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2019/04/24

老年 伊良子清白

 

老 年

 

景色がよいので

生業(なりはひ)が出來ぬ

來る波は一つ一つ誘惑し

鷗は女の顏の白さで會釋する

 

景色がよいので

生業が出來ぬ

海を見れば恍惚(うつとり)する

ぼんやりしてゐる間に

他人(ひと)はどんどん追ひ越してしまふ

 

景色がよいので

生業が出來ぬ

日のほこり月のあくた

景色がつもつて

雅致(がち)ある老人に成つた

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。本篇を以って昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の大パート「南風の海」は終わっている。「生業(なりはひ)が出來ぬ」というのはその「雅致(がち)ある老人に成つた」人物であるが、漁師か? 因みに、新潮社のそれが刊行された当時でも伊良子清白は五十二歳であり、「老人」と自己表現する年とは私には思われないし、ここで清白自身を主人公に設定してしまうと、医業の「生業が出來ぬ」の意味の採り方が何とも難しくなってしまう。但し、その老人の生きざまに自身の理想像を投影してはいると私は読む。]

凍死の漁夫 伊良子清白

 

凍死の漁夫

 

雪が降つて來た四方から

靑い蝶が羽搏く

淦(あか)の上につもる金銀

水(か)ん子の魚は沈んで動かぬ

 

兄弟(きやうだい)釣りはやめようじやないか

夜明けは近い

東の方の紫は

遠い茜紅(あかね)であるかも知れぬ

 

風も波もないが

しんしんたる寒さではある

燈明臺は凍てたのか燻(くす)ぶつてゐる

暗い海は一面の雪だ

 

船の船首(みよし)に誰か立つてゐる

雪の夜の雪女郞が

目の前にあらはれた

兄弟(きやうだい)おいらは死なねばならぬ

 

甘い睡りの寒さが來た

ふりしきる雪が船をうづめぬ前に

兄弟二人は帆綱で

からだを縛(しば)つておかう

 

ひき潮時の海は今

沖の方に渦を卷いてゐる

日の出の島においらは

死んで着くであらう

 

註 大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる。

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。最後の注は、全体が底本では詩篇本文の一字下げポイント落ちで、二行に亙っており、二行目は「註」の字の位置の一字下から始まっている。ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上記のように配した。「大正十五年」一九二六年。日付まで示された伊良子清白にして特異点の海難事故死した若き漁師二人に対する追悼詩であるが、調べて見たが、残念ながら、当時の天候や事故記事は見出せなかった。医師であったから、或いは伊良子清白は彼らの遺体を検死したものかも知れないなどと私は考えた。なお、その検索の途中、「リクルート」(グループ)公式サイト内の観光サイトの「漂泊の詩人伊良子清白の家」を発見した。移築であるが、伊良子清白の診療所兼住居であった建物だそうである。JR鳥羽駅のすぐ近くにあり、見学無料とあって、投稿者による多くの写真が見られる。今度行ったら、是非、見たい。

「石鏡」「いじか」と読む。現在の三重県鳥羽市石鏡町(グーグル・マップ・データ)。因みに、「船は進む」の私の冒頭注でも述べたが、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。それは私の偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」(私はサイトで「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」を公開している程度には同作に対してフリークである。なお、この「メタファーとしてのゴジラ」は現役の宗教民俗学者の論文(橋本章彦氏「露呈するエゴイズム ――『ゴジラ』(一九五四)を考える」)にも引用された)の「大戸島」のロケ地だからなのである。

「淦(あか)」「浛」「垢」とも書く。船の外板の合せ目などから浸み込んできて船底に溜まる水。また、荒天で船体に「あか」の道が出来て浸入してくる水や、打ち込む波で溜まった水をも称す。「あか水」「ふなゆ」「ゆ」とも言う。梵語の「閼伽(あか)」(仏前に供える水)が語源とも言われ、中世には生まれていた。小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「水(か)ん子」平凡社「世界大百科事典」の「かんこ船」を見ると、『北陸・山陰海岸に多い小型漁船。瀬戸内や九州の北西部にも少しは見られた。多くは』矧(はぎ)板(板の側面を接合させて作った幅の広い板)の五『枚仕立てで,長さ』七~八メートル、『肩幅』一・二メートル『程度の』小舟で『手漕ぎで』、『帆はもたない。〈かんこ〉の語義は明らかでない』が、『西日本の太平洋岸には漁船の〈いけま〉の部分を〈かんこ〉といっているところがあ』る、とあった。この「いけま」とは「活間」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のことを指すから、さすれば、ここはその「いけま」を「かんこ」と呼んでいることが判り、映像もはっきりと見えてきた。]

小さい風景 伊良子清白

 

小さい風景

 

帆を張つて春風の筋を――

片手で櫓を握り

片手で一本釣をあやしてゐる

皺くちやの手の側(はた)を通る

「おい、何が釣れるかい」

「赤遍羅(あかべら)さ」

「またいものをつるな」

蔑(さげす)むのか慰むのか

船頭の聲も風景に成つて了ふ

だまつて顏をあげた老漁夫――

無數の浪が

べちやくちやべちやくちや

春の海は

じつに賑やかい

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「赤遍羅(あかべら)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン(求仙)属キュウセン Parajulis poecilopterus の異名。若い頃、父とよく鱚釣りに行ったが、キュウセンは外道としてしょっちゅう掛かってきて、嫌われた者ではあった。関東ではまず食用にしないが(華やかな多色混じりの体色が却って気持ちが悪いと嫌われるのかも知れない)、関西では好まれて高値で取引されており、個人的にも私は美味いと感じる。

「またいものをつるな」検索を掛けると、四日市市西部で「無難だ」という意味で「またい」を使うとあった。小学館「日本国語大辞典」の「またい」(全い)を引くと、意味の中に「馬鹿げているさま・愚鈍であるさま」とあり、方言欄を見ると、尾張・三重県尾鷲で「確実である」とあり(これは前の「無難だ」と強く親和する表現と言える)、三重県松阪で「人の好い」、三重県名賀郡で「きびきびしない・気が弱い・おとなしく愚鈍である」等とある。キュウセンは磯の根つきの個体群も多く、海岸端の普通の釣りでもかなり容易に釣ることが出来る。さすれば、船頭が茶化して「こりゃまた、無難な(阿呆くさい)雑魚を釣ってるんだな」と揶揄した感じを含むとすれば、腑に落ちる。]

暴風雨の日に 伊良子清白

 

暴風雨の日に

 

暴風雨が村落を襲ふ

一本の草一粒の砂をも殘さず

もろもろのいとなみを無(な)みして

押し流しふみにじる

 

山嶽を海洋を平野を

鏽銹(さび)を沈澱(おどみ)を染斑(しみ)を

吹き上げ吹き下ろし

洗ひ轉(まろ)ろがし淸めつくす

 

白晝を黑夜(こくや)に變じ

人間を自然に奪還する

暴風雨の叫喚に

淸亮(せいりやう)な角笛(かく)の響がある

 

溷濁(こんだく)の騷擾の破滅の

殺戮の間に

一道(だう)の金氣(きんき)立ち昇り

萬物蘇生の額(ぬか)を現はす

 

はてしもない空洞(うつろ)を

風雨は吹き荒(すさ)ぶ

明日(あす)の日の太陽は

香(かん)ばしく輝くであらう

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「金氣(きんき)」五行の「金」は冷徹・堅固・確実な性質を表わし、何よりここはロケーションの時制である「秋」が「金」に配されていること、それが収獲・豊饒・再生を象徴させるように表現されているものと私は読む。]

祈 伊良子清白

 

 

塵のみ積る

 冬の巷(ちまた)に

ただ一筋の

 小川流れて

晝夜(ひるよる)絕えず

 祈るなり

 いのるなり

 

[やぶちゃん注:創作時期推定については、「船は進む」の私の冒頭注を参照されたい。

乞食 伊良子清白

 

乞 食

 

垢(あか)の佛よ乞食(こつじき)は

よにひもじさは堪へがたし

ただ一すぢに食を乞ふ

まことなるこそ佛なれ

 

[やぶちゃん注:創作時期推定については、「船は進む」の私の冒頭注を参照されたい。

雨後 伊良子清白

 

雨 後

 

午前二時――

雨の上がつたあとの木々の滴り

どこかで御詠歌の鉦(かね)の音

また餘勢をのこす波のひびき

そして海から海へ

劈(つんざ)くが如き海鳥の叫號

一つ一つ星があらはれて

離々たる雲の姿

うしろの山には

晴天の風が起つてゐる

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「御詠歌」霊場巡りの巡礼や浄土宗の信者などが、鈴を振りながら、哀調を帯びた節回しで声を引いて歌う、仏の徳などを讃えた歌。「詠歌」は、もともとは単に「歌を詠むこと」「和歌を声に出して歌うこと・作ること」を意味するが、それが限定された「御詠歌」となる背景には、特に中世に於ける仏教と和歌との密接な関係があると見られ、その発生は室町以後と推定されている。伝承上では西国三十三番札所に残る三十五の御詠歌の源を花山院に求めるが、これは疑わしい(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

晚凉 伊良子清白

 

晚 凉

 

夕暮の、滿潮の

渦卷がはじまつた

山をも浸(ひた)す

さし汐の勢ひは

漁村の壯觀だ

 

ところどころ鰡(ぼら)が飛んで

峽灣は靜かに暮れる

兩岸の木立が

くつきりとあらはれて

水が明るい

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「鰡(ぼら)」条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。ボラはよく海面上に跳ね上がり、時に体長の二~三倍もの高さまで跳躍する。私も海釣りでしばしば体験した(因みに、恐らく私が釣り上げた魚では、高校時代に父と行った新湊港の岸辺で釣った三十センチメートル超のボラが最大であった。あの時の強烈な引きは今も忘れ難い。釣り上げる間に釣り人が何人も寄って来たが、魚を見て「なんじゃい、ボラか」と皆、去って行ったのだが、何となくボラが可哀想な気がしたのも忘れられない。因みに彼は、亡き母が味噌煮込みにしてくれ、美味しく戴いた)この現象については、周囲の物の動きや音に驚いてするという説、或いは、水中の酸素が欠乏しているため、はたまた、その運動衝撃を以って体表に付着した寄生虫を落とすなどという諸説があるが、未だ解明には至っていない(一部でウィキの「ボラ」を参照した)。]

帆が通る 伊良子清白

 

帆が通る

 

浦をすれすれに

明るい帆が通る

(大きな白い花びらの漂着)

面梶(おもかぢ)!

船長の若々しい雄叫(をたけ)び

ぎい、ごとん! 梶の軋(きし)み

帆がくるりとまはつて

船は巧みに暗礁(しま)をかはした

急湍(はやせ)の外のどよみ

甲板で働く水夫の姿は

舞臺の上の俳優の科(しぐさ)を見るやう

順風!

滿潮!

びゆんびゆん帆綱が鳴る

船首(みよし)は潮を截(き)つて急流を作る

船は山に向つてぐんぐん迫つて來る

海深(かいしん)を測る鉛錘の光りが

振り子のやうに水面を叩く

鷗が輪を描(か)きわをかき

灰色の腹を見せ見せ

ぎあぎあ啼き乍ら

船に尾(つ)いて行く

取梶!

帆がばたつく

ぎい!

物の響は靜かだ

船は山を離れて、沖へ

かもめは空しい海を

低う掬(すく)つて飛ぶ

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「暗礁(しま)」「しま」は「暗礁」二字へのルビ。

「海深(かいしん)を測る鉛錘の光りが」「海深(かいしん)」のそれから、この「鉛錘」はもう、「おもり」ではなく、「えんすい」と音読みしたい。]

船は進む 伊良子清白

 

船は進む

 

山と積まれた蛸壺殼(つぼがら)で

松の幹はかくれてゐる

胸をはだけた此庭の眺望(みはらし)は

午前の太陽が香ばしい

沖のうねりの强い朝だ

近い颱風を豫感させる日だ

銀綠の島々は

もう睡たさうな徽暈を帶びてゐる

 

見よ、生活が

傳統から力づけられ

戀愛から彩られ

信仰から燃やされて

大洋のただ中に

何の不安もなく

人達は突き進む

 

[やぶちゃん注:ロケーションを知りたいが、「蛸壺殻」と「島々」と、伊良子清白の居住歴を見るに、三重県の鳥羽の景である可能性が高いように思われる。「鳥羽市観光課」の公式サイト内のこちらによれば、『かってはタコガメ漁だけで生活ができると言われるほど、タコ漁業が盛んであった。鮹漁は、年間を通じて行われるが、最盛期は麦が穂を見せはじめる頃から夏にかけての「ノボリダコ」と、秋から冬にかけての「オチダコ」と呼ばれる時期の』二『回である。タコガメは、常滑の素焼きのカメが使用されてきたが、近年ではプラスチックのものになってきている。島内で捕れたタコを、島の女性達が加工した「潮騒タコ」は隠れた島の特産品として人気が高い』とある。してみると、この口語詩は一つ、彼が当時の三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居して村医(翌年には小浜小学校校医にもなっている)として診療所に住んだ大正一一(一九二二)年九月十二日から、本篇が所収される新潮社の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の刊行された昭和四(一九二九)年十一月までの閉区間の約七年間の秋が有力な創作時期となるようには思われる。以下、本集の大パート「南風の海」の最終篇「老年」までの海をロケーションとする総てが(二篇そうでないものがあるが、それが中に挟まっているのはやはり同時期の作と採ってよいように思われる)、その時期のそのロケーションであると、私は確信している。それは、後に出る詩篇「凍死の漁夫」の後註に『大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる』と伊良子清白が記していることが、大きな証左となろう。「石鏡」はこれで「いじか」と読み、これは現在の三重県鳥羽市石鏡(いじか)町を指すここ。グーグル・マップ・データ)からである。因みに、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。かの偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」の「大戸島」のロケ地だからなのである。

「蛸壺殼(つぼがら)」「つぼがら」は「蛸壺殼」三字へのルビなので注意されたい。

「微暈」見慣れぬ熟語であるが、「びうん」と音読みしておく。微かに暈が(かさ)がかかったようにぼんやりして見えることではあろう。]

太平百物語卷二 十三 或禪僧愛宕山にて天狗問答の事




Atagoyamanotengu


   ○十三 或禪僧愛宕山(あたごさん)にて天狗問答の事

 或禪僧の【故ありて其名を顯はさず。】、道德、目出度かりしが、一年(ひとゝせ)、愛宕山にまふで玉ひて、薄暮(はくぼ/くれかた)の比(ころ)、下山し給ひしに、峠の半(なかば)にて、道にふみ迷ひ給ひ、あらぬ方(かた)に深(ふか)入し給ひけるが、其あたり、奇麗に洒掃(さいさう/さうじ)して、麥藁(むぎわら)を敷置(しきおき)たり。

 此僧、おぼしけるは、

『げに。此所は、人跡たへて、住む人あるべくも見へざるに、かゝる有りさまこそ、不思議なれ。いか樣、聞(きゝ)およぶ、天狗の住(すみ)所にや。』

と、上の方をあふぎ見玉へば、其たけ、一丈斗(ばかり)に、橫のわたり二丈斗もあらんとおもふ大石(たいせき)の有りしが、偏(ひとへ)に石工(せきかう)の刻みなしたる如く、いと美(うつ)くしかりしかば、

「いざや、登りて見ん。」

と攀(よぢ)のぼり玉へば、上の方は甚だ平(たいらか[やぶちゃん注:ママ。])にして、板敷(いたじき)のごとくなりしほどに、

「幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])の事哉。今宵は通夜(よもすがら)、此所に坐禪して、明けなば、下山せんものを。」

と、石上(せきしやう)に座具を敷(しき)、おこなひすまして居玉ひける。

 しばらくあつて、冷風(りやうふう)、

「さつ。」

と、ふききたり、此僧の頭上を、大勢、かけありく音して、いふやう、

「いかに、御坊(おんぼう)、何とて、わが住(すむ)所に來たりて安坐するや。歸へれ、歸へれ。」

と大音聲(だいおんじやう)にのゝしりけれ共、此僧は、見上げもやらず、兩眼(りやうがん)を閉(とぢ)て、心靜(こゝろしづか)に「陀羅尼(だらに)」を唱へておはしければ、又、

「どつ。」

と、わらひて、いふ樣、

「此坊主は、何をつぶやくぞ。今少(すこし)、聲を上(あげ)て、いへ。われら、汝がいふ所の經文、能(よく)、しれり。讀(よみ)てきかせん。」

とぞ、どよめきける。

 其時、此僧、眼(まなこ)をひらき、答(こたへ)て申さく、

「我慢增上(がまんぞうじやう)の汝等が、何とて、わが正法(しやうぼう)成(なる)經文を誦せんや。されども、望(のぞみ)によつて、讀み上(あぐ)るなり。一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし。」

とおほせければ、しきりに、

「よめ、よめ。」

といふほどに、其時、御僧、「光明眞言(くはうみやうしんごん)」を十遍斗、

「さらさら。」

と讀み上げ玉ひしが、天狗ども、これを一句もよむ事あたはずして、

「どつ。」

と、わらふて、退散しけり。

 御僧、うちわらひ玉ひて、又、默然と座禪しゐ玉ひけるが、夜も程なく明ぬれば、道を求めて、元(もと)きし方(かた)に出玉ひ、下山したまひける。

 さしも、飛行自在(ひぎやうじざい)の魔性(ましやう)なれども、道德つよき名僧には、敵對する事、叶はずとかや。

 西國(さいこく)渡海の舩中(せんちう)にて、坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)、かたりし儘(まゝ)、爰(こゝ)に記(しる)し侍る。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。挿絵の左手上方の迦楼羅(かるら)っぽいそれは天狗の眷属である烏天狗。ウィキの「烏天狗」によれば、『大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔をしており、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い』。『剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである』。『和歌山県御坊市では、烏天狗のものとされるミイラが厨子に入れられて保存されている。江戸時代から明治時代にかけ、修験者たちがこれを担ぎ、利益を説きながら諸国を回ったといわれる』。二〇〇七年に『保存事業の一環として行われた調査の際、トンビとみられる鳥の骨と粘土で作られた人造物であることが判明している』。『もっとも、天狗のミイラに関しては科学鑑定がなされる以前にも懐疑的な意見があり、平賀源内の「天狗髑髏鑑定縁起」では』、『そもそも不老不死とされる天狗の骨がなぜあるのだ』、『という意見を問う者もあったということが記されている』。『天狗は、一説には仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。 奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いが』、『しかし、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである』とある。ウィキには「天狗」や、天狗の大元締めとも言える「大天狗」も別ページとしてあるので参照されたい。

「愛宕山」は数あれど、まずは全国に約九百社余りある愛宕神社の総本社で、現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町(ちょう)にある愛宕神社のある愛宕山(グーグル・マップ・データ。当時の山城国と丹波の国境に位置し、標高は九百二十四メートル)ととるべきであろう。神仏習合期に於いては、ここは修験道の道場として信仰を集め、既に九世紀には霊山とされており、「奥の院」(現在の若宮)には愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。

「一丈」は三・〇三メートル。

「陀羅尼(だらに)」本来は、「よく総ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力」を指す、サンスクリット語「ダーラニー」の漢音写。「保持すること」「保持するもの」の意とされる。元来は一種の記憶術を指し、一つの事柄を記憶することによって、あらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを言う。謂わば、その最初の代表されるキー・ワードとも言えようか。通常、長句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」巻五には、「聞持(もんじ)陀羅尼」(耳に聞いたこと総てを忘れない)・「分別知(ふんべつち)陀羅尼」(あらゆるものを正しく分別する)・「入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼」(あらゆる音声によっても揺るがない)の三種の陀羅尼を説き、略説すれば、五百陀羅尼門が、広説すれば、無量の陀羅尼門があるとする。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」巻四十五には、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている。諸尊や修法に応じて、陀羅尼が誦持(じゅじ)され、密教では祖師の供養や亡者の冥福を祈るために「尊勝陀羅尼」を誦持するが、その法会を「陀羅尼会」という(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「我慢增上(がまんぞうじやう)」この場合の「我慢」は仏教の煩悩の一つで、「強い自己意識から起こす慢心のこと」を指し、「增上」は「増上慢」(未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。転じて今、「自分を過信して思い上がること」の意となった)で、四字一語として強調していると採ってよかろう。

「一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし」一句でも正しく応じて唱えることが出来たとならば、拙僧はお前らのために命を亡くして構わぬ。

「光明眞言(くはうみやうしんごん)」真言密教で唱える呪文の一つ。大日如来の真言で、また、一切仏菩薩の総呪でもある。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきゃ)・尾盧左曩(べいろしゃのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」。これを唱えると、一切の罪業が除かれるとされ、また、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。詳しくは「不空大灌頂光真言」と言い、略して「光言」とも呼ぶ。平安時代以来、「光明真言法」で唱えられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど、広く盛行して、土俗化した(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

[語誌]平安時代以来、光明真言法でとなえられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化した。

「坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)」不詳。聞書きとして変化を加えている。本「太平百物語」の作者、なかなか芸が細かい。]

2019/04/23

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)

Kawauso

 

 

 

かはうそ 水狗

水獺

     【和名宇曽

      今云川宇

      曽別有海

      曽宇山宇

      曾故以

シユイタ  別之】

[やぶちゃん注:良安は「獺」の(つくり)を総て「頼」とするが、総て正字で表記した。]

 

本綱水獺江湖多有之狀似小狐而毛色青黒若故紫帛

似狗膚如伏翼長尾四足俱短頭與身尾皆褊大者身與

尾長三尺餘水居食魚能知水信爲穴鄕人以占潦旱如

鵲巢知風也正月十月獺兩祭魚知報本反始也熊食鹽

死獺飮酒而斃是物之性也今漁舟徃徃馴畜使之捕魚

獱獺 卽獺之大者頸如馬身似蝙蝠或云獱獺無雌以

 猨爲雌故云猨鳴而獺候

獺肉【甘鹹寒】 治疫氣溫病及牛馬時行病女子經脉不通

 大小便秘【但熱症宜冷症不佳】

獺肝【甘溫有毒但肉寒肝溫】 諸畜肝葉皆有定數惟獺肝一月一葉

 十二月十二葉其間又有退葉用之者須驗治虛勞咳

 嗽傳尸病【以肝一具陰乾爲末水服方寸匕日三以瘥爲度】

獺膽【苦寒】 治眼翳黒花飛蠅上下視物不明入㸃藥中也

 又以獺膽塗盃唇使酒稍髙于盞靣

△按獺溪澗池河之淵灣或巖石間爲穴出食魚游水上

 時以砲擊取之性捷勁牙堅故闘犬却喫殺犬或云老

 鰡變成獺故獺胸下亦有肉臼又鮎變成獺但鰡變者

 口圓鮎變者口扁也【人有見其半分變者】鰡則海魚若謂江海獺

 乃鰡之變溪湖獺乃鮎變則可矣乎恐俗說也

獺皮 作褥及履屧産母帶之易産【毛甚柔軟微似獵虎而毛短形小不堪用】

 

 

かはうそ 水狗〔(すいく)〕

水獺

     【和名「宇曽〔(うそ)」。今、

      云ふ、「川宇曾」。別に

      「海宇曾」・「山宇曾」有り。

シユイタ  故に以つて之れを別〔(わか)〕つ。】

 

「本綱」、水獺、江湖、多く之れ有り。狀、小狐に似て、毛色、青黒。故〔(ふる)〕き紫の帛(きぬ)のごとし。狗〔(いぬ)〕の膚〔(はだへ)〕に似て、伏翼(かはもり)[やぶちゃん注:「蝙蝠(こうもり)」に同じ。]のごとし。長き尾、四足俱に短く、頭と身と尾、皆、褊〔(せま)〕し。大なる者は、身と尾と、長さ三尺餘り。水居して魚を食ふ。能く水信[やぶちゃん注:水の変化の予兆。]を知り、穴を爲〔(つく)〕る。鄕人〔(さとびと)〕、〔それを見て〕以つて潦〔(にはわづみ)〕[やぶちゃん注:大雨。]・旱〔(ひでり)〕を占ふ。鵲〔(かささぎ)〕の巢の風を知るごときなり。正月・十月、獺、兩〔(ふた)〕たび[やぶちゃん注:年に二度の意。]、魚を祭る。知、本〔(ほん)〕を報い[やぶちゃん注:ママ。]、始めに反〔(かへ)〕るを知るなり。熊は鹽を食ひて死し、獺は酒を飮みて斃〔(たふ)〕る。是れ、物の性〔(しやう)〕なり。今、漁舟、徃徃〔にして〕馴(な)れ畜(か)ひて之れをして魚を捕へしむ。

獱獺〔(ひんだつ)〕 卽ち、獺の大なる者。頸、馬のごとく、身、蝙蝠(かはもり)に似たり。或いは云ふ、「獱獺、雌、無く、猨〔(さる)〕[やぶちゃん注:猿。]を以つて雌と爲す。故に云ふ、『猨、鳴きて、獺、候〔(うかが)ふ〕』〔と〕」〔と〕。

獺の肉【甘、鹹。寒。】 疫氣・溫病[やぶちゃん注:発熱性の急性伝染病の総称。]及び牛馬の時行(はやり)病ひ、女子の經脉不通、大小便の秘〔せる〕[やぶちゃん注:便秘。]を治す【但し熱症に〔は〕宜しく〔も〕、冷症〔には〕佳ならず。】。

獺〔の〕肝【甘、溫。毒、有り。但し、肉は寒、肝は溫〔なり〕。】 諸畜の肝葉は、皆、定數、有り。惟だ、獺の肝、一月一葉〔にして〕、十二月には十二葉あり。其の間、又、退葉、有り。之れを用ふる者〔は〕須らく驗(こゝろ)むべし。虛勞[やぶちゃん注:過労による衰弱。]・咳嗽〔(がいさう)〕[やぶちゃん注:咳や痰。]・傳尸病〔(でんしびやう)〕[やぶちゃん注:伝染性である結核性の諸疾患。]を治す【肝一具を以つて陰乾し、末と爲し、水〔にて〕服す。方寸〔の〕匕〔(さじ)〕、日に三たび、瘥〔(い)〕ゆを以つて度と爲す[やぶちゃん注:服用を止める。]。】。

獺の膽(ゐ[やぶちゃん注:ママ。])【苦。寒。】 眼〔の〕翳〔(かす)みて〕黒〔き〕花飛ぶ蠅〔のごときものの〕上り下り、物を視ること明ならざるを、㸃藥の中に入るるべし。又、獺の膽を以つて、盃〔(さかづき)〕の唇(くち)に塗り、酒をして、稍〔(やや)〕盞〔(さかづき)〕の靣より髙からしむ。

△按ずるに、獺、溪澗・池河の淵〔や〕灣、或いは巖石の間〔に〕穴を爲〔(つく)〕り、出でて、魚を食ふ。水上を游(をよ)ぐ[やぶちゃん注:ママ。]時、砲を以つて、之れを擊ち取る。性、捷勁〔(せふけい)〕[やぶちゃん注:動きが敏捷でしかも体力強靭であること。]にして、牙、堅し。故に犬と闘へば、却つて、犬を喫(か)み殺す。或いは云はく、老鰡(しくちぼら)、變じて、獺と成る。故に獺の胸の下に亦、肉〔の〕臼〔(うす)〕、有り。又、鮎(なまづ)變じて、獺と成る。但し、鰡〔(ぼら)〕の變じたる者は、口、圓〔(まろ)〕く、鮎の變じたるは、口、扁(ひらた)しとなり【人、有見其れ、半分、變じたる者を見たる有り〔と〕。】。鰡は則ち、海魚なり。若〔(も)〕し、江海の獺は乃〔(すなは)〕ち、鰡の變、溪湖の獺は乃ち、鮎の變、と謂はゞ、則ち、可ならんか。恐らくは〔これ〕俗說なり。

獺(うそ)の皮 褥(しとね)及び履屧〔(くつのしきもの)〕[やぶちゃん注:靴の中の敷き物。]に作る。産母、之れを帶びて、産、易し【毛〔は〕甚だ柔軟にして微〔(かす)かにて〕、獵虎〔(らつこ)〕に似れども、毛、短く、形、小にして、用に堪へず。】。

[やぶちゃん注:「本草綱目」のそれは、食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra、本邦のそれは日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nipponウィキの「ニホンカワウソ」を引く。『明治時代までは礼文島、北海道、本州、四国、九州、壱岐島、対馬、五島列島まで日本中の陸地から島々に至るまで広く棲息していたが、乱獲や開発によって棲息数が激減』、昭和三(一九二八)年には、『狩猟の対象外となった。しかしその後も棲息数は減少を続け』、一九三〇年代から昭和二五(一九五〇)年にかけて、『棲息が確認された地域は北海道、青森県東津軽郡油川町、秋田県仙北郡角館町檜木内川、山形県朝日山地、栃木県大田原市箒川および日光市西ノ湖、埼玉県、山梨県中巨摩郡宮本村荒川、長野県、奈良県吉野郡下北山村、和歌山県、兵庫県神崎郡川辺村、揖保郡越部村栗栖川および淡路島、四国地方、大分県のみとなった。しかし、本州及び九州本土の個体群はいずれも孤立した個体群であったため』、昭和二九(一九五四)年『頃までに絶滅したとみられ』る。『本州最後の個体群は、和歌山県和歌山市友ヶ島で』昭和二九(一九五四)年に『確認された個体群であったが、特に保護されることなく』、『絶滅した』、『北海道産亜種』であるLutra lutra whileleyi(和名がつけられる前に我々が絶滅させてしまった。「エゾカワウソ」と呼ばわってやりたい)も、昭和三〇(一九五五)年に『斜里郡斜里川で捕獲されたのが最後の捕獲例であ』った。『そのため』、『ニホンカワウソの分布域は、四国地方の愛媛県および高知県のみとな』ってしまい、『最後の捕獲例は』、昭和五〇(一九七五)年四月八日、『愛媛県宇和島市九島で保護されたもので、その後は捕獲されていない。ニホンカワウソが生きた姿で最後に発見されたのは高知県須崎市の新荘川におけるもので』、昭和五四(一九七九)年六月の目撃で、この新荘川では昭和六一(一九八六)年十月に、『ニホンカワウソの死体が発見されているが、これ以降』、『棲息の確認は得られていない』。なお、『樺太(サハリン)南端部の能登呂半島には』、二千十七年『現在でもカワウソが棲息しているが』、これを絶滅した『北海道産亜種(Lutra lutra whileleyi)と同一種であると分類する専門家も』いる。体長は六十四.五~八十二センチメートル、尾長三十五~五十六センチメートル、体重五~十一キログラムで、『外部計測値は韓国産のユーラシアカワウソとほぼ同じだが、頭骨形状に特徴があ』り、『眼を水面から出して警戒できるよう、眼と鼻孔が顔の上方にあった』、また、『鼻孔は水中で閉じることができ』、『毛皮は二層からなり、外側に見える部分は粗い差毛、内側は細かい綿毛であった。差毛は水中で水に濡れて綿毛を覆い、綿毛に水が浸入するのを防いだ。このことにより』、『水中での体温消耗を防ぐ効果があった。この良質な毛皮を目的とした乱獲が、絶滅の要因となった』。『河川の中下流域、砂浜や磯などの沿岸部に単独で棲息し』、『主に夜行性で、魚類、テナガエビ、カニ、カエルなどを食べていた』。一『頭の行動域は十数』キロメートル『にもおよび、この中に「泊まり場」と呼ばれる生活の拠点(岸辺近くの大木の根元の穴や岩の割れ目、茂みなど)を』三、四箇所持っており、『縄張り宣言のために、定期的に岩や草むらの上など目立つ位置に糞をする習性があった』。『春から初夏にかけて水中で交尾を行い』、六十一~六十三『日の妊娠期間を経て』、二~五『頭の仔を産んでいたと考えられている。仔は生後』五十六日ほどで『巣から出るようになり、親が来年に新たな繁殖を開始するころに独立していたと推定される』。『人間にとって身近な存在であり、河童伝説の原型になったと考えられているほか、カワウソそのものも伝承に登場する。また、アイヌ語では「エサマン」と呼ばれ、アイヌの伝承にもしばしば登場している。七十二候の一つ(雨水初候)で獺祭魚(春になり』、『カワウソが漁を』始め、『魚を捕らえること)とある』。『江戸時代の料理書』「料理物語」には『「獣の部」において「川うそ」の名が記載されており、かつては食用となっていたとみられる』。『ニホンカワウソは保温力に優れている毛皮や肺結核の薬となる』とされた『肝臓を目的として、明治から昭和初期にかけて乱獲が進んだ』(本文にも結核の特効薬とするそれが出る)。『そのため北海道では』、明治三九(一九〇六)年『当時』、『年間』八百九十一『頭のカワウソが捕獲されていたが』、たった十二年後の大正七(一九一八)年には、『年間』七『頭にまで減少した』。『このような乱獲が日本全国で行われたため』、昭和三(一九二八)年、遅まきながら、『ニホンカワウソは日本全国で狩猟禁止となっ』た。而して昭和二九(一九五四)年『時点で、ニホンカワウソは北海道、紀伊半島と愛媛県の瀬戸内海から宇和海にかけての沿岸部、高知県南西部の沿岸部および室戸岬周辺にわずかに棲息域を残すのみとなったが、農薬や排水による水質悪化、高度経済成長期における周辺地域の開発、河川の護岸工事等により、棲息数の減少に更なる拍車がかかった。さらに、漁具による溺死や生簀の食害を防ぐための駆除も大きな打撃となった』。『最後の個体群は当初』、『猟師だけが知っていたもので』、結局それも『密猟されていた』のであった、とある。妖怪としての妖獣「かわおそ」については、本日、私が公開した「太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」の私の注を参照されたい。

 因みに、「獺」は「をそ(おそ)」とも呼ばれるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは「かはをそ」「かわうそ」の略で、その語源説には「うををす」「ををす」(魚食)の略(「大言海」)、「おそる」(畏懼)と同根(「和句解」・「東雅」)、獣のくせに水中に入って魚を捕える獣にあるまじき「偽」(うそ)の存在の義(「名言通」)、妖獣譚でよく人を襲(おそ)うところから(「紫門和語類集」)、水底を住居とすることからの「こ」の反切(「名語記」)が示されてある。しかしどれも信じ難い。原形に獣・幻獣の「をそ」を探索すべきであろう。

「鵲〔(かささぎ)〕の巢の風を知るごときなり」東洋文庫注によれば、「淮南子」の「繆稱訓(びょうしょうくん)」に、

   *

鵲巢知風之所起、獺穴知水之高下。暈目知晏。陰階知雨。

   *

とあるとする。

「知、本〔(ほん)〕を報い[やぶちゃん注:ママ。]、始めに反〔(かへ)〕るを知るなり」魚を殺生して生きている自分の存在を自覚し、天にその生贄を捧げて獺祭を行い、自己の無惨な生き方を自覚し、その在り方を原型に戻すことをちゃんと弁えているのである。

「熊は鹽を食ひて死し」先行する「熊(くま)」に記載があった。

「今、漁舟、徃徃〔にして〕馴(な)れ畜(か)ひて之れをして魚を捕へしむ」俄かに示せないが、カウワソを飼養して、鵜飼のように川魚を捕獲していたとする古記録を確かに読んだ。発見し次第、追記する。

「獱獺〔(ひんだつ)〕」変異個体か、幻獣であろう。同定する気になれない。

「候〔(うかが)ふ〕」東洋文庫訳は「やってくる」と訳す。採らない。

「之れを用ふる者〔は〕須らく驗(こゝろ)むべし」は以下の「治虛勞・咳嗽〔(がいさう)〕・傳尸病〔(でんしびやう)〕を治す」に係ると読んでおく。但し、中文本草書でこういう形の構文はあまりないようには思われ、或いは、前の肝臓が毎月一枚増加するが、時に、それが、減ることもある、ということを獺の肝臓を薬として、解剖して得る本草家は、剖検時にしっかりとその現象を確かめて見よと言っていると採る方が自然ではある。

「眼〔の〕翳〔(かす)みて〕黒〔き〕花飛ぶ蠅〔のごときものの〕上り下り、物を視ること明ならざる」典型的な眼疾患である飛蚊(ひぶん)症である。尋常性のそれも多いが(私も幼少期から馴染みである)、突然、多量に五月蠅く感ずるほどに発生する場合は、網膜剥離の前兆であるから、早急な治療が必要である。

「稍〔(やや)〕盞〔(さかづき)〕の靣より髙からしむ」表面張力で酒が盃から有意に盛り上がるぐらいに入れることを指す。

「老鰡(しくちぼら)」これはボラ(条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)ではなく、ボラ科メナダ属メナダ Liza haematocheilus である。完全生育個体では体長が一メートルに及び大型で、背面は青色、腹面は銀白色。同属の近縁種との違いとしては、上唇が下方に曲がっていて、口を閉じると外部に露出してみえること、脂瞼(しけん)と呼ばれるコンタクト・レンズ状の器官が発達していないことがボラとの識別点として挙げられる。東洋文庫はこの「老鰡」の「鰡」にのみ『ぼら』とルビしており、老成したボラと採っていて、少なくとも個々の部分での訳としては致命的な誤りである。

「故に獺の胸の下に亦、肉〔の〕臼〔(うす)〕、有り」ボラ属 Mugil の多くの成魚は、胃が発達しており、胃の幽門部(ヒトの十二指腸に繋がる胃の部分)が体表から見ても、あたかも「出臍(でべそ)」のように突き出ている。現在も市場ではこれを「うす(臼)」と称したり、或いは、それを切り出した形が算盤の珠(たま)に似ていることから、「そろばんだま」と呼んだりする。一般的には焼くか揚げて食べる。食ったことがあるが、ホルモンの「ミノ」のような食感で私は好きだ。

「鮎(なまづ)」言わずもがな、中国語の「鮎」はナマズしか指さない。アユは「香魚」である。

「獵虎〔(らつこ)〕」食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。独立項として本巻の最後に出るので、そこで詳述する。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(13) 「駒ケ嶽」(3)

 

《原文》

 サテ此ヨリ愈駒ケ嶽ノ本論ニ入ラント欲スルナリ。諸國ノ名山ニ駒ケ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。【嶽又ハ岳】「ダケ」ハ只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭ニ山ニ神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奧州ニ多シ。東國ニテハ秩父甲州ナドノ御嶽、木曾ノ御岳山ノ類アリ。沖繩ニ於テモ「ダケ」ハ悉ク神ノ山ナリ。駒ケ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然ニ出デ來ルべキ者ニ非ズ。故ニ今ノ人ガ此ニ無頓著ナルトハ正反對ニ、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ說明セント試ミタリ。駒ケ嶽ニ駒ノ住ムト云フ說ハ、北海道渡島ノ駒ケ嶽ニモ存ス。文政八年ノ八月松前侯ノ御隱居、人ヲ彼地ニ遣ハシ其噂ノ實否ヲ確メシム。【野馬】其報告ハ區々ニシテ或ハ靑ト栗毛ト二頭ノ牝馬ヲ見タルハ、野飼ノ逸シ去リテ幸ニ熊ノ害ヲ免レシナラント言ヒ、又ハ古來一雙ノ神馬住ムト傳ヘタレバ、試ミニ牝馬ヲ繋ギ置キテ之ヲ誘ハント獻策セシモノアリ〔兎園小說別集上〕。併シ此等ハ山ノ名先ヅ知ラレテ後ニ生ジタル想像ノ產物ナリトモ見ルコトヲ得べシ。見キモ見ザリキモ要スルニ個々ノ人ノ言ナレバナリ。木曾ノ駒ケ嶽ニ於テハ、或ハ中腹以上ノ雪ノ中ニ先ヅ消エテ黑ク見ユル箇處、駒ガ草食ム形ニ見ユルガ故ト云ヒ〔本朝俗諺志〕、又ハ此山ノ東面ニ駒ノ形ヲシタル大石アリテ、春ハ此石ノ處ヨリ雪消ヘ始ムルガ爲ニ名ヅクトモ云フ〔新著聞集〕。會津槍枝岐(ヒノエマタ)ノ駒ケ嶽ニテハ之ト反對ニ、夏秋ノ際消エ殘リタル雪ノ形駒ニ似タリト稱シ、越後南魚沼郡室谷ノ奧ナル駒ケ嶽ニモ同ジ說アリ〔地名辭書〕。同國西頸城(にしくびき)郡今井村ノ駒ケ嶽ハ信濃トノ境ノ山ナリ。山中ノ洞ニ駒ノ形狀アリテ明ラカニ存ス。故ニ山ノ名トス。【石馬】俚俗ノ說ニ源義經ノ馬此ニ至リ石ニ化スト云ヘリ〔越後野志六〕。陸中膽澤郡ノ駒ケ嶽ハ彼地方馬神信仰ノ中心タリ。神馬今モ此山中ニ住ムト云ヒ、昔名馬ノ骨ヲ此山頂ニ埋メタリト傳ヘ、或ハ又殘雪ノ形ガ駒ノ形ニ似タル故ノ名ナリトモ稱ス〔奧羽觀迹聞老誌〕。前ニ擧ゲタル鐵製ノ馬ノ像モ、此峯續キノ赤澤山ニ在ルナリ。

 

《訓読》

 さて、此れより、愈々、「駒ケ嶽」の本論に入らんと欲するなり。諸國の名山に駒ケ嶽と云ふもの多きは人の善く知る所なり。【嶽又は岳】「だけ」は只の「山」又は「峯」と云ふ語とは別にして、「神山」又は「靈山」を意味する日本語かと思はる。「蟲送り」又は「雨風祭(あめかぜまつり)」に、山に神を送るを「だけのぼり」と云ふこと、奧州に多し。東國にては、秩父・甲州などの御嶽(みたけ)、木曾の御岳山(おんたけさん)の類ひあり。沖繩に於いても「だけ」は悉く、神の山なり。駒ケ嶽と云ふがごとき山の名は、固より偶然に出で來たるべき者に非ず。故に、今の人が此れに無頓著なるとは正反對に、昔の人は、色々と其の命名の由來を說明せんと試みたり。駒ケ嶽に駒の住むと云ふ說は、北海道渡島の駒ケ嶽にも存す。文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]の八月、松前侯の御隱居、人を彼の地に遣はし、其の噂の實否を確めしむ。【野馬】其の報告は區々(まちまち)にして、或いは、靑と栗毛と二頭の牝馬を見たるは、野飼(のがひ)の逸(いつ)し去りて、幸ひに熊の害を免れしならんと言ひ、又は、古來、一雙の神馬住むと傳へたれば、試みに牝馬を繋ぎ置きて、之れを誘はんと獻策せしものあり〔「兎園小說別集」上〕。併し、此等は、山の名、先づ、知られて、後に生じたる想像の產物なり、とも見ることを得べし。見きも、見ざりきも、要するに、個々の人の言(いひ)なればなり。木曾の駒け嶽に於いては、或いは、中腹以上の雪の中に、先づ、消えて、黑く見ゆる箇處(かしよ)、駒が草食む形に見ゆるが故と云ひ〔「本朝俗諺志」〕、又は、此の山の東面に、駒の形をしたる大石ありて、春は此の石の處より、雪、消へ始むるが爲めに名づく、とも云ふ〔「新著聞集」〕。會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽にては之れと反對に、夏秋の際、消え殘りたる雪の形、駒に似たりと稱し、越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽にも同じ說あり〔「地名辭書」〕。同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽は信濃との境の山なり。山中の洞(ほら)に駒の形狀ありて、明らかに存す。故に山の名とす。【石馬】俚俗の說に、源義經の馬、此に至り、石に化す、と云へり〔「越後野志」六〕。陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽は、彼(か)の地方、馬神(うまがみ)信仰の中心たり。神馬、今も此の山中に住むと云ひ、昔、名馬の骨を此の山頂に埋めたりと傳へ、或いは又、殘雪の形が駒の形に似たる故の名なりとも稱す〔「奧羽觀迹聞老誌(おううかんせきぶんらうし)」〕。前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり。

[やぶちゃん注:「蟲送り」主として稲の害虫(浮塵子(うんか:昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目 Homoptera に属する一群で、特にその中のハゴロモ(ウンカ)上科Fulgoroidea或いはその中のウンカ科Delphacidae に属する種群が多い。セミに似るが、体長は一センチメートル以下で、触角の基部が太い。日本に約百種棲息し、多くはイネ科植物を食べる。ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科トビイロウンカ属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus が代表的な食害種)や、二化螟蛾(鱗翅目チョウ目ツトガ(苞蛾)科ツトガ亜科メイガ科Chilo suppressalis):和名は本邦の大部分の地域で成虫が年に二回発生することに拠る)の幼虫等)を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏の頃、定期的に行う例と、害虫が大発生した時に臨時に行うものとがある。一例を示すと、稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明(たいまつ)を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓を叩きながら、田の畦道を巡って村境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは、消滅した、と考えたのである。「風邪の神送り」や「厄病送り」などと一連の行事で、呪術のなかでは鎮送呪術に含まれる。害虫は実在のものであるが、非業の死を遂げた人の霊が浮遊霊となり、それが害虫と化したという御霊信仰的側面もあって、非業の死を遂げたと伝えられる平安末期の武将斎藤別当実盛の霊が祟って虫害を齎すという故事に付会させて、帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く所もある。虫送りを「さねもり祭り」などと呼ぶのはそれに由来する。初夏の風物の一つとして、子供の行事にしていた所も多い。近年は農薬の普及に伴って虫害も少なくなり、この行事も急速に消滅してしまった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠り、生物種はオリジナルに附した)。

「雨風祭(あめかぜまつり)」前の「虫送り」の風水害版。風雨の害を避けるために行われる呪術的行事。通常は男女二体の形代(かたしろ)の人形を村境まで送って行き、捨てたり焼いたりする。特に東北地方での呼称。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇九 雨風祭」も見られたい。

「だけのぼり」フレーズ検索「だけのぼり 風雨祭 東北」を掛けたが、確認出来ない。

「秩父・甲州などの御嶽(みたけ)」「秩父」のそれは埼玉県秩父市と秩父郡小鹿野町との境にある御岳山(おんたけさん:標高千八十・四メートル。木曽御嶽山の王滝口を開いた普寛上人が開山した)。「甲州」のそれは赤石山脈(南アルプス)北端の山梨県北杜市と長野県伊那市に跨る甲斐駒ヶ岳(標高二千九百六十七メートル)。

「木曾の御岳山(おんたけさん)」長野県木曽郡木曽町王滝村と岐阜県下呂市及び高山市に跨る標高三千六十七メートルの御嶽山

「北海道渡島の駒ケ嶽」現在の北海道森町・鹿部町・七飯町に跨る標高千百三十一メートルの北海道駒ヶ岳。渡島半島のランド・マーク。江戸時代の旧称は内浦岳。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この山の名に関して言えば、大沼方面から見たそれが、馬が嘶いている姿に似ていることに由来すると言われている。これウィキの「北海道駒ヶ岳」の同方面からの画像)。私はこの山容がとても好きである。

「文政八年の八月、松前侯の御隱居……」これは割注にある通り、「兎園小説」シリーズの中の、滝澤馬琴一人の編集になる概ね彼による考証随筆「兎園小説別集」の上巻の中の一条「内浦駒ケ岳神馬紀事」に基づく記載である。「松前侯の御隱居」というのは蝦夷地松前藩第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)のこと。ウィキの「松前道広」によれば、寛政四(一七九二)年に隠居し、長男章広に家督を譲っているが、九年後の文化四(一八〇七)年、藩主時代の海防への対応や元来の遊興癖を咎められて幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられた(この背景には元家臣の讒言があったともされる。文政五(一八二一)年にこれは解かれた)。当時、満七十一であったこの爺さん、大の馬好きで、駒ヶ岳の神馬の話を聴き、興味津々、ここにある通り、藩内の者を使って情報を収集、牝馬を囮にして捕獲を試みようとしたりしたのを、以前から江戸で知り合いであった馬琴が聴き付け、手紙をものして(原書簡が引用されてある)、古今の神馬の祟りの例などを挙げて遠回しに諌めた顚末が記されてある。「幸ひに熊の害を免れしならん」の部分は、百姓が放牧していた馬が逃げ出し、岳の中段より上に登ってしまった、極めて人目につきにくい個体で、また『駒ケ岳は靈山の事故、山の德によつて熊にも取られ申さず』と記している。

「新著聞集」前に引いた「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部(終りの部分がそれ)が読める。

「會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽」福島県南会津郡檜枝岐村にある標高二千百三十三メートルの会津駒ヶ岳

「越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽」新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る標高二千三メートルの越後駒ヶ岳。「室谷」(「むろだに」か)の地名は現認出来ない。

「同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽」現在の新潟県糸魚川市市野々(いちのの)の奥にある標高千四百八十七・四メートルの頸城駒ヶ岳

「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」本条の冒頭の段落の「赤澤山」の注で私が指摘した、岩手県胆沢郡北上市和賀町の標高千百二十九・八メートルの駒ヶ岳である。やはり、そこで私が推理した通り、この峰続きの地図上では無名のピークの孰れかが、「赤澤山」なのであった。

裸 伊良子清白

 

 

裸の女は裸を大きくし

凉しい濱をむさぼつてあるく

裸のをとこは風の中

裸を吹きとばしてゐる

 

裸のをんなははだかのままで

はだかの冷えるまで凉み

夜更けの幮(かや)の底でも

裸丸出しで寢てゐる

裸の女を抱いてねる

はだかのをとこは勝ち誇つてゐる

裸に罪があるか――

罪は人がつくり、裸は神が造る

 

[やぶちゃん注:こんな一篇をあの「孔雀船」の伊良子清白がものしているのはすこぶる面白い。

「幮(かや)」「蚊帳(かや)」に同じい。]

海風はげし 伊良子清白

 

海風はげし

 

海軟風――

飛び沙魚(はぜ)の類ひである

數限りなく濱からのぼつて來る

海の風には鱗の觸感がある

巖石の匀ひがある

帆は城廓である

城廓は戶を開く、海の風に――

赫耶姬(かぐやひめ)は竹から產れる

アフロデイテは海泡からうまれる

おお

この風に

わたしの耳から

靑い壯麗の侏儒(こびと)がうまれる

 

[やぶちゃん注:「飛び沙魚(はぜ)」生物種としては、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus であるが、ここは一行でその「海」からの「軟風」の直喩である。]

子供の憂鬱 伊良子清白

 

子供の憂鬱

 

海連の學校で

子供が憂鬱に成る

お山の大將は

山から下りて來た

 

海の子が

海から逃げて來た

海邊の山が

子供を憂鬱にした

 

のろい蛆(うじ)が

かしこい蝶に成る

海邊の學校で

かしこい子供が憂鬱である

 

[やぶちゃん注:面白い一篇である。]

洞窟の神 伊良子清白

 

洞窟の神

 

注連繩(しめなは)延(は)へし島の洞窟に

憂鬱の淸水滴る

陰森として魍魎棲む奧所(おくが)よ

海檜葉(うみひば)の蔓(はびこ)る絕壁を

船蟲の族群り上下す

新裝の砂汀は

晴れ渡る海面に輝けども

古代の怒濤を深く刻(きざ)める

老顏の洞窟はひたぶるに

日(ひ)の鋭(と)き香(か)をいとひて

腹立たしき澁面をつくれり

 

畏怖の鏡の前にすゑられ

赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は

原始の威靈を直(ひた)と感ず

したたる淸水(しみづ)はげしく打つ

 

[やぶちゃん注:初出未詳だが、ロケ地を切に知りたくなる一篇である。

「延(は)へし」延ばして張った。「延(は)ふ」はハ行四段活用の動詞で、「地面や壁面に沿って延びる」の意。延縄(はえなわ)等で今も生きる読みである。

「魍魎」はロケーションと韻律から、水神を意味する「みずは」と読んでいよう。

「海檜葉(うみひば)」不詳。海岸の絶壁で「蔓(はびこ)る」と形容する草木を私は知らない。識者の御教授を乞う。

「族」「うから」と読んでいよう。

「砂汀」ルビを振らないから「さてい」と読んでおく。砂浜のこと。

「赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は」純朴な心ゆえに洞窟の神に慄(おのの)いている漁師たちは。「赤子(せきし)の心」(生まれたままの純真で偽りのない心・赤子(あかご)のような心)に同じで、「孟子」「離婁 下」の「大人 (たいじん)とは其の赤子の心を失はざる者 なり」に基づく語。]

太平百物語卷二 十二 小僧天狗につかまれし事

     ○十二 小僧天狗につかまれし事

 さぬきの國に、照本寺といへる日蓮宗の寺あり。

 ある時、「うたづ」といふ所へ、用の事ありて、眞可(しんが)といふ小僧を使(つかひ)にやりけるが、其歸へるさ、「ばくち谷」といふ所を通りしに、俄に、風一頻(ひとしき)りして、何者ともしらず、眞可を虛空につかみ行(ゆき)ぬ。

 眞可、いとおそろしくおもひて、「法花經」の「普門品(ふもんぼん)」を高らかに唱へしに、後(うしろ)よりも同じくこれを唱へしまゝ、眞可、さかしく心得て、終りより始へ讀(よみ)もどしけるに、障碍(しやうげ)の者、これを讀(よむ)事、あたはず。

 無念の事にやおもひけん、此眞可が上帶(うはおび)にしける繻巾(しゆきん)をほどきて、おもふ樣に引しばり、かの照本寺の椽(ゑん)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。後も同じ。]にすてゝ歸りしが、眞可は猶も高らかに、「普門品」を唱へけるに、寺中(じちう)、これを聞(きゝ)つけて、やがて、椽にかけ出(いで)みれば、眞可なり。

 人々、おどろき、上人に「かく」と告げしらせければ、上人、やがて立出(たちいで)、つくづくと見定め、しづかに、眞可が聲に合はせて、同じく「普門品」を讀誦ありければ、ふしぎや、此繻巾、忽ち、ぬけて、眞可、別義なく本心(ほんしん)なりければ、上人、其ゆへを尋(たづね)給ふに、眞可、しかじかのよしをかたれば、上人もいぶかしくおぼして、かの繻巾を取上げ見給ふに、さまざまにむすぼふれて、紐の端(はし)、いかに求むれども、見へず。

 あたりの人々、これをみて、きゐ[やぶちゃん注:ママ。「奇異」。]のおもひをなしけるが、今に此寺にありて、世の人、これを「天狗の繩(なは)」と稱(しやう)じて[やぶちゃん注:ママ。]、もてはやしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「さぬきの國」「照本寺」現在の香川県丸亀市南条町(まち)に法華宗本門流(日蓮系宗派の一つ。日蓮宗も江戸時代までは正式は法華宗と名乗っていた)の本照寺があるが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「香川県立図書館」公式サイト内の「地域の本棚」の「三 丸亀を行く」(「香川の文学散歩」(平成四(一九九二)年香川県高等学校国語教育研究会刊)の電子化)では、『塩飽町交差点を西に進んで』、『すぐの四差路を北に進むと右側に本照寺がある。菅生堂人惠忠の『怪異』の舞台となった寺である』と断定している。

「うたづ」香川県綾歌(あやうた)郡宇多津町(ちょう)。本照寺からは直線で二、三キロ圏内で近い。

「ばくち谷」不詳であるが、宇多津町の南西の町境部分に「青ノ山」という小さな山塊(標高二百二十四メートル)があり、その西の山腹を国土地理院図で見ると、三本の谷川が現在も流れていることが確認出来る。本照寺からのルートを考えると、「谷」を形成し得る地形はここ以外にはまず認められないから(他は現行ではほとんどが平地である。但し、宇田津町東北境には二つの丘陵部があるから、そこである可能性もないとは言えない)、私はこの辺りと考えてよいのではないかと思う。

『「法花經」の「普門品(ふもんぼん)」』「法華経」第二十五品「観世音菩薩普門品」の略称。別出して一巻とした「観音経」に同じ。「法華経」ではこれだけを読誦することが多い。鳩摩羅什(くまらじゅう:六朝期の中央アジア亀玆(きじ)国の僧)が散文を、闍那崛多(じゃなくった:北インドのガンダーラの訳経僧。北周から隋の時代に来朝して仏典を漢訳した)が韻文を漢訳したものを合せたものが、中国・日本で広く読誦されてきた。観世音菩薩が神通力をもって教えを示し、種々に身を変えて人々を救済することを説く。観音を心に念じ、その名を称えれば、いかなる苦難からも逃れることが出来ることを説いて、観音を信仰すべきことを勧めている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「さかしく心得て」知恵を働かせて思い至り。

「終りより始へ讀(よみ)もどしけるに」「法華経」を逆に音読したのである。常に読誦している経で、同経は漢字を音で読むので、それを逆に読むことは必ずしも困難なことではない。一種の呪法である。

「障碍(しやうげ)の者」仏法を侮る魔の存在。逆読はそうした存在にとっては呪的な効力を発揮し、魅入られてしまうことから逃れられると真可は考えたのであろう。この時点で、真可は脅かしている物の怪が何者であるかは認識していないから、かく言ったのである。というか、それが果たして「天狗」であったかどうかは実は分らぬのである。その他の魔性のもの、妖怪であったのかも知れない。

「上帶(うはおび)にしける繻巾(しゆきん)」「繻」は絹の端布(はしぎれ)で、「巾」は、この場合、同じく布(きれ)であり、余り絹を用いた紐のようにも思われるが、一方で、これは「繻子」(しゅす:繻子織り(縦糸と横糸とが、交差する箇所が連続することなく、縦糸又は横糸だけが表に現れるような織り方。一般に縦糸の浮きが多く、斜文織りよりさらに光沢がある)のことを指しているのかも知れない。繻子は女帯や羽織裏などに用いるもので、修行僧が使うには贅沢ではあるが。

「椽(ゑん)」本字は本来は「垂木(たるき)」(家の棟から軒に渡して屋根を支える材木)を指すが、古くから「縁」の代字として慣用され、近代作家なども頻りに「縁側」の意で用いることが多い。

「さまざまにむすぼふれて、紐の端(はし)、いかに求むれども、見へず」『世の人、これを「天狗の繩(なは)」と稱(しやう)じて、もてはやしける』変化(へんげ)の物が癇癪を起してやらかした呪的な緊縛法なのであろうが、先に述べた通り、その変化を「天狗」としたのは巷の人々の憶測に過ぎない。まあ、知恵がなければ、そんな複雑な縛り方は出来ぬし、真可を虚空に投げ、本寺に投げ込むというのも如何にも天狗らしくはある。]

2019/04/22

服用すべき薬物を間違える

今日になって気がついた。五日間も、一日一錠の糖尿病薬を別な薬物と間違えて、二錠も服用していてことに気が附かなかった! 何たる、ていたらく! 万死だぜ、これはよ!

世界は

世界は――追懐は当然如く「今、一度……」の惨めな浪漫主義もあろうはず無く何処かの詩人面(づら)した輩の「絶対の孤独」もあろうはずなく植木等の諧謔もない「ハイ」「ソレマデ」という民俗学用語のカタカナ表記の一般名詞化による埋没的殺戮に過ぎなかった――と――私はそう今日此の頃実感している

太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事

Ogatakatujirou

    ○十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事

 山城の國に緖方勝次郞といふ侍あり。

 或時、あふみの國彥根に行くとて、㙒州川(やすがは)を通りけるが、折ふし、秋の末つ方、冬のけしきをあらはして、落葉ちりしく水の面(おも)、見るに、こゝろもすみわたりければ、旅のこゝろをよみはべりける。

   やす川といかでか名にはながしけん

    くるしきせのみありとおもふに

かく口ずさみつゝ行く所に、むかふの方に、小舩(こぶね)一艘こぎ來る者あり。

 見れば、みめうつくしき童子なりしが、身には木の葉・もくづなどをかづきてゐたり。

 勝次郞、あやしくおもひて、

「いかなる人ぞ。」

と尋(たづね)ければ、

「これは此あたりに住(すむ)者なり。御身も此舟に乘(のり)給へかし。共に逍遙して樂しまん。」

といふ。

 勝次郞、其體(てい)を能(よく)々みるに、

『これ、人間にあらず。』

と思惟(しゆひ[やぶちゃん注:ママ。])して、やがて嶲(たづさ)へたりし弓矢おつ取、引しぼりてぞ、

「ひやう。」

ど、はなつ。

 あやまたず、此童子が胸にあたるに、忽ち、獺となりて、卽座に死(しゝ)たりしが、舟とおぼしきも、皆、木の葉にてぞ有(あり)ける。

『さればこそ。』

とおもふ所へ、又、壱人、陸(くが)の方より、老女、きたり、勝次郞をまねきて申さく、

「おこと、只今、童子の舟に乘りたるを見玉はずや。」

と。

 勝次郞、荅(こた)へて、

「それは、はや、とく行き過ぎたり。」

といひて、向ふの方へやり過(すご)し、又、弓を引堅め、

「はた。」

と、ゐければ[やぶちゃん注:ママ。]、頭(かうべ)にあたると見へし。

 頓(やが)て、老たる獺となりて、一聲(ひとこゑ)、

「あつ。」

と、さけびて、死しけり。

 勝次郞、二疋のかはうそを取て、所の人々にみせければ、皆々、大きによろこび、云(いひ)けるは、

「此年比(このとしごろ)、かやうに美童・美女に化(け)して、おほく旅人(りよじん)をたばかり、喰殺(くひころ)し侍りしに、今よりしては、此あはれをみる事あるまじければ、有がたくこそさふらへ。」

とて、打よりて、勝次郞を拜みけるとかや。

[やぶちゃん注:「獺」日本人が滅ぼしてしまった哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は古くより怪異を起こす動物として信ぜられた。中国でも例外ではなく、それは私「柴田宵曲 續妖異博物館 獺」にも取り上げられてある(リンク先は私の電子化注)。ウィキの「カウウソ」の「伝承の中のカワウソ」によれば、『日本や中国の伝承では、キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。石川県能都地方で』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰かと声をかけられると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』、『加賀』『で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』。江戸時代には「裏見寒話」「太平百物語」「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり』、『上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて』、『川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡では』、「かぶそ」又は「かわそ」の『名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、九歳の『美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして』は『石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。室町時代の国語辞典の一種である「下学集」には、『河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が、「捜神記」・「甄異志(しんいし)」などの『古書にある』(先の私の柴田宵曲のそれを参照されたい)。『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩』、『四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝糸を辿ってみると』、『糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると』、『糸はカワウソの足に結びついていたので』、『それを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子をもうけたが』、『末の子が後の清朝太祖ヌルハチである』とする。『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにかわうそと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという伝承がある』とある。ここにあるように、河童との親和性が強く、人間に化けるところは、狐狸の類いとの古来からの共通性が認められるが、生物としての彼らを滅亡させてしまった以上、最早、彼らは化けようがなくなったのだと考えるとき、私は一抹の寂しさを感じざるを得ない。

「㙒州川(やすがは)」野洲川は琵琶湖へ流入する河川では最長で、「近江太郎」の通称を持つ。鈴鹿山脈の御在所山(標高千二百十メートル)に発し、甲賀(こうか)市を西に流れ、湖南市南東と甲賀市の境界付近で杣川(そまがわ)が合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「野洲川」に拠った。

「もくづ」「藻屑」。ここはロケーションから、淡水産の水草類や藻類の類い。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 兔(うさぎ) (ウサギ)

Usagi

 

 

 

うさぎ 明眎  婏【子】

    舍迦【梵書】

★   【和名 宇

     佐木】

トウ

[やぶちゃん注:★の部分に上記の画像の篆文が入る。]

 

本綱兔處處有之爲食品之上味大如貍毛褐形如鼠而

尾短耳大而鋭上唇缺而無脾長鬚而前足短尻有九孔

趺居趫捷善走䑛雄豪而孕五月而吐子【或謂兔無雄而中秋望月中顧

兔以孕者不經之說】目不瞬而瞭然【故名明眎】兔者明月之精【白毛者入藥可】

兔以潦爲鼈鼈以旱爲兔熒惑星不明則雉生兔

㚟【音綽】 似兔而大青色首與兔同足與鹿同

肉【甘寒】補中益氣止渴去兒豌豆瘡【凡食兔可去尻八月至十月可食薑

 芥橘及雞肉忌與兔同食】

兔血【鹹寒】 凉血活血催生易産解胎毒不患痘瘡

兔腦髓 又催生神藥【以上藥方見于本草附方】生塗皸凍瘡能治

兔皮毛【臘月收之】 治難産及胞衣不出餘血搶心脹刺欲死

 者極騐【燒灰酒服方寸匕】兔毛敗筆【燒灰】治小便不通及産難

                  慈圓

 拾玉何となく通ふ兔もあはれなり片岡山の庵の垣根に

△按兔善走如飛而登山則愈速下山則稍遲所以前足

 短也毎雖熟睡不閉眼黒睛瞭然

傳燈錄云兔渡川則浮馬渡及半象徹底截流

宋史云王者德盛則赤兔見王者敬耆老則白兔見然今

毎白兎有之北國之兔白者多稱越後兔者形小而潔白

可愛毎食蔬穀而能馴尋常兔性狡而難馴

 

 

うさぎ 明眎〔(めいし)〕

    婏〔(ふ)〕【子。】

    舍迦〔(しやか)〕【梵書。】

★      【和名「宇佐木」。】

トウ

 

「本綱」、兔、處處に之れ有りて、食品の上味と爲す。大いさ、貍のごとく、毛、褐なり。形、鼠のごとくして、尾、短く、耳、大にして鋭なり。上唇、缺けて、脾[やぶちゃん注:漢方で言う架空の消化器系。現代医学の脾臓とは関係がない。]、無し。長き鬚ありて、前足、短し。尻に九つの孔有り。趺居〔(ふきよ)〕して[やぶちゃん注:両高気後脚の甲を股の上に置いて座り。東洋文庫訳割注を参考にした。]、趫(あし)[やぶちゃん注:実際にはこの漢字も「素早い」の意。]、捷(はや)く、善く走る。雄の豪(け)[やぶちゃん注:時珍の「毫」の誤字か。毛。]䑛めて孕む。五つ月[やぶちゃん注:五ヶ月。]にして子を吐く【或いは、「兔は雄無くして、中秋、望〔(もち)〕の月の中の兔を顧みて、以つて孕む」と謂ふは、不經〔(ふけい)〕[やぶちゃん注:常軌を逸すること。道理に外れること。]の說なり。】。目、瞬(またゝきせ)ずして瞭然たり。【故に「明眎」と名づく。】兔は明月の精〔なり〕【白毛の者、藥に入るるに可なり。】。兔、潦(にはたづみ)[やぶちゃん注:大雨の水。]を以つて鼈〔(すつぽん)〕と爲り、鼈は旱(ひでり)を以つて兔と爲る。熒惑星〔(けいわくせい)〕、明らかならざれば、則ち、雉〔(きじ)〕、兔を生ず。

㚟【音「綽〔(シユク)〕」。】 兔に似て、大なり。青色なる首〔は〕兔と同じく、足は鹿と同じ。

肉【甘、寒。】中[やぶちゃん注:脾胃。消化器系。]を補し、氣を益し、渴きを止め、兒の豌豆瘡(もがさ)[やぶちゃん注:疱瘡(天然痘)の古名。]を去る【凡そ、兔を食ふときは、尻を去るべし。八月より十月に至る〔まで〕食ひて可なり。薑芥〔(きようかい)〕・橘〔(たちばな)〕及び雞〔(にはとり)の〕肉、兔との同食を忌む。】。

兔〔の〕血【鹹、寒。】 血を凉〔しく〕し、血を活す。生〔氣〕を催(はや)め、産を易くし、胎毒を解す。痘瘡を患はず。

兔〔の〕腦髓 又、催生〔(さいせい)〕の神藥〔なり〕【以上の藥方、「本草」の「附方」に見ゆ。】。生〔(なま)〕にて皸(ひゞ)に塗り、凍瘡(しもやけ)を能く治す。

兔〔の〕皮毛【臘月[やぶちゃん注:陰暦十二月の異名。]、之れを收む。】 難産及び胞衣〔(えな)〕の出でざるを治す。餘血〔の〕心〔臟〕を搶〔(つ)〕く[やぶちゃん注:突く。撞く。]もの、脹刺して死せん欲(す)る者、極めて騐〔(げん)あり〕[やぶちゃん注:「驗」に同じい。]【灰に燒きて酒にて方寸の匕〔(さじ)ほど〕を服す。】。兔の毛〔にて製したる〕敗筆(ふるふで)[やぶちゃん注:兎の毛で作った筆が古くなったもの。]【燒き灰とす。】〔は〕小便〔の〕不通及び難産を治す。

                  慈圓

 「拾玉」

   何となく通ふ兔もあはれなり

      片岡山の庵〔(いほ)〕の垣根に

△按ずるに、兔、善く走りて、飛ぶがごとく、山に登るときは、則ち、愈々、速し。山を下るときは、則ち、稍〔(やや)〕遲し。前足の短き所以〔(しよい)〕なり。毎〔(つね)〕に、熟睡すと雖も、眼を閉ぢずして、黒睛(くろまなこ)、瞭然たり。

「傳燈錄」に云はく、『兔、川を渡るときは、則ち、浮く。馬の渡るには、半ばに及ぶ。象〔の渡るときは〕、〔川〕底に徹(いた)り、流れを截〔(き)〕る』〔と〕。

「宋史」に云はく、『王者、德、盛なるときは、則ち、赤兔、見〔(あら)〕はる。王者、耆老〔(としより)〕を敬すれば、則ち、白兔、見はる』〔と〕。然〔れども〕、今、毎〔(つね)〕に白兎、之れ、有り。北國の兔に白き者、多し。「越後兔」と稱せる者、形、小さくして、潔白、愛すべし。毎に蔬〔(やさい)〕・穀を食ひて、能く馴るゝ。尋常の兔、性、狡〔(ずる)〕くして馴れ難し。

[やぶちゃん注:南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している(但し、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元来は棲息していなかった)哺乳綱ウサギ目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae のウサギ類。以下、今回は主に小学館「日本大百科全書」より引く(但し、分類学上の和名の一部で他の資料を参考にした)。『ウサギ目 Lagomorpha は最近まで齧歯』『目Rodentiaのなかの亜目とされていたが、齧歯類が』四『本の切歯(門歯)』『があるのに対して、上あごの大きな』一『対の切歯の背方に小形に退化した』一『対の切歯が余分にあることを最大の特徴として区別され、現在では別の目とされている』。『一般にウサギとよばれている』ウサギ亜科 Leporinae には『ノウサギやカイウサギが含まれる。イエウサギの名でもよばれるカイウサギ rabbit はこの亜科に属するが、いわゆるノウサギ hare と属を異にし』(ノウサギ属 Lepus)、『本来ヨーロッパ中部および南部、アフリカ北部にかけて生息していたアナウサギrabbit(』アナウサギ属『ヨーロッパアナウサギOryctolagus cuniculus)を馴化』させ『たもので、世界各地で改良、飼育されている』。『ノウサギ類は、アナウサギ類に比べ』、『前肢がやや長いため、座ったときの姿勢が斜めになる。穴を掘らずに地上に巣をつくり、そこに子を産む。生まれたばかりの子は、毛が生えそろっていて、目も見え、すぐに歩き回ることができる。ノウサギ類は、オーストラリア、ニュージーランドなどを除き、世界中ほとんどの地域でごく普通にみられる。たとえば、北極圏やアラスカにはホッキョクノウサギ Lepus arcticus やアラスカノウサギ L. othus が、また、ヨーロッパに共通のノウサギとしてヨーロッパノウサギ L. europaeus が分布するなど、多種が広く生息する。日本には、北海道にエゾユキウサギ(エゾノウサギ)L. timidus ainu がいるほか、ノウサギ L. brachyurus の』四『亜種、すなわち、本州の日本海側と東北地方にトウホクノウサギ(エチゴウサギ)L. b. angustidens が、福島県の太平洋沿岸地方より南の本州、四国、九州地方にキュウシュウノウサギ L. b. brachyurus が、さらに隠岐』『と佐渡島に、それぞれオキノウサギ L. b. okiensis とサドノウサギ L. b. lyoni があり、合計』五『種が生息する。エゾユキウサギ』Lepus timidus ainu『と他の』四『種とは異なるノウサギ亜属に属し、エゾユキウサギは、ヨーロッパ、シベリア、モンゴル、中国東北部、樺太』『(サハリン)など亜寒帯から寒帯にかけて広くすんでいるユキウサギ』Lepus timidus『の亜種である。ユキウサギは本種、亜種とも冬になると』、『被毛が純白になる。一方、別の亜属に分類されるトウホクノウサギ』L. b. angustidens や『サドノウサギも冬毛は純白になるが、白くならないキュウシュウノウサギ』L. b. brachyurusや『オキノウサギ』L. b. okiensis『と同一グループとされる。世界でこれと同じ亜属に属するウサギは、中国東北部の東部とウスリー地方の狭い地域に分布するマンシュウノウサギ L. mandchuricus だけである』。『アナウサギ類は、ノウサギ類に比べ』、『前肢が短いため、座ったときの姿勢が低く、体が地面と平行になる。さらにアナウサギの名のとおり、地中に穴を掘って巣をつくり、群れをなして生活する。この地下街は、「ウサギの町」と称されるほど大規模な巣穴となる。妊娠した雌は分娩』『用の巣をここにつくり、生まれた子は、目が開いて』おらず、『赤裸であることもノウサギと異なっている』。『ローマ人たちは、壁に囲われた庭に、とらえたヨーロッパアナウサギを飼育していた。アナウサギはノウサギと異なり、このような人為的な環境下でも子を産み育てるから、数は増え、食肉用として飼育された。中世になると、帆船によって広く世界の各地に運ばれていった。これは、航海中の食糧を求める手段として、各航路の島々にヨーロッパアナウサギをカイウサギとして土着させるためであった。一般的環境、つまり気候や、餌』『となる植生が適し、さらに害敵(肉食獣など)がいない土地では急速にその数を増していった。オーストラリア大陸には元来』、『アナウサギ類は生息していなかったが』、一八五九年に、『ビクトリア州に導入されると、たちまちその数を増やし』一八九〇年頃には、『この地域におけるアナウサギの数は』二千『万頭と推定されるようになった。アナウサギの餌は草や若木の樹皮、畑の農作物であるから、被害は膨大なものになり、手に負えぬ』厄介者に『なった。害を防ぐため、さまざまな手段が実施されたが、効果はなかった』が、一九五〇年頃から、『ウサギの粘液腫』『ウイルス(全身皮下に腫瘤』『を形成し、死亡率が高く、伝染力も強い)を用いた駆除法が成功し、近年はその被害も少なくなってきて』は『いる』という。『日本には、奄美』『大島、徳之島特産の』アマミノクロウサギ属『アマミノクロウサギ Pentalagus furnessi がおり、特別天然記念物に指定されている。穴を掘って巣をつくるところはアナウサギ類に似るが、耳の長さは半分以下で、体全体もずんぐりしている。アマミノクロウサギは「生きている化石」とよばれる動物の一種で、近縁としてメキシコ市近くの山にいる』メキシコウサギ属『メキシコウサギ Romerolagus diazzi と』、『アフリカ南部にいるアカウサギ属のプロノウサギ Pronolagus crassicaudatus などとともにムカシウサギ亜科Palaeolaginaeに分類されている』。『カイウサギは、ヨーロッパアナウサギを馴養することに始まった。その後、大きさ、毛色、毛の長さ、毛の手触りなど、多様な変異を利用し、選抜淘汰』『を繰り返して、多くの品種を作出してきた。用途によって、毛用種、肉用種、毛皮用種、肉・毛皮兼用種、愛玩』『用種に分けられる』。『毛用種としてはアンゴラ』(Angora rabbit)『がよく知られている。トルコのアンゴラ地方が原産といわれ、イギリスやフランスで改良されたものが現在』、『飼養されている』。『白色毛がもっとも商品価値が高く、高級な織物や毛糸に加工される』。『肉用種としてはベルジアンノウサギ Belgian hare や、フレミッシュジャイアント Flemish giant などがある。前者はベルギー原産で体重』三・六『キログラム、ノウサギに似た毛色をしているのでこの名がある。後者は「フランダースの巨体種」の名のとおりフランス原産で、体重は』六・七『キログラムにもなる。毛色は鉄灰色、淡褐色などさまざまである』。『毛皮用種としてはチンチラ Chinchilla やレッキス Rex などがある。両者ともフランス原産』である。『兼用種は肉・毛皮両方を目的につくられ』、『兼用種にはニュージーランドホワイト New Zealand white や日本白色種がある』。『後者は日本でもっとも多く飼育されている白色種で』、『起源は明らかではないが、おそらく明治初期に輸入された外来種との交配によってつくられたアルビノと考えられている。そのため』、『以前は地方によって体形、大きさに差があり、大形をメリケン、中形をイタリアン、小形を南京(ナンキン)とよんでいたが、第二次世界大戦後』、『統一され、体重は生後』八ヶ月で四・八『キログラムを標準とする。肉と毛皮との兼用種として改良されてきたため、毛皮の質と大きさの点で優秀な品種である』。『愛玩用種としてはヒマラヤン Himalayan やダッチ Dutch が』おり、『前者はヒマラヤ地方原産といわれており、体重』一・三『キログラムの小形で、白色毛に、顔面、耳、四肢端が黒色の毛色である。後者はオランダ原産で、黒色、青色、チョコレート色などの被毛であり、胸の周りには帯をかけたような白色毛がある。体重は』二『キログラム前後である』。『餌』『は青草、乾草、野菜、穀類を与える。水は自由に飲めるようにする。とくに乾草給与時や、夏季、分娩後や哺乳中には水分が不足しやすい。ウサギは体に比べて』、『大きな胃と盲腸があって』、『大食である。成長期には』一『日に体重の』一~三『割の餌を食べる。ウサギの奇妙な習性に食糞』『がある。普通にみられる糞と、ねばねばした膜に包まれた糞を交互に排出するが、後者が排出されると、自分の口を肛門』『に近づけて吸い込み、かまずに飲み込む。この糞を食べさせないようにすると、しだいに貧血症状を呈し、やがて死亡する。これからもわかるように、排出物というよりも』、『餌といえるほどにタンパク質やビタミン』B12『が多く含まれていて、ウサギの健康維持にたいへん役だっている』。『ウサギをつかむときには、背中の真ん中より』、『やや前方の皮を大づかみにする。両耳を持ってつり下げるようなことをしてはいけない。粗暴に扱ったり、苦痛を与えると、普段鳴かないウサギも、キイキイと甲高い声を出す。おそらく恐怖のための悲鳴であろう』。『ウサギは生後』八ヶ月から『繁殖に用いられる。野生のウサギには繁殖季節があるが、カイウサギには認められない。また、自然排卵をしないで交尾刺激によって排卵が誘発される。この型の排卵はネコやイタチ類にみられる。妊娠期間は』三十一~三十二日で、一回の分娩で六、七頭の『子を産む。母親は分娩後、非常に神経質になり、興奮して子を食い殺すこともあるので安静にしておく。ウサギの乳汁は牛乳より栄養に富み』、『赤裸の子も早く育』ち、六~七『週齢で離乳する』。『ウサギは暑さに対して弱いばかりでなく、病気に対する抵抗力が一般的に弱い。とくにかかりやすい病気として、原虫によるコクシジウム症』(コクシジウムはアルベオラータ上門 Alveolataアピコンプレックス門 Apicomplexa コクシジウム綱 Coccidea に属する原生生物の一群で、人間・家畜・家禽に対して重大な疾患を引き起こすものが多く含まれるが、単に「コクシジウム」と言った場合は特にアイメリア科アイメリア属 Eimeria の原虫を指すことが多く、これが腸管内に寄生して下痢を起こさせるのがそれである)、『細菌による伝染性鼻炎、ぬれた草(とくにマメ科植物)の多食による鼓張症などがある』。『日本において家畜としてウサギが飼養されるようになったのは明治時代からで、中国やアメリカなどから輸入され、当初は愛玩用として飼われていた。防寒具としての毛皮、食用としての肉が軍需用物資として使用されるようになって急激に飼育数が増大した。これはアメリカへの毛皮輸出を含めた』、大正七(一九一八)年の『農林省の養兎(ようと)の奨励による。飼育数増大とともに各地で毛皮・肉兼用種への改良が行われ、現在日本白色種とよばれるものができた。日本におけるウサギの飼育頭数は、軍の盛衰と運命をともにし、一時は』六百『万頭も飼育されていたが、第二次世界大戦の終戦とともに激減した。なお、日本ではウサギ類を古来』「一羽」「二羽」『とも数えるが、これは獣肉食を忌み、鳥に擬したためである』。『毛皮は軽く保温力に富むので』、『オーバー、襟巻などに、アンゴラの毛はセーターや織物になる。肉もよく利用されるが、ほとんどは輸入されたものである。利用面で近年忘れられないことは、医学、生物学、農学などの研究に供試されることで、年間数十万頭が利用されている』。『ウサギの肉は食用としてもよく用いられる。野ウサギの肉はやや固く一種の臭みがあるが、家ウサギの肉は柔らかく、味も淡白である。ウサギ肉のタンパク質は、粘着性や保水性がよいので、プレスハムやソーセージのような肉加工品のつなぎとしてよく使われた。ウサギの肉は、鶏肉に似ているので、鶏肉に準じて各種料理に広く用いることができる。ただ、においにややくせがあるので、香辛料はいくらか強めに使うほうがよい。栄養的には、ウサギの肉はタンパク質が』二十%『と多く、反対に脂質は』六%『程度で他の肉より少ない傾向がある』。「古事記」の「因幡の白兎」や、「鳥獣戯画」に『描かれているおどけたウサギなど、古来』、『ウサギは人間と密接な関係をもつ小動物と受け取られてきた。「かちかち山」や「兎と亀』『」などの動物説話が広く知られている一方、一見』、『おとなしそうなウサギが』、『逆に相手をだます主人公となるような類話も少なくない。その舞台を語るのか、赤兎山(あかうさぎやま)、兎平(うさぎだいら)、兎跳(うさぎっぱね)など、ウサギにちなむ地名が全国各地に分布する。また』、『時期や天候の予知にも関係し、山ひだの雪形が三匹ウサギになると、苗代に籾種(もみだね)を播』『くとする所や、時化(しけ)の前兆となる白波をウサギ波とよんでいる所が日本海沿岸に広くみられる。ウサギの害に悩む山村の人々は、シバツツミとよばれる杉葉を田畑の周囲に巡らしたり、ガッタリ(水受けと杵(きね)とが相互に上がったり落ちたりする仕掛けの米搗』『き臼』『)の発する音をウサギ除』『けとした。雪国の猟師たちは、新雪上に描かれたテンカクシ、ミチキリなどと特称される四肢の跡を目安に狩りをしたが、なかでも、棒切れあるいはワラダ、シブタなどといわれる猟具を』、『ウサギの潜む穴の上へ投げ飛ばし、空を切る音と影の威嚇』『効果によって生け捕りにする猟法は、注目に値する。また、ウサギは月夜の晩に逃げるとか、その肉を妊婦が食べると兎唇』『(口唇裂)の子が生まれる、などの俗信も少なくない』。『ヨーロッパ、とりわけフランスでは、家畜ウサギは食用としてニワトリと並び賞味されているが、一方の野生のノウサギは、世界各地で民話の登場人物として親しまれてきた。そのイメージの多くは、すばしこくて少々悪賢く、いたずら好きだが、ときには人にだまされるという共通性をもっている。アフリカ(とくにサバンナの草原地帯)の民話では、ウサギはトリック』・『スターとして活躍し、ハイエナなどがウサギにかつがれる。ナイジェリアのジュクン人の民話では、ウサギは王の召使いとして人々との仲介者となったり、未知の作物や鍛冶』『の技術を人々にもたらす文化英雄の役割を演じるほか、詐術によって世の中を混乱させたり、王の人間としての正体を暴いてみせたりする。またいたずら者のウサギは「相棒ラビット」などのアフリカ系アメリカ人の民話にも生き続けている』とある。

「鼈〔(すつぽん)〕」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。同種は中国・日本・台湾・朝鮮半島・ロシア南東部・東南アジアに広く棲息する。本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある。

「熒惑星〔(けいわくせい)〕」火星の非常に古い異名。

「雉〔(きじ)〕」鳥綱キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor。この辺り、ウサギがスッポンになり、スッポンがウサギになり、星の影響でキジがウサギを産んじゃったりと、まんず、凄いね!

「㚟」不詳。幻獣染みている。

「薑芥〔(きようかい)〕」中国の本草書「神農本草経」(「鼠實」)や東洋文庫訳の割注(「めづみ草」)によれば、シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia のこととなる。ウィキの「ケイガイ」によれば、『薬用植物』とし、『中国原産の草本で花期は初夏から夏』。『花穂は発汗、解熱、鎮痛、止血作用などがあり、日本薬局方に生薬「荊芥(ケイガイ)」として収録されている。荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)などの漢方方剤に配合される。「アリタソウ」という別名がある。ただし、本種はシソ科であり、アカザ科のアリタソウとは全く別の物である』とある。

「橘〔(たちばな)〕」ここは「本草綱目」の記載であるから、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属 Citrus のミカン類としか言えない。これを種としての「タチバナ」、ミカン属タチバナ(橘)Citrus tachibana ととってはいけない。同種は本邦に古くから自生している本邦の柑橘類固有種であるからである。近縁種にコウライタチバナ(高麗橘)Citrus nipponokoreana があるものの、これは現在、山口県萩市と韓国の済州島にのみしか自生してない(萩市の自生群は絶滅危惧IA類に指定されて国天然記念物)。

「生〔氣〕を催(はや)め」ここは訓点がおかしいので、独自に読んだ。「催生〔(さいせい)〕」と同じく、健全な生気を促進させるの謂いではあろう。

「脹刺して」意味不明。腹部が膨満して、刺すような痛みがあるということか?

「方寸の匕(さじ)」東洋文庫訳では割注で『茶さじ一杯』とする。

「兔の毛〔にて製したる〕敗筆(ふるふで)【燒き灰とす。】〔は〕小便〔の〕不通及び難産を治す」何らかの類感呪術と思われるが、最早、その謂れが判らぬ。

「慈圓」「拾玉」「何となく通ふ兔もあはれなり片岡山の庵〔(いほ)〕の垣根に」本歌は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」にも所収されていたので、「日文研」の「和歌データベース」で校合出来た。

「傳燈錄」「景徳傳燈録」。北宋に道原によって編纂された過去七仏から禅僧及びその他の僧千七百人の伝記を収録している(但し、実際に伝のあるものは九百六十五人だけ)全。三十巻。景徳元(一〇〇四)年に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て、一〇一一年に続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、当代の年号をとって、かく呼ばれるようになった。これ以降、中国の禅宗では、同様の伝記類の刊行が相次ぎ、それがやがて「公案」へと発展したとされる。参照したウィキの「景徳傳燈録」によれば、『現在もなお、禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容は必ずしも史実とは限らない部分もある』とある。う~ん、確かに、この兎と馬と象の謂いは、これ、博物学的というより、まさに公案っぽいがね!

「宋史」「宋書」が正しい。中国二十四史の一つで、南朝宋の正史。全百巻。南朝梁の沈約(しんやく)が撰し、四八八年に完成した。

「越後兔」冒頭解説に出た、本邦産ノウサギの亜種の一つであるトウホクノウサギ Lepus brachyurus angustidens のこと。現在も「エチゴノウサギ」の異名が生きている。本州中部以北に棲息し、頭胴長は五十センチメートル内外。]

夜半の星 伊良子清白

 

夜半の星

 

天半(てんぱん)音無く

東海をのぼる星あり

八月上浣

冷露を浴びて

磯岸(きがん)に立つ

舟人(まなびと)はいと目敏(めざと)くて

すでに錨を拔きつ

暗黑の海なだらかにして

たたなはる四山死せり

淸き旦(あした)の來らんまで

なほここだくの時ぞあらん

萬象結びて蕾の如く

ひたすら祈願の夜半なり

 

[やぶちゃん注:次に注する「上浣」や「磯岸(きがん)」の伊良子清白にして特異な音読み、海と「たたなはる四山」(「疊(たた)なはる」は「幾重にも重なっている・重なり合って連なった」の意)のロケーションから、私は前の「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」及び「大嵙崁悲曲(大溪街懷古)」に続く、台湾での嘱目吟がもとではないかと踏む。

「上浣」「じやうくわん(じょうかん)」と読み、上旬に同じい。「浣」は「濯(すす)ぐ」意で、唐代の制度では月の内、十日ごとに官吏に休暇を与え、自宅で入浴させたところから、十日を単位として「浣」或いは「澣(カン)」と称した。

「ここだくの時ぞあらん」「ここだくの」は「幾許(ここだ)くの」で、「相応に長い時間がまだあるようだ」の意。]

大嵙崁悲曲(大溪街懷古) 伊良子清白

 

大嵙崁悲曲

 (大溪街懷古)

 

大嵙崁城(だいこかんじやう)の石疊(せきるゐ)から

臭木(くさぎ)が生え綠珊瑚が茂り

日本が攻めた時の激情が產んだ

赤い生々(なまなま)しい傳說は消えた

仙人掌(しやぼてん)の籬(まがき)

栴檀(せんだん)の花が紫に薰(く)ゆつて

滿地の草露

星を踏む夜の引き明け

蕃山の煙仄(ほの)白く

耿々と南下する大溪

阿旦葉(あたんば)のおほひかぶさつた片蔭から

金の耳環の少女は

靑鷺のやうに

蹌踉と浮び出で

畫眉(ぐわび)ふすふすと

火を點ずる時

廢墟の一角

刑死人らしい志士の幽靈は

日の出前につつましく

朝の齋飯(とき)をうけるのです

 

[やぶちゃん注:素材とした体験地や、その推定時制は前の「聖廟春歌」の私の注を参照されたい。

「大嵙崁城(だいこかんじやう)」現在の桃園市大溪區中央路に「大溪古城遺跡」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、この附近か。同データの画像を見ると、石組の建物が並ぶのが判り、その西直近を大漢溪という川が流れ(後に出る「大溪」である)、その対岸には「大溪大嵙崁人工湿地」という名の地域が確認出来る。

「臭木(くさぎ)」シソ目シソ科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。日当たりのよい原野などによく見られ、和名は葉に悪臭があることに由来する。中国・朝鮮及び日本全国に分布する。現代中国語の漢名は「海州常山」「臭梧桐」。

「綠珊瑚」キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ属ミドリサンゴ Euphorbia tirucalliウィキの「ミドリサンゴ」によれば、『観賞用に栽培される。アフリカ東部周辺の乾燥地の原産と考えられるが、世界の熱帯に広く帰化している。ただし文献によってはインド原産でそこからアフリカ全土に定着したのではないかとするものもあり』、『原産地に関してははっきりとしていない』。なお、『この植物に含まれる乳液は、少なくとも人間にとっては有害なもので』、『全株、特に乳液に発がん作用のあるジテルペンエステルのホルボールエステル類などが含まれ』、『毒性が強いので注意を要する。目に入ると炎症を起こして』『激しい痛みを、皮膚につくと皮膚炎を、誤食すると吐き気、嘔吐、下痢を引き起こす場合があり』、『危険である。皮膚に乳液が付着した場合には、石鹸と水で念入りに洗浄すべきであ』り、『目に入った場合の対処方法としては、人の乳を用いるのが有効であるともいわれる』とある。ウィキには移入先に台湾が含まれていないが、同種或いは同属種と思われるものが、石垣島に移入されて植生していることがネット記載から判るので、台湾に植生していてもおかしくはないと思われる。

「日本が攻めた時」「日清戦争」の結果、「下関条約」によって台湾が清朝から日本に割譲されたのは明治二八(一八九五)年四月十七日であるが、これは台湾の人々にとっては侵略であり、占領に他ならなかった。その初期に於いて、ウィキの「日本統治時代の台湾」によれば、『台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した』とある。

「仙人掌(しやぼてん)」ナデシコ目サボテン科 Cactaceae のサボテン類。

「栴檀(せんだん)」本邦にも植生するムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach と採ってよかろう。

「蕃山」(ばんざん)台北に同名の山があるが、ロケーションから違う。とすれば、「蕃」は一般名詞で、その場合、「草木が生い茂る」の意で採れる。別に「蛮」に通じ、未開の異民族や、それらの人々の住む未開の地の意があるが、伊良子清白の名誉のために私は前の意で採っておくことにする。

「阿旦葉(あたんば)」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus の葉。

「蹌踉」「さうらう(そうろう)」と読み、「足元がしっかりせず、よろめくさま」を言う。ここは単にイメージとしてのそれであるが、纏足の少女を想起させる。ウィキの「纏足」によれば、『中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため』、『廃れた』とあるから、既に若い少女のそれはなかったかも知れぬものの(伊良子清白が台湾に渡ったのは明治四三(一九一〇)年五月)、この後半部は一種の幻想世界への誘(いざな)いであるから、私は纏足の幼さの残る少女の娼婦、私の偏愛する芥川龍之介の「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の少女「宋金花」をイメージしてしまうのである。

「畫眉(ぐわび)」眉墨で眉を描くこと。また、その眉。転じて美人をも指す。そこに「ふすふすと」「火」が点ぜられるというシークエンスは強烈に妖なるもの凄さを持っている。

「廢墟の一角」「刑死人らしい志士の幽靈」無論、日本兵によって殺戮された若き台湾の青年志士である。ここも私は直ちに、芥川龍之介の名篇「湖南の扇」(リンク先は私の電子テクスト)を思い出さずにはいられない。

「齋飯(とき)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁しており、食事は日に午前中に一度のみ許される(しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になったが、ここはその本来の午前中の一度きりの「とき」の「斎料(ときりょう)」として殺された若き志士への少女の供物の意味で用いている。]

聖廟春歌(媽姐詣での歌) 伊良子清白

 

聖廟春歌

 (媽姐詣での歌)

 

   

 

華麗艶美な太陽に迎へられ

草の赤子(あかご)が鈴振り鈴ふり

血に慘(にじ)む荒野(あれの)の旅

蜜のやうな靈廟(れいべう)の地に

到り着いた恍惚の夕

「臺灣」は

航海から上陸した

南瀛(なんえい)の艶姿(えんば)

媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で

暖(ぬ)くめられかい割れた

靑い白鳥の卵である

 

   

 

また參籠(さんろう)の夜半

裂帛(れつぱく)の女の肉聲が

赤い悲鳴の胡琴(こきん)から

金の鋭匙(えいび)で

絕美な嗟嘆(さたん)を剔(えぐ)り取る時

「臺灣」は

苦練(くれん)の花の香(にほ)ひに咽(むせ)んで

珠の廻廊(わたどの)月暗く

晝燭の影に鬼集(すだ)き

飛龍の浮彫(うきぼり)の

冷たい楹柱(はしら)にすがつて

銅鐡(てつ)の淚で

泣いて居るのを見る

 

   

 

夜は明け放れ

雪白の巖(いただき)は

東方に爽やか

寶玉の川水を掬(むす)んで

靑藍(せいらん)の旗に

陣容を改めた

露結ぶ月餠(げつぺい)を獻じて

最高神を敬せよ

莊嚴美麗の樓宮に

「臺灣」は

星の葡萄に飾られ

鬱蒼と茂つて

冨貴(ふうき)の相を具(そな)へ

不死の神靈に抱かれて

紅顏朱の如き

壯士と成つた

 

[やぶちゃん注:ここからは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の第三パート「南風の海」の電子化に入る。本大パート「南風の海」は同集の大パート「五月野」(詩集「孔雀船」からの九篇抜粋)と次の「鷗の歌」に続くもので、本「聖廟春歌」から「老年」までの全十七篇を収録するが、この十七篇は総て校異記載がない。則ち、初出も不明である。従って、この注は以下では繰り返さない。但し、本篇はロケーションが明らかに台湾であることから、創作時期は別として、実際の体験は、底本全集年譜から、伊良子清白が明治四三(一九一〇)年五月に台湾に渡って台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務して以降、日本に帰国するまでのそれに基づく。その後、同総督府台中監獄医務所長(明治四十五年四月)・同府防疫医(台北医院と台北監獄医務所の双方に勤務。大正五(一九一六)年七月から二月初めまで)を経て、同大正五年三月頃には大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(次の詩篇「大嵙崁悲曲」はそこでの感懐を元に懐古して創作されたものと思われる)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)、翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、妻幾美(きみ)とともに四月十九日に神戸に入港している。以上、この明治四三(一九一〇)年五月から大正七(一九一八)年四月上旬までの約八年間が伊良子清白の台湾体験の閉区間である。本篇は詩篇の内容から、明治四三(一九一〇)年五月に台湾渡航直後の嘱目をもとにしていると読める。五月で「春歌」はやや遅い感はあるが、新天地での始まり、媽姐への祝歌として相応しいと私は思う。篇中の「一」~「三」のそれは太字ゴシックである。

「媽姐」ウィキの「媽姐」によれば、『媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ』、『広まった』。中国語では、『親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もあ』り、『天上聖母、天妃娘娘、海神娘娘、媽祖菩薩などともいう』。『「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない』。しかし、中国語では「」(マァー:一声。高い音程を保ちながら、そのまま伸ばす)であり、台湾語でも「」(マァー:三声。中音から始め、ゆっくりと低音に移動し、一気に中音に戻す音)である。『媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は』建隆元(九六〇)年、『興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし』、『「通賢霊女」と呼ばれ』て『崇められた。しかし』、二十八『歳の時』、『父が海難に遭い』、『行方知れずとな』ってしまい、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。『なお、父を探しに船を出し』たが、『遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』。『媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には』、『普陀山・洛迦山があり』、『渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された』ものである。『媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され』て『改心し、以降』、『媽祖の随神となった』とされる。以下、「各地の信仰」の「台湾」の項。『台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し』、『台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため』、『台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い』。『台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定された』。しかし、『この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時』、『規制された。なお』、台北最大規模であった台北にあった彼女を祀る「天后宮」は一九〇八年(明治四一年)に台湾総督府によって撤去されてしまい、『かわりに博物館(』現在の『国立台湾博物館)が建てられた』(同博物館は台北市中正區のここ(グーグル・マップ・データ))。『日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の』三月二十三日は『媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている』とある。この下線太字部から考えると、伊良子清白は見たのは、この「天后宮」ではあり得ないことになる。私は当初、日本からの渡航船は台北に着くものとばかり考えていたが、彼が務めたのは台中であるから、或いはこれは、船が台北を経由後、台中へ行き、そこで下船して、台中にあった媽姐の廟を訪れたものかも知れない。台中市には彼女を祀った「大甲鎮瀾宮」(俗称で「大甲媽祖廟」「大甲媽」と称し、清の一七三〇年に創建され、現在の中華民国臺中市大甲區順天路にある。グーグル・マップ・データ。同データの画像を見ると、その絢爛さと今も続く信仰の厚さがよく判る)がある。伊良子清白が見たのはここかも知れない。

「南瀛(なんえい)」「瀛」には「大海」「広い海」の意味もあるが、台湾の古地名として「南瀛」があり、その昔、そこには多くの文人が集まっていたともいう。これは台湾の南部(或いは狭義の台南地区)の総称でもあるようで、現在も台南大内区には「南瀛天文教育園区」という施設地区がある。

「艶姿(えんば)」漢語の国に来た伊良子清白にして初めての土地なればこそ従って使った言葉(音)であろう。

「媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で」媽姐の守護下にあることの比喩表現と採れるが、媽姐には「天妃(てんぴ)」「天后聖母(てんこうしょうも)」の異名もあるから、羽があっても一向におかしくはないであろう。

「鋭匙(えいび)」現行、鋭匙(えいひ)と呼び、先端がスプーン状になっている、病巣の掻破や骨の組織の除去などの際に使用する医療器具の呼称であるから、医師である伊良子清白には馴染みの語ではなかったか。

「楹柱(はしら)」「はしら」は「楹柱」二字へのルビ。「楹」は「丸く太い柱」の意で、聖廟のそれを指している。

「銅鐡(てつ)」「てつ」は「銅鐡」二字へのルビ。

「靑藍(せいらん)の旗」青や藍は中国の伝統色である。]

2019/04/21

南の家北の家 伊良子清白 (『白鳩』発表の別ヴァージョンの抜粋改作版)

 

南の家北の家

 

  

二歲木(さいぎ)低く山を蔽ひて

蕈(くさびら)かくるゝ草の上に

獅子の形(かたち)したる巨巖(おほいは)

幾つとなく峙(そばだ)ち

霜に飽きたる紅葉(もみぢ)の樹々は

谿(たに)と言はず嶺と言はず

麓と言はず染め盡して

朝な朝な雄鹿の群の角振り立てゝ

彼方の岸より此方の岸に

白く泡立つ水を越えて

早瀨の石を啼き渡る頃

茨に閉せる古き祠(ほこら)は

扉の鋲に露をふきて

百歲曇らぬ神の鏡

月輪懸(かゝ)ると社壇に見えぬ

 

祠の北の椋(むく)の大樹(をほき)を

右に曲りて坂を下れば

半ば岩窟(いはや)半ば黑木

萱(かや)を葺きたる杣小屋(そまごや)あり

祠の南の竹林(たけばやし)過ぎて

雞(とり)の聲朗らにきこえ

こはまた紅葉(もみぢ)の懷子(ふところご)とも

いふ可く景有る藁屋(わらや)立てり

北には母持つ若人(わかうど)一人(ひとり)

山に育ちて火性(ひしやう)の星の

今年二十(はたち)の腕を揮ひ

額の汗もて神人人(しんじんびと)に

廣く下せし生活(たつき)の物を

正しき價(しろ)もて我手に受けぬ

南はあらき父の手より

成長(ひとゝなり)たるわかき處女

春秋(はるあき)司(つかさ)の二人の姬の

形(かたち)を具したる面(おもて)花やかに

竹割る父の業(わざ)を助けて

優(いう)なる手籠を編みし事あり

元來(もとより)兩家は往來(ゆきゝ)繁く

親戚(みより)のごとき交際(なからひ)なれば

彼に枯木を集めし折は

此(これ)に水汲み湯をたてゝ待ち

此に蕨の飯炊(いひかし)ぐ間に

彼は煤けし瓢(ふすべ)を拭きぬ

二條(ふたすぢ)三條林を穿ち

山の諸所(こちごち)印(つ)けたる道は

平和の神の守らせ給ひ

妙(たへ)なる草木の花の香匂ふ

見れば高山(たかやま)雪を帶びて

塔(あらゝぎ)聳ゆる雲の飾(かざり)

餘流(なごり)は遙かに國を傳ひ

煙(けぶり)の廣野を前に盡きぬ

村里(むらさと)遠近(をちこち)森に倚りて

燦爛(きらゝ)の白壁千々に輝き

河の帶もて珠と貫きぬ

山の瞳か二つの家は

げにこの木暗(こぐれ)に世を見るものは

二つの家の圓(まろ)き窓のみ

されど紅(あか)き日(ひ)扇(あふぎ)を閉ぢて

夜(よ)の黑幕を垂るゝに及び

戶を固くして眠りし後(のち)は

天(そら)に彫める不滅の文字(もんじ)

銀河の砂(いさこ)岸に溢れて

星の宴の場(には)とぞ成れる

  

斯(かゝ)る詩卷(しくわん)の紙(かみ)を年(とし)に

三百あまり繰りかへしつゝ

其繪は曾て變らざりき

されば人の世神の攝理

恆河(ごうが)の砂も乾く時は

撫子花咲き雲雀巢(す)ぐひて

趣味ある草野と變る習ひ

人の心にこぼるゝ種を

培ふ造化の力いみじく

今見よ二人の靈(れい)のうごき

日は深秋(ふけあき)の林の奧に

沈(しづ)みの名殘(なごり)を葉末に染めて

目路(めぢ)皆黃ばめる雜木(ざふき)の夕(ゆふべ)

折ふし老木(おいき)の幹にもたれ

互(かたみ)に若きが心うつす

忘我(わすれが)の境(さかひ)を光明(ひかり)流れ[やぶちゃん注:「ひかり」は「光明」の二字へのルビ。]

此時睦(むつみ)の魂(たま)は合ひ

常春(とこはる)百千(ももち)の花のさかり

騎りの御國(みくに)に遊びけらし

眼(まな)ざしおぼろに霞を帶びて

たゆげにまきたる頸(うなじ)のめぐり

男の腕(かひな)は鬢(びん)をおせど

夢見る少女(をとめ)の眼(まみ)の上に

彌生の空なる彩を曳きて

あこがれ限りも知らずげなる

渴きは面(おもて)の色に見えぬ

こは美はしき戀の掛繪

山路(やまぢ)の紅葉(ももぢば)框(わく)を組みぬ

斯くてぞ小女(をとめ)は山に入りて

日每に枯枝集むと號(なの)り

男は木屑を道に撒きて

戀人迷はんしるべと成しぬ

蜘蛛の網小女(をとめ)の顏にかゝり

茨は木樵(きこり)の指を染めて

人里(ひとざと)離れし奧所(おくが)乍ら

戀にはさはりの絕えぬを泣きぬ

いつしか紅葉(もみぢば)霜に敗れ

空癖(そらぐせ)時雨の冬に成れば

谷川(たにがは)淺く乾瀨(からせ)をつくり

岩壺の澄みたる水に

底深く沈む木の枝(ゑだ)

瀨の魚は簗(やな)の破れの流れを上り

石疊(いしだゝみ)木(き)の陰(かげ)暗き淵に津(とま)り

草村の蟲は穴を求めて赤土の

雨無き所霜負(しもまけ)の枯生(かれふ)に隱る

物を燒く竃の烟

白くのみ立のぼりつゝ

その烟棚引く時は

軒を行く一村時雨

冬籠(ふゆごもり)木部屋(きべや)の屋根を

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石の數を減らしつ

葡萄畠(ぶだうはたけ)竹棚(たけだな)解きて

古蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つ音は

からびたる山に木精(こだま)し

猪垣(しゝがき)の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

唐臼(からうす)を門(かど)より下ろし

南の軒を支へて

きたかぜあふせ

北風の荒るゝを防ぎぬ

鷄(にはとり)は藪を求食(あさ)りて

枯殘る菊を啄み

くゝと啼きて人につかねば

捨飼(すてがひ)の世話なかりしも

藪寒く冬來(く)るまゝに

仕事場に上ぼる日多く

籠に伏せて籠の窓開けて

餌(え)を撒く要(よう)なき手數(てかず)[やぶちゃん注:「餌(え)」はママ。]

山かげは日の影薄く

張付(はりづけ)の糊は乾かず

藪の前(まへ)風强くして

干飯(ほしいひ)の席(むしろ)ぞ卷かる

炭俵空(あ)きたる燃(もや)し

爐の灰を換へてやおかん

菅笠の紐を固くし

蓑の緖(を)も結(むす)ひなほしたり[やぶちゃん注:「結(むす)ひ」はママ。]

數多き仕事の中に

山里は冬早くして

雪もよひ雲惡しき日も

珍(めづ)らかん思はざりける[やぶちゃん注:「珍(めづ)らかん」はママ。]

 

[やぶちゃん注:前の「山家冬景(斷章)(「南の家北の家」より拔抄)」で注した通り、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に三回に分割して発表された長篇の物語詩「南の家北の家」を、抜粋して手を加えた、明治三九(一九〇六)年四月発行の『白鳩』掲載版の改作版「南の家北の家」である。元は題と上・下を除き、詩行本文ほぼ総ルビであるが、流石に、初出のそれも電子化したし、断章抜粋版も示したからには、一部のルビは五月蠅いだけであるから、私の判断で、振れると感じたもののみのパラルビで電子化した。なお、本篇を以って、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の、「避暑の歌」に始まった大パート「鷗の歌」は終わっている。]

山家冬景(斷章) (「南の家北の家」より拔抄) 伊良子清白

 

山家冬景(斷章)

 (「南の家北の家」より拔抄)

 

 

    ×

 

山の家は紅葉散りしより

色の彩(あや)剝(は)げたるあとの

荒彫の木偶(でく)の如く

常盤木の葉のみ黑みて

谷川の水は瘦せ

底深く沈む木の枝

衣(きぬ)浣(あら)ふ手の皹(ひび)いたく

水桶を擔(かた)げて登る

坂路に草履は滑(す)べる

さし覗く岩角高く

舞ひ下る落葉頻りなり

瀨の魚は梁の破れの流れを上り

石疊(いしだたみ)木の蔭暖(ぬく)き淵にぞ津(とま)る

草村の蟲は穴を求めて

赤土の雨無き所

霜負(しもまけ)の枯生に陰る

荊薪(おぴろ)たく竃の煙[やぶちゃん注:「おぴろ」は不詳。薪(たきぎ)のこととは思われる。]

白くのみ立のぼりつつ

その煙棚曳く時は

軒を行く一村しぐれ

冬籠(ふゆごもり)木部屋の屋根を

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石(おきいし)の數を減らしつ

葡萄畠竹棚解きて

古茣蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つおとは

からびたる山に木精(こだま)し

猪垣(ししがき)の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

雞は藪を求食(あさ)りて

枯れ殘る菊を啄(ついば)み

くくと噴きて人につかねば

拾飼(すてがひ)の世話なかりしも

藪寒く冬來るままに

仕事場に上ぼる日多く

籠(こ)に伏せて籠の窓開けて

餌(ゑさ)を撒く要なき手數

山陰は日の影うすく

張付の糊は乾かず

藪の前風强くして

病葉(わくらば)の枯笹捲かる

南壁干菜(ほしな)黃ばみて

唐辛子の紅(あか)きとほめき

冬乍ら小鳥來にけり

日だまりに針箱運び

何くれと繼(つぎ)を集めつ

剪刀(はさみ)の音ききゐたりけり

 

   ×

 

其夜の風は雪と成りて

後夜(ごや)すぐる頃はたと凪(な)ぎぬ

背戶(せど)の林に木の折るる音

谷の峽間(はざま)に猿の叫ぶ聲

一時(ひととき)斷えては一時續き

なほしんしんと積る雪に

老の寢醒の母は起(た)ちて

雨戶の隙より外をすかし

 

ほのかに煙る空を覗けば

霏々(ひゝ)として降る六つの花

夜は混沌の雪に閉ぢて

幽か(かす)に遠き闇の彼方

鄰の雞(かけ)は時をつくりて

まだ夜の深きを人に告げぬ

彿名(みな)を唱へて枕に就けば

雪の明りにいよいよ暗く

わが兒の寢姿さながら夢の

花の臺(うてな)に見たる如く

深き追懷(おもひで)老いたる人の

袖は慈愛の淚にぬれぬ

 

   ×

 

姿勝(すぐ)れし山の少女(をとめ)の

火影(ほかげ)に榮(は)ゆる白き面(おもて)は

春の陽炎(かげろふ)珠あたたかに

大空わたる白鵠(くぐひ)のとりか[やぶちゃん注:「白鵠(くぐひ)」白鳥(ハクチョウ)のこと。]

その時雪は少歇(をや)みと成りて

風一煽(あふ)り山より下ろし

竹の葉雪をふるひおとせば

後に彈(はじ)く幹の力に

三本(もと)四本(もと)强く打たれて

戛々(あつかつ)と鳴る琅玕(らうかん)靑く

頽雪狼籍竹影婆娑

皆紅(くれなゐ)の爐火に映(うつ)りぬ

 

[やぶちゃん注:標題から判る通り、既に電子化した、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に三回に分割して発表された長篇の物語詩「南の家北の家」を抜粋して手を加えて、改題したものである。伊良子清白はよほど本長篇詩に思い入れがあったものらしく、初出の電子化注でも示したように、複数回の抄出改作を行っている。次回、その別な改作版「南の家北の家」(明治三九(一九〇六)年四月発行の『白鳩』掲載版)を電子化する。]

太平百物語卷二 十 千々古といふばけ物の事

 

太平百物語卷之二

    ○十 千々古(ちゞこ)といふばけ物の事

 或城下の事なりし。大手御門の前に、「ちゞこ」といふばけもの、毎夜毎夜、出づるよしをいひ傳へて、日暮(ひぐれ)ては、往來の人、搦(からめ)手の御門へ廻りて、用の事はとゝのへける。

 然るに、其家中に小河多助とて、不敵の若侍ありけるが、

『彼(かの)「ちゞこ」を見屆(とゞけ)ばや。』

とおもひ、ひそかに夜(よ)に入て、大手の御門の前に行き、爰(こゝ)かしこ、うかゞひみるに、げに、人のいふに違(たが)はず、ばけ物こそ出(いで)たれ。

 其形(かた)ちを、よくよくみれば、鞠(まり)の如くなる物にて、地に落(おち)ては、又、中(ちう)にあがり、西に行き、東に走る。動く度(たび)に、何やらん、物の音、しけり。

 多介、ふしぎにおもひ、心靜(しづか)に樣子を見定め、さあらぬ躰(てい)にて、其邊りを行過(ゆきすぎ)る時、彼(かの)ばけ物、多介が前後を飛(とび)上り、とびさがりて、程なく、多介が頭に、

「どう。」

ど、落(おつ)るを、すかさず、刀を、

「すらり。」

と、ぬき取(とり)、手ばしかく切付(きりつけ)ければ、きられて、地にぞおちたりける。

 多介、やがて、飛かゝり、引(ひつ)とらまへて、膝(ひざ)に敷き、大音聲(おんじやう)にのゝしりけるは、

「音に聞へし『千々古』の化物こそ仕留(しとめ)たれ。出合(ではへ)や、出合や、人々。」

と、聲をばかりに呼(よば)はりければ、其邊の家々より、手に手に挑灯(ちやうちん)ともし、つれ、

「御手柄(てがら)にさふらふ。」

とて、立寄(たちより)、その正体(しやうたい)をみるに、化者(ばけもの)にはあらで、誠(まこと)の鞠(まり)なり。

 引(ひき)さきて、内(うち)をみれば、ちいさき鈴を入置(いれおき)たりければ、多介を始め、人々、あきれて、はては、大きにわらひ合(あひ)けり。

 後(のち)にきけば、しれ者共(ども)が工(たく)みて、兩方より繩を張(はり)、此まりを中(ちう)にゆひ付(つけ)、夜な夜な、人をおどし、戲(たはぶ)れけるとぞ。

[やぶちゃん注:本書で初めての擬似怪談でそれも、やや変な連中(それも複数)がやらかした、迷惑極まりない新妖怪系の都市伝説(urban legend)である。

「千々古(ちゞこ)」不詳。どうも、本作の本話のオリジナルな人造似非妖怪名のようである。或いは、以下の意味の類似性からは、その犯行グループが面白がって作って流した名前のような気さえしてくる。恐らくは、近世口語として既に発生していたであろう、「縮(ちぢ)こまる・縮かまる」(自動詞ラ行四段。「人や動物が体を丸めて小さくなる。縮まる」。小学館「日本国語大辞典」の古文の使用例では江戸末期の人情本「春色恵の花」(天保七(一八三六)年であるが(本「太平百物語」は享保一七(一七三三)年刊)、現在の方言では「かがむ・しゃがむ・蹲(うずくま)る」等の意でも東北地方などで各地に見られることから、発生はもっと古いと思われる。或いはそのプレ単語表現が元かも知れない)の意味を含ませたものであろうと思われる。

「手ばしかく」不詳。但し、思うに、これは「手ばしこく」で、「素早い」の意の「手捷(てばし)こし」という形容詞ク活用の連用形「てばしこく」の誤用か、訛りではないかと私は考える。

「挑灯(ちやうちん)ともし、つれ」「つれ」は「連れ」でラ行下二段活用の連用形で、「おのおの提灯を灯して、連れ立ってやって来て」の意。]

太平百物語卷一 九 經文の功力にて化者の難遁れし事

Kyoumonkuriki

    ○九 經文の功力(くりき)にて化者(ばけもの)の難遁(のが)れし事

 或僧、丹波の國を修行せられける時、「村雲(むらくも)の山」といふ所にて、日、暮れければ、上の峠に家(いへ)のありしを求めて、宿(やど)をこひけるに、年の比(ころ)、十二、三斗(ばかり)なる童一人出でて、宿をゆるしぬ。

 内に入りてみれば、あるじは七十あまりの姥(うば)なりけらし。

 其顏(かほ)ばせ、世にすさまじく、目のうちは水晶を磨きたるが如くなりしが、此僧をみて、

「につこ。」

と笑ひて、いひけるは、

「旅僧(りよそう)は何方(いづかた)より、いづくへゆかせ玉ふぞ。」

と問ふ。僧、こたへて、

「われらは何國(いづく)をそれと定むる事、なし。出家の事にさふらへば、命の限りは國々を廻(めぐ)り侍る。」

と申されければ、姥、聞きて、

「扨(さて)は、やさしき御志しにて社(こそ)候へ。今宵は、わらはが家(いへ)に明させ玉へ。見ぐるしく候へど、あれに、一間(ひとま)の候。」

とて、さきの童子にあなひさせければ、此僧も心をやすんじ、一間に入しが、折しも、軒の透間(すきま)より月の影、幽(かす)かにさし渡りければ、

   秋の雨なごりの空ははれやらで

     なを村雲の山の端の月

[やぶちゃん注:「なを」はママ。]

とよみしむかしのことの葉までも、いとゞあはれにおもひいでられ、心靜(しづか)に御經を讀誦(どくじゆ)し居(ゐ)けるに、夜(よ)も更行(ふけゆき)て、納戶(なんど)の内(うち)に、物くらふ音の聞へしが[やぶちゃん注:ママ。]、偏(ひとへ)に、魚(うを)などの骨を、かむやうに聞へしほどに、此僧、あやしみおもひて、杉の戶の間(ひま)より、そと、のぞき見れば、死人(しにん)の腕を取つて、

「ひた。」

と喰(くら)ひけるが、肉の所は、わけて、童子にあたへ、骨と覚しき所は、姥、取くらひぬ。

 此僧、此ありさまを見て、大きにおどろき、

『扨は、世に聞ゆる「山うば」ならめ。此人を喰(くひ)おはらば、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])には、われらをも取りくらはん。』

とおもふに、肝(きも)・たましゐも身にそはず、あきれはてゝ居(ゐ)たりしが、

『とても、遁(のが)れんとすとも、かなふまじ。所詮、此所に露命(ろめい)を落さんこそ安からめ。』

と思ひ極めて、一心不乱に御經を讀誦し、更に餘念もなかりしが、此姥、死人どもを喰(くら)ひしまひて後(のち)、童子に、いふ。

「何(なに)と、食(しよく)に飽(あき)たるや。」

と。

 童子、かぶりをふりて、

「未(いまだ)あかず。」

といへば、姥、点頭(うなづい)て、

「さこそあらめ。明日(あす)は又、飽くまで喰(くら)はせんに。待(まち)候へ。」

といふ。

 童子、こたへて、

「こよひ、宿まいらせし客僧こそ、肉あひもふとくて、味よからんに、与へ玉へ。」

と、いふ。

 姥がいはく、

「我もさはおもへど、宵より少しもまどろまずして、偏(ひとへ)に經文をのみ誦しゐ侍る程に、我(われ)、いとまを得ず。」

と、いふ。

 此僧、始終を聞(きゝ)て、いよいよ、身心(しんじん)、安からず、偏(ひとへ)に死出(しで)の山路(やまぢ)に迷(まよひ)たる亡者の、ごくそつに逢(あへ)る心地して、いと淺ましくおもひ、猶も、高らかに御經を讀上(よみあげ)ければ、童子、重(かさね)て、いふ。

「いかに經文を讀むとも、われ、行(ゆき)て、喰殺(くひころ)さん。」

と、進み行を、姥、おさへて、いはく、

「汝が及ぶ所にあらず。さあらば、我、行きて、先(まづ)、試みん。」

とて、かの僧の傍(そば)ちかく伺ひ寄(より)しを、此僧、しらぬ顏にて、眼(まなこ)を閉(とぢ)、いよいよ、御經、怠る事、なし。

 時に此姥、折りをみて、飛びかゝつて喰付(くひつか)んとせしが、此僧の姿、俄(にはか)に不動尊の形(かた)ちに見へて[やぶちゃん注:ママ。]、いとおそろしかりければ、中(なか)々、寄(より)もつかれぬに、讀み上ぐる經文の聲、姥(うば)が身節(みふし)にこたへて、殊(こと)なふ苦しかりければ、力(ちから)なく退(しりぞ)きしが、兎角する内、夜もしらじらと明けければ、此僧は、何となく、

「緣あらば、又、參らん。」

などいひて、此宿を出(いで)ければ、姥も童子も、名殘(なごり)おしげに、見おくりしが、辛(から)きいのちを助りて、何事なくぞ、出でられける。

 これ、偏(ひとへ)に經文の功德(くどく)とぞ、聞(きく)人、感を催しける。

 今も此國には、かゝるおそろしきものゝ有(ある)よし、聞へ侍りぬ。

 

太平百物語卷之一終

[やぶちゃん注:「丹波の國」「村雲(むらくも)の山」諸情報を勘案すると、恐らくは兵庫県篠山市東本荘字城山の西の、この「松ヶ鼻」の東北の、この地図の(国土地理院図)中央の小さなピーク(標高三百三十一メートル)ではないかと思われる(グーグル・マップ・データの航空写真はこちら)。

「秋の雨なごりの空ははれやらで」「なを村雲の山の端の月」「とよみしむかしのことの葉」とくれば、誰か知られた歌人の一首であろう、それらしい歌ではある、などということになるのであるが、知らない。少なくとも八代集にはない。主人公は僧なので、西行も調べてはみたが、なさそうだ。そもそもが「秋の雨」という歌い出しは、近代短歌ならまだしも、何となく洗練された古形の感じじゃあないように思われる。私は和歌嫌いなので、ご存じの方は御教授願いたい。]

太平百物語卷一 八 調介姿繪の女と契りし事

 

    ○八 調介(てうすけ)姿繪(すがたゑ)の女と契りし事

 出雲に調介といふ大百姓あり。

 或日、朋友の許(もと)に罷(まか)りて、世上の物がたりをし居けるが、床のかけ物をみれば、いと美しき女の姿繪なり。調介、傍(そば)ちかく寄(より)て見るに、其うるはしさ、生(いけ)るが如くなりければ、やゝみとれ居たり。

 亭[やぶちゃん注:ママ。](あるじ)のいふ、

「いかに、調介殿。世には名畫もある物かな。われ、近比(ちかごろ)、都に登りしに、或人、所持したりしを所望し、求め來りし。」

と語る。

 調介がいふ、

「誠に。かゝる美女、若(もし)、人間にあらば、われ、財宝を擲(なげう)つとも、おしからじ。」

といひければ、亭主(あるじ)、此よしを聞、調介が傍ちかく寄(より)て、いふ樣、

「実(まこと)、さ樣に覚し召(めさ)ば、我、常に聞きおける祕術あり、試(こゝろみ)になして見給ふべきや。」

といふ。

 調介、笑つて、

「いかなる事にや。」

とゝへば、

「されば。此繪を、人間になすの奇術なり。」

といふを、調介、きゝて、

「御身はわれをあざむき玉ふや。これ、おそらくは戲言(たはごと)ならん。」

と、曽(かつ)て信ぜず。

 亭主(あるじ)のいはく、

「われも、未だ、其眞僞をしらずといへども、此術傳へし事は眞実なり。然ども、御身のごとく、疑(うたがひ)の心つよくして、其行(おこなひ)、努(ゆめ)々、行はれず。貴殿、ふかく此繪に執著(しうぢやく)するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]申たる也。强(あなが)ちに勸め申には、あらず。」

といふに、調介、亭主を拜して、

「これ、わが過(あやまち)なり。願はくは、其術を授け玉へ。」

と、おもひ入て、こひければ、

「然る上は傳ふべし。わがいふ所を、よく、つとめたまへ。まづ、此繪を御身に與ふるなれば、私宅(したく)に歸りて、密室に閉籠(とぢこも)り、此繪にむかつて、『眞(しん)々』と呼(よび)玉ふ事、每昼夜、百日し玉へ。此事、一日も怠り給ふべからず。扨、百日滿(まん)ずる時に、此繪、かならず、應(おふ/こたへ)ぜん。其時、八年の古酒(こしゆ)をもつて、其顏に灌(そゝ)ぎ給へ。掛繪(かけゑ)をはなれて、人間とならん。穴(あな)かしこ、此行ひ、人に見せ給ふべからず。」

と敎へければ、調介、斜(なのめ)ならず、よろこび、

「是、わが一生の本望(ほんもう)、君が高思(かうおん)、重(かさね)て報ぜん。」

とて、頓(やが)て、わが家(や)に歸り、おしへのごとく、百日、丁寧に勤しかば、ふしぎや、此繪、調介に、言葉をかはす。

 時に、八年の古酒をもつて、面(おもて)に灌ぎしかば、忽ち、掛繪をはなれて、飛(とび)出たり。

 調介、試(こゝろみ)に、先(まづ)、飮食(いんしよく/のみくひ)をさせけるに、常の人に変る事なく、よく、物いひ、打ゑみければ、調介、かぎりなくよろこび、此女と、ふかく契り、年(とし)月をかさねければ、終(つひ)に一子(いつし)を儲(まふ)けたり。

 調介、いよいよ、いとおしみ、彼(かの)傳へし朋友の許(もと)に數の寶をおくりて、恩を謝しけるが、其後、石見(いはみ)より、調介が從弟(いとこ)進兵衞といふもの、訪(とぶら)ひ來りて、山海隔(さんかいへだ)てし疎遠を語り、互ひの無事をよろこびけるが、調介が妻子をみて、其みめ能[やぶちゃん注:「よく」。]、淸らかなるを誉めて、

「何方(いづかた)より迎へ玉ひし。今迄、しらせ玉はぬこそ、遺恨なれ。」

といふに、調介、小聲になりて、「しかじか」のよしを委(くは)しく語りければ、進兵衞、始終をきゝ、大きにおどろき、

「是、天理に違(たが)へり。おそらくは妖術ならん。われ、幸(さひはひ)に希有(けう)の名劍を帶(たい)せり。しばらく、御身にかし與へん。必ず、此妖婦を殺し玉へ。害(がい)し玉はずは、後、大きなる災(わざはひ)あらん。くれぐれ、まどひて、執着(しうぢやく)したまふな。」

と、にがにが敷[やぶちゃん注:「しく」。]いひしに、調介も『此事、如何(いかゞ)』と、未(いまだ)決せざりしが、まづ、進兵衞が心ざし、背(そむき)がたくして、彼(かの)名劍を預り置ぬ。

 其後、此妻、調介にむかひて申けるは、

「われは、是、南方(なんぼう)に住む地仙(ちせん)なり。たまたま、御身に招かれ、此年(とし)月、契りまいらせしに[やぶちゃん注:ママ。]、はからずも、進兵衞の言葉によりて、御身にうたがはれ參らせぬ。然る上は、われ、此所に留(とゞま)る事、あたはず。」

とて、彼(かの)一子を抱(いだき)て、はじめ、調介が灌ぎたる古酒を、悉く、吐(はき)いだし、空中に去(さり)ければ、調介、かぎりなくおしみかなしめども、甲斐なかりけり。

 餘りの戀しさに、彼(かの)掛物の巣(す)を取出し、見けるに、ふしぎや、此女、彼(かの)一子を抱きて、歷然たり。

 調介、おどろき、よくよくみれば、母子(ぼし)ともに繪なり。

 餘りふしぎの事におもひて、或博識の僧に、さんげして、事の樣(やう)を尋(たづね)ければ、此僧のいはく、

「かゝる例(ためし)、唐土(もろこし)の書にも似たる事あれば、わが朝にも有るまじき事にあらず。」

と宣ひけるとかや。

 不思議なりし事にこそ。

[やぶちゃん注:「掛物の巣(す)を取出し」の「巣」が判らぬ。何らかの漢字の誤記を考えたが、諸本、孰れも「巢」「巣」である。或いは、「その女性がもともと居たところ」の意でかく用いているのかも知れない。

 既に同工異曲でハッピー・エンドの「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」を電子化注しているが、その最後で示した、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」巻十一にある幻想譚「鬼室」の後半部が本話の種本である。そこでは、白文でしか示さなかったので、ここで訓読を試みておく(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」にある承応元(一六五二)年版「輟耕録」に附された訓点を参考にしたが、従っていない部分もある。注は総てオリジナル。私は専門家ではないから、くれぐれも御自身で原文に当たられんことを)。太字部分がそれである。

   *

溫州は監郡の某の一女、笄(かんざし)せる及ぶも、未だ室を岀でず。貌、美しくして、性も慧なり。父母の鍾愛する所の者なり。疾ひを以つて卒す。畫工に命じて其の像を寫す。歲序(さいじよ)[やぶちゃん注:毎年の命日の意であろう。]には張り設けて哭奠(こくでん)[やぶちゃん注:朝夕の弔いであろう。]。常の時には、則ち、之れを庋置(きど)す[やぶちゃん注:棚に仕舞い置くことか。]。任、滿ちて、偶(たまたま)取り去ることを忘る。新しき監郡、復た是の屋に居す。其の子、未だ婚せず。忽ち、此れを得て、心竊(ひそ)かに念じて曰はく、

「妻を娶ること、能く是(か)くのごとくんば、平生(へいぜい)の願ひ事、足らん。」

と。因つて以つて臥室に懸け、一夕、其れ軸中より下り榻(ねだい)に詣でて、前に敍すこと、殷勤なるを見て、遂に與(とも)に好合す。此れより、夜をして來らざる無し。半載(はんとし)を踰(へ)て、形狀、羸弱(るいじやく)す[やぶちゃん注:衰え弱ってしまった。]。父母、詰めて責む。實を以つて告ぐ。且つ云はく、

「必ず、深夜に至れば去ることは、五鼓[やぶちゃん注:午前三時又は四時から二時間を指す。]を以つてす。或いは、佳果を齎(もたら)して我に啖(く)はしむ。我、荅(こた)ふるに餠を與ふ。餌を、則ち、堅く郤(あふ)ぎて[やぶちゃん注:「仰ぎて」で読んだ。]、食はず」

と。父母、其れをして此(ここ)に番せしむ[やぶちゃん注:彼女が餅を食おうとしないことを「番」=大事な意味のある「節目」と捉えた、の意か。]。

「須らく、力(ちから)して、之れを勸むべし。」

と。既にして、女、辭すること得ずして、咽(の)むことを爲す。少-許(しばらく)して、天、漸(やうや)く明く。竟に去らず。宛然として人たるのみ。特に言語すること能はざるのみ。遂に眞(まこと)に夫婦と爲る。而して病ひも亦、恙無し。

 此の事、余、童子の時、之れを聞き、甚だ熟す[やぶちゃん注:深く思いに耽ったものだ。]。『惜しいかな、兩(ふたり)の監郡の名を記す能はざることを』と。近ごろ、杜荀鶴が「松窓雜記」を讀むに、云はく、

『唐の進士趙顏、畫工の處に於いて一つの軟障(ぜんじやう)[やぶちゃん注:装飾を兼ねた障屏用の幕で、柱の間・御簾の内側に掛け、彩色や絵を施した。]の圖を得。一婦人、甚だ麗顏なり。畫工に謂ひて曰はく、

「世に、其れ、無き人なり。如(も)し、生ぜしむべくんば、余、願はくは、納めて妻と爲さん。」

と。工、曰はく、

「余が神畫なり。此れ亦、名、有り。『眞眞』と曰ふ。其の名を呼ぶこと、百日晝夜、歇(た)えざれば、卽ち必ず、之れに應ず。應ざば、則ち、百家の綵灰酒(さいくわいしゆ)[やぶちゃん注:中文サイトを見るに、ここを代表的出典とする伝説の名酒とする。]を以つて之れに灌げば、必ず、活す。」

と。顏、其の言のごとくす。乃(すなは)ち、應じて曰はく、

「諾。」

と。急ぎ、百家の綵灰酒を以つて、之れに灌ぐ。遂に活して下(くだ)り步みて、言ひて笑ひ、飮食すること、常のごとし。終[やぶちゃん注:その年の末。]、一兒を生む。兒の年、兩たり[やぶちゃん注:一年で普通の子の二年分成長したことを指す。]。友人、曰はく、

「此れ、妖なり。必ず、君の與(ため)に患ひを爲さん。余に、神劒、有り。之れを斬るべし。」

と。其の夕べ、顏に劒を遺す。劒、纔(わづ)かに室が顏に及ぶ[やぶちゃん注:妻の目にとまった。]。眞眞、乃ち、曰く、

「妾(わらは)は南嶽の地仙(ちせん)なり。無何(むか)にして[やぶちゃん注:ちょっと。]人の爲めに妾の形を畫がかる。君、又、妾の名を呼ぶ。既にして君が願ひを奪はず[やぶちゃん注:叶えてやった。]。今、妾を疑ふ。妾、住むべからず。」

と言ひ訖(おは)りて、其の子を攜(たづさ)へて、却(しりぞ)きて軟障(ぜんじやう)に上(のぼ)る。其の障を覩(み)るに、惟だ一孩子を添ふのみ。皆、是れ、畫たり』と。

 讀み竟(おは)りて、轉じて、舊聞を懷ふ。巳に三十餘年、若(も)し、杜公が書く所、虛(うそ)ならざれば、則ち、監郡が子の異遇も、之れ有らん。

   *]

卯の花降し 伊良子清白

 

卯の花降し

 

卯の花降ししとしとと

しめりがちなる燈火に

西の國なるうた人の

すぐれし歌を誦し行けば

 

傷ましかりし我が戀の

悲しき節を歌ふとて

皆うるはしき手弱女の

淚の袖によそへたり

 

春の牧場に笛吹きて

獵の童を戀ふるあり

秋の落葉を片敷きて

仇の世嗣をしたふあり

 

龍の宮居をぬけいでゝ

うみにうかべる少女あり

雪の山路を下りきて

冷き石を抱くあり

 

ことこそかはれさまざまに

うきを籠めたる物語

物の思に堪へかねて

書を擲ち外を見れば

 

顏靑白きうた人は

闇の中よりあらはれて

「わが戀人やなやむらん

なげく勿れ」と告げにけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。初出では総標題「短夜」のもとに、本「卯の花降し」と前に電子化した「散步」の二篇を掲げる。本篇をここで電子化したのは、底本と差別化するためでもある。底本では本篇は「未収録詩篇」(これは詩集「孔雀船」(明治三九(一九〇六)年五月刊)及び昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の二種の著作に「未収録」の「詩篇」の謂いである)パートに離れて載り、初出で並べられたという事実を意識しない限り、共時的に読むことがは出来ないからである。是非とも、本篇を読み、後、戻って、「散步」を読まれたい。そうした時、初めて時の推移、「短夜」の夏へと向かう一種の爽快感が漂ってくるように思われるのである。たまにはこれをやらかしたく思うのである。

「卯の花降し」は「うのはなくだし」と読む。陰暦四月頃に降る、ちょうど咲いているせっかくの卯の花を散らせてしまうほどに続く長雨を指す。「卯の花腐(くた)し」とも呼び、春雨と梅雨の間の、本格的な梅雨の前触れ、「走り梅雨」のことを指す。私は「うのはなくたし」の「腐し」の漢字表記が嫌いなので、これは視覚的には好ましい。]

散步 伊良子清白

 

散 步

 

稻の靑葉の丈伸びて

畦(あぜ)に水越す六月の

草生(くさふ)の上はことさらに

このごろ蝶の數多き

 

綠の雲の屯(たむろ)する

林の奧に宿しめて

なくほととぎす大空は

ふるふが如くとよむなり

 

秩父の山の靑あらし

幾村々を渡り來て

新桑繭(にひくはまゆ)や河沿ひの

絲とる家も吹きにけり

 

轍(わだち)の跡をとめくれば

樹立にかこむ一廓(くるわ)

空しき庭に火はもえて

栗の花散る門構(かどがま)へ

 

螢逐ふ兒が夜は競(きそ)ふ

澤べの橋にかかる時

知りたる人の會釋(ゑしやく)して

いづこに行くと尋ねけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。初出では総標題「短夜」のもとに、「卯の花降し」と本篇の二篇を掲げる。「卯の花降し」は次で電子化する。

「新桑繭(にひくはまゆ)」。新しい桑の葉で育った繭。今年の蚕の繭。「にひぐはまゆ・にひぐはまよ」とも読む、万葉語。

 初出形は以下。

   *

 

散 步

 

稻のあを葉のたけのびて

畦(あぜ)に水こす六月の

芝生の上はことさらに

このごろ蝶の數多き

 

綠の雲の屯(たむろ)する

林々に宿しめて

やまほとゝぎす一つ一つ

ことなる歌をなのるかな

 

秩父の山の靑嵐

幾村々を渡りきて

今日や巢立ちし鳩の子の

弱き翅にもかゝるらん

 

轍(わだち)の跡をとめくれば

木立に圍む一廓(くるわ)

空しき家に火は焚えて

栗の花散る裏の庭

 

螢追ふ子が夜は競(きそ)ふ

澤邊の橋にかかる時

知りたる人の會釋(ゑしやく)して

いづこに行くと尋ねけり

 

   *]

2019/04/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(12) 「駒ケ嶽」(2)

 

《原文》

 深山ノ奧ニ於テ生キタル白馬ヲ見タリト云フ話モ亦多シ。紀州熊野ノ安堵峯(アンドミネ)ノ中腹ニ、千疊ト云ヒテ數町ノ間草ノ低ク連ナリタル平アリ。如法ノ荒山中ナルニモ拘ラズ、古キ土器ノ破片ト共ニ古代ノ戰爭ニ關スル口碑ノ斷片ヲ殘存ス。其一區域ヲ或ハ馬ノ馬場ト名ヅク。時トシテ白馬ノ馳セアリクヲ目擊セシ者アリ〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置都田布施村ノ金峯山ニモ、山中ニ權現ノ神馬住ミテ、其姿ハ見タル人無ケレドモ、社殿又ハ社頭ノ土ニ蹄ノ跡ヲ殘シ行クコトアリ〔三國名勝圖會〕。美作ノ瀧谷山妙願寺ハ本尊ハ阿彌陀ニシテ靈異多シ。近所出火ノ節ハ堂ノ前ニテ馬七八疋ニ乘リタル者集リ何ヤラ囁ク如ク本堂ニ聞エ、又馬ノ足跡ヲ土ノ上ニ殘スト云フ〔山陽美作記上〕。【山中ノ馬】木曾ノ駒ケ嶽ニ不思議ノ駒ノ居ルコトハ頗ル有名ナル話ナリ。或ハ至ツテ小ナル馬ニシテ狗ホドノ足跡ヲ土ノ上ニ留ムト謂ヒ〔蕗原拾葉所錄天明登攀記〕、或ハ又偉大ナル葦毛ノ馬ノ、尾モ鬣モ垂レテ地ニ曳キ、眼ノ光ハ鏡ヲ懸ケタルガ如ク怖シキガ、人影ヲ見ナガラ靜々ト嶺ノ中央マデ昇リ行ク程ニ、俄カニ雲立チ蔽ヒ行方ヲ知ラズ、其蹄ノ痕ヲ見レバ尺以上アリキト云フ說アリ〔新著聞集所引寬文四年登攀記〕。今若シ此等ノ傳說ニ基キテ馬ニ似タル一種ノ野獸ノ分布ヲ推測スル人アラバ、ソハ多クノ山中ノ馬ノ毛色白カリシト云フ事實ヲ過當ニ輕視スル者ナリ。日本ノ山ニハ白色ノ動物ハソウハ居ラヌ筈ナレバナリ。自分ノ信ズル所ニ依レバ、白馬ハ即チ山ノ神ノ馬ナリ。【山ノ神田ノ神】麓ノ里人時トシテ之ヲ見タリト云フ傳說ハ、ヤハリ亦山神ガ里ニ降リテ祭ヲ享クルト云フ信仰ノ崩レタルモノナルべシ。山ノ神ト田ノ神トハ同ジ神ナリト云フ信仰ハ、弘ク全國ニ分布スル所ノモノナルガ、伊賀ナドニテハ秋ノ收穫ガ終リテ後、田ノ神山ニ入リテ山ノ神ト爲リ、正月七日ノ日ヨリ山神ハ再ビ里ニ降リテ田ノ神トナルト云フ。【鍵引】此日ニハ多クノ村ニ鍵引ト云フ神事アリ。神木ニ注連ヲ結ヒ頌文(ジユモン)ヲ唱ヘツヽ田面ノ方へ之ヲ曳クワザヲ爲スナリ〔伊水溫故〕。【山神祭日】神ノ出入リノ日ハ地方ニ由リテ異同アリ。木曾ノ妻籠山口ノ邊ニテハ、舊曆二月ト十月ノ七日ヲ以テ山ノ講ノ日ト稱シ、山ノ神ヲ祭ル。甲府ノ山神社ノ緣日ハ正月ト十月トノ十七日ナルガ〔甲陽記〕、甲州ノ在方ニテハ十月十日ヲ以テ田ノ神ヲ祭ル〔裏見寒話〕。肥後ノ菊池ノ河原(カワハル)村大字木庭(コバ)ニテハ十一月九日ニ山ノ神ヲ祭ル〔菊池風土記〕。佐渡ニテハ二月九日ヲ山ノ神ノ日トシテ山ニ入ルコトヲ愼ミ、矢根石ノ天ヨリ降ルモ此日ニ在リト信ズ〔佐渡志五及ビ鏃石考〕。【十二神】越後魚沼地方ニテハ一般ニ二月十二日ニテ、從ツテ山神ノ祭ヲ十二講ト呼ビ〔浦佐組年中行事〕、明治以後ハ一般ニ山神祠ノ名ヲ十二神社ト改メタリ〔北魚沼郡誌〕。會津ノ山村ニ於テハ、或ハ正月十七日ニ山神講ヲ營ミ、又ハ二月九日ヲ山ノ神ノ木算ヘト稱シテ戒メテ山ニ入ラヌ例モアレド、多クハ亦正月十二日ヲ以テ其祭日ト爲シ、十二山神ト云フ祠モ處々ニ多シ〔新編會津風土記〕。十二日ヲ用ヰル風ハ隨分廣ク行ハレ、磐城相馬領ノ如キモ亦然リ〔奧相志〕。秋田縣ニテハ平鹿郡山内村大字平野澤ノ田ノ神ナド、四月ト十二月トノ十二日ニ古クヨリ之ヲ祭リシノミナラズ〔雪乃出羽路〕、今モ槪シテ二月ト十月トノ十二日ヲ以テ山ノ神田ノ神交代ノ日ト爲セリ〔山方石之助氏報〕。此地方ニハ北部ハ津輕堺ノ田代嶽、南ハ雄勝ノ東鳥海山ヲ以テ共ニ田ノ神ノ祭場ト爲セリ。【大山祇】田ノ神ヲ高山ノ頂ニ祀ルハ一見不思議ノ如クナレド、出羽ナドニテ山ノ神ト云フハ單ニ山ニ住ム神ノ義ニシテ、大山祇ニハ限ラザリシ由ナレバ〔雪乃出羽路〕、田ノ神任務終リテ靜カニ山中ニ休息シタマフヲ、往キテ迎フルノ意味ナリシナラン。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、深山ノ白馬モ以前ハ右ノ如クー定ノ日ヲ以テ里人ニ現ハレシニハ非ザルカ。駿河ノ奧山ナル安倍郡梅ケ島村ノ舊家市川氏ニ、繪馬ノ古板木ヲ藏ス。モトハ二枚アリキ。【日待】新曆五月ト十一月ト春秋二季ノ日待ノ日ニ、村民此板木ヲ借リテ紙ニ刷リ其畫ヲ村社ノ前ニ貼リ置クヲ習トセリ。【歸リ馬】馬ノ畫ハ右向ト左向トノ二種ニテ、今殘レル板木ノ左向ナルハ之ヲ歸リ馬ト呼ビ、秋ノ祭ニ用ヰラルヽモノナリ〔仙梅日記〕。陸中遠野ニモ之ニ似タル繪馬ノ板木ヲ刷リテ出ス家多シ。春ノ農事ノ始マルニ先ダチテ之ヲ乞ヒテ田ノ水口ニ立テ神ヲ祭ルト云ヘリ〔佐々木繁氏談〕。【出駒入駒】カノ繪錢ノ出駒入駒ガ、之ト關係アリヤ否ヤハ兎モ角モ、此馬ノ田ノ神山ノ神ノ乘用ナリシコトノミハ、先ヅハ疑ヲ容ルヽノ餘地ナカルべシ。二月初午ノ祭ノ如キモ、今ハ狐ノ緣ノミ深クナリタレドモ、古クハ山ニ人ル日ノ祭ナリシコト、古歌ヲ以テ之ヲ證スルニ難カラズ。【白色ノ忌】常陸那珂郡柳河(ヤナガハ)村附近ニテハ、二月八日ノ午前ト十二月八日ノ午後ヨリト、白キ物ヲ屋外ニ出スコトヲ戒ムル俗信アリ〔人類學會雜誌第百五十九號〕。此日ハ他ノ地方ト同樣ニ山ニ入ルコトヲ愼ムヲ見レバ、即チ亦山神ノ祭日ニシテ、白キ物ヲ忌ムハ則チ白馬ヲ村ニ飼ハザルト同趣旨ノ風習ナルコトヲ知ル。

 

《訓読》

 深山の奧に於いて、生きたる白馬を見たり、と云ふ話も亦、多し。紀州熊野の安堵峯(あんどみね)の中腹に、「千疊」と云ひて、數町の間[やぶちゃん注:一町は約百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートルほどか。]、草の低く連なりたる平(たいら)あり。如法(によほふ)の[やぶちゃん注:そこらにある普通の。]荒山中(あらやまなか)なるにも拘らず、古き土器の破片と共に、古代の戰爭に關する口碑の斷片を殘存す。其の一區域を或いは「馬の馬場」と名づく。時として、白馬の馳せありくを目擊せし者あり〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)にも、山中に權現の神馬住みて、其の姿は見たる人無けれども、社殿又は社頭の土に蹄(ひづめ)の跡を殘し行くことあり〔「三國名勝圖會」〕。美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺は、本尊は阿彌陀にして、靈異、多し。近所出火の節は、堂の前にて、馬七、八疋に乘りたる者、集まり、何やら、囁(ささや)くごとく、本堂に聞こえ、又、馬の足跡を土の上に殘すと云ふ〔「山陽美作記」上〕。【山中の馬】木曾の駒ケ嶽に不思議の駒の居(ゐ)ることは、頗る有名なる話なり。或いは、至つて小なる馬にして、狗(いぬ)ほどの足跡を土の上に留むと謂ひ〔「蕗原拾葉」所錄「天明登攀記」〕、或いは又、偉大なる葦毛の馬の、尾も鬣(たてがみ)も、垂れて、地に曳き、眼の光は、鏡を懸けたるがごとく怖しきが、人影を見ながら、靜々(しづしづ)と嶺の中央まで昇り行く程に、俄かに、雲、立ち蔽ひ、行方を知らず、其の蹄の痕を見れば、尺以上ありき、と云ふ說あり〔「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」〕。今、若(も)し、此等の傳說に基きて、馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば、そは、多くの山中の馬の毛色、白かりしと云ふ事實を、過當(かたう)に[やぶちゃん注:許容されるレベルを越えて過剰に。]輕視する者なり。日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり。自分の信ずる所に依れば、白馬は、即ち、「山の神」の馬なり。【山の神・田の神】麓の里人、時として之れを見たり、と云ふ傳說は、やはり亦、山神(やまがみ)が里に降(くだ)りて祭を享(う)くると云ふ信仰の、崩れたるものなるべし。『「山の神」と「田の神」とは同じ神なり』と云ふ信仰は、弘(ひろ)く全國に分布する所のものなるが、伊賀などにては、秋の收穫が終りて後、「田の神」、山に入りて「山の神」と爲り、正月七日の日より、「山神」は再び里に降りて「田の神」となると云ふ。【鍵引(かぎひき)】此の日には多くの村に「鍵引」と云ふ神事あり。神木(しんぼく)に注連(しめ)を結(ゆ)ひ、頌文(じゆもん)を唱へつゝ、田面(たのも)の方へ、之れを曳くわざを爲すなり〔「伊水溫故」〕。【山神祭日】神の出入りの日は地方に由りて異同あり。木曾の妻籠(つまごめ)・山口の邊りにては、舊曆二月と十月の七日を以つて「山の講の日」と稱し、「山の神」を祭る。甲府の山神社の緣日は正月と十月との十七日なるが〔「甲陽記」〕、甲州の在方にては、十月十日を以つて「田の神」を祭る〔「裏見寒話」〕。肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)にては十一月九日に「山の神」を祭る〔「菊池風土記」〕。佐渡にては二月九日を「山の神」の日として、山に入ることを愼み、「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」と信ず〔「佐渡志」五及び「鏃石考(ぞくせきかう)」〕。【十二神】越後魚沼地方にては一般に二月十二日にて、從つて、「山神」の祭を「十二講」と呼び〔「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」〕、明治以後は、一般に、山神祠(やまがみのほこら[やぶちゃん注:私がこれを音で読むのが厭なのでかく当て訓した。])の名を「十二神社」と改めたり〔「北魚沼郡誌」〕。會津の山村に於いては、或いは、正月十七日に「山神講(やまがみこう)」を營み、又は、二月九日を「山の神の木算(きかぞ)へ」と稱して、戒めて、山に入らぬ例もあれど、多くは亦、正月十二日を以つて、其の祭日と爲し、「十二山神(やまのかみ)」と云ふ祠も處々に多し〔「新編會津風土記」〕。十二日を用ゐる風(ふう)は隨分、廣く行はれ、磐城相馬領のごときも亦、然り〔「奧相志(おうさうし)」〕。秋田縣にては平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤の「田の神」など、四月と十二月との十二日に、古くより之れを祭りしのみならず〔「雪乃出羽路」〕、今も、槪して、二月と十月との十二日を以つて、『山の神」・「田の神」交代の日』と爲せり〔山方石之助氏報〕。此の地方には、北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり。【大山祇(おほやまづみ)】「田の神」を高山の頂(いただき)に祀るは、一見、不思議のごとくなれど、出羽などにて「山の神」と云ふは、單に山に住む神の義にして、大山祇には限らざりし由なれば〔「雪乃出羽路」〕、「田の神」、任務終りて、靜かに山中に休息したまふを、往きて迎ふるの意味なりしならん。此等の事實を考へ合すときは、深山の白馬も、以前は右のごとく、ー定の日を以つて、里人に現はれしには非ざるか。駿河の奧山なる安倍郡梅ケ島村の舊家市川氏に、繪馬の古板木を藏す。もとは二枚ありき。【日待(ひまち)[やぶちゃん注:村の近隣の仲間が特定の日に集まり、夜を徹して籠り明かす行事。通常は家々で交代に宿を務め、各家からは主人又は主婦が一人ずつ参加する。小規模の信仰的行事(講)で、飲食をともにして楽しく過ごすのが通例である。]】新曆五月と十一月と春秋二季の日待の日に、村民、此の板木を借りて、紙に刷り、其の畫(ゑ)を村社の前に貼り置くを習ひとせり。【歸り馬】馬の畫は、右向きと左向きとの二種にて、今、殘れる板木の左向きなるは、之れを「歸り馬」と呼び、秋の祭に用ゐらるゝものなり〔「仙梅日記」〕。陸中遠野にも、之れに似たる繪馬の板木を刷りて出だす家、多し。春の農事の始まるに先だちて、之れを乞ひて、田の水口(みなぐち)に立て、神を祭ると云へり〔佐々木繁氏談[やぶちゃん注:「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネーム。]〕。【出駒(でごま)・入駒(いりごま)】かの繪錢(ゑせん)の出駒・入駒が、之れと關係ありや否やは兎も角も、此の馬の、「田の神」・「山の神」の乘用なりしことのみは、先づは疑ひを容るゝの餘地、なかるべし。二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども、古くは、山に人る日の祭なりしこと、古歌を以つて之れを證するに難からず。【白色の忌】常陸那珂郡柳河(やながは)村附近にては、二月八日の午前と十二月八日の午後よりと、白き物を屋外に出すことを戒むる俗信あり〔『人類學會雜誌』第百五十九號〕。此の日は他の地方と同樣に、山に入ることを愼むを見れば、即ち亦、「山神」の祭日にして、白き物を忌むは、則ち、白馬を村に飼はざると同趣旨の風習なることを知る。

[やぶちゃん注:「紀州熊野の安堵峯(あんどみね)」奈良県吉野郡十津川村上湯川(和歌山県境ごく直近)にある標高千百八十四メートルの安堵山(あんどさん)(国土地理院図)。次注も参照されたい

「南方熊楠氏報」当該内容の部分は確認出来なかったが、明治四四(一九一一)年四月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡で恐らく(書き方から)始めて南方が柳田にこの「安堵峯」の話をしており、その後もここで得た伝承を柳田宛の書簡で披露しているから、この時期に南方から得た情報であろうと思われる。因みに、当該書簡で南方は、この峰の名前について、『西牟婁郡兵生(ひょうぜ)』は『二川村の大字』で、『ここに当国』(紀伊国)『第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という』と由来を記している。

「薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)」は鹿児島県南さつま市金峰町(ちょう)尾下(おくだり)他にある本岳・東岳・北岳からなる標高六百三十六メートル(北岳)の連山。地元では美人が寝た横顔に見えることから「美人岳」という別名で親しまれる。山頂直下西に金峰神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺」不詳。岡山県津山市戸川町に浄土真宗妙願寺があるが、ここは通称は「鶴山御坊」で、山号は「法雲山」で違う。但し、本尊は阿弥陀如来(浄土真宗だから当然)で、この寺、美作国の触頭(ふれがしら)を務めた有力な寺ではある。「山陽美作記」に当たらぬと判らぬ。

「木曾の駒ケ嶽」長野県上松町・木曽町・宮田村の境界にそびえる標高二千九百五十六メートル山で、木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。言わずもがなであるが、「駒」を名に持つ山は概ね、融雪期の山肌に現れる馬型をした残雪に基づき(山容の場合もある)、ここ木曽駒ヶ岳でも雪解け期には幾つかの雪形が見られ、それらが古くから農業の目安にされてきた経緯がある。特に山名の元にもなった駒(馬)は中岳(標高二千九百二十五メートル)の山腹に現われるものを特に指す。

『「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」』同書「勝蹟編篇第六」の「信州駒が岳馬化して雲に入る」。寛文四年は一六六四年。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部が読める。

「馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば」柳田先生、そんな人は、いませんよ。そんな動物、いませんもの。

「日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり」柳田先生、冬毛のライチョウ(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta)、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus の冬毛は頭部が灰白色或いは白出、尾の先端も白いですし、特に鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus には全身が白い個体もいますぜ?!

「鍵引(かぎひき)」個人ブログ「愛しきものたち」の「伊賀市 西高倉の山の神(カギヒキ)」に解説と写真が載る(地図有り)。それによれば、『三重県伊賀地方やその南部、名張や大和高原域では「山の神」信仰が根強く残り、この地域では山の神を迎えるために殆ど「鍵引き神事」を行うので「山始め」を単に「カギヒキ」と呼び習わしている』。『「鍵引き神事」は山の神を「田の神」として里に迎え入れるために木枝の鍵手で引き寄せる神事で』「『山の神と共々』、『農作物や銭金や糸錦も村へと引き寄せよ』」『と祈って今尚』、『行われている』。『その現場には中々』、『出遭う事は出来』ない『が、その場所を後から訪ねることは出来』るとして、『先ずは』、『滋賀県甲賀市に程近い伊賀市の北端、御斎峠(おとぎ峠)に近い高倉神社一の鳥居と共に有る』、その『神事の行われる「山の口」の大ケヤキ』の写真が示される(神事の痕跡が明瞭)。『この地、西高倉の「カギヒキ」は例年』一月七日『に行われ、「東の国の銭金この国へ引き寄せよ、西の国の糸錦この国へ引き寄せよ、チョイサ、チョイサ」と唱えられると言う』。『両部鳥居脇に立つ「山の口」の大ケヤキと呼ばれる欅の巨木に縄の片方が巻きつけられ、鍵引神事の樫の葉をつけた鍵状の枝がたくさん付けられている』。『又』、『この西高倉では、縄は掛け渡されることなく』、『片方は切られて地表に打ち捨てられているが、これにはどういう意味が有るのか解らない』とある。検索では他の地方のそれも散見される。

「木曾の妻籠(つまごめ)」現在の長野県木曽郡南木曽町妻籠宿(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「山口」岐阜県中津川市山口。県境を越えるが、実は妻籠の西直近。

「肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)」旧上益城(かみましき)郡河原(かわはら)村、現在の熊本県阿蘇郡西原村河原の内であることしか判らない。この「かわはる」の読みも不審。郷土史研究家の御教授を乞う。

「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」「矢根石(やのねのいし)」本邦では、縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器を指す。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。ここで改めて説明するより、私の「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」「同パート2」「同パート3」を見られた方がビジュアル的にも手っ取り早い。なお、ここにあるように、これらを神々の武器と採り、暴雨風や落雷或いは禁忌を破る者が出た時、天からそれが振ってくると信じた、石器天降説は古くからあった。

「鏃石考(ぞくせきかう)」書名注は附けない約束だが、これは私の好きなの奇石収集家で本草学者であった木内石亭(きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の著作である。

「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」「文化庁」公式サイト内の「浦佐毘沙門堂の裸押合(はだかおしあい)の習俗」で、宝暦(一七五一年~一七六四年)期に書かれた当地域の記録資料であることが判った。

『「山神」の祭を「十二講」と呼び』「十二山神(やまのかみ)」菊地章太氏の論文「十二山ノ神の信仰と祖霊観」(「上」・「中」・「下」・「拾遺」四部構成で孰れも総てPDFでダウン・ロード出来る)が非常に詳しい。

「磐城相馬領」現在の福島県相馬市・南相馬市・双葉郡の内の、旧標葉(しめは)郡と旧相馬郡に相当する(リンクはそれぞれのウィキで、そこにある旧郡域図で位置が判る)。

「平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤」現在の秋田県横手市山内(さんない)平野沢

「北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり」「田代岳」は秋田県大館市早口で、標高千百七十八メートル。「東鳥海山」は別名「権現山」で標高七百七十七メートルで、その名は単に山容が西方の鳥海山に似ていることによるもの。秋田県湯沢市相川麓沢

「大山祇(おほやまづみ)」大山祇の神。小学館「日本大百科全書」より引く。狭義には、『記紀神話で』伊耶那岐・伊耶那美『の子、また磐長姫(いわながひめ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父として語られる神』で、「古事記」では「大山津見神」、「伊予国風土記」逸文では「大山積神」と『記す。本居宣長』は「古事記伝」の中で、『山津見とは山津持(やまつもち)、すなわち』、『山を持ち、つかさどる神のことであるという賀茂真淵』『の説を紹介している』。「伊予国風土記逸文では、『仁徳』『天皇のとき』、百済『国より渡来、初め摂津国御島(みしま)(大阪府三島)に座し、のち』、『伊予国御島(愛媛県今治』『市大三島(おおみしま)町)に移り、現在の大山祇』『神社に祀』『られたと記し』、「釈日本紀」では、『現在の静岡県三島市大宮町の三嶋』『大社の祭神としても記している』。但し、現在、各地の神社に祀られてある大山祇神は、そうした神話とは関係なのない、広義の意の「山の神」として一般に信仰されてきた神である、とある。

「安倍郡梅ケ島村」現在の静岡市葵区梅ヶ島

「二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども」初午は本来その年の豊作祈願が原型であたが、それに稲荷信仰が強く結びついた結果、専ら、稲荷社の祭りのように転じてしまったものである。

「常陸那珂郡柳河(やながは)村」茨城県の旧那珂郡にかつて存在した村であるが、現在、村域は、ひたちなか市・那珂市・水戸市の三つに分離している。この附近(旧村名を継いでいる水戸市柳河町をポイントした)。

太平百物語卷一 七 天狗すまふを取りし事

 

    ○七 天狗すまふを取りし事

 安藝の國いつくしまにて、一年(ひとゝせ)、相撲(すまふ)ありしが、諸國より名を得たるすまふ取り、おほく集まりければ、見物羣(ぐん)をなしけり。

 すでに相撲も五日めになりて、

「大関をとらす。」

と觸れければ、見物、一入(ひとしほ)いやまし、錐(きり)を立つベき地もなかりしが、其日のすまふも段々すみて、既に、大関、出(いで)たりしに、寄(より)の形屋(かたや)に、たれあつて、相手にならんといふ者、なければ、しばらく時をぞ、うつしける。

 然るに、年の比(ころ)、五十斗なる、いろ、靑ざめたる男、出(いで)ていふやう、

「今日(こんにち)の相撲は、大関殿の御すまふをこそ見まほしくて、たれたれも參りたれ、これ程、大勢集まり玉ひて、すゝむ人のなきこそ、ぶ興(けう)なれ。それがし、年寄(より)て御(おん)相手にはならずとも、いで、一番取申さん。」

といひければ、大関をはじめ、諸見物に至るまで、

「かゝるおのこ[やぶちゃん注:ママ。]が、何として、小ずまふの一番も取べき。あら、片腹いたきいひ事や。」

と、座中、一同にどよめきけるが、暫くありて、行司、立出(たちいで)、申すやう、

「是は奇特(きどく)の御事ながら、年來(ねんらい)、相撲に馴れたる者だに、御身の年ごろとなれば、すまふはとられぬ物なり。殊に、是れは、此度(たび)の大関にて、日(につ)本に名を得し、大兵(ひやう)なり。さればこそ、御覽ぜよ、はやりおの衆(しゆ)中さへ、心おくして、時、うつりぬ。必(かならず)、無用にし玉へ。」

といふ。

 此男、大きに腹をたて、

「すまふは時の拍子なり、必、弱きが負(まく)るにあらず、强きが勝つにも定めがたし、われらも少しは覚へのあればこそ、望みもしぬ。いかに行司の仰せにても、ぜひぜひ、とらでは、叶ふまじ。」

と、中々ひき入るけしきなければ、大関、甚(はなはだ)ぶ興し、

「われ、おほくの相撲を取りしに、終(つひ)にかゝる老ぼれの相手に成りたる事、なし。此すまふは、取まじ。」

といふに、此親仁(おやぢ)、

「とらずんば、此座をさらじ。」

と、土俵にすはつて、動かねば、諸見物は同音に、

「いざや、其おやぢが意地(ゐぢ)ばるに、引とらへて、打殺せ。」

とぞ、ひしめきける。

 大関、今は是非なく、立出(たちいで)、

「おのれ、中[やぶちゃん注:「宙(ちう)」の意。]につかんで、うき目をみせん。」

と立かゝれば、此男も、進みよる。

 行司、團(うちは)を引くといなや、双方、やがて、

「むず。」

と、組む。

 諸見物は、息をつめ、

「あはや、親仁が打殺(うちころ)されん、不便(びん)や。」

と、どよめきける。

 案のごとく、大関、兩手をさしのべ、此男を中(ちう)に引提(ひつさげ)、自由自在にふり廻し、目より高くさし上て、大地(ぢ)に、

「どう。」

ど、なげけるを、中(ちう)にて、反(かへ)りて、

「すつく。」

と立(たて)ば、大関、いかつて、又、引つかみ、なげんとせし兩手を取りて、いだき、しめ、中々、ちつとも、動かさず。

 大関、少(すこし)漂(たゞよ)ふ所を[やぶちゃん注:少しだけ体勢を崩しかけたとろを。]、右へまろばし、左へまはし、褌(よつい[やぶちゃん注:ママ。後注参照。])をつかんで、中(ちう)にさし上げ、大音上げていひけるは、

「いかに旁(かたがた[やぶちゃん注:「方々」に同じで、複数の人々に対して敬意を表して呼ぶ言い方。])、わが[やぶちゃん注:私が。]、『年寄りて物數寄(ものずき)』と御笑ひ侍れども、相撲には、はや、勝(かち)たるぞ。」

と、又、二、三遍ふり廻し、大地(だいぢ)へ、

「どう。」

ど、打付(つく)れば、起(おき)もあがらず、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])たり。

 有合(ありあふ)所の[やぶちゃん注:そこに居合わせた総ての。]すまふ取より、諸見物に至るまで、

「案(あん)に相違(さうゐ)。」

と、おどろき、騷ぎ、

「にくき親仁が仕業(しわざ)哉(かな)。それ、迯(にが)すな。」

といふ程こそあれ、東西の相撲取、四方より取まはし、

「爰(こゝ)よ。」

「かしこ。」

と、搜すれども、いづち、行(ゆき)けん、其場に、見へず。

 はては、大きに喧嘩となり、南北に逃(にげ)はしり、泣(なき)さけぶ聲、おびたゞしかりしが、よくよく後(のち)にきけば、大関が餘り傍若無人(ぼうぢやくぶじん)なりしを、天狗のにくみて、かくは、はからひけるとかや。

[やぶちゃん注:「褌(よつい)」国立国会図書館蔵本底本の国書刊行会の「江戸文庫」版ではルビを振っていないが、私の底本としている原典(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本の当該頁)を見ると、「ふんどし」ではなく、「よつい」とルビされてある。調べてみると、小学館「日本国語大辞典」で解明出来た。正しくは「よつゐ」で漢字表記は「四井」「四居」でこれは、「四辻」と同義とあり、「四辻」の項で二番目の意味として、『相撲のまわしの腰のうしろで結んだところ。三つ辻。よつい。よつゆい』とある。恐らく、「江戸文庫」版の本篇を読んでいる読者は誰もがここを「ふんどし」と読んでいるはずで、これは私自身も目から鱗のルビなのであった。――「ふんどし」をつかんで宙に差し上げ――ではなく「よつゐ」をつかんで宙に差し上げ――の方が遙かに原映像を活写しているからである! 私には大発見であった!!!

君の眼を見るごとに 伊良子清白

 

君の眼を見るごとに

 

君の眼を見るごとに

君のことばを聽くごとに

君の柔手(やはで)をとるごとに

君の唱歌をきくごとに

我てふもののいつとなく

君のこころに流れ入り

瀧(たぎ)つ早瀨のさらさらと

光りを帶びて見ゆるかな

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「小詩二篇」のもとに、先の「北のはて」とともに本篇を「無題」として収める。初出では題名以外に最終行が「月を帶びても見ゆるかな」となっている点が有意な相違点である。]

北のはて 伊良子清白

 

北のはて

 

北のはて千島の國土(くぬち)

濃き霧の去來(いざよふ)ふあたり

夏七月(ふづき)雪厚肥えて

赤熱の目も力なし

 

父母(たらちね)の古巢をいでて

水くむと通ふ細路

夕づつの照らせる下に

夷曲(えぞぶり)を悲しくうたふ

 

深沼(ふけぬま)の水のおもてに

くろぐろとうかぶ唐松

山祇(やまづみ)の棲める谿間(たにま)に

木魂して震ふ響よ

 

丈(たけ)低き落葉松林(からまつばやし)

一刷毛の雲と連なり

深碧(ふかみどり)湖遠く

さかしまに樹立をうつす

 

常春(とこはる)の國の幻影(まぼろし)

南(みんなみ)の海の白帆は

夕雲の中に漂泊(たゞよ)ひ

珊瑚珠の柱ぞ見ゆる

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「小詩二篇」のもとに、本「北のはて」と次に電子化する「君の眼をみるごとに」の原詩「無題」を収める。初出形の第二連以降を連の順列変更を含めて大幅に書き変えている。

「父母(たらちね)」はママ。「父母」二字に対して「たらちね」とルビする。古語には「たらちね」で「父母・両親」の意がある。

 以下が初出形。

    *

 

北のはて

 

北のはて千島の國土(くぬち)

濃き霧の去來(いざよふ)ふあたり

夏七月(ふづき)雪厚肥えて

赤熱の目も力なし

 

丈低き落葉松(からまつ)林

一刷毛の雲と連り

深碧湖遠く

さかしまに樹立を映(うつ)す

 

此土に處女(をとめ)と生れ

南に船を見る目は

常春(とこはる)の國を慕ひて

大海(おほうみ)に淚を落す

 

父母(たらちね)の古巢をいでゝ

水くみに通ふ細路

夕つゞの照らせる下に

夷曲(えぞぶり)を悲しくうたふ

 

古沼の水の面に

くろぐろとうかぶ唐松

山祇の棲める谿間に

こだまして冴ゆる響よ

 

    *]

淨瑠璃姬 伊良子清白 (附・初出形)

 

淨瑠璃姬

 

 

   

 

矢矧(やはぎ)の長(ちやう)の愛娘(まなむすめ)

淨瑠璃姬と諢名(あだな)せし

巫女(みこ)の一人はこのうちに

最(い)と年若の少女なり

 

姉君たちの體(てい)たらく

鳩に交(まじ)りて殿(でん)に飛び

燃ゆるが如き緋の袴

古き簾(すだれ)の裾に曳く

 

巫女年壯(さう)に心冷え

陰陽(をんめう)の術(じゆつ)授かりて

巫覡(いちこ)の窟(いは)の木伊乃(みいら)かな

髮は骨より生ひいでて

 

痛みや也縣珠肉に生(わ)く

千尋(ちひろ)の底も泥あかく

紅藻(べにも)色づき丈(たけ)伸びて

神しろしめす春はあり

 

見よ美しの巫女(かんなぎ)が

男の胸の火に觸れて

燒けずば燒けん焦(こが)れんと

物の誘はばいかならん

 

淨きは淨く業(ごふ)に墮(お)ち

人を蠱(まど)はす蝙蝠(かはほり)の

老巫(いちこ)の谷に投げられて

立つ期(ご)もあらぬ不具者(かたはもの)

 

しかずわれらは黑髮の

長きを市の女(め)に結(ゆ)はせ

丹塗(にぬり)の鈴の柄は折りて

杉の木叢(こむら)をのがれんか

 

火桶圍みてしとやかに

坐せし三人(みたり)のをとめごは

彼が激しき熱情に

破船(はせん)に遭ひしここちしつ

 

   

 

女怪(によくわい)の君か蛇性(じやしやう)の淫か

美しきもの怪ならば

黑髮長く角生ふる

女餓鬼(めがき)の口にくらはれん

 

牛若丸とよばれたる

美少は佐保の川添柳

雲を帶びたる朝姿

腰にさしたる小刀(さすが)かな

 

蓼(たで)に親しむ鮎鮓(あゆずし)の

淨瑠璃姬を戀ひ慕ひ

顏もほてるや若盛り

親の許さぬ文(ふみ)千束(ちづか)

 

幽鬼(すだま)の如く家を出で

春日(かすが)の森に來て見れば

馬醉木(あしび)花咲く朝明けの

岡には鹿の啼きにけり

 

雪消(ゆきげ)の澤に袖長の

眉紫の山姬が

十五の鏡たて列ね

姿うつすを目に見たり

 

肩にかけたる藤娘

地に曳く程の花房を

霧のまぎれに曳きすてて

朱(あけ)は御垣(みかき)にのこりけり

 

今は心も恍惚(ほれぼれ)と

海山こえて里こえて

神樂(かぐら)のひびき舞殿(まひどの)の

階(きざはし)近く來りけり

 

若紫の元結(もとゆひ)や

髮もほどけて面(おもて)にかかり

その中空の蜻蛉蟲(あきつむし)

千々にみだるる身のうつつなや

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「霜柱」のもとに、既に電子化した「野衾」と本「淨瑠璃姫」及び「秋和の里」の三篇を掲げてある。初出形は全一段(上記のような上下二段構成をとらない)で、それを激しく書き変えている。以下に初出を示す。

   *

 

淨瑠璃姬

 

矢矧(やはぎ)の長(ちやう)の愛娘(まなむすめ)

淨瑠璃姬とあだ名せし

巫女(みこ)の一人はこのうちに

最も年若の少女なり

 

浮世を知らぬ巫女なれば

胸はきよしといふ勿れ

花は少女の物なれば

折らでかなはぬ時あらん

 

姉君たちのていたらく

鳩にまじりて殿(でん)に飛び

燃ゆるが如き緋の袴

靑き簾の裾に牽く

 

巫女年壯(さう)に、心冷え

陰陽(をんめう)の術(じゆつ)授かりて

巫覡(いちこ)の窟(くつ)の木伊乃(みいら)かな

我等の末は皆かくぞ

 

痛みや、胸(こゝ)を撫でさすり

童女(どうによ)の昔たらちねと

祭、見に來し夢を迫ひ

乍ち神に驚きつ

 

見よ、美しの巫女(かんなぎ)が

男の胸の火に觸れて

燒けずば燒けん焦(こが)れんと

物の誘はゞいかにせん

 

淨きは淨く業(ごふ)に墮(お)ち

人を蠱(まど)はすうそつきの

老巫(いちこ)の谷に投げられて

立つ期(ご)も知らぬ不具者(かたはもの)

 

しかずや、われ等黑髮の

長きを市の女(め)に結(ゆ)はせ

丹塗(にぬり)のあしだなげうちて

杉の木叢(こむら)をのがれんか

 

火桶圍みてしとやかに

坐せし三人(みたり)の少女子は

彼が激しき熱情に

破船(はせん)にあひし心地しつ

 

外面(そとも)は竹の玉霰

冬の威こゝにあらはれて

燈火白く氷るらし

少女も終に默したり

 

さばれ三人の持つ鍵は

早鏽び朽ちて役立たず

盲ひたりける悲しさよ―

我身の歌を火の中に―

 

女怪(によくわい)の君といふ勿れ

美しきもの怪ならば

小說多き少女子の

命は正(しやう)の化物ぞ

 

牛若丸とよばれたる

美少は奇良の若葉陰

雲を帶びたる佐保川の

淸(きよ)けき岸に生まれたり

 

蓼(たで)に親しむ鮎鮓(あゆずし)の

淨瑠璃姬と戀慕ひ

顏もほてるや若盛り

親の許さぬ文(ふみ)千束(ちづか)

 

五條の橋に辨慶と

鎬削りし御曹司

其正眞の我ならば

ひらりとこゝの垣越えて

 

さてもお通(つう)の物語り

假名(かりな)の姬の主ならば

十二の鏡並み立てゝ

優しの姿うつすもの

 

巫女に召されて家を出で

春日の森に來て見れば

雪消(ゆきげ)の澤に袖長の

あなあやにくの者ありき

 

あなあやにくの者ありき

髮や、若衆の立姿

掟ぞ、彼は戰きて

少女の群にかききえつ

 

咒詛(のろひ)はこの子拙かり

大熱鐡を鎔(とろ)ろかすを

劫(こう)經て知るは聖(せい)の業(わざ)

さもなく知るは可憐の子

 

その時よりぞ少女子の

胸はいたくもみだれしか

淨瑠璃姬のゆゑよしを

知る人絕えてあらざりき

 

   *

初出のダッシュ一字分表記はママ。「奇良」というのは分らない。「奇良」で形容詞の語幹への当て字と考えたり、地名として調べたりしてみたが、判らない。しかしこれは現在の奈良県北部の奈良市及び大和郡山市を流れる佐保川の近くの景であり、そこに生まれた牛若丸、源義経を語る段である。私はてっきり義経の生地は京都とばかり思っていたが、調べてみると、現在の奈良県奈良市大柳生町説(リンクはグーグル・マップ・データ)があることを知った(個人ブログ「義経伝説を追う」の「牛若丸誕生の地(奈良県)」を見よ。但し、この大柳生町には佐保川は流れていない。佐保川はずっと南西である)。してみると、これは或いは初出誌の「奈良」の誤植なのではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。

2019/04/19

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 檮杌(たうこつ)・獌(ばん)・猾(かつ) (総て幻獣)

Toukotu

  

 

 

たうこつ  倒壽

 

檮杌

      【頑凶而無疇匹

       曰檮杌此獸然

タ◦ウキユイ  故名之乎】

 

三才圖會云檮杌【一名倒壽】獸之至惡者好闘至死不却西荒

中獸也狀如虎毛長三尺餘人靣虎爪口牙一丈八尺獲

人食之獸闘終不退却惟而已

――――――――――――――――――――――

【音萬】

[やぶちゃん注:以下は原典では項目名の下に三行で記されてある。]

三才圖會云獌獸之長者【一名獌狿】以其長故从曼

从延大獸而似狸長百尋

字彙云貙似貍而大立秋日祭獸一名獌

――――――――――――――――――――――

【音滑】

[やぶちゃん注:同前。但し、四行目の良安の評言は頭から。]

本綱曰海中有獸名曰猾其髓入油中油卽活

水不可救止以酒噴之卽滅不可于屋下收故

曰水中生火非猾髓而莫能也【樟腦亦能水中生火】

△按猾不載形狀蓋檮杌獌之類本朝未曽有之物

 

 

たうこつ  倒壽〔(たうじゆ)〕

 

檮杌

      【頑凶にして、疇匹〔(ちうひつ〕)

       無きを、檮杌と曰ひ、此の獸、

ウキユイ  然り。故に之れを名づくか。】

[やぶちゃん注:「疇匹」とは「自分と同じ類いの仲間・輩(ともがら)」の意で、仲間がいない孤独な獣だというのである。何だか……淋しそうだな……。]

 

「三才圖會」に云はく、『檮杌【一名「倒壽」。】、獸の至惡なる者なり。好〔んで〕闘〔ひ〕、死に至るも、却〔(さ)〕らず。西荒〔(せいこう)〕[やぶちゃん注:中国西方の未開地。]

〔の〕中の獸なり。狀、虎のごとく、毛の長さ三尺餘。人靣にして、虎の爪・口なり。牙、一丈八尺。人を獲り、之れを食〔(くら)〕ふ。獸の闘ひて終(つひ)に退き却らざるは、惟〔(こ)〕れのみ』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

〔(ばん)〕【音「萬」。】

「三才圖會」に云はく、『獌、獸の長者〔なり〕【一名「獌狿〔(ばんえん)〕」。】。其の長きを以つて、故に「曼」に从〔(したが)〕ひ、「延」に从ふ。大獸にして、狸に似たり。長さ、百尋(ひろ)あり。

「字彙」に云はく、『貙は貍に似て、大なり。立秋の日、獸を祭る。一名「獌」』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

【音「滑」。】

「本綱」に曰はく、『海中に、獸、有り。名づけて「猾」と曰ふ。其の髓、油の中に入るれば、油、卽ち、水を活〔(わか)〕し、救ふべからず。止(たゞ)酒を以つて之れを噴(ふ)くときは、卽ち、滅す。屋の下に收むべからず。故に曰ふ、「水中に火を生ずること、猾の髓に非ざれば、能〔(よ)〕くすること莫し」と【樟腦も亦、能く水中に火を生ず。】』〔と〕。

△按ずるに、猾〔は〕形狀を載せず。蓋し、檮杌・獌の類ひ〔ならん〕。本朝には未曽有〔(みぞう)〕の物なるべし。

[やぶちゃん注:三種ともに幻獣でモデル動物は、なしとしておく。ウィキの「檮杌」には、『中国神話に登場する怪物の一つ。四凶』(聖王舜によって中原の四方に流された四柱の悪神とされる存在。ウィキの「四凶」によれば、「書経」と「春秋左氏伝」に『記されているが、内容は各々異なる。四罪と同一視されることが多いが』、「春秋左氏伝」の文公十八年(紀元前六〇九年)に『記されているものが一般的で』、そこでは、『大きな犬の姿をした「渾沌」(こんとん)』、『羊身人面で目がわきの下にある「饕餮」(とうてつ)』、『翼の生えた虎「窮奇」(きゅうき)』、『人面虎足で猪の牙を持つ「檮杌(とうこつ)」』を挙げる)『虎に似た体に人の頭を持っており、猪のような長い牙と、長い尻尾を持って』おり、『尊大かつ頑固な性格で、荒野の中を好き勝手に暴れ回り、戦う時は退却することを知らずに死ぬまで戦う』。『常に天下の平和を乱そうと考えて』おり、『「難訓(なんくん。「教え難い」の意)」という別名がある』。前漢の東方朔の作とされる「神異経」には、「西方荒中有焉、其狀如虎而犬毛、長二尺、人面虎足、猪口牙、尾長一丈八尺、攪亂荒中、名檮杌、一名傲狠、一名難訓」とある、とする。

『「三才圖會」に云はく……』檮杌のそれはこの左頁(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「獌」音の「バン」は大修館書店「廣漢和辭典」の当該字の、大きな獣とする部分の「獌狿(バンエン)」の読みに従った(同辞書にはその前で「狼の一種」及び「狸の一種」とはある)中文サイトの解説では伝説上の獣で、狼の一種とするが、「百尋」(「三才図会」の成立したのは明代であるが、「尋」は中国では古代(戦国頃まで)に使用されたきりで後には使用されなかった。使用された当時の一尋は八尺で一メートル八十センチとされるから、体長百八十メートルの狼や狸は同定することこれ能はずである。

『「三才圖會」に云はく……』のそれはこの左頁(同前)。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「立秋の日、獸を祭る」老婆心乍ら、獣の獌が生贄を供えて天に祭りするのである。

「猾」海棲哺乳類という設定だが、その「髓」(骨髄と採っておく)を、「油の中に」投ずると、その油(水は液体としての油のことか)を沸騰させて、手におえない状態になると言い、そうなった時には酒をそれに吹きかけると沸騰がやむ、だから昔から、「水中で火を起こさせようとすれば、猾の骨髄を用いる以外にはよい方法は他にない」というのだが、これ、何だか、言っている意味が今一つ腑に落ちない。しかし、ともかくも、その「猾の骨髄」なる物質が、油或いは水激しい化学反応を起こすというのであろう。想起したのは爆発的熱反応を示す消石灰(水酸化カルシウム)や金属ナトリウム、及び、海というところからはメタンハイドレートmethane hydrateである(私は中学生の時、理科部(海塩粒子班)で、理科教師が戸棚の奥を整理する内、古い試料の中に少量の金属ナトリウムを発見し、処分するのを見学させて貰ったことがある。小指の頭ほどで既に劣化していたようであったが、シャーレの中で少量の水に浮かべると、激しい炎を上げながら、くるくると回るのに息を呑んだのを今も忘れない)。但し、大修館書店「廣漢和辭典」の「猾」を見ると、海獣の名とし、「正字通」を引き、そこには「猾には骨がなく、虎の口に入っても、虎は噛み砕くことが出来ない。そのまま猾はやすやすと虎の消化器官の中に入り込み、その虎の内側から噛みつく」という、とんでもないことが書いてあるのである。しかし、この海獣を虎が食うというのも、ちと不自然ではなかろうかとは思う。

「樟腦」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの精油の主成分である分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペンケトン(monoterpene ketone)の一種。「能く水中に火を生ず」ることは残念ながらないけれど、思い出すよね、小さな時にやった「樟脳舟(しょうのうぶね)」「協和界面科学株式会社」公式サイト内のこちらから引用しておくよ。『小さな模型舟の船尾にショウノウの塊を付けておくと、舟を水に浮かべたときに勝手に走り回る現象』だ。『「ショウノウ」というと防虫剤の匂いを思い出す方もいらっしゃるでしょうが、最近ではp(パラ)ジクロロベンゼンなどにその役目を奪われてしまいましたので、入手しにくいかもしれません』。『(なお、いずれも口に入れると有害ですので、食べないように。)』『こショウノウの分子は、水をはじく疎水基と、水になじむ親水基を持っています。舟の船尾に取り付けられたショウノウの塊が分解して、分子が水面に移ると、疎水基を上にして単分子の膜を形成します。舟の後方ではショウノウの単分子膜ができ、舟の前方には水面があります。物質は表面張力により、その面積を少なくしようとします。この場合、水の表面張力はショウノウよりも高いため、水面の面積の方がより小さくなろうとする力が強いのです。したがって、ショウノウと水の境目は水のほうへ引き寄せられます。そして、その境目にある舟も、一緒に引っ張られてしまうため動きます。また船尾のショウノウはどんどん溶け出していきますから、ますますショウノウの表面は広げられてしまいます』。『ショウノウにはじかれて動いているように見えますが、実際は水の表面張力によって引っ張られているわけです。しかしこの舟も、水面が完全にショウノウ分子で覆われてしまうと、動かなくなります』。

「本朝には未曽有〔(みぞう)〕の物なるべし」本朝には未だ嘗つて存在したことがない動物と言ってよい。良安先生、謙虚やねぇ。そうそう、偉そうな麻生先生、「みぞう」でっせ、「みぞゆう」じゃあ、ありまへんで。

葡萄の房 伊良子清白

 

葡萄の房

 

暮れ行く秋のたのしさを

語らふごとく睦まじく

葡萄は房に集りぬ

夕陽照らせる野の畠に

 

されどわが眼にとまりしは

風やおとせる草の間に

腐れはてたるくだものの

見るかげもなきそれなりき

 

愛は祕密のささやきか

さにはあらずと思へども

室に洩れたる繼子(ままこ)等を

見れば憎惡(にくみ)の疵(きず)はあり

 

棚にかかれる紫の

葡萄の房は幸あれど

情の犧牲(いけにへ)眼の下は

土も被(おほ)はぬ墓場なり

 

腐れしものはいとはしき

形を人に示せども

おのがすぐ世(せ)にくらべ見て

淚を灑(そそ)げつたなさに

 

愛は憎惡(にくみ)にあらねども

憎惡の砦(とりで)築かずば

安きを知らぬ果實(くだもの)の

葡萄の房ぞ罪多き

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出で総標題「葉分の月」の中の一篇(前の「三人の少女」の私の注を参照)。初出とは有意な相違を私は認めない。伊良子清白が意識しているかどうかは別として、「聖書」の「創世記」の、例のエデンの園の「禁断の木の実」はウィキの「禁断の果実」によれば、『しばしばリンゴとされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の悪の部分にあたる「malus」』(マールス)『は「邪悪な」を意味する形容詞だが、リンゴも「malus」になるため、取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされ』、『東欧のスラブ語圏では、ブドウとされる事が多い。ユダヤ教神秘思想の書籍』「ゾーハル」『でも、禁断の木の実をブドウとしている』とある。伊良子清白は後年の大正七(一九一八)年三月、妻の幾美(きみ)とともに『永く近づこうとしてきたキリスト教に帰依し』(底本全集年譜に拠る)、洗礼を受けている。]

太平百物語卷一 六 愚全ばけ物の難を遁れし事

Guzen

  

    ○六 愚全ばけ物の難を遁れし事

 備中に愚全といへる沙門あり。

 年比(としごろ)、都の方に志しありて、此春、おもひ立(たち)けるが、播磨の書寫山へも次でながら參詣しけるに、下山の比(ころ)、山中にて日(ひ)暮(くれ)ければ、其あたりなる辻堂に立寄(たちより)、『一夜(ひとよ)を明さばや』とおもひ、通夜(よもすがら)、念佛して居られけるに、年のほど、十八、九斗(ばかり)なる女一人、何國(いづく)ともなく來りて、愚全にむかひ、いふ樣、

「それに入らせ玉ふは、御僧(おんそう)と見參らせて候。一夜のほど、此方(こなた)へ來り玉へ、御宿(おんやど)をかしまいらせん。」

といふに、折しも餘寒(よかん)、身にしみ、堪がたかりければ、

「誠に、御こゝろざし、有りがたく候。」

とて、打連(うちつれ)て行ければ、一つの庵(いほり)に入りぬ。

 愚全、家内(かない)を見廻すに、此わかき女の外、人、一人もなし。

 愚全、心におもひけるは、

『かゝる所に一宿せん事、心よからぬ事かな。』

と思ひながら、力なくしてゐられけるに、此女、愚全にいふやう、

「御覽のごとく、わらは事、獨ずみのやもめなれば、たれを力にすべき便(よすが)なし。御身、夫婦となりて、われに力をそへ玉へ。」

と、傍(そば)ちかく寄そへば、愚全、興を覺(さま)し、

「こは、おもひよらぬ仰(おほせ)かな。われは元來(もとより)出家の身なれば、假初(かりそめ)の戲(たはむれ)だに、仏のいましめ給ふぞかし。あなかしこ、筋なき事、な宣(のたま)ひそ。」

と、にがにがしくいへば、此女、うちわらひて、

「さないひ給ひそ。出家も美童を愛し給ふうへは、女とても何か苦しう候べき。」

といひければ、愚全、こたへて、

「さればとよ。童子は成長にしたがひて、愛著(あいぢやく)のこゝろ、はなるゝものにて、殊に子孫相續の因緣なく、女の道とは格別なり。其上、女は五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)の苦しみありて、仏のいませ給ふぞ。」

と、さも、すげなくぞ申ける。

 此女、つくづく聞きて、

「實(げに)、さる事も侍るやらん。」

とて、其儘、十四、五斗なる美童と變じ、愚全が傍へすゝみ寄(より)、

「われこそ、佛のゆるし給ふ童子なり。情(なさけ)をかけて給はれ。」

といふ。

 愚全、此有樣をみて、

『これ、察する所、化物(ばけもの)なり。』

とおもひながら、荅(こた)へていはく、

「實(げに)。それとても、道德めでたき知識の事なり。愚僧がごとき蒙昧(もうまい)の身は、童子とても、かなひがたし。」

といへば、其時、童子、氣色かはり、

「扨々、にくや。おのれが舌頭(ぜつとう/したのさき)の聞まゝに、樣々にいひ遁(のが)るゝ腹たちさよ。いで、其義ならば、喰殺(くひころ)さん。」

とて、頓(やが)て大き成坊主となりて、愚全を一口に吞まんとす。

 其時、愚全は眼を閉(とぢ)、一心に「仁王經(にんわうきやう)」を修(しゆ)しければ、此妙音(みやうおん)におそれをなし、消(けす)が如くに失せけるが、彼(かの)庵と見へしも、いつしか、㙒原(のばら)となりて、愚全、茫然と四方をみれば、よは、はや、東よりしらみ渡りしほどに、夫(それ)より、やうやう下山し、都の方(かた)に急がれけるとなり。

[やぶちゃん注:「愚全」不詳。

「備中」現在の岡山県西部に相当する。

「播磨の書寫山」兵庫県姫路市書写(しょしゃ)にある書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗の名刹書寫山圓教寺(えんぎょうじ:この地図(グーグル・マップ・データ)の北部一帯総て。引用の後に出る「如意輪寺」を下方でフラグした)。私は同寺に行ったこともなく、演劇の発声練習の早口言葉「書写山の社僧正」の莫迦の一つ覚え状態であるから、ウィキの「圓教寺」を引くと、『西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど』、『寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である』。『京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』。『境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、』三『つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される』。『伽藍がある』『書写山は』現在、『兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている』。『室町時代の応永』五(一三九八)年『から明治維新まで』、『女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)』ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。既に書写山山麓の平地部分直近であるが、本話が室町以前の時制設定であるとは凡そ考えられないので、愚全が女の出現自体を全く問題にしていない以上、この附近より下方の場所をロケーションとすると考えねばならぬ『に札を納めて帰った』。創建は康保三(九六六)年、『性空』(しょうくう)『の創建と伝えられる』が、『もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前より』、『その地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来は』、『この「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左』(そさ)『村と呼ばれていたが、この「曽左』『」も素盞に由来する』。『創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山』(りょうじゅせん:インドのビハール州のほぼ中央に位置する山で、釈迦はここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる)『の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる』。『また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる』とある。現在、『国の史跡に指定されている圓教寺の境内は』、『姫路市街の北方およそ』八キロメートル『に位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も』『それほど高くないが』、現在でも『境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する』とあるから、特にロケーションとして不自然ではない

「餘寒(よかん)」冒頭に「此」(この)「春」と合った通りで、余寒は旧暦の立春(旧暦の節分の翌日で新暦の二月四日頃)を過ぎて寒が明けても、なお残る寒さを指す。則ち、物語内時制の設定はそれ以降の二月中上・中旬かと読めよう。

「五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)」既に述べた通り、左右の読み(というか、左のそれは意訳訓)が振られているのであるが、右のそれは「五」「三」には振っていないため、以上のような仕儀とした。「五障三從」の内の「五障」は女性が生得として身に持ってしまっているとされた仏法に従うに致命的な五種の障り、則ち、「法華経」に説くところの、女性は仏教の守護神である天部の梵天王帝釈天や、魔王(欲界第六天他化自在天にあって仏道修行を妨げるという魔王波旬)、転輪聖王(てんりんじょうおう:須弥山の四洲を統治するとされる最も優れた聖王で、一説に未来に阿弥陀仏となることを約束されたともする)は勿論、「仏」そのものになることは出来ないことを指す。女性がもっているこれらを、月の光を蔽う霞や雲に譬えて「五障の霞(雲・氷)」などとも称した。従って女は変生男子(へんじょうなんし)、男に生まれ変わらなければ、極楽浄土へは往けないというというのが、実は本来の仏教の女性観なのである。原始仏教以来より胚胎している仏教の、それこそ致命的な女性蔑視の思想である。次の三従(さんしょう)は、幼時は親に、結婚すれば夫に、老いては子に、それぞれ従えとするもので、先の「五障」と連用させて、仏教で女性が従うべきものとされた属性と規範を指す。

「仁王經(にんわうきやう)」「仁王般若経」とも称される。仏教に於ける国王のあり方について述べた経典。ウィキの「仁王経」によれば、主な内容は、『釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し』、『講説することで、災難を滅除し』、『国家が安泰となるとされ、般若経典としては異質の内容を含んでいる』。永く宮中に於いての『公共的呪術儀礼としての役目を』担った側面を持つ経典で、後には広く『災禍を除く』呪的経文となったようである。]

2019/04/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(11) 「駒ケ嶽」(1)

 

《原文》

駒ケ嶽 又白馬ノミヲ神ト祀リタル社アリ。【駒形神】例ヘバ武藏北足立郡尾間木(ヲマキ)村大字中尾ノ駒形神社ハ、神體ハ三軀ノ白駒ニシテ長各六寸バカリ、本地ハ正觀音ニオハシマス〔新編武藏風土記稿〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎ト云フ處ノ白旗明神ニハ、末社ニ白駒ノ神ト黑駒ノ神トアリテ、牛馬ノ病ニ禱リテ驗アリ〔風俗問狀答〕。磐城相馬中村ノ太田神社ハ土地ノ人ハ妙見樣ト云フ。有名ナル野馬追(ノマオヒ)ノ祭ヲ行フ社ナルガ、其社ノ神モ毛色ハ不明ナレドモ一ノ龍馬ナリ。【龍馬ト星ノ神】昔平將門逆心ノ時、一夜客星落チテ化シテ龍馬トナル。之ヲ妙見菩薩ト尊崇シテ土地ノ鎭守ト爲スト傳フ〔行脚隨筆上〕。【石馬】越前大野郡ノ穴馬谷(アナマダニ)ニテハ、岩穴ノ遙カ奧ニ石馬ヲ祀リテアリ。乃チ穴馬ト云フ村ノ名ノ起原ナルガ、此石馬ハ人作ノ物ニ非ザルガ如シ。上下穴馬村ハ以前ノ郡上(クジヤウ)領ニシテ、九頭龍川ノ源頭十里ニ亙リタル山村ナリ。ヨクヨクノ旱年ニハ此洞ノ奧ニ入込ミ、鞭ヲ以テ石ノ馬ヲ打ツトキハ必ズ雨降ル。但シ其鞭ヲ執リタル者ハ遲クモ三年ノ内ニ死スルガ故ニ、八十九十ノ老翁ヲ賴ミテ其役ヲ勤メサセタリト云フ〔笈挨隨筆八、有斐齋劄記〕。陸中腹膽澤郡金ケ崎村大字西根ノ赤澤山ノ頂上ニハ、鐵ヲ以テ鑄タル二體ノ馬ノ像アリキ〔仙臺封内風土記〕。如何ナル信仰ニ基ケルモノナルカハ知ラズ、此山ニハ又天狗佛ト稱スル羽ノ生エタル佛像ヲモ安置シテアリキト云フコトナリ。

 

《訓読》

駒ケ嶽 又、白馬のみを神と祀りたる社あり。【駒形神】例へば、武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社は、神體は三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり、本地は正觀音(しやうかんのん)におはします〔「新編武藏風土記稿」〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神には、末社に白駒の神と黑駒の神とありて、牛馬の病ひに禱(いの)りて驗(げん)あり〔「風俗問狀答」〕。磐城相馬中村の太田神社は、土地の人は「妙見樣」と云ふ。有名なる「野馬追(のまおひ)の祭」を行ふ社なるが、其の社の神も、毛色は不明なれども一つの龍馬なり。【龍馬と星の神】昔、平將門逆心の時、一夜、客星(かくせい)[やぶちゃん注:流星。]落ちて、化して龍馬となる。之れを妙見菩薩と尊崇して、土地の鎭守と爲すと傳ふ〔「行脚隨筆」上〕。【石馬】越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)にては、岩穴の遙か奧に石馬を祀りてあり。乃(すなは)ち、「穴馬」と云ふ村の名の起原なるが、此の石馬は人作(じさく)の物に非ざるがごとし。上・下穴馬村は以前の郡上(くじやう)領にして、九頭龍川の源頭、十里に亙りたる山村なり。よくよくの旱年(ひでりどし)には、此の洞の奧に入り込み、鞭を以つて、石の馬を打つときは、必ず、雨、降る。但し、其の鞭を執りたる者は、遲くも三年の内に死するが故に、八十、九十の老翁を賴みて、其の役を勤めさせたりと云ふ〔「笈挨隨筆」八、「有斐齋劄記(いうひさいさつき)」〕。陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山の頂上には、鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき〔「仙臺封内風土記」〕。如何なる信仰に基けるものなるかは知らず、此の山には又、「天狗佛」と稱する羽の生えたる佛像をも安置してありきと云ふことなり。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正觀音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正観音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

「磐城相馬中村の太田神社」福島県南相馬市原町区(はらまちく)中太田字舘腰(たてこし)にある相馬太田神社

「野馬追(のまおひ)の祭」ウィキの「相馬野馬追」によれば、『相馬野馬追』『は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である』。『馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からな』り、『東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの』一『つとして紹介される場合もある』。『起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門』『が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』。『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練』を『一切取り締ま』ったが、『この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた』。「戊辰戦争」で『中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五(一八七二)年に『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治一一(一八七八)年には、『内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』とある。

「越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)」旧福井県大野郡和泉(いずみ)村、現在の福井県大野市朝日のこの附近。サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺3」の「第10回 穴馬 【あなま】 轆轤師が定着し、落人伝説をはぐくんだ風土」が詳しいが、ここに出る「石馬」については触れられていない。岩窟や石の馬は最早、存在しないのだろうか?

『「笈挨隨筆」八』ちょっと判り難いので言っておくと、巻之八の「神泉苑」の雨乞の関連で文中に出る。そこでは、『美濃の郡上西に穴馬村という山に穴あり。深さ三里、中に馬有り』として以下の話が載る。

「陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山」現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町西根はここ。「赤澤山」というのは国土地理院図でも見当たらないが、一つ気になるのは、同地区の西の境界のごく直近にある岩手県胆沢郡北上市和賀町岩崎新田の駒形神社奥宮という駒ヶ岳のピーク(標高千百二十九・八メートル)で、「遠野文化研究センター」公式サイト内の「駒形神社奥宮」を見ると、奥宮の堂内には『白馬と黒馬の神像が祀られていました。藩政時代には白馬が盛岡藩・黒馬が仙台藩の神像だったと聞きますが、藩境が取り払われた現在はどうなのでしょうか。それに白馬が親子です』。『なにか意味があるのか気になります』。『現在このお駒堂を守っている水沢駒形神社の山下宮司によると、「晴れを願う時は白い馬に、雨を願う時は黒い馬に祈る」らしく、晴れを望む人が多かったので白馬の神像を二体奉納したのだそうです』。『水も晴天も農業には欠かせないものです。お駒堂から見下ろす北上盆地は黄金色で、昔の今も人々が変わらず願い続けている通りの実りの秋の風景でした』。『盛岡・仙台両藩の水争いの出発地点から豊作を見守るお駒さまたちも安心していることでしょう』とあって、現在の新しい馬の像の写真があるのである。或いはこれが柳田國男がここで言うそれなのではないか? と思わせるのである。柳田は「鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき」と過去の助動詞を用いているから、或いは、これがその後裔なのかも知れないと感じるのである。但し、遂にここ或いはこの周辺に赤沢山は現認出来なかったし、「天狗佛」も検索ではヒットしなかった。これもまた、識者の御教授に委ねるしかあるまい。【2019年4月23日追記】本条の後の段落で「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」が出、その直後に「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」と述べていた。「駒ヶ岳」と「赤澤山」は別な山であった。そちらにリンクさせた国土地理院図を見て戴きたいが、駒ヶ岳の峰続きの何れかのピークが「赤澤山」なのであった。]

三人の少女 伊良子清白 (附・初出形)

 

三人の少女

 

末のをとめを譬ふれば

雪の中なるうめの花

操(みさを)に生くるをんなごの

氣高(けだか)き形具へたり

 

中のをとめをながむれば

夏の野に咲く白百合の

髮も面(おもて)も淸らにて

つゆのけがれもなかりけり

 

姉のをとめの風情こそ

霧のまぎれの女郞花(をみなへし)

風にもたへぬすがたにて

いとどか弱く見えにけり

 

三人のみなる湯の槽(ふね)に

春はおぼろの宵にして

油乏しきともし火は

けぶりの如くてらしけり

 

あけもみどりもぬぎすてて

生(なし)のままなる天(あめ)の子等

出湯(いでゆ)の波の泡沫(うたかた)に

今も生(あ)れしと疑はる

 

神代ながらに湧き出づる

靈(くし)ふる泉音澄みて

三つの花瓣(はなびら)花の子が

膚(はだへ)は消ゆと見ゆるかな

 

窻のひまより腕(ただむき)と

圍(まろ)き肩とをてらしけり

もとより弱き影なれば

月のさすとは知らざらむ

 

うつくしきものらこころせよ

獵矢(さつや)手挾(たばさ)み愛の子が

高きに翔(か)けり兵(ひやう)と射ば

こよひの程もやすからじ

 

三人のうちの誰が子をか

幸(さち)とさだめて射向はん

月の村雲見えがくれ

クピドは空にうかぶなり

 

長き黑髮すゑ濡(ひ)ぢて

神は解くともをとめ子よ

しづく白珠(しらたま)波越えて

をさなきものに箭(や)は立たじ

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出であるが、初出形からは後半が大きく改変されてある。後で初出形を示す。なお、初出は総標題「葉分けの月」で次の「葡萄の房」と「卜」(「うらなひ」か「ぼく」かは不明)で、後者の「卜」を改題改作したものである。

「生(なし)のままなる」「生(な)す」を名詞化し、「生まれたままの裸形となって」の意。

「クピド」Cupid。ローマ神話のキューピッド。

 初出は以下。

   *

 

三人の少女

 

末のをとめをたとふれば

雪の中なる梅の花

操(みさを)に生くるをんなごの

氣高(けだか)き形備へたり

 

中の少女をたとふれば

夏の野に咲く百合の花

髮も面(おもて)も淸らにて

珠を展べたるごとくなり

 

姉のをとめの風情こそ

霧のまぎれの女郞花(をみなへし)

つゆにも堪へぬ姿にて

いとゞかよわく見えにけり

 

三人のみなる湯の槽(ふね)に

春はおぼろの宵にして

油乏(ともし)きともし火は

をとめの面を照らしけり

 

あけも綠もぬぎすてゝ

生(なし)のままなる天(あめ)の子等

愛を波うつ湯のおもに

生(あ)れしもいでしとうたがはる

 

昔は鳩の箭の傷を

癒したりてふ野の泉

三つの蕾の花のこが

今は肌を洗ふかな

 

かたみに小さき手の掌を

ゆゑゆゑしくも集め見て

何に卜ふ行末の

幸は誰が子に宿るらむ

 

氣高きものとかよわきと

淸らのものとおのがじゝ

稟けし姿はかはれども

誰か幸無きものあらむ

 

美しき子ようらなひの

まだ見ぬ夢を追ふなかれ

湯のもにうかぶ浮像の

かりの戲れをなにかせむ

 

窓のひまより腕(たゞむき)と

圓き肩とをてらしたり

もとより弱きかげなれば

月のさすとも知らざらむ

 

長き黑髮すゑひぢて

母は解くともをとめ子よ

をさなすがたのなんたちに

湯の香のいかでそまり得む

 

   *

初出形の「稟けし」は「うけし」と読む。「浮像」は「うたかた」(泡沫)と訓じていよう。「なんたち」は「汝達」の短縮訓。明治期の作品ではしばしば見られる。]

太平百物語卷一 五 春德坊狐に化されし事

    ○五 春德坊狐に化されし事

 下京に順光寺といへる寺あり。

 或る夜、下男(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])とおぼしき者壱人(いちにん)、挑灯をともし來たり、

「某(それがし)は久㙒(ひさの)屋可十郞方より參り候。主人、『召使ひの女、相果(あいはて)申すに付(つき)、今夜の内、㙒送り仕り度(たき)儘(まゝ)、御弟子の内、御壱人、御越(おんこし)下さるべし。則(すなはち)、御迎(むかひ)の爲、私を指越(さしこし)候ふ。」

と申しければ、住持、此よしを聞(きゝ)、

「心得候。」

とて、春德といへる弟子をつかはしけるが、子の刻も過ぎ、丑の刻になりても、春德、かへらず。

 住持、ふしぎにおもひ、彼の久㙒屋へ人をつかはし、樣子を尋(たづね)させけるに、可十郞、此よしをきゝ、おどろき、申しけるは、

「此方(このほう)には死人なし。元來、家來もつかはさず。若(もし)、所たがひ侍るにや。」

といひければ、

「こは、ふしぎ。」

とて、急ぎ、寺に歸り、住持に「かく」と告ければ、

「さればこそ。」

とて、さはぎ立(だち)、手分けをして方々と尋步(たづねあり)きけるに、夜明の比(ころ)ほひ、五条西洞院にて見付出(みつけいだ)し、頓(やが)て連れ歸りけるが、住持、あきれて、

「何國(いづく)へ行きし。」

と尋ねられしかば、

「さん候、未(いまだ)可十邸宅に行つかぬうちに、夜(よ)明(あけ)候ひける。」

といひければ、

「扨は。きつねの所爲(しわざ)ならめ。」

と、はては、大わらひになりて、はたしぬ。

[やぶちゃん注:「順光寺」不詳。

「五条西洞院」この辺り(グーグル・マップ・データ)。

「はたしぬ」「果たしぬ」で「お終(しま)いとなったのであった」の意。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)

Sii

 

 

 

しい

 

黒眚

 

震澤長語云大明成化十二年京師有物如狸如犬倐然

[やぶちゃん注:「大明」は原典では「太朋」であるが、流石に訂した。]

如風或傷人靣噬手足一夜數十發負黒氣來俗名黒眚

△按元祿十四年和州吉野郡山中有獸狀似狼而大高

 四尺長五尺許有白黒赤皂彪班之數品尾如牛蒡根

 鋭頭尖喙牙上下各二如鼠牙齒如牛齒眼竪脚太而

[やぶちゃん注:「喙」は「啄」であるが、おかしいので訂した。東洋文庫訳も「喙」とする。]

 有蹼走速如飛所觸者傷人靣手足及喉遇之人俯倒

 則不噬而去用銃弓不能射之用阱取得數十而止【俗呼

 名志於宇】蓋黒眚之屬乎

 

 

しい

 

黒眚

 

「震澤長語〔(しんたくちやうご)〕」に云はく、『大明の成化十二年[やぶちゃん注:一四七六年。]、京師[やぶちゃん注:当時の明の首都は既に南京から北京に移っている(遷都は一四二一年)。]〔に〕物有り、狸のごとく、犬のごとし。倐然〔(しゆくぜん)〕として[やぶちゃん注:忽ち。]、風のごとく〔來たりて〕、或いは人靣を傷(きずつ)け、手足を噬〔(か)〕む。一夜〔にして〕數十、發〔(おこ)〕る。黒〔き〕氣を負ふ。〔故に〕俗に「黒眚」と名づく』〔と〕。

△按ずるに、元祿十四年[やぶちゃん注:一七〇一年。]、和州吉野郡〔の〕山中〔に〕獸有り、狀〔(かたち)〕、狼に似て、大きく、高〔(た)〕け四尺、長さ五尺許り。白黒〔(びやくこく)〕・赤皂〔(あかぐろ)〕・彪班〔(ひようまだら)〕の數品〔(すひん)あり〕、尾、牛蒡〔(ごばう)の〕根のごとく、鋭き頭、尖れる喙〔(くちさき)〕、牙、上下各二つ〔ありて〕鼠の牙のごとく、齒は牛の齒ごとく、眼〔(まなこ)〕、竪〔(たて)〕にして、脚、太くして蹼(みづかき)有り。走-速(はし)ること飛ぶがごとく、觸るる所の者、人靣・手足及び喉〔(のど)〕を傷つくる。之れに遇ひ、人、俯〔(うつむ)〕き〔て〕倒〔(たふ)〕るれば、則ち、噬まずして去る。銃・弓を用ひて〔も〕之れを射ること能はず。阱(をとしあな[やぶちゃん注:ママ。]を用ひて、數十を取り得て、止む【俗に呼びて「志於宇〔(しおう)〕」と名づく。】。蓋し、黒眚の屬か。

[やぶちゃん注:幻獣。挿絵を見てもモデル動物も思い浮かばない。良安の附言に挙げるものは、ごく直近(本書は正徳二(一七一二)年頃成立であるから、僅か十年前の事件である)の出現と捕獲事例であって、それは明らかに実在する獣として述べられているのであるが、当該し得る動物も私には浮かばない(狼の特殊な毛色の個体群にしてもバラエティに富み過ぎていて実在感がない)。但し、私は一読、銃や弓で狙撃出来ない点(落とし穴で獲れるというのは除外する)、人の顔面・手足・頸部前面等を傷つける点、疾風のように敏捷である点から、

「鎌鼬(かまいたち)」

を第一に、次いで

「頽馬(だいば)」

を想起したことを述べておきたい。それぞれ、さんざん電子化したし、私の見解も語ってきた。まんず、概要なら、「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」を読まれたく、続いて「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」を、また、後者については「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」を見られんことを強くお薦めしたい。但し、「鎌鼬」も「頽馬」も落とし穴で捕えることが出来る実在獣ではない。因みに、ウィキの「シイ(妖怪)」があるので以下に引用はしておくが、この内容は私にとっては(珍しく)散漫な印象で頗る不満足なものである。『シイ』(引用元には漢字で「青」及び、原文部分で字注として述べた、上が「生」で下が「月」の字を表示してあるが、後者は私の現在のブログでは文字化けして表示出来ない)『は、日本の妖怪。和歌山県、広島県、山口県、福岡県に伝わる。姿はイタチに似ており、牛や馬などを襲うという』。「日本国語大辞典」「広辞苑」の『記述によると、シイは筑紫国(福岡県)や周防国(山口県)などに伝わる怪獣で、その姿はイタチに似ており、夜になると』、『人家に侵入し』、『家畜の牛や馬を害する存在であるという』。江戸時代の本草書「大和本草」や本「和漢三才図会」、随筆「斎諧俗談」等には、『シイに「黒』(上記下線で説明した漢字)『」という漢字表記をあてている』。貝原益軒の「大和本草」の『解説によると、周防国(現・山口県)や筑紫国(現・福岡県)におり、やはり牛馬に害をなすもので、賢い上に素早いので』、『なかなか捕えることはできないとある』「中村学園大学」公式サイト内の同大「図書館」の「貝原益軒アーカイブ」「大和本草」の「巻之十六」(PDF)の十二コマ目から十三コマ目にかけて載る。良安と同じく完全に実在する害獣として記載しており、益軒は筑紫にも所々でこの獣がいると断言している(彼は生涯の殆どを福岡で過ごした)。しかし同時に近年までこの動物がいることを知らず、最近になって狩りするようになったと言っている、正直、「なにこれ?」って感じ。益軒は「養生訓」で有名だが、本草家としては杜撰が多く、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」は実はこの「大和本草」が誤りだらけであることに腹を立てた蘭山がそれを批判する目的をも以って作られたものである。「斎諧俗談」では『奈良県吉野郡にいるものとされ、人間はこれに触れただけで顔、手足、喉まで傷つけられるとある』(「斎諧俗談」のそれは巻五に載るが、「和漢三才図会」の記載を順序を入れ替えて剽窃したものでしかない。同書は引用元を伏せてしばしばそうしたことをやらかす要注意の作品である)。『和歌山県有田郡廣村(現・広川町)や広島県山県郡では、シイを「ヤマアラシ」ともいって、毛を逆立てる姿を牛がたいへん恐れるので、牛を飼う者は牛に前進させる際に「後ろにシイがいるぞ」という意味で「シイシイ」と命令するのだという』。山口県『大津郡長門市では田で牛を使う際』、五月五日に『牛を使う、田植え時期に牛に牛具を付けたまま川を渡す、女に牛具を持たせる』五月五日から『八朔』(旧暦八月一日のこと)『までの間に』、『ほかの村の牛を率いれるといった行為がタブーとされており、これらを破ると』、『シイが憑いて牛を食い殺すといわれた』(この事例は私にはすこぶる「頽馬」との親和性がある内容と考えている)。福岡県『直方市にある福智山ダムには、地元に伝わるシイ(しいらく)の伝承を伝える石碑が建てられている』。『この』幻獣は、『本来は中国の伝承にある怪物の名であり、宋時代の書』「鉄囲山叢談」によると、その『一種として「黒漢」というものが』北宋の『宣和年間』(一一一九年~一一二五年)『の洛陽に現れ、人間のようだが』、『色は黒く、人を噛むことを好み、幼い子供をさらって食らい、その出現は戦乱や亡国の兆しとして恐れられていたとある』、また、明代の「粤西叢戴」では、『この類として「妖』(同前の字)『」というものが、夜になると』、『人家に侵入して女を犯し、時に星のごとく、黒気のごとく、火の屑のようにもなるとある』。『江戸期の書物にある』それ『は、日本の正体不明の怪物に』、『この中国の』その『名を』ただ『当てはめたに過ぎないとの説もある』とある。

「震澤長語〔(しんたくちやうご)〕」明の王鏊(おうごう)撰。東洋文庫の書名注によれば、『十三項目に分けて事物を考訂したもの』とある。中文サイトでやっと見つけた。上巻の以下。

   *

成化中。京師黑眚見、相傳若有物如狸或如犬、其行如風、倐忽無定、或傷人面、或嚙人手足。一夜數十發、或在城東、又在城西、又在南北、訛言相驚不已。一日上御奉天門、視朝、侍衛忽驚擾、兩班亦喧亂、上欲起、懷恩按之、頃之乃定。自是日、遣内豎出詗。汪直、時在遣中、數言事、由是得幸。遂立西廠、使偵外事廷臣、多被戮辱、漸及大臣、大學士。商輅兵部尚書項忠皆以事去都。御史牟俸亦被逮、或徃南京、或徃北邊、威權赫奕倐忽徃來不測人、以爲黑眚之應也。

   *

よく判らないが、ともかくも神出鬼没であることは取り敢えず判るわな。]

太平百物語卷一 四 富次郎娘虵に苦しめられし事

 

    ○四 富次郎娘虵(へび)に苦しめられし事

Tomijiroumusume

 越前の國に富次郎とて、代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持(もち)たる人、有り。

 此富次郎、一人(ひとり)の娘をもてり。今年十五才なりけるが、夫婦の寵愛、殊にすぐれ、生(むま)れ付(つき)もいと尋常にして、甚(はなはだ)みめよく、常に敷嶋(しきしま)の道に心をよせ、明暮(あけくれ)、琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。

 或時、座敷の緣に出て、庭の氣色を詠(ながめ)けるに、折節、初春(はつはる)の事なれば、梅(むめ)に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

    わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

     風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや、聞きて、

「げにおもしろくつゞけ玉ふ物かな。御身の言の葉にて、わらはも、おもひより侍る。」

とて、取りあへず、

    春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝に

     なきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠(ゑひ)じられければ、此娘、聞きて、

「実(げ)によくいひかなへさせたまひける哉。」

と、互に親子、心をなぐさめ樂しみ居(ゐ)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小虵(こへび)壱疋(いつひき)、

「するする。」

といでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上(あが)るほどに、

「あらおそろしや。」

と、内にかけいれば、虵も同じく付(つい)て入(いる)。

 人々、あはて立出(たちいで)て、杖をもつて、追(おひ)はらへども、少しも、さらず、此娘の行方(ゆくかた)に、したがひ行く。

 母人(はゝびと)、大(おほ)きにかなしみ、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])に

「かく。」

と告げければ、富次郎、大きにおどろき、從者(ずさ)を呼(よび)て取捨(とりすて)させけるに、何(いづ)くより來(きた)るともなく、頓(やが)て立歸(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。

 幾度(いくたび)すてゝも、元のごとく歸りしかば、ぜひなく打殺(うちころ)させて、遙かの谷に捨(すて)けるに、又、立ち歸りて、もとの如し。

「こはいかに。」

と、切(きれ)ども、突(つけ)ども、生歸(いきかへ)り、生歸りて、中々(なかなか)娘の傍を放れやらず。

 兩親をはじめ、家内の人々、

「如何(いかゞ)はせん。」

と嘆かれける。

 娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果(はて)、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱、山伏・ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其(その)驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(ゐ)ける。

 然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞(きゝ)給ひ、不便(びん)の事におぼし召し、富次郎が宅(たく)に御入有りて、娘の樣躰(やうだい)・虵がふるまひを、づくづくと[やぶちゃん注:ママ。]御覽あり、娘に仰せけるやうは、

「御身、座を立て、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行べし。」

と。

 仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たすけ)られ、二十(にじつ)步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、虵も同じくしたがひ行く。

 娘、とまれば、虵も、とまる。

 時に長老、又、

「こなたへ。」

とおほせけるに、娘、歸れば、虵も、同じく立歸る所を、長老、衣の袖にかくし持玉(もちたま)ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此虵が敷居をこゆる所を、つよくおさへ玉へば、虵、行(ゆく)事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程(ほど)、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り、木刀に喰付(くひつく)所を、右にひかへ持(もち)玉ひし小劔(こつるぎ)をもつて、頭を「丁(てう)」ど、打ち落し給ひ、

「はやはや、何方(いづかた)へも捨(すつ)べし。」

と。

 仰せにまかせ、下人等(ら)、急ぎ野邊(のべ)に捨(すて)ける。

 其時、長老、宣(のたま)ひけるは、

「最早、此後(こののち)、來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ、兩親のなげき、おもひやり侍るなり。今よりしては、心やすかれ。」

とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は、餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏拜(ふしおが)みけるが、其後(そのゝち)は、此虵、ふたゝび、きたらず、娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事、かぎりなし。

「誠に有難き御僧かな。」

とて、聞く人、感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では文字が有意に小さく、全体が本文の二字相当の下げとなっているが、ブラウザの不具合を考えて引き揚げた。]

評じて曰(いはく)、虵、木刀に喰付(くひつき)たる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび、娘に付事、能はず。是(これ)、倂(しか)しながら、知識(ちしき)の行ひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に、此一箇(いつこ)に限らず、萬(よろづ)の事におよぼして、益(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])ある事、少なからず。諸人、能(よく)思ふべし。

[やぶちゃん注:おぞましき異類恋慕譚に、鎌倉新仏教のチャンピオンたる禅宗僧が、その蛇の執心の意識をずらすことで退治するという仕掛けを施し、気味の悪さを和歌で和らげてあるこの一篇、私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のようには思われる(白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である)ものの、なかなかに成功している怪談で、まず「太平百物語」の一つのクライマックスと言える。第四話目にこれを配し、しかも異例な作者の評言を添えるなど、筆者の自信作であったことは疑いない。但し、プロトタイプは恐らく中国の伝奇か志怪小説であろう。なお、この一条は既に「柴田宵曲 妖異博物館 執念の轉化」の注で電子化しているが、今回は底本を変えたので、一からやり直した。柴田宵曲はかなり綿密に本話を梗概訳しているので、そちらも見られたい。

「敷嶋(しきしま)の道」歌道のこと。これを「敷島の道」と呼ぶようになったのは、存外、新しいようだ。田中久三氏のサイト「亦不知其所終」の「敷島の道」の考証が興味深い。それによれば、歌学用語としての定着は鎌倉後期のようである。]

太平百物語卷一 三 眞田山の狐伏見へ登りし事

 

    ○三 眞田山(さなだやま)の狐伏見へ登りし事

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 伏見に德地屋(とくぢや)といふ穀物(こくもの)問(とい[やぶちゃん注:ママ。])屋あり。或日の事なりしが、五十斗(ばかり)の女壱人、此みせの先に立ちやすらひ居(ゐ)けるが、風呂敷包より藁苞(わらつと)を取出(とりいだ)していふやう、

「わらはゝ、大坂より京へのぼる者なり。此苞は大事の物に候ふまゝ、厠(かはや)へ參り申すうち、しばらく是(これ)に御預り置給はれ。」

といふにぞ、

「子細候はじ。」

とて許容して預り置(おき)しが、一時(とき)斗になりても、此女、見へこず。

「こは。わすれて上京せしにや。大事の物といひしが。」

なんど、寄合、いひあへりしを、主人、聞付(ききつけ)、おくより出ていひけるは、

「しらぬ人の物、須臾(しばらく)も預る事、卒爾(そつじ)の至りなり。」

とて、大きに叱り、其あたりなる厠ごとに尋(たづね)させけれども、敢て見へねば、

「又々たづね來(きた)るまで大事にして置べし。」

とて、庭の片脇(かたわき)に持行(もちゆき)、桶をかぶせ、犬・猫の用心をして置けるに、亥の刻ばかりとおもふ比(ころ)、此桶、そろそろとゆるぎ出(いだ)しけるを、下女が見付けて、うちおどろき、

「あれあれ、桶の步き侍る。」

といひければ、家内(かない)の男女(なんによ)、おそれ合、身をちゞめて守りゐる内、此桶、次第に宙に上(あが)るとぞ見えし。

 小坊主、壱人、立出(たちいで)しが、次第次第に大きになりて、七尺有餘(ゆうよ)の大入道となり、

「あら窮屈や。」

といひて、四方を見廻す其眼(まなこ)のすさまじさ、偏(ひとへ)に車輪のごとくなりければ、女・わらべはいふに及ばず、さしもに若き男までも、一度に、

「わつ。」

とさけびて迯吟(にげさまよ)ふ。

 されども、亭主は心剛(こゝろがう)る男にて、脇指(わきざし)おつ取、飛(とん)で出(いで)、彼(かの)大入道を、

「はつた。」

とねめ、

「おのれ。いかなる變化(へんげ)なれば、我家(わがいへ)に來りて、かく人を惱ます。はやく此所(このところ)を立ちさるべし。ぜひ、災(わざはひ)をなさんとならば、今(いま)、目の前に切(きつ)て捨てん。」

と、勢ひかうでいひければ、入道がいはく、

「われは大坂眞田山に年を經る狐なり。此家(このいへ)の者、頃日(このごろ)、わが住(すむ)所に來りて、出(いで)入りする穴に、小便をし、穢(けが)したるがにくさに、跡をしたふて登り、此所の桃山に住む狐を賴みて、今朝(こんてう)、たばかり入たり。はやはや、其者を出すべし。さもなくば、家内殘らず仇(あだ)をなさん。」

といふ。

 亭主、此よしを聞(きゝ)、

「頃日(このごろ)大坂へ下(くだ)せし者は太次兵衞(たじびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])なり。」

とて、呼出(よびいだ)して、事のやうすを尋ねければ、太次兵衞、ふるひふるひ這出(はひいで)て、

「誠に、仰せのごとく、眞田山見物に罷りて、木陰なる所に、何心なく、小便いたし候ひき。しらぬ事にてさふらへば、御ゆるし下さるべし。」

と、色を變じてなげきければ、亭主、入道にむかひ、

「樣子は、なんぢ、今(いま)聞く通りなり。しらざれば、力なし。ゆるして、はやはや歸るべし。」

といふ。

 入道がいはく、

「然らばいのちを助くべし。此(この)過代(くはだい)として、わが住(すむ)穴に、三日が内(うち)、赤飯(あかめし)と油ものを備へ來(きた)るべし。此事、違(たが)ふにおいては、汝が皮肉に入りて、命を取(とる)べきぞ。」

といふに、

「其義(そのぎ)ならば、いと安き事なり。明日(みやうにち)より三日の内、朝暮(てうぼ)備へ申さん。」

と請合(うけあひ)しかば、忽ち、形ちは、消え失せたり。

 それよりして三日の内、朝暮、彼(かの)所に備へければ、太次兵衞が身の上、無事にをさまりけるとかや。

[やぶちゃん注:「太平百物語」のここまでの巻頭三話は総て妖狐譚で、作者の計算された構成意図が窺える。狐の博物誌は、ごく最近電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」をお薦めする。

「眞田山」現在の大阪市天王寺区の大阪城の南方にある小さな丘。「大坂冬の陣」の際、真田幸村が陣を構えた所とされる。ここ(グーグル・マップ・データ。大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園をドットした。宰相山は真田山の別名)。ここから伏見までは直線でも三十六キロメートルある。

「一時」現在の二時間相当。

「卒爾」十分な判断をせず、軽々しい行動をとること。軽率。

「亥の刻」現在の午後十時の前後二時間頃。挿絵師は本文を読んで描いていると思われるから、おくどさん(竈)では飯が炊かれているのは、当時の商家の雇い人たちの夕食か。されば彼らの夕飯は著しく遅かったことが窺われるではないか。

「七尺」二メートル十二センチ。

「吟(さまよ)ふ」当て訓としては不審。「吟」にはこのシーンに相応しい意味では「呻(うめ)く」・「嘆く」・「泣き叫ぶ」等があるが、「彷徨(さまよ)う」の意はない。

「桃山」伏見桃山。この附近(グーグル・マップ・データ。京阪電気鉄道京阪本線の「伏見桃山駅」をドットした)。狐が住まうのだから、地図の東北の、伏見桃山城跡や明治天皇陵がある辺りであろう。

「たばかり入たり」(「入(いり)たり」)「謀(たばか)る」は「計略をめぐらして騙(だま)す。誑(たぶら)かす」。本話の前の一連の変事・怪異を総て示す。さすれば、五十歳ほどの老女は助力を頼んだ桃山の狐が変じたものと読める。

「赤飯(あかめし)」赤飯(せきはん)。供物としての赤飯の起原はよく判っていないが、ウィキの「赤飯」によれば、『古代より赤い色には邪気を祓う力があるとされ、例えば墓室の壁画など呪術的なものに辰砂が多く使われ、また、日本神話の賀茂別雷命や比売多多良伊須気余理比売出生の話に丹塗矢(破魔矢の神話的起源)の伝承があることからも窺える。また、神道は稲作信仰を基盤として持ち(田の神など)、米はとても価値の高い食糧と考えられてきた。このため、古代には赤米』『を蒸したものを神に供える風習があったようである(現在でもこの風習は各地の神社に残っている)。その際に、お供えのお下がりとして、人間も赤米を食べていたと想像される。米の源流を辿ると、インディカ種とジャポニカ種に辿り着く。インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白である。縄文時代末期に日本に初めて渡ってきた米はこの』二『種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だった。この米を、日本人は江戸時代になる前まで食べていた。しかし、稲作技術の発展による品種改良でより収量が多く作りやすい米が出てきたこと、食味の劣る赤米を領主が嫌って年貢として収納することができなかったことから、次第に赤米は雑草稲として排除されるようになった。だが』、『赤いご飯を食べる風習自体は生き続け、白い米に身近な食材である小豆等で色付けする方法が取られるようになったと考えられる。赤飯にゴマを乗せるのは、白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすためである』という。『現在は、祭りや誕生祝いなど吉事に赤飯を炊く風習が一般的である。しかし、江戸時代の文献』「萩原随筆」には、『「凶事ニ赤飯ヲ用ユルコト民間ノナラワシ」と記されており』、『凶事に赤飯を炊く風習がこの頃には既にあった』。『凶事に赤飯を炊く理由は不明ではあるが、赤色が邪気を祓う効果がある事を期待したためという説や、いわゆる「縁起直し」という期待を込めて赤飯が炊かれたとも考えられる。また、古くは凶事に赤飯を食べていたものが何らかの理由で吉事に食べるように反転したという説もある』。『伝承や歴史が明白となっている部分では、少なくとも』十二『世紀には赤飯が供養に使われていたという事である。赤飯は宗教的な意味合いも強く、赤飯を用いた「赤飯供養」という風習が存在する』とあるから、稲荷信仰よりも以前に赤飯を供物とする習俗は存在したのであり、動物生態学的にもキツネが赤飯を好むものではない。

「油もの」「油揚げ」ではない。油で揚げたものである。当初の稲荷信仰ではキツネが好む鼠を油で揚げたものが供物とされていたが、仏教の殺生禁断から油揚げに変わったに過ぎず、くどいが、肉食であるキツネが特に油揚げを好むわけではない。但し、キツネは肉食に近い雑食性であり、飢えていれば、赤飯や油揚げも食う。]

郭公の歌 伊良子清白 (附初出形)

 

郭公の歌

 

莊嚴美麗の夕日影

一ひらの雲羽搏き入らば

極樂鳥と身をかへん

汝は醜き冥府(よみ)の鳥

 

たとへば蘭の花を啄(ついば)み

巖(いはほ)の上に尾羽を伸す

快樂(けらく)の鳥にくらぶれば

汝は人に馴れ難き

 

生れて鳥の郭公(ほととぎす)

盲(めしひ)の鳥にあらねども

めしひの鳥のごとくにて

人厭はしき風情(ふぜい)あり

 

番(つがひ)はなれぬ金絲雀(かなりや)の

人に飼はるる歌鳥は

手にさへのりて囀れど

汝はにくき小鳥かな

 

汝はにくき鳥なれど

雨にくるひてをやみなく

木かげにさけぶ聲きけば

心は千々にむしられぬ

 

ああ暗黑と光明の

二つのかげをより交(ま)ぜて

林をゆすり山をとよもし

みち渡り行く夕暮の聲

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年十月発行の『明星』初出であるが、初出形からは大きな改変が行われている。後で初出形を示す。

 言わずもがなであるが、標題中の「郭公」は「ほととぎす」と読んでいる。本邦の古文ではこれを「くわくこう」(かっこう)と読むことはなく、あくまでカッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus を指すのであり、カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus はその棲息域が温暖地の森林であったことから、少なくとも文芸対象としては全く認知されていなかったのである。例えば、同志社女子大学公式サイト内のコラム『「ほととぎす」をめぐって』を見られたい。流石に江戸中期の正徳二(一七一二)年頃成立した寺島良安の画期的な博物学書「和漢三才図会」には、「第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」でホトトギスが、同巻「第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」「第四十三 林禽類 加豆古宇鳥(かつこうどり)(カッコウ?)」でカッコウ或いはカッコウ類らしきものが分別されて登場するが(リンク先は総て私の電子化注)、後の二者は良安の附言部(△印以降)が短いのを見ても、江戸中期の段階でさえも本草学的(良安は医師)にすこぶるマイナーであったことが判る。

「極樂鳥」これは種としてのそれ(スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae のフウチョウ類の異名。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 風鳥(ふうちやう)(フウチョウ)」を参照)ではなく、後の「醜き冥府(よみ)の鳥」対として出したに過ぎない。後の「快樂(けらく)の鳥」も同義と採る。

「汝は醜き冥府(よみ)の鳥」先に示した同志社女子大学公式サイト内のコラム『「ほととぎす」をめぐって』にも、『中国の故事に由来するものは「死・魂・悲しみ」のイメージをひきずっているとされています』。ホトトギスの異名の一つの『「しでの田長」は』、『本来』、『身分の低い「賎(しづ)の田長」だったようですが、それが「死出」に変化したことで、「田植え」のみならず』、『冥界と往来するイメージまで付与されました』とあるように、主に中国伝来の不吉な鳥としての文化が纏いついている彼らにとっては不幸な経緯がある。それについては、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」の本文や私の注を参照されたい。昼夜を問わず鳴くことが、ある種の五月蠅さと冥界との以降的時空間に啼く不吉な鳥と理解された可能性も高いと私は考えている。

「生れて鳥の郭公(ほととぎす)」/「盲(めしひ)の鳥にあらねども」/「めしひの鳥のごとくにて」/「人厭はしき風情(ふぜい)あり」恐らく伊良子清白はここでは知られたホトトギス前世譚として知られる「時鳥(ほととぎす)と兄弟」等と呼ばれる説話を念頭に置いているものと思う。小学館「日本大百科全書」の「時鳥と兄弟」から引く(下線太字は私が附した)。『昔話。鳥の前生が人間であったことを主題にする鳥の由来譚』『の一つ。兄弟がいる。弟が山芋』『をとってくる。兄にはうまい下のほうを食べさせ、自分はまずい上のほうを食べる。疑い深い兄は、弟がうまいところを食べているのではないかと思い、弟ののどを突き切った。山芋のまずいところばかり出てくる。兄は後悔してホトトギスになり、「オトノドツッキッタ」(弟ののどを突き切った)と鳴いている、という話である。弟はモズになり、兄のために虫などを木の枝に挿しておくという伝えが付随している話もある。兄が弟を疑う伏線として、兄は盲目であったとか、異母兄弟であったとか説く例も多い(私は盲目設定としてこの話を知っている)。『「継子(ままこ)話」の形をとるものもあり、ホトトギスの托卵(たくらん)性から「継子話」として語られた時期がある』の『かもしれない。端午』『の節供に山薬(さんやく)と称して山芋をとってきて食べる習慣があった地方では、それに結び付けて説いている。類話は中国貴州省のミャオ族にもある。「ペェア」(兄さん)と鳴く鳥の由来で、兄は魚をとってくると、弟には身を与え、自分は頭を食べていたが、弟は兄がうまいほうを食べていると思い、兄を川に突き落とす。頭がまずいことを知った弟は兄を探し求めて鳥になったという。日本にも福島県に魚の例があり、注目される。兄弟の葛藤』『を主題にした鳥の由来譚はマケドニアやアルバニアにもある』とある。

「金絲雀(かなりや)」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。野生種はアゾレス諸島(大西洋の中央部(マカロネシア)にある九つの島からなる群島。ポルトガル領)・カナリア諸島(アフリカ大陸北西沿岸に近い大西洋上の七つの島からなる群島。スペイン領)・マデイラ諸島(ポルトガルの首都リスボンから南西に約一千キロメートルのマカロネシアにある四つの島からなる群島。ポルトガル領)で、名のカナリアは原産地の一つであるカナリア諸島による。

 初出形は以下。

   *

 

郭公の歌

 

羽(はね)の和毛(にこげ)に雨うたば

あつき血潮の胸冷えむ

もとより人に隱れゐて

葉陰に洩らす歌の聲

 

たとへば枇杷を啄みて

上毛(うはげ)の艶(つや)の羽をのす

快樂(けらく)の鳥に比ぶれば

汝(なんぢ)は人に馴れ難き

 

生れて鳥の郭公

めしひの鳥にあらねども

めしひの鳥のごとくにて

人いとはしき風情あり

 

巢なき鳥ぞと笑はれて

耻らふらしき雛ならば

手にさへ乘りて囀れど

汝はにくき小鳥かな

 

逆立つ毛には瀧つ瀨の

雨ふりそそぎ身のうちの

肉ことごとく波立ちて

とまり危き木々(きゞ)の枝

 

鳥屋(とや)にかくるゝ鷄の

雌(め)にもおとれる小さき身の

闇(やみ)いと深き夕暮も

恐を知らず啼けるかな

 

汝はにくき鳥なれど

雨にくるひてをやみなく

木かげに歌ふ聲きけば

心は千千(ちぢ)にむしられぬ

 

   *

初出の「巢なき鳥ぞと笑はれて」とは托卵の習性を指す。]

2019/04/17

追伸

現物標本よりも精密な模造の方が遙かに金がかかるし、技術も不可欠だ。何より、実物は厳粛であると同時に、より科学的に教育的であることは言うまでもない。言っとくぜ! 実物の標本があって「何が悪い!」と。因みに、母と俺と妻の肉体は慶応大学に献体だ。医学部志望の誰彼は俺を切刻んで学ぶのだ。俺はそこでちゃらけた奴が俺の耳を切って「壁に耳あり」とやらかしたとしても、「全然いいぜ」と言える人間なのだ――

胸糞悪い最下劣なタイプ標本とは、実人骨なんぞではなく、偉そうにして生きて人民を支配して「日本人」の代表――タイプ種然としている誰彼そのものだろう。そいつらこそ今、廃棄されるべきおぞましい対象物である。

生物室の髑髏

先日来の報道を聴きながら、思い出すことがある。私が最初に勤務した学校の(別に言っても構わないが、それが下らぬ官庁の大騒ぎになってあの校長やらが大騒ぎをすると……♪ふふふ♪……困るかも知れぬから……言わぬこととしよう)生物教官室にあった頭骨標本は、インドの女性の実物標本であった(報道ではインドから輸入された標本が多数あったとあった)。私の尊敬した甲殻類を専門で学ばれた生物教師(故人)は、その頭蓋骨の人物の名前も教えてくれた。合宿でその部屋に泊まる時は、その標本に蔽いをかけて見ないようにしていると言われておられたのを思い出す。私はそれを聴きながら、梶井基次郎の「愛撫」を思い出していたことも遠い昔に呼び返したことも(リンク先は私の古い電子テクスト)。

私は醫科の小使といふものが、解剖のあとの死體の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、學生と祕密の取引をするといふことを聞いてゐたので、非常に嫌な氣になつた。何もそんな奴に賴まなくたつていいぢやないか。そして女といふものの、そんなことにかけての、無神經さや殘酷さを、今更のやうに憎み出した。しかしそれが外國で流行つてゐるといふことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雜誌か新聞かで讀んでゐたやうな氣がした。――

……高等學校の……生物學教室に……印度の女性の頭蓋骨が……ある…………ああ……さても「此の世のものでない休息が傳はつて來る」ではないか…………

太平百物語卷一 二 馬士八九郞狐におどされし事

 

    ○二 馬士(むまかた)八九郞狐におどされし事

 大坂久宝寺町(きうほうじまち)に八九郞といふ馬士あり。或る日、牧方(ひらかた)まで馬に荷付けて行しが、歸るさ、守口(もりぐち)より日暮けり。時は霜月下旬の事なれば、寒風、面(おもて)を打(うち)て、いとさむかりしかば、茶店(さてん)によりて、茶椀酒をかたぶけ、醉ひきげんに寒氣(かんき)をわすれ、小歌(こうた)つぶやきて歸りける所に、年比六十斗(ばかり)の禪門、八九郞をよびかけ、

「いかに馬士(まご)殿、われは、今宵、大坂へ行(ゆく)者なり。老足、甚(はなはだ)道に倦(うみ)たり。其馬かして乘せ玉へ。」

といふ。八九郞聞きて、

「價(あたひ)はいかほど出(いだ)さるゝや。酒手あらば、のせん。」

といふ。禪門がいふ、

「御覽の通り、貧僧なり。心安くして、乘(のせ)給へ。」

といへば、

「さらば、乘り候へ。」

と彼(かの)馬にうち乘せ、四、五丁斗、行く所に、うしろの方より、大勢の聲として、

「其馬、まて。」

とぞ、どよめきける。

 八九郞、『何事やらん』と顧りみれば、武具(ものゝぐ)せし者、四、五人かけ來り、此馬に追付(おひつく)といなや、彼(かの)禪門を馬より取つて引(ひき)おろし、

「扨々、にくき坊主めかな。」

とて、引縛りければ、八九郞、仰天し、馬を馳(はせ)て逃げけるに、

「其馬とまれ。」

と、口々にいふ聲、しきりなれば、『南無三宝(なむさんぼう)』とおもひ、やがて、馬にとび乘(のり)、息をばかりに追(おつ)たつれば、跡より追ひ來るこゑ、次第次第に遠ざかりしまゝ、やうやうに心をやすんじ、片町(かたまち)まできたりて、しるべの方(かた)にかけ入(いり)、大汗をながして、しかじかのよしを語れば、亭主もおどろき、いぶかりしが、後(のち)に能(よく)々きけば、狐どもが八九郞をばかしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「馬」は総て「むま」と読んでいるので、そのように読まれたい。

「大坂久宝寺町(きうほうじまち)」現在、大阪府大阪市中央区に内久宝寺町・北久宝寺町・南久宝寺町があるから、この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ。北と南のそれは中央附近に現認出来る)である。大阪城の南西の町屋である。

「牧方(ひらかた)」ママ。「徳川文芸類聚」版では「枚方」と訂するが、「江戸文庫」(国立国会図書館蔵本を親本とする)も「牧方」である。怪談話では虚構性を暗示させるためにしばしばこうした意識的仕儀が行われることがある。大阪府枚方市。直線でも二十キロメートルはあるから、荷駄で往復では日も暮れよう。

「守口(もりぐち)」大阪府守口市は丁度、中間点に当たる。

「心安くして」親切なる志しを以って。

「さらば、乘り候へ」禅僧であるから、布施のつもりでただで乗せたのである。酒に酔った心地よさも手伝ってはいるが、八九郎はこだわりを見せておらず、すんなりと引き受けており、優しい市井の民の一人なのである。こうした設定は前の金目当ての藪医者松岡同雪なんどとは異なり、読む庶民も八九郎に親和性を抱いて読み、主人公とともに狐に化かされることを「能狂言」の登場人物のように一緒に気持ちよく楽しむのである。

「四、五丁」約四百三十七~五百四十五メートル。

「片町」大阪府大阪市都島区片町であろう。大阪城北詰である。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)

Ookami

 

 

 

おほかみ  毛狗   獾【牡】

        狼【牝】 獥【子】

        【和名於

ラン       保加美】

 

本綱狼處處有之豺屬也穴居形大如犬而鋭頭尖喙白

頰駢脇高前廣後脚不甚高能食雞鴨鼠物其色雜黃黒

亦有蒼灰色者其聲能大能小能作兒啼以魅人其久鳴

其膓直故鳴則後竅皆沸而糞爲烽烟直上不斜其性善

顧而食戾踐藉老則其胡如袋所以跋胡疐尾進退兩患

其象上應奎星【駢音緶聯也與骿同謂肋骨連合爲一也晉文公駢脇者是也】

肉【鹹熱】 補益五臟厚腸胃腹有冷積者宜食【味勝狐犬】

狼牙佩之辟邪惡氣 狼喉靨治噎病【日乾爲末每半錢入飯内食之妙】

狼皮暖人辟邪惡氣 狼尾繫馬胸前辟邪氣令馬不驚

 月淸世の中に虎狼も何ならす人の口こそなほ增りけれ

△按狼春夏出山家竊食鳥獸及人物秋冬穴居性能知

 機若欲獵則深匿不出四趾有蹯而能渉水或齅砲火

 繩之氣則遠避去夜有行人跳越其首上數回人如恐

 怖轉倒則噬食稱之送狼【人不怖又不敵者無害】故行山野人常

 攜火繩也狼見人屍必跳超其上尿之而後食之

五雜組云江南多豺虎江北多狼狼雖猛不如虎而貪殘

過之不時入村落竊取小兒銜之而趨豺凡遇一獸遂之

雖數晝夜不舎必得而後已故虎豹常以比君子而豺狼

比小人也

――――――――――――――――――――――

狼狽 狼前二足長後二足短狽前二足短後二足長狼

 無狽不行狽亦無狼不行若相離則進退不得

△按二物相依頼者蟨與蛩蛩【見鼠部】蝦與水母【見魚部】知母

 與黃栢【見木部】狼與狽亦然矣而狽未知其何物

 

 

おほかみ  毛狗

        獾〔(くわん)〕【牡。】

        狼【牝。】 獥〔(げき)〕【子。】

        【和名「於保加美」。】

ラン

 

「本綱」、狼、處處に之れ有り、豺〔(やまいぬ)〕の屬なり。穴居す。形・大いさ、犬のごとくにして、鋭き頭、尖れる喙〔(くちさき)〕、白き頰、駢(つらな)れる脇(わき)、高き前、廣き後脚〔は〕甚だ〔は〕高からず。能く雞・鴨・鼠〔の〕物を食ふ。其の色、雜す。黃黒、亦、蒼灰色の者有り。其の聲、能く大に〔成し〕、能く小に〔成し〕、〔また、〕能く兒の啼くを作〔(な)〕して、以つて人を魅(ばか)す。其れ、久しく鳴〔かば〕、其の膓(はらわた)、直(すぐ)なる故に〔長く〕鳴くときは、則ち、後(うしろ)の竅(あな)、皆、沸(わい)て[やぶちゃん注:ママ。]、糞、烽-烟〔(のろし)〕と爲〔(な)〕る。〔その烟は〕直〔ちに〕上りて斜〔(なのめ)〕ならず。其の性、善く顧(かへりみ)て、食ふときは、戾り踐〔(ふ)〕み〔て〕藉〔(しや)〕す[やぶちゃん注:踏み躙(にじ)ってから、やおら、食う。]。老するときは、則ち、其の胡(ゑぶくろ)、袋のごとし。所以〔(ゆゑ)〕に胡を跋(ふ)み、尾に疐(つまづ)く、進退、兩〔(ふた)〕つながら、患ふ。其の象(〔かた〕ち)、上(〔か〕み)〔の〕奎星〔(けいせい)〕に應ず【「駢」は音「緶〔(ベン)〕」、「聯〔(レン/つならる)〕」なり。「骿」と同じ。肋骨の連なり〔て〕合し、一に爲れるを謂ふなり。晉の文公〔の〕駢脇とは是れなり。】。

肉【鹹、熱。】 五臟を補益し、腸胃を厚くし、腹〔に〕冷積有る者、宜しく食ふべし【味、狐・犬に勝れり。】。

狼〔の〕牙〔は〕之れを佩ぶれば、邪惡の氣を辟〔(さ)〕く。 狼〔の〕喉靨[やぶちゃん注:「のどぼとけ」か。東洋文庫訳でも疑問符附きでそう割注する。]〔は〕噎-病〔(つかえ)〕を治す【日に乾し、末と爲し、每半錢[やぶちゃん注:明代の一銭は三・七五グラム。]、飯の内に入れ、之れを食へば妙なり。】。

狼〔の〕皮〔は〕人を暖め、邪惡の氣を辟く。 狼〔の〕尾〔は〕馬の胸の前に繫げ、邪氣を辟け、馬をして驚かさざらしむ。

 「月淸」

   世の中に虎狼も何ならず

      人の口こそなほ增さりけれ

△按ずるに、狼、春夏は山家に出でて、鳥獸及び人・物を竊(ぬす)み食〔(くら)〕ふ。秋冬は穴居す。性、能く、機を知り、若〔(も)〕し、〔人、〕獵せんと欲せば、則ち、深く匿(かく)れて出でず。四つの趾〔(あし)〕、蹯〔(バン/みづかき)〕[やぶちゃん注:ここは以前に出た「蹼(みづかき)」の意である。]有りて、能く水を渉〔(わた)〕る。或いは、砲の火繩の氣(かざ)を齅(か)ぎて、則ち、遠く避け、去る。夜、行く人有れば、其の首の上を跳(と)び越(こ)えること、數回にして、人、如〔(も)〕し、恐怖して轉倒すれば、則ち、噬〔か〕み食〔(くら)〕ふ。之れを稱して「送り狼」と〔謂ふ〕【人、怖れず、又、敵せざれば、害、無し。】。故に山野を行く人、常に火繩を攜(たづさ)へしむなり。狼、人の屍〔(しかばね)〕を見ば、必ず、其の上を跳び超え、之れに尿〔(ゆばり)〕して後、之れを食ふ。

「五雜組」に云はく、『江南には、豺・虎、多く、江北には、狼、多し。狼、猛しと雖も、虎にしかずして、而〔れども〕、貪殘なること[やぶちゃん注:貪欲で残忍なところは。]、之れに過ぐ。不時に[やぶちゃん注:思いもかけない時に。]村落に入り、小兒を竊〔(ぬす)〕み取り、之れを銜〔(くは)〕へて趨〔(はし)〕る。〔また、〕豺、凡そ、一〔つの〕獸に遇へば、之れを遂ふこと、數晝夜と雖も、舎〔(す)〕てず[やぶちゃん注:決して追跡を諦めない。]、必ず、得て後に已む[やぶちゃん注:獲物を確保して初めて走るのをやめる。]。故に、虎・豹は常に以つて君子に比す。而〔れども〕豺・狼は小人に比すなり』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

狼狽〔(らうばい)〕 狼は、前の二足、長く、後ろの二足、短し。狽は、前の二足、短く、後ろの二足、長し。狼、狽、無ければ、行かず、狽も亦、狼、無ければ、行かず。若〔(も)〕し、相ひ離るれば、則ち、進退、得ず。

△按ずるに、二物、相ひ依頼〔する〕者は、「蟨〔(けつ)〕」と「蛩蛩〔(きようきよう)〕」【「鼠部」に見ゆ。】、「蝦(ゑび)」と「水母(くらげ)」【「魚部」に見ゆ。】、「知母〔(ちぼ)〕」と「黃栢〔(くわうはく)〕」【「木部」に見ゆ。】〔等にして、〕狼と狽も亦、然り。而〔れども〕「狽」は、未だ其の何物といふことを知らず。

[やぶちゃん注:中国に分布するものは、哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ヨーロッパオオカミCanis lupus lupus。本邦に棲息していたが、我々が絶滅させてしまったのは、同じくタイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)と、同亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai(樺太と北海道に棲息していた)である。ウィキの「ニホンオオカミ」を引いておく。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない』。『薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って』、『大規模な群れを作らず』二頭・三頭から十頭『程度の群れで行動した。主にニホンジカ』(鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon)『を獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで』三『頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろを監視する様に付いて来る習性があったとされる。また』、この習性から、『hodophilax(道を守る者)という亜種名の元となった』。『一説にはヤマイヌ』(これは現在は本ニホンオオカミと山にいる野犬とを混同したものの呼称と考えるのが主流である)『の他にオオカメ(オオカミの訛り)』『と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方』を『飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり』、オランダの動物学者コンラート・ヤコブ・テミンク(Coenraad Jacob Temminck 一七七八年~一八五八年:シーボルトの「日本動物誌」(Fauna japonica 一八四四年~一八五〇年)の編纂作業ではドイツの動物学者ヘルマン・シュレーゲル(Hermann Schlegel 一八〇四年~一八八四年)とともに脊椎動物を担当しており、日本産大型脊椎動物はテミンクとシュレーゲルによって学名が命名されたものが多い)『はオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが』、『今となっては不明である』。『日本列島では縄文時代早期から家畜としてのイヌが存在し、縄文犬と呼ばれている』。『縄文犬は縄文早期には体高』四十五『センチメートル程度、縄文後期・晩期には体高』四十『センチメートルで、猟犬として用いられていた』。『弥生時代には』、『大陸から縄文犬と形質の異なる弥生犬が導入されるが、縄文犬・弥生犬ともに東アジア地域でオオカミから家畜化されたイヌであると考えられており、日本列島内においてニホンオオカミが家畜化された可能性は』、『形態学的・遺伝学的にも否定されている』。『なお、縄文時代にはニホンオオカミの遺体を加工した装身具が存在し、千葉県の庚塚遺跡からは縄文前期の上顎犬歯製の牙製垂飾が出土している』。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず』、『家屋にも侵入して人を襲った記録』『がしばしば現れる。また北越地方の生活史を記した』「北越雪譜」や、『富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述』『が現れている』。『奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など』、『日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する』。「遠野物語」の『記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など』、『家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている』。『江戸時代の』享保一七(一七三二)年頃には、『ニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている』。『なお』、明治二五(一八九二)年六月まで、『上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが』、『写真は残されていない。当時は、その後』十『年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』のであった。生存説を唱える人がいるが、私はそういう連中の非生態学的な主張は絶対に信じない。ウィキには「オオカミの再導入」もあるが、ヒトはどれだけ生態系を破壊したら気が済むのかという気がするだけである。

「豺〔(やまいぬ)〕」前項「豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」を参照されたい。

「高き前、廣き後脚〔は〕甚だ〔は〕高からず」ウィキの「オオカミ」によれば、『姿勢においては』、『頭部の位置がイヌに比べて低く、頭部から背中にかけては』、『地面に対して水平である』とあり、後半の部分は腑に落ちる。「高き前」というのは、索敵する際の伸び上がった姿勢を指しているように私には思え、これもまた腑に落ちる

「其れ、久しく鳴〔かば〕、其の膓(はらわた)、直(すぐ)なる故に〔長く〕鳴くときは、則ち、後(うしろ)の竅(あな)、皆、沸(わい)て、糞、烽烟と爲〔(な)〕る。〔その烟は〕直〔ちに〕上りて斜〔(なのめ)〕ならず」この部分、東洋文庫訳では『沸く。』と切って、以下を人はその狼の『糞を烽烟(のろし)に使う。煙は真直ぐ上って斜めにならない』と訳しているが、「本草綱目」を見てもそうは読めないし、時珍の訓点も上記の通りである。これは、言っている科学的な意味は全く判らないけれども、

――狼の腸は捩じれることなく真っ直ぐであるため、長く吠え続けると、腸の中で食ったものが醗酵或いは熱を持ち、遂には燻り出してしまい、遂には、肛門から出た糞から煙が立ち昇り出す。その煙は真っ直ぐに立ち昇って決してぶれて斜めになったりはしない不思議な煙である(その特異性を以って、古来、人は戦時の烽火(のろし)として使用するのである)。

という意味で採る。因みに、たまたま今朝、妻が見ていた忍術絡みのドキュメントのテレビ番組で、実際にオオカミの糞を燃やす実験が行われているのを見た。普通のものを燃やすのと煙の立ち方には変化はなかった。しかし、実験者が耐えられなくなるほど「臭い」のだそうで、臭気測定器では振り切れて計測出来ないほどのものであった。その臭いは恐らく一~二キロメートル圏内でも容易に人が感知出来るだろうと実験者は述べていた。そうか! それが! それでこその「狼煙」なんだ! と一人合点したものである。

「胡(ゑぶくろ)」餌嚢。この場合は胃であろう。老成個体では甚だしい胃下垂を起こすというのである。というより、これは腸の捻転のような症状にしか見えないのだが。

「其の象(〔かた〕ち)、上(〔か〕み)〔の〕奎星〔(けいせい)〕に應ず」東洋文庫訳では、『その占いの象は天の奎星(けいせい[やぶちゃん注:ルビ。])(トカキボシ[やぶちゃん注:本文割注。])と照応する』とある。「奎」は玄武七宿の一つで、現在のアンドロメダ座西部に当たり、距星(二十八宿の各宿の基準点となる星)はアンドロメダ座ζ(ゼータ)星に相当するという。

「晉の文公〔の〕駢脇」春秋時代の晋の君主文公(紀元前六九六年~紀元前六二八年/在位:紀元前六三六年~紀元前六二八年)は諱の重耳(ちょうじ)で知られる、春秋五覇の代表格の覇者。晋の公子であったが、国内の内紛を避けて、十九年もの間、諸国を放浪した後、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称された。彼は駢脇(肋骨が分かれず、総てが繋がって一枚の板のように見える骨奇形。或いは見かけ上で外見はそう見えただけのことかも知れない)であったという。これは「春秋左氏伝」の僖公二十三年(紀元前六三七年)の条の出る話で、以下。公子重耳が曹の国を訪れた時のことである。

   *

及曹、曹共公聞其駢脇、慾觀其裸。浴、薄而觀之。僖負羈之妻、「吾觀晉公子之從者、皆足以相國。若以相夫子必反其國。反其國、必得志於諸侯。得志於諸侯而誅無禮、曹其首也。子盍蚤自貳焉。」乃饋盤飧寘璧焉。公子受飧反璧。

   *

勝手流で訓読して見ると、

   *

 曹に及ぶ。曹の共公。其の駢脇(べんきよう)なるを聞きて、其の裸を觀んと慾し、浴するとき、薄(せま)りて、之れを觀る[やぶちゃん注:岩波文庫の小倉善彦氏の訳では『簾(すだれ)の外からのぞいた』とある。]。僖負羈(きふき)[やぶちゃん注:曹の大夫の名。]の妻、曰はく、「吾れ、晉の公子の從者を觀るに、皆、以つて、國に相(しやう)たるに足れり。若(も)し、以つて、夫子(ふうし)を相(たす)たけんとせば、必ず其の國に反(かへ)らん。其の國に反らば、必ず、志(こころざし)を諸侯に得ん。志を諸侯に得、而して無禮を誅(ちゆう)せんとせば、曹は其の首(はじめ)たらん。子、盍(なん)ぞ蚤(はや)く、自ら貳(そ)はざらんや[やぶちゃん注:親しく挨拶なさらないのか。]。」と。乃(すなは)ち、盤飧(はんそん)を饋(おく)り、璧(へき)を寘(お)く[やぶちゃん注:食膳を差し入れ、その膳の中に賄賂としての璧玉を包み入れておいた。]。公子、飧を受け、璧は反(かへ)したり。

   *

である。歴史上は、この年終わりか、翌年には重耳は晋公の座に就いているようだ(実に六十二歳の新君主であった)から、僖負羈の妻の観察は正鵠を射ていたのである。因みに、そういう盤状肋骨の奇形があるかないかは知らないが、例えば、私の嘗つての同僚で、尊敬した生物の先輩教師は、肋骨の最下部が左右ともに一本足りない奇形であられた。

「冷積」東洋文庫訳割注によれば、『体内に慢性の硬結があって』、『胃腸の働きのにぶっている』症状を指すとある。

「噎-病〔(つかえ)〕」「膈噎(かくいつ)」が知られた症状で、胸の辺りが痞(つか)える症状を示す疾患のこと。食道狭窄症・食道癌等に相当するか。

「月淸」「世の中に虎狼も何ならず人の口こそなほ增さりけれ」既出既注の九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)の家集「秋篠月清集」の「巻一 十題百首」の中の一首。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

「送り狼」ウィキの「送り犬」を引いておく。『送り犬(おくりいぬ)は、日本の妖怪の一種。東北地方から九州に至るまで各地で送り犬の話は存在するが、地域によっては犬ではなく狼であったり、その行動に若干の違いがある。単に山犬(やまいぬ)、狼(おおかみ)とも呼ばれる』。『夜中に山道を歩くと』、『後ろからぴたりとついてくる犬が送り犬である。もし何かの拍子で転んでしまうと』、『たちまち食い殺されてしまうが、転んでも「どっこいしょ」と座ったように見せかけたり、「しんどいわ」と』、『ため息交じりに座り』、『転んだのではなく』、『少し休憩をとる振りをすれば』、『襲いかかってこない。ここまでは各地とも共通だが、犬が体当たりをして突き倒そうとする、転んでしまうと』、『どこからともなく犬の群れが現れ襲いかかってくる等』、『地域によって犬の行動には違いがある』。『また、無事に山道を抜けた後の話がある地域もある。例えば、もし無事に山道を抜けることが出来たら』、『「さよなら」とか「お見送りありがとう」と一言声をかけてやると』、『犬は後を追ってくることがなくなるという話や、家に帰ったら』、『まず』、『足を洗い』、『帰路の無事を感謝して』、『何か一品送り犬に捧げてやると』、『送り犬は帰っていくという話がある』。『昭和初期の文献である「小県郡民譚集」(小山眞夫著)には『以下のような話がある。長野県の塩田(現・上田市)に住む女が、出産のために夫のもとを離れて実家に戻る途中、山道で産気づき、その場で子供を産み落とした。夜になって何匹もの送り犬が集まり、女は恐れつつ「食うなら食ってくれ」と言ったが、送り犬は襲いかかるどころか、山中の狼から母子を守っていた。やがて送り犬の』一『匹が、夫を引っぱって来た。夫は妻と子に再会し、送り犬に赤飯を振舞ったという。長野の南佐久郡小海町では、山犬は送り犬と迎え犬に分けられ、送り犬はこの塩田の事例のように人を守るが、迎え犬は人を襲うといわれる』。関東地方から近畿地方にかけての地域と、高知県には「送り狼」が伝わるという。『送り犬同様、夜の山道や峠道を行く人の後をついてくるとして恐れられる妖怪であり、転んだ人を食い殺すなどといわれるが、正しく対処すると』、『逆に周囲からその人を守ってくれるともいう』「本朝食鑑」に『よれば、送り狼に歯向かわずに命乞いをすれば、山中の獣の害から守ってくれるとある』(ここに本「和漢三才図会」の梗概が載るが、略す)。『他にも、声をかけたり、落ち着いて煙草をふかしたりすると』、『襲われずに家まで送り届けてくれ、お礼に好物の食べ物や草履の片方などをあげると、満足して帰って行くともいう』。『伊豆半島や埼玉県戸田市には、送り犬の仲間とされる送り鼬(おくりいたち)の伝承がある。同様に夜道を歩く人を追って来る妖怪で、草履を投げつけてやると、それを咥えて帰って行くという』。なお、ニホンオオカミには人間を監視する目的で、人についてくる習性があったとされ、妖怪研究家の村上健司は「送り狼は、実際にはニホンオオカミそのものを指しており、怪異を起こしたり、人を守ったりといった妖怪としての伝承は、ニホンオオカミの行動や習性を人間が都合の良いように解釈したに過ぎない」という主旨の仮説を主張している、とある。因みに、『好意を装いつつも害心を抱く者や、女の後をつけ狙う男のことを「送り狼」と呼ぶのは、この送り狼の妖怪伝承が由来である』ともある。

「五雜組」既出既注

「狼狽〔(らうばい)〕」以下の、アラ松ちゃん出臍が宙返りするほどの仰天の記載に思わず狼狽する人が多いのではないかと思うのだが、大修館書店「廣漢和辭典」の「狽」にはその通りのことがちゃんと記されてある(後に『一説に、生まれながらに一本足または二本の足がなく、互いに助けあわねば行けぬことをいう』とあってここに書かれたことが、「集韻」「正字通」に書かれていることが示されてある)のである。それを知ってまた狼狽する人も多かろう。しかしまあ、比翼鳥の例もありますさかい。

「蟨〔(けつ)〕」思うに実在するモデル獣がいるとは思われるのであるが、大修館書店「廣漢和辭典」には「ねずみ」とした後に、『前足が短くて走ることができず、常に蛩蛩(キョウキョウ)巨虚という獣と同居して、そのために食を取り、危難が迫るとその背に負われて逃げるという』『獣の名』とする。

「蛩蛩〔(きようきよう)〕」北海に住むとされた馬に似た想像上の動物。

『「鼠部」に見ゆ』次の巻第三十九の「鼠類」の中の「蟨鼠」の項。そこで以上の生物も、また、考証することとする。

『「蝦(えび)」と「水母(くらげ)」【「魚部」に見ゆ。】』「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「䖳(くらげ)」で、『「本綱」に、海䖳〔(くらげ)〕は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に、物、有り。絮〔(しよ)[やぶちゃん注:綿。]〕を懸〔けたるが〕ごとし。羣蝦〔(むれえび)〕、之れに附きて、其の涎沫〔(よだれ)〕を咂(す)[やぶちゃん注:「吸」に同じ。]ふ』(以下略)とあるのを指す。その「羣蝦、之に附きて」に私は以下のように注した。『まず浮かぶのはエビの方ではなくて、鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchianaだ。ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)が、好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi、ウミノミ類辺りが挙げられよう』とやらかしている。なお、それとは別に「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海鏡(うみかゞみ)(私は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科カガミガイカガミガイDosinia japonica(リンク先の注の Phacosoma japonicum はシノニム)に同定した)の「本草綱目」の引用の中に、『海鏡は、南海に生ず。兩片相合して形を成す。殻圓く鏡のごとし。中、甚だ瑩滑、日光に映ずるに雲母(きらゝ)のごとし。内に少しの肉有り。蚌胎のごとく、腹に寄居蟲(がうな)有り。大いさ、豆のごとし。状、蟹のごとし。海鏡飢うれば、則ち出でて食らい[やぶちゃん字注:ママ。]、入れば、則ち、海鏡も亦、飽(あ)く。郭璞が所謂〔(いはゆ)〕る『瑣※が腹には蟹、水母(くらげ)の目には鰕(えび)』と云ふは、卽ち、此れなり』(「※」=「王」+「吉」)ともある(この「瑣※」は「瑣蛣」と同じで「寄居蟹」を指す古語であるが、この場合は勿論、ヤドカリ類ではなく、ピンノ類などの短尾下目(カニ類)のカクレガニ科 Pinnotheridae の寄生性のカクレガニ類を示している)。あぁ、懐かしいな……もう、十一年以上も前だ……あの頃は、なんとまあ、無心に無邪気に、楽しくやっていたことだろう……

『「知母〔(ちぼ)〕」と「黃栢〔(くわうはく)〕」【「木部」に見ゆ。】』これは巻第八十三の「喬木類」の巻頭にある「黃蘗(わうへき/きはだ)」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版「和漢三才図会」の当該解説部分。画像を視認右側端の一行)。そこには訓読すると、 

   *

黃蘗、知母〔(ちも)〕、無ければ、猶ほ水母(くらげ)の蝦(ゑび)無きがごとし。

   *

とある。「黃檗(きはだ)」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense で、「知母」は単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides を指す。但し、この部分、リンク先のその後を見ると、漢方としての作用を述べていることが判り、植物体としてのキハダとハナスゲがともに植生しないと共に生存出来ないという意味ではないことが判明する。そもそもが「知母」というのは現行ではハナスゲの根茎の生薬名である(消炎・解熱・鎮静・利尿作用を有する)。キハダの方も樹皮の乾燥させたものを「黄檗(オウバク)」と呼び強い抗菌作用を持つとされ、他に健胃整腸・眠気覚まし・湿布薬として使用される。二種のその効果を塩梅してこそ漢方では薬となると言っているのを、「黄蘗に知母がなければ、それは丁度、水母に海老がいないのと同じである」と言い換えているのである。東洋文庫訳では『水母に蝦』の訳に後注して、『水母と蝦は共生し、蝦は水母の涎(よだれ)を飲んで生き、その代り水母の眼の役割をして水母の移動に力を貸しているいるという。また黄柏は腎経血分の薬、知母は腎経気分の薬で、相俟って効力を発揮する』とある。但し、言っておくと、前に示したクラゲ類とエビ及び甲殻類は共生などしていない。あれは寄生(或いは私が否定したい用語で言えばクラゲに益の全くない(害は必ずあると私は考えるので否定したいのである)「片利共生」)クラゲにとって迷惑千万な「寄生」に過ぎない。

『「狽」は、未だ其の何物といふことを知らず』儂も知らんとですばい、良安先生。

「太平百物語」始動 / 太平百物語卷之一 壱 松岡同雪狐に化されし事

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で「太平百物語」を始動する。

「太平百物語」は菅生堂人恵忠居士なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。享保一七(一七三三)年大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする新刊で、五巻五十話。末尾に「以上前編終 後編跡より出し申候」とあり、百物語を期す気持ちがあったか、なかったか。しかし乍ら、五十話目は「百物語をして立身せし事」で、一応、これで完結したつもりであったようである。よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))

 底本は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本を用い、国立国会図書館デジタルコレクションの「徳川文芸類聚」第四所収の活字本で校合した。但し、加工データとして国書刊行会の「叢書江戸文庫」第二巻「百物語怪談集成」所収のものを(国立国会図書館蔵本を親本とする)OCRで読み込んだものを使用した。底本は多くの読みが附されてあるが、五月蠅いので、私が読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」に代えた。句読点・鍵括弧等記号は「江戸文庫」版を参考にしつつ、オリジナルに追加してある。原本はベタであるが、読み易さを考え、適宜改行を加えた。そのため、各話の冒頭は一字下げとし(底本にはない)、改行部も同様の仕儀を行った。漢字で正字か俗字か迷うものは、正字で示した。なお、読み等の一部の清音を濁音にしてある。読みで「/」で二つ示したものは、前者が右、後者が左に添えられた読みである。挿絵は、「叢書江戸文庫」版のそれをトリミングして用いた。

 冒頭にある「冠首」の序(「山中散人 祐佐」の署名があるが、作者の仮託であろう)と各巻の頭に附された目次は最後に一括して示すこととする。【2019年4月17日始動 藪野直史】]

 

太平百物語卷之一

     ○壱 松岡同雪狐に化されし事

Matuokadousetu

 津の國の片ほとりに、松岡同雪といふ㙒巫醫師(やぶくすし)あり。心、あくまで貧慾なる男なりしかば、人々、うとみて、療治もはかばかしからず、明暮れの竈(かまど)さびしく暮しけるが、一年(ひとゝせ)、風邪麻疹(かぜはしか)はやりて、何國(いづく)の浦も醫者と名付(なづく)るに隙(ひま)なるはなかりき。此同雪も、ことしはふしぎに病家(びやうか)おほくて、晝夜りやうじに隙なかりしが、或夜、表の戶をあらけなく叩きけるゆへに、

「誰なるや。」

と問ふに、

「これは此あたりの者にて候。一子、麻疹にて甚(はなはだ)惱(なやみ)けるが、只今、俄に目を見つめたり。頃日(このごろ)、賴み參らせし醫師は、他の急病に行給ひて間に合(あは)ず、夜分と申し、近比(ちかごろ)御苦勞の御事ながら、只今、御出(おんいで)下さるべし。」

と、実(げに)余儀なく申すにぞ、

「此あたりとは、いかなる人ぞ。」

と尋ねければ、

「それも御出候へばしれ申なり。則(すなはち)、御迎(むかひ)の籠を爲持(もたせ)たり。はやはや。」

と申にぞ、

「さらば行て參らせん。わが療治にて今宵の難を救ひなば、藥料銀五枚、御越(こし)あれ。」

といふに、

「其段は仰せにや及び候。」

とて、頓(やが)て駕籠に打乘(うちのせ)、飛ぶがごとくに馳行(はせいき[やぶちゃん注:ママ。])しが、

「さらば、此所にて侍(さふ)らふ。」

とて、駕籠の戶をひらけば、大きなる屋敷なり。大慾心(だいよくしん)の同雪、銀五枚と約せし事を悔み、

「かゝる所ならば、金十兩といふべきものを。」

と、未(いまだ)病人をも見ずして、貪る事を先だて、頭(かしら)をかきて奧に通れば、やがて病人の傍(そば)に伴ひ行きて、まづ樣躰(やうだい)みせけるに、同雪、病人をみて、

「扨(さて)々、夥敷(おびたゞしき)はしかの出樣(でやう)かな。」

と、脈を取、身躰(しんたい)より足をなでゝ、大きにおどろき、

「是れは。はや、事切(きれ)たり。扨々、殘心(ざんしん)なり。」

といふに、介抱の人々、いふ、

「たとひ左樣に候とも、折角、御出被下(いでくだされ)候上(うへ)は、ぜひに、御藥を下し給はれ。」

と、口々にいふほどに、

「然らば、一貼(てう)調藥申て見ん。」

と、駕籠に入來(いれきた)りし藥箱を取よせ、頭をかたぶけ調合し、

「はやはや、これを与へ玉へ。」

と指出(さしいだ)だすに、其あたりには、人、壱人も、なし。

「こはいかに。」

とあきれ果(はて)、彼(かの)ふしたる病人を、能(よく)々みれば、人にはあらで、石佛(いしぼとけ)なり。

 同雪、大きに仰天し、あたりをとくと見廻せば、さしも結構なりし屋敷と思へしは、墓原(はかはら)にて、卒都婆木(そとばぎ)、いくつも並べたり。

「扨は狐の所爲(しよゐ/しわざ)ならん。」

と、やうやう心付ける内に、夜はしらしらと明わたれば、自身、藥箱を引(ひつ)かたげ、頭をかゝへて、ほうほう、わが家に迯げかへりしが、其後(そのゝち)は、これにこりて、夜(よ)に入りては、いかなる急病にも、なかなかゆかざりけるとなん。

[やぶちゃん注:「上方講談師・旭堂南海に語る大阪怪談百物語」のパンフレットPDF)に、本話を元に改変した怪談講談が載る(現代語)が、そこでは、この話のロケーションを『大阪市上本町から谷町が舞台』とし、エンディングになかなかニクい捻りが施されてある。是非、ご覧あれ。

「風邪麻疹(かぜはしか)」「麻疹(はしか)」は、最初の三~四日の間は咳や鼻水・目脂(めやに)などが出、普通の流行性感冒と区別がつかない。ここはそうした症状から一語で読みを与えておいた。なお、「はしか」は麻疹ウイルス(ウイルス第五群(一本鎖RNA―鎖)ノネガウイルス目パラミクソウイルス科パラミクソウイルス亜科モルビリウイルス属 Morbillivirus 麻疹ウイルス Measles morbillivirus)による急性熱性発疹性感染症で、呼称は中国由来で、発疹が麻の実のように見えることによる。]

戀の使 伊良子清白 (附・初出形「柳の芽」)

 

戀 の 使

 

日の午(ひる)ごとに尾を擴げ

步む孔雀の盛なる

戀は歷史に殘りたり

われは小さき地上の芽

 

垣根に生ふる鳳仙花

節(ふし)くれ立ちし莖よりぞ

爪紅(つまくれなゐ)は咲きにける

戀はすべてを女王とす

 

わがこひ小さく紅(べに)を帶び

ふふめる程のをさなさに

戀の使は箭(や)を番(つが)へ

兵(ひやう)と射てこそ立ちにけれ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年十月発行の『明星』初出。初出標題は「柳の芽」であるが、初出形から大きな改変が行われている。以下に初出形を示す。

   *

 

柳 の 芽

 

甘き泉に醉ひぬらん

若き泉に醉ひぬらん

醉ふ戀ならば美しく

瞳の色は輝かむ

 

日の午ごとに尾を擴げ

步む孔雀の盛なる

戀は歷史に殘りたり

われは小さき柳の芽

 

垣根に植ゑし鳳仙花

節くれだちし垂よりぞ

匂へる花は咲きにける

戀はすべてを女王とす

 

衆落は森に隱るれど

胸におほはん羽もなき

人の戀こそあらはなれ

風もて冷やす魔やあらむ

 

戀は苦しき戀にして

卽ち物の極みなる

彼方の空を仰ぎたる

わが目はにぶく曇りたり

 

   *

 なお、この年に与謝野鉄幹(鉄幹は不倫)と晶子は正式に結婚するが、先立つ三月に二人を誹謗中傷する怪文書「文壇照魔鏡」なるものが横浜から出回り、小島烏水・山崎紫紅とともに伊良子清白がその作者ではないか、というあらぬ嫌疑がかけられていた。その結果、『明星』への寄稿は同年八月・九月とあったものの、この十月を以って終り、以降は絶え、鉄幹・晶子とは絶縁状態となってしまう。それは四年後の明治三八(一九〇五)年十一月の烏水・河井醉茗との与謝野邸訪問で解けまで続いた(底本全集年譜に拠る)。]

新月 伊良子清白

 

 新 月

  (短唱四篇)

 

 

   ○

 

たださすところ朝日子の

夕入るところ新月(にひづき)の

山に育ちてをとめごは

牧(まき)のうなゐとなりにけり

 

熊の毛皮を打敷きて

ねぶるは誰ぞ山のうへ

澄みてかがやく星ならで

をとめをまもるものぞなき

 

   ○

 

薔薇の花はかなしみて

冷たき土にこぼれけり

わびしくくらくためいきの

音ぞ幽(かす)かにもれくなる

 

こひのさつ矢のとぶごとく

みそらを鳥のとびきたる

彼方の空にきえゆきて

聲こそのこれほととぎす

 

   ○

 

世のすねものよのろはれて

小田にかくるるすねものよ

月の女神を垣間(かいま)見て

なれも醜くなりぬるか

 

五月雨ふりて空くらく

月の光の見えぬ時

歌よむことはゆるされて

小田にかくるるわび人よ

 

   ○

 

處女マリアのあらはれて

千々の寶を賜ひけり

ことにすぐれてめでたきは

稚兒のおもわの美はしさ

 

二人の姉は雲にのり

ひとりの姉は草に立ち

御空の雨にうるほひて

稚兒守ると見えにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月発行の『文庫』初出。

「うなゐ」は既に注したが、「髫」「髫髪」で、元は「項 (うな) 居 (ゐ) 」の意かと推定され、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らさせた髪型或いは女児の髪を襟首の附近で切り下げておいた「うない髪」のことで、本来は転じて「幼女」を指すが、ここはその上限を遙かに延ばした少女・乙女・処女の謂いで用いている。

「さつ矢」は「獵矢」「幸矢」で「狩猟に用いる矢」の意。「さちや」とも呼ぶ、万葉以来の古語。

 初出形は以下。

   *

 

 新 月

 

たださすところ朝日子の

夕入るところ夕月の

山に育ちてをとめごは

牧(まき)のうなゐとなりにけり

 

熊の毛皮を打敷きて

ねぶるは誰ぞ山のうへ

澄みてかがやく星ならで

をとめをまもるものぞなき

 

   ○

 

薔薇の花はかなしみて

冷たき土にこぼれけり

わびしくくらくため息の

音ぞ幽(かす)かにもれくなる

 

一聲なきてほとゝぎす

彼方の空に飛び去りぬ

戀のさつ矢のとぶごとく

かなたの空にとびさりぬ

 

   ○

 

世のすねものよ咒はれて

小田にかくるるすねものよ

月の女神を垣間みて

なれも醜くなりぬるか

 

五月雨ふりて空くらく

月の光の見えぬ時

歌詠むことはゆるされて

小田にかくるるわび人よ

 

   ○

 

處女マリアのあらはれて

千々の寶を賜ひけり

ことにすぐれてめでたきは

稚兒のおもわの美はしさ

 

二人の姉は雲にのり

ひとりのあねは草にたち

御空の雨にうるほひて

稚兒守ると見えにけり

 

   *]

2019/04/16

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))

 

Yamainu

 

 

 

やまいぬ  犲狗

 

【音儕】

      【俗云也

ツアイ    末以奴】

 

本綱豺處處山中有之狼屬也似狗而頗白前矮後高而

長尾其體細痩而健猛其毛黃褐色而鬇鬡其牙如錐而

噬物群行虎亦畏之喜食羊其聲如犬人惡之以爲引魅

不祥其氣臊臭可惡世傳狗爲豺之舅見狗輒跪亦相制

耳月令云九月豺乃祭獸可謂才故字從才

△按豺【俗云山狗】狀似狗而以足有蹯如狼足爲異山行人怖

 之甚於狼

 

 

やまいぬ  犲狗〔(さいく)〕

 

【音「儕〔(サイ)〕」。】

      【俗に云ふ、「也末以奴」。】

ツアイ

 

「本綱」、豺は處處の山中に之れ有り、狼の屬なり。狗に似て、頗る白し。前、矮〔(ひき)〕く、後ろ、高くして、長き尾たり。其の體、細痩〔(さいそう)〕にして、健〔やかにして〕猛し。其の毛、黃褐色にして、鬇鬡〔(さうなう)〕[やぶちゃん注:毛髪が乱れること。現代仮名遣では「ソウノウ」。]其の牙、錐のごとくにして、物を噬〔(か)〕む。群行して、虎も亦、之れを畏る。喜んで羊を食ふ。其の聲、犬のごとし。人、之れを惡〔(にく)〕む。以つて引魅不祥〔(いんびふしやう)〕[やぶちゃん注:人を惑わす不吉なる存在。]〔のものと〕と爲〔せばなり〕。其の氣〔(かざ)〕臊臭〔(なまぐさ)〕く惡むべし。世に傳ふ、「狗は豺の舅(をぢ)[やぶちゃん注:この場合は伯(叔)父。]たり。〔さればこそ〕狗を見〔るとき〕は、輒ち、跪〔(ひざまづ)〕く」〔と〕。〔されど、それは〕亦、相ひ制するのみ〔なり〕[やぶちゃん注:狼類である彼らが互いに牽制し合っているのを誤解しているだけのことである。]。「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『九月、豺、乃ち、獸を祭る』〔と〕。才〔あり〕と謂ふべし。故に、字、「才」に從ふ。

△按ずるに、豺【俗に云ふ、「山狗」。】狀、狗に似て、足に蹯〔(ばん)〕[やぶちゃん注:何度も注したように「蹯」の字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]有り、狼の足のごとくなるを以つて異と爲す。山行の人、之れを怖るること、狼より甚だし。

[やぶちゃん注:和訓「やまいぬ」は「山犬」だろうし、そもそもが現行、この「豺」の漢字は中国では、ユーラシア大陸の東部(中国・朝鮮半島・東南アジア・ロシア南東部)と同大陸の中央部から南部(モンゴル・ネパール・インド・バングラデシュ・ブータン等)に棲息するイヌ科イヌ亜科イヌ族ドール属ドール Cuon alpinus別名アカオオカミ(赤狼)、英名「Dhole」に当てられており、叙述も以下に見るドールの生態によく一致する(以下の下線太字部など)。ウィキの「ドール」によれば(下線太字は私が附した)、体長は七十五~百十三センチメートル、尾長は二十八~五十センチメートル、肩高四十二~五十五センチメートルで、体重は♂で十五~二十キログラム、♀で十~十七キログラム。『背面の毛衣は主に赤褐色、腹面の毛衣は淡褐色や黄白色』。『尾の先端は黒い体毛で被われる』。『鼻面は太くて短い』。『指趾は』四『本』。『乳頭数は』十二~十六個である。『森林などに』棲息する『昼行性』動物であるが、『夜間に活動(特に月夜)する事もある』。五~十二『頭からなるメスが多い家族群を基にした群れを形成し生活するが』、『複数の群れが合わさった約』四十『頭の群れを形成する事もある』。『狩りを始める前や狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる』。『群れは排泄場所を共有し、これにより』、『他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『食性は動物食傾向の強い雑食で』、シカやヤギ類などの『哺乳類、爬虫類、昆虫、果実、動物の死骸などを食べる』。『獲物は臭いで追跡し、丈の長い草などで目視できない場合は直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある』。『横一列に隊列を組み、逃げ出した獲物を襲う』。アクシスジカ(鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ亜科アクシスジカ属アクシスジカ Axis axis:南アジア地域に分布。インドを中心にバングラデシュ・ネパール・ブータンを原産地とする)『などの大型の獲物は他の個体が開けた場所で待ち伏せ、背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき』、『内臓を引き裂いて倒す』。『また』、『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もある』。『繁殖形態は胎生。妊娠期間は』六十~七十日。『土手に掘った穴、岩の隙間、他の動物の巣穴などで』、十一月から翌年の四月に一回に二~九『頭の幼獣を産む』。『繁殖は群れ内で』一『頭のメスのみが行う』。『授乳期間は』二ヶ月で、『群れの中には母親と一緒に巣穴の見張りを行ったり、母親や幼獣に獲物を吐き戻して運搬する個体がいる』。『幼獣は生後』十四日で目を開く。生後二~三ヶ月で『巣穴の外に出』、生後五ヶ月で『群れの後を追うようになり』、生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。『生後』一『年で性成熟する』。『生息地では』彼らドールの得物の『狩り』方が『残忍とみなされたり』、ヒトの狩猟の『競合相手として』も『敬遠され、報奨金をかけられたり』、『毒餌で駆除される事もあった』。『開発による生息地の破壊、駆除、伝染病(狂犬病、ジステンパー)などにより』、『生息数は減少している』とある。なお、食肉(ネコ)目 イヌ亜目イヌ下目イヌ科イヌ亜科イヌ族イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris の野生化した個体と採るのはやめておく。動物学や環境用語でそうした野生化した犬に内、巷間に見られる「野良犬」と異なり、ヒト依存性を持たない個体や個体群の野犬(やけん)を「ノイヌ」と表示するのは、見ただけで私は虫唾が走る。彼らはもと、ヒトに飼われた犬であったのであり、「イヌ」と区別されて「ノイヌ」と別種の表記されて差別される筋合いの存在じゃあないからだ。彼らは確かに「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ)(イヌ)」であるからである。

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記(らいき)」の「月令」篇。月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。「季秋之月」(陰暦九月の条)の以下に出る。

   *

鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。

(鴻・雁、賓(ひん)として來たり、爵(じやく:音通で「雀」)大水に入りて蛤と爲る。鞠(=菊)に、黃華、有り、豺、乃(すなは)ち、獸を祭りて禽を戮(りく)す。)

   *

この「祭」とは「天に生贄を供えて祭る」ことを指す。

「才〔あり〕と謂ふべし。故に、字、「才」に從ふ」いやいや! 大修館書店「廣漢和辭典」の「豺」の解字によれば、(つくり)の「才」は「切る・食い切る」で、「食い千切る」の意ですぜ。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(10) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(5)

 

《原文》

 保呂羽山ノ神樂ノ歌ガ、梓巫ノ徒ヨリ學ビシモノニ非ザルコトハ、亦之ヲ立證スルコト難カラズ。【田植歌】岩代會津ノ伊佐須美神社ノ田植歌十二段ノ中ニモ

  繫ギタヤ繫ギタヤ、葦毛ノ駒ヲ繫イダ。

  白葦毛ノ白ノ駒ヲ、高天原ニ繫イダ。

  大明神ノ召サウトテ、葦毛ノ駒ヲ早ウ引ク。

[やぶちゃん注:以上の歌は底本では全体が二字下げで、改行せずに繋がっている。ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。]

ト云フ歌アリ〔中古雜唱集〕。然ラバ海ノ都ト此世トノ交通ニ鰐ヲ用ヰシト同ジク、天ト地トノ往來ニハ特ニ靈アル白ノ駒ヲ選バレシモノニテ、從ヒテ人間ノ雜役ニハ之ヲ用ヰルコトヲ遠慮セシモ尤モ自然ノ事ト謂フべシ。人ノ靈ニ在リテハ矢口ノ渡ノ新田義興ノ如キモ、尙又白キ馬ニ乘リテ靑空鮮カニ現ハレタリ。【白旗】空ヲ行クモノ山ヨリ降ル者ヲ白カリシト想像スルハ、單ニ詩トシテ美シキノミニ非ズ、多クノ白旗傳說ナドト共ニ、先年西洋ニテ流行セシ所謂天然現象說ヨリ之ヲ解釋スルモ亦差支無シ。日本ニ於テハ佛敎ノ方ニモ多ク此傳說ヲ利用シタリトオボシ。支那ニテモ始メテ經文ヲ輸入セシ馬ノ白カリシコトヲ言ヘド、此ヨリモ今一段我邦ノハ之卜緣深シ。昔信濃ノ筑摩ノ湯ノ村ニ住ム信心者ノ夢ニ、明日ハ觀世音此湯ニ入浴ニ來ルべシト云フ豫告アリ。年ハ三十前後、髯黑ク綾藺笠(アヤヰガサ)ヲ著テ、節黑ナル胡箙(ヤナグヒ)ニ皮ヲ卷キタル弓ヲ持チ、紺ノ襖(アヲ)ニ夏毛ノ行縢(ムキバキ)ヲハキ、葦毛ノ馬ニ乘リタル人ガ觀音ナリト敎ヘラル。卽チ法(カタ)ノ如キ田舍者ノ風俗ナリ。翌日ニナリテ果シテ其通リノ人來リタレバ、一同有難ガリテ之ヲ拜ム。其男ハ元來觀世音ニハ非ザリシ故、勿論非常ニ面喰ヒタリシモ、根ガ氣ノ善キ御侍ト見エテ、サテハ身共ハ觀音デ御座ツタカト、此ガ菩提ノ種トナリテ直チニ剃髮シテ法師トナリ了ル〔宇治拾遺物語六〕。上野國ノ馬頭主ト云フ武士ナリキト云ヘリ。【馬頭觀音】上野ハ下野ノ誤聞ナルカモ知レザレド、兎ニ角馬頭觀音ノ信仰ヲ聯想セズニハ過グシ難キ一話ナリ。

 

《訓読》

 保呂羽山(ほろはやま)の神樂の歌が、梓巫(あづさみこ)の徒より學びしものに非ざることは、亦、之れを立證すること難からず。【田植歌】岩代會津の伊佐須美(いさすみ)神社の田植歌十二段の中にも

  繫ぎたや繫ぎたや、葦毛の駒を繫いだ。

  白葦毛の白の駒を、高天原(たかまのはら)に繫いだ。

  大明神の召さうとて、葦毛の駒を早う引く。

[やぶちゃん注:以上の歌は底本では全体が二字下げで、改行せずに繋がっている。ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。]

と云ふ歌あり〔「中古雜唱集」〕。然らば、海の都と此の世との交通に鰐(わに)[やぶちゃん注:鮫。]を用ゐしと同じく、天と地との往來には、特に靈ある白の駒を選ばれしものにて、從ひて、人間の雜役には之れを用ゐることを遠慮せしも、尤も自然の事と謂ふべし。人の靈に在りては、「矢口の渡し」の新田義興のごときも、尙、又、白き馬に乘りて、靑空、鮮かに現はれたり。【白旗】空を行くもの、山より降る者を白かりしと想像するは、單に詩として美しきのみに非ず、多くの白旗傳說などと共に、先年、西洋にて流行せし、所謂、「天然現象說」より之れを解釋するも亦、差し支へ無し。日本に於いては、佛敎の方にも多く此の傳說を利用したりとおぼし。支那にても、始めて經文を輸入せし馬の白かりしことを言へど、此れよりも今一段、我が邦のは之れと、緣、深し。昔、信濃の筑摩の湯の村に住む信心者の夢に、「明日は、觀世音、此の湯に入浴に來たるべし」と云ふ豫告あり。「年は三十前後、髯(ひげ)黑く、綾藺笠(あやゐがさ)を著けて、節黑(ふしぐろ)なる胡箙(やなぐひ)に、皮を卷きたる弓を持ち、紺の襖(あを)に、夏毛の行縢(むきばき)をはき、葦毛の馬に乘りたる人が觀音なり」と敎へらる。卽ち、法(かた)のごとき田舍者の風俗なり。翌日になりて、果して其の通りの人來たりたれば、一同、有り難がりて、之れを拜む。其の男は元來、觀世音には非ざりし故、勿論、非常に面喰ひたりしも、根が氣の善き御侍と見えて、「さては。身共(みども)は觀音で御座つたか」と、此れが菩提の種となりて、直ちに剃髮して法師となり了(おは)る〔「宇治拾遺物語」六〕。上野國(かうづけのくに)の馬頭主(ばとうぬし)と云ふ武士なりきと云へり。【馬頭觀音】上野は下野(しもつけ)の誤聞なるかも知れざれど、兎に角、馬頭觀音の信仰を聯想せずには過ぐし難き一話なり。

[やぶちゃん注:「岩代會津の伊佐須美(いさすみ)神社」現在の福島県大沼郡会津美里町宮林甲にある伊佐須美神社(同神社公式サイトの地図)。ここで柳田國男が挙げる「田植歌」は同神社で現在も七月十二日に催される「御田植祭」のそれで、公式サイトによれば、『この祭りは伊佐須美神社最大の祭りであると同時に、伊勢神宮の朝田植、熱田神宮の夕田植と並び、伊佐須美神社の昼田植と称され、日本三大「御田植祭」の一つと数えられています』。『地元の小中学生など町民が町中を掛け声響かせながら練り歩く勇壮な「獅子追い」から始まり、農家の長男が女装して踊る伝統の「早乙女踊り」が奉納され、そのほか「神輿渡御」「田植え式」が繰り広げられます』。『三町青年会(第一仲若・上若・北若)が率いる太鼓台が一堂に会す太鼓台宮登りや、佐布川地区の長男に代々継承され、早乙女に扮して踊る早乙女踊、仮面獅子を先頭に群童が町内を駆け巡る獅子追神事、古代歌謡「催馬楽」が詠われる中、神子人形と共に進む神輿渡御などは必見です』とあり、現在、国重要無形民俗文化財に指定されている。

『「矢口の渡し」の新田義興のごときも、尙、又、白き馬に乘りて、靑空、鮮かに現はれたり』新田義興(元弘元/元徳三(一三三一)年~正平一三/延文三(一三五八)年)は南北朝時代の武将。父は新田義貞。南朝方に属した。従五位下・左兵衛佐。正平七/文和元 (一三五二)年に弟義宗とともに関東で足利方と戦い、一時は鎌倉を占拠したが、後、多摩川の矢口ノ渡しで敵に謀られて自死した。ここはそれを脚色した浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」の四段目の「頓兵衛住家の段」で馬に乗った義興の霊が出現するシーンを指して言っているものと思われる(私は同作は未読未見。ウィキの「神霊矢口渡」を参照した)。

「天然現象說」気象及び光学的自然現象。

「信濃の筑摩の湯の村に住む信心者の夢に……」「宇治拾遺物語」の「信濃國筑摩(つくま)の湯に、觀音、沐浴(もくよくの)事」。以下。

   *

 今は昔、信濃國に筑摩(つくま)の湯といふ所に、萬(よろづ)の人の浴(あ)みける藥湯(くすりゆ)あり。そのわたりなる人の夢に見るやう、

「明日(あす)の午(むま)の時に、觀音、湯浴み給ふべし。」

といふ。

「いかやうにてか、おはしまさんずる。」

と問ふに、いらふるやう、

「年、三十ばかりの男の、鬚(ひげ)黑きが、綾藺笠(あやゐがさ)[やぶちゃん注:藺草(いぐさ)を綾織りに編み、裏に布を張った笠。中央に髻(もとどり)を入れる巾子形(こじがた)という突出部があり、その周囲に藍革(あいかわ)と赤革の帯を垂らして飾りとする。武士が狩猟・旅行・流鏑馬などの際に着用した。]きて、ふし黑なる胡籙(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢の柄の節の下を漆で黒く塗った矢を差した箙(えびら:矢を盛って背負う器具。)]、皮卷きたる弓持ちて、紺の襖(あを)[やぶちゃん注:ここは狩衣と同義。]着たるが、夏毛の行縢(むかばき)[やぶちゃん注:夏季に捕えた鹿の毛革(この時期には黄色に白い斑点が鮮やかに出る)で作った、乗馬時に騎手が腰に附けて前に垂らした着用具。]はきて、葦毛(あしげ)の馬に乘りてなん來べき。それを觀音と知り奉るべし。」

といふと見て、夢さめぬ。

 驚きて、夜明けて、人々に告げまはしければ、人々、聞きつぎて、その湯に集まる事、限りなし。湯をかへ、めぐりを掃除(さうぢ)し、しめ[やぶちゃん注:注連縄。]を引き、花香(くわかう)を奉りて、居集(ゐあつ)まりて待ち奉る。

 やうやう午(むま)の時過ぎ、未(ひつじ)[やぶちゃん注:午後二時頃。]になる程に、ただ、この夢に見えつるに露(つゆ)違(たが)はず見ゆる男の、顏より始め、着たる物、馬、何かにいたるまで夢に見しに違はず。萬の人、にはかに立ちて額(ぬか)をつく。

 この男、大きに驚きて、心も得ざりければ、萬の人に問へども、ただ拜みに拜みて、その事といふ人なし。僧のありけるが、手を摺りて額(ひたひ)にあてて、拜み入りたるがもとへ寄りて、

「こはいかなる事ぞ。おのれを見て、かやうに拜み給ふは。」

と、こなまりたる[やぶちゃん注:少し訛った。]聲にて、問ふ。

 この僧、人の夢に見えけるやうを語る時、この男、いふやう、

「おのれは、さいつころ、狩りをして、馬より落ちて、右の腕(かひな)をうち折りたれば、それをゆでんとて、まうで來たるなり。」

といひて、と行きかう行きする程に、人々、尻(しり)に立ちて、拜(をが)みののしる。

 男、しわびて[やぶちゃん注:どうにも対応に困って。]、『我が身は、さは、觀音にこそありけれ。ここは法師になりなん』と思ひて、弓・胡籙(やなぐひ)・太刀(たち)・刀、切り捨てて、法師になりぬ。

 かくなるを見て、萬の人、泣きあはれがる。

 さて、見知りたる人出で來ていふやう、

「あはれ、かれは上野國(かむづけのくに)におはする、『ばとうぬし』にこそいましけれ。」

といふを聞きて、これが名をば、「馬頭觀音」とぞいひける。

 法師になりて後(のち)、橫川(よかは)に登りて、かてう僧都[やぶちゃん注:覚超か。源信の弟子。長元七(一〇三四)年、七十五で入寂。]の弟子になりて、橫川に住みけり。その後(のち)は土佐國に去(い)にけりとなむ。

   *

本文は「新潮古典文学集成」の大島武彦校注「宇治拾遺物語」(昭和六〇(一九八五)年刊)及び岩波文庫渡辺綱也校訂(一九五一年刊)の二種を参考にし、注は一部で前者の頭注を参考にした。この話は「今昔物語集」の巻第十九「信濃國王藤(わうどう)観音出家語第十一」(信濃國王藤(わうどう)、観音出家する語(こと)第十一。「やたがらすナビ」のこちらで読める)や「古本説話集」の六十九(同じく「やたがらすナビ」のこちらで読める)に同話が収められてある。観音や地蔵は現世利益の菩薩であることから、人間の姿に垂迹すると信じられていたらしいと大島氏の評注にあった。

「上野は下野の誤聞なるかも知れざれど」根拠不詳。識者の御教授を乞う。]

函山雜興 伊良子清白

 

函山雜興

 

 

  塔 の 澤

 

   ○

七湯の秋は白萩の

咲くにまかせて闌(た)けぬれど

軒(のき)にともしのゆらぐ時

すだれにすずし山の風

   ○

木犀(もくせい)匀ふ欄干に

倚れるを友とよびとめて

おなじ浴衣のうしろ影

見知らぬ人のふりむきぬ

 

 

  阿育王山

 

驪山にまさる秋の色

古りにし寺をたづぬれば

杉の林のおくにして

蜩なくや岩だたみ

萩も芒(すすき)もみ佛の

小甁の花の手向草(たむけぐさ)

くちし扉の蜘蛛のいと

おちて聲ある秋の風

 

  湯本廓外

 

秋は灰なす雲下りて

落つる日うすき川上の

杉の林の杣(そま)が家(や)に

山栗燒くかたつ煙

 

  塔の澤途上

 

蘆の湖遠くして

水は寂しき早川の

流れのおくをたづぬれば

箱根八里の秋の風

 

  北條早雲墳

 

苔に蒸したるおくつきの

塵を拂ひてわが友が

捧げし花は萎(しぼ)むとも

深きおもひを饗(う)けよ君

 

  早 雲 寺

 

蕎麥の畠に日はさして

あきつ飛び交ふ早雲寺

鐘樓の軒(のき)を秋風の

すぐれば奇(く)しき響あり

 

  箱根舊道

 

葛の花さく谷沿ひを

夕暮急ぐ山駕よ

雲の紅(くれなゐ)ある程を

宿(しゆく)まで行くか潮(うみ)見にと

 

  玉 簾 瀧

 

岩ほをくだり岩におち

瀧の千條(ちすぢ)の白いとの

かかりて細き水すだれ

 

秋の羽振る山風は

木々のこずゑをそよがせて

聲も寂しき水すだれ

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十月発行の『文庫』初出。校異によれば、初出では冒頭の「塔の澤」の二連目が、『「塔の澤途上」の後に入る』とある。ということは、

   *

 

  塔の澤途上

 

蘆の湖遠くして

水は寂しき早川の

流れのおくをたづぬれば

箱根八里の秋の風

 

木犀(もくせい)匀ふ欄干に

倚れるを友とよびとめて

おなじ浴衣のうしろ影

見知らぬ人のふりむきぬ

 

   *

となっているということであろう。その他には有意な異同を認めないので、初出全体は示さない。]

鶴 伊良子清白

 

 

鶴は舞ふ小松の山に

松は今花總立(そうだ)ちに

耿々(こうこう)と鶴は游びて

靑白き焰曳くなり

 

鶴の聲玉を碎きて

惜しむなし百(もも)たび唳(な)くを

若き光空にみなぎり

山の端(は)に雲なかりけり

 

舞ひのぼるまた空たかく

たかくして動かざりけり

うららかや天の錦(にしき)に

晝見ゆる星と如くに

 

[やぶちゃん注:底本「校異」に記載なし。創作年不詳。]

七騎落 伊良子清白

 

七 騎 落

 

兵衞佐賴朝(ひやうゑのすけ)は昨日

石橋山の合戰にうち負け

味方無勢(ぶぜい)にある間

主從七騎也眞鶴ケ崎より

安房國洲(す)の崎を志して落ち行きける

相模の國早川尻の沖合にて

俄かに風起り波立ちて

舟足いとど進まざりけり

先づ一番に田代殿申さるるには

この馬は稀有(けう)のものに候

五臟太(ぶと)に尾髮(をがみ)飽くまで足りたるに

聞ゆる逸物(いちもつ)

岩石をきらはず、風雨を凌ぎて

白轡をはませ、白覆輪の鞍は

連雀掛(れんじやくがけ)の鞦(しりがひ)の

銀絲を組みて乘つたるは

我君大將軍

馬は「波」といふ白月毛にて候

さて二番には新開次郞

日頃藝術(わざ)にかけては

朧氣ならず强弓(がうきゆう)の精兵(せいびやう)

矢つぎ早の手利(てきき)に候へども

この波風はさてさて恰つくき風情のものにて候かな

また三番には土屋の三郞

佐殿(すけどの)世に出で給ひて

日本國を打ち從へ

將軍の宣旨(せんじ)にあづかり給はば

今日の僻事(ひがごと)に、やつがれなんど

龍宮海底の追捕使に被(なさ)れなば

其後(そののち)、波風平らぎ候ふべし

四番には土佐坊

僧形(そうぎやう)には似氣(にげ)なく候へども

大魚我等を吞み候ふまへに

鱶魚(ふか)にてもあれ、鮫、鯨にてもあれ

手捕にして君の御感(ぎよかん)に預らん

五番には土肥の實平

樽搖れの旨さに

一定(いちぢやう)あつぱれ飮料と存じ候

せめて船底の澱(おり)にても賜はらば

海神たちまちに醉ひ痴(し)れ

航海安穩(あんのん)に候はん

六番には同じく遠平

容顏美麗の少年にて

いと幼なげに申しけるは

貴人照臨と承はるか

管絃の法樂(ほふらく)亂(らう)がはし

われ等橫笛(やうでう)の袋もて

汝の器包まばいかに

艫板には岡崎四郞

老體なれば鬚髮(しゆはつ)輝き

四時(しいじ)の果の冬なれば

海にこもごも雪降りぬ

面白や、萬箇目前(ばんこもくぜん)の境界

懸河滿々(けんがたうたう)たり、汨々(こつこつ)たり

旗を卷き劍(つるぎ)を硏(と)ぐ

海の見參と人も見よ

かくて七騎の人々口々に

僻事(ひがごと)いひて戲れける

佐殿は舶(へ)さきにおはして

一言(ひとこと)ものたまはず

八幡大菩薩を念じ給ひけるが

其の後風やみ波しづまりて

夢のやうにまぼろしの

洲(す)の崎(さき)にこそ着き給ひけれ

 

この詩はウーランドのカール王航海の飜案にして、盛衰記、曾我物語、謠曲七騎落より用語を擇出補用せり。卽ち創作にあらず、會合などの唱ひ物にとの試みなり。

[やぶちゃん注:以上のポイント落ちの後書きは、底本では全体が詩篇本文ポイントの一字下げとなっている。]

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年七月日発行『文庫』初出。初出は句読点が無暗に多用されている。但し、特に有意な改変はないので初出形は示さない。「ウーランド」はドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるルートビヒ・ウーラント(Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)のことか。「カール王航海」というのは不詳。

 シークエンス時制は「石橋山の戦い」で頼朝が破れて遁走した、翌日(治承四年八月二四日(ユリウス暦一一八〇年九月十五日)以降の、八月下旬。「吾妻鏡」によれば、真鶴出帆は八月二十八日、実際は絶体絶命の秘密裏の脱出行であって、ごく小型の小舟で従者は土肥実平のみであったことは言うまでもない(こんなに武者がぞろぞろ乗っていたんでは目立ってしゃあない!)。翌日二十九日、安房平北(へいほく)郡獵嶋(りょうしま)に着いている(現在の安房郡鋸南町(きょなんまち)竜島(りゅうしま)(グーグル・マップ・データ))。前後の簡略な経緯は私の「北條九代記 右大將賴朝創業」を読まれたい。

 本篇の登場人物は源氏方のオール・スター・キャストで華やか過ぎるのであるが、このシチュエーションは能「七騎落」(しちきおち:作者未詳。石橋山の合戦に敗れた頼朝一行は船で房総の方へ逃げ落ちようとしたが、主従の数が源氏に不吉な八騎であることから、土肥実平の子遠平を陸上に残して出る。翌日、和田義盛が遠平を助けて連れてきたので、一同は喜びの酒宴を催すという筋立て。「あさかのユーユークラブ 謡曲研究会」のこちらが解説以外に詞章も電子化されていてよい)のメンバーに基づくものである(同謡曲では当初の登場人物は源頼朝・土肥実平・土肥太郎遠平・新開次郎忠氏・土屋三郎宗達・田代冠者信綱・土佐坊昌俊・岡崎四郎義実)。彼らは実際に孰れも頼朝挙兵時の直参の兵者(つわもの)である。

「橫笛(やうでう)」現代仮名遣「ようじょう」。歴史的仮名遣では「やうぢやう」とも書く。「横笛(よこぶへ)」の音「ワウテキ」が「王敵」に通じるのを忌んで読み変えたものとされる。

「汨々(こつこつ)たり」「汨」は水が速く流れるさま、或いは、波の音のオノマトペイア。]

2019/04/15

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(9) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(4)

 

《原文》

 神垂迹ノ起原ハ決シテ後世ノ緣起ニ說クガ如キ明確ノモノニ非ザリシハ勿論ナリ。分身自在ノ天竺ノ佛タチトハ異ナリ、本ノ社アル神々ニ於テハ決シテ勸請ノ地ニ永逗留ハシタマハズ、一定ノ日ニ降リテ祭ヲ享ケヤガテ又還リ往キタマヒシナリ。所謂每朝神拜ノ思想起リテ後、如在ノ神ハ終ニ常在ノ神トナリ、狹ク小サキ祠ノ中ヲ以テ神ノ住所ノ如ク考フル者出デ來レリ。是レ決シテ本來ノ信仰ニハ非ザリシナリ。【神馬用途】阿波ニ於ケル丹生明神ハ其馬ヲ殘シテ往カレタルガ、抑神馬ノ神ニ用立チシハ全ク其往來ノ此ノ如ク繁カリシ爲ナリ。此說ハ必ズシモ根據ニ乏シキ臆說ニハ非ズ。沖繩諸島ノ如キハ、今モ村々ノ神ハ甚ダ多ク社ノ數ハ甚ダ少ナシ。【嶽】年々日ヲ定メテ神ノ降ル場處ヲ「ダケ」又ハ「オガン」ト謂フ。高山ノ頂又ハ人ノ蹈マザル一區ノ林地ナリ。「オガン」ハ即チ拜林ニシテ此處ニ於テ神ヲ祭リ拜スルナリ。【ウポツ山】大島ニ於テハ之ヲ「オガミ」山、又ハ「ウポツ」云ヒ、祭ノ日ニハ此山ヨリ出デテ又此山ニ歸ル。神馬ニ乘リテ現ハルヽコモ亦稀ナラズト云ヘリ〔人類學會雜誌第百九十五號昇氏〕。【山ノ神】遙カニ懸離レタル羽後ノ平鹿郡ノ保呂羽(ホロハ)神社ハ、東北地方ニ於テ威力ノ最モ盛ナル山ノ神ノ一ナリ。十一月七日ノ祭ニ歌フ神樂ノ曲ノ章句ニ

  東方(アヅマ)ヨリ今ゾ寄リマス長濱ノ葦毛ノ駒ニ手綱ヨリカケ

[やぶちゃん注:原典、歌は各字の間が少し開いている。以下の引用歌も同じ。]

ト云フ歌アリ〔風俗問狀答〕。「ヨリカケ」ハ「ユリカケ」ノ轉訛ナルべシ。寄リマストハ神靈ガ巫女ニ託シタマフ事ナリ。【梓巫】其神ガ葦毛ノ駒ニ乘リ長濱ヅタヒニ東ノ方ヨリ降ラルルサマヲ歌ヒタルモノナルガ、此歌ハ中央部ノ諸國ニテハ所謂梓神子(アヅサミコ)ノ歌トシテ傳ヘラレタリ。鴉鷺合戰物語ニ、「カンナギ」梅染ノ小袖ヲ着テ座敷ニ直リ、梓ノ弓ヲ打扣キテ天淸淨地淸淨ヲ唱ヘ、只今寄セ來タル所ノ亡者ノ冥路(ヨミヂ)ノ談リ、正シク聞カセタマヘト言ヒテ歌フ歌、

  ヨリ人ハ今ゾ寄リマス長濱ヤ葦毛ノ駒ニ手綱ユリカケ

トアリ〔嬉遊笑覽所引〕。謠ノ葵ノ上ニ神子ガ六條ノ御息所(ミヤスドコロ)ノ口ヲ寄セントシテ唱フル詞モ之ト全ク同樣ナリ。之ニ由リ見レバ人ノ生靈亡靈モ亦馬ニ乘リ來タリテ巫女ニ託セシナリ。巫女ヲ「ヨリマシ」又ハ「ヨリマサ」ト云フコトハ社ノ神子モ所謂縣神子(アガタミコ)モ區別無カリキ。後者ノ梓ヲ業トスル者ノ如キハ單ニ拜處ヲ一定セザル移動的ノ巫女ト云フニ過ギズ。【賴政】例ノ賴政塚ノ傳說ノ如キハ恐クハ此徒ノ名ヨリ起リシモノナラン。同ジ保呂羽山ノ神樂ノ曲ニ、

  ヨリマサバ今寄リマサネサハラ木ノサハラノ山ニサハリ隈ナク

ト云フモアリ。寄ルトナラバ直チニ寄リタマヘト言フ意味ナルヲ、誤リテ神靈又ハ託女其物ヲ「ヨリマサ」ト謂フト解シタル結果、其祭場ヲ以テ源三位入道ノ首塚ナリトスルガ如キ說ハ起リシナルべシ。

 

《訓読》

 神垂迹(すいじやく)の起原は、決して、後世の緣起に說くがごとき明確のものに非ざりしは、勿論なり。分身自在の天竺の佛たちとは異なり、本(もと)の社ある神々に於ては、決して勸請の地に永逗留(ながとうりう)はしたまはず、一定の日に降(くだ)りて、祭を享(う)け、やがて又、還り往きたまひしなり。所謂、每朝神拜の思想起りて後、如在(によざい)の神は終に常在の神となり、狹く小さき祠の中を以つて、神の住所のごとく考ふる者、出で來たれり。是れ、決して、本來の信仰には非ざりしなり。【神馬用途】阿波に於ける丹生(にふ)明神は其の馬を殘して往かれたるが、抑々(そもそも)神馬の神に用立ちしは、全く、其の往來の此くのごとく繁かりし爲めなり。此の說は、必ずしも根據に乏しき臆說には非ず。沖繩諸島のごときは、今も村々の神は甚だ多く、社の數は甚だ少なし。【嶽】年々、日を定めて神の降る場處を「ダケ」又は「オガン」と謂ふ。高山の頂(いただき)、又は、人の蹈まざる一區の林地なり。「オガン」は、即ち、「拜林(はいりん)」にして、此處に於いて神を祭り、拜するなり。【ウポツ山】大島に於ては之れを「オガミ」山、又は「ウポツ」云ひ、祭の日には此の山より出でて、又、此の山に歸る。神馬に乘りて現はるゝ、こも亦、稀れならずと云へり〔『人類學會雜誌』第百九十五號・昇氏〕。【山の神】遙かに懸け離れたる羽後の平鹿郡の保呂羽(ほろは)神社は、東北地方に於いて威力の最も盛んなる山の神の一つなり。十一月七日の祭に歌ふ神樂(かぐら)の曲の章句に

  東方(あづま)より今ぞ寄ります長濱の葦毛の駒に手綱よりかけ

[やぶちゃん注:原典、歌は各字の間が少し開いている。以下の引用歌も同じ。]

と云ふ歌あり〔「風俗問狀答」〕。「よりかけ」は「ゆりかけ」の轉訛なるべし。「寄ります」とは神靈が巫女に託したまふ事なり。【梓巫(あづさみこ)】其の神が葦毛の駒に乘り、長濱づたひに東の方より降らるるさまを歌ひたるものなるが、此の歌は中央部の諸國にては、所謂、梓神子(あづさみこ)の歌として傳へられたり。「鴉鷺合戰物語(あろかつせんものがたり)」に、「かんなぎ」、梅染(うめぞめ)の小袖を着て、座敷に直(なほ)り、梓の弓を打ち扣(たた)きて『天、淸淨、地、淸淨』を唱へ、『只今、寄せ來たる所の亡者の冥路(よみぢ)の談(かた)り、正しく聞かせたまへ』と言ひて歌ふ歌、

  より人は今ぞ寄ります長濱や葦毛の駒に手綱ゆりかけ

とあり〔「嬉遊笑覽」所引〕。謠(うたひ)の「葵の上」に神子(みこ)が六條の御息所(みやすどころ)の口を寄せんとして唱ふる詞も之れと全く同樣なり。之れに由り、見れば、人の生靈・亡靈も亦、馬に乘り來たりて、巫女に託せしなり。巫女を「よりまし」又は「よりまさ」と云ふことは、社の神子も、所謂、「縣神子(あがたみこ)」も、區別、無かりき。後者の梓を業(なりはひ)とする者のごときは、單に拜處を一定せざる、移動的の巫女と云ふに過ぎず。【賴政】例の賴政塚の傳說のごときは、恐らくは、此の徒(と)の名より起りしものならん。同じ保呂羽山の神樂の曲に、

  よりまさば今寄りまさねさはら木のさはらの山にさはり隈なく

と云ふもあり。『寄るとならば、直ちに寄りたまへ』と言ふ意味なるを、誤りて神靈又は託女(たくぢよ)其の物を「よりまさ」と謂ふと解したる結果、其の祭場を以つて「源三位入道の首塚なり」とするがごとき說は起りしなるべし。

[やぶちゃん注:「羽後の平鹿郡の保呂羽(ほろは)神社」現在の秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山(グーグル・マップ・データ)にある保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)。社伝によれば天平宝字元(七五七)年に大友吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請し、現在地に創建したとする。秋田県に所在する式内社三社の内の一つで、中世には修験道の霊地として周囲より崇敬を集めていた。ここで柳田國男が言う「十一月七日の祭に歌ふ神樂」というのは、現在、重要無形民俗文化財に指定されている。文化庁のデータベースの「保呂羽山の霜月神楽」によれば、『平鹿郡大森町波宇志別神社の十一月七日の祭りに行なわれる湯立』(ゆたて)『神楽の一種で、保呂羽山、御岳、高岡の三山の神霊を勧請して、神主家の神楽座において、古風な神事芸が徹宵して行なわれる。祭壇近くに二つの湯釜を置き、天井には種々の形の幣やしめ縄を張りめぐらす。まず』、『神おろし、招魂、祝詞などの前行事の後、「五調子」「湯加持」「天道舞」「伊勢舞」「保呂羽山舞」などの曲がつぎつぎに舞われる。この芸能は湯立神楽として、組織が大きく、形式もよく整い、地方的にも特色あるものである』とある。

「風俗問狀答」「諸國風俗問狀答」(しょこくふうぞくといじょうこたえ)。江戸末期に、幕府の御用学者であった屋代弘賢が、諸国に、風俗に関する木版刷りの質問状を送って答えを求めた。それが風俗問状であり、それに対する答書が風俗問状答である。後世、散逸していた答書を集成して「諸国」の文字を冠した。屋代弘賢は宝暦八(一七五八)年生まれ、天保一二(一八四一)年に八十四歳で死去、最終的な地位は表御右筆勘定格であった。問状の発送は文化一〇(一八一三)年から二、三年の間であったろうと推測されているが、発送の目的や発送先、答書の数などは明らかでない。「古今要覧稿」の資料集めのためではないかとされている。柳田國男は本作発表の二年後の大正五(一九一六)年、それまでに五種ほどの答書の存在を知って、民俗の通信調査として先駆的な業績を評価し、未発見の答書の発掘を呼びかけた。現在までに二十一種(別に異本一種)が発見されている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鴉鷺合戰物語(あろかつせんものがたり)」室町期の物語で動物同士を擬人化した擬似軍記物の異類小説である。一条兼良作とも伝えられる。祇園林の鴉である東市佐(ひがしのいちのすけ)真玄(まくろ)が、中鴨(なかかも)の森の鷺である山城守津守正素(つもりまさもと)の娘を思い染め、所望するが、拒まれ、仲間を集めて中鴨を攻める。黒い鳥の真玄方には鵄(とび)出羽法橋(ほっきょう)や鶏(にわとり)漏刻博士が、白い鳥の正素方には鶴(つるの)紀伊守や青鷺信濃守らが集い、一大合戦となるが、結局、鴉方が敗れ、鴉の真玄は高野山に登り、仏法僧の手で出家、勝者の正素も、ともに念仏修行するという筋(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『謠(うたひ)の「葵の上」』能「葵上」(あおいのうえ)は世阿弥の伝書「申楽談儀」にも記載があり、近江猿楽系の古作を世阿弥が改作した曲とされる。出典は「源氏物語」の「葵」の帖で、高貴な女性の心理の深層に潜む嫉妬の恐ろしさを、みごとな詞章・作曲・華麗な演出の妙で見せる名作。物の怪に苦しむ光源氏の正妻葵上は、舞台先に延べられた一枚の小袖で表現する。臣下の者が巫女(ツレ)を呼び出し、祟っている者の正体を現わす呪法を命じる。六条御息所の生霊(前シテ)が登場、昨日の花は今日の夢となった元皇太子妃としての華やかな生活との別れや光の愛の衰えを嘆き、興奮に身を委ねて葵上を打ち据え、賀茂の祭で葵上から屈辱を受けたその破(や)れ車に乗せて、彼女を連れ去ろうとする。病状の急変に横川小聖(よかわのこひじり:ワキ)が招かれ、祈り始めると、鬼形(きぎょう)となった生霊(後シテ)が現われ、法力と争い、葵上を取り殺そうとするが、ついに屈服し、恨みの心を捨てて終わる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 木狗(もつく) (インドシナヒョウの黒色変異個体)

Mokku

 

 

 

もつく 玄豹

 

木狗

 

モツ ケ◦ウ

 

本綱木狗在廣東山中形如黒狗能登木其皮爲衣褥能

運動氣血元世祖有足疾取以爲袴人遂貴重之此前所

未聞也又蜀川西有玄狗大如狗黒色尾亦如狗其皮作

裘褥甚暖冬月遠行用其皮包肉食數日猶温彼土亦珍

貴之【此亦木狗之屬】

△按疑此獵虎之屬乎【獵虎見于後】

 

 

もつく 玄豹

 

木狗

 

モツ ケ

 

「本綱」、木狗、廣東(かんたう[やぶちゃん注:ママ。広東省。ここ(ウィキの「広東省」の地図)。])の山中に在り。形、黒き狗のごとし。能く木に登る。其の皮、衣・褥〔(しとね)〕に爲〔(な)〕り〔て〕、能く氣血を運動す[やぶちゃん注:気や血流をよく動かして身体を健康にする。]。元の世祖、足の疾〔(やま)〕ひ、有り。〔これを〕取りて、以つて、袴〔(はかま)〕と爲せり。〔故に〕、人、遂に之れを貴重とす。〔このこと、〕此れより前〔には〕未だ聞かざる所なり。又、蜀の川の西に、玄狗、有り。大いさ、狗のごとくにして、黒色、尾も亦、狗のごとく、其の皮、裘〔(かはごろも)〕・褥と作〔(な)さば〕、甚だ暖かなり。冬月、遠く行く〔に〕、其の皮を用ひて肉食を包めば、數日〔(すじつ)〕、猶ほ、温かなり。彼の土にも亦、之れを珍貴とす【此れも亦、木狗の屬なり。】。

△按ずるに、疑ふらくは此れ、獵虎(らつこ)の屬か【「獵虎」は後に見ゆ。】。

[やぶちゃん注:これは叙述から、ネコ目ネコ科 Pantherini 族ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus の劣性遺伝により突然変異した黒変種の黒豹で、特に中国の広東地方となれば、亜種インドシナヒョウ Panthera pardus delacouri(東南アジア・中国南部に分布)でよかろうかい。ウィキの「ヒョウ」によれば、その発生機序は全くの突然変異であることから、『親兄弟が通常のヒョウであっても発生』し、また、『クロヒョウもヒョウ特有の斑紋を有しており』、『赤外線』を『照射』することで、それを視認することが『できることが分かっている』とある。しかし、普通に視認しても、よく見ると、豹柄は確認出来る。black Leopard」出掛けたグーグル画像検索を見られたい。「黒いジャガーやないんかい?!」とツッコミ入れはる関西の豹柄姐(あね)さんがおると困るから言うときますと、「姐さん、ジャガー(ヒョウ属ジャガー Panthera onca)は新大陸産(北アメリカ南部と南アメリカ大陸)にしかおりませんのや」

「元の世祖」元王朝の初代皇帝(大ハーン)クビライ(漢字表記・忽必烈 一二一五年~一二九四年)。彼が足に疾患があったことは知らない。識者の御教授を乞う。

「蜀」現在の四川省、特に成都付近の古称。やや北ではあるが、インドシナヒョウの棲息域に辛うじてかかる。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)

Kan

 

 

 

くはん  狗獾 天狗

      狟【獾同】

【音歡】

 

ハアン

[やぶちゃん注:「くはん」はママ。歴史的仮名遣では「くわん」である。]

 

本綱獾【狗獾】貒【豬獾】二種相似而畧殊似小狗而肥尖喙

矮足短毛深毛褐色其皮可爲裘領食虫蟻瓜果

三才圖會云獾與貉同穴居獾之出入以貉爲導其皮可

以禦風

 

 

くはん  狗獾〔(くくわん)〕

     天狗〔(てんく)〕

     狟〔(くわん)〕【「獾」と同じ。】

【音「歡」。】

 

ハアン

 

「本綱」、獾【狗獾。】〔と〕貒〔(み)〕【豬獾〔(ちよくわん)〕。】〔は〕、二種、相ひ似て、畧(〔ほ〕ぼ)〔同じくするも〕殊なり〔→殊(ことな)ることあり〕[やぶちゃん注:少し違った部分がある。]。小〔さき〕狗〔(いぬ)〕に似て、肥え、尖りたる喙〔(くちさき)〕、矮〔(ちいさ)〕き足、短き毛〔→尾〕[やぶちゃん注:原典の「本草綱目」に従い、訂した。]。深き毛、褐色。其の皮、裘〔(かはごろも)の〕領〔(えり)〕と爲すべし。虫・蟻・瓜・果〔實〕を食ふ。

「三才圖會」に云はく、『獾と貉と、穴を同じうして居〔(を)〕る。獾の出入、貉を以つて導(みちびき)と爲す。其の皮、以つて、風を禦〔(ふせ)〕ぐべし』〔と〕。

[やぶちゃん注:先の「貒」で示した如く、これも食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)の異名に過ぎないと考える。

「天狗〔(てんく)〕」「三才図会」を見ていたら、「天狗」という別種がおったで?!ここの右頁。国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。それによれば、「陰山に獣がおり、形状は狸に似て、首が白い。名付けて「天狗」と言う。蛇を食う。其の啼き声は猫のようである。これを身に佩びていれば、凶事を防ぐことが出来る」とあるね。

『「三才圖會」に云はく……』「狗獾」で、ここの左頁(同前)。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み) (同じくアナグマ)

Mi

 

 

 

み     獾㹠 豬獾

      䝏【子】

【音端】

 

トワン   【和名美】

 

本綱貒山野間穴居狀似小豬㹠形體肥而行鈍其足蹯〔(ばん)〕

【蹯者足掌也】其跡※1【※1者指頭跡也】其耳聾見人乃走短足短毛尖喙

[やぶちゃん注:「※1」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]

褐毛頭連尾毛一道黒能孔地食蟲蟻瓜果其肉帶土氣

皮毛不如狗獾

肉【甘酸平】 治水脹久不瘥埀死者作※2食下水大効【野獸中惟

[やぶちゃん注:「※2」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。煮た羹(あつもの)。スープ。]

貒肉最甘美益痩人】

 

 

み     獾㹠〔(くわんとん)〕

      豬獾〔(ちよくわん)〕

      䝏〔(ろう)〕【子。】

【音「端」。】

 

トワン   【和名「美」。】

 

「本綱」、貒、山野の間に穴居す。狀、小さき豬-㹠〔(ぶたのこ)〕に似て、形體、肥えて、行くこと、鈍〔(にぶ)〕し。其の足、蹯〔(ばん)〕【「蹯」は「足の掌」なり。】[やぶちゃん注:「蹯」の字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]、其の跡、※1[やぶちゃん注:「※1」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]あり【「※1」は「指の頭の跡」なり。】。其の耳、聾〔(ろう)〕にして、人を見るとき、乃〔(すなは)ち〕、走る。短き足、短き毛、尖りたる喙〔(くちさき)〕にして、褐毛、頭より尾に連なり、毛〔の〕一道、黒し。能く地に孔〔(あな)〕して蟲・蟻・瓜・果〔實〕を食ふ。其の肉、土氣を帶ぶ。皮毛、狗獾〔(くくわん)〕[やぶちゃん注:やはり同じアナグマ。]に如〔(し)〕かず。

肉【甘・酸、平。】 水-脹〔(すいしゆ)[やぶちゃん注:水腫。]〕、久しく瘥〔(い)〕えずして死に埀(なんなん)〔とし〕たる者を治す。※2(あつもの)[やぶちゃん注:「※2」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。煮た羹(あつもの)。スープ。]と作〔(な)して〕食〔へば〕、水を下し[やぶちゃん注:過剰な水分を排泄させて。]、大いに効あり【野獸の中、惟だ、貒の肉、最も甘く美にして、痩せたる人に益あり。】。

[やぶちゃん注:これも前の「貉」に同じく食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)の異名に過ぎないと考える。良安も細分類化に困ったものであろう、評言もしていない。洋の東西を問わず、古典的博物学では個体変異レベルのものまで安易に異種とするケースが多く見られ、多数の種に分類鑑定することこそが真の学者の在り方であるかのように考えられていた節がある(形態観察に基づく差異を以って近代分類学が成り立っており、神経症的なまでにいたずらに細分化されていったこともこれに通ずる)。そうした悪弊を積み重ねた結果、それが当然の如くなり、寧ろ、これとこれは異名同種であるなどと主張すると、批判を食らう傾向さえあったようにも感じられる。その最たるものが、この狸(たぬき)狢(むじな)そしてこの貒(み/まみ)であり、ここに「狗」と出、次にまたまた立項されてしまう「」(音「カン」)なのであった。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)

Mujina

 

 

 

むしな   與獾同穴異

      處故字從各

      說文作貈

【音鶴】

      【和名無

ホツ     之奈】

 

本綱貉生山野間狀如貍頭鋭鼻尖班色其毛深厚溫滑

可爲裘服日伏夜出捕食蟲物出則獾隨之其性好睡人

或見之以竹叩醒已而復寐故人好睡者謂之狢睡又言

其非好睡乃耳聾也故見人乃趨走

△按日本紀推古帝【三十五年】陸奧有貉化人以歌之

 

 

むじな   獾(をほをほかみ)と

      穴を同〔じくするも〕、

      處を異にす。故に、字、

      「各」に從ふ。

      「說文」、「貈」に作る。

【音「鶴」。】

      【和名「無之奈」。】

ホツ

[やぶちゃん注:「獾(をほをほかみ)」は大狼(おおおおかみ)のこと。但し、この和訓は正しくない。後注参照。]

 

「本綱」、貉、山野の間に生ず。狀、貍〔(たぬき)〕のごとく、頭、鋭〔(とが)〕り、鼻、尖にして、班〔(まだら)〕色。其の毛、深く厚く、溫〔かく〕滑〔(なめら)か〕にして、裘(〔かはごろ〕も)に爲〔(つく)〕り服すべし[やぶちゃん注:着るとよい。]。日〔(ひ〕る)は伏し、夜は出でて、蟲物[やぶちゃん注:ここは広汎な動物、昆虫や節足動物・爬虫類・鳥類・鼠類等を指す。]を捕り食らふ。出づるときは、則ち、獾、之れに隨ひ、其の性、睡ることを好みて、人、或いは之れを見て、竹を以つて叩(たゝ)き醒すに、已にして復た寐る。故に、人〔の〕好みて睡れる者を、之れ、「狢睡」[やぶちゃん注:所謂、「狸寝入り」である。]と謂ふ。又、言ふ、「其れ、好みて睡るに非ず。乃ち、耳の聾〔(らう)〕なればなり。故に、人〔を〕見るときは、乃〔(すなは)〕ち、趨走〔(すうそう)〕す[やぶちゃん注:走って逃げる。]。

△按ずるに、「日本紀」推古帝【三十五年[やぶちゃん注:六二七年]。】、『陸奧〔に〕、貉、有りて、人に化けて、以つて、之れ、歌〔(うたうた)〕ふ』〔と〕。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)及び本邦固有種ニホンアナグマ Meles anakuma に同定する。本邦の民俗社会では古くからタヌキ(=イヌ科タヌキ属亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus)でやハクビシン(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン(白鼻芯)属ハクビシン Paguma larvata)を指したり、これらの種を区別することなく、総称する名称として使用することが多いが、前者との混淆はいいとして、後者ハクビシンは私は本来、本邦には棲息せず、後代(江戸時代或いは明治期)に移入された外来種ではないかと考えているので含めない。アナグマはしばしばタヌキにそっくりだとされるが、私は面相が全く違うと思う。ウィキの「ニホンアナグマ」を引く。『指は前肢、後肢ともに』五『本あり、親指はほかの』四『本の指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。 食性はタヌキとほとんど同じである』(動植物性の雑食)。『特にミミズやコガネムシの幼虫を好み、土を掘り出して食べる。 巣穴は自分で掘る』溜め糞(先行する「貍」の注を参照)『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』。『日本の本州、四国、小豆島、九州地域の里山に棲息する』。十一月下旬から四月『中旬まで冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある』。体長は四十~六十センチメートル程度で、尾長は十一・六~十四・一センチメートル、体重十二~十三キログラムであるが、『地域や個体差により、かなり異なる』。長く『アナグマMeles melesの亜種とされていたが』、二〇〇二『年に陰茎骨の形状から独立種とする説が提唱された』(私はそれに従う)。一『日の平均気温が』摂氏十度を『超える頃になると』、『冬眠から目覚める。春から夏にかけては子育ての時期であり、夏になると』、『子どもを巣穴の外に出すようになる。秋になると』、『子どもは親と同じくらいの大きさまで成長し、冬眠に備えて食欲が増進し、体重が増加する。秋は子別れの時期でもある。冬季は約』五『ヶ月間冬眠するが、睡眠は浅い』・『秋は子別れの時期であるが、母親はメスの子ども(娘)を』一『頭だけ残して一緒に生活し、翌年に子どもを出産した』際には、『娘に出産した子どもの世話をさせることがある。娘は母親が出産した子どもの世話をするだけでなく、母親用の食物を用意することもある。これらの行為は』、『娘が出産して母親になったときのための子育ての訓練になっていると考えられる』。『巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あり、出入口は掘られた土で盛り上がっている。巣穴の規模が大きいため』、『巣穴全体をセットと呼び、セットの出入口は多いものでは』五十『個を超えると推測される。セットは』一『頭の個体のみによって作られたのではなく、その家族により何世代にもわたって作られている。春先になると』、『新しい出入口の穴が数個増え、セット全体の出入口が増えていく。巣穴の出入口の形態は、横に広がる楕円形をしていて、出入口は倒木や樹木の根、草むらなどで隠されている。巣穴の掘削方法は、穴の中から前足で土を押し出し、押し出したあとにはアクセス』・『トレンチと呼ばれる溝ができる。セットには崖の途中などに』、『突然』、『開いている裏口のような穴が存在することもある』(この驚くべき広大な巣穴構造が、「本草綱目」にある、「」(後述)という別の生物と穴を同じくしつつも、中では各個に棲み分けしているというトンデモ誤認を生み出したものと考えられる)。『巣材として草を根から引き抜いて使用していると推測される。巣材が大雨などで濡れると、昼に穴の外に出して乾燥させて夜に穴に戻す、という話もある』とある。なお、本文に出る「擬死」現象について、ウィキの「擬死」の一部を引いておく。『被食者が身動きすると攻撃が続き殺されるのに対して、動かないでいると攻撃をやめる事が多いという。彼らは断定を避けながらも擬死がある程度の効果を持つ事を示唆している』。本邦では、『ニホンアナグマやホンドタヌキ、エゾタヌキなど』が、哺乳類の擬死行動としてよく知られてきた。『脊椎動物の擬死(thanatosis)は、動物催眠(animal hypnosis)、または、持続性不動状態(tonic immobility)と呼ばれることもある』。『動物は自らの意志で擬死(死にまね。death feigning, playing possum)をするのではなく、擬死は刺激に対する反射行動である。哺乳類では、タヌキやニホンアナグマ、リス、モルモット、オポッサムなどが擬死をする。 擬死を引き起こす条件や擬死中の姿勢、擬死の持続時間は動物によって様々である』。『イワン・パブロフは脊椎動物の擬死の機構を次のように説明している』。『「不自然な姿勢におかれた動物がもとの姿勢に戻ろうとしたときに抵抗にあい、その抵抗に打ち勝つことができない場合にはニューロンの過剰興奮を静めるための超限制止がかかってくる」(イワン・パブロフ)』。『拘束刺激は擬死を引き起こす刺激の一つである。カエルやハトなどは強制的に仰向けの姿勢をしばらく保持すると不動状態になる。また、オポッサムはコヨーテに捕獲されると』、『身体を丸めた姿勢になって擬死をする』。『本種が擬死を行うことによる利点として、身体の損傷の防止と捕食者からの逃避が考えられる。擬死は捕食者に捕えられたときなどに起こる。捕食者から逃げられそうにない状況下で無理に暴れると疲労するだけでなく、身体を損傷する危険がある。捕食者は被食者』『が急に動かなくなると力を緩める傾向がある。このような時に捕食者から逃避できる可能性が生まれる。この機会を活かすためには身体の損傷を防ぐ必要がある』。『擬死中の動物は、ある姿勢を保持したまま不動になる。その姿勢は動物により様々である。ただ、不動状態のときの姿勢は普段の姿勢とは異なる不自然な姿勢である。動物は外力によって姿勢を変えられると、すぐに元の姿勢を維持しようして動作する。この動作を抵抗反射(resistance reflex)という。しかし、擬死の状態では抵抗反射の機能が急に低下して、不自然な姿勢がそのまま持続する。このような現象をカタレプシー(catalepsy)という。カタレプシーは擬死中の動物すべてにあてはまる特徴である。擬死の持続時間は、甲虫類以外は数分から数十分で、擬死からの覚醒は突然起こる。擬死中の動物に対して機械的な刺激(棒で突つくなど)を与えると覚醒する(甲虫類は逆に擬死が長期化する)。擬死中は呼吸数が低下し、また、様々な刺激に対する反応も低下する。擬死中の動物の筋肉は通常の静止状態の筋肉と比較してその固さに違いがあり、筋肉が硬直している。そのため、同じ姿勢を長時間維持することが可能となる』とある。

」中国で大狼だと、食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属ヨーロッパオオカミCanis lupus lupus の大型固体となろうが、オオカミとアナグマが同居する可能性はない。ただ、オオカミの巣穴も見た目は恐らくアナグマの巣によく似ているであろうから、良安は或いはそこから逆に「」の同定を誤ったもかも知れない。現行、中国ではこの「」はアナグマ属ヨーロッパアナグマ Meles meles に当てられている(中国には棲息しない)。さらに興味深いのは「狼」という熟語があって、これは現代中国で、食肉目イタチ科クズリ属クズリ Gulo gulo を指すという事実である。グズリの棲息域は中国では東北部に辛うじて掛かっており、アナグマより遙かに大きく、しかも獰猛であるから、「大狼」っぽいではないか。良安のいい加減な当て訓で、却って楽しい智のドライヴが出来た。

『「各」に從ふ』「貉」の(つくり)の「各」、は同じ穴に棲みながら、それぞれ「各」々棲み分けしているからだ、というのである。まあ、落語見たような話としては面白い。

『「日本紀」推古帝……』「日本書紀」の推古天皇三十五年二月の条に出る。

   *

三十五年春二月。陸奥國有狢化人以歌之。

   *]

泉のほとり 伊良子清白

 

泉のほとり

 

わが心奇異の思す

また同じ道に出でたり

砂山の南の麓

さわさわと泉の音す

 

家求めまたよぢ登る

西の方天(あま)つ日(ひ)おはす

ごうごうと海の響は

くらうなる心を醒す

 

三たびまた泉にいでぬ

これはこれ人とる水か

金精(こんじやう)の棲むときくなる

北の海波間も近し

 

一つづつ破るる泡は

蠱惑(まどはし)がつぶやくごとし

まなこ張り驚かされて

我はしばしそこに佇む

 

いつのまにうまいしにけむ

束(つか)のまといふ程なりき

さめごこちよき風吹きぬ

足らずげに泡はつぶやく

 

恍惚と心とられて

聲ききぬいといと淸き

人にあらぬ艶美(あて)なるものを

想像す氣の衰へに

 

四たびめは家にかへりぬ

白壁はあからめもせず

さりげなく裝ひするも

わが心ときめきにけり

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。初出時は前の「琴の音」とともに総標題「北の海」で併載。

「金精(こんじやう)」男根の形でシンボライズされる金精神(こんせいしん)の異名。民俗社会では泉は女陰にシンボルされ、泉が枯れずに湧き続けるように男根である金精神を祀ることがある。

「うまい」漢字では「熟寝」と当て、快く眠ること。ぐっすり眠ること。因みに、古くは男女の共寝に用いた名詞である。

 初出形は以下。

   *

 

泉のほとり

 

わが心奇異の思す

また同じ道に出でたり

砂山の南の麓

さわさわと泉の音す

 

家求めまたよぢ登る

西の方天(あま)つ日(ひ)在(おは)す

ごうごうと海の響は

くらう成(な)る心を醒す

 

三たびまた泉にいでぬ

これはこれ人とる水か

金精(こんじやう)の棲むときくなる

北の海波間も近し

 

一つづつ破るる泡は

蠱惑(まどはし)がつぶやくごとし

眼(まなこ)はり驚(おどろか)されて

我はしばしそこに佇む

 

いつのまにうまいしをらん

束(つか)の間(ま)といふ程なりき

よき心地(こゝち)眠(ねぶり)はさめぬ

廣野(ひろの)なりわが家(や)を思(おも)ふ

 

恍惚と心とられて

聲ききぬいといと淸き

人にあらぬあてなるものを

想像す氣の衰へに

 

四たびめは家(いへ)に歸(かへ)りぬ

白壁はまみに映(うつ)りて

さりげなく裝ひするも

わが心(こゝろ)ときめきゐたり

 

   *]

琴の音 伊良子清白

 

琴 の 音

 

梨の花月にこぼれて

千里(ちさと)まで霞む春の夜

岸に沿ひ流るる琴の

二つなき響をききぬ

 

古き世の物語めき

美しき追憶(おもひで)となる

琴の音(ね)はみそらにのぼる

まどかなる月の村雲

 

人の世はあやにくのもの

心憎き今宵の業(わざ)も

彈(ひ)く人は彈くとも思はず

きく人はきくとも知らず

 

ただ響くむねの創痍(いたで)に

反響(こだま)する淸搔(きよがき)のおと

幽(かす)かなれど漂ふわたり

けしきだち荒野と成りぬ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。初出時は次の「泉のほとり」とともに総標題「北の海」で併載。初出形は以下。最終連が大きく異なるが、初出のそれは少しく意味が採りにくく、改作の方がよい。

   *

 

琴 の 音

 

梨の花月にこぼれて

千里(ちさと)まで霞む春の夜

岸に沿ひ流るる琴の

二つなき響をききぬ

 

古き世の物語めき

美しき追懷(おもひで)となる

琴の音(ね)は今(いま)さかりなり

誰(た)が家(いへ)のすさびなるらん

 

人の世はあやにくのもの

心憎き今宵の業(わざ)も

彈(ひ)く人は彈くとも思はず

きく人はきくとも思(おも)はず――

 

傷(やぶ)れたる胸に創痍(いたで)に

たゞ一人(ひとり)反響(こだま)する兒は

かすかなれど荒(あら)き響(ひゞき)を

よゝとしもつい啼(な)きゐたり

 

   *]

落葉の歌 伊良子清白

 

落葉の歌

 

冬は美晴(びせい)の日ぞ多き

東京の天(てん)朝な朝な

不二を篩(ふる)ひて山の手の

庭は落葉の頻りなり

 

夜におき結ぶ初霜に

濃きもうすきも色かへて

日出でぬひまのきららかさ

箒(ははき)知らぬが眺めなり

 

いくさをはりて凱旋の

日に日にきこゆらつばの音(ね)

御旗たてたる軒端(のきば)より

降るも金(こがね)の木の葉かな

 

街巷(ちまた)をはさむ篠(すず)かけの

梢はすきて灯(ひ)の海の

彼方は明かし流れ入る

堆葉(うずは)は河と疑はる

 

斗牛(とぎう)の間暗うして

曇りがちなる星の空

急ぐ落葉の頃なれば

ちぎれし雲のみだれとぶ

 

十年(ととせ)も束の間すぎさりて

馴るるに早き佗住みの

窓を隔ててさらさらと

落つる木の葉をなつかしむ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行『文庫』初出。伊良子清白満二十八歳。この前年の五月末、鳥取市の漢学者森本歓一・なかの長女で鳥取県女子師範学校附属小学校訓導であった幾美(えみ)と結婚、翌六月二十七日、当時、勤務していた帝国生命保険の保険検査医として東京へ転任、新妻とともに旧赤坂区新町四丁目に新居を構えた(現在の港区赤坂のこの中央附近と推定される。富士山は西南西に当たる)。日露戦争はその二ヶ月後の九月一日に休戦、翌月十月十四日にポーツマス条約批准によって終結している。

「斗牛」二十八宿の斗宿と牛宿。斗は射手座の一部、牛は山羊座の一部で、ともに南方の天にある。

 初出は以下。最終連を大きく改変している。

   *

 

 

落葉の歌

 

冬は美晴(びせい)の日ぞ多き

東京の天、朝な朝な

不二を篩(ふる)ひて山の手の

庭は落葉の頻なり

 

夜におき結ぶ初霜に

濃きも淡きも色更へて

日出でぬまのきららかさ

箒(ははき)知らぬが眺なり

 

戰終りて凱旋の

日に日にきこゆ町の内

御旗樹てたる軒端(のきば)より

降るも金(こがね)の木の葉かな

 

街巷を挾む櫻木の

果は夕の鐘の海

音を慕ひて流れ入る

堆葉(うずは)は河と疑はる

 

斗牛(とぎう)の間暗くして

曇りがちなる星の空

急ぐ落葉の頃なれば

しめらぬ雲の亂れ飛ぶ

 

時雨のあめか木の葉かと

うたひし古歌を思ひいで

枕欹て蕭々と

落つる響を聽けるかな

 

   *

初出最終連の「欹て」は「そばだて」。]

2019/04/14

無題 伊良子清白

 

無 題

 

世に落魄(おちぶれ)し貴人(あてびと)の

艶(つや)ある鬚を刎(は)ねし時

戰(いくさ)に行くと大力の

たぶさの紐をときしとき

啞と成りたる童女(わははめ)の

五月雨髮(さみだれがみ)を剃りし時

山を出でたる顏黑の

行者に鐡をあてし時

刑(しおき)に迫る罪人の

臨終(いまは)の髮を斷(た)ちしとき

江戸の男は泣きながら

剃刀硏(と)ぎてゐたりけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年一月発行『文庫』であるが、初出では総標題「冬の夜」のもとに「月光日光」「漂泊」(孰れも「孔雀船」所収)及び本「無題」の三篇を掲げてある。初出は以下。

   *

 

無 題

 

世に落魄(おちぶれ)し貴人(あてびと)の

艶(つや)ある鬚を刎(は)ねし時

戰(いくさ)に行くと大力の

たぶさの紐を解きし時

啞と成りたる童女(わははめ)の

五月雨髮(さみだれがみ)を剃りし時

山を出でたる顏黑の

行者に鐡をあてし時

刑(しおき)に迫る罪人の

臨終(いまは)の髮をたちし時

江戸の男は情(なさけ)無き

業(わざ)もするぞと思ひけり

 

   *]

海の聲山の聲 (抜粋改作版)

 

海の聲山の聲

 

  序 歌

 

鞠(まり)つく女(め)の兒(こ)手をやめて

虹よ虹よといふ聲に

窓を開けば西日さす

山に錦はかかりけり

 

家ことごとく虹ならば

歌ことごとく玉ならん

かく口ずさむ折からに

虹のかがやきいひしらず

 

もとより家は埴生(はにふ)にて

名もなき賤の物狂(ものぐるひ)

破(や)れたる窓にうづくまり

破れたる歌の作者なり

 

たまたま虹の現はれて

さびしき家を照らせども

なにとこしへにわが歌は

掃きて捨つべきあくたのみ

 

  上 の 卷

 

   

 

道は古びぬ二名島(ふたなじま)

土佐の沖より流れきて

紀路に渦卷く日の岬

潮の岬にさわぎては

底に破れし浮城(うきしろ)の

鋼鐡(はがね)の板も碎くらん

五月雨(さみだれ)降れば荒れまさる

那智の御瀑(みたき)の末にして

泥を二つに分つ時

黃ばめる海を衝(つ)き進み

香(かぐ)の木の實を積み載せて

大冬海を直走(ひたばし)る

牟婁(むろ)の大人(おとな)の耳朶(ほだれ)にも

頻吹(しぶき)をかけて嘲笑(あざわら)ふ

海の流の黑潮は

今霜月の波頭

科戶(しなど)の風も吹き止みて

晴れわたりたる海の門(と)を

玉藻流るる日もすがら

顏赤黑きいさり男が

沖の海幸(うみさち)卜(うらな)はん

河の面は輝きて

志摩の岬を藍染の

緩(ゆる)き流れと成しぬかな

 

加賀の白山(しらやま)黑百合の

咲き絕ゆる間の長冬を

時じく空の惡くして

波路險(けは)はしき時化(しけ)續き

雪持つ風に吹き閉づる

海の一村うづもれて

橇(そり)も通はずなりぬれば

磯に幽鬼(すだま)の走るぞと

泣く子をおどす三越路の

北の雪國荒るる時

暗をはなれて光ある

秋津島根の表國

榕樹(あこう)繁れる屋久島の

南の果の海所(うみが)より

親潮ぬるむ陸奥(みちのく)や

黃金花咲く山根まで

伊豆の七島(ななしま)海境(うなざか)の

道の傘隈(かさぐま)大灘に

音も騷がぬ常世波(とこよなみ)

船は百日(ももか)を漂ひて

梶緖もとらぬ物ぐさの

蹲居(うづゐ)の膝やゆるぶらむ

 

登れば髙き石階(きざはし)の

寺院(じゐん)の柱午(ご)に中(あた)り

圍(まろき)き光の輪を帶びて

誰荒彫の龍頭(たつがしら)

海に向ひて氣を吹くも

弱き炎のいかにして

下に沈める靑波の

凝れる膏(あぶら)を熔(と)き得べき

 

見渡す限りわだつみは

凪(な)ぎかへりたる秋日和

いはば淨めしちりひぢの

波の化生(けしやう)の鳥ならで

白きをかへす羽もなし

 

鐘樓に上ぼり杵(きね)をとり

力の限り撞(つ)く時に

白き壁より白き壁

波切(なきり)一村分限者(ぶげんじや)の

家の榎(えのき)に傳はれば

共鳴(ともなり)したる大木の

うめきは海にひろごりて

波の寐魂(ねだま)と成りにけり

 

此樓にして空を看る

西五ケ國雲の影

東五ケ國雪の花

南は靑き海にして

日本七十灘の内

十三灘を湛へたり

 

國誌傳へていひけらく

此寺巖(いは)の頂に

雲を帶びたる一つ星

危くかかる風情にて

夏の黑ばえ冬の朔風(きた)

雨と風とに晒(ざ)れにけり

 

秋更け渡る此頃を

美童の沙彌(しやみ)の現はれて

さと開きたる諸扉(もろとびら)

海の粧(よそほひ)花なれば

錆びたる鋲(びやう)もうごめきて

瞽(めし)ひたる身を悶ゆめり

 

師の坊いでて慇懃の

禮をつくすも嬉しきに

引いて艶蕗(つはぶき)黃(き)を潑(ち)らす

趣味ある庭を前にして

語る雄々しき物語

 

   

 

客人(まれびと)知るや海士(あま)の子が

十三歲になりぬれば

はじめていづる海の上に

腕は鋼鐡(はがね)の弓にして

それ一葉(えふ)の船の影

眼は精兵(せいびやう)の箭(や)に似たり

阿呍(あうん)の息の出入(いでいり)も

引く櫓押す櫓の右左

左に押せば日の惠

右にかへせば月の恩

海の獲物を積み載せて

水を蹴立つる驀地(ましぐら)や

空の景色のかはる時

海の備へは成りにけり

こは甲斐ありし初陣(うひぢん)ぞ

疾(と)く陣立をととのへよ

風雨(あらし)も起れ波も立て

わが胸板にぐさと立つ

一矢もあらば興ならん

生れしままの柔肌(やははだ)に

些(ちと)の疵だにあらざれば

兄者人(あにじやびと)にや氣壓(けお)されん

來れといひて聲高に

どつと笑へば海原の

果にあたりて貝鉦(かひがね)や

軍鼓(いくさつすみ)のどよめきに

旗さし物の白曇(しらぐもり)

曇りはてたるいくさ場の

流をみだる船の脚

いかり易きは件(とも)の男(を)の

嵐高浪手を擴げ

鷲摑みとぞきほひ來る

くぐりぬけたる少年の

頸(うなじ)は母が手に撫でし

產毛(うぶげ)の痕やそれならぬ

岬の岩を漕ぎ繞り

舷(ふなべり)うちてたはぶれし

幼きときにくらぶれば

ひととなりたるわが兒よと

流石に父はあらし男の

猛(たけ)き心も鈍るらん

其時浪は捲き立ちて

うしろにかへる闇打に

ともに立ちたるいたいけの

背(そびら)をうてばよろめきて

のめり伏したる板のうへ

また起きあがり海を見て

さてもきたなき眷族(けんぞく)の

ほこる手並はそれしきか

初手合(はつてあはせ)の見參(けんざん)に

恥なきもののい哀(あはれ)さよ

退(まか)れといひて勇ましく

艪のかけ聲にかけ合はす

幼き聲を侮りて

しかみ面なるはやて雲

脚空(あしぞら)ざまに下ろしきて

たちまち船をとり卷けば

黑白(あやめ)もわかぬ槍襖

篠つく雨の頻りなり

これにおそれぬ海の男の

船は天路(あまぢ)の彗星

直指(たださ)す方を衝(つ)き進み

波に泡立つ尾を曳きぬ

しばし程經て波すざり

風片陰に成りぬれば

かけ並べたる楯板の

苫(とま)に亂るる玉霰(たまあられ)

あたれば落ちて消えにけり

矢種盡きたる痴(し)れものの

今は苦しき敗軍(まけいくさ)

投げてつぶての目つぶしに

虛勢を張るか事可笑(をか)し

行けと叫びて押しきれば

家路は近し艪の力

安乘岬(あのりみさき)の燈臺は

美しき眼をしばたたき

人戀ふらしき風情なり

今は海路も暮れはてて

里のいそべに着きぬれば

濡れたる衣乾(ほ)しあヘず

をどりて運ぶ海の幸

 

聞きねと語るわが僧の

炭(す)びつの炭をつぐ時よ

魚見(うをみ)の小屋の貝が音(ね)に

海士の囀(さへづり)かしましく

かごを戴き女のこらも

網引(あびき)に急ぐ聲すなり

 

 

  下 の 卷

 

   

 

時雨るる頃の空なれば

雲の色こそ定らね

虹に夕日にもみぢ葉に

刷毛(はけ)持つ神ぞ忙しき

 

岩切り通し行く水の

岸は花崗(みかげ)の波の花

たまたま淸水滲みては

根花生ひたり苔まじり

[やぶちゃん注:「根花」東北地方でワラビの根茎から精製した蕨粉(わらびこ)のこと「根花」とは言うが、意味が通らない。これは初出から見ても意味から見ても「根芹」の伊良子清白の誤字か、底本親本の新潮社のそれの誤植であろう。]

 

鹿(しし)追ふ子等が行き難(なや)む

流の石は圓(まろ)くして

蹄の痕もとどまらぬ

時雨の雨ぞ新なる

 

波越す岩に羽うちて

鶺鴒(せきれい)かける谷の上

流れ葉(は)嘴(はし)を掠め去る

瀧津早瀨(たきつはさせ)の水は疾(と)し

 

   

 

鉾杉(ほこすぎ)立てる宮川の

源近く分け入れば

昨日の夢のわだつみは

八重立つ雲ときえにけり

 

草分衣(くさわけごろも)霜白く

故鄕戀ふる旅人が

枕に通ふ山の聲

海のこゑとやきこゆらん

 

白日(まひる)の落葉小夜(さよ)の風

秋は暮こそ侘しけれ

深山の奧に菴(いほり)して

誰かきくらん山の聲

 

海の子われは荻(をぎ)葺(ふ)きて

網干す家をこのめばか

眞梶(まかぢ)繁貫(しゞぬぎ)帆綱くむ

海士(あま)の業(わざ)こそこひしけれ

 

海の子われはわだつみの

廣き景色をこのめばか

汐汲車汲み囃(はや)す

海の歌こそこひしけれ

 

今海遠く船見えず

何を思はむ渡會(わたらひ)の

南、熊野の空にして

雲の徂徠(ゆきき)や眺むべき

 

熊野の浦の島根には

浪こそ來よれ深みどり

うみの綠に比ぶれば

檜は黑し杉は濃し

森の下草秋花に

せめてはしのぶ海の色

 

熊野の浦のしまねには

鯨潮吹く其潮の

漂ふ限り泡立ちて

鶚(みさご)も下りぬ海原の

荒き景色を目に見ては

細谷川の八十隈(やそぐま)に

かかれる瀑(たき)も何かせん

 

   

 

今朝立ちいでて宮川の

水のほとりに佇(たたず)むに

流れて落つる河浪の

岩に轟き瀨に叫び

岸の木魂(こだま)と伴ひて

秋の悲曲を奏しけり

 

木々の落葉に葬りし

虫の骸(から)だに朽ちぬれば

岩を劈(つんざ)く鵯鳥(ひよどり)の

流れを越ゆるこゑならで

生きたるものの音もなし

 

見れば河床(かはどこ)荒れだちて

拳を固め肩を張り

人に鎧はあるものを

これは素肌の爭ひに

かたみにひるむ氣色なし

 

蛤仔(あさり)蟶貝(まてがひ)蛤(はまぐり)の

白くざれたる濱にして

花の籠(かたみ)に拾ふらん

海の樂み數盡きず

何とて山の峽間(はざま)には

秋の笹栗ゑみわれて

空しく水に沈むらん

 

   

 

岩ほをつたひ攀ぢ上ぼり

靑垣淵をうかがふに

獺(をそ)も返さむ斷崖(きりぎし)の

高さをくだる蔦蘿(つたかづら)

下に漂ふ靑波の

澱(よど)みに浮ぶ泡もなし

 

生命の影のさす每に

渦卷きたちぬ廣がりぬ

波色增しぬ漲りぬ

底ひに人を誘ふなる

常世(とこよ)の關はなかなかに

物も祕(ひそ)めず岩床の

隈に隱るる鰭(はた)のもの

陰行く群もさやかなり

 

知らずや月の夜半の秋

柝(たく)擊(う)つ老(おい)が白髮(しらかみ)も

氷りはつらん置霜(おくしも)の

寒き細路折れ下り

渡しの舟の艪を操りて

瘦せたる影やきえぎえに

浮ぶ彼方の水の末

 

知らずや木々も雪の朝

六つの花片飛び散れば

氷柱(つらら)かかれる岩廂(いはびさし)

棹(さも)もすべりて三吉野の

故鄕思ふ筏師が

蓑(みの)や拂はんかげもなき

狹き峽間の淵の上

 

   

 

仰げばすでに空晴れて

霧立ち迷ふ山の襞(ひだ)

秋の錦の紅葉(もみぢば)は

あらゆる山を染め成して

とはの沈默(しじま)のゐずまひを

くづせと着せしごとくなり

 

山走りして白雲の

黃雲にまじる境より

きらめきいづる日の光

山の眞額(まひたひ)かがやくも

海のごとくにけしきだち

わらひどよめき脚をあげ

よろこび躍るさまもなし

 

さてもあたりの山々は

或は頭を擡(もた)げつつ

あるは頸(うなじ)を屈(かゞ)めつつ

雲の脇息(ひぢつき)脇(わき)にして

眠ると見ゆる姿かな

 

   

 

今日栗谷(くりだに)の里に入り

櫛田(くしだ)の河も川上の

七日市(なのかのいち)を志す

草鞋の紐のとけ易き

 

蕎麥は苅りたる山畑の

あぜに折れ伏す枯尾花

返り咲する丹(に)つつじの

色褪せたるも寂しかり

 

登りて原と成る所

高きに處(を)りて眺むれば

行水(ゆくみづ)低し谷の底

巖を穿ち石を蹴る

白斑(しらふ)も見えず征矢(そや)の羽

岸に轟き瀨に叫ぶ

鍛工(かぬち)も打たず石の砧(とこ)

長き磐船(いはふね)方(けた)にして

盛(も)るか水銀(みづがね)きららかに

重みに底ひ窪むらん

 

それ輝くは光のみ

流れず行かず下に凝り

身を縮めたる鳥自物(とりじもの)

海の鷗のていたらく

石に嵌めたる象眼の

工(たくみ)を誰か爭はむ

ああ水煙湧き返る

水の勢いかなれば

山の尾上(をのへ)を行きかへる

人の眼に淀むらん

 

   

 

そも此川の源は

圖の境の岩襖

名も大臺の麓なる

眞冬の領(りやう)を流れいで

涼石(すずし)の洞にぬけ通ふ

大和の風におはれつつ

七里七村領内の

紙漉(かみす)く子等が皹(あかぎれ)の

手をだにこえて注ぐめり

栗谷川と落ち合ひて

夜ただねぶらぬ物語

一葉の水を潛(くぐ)るにも

千々のよろこび籠るらん

片陰篠生(すずふ)春されば

花の女神の杯(さかづき)の

椿葉がくれ咲きいでて

春雨重る川添の

稚樹(わかぎ)の枝の淺綠

下を流るる大河の

胸に綴れる瓔珞(やうらく)も

花緩やかに流れては

渦卷き入るる淵もなし

若し夫れ翼(つばさ)紀伊の國

一たび海をあふりなば

伊勢の國土は(くぬち)は潮煙

千年(ちとせ)の曆(こよみ)飜へる

野後(のじり)の宮の杉の木に

かかりみだるる秋の雲

多氣(たげ)の谷には火を擦りて

燃ゆる檜の林かな

神領(じんりやう)東足引の

山田が原に駈け下る

水の諸脛(もろはぎ)健やかに

岸をどよもす風神(ふうじん)の

短き臑(すね)も何かせん

 

   

 

杉の林の木下闇(こしたやみ)

雨もあらしも常(とこ)にして

晴るる間もなき窈冥門(かぐろど)の

神の荒びを誰か知る

 

谷に生命を刻(きざ)みては

月を見ぬ國の流れ星

名も無き花の紫に

瘦せたる莖をたふしたり

 

岨の細道幾廻り

嶮はしき坂をとめくれば

小霧の奧に幻の

動くを見たり氣疎(けうと)くも

 

それか深山の山賊(やまだち)が

こもる巖屋の石疊

霧の毛皮をかづぎては

靈(くし)ふる夢も多からん

 

蘿(かづら)犇(ひつし)とかけ結ぶ

不斷の封の固ければ

焚火(たきび)の煙しらじらと

立ちものぼらず岩の上

 

冬は小蓑(こみの)を欲しげなる

猿は面をあらはせど

馴れては殊に山人(やまびと)の

絕えてそれとも覺(さと)らざり

 

ここをよぎれば山めぐり

そがひになりて朗らかに

林もつきぬ久方の

雲の滿干(みちひ)の澪標(みをつくし)

尾上の巖を仰ぐかな

 

   

 

今頂上(いただき)に登り立ち

嚴に倚りて眺むれば

太初(はじめ)よ未だ剖(わか)れざる

混沌(おぼろ)の形現はして

早く成りたる人の子の

不具(かたは)を嘲(あざ)む形姿(なりすがた)

高山續き大臺(おほだい)の

鰾膠(にべ)なき峯を見放(みさ)くれば

うつる時世の蠱物(まじもの)の

雲も及ばず聳ゆめり

西高見山二ケ國の

境の山を隨へて

天津御國の號令の

あらば起(た)たんの身構へも

千年をあまた過ぎにけり

池木屋山(いけぎややま)の頂上(いただき)は

大和國原打ち渡し

あなときのまに積りぬと

古き都に降りしきる

錆(さび)に眼をさらすらん

 

北の方なる白星(しらぼし)は

八十年(やそとせ)過ぎて人の世に

はじめて影を落すとか

はてなき空にうつ伏して

身じろきもせぬ山なれど

天(てん)の齡(よはひ)に比ぶれば

またたく隙を飛びすぐる

日影の身にも似たらずや

 

ありと名のりて宇宙(ひさかた)の

いたるところに顯(あら)はるる

時より時の燭火(ともしび)の

ひかりを點(とも)すそのものよ

今も昔も雄叫(をたけ)びて

こはあらずてふ燒金(やきがね)を

かれの額に捺(お)し得たる

不死身(ふじみ)の猛者(もさ)のあらざるよ

 

見ればいつしか黃を帶びて

とくかはりたる山の色

人の眼の鈍くして

そのけぢめだにわかねども

かつては白き濤を揚(あ)げ

かつては紅き火を飛ばし

一つの命過ぎぬれば

一つの命あらはれて

今は凝りたる其すがた

ただ束(つか)の間の光にも

直指(たださ)す方よひしめきて

完全(またき)を得んと色に出て

音に出て物を思ふかな

 

人は健氣(けなげ)に戰ひぬ

血に塗(まみ)れたる其衣

白き柩(ひつぎ)に代ふるには

あまりにやすきいけにへよ

聖(ひじり)の書(ふみ)を高あげて

渇きは堪へぬ唇に

濃き一と雫かかりなば

ころすも絕えてうらみじに

學術(まなび)よ詩歌(うた)よ教法(をしへ)さへ

ただ一と時の榮(さかえ)にて

朽つるに人の得堪へんや

 

櫟林(くぬぎばやし)の捨沓(すてぐつ)に

巢ぐふは山の鶯か

求食(あさ)り後れてうゑ死ぬも

心臟(こころ)は霜に消えもせで

落葉の下に殘るらん

わが居る岩は白草(しろぐさ)の

九十九(つくも)の髮をはららかし

物を怨ずるさまにして

もしはすてたる山姥(やまうば)の

化(な)りいでたるとおどろきて

坂を下ればあわただし

われはあまりに空想(ゆめ)の兒と

まなこを拭ひうち仰ぎ

またとどまりし山路かな

 

甕(かめ)を碎きて悲しめる

童女(どうによ)をわれの妻として

こもらばいかにうれしきと

おもひし谷ははるかにて

いまだ山脈(やまなみ)驚かず

四つの界(さかひ)に寂寥(さびしさ)の

漂ふ限り雲なれば

止(や)んぬるかなや名も戀も

快樂(けらく)も醉(ゑひ)も一にぎり

すてて立ちけり

  冷えし足蹠(あうら)に

 

[やぶちゃん注:これは既に電子化した明治三七(一九〇四)年一月一日発行『文庫』に発表された「海の聲山の聲」(「序歌の一」「序歌の二」「上の卷」(内で「一」及び「二」に分かれる)「下の卷」(内で「一」から「九」に分かれる)の大パート四篇から成る長詩)の、「序歌の一」と「上の卷」の「二」から最後までの部分を独立させ、内容に手を加えたものである。表記違いはもとより、表現自体或いはシチュエーションそのものを有意に変更している部分も認められる。比較されたい。]

梅崎春生 ルネタの市民兵 (サイト版公開)

最近、梅崎春生のテクスト化を無沙汰していたので、「ルネタの市民兵」を電子化しようかと、ネットに先行するそれがないことを確認していたところ、ふと、『梅崎春生「ルネタの市民兵」―〈川俳会〉ブログ』というのが気になって開いて見たところが、コメント欄に『既に電子化されている主要作品以外も、早く電子化して欲しいものです』。『下の個人サイトでも、この作品はまだ電子化されていないようですし……』とあって、その下にはなんと私のブログ・カテゴリ「梅崎春生」がリンクされているのであった。

これは……「意気に感ず」と言わずんばなるまい!

さても本未明から今までかけて、電子化した。当初はブログでの分割電子化を考えていたが、それでは上記の御仁の御希望に応えるには失礼と存じ、久しぶりにサイト版ルビ附きで作成した。 以下である。

梅崎春生「ルネタの市民兵」

2019/04/13

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)

Kitune

 

 

 

きつね 射干【俗稱】

 

【音胡】

    【和名抄狐木

     豆禰射干也

     關中呼爲野

     干語訛也蓋

フウ   野干別獸也】

 

本綱狐北方最多今江南亦有之江東無之形似小黃狗

而鼻尖尾大日伏于穴夜出竊食聲如嬰兒氣極臊烈其

性疑疑則不可以合類故狐字從孤常疑審聽故捕者多

用罠蓋妖獸鬼所乘也有三德其色中和小前大後有黃

黒白三種白色者尤稀也尾白錢文者亦佳其腋毛純白

謂之狐白共毛皮可爲裘狐死則首丘狐善聽氷或云狐

有媚珠或云狐至百歳禮北斗變爲男婦以惑人又能擊

尾以出火或云狐魅畏狗千年老狐以千年枯木燃照則

見眞形犀角置穴狐不敢歸

凡狐魅之狀見人或叉手有禮或祇揖無度或静處獨語

或裸形見人也

狐肉【甘溫】 治瘡疥補虛損及五臟邪氣【作臛或生作膾食但可去首】

狐膽【臘月收之】 治人卒死【雄狐膽】温水研灌入喉卽活【移時者無及矣】

狐血 解酒毒以狐血漬黍米麥門冬【陰乾爲丸】飮時以一丸

 置舌下含之令人不醉

                  爲顯

 夫木花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人惑ふらん

△按本朝狐諸國有之唯四國【伊豫土佐阿波讃岐】無之耳凡狐多

 壽經數百歳者多而皆稱人間之俗名【如大和源九郞近江小左衞門

 是也】相傳狐者倉稻魂之神使也天下狐悉參仕洛之稻

 荷社矣人建稻荷祠而祭狐其所祭者位異于他狐凡

 狐患則聲如小児啼喜則聲壺敲性畏犬若犬逐之窘

 迫則必屁其氣惡臭而犬亦不能近之將爲妖必載髑

 髏拜北斗則化爲人【見于陳眉公秘笈】惑人報仇亦能謝恩好

 物小豆飯油熬物

 試狐魅其邪氣入肩脇皮膚間必有塊診其脉浮沈不

 定其拇指多震也能察之者刺火鍼則去或先疑似之

 閒煎樒葉令服之狐妖者不曾吃眞病者雖嫌臭味而

 能吃

 狐有花山家能勢家之二派相傳云往昔有狐狩老狐

 將捕急迯隱花山殿乘輿中乞赦遂得免矣能勢何某

 亦雖時異而助死之趣相同共狐誓曰至子孫永宜謝

 厚恩也自此于今有狐魅人則以二家之符置閨傍乃

 魅去平愈其固約人亦可愧也又能守死如有人生割

 狐腹取膽然不動不目逃刳盡臟腑後死此乃首丘之

 理乎

三才圖會云狐古淫婦所化其名曰紫善聽氷河氷合時

聽氷下水無聲乃行

 相傳近衞帝有侍女名玉藻帝會不豫醫療無効使安

 倍泰成禳之占以爲玉藻之障碑卽令玉藻持幣祝之

 玉藻怖捐幣而去化爲白狐入下野那須野害人多於

 是使義純【三浦介】廣常【上總介】驅之狐又化石【殺生石也詳于下野國

 之下】信州諏訪湖水冬月氷合而人馬行氷上春氷漸解

 徃來止其始行也始止也皆窺見狐往來爲的

三才圖會云北山有黒狐卽神獸也王者能致太平則見

四夷來貢周成王時嘗有之

 元明天皇【和銅四年】伊賀獻黒狐【同五年】丹波獻黒狐元正天

 皇【靈龜元年】遠江獻白狐【養老五年】甲斐獻白狐皆以爲祥瑞

玄中記云狐五十歳能變化百歳爲美女爲神巫爲丈夫

與女子交接千歳能知千里外事卽與天通爲天狐

五雜組云齋晉燕趙之墟狐魅最多然亦不爲患北人往

往習之亦猶嶺南人與蛇共處也狐千歳始與天通不爲

魅矣其魅人者多取人精氣以成内丹然則其不魅婦人

何也曰狐陰類也得陽乃成故雖牡狐必托之女以惑男

子也然不爲大害南方猴多爲魅

 狐托於人也強氣者則不能托蓋邪氣乘虛入之謂也

 初如傷寒瘴瘧類但譫語有異耳以咒術靈符禳之則

 病人詈語宿意此乃將去之表也既解去時忽倒臥熟

 睡一二日勿呼起自身寤則安

 

 

きつね 射干(やかん)【俗稱。】

 

【音「胡」。】

    【「和名抄」に、『狐は木豆禰、

     射干なり。關中に呼ぶに、

     野干と爲すは語の訛りなり』

     〔と〕。蓋し、野干は別獸な

フウ   り。】

 

「本綱」、狐は北方に最も多し。今、江南にも亦、之れ有り。江東には之れ無し。形、小さき黃なる狗〔(いぬ)〕に似て、鼻、尖り、尾、大(ふと)く、日(〔ひ〕る)は穴に伏し、夜は出でて食を竊〔(ぬす)〕む。聲、嬰兒のごとし。氣(かざ)、極めて臊-烈(なまぐさ)し。其の性、疑ふ。疑ふときは、則ち、以つて合類〔(がふるゐ)〕すべからず[やぶちゃん注:その結果、同類とともに行動することが出来ない。]。故に「狐」の字、「孤」に從ふ。常に疑ひて審〔(つまびら)〕かに聽く。故に捕るをば、多く、罠(わな)を用ふ。蓋し、妖獸にして、鬼の乘〔(じやう)〕ずる所なり[やぶちゃん注:この場合の「鬼」は]。〔然れども、〕三德[やぶちゃん注:儒学で言う「智・仁・勇」。]、有り。其の色、中和〔ちゆうわ〕にして[やぶちゃん注:特定の色に強くは片寄らずに穏やかであること。]、〔身は〕小前大後なり。黃・黒・白の三種有り。白色なる者、尤も稀れなり。尾に白錢の文有る者も亦、佳なり。其の腋の毛、純白〔なる者を〕之れ、「狐白」と謂ふ。共に毛皮、裘(かはごろも)に爲すべし。狐、死するときは、則ち、〔住みし〕丘を首〔(かうべ)〕にす。狐、善く氷〔(こほり)〕を聽く。或いは云〔はく〕、「狐に媚珠〔(びしゆ)〕[やぶちゃん注:人を惑わす妖しい輝きを持った宝珠。]有り」〔と〕。或いは云〔はく〕、「狐、百歳に至れば北斗[やぶちゃん注:北斗七星。]を禮し、變じて男婦と爲り、以つて人を惑はす」〔と〕。又、「能く尾を擊ちて、以つて火を出だす」〔と〕。或いは云はく、「狐魅〔(こみ)〕[やぶちゃん注:ここは「狐が化けること」或いは「妖狐」の意。直後の次の段落に出る「狐魅(きつねつき)」とは明らかに違った用法であるから、明確に区別して読まねばならないと思う(その点で東洋文庫訳がここに『きつねつき』のルビを附しているのは私は従えない。]、狗〔(いぬ)〕を畏る、千年の老狐、〔人、〕千年の枯木を以つて燃(も)し、〔それを以つて〕照すときは、則ち、眞形〔(しんぎやう)〕を見〔(あらは)〕す。犀の角を穴に置けば、狐、敢へて歸らず。

凡そ、狐魅(きつねつき)の狀(ありさま)[やぶちゃん注:この訓読は特異点。良安は殆んどの場面で「かたち」と訓じている。]、人を見るに、或いは手を叉〔にして〕禮〔する〕有り、或いは、祇(たゞ)揖〔(いふ)〕すること、度〔(たび)〕無し[やぶちゃん注:「揖」は中国の古式の礼の一つで、両手を胸の前で組んでそれを上下したり、前に進めたりする礼を指す。「度〔(たび)〕無し」(「たび」は「ど」でもよいとは思う)は決まった回数が無い、則ち、何時までも繰り返す、の謂いである。]。或いは、静なる處にて、獨語す。或いは、裸(はだか)の形〔(なり)〕にて人に見〔(まみ)〕ゆなり。

狐の肉【甘、溫。】 瘡疥〔(さうかい)〕[やぶちゃん注:広く発疹性の皮膚疾患を指す。]を治す。虛損及び五臟の邪氣〔による虛損を〕補ふ【臛(にもの)に作〔(な)〕し、或いは生にて膾(なます)に作して食ふ。但し、首を去るべし。】。

狐〔の〕膽〔(い)〕【臘月、之れを收む。】 人の卒死を治す【雄狐の膽。】温水にて、研〔(す)れるものを〕灌ぐ。〔それ、〕喉に入らば、卽ち、活す【時の移れる者は及ぶこと無し。】[やぶちゃん注:人の急死した場合でもこれを蘇生させる【それには雄狐の胆(い)でなくてはならない。】。温水を注ぎながら擂り砕いたものを、服用させる。それが咽喉に入った瞬間、忽ち、生き返る【但し、頓死してから有意に時間が経過してしまった場合は生き返らすことは出来ない。】。]

狐〔の〕血 酒毒を解す。狐の血を以つて、黍〔(きび)〕・米・麥門冬〔(ばくもんとう)〕を漬け【陰乾しし、丸と爲す。】、飮む時は一丸を以つて舌の下に置き、之れを含めば、人をして醉はしめざらしむ。

                  爲顯

 「夫木」

   花を見る道のほとりの古狐

      かりの色にや人惑ふらん

△按ずるに、本朝、狐、諸國に之れ有り。唯だ、四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ。凡そ、狐は多壽〔にして〕數百歳を經る者多くして、皆、人間の俗名を稱(なの)る【大和の「源九郞」、近江の「小左衞門」のごとき、是れなり。】。相ひ傳ふ、狐は「倉稻魂(うかのみたま)」の神使なり。天下の狐、悉く洛の稻荷社に參仕す。人、稻荷の祠(ほこら)を建てて、狐を祭る。其の祭らるゝ所の者は、位〔(くらゐ)〕、他の狐に異〔(こと)なる〕なり。凡そ、狐、患ふるときは、則ち、聲、小児の啼くがごとし。喜ぶときは、則ち、聲、壺を敲(たゝ)くがごとし。性、犬を畏る。若〔(も)〕し、犬、之れを逐ひて、窘迫〔(きんぱく)〕なれば[やぶちゃん注:迫られて苦しみ困った場合には。]、則ち、必ず、屁(へひ)る。其の氣(かざ)、惡(わ)る臭(くさ)くして、犬も亦、之れに近づくこと能はず。將に妖(ばけ)を爲さんとする〔ときは〕必ず髑髏(しやれかうべ)を載いて[やぶちゃん注:ママ。]、北斗を拜し、則ち、化(ばけ)て人と爲〔(な)〕る【陳眉公の「秘笈〔(ひきふ)〕」に見えたり。】人を惑はし、仇〔(あだ)〕を報ひ〔しも〕、亦、能く恩を謝す。小豆飯(あづきめし)・油熬(あぶらあげ)の物を好む。

 狐魅(きつねつき)を試るに、其の邪氣、肩〔の〕脇〔の〕皮膚の間に入り、必ず、塊(かたまり)、有り。其の脉[やぶちゃん注:「脈」に同じ。]を診るに、浮沈、定まらず[やぶちゃん注:脈搏が一定しない。]。其の拇指(をほゆび)、多くは震(ふる)ふなり。能く之れを察する者、火鍼〔(くわしん)〕[やぶちゃん注:火で熱した鍼(はり)。鍼術に「古代九鍼」の一つとして実際にある技法。]刺すときは、則ち、去る。或いは、先づ、疑似の閒に〔ある時は〕[やぶちゃん注:真正の狐憑きであるか、或いは別の疾患であるか、区別がつかない時には。]、樒(しきみ)の葉を煎じて之れを服せしめば、狐妖の者は曾つて吃〔(くら)〕はず、眞〔(まこと)〕の病ひの者は、臭味〔(くさみ)〕を嫌〔(きら)ふ〕と雖も、能く吃〔(きつ)〕す。

 狐〔を司るとせる家〕に花山家・能勢〔(のせ)〕家の二派有り。相ひ傳へて云はく、往昔、狐狩り有りしとき、老狐、將に捕(と)られんとし、急ぎ迯(にげ)て花山殿の乘〔れる〕輿の中に隱れて、赦〔(ゆるし)〕を乞ひ、遂に免るゝを得。能勢の何某(なにがし)も亦、時、異なりと雖も、死を助けたるの趣き、相ひ同じ。共に、狐、誓ひて曰はく、「子孫に至りて、永く、宜しく厚恩を謝すべきなり」〔と〕。此れより今に于〔(おい)て〕、狐魅〔(きつねつき)〕の人有るときは、則ち、二家の符を以つて閨〔(ねや)〕の傍らに置けば、乃〔(すなは)〕ち、魅〔(つきもの)〕、去りて、平愈す。其の固〔き〕約、人も亦、愧〔(は)〕づべし。又、能く死を守る[やぶちゃん注:死に臨む際の態度が甚だ立派であることを言う。]。如〔(も)〕し、人、有りて、生きながら、狐の腹を割〔(さ)き〕、膽を取ること〔あれど〕、然れども、動かず、目、逃〔(のが)す〕まじかず[やぶちゃん注:目を逸らさず。但し、訓読には自信はない。]、臟腑を刳(さ)き盡(つく)されて、後、死す。此れ、乃ち、丘を首するの理〔(ことわり)〕か。

「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所〔なり〕、其の名を「紫〔(し)〕」と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合〔(あ)〕ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』〔と〕。

 相ひ傳ふ、近衞の帝、侍女有り、「玉藻」と名づく。帝、會(たまたま)不豫〔(ふよ)〕[やぶちゃん注:天子の病気。「不例」に同じ。]にして、醫療、効、無く、安倍の泰成をして之れを禳(はら)はせしめば[やぶちゃん注:「禳」は「祓」に同じい。]、占ひて、以つて玉藻の障碑〔→障碍〔(さはり)〕〕と爲す。卽ち、玉藻をして幣〔(みてぐら)〕を持たしめ、之れを祝す[やぶちゃん注:祈らせた。]。〔然れども、〕玉藻、怖れて、幣を捐(す)てゝ去り、化して白狐と爲る。下野〔(しもつけ)〕の那須野に入り、人を害すること、多し。是に於いて、義純【三浦介。】廣常【上總介。】をして之れを驅らしむ。狐、又、石に化す【「殺生石〔(せつしやうせき)〕」なり。下野國の下に詳らかなり。】信州諏訪の湖水、冬月は、氷、合して、人馬、氷の上を行く。春、氷、漸く解けて、徃來、止む。其の始めて行くや、始めて止まるや、皆、見狐の往來を窺がひ、的〔(めあて)〕と爲す。

「三才圖會」に云はく、『北山〔(ほくさん)〕に黒狐有り。卽ち、神獸なり。王者、能く太平を致すときは、則ち、見〔(あら)は〕れて、四夷、來貢す。周の成王の時、嘗つて之れ有り』〔と〕。

 元明天皇【和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]。】、伊賀より黒狐を獻ず【同五年。】丹波より黒狐を獻ず。元正天皇【靈龜元年[やぶちゃん注:七一五年。]。】遠江より白狐を獻ず。【養老五年[やぶちゃん注:七二一年。]。】、甲斐より白狐を獻ず。皆、以つて祥瑞と爲せり。

「玄中記」に云はく、『狐、五十歳にして能く變化〔(へんげ)〕す。百歳にして美女と爲り、神巫〔(かんなぎ)〕と爲り、丈夫〔(ますらを)〕と爲る。女子と交-接(つる)む。千歳にして能く千里の外〔の〕事を知り、卽ち、天と通じ、「天狐」と爲る』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『齋・晉・燕・趙の墟〔(あと)〕には、狐魅、最も多し。然れども亦、患〔(わざはひ)〕を爲さず。北人、往往〔にして〕之れに習(な)れる[やぶちゃん注:日常的な対象として特に気にしない。]。〔これ〕亦、猶ほ、嶺南の人、蛇と共に處〔(す)め〕るがごときなり。狐、千歳にして始めて天と通じて、魅(ばか)すことは爲さず。其の人に魅〔(つ)く〕者、多く、人の精氣を取り、以つて、内丹を〔→と〕成す。然れども、則ち、其の婦人を魅(ばか)さゞるは何ぞや、曰はく、狐は陰類なり。陽を得、乃ち、成る。故に牡(を)狐と雖も、必ず、之れ、女に托(かゝは)りて以つて男子を惑はすなり。然れども、大害を爲さず。南方には、猴(さる)、多く魅〔(み)〕を爲す』〔と〕。

狐、人に托(つ)く[やぶちゃん注:「憑く」。]こと、強氣〔(がうき)〕[やぶちゃん注:精神力が強い、引いては、陰気の狐に対して、陽気がすこぶる強いことを言う。]なる者に〔は〕、則ち、托(つ)くこと能はず。蓋し、邪氣、虛に乘じて入るるの謂ひなり。初めは、傷寒・瘴瘧〔(しやうぎやく)〕の類ひのごとく、但し、譫語〔(うはごと)〕に異なること有るのみ。咒術・靈符を以つて之れを禳〔(はら)〕ふ〔に〕、則ち、病人、詈(のゝし)り、宿意〔(しゆくい)〕を語る[やぶちゃん注:その人物に憑りつい、その積年の恨み(「宿意」は「宿怨」の同じい)。]。此れ、乃ち、將に去(い)なんとするの表はれなり[やぶちゃん注:憑いた狐が去らずにはいられない状態に至っている現われなのである。]。既に解〔(ぬ)〕け去る時、忽ち、倒れ臥し、熟睡すること、一、二日。呼び起こすこと、勿かれ。自身、寤〔(さ)〕むれば、則ち、安し[やぶちゃん注:憑き物はいなくなって平癒している。]。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科 Caninae に属する広義のキツネ類(「~キツネ」の和名を持つ世界的属群)には六属あるが、本邦に棲息し、中国にも分布するそれは一種で、キツネ属アカギツネ Vulpes vulpes であり、ここはそれでカバー出来る(日本列島周辺では北海道・樺太にアカギツネ亜種キタキツネ Vulpes vulpes schrencki が、列島のそれ以外の地域に亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica が、千島列島にはベニキツネ Vulpes vulpes splendidissima などの亜種が分布している)。ウィキの「アカギツネ」によれば、体長四十五・五~八十六・五センチメートル、尾長三十~五十六センチメートル。『体色は普通、赤錆色で腹側は白く、黒い耳の先端と足、フサフサした尾の先端の白が目立つ。赤の度合いは真紅から金色と幅があり、実際によく見てみると、各々の個体の毛は赤、茶色、黒、白の条の入った斑模様か』茶色の野生色である。『野生においては、さらに別の』二『つの色が見られることもある。一つは銀または黒で、野生の個体の』一〇%、『養殖される個体のほとんどを占める。およそ』三〇%『の個体には、さらに黒い模様があり、通常は肩と背部の中央下側に、縞として現われる。このパターンは背中に十字架を作るため、このようなキツネは「十字ギツネ」と呼ばれる。家畜化された養殖のアカギツネには、斑や縞などを含むあらゆる色がみられる』。『目は金から黄で、ネコ科動物のような縦に裂けた瞳を持つ。その素早さもあり、アカギツネは「猫のようなイヌ科」と形容される。長いフサフサとした尾は、身軽な跳躍の際にバランスをとるのに役立つ。獲物を捕えたり捕食者から逃れたりするための走る速度は時速』五十キロメートル『に及ぶ』。『成獣の体重は』二・七~六・八キログラム『になるが、地域により異なり、ヨーロッパの個体は北アメリカの個体より大きくなる』。『秋と冬には、より厚い毛皮である「冬毛」を生やし、寒冷な環境に対応する。春が始まると』、『この毛皮は抜け落ち、夏場は短い「夏毛」で過ごす』。『日本に生息するホンドギツネとキタキツネを比較すると、ホンドギツネの方が毛色がより暗褐色で』、『体長がやや小さい。足先が黒くなく、キタキツネが大陸のアカギツネと同じ頭骨を持つのに対し、ホンドギツネの頭骨は微妙に異なることや、キタキツネの乳頭が』八『または』六『個であるのに対し、ホンドギツネは』十『または』八『個と多いことから、亜種ではなく』、『日本固有の新種である可能性もある』。『大草原や低木地から森林まで、アカギツネは多様な生物群系で見られる。低緯度地域に最も適しているが、極北にまで進出し、ツンドラ地域ではホッキョクギツネと直接競争関係にある。欧米では郊外や都市部でさえ見かけることができ、害獣であるアライグマと縄張りを共有する。アカギツネは齧歯類・ウサギ・昆虫類・果実・ミミズ・卵・鳥類、その他小動物を食べる』。四十二『本の強力な歯でそれらを捕らえ』、一日で五百グラムから一キログラムの『食物を摂取する。都市区域でも庭や荒地で齧歯類や鳥を狩ることはあるが、主に家庭のゴミに頼っていると思われる。稀にホッキョクギツネの子供を狩る場合もある』。『イヌ科でありながら、体の特徴や行動がネコに似ているとされており、その理由は効率的に齧歯類を捕らえるという共通の目的による、収斂進化の結果と言われている』。『さまざまな生息地に応じて、さまざまな習性を持つ』。『主に薄明活動性で』あるが、『人間の手の入った(人工照明のある)区域では夜行性になりがちである。つまり、夜間と黄昏時に最も活動的である。狩りは単独で行うのが普通であり、食べきれない獲物を獲た場合は、それを埋める』。『普通は各々の縄張りを持ち、単独で生活し、冬にのみペアを形成し』、『生活する。縄張りの面積は』五十平方キロメートル『程と考えられており、食料の豊富な場所ではより狭く』(十二平方キロメートル以下)に『なる。縄張り内には複数の巣穴があり、これらはマーモット・アナウサギなどの別の動物が掘ったものも含まれ』、時には『平和的に捕食動物と巣穴を共有することもある』。『より大きなメインの巣穴が居住・出産・子育てに使われ、縄張り中にある小さな巣穴は、緊急用と食糧貯蔵の目的がある。しばしば一連のトンネルはメインの巣穴につながる。本種』一頭当たりでは、『尾の真下にある臭腺の特有の』臭いによって『マーキングされた』、概ね一平方キロメートル『の土地を必要とするとされる』。『冬になると、主に一夫一婦制でペアを作り、毎年』四~六『匹を協力して育てる。仔ギツネの天敵は猛禽類だが、約』八~十ヶ月で成熟し、『巣立つ。しかし、『あまり調査』は進んいないが、『複婚(一夫多妻・一妻多夫)の習性もある。複婚の証拠として、繁殖期の雄に余分な移動が見られること(さらなる相手を探しているとみられる)と、雄の行動圏が複数の雌の行動圏と重複することがある。成獣』十『匹以上の「群生」もあ』り、『このような変化は、食物のような重要な資源の手に入りやすさと関連があると考えられている』。『この「群生」の習性の理由はあまり解明されておらず、非ブリーダー(繁殖に直接関わらない群れのメンバー)の存在が一腹の仔の生存率を押し上げると信じる研究者がある一方で、有意な違いは見られないとも言われ、またそのような群生状態は、餌の過剰供給によって自発的に作られるともいう』。『社会的に、狐のコミュニケーションは身体言語とさまざまな発声によってなされる。「キャンキャンキャン」と』三『回鳴く呼び声から、人間の叫び声を想起させる悲鳴に至るまで、その鳴き声は非常に多様で変化に富む。においによっても連絡をとり合い、縄張りの境界は糞と尿で付けられる。求愛行動は、二匹の鳴き交わし、急ターンを伴う追いかけっこ、互いに向き合い』、『後足で立ち上がるダンスで構成されている。まれにオスからメスへ小動物がプレゼントされることもある。個体同士の優劣は互いに口を開いて大きさを比べあうことで決定してしまい、直接攻撃することを極力』、『避ける。負けた方は「ヒー」と鳴いて腹をよじる格好で地に伏す。求愛を受けたメスが拒絶するときもこのパターンである。また』、『口の大きさを比べ合うような仕草は挨拶として兄弟同士でもしきりに行う』。『キツネの研究で学位を得た博物学者のデビッド・マクドナルド(David Macdonald)はキツネの鳴き声について、音域はおよそ』五『オクターブで、強弱を組み合わせて様々なバリエーションがあり、古い研究では』二十『の分類例があるが、大別すれば、コンタクト』・『コールとインストラクションに別れ、どちらにも属さないものがいくつかあると述べている。コンタクト』・『コールは個体同士の位置確認の鳴き声で、比較的位置が近い場合の「コンコンコン」「コッコッコッ」のような』三『音節の挨拶があり、遠くなるに従い「ウォウウォウウォウ」と』三『から』五『節の吼え声が相互に交わされるようになるという。また』別な『分析では』、『一匹ずつ声が異なっているのが確認されている。大人の個体が幼い個体に向かって「フーフー」と挨拶すると、子ギツネは尾を振って耳を寝かせ』、『口を引く仕草をする。一方』、『インストラクションは、二匹が接近しているときの鳴き声で、劣位が発する高い「クンクン」という声、優位が発する低く太い「コッコッコッ」という声(ゲカーリング』(gekkering)『)があり、ゲカーリングは子ギツネが食事中に、接近しすぎた兄弟に向かって発せられたり、連れ合いのメスに別のオスが近づいた時、オスが発して牽制するときに発せられたりする。どちらにも属さないものの代表として、けたたましい単音節の「ウァー」「ギャー」がある。この声は主にメスの声とされ、まれにオスも発し、他の個体は見ているだけで、返事はしない。その意味については繁殖期に頻繁に発せられるため、オス達を召集する意味ではないかという説がある』。『キツネは食べきれないネズミを埋める習性があるが、飼いならされた複数の個体を使った実験により、翌日』、九〇%『の確率で掘り出すことに成功したことが確認されている。埋めたキツネと別の個体が最初のキツネが埋めた発見する割合は』二五%『程度に低下し、同じ個体でも、埋めた穴の』二~三『メートル横に別のネズミを埋めると発見率が』二五%『に低下することから、嗅覚ではなく、キツネは埋めた獲物の穴をかなり正確に記憶しているといわれている。また』、ある雌個体の観察では『穴の場所を記憶するだけでなく、中の獲物の種類まで記憶する能力があ』ったともされる。『繁殖期はその広大な生息域によって異なり、南方では』十二~一月、中緯度では一~二月、北方では二~四月と『なる。雌は日ごとの発情周期を』一~六『日間続け、排卵は自動的になされる。交接はやかましく、時間は通常』五分から二十分、三十分『以上かかる場合もある。雌は複数の雄を交尾の候補とするが(権利を得るために互いに戦い)、最終的に一匹の雄に決定する』。『雄は雌が出産する前後、餌を与える一方で、雌は仔狐と共に育児室』『で待つ。一腹の仔の平均数は』五『匹だが、多い時には』十三『匹に及ぶ。新生仔は目が見えず、体重は約』百五十グラムで、『生後』二『週間で目が開き』、五『週間で巣穴の外へ出てきて』、十『週間で完全に乳離れする』。『同年の秋に仔狐は独り立ちして、自らの縄張りを必要とする。性成熟までの期間は』十『ヶ月。寿命は飼育下で』十二『年だが、野生ではたいてい』三『年程度である』とある。次にウィキの「キツネ」の一部を引く。まず、「日本人とキツネの関係」の項。『キツネを精霊・妖怪とみなす民族はいくつかあるが、特に日本(大和民族)においては文化・信仰と言えるほど』、『キツネに対して親密である。キツネは人を化かすいたずら好きの動物と考えられたり、それとは逆に』、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ:名前の「うか」は「穀物・食物」の意で穀物神。また「うか」は「うけ」(食物)の古形で、特に「稲霊(いなだま)」を表わし、「御」は「神秘」「神聖」の意、「魂」は「霊」であって全体として「稲に宿る神秘な霊」と考えられている。「古事記」では素戔嗚命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれたとする)『の神使として信仰されたりしている。アイヌの間でもチロンヌプ(キタキツネ)は人間に災難などの予兆を伝える神獣、あるいは人間に化けて悪戯をする者とされていた。キツネが化けた人間にサッチポロ(乾しイクラ)を食べさせれば、歯に粘り付いたイクラの粒を取ろうと口に手を入れているうちに正体を表すという。日本における鳴き声の聞きなしについては、古来は「キツ」「ケツ」と表現されており、近代からは「コン」「コンコン」が専ら用いられている。「コン」「コンコン」については』、『親が子を呼ぶ時の鳴き声に由来していると報告されている』。『また、キツネは特に油揚げを好むという伝承にちなみ、稲荷神を祭る神社では、油揚げや稲荷寿司などが供え物とされることがある。ここから、嘗ての江戸表を中心とした東国一般においての「きつねうどん」「きつねそば」などの「きつね」という言葉は、その食品に油揚げが入っていることを示す』『(畿内を中心とした西国では蕎麦に関してはたぬきと呼ばれる場合がある)』。狐の「語源」の項。『諸説あるが』、「大言海」では、『古来のなき声の表す「ケツケツ」「キツキツ」と神道系の敬称を表す「ネ」が結びついたと説明している』。「万葉集」巻第十六の、長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の一首(三八二四番)に、

 さし鍋(なべ)に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より來む狐(きつね)に浴(あ)むせむ

以上の引用はリンク先の表記に疑問があるので、所持する「万葉集」で独自に電子化した。「さし鍋(なべ)」柄のついた鍋。「櫟(いちひ)」現在の大和郡山市の東方、天理市櫟本(いちのもと)の西方の古地名。「津」とあるからには渡し場(佐保川の旧流域か)があったのであろう。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。「ひつ」は「櫃」に掛けており、「橋」は「箸」を掛けている。「來む」の「こむ」には狐の鳴き声「こん」を掛ける。この一首は、後書きがあり、宴会の席上、狐の声がし、皆が、狐・宴席にあった物品・土地の景物を読み込んで歌を作れ、と請われて作者が作歌した旨の記載がある

『という、鍋とキツネを詠んだ即興歌が残っており、日本では古代より「キツ」と呼んでいたことを示す資料が残っている』。『仏教系の説では』「日本霊異記」や、『その話を転記した』「今昔物語集」では「來つ寢」という』『語呂合わせが語源と説明している。平安時代に編纂された日本最古の辞書である』「和名類聚抄」には(後で原文を引く)「狐」「『韻は(コ)日本の読み(きつね)中国の伝説では』百『歳になると女に化ける妖怪に変化する。」という説明があり、平安時代には、既にきつねと発音していたことが分かる』。『日本の狩猟時代の考古学的資料によると、キツネの犬歯に穴を開けて首にかけた、約』五千五百『年前の装飾品』や、『キツネの下顎骨に穴を開け、彩色された護符のような、縄文前期の(網走市大洞穴遺跡)ペンダント』『が発掘されている。しかし、福井県などでは、キツネの生息域でありながら、貝塚の中に様々な獣骨が見つかる中』、『キツネだけが全く出てこない』ともされる。『日本人がキツネを稲と関連させた起源は、文化人類学的推察にもとづく農耕民族の必然だったとする必然起因説と、歴史学的手法に基づいて推察して、神の名に「狐」を宛てたことによるとする、誤解起因説の』二『通りがあって特定はされておらず、その後大陸より渡来した秦氏の勢力によって、キツネは稲荷神の眷属に収まったという流れになっている』。『稲作には、穀物を食するネズミや、田の土手に穴を開けて水を抜くハタネズミが与える被害がつきまとう。稲作が始まってから江戸時代までの間に、日本人はキツネがネズミの天敵であることに注目し、キツネの尿のついた石にネズミに対する忌避効果がある事に気づき、田の付近に祠を設置して、油揚げ等で餌付けすることで、忌避効果を持続させる摂理があることを経験から学んで、信仰と共にキツネを大切にする文化を獲得した』。『日本古来の世界観は山はそれ自体が山神であって、山神から派生する古木も石も獣(キツネ)もまた神であるという思想が基としてあると言われている』。『民間伝承の狐神信仰の発生がいつ始まったかの特定は難しいとした上で、発生の順番から考えて、土地が開墾される以前にキツネが生息しており、畏敬された狐神と稲荷の結合は、田の神信仰と稲荷の結合に先立つであろうと言われている』。『一方、稲荷神社の神は、宇迦之御霊神、別名、御食神(みけつがみ)であって、三狐神と書き誤って、日本中に誤解が定着したという説も、根強く有力な説である』。『正史に狐の記事が記載されたのは』、「日本書紀」の斉明天皇三(六五七)年に『石見に現れた白狐の記事であり』、『伝記に狐が記載されたのは』「日本霊異記」欽明天皇の時代(五四〇年~五七一年)『とされている』。『キツネが騙す、化ける妖怪の一種であるという概念は、仏教と共に伝来』(五五二年辺り)『したもので、中国の九尾狐の伝説に影響されたものである』。『以下は日本の文化におけるキツネの歴史の大まかな流れである』。『弥生時代、日本に本格的な稲作がもたらされるにつれネズミが繁殖し、同時にそれを捕食してくれるキツネやオオカミが豊作をもたらす益獣となった』。『柳田國男は、稲の生育周期とキツネの出没周期の合致から、キツネを神聖視したという民間信仰が独自に芽生えたと言う説を述べている。必然起因説はその発展系と見られる』。『御饌津神(みけつ)が誤って三狐神と書かれたという説が定説である。しかし秦氏が土着民への懐柔策として使用させたとの説もある。大和時代に入り』、『朝廷が勢力を拡大する中、抵抗する土着の神を持つ民を排除し、狐と呼んで蔑視していた』。『土着の農民は、独自の「山の神―田の神」を信仰しており、狐をその先触れとする文化があったものの』、欽明天皇期に『伊勢と交易を行い、後に国庫の管理者となる程の秦氏の経済的な勢力に押され、元は「田の神―山の神」の祠であった場所が秦氏の神社になった事に、農民たちは旧来の神を祭りながらも抗えなかったであろうと言われている』。『秦氏の稲荷の眷属の狐は「命婦(みょうぶ)」と呼ばれ、命婦の位を持っているが、最初からそのような位を持っていた訳ではないということは、伏見稲荷の縁起によって示されている』。『こうして土着の神は豊穣をもたらす荒神的な性格から「宇迦之御魂大神」の「稲荷」として認識され、シンボルである狐自体は眷属に納まったと考えられる』。『鍛冶屋に信仰される金屋子神』(かなやこかみ)『は、白い狐に乗って現れるとの伝説が有る』。『天照皇大御神は豊葦原瑞穂国(日本国)を豊穣の地にせよと豊受明神に命じたため、豊受明神は多くの狐たちに命じ、稲の種を各地に蒔かせたと言われている』。『平安時代、空海により中国から本格的に密教がもたらされ、キツネは仏典に登場する野干(やかん)の名でも呼ばれるようになる。後には白狐に乗ったダキニ天と、狐を眷属とした稲荷が同一視されることとなる。説話の中で多い、人に化ける悪いキツネが僧によって降参する(仏の勝利)という図式は、ダキニ天の生い立ちそのものである。このころから狐に悪狐が登場し、ある種の精神病を狐の仕業とし、法力で治せるものと宣伝された。また密教では狐霊が使われ呪術が行われた。このようにしてキツネが化ける妖怪(妖狐)であるというイメージが民衆に定着した』。『このような状態はかなり後世まで続いたが、キツネは大衆に憎まれる存在とはならなかった。江戸時代に入り』、『商業が発達するにつれて、稲荷神は豊作と商売繁盛の神としてもてはやされるようになり、民間信仰の対象として伏見のキツネの土偶を神棚に祭る風習が産まれた』。『明治政府が不敬としてキツネの土偶の製造を禁じると、細々と生産されていたネコの土偶が大流行し』、『定番商品(招き猫)となった。狐霊に白黒赤金銀があるように招き猫にも白黒赤金が存在するのは』、『そのためである』。『社の裏手にキツネの巣穴があるような稲荷は多く見られることから、キツネの巣穴を供養する風習が江戸時代から昭和にかけて全国各地に広がっていたことが判る。キツネの巣穴に食べ物を供える習慣は穴施行、寒施行となって現在も残っている。またそのような由来を持つ狐塚(田の神の祭場)も数多くある。安倍晴明で有名な葛葉稲荷神社の裏手には石組みの行場が残っている』。『明治時代に入り、廃仏毀釈の運動が起こり、稲荷神社は少数の仏教系と、多数の神道系に分かれた』。『キツネ(狐)が霊獣として伝えられる歴史は非常に古く』、「日本霊異記」には『すでにキツネの話が記されている。美濃大野郡の男が広野で』一『人の美女に出会い、結ばれて子をなすが、女はキツネの化けた姿で、犬に正体を悟られて野に帰ってしまう。しかし男はキツネに、「なんじ我を忘れたか、子までなせし仲ではないか、来つ寝(来て寝よ)」と言った。なお、これを元本に発展させた』「今昔物語集」にも『この話は収録され、キツネの語源としている。キツネは、人間との婚姻譚において語られることが多く、後、「葛の葉」や「信太妻(しのだづま)」伝承を経て、古浄瑠璃「信田妻(しのだづま)」において、『異類婚姻によって生まれた子の超越的能力というモティーフが、稀代の陰陽師』『安倍晴明の出生となって完成される』のである。『「狐」は、蜘蛛、蛇などと同じく』、『大和朝廷側から見た被差別民であったという見方もある。彼らは、大和朝廷が勢力を伸ばす段階で先住の地を追われた人々であり、人ではない者として動物の名称で呼ばれたという見方である。彼らが、害をもたらす存在として扱われる場合、それは朝廷側の、自分たちが追い出した異民族が復讐してくるのではという恐怖心の現れであると考えられる。また、動物が不思議な能力(特殊能力)を持つというのは、異民族が持つ特殊な技術を暗に意味している場合がある。この考え方に沿えば、異類婚姻は、それらの人々との婚姻を意味することになる。つまり』、『女が身元を偽って(化けて)婚姻したものの里が暴かれ、子の将来を案じて消えてしまった物語と解される』。『キツネの子が神秘的能力をもつというのは、稲荷の神の使いとして親しまれてきたキツネが、元来は農耕神として信仰され、豊穣や富のシンボルであったことに由来するものである。狐婚姻の類話には、正体を知られて別れたキツネの女が、農繁期に帰ってきて田仕事で夫を助けると、稲がよく実るようになったという話がある。また江戸の王子では、大晦日の夜、関八州のキツネが集い、無数の狐火が飛んだというが、里人はその動きで豊作の吉凶を占ったと伝えられており、落語「王子の狐」のモチーフとなっている』。『人間を助ける役割を果たすキツネの側面は、かつてキツネが、農耕神信仰において重要な役割を果たしていたことの名残りであるといえ、江戸大窪百人町など、郊外にある野原に出没する特定のキツネは名前をつけて呼ばれ、人間を化かすが、災害や変事を報らせることもあった』。『岐阜県の老狐「ヤジロウギツネ」は、僧に化けて、高潔な人物の人柄を賞揚したという。群馬県の「コウアンギツネ」もこの類で、 白頭の翁となり、自ら』百二十八『歳と述べ、常に仏説で人を教諭し、吉凶禍福や将来を予言した。千葉県飯高壇林の境内に住みついた「デンパチギツネ」も、若者に化けて勉学に勤しんでいる。その他、静岡県の「オタケギツネ」は、大勢の人々に出す膳が足りない場合にお願いに行くと、膳をそろえてくれるといわれていた』(これは椀貸伝承の一変形である)。『岩手県九戸のアラズマイ平に棲む白狐は、村の子どもと仲がよく、一緒に遊んでいたという。また、鳥取県の御城山に祭られている「キョウゾウボウギツネ」は、城に仕え、江戸との間を』二、三『日で往復したと伝えられている』。宝暦三(一七五三)年八月、『江戸の八丁堀本多家に、日暮れから諸道具を運び込み、九ツ前、提灯数十ばかりに前後数十人の守護を連れた鋲打ちの女乗物が、本多家の門をくぐった』五、六千石の『婚礼の体であったが、本多家の人は誰も知らなかったという。このような「キツネノヨメイリ」には必ずにわか雨が降るとされるが、やはりこれも降雨を司る農業神の性質であろう』。『しかし、農耕信仰がすたれるにつれ、キツネが狡猾者として登場することも多くなり』、「今昔物語集」でも「高陽川の狐、女と変じて馬の尻に乗りし語」では、夕に若い女に化けたキツネが、馬に乗った人に声をかけて乗せてもらうが』、四、五『町ばかり行ったところでキツネになって「こうこう」と鳴いたとある』(これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「高陽川狐變女乘馬尻語第四十一」(「高陽川(こうやがは)の狐、女に變じて馬の尻ぶ乘りたる語(こと)第四十一)。「やたがらすナビ」のこちらでカタカナをひらがなに直した原文が読める)。「行脚怪談袋」には、『僧が団子を喰おうとするキツネを杖で打ったら、翌日そのキツネが大名行列に化けて仕返しをしたという話がある』(私は既に「行脚怪談袋 五の卷 嵐雪上州館橋に至る事 僧狐に化さるゝ事」で電子化注している)。『ほかにも』「太平百物語」に、『京都伏見の穀物問屋へ女がやって来て、桶を預けていった。ところがその桶の中から、大坂真田山のキツネと名乗る大入道が現われて、この家の者が日ごろ自分の住まいに小便をして汚すと苦情を述べた。そこで主人は入道に詫びて』、三『日間』、『赤飯と油ものをキツネのすみかの穴に供えて許しを乞うたという』(近日、「太平百物語」の電子化をブログ・カテゴリ「怪奇談集」で開始するので暫し待たれよ)。『キツネは女に化けることが多いとされるが、これはキツネが陰陽五行思想において土行、特に八卦では「艮」』(うしとら)『に割り当てられることから』、『陰気の獣であるとされ、後世になって「狐は女に化けて陽の存在である男に近づくものである」という認識が定着してしまったためと考えられる。関西・中国地方で有名なのは「おさん狐」である。このキツネは美女に化けて男女の仲を裂きにくる妖怪で、嫉妬深く』、『男が手を焼くという話が多数残っている。キツネが化けた女はよく見ると、闇夜でも着物の柄がはっきり見えるといわれていた。女の他、男はもちろん、月や日、妖怪、石、木、電柱、灯籠、馬やネコ、家屋、汽車に化けるほか、雨(狐の嫁入り)や雪のような自然現象を起こす等、実にバリエーションに富んでいる』。『霊狐には階級があるとされ、住む場所、妖力によって「地狐」、「天狐」、「空狐」などに分類される。長崎県五島列島でいう「テンコー(天狐)」は、 憑いた者に神通力を与えるが、これに反して「ジコー(地狐)」の方はたわいのないものといわれる』。『妖怪の狐は九尾の狐など尾が分かれていることを特徴とすることがある。九尾の狐は』「山海経」では『「その状は、狐の如くで九つの尾、その声は嬰児の様、よく人を喰う。食った者は邪気に襲われぬ」という。日本ではその正体が九尾の狐とされる玉藻前(たまものまえ)の物語が有名である』。『狐信仰の変種であり、日本独自の現象として、「狐憑き(きつねつき)」が存在する。狸、蛇、犬神憑きなどに比べ』、『シェアが広く、全国的(沖縄等を除く)に見られ、かつ根強い。狐憑きは、精神薄弱者や暗示にかかりやすい女性たちの間に多く見られる発作性』・『ヒステリー性精神病と説明され、実際に自らキツネとなって、さまざまなことを口走ったり、動作をしたりするという話が、平安時代ごろから文献に述べられている。行者や神職などが、「松葉いぶし」や、キツネの恐れる犬に全身をなめさせるといった方法で、キツネを落とす呪術を行っていた』。『狐憑きで有名なものは、長篠を中心に語り伝えられる「おとら狐」で、「長篠のおとら狐」とか「長篠の御城狐」などと呼ばれていた。おとら狐は、病人や、時には健康な人にも憑くことがあって、憑いた人の口を借りて』「長篠の戦い」の『物語を語る。櫓』『に上がって合戦を見物しているときに、流れ弾に当たって左目を失明し、その後』、『左足を狙撃されたため、おとら狐にとり憑かれた人は、左の目から目やにを出して、左足の痛みを訴えるという』。『狐憑きの一種に「狐持ち」という現象があり、狐持ちの家系の者はキツネの霊を駆使して人を呪うという迷信があった。「飯綱(いづな、イイズナ)使い」と呼ぶ地方もあり、管狐(くだぎつね)や、オサキ、人狐(ニンコ)を操ると信じられていた。これらの狐霊は、人に憑いて憎む相手を病気にしたり、呪いをかけたりすることができると信じられてきた。狐持ちの家系の者はこの迷信のため差別され、自由な結婚も認められなかった。現在でもなお、忌み嫌われている地方がある』。『キツネにまつわる俗信には、日暮れに新しい草履(ぞうり)をはくとキツネに化かされるというものがあり、かなり広い地域で信じられていた。下駄はもちろん靴でも、新しい履き物は必ず朝におろさなければならないとされ、夕方、新品を履かねばならないときは、裏底に灰か墨を塗らねばならないといわれている』。『キツネに化かされないためには、眉に唾をつけるとよいというが、これは、キツネに化かされるのは眉毛の数を読まれるからだと信じられていたためである。真偽の疑わしいものを「眉唾物(まゆつばもの)」というゆえんである』。『また、得体の知れない燐光を「狐火」と呼び、「狐に化かされた」として、説明のつかない不思議な現象一般をキツネの仕業とすることも多かった。 しかし、化けるにしろ報復譚にしろ、キツネの話はどこかユーモラスで、悪なる存在というよりは、むしろトリックスター的な性格が強い』とある。

「射干(やかん)」「野干は別獸なり」ウィキの「野干」を引く。『野干(やかん)とは漢仏典に登場する野獣(正確には』「干」は「犭」に「干」で「犴」。この字体を正確に知らない当時の人たちにより、「野干」の『表記も多く存在するので間違いではない)。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)豻(がん、かん)、野犴(やかん:犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)とも。狡猾な獣として描かれる。中国では狐に似た正体不明の獣とされるが、日本では狐の異名として用いられることが多い』。『唐の』「本草拾遺」に『よると、「仏経に野干あり。これは悪獣にして、青黄色で狗(いぬ)に似て、人を食らい、よく木に登る。」といわれ、宋の』「翻訳名義集」では、『「狐に似て、より形は小さく、群行・夜鳴すること狼の如し。」とされる』。「正字通」には『「豻、胡犬なり。狐に似て黒く、よく虎豹を食らい、猟人これを恐れる。」とある』。『元は梵語の「シュリガーラ」』『を語源とし、インド仏典を漢訳する際に「野干」と音訳されたものである。他に』「悉伽羅」「射干」「夜干」とも『音訳された。この動物は元々インドにおいてジャッカル(この名称も元は梵語に由来する)』(「野干」の正体は食肉目イヌ科イヌ亜科イヌ属に属するジャッカル類である。ジャッカルはキンイロジャッカル Canis aureus(南アジア・中央アジア・西アジア・東南ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカに棲息)・セグロジャッカル Canis mesomelas(南部アフリカ)・ヨコスジジャッカル Canis adustus(中部アフリカ)・アビシニアジャッカル Canis simensis(エチオピアに棲息。アビシニアオオカミなどとも呼び、ジャッカルに含めないこともある)がいる)『を指していたが、中国にはそれが生息していなかったため、狐や貂(てん)、豺(ドール)』(一属一種の食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus。別名をアカオオカミ(赤狼)とも呼ぶ)『との混同がみられ、日本においては主に狐そのものを指すようになる』。『インドでジャッカルは尸林』(しりん:遺体を火葬したり、遺棄した林。放置されたり、焼け残った遺体は鳥獣の餌となった)『を徘徊して供物を盗んだり、屍肉を喰う不吉な獣として知られていたため、カーリーやチャームンダー(ドゥルガー分身の七母神の』一『人)など、尸林に居住する女神の象徴となった。また、インド仏教においても野干は閻魔七母天の眷属とされた』。明治四三(一九一〇)年、『南方熊楠が、漢訳仏典の野干は梵語「スルガーラ」(英語』Jackal『「ジャッカル」・アラビア語「シャガール」)の音写である旨を、『東京人類学雑誌』に発表し』ている。『日本では当初、主に仏教や陰陽道など知識階級の間で狐の異名として使われた。平安初期の』「日本霊異記』」の上巻第二「狐爲妻令生子緣」『には、狐が人間の女に化けて男の妻となり、子供もできたが、正体がばれたときに男から「来つ寝よ」(きつねよ)と言われ「キツネ」という名が出来たとする説話が収録されているが、そこでも狐のことを文中で「野干」と記す例が確認出来る』。「拾芥抄」には『「野干鳴吉凶」』『として狐の鳴き声によって吉凶を占うことがらについても記されている』「吾妻鏡」には、『野干(狐)によって名刀の行方が知れなくなったこと』(建仁元(一二〇一)年五月十四日の条)『が書かれていたりするほか、江戸時代以後には一般的にも書籍などを通じて「狐の異名」として野干という語は使用されて来た。その他、各地の民話でも狐の別名として野干が登場する』。「大和本草」などの『本草学の書物などでは』、『漢籍の説を引いて、「形小さく、尾は大なり。よく木に登る。狐は形』、『大なり。」と、狐と野干は大きさが違う』、『とされているので』、『別の生物であるという説を載せている』。『また、日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身であると解釈され』、『平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。この日本独特の荼枳尼天の解釈はやがて豊饒や福徳をもたらすという利益の面や狐(野干)に乗っているという点から稲荷神と習合したり、天狗信仰と結び付いて飯綱権現や秋葉権現、狗賓などが誕生した』。『能では狐の精をあらわした能面を「野干」と呼んでおり』、「殺生石」「小鍛冶」など、『狐が登場する曲で使用されている』。「殺生石」に『登場する狐の役名も「野干の精」などと表記され』ている、とある。

『「和名抄」に、『狐は木豆禰、射干なり。關中に呼ぶに、野干と爲すは語の訛りなり』〔と〕』。「和名類聚鈔」の「巻十八」の「毛群部第二十九 毛群名第二百三十四」に、

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狐 考聲「切韻」云、『狐【音「胡」。和名「木豆禰」。】獣名、射干也。關中呼爲「野干」語、訛也』。孫愐「切韻」云、『狐能爲妖恠、至百歳化爲女也。』。

(狐 考聲「切韻」に云はく、『狐【音「胡(コ)」。「岐豆禰(きつね)」。】は獸の名にして射干(しやかん)なり。關中には呼びて「野干(やかん)」と爲すは、語の訛りなり。』と。孫愐「切韻」に云はく、『狐は能(よ)く妖怪と爲り、百歳に至りて化けて女と爲る者なりと。)

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とある。「關中」は漢文の項羽と劉邦でお馴染みの、函谷関の西側の地域、現在の陝西省渭水盆地の西安(旧長安)を中心とした一帯の呼称。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いたので、都や首都圏の意ともなった。

「〔住みし〕丘を首〔(かうべ)〕にす」狐死に際しては、自身が住み馴れた丘に敬意をこめて、首を向けて死ぬ。東洋文庫注に、『死に際してもうろたえず、節度を失わない態度をほめたもの』で、出典は「礼記」とする。同書の「檀弓(だんぐう)上」の以下である。

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大公封於營丘、比及五世、皆反葬於周。君子曰、「樂樂其所自生、禮不忘其本。古之人有言曰、『狐死正丘首。仁也』。」。

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「善く氷〔(こほり)〕を聽く」目には見えない、氷の下の状態(厚く張ったり、表面だけでその下には氷が未だ張っていないこと、さらには後に記すように、春になって氷が融け始めることも事前に極めて敏感に認知することが出来ることを指す。

「北斗」中国では北斗星は天帝の乗り物と見立てたり、北斗七星を司る「北斗星君」(「死」(寿命)を司る冥界の王)という神がいるなどと考えた。

「黍〔(きび)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum

「麥門冬〔(ばくもんとう)〕」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行ではこれで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「爲顯」「夫木」「花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人惑ふらん」藤原為顕(生没年未詳)は藤原定家の三男為家の子。二条為氏・京極為教の弟、冷泉為相の兄に当たる。従五位上・侍従。歌学書「竹園抄」の原著者で、作歌は「続拾遺和歌集」などに入る。永仁三(一二九五)年までの事績が確認されている。

「四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ」現在では、個体数は少なく、ある程度まで限定された一帯にではあるが(学術的調査では高知県と愛媛県の境に集中するとされる。但し、香川県で捕獲したという本人の記事(いちろー氏ブログ「いちろーのブログ~とりあえずその日のこと~」の「キツネ捕まえたよ! 香川県にもキツネがいたよ!」。捕獲したキツネの画像も有る。しかも香川県の環境森林部みどり保全課野生生物グループの担当者の話では県内での捕獲報告は時々あるとある)も発見した)、四国にキツネ(=ホンドギツネ)は棲息している

「陳眉公」明末の書家・画家として知られる陳継儒(一五五八年~一六三九年)の号。同じ書画家董其昌(とうきしょう)の親友としても知られる。

「秘笈〔(ひきふ)〕」陳継儒が、収集した秘蔵書を校訂・刊行した叢書「宝顔堂秘笈」のことか。

「油熬(あぶらあげ)の物」単品の「油揚げ」ではなく、油で揚げた物一般である。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatumウィキの「シキミ」によれば、シキミは『俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草と』も言い、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』とある。なお、仏前供養でお馴染みな割には、あまり知られていないと思うので引用しておくと、シキミは『花や葉、実、さらに根から茎にいたるまでの全てが毒成分を含む。特に、種子に』猛毒の神経毒であるアニサチン(anisatin)『などの有毒物質を含み、特に果実に多く、食用すると』、『死亡する可能性がある程度に有毒である』。『実際』に『事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定』『されている』ことは知っておいてよい。

「花山家」花山院家。藤原北家師実流嫡流。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とし、家名は家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことに拠る。

「能勢〔(のせ)〕家」摂津国の北摂地方の封建領主で清和源氏頼光流を称した能勢氏か。

『「三才圖會」に云はく……』図はここの左側、解説は次のコマの右側(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

『其の名を「紫〔(し)〕」と曰ふ』妖狐の別名に「阿紫」がある。「紫」は神仙の色であり、この「阿紫」のあどは明らかに女の名っぽいから、違和感はない。

「近衞の帝」近衛天皇(在位:永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年)。但し、以下のリンク先で判る通り、伝説の「玉藻の前」は同時代の鳥羽上皇(康和五(一一〇三)年~保元元(一一五六)年)の寵姫であったとされる。まあ、どうでもいいか。

「玉藻」妖狐のチャンピオン、中国から飛んで来た九尾狐。ウィキの「玉藻前」(たまものまえ)を読まれたい。

「安倍の泰成」鳥羽上皇附きの陰陽師。これも話によって安倍泰親とも安倍晴明ともなったりする。安倍晴明の五代の孫に当たる安倍泰親(天永元(一一一〇)年~寿永二(一一八三)年?)なら、まだいいが、ゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)では時代が全く合わぬ。

「義純【三浦介。】」三浦義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)。平安末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現在の神奈川県横須賀市)の在庁官人で、桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。後の鎌倉幕府の重臣となる三浦義村の祖父。

「廣常【上總介。】」上総広常(?~寿永二(一一八四)年)は房総平氏惣領家頭首で、源頼朝の挙兵に応じて平氏との戦いに臨んだ関東きっての名将。梶原景時の讒言により、頼朝の命で、景時が鎌倉の十二所(じゅうにそ)の広常の館を訪れ、碁をしている最中に謀殺した。これも玉藻の前の祟りかも知れんね。

「殺生石」] 栃木県那須郡那須町、那須岳の寄生火山御段山の東腹にある溶岩。嘗つて付近の硫気孔から有毒ガスが噴出して、そこに近づく蜂や蝶などの動物が多く死んだ。伝説によれば、鳥羽天皇の寵姫玉藻前に化けた金毛九尾の狐が、安倍泰成に正体を見破られ、三浦介義明に射止められて石と化したが、未だ恨みを以って生類の殺生を続けたが、後の至徳二(一三八五)年、玄翁和尚によって打ち砕かれ、成仏したとも伝える。ウィキの「殺生石」を参照されたい。

『「三才圖會」に云はく、『北山〔(ほくさん)〕に黒狐有り……』ここの右(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「四夷、來貢す」中国の四方の境域外の異民族が、この黒狐を恭順の証しとして貢納した。

「周の成王」周の第二代の王で武王の子であった姫誦(ひじゅ)のこと。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号。在位は紀元前一〇四二年から紀元前一〇二一年。父の武王の後を継いで即位するも、僅か二年で崩御してしまった。ウィキの「成王(周)」によれば、『当時は』未だ『周の政治体制は安定しておらず、殷の帝辛(紂王)の子の武庚(禄父)や』、『成王の叔父(武王の弟。管叔鮮と蔡叔度)たちの謀反などが相次ぎ、国情は極めて不安定であった』。『成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、実際の政務は母の邑姜、叔父の周公旦(魯の開祖)、太公望呂尚(斉の開祖)、召公奭(燕の開祖)らが後見した』。『成長すると、自ら政務を執』ったが、「史記」の「周本紀」に『よると、若くして崩御したと記されている』。『子の釗』(しゅう)『(康王)が後を継いだ。彼の代までが周の確立期であった(成康の治)』とある。

「元明天皇……」以下はる菅野真道らが延暦一六(七九七)年に完成させた「続(しょく)日本紀」の記載。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)の郭璞(かくはく)の著わした博物誌であるが、散佚、部分が引用で残る。

「神巫〔(かんなぎ)〕」「いちこ」との呼び、「市子」「巫子」等とも書く。呪文を唱えて生き霊や死霊を呼び出し、自身に憑依させ、死後の様子や未来の事などを知らせることを職業とした女。「口寄せ」。また、広義の「巫女(みこ)」を言う。後世、神前で神楽を奏する舞い姫をも指した。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「齋」現在の山東省の一部に相当する。

「晉」現在の山西省の一部に相当する。

「燕」現在の河北省に相当する。

「趙」現在の山西省と河北省の一部に相当する。

「嶺南」中国南部の南嶺山脈よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する(部分的には「華南」と重なっている)。参照したウィキの「嶺南」地図(キャプションに『華南/嶺南の諸都市。なお』、『福建省(かつての閩)は、多くの場合』、『嶺南には含まれない』ともある)。

「蛇と共に處〔(す)め〕るがごときなり」蛇と日常的に居住空間を一(いつ)にし、特に蛇を意識せずに生活しているのと同じである。

「南方には、猴(さる)、多く魅〔(み)〕を爲す」南方では(狐よりも)猿の類いが多く人を化かし、その被害は猿よりも有意に甚大である、という謂いである。

「傷寒」漢方で体外の環境変化によって経絡が冒された状態を指す。特に発熱し、悪寒が激しく、しかも汗が出ない症状で、現在の悪性の流行性感冒、或いは、腸チフスの類いを指すようである。

「瘴瘧〔(しやうぎやく)〕」概ね、その土地特有の「瘴」気(しょうき:目に見えない悪しき邪気)によって、一日二日といったように、日を隔てて周期的間歇的に悪寒・戦慄と発熱を繰り返すような病状を指す。紀元前から中国で知られていた病気で、「湿瘧(しつぎゃく)」「痎瘧(がいぎゃく)」など、多くの病名が記載されている。他の病気(限定的な伝染性風土病など)も含まれていたとは思われるが、その主体はマラリアと考えられている。

「譫語〔(うはごと)〕に異なること有るのみ」頻りに譫言(うわごと)を言うという点だけが、通常の疾患とは異なるだけである、の意。だから、狐憑きはそれらと判別が難しい、というのである。]。

昔物語 伊良子清白 (附「柑子の歌」初出形推定復元)

 

昔 物 語

 

花橘(はなたちばな)の香をかげば

昔めかしき紋所

築地(ついぢ)の瓦古寺に

藤原の繪卷ありやなし

 

落花をふみてとひよるに

今をさかりの深見草(ふかみぐさ)

傘を立てたる振舞は

心憎くも見えにけり

 

九十九(つくも)に近き枯尼(かれあま)の

草を毮(むし)りてありけるが

春暮れ方の絲遊(いという)に

まぎれも入らん風情(ふぜい)なり

 

市の子ならぬ髮形

髙貴の姬のあらはれて

﨟(らふ)たき姿輩(ともがら)の

若き心を壓したり

 

五月(さつき)の沼の苅菰(かりごも)と

亂れし時世の事なれば

都を避けて里住みの

やんごとなきもおはしけむ

 

今其寺は跡もなく

わらびに添へて嵯峨人の

うまれをほこる筍(たかんな)の

名所となりて候ひぬ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』であるが、そこでは総標題(校異の解説から推定)を「柑子の歌」とし、その中に本「昔物語」を含めた二部(同前の推定)一篇として構成されたものであった。その「柑子の歌」の部分を独立させたものが前に電子化した「柑子の歌」である。

「深見草」ここでは、ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa のこと。

「絲遊(いという)」ルビ表記はママ。「陽炎(かげろう)」の古い異名 。小学館「大辞泉」によれば、『語源未詳で、歴史的仮名遣いを「いとゆふ」とするのは、平安時代以来の慣用』とし、さらに本語は、『晩秋の晴天の日にクモが糸を吐きながら空中を飛び、その糸が光に屈折してゆらゆらと光って見える現象が原義で、漢詩にいう遊糸もそれであるという』とある。

 前の「柑子の歌」も含めた完全初出形は以下。底本校異に従い復元したが、標題「柑子の歌」及び「昔物語」の配置位置が校異では分らないので、差別化するために、相互の題の位置とポイントを意図的に変えておいた。実際にはこうではない可能性が高いので注意されたい。

   *

 

柑子の歌

 

媼(おうな)市路(いちぢ)に鬻ぎよる

手藍(てかご)のこのみ手にとれば

千重の敷浪(しきなみ)末遠く

こは常春(とこはる)の百濟物

 

一日柑子(かうじ)の山に入り

草のふき屋に摘みためし

年のみのりに驚きて

南の國の富を見き

 

霜月鯨(いさな)よりそめて

湊々(みなとみなと)の潮高く

曉闇(くら)き荒灘を

みだれて浮ぶ寶船

 

花の都の商人(あきびと)が

千函(ちばこ)の玉を開きては

巷に糶を競(きそ)ふ時

山はみのりに輝かん

 

色と彩(あや)との天(てん)にして

染むるこのみを見渡せば

霞かぎらふ南(みんなみ)の

黃金(こがね)の國は冬もなし

 

直(たゞ)さす日影美しき

光や凝(こ)りて實(みの)るなる

陰ほの白くうなゐらが

柑子採るてふ紀路の山

 

  昔 物 語

 

花橘(はなたちばな)の香をかげば

昔幽しき紋所

築地くずれし古寺に

小町の繪卷ありやなし

 

落花をふみてとひよるに

今をさかりの深見草(ふかみぐさ)

傘を立てたる振舞は

心憎くも見えにけり

 

九十九(つくも)に近き枯尼(かれあま)の

草を挘りて候が

春暮れ方の絲遊(いという)に

まぎれも入らん風情(ふぜい)なり

 

市の子ならぬ髮形

髙貴の姬のあらはれて

﨟(らふ)たき姿輩(ともがら)の

若き心を壓したり

 

五月(さつき)の沼の苅菰(かりごも)と

亂れし時の事なれば

都を避けて里住みの

やんごとなきもおはしけむ

 

今其寺は跡もなく

わらびにそへて嵯峨人の

產(うまれ)をほこる筍(たかんな)の

名所と成りて候ひぬ

 

   *

 初出の「柑子の歌」の「糶」は恐らく「せり」と訓じている。この漢字は原義は「うりよね」「だしよね」で「売りに出す米」又は「穀物を売り出すこと」の意であるが、ここはそこから派生した広義の問屋や市での「競(せり)」「競売(せりうり)」で、その声の意である。また、「うなゐ」は「髫」「髫髪」で、元は「項 (うな) 居 (ゐ) 」の意かと推定され、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らさせた髪型或いは女児の髪を襟首の附近で切り下げておいた「うない髪」のことで、本来は転じて「幼女」を指すが、ここはその上限を遙かに延ばした少女・乙女・処女の謂いで用いている。

 同じく初出の「昔物語」の「幽しき」は「かそけし」と読む。]

柑子の歌 伊良子清白

 

柑子の歌

 

媼(おうな)市路(いちぢ)に鬻(ひさぎ)ぎよぶ

手藍(てかご)のこのみ手にとれば

千重の敷浪(しきなみ)末遠く

こは常春(とこはる)のくだらもの

 

一日柑子(かうじ)の山に入り

草の葺屋に摘みためし

年のみのりに驚きて

南の國の富を見き

 

霜月勇魚(いさな)よりそめて

湊々(みなとみなと)の潮高く

曉闇(くら)き荒灘を

みだれてはしる柑子船

 

花のみやこの商人(あきびと)が

千函(ちばこ)の寶開きては

年の設(まうけ)を競(きそ)ふ時

山のみのりは戶に入らん

 

色と彩(あや)との天(てん)にして

染むるこのみを見渡せば

霞かぎらふ南(みんなみ)の

黃金(こがね)の國は冬もなし

 

直刺(たださ)す日影美しき

光や凝(こ)りて實(みの)るなる

陰ほの白くをとめらが

柑子採るてふ紀路の山

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年五月発行の『文庫』であるが、そこでは総標題(校異の解説から推定)を本篇と同じ「柑子の歌」とし、その中に次に電子化する「昔物語」を含めた二部(同前の推定)一篇として構成されたものであった。その「柑子の歌」の部分を独立させたものが本篇であるらしい。初出形は次の「昔物語」の注で復元する

「柑子」読みは「かうじ」(こうじ)で、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属 Citrus の通称であり、ここは時代幻想であるから、そのレベル或いはお馴染みのキシュウミカン Citrus kinokuni などをイメージして良いとは思う。但し、次注を必ず参照されたい。

「くだらもの」「百濟物」(初出表記)であるが、百済からミカンの大本(おおもと)の原種が渡来したとか、或いは読者である我々に「百済」国が「常春の」「南の國」とイメージされるか、と問われれば、首を傾げざるを得ない。さればこの「くだらもの」の「くだら」とは海の彼方の「南の國」で「常春の」パラダイスとして漠然と意識された「無何有の郷」「ユートピア」という言い換えとして捉えた方がよいように初読時には私は思った。しかし、調べてみると、ミカンの内、本邦に古くから自生している本邦の柑橘類固有種であるミカン属タチバナ(橘)Citrus tachibana の近縁種にコウライタチバナ(高麗橘)Citrus nipponokoreana が存在し、山口県萩市と韓国の済州島にのみ自生していること(萩市の自生群は絶滅危惧IA類に指定されて国天然記念物)、済州島は耽羅国という独立国であったが、四世紀頃には百済に朝貢しており、十五世紀初頭頃までは事実上の独立的在地支配層は健在であって(李氏朝鮮王朝に入って、全羅道に組み込まれ、後には流刑地の一つとなってしまう)、済州島を古えの邦人が「百済」と認識することには不審感はないこと、さらに済州島は対馬海流の影響を受けて、大陸性気候で冬の寒さが厳しい韓国の中では最も気候が温暖であり、事実、その暖かさをを利用して韓国で唯一のミカンの産地となっていること(この部分はウィキの「済州島」に記載がある)を考えると、済州島=百済=「常春の」「南の國」と認識することには何ら無理がないと私は思うのである。因みに、本邦の最も古い柑橘類の記載(推定同定)は、ウィキの「ウンシュウミカン」の「ミカンの歴史」によれば、「古事記」及び「日本書紀」で、『「垂仁天皇の命を受け』て『常世の国に遣わされた田道間守』(たじまもり)『が非時香菓(ときじくのかくのみ)の実と枝を持ち帰った(中略)非時香菓とは今の橘である」(『「日本書紀」の『訳)との記述がある。ここでの「橘」は』、『タチバナであるともダイダイ』(ミカン属ダイダイ Citrus aurantium)『であるとも小ミカン(キシュウミカン)であるとも言われており、定かではない』ともある。この常世の国が済州島であったとしても私には全く違和感がないのである。反論のある方は、受けて立つ。]

2019/04/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(8) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(3)

 

《原文》

 蓋シ都鄙多クノ神體ノ製作ハ比較的後代ノモノナリトスルモ、其形狀特性ノ如キハ漫然タル空想ニ由リテ新タニ之ヲ附加セシモノニハ非ズシテ、ヤハリ神ノ示現ニ關スル當初ノ歷史ヲ表ハサント力メシモノナラン。【神ノ降臨】其證據ニハ神ガ馬ニ騎リテ降臨シタマヒシコトヲ傳說スル場合ニハ、其馬ノ毛モ亦多クハ白ナリ。【神ノ林】前ニ述べタル一二ノ例ノ外ニ、美作苫田郡一宮村大字西田邊ノ駒林ハ、慶雲三年ニ中山神ガ白馬ニ乘リテ來現セラレタル故跡ナリ。二町ヲ隔テヽ上林ト下林トアリ。其年ノ九月二十三日ニ神ハ此林ヨリ五町北ノ霧山ト云フ處ニ入リタマフ云々。林ヲ駒林ト云フコト、竝ビニ例年九月ノ神事ニ白馬ヲ用ヰルハ其爲ナリ〔作陽志〕。新羅ノ大昔ニ蘇伐公ガ白馬ノ林間ニ跪拜スルヲ見テ、卵ニ籠レル赫居世ヲ拾上ゲシト云フ話モ何ト無ク思ヒ合サル。日本ニテモ淸キ林ニハ此類ノ神話多シ。【境塚】伊勢ノ飯南郡川俣谷、即チ今日ノ宮前村大字作瀧(サクダキ)ニテハ、村ノ境ニ祓塚(ハラヒヅカ)アリテ其北ヲ賀瀨川流ル。其川ノ中流ニ立ツ大石ノ上ニ、昔天照大御神白馬ニ騎リテ降リタマヒ、國ノ堺ヲ定メタマヘリト云フ口碑アリ〔勢陽俚諺十〕。此石ハモトハ多分白クシテ馬ノ形ニ似タリシガ故ニ斯ル傳說ヲ生ゼシナルべシ。【石馬】阿波名西郡神領村白桃名(シロモヽミヤウ)ノ一部ヲバ御馬原ト謂ヒ、丹生(ニフ)明神ノ乘捨テラレシト云フ石馬アリ。鞍鐙皆具シテ膝折伏セテ見返リタル形、ヨク見レバ鬣ノ筋マデアリアリトシテ、些シ遠クヨリ望メバ誠ニ生ノ馬ノ通リナリ。此地ハ元ヨリ村ノ山野ナルガ、村人此石ヲ尊崇シテ木草ヲ採ラヌ爲ニ、自然ニ林ヲ爲シテ終ニ石馬ヲ遠望スル能ハズ。【老翁】傳ヘ謂フ昔一人ノ老翁白馬ニ乘リテ此原ノ柴刈男ニ現ハレ、我ハ大和ノ丹生明神ナリ、由アリテ跡ヲ此地ニ垂レ五穀ヲ守ルべシト仰セラレ、乃チ天ニ歸リタマフ。神馬ハ之ニ伴フコト能ハズ、御跡ヲ顧ミツヽ石ト化シタルガ即チ是ナリ〔燈下錄〕。【熊野權現】岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(クマンダウ)ノ熊野三社ハ、數多キ奧羽ノ熊野ノ中ニテモ殊ニ有難キ神ナリ。八幡太郞義家戰捷ヲ祈ル爲ニ建立セシ社ナリト傳フ。【駒形】其折ニ愛馬ノ連錢葦毛ヲ奉納シテ神馬トシ之ヲ駒形原ニ放牧ス。此葦毛ハ後ニ天ニ昇リ雲中ニ嘶クコト七日、仍テ之ヲ馬頭觀音ト祀リ、更ニ此原ニモ右ノ三社ヲ勸請ス。【三寶荒神】今ノ耶麻郡鹽川村ノ三寶荒神社ハ即チ是ナリト云フ〔新編會津風土記所引緣起〕。三寶荒神ハ竃ノ神ナリ。馬ト竈トノ關係アルコトハ前ニモ一タビ之ヲ述ブ。後段ニモ猶詳カニ攻究セント欲スル所ナリ。

 

《訓読》

 蓋し、都鄙、多くの神體の製作は、比較的、後代のものなりとするも、其の形狀・特性のごときは、漫然たる空想に由りて新たに之れを附加せしものには非ずして、やはり、神の示現(じげん)に關する當初の歷史を表はさんと力(つと)めしものならん。【神の降臨】其の證據には、神が馬に騎りて降臨したまひしことを傳說する場合には、其の馬の毛も亦、多くは白なり。【神の林】前に述べたる一二の例の外に、美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林は、慶雲三年[やぶちゃん注:七〇六年。]に中山神が白馬に乘りて來現(らいげん)せられたる故跡なり。二町を隔てゝ上林と下林とあり。其の年の九月二十三日に、神は此の林より五町北の霧山と云ふ處に入りたまふ云々。林を駒林と云ふこと、竝びに例年九月の神事に白馬を用ゐるは其の爲なり〔「作陽志」〕。新羅の大昔に、蘇伐公(そばつこう)が白馬の林間に跪拜(きはい)するを見て、卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)を拾ひ上げしと云ふ話も、何と無く思ひ合さる。日本にても、淸き林には此の類ひの神話、多し。【境塚(さかひづか)】伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷、即ち、今日の宮前村大字作瀧(さくだき)にては、村の境に祓塚(はらひづか)ありて、其の北を、賀瀨川、流る。其の川の中流に立つ大石の上に、昔、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、白馬に騎りて降りたまひ、國の堺を定めたまへりと云ふ口碑あり〔「勢陽俚諺」十〕。此の石は、もとは、多分、白くして、馬の形に似たりしが故に斯(かか)る傳說を生ぜしなるべし。【石馬】阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)白桃名(しろもゝみやう)の一部をば「御馬原」と謂ひ、丹生(にふ)明神の乘り捨てられしと云ふ石馬あり。鞍・鐙(あぶみ)、皆、具して、膝、折り伏せて見返りたる形、よく見れば鬣(たてがみ)の筋までありありとして、些(すこ)し遠くより望めば、誠に生(なま)の馬の通りなり。此の地は、元より村の山野なるが、村人、此の石を尊崇して、木草(きくさ)を採らぬ爲めに、自然に林を爲して、終に石馬を遠望する能はず。【老翁】傳へ謂ふ、昔、一人の老翁、白馬に乘りて此の原の柴刈男(しばかりをとこ)に現はれ、「我は大和の丹生明神なり、由ありて、跡を此の地に垂れ、五穀を守るべし」と仰せられ、乃(すなは)ち、天に歸りたまふ。神馬は之れに伴ふこと能はず、御跡(みあと)を顧みつゝ、石と化したるが、即ち、是れなり〔「燈下錄」〕。【熊野權現】岩代河沼(かはぬま)郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社は、數多き奧羽の熊野の中にても、殊に有り難き神なり。八幡太郞義家、戰捷(せんせふ)[やぶちゃん注:戦勝に同じい。]を祈る爲めに建立せし社なりと傳ふ。【駒形】其の折りに、愛馬の連錢葦毛(れんせ(ぜ)んあしげ)[やぶちゃん注:葦毛に銭を並べたような灰白色のまだら模様のあるもの。グーグル画像検索「連銭葦毛」をリンクさせておく。]を奉納して神馬とし、之れを「駒形原」に放牧す。此の葦毛は後に天に昇り、雲中に嘶(いなな)くこと七日、仍(より)て之れを馬頭觀音と祀り、更に、此の原にも右の三社を勸請す。【三寶荒神】今の耶麻(やま)郡鹽川村の三寶荒神社は、即ち、是れなりと云ふ〔「新編會津風土記」所引「緣起」〕。三寶荒神は竃(かまど)の神なり。馬と竈との關係あることは前にも一たび之れを述ぶ。後段にも猶ほ、詳らかに攻究せんと欲する所なり。

[やぶちゃん注:「美作(みまさか)苫田(とまた)郡一宮(いちのみや)村大字西田邊(にしたなべ)の駒林」岡山県津山市西田辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「駒林」は現認出来ない。

「中山神」現在は「なかやま」と呼ばれるが、昔は「ちうさん」であったらしい。前の西田辺の南西近くの、現在の岡山県津山市東一宮に美作國一之宮中山神社があるが、これはサイト「玄松子の記憶」の同神社の記載によれば、『備前と備中の堺の山』である『吉備の中山から勧請したもので、美作国が備前国から分立した和銅六(七一三)年四月三日に創立されたらしい。但し、社伝では慶雲四(七〇七)年『四月三日の創祀とされている』。『吉備の中山には、備中一宮の吉備津神社と備前一宮の吉備津彦神社がある』とされ、さらに、『チウサンの音読みに関して、中国『山海経』に登場する鉄の国・中山経の影響とする説がある』。『祭神は、現在、鏡作神とされているが、金山彦命とする説もあり、産鉄の神である』とする。加えて興味深いことに、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に『「中山の猿神」として登場する猿神社は、境内の後方』五十メートル『の岩の上にあり、崇敬者の奉納した赤い猿の縫ぐるみが多く祀られている』。『昔、中山の猿神に、娘の生贄を捧げていたが、ある猟師が、犬をけしかけ、この猿を殺してしまった。その時、猿神が宮司に神がかり、

「今後、生贄を止める」と誓ったという』とあるのである。猿である。柳田國男の本書での考証と関係があるかどうかは分らぬが、「馬」と「猿」の親和性の強さが窺える話ではないか。

「上林」位置や読み不詳。「下林」との関係で、「うへばやし」と「しもばやし」と仮に読んでおく。

「霧山」現在の岡山県津山市西田辺霧山であろう。列石・巨石の古代遺跡があることがサイト「遺跡ウォーカー」の「霧山遺跡」(地図有り)で判明。

「蘇伐公(そばつこう)」次注参照。

「卵に籠(こも)れる赫居世(かくきよせい)」赫居世居西干(きょせいかん 紀元前六九年?~紀元後四年)は斯蘆(しろ)国(新羅の初名)の初代の王(在位:紀元前五七年?~四年)。姓を朴、名を赫居世とする。ウィキの「赫居世居西干」によると、「三国史記」の「新羅本紀」に『よれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮』『の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という』六『つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部(または辰韓六部』『)と呼ぶ』。『楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)』(これが「蘇伐公(そばつこう)」である)『がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると』、『中から男の子が出てきた』『ので、村長たちはこれを育てた』、十『歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために』六『村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は』十三『歳であり、前漢の五鳳元年(前』五七『年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって』五『年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(』「三国史記」では右脇とする『)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した』。「三国遺事」の「王暦」「新羅始祖赫居世」の『条の伝える建国神話は、骨子は』「三国史記」と『同じであるが』、『細部に違いがみられ』、『天から降りてきた』六『村の長が有徳の王を求めて評議していたところ、霊気が蘿井の麓に下ったので見に行った。白馬が跪いている様が伺えたが、そこには紫(青色)の卵があっただけで、馬は人の姿を見ると嘶いて天に昇った。卵を割ってみると中から男の子が現れ出て、その容姿は優れていた。村長たちは男の子を沐浴させると、体の中から光が出てきた。鳥や獣は舞い踊り、地は震え、日月の光は清らかであった。このことに因んで赫居世王と名づけ、居瑟邯』『(きょしつかん、コスルガム)と号した。王となったとき赫居世は』十三『歳であり、同時に同じく神秘的な出生をした閼英を王妃とし、国号を徐羅伐(ソラボル)・徐伐(ソボル)』『とした。国号についてはあるいは斯羅(シラ)・斯盧(シロ』『)ともいう』。「三国遺事」や「三国遺事」に『よると、中国の王室の娘娑蘇夫人が、夫がいないのに妊娠したので海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世居西干とその妃閼英夫人を生んだ』。『在位』六十一『年にして』『死去し、虵陵に葬られたという』「三国遺事」に『よれば、赫居世が死んで昇天して』七『日後に、遺体が地に落ちてバラバラになった。国人がこれを集めて葬ろうとしたが』、『大虵(大蛇)に阻まれたのでバラバラとなった五体をそれぞれに葬って五つの陵とした。そのために王陵を虵陵という』。『赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある』、「三国遺事」の『指定する訓によれば』、『「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という』。「三国遺事」に『よれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある』。『また』、『赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるため』、『そのまま「朴」になったとも考えられている』とある。人の起原や昔話の古形(例えば「かくや姫」等)には卵生説話は洋の東西を問わず、かなり見られるものである。

「伊勢の飯南(いひなん)郡川俣谷」「今日の宮前村大字作瀧(さくだき)」現在の三重県松阪(まつさか)市飯高町(いいたかちょう)作滝(さくだき)

「祓塚(はらひづか)」久保憲一氏のブログ「私、水廼舎學人です」の「榊塚(お祓塚)」によって現存することが判った。それによれば、国道百六十六『号線、旧作滝村と旧赤桶村の境界に「立て道」が通っています』。『この道の延長線上に「お祓塚」と呼ばれる塚があります』(『他にもう一つ』、『「お休み塚」という塚もあります』)。『そのまた延長線上の川中に』、『国分け伝説の「礫(つぶて)石」があるのです』。『これらを結ぶ線が昔々伊勢神宮領と大和領間の国境だったのです』。『おそらくこのお祓塚でお祓いをして神宮領と大和領を行き来したのでしょう』。『この辺一帯は「久保切」と言い、私の先祖が住んでいたとも言われています』。『亡父は此処から多くの土器やヤジリを収集しました』。『今この一帯は縄文遺跡「宮の東遺跡」とも呼ばれています』。『この「お祓塚」は別名「榊塚」とも言われており、どうやら明治の末頃まで榊の大木が繁っていたそうです』。『もはや榊の木はなく、茶の木が塚を覆っています』。さても『「榊」の語源は「逆木」であった、というお話』があり、『柳田國男「日本の伝説」(昭和』一五(一九四〇)年三國書房刊)『によると』、三十『年ほど前までは、この男石(礫石のこと)の近くに、古い大きな榊の木が、神に祀られてありました』。『伊勢の神様が神馬に乗り、榊の枝を鞭にしておいでになつたのを、ちよつと地に挿して置かれたものが、そのまま成長して大木になつた』。『それ故に枝はことごとく下の方を向いて伸びてゐるといひました』。『この木を「さかき」といふのも、逆木の意味で、ここがはじまりであつたと土地の人はいつております』とある。地図上では恐らくこの附近に存在するものと思われる(「礫石」の表示と画像有り)。

「賀瀨川」不詳、不審。作滝地区の北を流れるのは櫛田川であり、この名は倭姫命が櫛を落としたことに由来する古名で、「賀瀨川」という別名は持たない模様である。支流の名か? 「勢陽俚諺」の十巻を見ればいいのであろうが、三箇所の画像データは検索が出来ず、探すのにあまりに時間がかかるので諦めた。悪しからず。

「石馬」「いしうま」か「せきば」か読みに迷う。

「阿波名西(みやうさい)郡神領村(じんりやうそん)白桃名(しろもゝみやう)」awa-otoko 氏のブログ「awa-otoko’s blog」の「大宜都比売命の御馬石(神山町 神領)」に、『古より神石として尊信せるのみならず、その古伝と能く符号せるを見れば、即ち大宜都比売命』(おおげつひめ:伊耶那岐・伊耶那美の子で、素戔嗚尊に惨殺された食物神の女神)『の来臨の霊地にして、阿波の国 開開闢の原地と考えられるべし』という前置きの後、『神山町神領』『上一宮大粟神社から南にある丹生というところに神代から伝わっている「御馬石」というものがあります』。『口碑によると』、『神代の昔、大宜都比売命が粟の国へ御来臨の時の遺跡で、即ち大神の乗用にあてられた神馬が化して石になったものと言い伝えられ、俗に御馬と称えて尊信されているのであります』。『この御馬石は昔より阿波に伝わる数々の文献に記載され、多くの参拝者があったと伝わります』。『●「丹生内有石、形似臥馬、名馬石。」(阿波志)』。『●「名西郡神領村の内白桃といふところに、馬石あり、其形は、彫りなせる馬の如し。大きさ常體の馬ほどなり。色は、薄黒く、河原毛に類す。尤も、鞍置馬にて、手綱まで粲にて、野中に乗り捨てたる形なり。」(阿州奇事雑話)』。『●「御馬石は、名西郡神領村御馬原といふところにあり、鞍鐙など、皆具して、膝を折り、伏し、見かへりたる形、少し遠ざけ見れば、誠に生けるかと疑はる。此所、野原ありしを、神石をかしこみて、木草を刈らず、自ら林をなし、遠方より今は見えざりし。即ち、近くに見るに、馬石の自然にして独座せり、首尾、鬣すぢなど妙なり。」(燈火録)』。『●「當村丹生内山へ大神御出あらせられる。(中略)其節、御馬に召され、候處、折節天火(をりふしてんか)にて、頻りに御馬近く山焼け来り、候に付、御召馬を石となし給ひける』。『今、其名馬の姿に相顕はれ、これを御馬石と申し、唯今、舊跡に御座候云々。」(上一宮大粟神社 神官 阿部氏に伝わる舊記)』と引用され、『このように数々の文献に記されていた御馬石に興味が湧くのは私にとって必然。阿波開闢の地をこの目で実際に見てみようと現地の方に聞きこみを開始致しました』とあって、苦心惨憺の末、遂に! 山中に、その御馬石(ポニーのような石がある!)を発見されるに至る過程が、写真附きで記されてあるのである! 必見!!! 位置としては現在の徳島県名西郡神山町(かみやまちょう)のこの附近であろうかと思われる。

「丹生(にふ)明神」「播磨国風土記」逸文に見える神で、和歌山県かつらぎ町の丹生都比売(にうつひめ)神社の祭神。丹生都比売神・爾保都比売命(にほつひめのみこと)とも呼ぶ。伊耶那岐の娘とも、天照大神の妹ともされる。水銀産出に関わる神で、高野山の地主神として高野明神とともに祀られるているという。但し、前注引用の大宜都比売とは異なる神である。

「岩代河沼郡堂島村大字熊野堂(くまんだう)の熊野三社」現在の福島県会津若松市河東町(かわひがしまち)熊野堂(くまのどう)村内甲(むらうちこう)にある熊野神社であろう。

「駒形原」「耶麻(やま)郡鹽川村」自信はないが、或いは候補地の一つは福島県喜多方市塩川町新江木字駒形附近(ここはYahoo!地図データ)ではないか?  但し、「三寶荒神社」らしきものは現認出来ない。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 風貍(かぜたぬき) (モデル動物:ヒヨケザル)

Kazedanuki

 

 

 

かぜたぬき 風母  平猴

      風生獸 狤※

風貍

      【和名加世太奴木】

フヲンリイ

[やぶちゃん注:「※」=「犭」+「屈」。]

 

本綱風狸大如貍如獺其狀如猿猴而小其目赤其尾短

如無其色青黃而黒其文如豹或云一身無毛惟自鼻至

尾一道有青毛廣寸計長三四分其尿如乳汁其性食蜘

蛛亦啖薰陸香晝則蜷伏不動如螬夜則因風騰躍其捷

越巖過樹如鳥飛空中人網得之見人則如羞而叩頭乞

憐之態人撾擊之倐然死矣以口向風須臾復活惟碎其

骨破其腦乃死一云刀斫不入火焚不焦打之如皮囊雖

鐵擊其頭破得風復起惟用石菖蒲塞其鼻卽死也

△按風狸嶺南山林中多有而未聞在于本朝

 

 

かぜたぬき 風母  平猴〔(へいこう)〕

      風生獸 狤※〔(きつくつ)〕

風貍

      【和名「加世太奴木」。】

フヲンリイ

[やぶちゃん注:「※」=「犭」+「屈」。]

 

「本綱」、風狸は大いさ、貍のごとく、獺〔(かはうそ)〕のごとし。其の狀、猿猴のごとくにして、小さく、其の目、赤く、其の尾、短く、無きがごとし。其の色、青黃にして黒し。其の文、豹のごとく、或いは云ふ、「一身に毛無く、惟だ鼻より尾に至り、一道、青き毛、有り」〔と〕。廣さ、寸計り、長さ、三、四分。其の尿〔(ゆばり)〕、乳汁のごとく、其の性、蜘蛛を食ふ。亦、薰陸香〔(くんりくかう)〕を啖〔(くら)〕ふ。晝(〔ひ〕る)は、則ち、蜷〔(とぐろま)きて〕伏し、動か〔ざること〕螬(すくもむし)のごとく、夜、則ち、風に因りて、騰(のぼ)り躍り、其の捷(はや)きこと、巖〔(いはほ)〕を越へ[やぶちゃん注:ママ。]、樹を過〔(よ)〕ぎり、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、網し、之れを得て、〔それ、〕人を見るときは、則ち、羞〔ずるが〕ごとし。而して頭を叩き、憐(あはれ)みを乞ふの態(ありさま)〔を成す〕。人、之れを撾(うちたた)き擊するときは、倐然〔(しゆくぜん)〕として[やぶちゃん注:忽ち。]死す。口を以つて風に向くときは、須臾〔(しゆゆ)〕にして[やぶちゃん注:程無く。]、復た活〔(い)け〕り。惟だ、其の骨を碎き、其の腦を破れば、乃〔(すなは)〕ち、死す。一つに云ふ、「刀〔にて〕斫〔(き)るも、刃、〕入らず、火に焚(た)きて〔も〕焦(こが)れず、之れを打つに、皮囊(〔かは〕ぶくろ)のごとし。鐵にて其の頭を擊ち、破ると雖も、風を得れば、復た起く。惟だ、石菖蒲〔(せきしやうぶ)〕を用ひて其の鼻を塞げば、卽ち、死す」〔と〕。

△按ずるに、風狸、嶺南[やぶちゃん注:中国南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と湖南省・江西省の一部に相当する。]の山林の中、多く有りて、未だ本朝に在ることを聞かず。

[やぶちゃん注:図の様態からは猿の一種のように見え、記載の一部もそれらしい行動(人に命乞いをするような態度)をとるとするものの、殺しても風が吹けば蘇生し、通常では傷つけることさえも出来ないとあっては、幻獣とする他はないように見えるが、実は現行ではモデル生物として東南アジアの熱帯地方に棲息する「日避猿」(或いは「蝙蝠猿」)と呼ばれる、哺乳綱真主齧上目ヒヨケザル目 Dermoptera のフィリピンヒヨケザル Cynocephalus volans とマレーヒヨケザル Cynocephalus variegatus(以上二種のみが現生種)を同定比定する見解がある(ウィキの「風を見よ)。ウィキの「ヒヨケザル」によれば、『ヒヨケザルの属名 Cynocephalus は、「イヌの頭」という意味のラテン語から来ている。和名で「サル」の語がつくのは、キツネザルに似た頭部の外見による』もので、形態的には食虫類や翼手類に似ており、系統的にも近いとされ、動物学的には現在は狭義の猿の一種とはしない(『以前から知られていた絶滅』した真主齧上目プレシアダピス目 Plesiadapiformes パロモミス科 Paromomyidae『の化石に、ヒヨケザルの手の骨と同様な特徴が発見された。これにより、従来』、『プレシアダピス目に含められていたパロモミス科はヒヨケザルの仲間(皮翼類)に移されたが、同時に、このパロモミス類を含む皮翼類を、従来のような独立した目から格下げしてサル目(霊長目)に含め、直鼻猿亜目・曲鼻猿亜目と並ぶ第』三『の亜目(ヒヨケザル亜目/皮翼亜目)とする説もあった』が、『近年』で『はその説は否定されている』)。『ヒヨケザルは樹上に生息する』、体長約三十五~四十センチメートル、体重一~二キログラムの『ネコくらいの大きさの動物である。体格は細身で、四肢は比較的長く、前脚と後脚がほぼ同じ長さをしている。頭部は小さく、両目が(ヒトを含むサル類と同様)顔の正面に位置しており、遠近感をとらえる能力に優れている。これらの特徴は、木々の間を滑空するのに適したものである』。『ヒヨケザルの最大の特徴は、首から手足、そして尾の先端にかけて、飛膜と呼ばれる膜をもつことである。この飛膜を広げることで』百メートル『以上(最高記録』百三十六メートル『)滑空し、森林の樹から樹へと移動している。飛膜をもつ動物としては、他にもネズミ目(齧歯類)のムササビ、モモンガやフクロネズミ目(有袋類)のフクロモモンガなどが知られているが、いずれも飛膜は前肢と後肢のあいだにあるのみで、首から尾にわたるヒヨケザルのものほど発達した飛膜をもつ動物はほかにいない。コウモリのようにはばたくことはないが、滑空中に尾を動かして後肢と尾の間の飛膜で扇いで推進力を生み』、『滑空距離を伸ばしている』。『また』、『五本の指にも膜があり、指を動かして広げたり縮めたり手首を回したりすることで、空気の抵抗を変え、飛ぶ方向を変えることができる。首周りの三角形状の飛膜は、飛んでいるとき膜のへりに』二『本の渦の流れができる。飛膜が三角形の場合は渦の流れは』四『本になる。背中側に生まれたこの流れが、膜の上の気流を整える。その為スピードが落ちても落下することがない』とされるらしい。『サルのような対向する親指をもたず、力も強くないため、木登りは苦手である。小さく鋭い爪を樹皮に引っ掛けて、ゆっくりと木をよじ登る姿は、ひどく不器用そうに見える。しかし、空中では非常に有能である。高度のロスを最小限に保ちながら、木々の間を滑空する。ヒヨケザルが食べる植物は森中に散らばっている上に、好物の若葉は木の高いところにあるので、滑空は効率的な移動手段であると言える』。『ヒヨケザルは臆病な動物であり、夜行性でもあるため、その生態はほとんど知られていない。草食性であり、よく発達した胃をもつ(中に消化を助けるバクテリアが棲んでいる)ため、木の葉を消化することができる。葉、若芽、花、樹液などを主食としており、恐らく果実も食べていると考えられる。切れ目の入った扁平なクシ状の特殊な形状をした下顎切歯をもつ』『が、この切歯で樹液や果汁などを濾しとって食べる』。『また、同時に毛づくろいにも用いていると考えられている。こうした形状の切歯は、他の哺乳類には例がない』。『ヒヨケザルは特定の寝ぐらを持たないため、子育ての際は、子供を包むように飛膜を広げ』、『世話をする。また、子供が母親の排出する糞を舐めるのは、ここで自らの胃の中のバクテリアを取り込むためである』とある。なお、根岸鎮衛の「耳囊 巻之十 風狸の事」のことでは(リンク先は私の電子化訳注。実はそこで本項は電子化済みなのであるが、今回は全くゼロからやり直してある)、本邦にも風狸がいるとするが、これはモモンガやムササビの誤認であろう(但し、「耳囊」では鳥を捕食するとあるが、孰れも種も鳥は食わない(果実・若枝・樹皮・昆虫が捕食対象)なので要注意)。時珍の叙述の幻想性はヒヨケザルが中国に棲息しないことから、その南方外にいて、猿のようで、しかも皮膜を持っていて飛翔するという伝聞が、さらに奇体な不死的妖獣化を促したものと考えてよかろう。

「薫陸香」呉音で「くんろく(っ)こう」とも読み、「くろく」「なんばんまつやに」などとも呼ばれる。インド・イランなどに産する樹の脂(やに)の一種で、盛夏に砂上に流れ出でて固まり、石のようになったものを指し、香料・薬用とする。乳頭状のものは「乳香」(狭義にはムクロジ目カンラン科ボスウェリア属 Boswelliaの常緑高木から採取されるそれを指す)という(ここまでは主に小学館「日本国語大辞典」に拠る)。なお、平凡社の「世界大百科事典」の「香料」には、インドで加工された種々の樹脂系香料が西方と東アジア、特に中国へ送られ、五~六世紀の中国人は、これを「薫陸香」と称し、インドとペルシアから伝来する樹脂系香料として珍重した旨の記載がある。

「螬(すくもむし)」地中にいる甲虫類の幼虫を指す語であるが、主にコガネムシ類(鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科 Scarabaeidae)の幼虫をいう。地虫(じむし)。

「火に焚(た)きて〔も〕焦(こが)れず、之れを打つに、皮囊(〔かは〕ぶくろ)のごとし」この叙述は、あたかも本邦の「竹取物語」にも出る「火鼠の皮袋」ではないか?! しかも、あれは中国伝来と騙られている。無論、実在するそれは鉱物の石綿であるが。

「石菖蒲」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ(石菖)Acorus gramineus。常緑多年草で根茎はよく分枝する。葉は根茎上に二列につき、線形で長さ三十~五十センチメートル、中央脈は目立たない。三~五月、花茎を出し、細長い肉穂花序をつける。花茎には、葉と同形の包葉が接続してつく。水辺の岩上や砂礫地に群生し、本邦では本州から九州に植生し、韓国済州島・中国・ベトナム・インドに分布する。]

赤インキ 伊良子清白

 

赤インキ

 

一日都の町にいで

赤きインキを求めしが

物にまぎれて妹の

玩具(おもちや)の中に忘れけり

 

赤きは魔性(ましやう)、柔らかき

おゆびの先に觸れてより

擅(ほし)いままにも掌(てのひら)の

淸きを染めて憚らず

 

とまる蒼蠅(さばへ)のあとにさへ

玉なす汗は涌くものを

毒ある色の沁(し)みいらば

幼きものは安からじ

 

其子怪しく熱を病み

惱めるさまも見えずして

七歲(ななつ)といふに兒櫻(こざくら)の

花の蕾は萎(しぼ)みけり

 

執(しふ)ねき祟、白妙の

柩衣(かけき)に色を認めしが

兄の犧牲(いけにへ)幼きは

眠るが如く逝きにけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三六(一九〇三)年二月発行の『文庫』であるが、総標題「淡雪」のもとに本原型「赤インク」(本新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録の際に「赤インキ」と表記を変えた)と先に掲げた「花賣」の二篇を収録している。初出は特に大きな異同を認めないが、思うところあって、以下に掲げる。

   *

 

赤インク

 

一日洛(みやこ)の町に出で

赤きインクを求めしが

物にまぎれて妹の

玩具(おもちや)のなかに忘れけり

 

赤きは魔性、柔き

をゆびの先に觸れてより

擅まゝにも掌(てのひら)の

淸きを染めて憚らず

 

とまる蒼蠅(さばへ)のあとにさへ

玉なす汗は涌くものを

毒ある色の沁(し)みいらば

幼きものは安からじ

 

其子怪しく熱を病み

惱める樣も見えずして

七歲(ななつ)といふに兒櫻(こざくら)の

花の蕾は萎(しぼ)みけり

 

執(しふ)ねき祟、白妙の

柩衣(かけき)に色を認めしが

兄の犧牲、幼きは

眠るが如く逝きにけり

 

   *]

美女 伊良子清白

 

美 女

 

米(よね)の白きと手弱女(たをやめ)の

白きといづれまさりたる

米は精(しら)げて飯(いひ)となり

飯(いひ)はしらげて人となる

 

米の千町田(ちまちだ)水の花

その水上の月淸く

白き膚(はだへ)の歷々(ありあり)と

物もかけざる立ち姿

 

硏(と)ぎすましたる月の面(おも)

皎々(かうかう)として山を照らし

水のくはし女(め)ただひとり

岩間にはだを洗ふなり

 

うなじただむきゐさらひも

霞流るるししつきの

ただ彫刻(ほりもの)の白はちす

風にたわむがごとくにて

 

水の千筋(ちすぢ)を肩にかけ

月にさらしてまたおとす

水の主(あるじ)のたをやめは

夜ただ流れに身を浸(つ)けて

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年一月十五日発行の『文庫』初出。「くはし女(め)」は「麗(くは)し女(め)」「くはし」は「詳し」と同語源で「繊細で微妙に美しい」の意。「ただむき」は「腕(ただむき)」で、肘から手首までの間の腕(うで)のこと。「ゐさらひ」は現代仮名遣「いさらい」で漢字表記は「臀・尻」、臀部のこと。「ししつき」「肉附」で人、特に女性の体の肉の附き具合、「肉づき」のこと。初出は以下。後半が大きく異なる。「いゝ」は総てママ。「滸」は「ほとり」と訓じていよう。

   *

美 女

 

米(よね)の白きと手弱女(たをやめ)の

白きといづれまさりたる

米は精(しら)けて飯(いゝ)となり

飯(いゝ)は精(しら)けて人となる

 

千筋の絲の白絲の

水の滸の美女(くはしめ)は

白き膚(はだへ)の歷々(ありあり)と

物もかけざる立姿

 

霞流るゝしゝつきの

玉をのべたる柔はだに

岸の白萩ゆりのはな

と渡る月ぞ映りたる

 

丈なす髮をしぼりつゝ

淸きおもわにふりかへる

美女(びぢよ)のゑまひにさそはれて

いくつ蕾は開くらん

 

深山の奧にすみわたる

月の光はさやかにて

谷の彼方に山猨(やまをとこ)

手を拍つ響幽かなり

 

   *

「山猨(やまをとこ)」の「猨」(音「ヱン」・訓「さる・ましら」)はヒト以外の霊長類の広汎なサル類を総称する語であるが、この「山猨(やまをとこ)」は伊良子清白は恐らく、中国の多分に伝説的な怪猿・妖猿としての山男的な「玃」(カク/やまこ)のことを想定して言っているように思う。詳しくは私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「玃(やまこ)」を読まれたい。そこに掲げられた図は普通の猿のようにしか見えないが、明に李時珍の「本草綱目」の引用には、『玃は老猴(らうこう)なり。猴に似て大きく、色、蒼黑。能く人行(じんかう)して、善く人・物を攫持(かくじ)し、又、善く顧盼(こへん)す。純牡(ぼ)にして牝無し。善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む』と引く。外形は猿の老成したもののようであるが、雄しかいない幻獣である。「攫持」は「攫(つか)み持ち取る」(文脈上は「人をさらう」の意で、ここもそれで採ってよいが、「攫」を「人をさらう」という確信犯的意味で当てるのはあくまで国訓である)。「顧盼」(「こはん」と読んでもよい)は「振り返り見る」の意。「善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む」の「攝」は「摂取」のそれ、「偶を爲す」は「連れ合いとなる」で、「しばしば人間の婦女子を誘拐し、交合をなして、子を孕ませる」の意である。本シークエンスでは手を叩く音だけの出演であるが、なかなか、いい。因みに、ウィキの「玃猿」はそれである。よく纏めてある。そこでは晋の文人葛洪、(二八三年~三四三年)の神仙術の古典「抱朴子」には、八百年生きた獼猴(みこう:現行では一般に哺乳綱獣亜綱霊長目直鼻猿亜目オナガザル科オナガザル亜科マカク属アカゲザル Macaca mulatta を指す)が「猨」となり、さらに五百年生きて「玃猿」になるとあると記す。]

2019/04/11

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍(たぬき) (タヌキ・ホンドダヌキ)

 

Tanuki

 

 

 

たぬき   野貓 ※1【子】

【音釐】

      【和名太奴木】

リイ

[やぶちゃん注:「※1」=「豸」+「隶」。]

 

本綱狸有數種大小如狐毛雜黃黒有班其足蹯其跡※2

[やぶちゃん注:「※2」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]

貓貍 如貓而圓頭太尾善竊雞鴨其氣臭肉不可食

虎貍 有班如※3虎而尖頭方口善食蟲鼠果實其肉不

[やぶちゃん注:「※3」=「犭」+「區」。]

 臭可食

九節貍 似虎貍尾有黒白錢文相間其皮可供裘領

五面貍【一名牛尾貍】 南方間有之白靣而尾似牛專上樹木

 食百果冬月極肥其肉藏糟珍品又捕畜之鼠帖伏不

 敢出也

※4【音迅】 似貓貍而極絕小黃班色居澤中食蟲鼠及草根

[やぶちゃん注:「※4」=「犭」+「卂」。]

又靈貓【一名香貍】貍之屬也【見于各條】又登州島上有海貍貍頭而

 魚尾也

狸肉【甘平】治痔及鼠瘻作※5臛不過三頓甚妙【凡食貍可去正脊】

[やぶちゃん注:「※5」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。]

                  寂蓮

 人住まて鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打ちけれ

△按狸有數種而淡黒色背文如八字者名八文字狸皆

 脚短而走不速登樹甚速其穴夏則奧卑下冬則奧高

 上老狸能變化妖恠與狐同常竄土穴出盗食果穀及

 雞鴨與猫同屬故名之野猫或鼓腹自樂謂之狸腹鼓

 或入山家坐爐邊向火乘暖則陰囊埀延廣大於身也

 貍皮可爲鞴

 

 

たぬき   野貓〔(やびやう)〕

      ※1〔(し)〕【子。】

【音、「釐〔(リ)〕」。】

      【和名、「太奴木」。】

リイ

[やぶちゃん注:「※1」=「豸」+「隶」。]

 

「本綱」、狸は數種有り、大小、狐のごとし。毛、黃黒を雜〔(まぢ)〕へ、班〔(まだら)〕有り。其の足、蹯〔(ばん)〕[やぶちゃん注:本字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]あり。其の跡、※2(みづかき)あり[やぶちゃん注:「※2」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。「※2」は「禸」と同字で「獣類、特に狐・狸・穴熊などの足跡」の意であるが、良安のそれは字義としては誤りとは言え、決して違和感がないというか、瓢簞から駒で、生物学的には正鵠を射ているのである。食肉目の指には、通常、鉤爪がついていて、猫の足などに見られる肉球が見られるが、その指間にはまさに蹼(みずかき)のように見える皮膜があるからである。東洋文庫訳は割注で『指の頭』とするが、この漢字自体にはそのような限定的な意味はないから、寧ろ、良安の当て訓の方が腑に落ち、科学的にも正当なのである。]

貓貍〔(びやうり)〕 貓〔(ねこ)〕のごとくにして、圓〔(まろ)〕き頭〔(かしら)〕、太(ふと)き尾。善く雞〔(にはとり)〕・鴨〔(かも)〕を竊〔(ぬす)〕む。其の氣〔(かざ)〕、臭く、肉、食ふべからず。

虎貍 班、有り。※3虎〔(ちよこ)〕[やぶちゃん注:「※3」=「犭」+「區」。中国の伝承上の怪獣(中文辞書に拠る)。大きさは狗(く:犬、或いは熊・虎のなどの子。小形の獣の総称)ほどで、貍(り:この場合はタヌキではなく、山猫の類いを指すようである)のような紋様があるとされる。]のごとくにして、頭、尖(とが)る。方なる口〔にして〕、善く蟲・鼠・果實を食ふ。其の肉、臭からず、食ふべし。

九節貍 虎貍に似て、尾、黒白〔(こくびやく)〕の錢文、有り〔て〕相ひ間(まじ)る。其の皮、裘(かはごろも)の領(えり)[やぶちゃん注:襟。]に供すべし。

五面貍【一名「牛尾貍」。】 南方に間(まゝ)之れ有り。白靣〔(はくめん)〕にして、尾、牛に似たる〔ものにして〕、專ら樹木に上り、百果を食ふ。冬月、極めて肥〔(こや)〕す。其の肉、糟〔(かす)〕に藏〔(つけ)〕て珍品とす。又、之れを捕(とら)へ〔て〕畜(か)ふ〔に〕、鼠、帖〔→怖れ〕伏して敢へて出でざるなり。

※4【音「迅」。】[やぶちゃん注:「※4」=「犭」+「卂」。] 貓貍に似て、極めて絕小〔たり〕。黃〔の〕班色。澤〔の〕中に居りて、蟲・鼠及び草の根を食ふ。

又、靈貓(じやかうねこ)【一名「香貍」。】〔は〕、貍〔(たぬき)〕の屬なり【各條を見よ。】。又、登州島の上に「海貍」有り。貍の頭にして、魚の尾なり。

狸〔の〕肉【甘、平。】 痔及び鼠瘻〔(そろう)〕を治す。※5-臛(にもの)[やぶちゃん注:「※5」=「羹」の「美」を「火」に代えた字体。煮た羹(あつもの)。スープ。]に作〔(な)さば〕、三頓〔(とん)〕に過ぎず〔して〕[やぶちゃん注:三度、服用しただけで。]甚だ妙なり【凡そ、貍を食ふに、正脊〔(せいせき)〕[やぶちゃん注:背骨の部分。]を去るべし。】。

                  寂蓮

 人住まで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打ちけれ

△按ずるに、狸、數種有りて、淡黒色、背の文「八」の字のごとくなる者、「八文字狸〔(はちもんじだぬき)〕」と名づく。皆、脚、短くして、走ること、速(はや)からず〔→ざるも〕、樹に登ること、甚だ速きなり。其の穴、夏は則ち、奧、卑(ひ)きく下〔(さが)〕り[やぶちゃん注:低く地下に下がっていて。]、冬は則ち、奧、高く上〔(あが)〕る。老〔いたる〕狸、能く變化〔(へんげ)〕して妖恠〔となる〕。〔これ、〕狐と同じ。常に土の穴に竄(かく)れて、出でて、果・穀及び雞・鴨を盗み食ふ。〔これ、〕猫と屬を同じくす。故に之れを「野猫」と〔も〕名づく。或いは、腹を鼓〔(つづみ)〕にして、自ら、樂しむ。之れを「狸の腹鼓」と謂ふ。或いは、山家に入りて、爐邊に坐し、火に向ふ。暖かに〔なるに〕乘ずれば、則ち、陰囊(ふぐり)、埀れ延ばすこと、身より廣大なり。貍の皮、鞴〔(ふいご)〕〔に〕爲〔(つく)〕るべし。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ Nyctereutes procyonoides。本邦のそれは亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus で、本州・四国・九州に棲息している固有亜種(佐渡島・壱岐島・屋久島などの島に棲息する本亜種は人為的に移入された個体で、北海道の一部に棲息するエゾタヌキ(Nyctereutes procyonides albusは地理的亜種である。大陸産には幾つかの亜種がいるようではあるが、「本草綱目」の掲げる「貓貍」・「九節貍」・「五面貍」(別名「牛尾貍」)・「※4」(「※4」=「犭」+「卂」)というのは、如何にも記載が怪しく(まあ、貍だから「妖しく」と言い直してもよい)、そうした亜種の中の一種というよりも、何だか全くの別種の獣類のように見受けられる。但し、無論、それらの後注するように、ちゃんと同定したので見られたい。ウィキの「タヌキ」の一部を引く。『湖などの水辺で』も、下生えの『深い環境を好む』。『日本の例では河川や湖・海岸などの周辺にある広葉樹と針葉樹の混交林を好む』。『シベリアの例では河川や小さい湖の周辺にある沼地や草原・藪地・広葉樹林などを好み、タイガは避ける』。『夜行性だが、人間の影響がない環境では昼間でも活動する』。『単独もしくはペアで生活する。ペアは相手が死ぬまで解消されない。行動圏は地域・季節などによって非常に変異が大きい』。五十『ヘクタール程度の行動域をもつが、複数の個体の行動域が重複しているため、特に縄張りというものはもっていないようである。泳ぎはうまく、日本では本土から金華山までの約』七百『メートルを泳いだと考えられる例がある』。『少なくとも日本では高さ』百五十『センチメートルの金網フェンスのよじ登りに成功した報告例がある』。『巣穴は自分で掘るだけでなく、自然に開いた穴やアナグマ類やキツネ類の巣穴も利用し、積み藁や廃屋などの人工物を利用することもある』。『本種には複数の個体が特定の場所に糞をする「ため糞(ふん)」という習性がある』。一『頭のタヌキの行動範囲の中には、約』十『か所の』溜め『糞場があり』、『一晩の餌場巡回で、そのうちの』二、三ヶ『所を使う』。溜め『糞場には、大きいところになると』、直径五十センチメートル、高さ二十センチメートルもの『糞が積もっているという。ため糞は、そのにおいによって、地域の個体同士の情報交換に役立っていると思われる。糞場のことを「ごーや」や「つか」と呼ぶ地方がある』。『死んだふり、寝たふりをするという意味の「たぬき寝入り(擬死)」とよばれる言葉は、猟師が猟銃を撃った』際、『その銃声に驚いてタヌキは弾がかすりもしていないのに気絶してしまい、猟師が獲物をしとめたと思って持ち去ろうと油断すると、タヌキは息を吹き返し』、『そのまま逃げ去っていってしまうというタヌキの非常に臆病な性格からきている』と一般的には言われている。なお、『「タヌキ」という言葉は、この「たぬき寝入り」を「タマヌキ(魂の抜けた状態)」と呼んだのが語源であるという説がある』。『長い剛毛と密生した柔毛の組み合わせで、湿地の茂みの中も自由に行動でき、水生昆虫や魚介類など水生動物も捕食する。足の指の間の皮膜は、泥地の歩行や遊泳など水辺での活動を容易にする』。『温暖な地域に生息する個体に冬眠の習性はないが、秋になると』、『冬に備えて脂肪を蓄え、体重を五十%『ほども増加させる。積雪の多い寒冷地では、冬期に穴ごもりする』『ことが多い。タヌキのずんぐりしたイメージは、冬毛の長い上毛による部分も大きく、夏毛のタヌキは意外にスリムである』。『食性は雑食で、齧歯類、鳥類やその卵、両生類、魚類、昆虫、多足類、甲殻類、軟体動物、動物の死骸、植物の葉、芽、果実、堅果、漿果、種子などを食べる』。『木に登ってカキやビワの果実を食べたり、人家近くで残飯を漁ることもある』。『捕食者はタイリクオオカミ・イヌ・オオヤマネコ・クズリ』(哺乳綱食肉目イタチ科クズリ属クズリ Gulo gulo:別名をクロアナグマとも呼ぶ。私の好きな映画「X-Men」のウルヴァリン(Wolverine:この英名の語源は不詳であるが、一説に「wolver(「wolf」+「er」で「狼のように振る舞う人」或いは「狼狩りをする人」の意)に接尾辞「ing」(「〜に属する」の意)がついて派生したものとも言う)である。中国北部(黒竜江省・内モンゴル自治区・新疆ウイグル自治区)・モンゴル・ロシア・スウェーデン・ノルウェー・フィンランド・カナダ・アメリカ合衆国西部に棲息する)『・イヌワシ・オオワシ・ワシミミズクなどが挙げられる』。『発情期は』一~三月で、一頭の♀に対して三、四頭の♂が『集まり、ペアが形成されると』、『周囲や互いに尿をかけて臭いをつける』。陰茎は♀の膣内で膨張し、『射精するまで抜けなくなり、尻合わせのような姿勢で交尾(交尾結合』『)を行う』。『妊娠期間は』五十九~六十四日で、五~七頭の『幼獣を産むが、最大』、十九『頭の幼獣を産んだ例もある』。『授乳期間は』一ヶ月半から二ヶ月で、生後九~十一ヶ月で『性成熟するが、繁殖を開始するのは生後』二~三『年以降が多い』。『タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、日本では古くから親しまれてきた野生動物である。昔話やことわざにも登場するが、そのわりに、他の動物との識別は、必ずしも明確にはされてこなかった』。タヌキと最も混同され易い動物はアナグマ(食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属 Meles)『であり、「タヌキ」「ムジナ(貉)」「マミ(猯)」といった異称のうちのいずれが、タヌキやアナグマ、あるいはアナグマと同じイタチ科のテン』(イタチ科イタチ亜科テン属テン Martes melampus)『やジャコウネコ科のハクビシン』(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン(白鼻芯)属ハクビシン Paguma larvata)『のような動物のうちのいずれを指すのかは、地方によっても細かく異なり、注意を要する』。『たとえば、関東周辺の農村部には、今もタヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域が多い。山形県の一部には「ホンムジナ」とよぶ地域もあった。栃木県の一部では、「ムジナ」といえばタヌキを指し、逆に「タヌキ」の名がアナグマを指す。タヌキとアナグマを区別せず、一括して「ムジナ」と呼ぶ地域もある。タヌキの背には不明瞭な十字模様があるため、タヌキを「十字ムジナ」ということもある』(本文の「八文字貍」はその系統の呼称)。『その他の地方名として、「アナッポ」、「アナホリ」、「カイネホリ」、「ダンザ」、「トンチボー」、「ハチムジナ」、「バンブク」、「ボーズ」、「マメダ」、「ヨモノ」などがあり、行動、外観、伝承などに基づいた呼び方であろうことが分かる』。『近年、本来の生息地である山林が開発により減少しているため、生ゴミ等食事に困らない都市部への流入が進んでおり、排水溝のような狭いところを住み家にする習性もあって、街中で見かけることも珍しくない』(私も横浜緑ヶ丘高校で、名前ばかりの顧問であったバスケットボール部の合宿中、夜の校内を闊歩する奴(きゃつ)に校長室の真ん前でバッタリ遭遇したことがある。私の完全オリジナル実録怪談集「淵藪志異」の「十」で擬古文化しているので楽しまれたい。一九九九年のことである)。『また、当歳のタヌキは経験不足から自動車の前照灯にすくんでしまう習性があり、交通事故に遭う件数が非常に多い』(私が小学生の頃は私の家の近くを走る県道(藤沢―渡内線)の、山肌が露わになっていた切通しで、何度も轢死体となった彼らを見たものである)。『特に高速道路では事故死する動物の約』四『割を占め、群を抜いて多い』。『このため、タヌキが多く出没する地域の高速道路に於いて、動物の注意を促す標識にタヌキの図案を用いているところが多い。また、高速道路に限らず、地方の民家の少ない道路などでも事故が絶えない。事故に遭わないよう、道路をくぐる動物用トンネルが設置されているところもある』。「狸」という漢字は、本来、ヤマネコ(食肉目ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属ヨーロッパヤマネコ Felis silvestris Prionailurus 属ベンガルヤマネコ Prionailurus bengalensis等を中心とした中型の哺乳獣類を広汎に表わすものであった。しかし、『日本にはごく限られた地域にしかヤマネコ類が生息しないため、中世に入って、「狸」の字を「たぬき」という語(実際にはタヌキやアナグマを指す)に当てるように整理されていったと考えられる』。「本草和名」に『家狸、一名「猫」』と『あるのは』、『中国の用例にならったものだろうが』、実際、「狸」が「山猫(やまねこ)」なら、「家猫(いえねこ)」は確かに「家狸」となる道理ではある。だいたいからして「本草綱目」自体でも先の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貓(ねこ)(ネコ)」に出たように、「猫」を「家貍」とするのである。『このような混乱が尾を引いたものか』、本「和漢三才図会」では、『逆にタヌキの名として「野猫」』(正確には「野貓」であるが、「貓」は「猫」であるから問題ない)『と記している』と本書をちょっぴり引用している。

「貓貍〔(びやうり)〕」ヤマネコの類か、野犬・野良猫の類であろう。

「虎貍」似ているという対象の「※3虎〔(ちよこ)〕」(「※3」=「犭」+「區」)が幻獣であるから、まともに同定する気になれない。しかし、「頭」が「尖(とが)』っていて、『方なる口』(口辺部が角ばっている)というのは、アナグマ、本邦なら、アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma に相応しい気はする。但し、「和漢三才図会」はこの後に「貉(むじな)」と、さらに「貒(み)」(まみ)を独立項として立てちゃって呉れているのである。

「九節貍」どうも現行では既に「靈貓(じやかうねこ)(ジャコウネコ)」でちらっと出した、食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科ジャコウネコ属インドジャコウネコViverra zibethaにこの漢名を与えているようである。

「五面貍」「牛尾貍」中文サイトを見ると、宋代の著作には、これを食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata と同じとするものがあるようである。グーグル画像検索「Paguma larvataを見られたいが、この叙述の形態(白い顔と牛の尾)や食性の内容は、実際のハクビシンの生態とよく一致するのである。

「其の肉、糟〔(かす)〕に藏〔(つけ)〕て珍品とす」ウィキの「ハクビシン」によれば、『中国南部では、広東料理、広西料理、雲南料理、安徽料理などの食材として煮込み料理などに用いられている。独特の臭みがあるため、ニンニク、醤油などを用い、濃厚な味にするのが普通。満漢全席でも中国梨と煮た「梨片果子狸」という料理が出された記録が残っている。日本のハンターによれば、肉はとても美味であるといわれている』とある。糟漬けは臭み抜きの効果がある

「之れを捕(とら)へ〔て〕畜(か)ふ〔に〕、鼠、帖〔→怖れ〕伏して敢へて出でざるなり」ハクビシンの習性の内、夜行性であること、外敵に襲われると肛門腺から臭いのある液を分泌して威嚇すること、食性が雑食性で小動物も対象であること(但し、植物食中心の雑食性であって普段は果実・野菜・種子などを摂餌し、特に果実を好む点で、やはりこの「五面貍」の叙述と一致を見る)また、毎晩同じ通路を辿って侵入するためにハクビシン用の獣道(けものみ)が形成されること等が、明らかに家鼠の類と競合する要素を強く持っているといってよいように思われ、これは私には腑に落ちる。

「※4」「※4」=「犭」+「卂」。中文サイトで、これを「黃鼠狼」とし、食肉目イタチ科イタチ亜科イタチ属チョウセンイタチ Mustela sibirica に同定している記事を見出せたウィキの「チョウセンイタチ」によれば、『中国では』、『その色から』「黄鼬」と呼び、また顔は『ネズミと似て』いて、『尻尾は狼のよう』であるということから、「黄鼠狼」の別名で呼ぶ、とあり、さらに俗名の「黄大仙」は、鼬の直立姿が『道教の修行者』、所謂、『仙人の瞑想や祈り』の姿と『似ているところから名付けられた』とあり、『ユーラシア大陸北部、ヨーロッパ東部、ヒマラヤ北部からシベリアにかけて、中国、朝鮮半島、台湾に広く分布する。日本での天然分布域は対馬だけである。また日本においては、九州、四国、本州中部地方以南、九州周辺のいくつかの島に移入している』。『全身が、やや褐色がかった山吹色の体毛に覆われ』、『額中央部から鼻にかけて濃褐色の斑紋がある』。『ニホンイタチ』(Mustela itatsi)『と比べ、特に雄は大型になり、尾率が』五十%『を越える』。『周辺に農耕地や林が残された住宅地、農村周辺、山麓部にかけて生息する。沢の下流部を除き、あまり山間部に入り込まないことが知られている。大阪市などでは、住宅密集地でも生息している場所がある』。『ネズミ類や鳥類、甲殻類、魚などを食べるが、秋にはカキなどの果実類も食べる。ニホンイタチに比べ、植物質を多く食べる』とある。

「靈貓(じやかうねこ)」「香貍」「貍〔(たぬき)〕の屬なり【各條を見よ。】」先行する「靈貓(じやかうねこ)(ジャコウネコ)」を見られたい。こういう「本草綱目」のダブりの部分をもっとすっきりとカットすべきであると思います! 良安先生!

「登州島」山東半島東部の山東省烟台市が昔の「登州」であるから、その北の渤海中央部に点在する廟島諸島を指すか。

「海貍」「貍の頭にして、魚の尾なり」「海狸」は齧歯目ビーバー形亜目ビーバー科ビーバー属 Castor を指す漢名であるが、ビーバーはご承知の通り、海棲ではなく、淡水に棲息するので、現在は殆んどこの漢字表記は用いられない(現代中国語でも「河狸」である)。また、そもそもがビーバーはヨーロッパと北アメリカにしか棲息しないから、ビーバーではない。「海狸鼠」でカピパラ(私の偏愛動物)に次ぐ巨大鼠であるヌートリア(齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科ヌートリア科ヌートリア属ヌートリア Myocastor coypus)を指しもするが、彼らも南アメリカ原産の淡水棲息種であるから、ヌートリアでもないでは何か? 候補は海生哺乳類に幾らもあるが、山東半島までやってくることが出来るという棲息域の条件、巨大ではないであろう(そう言っていない)ことから見て、私は食肉目アシカ亜目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類の内、ハイイロアザラシ属ハイイロアザラシ Halichoerus grypus を最有力同定候補として掲げたい

「鼠瘻(そろう)」頸部にできた腫瘍で、漢方では「瘰癧(るいれき)」と同じで、頸部リンパ節が数珠状に腫れる結核症状の特異型の一つを指す。感染巣から結核菌が運ばれて発生する。現在は結核性頸部リンパ節炎とか頸部リンパ節結核と呼ぶ。

「寂蓮」「人住まで鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打ちけれ」書かれていないが、「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に載る寂蓮法師の一首。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

「老〔いたる〕狸、能く變化〔(へんげ)〕して妖恠〔となる〕」ウィキに「化け狸」もあるが、汎論的で面白みに欠く。私は化け狸気譚がことのほか好きで(特に佐渡の「団三郎狸」は親衛隊レベルで愛している!)、有象無象かなりの量の電子化をしていて、枚挙に遑がない。通読してそこそこ面白く、「命」の団三郎狸の出るものは、「柴田宵曲 續妖異博物館 診療綺譚」であろうが、正直言うと、現地直伝の「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」同「窪田松慶療治に行事」同「寺田何某怪異に逢ふ事」を読まれんことを切に望む。さてもまた、何よりも哀感を持った名篇は「想山著聞奇集 卷の四」の「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」で、未読の方には、是非、お薦めの逸品である。

ブログ1210000アクセス突破記念 原民喜「華燭」/「沈丁花」 二篇併載

 

[やぶちゃん注:「華燭」は昭和一四(一九三九)年五月号『三田文學』の初出で、後に併載した「沈丁花」は同じ年の翌月の六月号『三田文學』に初出する別々な独立作品であるが、一読されればお判り戴ける通り、内容的に続篇的印象が極めて濃厚なものであるので、特異的に併せて電子化した。

 底本は一九七八年青土社刊原民喜全集「Ⅰ」を用いたが(底本では「拾遺作品集Ⅰ」のパートに配してある)、以上の書誌データや歴史的仮名遣表記で拗音・促音表記がないという事実及び原民喜の幾つかの自筆原稿を独自に電子化してきた私の経験に照らして(彼は戦後の作品でも原稿では歴史的仮名遣と正字体を概ね用いている)、漢字を概ね恣意的に正字化することが、原民喜自身の原稿原型に総体としてより近づくと考え、今までの私のカテゴリ「原民喜」のポリシー通り、そのように恣意的に処理した。但し、「華燭」では底本自体の中で「灯」と「燈」が混在して使用されていることから、それは民喜の区別使用(但し、シチュエーションから見ると、単なる気紛れの書き癖でしかない可能性もある)と捉え、そのままで示した。

 やや読むに戸惑うかも知れない読みや躓く語、及び、作品のモデル背景その他について、オリジナルに挿入割注や後注してある。

 因みに、本篇二篇は現在、ネット上では公開されていないものと思われる。

 本二篇の電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1210000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年4月11日 藪野直史】]

 

 華 燭

 

 その前の晚、家の座敷に嫁入道具が運ばれて來た。運んで來た人々や、親類緣者が集まつてざつと酒盛がすむと、てんでに座敷に陳列された品々を見て步き、暫く何の彼のと批評するのであつた。しかし、肝腎な明日もあることだし、あんまり遲くなつてもいけないので、一同は早目に解散した。

 駿二はぐるりと嫁入道具に取圍まれた座敷のまんなかに寢間を敷いてもらつて寢た。灯を消すと隣室の薄明りが緣側の方から洩れて來て、簞笥や長持が茫とした巨大な姿で聳えてゐるので、谷底にでも寢てゐるやうな感じであつた。駿二は酒の醉もあつたが、つとめて落着かうとしてゐたので、やがて大海原へ浮ぶ船のやうな放心狀態で、すやすやと鼾をかきだした。

 ものの一時間も熟睡んだ[やぶちゃん注:「まどろんだ」。]かと思ふと、緣側の方を誰かとんとんと忙しさうに步いてゆく音で眼がさめた。氣がつくと障子の方が大變明るく、隣室には煌々と燈が點されてゐるのだ。何かしめやかなひそひそ話が續いてゐたが、突然、「ワハハそれはその」と、學務課長の木村氏の大聲に變つた。駿二はさつきの連中がまた改めて酒盛をはじめたのだらうと思つて、あまり氣にすまいとした。ところが向の連中はとうとう「駿二、駿二」と襖越しに聲をかけた。「もう一度起きて來て飮めよ」と、兄が呼んでゐるのだつた。それで駿二はめんどくさいとは思つたが寢卷の上に著物を重ねて、のそのそと隣室へ這入つて行つた。

 やはりさつきの連中が女も男も車座になつて、大きな靑磁の皿に並べられた半透明の肉のやうなものを食つてゐるのだつた。銚子が向の壁際へ四五十本林立してゐるところをみると、駿二は何だか凄いやうな氣持がした。「これを食べると溫まるから食べておきなさい」と、母が皿の肉を箸で摘んでくれた。嚙んでみると、何だかぐにやぐにやして味は不明瞭だつた。「駿二さん」と、彼の脇に坐つてゐる彼より大分若い從弟が話しかけた。「一體、あなたはどういふつもりで結婚なんかするのですか」駿二はその男とこの前も父の法事の時やはり隣り合はせて、大變酒豪の上にしつこく絡んで來られて弱つたことがあつたので、「どういふつもりと云つて何も……」と詰つてゐると、相手はすぐに彼の言葉を繼いで、「それ見給へ、何もはつきりした見徹しもないくせに、世間並に結婚なんかする。成程、君は大學は卒業したかもしれんが、現にまだ無職ではないか。經濟的に獨立も出來ない癖に女房なんか抱へ込んでまるきし、人間がなつてはゐない」と、駿二の方へ詰寄つて來る。すると駿二の其向でうつらうつらとしながら聞耳を立ててゐたらしい木村氏が突然、赤く爛れた眼を開いて、「さうだ、さうだ」と相槌を打つた。「さうだ、駿二、貴樣は實にけしからんぞ! 愚圖で、間拔けで、無責任で、まるで零だ!」と、媒酌人の木村氏は今にも彼に飛掛りさうな氣勢を示した。「申譯けありません」と、駿二は誰にといふことなしにぴよこんと頭を下げた。「ワハハ何? 申譯ありませんか。成程なあ、こいつは乙な返答だ。まあまあ、今いぢめるのは少し時機尚早だな。なにしろ明日は芽出度いのだからなあ」すると駿二の姉が妹の方を顧みながら云つた。「ええ、まあまあ、いぢめるのはこれからぽつりぽつりで充分ですよ。何しろ私達だつて身に憶えのあることだし、今度こそは小姑の立場として腹癒[やぶちゃん注:「はらいせ」。]が出來ると思ふと、痛快よ」そして何か蓮葉な表情でお互に意を通じ合つてゐた。駿二は自分の姉妹達が實に變なことを云合つてゐるので呆然としてゐると、「駿二君」と、橫合から聲を掛けられた。さつきは來てゐなかつた筈の三等郵便局長の叔父が羽織袴で控へてゐた。叔父は駿二に盃を勸め、それから、木村氏の方へ向きながら、一人合點な口調で、「何せ、これは芽出度いですな。肉親眷屬合相寄つて、お互にいぢめたり、いぢめられたりしてゆくところに人間が練れて行くといふものでせうな」と頻りに辨じ立てた。見ると木村氏の夫人は木村氏の側で銚子を持つたまま居睡りをしてゐたが、「姐さん、お銚子」と、木村氏に頰をつつかれて、ぽつと腫れぼつたい瞳を開いた。駿二はそのあどけない姿が何だかおでん屋の娘に似てゐるなと思つてゐると、木村氏の夫人は退儀さうに小さなあくびをして、誰彼に酒を注いで廻る。そのうちに室内は轟々と笑聲や放歌や勝手な熱で充滿して來た。今、室の片隅の方では駿二の友達が四五人、一人のマダムを取圍んで何か面白さうにうち興じてゐたが、「あの、どら息子がね今度……」と、一人が話し出すと、「あんな生活力のない男が結婚するかと思ふと俺はまさに憂鬱だ」と、一人は忌々しさうに顏を顰め、「それにしても、あんな野郞のところへ來る女房はさぞ悲慘だらうな」「ええ、それは全く女のひとが可哀相だわ」と、マダムが大溜息をつくと、「義憤に燃えるぞ」と、一人は氣色ばんで起立しかけたが、「まあ待ち給へ」と一人が頤を撫でながら制し、それから低い聲で何か打合はせてゐたが、突然一同はワハハハと痛快さうに笑ひだした。すると、この時まで駿二の脇でぐつたり頭を垂れて睡つてゐた從弟が急にブルブルと醉が覺めたらしく眼を開き、「おい! 何だと! とにかくビール持つて來い!」と、呶鳴り散らした。そのためにあたりの空氣はすつかり白らけて來た。「さあ、これからもう一ぺん花嫁の衣裳でも見せてもらひませう」と、駿二の姉は妹を誘つて立上つた。それをきつかけに人々はみんな坐を立つて、ぞろぞろと隣の座敷の方へ行つた。何時の間にか駿二の寢間はとりかたづけてあつて、座敷は眞晝のやうに明るい電球が點されてゐた。駿二の姉と妹はそこに集まりて來た女達に兢賣の品でも示すやうな調子で、勝手に簞笥の中から衣裳を引張り出して、景氣よく振舞つた。姉は刺繡入りの丸帶を掌に繰展げて、「これはどう。疵ものではありません」と、云ふと皆は面白さうにワハハと笑つた。「でも、その帶の模樣はモラルがないと思ふわ」と、妹は口を插んだが、その言葉は反響を呼ばなかつた。姉は今度は簞笥の戸棚から湯婆を發見した。「おや、おや、まあ、まあ、ゆ、た、ん、ぽ」と、姉は嬉し相に湯婆を搖すぶつてみた。どうも不思議なことにはその湯婆はばちやばちやと音がするのであつた。かういふ發見に刺戟されたためか、今迄ぼんやりと見物してゐた駿二の弟が、今度は單獨で本箱の中を引搔廻した。中學生の弟は一番にアルバムを持出して忙しげにパラパラとめくつてゆく。駿二はその側へ行つて覗き込んだが、同じやうな制服を着た女學生の寫眞はかりが現れ、どれが自分の嫁になる人物なのかわからなかつた。その時まで何といふことなしに、陳列品をこまごまと見て步いてゐた母が、駿二の耳許へ來て、「大槪よく揃つてはゐるが、盥が無いね」と呟いた。駿二は自分の落度のやうにちよつと情ない氣持がした。そこへまた從弟がやつて來て、「ね、ね、君、君、こんなに嫁入仕度ばつかし派手であつても、肝腎かなめの君が素寒貧では何にもならないではないか。この嫁入道具を收めて置くだけの家もない身分では結局、簞笥、長持、下駄箱の類など、ここの家の倉であくびをするばつかしだ。この矛盾を君はてんで氣づかないのか」と難詰して來る。駿二は今更のやうに座敷の品々を見渡したが、何とも返答が出來なかつた。恰度その時、家の老婆が箒を持つて來て、座敷を掃きだした。「さあさあ、何時までもそんなところへ突立つてゐないで、歸つておやすみなさい」と老婆に云はれると、從弟は案外素直に引退がつた。まだ誰か二三人寢呆け顏で簞笥の前に佇んでほそぼそと話してゐたが、それらも何時の間にか自然と姿を消した。そこで駿二は老婆が延べてくれたらしい蒲團の上に、漸く手足を伸して橫はることが出來た。灯はもう消されてあつたが、隣室の薄ら明りがどういふものか少し氣になり、今度は芯からは睡れさうになかつた。それでも眼は自然に塞ぎ、早春の深夜のなまめいた空氣の中にうつらうつらと氣持は遙かになつて行つた。

 暫くすると、突然玄關脇で電話のベルがけたたましく鳴出した。駿二は夜具の下でふと目を見開いたが、皆よく熟睡してゐるためか、ベルは何時までたつても鳴歇まない。とうとう彼はまた寢卷の上に著物を引掛けると、座敷の方から出て行つて受話器をとつた。「もしもし、駿二さんですか」と、受話器は駿二がまだ何とも云はないうちに喋り出した。「一體、あなたは誰です」と、駿二はむつとした聲で訊ねた。「あら、わかんないの、ひどいわ」と、女の聲は浮々してゐる。「名前をおつしやい、名前を」と、彼が焦々して訊ねると、「ハハハ、名前なんか御座いませんよ、わたしはただの女です」さう云つて、ぷつんと電話は切れてしまつた。彼は何だか愚弄された後の味氣なさに暫く悄然と玄關に佇んでゐると、表の戶にどたんと何か突當たる音がした。その瞬間、彼はピクつと背筋に冷感を覺えた。ぢつと聞耳を立ててゐたが、しかし、誰もやつて來る氣配はなかつた。駿二は再び座敷に引戾し[やぶちゃん注:「ひきかへし」と訓じていよう。]、頭からすつぽり夜具を被つて睡つた。

 朝がたふと素晴しい夢をみて駿二は目が覺めた。何だか昨夜は隨分といろんな奇怪があつたやうだつたが、その割りには睡眠も足りてゐた。今日はどうやら天氣も快晴らしく、屋根の方で雀の囀りが聞える。暫くぼんやりと床の中で怠けてゐると、まるで駿二は少年の昔へ還つてゆくやうな氣持がした。枕邊にある昨夜運ばれて來た夥しい嫁入道具を寢た儘眺めてゐるとそれがまた姉の昔の嫁入を想はせた。すると、その時するすると襖が半分開いて、姉の顏が現れたので、駿二はおやと思つた。姉は何時の間にか丸髷を結つてゐて、大層氣張つてゐる容子だつた。姉は駿二がまだ寢てゐるのを何か珍しさうに眺めてゐたが、やがて無言のままその襖を閉ぢた。

 間もなく駿二は着物を着替へて起上つた。洗面所の方へ行くと、そこでは妹がこれも何時の間にか丸髷を結つてゐた。妹は自分の髮恰好に腹が立つらしく、顰面してすぢやりで鬢を修繕してゐたが[やぶちゃん注:「すぢやり」は不詳。或いは「筋」は細い「髪」の意で、「やり」は「遣り」或いは「槍」で、単独一本の簪或いは簪状の髪撫で・髪直しをする道具のことか。識者の御教授を乞う。]、その側では妹婿がいかにも嬉しさうに丸髷の手入れを見物してゐるのだつた。妹婿は駿二を見ると齒を剝出して笑つた。その時、緣側の方から近所に住んでゐる叔母がやつて來たが、駿二にむかつて大きな聲で、「おめでたう」と云つた。駿二はぴよこんと頭を下げた。次いて、今度は玄關の方から郵便局長の叔父夫妻がトランクを提げてやつて來た。叔母同志は早速何か喋り合つて賑々しく着物を着替へたり足袋を穿いたりした。二人の叔母の盛裝が出來上つた頃には、家の内は人々が入替り立替り現れた。遂に木村氏も現れた。木村氏はモーニング姿で駿二に輕く微笑した。從弟も紋附姿でやつて來た。彼は駿二を認めると格式ばつて、「おめでたう」と挨拶した。昨夜とは形勢がまるで變つてゐて、駿二は何とはなしに嬉しいやうな奇妙な感じがした。絕えず家の内が騷然としてゐるので一時間はずんずん過ぎて行つた。姉も妹も叔母達もみんな交互に鏡の前へ行つては熱心に風采を整へてゐた。駿二はそれを手持無沙汰に見物してゐると、兄が側へやつて來て、「おい、おい、婿さん、婿さん、婿さんの支度がまだ出來てゐないぢやないか。早く紋附を着給へ。もう式の時刻が來ぞ[やぶちゃん注:ママ。「來るぞ」の脱字か。]」と急きたてた。そこで駿二は妹に手傳つてもらつて、袴や羽織を着けた。鯱張つた身に着かない感じで扇子などを弄つてゐると、表にはもう自動車がやつて來た。

 一番に兄と義兄と義弟と駿二とが自動車に乘込んだ。自動車は街はづれの公園の中にある神社の方へ對つて[やぶちゃん注:「むかつて」。]走り出した。「まだ時間はありますか」と、義弟が訊ねた。義兄は腕時計をめくつて見せ、「まだ大丈夫」と、大きく頷いた。自動車は橋を渡つて、向うに公園の老樹や靑い小山が見えて來る。路傍や空地に枯草の黃色い日南[やぶちゃん注:「ひなみ」或いは「ひなた」で「日向」のことである。]が出來てゐて、澄んだ空氣の中には何か鋭い線が光つてゐた。やがて自動車は小さな堀の中の石橋を渡り、山麓にある神社の境内で停まつた。四人が地面へ降りると、向の社殿の方には恰度今、式が濟んだらしい他所の二組が屯してゐて、花嫁とおぼしきものと、介錯の女の姿は目立つたが、その他の連中はみな一樣な服裝で、どれが婿なのか遠くから見わけもつかなかつた。駿二達は控所の方へ上り、白い布を掛けたテーブルの前に陣どつた。神社のすぐ後が山の崖になつてゐるので冷えるらしく、義兄は火鉢で掌を炙りながら頻りに寒がつた。そのうちに二臺の自動車が入口の方へ來て停まつた。一臺はシルクハツトの木村氏や山高帽の郵便局長などで、もう一臺は駿二の母や丸髷の姉や妹達であつた。それからまた一臺やつて來たが、今度は駿二の叔母や叔父達であつた。かうして婿の方の人員は既に揃つたらしかつたが、嫁の方の軍勢はまだ一向姿を現さなかつた。さつき式の濟んだ連中が今自動車で歸つて行つた。「遲いなあ」と、木村氏は時計を捻りながら呟いた。すると、自動車が二臺境内に現はれた。皆の眼は一樣にその方角に注いだ。白い衣裳を着て、白い被衣[やぶちゃん注:「かづき」或いは「かつぎ」。]を被つてゐる女と、それに附添ふ黑衣の女がまづ駿二の眼にも這入つた。誰が誰やらわからないながら紋附姿の男女が八九人威勢よく步き、こちらとは反對側の控所の方へ進んで行き、白い被衣を被つた女と介錯はのろのろとその後から步いてゐた。

 もう間もなく式が始まる時刻で、今迄小聲で話し合つてゐた人々も暫し沈默した。駿二は何がなし木村氏の口鬚を眺めた。チツクでよく揃へて尖らせてゐる鬚がいかにも改まつた感じであつた。それから今度は母を眺めた。人中へ出るとのぼせる癖のある母は頻りにハンケチで紋附の膝のあたりを拂つてゐた。廊下の方から足音がして、白い裝束をした男が「どうぞ」と一同へ挨拶した。一同は立上つて、ぞろぞろとその男の後から從いて行つた。板の間の白い布を掛けた二列のテーブルの片方の端へ駿二の席があつた。正面は開け放しになつてゐて、山の崖の一部が見え、岩の中に神棚はしつらへてあつた。何處からともしれず琴の音がして、天井の色紙や榊がさらさらと搖れてゐた。そこは控への間より更に冷々としてゐた。間もなく、白裝束の男に導かれ先頭に白い被衣を被つた女と介琶それ違いて八九人の紋附がぞろぞろと入場して來た。それらの人々は駿二と向ひ合はせのテーブルに着席した。白衣の女は被衣の下に顏を伏せてゐて、薄い被衣が重たさうに見えた。駿二が向のテーブルの男達の顏を見ると、向でも駿二をじろじろと眺めてゐるのだつた。初めて見るやうな顏や、何處かで見たことのあるやうな顏が並んでゐた。神主が現れて、儀式は徐々に進行して行つた。駿二がぼんやりと神主の立居振舞を見てゐると、神主はやがて大きな紙を展げて朗讀しだした。次いて木村氏が誓詞を讀み上げた。それが終つたかと思ふと、緋の袴を穿いた白衣の少女が何か捧げて駿二の前に置いた。それから又何か運んで來た。見ると土器の盃が据ゑてある三方であつた。神主の合圖に從つて、駿二はその上の盃を掌にした。少女は銚子から盃の上にかすかに土器が濕る程度の液體を注いだ。それを駿二が唇にあてて下に置くと、少女は向のテーブルの新婦の方へ持つて行つた。それから再び駿二のところへ持つて來て、また新婦の方へ持つて行つた。漸く土器の持運びが終ると、今度は榊の枝を駿二の前に持つて來た。神主が新郞新婦に起立を命じた。どうなることかと駿二は起立してゐると、神主が號令を掛け、駿二は岩の方の神棚へ對つて、ぴよこんとお叩儀をして席に戾つた。

 儀式はそれからまだ暫く續いた。一段落終つて、席の入替りがあり、又盃が運ばれて來た。兩方の親戚の姓が木村氏によつて、次々に紹介されて行つた。その頃になると、皆の顏もいくらか寬ぎの色が漾ひ、駿二も吻としたやうな氣持だつた。そして式は當然終つたのであつた。

 控への間に引返すと、皆は急に活氣づいて、次に控へてゐる宴會のために動作も浮々して來た。宴會は神社と道路を隔てて向ひ合はせになつてゐる料理屋で行はれるので、皆はてんでにその家の方へ步いて行つた。駿二も兄達に從いて行くと、玄關には下足番が控へてゐて、廊下には火鉢と座布團が一盃並べてあるので、これは大變な盛會らしかつた。控への座敷へ這入ると、そこの部屋には式の時には居なかつた人の顏が段々現れた。近所の人の顏や、駿二が久振りに憶ひ出すやうな顏で狹い部屋は賑はつた。やがて、女中の案内で大廣間の方へ皆は導かれた。

 大廣間の舞臺の脇に金屛風が立てられ、そこに駿二の席があつた。その左右が嫁と母の席らしかつたが、どうしたものかなかなか姿を見せない。それで駿二ひとりがぽつねんと屛風を背にしてその離れ島のやうな坐蒲團の上に坐り、小さな火鉢で掌を炙つてゐると、向の席ではもう笑聲や盃のやりとりが始まつてゐた。見渡せばずらりと並んだ人々の顏が遠くまでぐるりと大廣間を取卷いてゐて、何千ワツトのシヤンデリアが煌々と輝いてゐる。駿二はどうも自分の結婚式にしてはあまり盛大すぎるので稍不安になつて來た。そのうちに舞臺の方では幕が上つて、舞踊が始まり、大廣間は賑はひに滿ちて來た。駿二は自分の前の膳を見下したが、伊勢海老、鯛など贅美を極めた料理も、どうも窮屈で箸がつけられない。すると遙か斜橫の方の席から今迄彼を觀察してゐたらしい叔母連中や姉妹が駿二に聲を掛けて、にこにこ笑ひ出した。「少しはお飮みなさい」と、姉は駿二の方へ盃を運ばせた。駿二が四つの盃を一つ一つ乾してゐると、何時の間にか母がやつて來て、「あんまり飮むといけませんよ」と、注意した。それから母は駿二をしみじみと眺めて、何か云ひたげであつたが、「はじめて主人からきかされる言葉は生涯、身に沁みるものだから、お前も今夜は何か云ふことがあつたら、云ひきかせておやりなさい」と、云ひ殘すと、忙しげに席を立つて何處かへ行つてしまつた。駿二は、それでは一つ何か立派な格言でもないかしら、と思つたが、思ひつかず、それに、前に一度見合ひの席で逢つた時も遂に口もきけなかつた相手に、そもそも今夜は何といつて話を始めたらいいのか頻りと思ひ惑つた。

 暫くすると、駿二の正面に郵便局長の叔父がやつて來てぺつたり坐つた。叔父はもう大分御機嫌らしく、德利をふらつかせながら駿二に盃を勸めた。「飮み給へ、駿二君。なにしろ芽出度い。なあに遠慮はいらん。しつかり勇氣を出して人生を邁進することぢや」と、叔父はひとり合點に頷いては駿二に盃を勸める。すると、その橫に學務課長の木村氏がやつて來てこれまた昨夜以上に矍鑠たる醉顏で、「處世訓を云つてきかせる。先んずれば則ち人を制し後るれば則ち人に制せらる、だ。君のやうに愚圖愚圖してゐると女房にまで侮られるぞ。いいか、結婚は格鬪だ。見給へ、向ふに並んでゐる幾組の夫婦たちだつてみんな火の中、水の中を潛り拔けた猛者だ」と、木村氏もまた駿二を激勵するのであつた。駿二も盃を重ねてゐるうち大分醉つたらしかつたが、見渡せば丸髷の重さうな妹はまだ若かつたが、そこに並んでゐる多くの連中は大槪年寄で、夫婦喧嘩の數を重ねて來たらしい錚錚たる面構へであつた。そのうち今迄、姿を現さなかつた花嫁が駿二の母に連れられて座敷にやつて來ると、一人一人に挨拶して廻つてゐたが、その衣裳がさつきとは變つてゐるので駿二は珍しげに遠くから眺めてゐた。挨拶がすむと花嫁と母はまた、すつと消えて行つたが、間もなく母が駿二のところへやつて來て、手招いた。

 駿二が母の後に從いて廊下を曲り、別の小さな部屋へ行つてみると、そこには花嫁と駿二の姉がぺたんと坐つてゐた。駿二が這入つて行くと、花嫁は橫眼を使つて彼を眺めた。この前見た時より、彼女は大變別嬪のやうに思へた。「それでは、さきに三人で歸つてゐなさい」と、母が云つてゐるうちに、「自動車がまゐりました」と、女中が云つて來た。駿二と花嫁と駿二の姉は並んで自動車に腰掛けた。夜の闇の中に樹木の肌がライトに照らし出されて白く現れた。駿二は側にゐる花嫁をなるべく意識すまいとして先んずれば人を制すを繰返してゐた。

 それから間もなく自動車は駿二の家の前に停まつた。老婆や嫂や中學生の弟達がみんな珍しさうに花嫁を出迎へた。どういふものか駿二の嫁は家へ上つてからも、ぢつと淋しさうに口をきかず俯向いてゐるので、間もなく人々は退散し、駿二と彼女だけが應接室に殘された。大きなテーブルを隔てて、無言のまま腰掛けてゐると、駿二は段々氣まりが惡くなつて來た。早く何とか云はなければ、一生ものが云へなくなるかもしれない。それなのに相手は相變らず眼を伏して、高島田の首を重さうに縮めてゐる。ああして相手はぢつとこちらを觀察してゐるのかもしれないし、腹の中ではもうそろそろ侮りだしたのだらうと、駿二は氣が氣でなかつた。火の中、水の中だと、駿二は自分の踵で自分の足を蹴りながら、

「オイ!」と呶鳴つた。あんまり大きな聲だつたので自分ながら喫驚したが、もうどうなりとなれと思つた。

「君は何といふ名前だ?」

 その瞬間、阿呆なことを聞く奴と腹の中で思つたが、花嫁は默々と顏をあげて彼の方を見るばかりだつた。駿二はまた氣が氣でなかつた。よろしい、それならば格鬪だ。

「オイ!」と、今度は前よりもつと大聲で呶鳴つた。

「何とか云へ! 何とか!」

 花嫁は猶も平然として駿二を眺めてゐたが、やがて紅唇をひらいて、

「なんですか! おたんちん!」

 と、奇妙な一言を發した。

 おたんちん、それは今日はじめて聞く言葉であつて、どういふ意味なのか駿二にはわからなかつたが、ああ、遂に自分はおたんちんといふものなのかなあ、と、駿二はキヨトンとした顏で、怒れる花嫁をうち眺めた。

 

[やぶちゃん注:原民喜は本篇の書かれる六年前の昭和八(一九三三)年三月に貞恵と見合結婚している(但し、実は民喜は少年時代、少女の頃の彼女に逢っている。『吾亦紅 原民喜 (恣意的正字化版) 附やぶちゃん注 「葡萄の朝」』を読まれたい)。]

 

 

 

 沈丁花

 

 三日目に春二は結婚式の時と同じ服裝で、その上にトンビを着て、朝の街を步いてゐた。花嫁は春二の母に連れられて、お禮まはりをしてゐて、それが濟んでから寫眞屋で彼とおちあふことになつてゐた。春二は家を出る時、その寫眞屋が何處にある町かと母にしつこく訊ね、さきに寫眞屋へ行つたら何といつたらいいのかと、そんなこともひとから敎へてもらはねば安心出來なかつた。往來に出てみると、朝日が薄すら照つてゐて、氣持は爽やかになつてゐた。それでずんずんいい加減な方角にむかつて步いてゐると、靑山寫眞館といふ看板がある前を通り越して、暫くして氣がついた。急に春二は硬直した氣持になり、玄關先のベルを押した。

「どうぞ、お二階へお上り下さい」と黑い上張を着た男が出て來て、春二を二階へ導かうとした。

「まだ、あとから連れが來ますから」と、彼は辨解した。

「承知致しました、とにかくお二階でお待ちになつて下さい」と、寫眞屋は頷いて引退つた。

 控への間では小さな女學生が二人腰掛けてゐた。春二はその女學生に冷やかされはすまいかと思つたが、もうその時にはトンビを脫いでゐた。紋附袴のぎこちない姿で、春二はソフアに腰掛けた。彼は焦々して落着かず、頻りにタバコを吸つてみた。花嫁はなかなかやつて來なかつた。今、母に連れられて近所を囘禮してゐる、さわ子のことを思ふと、春二はかすかに氣が揉めるのだつた。

 その時、誰か二階へ上つて來た。視ると女學生の連れらしい一人がやつて來て、「今日はやめて、この次にしませうよ」と話し合つてゐたが、やがて二人を誘ふて出て行つた。春二はテーブルの上の寫眞帳をめくつて、ぼんやり眺めだした。漸く母の聲が階下できこえた。彼は晴れがましい氣持にかへつた。母に從つて、さわ子はなよなよと裳をひきずるやうにしてやつて來た。食慾がないといつて殆ど何も食べようとはしない彼女は、別に衰へもせず、お白粉で整へられた、高島田の顏はおつとりしてゐた。

 寫眞屋がやつて來て、準備を始めた。春二とさわ子は並んで立たされた。ふと見ると、隣の室の入口のカーテンが四、五寸開いてゐて、そこに鳥籠があつた。窓から射す陽の光を浴びて、二羽の小鳥はうれしさうに羽ぶるひをしてゐる。春二はそれをさわ子に見せてやりたいと思つたが、彼女は眞面目くさつて、寫眞師の方を向いてゐた。寫眞機はもう用意されてゐた。黑衣の男は春二の側へやつて來て何度も姿勢を訂正した。彼はだんだん窮屈になつた。愈々撮影といふ際になつて、寫眞師はまた春二の正面にやつて來た。それから彼は春二の胸の邊を眺めてゐたが、

「どうもこれは裏がへしになつてゐますな」と、羽織の紐に掌をかけた。再び寫眞師は位置に戾つた。輕い唸りがして、撮影は終つた。

 寫眞が濟むと、春二達はさわ子の里へ出掛けて行くことになつてゐた。春二は家に戾つて、紋附を洋服に着替へた。晝餉が濟むと、もう自動車がやつて來た。

 母とさわ子と叔母と春二の四人は急いで驛のホームを步いた。列車は空いてゐて、四人は一處に席をとつた。窓から這入つて來る風は淸々してゐたが、母は不安げに車内を見渡してゐた。さわ子はうつとりと沈默してゐた。春二はかうして母や叔母達と旅をした記憶が子供の昔にあつたやうに思へた。汽車は新鮮な空氣の中を走り、靑く尖つた溪流がすぐ側に見えて來た。母と叔母はお喋りをつづけ、春二とさわ子は默りつづけてゐた。二時間あまりして、汽車は山間の小驛に停まつた。そこが春二のはじめて訪れるさわ子の里であつた。

 ホームに降りると、先日式の時居た男の人や、見知らぬ人々が近づいて來た。廣場に自動車が待たされてゐて、春二達はそれに乘せられた。

「窓が少しあきませんかしら、どうも顏が火照りますから」と春二の母は辛らさうに云つた。同車した男の人が栓を捻つて、窓から少し風が這入つて來た。自動車は寂れた家並の中をぐるぐる走りだしたかと思ふと、五分と經たぬ間に、一軒の家の門で停まつた。そこがさわ子の實家であつた。

 家に着いた途端にさわ子の姿は見えなくなつてゐたが、春二と彼の母は座敷の方へ導かれて行つた。簷の深いどつしりした家で、夕刻近い座敷に坐らされてゐると、冷んやりして來た。暫くして、さわ子の母親が茶菓を運んで來た。彼女はテーブルの上に茶碗を置くと、

「粗茶で御座いますが召上り下さい」と、鄭重な口調で春二の母に勸め、それから春二にも同じ文句ですすめた。彼は何かかしこまつた氣分でお茶を飮んでみた。

 やがて春二はさわ子の母親に案内されて、長い廊下を廻り風呂へ這入つた。湯はひつそりとしてゐて、近くで沈丁花の匂ひがしてゐた。着物に着替へて座敷へ戾ると、片隅で母と叔母が火鉢にあたつてゐた。

「暗くならないうちに少し外の景色を見せてもらひませう」と、叔母は春二と母を誘つた。裏口から下駄を穿いて、細い露次を通り拔けると、すぐに畑道に出た。麥畑が淡く暖かい色を橫たへてゐる向に小川の白い石崖が見え、大きなトタン屋根の上には岩に似た小山がによつと聳えてゐて、空が紫色に變つてゐた。なだらかな低い山の方に星が二つ三つ輝いてゐた。すぐ近くで牛の啼聲がしてゐた。家の方を振向くと、土藏のむかふに酒造會社の煙突があつた。

 座敷へ引返すと、電燈が點いてゐて、食膳が整へられてゐた。もう、さわ子の家の家族はみんな坐つてゐたが、さわ子だけは姿を見せなかつた。義兄は頻りに春二に酒をすすめた。

「この土地で造る酒は決して飮んで頭が痛くなりません」と、云はれるので、春二もいい氣になつて飮んだ。

「春二さん、あんたが五つか六つの頃でしたでせう、私がその叔母さんのところへ下宿してゐたのは」と、義兄は話しだした。さういへば、春二は最初から見憶えのある顏のやうに思へてゐた。春二は醉ぱらつた頭で遠い昔を囘想してゐた。叔母の家の机の上にある懷中時計の秒針がチクチク動くのを不思議に思つて視守つてゐたことがあるのだつた。春二がぼんやりして、座敷を眺めてゐると、廊下の方にはしやいだ聲がして、さわ子が現れた。見ると、何時の間に變つたのか、高島田の花嫁であつた彼女は、今は束髮の娘になつてゐた。動作や言葉も急に活々(いきいき)してゐた。

「お飮みなさい、お酌してあげます」と、さわ子は銚子を持つて春二の前に坐つた。何だか春二は恐縮しながら盃を受けた。

 氣がつくと、もうかなり夜更らしく、外はしーんとしてゐた。

「さあ、離れの方へ行きませう」と、さわ子は春二を誘つて、裏口から下駄を揃へた。

「溝があるから足もとに注意しなさい」と、さわ子は懷中電燈で露次の闇を照らした。春二は何處へつれて行かれるのやら、今は朦朧とした氣分で從いて行つた。水の音がしてゐるやうであつた。間もなく石段があつて、そこを上ると小さな庭のむかうに燈の點いた障子が見えた。そこが離れであつた。壁も天井も荒屋の趣で、中央にはぬくぬくと炬燵がしっらへてあつた。

「炬燵へあたりませう」と、さわ子は嬉しさうに炬燵へねそべつた。春二は今更珍しさうにあたりを見廻した。さわ子のほかには誰もゐない夜更のあばら屋であつた。さわ子は小娘のやうにお喋りになつてゐた。

 その翌日、義母の案内で春二はそこから數里奧の山寺を見物した。妻は家で留守番をしてゐた。春二と母と叔母達は自動車に乘り、うねつた山道を搖られた。山頂に近づいた頃、微雨が落ちて來た。自動車を降りると、澄んだ山の靈氣が匂つて來た。靜かにせせらぎの音が聞え、春さきの黃色つぼい樹の花が點々と煙つてゐた。

 

 春二の家へ戾つて來た翌朝、さわ子は座敷で母や嫂と一緖に旅先へ送り出す荷拵へをしてゐた。持つて來た嫁入道具の中から春二の貧しい住居に應はしいだけの品々が選ばれてゐた。春二は炬燵にあたつてぼんやりしてゐた。翌日はもう春二達は旅に出る手筈であつた。

 晝食後、春二がまた炬燵に引込んでゐると、さわ子がやつて來て、

「これからお父さんのお墓へまゐりませう」と、云ひだした。春二はちよつと妙な氣がしたが、默つてトンビを着た。門を出ると中學生の弟が從いて來た。三人はぶらぶら麗かな街を步いた。寺へ來ると、さわ子はハンドバツクの中から珠數をとり出して、父の墓に合掌した。春二は帽子をとつてぴよこんとお叩儀をした。

「少し散步してみようか」と、春二は云つた。寺から少し行くと橋があつて、その川を渡ると公園になつてゐる。先日、結婚式が行はれた神社もそこにあるのだつた。その邊は昔から春二がひとりでよく散步した場所だつた。神社の前を通り過ぎてみると、今日は結婚式もなささうで、ひつそりしてゐた。そこから少し行くと練兵場がある。もう柳も芽ぐんでゐた。遠くの山脈は靑かつた。その邊の景色は昔と少しも變ってゐなかつた。それから春二達は川の堤に出て、橋の袂まで來た。ふと、橋の下を見ると貸ボートの旗が出てゐた。

「ボートに乘つてみようか」と、春二は突然云ひだした。日はもう傾きさうだし、水はまだ寒さうだつた。

「乘つてみませう」と、さわ子はすぐに同意してしまつた。三人は橋の脇の石段を下りて、貸ボートのところへ行つた。春二の弟が默々とオールを漕ぎだした。春二は對ひ合つてゐるさわ子の顏が風に吹かれてゐるのを眺めた。移動する兩岸の上の空が淡く暮色に染められてゐた。ポシヤつと方向を變へようとしたオールが水を跳返した。水はさわ子の袂に散つた。「大丈夫」と云ひながら、さわ子は袂の水を絞つた。ボートを降りると、日はとつぷり暮れてゐた。

 

 その日は何となしに朝から忙しい氣持であつた。重な荷物は昨日發送されてゐたが、汽車に持つて乘るこまごましたものをさわ子は取揃へてゐた。姉妹や親戚からの餞別の品がトランクのまはりに束ねてあつた。春二はぼんやりと二階の窓に腰掛けて、外を眺めた。よく晴れた空がうらうらと續いてゐて、瓦の上には陽炎が感じられるのだつた。

 晝餉が終つたかと思ふと、もう時刻が迫つてゐた。家には姉夫妻に妹、叔母などが見送りのためにやつて來た。母も兄も嫂もあわただしげに外出着に着替へた。春二は緊張した面持で、重いトランクを提げてみた。そのうちに自動車が來て一同はどかどかと乘込んだ。今、見殘してゆく巷はピカピカ光つてゐた。驛はひどく混雜してゐたが、人混の中に親戚の顏もあつた。列車に乘込むまで春二は頰が火照りつづけてゐたが、やがて席が定まつて窓の外を見ると漸く見送りの人々の顏に氣づいた。大勢の顏に對つてさわ子は一人一人聲をかけてゐる。春二は默々と明るい眼ざしになつてゐた。發車のベルが鳴り、汽車は構内を出て行つた。

 急に窓の外が明るくなり、もう見送りの人々も見えなかつた。空いた二等車の席に春二はさわ子と對ひ合つて腰掛けてゐた。さわ子の膝の上の派手な着物の模樣や、帶どめに明るい外光は降灑いだ。彼女は急に快活になり、よく喋りだした。春二も今吻とした氣持であつた。さわ子はトランクを開いて、今朝妹から餞別に貰つた菓子箱の水引をはづした。金、銀、赤、綠、紫の紙に包まれたチヨコレートであつた。彼女はそれを掌で掬ひハンケチに包んだ。

 急行列車は先日さわ子の里へ行つた際と同じ軌道を走つてゐた。あれはまだ一昨日のことだが、もう大分前の出來事のやうにも思へた。外の景色も今日は眩しすぎる位だつた。

 やがて見憶えのある靑い溪流が見え隱れした。さわ子は上氣したやうな顏になり、通過する小驛を數へた。

「そら今度は私のところの驛よ、誰か見送つてゐてくれるかもしれないから、ちよつと向へ行つてみますよ」

 さう云つて、さわ子は席を立つて昇降口の方へ行つた。列車は速度を緩め、今その驛を通過するらしかつた。春二は窓から外を凝視めたが何もわからなかつた。間もなくさわ子は笑ひながら席に戾つて來た。

「誰かゐた?」

「ゐましたよ、弟が家の外で手を振つてゐたのよ」

「それでわかつた?」

 彼女は滿足さうに領いた。

 空が靑く潤んで睡むさうになつてゐた。汽車は山間を拔けて、海岸附近の家並が見えて來た。そして間もなく一つの驛に停車したが、すぐに發車のベルが鳴響いた。すると誰かあわただしく車内に乘込んで來た。

「お母さん」と、さわ子は歡聲をあげた。

「やあれのう」と、彼女の母は嵩張つた風呂敷包を抱へて、息をきらせながらさわ子の前へやつて來た。そして彼女の母は忙しさうに風呂敷包を披いた。

「この海苔はあまり上等でないから焚いて佃煮につくるといいよ、奈良漬も持つて來たげた、汽車辨當二つ買つておいたよ、葉書もある、さいさい便りを貰ひたいから持つて來ましたぞ」

 さう云ひながら彼女の母は一つ一つさわ子に手渡した。それからも絕えず急いでいろんなことを喋りつづけた。

「すぐに便りを頂戴」

「さわ子は理窟屋ですが、まあまあよろしく賴みます」

 そのうちに汽車は間もなく次の驛へ停車した。「さよなら、元氣でね」と、云ひ殘すとさわ子の母は立上つて降りて行つた。さわ子の母はホームから汽車の方を眺めてゐたが、ふとアイスクリーム屋をみつけると、呼びとめて、二つのクリームを窓の方へ差出した。

 

[やぶちゃん後注:貞恵は本「沈丁花」が発表された三ヶ月後の昭和一四(一九三九)年九月に喀血した(推定。糖尿病(発症年齢と症状からⅠ型と推定される)も患っていた)。それ以降、民喜の作品発表は減ってゆくこととなる。貞恵は昭和一九(一九四四)年九月、重い糖尿病と肺結核のために亡くなった。そして、その十一ヶ月後、民喜は広島の実家で被爆した。以下は、「原民喜についての私のある感懐」で既に記したものであるが、ここに再度、掲げておく。

 原民喜の被爆を綴った「夏の花」の冒頭は、

   *

 私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。ポケツトには佛壇からとり出した線香が一束あつた。八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を步いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。その花は何といふ名稱なのか知らないが、黃色の小瓣の可憐な野趣帶び、いかにも夏の花らしかつた。

 炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく淸々しくなつたやうで、私はしばらく花と石に視入つた。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。持つて來た線香にマツチをつけ、默禮を濟ますと私はかたはらの井戸で水を吞んだ。それから、饒津(にぎつ)公園の方を廻つて家に戾つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂がしみこんでゐた。原子爆彈に襲はれたのは、その翌々日のことであつた。

   *

で始まる。これは無論、事実であるが、彼が被爆当日から起筆しなかったのは、決して題名「夏の花」のための小手先の伏線ではなかったことは言うまでもない。

 彼の中の、後の「遙かな旅」(『女性改造』昭和二六(一九五一)年二月号初出。民喜はこの翌月の三月十三日に鉄道自殺した。リンク先は私の電子化注)で回顧されて告白されている、

   *

もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残らう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために……

という被爆以前の遙か前からの思いこそが、この書き出しを確かに選ばせたのである。

 我々は原民喜を、専ら、「被爆文学者」「『水ヲ下サイ』の被爆詩人」として認知し、多くの読者はそれを当然のこととしている。恐らく、向後も彼はそうした《原爆の詩人》として認識され続け、「被爆体験を独特の詩やストイックな文体で稀有の描出を成した悲劇の詩人」として記憶され続けることは間違いない。

 彼の盟友であった遠藤周作が四十年以上前のTVのインタビューの中で、原民喜のことを回想し――戦後、一緒に神保町を歩いていた時、彼がいなくなったので振り返ってみたら、立ち止まった彼が、交差点の都電の架線から激しく迸る火花を、固まったようになって、凝っと、見つめ続けているのを見出し、被爆の瞬間が彼の中にフラッシュ・バックし続けている、と強く感じた――といった思い出を述べておられたのを思い出す。

 原民喜は妻貞恵の死によって激しい孤独と悲哀のただ中に突き落とされた。それは、『一年後には死のう』という嘗ての自身の思いを呪文のように心内で繰り返し呟き、しかもそれを現実の目標とするほどに、鞏固な、痛烈な、《確信犯の覚悟》であったのだと私は思う。

 しかし、その一年後の、彼の定めた《生死の糊代(のりしろ)》の場面に於いて、彼を恐るべき原爆体験が襲ったのであった。

 しかも、戦後、彼は「夏の花」以後の著作を以って、文壇や読者や文化人らから「被爆詩人」「原爆文学者」という名を奉じられてしまった。

 愛妻貞恵の死から生じた死への強い傾斜志向に加え、それに、意識上、不幸にしてダイレクトに繋がる形での、被爆の地獄絵を超絶した体験は、彼をして激しいPTSDPost Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)に陥らせたことは、最早、誰も否定しないであろう。遠藤の見たそれは、まさにその病態の一つであると私は思っている。

 私は何が言いたいのか?

 それは、彼を自死に追い込んでしまった責任の有意なある部分は、彼を純粋な詩人・小説家としてではなく、悲惨で稀有な被爆体験をした「悲劇的被爆文学作家」としてレッテルし、彼に対し、意識的にも無意識的にも、そうした「被爆文学」の「生産」を要請し続けた文壇や文化人、ひいては、そうしたものを求め続けた読者――人間たちにこそあったのだと私は思うのである。

 彼は確かに被爆以前から愛妻を失ったことによる強い自死願望があったし、さらに溯れば、それ以前の独身時には、放蕩の末、昭和七(一九三二)年の夏、長光太宅での発作的なカルチモン自殺未遂なども起している。

 しかし、だからと言って、我々の恣意的な彼への被爆詩人レッテル化という彼にとっての致命的決定打が正当化されるわけではない。

 彼は決して著名な「原爆詩人」などにはなりたくはなかったし、そんな素振りは彼の一言一句にさえ現れてはいない

 彼は

「悲しい美しい一冊の詩集を書き残した一人の孤独な――或いは人々から惨めとさえ言われるような詩人」

としてこの世から消えて行きたかったのである。「雲雀」のように…………

それをかくも祭り上げてしまったのは我々、読者、戦後の日本人なのである。

 我々は

――詩人原民喜を虐殺した一人――

なのである。

 我々はその償いのためにも――《被爆以前の詩人原民喜》を――原爆関連作品以外の作家原民喜にもスポットを当て――味わい――後代へと伝えてゆくべき義務と責任がある――

と私は今、大真面目に考えているのである。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(7) 「馬ニ騎リテ天降ル神」(1)

 

《原文》

馬ニ騎リテ天降ル神 或家又ハ或地方ニ於テ白馬又ハ葦毛ヲ飼ハザル風習ハ、何レモ神祇ノ信仰ニ基クモノナルコトハ略確實ナルガ、其由來ニ至リテハ表裏相容レザル二種ノ說明アリ。即チ一ハ白馬ハ神ノ乘用ナルガ故ト謂ヒ、他ノ一ハ神此毛ノ馬ヲ好ミタマハズト謂フモノナリ。神ガ白馬ヲ好ミタマハヌ故ニ氏子モ之ヲ嫌フト云フ說ハ、近世ノ人ニハ通用宜シケレドモ、ソレダケニ思想新シト見エタリ。有馬又ハ讚岐ニ於テ別段ノ來歷ヲ必要トシタルヲ見テモ明ラカナルガ如ク、淸クシテ美シキ白馬ヲ神ノ惡ミタマフト云フハ何分ニモ不自然ナリ。【齋忌】此ハ疑無ク忌ト云フ語ノ意味ガ時世ト共ニ變遷シタル結果ニシテ、多クノ森塚巖石等ニ就キテモ之ニ似タル例アリ、即チ元ハ神ノ物トシテ其淸淨ヲ穢スマジトシタル忌ヨリ、轉ジテ神ガ枝葉ヤ土石ヲ採リ去ルヲ惜シムト云フ風ニ考ヘシト同ジク、神ガ凡人ノ之ヲ持ツヲ忌ムヲ自分モ欲セラレザルガ故ト察スルニ至リシナリ。多クノ社ノ神ガ白キ馬ノ嫌ヒデ無カリシ證據ハ今更之ヲ列擧スルニモ及ブマジ。神馬トシテ之ヲ奉納スル風習ハ弘ク行ハレ居タリシノミナラズ、御神體ニモ騎馬ノ像イクラモ有リテ、其馬ノ毛色若シ分明ナリトスレバ大抵ハ白ナリ。【騎馬神像】此序ニ言ハンニ、諸國ノ御神體ニ騎馬ノモノ多キハ決シテ輕々ニ見ルべキ現象ニハ非ズ。佛像ニモ勝軍地藏ノ如キハ必ズ馬上ノ御姿ナリ。此等ハ中世ノ武家ガ今ノ人ヨリモ馬ヲ愛シタリシ爲ナドト簡單ニ解釋シ去ル事能ハザル事實ナリ。

 

《訓読》

馬に騎(の)りて天降(あまくだ)る神 或る家又は或る地方に於いて、白馬又は葦毛を飼はざる風習は、何れも神祇の信仰に基づくものなることは略(ほぼ)確實なるが、其の由來に至りては、表裏相容れざる二種の說明あり。即ち、一つは「白馬は神の乘用なるが故」と謂ひ、他の一つは「神、此の毛の馬を好みたまはず」と謂ふものなり。神が白馬を好みたまはぬ故に、氏子も之れを嫌ふと云ふ說は、近世の人には通用宜(よろ)しけれども、それだけに「思想、新し」と見えたり。有馬又は讚岐に於いて別段の來歷を必要としたるを見ても明らかなるがごとく、淸くして美しき白馬を神の惡(にく)みたまふと云ふは、何分にも不自然なり。【齋忌(さいき)】此れは疑ひ無く「忌(いみ)」と云ふ語の意味が、時世と共に變遷したる結果にして、多くの森塚・巖石(いはほいし)等に就きても之れに似たる例あり。即ち、元は神の物として其の淸淨を穢(けが)すまじとしたる忌(いみ)より、轉じて、神が枝葉や土石を採り去るを惜しむと云ふ風に考へしと同じく、神が、凡人の之れを持つを忌むを、自分も欲せられざるが故と察するに至りしなり。多くの社の神が白き馬の嫌ひで無かりし證據は、今更、之れを列擧するにも及ぶまじ。神馬として之れを奉納する風習は弘く行はれ居たりしのみならず、御神體にも、騎馬の像、いくらも有りて、其の馬の毛色、若(も)し、分明なりとすれば、大抵は「白」なり。【騎馬神像】此の序でに言はんに、諸國の御神體に騎馬のもの多きは、決して輕々に見るべき現象には非ず。佛像にも勝軍地藏(しようぐんぢざう)のごときは、必ず、馬上の御姿なり。此等は中世の武家が今の人よりも馬を愛したりし爲め、などと簡單に解釋し去る事、能はざる事實なり。

[やぶちゃん注:「齋忌」狭義には祭りの前に行う物忌み、神を迎えるために心身を清浄にした生活を送ることを指す。

「勝軍地藏」時代的には鎌倉時代以後に武家の間で信仰された、これに祈れば戦に勝つという地蔵の一種。小学館「日本国語大辞典」には、『一説に、坂上田村麻呂が東征のとき、戦勝を祈って作ったことからおこったという地蔵菩薩。鎧、兜をつけ、右手に錫杖を、左手に如意宝珠をもち、軍馬にまたがっているもの。これを拝むと、戦いに勝ち、宿業・飢饉などをまぬがれるという』とする。]

«淺間の煙 伊良子清白 (附・初出形)