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2020/08/11

萬世百物語卷之三 九、寵愛の一子

 

萬世百物語 三

 

   九、寵愛の一子

Tyouainoko

[やぶちゃん注:国書刊行会「江戸文庫」版所収の挿絵をトリミング合成した。但し、左右の縁側部分のズレがかなりあるので、密着させると、そのガタつきが却って不自然な印象を与えるため、少し中央を離して置いた。]

 

 あだし夢、いづれの時にかありけん、長門の國に奉公人の數(かず)多いながら、させる名ある身にもあらぬありけり。夫婦(ふうふ)あいすみて年久しけれど、子もなくてつねにうれいにし、神佛(かみほとけ)にまうづるにも只此事をなん、いのりけり。

[やぶちゃん注:「多い」ママ。

「うれいにし」ママ。「憂ひに爲(し)」であろう。

「神佛(かみほとけ)」「江戸文庫」版の読み。]

 

 住所(すみどころ)は郭外(かくぐわい)の陰町(かげまち)にて、晝といへど、人まれに、楊櫨(うつぎ)・木槿(はちす)の垣根も秋さびわたり、よ所(そ)よりはくらしがたかりけり。

[やぶちゃん注:「郭外」江戸時代ならば、萩城の城外。

「楊櫨(うつぎ)・木槿(はちす)」読みは「江戸文庫」版を参考にした。「楊櫨(うつぎ)」はマツムシソウ目タニウツギ(谷空木)属タニウツギ Weigela hortensis の別名で、「木槿(はちす)」はアオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属ムクゲ Hibiscus syriacus の別名。蓮の花に似ている(とは思わないが)の意で「木蓮(きはちす)」の縮約か。]

 

 あたりの家に猫兒(ねこご)のいたいけしたるを尋出(たづねいだ)して、夫(をつと)の番などいふさびしき留(る)すをも、かれをとぎにしてぞ送りける。なるゝまゝ、いとあはれなるものに見なして、しばらくみへぬ折々あるだに、

「『こま』よ、いづくへ行きし、われにたづぬるくろうかけて。」

など、かきいだき、あたまをなで、口などおしつけ、あいするを、ちくせうといへど、したふならひ、目、うちほそめ、尾、うちふり、聲、やすらげて、あとにつきめぐり、もの給はんおりは、もすそになれむすぼゝれ、身すりつけなどするに、やがて心得、

「まてや、ものおません。」

と、たなのうへなる、まうけのやき魚(うを)、心とゞめ、うちまぜ、かいける。いにしへの「何のみやうぶ」とかや名づけさせ給ふて、あいさせ給ひけん、やんごとなきも、かくまでやは、と、おぼゆ。

[やぶちゃん注:「猫兒(ねこご)」読みは「江戸文庫」版に拠る。

「いたいけしたる」幼くていかにも可愛らしく見える。

「夫の番などいふ」夫が城の宿直(とのい)の番で家を空けるというような折りなど。

「とぎにして」「伽にして」。夜の退屈な折りの相手にして。

「なるゝまゝ」「馴るる儘」。

「みへぬ」ママ。

「こま」猫の古名「ねこま」の略。猫の名でもよい。

「くろう」ママ。「苦勞(くらう)」。

「ちくせう」ママ。「畜生(ちくしやう)」。終わりの方のそれもママ。

「したふならひ」「慕ふ」て來る「慣らひ」(常の様子)。

「もすそになれむすぼゝれ」「裳裾に馴れ結ぼほれ」。衣服の裾に親しげにじゃれついてきて。

「やがて心得」すぐに餌を欲しがっているのを知って。

「ものおません」「おます」は「御參(おまゐ)らす」「おまらす」の音変化で、「与える」の謙譲語。差し上げましょう。

「まうけ」小猫のために予め準備してある食べ物。

「心とゞめ」まことに丁寧に。

「かいける」ここは小猫に「餌をやる」の意であるから、「飼ひける」の訛りであろう。

『いにしへの「何のみやうぶ」とかや名づけさせ給ふて、あいさせ給ひけん』「枕草子」の第六段(角川文庫石田穣二訳注版通し番号)冒頭に「上(うへ)にさぶらふ御猫(おほんねこ)は、かうぶりにて、『命婦(みやうぶ)のおとど』とて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが……」というのがネタ元。清少納言が仕えた定子の夫である一条天皇は大変な愛猫家で、猫を自身の部屋に自由に出入りさせるために「かうぶり」(冠:この場合は狭義の意味で五位の位を与ええ叙爵することを指す)を与えて、「命婦のおちど」(「おとど」はここでは女性を指す尊敬語)と名づけて可愛がった。]

 

 とかくするうち、三年(みとせ)四とせ過ぎけるが、久しうなかりしもの、いかにしていできにけん。妻(め)、子をうみけり。しかも男子にさへありければ、夫婦ともにめづらしき事におぼへ、

「老(おい)の行衞(ゆくゑ)のたのみにも、たゞ子をこそ。」

と、いつきけるゆへ、それより、描が事は、おもひも出(いださ)ず。

[やぶちゃん注:「いつきけるゆへ」「ゆへ」はママ。「慈(いつく)しみける」で、「可愛がる」「大事に育てる」の意。]

 

 ものしらぬかなしさ、かくかはり行く心ともおもはず、いつものやうに、ふたりの中(なか)ふところねらひ、まくらのあたり、こゑたて、よりそふに、

「子の、目さめんに、やかまし。」

とて、なげ出(いだ)さる。

 魚鳥(うをとり)も、まづ、描兒にと身所(みどころ)をくわせしものゝ、いつしか、

「乳味(にゆうみ)のため。」

と妻のみ、うちくひ、ほねをさへ、

「くいちらす、座敷のちり、むさし。」

とて、すてける。

 膳のあたり、かゝづらひて、例(れい)のなでごゑする時は、あたま、はり、はな、はぢきて、

「爰なる描のやうに、せわしきは、なし。おのがやくめの、ねずみをば、とらひで。」

と、はらだつ。

 めしなんどいふものも、おほくは、わすれがちにて、うつはもののあり所(どころ)をも、しらず、そこら、こけまはり、ひつきたるはだをさへ、子鼠のために、かぶらる。

 さりとて、かつほぶし・ごまめのあぢにかいたてられし身の、未(いまだ)ねずみやうのものは、おそろしき數に覺ゆ。まして、よくとりゑんや。

 おのづから、うゑがちにて、おのがほうひげのひかりもおとろへゆく身のさまなり。

 さむさも、いやます心地に、兒のふしたる夜着(よぎ)のつま、かぶらんなど、かしらさしこむを、女どち、茶ものがたりに、

「ねこは、まのもの。兒のあたり、よせぬがよし。」

と、いはれて、母をや、はらたて、ひふき竹のふしぶしを、なやさる。

 かくても、あられず、さしあしねらひより、炬燵(こたつ)のふち、つたふに、おされて、火の中におつるもの、あつばいを身にまぶり、あしさへやけどして、つまさき、うちふり、やうやうにねぶるを、

「こたつの中、くさきは、また、ねこめが。」

と、ふとんかゝげて、何のはらたてばか、つゆゑしやくなく、庭中へなげらるゝに、

「ぎやつ」

と、なくも、いき、たえだえなり。

[やぶちゃん注:「ふたり」夫婦。

「中(なか)ふところ」で一語ととる。

「乳味」母乳の栄養。

「くいちらす、座敷のちり、むさし」「くい」はママ。「骨を食い散らして、座敷に多くの塵芥を残すは、まっこと、むさ苦しい限りじゃ!」。

「かゝづらひて」「拘(かかづら)ひて」。纏わりついて。

「うつはもの」猫の餌を入れる器。

「こけまはり」「轉(こ)け𢌞(まは)り」。躓いて転び倒れ、ふらふらとうろつき回り。

「ひつきたるはだ」飢餓のために肉がなくあり、骨に膚(はだえ)が張りついたようになって、の意でとる。

「かつほぶし」ママ。「鰹節(かつをぶし)」。以下も同じ。

「ごまめ」カタクチイワシ(ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonicus)を素干しにしたもの。正月などの祝儀に用いる「田作り」である。

「かいたてられし」「掻き立てられし」のイ音便。

「身の、未(いまだ)ねずみやうのものは、おそろしき數に覺ゆ」「江戸文庫」版では、「身の末、ねずみやうのものは、おそろしき數に覺ゆ」とある。それでもおかしくはない。

「おのがほうひげのひかりもおとろへゆく身のさまなり」「己が頰鬚(ほほひげ)の光りも衰へゆく身の有樣なり」。

「つま」「褄」或いは「端」。

「女どち」近所の妻の女友だちら。

「ねこは、まのもの。兒のあたり、よせぬがよし」「猫は、魔の物。兒(こ)邊り、寄せぬが良し」。

「母をや」ママ。

「ひふき竹のふしぶしを」火吹き竹の、節くれだったそれをもって。

「なやさる」「萎(な)やさる」。打ち叩かれてぐたぐたにされてしまった。

「かくても、あられず」このような悲惨な状況になっても、飢えと寒さで、そのままでは居られぬので。

「さしあしねらひより」抜き足差し足でこっそりと狙いをつけて。

「炬燵のふち、つたふに、おされて」「火燵の緣、傳ふに、押されて」。

「おつるもの」この「もの」は接続助詞で「ものを」の略かとされる、順接の確定条件を意味するそれととり、「落ちてしまったので」と訳しておく。

「あつばい」ママ。「熱灰(あつばひ)」であろう。火の気の残っている灰・

「ねぶるを」「眠るを」でとる。

「つゆゑしやくなく」「つゆ、會釋無く」。僅かな思いやりもなしに。情け容赦なく。]

 

 『とかく、家の内には、おそれあれば』と、軒下の日なたもとめて、うづくみながら、『ありしむかしの榮(さかへ)をおもへば、柳の枝に魚つなぎ、かつほぶしに身をかへられしより、またなきものにあいせられしが、かく、かわり行(ゆく)人心(ひとのこころ)、いまは寒(かん)まけの名にたてゝ、はなさきのひへかえるつらさも、みな、あの子、いできしゆへなり』と、恨(うらみ)もふかくおもひよりしや、夫は留(る)すに、女は衣あらふとて、井のもとに行きしをうかゞひ、かの兒を、一口に、くいころす。

[やぶちゃん注:特異的に猫の心内語部分を二重鍵括弧で示したが、改行はしなかった。

「柳の枝に魚つなぎ」猫の餌のための生魚或いは干物を指すのであろう。

「かつほぶしに身をかへられし」「かへられし」は贅沢にも鰹節で「身を飼へられし」の謂いであろう。餓えて鰹節のようにミイラのようになったというのでは、ここの文脈にはそぐわない。

「寒(かん)まけの名にたてゝ」「こま」と呼ばれることもなくなり、謂わば、「寒さに負けた役立たず猫」の名を「立て」られるまで落魄(おちぶ)れたことを謂う。

「くいころす」ママ。「喰ひ殺す」。]

 

 夫、歸りて、おどろき、女は、なきわめけど、甲斐なし。

「扨て、ねこはいづくにか。」

と、もとむるに、おのも、かくごやしたりけん、床(とこ)の隅にすまへるさま、中々、よりつべうもなく、かの南山の白額(はくがく)の虎、千里の竹によりそふがごとく、鼻嵐(はなあらし)つよきさまなるを、

「にがさじ。」

と、やうやうにとらへて、あまりにあやしければ、上(かみ)へうつたふるに、

「ちくせうといへど、主(しゆ)ころせし罪、大かたならず。」

と、㙒邊に埒(らち)ゆひまはし、唐犬(たうけん)にぞ、はませける。

[やぶちゃん注:この話、化け猫譚ではない、猫の怨念による実録奇譚的風合いを持ったものである点で、猫奇譚としても頗る変わった一篇に仕上がっている。徹底したこれでもかという感じの子猫いじめの波状攻撃描写が、読者をして思わず小猫への強いシンパシーを与えるように構築されており、子の嚙み殺されんも止む無し、とまで私などは感じてしまったほどの、奇体なリアリズムに舌を巻く。

「おのも、かくごやしたりけん」「己も、覺悟やしたりけむ」。

「すまへるさま」凝(じ)っと蹲(うずくま)っている様子は。

「よりつべうもなく」「寄りつべくもなく」。寄りつこうとすることさえもできそうにもなく。

「南山の白額の虎」三国から西晋にかけての武将として知られ、呉・西晋に仕えた周処(二三六年~二九七年)の若き日の逸話に出るのが有名。ウィキの「周処」によれば、『呉の有力な豪族の家に生まれたが、父の晩年の子であったため、幼くして父親を失った。周処は若い頃は乱暴者でよく狼藉を働き、郷里の人々に恐れられていた』。『ある時、周処は郷里の父老に「今年は平和で豊作だったのに、なぜ皆喜んでいないのか」と尋ねた。すると父老は「南山の白額虎、長橋の蛟、そしてそなたの『三害』がいなくならない限り、喜ぶ事ができない」と答えた。周処はそれを聞くと、山に赴いて虎を刺し殺した後、川に入って蛟と戦い、三日三晩格闘し数十里も流された末、ようやくこれを始末した。郷里の人々は周処が死んだものと思い大喜びしたという。戻ってきた周処は、自分がどれほど人々に憎まれていたかをようやく知った。この時の「周処除三害」の故事は京劇の演目にもなっている』。『そこで改めて自らの身を修めようと』精進し、彼が成した業績以下はリンク先を読まれたい。

「千里の竹」単子葉植物綱タケ亜科メダケ属オキナダケ品種ネザサ Pleioblastus argenteostriatus f. glaber。日本固有種。原野や雑木林の中などに生え、稈(かん)の基部から横に走る地下茎を盛んに出し、四方に増え広がるところから「千里竹(せんりだけ)」とも呼ぶ。

「鼻嵐」獰猛なる鼻息。

「主」殺された子は男子であったから、嗣子となって主人となるはずであったことを拡大して謂ったものであろう。

「埓(らち)ゆひまはし」逃げ出せぬように厳重な囲いを結び回して。

「唐犬(たうけん)」読みは「江戸文庫」版を参考にした。江戸初期に渡来した舶来犬の一種。大形で、主に猟犬として大名に飼われた。オランダ犬。]

今日――夏目漱石の「心」の連載は終わった / 謝辞――2020年の私の「心」シンクロニティにお附き合い戴いた少数の方に心より感謝申し上げる――

夏目漱石の「心」の連載は――今日――終わった――

初出と私の冗長な注は

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回

を見られたい。

さて。最後は「こゝろ」初版(大正三(一九二四)年九月二十日岩波書店発行)の「下 先生と遺書」の最終章(決定公刊稿)を以下に再現して終わりとする。底本は総ルビであるが、老婆心乍ら、若い読者が迷うかも知れぬと思う部分にのみに初出字だけに附した(ルビの一部に歴史的仮名遣の誤りがあるが、そこは特に載せなかった)。断っておくと、「私」は総て「わたくし」であり、「妻」は総て「さい」である。踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字に直した。


   *
        五 十 六

 『私(わたくし)は殉死といふ言葉を殆ど忘れてゐました。平生(へいぜい)使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻(さい)の笑談(ぜうたん)を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答へも無論笑談に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義を盛り得たやうな心持(こゝろもち)がしたのです。
 それから約一箇月程經ちました。御大葬(ごたいさう)の夜(よ)私は何時もの通り書齋に坐つて、相圖の號砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木(のぎ)大將の永久に去つた報知にもなつてゐたのです。私は號外を手にして、思はず妻に殉死だ殉死だと云ひました。
 私は新聞で乃木大將の死ぬ前に書き殘して行つたものを讀みました。西南戰爭の時敵に旗を奪(と)られて以來、申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覺悟をしながら生きながらへて來た年月(としつき)を勘定して見ました。西南戰爭は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年の距離があります。乃木さんは此三十五年の間(あひだ)死なう死なうと思つて、死ぬ機會を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刃(やいば)を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方(どつち)が苦しいだらうと考へました。
 夫(それ)から二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有(も)つて生れた性格の相違と云つた方が確(たしか)かも知れません。私は私の出來る限り此不可思議な私といふものを、貴方に解らせるやうに、今迄の敍述で己(おの)れを盡(つく)した積です。
 私は妻を殘して行きます。私がゐなくなつても妻に衣食住の心配がないのは仕合(しあは)せです。私は妻に殘酷な驚怖(きやうふ)を與へる事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬ積です。妻の知らない間(ま)に、こつそり此世から居なくなるやうにします。私は死んだ後で、妻から頓死(とんし)したと思はれたいのです。氣が狂つたと思はれても滿足なのです。
 私が死なうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分は貴方に此長い自叙傳の一節を書き殘すために使用されたものと思つて下さい。始めは貴方に會つて話をする氣でゐたのですが、書いて見ると、却(かへつ)て其方が自分を判然(はつきり)描(ゑが)き出す事が出來たやうな心持がして嬉しいのです。私は醉興(すゐきよう)に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の經驗の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを僞(いつは)りなく書き殘して置く私の努力は、人間を知る上に於て、貴方にとつても、外の人にとつても、徒勞ではなからうと思ひます。渡邊華山は邯鄲(かんたん)といふ畫(ゑ)を描(か)くために、死期を一週間繰延(くりの)べたといふ話をつい先達(せんだつ)て聞きました。他(ひと)から見たら餘計な事のやうにも解釋できませうが、當人にはまた當人相應の要求が心の中(うち)にあるのだから已(やむ)むを得ないとも云はれるでせう。私の努力も單に貴方に對する約束を果すためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
 然し私は今其要求を果しました。もう何にもする事はありません。此手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでせう。とくに死んでゐるでせう。妻は十日ばかり前から市ケ谷の叔母の所へ行きました。叔母が病氣で手が足りないといふから私が勸めて遣つたのです。私は妻の留守の間(あひだ)に、この長いものゝ大部分を書きました。時々妻が歸つて來ると、私はすぐそれを隱しました。
 私は私の過去を善惡ともに他(ひと)の參考に供する積です。然し妻だけはたつた一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何(なん)にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に對してもつ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後(あと)でも、妻が生きてゐる以上は、あなた限りに打ち明けられた私の祕密として、凡てを腹の中(なか)に仕舞つて置いて下さい。」

 

こ ゝ ろ 終

   *

なお、私のサイトには、2010年に作成した、ブログ版の各章のマニアックな「やぶちゃんの摑み」を、よりブラッシュ・アップしたHTML横書の全三分割版の

心(大正3(1914)年『東京朝日新聞』連載初出版)

 先生の遺書 (一) ~(三十六)→(単行本「こゝろ」「上 先生と私」 相当パート)

 先生の遺書(三十七)~(五十四)→(単行本「こゝろ」「中 兩親と私」 相当パート)

 先生の遺書(五十五)~ (百十)→(単行本「こゝろ」「上 先生と遺書」相当パート)

を用意してある。取り分け――この荒んだ騒動の中――「こゝろ」の授業を受けることが出来なかった今の高校二年の多くの生徒諸君――或いは――「こゝろ」が教科書に載らなくなって、それどころか、おぞましいことに小説を授業で一つも学ばずに卒業してしまうことになる可能性が出来(しゅったい)しつつある未来の生徒諸君のために――拙劣ながらも、私のこれらを一抹の参考に供したい――と思うのである。私の生きている限り――ブログとサイトが残存している限りは――。

   *

因みに。今回のシンクロ公開中、ここに至って、最後に一つ、

「何故、今まで気がつかなかったのか!?!」

と激しく悔いる箇所があった。

第三段落目の、乃木大将の遺書の下りに出る、

『申し譯のために死なう死なうと思つて、つい今日(こんにち)迄生きてゐたといふ意味の句を見た時』

『といふ意味の句』

の部分である。乃木の遺書は『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月11日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百十回の私の注で全文(非常に長い)電子化してあるが、当該部は冒頭部にある、

明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死處得度心掛候モ其機ヲ得ス皇恩ノ厚ニ浴シ今日迄過分ノ御優遇ヲ蒙追々老衰最早御役ニ立候時モ無餘日候折柄

の下線部である。若い人のために読み下すと、

「其の後、死に處(どころ)得たく心掛け候ふも、其の機を得ず、皇恩の厚(こう)に浴し、今日まで、過分の御優遇を蒙(かうぶ)り、」

であろう。

私が何を言いたいか、もうお判りであろう。

Kの遺書の末尾に墨の余りで記されてあったと「先生」の言う、あの一文である(『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回を見よ)。

   *

後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。

   *

以前から執拗に述べている通り、これは『といふ意味の文句』なのであって、「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらう」という言葉そのままが書かれていたのではないのである。それは乃木の遺書のここでの叙述からも明白である。私はそれは漢文か漢文調の禪語のような雰囲気のものではなかったかと推理しているのだが、まさにそのヒントがこの乃木の遺書のそこに実は示唆されているのではないか? という遅過ぎた発見だったのである。

私は即座に相応しい文字列を作れぬが、拙を承知で示すなら、

   欲得死處 不得其機 憶恥今生

「死に處を得んと欲すれども得ず 其の機を得ず 憶ふ 今に生きんことを恥づと」といったようなものではなかったろうか? それは古武士のようなKの辞世に相応しいではないか!――

……しかも……先生、……これはKのまさに薄志弱行と断罪した自己自身の肉体への潔い決別の辞であり……それ以上でも、それ以下でもなく……ひいては皮肉や怨嗟なんぞでは……到底……これ、なかったのですよ……先生……先生の致命的な踏み違いの後半生は、この文句の誤訳に始まったのではありませんか?…………

いや……実はそんなことはどうでもいいのかも知れません……先生……あなたは本当に愛していた人を――「誰にも」――正直に言わなかった……あなたが本当にに愛していたのは――靜でもなければ――学生の「私」でもない――「K」――です――ね……しかも「K」というイニシャルは? それは先生のネガティヴなる――あなた――即ち――あなた自身のトリック・スターに他ならない。

「K」とは――やはり「夏目金之助」――金之助というあなたがペン・ネームで誤魔化し続けた、あなた自身だったのだ――と――今――私は確かに思うのです…………

 
 
 

2020/08/10

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 五

 

       

 

 丈艸が『渡鳥集』に書いた賀詞は『有磯海』のほど重要なものではないが、その面目を窺うに足るものがあるから、やはり全文を引用して置きたい。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が二字下げである。孰れも前後を一行空けた。]

 

   賀渡鳥集句幷序

崎陽の風士卯七(うしち)は蕉門の誹路[やぶちゃん注:「はいろ」。「俳路」に同じ。俳諧の世界。]ふかく盤桓て[やぶちゃん注:「たちもとほりて」。徘徊すること。盛んに歩き回ること。]高吟酔[やぶちゃん注:「ゑひ」。]をすゝめ酣酔[やぶちゃん注:「かんすい」。十分に酔うこと。]今に耽る。一句人を躍せずば[やぶちゃん注:「をどらせずば」。]死(しす)ともやまじといへる勇有けり。此頃撰集の催しありて野僧が本(もと)へも句なんど求らる。松の嵐の響をだに耳の外になしぬれば、かの詩は多く人の吟ずるを聞て自[やぶちゃん注:「みづから」。]一字を題せずとかや。古人も草臥[やぶちゃん注:「くたぶれ」。]たりけり。弥(いよいよ)其(その)くさの方人(かたうど)とうち眠[やぶちゃん注:「ねふり」。]ながら、つくづく其酔詠[やぶちゃん注:「すいえい」。]の序(ついで)にさぞさこそおかしく興ぜられんとおもひやる心に引立られて、聊(いささか)拙き[やぶちゃん注:「つたなき」。]詞(ことば)をまうけて集のことぶきを申おくる[やぶちゃん注:「まうしおくる」。]物しかり。

  句撰やみぞれ降よのみぞれ酒

   壬午仲冬日

            粟津野々僧丈艸塗稿

[やぶちゃん注:「渡鳥集」は去来・卯七編になるもの。丈草の跋文は元禄一五(一七〇二)年(壬午(みづのえむま/じんご))十一月(「仲冬」)であるが、刊行は遅れて宝永元(一七〇四)年であった。共同編者であった箕田卯七(みのだうしち ?~享保一二(一七二七)年)は肥前長崎の人で、去来の義理の従兄弟に当たる。江戸幕府の唐人屋敷頭(とうじんやしきがしら)を勤めた。

「句撰やみぞれ降よのみぞれ酒」は「くえらみやみぞれふるよのみぞれざけ」。「味醂(みりん)に餅霰(もちあられ)を加えたもので、奈良の名物。冬の季題でもある。実際の霙と霙酒の二重ねは響きも美しいが、寧ろ、卯七と二人共同で当たった楽しかった日々の思い出の重なりのイメージを狙ったものであろう。

「塗稿」「とかう(とこう)」であろうが、余り聞かぬ単語である。生地がひどいので誤魔化して「塗」り上げた原「稿」という謙遜の辞ではあろう。]

 

 壬午とあるから、元禄十五年の冬にこの序を草したのである。「一句人を躍せずば死ともやまじ」というのは、杜甫の「語不ㇾ驚カセㇾ人ストモ不ㇾ休」をもじったのであろう。「松の嵐の響をだに耳の外になしぬれば……」のあたり、丈艸の超然的態度を道破して遺憾なきものである。「性くるしみて学ぶ事を好まず、感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸から見れば、「一句人を躍せずば死ともやまじ」ということも無用であったかも知れない。こういう態度の保持者たる丈艸が、その作品においては前に挙げたような、すぐれたものを示しているのだから、孤高自ら誇るの徒と同一視することは出来ぬのである。

[やぶちゃん注:「語不ㇾ驚カセㇾ人ストモ不ㇾ休」訓読すると、

 語(ご) 驚かせずんば 死すとも休(や)まず

で(「語」は無論、「詩句」の意)、これは杜甫の七六〇年の春四十九歳の折り、成都の錦江のほとりで詠じた七律「江上値水如海勢聊短述」(江上(こうじやう)、水(みづ)の海勢(かいせい)のごとくなるに値(あ)ひ、聊(いささ)か短述す)の第二句である。「海勢」は水の流れの盛んなことを指す。

   *

爲人性僻耽佳句

語不驚人死不休

老去詩篇渾漫與

春來花鳥莫深愁

新添水檻供垂釣

故著浮槎替入舟

焉得思如陶謝手

令梁述作與同遊

 

人と爲(な)り 性 僻(へき)にして佳句に耽り

()  人を驚かせずんば  死すとも休まず

老い去つて 詩篇  渾(すべ)て漫與(まんよ)なり

春來 花鳥  深く愁ふること莫(な)かれ

新たに水檻(すいかん)を添へて 垂釣(すいちよう)に供し

故(もと)より浮槎(ふさ)を著(つ)けて 入舟(にふしう)に替(か)ふ

焉(いづく)んぞ  思ひは 陶謝(とうしや)のごとくなる手を得て

梁(かれ)をして述作して  與(とも)に同遊せんこと

   *

「僻」は偏頗なこと。「漫與」は漫然に同じい。とりとめもなく、ふとした何気ない感懐の表現となったことを言う。第四句「春來花鳥莫深愁」は明らかに、十三年前、「安禄山の乱」に遭遇して長安に軟禁されていた若き日に詠じた絶唱「春望」の「感時花濺淚 恨別鳥驚心」の悲傷の対句を軽くいなしたものである。「水檻」岸辺の木の板で作った手すり。「浮槎」は浮かべた筏のこと。「著」繋留し。「替入舟」「替」は「代」に同じで筏をもやってそこに行くことで、舟を漕ぎ出でるのに代えたの意。「陶謝」六朝期の大詩人陶淵明と謝霊運(しゃれいうん)。最後の二句は、「こんな折りには望んだことは、陶淵明や謝霊運のような文藻豊かな人物の手を得て、ともに詩を詠じながら遊んだならば、どんなにか面白かろうに、という思いなのであった」の意である。]

 

 『渡鳥集』に「一処不住」の作者として挙げたものが芭蕉、丈艸、支考、惟然、雲鈴の五人であることは、前に惟然の条に記した。丈艸の晩年はその句によってもわかるように、大体草庵生活の継続であって、支考や惟然の如く、諸国漂浪の旅に上ったわけではない。しかし一処不住の沙門らしい風骨を具えた点からいえば、どうしても丈艸を首(かしら)に推さなければならぬ。元禄十五年刊の『はつたより』に

 月雪や列は知識に成果ぬ      丈艸

[やぶちゃん注:「つきゆきやツレはちしきになりはてぬ」で「ツレ」はカタカナで同撰集に振っている。上五は後で宵曲も言っているように実景ではなく、俳諧の風雅の詩境を言う。「列」は嘗てともに修業した僧らを指す。「知識」は「善知識」で、元は「人々を仏の道へ誘い導く人」の意であるが、特に「高徳の僧」を指す。竹艸の親しんだ禅宗では参学の者が師家(しけ:師僧・先生)を指して言う。座五には地位・名誉を得た成功者と自認している(それは真の仏道を求めることとには明らかに反する利欲と名聞の世界である)そうした連中への批判的な物言いの雰囲気が濃厚に漂っている。]

という句がある。かつて修行を共にした同列の僧の中に、已に智識になりすました者があるという意であろうか。この「月雪」は眼前の光景ではない。丈艸自ら風雅に隠れたことを指すものと思われる。『丈艸発句集』には洩れているが、丈艸の境涯を按ずる上において、この句は看過すべきであるまい。

[やぶちゃん注:「はつたより」「初便(はつだより)」。知方編。元禄一五(一七〇二)年序・跋。]

 

 丈艸は宝永元年二月二十四日、四十三歳を一期(いちご)として世を去った。浪化に後(おく)るること四カ月、去来に先立つこと七カ月である。その訃(ふ)が湖南の正秀から伝えらるるに及び、去来は「丈艸誄(るい)」一篇を草して深くその死を悼んだが、自分もまた久しからずして黄土(こうど)に帰したのであった。丈艸は一たび『猿蓑』に跋を草し、二たび『有磯海』に序を草し、三たび『渡鳥集』に賀詞を寄せている。この三書はいずれも去来の与(あずか)るところ少からぬものである。去来と丈艸とは同じような性格の人とも思われぬが、一点深く冥合するところがあり、心交の度も他に異るものがあったに相違ない。

[やぶちゃん注:「宝永元年二月二十四日」グレゴリオ暦一七〇四年三月二十九日。彼は寛文二(一六六二)年(月日は不詳)生まれであった。

「黄土」黄泉(よみ)の国。

「冥合」「みょうごう」で、知らず知らずのうちに一つになっていく、なっていることを言う。]

 

 山に龍った当初の丈艸と去来との間には、互に往来することがあったらしい。「丈艸誄」の中に「……義仲寺の山の上に、草庵をむすびげれば、時々門自啓、曲々水相逢などと打吟じ、あるは杖を横たへ、落柿舎を扣(たたい)て、飛込だまゝか都の子規(ほととぎす)とも驚かされ、予も彼(かの)山に這のぼりて[やぶちゃん注:「はひのぼりて」。]、脚下琶湖水、指頭花洛山と、眺望を共にし侍りしを」とあるのが、自らその間の消息を明(あきらか)にしている。

[やぶちゃん注:「時々門自啓、曲々水相逢」これは丈草の漢詩と読む。「時々 門 自(おのづか)ら啓(ひら)く」「曲々 水 相逢(あひあ)ふ」であるが、私は「啓」は「ひらき」と連用形で対句となると思う。但し、諸本は「ク」を送ってはいる。「時には人が訪ねて来れば、粗末な柴の門は自ずと開き、彼方には蛇行した複数の川が、一つになって見える」の意であろう。

「脚下琶湖水、指頭花洛山」同前。「脚下 琶湖(はこ)の水 指頭(しとう) 花洛の山」で、「足の下には琵琶湖の満々たる湖水が、そして指指すその頭の先には。花の都の京の山々が見渡せる」の意であろう。]

 

 飛込だまゝか都のほとゝぎす    丈艸

[やぶちゃん注:「とびこんだままかみやこのほととぎす」。松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、「篇突」(へんつき:許六・李由篇で元禄一一(一六九八)年刊)所収の句で、『ほととぎすよ、都の空を鳴き渡るべきなのに、落柿舎に飛込んだままなのかい』の意で、『去来を「都の時鳥」に見立てた、諧謔味をこめた即興の挨拶吟』とし、『元禄十一年の初夏、洛星落柿舎に去来を訪ねた折の作』とされる。]

という句は元禄十一年の『貳妬』に出ているから、それ以前の話であろう。去来の句にも

   僧丈艸をとぶらふ

 馬道や菴をはなれて霜の屋根    去来

[やぶちゃん注:「菴」は暫く「いほ」と訓じておく。]

   丈艸の住まれける湖南の山家を
   訪ひて申侍る

 夕照にひらつく磯のかれ葉かな   同

[やぶちゃん注:「夕照」は「ゆふやけ」。「ひらつく」は「薄いものがゆれ動く。ひらひらする。ひらめく」或いは「落ち着きなくしきりに動く」のハイブリッドの意であろう。]

の如きものがある。

 丈艸が山を出なくなったのは何時(いつ)頃からか。

   今年艸庵を出でじとおもひ
   定むる事あり

 手の下の山を立きれ初がすみ    丈艸

[やぶちゃん注:「立きれ」は「たちきれ」という命令形。松尾氏前掲書によれば、『初霞よ、手をかざす下に見える山里を書きしておくれ。俗世への未練を絶ちたいから。閉』門『禁足三年の誓いを立てた元禄十四年の年頭吟』とある。俳諧ならではの静かな、言上げでない呟きである。]

という句が元禄十四年の『蝶すがた』に出ているから、先ずその辺からと見るべきであろう。

その翌年の『柿表紙(かきびょうし)』に

   閉関立春

 白粥の茶碗くまなし初日影     丈艸

などとあるのも、山を出なくなってからの片鱗を伝えているものと思われる。世間の外に逸脱した丈艸と、世間の中に生活する去来とは、これがために相見る機会が少くなった。「丈艸誄」の中に「人は山を下らざる誓ひあり」とあるのは、如何にも丈艸らしい面目を発揮したもので、一たびこの誓を立てて後、遂に山を下らなかったのである。

[やぶちゃん注:一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『元禄十五年の歳旦吟である。元朝、用意された一杯の白粥を盛った茶碗のすみずみにまで初日の光がさしわたっているさまである。閉関中に迎えた新春であり、簡素な白粥の膳に、丈草の清浄な境地が象徴的に映し出されている。ゆったりと落ち着きはらった気分が、句の調べによく表われている』とされ、『丈草は元禄十四年、四十歳を迎えた年の年頭に、閉関禁足三年の誓いを立て、故翁追悼に千部の華経読経と経塚建立をめざした。この句はその翌年の閉関中の歳旦吟か(石川真弘『蕉門俳人年譜集』)』とある。]

 

 丈艸の庵の様子は何も書いたものがないからわからぬが、丈艸を悼んだ

   去年の夏仏幻庵を尋侍るに
   調度は弦鍋(つるなべ)壱
   つに釜のみ有、今は其主も
   又まぼろし

 争ひもなき死跡やげんげ畠     素覧

という句の前書によって、極めて簡素なものであったことは想像出来る。

[やぶちゃん注:作者もよく知らぬが、前書も句もまことにしみじみとした、いい句である。

「素覧」三輪素覧(みわそらん 生年未詳)。名古屋蕉門の一人で、通称、四郎兵衛。「笈日記」に出、芭蕉宛書簡も残る。]

 

   贈丈艸上人之坊

 夜寒さの水鼻落ん本の上      朱拙

[やぶちゃん注:「朱拙」(承応二(一六五三)年~享保一八(一七三三)年)は豊後日田(ひた)の医師。日田俳諧の開祖であった中村西国(さいこく)に談林風を学んだが、元禄八年に来遊した広瀬惟然の影響で蕉風に転じた。九州蕉門の先駆者であり、編著に「梅桜」「けふの昔」などがある。]

の句に対して、

   答見寄山菴

 焼栗も客も飛行夜寒かな      丈艸

[やぶちゃん注:前書は「山菴に寄するものを見て答ふ」か。よく判らぬ。句は「やきぐりもきやくもとびゆくよさむかな」。朱拙編で元禄十一年刊の「後れ馳」(おくればせ)所収で、前にある朱拙の「夜寒さの」の句に対する返句である。参照した松尾氏前掲書によれば、『この夜寒、囲炉裏に埋めた焼栗もはじけるが、来客もまた寒さにこらえきれず、飛ぶように帰っていった』と訳しておられる。]

と答えたのは、山を下らざることを誓う以前のようであるが、それ以後といえども、人の来り訪うのを拒んだわけではない。

   草庵せまけれど秋ごとに
   今宵の月をとはれて

 窓本をちれば野原や月の客     丈艸

[やぶちゃん注:「ちれば」は「散れば」で窓の外に出て貰って、歩かれれば、そこはもう、見渡す限りの野原で御座る、心行くまで独り、月を愛でて下されよ、の意。見事なワイド画面で、しかも孤高を保つ丈草の秘かな思いも伝わってくるる佳句である。]

 丈艸は沙婆気(しゃばけ)の取れきらぬえせ隠者のように、強いて訪客を回避しようとすることはなかったのである。

[やぶちゃん注:正直、宵曲、言わんでもいいこと(無論、宵曲は「似非隠者」とはとってないことは明白であるが、「娑婆気」が残存する似非隠者は卜部兼好のように恋文の代筆なんどして俗人とひっきりなしに触れ合っていたことを考えるとやはり言わずもがなの謂いとしかとれぬ)を言って却ってシラけさせている。不要。]

   山菴の歳暮老鼠ひとつ
   廿日ねずみ二疋ありて
   所を得がほ也

 行灯をけせば鼠のとしわすれ    丈艸

に至っては、世外に超然たる仏幻庵の歳暮風景であろう。灯を消せば直に跳梁を極めるその鼠どもに対しても、丈艸は格別な親しみを持っていたような気がする。

[やぶちゃん注:「山菴」は「さんあん」、「歳暮」は「せいぼ」と音で読んでおく。「老鼠」は「らうそ」。「行灯」は「あんどん」。堀切氏は『元禄十四年の歳末吟か』とされ、無論、『「老鼠ひとつ」は丈草自身を見立てたもの』で、『大晦日の夜』、『ひとり静かに行灯の火を消して寝ようとすると、わが草庵に居ついた』二匹の『鼠どもが賑やかに鳴き立てながら』、『年忘れの会をやっているらしい、と軽く打ち興じた』句とされる。その諧謔にまた仄かなペーソスが漂う。前書とセットになって佳句となっている。]

 

 元禄十五年十月、去来が最後に丈艸を訪ねた時の模様は、「丈艸誄」の末段がこれを尽している。

   宿丈艸草庵

 さむきよやおもひつくれば山の上  去来

 久しぶりに相見た二人は、夜の更けるのも知らず、閑談に耽ったものであろう。時ならぬ雷鳴と共に、烈しい山風が庵の扉を吹放つのを見て、丈艸は「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」という即興の句を示した。一夜は閑寂な談笑に明けて、

  去来が庵を訪ひ来れるに別るゝとて

 雪曇身の上を啼く烏かな      丈艸

ということになったのであるが、常と同じ烏の啼声でも、この朝は何となく心に沁むものがあったのであろう。かくして相別れたなり、二人は遂に相見る機がなかった。「なき名きく春や三とせの生別れ」という去来の悼句は、最後に丈艸を訪うてから足掛三年になることを詠んだものと思われる。去来に比すれば十歳も年少であり、蕉門の骨髄を摑み得た丈艸が、自分に先立って歿したことは、去来に取って大なる痛恨事であった。

[やぶちゃん注:「虚室欲ㇾ夸ㇾ閑是宝。満山雷雨震寒更」「虛室(きよしつ) 閑(しづか)に夸(ほこ)らんと欲す 是れ寶/滿山の雷雨 寒更(かんかう)に震(ふる)ふ」。「無一物即無尽蔵の部屋にあること、それが、これ、私の宝。山全体に激しい雷雨がやって来ては、寒い夜更けを震わせる」。禪の公案のようで、句もいいが、彼の漢文の詩句群も、はなはだ実に魅力に満ちている。]

 

 丈艸の一生を煎じつめれば、「丈艸誄」の外に出ぬといって差支ない。両刀を棄てて仏門に入ったことが、その生涯における第一の山であり、次いで芭蕉の門に入ったことが第二の山である。その後における丈艸の生活は、この二つの世界より得来ったものによって、過誤なしに歩を続けたと見るべきであろう。他は丈艸自身も多く伝うることを好まず、また伝わってもいない。世を謝して自然に任せた晩年の境涯は、容易に他の窺うを許さぬ底のものであるが、芥川氏のいわゆる「最も的々と芭蕉の衣鉢を伝えた」ものが斯人(しじん)であることは、疑問の余地はあるまいと思う。

 以上丈艸の生涯に沿うて彼の句を見来った。なお遺された句について、他の方面から少しく観察を試みたい。

[やぶちゃん注:芥川龍之介のそれは、前に示した「澄江堂雜記」の「丈艸の事」の冒頭。]

大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)

 

鯔魚 又和名口女伊勢鯉又名吉ト云日本記神代

巻下曰口女即鯔也海中及潮ノ入ミナトニアリ最

小ナルヲヱフナト云ヱフナヨリ少大ナルヲイナト云ヤヽ

大ナルヲスバシリト云此三ハ皆其小ナル時ノ名ナリ最

大ナルヲボラナヨシイセゴイト云所ニヨリテ方言カハレリ

餘姚縣志ニ枕人謂之蛇頭ト記セリ其首ヘヒニ似

タレハナリ冬春味ヨシ夏秋不美ボラ味尤ヨシ海

ボラニマサレリ凡鯔ハ江湖泥多キ處ニ正スルハ脂多シ

性不悪トイヘ𪜈脂多キハ病人ニ不宜停滯シヤスク生痰

其子脯トスカラスミト云フ馬鮫魚ノ子ノコトシ其味

マサレリ又其腹臼アリ食乄味美ナリ無毒

○やぶちゃんの書き下し文

鯔魚(なよし) 又、和名「口女」、「伊勢鯉」、又、「名吉」と云ふ。「日本記」神代巻〔の〕下〔(もと)〕に「口女」と曰ふは、即ち、鯔なり。海中及び潮の入るみなとにあり。最小なるを「ゑふな」と云ひ、「ゑふな」より少し大なるを「いな」と云ひ、やゝ大なるを「すばしり」と云ふ。此の三つは皆、其の小なる時の名なり。最大なるを「ぼら」「なよし」「いせごい[やぶちゃん注:ママ。]」と云ふ。所によりて方言かはれり。「餘姚縣志〔(よとたうけんし)〕」に『杭人〔(かうひと)〕、之れを「蛇頭〔(じやとう)〕」と謂ふ』と記せり。其の首、へびに似たればなり。冬春、味よし。夏秋、美〔(よ)から〕ず。ボラ、味、尤もよし。「海ぼら」にまされり。凡そ鯔は江湖〔の〕泥多き處に生ずるは、脂〔(あぶら)〕、多し。性、悪〔(あ)し〕からずといへども、脂多きは病人に宜しからず。停滯しやすく、痰を生ず。其の子、脯(ほしもの)とす。「からすみ」と云ふ。馬鮫魚〔(さはら)〕の子のごとし。其の味、まされり。又、其の腹に臼〔(うす)〕あり。食して、味、美なり。毒、無し。

[やぶちゃん注:ボラ目ボラ科ボラMugil cephalus。本記載にもいろいろな呼称が現れるように、成句の「トドのつまり」で知られる出世魚。幾つかのネット上の記載を総合すると、現在、関西では成長に伴った呼び名の変化は以下のように整理される(途中の呼称が脱落する地域も多い)。全国的には、下記に示した以外に益軒の記述に現れる「口女」(クチメ)や「伊勢鯉」(イセゴイ:歴史的仮名遣では「いせごひ」である)・ツクラ・メジロ・マクチ・クロメ・シロメ・チキバクギョ・ホウフツ・コザラシ・トビ等の多彩な地方名・異名・出世名を持つ。ボラの稚魚・幼魚の呼称に至っては、オボコ・イキナゴ・コズクラ・ゲンプク・キララゴなど、六十種を越えるとも言われる。

ハク(約2㎝~3㎝)≒シギョ

 ↓

オボコ・スバシリ(約3~18㎝)≒エブナ

 ↓

イナ(約18~30㎝)≒エブナ・ナヨシ

 ↓

ボラ(約30㎝以上)=クチメ・コザラシ

 ↓

トド(特に大型の個体)

因みに、関東では一般には、

オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド

の順となる。加えて表記した通り、同じく情報を総合すると、本文中に現れる「名吉」(ナヨシ)はボラと同義ではなく、手前の段階のイナの異称であることが多いようであるが、勿論、これらは地域や人によって、その認識に差がある。なお、益軒はどうもボラを淡水魚(「江湖の泥多き處に生ずる」ボラと言っている)と認識して、海産を「海ぼら」と区別して呼んでいるが、これは無論、誤りで、川を遡上するのはボラの幼魚である。今でもしばしば驚くべき大群を成してニュースになったりする。

「口女」一部地域では、ボラの川に遡上する幼魚の個体群をこう呼ぶことは事実である。これだけを見ていると、ボラの口が女性のようにちょっと小さい(事実、成魚では魚体の割に小さい)という意味で納得してしまいそうなのだが、これにはかなり厄介な問題がある。これらのことを別に「赤女」「赤目」(アカメ)とも称しているのであるが(ネット上の情報では能登地方で河川で釣れる「ボラ」を「アカメ」と呼び、遡上しない海洋回遊性のボラ個体の方を「シロメ」と言うとする)、まず、

①大きな問題は、現在、和名としての「アカメ」は全くの別種である、

スズキ亜目アカメ科アカメ属アカメLates japonicus

を指すからである。この真正の「アカメ」は西日本の太平洋沿岸のみに分布し、河口などの汽水域によく侵入する大型(全長一メートルを超える)の肉食魚で、ボラとは似ても似つかず、スズキをゴッツくした感じである。能登地方にはいないのだから問題はないとも言えるが、これはボラの話を一般に語る場合には混乱を起こさせることに注意しなくてはならない。但し、このアカメはボラを捕食することでも知られているから、満更、無縁という訳でもないが。さて、

②次に更に問題なのは、「赤目」及び「赤女」「口女」という漢字表記で、実はボラの仲間に、ボラにそっくりな(個体によっては実際、ボラと区別がつかぬほど似ている)、

ボラ目ボラ科メナダ属メナダLiza haematocheila

(漢字表記は「女奈太」)がおり、これは実は「アカメ」と呼称されることが、ままあるからである。しかも、本種を含むメナダ属の仲間の多くが、魚類の眼や口が赤や橙色に見えることがあるからである。即ち、これを知ると、「口女」「赤女」(あかめ)というのは紅を塗ったように赤い口をしたボラ型の魚であり、「赤目」に至っては間違いなくボラではなく、メナダである可能性が高率であるというになるである(この赤い目はメナダがボラと異なり、眼を被う脂瞼(しけん:一部の魚類(真骨魚類の中で回遊性を有する浮魚に良く見られる)の眼に見られる半透明の膜で、目蓋状に眼の一部或いは殆ど全部を覆っている。視力補正や眼球保護のためともされるが、その機能については明確な定説はない)があまり発達していないことと関係するものではないかと思われる)。

 そこで、ふと、昔を思い出した。中学の頃、高岡の伏木の国分港で、もの凄い力で引かれながら三十センチほどの魚を漸くに釣り上げた時、引きの強さに寄って来た青年が、釣った魚を見て「なんじゃい、ボラやないけ」と言ってせせら笑って去っていたのを。その時、甚だ不本意な言われ方をした可哀そうなその魚に目を落した時、その魚の目が真っ赤に血に染まって見えたのだ。針が引っ掛かったわけではなかった。何故なら、反対の目を見ると、同じように真っ赤だったからである。『不思議だな。必死になって針を外そうとして鬱血したのかな』と内心、哀れに思ったのを今さらに想起したのだ。「そうか! あれはボラじゃなくてメナダだったんだ!」と今、気づいたのである。

「伊勢鯉」サイト「日本の旬・魚のお話」の「鰡(ぼら)」によれば、これは関西・北陸での地方名で、『伊勢に多産し、魚形が鯉に似ているところからと』され『るが、「イセ」は「エセ」の転訛で、「エセ」とは似て非なるものを言うことから、鯉に似て鯉にあらざる魚の意であろう』とあり、激しく腑に落ちた。コイには似とらんもの。なお、同記載には、和名ボラについて、『その語源については『大言海』に、「ボラとは腹の太き意なり、腹とは広・平・原と同義なり」とある。また、『本朝食鑑』や『本草綱目啓蒙』に、ボラは腹太の意とでている。これは、中国の春秋時代の北狹(ほくてき)の用語で、「角笛」を意味する「ハラ」という語の転訛であり、法螺貝(ほらがい)の呼称「ホラボラ」と同源同義語らし』く、『ボラの呼称は、魚形が「角笛」に似ていることから、中国の胡語「ハラ」が転じて「ボラ」になったのであろう』とある。但し、「本草綱目」に以下のように出る。

   *

鯔魚【宋「開寳」。】

釋名子魚。時珍曰、『鯔、色鯔黑、故名。粤人訛爲子魚。』。

集解志曰、『鯔魚生江河淺水中。似鯉、身圓頭扁、骨軟、性、喜食泥。』。

時珍曰、『生東海。狀如青魚、長者尺餘。其子滿腹、有黃脂味美、獺喜食之。吳越人以爲佳品、醃爲鮝腊。』。

氣味甘、平、無毒。

主治開胃、通利五臟。令人肥健。與百藥無忌【「開寶」。】。

   *

しかし、「鯔魚生江河淺水中。似鯉、身圓頭扁、骨軟、性、喜食泥」というのは、下線部からボラではないものを指していると私は判断する。ボラの骨は太くて硬いからである。「粤人」(えつひと)は古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から、現在のベトナム北部に至る広大な地域に住んでいた、越人諸族の総称である。

「名吉」「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十 龍魚類第二百三十六」に、

   *

鯔 孫愐「切韻」云、『鯔【「側」「持」反。】魚名也』。「遊仙窟」云、『東海鯔條【「鯔」、読「奈與之」。條讀見飮食部。】。』。

   *

と出る。この「奈與之」(奈与之:なよし)については、多くの書で、ボラが成長するに連れて名が変わる出世魚であることから、めでたい魚として「名吉」の意からついたとされ、古くから、ボラを正月のしめ繩に挿して祝ったり、七五三の祝いに用いるなど、めでたい魚とされており、「名吉」を「みやうぎち」(みょうぎち)とも呼ぶなどと書いてあるのだが、私はどうもこの語源説が信じ難い。そもそも出世魚となるのは、ずっと時代が下ってからであり、以下に見る「日本書紀」では、忌み嫌われる魚として登場するからである。実際に泥臭い、生臭い魚としてあまり喜ばれない(但し、これは沿岸汚染が進んだ近代以降のことである)。但し、その忌まわしさを払拭するために逆に縁起のいい名にしたと言われれば、まあ、そうかなとも思いはする。実際、そうする説を見出した。江戸後期の国学者伴信友(ばんのぶとも 安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)の考証随筆「比古婆衣(ひこばえ)」(全二十巻・弘化四(一八四七)年より刊行開始)の「三の卷」の「口女」である。『此魚をなよしといふは名吉の義にて』『かの不ㇾ得ㇾ預天孫之饌、卽以口女魚以不進御者、此其緣也、とある古事を忌々』(いまいま)『しみて此を食料とするうへに言忌』(こといみ)『して名吉と呼かへたるものなるべし』とあるのがそれである。国立国会図書館デジタルコレクションの「伴信友全集」第四巻(明治四二(一九〇九)年国書刊行会刊)の当該部の画像を視認して電子化した(左下段中央よりやや右手から始まる部分)。

『「日本記」神代巻下』「日本書紀」の第十段一書第二に、

   *

一書曰。門前有一好井。井上有百枝杜樹。故彥火火出見尊跳昇其樹而立之。于時海神之女豐玉姫。手持玉鋺來、將汲水。正見人影在於井中。乃仰視之。驚而墜鋺。鋺既破碎不顧而還入。謂父母曰。妾見一人在於井邊樹上。顏色甚美。容貌且閑。殆非常之人者也。時父神聞而奇之。乃設八重席迎入。坐定。因問來意。對以情之委曲。時海神便起憐心、盡召鰭廣・鰭狹而問之。皆曰。不知。但赤女有口疾不來。亦云。口女有口疾。卽急召至。探其口者。所失之針鉤立得。於是海神制曰。儞口女從今以往。不得吞餌。又不得預天孫之饌。卽以口女魚所以不進御者。此其緣也。

   *

知られた「海彥山彥」の山幸彦(「彥火火出見尊」)の物語の釣り針探しのワン・シークエンスである。サイト「擅恣企画」のこちらに現代語訳が載るので見られたい。天皇の御膳に鰡は出さないという禁忌の根っこである。「日本書紀」には第十段一書第四にも『海神召赤女・口女問之。時、口女自口出鉤以奉焉。赤女卽赤鯛也。口女卽鯔魚也』と出るのが、「口女」初出の総てである。この「鯔魚」を「なよし」と訓じている注釈があるが、果して、それは、どうか? 根拠は探し得ず、よく判らぬ。

「ゑふな」「江鮒」。

「いな」「稻魚」。これは川を遡上した幼魚が一部、稲田に入り込んでくることによるとされる。

「すばしり」「洲場走」「洲走」砂浜の浅瀬や潮溜まりにいてすばしっこく泳ぐことから。

「餘姚縣志」明の沈應文らの編纂になる余姚県(現在の余姚(よとう)市。上海の南、杭州湾の対岸湾奥で銭塘江の河口に近い)の地誌で一六〇三年刊。

『杭人〔(かうひと)〕、之れを「蛇頭〔(じやとう)〕」と謂ふ』国立国会図書館デジタルコレクションでやや手こずったが、原本である「新脩餘姚縣志」の第十一巻のここあるのを見出せた。右から六行目(罫線で数えて)の「鱗介之品」の二項目に「鯔魚」があり、ほぼ冒頭部にこの記載がある。言わずもがなであるが、「杭人」(杭州の民)を「かうひと」(こうひと)と読むのは漢文の慣例(地名に附く「人」は訓読みする)。ボラの頭部は非常に特徴的で、頭部先頭が縦方向に平たくなって、上顎がやや突き出ており、大きな眼の後部から先だけを横から見ると、実際、蛇の頭にちょっと似ているのである。

「冬春、味よし」ボラの旬は新暦で十月から一月とされる。海水温が低い時期のボラは体温保持のために脂のノリがよい。特に「寒ぼら」と呼ばれて地方によっては好んで食される。

「停滯しやすく」消化されずに、胃腸にたまり易いことを言う。

「脯(ほしもの)」干物。

「からすみ」「唐墨」「鰡子」「鱲子」などと書く。ボラなどの卵巣を塩漬けして塩抜き処理を施した後、天日干しで乾燥させたもので、名の由来は、その形状が中国から送られた墨=唐墨に似ていたことによる。ウィキの「カラスミ」によれば、『日本ではボラを用いた長崎県産のものが有名だが、香川県ではサワラ』(スズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科サワラ族サワラ属サワラ Scomberomorus niphonius。本文に出る「馬鮫魚」)『あるいはサバ』(サバ科サバ属マサバ Scomber japonicus・ゴマサバ Scomber australasicus)『を用いる。日本以外でも台湾やイタリアのサルデーニャ島』(「ボッタルガ」として有名)・スペイン・エジプトでも作られている。『原材料として、ヨーロッパではボラ以外の海産魚の卵巣も』多く『用いられ、台湾にはアブラソコムツ』(サバ亜目クロタチカマス科アブラソコムツ属アブラソコムツ Lepidocybium flavobrunneum:深海魚で本邦でも獲れるが、身の食用流通は禁じられている。ヒトには消化出来ないワックス・エステル(Wax ester)を肉に多量に含むためで、味は大トロのようなものだが、激しい瀉下を引き起こす)『を使うものもある』。『江戸時代より、肥前国のからすみは、越前国のウニ、三河国のコノワタとともに、日本の三大珍味と呼ばれている』。『塩辛くねっとりとしたチーズのような味わいは、高級な酒肴として珍重される。薄く切り分けて炙り、オードブルに供したり、すりおろして酢を混ぜてからすみ酢にしたりして使用する』。『「からすみ」の名は、一説には肥前国の名護屋城(現在の佐賀県唐津市)を訪れた豊臣秀吉が、これは何かと長崎代官・鍋島信正に尋ねたところ、洒落で「唐墨」と答えたことに由来するとも言われている』。製法は、①『ボラの腹を注意深く切り開き、卵巣を包む膜を破らないように取り出』し、②『取り出した卵巣の形を保ったままていねいに水洗いし、食塩を塗りつけ、樽に収めて』三日から六日間の『塩漬けを行う』。その後、③『樽から出して水洗いし、真水を満たした半切桶に入れる。一昼夜後に水中で揉んで軟らかさを確かめ、卵巣全体が均一に軟らかになっていれば』、『塩抜きを終わる。この時の塩加減が味を左右するといわれる』。④『塩漬けと塩抜きとを終えた卵巣を、傾斜させた木板の上に並べる。一並べしたら』、『卵巣の上に別の木板を載せる。これをくり返して』五『段ほどに積み重ね、一晩放置して余分な水分を除く』。⑤翌日、『板を去り、卵巣全体の形を整え、直射日光を避けて乾燥を続ける。夜間には再び重ねる。水気を抜いて翌日日乾しにし、夜間は再び積み重ねる』という作業を繰り返しつつ、『表面に浮き出る脂肪分を適宜に拭き取りながら、約』十『日間の天日干しを繰り返して仕上げ』となる。『からすみは古くからギリシャやエジプトで製造されていた』ものが、『安土桃山時代に中国(明)から長崎に伝来したといわれている』。『中国からの伝来当時はサワラの卵を原料として製造されていたが』、延宝三(一六七五)年に『高野勇助が長崎県・野母崎付近の海域で豊富に漁獲されるボラの卵で製造することを案出した』とある。高野勇助を初代とする「元祖からすみ 髙野屋」は長崎県長崎市築町に今も続いている(リンク先は公式サイト)。

「其の腹に臼〔(うす)〕あり」所謂、「ボラの臍(へそ)」或いは「算盤玉(そろばんだま)」と呼ばれる部位。ボラは貪欲な雑食性で、水底の砂泥を泥沙ごと搔き食うために強い胃を持っており、その厚く筋肉が発達した幽門部(胃が腸に繋がる前庭部分)がその正体である。]

本日は「心」最終回の前日である――「記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。」……

 「死んだ積で生きて行かうと決心した私の心は、時々外界の刺戟(しげき)で躍り上がりました。然し私が何(ど)の方面かへ切つて出やうと思ひ立つや否や、恐ろしい力が何處からか出て來て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないやうにするのです。さうして其力が私に

   *

ある声「お前は――何をする資格も――ない――男だ――」

   *

と抑へ付けるやうに云つて聞かせます。すると私は其一言(げん)で直(すぐ)ぐたりと萎(しを)れて仕舞ひます。しばらくして又立ち上がらうとすると、又締め付けられます。私は齒を食ひしばつて、

   *

先生 「何で他(ひと)の邪魔をするのか!」

   *

と怒鳴り付けます。不可思議な力は冷かな聲で笑ひます。

   *

ある声「自分で――よく――知つている癖に――」

   *

と云ひます。私は又ぐたりとなります。

 波瀾も曲折もない單調な生活を續けて來た私の内面には、常に斯(かう)した苦しい戰爭があつたものと思(おもつ)て下さい。妻(さい)が見て齒痒がる前に、私自身が何層倍齒痒い思ひを重ねて來たか知れない位(くらゐ)です。私がこの牢屋の中に凝としてゐる事が何うしても出來なくなつた時、又その牢屋を何うしても突き破る事が出來なくなつた時、必竟私にとつて一番樂な努力で遂行出來るものは自殺より外にないと私は感ずるやうになつたのです。貴方は何故と云つて眼を睜(みは)るかも知れませんが、何時も私の心を握り締めに來るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食ひ留めながら、死の道丈を自由に私のために開けて置くのです。動かずにゐれば兎も角も、少しでも動く以上は、其道を步いて進まなければ私には進みやうがなくなつたのです。

 私は今日(こんにち)に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も樂な方向へ進まうとした事があります。然し私は何時でも妻に心を惹(ひ)かされました。さうして其妻を一所に連れて行く勇氣は無論ないのです。妻に凡てを打ち明ける事の出來ない位な私ですから、自分の運命の犧牲として、妻の天壽を奪ふなどゝいふ手荒な所作は、考へてさへ恐ろしかつたのです。私に私の宿命がある通り、妻には妻の廻(まは)り合せがあります。二人を一束(ひとたば)にして火に燻(く)べるのは、無理といふ點から見ても、痛ましい極端としか私には思へませんでした。

 同時に私だけが居なくなつた後(のち)の妻を想像して見ると如何にも不憫でした。母の死んだ時、是から世の中で賴りにするものは私より外になくなつたと云つた彼女の述懷を、私は膓(はらわた)に沁み込むやうに記憶させられてゐたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顏を見て、止して可かつたと思ふ事もありました。さうして又凝(ぢつ)と竦(すく)んで仕舞ひます。さうして妻から時々物足りなさうな眼で眺めらるのです。

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、噓を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。

   *

長い遺書の中で先生の回顧の時制が遺書を読む学生「私」との出会い以降の時制に完全に重なった叙述となって並走するようになるのは、実は上記の段落の部分が初めてである(遺書冒頭の遺書を送るに至った経過説明部分を除く)。

   *

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。

   *

その時、私は『明治の精神が天皇に始まって天皇に終った』ような気がしました。

『最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは、必竟、時勢遅れだ』という感じが烈しく私の胸を打ちました。

   *

私は明白(あから)さまに妻にさう云ひました。

妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、

   *

靜 「では、殉死でもなさったらいいでしょう。」

   *

と調戯(からか)ひました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月10日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百九回の全文であるが、一部で歴史的仮名遣を現代的仮名遣に変えるなど、手を加えてある)

   *

――『私だけが居なくなつた後の妻を想像して見ると如何にも不憫』だと感じた先生が、何故、自殺を決行するのか?――この質問に読者は――必ず――答えねばならない義務がある………そうして――その秘蹟の鑰(かぎ)は靜の最後の台詞である…………

附けたりだ……

芥川龍之介はやはり夏目漱石に祟られたと言ってよい。……

私の芥川龍之介「闇中問答」を読み給え――

 

 

2020/08/09

萬世百物語卷之二 八、男色の密契 / 萬世百物語卷之二~了

 

   八、男色の密契

Dansyokunomikkei

[やぶちゃん注:「江戸文庫」版の挿絵をトリミング合成した。左幅が「不聞坊」で、

 だれそ

と誰何している。右幅の門外の人物が「門彌」で、その頭上に、

たいし

 ない物

と応じている。門彌のそれは「大事無い物(=者)」の謂いで、密会時の合言葉であろう。門彌は帯刀しており、服も派手である。しかし、この門彌の顔の向きがおかしい。忍びやかに内へ声がけしたのなら、そちらを向いているべきだのに、彼は左背後の下方を見ている。しかも、その付近には何か得体の知れない奇体なものが地面部分に描かれていることが判る。何なんなのか、丸で判らぬのだが、考えようなら、門彌の衣服の下方からはみ出しており、何かの獣(狐か狸か)の体の一部か尻尾のようにも見えないではない(かの幻の異蛇ツチノコにも、あるいはエレクトしたファルスのようにも見える)。ただ、この奇体なものは、タッチが挿絵の他の部分とは明らかに異なっており、立体感がなく、或いは版本に誰かが描き加えた悪戯書きのようにも見える。なお、これもまた以前のように門彌の衣服が汚れたように見えるが、どうもこれは、この絵師が、衣服の色違いや立体感を示すために敢えて確信犯でやっている、模様付けであるということが判ってきた気がする。

 

 あだし夢、丹波の國篠山高仙寺は、橫川(よかは)の鷄足院(けいそくゐん)といへる天台宗の末寺なり。學徒に兵部卿の律師不聞坊(ふもんばう)といへるありけり。門彌(もんや)といへる少年に心ざしわりなかりけるが、住持のもとをはゞかり、心やすう、あいあふ事もかたかりける。されど、おもふ心のあさからざれば、夜ふけて人しづまるのち、おりおり、兵部卿が寮に通ひ、下(した)ひもうちとけ、曉は、はやうおき出で、歸ること、常なりけり。不聞坊もかゝる心ざしみるより、わりなき情に、おもひの火、たきます心地して、わするゝ隙(ひま)もなく、せちにぞうち歎きける。

[やぶちゃん注:「丹波の國篠山高仙寺」現在の兵庫県丹波篠山市南矢代にある天台宗松尾山高仙寺(グーグル・マップ・データ。但し、以下に見るように所在地は少し動いている)。皇極天皇四・大化元(六四五)年、インドからの渡来僧とされる伝承上の法道仙人が松尾山中腹に草庵を建て、十一面観音を祀ったのが始まりと伝えられ、九世紀初頭に最澄によって再興されたとされる。鎌倉時代には七堂伽藍に二十六坊を有する大寺であったとされる。戦国時代に矢代酒井氏が松尾山頂(グーグル・マップ・データ航空写真)に高仙寺城を築き、天正七(一五七九)年、明智光秀の丹波侵攻の際、戦ったものの、敗れて城は落城し、高仙寺も焼失している。江戸時代に入って再興され、往時の勢いを取り戻したが、明治になって衰退し、大正一〇(一九二一)年に現在の松尾山南東山麓に移転した。

「橫川の鷄足院」滋賀県大津市坂本本町のここにあった。現在の建物は「鶏足院灌室」と称して横川地区の潅頂道場となっている。

「兵部卿の律師不聞坊(ふもんばう)」不詳。「兵部卿」は、武官の人事及び軍事に関する諸事を司った兵部省の長官で正四位下。父親がそれであったのであろう。「律師」僧綱 (そうごう) の一つで、僧正・僧都に次ぎ、正・権の二階に分かれ、五位に準じた。

「門彌」不詳。

「おりおり」ママ。

「下(した)ひもうちとけ」「下紐、打ち解け」。言わずもがな、若衆道である。

「たきます心地」「焚き增す心地(ここち)」。男色の業火がめらめらといやさかに燃えに燃え上がるのである。]

 

 ある夜、また、夜ふけて來たり。寮の戶しづかに音するも、あたりしのぶがためなるべし。不聞は宵より何にまぎるゝことなく、その行衞のみおもひつゞくれば、はやうもきゝつけ、

「又、今宵も道の露わけさせ給ふがくるしさは、みづからの袖におきかへてなん。」

と侘(わぶ)れば、

「さればよ、ふしのまなり。」

と、そひぶしし、まいらせんうれしさに、

「小篠(をざさ)の露も何ならず。」

とたはぶれて、例(れい)のしめやかに、ふしぬ。

[やぶちゃん注:「又、今宵も道の露わけさせ給ふがくるしさは、みづからの袖におきかへてなん。」「今宵もまた、夜露の降りた道を踏み分けて来て下さったそのお辛さのお涙は、どうぞ、私めの袖に零(こぼ)して、しっぽりと参りましょうぞ!……」。

「さればよ、ふしのまなり。」「されば、さあ、早(はよ)う! 短い逢瀬と参りましょう!」で、「ふしのま」には直後の「小篠」(丈の低い笹。小さな竹の、その「節の間」ほどしかない短い時間に、「伏し間」(寝床)を掛けていよう。

「まいらせん」来て下さった。

「小篠の露も何ならず」前の門彌を迎えた際の詫び言を受けて「何のその」と言っているのだが、やや性的なニュアンス――勃起と射精――をも匂わせているようにも感ずる。

「例の」何時もの通り。]

 

 三更の月も入りがてに、隙(ひま)、くらうなりゆき、深夜の鐘に目覺(めざめ)て、何とやら、ものおそろしき心地しければ、やおら手さし出(いで)、門彌が方(かた)、うしろざま、髮よりなでさぐるに、それともわかず、長さ、大(おほい)さ、たゞ普賢ぼさちのめしものに、そひぶしたらんやうに、人とも覺えず。

[やぶちゃん注:「三更」夜間の時間区分の一つである五更の第三。凡そ現在の午後十一時又は午前零時からの二時間を指す。まあ、子の刻で午前零時と採ってよかろう。「月も入りがてに」とあるので、この日は陰暦の月の上旬(七日頃で午前零時頃で月の入りとなる)であったことが判る。

「普賢ぼさちのめしもの」「普賢菩薩の召し物」。]

 

 おどろくまゝ、手あたりも、つよかりけめ、かのものもおどろき、

「ひし。」

と兵部卿にいだきつく。

「心得たり。」

と、それよりは、上になり、下になり、

「一世(いつせい)の力(ちから)こくせん。」

と、くみあひ、ねぢあふほど、あたりの寮にも聞きつけ、上下(うへした)かけつけ、

「ぬす人や、入り來たる。こゝあけ給へ。」

と、こゑごゑにのゝしれど、戶は、人はゞかるがゆへ、内よりつようさしければ、あくべきやうなし。

 ものども、あまりにこらへかね、戶をおしやぶりて入る音に、ばけものは、たまらず、うせぬ。

 不聞のみ、魂(たましひ)もうするばかりに、息つきあへず、座せり。

「いかにや。」

と、やうとへど、もとより、はゞかる事なれば、えもいはず、たゞ、

「もののきたりて、おそろしき目、見つる。」

と計(ばかり)。

 それより垢離(こり)かき、うちふるひながら、「すぎやうだらに」など、くりて、

「みなみな、おそろしきに、伽(とぎ)して給へ。」

とて、やうやうに、その夜を明かしける。

[やぶちゃん注:「おどろくまゝ、手あたりも、つよかりけめ、かのものもおどろき」不聞坊がぎょっとしたため、つい撫でた手に力が入ってしまい、その妖しき物の頭部を強く指先で摑んでしまったからであろう、そ奴もまた、驚き、の意。「つよかりけめ」は上代の已然形だけで順接の確定条件を表わす手法である。

「一世の力こくせん。」「こくせん」がよく判らぬ。「極(ごく)せん」か。「一世一代の我が臂力(ひりょく)を出せる限りの極みまで強(しい)い出してやる!」か。

「上下」寺の寮内の上位の先輩僧から同輩、或いは下役の僧らに至るまで総て。

「やうとへど」「樣、問へど」。

「垢離(こり)かき、うちふるひながら」「垢離」は水垢離(みずごり)。神仏への祈願や祭りなどの際に行うそれで、冷水を浴びて身を清めること(元は禊(みそぎ)の一つである「川降(かはお)り」の音変化か。「垢離」は当て字である)。本文からは季節が判らぬが、挿絵は右幅上に色づた紅葉を描いてある。門彌(実は妖物)の着衣も秋らしい。さすれば、怪物の恐ろしさと深夜の水垢離によって、「うちふるひながら」(ブルブルと震えながら)というのは腑に落ちる。

「すぎやうだらに」「修行陀羅尼」或いは「誦經陀羅尼(ずきやうだらに)」の孰れかであろう。但し、そのような熟語としての仏教用語はないから、それぞれ「修行用の」或いは「誦経用の」、「陀羅尼」を記した経典を指すと考えてよかろう。「陀羅尼」はサンスクリット語「ダーラニー」の漢音写で、「総持」「能持」「能遮(のうしゃ)」と訳す。「総持」「能持」は「一切の言語からなる説法を記憶して忘れない」の意であり、「能遮」は「総ての雑念を払って無念無想の状態になること」を指す。ここは翻訳せずに梵語の文字を唱えるもので、不思議な法力を持つものと信じられる呪文。比較的長文のものを指す。

「くりて」恐ろしさと寒さで声に出して陀羅尼をまともに称(とな)えることが出来ないために、折った経典を上から下にぱらぱらと下ろしているのである。これは「転読」と呼ばれる読経法で、真言・天台等の密教系宗派や禅宗に於いて盛んに行われている「大般若会」(六百余巻の膨大な「大般若経」を読経したことにする儀式で見かけるやり方である。]

 

 ひそかに門彌にとへば、

「夕部(ゆふべ)にかぎり、深更まで賓人(まらうど)の入りきたるゆへ、いづ方へも出(いで)ず。」

と、いふにぞ。今更、そゞらだち、おそろしさもいやまして、まことの人をみるさへうるさく、佛にさんげして、さてぞ、戀は、やみける。

「いかなるものとも、しらず。」

とかたりしが、「法(のり)のおきてを、おかせる罪、にくし」と、おぼす佛のしわざにやありけん。

[やぶちゃん注:「夕部」はママ。「江戸文庫」版では『夕べ』である。

「賓人」客人。

「そゞらだち」「漫立(そぞらだ)ち」で「そぞろだち」に同じい。心が落ち着かず、そわそわするさま。

「まことの人をみるさへうるさく」恐怖が昂じてしまい、現実の普通の人を見ることさへ厭になってしまい。

「さんげ」江戸時代まで、本邦の仏語としての、犯した罪悪を告白して許しを仏に請うところの「懺悔」は、この清音表記が正しい。

「佛のしわざにや」というのは面白いものの、ちょっとねえ。]

萬世百物語卷之二 七、惡緣のちぎり

 

   七、惡緣のちぎり

 あだし夢、和泉の國日根(ひね)の郡(こほり)吹飯(ふけゐ)の潟(かた)に、柴崎與次(しばさきよじ)といふものあり。家まづしからず、家子(けご)も多かりければ、民とはいへど、そだち、いやしからず。あけくれは、おのが家ならぬ文(ふみ)の道など心にかけ、おりおりのあはれにつけ、山がつのことのは、見所すぐれけれど、色あるふしをいひ出づれば、深山木(みやまぎ)の中には、花めづらしき、やさ男なりける。させる心やありけん、まだ、女はぐせざりける。

[やぶちゃん注:「和泉の國日根の郡吹飯の潟」現在の大阪府泉南郡岬町(みさきちょう)深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海。現在は潟という感じではない。地名は古くは「ふけひ」で後に「ふけい」から「ふけ」に転訛した。「吹飯の浜」「吹井の浦」として万葉以来の歌枕である。

「柴崎與次」不詳。

「家子」「江戸文庫」版の読みに従ったが、無論、この読みもあるし、版本がそうなっているのであろうが、個人的には「いへのこ」と読みたい。主人以外の家人・下男・下女などの家の者。妻子も当然含むが、最後に示されたように未婚である。

「文の道」学問や文学の道。

「山がつのことのは、見所すぐれけれど」「山賤の言の葉、見所、優れけれど」。田舎の男ではあるが、そのちょっとした折りに口ずさむ和歌や感懐などを聴くと、なかなかに見所のある、相応の風雅の道を感じさせる者であるが。本来、「山賤」は山の中で仕事をする身分の低い猟師や木樵を指すが、「吹飯の潟」近くに住んでおり、次段で「蜑(あま)」(漁師)という表現が出るので、かく訳した。

「させる心」或いは、相手とする女に求むるところの、ある思いでもあるのであろうか。]

 

 又、「みふき」といへる女ありけり。おなじ蜑(あま)の子ながら、つくも髮とりあぐる風情(ふぜい)より、なべての女にたぐへては、やさしきかたにぞ見なされける。年は十七にぞなりける。多からぬ家居の里なれば、與次も日ごろ出入りして、「みふき」が父母までめやすきものにぞおもひける。都もひなもかはらぬは、男女(なんによ)の色このむ心にて、與次がさまに、いつしか、めとゞめ、

『此人ならぬ男にそひたらんは、いきたるかひもあるまじう、』

つみふかう、おもふなるべし。かりそめにもいちじるしきは、めもとにて、ふと、みる顏の色より、

「終(つひ)にかくれぬ心のふかさ。」

と、輿次、また、あはれにおもひ、いとうちとくる。

『飯匕(いひがい)、かれにこそとらすべき。』

などおもふがうち、中だちたづね出でて、女の父母に、

「かくなん。」

といはすれば、あいしれる中、

「こなたよりこそ、ねがはまほしき折ふしなれ。」

と、はやうも事なりて、婚姻とゝのひける。

 今ぞ心のむすぼほれも、下ひもとともに、うちとくるさまして、小夜のね覺(ざめ)にもいふ事とては、

「おくれ、さきだつ人の世のならひありとも、つま、もち給ふな。夫(をつと)に、ふたゝび、そはじ。」

など、ちかごとするも、つきなき。いまいましさにぞみへける。

[やぶちゃん注:「みふき」いろいろな漢字表記が想起されるが、地名に因んだ「御吹」か、或いは美しい黒髪が風に吹かれる「美吹」か。

「つくも髮とりあぐる風情」「江浦草髮取り上ぐる風情」。「つくも髮」は普通は「九十九髮」で「百年に一年足らぬ」老女の乱れた白髪を言うが、ここは原義の海藻を指している。諸辞書は小学館「日本国語大辞典」を始めとして、その原義の海藻種を正しく言い当てておらず、海藻フリークの私には非常に歯痒い記載ばかりである。これは思うに、現行でも「海髪」と漢字表記する通称「イギス」のことと思う。「延喜式」に「小凝菜」、平城京出土の天平一八(七四五)年九月廿日木簡に「小擬」(ママ)として出る參河國寶飫(ほお)郡篠束鄕から納められた海藻のそれであろう(他の木簡では「伊支須」「小凝」と記す。いずれも「いぎす」と読むものと考えられる)。心太の材料として重要視されたもので、私はこの「小凝菜」は通称「イギス」で、種としてはこの標準和名は、紅藻植物門真正紅藻亜門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イギス目イギス科イギス連イギス属イギス Ceramium kondoi に当てられている。但し、私は寺島良安の「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「海髮(いぎす)」の注では、マサゴシバリ亜綱スギノリ目イバラノリ科のカズノイバライギス Hypnea flexicaulis を指すと同定した(種のリンクはそれぞれ学名によるグーグル画像検索画像)。生体は孰れも紅色から暗紅色の房状のであるが、乾燥すると黒ずんでくる。但し、ここは髪の色よりも、ふさふさと豊かな髪の形容として用いているものと思う。漁師ならではの美称である。

「なべての女にたぐへては」普通一般の女たちと並べて見てみると。

『「みふき」が父母までめやすきものにぞおもひける』「みふき」の父母までも「感じのよいお方」だと思い、引いては「娘の夫として無難だ」と思ったのである。

「ひな」「鄙」。

「與次がさま」「與次が樣」与次の姿、見目、形。

「めとゞめ」「目留め」。

「つみふかう」禁断の(仏教では愛敬(あいぎょう)は妄執である)恋の道に落ちて。

「おもふなるべし」憧憬(あくが)るるようになったものであろう。

「かりそめにも」ちょっと見でも、といった謂いであろう。但し、ここでは主格が変わって与次からとなる。上手い展開の流し方ではある。

「めもと」ここは明らかに与次の視線からの「みふき」の目元である。

「飯匕(いひがい)」ご飯をよそう杓文字のこと。

「かれ」彼女。

「中だち」仲人(なこうど)。

「むすぼほれ」「結ぼほれ」。「結ぼほる」は「結ぼる」(二つの対象が解け難く固く結ばれている・縁を繋ぐ)と同じい。ここはそれを名詞化して、以下の初夜の下着の「下紐」解くに掛け、駄目押しで「うちとくるさまして」と繋がるようになっている。

「小夜のね覺(ざめ)」夜中にふと目が覚めること。

「夫(をつと)に、ふたゝび、そはじ」万一、あなたさまが先に身罷られるようなことがありましても、私は決して二度と夫は持ちませぬ。

「ちかごと」「誓言」。

「つきなき」「盡無き」。飽きて尽きることなく、何度もそう言い続けたのである。

「いまいましさにぞみへける」「みへ」はママ。ここはそれを聴かさせる与次の心内語。どちらか先に亡くなることは老少不定とはいえども、その仮定を何度も繰り返されることは、縁起が良くない、不吉な言上げとなるのが民俗社会であるから、与次のこの心の内での感懐(ぼやき)は無理なく首肯出来る。]

 

 ほどなく、「みふき」、なくなりけるを、與次も、ともに死するばかりにあけくれになげきけるが、さるものはうとき習(ならひ)に、おのづから、日がらたつまゝ、人もすゝめ、我もひとりねの床(とこ)さびしきより、家のみだらなるもうちすてがたふ、平松といふ在所より、緣あれば、所へだてゝ、女もとめける。

[やぶちゃん注:「日がら」「日柄」「日次」。日数(ひかず)。

「みだらなる」「猥らなる」。「みゆき」の死以後、自棄になった主人に愛想つかして下人らも遠ざかっていたものか、家内が荒れ放題になっているのである。

「うちすてがたふ」ママ。「打ち捨て難く」。

「平松」いろいろ探してみたが、「所へだて」た平松というそれらしい場所は見当たらなかった。なお、この「所隔て」たところから迎えたのは、「吹飯」の里では「みふき」の生前のことを知っており、その親愛の深さも知れ渡っているから、どの女も二の足を踏むだろうし、事情を知らぬ遠い在所の女ならよかろうということになったのであろう。]

 

 今宵こそ新枕(にひまくら)めづらしく、ふるめかしきもの、今には、いまいましき心(ここち)すれば、みな、とりかくしつ。

[やぶちゃん注:「心(ここち)」私の好みから当て訓した。]

 

 なにくれ、ひるのあつさに、

「井のもとにて、ゆあみん。」

と、下女に、ゆ、とらせつ。

 山のはの日かげ入りとはみえて、まだ、人がほも、たそがれならぬほど、もとの女、「みふき」が、かたちあらはにみへて、

「いかに。ちかひしことのは、たがへ給ふぞ。さりとて、今さら、うらむべきには、あらず。めづらしき人にあひ給はん、これ、ふかきを、きよむるくすりにこそあなれ。」

とて、何にかあるらん、一袋の粉(こ)をたらいの内にふりたて、手してかきまはす、と、みし。

 何かたまるべき、與次、おそろしさに魂入(たまい)りしを、人々、かけつけ、引きたてしに、やうやうひと心(ごこ)ちは付きながら、總身(さうみ)のふしぶし、いたみ、たえがたく、その夜、ほどなく、はてける。

 ねたみのふかさ、死しても、やまざる。つみふかきなるべし。

[やぶちゃん注:「なにくれ」再婚の初夜も済み、なにやかやとあった翌日の謂いか。盛夏だったようである。

「ゆあみん」「湯浴み(せ)ん」。水をかぶってもかく言う。

「ゆ、とらせつ」下女に井戸水を汲み上げさせて、傍に置いた桶に水を張らせたのであろう。

「人がほも、たそがれならぬほど」「人顏も、黄昏ならぬほど」。言わずもがな、「たそがれ」は夕暮れも深まって有意に暗くなって向こうから来る相手の顔がよく見えず、「誰(た)れそ彼(かれ)は」から「たそがれ」となったものである。

「ふかきを、きよむるくすりにこそあなれ」「深きを、淸むる藥にこそあんなれ」。体の深いところにある穢れを、清めて呉れる薬だという風に聴いております」。

「何かたまるべき」反語。恐ろしさをこらえることが出来ようか、いや、とても出来ぬ。

「魂入(たまい)りし」気絶した。但し、このような言い方はまず見かけぬ。

 本件の怪異の肝(キモ)は、亡妻が直に元夫の元に出現し、奇体な薬物によって、即座に死に至らしめるという点である。こうした展開は、この手の怨恨譚では似たようなものは少ない。圧倒的に後妻に対して出て、苛め或いは殺しながら、元夫には物理的危害は加えぬという展開が半数であろう。それだけにここはまず頗る新味がある。しかも最後のこのシークエンスが凄い!……桶の中に……妖しい白い粉を……さらさらと……落とし込み……妖しく美しい笑みを浮かべつつ……震えながら浸かっている素っ裸の与次の前で……左手で右袖を優美に抑えて、ゆっくりと右手で水を搔き回す「みふき」……顔は凝っと……与次を見つめている……この映像――なんとも言えず――「キョワい!」……

今日――先生の義母(「奥さん」)が死ぬ / 靜のある述懐 / 先生を襲う恐るべき病的な強迫観念 / 「氣の毒」な靜

 母は死にました。私と妻はたつた二人ぎりになりました。妻は私に向つて、

   *

靜 「これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなった。」

   *

『と云ひました。自分自身さへ賴りにする事の出來ない私は、妻の顏を見て思はず淚ぐみました。さうして妻を不幸な女だと思ひました。又』

[やぶちゃん注:先生が涙を流すのが直に描かれるのは本作の中ではこの一箇所だけで特異点である。]

   *

先生「不幸な女だ。」

靜 「何故?」

 靜、泣く。そして、恨めしく言う。

靜 「あなたは普段からひねくれた考えで私を観察していらっしゃる。だから、そんなことをおっしゃるのだわ。」

   *

○ある日ある時

靜 「……男の心と女の心とは何(ど)うしてもぴたりと一つになれないものでしょうか……」

先生「……若い時なら……なれるだろうね。……」

 靜、何か自分の過去を振り返って眺めているような感じでぼんやりと視線を宙に彷徨(さまよ)わせている。
 やがて、微かな――溜息を――洩らす。……

   *

 私の胸には其時分から時々恐ろしい影が閃めきました。初めはそれが偶然外から襲つて來るのです。私は驚ろきました。私はぞつとしました。然ししばらくしてゐる中に、私の心が其物凄い閃めきに應ずるやうになりました。しまひには外から來ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでゐるものゝ如くに思はれ出して來たのです。私はさうした心持になるたびに、自分の頭が何うかしたのではなからうかと疑つて見ました。けれども私は醫者にも誰にも診て貰ふ氣にはなりませんでした。

 私はたゞ人間の罪といふものを深く感じたのです。其感じが私をKの墓へ每月行かせます。其感じが私に妻の母の看護をさせます。さうして其感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私は其感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいと迄思つた事もあります。斯うした階段を段々經過して行くうちに、人に鞭(むちう)たれるよりも、自分で自分を鞭つ可きだといふ氣になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだといふ考へが起ります。私は仕方がないから、死んだ氣で生きて行かうと決心しました。

 私がさう決心してから今日(こんにち)迄何年になるでせう。私と妻とは元の通り仲好く暮して來ました。私と妻とは決して不幸ではありません、幸福でした。然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしいのです。それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします。

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月9日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百八回を元に、引用とシナリオを扱き交ぜた)

   *

 この最終段落の謂いは「こゝろ」の中で――何か非常に奇体な激しい違和感を感じさせる――シンパシーを感じることに強い躊躇を感じさせる――先生の告白の特異点のように私には思われるのである。学生の「私」とのちぐはぐな応酬と同じ違和感を覚えるのだ。即ち、

「さう決心してから」もう「何年」にもなる
『それは具体的に何年ですか?』(私の推定では最大長でも十年である。私の『「こゝろ」マニアックス』の『●「先生」の時系列の推定年表 )』を参照)
   ↓
「私と妻とは元の通り仲好く暮して來「た」
『……はぁ……』
   ↓
「私と妻とは決して不幸では」なかった、いや、確かに「幸福で」あった
『……そうは思っております、が……』
   ↓
「然し私の有つてゐる一點、私に取つては容易ならん此一點が、妻には常に暗黑に見えたらしい」
『そ、それは当たり前でしょう?! 何です? その傍観者みたようなおっしゃり方は!
?!……』
   ↓
「それを思ふと、私は妻に對して非常に氣の毒な氣がします」
『何ですって!?! 抜け抜け抜け抜け、よく、
そう言う謂い方が使えますねえ!?! ボケるのもいいかげんして下さいよ! 先生!!!』(……と、青春の真っ直中の純真な読者の中には、ここで「こゝろ」の本を壁に投げつける者さえもいるかも知れない。それは当然のことだ。嘗ての若き日の私も、やはり、そう思ったことを覚えているからである)


――しかし……さても――しかし、だ!

――いいかね?! 間違えてはいけない!

――先生はこの時――「死んだ氣で生きて行かうと決心し」ている――のである!!

――この時に至っても――である!!!

 

★この時とは「心」の連載は、後、二回分しかないことを指す。
「……こ、これでは……この遺書は……自殺告白の漸近線でしか、ないのではないか!?!」
とイラついた読者が絶対にいたはずだ。
「……どこで一体、我々に納得可能な自決の理由を本当に示して呉れるんだ!?!」
と焦燥を感じ始めた新聞読者が有意にいたに決まっている。

そうしてその望みは、どうなったか?

それは「こゝろ」を初読した私や、あなた方の大多数のように――そこでは最早、ページをめくれば、後二回で終わることが知れるから不安は最も甚だしいものとなる――この長過ぎる遺書にとうに痺れを切らし、我慢が辛抱たまらなくなって、ずっと先(せん)に遺書の終わりのパートを見てしまった読者も多いだろう。実際、「こゝろ」の学生の「私」でさえ受け取った直後にそうしているのだし、私もそうだったから。

そうして、その不安は、結果して、その危惧通りとなってしまったと感じた読者が、やはり。過半を占めたであろう。

その自死の決断とその理由は――一見――やはり先生よろしく――「不得要領のもの」であり――『ちょっと待ってよ!』『何じゃ? こりゃあ!?』という、聊か「失望させられた」ものとなって――多くの読者の前に立ち現れることとなるからである。…………

 

2020/08/08

萬世百物語卷之二 六、たのしみの隱家

 

   六、たのしみの隱家

Tanosiminokakurega

[やぶちゃん注:標題は「樂しみの隱家(かくれが)」と読んでおく。挿絵は「江戸文庫」のものをトリミング合成した。淡路左衛門の狩衣の部分がひどく汚損しているのが残念。]

 

 あだし夢、芳野山のふもとに、世をいとふて、おぼつかなう住みなす人ありけり。姓氏をあらはさぬがゆヘに、まことの名はしらねど、あたりの民はたゞに戶五郞とぞいひける。

[やぶちゃん注:「ゆへ」ママ。

「戶五郞」不詳。]

 

 寬文のころ、院の北面淡路左衞門といふもの、和歌このむ心より、よし野の櫻、名にめでゝ、彌生のさかりをつもり、はるかなる花見にぞまかでける、道行(みちゆき)ぶりに、馬子(まご)なんどいふいやしきものさへ、戶五郞の物語をしいで、

「『馬の上ねぶりさまさす』とて、世にかはれる人のよう。」

と、いひつゞけける。いかさまにも、今の代、めづらかなるすじにきゝなしけるに、

「幸ひ、所も此あたり。」

といふ。うれしく馬うちよせける。鄕(きやう)をさる事、十町ばかり、さがしき谷陰に、岸根(きしね)かたどり、茅(かや)ふける軒(のき)、ふたつぞ、みえける。淸水(しみづ)をわたりて、細道につき、程なう至りてけるに、かたへは我がふし所とみへ、かたへは子のすむ家にはありける。子は妻(め)をもぐして、常の民なり。家居の前、すこしへだて、椎柴(しひしば)の垣をしつらひ、衡門(かうもん)のいぶせき、何のふせぎになるべしともみへねど、かたばかりにぞなしける。

[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年~一六七三年。第四代徳川家綱の治世。

「院の北面淡路左衞門」「院」とは時制から見て、第一〇八代後水尾天皇(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位::慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)か、第一一一代後西(ごさい)天皇(寛永一四(一六三八)年~貞享二(一六八五)年/在位:承応三(一六五五)年一月~寛文三年一月二十六日。十歳の識仁(さとひと)親王(霊元天皇。第一〇八代の後水尾天皇の第十九皇子。在位は貞享四(一六八七)年まで)に譲位した)の孰れかとなる。「北面」北面の武士。院御所の北面(北側の部屋)に近衛として詰め、上皇の身辺を警衛・御幸に供奉した武士。平安後期(康和年間(一〇九九年〜一一〇四年)と推定される)に白河法皇(第七二代天皇)が創設した。院の直属軍として主に寺社の強訴を防ぐために動員され、重きを成した。後代になるが、知られた人物としては清盛の父平忠盛・源為義や、後者の子で頼朝の父である源義朝、そして藤原義清(後の西行)、遠藤盛遠(後に頼朝に挙兵を促した文覚)がいる。「淡路左衞門」不詳。

「つもり」「積り」で「見計らう」の意であろう。

「道行ぶり」「道行振り」。花見に参る連れと洒落(しゃ)れて。日本文芸では旅の途次の地名を次々と詠み込む表現形式を「道行文」と言うが、それを下僕(複数の可能性がある。後で「下僕など」と出るからである)・馬子(これも後に「馬子はら」と複数で出る)連れで、その馬子に旅程の各地の名所などを語らせる、という諧謔を成したのである。ここはまさに他でもない、賤しい馬子をそう見立て、馬子が田舎言葉丸出しで自慢げに語るというシチュエーションによって、滑稽な面白さが倍加している。

「馬の上ねぶりさまさす」原拠は不詳であるが、恐らくは作者のここでの意識は、秘かに、時制上はずっと後の松尾芭蕉の貞享五(一六八八)年「更科紀行」の一節、

   *

棧橋(かけはし)・寢覺(ねざめ)など過ぎて、猿が馬場・立峠(たちたうげ)などは四十八曲りとかや。九折(つづらをり)かさなりて、雲路にたどる心地せらる。步行(かち)より行く者さへ、目くるめき魂しぼみて、足さだまらざりけるに、かの連れたる奴僕(ぬぼく)、いとも恐るるけしき見えず、馬の上にてただねぶりにねぶりて、落ちぬべきことあまたたびなりけるを、あとより見上げて、あやふきこと限りなし。

   *

や、或いはその前の貞享元年の「野ざらし紀行」の陰暦八月二十日の「小夜(さよ)の中山(なかやま)」での句文、

   *

廿日餘りの月かすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、數里いまだ鷄鳴(けいめい)ならず。杜牧が早行(さうかう)の殘夢、小夜の中山に至りて忽ち驚く。

 馬に寢て殘夢月遠し茶のけぶり

   *

などが想起されていたものと私は思う。馬子の語りではあるが、やはり風雅な道行を匂わせる叙述となっている。

「人のよう」ママ。「人の樣(やう)」。今の世には最早、稀れなる隠者の様子。

「すじ」ママ。「筋(すぢ)」。

「鄕」人里。

「十町」約一キロ九十一メートル。

「さがしき」「險しき」「嶮しき」で山谷がけわしく、危険なさま。

「岸根かたどり」谷水の流れの傍らにそれ(隠者の住まい)らしく作って、の意か。

「みへ」ママ。「見え」。以下複数、この形で出るが、これ以降は注さない。

「ぐして」「具して」。

「椎柴」既出既注。椎の木のこと。ブナ科クリ亜科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata・スダジイ Castanopsis sieboldii の他、近縁種のマテバシイ属のマテバシイ Lithocarpus edulis も含んめて総称される。実を食用にし、私の大好物である。

「衡門」二本の柱に横木を掛け渡しただけの粗末な門。冠木門(かぶきもん)。転じて貧しい者又は隠者の住居をも言うが、ここは以下でそれを「いぶせき」(不快な感じがする・得体が知れず、気味が悪い)もので、「何のふせぎになるべしともみへねど」とあることから、えらくごっつい感じの奇体な門のようである。しかし「かたばかりにぞなしける」とあるから、頑丈なものでもないようだ。或いは、俗人を拒むような粗野な感じの冠木門なのであろう。]

 

 左衞門、みるに、心、きよう覺へければ、おのづから敬心(けいしん)生じて、道の傍(かたはら)にて馬よりおり、下部(しもべ)などをもこゝにとゞめ、ひとりぞ行き、ものしける。

[やぶちゃん注:「きよう」「興」。面白み。

「おのづから」自発の意。自然と。

「ものしける」平安時代に多く用いられた婉曲表現の代動詞。ここは「家に向かって声を掛けた」の意。]

 

「道まどふ旅人なるが、火ひとつ給へ。」

といふをしるべして、戶五郞が住める方の竹ゑんに腰かけて、そこら見まわせど、調度(てうど)めくもの、ひとつも、みへず。書などいふものもなく、風流(ふうりう)事(こと)さりて、只、兀然(ごつぜん)たる翁(おきな)のみ、何心なげに日のさす方にせなかをあぶりて座したり。

[やぶちゃん注:「しるべ」きっかけ。

「竹ゑん」「竹緣」。

「見まわせど」ママ。

「事さりて」「殊さりて」か。「殊なり」という形容動詞の語幹を接頭語のように用いて「別して払い去って」の意でとっておく。

「兀然」読みは「こつぜん」でもよい。凝っと動かないさま。]

 

 左衞門、しづかに、

「此あたりの古蹟、いかに。」

と問ふさまして、いひ續くるは、

「是れよりあとの宿にて聞きさぶらふが、翁の事にや。籬門(りもん)を出でざる事、三十年なりと承はる。まことに人の國なる朱陳村(しゆちんぞん)といふにて、世をはなれたる人ぐさのためしにいひ置きさふらふに、かくまで世の事きかぬ山ぢべに、淸き心の瀟洒(せうしや)たるは、もろこし人にもおとるまじ。いと殊勝なり。」

と再三かんじける。

[やぶちゃん注:「あとの」自分の物理的な位置から後ろの意で、先に泊まったの意。

「籬門」籬(まがき)を巡らした家の門。

「朱陳村」「朱」と「陳」は人の姓で、中唐の名詩人白居易の五言古詩「朱陳村」(八一〇年頃の作)に描かれる彼が作り上げた桃源郷のような村のこと。現在の江蘇省徐州市の北の境にある豊県(漢の高祖劉邦の生まれた地とされる)を去ること百余里(唐代の一里は約五六〇メートル)の山中にあって、市街地からは遠く離れていることから、風俗が純朴で、村中は朱と陳の二姓の者だけであり、それぞれが代々互いに婚姻し、その土地に安住して生活を楽しみ、皆、長命であると詠われている。「維本文庫」の当該詩篇をリンクさせておく。

「世をはなれたる人ぐさのためし」「世を離れたる人草の例」。遁世した人々の当代の代表的な例。

「山ぢべ」「山地邊」。]

 

 戶五郞、笑って、

「いやとよ、それは人の申(まうす)なしなり。御覽ぜよ、門外に桑の木の森々たる陰さふらふが、此十五年以前とおぼし、夏の夕暮、涼みがてらにまかでたり。しかれば門出(いで)ずとも申されず。げには、時に用もなく、又、人にもとめなき身に侍へば、おのづから里にはさらに出でず候なり。」

と答ふ。

[やぶちゃん注:「人にもとめなき身」他者に求めねばならぬものとてない身。無論、その逆の謂いともとれ、表向きはそうした謙遜の辞のようでもあるが、寧ろ、やはり彼からの世人との関係性へのベクトルが全くないというところにこそ遁世の徹底があるように私は感じる。]

 

 左衞門、

「さて翁には元より此所(ここ)の生まれにて侍(さふ)らふや。家の北なるは息(そく)にておはすや。」

と問ふに、

「かくねん比(ごろ)にとはせ給ふは、いかさまにも、山住(やまず)みこのませ給ふ御心(みこころ)とみえへたり。さらば、身のあらまし御慰(おなぐさみ)に申(まうす)ベし。我は、そのかみ、さる事ありて、兄弟ひきつれ、都を出(いで)、御出(おいで)あれば、道なる村、むかふの岡に居をしめ、山田の畦(あぜ)の、わづかに五十畝(せ)ばかりなるを、兄と共に耕して、やうやう飢(うゑ)をもまぬがるゝ計(ばかり)に世渡り候(さふらふ)を、兄なるもの、子ども、多くなりもて行き、娵子(よめご)なんどいふものもさしそひ、それよりは屬(ぞく)多(おお)うなりて、食事もたらぬがちになり候へば、『あさまし』とおもひ、田は、みな、兄にゆづり、我(わが)妻子をば引きつれて、何にすぎわひもしらねど、先(まづ)うつろひぬるを、里人どもあはれがり、此屋所(やどころ)をあたゆれば、終(つひ)に爰(ここ)に住(すみ)付きたり。ある時は藥をとり、鄕の庸醫(やぶい)にしろかへ、春は峯の早蕨(さわらび)をかてとし、また葛(くづ)なむといふものをほりて、朝げのけぶり、やうやうに郞等(らうだう)をやしなひ候へど、命絕えぬばかり、いかに粥(かゆ)をだにつぎゑぬを、また鄕人(がうにん)のあはれびて、山田三十畝を得させけるほど、一子もすでに人となり、よく耕し、いとまのおりおりは、ちんとりて、人にちからをかしなどして、今は、五、三人、かれが、はごくみにて、翁も心やすう、老のねざめをあかし候ふ。」

[やぶちゃん注:「御出あれば」(ここまでおいでになられたのであれば、その途中の「道なる村」の「むかふの岡」に住まい。

「五十畝」凡そ千五百坪ほど。

「娵子」嫁。

「すぎわひ」ママ。「生業(すぎはひ)」。世を渡るための生計(たつき)。

「うつろひぬるを」「移ろふぬる」今のこの場所に移り住んだところが。

「あたゆれば」ママ。「與ふれば」。与えてくれたので。

「藥」薬草や生薬。

「庸醫(やぶい)」音は「ヨウイ」。この読みは国書刊行会「江戸文庫」版のそれを採用した。日中辞典を調べたところ、「藪医者・へぼ医者」とあった。

「しろかへ」「代換へ」。金に換えて。

「早蕨」芽を出したばかりのワラビ(シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinum)。食用となるが、あく抜きが必要で、別に近年、発癌性のあるプタキロサイド(ptaquiloside)が微量に含まれていることが明らかになっている(約0.050.06%含有)。なお、ウィキの「ワラビ中毒」によれば、『人でも適切にアク抜きをせずに食べると』、『中毒を起こす(ビタミンB1を分解する酵素が他の食事のビタミンB1を壊し、体がだるく神経痛のような症状が生じ、脚気になる事もある)。一方、ワラビ及びゼンマイはビタミンB1を分解する酵素が含まれる事を利用して、精力を落とし』、『身を慎むために、喪に服する人や謹慎の身にある人、非妻帯者・単身赴任者、寺院の僧侶たちはこれを食べると良いとされてきた』事実があった、とある。

「葛」マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata。本邦では古くより食用(長く大きな根から採れる葛粉)とされ、根・花・葉が生薬とされ、また、天然繊維の素材としても新石器時代から用いられてきた歴史がある。

「いかに粥(かゆ)をだにつぎゑぬを」「ゑぬ」はママ。なんとまあ、一椀の粥でさえも注(つ)ぐ得ぬというありさまであったので御座るが。「つぎ」は或いは「繼ぎ」で、「たかが粥を食うことさえも続けることが出来なくなったが」の意ともとれる。

「三十畝」約九百坪。

「いとまのおりおり」ママ。「暇(いとま)の折々(をりをり)」。

「ちんとりて」「賃取りて」。報酬を取って。

「五、三人」三人、四人、五人と。不定数ではなく、子が順調に生まれて増えたことを言っていよう。

「はごくみ」「育(はごく)む」(「育(はぐく)む」に同じ)の名詞化。]

 

 左衞門、

「かゝる御物語承はるに、たゞ人ともおもはれず。わかきより聖(ひじり)の書なんどいふものを、さだめて、おほく見給ふらん。」

と、才の程、あやしがる。

「いや、何の書という事をか、わかち侍らはん。それ、翁のわかきほど、都にありて、儒學・神佛の學び、くらからざる智者といふ人を、しれるばかりも、つくづく指を折りて考ふるに、かへりて無智なる雜人(ざうにん)におとりたるこそ多けれ。其うへ、名利(みやうり)の心といふは、智よりたきますほのほとこそみへたれ。なまじひに神佛のことわり、さかしげに口にのみとき、後の世おそるゝ事もなく、妙(めう)なる鬼神のさたまで、ようもしらざる心より、なきものにいひおとし、さらば、人の世の敎(をしへ)なる仁義とかやをも、口にかわりて、心にわらへず。わかきは色にもまよひ、老ひたるは利をむさぼる、恥とはしらで、いにしへの人、ついへなきいましめにかこつけ、『種子(しゆし)をたつは、聖のおしへ、不孝の數なり』など、かしこういひまぎらし、獨(ひとり)をつゝしむまことのまもりもなく、たゞに人まへを、かたき事にこしらへ、さながら、ゑぼし・かり衣(ぎぬ)きたらん人の、小田かへす風情に、時世に遠きおろかさは、ものしりのうへにみえ侍れば、我れ、つくづくおもふに、書と道と、かくまで、へだてあるものにや。とにかく、智は我慢增長のもととこそおもひ侍れ。生死(いきじに)は生(しやう)ある習ひ、何ものか、のがれ侍らん。今更、さして、おどろき、心を入るべき事にもあらず。一日なりとも、ながらふるうち、こゝろめやすく、月花にもめでず。妻子をも、おのがまゝにおもひすて、慾うすからん道をねがはんには、端座(たんざ)に過ぎたることあらじと、道は朝夕に御覽ぜらるゝさまのみにて、月日を送り侍る。おのづから、いとなむ事なければ、心も、うごかず。慾、生(しやう)ぜねば、身、やすし。波しづかにして月影の圓(まど)かなることはりをも、あらましは、ゑとくし侍るやうなり。しかし、廿年ばかりもや過(すぎ)候はん、椎柴の袖なる人、一册をたづさへて給ひしが、名もなく、内にはたゞ稱名(しやうみやう)・經の事のみくわしうときてありけれど、「淨名(じやうみやう)經」といふものをみねば、しらず。只(ただ)何となくおもしろさに、目はなさで言(いひ)侍りし。いつしか書をもうしなひ、老のひが心に、ひとつふたつの覺(おぼえ)さへ、なくなし侍る。」

と、語るけはい、たゞ人ともみへねば、左衞門、あまりにかんじ、物語りのおもしろさ、おぼえず日暮にかゝるを、馬子はら、立ちいそぐがうへ、問ふベき事もなかばにして立ちさる。

 子なるものゝ家に立(たち)より、一禮するに、かれがさま、親におとれるものゝ、一向(いつかう)の村郞(そんらう)なれど、淳朴(じゆんぼく)のていなる古風ありて、殊勝なりし、とかたりし。

[やぶちゃん注:「智よりたきますほのほとこそみへたれ」「みへ」はママ。下らぬ人「智より焚き增す炎(ほのほ)とこそ見えたれ」。

「口にのみとき」「口にのみ說き」。

「妙(めう)なる鬼神のさたまで、ようもしらざる心より、なきものにいひおとし」玄「妙なる鬼神の沙汰」(存在の在り方)「まで、良うも知らざる」半可通の「心」から、そんなものは総て「無きもの」であると、「謂ひ落とし」。ここでこの老人は鬼神を相応の存在として認めていることが判り、その点に於いて彼は老荘思想的人物であるように私には思われる。

「口にかわりて」ママ。「口に變(かは)りて」であろう。その時々の謂い方で同じ、人物でも全然違ったことを言って平気でいる。あまりのいい加減さに呆れて、「心にわらへず」ということであろうか。

「ついへなき」「費へなき」。金のかからない、の意か。

「種子(しゆし)をたつ」女犯(にょぼん)の戒めを言っているものか。

「聖のおしへ」(ママ)は「不孝の數なり」ということで採る。女と交わり子を成すことは不孝の一つであり、「聖の教(をし)へ」としての女淫の戒めを守らねばならぬ、と表向きは「かしこういひまぎらし」(「賢く言ひ紛らし」)ておいて、その実、「獨(ひとり)をつゝしむまことのまもりもなく」と続けていると読む。ただ、若干、この部分、読みが採り難くなっている。大方の御叱正を俟つ。

「ゑぼし・かり衣(ぎぬ)きたらん人」公家の官人や武家。

「小田かへす風情」「新小田を返す風情」の意。「新小田」は「田を耕(かえ)す」ことから「かへす」を引き出す枕詞で意味はない。ここは掌を返すように、言っていることと反対の行動を欲望に身を任せてとるエゴイスティクな豹変のさまを批判して言ったもの。

「書と道と、かくまで、へだてあるものにや」ありがたいとされている多くの書物に書かれている内容と、実際に人間が生きて行く「道」、真の生き方としての行動とは、かくも、絶望的なまでに隔たりのあるのものなのだろうか?

「我慢增長」個人の持つ我(エゴ)と慢心から、邪(よこしま)なる智が際限なく増長すしてゆくこと。

「こゝろめやすく」「心目安(=易)し」。傍から他人が見ても、見た目がよく、無難で、感じがよいように生き。これはすぐ前の「生死は生ある習ひ、何ものか、のがれ侍らん。今更、さして、おどろき、心を入るべき事にもあらず」と合わせると、例の卜部兼好の「徒然草」で「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮らすほどだにもこようなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世に、醜き姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」(第七段)の章段との親和性が認められる。後の「妻子をも、おのがまゝにおもひすて、慾うすからん道をねがはん」というのも、「徒然草」の当該部の裏返しで、いやにそれが臭ってくるのである。

「月花にもめでず」月だの花だのを殊更に言い立てて賞美する風雅なんどとかいう気持ちは持たないことを言う。ここは鵜の目鷹の目の風流狂いを拒絶するというのは、やはり兼好が「徒然草」で「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」(一三七段)と言っている内容と重なる。それがあまりに見え見えで、少し興覚めがする。そもそも、兼好自身が言っていることと、実際の生々しい生きざまとの乖離を起こしていたことを知っている今の我々には、高校古文の定番なだけに、最後になって私などは鼻白んでしまう台詞なのである。

「波しづかにして月影の圓(まど)かなることはりをも、あらましは、ゑとく」(「會得」)「し侍るやうなり」ここなんぞはまさに禅の公案みたような謂いである。

「椎柴の袖なる人」喪服を着た人。椎の樹皮が喪服の染料になったことに由る。但し、ここは墨染めの衣で、僧を指していよう。

「名もなく」書名も無く。

「稱名・經の事」後の「淨名經」との謂いからは「稱名經」というお経の名のように見えるが、そんな経典はない。「稱名」は仏・菩薩、特に阿弥陀如来の名号である「南無阿弥陀仏」を称えることを指し、そうしたことを説いた「經」典のことを指すと採っておく。但し、ここは後の「淨名經」の誤記なのかも知れぬ。

「淨名經」は大乗仏教の奥義に通じ、雄弁で巧みな方便を用いて、仏教流布に貢献したとされる維摩詰(ゆいまきつ 生没年未詳:維摩居士。サンスクリット語ヴィマラ・キールティの漢音写。古代インドの商人で釈迦の在家の弟子とされる)という長者が登場する経典。ウィキの「維摩居士」によれば、『古代インド毘舎離城(ヴァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる』。『なお、彼の名前は』「維摩経」を中心に、「大般涅槃経」などでも「威徳無垢称王」などとして『挙げられている』。従って、『北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから』、『彼は架空の人物とも考えられる』一方、『実在説もある』とある。さて、『彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆』(しょうもんしゅう)『は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また』、『弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって』、『誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた』。『そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している』。『大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された』とある。

「けはい」「氣配」。

「馬子はら」「はら」は「原」で「ばら」が一般的。複数を表わす卑称の接尾語。「ども」。

「一向の村郞」全く以ってひた向きな一途な村の男。

「淳朴」かざりけがなく素直なこと。人情が厚くて素朴なこと。純朴。]

ブログ・アクセス1400000突破記念 梅崎春生 失われた男

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年四月号『個性』に発表され、後の単行本「B島風物誌」(同年十二月河出書房刊)に収録された。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。

 一部、段落末に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが1,400,000アクセスを、昨日、突破した記念として公開する【202088日 藪野直史】]

 

   失われた男

 

 芝という兵隊と三浦という兵隊のことを、ぼくは書いておこうと思う。此の二人の兵隊の印象は、その当時はそうでもなかったけれども、月日が経るにしたがってますますぼくの胸の中で鮮烈なものとなって行くようである。それが何故であるか、ぼくにはっきりは判らない。ただこのふたりの兵隊のことを思い出すと、あるやりきれない感じが、たとえば身体の内側で何かがぎゅっと収縮するような気分が、いまでもぼくをおそってくる。当時この両人をぼくは冷静に眺めているつもりであったけれども、あるいはぼくは自分の胸の底にあったもやもやしたものを、無意識のうちに自分の盲点におしやっていたのかも知れないのだ。もっともこのような盲点を利用することで、ぼくは苦しかったあの軍隊生活を、さほど傷つきもせず通りぬけてきたのではあったけれども。

 ぼくがこの二人と一緒にいたのは、ある海沿いのちいさな町の外れにあった海軍警備隊である。戦争も末期のころであったから、此の部隊も応召の国民兵が相当な数をしめていて、芝も三浦も応召の老兵であった。もちろんぼくも応召兵で、いい加減歳をくった兵隊であったのだが、芝にしても三浦にしても年齢からいえば、ぼくよりも確か三つ四つ上であったと思う。二人とも体力のおとろえが、すでに姿勢や動作にあらわれはじめている年頃であったので、軍隊の勤務がぼくなどよりもずっとこたえていたことは間違いない。そうでなくてもこの部隊は、兵隊にとっては他処(よそ)よりも遙かにつらい勤務の部隊といわれていた位なのだから。

 ぼくたち三人は大層親しかった。しかし親しかったというのは、お互いが好意をもち合って仲良くしていたという意味ではない。他に話し合う相手がいなかったので、いわば余儀なく親しんでいるという形であった。何故というと此の警備隊でも、ぼくの分隊だけは特別で、応召の老兵というのはぼくら三人だけであったのだから。あとはすべて志願や徴募のわかわかしい兵隊で、その間に伍してぼくらが人並みにやってゆくということは、並たいていのことではなかったのだ。親しかったといっても、しょっちゅう話し合ったり行動を共にしていたという訳では絶対にないので、だいいちそんな余裕や閑暇のあるようなゆっくりした勤務なら、後に述べるような事件は起きなかっただろうと思う。ぼくら三人はもっとも下級の兵隊であったから、朝の起床時から夜の就寝ラッパまで、文字通り寸秒を惜しんで、勤務に食事当番に甲板掃除に追い廻されていたのである。ぼくら三人がゆっくり顔を合せられる時間というのは、ほとんど巡検後のひとときであって、そのひとときですら三日に一度は整列のために乱されてしまうのであった。[やぶちゃん注:「甲板」個人(昭和一九(一九四四)年九月松山海軍航空隊甲飛十五期で入隊された方)サイト「巡検ラッパ」の「海軍の基礎教育」のページに、『兵舎内は中央の通路をはさんで居住区と寝室部分とに分かれ』、『中央通路は甲板と称してデッキ掃除の競争の場となる』。『兵舎の中央部分は分隊士、教員の居住区と事務室となっている』とあった。]

 人間がその生活に、わずかの自由の時間をすらもたないということは、こんなにも辛いことなのか。きたない話だけれど厠(かわや)にしやがんでいる時などに、ぼくはよくそんなことを考え、溜息をついたりすることがしばしばであった。忙しいなかの厠というものは、ふしぎにそんな鮮明な反省をぼくにうながしてくるのが常で、その反省を急いで断ち切るようにして、ぼくはいつも厠を飛びだすのであったが、すると次の仕事がすぐ待っていて、血相かえてぼくはそれに立ち向わねばならぬという具合であった。つまり厠に入ることすらも、時間を最大限にやりくりしないと不可能な位であったので、顔を洗ったり歯を磨いたり、まして時間時間に莨(たばこ)を自由に喫(す)うことなどは、ぼくらにとってはもはや夢の彼方であった。うっかりすると一日中莨を喫うひまがなくて、夜の巡検が終ってからやっと一本喫いつけるような日もあった程だから、三人のうちで最も莨好きの三浦などは、この点だけでもやり切れなくなっていたに違いない。つねづね巡検後の莨盆(喫煙所のこと) に、三浦と芝とぼくの三人がおちあうことがあると、そんなときにその辛さを先ず口に出すのはきまって三浦であった。ぼくらが何時もおちあうのは兵舎の蔭の小さな莨盆で、入口の近くの大きな莨盆には下士官や兵長が莨をすいながら雑談しているから、自然とぼくらは吹きよせられる落葉みたいに兵舎の蔭にあつまって、ほそぼそと莨をすいつけるという訳であった。寒い北風に星群がまたたくのを眺めながら、ぼくらはいつも低い声で話をかわすのだ。ぼくらに共通の話題はおおむね今の境遇なので、詰も自然とそこに落ちるが、ふと話がそれて、故郷や過去や知っている女のことなどに走ることもある。そんな時いちばん熱心なのは三浦で、芝はおおむね黙っている。黙って煙草ばかりふかしている。やがて莨を喫いたいだけ喫ってしまうと、三人ともへんに興ざめたような表情になって、事業服の袖をかき合せながら、風のなかを小走りに薄暗い兵舎の甲板にもどってくるのである。[やぶちゃん注:「事業服」「事業服」海軍軍装の一種の正式呼称。正装の軍服ではないが、作業服の一ランク上のものであったらしい。ミリタリーグッズ・革ジャンの専門店「中田商店」のこちら(レプリカ)のようなものかと思っていたが、終わりの方で「白い事業服」とあるので、探したところ、白い上着は現物をサイト「Military Force」のこちらこちらで確認出来た。しかも、これには記名があり、その交付先は梅崎春生が属した佐世保海兵団の佐世保軍需部のものであった。]

 三浦は背が低く、瘦せて蒼白い顔の男であった。目鼻立ちはととのっていたが、額が抜けるようにはげ上って、身体つきもなにか不具じみたぎくしゃくした感じであった。もっとも三浦は身体がちいさなくせに、身にあまる事業服をあてがわれて着こんでいたから、なおのことその印象を深めていたのかも知れない。彼はすべての作業に、他人におくれをとることがしばしばであった。ことに身体がちいさいということは、ハンモック吊りには致命的なことなので、その点でも彼はひとかたならぬ労苦を忍んでいたようである。彼はそれをカヴァするために、短い手足を水車のように動かすことで、それをおぎなおうとしているらしかったが、それは必ずしも成功しているとは言い難かった。彼が吊床と組打ちしているところは、まるで水に溺れかかった人間が必死にもがいているようで、その瞳にもやはりすさまじい真剣ないろを浮べているのである。そういう点では彼は三人のうちでもっとも勤務に熱心であるといって良かった。しかし熱心だといっても、それは立派な兵隊になろうと念願しているわけではなくて、実をいうと、彼はただ自らの失態によって打たれたり殴られたりすることが一番恐かったのである。そのこと々ぼくは、彼と同じ分隊になってから程なくして感知したのだが、彼にしてみれば自分のそんな気持の動揺を、他人の眼からひたかくしにさえぎろうとしていたようであった。ぼくは彼ほど肉体的な苦痛にたいして敏感な男を、今までにあまり見たことがない。しかし苦痛といっても、たとえば腹痛とか頭痛のような痛さなら、彼は人並みにじっと堪え得るのである。彼がおそれるのは、外部から加えられる苦痛であった。いや、苦痛そのものというよりは、苦痛の予感に自分の身をおくことなのである。苦痛の瞬間が近づいてくるあのじりじりした時間が、彼にはもはや神経的に堪えられぬものらしかった。丁度注射などのときに、注射そのものの痛さより、それを待つ間の時間を辛いと、誰もが感じることがあるように。彼はことにその傾向がひどかったのだ。

 たとえば巡検後に総員整列がかかって、兵舎の蔭にならんで制裁の順序を待っているときなど、三浦はもともと血の気のうすい顔色をなおさら真蒼にして、伸ばした手の指をぶるぶるふるわせている。時には肩の辺までが、がたがた慄えだしたりするのだ。三浦の手の指は細くて、すんなりしている。掌は四十に手が届こうというのに、若い女のようにしなやかな皮膚である。戦争前は地方の小都会で、株屋の手代かなにかをやっていたというのだが、それにふさわしい小さな掌であった。その掌も毎夜の吊床訓練で、いつもひびわれたり血が流れたりしているのである。整列の時の三浦の姿をみていると、まるでこの掌だけが三浦の身体から分離してどこかに脱出したいともがいているように見えた。そんなときの三浦の眼はしろっぽく見開かれて、ほとんどなにも眺めていないように見えた。この掌がかつては味わった、軟かい女の体や紙幣や株券の感触の世界の記憶が、その時三浦の全身を緊迫的な衝動とともにみたしているのかも知れなかった。いわば彼は苦痛の予感と嫌悪にはらわたをまっくろにさせて、尻を棒で打たれる順番を指をがくがくさせながら待っているらしかった。しかし彼がどんなに力んだとしても、この順番の制裁は逃れるわけに行かなかったのだ。もしほかのものを代償としてこの場をのがれることができるなら、彼はほとんどどんなものでも代償としてさし出しただろう。彼の慄える指や空白の瞳は、無言のうちにそんなことを語っているように見えた。どんなにか彼はこのような苦痛の予感から逃げだしたかっただろう!

 先にかいたようにこの性格の弱味を、しかし彼は充分弱味として意識していて、それを他人に知られまいとして極度に努力していたのである。そして制裁が済んでしまうと、ひとつの苦痛が完了したというある解放感が、それゆえ俄(にわ)かに彼の身内をいっぱいにして来るらしく、そのあとでぼくらが夜寒の莨盆に落ちあうと、三浦の口調は一種の虚脱したようなはれやかさを帯びていて、それはぼくらにもすぐ感じられた。しかし彼はそれをまたぼくらから隠すためか、そんな時彼の声調は、へんに詠嘆をまじえた感傷的な調子になっていて、自分の故郷の小邑(しょうゆう)や過去の生活を語りはじめたりするのも、そんな時が多かった.。三浦の声は早口で、細く金属的である。しゃべっているうちに、彼はすぐ自分のつくった気分にはいってしまうらしく、最初のわざとらしい詠嘆の口調がぴったりと身についてきて、彼はもはや本気で過去の生活をまざまざとしのぶ風で、そこにふたたび帰って行けない自分を嘆き始めたりするのだ。彼がそんな時口に出すのは、牧江という女の名前で、その女と彼は恋仲になったまま、召集されてきたというのである。こんな年齢のこんな貧寒な男に、恋人が出来るなどとは、一寸ぼくも信用しかねるのだが、事実はいざ知らず、三浦の心の中に定着された牧江の存在は、三浦にとってはうごかすべからざる真実であるらしかった。そして、そうしているうちに、突然彼は自分の現在の状態への嫌悪を押えきれなくなってしまうのだ。早口の声が妙に不きげんに濁ってくるのである。そして彼の語調には変な強がりがまじってくる。ぼくは何時でもこんな時、道に三浦の弱さを嗅ぎとったような気特になり、何故か舌が重くなって不興げに相槌(あいづち)をうつたりするのだが、芝にしてもぼくと同じ気分になるのか、いつものぼそぼそした低い声をつぐんで、横をむいて莨(たばこ)はかりふかしているのが普通のようであった。二三本莨を喫いちらすと、ぼくらはいつもより一層しらけた気特になって、莨をそれぞれ踏み消すと、小走りで兵舎の甲板に戻ってくるのであった。ぼくらの吊床は甲板のすみに三本ならんで吊ってある。そんな夜はいつもより身体が冷えているから、なかなか寝つけない。事業服の上衣をたたんで枕にしたのに耳をつけていると、耳の底で暗い幽(かす)かな海鳴りのような冷えた血管の響きすら聞えてくるのである。そんな夜に寝つけないのはぼくばかりではない。芝や三浦の吊床などもときどき微かにゆらいで、いらだたしそうな溜息がぼくの耳まで伝わってきたりするのである。三浦の吊床はきちんと整頓されているが、芝の吊床はいつも曲っていたり吊繩がよじれたりしている。ちょっと調整すれば寝心地よくなるのだが、彼はそんなことをしないのだ。よじれてもよじれたままで放っておく。芝という男は、そんな風な男なのである。

 

 芝のくぼんだ眼は気の弱そうな暗い色を常にたたえている。軀(からだ)は先ず先ず均勢がとれているが、動作が変に間延びしたようなところがあって、それがわざとやっているようにもとれるのだ。何かやっていても、それは手足や身体だけのことで、頭では別のことを考えているように見える。ぼくら三人のうちではまず一番身体は丈夫だし、三浦あたりよりもずっと兵隊としての仕事はうまくやれるのである。それにもかかわらず、彼は兵長や下士官から一番憎まれている。もっとも仕事が出来ない三浦よりも、何とか理由をつけて殴(なぐ)られたりする回数は、芝の方がずっと多いのである。やる気がないなら、やるようにしてやる。こんな言葉が芝をなぐる時いつも使われる言葉であった。

 この部隊は兵隊にとつて、他処(よそ)よりもずっと難儀な部隊であったが、ことにぼくらは辛かった。何故というとこの部隊では、年齢に対する顧慮やいたわりは微塵(みじん)もなかったからだ。しかしそれは、ぼくらが年長であることに皆が無関心であったということでは全然ない。むしろ逆であった。年長であるからには若年の兵隊より仕事がうまく出来る筈(はず)だというような、そんなもっともらしいような理窟が皆を支配していて、何かといえばそんな言い方で、一番新しい兵隊であるぼくらは小姑(こじゅうと)みたいないびり方をされていたのである。今思えば彼等は、新しい兵隊だからという訳で追い廻していたにすぎないのだろうが、当時のぼくにしてみれば、年長であるが故に憎まれているのではないかという錯覚におち入るほどであった。年齢というものを、おそらく志願で入った兵隊などは、現実的な感覚でぼくらの上に眺めていたのではないのだろうと思う。その一例にぼくと芝が、ある若い上水から何かの理由で、兵舎の蔭で殴られそうになったことがある。その時その頰ぺたの赤い上水は殴ろうとする手をちょっと休め、芝の顔をまじまじと眺めながら突然、お前は歳いくつになる、と訊(たず)ねた。それはまことに少年らしい好奇の問いであったけれども、芝は自分の歳をあかすことになにか屈辱を感じたらしかった。暫く口ごもった揚句、絞るような低い声で芝が答えた時、若い上水はとんきょうな叫び声をあげた。「それじゃおれの親爺とひとつ違いじゃねえか」

 そのせいかどうか知らないが、ぼくらはその時ひとつずつ殴られただけで済んだ。これでも判るように、ぼくらの年齢というものは、実感として彼等にはなくて、彼等の眼の前には、老いぼれた現象としてぼくらが立っているという訳であった。この上水ですら次の日は、年齢についての現実的な感覚は忘れてしまったに違いないのだ。年齢のもつ意味にこだわっているのはむしろぼくたちだけで、ことに芝にいたっては、それをひしひしと意識するらしかった。作業や訓練の場合なら、幾分気持のごまかしもつくけれども、あの嘲弄的な制裁、たとえば鶯(うぐいす)の谷渡りとか蜂の巣などという屈辱的な芸当をやらされるときは、気持を盲点におくことに慣れているぼくですら、ときに顔が感情的にこわばるのを禁じ得ないほどであったから、芝などにいたってはことのほか惨めな気持のどん底を味わっていたに違いないのだ。空の衣囊棚(いのうだな)のなかに入って、ブーンブーンと蜂の鳴声のまねをさせられているときなど、ぼくは隣の芝が顔を紅潮させ、燃えるような眼つきになって、それでも命ぜられた通りにやろうとしているのを、ついちらりとぬすみ見てしまう。芝のそうした姿をみると、現在の唇をかむような屈辱的な気分が、ふしぎに和らいできて、嘲弄されている自分というものが、何故かさほど苦にならなくなるので、ぼくはいつもこの種の制裁のときは、意識的に芝の挙動に注意をはらっていたのである。三浦にいたっては、これらの制裁は肉体的な苦痛を伴わないのだから、棒を尻で受けるよりは、気持が楽だったのだろうと思う。しかしそれも三浦の身になってみなければ判らないことだ。実のところは、その体軀(たいく)や挙動の滑稽(こっけい)さのゆえに、三浦がもっとも嘲弄の対象になっていたのだけれども。[やぶちゃん注:「鶯の谷渡り」ルビー氏のブログ「太平洋戦争史と心霊世界」の「兵隊いびり (2)」には、絵とともに、『椅子の下をくぐり、テーブルをまたぎ、また椅子の下をくぐって、ホーケキョーと鳴きながら10テーブルをまわって元に位置につく。一つのテーブルを超すごとに、ホーケキョーと鳴く。鳴き声が教班長に気に入られないと、再度やり直しさせられる』と解説があり、「蜂の巣」についても、「兵隊いびり (1)」に、やはり絵とともに、『主に真夏の暑いときの罰直で、衣嚢(いのう)を収めておく40センチ角にしきられた奥行きの深い棚が、58列あるが、その枠内から衣嚢をだして、その中に一名ずつ頭から体を突っ込むのである』。『これは分隊180名のうち、80名が衣嚢に入り、あぶれた100名がバッター制裁』(上方に『尻をこん棒で叩く』こととある)『を受けることになる』。『これを一斉に決行するので、(バッター制裁を受けないよう)必死だ。みんな中段に的を絞るから、上部があく。すると、中部に入ろうとしている者の背中に乗って、上部をねらう者もいる』。『棚に入ったら、両肘を張って、足を引っ張られても頑張る。10分も辛抱すれば「やめ」となる』とあり、『下の方のロッカーに頭を突っ込んでいる人の背中を踏み台にして、さらに上の棚に登って頭を突っ込むようで』、『一種の椅子取りゲームみたいなもの』と言い添えておられる。]

 しかし芝は巡検後の莨盆でも、自分の気持の苦しさについては、一言も口に出したことはなかった。低いぼそばそとした声で、その日の出来事を話し合う程度で、話が愚痴におちてくると、黙りこくって莨ばかりをふかしているか、そっぽむいて星を眺めていたりするのだ。その態度はへんにかたくなな感じでもあったが、また妙に淋しげでもあった。芝は気質的に愚痴をこぼせないたちであるらしかった。彼は気が弱いくせにそんなところは妙に頑固であった。そのような人間的な甘さのないことが、自然と彼の姿勢や動作にあらわれていて、下士官や兵長から彼がにくまれるのも、あるいはそんなところからかも知れなかった。だから例えばちょっとした落度――卓の上に誰のものとも判らない手箱が置き忘れてあったりすると、すぐ芝のせいになって、彼は他の兵隊のぶんまで殴られてしまうのだ。息子ほどの年頃の兵長から殴られるとき、彼はその瞬間言いようのない苦渋(くじゅう)の色を顔いっぱいにたたえている。そしてぎらぎらした眼を見開き、殴ろうとする相手から視線をそらして、どこか遠くの方を一心に見詰めているのである。それは恐怖の表情ではなくて、やるすべのない悲しみの色であった。しかし見た感じから言えば、彼は殴られる自分に悲しみを感じているのではなくて、なにか他の形のないものにぎりぎりの憤怒を燃しているように思われた。それがなおのこと殴り手の気持を刺激するものらしかった。一つで済むところを三つも四つも殴られる。だから三浦の言葉を借りれば、芝は殴られる要領を知らない、という訳になるのだが、この説にはぼくもほぼ同感してもいいと思う。[やぶちゃん注:「手箱」兵に貸与された海軍手箱。Sarunasi氏のブログ「サルナシの掘り掘り日記~越後黄金山の砂金を訪ねて~」の「海軍手箱 ~軍隊生活の悲哀が染みこんだ私物箱~」に実物の画像とともに、『下士官・兵が石鹸、文房具、裁縫道具等の日用品を入れておく貸与品の箱で、時には机や腰掛の代わりにもなった』。『規格寸法は幅30×高さ16』×『奥行20㎝で、木材の種類、内箱の仕切りの作り、持ち手の形状・有無、鍵の有無など細かいバリエーションが存在する。物資不足の戦後の生活の中でも使用されたため、中の小物入れなどは取り外されているものがほとんどで、完璧な状態で残っているものは非常に少ない』とある。また、下方には「手箱と罰直」という、これを放置したことへの罰直ではなく、これを用いた制裁(「大黒様」と呼ばれたもの)についても解説が添えてある。]

 先にも書いたように、ここはおそろしく忙しい分隊で、加えて下士官や兵長の小姑(こじゅうと)的な監視があったから、仕事がとぎれてもぼんやりしているという訳にはゆかないので、ぼくらがゆっくり話し合う機会も昼の間にはあろうわけがなく、自然と巡検後の莨盆に落ちあうことになるのだが、そんな時莨をふかしながら、だまってお互いの姿を感じあっているだけで、ぼくの心はなぐさめられるような気がした。しかしこの気分は、ある一面で不快なものを含んでいることを、同時にぼくははっきりと感じていたのである。それは丁度傷ついた獣同士が、黙ってお互いの傷口を舐(な)めあうような、そのような親近感であったけれども、それだけにお互いの惨めさを認め合うことは、その底にあるやりきれない安易さをぼくに感じさせるのであった。そのことは芝もはっきり感じていたのではないかと思う。そのくせやはり巡検が済むと、睡眠を犠牲にしてまでふらふらと兵舎の蔭にあつまってくるのも、この労苦をひとりでおさめているということが、どうにも耐えられないからであった。莨盆にあつまっても、本当のところは何も話し合うことはない。言葉にすれば嘘(うそ)になってしまうから、やむなくぼくらはその日の出来事などをぼそぼそ話し合うだけに止(とど)めてしまう。ただ三浦の場合は、その気持の芯(しん)に妙に弱いところがあって、黙って気持だけをよりそわせているだけでは不安になるらしく、時に言葉でその隙を埋めようとあせったりするのだ。だから夜の莨盆では、三浦がいちばん饒舌(じょうぜつ)である。細い声で早口にたたみかけるようにしゃべる。しかしぼくらに共通したぎりぎりの惨(みじ)めな気特は、それを埋め得る言葉などあろう筈はないので、彼は仕方なく故郷のことや自分の過去を、聞きもしないのにしゃべり出したりするのである。そのことで自分の気持がなおのこと惨めになってゆくことも意に介せずに。そんな時、舌重く相槌(あいづち)うつのはぼくだけで、芝はすぐ黙りこんでしまう。

 故郷の町の牧江という女が重い病気にかかったということを、三浦が話して聞かせたのは、やはりそんな夜の莨盆でのことであった。その朝の手紙で彼はそれを知ったらしく、その手紙も牧江が重態の床で自らかいたということであった。その手紙を彼は事業服の内ポケットから出して、ぼくに見せて呉れたのである。もちろん暗がりで内容が読めるわけはなかったが、月明りで表書きの「三浦嘉一様江」と記したみだれた筆文字だけはかすかに読めた。こんな場所で見る女の筆文字というものは、変に鮮かなもどかしいような、ふしぎな印象を与えたことをぼくは今でも覚えている。いつもならそんな話題は生返事で散らしてしまうのだが、その印象のためにぼくはふと好奇心をおこして、その女はひとりなのか、と聞いてみた。すると三浦はしょんぼりした声になって、うつたえるようにぼくにこたえた。

「そうなんや。誰もみとる奴がいないんや。おれだけをたよりにしていたんだからな」

 月の光が三浦の広い額におちていて、彼は面をそむけてうつむくような姿勢になった。三浦は今朝からへまばかりやって、さっぱり元気がなかったことをぼくはその時、ある忌々(いまいま)しさと共に思い出していたのである。そして三浦の感傷的な細い声と、それを裏切るような身体に合わないぶざまな事業服の姿とに、へんにとげとげしい反撥が咽喉(のど)までこみ上げてくるのを感じて、ぼくはそっけない声で言った。

「――お前が行って、看病してやればいいじゃないか」

 昼間の作業で三浦がへまをやったため、その連帯でぼくらも殴られ、痛みが頰骨にまだ残っていたのだ。そのようなへまをやった原因がこんな手紙にあって、しかもその手紙を材料に三浦がぼくによりそおうとしていることを感じると、自然とぼくはつっぱねるような口調にならざるを得なかったのである。三浦はちょっとひるんだ風に身じろいだが、しばらくして自嘲するように、

「行くったって、行けるわけないやないかよ」

「病人が出来たといえば、休暇をくれるさ」

「しかし看護休暇は、肉親にかぎるんだろ」

「そうさ。だからさ」ぼくはちょっとつまったが「そりゃどうにでもなるさ。よそに縁づいた妹とか何とか、ごまかせそうなもんじゃないか」

 ぼくが言ったのは勿論(もちろん)、この場の思い付きで、実現の可能性があるなどとは夢にも思っていなかったのである。可能性のないでたらめをいうことで、ぼくはこの話題をうち切ろうという心算(つもり)であった。それにも拘(かかわ)らず、ぼくのつっぱねた口調がぼくの確信のゆえと受取ったせいか、三浦はぼくの言葉に突然すくなからぬ衝撃を感じたらしかった。はっと上げた顔が夜目にも真剣な色をたたえて、その視線はまっすぐにぼくにそそがれていたのである。ある切迫したものが、ひよわな三浦の体から流れてくるようで、ぼくは思わず背中を兵舎の壁にこすりつけながらたじろいだ。そして黙って見詰めあったまま、暫(しばら)く経った。

 ふと沈黙を破って、芝の低い声がした。

「帰れるわけがないじゃないか。色気をだすのはよせよ」

 莨を手にもったまま、その時芝の眼は立ちすくんだ三浦の姿を、なぜか舐(な)め廻すように眺めていたのである。その声はいつもの芝のぼそぼそした口調とちがって、なにか哀れみと憎しみの抑揚がそこにこめられているようであった。その声で三浦はふと我にかえったらしかった。そして夢から醒めたように身ぶるいすると手にもっていた手紙を折りたたんで、内ポケットに押しこもうとした。月明りのなかで手紙を握った掌は、なにか浮上るようにひらめいて、彼の内側にかくれた。暫く莨を喫い終えるまで、ぼくらはそれぞれの姿勢でふたたび黙りこくつたまま立っていた。

 

 牧江という女から来た手紙を、その夜ぼくは表書だけ月明りの下で一瞥(いちべつ)しただけで、とうとう内容は読まずじまいであった。しかしこの手紙が三浦の気持を、決定的なものへ傾けたことは、おそらく確かである。あの夜看護休暇の件について、三浦がぼくの言葉にすがってふと錯乱をおこしたのも、彼がなにか思い詰めていたからに相違なかった。あの瞬間、たんに詠嘆の対象であった彼のはるかな現実が、一挙に距離をとびこえて三浦のそばまで近づいていたのであろう。長いこと禁煙していた男が、いっぽんの莨に手をふれることで、一挙に堰(せき)をはずしてしまうように、もはやひとつの欲望が実感的な形として彼の心をぎゅっと摑んでしまったらしかった。その翌日からの彼の動作や態度に、それを裏書きするような微妙な変化を、ぼくははっきり感じていたのである。

 そしてあの夜の会話で一応けりがついていたにもかかわらず、三浦がその手紙を分隊士のところに持って行って、看護休暇を願いでたということも、わらを摑む気持であったのかも知れないが、思い詰めたことから出た放心状態のせいではなかったかとぼくは思うのだ。勿論(もちろん)これは分隊士によって却下された。看護休暇というものは、原住地の市町村長からの書類でなければ貰えないので、そのことは三浦にしても知らない筈はないのである。そしてそれは単に却下されただけでなく、分隊士から叱責されたらしいことも、ぼくは三浦の口ぶりから推察できた。それよりもなお悪かったのは、そのような手続きを班長を経ずして、直接分隊士にもって行ったということで、二三日後の夜の整列のとき、彼ひとり呼び出されて、ひどく制裁をうけたことであった。制裁をうける前、彼への叱責はずいぶん長かったから、その点なおのこと彼は辛かっただろうと思う。頭を垂れて聞いている彼の後姿は、ぶかぶかの服のなかで硬直しているらしく、掌はぴったり腿にくっつけていても、むざんにがくがくと慄えていた。そして毛をむしられた鶏のように惨めに、彼は太い棒片(ぼうぎれ)で尻を打たれたのである。

 その夜の莨盆で三人がおちあったとき、三浦は兵舎の壁によりかかって、身ぶるいを時々しながら、莨(たばこ)を喫っていたが、やはりこたえたと見えて口数は極めて少なかった。ぼくもなんとなく責任を感じるような気持もあるので、なにか慰めたいと思うのだが、うまい言葉がどうしても出なかった。それで国許へそっと手紙を出して、市長から電報打ってもらえばいいではないかと気安めみたいな言葉を三浦にむかって言いかけたら、三浦は顔をあげてさえぎるように口を開いた。

「そんなことしたって、間に合うもんかよ。逢いたければ、脱走するまでや」

 そばで莨をふみ消していた芝が、その時何故かぎょっと三浦の方を振りむいた。そして暗い眼の奥から、するどく三浦をみつめるらしかった。白けたような緊張がきて、三浦はふてくされたような仕草で莨を投げすてた。その時芝がいつもの低い声で、押しつけられたような調子で言った。

「脱走だって、脱走できるものか、お前に」

「やろうと思えばやるさ。何でもない」

「じゃ、どうやって逃げるんだ」

 三浦は返事をしなかった。黙ってかすかに身ぶるいをした。その姿に芝はじっと視線を定めたまま暫く経った。芝はふと視線を外(そ)らすと、今度はすこし早口になって突然口を開いた。それは三浦に言っているとも、ぼくに言っているともつかぬ、中途半端な切りだしかたであった。しかしその語調はおそろしく切迫した響きをふくんでいた。

「――もし俺が逃げるんだったらな、俺はこんな具合にやる。砲術科倉庫のわきから赤土の登り道があるだろう。あれを伝って裏山に入っちまうんだ。山は一本道だ――」

 芝はそこまで一気に言ってしまうと、そして一寸言葉を止めてためらうように首を振ったが、また思いなおしたように肩をそびやかして、今度は非常に綿密に考察された脱走の経路を、たまっているものを一遍にはきだしてしまうような口調でしゃべりだしたのである。それはぼくを驚かせるに充分であった。いつも無口な彼が、こんなに勢こんでしゃべることがあるなどとは、夢にも想像できなかったからである。そしてその内容も、行きあたりばったりの思い付きでなく、かねてから心の中で整理されているらしいことが、ぼくをおとろかせると同時に、ぼくの心をはげしくひっぱたいたのだ。芝が説明するその経路は、山のどの道をどう越えて向う側の町に行くとか、もちろん服装は途中のどこのあたりの農家あたりで変えてしまうとか、そしてその服装で何時何分の汽車の切符を買う、といった具合で、その駅の汽車の時間まで詳しく予定されていたのである。芝の口調はそしてだんだん憑(つ)かれたように熱を帯びてきはじめた。ぼくはそれを聞いているうちに、胸をしめつけられるような息苦しさがつのってきて、思わず顔を芝の方に近づけて行った。近づけると芝の眼は燃えるような光を帯びていて、それはあの殴られるときの眼付とすっかり同じであった。戦慄のようなものがぼくの背中をはしりぬけた。気がつくと、三浦も身体をのりだして、薄暗がりで動く芝の唇に見入っているのであった。三浦の体は服のなかで、絶えず小刻みにふるえているらしかった。そして芝はふいに言葉を途切(とぎ)らせて、ぼくらの顔をじっと見廻した。

「――で、おれならそういう具合だ」暫くして芝はそう言いながら事業服の袖でしきりに額をこするようにしながら、またもとの低い声になって沈痛に言いそえた。「しかし――俺は、逃げないんだ」

「お、おれも逃げやせんで」

 三浦もしばらくしてかすれた声でそう言った。その声はなにか脅えたような響きをもっていた。――

 その夜の吊床のなかでぼくは眠れないまま、いろいろなことを考えていた。看護休暇の件はもはや全然望みがないことを、三浦は今日ではっきり思い知った曹であった。そうだとすれは、地球に一度だけ近づいてまた永遠に飛び離れる彗星(すいせい)のように、彼の気持は実感として一度だけ故郷の方に傾き、そしてまた無理矢理に遠く隔てられたような形である。しかし人間の気持がそのように割切れたものであるかどうか。そう思うとぼくは、おれも逃げない、といった三浦の言葉がすぐに頭に浮んできた。あの声の脅えた調子の意味するものが、いま三浦の胸の中でどのような屈折を遂げているのだろう。そしてそれに対応して、芝にあの計画を組立てさせた情熱とは何だろう。脱走という言葉に刺戟されて、芝が心に秘めておくべきことを口に出してしまったというのも、かねてから計画だけは立ててみたものの、自分に実行する勇気がないことを、芝自身が歴然と知ったからではないのか。ぼくはそして、それをしゃべっている時の芝の、悲しみに燃えるような眼付を思いうかべた。そしてすぐ次に芝の声の調子を。それは甘く誘惑的なひびきに変って、ぼくの耳によみがえってきた。ぼくは意識の中に探りあてられる核のようなものを、ひとつひとつ潰して行きながら、脱走の経路をかねてから黙々と思いめぐらしていた芝よりも、それをはき出すようにしゃべってしまった芝の方が、もっとかなしいあり方なんだと考えた。あるいは脱走の欲望を自分ひとりの胸のうちで処理しきれなくなって、しゃべってしまうことでその欲望を散らそうと、芝の頭でその時そんな無意識の計画がはたらいたのかも知れなかった。しかしそうだと考えてみても、芝という男のかなしさがぼくの胸にひびいてくることは同じであった。この脱走の意図は芝の胸のなかで、何時はっきりした形をとり始めたのか。此の分隊での今までの日々のことが、継続してぼくの頭をかすめた。そしてこうした日々が未来へずっと灰色に伸びていることが、確かな実感としてぼくにその時重くのしかかってきた。その想念からのがれようとしてぼくが、吊床をきしませて寝がえりを打とうとした瞬間、ぼくは自分の胸の中に、芝がはき出した欲望の破片が、するどく突きささっていることを突然自覚した。ぼくはそのとき銀色の月明りの下で裏山へのぼって逃れて行く自分の姿を、はっきりと瞼のうらに思い描いていたのである。ぼくは思わず両掌で顔をおおって幽(かす)かな呻(うめ)き声を立てていた。――

 それから暫(しばら)くしてぼくはとろとろ眠ったらしかった。もやもやした悪夢がきれたりつながったりして、夜がしんしんと更けて行くようであった。耳のすぐそばで何か物がすれあうような微かな物音がして、その音でぼくはぼんやり眼をひらいたらしかった。夢をみていたせいで背筋にいっぱい汗をかいていて、気味わるく肌着がくっついていた。兵舎の硝子窓からつめたい月の光がななめにさし入っていた。ぼんやり暗い甲板に、となりの吊床から今三浦がすべり降りたところであった。空になった吊床がそのあおりでふらふらと揺れた。ぼくはそれを見ていた。そして頭の片すみでかんがえた。(便所に行くのかな?)

 しかしぼくはふしぎな力で摑まれたように、ぼんやり眼を見開いて三浦の影から視線をはなさないでいた。吊床がずらりとならんだ甲板はしんと静かで、夢のつづきを見ているような錯覚をぼくに起させた。半醒(せい)半眠のぼくの視野のなかで、三浦の影がひっそりとうごいて、跫音(あしおと)のしないように衣囊棚(いのうだな)の方にゆくらしい。月の光のなかに突然三浦の顔がうかび上った。そしてそれでぼくははっきりと眼が覚めた。浮び上ったその顔は硬く歪んでいて、月の光のせいかまっしろに見えたのだ。ふだんの三浦のかおとは少しちがっていた。ぼくはぼくの全意識が俄かにするどく冴えわたるのを覚えながら、凝然(ぎょうぜん)と身体をかたくした。

 ――衣嚢棚に何の用事があるのか?

 三浦の姿は窓で四角にきりとられた月光のなかから、ふと暗がりの方に消えた。その暗がりの底を白い事業服の背中が、音もなくくず折れるように低くなった。三浦はそこにしゃがんだらしかった。そして衣囊を引き出す音がかすかに聞えた。ぼくはぼくの心臓が烈しい音をたてて鳴り出すのを感じながら、引き寄せられるように視線をそこにそそいでいた。やがてほの白い姿がゆらいで、三浦はそっと立ち上ったらしかった。

 広い兵舎の甲板は、すべて眠りに入っていて、死んだように静かであった。そこにずらりと吊られた吊床の下をくぐって、三浦の姿が通路の方にでてゆくらしい。名状しがたい不安がぼくをぎゅっとしめつけてきて、ぼくは上半身を思わず起した。骨がぽきぽきと鳴るのがわかった。声を出そうと思うのだが、切なく心臓がひびくので、ぼくは咽喉(のど)の奥でわずかあえいだだけであった。火のようにあつい頭の一部分で、しかしぼくはこんなことも考えていたのだ。

(衣囊のなかから紙を出して、それで便所に行ったのかも知れない)

 突然背後で荒い呼吸遣いの音が、ふとぼくの耳をかすめたのだ。ぼくはぎくっとして頭をねじむけた。反対側の芝の吊床で、芝は毛布の中から首だけを立ててじっとしていた。蒼然とくらい吊床のなかで、芝の眼窩(がんか)はふかい陰影をつくつていて、どこを眺めているのか判らなかった。ただぜいぜいという呼吸音だけが、次第に早くなるらしかった。そしてその時通路をこっそり出てゆく三浦の靴音が、すこし乱れをみせながら、ぼくらの耳から遠ざかって行った。それはぼくらのひそかに保ちつづけていたひとつの欲望が、ぼくらの身辺から確実に遠ざかって行く音のように耳から消えて行った。

 

 翌朝になってやはり三浦がいないことが明かになって、部隊は大さわぎになった。ぼくと芝は隣り合せに寝ていたというわけで、分隊士などからいろいろ訊問(じんもん)されたけれども、ぼくらは全然知らなかったという一点ばりで押し通した。芝の顔は青くふくれていて、それもあきらかに寝不足のためであった。ぼくの顔もそんな風になっているらしかつた。

 朝食がすんで食器を烹水所(ほうすいじょ)に収めに行くとき、ぼくは芝と一緒になつた。ぼくらは変にだまりこくつて、重い食器を下げながら道をいそいだ。食器を収めるとすぐ課業整列のため兵舎に戻らねばならなかった。砲術科倉庫のそばを通りぬけるとき、ぼくはふとあることを思いついて、頭をそちらに向けた。倉庫のそばから赤土の上り道となり、その道はすぐ群れ立つ樹々の間に消えていたのである。ぼくは突然そこまで行ってみたい欲望に猛然とかられて、芝を呼びとめた。[やぶちゃん注:「烹水所」兵員烹炊所。一般には軍艦の台所をこう呼称する。]

「ちょっとあそこまで行ってみよう」

 芝はぎくりとしたようにぼくの指さす方を見たが、その限は暗くきらきらと光った。そしてぼくらは建物の狭い間際を通りぬけて、そこまで小走りに走って行った。

 道は山から流れる水のためにじとじと濡れていて、少し登ったところで迂回して山ふところに入るらしかった。ぼくらは道の入口のところに立ち止った。そこには申し訳みたいな門柱が立っていて、それがこの部隊と山とを隔てているわけであった。この山がいまひとりの三浦を呑んでいるのかも知れないことが、妙に実感としてぼくに来た。山がささやかな秘密を蔵している感じであった。赤土の道はその秘密のなかに濛然(もうぜん)と消えていた。

(しかし三浦は果してこの道をたどったのだろうか?)

 三浦が昨夜通路を出て行ってからも、ぼくは長い間眠らずに、彼が戻ってくるかも知れないという漠然たる期待で、全身の感覚を緊張させていたのだ。そしてその期待のうらに、三浦がこのまま逃げ終せてくれればいいという気持がするどく動いていたのを、ぼくは今判然と思い起していたのである。

「あ!」

 その時そばに佇立(ちょりつ)していた芝が、呼吸を引くような声を立てた。ぼくは芝の視線がそそがれている箇所に、はっと眼を走らせた。そこは道が一部分高まっていて、そこの濡れた赤土に靴のすべった痕がはつきりのこっていた。赤土がそこだけ滑らかに濡れていた。芝が見つめているのは、それではなかった。そこから二尺ほど離れたところに、軟かい赤土の上に、滑った男が印したのであろう、はっきりした掌の型がそのままの形で残っていたのである。五本の指が力をこめて開かれていて、指の先のところで土が凹みをつけてえぐられていた。それは本当の掌をみるより、もっと掌というものを感じさせた。掌につづく全身が、まざまざと想像された。それはあのぶかぶかの服をまとった、不具みたいな感じのする三浦の身体のイメイジであった。その掌の型と三浦の姿がぼくの想像のなかで、瞬時にしてぴたりとむすびついていたのである。

 芝がつかつかとそこに歩みよった。芝の顔は蒼ざめて硬ばっていた。そしてしゃがんで自分の掌をそこに押しつけた。掌型は芝の掌より、ひとまわり小さかった。赤土をえぐった指のあとは、女の指みたいに細かつた。芝はしゃがんだまま首をあげてぼくの顔をみた。

「――あいつの掌だ」

 無理に押し出したような声で、芝はそう言った。そして眼をおとすと、それを確かめでもするように、何度も何度も押しつけた。三浦の掌型はつぶれて、芝の掌型がそれに代った。芝はなおも力をこめて、えいえいと掌を押しつけた。そうすることによって、自分の気持を変えてしまうことが出来るかのように。執拗に、烈しく。

 ぼくはそのそばに立ちすくんだまま、芝の手がだんだん赤土色にまみれてゆくのを、そして芝の横顔がそれにつれてしたたか殺気を帯びてくるのを、凝然と眺めていたのである。

 

 三浦がうまく逃げ終せたのか、それとも捕まったか、それはぼくは知らない。なぜというと間もなくぼくは此の警備隊から他に転勤になったのだから。だから芝ともそこで別れた。芝ともその後逢(あ)わないから、どうなったのか判らない。

 ぼくは今でも時々かんがえる。今はおそらく社会人にもどったにちがいない二人が、どこかの町角あたりでばったり逢ったら、どういう光景がみられるだろう。しかしぼくの空想はそこで止ってしまう。それよりもぼくがもし、この二人に町角であったら、ぼくは虚心に手を振ってあいさつするだろうか。また知らぬふりして、ぼくはすれちがってしまうかも知れないのだ。それは何故そうするのかぼくは自分でも判らない。何故だかは判らないけれども、ぼくは此の二人の男を思いうかべると、身体の内側がぎゅっと収縮するようないやな感じに必ずおそわれる。奇怪な悪夢のような後味が、ぼくの胸にからみついてくるのだ。二人のことはぼくの心の中で、ぼくが生きて行く日を重ねるにつれて、ますます鮮明になって行くのだけれども。

 

今日の先生の不吉な恐るべき魔の手の予覚

× Kのことを一時も忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段①

読書に没頭して勉強をし、その結果を世間に公開する日の来るのを待とうとした。→既に頓挫

× Kのことを一時も忘れる事が出来ないという強迫観念を駆逐する手段②

『酒に魂を浸して、己れを忘れやうと試み』るも、『此淺薄な方便(はうべん)はしばらくするうちに私を猶厭世的にし』『た。私は爛醉(らんすゐ)の眞最中に不圖自分の位置に氣が付』き、『自分はわざと斯んな眞似をして己れを僞つてゐる愚物(ぐぶつ)だといふ事に氣が付く』のであった。『すると身振ひと共に眼も心も醒めてしまひ』、『時にはいくら飮んでも斯うした假裝狀態にさへ入り込めないで無暗に沈んで行く塲合も出て來』るようになってしまった。『其上技巧で愉快を買つた後(あと)には、屹度(きつと)沈鬱な反動がある』のであり、そうして『私は自分の最も愛してゐる妻と其母親に、何時でも其處を見せなければならなかつた』。→典型的なアルコール性精神病の疑似強迫神経症的病態の模範的症例

   *

静 「『何處が氣に入らないのか遠慮なく云つて』下さい」

静 「あなた『の未來のために酒を止め』て下さい」

静 「貴方は此頃人間が違つた」

静 「Kさんが生きてゐたら、貴方もそんなにはならなかつたでせう」

先生「左右かも知れない」

『と答へた事があ』つた『が、私の答へた意味と、妻の了解した意味とは全く違つてゐた』。だ『から、私は心のうちで悲しかつた』。『それでも私は妻に何事も說明する氣にはなれ』なかつた。『私は時々妻に詫(あや)ま』つ『た。それは多く酒に醉つて遲く歸つた翌日(あくるひ)の朝で』、そうすると『妻は笑』つ『た。或は默つてゐ』『た。たまにぽろ/\と淚を落す事もあ』つ『た。私は何方にしても自分が不愉快で堪まらなかつた』。『だから私の妻に詫まるのは、自分に詫まるのと詰(つ)まり同じ事になる』のであると気づき、結果して『私はしまひに酒を止め』『た。妻の忠告で止めたといふより、自分で厭になつたから止めたと云つた方が適當で』ある。――

   *

酒は止めたけれども、何もする氣にはなりません。仕方がないから書物を讀みます。然し讀めば讀んだなりで、打ちやつて置きます。私は妻から何の爲に勉强するのかといふ質問を度々受けました。私はたゞ苦笑してゐました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛してゐるたつた一人の人間すら、自分を理解してゐないのかと思ふと、悲しかつたのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇氣が出せないのだと思ふと益(ます/\)悲しかつたのです。私は寂寞(せきばく)でした。何處からも切り離されて世の中にたつた一人住んでゐるやうな氣のした事も能くありました。

 同時に私はKの死因を繰返し/\考へたのです。其當座は頭がたゞ戀の一字で支配されてゐた所爲(せゐ)でもありませうが、私の觀察は寧ろ簡單でしかも直線的でした。Kは正しく失戀のために死んだものとすぐ極めてしまつたのです。しかし段々落ち付いた氣分で、同じ現象に向つて見ると、さう容易(たやす)くは解決が着かないやうに思はれて來ました。現實と理想の衝突、―それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のやうにたつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果、急に所決(しよけつ)したのではなからうかと疑ひ出しました。さうして又慄(ぞつ)としたのです。私もKの步いた路を、Kと同じやうに辿(たど)つてゐるのだといふ豫覺が、折々風のやうに私の胸を橫過(よこぎ)り始めたからです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月8日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百七回より。一部を加工して示した)

   *

「同時に私はKの死因を繰返し/\考へた」Kの死に対する私の解釈の変容過程が示される。以下、私の板書。

   *

△「失恋のため」

☆先生は『私の裏切りのため』とは言っていない点に注意!

↓(あの自死はそんな単純な理由では理
↓ 解出来るような行為ではない~「失
↓ 恋」を理由として排除したわけでは
↓ ない点に注意!)

○「現実と理想の衝突」

↓(この説明では不十分~「現実と理想
↓ の衝突」を理由として排除したわけ
↓ ではない点に注意!)

◎「Kが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」という結論に至る

↓(そうしてKの自死の場で感じたのと
↓ 同じように「また慄(ぞっ)とした」
↓ 何故なら)

「私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚」を持ってしまったから

   *

『――「Kが」「たつた一人で淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果」、自死したように

――「今の私」も「たつた一人で淋しくつて仕方がな」い

――そしてその「結果」として、私も自死するしかないのではないか』

という、この先生の《絶対の孤独》の観念こそが《「心」の文字通りの――前・核「心」――》である。

――何故、前(ぜん)核心であるか?

本作の最後の先生は「淋(さむ)しくつて仕方がなくなつた結果」として自決したのではないからである――

……余すところ……「心」は三回分である……

2020/08/07

萬世百物語卷之二 五、一眼一足の化生

 

萬世百物語卷之二

 

   五、一眼一足の化生


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[やぶちゃん注:「江戸文庫」版の挿絵をトリミング補正し、合成した(これは正直、かなりよく処理出来たと思う)。左の幅の座った角髪が於房丸で、恐らくは、その右手前(左幅中央)に立っているのが於房丸の師僧であり、それに向かい合って座って、こちらに顔向けている(左幅右手上部)のが治部卿と思われる。話の展開中にはこのようなシークエンスはでないが、この絵を前半の某権僧都の入院の宴としてとっては面白くもなんともないからである。そこを思わせておいて、実は、という絵師の配慮はあるかも知れぬ。]

 

 あだし夢、叡山中堂に近きあたり、禪學院といふありけり。

「あまりに中堂にとなり、火難あやうし。」

とて、寛文の比(ころ)、料(れう)など給はりて、寺地を五町ばかり、へだて移されたりけり。

[やぶちゃん注:標題は「いちがんいつそくのけしやう」。「化生」は化け物・妖怪・変化(へんげ)の意。

「叡山中堂」比叡山延暦寺の総本堂である比叡山延暦寺根本中堂。最澄が延暦七(七八八)年に一乗止観院という草庵を建てたのが起原とされる。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来、最澄の点したその火は千二百年の間、一度も消えることなく輝き続けているとされることから「不滅の法灯」と呼ばれる。中堂という呼称は最澄創建の三堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになったが、この三堂は後に一つの伽藍に纏められ、中堂という名が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから「根本中堂」といい、比叡山では東塔(とうどう)という区域の中心的建築物である(以上はウィキの「延暦寺根本中堂」に拠った)。

「禪學院」不詳。最澄が弘仁九(八一八)年に記した延暦寺伽藍計画「比叡山寺僧院等之記」に記した九院・十六院の中にこの名の院はない。東塔近く(「五町」は五百四十五メートル半である)に計画されたものや、伝承で廃絶したとされる僧坊の中に似た名前を探すと、東塔北谷の「禪林院」(但し、これは実際に建造されたかどうかさえ不明)や、東塔北谷虚空蔵尾(きただにこくうぞうお:根本中堂の正面東側)の「善學院」がある(東塔には五つの谷があり、東谷(仏頂尾・檀那院)・西谷・南谷・北谷(八部尾・虚空蔵尾)・無動寺谷に分かれる)。そもそもが、以下「といふありけり」と伝聞過去で終止しているから、この話柄当時、既に無く、その伝承が残っていたという感じである。]

 

 何の權僧都(ごんのそうづ)とかや、はじめて遠國(をんごく)より住(ぢう)し、山のさた覺束(おぼつか)なきほどなり。また、弟子に少納言の帥(そち)里境坊(りきやうばう)といふなんありける。

[やぶちゃん注:「權僧都」僧綱(そうごう)の「僧正・僧都・律師」の僧位一つの略式呼称。僧正の下にあって僧尼を統轄するのが「僧都」で、本来は「権」はその次席に当たることを指す。

「少納言の帥里境坊」不詳。「帥」は本来は大宰府の長官職(遙任職)を指すが、同職は従三位でなくてはなれない(太政官少納言は従五位)から、ただの通称。「帥」には一般名詞として「頭(かしら)」。「将軍」の意がある。]

 

 秋の夜(よ)、月のあかきころ、近院の衆徒、入院(じゆゐん)の悅びにあつまり、酒たふべて遊びける。おりあしう、師・弟子ともに一度に厠(かはや)にぞ行きける。

 山の習(ならひ)、所廣きにまかせ、厠(かはや)に作(つくり)、崖(きし)にむかひて、戶などいふものもなく、いとはれやかなり。月はことさらにさへて、椎柴(しひしば)・なら・樫(かし)など、すべての木草(きくさ)に露きらめきわたり、天にすむうさぎなどいふものゝ毛さきもかぞへつべき。何にくまなき夜のさまなり。

[やぶちゃん注:「崖」断崖。谷に張り出しているのであろう。その谷向かいに山があるのである。

「椎柴」椎の木のこと。ブナ科クリ亜科シイ属ツブラジイ Castanopsis cuspidata・スダジイ Castanopsis sieboldii の他、近縁種のマテバシイ属のマテバシイ Lithocarpus edulis も含んめて総称される。葉は光沢がある。実を食用にし、大好物の私などは一目で特定出来る

「なら」ブナ目ブナ科コナラ亜科コナラ属 Quercus の内、落葉性の広葉樹の総称(英名の「オーク」(oak)に相当)。秋になると、葉が茶色になる。本邦では例えばクヌギ Quercus actissima・ミズナラ Quercus crispula・カシワ Quercus dentata・コナラ Quercus serrata などが代表種である。

「樫」ブナ目ブナ科コナラ亜科コナラ属の内、常緑性のものを指す。例えばウバメガシ Quercus phillyraeoides・アカガシ Quercus acuta・シラカシ Quercus myrsinaefolia などで、他にクリ亜科マテバシイ属シリブカガシ Lithocarpus glaber も樫と呼ばれる。葉に光沢があり、葉の周囲に鋸歯を持つものが多い。以上の下線は暗い夜に何故識別出来たかを不審に思われる方のために附した。]

 

 まへの山を十五、六にも見ゆるかつじきの、あしばやにかけくだるをみれば、顏はめでたけれど、目ひとつなるが、厠の口に近寄りて、

「そ」

と、たゝずむ。

「こはいかに。」

と見れば、足もまた、ひとつなり。

 おもてあはするより、

「ぞ」

と、さむけだち、いかに、ふためともみられんや。なみなみならば、きへも入(いる)べきを、此人、尋常にたがひ、法(のり)のみちすぐれて、いとたうときすぎやうじやにて、ことにたゞ人ならねばか、本性(ほんしやう)よくねんじてあられける。

[やぶちゃん注:「かつじき」「喝食」で「かっしき」(現代仮名遣)とも読む。「喝」は「唱える」の意で、本来は禅寺に於いて諸僧に食事を知らせ、食事の種類や進め方を告げること及び、その役名や、その役目をした有髪の少年を指し、「喝食行者 (あんじゃ)」とも呼んだ。後には宗派に関係なく、寺で働く「稚児」の意となり、「喝食姿」と言えば、広義の元服前の少年の髪形の一つで、髻 (もとどり) を結んで後ろへ垂らし、肩の辺りで切り揃えたものを言う語となった。

「きへも入べき」ママ。「消えも入るべき」で気絶してしまうような、の意。次段のそれも同じ。

「すぎやうじや」「修行者」。

「本性よく」正気を正しく保ち。]

 

かのもの、また引き返して、峯にかけのぼり、それよりは行方(ゆきかた)しらずぞなりぬ。

 帥(そつ)がみたりしも、もとより、所のかはりたるに、形と時と、つゆたがはざりし。ふしぎなりかし。かれは修行のわかさにぞ、こゑたてぬ計(ばかり)におどろき、かけ出(いで)、肝(きも)きへぬべくありつれど、『人にわかわかしうかたるべき事にもなし』と、師・弟子共(とも)に、たがひに、かうとも、いはず、さらぬ風情にもてなし、座にぞかへられける。

[やぶちゃん注:「わかわかしう」「まるで子供っぽく」或いは「経験が浅いままに」。両義でとってよい。]

 

 されども何となく心にはかゝりて、それより、ものがたりもしめやかならず。賓人(まらうど)のもてなしさへ、おのづからおろそかになりける。いかに氣もすみ給はずや、

「夜もやうやうふけぬ。いざ、まかでなむ。」

とて、みなみな歸りにけり。

[やぶちゃん注:「しめやかならず」落ち着きがなくなった、の意。

「賓人(まらうど)」現代仮名遣「まろうど」。「まらひと」の音変化で、古くは「まろうと」。広義の客人の意。その場に呼ばれた僧たちを指す。

「もてなし」応対。

「氣もすみ給はずや」「氣も濟み給はずや」怪異を見たことで生じた鬱屈した気分もお晴れにならなかったせいであろうか、の意。]

 

 院に祗候(しこう)の供人(くにん)竹本玄俊(げんしゆん)といへる老法師(おいはうし)、此樣を見て、あやしみ、

「いひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ、まだ、山のほど、おぼつかなくおはしなんが、今宵のやう、見奉るに、いちでう、『一眼(がん)一足(いつそく)』をみ給ふにや。」

と、ほゝゑみて問ふ。

[やぶちゃん注:「祗候」「伺候」に同じい。貴人のそば近くに仕えること。ここは二人の僧のいる「禪學院」付きの下役の僧。

「竹本玄俊」不詳。彼だけ姓名を示すのは、怪異譚の真実性を高めるためである。

「いひ出づるこそ稀有(けう)なりけれ、」「こそ~(已然形)、……」の逆接用法。「口に出して申すは、これ、不躾にしてとんでもないことでは御座いまするが、」の意。

「山のほど、おぼつかなくおはしなんが」叡山のいろいろなことについて、未だご承知なきことの多く御座いましょうが、の意。

「やう」「樣」。御様子。

「いちでう」ママ。「一定」で「いちぢやう」(いちじょう)が正しい。副詞で「きっと・必ずや」の意。]

 

 僧都、おどろき、

「さて、いかにぞや。我れ葛河(かつらがは)に住みける程、いく度か、あらき行(ぎやう)をもなし、おそろしき山をたづねてこもりしが、かゝるあやしきもの、いまだ、みず。扨(さて)常にも出づるにや。何のわざぞ。」

と、とふ。

[やぶちゃん注:「葛河」続く謂いから見て、京都府を流れる淀川水系の桂川の上流部であろう。この辺り(グーグル・マップ・データ)。]

 

 少納言もうちきゝ、

「今までは我がおくしたる念ゆへに、きつね・たぬきやうの、たぶらかしにぞ、とおもひし。そこにもみさせ給ふ。」

うへ、語り出(いだ)し、

「おそろしき事のかぎりをも、みつ。」

と、侘びあへる。

[やぶちゃん注:「そこにもみさせ給ふ」「そこ」は二人称で師である僧都を指すが、適切ではない。文末では最高敬語を使っているものの、「そこ」或いは「そこもと」は同等か同等以下の相手に使うものだからである。或いは弟子である少納言の帥の、地金の傲慢が見えたものか。

「侘びあへる」ともに口に出して、その恐ろしき極みを謂い合い、慄(おのの)いたのである。]

 

 玄俊、聞きて、

「一眼一足といへるばけもの、此山にたへて久しき事にて、常は西谷・北谷のあいにて、人はおほくみつ、と、いひし。されど何の害をなすこともなければ、しれるものは、あやしともおそれず。これにあはれなる事候ふは、慈覺大師の御時にてやありけん、橫川禪定院(よかはぜんじやうゐん)に治部卿(じぶきやう)といへる學徒いまそかりける。止觀(しくわん)の學びおこたらず、禪定の窻(まど)の前には三密(さんみつ)の月あきらかならん事をねがひ、わかきが中には、すぐれたるじちほうの人なれば、『末いかならんかしこさ』ともてはやさる。師の御坊もことなるものにぞあいせられける。また西谷の今の行光坊に、萬里殿(までどの)の末の御子(みこ)於房丸(おふさまる)といへる、やんごとなき人、住まれける。優に色あるさま、すぐれければ、山塔(さんたふ)のわかき人々、たぐひなき上﨟の筋に、めであひ、また、家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば、よみすてのたんざくまで、すき人(びと)のたぐひは、たうときたからのやうにめでけれど、師の御坊、腹あしき人にて、たへて他(た)の出入(でいり)もゆるさず、ねたみあわれける、となり。一日(いちじつ)、大會(だいゑ)の時、治部卿、何(なん)たるすぐせにか、見初(みそめ)めける日より、わりなうおもひまどひ、ちづかの文のたよりをもとめ、細布(ほそぬの)のあひがたき戀をもしつるに、兒(ちご)もあはれなる方(かた)にひかれ、人目(ひとめ)の關守いかにしてしのばれけん、ふかう、なれむすばれけるを、師の御坊、きゝつけ、例のはらあしう、

『にくきものゝしかた。』

と、せちにいかり、せめられける。あまりにつよふいさめ給ふとて、いかなる事か、せられたりけん、あやまりのかうじて、終(つひ)になきものにせられける。よざまには、

『つねの習(ならひ)。』

に、いひなし、死骸をふかう埋まれけれど、かくれなき、さがなき人の、いひ、あはれぶを、治部卿、

『かく。』

と聞くより、身もあられず、

『おくれて何せん命ぞ。』

と、湖水のあわと、きへける。

 そのうらみ、たえずやありけん。今にその執(しふ)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも、罪ふかき物語なり。」

と、いひし。

[やぶちゃん注:「西谷・北谷のあい」「あい」はママ。「間」・「合」など孰れでも「あひ」でなくてはならない。

「慈覺大師」第三代天台座主円仁(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)の諡号(しごう/おくりな)。座主就任は仁寿四(八五四)年。

「橫川禪定院」廃絶して現存しない。タケちゃん氏のサイト内の「巡礼が通った道〔黒谷青龍寺〕」で現存する「禅定院掃除場」の標石によって大体の位置(地図有り)が分かる(「掃除場」とは当該寺院が担当する清掃区域のことを指す)。

「治部卿」不詳。官職としてのそれは、本来は治部省(外交・戸籍・儀礼全般を管轄し、結婚・戸籍関係の管理及び訴訟や僧尼その他宮廷関係諸事の監督を職掌としたが、後は僧尼・仏事・雅楽及び山陵の監督のみが主務となった)の長官で正四位下相当であったが、公卿が兼任することが多かった。ここは単なる通称に過ぎない。

「止觀」本来は天台宗の中心的修行法で、一切の妄念を「止」め、正しい知恵で対象を「観」察することを言うが、後に天台宗の異称となった。ここも後者。

「禪定」ここは院名。

「三密」昨今の密閉空間・密集場所・密接場面では無論ありませんよ。仏教用語としては、広く秘密の「身」・「口」・「意」の三業(さんごう)、則ち、仏の「身体」と「言語」と「心意」によって為される不思議な働きを指すが、特に真言密教の行者が、手に契印を結ぶ「身密」と、口に真言を唱える「口密(くみつ)」と、心に本尊を観ずる「意密」とを指す。ここは最後のそれ。

「じちほうの人」意味不明。後は「法の人」(本来は「はふのひと」であるが、「法」は古文献でも「ほう」と記されることは多い)で、正法(しょうぼう)を究めんとする人でよかろうが、前の「じち」が全く分からない。歴史的仮名遣を無視すれば、「持智」(ぢち)が一番しっくりはくる。正「法」の示す真の「智」を堅「持」せんとするの意で考えた。大方の御叱正を俟つ。

「ことなるものに」「殊なる者に」。他に比して格別に優れた修行者として。

「西谷の今の行光坊」東塔西谷にあったが、現在は廃絶。

「萬里殿」万里小路家(までのこうじけ;名家の家格を有する公家で、藤原北家勧修寺(かじゅうじ)流支流。参議吉田資経(すけつね)の四男資通(すけみち)を家祖とし、鎌倉中期に始まった。家祖資通がその邸宅地を冠して万里小路と称されてから、子孫代々これを家名とした)が浮かぶが、話の時制が合わない。さすれば、作り話の色が俄然、濃くなった。

「於房丸」不詳。

「家とて和歌のみちさへ情ふかうありつれば」特に万里小路家は堂上和歌の家系として知られてはいない。但し、戦国時代の公卿・歌人の第十一代万里小路惟房(これふさ)などは、『特に書道と歌道に優れ、格調高く迫力迫る和歌懐紙等が大名家に伝来している。室町時代の公家の気骨を知る上で、きわめて重要な書』とされ、また、『千利休が活躍した安土桃山時代の公卿でもあり、惟房の和歌懐紙の掛け幅は、現在の茶道において極めて珍重されている』とウィキの「万里小路惟房」にあったのを紹介してはおく。

「たへて」ママ。副詞に「全く」の意の「絕えて」であろう。

「ねたみあわれける」ママ。意味不明。「嫉み合はれける」としても、ここの文脈では師が嫉むばかりであって、この御仁と嫉み合っているわけではないはずだから、おかしい。寧ろ、「ねたみ、あはれまれける」ならば、腑に落ちるのだが。

「大會」規模の大きな法会(ほうえ)。

「すぐせ」「過ぐ世」。「二、不思議懷胎」で既出既注。「宿世(すくせ)」が正しい。「前世」のその因縁の意。

「わりなう」道理から外れて、どうしようもなく。

「ちづか」「千束」。千束(たば)で異様に多いことを指す。

「細布」「狭布の細布(けふのほそぬの)」(きょうふのほそぬの)。衣に仕立てようにも幅が狭く不足するところから、「逢はず」「胸合はず」などの序詞に用いる。

「兒」於房丸を指す。

「あはれなる方」いとしいお方。治部卿を指す。

「人目の關守」寺内での多くの人の目を関所の番人に喩えた。

「しのばれけん」この場合の「しのぶ」は「忍ぶ」で、「人目を避けて、恋人同士が情を結ぶことを指す。

「なれむすばれける」「馴れ結ばれける」。親しんで割りない仲となったことを指す。

「あやまりのかうじて」「誤りの昂じて」。「高じて」でもよいが、師僧としてあり得ぬ妬心が昂じて、過剰な責め苛(さいな)みを於房丸にしてしまった結果、「終になきものに」してしまった、殺害してしまったのである。

「よざま」「世樣」で世間体(せけんてい)にはの意であろう。

「つねの習(ならひ)」世の常の人の命は無常にして、老少不定、といった謂いか。要、手に懸けてしまった師僧は、「これ、ふとした病いで空しゅうなった」とでも言い添えて、殺害の事実を隠蔽したのであろう。但し、それは表向きのことで、彼が殺(あや)めたことは無言のうちに寺内に知れ渡ったものであろう。その隠された真相を治公卿は「かく」と聞いたのである。そうしてこそ、怪奇談の闇は深くなるからであり、伝承として「そのうらみたえずやありけん、今にその執(しふ)かくのごとし。念々沒生(ぼつしやう)未來永劫にも、罪ふかき物語なり」という結語も痛烈に胸を撲(う)つのである。

「湖水」琵琶湖に入水自殺したのである。

「あわ」ママ。「泡(あは)」。

「きへける」ママ。「消えける」。

「念々沒生未來永劫」愛憎の妄執の念は生まれては消えを繰り返し、それは未来永劫に続くのであるというのである。私はそもそもが、この一つ目の一本足の稚児の妖怪は於房丸の変じたものだとは思わない。師僧が少年に与えたリンチが片目を潰し、片足を切るというそれであったなどという下劣なアメリカのホラーやスプラッター映画のような解説もいらぬ。かといって、民俗学者が解析するインキ臭い「一つ眼一本足の神」の起原解析へと勘違いして逆流することなども、寸毫も思わぬ。――この奇体な妖怪は――二人の男に愛されてかくなる凄絶な最期を遂げねばならなかった美少年於房丸と――愛するあまり嫉妬から彼を殺してしまった猟奇の破戒の師僧と――三密を破って少年に懸想して自死した治部卿との――三つ巴の情念のキメラのおぞましい怪物なのである――。

 なお、実は本篇は既に201712日に「柴田宵曲 妖異博物館 一つ目小僧」で電子化している。但し、それは「江戸文庫」版を底本としたもので、今回は底本も違うし、そちらでは注も附していない。また、ブログ・カテゴリ「柳田國男」では、かの「一目小僧その他」のオリジナル注附きの全電子化も終わっていることを言い添えておく。
さうして――お前らの知ったかぶりに――ほくそ笑む――あばよ――――]

さて――1,400,000アクセス……

今、帰宅したら、ブログ・アクセスが予期せぬうちに1,400,000を超えてしまっていた。どうするか……まあ、考えさせておくれ。……

今日の先生――透視幻覚2――そして「Kのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識」する先生――

以下、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月7日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百六回より。一部の傍線太字を私が施した)


 「私の亡友に對する斯うした感じは何時迄も續きました。實は私も初からそれを恐れてゐたのです。年來の希望であつた結婚すら、不安のうちに式を擧げたと云へば云へない事もないでせう。然し自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによると或は是が私の心持を一轉して新らしい生涯に入る端緖(いとくち)になるかも知れないとも思つたのです。所が愈(いよ/\)夫として朝夕妻と顏を合せて見ると、私の果敢ない希望は手嚴しい現實のために脆くも破壞されてしまひました。私は妻と顏を合せてゐるうちに、卒然Kに脅(おびや)かされるのです。つまり妻が中間に立つて、Kと私を何處迄も結び付けて離さないやうにするのです。妻の何處にも不足を感じない私は、たゞ此一點に於て彼女を遠ざけたがりました。

   *

これはもう二人が結婚のかなり早い時期から、とうにセックスレスの関係にあったことの示唆に他ならないと私は考える。

「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」と先生が云つた。
 奧さんは默つてゐた。「何故です」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」と云つて高く笑つた。

という「第八回」の、あの奇体におぞましい先生の異常な高笑いの声が響き返してくるのである。

   *

 私は一層(いつそ)思ひ切つて、有の儘を妻に打ち明けやうとした事もあります。然しいざといふ間際(まきは)になると自分以外のある力が不意に來て私を抑へ付けるのです。私を理解してくれる貴方の事だから、說明する必要もあるまいと思ひますが、話すべき筋だから話して置きます。其時分の私は妻に對して己(おのれ)を飾る氣は丸でなかつたのです。もし私が亡友(ぼういう)に對すると同じやうな善良な心で、妻の前に懺悔の言葉を並べたなら、妻は嬉し淚をこぼしても私の罪を許してくれたに違ないのです。それを敢てしない私に利害の打算がある筈はありません。私はたゞ妻の記憶に暗黑な一點を印するに忍びなかつたから打ち明けなかつたのです。純白なものに一雫(ひとしづく)の印氣(いんき)でも容赦なく振り掛けるのは、私にとつて大變な苦痛だつたのだと解釋して下さい。

   *

これらは先生の驚くべきエゴイスティクな理屈にならない理屈である。しかも、驚くべきことに、漱石は、これを、おぞましいエゴイズムとは微塵も感じていないのである。いやさ、確信犯だということなのである。それだけに先生=漱石の精神の疾患は救い難く重篤であると言える。

   *

然し私の動かなくなつた原因の主(おも)なものは、全く其處にはなかつたのです。叔父に欺むかれた當時の私は、他(ひと)の賴みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、他を惡く取る丈あつて、自分はまだ確な氣がしてゐました。世間は何うあらうとも此已(おれ)は立派な人間だといふ信念が何處かにあつたのです。それがKのために美事に破壞されてしまつて、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらぶらしました。他に愛想(あいそ)を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです。

   *

ここに至っても「Kのために美事に破壞されてしまつて」という表現を用いて、何らの自己矛盾や自己合理化を認知していない先生=漱石は、やはり恐ろしく変だ……いや……無論、俺もそうさ……しかし……どうだ?……お前も、あんたも、皆……実は――そうなんじゃないのか!?!…………

 

2020/08/06

萬世百物語卷之一 四、山中のあやしみ / 萬世百物語卷之一~了

 

   四、山中のあやしみ

Santyunoayasimi

[やぶちゃん注:「江戸文庫」版の挿絵をトリミングして合成した。本文には登場しないが、本話を実際に目撃した行脚僧風の人物が右手の木蔭に描かれてある。その下方の岩場のこちらの面には、よく見ると、「さても」とあって踊り字「く」が四回、その左手には「おそろしや」でやはり同記号で四回繰り返されてある。

 さても さても さても さても さても

 おそろしや おそろしや おそろしや おそろしや おそろしや

この岩の上の水流れか岩苔のように細工したそれは、いや――なかなかニクい仕立てだ――と思うのである。

 あだし夢、陸奧岩城(いはき)の郡(こほり)何山里とかや。近きころなれど、所はわすれたり。

 水無月(みなづき)末の頃、母いたちの子どもの、やうやう巢ばなれたるを引きつれ、木陰(こかげ)涼しき方、もとめて、あそばせける。

 餌(ゑ)や、もとめに行きけん、そこら、うせにける。

 木のうへに大きなる蛇(へび)のわだかまりて居けるが、かねてや、ねらひけん、とく、さがりて、かの子供ども、一つも殘らずくひはてゝけり。

 むねやくるしかりけん、もとの木にのぼり、一もじり、ふたもじり、尾をもつて枝をまとひ、かしらは幹にそへて倒(さかさま)にさがり、心ちよげにみへける。

 暫(しばらく)あれば、かのはゝいたち、歸りきて、子のうせぬるを見、うたて、おどろけるさまして、

「きつくわい」

となき、そこらかけまわりしが、へびのさがりたるをみつけ、かれがどち、うつる心やありけん、忽(たちま)ち腹立ちあがけど、下より直(すぐ)にのぼらんは、蛇のまもるにせん方なげなり。

 いづくよりか、とりてきけん、桐の葉の大いなるを、一葉、くわへ、ふりかつひで、かしらにいたゞき、蛇のみつけざるやうに、そばの木より、

「そろそろ」

と、のぼる。かゝるはかりごとせんは、人にもおなじかるべき智なりかし。

 扨(さて)やうやうにのぼり、蛇のおれる木の、上ざまより、ねらへど、はかりごとよければ、へびは見つけず。程なう、近より、よき程とや思ひけん、くだりざまに蛇がそくびを、

「ほか」

と、かみつく。なじかはたまるべき、ふたつともに

「どう」

ど、おちけり。

 蛇は、あまり、ていたきにや、いたちを幾重もまとふて、しむる。

 いたちはまた、恨(うらみ)のはらだちに、おくば、つよう、かみしむる。

 蛇、終(つひ)にまけにけり。

 そのゝち、腹をくいやぶり、のまれし子どもを、さうなう、ひとつひとつ、とり出(いだ)す。まだ程なければ、かたちもそんぜざりしを、何の草にやあるらん、廣葉(ひろば)を、しき、その上に子どもをならべてねぶりなんど、とかうせしほど、終にうごき出でて、かけまわる程になりて、事なし。父母の子をおもふまどひ、異類はことに、わりなげなる、あはれなりかし。

[やぶちゃん注:「岩城の郡」現在のいわき市の一部で、四倉町・小川町の内、夏井川左岸(北東側)と平の内、夏井川左岸に相当する。この中央南北と東附近(グーグル・マップ・データ)。

「水無月」陰暦六月。「末」とあるから、盛夏である。

「いたち」鼬。食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を参照されたい。本話柄では妖獣性はそれほど感じられないが、本邦では古くから妖怪視されてきた経緯がある。その辺りもリンク先で読める。

「とく、さがりて」素早く枝にぶら下がった状態で。

「もじり」「捩(もじ)り」で、体を捻って巻き付くこと。

「うたて」いっそうひどく。

「きつくわい」イタチの鳴き声のオノマトペイア。威嚇音は「キッキッキッキッ!」或いは「クックックックッ!」である。YouTube の「駆除屋 CH」のこちらで聴ける。

「かれがどち、うつる心やありけん」ちょっと意味がとりにくい。「哺乳類の四足獣と手足のない爬虫類の蛇というかけ離れた存在ではあるが、動物同士で、人間のように憎悪や防衛・威嚇の感情の心の相互の反映があるのだろうか、の謂いか。当初は、「丸呑みされた子どもの鼬らと親鼬同士が、何らかの目に見えない何かが双方から出されて感応する心があるのだろうか、子らが食われたことをそれ察知した」という意味に解釈しようとしたのだが、どうも、それはやや穿ち過ぎかと思い直した。正直、捨て難くはあるのだが。

「蛇のまもるにせん方なげなり」蛇が上から俯瞰して見守っており、攻める方法がないという感じでいた。

「とりてきけん」「採りて來けん」。

『桐の葉の大いなるを、一葉、ふりかつひで、かしらにいたゞき、蛇のみつけざるやうに、そばの木より、「そろそろ」と、のぼる。』「かつひで」はママ。「擔(かつ)ぐ」であろうから、「かぎて」或いは「かついで」である。敢えて言うなら、ここが妖怪の妖術的シークエンスである。狐が木の葉(本来は髑髏。後代に藻や水蓮の葉から、贋小判に偽造し易いる葉になったものか)を頭に載せて化ける式の呪術(蛇に気配を感じさせないようにする効果があるようだ)が用いられているからである。

「人にもおなじかるべき智なりかし」いやいや! 人以上でしょうが?

「おれる木」ママ。「居(を)れる木」。

「そくび」「素首」。所謂、「そつくび(そっくび)」(「そくび」の促音添加形)という卑称語。首を罵って言う語である。

「ほか」咬みつく擬態語の表現と採った。

「あまり、ていたきにや」「餘りに手痛きにや」。受けた咬みつかれ方が、尋常でなく、痛みの程度がはなはだしくて動揺したものか。

「恨(うらみ)のはらだちに、おくば、つよう、かみしむる」「恨みの腹立ちに、奥齒、强う、嚙み締むる」。

「さうなう」「左右無う」。「さうなし」の連用形「さうなく」のウ音便。何の考慮や躊躇や苦労も必要とせず。た易く。中世以来の古語。

「まだ程なければ」まだ呑み込まれてからそれほどの時間は経過していなかったから。

「かたちもそんぜざりし」「形も損ぜざりし」。蛇の丸呑み習性が幸いしている。

「ねぶり」「舐(ねぶ)り」。舐(な)めること。

「わりなげなる」人通りではなく。人間のそれよりも、この上なく深くて。]

萬世百物語卷之一 三、獨身の羽黑詣 (宮本武蔵! 見参!)

 

   三、獨身の羽黑詣

Musasi

[やぶちゃん注:「江戸文庫」版の挿絵をトリミングして合成した。]

 あだし夢、宮本武藏は世にしれる兵法者(ひやうはうしや)なり。若きころしゆ行のついで、

「出羽の羽黑は靈山なれば、ふしぎをみん。」

と、夏草のしげみ、小篠(おざさ)の露、しげうたれ、ふみわくるあともなき道つけて、わけいりければ、「役(えん)の行者(ぎやうじや)」の心地ぞしける。

 岩ねふみ、谷嶺越ゆれど、何のあやしことも見えず。昔年(そのかみ)はかゝる深山(みやま)の奧にも大社(たいしや)ありしと見えて、石ずへの大きなるが、こゝかしこ、形ばかり殘りて、柱はいつしかにくちはてみだりふしたり。

[やぶちゃん注:標題は「ひとりみのはぐろまうで」。「羽黑」は羽黒山(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の山形県鶴岡市にある。標高四一四メートル。出羽三山の主峰である月山の北北西山麓に位置する丘陵で、独立峰ではない。修験道を中心とした山岳信仰の山として有名。山頂には月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社)がある。

「しゆ行」武者「修行」。

「宮本武藏」(天正一二(一五八四)年~正保二(一六四五)年)は言わずと知れた二刀流の二天一流兵法の開祖。

「役の行者」七世紀末に大和の葛木(かつらぎ)山にいたとされる呪術者。役小角(えんのおづぬ)とも呼ぶ。「続(しょく)日本紀」によれば、役君小角(えのきみおづぬ)とあり、秩序を乱したので六九九年に伊豆に流されたとする(それでも自在に空を行き来したという)。ここに出る鬼神「前鬼」・「後鬼」を使役して諸事を手伝わせたとされる。修験道の祖とされ、山岳仏教のある各山に役の行者の伝説が残る。

「石ずへ」ママ。「礎」は「石据え」が原義だから、「いしずゑ」が正しい。]

 

 やうやう日もくれて、物の色めもわかぬ程、雲かげすかしてみれば、杉の立木大いなるに、くちたる木、このはなど、からげつけ、鳥の巢のさましながら、あやしくしつらひたる所あり。しげき木だちの中、日さへくるれば、何とわかちはみへねど、かく山ふかく至りて、是れ程のふしぎさへも見ねば、めづらしき心地し、

「いかさま、やうあらん。」

と、かたはらにしのびて、うかゞひおる。

[やぶちゃん注:「何とわかちはみへねど」「何んと、別かちは見えねど」で、闇の中、対象物がまるで識別出来ぬほどになったものの。

「いかさま、やうあらん」このように山深く参ったにも拘らず、少しの不思議や怪異にも遭遇しないので、そんな事態が逆に例のないことに思えて、「きっと、何か玄妙な訳があるに違いない。」と考えたのである。

「おる」ママ。]

 

 やうやう戌(いぬ)の刻[やぶちゃん注:午後八時前後。]ばかりにもやなりなんとおもふほど、むかいの山尾さき、はるかに海邊ならば、あまのさへづりとや聞きなされん、鳥の音にはかはりて、こゑぞ近寄りける。

[やぶちゃん注:「戌の刻」午後八時前後。

「むかい」ママ。「向ひ」。正面向こう。

「山尾さき」山の尾根の遙か先の方。但し、日本海は山頂から直線で約二十二キロメートル離れる。ただ、以下のように、高山で遙か下界の街の音や人の声がすぐ近くに聴こえることはままあり、登山経験の中でもたびたびあった。これは上空の気温が地上付近より高くなっているために起こる現象で、実際、孰れのケースでも天気が悪くなることが多かった。

「あまのさへづり」「海人の囀り」聞きなれない都の人にとっては「鳥のさえずり」のように意味が分からないところから、漁師たちや漁村の田舎言葉の喩えとして、「源氏物語」にも登場する古語。本書の風雅趣味が出たもの。]

 

「扨てこそ。」

ときほひて、いよいよ、ひそまり、うかゞふ。

 程なく巢のもとに來たりて、天狗ともいふべき、六尺ゆたかの大もの、まくろなるが、あららかなるこゑして、

「あるにや。」

と呼ふも、いかつなり。

[やぶちゃん注:「六尺ゆたか」六尺(一メートル八十二センチ)を超えるような背丈。言っておくと、因みに宮本武蔵の伝記として早い時期に成立した筑前福岡藩黒田家旧家臣立花峯均(みねひら)が著した「兵法大祖武州玄信公傳來』(へいほうたいそぶしゅうげんしんこうでんらい)によれば、武蔵の身長も六尺あったとする。

「まくろ」「眞黑」。

「いかつなり」「嚴(いか)なり」いかにも偉そうに力(りき)みかえっているさま。]

 

 うちより、わかき女のこゑして、

「爰に。」

といふ。

 武藏、いやましのふしぎに、なを音せで聞き居(を)る。

 かのものゝいひける、

「かくまでしても、我がおもふ事、かなへぬにや。」

とせたぐ。

[やぶちゃん注:「せたぐ」「虐(せた)ぐ」。ガ行下二段動詞「しへたぐ」の音変化とされる。「攻めたてる」、「きつく責める・ひどい目にあわせる」、「せかせる・催促する」の意。意味はハイブリッドでよい。]

 

 女、まめだちて、

「いかにのたまふともかなはじ。たゞころし給へてよ。」

と、なく。

 かのもの、はらだち、

「さらばものみせてん。」

と、いひし。

 しばらくありて女の、

「あ。」

と、さけぶに、

『あはれ、ころされしや』

と、おもふ。

 大ものは、それより、巢をくだりて、もとの山路をわけ、聲して遠ざかる。今はかすかにもきこゑねば、どうの火、うち付け、かの巢にあがりてみるに、年は十六、七にもやなりけん、おもやせて、くろみたる中にも、あてなるさまは多かりける。

[やぶちゃん注:「どう」「强盜提燈」(がんだうぢやうちん(がんどうぢょうちん))のことだろう(「強」の「ガン」は唐音)。木板・銅板・ブリキ板などで釣鐘形の枠を作り、その中に自在に回転して常に立つようになっている蝋燭立てを取り付けたもの。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えないことから「忍び提灯」とも呼ぶ。単に龕灯 (がんどう)とも称する。「どう」で単なる蝋燭の意もあるが、武蔵は不審な声の主の元に行くために木を登っているので、後者ではあり得ない。]

 

 武藏、

「何ものにか。」

と、とがむ。

 女、おどろき、

「爰は人げなどすべき所にもあらず。何しにかおはしけん。」

と、あやしがる。

 むさし、

「しかじか。」

と、語りて、

「あはれ、なんぢがいのち、たすけ、望(のぞむ)ならば里にもつれくだるべきが、さもあれ、わけ、いかに。」

と問ふ。

「我は此山のふもと、酒屋五左衞門と申すものゝ娘なり。先の男はこの國のがんどう、黑沼といへるくせものなるが、我を妻にせんと父母にいひよれど、かゝるものなれば、うけひかぬを、おのが友をかたらひ、大勢にて我をかどはし、さまざまにものすれど、父母のゆるさぬうへ、また、『かゝるおそろしきものの女にならんは、しにたらんこそめやすかるべけれ』と、たへて、つれなく日ごろをふるに、『さらば』といひて、かゝるあぢきなき所につれ來たり、『こときかぬがにくし』とて、ひとり、すておき、夜ごとに、さきの頃、かならず行き通ひて、せちにせたぐるがうへ、さきのごとく、小刀(こがたな)をはりにたてなんど、さいなめど、『いかにもして女にぐせん』とおもふより、命とるにもいたらず。がんどうにもや行くらん。時定(ときさだ)むるの外(ほか)、常(つね)には來たらず。くいものなどはさまざまにて、うゆる事なし。」

とかたるに、あはれのかず、まし、

「さらば、たすくべきが、たゞしては、かへりて、わざわひとなるべし。おもふしさいあれば、今宵はやみぬ。あすの夜、かならず、たすくべし。かまへてかまへて、色になあらはし給ふな。くせものにしられんこと、かたき事なり。先(さき)だちて、親にも、しらすべし。いづくの程にやあるらん、しるしなくてはうきたる事にやきゝなされん。」

と、ねんごろにものすれば、きたりける着物のつま、きりて、わたしぬ。よく慰めて里にくだれば、夜は明けにけり。

[やぶちゃん注:「爰は人げなどすべき所にもあらず」ここは凡そ人気など本来はあろうはずのないところ、人跡未踏の山奥にて御座います。

「がんどう」「强盜」。ここは文字通りの盗賊の輩(やから)。「がんだう」が正しい。

「うけひかぬ」「承け引かぬ」承知しない。「うけがはぬ」の方が台詞としてはいい感じがする。

「かどはし」「かどはす」は「かどはかす(かどわかす)」(「勾引(かど)はかす」「拐はかす」)に同じ。人を騙し、又は力ずくで他へ連れ去る、誘拐するの意。

「かゝるおそろしきものの女にならんは、しにたらんこそめやすかるべけれ」このように言うことをきかぬ恐るべき女というものは、死んじまうのが、これ、相応しいってもんだな。

「たへて」耐へて。我慢して。ここは台詞の直後に主語が娘自身になったものか。

「つれなく日ごろをふるに」ここも主語を娘ととり、思いに任せず、監禁の身を過ごしていたところが、か。前もこれも主語を黒沼とするなら、「絕えて」「思い通りに娘の心を動かせず」の意となるが、どうも台詞としては私にはしっくりとこない。

「あぢきなき所」ここは恐ろしい自由の聴かぬ不条理な場所の意であろう。

「さきの頃」先ほどの刻限になると。

「小刀(こがたな)をはりにたて」「はり」不詳。「梁」で背中の謂いかと思ったが、辞書にはそのような用法がない。しかし、それくらいしか私には想像出来ない。「針」に「心に突き刺さすようなものの喩えの意があるから、小刀を目の前にちらつかせて嚇すという謂いかも知れぬが、どうもそれでは、インパクトが弱い。

「ぐせん」「具せん」で「連れ添うて見せる」「添い遂げるやる」の謂いか。

「時定(ときさだ)むるの外」定時の戌の刻に責め苛む時以外は。

「うゆる事なし」ママ。「餓ゑることなし」の意。

「かたき事なり」「難きことなり」。非常によろしくない難しいことになってしまうのだ。

「うきたる事」当てにならない、いい加減な嘘。

「着物のつま、きりて、わたしぬ」証拠として、娘の着ている着物の褄(つま)、裾(すそ)の端を引き千切って、武蔵に渡したのである。]

 

 五左衞門が宿たづねて、

「旅人なり。やどたまへ。」

といふ。かしてければ、やうやうに、人なき間(ま)をうかゞひ、ひそかに、

「しかじか。」

の事、かたり、しるしを見せければ、夫婦ともに、泣きみ、わらひみ、ありがたがるを、

「まづ、音なせそ。一家のものにもつゝしむべし。その儻(たう)のきゝなんは、尤(もつとも)うきことなるべし。」

とて、口、かためぬ。ふたりの悅び、うきことにとりそへ、其日のくるゝ程、あまの羽衣なでつくすらんより、久しかるべし。

[やぶちゃん注:「かしてければ」「貸してければ」。

「泣きみ、わらひみ」「み」は接尾語(接続助詞とも)で、動詞型活用語や打消の助動詞「ず」の連用形に付いて、「~み、~み」の形で「~たり、~たり」と、その動作が交互に繰り返される意を表わす。

「儻」この漢字は「もしくは・あるいは」すぐれる・他と異なる・心が定まらない」という意で意味が通じない。「党」と通じて「依怙贔屓(えこひいき)する」という意があるともあったから、ここは単に「黨(党)」の代字で「仲間」の意ある。

「口、かためぬ」何か賊どもに疑わられるような軽率な発言を決して口にしてはならぬと、口が酸っぱくなるほど言い含めたのである。

「うきことにとりそへ」「憂きことにとり添へ」。娘が黒沼にかどわかされた事実が「憂きこと」で、それに対照的に素晴らしいこととして武蔵の強力なる助力が添えられたことを謂う。

「あまの羽衣なでつくすらんより」「天の羽衣撫ず(あまのはごろもなず)」という成句があり、「非常に長い時間が経過すること」の仏説による故事に基づく喩えである。「天人が三年(一説に百年)に一度ずつ、降り下ってきて、方四十里もある巨石を、薄くて空気よりも軽い羽衣で撫でて、それでも、その石がすり減ってなくなってしまうよりも、もっと長い時間」の謂いである。その日の夜、武蔵が娘を救いに行くことを知って、その日が暮れるまでの時間が一日千秋どころではなかったという誇張表現である。よく知られたものでは、「拾遺和歌集」(寛弘三(一〇〇六)年頃の成立か)の「巻第五 賀」の「よみ人しらず」(但し、平安前期の歌人で三十六歌仙の一人である坂上是則(これのり ?~。延長八(九三〇)年:坂上田村麻呂の四代の子孫)の家集「是則集」に載っている)の「題知らず」の一首(二九九番)、

 君が世は天(あま)の羽衣まれにきて撫(な)づとも盡きぬ巖(いはほ)ならなん

である。]

 

 武藏は、よく、口、かため置いて、女のきかゆべきそなど、肩にかけ、かの所に至りてみれば、女も夢みたるやうに、まこともさだめがたけれど、あいなきたのみに、けふの日、まちくらす程、日ごろのこゝろには、かはるなるべし。

[やぶちゃん注:「きかゆべきそ」「着換(きか)ゆべき衣(そ)」。

「まこともさだめがたけれど」あまりの順調な展開に夢ではないか、真実(まこと)のこととは思うことが出来ぬほどであったけれども。

「あいなきたのみ」「あいなし」は歴史的仮名遣は不明。今までは思っても甲斐のない頼みであったのだが。]

 

 女をば、かたはらに、よくよくしのばせ、武藏、入りかわりてまちけるに、さきの夜のごとく、むかふより音して、近より、又あらけなきこゑする。

「爰に。」

といふこたへと同じく、かきいだきて、おしふせ、やすう、なわ、かくるに、

「こは心得ず。」

と、いへば、

「我こそ、宮本武藏、ござなれ。汝が惡、こゝに極まれり。」

と引き立つる。

「さてこそあらめ、よのつねにて、我を、かくせんもの、覺(おぼえ)なし。ゆだんして。」

と口惜しがる。

 それより、女を黑沼におゝせ、

「すこしもあやまらば、もの見せん。」

と、こゑかけ、ふもとちかふならん程、谷がけの、巖(いはほ)そばたちたる所より、黑ぬまを、なわかけしまゝにて、けおとしける。

 千丈もあるべき谷なれば、なでう、たまるべき。

 それより、娘をかいおひて、親どもにわたしける。その時のうれしさしるべし。

 武藏は、かくて、陸奧へぞ下りける。

[やぶちゃん注:「入りかわりてまちけるに」娘が軟禁されていたのは高木の先の方で、女人一人では降りれないような場所であったものと思われる。だから、逃げ出したり、家に戻ることが出来なかったのである。今日は、そこに至って、娘を背負うて、木を下り、近くの叢に彼女を隠し、武蔵は再び木を攀じ登り、娘と入れ替わって待ったのである。

「あらけなき」「荒けなき」。荒々しい、乱暴な。

「こたへ」「應(こた)へ」。武蔵が女声を真似たのである。

「かきいだきて、おしふせ、やすう、なわ、かくるに」「搔き抱きて、壓し伏せ、易う、繩(なは)、掛くるに」。

「さてこそあらめ、よのつねにて、我を、かくせんもの、覺(おぼえ)なし、ゆだんして。」「さても! そういうことかッツ! 然れども、世の常の者どもで、我れをこのように手もなく押さえて縛り上げる奴(きゃつ)は! これ、あろう筈はないものを! くそッツ! 油断してしもうたわッツ!」。

「女を黑沼におゝせ」「おゝせ」は「負はせ」で、娘を黒沼に背負わせたのであろう。

「すこしもあやまらば、もの見せん」「ちょっとでも心得違いを起こして何かしようとしたら、目にものみせてやるから、覚悟しとけ!」。

「巖(いはほ)そばたちたる所」「巖」(の)「岨立ちたる所」。断崖絶壁。

「けおとしける」「蹴落としける」。

「千丈」三千三十メートル。無論、誇張表現。

「なでう」「なにてふ」の縮約で、ここは反語の副詞。

「かいおひて」「搔き負ひて」の音便。]

大和本草卷之十三 魚之下 海鷂魚(ヱイ) (アカエイ・マダラトビエイ)

 

海鷂魚 其尾ニ毒アリ人ヲサセハ大ニ痛ミ腫テ死ス

樟腦或楠木奇南香ヲタキテフスヘテヨシ甚妙ナリ

是所不載醫書漁人不可不知甚大ナルハ七八人ニテ

コレヲニナフ如此ナルハマレ也凡種類多シ○關東ニ鳥

ヱイト云魚アリ西州ニモアリ異物ナリ其形鳥ノ翼ヲ

張ルガ如ク頭モ鳥ニ似タリ背ハ黑ク乄海鰌ノ黒皮ノ如

ク腹白シ大小アリ   大ナルハ方五尺尾小ニ乄

長シ大ナルハ尾長      キ叓六七尺ニ餘ル

アリ尾ノ形婦

人ノ絲ヲヨル□    ニ似テ末小ニ尖ル耳廣クシテ

両傍ニ貫通ス脂アリ味好シ

 

Wei

 

[やぶちゃん注:終わりの方の四行の途中の空隙部分に以上の挿絵が入っている。以下に国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示す。なお、後ろから二行目の「□」の部分は判読出来なかった漢字であるが、それを含めて画像を切り取ってある。ルビは明らかに「ツム」であり、所謂、「錘・紡錘」(つむ)で、糸を紡ぐと同時に、糸に撚(よ)りをかけながら巻き取る細く尖った形状の木製道具(巻き取り始めると、糸が紡錘型になる)を指していることは間違いない。当初は当て字で「尾」としているのだろうと踏んでいたのであるが、実は前に「大なる尾」とあるのと比較すると、明らかに違う字であると判断された。しかし、「つむ」と読む当該字を探し得なかったため、□で示した。感触的には、不思議な(かんむり)=〔「天」の字の最終第四画を除いたもの〕があり、それが左への(はらい)となっていて、(つくり)の下部に「毛」の字があるような字体である。

○やぶちゃんの書き下し文

海鷂魚(ヱイ) 其の尾に毒あり。人をさせば、大〔(おほい)〕に痛み、腫れて死す。樟腦〔(しやうなう)〕或いは楠木〔(くすのき)〕・奇南香〔(きなんかう)〕をたきて、ふすべて、よし。甚だ妙なり。是れ、醫書に載せざる所、漁人、知らざるべからず。甚だ大なるは、七、八人にて、これを、になふ。此くのごときなるは、まれなり。凡そ、種類、多し。

○關東に「鳥ゑい」と云ふ魚あり、西州にもあり。異物なり。其の形、鳥の翼を張るがごとく、頭も鳥に似たり。背は黑くして海鰌〔(くじら)〕の黒皮のごとく、腹、白し。大・小あり。大なるは方五尺、尾、小にして、長し。大なるは、尾、長き事、六、七尺に餘るあり。尾の形、婦人の絲〔(いと)〕をよる□(つむ)に似て、末、小〔(わづか)〕に尖〔(とが)〕る。耳、廣くして両傍に貫通す。脂〔(あぶら)〕あり。味、好し。

[やぶちゃん注:軟骨魚綱板鰓亜綱エイ上目エイ亜区 Batoidea の、

シビレエイ目 Torpediniformes

ノコギリエイ目 Pristiformes

ガンギエイ目 Rajiformes

トビエイ目 Myliobatiformes

に含まれるエイ類の総論であるが、以下を見るに、アカエイとマダラトビエイの記載と考えてよい。なお、「エイ」の歴史的仮名遣は「エヒ(えひ)」が正しい

「其の尾に毒あり。人をさせば、大〔(おほい)〕に痛み、腫れて死す」総てのエイに有毒棘があるわけではない。知られる危険種の代表は、

トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei

である。ウィキの「アカエイ」によれば、『尾を含めた全長は最大で2メートルに達する。多くのエイに共通するように、体は上から押しつぶされたように平たく、座布団のような形をしている。左右の胸鰭は緩やかな曲線を描くが、吻は尖っている。背面は赤褐色-灰褐色で、腹面は白いが、鰭や尾など辺縁部が黄色-橙色になる点で近縁種と区別できる。背面に目があり、噴水孔が目の後方に近接して開く。腹面には鼻孔、口、5対の鰓裂、総排出腔がある』。『体表はほとんど滑らかだが、背中の正中線付近には小さな棘が並び、尾に続く。尾は細長くしなやかな鞭状で、背面に短い棘が列を成して並ぶ。さらに中ほどには数-10センチメートルほどの長い棘が』一、二本、『近接して並ぶ。この長い棘には毒腺があり、刺されると激痛に襲われる。数週間も痛みが続いたり、アレルギー体質の人は』アナフィラキシー・ショック(anaphylactic shock)により『死亡することもある。棘には鋸歯状の「返し」もあり、一度刺さると抜き難い。刺されたら』、まず、『毒を絞り、患部を水または湯で洗い流した後、早急に病院で治療を受ける必要がある。生体を扱う際は、尾を鞭のように払って刺そうとするので充分注意しなければならない。生体が死んでも毒は消えないため、死体を扱う際にも尾には注意が必要である』。『クロコダイル・ハンターとして著名な』オーストラリアの動物園経営者で環境保護運動家でもあったスティーブ・アーウィン(Steve Irwin/本名 Stephen Robert Irwin 一九六二年~二〇〇六年九月四日)は、『番組の収録中に棘に刺され』、『死亡した』。私はその番組(まさにグレート・バリア・リーフでのドキュメンタリー番組で題名は“Ocean's Deadliest”(「海の致死危険種リスト」)であった。刺された部位が胸で死因は心停止)を直後に見ており、非常なショックを受けた。なお、『漁業価値は高くないが、エイ類としては多く漁獲され、利用頻度も高』く、『刺身、湯引き、煮付け、煮こごりなどで食用になる。鰭の軟骨を干物にしたり、魚肉練り製品の原料にも使われる。身は脂肪が少なく繊維質が強く、エイの中で最も美味といわれる』。『生の身はピンク色だが、湯引きすると白色になる。肉質はしっかりしていて悪くないが、軟骨魚類の例に漏れず』、『漁獲後に時間が経つとアンモニア臭が発生する。日本では酢味噌やショウガ、酒などを用いて臭みを消す料理が一般的である』とある。食べたいとずっと思っているが、残念なことに、本種はエイヒレ以外は食したことがない。

「樟腦」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの水蒸気蒸留して得られる精油で、分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペン・ケトン(monoterpene ketone)の一種。特異な芳香のある無色透明の板状結晶で昇華しやすい。水に溶けず、アルコールなどの有機溶媒に溶ける。セルロイドや無煙火薬の製造原料、及び、香料・防虫剤・医薬品などに用いる。「カンフル」「カンファー」(フランス語:camphre/ドイツ語:Kampfer/英語:camphor)とも呼ぶ。

「奇南香」狭義には香料の一つである伽羅(きゃら梵語の漢訳。狭義には香木として有名な沈香(じんこう:例えばアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha 等)の別名)の異名であるが、中国では香木を総称する語である。

「になふ」「荷(にな)ふ」。担(かつ)ぐ。

「鳥ゑい」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目トビエイ科マダラトビエイ Aetobatus narinari かと思われる。本種は最大で全長五メートル、体盤幅三メートル、体重二百三十キログラムにもなる。また、腹鰭の直後に二~六本の毒棘を有するので、臆病な性質で積極的に人を襲うことはないが、注意が必要である。私の『毛利梅園「梅園魚譜」 海鷂魚(マダラトビエイ?)』の本文と私の詳注を参照されたい。そこで使用した国立国会図書館デジタルコレクションの画像もここに添えておく。

Image_20200806094601

「異物なり」これは以下の叙述から考えて、関東と西日本の「鳥ゑい」なるものが異種であるという意味ではなく(今まで益軒はしばしば異種の意で「異物」を使ってはいる)、「異」様な形をした魚とも思えぬ代「物」の意であるように思われる。大方の御叱正を俟つ。

「海鰌」クジラ。

「味、好し」梅園は『赤ヱイの内の』(これは分類学上は全くの誤り)『最下品なり。味、佳(よ)からず』と言っている。]

大和本草卷之十三 魚之下 文鰩魚(とびうを)

 

文鰩魚 鰭長シテ能飛フ乾テ遠ニ寄ス無毒病人

食之而無傷婦人産前ニモ可食薩摩ノ産ヲ美トス

四月中旬ヨリ五月下旬マテ多シ故漁人曰文鰩魚

多ケレバ鯛魚少シ盖鯛ハ三四月ニ多シ五月以後ス

クナケレハナリ

○やぶちゃんの書き下し文

文鰩魚(とびうを) 鰭(ひれ)長くして、能く飛ぶ。乾(ほし)て遠〔(とほく)〕に寄す。毒、無し。病人、之れを食ひて傷〔(きづつく)〕る無し。婦人産前にも食すべし。薩摩の産を美〔(よし)〕とす。四月中旬より五月下旬まで多し。故、漁人曰はく、「文鰩魚、多ければ、鯛魚、少なし」〔と〕。蓋〔(けだ)〕し、鯛は、三、四月に多し。五月以後、すくなければなり。

[やぶちゃん注:ダツ目トビウオ科 Exocoetidae のトビウオ類。当時の本邦では、

ハマトビウオ属ハマトビウオ Cypselurus pinnatibarbatus japonicus

ホソトビウオ Cypselurus hiraii

アヤトビウオ Cypselurus poecilopterus

アリアケトビウオ Cypselurus starksi

トビウオ(ホントビウオ)Cypselurus agoo agoo

ツクシトビウオ Cypselurus heterurus doederleini

アカトビ Cypselurus atrisignis

カラストビウオ Cypselurus cyanopterus(一説に Cheilopogon 属に分類される)

オオメナツトビ Cypselurus unicolor(同前)

ニノジトビウオ属ニノジトビウオ Hirundichthys speculiger

ホソアオトビ Hirundichthys oxycephalus

サヨリトビウオ属サヨリトビウオ Oxyporhamphus micropterus

ツマリトビウオ属バショウトビウオ Parexocoetus mento

イダテントビウオ属イダテントビウオ Exocoetus volitans

などを挙げておけばよかろう。

「文鰩魚」「文」は「紋」であろう。飛翔時の大きな胸鰭は美しい文様のように見える。なお、「鰩」はトビウオ以外にエイをも指す。但し、「文鰩魚」は、元は「山海經」の「西山經」に、

   *

又西百八十里、曰泰器之山。觀水出焉、西流注于流沙。是多文鰩魚、狀如鯉魚、魚身而鳥翼、蒼文而白首、赤喙、常行西海,遊於東海、以夜飛。其音如鸞雞、其味酸甘、食之已狂、見則天下大穰。

   *

と載る自在に飛翔するコイに似た怪魚の名である。

「薩摩の産」ハマトビウオとみてよかろう。]

大和本草卷之十三 魚之下 梭魚(かます) (カマス/イカナゴ誤認)

 

【外】

梭魚 閩書南產志ニノセタリ其形布ヲル梭ニ似タリ

大ナル者尺餘觜長ク身マルクアフラ多シ肉餻トシ水ニ

煮テ油ヲ去テ蒸炙テ食スヘシ其苗俗名イカナゴ尼

崎兵庫等ノ海ニテ網ニテ多クトル大ナル假屋ヲ海邊

ニ作リ釜ヲ多クナラベカマス子ヲ煎シテ油ヲトリテウ

ル燈油トス其煎シカスモウル賤者ノ食トス或田圃ノ

糞トス此魚本草ニ不載脂多シ食之發病病人服藥

人不可食其苗亦不佳于病人倭俗用魳字

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

梭魚(かます) 「閩書〔(びんしよ)〕南產志」にのせたり。其の形、布をる[やぶちゃん注:ママ。]梭〔(ひ)〕に似たり。大なる者、尺餘。觜〔(くちばし)〕長く、身、まるく、あぶら、多し。肉餻〔(にくだんご)〕とし、水に煮て、油を去りて、蒸し炙〔(あぶ)〕つて食すべし。其の苗〔(なへ)〕、俗名「いかなご」。尼崎〔(あまがさき)〕・兵庫等の海にて、網にて多くとる。大なる假屋〔(かりや)〕を海邊に作り、釜を多くならべ、「カマス子(ご)」を煎〔(せん)〕じて油をとりて、うる。燈油とす。其の煎じかすも、うる。賤者の食とす。田圃の糞〔(こやし)〕とす。此の魚、「本草」に載らず。脂、多し。之れを食へば、病ひを發す。病人、藥を服する人、食ふべからず。其の苗も亦、病人に佳〔(よ)〕からず。倭俗、「魳」の字を用ゆ。

[やぶちゃん注:スズキ目サバ亜目カマス科カマス属 Sphyraena に含まれる多種及び或いは類似した形態を持つも全く異なる別亜目別科の種群で概ね口が大きい魚に附される。カマス科Sphyraenidaeのカマス類(一属二十一種が認められている)は細長い円筒形の体型を持ち、全長は二十~三十センチメートルほどの種から、二メートルに達することもある大型種まで多様であるものの、口が大きく、下顎がやや突き出ており、鋭く強靭な歯(人間に対して攻撃性を持ち、大型個体では咬まれると危険である)を備えている。「カマス」は「叺」(国字)で、「蒲簀(かます)」の意。古くはガマ藁で作った。藁莚を二つ折りにし、縁を縫いとじた長方形の袋のこと。穀類・塩・石炭・肥料などの貯蔵・運搬に用いる。梱包する前の口部分が有意に大きい。一般に魚体がスマートだが、口が大きな魚にこの名が附される傾向があるように思われる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の『「カマス」と呼ばれるもの一覧』を見られたいが、当時の本邦産に限った場合は、

アカカマス Sphyraena pinguis(異名「本カマス」。全長五〇センチメートルほど)

オオメカマス Sphyraena forsteri(全長七〇センチメートルほど)

ヤマトカマス Sphyraena japonica (異名「青カマス」「水カマス」(身に水分が多いためで、この異称は広汎に用いられる)。全長三五センチメートルほど)

オオカマス Sphyraena putnamae(全長一メートルほど)

オニカマス Sphyraena barracuda(全長が二メートル近くなり、カマス類では特に大きな口と鋭い歯を持ち、国外では負傷例も多い。嘗ては食用に供されたが、非常に強い神経毒シガトキシン(ciguatoxin:摂取したある種の有毒渦鞭毛藻類由来)を持つ個体がいるため、現在は食品衛生法で販売禁止とされている)

を挙げておけばよいか。

「閩書南產志」明の何喬遠撰になる福建省の地誌。その記載は『似蚝魚稍大、如織梭、豐肉脆骨』。

「梭」機織りに於いて緯(よこ)糸を巻いた管を入れて、経(たて)糸の中を潜らせる、小さい舟形の器具。シャトル(shuttle)。個人的には「叺」より「梭」だろうとは思う。

「肉餻〔(にくだんご)〕」「餻」(音(カウ(コウ))で、本来は米粉・小麦粉などを練って蒸した食品を指すが、ここはかく当て訓しておいた。

「苗〔(なへ)〕」稚魚。

「いかなご」カマスの稚魚ではなく、れっきとした種であるスズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus を指し(関東では稚魚を「コウナゴ」(小女子)と呼ぶ)、益軒の誤認である。この誤認は「カマスゴ」の異名があるためであるが、これは、古くからの産地である阪神地区・播磨地区に於いて、春先に漁獲した後、直ちに釜揚げにされ、さらにそれを乾燥させたもの(「カナギちりめん(小女子縮緬)」)を棕櫚や藁で編んだ叺に封入して各地に運んだことによる。

「魳」漢語では「老魚」・「ブリ」・「毒魚の名」とする。国字としてのみカマスを指す。]

今日、先生は靜と結婚する――そして……透視幻覚1

Kの葬式後……人々のK自死の謎への疑問に、先生の内なる「早く御前が殺したと白狀してしまへといふ聲」という声が聴こえる―― 

「奥さん」と靜と先生が転居し、そうして遂に先生と靜が結婚する……

   *

 卒業して半年も經たないうちに、私はとう/\御孃さんと結婚しました。

 外側から見れば、萬事が豫期通りに運んだのですから、目出度と云はなければなりません。

 奥さんも御孃さんも如何にも幸福らしく見えました。

 私も幸福だつたのです。

 けれども私の幸福には暗い影が隨(つ)いてゐました。

 私は此幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなからうかと思ひました。

 結婚した時御孃(おじやう)さんが、―もう御孃(おちやう)さんではありませんから、妻(さい)と云ひます。

 ―妻が、何を思ひ出したのか、

「二人でKの墓參をしやう」

と云ひ出しました。

 私は意味もなく唯ぎよつとしました。

「何うしてそんな事を急に思ひ立つたのか」

と聞きました。妻は

「二人揃つて御參りをしたら、Kが嘸(さぞ)喜こぶだらう」

と云ふのです。

 私は何事も知らない妻の顏をしけじけ眺めてゐましたが、妻から

「何故そんな顏をするのか」

と問はれて始めて氣が付きました。

 私は妻の望み通り二人連れ立つて雜司ケ谷へ行きました。

 私は新らしいKの墓へ水をかけて洗つて遣りました。

 妻は其前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。

 妻は定めて私と一所になつた顚末(てんまつ)を述べてKに喜こんで貰ふ積でしたらう。

 私は腹の中で、たゞ

自分が惡かつた

と繰り返す丈でした。

 其時妻はKの墓を撫でゝ見て

「立派だ」

と評してゐました。其墓は大したものではないのですけれども、私が自分で石屋へ行つて見立たりした因緣があるので、妻はとくに左右云ひたかつたのでせう。

 私は

――其新らしい墓と、

――新らしい私の妻と、

それから

――地面の下に埋(うづ)められたKの新らしい白骨(はくこつ)とを思ひ比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはゐられなかつたのです。

 私は其れ以後決して妻と一所にKの墓參りをしない事にしました。

 

(以上、『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月6日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百五回の一部を、改行と太字と記号を挿入して、オリジナルに示した

   *

考えて見給え!――先生の死後――Kの墓を参る者は誰か――誰もいないか?――いや――靜だけは、屹度、彼女の意志で参るであろう――それが残されて自立した靜の唯一の先生に反した行動であろう……しかし――学生の「私」はどうかね?――「K」というイニシャルでしか「私」に伝えることを拒否され、靜に事実を語るなという絶対禁足を考えれば――どうだ?――「私」も参ることはあり得ない……

靜の懊悩……学生「私」の懊悩……遂に先生は新しい犠牲者としての靜と学生の「私」を創り出しているのでは……あるまいか?…………

  

 

 

2020/08/05

大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち) (シログチ・ニベ)

 

石首魚 下品ナリ夏月味可也頭ニ碁石ノ如ナル小

石二アリ故石首ト名ツク西土ニテハグチ云小ナル

ヲタチト云大キナルヲ鮸ト云ニヘハ四五尺六七尺アリ

赤色ナリ鱗大ナリ首ノ石ハ刀ワキサシノ目貫ニ用テ

ヨシニベハ腸中ニアル白鰾ヲ膠トスル叓本草ニ見エタリ

是ヲニベト云乾タルヲ鮝ト云本艸ニ載ス

○やぶちゃんの書き下し文

石首魚(ぐち) 下品なり。夏月、味、可なり。頭〔(かしら)〕に碁石のごとくなる小石、二つ、あり。故、「石首〔(いしもち)〕」と名づく。西土にては「ぐち」と云ふ。小なるを「たち」と云ひ、大きなるを「鮸(にべ)」と云ふ。「にべ」は、四、五尺、六、七尺あり。赤色なり。鱗、大なり。首の石は刀・わきざしの目貫〔(めぬき)〕に用ひて、よし。「にべ」は腸〔(はらわた)の〕中にある白鰾(みづぶくろ)を膠〔(にかは)〕とする事、「本草」に見えたり。是れを「にべ」と云ふ。乾したるを「鮝〔(しやう)〕」と云ふ。「本艸」に載す。

[やぶちゃん注:現行では「イシモチ」(漢字表記「石持」「石首魚」「鰵」)と言った場合、

スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata

を指すのが一般的で、本文中に出る「鮸(にべ)」は大きさの違いではなく、同科の別属である、

ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii

を指す。「石持」(イシモチ)は彼ら(以下に示す有意に大きな耳石を持つ種群)の総称旧称であって標準和名としては魚類分類学では機能しない。但し、業者や寿司屋ではイシモチの名が生きており、その場合、上記二種が別物でありながら、混在して卸売り業者が扱っているものの、寿司屋で「いしもち」と言った場合は、普通はシログチであると考えてよい(但し、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシログチのページに、シログチは『内耳にある扁平石(耳石のいちばん大きいもの)が大きく、頭部を食べていると口にあたるため』、実は『1950年代まではイシモチが標準和名だった』とある)。ニベ科 Sciaenidae の魚類は、頭骨内にある石のような耳石(平衡石:脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織。いわゆる平衡胞に含まれる平衡石であり、平衡感覚と聴覚に関与する。特に本種群に代表される魚類の持つものが有名で、その断面は木の年輪と似た同心円状の輪紋構造が形成されており、しかもこれが一日に一本ずつ形成される。これを「日輪(にちりん)」と呼び、年齢推定を日単位で知ることが出来る後述するリンク先を参照)が非常に大きく特に目立ったため、かく呼ばれたのである。

 シログチは「白愚痴」で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシログチのページの解説によれば、『浮き袋』(本文では「白鰾(みづぶくろ)」と出る)『を使ってググっと鳴く。これが愚痴を言っているよう』に聴こえることに由来し(ニベも同じく鳴く)、『また「白」はニベを「黒ぐち」、「黄ぐち」』と呼んだのに対して、本種は体色が白いことからの呼称であるとある。体長は四〇センチメートル前後にもなる。「福井県水産試験場」公式サイト内の「耳石」(複数のページで細かく書かれてある)の中のこちらで本種の摘出過程と、耳石を見ることが出来る。

 一方、ニベは確かに有意に大きくなり(但し「四、五尺、六、七尺あり」は誇張し過ぎ)、約八〇センチメートルにも達する。外見上、よく似て見えるものの、鰓蓋上部の黒色斑の有無(ニベにはない)や、体側の小黒色斑点列の有無(ニベにはある)で区別が可能である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のニベと上記とを比較されたい。ウィキの「ニベ」によれば、『この魚の鰾(うきぶくろ)を煮詰めて作る膠』(にかわ:Animal glue(アニマル・グルー)は『きわめて粘着力が強』く、『この膠自体も「鰾膠」』と書いて「にべ」と『称する。特に江戸時代には高級な膠の原料になった』ことで知られ、『そのべたべたした性質から愛想や世辞を表す言葉』へと転じて、『無愛想な様子を表す「にべもない」という慣用句の「ニベ」も、この「鰾膠」』由来である、とある。前者リンク先に『シログチが内湾に多いのに対して、外洋に面した浅場に』ニベは『いる』とある。但し、益軒の「赤色なり」というのは不審。

「目貫」この場合は、刀の柄(つか)を刀身に固着させるために挿した釘を覆い隠すための装飾具。

『「にべ」は腸〔(わた)の〕中にあるを膠〔(にかは)〕とする事、「本草」に見えたり。是れを「にべ」と云ふ。乾したるを「鮝〔(しやう)〕」と云ふ。「本艸」に載す』「本草綱目」の「鱗之三」の「石首魚」の項の「集解」中に、

   *

時珍曰、『生東南海中。其形如白魚、扁身弱骨、細鱗黄色如金。首有白石二枚、瑩潔如玉。至秋化爲冠鳬、卽野鴨有冠者也。腹中白鰾可作膠』。

   *

とあり、その前の「釋名」の中に、

   *

『乾者名「鮝魚」【音「想」。亦作「鱶」「養」。】。時珍曰、『鮝、能養人、人恒想之、故字從養』。羅願云、『諸魚薨乾皆爲鮝、其美不及石首、故獨得專稱。以白者爲佳、故呼白鮝。若露風則變紅色、失味也』。

   *

とあった。ここでは「鮝」は膠にするそれではなくて人を補益する食品としての干物とするという下りと読めるのだが、思うに、さっき不審に思った益軒がニベを赤いとしたのは、ここの露や風に打たれて赤い色に変じてしまい、正味をも失ってしまったシログチの干物の部分を誤読したのではあるまいか?]

大和本草卷之十三 魚之下 鱵魚(さより)

 

鱵魚 形小クシテ圓ク長シ上ノクチハシ短ク下ノ喙長

シ性平ニシテ毒ナシ病人可食又スヽト云魚アリサヨリ

ニ似タリクチハシ上下共ニ其長サヒトシ又サヨリニホ

ネノアヲキコト緑青ノコトクナルアリ味モ性モ不好

不可食西州ニテヱイラクト云又ナガサレト云

○やぶちゃんの書き下し文

鱵魚(さより) 形、小さくして、圓〔(まろ)〕く、長し。上のくちばし、短く、下の喙〔(くちばし)〕、長し。性〔(しやう)〕、平にして、毒、なし。病人、食ふべし。又、「すゝ」と云ふ魚あり、「さより」に似たり。くちばし、上下共に其の長さ、ひとし。又、「さより」に、ほねの、あをきこと、緑青〔(ろくしやう)〕のごとくなる〔もの〕あり。味も性も好からず、食ふべからず。西州にて「ゑいらく」と云ひ、又、「ながされ」と云ふ。

[やぶちゃん注:条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajoriウィキの「サヨリ」より引く。『沿岸の海面近くに生息する細長い魚で、食用魚でもある。季語、三春』。『全長は最大40センチメートルほどで、同じダツ目』Beloniformes『のサンマ』(ダツ上科サンマ科サンマ属サンマ Cololabis saira)『とよく似た細長い体型をしている。サヨリ科一般の特徴として下顎が長く突き出し、上顎は小さな三角形の弁状にしか過ぎないが、この一見アンバランスな形の口器の適応的意義はよくわかっていない。ただ、同じトビウオ上科』Exocoetoidea『のトビウオ類』(トビウオ科 Exocoetidae)『も、稚魚のときに同じような下顎の伸張が起こることが知られている。この下顎の先端は生きているときには赤い。背中は青緑色だが』、『腹側は銀色に輝き』(表層近くを遊泳する魚種に広く見られる空中からの鳥類、及び、遊泳層下層からの肉食性魚類に見え難くする保護色の一種。多くの種群で共通して見られるのは収斂進化の産物である)『筋肉は半透明である』。『腹膜は真っ黒で俗に「見かけによらず腹黒い人」の代名詞とされることもあるが、これは筋肉が半透明で光を透過しやすい魚によく見られる現象で、恐らく腹腔内に光が透過するのを防ぐ適応とみられる。同様に腹膜が黒いコイ科の淡水魚ハクレン』(条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinaeハクレン属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix)『では、成長に伴って食物が動物プランクトンから植物プランクトンに移行する時期に急速に腹膜が黒変することが知られているが、この移行時期に強い日光を浴びると、消化管に取り込まれた植物プランクトンが光合成を行って酸素の気泡が発生し、消化管が膨れ上がって水面に腹を上にして浮かぶなどの障害が発生することが報告されている。サヨリも後述のように成長に従って海藻も食べるようになるため、あるいは摂食した海藻の光合成を抑制する意味があるのかもしれない』。『沿岸性で、樺太の西側から台湾にかけての北西太平洋、日本海、黄海、渤海湾の陸地近海に分布する。海面すれすれを群れをなして泳ぎ、動物プランクトンを捕食したり、浮遊する海藻の断片を摂食する。危険を感じるとよく空中にジャンプする。サヨリ科』Hemiramphidae『には淡水域にまで侵入する種が多く知られるが、サヨリは汽水域までは進入するものの』、『純淡水域にまでは進入しない』。『4月中旬から8月中旬が産卵期であり、群れで藻場に入り込み、メダカの卵に似た直径2.2ミリメートル程度の大粒の卵を、粘着糸で海藻や海草に絡み付ける。孵化直後の仔魚は全長7ミリメートル程度で、これが2.5センチメートル程度まで成長すると下顎の伸張が始まる。下顎はいったん成魚よりも全長比で長く伸張するが、次第に体の他の部分の成長が著しくなり、全長27センチメートル程度になると、ほぼ成魚と同じプロポーションになる。寿命は2年余りと考えられている』。『春から秋にかけて漁獲されるが、旬は3月から5月にかけてとされる』とある。

『「すゝ」と云ふ魚あり、「さより」に似たり。くちばし、上下共に其の長さ、ひとし』すす」は現在の和歌山・兵庫・大阪府堺でサヨリの異名である(由来は不詳だが、個人的には体腔内の黒さから「煤」なのではなかろうかと考えた。釣ったことがあるが、捌いた母に見せて貰ったその黒さには吃驚した記憶があるからである)。しかし、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサンマのページ一箇所「スス」をサンマの異名としても出る。当該サイトで単に『参考文献より』と出る場合は、三省堂刊の日本魚類学会編「日本産魚名大辞典」が引用元である。されば、敢えて「くちばし、上下共に其の長さ、ひとし」とあるのに拘るなら、サンマの稚魚・幼魚を指すか(但しサヨリにはあまり似ていない)。画像を幾つか見た中では、棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目サギフエ科サギフエ属サギフエ Macroramphosus scolopax の稚魚は、それよりはサヨリに似ている。体は側扁し、尖った口吻は上下ではなく管状であるが、一見、そう思えなくもない。しかもサギフエは成魚のように赤くなく、銀色をしている点でもサヨリに近いのである。

「ほねの、あをきこと、緑青〔(ろくしやう)〕のごとくなる〔もの〕あり。味も性も好からず、食ふべからず」これは普通に新鮮なサヨリの骨は青緑色をしているし、ダツ亜目ダツ上科ダツ科ダツ属ダツ Strongylura anastomella や、その仲間のダツ類も骨は青色や緑色をしている。刺身しか知らない御仁は一見、気持ち悪く思うかも知れぬが、肉は孰れも半透明で美味い。益軒の知ったかぶりがバレた感じがする。

「ゑいらく」この異名は現在は見出せない。しかし、何となく私にはしっくりくる気がした。釣った直後の生きているサヨリの下顎の先端は鮮やかに赤い(弱って死ぬと同時にこれは消え去る)。陽光に背中が青緑色に、腹が銀色に輝き、その肉は半透明で、骨は黄緑色である。まさにそれは玉珠をつらぬいた頸飾り「瓔珞」(えいらく/やうらく(ようらく):後者の読みが一般的。珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具で、元は古代インドで上流階級の者が使用したものの漢訳語。後に仏教で仏像の身を飾ったり、寺院の内陣の装飾として用いた)のようなのである(私は自身で初めて釣り上げたサヨリに見惚れた中学時代の自分を忘れない)。

「ながされ」北九州でかく呼ぶことが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のサンマのページにある。なお、ダツ亜目ダツ上科ダツ科ダツ属ダツ Strongylura anastomella や、その仲間のダツ類も同じく「ナガサレ」の異名を持つ。サヨリもダツも流線形の魚体をしており、産卵と稚魚の成育場所は流れ藻の下であるから、この異名は腑に落ちる。]

大和本草卷之十三 魚之下 䱾鯘(あいのうを) (アイゴ)

 

【和品】

䱾鯘 其色黃褐ナリ長一尺許味ヨカラス一二月ノ

比トル俗民ノ說ニ此魚多ケレハ民飢饉スト云䱾鯘

ハ俗字ナリ未詳所出

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

䱾鯘(あいのうを) 其の色、黃褐なり。長さ一尺許り。味、よからず。一、二月の比〔(ころ)〕とる。俗民の說に「此の魚、多ければ、民、飢饉す」と云ふ。䱾鯘は俗字なり。未だ出づる所を詳らかにせず。

[やぶちゃん注:「䱾」は音「ロウ・ル」で第一義はコイ(鯉)の一種で大形で青い色をしているものを指すという(種不詳)。但し、「鰜」(音「ケン」)と同義の部分があり、この「鰜」には前の鯉の意以外に、体が扁平なヒラメ・カレイなどの側扁した魚の総称でもある。また、「鯘」は「鮾」と同義で(孰れも音は「ダイ・ナイ」で、訓は「あざる」「魚肉などが腐る」意である。さすれば、私はこれは体が側扁した(ヒラメ・カレイのようにではなく、体幹の横方向に平たいの意)、身が腐りやすいか、或いは独特の臭みを持つ種であろうと推理した。而して生き残りそうな異名「アイノウオ」で調べると、以上にマッチする一種を見出すことが出来た。

スズキ目ニザダイ亜目アイゴ科アイゴ属アイゴ Siganus fuscescens

である。ウィキの「アイゴ」によれば、『西太平洋の暖海域に生息する沿岸性の海水魚である。鰭の棘に毒をもち刺されるとひどく痛むが、食用にもなる』。『成魚は全長30cmほどで、体は木の葉のように左右に平たい。体色は緑褐色の地に褐色の横縞が数本あり』、『全身に白っぽい斑点があるが、この斑点は環境や刺激によって素早く変化する。口は小さいが』、『唇は厚い。皮膚は比較的厚く丈夫である』。『背鰭・腹鰭・臀鰭の棘条は太く鋭く発達していて、それぞれに毒腺を備える。この棘に刺されると毒が注入され、数時間』から時に数週間に亙って『痛む。刺された場合は40-60℃ほどの湯に患部を入れると、毒素のタンパク質が不活性化するので痛みを軽減させることができる。冬場は肌寒いこともあり』、『痛みが和らぎにくい。アイゴが死んでも棘の毒は消えないので、漁獲したら刺されないようはさみなどでとげを切断しておくのが望ましい』。地本名は『イタイタ(富山)、ヨソバリ(小笠原)、シャク(静岡)、バリ(西日本各地)、アイ(関西・三重)、シブカミ(アイゴの老生魚・和歌山)、アイノウオ(島根)、モアイ(広島)、モクライ、アイバチ(山口)、イバリ(福岡)、ヤー、ヤーノイオ、ヤノウオ(長崎・天草)、ウミアイ、バリ、バリゴ(熊本・宮崎)、エーグヮー、アーエー、シラエー(沖縄)など、日本各地に様々な地方名がある』。『イタイタ、アイバチ、ヤーノイオなどは毒の棘をもつことに因んだ呼称である。また』、『身の磯臭さを「小便くさい」と捉えたことに由来するのが「バリ」や「エエバリ」などの系統の方言呼称で、小便の別称「ばり」「いばり」に由来する。和歌山の「シブカミ」は老生魚の皮膚の質感が渋紙(柿渋を塗った丈夫な紙)に似ることに由来する』。『毒の棘を』持つ上に、『肉が磯臭いので人や地域により嫌われるが、徳島県や和歌山県などでは美味な魚として珍重する』。『磯臭さを除けば』、『肉質は悪くない。歯ごたえのある白身で刺身・洗い、塩焼き、煮付けなどで食べられる。磯臭さは内臓から身に移るので新鮮なうちに内臓を傷つけずに処理し、ショウガや柚子胡椒でくさみを消すとよい。皮を引かずにさくにとり、カツオのたたき(土佐作り)のように表面を焼いて刺身にすると』、『厚い皮も味わえる』とある(下線太字は私が附した)。また、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアイゴのページには、アイゴという和名は『東京での呼び名』で、漢字では『藍子、阿乙呉』などと書き、『アイヌ語で棘のあるイラクサを「あい」という。ここから「あい」は』「棘のある」で、『「ご」は魚を表す語尾』とする。こちらでも磯臭さの記載が複数見られる。また、「アイノウオ」「アエノウオ」で島根県・福岡県採取とし、「アイタロウ」で島根県浜田・山口県下関市が挙っている。

「黃褐なり」ウィキの「アイゴ」では、『体色は緑褐色の地に褐色の横縞が数本あり』、『全身に白っぽい斑点があるが、この斑点は環境や刺激によって素早く変化する』とある。画像検索をかけると、薄い黄色・黄緑色を呈した個体が確認出来る。

「長さ一尺許り」アイゴは成魚で全長30cm程度である。

「一、二月の比〔(ころ)〕とる」アイゴの産卵期は七~八月で、釣りの対象としても夏から秋にかけて人気があるが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアイゴのページでは、味が良くなるのは『秋から冬ではある』とあるから、問題ない。

『俗民の說に「此の魚、多ければ、民、飢饉す」と云ふ』出所と由来不詳。

「䱾鯘は俗字なり。未だ出づる所を詳らかにせず」私も確認出来なかった。]

萬世百物語卷之一 二、不思議懷胎

 

   二、不思議懷胎

 

Husigikaitai

 

[やぶちゃん注:「江戸文庫」版挿絵(文化庁はパブリック・ドメインの対象物を全くそのままに平面的に写真で撮ったものには著作権は認められないという公式見解を示している。以下ではこれは繰り返さない)。中央で分離しているので、トリミングして合成した。人物(中央奥が石川七之丞)の衣服や手前の二人の人物の頭部にかなりの汚損があるが、前者は除去出来ないほどひどいのでそのままとした(消しを入れると、羽織の紋も消えてしまうため)ものの、後者は可能な限り除去しておいた。この挿絵は、左から右に時制が動く形を採っている。左手の、家人や下女がこっそり隣の部屋の御簾(みす)の間から垣間見しているのが面白いし、囃子詞の最後が実際の骰子(さいころ)で描かれているのもいい。添え書きを右下から左方向へ判読してみると(踊り字「〱」は正字化或いは同じ柄のものにした)、

「あれよい子の

 いつのまに出

 生したやら」

(「あれ、良い子の何時の間にやら、出生(しゆつしやう)したやら。」)

「いたき

   ませう」

(「抱(いだ)きませう。」)

「おちやひとつ

    のまれ

      ませのんのこ

           さひさひ

「さあてもつて

  まはすのんのこ

        ⚅⚅

(「御茶一つ、吞まれせ、ノンノコサイサイ。」「さあて、さあて、舞(ま)はす、ノンンコサイサイ。」或いは「まはす」は「囘わす」かも知れぬ)

「あの人物そうな

  ふしきの事かな」

(「あの人物そうな。不思議の事かな。」)

であろうか(最後の行は判読に自身がない)。「のんのこさいさい」は当時の俗謡の囃子詞。「さあて、さあて」も同じ。本書刊行(寛延四(一七五一)年)より五十年も後の事であるが、文化年間(一八〇四年~一八一八年)に江戸で流行した流行り唄に「のんのこさいさい」節があり、それをもとにしたとされる地方の今も歌い継がれている民謡(長崎県諫早から佐賀県南部の民謡「のんのこ節」など)にも、この「ノンノコサイサイ」及び「さあて」の囃子詞を確認出来る。「舞はす」としたのは、現存する民謡が踊りを伴うものだからであるが、本話のシチュエーションから言うと、茶碗を「回」し飲みするの方が話に合った洒落としては相応しいとも考えられる。]

 

 あだし夢、二條わたりに手書(てかき)の何とかや、名はわすれたり。家、うとくなれば、仕(つかへ)ももとめず、しづかなるすまゐしつらひて暮しける。されども能書のきこゑありければ、洛中のすべあるものゝ子ども、かのもとにたづね來たり、指南をうけしほどに、弟子もおほく出入りける中に、石川七之丞といへる、年は廿(はたち)になりて、いまやうの風流おのこ、やさしき躰(てい)のみか、藝もきようにてつとめければ、師匠も心とゞめておしへ大勢の中、五、三人にゑらばれ、わきて出入りもしげく、祕藏弟子なりけり。

[やぶちゃん注:「手書」書道家。

「家、うとくなれば」家運が衰えたために、有力な公家衆らとも疎遠になってしまったので。

「仕(つかへ)」宮仕え。或いは有力貴族の右筆など。

「きこゑ」ママ。「聞(きこ)え」が正しい。

「きよう」「器用」。

「おしへ」「敎(をし)へ」。

「ゑらばれ」「選・撰(えら)ばれ」。

「わきて」「分きて」。格別に。特に。]

 

 師のむすめに「おくに」といへる、ことし十七にて、男子もなければ、ひとりなん、すぐれていとおしきものにそだてける。何にたらぬ事なう、女のみちを、みな、まなびえて、色さへすぐれたりける。

[やぶちゃん注:「いとおしき」ママ。「愛(いと)ほしき」。

「なう」「無く」のウ音便。]

 

 たれかれ、弟子の出入(でいり)するを、女どもかいまみて、

「それはよき男なれど、じぢくさし。かれはうきうきと見ゆれど、かほざま、あしゝ。されど、當風で。」

など、奧ふかくこもりおる、つれづれのなぐさめ、品さだめしてあそびける。

[やぶちゃん注:「じちくさし」ママ。「爺(ぢぢ)臭し」。爺むさい。若いくせに年寄り染みていて、何となく汚らしい感じがする、という近世口語である。

「うきうきと見ゆれども」如何にも若さにこころはずんで弾(はず)んで見えるけれど。

「あしゝ」「惡しし」。形容詞の詠嘆の連体終止法。不細工なのがねぇ(残念よねぇ……)。

「當風」感じ方・考え方・ファッションといった部分で当世流(昨今の流行り)を何時もしっかり押さえていること。]

 

 中にも、

「七之丞がさまにならぶべきものなし。」

と、下部(しもべ)どももめきゝし、むすめも、何となう、うれしきものにみなして、かれさへきたれば、女どもさゝめき、むすめも心もとなう見いだす。

[やぶちゃん注:「下部」ここは侍女。

「めきゝ」「目利き」。男の品定め。

「さゝめき」囁(ささや)き。こっそりと陰で噂をし。同語の持つ「自ずと胸騷ぎが起って」の意も当然、含ませるべきであろう。

「心もとなう」「心許なく」。待ち遠しく。]

 

 女ども、またまた、性(しやう)わる、

「たしなまんせ。」

などいひあへば、かほ、あかめて立ちさる。

[やぶちゃん注:「性わる」。意地悪く。底本も「江戸文庫」版も以上は孰れも「女どもまたまた性わるたしなまんせなどいひあへば、かほあかめて立ちさる」というベタ文である。或いは女どもの台詞は「性わる、たしなまんせ。」であって、「浮気心でよろしゅうおます、かの男を好(す)いてみなされませ。」かも知れない。ただ、「性わる」の直接言語の響きを私は生理的に受け付けられない。「たしなまんせ」だけで十分際どさが出るからである。]

 

 ひとひ、夏のあつきに、道のほどたえがたきにや、七之丞、いたりつくと、

「水ひとつ。」

こふ。

 のみさしを下女もてきて、

「是れのかたのあまりなり。いやにはおぼしめさじ。」

と、さし出す。

[やぶちゃん注:「是れのかた」「これの」は代名詞「これ」に格助詞「の」を附した「この」の強調形に過ぎぬように見えるが、実は「これの」で代名詞として「これの人」の意で、特に夫婦間の相手(夫・妻)の呼称の用法がある。されば、「是の方の」には、そのニュアンスが既に重ねられており、「あの(愛しい恋人の)お方の飲みさしで御座いますよ」という艶(つや)っぽい響きが含まれていると読むべきであろう。さすればこそ、後の驚天動地の展開の強力な伏線となるからである。]

 

 むすめ、じちにうれしき心をたはぶれにもてなし、拍子にかゝりてのみけり。

[やぶちゃん注:「じちに」「實に」。本当に。誠(まっこと)。

「たはぶれにもてなし」冗談半分乍らも、素晴らしいことと感じ。

「拍子にかゝりてのみけり」かくも、周囲から(ここでは下女一人ではない。他の侍女もいっしょになって言っている。後の場面の複数形を見よ)もて囃された結果、調子に乗って呑んでしまったという。]

 

 それより、むすめ、いつしか、腹ふくらかになるを、

「いかなる病(やまひ)にや。」

とみるほど、月をかさねて大きになり、終(つひ)にいつくしき兒(こ)、うみたり。男子にさへありけり。

 父母、おどろきて、

「いかになしつる、はぢなき事ぞ。父はたれにか。」

と、せむ。

[やぶちゃん注:「はぢなき事ぞ」厚顔無恥も甚だしい、如何にもおぞましきことじゃ!]

 

 娘、もとより、いさゝかかゝる事なければ、

「神にちかひ、ゆめ、わきまヘず。」

と、はぢ泣くに、父母、おもひめぐらすに、

「げに深閨(しんけい)のうち、母のそば、露(つゆ)はなるゝ事も、なし。」

 下々の女まで、

「かりにも、あやしきけはい、見たる事、あらず」

と、いとうしがれば、さて、あやしながらも、孫とみればいたいけして、そのまゝやしなひ、日がらぞへにける。

[やぶちゃん注:「けはい」ママ。「氣配(けはひ)」。

「いとうしがれば」ママ。「愛ほしがれば」。ここは「気の毒に思って申し上げたりしたので」の意。

「いたいけし」「幼氣(いたいけ)す」は名詞とのサ変複合動詞で自動詞「いたいけなさまをする・かわいい様子をする」であるが、ここは他動詞として転用して「可愛がって」の意である。

「日がらぞへにける」「日次(ひがら)ぞ經にける」。この「日次」(日柄)は単に日数の意。]

 

 いつしか三歲になりき。

 父、あるとき、いかにおもひけん、心安き弟子のかぎりあつめ、一日(いちじつ)もてなして、扨(さて)、ものかげにて、かの兒にいひけるは、

「なんぢが父なる人あらば、出(いで)ゆき、いだかれよ。」

と、心にちかふて出(いだ)せば、兒、心得たるさまに座敷を見まはし、七之丞がひざにかけあがるを、

「あやうし。」

とて、いだかんとすれば、たちまちきえて、そこら、水になり、ちいさき衣(ころも)ばかりぞ、殘りし。

[やぶちゃん注:「ちかふ」て「誓ふて」。よくよく言い聞かせて約束を成し。]

 

 はじめて、かの水のみし事、女ども思ひ出し、さゝめきいひあふ。

 父母、

「かくまですぐせの緣、ふかゝらんを、いかでそのまゝすごさん。」

と、七之丞が父母に、

「かく。」

としらせ、もらひて、聟(むこ)になし、家もゆづりて、のち、まことの子までおほく出來(いでき)、いと目出たかりし。

[やぶちゃん注:「すぐせ」「過世」。もとは「宿世」が正しく、「すくせ」「しゆくせ(しゅくせ)」で、元来は仏教の三世観(前世・現世・後世(ごぜ))を基礎とした考え方に基づく、それぞれの前(さき)の世(よ)の意であったが、凡夫は現世基点で考えるのが普通であるから、前世からの因縁・宿縁・宿命の謂いとなり、更に前世は単純に過去の時間の世界と考えて「過ぐ世」に書き変えられてしまったものである。個人的には私はせめても「すくせ」(宿世)の清音で表記して貰いたかった(「すぐせ」の濁音はモノクロームの汚穢の世に聴こえるからである)。

 思うに本篇の最後の怪異は、私の偏愛する、美女が水になってしまう名品「長谷雄草紙」(鎌倉末期(十四世紀前半)の成立。全一巻。作者未詳(絵師は飛騨守惟久(これひさ)筆との伝承があるが怪しい)。平安前期の実在した文人(漢学者)紀長谷雄(きのはせお 承和一二(八四五)年~延喜一二(九一二)年)の怪奇絵巻。長谷雄が朱雀門の鬼と双六(すごろく)の勝負に勝ち、賭け物として鬼から美女を得るも、辛抱できなくなって、鬼との約束の百日を満たぬうちにこれと契るや『すなはち、女、水になりてながれうせにけり』という奇談を描く。後に『女といふは、もろもろの死人のよかりし所どもをとりあつめて人につくりなして、百日すぎなばまことの人にな』るべきものであったとする)をインスパイアし、しかも大団円に変じたものであろう。なかなかに面白く感じた。

2020/08/04

大和本草卷之十三 魚之下 水母(くらげ) (杜撰なクラゲ総論)

 

水母 一名海蛇泥海ニアリ故備前筑後等ヨリ出無

毒能消宿食病人食スヘシ生ナルヲ取クヌギノ葉ヲ多

クキサミテクラケノ内ニ包ミ塩ヲ不用木ノ葉ヲマシヱ

桶ニ入フタヲオホヒ水ヲ入時〻水ヲカユル久クアリテ不

敗水ナケレハヤクルヤクルトハ枯テ不可食ナリ又唐クラケ

アリ水母ヲ白礬水ヲ以テ制乄簾ニヒロケ乾シテ白

クナリタル也味又ヨシ水蛇ハクラケニ似タリ食スヘカラ

ス是ハ泥海ニハ生セス水母無目以蝦為目トイヘリ

○やぶちゃんの書き下し文

水母(くらげ) 一名「海蛇」[やぶちゃん注:ママ。「蛇」は「」の誤字。後注を見よ。]。泥海にあり。故〔(ゆゑ)〕に備前・筑後等より出づ。毒、無し。能〔(よ)〕く宿食〔(しゆくしよく)〕を消す。病人、食すべし。生〔(なま)〕なるを取り、くぬぎの葉を多くきざみて、くらげの内に包み、塩を用ひず、木の葉をまじゑ[やぶちゃん注:ママ。]、桶に入れ、ふたをおほひ、水を入れ、時々、水をかゆる[やぶちゃん注:ママ。]。久しくありて、敗〔(くさ)ら〕ず。水、なければ、やくる。「やくる」とは枯れて食ふべからず〔なること〕なり。又、「唐〔(から)〕くらげ」あり。水母を白礬水〔(はくばんすい)〕を以つて制して、簾〔(すだれ)〕にひろげ乾〔(ほ)〕して、白くなりたる〔もの〕なり。味、又、よし。「水蛇(みづくらげ)」は「くらげ」に似たり。食すべからず。是れは泥海には生ぜず。水母に、目、無し。蝦を以つて目と為〔(な)す〕といへり。

[やぶちゃん注:刺胞動物門ヒドロ虫綱 Hydrozoa・十文字クラゲ綱 Staurozoa・箱虫綱 Cubozoa・鉢虫綱 Scyphozoa に属するクラゲ類についての、極めて杜撰な総論。マニアックな広義のクラゲ様生物群の細かな分類学的な私の見解は、寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「(くらげ)」の注で示してあるので、是非、参照して頂きたい。

「海蛇」じゃあ、ないっつーの! 海! これは音は「カイタ・カイダ」。「」一字でクラゲを指す漢語である。

「備前・筑後等より出づ」というのは、

鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculent

或いは

ビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai

を指すようには読める。但し、益軒は食用クラゲとしての対象物として記しており、両者ともに古くから中華用食材とされてきたが、本邦では後者の食用加工の歴史がないので、益軒の在留地からも前者ビゼンクラゲのみを指すと考えるべきところである。なお、近年、有明海産のビゼンクラゲは他の海域のものと別種の可能性が浮上してきており、現在、研究が進められている。

「宿食」食べた物が消化しないで胃の中に溜まる症状を言う。読みは「しゅくじき」も可。

「くぬぎ」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima。なお、現行の加工法は、食用にする「傘」の部位以外の触手や附属器を取り除いて、真水で汚れやぬめりをよく洗浄し、

食塩と明礬(ミョウバン:硫酸カリウムアルミニウム十二水和物)で二~四日間漬け込むことで食用となるが、この後、二次加工で一週間程度さらに漬け込んだり、さらに三次加工で十日程度漬け込む場合もある。平城京出土の木簡に備前産クラゲについての記述があることから、クラゲの食習慣は古くからあったことが判り、江戸時代には既に食品として定着していた。

「水をかゆる」漬け込んである水を新鮮なものに交換する。

「やくる」「枯れて食ふべからず〔なること〕なり」「燒くる」であろう。乾燥が極度に進んでがりがりのミイラのようになることを謂うか。

「唐〔(から)〕くらげ」辞書類はビゼンクラゲの異名とするが、それでは益軒に失礼だろう。私は益軒はエチゼンクラゲ属エチゼンクラゲを指して、かく言っている可能性が高いように思う。エチゼンクラゲは東シナ海・黄海・渤海(後の二所が繁殖地と考えられている)から日本海にかけて分布し、時に、その中国沿海で大量発生するが、それらの個体群の一部が海流に乗って日本海に流入し、対馬海流に乗って津軽海峡から太平洋へと移動したり、豊後水道附近でも確認された例があるからである。これはもう「唐くらげ」にピッタシじゃないか。

「白礬水」天然明礬(カリ明礬石製)を温水に溶かして冷やしたもの。

「水蛇(みづくらげ)」「水䖳」でお馴染みの鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia aurita。食用に加工して食べた御仁の記載が幾つかはあるが、処理が如何にも面倒であり、食後によろしくない状況が起こったとする記載もあった。想像するに、よほど多量のミズクラゲを一気に処理しないと食品にはなりそうに思われず、その処理中、外部の有害物質が混入する可能性が非常に高い気がする。私は少なくとも加工に挑戦する気にはならないし、味も決して美味いとは思われない。誰も本格的に行ったケースがない以上、やめた方がいいと存ずる。

「水母に、目、無し。蝦を以つて目と為すといへり」クラゲに目はある。眼点である。例えば、最も一般的なミズクラゲでさえも、傘の外縁に八箇所の感覚器が附属しており、一つの感覚器に二基の眼点を有するので、あのひ弱に見える彼らでさえ十六個の眼点を有し、光の強弱をそれらで識別している。箱虫綱 Cubozoa のクラゲ類の眼点にはレンズもあり、光に対して有意に反応する。箱虫綱アンドンクラゲ目イルカンジクラゲ科 Carukiida ヒクラゲ(火水母)属ヒクラゲ Morbakka virulenta は正の走光性を持ち、夜間のライトに集まっても来る。青森から九州の太平洋岸の湾内に棲息する日本固有種のカミクラゲ(髪水母)に至っては、その多数の触手の根元部分に百基もの眼点を有する。持たない種もいるが、そうした種でも光に反応する(如何なるメカニズムで光を感知するのかは未だに判っていない)。後の部分は、恐らくはエチゼンクラゲなどに寄生して一緒に旅をするクラゲモエビ Latreutes anoplonyx のことを指しているものと思われる。彼らは防衛・移動・摂餌を受け、地域差があるものの、共生関係が密接であるらしく(林健一・坂上治郎・豊田幸調らの共同論文「日本海および東北地方の太平洋岸に出現した工チゼンクラゲに共生するクラゲモエビ」(『CANCER』第十三巻・二〇〇四年・PDF)に拠る)、仮に彼らがクラゲの体表の有害な物質や生物を除去・掃除などしているとするならば(但し、そのような事実は上記論文に載っていない)、数少ない共生寄生となるのかも知れない(小学生の頃に盛んに「共生である」と図鑑に載っていたそれらも、後に実は宿主の体の一部を食っていたり、宿主の寿命が有意に短かったり、苦しんだりするという事実を知るにつけ、私は「共生」はヒトの考えた感性的な夢であり、その殆どが実は全くの「寄生」であり、「片利共生」(この言い方自体が「共生」でないのだから、非科学的な用語として廃止すべきと考えている。「片利寄生」でよい)か、宿主を弱らせるタイプのゆゆしい「寄生」が殆んどであると考えている。「共生」というバラ色的概念は、自然界の一般的な短い個体生命体の間にあっては、極めて稀れなものであると思う。自然史的な長いドライヴの中での寄生が、宿主の器官の一部に組要み入れられてゆくというような仮説(例えばミトコンドリア寄生生物説のような)としての例外は――まあ、あり得るかも知れぬと思うにしても――である)。]

大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)

 

章魚【本草】大タコ小タコクモダコ井ヽダコアリ海中ニテ人ニ

スイ付テハナレス血イヅ人ツハキヲ以テヲトスニヨク

ヲツタコヲ煑ル法牛旁カ大根ヲ以ヨク打テ久シク

[やぶちゃん注:「ヨク」は底本では、白く飛んで読めなかったため、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で確認した。]

煑熟シ風吹所ニカケテ明日或即日ノ中冷シテ後

又久シク煮ルヘシ○脾胃虚有積聚及患瀉痢人服

藥人並不可食難消化○小八梢魚似八梢魚而小

俗名絡蹄【東醫寳鑑】本草章魚集解時珍曰石距亦其

類身小而足長コレ足ナガダコナリ○但馬ニアル大ダ

コハ甚大ナリ或牛馬ヲトリ又夜泊ノ小舟ニ手ヲノヘ

行人ノ有無ヲサグルト云又夜ヒカル丹後熱松ノ海ニ

テ蟒ト章魚トタヽカヒツイニ蟒ヲウミヘ引入蟒傍ノ木

ニマキツキタレトモ松ノ枝サケテ引シツメラル今ニ松殘

レリト云諸州ニテ大ダコ人ヲトル叓アリ○閩書曰鱆

魚一名望湖魚紫色腹圓無頭頭在腹下多足而

長皆環口上有圓文星聯凸起腹内有白粒如大

麥味美又有石距似鱆魚又有章舉一名紅舉似

烏鰂而差大○今案イヒダコ白粒ヲ食ツテ腹痛不止

者多シ不可食若欲食薑醋テ可食

○やぶちゃんの書き下し文

章魚(たこ)【「本草」。】「大だこ」・「小だこ」・「くもだこ」「井々〔(ゐゐ)〕だこ」あり。

海中にて、人にすい付つきて、はなれず、血、いづ。人、つばきを以つて、をとす[やぶちゃん注:ママ。]に、よく、をつ。

たこを煑る法、牛旁〔(ごばう)〕か大根を以つて、よく打ちて、久しく煑熟〔(にじゆく)〕し、風〔の〕吹く所にかけて、明日或いは即日の中〔(うち)〕、冷して後、又、久しく煮るべし。

○脾胃〔の〕虚、積聚〔(しやくじゆ)〕有る〔もの〕及び瀉痢を患〔(わづら)〕ふ人、藥を服する人、並びに、食ふべからず。消化し難し。

○「小八梢魚(くもだこ)」、「八梢魚(たこ)」に似て、小なり。俗名「絡蹄〔(らくてい)〕」【「東醫寳鑑」。】。「本草」、「章魚」〔の〕「集解」に、時珍曰はく、『石距も亦、其の類〔(るゐ)〕なり。身、小にして、足長』〔と。〕これ、「足ながだこ」なり。

○但馬にある「大ダコ」は甚大なり。或いは牛馬をとり、又、夜泊の小舟に手をのべ、行人〔(かうじん)〕の有無をさぐると云ふ。又、夜、ひかる。丹後熱(あつ)松の海にて、蟒(うはばみ)と章魚とたゝかひ、ついに[やぶちゃん注:ママ。]蟒を、うみへ引き入る。蟒、傍(かたはら)の木にまきつきたれども、松の枝、さけて、引〔(ひき)〕しづめらる。今に、松、殘れりと云ふ。諸州にて、「大だこ」、人をとる事あり。

○「閩書」に曰はく、『鱆魚〔(しやうぎよ)〕。一名「望湖魚」。紫色。腹、圓〔(まどか)〕にして、頭〔(かしら)〕無し。頭は腹の下に在り。足、多くして長し。皆、口〔の〕上に環(めぐ)れり。圓文〔(ゑんもん)〕の、星のごとく聯〔(つらな)〕り、凸起〔(とつき)〕する有り。腹内に白〔き〕粒有り、大麥〔(おほむぎ)〕のごとし。味、美〔(よ)〕し。又、「石距」有り、「鱆魚」似て、又、章舉〔(しやうきよ)〕有り。一名「紅舉」。「烏鰂〔(いか)〕」に似て、差〔(さしわたし)〕、大〔なり〕』〔と〕。

○今、案ずるに、「いひだこ」の白〔き〕粒を食つて、腹痛、止まざる者、多し。食ふべからず。若し食〔はんと〕欲せば、薑醋〔(しやうがず)〕にて食ふべし。

[やぶちゃん注:頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目 Octopoda の総論。

「くもだこ」標準和名種としては八腕目無触毛亜目マダコ亜目マダコ科マダコ亜科 Paroctopus 属クモダコ Paroctopus longispadiceus 及びエゾクモダコ Paroctopus araneoides がいるが、現行でも食用にする内、小型のタコ類をかく俗称し、また、瀬戸内海では卵を持っているマダコ(マダコ科マダコ亜科マダコ属マダコ亜属マダコ Octopus (Octopus) sinensis を「モチ」、ないものを「スボ」=「クモダコ」と呼ぶらしいし、神奈川県横須賀市佐島(さじま)では500g以下のマダコを「クモダコ」と呼ぶという記載もあった。

「井々〔(ゐゐ)〕だこ」歴史的仮名遣は「いひだこ」が正しい。マダコ属イイダコ Octopus ocellatus としておく。和名のそれは「飯蛸」で、産卵直前の♀の胴部に詰まった卵胞が米飯に似ているとされることに由来するというのが、よく知られた有力説である。方言としても「コモチダコ」がある。さすれば、歴史的仮名遣では「いひだこ」でなくてはならない。

「つばき」唾。

「積聚〔(しやくじゆ)〕」所謂、「差し込み」で、胸部から腹部にかけての強い痛みを指す。「瀉痢」下痢。

「小八梢魚(くもだこ)」四字へのルビ。

「八梢魚(たこ)」三字へのルビ。

『「絡蹄〔(らくてい)〕」【「東醫寳鑑」。】』「東醫寳鑑」(とういほうかん/トンイボガム)は李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻から成る。御医(王の主治医)であった許浚(きょしゅん)著。ウィキの「東医宝鑑」によれば、一六一三年に『刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した』とある。「絡蹄」の「絡」は「まといつく・からむ・からまる」で、「蹄」は「ひづめ」でタコの吸盤を喩えたか。現代韓国語では「낙제」(ナッチェ)。

「本草」以下。

   *

章魚【「綱目」。】

釋名章舉【韓文。】。𠑃魚。【音「佶」。「臨海志」。】

集解頌曰、『章魚・石距二物、似烏賊而差大、味更珍好。食品所重、不入藥用。』。時珍曰、『章魚、生南海。形如烏賊而大、八足、身上有肉。閩・粤人多採鮮者、薑醋食之、味如水母。韓退之所謂「章舉馬甲柱、鬬以怪自呈」者也。石距亦其類、身小而足長、入鹽燒食極美。』。

氣味甘、鹹、寒、無毒。時珍曰、『按、李九華云、「章魚冷而不泄」。』。

主治養血益氣【時珍】。

   *

「石距」「足ながだこ」マダコ科Callistoctopus属テナガダコ Callistoctopus minor (Sasaki, 1920)であるが、本種はシノニムが多い。

Octopus minor (Sasaki, 1920) (英文ウィキではこれを筆頭に掲げる。これだと、マダコ属マダコ亜属となる)

Polypus macropus Wülker, 1910

Polypus macropus minor Sasaki, 1929

Polypus variabilis pardalis Sasaki, 1929

Polypus variabilis typicus Sasaki, 1929

Polypus variabilis var. minor Sasaki, 1929

Polypus variabilis var. pardalis Sasaki, 1929

Polypus variabilis var. typicus Sasaki, 1929

『但馬にある「大ダコ」……』このホラー性の強力な具体性には甚だ興味があるのだが、この伝承、調べてみたが確認出来ない。識者の御教授を乞う。この手の伝承は実際に多い。私の特にお薦めなのは、私の「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」である。是非、読まれたい。

「丹後熱(あつ)松の海にて、蟒(うはばみ)と章魚とたゝかひ、ついに蟒を、うみへ引き入る。……」こちは原拠を見つけた。「義残後覚」(ぎざんこうかく:愚軒(事績未詳。豊臣秀次の側近の「お伽の者」の一人かとも推定されている)の作になる雑談集。写本七巻。識語に文禄五(一五九六)年暮春吉辰とある)の巻四の「大蛸の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの「續史籍集覽」第七冊(近藤瓶城(へいじょう)編近藤出版部(昭和五(一九三〇)年刊)の画像を視認して以下に電子化するが、殆どがひらがなのベタ書きで非常に読み難い。そこで、句読点を打ち、一部を恣意的に正字漢字に推定で直し(その読みは一部で添えるに留めた)、段落も成形した。踊り字「〱」「〲」は正字化又は「々」とした。疑問の方は原本を見られたい。

   *

  大蛸の事

 爰に丹後の國、奇妙なる松あり。一方(はう)は、蒼海滿々として際(きわ[やぶちゃん注:ママ。])もなし。水際(みきは)の方(かた)は、靑嶺(りん)、峨々(がゝ[やぶちゃん注:ママ。])とそびえて、苔、なめらなり。この巖(いはほ)の上に、彌々(いよいよ)うへにありて、えだ葉、海のうへゝ、投げ掛けたり。

 これ、いかんと申(まうす)に、ちかきころの事なるは、六月なかばに、大虵(だいじや)の山よりいでゝ、この松にまとひつきて、甲(こう[やぶちゃん注:ママ。])を干(ほ)して、あそべり。そのたけは、十五、六尋(ひろ)もありぬべし。眼(まなこ)・口際(くちぎは)のすさまじさは、ものにたとへんかたなし。[やぶちゃん注:「靑嶺」(せいりん)の「嶺」は中国音で「リン」である。「十五、六尋」短い換算値でも二十三~二十四メートルとなる。)

 かゝる所に、海中より、大浪(なみ)、小浪(こなみ)、蹴(け)だてゝ、氣負(きほ)ひたるものあり。なにあるらんと見ければ、そのあたまは、一間(けん)四方(はう)を圓(まろ)めたるほどなる、蛸の八の手を、うちかけ、うちかけ、大浪、小浪、押しきつて、この巖のかたへ來たりて、大虵(じや)を、[やぶちゃん注:「一間(けん)」約一・八二メートル。]

「きつ」

と見て、いかにして是をとるべき氣色(きしよく)なり。

 大虵は、また、この蛸をみて、とつて、のむべき氣色(けしき)なり。兩方、うたがひに狙ひ合ひけるが、なにと思ひけるやらん、蛸はすこし退(しりぞ)くやうに見えけるが、大虵は、飛び掛かる氣色(きしよく)にて、頭(かしら)をさしのべ、手をいだすところを、蛸は[やぶちゃん注:「うたがひ」はママ。「お互い」の誤りであろう。]

「ヘたへた」

と手をいだして、虵(じや)を、まきけり。虵は蛸の頭(あたま)をくらいつかんと、手をのぶる。しかれども、虵は、この松を五纏(まと)ひほど纏ふ。

 蛸は又、虵を、八ツの手にて、

「ひたひた」

と卷く。虵は蛸を卷きあげんとす。

 蛸は虵を海へ引(ひき)落とさんとす。

 蛸の力(ちから)や、强かりけん、松ともに下へ引落とし、海へつゐに[やぶちゃん注:ママ。]大虵を引こみける。

 なかにては、虵を、何(なに)としたるも知らず、松はこの時、根をかへしてけり。[やぶちゃん注:「なかにては」そのシークエンスの半ばでは。]

 しかれども、かた枝のかたなる根の、いさゝか、岩(いは)にとり付(つき)て、大木となりて枝葉榮(さか)へけり。

 世の中に蛸といふもの、大なるは有(あり)といへども、かゝる大虵を卷き込むほどの蛸は、つゐに我が朝(てう)にて、きゝ及(をよ)ばず。

 或る人の曰く、

「船に『あやかし』といふものゝつく時は、かいしき、船が動かずして、なにともならず、迷惑する事あり。その『あやかし』といふは、此(この)蛸なり。」[やぶちゃん注:「かいしき」「皆式・皆色」で副詞。近世語で、多くは後に打消の語を伴って、「全く・まるっきり・皆目」の意である。]

と云へり。

 「龍虎の勝負(せうぶ[やぶちゃん注:ママ。])はあり」と昔よりいへども、蛸と大虵の勝負は、まことに珍しき物語りなれば、こゝに記すなり。

 又、四國遍路したる人の曰く、

「四國のうちにて雨の晴れ間に、水際(みぎは)のかたへ出でゝ、

『空の景色いかゞあるべき』

と同行(どうぎやう)とも見る所に、あけ舟に乘(のり)たる船頭の、[やぶちゃん注:「あけ舟」早朝に出た舟か。]

『なふ、旅人たち、はやく舟におはせよ、奇特(くとく)なる事を見せん。』

と云ふほどに、蘆原(あしはr)を二三間(げん)、が間(あひだ)、蹈み分て、舟に乘りて見ければ、長さ六、七尺もあるらんと見えける大虵(くちなわ[やぶちゃん注:ママ。])の水中にて、

『きりきり』

と、舞ふ事、世の常ならず。

 半時ばかり舞ふてければ、筒中(つつなか)[やぶちゃん注:蛇の胴体の中央の謂いか。]と覺しきところ、焙烙(ほうろく)の大きさに圓(まろ)く膨(ふく)れり。

『不思議や』

と見る所に、又、

『きりきり』

舞ふほどに、暫くありて、後前(あとさき)二ツづゝに、裂(さ)けたり。

 見れば、手、四ツになりけり。[やぶちゃん注:原文は「手」は「て」。続きから「手」とした。]

 それより、又、舞ふ事、やゝ暫くありて、四ツの手さげて、八ツになりたり。めだゝきする内に、このくちなわ、蛸となりにけり。[やぶちゃん注:「めだゝき」瞬(まばた)き。]

 そのゝち、沖をさして、およぎゆきしなり。

 人々、

『さても不思議なる事を見つるものかな。かゝることもあるならひかや』

とて、よくよく見おきて物語りにしたりけり。」

   *

後半の話は蛇が蛸に化生する話で、これも枚挙に暇がないほどある。やはり私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」或いは「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」をお読みになられたい。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「望湖魚」名の由来、知りたや。

「章舉」「章」は吸盤、「舉」は「擧(挙)」であるから、「吸盤を持った腕を差し上げるもの」の謂いだろうか?

「烏鰂〔(いか)〕」頭足綱鞘形亜綱十腕形上目 Decapodiformes のイカ類。

 なお、私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚(たこ)」・「石距(てなかだこ)」・「望潮魚(いひたこ)」でもかなり詳しい注を附してあるので、是非、そちらも参照されたい。

大和本草卷之十三 魚之下 鞋底魚(くつぞこがれい) (シタビラメ・ムシガレイ・ヒラメ)

 

鞋底魚 中夏ノ名也クツノソコノ形ニ似タリ本邦ニテモクツゾコト云倭漢同名也又水カレイトモ云カレイト同類ニテ別ナリ肉ウスクホソ長シ味比目魚ニヲトル無毒病人無妨綱目ニ比目魚ト一物トス然レトモ相似テ別ナリ閩書ニ鰈魦魚形扁而薄名鞋底魚左目明右目晦昧今閩廣以此魚名比目不知比目又一魚也トイヘリ綱目ヨリ閩書ニ書ス處詳ナリ可從

○やぶちゃんの書き下し文

鞋底魚(くつぞこがれい[やぶちゃん注:ママ。]) 中夏の名なり。くつのそこの形に似たり。本邦にても「くつぞこ」と云ふ。倭・漢、同名なり。又、「水かれい」とも云ひ、「かれい」と同類にて別なり。肉、うすく、ほそ長し。味、比目魚(かれい)にをとる[やぶちゃん注:ママ。]。毒、無し。病人に妨げ無し。「綱目」に、比目魚と一物とす。然れども、相似〔(あひに)〕て、別なり。「閩書」に『鰈魦魚〔(てふさぎよ)〕、形、扁(ひら)く薄し。「鞋底魚〔(あいていぎよ)〕」と名づく。左の目は明〔(めい)〕に、右の目は晦昧〔(くわいまい)たり〕。今、閩・廣、此の魚を以つて「比目〔(ひもく)〕」と名づく。「比目」、又、一魚〔なるやを〕知らず』といへり。「綱目」より「閩書」に書す處、詳〔(つまびらか)〕なり。從ふべし。

[やぶちゃん注:「鞋底魚(くつぞこがれい)」前の「大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)」で既注であるが、独立項なので、再掲する。現行でもこの「クスゾコ」という異名は生きており、カレイ目カレイ亜目ウシノシタ上科ササウシノシタ科 Soleidae同科は右体側に目がある。ササウシノシタ科の殆んどの種は小さいため、殆んど漁獲対象とならず、獲れても捨てられる。従って流通にも出現しない。但し、食べられないわけではない。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」にはササウシノシタ属ササウシノシタ Heteromycteris japonica が載り、『じっくり揚げると丸ごと食べられる』とあるが、調べると、体長は十五センチメートル内外で如何にも小さい)及びウシノシタ科 Cynoglossidae同科は左体側に目がある)の種群に総称。特に後者のウシノシタ科に属する魚の総称としては「シタビラメ」(舌平目)が水産庁が「別表1 国産の生鮮魚介類の名称例」で公的にウシノシタ科の総称として認定し、以下の二種が例として載る。

ウシノシタ科イヌノシタ亜科タイワンシタビラメ属クロウシノシタ Paraplagusia japonica

(体長は最大で三十五センチメートルほど。単に「ウシノシタ」と呼ばれることもあるほか、「クツゾコ」「ゲンチョウ」「ゲタ」「セッタガレイ」「ゾウリ」「ゾウリウオ」「チヨオギンカレイ」「ベロ」など多彩な地方名をもつ)

イヌノシタ亜科イヌノシタ属アカシタビラメ Cynoglossus joyneri(体長は二十五センチメートル程度)

両種は共に「シタビラメ」の代表格として流通でお馴染みである。ウィキの「アカシタビラメ」によれば、『有明海地方では靴の底に似ていることから、「くつぞこ」が次第に訛り、「クチゾコ」、「クッゾコ」と呼ばれて』おり、『岡山県などの瀬戸内地方東部では「ゲタ」と呼ばれ、煮付けの定番魚の一つとなってい』て、『山口県ではアカシタビラメを「レンチョウ」と呼び煮付けなどにする』とある。また、近縁種が複数おり、『それぞれ色や産卵時期も異なるが、混称としてアカシタビラメやクチゾコなどと呼ばれる』として、以下の三種が挙っている。

イヌノシタ属イヌノシタ Cynoglossus robustus

イヌノシタ属カラアカシタビラメ Cynoglossus semilaevis

イヌノシタ属コウライアカシタビラメ Cynoglossus abbreviatus

追加しておくと、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」ではさらに、

イヌノシタ属コウライアカシタビラメ Cynoglossus abbreviates

イヌノシタ属デンベエシタビラメ Cynoglossus lighti(本邦国内では有明海固有種)

イヌノシタ属ゲンコ Cynoglossus interruptus

イヌノシタ属オキゲンコ Cynoglossus ochiaii

イヌノシタ属オタフクゲンコ Cynoglossus sp.

ウシノシタ科オオシタビラメ属オオシタビラメ Arelia bilineata

が挙っており、例外的に

ササウシノシタ科セトウシノシタ属セトウシノシタ Pseudaesopia japonica

も挙がっており、『白身でやや旨味に欠けるもの。バターや脂を使った料理に向いている』とある。

「中夏」夏の半ば。限定的には陰暦五月の呼称。仲夏。

「くつ」「鞋」は草履・草鞋(わらじ)の底でとって問題なく、庶民はそのイコールで認識していたし、シタビラメ類の形状からもしっくりくる。「鞋底魚」は中国由来であるので、一応、言っておくと、「鞋」(音「アイ」)は足首より下の部分のみを覆ったり、そこに固定する履き物をかく言い(代表はやはり草履や草鞋状のもの)、「靴」は足首より上から足全体を覆うものを称する。

「倭・漢、同名なり」前項「比目魚(カレイ)」で示した「本草綱目」の「比目魚」でも集解の筆頭に別名として「鞋底魚」を挙げている。

「水かれい」これも前項「比目魚(カレイ)」で挙げた、

カレイ科ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi

の方言名である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のムシガレイのページによれば、「ミズガレイ」「ミズカレイ」として、北海道・宮城県仙台・石巻市石巻魚市場・愛知県・京都府久美浜・舞鶴市舞鶴魚市場・兵庫県但馬地方・島根県・広島県呉市と非常に広域で使用されていることが判る。「味わい」の項に『透明感のある白身でやや水分が多く、うま味は少なめ』とあるのでそれが由来であろう。

『「綱目」に、比目魚と一物とす』「本草綱目」のそれ(「比目魚」)は、前項「比目魚(カレイ)」の最後に挙げてある。

「閩書」明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省地方の地方誌。以下は、

   *

鰈魦魚 形匾而薄、邵武名「鞋底魚」。又名漯沙。漯音「撻」、魚在江行漯漯也、又名「貼沙」。「吳越春秋」、「東海王餘」或是乎。左目明、右目晦昧。今閩・廣以此魚名比目、不知比目又是一魚也。

   *

「閩・廣」元来の「閩」は中国古代に長江の河口部の南に居住した民族を指した。ここは福建地方を中心とした広域地名。「廣」は広州で現在の広州市を中心とした広東地方。

『「比目」、又、一魚なるやを知らず』底本の訓点は実は「不ㇾ知」以外にはない。しかし、それに従わずに、かく読んだ。そのまま読んではどうも気持ちが悪く、不自然だからである。]

2020/08/03

「萬世百物語」始動 / 序・ 卷之一 一 變化玉章

[やぶちゃん注:百物語系怪談集の一つ「萬世(ばんせい)百物語」の電子化注を始動する。同書は全五巻で寛延四(一七五一)年正月(同年は十月二十七日(グレゴリオ暦一七五一年十二月十四日に宝暦に改元)に江戸芝明神前の和泉屋吉兵衛の開版になるが、これは実は五十四年も前の元禄一〇(一六八七)年に江戸川瀬石町の伊勢屋清兵衛開版になる「雨中の友」の改題本である。序に署名のある「東都隱士烏有庵」という作者については全く伝不詳である。改題本とは言うものの、この直後の宝暦・明和期(一七五一年~一七七一年)に何度目かの流行を見る百物語系怪奇談集の先駆作品として重要である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの活字本である国書刊行会編「德川文藝類聚 第四 怪談小說」(大正三(一九一四)年国書刊行会刊)の当該作の画像を視認したが、底本にはルビが殆んどない。そこで加工用データとして読みとった国書刊行会「叢書江戸文庫」第二十七巻「続百物語集成」(太刀川清氏校注。底本は国立国会図書館蔵の原版本。原本の書誌データなどもこの太刀川氏の解説を参照した)にあるルビを参考(原版本には歴史的仮名遣が多い)にして、独自に正しい歴史的仮名遣で必要と思われる箇所に読みを添えた。句読点も底本では従えない場合、後者を参考にしつつ、必要と認めた場合にはオリジナルに追加もした。挿絵はあまり面白いものではないが、添えられてこそのものであるからして、国書刊行会「叢書江戸文庫」第二十七巻「続百物語集成」にあるものをスキャンし、トリミングして合成(中央で分離しているため)して添えた(文化庁はパブリック・ドメインの対象物を全くそのままに平面的に写真で撮ったものには著作権は認められないという公式見解を示している)。踊り字「く」「ぐ」は正字化した。底本はベタであるが、比較的、一話が長いことから、読み易さを考えて、一部に鍵括弧や記号を施し、段落も成形した(序は除く)。

 太刀川氏曰く、『本書は怪異小説には珍しく、その表現は雅文体を中心としたもので、それに応じるかのように、各説話の始めを「あだし夢」』(この世の出来事は変わり易い儚(はかない)い夢と同じという意)『(巻一第一話だけ「きのふはけふのあだし夢」)で始まる形を採っ』ており、相応の内容を持った話柄には『つとめて情緒的な叙述を心がけている』あたりが特異点の特徴と言える。太刀川氏は改題再版行を促したのも、『多分』この『珍しい雅文体の表現のためであろうが、それが中国外来的な』最初の読本とされる怪奇談集「古今奇談英草紙(はなぶさぞうし)」(近路行者 (都賀(つが)庭鐘)作。全五巻。寛延二(一七四九)年刊。全九話。中国の白話小説「喩世明言」「警世通言」「醒世恒言」などの短編から材をとって翻案、時代を鎌倉・室町としたもの)『の余波の中であっただけに意義があったのである』と評しておられる。中には怪談という属性を持たない宮者武蔵を主人公とする武勇談に旧怪奇談をインスパイアしたものなども含まれる。

 注はストイックに附した。注を附した後は一行空けておいた。【202083日始動 藪野直史】]

 

 

萬 世 百 物 語 序

 

奇怪を語るは聖人のいましめ給ふ所、しかはあれども古今小說家の載(のす)るを見るに、怪談傳奇枚擧(あぐる)に遑(いとま)なし。實(まこと)に漢も倭(やまと)も好事(かうず)の人こそをゝき。予去年(こぞ)の秋、故人の幽栖(ゆうせい)を尋ねて雨夜のつれづれに茗話(めいわ)せし事ありしに、我にひとしき客(かく)の訪(と)ひ來たれるありて、珍(めづ)らかにあやしき事ども語り出(いだ)して、主(あるじ)とともに耳を傾(かたむ)け、席を前(すす)め侍りしに、秋の遙夜(ながきよ)を、しのゝめちかく語り明(あか)しぬ。徒(いたづら)に聞き捨てなんもおしく、書留めて里の兒輩(わらはべ)に土產(つと)にもかなと、硯(すずり)需(もと)めてひとつひとつに綴り侍りしに、終(つひ)に五つ卷になりぬるを、すぐに題して萬世百物語と名づくる物ならし。

  寬延三年正月   東都隱士 烏 有 菴

[やぶちゃん注:「をゝき」はママ。「多(おほ)き」。

「故人」旧友。

「幽栖」俗世間から離れてひっそりと暮らしているその人の住居(すまい)。

「茗話」ここは「茶話(さわ)」と同義であろう。「茗」には「遅摘みの茶」(新芽のそれの対語が「茶」)の意がある。

 以下に目録が入るが、総てが終わった後に配することとする。]

 

 

萬世百物語 卷之一

 

    一、變化玉章

 きのふはけふのあだし夢、丹後の國宮津(みやづ)のあるじ京極何がしは、佐々木佐渡の判官(はんぐわん)道與(だうよ)がむまごなりける。ひとりのいつきむすめありしが、優に生(むま)れ、心ざまもあてなりにければ、ふたりの鍾愛(しようあい)たゞこの一所になんとゞまりける。

[やぶちゃん注:標題は「へんげのたまづさ」で、「玉章」は「巻いた手紙の中ほどをひねり結んだ捻(ひね)り文・結び文のことで、古く恋文(ラブ・レター)を指す雅語

「丹後の國宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津市の宮津市街(グーグル・マップ・データ)であろう。

「京極何がし」「佐々木佐渡の判官道與がむまごなりける」婆娑羅大名佐々木道誉(永仁四(一二九六)年/異説に徳治元(一三〇六)年~文中二/応安六(一三七三)年)の表記を意識的にずらしたものか。「譽」の(かんむり)部分は「與」の上部と同じである。彼は佐渡判官入道(佐々木判官)の名で知られる。「道誉」は法名。本名は高氏。彼は鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の中の京極氏に生まれたことから、京極高とも呼ばれた。「むまご」は孫。道誉の嫡男秀綱とその子に秀詮(ひでのり)・氏詮は南朝勢との戦いで戦死しており、佐々木(京極)氏の家督は唯一生き残った弟佐々木(京極)高秀(嘉暦元(一三二八)年~元中八/明徳二(一三九一)年)が継いでおり、彼の子京極高詮(正平七/文和元(一三五二)年~応永八(一四〇一)年)がいるので、彼がモデルか。彼は近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見の守護大名にして室町幕府侍所頭人であった。

「いつきむすめ」「斎娘・傅娘」で「大事に守り育てている娘」の意。

「優に生れ」生まれつき知的で美しく。

「あてなり」上品だ。優美だ。

「鍾愛」「鍾」は「集める」の意で、大切にしてかわいがること。]

 

 おなじ國、何の島とかやは、海原ひろく見わたし、よき境地にして、常は國のものどものなぐさめ所になせりし。

 おりから、春のいろ、野邊もやうやうけしきたつほどなれば、

「つのぐむあしのあをみわたるより、すみれ・つばなの姿おもしろからんは。」

と、つきづきの女どももそゞろだち、娘もゆかしがりければ、長閑(のどか)なる日、したてゝ、彼(かの)島にわたしける。

[やぶちゃん注:「つのぐむ」「角ぐむ」で、草木の芽が角のように突き出し始めることを謂う。特に水辺に多い葦・真菰 (まこも) ・荻 (おぎ)・薄などに多く用いる。

「つばな」千茅(ちがや:単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica)の葉鞘から出る前の膨らんだ花穂を指す。]

 

 島はいさゝかの所にて、立ちしのぶべきかたもなきゆへ、男のかぎりは、みな、船に殘し、女どちばかりかけあがりぬ。ねやふかく忍ぶ心、ひろき詠(ながめ)めづらしくて、手々につまどる春草にのみ心をいれ、そこらしどけなくたゝずみける。

 いづくよりともみへず、いやしからぬ小坊主、錦欄のゑりかけたる、うつくしき染物の、袖なき羽織を着て、むすび文(ふみ)もてるが、

「是れあげさせ給へ。」

といふ。

 女ども、おどろき、

「こは、めなれぬ子なり。いかにして何方(いづかた)よりこゝにはいできたるぞ。爰はかしこまる所なり、かろがろしきしかた、いかにぞや。とく、いね」

と、くちぐちにいふ。

「いやとよ、此文をだに奉ればわけしるゝものを。やはりあけさせ給へ。」

といひすてゞ、いづちいにけん、あとけして、みへずなりぬ。

 あやしきながら、よりて、文ひらきみれば、うつくしき文字すがた、けだかき懸想文(けさうぶみ)なり。名もなくて、心のゆくかぎり、かりそめならぬさまをいひつゞけ、

――扨、此事かなへ給はずは、おそろしきめみせなん。心得給へ――

と、かいたり。みるよりせなかのほど、そゞろさむく、皆々、かほ、とく見あわせ、けうさめて立ちける中にも、「つぼね」などいふべき老(おい)たる女、

「いやいや大事の姬君、よしなき所の長居なり、かゝる所は、はやう、たちさりたるこそよけれ。」

とて、だらになど、うちずし、あしばやに行きければ、たれか跡にとゞまるべき、

「我先に。」

と、船に、こみのり、道々もたゞ此事のみいひさゝで歸りぬ。

[やぶちゃん注:「めなれぬ」「目馴れぬ」。見慣れない。

「だらに」陀羅尼。サンスクリット語「ダーラニー」の漢音写で、「総持」「能持」「能遮(のうしゃ)」と訳す。「総持」「能持」は「一切の言語からなる説法を記憶して忘れない」の意であり、「能遮」は「総ての雑念を払って無念無想の状態になること」を指す。ここは翻訳せずに梵語の文字を唱えるもので、不思議な法力を持つものと信じられる呪文。比較的長文のものを指す。

「うとずし」「打ち誦し」。

「いひさゝで」「言ひ止(さ)す」は「言いかけて止める」ことであるから、それをさらに打消の接続助詞で重ねて否定しているのだから、「その怪しいことについては誰も彼もちょっとでも言い出そうとすることなく」である。不吉な事柄を言上(ことあ)げすることでそれを招くことになるから、ことさらに忌んだのである。]

 

 ふたりのおやに、

「かく。」

と啓(けい)すれば、

「あらまし、こは、人のわざともおぼえず。ただものとこそみへ[やぶちゃん注:ママ。]たれ。まことや、此家の北なる森には、ふるきけものにやあるらん、つねにあやしき事すなるときゝつるが、さだめて、かのもののわざなるべし。弓して射させよ。」

とて、つはものをゑらび、蟇目(ひきめ)さすれば、森々(しんしん)たるもりのうち、何のあて所はなけれど、思ふままにぞ、射たりけるを、森の中に大ごゑあげて、

「どつ」

と笑ひ、扨(さて)、射たりける矢のかぎり、ことごとくつがねて、束(つか)ふたつになして、なげ出(いだ)すにぞ、

「是れも甲斐なし。」

とて、あきれて、やみぬ。

[やぶちゃん注:「啓す」申し上げる。

「みへ」ママ。

「蟇目」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢のことを言う。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注をも参照されたい。

「つがねて」まとめて束(たば)にして。

「束(つか)ふたつになして」沢山の矢を射たのだが、それがたった二つの束(たば)に圧縮され、ひしゃげた塊りにされて投げ返されたのであろう。]

 

 その矢射させける夜よりして、娘の方に、化(け)、おこりて、あやしき事多き中に、不淨の、ゑもいはれぬあしき臭(かざ)座(ざ)にみちて、そこら立ち寄るべきかたもなく、いかなる香を焚きても、いさゝかまぎるべきやうなし。

[やぶちゃん注:「化」異常な様子を指す。物理的に見える発熱などかも知れぬし、ひどく何かを怖がるといった神経症的症状や、もっと重い何かに憑かれたようなヒステリー状態などかも知れぬが、具体に記していないので判らぬ。まあ、有りがちな展開ではある。

「臭(かざ)座(ざ)にみちて」「江戸文庫」本では「臭座」二字に対して『かざ』とルビするが、これはおかしい。「臭氣」が「かざ」で異常にして奇体・不吉なる臭いをかく表現しているので、それが家内の孰れの部屋=「座」にも満ちてしまったというのである。

 

 ある夜はこうじて、きたなき物のかぎり、床(ゆか)より高くもて埋(うづ)みければ、上下(かみしも)、にがにがしく侘びける。

[やぶちゃん注:「こうじて」「困(こう)じて」で困って。

「きたなき物のかぎり、床(ゆか)より高くもて埋(うづ)みければ」今一つ明言出来ぬが、これはあまりの体験したことがないひどい臭気にたまりかねて、主人京極何某が命じて、それを紛らすため、既に知っているところの、日常的な汚い臭いものを持ってきて、堆(うずたか)くあらゆる部屋に積ませたということなのではなかろうか。そう採った時、本話の奇体性がいやさかに増すからである。

「上下」主人を除いた家内の家人や下僕ら総て。]

 

「かゝる事には、かたたがひすれば、うするもの。」

とて、新殿(しんでん)をしつらい、むすめをうつし、兵(つはもの)のかぎり、ゑらびて、まもらせける。初(はじめ)より驗者(げんざ)・法(のり)の師(し)、つゆおこたるまもなきが、いよいよつとめ、加持(かぢ)の僧なんど、いかめしく壇かざりて、すゆ。

[やぶちゃん注:「かたたがひ」「方違」。本来は、陰陽道で外出する際、天一神(なかがみ)・太白 ・金神 (こんじん) などのいる方角を凶として避けるために、前夜或いはもっと以前に他の方角の場所に行って泊って、そこからその当日、目的地に向きを変えて行くことを指す。平安時代には日常的に盛んに行われた。但し、ここは単に何かに憑かれたらしい病人である娘を全く別な位置に移すという処置を指す。京極邸家屋内は総てダメなため(臭気蔓延)に新しい建物を設え、そこに彼女を移したことを謂う。

「うする」失せる。

「驗者」次に僧が二回出るので、修験道の行者と採っておく。実際には僧侶の加持祈禱を行う者も「驗者」に含まれる。

「法の師」法力の新たかな高僧。

「すゆ」「据ゆ」。「安置した」の意。]

 

さればこそ、うつろひて、一夜二夜は何の事なきを、

「かくてぞやみなん。」

とさゝめきあゑり。

 いつしか、また、おなじやうに、あれける。

[やぶちゃん注:「さゝめき」「囁(ささや)き」に同じい。

「あゑり」はママ。

「あれける」「荒れける」。]

 

 ある時は女どもを五人三人づゝ、髮と髮をあつめて、繩になひ、網にくめど、つゆしる人もなく、たがするわざともみへず、あやしき事のかず、ましけるに、かゝるうちに住みなんこと、みなみな、うき事におもへば、この事、かのことにかこつけ、みやづかひの女ども、里がちにぞなりける。今は、とのゐさへまばらなれば、

「かくてはかなはじ。」

と、絕えてそれより出人りを掟(おき)て、かりにも、人をちらさゞりける。

[やぶちゃん注:女性の象徴たる長い髪は、民俗社会では、女の命・魂であるからして、巫女たる存在としての女性の霊力をシンボライズする、呪術的な対象となった。ここでは女性の髪で作った綱や網が、邪鬼を侵入させない結界としての効果を期待して、娘の周りでかく行われたものと考えられる。

「とのゐ」「宿直」。

「掟て」は動詞「掟(おき)つ」の連用形。前もって指示して行動をとらせることで、ここは、里下がりを願い出ることを禁ずる命令を出して、の意である。

「かりにも」ここは呼応の副詞で、後に打消の語を伴って)打消の意を強めている。決して、一人でも奉公を断ったり、逃げ去ることを許さなかった、の意。]

 

 娘もかなしがり、父母もせんかたなう覺えけるに、小枝元齋(ささへげんさい)といへる儒學者、いひけるやうは、

「今はすべての事しつくさせ給ふうへなれば、殘る所なし。しかれども、爰(ここ)にひとつおもひよりあり。なしてんはしらず、我らにまかさせ給はゞ心つくしてみん。」

といふ。

[やぶちゃん注:「小枝元齋」不詳。読みは「江戸文庫」版に拠った。

「なしてんはしらず」意味不明。「成し」「爲し」か? 完全に成し遂げ得るかどうか、或いは、完全なる効果を及ぼすかどうかは今は判らないが、の意か?]

 

 何がしきゝて、

「それこそあなれ。いかにもして此事さへやみなば、しさいにやおよぶ。」

といふ。

 元齊それより齋(ものいみ)し、つゝしび、かの森に至りて、あらたなる神に敬するがごとく、武士(もののふ)に仰(おほせ)て、弓(ゆみ)射させし、あやまりより、靈をあなどるの事、ねんごろに詫びなげきて、

「さりとはいヘど、ものゝふの家に生(うま)るゝ身、靈にむすめとられたるなんどいわれむは、後代までの恥辱、いかにとも、ゑこそかなひ候ふまじ。是れひとつはゆるし給ふて、何ならん、ねがひにても、御心にかなひ候はんことをいたしつべし。」

と、二(に)なう願たつるに、びんづらゆふたる童子となり、元齋にむかひ、

「につこ。」

と打ち笑ふて、

「日ごろは、しかたのあまり、にくさにぞ、ものしける。かくまでわぶる事、殊勝なり。今はゆるすべし。何のねがのある身にもなきが、『おどり』といふ事なん、おもしろかるべし。是れ我が心なり。」

といふに、かしこまり悅びて、いそぎ、歸りて、何がしに、きかす。

 家のうち上下、いきづき、悅び、それより領内にふれて、町・田舍・男女の數つくし、

「なみなみにて、かなはじ。」

と、侍も、わかき男は出(いで)まじわり、風流をつくして大勢なれば、若狹境の「ゑいけいじ野」といふ所の廣場にみちあまり、棧敷(さじき)なんどかけわたし、靈の座、淸めて、おもしろう、まひおどる事、二十日あまりなり。

 そのほど四日五日がほどは、美なる少年となりて、彼(か)の座にみへけるが、たへてのち、願もなければ、

「さては。」

とてやみける。

 是れに感應や有(あり)けん、娘のかた、ことなう、めでたかりし。

[やぶちゃん注:「それこそあなれ。いかにもして此事さへやみなば、しさいにやおよぶ」「それこそ願ってもない、私の望んでいたことなのであるのだ! 何んとしてもこの異常な事態が収まるのであれば、何も私は言うはずも、ない!」。「あなれ」はラ変動詞「あり」の連体形に、推定・伝聞の助動詞「なり」からなる「あるなり」の撥音便「あんなり」の「ん」が表記文字がなかったために表示されない形。読む際には「あんなり」と読むのだと授業でさんざん言ってきたが、実は私は本当に「ン」を添えて発音していたのかどうか疑問に思っている。せめて、だったら、文字の脇に圏点でもつけりゃいいとずっと思っているのである。

「つゝしび」ママ。「愼しみ」。

「あらたなる神に敬するがごとく」「江戸文庫」は「神」に『しん』と振るが、従わない。

「靈にむすめとられたる」「江戸文庫」はここのみ「靈」に『りやう』と振るが、従わない。

「びんづら」「角髪(みづら)」の音変化。ここは、江戸時代の少年の髪型。元は上代の成人男子の髪の結い方で、髪を頭の中央から左右に分けて両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだもの。平安以後、概ね少年の髪形となった。

「ゑこそ」ママ。

「二なう」ここは「二つとなく」で「この上なく」の謂いであろう。

「びんづら」ここは少年・青年の古い髪形を謂う。

「おどり」ママ。「踊(をど)り」。

「出まじわり」ママ。「まじはり」が正しい。

「いきづき」ほっと安心してやっと息をついて。

「ゑいけいじ野」不詳。漢字表記も判らぬ。識者の御教授を乞う。

「みへ」ママ。

「たへて」ママ。「絕へて」であろうから、「たえて」が正しいだろう。それがひとまず終わってしまって翌年からは、の意であろう。

 それにしても、冒頭から霊対象の実体が最後まで明らかにされないのは、逆に面白い。美少年の姿をした踊り好きの、森の忘れられた御霊(ごりょう)とは如何なる「もの」であったものか? それを読者にそのまま擲ったところに、逆に本話の面白さはあるとも言えよう。

大和本草卷之十三 魚之下 比目魚(カレイ) (カレイ・ヒラメ・シタビラメ)

 

比目魚 此魚背黑ク腹白クシテ魚ノ半片ノ如シカ

タワレイヲト云意ニテ畧乄カレイト名ツク目ハ一處ニ

二アリ近シ一名鰈二種アリ一種ハツネノカレイ也

一種ハ鞋底魚ト云關東ニテ平目ト云カレイクツゾコ

共ニ腹ヲ地ニスリテヲヨク或云丹後ノムカシカレイニ毒ア

リト云不然本無毒凡漁人カレイヲ取テハ塩水ニテ

蒸シ半熟乄海濵ニ多クアツメ沙上ニ置テワラ席ヲ

オホヒ温濕ノ氣ニテ蒸シテ後少ホス丹後ノムシガレイ

是也湿熱ノ氣ヲフクンテ正味ヲ失ナフ食スレハ或腹

痛ス故病人ニ害ヲナシコト有之其子モ同故其子

ヲ食スレハ腹痛スルコトアリ小兒不可食生カレイハ無

毒益人生ナルヲ如常蒸乄食ス最美シ性ヨシ

○やぶちゃんの書き下し文

比目魚(かれい[やぶちゃん注:ママ。]) 此の魚、背、黑く、腹、白くして魚の半片〔(はんぺん)〕のごとし。「かたわれいを」と云ふ意にて畧して「かれい」と名づく。目は一處に二〔つ〕あり、近し。一名「鰈」。二種あり。一種は、つねのかれいなり。一種は「鞋底魚(くつぞこがれい)」と云ふ。關東にて「平目〔(ひらめ)〕」と云ふ。「かれい」・「くつぞこ」共に腹を地にすりて、をよぐ[やぶちゃん注:ママ。]。或いは云はく、「丹後の『むしがれい』に毒あり」と云ふ〔も〕、然〔(しか)ら〕ず、本〔(もと)〕、毒、無し。凡そ漁人、かれひを取りては、塩水〔(しほみづ)〕にて蒸し、半熟して海濵に多く、あつめ、沙上に置きてわら席〔(むしろ)〕をおほひ、温・濕の氣にて蒸して後〔(のち)〕、少し、ほす。丹後の「むしがれい」是れなり。湿・熱に氣をふくんで、正味〔(しやうみ)〕を失なふ。食すれば、或いは腹痛す。故、病人に害をなすこと、之れ、有り。其の子も同じ。故、其の子を食すれば、腹痛することあり。小兒、食ふべからず。「生〔(なま)〕かれい」は、毒、無し。人を益す。生なるを常のごとく蒸して食す、最も美〔(うま)〕し。性〔(しやう)〕、よし。

[やぶちゃん注:魚上綱条鰭(硬骨魚)綱カレイ目カレイ亜目ヒラメ科ヒラメ属ヒラメ Paralichthys olivaceus に、カレイ目カレイ科 Pleuronectidae のカレイ類も含めた叙述である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ヒラメ」のページに、『東京での呼び名。もともとヒラメは東京近郊の限られた地域のみで使われていた呼び名。本来はカレイ、カレなどとされ、異体類(カレイ目で目が左右どちらかに移動している)は区別されていなかった』とあり、他にも『比目魚はヒラメも含めてカレイ類全般のことで、ヒラメもそのひとつ』に過ぎないとある。この事実は現在は関東の方言呼称でしかなかった「ヒラメ」が、今や、全国区まで幅を利かすようになり、誰もが異口同音に「左ヒラメに右カレイ」と鬼の首を捕ったように区別が叫ばれ(言っておくと、この分類法は厳密には正しくない。頭部の左側に目を持っているヌマガレイ属ヌマガレイPlatichthys stellatus がいるからである)、よく知られているとは思われないから、特に太字で示した。また、『「ひら」は』「平たい」こと、『「め」は魚』を表わす広汎な『接尾語』であり、『漢字「平目」』の本邦での初出は、医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書「本朝食鑑」が最初であるようである。但し、ヒラメとカレイとを人見が弁別していたかどうかは定かではないと「本朝食鑑」東洋文庫(一六九七年刊)の島田勇雄氏の訳注にはある。ただ、ウィキの「ヒラメ」によれば、『ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山』述の「本草綱目啓蒙」(享和三(一八〇三)年)が『初出である』とある。「重訂本草綱目啓蒙」第四十八巻の「比目魚」(国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像)で、その解説中の左頁の最後の部分で、ヒラメを『カレイノ一種ナリ形カレイヨリ狹長ニシテ薄シ故ニ クツソコ及ウシノシタノ名アリ唐山』(中国のこと)『ニテモ鞋底魚トナヅク一二寸ヨリ一尺四五寸ニイタル左一片ハ黑』(ここから次のコマ)『クシテ細鱗アリ兩ノ小目アリ』とある。一方、そのコマの左頁の後ろから三行目を見られたい。そこで『カレイハ形鯧魚(マナガツヲ)』(スズキ目イボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属マナガツオ Pampus punctatissimus。同種は側扁形の平べったい外見を成す)『ニ似テ狹ク扁』(ひらた)『クウスシ長サ一尺二寸ナレハ濶サヒレトモニ五寸五分バカリ頭小ク觜尖レリソノ身右一片ハ黑クシ』(ここから次のコマ)『テ細鱗あり雙眼相並テ近シ左一片ハ形平ニシテ色白シ鱗ナクシテ細紋アリ』(以下略)と述べていることから、蘭山が確かにヒラメ(但し、左体側に目を持つ多種(カレイ目カレイ亜目ウシノシタ上科ウシノシタ科 Cynoglossidae など)も含んでいるように読める)とカレイを識別していることが判る。

『「かたわれいを」と云ふ意にて畧して「かれい」と名づく』「片割れ魚・片破れ魚」で、「割れた一片、又は、対になっているものの一方」或いは「一つのものから分かれた分身」の魚の意。但し、この語言説は、或いは益軒の考えたものである可能性がある。「本草綱目啓蒙」では、ここ(右頁から終行から左頁初行)で『カタワレイヲヲ畧シテ カレイト名クト大和本草ニイヘリ』とあるからである。因みに、ウィキの「カレイ」を見ると、『日本語の「かれい」は「唐鱏」(からえい)または「涸れ鱏」の転訛とされる』とあり、『「鰈」の「枼」は葉に由来し』、『薄いものの意』ともある(恐らく、皆、誤認していると思うが、「蝶のような魚」の意ではない)。また、『王が魚を半分食べたところを水に放すと泳ぎだしたとの中国の故事から』「王余魚」「王餘魚」とも『書くが』、これらは皆、『ヒラメをも含めた言い方である』とし、『漢名は「鰈」であるが、ヒラメとの混称で「偏口魚」、「比目魚」などとも呼ばれる』と記す。

「鞋底魚(くつぞこがれい)」現行ではこれはヒラメではなく、

カレイ目カレイ亜目ウシノシタ上科ササウシノシタ科 Soleidae(同科は右体側に目がある。ササウシノシタ科の殆んどの種は小さいため、殆んど漁獲対象とならず、獲れても捨てられる。従って流通にも出現しない。但し、食べられないわけではない。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」にはササウシノシタ属ササウシノシタ Heteromycteris japonica が載り、『じっくり揚げると丸ごと食べられる』とあるが、調べると、体長は十五センチメートル内外で如何にも小さい)及びウシノシタ科 Cynoglossidae(同科は左体側に目がある)の種群に総称。特に後者のウシノシタ科に属する魚の総称としては「シタビラメ」(舌平目)が水産庁が「別表1 国産の生鮮魚介類の名称例」で公的にウシノシタ科の総称として認定し、以下の二種が例として載る。

ウシノシタ科イヌノシタ亜科タイワンシタビラメ属クロウシノシタ Paraplagusia japonica

(体長は最大で三十五センチメートルほど。単に「ウシノシタ」と呼ばれることもあるほか、「クツゾコ」「ゲンチョウ」「ゲタ」「セッタガレイ」「ゾウリ」「ゾウリウオ」「チヨオギンカレイ」「ベロ」など多彩な地方名をもつ)

イヌノシタ亜科イヌノシタ属アカシタビラメ Cynoglossus joyneri(体長は二十五センチメートル程度)

両種は共に「シタビラメ」の代表格として流通でお馴染みである。ウィキの「アカシタビラメ」によれば、『有明海地方では靴の底に似ていることから、「くつぞこ」が次第に訛り、「クチゾコ」、「クッゾコ」と呼ばれて』おり、『岡山県などの瀬戸内地方東部では「ゲタ」と呼ばれ、煮付けの定番魚の一つとなってい』て、『山口県ではアカシタビラメを「レンチョウ」と呼び煮付けなどにする』とある。また、近縁種が複数おり、『それぞれ色や産卵時期も異なるが、混称としてアカシタビラメやクチゾコなどと呼ばれる』として、以下の三種が挙っている。

イヌノシタ属イヌノシタ Cynoglossus robustus

イヌノシタ属カラアカシタビラメ Cynoglossus semilaevis

イヌノシタ属コウライアカシタビラメ Cynoglossus abbreviatus

「丹後の『むしがれい』」丹後の名産品として知られるそれは、「笹がれい」(京都・関西)・「柳がれい」(関東)・現地では「若狭がれい」の呼称が古くから有名である。但し、これはヒラメ類ではなく、種としては、

カレイ目カレイ亜科カレイ科ヤナギムシガレイ属ヤナギムシガレイ Tanakius kitaharae

を用いたものを真正とする(同種は一時期、個体数が激減したが、近年は漁業者の努力により回復し、漁獲量は安定している)。因みに「むしがれい」の「むし」は「蒸し」ではなく、「蟲(虫)」であって、これは表側の左右に虫食い状の斑紋があることに由来する(カレイ科ムシガレイ属ムシガレイ Eopsetta grigorjewi では三対)。ウィキの「笹かれい」によれば、『若狭湾は、日本海の暖流と寒流が入り込むところで、リアス式海岸となっており、そこでとれるカレイは特に味が良いと言われ』四月中頃まで『漁が続けられる。若狭の笹かれいは、古くから高級食材として京都で珍重され』、「山海名産図会」(木村孔恭(こうきょう:号は兼葭堂(けんかどう))著で蔀関月(しとみかんげつ)画になる江戸後期の傑出した全国名産図会。但し、農林産物は少なく、水産と自然物採取が主。寛政一一(一七九九)年刊)にも、『「天下にまたとない朝廷の召し上がる珍味」と記されるほどの高い評判を得ていた』とある。また、『特にメスの笹かれいは橙色の卵巣が透けて見え、オスよりも美味しいとされ高値で販売されている』。『古くより小浜市を中心とする福井県若狭地方は、海に面していない京都へ日本海側で採れる魚類の供給地であり、若狭から京都へは笹かれいの他、浜焼き鯖や、ぐじ等も運ばれて食されていた』。製法は、『水揚げしたばかりの新鮮なヤナギムシガレイに淡塩を施し、串に刺して一晩、日陰干し(一夜干し)にするという単純なもの』とある。

「正味〔(しやうみ)〕を失なふ」本来の旨味を失うということで、不審。大変、美味である。どうも宵曲の好みは干物がダメで、刺身或いは蒸し物が好物であったらしい。

「其の子」胎内の卵。すっごい美味いのに!

 最後に「本草綱目」を示しておく。

   *

比目魚【「食療」。】

釋名【「鰈」、音「蝶」。】鞋底魚。時珍曰、『「比」、「並」也。魚各一目、相並而行也。「爾雅」所謂『東方有比目魚、不比不行、其名曰鰈』是也。段氏「北戶錄」謂之「鰜」、音「兼」。「吳都賦」謂之「魪」、音「介」、。「上林賦」謂之「魼」、音「墟」。鰈、猶屧也。「鰜」、「兼」也。「魪」、相介也。「魼」、相「胠」也。俗名「鞋底魚」。「臨海志」名「婢蓰魚」、「臨海風土記」名「奴屩魚」、「南越志」名「版魚」、「南方異物志」名「箬葉魚」。皆、因形也。』。

集解時珍曰、『按、郭璞云、「所在水中有之。狀如牛脾及女人鞋底。細鱗紫白色、兩片相合乃得行。其合處半邊平而無鱗、口近腹下」。劉淵林、以爲「王餘魚」、蓋不然。』。

氣味甘、平、無毒。

主治補虛益氣力。多食動氣【孟詵。】。

   *]

今日――Kは自死する――(今日から三日分を一挙に連続で掲げて示す)

 何時(いじ)も東枕で寢る私が、其晩に限つて、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因緣かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風で不圖眼を覺したのです。見ると、何時も立て切つてあるKと私の室との仕切の襖が、此間の晩と同じ位開いてゐます。けれども此間のやうに、Kの黑い姿は其處には立つてゐません。私は暗示を受けた人のやうに、床の上に肱(ひぢ)を突いて起き上りながら、屹(きつ)とKの室を覗きました。洋燈(ランプ)が暗く點つてゐるのです。それで床も敷いてあるのです。然し掛蒲團は跳返(はねかへ)されたやうに裾の方に重なり合つてゐるのです。さうしてK自身は向ふむきに突つ伏してゐるのです。

 私はおいと云つて聲を掛けました。然し何の答もありません。おい何うかしたのかと私は又Kを呼びました。それでもKの身體は些(ちつ)とも動きません。私はすぐ起き上つて、敷居際(しきいきは)迄行きました。其所から彼の室の樣子を、暗い洋燈の光で見廻して見ました。

 其時私の受けた第一の感じは、Kから突然戀の自白を聞かされた時のそれと略(ほゞ)同じでした。私の眼は彼の室の中(なか)を一目見るや否や、恰も硝子(がらす)で作つた義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立に立竦(たちすく)みました。それが疾風(しつぷう)の如く私を通過したあとで、私は又あゝ失策(しま)つたと思ひました。もう取り返しが付かないといふ黑い光が、私の未來を貫ぬいて、一瞬間に私の前に橫はる全生涯を物凄く照らしました。さうして私はがた/\顫(ふる)へ出したのです。

 それでも私はついに私を忘れる事が出來ませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは豫期通り私の名宛になつてゐました。私は夢中で封を切りました。然し中には私の豫期したやうな事は何にも書いてありませんでした。私は私に取つて何んなに辛い文句が其中に書き列ねてあるだらうと豫期したのです。さうして、もし夫が奥さんや御孃さんの眼に觸れたら、何んなに輕蔑されるかも知れないといふ恐怖があつたのです。私は一寸眼を通した丈で、まづ助かつたと思ひました。(固(もと)より世間體(せんけんてい)の上丈で助かつたのですが、其世間體が此塲合、私にとつては非常な重大事件に見えたのです。)

 手紙の内容は簡單でした。さうして寧ろ抽象的でした。自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺するといふ丈なのです。それから今迄私に世話になつた禮が、極あつさりした文句で其後に付け加へてありました。世話序に死後の片付方も賴みたいといふ言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて濟まんから宜しく詫(わび)をして吳れといふ句もありました。國元へは私から知らせて貰ひたいといふ依賴もありました。必要な事はみんな一口(ひとくち)づゝ書いてある中(なか)に御孃さんの名前丈は何處にも見えませんでした、私は仕舞迄讀んで、すぐKがわざと回避したのだといふ事に氣が付きました。然し私の尤も痛切に感じたのは、最後に墨の餘りで書き添へたらしく見える、もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句でした。

 私は顫へる手で、手紙を卷き收めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆(みん)なの眼に着くやうに、元の通り机の上に置きました。さうして振り返つて、襖に迸ばしつてゐる血潮を始めて見たのです。(ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回全文)

 「私は突然Kの頭を抱へるやうに兩手で少し持ち上げました。私はKの死顏が一目見たかつたのです。然し俯伏(うつぶし)になつてゐる彼の顏を、斯うして下から覗き込んだ時、私はすぐ其手を放してしまひました。慄(ぞつ)とした許(ばかり)ではないのです。彼の頭が非常に重たく感ぜられたのです。私は上から今觸つた冷たい耳と、平生に變らない五分刈の濃い髪の毛を少時(しばらく)眺めてゐました。私は少しも泣く氣にはなれませんでした。私はたゞ恐ろしかつたのです。さうして其恐ろしさは、眼の前の光景が官能を刺戟して起る單調な恐ろしさ許りではありません。私は忽然と冷たくなつた此友達によつて暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。

 私は何の分別もなくまた私の室に歸りました。さうして八疊の中をぐるぐる廻り始めました。私の頭は無意味でも當分さうして動いてゐろと私に命令するのです。私は何うかしなければならないと思ひました。同時にもう何うする事も出來ないのだと思ひました。座敷の中をぐる/\廻らなければゐられなくなつたのです。檻の中へ入れられた熊の樣の態度で。私は時々奧へ行つて奥さんを起さうといふ氣になります。けれども女に此恐ろしい有樣を見せては惡いといふ心持がすぐ私を遮ります。奥さんは兎に角、御孃さんを驚ろかす事は、とても出來ないといふ强い意志が私を抑えつけます。私はまたぐる/\廻り始めるのです。

 私は其間に自分の室の洋燈(ランプ)を點けました。それから時計を折々見ました。其時の時計程埒(らち)の明かない遲いものはありませんでした。私の起きた時間は、正確に分らないのですけれども、もう夜明に間もなかつた事丈は明らかです。ぐる/\廻りながら、其夜明を待ち焦れた私は、永久に暗い夜が續くのではなからうかといふ思ひに惱まされました。

 我々は七時前に起きる習慣でした。學校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合ないのです。下女は其關係で六時頃に起きる譯(わけ)になつてゐました。然し其日(そのに)私が下女を起しに行つたのはまだ六時前でした。すると奥さんが今日は日曜だと云つて注意して吳れました。奥さんは私の足音で眼を覺したのです。私は奥さんに眼が覺めてゐるなら、一寸私の室迄來て吳れと賴みました。奥さんは寢卷の上へ不斷着の羽織を引掛て、私の後(あと)に跟(つ)いて來ました。私は室へ這入(はい)るや否や、今迄開いてゐた仕切の襖をすぐ立て切りました。さうして奥さんに飛んだ事が出來たと小聲で告げました。奥さんは何だと聞きました。私は顋(あご)で隣の室を指すやうにして、「驚ろいちや不可(いけ)ません」と云ひました。奥さんは蒼い顏をしました。「奥さん、Kは自殺(しさつ)しました」と私がまた云ひました。奥さんは其所に居竦(ゐすく)まつたやうに、私の顏を見て默つてゐました。其時私は突然奥さんの前へ手を突いて頭を下げました。「濟みません。私が惡かつたのです。あなたにも御孃さんにも濟まない事になりました」と詫(あや)まりました。私は奥さんと向ひ合ふ迄、そんな言葉を口にする氣は丸でなかつたのです。然し奥さんの顏を見た時不意に我とも知らず左右云つて仕舞つたのです。Kに詫まる事の出來ない私は、斯うして奥さんと御孃さんに詫(わ)びなければゐられなくなつたのだと思つて下さい。つまり私の自然が平生の私を出し拔いてふら/\と懺悔の口を開かしたのです。奥さんがそんな深い意味に、私の言葉を解釋しなかつたのは私にとつて幸ひでした。蒼い顏をしながら、「不慮の出來事なら仕方がないぢやありませんか」と慰さめるやうに云つて吳れました。然し其顏には驚きと怖れとが、彫(ほ)り付けられたやうに、硬く筋肉を攫(つか)んでゐました。(ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月4日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百三回全文)

 「私は奥さんに氣の毒でしたけれども、また立つて今閉めたばかりの唐紙を開けました。其時Kの洋燈(ランプ)に油が盡きたと見えて、室の中(なか)は殆ど眞暗でした。私は引き返して自分の洋燈を手に持つた儘、入口に立つて奥さんを顧みました。奥さんは私の後(うしろ)から隱れるやうにして、四疊の中を覗き込みました。然し這入(はい)らうとはしません。其處は其儘にして置いて、雨戸を開けて吳れと私に云ひました。

 それから後の奥さんの態度は、さすがに軍人の未亡人だけあつて要領を得てゐました。私は醫者の所へも行きました。又警察へも行きました。然しみんな奥さんに命令されて行つたのです。奥さんはさうした手續の濟む迄、誰もKの部屋へは入(い)れませんでした。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切つて一息に死んで仕舞つたのです。外に創(きず)らしいものは何にもありませんでした。私が夢のやうな薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ばしつたものと知れました。私は日中の光で明らかに其迹を再び眺めました。さうして人間の血の勢といふものゝ劇しいのに驚ろきました。

 奥さんと私は出來る丈の手際と工夫を用ひて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸ひ彼の蒲團に吸收されてしまつたので、疊はそれ程汚れないで濟みましたから、後始末はまだ樂でした。二人は彼の死骸を私の室に入れて、不斷の通り寢てゐる體(てい)に橫にしました。私はそれから彼の實家へ電報を打ちに出たのです。

 私が歸つた時は、Kの枕元にもう線香が立てられてゐました。室へ這入るとすぐ佛臭(ほとけくさ)い烟(けむり)で鼻を撲(う)たれた私は、其烟の中に坐つてゐる女二人を認めました。私が御孃さんの顏を見たのは、昨夜來此時が始めてゞした。御孃さんは泣いてゐました。奥さんも眼を赤くしてゐました。事件が起つてからそれ迄泣く事を忘れてゐた私は、其時漸(やうや)く悲しい氣分に誘はれる事が出來たのです。私の胸はその悲しさのために、何の位(くらゐ)寬ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤(うるほひ)を與へてくれたものは、其時の悲しさでした。

 私は默つて二人の傍(そば)に坐つてゐました。奥さんは私にも線香を上げてやれと云ひます。私は線香を上げて又默つて坐つてゐました。御孃さんは私には何とも云ひません。たまに奥さんと一口二口(ふくち)言葉を換(かは)す事がありましたが、それは當座の用事に即(つ)いてのみでした。御孃さにはKの生前に就いて語る程の餘裕がまだ出て來なかつたのです。私はそれでも昨夜の物凄い有樣を見せずに濟んでまだ可かつたと心のうちで思ひました。若い美くしい人に恐ろしいものを見せると、折角の美くしさが、其爲に破壞されて仕舞ひさうで私は怖かつたのです。私の恐ろしさが私の髪の毛の末端迄來た時ですら、私はその考を度外に置いて行動する事は出來ませんでした。私には綺麗な花を罪もないのに妄(みだ)りに鞭(むち)うつと同じやうな不快がそのうちに籠つてゐたのです。[やぶちゃん注:ここまでが自死当日のシークエンスとなる。]

 國元からKの父と兄が出て來た時、私はKの遺骨を何處へ埋(うめ)るかに就いて自分の意見を述べました。私は彼の生前に雜司ケ谷近邊(きんへん)をよく一所に散步した事があります。Kには其處が大變氣に入つてゐたのです。それで私は笑談(ぜうだん)半分に、そんなに好(すき)なら死んだら此處へ埋(うめ)て遣らうと約束した覺えがあるのです。私も今其約束通りKを雜司ケ谷へ葬つたところで、何の位の功德(くどく)になるものかとは思ひました。けれども私は私の生きてゐる限り、Kの墓の前に跪(ひざ)まづいて月々私の懺悔を新たにしたかつたのです。今迄構ひ付けなかつたKを、私が萬事世話をして來たといふ義理もあつたのでせう、Kの父も兄も私の云ふ事を聞いて吳れました。ここまで『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月5日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百四回全文)

   *

私の三回の細かなシーンへの偏執的な考察は、それぞれの回の私の「摑み」を読まれたい。

 

Kの霊のために――ここは――「靜」かに終わることとする――

 

 

2020/08/02

大和本草卷之十三 魚之下 アラ (アラ或いはクエ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前を受けて『同』。]

アラ 鯛ニ似テ鯛ヨリヨコセハク長シ所〻黃黒色マタラ

ナリ又大口魚ニ似タリ長一二尺三尺ニ至ル口ヒロク

頭大ナリ味ヨク乄鯛ニ似タリ冬春多シ病人食之無

妨若水云アラハ敏魚ナルヘシ厨人以為下品乾タルハ

産後ノ血暈ヲ治ス能血ヲ收ム和流ノ外醫婦人

科用之

○やぶちゃんの書き下し文

あら 鯛に似て、鯛より、よこ、せばく、長し。所々、黃黒色、まだらなり。又、大口魚(たら)に似たり。長さ一、二尺、三尺に至る。口、ひろく、頭〔(かしら)〕、大なり。味、よくして、鯛に似たり。冬・春、多し。病人、之れを食ふ〔に〕妨〔(さまた)げ〕無し。若水〔(じやくすい)〕云はく、「『あら』は敏魚なるべし。厨〔(くりや)〕の人、以つて下品と為〔(な)〕し、乾〔(ほし)〕たるは、産後の血暈〔(けつうん)〕を治す。能く血を收む。和流の外醫、婦人科に之れを用ふ」〔と〕。

[やぶちゃん注:普通なら、

スズキ亜目ハタ科ハタ亜科アラ属アラ Niphon spinosus

の同定となるが、少し問題がある。何故なら、九州で「アラ」は、

ハタ亜科ハタ族マハタ属クエ Epinephelus bruneus

の地方名として古くから一般化しているからである。さらに都合の悪いことに、同地方では、

ハタ族マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus

も「アラ」と呼んでいるからである。では、本文の叙述の特徴から絞ればよい、ということになるが、これがまた、至難の技なのである。一つずつ見てみよう。読者も「ぼうずコンニャクの市場魚介図鑑」のアラクエマハタの画像を見ながら、考証してみて欲しい。

①「鯛に似て、鯛より、よこ、せばく、長し」何を以ってタイに似ているとするかが問題だが、強いて一番タイに似ている(三種はどれも私はタイに似ていないと思うのだが)のはマハタであると思うが、後半の横(体の幅)が狭く、体長が細長い、という両方の性質を具え持つのは、細長くてやや側扁するアラのみである。マハタやクエはでっぷりとしていて体幅は狭くないからである。

②「所々、黃黒色、まだらなり」これはクエ(茶褐色の体色に濃い斜めに走る帯状模様がある。但し、これは大きくなるに従って明瞭でなくなる)及びマハタ(若魚は褐色の横縞がはっきりしているが、大きくなるに従って消えてしまう)の特徴に近いが、特にクエのそれはまさに斑(まだら)模様と呼ぶに相応しい。

③「大口魚(たら)に似たり」タラ(条鰭綱タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae のタラ類)に似ているのは文句なしに口吻部が有意に鋭意にとんがっているアラである。

④「長さ一、二尺、三尺に至る」最大で九十一センチメートルとなると、成魚で標準八〇センチメートルから一メートルのアラとなる。クエではより大きく一メートル二〇センチ、マハタとなるともっと大きくて一メートル八〇センチに達する。

⑤「口、ひろく、頭〔(かしら)〕、大なり」これは一目瞭然で マハタ > クエ > アラ の順だろう。

⑥「味、よくして、鯛に似たり」私は総て刺身で食べたことがあるが、甲乙つけ難い。どれも鯛に似ている。

⑦「冬・春、多し」アラの旬は秋から冬、クエは冬から初夏、マハタは晩秋から晩春であるから、ここはクエの分がいい

以上、獲得ポイントが一番多いのは、①③④でアラ、次いで②⑦でクエとなる。但し、②のクエの斑模様という内容は質的には無視出来ず、一方、①③の体型類似でのアラの優位が同じく無視出来ない。されば、私は

第一同定比定候補 アラ

第二同定比定候補 クエ

(補欠)マハタ

とせざるを得ない。疑義があれば、何時でもお受けしよう。

「病人、之れを食ふ〔に〕妨〔(さまた)げ〕無し」病人食として全く問題がない。

「若水」稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)は貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)と同時代人の医学者・本草学者にして儒学者。名は宣義、若水は号。ウィキの「稲生若水」によれば、『父は淀藩』(山城国久世郡(現在の京都府京都市伏見区淀本町)にあった藩)『の御典医稲生恒軒、本名は稲生正治。江戸の淀藩の屋敷で若水は生まれた』。『医学を父から学んだ。その後、本草学を大坂の本草学者福山徳潤に学び、京都の儒学者伊藤仁斎から古義学派の儒学を学んだ』。『元禄のころになると、彼の学識は広く知られるところとなり、学問、教育に熱心であった加賀金沢藩主前田綱紀も彼の名声を知り』、元禄六(一六九三)年に『彼を儒者として召抱えられることとなった』。『その際、彼は姓を中国風の一字で稲と称した。前田綱紀に「物類考」の編纂を申し出て採用され、当時における本草学のバイブルであった「本草綱目」を補う博物書である「庶物類纂」の編纂の下命を得た。そのため、彼は隔年詰という一年おきに金沢で出仕する特別待遇を与えられた。彼はその知遇に応えるべく』、『京都で研究に努め、支那の典籍』百七十四『種に記載されている動植物関係の記述を広く収集し、統合や整理、分類を施し』、元禄一〇(一六九七)年に執筆を開始し、全三百六十二巻まで『書き上げて』、『京都の北大路の家で死去した』。享年六十一であった。『後に八代将軍徳川吉宗の下命で、若水の子、稲生新助や弟子の丹羽正伯らが』さらに六百三十八『巻を書き上げて、計』一千『巻にわたる大著が完成した。稲生若水は漢方、薬物などを中心とした本草学に、動植物全体を対象とする博物学への方向性を備えさせたといえる』とある。若水と益軒の交流は、井上忠氏の講演稿「貝原益軒とその学風」PDF)によれば、元禄元(一六八八)年益軒五十九歳の折りの上京の時に始まり、『甚だ親密で京都周辺の薬草採集や薬園見学に相携えてい っており』、『手紙による知識の交換が後まで続』き、『また益軒の『養生訓』の校正は若水の門人松岡恕庵が担当している』とある。

「敏魚」不詳。しかし直後に「以つて」、「厨〔(くりや)〕の人」は「下品と為〔(な)〕」す、と言っているところをみると、これは敏捷な魚(第一、デッカくなる「アラ」や「クエ」や「マハタ」の成魚の動きは海中では鈍重とも言うべき非常にゆっくりとしたものである)の謂いではなく、アシの早い魚、腐りやすい魚という意味であろうととる。だから「下品」なのである。因みに、現在は三種とも「超」が附く高級魚である。ただ、これが京都と加賀を行き来した若水の叙述だとすると(私は最後の部分から医師である彼の言ととった)、これは確実に本当の「アラ」を指す可能性が高いと言える。

「乾〔(ほし)〕たる」干物としたもの。

「血暈」産後に「血の道」(産褥 (さんじょく) 時・月経時・月経閉止期などの女性に現れる頭痛・眩暈(めまい)・寒け・発汗などの諸症状を指す)で眩暈がしたり、体が震顫(しんせん:ふるえること)したりする症状。「血振(ちぶるい)」とも呼ぶ。

「和流」本邦の。

「外醫」外科医。以上出産や婦人生殖器疾患や乳癌の治療を行う婦人科は外科の領域であった。]

大和本草卷之十三 魚之下 シイラ

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前を受けて『同』。]

シイラ 又名クマビキ筑紫ニテ猫ツラト云味不美尤下

品ナリ長二三尺性亦不佳

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

しいら 又〔の〕名「くまびき」。筑紫にて「猫づら」と云ふ。味、美〔(よ)〕からず。尤も下品なり。長さ二、三尺。性も亦、佳〔(よ)〕からず。

[やぶちゃん注:スズキ亜目シイラ科シイラ属シイラ Coryphaena hippurusウィキの「シイラ」を引く。『成魚は最大で体長2m・体重40kg近くに達する。体は強く側扁して体高が高く、体表は小さな円鱗に覆われる。また、オスの額は成長に従って隆起する。背鰭は一つで』、5565の『軟条からなり、頭部から尾の直前まで背面のほとんどに及ぶ。臀鰭は』2531軟条を有する。『体色は「背面が青・体側が緑-金色で小黒点が点在する」ものが知られるが、これは釣りなどで水揚げされた直後のもので、死後は色彩が失せ』、『全体的に黒ずんだ体色に変化する。また、遊泳中は全体的に青みがかった銀色である』。『全世界の熱帯・温帯海域に広く分布し、温帯域では季節に応じて回遊を行う。日本近海でも暖流の影響が強い海域で見られ、夏から秋にかけては暖流に乗って北海道まで北上するものもいる』。『主に外洋の表層』(深度510メートル)『に生息し、群れを作って俊敏に泳ぐ』。『流木などの漂流物の陰に好んで集まる性質があり、幼魚も流れ藻によく集まる。音を恐れず、却って音源に集まる』。『食性は肉食性で、主にイワシやトビウオなどの小魚を追って捕食する他、甲殻類やイカなども食べる。水面近くの餌を追って海上にジャンプすることもある』。『全長3555cm、生後45か月で性成熟する。寿命は4年程度』。異名が多く、『シラ(秋田・富山)、マンビキ・マビキ(宮城・九州西部)、シビトクライ(千葉)、トウヤク(高知西部・神奈川・静岡)、トウヒャク(十百、和歌山・高知)、マンサク(万作、中国地方中西部)、クマビキ(高知)、ネコヅラ(猫面、九州)、マンビカー・フーヌイユ(沖縄)』『など、日本各地に地方名がある』。『「シイラ」の名が初めて文献に現れるのは室町時代の辞書』「温故知新書」(文明一六(一四八四)年成立)に『おいてであり、その後』、「節用集」や「日葡辞書」などに『収録されている』。『また、おそらくシイラの塩乾物として都で献上品とされたものが「クマビキ」(くま引、熊引、九万疋と表記された)と呼称されているのも室町時代の文献に見える』。『「マンサク」は、実らず籾殻だけの稲穂のことを俗に「粃(しいな)」(地方によっては「しいら」)と呼ぶことから、縁起の良い「(豊年)万作」に言い換えたといわれる。「シビトクライ」「シビトバタ」などは、浮遊物に集まる習性から水死体にも集まると言われることに由来する。これらの地方ではシイラを「土佐衛門を食う」として忌み嫌うが、動物の遺骸が海中に浮遊していた場合、それをつつきに来ない魚の方がむしろ稀であることは留意する必要がある』。『中国語の標準名では「鯕鰍」(チーチォウ、qíqiū)と表記する。台湾ではその外観から「鬼頭刀」(台湾語 クイタウトー)と呼ば』れる。『英名 "Dolphin fish" はイルカのように泳ぐことから、"Dorado"(スペイン語で「黄金」の意)は釣り上げた時に金色に光ることに由来する。ハワイではマヒマヒ (mahi-mahi、強い強いの意) と呼ばれる』。『漂流物の陰に集まる性質に注目し、シイラを漁獲することに特化した「シイラ漬漁業」(単に「シイラ漬け」とも)と呼ばれる巻網漁の一種が行われる。また俊敏な大型肉食魚で、筋肉質で大変引きが強いことから、外洋での釣りや引き縄(トローリング)の対象として人気が高い。ゴミや流木、鳥山(海鳥が小魚を捕りに集まった状態)などは、シイラがいるポイントである。その他、延縄や定置網などでも漁獲される』とある。驚くべき探索である萩原義雄氏の論文『魚名「しいら【鱪】」攷』(『駒澤日本文化』(二〇一一年十二月発行)所収・PDF)を是非、読まれたい(リンクが何故か機能しないので同標題で検索をお願いする)が、それによれば、「日本大百科事典」(ママ。不詳。この書名の事典は見当たらない。平凡社のそれが近いが、それには頭に「大」が附く)に、『「皮膚が堅く、よく側扁(そくへん)して薄身であることが粃(しいな)実らない籾(もみ)に似ていることから、シイラの名が生まれたという」と見えているのがこの魚名の語源である。この説を有力とするというのが現況となっている』とあり、また、享保一六(一七三一)年刊の「日東魚譜」(神田玄泉著)の「卷四」には、「九萬疋魚」(クマヒキ)で掲げ、そこで『此の魚海中に群れを爲し、引く皃幾萬か知らず、故に京師之を以て名付く』とあるのが「くまびき」の語源説を示し、その後で、大槻文彦編「言海」が、「しいら」と「くまびき」を別に見出しとして挙げており、「クマビキ」は「九万疋」とし、『善く群を成せば名づくと云、或云、胎生にて、多子なればいふと』した上で、『魚の名、しいらに同じ、多くは婚禮、又は雛遊に用ゐて、安産、多子を祝す』と記す。最後の民俗社会での意味合いは、これまた、腑に落ちるものである。「猫づら」は魚顔から直ちに「なるほど」と思わせる異名である。]

大和本草卷之十三 魚之下 滑魚(なめり) (鯨類のスナメリ)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前を受けて『同』。]

滑魚 一名波ノ魚形マルク乄海鰌ニ似タリ黑色ナリ

鰌ノ形ニモ似タリ長五六尺或二間ハカリ海上ニ背

ヲサシ出スヲ鉄炮ニテウツ油多シ食スヘカラス漁人煎

シテ油ヲトル漢名未詳

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

滑魚(なめり) 一名「波の魚」。形、まるくして、海鰌〔(くじら)〕に似たり。黑色なり。鰌〔(どぢやう)〕の形にも似たり。長さ五、六尺或いは二間ばかり。海上に背をさし出すを、鉄炮にて、うつ。油、多し。食すべからず。漁人、煎〔(いりだ)〕して油をとる。漢名未だ詳らかならず。

[やぶちゃん注:突然、とんでもないものが飛び出してきた。小型のイルカである、

鯨偶蹄目ハクジラ亜目ネズミイルカ科スナメリ属スナメリNeophocaena phocaenoide

である(和名の漢字表記は「砂滑」)。日本を生息域の北限とし、淡水である中国の揚子江にも棲息する(後述するが、新種として認定された。但し、現存数は一千頭ほどで危機的状態にある)。スナメリには背鰭が殆どないのであるが、皮膚が盛り上がった隆起があり、この背部正中線に沿って、首の後方から肛門付近にまで存在する黒い粒状紋のある隆起(高さ二、三センチ)がスナメリ識別の最大のポイントとなり、益軒はそれを「海上に背をさし出す」と言っていると良心的にとることが出来ると言える(何故、わざわざそう言ったかと言えば、イルカ類と区別していない可能性もあるかも知れないという疑いを拭えないからではある)。口吻部はほとんど発達していない(「形、まるく」)。成個体は全身に灰褐色であるが、光の加減でかなり明るい灰色を呈して見える。しかし、生まれたばかりの子は黒褐色であるから、「黑色なり」という表現を指弾は出来ない。本邦に於いて過去にスナメリの食用や採油の事実も確認済である。但し、「三間」(三メートル六十四センチ弱)というのはいただけない。スナメリの体長は二メートル未満である(日本近海では最も小さい鯨類)。三メートルを超える「黑色」となると、既に出た、哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca を同定候補に入れる必要が出てくる。なお、スナメリは長らく一属一種とされてきたが、二〇一八年四月に南京師範大学のチーム本全ゲノム解析を行い、長江に棲息する淡水性スナメリが海のスナメリから独立した種であると発表したという記事を読んだ。長江露脊鼠海豚(チョウコウスナメリ)の新学名は Neophocaena asiaeorientalis asiaeorientalis である。

「波の魚」スナメリの異名は多い。石川創氏の論文「山口県におけるスナメリの地方名の研究」(『日本セトロジー研究』二十三号・二〇一三年刊。PDF。「Cetology」とは「鯨類学」の意)がよい。その冒頭で全国的な視野で述べた部分に出典明記されつつ(以下では省略したので、必ず原本を参照されたい)、『スナメリの別名としてナメノウオ、ナメウオ、ナメリ、スナメリクジラ、スナメリイルカ』があり、『伊勢湾でスザメ、瀬戸内海東部でナメあるいはナメノウオ、瀬戸内海西部でゼゴンあるいはゼゴンドウの名前』があるとし、『西九州ではナミノウオ・ナミウオ・ボウズウオ、瀬戸内海~響灘ではナメクジラ・ナメソ・デゴンドウ、伊勢湾、三河湾ではスンコザメ・スザメ、東京湾~仙台湾ではスナメリ』と出る。

「海鰌〔(くじら)〕」クジラ。

「鰌〔(どぢやう)〕」ドジョウ。くにゃくにゃしたしなかやか感じはそうとも言えますがねぇ……。

「漢名未だ詳らかならず」。中文ウィキの「江豚」を見ると、古くは「説文解字」に出る「䱡」を挙げ、清代の学者段玉裁がそれに注して、「現在の江豬、又の名を江豚」であると述べている。他に「䰽」=「𩶚」という字がスナメリを指しているらしいとして、以上の二種三字の漢字を最も古いスナメリを表わす漢字としている。但し、「䰽」「𩶚」は現行ではフグ類を指す漢字である(中国には世界で唯一淡水性フグが棲息する)。「本草綱目」では「江豚」を「海豚」の異名としてしまっているので同書にはスナメリは記載されていないと考えてよいか。]

大和本草卷之十三 魚之下 目バル (メバル・シロメバル・クロメバル・ウスメバル)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前を受けて『同』。]

目バル 目大ナル故名ツク黒赤二色アリ小ナルハ四五寸

大ナルハ一尺二三寸アリ食之有益人皮ニアフラアリ

皮ヲ去テ病人食之無傷春多ク冬少シメハルノ類數

品アリ形狀皆カハレリ○メハルノ子ヲ鳴子ト云醢ニス藝

州蒲刈ノ名產ナリ食スレハ口中ニテナル故名付ク○黒

キ大メハルアリ胎生ス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

目ばる 目、大なる故、名づく。黒・赤二色あり。小なるは四、五寸、大なるは一尺二、三寸あり。之れを食へば、人に益有り。皮にあぶらあり、皮を去りて、病人、之れを食へば、傷〔つく〕る無し。春多く、冬少し。「めばる」の類〔(るゐ)〕數品〔(すひん)〕あり、形狀、皆、かはれり。

○「めばる」の子(こ)を「鳴(なる)子」ト云ふ。醢(ししびしほ)にす。藝州蒲刈〔(かまがり)〕の名產なり。食すれば、口〔の〕中にて、なる。故、名付く。

○黒き大〔(おほ)〕めばる、あり、胎生す。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属の

メバル(アカメバル)Sebastes inermis(俗称「赤」「金(きん)」。全体に黒味が強く、やや赤味がかる。沿岸・内湾性

或いは同属の近縁種である

シロメバル Sebastes cheni(俗称「青」「青地(あおじ)」。シロとは言っても体色は黒か灰色で、時に薄い横縞が出る。内湾の岩礁域を好む

クロメバルSebastes ventricosus(俗称「黒」。前二種と比べると印象的には外洋に面した岩礁部に多い

ウスメバル Sebastes thompsoni(俗称「沖メバル」。一般には通常の「めばる」は前の三種を指し、感覚的に沖合の深い場所で獲れるものを漠然と「オキメバル」とも呼んでいた。しかし本種は体側に明らかな不規則な褐色斑を有するので識別は容易である)

の前の三種又は四種総てである。益軒はあたかもクロメバルだけが卵胎生であるかのように記しているが、彼らは三種とも卵胎生である。ウィキの「メバル」によれば、『卵胎生で、冬に交尾したメスは体内で卵を受精・発生させ、交尾の1ヶ月後くらいに数千匹の稚魚を産む。稚魚は成長するまで海藻の間などに大群を作って生活する』とある。なお、カサゴ目 Scorpaeniformes とあるのでお判りと思うが、『強い毒こそ無いが、東北地方では毒魚として知られ、不用意に握ると刺された部位はわずかに腫れる。鰓蓋(さいがい、えらぶた)や背鰭(せびれ)の棘(とげ)が鋭いため、扱う際は手袋やタオルなどの使用が薦められる。なお、瀬戸内海や東京湾では一般に棘に毒は無いとされている』とあることも言い添えておく。

『「めばる」の子(こ)を「鳴(なる)子」と云ふ』既に述べた通り、卵胎生なので、Q&Aサイトの回答によれば、卵も腹中で成熟するにつれて、黄色→オレンジ→茶→グレーと変化するという。唐揚げや煮つけが美味いらしい(私は食べたことがない)。

「醢(ししびしほ)」塩辛。しかし、現在、これは作られている形跡がない。

「藝州蒲刈」現在の広島県呉市上蒲刈(かまがり)島及び下蒲刈島及び周辺の小島を含む一帯(グーグル・マップ・データ)。]

大和本草卷之十三 魚之下 藻魚(もうを) (多種混在)

 

【和品】[やぶちゃん注:底本は前を受けて『同』。]

藻魚 長七八寸其色淡紅ナリ緑色モマジレリ無毒

攝州ニテ藻魚ト云ハ西土ニテアコト云魚ナリ別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

藻魚(モウヲ) 長さ七、八寸、其の色、淡紅なり。緑色もまじれり。毒、無し。攝州にて「藻魚」と云ふは、西土(せいど)にて「あこ」と云ふ魚なり。別なり。

[やぶちゃん注:一般名詞の「藻魚」メバル(次項参照)・ハタ・ベラ(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜ベラ科 Labridae)・カサゴ(棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae〈或いはメバル科 Sebastidae〉メバル亜科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus 或いはその同属種)などの、沿海の海藻の生い茂るところに棲息する魚を指す。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」で「モウオ」の「方言・呼び名」での検索結果を見ると、以下の種の異名として示される。

スズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科ハタ族マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus(日本魚類学会編「日本産魚名大辞典」三省堂刊)。

マハタ属アオハタ Epinephelus awoara(同前)

マハタ属オオスジハタ Epinephelus latifasciatus(同前)

マハタ属ホウセキハタEpinephelus chlorostigma(同前)

タケノコメバル(三重県鳥羽市)

クジメ(富山県富山・山口県下関)

スズキ目スズキ亜目アジ科アイブリ属アイブリ Seriolina nigrofasciata(鹿児島県南さつま市笠沙)

スズキ目カジカ亜目アイナメ科アイナメ属アイナメ Hexagrammos otakii(山口県下関)

の異名に「モウオ」「モイオ」がある。

一方、次に西日本での方言名とする「あこ」をネット全体で調べてみると、

マハタ属キジハタ Epinephelus akaara

マハタ属ノミノクチ Epinephelus trimaculatus

スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae

関西方面で著名な「あこ料理」はキジハタを指す(刺身・洗い・塩焼・鍋物などで夏期に美味)から、まず、益軒の言う「あこ」はキジハタととってよいのではなかろうか。以上の種の多くはサイズが大きくて記載が違い過ぎるという御仁、これは沿岸域の「藻」の下にいる幼「魚」なのだと私は素直に思いますがね。因みに、稚魚・幼魚は成魚と色や模様が異なるので確かなことは言えないが、釣りサイトの小型の個体の色を縦覧する限りでは、益軒の「淡紅」というのは前者ではクジメ・アイナメ、後者なら全種が相当する(但し、色は前者にのみ有効な記載であるからこの検証自体は意味がない)。「淡緑」という特異点は恐らくアイブリだろうと思う。最初に示した広義の「藻魚」ならベラで孰れもクリアー出来るし、メバルもカサゴも赤く、シロメバルの稚魚はやや緑色に見える。]

今日――「心」で最後に記されるKの肉声――「結婚は何時ですか」――「何か御祝ひを上げたいが、私は金がないから上げる事が出來ません」――

要するに私は正直な路を步く積で、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。さうして其所に氣のついてゐるものは、今の所たゞ天と私の心だけだつたのです。然し立ち直つて、もう一步前へ踏み出さうとするには、今滑つた事を是非共周圍の人に知られなければならない窮境に陷つたのです。私は飽くまで滑つた事を隱したがりました。同時に、何うしても前へ出ずには居られなかつたのです。私は此間に挾まつてまた立ち竦(すく)みました。

 五六日經つた後、奥さんは突然私に向つて、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答へました。すると何故話さないのかと、奥さんが私を詰(なじ)るのです。私は此問の前に固くなりました。其時奥さんが私を驚ろかした言葉を、私は今でも忘れずに覺えてゐます。

 「道理で妾(わたし)が話したら變な顏をしてゐましたよ。貴方もよくないぢやありませんか。平生(へいぜい)あんなに親しくしてゐる間柄だのに、默つて知らん顏をしてゐるのは」

 私はKが其時何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にも云はないと答へました。然し私は進んでもつと細かい事を尋ねずにはゐられませんでした。奥さんは固より何も隱す譯がありません。大した話もないがと云ひながら、一々Kの樣子を語つて聞かせて吳れました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月2日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百一回より)

   *

○茶の間。
K  「そうですか。」
奥さん「あなたも喜んで下さい。」

 K、奥さんの顏を見、少年のような笑顔を浮かべながら、

K  「おめでとう御座います。」

 K、席を立つ。廊下の障子を開ける前に、ふと奥さんの方を振り返って、やはり快活に。

K  「結婚は何時ですか。……何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事が出来ません。」

   *

このKの表情は本作中、最も輝いて見えるように撮らねばならない。しかも一抹の翳りをも加えずに――である。

 

2020/08/01

大和本草卷之十三 魚之下 イサキ

 

【和品】

イサキ 長一尺ハカリ其形メハルニ似テ長シ頭小ニ淡黒

色ナリ早ク敗レヤスシ下品ナリ新鮮ナルハ味可也無毒

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

いさき 長さ一尺ばかり。其の形、「めばる」に似て、長し。頭〔(かしら)〕小に〔て〕、淡黒色なり。早く敗〔(くさ)〕れやすし。下品なり。新鮮なるは、味、可なり。毒、無し。

[やぶちゃん注:条鰭綱スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum。如何にも下級品のように益軒は書いているが、本邦では食用や釣りの対象として人気が高い。ウィキの「イサキ」によれば、『成魚は全長45cmに達する。体型はやや前後に細長い紡錘形で側扁する。体表は細かい鱗が密集し、ザラザラしている。成魚の体色はオリーブがかった褐色だが、幼魚は体側の上半分に黄色の縦縞が3本ある。成長するにつれこの縦縞は薄れるが、成魚でも春夏には縦縞が出現する』。『東北地方以南の日本沿岸、黄海、東シナ海、南シナ海に分布する。南西諸島沿岸は分布しないとされるが』、『奄美大島や沖縄本島にも生息するとした文献もある』。『海藻が多い岩礁域に生息し、群れをつくる。昼は水深50mほどまでの深みに潜むが、夜になると海面近くまで泳ぎ出す。食性は肉食性で、小魚・甲殻類・多毛類等の小動物を捕食する』。『産卵期は夏で』、直径0.8~0.9㎜『ほどの分離浮性卵を産卵する。1匹のメスの産卵数は体の大きさにもよるが、全長30cmで128万粒ほどとみられる。卵は海中を漂いながら1日ほどで孵化し、稚魚はプランクトンを捕食しながら成長する。稚魚は海岸の浅い所で群れを作って生活するが、成長するにつれ深みに移る。オスは生後2年で成熟し、4年目には全て成熟する』。『標準和名「イサキ」は磯に棲むことに因んだ「磯魚」(イソキ)、または幼魚の縞に因んだ「班魚」(イサキ)に由来すると云われ、これに「伊佐木」「伊佐幾」という漢字が当てられている。もう一つの漢字「鶏魚」は背鰭の棘条がニワトリの鶏冠に似るためという説があ』る。『他に日本での地方名として、オクセイゴ(東北地方)、イサギ(東京)、クロブタ(神奈川)、コシタメ(静岡)、エサキ(北陸』から『山陰)、ウズムシ(近畿)、カジヤコロシ(和歌山県南紀)、イセギ(高知)、イッサキ(九州)、ハンサコ(大分-宮崎)、ハタザコ、ショフ、ジンキ(宮崎)、ソフ(鹿児島県内之浦)、クチグロマツ(奄美大島)などがある』。『南紀での呼称「カジヤゴロシ」(鍛冶屋殺し)は、イサキの骨が非常に硬く、骨が喉に刺さって死んだ鍛冶屋がいたことからその名が付いたと云われる』。『九州での呼称「イッサキ」は「一先」という字を当てられることが多い』。『幼魚は黄色の縦縞模様がイノシシの子に似ていることから、各地でウリボウ、ウリンボウ、イノコなどと呼ばれる』。『大分では幼魚をウドゴと呼ぶ』。『釣りや定置網、刺し網などで漁獲される。旬は初夏で、この頃のイサキを麦わらイサキ、梅雨イサキとも呼ぶ』。『なお』、『「麦わらタイ」は同時期のマダイを指すが、イサキとは逆に不味い』。『身は白身で、マダイよりは柔らかくて脂肪が多い。刺身・焼き魚・煮魚・唐揚げなどいろいろな料理で食べられる』。『水揚げしたイサキは目が濁りやすいので、目の濁り具合は鮮度の判断基準にならない。近年』、『養殖技術の研究がなされ、市場にも養殖ものが流通している』とある。私は刺身より焼きの方が好きである。]

大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)

 

鱅 長七八寸細鱗ナリコレヲヤケハ油多ク其臭キコト

人尸ヲヤクカコトシ日本ニテ昔ハ此魚ヲツナシト云

昔或人ノ子繼母ノ讒ニアヘリ其父讒ヲ信シテ家僕

ニ命乄其子ヲ殺サシム家其罪ナキヲアハレミテツナシ

ヲヤキテ他所ヘ去ラシムヨリ乄此魚ノ名ヲコノシロト云

子ノ代ニヤケリユヘナリ又別ニ一說アリ本朝食鑑第八

二十張鯯ノ下ニ見エタリ小ナルヲコハダト云、日本紀齋明

天皇時鯯魚ト云臣アリコノシロトヨメリ○病人及服

藥人不可食有金瘡痔疾瘡瘍人及産後最宜禁

○本草綱目曰海上鱅魚其臭如尸海人食之ト

今案ニヤキテ其臭如尸ナルモノ別ニナシ鱅ハコノシロナ

ルヘシ又鰱ハ如鱅ト本草ニイヘリ鰱ハヨクコノシロニ似タル

モノナレハ鱅ヲコノシロトスル證トスヘシ閩書ニ鰶アリ是又

同○別ニ一種長キアリ西州ノ方言マヽカリト云形

狀コノシロト同

○やぶちゃんの書き下し文

鱅(このしろ) 長さ七、八寸、細鱗なり。これをやけば、油多く、其の臭きこと、人の尸〔(しかばね)〕をやくがごとし。日本にて昔は此の魚を「つなし」と云ふ。昔、或る人の子、繼母の讒〔(ざん)〕にあへり。其の父、讒を信じて、家僕に命じて其の子を殺さしむ。家〔僕〕、其の罪なきをあはれみて「つなし」をやきて他所〔(よそ)〕へ去らしむ。よりして此の魚の名を「このしろ」と云ふ。「子の代〔(しろ)〕」にやけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]なり。又、別に一說あり。「本朝食鑑」第八二十張(ちやう)「鯯〔(このしろ)〕」の下に見えたり。『小なるを「こはだ」と云、「日本紀」、齋明天皇の時、鯯魚と云ふ臣あり、「このしろ」とよめり』〔と〕。

○病人及び藥を服する人、食ふべからず。金瘡〔(かなそう)〕・痔疾・瘡瘍有る人及び産後、最も宜〔(よろ)〕しく禁ずべし。

○「本草綱目」に曰はく、『海上の鱅魚、其の臭きこと、尸のごとし。海人、之れを食ふ』と。今、案ずるに、やきて其の臭〔にほひ〕、尸のごとくなるもの、別になし。「鱅」は「このしろ」なるべし。又、『鰱(たなご)は鱅のごとし』と「本草」にいへり。鰱はよく「このしろ」に似たるものなれば、「鱅」を「このしろ」とする證とすべし。「閩書〔(びんしよ)〕」に「鰶」あり、是れ又、同じ。

○別に一種、長きあり。西州の方言〔に〕「まゝかり」と云ふ。形狀、「このしろ」と同じ。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus。一般に関東の寿司屋で新子(しんこ)・小鰭(こはだ)と呼ばれるが、本種も出世魚である(成魚・標準和名の命名について以上のような不吉なマイナス・イメージが付き纏うので、これを出世魚とは呼ばないという説も見かけたが、それは勝手な人間の感覚に過ぎず、現象としては正統な出世魚である)。関西を中心に総合的に見て整理すると、

ツナシ・ナロ・ジャコ(約4㎝~6㎝)=シンコ(寿司屋では新子は4㎝程度を五枚づけ(5尾で一かんとする)・10㎝程度を二枚づけとする)

コハダ(約710㎝)

ナカズミ(約1214㎝前後。関東での呼称と思われ、寿司屋ではこの大きさ程度迄が小鰭に用いられ、12㎝程度を丸づけ(一尾で一かん)、最大の14㎝は片身づけ(半身で一かん)とする)

コノシロ(約15㎝以上)

と変化する。但し、この魚の場合は、ご承知の通り、旬のシンコや、より若いコハダが好まれ、大きくなるに従って市場での値段が格段に安くなってしまうという不思議な海産物である。

「これをやけば、油多く、其の臭きこと、人の尸〔(しかばね)〕をやくがごとし」実は私は寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「このしろ つなし 鰶」の項の注で膨大な考証を行っている。「尸の臭い」伝承の元の一つと思われる原拠も示し、訳も添えてある。注全体が非常に長いものになってしまっているので、そちらを是非、参照されたい。言っておくと、この以下にも鼻を押さえたくなるような奇体な話は出鱈目である。奇伝の濫觴は、どうやら、秦の始皇帝の故事(死去を隠蔽して偽の詔勅を捏造する時間が必要だった宰相李斯や宦官趙高は、始皇帝の遺体の死臭を誤魔化すために大量の魚を積んだ車を龍車に伴走させたというあれである)らしい(無論、本種がそれに使われたのではない)。コノシロを焼くと臭いとはっきり書いてあるものが多いが、そもそも生物を焼く臭いは基本、臭さに変わりはない。また、コノシロは腥(なまぐさ)いとする記載もよく見受けるのだが、それは鮮度の違いよるものであり、まあ、コノシロは鮮度が落ちるが早いと言えば早いから、そのお兄さんになったものを焼けば、それは当然、臭くなるといだけのことである。因みにウィキの「コノシロ」の「コノシロの由来」によれば、教訓書「慈元抄」(作者不詳・永政七(一五一九)年成立)では、『コノシロの名称は戦国期』頃、『「ツナシ」に代わり広まったという。大量に獲れたために下魚扱いされ、「飯の代わりにする魚」の意から「飯代魚(このしろ)」と呼ばれたと伝わる』。また、同書や「物類称呼」(俳諧師越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された江戸後期の方言辞典。安永四(一七七五)年)刊)には、『出産児の健康を祈って』、この魚を『地中に埋める風習から「児(こ)の代(しろ)」と云うとある。当て字でコノシロを幼子の代役の意味で「児の代」、娘の代役の意味で「娘の代」と書くことがある』。『コノシロは出産時などに子供の健康を祈って、地中に埋める習慣があった』。また、「塵塚談」(ちりづかばなし:小石川療養所の内科医小川顕道(あきみち)の随筆。文化一一(一八一四)年完成。作者は翌年没した。私の愛読書の一つである)には、『「武士は決して食せざりしものなり、コノシロは『この城』を食うというひびきを忌(いみ)てなり」とあり、また料理する際に腹側から切り開くため、「腹切魚」と呼ばれ、武家には忌み嫌われた』。『そのため、江戸時代には幕府によって武士がコノシロを食べることは禁止されていたが、酢締めにして寿司にすると旨いため、庶民はコハダと称して食した』。『その一方で、日本の正月には膳(おせち)に「コハダの粟漬け」が残っており、縁起の良い魚としても扱われている』とある。但し、この「塵塚談」についての記述はちょっと不全で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「燕石十種第一」明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)の同書の当該部。左ページ上段後ろから三行目)を見て戴くと判る通り、以上は筆者が若い頃の話で、今も上流階級は食わないが、熟れずしにしたものを一般の武士も婦人も好んで食い、賞味すると書いてある。並置して河豚(ふぐ)のことも書かれているので是非、読まれたい。

「つなし」古名。「万葉集」巻第十七の大伴家持の一首に出る(四〇一一番)。

  放逸せる鷹を思ひて夢に見、
  感悅して作る歌一首

大君の 遠(とほ)の朝廷(みかど)ぞ み雪降る 越(こし)と名に負へる 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にしあれば 山高み 川雄大(とほしろ)し 野を廣み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 淸き瀨ごとに 篝(かがり)さし なづさひ上(のぼ)る[やぶちゃん注:水に漬かって苦労して鮎を獲るさまか。] 露霜の 秋に至れば 野も多(さは)に 鳥すだけりと 大夫(ますらを)の 友誘(いざな)ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾(やかたを)の 我(あ)が大黑(おほぐろ)[やぶちゃん注:家持の愛鷹の名。]に【大黒は蒼鷹の名なり。】 白塗の 鈴取り付けて 朝獵(あさがり)に 五百(いほ)つ鳥立て 夕獵(ゆふがり)に 千鳥踏み立て 追ふごとに ゆるすことなく[やぶちゃん注:「大黑」が獲物必殺なのである。] 手放(たばな)れも をちもかやすき[やぶちゃん注:腕から飛び立つのも、戻って来るのも自由自在。] これを除(お)きて またはあり難し さ並べる 鷹は無けむと 情(こころ)には 思ひ誇りて 笑(ゑま)ひつつ 渡る間(あひだ)に 狂(たぶ)れたる 醜(しこ)つ翁(おきな)の 言(こと)だにも われには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥獵(とがり)すと 名のみを告(の)りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ 二上(ふたがみ)の 山飛び越えて 雲隱(くもがく)り 翔(かけ)り去(い)にきと 歸り來て 咳(しはふ)れ告ぐれ 招(を)く由の そこに無ければ 言ふすべの たどきを知らに[やぶちゃん注:かくなってしまった上は呼び戻す方途もないので。] 心には 火さへ燃えつつ 思ひ戀ひ 息衝(いきつ)き[やぶちゃん注:溜息をつくこと。]あまり けだしくも[やぶちゃん注:もしかすると。] 逢ふことありやと あしひきの 彼面此面(をてもこのも)に 鳥網張(となみは)り 守部(もりべ)を据(す)ゑて ちはやぶる 神の社(やしろ)に 照る鏡 倭文(しつ)[やぶちゃん注:幣(ぬさ)。]に取り添(そ)へ 祈(こ)ひ禱(の)みて 吾(あ)が待つ時に 少女(をとめ)[やぶちゃん注:巫女。]らが 夢(いめ)に告ぐらく 汝(な)が戀ふる その秀(ほ)つ鷹は 松田江の 濱行き暮し 鯯(つなし)捕る 氷見の江(え)過ぎて 多祜(たこ)の島 飛び徘徊(たもとほ)り 葦鴨の すだく古江に 一昨日(をとつひ)も 昨日(きのふ)もありつ 近くあらば 今二日(ふつか)だみ[やぶちゃん注:ほど。] 遠くあらば[やぶちゃん注:遅くとも。] 七日(なぬか)のをち[やぶちゃん注:後。元は遠いことを指す語。]は 過ぎめやも 來(き)なむ我が背子(せこ)[やぶちゃん注:あなた。主人家持を指す親しみを持った二人称。] 懇(ねもころ)に[やぶちゃん注:ひどくそんなに。] な戀ひそよとそ いまに告げつる

   *

家持が越中守として赴任した翌年の天平一九(七四七)年中の歌である。出現する地名は孰れも私には親しんだ場所(私は中高時代の六年を高岡市伏木の二上山山麓で過ごした)であるので注を必要としない。判らぬ方は最近、カテゴリ「怪奇談集」で終わった「三州奇談續編」の「卷之七」以降を参照されたい。講談社文庫の中西進氏の注では『今も』コノシロのことを当地』氷見『ではツナシという』とあるが、私の知っている限りでは、当地の方言では「ケットバシ」の方が有名である。恐らくは本種が小骨が多く食べにくいせいで、「漁師さえ蹴っ飛ばしてしまう雑魚」の謂いであろう。

『「本朝食鑑」第八二十張(ちやう)「鯯〔(このしろ)〕」』「本朝食鑑」は医師人見必大(ひとみひつだい)が元禄五(一六九二)年に著した遺稿を子である人見元浩が岸和田藩主岡部侯の出版助成を受けて五年後の元禄一〇(一六九七)年に刊行した食物本草書。「張」は「帳」の誤字であろう。その「鱗之二」の「二十」の「鯯」はここ(国立国会図書館デジタルコレクション原本画像)。その「集解」に、

   *

集觧源順曰、似鰆而薄細鱗者也。大者五六寸、背蒼腹白而有光肉白多細鱗。炙可食而、煮不可食。或以鮮作鱠。小者江都曰小鰭。京師曰麻宇加利。字作鯯童。惟民間之食而賤士亦不足用獨以小鰭作鮓雖味稍可亦不足賞也。[やぶちゃん注:中略。]凡婦女忌之者多。是因有其尸氣乎。自古稱此魚名者尚矣。孝德帝時有䀋屋鯯魚者本紀訓鯯曰舉能之盧以魚名稱人者不獨鯯魚。[やぶちゃん注:以下、同様の例を引くが、略す。ただ、以降は寺島良安が「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「このしろ つなし 鰶」の項で同様の例を掲げており、それぞれ私が注しているので参考にされたい。]

○やぶちゃんの書き下し文(読みや送り仮名は一部で私が推定で附したので原本を必ず参照のこと)

集觧源順(みなもとのしたがふ)が曰はく、『鰆(さはら)に似て、薄く、細鱗なる者なり。大なる者は五、六寸、背、蒼く、腹、白くして、光、有り。肉、白くして細鱗[やぶちゃん注:ここは小骨のこと。]多し。炙りて食ふべくして、煮て食ふべからず。或いは鮮(あたらし)きを以つて鱠(なます)と作(な)す。小なる者を、江都[やぶちゃん注:江戸。]、「小鰭(こはだ)」と曰(い)ふ。京師、「麻宇加利(まうかり)」と曰ふ。字、「鯯童」に作る。惟だ民間の食にして、賤士も亦、用るに足らず。獨り小鰭を以つて鮓(すし)と作(な)す。味、稍(やや)可なりと雖も、亦、賞するにたらざるなり。[やぶちゃん注:中略。]凡婦女、之れを忌む者、多し。是れ、其の尸氣(しき/しかばねのかざ)有るに因れるか。古へより、此の魚の名を稱する者、尚(ひさ)し。孝德帝の時、有「䀋屋(しほや)の鯯魚」といふ者、有り。「本紀」[やぶちゃん注:「日本書紀」。]に「鯯」を訓じて「舉能之盧(このしろ)」と曰ふ。魚の名を以つて、人、稱する者の、獨り「鯯魚」のみならず。

   *

おかしい。益軒は『「日本紀」、齋明天皇の時、鯯魚と云ふ臣あり、「このしろ」とよめり』としている。「孝德」天皇は在位は六四五年~白雉五(六五四)年(元号を附さないのは元号がなかったから。以下も同じ)で、「齋明天皇」は元は皇極天皇(在位:六四二年~六四五年)で、彼女は重祚して斉明天皇(在位:六五五年~六六一年)で、孝徳天皇は斉明天皇の間に入る。「日本書紀」を見ると――これ、困ったことに、どちらも違う――のである。その記載は、もっと前の大化二(六四六)年三月辛巳(十九日)の「大化の改新」による一国司改革の条に『別塩屋鯯魚加【鯯魚。此云擧能之盧。】。』と出るのがそれなのである。

「金瘡」刀や包丁などの金属製の刃物による切り傷。

「瘡瘍」軽症から重いものまで広く皮膚に生じた腫瘍・潰瘍を指す。

「宜しく禁ずべし」当然のこととして最も禁忌食とせねばならない。

『「本草綱目」に曰はく、『海上の鱅魚、其の臭きこと、尸のごとし。海人、之れを食ふ』と』「鱗之三」に、

   *

鱅魚【音「庸」。「拾遺」。】

釋名 鱃魚【音「秋」。出「山海經」。】時珍曰、『此魚、中之下品。蓋魚之庸常以供饈食者、故曰「鱅」、曰「饈」。鄭玄作「溶魚」』。

集解 藏器曰、『陶注鮑魚云、「今以鱅魚長尺許者、完作「淡乾魚」、都無臭氣、其魚目旁有骨名乙。「禮記」云、「食魚去乙是矣。然劉元紹言、『海上鱅魚、其臭如尸、海人食之、當别一種也』。時珍曰、『處處江湖有之、狀如鰱而色黑。其頭最大、有至四、五十斤者。味亞于鰱。鰱之美在腹、鱅之美在頭。或以鰱。、鱅爲一物誤矣。首之大小、色之黑白、大不相侔。「山海經」云、「鱃魚似鯉、大首、食之已疣是也」』。

 氣味 甘、溫、無毒。藏器曰、『只可供食、別無功用』。

主治 暖胃益人【汪頴。】、食之已疣。多食、動風熱、發瘡疥【時珍】。

   *

この「本草綱目」の「鱅魚」の少なくとも執筆当人である時珍のその叙述は、どう見てもコノシロではない。淡水魚としており、第一、デカ過ぎる(「四、五十斤」は実に2530㎏である)。思うに、時珍の言う「鱅」は条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハクレン属コクレン Hypophthalmichthys nobilis 若しくは同科の似た淡水魚を指していると推定する。同様にここで時珍が用いている「鰱」も益軒の似ている魚として出す「鰱(たなご)」(スズキ亜目ウミタナゴ科ウミタナゴDitrema temmincki)ではなく、淡水魚のコイ科タナゴ亜科 Acheilognathinae に属するタナゴ類の孰れかであろうと思われる。但し、前の「礼記」のそれは本種である可能性は総体的には高いと言える。

『やきて其の臭〔にほひ〕、尸のごとくなるもの、別になし。「鱅」は「このしろ」なるべし』「『鰱(たなご)は鱅のごとし』と「本草」にいへり。鰱はよく「このしろ」に似たるものなれば、「鱅」を「このしろ」とする證とすべし」と、都合のいいところだけを切り取って一気に同定してしまう益軒はやはり本草学者として失格である。時珍の記載を無視して平気の平左。そんなことだから、蘭山からコテンパンにやられるんですよ。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

『別に一種、長きあり。西州の方言〔に〕「まゝかり」と云ふ」』「西州」は西日本のこと。確かに見た目が似ているが、「ままかり」は全くの別種(益軒の謂い方はそういう意味では正しい)である条鰭綱ニシン目ニシン亜目ニシン科ニシン亜科サッパ属サッパ Sardinella zunasi の別名である。困ったことに本邦では漢字で「鯯」とコノシロと同じ漢字を当てる。ウィキの「サッパ」によれば、『汽水域に生息する魚で、ママカリ(飯借)という別名でも知られ、ママカリ料理は岡山県の郷土料理として有名である』。『全長は』10~20cm『ほどで、体は木の葉のように左右に平たい。背中よりも腹が下に出ている。体色は背中側は青緑色、体側から腹側までは銀白色をしている。他のニシン目』(Clupeiformes)に属する他の『魚類に比べ』、『鱗が硬く発達していて』、捌く際に『落ちにくい。コノシロとは外見や生息域が似ているが、体の側面に黒い点線がないこと、背びれの最後の軟条が長く伸びないことなどで区別できる。また、ヒラ』(ニシン科ヒラ属 Ilisha elongata)『という魚』の幼魚にも『よく似ているが』ヒラは『成魚の全長が40cm以上で、より大型にな』り、それは大型のニシンのように見え、全く異なる』。『東北地方以南から黄海、東シナ海の沿岸域に分布し、内湾や河口の汽水域に群れを作って生息する。マイワシやニシンのような大規模な回遊は行わず、一生を通して生息域を大きく変えることはない。プランクトン食性で、プランクトンを水ごと吸いこみ、鰓耙(さいは)でプランクトンを濾しとって食べる。繁殖期は初夏で、直径2mmほどの浮遊卵を産卵する。冬はやや深場に移る』。『刺し網や投網などの沿岸漁業で漁獲される。また』、『晩夏から秋にかけて防波堤のさびき釣りの好対象である。釣りあげたサッパには、後頭部あたりの体表にフナムシ』を紡錘形にしたような小さな『虫が寄生していることがある。これは「ウオノエ科」』(Cymothoidae)『の甲殻類で、本種に好んで寄生する「サッパヤドリムシ」』(正確には甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚目ウオノエ亜目オノエ上科ウオノエ科ウオノギンカ属サッパノギンカAnilocra clupei。幼年向きの記述であるが、写真もある『東海大学博物館だより 海のはくぶつかん』(二〇一七年四月発行・第四十七号・PDFの青木聡史氏の「サッパに寄生するサッパノギンカ」が非常によい)『である。外見は不気味であるが、人間には無害である』。『「サッパ」の名前は淡白でさっぱりしている味に由来する。おもに瀬戸内海沿岸や有明海沿岸を中心とした西日本で食用にされる。小骨が多いが淡白な味で、塩焼きや唐揚げ、酢じめ、刺身などで食べられる。中でも酢じめは小骨も気にならず美味な惣菜や寿司ネタとなるのでよく知られた食べ方である。また』、三『枚におろし』、『皮を剥いだ刺身は身がしまっておりさっぱりとした味である。サッパの酢〆はかつては「光もの」として江戸前寿司でもネタにされたが、戦後になって使われなくなったという』。方言は『ママカリ(瀬戸内海沿岸地方)、ワチ(広島県・香川県)、ハラカタ(関西地方)、ハダラ(佐賀県)など』で、最も知られる『ママカリは「飯借り」と書き、「飯が進み、家で炊いた分を食べ切ってしまってもまだ足らず』、『隣の家から飯を借りてこなければならないほど旨い」』の意に『由来する呼称である。ハラカタは腹部の鱗が硬く発達していることに由来する。ママカリ料理(酢漬、ママカリ寿司など)は、岡山県の郷土料理となっている』とある。]

今日――「いびつな圓」を歩く先生――そうして――永久に復活しなかった〈「先生」の「自然」〉…………

私の步いた距離は此三區に跨がつて、いびつな圓を描いたとも云はれるでせうが、私は此長い散步の間殆どKの事を考へなかつたのです。今其時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見ても一向分りません。たゞ不思議に思ふ丈です。私の心がKを忘れ得る位(くらゐ)、一方(はう)に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたのですから。

Kに對する私の良心が復活したのは、私が宅の格子を開けて、玄關から坐敷へ通る時、卽ち例のごとく彼の室を拔けやうとした瞬間でした。彼は何時もの通り机に向つて書見をしてゐました。彼は何時もの通り書物から眼を放して、私を見ました。然し彼は何時もの通り今歸つたのかとは云ひませんでした。彼は「病氣はもう癒(い)いのか、醫者へでも行つたのか」と聞きました。私は其刹那に、彼の前に手を突いて、詑(あや)まりたくなつたのです。しかも私の受けた其時の衝動は決して弱いものではなかつたのです。もしKと私がたつた二人曠野(くわうや)の眞中(まんなか)にでも立つてゐたならば、私は屹度(きつと)良心の命令に從つて、其塲で彼に謝罪したらうと思ひます。然し奧には人がゐます。私の自然はすぐ其處で食ひ留められてしまつたのです。さうして悲しい事に永久に復活しなかつたのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月1日(土曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百回より)

……その通りです……先生……

……あなたの『自然はすぐ其處で食ひ留められてしま』い……

『さうして』……『悲しい事に』……

永久に復活しなかつた』のです…………

 

2020/07/31

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈草 四

 

       

 

 芭蕉が館を捐(す)てた翌年、浪化の名によって『有磯海』が上梓された。この書の刊行は芭蕉生前からの計画であったらしく、題号について芭蕉に相談したという話も伝えられている。芭蕉が「奥の細道」の帰途、北陸道にかかって詠んだ「早稲(わせ)の香や分入(わけいる)みぎは有そ海」の句に因(ちな)んだもので、巻頭にこの句を記し、浪化以下十二人の早稲の句を列べてあるが、特に初の五句だけは「早稲の香や」を上五字に置いたほど、芭蕉に対する思慕の情の強いものである。

 この書の序は丈艸が書いた。少、長いけれども、全文をここに引用する。

[やぶちゃん注:「館を捐(す)てた」貴人が死去することを言う。「館(かん)を捐つ」「館舎(かんしゃ)を捐つ」「捐館 (えんかん) 」。「戦国策」の「趙策」が原拠。

「早稲(わせ)の香や」正字で示す。

 早稻の香や分入(わけいる)道はありそ海

私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 61 越中国分 早稲の香や分け入る右は有磯海』を参照されたい。

 以下、原本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

はれの歌読むと思はゞ法輪に詣で所がら薄を詠(ながめ)よとおしへ、雪見の駒の手綱しづかにずして㶚橋[やぶちゃん注:「はけう」。]の辺にあそべと示しけん、よくも風雅のわり符を合(あはせ)て、向上の関を越過(こえすぎ)ける事よ。然(しかれ)どもつくづく思ふに是等はみな文吏官士の上にして、たまさかに市塵を離るゝ便(たより)なるベし。平生(へいぜい)身を風雲に吹ちらして心を大虚にとゞめん中には、限もなき江山に足ふみのばして行(ゆく)さき毎の風物をあはれみ、雪ちるやほやの薄としほれ果(はて)たる風情、いかでか其(その)法輪㶚橋にのみかたよらんや。されば芭蕉菴の主、年久しく官袴[やぶちゃん注:「くわんこ」。]の身をもぬけて、しばしの苔の莚にも膝煖(あたたま)る暇なく所々に病床の暁を悲しみ、年々に衰老の歩(あゆみ)を費してまたとなく古びたる後姿には引かへて、句ごとのあたらしみは折々に人の唇を寒からしむ。一年(ひととせ)、越の幽蹤(ゆうしよう)に杖を引て、袂(たもと)を山路のわたくし雨にしぼり、海岸孤絶の風吟心を悩されしかど、聞入(ききいる)べき耳持たる木末も見えず、辰巳(たつみ)あがりの棹哥[やぶちゃん注:「たうか」。]のみ声々なれば、むなしく早稲の香の一句を留(とどめ)て過(すぎ)られ侍(はべり)しを、年を経て浪化風人の吟鬚(ぎんしゆ)を此(この)道に撚(ひね)られしより、あたりの浦山頭[やぶちゃん注:「かうべ」。]をもたげ翠(みどり)をうかべしかば、いつとなく此の句の風に移り浪に残りて、えもいはれぬ趣の浮(うかび)けるにぞ、ひたすら其(その)境のたゞならざりし事をおしみ感ぜられけるあまりに、穂を拾ひ葉をあつめて終[やぶちゃん注:「つひ」。]に此集の根ざしとはなりぬ。この比(ごろ)洛の去来をして、あらましを記せん事を蒙る[やぶちゃん注:「かうむる」。]。かゝる磯山陰をもたどり残す方なくして、かゝることの葉をこそ、あまねく世の中にも聞えわたらば、猶ありとし国のくまぐまにはいかなる章句をか伝られ侍るにやと思ひつゞくる果しもなく、ありそめぐりの杖のあとをしたはれけん筆のあとも、又なつかしきにひかれて序[やぶちゃん注:「じよす」。]。

            懶窩埜衲丈艸謾書

[やぶちゃん注:野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。

「しづかにずして」不詳。「修(ず)して」があるが、これでは「修行して」の意で、タズ手綱を執っての意にはなるまい。上記リンク先では「しづかにして」である。これなら「靜かに」爲(し)「て」の意として不足はない。

「㶚橋」は現在の河南省許昌市西にあったらしい(当該位置は現在は不詳)覇陵橋のことであろう。曹操の陣営に留め置かれていた関羽が、劉備の無事を知って、曹操のもとを離れる。別れを告げずに去る関羽を、曹操は敢えて追手を出さず、曹操から送られた袍を関羽が矛で受け取って去ったという二人の英雄の別れの橋とされる。

「雪ちるやほやの薄」これは「猿蓑」に載る芭蕉の句、

   信濃路を過るに

 雪散るや穗屋の薄の刈り殘し

を指す。「猿蓑」の稿が成ったのは元禄四(一六九二)年四月であるから、元禄三年以前となるが、芭蕉は冬の信濃へ行ったことはなく、貞亨五(一六八八)年の「更科紀行」の折りの記憶かとも思われるものの、それは秋であって合わない。されば、本句は仮想景と思われる。原拠は恐らく「撰集抄」の「信濃野ほやのすすきに雪ちりて」であろう。これは「巻七 第一四 越地山臥助男命事」(越地(こしぢ)の山臥(やまぶし)男の命を助ける事)の冒頭の一文である。

   *

おなじ比、越のかたへ修行し侍りしに、甲斐の白根には雪積つもり、淺間の嶽(たけ)には煙(けぶり)のみ心細く立ち昇るありさま、信濃のほやのすゝきに雪散りて、

   下葉はいろの野邊のおも、おもひまし行く
   まののわたりのまろき橋、つらゝむすばぬ
   たに川の水の、ながれすぎぬる果てを知ら
   する人もなき、

峻(さが)しき山ぢの峯のくつ木の繁きがもと、木曾のかけ橋ふみみれば、生きて此世の思出(おもひで)にし、死にて後の世のかこつけとせんとまで覺え侍りき。あづま路(ぢ)こそ、おもしろき所と聞き置きしもし思ひ侍(はべり)しに、物數(かず)にもあらざりけり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

私の引用は岩波文庫版(西尾光一校注一九七〇年刊)で底本が異なるが、「やたがらすナビ」のこちらで全文が読める。さらに実はこのフレーズの元はもっと遙かに遡るもので、「箕輪町誌(歴史編)」の電子化された中に「御射山祭」(後述)に触れた中に、『御射山の文献的初見は『袖中抄』(万葉集以後堀河百首ごろまでの歌集)の「信濃なる穂屋のすすきも風ふけばそよそよさこそいはまほしけれ」という詠み人知らずの歌で、平安期堀河天皇ころには東国の風がわりな祭りとして、都人の歌材になっていたという』というのである。「穗屋」は薄の穂で作った神の仮の御座所で、信州諏訪地方で毎年、諏訪大神が御射山(みさやま)に神幸されるに当たって、この「御狩屋」と呼ばれる穂屋を作る風習があり、秋の収穫の予祝行事として「御射山祭」として古くから名高いものであった。嘗ては祭りのために沢山の穂屋が建ち並び、一時、閑寂な山に村里ができたように賑わったとされる(御射山を名乗る神社は諏訪周辺に多数ある)が、現在は長野県諏訪郡富士見町の御射山神社(グーグル・マップ・データ)境内の膳部屋(ぜんぶや:神饌を準備する棟)のみが薄で覆われる唯一の穂屋となっていると、サイト「諏訪大社と諏訪神社」の「御射山社」にはある(サイト・ページの名称は「御射山社」であるが、地図上では「御射山神社」となっているものの、そのサイド・パネルの写真を見るに、解説板は「御射山社」となっていて、境内の写真も一致するから、ここに間違いない)。

「幽蹤」世間から離れてひっそりしている人の踏み分けた跡もかすかな地。

「山路のわたくし雨」ある限られた地域だけに降るにわか雨。特に下は晴れているのに山の上だけに降る雨を指す。

「辰巳(たつみ)あがり」声が高く大きいこと、或いは、言葉や動作が荒々しいこと。ここは後者であろう。語源は未詳のようで、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。

「棹哥」水子(かこ)が棹をさしながらうたう唄。舟唄。

「吟鬚」詩歌を吟ずることを鬚を向けること喩えた。中国で古くから、風変わりな鬚を詩人は生やしているとされた転語のようである。

「根ざし」濫觴。

「蒙る」その役目を与えられてしまった。

「ありとし国」「有りと有る」の協調形「有りとし有る國」の約縮。ありとあらゆる総ての国々。

「懶窩埜衲」「らんくわ(らんか)」丈草の別号。

「埜衲」「やどふ(やどう)」(底本は「やどう」)或いは「やのふ(やのう)」。「衲」は「衲衣(のうえ)」(出家修行者が着用する衣服のこと。「衲」は「繕う・継ぎ接ぐ」の意であり、人々の捨てた襤褸布を拾って洗って縫合せして着用したことに基づく。別に「糞掃衣 (ふんぞうえ)」 などとも称した)で、「田舎の僧・野僧」或いは一人称人代名詞で僧が自分を遜って言ふ語。ここは後者。

「謾書」「まんしよ」。妄(みだ)りに誤魔化して書いたものの意。]

 

 この序全体が芭蕉に対する思慕の情を以て埋められているのはいうまでもない。丈艸の観た芭蕉なるものを端的に示せとならば、第一にこの序を挙ぐべきであろう。が、この文章は芭蕉の風格を伝うると共に、丈艸その人の風雅観をも示している。二度まで法輪㶚橋を引合に出して、たまさかに市塵を離るる文吏官士に一拶を与えたのは、丈艸自身の体得した風雅の上から、期せずして生れた声でなければならぬ。

 芭蕉が「早稲の香」の一句を得た元禄二年には、丈艸もまだ俳壇の表面に姿を現していなかった。浪化は勿論のことである。『有磯海』一巻は単に芭蕉行脚の杖の跡を慕うだけではない、芭蕉その人を慕い、芭蕉によって遺された道を慕うのである。『有磯海』が元禄期の撰集中にあって、嶄然(ざんぜん)頭角を現しているのは偶然でない。今集中の丈艸の句を左に抄出する。

[やぶちゃん注:「嶄然頭角を現」すで、「他より一際抜きん出て才能や力量を現わす」の意。]

 

 わせのかややとひ出るゝ庵の舟   丈艸

[やぶちゃん注:「やとひ出るゝ」は「傭ひいでるる」で、座五は「いほのふね」。早稲を刈る頃ともなって、我が庵の舟遊びの小舟までが借り出されて行くという、秋の琵琶湖畔のフレーミングである。]

 

 聖霊も出てかりのよの旅ねかな   丈艸

[やぶちゃん注:「聖霊」は「しやうりやう」で、「出て」は「でて」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の評釈によれば、『旅中に魂祭りを迎えての吟である。今宵は聖霊たちも一時(いっとき)この世にお帰りになる――その聖霊たちと一緒に、自分も旅中の仮り枕をすることだ、といったところであろう。このとき心喪に服していた丈草の夢枕には、生前から「世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉」(『虚栗』)と詠み、この世を仮りの世と観じていた芭蕉の姿があったのであろう』とある。私はこの宗祇の「世にもふるさらに時雨のやどりかな」にただその名を裁ち入れただけのこの芭蕉の句に非常に惹かれている。自分の生を宗祇という宇宙の中の僅かな点の時空間へと転じたそれは並大抵の詩人には出来ぬ絶対の仕儀だからに他ならない。]

 

 木啄の入まはりけりやぶの松    同

[やぶちゃん注:上五は「きつつきの」、中七は「いりまはりけり」。]

 

 啼はれて目ざしもうとし鹿のなり  同

[やぶちゃん注:上五は「なきはれて」で「鳴き腫れて」、「目ざし」は「めざし」で眼差(まなざ)し。妻恋に疲れた牡鹿(おじか)のそれをアップにするその手法は見事。]

 

 野山にもつかで昼から月の客    同

[やぶちゃん注:今夜の月を野で見るか、それとも、いっそ山でするかと、昼から落ち着かぬ風狂人を諧謔したもの。丈草自身のカリカチャイズではない。]

 

 友ずれの舟にねつかぬよさむかな  同

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「友ずれ」なのだから「友連(づ)れ」ではなく、舟の「とも擦(ず)れ」である。堀切氏は前掲書で、『船中夜泊の吟である。琵琶湖沿岸の水郷あたりに舟旅をしたときのことであろうか。自分の乗る舟と隣に碇泊する舟とが友擦れをする度に、軽い衝動を感じて、なかなか寝つかれないのである。折しも、秋の夜寒のころで、旅のわびしさが一層つのってくるのであろう』とされ、語釈も「友ずれ」に『共擦。互いにすれ合うこと。ここは、二艘の舟が並んでつながれていて、波にゆられる度に相方の舷』(ふなばた)『がぶつかりこすれ合うこと』とある。]

 

 寒けれど穴にもなかずきりぎりす  同

[やぶちゃん注:「きりぎりす」はここでは現在の蟋蟀(コオロギ)である。]

 

 やねふきの海をねぢむく時雨かな  同

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、『初冬のころ、浜心に近い家の屋根に乗って男が屋根葺をしている。そこへ突然ぱらぱらと時雨が降りかかってきたので、屋根葺の男は、来たなというふうに、かがんだまま身体(からだ)を棙じって海の方をふり向いたという光景である。男の視野には一瞬、時雨雲の下で寒々と光る海が入ったはずであるが、すぐさま身体を元へ戻して屋根葺の仕事を続けているのである。おそらく「海」は琵琶湖であろう』と適確な評釈をなさって、さらに『『句集』に中七「海をふりむく」とするのは改案か。「ふりむく」の方が表現に落ち着きが生じるが、「ねじむく」にも俳意が感じられて捨て難いところがある』と言い添えておられる。私は断然、「ねぢむく」でなくてはならぬと思う。]

 

 雪空や片隅さびし牛のるす     同

[やぶちゃん注:カメラがゆっくりとカーブしながらティルト・ダウンして、牛小屋へと進んでくる。私好みのワン・カットである。三好達治の散文詩「村」のようじゃないか!]

 

 竹簀戸のあほちこぼつや梅の花   同

[やぶちゃん注:「竹簀戸」は「たけすど」で、竹を粗く編んで作った枝折戸(しおりど:折った木の枝や竹をそのままに使った簡単な開き戸。多くは庭の出入口などに設ける)のこと。「あほちこぼつ」は「煽(あほ)ち毀(こぼ)つ」で「煽って壊す」こと。まさに瞬時のそれを高速度撮影でしっかりとスカルプティング・イン・タイムしたものである。]

 

 背戸中はさえかへりけり田にしがら 同

[やぶちゃん注:上五は「せどなかは」。堀切氏は前掲書で、『家の裏口の土間のあたりには食べたあとの田螺の殼がころがっていて、春とは名ばかり、ぶり返した寒さがひとしお身にしみることだ、というのである。元禄八年春の吟である。師を失くしたばかりの丈草の目には、殺生をしたあとの残骸である田螺の殼がうつろに映るのであろう』とされる。語注で「さへかへり」は『「冴え返る」の意。春になって寒さが戻ること。春の季題』とある。後の「田螺」も春の季題である。最後に『丈草が、生きるために殺生をしなければならぬ人のさだめに悶々としていたことは、「里の男のはみちらしたる田にしがらを、水底にしづめ待居』(まちゐ)『たれば、腥(なまぐさき)をむさぼれるどぢやうの、いくらともなく入こもりて」と前書した』、

 入替(いりかは)るどぢやうも死ぬに田にしがら(『初蟬』)

『の句などからも察せられる』とある。なお、ここで描写されるタニシであるが、これは琵琶湖固有種(過去は流下する瀬田川にも棲息したとされる)である一属一種の腹足綱原始紐舌目タニシ科アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科ナガタニシ属ナガタニシ Heterogen longispira である可能性が高いように思われる。殻高は五センチメートルから最大で七センチメートルほどにもなり、本邦在来のタニシの中では最大級で、他種よりも殻皮が緑色がかったものが多い。螺管の上方に肩が生ずるため、螺塔部が有意に段々となるのを特徴とするが、時には肩が弱く、一見、ヒメタニシ(アフリカタニシ(アフリカヒメタニシ)亜科 Bellamya 属(或いは Sinotaia 属)ヒメタニシ Bellamya (Sinotaia) quadrata histrica:殻高約三・五センチメートル。北海道から九州に分布。中国からの外来種であるとする説もある。小型であるため、本邦では食用に適さないとされる)やオオタニシ(Bellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)オオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica:殻高約六・五センチメートル。北海道から九州に分布)に似た個体が出現することもある。胎児殻の形態が他の種と大きく異なっており、殻頂自体は尖るが、それに続く螺層には特徴的な螺状の畝(うね)が生じ、畝の上が平坦部になる。大型であるため、古くからオオタニシなどとともに琵琶湖産として食用にされ、昭和末期頃までは年間数トンの漁獲量があったという。しかしその後、個体数が減少し、他の二枚貝類を目的とした貝曳漁(かいびきりょう)で少量が混獲される程度となったと言われ、中でも水質悪化の激しい南湖では激減しているとされる。二〇〇〇年には準絶滅危惧(NT)種に指定されてしまった(一部の琵琶湖水系以外の場所で見られるものがあるが、これは移入個体群で、神奈川県・岐阜県・京都府などの記録があるものの、琵琶湖産魚介類の放流移植に伴って無意識的に人為移入されたものと推定されている)。本種は胎殻の類似などから、中国雲南省のコブタニシ属 Margarya に近縁であると言われている。属名は変わった形の胎殻を表わし、種小名は長く伸びたような螺塔に由来する。他に本邦産種にはBellamya 属(或いはマルタニシ属 Cipangopaludina)シナタニシ亜種マルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta:殻高約四・五~六センチメートル。北海道から沖縄に分布)がいる。他に「ジャンボタニシ」などという和名で呼んでしまった養殖用に持ち込まれて(昭和五六(一九八一)年)野生化した外来侵入種で、大型(最大八センチメートル)の原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata とラプラタリンゴガイ Pomacea insularum が西日本を中心に増えているが、彼らはタニシとは縁も所縁もない全くの別種である。(以上は主にウィキの「タニシ」に拠った)。]

 

 片尻は岩にかけけりはな筵     同

[やぶちゃん注:座五は「はなむしろ」。花茣蓙(はなござ)。いろいろな色に染めた藺 () で花模様などを織り出した茣蓙。無地に捺染 (なっせん) を施したものもある。はなむしろ。夏の季題。]

 

 ほとゝぎすたれに渡さん川むかへ  同

[やぶちゃん注:この句、ちょっと意味をとりかねている。識者の御教授を乞う。]

 

 涼しさのこゝろもとなしつたうるし 同

[やぶちゃん注:季題は「涼しさ」で夏。されば蔦漆(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ツタウルシ Toxicodendron orientale は青々しくぺらぺらしている(ツタウルシは晩秋にならないと紅葉しない)。その微風に微かに揺れるのを詠んだ。「こゝろもとなし」は前後の「涼しさ」と「つたうるし」に掛かるようになっているのである。]

 

 この外にもう一つ「朝霜や茶湯の後のくすり鍋」という芭蕉迫慕の句があるわけであるが、前に引いたからここには省略する。

 「わせのかや」の句は『丈艸発句集』には「雇ひ出さるゝ」となっている。「出さるゝ」か「出らるゝ」か、二つより読み方はなさそうであるが、多分前者であろう。

 「友ずれ」というのは「とも擦れ」ではないかと思う。『丈艸発句集』には「友づれの」とあり、「有朋堂文庫」には「一本「友つれて」とあり」[やぶちゃん注:総て鍵括弧はママ。]と註してある。これでは人間の友達を連れて舟に乗ったが、なかなか寝られぬという風に解される虞(おそれ)がある。ここは友達などが登場しては面白くない。『曠野』にある「友ずれの木賊(とくさ)すゞしや風の音」という山川の句の「友ずれ」と同じことで、近く舫(もや)った舟が浪か何かのために互に擦れ合う、そのために眠れぬというのではあるまいか。少くともそう解した方が、夜寒の情が身に逼(せま)るような気がする。

[やぶちゃん注:「山川」寺村山川(さんせん 生没年不詳)。伊勢津藩士で榎本其角の門人。]

 「やねふきの」の句は『丈艸発句集』に「海をふりむく」となっている。現在屋根を葺きつつある最中に時雨が来た。直ぐ晴れるかどうか、空模様を見るために手を休めて後を振向いたのであろう。この句にあっては「海」の一字が画竜点晴の妙を発揮している。この一字あるによって、海を背にした家の屋根に人が上って、屋根を葺いているという景色がはっきり浮んで来る。更に想像を逞(たくま)しゅうすれば、黒み渡った海上には、時雨雲の下に遠い帆影なども動いているかも知れぬ。海の方から時雨が来たために其方(そちら)を見たのか、時雨が海の方へ抜けるためにその行方を見たのか、その辺はいずれでも構わない。余念なく屋根を葺いている男が、時雨が来たことによって背後の海を顧みたという、そこに巧まざる躍動がある。「ふりむく」ではいささか軽過ぎる。やはり「ねぢむく」という強い言葉の方が適切のようである。

 『有磯海』所収の句は必ずしも従来の作品に比して、特に異色あるものとも思われぬ。目まぐるしく変化するのを才分の豊なものと解する批評家は、丈艸の作品を以て一所に停滞するものと見るかも知れない。丈艸の丈艸たる所以は、変化を求めざる世界において、自在な歩みを続ける点に存するのである。

 芭蕉生前と歿後とでは、蕉門作家の句にも多くの変化が認められる。純客観の本尊と称せられる凡兆でさえ『猿蓑』集中の句と、十年後の『荒小田』集中の句とでは、よほどの軒輊(けんち)を示しているのを見れば、その他は推して知るべきであろう。但丈艸の句にはそういう意味の変化の差を認めがたい。彼の句が軽々に時流を逐って[やぶちゃん注:「おって」。]変化せぬのは、それだけ深い根抵に立っているためではあるまいか。

[やぶちゃん注:「荒小田」(あらおだ)舎羅編。元禄一四(一七〇一)年刊。

「軒輊」「軒」は「車の前が高い」こと、「輊」は「車の前が低い」ことを意味し、そこから「上がり下がり・高低」、転じて「優劣・軽重・大小」などの差があることを言う。]

 

 『続有磯海』は『有磯海』より三年後に、同じく浪化の名によって刊行された撰集である。この集における丈艸の句はさのみ多くないが、依然悠々たる歩みを続けている。

 柊にさえかへりたる月夜かな    丈艸

[やぶちゃん注:「月夜」で秋であるが、ここではシソ目モクセイ科 Oleeae 連モクセイ属ヒイラギ 変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus が芳しい白い花を咲かせていると読むべきで、さすれば、季節は実際には初冬(現行では「柊の花」は初冬(「立冬」(十一月八日頃)から「大雪」の前日(十二月七日頃))の季語とする)を想定してよいように思う。花無しでは「さへかりたる」が生きてこない。因みに、私は季語を軽蔑しているので問題にする気も実はない。]

 

 胡床かく岩から下やふぢの花    同

[やぶちゃん注:初五は「あぐらかく」。藤の花を俯瞰するロケーションに新味がある。]

 

 あら壁や水で字を吹夕涼み     同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『「あら壁」は荒塗をしたままの』塗りたての『壁。夕涼みをしている子供が、口にふくんだ水を荒壁に吹きかけ、大きな字を書きつける。夕涼みの子供たちのいたずら』とある。それ叱らぬ丈草には後の一茶の優しさを感ずる。]

 

   嵯峨の辺に逍遥して

 猪追の寐入か藪の子規       同

[やぶちゃん注:「ししおひのねいるかやぶのほととぎす」。「猪追」は、農地の傍らに小屋や掛け物をして、そこで笛を吹いたり、板や撞木を打ち鳴らしたりして、通常は複数で交代したりして夜通し、田畑の見張りをする方法で、猪や鹿の害を避ける方法として、ごく近代まで行われていた。松尾氏の前掲書には、『猪を追いはらう役の猪追いも、どうやら寝てしまったよう』で、『竹藪から漏れてくるほととぎすの鳴く音』だけが、『静かな嵯峨野の夏の夜』に聴こえるばかりといった感じの評釈をされておられる。『嵯峨野は竹薮で知られる』ともある。因みに、ホトトギスは夜も鳴くことで古くから知られ、詩歌にも詠まれている。実際には深夜ではなく、宵の頃と、早暁の三時頃から日の出頃にかけてよく鳴く(私も暗い内に直上の裏山からの彼らの声のために起こされる)。特に飛びながら鳴くようである。]

 

 鹿小屋の火にさしむくや菴の窓   同

[やぶちゃん注:先に挙げた諸本では堀切氏も松尾氏も「鹿小屋」を「しかごや」と読んでおられるのだが、どうも私には従えない。これはこれで「ししごや」と読みたい。前の「猪追(ししおひ)」小屋と同じものであるが、山間では「鹿」で「しし」と読んで猪をも鹿をも指したし、前注で示した通り、セットで農作物や農地を荒らす害獣として一緒に認識されていたからである(私の『早川孝太郎「猪・鹿・狸」』(全電子化注完結)の各所を読まれたい)。堀切氏は『仏幻庵の秋の景であろう。近くの山畠にある鹿』『小屋の灯がぽつんと一つだけ見える――その灯に向かい合うように、わが草庵の窓があるというのである。夜ごとに見える鹿小屋の灯だけが、草庵に孤独が生活を送る丈草の心に、人なつかしさの情けを蘇らせるのであろう』とある。松尾氏の評釈もほぼ同じである。]

 

   田家

 茶の酔や菜たね咲ふす裏合せ    同

[やぶちゃん注:「田家」は「でんか」で田舎の家であるが、この「田」は広義の農耕地畠地に接した田舎家の謂いであろう。堀切氏前掲書によれば、「菜たね」は『菜種の花で、菜の花のこと』、座五は『裏と表とが互いに向き合っていること。背中合わせ。元来は二軒の家が互いにうしろ向きに建っていること』を指すが、『ここは裏手がすぐ菜畑になっているのを、このように見立てたものであろう』とされ、評釈では『仏幻庵での生活ぶりのしのばれる句である。庵の裏手の畑には一面に菜の花が咲きふしている』(比較的低い位置で花が咲き広がっていることを謂っていよう)『が、自分もそれを眺めながら、茶を存分に飲』み味わって、『ぼんやりと寝そべっていることだ、というのであろう。芭蕉の俳文「月見ノ賦」(『和漢文操』巻一)によれば、師翁から白楽天に擬せられた丈草であるので酒の酔とも無縁ではなかったろうが、あえて茶の酔に悠然としているさまをとらえて詠んだところがかもしろい』とある。松尾氏前掲書では、丈草は茶の湯にも造詣が深かった旨の記載がある。]

 

 屋のむねの麦や穂に出て夕日影   同

[やぶちゃん注:こうした巧まざるトリミングの妙にこそ丈草の句の秘訣があると私は思っている。]

 

 芭蕉のような偉大な指導者を失った後、俳壇が乱離に赴くのは当然の話である。門弟が各異を立てて自己の主張を誇揚するのもまた已むを得ない話かも知れぬ。けれどもこういう形勢に左右されて、自分の足許までしどろもどろになるのは、その人の識量の大ならざることを語るものである。要は芭蕉生前に体得した道の深浅如何にある。丈艸の足許に狂いを見せぬのは、必ずしも彼の境遇が世外に超然としていたためばかりではない。一たび芭蕉によって得た道を、惑わずに歩み続けるだけの確信を有したために外ならぬ。

 去来が卯七と共に『渡鳥集』を撰んだのは宝永元年、芭蕉歿後十年の歳月を閲(けみ)しているが、丈艸の句には何の狂いも生していない。

[やぶちゃん注:「宝永元年」一七〇四年。元禄十七年三月十三日(グレゴリオ暦一七〇四年四月十六日)に元禄から改元。]

 

 山鼻や渡りつきたる鳥の声     丈艸

[やぶちゃん注:「山鼻」は「やまはな」で山の端の意。この鳥は渡り鳥(秋の季題)であればこそ評釈はいらぬ。]

 

 送り火の山にのぼるや家の数    同

[やぶちゃん注:「のぼる」のは送り火の煙。]

 

 戸を明て月のならしや芝の上    同

[やぶちゃん注:「明て」は「あけて」。松尾氏の前掲書によれば、『庵の戸を開けて外に出てみると、明るい月光が柴を一面に照らし出している。「月のならし」は月の光が隈なく照らすさま。元禄十六年八月十四日、小望月の吟』と評釈しておられる。「小望月(こもちづき)」は望月の前夜の月。陰暦十四日の月を指す。グレゴリオ暦では一七〇二年九月二十四日である。]

 

 鍋本にかたぐ日影や村しぐれ    同

[やぶちゃん注:初五は「なべもと」で鍋を使っている竈か七輪の下(もと)。独り夕餉の支度である。「村しぐれ」は「叢時雨」で、一頻り激しく降っては止み、止んでは降る雨のこと。冬の季題。]

 

 水風呂に筧しかけて谷の柴     同

[やぶちゃん注:「水風呂」は先にも出たが、再掲しておくと、「すいふろ」で、茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「筧」は「かけひ(かけい)」で水を引くために渡した樋(とい)のこと。風呂を沸かすに谷川の水を引くために筧を引き掛け、また、谷を歩いて焚き付けにする柴を集める、まさに隠者の体(てい)である。]

 

 狐なく岡の昼間や雪ぐもり     同

[やぶちゃん注:松尾氏の前掲書に、『「雪ぐもり」はいまにも雪になりそうな、底冷えのする曇り空。冷え冷えする雪催』(ゆきもよ)『いの昼下り、岡辺に鳴く狐の』「こうこう」という『声も、いかにも寒々しく聞こえる。元禄十五年二月二十二日、仏幻庵に浪化、支考らが来訪した折の吟』とある。グレゴリオ暦では一七〇二年三月二十日である。]

 

 啄木鳥の枯木さがすや花の中    同

[やぶちゃん注:「きつつきやかれきをさがすはなのなか」。キツツキは秋の季題であるが、ここは「花」で春。咲き誇る桜を尻目に、枯れ木を探しては餌を突(つつ)き探す啄木鳥へと、大胆にずらして、しかもその飛び移る鳥影に美しい桜の花を背景としてぼかしつつも出すという、まさに俳諧的妙味の句と言えよう。掲句は松尾氏の前掲書によれば「渡鳥集」(去来・卯七編。丈草跋文(元禄一五(一七〇二)年十一月)で刊行は宝永元(一七〇四)年刊)の句形で、「菊の道」(紫白女(しはくじょ)編・元禄十三年刊)では、

 木つゝきや枯木尋(たずぬ)る花の中

であり、「東華集」(支考編・元禄十三年刊)・「丈草句集」では、

 木つゝの枯木をさがす花の中

とする。私は断然、「木つゝきや枯木尋る花の中」を推す。]

 

   草庵

 火を打ば軒に鳴合ふ雨蛙      同

[やぶちゃん注:「ひをうてばのきになきあふあまがへる」。松尾氏前掲書に「志津屋敷(しづやしき)」(箕十(きじゅう)編・元禄十五年刊)所収の句として酷似した、

 火を打てば軒に答(こたふ)る蛙(かはづ)かな

の句を挙げてあり、こちらの方が出来がよい。同句の松尾氏の評釈では(踊り字「〱」を正字化した)、『句意は嘯風(しょうふう)宛書簡の「かちかちと打てども、例のしめりほくち、小腹のたついきほひ、ひゞきに軒近く、雨蛙の、をのが友の声かと取りちがへたるにや、かならず鳴き出すおかしさ」に尽きる。「打てば響く」の諺を連想させリズム。元禄十四年』春『の作』とある。]

 

   木曾川の辺にて

 ながれ木や篝火の空の時鳥     同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書評釈に、『大水のために溢(あふ)れんばかりになった木曾川の川面を次から次へと』流木が落ち『流れてくる。堤には』『あかあかと篝火が焚かれ、物々しく警戒する人たちの姿が見える――そんなとき』、『時鳥が一声鳴き過ぎたというのである。凄絶な気配の漲った夜明け間近の情景である』と評され、「時鳥」について、『古来、鳴き声を賞美されてきた鳥であるが、その声は人の叫び声のようにも聞こえるもの』であるともされる。特異な緊張感や災害窮迫の恐怖を倍加させる効果を狙ったものともとれよう。また、堀切氏は本句を『元禄十三年夏の美濃路行脚の折の吟であろう』とされる。同年十二月五日附の丈草の書簡にもこの句が載っているとある。]

 

   元春法師が身まかりけるに

 世の中を投出したる団扇かな    同

[やぶちゃん注:「よのなかをなげいだしたるうちはかな」。

「元春法師」不詳。]

 

 「送り火」の句の如き、「鍋本に」の句の如き、あるいは「ながれ木や」の句の如き、調子の引緊った[やぶちゃん注:「ひきしまった」。]点からいっても、底に湛(たた)えた幽玄の趣からいっても、『有磯海』時代に比して更にその歩を進めているように思う。これらの句は年と共に澄む丈艸の心境の産物ではあるが、また句における不退転の努力を見るに足るものである。

 「啄木鳥」の句は『東華集』には「啄木鳥や枯木をさがす」とあり、『菊の道』には「枯木尋ぬる」とある。『東華集』『菊の道』は共に元禄十三年刊であるから、丈艸としては「啄木鳥の枯木さがすや」で落着(おちつ)いたのかも知れぬ。これは眼前の景色だけでなしに、何か寓するところがあるようである。

 元春法師追悼の句は丈艸の一面を窺うべきものであろう。団扇を投出す如く世の中を投出したというのは、尋常の追悼句ではない。如何にも禅坊主らしい気がする。

 

今日の先生――「奥さん、御孃さんを私に下さい」――「下さい、是非下さい」「私の妻(つま)として是非下さい」――「急に貰ひたいのだ」――『云ひ出したのは突然でも、考へたのは突然でない』

○茶の間。(基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

 長火鉢の前。箱膳の向うの先生。食事後。黙って敷島を吹かしている。やや落ち着かない。
 奥さん、口元に軽い笑みを浮かべながら長火鉢の向うでやや首を上げて先生の様子を黙って見ている。
 下女を呼ぶ奥さん。[やぶちゃん注:「□□」には下女の名が入る。]

奥さん「□□や。膳をお下げして。」

 奥さん、鉄瓶に水を注し、また火鉢の縁を拭いたりしている。
 先生、そそくさと二本目の敷島を懐から出し、銜える。
 火種を差し出す奥さん。
 火を貰う先生の手のアップ(向うにソフト・フォーカスの奥さん)。震える煙草(アップ)。
 妙にせっかちに何度もスパスパと吹かす先生。

先生 「……あの、奥さん……あ、今日は何か、これから特別な用でも、ありますか?」

奥さん「(穏やかな笑顔のままで。ゆっくりと)いゝえ。」

 かたまったような先生。灰を火箸で調える奥さん。間。

奥さん「(同じく)何故です?」

先生 「……実は……少しお話したいことが、あるのですが……」

奥さん「(同じく)何ですか?」

 奥さん、笑顔のまま先生の顔を見る。 先生、軽い咳払いをし、暫く、間。

先生 「……少し陽射しが出てきましたかね……」

奥さん「ええ、そうですね。」

先生 「……今年の冬は、そう寒くはないですね……」

奥さん「……ええ、まあ、そうですね。」

先生 「……あの、最近のKは、どう思われますか……」

奥さん「……は? 特にこれといって気にはなりませんが……」

先生 「……その、○○の奴が近頃、奥さんに何か、言いはしませんでしたか?」[やぶちゃん注:「○○」にはKの姓が入る。]

 奥さん、思いも寄らないという表情で。

奥さん「何を?……(間)……貴方には、何か仰やったんですか?」

 

○茶の間。(続き。基本的に先生と奥さんの畳表面に置いた低い位置からの俯瞰交互ショット)

先生 「あっ……いいえ……(間)……その、ここ数日、互いに忙しくて、ろくに話も出来なかったから、また例の調子で黙りこくっているのかと、ちょいと聞いてみただけのことです。別段、彼から何か頼まれたわけじゃありません……これからお話したいことは彼に関わる用件ではないのです。」

奥さん「(笑顔に戻って)左右ですか。」

 後を待っている。間。

先生 「(突然、性急な口調で)奥さん、御孃さんを私に下さい!」

 それほど驚ろいた様子ではないが、少し微苦笑して、暫く黙って唇を少し開いては閉じ、黙って先生の顔を見ている。やや間。

先生 「下さい! 是非下さい!……(間)……私の妻として是非下さい!」

奥さん「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか?」

先生 「急にもらいくたくなったのです!」

 奥さん、笑ひ出す。笑いながら、

奥さん「よく考えたのですか?」

先生 「もらいたいと言い出したのは突然ですけれど……いいえ! もらいたいと望んでいたのはずっと先(せん)からのことで……決して昨日今日の突然などでは――ありません!」

 茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

今の先生のナレーション「……それから未だ、二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れて仕舞いました。男のように判然した所のある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持よく話の出来る人でした。……」

 奥さんのバスト・ショット。

奥さん「よござんす、差し上げましょう。……差し上げるなんて威張った口のきける境遇ではありません。どうぞもらってやって下さい。御存じの通り、父親のない憐れな子です。」

 ここも、茶の間の対話の映像はままで、映像の会話は次のナレーションの間はオフ。

先生のナレーション「……話は簡単で、且つ明瞭に片付いてしまいました。最初から仕舞いまでに、恐らく十五分とは掛らなかつたでしょう。……奥さんは何の条件も持ち出さなかったのです。『親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だ』と言いました。『本人の意向さへたしかめるに及ばない』と明言しました。……そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥するぐらいに思われたものです。……」

先生 「ご親類は兎に角、ご当人にはあらかじめ話をして承諾を得るのが筋では、ありませんか?」

奥さん「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやる筈がありませんから。」

 見上げる満面の自信と笑みの奥さん(俯瞰のバスト・ショット)。

   *

(昨日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回の終りと、今日の『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月31日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十九回のシークエンスを繋げて、オリジナルにシナリオ化した)

   *

 自分の室へ歸つた私は、事のあまりに譯もなく進行したのを考へて、却つて變な氣持になりました。果して大丈夫なのだらうかといふ疑念さへ、どこからか頭の底に這ひ込んで來た位です。けれども大體の上に於て、私の未來の運命は、是(これ)で定められたのだといふ觀念が私の凡てを新たにしました。

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脫(と)つて「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。(本日分から。太字は私が附した)

   *

……先生……確かに……
あなたの未来の運命は……
これで定められたのでした……
……おぞましく孤独な運命として…………

   *

最終シークエンスに注意せよ! 「又」である。この「又」は勿論、あの先生にとって忘れられぬ屈辱のおぞましい記憶である「第(八十七)回」の雨上がりの道でKと御嬢さんとKに遭遇してしまった場所と――同じ場所――であるということを意味しているのである。そうして、こここそが、私が円環の中心であり、ゼロ座標であると目している地点でもあるのである。

 

2020/07/30

大和本草卷之十三 魚之下 鱸魚(スズキ)

 

鱸魚 大ナル者二三尺三月以後七月マテ肥ユ暑月

多ク乄味ヨシ八月ヨリヤスル夏秋サシミ鱠トシ鮓ト

ス夏月膓ノ味ヨシクモワタト云膓アリ脂多ク味ヨシ

病人忌之小ナルヲセイコト云松江ナルヘシ中華松江

ノ鱸ハ其大サ日本ノセイコノ如シト云中華ノ鱸ハ

小ナリ本草ニノスル處長僅ニ數寸トアリ○河鱸味尤

ヨシ暑月ノ佳品ナリ出雲ノ松江ノ湖ノ鱸味最スク

レタリ海ト河トノ間ニアルモ味ヨシ漁人釣之或戈ニテ

ツキテトル○鰷魚ヲセイコト訓ズルハ非ナリ鰷魚ハアユ

也セイコハ小鱸也

○やぶちゃんの書き下し文

鱸魚(すずき) 大なる者、二、三尺。三月以後、七月まで肥ゆ。暑月、多くして、味、よし。八月より、やする。夏・秋、さしみ・鱠〔(なます)〕とし、鮓〔(すし)〕とす。夏月、膓〔(わた)〕の味、よし。「くもわた」と云ふ膓あり、脂、多く、味、よし。病人、之を忌む。小なるを「せいご」と云ふ。「松江(せうがう)」なるべし。中華の松江の鱸は其の大いさ、日本の「せいご」のごとしと云ふ。中華の鱸は、小なり。「本草」にのする處、『長さ僅かに數寸』とあり。

○河鱸〔(かはすずき)は〕、味、尤もよし。暑月の佳品なり。出雲の松江(まつえ)の湖の鱸、味、最もすぐれたり。海と河との間にあるも、味、よし。漁人、之れを釣り、或いは戈(ほこ)にて、つきて、とる。

○鰷魚〔(はや)〕を「せいご」と訓ずるは非なり。鰷魚は「あゆ」なり。「せいご」は小〔さき〕鱸なり。

[やぶちゃん注:先行する「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」と甚だ重複する記載が多いが、煩を厭わず、注も再掲する。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus である。多くの海水魚が分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、スズキを海水魚と思っている方が多いが、彼らは海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている(海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いはやはりおかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる)ウィキの「スズキ」によれば、『冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られ』、『一部は体長』二センチメートル『ほどの仔稚魚期から』、『純淡水域まで遡上する』。『この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど』。『河川に遡上する傾向がある』。『仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して』、『潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する』。『若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば』、『純淡水域を利用する個体の割合は』三『割強に上る』。『仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長』し、『夏になると』、『河川に遡上した個体の一部が』、五センチメートル『ほどになり』、『海に下る』。ところが、特に春から秋にかけての水温の高い時期には、本種の浸透圧調整機能も高いことから、成魚期以降でもかなりの個体が河川の純淡水域の思いがけない上流域まで遡上する(益軒が「夏・秋」を食味の最上期と叙述するのと合致する)。堰の無かった昔は、琵琶湖まで遡上する個体もいたとされるのである。但し、種としてのスズキは、冬には沿岸及び湾口部・河口などの外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、また純淡水域のみでは繁殖は出来ない。則ち、少なくともライフ・サイクルの産卵・発生・出生期には絶対に海水・汽水域が必要なのである私自身、例えば、横浜市の戸塚駅直近の柏尾川(途中で境川に合流し、江の島の北手前で相模湾にそそぐ。河口からは実測で十四キロメートル以上はある)で四十センチメートルを優に超える大きな成魚の数十尾以上の群れが遡上するのを何度も目撃している。以下に以上の生態上の事実を真面目に判り易く述べても、スズキを純粋に海の魚に決まってると思っている人はなかなか信じて呉れず(こういう頑なな人は存外、多い。困るのは魚通を自認している人ほどその傾向が強いことである)、私の作った都市伝説だと思われる始末で、ほとほと困るのだが。なお、スズキは出世魚としても知られ、地方によってサイズと呼称が異なる。

セイゴ(コッパ)→フッコ→スズキ→オオタロウ(ニュウドウ)

セイゴ→ハネ→スズキ(関西)

セイゴ→マダカ →ナナイチ→スズキ(東海)

ハクラコ→ハクラ→ハネ→スズキ(佐賀)

などである。こうした異名の詳細は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「スズキ」のページの最後の「地方名・市場名」が詳しいので参照されたい。

「八月より、やする」「八月」は陰暦なので注意。新暦では八月下旬から十月上旬となる。「やする」は「瘦する」。痩せ始める。但し、この謂いには疑問がある。実際にスズキが痩せるのは産卵後の春であって、秋以降ではない。確かに、脂が乗る梅雨時から夏にかけてが旬とされるものの、秋から初冬にかけて、産卵のために海から遡上してくる♀は腹が太く(子持ちで脂もそのために乗っているのだから、当然)、寧ろ肥えて見える個体も多いからである。なお、「スズキは性転換を行い、スズキは、五十センチメートルまでがで、それ以上になるとに性転換する」と言う説が古くから信じられ、今もそう思っている釣り人や業者がいるが、これは都市伝説並みの誤りである。釣りサイト「fimo」の「スズキの性転換」で水産研究者による『スズキの雄雌の『標準体長』組成を調べたデータ』(しかも一九六〇年代の研究資料である)も掲げられて、否定されている。

「鮓〔(すし)〕」熟れ鮓。ちょっと今は食わないな。でも、美味そうだ(私は「鮒鮓」が大の好物である)。

「膓〔(わた)〕」『「くもわた」と云ふ膓あり』私の知るところでは、「くもわた」は鱈(タラ目タラ科タラ亜科マダラ属マダラ Gadus macrocephalus)の白子の異名である。調べてみると、スズキの白子は相当に(タラ以上という評価もある)美味いらしい。私は個人的にあまり白子自体が好きではない(妻は絶対禁忌食物である)から、タラとアンコウ以外のそれは食べたことはない。「鮟肝」は例外的に絶品。禁断のトラフグの肝も、とあるところで食べたことがあるが、鮟肝の方が遙かに美味である。

「松江(せうがう)」「中華の松江」現在の上海市松江区であろう。東の黄海から黄浦江が入り込み、その上流は広大な太湖へと繋がっている。藤井統之氏の論文「松江と鱸」(平成二四(二〇一二)年・PDF)が、当地と出雲の松江を語られ、「大和本草」の本記載も掲げて、考証されておられる。必見である。

『「本草」にのする處、『長さ僅かに數寸』とあり』「本草綱目」の「鱗之二」のそれは以下。

   *

鱸魚【宋・嘉定。】

釋名 四鰓魚。時珍曰、『黒色曰盧。此魚白質黒章、故名。淞人名四鰓魚。』。

集解 時珍曰、『鱸出吳中、淞江尤盛、四五月方出。長僅數寸、狀微似鱖而色白、有黑㸃、巨口細鱗、有四鰓。楊誠齋詩頗盡其狀、云、『鱸出鱸鄕蘆葉前 垂虹亭下不論錢 買來玉尺如何短 鑄出銀梭直是圓 白質黑章三四㸃 細鱗巨口一雙鮮 春風已有真風味 想得秋風更逈然』。「南郡記」云、『吳人獻淞江鱸鱠於隋煬帝。帝曰、「金虀玉鱠、東南佳味也」。』。

肉 氣味 甘、平、有小毒。宗奭曰、『雖有小毒、不甚發病。』。禹錫曰、『多食、發痃癖瘡腫、不可同乳酪食。』。李廷飛云、『肝不可食剝人面皮。』。詵曰、『中鱸魚毒者、蘆根汁解之。』。

主治 補五臟、益筋骨、和腸胃、治水氣、多食宜人、作鮓尤良。曝乾甚香美【「嘉定」。】。益肝腎【宗奭。】安胎補中。作鱠尤佳【孟詵。】。

   *

先の論文で藤井氏は、『現代版本草の『中薬大辞典(1986)』には、≪李時珍は鱸が松江の四鰓魚(杜父魚科松江鱸魚 Trachidermus fasciatus Heckel)だと見做しているが』、『その根拠とした“状は鱸魚にやや似て色白、黒点あり、巨口細鱗”等の特質は、まさに鮨科の鱸魚で、松江鱸魚ではない。≫とある。鮨はヒレか魚名のハタ。鮨科は Serranidae で、英和辞書ではスズキとあるが』、『専門用語としてはハタ科となる。杜父魚科はカジカ科。中国語Wikipedia『維基百科』には≪松江鱸 Trachidermus fasciatus(ヤマノカミ、山の神(両者とも原文)) ≫とある。松江鱸=山の神であるが、中国が鱸形(スズキ)目 Perciformes であるのに対して』、『日本ではカサゴ目 Scorpaeniformes。松江鱸は明人が混同し』、「本草綱目」は『今もこれだから、益軒が戸惑うのも無理はない。益軒は筑前生まれの福岡藩士である。絶滅危惧種とされる山の神が』、『今』、『唯一棲む有明海に筑後川が流れ込む。筑後川上流の別称上座川に、川鱸これありと自著『筑前国続風土記』に載る。別項に杜父魚はハゼに似るという記述もある。山の神も見たに違いないが、目に山の神=松江鱸の図式なく看過したようだ。松江命名者の見え方も益軒と同じであろう。ところでスズキ目の科レベルの多様化はジュラ紀と白亜紀との境界付近で起きたらしいから、鱸と松江鱸が分岐したのがその頃か、また』、『山の神がカサゴ目なら恐竜時代か』と驚くべき時間をドライヴされて論じておられ、面白い。

「河鱸〔(かはすずき)〕」「海鱸〔(うみすずき)〕と形狀同じ」当然です。同種ですから。益軒は同じ類の別種として見ていたようだが、上記のように現代人の多くが、「海の魚」と信じて疑わない事実に照らせば、遙かに益軒先生の方が「まとも」と言える。但し、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科 Percoidea に属する、広義の「スズキ」の仲間で、海産のメバルによく似ている(事実、姿は海水魚にしか見えない)、
スズキ上科ペルキクティス科 Percichthyidae オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari
がいるから、「河鱸」ってえのはそれじゃないの? と言われる御仁もあろうが、そういうツッコミをされる方に限って私の過去記事を読んでくれていない。残念ながら、益軒先生は「オヤニラミ」を、とうに、本巻の別項で既に記載し終えているのである。「大和本草卷之十三 魚之上 水くり(オヤニラミ)」を参照されたい。――と「大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)」と注したのだったが、前の藤井氏の引用からは、条鰭綱スズキ目カジカ科ヤマノカミ属ヤマノカミ Trachidermus fasciatus を正体の最有力候補とする(或いは加える)必要が出てきた。

「戈(ほこ)」突き銛や「やす」(簎・矠)の類い。

「鰷魚〔(はや)〕」『鰷魚は「あゆ」なり』この限定は誤り。「ハヤ」類「ハエ」「ハヨ」とも呼ぶ)で、これは概ね、
コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis
ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri
アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi
コイ科Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus
Oxygastrinae 亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii
Oxygastrinae 亜科カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii
の六種を指す総称と考えてよい。漢字では「鮠」「鯈」「芳養」と書き、要は日本産のコイ科 Cyprinidae の淡水魚の中で、中型のもので細長いスマートな体型を有する種群の、釣り用語や各地での方言呼称として用いられる総称名であって、「ハヤ」という種は存在しない。以上の六種の内、ウグイ・オイカワ・ヌマムツ・アブラハヤの四種の画像はウィキの「ハヤ」で見ることができる。タカハヤカワムツはそれぞれのウィキ(リンク先)で見られたい。但し、益軒は既に鰷魚は鮎(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis)だと何度もしつこく言っていて、処置なしである。]

今日――先生はKの「覚悟」を致命的に誤読し――掟破りの卑劣な先手に着手してしまう――

 「Kの果斷に富んだ性格は私によく知れてゐました。彼の此事件に就いてのみ優柔な譯も私にはちやんと呑み込めてゐたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の塲合をしつかり攫(つら)まへた積で得意だつたのです。所が「覺悟」といふ彼の言葉を、頭のなかで何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだん/\色を失なつて、仕舞にはぐら/\搖(うご)き始めるやうになりました。私は此塲合も或は彼にとつて例外でないのかも知れないと思ひ出したのです。凡ての疑惑、煩悶、懊惱(あうなう)、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかに疊み込んでゐるのではなからうかと疑ぐり始めたのです。さうした新らしい光で覺悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覺悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼(めつかち)でした。私はたゞKが御孃さんに對して進んで行くといふ意味に其言葉を解釋しました。果斷に富んだ彼の性格が、戀の方面に發揮されるのが卽ち彼の覺悟だらうと一圖に思ひ込んでしまつたのです。

 私は私にも最後の決斷が必要だといふ聲を心の耳で聞きました。私はすぐ其聲に應じて勇氣を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覺悟を極めました。私は默つて機會を覘(ねら)つてゐました

   *

 一週間の後(のち)私はとう/\堪へ切れなくなつて、假病を遣ひました。奥さんからも御孃さんからも、K自身からも、起きろといふ催促を受けた私は、生返事をした丈で、十時頃迄蒲團を被つて寐てゐました。私はKも御孃さんもゐなくなつて、家の内がひつそり靜まつた頃を見計つて寢床を出ました。私の顏を見た奥さんは、すぐ何處が惡いかと尋ねました。食物(たべもの)は枕元へ運んでやるから、もつと寐てゐたら可からうと忠告しても吳れました。身體(からだ)に異狀のない私は、とても寐る氣にはなれません。顏を洗つて何時もの通り茶の間で飯を食ひました。其時奥さんは長火鉢の向側から給仕をして吳れたのです。私は朝飯とも午飯とも片付かない茶椀を手に持つた儘、何んな風に問題を切り出したものだらうかと、そればかり屈託してゐたから、外觀からは實際氣分の好くない病人らしく見えただらうと思ひます。

   *

私は仕方なしに言葉の上で、好(い)い加減にうろつき廻つた末、Kが近頃何か云ひはしなかつたかと奥さんに聞いて見ました。奥さんは思ひも寄らないといふ風をして、「何を?」とまた反問して來ました。さうして私の答へる前に、「貴方には何か仰やつたんですか」と却て向で聞くのです。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月30日(木曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十八回より。太字傍線は私が附した)

なお、今日この日、7月30日は明治天皇の祥月命日に当たるのである――

 

2020/07/29

大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)

 

【外】

緋魚 其色如緋有一種紅魚金緋一種婦魚近緋

右ハ王氏彙苑ニ出タリ今筑紫ノ方言ニ馬ヌス人ト云

魚アリ形狀紅鬃魚ノコトク長五寸許鯛ノ類ニ非ス

其首ハメハルノコトシ口ト目ト大ナリ色ハ甚赤クシテ

朱ノコトシ是緋魚欤赤魚其形狀頗メハルノコトシ色

赤ク乄黃色マシレリ無毒病人食ツテ無害赤キ叓

馬ヌス人ニ及ハスアコノ類多シ色紅ナラサルアリ黃㸃多

キモアリ又長州ノ海ニカラカコト云魚アリアコヨリ小ニ乄

赤キコトアコヨリ甚シ順和名ニ䱩魚ヲカラカゴト訓

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

緋魚 『其の色、緋のごとし。一種、紅魚有り、金緋。一種、婦魚、緋に近し。』〔と。〕右は「王氏彙苑」に出たり。今、筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり。形狀、紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕のごとく、長さ五寸許り。鯛の類〔(るゐ)〕に非ず。其の首は「めばる」のごとし。口と目と大なり。色は甚だ赤くして朱のごとし。是れ、緋魚か。赤魚(あこ)。其の形狀、頗〔(すこぶ)る〕「めばる」のごとし。色、赤くして、黃色、まじれり。毒、無し。病人、食つて、害、無し。赤き事、「馬ぬす人」に及ばず。「あこ」の類、多し。色、紅ならざるあり。黃㸃多きものあり。又、長州の海に「からかご」と云ふ魚あり。「あこ」より小にして、赤きこと、「あこ」より甚し。順〔が〕「和名」に「䱩魚」を「からかご」と訓ず。

[やぶちゃん注:本種は以下の叙述を一つ一つ検証して行かないと同定は出来ない。しかも困ったことに後の方になっても、必ずしも本当の姿が見えてこない厄介な叙述なのである。そこで今回はまず、変則的に、最後にある、この項の中で、本邦で最も古い叙述記載(平安中期)である源順の「和名類聚抄」(承平年間(九三一年~九三八年)に勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した類書(百科事典)的要素を持った国語辞典)から攻めてゆくことにする。

『順が「和名」に「䱩魚」を「からかご」と訓ず』「和名類聚抄」の「卷第十九 鱗介部第三十 龍魚類第二百三十六」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年版本)に、

   *

䱩魚 崔禹錫食經云䱩【莫往反与罔同和名加良加古】似䱌魚而頰著鉤者也

(䱩魚(カラカコ) 崔禹錫が「食經(しよくけい)」に云はく、『䱩【「莫(ク)」・「往(ワ)」の反、「罔(マウ)」と同じ。和名「加良加古(からかこ)」。】は䱌魚(いしふし)に似て頰に鉤(かぎ)を著(つ)くる者なり。)

   *

とある。「䱌魚」はここの二つ前に(画像で原文は見えるから、推定訓読のみ示す)、

   *

䱌(イシフシ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『䱌【音「夷」。和名「伊師布之」。】は、性(しやう)、伏沈(ふくちん)し、石閒(せきかん)に在る者なり。

   *

まず、この似ているという「(イシフシ)」は「石伏」で「イシブシ」、則ち、日本固有種で北海道南部以南の日本各地に広く分布している(現在、絶滅危惧IB類(EN)指定を受けているから「していた」とすべきであろう)、

条鰭綱スズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

を有力な候補と考えてよい。「鰍」が最も知られる漢字表記で、「ゴリ」「ドンコ」の異名も広く行われており、基本、淡水系で多く認められ、捕獲も川であり、非常に古くから食用にされてきた、日本人には馴染みの種(群)である(古く朝廷が内陸にあったことを考えると、淡水魚であるという比定はまず一番に挙がってくる)。さて、カジカ種群(Cottus pollux complex)には、生活史や形態的・遺伝的特徴が有意に異なる集団が明確に存在し、主な区別群としては、現在、大卵型(河川陸封型)・中卵型(両側回遊型)・小卵型(両側回遊型・湖沼陸封型)が知られている(詳しくはウィキの「カジカ(魚)」を参照されたい)。そこである人はこう言うかも知れぬ。

『それなら、そのカジカ類の一部を「魚(カラカコ)」=「カラカゴ」と呼んでいたのだと解釈すればいい』と。

ところが、それで手打ちとなるかというと、そうは問屋が卸さないのだ。そもそもが本邦で食用とされた川や河口・潟で主に獲れる魚はカジカ以外にも、他に多くの、

ハゼ類(条鰭綱ハゼ目ハゼ亜目 Gobioidei

がおり、それらも生態や面相の類似から、やはり「いしぶし」と呼ばれていたと考えてよいからである。いや、さらに、同じように川底の石の下にいる状態で獲れる全然違う他の川魚だってまさに「石伏」魚に含まれるのである。近代以前の一般人にとっては生物学的分類による区別は、有毒生物がその中に含まれない限りは、必要性が、ほぼ、ないからである。

しかも、ここで戻って「和名類聚抄」の肝心な「䱩魚」の方をよく読まなくてはいけない。そこには魚に似て」いるけれども、「頰に鉤(かぎ)を著(つ)くる者」だと言っているのだ。これは中国の本草書「食經」の記載だからと言って無視は出来ない。源順がこう書くに際しては、それなりに腑に落ちた認識があるからであると考えねばならず、それが実際、後の本草学者によって少しも否定されなかった以上は、「からかご」は「いしぶし」似ているけれども、区別があって、頰=鰓附近に棘(或いは針)を持っていると言っているということである。しかし、一般的な淡水のカジカやハゼでそのような種はピンとこない(胸鰭部分が吸盤化している種や肥大した種はカジカやハゼにいくらもいるが、それを「鉤」と敢えて言っているのは、とりもなおさず、「痛い棘」としか私は読めない)。
しかし、川底辺りに棲息し、胸鰭辺りに危険な棘を持っている淡水魚はいるのだ!

条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis

ギバチ属アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus

ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps

孰れも日本固有種で、三種ともに背鰭・胸鰭の棘は鋭く、刺さると激しく痛む。前二者(嘗てはアリアゲギバチ(九州西部・長崎県壱岐にのみ分布)はギバチと同一とされていた)では生物学的・薬理的に単離されたわけではないが、古くから「毒を持っている」ともされる。

則ち、彼らも同定候補に含まれてくるということになるのである。

「私の風呂敷が広げ過ぎだ」という御仁のために示しておこう。非常によくお世話になるサイト「真名真魚字典」のこちらの、

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を見られたい。そこでは参考字体に「」も一緒に挙がっているのだ。頭は『○邦名』『(1)[罔]魚=カジカ(集覧「大日本水産会編・水産宝典」「水産俗字解」「水産名彙」)。カラカゴ(同「水産俗字解」「水産名彙」)』。『(1)カラカキ(カラカギ)。カラカコ(カラカゴ)。(2)チチカフリ。チチカムリ。チチンカムリ』と始まり、「和名類聚抄」その他の考証を経て、結論として、「・「」・「カラカゴ」・「イシブシ」とは、『おそらく棘ないし鉤をもつギギの仲間、あるいはハゼ・カジカの仲間を指して付けられた用例として多く集』まった対象を指すと考えるのが適切であるとされているのである。

 さて。ではこれで範疇を囲い込んだかと言うと――これがまた――ダメ――なのだ。

 何故か? 既にお読みになった時から感じておられるであろうが、益軒の叙述は、凡そ、

淡水産魚類の記載ではなく、海産魚類としか思われないから

なのである。

益軒は『「馬ぬす人」と云ふ魚』がいるが、それは「鯛の類〔(るゐ)〕に非ず」と言い、『其の首は「めばる」のごと』くだ、と孰れもタイとメバルと、海産魚類を比喩に用いているからである。無論、川魚を比喩形容するのに海産魚類を用いてはいけないという法はない。スズキ目ケツギョ科 Coreoperca 属オヤニラミ Coreoperca kawamebari のごとく、海の魚みたような川魚もいますからな。しかし、決定的なのは『長州の海に「からかご」と云ふ魚あり』と言ってしまっていることである。

 さてもまた、振り出しに戻ってしまうことになる。

 いや! 挫けまいぞ! またしても「ケツ」から行こうじゃないか!

『長州の海に「からかご」と云ふ魚あり。「あこ」より小にして、赤きこと、「あこ」より甚し』零から始める。「カラカゴ」の異名を持つ海産魚を探す。早速、釣り具サイトで引きがある。『週刊つりニュース』の「釣・楽(ちょうらく)」の「カサゴ カサゴ科」だ。『カサゴ科に属し、体長は三十五センチに達する。日本各地、朝鮮半島、台湾、中国の沿岸に分布し、岩礁や藻場にすむ。頭が大きく、眼・鼻・額・頚のそばに強い棘を持ち、ごつごつした感じを与える。体色は沿岸のもので黒褐色、沖合のものは暗赤色で、個体による差が大きい』として、以下、かなり詳しい地方名が並ぶが、そこに『山口県でホウゴウ・ウドホウゴウ・カラカゴ・カラコ・ゴウチ・山口・福岡・長崎県でアラカブ、福岡県でアルカブ・オオアルカブ・モアルカブ・ゴウゾウ、長崎県でゴウザ、熊本県でガラカブ・カラカブ』と出るのだ(なお、今一つ、『兵庫・岡山県でメバル、兵庫県・大阪府でアカメバル』と呼んでいることにも注意しておきたい)。この「カラカゴ」は無論のこと、一見、似ていない「アルカブ」が熊本で「ガラカブ」「カラカブ」となるのを知ると、これは「カラカゴ」系の血を引く呼称と強く感じられるのである。しかも、これらが、益軒が殆んどの時間を過ごした福岡に近いという点も頼り甲斐があるというもんなのだ。されば、ここに、俄然、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae〈或いはメバル科 Sebastidae〉メバル亜科カサゴ属カサゴ Sebastiscus marmoratus

或いはその仲間たちが、新しい候補者として名乗りを挙げてくるのである。カサゴは一般には、体色を暗い褐色とすることが多いが、ウィキの「カサゴ」によれば、『浅い所に棲むカサゴは岩や海藻の色に合わせた褐色をしているのに対し、深い所に棲むカサゴは鮮やかな赤色である。赤色光の吸収と残留青色光の拡散が起こる海中、すなわち青い海の中では、赤色系の体色は環境の青色光と相殺されて地味な灰色に見えるため、これは保護色として機能する。簡単に言うと、赤い光は海の深い所まで届かないので、赤い色をしたカサゴは敵や獲物から見つかりにくい。これは深海における適応の一つで、実際、深海生物には真っ赤な体色のものが多く見られる』とあって、本文の赤い魚体にしっかり合致するのである。別なミクシイの公開記事(私は先般やめてしまった)に「カサゴ」を下関で「カラカゴ」と呼んでいるとあった。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「カサゴ」のページの「地方名・市場名」の欄には『カラカブ』と『カラコ』がある。

 さて、では、その「カラカゴ」は「あこ」より小さいが、遙かに赤いと言っているところの、「あこ」は何だ? これはまんず、ピンとくるのがいる。深海魚の

フサカサゴ科 Scorpaenidae〈或いはメバル科 Sebastidae〉メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae

だ。彼はズバリ! 「アコ」と別称し、他に「アコウ」「メヌケ」「メヌキ」などとも呼ばれ(近縁種にオオサガ(顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属オオサガ Sebastes iracundus)・サンコウメヌケ(カサゴ亜目メバル科メバル属サンコウメヌケ Sebastes flammeus)・バラメヌケ(カサゴ亜目メバル科メバル属バラメヌケ Sebastes baramenuke)がいるが、これらも一括して「メヌケ」と呼ばれることが多い)、太平洋側では茨城県から高知県沖、日本海側では新潟県から山口県沖に分布し、特に相模湾や駿河湾の深所で多獲される。深海の岩礁地帯に棲息し、体色は鮮やかな赤色で、しばしば背中に大きな黒斑を持つのを特徴とする。全長六〇センチメートル以上になる。十二月から四月頃までの間は水深二〇〇から三〇〇メートルのやや浅いところに移動して産卵するとされているが、他の季節には水深六〇〇から七〇〇メートルの深所を住み家としている。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠ったが――さても――アコウダイは漢字ではどう表記するか? ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」のページを見よう!

阿侯鯛・赤魚鯛・緋魚・阿加魚

だ! やっと本文の頭からちゃんと落ち着いて読み始められる、正常に注が出来る!

「王氏彙苑」中国の古い類書(百科事典)と思われるものに「彙苑」があり、それを明代の文人政治家王世貞(一五二六年~一五九〇年)が註したものがあるが、それか。よく判らぬ。中文サイトでも電子化したものを見出せなかった。

「緋魚」実は私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」に「緋魚」がある。そこには以下のようにある。

   *

あかを    赤魚【俗】

緋魚     【俗云阿加乎又略阿古】

フイ イユイ

 

興化府志云緋魚其色如緋

△按緋魚狀畧似鯛而厚※〔→濶〕眼甚大而突出其大者二三尺細鱗鰭窄尾倶鮮紅如緋肉脆白味甘美關東多有各月最賞之攝播希有之以藻魚大者稱赤魚而代之

[やぶちゃん字注:※=「濶」の(つくり)が「闊」。]

赤鱒【俗云阿加末豆】 狀類緋魚又似鱒色深赤味亦不佳

   *

あかを    赤魚【俗。】

緋魚     【俗に阿加乎と云ふ。

フイ イユイ  又、略して阿古。】

 

「興化府志」に云ふ、『緋魚、其の色、緋のごとし。』と。

△按ずるに、緋魚、狀、畧ぼ鯛に似て、厚く濶し。眼、甚だ大にして突出す。其の大なる者、二~三尺。細鱗、鰭、窄(すぼ)く、尾倶に鮮紅、緋のごとし。肉、脆く白し。味、甘美。關東に多く有り。各月、最も之を賞す。攝[やぶちゃん注:摂津。]〕・播[やぶちゃん注:播磨。]、希に之有り。藻魚(もいを)の大なる者を以て赤魚(あこ)と稱して之に代ふ。

赤鱒(あかます)【俗に阿加末豆と云ふ。】 狀、緋魚(あかを)に類して、又、鱒に似たり。色、深赤。味も亦、佳ならず。

   *

そこで私は嘗て以下のように注した(ここでは注を追加した)。

   *

[やぶちゃん注:カサゴ目フサカサゴ科メバル属アコウダイ Sebastes matsubarae か。スズキ目ハタ科のキジハタ Epinephelus akaara も瀬戸内や大阪地方にあってアコウ又はアカウと呼称されるが、ここは深海から引上げる為に著しく突出する眼球及び全身が極めて赤い色を呈している点等から、前者をとる。

・「興化府志」は明の呂一静(李攀竜 (りはんりょう) らとともに「後七子 」(ごしちし) の一人とされ、盛唐の詩・秦漢の文を尊ぶ古典主義を唱えたことで知られる)らによって撰せられた現在の福建省の興化府地方の地誌。一五七五年成立。

・「赤鱒」アカマス。スズキ目フエダイ科バラフエダイ Lutjanus bohar をこのように呼称するが、これは南洋系で現在でも小笠原方面から入荷するとあり、同定候補とはならない。これがスズキ目ハタ科のキジハタ Epinephelus akaar か? キジハタには三重県で「アズキマス」という異名を持ち、他に「アカハタ」という異名もあるようだが、「アカマス キジハタ」の検索ではヒットしない。「アカマス」という異名ではカサゴ目フサカサゴ科 Sebastiscus marmoratus がいるが、「深赤」は疑問であるし、以下の「藻魚」の項に「笠子魚」が掲げられている以上、除外される。識者の意見を伺いたい。

   *

「婦魚」不詳。検索でヒットせず。ただ、緋色の魚の一種を、かく異名するというの附には落ちる。

『筑紫の方言に「馬ぬす人」と云ふ魚あり』サイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「魚(魚介類)の名前と漢字表記」のこちらに、「アコウダイ」の項に『ウマヌスビト、アコウ、アコ』とある。また、ネット検索で見出した「Ⅲ 魚等にかかわる漢字」(PDF)の表中に『アカウオ 馬盗人(ウマヌスビト)』とある。この「アカウオ」とは、カサゴ亜目メバル科メバル属アラスカメヌケ Sebastes alutus を指すから、何ら問題はない。但し、同種はオホーツク海から太平洋沿岸、青森県から宮城県の太平洋沿岸でしか捕獲されない。しかし、「アカウオ」は近代以前は「アコウダイ」の異名としても少しもおかしくない。いや! ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」の「アコウダイ」異名に、東京都などで「アカウオ」「赤魚」が載り、『赤いメバル類の総称。後にアラスカメヌケや輸入ものの赤いメバル類の呼び名に変わる』とある。則ち、赤いメバル類或いは、もっと広くカサゴ類の赤みの強い種群はやはり嘗て「アカウオ」と普通に市場で呼ばれていたのである。 

「紅鬃魚〔(こうそうぎよ)〕」「鬃」これは馬の鬣を意味する語である。背鰭の棘鰭を言っていると考えてよいから、以上のアコウダイを始めとするカサゴ群の魚類に相応しい。ただ、個人的には「馬盗人」という命名への由来への根拠はひどく気にはなる。由来を探し得なかったのが気に懸かる。識者の御教授を乞うものである。

「鯛」スズキ目タイ科 Sparidae のタイ類。全く別種でも類体型から「~ダイ」は本邦の常套的呼称で、大衆は「~ダイ」という名を何でも好む。その結果としてタイとは待った全く無縁のトンデモない魚をタイの仲間だと思って騙されて食わされる結果となっている。例えば、スズキ目ベラ亜目カワスズメ科ナイルティラピア Oreochromis niloticus は純淡水魚でタイとは全く無関係なのに「イズミダイ」「チカダイ」と称して切り身として売られ、多くの日本人が安い鯛と勘違いして食わされたケースがある。また、彼らは順応性が高く、強い繁殖力を持ち、大型漁として釣りの対象となる。安易に放流されれば、確実に日本の河川の生態系に深刻な打撃を加えることは確実である。生態系被害防止外来種に指定されているが、既に沖縄の河川ではティラピアが異様に増えてしまっている。

「めばる」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis

或いは同属の近縁種

シロメバル Sebastes cheni

或いは

クロメバルSebastes ventricosus の孰れかである。特にここではアカメバル(赤眼張)が叙述対象である考えてよい。同種の釣魚としての俗称は「赤(あか)」「金(きん)」「沖メバル」であるからで、ここで最後に挙げる候補追加種として最も相応しい。

「色、紅ならざるあり。黃㸃多きものあり」近海で獲れるカサゴ類は黄・白斑の斑模様が普通に認められる。

 最後に。最初の注の考察は無化されたとは私は思っていない。淡水産カジカ類の形状は海産カサゴ類の形状と似ている箇所が種々見られ、有毒棘条もしっかり持っている種もいるからである。古典的博物学の面白みは、実に見た目の共通を以ってグループを作る――今はDNAやアイソザイム分析の分子生物学的分類学によって見捨てられてしまった視認形態相同類似型分類学――諧謔的に言わせて貰えば、「俳諧的な『見立て』を楽しむところの、古典的なスローで如何にも人間臭い見た目第一主義の綜合学的分類」でもあったのである。]

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 三

 

       

 

 芭蕉が旅に病んで枯野の夢を見た難波の客舎(かくしゃ)には、丈艸も馳つけた一人であった。支考が『笈日記』に記したところを見ると、「膳所大津の間伊勢尾張のしたしき人、に文したゝめつかはす」とあるのが十月五日、正秀・去来・乙州・木節・丈艸・李由が報を聞いて馳せつけたのは一日置いた七日になっている。電報も速達も、汽車も自動車もない時代にあっては、江州と大坂との間で、これだけの時間を要したのである。

[やぶちゃん注:「原文が私の「笈日記」中の芭蕉終焉の前後を記した「前後日記」(PDF縦書版)で読めるので、是非、参照されたい。]

 芭蕉の病状がよくないので、之道が住吉の四所に参って延年を祈ることになった時、病牀に居合せたものだけで所願の句を作った。丈艸の句は

 峠こす鴨のさなりや諸きほひ    丈艸

であった。「凩の空見なほすや鶴の声」と詠んだ去来、「初雪にやがて手引ん佐太の宮」と詠んだ正秀、「足がろに竹の林やみそさゞい」と詠んだ惟然、「起さるゝ声も嬉しき湯婆(たんぽ)かな」と詠んだ支考――師を思う情は同じであるが、各人各様の面目は自らその句に発揮されているように思う。

 其角が馳せつけた十月十一日の晩、夜伽(よとぎ)の面々が句を作った時、丈艸の詠んだのは

 うづくまる薬の下の寒さかな    丈艸

[やぶちゃん注:「下」は「もと」。]

である。この句が芭蕉の賞讃を得たということは、『笈日記』にもなければ『枯尾花』にもない。ただ去来が「丈艸誄」の中に次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句は「去来抄」(自筆稿本)では、

 うづくまるやくわんの下のさむさ哉 丈草

先師難波病床に人々に夜伽の句をすゝめて、今日より我が死期の句也。一字の相談を加ふべからずと也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、たゞ此一句のみ丈草出來たりとの給ふ。かゝる時はかゝる情こそうごかめ。興を催し景をさぐるいとまあらじとは、此時こそおもひしり侍りける。

   *

という句形で出る。「やくわん」は「やかん」で「藥缶」、漢方の薬を煎じる鍋のことである。掲句の「藥」も意味は同じ。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

又難波の病床、側に侍るもの共に、伽(とぎ)の発句をすゝめ、けふより我が死後の句なるべし、一字の相談を加ふべからずとの給ひければ、或は吹飯より鶴を招むと、折からの景物にかけてことぶきを述[やぶちゃん注:「のべ」。]、あるはしかられて次の間に出ると、たよりなき思ひにしほれ、又は病人の余りすゝるやと、むつましきかぎりを尽しける。其ふしぶしも等閑[やぶちゃん注:「なほざり」。]に見やり、たゞうづくまる寒さかなといへる一句のみぞ、丈艸出来たり[やぶちゃん注:「でかしたり」。]とは、感じ給ひける。実にかゝる折には、かゝる誠こそうごかめ、興を探り、作を求る[やぶちゃん注:「もとむる」。]いとまあらじとは、其時にこそ思ひ知侍りけれ[やぶちゃん注:「しりはべしけれ」。]。

 

 「吹井より鶴を招かん時雨かな」は其角、「しかられて次の間へ出る寒さかな」は支考、「病中のあまりすゝるや冬ごもり」は去来である。この時の作者はすべて八人、芭蕉としては生前に与える最後の批判、弟子たちとしては師に示す最後の発句であるだけに、平生とは気分の異るものがあったに相違ない。芭蕉の批評が他の一切に触れず、直に褒詞(ほうじ)となって丈艸の上に落ちたことは、弟子としての最後の面目であるのみならず、また永遠に忘れ得ぬ思出でもあったろう。丈艸のこの句には表面的に躍動するものはないけれども、再誦三誦するに及んで、真に奥底からにしみ出て来るような或者を感ぜずにはおられぬ。垂死の芭蕉はこれを感得して、佳(よ)しとしたものと思われる。

[やぶちゃん注:「吹飯より鶴を招む」では「ふけひ」で、宵曲が示した「吹井より鶴を招かん時雨かな」であれば「ふけゐ」となる。この其角の句は「新拾遺和歌集」(勅撰和歌集。二条為明(ためあき)撰。貞治二(一三六三)年に室町幕府第二代将軍足利義詮の執奏により後光厳天皇より綸旨が下って開始され、貞治三年十月の為明の死去後、頓阿が継いで、同年十二月に成った)の順徳天皇の一首(一七五〇番)、

 蘆邊より潮滿ちくらし天つ風吹飯(ふけひ)の浦に鶴(たづ)ぞ鳴くなる

を裁ち入れたもの。「吹飯の浦」は「万葉集」以来の歌枕で、現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)(グーグル・マップ・データ)の海岸とされる。古来、「風が吹く」の意や「夜が更ける」の意を込めて和歌に詠まれることが多かった。]

 

 芭蕉を悼んだ丈艸の句は『枯尾花』に

    暁の墓もゆるぐや千鳥数奇   丈艸

の一句がある。義仲寺における初七日(しょなぬか)及六七日(ろくしちにち)の追善俳諧の中にも丈艸の名は見えているが、芭蕉に対する追慕の情は必ずしも悉(つく)されているわけではない。丈艸の丈艸たる面目のよく現れたものは、そういう作品の上よりもむしろ芭蕉歿後における丈艸の態度である。この点に関し去来は「先師遷化(せんげ)の後は、膳所松本の誰かれ、たふとみなづきて、義仲寺の上の山に、草庵をむすびければ」云々と記しているに過ぎぬが、丈艸が亡師のために三年間、一石一字の法華経を書写したということは、特筆されねばならぬ事柄であろう。石経(せっきょう)のことは丈艸自身次のように記している。

[やぶちゃん注:掲句、

 曉(あかつき)の墓もゆるぐや千鳥數奇(ちどりすき)

は元禄七年十月十四日(芭蕉は元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)没))の追悼吟である。芭蕉は、

 星崎の闇を見よとや啼千鳥

(貞享四年十一月七日の歌仙の発句。私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ――星崎の闇を見よとや啼く千鳥 芭蕉』を参照)を意識しての、芭蕉の千鳥への偏愛をインスパイアしたもの。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

国々の墓所も同じ墓所の霜にしらめる三年の喪は疎[やぶちゃん注:「まばら」。]ならぬ中に、湖上の木曾寺は其全き姿を収めて、人々のぬかづき寄る袖の泪[やぶちゃん注:「なみだ」。]も、一しほの時雨をすゝむる旧寺の夕べより朝をかけて梵筵(ぼんえん)吟席の勤[やぶちゃん注:「つとめ」。]ねもごろなり。然れども野衲は独り財なく病有る身なれば、なみなみの手向(たむけ)も心にまかせず、あたり近き谷川の小石かきあつめて蓮経の要品[やぶちゃん注:「えうぼん」。]を写し、その菩提を祈りその恩を謝せむ事を願へり、誠に今更の夢とのみ驚く心、喪のかぎりに筆を抛(なげう)ち手を拱して[やぶちゃん注:「きやうして」。]唯墓前の枯野を見るのみ。

 石経の墨を添へけり初時雨     丈艸

[やぶちゃん注:以上は「香語」(かうご(こうご):導師が香を焚き、仏前に語りかけること。「拈香(ねんこう)法語」の略。因みに特に葬儀の際のそれを引導と呼ぶ)と題した句文で、句自体は芭蕉の三回忌に当たる元禄九年十月十二日頃に詠まれた句であると、堀切氏の前掲書にある。この哀切々たるモノクロームの絶対の映像はあたかもアンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の無言の行に徹するルブリョフをさえ私は想起する。

「野衲」「やなう」。「衲」は衲衣(のうえ)の意で田舎の僧。転じて一人称の人称代名詞で僧が自身を遜(へりくだ)って言う語。愚僧。野僧。]

 

 何時(いつ)の世如何なる時代を問わず、一団の中心をなす大人物が亡くなった後には、必ず解体分離の作用が起る。その作用は外界より切崩されるものでなしに、一団の内部より生ずる性質のものである。元禄七年に芭蕉を喪(うしな)った後の俳壇にも、自らこの作用が現れた。今まで小異を棄てて大同についていた蕉門の作者たちも、各々自己の見地を主張して門戸を張ろうとする。其角、嵐雪以下の作者は、いずれも芭蕉の衣鉢を伝うるに足る高弟に相違ないが、その器局(ききょく)には自ら限度があり、芭蕉によって総括されていた俳諧の天地をそのまま継承するわけには行かない。この傾向に対して不満の意を表した去来の立場も、芭蕉に比して狭い自己の分野を語るに外ならなかった。丈艸は芭蕉の生前歿後を通じ、俳諧に関して議論らしいものを述べていない。門戸の見を有せぬことは勿論である。芭蕉を喪うと共に、永久に依るべきものを失った彼は、その菩提を祈りその恩を謝せむがために、一石一字の写経を怠らず、三年の喪に服したのであった。

[やぶちゃん注:「器局」才能と度量。器量。

「門戸の見」「もんこのけん」。他者と交流し、また外部の存在や見識を受け入れるために開かれるべき入り口。]

 

 以下少しく芭蕉歿後における丈艸の句を挙げて、その追慕の情を偲ぶことにする。

   いがへおもむくときばせを翁
   墓にまうでて

 ことづても此とほりかや墓のつゆ    丈艸

[やぶちゃん注:元禄一〇(一六八七)年七月、芭蕉の故郷伊賀に旅立つ折り、芭蕉の墓前に手向けた一句。「人生、朝露の如し」が、その「此(この)とほり」の「ことづて」であったことだ、という謂いである。こういう感傷句はこの丈草以外の有象無象の俳人が口にするや、直ちに薄っぺらく嘘臭いものに響くから不思議である。]

 

   越の十丈吟士此秋伊勢詣での道すがら
   山吟野詠文囊に満むとす、就中湖上の
   無名庵を尋ねて蕉翁の古墳を弔ふ余
   (あまり)、哀いまだ尽ずして予が草
   庵に杖をひかる、柴の扉は粟津野の秋
   風に霜枯て一夜の草の枕何おもひ出な
   らんとも覚えず、殊更発句せよと望ま
   るゝにせん方なき壁に片より柱に背中
   をせめてやうやうおもひ付る事あり、
   翁往昔麓の庵に寝覚して此岡山の鹿追
   の声をはかなみ、何とぞ句なるべき景
   情いづれはとねらひ暮されし夢の跡な
   がら、今又呼やまぬ声々をむかしがた
   りのひとつ趣向の片はしにもと筆を馳
   す

 鹿小屋の声はふもとぞ庵の客      同

[やぶちゃん注:「鹿小屋」は「ししごや」。これは「射水川」(いみづがは:十丈編。元禄十四年自序)に所収の句文「木曾塚」。野田別天楼編の大正一二(一九二三)年雁来紅社刊「丈艸集」巻末(国立国会図書館デジタルコレクション)のこちらで正字正仮名で読める。「十丈」は竹内十丈(?~享保八(一七二三)年)。越中生まれ。元禄九年、伊勢・京都・大坂・粟津・彦根などの松尾芭蕉の高弟を訪ね、その折の句を上巻に、文通の句を下巻に収めて「射水川」を刊行した。以下、上記リンク先の「射水川」のそれを参考に(宵曲の引用が何に基づくか判らぬが、有意に異なる箇所がある)正字で記号も増やし、読みを推定で補った。

   *

      木 曾 塚

越の十丈吟士、此秋、伊勢詣での道すがら、山吟野詠、文囊(ぶんなう)に滿ちんとす。就中(なかんづく)、湖上の無名庵(むみやうあん)を尋ねて、蕉翁の古墳を弔ふ。餘念いまだ盡きずして、予が草庵に杖を曳かる。柴の扉(とぼそ)は粟津野(あはづの)の秋風に霜枯(しもがれ)て一夜(ひとよ)の草の枕、何おもひ出ならんとも覺えず。殊更「發句せよ」と望まるゝにせん方なく、壁に片より、柱に背中をせめて、やうやうおもひつくる事あり、翁、往昔(そのかみ)、麓の庵(いほり)に旅寢して、此(この)岡山の鹿追(ししおひ)の聲をはかなみ、「何とぞ句なるべき景情いづれは」とねらひ暮されし夢の跡ながら、今、又、呼びやまぬ聲々を、むかしがたりのひとつ趣向の片はしにも、と筆を馳(は)す。

 鹿小屋(ししごや)の聲はふもとぞ庵(いほ)の客

   *]

 

   芭蕉翁追悼

 ゆりすわる小春の海や塚の前      丈艸

[やぶちゃん注:「後の旅」(如行編・元禄八年序)所収。「小春」は陰暦十月の異名。「ゆりすわる」「搖り坐る」で、体をゆり動かして落ち着かせた状態に成して座ることで、松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『琵琶湖の動きと、丈草の心のゆらぎを掛ける。先師の墓前で穏やかな湖水を見つめる。自分にの心にもいくらか平常心が戻ってきた』と評釈しておられる。但し、ここは「ゆりすわる」の「ゆり」の方に重みがあるように思われ、寧ろ、未だ師を欠損した自身の心の揺らぎの方に傾きがあるように私には読める。]

 

   幻住庵頽廃の跡一見して

 霜原や窓の付たる壁のきれ       同

[やぶちゃん注:浪化編で元禄十一年刊の「続有磯海」所収。凄絶の景である。後の宵曲の評釈が正鵠を射ており、屋上屋はいらぬ。]

 

   芭蕉翁の七日々々もうつり行あはれさ
   猶無名庵に偶居してこゝちさへすぐれ
   ず、去来がもとへ申つかはしける

 朝霜や茶湯の後のくすり鍋       同

[やぶちゃん注:堀切氏の前掲書に従えば、元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)の芭蕉逝去の年内の冬の句で、丈草は芭蕉の死を悼んで三年の心喪を決し、木曾塚無名庵に籠っていたが、体調が思わしくなかったことを言う。だから「くすり鍋」(こちらは自身のための漢方薬を煮出すための鍋である。まず、先師のための「茶湯」(ちやとう)を供えてその「後」(あと)から、というところに丈草の思いが籠る)。「偶居」は「寓居」の誤記。「茶湯」は『茶を煎じて出した湯のこと。ここは仏前に供えるためのもの』と堀切氏注にあり、前書にある通り、去来にこの句を送った。その返しは、

 朝霜や人參つんで墓まいり

(「まいり」はママ)であったとある。]

 

   芭蕉翁の往昔を思ふ

 梅が香に迷はぬ道のちまたかな     同

[やぶちゃん注:松尾氏前掲書によれば、『「道」は蕉風の道。「ちまた」は別れ道。今咲き匂う梅の薫香のような亡師の教えを、これからも信奉してゆくのみ、との決意表明。芭蕉七回忌の元禄十三年春。去来と巻いた歌仙の発句』とある。前書は「丈草句集」のもの。]

 

  芭蕉翁の墳に詣でゝ我病身をおもふ

 陽炎や墓より外に住むばかり      同

[やぶちゃん注:「かげろふやはかよりそとにすむばかり」。丈草畢生の絶唱。元禄九年春の作。但し、掲句は「浮世の北」(可吟編・元禄九年刊)のそれで、私は「初蟬」(風国編。元禄九年刊)の、

   芭蕉翁塚にまうでゝ

 陽炎や塚より外に住(すむ)ばかり

の「塚」でありたい。それは個人的に偏愛する、芭蕉が亡き小杉一笑を詠じた絶唱、

 塚も動け我泣聲は秋の風

に遠く幽かに通うからである(なお、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』をも参照されたい。但し、そこでは私は比較に於いては批判的に丈草の句を評している)。そこにもリンクさせた私の「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(5)」では、私は本句を以下のように評釈した。

   *

……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……

   *

私の訳では鼻白む向きも多かろうからして、堀切氏の前掲書のそれを引くと、『先師芭蕉翁の墓に詣でてみると、墓のあたりには陽炎がゆらゆらと立っている。たちまちにして消えるはかない陽炎と同じく、自分もいつこの世を去るかわからない。師と自分と今は幽明境を異にしているのであるが、幻のようなわが身は、ただ墓から一歩外の世界に住むだけのことであり、すでに心は墓の中、間もなく師翁の後を追う身なのである、といった句意であろう。平常から病身であり、仏幻庵に孤独なわび住いをしていた丈草の師翁への心服のほどが、痛いほどに伝わってくる句である。春の季節のおとずれの象徴でもあり、また幻のようにはかないものの象徴でもある「陽炎」がよく効いている』とされる。]

 

   越中翁塚手向

 入る月や時雨るゝ雲の底光り      同

[やぶちゃん注:堀切氏前掲書によれば、元禄一三(一七〇〇)年に丈草が越中井波の翁塚(おきなづか)に向けて遙かに詠んだ手向(たむ)けの一句である(そこに行ったのではない。後述)。翁塚は富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ」の「翁塚・黒髪庵」に(地図有り)、『井波の町の緑あふれる浄蓮寺境内に』ある芭蕉供養塚である。『芭蕉の門弟だった瑞泉寺』第十一『代の浪化上人が、芭蕉の墓から小石』三『個を持ち帰り、浄蓮寺の境内に塚を建てました。その』二『年後には芭蕉の遺髪も納められたといいます。この塚を翁塚と言い、表面に「翁塚」の二字が刻まれています。翁塚は、伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚とされています』(私は大学時分に訪れたことがあるはずなのだが、全く記憶がない)とある。堀切氏前掲書に、『浪化が元禄十三年上洛の折、義仲寺の翁墓前の小石を三個拾って帰り、それを埋めて井波浄蓮社の翁墳を建立したが、この意図に合わせて』、同年中に『各地の門人に乞うて集めた十百韻の中の一つの発句が、この句であったという』とあり、『宵月が西空に入ろうとするあたりに時雨雲がかかってきたが、その雲が底の方から光っているように見えるという景色である。凄味を帯びた客観写生の句にみえるが、裏面には、芭蕉の没したことを「入月」にたとえ、その命日(陰暦十月十二日)を「しぐれ」に合わせ、さらにその没後の威光を「雲の底光」に示すという寓意がこめられているのである』と評されておられる。]

 

   芭蕉翁七回忌追福の時法華経頓写の前
   書あり

 待受けて経書く風の落葉かな      同

[やぶちゃん注:「頓写」(とんしや)とは追善供養のために大勢が集まって一部の経を一日で速やかに写すことを言う。「一日経」とも。松尾氏の前掲書では、『心待ちにした亡師の七回忌。風もこの日を待ちうけていたのか、写経する目の前を、落葉も経文字を書くような舞いかたで散っている』と評釈しておられる。]

 

   奈良の玄梅蕉翁の
   こがらしの身は竹斎に似たる哉
   といへる句を夢見て、其翁の像を画き
   て讃望みけるに

 木がらしの身は猶軽し夢の中      同

[やぶちゃん注:「玄梅」石岡玄梅(生没年未詳)。奈良の人。当初は貞門に属したが、貞享二(一六八五)年に奈良を訪れた芭蕉の門人となり、素觴子(そしょうし)の号を与えられた。編著に「鳥の道」(元禄十年序)がある。堀切氏は前掲書評釈で、『前書にみえるように、玄梅に求められて、芭蕉の像に賛をした句である。木枯しに吹かれながら瓢々と旅を続けられた芭蕉生前の侘姿』(わびすがた)『は、今、あなたの夢の中では、なおいっそう軽やかなものとして浮かんできたことであろう、という意である。もちろん、そこには丈草自身の故翁への想いもこめられているわけである』とされ、玄梅について、「鳥の道」によれば、『芭蕉に草扉を敲かれ、素觴子(そしょうし)の号を与えられて、「誉られて挨拶もなきかはづ哉」と吟じたことがあったという。そうした懐しい回想をこめ、丈草に翁の像への賛を望んだのであろう』とある。堀切氏も指摘されておられるが、前書の芭蕉の句は正しくは、

 狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉

「俳諧七部集」の第一「冬の日」(山本荷兮編。貞享元(一六八四)年刊)の巻頭「こがらしの卷」の破格の発句である。「冬の日」では芭蕉の前書があって、

   *

笠は長途の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘(わび)つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂哥の才士、此國にたどりし事を、不圖(ふと)おもひ出(いで)て申(まうし)侍る。

   *

と附される。「長途」は「野ざらし紀行」の旅を指す。「狂哥の才士」「竹齋」は江戸初期の仮名草子でベストセラーとなった「竹斎(物語)」の主人公を指す。全二巻。烏丸(からすま)光広の作とする説もあるが、現行では伊勢松坂生まれの江戸の医師富山道冶(とみやまどうや)とする説が有力。元和七(一六二一)年から寛永一三(一六三六)年頃までの間で成立したもので、写本・木活字本・整版本などの諸本がある。京の藪医者竹斎が、「にらみの介」という郎党をつれて江戸へ下る途中、名古屋で開業したりしながら、さまざまな滑稽を展開する話。啓蒙的色彩も強く、また、名所記風な味わいもあり、後の「東海道名所記」から「東海道中膝栗毛」に至るまで大きな影響を与えた。伊東洋氏は「芭蕉DB」のこちらで、『やぶ医者が下男を連れて諸国行脚をする和製ドン・キホーテ物語。芭蕉は自らのやつれた姿と俳諧に掛ける尋常ならざる想いを竹斎の風狂になぞらえた。この旅の風狂は、芭蕉俳諧の一大転機になっており、名古屋の門弟に見せる並々ならぬ自信とみてよい。冒頭の「狂句」は、芭蕉の決意を示す並々ならぬ宣言であり、敢えて「狂句」という自虐的な言い方をしたのであろう。ただし、「狂句」は、後日削除したと言われている』とある。]

 

 これらの句は必ずしも年次を同じゅうするものではない。例えば「ゆりすわる」の句、「朝霜や」の句に現れた追慕の情と、「待受けて」の句、「木がらし」の句に現れたそれとでは、時間的に見て大分の距離があるに相違ないが、その底に流れるものには自ら一貫したところがある。

 「ことづても」の句は元禄十一年の『続有磯海』に出ているから、歿後数年を経ざる場合のものであろう。伊賀は芭蕉の郷里である。芭蕉の歿後その郷里へ行くことになった丈艸は、出発に先って義仲寺の墓に諧でた。「此とほり」というのは人生朝露の如きを意味するのであろうか。「ことづて」は無論郷里の人に対する伝言と思われる。亡師の郷里に赴かむとしてその墓前に立った丈艸は、今更の如く人生の無常なるを痛感せずにいられぬ。その感懐を一句に托したので、句としては面白くもないが、出家沙門たる丈艸の面目はよく現れている。

 「鹿小屋」の句はそれに比べるとよほど面白い。尤もその面白味の大半は、前書によって補われねばならぬものであるが、この感懐は前の句のような観念的なものでないからである。芭蕉の墳を弔い丈艸の庵を訪い寄った俳人が、強いて何か発句をと乞う。「感ありて吟じ、人ありて談じ、常は此事打わすれたるが如し」という丈艸としては、いささか迷惑であったに相違ない。乃ち壁により柱に靠(もた)れて考えるうちに、芭蕉在世当時のことを憶出(おもいだ)した。「麓の庵」というのは栗津の無名庵であろう。「鹿追の声」は畑を荒す鹿を迫う百姓の声らしい。芭蕉がその声を寝覚に聞いて、何とか句になりそうなものだといっていたが、遂に意を果さなかった。その声は今でも聞えて来る。翁の興がった鹿小屋の声は、今麓の方に聞えるのがそれだ、と庵の客に対して語ったのである。この鹿追の追懐は前の句より更に数年後の作であるらしい。

 「幻住庵頽廃」のことは他に何か文献があるのかも知れぬが、姑(しばら)くこの句だけで考えても、芭蕉歿後数年にして全く頽(すた)れていたことがわかる。芭蕉の遺蹟をたずねた丈艸は、頽れた壁が落ちているのを見出した。その壁には窓の一部がついている。単に頽れた壁だけでは、われわれに訴える感じはさのみ強くない。「壁の付たる窓のきれ」というに至ってその印象がまざまざと眼に浮んで来るような気がする。

 「陽炎や」の句についてはまた芥川氏の説がある。許六が亡師迫善の句について、自己の「鬢の霜無言の時の姿かな」を挙げ、嵐雪の「なき人の裾をつかめば納豆かな」を罵倒した。芥川氏はそれに対し、

[やぶちゃん注:以下は、前に掲げた芥川龍之介『「續晉明集」讀後』の一節。

以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

これは大気焰にも何にもせよ、正に許六の言の通りである。しかし五老井主人以外に、誰も先師を憶うの句に光焰を放ったものはなかったのであろうか? 第二年の追善かどうかはしばらく問わず、下にかかげる丈艸の句は確にその種類の尤(ゆう)なるものである。いや、僕の所信によれば、むしろ許六の悼亡よりも深処の生命を捉えたものである。

 

といって、丈艸のこの句を挙げているのである。許六の「自得発明弁」に対して一拶(いっさつ)を与えるだけなら、あるいはこの一句で足りるかも知れない。丈艸はその他にもかくの如く先師に対する追慕の情を叙している。この一事は丈艸その人を考える上において容易に看過すべからざるものと信ずる。

[やぶちゃん注:「自得発明弁」は既注であるが、再掲しておくと、俳諧論書「許六・去来 俳諧問答」(許六と去来の間で交わされた往復書簡を集めたもので「贈落舍去來書」・「俳諧自讃之論」・「答許子問難辯」・「再呈落柿舍先生」・「俳諧自讃之論」・「自得發明弁」(「弁」はママ)・「同門評判」から成る)の一章。]

今日のおぞましい先生の態度を見よ!――しかし「安静」は続かぬ――Kの「覚悟」の語への関係妄想的「ぐるぐる」が遂に始まってしまう――

 上野から歸つた晩は、私に取つて比較的安靜な夜(よ)でした。私はKが室へ引き上げたあとを追ひ懸けて、彼の机の傍に坐り込みました。さうして取り留めもない世間話をわざと彼に仕向けました。彼は迷惑さうでした。私の眼には勝利の色が多少輝いてゐたでせう、私の聲にはたしかに得意の響があつたのです。私はしばらくKと一つ火鉢(ひはち)に手を翳した後(あと)、自分の室に歸りました。外の事にかけては何をしても彼に及ばなかつた私も、其時丈は恐るゝに足りないといふ自覺を彼に對して有つてゐたのです。

 私は程なく穩やかな眠に落ちました。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月29日(水曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十七回より。太字下線は私が附した(以下同じ。後の方は改行・行空けや記号を多く施し、Kの台詞内の「私」を「お前」に変えた。ポイントも一部で変えた)。以上のシークエンスは私の生理的嫌悪感を甚だしく刺激する特異点である。以下、続く短い部分のみをシナリオ化してみた)

   *

○先生の部屋
K 「○○……」(先生の呼び名)
 先生、眼を覚ます。蒲団の下方を見る。
 間の襖が六十センチばかり開いていて、そこにKの黒い影が立っている。Kの室には先の通り、未だ灯火が点いている。
 急に安静な眠りから起こされてしまった先生は、面食らい、少しの間、口をきくことも出来ずに「ぼうっ」として、その光景を眺めている。
 黒い影法師のやうに立ち竦んでいるK。落ち着いた声で。
K 「もう寝たのか。」
先生「何か用か。」
 あくまで妙に落ち着いた声で話す、Kの、黒い影法師。
K 「大した用でもない。……ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いて見ただけだ。」
 K、襖を静かに「ぴたり」と立て切る。

   *

 私の室は、すぐ、元の暗闇に歸りました。
 私は、其暗闇より、靜かな夢を見るべく、又、眼を閉ぢました。
 私は、それぎり、何も知りません。

 然し、翌朝になつて、昨夕(ゆふべ)の事を考へて見ると、何だか、不思議でした。
 私は『ことによると、凡てが夢ではないか?』と思ひました。

 それで、飯を食ふ時、Kに聞きました。Kは、
「たしかに襖を開けてお前の名を呼んだ」
と云ひます。
「何故そんな事をしたのか」
と尋ねると、別に判然(はつきり)した返事もしません。
 調子の拔けた頃になつて、
「近頃は熟睡が出來るのか」
と、却て向ふから私に問ふのです。
 私は、何だか、變に感じました。

 其日は丁度同じ時間に講義の始まる時間割になつてゐたので、二人はやがて一所に宅を出ました。
 今朝から昨夕の事が氣に掛つてゐる私は、途中でまたKを追窮しました
 けれどもKはやはり私を滿足させるやうな答をしません
 私は
「あの事件に就いて何か話す積ではなかつたのか」
と念を押して見ました。Kは
「左右ではない」
と强い調子で云ひ切りました。
『昨日、上野で「其話はもう止めやう」と云つたではないか』
と注意する如くにも聞こえました。

 Kはさういふ點に掛けて鋭どい自尊心を有つた男なのです。

 不圖其處に氣のついた私は突然彼の用ひた「覺悟」といふ言葉を連想し出しました

 すると、今迄、丸で氣にならなかつた其二字が、妙な力で、私の頭を抑へ始めたのです。

 

 

2020/07/28

大和本草卷之十三 魚之下 鴟尾(しやちほこ) (シャチ)

 

【外】

鴟尾 事物紀原云唐會要海中有魚虬尾似鴟激

浪則降雨遂作其像於屋以厭火災今以尾

為之蘇鶚演義曰蚩海獸也蚩尾水精能辟火災

可置之堂殿今人多作鴟字又俗間呼爲鴟吻墨

客揮犀注為獸○蚩尾或海魚トシ或海獸トス海

魚ニ。シヤチホコアリ此魚日本ニテハ伊勢海ニアリ西州

ニハマレ也全體黑色也或ネスミイロナリ又黒トンバウト

云此魚性剛ニシテヨク海鰌ヲツキテ追フクジラ恐レ

テ逃ク一切ノ魚ヲ食ス牙齒スルトナリ大サ五七尺

ヨリ三四間ニイタル油多シ皮ニ牡蠣生ス群遊ス今

城門樓閣寺院ノ棟ノ端ニ瓦ニテツクリ立ツ卽此魚

ナリ又魚虎ヲシヤチホコト訓スルハ非ナリ本草ニ云處ニ

不合元升翁曰シヤチホコハ竜頭魚ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

鴟尾(しやちほこ) 「事物紀原」に云はく、『「唐の會要〔くわいよう〕〕」に、海中に、魚、有り。虬〔(きう)〕。尾、鴟〔(しび)〕に似、浪に激すれば、則ち、雨を降らす。遂に其の像を屋〔(や)〕に作る。以つて火災を厭(まじな)ふ』と云云(うんぬん)。今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る。「蘇鶚演義」に曰はく、『蚩〔(し)〕は海獸なり。蚩尾〔(しび)〕は水の精。能く火災を辟〔(さ)〕く。これを堂・殿に置くべし。今人、多く「鴟」の字と作〔(な)〕す。又、俗間、呼びて「鴟吻〔(しふん)〕」と爲す』〔と〕。「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」の注に『獸』と為す。

○蚩尾、或いは海魚とし、或いは海獸とす。海魚に「しやちほこ」あり。此の魚、日本にては伊勢〔の〕海にあり。西州には、まれなり。全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり。又、「黒とんばう」と云ふ。此の魚、性、剛〔(かう)〕にして。よく海鰌(くじら)を、つきて、追ふ。くじら、恐れて逃〔(に)〕ぐ。一切の魚を食す。牙齒〔(がし)〕するどなり。大いさ、五、七尺より三、四間にいたる。油、多し。皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず。群遊す。今、城門・樓閣・寺院の棟〔(むね)〕の端に、瓦にてつくり、立つ〔は〕、卽ち此の魚なり。又、「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず。元升(げんしやう)翁曰はく、「『しやちほこ』は竜頭魚なるべし」〔と〕。

 

[やぶちゃん注:想像上の「鯱(しゃち)」は、姿は魚、頭は虎、尾鰭は常に空を向いていて、背中に幾重もの鋭い棘を有するとされる幻獣であり、また、ここに記された通り、それを模したところの主に火災を避けるための呪的形象として屋根に使用される装飾の一種である。一字で「鯱(しゃちほこ)」とも読み、「鯱鉾」とも書かれる。寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」では「魚虎(しやちほこ)」と記されてある(リンク先は私の電子化注)。通常、大棟(おおむね)の両端に取り付け、鬼瓦と同様に守り神とされ、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すとされる(「鴟尾(しび)」も同じであるが、特にあれは幻獣ではなく、中国で同様の呪的役割として、魚が水面から飛び上がって尾を水面上に出した姿を具象化したものであって、屋根の上面が水面を表わし、水面下にある建物は燃えないとの言い伝えから「火除け」として用いられたものと考えられている)。ウィキの「鯱」によれば、鯱は『本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入れて使用したことで普及したといわれている』。『現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがある』。『瓦・木・石・金属などで作られる。城の天守や主要な櫓や櫓門などにはよく、陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが上げられる。城郭建築に用いられている銅板張木造鯱のもので最大の現存例は松江城天守(高さ2.08メートル)のものといわれて』おり、『青銅製(鋳造)のものでは、高知城天守のものがある』。『粘土製の鯱瓦は、重量軽減や乾燥時のひび割れを避けるために中を空洞にして作られているため、非常に壊れやすい。棟から突起した心棒と呼ばれる棒に突き刺し、補強材を付けて固定される』。『木造の鯱は、木製の仏像を造る原理に木を組み合わせて、ある程度の形を造っておき、防水のため、外側に銅板などを貼り付けて細かい細工なども施す。粘土製と同じく心棒に差し込み』、『補強材を付けて固定される』。『金色の鯱のことを特に金鯱という。金鯱には陶器製の鯱瓦に漆を塗り、金箔を貼り付けたものが多かった。一般の金箔押鯱瓦は、岡山城天守に創建当初載せられたものなどがある』。『特異なものでは木造の鯱に銅板の代わりに金板を貼り付けたものが上げられることがある。構造は銅板張りの木造鯱と同じ』で、『現在の名古屋城大天守に上げられているものがそれである。同じ仕様のものは、徳川大坂城天守や江戸城天守などに使用された』とある。

 しかし、本条は読み進めれば判る通り、益軒は実在する、

哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca

に同定しており、博物学的に正しい。但し、福岡から殆んど離れなかった益軒が実物を見た可能性はゼロに等しい。シャチと言えば、私は今でも鮮やかに覚えている、少年時代の漫画学習百科の「海のふしぎ」の巻に、サングラスをかけた小さなシャチが、おだやかな顔をしたクジラを襲っているイラストを……。ちょっとした参考書にも、シャチは攻撃的で、自分よりも大きなシロナガスクジラ(鯨偶蹄目ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)を襲ったり、凶暴なホホジロザメ(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)等と闘い、そこから「海のギャング」と呼ばれる、と書かれていたものだ。英名も「Killer whale」、学名の Orcinus orca も「冥府の魔物」という意味でもある。しかし実際には、肉食性ではあるが、他のクジラやイルカに比べ、同種間にあっては攻撃的ではないし、多くの水族館でショーの対象となって、人間との相性も悪くない(私は、芸はさせないが、子供たちと交感(セラピー)するバンクーバーのオルカが極めて自然で印象的だった)。背面黒、腹面白、両目上方にアイパッチ(eye patch)と呼ぶ白紋があるお洒落な姿、ブリーチング(breaching:海面に激しく体を打ちつけるジャンピング)やスパイ・ホッピング(spy hopping:頭部を海面に出して索敵・警戒するような仕草)、数十頭の集団で生活する社会性、エコロケーション(echolocation:反響定位)による相互連絡やチーム・ワークによる狩猟、じゃれ合う遊戯行動等、少しばかりちっぽけな彼等がシャチの分際で人間の目に付き過ぎたせいかもしれないな。本項の叙述もそんな感じだ。『出るシャチはブリーチング』というわけか。

「事物紀原」中国の類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事、現行本は十巻千七百六十五事。宋の高丞撰。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類して名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。当該部分は「卷八」の以下(「中國哲學書電子化計劃」より引き、漢字の一部表記を変更した。また、早稲田大学図書館古典総合データベースにあるこちらの寛文四(一六六四)年刊の訓点附版本(PDF)を参考に、不完全ではあるが、句読点や鍵括弧を附して読み易くした 。リンク先のそれは送り仮名も振られているので、対照すると完全訓読出来る。問題はどこが各書籍の引用なのかが不明なだけである)。

   *

「唐會要」曰、漢栢梁殿災。越巫言、海中有魚、虬尾似鴟。激浪則降雨。遂作其像於屋、以厭火災。王叡「炙轂子」、栢梁災越巫獻術、取鴟魚尾置於殿屋、以厭勝之。今瓦爲之。「蘇鶚演義」曰、漢武作栢梁殿。上疏者曰、蚩尾水之精能辟火災。可置之堂殿。今人多作鴟字、顔之推亦、作鴟。劉孝孫「事始」、作蚩尾。又俗間呼爲鴟吻。如鴟鳶。遂以此呼之後。因有作此鴟者。王子年「拾遺記」曰、鯀治水無功。自沉羽淵化爲玄魚。海人於羽山下修玄魚祠、四時致祭。嘗見瀺灂出水。長百丈、噴水激浪、必雨降。「漢書」越巫請以鴟魚尾。厭火災、今鴟尾卽此魚尾也。按王嘉晉人。晉去漢未逺當時、已作鴟字。蘇鶚之說亦、未爲允也。吳處厚「靑箱雜記」曰、海有魚虬尾、似鴟。用以噴浪、則降雨。漢栢梁臺災。越巫上厭勝之法。起建章宫、設鴟魚之像於屋脊、以厭火災。卽今世鴟吻是也。

   *

「唐の會要」「唐會要」(とうかいよう)は中国の北宋の王溥(おうふ 九二二年~九八二年)が撰して、太祖の建隆二(九六一)年に完成した、現存最古の会要(一つの王朝の国家制度・歴史地理・風俗民情を収録した歴史書の一種)である。ウィキの「唐合会要」によれば、『本書は、蘇冕』(そべん)「会要」と崔鉉(さいげん)らが撰した「続会要」の『続編として作られ、専ら唐一代の政治・経済・文化等の各項目の制度沿革を記録しており』、「通典」(つてん:唐の杜佑(とゆう)が記した中国史上初めての形式が完備された法制度関係書で、黄帝と有虞氏(舜)の時代から、唐の玄宗の天宝晩期の法令制度の制度沿革に至るまでを記録し、その中でも唐代を最も詳しく述べてある)などの『典籍と多くの類似点を有している。しかしながら、唐代の制度に関する記載は、更に詳細であり』、「旧唐書」(くとうじょ)中に『大量の史料が存在する。例えば、「音楽志」・「天文志」などは』、皆、『本書から採られて』いるため、『本書の記載に誤りがあれば』、「旧唐書」もまた『同じ誤りを犯している』という具合である。『なお且つ本書は』「旧唐書」・「新唐書」『未収の史実を』も『記載しており』、「大唐起居注」・「大唐実録」が既に『亡佚した今、部分的な内容であっても、多く本書に保存されて』あって貴重なのである。『原本は流伝の過程の中で残缺し、現行本は清代乾隆年間に整理された本の重印で』、全書百巻・五百十四目で『あるが、少なからざる条目下には「雑録」が有り、門類に分けられていないため、査読に』は『不便である。別に張忱石の』「唐会要人名索引」が『あり、検索に便である』とある。引用部は同書の「巻四十四」の「雜災變」の一節。中文ウィキソース「維基文庫」のここから引く。一部の漢字表記を変更し、文の開始位置も変えた。

   *

開元十五年七月四日。雷震興教門兩鴟吻。欄檻及柱災。

蘇氏駁曰。東海有魚。虯尾似鴟。因以爲名。以噴浪則降雨。漢柏梁災。越巫上厭勝之法。乃大起建章宮。遂設鴟魚之像於屋脊。畫藻井之文於梁上。用厭火祥也。今呼爲鴟吻。豈不誤矣哉。

   *

「虬〔きう〕」龍の子どもで二本の角を持つとされる。みづち(蛟)。

「鴟〔(しび)〕」実在する鳥ではトビ・フクロウ・ミミズクなどを指し、怪鳥の意もある。

「浪に激すれば」波濤の高まりに怒ると。

「屋〔(や)〕」屋根。

「厭(まじな)ふ」「咒(まじな)ふ」「呪(まじな)ふ」に同じ。

「今、尾を以つて之を為〔(つく)〕る」現在は尾の部分だけを形象する。されば、ここの部分に関しては「鯱鉾」よりも「鴟尾」を解説しているとする方が相応しい。

「蘇鶚演義」唐の蘇鶚の撰になる本草書「蘇氏演義」。引用は「巻上」の以下。「漢籍リポジトリ」の同書から引いた。一部の漢字表記を変更し、句読点や鍵括弧を推定で附した。

   *

蚩者、海獸也。漢武帝作柏梁殿。有上䟽者云、「蚩尾、水之精、能辟火災、可置之堂殿。」。今人多作鴟字。見其吻如䲭鳶、遂呼之爲䲭吻。顏之推亦、作此䲭。劉孝孫「事始」作此。蚩尾、既是水獸、作蚩尤之蚩是也。蚩尤銅頭鐵額、牛角牛耳、獸之形也。作䲭鳶字、卽少意義。

   *

「蚩〔(し)〕」この漢字自体は、本来は「這い歩く虫」の意で海棲動物の意味はない。但し、上で述べられるように、中国神話に登場する狂暴な神に蚩尤(しゆう:黄帝時代の諸侯とも臣ともされるが、獣身で銅の頭に鉄の額を持つとか、四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとも伝えるモンスターである。黄帝と涿鹿(たくろく)の野で戦って敗死したともされる)がいるので、それとの関連を想像すると、何となくこの漢字もありかも、という気はしてくる。

「蚩尾〔(しび)〕」「鴟尾」の別表記で使用される。

「鴟吻〔(しふん)〕」小学館「日本国語大辞典」にも「鴟尾」に同じとする

「墨客揮犀〔(ぼつかくきさい)〕」宋の彭乗(ほうじょう)の撰になる随筆。日中数種の全電子化テクストを用いて「獣」「獸」「兽」で調べたが、孰れもヒットしない。不審。

「日本にては伊勢〔の〕海にあり」ウィキの「シャチ」によれば、『日本では北海道の根室海峡から北方四島にかけてや、和歌山県太地町にて度々目撃されている』とあるから、伊勢というのは腑に落ちる。

「全體、黑色なり。或いは、ねずみいろなり」聞き書きで、実見していないので、この誤りは仕方あるまい。ウィキの「シャチ」によれば、『背面は黒、腹面は白色で、両目の上方にアイパッチと呼ばれる白い模様がある。生後間もない個体では、白色部分が薄い茶色やオレンジ色を帯びている。この体色は、群れで行動するときに仲間同士で位置を確認したり、獲物に進行方向を誤認させたり、自身の体を小さく見せたりする効果があると言われている。大きな背びれを持ち、オスのものは最大で2メートルに達する。背びれの根元にサドルパッチ』(saddle patch)『と呼ばれる灰色の模様があり、個々の模様や背びれの形状は一頭ずつ異なるため、これを個体識別の材料とすることができる』とある。

「黒とんばう」黒蜻蛉であろうが、違和感がない異名である。「シャチ」よりずっといい。

「五、七尺より三、四間」一メートル八十二センチから七メートル二十七センチ。シャチはマイルカ科 Delphinidae の中では最大種で、平均で体長は♂で5.8~6.7メートル、♀で4.9~5.8メートル。

「油、多し」Q&Aサイトの「シャチは食べられるか」という質問への答えに、『国内では座礁したシャチを食べた事があったかもしれません。積極的に食用目的で獲った事はあまりないと思います』。『しかし壱岐では高松鯨という塩鯨があったそうです。タカマツとはシャチの事です』。『戦後~1970年代ごろまでは油脂採取目的で乱獲し、定住型シャチがいたとしたら』、『絶滅したのではとも言われてます』。『日本では一部を除き』、『殆どいなくなってしまった』ともある。また、『アイヌは他のイルカや鯨を漁の対象としても』、『シャチは神鯨として』、『決して』捕『ったり』、『食べたりする事は有りませんでした』。『インドネシアのランバタ島ではシャチを獲っていたと思います。ですが漁師は自分では食べずに交易品にして』いたもの『と思います』とあった。

「皮に牡蠣〔(かき)〕を生ず」これは中型以上のクジラ類に一般に普通に見られる現象で、この附着が各個体の識別にも利用されている。

『「魚虎」を「しやちほこ」と訓ずるは、非なり。「本草」に云ふ處に合はず』これは当然である。「本草綱目」のそれは全く別種の記載だからである。「鳞之四」の以下を読まれたい。

   *

魚虎【「拾遺」。】

 釋名 土奴魚【「臨海記」。】。

 集解 藏器曰、『生南海。頭如虎、背皮如猬有刺、着人如蛇咬。亦有變爲虎者。』。時珍曰、『按、「倦游録」云、「海中泡魚大如斗、身有刺如猬、能化爲豪猪。」。此卽魚虎也。』。「述異記」云、『老則變爲鮫魚。』。

 氣味 有毒。

   *

概ね、魚類愛好家なら、即、お判りの通り、「本草綱目」の記すこの「魚虎」は、虎や蝟(ハリネズミ)が化生したという叙述はブットビだが、それを勝手に比喩として転ずるなら、背部の刺の描写は、まず、カサゴ亜目オニオコゼ科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus などを筆頭としたカサゴ目の毒刺を有するグループであることが見て取れる。

「元升翁」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)であろう。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の『次男は俳人の向井去来』である。

「竜頭魚」現行では条鰭綱ダツ目ダツ亜目トビウオ上科サヨリ科サヨリ属サヨリ Hyporhamphus sajori の異名で、こう書いて「さより」と読ませるらしいが、これまた、ちょっと私にはピンとこない。元は中国の「通雅」(明の方以智(ほういち)撰の語学書)由来のようだ。しかし思うに「龍頭」(りゅうず:梵鐘の最上部の環状を成している部分の名称。ニ個の獣頭からなり、口唇の部分で梵鐘の上蓋に接している)って、如何にも鴟尾っぽくねえか?!

大和本草卷之十三 魚之下 アナゴ

 

【和品】

アナゴ 鰻鱺ニ似テ可食味ウナキニ不及海ウナキトモ

云鱧ヲモ海ウナキト云然𪜈別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

アナゴ 鰻鱺〔(うなぎ)〕に似て食ふべし。味、「うなぎ」に及ばず。「海うなぎ」とも云ふ。鱧〔(はも)〕をも「海うなぎ」と云ふ。然れども、別なり。

 

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科アナゴ属マアナゴ Conger myriaster。最大全長は一メートルにも達する。性的二型で♀の方が大きく、標準で♂は40 cm前後、♀は90 cmほど。口を閉じた際に下顎が上顎に隠れるのが特徴で、大型個体は顎の力が非常に強く、歯も鋭いため、噛まれると大怪我をするので注意が必要。また、ウナギと同じく血液に血清毒(蛋白毒イクシオトキシン(ichthyotoxin))が含まれ、粘液にも同じく含まれているため、生食は十分に水に晒すことが必須である。

「鰻鱺〔(うなぎ)〕」音は「マンレイ」。条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギ Anguilla japonica「大和本草卷之十三 魚之上 鰻鱺 (ウナギ)」を参照。血清毒については以下のリンク先も必ず参照のこと。

「鱧〔(はも)〕」条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus。直前の「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも)(ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」を参照。]

譚海 卷之三 細川家和哥の事

 

細川家和哥の事

○石田治部少輔謀反の時、玄旨法印丹後の城に籠られしに、逆徒貴詰(せめつめ)て既にあやうかりし由叡聞(えいぶん)に達し、和歌の名匠なる事を悼み思召(おぼしめし)、逆徒へ勅使を立られ、早速圍(かこみ)をとき無事に成(なり)たり。其時玄旨法印必死の覺悟ゆゑ、年來和歌相傳の書を箱に入(いれ)、光廣卿へ傳へられ、往反(わうはん)贈答の詠に及ベり。子息三齋殿此事を殘念に存ぜられ、和歌の事に拘(こだは)りて武士の死(しす)ベき時に死せざる恥(はづ)べき事とて、以後三齋和歌を詠ぜられずといへり。今時(きんじ)も細川家斗(ばか)りは京都隱居住(ぢゆう)する事相叶(あひかな)ふ例(ためし)のよし、和歌の事によりて然るにやといへり。

[やぶちゃん注:「石田治部少輔」石田三成。

「謀反」豊臣秀吉の没後、政権の首座に就いた大老徳川家康は、度重なる上洛命令に応じずに敵対的姿勢を強める会津の上杉景勝を討伐するために、慶長五(一六〇〇)年六月に諸将を率いて東下した(「会津征伐」)が、家康と対立して佐和山に蟄居していた石田三成は、家康の出陣によって畿内一帯が軍事的空白地域となったのを好機と捉え、大坂城に入り、家康討伐の兵を挙げたことを指す。その緒戦が慶長五年七月十九日から九月六日にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市のここ。グーグル・マップ・データ)を巡りって起こったのがここで挙げられた「丹後田辺城の戦い」である。本籠城戦は広義の「関ヶ原の戦い」の一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。参照したウィキの「田辺城の戦い」によれば、『西軍は、まず』、『畿内近国の家康側諸勢力の制圧に務めた。上杉討伐軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城もその目標の一つで、小野木重次・前田茂勝・織田信包・小出吉政・杉原長房・谷衛友・藤掛永勝・川勝秀氏・早川長政・長谷川宗仁・赤松左兵衛佐・山名主殿頭ら、丹波・但馬の諸大名を中心とする』一万五千の『兵が包囲した』。『忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる』五百名に『すぎなかった』。『幸隆と幽斎は抵抗したものの、兵力の差は隔絶し、援軍の見込みもなく』、七月十九日から『始まった攻城戦は、月末には落城寸前となった』。『しかし西軍の中には、当代一の文化人でもある幽斎を歌道の師として仰いでいる諸将も少なくなく、攻撃は積極性を欠くものであった。当時幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える古今伝授を相伝されており、弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶し、討死の覚悟を伝えて籠城戦を継続』、「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上している。『ついに天皇が、幽斎の歌道の弟子である大納言三条西実条と中納言中院通勝、中将烏丸光広を勅使として田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。勅命ということで幸隆と幽斎はこれに従い』、九月十三日、『田辺城を明け渡し、敵将前田茂勝の居城である丹波亀山城に身を移されることとなった』。『この戦いは西軍の勝利となったが、小野木ら丹波・但馬の西軍』一万五千は、この間、『田辺城に釘付けにされ、開城から』二日後に起こった「関ヶ原の戦い」本戦に『間に合わな』くなったのであった。

「玄旨法印」戦国から江戸前期の武将で歌人の細川藤孝(幽斎)(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)。京生まれ。三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男であったが、伯父細川元常の養子となった。細川忠興の父。足利義晴・義輝や織田信長に仕えて丹後田辺城主となり、後に豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌を三条西実枝(さねき)に学び、古今伝授を受けて二条家の正統を伝えた。有職故実・書道・茶道にも通じた。剃髪して幽斎玄旨と号した。著書に「百人一首抄」・歌集「衆妙集」等がある。

「光廣」先の「元和の比堂上之風儀惡敷事」の私の注を参照。

「子息三齋殿」細川藤孝(幽斎)の長男で当時は丹後国宮津城主。後、豊前国小倉藩初代藩主となった細川忠興(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)。「田辺城の戦い」の開城の一件で、一時、父と不和になっており、それがこの述懐に現われている。

「以後三齋和歌を詠ぜられずといへり」事実かどうかは不詳。]

甲子夜話卷之六 16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

 

6-16 富小路貞直卿、千蔭と贈答の事

堂上と地下の贈答に、見るべきほどの歌は多く聞ず。十年前にも有しや、富小路三位貞直卿より、加藤千蔭へ給はりし消息の裏に、

 陰あふぐ心のはてはなきぞとほ

      くまなくみらむ武藏のゝ月

とありし時、千蔭の返しに、

 むさし野ゝを草が上も雲井より

      もらさぬ月の影あふぐ哉

これ等は京紳にも恥ざる咏なるべし【二條、林氏の册、抄錄】。

■やぶちゃんの呟き

「富小路貞直」宝暦一一(一七六二)年~天保八(一八三七)年)は江戸後期の公卿・歌人。伏原宣条(ふしはらのぶえだ)の子で富小路良直の養子。加藤千蔭(ちかげ)に和歌の添削を受け、本居宣長とも親交があった。正三位・治部卿(じぶきょう)。号は如泥。

「千蔭」「加藤千蔭」(享保二〇(一七三五)年~文化五(一八〇八)年)江戸中・後期の江戸生まれの歌人で国学者。幕臣で歌人の加藤枝直(えなお:本姓は橘)の三男。賀茂真淵に入門した。歌風は平明優雅で、村田春海(はるみ)とともに「江戸派」を代表した。書は「千蔭流」と呼ばれ、画や狂歌も巧みであった。著作に「万葉集略解(りゃくげ)」、家集に「うけらが花」などがある。

「二條」これは前の6-15 儒者の歌」と本条の意であろうか。

「林氏」お馴染みの静山の友人の儒者で、林家第八代の林述斎であろう。

甲子夜話卷之六 15 儒者の歌

 

6-15 儒者の歌

儒士の歌と云ものは多くは無きものなるが、林羅山の歌は木下氏の編る「視今集」に載たり。又その弟永喜の歌とて、人の傳る所を錄す。

   心ちよからぬおりふし筆とりて

 殘すとは書をかねども水莖の

      跡やはかなき形見ならまし

   夏草

 しげりあひて道も夏野の草の葉の

      そよぐ方にや人通ふらん

■やぶちゃんの呟き

「林羅山」(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)は江戸初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、本名は信勝。出家後の号道春(どうしゅん)の名でも知られる。独学のうちに、朱子学に熱中し、慶長九(一六〇四)年と藤原惺窩と出逢い、翌年、彼が羅山を推挙して徳川家康に会い、二十三歳の若さで家康のブレーンの一人となった。慶長一二(一六〇七年)、家康の命により僧形となった。寛永元(一六二四)年には就任したばかりの第三代将軍徳川家光の侍講となり、さらに幕府政治に深く関与していった。

「木下氏」秀吉の正室高台院の義理の曾孫木下(豊臣)秀三。

「視今集」木下秀三撰「和歌視今集」。正徳元(一七一一)年成立。

「永喜」林永喜(えいき 天正一三(一五八五)年~寛永一五(一六三八)年)は羅山の実弟で儒学者・歌人。羅山とともに江戸幕府に仕え、初期の幕政に参画した。兄に道学を、歌道家に和歌を学び、慶長九(一六〇四)年に藤原惺窩に対面して啓発を受けた。度々、漢和聯句会に参加し、慶長一三(一六〇八)年には一華堂乗阿と「源氏物語」について論争している。

「かねども」「兼ねども」か。

甲子夜話卷之六 14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

 

6-14 伶人多氏、浴恩老侯と贈答の事

京伶人多大和守【久敬】下りし折から、樂翁招てひたもの催馬樂を學ばれしに、大和歸京に臨みけるときかくなん、

 君にこそ拾はれにけれいせの海の

      なぎさによれるかひもなき身を

其時、樂翁の返し、

 打よする心計に日をふれど

      なぎさの玉は手にもとられず

一時の戲といへど風雅なることなり。大和も伶工には珍らしき風致なりき。

■やぶちゃんの呟き

「伶人多氏」「多」(おほの)「大和守【久敬】」雅楽演奏家多久敬(おおのひさかた 明和九(一七七二)年~弘化二(一八四五)年)。

「老侯」「樂翁」白川藩藩主・老中松平定信(宝暦八(一七五八)年~文政一二(一八二九)年)。老中失脚は寛政五(一七九三)年。

「ひたもの」ひたすら。

「催馬樂」「さいばら」。古代歌謡の一つ。平安時代に民謡を雅楽風に編曲したもの。笏拍子(しゃくびょうし:当初は二枚の笏を用いたが、後に笏を縦に中央で二つに割った形となった。主唱者が両手に持って打ち鳴らして用いる)・和琴(わごん)・笛・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)・箏(そう)・琵琶(びわ)などで伴奏した。

「伊勢」文化九(一八一二)年に定信は家督を長男の定永に譲って隠居(文化九(一八一二)年3月)隠居しているが、実際には藩政の実権は以前として掌握していた。定永の時代に久松松平家旧領伊勢桑名藩への領地替えが行われているが、これは定信の要望により行われたものとされている。定信の白川藩藩祖定綱以来の先祖の地は伊勢桑名であった。

「心計に」「こころばかりに」。

「戲」「たはむれ」。

今日、あのKの「覺悟?……!……覺悟なら……ないこともない……」という決定的な台詞が発せられてしまう――

 「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗に待ち受けました或は待ち伏せと云つた方がまだ適當かも知れません。其時の私はたとひKを騙し打ちにしても構はない位(くらゐ)に思つてゐたのです。然し私にも敎育相當の良心はありますから、もし誰か私の傍へ來て、御前は卑怯だと一言私語(さゝや)いて吳れるものがあつたなら、私は其瞬間に、はつと我に立ち歸つたかも知れません。もしKが其人であつたなら、私は恐らく彼の前に赤面したでせう。たゞKは私を窘(たしな)めるには餘りに正直でした。餘りに單純でした。餘りに人格が善良だつたのです。目のくらんだ私は、其處に敬意を拂ふ事を忘れて、却て其處に付け込んだのです。其處を利用して彼を打ち倒さうとしたのです。

 Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。

(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月28日(火曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十六回より。太字下線は私が附した)

 以下、私のオリジナル・シナリオ――

 なお、Kの最後の台詞は「心」では実際には

すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、―覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。

である。

   *

○上野公園。(続き)

 Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

 追いついて、Kと並んで歩む先生。夕暮れ。

K 「……○○……」

[やぶちゃん注:「○○」には先生の姓が入る。]

 先生の方を見るK(先生目線の上向きのバスト・ショット)。

 先生とK、立ち止まる(フルショット。背後に枯れた木立を煽って)。

 Kの悲痛な顏(真正面のフル・フェイス・ショット)。

 先生の顏(夕日を反射する眼鏡は鏡面のようにハレーションして眼は見えない。見上げる真正面のフル・フェイス・ショット)

 K、淋しそうな眼、表情(真正面のフル・フェイス・ショット)。

K 「……もう、その話はやめよう。」

 対する二人(ミディアム・ショット)。

K 「……やめてくれ。」

先生「(ゆっくりと極めて冷静に)やめてくれつて、僕が、言い出したことじゃない。もともと君の方から持ち出した話じゃないか。……(間)……しかし、君がやめたければ、やめてもいいが、……(間)……ただ、口の先でやめたって仕方あるまい? 君の心でそれを止めるだけの、『覚悟』がなければ。……一体、君は、君の平生の主張をどうするつもりなんだ?」

 項垂(うなだ)れていることが分かるKの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。カメラがややティルト・アップすると、向うに先生(捉えた瞬間、先生を迅速にフレーム・アップ。則ち、次の二つの台詞はフレーム上ではオフで発せられることになる)。

K 「……覚悟?……」

 フレームの中の向うの先生が口を開いて何か言おうとする。しかしそれに合わせて、独白(モノローグ)のように、夢の中の言葉のやうに(台詞と共にややティルト・ダウンして、画面いっぱいにKの後姿。項垂れたままに)。

K 「覚悟?……!……覚悟なら……ないこともない……」

 

○上野公園(遠景)
 人気のない夕暮れの上野公園を下ってくる先生とK。小さく。


○上野公園(不忍池への下り坂)
 これ以降、二人の下駄の音のみ(SE)。魚眼レンズでクレーン・アップ、ティルト・ダウンして、手前から二人、イン。下駄の音。

――カッ! カッ! カッ!

 背後から二人の頭部(この映像を下駄の音に合わせて、微かにフレーム・アップ、カット・バック、微かにフレーム・アウト、カット。バックで繰り返す)

 地べたにカメラ、右上からインする先生の下駄の足。先生の足止まる。直ぐ向うを下駄履きのKの足が右から左へ抜ける。先生の両足、踏み変えて、振り返る動作の足(アップ。微かに高速度撮影。先生のにじるキュッという靴音。その音がK一人の下駄音と不協和音のように絡む)。

――カッ! カッ! カッ!(Kの下駄音という風であるが、大きなままで微かにエコーを入れる)

 何気なく振り返る先生(俯瞰ショット。微かに高速度撮影)。夕日が一閃! 眼鏡に反射してハレーションを起こす。

 その先生をなめて、坂を下る項を垂れたままに下ってゆくKの姿。

――カッ! カッ! カッ!

 暮れなずむ薄暗い空(広角)。

 霜に打たれて蒼味を失った茶褐色の杉の木立が梢を並べて聳えている中空(分かる分からない程度にティルト・ダウンさせるが、地上は映さない)。

 先生の右唇を中心にしたフル・フェイス・ショット(魚眼レンズ)。震える、先生の口元!

 遠景。坂下の下ってゆくKの後姿。

――カッ! カッ! カッ!

――カ! カ! カ! カ!

 先生、Kの方へ走ってゆく(クレーン・アップ。微かに高速度撮影。ここでは二人の足音が不協和音のように絡む)。(F・O・。……だが、その後も SE 残る)


――カッ! カッ! カッ!…………

――カ! カ! カ! カ!…………

 

2020/07/27

三州奇談續編卷之八 八幡の靈異 / 三州奇談 全148話 電子化注 完遂!

 

    八幡の靈異

 埴生(はにふ)の神社は彼(かの)大夫坊が願書に名高くして、此邊の所々は木曾義仲倶利伽羅を說くの證跡にして、此話は事古りたれば筆を止(や)めつ。社頭石階遙に上る。石壇悉く累文(るいもん)ありて、雨中の長きにも道辷(すべ)ることなく、心穩かに坂を上る。危きを忘るゝも又々妙あり。社頭物さび、尊さは云ふにや及ぶ。應現(わうげん)の神なるは書き續くとも盡し難し。爰に土人の奇話あり。

[やぶちゃん注:「埴生の神社」現在の富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルの麦水も登った階(きざはし)をリンクさせておく。

「大夫坊が願書」既に出た通り、大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう・かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した木曽義仲の右筆。元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られる。寿永二年五月十一日、現在の先の埴生護国八幡宮(八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。

「倶利伽羅」とはサンスクリット語「クリカ」の漢音写で、インドで八つの龍の王の内の一柱の名であり、「陀羅尼集経」では「鳩利龍王」とも漢訳されている。仏教に取り入れられた「倶利迦羅竜王」は、岩上に直立する宝剣に火炎に包まれた黒龍が巻きついている様で形象され、この竜王は「不動明王」の化身として集合されて特に武家に崇拝された。剣と火炎は一切の邪悪罪障を滅ぼすとされる。寿永二(一一八三)年木曾義仲が平維盛の軍勢をその峠の南斜面に當深い谷に攻め落としたことで知られる倶利伽羅峠であるが、この名も、その峠に倶利迦羅不動を祀る堂が存在したことに由来している。倶利迦羅不動寺は養老二(七一八)年、元正天皇の勅願により、倶利迦羅不動明王を奉安されたのが始まりと伝えられ、弘仁二(八一二)年、弘法大師が本尊と同体の不動尊像を彫って別当山として長楽寺が開山されたのが確かな創建である。ここで麦水が「說く」と言っているのは、倶利迦羅竜王が絶対の正義を以って戦うことで仏敵を滅ぼす如く、我らが平家を倒すことが必定されていることを神に誓い、部下の将兵らに説いたという謂いであろう。

「累文」重なった層状の紋様。]

 

 近く元文三年の春の事とにや。一夜社頭

「ざはざは」

と人音し、鈴鳴り馬嘶(いなな)く躰(てい)のこと曉に至れり。近鄕の人怪しみ思ひしとなり。音を聞きたる人は甚だ多かりしが、其中に宇兵衞と云ふ者は、

「むつく」

と起きて社頭へ走り登り見けるに、最早朝日煌々と出で輝きて、辰(たつ)にも及ばんとする頃、倶利伽羅山の東谷なる須小池(すこいけ)と云ふ上に、魚津浦に見なれし喜見城(きけんじやう)と云ふ物の立ちて、人家城廓はもとより、人馬旌旗(せいき)の行かふさま、ありありと見え渡る。併(しか)し先づ異國の人のやうに覺え、城樓も異國のけしきに思ひし。只彩色の樣(さま)照り輝き、見事なること云ふばかりなし。然るに此御神は、敵國降伏の誓言なればにやありけん。暫くして此社頭より、

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天白日となりき。

 其二三年は殊に豐年打續き、世上(せじやう)里民(りみん)腹を皷(こ)して樂しみ、諸國民安かりし。是を思へば神の遊戯にして、異靈吉祥(きつしやう)なるためしとぞ思はる。

 蜃氣の樓をなすは、此邊(このあたり)海上の常ながら、蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし。「南島變」の中に詳しく記す。

 扨は北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか。又は須小池は元來大いなる鯉(こひ)住む故に名づくと云へば、鯉も又氣を吐くものにや。辨じ難し。此外往々此山畔霧裡(きりのうち)に、城廓を見ること折々ありと云ふ。扨又此邊及びみとだ海道筋に、醬油を造る大家どもは、大釜に鹽を入れて湯に燒くこと折々なり。然るに時々には鹽固まりて解けざるものあり。其形樓閣の如し。其形誠に怪しき迄なるもの出來ること多し。門・戶・扉まで備(そなは)りたること奇妙なり。終(つひ)に石となる。又皆解けてかたまらざる日もあり。かたまれば必ず家居なり。思ふに地氣家の形をなすは、天然の妙にして、家居もと人工の外に出たること明らけし。然れば山氣・湖氣現(うつつ)に樓閣を結ぶ、又故ありと覺ゆ。

[やぶちゃん注:面白い。蜃気楼の城郭や兵馬・旌旗(軍旗)が異国のそれであったが故に、倶利伽羅龍王(不動明王)の法力(「敵國降伏の誓言」通り)が自動的に働き、蜃気楼も成敗されて消えたというのである。

「そよそよ」

と風吹き渡るよと見えしが、此城樓・旌旗悉く消え失せて、跡(あと)靑天

「元文三年」一七三八年。

「辰」午前七時。

「須小池」倶利伽羅峠東谷には多数の池沼があるが、どれだか分からない。一番大きなそれは「埴生大池」或いは「大池」(グーグル・マップ・データ)と呼ばれる。一応、これを第一比定候補としておく。先の埴生護国神社とは直線で二キロほどしか離れていない。倶利伽羅合戦ではこの池のすぐ南方に義仲軍の初期本陣が配された。

「魚津浦に見なれし」富山湾の内で最も本格的な蜃気楼が見られるのは、現在でも魚津である。

「喜見城」本来は梵天と並ぶ仏教の護法大善神たる帝釈天の居城の名(サンスクリット語「スダルシャン」の漢訳語「ス」は「適切な・良い」、「ダルシャン」は「見る」の意)。須彌山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊楽するという。ここは、それを転じた蜃気楼の異名。

「蜃は元來山雉(やまきじ)にして、其卵地中に成るよし」「近世奇談全集」では「山雉」に『やまどり』とルビするが、従えない(後述)。一般には「蜃気楼」の「蜃」は大蛤(おおはまぐり)或いは蛟(みづち:龍の一種)の吐き出す気とされるのが伝統で(根っこは「蛤」の方が正解のようだ。「蜃」が龍の一種を表わす字として別に用いられたことによる混同が始まりのようだ。既に古く「礼記」の「月令(がつりょう)」では両者が同名異物であるとする記載がある)あるが、蛤より龍の方が人の想像を飛翔させやすいことからと思われるが、龍説が増殖し(確かにどデカい蛤というのでは本体が動かないから、関連して伝説を作るのに食指が動かない気はする)、ウィキの「蜃」には、『一方で竜とする説は、中国の本草書『本草綱目』にあり、ハマグリではなく』、『蛟竜(竜の一種)に属する蜃が気を吐いて蜃気楼を作るとある』。『この蜃とはヘビに似たもので、角』・『赤いひげ・鬣』(たてがみ)を持ち、腰より『下の下半身は逆鱗』(げきりん)『であるとされている』。『蜃の脂を混ぜて作ったろうそくを灯しても幻の楼閣が見られるとあ』り、『さらにこの蜃の発生について、ヘビがキジと交わって卵を産み、それが地下数丈に入ってヘビとなり、さらに数百年後に天に昇って蜃になるとしている』。宋代書かれた百科辞典である「埤雅(ひが)」の『著者である陸佃』(りくでん)も同じく、『蜃はヘビとキジの間に生まれるものと述べている。『また『礼記』にはキジが大水の中に入ると蜃になるとあり』(私がさっき注したのは個々の部分で、日本ではその注記が無視されて広まったのである)、『この発想は日本にも伝わっている』とあった(下線太字は私が附した)。『「山鳥」と「山雉」は同じだろ?』と御仁がいるとすれば、それは大いなる誤りである。

「雉」はキジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor(但し、現在、学名を Phasianus colchicus とする主張もある)

であり、

「山鳥」は日本固有種でキジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii scintillans

で属で異なる別種だからである。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 山雞(やまどり)」を読まれたい。

「南島變」「寬永南島變」。本書の筆者堀麦水の宝暦一四(一七六四)年成立と見られる「天草の乱」を中心とした実録物。最後ぐらい、宣伝は大目に見て上げよう。

「北地の山は、土中自ら此氣を吐くことあるか」それは火山なら幾らもあるし、硫黄ガスは有毒成分硫化水素を含むし、二酸化炭素や一酸化炭素で人は簡単に窒息死する(そうしたものが滞留した窪地で人が亡くなったり(自衛隊演習での事故が十年ほど前に実際にあった、体が動かなくなるのはそれで、民俗社会では「ダリ」という妖怪のせいとしたりしたのである)。天然ガスもそう感じられるであろう。

「大いなる鯉」「鯉も又氣を吐くものにや」登龍門伝説で年経て上流に至れば龍と成るのだからね。本邦での鯉の妖異も甚だ多い。でかい奴の顔を見てると、何か人語を喋りそうだもんな。

「みとだ海道」射水市水戸田へ向かう街道か。ここからなら現在の県道九号あたりがその後身か。

「大釜に鹽を入れて湯に燒く」この「鹽」は「潮」とあるべきところであろう。

「地氣家の形をなすは、天然の妙」というより、海水を使っているのだから、やっぱ、大はまぐりの気でごわしょうぞ! 麦水どん!

 以上を以って「三州奇談續編」全巻の終りである。今年の一月十七日開始だから、半年がかりとなった。何か一つの達成感はある。麦水さん! また、何時か、何処かで!!!

三州奇談續編卷之八 妖鼠領ㇾ墳

 

    妖鼠領ㇾ墳

 鼠は社によりて尊(たつと)しと聞しが、塚に依れば妖をなすことも故ありや。「今目(ま)のあたり見たり」と人の語るあり。越中礪波郡金谷本鄕の下にて、木船の續きに五社と云ふ村あり。道明村と云ふに隣りて、さまで人遠き所にも非ず。されど此兩村の間墓所にして、古墓も又多し。爰に妖鼠住みて久しく小獸の類(るゐ)を取殺す。初めは人々『狼・犬などの所爲にもや』と思ひ居(をり)しが、近年頻りに飼猫失せてけるに、多くは此墓邊(あたり)に嚙殺(かみころ)されて死骸を殘す。

[やぶちゃん注:標題は「妖鼠(えうそ)墳を領(りやう)す」。

「鼠は社によりて尊し」国津神を統べる大国主命は素戔嗚尊の娘須世理毘売(すせりひめ)と互いに一目惚れして、素戔嗚尊に婚姻の許しを貰いに行くが、素戔嗚からは許諾するに際して様々な過酷な試練を命ぜられてしまう。その試練の一つに、大野原で火攻めにされるシークエンスがあるが、その時、鼠が現われて逃げ道を教えることから、大国主命の神使は鼠とされ、また、神仏習合の下で彼は大黒天(七福神の一つ)と同一とされたことにより、豊饒の米と縁の深い鼠が眷属とされた。されば、大国主命を祀る神社では鼠をかく扱う。

「越中礪波郡金谷本鄕」不詳。しかし、以下の地名からして、この地図の小矢部川右岸の表示範囲(或いはもっと広域。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の、現在の高岡市福岡町の一部及び小矢部市の一部の広域を、かく呼んでいたものと考えてよかろう。

「木船」高岡市福岡町木舟

「五社と云ふ村」木舟の南に接して小矢部市五社がある。

「道明村」その五社の南に接して小矢部市道明がある。

「此兩村の間」表現からは五社地区と道明地区の間となるが、現在の地区境界は複雑に凸凹している。但し、グーグル・マップ・データ航空写真で見ても、今は田圃と道で、そこに墓の痕跡らしきものは見当たらない。但し、ストリート・ビューで見たところ、一箇所、碑石のようなものがあった。新しくて墓石とは思われないものの、奇妙な形の小さな石が三つ、二基の碑の間に明らかに人為的に整然と並べて鎮座されてあるのはいささか気にはなった)。なお、狭義の古墳時代以前の墳墓遺跡はこの付近にはないようである(小矢部川左岸の丘陵辺縁部にはかなりの数を認める)。]

 

 然るに安永七年[やぶちゃん注:一七七八年。]の春、五社村の勘兵衞が子伊兵衞と云ふ者、廿七歲にて角力(すまふ)も取り、力量も剛(つよ)し。知音(ちいん)ありて道明村へ咄(はな)しに行き、夜半頃に夜咄し終りて歸りしが、心しぶとき男なれぱ、塚原古墳を通るも心にかゝらず、常に行き通ひしが、今宵は人より猫を一つ貰ひて、懷ろに抱き歸ることゝなりしに、此塚原へ來るに、頃は二月十三日の夜なれぱ、朧寒き薄曇り、何とやら恐ろしげなる景色に、とある塚の積揚げたる石、

「がば」

と崩るゝ音するとひとしく飛出づる怪しき物あり。只飛鳥(ひてう)の如く走り來りて、伊兵衞が膝口のあたりに飛付き、懷ろへ傳ひ登る。懷の猫は、身を震はし恐れ屈む。五社村の伊兵衞は力勝れたる者なれば、

「こは心得ず」

と怪物が首と覺しきを引摑みて二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]投ぐるに、中(ちゆう)より飛來りて伊兵衞が足に喰付(くらひつ)くに、是を蹴放(けはな)して待つ所に、又肩に飛付き、或は背中に嚙付き、或は乳(ち)の邊りを五ヶ所嚙破(かみやぶ)る。伊兵衞怒りて、力を盡して首を捕へ、ふり下げて見るに、長さ二尺許なり。鼬・𪕐(てん)の類(たぐひ)にやと、力に任せて首筋をしむるに、血を吐きて死したり。懷ろの猫も、いかなる故にや死しぬ。依りて此怪物を手に下げて家に歸り、翌日見るに大いなる鼠なり。顏甚だ長く大にして、四寸五分[やぶちゃん注:約十二センチ。]あり。身は一尺八寸[やぶちゃん注:五十四・五センチ。]。首にかけて二尺三四寸[やぶちゃん注:七十一センチ前後。]の鼠にて、尾の長さも二尺[やぶちゃん注:六十・六センチ。]あるべし、其末切れ居(をり)たり。毛兀(は)げ皮古びて、恐ろしきさまなり。近所の猫を集めて取らしむるに、いかなる猫にても、一度見ると逸足(いちあし)出して迯去(にげさ)る。只毒氣を恐るゝ如し。

「是は不思議」

と場中(ばなか)[やぶちゃん注:大勢の人が集まっているところ。]にさらし置きて、是を喰ふ猫もあるかと、普(あまね)く隣々村々の猫を集むるに、輙(たやす)く傍(かたはら)へ進む猫もなし。

 然るに靑雲の間より鳶(とび)下りて、一摑みに引(ひつ)さげ去る。曾て心とせざる躰(てい)なり。扨(さて)枝上にありてむしり喰ふ。他の鳶も又餘肉を得て爭ひ喰ふこと、常の鼠の如くして更に怪しむ躰(てい)なし。

 扨は其好惡さまざまありて、道違へば少しも功威(こうい)なきこと眞然たり。

 是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし。尤も深く考へあるべきことにや。

 其後(そののち)にも此塚中程に剛鼠(がうそ)あり、躰(すがた)折々見ゆ。

「久しく猫を取りし鼠は、此塚なりけり」

と知らるゝなり。

 世の變易斯く迄に及ぶ。分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり。

[やぶちゃん注:「𪕐(てん)」漢字の意味不明。大修館書店「廣漢和辭典」にも載らず、ネット上の中文サイトでも意味を附記せず、それどころか音不詳とさえあった。ここで読みは「近世奇談全集」に拠った。「てん」は「貂」でネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属ホンドテン Martes melampus melampus のことであろう。本邦のそれは日本固有種である。但し、テン属自体は北アメリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・日本と広く分布はする。

「分けて猫をのみ好きたること、鼠の肝又別物に似たり」「鼠の肝」というのは「虫臂鼠肝(ちゅうひそかん)」のことで、「虫臂」は「虫の肘(ひじ)」で、「鼠肝」は「鼠の肝(きも)」で「取るに足らないこと・くだらないこと」或いは「物事の変化は人間には予想することが難しいということ」の喩えであるから、猫だけを愛玩する嗜好や、人の僅かな好悪は所詮、他者には理解出来ないものだということか。にしても、「是を思へば、藥物の合不合爰に於ていちじるし」という糞のような教訓を最後に置きたがるこの晩年の麦水は、最早、奇談を純粋に怪奇なる話としてそのまま味わうという素直な気持ちがかなり薄れてしまっているような気がしてならない。……いやさ、後、一話で、「三州奇談」は、終わるのだが……。]

三州奇談續編卷之八 蛇氣の靈妖

 

    蛇氣の靈妖

 龍の上るといふを望めば、雲中ゆたかに下りたる物あり。大小長短時として異なり。紅毛人は

「水柱なり」

と云ひて、

「『佛狼機(イシビヤ)』を發して打倒せば、降りかゝりたる空も晴天に直る」

と云ふ。「生物にあらず」と云ふ說もあり。然れども是必ず龍氣なること眞然たり。滑川水橋の邊りは、時として數疋登る。誰彼是を望むことなり。實(げ)にもあたりの風荒きには似ず。甚だ鈍き物なり。折には雲を呼ぶに遲き時やありけん、頭を跡へ下(おろ)す時あり。爰に於ては顯(あら)はに見ゆるとなり。細く四角にして髭あり。繪に書く雨龍(あまりやう)と云ふものに似り。或は橫にも落つ。

「甚だぬるきものなり」

と、人々證を立てゝ咄せし。

「雲も波もすさまじく上る物なり」

と云ふ。扨は龍なることは決せり。上る時初めは蛇なりとぞ。

[やぶちゃん注:本格的な巨大な竜巻から時に見かける旋毛風(つむじかぜ)或いは雲の形の変形するのを擬えて誤認したものと採れる。

「佛狼機(イシビヤ)」「石火矢」「石火箭」で、原義は石・鉄・鉛などを飛ばして城攻めに用いた兵器を指すが、ここは「紅毛人」の言うとあるから、近世初期に西洋から伝来した大砲のことである。

「滑川水橋」既出の現在の富山湾沿岸の富山市水橋町(グーグル・マップ・データ)であろう。東で僅かに滑川に接する。

「雨龍」龍の一種螭龍(ちりゅう)を指すともされ、雨乞いの対象となったり、家紋となったりしている。グーグル画像検索「雨龍」をリンクさせておく。]

 

 安永八年三月の頃、這槻川(はひつきがは)の際(きは)に川越(かはごえ)を以て世を渡る忠右衞と云ふ者ありき。兄は三ケ村(さんがむら)の長右衞門と云ふ、[やぶちゃん注:読点はママ。]此長右衞門の門(かど)に大松ありき。先年願ひて是を伐る。此根蟠(わだかま)りて大きくありしを、頃日(けいじつ)此根を掘廻しけるに、最早引越(ひきこさ)さん[やぶちゃん注:引き抜こう。]とする時、松の根の底に蛇あり。三尺許と見ゆ。常の蛇とは見えながら、何となく怖ろし。手傳ひの人長右衞門に向ひ、

「何とやら此蛇は主らしき顏つきに候まゝ、又土を掛けて埋(うづ)むべし」

なんど云ふを、長右衞門聞かず。

「かゝることは打捨つるに若かず」

とて、杖を入れてはね出(いだ)す。

 初めは動く如く、後(のち)には重うして出難(いでがた)し。漸く十人許り寄り、鐡捧など入れて刎出(はねいだ)したるに、土の上へ出せば五六尺ばかりの蛇となる。則ち是をろばし[やぶちゃん注:転がして。]、濱表へ捨てたるに、水に入ると其儘眞直(まつすぐ)に立ちて、長右衞門を追かくる。凡そ一丈餘の丈(たけ)に見ゆ。長右衞門逸足(いちあし)出して逃げゝるに、幸ひ川越忠右衞門家は側(かたは)らに掘切あれば、橫に飛び堅に走りて家に駈入るに、蛇は只直ぐに馳せ過ぎ、又掘出したる松の根に入りしとも云ふ。又何國(いづこ)へや行けん見えず。

 是より長右衞門煩(わづろ)うて人心地なし。

 魚津の法華山長慶寺は旦那寺と云ひ、に名高きことなれぱ、人を遣はし此趣を申して賴みけるに、

「是は蛇氣のかゝれるものなり。必ず物に狂ふことあるものぞ。用心せよ」

と申越(まうしこ)す。

 實(げ)にも其如く、其夜より長右衞門亂心の躰(てい)となり、橫に倒れて這廻る。又大(おほい)なる石を寢ながら打返す。凡(およそ)十人許の力を寄せたるが如し。

 弟忠右衞門甚だ驚き、大勢を賴みて縛りからげて家の柱につなぎ置く。されども業(げふ)[やぶちゃん注:それぞれの仕事。]あれば皆々外へ出る其跡へ、近付きの馬士(ばし)[やぶちゃん注:馬子(まご)。]寄りしに、人は居らず、長右衞門縛られてありしかば、

「是は如何に」

と問ふ。長右衞門云ふ。

「我れ弟に縛られたり、この縛り解きてくれよ」

と賴む。馬士いぶかりければ、

「さらばそこに生ひたる草を一つかみ我が口ヘ入れてくれ」

と云ふ。馬士不便(ふびん)に思ひ、指圖の草を與へければ、暫くして繩を

「ぶつぶつ」

押切りて、手を打振り立出づる。

 馬士驚き、駈け行きて弟忠右衞門に語る。忠右衞門大に驚き、

「夫(それ)にては定めて往來の人の障りを仕出(しいだ)さん」

と、馬士を初め近鄕の人三四十人をやとひかけ返り見れば、長右衞門は大童(おほわらは)になり、あたるを幸ひに石礫(いちづぶて)を打ち、往來の人々通ることを得ず。

 忠右衞門氣の毒がり、馬士に恨(うらみ)を云ふ程に、馬士連(れん)は是非なく押かゝり、大勢にて捕へしが、力市ばい手強(てごは)く當り打伏せし故にや、縛り置くうちに其夜長右衞門は死したり。

 是に依りて只今騷動にならんやと詮議最中なり。然れども蛇のつきたるには證據多けれぱ、下にて濟むべき沙汰なり。

[やぶちゃん注:蛇が特殊な草を食って威力を示すというのは、各地の伝承にあり、メジャーなものでは上方落語の古典「蛇含草(じゃがんそう)」、それを江戸落語でインスパイアした「そば清」(「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」とも)が知られる。但し、それは消化効果のある草である。

「安永八年」一七七八年。堀麦水は天明三(一七八三)年没であるから、後の「頃日」(近頃)の用字が腑に落ちる。

「這槻川(はひつきがは)」前にも出てきたが、私は上市川の異名か、当時の分流のようには私は読めるように感じている。上市川の河口付近の左岸が前段に出た水橋地区に近い(一部は接している)からでもある。なお、後のロケーションからは「忠右衞」の家は下流の河口付近にあったと私には読める。【2020年7月27日追記】何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。「這槻川」は「万葉集」巻第十七巻の四〇二四番の大伴家持の一首、

  新川郡の延槻河(はひつきがは)を渡りし時に作れる歌一首

 立山(たちやま)の雪し消(く)らしも延槻(はひつき)の

    川の渡瀨(わたりぜ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも

で「延槻河(川)」 は現在の早月川であるとされ、「大日本地誌大系」第二十八巻「三州地理誌稿」(昭和六(一九三一)年蘆田伊人編・富田景周著)に(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)、

早月川【萬葉集】作延槻川、其源小又北又之二水出立山麓、西北數十町至折戶村、北轉小早川自東入焉、右升方村、左大島新村、而達于海

とあるとのことであった。私も「早月川」と音が酷似することが気になっていたが、前の「水橋」との地理上の位置に拘り過ぎた。]


   *

「川越」人馬や物資を川渡しする生業であろう。

「三ケ村」不詳。近い地名で中新川郡上市町三日市がある。「今昔マップ」を見ると、現在の上市町の上市川左岸の現在よりももっと広い地域を「三日市」と呼んでいたことが判る。但し、ここから上市川河口(海岸)までは六キロ弱はあり、蛇を転がして行くには長過ぎるので違う。もっと河口近くになくてはおかしいが、見当たらない。【2020年7月27日削除・追記】前記のT氏より、現在の富山県魚津市三ケ(さんが)であるとの御指摘を頂戴した。ここである。注意されたいのは、片貝川の内陸山岳部と、早月川の河口右岸という約九キロメートル以上も離れた飛び地を持つことである。こうした現象は山間部が専ら河川運送に頼り、周囲と隔絶したケースでまま見られる(和歌山県飛び地がその最も良い例である)。ただ、片貝川と早月川は丘陵を隔てて六キロ以上離れおり、実際に如何なる理由でこの飛び地が形成されているのかは、厳密には判らない。しかし、この早月川右岸の「三ケ」地区がこの話柄の場所と考えると、蛇を転がすというシーンが腑に落ちる。さすれば、忠右衛門は現在の早月川河口右岸で早月川の渡し業を営んでいたと理解出来る。いつも乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「三尺許」(九十一センチ)が「土の上へ出せば五六尺」(約一・五二~一・八二メートル)というのは、最初は蜷局(とぐろ)を巻いていたために誤認したのである。

「一丈餘」三メートル越え。

「法華山長慶寺」不詳。現在の魚津にはこの寺はない。富山県内にもこの山号を持つ長慶寺はない(但し、長慶寺は富山市にはある)。]

 

 されば蛇の變はさまざまに聞ゆ。

 富山の金草山と云ふは、片貝谷の上なり。然るに滑川の木樵の人到りしに、八九尺許なる蛇の逃げ走る躰(てい)を見る。

『如何に』

と思ふに。暫くして猿とや云はん、狒々(ひひ)とやせん、三尺許の人躰(ひとてい)のもの、續きて追掛け行く。樵者(きこり)其跡を見るに、早うして風の如し。家に歸りて人に問ふに、

「夫は『狒々王』と云ふものなり。能く蛇を喰ふ」

と云ふ。

 又同じ片貝谷にて蛇の追ひし獸あり。猫か鼬(いたち)かと覺ゆ。追詰められて松の穴へ入り、空へ逃げて梢より飛ぶ所を、樵夫(きこり)鍬(くわ)にて打殺しけるに、匂ひ堪へ難く、着物にもいつ迄か其香殘りしと云ふ。其香を問へば

「反魂丹(はんごんたん)の匂ひなり」

と云ふ。山人なれば外の香を知らで斯く云ふにや。

「麝香(じやかう)の屬(たぐ)ひならん」

と人々惜(をし)む。

 されば越中の東は信・飛に接すれば、獸蛇(じうだ)の異甚だ多くして筆にあまれり。

[やぶちゃん注:「金草山」不詳。但し、「片貝谷」は片貝川のこの付近(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、非常に広域である)であるから、その何れかのピークではあろう。

「狒々」ここは実見した対象は大型の猿の謂いととっておいてよかろう。妖怪のそれにしては、やや小さめだからである。

「狒々王」ここはもう妖獣としてのそれである。ウィキの「狒々」によれば、『日本に伝わる妖怪。サルを大型化したような姿をしており、老いたサルがこの妖怪になるともいう』。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるという』。『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。『また同書では』、天和三(一六八三)年に越後国で、正徳四(一七一四)年には『伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長』四尺八寸、後者は七尺八寸あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、滑川伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき』、『源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の若い樵(作兵衛)が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺そうとしたという。源助は狒狒と引っ張り合いになり、しばらく続いたが、作兵衛を殺したらお前たちも残らず殺すと言うと放し立ち去った。源助は作兵衛を背負って血まみれになり、夜明け近くになり仲間が助けたという(肯搆泉達録、黒部山中の事)。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』(以上の話は「三州奇談卷之五 異獸似ㇾ鬼」にも出ている。「肯搆泉達録」は越中通史の先駆けとなった記録で、文化一二(一八一五)年)の完成。富山藩御前物書役野崎伝助の書いた「喚起泉達録」を孫で藩校広徳館の学正を勤めた野崎雅明が書き継いだもの。当該原本の話は明二五(一八九二)年の活字本があり、国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める)。『もとは中国の妖怪であり、『爾雅』釈獣に「狒狒は人に似て、ざんばら髪で走るのが速く、人を食う」という。郭璞の注には「梟陽のことである。『山海経』に「その姿は人の顔で唇が長く、体は黒くて毛が生えており、かかとが曲がっている。人を見ると笑う」という。交州・広州・南康郡の山中にもいて、大きいものは背丈が1丈あまりある。俗に「山都」と呼ぶ。」といっている』。『江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈』(三・〇三メートル)『あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』私の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「狒狒」も是非、参照されたい。

「能く蛇を喰ふ」好んで食うとは思われないが、ニホンザルは雑食性で動物の肉も食う。

「反魂丹」一般には「越中富山の反魂丹」で知られる、胃痛・腹痛などに効能がある丸薬。本邦の中世よりの家庭用医薬品として知られる。ウィキの「反魂丹」によれば、元々、『「反魂」は、死者の魂を呼び戻す、つまり死者を蘇生させるという意味であり、「反魂丹」は、もとは中国の説話等に登場する霊薬の呼び名である(説話中に登場する類似のものに、焚くと死んだ者の姿が現れる香・反魂香がある)』。『室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は』第三『代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし』、第八『代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った』。『越中富山藩』第二代藩主『前田正甫』(まさとし)『が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫』が、天和三(1683)年にその万代家第十一代目の『万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した』という。元禄三(一六九〇)年のこと、『江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった』とある。『江戸時代の反魂丹の特徴は龍脳が配合されていることであり、またその他』二十『数種の生薬・鉱物成分が配合された処方であったことが過去の文献にみられ』、『一例は以下のようなものである』として、『龍脳、牽牛子、枳実、枳殻、胡黄連、丁子(丁香)、木香、黄芩、連翹、黄連、縮砂、乳香、陳皮、青皮、大黄、鶴虱、三稜、甘草、赤小豆、蕎麦、小麦、麝香、熊香、白丁香、雄黄、辰砂』を挙げてある。私は所謂、鼻を撲(う)つ感じの薬臭い外郎(ういろう)臭のことを言っているものと思う。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう)(ジャコウジカ)」の注を読まれたい。

「信・飛」信濃・飛驒。越後を外さんといてぇな!]

今日、先生は、おぞましい最終兵器を起動させてしまう――

○上野公園。

K 「……どう思う?」

先生「何がだ?」

K 「……今の俺を、どう思う?……お前は、どんな眼で俺を見ている?……」

先生「この際、何んで私の批評が必要なんだ?」

 K、何時にない悄然とした口調で。

K 「……自分の……弱い人間であるのが……実際、恥ずかしい……」

 先生、Kを見ず一緒に歩む。先生、黙っている。

K 「……迷ってる……だから……自分で自分が、分らなくなってしまった……だから……お前に公平な批評を求めるより……外に仕方がない……」

 先生、Kの台詞を食って。

先生「迷う?」

K 「……進んでいいか……退ぞいていいか……それに迷うのだ……」

 先生、ゆっくりと落ち着いて。

先生「……退ぞこうと思へば…………退ぞけるのか?」

 K、立ち止まる。黙っている。
 先生、少し行って止まる。しかし、Kの方は振り返らない。暫くして。

K 「…………苦しい……」

 先生、振り返る。
 K、のピクピクと動く口元のアップ。
 先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿。

   *

實際彼の表情には苦しさうな所があり/\と見えてゐました。もし相手が御孃さんでなかつたならば、私は何んなに彼に都合の好い返事を、その渇き切つた顏の上に慈雨の如く注いで遣つたか分りません。私はその位の美くしい同情を有つて生れて來た人間と自分ながら信じてゐます。然し其時の私は違つてゐました。

(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月26日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十四回よりシナリオ化と末尾引用)

   *

○上野公園。(続き)

 振り返った先生の右の眼鏡アップ。表面に映るKの小さな姿(そのままの画面で)。

先生「精神的に向上心のないものは馬鹿だ。」

 K、微かにびくっとする。間。ゆっくりと先生の方へ歩み始めるK(バスト・ショット。僅かに高速度撮影で、散る枯葉を掠めさせる)。

 カット・バックで先生(バスト・ショット、Kよりも大きめ。僅かにフレーム・アップさせながら)。

先生「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ――。」

 Kの後頭部(やや上から魚眼レンズの俯瞰ショット。僅かに高速度撮影)。間。

K 「馬鹿だ……(間)……僕は馬鹿だ……」

 K、ぴたりとそこで立ち止まる。K、うな垂れて地面を見詰めているのが分かるように背後から俯瞰ショット。

 先生の横顔(アップ)。ぎょっとして顔を上げる。何時の間にか先生の前にKの姿はない。カメラ、ゆっくりと回る。先生がさっきの進行方向を向くと、Kの後姿。のろのろとフランケンシュタインの怪物のように歩むK。

『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月27日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第九十五回をもとにシナリオ化)

 

2020/07/26

三州奇談續編卷之八 山王の愛兒

 

    山王の愛兒

 滑川西口瀨羽(せは)町と云ふに、山王の神社あり。祭禮には神輿出で、人崇め、神靈あること限りなし。目のあたり神靈種々を見る、算(かぞ)へ盡すべからず。

[やぶちゃん注:「滑川西口瀨羽町」現在の滑川市瀬羽町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は、宿場や物資の集産地としての宿方と、漁業や物資の船積みの浦方に分かれており、北陸街道沿いに西から東へとメイン・ストリートが形成されて非常に栄えていたという。

「山王の神社」滑川市加島町にある加積雪嶋神社(かずみゆきしまじんじゃ)の江戸時代の呼称。創建は不詳。古くは社域も広大で社家・社僧が奉祀した大社であったとされる。先に出た同じ滑川の櫟原(いちはら)神社(ここ。滑川市神明町)を「東の宮」と呼称するのに対して、当社を「西の宮」と通称する。国司として越中に赴任した大友家持も度々当社に参詣し、源義経が奥州へ下る際には武運を祈願して拝殿に沓を残したという。江戸時代も山王社と称して前田家の崇敬も篤く、幣帛・諸器物などの寄進を受けている。]

 

 然るに明和七年六月廿九日と七月朔日の兩夜、不思議の神燈ありき。此社は拜殿の奧に障子あり。此外は石階にして、六尺許去りて本殿の階ヘ上る。然るに夜五時頃に至り、朗(ほがら)かなる灯火ありて、障子の内にかくる立合せの二間(にけん)前なる所に、三角に照り輝く。拜殿中の備へ物。高麗狗(こまいぬ)甚だ明かに見え、繪馬も見分くベき程なり。夜九つ頃に灯沈みて見えず。如斯(かくのごとき)の事兩夜なり。

[やぶちゃん注:「明和七年六月廿九日と七月朔日」この記載は或いは麦水の記載ミスかも知れない。何故なら、この年は六月が閏月で閏六月があるからで、普通は閏を外しては表現しないからである。但し、閏が落ちただけだとすると、怪異出来が連続した二日に亙って発生したことになって話としては腑への落ち具合がすっきりする。明和七年閏六月は小の月で二十九日で終わり、翌日が七月一日だからである。明和七年閏六月二十九日はグレゴリオ暦一七七〇年八月二十日で、同七月一日は八月二十一日に相当する。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「夜九つ」午前零時。]

 

 諸人怪しみ、

「此火は何なるぞ」

と打擧(うちこぞ)り見る。役人某なる人來り窺ひ、若しくは

「隣家の灯火の漏れ來(きた)るにや」

と、近隣を制し火を消さしむるに、灯明(とうみやう)變ること更になし。

 火は西の方より來りかゝり、暫くして下へ引入り消ゆ。初めは竹の子の如く四五寸許なり。暫くして二三寸許となり、一時許にして一寸許となり、將棊(しやうぎ)の駒の如くになれば、下ヘ落ちてなし。又暫くして西の方よりかゝり來ること前の如し。

 此役人なる人怪みて後ろへ廻(まは)り窺ふに、闇(くら)うして火光(くわくわう)なし。前に廻れば又本(もと)の如く、障子に移りて明らかにかゝれり。

 二夜にして近隣神靈を恐れ、又火災を恐れて、櫟原(いちはら)の神主吉尾(よしを)氏を招じて、幣(ぬさ)を捧げて神樂(かぐら)を奏す。爰に納受ありけん、火消えて再び出でず。

 神主も役人も予が親友なれば、悉く聞けり。此靈火何と云ふ事を知らず。尤も此通は鬼火多し。眼目山立川寺(がんもくざんりゆうせんじ)へは龍女が献ずる灯、必ず七月の間に、此邊(このあたり)加茂川を上る。

[やぶちゃん注:プラズマや雷球ではこのようにはなるまい。しかも二日続けてである。されば、この怪火現象は私には説明がつかない。

「吉尾氏」不詳。

「眼目山立川寺」富山県中新川郡上市町眼目にある曹洞宗の名刹

「加茂川」富山県魚津市を流れる鴨川(地図中央を西に流れる川。別名「神明川」、古くは河口付近では「鬼江川(おんねがわ)」とも呼ばれていた)があるが、立川寺と位置が全く合わない。同寺直近を下るのは上市川であるから、その誤りではなろうか?]

 

 又近き頃蓬澤(よもぎざは)と云ふ所に、山缺(か)けたりしに、缺口(かけぐち)に夜々火光あり。光り二三十步を照すべし。每夜の事なれば、見に集(あつま)る人多し。奉行所へ聞えなぱ里の費(つひ)へならんと、里民談じて夜中火光の所へ印しに竹をさし置き、翌日に至りて掘出(ほりいだ)し見るに、三尺計なる丸き石なり。靑紫にして斑紋あり。火光の出づべき樣(やう)なし。打破りて捨て、後再ぴ火光なしと聞えし。

[やぶちゃん注:「蓬澤」中新川郡上市町蓬沢であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「奉行所へ聞えなぱ里の費へならん」このような山間部の不審火は大きな山火事となる可能性が頗る高いから、当然、早急に藩に届け出なくてはならない。しかし、そうすれば、以前に述べた通り、大変な手間(常時監視と現場保全)や検使の尋問や世話(宿所や食事は総て村が負担する)が面倒だからである。例えば、私のオリジナルな高校古文教材の授業案である「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第一話『【第一夜】「うつろ舟の異人の女」~円盤型ヴィークルの中にエイリアンの女性を発見!』の曲亭馬琴編の「兎園小説」中の琴嶺舎(滝沢興継。馬琴の子息。但し、馬琴の代筆と考えてよい)の「うつろ舟の蠻女」(リンク先は高校生向けなので新字体)を読まれれば、このめんどくさい事実が腑に落ちるはずである。なお、この怪光(石)現象は私は原因を想起出来ない。所謂、地殻内の圧力によるプラズマ発生ともされる地震光かとも考えたが、ここでは実際にその光が二、三十歩を照らすほどの明るさであるというのはそれと附合しないと思う。識者の御教授を乞う。]

 

 されば

「此等の内にや」

と、色々宮殿の火をためすに、中々さにも非ず。火の色は黃にして常の灯なり。靑き妖火の類(たぐひ)とは見えず。只神靈の然らしむることゝ覺ゆ。此神の靈は度々(たびたび)にして常の如し。堂再建の時も、近所の老人の枕上に立ちて、再興を乞ひ給ふこと幾人もありし。夢裡(ゆめうち)の裝束(さうぞく)かたり合ひて見るに、皆同じ事なり。再興終りて拜殿の屋根をこけらに葺(ふ)く。然るに誤ちて屋根より落つる大工ありし。然るに恙なし。屋根より落ちなば、本殿の石の階(きざはし)に打たれて甚だ痛むべきなるに、此大工落ちたる時、下に赤衣(しやくえ)の袴着て烏帽子(えぼし)召したる人出で、抱きて社殿の内に入れらるゝと覺ゆ。故に痛まず。何ぞ屋根より落つるとて、四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]も違ふ拜殿の中へ臥するの理(ことわり)あらん。眞に冥慮とぞ見えし。【大工には非ず、手傳(てつだひ)の息子なり。越前屋惣五郞と云ふ者の子なり。】故に大工の親一跡(いつせき)を賣りて、御戶帳(みとちやう)を拵へ、其日に寄進すと聞ゆ。

[やぶちゃん注:この割注は注目すべきところで、父の手伝いにきたうら若い青年或いはちょっと年嵩の少年(父の正式な弟子になっていないから若いと考えるべき)なのである。本話の以下の神霊の愛童の性質の本筋と繋がるのである。

「越前屋惣五郞」不詳。

「一跡」後継ぎに譲るべき全財産。身代。まあ、ここは、その時に実際に持っていた金を総て、といった謂いであろう。

「御戶帳」「御斗帳」とも書く。仏像などを安置する厨子などの上に懸ける覆い。金襴・錦など美しい高級な布で作られる物が多い。斗(ます)を伏せたような形をしていることからかく呼ぶ。]

 

 又其後漁人の夢に告げて、

「鮹(たこ)の頭を備ヘよ」

となり。其頃鮹來(きた)ることなし。然れども告げに任せ、鰯網(いはしあみ)をかへて鮹網を入るゝに、大(おほい)に鮹を得たり。

 早速此頭(あたま)に米を添へて献供(けんぐ)すと聞ゆ。

 安永の頃も、神輿又一つ新しく出來(しゆつたい)せしに、此人足(にんそく)の内に親(おや)死して十日許なる者交(まぢは)り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大(おほい)に疵(きず)付きしことあり。靈罰も又いちじるし。

 小兒を愛し給ふこと、諸社にすぐれて甚し。不思議にも小兒集り、此拜殿を荒し遊ぶこと、いかなる雨風(あめかぜ)の日といへども絕えず。雪二三丈に及ぶ日も、小兒二三人は必ず來り遊ぶなり。然して戶の鍵をはづし、神供をあらす。然れども是を叱れば、叱る人に祟りて、小兒には咎めなし。故に役人なる人は格別、下僕などは小兒を追ふことならず。只大いに一威を恐る。一年(ひととせ)小兒御神躰を盜み出(いだ)し、大皷(たいこ)をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る。近隣の人大いに恐れ、小兒を叱り御神躰を本(もと)の所へ納む。其夜の夢に、

「汝等いかなれば構ふこと斯(かく)の如きぞや。神慮終日小兒と遊びて樂(たのし)むに、汝が爲に興(きよう)盡きたり。然れども是本(も)と神忠に出づ、故に祟りをなさず。重ねて如斯(かくのごとき)の事あらぱ大(おほい)に罰せん」

とありし。小兒へは一向咎(とがめ)なし。御本躰の失ひたるも多し。小兒の業(わざ)なる時は咎めなし。御本躰は一尺許の木像なり。【一說に、弘法大師作正觀音(しやうくわんのん)共(とも)云ふ。然れ共衣冠正しく見ゆ。神躰實(じつ)なり。】初めは二十一躰ありしよし。今は八躰ならではなし。然れども賞罰同じ事なり。

 此(この)靈威にして此和柔(なごやか)なるの理(ことわり)計り難し。實(げ)に小兒を好き給ふと見ゆ。布袋和尙は川渡りにもあたまをいたゞき、地藏菩薩は賽(さい)の河原に石積みて鬼に詑び給ふも、慈悲計りにはあらじ。元來天性(てんせい)小兒好きより事發(おこ)ると覺ゆ。

 菅相丞(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末(すゑ)通らば人程有難きものはあらじ」

と宣ひ、貞德法師はふり袖着て交り、長頭丸(ちやうづまる)の童(わら)べ好(ず)き聞えし。

 然るに儒者先生殿のみ小兒の遊びを叱り廻(まは)し、作り馴れたる澁面(じふめん)にかたいぢなるを仕似(しに)せとす。是れ此門の「店(たな)の出しそこなひ」にて、不はやり思ひ知らるゝなり。只々此神の和光、人近き咄(はな)しを聞くに付けて、尊(たつと)さ優(まさ)りし心地して、予が唐好(からずき)の癖も、少しは薄らぎ覺えしも又神思(しんし)にや。

[やぶちゃん注:「備へよ」はママ。「供へよ」。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「親死して十日許なる者交り出でしに、神輿の棒倒れて額に當り、大に疵付きしことあり。靈罰も又いちじるし」ここは単に死穢を嫌ったもの。

「一年小兒御神躰を盜み出し、大皷をたゝき、つれ、杖に荷ひて跳り廻(まは)る」底本は「大皷をたゝきつれ、」であるが、どうもおかしいのでかく読点を特異的に挿入した。「つれ」はその悪童の「連れ」の意で採ったのである。一貫して小児は複数形ではないが、複数でやったほが賑やかでよいではないか。太鼓を担うのも杖で二人の方が叩き易かろう。

「神躰實(じつ)なり」二行割注のため、よく見えない。「寳」のように見える。但し、「近世奇談全集」は『實』であり、神体が宝なのは当たり前だから、ここは御神体が鏡などのシンボルではなく、実際の像であることを言っていると採った。

「布袋和尚は川渡りにもあたまをいたゞき」よく意味が判らぬ。子どもらを面白がらせるために蛸坊主のようにしてという意味か。伝説の仏僧布袋和尚(唐末から五代時代にかけて明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされ、本邦では専ら七福神の一人として知られる)は、沢山の子ども(十八人とも)を引き連れていたと言われており、小難しい説法をせず、笑顔で子どもたちと遊んだとも伝えるので、ここに例として出すのは腑には落ちはする。

「菅相丞」菅原道真。(くわんしやうじやう)は小兒の遊びを見て、

「此心末通らば人程有難きものはあらじ」出典未詳。

「貞德法師」江戸前期の俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳。彼は別号にここに出る「長頭丸(ちょうずまる)」や保童坊があり、子供好きであったとされる。

「仕似(しに)せとす」必ずそれをトレード・マークとする。

「此門」儒家。

「店の出しそこなひ」当然あるべき態度としては誤った行為であること。

「不はやり」「不流行(ふばや)り」か。「評判が悪い悪しき姿勢」であることを言うのであろう。只々

「和光」「和光同塵」の略。元は「老子」の第四章にある「和其光、同其塵」からで、「光をやわらげて塵(ちり)に交わる」の意にして、「自分の学徳・才能を包み隠して俗世間と普通に交わること」を言う。仏語に転じて、仏・菩薩 が本来の威光を和らげ、塵に穢(けが)れた現世に仮の身を現わし、衆生を救うことをも指す。

「人近き」民に親しむ。

「予が唐好(からずき)の癖」麦水は和学より漢文学がお好き。

「神思」本邦の神の御心を無意識のうちに受けた精神の在り様(よう)。 ]

 

柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 丈艸 二

 

       

 

 元禄四年芭蕉が去来の落柿舎に滞在した時は、丈艸も訪問者の一人であった『嵯峨日記』四月二十六日の条に「史邦丈艸見ㇾ問」とあり、次の詩及(および)句が記してある。

[やぶちゃん注:「元禄四年」一六九一年。

「四月二十六日」二十五日の誤り。

「史邦丈艸見ㇾ問」「史邦・丈艸、問(と)はる」。]

 

   題落柿舎           丈艸

 深対峨峰伴鳥魚

 就荒喜似野人居

 枝頭今欠赤虬卵

 青葉分題堪学書

 

   尋小督墳

 強攪怨情出深宮

 一輪秋月野村風

 昔季僅得求琴韵

 何処孤墳竹樹中

 

 芽出しより二葉に茂る柿の実     丈艸

 

[やぶちゃん注:漢詩・発句の間は一行空けた。漢詩は実は訓点附き(ここでは各句末に句点まで打たれてある)であるが、向後は白文で示す。五月蠅くなるだけで、しかも一部で記される読みが現代仮名遣という気持ちの悪いもので、凡そ完全には電子化する気が起きないものだからである。今まで通り、以下に正字正仮名で一応本文のそれに概ね沿いながら訓読文を附す。但し、恣意的に正字とし、歴史的仮名遣を用い、句点は排除し、一部に字空けを施す。

 

  落柹舍に題す           丈艸

深く峨峰(がほう)に對し 鳥魚(てうぎよ)を伴ふ

荒(くわう)に就き 野人の居に似たるを喜ぶ

枝頭(しとう) 今 缺く 赤虬(せききう)の卵(らん)

靑葉(せいえふ) 題を分かちて 書を學ぶに堪(た)へたり

 

  小督(こがう)の墳(つか)を尋ぬ

强(た)つて怨情(ゑんじやう)を攪(みだ)して 深宮を出づ

一輪の秋月(しうげつ) 野村(やそん)の風

昔季(せきねん) 僅かに琴韵(きんいん)を求め得たり

何處(いづこ)ぞ 孤墳(こふん) 竹樹(ちくじゆ)の中(うち)

 

芽出(めだ)しより二葉(ふたば)に茂る柹の實(さね) 丈艸

 

「落柹舍に題す」の語注。

・「峨峰」嵯峨の峰々。

・「鳥魚を伴ふ」鳥が楽しく囀り鳴き、魚が気儘に泳ぎ回っている。

・「荒」落柿舎への野道は荒れるに任せて。

・「野人」野夫(やぶ)。田舎の農夫。本来なら持ち主の去来を形容するが、ここはそれを芭蕉に置き換えている。

・「枝頭 今 缺く 赤虬の卵」枝先に今は柿の実はなっていないけれど。「赤虬」「虬」(きゅう)は「虯」(きゅう)の俗字で、本来は蛟(みづち=龍)の子の中で二本の角のある虯龍のこと。「赤い虯龍の卵」から転じて「赤く熟した柿の実」の異名である。]

・「靑葉 題を分かちて 書を學ぶに堪へたり」青々としたその若葉は、種々の詩歌を詠んで書きつけるに相応しい。木の葉に詩歌を記す故事は多い。

 

「小督の墳を尋ぬ」の語注。

・「小督」「平家物語」で知られる高倉天皇の寵姫小督(保元二(一一五七)年~?)が平清盛のために宮中から退けられて嵐山嵯峨野に隠棲し、そこに果てたと伝え、当時、既に複数の「小督塚」と伝えるものがあった。それは「去来 三」で詳しく考証して注したので見られたい。

・「强つて」已む無く。無理矢理。「出づ」を修飾する語。清盛の横暴によって帝への慕情を「已む無く」断ち切って身を引いたことを言う。

・「一輪の秋月 野村の風」隠棲した嵯峨野の荒涼寂寞をシンボライズする。

・「昔季 僅かに琴韵を求め得たり」「琴韵」は琴の調べで、ここは「平家物語」で、源仲国が高倉天皇の命で小督の隠居所を尋ねたとされるエピソードを受けた、謡曲「小督」に基づくもので、琴の音を頼りに仲国が小督を探し当てて対面する部分を裁ち入れたもの。]

 

丈草の句、

 芽出しより二葉に茂る柹の實

「二葉」は実際の柿の実から芽を出した小さな二葉を以って「茂る」と見立て、秋の赤き実の壮観を匂わせたもの。タルコフスキイの「惑星ソラリス」の終わり近くの印象的な窓辺の容器からの発芽のシーンを私は図らずも想起した。]

 

 本によってはこの「芽出しより」の句を史邦の作とし、「途中の吟」という前書のある「ほとゝぎすなくや榎[やぶちゃん注:「えのき」。]も梅さくら」の句を丈艸としているそうである。「ほとゝぎす」の句は『己(おの)が光』にも丈艸として出ているから、あるいはその方が正しいのかも知れぬ。同時に来た二人の訪問者の句が、記さるるに当って混雑するなどということは、決してあるまじき次第ではない。同じく二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合(つけあい)あり、四句目に丈艸の「人のくむうち釣瓶(つるべ)まつなり」というのがある。誰も一句しかないところに丈艸だけ二度出るのは妙だから、発句を史邦とすれば工合がいいようであるが、『一葉集』の方で見ると、「人のくむうち」は凡兆になっている。いよいよ出でてわからない。『丈艸発句集』には「芽出しより」も「ほとゝぎす」も両方入っているが、前者を『嵯峨日記』に拠り、後者を『己が光』に拠ったとすれば、それまでの話である。『去来発句集』の前書には「芽立より二葉にしげる柿の実と丈艸申されしも」云、ということが見えるから、丈艸としても差支ないかと思う。但いずれにしてもこの両句は丈艸のために重きをなすほどのものではない。

[やぶちゃん注:「己が光」車庸編。元禄五(一六九二)年刊。

「同じく」「嵯峨日記」『二十六日の条には「芽出しより」の句を発句として五句の附合あり』

「一葉集」「俳諧一葉集」。仏兮(ぶっけい)・湖中編に成り、文政一〇(一八二七)年刊。言わば、松尾芭蕉の最初の全集で、芭蕉の句を実に千八十三句収録し、知られる俳文・紀行類・書簡・言行断簡(存疑の部なども含む)をも所収する優れものである。大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊の活字本の国立国会図書館デジタルコレクションのここと次のここで確かに丈草とする。以下に五句附合部分を電子化しておく。

   *

廿六日

 

芽出しより二葉に茂る柿の實      丈草

 はたけの塵にかゝる卯の花      芭蕉

蝸牛たのもしげなき角ふりて      去來

 人のくむうちを釣瓶まつなり     丈草

有明に三度飛脚の行やらん       乙州

 

   *]

 

 丈艸の漢詩は相当作品があるらしいが、この二首の如きも嵯峨を背景としているだけに、特に看過しがたいものがある。小督の塚は芭蕉も落柿舎へ来た翌日に弔っている。「墓は三軒屋の鄰、藪の中にあり。しるしに桜を植たり。かしこくも錦繡綾羅の上に起ふして、終に藪中の塵芥となれり。昭君村の柳、巫女廟の花のむかしもおもひやらる」といい、「うきふしや竹の子となる人の果」と詠んだのが、「昔季僅得求琴豹。何処孤墳竹樹中」に当るわけである。

[やぶちゃん注:以上は「去来 三」の私の注を参照されたい。]

 

 芭蕉の遺語として伝えられたものの中に、次のようなことがあった。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

正秀(まさひで)問[やぶちゃん注:「とふ」。]、古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す、一集一作者にかやうの事例(ためし)あるにや、翁曰[やぶちゃん注:「いはく」。]貫之の好(このめ)ることばと見えたり、かやうの事は今の人はきらふべきを、昔はきらはずと見えたり、もろこしの詩にも左様の例あるにや、いつぞや丈艸の物語に、杜子美(としび)に専ら其(その)事あり、近き詩人の于鱗(うりん)とやらんの詩におほく有事とて、其詩も聞つれどわすれたり。

或禅僧詩の事を尋られしに、翁曰、詩の事は隠士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人も名をしれるなり。かれ常に云、詩は隠者の詩、風雅にてよろしとなり。

[やぶちゃん注:「俳諧一葉集」(大正一四(一九二五)年紅玉堂書店刊)を国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、「遺語之部」のここに前者が(左の「541」ページ後ろから七行目)、ここに後者があった(左の「605」ページの前から四行目)。

「古今集に空にしられぬ雪ぞ降ける、人にしられぬ花や咲らん、春にしられぬ花ぞ咲なる、一集に此三首を撰す」正秀の謂いには誤りがあり、最初のそれは、

   亭子院歌合に

 櫻散る木(こ)の下(した)風は寒からで

     空に知られぬ雪ぞ降りける

で貫之の歌ではあるが、「古今和歌集」ではなく、「拾遺和歌集」の「巻第一 春」に所収するものである(六四番)。以下は「古今和歌集」。

   春の歌とて、よめる      貫之

 三輪山をしかも隱すか春霞

     人に知られぬ花や咲くらむ

        (「巻第二 春歌下」・九四番)

   冬の歌とて、よめる    紀 貫之

 雪降れば冬ごもりせる草も木も

     春に知られぬ花ぞ咲きける

        (「巻第六 冬歌」・三二三番)

因みに、この遺語は芥川龍之介が「芭蕉雜記」の「十一 海彼岸の文學」に順序を逆にして引いている。その解析は驚くべく緻密なものである。リンク先の私の古い電子テクストを是非読まれたい。宵曲は或いはそれを知っていて、しかもやや嫉妬染みて紹介しなかったものかも知れない。]

 

 元禄人の漢詩に対する造詣は、固より今人の揣摩(しま)を許さぬ。杜詩を愛して最後まで頭陀(ずだ)に入れていたという芭蕉が、特に二人の説を挙げて答えているのは、頗る注目に値する。元禄の俳諧はその初期に当り、漢詩によって新生面を開いたと見るべき点がある。素堂は『虚栗』以前からの作家であり、漢詩趣味の人として自他共に許しているのみならず、芭蕉よりやや年長であるから、その説を引くのに不思議はない。年少の門下たる丈艸の説を特に引いているのは、漢詩に対する造詣の自ら他に異るものがあったためであろう。丈艸は俳諧に志すことが遅かったから、其角以下の諸作家の如く、形の上に現れた漢詩趣味はむしろ稀薄であるが、それは前に述べた禅臭の乏しいのと同じく、造詣の露出せざる点において、丈艸の風格の重厚なる所以を語るものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:「揣摩」「揣」も「摩」もともに「おしはかる」の意で、他人のことなどをあれこれと推量すること。]

 

 『猿蓑』以後における丈艸の句にはどんなものがあるか、少しく諸書から抄出して見ることにする。

 はね釣瓶蛇の行衛や杜若      丈艸

[やぶちゃん注:「はねつるべへびのゆくゑやかきつばた」。カット・バックで面白いが、ちょっと贅沢に対象を詰め込み過ぎていて、感興を引き出すのが「行衛や」だけで今一つパンチに乏しくなってしまった憾みがある。]

 辻堂に梟立込月夜かな       同

[やぶちゃん注:中七は「ふくろたちこむ」。月皓々たる中に、それを避けて梟が辻堂にぎっしりと籠っているのである。明暗を逆手にとった佳句である。]

 草庵の火燵の下や古狸       同

[やぶちゃん注:「火燵」は「こたつ」。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」で、『貞享五』(一六八八)『年八月、丈草が病気を理由に遁世したあと、参禅の師玉堂和尚に所縁を求めて居を定めた京都深草の庵でのことであろう』と注されておられる。]

 しら浜や犬吠かゝるけふの月    同

[やぶちゃん注:松尾勝郎氏編著「蝸牛 俳句文庫17 内藤丈草」(一九九五年蝸牛社刊)によれば、『元禄六』(一六九三)『年の、仲秋』『八月十五夜の月』(「けふの月」でその日を特に指すことが出来る)を『惟然・洒堂たちと淀川に』『賞した折の句』とある。]

 藁焚ば灰によごるゝ竈馬かな    同

[やぶちゃん注:上五は「わらたけば」、「竈馬」は「いとど」。これはもう真正の直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ Diestrammena apicalis でなくてはならない。かすかな赤いグラーデションが見える。好きな句である。]

 くろみ立沖の時雨や幾所      同

[やぶちゃん注:上五は「くろみだつ」、座五は「いくところ」。広角レンズで琵琶湖の沖を撮る。よく見ると、そこにところどころ黝(くろ)ずんだところが、幽かにぼやけるように動いて見える。それが動いてゆく時雨の驟雨のそれなのだ、というランドマークにダイナミズムを与えた丈草の名句に一つである。宵曲も後で述べるように、この「藤の実」所収の句形が素晴らしい。「炭俵」の「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」ではレンズが望遠で画面中の動的対象が一つに絞られて、完全に興が殺がれる。]

 朝霜や聾の門の鉢ひらき      同

[やぶちゃん注:中七は「つんぼのかどの」。「鉢ひらき」は「鉢開き」で「鉢坊主」のこと。所謂、托鉢して金品を乞い歩く僧を言う。]

 ほそぼそと塵焚門の燕かな     同

[やぶちゃん注:中七は「ちりたくかどの」。モノクロームに焚く火のたまさかに燃え上がる赤と、ツバメの喉と額の紅がさっとかすめて、部分彩色される。素敵な句だ。]

 野馬のゆすり起すや盲蛇      同

[やぶちゃん注:「野馬」は「かげろふ」と読む。座五は「めくらへび」。「陽炎」を「野馬」と表記するのは「荘子」の「逍遙遊篇」に基づくもの。岩波文庫(一九七〇年刊)の金屋治訳注の注によれば、『郭注に「野馬とは游気なり」とあり、成玄英の疏』『は「青春の時、陽気発動し、遙かに藪沢の中を望めばなおなお奔馬の如し。故に野馬という。」と説明する』とある。「盲蛇」は未だ寝坊の、冬眠から覚めぬ地中の蛇を言ったものであろう。「野馬」という当て字が非常に上手く機能して心理上の画像を豊かにしている。]

 うかうかと来ては花見の留守居かな 同

 人事の句が少いのは『猿蓑』已に然りであった。その後においてもこの傾向に変りはない。「うかうかと来ては」の句がその点でやや珍しいものであるが、花見そのものでなしに、「花見の留守居」であるところはやはり丈艸である。この句には丈艸一流の滑稽趣味の存することを見逃し難い。

[やぶちゃん注:堀切実氏の前掲書では、『春の日和につられて、うかうかと親しい人の家を訪ねたら、ちょうど一家そろって花見に出かけようとするところ、つい留守居を頼まれて引き受けてしまい、そのまま一日中その家に過ごすことになってしまったというのである。これはしくじったという気持もあろうが、まあ、これも一興よと留守居を楽しむ気分が中心であろう。隠棲の身とて、家族もなく、俗用もない気楽な丈草の立場が軽妙で剽逸な味わいとなって表われている』とされた上で、「留守居」について語注され、『留守番をすること。①花見に出かけたあとの留守番、②花見をしながらの留守番、の両解があり、西村真砂子氏は、江戸幕府職名の一「留守居役」にひっかけて、気取った言い方をしたもので、②の解がふさわしいとする』とある。私も花も何もない留守居では淋しい。一本(ひともと)の小さな桜の木を留守居宅の庭に配したい。さればこそ、「花見の留守居かな」がモノクロームから天然色に代わる。]

 

 ほそぼそと芥を焚く門の燕も悪くない。藁灰に汚れる竈馬に目をとめた点にも、その微細な観察を窺い得るが、就中(なかんずく)元禄俳諧の骨髄を捉えたものは、「くろみ立沖の時雨」の一句であろう。眺めやる沖の方は時雨が降っているために、幾所も黒み立っている。空も波も暗い。そういう海上の光景がひしひしと身に迫って来る。去来にも「いそがしや沖の時雨の真帆片帆」という句があり、句としては働いているけれども、この丈艸の句のような蒼勁(そうけい)な力がない。自然に迫るものを欠いている点で竟(つい)に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)さねばなるまいと思う。『炭俵』には「黒みけり沖の時雨の行(ゆき)どころ」となっているが、「くろみ立」の方が調子が強い。「行どころ」は「幾所」に如かぬようである。

[やぶちゃん注:宵曲の、去来の句との比較も含めて、全面的に支持するものである。

「蒼勁」筆跡や文章が枯れていて、しかも力強いさま。

「一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)」すは「一段階、劣る」「一歩、譲る」の意。「籌」は実務や占術に於いて数を数えるのに用いた木の串(くし)で、「輸する」の「輸」には「致す・運ぶ・移す」以外に「負ける・負け」の意があり、ここはそれ。もともとは宋の陸游の詩「九月六夜夢中作笑詩覺而忘之明日戲追補一首」の最終句「道得老夫輸一籌」に基づくという。]

 

 大はらや蝶の出てまふ朧月     丈艸

[やぶちゃん注:堀切氏は前掲書で、「北の山」(句空編・元禄五(一六九二)年刊)の句形、

 大はらや蝶のでゝまふ朧月

で本句を示され、『朧月の夜、大原の里を逍遥していると、ほのかな明かりの中に白い蝶がひらひらと舞っているのが眼に映った、というのである。洛北の大原は『平家物語』や謡曲の『大原御幸』で知られる歴史的由緒のあるところ、朧夜に浮かび出た蝶は、あるいはこの地に隠棲した建礼門院の精霊の幻覚であるのかもしれない。「でゝ舞ふ」には、あたかも能舞台にシテが登場してくるときのような趣も感にられよう。句は、そうしたよ〝実〟と〝虚〟の入り交じった夢幻的な世界を一幅の画のようにとらえているのである。そニに作者の詩情が見事に形象化されているわけである。蝶は夜飛ばないものとされるが、作者の眼には確かにそれが蝶と映ったのであろう』と評釈され、語注されて、「大はら」は『洛北(京那府愛宕郡)の大原の地名とみる説と洛西(同乙訓郡)の大原(大原野)とみる説がある。前者は『平家物語』濯頂巻の「大原御幸」や謡曲『大原御幸』で知られ、建礼門院の庵室であった寂光院や三千院がある。また後者とみる説は地形的な点を考慮に入れた見解である。両者ともに「朧の清水」なる名所をもっている』とあり、「蝶」には、『春の季題。蝶は夜間飛ばないものという非難があるが、たとえ蛾などの虫であったにしても、作者はそれを蝶として詠んだものとすれば、それはそれで差し支えあるまい』とされる(「朧月」も春の季題である)。さらに、『出典とした『北の山』以外は中七「出て」とあり、これを「イデテ」と読む説もあるが、『北の山』の句形に従って、「デテ」と読むべきである。また去来の「丈草が誄」(『本朝文選』巻六・『幻の庵』所収)によれば、去来が知友の句を集めて深川の芭蕉に送ったところ、芭蕉が丈草のこの句について「この僧なつかしといへ」と返書に記して寄こしたと伝えられる。なお、出典としてあげた『幻の庵』』(魯九編・宝永元(一七〇四)年自跋)『では、去来の追悼詞(「丈草誄」と同文)中に出ている句である。元禄四年春、加賀から上洛した句空とともに大原に遊吟した折の作と推定される』とある。なお、夕刻陽が陰ってからでも飛翔する蝶はいる。渡りをする蝶は早朝暗い時間から飛び始める。実際、摂餌もパートナー探し(紫外線が必要)も出来ず、夜行性の他の動物に捕食されるリスクも高まるから、夜に蝶が飛んでメリットはないから、殆どの蝶は飛ばないことは事実である。しかし、文芸、特に和歌や発句に博物学的な正確さを要求するようになるのは、実際には近代以降の喧騒に過ぎず、堀切氏の言うように、丈草には見えたのだという〈詩的幻想〉で何ら問題ない。寧ろ、「これはあり得ない」と切り捨てる馬鹿に付き合ったり、これこれの種が朧月夜のこの時間帯なら飛ぶのでその種であると学名を記して鼻白ませる者を相手にする必要など、ない。但し、私はこれを以って丈草の代表句の一つに数えるのには、やや躊躇するものである。]

 

 雨乞の雨気こはがるかり著かな   同

[やぶちゃん注:「あまごひの あまけこはがる かりぎかな」。堀切氏は前掲書で、『それぞれに装いをした村人たちがそろって神社に集まり、雨乞いの祈願をしているが、その中には衣裳が借着であるために、黒雲が出てきて雨の降りそうな空に内心気が気でない者もいるようだ、というのである。人情のかかしみを道破したところに、俳意が働いている』と評釈しておられる。]

 

 蘆の穂や顔撫揚る夢ごゝろ     同

[やぶちゃん注:中七は「かほなぜあぐる」。堀切氏の前掲書評釈には、『舟旅をしているときのことであろう。舟が芦間を分けて進むとき、風にそよぐ岸辺の芦が舟端に仮睡していた自分の顔をすっと撫で上げたのを、半睡半醒の夢ごこちのうちに感じたというのである。前書がなく、表現が不十分なのが欠点であるが、いかにも世を捨てて自在な境地にあった丈草らしい一句といえよう』とある。]

 

 水風呂の下や案山子の身の終    同

[やぶちゃん注:「水風呂」は「すいふろ」。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似るところから、桶 の下に竈(かまど)が取り付けてあって浴槽の水を沸かして入る風呂。「据(す)ゑ風呂」とも言う。「案山子」は「かがし」と濁っている(語源・表記については江副水城氏のブログ「日本語の語源〜目から鱗の語源ブログ〜」の「【かかし】の語源」が目から鱗、必読!)。座五は「みのをはり」。]

 

 榾の火やあかつき方の五六尺    同

[やぶちゃん注:「榾」は「ほだ」。囲炉裏や竈で焚く薪(たきぎ)。掘り起こした木の根や樹木の切れ端。「ほた」と清音でも発音する。堀切氏前掲書に、『山家などに旅寝でもした折の吟であろう。暁方の寒さに起き出して炉に投げ入れた榾の火が、暁闇の中でぱあっと五、六尺の高さにも燃え上がったという光景である。冷え込んだ室内の空気の中に、勢いよく真っ赤に上がる榾の炎が強烈な印象で眼に映じたのである』とされ、『草庵独居の炉辺のさまとみる説もある』とある。]

 

 「大はら」の句は丈艸の句として人口に膾炙したものの一である。去来の「丈草誄」の中に「先師深川に帰り給ふ比、此辺の句ども、書あつめまいらせけるうち、大原や蝶の出て舞ふおぼろ月などいへる句、二つ三つ書入侍りしに、風雅のやゝ上達せる事を評し、此僧なつかしといへとは、我方への伝へなり」とあるのを見れば、当時から評判だったものに相違ない。後世のものではあるが『俳諧白雄夜話』はこの句について次のような話を伝えている。

[やぶちゃん注:『去来の「丈草誄」』榛原守一氏のサイト「小さな資料室」のこちらで全文が正字正仮名で電子化されてある(因みに、このサイトには源義経の「腰越狀」芥川龍之介の詩「相聞」など、私のサイトへのリンクが附されたものがある)。

「俳諧白雄夜話」天保四(一八三三)年刊。ここ(「国文学研究資料館」の画像データベース。左頁の後ろから三行目「一大はらのおほろ月」と次のページにかけて)。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。]

 

  大原や蝶の出てまふ朧月

丈艸の句也、蕉翁の曰、蝶の舞さまいかゞあらんやと聞給ひしに、さく夜大原を通りてまさに此姿を見侍りぬと、翁曰、しかるうへは秀逸たるべし、誠に大原なるべしとぞ頌歎[やぶちゃん注:「しようたん」。]浅からずありしと。

 

 蝶が果して夜飛ぶか否かについては、芭蕉も先ず疑ったが、丈艸が実際そういう景色を見たというのを聞いて、それならよろしい、といったのである。丈艸は譃をいうような人とも思われぬ。近代科学の洗礼を受けた人たちは勿論、芭蕉以上にこの蝶の実在性を疑っている。夜飛ぶとすれば蛾に相違ないというのであるが、朧月夜に蛾の飛ぶというのも、何だか少しそぐわぬところがある。丈艸は『白雄夜話』にある通り、実際大原においてこういう光景に接し、特殊な興味を感じてこの句を作ったのではあるまいか。近代人の一人たる北原白秋氏の歌集にも、月夜の蝶を詠じたものがあるからである。

   ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

   現(うつつ)なき月夜の蝶の翅(はね)たゝき藤豆の花の上に揺れてをる

 この二首は丈艸の句よりも遥に写生的であるだけに、自然観察における実在性を疑う余地はあるまいと思う。自然界の現象の中にぱ、われわれのような見聞の乏しい者の速断を許さぬものがしばしばある。月夜を飛ぶ蝶にも何か理由があるのかもわからない。

[やぶちゃん注:以上の白秋の二首は詩歌集「雀の卵」(大正一〇(一九二一)年アルス刊)の中の「月下の蝶」と標題した二首(のみ)であるが、

 ふと見つけて寂しかりけり月の夜の光に白き蝶の舞うてゐる

 現うつつなき月夜の蝶の翅たたき藤豆の花の上に搖れてをる

とある。しかし、残念なことに、同詩歌集の序の中で一部の決定稿の推敲過程を並べて見せている中に、前者の原作として、

 ふと見つけて淚こぼるる月讀の光に白い蛾が飛んでゐる

を示してしまっている。即ち、白秋の見た実景は「蝶」ではなく、「蛾」であったことが明らかとなっているのである。さすれば、二首目それも実は蛾である可能性がいやさかに高くなるのである。まんまと宵曲は騙されたわけであった。

 

 但この「大はら」の句は、古来有名な割に、丈艸としては最高峰に立つ作ではないようである。人口に膾炙する所以はその辺にあるのであろうが、美しい代りに迫力には乏しい。蝶が夜飛ぶという特色ある景色も、大原に対する詠歎的な気持に覆われた憾(うらみ)がある。

 「雨乞」の句、「水風呂」の句にはまた例の滑稽趣味がある。滑稽としてはあくどいものではないが、いささか理が詰んでいるため、上乗のものとは目し難い。この点ではむしろ前にあった「草庵の火燵の下や古狸」の句を推すべきであろう。これらの句は見方によっては滑稽ではないかも知れない。但丈艸の滑稽趣味ということを念頭に置いて見る時、これらの句も一応留目する必要がありそうに思う。それほど彼の滑稽は淡いのである。

 「榾の火」の句は佳作とするに躊躇せぬ。「くろみ立」の句とは多少種類を異にするけれども、元禄俳諧の骨髄を捉えている点に変りはない。こういう句の人に迫る力を、文字で説明するのは困難である。「大はらや」の句などと併せ誦すれば、丈艸の面目の彼にあらずしてこれに存することは何人も認めざるを得ぬであろう。芥川氏は丈艸を説くに当って、二度とも「大はらや」及「榾の火」の二句を挙げていた。丈艸の句の幅を示すためには、固より両者を示さなければなるまい。ただ丈艸の真骨頂は、有名なる「大はら」よりも、比較的有名ならざる「榾の火」によく現れていることを語れば足るのである。

[やぶちゃん注:「一」で述べた芥川龍之介の『「續晉明集」讀後』(正確には初出は『几董と丈艸と――「續晉明集」を讀みて』)と「澄江堂雜記」の「丈草の事」を指す。]

三州奇談續編卷之八 妙年の河伯

 

    妙年の河伯

 新川郡(にひかはのこほり)滑川(なめりかは)は大鄕にして、其稱する滑川を知らず。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」

と是を尋ぬるに、滑川は古名にて、元來川あり。今は海入り來て、其水源なる中河原村の小淸水に近し。纔(わづ)かに湧出づる水なり。昔は「小濱松」と云ひしより寺家(じけい)・神家(じんけ)と川を隔(へだ)て、兩側ありしよし。今は町名に殘れり。濱表は伏木と云ふ。伏鬼千軒の號殘れり。賑はしき湊のよし。

「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」

とにや。今の地は辰尾にして、小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ。町の東に櫟原(いちはら)の神社あり。式内の神なり。辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや。是等の號皆々變じて、小名(こな)の滑川を總名となすも又因緣と覺ゆ。西に「水橋の渡り」あり。是は常願寺川の末(すゑ)にして甚だ深く、水所々より落合ふといへども、「あまが瀨」と云ふ渡りあり。義經奧州下りの頃、畑等(ハタケラ)右衞門尉といふもの、此渡り瀨を敎へしとて、今に畑等淸兵衞とて百姓の中に其後孫あり。今も飛脚など、此家に渡りを習ひて打渡り、舟の隙入(ひまいり)を免かるゝとかや。世には飛鳥(あすか)の川もあるに、數百年の今日迄淵・瀨替らざるも又妙なり。扨は水中靈あること怪しむに足らんや。湘靈鼓瑟(こひつ)の事を聞けば、舜(しゆん)の二女(にぢよ)猶水底に瑟を鳴らせるとかや。左(さ)もあるべし。越中は大川多き所なり。俗諺あり。折々は深淵に鈴の音(ね)あり、小兒の踊る時に袂に鈴ありて鳴るに似たること多し。究むべき道もあらねば、誰(たれ)見とむる者もなし。

[やぶちゃん注:標題は「みやうねんのかはく(みょうねんのかはく)」と読んでおく。「妙年」は「妙齢」と使う如く、「妙」は「若い」の意で「若い年頃」。先例に徴して「かはく」と読んだが、「近世奇談全集」の本文ルビは『かつぱ』である。しかし、以下の叙述は明らかに中国起原の記載となっているので、従わなかった。河伯は本来は中国の河川に棲息する異獣で、本邦の河童とは形態の一部がやや類似してはいるものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物であって河童とは異なる。河童はあくまで日本固有の妖怪である。

「新川郡滑川」現在の富山県滑川市(グーグル・マップ・データ)。

「其稱する滑川を知らず」「今、この地に滑川という川は存在しない」の意。

「若しや靑砥左衞門が付けしか」鎌倉後期の武士青砥藤綱。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 滑川」及びそこにもリンクさせた私の「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」を読まれたい。麦水がかく言ったのは、その有名な錢探しのエピソードが鎌倉の滑川(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることに拠る。現在の鎌倉市浄明寺のここに「青砥藤綱邸舊蹟碑」があり、エピソードのロケーションとされる「青砥橋」があるが、実際のロケーションはずっと下流の現在の「東勝寺橋」附近ともされる。しかし、実はこの人物自身、実在が疑わしい。

「其水源なる」「なる」は存在を意味する用法で「というのは」の謂い。

「中河原村の小淸水」不詳。位置的に見ると、滑川市清水町が相応しいか。

「小濱松」不詳。

「寺家(じけい)」滑川市寺家町(じけいまち)。読みは現在の行政地名に従った。

「神家(じんか)」滑川市神家町(じんかまち)。同前。

「川」早月川水系と思われる。

「濱表は伏木と云ふ」不詳。現存しない。「今の放生津(はうじやうづ)のあなたへ引きし伏木と云ふは爰(ここ)なり」と後に出るから、高岡市伏木へと移転したというのか? こんな話は伏木に六年いたが、聴いたことがない。ともかくも滑川の「伏木」の地名は早い時期に消失してしまったものと見える。しかし、この辺り、記載の意味がよく判らない。

「伏鬼千軒」不詳。

「賑はしき湊のよし」滑川漁港のことか。

「辰尾」富山市辰尾があるが、「小川滑川の號(な)うつり來ると見ゆ」『辰尾の古名は「刀尾(タチヲ)」とにや』もどこを指し、叙述で何を意味したいかがよく判らぬ。

「櫟原(いちはら)の神社」ここ(滑川市神明町)。現在の呼称でルビした。「近世奇談全集」では『いちゐばら』とルビする。創建は大宝元(七〇一)年とも、また、人皇第十三代成務天皇の御宇の勧請で、文武天皇大宝年間の再興とも言う。ともかくも往時は相当な大社であったらしい。

「式内の神なり」「延喜式」の「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載がある。

「小名(こな)」村や町を小分けした小字 (こあざ) のこと。しかし、ここも何故、小字を「滑川」と称したかが、明らかとなっていない。それが分からなかったことが麦水をしてこのよく判らない叙述となってしまったような気もする。

「水橋の渡り」富山市水橋町。常願寺川の河口の近く(東)で滑川市に東方部分が僅かに接している。

『「あまが瀨」と云ふ渡り』「富山市立水橋西部小学校」公式サイトの校長の談話の中に、自校の生徒を『天瀬っ子』と呼んでいるのを見つけた。場所は不明。

「畑等(ハタケラ)右衞門尉」富山市水橋畠等(みずはしはたけら)という地名を見出せた。しかも、これを調べるうちに、内藤浩誉氏の論文「川を渡る静御前」PDF)を発見、そこで詳細を尽くして、ここの義経伝説が載る。是非、読まれたいが、それによれば、常願寺川を古くは海士瀬川と呼んだとある。流域は恐らく変化していると思われるが、「あまが瀨」という水深の浅いそれは原常願寺川にあったものと判った。

「習ひて」場所を教えて貰って。

「隙入(ひまいり)」手間どること。時間がかかること。用事に時間をとられること。

「飛鳥の川」奈良県中西部を流れる大和川水系の川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、「明日香川」とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれた(ウィキの「飛鳥川(奈良県)」に拠る)。ここ

「湘靈鼓瑟」「湘靈 瑟を鼓(こ)す」で「楚辞」の屈原作と伝える「遠遊」の一句(第八段の中)の「使湘靈鼓瑟」(湘靈(しやうれい)をして瑟(しつ)を鼓(こ)せしめ)。「湘水の神である湘君に大型の琴(二十五弦の琴)を弾かせる」の意。湘君は楚の民の信仰の厚かった洞庭湖一帯の水神。以下にある通り、伝説によれば、伝説の聖王堯(ぎょう)の二人の娘であった娥皇(がこう)と女英(じょえい)は、堯を継いだ舜が、悪神三苗(さんびょう)を征伐するために、沅・湘(洞庭湖の南方一帯)の辺りに至った際、そこの蒼梧(そうご)の地で崩じたと聴いて、悲しんで自ら入水して水神となつたとされる。ここはその詩によれば、祝融(南方の火の神)が彼女たちにその水底で瑟を弾かせた、というのである。原文でよければ、「維基文庫」のこちらに全文がある。]

 

 然るに安永四年八月の事なりし。滑川の南有金(ありかね)村の傍(かたはら)に今井川と云ふあり。是(これ)這槻川(はひつきがは)の枝川(しせん/えだがは)なり。高月村專福寺は弓の庄(しやう)柿澤(かきざは)の圓光寺の二男なり。早朝用事ありて柿澤より專福寺へ歸ることありしが、此今井川に臨む。

 朝六半時(むつはんどき)頃の事なり。川に來りて向ひを見れば、岸に一人の小女(こをんな)ありて顏を見合(みあは)す。其顏色白きこと雲の如く、光ありて甚だ美麗、只(ただ)雛の如し。長(た)け二尺餘り。髮のかざりは常の如く、簪(かんざし)をはさむ。ゆるく步みて立てり。衣服を見るに五彩ありて見事なり。人間(じんかん)中の織物とは見えず。兩脚甚だ露(あら)はれ、着物は腰の廻(まは)りと覺ゆ。白き膝あらはに出でたり。手元・袖口のあたり網の如き物下り居(をり)て、手も又甚だ白し。人間(にんげん)に相異(あひことな)ることなく、只甚だ低し。

 專福寺と顏を見合すこと度々なり。笑(ゑみ)を含めるけしきにも覺ゆ。

 依りて專福寺總身汗出で、戰慄止(と)め難し。

 暫くして岸を來る商人(あきんど)二・三人連(づれ)なるものあり。

 此妖物(えうぶつ)人音(ひとおと)を忌みけん、暫く川緣(かはふち)によるよと見えしが、楊株(やなぎかぶ)の間(あひだ)より水に入るに、音もなく消ゆるに似て、又再び見えず。

 專福寺は暫く立去りかねしが、漸(やうや)く迎(むかへ)を待ちて、川を渡り過ぎて寺に歸る。

 下人顏色の異(い)なるに驚き、色々藥を調(ととの)へ養生をなさしむ。

 數日(すじつ)にして本復に至るとなり。

 是れを櫟原(いちはら)の神主(かんぬし)なる人に尋ねしに、答へて、

「是は必ず河伯(かはく)ならん」

となり。

 いろいろ聞き合(あは)するに、良々(やや)河伯に決定(けつじやう)す。

 思ふに是(これ)河伯水靈の類(たぐひ)にしては、甚だ幼童なるものと覺ゆ。

 湘靈の瑟を鼓するを思へば、是等は小女(こをんな)にして踊り遊ぶらんも計るべからず。

 扨は淵底やゝもすれば鈴音を聞きしも、若しや是等の河伯遊びむれて唄ふ折(をり)ならんか。

 郡(こほり)の名の新川(にひかは)に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理(ことは)りと云はんか。

[やぶちゃん注:「安永四年」一七七五年。

「有金(ありかね)村」滑川市有金

「今井川」不詳。有金は上市川の右岸であるが、同地区を少なくとも四つの細い川が現認出来る。或いはこれらの孰れかかも知れない。後の「這槻川の枝川なり」の「這槻川」が上市川のようには読めるように感ずる。

「高月村」滑川市高月町。上市川の河口右岸。

「專福寺」文脈上は人の名であるが、以下で「專福寺へ歸ることありし」とあるから、やはり寺の名である。因みに、富山市内には専福寺という同名の浄土真宗の寺が二ヶ寺、存在する。一つは富山市南田町に、今一つは富山市米田にある。孰れかは不詳。

「弓の庄柿澤の圓光寺」富山県中新川郡上市町柿沢にある浄土真宗大悟山円光寺

の二男なり。早朝用事ありて柿澤よりが、此今井川に臨む。

「朝六半時頃」午前七時頃。

「下人」専福寺の寺男。

「良々(やや)」ほぼ。概ね。(よくよく)河伯に決定す。

「郡の名の新川に比して見れば、河伯も又新川の名を免かれざるも又理りと云はんか」私が馬鹿なのか、ちっとも理屈に合っているとは思われない、というか、どこが符合するというのかも判らぬ。]

2020/07/25

三州奇談續編卷之八 唐島の異觀

 

    唐島の異觀

 氷見の唐島は、萬葉の頃は聞かずと雖も、國君を始め奉り、風騷の人の秀歌あまた聞ゆ。事多ければ略す。地は氷見の川口を離(はな)るゝ事十二町[やぶちゃん注:一キロ三〇九メートル。]、海中に孤立せり。遠望愛すべく、島に上(あが)りて又驚くに堪へたり。凡(およそ)竹生島(ちくぶしま)・江の島に類(たぐひ)す。元(も)と坤輪(こんりん)より岩を疊みて涌出(ゆうしゆつ)せる物なれば、風景豈(あに)俗物ならんや。大躰は前段に記す如く、遠くは佐渡を望み、近くは能越の嶺嶽累々と廻(めぐ)らし、海深く、蒼濱白砂(さうひんはくさ)、舟の行違(ゆきちが)ふものは浪に敷くに似たり。既に渡舟(わたしぶね)岸に至れば、石を飛び岩を這ひて上る。坂中(さかなか)鳥居あり。大巖(おほいは)には必ず六道能化(のうげ)の兄息子を彫む。本堂は辨財天、三間四面許(ばかり)莊嚴(しやうごん)せり。四方欄干の緣を廻る。大凡(おほよそ)堂景備前の島「あぶとの觀音」に類(るゐ)す。爰も向うの海中の飛島(とびしま)を「あぶが崎」と云ふ。能州にも「あぶや」の號あり。思ふに「あぶ」は蠻音(ばんおん)ならん。水を「あぶ」などいふ如く、舟路には蠻語の入交(いりまぢ)るものにこそ。扨(さて)堂の後ろの下り坂、岩をくぐり石に迫りて、刀頭(たちがしら)に蟹這ひ履下(りか)に蜷(にな)を踏む。甚だ江の島の奧の院金龜山(きんきさん)より「兒(ちご)が淵(ふち)」に下る邊(あたり)に似たり。「胎内くぐり」と云ふ岩を出で、波かゝる平岩に飛移れば、此岩橫に臥すこと二十丈許、又一路あるに似て銀漢にや續くらんと疑はる。此岩の五六町[やぶちゃん注:五四六~六五四メートル半。]波路を隔て「牛島」あり。又「机が島」あり。其形(かた)ち相似たれば號(なづ)く。牛は臥牛にして生けるが如し。海荒き日は牛頭の波數丈に打上り、唬々吼々(がうがうこうこう)として聲あるが如し。三所の龍灯は、必ず爰の波底より出づと云ふ。都(やが)て唐島の岩は洲入りて捉ふるに易く、能く傳へば此島を一周するに危ぶからず。岩間々々土自らありて、草樹色々生ひたり。近年大樹大松枯れてなし。是れ遊人多く火を焚きて慰み、或は岩穴に火藥をつめて大鳥銃の術をまねびなどして、巖半ば死(しに)枯るゝ如くなりし故ともいふ。鳥居の邊(あたり)には淸水の出づる大石あり。「義經の水乞石(みずこひいし)」と號(な)づく。一年(ひととせ)開帳のありし時は、爰に判官渡り住みて日を重ねられしことなど、詞(ことば)をかざる僧ありしと聞く。必ず虛ならん。石穴には辛螺(にし)・蛸など群り住みて、遊人肴(さかな)に不足なし。釣竿を下せば黑鯛といふ物かゝりて、又々一興をなす。此山を廻(めぐ)るに、必ず和國になき面影を見ることあり。草木石貝に限らず。折々怪しきものを得るといふ。名(な)空(むな)しからず。友文鵝(ぶんが)なる男興じて咄す。

「里諺に此堂の緣にうつむきになり、股の間より