるに、惣兵衞が母は禪宗にて、死期(しご)の遺言に任せ、途中村の何首座(しうそ)とかやいふ庵(あん)に葬(はうふり)を賴みける故、今年七年忌のとふらひ、默止(もくし)がたく、逮夜[やぶちゃん注:「たいや」。葬儀の前夜。]より、途中[やぶちゃん注:地名。]に行て、年忌、心ゆくばかり執行ひ[やぶちゃん注:「とりおこなひ」。]、明る齋過て[やぶちゃん注:「あくるときすぎて」。明けた翌日の御前中が過ぎて。]、酒に醉つぶれ、何かとくだをまき、ながながと口上を述(のべ)て立(たち)かねける程に、いとゞしく短き秋の空、昼にかたぶきて、道のほど、心もとなければ、下男にすゝめられて、荷馬(にむま)に、いだき[やぶちゃん注:「抱き」。]乘(のせ)られ、ふらふらと醉ざめの眠(ねふり)、しきりなるを、鞍つぼにとりつきつゝ、行ぬ。

[やぶちゃん注:「途中村の何首座(しゆざ)とかやいふ庵(あん)」不詳。但し、現在の途中町内には地図上では三つの寺を現認でき、その内、禅宗寺院は明星寺(みょうじょうじ)と臥雲寺であり(孰れも臨済宗で、明星寺は確実に江戸時代には既にあった)、そのどちらかの異名か、あるいはそれらの塔頭(たっちゅう)であったのかも知れない。「首座(しうそ)」(しゅそ:「そ」は「座」の唐音)は禅宗の寺院内に於ける修行僧の内の第一の位の者を指し、彼らは後に師の法嗣を受けると、当該寺の住持となるか、或いは別に或いは住持から隠居後に、当該寺内に独立寺院格である塔頭(「~庵」「~院」と呼ぶ)を作るのがごく一般的であった。]

 『彼(かの)藤五郞が死たりし[やぶちゃん注:「ししたりし」。]山あいも程ちかくなるよ』と思ふころ[やぶちゃん注:下男が、である。]、不思議や、今まて晴わたりし空、俄にかき雲り、時ならぬ電(いなびかり)、おそろしくひらめき、飛礫(つぶて)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]のやうなる雨、橫ぎりに吹(ふき)つけ、跡先(あとさき)も見わかぬ迄、暗くなりたれば、惣兵衞も与風(ふと)、心づきて、小氣味わろく、おそろしかりければ、馬を打たてゝ、一さんに馳(はせ)けれども、雷(いかづち)、おびたゞしく鳴(なり)ひゞきて、

「けしからぬ天氣、こは、そも如何に。」

と心も暗む折ふし、後の方に、雲一むら、殊に眞黑(まつくろ)に墨を打あげたるやうなるが、近(ちか)々と舞さがり、惣兵衞が乘(のり)たる馬の上へかゝるよ、と見えし時、殊にすさまじき稻光の、ほのほを蒔(まき)たるやうに光りけるに、あやまたず、續(つゞい)て、大きなる神鳴、

「びしびし。」

と落かゝり、山も谷もゆるぎたちて、しばらくは、はためきける。

 これに氣をとられて、下男(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])も遙なる谷へ、

「ずらずら。」

と、踏みはづし、こけ入て、死ぬばかりの体(てい)なりけり。

 されども、やうやう、此神鳴より、空、晴(はれ)て、跡、すゞしくなりけるまゝに、下男も、漸(やうやう)と、谷より、はい上り、

「扨も、旦那はいかゞ成給ひけん。」

と其邊(へん)、目をとめて見ありきけるに、馬も二町[やぶちゃん注:二百十八メートル。]ほど脇なる岩陰に鞍繩(くらなわ[やぶちゃん注:ママ。])もちぎれ、鞍もかたぶきて、嘶(いなゝき)立たり。

「こは、何といふ事ぞ。旦那は何所(いづく)にか。」

と、いよいよ、尋ねめぐりける足もとに、身内の骨といふ物は、雷(いかづち)のために、拔(ぬか)れ、手・足・頭・目・鼻、五体は、少も[やぶちゃん注:「すこしも」。]疵つく所なくて、只(ただ)、皮ばかり、續き、澁(しぶ)紙をひろげたるやうになりて、居たり。

 されども、目は、

「きろきろ。」

と、はたらき、口も、少づゝ動きける程に、旦那を少(ちい)さく押(おし)たゝみて、馬に付、やうやうと上龍花に歸り、さまざまと寮治しけれども、叶へ(かなふ)べき事ならねば、角(かく)て、廿日ばかりありて、死(しゝ)たり。

[やぶちゃん注:このエンディングはなかなかに素敵にキョワい(骨抜きの皮だけの眼玉の「きろきろ」(或いは「ぎろぎろ」かも知れぬ)が、かなり、クる!)が、最下劣の悪党に堕落した惣兵衛息子(私は何よりかつてたらし込んで肉体関係を持った藤五郎の姪を使って印形(いんぎょう)を盗ませたというところが甚だ許せない)には何等の憐みも感じぬ故、これでこそよい、これでよい。]

青木鷺水 諸国因果物語 始動 / 序・巻一目録・巻之一 商人の金を盗み後にむくひし事

 本カテゴリ「怪奇談集」で青木白梅園主鷺水「諸國因果物語」の電子化注に入る。

 青木鷺水(あおきろすい 万治元(一六五八)年~享保一八(一七三三)年)は江戸前・中期の俳人で浮世草子作家。名は五省、通称は次右衛門、白梅園(はくばいえん)は号。京都に住んだ。俳諧は野々口立圃或いは伊藤信徳門下であったと思われるが、松尾芭蕉を尊崇し、元禄一〇(一六九七)年跋の「誹林良材集」の中では、彼は芭蕉を「日東の杜子美なり、今の世の西行なり」(日本の杜甫であり、今の世の西行である)と絶賛している(「早稲田大学古典総合データベース」の同書原典の当該頁画像を見よ。但し、彼が芭蕉の俳諧に倣おうとした形跡は殆ど認められない)。「俳諧新式」「誹諧指南大全」などの多くの俳書を刊行したが、元禄後期からは、浮世草子作者として活躍し、本書の他、既に本「怪奇談集」で電子化注を完結している「御伽百物語」(六巻)・「古今堪忍記」(七巻)・「新玉櫛笥」(六巻)などを書いた。

 本「諸國因果物語」宝永四(一七〇七)年に江戸で開版したものであり、末尾の筆者本人の跋文の冒頭で、『近代諸國因果物語六卷はさきたちて梓(あづさ)に入(いれ)し百物語の撰次後編(せんしこうへん)なり』とあり、末尾には『近日出來申候』との後添えを持つ「近代 芭蕉翁諸國物語」全六巻の広告もあり(但し、こちらは刊行されなかったようであり、原稿も残っていない)、それを合わせて三部作と成し、確信犯で「百物語」+「因果物語」+「諸国物語」という仮名草子怪異小説の全パターンを開陳する算段であったことが判る。それだけに、彼が尊崇した芭蕉仮託の「芭蕉翁諸國物語」が開版されなかったことは返す返すも惜しい。

 私は同作を昭和六〇(一九八五)年ゆまに書房刊・小川武彦編「国文学資料文庫三十四 青木鷺水集 第四巻」で所持しているが、生憎、当該書は新字体表記であるので、加工データとして当該書をOCRで読み込み、それを改めて「東京大学附属図書館霞亭文庫」の当該板行原本画像で視認し、正字化することとした。挿絵(絵師不詳)は、その「ゆまに書房」版を使用させて貰った。見開き二枚の場合は、合成して近づけていおいた(因みに言っておくと、パブリック・ドメインの芸術作品を平面的に写真に撮っただけのものには著作権は発生しないというのが文化庁の見解である。そもそも日本の公立美術館サイトやある種の古典籍の刊行本に、パブリック・ドメインの平面絵画画像や挿絵に対して著作権を偉そうに主張しているのを見かけるが、これらには実は全く法的根拠はないのである。外国人から見ると、これは頗る異常に見えるものと思われる。海外の美術館で写真撮影が禁止されていること自体が稀である。日本はそうした意味で、芸術作品の非現代的な占有が未だにまかり通っている事実はもっと批判されねばならないといつも思っているので、一言、謂い添えておく。但し、「ゆまに書房」版にはそのような不当な注意書きはないので誤解のないようにされたい)。

 原本はかなりの漢字に読みが振られているが、それは私が読みが振れると判断したもののみに附すこととした。「ゆまに書房版」は翻刻に於いては正統派で、句読点を打っておらず、原本通り、全一話ベタ書きを踏襲しておられるが、少し長いものでは、それはかなり読み難い。そこで、私の判断で句読点・記号・字下げ等を加え、台詞及びシークエンスごとの改行等を施して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。なお、「ゆまに書房版」は変体仮名の「八」「三」のそれをカタカナ「ハ」「ミ」等で起しているが、私は生理的に厭なので「は」「み」等とひらがなで示しておいた。原本の漢字の崩しで表記に迷った場合は正字を採用した。また、本書には濁点は一切ない(これが寧ろ難読の元凶)で「ゆまに書房」版でも同様)が、大幅に私の判断でそれを加えた(例えば、先に引用した跋の「梓」の読みは「あつさ」であり、以下の「序」の冒頭の「しばしば」は「しはしは」である)、無論、それは多量であるので、特に注記を入れていない。時には濁点に誤りがあるかも知れぬ。清音であれば意味が大きく変化すると感じられた方は御一報戴けると嬉しい。

 必要と認めた語等については、文中或いは段落末・各話の末尾にストイックに注を附した。【2019年8月7日始動】]

 

 諸國因果物語

 

    序

 月波(つきなみ)の會、滿座の後(のち)、しばしば酒など酌(くみ)かはして、かたみに好(すけ)る道の事、こしかたの事、面白きおかしき心にうつり行まゝに語りあはせ、いどみあふ中に、生德(しやうとく)、はなしを好(すき)て、爰(こゝ)かしこ、浮岩(うかれ)ありき、古きあたら敷(しき)の品(しな)を、わかず、聞入て、おもしろがる人、有。しかも、

「今宵は當(とう)にあたりたり。」

とて、日のうちより、袴うち着て、我が梅園の筵に庖丁を取、膳をふくの、世話燒(せわやき)に來りぬ。されば、連衆(れんじゆ)よりのぞみけるは、

「亭主かたの氣にすける取なり、けふの骨折がいに、いざ、何てまれ、はなしを始てよ。」

といふ程こそあれ、各(おのおの)こぞり、寄耳(よりみゝ)をかたぶけ、額をあつめ、

「何をがな。」

と案じわづらふに、例の亭主がいはく、

「いざとよ、かゝる大勢が中には、手打、腹かゝゆるやうのはなしは、必(かならづ)、かまびすしき物ぞ。彼(かの)女・わらはべの交(まじらひ)に、おのかじゝ、語り出しても、跡、こはし。」

などゝいひさして、

「おぢおのゝくなる因果はなしこそ、望(のぞま)しけれ。」

とつぶやく。

「さらば、夫(それ)こそやすけれ。」

迚の事に、

「新しく、聞(きゝ)なれぬを。」

と、極(きは)めて、かたはしより、順講(じゆんかう)のごとく、せがみ立て、語らせ賡(つぎ)けるほどに、いつとなく、はなしの數つもりて、是も六卷の文書とはなれりける樣る

           白梅園鷺水撰

成る

[やぶちゃん注:本文の最後の「樣る」(推定判読)と末尾の「成る」(同前)は「ゆまに書房版」にはない。思うに、この「成る」は「樣る」を誤ったのを「見せ消ち」で直したものではないかとも思われる。識者の御教授を乞う。

「浮岩(うかれ)ありき」水面に浮いている軽石が流れ動くことに換喩したものであろう。樋口一葉の「曉月夜(あけつきよ)」(明治二六(一八九三)年発表)の冒頭に、『櫻の花に梅が香とめて柳の枝にさく姿と、聞くばかりも床しきを心にくき獨りずみの噂、たつ名みやび男(を)の心を動かして、山の井のみづに浮岩(あくが)るゝ戀もありけり』とある。

「今宵は當(とう)にあたりたり」「今夜は私が接待の役に当たりましょう」の謂いか。

「亭主かたの氣にすける取なり」先の接待役を自律的に引き受けた男と鷺水の亭主方(がた)の、如何にも細やかな気配りと執り成し方。

「骨折がいに」「がい」はママ。「骨折り甲斐に」。接待への報謝として。

「いざとよ、かゝる大勢が中には、手打、腹かゝゆるやうのはなしは、必(かならづ)、かまびすしき物ぞ。彼(かの)女・わらはべの交(まじらひ)に、おのかじゝ、語り出しても、跡、こはし。」「いやいや! このように大勢が集まった中にあっては、手を打って、腹を抱えるような面白い話は、必ずや、さわにあって大騒ぎとなろうほどに。聴いたそれをまた、のちのち、女子(おなご)や頑是ない子どもらとの交わりの最中、おのおの方がこれ、軽率にうっかりと話しまうと、あとあと、面倒なことになろうぞ。」といった謂いか。ここで鷺水が警戒しているのは艶笑話ではないかと私は推測している。

「極(きは)めて」決して。一同、約束して。

「順講(じゆんかう)」順番に講義・話をすること。既にして百物語の体裁である。

「賡(つぎ)ける」「賡」は音「ショク・ゾク・コウ・キョウ」で「継ぐ・続ける」の意。

 以下、巻之一の目録。各標題は原本では四字下げであるが、引き上げた。]

 

 

諸國因果物語卷之一

商人(あきんど)の銀(かね)を盜(ぬすみ)て後に報(むくひ)し事

炭焼藤五郞死して火雷(ひかみなり)になりし事

男の亡念下女の首を絞殺(しめころ)せし事

山賊(やまだち)しける者佛罰(ぶつばち)を得し事

妻死して賴(たのみ)を返(かへ)せし事

 

 

諸國因果物語卷之一

     商人の金を盜み後にむくひし事

Akindo

 元祿三年の比(ころ)なりしか、京より河内(かはち)がよひして、木綿の中買(ちうかい[やぶちゃん注:ママ。])するものあり。名は㐂(き)介とぞいひける。

 惣(そう)じて、かやうのたぎひは、木綿類によらず、何の道にても、根元(こもと)[やぶちゃん注:製造元。]へ行て買出(かひいだ)すは、まどしき物なり[やぶちゃん注:「その作り手は貧しい者たちである」の謂いか。]。されば、此㐂介も、年ごろ通ひなれ、よくその買(かひ)口を知るといへども、家ごとに五十端・二十端と織(おり)ためてある事、なし。此ゆへに、一日一日と日數をこめて[やぶちゃん注:詰めて。そうしないと品のストックがなくなるからである。]、爰かしこをかけめぐり、二反・三反づゝ買とり、二圓(まる)[やぶちゃん注:「圓」は布巻物の数詞。]・三圓と荷ごしらへして、京に持はこびつゝ、渡世とする事なり。

 此年の霜月廿日に、また、いつもの如く仕入せんため、金三四十兩、打かえ[やぶちゃん注:「打交」で「うちかへ」が正しい。着物の裾の打ち合わせたところ。広い意味の「裾」。]にいれ、河内に下り、爪割村(うりわりむら)といふ所に常宿ありければ、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、是に落着(おちつき)て休みぬ。

 明(あく)れば、平㙒(ひらの)・万願寺・六万寺などゝいふ村々をめぐりて、かいためし[やぶちゃん注:ママ。]、木綿どもを宿へはこばせ、暮かゝる空ともいはず、いつもありきなれたる所とて、猶、織(おり)おろしを買んため、山よせの㙒を、はるばると行過(ゆきすぎ)ける比、山畠に出し百姓どもは、暮ちかくなる鐘と共に、おのが里々へ歸りける折なれば、人影とては一人もなかりけりと見えて、いともの淋しき㙒景色也。

 爰に大窪村ちかく、追頭越(おふたうごゑ[やぶちゃん注:ママ。])にかゝる山よせの畑に、山畑村(やまたけむら)より出作りせし弥右衞門といふもの、其日はおそく仕舞(しまひ)て、たゞ一人、鋤(すき)打かたけ、歸らんとせし折から、此㐂介を見付、

『肝ふとき旅人かな。定て此筋を暮(くれ)て急がぬは、木綿男なるべし。あはれ、金もこそあるらめ。折ふし、見とがむる人かげもあらず。打殺して取ばや。』

と、おもひけるより、音もせず、とある木かげに待かけたるを、㐂介は、かゝる事もしらず、鼻歌を諷(うた)ひて何こゞろなく行過る所を、弥右衞門、うしろより鋤をふりあげ、なさけなく大けさに打かけしに、絕入(ぜつじゆ)して、眞(ま)あふのけに仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ所を吭(ふゑ)[やぶちゃん注:のどぶえ。]のあたりを、散々に衝切(つききり)、先、ふところへ手を入て見るに、案のごとく、金子二十四、五兩もやあるらんと見えて、小(ちいさ)き宰府に入たるを、『天のあたへ』と悅び、この金を取て、弥右衞門は、ひそかに歸りぬ。

 屍(かばね)はいたづらに狼の餌食となり、手足を、爰かしこに引ちらしけるを、明(あく)る日、里の者ども見付、やうやうに取隱し、山ぎわに埋(うづ)みぬ。

 此事のありさま、誰(たれ)しる人もなくて、七年を過(すぐ)しけるに、弥右衞門、手まへ、何としても次㐧に不仕合つゞき、今日を暮すべき手だてもなく成ゆくまゝに、

『彼(かの)大窪の田畠(でんぱく[やぶちゃん注:ママ。])を質(しち)に入、綿作る糞(こやし)が銀にもせばや。』

と思ひ、庄屋・肝煎(きもいり)を賴み、垣内村(かきのうちむら)の冨貴(ふうき)なる家に談合しかけ、金二十七兩を借りとゝのへ、此よろこびに酒(さけ)長(ちやう)しけるほどに、日くれて、三人打つれ、山畑村へと歸りしに、折しも、廿三日の夜なりしかば、月は眞夜半(まよなか)ならで出る氣色なく、宵の明星、あかあかと暮わたる空にきらめき、薄々と、物の色あひ、見ゆる比、彼(かの)追頭越(おふとうごゑ[やぶちゃん注:ママ。])ちかくなりゆくまゝに、弥右衞門にも、与風(ふと)、おもひ出るまゝ、

『哀や。過(すぎ)つるころ、もめん買を手にかけて金を奪ひしも、爰の程にこそ。』

と心の内に念佛して足ばやに行すぐる、遙(はるか)の後(うしろ)より、

「弥右衞門、弥右衞門。」

と呼かへす者、あり。

「こは誰(たれ)ぞ。聞なれぬ聲なるが。」

と立歸りてとがむれども、後先(あとさき)に人かげとては、見えず。

 又、打つれて行んとすれば、又、

「弥右衞門。」

と呼(よぶ)ほどに、庄屋も肝煎も、何とやらん、うす氣味わろく、足ばやになりて、さきへ步むに、弥右衞門は、いかにしても不審はれず、身の毛たちて、氣味わろけれども、

『何ものなれば、我をよぶにや。若狐(ぎつね)などのたぶらかすにてあらば、打殺しても、のけばや。』

の心にて、其あたり、木陰(こかげ)、山よせの草むらなど、心を配りて見まわりしに、思ひもよらず、弥右衞門が足もとより、大きなる聲を出して呼(よぶ)。

「はつ。」

と、おもひて、さしのぞくに、いかにも、しやれたる髑髏(どくろ)なり[やぶちゃん注:「しやれ」は「曝(さ)る」の連用形の音変化。永い間、陽や風雨に曝されてて形が崩れるの意。]。

『扨は。日ごろの怨念、この頭(かしら)に殘り、今、また、我を呼(よぶ)なりけり。』

と、おもふに、首筋より、つかみ立るやうなりしかば、つきたる杖に、此されかうべを指(さし)つらぬき、

「己(おのれ)、にくい奴かな。我、手にかけてより此かた、七年なるべし。尤(もつとも)うらみは有べけれども、其恩には、我、またとふらふ事、度々なるに、今、我名を呼(よび)て、何とするぞ。」

と、つぶやきなから、やかて遙の脇へ投(なげ)やり、何の氣もなき顏して歸りける。

 その隙(ひま)に、庄屋・年寄などは歸りたりと思ひしに、此ふしぎに心もとなく、弥右衞門をあながちに呼(よび)しも疑はしくて、こはく、物かげに隱れ、此ひとり言(ごと)を聞屆(とどけ)しより、弥右衞門が惡事、つゐに露顯して、奉行所にひかれ、御仕置にあひけるも、ふびんの事也。

[やぶちゃん注:「爪割村(うりわりむら)」現在の大阪市平野区瓜破(うりわり)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「平㙒(ひらの)」大阪府大阪市平野区附近

「万願寺」大阪府八尾市東山本町(ひがしやまもとちょう)及びその南の東山本新町附近の旧地名。

「六万寺」大阪府東大阪市六万寺町附近

「大窪村」大阪府八尾市大字大窪附近。

「追頭越」この文字列ならば歴史的仮名遣は「おふとうごえ」が正しい。大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町を山越えで結んでいる立石街道と合わせた街道の一部の名称で、現在は一般には「おおと越(ごえ)」と呼ばれているようである。ウィキの「立石街道・おおと越」によれば、『大阪と奈良を結ぶ奈良街道の一つとして整備され、信貴山に朝護孫子寺』(平安中期建立か)『が開かれてからは、その参拝道としても機能した』とあり、『おおと越は、元は「大道越」「おうとうごえ」などと呼ばれていたようであるが、いつしか、「おうとごへ」→「おと」などと短く訛って呼ばれるようにもなった。桃林堂前の道標は「をうとう越」、中高安小学校前の道標は「おうと越」、玉祖神社近くの道標は「おと越」となっている。 なお、八尾市は看板などで「おと越」と案内している』。『八尾市服部川で立石街道と分かれると中高安小学校の北側をかすめ通って東進、少しずつ北に向きを変えながら古い民家が立ち並ぶ坂道を登っていく。このあたりの道は入り組んでいて分かりにくいが、ガードレールや電柱のいたる所に黒い文字で「おうとごえ」「おうと」「オト」などと矢印とともに落書きされており、道標となっている。(だれが何の目的で書いたかは不明。) 玉祖神社を遠くに見渡せる場所で山道に向かうが、前述のとおり』、『廃道同然となっており、前述の落書き道標は用を成さない』。『奈良県側では、落書きの類を含めて おおと越を示す道標は十三街道との分岐点に存在する。石造りの道標には「左 ひらの 住吉」と記されており、「おおと越」の名称は認知されていないようである。 道としては分岐点から雑草に埋もれてしまっており、道標がないとそこに道があったことさえ見落としてしまいそうな状況である』とある。ウィキの「大窪」によれば、「御祖神社跡」(グーグル・マップ・データ)がそのルート途中となり、『旧集落の西外れのため池近くにあった神社(式内小社)。現在は玉祖神社に合祀されており、跡地は児童公園となっているが、大きなクスノキが何本かそびえており』、『往時を偲ばせる。東脇の細い道はかつての「おと越え」の道筋で、北のガードレールに方向を示す落書きがある』とある。喜助が弥右衛門に襲われたのは、ここを東へ行った山麓部と考えられる。

「山畑村(やまたけむら)」大阪府八尾市山畑(やまたけ)。因みに、ここはかの「俊徳丸(しんとく丸)伝説」の主人公の生地とされる場所である。

「出作りせし」以上の地理から、弥右衛門のここの持ち畑は、住んでいる山畑村よりも有意に南の山の方に離れており、だから出張(でば)って耕作をするという「出作り」と表現しているのである。

「庄屋・肝煎(きもいり)」孰れも、当時の村政を担当した村役人の一つで、村方三役の内の呼称。庄屋の呼称は関西・北陸に多く、関東では名主というが、肝煎という呼んだところもある。法令伝達・年貢納入の決算事務・農民管理などを実務担当する、領主支配の末端の行政官であったが、身分は農民で、世襲や一代限り或いは隔年交代などと任期は一定しないが、入会・水利の管理維持や農業技術の指導などの面で、村落共同体の指導者的性格も持っていた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。平凡社「百科事典マイペディア」の「村方三役」には、一般に東国では名主・組頭・百姓代、西国では庄屋・年寄・百姓代(組頭)で構成される。「地方(じかた)三役」とも呼ぶ。三役の名称は地域・時代により種々あり、名主・庄屋を肝煎・小割元(こわりもと)・乙名(おとな)、或いは、組頭・年寄を肝煎・長百姓、百姓代を長百姓・村横目などと呼ぶ場合もあったとある。「肝煎」は「肝を入れる」(仲をとりもつこと)に由来する。ここはそうした纏め役が複数おり、最後の部分では「庄屋・年寄」と言い換えてあるから、恐らくはそれぞれには差がなくほぼ同等で、かく呼び分けていただけととっておく。

「垣内村(かきのうちむら)」大阪府八尾市垣内(かいち)附近。

「廿三日の夜なりしかば、月は眞夜半(まよなか)ならで出る氣色なく」午前零時半を過ぎないと月は出ない。

「首筋より、つかみ立るやうなりしかば」後ろから、大きな何者かが、襟首を摑んで引き上げるような気がしたので。弥右衛門の恐怖心のなせる技ととるのがよい。自ら、殺害の罪を口にして墓穴を掘るとしてこそ、弥右衛門は致命的に救いようがなくなるからである。]

2019/08/06

大和本草卷之十三 魚之上 いだ (ウグイ) / 魚之上(河魚)~了

 

【和品】

イダ 大河ニアリ漁人曰モト海アリ川ニ上ル京都筑紫ニ

 テイタト云坂東ニテサイト云マルタ云上州利根川

 ニ多シミゴイニ似テ長ク圓シ又ボラニ似タリミゴイヨリ短シ

 味不好下品ナリ細骨多シ或ミゴイト同ト云非也ミ

 ゴイハヨク鯉ニ似タリ與此別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

いだ 大河にあり。漁人、曰はく、「もと、海にあり、川に上る」〔と〕。京都・筑紫にて「いだ」と云ひ、坂東にて「さい」と云ひ、「まるた」と云ふ。上州利根川に多し。「みごい[やぶちゃん注:ママ。]」に似て、長く、圓し。又、「ぼら」に似たり。「みごい」より短し。味、好からず、下品なり。細骨、多し。或いは「みごい」と同じと云〔ふも〕、非なり。「みごい」は、よく鯉に似たり。此れと〔は〕別なり。

[やぶちゃん注:異名と「いだ」「まるた」という異名などから総合して考えるに、コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis と思われる。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のウグイのページを見ると、「イダ」の地方名として、福岡県久留米市が挙がっている(益軒に近い)し、「マルタ」の異名も最後の方に挙がっている。産地には栃木・長野・滋賀が示されており、栃木県ならば、利根川が頷ける。ウィキの「ウグイ」によれば、『淡水棲で』あるが、元来、『河川の上流域から下流域に幅広く生息』しており、また、『一生を河川で過ごす淡水型と』別に、『一旦』、『海に出る降海型がいる。降海型は北へ行くほど』、『その比率が増す』とあるので、どこの漁師であるか判らぬが、「もと、海にあり、川に上る」という謂いも必ずしもウグイと齟齬はしない。

「みごい」コイ目コイ科カマツカ(鎌柄)亜科ニゴイ(似鯉)属ニゴイ Hemibarbus barbus の別称。ニゴイは頭部が特徴的に長く、頭部上部が有意な傾斜を以って尖って、一種、狐のような顔に見えるので、ウグイと見誤ることはない、似ていないと私は思う。

「ぼら」条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。ニゴイよりは似ているかも知れない。特に小型で婚姻色が出ていない場合、素人はボラと間違える人もいるようだ。

 以上を以って「魚之上【河魚】」は終わっている。]

大和本草卷之十三 魚之上 鯊(はぜ) (ハゼ類)

 

鯊 溪澗ノ中及海潮ノ入処ニモ多シ其目背上ニアリテ

 甚近シ其餘ハ皆本草時珍所言ノコトシ肉軟脆味淡

 美性カロシ骨ト鰭トヲ去テ病人可食煮蒸皆佳又

 爲肉餻爲鮓膾尤佳攝州大坂河尻最多彼土人

 甚賞之山中ノ川ニアルハ小ナリ江海ニアルハ大ナリ其子

 味又佳是亦江魚ノ良品ナリ或曰其苗ヲイサヾト云三

 四月河ニノホル叓夥シ

○やぶちゃんの書き下し文

鯊(はぜ) 溪澗の中及び海潮の入る処にも多し。其の目、背上にありて、甚だ近し。其の餘は、皆、「本草」の時珍の言ふ所のごとし。肉、軟脆(なん〔ぜい〕)〔にして〕、味、淡く、美し。性〔(しやう)〕、かろし。骨と鰭とを去つて、病人、食ふべし。煮〔(に)〕・蒸〔(むし)〕、皆、佳〔(よ)〕し。又、肉餻〔(かまぼこ)〕と爲し、鮓膾〔(すしなます)〕と爲〔して〕、尤も佳し。攝州大坂〔の〕河尻、最も多し。彼〔(か)〕の土人、甚だ之れを賞す。山中の川にあるは小なり。江海にあるは大なり。其の子、味、又、佳し。是れ亦、江魚の良品なり。或いは曰ふ、其の苗を「いさゞ」と云ふ〔と〕。三、四月、河にのぼる叓〔(こと)〕、夥し。

[やぶちゃん注:条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に属するハゼ類。ウィキの「ハゼ」によれば、世界の海域・汽水域・淡水域に約百八十九属で約千三百五十九種が棲息し、本邦でも百七属四百九十三種が棲息しており、最も繁栄している魚群の一つであるとある。既に述べたが、世界的に見てもハゼ類では純淡水産種は少ない(海と川を回遊するハゼ類はおり、その中には陸封型の個体群もいはする)。なお、現代中国語で「鯊」という漢字はサメ(鮫)類を指すので注意が必要。

「攝州大坂〔の〕河尻」平凡社「百科事典マイペディア」によれば、古く平安から鎌倉時代にかけて、京都から淀川を下って西国に向かう途中、必ず船をつないだといわれる泊(とまり)を指す。「河尻」の地名やその様子は、当時の日記・紀行文・物語・和歌など多くの史料に見ることが出来る。「河尻」は本来は一般名詞で「河の末」の意であるから、当該史料によって、その比定地が異なる場合や、また、特定地名と考えられないケースも認められるが、「高倉院厳島御幸記」(譲位直後の高倉院の厳島御幸に随行した新院別当源通親の旅日記)や、平安末期の公卿中山忠親の日記「山槐記」の治承四(一一八〇)年三月十九日の条などに見える「川しり」「河尻」などは、現在の兵庫県尼崎市南東部の大物町(だいもつちょう)附近(この中央部附近。グーグル・マップ・データ)に比定される。しかし一方で、「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年十一月五日の条や九条兼実の日記「玉葉」の同年十一月四日の条などにみえる「河尻」は、その「大物浜」とは別の場所であり、現在の淀川を少し溯った大阪市東淀川区の江口(えぐち:この附近。グーグル・マップ・データ)を指すのではないかと推定されている、とある。孰れのロケーションを見ても、そこに多くいる(いた)とならば、益軒がここでイメージしているそれは、ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科 Oxudercinae トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus(成体体長で十センチメートルほどで、体は灰褐色を呈し、小さな白点と大きな黒点の斑(まだら)模様を有し、眼球は頭頂部に突き出ていて左右がほぼ接し、平坦な干潟を見渡すのに適応した作りとなっている)と考えて間違いない。

「山中の川にあるは小なり」山間の渓流におり、小型となると、ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ヨシノボリ属 Rhinogobius のヨシノボリ類(体長は成魚でも四~十センチメートル前後。現在、本邦では少なくとも十四種を数える)か。

「其の苗」その稚魚。

「いさゞ」現在、標準和名の「イサザ」は、琵琶湖固有種であるゴビオネルス亜科 Gobionellinae ウキゴリ属イサザ Gymnogobius isaza(成魚でも全長は五~八センチメートルほどしかない。成魚は昼間には沖合いの水深三十メートル以深にいるが、夜になると表層まで浮上して餌を摂る日周運動では知られる)に与えられているが、ここで以下の「三、四月、河にのぼる叓、夥し」がその種の習性を指すとするなら、ちょっと時期が遅いが、ゴビオネルス亜科シロウオ属シロウオ Leucopsarion petersii を指して言っているように私には思われる。彼らは現行、琵琶湖以外で広汎に「イサザ」と呼ばれている。他にも現在は各地で「いさざ」は魚ではなく、ごく小さな小海老(アミ)である節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目アミ目アミ亜目アミ科イサザアミ属イサザアミ Neomysis awatschensis をも指す語である。]

大和本草卷之十三 魚之上 鮧魚(なまづ) (ナマズ)

 

鮧魚 甚大ナルモノアリ本草曰無毒或曰有毒肉餻

 トスレハ病人ニモ無害虐疾ニナマツヲ食ヘハヨクヲツル妙

 方ナリ箱根ヨリ東ニ無之ト云

○やぶちゃんの書き下し文

鮧魚(なまづ) 甚だ大なるもの、あり。「本草」に曰はく、毒、無し、或いは曰はく、毒、有り〔と〕。肉-餻(かまぼこ)とすれば、病人にも、害、無し。虐疾〔(ぎやくしつ)〕になまづを食へば、よく、をつる[やぶちゃん注:ママ。]妙方なり。箱根より東に、之れ、無きと云ふ。

[やぶちゃん注:本邦の代表種は条鰭綱新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属マナマズ(ナマズ)Silurus asotus でこれは東アジア広域に渡って分布し、本邦では現在では(益軒は箱根以東に棲息しないとするが)沖縄などの離島を除く全国各地の淡水・汽水域に広く分布している。他に日本固有種である以下の三種が棲息する。

ビワコオオナマズ Silurus biwaensis(日本産では最大級で最大体長一メートル二十センチメートル、体重二十キログラム。一メートルを超える個体は殆んどが♀。琵琶湖と淀川水系のみに棲息。琵琶湖に於ける食物連鎖の頂点に立つ魚食性である。肉に特有の臭みがあるため食用とされない)

イワトコナマズ Silurus lithophilus(琵琶湖と瀬田川の一部及び余呉湖のみに棲息。他に比して岩礁底を好む特異性がある。マナマズに最も近縁とされ、日本産ナマズでは最も美味ともされる)

タニガワナマズ Silurus tomodai(愛知・長野・岐阜・静岡の河川)

「鮧」は音「テイ・ダイ」で漢語で「大ナマズ」=「鯷」「鮷」、或いは音「シ・ジ」で単に「ナマズ」=「鮎」(本邦でアユに当てるのは国字の用法に過ぎない)を指す。また、「鯰」は完全な国字で本来は中国にはなかった。但し、現代中国語ではこれを逆輸入して使用しており、「鯰形目鯰科鯰屬」と漢名分類に載る。なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「鮎」も参照されたい。

『「本草」に曰はく、毒、無し、或いは曰はく、毒、有り〔と〕』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之四」の「鮧魚」の「肉」の項には確かに、

   *

肉【氣味】甘、溫、無毒。詵曰、『無鱗、有毒、勿多食』。頌曰、『寒而有毒、非佳品也。赤目、赤鬚、無腮者、並殺人。不可合牛肝食、令人患風噎涎。不可合野猪肉食、令人吐瀉』。弘景曰、『不可合鹿肉食、令人筋甲縮』。時珍曰、『反荆芥』。

   *

私には以上の記載を見ていると、ナマズが魚類では珍しく鱗を持たないところ、大物は結構、面構えが獣のように悪食に見え、実際に貪欲であることなどから、イメージとしての有毒性保有や、獣肉との食い合わせの毒性を見ているように思われてならないが、如何?

「肉-餻(かまぼこ)」蒲鉾。

「虐疾」マラリアの類い。]

大和本草卷之十三 魚之上 金魚

 

金魚 昔ハ日本ニ無之元和年中異域ヨリ來ル今

 世飼者多シ小時黑色長乄紅ニ。老テ白シ白キヲ銀

 魚ト云孑〻蟲ヲ餌トス或麪餅ヲ食ス藻ノ内ニ

 子ヲ生ス

○やぶちゃんの書き下し文

金魚 昔は日本に、之れ、無し。元和年中、異域より來たる。今世、飼ふ者、多し。小なる時、黑色、長〔(ちやう)〕じて、紅〔(くれなゐ)〕に、老ひて、白し。白きを銀魚と云ふ。孑〻蟲(ほうふりむし)を餌(えば)とす。或いは、麪餅(むぎもち)を食す。藻(も)の内に子を生ず。

[やぶちゃん注:フナの突然変異を人為的に選択し、観賞用に交配を重ねた結果生じたコイ目コイ科コイ亜科フナ属キンギョ亜種キンギョ Carassius auratus auratus。近年、DNA分析のによって東アジアの温帯域を原産地とするフナ属ギベリオブナ Carassius gibelio が起原種であることが判明した。

「元和年中」一六一五年~一六二四年。江戸前期。ウィキの「キンギョ」によれば、『日本では鎌倉時代にはその存在が知られていたが、金魚そのものは室町時代に中国から伝来した。後述の』「金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)」によれば、文亀二(一五〇二)年に『和泉国堺(現在の大阪府堺市)に渡来したとある』。『ただ当時はまだ飼育方法や養殖技術等が伝わっておらず、定着には至らなかった』。『江戸時代に大々的に養殖が始まったが、その初期においてはまだまだ奢侈品であった。江戸前期、大坂の豪商である淀屋辰五郎は、天井にとりつけた舶来物のガラス製の大きな水槽の中に金魚を泳がせ、下から眺めることにより暑気払いをしたと伝えられている。江戸中期にはメダカとともに庶民の愛玩物として広まり、金魚売りや金魚すくいなどの販売形態も成立した。俳句においては夏の季語となっている』(本「大和本草」の刊行は宝永六(一七〇九)年で江戸中期の最初期に当たる)。『金魚愛好が広まったのは』、延享五(一七四八)年に『出版された金魚飼育書である安達喜之』の「金魚養玩草」の『影響が大きいといわれている』。『ただ当時は現代のような飼育設備もなかったために、屋敷に池を持っているような武士・豪農・豪商でもなければ金魚を長く生かし続けることは不可能で、庶民は金魚玉と呼ばれるガラス製の球体の入れ物に金魚を入れ』、『軒下に吊るして愉しんだり』、盥(たらい)や『陶器・火鉢などに水を張って飼育したりしたようである。ガラスが普及する前は桶などに入れていたため、金魚を上から見た見た目が重要視された』。『化政文化期には現在の三大養殖地で大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格も下がったことから』、『本格的な金魚飼育が庶民に普及する。品評会が催されるようになったほか、水槽や水草が販売され始めるなど飼育用具の充実も見られた。このころには歌川国芳の戯画「金魚づくし」(天保年間)をはじめ、当時の浮世絵や日本画の画題としても広く取り上げられている。幕末には金魚飼育ブームが起こり、開国後日本にやってきた外国人の手記には、庶民の長屋の軒先に置かれた水槽で金魚が飼育されているといった話や金魚の絵などが多く見られる』とある。

「孑〻蟲(ほうふりむし)」言わずと知れた、蚊の幼虫であるボウフラ。

「餌(えば)」「えさ」の古称。「餌食(えば)み」の略。

「麪餅(むぎもち)」麦の粉を水で湿らせて小さく丸めたもの。]

大和本草卷之十三 魚之上 目髙 (メダカ)

 

【同】[やぶちゃん注:同前。]

目髙 長五六分至一寸首大ニ目高ク出タリ池塘

 小溝ニ多シ水上ニ浮游ス不堪食漢名未詳或曰

 後苦鮒トナル未審

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

目髙 長さ、五、六分〔より〕一寸に至る。首、大に、目、高く出でたり。池塘・小溝に多し。水上に浮游す。食ふに堪へず。漢名、未だ詳らかならず。或いは曰ふ、『後、「苦鮒(しぶな)」となる』〔と〕。未だ審〔(つまび)〕らかならず。

[やぶちゃん注:条鰭綱ダツ目 Beloniformes メダカ科Adrianichthyidae メダカ亜科メダカ属 Oryzias で、本邦産種は以下の二種。

キタノメダカ Oryzias sakaizumii(本州日本海側及び東北・北陸地方の淡水から汽水域)

ミナミメダカ Oryzias latipes(本州太平洋側及び中国・四国・九州地方と南西諸島の淡水から汽水域)

 ホタルやムツゴロウなどの安易な自然保護活動による生態学的考慮なしの移植が、逆に、在来の弱い近縁種や目立たない生物種(微小貝類等)を知らないうちに多数絶滅させてしまい、また、深刻な遺伝子プールの攪乱を惹起していることは、私はもう二十数年前から高校教師時代、再三、警告を発してきたが、メダカもその例に漏れないウィキの「メダカ」(そのウィキ自体は属レベルの解説である)の「メダカの地理的変異と保護活動の問題」の項から引く。『絶滅危惧種であるメダカを守ろうとする保護活動が、メダカの遺伝的多様性を減少させる遺伝子汚染という新たな問題を起こしている』。『メダカの生息水域ごとの遺伝的な違いは詳しく研究されており、アロザイム分析により遺伝的に近いグループごとにまとめると、北日本集団と南日本集団に大別される』。二〇〇七年八月の『レッドリスト見直しの際は、メダカの絶滅危惧II類(VU)の指定が「メダカ北日本集団(Oryzias latipes subsp.)」と「メダカ南日本集団(Oryzias latipes latipes)」の』二群に、二〇一三年二月の第四次『レッドリストでは、「メダカ北日本集団(Oryzias sakaizumii)」と「メダカ南日本集団(Oryzias latipes)」の』二種に『分けて記載された』。『北日本集団と南日本集団は遺伝的には別種といってよいほど』の『分化がみられるが、飼育下での生殖的隔離は認められておらず、両者の分布境界にあたる丹後・但馬地方ではミトコンドリアDNAの遺伝子移入が確認されている』。『この大きな遺伝的分化は』、『少なくとも数百万年前には発生していたといわれて』おり、『アロザイム』(酵素(enzyme)としての活性がほぼ同じであるにも拘らずタンパク質分子としては別種である(アミノ酸配列が異なる)ような酵素の中で、同じ種類の遺伝子(但し、別個体の遺伝子又は同一個体中の対立遺伝子であって配列がわずかに異なるもの)に由来するものを指す)『分析によれば、南日本集団については生息している水域ごとに「東日本型」、「東瀬戸内型」、「西瀬戸内型」、「山陰型」、「北部九州型」、「大隅型」、「有明型」、「薩摩型」、「琉球型」の』九『種類の地域型に細分されるとの結果がでて』おり、『さらに、ミトコンドリアDNAの解析からもこれらの水域ごとに遺伝的な違いが検出されている』。『絶滅危惧に指摘されたことで、にわかに保護熱が高まった結果、こうした遺伝的な違いなどへの配慮をせずにメダカ池やビオトープ池を作り、誤って本来その地域に放流すべきでない他の地域産のメダカや、観賞魚として品種改良を施された飼育品種であるヒメダカ』(緋目高:メダカの突然変異型品種の一つ)『を放流した例が多数ある』(私はプロとして誤まるはずのない専門組織がそれをやってしまった事実を実際に知っている)。『実際に、関東地方の荒川・利根川水系に生息する個体群のほとんどは、瀬戸内地方や九州北部に分布するはずのメダカであることが判明している』。『現在は、地域ごとに遺伝的に大きな多様性を持った地域個体群の局所的な絶滅の進行が危惧されており、遺伝的多様性に配慮した保護活動が望まれている。メダカの保護には生息地の保全がまず重要とされ、安易な放流は慎むことが求められる』。『生態系全体を考慮したうえでやむを得ず放流が必要な場合は、日本魚類学会が示した「生物多様性の保全をめざした魚類の放流ガイドライン」などを参考にしつつ、専門家の意見を聞くべきである』とある。

「食ふに堪へず」ウィキの「メダカ」によれば、『新潟県の見附市や阿賀町などでは佃煮にして冬場のタンパク質源として保存食にする習慣があり』、『新潟県中越地方では』「うるめ」『とよばれている。新潟市にある福島潟周辺でも、メダカをとって佃煮にしていた。少量しかとれず、少し季節がずれると味が苦くなるので、春の一時期だけ自家で消費した』。『長岡市付近では、味噌汁の具にも使われていた』とあり、『愛知県ではメダカを生きたまま飲み込むと婦人病に効くとの伝承があった。その他、地域によっては泳ぎがうまくなる、目がよくなるなどの伝承もあったらしい』とある。

「漢名、未だ詳らかならず」現代中国では「メダカ属」を「青鱂屬」とし、ミナミメダカにその漢名を当てている。

「苦鮒(しぶな)」コイ目コイ科コイ亜科フナ属Carassius auratus亜種ギンブナ Carassius auratus langsdorfii の異名。勿論、迷信。]

大和本草卷之十三 魚之上 岸睨(きしにらみ) (オヤニラミ/二重同定)

 

【同】[やぶちゃん注:同前。]

岸睨 山中ノ河ニアリ五六寸或七八寸形ハヱニ

 似テ扁シ又鯽ニ似タリ目四アリ其内二ノ目ハ小ナリ

 非眞眼色褐黑漢名不知

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

岸睨(キシニラミ) 山中の河にあり。五、六寸、或いは七、八寸。形、「はゑ」に似て、扁〔(ひらた)〕し。又。鯽〔(ふな)〕に似たり。目、四つ、あり。其の内、二〔つ〕の目は小なり。眞眼に非ず。色、褐黑。漢名、知らず。

[やぶちゃん注:これは名前と、体幹が有意に平たく、ちょっと見がフナに似ていいて、「目」が「四つ」あって「其の内」の二つ「の目は小」さい(但し、こっちが本物)。残りの二つは「眞眼に非ず」で、体「色」が「褐黑」となれば、これはもう、既に「大和本草卷之十三 魚之上 水くり(オヤニラミ)」で同定比定した、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科ペルキクティス科Percichthyidae オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari としか思えない。益軒が、どのような点を以って区別し、別種として挙げたかは私には判らない。]

大和本草卷之十三 魚之上 ムギツク

 

【同】[やぶちゃん注:前項「ワカサギ」の「和品」を指す。訓読ではそれに代えた。]

コモツヽキ 西州ニコモツヽキト云魚アリ恰ワカサキニ似テ

 不同池溝小流ニアリ首小ニウロコ細シ長二三寸ニ不

 過ハヱニ似テ圓シ可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

こもつゝき 西州に「こもつゝき」と云ふ魚あり。恰〔(あたか)〕も「わかさぎ」に似て、同じからず。池・溝・小流〔れ〕に在り。首、小に〔して〕、うろこ、細し。長さ、二、三寸に過ぎず。「はゑ」に似て、圓〔(まろ)〕し。食ふべし。

[やぶちゃん注:これは条鰭綱コイ目コイ科カマツカ亜科ヒガイ族ムギツク属ムギツク Pungtungia herzi の異名。本種には「ビナシュ」「ビナス」「ギナショ」「トンガリ」がある。また、関西に於いては「クチボソ」「クチソボ」「ソボクチ」などの異名があるが、これはコイ科モツゴ属モツゴ Pseudorasbora parva の異名として、恐らくは関東に於いて広汎に用いられるので注意が必要である。少なくとも私は少年期を関東で過ごし、今や消失してしまった裏山の溜池や用水路で「モッゴ」(モツゴ:漢字表記「持子」「脂魚」)を漁った。そうして誰もが大抵、「モッゴ」と「クチボソ」が同種の異名であることを知っていた。また、モツゴは基本、全身が銀白色であるのに対し、ムギツクは背側が褐色(腹側は白色)であり、成長期に一時期に見られる吻端から尾鰭の基底まで体軸及び側線に沿った一本の太い黒色縦帯が、モツゴの側線に見られる細いそれとは明らかに異なる

 ムギツクは「麦突」で、吻端が細長く尖ること(モツゴと同じ)、下顎に一対の髭を有すること、背部の色や幼魚の鰭の色が麦の穂に似ていること等によるものであろう。ウィキの「ムギツク」によれば、分布は本邦では福井県・三重県と、淀川水系以西の本州と四国(香川・徳島)及び『九州』(大分・熊本・佐賀・長崎・福岡・宮崎)』であるが、『琵琶湖内とその流入河川でもまれに』『天然分布』として『見られる』。また、国外では朝鮮半島にも棲息する。全長は十~十五センチメートル。先に示した黒色縦帯は、十センチメートル『以上の成熟した個体になるに伴い』、『消失する。稚魚は各鰭が橙色に染まる』。『流れの緩やかな河川、用水路等に生息する。数尾から十数尾からなる小規模な群れを形成し』、『生活する。昼行性。性質は臆病で』、『石の下や水草等の物陰に潜んでいることが多い』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、水生昆虫や藻類などを石をつつきながら食べる』。四~六月に『石の下、水草等に卵を産みつける』が、時に『オヤニラミ』(条鰭綱棘鰭上目スズキ目ペルキクティス科オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari)『やドンコ』(スズキ目ハゼ亜目ドンコ科ドンコ属ドンコ Odontobutis obscura:日本産ハゼ類では珍しい純淡水魚)等『に托卵することもある』。『受精卵は、水温』二十二~二十五度では約四、五日で『孵化する』。『開発による生息地の改変に伴い、本来の生息地では生息数の減少がみられるところが多い。一方で、人為的』『に、関東地方に移入されている』。『一般的ではないものの、食用とされることもある。肉は淡白で、塩焼き・唐揚げ・甘露煮などにできる。肉質は良い』が、『内部寄生虫(肝吸虫』(扁形動物門吸虫綱二生亜綱後睾吸虫目後睾吸虫亜目後睾吸虫上科後睾吸虫科後睾吸虫亜科 Clonorchis 属カンキュウチュウ Clonorchis sinensis:旧称「肝臓ジストマ」)『等)を保持する可能性があり、生食は薦められないとされる』。『観賞魚として飼育されることもある。鮮やかな縦帯と橙色の鰭をもつので、日本国内に分布する淡水魚では人気が高く、飼育も容易とされている。本来の生息地ではない地域でも販売されているが、野外へ流出した場合、モツゴと雑種を形成することによる遺伝子汚染や、病気の伝播等の危険性が指摘されている。加えて、本種を含めた国内移入種』『による生態系の攪乱が懸念されている』とある。

「はゑ」「鰷(はや)」複数(現行では概ね六種)の魚を指す。先行する「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を参照されたい。]

大和本草卷之十三 魚之上 ワカサギ

 

【和品】

ワカサギ 又名アマサギ江河ノ中或海ニモ生スハエニ似タ

 リ又鰷ノ如シ長五六寸色白ク味美シ佳品ナリ冬

 至以後味劣ル江戶及ビ北土ニアリ若州三方ノ湖多シ

 西州ニハ未見之

○やぶちゃんの書き下し文

わかさぎ 又の名、「あまさぎ」。江河の中、或いは海にも生ず。「はえ」に似たり。又、鰷(はや)のごとし。長さ、五、六寸。色、白く、味、美〔(よ)〕し。佳品なり。冬至以後、味、劣る。江戶及び北土にあり。若州三方(みかた)の湖に多し。西州には未だ之れを見ず。

[やぶちゃん注:条鰭綱キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ属ワカサギ Hypomesus nipponensisウィキの「ワカサギ」より引く。『日本の内湾や湖に生息する冷水性の硬骨魚で、食用魚でもある』。益軒が「海にも生ず」と記す点を疑問とする方もおられるかも知れぬが、本種の『生息域は内湾(沿岸海域)、汽水域、河川、湖などで』、『水質が悪い状況や低水温や塩分に対して広い適応力があり』、『成長期に降海する遡河回遊型(両側回遊型)』『と、生涯を淡水で生活する河川残留型(陸封型)が存在する』『なお、同一水域内でも降海型と残留型が存在することが網走湖、小川原湖で報告されている』。『遡河回遊型は孵化後に降海するが、一定期間を汽水域で過ごす。産卵の為に河川を遡上する際は淡水順応を行わず、一気に遡上し、産卵、降海までを』二『時間程度で行っているとする研究がある』のでこれは正しい。異名は「アマサギ」(山陰地方)「オオワカ」「コワカ」「サイカチ」「サギ」「シラサギ」「シロイオ」「メソグリ」などがある。『漢字で「公魚」と書くのは、かつての常陸国麻生藩が徳川』十一『代将軍徳川家斉に年貢として霞ヶ浦のワカサギを納め、公儀御用魚とされたことに由来する』ものであり、「公魚」は本来は中国由来の漢名ではない。但し、現在、現代中国ではワカサギ属を「公魚屬」とし、ワカサギには「西太公魚」の正式漢名を与えており、これは逆輸入の変形表記であろう。他に「鰙」「若鷺」とも書く。『天然分布域は、太平洋側は千葉県或いは茨城県(霞ヶ浦)以北、日本海側では島根県(宍道湖)以北の北日本、北海道で、日本以外ではロシア連邦ハバロフスクのウスリー川、オホーツク海に注ぐサハリンの河川、ベーリング海に注ぐアナジリ川』、『カリフォルニア州にも分布する』。『食用魚としての需要も高いことから、日本各地の湖やダムなどでも放流された個体が定着して』おり、明治末から大正中期の一九一〇年代に、『水産動物学者の雨宮育作』(あめみやいくさく)『が、霞ヶ浦のワカサギを山中湖、諏訪湖へ移植し、各地の湖沼に普及した経緯がある。今や、南西諸島と伊豆・小笠原諸島を除く全国に分布域を広げている。鹿児島が南限とされている』(従って、本来の棲息域としては益軒の「西州には未だ之れを見ず」というのは正しい)。『成魚の全長は』十五センチメートルほどで、『体は細長く』、それぞれの鰭は『小さい。背びれの後ろには小さなあぶらびれがある。また、背びれは腹びれより少しだけ後ろについていることで近縁種のチカ』(ワカサギ属チカ Hypomesus japonicus:(漢字は「魚」+「近」)但し、本種は内湾性の海水魚である)『と区別できる。あぶらびれの大きいイシカリワカサギ』(ワカサギ属イシカリワカサギ Hypomesus olidus:本邦では北海道の河川に連続する池沼又は河跡湖に分布する、純粋な淡水魚である)『という近縁種もいる』。『地域にもよるが』、『産卵期は冬から春にかけてで、この時期になると大群をなして河川を遡り、淡水中の水草や枯れ木などに付着性の卵を産みつける。卵の直径は』一ミリメートル『ほどで』、一『匹の産卵数は』一千から二万粒『にも達する。寿命は概ね』一『年で』、『産卵を終えた親魚は死んでしまうが、北海道、野尻湖、仁科三湖など寒冷な地域では』二年魚・三『年魚も見られる』。『食性は肉食性で、ケンミジンコやヨコエビなどの動物プランクトンや魚卵や稚魚などを捕食する。一方、魚食性の大型魚類(オオクチバス、コクチバス、ニジマス、ヒメマスなど)や水辺を生息域とするサギなど鳥類に捕食されている』。『富栄養化などの水質汚濁に対する適応力が高く、そのような湖沼でふつうに見られる。水質良好であることを表現する意図で「ワカサギが棲める○○湖(沼)」といった解説がなされることがあるが、むしろ「ワカサギしか棲めない」とみる方が妥当な場合もある』とある。

「はえ」「鰷(はや)」複数(現行では概ね六種)の魚を指す。先行する「大和本草卷之十三 魚之上 ※(「※」=「魚」+「夏」)(ハエ) (ハヤ)」を参照されたい。この叙述を見るに、益軒は「はえ」(益軒は「はゑ」とも表記する)と「はや」を区別しているわけだが、それぞれが現行のどの種を指しているかは、判らない。

「若州三方(みかた)の湖」「三方五湖(みかたごこ)」で、福井県三方郡美浜町と同県三方上中郡若狭町に跨って位置する五つの湖の総称(最奥の三方湖(淡水)から水月湖(すいげつこ:汽水)・菅湖(すがこ:汽水)、及び一部で若狭湾に繋がっている久々子湖(くぐしこ・汽水)と日向湖(ひるがこ:海水)。総て繋がっている)。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在も棲息している。]

2019/08/05

譚海 卷之三 薩摩曆の事

 

薩摩曆の事

○島津重豪朝臣、明和八年公儀へ御願有(あり)。その邦に天文臺を建(たて)らる。朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)に吉田靫負(かげひ)と云(いふ)人天學に精しく、御取立(おとりたて)にて改曆の事を仰付(おほせつけ)られ、牛込神樂坂に第を賜(たまは)り、高き所なれば殊更に司天臺を築(きづく)に及(およば)ずとて、其地にて測量の事を行(おこなは)れ、三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也。此時節、薩摩より願(ねがひ)ありて、家中一人、鞍負門人になり、隨身(ずいじん)して、曆學、稽古し、其うへ、上京して土御門家へ伺候し、彼(かの)家曆法、悉く傳へ、又、三年をへて、薩州へ歸れり。是より薩摩にても造曆の法、行るゝ也。近來(ちかごろ)、學校をも、その邦に建られ、上梁(じやうりやう)しぬと云(いへ)り。此朝臣、豁達(かつたつ)の人にして書も能書(のうしよ)也、京都にて某檢校平家琵琶に上手なるをも、二百石にて抱(かかへ)られたり。在城中に三重の閣を建られ、八仙卓の興行も時々ありとぞ。鎌倉賴朝卿の墓所をも再興せられし人也。

[やぶちゃん注:「薩摩曆」「さつまごよみ」。安永(一七七二年~一七八一年)頃から薩摩藩で領主及び重役に頒布した仮名暦。幕府天文方より、特例として認められたもので、他の当時の暦にはない独特の暦法を持つ。「薩州暦(さっしゅうれき)」とも呼ぶ。

「島津重豪」(しげひで 延享二(一七四五)年~天保四(一八三三)年)は薩摩藩第八代藩主で島津家第二十五代当主。第十一代将軍徳川家斉の御台所(正室)広大院の父。将軍家岳父として「高輪下馬将軍」と称された権勢を振るった一方で、諸学問やヨーロッパ文化に強い関心を寄せた「蘭癖大名」としても知られる。参照したウィキの「島津重豪」によれば、安永二(一七七三)年、『明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている』とある。

「明和八年」一七七一年。

「朝士御徒士衆(てうしおかちしゆう)」幕府派遣の宮中警護職。

「吉田靫負」ウィキの「天文方」(てんもんがた)の「吉田家」の項に、『佐々木長秀(後に吉田秀長)が宝暦の改暦(宝暦暦)の際に西川正休の息子忠喬の作暦手伝となり、明和元年』(一七六四年)に『天文方に任』ぜられ、『宝暦暦修正事業を命じられた。以後、吉田家は幕末まで天文方を継承した』とあり、そこに『吉田秀長-秀升-秀賢-秀茂』と継承者を載せる。吉田秀長(元禄一六(一七〇三)年~天明七(一七八七)年)は「朝日日本歴史人物事典」によれば、『江戸中期の幕府天文方吉田家の初代。佐々木文次郎長秀と称していたが』、後に『秀長と改め』、『さらに』安永九(一七八〇)年、『本姓の吉田に復し』、『四郎三郎と改めた。宝暦暦の改暦準備で天文方が上京中に』、『西川正休の養子要人の暦作手伝を勤めた。宝暦』二(一七五二)年には『御用もないため』、『出仕におよばず』、『といい渡されたが』、『宝暦暦の欠陥が明らかになると』、明和元(一七六四)年に、『再び召し出され』、『天文方に任命され』、同六年に『宝暦暦の修正案をまとめ』(これが本文の「三年をへて業(げふ)卒(おは)り、今行(おこなは)るゝ所は則(すなはち)其新曆也」とあるのと一致する)、「修正宝暦甲戌元暦」・「修正宝暦甲戌元暦続録」など十四『巻を上呈した。この暦法は明和』八『年暦から用いられたが』、実は『独創性もなく』、ただ『定数を少々変えただけであった』とある。但し、彼に「靫負」の通称は見当たらない。

【2019年8月6日追記】いつもお世話になっているT氏より情報を頂戴した。先に結論を言うと、「吉田靫負」は前の引用に出た「吉田秀升(ひでのり)」で、「吉田秀長」の嫡子(嗣子)であったT氏の示して下さった「寬政重修諸家譜」卷第千二百九十八(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像。])に、

「吉田靫負」は初名を秀房(ひでふさ)、吉十郞、靫負とあって、『明和二年十二月二十八日より父』吉田秀長『に添』ひ『て新曆脩正の事をつとめ、』(中略)『明和四年閏九月十一日』、『天文方見習』ひ『となり、七年四月二十三日』、『さきにうけたまわりし脩正の事』、『成』る『により』、『黃金二枚をたまふ。安永八年十二月二十六日』、『天文方となり、天明七年十二月四日』、『遺跡を繼』ぐ[やぶちゃん注:以下、【 】は割注]『【時に四十三歳』、『廩米二百俵】』。『寬政元年八月十七日』、『さきに阿蘭陀永續曆の和解を改正し、且』、『彼』の『曆は天度に合』は『ざるのむねを述』べ、『別に考ふるところありて』「曆日永年捷見」『となづけし書を献ぜしかば』、『白銀七枚をたまはる。二年五月二十七日』、『御弓槍奉行に轉じ、天文方をかぬ。九年十二月二十七日』、『さきに京師におもむき、改曆の事をうけたまはり』、『つとめしにより黃金五枚をたまはる』とあった。

 一方、父「吉田秀長」は初名長秀(ながひで)で、後に文次郎、四郎三郎とあって、『延享三年』、『御徒にめしくはへられ、のち辭して處士となる。明和元年十一月十九日』、『めされて天文方とねり、廩米二百俵をたまひ、二年二月二十二日』、『測量のことをうけたまわり、京師におもむく。』(中略)明和『七年四月二十三日』、『さきに土御門家にをいて[やぶちゃん注:ママ。]、新曆製作あるところ、日食』(につしよく)、『差』(さしつか)『へるにより、秀長脩正すべきむねおほせをかうぶり、』(中略)『黃金三枚を賜ふ。安永八年十二月二十六日』、『御書物奉行に轉じ、九年五月二十七日』、『こふて家號を吉田にあらたむ』とあった。

以上から、T氏はメールで、

   《引用開始》

ということで「吉田親子」ともども明暦の改暦に携わっています。

「譚海」の「家中一人、鞍負門人になり」と言う部分は「吉田秀長」「吉田靫負」のいずれに弟子入りしたかは不明ですが、「明和八年公儀へ御願」から考えると、「吉田靫負」が実質、教えたものかと考えます。

   《引用終了》

と述べておられる。いつも不明箇所をT氏に助けられる。まことに有り難く、御礼申し上げるものである。

「天學」天体運行及び暦を作成する当時の天文学。

「司天臺」幕府天文方の観測施設。ウィキの「天文方」によれば、『渋川春海が天文方に任じられた翌貞享』二(一六八五)年に『牛込藁町の地に司天台を設置し』、元禄二(一六八九)年に『本所、同』一四(一七〇一)年には『神田駿河台に移転する。春海の没後、延享』三(一七四六)年に『神田佐久間町、明和』二(一七六五)年に『牛込袋町に移り、天明』二(一七八二)年には『浅草の浅草天文台(頒暦所とも)に移った。この時に「天文台」という呼称が初めて採用された。高橋至時』(しげとき)『や間重富が寛政の改暦に従事したのは牛込袋町・浅草時代であり、伊能忠敬が高橋至時の元で天文学・測量学を学んだのも浅草天文台であった。その後』、天保一三(一八四二)年に渋川景佑』(かげすけ)『らの尽力で九段坂上にもう』一『つの天文台が設置されて天体観測に従事した』。その後、明治二(一八六九)年、天文方とともに浅草・九段の両天文台も廃止された、とある。

「土御門家」元来、編暦作業は朝廷の陰陽寮の所轄で、土御門家がそれに当たっていた。「譚海 卷之一 江戶曆商賣の者掟の事」ウィキの「天文方」の引用を参照されたい。

「上梁」棟上げ。

「豁達」度量が広く、小事に拘らないさま。

「閣」底本では編者によってこの字の右に『(階)』と振られてある。

「八仙卓」清朝以前の中国料理の特徴的な正方形の食卓のこと。伝説上の八人の仙人に由来し、一辺に二人ずつで八名が正餐のテーブルであった。現在の中華料理店の円卓も八人掛けが標準である。

「鎌倉、賴朝卿の墓所をも再興せられし」島津重豪が安永八(一七七九)年に建てた供養塔というか、勝手に創り上げた偽墓である。ウィキの「島津氏」によれば、『島津家の家祖・島津忠久が鎌倉殿・源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の』三『国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の』四『ヶ国を有する守護職に任じられて以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代以降、薩摩藩主・島津氏は徳川将軍家と特別な閨閥家となり、幕末期に近代化を進めて雄藩の一つとなって明治維新の原動力となり、大正以降は皇室と深い縁戚関係を結ぶに至る。尚武の家風として知られ、歴代当主に有能な人物が多かったことから、俗に「島津に暗君なし」と称えられる。これにより鎌倉以来』、『明治時代に至るまで家を守り通すことに成功した』。『島津姓については、諸説ありとし、忠久が』元暦二(一一八五)年八月十七日に、『近衛家の領する島津荘の下司職に任じられた後、文治元』(一一八五)年十一月二十八日の『文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ』、『島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については』、「島津国史」や「島津氏正統系図」に『おいて、「摂津大阪の住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局は源頼朝の側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている』。『同じく九州の守護に任じられた島津忠久と豊後の大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていること』が注目される。『忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能の猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく』、『荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している』とある通り、島津氏は源頼朝嫡流の血脈であるという家伝を保持し続けたのであった。『私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 源賴朝墓」の私の注なども参照されたい。]

甲子夜話卷之六 3 詩歌降たる事

 

6-3 詩歌降たる事

同上云。近時詩道降りて小巧を爭ふことになり、大雅の風は響を遏る計なり。然れども小巧ゆへ、よく言おゝせておもしろきこともあり。「隨園詩話」の中に見へし、人無キハ風趣官常、几琴書などは、前人の言ざる所を言て、世の中の事にいと切當なり。されど言たる迄にて餘味なし。唐の員半千が、冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己は、世態を言おおせて、又限りも無き餘情に咏歎を含めりと。

■やぶちゃんの呟き

「降たる」「くだりたる」。格調や品位が有意に下がってしまった。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「定家卿詠歌」を指すので、話者はまたしても、林述斎。

「小巧」「しやうこう(しょうこう)」小手先の修辞技巧。

「大雅」「たいが」。「詩経」の分類の一つ。三十一篇から成る。「詩経」の詩の六つの類型である六義(りくぎ:「詩経」の詩群をその属性・内容から分類した「風(ふう)」・「雅」・「頌」(しょう)に、表現法から分類した「賦」・「比」・「興(きょう)」を合わせた総称)の一つである「雅」を「小雅」(七十四篇)とともに構成する。周王朝の儀式・宴席などで歌われた詩で、周の歴史を主題とした叙事的内容のものもある。

「風」「ふう」。風流。雅(みやび)さ。但し、上記の「詩経」の六義の「風」(各地の民謡を集めた「国風(こくふう)」で百六十篇から成る)のそれも利かせた(「大雅」が宮廷の祝祭歌であるのに対し、こちらは土地に根ざした民衆の唄である)謂いであろう。

「響」「ひびき」。

「遏る」「とどめる」。「結滞してしまっている」或いは「絶えてしまっている」。

「計」「ばかり」。

「隨園詩話」清代の詩人袁枚の詩論。袁枚は前条の「定家卿詠歌」で既注。

「人無キハ風趣官常、几琴書」訓読すると、

 人 風趣無きは 官 常に貴(たふと)く

 几(き)に琴・書有る家は 必ず 貧し

である。但し、「隨園詩話」の巻十四には以下のように出る。

余有句云、「人無風趣官多貴。」。一時不得對。周靑原、對、「案有琴書家必貧。」。吳元禮、對、「花太嬌紅子必稀。」。

従って、これは最初の句が袁枚で、それに、袁枚の友人で工部侍郎であった周青原が対句して和したというのが正解である。なお、「案」(あん)は中国の台状の机や食盤のことで「几」とは同義的ではある。「案」は、一般に、長方形の板に、概して短い足が附いたものを指し、漆が施されているのが普通で、板上には菱形紋・雲気紋・動物紋などが描かれることがある。戦国時代の古墓から既に出土している。

「言ざる所を言て」「いはざるところをいひて」。

「切當」「せつたう(せっとう)」で、適切にして能(よ)く目的に適(かな)っていること。

「餘味」風雅な余韻。

「員半千」(六二一年~七一四年)は初唐末の官人で詩人。

「冠冕無ㇾ醜ルコト賄賂成知己」訓読すると、

 冠冕(くわんべん)醜(はづかしむ)ること無き士も 賄賂(わいろ) 知己を成す

で、「冠冕」は「冕冠(べんかん)」で、中国では皇帝から卿大夫以上が着用した冠(かんむり)。冠の上に冕板(べんばん)と呼ばれる長方形の木製の板状の物を乗せ、冕板前後の端には旒(りゅう)と称する玉飾りを複数垂らしたもの。旒の数は身分により異なる。全体の意味は恐らく、「高官たることを汚して恥をかくことがない士大夫(階級)の高潔に見える立派な人物であっても、賄賂とは必ず仲が良いものだ」との謂いであろう。これは員半千の五言排律(推定)「隴右途中遭非語」の一節。中文サイト「中華詩詞網」のこちらで全篇が読める。

「言おおせて」ママ。歴史的仮名遣では「言(いひ)おほせて」でなくてはおかしい。漢字では「果せる」「遂せる」と書く。

「咏歎」「詠嘆」に同じい。

 

明恵上人夢記 82

 

82

一、同六七日の比、一向に三時坐禪す。持佛堂に於いて繩床に於いて好相なり、佛像に向ひ奉りて涕(なみだ)を流し、悲泣し、罪障を懺悔(さんけ)すと云々。

  巳上、此(これ)は行法を修(しゆ)せざる事を危ふく思へる間(あひだ)也。

[やぶちゃん注:「80」「81」に続いた順列で、「81」の「三四日」と同じく承久二(一二二〇)年十二月六日か七日の孰れかの日で、またしても「81」と同じく、その日に行った「坐禪」の最中に脳内に生じた夢様のもの――座禅中の脳の覚醒したレム睡眠的な夢で、またしても「81」同様、実際の現場と一致している状況でオーバー・ラップ映像を想起すべきものと私はとる。

「一向に」ただ只管(ひたすら)に。

「三時」六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という。即ち、一昼夜ぶっ続けで座禅をしたのである。

「繩床(じようしやう)に於いて好相(がうさう)なり」これは底本では「持佛堂に於いて」の右にポイント落ちで附されてある。「繩床」は「81」に既注。そこの「好相」(ごうそう)は「相好(さうがう(そうごう))」に同じい。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称である。実際の明恵の寺の持仏堂に敷かれた繩床(或いはやはりそこに、実際に事実、座禅していたものととってよい)で、そこに自身が居て、その自身の姿は既にして仏の「相好」に等しいものであったというのである。

「巳上」この「82」単独とも、性質上、特異点で、通底しそうな「81」と合わせて、の謂いととってもよい。後者の方を私は推す(但し、「危ふく思へる」という述懐に直に応ずるのは無論、この夢の「罪障を懺悔す」の部分ではある)。]

□やぶちゃん現代語訳

81

 承久二年十二月六日か七日の頃、ひたすら、昼夜ぶっ通しで座禅行を修している際、こんな夢のようなものを見た――

……私は持仏堂に於いて【実際の繩床と同じものがあってそこに座している私の姿は相好に見合ったものなのであった】、仏像に対面(たいめ)して涙を流して、悲泣し、己(おの)が罪障を懺悔(さんげ)している……。

  以上の夢は、これ、自分がしっかりした
  行法を修していないことを極めて危(あ
  やう)いことだと思っていた頃の夢であ
  る。

明恵上人夢記 81

 

81

一、同十二月三四日の比、坐禪之時、上師、外より來りて、繩床(じようしやう)の右の角(すみ)に坐し給ふ。之に謁するに、無禮之(の)思ひを作(な)す。然れども、所作(しよさ)之(の)時なれば、苦しみ有るべからずと思ひて、見參(げんざん)すと云々。

[やぶちゃん注:「同十二月」は「80」(承久二(一二二〇)年十二月のある夜の夢)の順列と読めるので、承久二年十二月三日から四日にかけて、或いは、その孰れかの日に見た夢と採ってよかろう。本「夢記」(断簡を切り貼りしたもの)は全体を見渡すと、毎日、日記のように記したものではない。恐らくは、記憶、或いは、下書きのようなものを以って、かなり纏まってから清書したものと推定出来るから、後者の三日か四日のどちらかという意味合いが強いのかも知れない。「さんしにち」で掛け算で十二日とする場合もあるが、実は続く「82」が「同六七日」とあるので、それは採らない。

「坐禪之時」これは書き方から見て、実際に座禅をしている最中に脳内に生じた夢様のものという設定と読む。今までも、睡眠中ではなく、修法中や昼夜を問わぬ観想中に見た夢が含まれてある。即ち、この夢様記述は特異的で、一種の、座禅中の脳の覚醒したレム睡眠(Rapid eye movement sleepREM sleep)的な夢で、尚且つ、実際の現場と一致している状況でオーバー・ラップ映像を想起すべきものと私はとる。

「上師」今待通り、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととる。明恵はこの十二年前の建仁二(一二〇二)年に、この上覚から伝法灌頂を受けている。行慈は嘉禄二(一二二六)年の十月五日以前に八十歳で入寂しているので、この頃は存命である。

「繩床」は「じょうじょう」(現代仮名遣)と読んでもよい。ここでは、繩を巡らして作った円座風の敷物。

「無禮之(の)思ひ」師が明恵の寺を来訪されたが、堂内に置かれてある繩床の中央でなく、右縁の方に座をとっておられることを、本寺の主僧である明恵自身が師行慈に対して失礼なことと思ったことを指す。

「所作之時」ここは座禅中であることを指していよう。]

□やぶちゃん現代語訳

81

 承久二年十二月三日か四日の頃、座禅行を修している際、こんな夢のようなものを見た――

……上師が、外より来られて、繩床(じょうしょう)の、真ん中ではなく、そこを空けておかれて、遙か右の角(すみ)にお座りになられた。

 私はこの師の御来訪に対してちゃんと礼式を成さねばならないのだが、そのように違例の場所に師を坐(ま)さしめ申し上げたままでそれをし申し上げることは甚だ無礼なことであるという思いが私に去来した。

 しかしまた、

『――これは――座禅行の所作(しょさ)の時ことであるに依って――例外として――苦しゅうないものであると判断してよいのだ』

と思い、徐ろに、そのままで見參(げんざん)した……。

 

小泉八雲 草雲雀 大谷正信譯 附・やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本作は明治三五(一九〇二)年にニューヨークの MACMILLAN COMPANY から刊行された作品集「骨董」(KOTTŌ)に所収された随想(原題は添え辞を含め三行書きで:Kusa-Hibari Issun no mushi ni mo gobu no tamaahii. ― Japanese Proverb.)である。Internet Archive」のこちらから同書原本(挿絵入り)で原文が読める

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」の大谷正信氏の訳を視認した。大谷氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注」を参照されたい。

 傍点「◦」があるが、そこは太字とした。なお、ストイックに必要と思われる段落末に注を附した。]

 

    草  雲  雀

      一寸の蟲にも五分の魂。日本の諺。

 

 その籠は正(まさ)しく高さが二寸で幅が一寸五分。軸があつてそれで廻る小さな木戶は自分の小指の尖頭(さき)がやつと入る位。だが、彼には此籠の中に十分の餘地が――步んだり跳ねたり飛んだりする餘地があるのである。といふのは、彼を一瞥せん爲めには、この褐色紗張りの橫面を通して、非常に注意して見なければならぬ程、彼は小さいからである。自分は其居場處を見つけるまでには、十分な明かりで、何時もその籠を幾度も廻して見なければならぬ。するといつも上の片隅には――紗張りの己が天井に、身を逆か樣に、抱き付いて――ぢつとして居るのが分る。

 自分の身體(からだ)よりか遙か長い、そして日に透かして見なければ見分けられぬ程に細い、一對の觸角をそなへた尋常の蚊の大いさ位の蟋蟀を想つて見給へ。クサヒバリ卽ち『草雲雀』といふのが彼の日本の名である。そして彼は市場で正に十二錢の値ひを有つて居る。卽ち、自分の重さの黃金よりか遙かに高價である。こんな蚊のやうな物が十二錢!……

[やぶちゃん注:「蟋蟀」「こほろぎ(こおろぎ)」。

「クサヒバリ」「草雲雀」昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科コオロギ科クサヒバリ亜科クサヒバリParatrigonidium bifasciatum(辞書記載の学名であるが、昆虫愛好家(インセクターは一部の種に関しては昆虫学者より凄かったりする)の複数のページではバッタ目ヒバリモドキ科ヒバリモドキ亜科クサヒバリ Svistella bifasciata とするものも有意に見られるので、現在はこちらが正式か)。本邦では本州・四国・九州・沖繩に広く分布する。体形はコオロギに似ているが、ごく小さく、体長は六~八ミリメートルしかない。触角が長い。淡黄褐色を呈するが、♂では黒褐色の不規則な斑紋を持ち、翅には丸みがあって発音器の模様が明瞭で、♀では縦脈を有する。八~十月頃、林縁の低木の葉上や下草の上に見られ、小泉八雲は夜とするが、実際には昼夜を問わず(「フィリリリリリリリ……」と高く美しい声で長く鳴く。古来、鳴く虫の一つとして愛玩されてきた。異名を「あさすず(朝鈴)」とも呼ぶ。You Tube Sankogi 氏の「元荒川河原の草雲雀」の鳴き声と、グーグル画像「Svistella bifasciataをリンクさせておく。

「十二錢」本書の二年前の明治三十三年で白米一升が十二銭であるから、現在の換算で凡そ千円ほどとなろう。因みに、本日の金の価格は一グラム五千四円である。普通のコオロギ類(本邦の最大種であるコオロギ科コオロギ亜科フタホシコオロギ族エンマコオロギ属エンマコオロギ Teleogryllus emma で体長は二・六~三・二センチメートルでクサヒバリの三、四倍)でも標準平均体重は一グラムに満たない個体が殆んどである。]

 每朝その籠へ差し入れてやらなければならぬ新しい茄子か胡瓜かの薄片に取り付いて居る間を除いて、彼は日のうちは睡るか冥想するかして居る。……綺麗にして、そして食物を十分にして、飼つて置くことは少々面倒である。彼を諸君が見得るなら、どんな可笑しい程小さな動物の爲めに、少しでも骨を折るなど馬鹿馬鹿しいと思ふであらう。

 だが、日が暮れるといつも、彼の無限小な靈が眼覺める。すると、言ふに言はれぬ美はしい美妙な靈的な音樂で――非常に小さな電鈴の音のやうな、微かな微かな白銀(しろがね)なすリリリリンと震ふ音聲で――部屋が一杯になり始める。暗黑(やみ)の深くなるに連れて、其音は層一層美はしくなり、――時には家中がその仙樂に振動するかと思へるまで高まり――時には想ひも得及ばぬ微かな極はみの絲の如き聲音に細まる。が、高からうが低からうが、耳を貫く不可思議な音色を續ける。……夜もすがらこの微塵はそんな風に歌つて、寺の鐘が明けの時刻を告げる時やつと啼き止む。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 さて、この小さな歌は戀の――見もせず知りもせぬものを戀する漠たる戀の――歌である。彼の此世での生涯の中に、いつか見又は知つた譯は更に無いのである。過去幾代のその祖先すらも、野原での夜の生活も、また、戀に於ける歌の價値も、少しも知り得た譯は無いのである。彼等は蟲商人の店で、土の壺の中で孵つた卵から生れ出たもので、その後籠の中だけに棲んで居たものである。だが、彼は幾萬年の古昔、歌はれた通りに、しかもその歌の一節(ふし)一節(ふし)の確實な意味を了解してでも居るやうに少しの間違ひも無く、歌ふのである。固よりのこと、歌を歌ふことを學びはしなかつた。それは有機的記憶の――その魂が夜每小山の露けき草陰から、高音を響かせた時の、幾千萬代の生涯の深い朧氣な記憶の――歌なのである。その時はその歌が戀を――そしてまた死を――もたらした。彼は死に就いては全く忘れてしまつて居る。が、その戀は記憶して居る。だからこそ彼は――決して來ては吳れない新婦を求めて――今、歌ふのである。

[やぶちゃん注:この冒頭は訳がやや硬過ぎる。原文は、

Now this tiny song is a song of love, — vague love of the unseen and unknown. It is quite possible that he should ever have seen or known, in this present existence of his. Not even his ancestors, for many generations back, could have known anything of the night-life of the fields, or the amorous value of song.

で逐語的には難はないのであるが、ここで、敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収)の如何にも風流なそれを以下に掲げておく。

   《引用開始》

 ところが、このかあいらしい歌は、じつは恋の歌なのである。まだ見もやらず知りもせぬものを恋い慕う、そこはかとない恋の歌なのだ。もっともこの小さな虫が、この世の生涯で、いつ見かけてか知りそめの、……なんていうことは、ありようわけがない。過ぎにし世、幾代(いくよ)のむかしの先祖ですら、小夜ふけし野べの手枕(たまくら)、恋に朽ちなん歌の意味など知っていたものはなかろう。

   《引用終了》]

 だからして、彼の戀慕は無意識的に懷古のものである。彼は過去の塵土に叫んで居るのである――沈默と神とに時の歸り來たらんことを呼ばはつて居るのである。……人の世の戀人も、自分ではそれと知らずに、頗るこれに似たことをして居る。人の世の戀人は其迷ひを理想と呼んで居る。ところが、彼等の理想なるものは、畢竟するに種族經驗のただの影であり、有機的記憶のまぼろしである。生きて居る現在は、それには殆んど無交涉である。……この微塵の小動物もまた理想を有つて居るか、又は少くとも理想の痕跡を有つて居よう。が然し、兎も角、其小さな願望は、其哀求を徒らに述べざるを得ぬのである。

[やぶちゃん注:ここも意味は正しいが、逐語的で硬過ぎる。ここでは上田和夫氏(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)の本段落を引用して示す。「こいつ」はちょっといやな人称代名詞で「彼」として欲しかったが。

   《引用開始》

 したがって、こいつのあくがれは、無意識のうちに、昔にむかっているのである。これは、過去の朽ちたものにむかって叫んでいる――沈黙と神々とにむかって、過ぎた時のふたたび返ってくることを呼びかけているのである。……人の世の恋人たちも、それとは知らずに、これとひどく似たことをしている。彼らは、幻影を「理想」と呼んでいる。ところが、彼らの「理想」は、けっきょく、人類の経験したものの単なる影、有機的な記憶のまぼろしにすぎない。いまこの世に生きることは、ほとんどそれとかかわりがない。おそらく、この微小のものにも理想はあるだろう、すくなくとも理想の痕跡(こんせき)はあるはずだ。しかし、それはともかく、このちっぽけな願いは、どれだけ訴えても無駄なのである。

   《引用終了》]

 その咎は全く自分だけのものでは無い。この者に配偶を與へると、啼かなくなり、且つ直ぐに死ぬるといふ警戒を、自分は與へられて居たからである。ところが、夜每夜每、その應答の無い美しい哀求の聲は、非難の聲のやうに自分の胸を衝いた――しまひには苦痛となり、苦惱となり、良心の呵責となつた。そこで雌を買はうと試みた。季節が遲かつたので賣つて居るクサヒバリは雄も雌も――もう一匹も無かつた。蟲商人は笑つて『九月の二十日頃には死んだ筈ですが』と言つた。(此時はもう十月の二日であつた)然し蟲商人は自分の書齋には上等の煖爐があつて、いつも溫度を華氏七十五度以上にして居ることを知らなかつたのである。だから、自分の草雲雀は十一月の末にもなほ啼いて居るので、自分は大寒の頃まで生かして置かうと思つて居る。が然し、彼の代(だい)の他の者共は、多分、死んで居よう。金づくにも何づくにも自分は、彼に今、配偶を求めることは出來なからう。それからまた、自分で搜せるやうに、放つてやれば、日の中は庭に居るその多勢な自然の敵――蟻や百足蟲や恐ろしい土蜘蛛――の手を幸運にも免がれ了せても、ただの一と夜も明けまで到底も生きて居ることは出來なからう。

[やぶちゃん注:「華氏七十五度」摂氏二十四度弱。

「大寒」「だいかん」。一月二十日頃。

「土蜘蛛」原文「earth-spiders」。クモ綱クモ目タテグモ下目クモ亜目ジグモ(地蜘蛛)科ジグモ属ジグモ Atypus karschi の異名。

「了せても」「おほせても(おおせても)」。

 以下、一行空け。]

 

 昨夜――十一月の二十九日――机に對つて居ると妙な感じが――部屋が空(くう)な感じが自分を襲つた。やがて、自分の草雲雀が、いつもと異つて、默つて居ることに氣が付いた。無言なその籠へ行つて見たら、彼は小石のやうに灰色に堅くなつた乾からびた茄子の薄片の橫で、死んで居た。確かに三四日の間、食べ物を貰はなかつたのである。だが、ついその死ぬる前の晚、彼は驚く許り歌つて居たのであつた――だから、愚かにも自分は、彼はいつもよりかも滿足して居るものと思つて居た。自分の家の書生の、アキといつて、蟲を好いて居るのがいつも彼に食物を與へてゐた。處が、アキは一週間の休暇を貰つて田舍へ行つたので、草雲雀の世話をする義務は下女のハナに委ねられたのである。同情深い女では無い、下女のハナは、その小さな物のことは忘れはしませんでしたが、もう茄子がありませんでしたと云ふ。そしてその代りに葱か胡瓜の小片を與へることを考へなかつたのである!……自分は下女のハナを叱つた。そして彼女は恭しく悔悟の意を述べた。だが、仙鄕の音樂はやまつてしまつた。寂寞が自分の心を責める。部屋は煖爐があるに拘らず冷たい。

 馬鹿な!……麥粒の大いさの半分も無い蟲の爲めに、善良なる少女を自分は不幸ならしめたのだ! あの無限小な生の消滅がこんなにもあらうと信じ得られなかつた程に、自分の心を惱ます。……固よりの事、ある動物の――蟋蟀のでも――其欲求について考へるといふただの習慣が、知らず識らず次第に、一種想像的關心を――關係が絕えてから始めて氣の付く一種の愛著の念を――生むのかも知れぬ。その上また、その夜がひつそりして居たので、その微妙な聲の妙味を――その微小の生は、神の惠みに賴るやうに、余の意志に、余の利己的快樂に、賴つて居るのであると語り――その小さな籠の中なる微塵の靈と、余が體内なる微塵の靈とは、實在の大海に在つて永遠に同一不二の物であると語るり――その微妙な聲の妙味を特に身に沁みて感じたのであつた。……それからまた、彼の保護神の思想(おもひ)が夢を織り成すことに向けられて居る間、日日、夜夜、食に飢ゑ水に渴して居たその小生物のことを思ふといふと!……嗚呼、それにも拘らず、最後の最後に至るまで――しかも慘憺たる最期であつた、自分の脚を囓んで居たから――如何に雄雄しく歌ひ續けて居たことか!……神よ、我等凡てを――殊に下女のハナを――赦し給はん事を!

[やぶちゃん注:「彼の保護神」草雲雀を飼っていた小泉八雲自身を指す。

 以下、一行空け。]

 

 だが、要するところ、飢餓の爲めに自分で自分の脚を囓むといふ事は、歌の天禀を有つといふ呪詛を蒙つて居る者に出來(しゆつたい)し得る最大凶事では無い。世には歌はんが爲めに自分で自分の心臟を食はねばならぬ人間の蟋蟀が居るのである。

[やぶちゃん注:最終行下二字上げインデントで『(大谷正信譯)』が、次行に同インデントで『Kusa-HibariKotto』とある。

「天禀」「てんぴん」或いは「てんりん」と読み、「天から授かった資質」「生まれつき備わっている優れた才能」「天賦」の意。]

   

2019/08/04

大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)

 

鰻鱺 河魚ノ中味最美是亦上品トスヘシ性純補

 脾胃虛ノ人食フヘシヤキテ皮コカレ堅キハ食滯ヲ生ス

 入門曰ウナキノアツモノ補労殺虫治肛門腫痛痔

 久ク不愈空心食小兒疳疾可用小兒ノ雀目ニウナ

 キノ膓ヲ煮テ食ス甚效アリ肉モ可也ワタノ尤ヨキニ

 シカズ又注夏病ヲ治ス夏ヤセノ叓ナリ萬葉集第

 十六巻大伴家持歌ニ石麻呂ニワレ物申ス夏ヤセニ

 ヨシト云物ゾムナキトリメセ癆療傳尸病ノ蟲ヲ殺ス

 妙藥ナリ中華ノ書※神錄ニ出タリ○夏月ニ乾タル

[やぶちゃん注:「※」=「稽」-「禾」。同書名は一般に「稽」で通用するので書き下しではそれに代えた。]

 ヲ燒テ蚊ヲフスフ蚊皆死ス食物本草ニ載タリ武士ハ

 指物竿ヲフスフ虫ハマズ器物屋舍竹木ヲフスフレハ

 蟲死ス入門ニ骨ヲ箱中ニヲケハ白魚衣ヲクハス白魚ハ

 シミ也毛氊皮褥ナトモ是ニテフスフレハ虫クハス又ウナキ

 ノ頭并骨ワタナトスツヘカラス乾シテヤキ存性菜子凡物

 ダネニマセテマケハ虫不食○鮓トナス消化シカタシ病人ニ

 不宜凡無鱗魚ノ鮓尤不益人ト本草ニイヘリ日向州

 ノ鰻鱺甚大ナル叓他州ニ十倍セリト云是別種ナル

 ヘシ其周圍一尺餘長六尺餘アリト云本草曰小者

 可食重四五斤者不可食々之死スト云種類ニヨリテ

 然ルニヤ日向ノ大ウナキハ食乄無毒ト云

○やぶちゃんの書き下し文

鰻鱺(うなぎ/むなぎ[やぶちゃん注:前者が右ルビ、後者が左ルビ(原本は「むなき」)。]) 河魚の中、味、最も美〔(うま)〕し。是れ亦、上品とすべし。性〔(しやう)〕、純にして、〔よく〕補す。脾胃虛の人、食ふべし。やきて、皮、こがれ、堅きは、食滯を生ず。「入門」に曰はく、『うなぎのあつもの、労を補し、虫を殺す。肛門〔の〕腫痛、痔の久しく愈えざるを治す』〔と〕。空心に食ふ〔てよし〕。小兒の疳疾に用ふべし。小兒の「雀目(とりめ)」にうなぎの膓〔(わた)〕を煮て食す。甚だ效あり。肉も可なり。〔しかれども、〕「わた」の尤もよきにしかず。又、注夏病〔(ちゆうかびやう)〕を治す。「夏やせ」の叓〔(こと)〕なり。「萬葉集」第十六巻、大伴の家持〔の〕歌に、

 石麻呂にわれ物申す夏やせに

    よしと云ふ物ゾむなきとりめせ

癆〔を〕療〔し〕、傳尸病〔(でんしびやう)〕の蟲を殺す妙藥なり。中華の書「稽神錄」に出でたり。

○夏月に、乾したるを燒きて、蚊を、ふすぶ。蚊、皆、死す。「食物本草」に載せたり。武士は指物竿〔(さしものざを)〕を、ふすぶ。虫、はまず。器物・屋舍・竹木をふすぶれば、蟲、死す。「入門」に、『骨を箱〔の〕中にをけば[やぶちゃん注:ママ。]、白魚(しみ)、衣を、くはず』〔と〕。白魚は「しみ」なり。毛氊・皮・褥〔(しとね)〕なども是れにてふすべれば、虫、くはず。又、「うなぎ」の頭并びに骨・「わた」など、すつべからず。乾して、やき、性を存し、菜子〔(なたね)など〕、凡そ「物だね」にまぜてまけば、虫、食はず。

○鮓〔(すし)〕となす。消化しがたし。病人に宜しからず。『凡そ、無鱗魚の鮓、尤も、人に益せず』と「本草」にいへり。日向州、鰻鱺、甚だ大なる叓、他州に十倍せりと云ふ。是れ、別種なるべし。其の周圍(めぐり)、一尺餘り、長さ六尺餘りありと云ふ。「本草」に曰はく、『小〔さき〕者〔は〕食ふべし。重さ、四、五斤なる者〔は〕食ふべからず。之れを食へば、死す』と云ふ。種類によりて然るにや、日向の「大うなぎ」は食して毒無しと云ふ。

[やぶちゃん注:本邦産は条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギAnguilla japonica 及びオオウナギ Anguilla marmorata。また、近年ではニューギニアウナギ Anguilla bicolor pacifica の棲息が(二〇〇〇年以降)、屋久島(稚魚)や八重山列島(成魚)で発見されている。ニホンウナギは朝鮮半島・中国大陸・フィリピンなど、東アジアを中心に広汎に分布し、マリアナ海溝付近で産卵していることが近年の調査で明らかなっており、オオウナギの分布はより広範囲で、アフリカ東岸からフランス領ポリネシアに至り、産卵場はフィリピン南部の深海と推測されている。中国には他に他種が複数棲息しているものと思われ、上記の漢籍の本草書に出るものをニホンウナギと同種とするのは問題がある。また近年、中国ではヨーロッパウナギ Anguilla anguilla が養殖でかなり分布していたが、稚魚の乱獲によって激減している(以上はウィキの「ウナギ科」を参考にした)。

「うなぎ」「むなぎ」ウィキの「ウナギ」によれば、日本では奈良時代の「万葉集」に『「武奈伎(むなぎ)」として見えるのが初出で、これがウナギの古称である。京都大学がデジタル公開している万葉集(尼崎本)では、万葉仮名の隣にかな書きがされており、「武奈伎」の箇所に「むなぎ」のかな書きが充てられている』。『院政期頃になって「ウナギ」という語形が登場し、その後定着した。そもそものムナギの語源に』ついては、『家屋の「棟木(むなぎ)」のように丸くて細長いから』、『胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から』、『料理の際に胸を開く「むなびらき」から』などがあり、『この他に、「ナギ」の部分に着目して』、『「ナギ」は「ナガ(長)」に通じ』、『「ム(身)ナギ(長)」の意である』という説がある。『「ナギ」は蛇類の総称であり、蛇・虹の意の沖縄方言ナギ・ノーガと同源の語で』はあり、「なぐ」『は「水中の細長い生き物(長魚』(ながうお)『」を意味する』という説も有力である。実際、『近畿地方の方言では「まむし」と呼ぶ』。この「なぐ」「なご」等『の語根はアナゴやイカナゴ(水中で巨大な(往々にして細長い)魚群を作る)にも含まれている』『などとする説もある』。『「薬缶」と題する江戸小咄では、「鵜が飲み込むのに難儀したから鵜難儀、うなんぎ、うなぎ」といった地口が語られている。また落語のマクラには、ウナギを食べる習慣がなかった頃、小料理屋のおかみがウナギ料理を出したところ』、『案外』、『美味だったので「お内儀もうひとつくれ、おないぎ、おなぎ、うなぎ」というものがある』が、後附けである。

「純にして、〔よく〕補す」陽気の魚であって、よく補益する、の謂いであろう。

「脾胃虛」「脾胃」は漢方では広く胃腸・消化器系を指す語であるから、その機能不全全般を言っていよう。

「こがれ」「焦がれ」であろう。

「食滯を生ず」食欲不振を起こすの意でとっておく。

「入門」不詳。引用からみて、和書かと思い調べたところ、益軒と同時代人の医師岡本一抱(いっぽう 承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)に「医学入門諺解」があったが、これは宝永六(一七〇九)年の刊行で、本「大和本草」(宝永七(一七〇九)年)の翌年であるから、ただ、この内の漢文部分「補労殺虫治肛門腫痛痔久」「不愈」は、後の清代の費伯雄(一八〇〇年~一八七九年)が著した「食物本草」(後で益軒が挙げている書である)の中の、まさに「鰻魚羹」にある文字列であるから、どうも中国の明代以前の本草書であるように思われる(但し、次注も参照のこと)

「空心に食ふ〔てよし〕」「てよし」は私が勝手に補ったもの。特に何かの療治を目的とせずに食ってもよい、の意で添えたのだが、一つ、非常に怪しいことに、前注で示した費伯雄の「食物本草」の「鰻魚羹」の次の項の、「健蓮肉」(スイレン科のハスの果実かと思われる)の解説に、『入豬気肚縛定煮熟。空心食。最補虛』とあるのを見つけてしまった。意地悪く推理すると、益軒は「食物本草」の「鰻魚羹」の部分を読み、半可通に「健蓮肉」の解説部を「鰻魚羹」の続きとして誤読したものではなかろうかと思ったりした。但し、益軒は「入門」と「食物本草」を完全に別な書物として挙げている。

「小兒の疳疾」小児が神経過敏によって痙攣などを起こす疾患。所謂、「癇の虫」である。

「雀目(とりめ)」夜盲症。小児のそれは遺伝性である可能性が高いが、後天的なそれはビタミンA欠乏によって惹起される。所謂、「鰻の肝」(ウナギの身も含めて)には、目や皮膚の粘膜を健康に保ったり、抵抗力を強める働きを持つビタミンAが豊富に含まれているので、この処方は現代医学にも適ったものであると言える。

「注夏病」漢方医学で現在の「夏バテ」の諸症状を指す語。

「萬葉集」「第十六巻、大伴の家持〔の〕歌」「石麻呂にわれ物申す夏やせによしと云ふ物ゾむなきとりめせ」確かに、同巻の「大伴宿禰家持(ほおとものすくねやかもち)の、吉田連(むらじ)石麿(いはまろ)の瘦せたるを嗤咲(わら)へる歌二首」(以上は目録の記載。三八五四及び三八五四番歌)に、

   瘦せたる人を嗤咲へる歌二首

石麻呂(いしまろ)にわれ物申す夏瘦せに良しといふ物そ鰻(むなぎ)取り食(め)せ

瘦(や)す瘦すも生けらばあらむを將(はた)やはた鰻を漁(と)ると河に流るな

   右は、吉田連老(よしだのむらじのおゆ)
   といふ人あり。字(あざな)をば石麿と
   曰ふ。所謂、仁敎(にんきやう)の子(し)
   なり。その老、人と爲(な)り、身體(み)
   甚(いた)く瘦せたり。多く喫飮すれど
   も、形、飢饉に似たり。此れに因りて、
   大伴宿禰家持、聊かこの歌を作りて、
   戲(たはぶ)れ咲(わら)ふことを爲せ
   り。

である。

「癆〔を〕療〔し〕」「傳尸病」「療」がなければ、「癆・傳尸病」で孰れも肺結核の古称となるのであるが、仕方がないので各分離した。「癆」には「労咳」(肺結核)と別に、もともとは「(病的に)痩せ衰えること」或いは「薬物に中毒すること・薬物にかぶれること」の意があるのでそれでとって分離したのであるが、思うに「療」は「病」の誤記か、或いは単なる衍字ではないかと疑っている。

「稽神錄」五代十国から北宋代の政治家で学者の徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年)の伝奇小説集。

「指物竿」鎧の背に差したり、又は従者に持たせて、戦場での目印にした小旗や飾り物を「指物」と呼んだが、それを支える竿のこと。

「白魚(しみ)」昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」を参照されたい。

「すつ」「捨つ」。

「やき」「燒き」。

「菜子〔(なたね)など〕」アブラナの種ととった。

「物だね」諸栽培植物の種子。

「無鱗魚」時珍も益軒も誤りである。ウナギは非常に細かな鱗を持った有鱗魚である。ユダヤ教徒は可食食物の制限が厳しいことで知られ、「鱗のない魚」は食べてはいけない。私の昔の知人でイスラエル人の友人に顕微鏡写真を見せて、「ウナギには鱗があるから食べていいいんだ」と説得したが、遂に彼は鰻を食べることはなかった。

「四、五斤」明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、二・三八七から三キログラム弱となる。ニホンウナギは成魚で全長一メートル、最大でも一・三メートルであるが(巨大個体も稀れにいる)、オオウナギならば、最大で全長二メートル、体重は実に二キログラム以上に達する。]

小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯 附・やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本作は明治三二(一八九九)年九月にボストンの「Little Brown and Company」から出版された「霊の日本にて」(In Ghostly Japan:全十四篇構成)の最終章(原題:At Yaidzu)である。小泉八雲が亡くなる(明治三七(一九〇四)年九月二十六日)五年前の作品集である。原文は英文サイト「Internet Sacred Text Archive」のこちらで電子化された活字で読める。

 底本はサイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」のPDF版を視認した。なお、同ページには、先行する田部隆次編纂になる昭和二二(一九四七)年大日本雄辯會講談社刊の「日本の面影――小泉八雲新輯Ⅱ」の同じ大谷正信訳のもの(PDF)もあるのであるが、こちらは、頭の部分(以下の「一」相当)がカットされてしまっており、「二」の終りの部分も勝手にカットするなど、正直、読むに堪えないものである。

 本作を取り上げた理由は、私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」内で先に完結した『小泉八雲「神國日本」(戸川明三訳)附やぶちゃん注』の、戸川秋骨明三氏の「あとがき」の私の注の中で、八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津の定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉のこと(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした。現在、乙吉さんの家があったところ(現在の静岡県焼津市城之腰(じょうのこし)の民家の前)に「小泉八雲滞在の家跡碑」が建っている(リンクはグーグル・マップ・データ)。同家屋は現在、愛知県犬山市の「明治村」に移築復元されてあり、「明治村」公式サイトのこちらで解説と写真が見られる)なお、本篇は記述内容から、その初めての焼津での一夏の記憶に基づくものを主としているものであろう)に触れたからである。

 訳者大谷正信明治八(一八七五)年~昭和八(一九三三)年)はペン・ネーム(俳号)を繞石(ぎょうせき)と称した松江市末次本町生まれの英文学者・俳人で、島根県尋常中学校での小泉八雲の教え子であり、学生の中でも最もハーンの信任を得た人物の一人であった。私の電子化注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十八)」にも、『姓名や容貌』で『最も長く自分の記憶にはつきり殘るであらうと思ふ』『學生』の一人として特異的に『Otani-Masanobu』とフル・ネームで登場している(他の四人は姓のみである)。大谷氏は、御覧の通り、パブリック・ドメインである。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。ストイックに注を各段落末に附した。その関係上、底本の末尾にある『譯者註』も【 】で括った上、その位置に動かし(註は本文五字下げで記されてあるが、頭から置いた)、本文中の註記号は省略した。

 本作が未読で、小泉八雲の性質(たち)をよく御存じない読者は、ここの「二」での八雲の行動には――きっと吃驚させられる――ことであろう。私などは――「やっぱり! 八雲先生だ! 凄過ぎ!!」――と快哉を叫んだ、本篇を初めて読んだ若き日のことを思い出す……

 

  燒 津 に て

 

       

 

 燒津といふこの古い漁師町は、輝かしい日の光を受けると、或る特殊な妙味を有つた間色(かんしよく)になる。――その――小さな入江に沿うて彎曲して――占めて居る荒れた灰色の海岸のその灰色を、丁度蜥蜴のやうに、この町は帶びるのである。この町は、大きな丸石で堅めた異常な壘壁によつて荒海に傷められぬやうに庇はれて居る。この壘壁は、海に面した方は、臺地(テレス)の段々の恰好に造られてゐて、それを構成して居る丸石は、深く地中に突き立ててある幾列もの棒※の間に、編んだ竹籠細工のやうなもので、崩れ落ちぬやうされて居て、その棒※がその段々を別々に支へて居るのである。この築造物の嶺から陸の方を眺めると、――寺の庭の在り場を示す松の木立が此處其處にある、灰色瓦の屋根と雨風に曝されて灰色になつた家々の木材とが、一面に幅廣く延びて居る――燒津町全體がずらりと眸裏に收まる。海の方は、數浬の水面を越えて、巨大な紫水晶の塊のやう、地平線へくつきりと群れ集うて居る鋸の齒なす紺靑の連蜂が見え――其先きに、左手に、あらゆるものの上に巍然として吃立して居る壯麗な富士の靈峰が見えて――實に壯大な眺望である。防波壁と海との間には砂は少しも無い、――石の、主として圓い漂石の、灰色な傾斜面があるだけである。それが大波と一緖に轉がるのであるから、風の强い日に岸打つ浪の橫を通らうとするのは、厭(いや)な仕事である。一度石の浪に打たれると――自分は幾度もやられたが――其の經驗は直ぐには忘れられぬ。

[やぶちゃん注:「原文「terrace」。高台・段丘・路よりも高くしたり、坂道に沿った連続する住居の並びのことで、所謂、「テラス」であるが、英語の原発音は音写するなら、ここにルビされてある通り、「テレェス」で、近い。

「棒※」(「※」=「木」+「戈」)「ばうくひ(ぼうくい)」。「※」は「杙」の異体字。

「數浬」「すうかいり」。原文は「leagues」。古くからある英米の距離単位で、一リーグは約三マイル(一マイルは千六百九メートル強であるから、四・八二八キロメートル)であるから、六掛けだと、約二十九キロメートルとなる。

「巍然」「ぎぜん」。高く抜きん出て聳えて偉大なさま。

「漂石」「へうせき(ひょうせき)」。ここは、岩石が崩壊し、川や海の作用によって摩耗して海岸に漂着したもの。軽石の一種で、「礫(れき)」と、ほぼ同義。]

 

 或る時刻に、幾列もの妙な恰好の船が――此地方に特有な形の漁船が――ごつごつな此の傾斜面の大部分を占める。それは――一艘四五十人は乘ることの出來る――非常に大きな船である。それは變な高い船首(みよし)を有つてゐて、それへ佛敎或は神道の護符(マモリ或はシユゴ)が普通貼り附けてある。神道の護符(シユゴ)の普通の形式のは、この目的の爲め、富士の女神の神社から供給されるものである。其の文句は斯うなつて居る。――フジサン、チヤウジヤウ、シンゲングウ、ダイギヨ、マンゾク。――それは、漁業好運の場合には、富士の頂上にその神社のある神樣の爲めに非常な苦行をなすことを此船の持主は誓ふ、といふ意味である。

[やぶちゃん注:「護符(マモリ或はシユゴ)」「(マモリ或はシユゴ)」はルビではなく、本文。

「フジサン、チヤウジヤウ、シンゲングウ、ダイギヨ、マンゾク」原文を見ると、「Fuji-san chôjô Sengen-gu dai-gyô manzoku」で、これは、「富士山 頂上 淺間宮 大漁 滿足」であって、二つ目の単語のカタカナ音写を大谷が誤読したものである。

 以下、一行空け。]

 

 日本のうちで海岸のある國にはどの國にも――同じ國の漁村でも村が異ればその村々にすらも――その國或は村に特有な船と漁具との形式がある。實際、互に五六哩しか離れて居ない村で、數千哩距つて住まつて居る人種の發明かと思へる程に、型の異つた網や船を各々製造して居ることを時々認める。この驚くべき多種多樣は、或る度までは、地方的傳統を重んずる念に――數百年の久しきが間祖先の敎示と慣習とを改めずに保存する殊勝な保守主義に――基づいて居るのかも知れぬ。が然し、處を異にして住んで居る仲間のものが、種類の異つた漁獲を營んで居るといふ事實に依つて、一層能く說明されるのである。だから何處でも或る一箇處で造る網なり船なりの形は、能く檢べて見ると、大抵は或る特殊の經驗によつての發明だといふ事が判かる。燒津の此の大きな船は此の事實の例證である。燒津の漁業は、日本帝國のあらゆる部分へ乾したカツヲ(英語のボニト)を供給するのであるが、その漁業の特殊の要求に應ずるやうにその船は工夫したもので、非常な荒海を乘り切ることの出來るやう造らなければならなかつたのである。それを海ヘ出したり海から引き上げたりするのは骨の折れる仕事である。が、村中が手傳ふ。傾斜地へ平たい木の枠を一線に置いて、瞬く間に、一種の斜路の卽席製造をする。そしてその枠の上へ、底の扁平なその船を、長い綱で曳きずり上げたり下ろしたりする。ただの一艘をさういふ風に動かすのに、百人或は百人以上のものが――男、女、子供が、陰氣な妙な歌に合はせて、一緖に曳つぱつて――働いて居るのが見られる。颱風がやつて來る時は、その船をずつと後ろへ、街路の處まで、上げる。そんな仕事を手傳ふのは中々面白い。手傳ふ者が他國ものであれば、漁師はその勞に酬ゆるにその海の不思議な產物を以てするであらう。驚く許りに長い足をした蟹だとか、途方も無く大きく腹を膨らます風船魚だとか、手に觸はつて見なければ自然の物とは殆ど信じられぬやうな異常な恰好をした色んな他の動物だとか。

[やぶちゃん注:「五六哩」「數千哩」「哩」は「マイル」。一マイルは約一キロ六百九メートルであるから、前者は凡そ八キロから九キロメートル半強で腑に落ちるが、後者はごく過少にとって三千マイルとしても、四千八百キロメートル超となってしまうので誇張表現のように見える。確かに、現行の日本の南北(沖ノ鳥島から宗谷岬まで)は約二千八百四十五キロメートル、東西(小笠原諸島の南鳥島から与那国島まで)は約三千百四十二キロメートルしかないのだが、実は、本作が書かれた当時は台湾及び南樺太と択捉島が日本の領土であったから、試みにそれで測定してみたところ、孰れ(南樺太北端と択捉島東北端)も優に三千六百キロメートルを超える。されば、過少な三掛け(私は「数~」は六掛けを基準とする)では正しいことになろう。

「度」「ど」。程度。

「カツヲ(英語のボニト)」原文は「katsuo (bonito)」。条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis。「カツオ」の英語「Bonito」はポルトガル語とスペイン語で「可愛い奴・素晴らしい奴」の意であるが、これは大型魚類の通称総称であって、カツオを特定する語ではない。他にも同様の呼称として「Skipjack tuna」或いは単に「Skipjack」がある。世界的には魚種を子どもでも数多く知っている国民というのは、極めて珍しいのである。

「驚く許りに長い足をした蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚目抱卵亜目短尾下目クモガニ科タカアシガニ属タカアシガニ(高脚蟹)Macrocheira kaempferi。本種は岩手県沖から九州までの太平洋岸及び日本領海内の東シナ海に主に分布し、近年までは日本近海の固有種とされていたが、一九八九年には台湾の東方沖で発見されている。水深百五十から八百メートルほどの深海砂泥底に棲み、脚は雌雄ともに非常に細長いが、成体の♂では鋏脚がその脚よりもさらに長くなり、大型個体の♂ではその鋏脚を広げると三・八メートルにも達する(ここはウィキの「タカアシガニ」に拠った)。

「途方も無く大きく腹を膨らます風船魚」フグ目フグ科 Tetraodontidae のフグ類。でも! 八雲先生! それって、ちゃんと有毒部位を除去しないと!

 以下、一行空け。]

 

 船首に神聖な文句を貼り附けて居るこの大きな船が、此濱での一番奇異な物といふのでは無い。竹を裂いて造つた餌籠がもつと異常なぐらゐである。高さ六呎、まはり十八呎、その圓頂閣の恰好した頂に小さな穴が一つある籠である。乾かす爲めに防波壁に沿うて列べてあると、少し遠くから見ると、何かの住み家か小家かと間違へられさうである。それから、鋤のやうな恰好をして、金屬が打ち附けてある木製の大きな錨がある。爪の四つある鐡の錨がある。杭を打ち込むのに使ふ素敵に大きな槌がある。何の爲めに使ふのか想像も出來ない、まだまだ珍らしい、他の色んな道具がある。見るもの悉くが何とも言へず古めかしく奇妙であるといふ事が、眼に見えて居る物が現實かどうかを疑はせる、彼(あ)の無氣味な遠隔といふ感じを――時間に於ても空間に於ても己(み)は遙か遠く離れて居るといふ無氣味な感じを――起こす。それに燒津の生活がまた確に數世紀前の生活である。そこの人達がまた舊日本の人達で、子供のやうに――善良な子供のやうに――淡白で親切で、過ぎると思ふ程正直で、後の世のことは思ひもせず、古昔からの因襲と古昔からの神々とに忠實である。

[やぶちゃん注:「竹を裂いて造つた餌籠」「高さ六呎」(「呎」は「フィート」で約一メートル八十三センチメートル)「まはり十八呎」(五メートル四十九センチメートル弱)「その圓頂閣の恰好した頂に小さな穴が一つある籠」「高知県公式」サイト「高知家の○○」の「高知県立歴史民俗資料館」を紹介したこのページの、下の二枚の写真を見られたい。二枚目にはレポーターの女性が横に立っているから、その異様な大きさが判る。しかも、小泉八雲の示す高さは、この写真の餌籠(カツオを獲るためのイワシを入れておくもの)よりも、一段と高いことが判る。]

 

       

 

 自分は偶〻盆の卽ち死者の祭日の三日間饒津に居た。だから三日目の最後の日の、美しいお訣れの儀式を見たいものと思つた。日本の多くの地方では、精靈にその航海用の極めて小さな舟を――帆船や漁船の小さな模型のもの、その一艘一艘に食物と水と焚いた香との御供物の入つて居るのを、その精靈舟を夜送り出す時は、小さな提燈か燈籠を添へて――提供する。ところが燒津では燈籠だけ流すので、暗くなつたらそれを水へ下ろすと自分に話した。他の地方では夜中(よなか)がその普通の時刻だから、燒津でも亦それがお訣れの時刻だと自分は想つた。そしてそれを見物に間に合ふやう眼を覺ます積りで、夕食後輕率にも自分は一とまどろみに耽つた。ところが自分が再び濱邊へ行つた十時までに、一切濟んで、誰れも彼れも家へ婦つてしまつてゐた。海を見ると、遠くに螢火の長い群のやうなものが――列を爲して海へ漂ひ出る燈龍が――見えた。が、もう餘程遠くへ流れ出てゐて、色のついた火の點々としか見えなかつた。自分は大いに失望した。また二度とは歸つて來ないかも知れぬ好機會をなまけて取り逃がしたやうな氣がした、――こんな古い盆の慣習は急速に失せつゝあるから。と思ふその次の瞬間に、思ひ切つて泳いで行けば十分その明かりの處へ行ける、といふ念が浮かんだ。燈籠はゆるやかに動いて居るのであつた。自分は衣物を渚へ脫いで飛び込んだ。海は穩かで、美しく燐光を放つてゐた。手足の一と漕ぎ每に黃色な火の流れが燃えた。自分は迅く泳いだ、そして思つたよりも早くその燈籠艦隊の最後のものに追ひついた。自分はこの小さな船出の邪魔をするのは、卽ちその靜かな進路を橫へ外らすのは、不親切なことだらうと思つた。だから自分はそのうちの一つに近く身を置いて、その委曲を硏究するに甘んじた。

[やぶちゃん注:「お訣れ」「おわかれ」。]

 構造は頗る單簡であつた。その底は眞四角な、縱橫十吋位の、厚い板片であつた。その四隅に高さ十六吋許りのか細い棒が立つて居て、この眞つ直ぐに立つた四本が、十文宇に組んだ板片で上の處で結び附けられて居て、紙貼りの四方を支へて居るのであつた。そして、長い釘がその底の中心を通して上へ突き立ててあつて、その釘の尖(さき)に、點した蠟燭が挿し留めてあつた。上の方は明けつ放しである。四方は五色が――靑、黃、赤、白、黑と――現はしてあつた。此五色は、形而上的に五佛と同一の佛敎の五大を――空、風、火、水、地を――それぞれ象徵して居るのである。その紙壁の一方は赤、一方は靑、一方は黃で、四番目の壁の右半分が黑く、左半分が、色無しで、白を表はして居るのであつた。この透かし明かりのどれにも戒名は書いて無かつた。内側にはちらちら光つて居る蠟燭があるだけであつた。

[やぶちゃん注:先の英文原文サイトには「THE LIGHTS OF THE DEAD」とキャプションした原本の挿絵がある。是非、見られたい。

「十吋」「吋」は「インチ」。二十五・四センチメートル。

「十六吋」四十一センチメートル弱。

「五佛」真言宗の両部曼荼羅に於いて、中央仏の大日如来とその四方に居(ま)す四仏を指す語。金剛界曼荼羅では、大日如来と阿閦(あしゅく:東)・宝生(ほうしょう:南)・阿弥陀(西)・不空成就(北)の四如来を、胎蔵界曼荼羅では、大日如来と宝幢(ほうどう:東)・開敷華王(かいふげおう:南)・阿弥陀(西)・天鼓雷音(てんくらいおん:北)の四如来を指す。金剛と胎蔵のそれらは実際には同体である。五智如来とも呼ぶ。

「佛敎の五大」小泉八雲が述べる通り、仏教で宇宙を構成しているとされる「地」・「水」・「火」・「風」・「空」の五つの要素(フィフス・エレメント)のこと。

 以下、一行空け。]

 

 自分は夜を通して漂ひ行く、しかも漂ひ行くにつれて風と波との衝動のもとに次第に遠く離ればなれに散らばつて行く、この明かるい脆い恰好したものをぢつと見て居つた。その各々が、色のをのゝきをさせて、物に怯ぢて居る或る生物のやうに――そのまた外(そと)暗黑の中へそれを運んで行く盲目の流れに戰慄して居る生物のやうに――思はれた。……我々自らも、より、深い且つよりほのぐらい海へ船下ろしされて、避く可からざる分解へと漂ひ行くにつれて、始終互々に次第に遠く遠く、離れ行く燈籠の如き身では無いのか。間も無く銘々の思想の光は燃え書きる。するとその憐れな肉體や、甞ては美しい色であつたものの殘つて居る總ては、永久に色無き『空』ヘ溶けこまねばならぬのである。……

 斯く考へるその刹那にすら、自分は眞實此處に一人きりで居るのか知らと疑ひ始め――自分の橫で波に擴られて居る物のうちに、光りの唯だのをのゝき以上の或る物が居はせぬか知ら、消え行くその炎を惱まし、それを看て居る者を看て居る或る者が居はせぬか知ら、と考へ始めた。微かな冷たいをのゝきが自分の身體中をすうつと通つた――恐らくは水の深みから昇り來る或る冷たさであつたらう――或は恐らくは或る靈的な空想が潛行しただけのことであつたらう。と、此海岸地方の古い迷信が――『精靈』が旅をする折は危險だといふ古い漠とした警戒が――自分の心へ浮かんで來た。夜間斯うして此海へ出て居る自分の身へ――『死者』の光明を妨害して居る、或は妨害して居るやうに思へる自分の身ヘ――何か禍が落ちて來でもすれば、自分は今後の或る無氣味な物語の主題となることであらう、と想つた。……そこで自分は佛式の訣れの文言を囁いた――その光りに。――そして急いで岸を指して泳いだ。

 足が石へ再び觸はると、前の方に白い影が二つ見えたので自分はびつくりした。が、水は冷たいかと尋ねるやさしい聲が自分を安心させた。それはその妻と一緖に自分を探しに來た、自分の宿の老主人の、魚賣りの乙吉の聲であつた。

『氣持ちのいい程冷たいだけだ』自分は二人と一緖に歸宅しようと着物をひつかけながら答ヘた。

『あゝ、盆の晚に海へ出るのは宜う御座いません』と乙吉の妻は言ふ。

『遠方へは行かなかつたよ。ただ燈籠が見て見たかつたのだ』と自分は答へる。

 乙吉はかう抗辯するのであつた。『河童だつて時々水で死にます。此村の者で、乘つて居た船が破れてから、非道い天氣の日に、七里泳いで戾つた者がありました。だがあとで水へはまつて死にました』

[やぶちゃん注:以下は底本では五字下げで、乙吉の最後の『死にました』」の前に二行(ポイントは本文と同じ)で入るが、おかしいし、原文でも、[ ]で括ってページ下にあるようなので、かく整序した。]

  『カツパモオボレシタ』とは普通の諺で

  ある。カツパといふは水に、殊に川に、

  住む怪物である。

 七里と云へば十八哩少し足らずである。此村で今どき若い者でその位泳げる者が居るかと自分は訊ねた。

 老人は答へて曰ふに『多分ありませう。强い泳ぎ手は多勢居ります。此處の者は皆んな泳ぎます、――小さな子供でも。だが漁師がそんな長い間泳ぐのは、生命を助からうとする時だけであります』

『また戀をする時に』と、その妻が言ひ添へた。『羽島(はじま)娘のやうに』

『誰れがだつて』と自分は問うた。

『さる漁師の娘でありました』と乙吉は言ふ。『七里離れた網代(あじろ)に戀人が居りました。それで、夜その男の處へ泳いで行つては、朝泳いで歸りました。男はその女の道しるべに明かりを燃やして置くのでありました。ところが或る闇の夜にその明かりを不精して燃やしませんでした――それとも風で消えたのでしたか。その娘は道に迷つて死んでしまひました。……」れは伊豆で名高い話であります』

『それでは、極東では、可哀想に、泳ぐのはヘロである。そして、斯んな事情の下に在つて、レアンダーに對する西洋の評價は何であつたであらうか』斯う自分は心で思つた。

【譯者註一 レアンダーはアピドスの靑年で、レスボスの塔に住んで居る戀人のヘロに會ひに、夜每ヘレスポントの海峽を渡つた。處が、或る嵐の夜、塔の明かりが消えて、道を失して溺死した。翌朝その死體を見たヘロは海に投じて死んだ。この物語はヴージルもオヸツドも語つて居るが、シルレルの物語唄(バラツド)とグルルパルツエルの戲曲とで最も能く近代の人に知られて居る。】

[やぶちゃん注:「羽島(はしま)娘」原文「the Hashima girl」。これは「波島」「端島」で、現在の東伊豆の網代の東方六キロメートルほどの相模湾に浮かぶ初島(はつしま:グーグル・マップ・データ)の古称である。同内容の伝承は各地に散在する。私も確かに電子化注した別の場所のものがあるはずなのだが、今は探し得なかった。見つけたら、追記する。

「ヘロ」「レアンダー」原文は「Hero」及び「Leander」。ギリシャ神話の「ヘーロー」と「レアンドロス」のこと。

「アピドス」(大谷註)は「Abydos」(アビュドス)で現在のトルコのチャナッカレの近く。

「ヘレスポントの海峽」「Hellespont」はチャナッカレが面するダーダネルス海峡の古名「ヘレスポントス」。

「レスボス」エーゲ海に浮かぶ、トルコ沿岸に位置するギリシア領のレスボス島。ここ(グーグル・マップ・データ)。チャナッカレ付近から海上を実測すると、百キロメートルを有に越えていておかしい。以上の神話はウィキの「ヘーローとレアンドロス」によれば、『ヘレスポントス(現在のダーダネルス海峡)のヨーロッパ側セストス』『の塔に住むアプロディーテーの女神官ヘーロー』と、『海峡の対岸アビュドス』『に住む青年レアンドロス』『の物語で』、『レアンドロスはヘーローに恋し、毎晩』、『彼女に会うためにヘレスポントスを泳いで渡った。ヘーローは塔の最上階でランプを灯し』、『恋人を導いた』。『ヘーローはレアンドロスの耳に快い言葉と、アプロディーテーは愛の女神として処女崇拝など軽蔑する筈だという主張に折れて、彼の愛を受け入れた』。『この日課は暖かい夏の間中』、『続いたが、ある冬の嵐の夜』、『レアンドロスは波に巻き込まれ、風がヘーローの明りを吹き消し、レアンドロスは方向を見失い』、『溺死し』てしまう。『ヘーローは彼の死体を目にして発狂し、恋人の後を追って塔から身を投げた』とあるから、八雲の記憶違いと思われる。なお、同ウィキの「文化的影響」の項には小泉八雲の本篇も挙げられてある。

「ヴージル」共和政ローマ末期の内乱期からオクタウィアヌスの台頭に伴う帝政確立期に生きた詩人プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年?~紀元前一九年)のことであろう。英文ウィキの「Hero and Leander」の中に彼の名を見出せる。

「オヸツド」帝政ローマ最初期の詩人プーブリウス・オウィディウス・ナーソー(Publius Ovidius Naso 紀元前四三年~紀元後一七年又は一八年)のことであろう。ウィキの「ヘーローとレアンドロス」によれば、彼の「名婦の書簡」の第十八及び第十九書簡でこの恋人たちのやり取りを描いているとある(但し、この書簡については偽作説もある)。

「シルレルの物語唄(バラツド)」ドイツの詩人ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)の本悲恋を扱ったバラード「Hero und Leander」(一八〇一年作)。

「グルルパルツエルの戲曲」オーストリアの劇詩人フランツ・グリルパルツァー(Franz Grillparzer 一七九一年~一八七二年)が一八三一年に創った、本悲恋を扱った悲劇「海の波と恋の波」 (Des Meeres und der Liebe Wellen)のこと。]

 

        

 

 いつも盆時代には海が荒れる。だからその翌朝浪が段々高まるのを見ても自分は驚きはしなかつた。一日中高まつた。午後の中頃までには波は非常なものとなつた。で、自分は防波壁の上にに坐つて、日暮までそれを見て居つた。

[やぶちゃん注:「盆時代」お盆の時期。]

 それは長い、ゆるやかな――巨大なそして恐ろしい――うねりであつた。時折、それが碎けるつい前に、聳え立つ大浪が、丁度、慄へる硝子の音のやうなヂリンといふ音を立ててその緣の長さ全體に罅を入れる。それから自分の足の下の壁を震はす程の轟(とどろき)を以て落ちて平らになる。……自分は、その軍隊を海の如くに――劍戟の波の上に波を以てし――萬雷に次ぐに萬雷を以てして――襲擊させた今は亡き露西亞の偉大な將軍のことを考へた。……まだ殆ど風といふ程の風は無かつた。が、何處かほかで天氣が荒れて居つたに相違無い。で、岸打つ大浪はずんずん高まりつつあつた。自分はその浪の運動に心を奪はれた。斯んな運動は筆舌の及ばぬ許りにどんなに複雜なものであり――しかも、永遠にどんなに新しいものであることか! その運動の五分間すら誰れが完全に記述することが出來よう。正(まさ)しく同じに碎ける二つの波を見た人間は未だ嘗て一人も無い。

【譯者註二 偉大な將軍といふはミカイル・スコペレフ(一八四四―一八八二)を指す。】

[やぶちゃん注:「ミカイル・スコペレフ」(大谷註)はロシア帝国の軍人で歩兵大将であったミハイル・ドミトリーエヴィチ・スコベレフ(Михаил Дмитриевич Скобелев 一八四三年~一八八二年)は「露土(ろと)戦争」やトルクメニスタンの占領などで活躍した。詳しくはウィキの「ミハイル・スコベレフ」を見られたい。

「嘗て」前の「かつて」と直後のそれが「甞」で字体が異なるのはママ。]

 そしてまた恐らくどんな人間でも、捲き返す海の大波を眼に見、その雷なす音を耳にして、眞面目な氣持ちにならぬ者は未だ甞つて無いであらう。動物――牛や馬――でも、海の前では默想的になることを自分は氣附いて居る。彼等はその洪大な物の姿と音とが此世の他の凡てを忘れしめたかのやうに、ぢつと立つて、一と所を見つめて、そして耳をすまして居るのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 此處の海岸に或る民間俚諺がある。それは『海には魂があり耳がある』といふのである。そしてその意味は斯う說明される。海を恐(こは)いと思ふ時、その恐いといふ念を口に出してはならぬ。恐いといふ事を言ふと、浪は突然高くなる。……さて此の想像は自分には徹頭徹尾自然のやうに思はれる。海へ入つて居るか、船で海へ出て居るかする時、海は生きては居ない――海は意識のある、そして我々に敵意のある力を有つては居ない――とは充分に信ずる事が自分には出來かねる、と自白せざるを得ぬ。理性は、その當座は、此の空想に對して何の役にも立たぬ。海といふものはただ水が集まつて成つて居るに過ぎぬと、斯う考へることが出來るやうになるには、その非常に大きな浪が、小さな漣が鈍く這うて居るとしか見えぬやうな、どつか高い處に自分は居なければならぬのである。

 然し此原始的な空想は晝の明かるい時よりか夜の暗闇の時の方がもつと强い位に起こり得るのである。燐光の夜、汐の光りが潛んだり閃いたりするのが、如何に生きて居るやうに見えることか! その冷たい炎の色合が微妙に移り變はるのが、如何に爬蟲的であるか! 斯んな夜の海にもぐりこんで、その靑黑い暗がりの中で兩眼を開いて、そして眼の運動に伴なふ明かりの無氣味な迸出を心留めて見て見よ。水を通して見る光つた點が一々みな、眼を開いたり閉ぢたり! するやうである。そんな瞬間には、何か奇怪な有情に包まれて居るやうな――そのどの部分もが同じやうに觸官を有ち親官を有ち意志を有つて居る、或る生きた物質のうちに、無限無窮の軟らかい冷たい『靈』のうちに、吊り下げられて居るやうな――氣が誰れしも實際するのである。

[やぶちゃん注:「迸出」「へいしゆつ(へいしゅつ)」或いは「はうしゆつ(ほうしゅつ)」と読み、「迸(ほとばし)り出ること」。]

 

       

 

 その晚自分は長い問床で眼を覺まして居て、その偉大な汐の雷と轟き碎ける音に耳を澄まして居た。その分明にきこえる衝擊の音よりも深く、またより近い浪の突擊の音よりも深く、はるか遠い大波のベエスの音がきこえるのであつた。それは自分の家がそれに震へる程の、絕え間無い底知れずの囁き聲で、――想像には、無限の騎兵隊の馬蹄の響のやうに、無數の砲車の集中する響のやうに、日の出からして世界程の幅の大軍隊が突進するやうに、きこえる音であつた。

 すると自分は、子供の折に、海の聲を聽いた時の漠たる恐怖の念について考へて居つた。――そして、後年、世界の種々な地方での種々な海岸で、磯打つ浪の音がいつもその子供らしい感情を復活したことを懷ひ出した。確に此の感情は、幾千萬世紀も自分よりか古いもので――祖先の無數の恐怖の遺傳された總額なのである。が、やがてのこと、海を恐がる念は、その聲が覺ます種々雜多な畏怖心のただ一要素を現はすに過ぎない、といふ確信が自分に起こつて來た。といふのは、この駿河海岸の荒汐を聽いて居ると、人間に知られて居る恐怖のありとあらゆる音を聞き分けることが出來たからである。すさまじい戰鬪の音――いつまでもの一齊射擊の音――際限無しの進擊の音のみならず、その上に、野獸の咆り吼ゆる聲、火のパチパチシユウシユウいふ音、地震のゴオゴオいふ音、破壞のドシンガチヤンといふ音、それからそんな音に抽んでて、號叫と抑壓されたわめきとのやうな連續した叫喚、卽ち水に溺れて死んだ者の聲だと云はれて居る聲とが、きき分けられるのであつた。憤怒と破滅と絕望との想像し得らるる限りのあらゆる反響を結合しての――怖ろしい極みの大擾亂なのである!

[やぶちゃん注:「咆り」「たけり」。]

 そして自分は斯う思つた。――海の聲が我々を眞面目ならしめるのは不思議であらうか。靈經驗の遙か偉大な海に動いて居る、いつからとも知れぬ恐怖のあらゆる波が海の種々な發言に相和して、之に應答せざるを得ぬのである。深淵相呼號すである。眼見得る『底無し』が、それよりも年長な實在たる眼見得べからざる『底無し』に――その流轉が我々の靈魂を造り成したその眼見得べからざる『底無し』に――呼ばはるのである。であるからして、死者の言葉が海の怒號であるといふ古昔からの信仰には、確に少からざる眞理があるのである。眞實、過去の死者の恐怖と苦痛とが、海の怒號が喚起するあの漠とした深い畏怖の念で、我々に物言うて居るのである。

【譯者註三 『詩篇』第四十二篇の七に『なんぢの大瀑のひゞきよりて淵々よびこたへ、なんぢの波なんぢの猛浪ことごとくわが上をこえゆけり』とあり。】

[やぶちゃん注:「靈經驗の遙か偉大な海」原文は「the vaster sea of soul-experience」。「霊魂の経験を孕んだ広大広漠たる海」か。この段落、訳が日本語としてこなれておらず、難解である。ここは私が最も腑に落ちると感ずる、所持する上田和夫氏(昭和五〇(一九七五)年新潮文庫刊「小泉八雲集」)の本段落を引用して示す。

   《引用開始》

 そしてわたしはひとりつぶやいた――海の声が、われわれを厳粛にするのは、なんと不思議なことであろうか、と。海のさまざまな発言に合わせて、魂の経験という、より広大な海に動いている、太古からの恐怖のあらゆる波がこたえざるをえないのである。「淵々(ふちぶち)呼びこたえる」。目に見える淵は、その潮の流れでわれわれの霊魂をつくったより古い、目に見えぬ淵に叫びかけるのである。

   《引用終了》

「『詩篇』第四十二篇の七」言わずもがなであるが、「旧約聖書」のそれである。Wikisource」の「口語 聖書」(昭和三三(一九五五)年日本聖書協会年刊)の「詩篇」のそれを引用しておく。

   《引用開始》

あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。

   《引用終了》]

 然し海の聲よりももつと深く、しかももつと妙な具合に、我々の心を動かす音が――時々我々を眞面目にならせる、しかも頗る眞面目にならせる者が――ある。音樂の音である。

 大音樂は、我々心裡の過去の神祕を想像も及ばぬ許り深く攪亂する、心靈的一暴風である。大音樂は――その異つた聚器と聲との各〻が、各〻異つた幾萬億の生誕前の記憶に別々に訴へる所の――一種絕大な魔法である、とも或は言へよう。靑春と哀憐とのあらゆる精靈を呼び起こす音色がある。死んだ熱情のあらゆる幻の苦痛を喚起する音色がある。莊嚴と威力と光榮との死んで居る感情總てを――滅(めつ)してしまつて居るあらゆる大歡喜を――忘られて居るあらゆる慈悲寬容を――復活する音色があるのである。まことや音樂の津からは、自分の生命は百年に足らぬ前に始まつたのだ! と愚かにも夢想して居る人間には、不可解に思へることであらう。然しながら、『我』の本體は太陽よりも古いものであると知つて居る人にはどんな人にも、この神祕は判明するのである。その人は、音樂は一種の魔法だといふことを知るのである。その人は、旋律のありとあらゆる漣に對して、諧調(ハアモニイ)のありとあらゆる巨浪に對して、千古の快樂と苦痛との無限の或る渦卷が、『生死の大海』から、その心裡で應答するのであると悟るのである。

[やぶちゃん注:「大音樂」原文「Great music」。偉大なる音楽。]

 快衆と苦痛、此二者は大音樂には常に混合して居る。だからこそ音樂は海洋の聲、或は他のどんな聲もが爲し得ないほど、深く深く我々に感動を與へ得るのである。が然し、音樂のより大なる發言に在つては、低音調を成して居るものは常にこの悲哀である――『靈の海』の波の囁き聲である……。音樂といふ念が人間なるものの頭腦に開展し來り得る迄に經驗されたに相違ない所の悲喜の總額が、如何に巨大なものであるか、思ふも不思議な位である!

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 何處かで斯ういふ事が言はれて居る。人生は神々の音樂である、――人生の啜り泣きと笑ひ聲、人生の歌と叫びと祈禱、人生の喜悅と絕望との絕叫、此等は不死不滅の者の耳にはいつも完全な諧調となつて立ち昇る、と。……だからして紳々は苦痛の音色を鎭めようと欲し給はなかつたのである。鎭めれば音樂を打ち壞す事になるであらう! 苦悶の音色が籠もつて居ない音の組み合はせは、神聖な耳には聞くに堪へぬ不協音となる事であらう。

 そして或る點に於ては我々自らも神々の如くである。無數の過去生涯の苦痛と喜悅とが總括されて居ればこそ、遺傳的記憶によつて、音樂の消魂的快樂が感ぜられるからである。死んだ幾代(だい)のあらゆる嬉さ悲さが、諧調と旋律との無數の形式を採つて我々の心へ宿りに歸つて來るのである。正(まさ)しくそれと同樣に、――我々が太陽を眺め得なくなる幾萬年の後に――我々自らの生涯の嬉さ悲さが、より微妙な音樂と共に、我々ならぬ他の人々の心情へ移りはいつて、其處で或る不可思議な刹那の間、逸樂的苦痛の或る深いそして絕妙な戰慄を起こさせることであらう。

[やぶちゃん注:底本では、既に分割配置した大谷氏の『譯者註』が五字下げ一でややポイント落ちで並び、最後の『譯者註三』の末尾に下一字空けで『(大谷正信)』とあって、その次の行に下一字空けで、『At Yaidzu.In Ghostly Japan.)』と記されてある。参考までに、ここでは、まず、敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「日本雑記 他」所収)の最終段落を掲げる。

   《引用開始》

 だが、ある意味からいうと、人間自身も、そういう神によく似たところがある。つまり、記憶という器官によって、音楽の法悦感を人間に与えるものは、じつは、劫数(こつしゅ)無尽の過去世における、人間の悲・喜・哀・楽の総和だからである。消え滅びた世々の、あらゆる悲・喜・哀・楽が、語調と韻律の無尽無量の形のうちに、われわれの心に還ってくるのである。それと同じように、われわれが太陽を仰げなくなる百万年後には、こんにち生きているわれわれの悲・喜・哀・楽は、また別の生命の中に豊かな調べをそそぎ入れて、未来世におけるある神秘な瞬間に、なにかしら心たのしい悲哀の深い微妙な感動のおののきを起させることであろう。

   《引用終了》

とある。「劫数」は現行では「こうじゅ」「こうしゅ」「ごうしゅ」「ごうじゅ」と読むの一般的で、インド哲学や仏教などで、極めて長い宇宙論的な時間の単位である「劫(こう)」を一単位として数えられる途方もない時空間の経過を指す語である。次に、先に示した上田和夫氏のそれをも示す。

   《引用開始》

 そして、ある意味では、われわれ自身も神のような存在である――生来の記憶をとおして、音楽のもつ恍惚(こうこつ)をわれわれに感じさせてくれるのは、過去の無数の生活の苦痛と歓喜とが集約されているからである。いまは滅んだ幾世代ものあらゆる喜びと悲しみが、数知れぬ諧音(ハーモニー)と旋律(メロディー)となって、われわれのもとへ立ち帰ってはなれようとしない。それにしても――われわれが陽を見なくなってから百万年後に――われわれ自身の生の喜びと悲しみとが、さらに豊かな音楽にともなって他の人びとの心のうちに移り――そこで、ある神秘な一瞬、官能的な苦痛をともなう深い強烈な感動をおこさずにはおかないであろう。

   《引用終了》

 以前、とある翻訳家が翻訳には賞味期限があると言っているのを読んだことがある。それは確かに、特に近現代の日本語の急速な変化・変質(私は敢えて「進化」とは思わない。寧ろ、「退化」或いは「半崩壊」とさえ表現したい人間である)に伴って言える一つの見方ではあろうと思う。平井・上田両氏の訳の方が、大谷氏のものよりも、今の日本人には耳に優しく、一聴、判り易いようには見えるとは言える。但し、判り易いことと、それが原作者の込めた達意・言志の訳文であることとは、必ずしも一致しない、とも言っておきたい。なお、「焼津市」公式サイト内の「焼津小泉八雲記念館」の「焼津に関連する小泉八雲作品」で、静岡大学名誉教授村松眞一氏の本篇の全新訳(PDF・縦書)が読めるので、ご紹介しておく。]

 

2019/08/02

ブログ1250000アクセス突破記念 梅崎春生 万吉

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年八月号『文芸』初出、昭和三二(一九五七)年四月角川書店刊「侵入者」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第一巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 梅崎春生は満二十九歳の昭和一九(一九四四)年六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団、そこで暗号特技兵となっているから、主人公の述べるそれと完全に一致しているので、本作は実体験に基づくものである可能性が極めて高い。同海兵団は昭和十六年十一月二十日に長崎県佐世保市相浦に「佐世保第二海兵団」として設置されているが、昭和十九年一月四日に「佐世保相ノ浦海兵団」に改称しているから、作中で主人公が「この海兵団はその頃まだ出来立てで、充分に整理されていなかった」というのは改称による内部編成の変更などを考えれば、腑に落ちる謂いとなろうとも思う。

 「罰直」は所謂、軍隊内で行われた私的制裁、上級兵による下級兵に対する体罰、いじめである。

 「ヒョウソ」瘭疽。手足の指の末節の急性化膿性炎症。この部位は、組織の構造上、化膿が骨膜や骨に達し易く、また、知覚が鋭いために激痛を伴う。局所は化膿・腫脹・発赤・熱感の症状を起こし、治療が不全であると、壊死が進んで、指の切断が必要となったり、骨髄炎やリンパ管炎を併発して重症化する場合もある。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本日午前八時前後に、1250000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年8月2日 藪野直史】]

 

   万  吉

 

「佐二補水第一〇〇〇〇号」――この男をおれたちは、最初のうち憎んだ。

 おれたちは皆、佐世保海兵団に同月同日に召集された、第二補充兵の水兵だった。そしてそれぞれ、実験用の小動物か何かみたいに「佐二補水第……号」という兵籍番号をつけられていた。この男が、その「一万号」に当たったのだ。つまり佐世保管区第二補充兵の、丁度(ちょうど)一万人目の召集水兵だという訳だ。

「ねえ」

 入団最初の日の夕食のとき、彼は途中で箸(はし)を投げ出し、あたりを見廻して言った。家族にでも話しかけているような、ごくあたりまえの口調だった。

「いやだなあ、こんな兵隊屋敷。ほんとに僕はいやだよ。何だい、このオカズ。骨ばっかり」

 それほど大きな声ではなかったし、卓も末席だったので、教班長の耳には届かなかったらしい。しかし近くにいるおれたちには、それはハッキリ聞きとれたのだ。誰も相槌(あいづち)を打たなかった。皆ムッとしたような顔付で、ぼそぼそと飯を口に運んでいた。オカズは魚の汁かなにかで、身はばらばらに溶けて、小骨はかりになっていた。――誰も返事しなかったが、いささかもそれを意に介さない風情で、彼はせっせと食べているおれたちの姿を、物珍らしそうに眺め廻していた、と思う。おれはかなり強い反撥を、その彼にかんじた。彼のそのやり方は、傍若無人だと、言えば言えた。今思えば、彼は率直に自分の心境を語ったのに過ぎないのだが、そのとき周囲に与えた印象は、そうではなかった。へんに投げやりなひとを舐(な)めた態度に見えた。――おれたちはこのたび不運にも召集された。その運命を甘受するためには、今の自分の境遇を、出来るだけ悪いものに思いなしたくない。そういう心理がおれたちにははたらいている。その意識が、彼への反撥を引き起したのだろう。兵隊屋敷。まったくそれには違いなかったのだが、自分が今から起臥する場所を、そのような侮蔑的な呼称で表現することは、おれたちにはあまり愉快なことではなかったのだ。

 このようなことで、彼は先ずおれの印象にとどまった。体は小さく弱そうなくせに、いくらか倣慢(ごうまん)で横着そうな人間として。

 

 彼は背丈は低かった。五尺一寸か、せいぜい二寸。見かけこそいくらか肥っていたが、さわるとぶよぶよと手応えがなく、色も生白くて、すこぶる筋肉薄弱な体つきだった。

 ――こんな身体はもっとも軍隊に適しない。

 そのような体力のマイナスは、直ぐに軍隊生活の日常にひびいてくる。朝の駈(か)け足、作業、海軍体操、吊床訓練など。すべてがそうなのだ。案の定彼はもっとも動作が遅く、もっとも覚えが悪く、そしてもっとも数多く殴(なぐ)られた。おれたちは皆第二補充兵だから、もちろん良い体の者は一人もいやしない。その中でも彼は、いちばん体力が貧しい、そしていちばん動作の鈍い兵隊だったのだ。

「どうしておれはかりが、こんなに殴られるんだろうな」

夜の煙草盆などで、彼はこぼしたりするのだ。それもひとごとみたいな言い方で。「まるで目の仇みたいに、おればっかりをさ」

「あたりまえよ」と誰かがつけつけと言う。「万吉、お前にはな、やる気がないんだろう。殴られたって、あたりまえさ」

 いつか彼には「万吉」という渾名(あだな)がついていた。兵籍番号が一万号というところから、そうつけられたのだ。その渾名は、いかにも彼によく似合った。彼の風貌には、どこかとぼけたようなところがあったし、いつも失敗ばかりしているので、そろそろ皆から莫迦(ばか)にもされ始めていたのであるから。

「やる気がないって――」と万吉は口をとがらせて言う。

「あんなの、やる気持になれるかい。じゃお前らは、喜んでやっているとでも言うのかい」

 そういうことをヌケヌケと言うから、万吉は皆から憎まれたりするのだ。その上万吉が失敗すれば、時には連帯責任で、班員全部が罰直にあったりすることがある。その点では、万吉という男は、はなはだ迷惑な困った存在だった。しかしその反面、たとえば吊床訓練などで、万吉がビリになって呉れるから、他の連中はビリにならず殴られずに済むのだ、そういう点では、重宝(ちょうほう)な存在だとも言えた。――そしていつもそんな風に、しくじって殴られてばかりいるせいか、日が経つにつれて、万吉はしだいに憂欝になってくるようだった。

「なんだってこんな戦争を、おっぱじめたんだろうな、日本という国は」

 ある時そんなことを万吉が、おれに言ったことがある。その頃おれは万吉と、かなり親しくなっていた。

「おれみたいなものまで引っぱらなくても、戦争をやりたい奴だけで、やればいいのにな。ほんとにおれはいやだよ」

「だからサボるのかい」とおれは聞いてみた。

「まあハッキリとそういう訳でもないが――」と万吉はちょっと沈欝な顔をした。「一所懸命やっててもね、何でこんなことをやってるかと思うと、とたんに莫迦(ばか)莫迦しいような、情ないような気特になってね――」

 これが万吉の本音だったかどうか、おれにはよく判らない。莫迦莫迦しいといっても、あとで殴られることを思うと、そうそう仕事を投げる気になれるかどうか。しかし万吉にとっては、自分の気持に従うのが自然で、その余のことは彼の考慮の中に、入ってこなかったのかも知れない。

 また別のとき、万吉はこんなことも言った。「どうもおれはこの『一万号』という奴が、気にくわないよ。ここで会ったが百年目、何だかそれに似たような感じでね。あまりいい気持がしないよ」

 

 そのうち、召集兵の中から学校出ばかりを集めて、針尾海兵団にうつされることになった。万吉もおれもその中に入った。

 万吉はその頃、二十三歳だったかしら。とにかくおれよりは四つ五つ下だった。彼はどこかの文科大学を卒業して、そのとたんに召集されたものらしい。そう言えばまだ世慣れない、妙に頑固な融通の利かなさが、この万吉にはあったようだ。

 ある時その海兵団で身上調査みたいなことがあって、所定の用紙にいろいろと書き込ませられた。「将来の希望」という欄に、万吉は「会社員」と書き込んだ。隣に坐っていたから、おれはそっとのぞいて見たのだ。そして一寸可笑しいような、軽蔑したくなるような気持にもなった。おれ自身が召集前まで会社員で、会社員の下らなさをよく知っており、希望に価するものでは決してないことを、ハッキリ知っていたから。――「趣味」という欄は、万吉のは、「芝居」だった。おれは「ナシ」と書いたけれども。

 おれがのぞいているのに気付くと、万吉は照れた笑いを見せ、用紙をずらしてかくすようにした。

 この海兵団はその頃まだ出来立てで、充分に整理されていなかったから、おれたちの仕事は毎日毎日、土運びとか材木片付けだとか、そんな作業はかりだった。教育とか訓練とかは、ほとんどなかった。朝食が済むと、すぐ整列して、作業にとりかかる。別段ノルマというようなものはなく、夕方までダラダラと働き続けさせられる。下士官の眼が光っているから、なかなか怠けられない。それでもその眼を盗んで、おれたちは適当に怠けてはいたけれども。

 しかし万吉の怠け方を知ったとき、おれは少からず驚いた。どうも作業中に、とかく万吉の姿が見えないと思っていたら、彼は毎日兵舎の床の下で、ほとんど一日中を過ごしていたのだ。朝の整列が済むと、バラバラと作業にとりかかる。万吉もその群に入りながら、機を見てうまく、兵舎の床下にもぐり込む。そこでじっと寝ころんでいるのだ。――昼食近くになると、そっと這い出てくる。午後は午後で、またごそごそともぐりこむ。作業止めの懸け声がかかるまで。ここなら下士官の眼は届かない。

 一度おれも万吉にさそわれて、半日を床の下で過ごしたことがある。ゾウリ虫やムカデみたいのが這い廻り、暗くじめじめしていて、あまり居心地のいいところではなかった。万吉はそこに板を敷いて、平気で寝ているのだ。気持わるくないか、とおれが訊(たず)ねたら、働くよりはマシだ、と彼は答えた。並んで寝ころんで、おれたちは低声で色んな話をした。

 芝居の話になると、万吉は急に人なつこい表情になり、おしゃべりにもなった。俳優の声色(こわいろ)をやってみせたりする。声が高くなりそうなので、おれは少からずハラハラした。もし兵舎に下士官でもいて、床下から声色が聞えてくれば、どういうことになるか。

「お前という人間はつくづく軍隊向きじゃないようだな」

 おれはそうささやいた。実際に強くそう感じたから。

「そうなんだよ」万吉は藪蚊(やぶか)をはらいながら口をとがらせて答えた。「おれの兄弟は、皆そうなんだ。兄貴が二人いたんだが、二人とも運悪く戦病死してしまった。生れつきひよわなんだな。残ったのはこのおれ一人だ。おれは、このおれだけは、絶対に殺されたくないよ」

「誰だって、殺されたくないさ」

 いくらか身勝手な感じがして、おれはきめつけるように言った。――しかし万吉の、そんな考え方や性格に、おれはもうそれほど腹が立たなくなっていた。むしろ親近な感じさえ、持つようになっていたのだ。つまりこの男は、いくらか身勝手なところがあるとしても、他から強制されない、平凡な生活を愛しているんだ、ということがうすうす判りかけてきていたから。その点は、このおれも共通だった。

 しかし床下にもぐりこむのは、その日だけで御免こうむった。おれはゾウリ虫やムカデの類を、あまり好きではない。――しかしあいつは、一日中床の下に寝そべって、一体どんなことを考えていたのだろう。あいつを思い出すたびに、今でもおれはそんなことを思う。

 

 学校であるからには、何か特技を修練せよという強制で、おれは暗号術をえらぶことにした。これがいちばん肉体的にはラクなような気がしたから。――万吉も同じ理由でか、これをえらんだ。そこでおれたちはひとまとめにされて、防府海軍通信学校に連れて行かれた。

 ここでは、夏のことだから、体操や駈(か)け足のかわりに、引率されて海岸に泳ぎに行ったりした。ある日、よせばいいのに万吉が、禁を犯して沖の方に泳ぎ出て、溺れそうに

なったことがある。沖の方でアップアップしているので、一時は大騒ぎだった。

 それから兵舎に戻ってくると、万吉の班は、皆を騒がせたというかどで、罰直(ばつちょく)にあった。その方法は、当の万吉を卓の上にのせ、班員全部でその卓を両手で差し上げるのだ。これは始めのうちはラクだが、十分二十分経つうちに、両手がしびれたようになり、油汗が出てくる仕組みになっている。

 しかしそれにもまして辛いのは、卓上の当人だろう。悪いことをしたのは自分だが、その自分だけがラクをして、他の班員全部が自分を差し上げるために、したたか汗を流している。これは当人にとって一種の心理的な拷問なのだ。

 万吉は居ても立ってもいられないような表情で、卓の上に乗っかっていた。泣き出しそうに、顔を歪めている。時時、アッ、アッと呻き声を立てて、身じろぎをするので、支えている班員たちはなおのことやり切れなくなってくるのだ。そこで下から、のろいの声をあげるから、万吉はますます身の置き所もなくなる。溺れ死んだ方がよかったと思ったに違いない。

 おれはその時、万吉の心事につよく同情し、班員の苦痛にもつよく同情し、同時に万吉がおれの班でなかったことを、すこしばかり祝福した。しかし、自分は免かれて、他人の苦痛を眺めるのは、それほどいい気持のものじゃない。ことに軍隊においては、いつそのお鉢がこちらに廻ってくるか、判らないのだから。

 罰直が済んで、その夜、万吉は班員たちから、ひどく殴られたということだ。この出来事を境にして、万吉は急に無口な男になったようだ。よほどこたえたのだろうと思う。

 おれは今でも時々、卓の上に乗っかっている万吉の顔や恰好を、ありありと思い出す。それは捕鼠器にとらえられた鼠に、どことなく似ていた。出口を求めて空しくもがき苦しんでいるあの鼠の顔に。

 

 二十日ほどこの通信学校にいて、何かの都合で暗号術講習がとりやめになり、一行百名余り、再び佐世保海兵団に戻ってきた。

 戻ってくると、また毎日作業の連続だ。こんどは海兵団内の作業ではなく、遠くへトラックで働きに行く。行く末はどうなることか判らないし、ひょっとすると南方行きになるのではないかと、おれたちは毎日ビタビクしながら作業に従事していた。

 万吉が川棚(作業場の地名)で足指にケガしたのも、その頃だ。

 なんでも大砲の薬莢(やっきょう)か何かが、いきなりたおれかかってきて、足指がその下敷きになったという話だった。万吉はビッコを引きながらも、頑強に医務室には行かなかった。それでそこからはいきんが入って、ヒョウソになった。

 後になって、万吉はおれにこう話した。

「――脚一本ぐらい、折ってもいいと考えてたのさ。そうしたら召集解除になるだろうと思ってね。ところが下敷きになったのは、足の親指一本だけさ。人間の神経って、妙なもんだな。たおれかかってくるのを見て、やはり反射的に足を引っこめたらしいんだ。我ながら厭になってしまうよ」

 足を引っこめたばかりに、万吉の企図は挫折したわけだ。そのかわりにヒョウソとなり、作業も免ぜられ、彼は毎日医務室に通い始めた。うまくやったと、万吉をうらやむ者も出てきた。何しろ川棚の作業は、針尾のそれと違って、相当な重労働だったから。

 万吉は自分のヒョウソを、できるだけ長びかせるように、努めたのじゃないかしら。なかなかなおらないばかりか、次第に悪化して、ついに足指を切断しなけれはならない破目になったのだ。そしてある日、軍医の執刀で、右足の親指をチョン切られた。

 その丁度(ちょうど)同じ日、帰ってきた百余名の中から、三十人が選抜されて、佐世保通信隊に暗号術臨時講習員として派遣されることになったのだ。幸いにも、おれもそれに入っていたし、万吉の名も入っていた。しかし万吉は、生憎ヒョウソの手術で動けないというので、すぐに他の者が指名された。つまり万吉はヒョウソのために、海兵団に居残りになったわけだ。

 おれは身仕度をととのえて、急いで医務室に万吉に会いに行った。手術直後だったので、万吉はあおい顔をして、しょんぼりと片すみの椅子に腰かけて小た。足には真白な繃帯(ほうたい)がごてごてと巻かれていた。

「どうもおれは、しまったことをしたらしいなあ」

 おれを見て直ぐ、万吉はしみじみした口調で言った。うっすらと涙を浮べているようだった。

「まだ判らないさ」とおれはなぐさめた。「人間の運不運は、あとになってみなくちゃ、判らないさ、判りっこないさ」

「いや」と万吉はかたくなに首を振った。「でもお前も、生きてろな。おれもどうにかして、生きてゆくから。戦争が済んだら、またどこかで逢おうよ」

「足指を切って、それで解除にはならないのかね」声をひそめて、おれは訊ねてみた。すると万吉はふたたび力なく首をふった。

「実はおれもそう思ったりしたんだがね、どうも無理らしいや。もっとひどい奴が、解除にもならず、残っているんだから」

 そして万吉はボンヤリした視線を、足の繃帯におとした。その繃帯は真新しく、不吉を感じさせるほどの真白な色だった。そしてその一箇所だけ、鮮紅色の血が惨んでいた。やがて万吉は低い声で言った。

「痛かったぞ、この手術。軍医の奴、麻酔もかけないで、切りやがったんだ。ほんとうにムチャクチャだよ、海軍というところは」

 

 それきり万吉に逢わない。

 おれはそれからどうにか暗号兵となった。そして翌年の春、佐世保通信隊付の暗号兵として、勤務していた。沖繩の海軍部隊からの電報で、暗号書は「仁」だった。「仁」というのは、もっぱら人事関係の通報に使用する暗号だ。

「本日ノ戦死者氏名左ノ通リ」

 電報はそんな文章から始まっていた。暗号書を操るにつれて、次々氏名が訳出されてくる。「佐二補水第一〇〇〇〇号」と出てきたとき、おれはぎょっとした。おれは思わず声を立てそうになった。万吉ではないか。

 それはやはり、万吉であった。あの海兵団からどんな経過で、沖繩に渡るようになったのか、おれは知らない。しかし自分が訳出したその電文をじっと眺めていると、沖繩の焼野原で、あの体の小さな色の生白い万吉が、虫のように死んで行ったことを、まざまざと実感出来た。軍隊に入れば生死も常でないとは知っていたが、やはりおれはその時涙が出そうな気がした。

「あいつもとうとう死んだな」翻訳文を当直長のところに届けに行きながら、おれは思った。「あんなに軍隊や死を厭がり、平凡な生活への復帰を望んでいたあいつが――」

 おれのこの翻訳文で、万吉の戦死が確認され、鎮守府から万吉の両親へ公報が発せられる。そのことを思うと、なにか耐えがたい気持がした。兄二人も戦死したというから、彼の兄弟はすべて、戦争で殺されたという訳になる。その公報を、受け取って、彼のおやじやおふくろは、どんな気持でそれを読むのだろう。

 当直長はおれの翻訳文を、もちろん無感動な顔付で受け取った。そしておれはまた卓へ戻り、別の電報の翻訳にとりかかった。万吉との二箇月ほどの交情を、ちらちらと思い浮べたりしながら。――だからその翻訳はなかなかはかどらなかった。

 

 おれは今でも万吉のことを思い出す。時々思い出す。再軍備などという文字を見ると、すぐに彼のことを思い出す。もっとも拘束をいとい、もっとも平凡な生活にあこがれた万吉が、全くその反対の状況において、虫けらのようにむなしく死んで行った。「佐二補水第一〇〇〇〇号」という、囚人みたいな番号をぶら下げたまま。

 勿論これは万吉には限らなかったろう。たくさんの人間が、そうやって空しく死んで行ったのだろう。何という悲惨なことか。やはりこういうことは、再びあらしめてはいけない。そういう気がおれにはする。強くそう思う。

 

 

2019/08/01

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 14 エピローグ 「プラスチーチェ、ママ!」 / ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ~了

 

□273 川岸の筏(いかがだ)場(土手上部から俯瞰・以下、最後まで(アリョーシャの隣人の家の室内シーンを除き)総て野外実写)

(標題音楽始まる)アリョーシャ、右からインして、そこの繋ぎ泊められてある(固定した川に突き出た木材に掘られた溝に、筏の突き出た横固定材の端を嵌めてあるだけ)かなり粗末な、長さの揃っていない前後に板が凸凹としている俄か作りと見える筏に飛び乗って漕ぎ出す。櫂はただの板である。上部(向こう岸)へアウトする辺りで次のショットとオーバー・ラップ。

 

□274 川中(岸(或いは橋)からの俯瞰・水面のみのフル・ショットで筏は既に上部)

懸命に筏を漕ぐアリョーシャ!

川面には高い樹木か建物か或いは橋の影が手前に見える。かなり早く次のショットとオーバー・ラップ。

 

□275 曠野(あらの)の一本道

右奥から左へ道。こちらの道端にも彼方の平地にも雑草がちらっと見えるだけ。(但し、後で判るが、この道部分は有意に高くなっており、周囲は低地で背の低い一面の草原である。カメラは道のこちら側の道端の、少し距離を置いた位置にセットされてある。

しかし、画面上部の空中に高圧線(以下のショットで高圧鉄塔が見える)の電線二本が横切っている。

右奥から走ってくるジープ。

右からアリョーシャがイン! 両手を振って止めようとする。

ジープは無視してスピードも落とさない。

アリョーシャ、それを少し追いかけるのを追ってカメラが左にパンすると、高圧鉄塔の上部の突き出た一部が見え、電線が三本であることが判る。

アリョーシャ、道を振り返り、すぐ後ろに続いて走ってくるトラックを制止しようとする。

このトラックも同前。

アリョーシャ、やはりそれを追って左へ走るのをカメラが左にパンして追うと、道の向う側の独特の形をした高圧鉄塔(短い四脚の脚で上部は「Y」字型に開いてその逆又の中間部に平面に組んだ鉄骨があり、その左右と中央に碍子列が突き出るもの)の全景が見え、それは曠野の彼方へ真っ直ぐに繋がっていて、遙か向うにも同じ鉄塔が三、四基確認できる。

アリョーシャ、鉄塔のこちら位置(ここはカメラ位置に近い)で道の背後を見て、両手を高々と掲げる。トラックが過ぎようとする直前、アリョーシャ、右手を車の前に突き出す。

トラック、急ブレーキ!

運転手(男。運転台の扉(左)を開けて座席から)「貴様! 何考えてるだッツ?! 生きるのに疲れたってかぁッツ?!」

と怒鳴る。

アリョーシャ、フロントを廻り込んで、乗降ステップに飛びつくと、

アリョーシャ「私をサスノフスカまで連れって下さい!」

と頻りに道の先を指す。

運転手「できない相談だ!」

アリョーシャ「ほんの9キロほどなんです!」

運転手「言っただろ! 無理だ、って!」

と言いつつ、車をゆりゆると発進させる。

 

□276 トラックの前(カメラも恐らく移動車から)

ゆるゆる動いているトラック。ステップに立って(左手で運転席の天井のそとにつかまっている)なおも懇願する。

アリョーシャ「僕は前線から母に逢いにやってきたんです! それに、直ぐに戻らなきゃならないです!」

運転手「貴様のために俺がムショに入るって法は、ねえ!」

アリョーシャ「何だッツ! くたばれッツ! こん畜生!」

アリョーシャ、扉を開けてたたき戻し、ステップを降りる。

アリョーシャ、むっとして見送るが、すぐ、画面左の草原に向かって走り出す。(アウト)

 

□277 道路の先(かなり高い位置から・櫓を組んだか)

さっきのトラック。スピードを落し、少し行ったところで右側に車を寄せたかと思うと、道を横切って道端まで出て大きくターンして戻ってくる。

 

□278 野中を行く泥んこの道(車が走れる幅はある)

手前に野草。中央にカーブした道(手前右から中央を経て右手奥へ)。両傍(りょうはた)は低い草の草原。高圧鉄塔が右手中景と左中央奥に聳える。雲が重なっているが、地平線は明るい。

その道の左端を走っているアリョーシャ。

右から、さっきのトラックがイン。泥に車輪がとられて、運転はかなり難儀である。

アリョーシャ、トラックに気づいて、一瞬、立ち止まって振り返るが、右手を挙げて振り降ろし(拒絶のポーズ、以降、二度ほど同じポーズをする。よほどさっきのやりとりでムッときている)、無視し、また走りだす。

しかし、トラックは彼になおも併走する。

アリョーシャ、遂に折れる。停車したトラックの前を廻り込んで、右助手席に乗り込む。走り出すトラック。(以上は総て画面の中景で小さく演じられ、台詞は一切ない。SEもトラックのインの際に控えめに聴こえるだけで、標題音楽が大きくかぶって主役となる)

 

□279 走るトラックの運転台(その荷台からの撮影)

乾いた道。右扉を開いてアリョーシャが出、荷台に攀じ登って、前を向いて立つ(背)。

向うに森が見える。サスノフスカ村だ!

 

□280 道(フル・ショット)

左手奥でややカーブが入った道。

アリョーシャが荷台に立ったトラックが、向うから疾走してくる。

周囲は丈の高い草が生い茂っている。

トラック、右にアウトしかけて、カット。

[やぶちゃん注:この道は映画冒頭でアリョーシャの母エカテリーナが遠望するサスノフスカ村の入り口の道なのである。]

 

□281 村の入り口

白い道。左上を奥にして右に続く。

右に小屋の一部とその脇に佇む、白い馬が繋がれた荷馬車。

そこをトラックが走り抜ける。

この時、アリョーシャは左手前を

――ちらっ!

と見る。(次のカットで意味が分かる)

カメラ、道の左側で、あおって、荷台のアリョーシャを撮る。

抜けたトラックの道の反対側の道脇にも民家。

 

□282 若い農婦三人

右に道と、その向うにさっきの白馬の馬車と農家。

農婦らの前には荷台があり、その上にジャガイモを一杯入れた籠が幾つも載っている。

中央の農婦2は過ぎったトラックを怪訝そうに見つめている。(彼女は位置からアリョーシャは見えなかったのだ)

右端の農婦が、

農婦1(笑顔で)「あんた! あれって! エカテリーナの息子の! アリョーシャじゃない?!」

 

□283 農婦1の背を舐めて左背後から

向うに穀類を入れた嚢を積んだ荷台があり、そこにいた一人の別の若い農婦4が走ってくる。

その背後左手を、奥に向かって走り去るアリョーシャを載せたトラックが映り込んでいる。

[やぶちゃん注:何気ないものだが、カット編集を、ないがしろにしないリアル・タイムの丁寧な作りである。]

農婦3(前のカットでは背を向けていた。位置から見て走ってくるトラックを一番長く視認できる位置にある)「そうよ! アリョーシャだわ!」

農婦4(息せき切って走り込んで)「エカテリーナは畑よ!」

農婦1「行くのよ! 彼女のとこへ!急いで!」

農婦4、荷台の向うを抜けて右へ走る!(カメラ、右へパン。荷台の右手には黒馬が繋がれていたのであった)

 

□284 アリョーシャの家の前

少し高台。右手下方に小川。太い樹木が中央と右手に聳え、その中央の木の向うからこちらに道。そこをトラックが走ってくる。

急ブレーキ!(ここで今までかかっていたテーマ曲がとまる

アリョーシャ、荷台を右手に飛び降り、斜面を駆けあがる!

カメラ、それを追って左に移動しながら、アリョーシャをとらえ続ける。

民家が並び建っている。

木の小さな五段の階段をかけ上がるアリョーシャ!

 

□285 アリョーシャの家の玄関

走って扉に軽く両手をついて弾き戻ると、アリョーシャ心を落ち着けて、静かにドアを叩く。

はにかんで笑顔を浮かべて伏し目になるアリョーシャ。

アリョーシャ、左手(開放されてある)の懐かしい故郷の家の外を眺めて落ち着いた笑顔を浮かべる。

が、応答がない。

アリョーシャ、真顔になって少し強く連打する。

やはり、答えがない。

アリョーシャ、左手でドアの左上の長押を探る。

手を降ろす。手には鍵。

[やぶちゃん注:今じゃ信じ難いが、外出する時の内輪の鍵置き場のルーティンである。昔は私の家もよくそうしたものだった。うちでは牛乳入れの中だった。近くの不良青年が「それを知っている」と言ったのを小学生低学年だった私が母に伝えたら、慌てて母が別な場所に変えたのを思い出した。遠い昔、五十五年も前のことだった……。]

アリョーシャ、母の不在を知って、ちょっと困った顔をする。

アリョーシャ、左手を見、はっと思う。

[やぶちゃん注:そう、隣家である。シューラとの話に出た、アリョーシャの幼馴染みの娘ゾイカの家の方だ!]

アリョーシャ、鍵を元に戻すと、笑顔で、階段を走り降り、隣家に向かう。遠くで鶏がトキの声を挙げる。

アリョーシャ、すぐ向いにあるゾイカの家の玄関を叩く。

 

□286 ゾイカの玄関内から居間

アリョーシャ、鍵が開いていたので、応答を待たずに走り入り、出会い頭にゾイカと逢う。ここは開いた玄関先からの光だけで、暗い。

しかし、ゾイカは一目でアリョーシャと判る。しかし、突然のアリョーシャ来訪に吃驚して、声が出ない。

アリョーシャがゆっくりとゾイカに寄ってくるので、ゾイカはそれに合わせて後退し、奥の居間へ向かう。(カメラもそれに合わせて移動)

居間。外光が向うの二つの窓から入って、とても明るい。

ゾイカ、エプロンを引き上げて、両手で押さえ、まだ驚きが治まらないのを抑えつつ、

ゾイカ(くりくりした眼を大きく開け、小さな声で優しく)「おかえりなさい、アレクセイ・ニコラェヴィチ!」

アリョーシャ(居間のテーブルの右手立って笑顔で)「ゾイカ! 見違えたよ!」

ゾイカ、そう言われて伏し目となって恥じらいつつ、そう言われたのを嬉しく思い、しゅっ! と体を返すと、窓際の方(テーブルを挟んだアリョーシャの対面位置)に小走りして立つ。

アリョーシャ「お母さんはどこ?」

ゾイカ「畑よ! 座って、お茶を飲んでて! カーチャおばさんがお家(うち)に戻るまで!」

ゾイカ、テーブルの上を片付けかけて、真ん中に置かれていた陶器に鉢を持ち上げる。

アリョーシャ「僕はすぐに戻らなくちゃならないんだ! 車が僕を待ってるんだ!」

ゾイカ「すぐに、戻るの?……」

アリョーシャ「そうなんだ! 一刻を争うんだ!」

 

□287 ゾイカのバスト・ショット(左下方からのあおり)

ゾイカ「でも、おばさんは……」

[やぶちゃん注:「畑だし……」と言いたいのだろう。「畑」はこのアリョーシャたちの家からは有意に離れた位置にあるのである。]

 

□288 走る母エカテリーナ!

白樺の林の中を走る母!

右から左へ。(固定カメラでパンしている)

始めから、標題音楽が高らかに始まる! 二人が出逢うまで!!(ここから次の「289」の中間部には鳥の囀りのSEも重ねられている)

[やぶちゃん注:標題音楽が最も効果を発揮するのがこのショットである。ヴァイオリンのうねる音がエカテリーナの走りに完全にシンクロし、私の涙腺は図らずも必ず開かれてしまうのである!!! ここの――1:18:07――!!!!]

 

□289 走る母!

白樺林の伐採された空地。

右奥から左へ走る。

カメラ、彼女が中央にくると、そのスピードに合わせて左に動き出す。ここから、カメラの前直近に樹木の梢が幾つもかかっては、消える。走る!(ここはカメラが台車でレール移動しているものと思われる)

エカテリーナは丈の高い草木を払い、ものともしない!(左にアウト)

 

□290 ゾイカの家の前

玄関からアリョーシャが出てくる。ゾイカが続いて出、玄関先で履物を履き換えている。

カメラはアリョーシャの動きに合わせて右にパンしつつ、そこに立っている運転手(初めて姿をはっきりと映しだす。背の低い中年の男性である)へ。そのショット途中で、

アリョーシャ「母は畑に行ってるんです!」

運転手(懇請されであろうことが言外に判って)「困るよ! そんなの!」

アリョーシャ「今来た道の途中なんです!」

ゾイカ、左からインして、二人の間にきて、

ゾイカ「近くよ!」

運転手(最後に頷き)「乗りかかった舟だ!(左手を高く挙げて「さっ!」と降ろし!) 行こう!」

と言って、右にアウト。

ゾイカは、さっきインした時から、まだちゃんと靴の左が履けていないのを直しつつ、斜面を運転手・アリョーシャの後に続いて降りる。カメラ、右へパンしてそれを追い、トラックをとらえる。

運転手が運転台に乗り込み、アリョーシャは荷台に左後輪に脚を掛けて軽々と乗り上がる。

ゾイカは上がれない。

アリョーシャが手助けして、同じように乗り込む。

アリョーシャは運転台の右手上方に、ゾイカは左手に立ち、ゾイカが運転手に合図し、トラック、走り出す。

[やぶちゃん注:この運転手のおじさん、実は、実にいい人なんだよな! 彼のトラックがなかったら、この作品のコーダの現実以上の時間の急迫感は全く生まれてこないんだから!

 ゾイカの靴のシーンは何気ない演技なのだが、時の急迫を演出するに実に効果的な演出となっている。こういうごく細かい配慮こそが、よい映画を創る!]

 

□291 走る母!

丈の低い草原。雲。右から左へ!

[やぶちゃん注:ここも名シーン!!!]

 

□292 村道

奥から走ってくるアリョーシャとシューラを載せたトラック!

道の右側には木のまばらな柵が続く。

カメラの右で過ぎったところで、カット。

 

□293 走る母!

丈の高い原。これは麦であろう。

右から左へ!

(このショットは、麦の穂よりも有意に高い位置から少しエカテリーナを俯瞰ぎみに固定カメラで左にパンしながら(やや望遠か)で撮っている)

少しふらつくが、気力で走り続けるエカテリーナ!

 

□294 走る母!

同じ麦の原であるが、今度はカメラは麦の穂の辺りまで下がって、エカテリーナを右手に狙ってあおりで、移動で撮っている。カメラの上下の揺れが全くないから、レール台車移動である。

 

□295 麦の穂を前にして左奥からトラックが走ってくる!

アリョーシャとゾイカは見回して、エカテリーナを探している!

 

□296 麦原と道

道は画面下位置で殆んど見えないが、麦が綺麗にそこで切れているのが判る。

カメラは非常に高い位置(現在なら、確実にクレーン・ショットの高さで、恐らくはカメラ位置はメートルは有にあると思う)から撮影している。

右からトラックがインして、左にアウト。

――その直後!

――麦原の右上から!

――エカテリーナが走ってくる!(そのエカテリーナの来る筋には踏み分け道のようなものがある。麦原の中のそこに右上から左下の道に向かって微かな隙間の蔭りが見てとれる)

――エカテリーナ! トラックの通った道へ麦原の中の側道から飛び出す!!(この瞬間、標題音楽が終わる! カメラはここで左にパンして右下中央の道の真ん中のエカテリーナをとらえてとまる。右は麦原である)

――エカテリーナ! 少し脚をもつらせつつも、道の中央に立って、向うに走ったトラック(画面の上部に入っている)へ向かって、満身、文字通り! ねじり絞って!!

エカテリーナ「アリョーーーーシャーーーー!!!」

 

□297 麦原の中から道に停まったトラック(車体のごく上辺のみが見える)

荷台から飛び降りるアリョーシャ!

 

□298 道のエカテリーナ(「196」と同じアングル)

エカテリーナ、右手(首に巻いていたプラトークを外して持っている)を高く挙げて、降ろす。感極まって、泣き声になって小さく、

エカテリーナ「……アリョーシャ!……」

その間、アリョーシャ、彼女に向かって疾走する!(跫音のSE)

茫然と、立ち尽くすエカテリーナ!

プラトークの先が、乾いた道に触れている。陽は右下方にあり、エカテリーナの影が左やや下へ長く伸びている。

奥では、ゾイカは自力で後輪を足場にして荷台を降りている。

エカテリーナ、余力を振り絞って、アリョーシャへ走る! 右手のプラトークが二人のベクトルに上下のアクセントを添える!

アリョーシャと抱き合うエカテリーナ!!!

位置は画面の中央やや上である。

麦原を渡る風の音。

近づいてきていたゾイカは、遠くで立ち止っている。

[やぶちゃん注:これが本作の真のクライマックス・シーンである。忘れ難い映画の名シーン(1ショットの)を挙げろと言われたら、私は躊躇なくこれ(「298」)を挙げる。

 

□299 抱き合う二人――のアップ

右にアリョーシャの左肩と後頭部、中央にエカテリーナの顔。左に風に揺れる麦の穂。

エカテリーナはわずかに両瞼を開いていたが、閉じ、きゅっ! とアリョーシャの左肩を抱(いだ)く。

風の音に混じって鳥の声(SE)。

 

□300 抱き合う二人――アリョーシャのアップ

切り返し。右にエカテリーナの頭の後ろの巻いた髪。中央にアリョーシャの顔。風に揺れる左に麦の穂。アリョーシャ、目を閉じ、感無量。

風の音に混じって鳥の声(SE)。

 

□301 抱き合う二人のアップ

エカテリーナ、顔をアリョーシャの方に起こし、画面の中央に彼女の後頭部。アリョーシャの顔の上部が左にのぞかれ、アリョーシャの眼、やや開いている。奥に風に揺れる麦原。

風の音に混じって鳥の声(SE)。

 

□302 抱き合う二人のアップ

中央に、目を瞑ったアリョーシャ、右奥にエカテリーナの後頭部。アリョーシャ、右手でエカテリーナの肩をしっかりと抱きしめ、母の後ろ髪にキスする。あおりで、背景は白い雲の浮かぶ空。

風の音(SE)。

[やぶちゃん注:この背景の空はちょっと平板で奥行きもなく、ホリゾントぽく、スタジオでのショットかも知れない。若干、ショットごとのエカテリーナの後頭部の髪型に相違が見られることから、全部を同一時間同一条件では撮っていない可能性が疑われなくもない。

 

□303 抱き合う二人のアップ(無音)

アリョーシャの左肩のエカテリーナの顔のアップ。右目から涙がこぼれる。

風の音(SE)。

 

□304 ゾイカのアップ(上めのバスト・ショット・無音)

二人の抱き合っているのを見つめている。(画面左方向を見つめている)

風の音(SE)。

[やぶちゃん注:これは前のゾイカの静止位置だと、かなり有意(十メートルほど)に離れていることになるのだが、このショットのゾイカの視線はそんな遠くではなく、ごく近いものを眺めているそれである。実は

――この「304」は

――「303」までの「抱き合う二人」を見つめている

のではなく

――次の「305」の「抱き合う二人」を見つめている

のである。

 次の「305」の「抱き合う二人」に始まるシークエンスは、周辺の風景に有意な激しい変化が見られ(後述)、「303」とは時制的ロケーション的には実は――連続したものでは全くない――のである。

 但し、ここの一連の編集のマジックによって、感動のクライマックスにある観客は実は殆んどその不連続性を意識しないと言ってよい。

 言うなら、この――ゾイカのアップは、そうした

――掟破りの不連続なシーンを連続したものと錯覚させる強引な短縮編集マジック――

のための

〈魔法の繋ぎのカット〉

なのであって、抱き合った二人を越えた、二人の手前の左位置相当の、数メートル圏内の直近から二人をみつめているという設定で撮られているものなのである。次の「305」の注を参照されたい。]

 

□305 抱き合う二人のアップ

アリョーシャの右肩のこちらを向いたエカテリーナの顔。

奥にアリョーシャ(顔はエカテリーナの顔に隠れている)、互いに背を抱く手(アリョーシャ右手、エカテリーナの左手)。アリョーシャの背中には梢の広い葉の葉蔭が揺れる(ということは、道の左傍(はた)には有意な高さの広葉樹が植わっていることになる。但し、後でカメラが後退するシーンでの梢の影の動きを見ると、ちょっと不自然な部分があり、或いは一部は、スタッフが切った梢の一部を掲げて作っていた人工のものである可能性がある)

二人の左背後は丈のごく短い草原で、その奥には民屋と、その彼方にはこんもりとした林が二つ見えている。

右手奥は道と草地と森であるが、複数の人影がゆっくりと近づいてくるのが垣間見える。

しばらくして、やっと

――エカテリーナが

「……ハァーッ……」(そのままにカタカナ音写)

安堵の溜息をつく。(ここで主音声が戻る)

カメラ、後退して少しフレームを広げてティルト・アップもする。

すると、そこは村の近くの入り口附近、畑に向かうルートの一つであるらしい。

抱き合っていた二人が――やっと――少し離れ(左手にアリョーシャ、右手にエカテリーナ)、両手をアリョーシャの二の腕に添えたエカテリーナが、落ち着きをとり戻し、

エカテリーナ「……お前……とうとう帰ってきたのね! あぁ! どんなに、この日を待ちこがれていたことか!……」

と言うと同時に、沢山の村人が(農機具を持っている者もいる。戦時下で、多くが女性であるが、中には男性も数人いるが、お年寄りらしい)背後からゆっくりと近づいてくる。

この時、二人の背後で、わらわらと集まってくる村人のうち、右奥エカテリーナの頭部の右手に立った女性がいる。この彼女が

――一緒にトラックにのってエカテリーナを探した――ゾイカ――

である。

アリョーシャ「元気なの? 母さんは?」

エカテリーナ「みんな元気よ! 仕事はきつくて、男手がほとんどないから、苦労はしているけど……」

突如、沢山の若い女たち(七名はいる)に取り囲まれて引っ張りだこ状態になるアリョーシャ。

ちょっと媚びた感じで挨拶する娘、アリョーシャにやたら触る娘、「今、戦争はどんな風になってるの?」などと訊いたりする娘もいる。アリョーシャは村では娘たちの人気者だったのである。

そこに右奥から、若い婦人が近づき、黙ってアリョーシャを見ているだけだったゾイカを、突き飛ばすようにして、中に割り込み、

若い婦人「アリョーシャ! アリョーシャ! あたしのイワンに逢わなかった!?」

と切羽詰まって糺してくるのを最後に、エカテリーナ、アリョーシャから皆を守るように、割って入って、

エカテリーナ「解放してあげてちょうだい!――行きましょう、アリョーシャ! 私が何か食べるものを作ってあげるからね!」

と家へと向かおうとする。(カメラが奥へぐっと寄ってゆく)が、

アリョーシャ(カメラには背を向けている)「ちょっと待って、母さん!……だめなんだ! 僕、急いでるんだ!」

と言いかける。エカテリーナ、振り返って、プラトークを広げてかぶりながら、如何にも解せないという表情で、

エカテリーナ「どういう……ことなの?……」

アリョーシャ「……今すぐ……僕は前線に戻らなけりゃならないんだ……ここには、もう、ちょっとしか、いられないだよ……」

エカテリーナ「……どういうこと?……アリョーシャ?……逢ったばかりよ?……私には……訳が判らないわ?……」

アリョーシャ「行かなきゃならないんだ……もう、すぐに……」

エカテリーナ、訳は分らないけれども、アリョーシャの覚悟の真摯なのを見、それに頷く。

アリョーシャ「……ここで、少しの間だけ、話をしましょう。……」

エカテリーナ、アリョーシャに近づく。(カメラ、二人を横に廻り込む)

周囲の人々も口に手を当てて、二人のために近くから離れてゆく。

[やぶちゃん注:太字下線部を見ていただけば、既にして「303」の抱き合っているロケーションと全く場所が異なっていることが判る。

 しかも流石にこれは編集でミスったと言えるようなレベルの話ではない

 「303」と「305」を繋いでいた自然な展開のシークエンスが存在したのに、それを編集で切り詰めた結果、こうなったとも言わせない。だったら、「305」の頭のエカテリーナのアリョーシャにかける台詞はこうはならないからである。その台詞は明らかに「303」のシーンに夾雑物なしに繋がるものでなくてはならない、特異点の意味を持つものだからである。

 ということは――こうせざるを得なかった――こう撮影し――演出し――編集し――完成品とせざるを得なかった――ということである。

 恐らくは、既に消費してしまった尺の問題、俳優の再撮影のスケジュールの問題等から、かく不自然極まりない状態ですますしかなくなったのであろう。

 而して、私が既に述べた通り、展開上、観客の感動の高まりの中、辛うじて、彼らを違和感へと導かずにすむ――悪く言えば「誤魔化す」――ことが可能であろう、という賭けにチュフライは出てたのだと言うことである。

 その賭けは――美事に――図に当たった――のであった。

 中には、あるいは、私がかく指摘しなければ、それに気づかなかった本作のファンさえいるかも知れない。それでよい。空爆後の救護シークエンスが総てセット撮影だったことに気づいても、このラスト間近のはなはだ不自然な編集を冷徹に分析しても、私の本作への偏愛は、少しも変質していないからである。それが映画というのもの魔術的魅力なのである。辻褄を現実に合わせたリアリズム作品は映画に限らず、実は退屈で冗長なものなのである。――僕らの現実の人生が飴のように延びた蒼褪めた退屈の中にあるように、である――

 なお、ここでどうしても言っておかなければならないことがある。

 それはゾイカ(Зоя)のことである。

 彼女は――アリョーシャにとっては――幼馴染みの友――ではあったものの、恋愛対象ではなかった。けれど、ゾイカにとっては、そうではなかったのである。

 ゾイカはアリョーシャを愛していたのだ。アリョーシャはそれに気づかなかったのだ、シューラの思いに気づくことができなかったように、である。

 そうして、そうした隠された心理的輻輳性をもチュフライはちゃんと扱っていることが、このシークエンスからも判るのである。

 そもそも、母と抱き合うアリョーシャを見つめるゾイカの視線には、そうしたいゾイカ自身の気持ちの反映、嫉妬に似た感情が演出されている。ゾイカを演じたヴァレンティーナ・マルコバ(Валентина Маркова:私は本作ではシューラ(Шура)役のジャンナ・プロホレンコ(Жанна Прохоренко)に次いで好きである)もそれを十全に理解して演じている。

 モテモテのアリョーシャを女たちが引っ張り合う輪の中でも彼女だけが独り浮いていて、終始無言で暗く、イワンの妻にブツかられてもそれを耐えているのは、取りも直さず、ゾイカの本心は誰にも負けないアリョーシャ一筋であることを意味しているのだ。だからこそ、チュフライもカメラマンも、本カットのモブの中にあっても、出来得る限り(不自然にならぬように)フレームの中にゾイカをとらえているのである。嘘だと思ったら、再生して御覧な!

 チュフライはだからこそ確信犯で作品の冒頭に、戦後、夫を得て、子をもうけたゾイカを登場させているのである。但し、それは精神分析家が喜ぶ、ゾイカのエカテリーナへの秘かな復讐のようなものとして、ではない。映画の最後のナレーションのように

――アリョーシャは、或いは、ゾイカを妻として、サスノフスカ村で子を設けて、母エカテリーナともどもに幸福に暮らした――かも知れない

――いや

――アリョーシャは、或いは、シューラを妻として、都会に暮らし、エカテリーナを呼ぶが、二人は都会人と田舎者で気が合わず、上手く行かなくなり、シューラはリーザのように他の男に惹かれ、エカテリーナはアレクセイ父パブロフのように病床に臥せることとなる――かも知れない

しかし事実は――アリョーシャは誰であり何であるよりも――母エカテリーナの子――として一人の兵士のままに、短い生涯を〈確かに生きた〉のだ――と頌(たたえ)るために――である――]

 

□306 アリョーシャのアップ

あおり(エカテリーナの見た目である)。背は空。風の音(これは以下同じ)。

母を見つめていた目を伏せ、何か言いだそうとするが、言えないアリョーシャ。思いがあふれて、そうなっている。

 

□307 エカテリーナのアップ

軽い俯瞰(アリョーシャの見た目である)。白いプラトーク。背後は草地。

アリョーシャを見上げ、彼の思いの高まりを心で感じとっている。額に皺が寄って、少し眉根は寄って哀しげに見えるけれども、それは母なるものの持つ広大無辺に慈悲の視線である。彼女はそういう言葉にならない思いを、笑みを含んだ唇を微かに動かして、示す。しかし、それは言葉にはならない。

[やぶちゃん注:これは不思議な映像である。言葉として発する必要のない、或いは何か、母と子の秘儀としての――二人きりにだけ判る呪文のようなもの――のように私には見える。それはその唇の動きを見て、次のカットの冒頭でアリョーシャが笑うように見えるからである。何か、ここでエカテリーナ(Катерина)を演じているアントニーナ・マクシモーワ(Антонина Максимова)に何か台詞を言わせたものの、気に入らず、無音にして編集でカットしたようにも見えなくはないが、そもそもがシナリオ自体にそれに該当する台詞は存在しないのだから、それは私はないと思う。「文学シナリオ」は台詞については大きな言い換えや追加は実はそう多くないのである。これは、ソ連に於いて公的に撮影許可を得た作品の場合にそうした現場での変更は、そうそう自由には許されなかったからではないかと私は思っている。]

 

□308 アリョーシャのアップ(「306」と同じアングル)

母を見つめ、笑う。その後、真顔になる。下を見つめ、生唾を嚥(の)む。

[やぶちゃん注:このアリョーシャの真顔にあるのは、或いは、これが母との最後となるかも知れぬというアリョーシャの覚悟に基づくものと読める。]

 

□309 アリョーシャと母

母の右後ろからバスト・ショット。

アリョーシャ、コートの間からお土産に買ったプラトークを取り出して、母に渡す。

アリョーシャ「家(うち)の屋根を直したかったんだけど……」

エカテリーナ「すっかり大人になって……でも、そんなに瘦せて……」

アリョーシャ「なぁに! 今回の長旅のせいだよ! それより、母さんは! 病気してない?」

 

□310 母

アリョーシャの左の、頭より高い位置からの俯瞰ショット。

エカテリーナ「病気なんか、ちっとも。心配いらないよ。」

エカテリーナ、右手でアリョーシャの頰を優しく撫ぜる。

エカテリーナ「……髭剃りは? 毎日?」

アリョーシャ、頷く。

エカテリーナ「……煙草も?」

――その時!

突然、オフでトラックの警笛が、四度、鳴る!

エカテリーナ、

――ハッ!

とそちらを向き、即座にアリョーシャを見つめる!

 

□311 アリョーシャ(母の顔の右横をなめて)

アリョーシャ、唇を噛んで。

アリョーシャ「……行かなきゃ……」

 

□312 エカテリーナ(「310」のアングル)

エカテリーナ「……ああッツ!……お前を行かせたく、ない!!!……」

と叫んで、アリョーシャに抱きつくエカテリーナ!

エカテリーナ「アリョーシカ!……アリョーーシャ!!……アアッツ!!!……」

激しい嗚咽!(この部分は以下の「313」「314」にオフで繋がる)

泣きじゃくるエカテリーナ!

 

□313 ゾイカのアップ

ゾイカ、目と顔を伏せているが、エカテリーナがオフで嗚咽する声に、はっ! と顔を上げて、エカテリーナを見つめるポーズ。

[やぶちゃん注:これはずっと前の「304」と同じアングル上めのバスト・ショットで、背景も全く同じであるから、「304」と同じ時に撮影したものである。]

 

□314 エカテリーナ(「312」のアングル)

アリョーシャに抱きついて、左目から大粒の涙を流し、声を出して泣き崩れるエカテリーナ。(泣き声、以下でオフで続く)

 

□315 そばにいる婦人

口に手を当てて悲しみにたえない。頭の背後の空が明るい。

 

□316 エカテリーナ(「314」のアングル)

泣き崩れるエカテリーナ!

 

□317 アリョーシャ

エカテリーナの右手からアリョーシャを撮るが、その右奥に目を伏せて悲しむゾイカの姿がある。

アリョーシャ「ごめんなさい!……母さん!……」

エカテリーナ「どうして!? 謝るの!? アリョーシャ!?」

アリョーシャ「ごめんなさい! 母さん!」

アリョーシャ! 母の右肩に顔を顔を埋める!

[やぶちゃん注:遂に本作の忘れ難いロシア語の台詞が出現する――「プラスチーチェ、ママ!」(Простите, мама!)。この言葉はアリョーシャにとってはすこぶる多層的である。

例えば、全的には、

――子として母に対して満足なことをして上げられていない(不孝)への強い自罰感情

また、彼の中のこの時の茫漠とした覚悟にあっては、

――母より先に死んでしまうかもしれないという「老少不定(ろうしょうふじょう)」のような漠然とした虛無感覚

そして、この休暇の旅の中で初めて味わったところの、

――女性への愛憎と悲哀(愛別離苦)をきっと判ってくれるはずの母に語り得なかった悔恨の意識

或いは、

人の「生き死に」に関わる根源的な疑義を解いてくれるに違いない母の言葉を聞く時間を持ち得なかったという慚愧の念

等々である。

 私は今も私の亡き母に対して時々――「Простите, мама!」――と呼びかける人間なのである――]

 

□318 エカテリーナ(前の最後のアリョーシャの右肩上から)

エカテリーナ、アリョーシャを抱き、右手でその肩の右方の後ろを優しく撫でながら、

エカテリーナ「……いいんだよ! アリョーシャ!!……判ったよ。……私は待っている!……ずっとお前を!……帰ってくるんだよ! 私のもとへ!!……(アリョーシャを起こして彼を見つめながら)……お前の父さんは……帰ってこなかった……でも……お前は……必ず……帰っててくる!!」

トラックの警笛の激しい連打!(以下、続く)

 

□319 アリョーシャ

ゾイカが、二人に割って入る。このとき、ゾイカは初めて――そしてただ一度――アリョーシャの右手に触れている。

母(左端)はアリョーシャの右手を両手で握っていたが、アリョーシャはトラックへ向き、母の手は左にアウトする。

そこに、さっきのイワンの妻が、またしても、ゾイカとアリョーシャの間に割り込み、

イワンの妻「アリョーシャ! 前線でイワンを見なかった?」

と食い下がってくる。カメラ、それを右手に追う。

ここでもゾイカは、一言もアリョーシャに語りかけることも出来ずに終わる。

人々を左に放して、アリョーシャ、母の手をとって、右へ。

カメラ、右に移動して、あの村への入り口の道のところで停まる。

アリョーシャと(中央右向き)母(右端で左背面)。

アリョーシャ、母にキス!

その時、向うが見える。

左カーブの手前にトラックと、運転台の横に立っている運転手が中景にシルエットで見える。

今一度、左に振って母(右手手前)にキスをするアリョーシャ。

――右手で繋がって

――ゆっくると離れるアリョーシャ

――少し行って右手を軽く挙げて母に「さよなら」をするアリョーシャ

アリョーシャ、振り返ってトラックへ走る。

運転手に合図するアリョーシャ。

運転手、運転台に乗り、エンジンをかける。

アリョーシャ、臼路から荷台に飛び乗る。

走り出すトラック。

アリョーシャ、手を振って!!

アリョーシャ「必ず!! 帰ってくるからねっつ!! マーマーー!!!」

標題音楽、かかる。

 

□320 見送る母

母エカテリーナ中央(両手で胸に固く握っているのはアリョーシャのくれたプラトークである)。

その右後ろに右手を振っているゾイカ。

その奥に見送る村人たち。一人、手を挙げず振らず、茫然と立ち尽くしている婦人かいりが、彼女はつけているプラトークの色から、あのイワンの妻と判る。

 

□321 道

埃を立てて遠ざかって行くトラック。その蒙塵で、もう、荷台のアリョーシャの姿は、観客には定かには見えないが、アリョーシャは、手を振り続けている。

 

□322 エカテリーナのアップ

胸の上からのバスト・ショット。

プラトークの左をとって唇に当てる。

こぼれ落ちる涙が陽に光っている。

風が、プラトークを微かに揺らす――

 

□323 道(全景)

地平は下四分の一位置。

遠くへ走るトラックはもう小さくなってアリョーシャの姿は視認できない。しかし、彼は手を振り続けている。

陽はその右上の雲の向うに輝く。

ここにナレーションがかぶる。

以下、ナレーション

   *

――これが、私たちが、私たちの友アリョーシャ・スクヴオルツォフについて語り得た物語である。――

――彼は、或いは、とてつもない魅力のある相応の人物になっていた、かも知れない。――

――或いは、建築の仕事に携わっていた、かも知れない。――

――或いは、巧みに美しい庭園を創りあげる庭師となっていた、かも知れない。――

――彼はもうこの世にはいない。――

――が、しかし、――

――彼は私たちの記憶の中に永遠(とわ)に生きている。――

――一人の兵士として。――

――大ロシアの一人の兵士として。――

 

■やぶちゃんの評釈

 既に言うべきことはそれぞれのショット・シーン・シークエンスで注し、言いたいことは言った。ここで今さらに事大主義的に、或いは知ったかぶった蛆虫のような映画評論家の真似事もする気は、毛頭、ない。当初、「誓いの休暇」論などと大上段の標題を附けたが、私のこの電子化注の目的は、私の画像分析と認識をフル稼働して、可能な限り、日本語として正しい台詞・シークエンス解説を活字として電子化再現すること以上でも以下でもなかったのであって、私はそれを取り敢えず、完成し得たと自負している。但し、ロシア語を解さないために、持っていてもなかなかに引き難い辞書を使いはしたものの、原語の台詞の意味を正確に訳し得たかどうかは、甚だおぼつかない。明らかな誤訳があれば、是非、御教授願いたい。画像解説の方は、かなりマニアックに、当該画像とそう変わらないものを概ね脳内に構築出来るようにはしたつもりではある。

 最後に、「文学シナリオ」の最後の部分を示して終りとする。汽車空爆シークエンスの最後をダブらせておいた。

   《引用開始》

 到着した列車から、人々が事件の現場へ急ぐ。

 ……看護兵が負傷者に繃帯をしてやる。負傷者を担架で列車に運ぶ。アレクセイはまだ、同じところに座っている。彼はこの列車で帰らねばならない。

 ――道を塞がないでどいてくれ!

 看護兵が彼に言いかける。アレクセイは立ち上がり、担架に道を譲り、脇に、どく。

 しかし、ここでも自分の仕事を一所懸命している人々の邪魔になる。

 ――何してるんだ! どいてくれ!

 アレクセイはおとなしく脇に、どく。彼の傍らを恐怖の一夜で興奮した人々が群れをなし、寝ぼけ顔で、びっくりしている子供達の手を引いて、客車に向かい、何故か急いで駆けて行く。

 アレクセイの近くで乗客の大きな塊が肩章のない外套の人を取り囲んでいる。誰もが先を争って言う。

 ――何故私はだめなんです。

 ――司令官、我々はどうすればいいんですか。ここに留まっているわけにはいかないのです!

 ――皆さん! 私が言ったように……今は、負傷者と御婦人と子供だけを運ぶのです。それ以外の方は、ここに留まって列車が戻ってくるのを待って頂きたい。列車は、二時間後には必ず戻って来ます!

 アレクセイは眠りから醒めたように、話している人の所に急いで行った。

 ――二時間だって!

 彼は弱々しく叫んだ。そして、河岸に駆けて行った。[やぶちゃん注:こ二文目からが今回のパートの当該部となる。]

 ……彼はたまらぬ気持ちで、筏を持って河に飛び込む。そして、険しい岸に這い上る。

 ……息を弾ませて、アスファルト道路に駆けて行き、両手を高く上げる。

 彼の傍らを何台かの自動車が騒音を立てて通り過ぎる。

 アレクセイは道路の中央に走って行く。

 次の自動車が彼の胸の前で甲高い音を立てて止まる。

 ――お前は何だ! 気でも狂ったか。生きるのがいやになったか!

 兵士の運転手は顔を出して叫ぶ。

 アレクセイはステップに飛び上がる。

 ――すみませんが、サスノフカまで行って下さい。本道を逸れてここから十キロメートルばかりの所です。

 ――だめだ。

 運転手は叫ぶ。

 ――分かって下さい。私は戦場から来たのです。すぐに帰らなければならない! 母と一目だけ会いたい。それだけです。

 ――お前のために自分を怠けさせろって言うのか! 下りろ!

 ――畜生! この人でなし!

 アレクセイは雑言を浴びせ、ステップから下りると、処女地を駆けて行った。

 運転手は彼の後ろ姿を見送っていたが、自動車を走らせて行った。

 アレクセイは走って行く。

 突然、自動車が止まった。立ち止まっていたが、大きく向きを変えると、彼の後から処女地の中を走って来た。土くれに突っ掛かり、跳ね上がりながら、自動車はアレクセイを追い、すぐに彼と並んで走った。運転手は走りながら、彼と言い合いをした。やがてアレクセイは運転台に入った。自動車は水たまりを跳ね上げながら、田舎道を進んで行った。

 

 ……丘の向こうに村の屋根が見えて来た。

 ……そこがサスノフカである。

 村外れの納屋で女達が働いている。自動車を見つけた彼女達は仕事を止め、じっと眺めている。

 ――こちらへ来るらしいわ。サスノフカへ……。

 ――ほら、グルウニャ、あんたのところではない?

 自動車は傍らを走り過ぎて行く。

 ――私のところではないわ……。

 女は悲しそうに答える。

 ――おばさん、あれはカテリーナのアリョーシカだわ!

 ――ほんとうにあの人だ。

 ――でも、カテリーナは農場にいるわ。

 女達は騒々しくなった。一人の若い子が鍬を捨てると、農場へ通じる道を走って行った。

 そして自動車は村の中を走って行く。家の前で止まる。アレクセイは扉に駆け寄る。しかし扉には鍵が掛かっている。アレクセイは隣の家に駆けて行く。扉を叩くが返事がないので入って行く。暗がりの中で、若い娘にぶつかる。彼女は黙って明るい部屋に後ずさりして行く。アレクセイは彼女について行く。

 ――帰って来たの、アレクセイ・ニコラエヴィッチ。

 彼女は静かに言う。

 ――ゾイカか。分からなかった。

 彼女は取り乱す。

 ――お母さんがどこにいるか知らないか。

 ――畑でジャガイモを取ってるわ。ともかくお座りなさい。休んで行きなさい。お茶を出すわ。カーチャおばさんはすぐに来るわ。

 娘は嬉しそうに心を躍らせて話す。

 ――でも今すぐ行かなければならないんだ!

 ――何ですって、今すぐですって。

 ――今……、今すぐなんだ!

 娘は驚いてアレクセイを見る。

 ――カーチャおばさんはどうしているのかしら。

 カーチャは農場を横切って村を走って来る。彼女は疲れも忘れ、自分の年も考えずに、耕地に沿った藪を横切り、みぞを飛び越えて走って行く。

 彼女の顔は興奮し紅潮している。彼女は息子のところに走って行く。

 

 この時、息子は隣家の玄関の階段を飛び下り、自動車に近づいて行くところである。

 ――母はここにいない。農場に行きましょう。

 ――行けないな。

 運転手は静かに答える。

 ――帰れなくなるだろう。

 ――ここから近くです。

 娘が運転手に話かける。

 ――〈なまけもの〉になってしまうな。よろしい!

 運転手は、手を振った。

 娘はアレクセイから眼を反さない。自動車は動き出す。

 …その時、村のもう一方のはずれから、母親が走ってくる。去って行く自動車を悲しそうに見送っている娘は、走ってくる母親に気がつく。

 ――待って!

 彼女は自動車のあとを追って駆けながら叫ぶ。

 アレクセイは娘に気がつく。彼女は母親の方を手で指している。彼は連転手の手をつかまえる。自動車はブレーキをかける。

 アレクセイは自動車が止まらないうちに飛び降り、母親に向かって、真直ぐに延びた村の道路を走って行く。

 抱擁する。二人は激しい運動と、幸福と興奮のために、言葉を発する力もなく息を弾ませながら、抱擁して立っている。

 そしてあちこちから一度に村人達が現れてくる。彼等は輪になって二人を取り囲む。

 ある婦人は涙を流している。ほかの婦人達はアレクセイに祝福を述べる。そして、彼にいろいろと質問を浴びせる。

 ――自動車で来たんだね。

 ――前線でイワンを見なかった?

 ――元気だね、アリョーシャ!

 ――いつ戦争が終るか聞かなかった?

 母親は息子の周りでおろおろしている彼を質問からかばおうとする。

 ――私の息子は帰って来たの。この母親を喜ばしたわ。私は、待ってたわ。考えた通り、予想した通りだったわ。

 彼女は涙を流しながら言う。

 ――お母さん、どう暮しています。

 ――どうって。誰もが生活しているわ。戦争に生き抜いているわ。仕事はつらいけれど、男達はいない。みんなおばあさんばかりだわ。見てごらん、これがみんなよ。何故、あの男の人について行ったの。彼に待ってもらって家に行きましょう。暫く休みなさい。行きましょう。

 彼女は彼を家に入れようと先に走って行く。

 ――お母さん。待って下さい。そうしていられません。私は急いでいるのです。

 ――どこへ、急いで行くの。

 ――もう乗って行かねばならないのです。途中なのです。少ししか時間がありません。

 ――どうして。私には分らないわ。

 ――私は行かなければなりません。今は、少しでも話をしましょう。

 みんなは静かになった。

 母親は、彼女にとって恐ろしいこの言葉の意味がやっと分かり、息子に駆け寄り、彼の傍らに立ち止まる。

 暫く沈黙が続く。

 彼女は息子の顔を黙って見つめている。

 彼も黙っている。

 村人連は周りで動かなかった。

 自動車の長い警笛が聞えてくる。アレクセイは溜め息をつく。バッグから贈り物を取り出し、母親に渡す。

 ――屋根を修理したかったのです。

 母親はうなずく。彼女の眼には涙が光っている。

 ――早くお行き。

 彼女は息子の頭をいとおしそうに撫でる。

 ――もう少しのことです。お母さん、悲しまないで下さい。

 ――いいえ。何にも悲しまないわ。

 彼女は微笑する。

 また警笛が鳴る。

 ――お母さん、時間です。

 アレクセイは母親を抱擁する。

 彼女はとどめたい気持ちで、息子にすがりつく。彼女はむせび泣く。

 ――アリョーシャ、私の息子のアリョーシェンカ!

 ――お母さん、許して下さい。

 彼は突然、言う。

 ――何を、アリョーシャ。

 ――お母さん。許して下さい。

 彼は繰り返すと、彼女の胸に頭を埋める。

 ――どうしたの。アリョーシャ。考えることはないわ。私は何事にも負けずに生きて行く。そしてあなたを待っている。お父さんはだめだった。でも、あなたはきっと帰って来るわ。

 警笛が、警告するように強く繰り返される。アレクセイは、母親の手を静かにはずして人垣の中を通って行く。

 ――イワン……イワンに戦場で会わなかったかい。

 再び、誰かが質問する。

 自動車は唸りを上げている。アレクセイはもう一度母親に接吻し、幾分伸びた手を慌てて握り締めると、自動車に駆け寄った。

 自動車は動き出す。

 ――お母さん。私は帰って来ます。

 アレクセイは叫ぶ。

 村人達は自動車のあとを追う。呼びかけることも出来ず、眼に涙をためて、母親は見送る。

 自動車は次第に、次第に遠く去って行く。

 自動車が遠くの丘に隠れるまで、解説者は語り続ける。

 『我々の戦友、アリョーシャ・スクヴォルツォフについて、我々が物語りたいことはこれですベてである。彼は恐らく、良き父になり、優れた市民になっていたことだろう。彼は労働者か、技師か、学者になっていたことだろう。彼は殻物を作り、菜園を作っていたことだろう。しかし、現実に彼が出来たことは、兵士であることだけだった。そして彼は、兵士であることによって、我々の記憶の中に永遠に留まっているのである。』

   《引用終了》

最終追記(藪野直史):以上、各回の「■やぶちゃんの評釈」で使用した「文学シナリオ」(ロシア語で「キノ・ポーベスチ」と呼ぶらしい)は、最初に述べた通り、共立通信社出版部発行の雑誌『映画芸術』(昭和三五(一九六〇)年十一月号/第八巻第十一号)に、田中ひろし氏訳で掲載されたものに、一部の表記・表現に変更を加えものである。田中氏の著作権については、没年を調べ得なかったため、著作権問題をクリアーしていない。ただ、完成作品と、それぞれの当該シナリオ部を比較検討することは、本電子化では考察・考証・評釈上、不可欠と考えたことから、その全文を分割して使用させて戴いた。シナリオの中の一部については注も附させて戴いた。万一、田中ひろし氏が生存されていたり、著作権が未だ継続していたり、或いは著作権継承者がおられた場合は、一部或いは全部をカットすることは吝かではない。本人或いは当該著作権利所有者等から御指摘を受ければ、そのようにする用意はあることを言い添えておく。

 

アリス……やっと……完成したよ!……

「プラスチーチェ、ママ!」……

「プラスチーチェ、アリス!」……

 

2019/07/31

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 13 エピソード4 カタストロフ

 

□223 夜汽車の客車内のアリョーシャ

アリョーシャ、客席(窓際左側。景色は右から左へ流れる)に座っている。

コートを着こみ、帽子を脱いでいる。左肘を窓下の小さなテーブルに突いて、左手を頰に当てている。その掌は帽子を握っている。

ぼんやりして、思いつめた表情。

シューラとの別れの悲哀が続いている。というより、ある大きな喪失感が彼を捕えてしまっていると言った方がより正確と言えるか。

[やぶちゃん注:それは心傷(トラウマ)のようなものではある。……しかし……真のトラウマはこの直後に彼を襲うのだ。……]

 

□224 車窓風景 森(右から左へ)

夕景或いは夜景(但し、撮影は昼間)。日が落ちる前後といった設定か。(次の次のシーンで人々は多く起きており、子どもも寝ていないことから)

 

□225 夜汽車の客車内のアリョーシャ(「223」のアングル)

 

□226 客車内(中景フル・ショット)

ワーシャのエピソードで出てきたタイプの客車である。窓を中央に対面座席で、左右の頭上に棚がある。

アリョーシ以外は総て民間人で、その人々(フレーム内)はどうも一つの家族であるようである。

アリョーシャの向かいに、やや年をとった婦人A、その右に並んで白髪の男性、その横に少女①が一人(幼女)、その横に赤ん坊(お包(くる)みの背が画面側で赤ん坊自体は見えない)を抱いている、やや若い婦人B(フレーミングの関係からと思われるが、この婦人Bはちょっと不自然に画面寄り、則ち、座席があるべき位置よりも有意に前にいる。或いは座席間に置いた荷物の上に坐っているとするのが自然かも知れない)、アリョーシャの右手に少女②(幼女)、座席の間に膝をついているように見える一番若い婦人Cが少女②のプラトークを結んでやっている。女性はみなプラトークをしている。

アリョーシャ、帽子で口元をごく軽くしごき、窓の外に目をやる。(この時、カメラはアリョーシャと婦人C二人を左右に奥に婦人Aと老人を主人物構成とするフレームまでインする。ここには少女①の顔と少女②の頭も含まれる)

婦人C、アリョーシャの方に顔を向けようとする。(カット)

 

□227 婦人Cのアップ(アリョーシャ位置から)

外を眺めているアリョーシャを見ながら微笑み、

婦人C「遠くまで行かれるのですか?」

[やぶちゃん注:彼女は美しい。シューラとは違う、やや大人びた雰囲気がある。]

 

□228 アリョーシャ(先のアングル)

アリョーシャ、婦人Cを振り返って見下ろし、硬い表情を少しなごませ、笑みを含みつつ、

アリョーシャ「サスノフスカです、もうすぐです。(ちらと窓外を眺めて顔を戻し)次の鉄橋を渡って、十キロほどです。」

婦人C「私たちは、ウクライナからまいりましたの。」

 

□229 アリョーシャと婦人C・婦人A・老人のアングル(「226」の最後のアングル)

婦人A(暗く)「……渡り鳥みたいですよ……何処へ行くんだか……」

老人、婦人Aの言葉を聴いて、咎めるような視線を送り、(カット)

 

□230 婦人Aと老人二人のアップ(窓の下位置からのあおり)

老人(婦人Aを厳しく見つめつつ)「ウラル山脈だ。(アリョーシャの方に振り返り)そこの工場で息子たちが働いておる。」

婦人Aは黙って聴いているが、暗いままに目を落としており、途中では軽く溜息をさえつく。

この老人の言葉が終わった直後――

遠くで何か爆発するような音が響く――

 

□231 婦人Bのアップ

婦人B、赤ん坊から顔を起こし、不安げに視線を宙に漂わせる。(このカットを見ると、婦人Bの向うに今一人、プラトークを附けた婦人がいるのが判るが、これは彼らとは別な民間人のようだ)

 

□232 別な民間人母子の顔のアップ

今まで映っていない婦人D(左)と、彼女が抱いている少年(右)。夫人は爆発音らしきものに怯えて、瞳を左(窓方向(外)と推定)に寄せる(背後に別な老人もいるのが見えるので、これはこのコンパートメントの手前にいる人々であることが判る。ただ、この新たな婦人と少年のカットは、爆発音の不安を倍加させるためのそれで、この家族の一員ではないであろう。私がそう思う理由は、この新たな婦人だけはプラトークをしていないことにある)

 

□233 婦人Aと老人二人のアップ(「230」と同じアングル)

二人、やはり左に瞳を寄せる。

婦人A、目を伏せる(これはその爆発音のようなものを特に気にしていないことを示す)。

 

□234 婦人B

彼女も、宙から、視線を赤ん坊に戻す。

 

□235 車内中景(「226」と同じアングル)

アリョーシャ、暗く押し黙っている。

[やぶちゃん注:実はここでアリョーシャにはそれが何の音かは判っているはずである。前線で戦った彼にははっきりと判る! あれは爆弾、爆撃の音なのである!]

――と!

――そこに!

――再び! 爆発音! 今度はより近くはっきりと聴こえる!

皆、窓外を見る。

 

□236 民間人母子の顔のアップ(「232」と同アングル)

婦人D、目を中空に上げ、少し口を開いて不安げ。

彼女の抱いている少年は、はっきりと瞳を上にあげて、口を少し開いて怯えている感じ。

 

□237 婦人Bのアップ

即座に窓の方へ顔を向ける。

 

□238 婦人Aと老人のアップ

同じく、体を少し乗り出して窓外を見る。

 

□239 婦人Cの顔面のアップ

窓の方を向いて、大きな目を見開き、

婦人C「雷鳴かしら?」

と言いつつ、アリョーシャ(のいるはずの位置)にも視線を一瞬漂わせ、即座に背後を振り返り、(カット)

 

□240 車内中景(「235」と同アングル)

婦人C、婦人Bと顔を見合して不安げであり、婦人Bも、お包(くる)みを抱いている両手をしきりに動かして、落ち着かない。

アリョーシャ、婦人Cや婦人Bに目を向けるが、無言である。

そうである。彼らはまだそれが爆撃であることを理解していないのである。――アリョーシャを除いては――。
[やぶちゃん注:しかし、さればこそ、アリョーシャは事実を話して早くも不安をあおるわけには却ってゆかないのでもあることに気づかねばならない。だからこそ以下の会話に於いて平静を装うのである。]

老人(アリョーシャに)「君は、一時帰郷かね?」

アリョーシャ「ええ。」

老人「どのくらい?」

 

□241 アリョーシャ(バスト・ショット)

アリョーシャ(微苦笑して)「もう、今夜だけで。それで終わりなんです。」

アリョーシャの右手に座っている少女が彼を見上げている。

[やぶちゃん注:もう一度、確認する。アリョーシャは将軍からは「郷里行きに二日」+「前線へ戻」「るのに二日」+「屋根の修理に」「二日」で計六日を与えられていた(ここ)。ここでアリョーシャが答えて言っているのは、前線へ帰還する「二日」を除いた、真の休暇の残りを言っているのである。即ち、ここまでで、実は――アリョーシャは六日の内の三日と半日過半(恐らく十八時間ほど)分を既に使いきってしまっていた――のである。

いや!

将軍に休暇の許しを得て前線を立ち――

隻脚のワーシャの帰郷に附き添い――

軍用列車にこっそり乗り込み――

シューラと出逢い――

シューラを一時は見失うも――

辛くも再会し得て――

次第に互いに親愛の情を抱き合い――

不倫のリーザに憤激し――

病床のパブロフ氏に息子セルゲイの架空の模範兵振りの大嘘を語り――

そして……

シューラと――別れた…………

それら総て――ここまでドライヴしてきたアリョーシャの、その豊かなしみじみとした経験と感性に満ちた時空間は――

――たった四日足らずの内の出来事だった――

のであった、ということに我々は驚き、心打たれるのである!]

 

□242 少女②の位置から向いの三人

婦人Cを中央に、左上に老人(少女①を膝に乗せているか。左に半分だけ顔が覗く)、右上に婦人B。

婦人B「……まあ……なんて、悲しい……」

老人(ちらと婦人Bを見、アリョーシャに戻し)「……一晩でも家に居られりゃ、あんたは幸せ者(もん)じゃて! 息子さんよ!……」

婦人C「恋人はいるの?」

 

□243 アリョーシャ(婦人B辺りの位置から)

アリョーシャ(ここは心から笑みを浮かべて)「ええ! 彼女はサスノフスカにはいなくて、今、ちょっと……離ればなれになってるんですけどね。」(この台詞の直後に次のシーンが、突如、ある)

[やぶちゃん注:「彼女」この時、アリョーシャの言っているのはシューラのことであることは言わずもがなである。わざわざ「彼女はサスノフスカにはいない」とアリョーシャに言わせているのはそのためである。今までの日本語訳はそこを誰も全く訳していない。まあ、それが西洋人には判らない以心伝心の意訳というわけか。

「離ればなれになってるんですけどね」どうも元は「けれど、今、私は彼女がどこにいるのか分らないのですが」(私は彼女を見失ってしまったのですが)が原語に近いようだが、これはちょっと訳として厭だ。最後の「文学シナリオ」と当該部を参照されたい。

 この時、このアングルで初めて、実はアリョーシャの右隣りにプラトークを被った老婆が座っているということが判る。但し、今までの画面ではそれは判らない。やや奇異な感じではあるが、或いは少女②はこの老婆の膝に乗っていたものか? その場合、しかし、背をごくぴったりと座席奥につけていたとか、この老婆がひどく瘦せた人物であるでもとしないと構図的には辻褄が合わない。或いは、この老婆は当初、少女②の右に座っていて、ここで座席を交感したものかも知れない。なお、このウクライナからウラルへ移るという一家の人物関係は私にはちょっと判りづらい。婦人Aは老人の妻のように見える(後で示す「文学シナリオ」ではそうである)。だからこそはっきりとした愚痴をも言えるのであろう。では、この一切、言葉を発しない老婆は誰なのか? 老人の母なのか? そもそもが婦人B・Cは? 老人の息子たちの妻? どうも、その辺りの関係性が判然としないのである。]

 

□244 老人と彼の抱いた少女①(鼻梁から上のみ・カット・バック)

激しい機関停止音!

車両が強く揺れる!

 

□245 急停車する列車の車内(先の中景アングル)

――突然!

――急停車する列車!

――照明がほとんど消え、激しく揺れる!

[やぶちゃん注:本来は、夜であり、照明は全部消えてしまっているはずであるが(この時代に別系統の単独の非常灯があるとは思われない)、中央の婦人Cのみに照明が当たっている演出をしている。ただ、彼女の服やプラトークは白を基調(としているように見える)としているので、そこだけが照明で浮かび上がっても、さほど不自然には思われないと言える。このスポット照明は無論、確信犯である。それはこの婦人Cを観客に特に印象付けるためのものである。]

 

□246 闇の中で急停車する機関車!(特殊撮影)

爆弾の落下音(着弾シーンは次のカット) ドイツの航空機からの空爆である!

[やぶちゃん注:これと以下の数カット(空(そら)のシーンを除く4カットほど)は総てミニチュアによる、所謂、今で言う「特撮」である。本作は一九五九年(昭和三十四年)の作品であるが、映画ではかなり以前から実物を縮小したミニチュアの撮影が長年に渡って行われていた。例えば、恐竜などが登場する「ロスト・ワールド」(The Lost World:アーサー・コナン・ドイル「失われた世界」原作/ハリー・ホイト(Harry O. Hoyt)監督/特殊効果・技術ウィリス・オブライエン(Willis O'Brien)/一九二五年作/アメリカ/無声映画)や「キング・コング」(King Kong:メリアン・C・クーパー(Merian C. Cooper)+アーネスト・B・シェードザック(Ernest B. Schoedsack)監督/一九三三年/アメリカ映画)、そして我らが「ゴジラ」(香山滋原作/本多猪四郎監督/特殊技術円谷英二/一九五四年(私のサイト版真正「ゴジラ」のシナリオ分析「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」をどうぞ!)の先行作が今は有名であるが、円谷は既に戦争前から多数の特殊技術を担当しており、昭和一五(一九四〇)年の「海軍爆撃隊」(村治夫監督)で初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、彼の経歴上、初めて「特殊撮影」のクレジットが附き、翌昭和十六年十二月に始まった太平洋戦争中の戦意高揚映画では、その総てについて円谷が特殊技術を受け持った。特に一年後の開戦日に合わせて公開され、大ヒットした「ハワイ・マレー沖海戦」(山本嘉次郎監督)が知られる(戦後、GHQは本作の真珠湾攻撃シーンを実写として疑わず、円谷はホワイト・パージに掛かって一時期、公職追放されたことは有名)。円谷が始めて「特技監督」としてクレジットされたのは、一九五五年の「ゴジラの逆襲」(本編監督小田基義)であった。なお、「特撮」という語は「特殊撮影技術(Special EffectsSFX)」を観客に分かりやすくするために、一九五八年頃から日本のマスコミで使われ始めたものである。]

 

□247 破壊された橋と向う側で止まっている機関車(特殊撮影)

空爆弾、着弾!(ここから音楽(標題音楽の短調変奏であるカタストロフのテーマ)が始まる)

激しい爆発!! 焔が立ち上ぼる!

既に画面の左手奥の土手の下には既に着弾があってそこで火災が発生している!

着弾の爆発の焔によって、画面が明るくなり、そこで初めて、その着弾点のすぐそばで汽車が停止していることが判る!

少し遅れて、橋が断ち切れた川面に爆裂による破片が飛び散り、多数の水飛沫(みずしぶき)が立ち上ぼる!

しかも、ここはさっきアリョーシャが言った「橋」の手前なのだ!

橋は、恐らく前の遠い爆撃音の際に既に橋に着弾して、橋を完全に崩落しているのである!

辛くも! 汽車は!

橋の目と鼻の先で!

止まっているのである!

[やぶちゃん注:この二つのシーンは夜であることが幸いして、ミニチュアであることはあまり意識されない。私はかなり上質な特殊撮影であると評価したい。]

 

□248 燃える列車!(特殊撮影)

土手の下からのあおり総ての車両から火の手が上がっている!

幾つかの車両が爆発!

中央に、傾いた電柱!

 

□249 夜空

白い雲の切れ目から空! 航空機からの空爆だ!

[やぶちゃん注:という「見做し」画像である。静止画像を仔細に見てみたが、飛行機らしき影は認められなかった。飛んでいれば、これも特殊撮影の可能性が高くなるが、私は実際の昼間の空を絞り込んで撮って、暗く処理した実景を挟んだ演出であると思う。]

 

□250 橋の手前の停車した汽車(特殊撮影・「247」を汽車のある土手の方に寄ったアングル)

左土手下に着弾! 爆発!

機関車のすぐ左に着弾! 爆発!

 

□251 土手下(特殊撮影・「248」を少し寄ったアングル)

何かオイルのようなものが車両から流れ出し、それに引火したように、激しい火炎が列車から音を立てて土手を流れ落ちてくる!

 

□252 闇に燃え上がる炎!

(オフで)ガラスを割る音!

[やぶちゃん注:この炎自体は特殊技術というなら、まあ、そうではあるが、実写に繋げるものとしてのカットととり、特殊撮影とはしないこととする。]

 

□253 客車の窓(画面上下一杯で外から)

煙に包まれている!

ガラスは既に割れている。(アリョーシャが割ったものと私はとる)

女性の叫び声(オフで)「……ああッツ!!!……」

奥から、アリョーシャが少女を抱いて! 窓のところへ!

見えぬが、窓の下で誰かが少女を受けとっている。

アリョーシャの顔は煤で真っ黒だ!

 

□254 土手の下(あおり・実写)

土手の上で燃え上がる列車!

手前に二人の民間の婦人がおり、右手の女性は頭を押さえて泣きわめいて、半狂乱となっている!

婦人「……ああッツ!!!……」

左手の年かさと思われる婦人が、落ち着かせよとするが、燃える列車の方へと向かおうとして、

婦人「助けて!!! 子供たちを救ってッツ!!!……」

と叫ぶ!

燃える列車からは、あちこちから人々が逃げ下ってくる!(以下、ずっと、モブの人々の叫喚のこえが続く)

 

□255 客車の窓(「253」と同アングル)

アリョーシャ、また少女を抱いて、窓から降ろし、また、戻る!

 

□256 燃えるコンパートメント

煙と炎にまかれて、左手に茫然と座っている女性がいる!

奥からアリョーシャがやってくる!

女性、床になだれ落ちる!

アリョーシャ、彼女を抱えて助け起こし、抱え上げて奥へ!

 

□257 土手下

上で激しく燃える車両!

その光の中でアリョーシャが意識のない老人の頭部に包帯を巻いている。

老人の脇に親族らしい若い女性が老人の肩に手を添えて支えて泣いている。

アリョーシャ、応急処置を終えてその女性に「大丈夫!」とでも言っているようである。

 

□258 燃え上がる車両

縦木と横木の骸骨のようになってまるごと燃え上がって!

 

□259 燃え上がる車内

また、アリョーシャがいる!

奥から意識のない女性を両手で抱きかかえてこちらに歩いてくるアリョーシャ!

シルエットであるが、若い女に見え、細いけれど、長い髪が垂れている――シューラのように――。

画面手前! 紅蓮の炎!(合成)

彼のシルエットで奥画面が消え、炎だけが画面に残り、F・O・。

[やぶちゃん注:「若い女」は――婦人C――ととっても問題ない。但し、実際のシルエットからはちょっと私は保留である。

 最後は非常に優れた合成である。これが場面転換となる。]

 

□260 翌朝の立ち切れた橋と川(爆撃されて炎上した汽車のある側・推定でやはりミニチュアの特殊撮影

上を流れて行く低い雲。

穏やかな、しかし哀感を持った例の標題音楽がかかる。

[やぶちゃん注:カメラの向きは逆方向からであるが、前のミニチュアの橋の断裂状態のそれとよく一致することから特殊撮影ととった。川面の小波が、明らかに実景よりも大きいことからもそうとれる。但し、モノクロであるから、おもちゃ臭さは殆んど感じられない。鉄骨や橋詰めの石組など細部の作り込みもよく、思うに、このミニチュアはミニチュアでも、かなり大きなものではないかと推測される。

 

□261 川と向こう岸と空(実写)

既に陽が昇っているが、雲の向う。しかし光っている。(川の寄せる波音がSEで入る)

 

□262 木立(木は左手・あおり)

下の方の雲間からは青空がのぞいている。雲は流れている。

 

□263 婦人Cの遺体

――ブロンドの髪を少し乱し

――中央に、左下に頭を向けて(胸部は右上)野菊の咲きみだれた草地に眠るように横たわっている

――まるで、野菊の花の香りをかいででもいるかのように……

カメラ、ティルト・アップ。

――左手に野菊いっぱい

――その右に立つ婦人と中央に少女

カメラ、少女の顔でストップ。

[やぶちゃん注:この遺体の向きは、優れて斬新でしかも美しい! 映った瞬間、観客はそれを遺体として認識しないように周到に考え込んだ、稀有の美しさを持った名1ショットである!]

 

□264 その左の遺体の前に立っている(という感じで)あの白髪の老人

老人の背後の小高いところには、別に四人の人物が向うを向いて立っているのが見える。

 

□265 哀悼している婦人

左中景に沢山に野菊その後ろに立っている女性。

ずっと遙か向うの木立の脇にも女性が立っているように見える。

右の奥の木立の下にも立つ人影が見える。

昨夜の空爆で亡くなった人は彼女だけではないのだ。

 

□266 丘の全景

下からあおり。

丘の上には何人もの人々が、三々五々で、立っている。それぞれのそれぞれの死者を悼んでいるのだ。

右から風が吹いてきて、木立と野菊を揺らす。

[やぶちゃん注:このシーン、奥の空の感じ(よく出来ているが、どうも人工的なホリゾントのようだ。但し、それは上部三分の一ほどで、人物・立木・樹木等々の効果でホリゾントに見えないのだ)や、丘の上の立木の感じ、風の吹くタイミングなどを綜合して見るに、ちょっと信じがたいが、どうもこの巨大な丘自体がスタジオの中に作られたセットなのだという確信を持った。さすれば、実は「263」「264」「265」も実は総てロケではなく、セット撮影なのだ! しかも、ということは! それだけではなく! ここより後の救護シークエンスも総てセットなんだ! 私は実に今日の今日まで、これらの印象的な悲しいシーンを総て実際のロケだと思い込んでいた! 恐るべし! チュフライ!

 

□267 二人の眠っている子を膝に抱いている婦人
婦人の顔は切れている。

手前の子(プラトークをつけているが男の子か)がピックとするところが凄い!

[やぶちゃん注:この1ショットは本作の映像の中でも私一オシの映像である。イタリア・ネオリアリスモ的な優れたものである。必見!(1:13:19辺り)]

 

□268 赤ん坊にお乳を与えている婦人

 

□269 婦人Cの遺体の側に立つ婦人と少女(「263」の最後のアングル)

さっきと全く逆に、婦人Cの死に顔へと逆にティルト・ダウン。(カット)

[やぶちゃん注:これはちゃんと別に撮ったものである。「263」を安易に逆回転させたものではない。比べて見ると、少女が左手の指が野菊に触れるそれが、有意に違っている。

 

□270 疲れ切って座り込んでいるアリョーシャ

彼の顔は真っ黒だ。

背後に野菊。

その奥には横たわった人物(焼け出された身内と思われる)の枕元に寄り添っている婦人がいる。

アリョーシャ、茫然としている。

無論、疲労もある。

しかし、恐らくは、さっきまで親しく話を交わしていた若い女性(婦人C)が亡くなったことが精神的にもダメージを与えているものと考えてよかろう。

[やぶちゃん注:本作では〈人の死〉は、最初の戦闘シーンで、先輩兵士が戦車機銃に撃たれて死んではいる。が、これは撮影時の変更で、この先輩兵士はシナリオでは実は死なない。戦車に追われる一人ぼっちのアリョーシャを演出するために現場で殺されることに変更したものであろう。展開からも、その死を悼むどころじゃなく、自分が狙われて、とことん、命を遊ばれるのであるから、彼の〈死〉を意識する暇などなかった(戦場で兵士が死ぬのは謂わば〈当たり前〉であり〈戦争の日常〉である)。従って、実は、アリョーシャが目の前での〈人の死〉と厳然と対峙することになるのは、本作ではここが初めてなのである。シューラとの別れは、確かに非常につらかった。しかし――〈人の生き死に〉を――しかも多くの民間人のそれを一瞬のうちに目の前にするということは(その中にはアリョーシャが、救おうとして救いきれなかった、救助したが亡くなってしまったのだ、と思っている人物もいるであろう)、アリョーシャにとって別な意味で激しい衝撃――トラウマを与えていることに気づかねばならない。]

向うの土手の右手には焼けた貨車の残骸が見える。(音楽、このカットで終わる)

反対の左手から、新しい蒸気機関車が、貨車一台と貨車の三倍ほどの長さのある無蓋車(広義の救護用で病人や被災者やその荷物を運ぶものと思われる。後の方の「272」の中に出現する)を頭で押しながら、進んでくる。

[やぶちゃん注:ウヘェ! やっぱり! そうだ! この最後に説明した左からくる車両をよく見て貰いたい。土手の位置で明らかに合成が行なわれていることが、そのま直ぐな部分の微妙なブレで判る。奥の空もピーカンで雲一つないのは綺麗過ぎるんじゃないか?

 そうした疑惑の観点から、右の損壊した車両を見ると、やってくる左の貨車のスケールと微妙に異なっており、しかもその向きが、これまた何だか、やはり微妙におかしい。

 いや、そうだ! この損壊車両、平板な感じで、奥行きが全くなく、これは立体でないということに気づくのだ。こうしてそこに確かに見えてあるということは、それが実物ならば、台車は残っていて、その立体性を必ず残している部分がなくてはどう考えても、変だ!

 或いはこの損壊車両は――全体がシルエットの絵――なのではないか?

 そうした意識で以って、改めて左から進行してくる車列を再確認すると、如何にも不思議なほどに――スムースに――何の上下振動もなく――速やかに――滑ってきていることに気づくのだ。

 もし、実際の貨車と、非常に長い無蓋車(特に重機などの巨大なものが載っているわけではないそれ)を蒸気機関車が頭で押してやってくるとしたら、そこでは必ずレールの繋ぎ目での微かなガタ突き(上下運動)が、必ず、生ずるはずだ。だのに、何度、巻き戻して見てみても、そんな部分は一切、認められないのだ。無蓋車に突き出ている突起物らしきものも、これ、微動だにしないのだ。これは後で判るが、実は物体ではなく人間なのにだ!

 蒸気機関車はちゃんと上の煙突から煙を吐いてはいるから、それはミニチュアのそれであろう。

 しかし、機関車の頭部と無蓋車の連結部分の角度が、やはり微妙におかしい感じがする。

 実は――この無蓋車と貨車孰れも巧妙に描きこんだ平面画を切り抜いたもの――ではないだろうか?

 則ち

――そのマット画をミニチュアの蒸気機関車の頭部に接着し、それら全体を平板なの上で、ミニチュア機関車から煙を吹かせた上で、人がスライドさせている画像を撮り、それをこの土手上面部で合成した――

と私は推論するのである。ここのそれは遠景であることから、それがミニチュアやマット画像や合成であることに気がつきにくいのだ。

 言っておくが、

――私は、それをここで批判しているのでは毛頭、ない。

――私はまた、それを明かしたと思って悦に入っているのでも、ない。

 私は――そのミニチュア・ワークや合成に六十二歳にもなって初めて気づいた私自身の不明と――チュフライのそのスゴ技に完全に舌を巻いて感動しているのである。]

 

□271 茫然としているアリョーシャ

前の270とオーバー・ラップで入る。しかし奥の景色とアリョーシャの姿勢が明らかに異なる。ここからモブのざわめきが続く。

救護活動が続いている現場。草原。ところどころに野菊。

アリョーシャの背後左右に被災民三、四名。

中奥に看護婦らしき白衣の女性。

左右からも被災民がインする。

そのすぐ後ろに通路があり、担架を持った人々(白衣の医師もいる)などが、やはり、行き来する。

そのさらに奥の高台部はいままで画像からは鉄道の線路相当かと思われるが、そこも人々が非常に多く行き来しているが、そこでは人は専ら、右から左にしか移動しない。これはそこが線路(相当の場所)であることをよく示してはいる。何故なら、右が空爆で崩落した橋に当たると読めるからである。

その奥に空が少しだけ見える。

右手前から、白衣を着た医療関係者の男が担架の前をもってインし、そこに乗る頭部に損傷を受けた少女を見ているアリョーシャに、

医療関係者「おい、もっとどこか邪魔にならないところに座れないもんかね? 兵隊さんよ!」

立ち上って、左にアウトするアリョーシャ。

[やぶちゃん注:これも恐らくほとんどの人は、今までの私のように、屋外ロケと思っているのではないか?

 しかし、考えてみて欲しい――このように断層的になっていて、狭いアングルでも都合よく、人が重層的に動かすことが出来るような地勢や通路が、空爆された鉄道線路のそばにあるということ自体、これ、実はかなり不自然なこと――じゃあないだろうか?

 最後に。奥の少しか見えない空は、何となく先の丘(「266」)の上の空(人工のホリゾント)と同じように私には見えるのである。

 ここからアリョーシャがここを去るまで(郷里サスノフスカへと向かう直前まで)のシークエンスは、実は途方もなく大きなスタジオの中に人工的に作り出されたセットなのだを私は思うのである。]

 

□272 救護の現場

疲労からふらつくアリョーシャ。

そこに右手奥から、担架の前持つ女性がイン、

女性「どきなさい! 道に突っ立ってないで!」

男性(担架の後ろ持ち)「ともかく、どいてろよ!」

カメラ、アリョーシャを追って左に移動すると、奥の一番高い段に、「270」で遠景に見えた無蓋車の本物[やぶちゃん注:私は「270」のそれをフィギアのマット画像ととっている。]が見えてくる。そこに立っている生身の三人の人間(女性である。二人は座っていて、一人が立っている)の姿は、「270」の突起物とよく似ているのである。

さらに左に行くと、救援の機関車でやって来た、町の共産党細胞組織の纏め役と思われる(服装と帽子から)救護のヘッドが説明をしている。それを受けて、背後の無蓋車に向かって左手を廻り込んで、人々が向かっている。

救護の主任「重傷者・傷をしている女性・子供だけを先に乗せて行く。それ以外の者は第二便が来るまで待っていて貰わねばならない。二時間後には戻って来るから、心配しなくて大丈夫だ!……」

アリョーシャ、それを聴いて

――ハッ!

と背後の彼方(川の彼方のサスノフスカの方)を

――きっ!

睨み、

アリョーシャ「二時間!!」

と叫ぶや、後ろへ向かって走り去る!(右手へアウト)

[やぶちゃん注:「二時間!!」前に注した通り、実は最早、彼の正味の休暇はこの日の午前零時で終わってしまっていたのだ。もう彼には前線へ戻るための二日しか残っていない。しかし、ここまで来て、母に逢わずに帰るのは、とてものことに、辛い! 彼は、自力で川を渡ってサスノフスカへ向かって、一目、母に逢って、トンボ返りするという決断をしたのである。

ここで私は言う。「270」の合成処理は、この「272」を撮影した後に、特殊撮影と合成編集によって行われた。だから、「270」のマット画像には、撮影した「272」の無蓋車上の座っている女たちの実写が参考にされた、されてしまったのだ。救援できたはずの無蓋車の上に、この女たちと同じように救援者が似たような位置で乗ってきたのだ、というのはちっとばかりおかしいが、そんな細かいことを合成班の連中は考えなかった可能性は十分ある気がするのである。]

 

■やぶちゃんの評釈

 休暇の終りに最大最悪のカタストロフがアリョーシャを襲った。

 それは、容赦なく波状的である。

 アリョーシャは空爆された列車の負傷者を、可能な限り、全力を尽くして救い出した。

 しかし、翌朝の彼を待っていたのは、意想外の邪魔者扱いの言葉であった。

 それは彼が――如何にも「若く」「元気に見える」「兵士」の癖に――戦場じゃない内地にいて――しかも――負傷者の山の中でぼんやりして何もしてないじゃないか!――というような、前後を理解しない皮相的誤解に基づくものではある。

 しかし、それは映画の観客だけが、アリョーシャと共有出来る真実なのであり、映画の中のアリョーシャはこの三つの侮蔑の言葉によって、完全に心が折れかかってしまうのである。

 そうした人々の心ない侮辱は、ある意味で――〈人の子〉としてのイエス・キリストの〈絶望〉と等価である――とも言える。

 而してその絶望、

――シューラの喪失

――若き婦人を始めとした人々の死

を越えて、アリョーシャを全的に無条件で救いとってくれるのは

――最早

――母なるマリアの愛――しかない――のである。

 「文学シナリオ」の当該部分を示す。

   《引用開始》

 アレクセイが唯一人で汽車に乗っている。シューラはいない。

 車輪のリズミカルな響きに耳を傾け、物思いに沈んで座っている。窓外は悲しい夕暮れである。隣りの座席の乗客は静まりかえっている。恐らく、夕景と車輪の響きが人々をこのようにしているのだろう。子供達も黙っている。時折、深い溜め息が沈黙を破るだけである。

 アレクセイと向き合って、花模様のネッカチーフをした黒眼鏡の女が座っている。彼と並んで、節の多い杖にもたれて、美しい白髪の頭をうなだれた老人が座っている。あまり大きくない理知的な眼、きっと結んだ唇等、彼の容貌には男性的な叡知があふれている。

 黒眼鏡の娘は、アレクセイを眺め、突然歌うようなウクライナ語で質問する。

 ――遠くまで行くんですか。

 ――サスノフカです。すぐ近くです。すぐに鉄橋があります。そこから十キロメートルです。

 アレクセイは答える。

 ――私はウクライナからです。

 娘は話す。

 アレクセイは、彼女と老人とふさぎこんでいる老婦人を眺める。彼には彼等の悲しみが分かった。そして、彼は〈分かりますとも、戦争があなたを遠くへつれて来たのです〉とでも言うように、娘に同情してうなづく。

 ――ああ、ああ! 秋の鳥のように、どことも知れず飛んで行くのです。

 老婦人は溜め息をついた。

 老人は耐えられないというように動いた。

 ――言っても意味ないことだ。

 彼は姿勢を崩さずに言った。

 ――ウラルへ行こう……。そこには我々の工場もあり、息子もいる。

 彼はきっぱりとした口調でつけ加えた。

 婦人は沈黙した。

 車輪はレールを叩いていた。隔離壁が静かに軋んだ。これらの相変らずの音響にまざって、遠くでサイレンが鳴るのが聞こえて来た。

 ――何でしょう。

 娘は聞いた。

 サイレンは繰り返し鳴った。

 みんなは、何故か窓の外の空を眺めた。

 婦人は眠っている子供を手にかかえながら、顔が青ざめた。みんなが耳をそばだてた。静かだった。みんなは次第に落ついて来た。

 アレクセイは煙草入れをとり出した。煙草を吸(の)みながら、それを老人に差し出した。

 ――どうぞ。

 ――ありがとう。

 彼は丁寧に感謝した。そして煙草入れから煙草を取り出して、善良そうに微笑し、ウクライナなまりのロシア語で話した。

 ――本当のところ、煙草に不自由していたのです。

 二人は煙草を吸った。

 ――あなたのお国はどこですか。

 老人は聞いた。

 ――この土地の者です。サスノフカで生れたのです。母に会える機会が出来たのです。

 ――というと、家に帰るのですか。

 ――そうです。

 ――長く居られるんですか。

 アレクセイは悲しそうに笑った。

 ――時間はあったのですが、今ではもう、夜明けに帰って行かねばなりません。

 ――おお!

 婦人は同情するように溜め息をついた。

 老人は彼女を横目で見ながら、アレクセイに言った。

 ――生れた家で一夜を過せるなんて、大変な幸福です!

 ――それから戦場ヘ帰るのですか。

 娘が聞いた。

 ――そうです。

 ――それであなたには女の友達があるんですか。

 アレクセイは沈黙した。

 ――あります。ただ、彼女はサスノフカにはいません。……。私は彼女を見失ってしまいました。

 彼は告白し、すぐに激しく付け加えた。

 ――しかし私は彼女をどうしても探し出します。地上をくまなく探し出します![やぶちゃん注:この台詞は映像でどうしても附け加えて欲しかった。残念だ。]

 老人は微笑した。

 ――本当に駆けずり回りなさい。愛情があったら当然です。あなたは何か技術を持っていますか。

 ――いいえ、まだです。故郷へ帰ったら学ぶつもりです。今でも一つの職業はあります。兵士です。

 ――兵士は職業ではない。兵士は地上の義務です。

 老人は話し、そして考え込んだ。

 列車は急速に走って行く。車輪は音をたてる。窓外では夕景の中を大地が流れて行き、電柱が時々通り過ぎる。

 アレクセイは胸騒ぎする。

 ――もうすぐ家です。

 彼は溜め息をついて言った。

 ――我々のウクライナは遠くです。

 婦人の声が羨むように彼に答えた。

 長い汽笛が、一度、二度と鳴った。

 客車が震動した。ブレーキが鳴った。アレクセイは窓に走ったが、そこには何も見えなかった。

 

 不安定なかがり火に照らされた線路に、人が立っている。彼のさし上げた手にかがり火から取った燃えさしが松明のように燃えている。

 列車はブレーキをかけながら停止する。

 客車のステップから人々が飛び下り、前方に駆けて行く。その人影は松明を持つ手を下ろし、倒れるように大地に座る。

 強力な機関車の探照燈が光を投げ、破壊された鉄橋の曲りくねり、破り裂けた橋げたを一瞬闇に照らし出して、消えた。

 数人が座っている人に身をかがめた。彼は彼等に何か言った。すると、彼等は闇の空を心配そうに見上げながら、かがり火を消しにかかった。人々はその人を抱き上げ、客車に運んだ。彼は負傷し、静かに呻吟していた。

 アレクセイは、憂鬱そうに遠く暗闇の中にかすかに輝いている河の向うを眺めた。そこに、彼の村があった。彼は夜目に馴れた。機関車のところで、人々が無益に駆け回っていた。アレクセイは考え、意を決し、河に向って駆けて行った。

 ……数本の丸太の切れ端が筏の役目をする。板は櫂である。彼はそれをしっかりと漕いで、岸から離れて行く。筏の下に水が波立っている。

 もう河の中央である。アレクセイは櫂を漕ぐ。

 列車の方から彼に向って、警告の叫びが投げられる。彼は漕ぐのを止めず、耳を澄まし、注意深く上の方を見つめている。上方から、不吉な不安定な唸りが聞えてくる。

 アレクセイは、櫂を振り、一層早く漕ぎ始める。恐ろしい、心臓を揺さぶるような唸りが静寂を破り、やがて一発、二発、三発と破裂する。

 アレクセイは身をかがめる。爆発の中に人々ののけぞる姿が映る。

 列車は火に包まれた。火影が河を蛇のようにうねった……。

 ――畜生!

 溜め息をつきながらアレクセイは闇の空に叫んだ。

 ――畜生! 畜生!

 板を取ると熱に浮かされたように、後方に漕ぎ出した。そこでは人々の号泣の中に爆弾が破裂していた。彼は兵隊であった。そして、そこでは人々が死んでいた。

 ……彼は岸にたどり着き、呻き声と爆発の真っ只中の飛び込んで行った。

 ……彼は火事の中を駆けずり回った。

 ……人々と一緒に、燃えている車両を列車から切り離した。

 ……割れ目の中から負傷者を引き出した。

 ……彼は繃帯をしてやった。

 ……彼は火の中から人々を救った。

 このように、この夜は爆発と、うめき声と、死と、人々の嘆きの中に過ぎて行った。

 

 夜明けである。空が明けかかっている。静かである。そよ風が木の葉をかすかにふるわせている。河は静かに誇らしげに流れて行く。ただ、鉄橋の橋げた、掘り起こされた大地、破壊された列車、燃え尽きた車両だけが、前夜の悲劇の記憶をとどめている。

 生きている者は死んだ者の周りに座り、あるいは立っている。泣きわめく者もいない。すすり泣く者もいない。最早、泣く力もないのである。朝に眠っている子供達は、眠りながら身震いしている。

 若い母親の手の中で、生き残った生命の小さなかたまりが動いている。彼は眠っていない。彼はむき出した母の胸に、巧みにがつがつと吸い付いている。

 アレクセイは疲れ果てて丸太に座っている。彼の顔は汚れている。手に血が流れている。夜が明けて、彼の休暇は終わった。彼は気だるそうにポケットから煙草入れを取り出し、その中を探る。煙草入れは空っぽである。煙草も終わった。

 到着した列車から、人々が事件の現場へ急ぐ。

 ……看護兵が負傷者に繃帯をしてやる。負傷者を担架で列車に運ぶ。アレクセイはまだ、同じところに座っている。彼はこの列車で帰らねばならない。

 ――道を塞がないでどいてくれ!

 看護兵が彼に言いかける。アレクセイは立ち上がり、担架に道を譲り、脇に、どく。

 しかし、ここでも自分の仕事を一所懸命している人々の邪魔になる。

 ――何してるんだ! どいてくれ!

 アレクセイはおとなしく脇に、どく。彼の傍らを恐怖の一夜で興奮した人々が群れをなし、寝ぼけ顔で、びっくりしている子供達の手を引いて、客車に向かい、何故か急いで駆けて行く。

 アレクセイの近くで乗客の大きな塊が肩章のない外套の人を取り囲んでいる。誰もが先を争って言う。

 ――何故、私はだめなんです。

 ――司令官、我々はどうすればいいんですか。ここに留まっているわけにはいかないのです!

 ――皆さん! 私が言ったように……今は、負傷者と御婦人と子供だけを運ぶのです。それ以外の方は、ここに留まって列車が戻ってくるのを待って頂きたい。列車は、二時間後には必ず戻って来ます!

 アレクセイは眠りから醒めたように、話している人の所に急いで行った。

 ――二時間だって!

 彼は弱々しく叫んだ。そして、河岸に駆けて行った。

   《引用終了》

 川渡りを中断して戻るというのは、流石に、くど過ぎる。

2019/07/30

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 12 エピソード2 シューラ(Ⅵ) シューラとの別れ / シューラ~了

 

□188 ウズロヴァヤ駅構内

(F・O・した画面からざわめきが入り)客車が右手前から左やや中ほどまで続く。軍人たちが車両に我れ先にと乗り込んでいる。その中景に慌ててやってきたアリョーシャとシューラが、その中に走り込む。カメラ、ゆっくりと右へ動き、車両に寄る。

デッキのところに婦人の駅員(或いは徴用臨時軍属か)が乗り込みを監視している。

婦人駅員「急く! 急いで! 急いで!」

婦人駅員の右下から、あおりで。

アリョーシャが乗り込み、シューラが続こうとすると、婦人駅員が制止する。

婦人駅員「これは軍用列車よ!」

アリョーシャ(焦って)「僕の妻です!」

シューラ「違います!」

婦人駅員「ダメ! ダメ! 民間人はッツ!」

婦人駅員、シューラを押し戻す。

婦人駅員、周囲に再び「これは軍用列車!」と叫ぶ。

しかし、民間の婦人がデッキに荷物を投げ入れて乗り込もうとしたりしている。

押されて乗り込んだアリョーシャ、デッキから降りてきてしまう。

 

□189 車両の脇(中景から二人に寄る)

アリョーシャ(右手)、シューラ(左手。三つ編みの髪を右手に垂らしている。演出の配慮、よし!)を連れて少し車両から離れ、

アリョーシャ「もう! どうして嘘がつけないんだ!」

アリョーシャ、焦る。

シューラ「アリョーシャ、一人で乗って! 私のせいで、半日、無駄にしてるんだから。……心配しないでいいの! 私は自分で何とかするから! ね! いいの! アリョーシャ! いいのよ! アリョーシャ!……」

[やぶちゃん注:これはシューラが前の軍用列車に潜り込んだこと、則ち、アリョーシャがシューラに逢ってしまったこと全体を指しているのである。アリョーシャがそれに肯んずるはずは、毛頭、ない。]

アリョーシャ、突然、持っていた自分のコートを広げ、

アリョーシャ「これを着ろ!」

シューラ「なんで?」

アリョーシャ「ともかくッツ! これを着るんだッツ!!」

アリョーシャ、シューラに自分の大きな軍用コートを着せる。シューラ、黙ってなすがままにされているが、顔が一転して、満面に笑みがこぼれている。(着せる際の動きで二人は左右位置を代える)

アリョーシャ、自分の略式軍帽をとると、シューラにかぶせ、髪の毛をぴっちりと撫でつけてやる。

アリョーシャ、その俄か兵士姿になったシューラを引っ張ってさっき乗ろうとした車両から、左方向へと引きずるように引っ張ってゆく。アリョーシャは如何にも楽しそうだ! 少女のように! アリョーシャのコートだから、ダブダブな上、裾は足首辺りまである。シューラは全くよちよち歩きの体(てい)!

 

□190 別な車両の乗降口

人々が群がっている。

 

□191 その乗降口(左手から)

かなりの年を取った眼鏡を掛けた老婦人駅員がいる。

アリョーシャに押されて先にシューラが乗り込もうとすると、

老婦人駅員「トットと上がる! グズグズしない!!」

と促され、シューラは「へっ?」という顔をする。変装、バッチリ!

[やぶちゃん注:アリョーシャは年寄りで目の悪い彼女の所を選んだものと思われる。しかし……この老婦人、〈大阪のおばはん〉なんか目じゃないほど、キョウレツやで!]

 

□192 老婦人駅員の正面アップ

老婦人駅員、警棒を振り上げて、また、

老婦人駅員「トットと上がるのッツ! 早く! 早くッツ!」

と叫ぶ。

 

□193 乗降口(「191」の少し上のアングル)

ばれない用心と、詰っているデッキのそれを押し込むために、アリョーシャが老婦人駅員の前に回り込んでシューラを隠しながら、自分が少し先に登る。

カメラ、一度、あおりながら、デッキに乗り込んでゆくアリョーシャを撮る。

ところがシューラが途中のデッキ・ステップで動かなくなってしまう。

アリョーシャ、体(たい)返してしゃがみ、右手を出して、シューラに、

アリョーシャ(苛立って)「どうしたんだッツ?!」

シューラ(いかにも少女のように)「コートが引っ掛かったの!……」

アリョーシャ、そのコートを引っ張り、シューラを抱きかかえて、デッキに無事乗り込む。

 

□194 車両連結部

さっきの老婦人駅員も右手のデッキの左位置に立っている。連結部はただ下部の連結器だけの平面で、画面左右の車両の開いた扉もごく小さい。ここ、走り出したら、私でも躊躇する、車両の左右には何の栅や蔽いも一切ない、非常に怖い場所である。

そこに押し出されて立つ、アリョーシャ(前)とシューラ(後ろ。辛うじて顔だけが見える)カメラ、右に移動すると、汽笛。

 

□195 力強く動きだして蒸気を吹き出す機関車の複数の動輪(アップ)

先頭は右方向。

 

□196 機関車の先頭部(前哨燈と煙突)

右手前向き。煙突から噴き出る煙。加速!

 

□197 列車からの夕景

左から右へ流れる。手前に樹木、背後に落ちる陽、その上の空に散る千切れ雲。

 

□198 連結部(車両の右手からで奥の流れる景色は「197」と同じ左から右でスクリーン・プロセス)

連結部の左右の扉の外にさえ人が立っていたり、摑まっていたりする、超満員!

狭い連結部中央位置に右手(汽車の進行方向)を向いた軍帽のシューラと、そのすぐ前にアリョーシャが覗き見える。(カメラ、近づく)

連結部を何人かの人々が左右に行きした後(そこには実は民間人の婦人もいたりする)、二人の周囲が少し空いて、ちょっとゆったりとなり、互いに顔を交わして笑う。

ここは車両音が高まり、二人は何か楽しそう喋り合っているが、それはオフである。

会話の最中、シューラは軍帽をとって、アリョーシャに被せる。この時、シューラの右手がアリョーシャの左胸に置かれている(この間にカメラはさらに寄って行き、二人だけのフレームになる。また、帽子をかぶせたところから標題音楽(最初はフルート)が始まり、以下、高まってゆく

左から右へ流れる白いスモーク(機関車の蒸気か煙のイメージかと思われる。ごく白い)がオーバー・ラップする。

[やぶちゃん注:シューラの手のそれは、この連結部という如何にも危険な場所であることを考えればごく自然な動作ではある。そうさ、私はふと、所謂、〈吊り橋実験効果〉を思い出した。知らない方はウィキの「吊り橋理論」を読まれたい。]

 

□199 白いスモーク

左から右へ。

 

□200 連結部の二人(夕景)

黙って見つめ合う二人だけのアップ。

アリョーシャ、ふと、淋しそうな顔をして、左(手前)に目を落とす。

シューラ、見つめているが、目をゆっくりと閉じる。しかし口元には笑みが浮かんでいる。

 

□201 シューラの顔(正面)のアップ

目を見開いて、アリョーシャ(オフ)を見上げる。

口元が少し開いて、何か言いたそうであるが、言わない。

 

□202 切り替えしてアリョーシャのアップ

目は半眼であるが、眠そうなそれとは違う。シューラを遠くを見るように、見つめていたが、突然、瞬きをして見開くと、口元に笑みを浮かべる。

 

□203 シューラのアップ「201」より接近して顔面と首のみ)

うるんだ瞳。ほんの少し開いた唇。

 

□204 アリョーシャのアップ(「202」に同じ)

しっかりとシューラを見つめる。口元に微かな笑み。何か、あるしっかりした何ものかを意識した表情である。(最後は次のシューラの横顔とかなりゆっくりしたオーバー・ラップとなる)

 

□205 シューラの右横顔

最初、風圧に乱れる髪と右目と鼻梁と上唇(うわくちびる)のみを映す。そこから少しだけティルト・ダウンして唇まで下がる。

 

□206 見上げるシューラの顔のアップ(右上方から)

乱れる散る髪の中の――天使のような笑顔――

 

□207 夕景(「197」をよりアップで)

夕陽の輝きを有意にターゲットとしたもの。(次のショットのため)

 

□208 シューラの横顔(右手から頭部全体)

彼女の眼のやや上の位置の向うの消失点に夕陽。その光はあたかもマリア像の後光のようである。

乱れる髪――

何かを思いつめたように真面目なシューラの横顔――

そこに――

右からアリョーシャの横顔がゆっくりとインしてくる――

夕陽は二人の間の彼方に燦然と輝き――

アリョーシャの顔にシューラの髪の毛が――

何か鳥の羽根のように纏わってゆく!

と――

同時に――

シューラとアリョーシャの口元に素敵な笑みが浮かぶ――

二人、カメラ手前下方にそれぞれ一度、顔を伏せるが、すぐに見つめ合って――

シューラ――

ゆっくりと――

アリョーシャの胸に――顔を埋める…………(次の「209」とオーバー・ラップ)

[やぶちゃん注:実に「194」ショットからこの「208」まで(その間は約1分50秒相当)、台詞は一切なく、「198」の途中からは、そこから始まった標題音楽だけがここまで(その間は約1分9秒相当。ここまでで八十四分の本作の八割弱の六十五分に当たる)映像の唯一のSEとなる。

 私は、この夢幻的とも言える、しかし、それでいて確かなリアリズムの美しさと、アリョーシャとシューラの無言の心の交感のシークエンスを見るたびに、涙を禁じ得ない。この1分余りのそれは、映画史上、稀有の最も美しいラヴ・シーンであると信じて疑わない。

 

□209 駅

抱き合っているアリョーシャとシューラのアップ。

シューラは眼を閉じている。

アリョーシャは眼を開いている。

二人のそれはあたかも若きイエス・キリストと若きマリアのようにさえ見える。

カメラ、急速に後退してフレームを開く。二人、向き合う。(ここで前からの標題音楽が終わる)

駅のホームである。

ここがシューラが降りねばならない駅なのである。

背後で人々が列車に慌てて乗り込んでいる。

シューラ「ここでお別れね、アリョーシャ。」

アリョーシャ「そうだね。……僕のこと……ずっと忘れないでね、シューラ……」

シューラ「忘れないわ。……アリョーシャ、怒らないでね、……」

アリョーシャ(弱弱しく)「なに?」

シューラ「わたし……嘘ついてたの……婚約者なんていないの。……叔母さんのところへ行くだけなの。……ほんと、馬鹿よね…………」

アリョーシャ「……どうして……そんな、嘘を……」

シューラ「……怖かったの……あなたが。……」

アリョーシャ「……今は……どう?」

シューラ、きっぱりと「いいえ!」と横に首を振る――

――と!

――もう汽車が動き出している!(画面奥へ)

機関音!

シューラ(気がついて慌てて)「動き出したわ! 走って! アリョーシャ!」

二人、振り返り、

シューラ「走って! アリョーシャ! 走って!」

 

□210 貨車の連結部から俯瞰

走るアリョーシャ、その奥を一緒に走るシューラ!

アリョーシャ、加速している列車のデッキに辛うじて飛びつく。乗車している女性駅員が助けてもらい、デッキに登る。

シューラ、走る!

アリョーシャ(デッキから身を乗り出して必死に)「シューラ!! 住所を言うから! 僕に手紙を書いてくれ!(機関音に交って甚だ聴こえにくくなる)……ゲオルギエフスクの!……サスノフスカ!……」

 

□212 デッキのアリョーシャ

右手でデッキ・アームを握り、身を目一杯に乗り出して、開いた左手を口に当て、

アリョーシャ「サスノフスカ村!……」

 

□211 走るシューラ(貨車からの俯瞰)

笑って左手を振って走り続けるシューラ!

アリョーシャ(オフで)「シューラ!! 僕の住所は!! ゲオルギエフスクの!!」

 

□212 デッキのアリョーシャ

右手でデッキ・アームを握り、身を目一杯に乗り出して、開いた左手を口に当て、

アリョーシャ「サスノフスカ村だよッツ!!……シューラ!!!……」(最後の「シューラ!!!」は次のカットにオフでかぶる)

 

□211 走るシューラ(車両と並行したホームの奥からのショットで左から右へパンしているが、少しだけ見えるホームの映像の感じを見ると、レール台車による移動撮影を兼用しているものと推定する)

人を掻き分けて走るシューラ!

 

□212 アリョーシャ

左耳のところで手を振って、

アリョーシャ「何て言った!?! 聴こえないよッツ!」

と絶望的に叫ぶ。

[やぶちゃん注:シューラが何かを叫んだ映像はない。]

 

□213 走るシューラ

すでにホームも端の方にきて、他に見送りの人もいない。

最後の力をふり絞って走るシューラ! 手を振るシューラ!

遂にホームの端へ――

立ち止まって手を振るシューラ――

 

□214 アリョーシャ

手を振るアリョーシャ。(標題音楽始まる)

 

□215 ホームの端(フル・ショット)

中景中央奥で立って手を振り続けるシューラの後ろ姿。

汽車の最後部がシューラにかかって、カット。

 

□216 去りゆく列車

最早、駅からは離れた。

しかし、今も小さく、手を振るアリョーシャが見える。

それも遠景に溶けていってしまう……

 

□217 駅のホームの端に立つシューラ

空は一面に曇っている。

シューラは、体はホームの乗降側へ向けているが、顔はこちら――アリョーシャの去った汽車の方――を向いている。

ホームの奥の方の見送りの人々は、みな、奥へと去ってゆく。

シューラ、そちらを振り向き、また、こちらに見直る。(ここで音楽、一瞬、休止を入れ、ヴァイオリンが、また、哀愁の標題テーマを奏で始める)

シューラ、淋しそうに見返って、とぼとぼとホームを戻りかける……

しかし、また振り返る、シューラ……

また……重たげに踵を返し……とぼとぼと去ってゆく…………(F・O・)

[やぶちゃん注:この「217」のシークエンスは、私の思い出の映画の〈別れのシーン〉のベスト・ワンである。私は、何でもないある日常の瞬間に、このシューラが独りホームの端に佇むシークエンスをたびたび、白日夢にように想起するほどに偏愛している。僕はこのホームに立ったことがあるような錯覚さえ感ずるのである……。]

 

□218 客車のデッキ(外から)

ドアが閉まっている。ガラス越しにアリョーシャ。ガラスには流れ去る(右から左へ)白樺の林が映り込んでいる。(標題音楽、かかる)

思いつめて目も空ろなアリョーシャ。カメラ、寄ってゆく。

伏し目から、力なく顔を上げると、白樺林をぼぅっと眺めている。

[やぶちゃん注:白樺林の映り込みは非常に綺麗で、アップでも破綻(合成によるブレ)がないのであるが、これはどうやって撮ったのだろう。セットでスクリーン・プロセスによって白樺林を投影、特異的にアリョーシャをその映写側で撮影し、それと別にセットで窓部分を綺麗に抜いてマスキングして撮った全体画像に、前のアリョーシャの画像を嵌め込んで綺麗に合成したものかとも思ったが、車体の揺れと窓ガラスの内側のアリョーシャの体の揺れが完全にシンクロしていること(これはこのカットのために作った客車デッキのセットの中で演技をし、そのセット全体が動かされていることを意味している)、また、アップの中でアリョーシャが頭部を硝子に押しつけ、帽子の先と髪がごく少し潰れる箇所があり、これはとても合成では不可能である。識者の御教授を乞う。

 なお、時刻であるが、作品内でのエピソード経過時間からは、少なくとも、午後のかなり遅い時間でなくてはおかしい(このシークエンスのすこし後の空襲を受けるシーンは明らかに夜である)。車窓風景の撮影は流石に制約があるから、昼間の撮影のものばかりである(但し、明度を暗くさせてあるものもある)。しかし、この直後にはアリョーシャの夢想シークエンスが現れるので、ことさらに時制のリアリズムをあれこれいうのは無粋とも言われよう。]

 

□219 車窓の白樺林/アリョーシャの回想(◎表示)・幻想映像(【 】表示)の合成(回想・幻想映像は白樺林の映像にオーバー・ラップのカット繋ぎ)

白樺林(右から左に流れる)――オーバー・ラップ

◎回想1――ウズロヴァヤでの束の間の〈ピクニック〉での流れ出る水道から水を飲むシューラの映像

[やぶちゃん注:ここの「□126 水を飲むシューラのアップ」で『水の流れ落ちはかなりの水量である。口で受けようとして顏の下は水浸しとなり、さらに頑張ろうとして目の辺りにまで水滴が掛かり、シューラは顔を左右に振って目を大きく見開いて、悪戯っぽくアリョーシャを見上げる。少女の美しさ!』とした映像と相同である。]

◎回想2――同じ〈ピクニック〉シーンで流れ出る水道で汚れた両脚を洗うシューラの映像

[やぶちゃん注:ふくらはぎと足の甲から、右足を上げてティルト・アップして左膝から下を洗い、水道の向いにいるらしいアリョーシャに微笑む映像。これは前には存在しない。「文学シナリオ」にはあり、撮影はしたが、編集でカットされたものの流用である。前と同じここである。しかし、この回想の脚を洗うシューラは髪を三つ編みに結って右から前に垂らしている。これが当該シーンにあったとすると、「□128」で私が指摘した矛盾が前後齟齬してもっと激しくなることになる。但し、次も参照)]

◎回想3――同じ〈ピクニック〉シーンで(奥に例の斜めになった木のが見えるので間違いない)、結われていない長い髪を、体を回してぱっとさばくシューラの映像

[やぶちゃん注:これも前には存在しない。回想2と同じく、撮影はしたが、編集でカットされたものの流用である。流れを考えると、最初にプラトークを外した直後となる(回想2では編み終わっているからである)。概ね、背後からの映像であるが、最初の画像をよく見ると、髪は少し濡れているように見え、その後、左に捌くのは、濡れた髪を乾かす仕草にも見え、終わりの辺りでは、明らかに右手にタオルを持っているのが判る。さすれば、或いは、ここでは、実はシューラが髪を濡れたタオルで拭くというシーンが撮られており、或いはそれを三つ編みに仕上げるまでの映像もあったのかも知れない。とすれば、私がここで『痛い誤り』とした顚末も説明は可能である(しかし、私の撮り直しが必須をとした批判は当然、撤回はしない。そもそも、彼女は、まず、髪を結うよりも先に汚れた脚を洗いたくなるはずだと私は思う。順序立てて撮影はしないから、演じたジャンナ・プロホレンコには罪はない。そうした機微を考えなかった男のスタッフが勝手に早々と髪を結わせてしまい、後になって脚を洗うシーンを撮るという大失態をしでかし、編集では尺を切る関係上、監督は矛盾を承知でかくしてしまったものであろうと推定するものである)。]

◎回想4――シューラがアリョーシャを見つけて驚いて軍用列車から飛び降りようとして怖さから手で顏を蔽ったシーンの映像(推定)

[やぶちゃん注:前にはない。映像としてはここの「32」と「33」の間にあったであろうと私が推定する映像である。この「32」から「33」の繋ぎは、私には以前からちょっと不自然な感じ――何か欠けた演技・画像があるという感じ――があったのである。ここにこんな画像があったのだとすれば、私はすこぶる腑に落ちるのである。]

◎回想5――左を向いて伏し目がちな何か淋しそうなシューラが右手を向いてぱっと目を開き何か言いかけるように口を開きかける映像

[やぶちゃん注:これはかなり心の解(ほど)けたシューラが、でも、降りると拘った際の、ここの「□58」の「扉の前のシューラの顔のアップ」の部分である。]

◎回想6――「□217」の「駅のホームの端に立つシューラ」の「シューラ、淋しそうに見返って、とぼとぼとホームを戻りかける」が「しかし、また振り返る、シューラ」の映像

*ここで基底画像である白樺林の車窓風景画像は実は一旦、切れている。[やぶちゃん注:しかし、同じような白樺林の車窓風景画像を繋いでおり、オーバー・ラップが続くので、その切れ目はまず殆んどの観客には分らない。ただ、ここからは回想ではなく、アリョーシャの心内幻想シーンとなるので、切れ目が入っていることに私は違和感はない。]

【アリョーシャの心内幻想映像1】

――左から首を回して、見上げるシューラ。

シューラ『……アリョーシャ、婚約者はいないって言ったのは……私の告白だったの。……でも、あなたは何も応えてはくれなかった。……片思いだったのね。…………』

 

□220 車窓のアリョーシャのアップ

何か口でぶつぶつ言っているアリョーシャ。明らかに、危ない感じである。

 

□221 白樺林/シューラ幻想・幻想(オーバー・ラップ)

白樺林(右から左に流れる)――オーバー・ラップ

[やぶちゃん注:但し、終わりの方になると、線路近くが草地になり、池沼が現われてきて、樹種も白樺でなくなり、撮影自体が昼間であることがバレる。前の回想1から6で使ったそれをそのまま使い回した方が出来上がりはもっとよいものになったのに、と少し残念な気がしている。]

【アリョーシャの心内幻想映像2】

見つめるシューラのアップ。右目から涙がこぼれて――落ちる。

[やぶちゃん注:このような映像は前にはなく、この幻想映像のための新撮りではないかと推測する。]

◎回想7――回想6(「□217」の「駅のホームの端に立つシューラ」の「シューラ、淋しそうに見返って、とぼとぼとホームを戻りかける」が「しかし、また振り返る、シューラ」の映像)に同じ

 

□222 車窓

但し、さっきはいなかったが、ドア・ガラスのアリョーシャの左前には軍人が凭れている。

伏せ目のアリョーシャ、幻像のシューラに打たれ、突然、独り言を言う。

アリョーシャ「……待ってくれ!――僕は言い残したことがあるんだ!……」

――はっと現実に戻ったアリョーシャ、目の前のドアにはだかっている兵士に、

アリョーシャ「降りたいんです!」

兵士「何言ってる?!」

アリョーシャ「……すみません、降ろして!……」

アリョーシャ、目を泳がせて黙ってしまう。

[やぶちゃん注:走行している車両であるから、兵士は寝ぼけているとでも思ったのであろう。無視して、反応しないようである。]

 

■やぶちゃんの評釈

 遂にシューラとの別れがきてしまった。

 本作の最大のクライマックスであり、永遠に忘れ難い、心象と心傷の風景である。

 しかし、この幻想シーンの【アリョーシャの心内幻想映像1】についてだけは、この年になって見て、今回初めて、少し違和感を感じた(後掲する通り、「文学シナリオ」にもちゃんとあるのだけれども)。まず、画像作りがちょっと雑な感じがするのだ。本作中のシューラの映像的魅力度からも、何だか、有意にレベルが低い感じがする。しかもその幻想シューラによって語られる「アリョーシャ、婚約者はいないって私が言ったのは」「私の告白だったの」に、「あなたは何も応えてはくれなかった」、ただの私の「片思いだったのね」(原語は「あなたは私を愛してないのね?」か)という台詞も――『言わずもがな、アリョーシャはシューラを愛してるじゃないか!』と言いたくなるのである。少なくとも、観客の誰もが皆、そんなことは百も承知だ。それを、消えたシューラを夢幻的に登場させておく屋上屋で反語的に言わせるのは、どうなんだろう? という思いである。思うのだが、この幻想シューラがどうも魅了を感じさせないのは、幻想だからではなく、その台詞の、遅れて来た解説的饒舌述懐の陳腐さにあり、私は高い確率で、

――演じたジャンナ・プロホレンコ自身が、この部分の演技や台詞に、強い違和感を感じたのではなかったか?

と思うのある。そんな中で、アリョーシャなしの別撮りとして撮られ、どう演じていいのかとまどった挙句、かくなってしまったのではなかろうか? 今の私はこの【アリョーシャの心内幻想映像1】はカットし、もっと短かった二人の一時の至福のカットを挟んだ方がよかったと思うのである。

 なお、以下の「文学シナリオ」を読まれると、驚天動地! アリョーシャは以上の最後で、実際に走行中の汽車から飛び降りてしまうのである。シューラと別れたあの駅にシューラを求めて舞い戻ってしまうのである。しかし、シューラを探してみるものの、遂に彼女に逢えず、夜汽車に乗る、というのが原シナリオの流れなのである。

 それはダメだ! このシューラとの別れは確かに本作の確かなクライマックスではある。しかし、それは最後の母とのたまゆらの邂逅と別れに収束してこそ美しい魂のスラーの流れを本作に与えてくれているのだ。

 戻ってシューラを探すアリョーシャなど、決して見たくないし、その選択は、母に逢えなくなる可能性の増大の一点に於いて全否定されるべきものだ。丁度、誰かの糞芝居のように、「こゝろ」の「学生」の「私」が、「先生」の「奥さん」と結婚するぐらい、忌まわしい展開なのである。そこでは前線を放棄してシューラと駆け落ちするというおぞましい恥部の地平まで見えてきそうだ。それは純真なアリョーシャがリーザを激怒したように、こんな私でさえも許せないあり得ない選択なのである。そんな部分を撮っていたら、この作品はヒットさえしなかったことは言を俟たない。

 当該部の「文学シナリオ」を以下に示す。

   《引用開始》

 駅。再び、乗車の空騒ぎとざわめき。

 アレクセイは客車に押し分けて入る。シューラが後に続く。

 女車掌が彼女を遮る。

 ――どこへ行くのです。軍用列車です。

 ――私と一緒です。

 アレクセイはステップから叫び、シューラを引きつける。

 ――奥さんですか?

 ――そうです。

 アレクセイは答える。

 ――いいえ。

 同時にシューラが言う。

 女車掌は乱暴に彼女を車から下ろす。

 ――彼女は私と一緒です。まず、話を聞いてから引き下ろしたらいいでしょう。

 ――ぐずぐずするな。

 誰か、太った軍人がアレクセイを車の中に押し込んだ。彼の後ろから、大きなトランクを引きずった人間が入って来た。女の人が車に押し入ろうとしていたが、女車掌は彼女も許そうとしなかった。

 シューラは懇願するような目付きで女車掌を見ていた。しかし、自分の容易ならざる仕事に打ち込んでいる彼女は、その瞳に気が付かなかった。

 アレクセイは出口に勢いよく走って行き、ステップから飛び降りた。

 ――どうしたんです。口がきけないんですか。

 彼は娘を非難する。

 シューラはすまなさそうに微笑した。

 ――本当に馬鹿だわ。呆然としてしまったんです。アリョーシャ!

 突然、彼女は激しく言った。

 ――一人で行って下さい。あなたはもう半日も無駄足を踏んだんです。私はこの近くですから、どうにかして行きますわ。乗って行きなさい、私の愛するアリョーシャ! 乗って行きなさい。

 ――待って、シューラ……。

 アレクセイは何を思ったか、彼女を遮った。突然彼は笑った。

 ――偽装ナンバー3を知っていますか。

 彼は陽気に質問した。

 ――ナンバー3ですって。知らないわ。

 シューラは驚いて言った。

 ――今、教えて上げます!

 アレクセイは巻いて肩に掛けていた外套を外し、それを広げてシューラに渡す。

 ――着なさい。

 ――何故です。

 ――早く着なさい。今度は軍帽です。被りなさい。

 娘はアレクセイの外套を着ながらひどく不安そうに眺めた。彼女は足を裾に取られながら。アレクセイの後からほかの車両に走った。その車には大きなデッキが付いていた。

 扉に行き着くうちに、二人はお互いを見失ってしまった。

 車のステップのところで、アレクセイを眼で探しながら、彼女は振り向いた。

 ――止まらないで下さい。

 車掌が彼女に言った。

 ――何ですって。

 娘は驚いて、車掌を眺めた。

 ――止まらないで、車の中に入って下さい。

 ようやく追いついたアレクセイは、シューラと車掌の間に挟まった。彼は車掌の手に切符をつかませて、車に潜り込んだ。彼はもうデッキにいたが、娘はまだステップのところで足踏みしていた。

 ――どうしたんです。

 彼は彼女に手を差し伸べながら、いまいましそうに呼びかけた。

 ――外套を踏み付けられたんです。引き出せないわ。

 彼女は恨めしそうに言った。

 アレクセイは、娘のところに押し進んで行き、彼女の外套を引き出し、二人でデッキに乗った。

 ――良かったですわ! 私、軍人に見えるかしら。どうですか。

 シューラは嬉しそうに言った。

 アレクセイは微笑した。

 ――切符も聞かれなかったですね。

 突然、乗客がざわめき、押し合った。

 シューラは帽子を脱ぎ、アレクセイの頭に乗せた。この混雑では外套を脱ぐこと不可能だった。

 ――もうすぐ目的地に着くでしょう。

 アレクセイは微笑した。

 ――目的地へ。

 彼女は悲しそうに繰り返して、溜め息をついた。

 彼も彼女の悲しそうな顔を見て、深刻な気持ちになった。

 ――何でもない!

 彼は元気な声で言って、笑顔を見せようと努めた。

 ――万事がうまくゆくでしょう。彼のことを心配することはないです。彼は元気になるでしょう。

 彼女は悲しそうに笑い、頭を横に振った。

 ――ねえ、アリョーシャ、私はまだ一度もあなたのような若者に会ったことがありませんわ。

[やぶちゃん注:この最後の部分は先のここの〈路傍のピクニック〉シーンで使用された。]

 

 二人は、再び汽車に揺られて行く。汽車のデッキには、――今は勿論作られていないが、戦争中ですら稀であった代物である――乗客がぎっしりつまっている。車輪の軋り。風。押し合い。二人は寄り添い、話し合おうとするが、ざわめきが声を消してしまう。

 二人は寄り添っていることで胸を躍らせている。手と手をつないでいる。シューラは、風を避けてアレクセイの肩に顔を埋める。二人は一緒である。そして、それ故に、乗客のざわめきも、押し合いも口論も耳に入らない……。

 風によって煙の渦が二人の傍らを流れて行く。まるで雲が流れるようである。すべてが消滅し、存在することをやめる……眼を見つめる眼がある……彼女の唇、彼女のうなじ、風になびく彼女の髪の毛がある……。

 二人のまなざしは語っている。何かを物語っている。それは歌っている。古くそして永遠に新しい唄、人々が最も素晴らしい唄と呼んだ唄を歌っている。

 しかし、この唄のメロディも、遠く聞こえる汽笛とブレーキの軋りによって破られる。唄は散文的な生活によって消されてしまう。

 ……二人は地上に下り立っている。アレクセイの手には外套が抱えられている。二人は車両の後ろのプラットフォームに立っている。彼らは別れを惜しんでいる。

 ――これでおしまいですわね……。

 ――そうですね……。私を忘れないで下さい。シューラ。

 ――忘れるものですか。

 そして二人は、互いの眼と眼で別れを告げる。

 ――アリョーシャ!

 ――何ですか。

 ――ねえ、怒らないで下さいね。あなたをだましていたんです。

 ――何ですか。だましたって。

 ――私にはいいなづけはいません。誰一人いません。おばさんのところへ行くところなのです。アリョーシャ、怒らないで下さい。私は本当に馬鹿ですわね。

 彼女は彼を見上げた。

 彼は彼女を見上げる。しかし彼は彼女が話している意味を、全く理解しない。

 ――しかし、どうして、あなたは……。

 彼は尋ねる。

 ――あなたが怖かったんです。

 彼女は頭を下げて言う。

 ――今はどうですか。

 彼女は彼の顔を見つめ、頭を横に振る。

 汽車と車両のぶつかり合う音が二人の沈黙を破る。二人は、はっとして、我に返る……。シューラは動き出した列車の後を走った。

 ――早く! 早く! 汽車が出るわ!

 彼女は気を揉んで、人々で溢れたデッキに彼を割り込ませようと、歩きながら彼の背中を押した。

 ある者は笑った。ある者は見送り人達に最後の不必要な言葉を叫んだ。ある者は手を振った。

 中年の夫婦がシューラとアレクセイが別れるのを眺めていた。

 アレクセイは振り向いて叫んだ。

 ――シューラ! シューラ! 手紙を下さい!……サスノフカへ![やぶちゃん注:「サスノフカ」はママ。但し、この地名の「フ」は実際の映像での発音を聴いて見ると、場合によっては聴き取れないほど小さく発音される時もあるので問題ない表記である。]

 シューラも何か叫び、彼の言葉が聞き取れないことを身振りで示した。

 ――サスノフカ! 野戦郵便局……

 それ以上は、列車の轟音で打ち消されてしまった。

 ……シューラは悲しそうに、去って行く列車を見送っていた。彼女はアレクセイが見えなくなっても、手を振っていた。

 

 列車は走って行く。口論している夫婦者の間に立って、アレクセイは後方を眺めている。

 もう駅は見えない。

 ――私は待ちました。

 妻が夫に言う。

 ――待ったんだって! 問題は待つことではなく、為すことなんだ。

 ――私はこんなに興奮しています。

 ――中学生じゃあるまいし。〈興奮〉だなんて。

 すれ違った列車の轟音が、この口論を消す。アレクセイは、急速に過ぎて行くその列車を眺めている。その列車はシューラのところへ去って行く。

 車輪が快調にレールを叩いている。

 頭上には小鳥が飛んでいる。小鳥は空に輪を描くと、急速に飛び去って行く。小鳥もシューラのいる方へと飛んで行く。

 車輪はレールを叩き、列車は轟音をたてている。

 そしてアレクセイの眼の前にシューラがいる。

 ……彼女は水道ですらっとした足を洗っている。

 ……彼女は彼のバターのついたパンをほおばっている。

 ……彼女は駅で彼に別れを告げ、見送っている。そして、彼に話しかける。

 〈アリョーシャ、私が言ったでしょう。私には誰もいないんだって。それは、あなたに愛情を打ち明けたのです。それなのに何故、何も答えて下さらなかったの。アリョーシャ。〉

 ……アレクセイは振り向くと、人垣を分けて、出口へ急ぐ。彼はもうステップに立っている。

 誰かが彼の軍服をつかんだ。彼は、その手を振り切り、バッグを投げ捨てると、自分も身を投げた。

 女の人が叫んだ。

 アレクセイは地面に叩きつけられ、土手に転がった。

 乗客達が列車から眺めている。

 彼はすぐ立ち上がり、バッグを手にすると、駅の方に駆けて行った。

 中年の婦人はそれを眺めながら、悲しく微笑した。

 ――愛してるんだわ……。

 彼女は溜め息をついて言った。散文的な彼女の夫は眺めていたが、短く批評するように言った。

 ――馬鹿馬鹿しいことだ。

 

 ……アレクセイが道を走って行く……。自動車に乗って行く。走っている自動車から飛び下りる……。再び線路を横切り、路を走って行く。

 

 ……彼は駅に着く。群衆の中を歩き回る。構内を歩き回る。出札口の所で眺める。しかし、シューラはどこにもいない。

 ――おばさん! 青いジャケットの娘を見ませんでしたか。

 ――いいえ、見ませんでした。

 ……自動車道路の整理所のところ。子供の手を引いたり、トランクやバッグを持った人々が大きなトラックの上に座っている。人々は落ち着かない。その中にアレクセイもいる。彼はシューラを探すが、彼女はいない。

 ――整理員さん、青いジャケッの娘を見ませんでしたか。

 ――さあ、分からんね。娘に気を掛けるには、私は老け過ぎているよ。

 ……日が暮れて行く。シューラが見つからないまま、アレクセイは駅に帰る。今になって初めて、自分の失ったものを自覚する。彼はざわめく群衆の中を、ゆっくりと歩いて行く。

   《引用終了》

 最後に。監督チュフライのインタビューによれば、シューラがアリョーシャを見送る列車のシークエンスでは、照明電気の供給の配線で大事故が起きている。一人が脳震盪を起こして病院に搬送されたという。この出来事はこの、実は難産で不当に扱われた本作の経緯とも深く関係する。詳しくは市販されいるDVDにあるそれを是非、見られたい。

……ああ……シューラ! シューラ! 僕のシューラ!!!…………僕たちの人生には必ず――シューラ――が――いる――と――私は思うのである…………

 

2019/07/29

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 11 エピソード2 シューラ(Ⅴ) 石鹸 或いは 怒れるアリョーシャ

 

□134 ウズロヴァヤ駅近くの市街の道

石畳の車道と整備された歩道もある。

緩やかに右にカーブし、下っている。

歩道にはしかし、対戦車用のバリケードが二基、画面中央の歩道と車道にかかって一基、置かれてある。

左の歩道を向う歩いて行く民間の婦人が二人ほど見え、奥の坂の下の方の車道では、子どもが三人、遊んでいる。

その奥の右からアリョーシャとシューラが走ってきて、左の歩道を歩いている一人の婦人を呼びとめてチェホフ街を尋ねている様子だが、その人は判らないようだ。次に手前の婦人に駆け寄り、また、尋ねる。婦人は振り返ってこちら側の右手の方をまず指さし、次いで横に振る。二人、礼をし、こちらへ走り抜ける。最初、シューラがアリョーシャを越す。彼女も元気一杯だ。(「133」末からかかっている標題音楽以外には二人の跫音のみ。台詞はない)

 

□135 街路1

飛散防止用の「×」テープを窓ガラスに張った古いレンガの建物(右手前から奥へ)とタイル張りの歩道。

奥からアリョーシャとシューラが並んで歩道を走ってくる。走りながら(ここから、カメラ、一緒に右方向に移動)

シューラ「そのパヴロフって、あなたのお友達なの?」

アリョーシャ「いや。途中で、偶然、託されたんだ。 前線に補充される部隊の人だ。」

角を曲がったところで、二人、街路表示を見上げる(表示板は見えない)。

アリョーシャ「この辺りだ!」

アリョーシャ「確かに、駅に近いわ!」

向う側の歩道へ走る。すれ違って婦人と少女がこちらに抜ける。

 

□136 街路2

左手奥に建物、手手前二に歩道と車道(石畳で路面電車のレールが埋め込まれてある)。しかし、その建物のこちら側は、空爆で完全に灰燼となって、今も燻って煙が立ち上っている。

奥の歩道を二人が走ってくる。

カメラ、後ろにトラック・バック。

手前の車道内に木製のバリケードがあり、それを舐めながら移動。

焼け跡のこちら側の建物の壁には「⇒」型の表示があり、その中には「БОМБОУБЕЖИЩЕ」と書かれている。これは「防空壕」の意である。

走る二人。カメラを追い越して、カメラは後姿を追い、交差する街路に出る。街路の右手はバリケードで封鎖されている。その端の正面が目的地のはず

――だが

――そこは

――空爆で瓦礫の山と化していた……

 

□137 その瓦礫の前に立ち竦む二人

右半ばから左手にかけて材木が傾いてある。

アリョーシャ「おばあさん!」

 

□138 灰燼の中を杖で使えそうなものを探している老婦人

老婦人、振り返って(身なりはそう悪くない)、

アリョーシャ(オフで)「おばあさん、7番地はどこですか?」

老婦人「ここよ。」

と杖で目の前を指し、再び背を向けるが、直きに振り返って、二人のところへやってくる。(カメラ、後退して二人(背中。バスト・ショット)が左手からイン)二人と老婦人の間には倒れた木材が腰位置で塞いでいる。

老婦人「誰に会いに来たの?」

アリョーシャ「パヴロフさんです。」

老婦人(笑顔で)「生きてる! 生きてるわよ! リーザとおじいさんの、どっちに?」

アリョーシャ「エリザベータ・ペトローヴナさんです。」

老婦人「彼女はセミョーノフスカヤ通りにいて、おじいさんは避難所よ。」

アリョーシャ「近いですか?」

老婦人「孫に案内させるわ! ミーチャ!」

カメラ、前進して二人を左にアウトし、老婦人とその右下の半地下のようなところを映す。

ミーチャ「おばあちゃん! これ、見てよ! ほら!」

少年ミーチャ、その半地下の中から、もう一人の子と一緒に出てくる。手に丸い置き時計を持っている。カメラ、後退して二人をまたインし、ミーチャはその前に立つ。

老婦人(ミーチャに)「ミーチャ、この人たちをエリザベータ・ペトローブナのところへ案内しておあげ! 前線からいらしたのよ!」

ミーチャ、時計が動くかどうかを試して、

――ジジジジジジ!

ベルが鳴り響く。それにかぶるように、

シューラ(ミーチャに)「彼、汽車の発車時間に遅れてしまうかも知れないの! お願い! 急いで!」

ミーチャ「行(ゆ)こ!」

ミーチャ、材木を潜って走り出て左にアウトし、二人(微笑んでいる)も後を追ってアウト、老婆は笑って頷いて(二人が礼をしているのを受けたものであろう)、見送る。

[やぶちゃん注:まずはベルの音は「汽車の発車時間」に応ずるアイテムとして機能しているが、本シークエンスでは以下、要所で非常に重要な役割を担う小道具である。]

 

□139 階段の踊り場

一人の少年が中央の手摺りのところでシャボン玉を吹いている。ストローの先の膨らんだシャボン玉をゆっくりと上げて、中に舞い落とす。

 

□140 その下の二階の踊り場から建物の入り口の映像(1カット)

シャボン玉が落ちてくる。

入口から少年ミーシャ、アリョーシャ、シューラの順に走り入って、階段を走り登る。右手に上に回り込む階段であるが、カメラは少し左に移動する。最後のシューラが、落ちてくるシャボン玉(三つ目)を見つけて、その踊り場のところで微笑みながら、両手でそれを受ける。

□141 階段の踊り場(「139」と同じ)

少年、手摺りから下を覗いて、

少年「そこの人! 僕のシャボン玉に触るな!」

と叫ぶ。

 

□142 二階踊り場

手前、シューラは何もかも忘れたように、なおも、落ちてくるシャボン玉を両手で受け取ろうとしている。

三階に上がる階段の途中のアリョーシャ、シャボン玉の少年を振り仰いで、

アリョーシャ「おい、坊や! パブロヴァさんちはどこだい?」

と尋ねる。(アリョーシャの振り仰いでいる感じから、シャボン玉の少年は四階の踊り場におり、以下のシーンから、その上の五階がリーザのいる部屋と推定される)

[やぶちゃん注:シューラの純真無垢な天使のようなその仕草は、私、偏愛の名シークエンスである。]

 

□143 階段の踊り場

シャボン玉の少年、今、一階上を指さし、

少年「も一つ上がったところだよ。」

 

□144 二階踊り場

立ち止まっていた、ミーシャ少年(三階踊り場手摺り)、アリョーシャ(二階から三階への階段の上方)、二階踊り場のシューラが一斉に登り始める。

また、シャボン玉が、降る。

 

□145 シャボン玉少年のいる踊り場(構図は前と同じ)

シャボン玉の少年の背後を、ミーシャ少年、アリョーシャ、シューラが走り抜ける。

シャボン玉の少年、それを笑って見送るが、すぐにミーチャ少年が、降りてきて、シャボン玉の少年と一緒に、アリョーシャとシューラを見上げる。

 

□146 リーザ(エリザヴェータ)の部屋の前(部屋番号「5」)

右手の壁に子どものチョークの稚拙な落書き(後で、一度、去った際に全体が見えるが、あるいはアリョーシャが被っているような三角形の略式兵帽を被った兵士か)。

呼び鈴を鳴らすアリョーシャ。シューラ、踊り場の手摺り位置で控えている。(次のシーンの台詞がオフで終わりにかぶり)、アリョーシャとシューラがそちらを向くところでカット。

 

□147 下の踊り場

見上げていたシャボン玉の少年が(ミーシャ少年はその左にいてシャボン玉少年を見ている)、

シャボン玉少年「ノックしないとだめだよ、ベル、鳴らないんだ。」

と注意してくれる。(この台詞の頭は前の「146」の最後にオフで入っている)

[やぶちゃん注:何気ない展開と編集だが、とても、いい。アリョーシャの緊張感のリズムや、順調な展開を上手く壊す効果がある。そう――しかし――これから壊れるのは――そればかりではないのだ。]

 

□148 リーザの部屋の前

アリョーシャ、軽く、しかし多数、扉を連打する。

出てこない。

アリョーシャ、再び、連打する。

扉が開く。

アリョーシャ「私たちはエリザヴェータ・ペトローヴナさんに面会に参りました。」

リーザ「私よ。――どうぞ。」

 

□149 リーザの部屋の中

内側から入口を撮る。アリョーシャ、レディ・ファーストでシューラを先に入れる。扉を閉じると、

リーザ「……もしかして……」

[やぶちゃん注:アリョーシャの若さと軍服から推測してである。]

アリョーシャ「あ! はい! 私は前線からやって参りました! 贈り物をお届けに!」

リーザ、コートをコート掛けに掛けるように手で誘い、アリョーシャは自分で、シューラのはリーザが受けて、掛け、その際にアリョーシャを見ながら、

リーザ「……贈り物、って……パヴロフから?……」

アリョーシャ「はい!」

リーザ、一瞬、固まって、目を落し、やや慌てた様子で、

リーザ「……さあ、どうぞ!……奥へ……」

と招く。

カメラ、後退して、左手の居間に、リーザ、シューラ、アリョーシャの順で向かう。

 

□150 居間(兼ダイニング・キッチン風)

入った右手壁位置から。奥にカーテンで半分隠れた部屋がある。その中間にはピアノも置かれている。

手前の食卓の一つの椅子に掛かっていた男ものの上着(背広か)を素早く取り上げると、

リーザ「……ちょっと待っててね。……戻りますから、すぐにね……」

と言って、奥の部屋へと入って行く。

 

□151 居間

立って待っている二人(左手前から)。アリョーシャ(右)とシューラ(ひだり)。

シューラは、既に部屋に入った時から、何か違和感を感じていた様子で、表情が硬かった(女同士の第六感というやつである)。

ここでもアリョーシャの横から、如何にも曇った顔つきを送っているのである。

アリョーシャもそれに気づいて、その感じを咎め、「こら!」という感じで、左手で宙を払って、無言で注意する。

……しかし……二人の前の……その居間を眺める……と……

 

□152 居間の食卓

綺麗な食器が二人分が並んでセットされている。綺麗なティー・ポットに大きな黒パン、戦時の貧しい庶民の食卓では、凡そ、ない。

[やぶちゃん注:いや、ここの部屋の中そのものが、みな、贅沢なものばかりではないか! 石鹸だって高級品を使っているさ、アリョーシャ!]