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2019/10/18

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3 ~「仏教に縁のある動植物」~了

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その3 ~「仏教に縁のある動植物」~了

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 仏教に縁のある動植物(大谷正信訳)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 佛敎に緣のある名のうち、名そのものに非常に興味があるけれども、寺院の什物に關係があつたり、佛敎の勤行に使ふ特別な器具に關係があつたりするので、圖解の助を藉らんでは、西洋の讀者には了解の出來ないのがある。例を舉ぐれぱ普通サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名の如きそれである。サンコ(梵語ではヷジラ)といふ語は、黃銅製の或る器具であつて、古典に見える雷電に、兩端に叉を附けたものに、似た恰好のもので、或る特別の式の場合に超自然力の表現として僧が用ひるものである。美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)もまたさうで、拂子にそれが似て居るからである。拂子といふは佛敎の勤行に用ひる、白い長い毛で造つた塵拂ひやうのものである。それからまた、コロモセミ(衣蟬)と呼ばれて居る、小さな蟲のその立派な名もさうで、翼を收めて休んで居る折のその蟲の普通の形と色とは、實際に『コロモ』を着て居る僧侶の姿を偲ばせる。が、この蟲を實地見、また斯う述べてあるやうな『コロモ』を見なければ、この名稱の圖畫的價値を鑑賞することは出來なからう。

[やぶちゃん注:「サンコマツ(三鈷松)として知られて居る木の名」これは固有の種名ではなく、一般に知られている名勝個体木では、高野山の壇上伽藍にある「金堂」と「御影堂」の間に聳え立つ「三鈷の松」の巨木である。この松には以下のような高野山創建に纏わる空海伝説の一つが語られてある。空海が唐での修行を終えて帰国する際、師の恵果和尚から贈られた密教法具の一種である「三鈷杵(さんこしょ)」(もとはインドの投擲用武具或いは雷霆神インドラの所持物であったが、仏教では密教で特に採り入れられ、煩悩を打ち破って菩提心を表わすための法具として盛んに使用される。杵(きね)の形をした中央の握り部分の両端に鈷(鋭い突起)を形成したもので、両端の鈷数や形状によって独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵・五鈷杵(私はタイで求めた青銅製のそれを所持している)・九鈷杵・宝珠杵・塔杵・九頭竜杵などの別がある。リンクはグーグル画像検索「三鈷杵」)を東の空に向けて投じた(時に、大同元(八〇六)年)。彼が投げたのは「我、漏らすことなく受け継いだる密教を広めんがため、ふさわしき地に飛び至るべし」という願いを込めてのものであったという。帰国後、空海がその三鈷杵を探し求めたところ、弘仁七(八一六)年頃、高野山の松の木に掛かっていることが分かり、それによって高野山が真言密教の道場として開かれるようになり、この松を「三鈷の松」と称するようになったとする。実際、通常の松の葉は二本であるが、ここの松は三本あって、三鈷杵の先端が中鈷と左右の脇鈷と三つに分かれているのとミミクリーであるとされる。但し、この高野の「三鈷の松」は通称「三葉黒松」などと呼ばれる、植物学的には裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属クロマツ Pinus thunbergii の園芸品種の一つで、ここに限らず、各地にある。私も二十年ほど前、京都市左京区にある浄土宗の「永観堂」(正しくは聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)禅林寺(前身は真言宗)で拾ったそれを居間に飾ってある。

「ヷジラ」原文“vadjra”。現行のサンスクリット語ラテン文字転写では「vajra」でカタカナ音写は「バジュラ」。通常は先に説明した独鈷杵を指す。

「美しいグラス・スボンヂ學名ハイアロネマ・シーボルディに附けてあるホツスガイ(拂子貝)」原文“the name Hossugai, or“Hossu-sbhell”, given to the beautiful glass-sponge”。これは、貝ではなく、小泉八雲も言っているように深海産のガラス様の海綿類の一種である、 

海綿動物門六放海綿(ガラス海綿)綱両盤亜綱両盤目ホッスガイ科ホッスガイHyalonema sieboldi

 である。英名を“glass-rope sponge”と呼び、柄が長く、僧侶の持つ払子(「ほっす」は唐音。獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもので、本来はインドで虫や塵などを払うのに用いた。本邦では真宗以外の高僧が用い、煩悩を払う法具とする)に似ていることに由来する。この根毛基底部(即ち、「柄」の部分)には一種の珊瑚虫である、

 刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イソギンチャク目イマイソギンチャク亜目無足盤族 Athenaria のコンボウイソギンチャク(棍棒磯巾着)科ヤドリイソギンチャク Peachia quinquecapitata

 が着生する。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑別巻2 水生無脊椎動物」の「ホッスガイ」の項によれば、一八三二年、イギリスの博物学者J.E.グレイは、このホッスガイの柄に共生するヤドリイソギンチャクをホッスガイHyalonema sieboldi のポリプと誤認し、本種を軟質サンゴである花虫綱ウミトサカ(八放サンゴ)亜綱ヤギ(海楊)目 Gorgonacea の一種として記載してしまった。後、一八五〇年にフランスの博物学者A.ヴァランシエンヌにより本種がカイメンであり、ポリプ状のものは共生するサンゴ虫類であることを明らかにした、とあり、次のように解説されている(アラビア数字を漢数字に、ピリオドとカンマを句読点を直した)。『このホッスガイは日本にも分布する。相模湾に産するホッスガイは、明治時代の江の島の土産店でも売られていた。《動物学雑誌》第二三号(明治二三年九月)によると、これらはたいてい、延縄(はえなわ)の鉤(はり)にかかったものを商っていたという』。『B.H.チェンバレン《日本事物誌》第六版(一九三九)でも、日本の数ある美しい珍品のなかで筆頭にあげられるのが、江の島の土産物屋の店頭を飾るホッスガイだとされている』とある。私は三十五前の七月、嘗つて恋人と訪れた江の島のとある店で、美しい完品のそれを見た。以上は私の七年前の仕儀「生物學講話 丘淺次郎 四 寄生と共棲 五 共棲~(2)の2」の私の注に少し手を加えた。リンク先にはモノクロームであるが、図もある。

「コロモセミ(衣蟬)」現行、これはセミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis の異名として同定比定されている。同種については、私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』を参照されたい。優れた歴史民俗学者であられる礫川全次(こいしかわぜんじ)氏のブログ「礫川全次のコラムと名言」の「横浜市磯子区ではクマゼミのことをオキョーゼミといった」では、『土の香』第一六巻第六号(昭和一〇(一九三五)年十二月発行)から高島春雄の「熊蟬の方言」という文章に、クマゼミの異名として『オキョーゼミ(横浜市磯子区)』、『カタビラ(京都市、京都府船井郡富本村、大阪府北河内郡四条畷村、泉北郡東陶器村、南河内郡狭山村、富田林町、中河内郡高安村、三島郡春日村、三宅村、愛知県東春日井郡小牧町、三重県河芸郡、兵庫県西宮市、兵庫県御影町、岡山県小田邯、愛媛、門司市、小倉市、福岡県企救郡)カタビラシェビ(肥前)カタビラゼミ(京都府船井郡八木町)』、『コロモゼミ(徳島県名東郡八万村、伊勢)』とあり、最後にこれが出ている。]

 

 或る二三の鳥に餘程佛敎に緣のある名が附けてある。鳥類學者にはユウリソトマス・オリエンタリスとして知られて居るもので、その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある。此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて、『ブ』といふ擬音はブツ(佛)、『ポフ』はホフ(法)、『ソウ』は僧である。この鳥はまたサムポウテウ(三寶鳥)と呼ばれて居る。『三寶』といふ語はトゥリラトナの文字譯である。これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある。その啼聲が佛の形容詞の一つたる、ジヒシン(慈悲心)といふ句を發音するに似て居るからである。自分への報告者は『この鳥は日光の附近にだけ棲んで居て、其處では夏には絕えず「汝、慈悲心! 汝、慈悲心!」[やぶちゃん注:前の「!」の後には底本では字空けがない。特異的に補った。]と鳴いて居るのを聞くことが出來る』と書いて居る。……殆ど同じほど興味のあるのは、日本詩人が能く褒め歌うて居るククウの一種たる、ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)に附けてある佛敎に緣のある普通名である。ムジヤウドリ(無常の鳥)と呼ばれで居るのである。此名はその啼聲から來て居るとは思はれぬ。啼聲は普通には、『もう本尊を掛けたか』といふ意味の『ホンゾンカケタカ』だと解釋されて居るからである。(ホンゾンといふは、この鳥が年々出現する時より少し前の、四月の八日に寺院に掛ける聖畫である)自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである。ホトトギスに就いては靈的な俗說や空想が澤山ある。そしてこの無氣味な民間俗說は、ホトトギスが五十二も異つた名を! 州々[やぶちゃん注:「くにぐに」。]で有つて居る理由を說明するに足るであらう[やぶちゃん注:「名を!」の後の字空けは底本にはない。特異的に挿入した。]。

[やぶちゃん注:「ユウリソトマス・オリエンタリス」(Eurystomus orientalis)「その啼聲が『ブツポフソウ』といふ語を唱へるのに似て居るからといふので、『ブツポフソウ』と名づけられて居る鳥がある」これは所謂、「姿の仏法僧(ブッポウソウ)」である、

ブッポウソウ目ブッポウソウ科ブッポウソウ属ブッポウソウ Eurystomus orientalis

である。御存じの通り、「声の仏法僧」は、

フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops

である。但し、これが判明したのは、本書が刊行された明治三四(一九〇一)年から隔てること、実に三十四年も後のことである。ウィキの「ブッポウソウ」から引くと、『森の中で夜間「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声がこの鳥の声であると信じられてきたため、この名が付けられた。しかし、実際のブッポウソウをよく観察しても「ゲッゲッゲッ」といった汚く濁った音の鳴き声』『しか発せず』、『件の鳴き声を直接発することが確認できないため、声のブッポウソウの正体は長く謎とされた』。『結局のところ、この鳴き声の主はフクロウ目のコノハズクであり、このことが明らかになったのはラジオ放送が契機となった』。昭和一〇(一九三五)年六月七日、『日本放送協会名古屋中央放送局(現在のNHK名古屋放送局)は愛知県南設楽郡鳳来寺村(現在の新城市)の鳳来寺山で「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥の鳴き声の実況中継を全国放送で行った』。『その放送を聞き、鳴き声の主を探した者が、同年』六月十二日に『山梨県神座山で、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く鳥を撃ち落としたところ、声の主がコノハズクであることが分かった』。『時を同じくし、放送を聴いていた人の中から「うちの飼っている鳥と同じ鳴き声をする」という人がでてきた』。六月十日に『その飼っている鳥を鳥類学者黒田長禮が借り受け見せてもらうとその鳥はコノハズクであり、山梨県神座山で撃ち落とされたのと同日である』六月十二日の『早朝に、この鳥が「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くところを確認した』。『そのコノハズクは東京・浅草の傘店で飼われていたもので、生放送中、ラジオから聴こえてきた鳴き声に誘われて同じように鳴き出したという』、『この二つの事柄がその後に行われた日本鳥学会で発表され、長年の謎だった鳴き声「ブッ・ポウ・ソウ」の主はコノハズクだということが初めて判明した』のであった。私はこのエピソードが何故か、非常に好きだ。

「此語は梵語の『トゥリラトナ』或は『ラトナトゥラヤ』(三寶)に相當する日本語であつて」原文“This word is a Japanese equivalent for the Sanscrit term Triratna or Ratnatraya”。「さんぼう」と濁るのが一般的であるが、「さんぽう」でもよい。サンスクリット語の「トリーニ・ラトナーニ」(ラテン文字転写:tri ratnni)、「トリ・ラトナ」(tri-ratna)」、「ラトナ・トラヤ」(ratna-traya:これは主に仏教とほぼ同時期にインドに起こった宗教で、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ 紀元前六世紀~紀元前五世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど、徹底した苦行・禁欲主義で知られる)の三宝を指す語)の訳であり、「三種の宝」の意。仏(ブッダ:Buddha)と法(ダルマ:Dharma)と僧(サンガ:Sagha:仏教修行者集団)の三つをいう。この三つは仏教徒が尊崇すべき基本であるので、世の宝に譬えて三宝と称する。「仏宝」とは、悟りを開いた人で仏教の教主を、「法宝」とはその仏の教えで真実の理法を、「僧宝」とは仏の教えのもとで修行する出家者の和合の教団を指す。古く原始仏教に於いては仏教を構成する根本的要素と考えられ、後代には三宝の見方について種々な解釈が行われた。三宝はそれぞれ別なものであると見做す説(別相三宝)、本質的に同一であるとみなす説(一体三宝)、或いは、仏像と経巻と出家者は仏教を維持し伝えていく意味での三宝であるとみなす説(住持三宝)などがある。三宝は仏教のあるところ、必ず存在し、三宝に帰依すること(「三帰依」または「三帰」と称する)は仏教への入信の最初の要件とされる(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「これとは異つた鳥で、自分がその學名を知らないものに、ジヒシンテウ(慈悲心鳥)といふがある」私の七年前の「耳吹路 卷之四 慈悲心鳥の事」の注で、カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax とした。成鳥は全長凡そ三二センチメートル。頭部から背面にかけては濃灰色の羽毛で覆われ、胸部から腹面にかけての羽毛は赤みを帯びる。胸部には鱗模様を持つ。幼鳥は胸部から腹面にかけて縦縞が入っている。脚は黄色で脚指は前二本後二本の対し足。托卵する。日光では初夏(五月中旬)に渡って来て囀るが、和名も異名ジヒシンチョウもその鳴き声のオノマトペイアである。サイト「日光野鳥研究会」の「ジュウイチ」のページには、江戸時代に書かれた日光ガイドブック「日光山志」に日光はジュウイチの産地とあり、また『この鳥は「神山に住む霊鳥で、自らの名を呼ぶ」』などとされ、『「仏法僧」と鳴くと思われていたブッポウソウ、「法、法華経」と鳴くウグイスを加えて、日本三霊鳥として』崇められたとする。同族類では『ウグイス以外は、身近な鳥ではないだけに色々想像され、神格化された部分があったと思』われ、特に江戸時代有数の霊場であった日光に棲むことから格別な霊鳥と意識されたと考えられるとあり、また、「日光山志」『には、ジュウイチのいるところとして「荒沢、寂光、栗山辺にも多く(中略)人家のあるところでは声を聞くことは希なり」と書かれてい』るとも記す。リンク先では慈悲心鳥の鳴き声もダウン・ロード出来る。神霊の声を耳を澄ませてお聴きあれ。但し、他の音源を聴くに、私には「ヒュイチィ! ヒュイチィイ!」と聴こえ、また、連続して囀ると、本文でも触れているようにテンポと音程が徐々に早く高くなるように思われる。

「ククウ」原文“cuckoo”。カッコウのこと。カッコウ目カッコウ科 Cuculidae 或いはカッコウ属 Cuculus 或いは種としてのカッコウ Cuculus canorus を指す語。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」を読まれたい。

「ホトトギス(學名ククルス・ボリオセフアラス)」カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」を読まれたい。

「ムジヤウドリ(無常の鳥)」ホトトギスの異名には「無常鳥(むじょうとり)」が事実ある。

「四月の八日に寺院に掛ける聖畫」釈迦の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)の会式の一齣。現行でも毎年四月八日に行われ、一般的には「花祭り」の名で知られる。ゴータマ・シッダッタが旧暦四月八日に生誕したとする伝承に基づくもので、「降誕会(ごうたんえ)」「仏生会(ぶっしょうえ)」「浴仏会(よくぶつえ)」「龍華会(りゅうげえ)」「花会式(はなえしき)」といった別名もある。現行の灌仏会では草花で飾った花御堂(はなみどう)の中に甘茶を満たした灌仏桶の中央へ誕生仏の像を安置し、それに柄杓で甘茶を掛けて祝うのが通常である。

「自分にはこの名は『死の鳥』といふ意味で附けたものとする方が當たつて居さうに考へられる。といふのは、『ムジヤウ』といふ語は、變はるといふので、また死といふ意味も有つて居る。そしてホトトギスは靈の世界から來ると想像されて居る妙な事實の爲めに、この意味を强く思ひ浮かばしめられたのである。またタマムカヘドリ(魂迎へ鳥)とも呼ばれて居る。死者の靈魂がシデの山を越えて魂の川へ旅して行く時それを出迎へる、と思はれて居るからである」古く、ホトトギスが「渡り鳥」であることが分からなった頃、「ホトトギスは秋に死んで春に生き返るもの」と思われていたらしい。そこから「死出の鳥」「冥土の鳥」と表現されることがあったようである(後には「山奥に住み、春に里に出てくる」とする山の神と田の神の相互置換に親和性を持ったものに変化したようでもある。)。また、中国由来の「杜宇」「蜀魂」「不如帰」も見るからに不吉であるが、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」で注した通り、これらは中国のある伝説に基づく。長江流域に「蜀」という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに「杜宇」という男が現われ、農耕を指導して蜀を再興して帝王となって望帝と呼ばれた。後に長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。後、死んだ杜宇の霊「魂」はホトトギスと化し、農耕を始める季節が来ると、それを民に告げるために、鋭い声で民に注意を促して鳴くようになったという。また、後に、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去(ゆ)くに如かず: 何よりも故国へ帰るのが一番よいことだ)と鳴きながら、血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、などと言い伝え、ホトトギスの口の中が赤いのはそのためだ、と言われるようになったともされるのである。他にも、悲劇的な本邦のホトトギス転生伝承譚「時鳥と兄弟」の話もある(私の「郭公の歌 伊良子清白 (附初出形)」の注を参照。この「郭公」は詩篇本文で「ほととぎす」と訓じている。清白もそこで「汝は醜き冥府(よみ)の鳥」と詠んでいる。その私の注でもホトトギスの冥界性を記してある)。さらに言えば、民俗社会に於いて、ホトトギスがそうした不吉でネガティヴな一面を持っているのは、彼らの習性にも関係するものであろう。奇体な自分で子を育てない托卵については既に万葉時代に知られていたし、彼らが夜や雨の日にも平気で鳴いていること、しかも一ヶ所に留まらずに飛び回りながら鳴くためにその姿を現認し難いいことなどが、霊的なもの闇の世界と結びついていると考えられたというのは腑に落ちるのである。

「ホトトギスが五十二も異つた名を!」このリスト! ここに残しておいて欲しかった!]

 英語のナイティンゲールの一變種たるもので、日本の歌謠者總てのうちで一番聲のうるはしいウグヒスは、何等佛敎に緣のある俗名を有つて居るやうには見えぬ。が、その笛(フルート)のやうな啼聲は、ニチレン卽ちホツケ宗の大聖典たる、妙法蓮華經の普通名ホケキヤウといふ語を發音するのだ、と云はれて居る。そして佛敎の篤信は、この鳥は妙法蓮華の經を讃へず一生を送ると言ひ張る。だから、ウグヒスは實際佛敎に緣のある鳥だと思はれて居る。他の鳥で佛敎に少し緣があるやうに思はれる鳥は、ボンナフサギ(煩惱鷺)といふ異常な名稱が與へてある雪白の鷺である。『ボンナフ』とは浮世の願望、色欲、情欲の佛語で、どうしてそれがこの鳥の名に見えて居るか、自分は言ふことが出來ぬ。

[やぶちゃん注:「英語のナイティンゲールの一變種たるもので、日本の歌謠者總てのうちで一番聲のうるはしいウグヒス」誤り。別名「夜鳴鶯(よなきうぐいす)」や「墓場鳥」という有り難くない別名でも呼ばれる「西洋のウグイス」と称されるほどに鳴き声の美しい鳥、「ナイチンゲール」(英語:Nightingale)は日本では「小夜啼鳥(さよなきどり)」と呼び(本邦には棲息しない)、スズメ目ヒタキ科 Luscinia 属サヨナキドリ Luscinia megarhynchos であるが、ウグイスはスズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone である。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鶯(うぐひす)(ウグイス)」を見られたい。

「ボンナフサギ(煩惱鷺)」サギ亜目サギ科サンカノゴイ亜科ヨシゴイ属ヨシゴイ Ixobrychus sinensis の異名博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 𪇆𪄻(さやつきどり)(ヨシゴイ)」を見られたい。因みに私は彼らの葦の擬態がお気に入り! さても。動画で幾つかのヨシゴイの鳴き声を聴いたが、遠くの人を呼ぶような、何かもの悲しさのある叫びに感じた。気のせいかと思って検索すると、サイト「C.E.C.」の「徒然野鳥記」の「ヨシゴイ」に、その声は『「オーツ、オーツ」ともの悲しく聞こえます。ゴイサギ』(類)『の古名で、「凡悩鷺(ぼんのうさぎ)」と呼ばれることがあるのは、この鳴き声に由来するのではないでしょうか』とあった(嘗つて近代㎡まで「ヨシゴイ」は「ゴイサギ」(サギ亜科イサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax)の類と誤認されていたようである)。]

 

 斯んな佛敎に緣のある名の起原を推測するの困難は、例證の助けを藉りなくては想像すら及ばぬ。その文字通りの意味は、多くの場合、硏究を誤らす川を爲すに過ぎぬ。例へば、槌のやうな頭をした鱶[やぶちゃん注:「ふか」。]は、九州海岸地方では、ネムブツバウ(念佛坊)といふ異常な名稱で知られて居る。『ネムブツ』といふ語は、多くの宗派の信心者が祈禱として、殊に死者に對する祈禱として、口に唱へる『ナム・アミダ・ブツ!』(アミダ佛に敬禮)といふ祈願の名である。で、[やぶちゃん注:ここは底本では読点ではなく、巨大な「ヽ」であるが、誤植と断じて特異的に変えた。] 凄みを仄めかすネムブツバウといふ名は、リトレに從へば、鱶の近代佛蘭西語は――元來は(千六百六十七年ペール・ドゥテルトルの述ぶる處に據ると)鱶に捕られた人間にはその鎭魂の祈禱を唱へるほか他の策が無い、といふ意味が籠もつて居る名稱たる――『レクイエム』の訛つたのである、といふことを自分に思ひ出させた[やぶちゃん注:フランス語の「鮫」は“Requin”(ルゥカン)で、「レクイエム(鎮魂歌)」は“Requiem”(レキュイエム)。]。が念佛坊といふ佛敎に緣のある名が、それと同じ樣な意味をや〻含んで居はせぬか、と思つた自分は間違つて居つた。この言葉の眞の意味はこの怪物が有つて居る佛敎的な別な名――シユモクザメ(撞木(しゆもく)鮫)――に依つて證明されて居る。『シユモク』といふ語は、僧が念佛や他の祈禱を唱へる間鉦を打つ、T字形の槌を意味するのである(信心深い家では、家の内の佛壇の前で念佛を唱へる間に、鉦を鳴らすのに同じ種類の槌を用ひることを述べてもよからう)シユモクザメ(撞木鮫)の別名としてメムブツバウといふ語を思ひ附かせたのは、祈願の言葉を唱へる間に斯く撞木と鉦とを使用するが爲めであつた。だからネムブツバウの眞の意義は『念佛坊』では無くして『撞木坊』なのである。

[やぶちゃん注:「槌のやうな頭をした鱶」軟骨魚綱メジロザメ目シュモクザメ科 Sphyrnidae のシュモクザメ類。“Hammerhead shark”の英名で知られるシュモクザメ類は世界で二属九種いるが、本邦で見られるのはシュモクザメ属 Sphyrna のシロシュモクザメ Sphyrna zygaena・ヒラシュモクザメ Sphyrna mokarran・アカシュモクザメSphyrna lewini三種ほどである。一言言っておくと、本種はかなり古くから人を襲う、と信じられている向きがあるが、私はそれに強い疑義を感じている。一九八二年八月に熊本県天草郡大矢野町沖の羽干島(グーグル・マップ・データ)近くで十三歳の女子中学生が襲われて死亡したケース(三人の子をヨットの船尾に結んだロープに繋いで曳航して遊ばせていた際の事故という少し特殊な状況下での不幸であった)では、シュモクザメが疑われているが、確定されてはおらず、シュモクザメが人を襲った事例は殆んど見当たらない。人を襲うシーンが出る小説も私は知っているが、如何にも造り物臭い、いやな小説であった。寧ろ、シュモクザメの奇体な頭部が、凶悪な印象を生んでいるだけのように私には思われてならない。ダイバーなどが襲われたケースも私は知らない。但し、シュモクザメはサメとしては珍しく、群れを成して行動し、時にその数は数百匹のレベルに及ぶこともある。それらが大型個体であった場合、そのインパクトは絶大で、熟練したダイバーでも「慄っとした」という証言を聴いたことはある。幾つかの記載に、人間にとっては潜在的に危険、と記すものが見られることは事実ではある

「凄みを仄めかすネムブツバウといふ名は、リトレに從へば、鱶の近代佛蘭西語は――元來は(千六百六十七年ペール・ドゥテルトルの述ぶる處に據ると)鱶に捕られた人間にはその鎭魂の祈禱を唱へるほか他の策が無い、といふ意味が籠もつて居る名稱たる――『レクイエム』の訛つたのである、といふことを自分に思ひ出させた。」ここの原文は、

The grim suggestiveness of the name Nembutsu-bō reminded me that the modem French word for shark is, according to Littrè, only a corruption of “Requiem,”— the appellation originally implying  (as stated by Père Dutertre in 1667)  that for the man caught by a shark there was nothing to be done except to chant his requiem.

である。「リトレ」は辞書編纂者で哲学者でもあったエーミール・マクシミリアン・ポール・リトレ(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一八年~一八八一年)であろう。「ペール・ドゥテルトル」は不詳。フランス人植物学者にジャン=バプティステ・デュ・テルトレ(Jean-Baptiste Du Tertre 一六一〇 年~一六八七年)ならいる。

「だからネムブツバウの眞の意義は『念佛坊』では無くして『撞木坊』なのである」最後にちょっと遊ぶ。前の引用で判る通り、小泉八雲は日本語をローマ字で表記する場合には口語音に合わせた表記をしている。従って「念佛坊」は“Nembutsu-bō”なのである。訳のように歴史的仮名遣を使われると、「ばう」でダメだが、「ぼう」なら、違う可能性を指示出来る。則ち、鉦を叩くための「棒」で「念仏棒」である。まあ、比叡山の千日回峰で被る奇体な前後に長い被り笠(未開の蓮華の葉を象ったものとされる)のミミクリーを考えると、シュモクザメは「僧」でもあろうが。お後がよろしいようで……。]

2019/10/17

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その2

 

[やぶちゃん注:本篇については「小泉八雲 仏教に縁のある動植物(大谷正信訳)/その1」の私の冒頭注を見られたい。]

 

 眞言宗の日本の大祖師クウカイ卽ちコウボフダイシは、またその名簿の中に一つの地位を有つて居る。コウボフムギ(弘法大師の麥)は學名カレツキス・マクロセフアラの普通名であり、栗の一變種がコウボフダイシ、クハズ、ノ、クリ(弘法大師食はずの栗)と呼ばれて居る。

[やぶちゃん注:「名簿」小泉八雲が仏教由来の動植物の名称と判断して自身で蒐集した、本篇執筆のスタートとなった自筆資料であるリストを指す。

「コウボフムギ(弘法大師の麥)は學名カレツキス・マクロセフアラの普通名であり、」原文“Kōbō-mugi, or“Wheat of Kōbōdaishi,”is a common name for the Carex macrocepbala ;”。単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科コウボウムギ節スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。ウィキの「コウボウムギ」によれば、『名前の弘法麦の由来は、かつて茎の基部の分解した葉鞘の繊維が筆を作るのに使われた事から、筆ならば』、『弘法大師(空海)様だ、というようなことであるらしい。別名としてフデクサというのもある』とある。小泉八雲の「Carex macrocepbala」は恐らく嘗つて同種の変種としてコウボウムギが扱われていた際の原種名と思われる。欧文の書籍の本種の注に「Carex macrocepbala var. kobomugi」という記載を見出せるからである。

「栗の一變種がコウボフダイシ、クハズ、ノ、クリ(弘法大師食はずの栗)と呼ばれて居る。」原文は“a variety of chestnut is called Kōbōdaisbi-kawazu-no-kuri, ―“The Chestnut that Kōbōdaishi did not eat.”で「kawazu」はママ。これはムクロジ目ムクロジ科トチノキ属トチノキ Aesculus turbinata の地方異名である。月刊『杉』WEB版の岩井淳治氏の『いろいろな樹木とその利用/第18回 「トチノキ」』に、多様な異名一覧が出る中に、「コウボウダイシクワズノクリ」がある。岩井氏は『コウボウダイシという言葉が出てきますが、ある日、栗を煮ていたおばあさんのところに行脚していた弘法大師が通りがかり、栗を所望したところ』、『「これは苦いからダメだ」と断ったため、それ以後』、『苦くなったとの話があります』と記しておられる。そこで栃餅(とちもち)の製法が詳しく記されている通り、縄文以来、食用とされてきたが、渋抜き(トチの実にはサポニン・アロインを含み、直接、食用することは出来ない)をするために非常な手間がかかる。それを以って「食わずの栗」としたものである。この話、私は四国の話として知っている。過去に電子化したものの中に確かにあったはずなのだが、見出せない。発見次第、追記する。

 

 植物または生物の名で佛敎の習慣、傳說、儀式若しくは信仰に關係を有つたのが多くある。バウズ(僧。英語のボンズの原[やぶちゃん注:「もと」。])といふ語が種々な植物名に與へられて居る。異つた三つもの草に、日本の方々異つた處で、バウズグサ(僧の草)の名を附けて居る。筑前の方言では一種の海龜をウミバウズ(海の僧)と呼んで居る。序だから言ふが、この一名は日本の繪本に能く出て來る或る神話的な海の怪物にも與へて居る名である。佛敎傳說のある有名なボオ・トジィの名は、日本では學名フイクス・レリジオサに與へられて居る計りで無く、普通にボダイジュ(ボデイドゥルマ)と呼んで居る學名ティリア・ミクエリアナにも與へられて居る。春分(しゆんぶん)の佛敎大祭卽ちヒガン(彼岸)の祭は、その時分に開花する二種の植物に名を提供して居る。ヒガンザクラ(彼岸櫻)(學名プルヌス・ミクエリアナ)とヒガンバナ卽ち「彼岸の花」(學名ライコリス・ラディアタ)とがそれである。我々英人が『ヂヨッブス・ティアズ』と唱へて居るものは日本ではズズダマ卽ち數珠玉と呼ばれて居り、鳩の一種に――恐らく其斑紋の故であらう――ズズカケバト(數珠掛け鳩)といふがある。學名アリウム・ヸクトリアレはギヤクジヤニンニク(行者の葫。『ギヤウジヤ』とは英語のハアミツトを言ふ佛敎の言葉)と呼ばれて居り、英國のブリーディング・ハートの日本の普通名はケマンサウ卽ち『華鬘草』である。多分その花がケマンに、卽ち佛陀の像の頭上に置く裝飾の華鬘に、似て居るからの稱呼であらう。恐らくは斯んな佛敎的稱呼のうちで一番奇妙なのは、英語のヲータア・エーラムが有つて居るものであらう。その日本名コクウゼンサウは文字通りに言ふと『坐禪をして居る小さな草』である。

[やぶちゃん注:「バウズ(僧。英語のボンズの原])」“The word bōzu, "priest" — (the origin of our word “bonze””。「bonze」(バァンズ)は英語で「仏教の僧侶」を指し、日本語由来である。なお、「priest」は広義には「聖職者」であるが、狭義には「カトリックの司祭」を指す。

「異つた三つもの草に、日本の方々異つた處で、バウズグサ(僧の草)の名を附けて居る」「坊主草」の異名を持つものは、ネットで調べると、

・シダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属スギナ Equisetum arvense

・コショウ目ドクダミ科ドクダミ属ドクダミ Houttuynia cordata

・シソ目シソ科クサギ(臭木)属クサギ Clerodendrum trichotomum

・単子葉植物綱イネ目ホシクサ科ホシクサ属 Eriocaulon のホシクサ(星草)類

・単子葉植物綱ラン目ラン科オニノヤガラ(鬼の矢柄)属オニノヤガラ Gastrodia elata(薬用植物)

等があった(他にも恐らくは別な種の地方名にあろうとは思う)。スギナ以外は花や萼や果実の様子を坊主の頭や僧衣に見立てたものであるが、臭気があったり、スギナのように雑草であったりするところを見ると、僧を卑称した「糞坊主」の傾向が強く感じられるようにも思う。まず、小泉八雲の言う三種は誰もが今でも知っている馴染みの頭の三種と見て差し支えあるまいとは思う。

「筑前の方言では一種の海龜をウミバウズ(海の僧)と呼んで居る」大槻文彦の「言海」に、

   *

うみ-ば(ボ)うず(名)海坊主 ㈠うみがめノ大ナルモノ。(筑前)㈡海上ニ現ハルト云フ妖怪ノ名。

   *

と出るから、小泉八雲の言う「一種」は、爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea の大型成体個体の意で採るべきであろう。

「佛敎傳說のある有名なボオ・トジィ」“The name of the famous Bo-tree of Buddhist”。「Bo-tree」はブッダがその木の根元に座って悟りを得たとされる「菩提樹」の英名。

「日本では學名フイクス・レリジオサに與へられて居る」イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュ Ficus religiosa。ブッダのそれは本種である。

「普通にボダイジュ(ボデイドゥルマ)と呼んで居る學名ティリア・ミクエリアナにも與へられて居る」中国原産で、以上の真正の「菩提樹」の代わりに日本の寺院では盛んに植えられている、アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属ボダイジュ Tilia miqueliana のこと。御覧の通り、真のインドボダイジュとは類縁関係は全くない。一説に、日本へは臨済宗の開祖である栄西が中国から持ち帰ったと伝えられている。

「ヒガンザクラ(彼岸櫻)(學名プルヌス・ミクエリアナ)」““Higan cherry-tree”(Prunus miqueliana)”。「Prunus miqueliana」は野生種であるバラ亜綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ Cerasus itosakura のシノニムであり、「彼岸桜」、則ち、サクラ属エドヒガンも同じく Cerasus itosakura であるから、問題ない。

「ヒガンバナ卽ち「彼岸の花」(學名ライコリス・ラディアタ)」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナLycoris radiata。学名は音写するなら「リコリス・ラジアータ」である。私は六年前、本種の異名を調べたことがある。「曼珠沙華逍遙」を見られたい。……そうだ……先だって、家の斜面に亡き母が植えた白い曼珠沙華が咲いていた……「白い曼珠沙華」の花言葉は……赤いヒガンバナのいいところ、しかないのだ……「また会う日を楽しみに」……「想うはあなた一人」……アリスよ……その通りに……なってしまったなぁ…………

「我々英人が『ヂヨッブス・ティアズ』と唱へて居るものは日本ではズズダマ卽ち數珠玉と呼ばれて居り」「ヂヨッブス・ティアズ」の原文は“Job's Tears”。「ヨブの涙」! これは辛気臭い和名より遙かにいい! いやいや! 英名だけじゃないんだ! 学名も、

単子葉植物綱イネ目イネ科ジュズダマ属ジュズダマ Coix lacryma-jobi

なんだ! 「lacryma」(ラクリマ)もラテン語で「涙」の意なのだ! 私は幼年期の記憶に繋がっているジュズダマが大好きなのだ!

「ズズカケバト(數珠掛け鳩)」ハト目ハト科キジバト属ジュズカケバト Streptopelia risoria。全体に淡い灰褐色であるが、後頸部に半月状の黒輪があることに由る和名である。

「學名アリウム・ヸクトリアレはギヤクジヤニンニク(行者の葫。『ギヤウジヤ』とは英語のハアミツトを言ふ佛敎の言葉)と呼ばれて居り、」“The Allium victoriale is called Gyojaninnihu, or“Hermit's garlic”(“gyōja”being the Buddhist term for hermit) ;”。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属ギョウジャニンニク亜種ギョウジャニンニクAllium victorialis subsp. platyphyllum。小泉八雲の表示した学名は標準種のシノニムである。

「英國のブリーディング・ハートの日本の普通名はケマンサウ卽ち『華鬘草』である」“the popular Japanese name for the Bleeding-heart is Keman-sō”。キンポウゲ目ケシ科ケマンソウ亜科ケマンソウ属ケマンソウ Lamprocapnos spectabilisウィキの「ケマンソウ」によれば、花期は四~六月で、『斜めに伸びた総状花序にコマクサに似たハート型の花を付ける。花茎はアーチ状に湾曲する。花茎一本に花が最大で』十五『輪ほど釣り下がって咲き、あたかも鯛が釣竿にぶら下がっているように見える』ことから「タイツリソウ(鯛釣草)」の異名も持つ、但し、『全草、特に根茎と葉にビククリン、プロトピンなどを含』む有毒植物である。

「ケマン」「佛陀の像の頭上に置く裝飾の華鬘」仏堂における荘厳具のひとつ。「花鬘」「花縵」とも書く。梵語の「クスマ・マーラー」の漢訳で、「倶蘇摩摩羅」と音写される(倶蘇摩が花、摩羅が「蔓」、「髪飾り」の意)。金銅・牛革製の円形又は楕円形のものに、唐草や蓮華を透かし彫りにして、下縁に総状の金物や鈴を垂らしたものである。参照したウィキの「華鬘」によれば、『元々は生花で造られたリング状の環(花環)で、装身具であったものが僧などに対して布施されたものと考えられている。本来』、『僧は出家したものであり』、『自分の身を飾ることができないことから、布施された花環を仏を祀る仏堂を飾るものへと変化したものと見られる。それが恒常化して、中国や日本では金銅製などの金属でできたものや、木製・皮製のものなどで造られるようになった。インドでもさまざまな素材で作られていた』。『形状は、主に団扇型でその頂に紐で吊るすための環がついており、宝相華文や蓮華文などのほか、迦陵頻伽や種子などが施されたものがあり、揚巻結が付されている』とある(リンク元に画像有り)。

「英語のヲータア・エーラムが有つて居るものであらう。その日本名コクウゼンサウは文字通りに言ふと『坐禪をして居る小さな草』である。」原文は、

“Perhaps the water-arum has the most curious of all such Buddhist appellations : its Japanese name, Kokuzen-so literally signifies the“Small-sitting-in-Dhyâna--meditation-plant.”

である。「water-arum」は外観は小型のミズバショウ(サトイモ科ミズバショウ属ミズバショウ Lysichiton camtschatcensis)といった形態をしている、単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ヒメカイウ属ヒメカイウ Calla palustris を指し、当該種は「ミズザゼン」(水座禅)の異名を持っている。]

 

 センニン(普通之を英語ではジイニアスとかフエアリとか譯するが、本來はリシである。リシとは難行苦行の效によつて超自然的な威力を得て、その生命無限な者)といふ語はたまたま植物名に見える。英語のクレマティスの一變種にセンニンサウ(仙人草)といふがあり、英語のカクタスの一種にセンニンシヤウ(仙人掌)といふ奇怪な名稱を貰つて居るのがある。

[やぶちゃん注:面倒なので、最初に全文を原文で示す。

 The word Sennin,— commonly translated as “Genius”or“Fairy,”but originally meaning Rishi, — a being who has acquired supernatural power and unlimited life by force of ascetic practices, — occasionally appears in plant-names. A variety of Clematis is known as Sennin-sō, or“Fairy-weed”;  and a kind of cactus has received the grotesque appellation of Sennin-shō, or“Sennin's-Palm,”—  the paim of the hand being referred to.

「Genius」天才・鬼才・非凡な才能の持ち主。

「Fairy」フェアリー。妖精。

「リシ」「Rishi」サンスクリット語の英訳。ヴェーダ聖典を感得したとされる神話伝説上の「聖者」あるいは「賢者達」を指し、漢訳仏典などでは「仙人」などとも訳され、インド学では「聖賢」などと訳される(ここはウィキの「リシ」に拠った)。

「クレマティス」「Clematis」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 族センニンソウ属 Clematisウィキの「クレマチス」によれば、『園芸用語としては、このセンニンソウ属の蔓性多年草のうち、花が大きく観賞価値の高い品種の総称』で、『修景用のつる植物として人気があり、「蔓性植物の女王」と呼ばれている』とある。

「センニンサウ(仙人草)」センニンソウ属センニンソウ Clematis ternifloraウィキの「センニンソウ」によれば、蔓『性の半低木』の一種で、『属名(Clematis)は「若枝」を意味し、種小名(terniflora)は』「三枚葉の」を『意味する』。『和名は痩果に付く綿毛を仙人の髭に見たてたことに由来する』。『別名が「ウマクワズ(馬食わず)」、有毒植物で』『馬や牛が絶対に口にしないこと』に由来する、とある。

「英語のカクタスの一種にセンニンシヤウ(仙人掌)といふ奇怪な名稱を貰つて居るのがある」「cactus」はサボテン(ナデシコ目サボテン科 Cactaceae)のこと。思うに、「仙人掌」に最もふさわしいのは、サボテン科の中でも、ウチワサボテン亜科オプンティア属オプンティアOpuntia のそれであろう。]

 

 人間を食ふ鬼といふ意味の梵語のヤクシヤといふ語は、その日本化された形のヤシヤとなつて、種々な植物名に見える。學名アルドゥス・フイルマの毬果[やぶちゃん注:「きうくわ(きゅうか)」。]は、繪畫的にヤシヤブシ(夜叉節(ぶし))と呼ばれて居り、或る水草はヤシヤビシヤク(夜叉柄杓)といふ妙な名で知られて居る。

[やぶちゃん注:やはり原文総てを示す。

 The Sanscrit term Yaksha, signifying a mandevouring demon, appears in several plant-names under its Japanese form, — Yasha.  The cone of the Aldus firma is picturesquely called Yashabushi, or “Yaksha's-joint”;  and a water-plant b known by the curious name of Yasba- bishaku, or “Yaksha's Ladle.”

「人間を食ふ鬼といふ意味の梵語のヤクシヤ」夜叉(サンスクリット語ラテン文字転写:yakṣa/パーリ語同前yakkha/「暴悪」「捷疾鬼」「威徳」等と漢訳される)は古代インド神話の鬼神。「薬叉(やくしゃ)」とも称する。後に仏教に取り入れられて護法善神の一尊となった。ウィキの「夜叉」によれば、『夜叉には男と女があり、男はヤクシャ(Yaksa)、女はヤクシーもしくはヤクシニーと呼ばれる。財宝の神クベーラ(毘沙門天)の眷属と言われ、その性格は仏教に取り入れられてからも変わらなかったが、一方で人を食らう鬼神の性格も併せ持った。ヤクシャは鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在と考えられていた。森林に棲む神霊であり、樹木に関係するため、聖樹と共に絵図化されることも多い。また水との関係もあり、「水を崇拝する(yasy-)」といわれたので、yaksya と名づけられたという語源説もある。バラモン教の精舎の前門には一対の夜叉像を置き、これを守護させていたといい、現在の金剛力士像はその名残であるともいう』とある。

「アルドゥス・フイルマ」「Aldus firmaブナ目カバノキ科ハンノキ属ヤシャブシ Alnus firma。漢字表記は「夜叉五倍子」が一般的。ウィキの「ヤシャブシ」によれば、『ヤシャブシ(夜叉五倍子)の名の由来は、熟した果穂が夜叉にも似ていることから。また果穂はタンニンを多く含み、五倍子』(フシ:ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensisの葉に昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目吻亜目アブラムシ上科アブラムシ科ワタアブラ亜科ゴバイシアブラ属ヌルデシロアブラムシ Schlechtendalia chinensisが寄生すると、大きな虫癭(ちゅうえい)を作り、そこには黒紫色のアブラムシが多数、詰まっている。この虫癭はタンニンを豊富に含み、革鞣(なめ)しや黒色染料の原料となる)『の代用(タンニンを多く含有する五倍子は古来、黒色の顔料、お歯黒などに使われてきた)としたためといわれる』とある。

「毬果」「球果」とも書く。マツやスギなどに見られる、球形や楕円形をした果実を指す。通常は松傘のように胚珠が成熟して木化した鱗片を附け、それに二個の種子が出来る。木化せずに肉質となる種もある。

「水草」「ヤシヤビシヤク(夜叉柄杓)」「水草」は不審。寄生性落葉低木になら、ユキノシタ目ユキノシタ科スグリ属ヤシャビシャク Ribes ambiguum がある。本種については、サイト「岡山理科大学 生物地球学部 生物地球学科 旧植物生態研究室(波田研)」内のこちらを参照されたい。水草のヤシャビシャクを知っておられる方があれば、是非、御教授願いたい。

 

 植物、鳥類、魚類併びに蟲類の日本名に――丁度英吉詞の民間の言葉に、デヴルス・エプロンとかデヴル・ウツドとかデヴルス・フインガとかデヴルス・ホースとかデヴルス・グーニング・ニードルとかいふやうな植物名昆蟲名があるやうに ――英語のディモン或はデヴルに營たる佛敎語の『オニ』といふ語を接頭字に附けて居るのが甚だ多い。英語のタイガ・リリーは日本ではそれと同樣奇妙なオニユリ(鬼百合)といふ名を有つて居る。英語のコイツクスの一種はオニズズダマ(鬼の數珠玉)と呼ばれて居る。英語のバー・マリゴールドはオニバリ(鬼の針)と呼ばれて居り、一種の水草で蓮の繁殖に害を與へるものを通常オニバス(鬼蓮)と唱へて居る。このオニといふ接頭字は、多分幾百もの植物併びに動物の俗名に、附けられて居ることであらう。自分が集めたものでもその數七十一を下らぬ。が然し、そのうち興味のあるものは尠い。

[やぶちゃん注:最初に「ディモン」と「デヴル」の違いを示しておく。「Demon」(デーモン)はギリシャ語の「ダイアモーン」が語源で、本来は「精霊」・「鬼神」を意味する広汎に善でも悪でもあった超自然的存在を指したが、宗教・神話・伝承などに組み込まれて、零落し「悪霊」を指すようになったもの。一方の「Devil」(デヴィル/デビル)は、ヘブライ語の「サタン」のギリシャ語訳「ディアボロス」が語源とされ、もとから「邪悪」という概念を人格化したものであり、主にキリスト教に於いて唯一神ヤハゥエに敵対する邪悪な存在を指す。

「デヴルス・エプロン」原文“Devil's-apron”。海藻の昆布類、不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科 Laminariaceae のコンブ類を広く指す。平井呈一氏の恒文社版の訳(一九七五年)「動植物の仏教的名称」では、平井氏は丸括弧で割注を入れておられ、そこでは『(赤エイの一種)』とされておられる。膝を打ちたくなるほどありそうな異名なのだが、調べてみても、ヒトでも死に至ることがある有毒な棘を持ったエプロン状のアカエイ(Red stingray:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei)や、その近縁種に英名「悪魔のエプロン」はいないようなのだ。ちょっと淋しかった。

「デヴル・ウツド」“Devil-wood”。シソ目モクセイ科 Cartrema Cartrema Americana英文ウィキの同種に別名を“devilwood”とする。由来は判らないが、早春に咲くその花は、強烈な芳香を放つらしいから、それに由来するか。しかし、平井氏は割注で『(ヌルデ)』とされておられる。これは無論、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensisのことだ。ウルシ(ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)ほどではないが、稀にかぶれる人もいる。しかし、「悪魔の」と冠するほどではあるまい。

「デヴルス・フインガ」“Devil's-fingers”。菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱スッポンタケ目スッポンタケ科アカカゴタケ属Clathrus archeri のこと。同種の英文ウィキに別名を“devil's fingers”とする。他に、「Octopus Stinkhorn fungi」の異名を持ち、本邦の記事では「タコスッポンタケ」(正式和名は恐らくまだない)などと呼んでいるものもある。オーストラリアとタスマニアを原産地とし、現在は北米・アジア・ヨーロッパなど世界各国に広がっている。悪臭を放ち(蠅媒(じょうばい)茸である)、その卵形の本体から赤い如何にもタコ足っぽいエグい胞子体を放散する器官が延び出して展開する。私はよく訪ねるサイト「カラパイア」の『キノコホラーサスペンス:「悪魔の指」の異名を持ち、強烈な死臭を放つキノコ「タコスッポンタケ」』で六年前に動画を見て知っていた。この動画はまだおとなしい方である。毒があるわけでも(逆に食用可)、実際に臭さが判るわけでもないが、かなり強烈である。リンクを見るかどうかは、さて、自己責任で。但し、平井氏は『(サボテンの一種)』とされておられる。

「デヴルス・ホース」“Devil's-horse”。これは「Devil's coach horse beetle」(「悪魔の馬車馬甲虫」)のことではなかろうか? 本邦には棲息しない鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目ハネカクシ下目ハネカクシ上科ハネカクシ科 Ocypus Ocypus olens英文ウィキの同種の記載を見ると、“Devil's steed”の別名が見える。「steed」は「乗馬用の馬」の意である。本種は腹部に二つの臭腺を持っていてそこから悪臭を放ち、また、強力な顎を持っており、咬まれるとかなり痛むとある。また、本種は中世以降、実際に悪魔との関係性が伝承として語られているらしい。さらに、イギリスの伝承にはイヴが食べた林檎の種をこの虫が食ったと伝えるともあり、それこそ「原罪の虫」なのである。平井氏は『(カマキリ)』とされるが、う~ん、流石にそれではこの恐るべき虫と対するには、役不足という感じがする。

「デヴルス・グーニング・ニードル」“Devll's-daming-needle”。「daming-needle」は「dam」(繕う)ための「needle」(針)で、「かがり針」のことである。さても、これは意外なことに(というか、私は時々小さな時からトンボを捕まえることは出来ても、その翅の生えている背を凝っと見ているうちに気持ちが悪くなる気弱な少年であったのだが)「トンボ」の悪しき異名らしい。平凡社「世界大百科事典」の「蜻蛉」を見ると(コンマを読点に代えた)、『欧米では元来、トンボを益虫としたり、勇ましい、あるいは魅力のある虫と考えることはなかった。子どもが子どもがトンボとりに夢中になることはないといってよい。トンボはむしろ不吉な、気味の悪い虫であるとされることが多く、その別名として、英語 darning needle(〈かがり針〉の意)とか、同じく英語 devil’s darning needle、ドイツ語 Teufelsnadel、フランス語 aiguille du diable(いずれも〈悪魔のかがり針〉の意)とか、英語 witch’s needle(〈魔女の針〉の意)というのがある。これはトンボがその長いしっぽを』、『針のように使って、人間の耳を縫いつけてしまうとか、子どもがうそをついたり、いけないことをいったりすると唇を縫ってしまうという俗信に由来する。親がそういって小さい子を脅すことがあった。北アメリカでは mosquitohawk(〈蚊取り鷹〉の意)と呼ぶことがあり,これは日本人にも理解しやすいが、snake doctor(〈蛇の先生〉あるいは〈蛇の医者〉の意)という奇異な別名もある。蛇に危険が近づくと』、『トンボがそれを蛇に知らせてやるという迷信に基づく。同様に flyingadder および adder fly(〈飛ぶマムシ〉の意)ともいう』。『フランスの古い迷信でもトンボと爬虫類や両生類などが結びつけられることが多く、おそれられ、いやがられてきたようである。サンショウウオとトンボを同じ名で呼び、かまれると危険であると思っている地方や、洗濯女などが、トンボに』「刺されないよう」に『おまじないの文句を唱えていた地方がある。またトンボの翅で手が切れるとか、トンボに額を打たれると必ず死ぬ』、『とかいわれていた』とある。平井氏は『(北米の一地方にいるカトンボの一種)』とかなり細かく、自信を持って割注されておられる。平井氏には種か和名を指定して欲しかった。

「英語のタイガ・リリー」“The tiger-lily”「は日本ではそれと同樣奇妙なオニユリ(鬼百合)といふ名を有つて居る」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium のこと。和名の由来については、花びらに黒い斑点模様が沢山あり、橙色がかかった赤めの花びらに、黒のだんだらの斑点が目立つ点、花の色や形がやや特異に反って見えること等から、「赤鬼」を連想させたとする説があるが、本邦の接頭語としての「鬼」は「オニヤンマ」のように「大きい・強い」という傾向が強いから、これは同属のヒメユリ(姫百合:Lilium concolor)と比べて「大きい」という意味とする説を私は支持したい。この用法については次の段落で小泉八雲も述べている。

「英語のコイツクス」(coix)「の一種はオニズズダマ(鬼の數珠玉)と呼ばれて居る」coix」は既出既注の単子葉植物綱イネ目イネ科ジュズダマ属ジュズダマ Coix lacryma-jobi の属名。斜体になっていないが、これは「Coix seed」などと「ジュズダマ」の一般名詞としての使用法があるから、問題ない。

「英語のバー・マリゴールド」(bur-marigold)「はオニバリ(鬼の針)と呼ばれて居り」Bur marigold」は、黄色の花を咲かせ、毛皮や衣服にくっつく刺(とげ)のある実(所謂、ご存じ「ひっつき虫」である)を持つ、キク亜綱キク目キク科キク亜科センダングサ属 Bidens の数種の植物の総称。サイト「跡見群芳譜」の「せんだんぐさ(栴檀草)」Bidens biternata)の「訓」の項に小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」を引いて『鬼針草に、「センダングサ キツネバリ備後 カラスバリ奥州 石クサ越後 オニバリ キツネノヤ キツネノヤリ ハサミグサ ヌスビト播州。衣服ニ』實『ノ著モノヲ』總『テヌスビトゝ云、イトロベトモ云 キツネノハリ同上 モノツキ長州 オニノヤ藝州 モノグルヒ』豐『前 シブツカミ勢州 ヤブヌスビト ヌスビトノハリ共ニ同上」』と冒頭に「鬼針」が出ている

「オニバス(鬼蓮)」スイレン目スイレン科オニバス属オニバス Euryale ferox「蓮の繁殖に害を與へるもの」を「鬼」の由来のように小泉八雲は書いているが、この「鬼」は植物全体に大きな刺(遂げ)が生えていることに由来し、特に水面に広がる大きな葉の表裏に生える刺は実際に硬く鋭い。ウィキの「オニバス」によれば、『農家にとってオニバスは、しばしば排除の対象になることがある。ジュンサイなどの水草を採取したりなど、池で農作業を行う場合、巨大な葉を持つオニバスは邪魔でしかないうえ、鋭いトゲが全体に生えているために嫌われる羽目になる。また、オニバスの葉が水面を覆い』、『水中が酸欠状態になったため、魚が死んで異臭を放つようになり、周囲の住民から苦情が出たという話もある』。『水が少ない地域に作られるため池では水位の低下は死活問題に直結するが、オニバスの巨大な葉は水を蒸散させてしまうとされて歓迎されないこともあった』とある。しかし、『日本では、環境の悪化や埋め立てなどで全国的に自生地の消滅が相次ぎ』、『絶滅が危惧されており』、本邦では、嘗つては『宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』とある。]

 

 日本の佛敎で認められて居る一種の化物(ばけもの)を意味して居る、キジン或はキシンといふ語は、同じくまた接頭字として使用されて居る。例を舉ぐれば、英語のニードル・グラスの一種はキシンサウ(鬼神草)として知られて居る。一種の女化物を意味して居る、今一つの佛語のキヂヨといふ語が、或る蘭の普通名に見えて居る。キヂヨラン(鬼女蘭)がそれである。それからまた、鬼(おに)とか化物とかの意味の語の省略のキといふ接頭字があつて、これが時々植物名に現はれて居る。例へば學名パルダンサス・チネンシスは日本ではキセン(意味は『鬼扇』)と呼ばれて居る。こんな惡魔に因んだ名は、ただ單にその恰好が醜惡であるか異常であるかの爲めでは無く、著しく大きいが爲めに植物なり動物なりに與へてあるといふことは、述べて置く價値がある。例へば一種の告天子[やぶちゃん注:「ひばり」。]をオニヒバリ(鬼告天子)と呼んで居るのは、偶〻それが普通の野告天子[やぶちゃん注:「のひばり」。]よりも餘程大きいからである。また非常に大きな或る蜻蛉を同じ理由でオニヤンマ(鬼蜻蛉)と名づけて居る。

[やぶちゃん注:「英語のニードル・グラス」(needle-grass)「の一種はキシンサウ(鬼神草)として知られて居る」needle-grass」は単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ亜科 Pooideae に属する Stipeae Stipa 属の中の、細く伸びた草体の一群を指す。但し、同属そのものは本邦には植生しないようであるから、小泉八雲の言う「一種」は誤りである(実際、以下に見る通り、縁もゆかりもない双子葉植物綱の全くの別種である)。ここまでは英文ウィキの「Stipaに拠った。そこに、同属を構成するグループとして「feather grass」・needle grass・「spear grass」を掲げてある。「キシンサウ(鬼神草)」はキク科センダングサ属コバノセンダングサ Bidens bipinnata の異名個人サイトと思しい「三河の植物観察」のこちらがよい。

「キヂヨラン(鬼女蘭)」キク亜綱リンドウ目ガガイモ科キジョラン属キジョラン Marsdenia tomentosaウィキの「キジョラン」によれば、蔓『性の多年草の』一『種』で、『有毒』。『木質になる』。『葉は対生し、卵円形で大きく、基部は円脚か浅い心脚、全体としてはややハート形に近くなる。葉の表面は深緑で、無毛、少しつやがある。花は葉腋から出て』、二~三センチメートルの『短い柄の先に散形の花序をつける。個々の花は白で、径約』四ミリメートルで、花期は八~十一月。『花に対して果実は大きく、楕円形で長さ』十三~十五センチメートルにもなり、蔓から『ぶらさがる。キジョランの実は冬が近づくと、はじけて中から綿毛が飛び出す。和名は、その綿毛の白毛を鬼女の髪に見立てたことに由来する』。『朝鮮半島南部と日本に分布する。日本では関東以西の本州、四国、九州、沖縄に分布する』。『照葉樹林の林内から林縁に生え、木にも登るが、樹冠を覆うような生え方はしない。長距離移動することで知られているチョウのアサギマダラ』(鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科マダラチョウ亜科アサギマダラ属アサギマダラ Parantica sita)『の幼虫の食草とされ、卵が産み付けられる』とあるから、八雲先生……鬼女どころか……鬼子母神……ですよ…………

小泉八雲は「或る蘭の普通名」と言っているが、本種は「蘭(ラン)」とつくものの、ラン(単子葉植物綱キジカクシ目ラン科 Orchidaceae)とは縁もゆかりもないので注意されたい。

「學名パルダンサス・チネンシス」(Pardanthus chimnsis)「は日本ではキセン(意味は『鬼扇』)と呼ばれて居る」「鬼扇」とか「きせん」の異名では全く検索に掛かってこなかったが、小泉八雲が学名を記して呉れていたお蔭で発見出来た。現在は属が変更された、単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica の旧学名のシノニム英文ウィキの「Iris domesticaの「Synonyms」に出る)である。ウィキの「ヒオウギ」によれば、『従来はヒオウギ』(檜扇)『属(Belamcanda)に属するとされ、B. chinensisの学名を与えられていたが』二〇〇五『年になって』、『分子生物学によるDNA解析の結果から』、『アヤメ属に編入され、現在の学名となった』とある。『ヒオウギは山野の草地や海岸に自生する多年草で』、高さ六十~百二十『センチメートル程度。葉は長く扇状に広がり、宮廷人が持つ檜扇に似ていることから命名されたとされる』。『別名に烏扇(からすおうぎ)』がある。『花は』八『月ごろ咲き、直径』五~六『センチメートル程度。花被片はオレンジ色で赤い斑点があり放射状に開く。午前中に咲き夕方にはしぼむ一日花である。種子は』四『ミリメートル程度で黒く艶がある。本州・四国・九州に分布する』。『黒い種子は俗に射干玉(ぬばたま・ぬぼたま・むばたま)と呼ばれ、和歌では「黒」や「夜」にかかる枕詞としても知られる。烏羽玉、野干玉、夜干玉などとも書く』。『和菓子の烏羽玉(うばたま)はヒオウギの実を模したもので、丸めた餡を求肥で包んで砂糖をかけたものや』、『黒砂糖の漉し餡に寒天をかけたものなどがある』。『花が美しいため』、『しばしば栽培され、生花店でも販売される。関西地方中心に名古屋から広島にかけて、生け花の』七『月初旬の代表的な花材である』。『特に京都の祇園祭や大阪の天神祭では、床の間や軒先に飾る花として愛好されている』。『生花はほとんどが徳島県神山町産のものである』とある。

「告天子」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には、

亜種ヒバリAlauda arvensis japonica

が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に、

亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi

亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis

が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もするから、ここで「オニヒバリ(鬼告天子)」と呼んでいるのは、大きなヒバリではなくて、有意に体が大きい最後のオオヒバリである可能性も視野に入れておく必要がある。なお、雲雀(ヒバリ)の博物誌は、私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり)(ヒバリ)」を参照されたい。

「オニヤンマ(鬼蜻蛉)」『小泉八雲/民間伝説拾遺/「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』の「十四」や「六、トノサマトンボ」を参照。

 

 動物幷びに植物の佛敎に緣のある名に靈的なのが多い。或る綠色の可愛らしい螽蟖[やぶちゃん注:「きりぎりす」。]にホトケノウマ(佛の馬)といふがある。この虫の頭は恰好が馬の頭に奇妙に似て居る。が、『ホトケ』といふ語は――俗衆の信仰では善人は總て佛になると想はれて居るから――死者の靈といふ意味を有つて居る。だから、ホトケノウマといふ名の本當の意味は『死者の馬』である。さて、七月の三日間の死者の祭中、靈のうちで、昆蟲の助を藉るか[やぶちゃん注:「たすけをかりるか」。]、又は實際昆蟲の姿となつて、己が家鄕を或は己が前の友人の家を訪ふものが多い、と信ぜられて居る。で、この螽蟖の名は影の如き訪客が馬として用ゐる、といふ意を實際含んで居るのである。……それからまた、シヤウリヤウといふ語――佛式に據つて祀る祖先の靈の總稱、――と或る蜻蛉の名と一緖になつて居るのを見る。シヤウリヤウヤンマ(祖先の靈の蜻蛉)がそれである。シヤウライトンボ(精靈蜻蛉)も、似た意味の言葉のキヤンマも、同じくまたその蟲と不可見世界との關係を仄めかす積つも)りの名である。等しく薄氣味わるいのは、京都の方言での、英語のモール・クリケットの名である。多分その蟲の地下生活で思ひついた名であらう、――シヤウライムシ(精靈蟲)と呼ばれて居るのである。植物の名稱のうちに。ユウレイダケ(幽靈竹)とか、ユウレイバナ(幽靈花)とか、いふやうな名がまたある。後者は花車な[やぶちゃん注:「きやしや(きゃしゃ)」。「華奢」に同じ当て字。]一種の茸の名で、不適切な名では無いと思ふ。

[やぶちゃん注:「螽蟖」原文“grasshopper”。英語でこれは「バッタ」・「イナゴ」・「キリギリス」総てを指す。

「ホトケノウマ(佛の馬)」既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)』にも登場している。そこで私は本種を、

キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus

或いは、

ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolor

に比定同定した。因みに、前者の名を私は「スイッチョン」と覚えており、「スィーーーッ・チョン」と長く延して鳴き、後者は「シッチョン・シッチョン」と短く鳴く。彼らの御面相は、確かに、馬っぽく、ネットを調べると、「ウマオイ」を出雲では「ホトケノウマ」と言うという記載も現認出来たと記してある。基本的にこれでいいと今も思っている。

「シヤウリヤウヤンマ(祖先の靈の蜻蛉)」「シヤウライトンボ(精靈蜻蛉)」「キヤンマ」『小泉八雲/民間伝説拾遺/「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」』の「十六、シヤウリヤウトンボ」や「十五、キヤムマ」や、当該末の小泉八雲の記述を参照されたい。

「モール・クリケット」“mole-cricket”(改行でダッシュが入っているから、小泉八雲は“molecricket”の積りかも知れない。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ(螻)科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、本邦産のそれはグリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis属名は「Gryllo」の部分が「コオロギ」、「talpa」が「モグラ」(哺乳綱ガリネズミ形目モグラ科 Talpidae)を意味し、英名の「Mole cricket」も「モグラコオロギ」の意である。私はあの、夜、地面の黄泉に繋がる地下から聞こえてくる「ジー……」「ビー……」というケラの声が、好きだ。

「シヤウライムシ(精靈蟲)と呼ばれて居る」京都では先祖の精霊を「お精霊(しょらい)さん」と呼ぶ。今もそうだ。しかし、もうケラを「しょうらいむし」と呼ぶ京都人はいなくなってしまったのかも知れない。ネットには全く掛かってこない。何か淋しい気がした。

「ユウレイダケ(幽靈竹)」竹ではなく、ツツジ目ツツジ科シャクジョウソウ亜科ギンリョウソウ属ギンリョウソウ Monotropastrum humile、「銀竜草」の異名である。腐生植物(saprophyte:菌根を形成して生活に必要な有機物を菌類から得ることで生活をする植物群)の代表種である。青白い不思議なそれはまさに「幽霊竹」に相応しい。私は丹沢登山で何度も見かけた。ウィキの「ギンリョウソウ」画像をリンクさせておく。

「ユウレイバナ(幽靈花)」「花車な一種の茸の名」既に出した曼珠沙華(ヒガンバナ)の異名にあるが、ここは「きのこ」とはっきり限定している。しかし、キノコの「ユウレイバナ」を私は知らないのだ。しかも、前のギンリョウソウの異名の一つに「ユウレイバナ」があることも知っているのだ。翻って――素人は「ギンリョウソウ」を見たら「きのこ」と誤認しないだろうか?――私は「する」と思う。――とすれば――小泉八雲はこの「ユウレイダケ(幽靈竹)」と「ユウレイバナ(幽靈花)」が同一のものとは思わずに、前者には実際のタケ類を想定誤認し、後者を茸みたような青白く細くて華奢な「銀竜草」を茸と誤認して、かく述べたものではなかったろうか? キノコの「ユウレイバナ」があると言われる方は、是非、御教授あられたい。

2019/10/16

小泉八雲 仏教に縁のある動植物  (大谷正信訳) /その1

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Buddhist Names of Plants and Animals”。「植物と動物の仏教上での名称」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の二番目に配されたたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”にはフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まり多く、美しくなく、読み難く、また、味気ない)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。底本ではパート標題は「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 本文内に神経症的に注を挿入した。やり始めてみて、これ、今までになく、原文・訳文にかなりの問題点(私が拘りたくなる部類の、である)があるので、分割して示すことにした。

 

 

  佛敎に緣のある動植物の名

 

 一時(いつとき)自分は日本の動植物に附けてある佛敎に緣のある名の語彙を編纂したいと思つて、その著作の材料を蒐め始めた。が、其時は自分はそんな事業の實際の困難に就いて餘り知つてゐなかつた。そのうちの唯だ一つを述べて見れば、日本の殆ど何れの州にも他の州とは異つた民間語があつて、その差異が或る植物昆蟲爬蟲類禽鳥に附けてある名にさへ見えて居る。そんな名は、固よりのこと、百姓や漁夫の口から聽き取らなければならぬもので、自分が爲(し)ようと思つて居る事は民間傳說硏究會の堅忍な勞力に依らなければ、決して立派には爲し得られないのである。で、今のところ自分は、豫ての[やぶちゃん注:「かねての」。]志の語彙は作ることが出來ないで、この問題に對する二三の一般的註釋で甘んじなければならぬことになつて居る。

[やぶちゃん注:「民間傳說硏究會」原文“a folklore society”。これは「とある民間伝承の研究者の集まり」程度の意味であろう。何故なら、現在の「日本民俗学会」の発足は戦後の昭和二四(一九四九)年(平井呈一氏の恒文社版の訳「動植物の仏教的名称」ではここは『民俗学会』と訳されているが、これは全く事実に反するのである)その前身は昭和一〇(一九三五)年に柳田國男の還暦を機に開催された「民俗学講習会」に参集した全国の研究者の要望によって結成された「民間伝承の会」であった。則ち、本「日本雑記」が刊行された明治三四(一九〇一)年にはそのような研究団体、大谷が仰々しく訳すようなこんな研究会や組織・集団は、実は影も形もなかったのである。日本の民俗学の先駆けとも称される、かの佐々木喜善原作の柳田国男の発表した「遠野物語」でさえ、本書刊行の九年後の明治四三(一九一〇)年の発表だったのである(私は私のブログ・カテゴリ「柳田國男」で「遠野物語」の全電子化注を終わっている)。しかも、戦後の高度経済成長と公害による急速な自然破壊と地方の限界集落化によって、伝統的民俗社会は殆んどが矮小化され、解体され、今現在、日本の民俗学はたかだか百年も経たぬうちに、早くも「死に体」或いは消滅した言語の秘術的伝承集団のようになってしまっていると言っても過言ではないと私は思っているのである。現在の民俗学者を標榜する輩は実に今から百十八年も前に小泉八雲が謙遜して述べている次の段落を肝に銘ずるべきである。]

 が、恐らくは此註釋は――それに對して所要の學識も手段も自分が持たなかつた一事業の殘物ながらも――極東の民間俗說といふ此の未着手の地域への未來の開拓者には少くとも暗示的價値はあるであらう。

 佛といふ名は數々の木や植物の名稱に見えて居る。マルブシユカン(佛の圓い指)といふは――その果實の恰好が甚だ能く、それに似て居るが爲めさう名づけられた一種の檸檬樹(レモン・トリイ)の名である。扶桑はブツソウゲ(佛の桑)と呼ばれて居り、岩苔の一變種は普通ホトケノツメ及びブツカウサウといふ――兩方とも「佛の指の爪」といふ意味の――繪のやうに美しい名によつて知られて居る。一種の藷は――その名稱を適當な漢字で書くと『佛の手の薯』といふ意味を有つ――ツクネイモと呼ばれて居り、つめくさの一變種にホトケノザ(佛の座)といふ名を戴いて居るのがある。

[やぶちゃん注:「マルブシユカン」被子植物門双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン Citrus medica の和名。丸仏手柑(マルブシュカン)。ウィキの「シトロン」によれば、『漢名は枸櫞(くえん)。レモン』(ミカン属レモン Citrus limon)『と類縁関係にある』。『原産はインド東部、ガンジス川上流の高地。しかし紀元前にはすでにローマや中国に伝来していた。またアメリカ大陸にはコロンブスによる到達以降に伝わった。日本では「本草図譜」(』文政一一(一八二八)年成立『)に記載されているので、江戸時代以前に伝わっていたと思われる』。『枝にはとげが多い。葉は淡黄緑色、細長い楕円形で縁に細かいぎざぎざ(鋸歯)がある。新芽や花は淡紫色を帯びている品種が多く、花弁は細長い』。『熟した果実の表面は黄色く、形状は品種により様々だが、一般に紡錘形で重さは』百五十~二百グラムで、『頂部に乳頭が発達している。果皮はやわらかいが分厚く、果肉が少なく、果汁も少ない。また』、『果肉がかなりすっぱい品種とそうでない品種がある』。『ユダヤ教では一部の品種の果実をエトログ』『と呼び、「仮庵の祭り」で新年初めての降雨を祈願する儀式に用いる四種の植物の』一『つとする』。現代『フランス語でシトロン(Citron)と言った場合は』、『本種ではなく』、『レモンを指す。現在のフランス語でシトロンを示す場合はセドラ(Cédrat)と呼ぶ』。『ブッシュカン(仏手柑)はシトロンの変種(C. medica var. sarcodactylus)である』とある。

「扶桑はブツソウゲ(佛の桑)と呼ばれて居り」双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科フヨウ属ブッソウゲ Hibiscus rosa-sinensisウィキの「ブッソウゲ」によれば、「仏桑花」「扶桑花」「仏桑華」とも書き、沖縄では「赤花」とも呼ぶ。『ハイビスカスとも言うが、フヨウ属の学名・英名がHibiscusであることから、この名前は類似のフヨウ属植物を漠然と指すこともあって、複雑なアオイ科の園芸種群の総称ともなっている』。『極めて変異に富み』、八千『以上の園芸品種が知られているが、一般的には高さ』二~五メートルに『達する熱帯性低木で、全株無毛ときに有毛、葉は広卵形から狭卵形あるいは楕円形で先端は尖る』。『花は戸外では夏から秋に咲くが、温室では温度が高ければ周年開花する。小さいものでは直径』五センチメートル、『大きいものでは』二十センチメートル『に及び、らっぱ状または杯状に開き、花柱は突出する。花が垂れるもの、横向きのもの、上向きのものなど変化に富む。花色は白、桃、紅、黄、橙黄色など様々である。通常、不稔性で結実しないことが多い』。五『裂の萼の外側を、色のついた苞葉が取り巻いているので、萼が』二『重になっているように見える。よく目立つ大きな花は花弁が』五『枚で、筒状に合体した雄蕊の先にソラマメのような形の葯がついていて、雌蕊は』五『裂する。果実は』五『室の豆果で、多数の種子が入っている』。『中国南部原産の説やインド洋諸島で発生した雑種植物であるとの説もあるが、原産地は不明である。本土への渡来は、慶長年間(』一六一〇『年頃)に薩摩藩主島津家久が琉球産ブッソウゲを徳川家康に献じたのが最初の記録として残っているという』。『ほぼ一年中咲くマレーシアでは、マレー語でブンガ・ラヤと呼び、国花として制定して』おり、『親しまれている花のひとつである』。『日本では南部を除き』、『戸外で越冬できないため、鉢植えとして冬は温室で育てる』。『沖縄県では庭木、生垣とする。沖縄南部では後生花(ぐそうばな)と呼ばれ、死人の後生の幸福を願って』、『墓地に植栽する習慣がある』。『中国では赤花種の花を食用染料としてシソなどと同様に用い、また熱帯アジアでは靴をみがくのに利用するといわれ、shoe flowerの別名がある』とある。

「岩苔の一變種は普通ホトケノツメ及びブツカウサウといふ」それぞれ「仏の爪」、「仏甲草」(ぶっこうそう)で、孰れも――小泉八雲は「岩苔」(原文は“rock-moss”)と言っているが、コケ類ではなく――れっきとした多肉の多年草であるユキノシタ目ベンケイソウ科イワレンゲ属 Orostachys のイワレンゲ類の異名である。ウィキの「イワレンゲ」によれば、『開花すれば枯死』してしまう『一稔性植物』で、『花後に葉腋から腋芽や走出枝をだして繁殖する。地下に根茎はない。根出葉は顕著なロゼット状に開き、葉を密生させる。葉に葉柄がなく、葉の先端が歯牙状または針状にとがることがある。ロゼットの中央の軸部分が円錐状に伸長して花茎になり、多数の花を密につける。花序には葉状の苞がつき、花柄の基部に小苞がある。短日性で、秋咲き。花序の下の方から順に咲いていく。萼は緑色の肉質で、裂片は』五『個で基部で合生する。花弁は』五『個で、白色、まれに紅色または黄色をおび、花弁全長の基部の』四分の一『ほどが合生する。雄蕊は』二『輪で』十『個あり、葯は』二『室で底着し、縦に裂ける。雌蕊は』五『個でほぼ離生し、子房の基部は柄状に細まり、背面に蜜腺がある。果実は』五『個の袋果になり、子房は花』の『時と変わらない形状をしている。種子は楕円形で長さ約』一ミリメートルに『なる』。『ウラル山脈以東のシベリア、中国大陸、朝鮮半島から日本にかけて分布する』。『分布地の内陸部または海岸部の岩上に生育する。建物の屋根上に生えるものもある』。『属名 Orostachys は、ギリシャ語でOros「山」とStachys「穂」による合成語で、「山に生え、穂状花序であること」からによる』。『この属に属する種は、The Plant List, Orostachys では』十二『種、日本の植物学者大場秀章は、『改訂新版 日本の野生植物 2』では一部の種を変種やその他の属として扱い』、八『種あるとしている』とある。

「佛の手の薯」「ツクネイモ」お馴染みの単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ナガイモ Dioscorea polystachya の品種である、丸みを帯びた形状の Dioscorea opposite の地方名。「つくね芋」の外、「大和芋」・「伊勢芋」・「丹波芋」などが同種の品種の代表例である。「つくねいも」は小泉八雲の謂う通り、「仏掌薯」と漢字表記もする。

つめくさの一變種にホトケノザ(佛の座)といふ名を戴いて居るのがある」この場合の「仏の座」は、シソ目シソ科オドリコソウ亜科オドリコソウ属亜属Amplexicaule節ホトケノザ Lamium amplexicaule を指しているものと考える。但し、小泉八雲の「つめくさの一變種」(“a variety of clover”)というのは誤り。所謂、「クローバー」はマメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ属 Trifolium である。しかし、敢えて小泉八雲がそう言い間違えたのは、同じような草体や花のつき方をしているからこそ誤認したと考え、上記のホトケノザで採った。「春の七草」の食用になる「仏の座」の方は、キク亜綱キク目キク科ヤブタビラコ属コオニタビラコ Lapsana apogonoides で、全く別種である。コオニタビラコはクローバーとはおよそ似ていないと私は思う。ただ、絶対にこれでいいかどうかは不安が残る。小泉八雲の周辺では圧倒的に「春の七草」の「仏の座」=コオニタビラコを標準和名と信じている人が圧倒的であろうからである。

 

 菩薩や他の佛敎の神々(デイヸニテイ)の名がまた植物と動物との稱呼に見出される。クワンノン(梵語のアヷロキテシヷラ)といふ名はクワンノンチク(觀音の竹)といふ語に見え、種類の異つた數々の植物が、州を異にして、クワンノンサウ(觀音の草)といふ名で知られて居る。フゲン(梵語のサマンタバドラ)といふ名は樹の一變種に與へられて居る、――フゲンザクラ(普賢櫻)がそれである。ダイモクケンレン(梵語のマハモウドガルヤアヤナ)といふ――普通にはモクレンと短くして用ひる――名は、モクレンとして知られて居るフィクス・ピュミラの普通名にも用ひられ、また通常ハクモクレン(白い木蓮)と呼んで居る、マグノリア・コンスピキュアの普通名にも用ひられて居る。プラアマといふ――日本の佛敎では梵天として知られて居る――名は一種の陸稻の名稱に見えて居る。卽ち梵天米(ぼんてんまい)である。ボダイダルマ(ボディダルマ)の名は、ダルマサウ(達磨の草)(英語のスワンプ・キヤベデ)の名に保存されて居ると同樣に、ダルマギク(達磨の菊)(學名アステル・スパテュフオーリウム)といふ俗稱に保存されて居る。また此祖師の名を有つて居る魚が二種ゐる。一は學名プリアカンサス・ニフヲニウスといふ魚で、之をダルマダイ(達磨の鯛)と呼んで居り、今一つは學名シナンセイア・エロサといふ魚で、之を普通ダルマカサゴと言うて居る。『カサゴ』は本當は學問の方ではセバスタス・イネルミスと名づけて居る魚の名である。が然し、上に揭げた名稱の何れよりも妙な名稱は米の蟲の一種に附けて居る普通名コクウザウである。『虛空藏』といふはかの大菩薩アカサブラティシシタの日本名である。

[やぶちゃん注:「神々(デイヸニテイ)」原文“divinities”(単数形“divinity”。音写するなら「ディヴィニティ」)は「神性・神格・神威・神徳」の意。

「クワンノン(梵語のアヷロキテシヷラ)」原文“Kwannon (Âvalokitesvara)”。観世音菩薩のサンスクリット語のラテン文字表記は現行では「Avalokiteśvara」。音写は「アヴァローキテーシュヴァラ」。

「クワンノンチク(觀音の竹)」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科カンノンチク属カンノンチク Rhapis excelsa。漢字は「観音竹」であるが、ご覧の通り、タケの仲間ではなく、ヤシ科植物の小型種である。ウィキの「カンノンチク」によれば、『掌状複葉の葉はお椀のように上に反り、少数にだけ裂ける。古くから栽培され、古典園芸植物としての品種も多い』。『南中国原産で』、『日本では鉢植えで栽培され』、『日本本土には江戸時代(』十七世紀半ば『)に琉球を経由して持ち込まれた』とある。

「種類の異つた數々の植物が、州を異にして、クワンノンサウ(觀音の草)といふ名で知られて居る」よく知られた種としては、単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科キチジョウソウ属キチジョウソウ Reineckea carnea の異名である。ウィキの「キチジョウソウ」によれば、『日本国内では』、『関東から九州、また中国の林内に自生し、栽培されることもある』。『家に植えておいて花が咲くと縁起がよいといわれるので』「吉祥草(きちじょうそう)」の『名がある』。『地下茎が長くのびて広がり、細長い葉が根元から出』、『花は秋に咲く。根元にヤブランにやや似た穂状花序を出し、下部は両性花、上部は雌蕊のない雄花が混じり、茎は紫色。花は白い花被が基部で合生し筒状となり、先は』六『裂して反り返り』、六『本の雄蕊が突き出る』。『果実は赤紫色の液果』とある。

「フゲン(梵語のサマンタバドラ)」“Fugen (Samantabhadra)”。普賢菩薩。

「フゲンザクラ(普賢櫻)」桜の古い品種の一つである八重の普賢象桜(或いは単に「フゲンゾウ」とも呼ぶ)のことであろう。バラ目バラ科サクラ属フゲンゾウ Cerasus × lannesiana である。ウィキの「フゲンゾウ」によれば、『雌しべが花の中央から』二『本出ており、細い葉のように葉化している。この雌しべが普賢菩薩の乗る普賢象の鼻に似ている事からこの名前がつけられた』。『異称に普賢堂というものがある』とあり、普賢菩薩本体が和名の語源ではない。また、そこには『室町時代には既に知られていたとされ』、『サトザクラの中でもかなり古い分類に入る』とある。しかし、私の、幕末に完成した鎌倉周辺地誌「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の金沢文庫のある称名寺にあった(近現代に至って移植されたものがあったが、完全に枯死して絶えたことが確認されているはずである)名木「普賢象櫻」について、

   *

堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新綠二葉を出したり。【園太暦】に、延文二年[やぶちゃん注:南北朝の北朝の元号。南朝は「正平十二年」。ユリウス暦一三五七年。]三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽(うう)。殊絕の美花也。號「鎌倉櫻」とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て「鎌倉櫻」と有は是ならん歟(か)。又、按るに、延文の頃迄有(あり)しにや。「鎌倉櫻」と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院などは、將軍家御所より遠からぬゆゑ、正慶の兵燹(へいせん)にて、皆、燒亡して絕たり、といふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。

[やぶちゃん注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。]

とあるのである。これは文脈に従うなら、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正にその実朝が花見をした昔、「植えられてその頃までに生い茂っていた」桜で、それこそ正しく本当の「鎌倉桜」であったのであろうか、の意であろうと思われる。「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指していることを指す。とすると、どうも叙述が前後、おかしいように私は思う。幕府滅亡で焼燼し尽して完全にその桜が「絕」えたのなら、「延文の頃迄有」つたという伝承は嘘ということになるのではなかろうか? しかし逆に、もし、この話を極めて善意に希望的に読み解くなら、或いは鎌倉前期、三代将軍実朝の時代に既に日本に普賢象桜があった可能性もあることになるのである。

「ダイモクケンレン(梵語のマハモウドガルヤアヤナ)といふ――普通にはモクレンと短くして用ひる――名は、モクレンとして知られて居るフィクス・ピュミラの普通名」“The name of Dai-Mokukenren (Mahamaudgalyâyana), ―shortened by popular usage into Mokuren, — figures both in the common appellation of the Ficus pumila,”。「Mahamaudgalyâyana」は釈迦仏の十大弟子の一人である目犍連(もくけんれん:これが正式)のサンスクリットのラテン文字転写。小泉八雲が言う通り、一般には略した目連(Maudgalyāyana:モードガリヤーヤナ)で呼ばれることが多い。但し、ここ、うっかりこの「モクレン」をモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属モクレン Magnolia quinquepeta と勘違いしないように注意しなくてはならない(正直、私の読者の誰彼もそう読み飛ばしておられなかったか?) ご覧の通り、学名が異なるでしょう? この「Ficus pumila」というのは、常緑蔓性木本であるマンサク亜綱イラクサ目クワ科イチジク属オオイタビ Ficus pumila を指すのである。ウィキの「オオイタビの写真をご覧あれ。どこかで見たことがあるはずである。疑う方は、中文の当該種薜荔のウィキを見られよ。「別名」の項に「木蓮」とある。しかし、私は思うのだが、この「木蓮」が大「目連」由来であるという小泉八雲の謂いには微妙に賛同を留保したくなるのだ。日本語の発音は一致しても、由来が同じとは言えないし、そのような両者を関連づける古文献を私は知らないからである。そのようなものがあるのであれば、是非、お教え願いたい。

「ハクモクレン(白い木蓮)と呼んで居る、マグノリア・コンスピキュアの普通名にも用ひられて居る」“and in that of the Magnolia conspicua, usually called Hakumokuren, or "White-Mokuren."”。こちらは正しくモクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン Magnolia denudata である。種小名が違うって? 大丈夫! シノニムだ。こちら(英文サイト「The Plant List」)を見られよ。しかし、前注の最後の疑義は解消されない

「プラアマといふ――日本の佛敎では梵天として知られて居る――名は一種の陸稻の名稱に見えて居る。卽ち梵天米(ぼんてんまい)である」“The name of Brahma, — known to Japanese Buddhism as Bonten, — appears in the designation of a kind of upland rice, Bonten-mai.”。梵天は仏教の守護神である天部の一人。もと、古代インドの神「ブラフマー」が仏教に取り入れられたもの。「梵」は「brahma」の音写。「ブラフマー」は古代インドに於いて「万物実存の根源」とされた「ブラフマン」を神格化したもの。「梵天米」については、小学館「日本国語大辞典」に『陸稲(おかぼ)の一種か。野稲(のしね)』として、例文を「和訓栞」(江戸後期(最終完成は作者没(安永五(一七七六)年)から十一年後)の国語辞書。全九十三巻。谷川士清(ことすが)編。安永六(一七七七)年から明治二〇(一八八七)年に刊行された)として『のしね〈略〉又梵天米と名く』とある。現在はないらしい。種(たね)も保存されていないということらしい。不審だ。小泉八雲は明らかにその米を見ているようなのに?

「ボダイダルマ(ボディダルマ)の名は、ダルマサウ(達磨の草)(英語のスワンプ・キヤベデ)の名に保存されて居ると同樣に、ダルマギク(達磨の菊)(學名アステル・スパテュフオーリウム)といふ俗稱に保存されて居る。」ここの原文は“The memory of Bōdai-Daruma (Bôdhidharma) is preserved in the popular appellation of the Aster spatufolium, called Daruma-giku, or " Daruma's chrysanthemum,"— as well as in the name of the swampcabbage, Daruma-sō, or " Daruma's plant."”となっていて、何かちょっと混乱している感じがする。菩提達磨(サンスクリット語のラテン文字転写:bodhidharma:ボーディダルマ)は中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。所謂、達磨(或いは「達摩」)大師のことである。「ダルマ」はサンスクリット語で「法(カルマ)」を表わす言葉である。「ダルマサウ」は単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科ザゼンソウ属ザゼンソウ Symplocarpus renifolius のこと。同種は発熱時の悪臭と熱によって花粉をハエに媒介させる蠅媒花(じょうばいか)である。全草に悪臭があることから、英語では「Skunk Cabbage」(スカンク・キャベッジ(=キャベツ))の異名がある。しかし、原文の「swampcabbage」とは英和辞典では「空芯菜」のことだ。だが、これを逐語訳するなら、「沼地のキャベツ」で湿地に植生するザゼンソウにしっくりくるように見えてくる。学名表記が全然違う理由は、よく分らない。シノニムではない。そもそもが「Aster」というのはキク目キク科キク亜科シオン連シオン属 Aster で、ザゼンソウとは全く明後日(アサッテ)である。この学名の問題(但し、これは深刻)を除いて、整理すると、一つ見えてくるのは、「ダルマギク(達磨の菊)」というのは、ザゼンソウの異名・俗名のであるという事実である。大谷の「同樣に」という訳には誤解を招く可能性があるという点である(別な種にその名を用いているという意味で読めてしまう瑕疵があるという虞れである)。大谷の訳は無理矢理、削ぎ離して、辻褄を合わせたように感じられないでもない気がするということなのである。日本語は難しいですよ、八雲先生。

「學名プリアカンサス・ニフヲニウスといふ魚で、之をダルマダイ(達磨の鯛)と呼んで居り」以下と合わせて原文を示すと、“Two fishes also have been named after this patriarch : the Priacantbus Nipbonius, which is called Daruma-dai, or "Daruma's sea-bream" ; and the Synanceia erosa, popularly known as Darumakasago, —”である(「Priacantbus Nipbonius」の種小名の頭が大文字なのはママ)。でもね! これって! 硬骨魚綱条鰭亜綱刺鰭上目スズキ亜目キントキダイ科クルマダイ属クルマダイ Pristigenys niphonia でっせ?! 小泉八雲先生!? 「ダルマ」でなくて「クルマ」でっせ? これは達磨どころか仏教とは関係ありまへんがな! 和名由来は単に丸くて車輪のようだからでんがな いつも同定比定でお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の、クルマダイをリンクさせておく。

「學名シナンセイア・エロサといふ魚で、之を普通ダルマカサゴと言うて居る」条鰭綱カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科ダルマオコゼ属ダルマオコゼErosa erosa。これが現行の学名であるが、小泉八雲の「Synanceia erosa」はそのシノニムであるから、問題ない。サイト「Private Aquarium」のダルマオコゼをリンクさせておく。小さいが、背鰭の棘の毒は強く、かなりの危険種である。大の大人が大声出して泣いていたのを、ずうっと昔、見たことがある。

「『カサゴ』は本當は學問の方ではセバスタス・イネルミスと名づけて居る魚の名である」“" kasago" being properly the name of the fish scientifically called sebastes inermis.”。小泉八雲は魚類はあまり得意でないようだ。これは「カサゴ」ではなくカサゴの仲間ではあるが、「カサゴ」とは呼ばない。「メバル」である。条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(又は)メバル科 Sebastidae メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis ・同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni ・クロメバルSebastes ventricosus の三種の孰れかを指す。

「米の蟲の一種に附けて居る普通名コクウザウである。『虛空藏』といふはかの大菩薩アカサブラティシシタの日本名である」れは全く以って、おかしい。「穀象虫」、即ち、本邦に棲息する種としては鞘翅(コウチュウ(甲虫))目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科 Dryophthoridae オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais 及びココクゾウムシ Sitophilus oryzae の二種が代表となるが、彼らはその特異な形状から「ゾウ」のシミュラクラからきた「穀象」なのであって、私は「虚空蔵」由来では私は全くないと認識しているからである。私は滅多に八雲先生には異論を唱えないが、こればかりは読んでいて牽強付会と言わざるを得ない気がしているのである。「そうではない。小泉八雲は正しい。」とされる方がいれば、お教え願いたい。

 ボサツ(菩薩)といふ名はまた二三の植物の名に見えて居る。薔薇の一種にボサツイバラ(菩薩の茨)といふのがあり、米の一種にボサツといふのがある。

[やぶちゃん注:バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ変種サクラバラ Rosa multiflora var. platyphylla の異名である。私が植物サイトとして非常に信頼しているサイト「跡見群芳譜」の「さくらばら(桜茨)」を見られたい。そこに別名として「ボサツイバラ」が挙げられている。しかし私は漢名の「七姉妹」の方が好きだ。]

 ラカン(梵語のアルハツト)は、いろいろな植物名の接頭字(プリフイツクス)となつて居る。ラカンハク(羅漢柏)は學名スヤ・ドロブラタの普通名である。ラカンシヨウ(羅漢松)は學名ポドカルプス・マクロフイラの普通の稱呼であり、ラカンマキ(羅漢槇。『マキ』は學名ボドカルプス・チネンシスの日本名)は英語のアムブレラ・パインに與へてある名である。それから、その學名を自分は發見出來ない或る木の實が方々の州でラカン(羅漢)と呼ばれて居る。それはその恰好が寺の境内にある羅漢の粗末な石位に妙に能く似て居るからである。

[やぶちゃん注:「ラカン(梵語のアルハツト)」“The term Rakan (Arhat)”。「羅漢」で「阿羅漢」(サンスクリット語ラテン文字転写「arhat」の漢音写)の略称。応供(おうぐ)と意訳される。「供養と尊敬を受けるに値する人」の意で、剃髪し、袈裟を着た僧形で像形される。中国・日本では「十六羅漢」・「十八羅漢」・「五百羅漢」のように仏道修行者の集団を指し、禅宗の流通に伴い、多数、制作された。十六羅漢の信仰と羅漢図は唐代に始り、五代に貫休がその名手として知られて流布した。本邦では中国からの将来品やその転写などの遺品が多く、特に鎌倉時代以降、隆盛した。

「接頭字(プリフイツクス)」“prefix”。接頭辞。氏名の前に附ける敬称。

「ラカンハク(羅漢柏)は學名スヤ・ドロブラタの普通名である」“Rakan-haku, or " Arhat's oak," is the popular name of the Thuya olobrata.”。マツ門マツ綱マツ目ヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata のこと。本邦の漢字表記では「翌檜」が知られるが、現代中国語でも漢名は「羅漢柏」である。

「ラカンシヨウ(羅漢松)は學名ポドカルプス・マクロフイラの普通の稱呼」“Rakan-shō, or " Arhat's Pine," is the common appellation of the Podocarpus macropbylla;”。裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus のシノニム。本邦の漢字表記では「犬槇」であるが、現代中国語でも漢名は「羅漢松」である。

「ラカンマキ(羅漢槇。『マキ』は學名ボドカルプス・チネンシスの日本名)は英語のアムブレラ・パインに與へてある名である」“and the name Rahan-maki, or " Arhat's maki" ("maki" being the Japanese name for the podocarpus cbinensis) — has been given to the umbrella-pine.”。マツ目マキ科マキ属ラカンマキ Podocarpus macrophyllus var. maki。学名の相違はシノニムか後の修整であろう。個人サイト「かのんの樹木図鑑」のこちらがよい。

「その學名を自分は發見出來ない或る木の實が方々の州でラカン(羅漢)と呼ばれて居る。それはその恰好が寺の境内にある羅漢の粗末な石位に妙に能く似て居るからである」私が直ちに想起したのは、ウリ目ウリ科ラカンカ属ラカンカ Siraitia grosvenorii であったが、本種は中国広西省桂林周辺にしか植生しないとされる蔓性植物で、本邦には植生しないから、違う。何だろう? 識者の御教授を乞うものである。]

小泉八雲 「蜻蛉」のその「五」  (大谷正信訳) / 「蜻蛉」~了

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。電子化処理は同じ。]

 

       

 

 蜻蛉を捕ることは幾百年の間、日本の兒童の好きな娯樂となつて居る。時候が暑くなると始つて、秋の大部分の間續く。それに就いての――小さな狩手どもの無思慮を述べた、古い詩が澤山にある。今日も、他の數世紀間と同じに、その追跡の面白さが、兒童を色々な難儀な目に會はす。棘や泥穴や沼を顧みずに――暑さもものともせずに――飯時すら思はずに――土手を轉がり落ちたり、溝へはまつたり、引搔いたり、非常に身體を汚ごしたりする。

 

 飯時も戾り忘れてとんぼつり   樂遊

 

 裸子の蜻蛉釣りけり晝の辻    闌更

 

[やぶちゃん注:「樂遊」不詳。

「闌更」高桑闌更(享保一一(一七二六)年~寛政一〇(一七九八)年)は加賀金沢の商家の生まれ。蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献した。編著「芭蕉翁消息集」「俳諧世説」・句集「半化坊発句集」など。彼は芭蕉の高雅を慕い、粉飾なき平明達意の、「ありのまま」を詠むことを節とした。本句はまさにそのモットーを強く感じさせる写生句として、映像が確かに見える佳品である。]

 

 然し此の遊びに關しての最も有名な句は人を感動せしめる性質のものである。これは加賀の有名な女俳人千代がその小さな子を亡くしてから作りたものである。

 

 とんぼつり今日は何處まで行つたやら

 

 此句は母の感情を言明はせずに、暗示するやうにしたものである。蜻蛉を追ひ走つて居る多勢の子を見て、常にその遊びを一緖にした自分の死んだ子のことを思ひ、――無限無窮の神祕へ出て行つたあの子の靈はどうなつたのか知らと怪しむ。何處へ行つたのであらう。あの世でどんな遊びをして樂しんで居るのであらうか今は。

[やぶちゃん注:加賀千代女(元禄一六(一七〇三)年~安永四(一七七五)年)は加賀の松任(まっとう)の表具屋福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。美人の誉れが高かった。五十一歳頃に剃髪して千代尼と呼ばれた。半睡・支考・廬元坊らの教えを受けた。通説では十八歳の頃に金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し、一子をもうけたが、夫や子に死別して松任に帰ったとも、結婚しなかったという説もある。としても、小泉八雲の鑑賞はまさに哀切々たるものがある。瞼の(瞼にさえ空ろな)母ローザと自身とを転換して美事である。なお、竹内玄玄一編「俳家奇人談」(文化一三(一八一六)年板行)の「巻下」の「千代女」では、

 蜻蛉釣今日はどこまで行つたやら

の表記で載る。]

 

 蜻蛉は時には網で捕り、時にはその先きへ鳥黐[やぶちゃん注:「とりもち」。]を塗つた竹竿で捕り、時には輕い杖か棒でた〻き落としても捕る。棒切れを使ふ事は、然し、普通善いとはされて居らぬ。蟲の身體に傷がつくからで、不必要に傷める事は、多分死者に緣のあるものと想像されて居るが爲め、不吉な事だと考へられて居るからである。蜻蛉捕りの――主として西部諸國で行はれて居る――頗る有效な方法は、捕つた雌の蜻蛉を囮に使ふ法である。長い糸の一端に雌の尾を結び附け、その糸の他の一端を曲り易い竿の先きへ結びつける。その竿を或る特別な振りやうをして振り𢌞はすと、糸一パイの長さで羽を立てていつも其雌を飛び𢌞はらせて置く事が出來る。すると雄が直ぐと惹き寄せられる。それが雌へつかまるや否や、すぐその竿を輕くしやくると、二匹とも釣手の手中へはいる。雌一匹を囮にして續けさまに八匹十匹の雄を捕るは容易な事である。

[やぶちゃん注:「鳥黐」バラ亜綱ニシキギ目モチノキ科モチノキ属モチノキ Ilex integraやマンサク亜綱ヤマグルマ目ヤマグルマ科ヤマグルマ属ヤマグルマ Trochodendron aralioidesなどの樹皮から抽出した粘着性物質。前者から得たものは白いので「シロモチ」或いは「ホンモチ」、後者からのそれはは赤いので「アカモチ」と呼称する。ウィキの「鳥黐によれば、『鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は』この「鳥黐」の『ことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは』、「鳥取黐」又は「鳥黐」と『呼ばれるようになったといわれている』とある。]

 この蜻蛉狩をして居る間に子供は蜻蛉を呼ぴ寄せの短い歌を普通歌ふ。そんな歌は隨分にあつて、地方によつて異ふ[やぶちゃん注:「ちがふ」。]。此種類の歌で出雲で歌ふのは、第三世紀に、神功皇后の軍勢が朝鮮を征服したといふ傳說に奇妙にも關係のあるものである。雄の蜻蛉を斯う呼びかけるのである。――

[やぶちゃん注:以下、引用・註(ポイント落ち)は四字下げであるが、完全に上に引き上げた。]

 

『こな、男將高麗(をんじよかうらい)――東(あづま)の女頭(めとう)に――負けて逃げるは――恥ぢや無いかや』

註 此歌は『知られぬ日本の面影』第二卷に引用。

[やぶちゃん注:私の原文附きのオリジナル注の「小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (一一)」を参照されたい。]

 

 東京では現今蜻蛉の小猛者は普通次の歌をうたふ。

 

    とんぼ! とんぼ!

        お泊り!

    明日(あした)の市に

    しほから買うて

    ねぶらしよ!

[やぶちゃん注:私は前の唄もこれも知らないが、秦恒平氏が「梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡」の一節で、四三八番の歌(以下は新潮日本古典集成のそれを参考に漢字を恣意的に正字化して示した。秦氏の引用とは一部が異なる)、

   *

 ゐよ ゐよ 蜻蛉(とんばう)よ

 堅鹽(かたしほ)參らむ

 さてゐたれ はたらかで

 簾篠(すだれしの)の先に

 馬の尾縒(よ)り合はせて

 かい付けて

 童(わらはべ) 冠者(くわじや)ばらに繰(く)らせて

 遊ばせん

   *

を挙げられ、『蜻蛉に呼びかけている「うた」です。とんぼと塩との縁は、私も知りませんでしたが、「塩買うてねぶらしよ」とか「塩焼いて食わそ」とか、蜻蛉に歌いかける童謡が高知県や兵庫県などに残っているそうです』とあり、『じっとしてろよ蜻蛉。塩をやるからじっとしてろよ、動くなよ。お前を、簾の、あの細い篠竹の先に 馬の尾を糸によって、くくりつけて、子どもたちにくる くる回して遊ばせてやるんだからな』と訳された後、『なんとも無邪気なはなしです』と述べておられる。「塩」が登場するのは、既にこの平安末期頃には「しおからとんぼ」(種としてのシオカラトンボOrthetrum albistylum speciosum を指していたかどうかは判らぬが)の呼称が存在したことを物語るものかも知れない。

 

 子供はまた蜻蛉の幼蟲を捕へて面白がる。この幼蟲の普通名は澤山にあるが、東京では通常タイコムシ卽も太鼓蟲と呼んで居る。水の中でその前足を動かす有樣が人間が太鼓をた〻く折の腕の動かしやうに似て居るからである。

[やぶちゃん注:「タイコムシ」ヤゴ(水蠆)蜻蛉(トンボ)目Odonata の、特に不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属するトンボ類の幼虫を指す通称俗称。肉食性の水生昆虫として知られる。「ヤゴ」の語源は成虫であるトンボを表す「ヤンマの子」を略して「ヤゴ」と称された。この別名「タイコムシ」は肉食性の水棲昆虫であるタイコウチ(半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目 タイコウチ上科タイコウチ科タイコウチ属タイコウチLaccotrephes japonensis)とは関係がない。あるいは「ワラジムシ」とも呼ぶが、これも甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目 Isopoda のワラジムシ 類とも無関係である。ウィキの「ヤゴによれば、『様々な形のものがあるが、共通する特徴としては』、①『下唇が折り畳み式になっており、先端にある鋏状の牙で獲物を捕らえることができる。ヤゴはすべて肉食で、普段は折り畳まれている下唇を瞬時に伸ばすことで、離れた距離から獲物を捕食する。そのスピードと精度は日本国内の水生昆虫の中では屈指であり、狩りのスケールを度外視すれば非常に獰猛な捕食者と言って差し支えない』という点と、②多くは『鰓があり、呼吸のために空気に触れる必要がない(鰓を体内に持つ種類もいる)』という点である。]

 蜻蛉を捕る頗る珍らしい工夫は紀伊の國の子供がやる方法である。長い髮毛を――女の髮毛を――一本貰つ來て、其兩端へ非常に小さな小石をくつつけて、小さな小さなボーラスのやうなものを造る。そして之を空高く投げ上げる。蜻蛉は自分の前をすいと通つて行く此物へ飛びかかつて來る、が、それを摑むが早いか、その髮毛が身體へ倦きついて、小石の重さで地上へ落ちる。蜻蛉をボーラスで捕る此手段を日本外の何處かで用ひて居るかどうか自分は怪しむ。

[やぶちゃん注:「ボーラス」原文“bolas”。“bola”の複数形。ウィキの「ボーラ(武器)によれば、『ボーラ(bola)は、複数のロープの先端に球状のおもりを取り付けた狩猟用アイテム、もしくは投擲武器』で、二個或いは三個の『丸石または金属球またはゴムや木の錘を、革紐やロープや鎖やワイヤーなどで繋ぎ』、三『個の場合は同じ長さの紐で三つ又になるように作る。おもりが石の場合は、皮でくるんで紐を結びつけることもある』。『東南アジアが発祥とされるが、エスキモーや南米パンパス地帯のインディオもダチョウ狩り等の狩猟目的で使用していた。また、スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ馬が野馬となって数が増えるとそれらを狩る際にもに石』三『個のボーラが用いられるようになった他、スペイン人と先住民の子孫で牧畜に従事したガウチョ達は先住民との戦いや』、『内戦の際も武器として使用した』。『イヌイットのボーラは主に野鳥を捕獲することを目的としている。小形動物の狩猟用はケラウイタウティンと呼ばれる』。『南米では』二『つ球のボーラをソマイ』、三『つ球のボーラをアチコと呼んでいる。インカ帝国では遠戦の主力武器だった』。『ボーラに相当する、日本の伝統的な分銅鎖系武器は』「微塵(みじん)」と『呼ばれている。直径』四センチメートル『ほどの中央の輪に、長さ』三十五センチメートル『ほどの』三『本の分銅鎖が付いた、主に忍者が用いた隠し武器(神社に奉納されて、実物・技ともに伝承)で、先端の錘は』二・五センチメートル『程度のものがある。扱い方次第では』、『敵の骨を木っ端微塵に打ち砕く威力をも発揮しうるため、この名が付けられたとされる』とある。これは注なしには意味が解らぬから、これは不親切である。平井呈一氏は『投げなわのようなもの』と意訳されているが、この方が遙かに判りがいい。]

小泉八雲 「蜻蛉」のその「四」  (大谷正信訳)


[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。電子化処理は同じ。]

 

       

 

 前揭の作は多くは舊作家のである。此題目での近代の發句で、それと同じやうな技巧の無い、繪のやうな性質を有つたものは至つて尠い。舊詩人は、繁忙な此の現代には、不可能な忍耐力と生新な好奇心とを以てして、蜻蛉の習慣を眺めて居たやうに思はれる。彼等は蜻蛉のあらゆる習慣や特性に就いて――一度浪止まらうと選んだ馬處はどんな場處でも、續けさまに幾度もそれへ立ち還るその妙な性癖のやうな、そんな事に就いてすら――句を詠んだ。時には彼等はその翅の美はしきを賞めて之を提婆或は佛敎の天使の翼にたぐへ、時には彼等はその飛翔の輕い極みの優美さを――その運動の靈の如くに靜かに輕いことを――讚へ、そして時には彼等はその怒の地蜂のやうな樣子を、或はその睇視[やぶちゃん注:「ていし」、ここは横目(複眼を横に向けて)で見ること。]の化物のやうな妙な樣を嘲弄した。彼等は蜻蛉が、その進行の方向を變じ得る不思議な仕方や、或はトンボガヘリ(蜻蛉がへり)といふ新語を思ひつかせた、突然翅を裏返す妙な仕方を注意して眺めた。その飛行の――眼にはとまらで唯々矢と早き色の針のきらめさとしか見えぬ、――眼くるめく如き早さに、彼等は無常に對する比喩を見出した。が、此の電光の如き飛行は短い距離しか續かぬこと、また蜻蛉は追跡を受けなければ遠く行くことは滅多しないもので、一日中一と處を飛び𢌞ることを好むこと、を彼等は認めた。彼等の或る者は、蜻蛉は日暮れに悉く明かるい方へ群れ飛ぶ事を、また日が地平線へ沈む時には――高みからして消えて行く光耀の最後の一見を得んと望むが如くに――空高く上がること、を句に詠む價値があると考へた。彼等は蜻蛉は花は少しも顧みずして、花の上よりも寧ろ杭か石の上に止まり勝ちなこと、に注目した。また彼等は壁の棧や牛の角にとまつて何が面白いのだらうと怪しんだ。それからまた彼等は杖や石で攻擊される折りの――其危險物から去りもするがまた同樣に屢〻その方へ飛んで來る――その愚鈍さに驚いた。だが彼等は蜘蛛の巢にかかつてのその奮鬪に同情して、網を衝き破るのを見て喜んだ。次記の例は、幾百の作中から選んだのであるが、此の奇異な硏究の廣汎な範圍を暗示する役に立つことと思ふ。

[やぶちゃん注:「前揭の作は多くは舊作家のである」「三」に載る三十四句中には、訳者である大谷正信(繞石)の句が三句、彼の創った俳句会「碧雲会」絡みの新作句が二句、虚子が一句でこの五句は当時の現代俳句である。それ以外にも句柄(用語)から見て当時の或はごく直近の近代俳句と思しいものが、二、三見受けられるから、四分の一弱ほどは、当時の現代俳人のものと私は考える。本書の執筆時から見て「舊作家」は江戸後期以前でなくてはならぬ。さすれば、これは謂いとして有意に問題があると思う。

「提婆」原文“devas”。提婆達多(だいばだった/デーヴァダッタ/略称:提婆)は釈迦の弟子であったが、後に違背したとされる人物。厳格な生活規則を定め、釈迦仏の仏教から分離した彼の教団は、後世にまで存続した。参照したウィキの「提婆達多」によれば、小乗仏教では、『提婆達多の末路については、自らの所業を後悔して釈迦に謝罪しに行くものの、祇園精舎の入り口にあった蓮池の付近で地面が裂け、地獄から噴き出た火に包まれ』、『提婆達多は「わが骨をもって、いのちをもって、かの最上の人、神の神、人を調御する者、あまねく一切を見る人、百の福相をもつ人、そんな仏に、帰依したてまつる」(ミリンダ王の問いでは『全身全霊をもって、かの最勝の者、神々に超えすぐれた神、調御をうける人の御者、普く見る眼をもつ者、百の善福の特徴をもつ者、そのブッダに、わたしは生命のあらん限り帰依します』)と詩を唱えて、アヴィーチ地獄(無間地獄)に落ちた』(この時、『提婆達多に従っていた』五百『家族の侍者も、一緒に地獄へ落ちた』とする)とあり、地獄から輪廻して、現世の虫である蜻蛉に転生するというのはすこぶる納得は出来る。なお、続けて、『釈迦は提婆達多が自分の元で出家した場合、一時は地獄に落ちるものの最終的に苦しみから脱すると知り、あえて出家を許したと』もあり、『提婆達多は死ぬ前に前述の詩を述べて釈迦に帰依したため、地獄を脱したのちにアッティサラという「独覚」になると』もあるらしい。また、大乗仏教、則ち、本邦では、『「法華経」提婆達多品第十二で』、『提婆達多は天王如来(devarāja)という名前の仏となるという未来成仏が説かれている。これは、のちの日本仏教、特に鎌倉以後の諸宗に大きな影響を与え、この期以後の禅、念仏、日蓮の各宗は、この悪人の成仏を主張している』。『また、「讃阿弥陀仏偈和讃」(親鸞著)では、「仏説観無量寿経」に登場する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、ガウタマ・シッダールタ(釈迦如来)、プールナ、マハーマウドガリヤーヤナ、アーナンダ、ビンビサーラ、ヴァイデーヒー、ジーヴァカ、チャンドラプラディーパ、アジャータシャトル、雨行大臣、守門者と共に、デーヴァダッタが浄土教を興起せられた』十五『人の聖者として列せられている』とある。未来仏であるから、その過程に過ぎない現世の蜻蛉であっても何ら問題はない

「佛敎の天使」原文“Buddhist angels”。飛天辺りをイメージしていよう。

 以下の七ヶ所ある前書は底本では総てポイント落ち。なお、今までと同様で、原本には発句・和歌の作者名は一切付随しない。訳者大谷正信(繞石)が添えたものである。]

 

   蜻蛉と日光

 

 蜻蛉や日の射す方へ立つて行く (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。既注だが、分割公開しているので再掲しておくと、「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。]

 

 日あたりの土手やひねもすとんぼとぶ 繞石

 

 五六尺己が雲井の蜻蛉かな      蓼太

[やぶちゃん注:大島蓼太(りょうた 享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)は信濃生まれ。本姓は吉川、名は陽喬、通称は平助、別号に宜来・老鳥・豊来など。雪中庵第二代桜井吏登(りとう)に入門し、延享四(一七四七)年、雪中庵第三代を継いだ。松尾芭蕉所縁の地を吟行した。俳書を多く編集し、門人も三千人を超えた。]

 

 蜻蛉の向きを揃へる西日かな     嵐外

[やぶちゃん注:辻嵐外(つじらんがい 明和七(一七七〇)年~弘化二(一八四五)年)は越前出身。名は利三郎、通称は政輔、別号に六庵・北亭・南無庵。高桑闌更・加藤暁台・五味可都里(かつり)に学んだ。甲府に住んで、多くの門人を育てて「甲斐の山八先生」と呼ばれた。]

 

 蜻蛉や空に離れて暮れかかり     太無

[やぶちゃん注:既出既注。古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがある。]

 

 星一つ見るまであそぶとんぼかな   左梁

[やぶちゃん注:中村左梁。号に蝸牛庵。それ以外は私は不詳。]

 

 遠山やとんぼつい行きついかへる   秋之坊

[やぶちゃん注:秋之坊(生没年不詳)は金沢の俳人。「奥の細道」で芭蕉が金沢を訪れた折り、現地で入門した金沢蕉門の一人。前田藩の武士であったが、後に武士を捨て、髪を剃って「秋之坊」と称し、蓮昌寺境内に隠棲した。幻住庵滞在中の芭蕉を訪ねた際、芭蕉が見せた句に名品「やがて死ぬけしきは見えず蟬の聲」がある(伊藤洋氏の優れたサイト「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらに拠った)。]

 

 行きあうてどちらもそれるとんぼかな(『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧及び再掲仕儀同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。]

 

 並ぶかと見えてはそれる蜻蛉かな   貞山

[やぶちゃん注:桐淵貞山(きりぶちていざん 寛文一二(一六七二)年~寛延二(一七四九)年)か。江戸前・中期の俳人で上野の人。本姓は岡田。別号に蘆丸舎・桐淵閣・湖月亭。江戸に住み、松永尺山の江戸遊吟の際に入門した。編著に「江戸名所」「俳諧其傘(はいかいそのからかさ)」「誹諧手挑灯」等がある。]

 

   戀の歌にあゐもの

 

 かげろふのかげとも我はなりにけり

       あるかなきかの君がなざけに 長延(『鴨川三郞集』)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本ではポイント落ち。以下同じ。江戸後期の歌人中川長延(なかがわながのぶ 文化元(一八〇四)年~慶応四(一八六八)年)であろう。京の人。本姓は進藤。号は蓼花園。家は代々近衛家の諸大夫(しょだいぶ)を務め、天保三(一八三二)年、宮内少輔となる。香川景樹の門に学び、安政三(一八五六)年には「近世歌人師弟一覧」を刊行している。作品は「青藍集」「秋草集」などにある。

「鴨川三郞集」嘉永四 (一八五一)年板行の長澤伴雄編輯になる類題和歌選歌集「類題鴨川三郎集」。]

 

 覺束な夢かうつ〻かかげろふの

       ほのめくよりもはかなかりしは 讀人不知(『怜野集』)

[やぶちゃん注:「讀人不知」も底本ではポイント落ち。「怜野集」(れいやしふ(れいやしゅう))は江戸後期の歌集。全十二巻。清原雄風編。文化三(一八〇六)年板行。「万葉集」及び勅撰集などから集めた秀歌約一万五千首を「四季」・「恋」・「雑」に類題して収録した選歌集。初学者に広く活用された。「類題怜野集」とも呼ぶ。この一首の出典は私は未詳。]

 

 蜻蛉や身をも焦がさずなきもせず   鳥醉

[やぶちゃん注:白井鳥酔(ちょうすい 元禄一四(一七〇一)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の俳人。上総国埴生郡地引の旗本知行所の郷代官を務める家に生まれた。本名は喜右衛門信興。享保六(一七二一)年、家督を継ぐが、僅か五年後の享保十一年に弟に家督を譲り、若くして剃髪し、江戸に出た。佐久間柳居(後に句が出る)の門に入り、俳諧に専念した。柳居とともに天明の俳諧復興の魁となった。延享三(一七四六)年及び翌年、信州を訪れ、宝暦年間(一七五一年~一七六四年)には下野国の、松尾芭蕉も訪れた西行の「遊行柳」を訪ねている。明和三(一七六六)年四月には鹿島神宮に芭蕉句碑を建立している。明和五(一七六八)年三月、相模国大磯宿の鴫立庵を再興し、同所に住した。示寂は江戸(以上はウィキの「白井鳥酔」に拠った)。]

 

   奇異と美

 

 蜻蛉の顏はおほかた眼玉かな     知足

[やぶちゃん注:下里知足(しもざとちそく 寛永一七(一六四〇)年?~宝永元(一七〇四)年)は江戸前期の俳人。通称は勘兵衛、後に金右衛門。諱は吉親。尾張国鳴海村の庄屋を務める傍ら、井原西鶴や松尾芭蕉ら、多くの俳人・文人と交流した。「鳴海六俳仙」の一人。現存する西鶴の書翰七通のうちの四通は知足に宛てたものである(以上はウィキの「下里知足」に拠った)。伊藤洋氏の「芭蕉DB」の「関係人名集」のこちらには、『鳴海(現在名古屋市緑区鳴海町)の門人。鳴海は東海道の宿場であった。下里』(伊藤氏は「しもさと」と清音で振っている)『知足は、千代倉という屋号の造り酒屋の当主で富豪であった』。芭蕉は、「笈の小文」の『旅の途次』、彼のところに『休息して』おり、『彼に宛てた芭蕉の真蹟書簡』六『通がある。なお、知足自筆の』「知足斎日々記」の延宝八年七月三日の条に、『芭蕉宛に自著』「大柿鳴海桑名名古屋四ツ替り」を『送った記録があり、その自著内の句寄稿者』欄『には』、『松尾桃青の所在について、江戸』の「小田原町 小澤太郎兵衛店、松尾桃青」とする『記述があるので、これがこの時期の芭蕉の動静の貴重な記録となっている』ともあった。私はブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で『「笈の小文」の旅シンクロニティ』を完遂しているが、「笈の小文」の旅では、芭蕉は貞亨四年十月二十五日(新暦一六八七年十一月二十九日)に江戸深川を出立、同年十一月四日に鳴海宿で、この尾張鳴海の古参蕉門であった千代倉屋下里知足邸に泊まっている。また、芭蕉の「笈の小文」の名吟、

 旅人と我名よばれん初しぐれ

があるが、安藤次男は「芭蕉百五十句」に於いてこの句につき、『そのとき旅立の吟を記念に』この知足に『書与えたものらしい』とし、この『前書は芭蕉が、謡曲にまず出てくる旅僧の風体を以て己が行脚の好みとしたことを知らせてくれる興味ある例で』あるとする。前書は、

   *

神無月(かんなづき)の初、空(そら)定めなきけしき、身は風葉(ふうえふ)の行末(ゆくすゑ)なき心地(ここち)して

   *

である。首肯出来る(以上は私の同句の古い電子化注で注したものである)。]

 

 聲無きを蜻蛉無念に見ゆるかな    可昌

[やぶちゃん注:「可昌」は近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家第三代目当主西川庄六(しょうろく 元禄七(一六九四)年~寛政七(一七九五)年)の俳号。庄六家最盛期を築くとともに、俳諧においても多くの秀作を残した人物。近江国蒲生郡八幡(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる四代目西川利右衛門数常。十六歳の時に二代目西川庄六(通称。利兵衛)の養嗣子となり、享保七(一七四四)年に養父の死去により、家督を継ぎ、三代目西川庄六を名乗り、諱を数久と改めている。祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父である四代目利右衛門の支援を得て、江戸日本橋に出店し、西川庄六家の最盛期を築いたとされる。また、原元佃房(げんげんつくだ)の門に入り、多くの秀句を残し、北陸・中国地方の俳人とよく交わり、加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い、各地で吟行を行った。当時、近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業のために高度な商才が必要とされるとともに、高度な教養も求められたのであった(以上はウィキの「西川庄六(3代)」に拠った)。]

 

 蟬にまけぬ羽衣もちし蜻蛉かな    太無

 

   蜻蛉の輕さ

 

 燕より蜻蛉は物も動かさず      西洋

[やぶちゃん注:「西洋」不詳。]

 

 蜻蛉や鳥の踏まれぬ枝の先      太無

 

   蜻蛉の愚鈍

 

 打つ杖の先にとまりしとんぼかな   康瓢

[やぶちゃん注:「康瓢」不詳。]

 

 立歸る蜻蛉とまる礫かな       鵡白

[やぶちゃん注:「礫」は「つぶて」。「鵡白」不詳。]

 

   蜻蛉蜘蛛

 

 蜘の巢のあたりに遊ぶ蜻蛉かな    波音

[やぶちゃん注:「波音」不詳。]

 

 さ〻がにの網をはづれてとんぼかな  麥波

[やぶちゃん注:「麥波」不詳。]

 

 蜘垣も破るきほひや鬼とんぼ     雅勇

[やぶちゃん注:「雅勇」不詳。因みに平井呈一氏は恒文社版「トンボ」では作者を『雅男』とするが、こんな俳号は軽蔑される気がするので、平井氏の大谷訳の誤認であろう。私の底本でも、このページは印刷がひどく薄く擦れているからである。]

 

   花を顧みぬこと

 

 蜻蛉や花野にも眼は細らせず     柳居

[やぶちゃん注:佐久間柳居(りゅうきょ 貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)は江戸中期の幕臣で俳人。名は長利。通称は三郎左衛門、別号に松籟庵・長水・眠柳など。貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風に飽き足らず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出した。後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、松尾芭蕉五十回忌に俳諧集「同光忌」を撰している。]

 

 蜻蛉や花には寄らで石の上      湖上堂

[やぶちゃん注:「湖上堂」不詳。]

 

 蜻蛉や花無き杭に住みならひ     柳居

 

 寢た牛の角にはなれぬやんまかな   花鐘

[やぶちゃん注:「花鐘」不詳。]

 

 杭の先何か味はふとんぼかな     榮木

[やぶちゃん注:「榮木」不詳。]

 

 固よりのこと此等の作品は美的感念に訴ふところ洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]僅かである。多くは、珍らしいだけのものである。然し此等は古い日本の精神を幾分了解するに役に立つ。幾世紀の久しき、昆蟲の習慣を觀察し、且つそれに關する斯んな句を作つて悅樂を見出し得た此國民は、人生の單純な快樂を我々より遙か能く理解して居るに相違無い。彼等は我が西洋の大詩人が記述して居るやうには自然の魔力を記述し得なかつた。だが、その悲哀の無い此世の美を感じ、また物事を知りたがる幸福な子供等のやうに、その美を喜び得たのである。

 

 若し彼等日本人が我々が蜻蛉を見得る如くに見得たならば――若し彼等が寶石のやうな單眼を持つたその小鬼の如き頭や、その驚嘆すべき複眼や、その不思議な口を、顯微鏡の下に眺め得たならば、この動物はどんなにかもつと異常なものに彼等に思へたことであらう!……でも、我々は賢いが爲めに此等奇妙な詩人の作品を彩る自然觀察のあのなまな初心(うぶ)な快樂を得なかつたのであるけれども、此の蟲の眞の驚異に就いては彼等よりもさう大して賢くも無いのである。我々は唯だこの蟲に關する我々の無智の絕大さを一層精確に評價し得るだけである。蜻蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか、それを我々に示して吳れる、彩色版畫のある博物學書を手にすることを我々はいつか希望し得るであらうか。

[やぶちゃん注:「單眼」トンボ類は通常、大きな複眼の間の前方部に小さな三つの単眼を持っている。

「蛉の複眼には此世界がどんなに見えるものか」現在の最新の研究ではトンボの複眼は上下左右前後の殆どが見えており(後部の一部が死角となっている)、以前に想像されていた以上に色彩も驚くべき多量に見えるらしい(紫外線も認識できる)。四十メートル先の対象も見分けることが出来るという。また昆虫類一般は時間分解能を発達させており、人間が動く様子などはストップモーションのように見えているらしい。海外サイトの動画でトンボの視覚をヴァーチャル化したというカラー映像を見たが、まさしくマジ幻想的なものであった(但し、脳での処理方法が異なるはずだから、鵜呑みにはできなかったが)。]

2019/10/15

小泉八雲 「蜻蛉」のその「二」・「三」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇については、「蜻蛉」のその「一」の私の冒頭注を参照されたい。以下本「蜻蛉」終りまでの引用される発句その他の引用は、底本では四字下げであるが、ブラウザの不具合を考え、上に引き上げた。字配も再現していないことをお断りしておく。]

 

 

       

 

 蜻蛉は異つた種類のが時期を異にして出る。そして殆ど例外無しに、一層美しい種類のが一番後れて出現する。日本の蜻蛉全部を古昔の作家は一々の主要な色に從つて四種類に、――黃、綠(或は靑)、黑(或は濃い色)及び赤に――部類分けをして居る。黃な色合のが一番早く現はれ、綠色の、靑いの、それから黑いのは極暑になつて初めて出で、赤いのが一番後れて出て、去るのも一番後で、秋の末になつてやつと無くなるといふことである。漠然一般的に、如上の叙述は觀察の結果として承認し得らる〻ものである。が然し、蜻蛉は一般には秋の蟲となつて居る。蜻蛉の異名のうちに『秋の蟲』といふ意味の、アキツムシといふ名がある程である。そしてこの稱呼は實際適切である。といふ譯は、人の注意を惹く程に蜻蛉が群を爲して現はれるのは、秋になつてからのことであるからである。が、詩人には、秋の眞の蜻蛉は赤蜻蛉である。

 

 秋の季の赤蜻蛉に定まりぬ   白雄

 

 己が身に秋を染めぬく蜻蛉かな 麥醉

 

 秋の日の染めた色なり赤蜻蛉  桂秋

 

[やぶちゃん注:原本では作者名は載らない。俳人でもあった訳者大谷氏のサーヴィスである(以下、同じ)。

「白雄」加舎白雄(かやしらお 元文三(一七三八)年~寛政三(一七九一)年)は信濃国上田藩江戸詰藩士の次男として江戸深川に生まれた。諱を吉春或いは競、通称を五郎吉、別号に昨鳥・春秋庵・白尾坊・露柱庵など。父の祖母方の姓をとって「平田忠次郎」と名乗ったこともある。 与謝蕪村・大島蓼太などとともに「中興五傑」及び「天明の六俳客」の一人とされる。かの第五代「鴫立庵」庵主。明和二(一七六五)年に松露庵烏明及びその師白井鳥酔に師事した。安永四(一七七五)年、鳥酔の七回忌に松露門を破門されると、江戸を去って自身の門人を引き連れ、諸国を行脚した。安永九年、江戸日本橋鉄砲町に「春秋庵」を開いて自立し、関東に一大勢力を築き、建部巣兆・倉田葛三らの門人を育成した(ここはウィキの「加舎白雄」に拠った)。句は諸データを見ると、

 秋の季の赤とんぼうに定りぬ

の表記が正しいようである。

「麥醉」岡田麦酔。詳細事蹟不詳。

「桂秋」不詳。]

 

 或る日本詩人が『春は眼の季節で、秋は耳の季節である』と言うて居る。いふ心は、春は樹々の花や朝霞の魔力が眼を樂ましめ[やぶちゃん注:「たのしましめ」。]、秋は耳が無數の蟲の音樂に魅せられる、といふのである。が、此処詩人は進んで、秋の此快樂は憂愁を帶びて居ると言ふ。その哀れ氣な聲は消えし幾年の、また消えし幾多の顏の、記憶を喚起し、斯くて佛敎思想に無常の敎理を思はせる。春は約束と希望との時期であり、秋は懷舊と哀惜との時である。そしてまた、秋の特殊な蟲が卽ち音を立てぬ蜻蛉が出て來る事は――聲の季節に聲無きものが出て來ることは――變化の姿を一層無氣味にするばかりである。到る處に微小な稻妻の聲無きひらめきが――地面の上を、はてし無き妖術を織り編むが如くに、絕えず交錯する色のきらめきが――見られる、斯く古の一詩人は述べて居る。

 

 くれなゐのかげろふ走る蜻蛉かな 吳莚

 

[やぶちゃん注:「或る日本詩人が……」私は不学にしてこれが誰の如何なる書に出るか知らない。識者の御教授を乞う。

「秋の此快樂は憂愁を帶びて居る」これは「淮南子」に「春女悲、秋士哀而知物化」(春、女(ぢよ)は悲しみ、秋、士は哀(かな)しみ、而して「物化」を知る)に淵源の一つを求められる古い東洋の精神感懐である。「物化」道家思想に於いては「万物の変化など実際には本質の絶対的な変化などは存在せず、見かけ上の下らない物の変化現象があるだけのことであること」を示す。

「吳莚」不詳。この句は赤蜻蛉の目眩めく群飛を陽炎(かげろう)に譬えたものであろう。]

 

 

       

 

 十世紀以上の間、日本人は蜻蛉の詩を作つて居る。そして此題目は今日の靑年詩人にも依然好かれて居るものである。蜻蛉を詠んだもので現存して居る一番古い歌は、千四百四十年前、雄略天皇がお作りになつたものだと言はれて居る。或る日天皇が狩獵をされて居た時、と舊記にあるが、一匹の虻が來て御腕を咋つた[やぶちゃん注:「くつた」。咬んだ。]。すると其處へ蜻蛉が一匹其虻へ飛びかかつて來て、それを咋つてしまつた。そこで天皇は大臣達にその蜻蛉を讚めた歌を作れと命じ給うた。だが皆がどうやつていいか躊躇して居るので、自ら其蜻蛉を稱へた[やぶちゃん注:「たたへた」。]歌をお作りになつた。其御歌の結末は斯うである。

 

 波賦武志謀(はふむしも)、飫裒枳瀰儞(おほきみに)、磨都羅符(まつらふ)

 儺我柯陀播於柯武(ながかたはおかな)、婀岐豆斯麻野麻登(あきつしまやまと)

 

 そして、その忠義な蜻蛉の爲めに、此事のおりた處は、アキツノ卽ち「蜻蛉の野」と名づけられて居る。

[やぶちゃん注:以上は、「日本書紀」の雄略天皇四年(機械換算四六〇年)の以下、

   *

秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、詔群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須【一本、以飫裒磨陛儞麼鳴須、易飫裒枳彌儞麻嗚須。】 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺【一本、以陀々伺、易伊麻伺也。】 施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登【一本、以婆賦武志謀以下、易「舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。

   *

歌の訓読部をサイト「J-TEXTS 日本文学電子図書館」の国史大系版から引く。

   *

やまとの をむらのたけに ししふすと たれかこのこと おほまへにまをす【あるふみに、「おほまへにまをす」をもちて「おほきみにまをす」にかふ。】 おほきみは そこをきかして たままきの あぐらにたたし【あるふみに、「たたし」をもちて「いまし」にかふ。】 しつまきの あぐらにたたし ししまつと わがいませば さゐまつと わがたたせば たくぶらに あむかきつき そのあむを あきづはやくひ はふむしも おほきみにまつらふ ながかたはおかむ あきづしまやまと【あるふみに、「はふむしも」よりしもをもちて「かくのごと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきづしまといふ」にかふ。】

   *

歌は、擅恣企画(センシキカク)運営・上田恣氏管理のサイト「日本神話・神社まとめ」の「トンボが虻を食べて飛び去る歌」にある漢字かな混じり文を参考にし(別本異形の割注は五月蠅いので除去した)、前後の文は平井呈一氏の恒文社版訳(「トンボ」)の訳注等を参考にして自然流で訓読した。

   *

秋八月辛卯(かのとう))朔(つひたち)戊申(つちのえさる)[やぶちゃん注:十八日。]、吉野宮に行幸(みゆきまし)す。庚戌(かのえいぬ)[やぶちゃん注:二十日。]、河上小野(かはかみのをぬ)に幸(いでま)す。虞人(かりうど)に命(おほ)せて獸(しし)を駈(か)らしめ、躬(みづか)ら射むと欲して待ちたまふに、虻(あむ)、疾(と)く飛び來たりて、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ふ。是(ここ)に於いて、蜻蛉(あきづ)、忽然(たちまち)に飛び來たりて、虻を囓(く)ひて將(も)て去(い)ぬ。天皇、厥(そ)の心有るをことを嘉(よろこ)びたまひて、群臣(まへつぎみたち)に詔(みことの)りして曰(のたま)はく、

「朕(あ)が爲めに、蜻蛉(あきつ)の讚(ほ)め歌、賦(よ)みせよ。」

群臣、能く敢へて賦(よ)む者莫し。天皇、乃(すなは)ち、口づから號(うた)はれて曰はく、

倭(やまと)の 峰群(おむら)の嶽(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)か このこと 大前に奏(まを)す 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あぐら)に立たし 倭文纏(しづまき)の 胡床に立たし 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たたせば 手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ 這ふ蟲も 大君(おほきみ)に順(まつら)ふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきづしまやまと)

因りて蜻蛉(あきづ)を讚(ほ)めて、此の地(ところ)を名づけて「蜻蛉野(あきづの)」と爲さしむ。

   *

同サイトには全現代語訳が載るが、その内、以上の歌部分の訳のみを引用させて戴く(同じく合成した)。

   *

大和の峰が連なった嶽に猪や鹿がいる。誰がこのことを大前に申し上げたのか? 大君はそれを聞いて、綺麗な玉で飾った胡床(アゴラ=椅子)に立ち……日本に昔からある「シツ」という綺麗な布を貼った胡床(アゴラ=椅子)に立って、猪や鹿を待っている。私が座って猪を待っている。私が立っていると、手に虻が噛み付いて、その虻を蜻蛉がサっと食べてしまう。昆虫までもが大君に従う。お前の形を名前に置こうではないか。蜻蛉嶋倭(アキヅシマヤマト)と名付けよう。

   *

また、ウィキの「トンボ」の「呼称」によれば、「古事記」には、『雄略天皇の腕にたかったアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、やはり「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとしている』として以下の歌を載せる(連続させ、漢字の一部を正字化し、読みも独自に歴史的仮名遣で振った)。

   *

み吉野の 袁牟漏(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)ぞ 大前(おほまへ)に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 吳座(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ)の 衣手(そて)着そなふ 手腓(たこむら)に 虻(あむ)かきつき その虻を 蜻蛉(あきづ)早(はや)咋(く)ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の國を 蜻蛉島(あきづしま)とふ

   *

「手腓」は腕の内側の肉の脹れている部分のこと。]

 

 雄略天皇が物せられたといふ歌は、ナガウタ卽ち長歌[やぶちゃん注:「ちやうか」。]といふ形式で書かれて居る。が、近時の蜻蛉の歌は大半もつと短い形式で書かれて居る。短い形式には三通りあつて、三十一綴昔から或る古來の短歌、二十六綴昔の通俗な都々逸[やぶちゃん注:「どどいつ」。]、それからたつた十七綴音の發句である。蜻蛉の詩の大多數は發句である。此題目を都々逸で詠んだ詩は殆ど無い。そして――言ふも不思議であるが!――古典的な短歌で詠んだものは實際頗る尠い[やぶちゃん注:「すくない」。]。此の一文に引用して居る詩歌全體並びになほ幾百首の詩歌を自分の爲めに蒐めた友人は、蜻蛉の短歌一首を見つけ了ほせる[やぶちゃん注:「おほせる」。]までに、帝國國書館で三十一字詩の書を五十二卷讀んだと言うて居る。そして、なほ一僧讀んで穿鑿をした後、到頭その友人は短歌でのそんな詩をやつと十二ばかり發見し得たのであつた。

[やぶちゃん注:「都々逸」は俗曲の一種。最も代表的な座敷歌で,典型的な近世歌謡調で七・七・七・五の型を持つ。十八世紀末に名古屋の熱田で流行した「潮来(いたこ)節」に由来する。天保年間(一八三一年~一八四五年)に都々逸坊扇歌が江戸の寄席で新しい曲風で歌って以来、普及した。言わずもがな、発句の成立よりずっと後である。]

 此の理由は、詩の上の古來の囚襲に求めねばならぬのである。日本の三十一字詩は幾百年間決定されて居る法則に從つて作られる。詩に取扱ふ殆どあらゆる題目は、四季のどれか一つに幾分の關係を持して考察すべき事を、此の法則が要求して居る。そして是は或る一定の分類法に――繪畫にも詩歌にも認許されて居る、長い間確定されて居る取り合はせの因襲に――從つて爲されなければならぬ。例へば、黃鳥[やぶちゃん注:「うぐひす」と当て訓しておく。]は梅と一緖にして述べるか描くかする。雀は竹と一緖に、時鳥は月と一緖に、蛙は雨と、蝶は花と、蝙蝠は柳と、といつた譯(わけ)である。日本の子供はどんな子供でも、こんな規則に就いて少しは心得て居る。さて、蜻蛉に就いては、どうしたもりか、そんな規則が短歌では明白に決定されて居らぬ。尤も繪では、或は手桶の緣に止まつて居たり、或は熟した稻の穗に止まつて居り、して居るのを屢〻見るが。その上また、詩歌の題目の分類の上に於て、蜻蛉はムシ(蟲――蟲としいへば[やぶちゃん注:「し」は強意の間投助詞(副助詞)。]、詩人は何か啼く蟲を意味することに殆どいつもなつて居るのである)の中に入れては無くて、雜の中に入れてある。雜といふのは非常に廣い意義の語で――馬、猫、犬、猿、鳥、雀、龜、蛇、蛙等、要するに殆どあらゆる動物を包含して居るのである。

 蜻蛉の短歌の稀なことは斯く說明され得るのである。然し何が故に都々逸では蜻蛉が殆ど無視されて居るのであらうか。この詩形は通例戀の題目にのみ用ひられて居る、といふ理由からなのであらう。聲を立てぬ蜻蛉は、戀愛詩人には啼く聲が――殊にその啼き聲が或る夜の逢引の記憶に殘つて居る所の夜の蟋蟀が――鼓吹するやうな、あんな空想を思ひ浮かばしめ得ないからであらう。自分が蒐めて貰つた幾百の蜻蛉の時のうちで、直接或は間接に、戀の題に關係して居るのは七つしか無い。しかもその七つのうちに二十六字詩のものは唯だの一つも無いのである。

[やぶちゃん注:「都々逸」「は通例戀の題目にのみ用ひられて居る」都々逸は別名を「情歌(じょうか)」とも呼び、この属性は成立の初期に於いて特に遊廓で流行したことが関係している。]

 然しホックといふ――十七字音に限られた――形式では、蜻蛉の詩は初秋の蜻蛉そのものの如くに殆ど無數である。といふのは、此の詩格では、旨意[やぶちゃん注:「しい」。主旨。意図。考え。趣き。]にも方法にも、作者に殆ど何等の拘束が置かれて居らぬ。發句に就いての殆ど唯一の規則は――それも決して嚴格なものでは無いが――句は一つの小さな言葉での繪でなければならぬといふこと、――見たり感じたりしたものの記憶を復活すべきものでなければならぬこと――感覺の或る經驗に訴へるものでなければならぬこと、である。自分がこれから引用する發句の大多數は、確に此要求を充たして居る。讀者は、それが眞の繪である――浮世繪派の手法の小さな色彩畫である――事を知らる〻であらう。實際次記の俳句の殆どいづれもが、日本の畫伯が二た筆[やぶちゃん注:「ふたふで」。]三筆使へば面白い繪になり得るものである。

[やぶちゃん注:以下の前書は底本ではポイント落ち。]

 

   蜻蛉に關した繪畫詩

 

 稻の穗の蜻蛉とまり垂れにけり  繞石

[やぶちゃん注:「繞石」は「ぎやうせき(ぎょうせき)」(或いは「じょうせき」とも読んだ。孰れも現代仮名遣で示した)で、これは実は英文学者の訳者大谷正信の俳人としての俳号である。「蜻蛉」は原文“Tombō”で「とんぼう」である。以下、音数律に合わせて適宜「とんぼう」「とんぼ」に読み換えられたい。]

 

 蜻蛉の枝についたり忘れ鍬    素麿

[やぶちゃん注:下野の烏山藩第五代藩主大久保忠成(ただしげ 明和三(一七六六)年~嘉永四(一八五一)年)は文人大名で書画をよくし、発句もものし、「素麿(丸)」と号したが、彼か。三点対象を配した、なかなかの佳句と私は思う。]

 

 蜻蛉の嗅いで行きけりすて草鞋  許白

[やぶちゃん注:「許白」不詳。]

 

 袖につく墨か尾花にかねとんぼ (『懷子』所載)

[やぶちゃん注:「懷子」(ふところご)は江戸初期の、京の裕福な撰糸商人で俳人であった松江重頼(しげより 慶長七(一六〇二)年~延宝八(一六八〇)年)が万治三(一六六〇)年に板行した俳諧撰集で、古歌の一部を取り入れて詠んだ句などを集めてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したところ、巻十の「秌」(あき:秋)の「蜻蛉」の部立てのこちら(右端)に、作者を「法元」(「法」は判読の自信がない)として、

 袖につく墨か尾花にかね蜻蛉

と出るのを探し当てた。「かね蜻蛉」は恐らく「一」の「十八」の「カネツケトンボ」で、そこで私はハグロトンボ Calopteryx atrata の異名で採った。同種の色といい、本句柄にもよく合う。

 

 日は斜め關屋の槍に蜻蛉かな   蕪村

[やぶちゃん注:岩波文庫刊の尾形仂(つとむ)校注「蕪村句集」に、

 日は斜(ななめ)關屋の鎗(やり)にとんぼかな

の表記で載り、創作年月を安永六(一七七七)年七~八月とする。]

 

 蜻蛉の草に倦んでや牛の角    太無

[やぶちゃん注:古川太無(たいむ ?~安永三(一七七四)年)。常陸水戸の人。佐久間柳居の門人で、芭蕉資料を模刻した「鹿島詣」や撰集「星なゝくさ」などを著わした。別号に秋瓜・吐花・義斎・松籟庵(二代目)などがあり、ネット上のある資料では彼を「太蕪」と記している。]

 

 垣竹の一本長き蜻蛉哉      芦雀

[やぶちゃん注:「芦雀」不詳。]

 

 垣竹と蜻蛉と映る障子かな   (碧雲會廣募句中のもの)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は底本では二行ポイント落ち割注。

「碧雲會」正岡子規の直弟子であった訳者大谷正信(繞石)は、東京帝国大学英文学科卒業後の二十二歳の明治三〇(一八九七)年に松江に帰省するや、出雲俳壇の中心的な俳人であった奈倉梧月に勧めて、全国で五番目の俳句会である「碧雲会」を発足させている。]

 

 釣鐘に一時休む蜻蛉かな     梅路

[やぶちゃん注:「梅路」中森梅路(?~延享四(一七四七) 年)。思文閣「美術人名辞典」に、『俳人。神風館五世。乙由に学び』、『会北に次いで神風館五世を継ぐ。魚商を営んでいたが』、『文雅の才あり、伊勢音頭の作者として知られる。延享』三(一七四六)年に、『凉袋』(りょうたい:江戸中期の国学者・読本作者・俳人・絵師として有名な建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)の俳号。本姓は喜多村、名は久域、通称は金五。江戸で生まれて弘前で育ったが、二十四歳以後は江戸を本拠地として諸国を遊歴、国学では賀茂真淵に師事した。また、読本の先駆的作品「本朝水滸伝」「西山物語」を著わし、絵は長崎で学び、初期の南画の鼓吹者の一人となった。多くの紀行文を著すなど、多方面に活躍した)『は伊勢に梅路を尋ねて入門して以来、伊勢風に傾倒し、又崇敬した事は「俳仙窟」でうかがわれる。著書に』「南仙録」があるとある。]

 

 尾を以て鐘に向へる蜻蛉かな   來川

[やぶちゃん注:「來川」不詳。撞木を擬えたが、ちょっと態とらしい作為を感ずる。]

 

 なき人のしるしの竹に蜻蛉かな  几董

[やぶちゃん注:高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年)は与謝蕪村の高弟。京都生まれ。別号に塩山亭・高子舎・春夜楼・晋明など。父几圭に学び、明和七(一七七〇)年、蕪村に入門、師風に忠実で、蕪村派の殆んどの撰集を編集し、蕉門の榎本其角に私淑し、大島蓼太・久村暁台らと親交を結んだ。蕪村没後、三代目夜半亭を継いだ。切れがないが、蜻蛉に霊を感じた古来の日本人や小泉八雲らには、しみじみとくるであろう一句である。]

 

 往つては來て蜻蛉絕えず船の網  太巢

[やぶちゃん注:「太巢」不詳。個人的には好ましい一句である。]

 

 蜻蛉や舟は流れて止まらず    靑扇

[やぶちゃん注:「止まらず」「とどまらず」。「靑扇」は不詳。]

 

 蜻蛉や帆柱當てに遠く行く    梅室

[やぶちゃん注:桜井梅室(ばいしつ 明和六(一七六九)年~嘉永五(一八五二)年)江戸後期の俳人。名は能充(よしあつ)。別号は素蕊(信)・方円斎・陸々など。金沢生まれで、刀研師として加賀藩に仕えた。父について幼時より俳諧に親しみ、十六歳の頃、高桑闌更の門に入り、後、師から槐庵(かいあん)の号を与えられている。致仕後、京に出て、俳諧に励み、天保五(一八三四)年頃までの十余年間は招きを受けて江戸に住んだが、再び京に戻って定住、風交を広め、貴顕と交わって、嘉永四(一八五一)年には二条家から「花の下(もと)宗匠」の称号を贈られている。]

 

 蜻蛉や日の影出來て波の上   (『今人名家發句九百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「今人(きんじん)名家(めいか)發句九百題」は明治一六(一八八三)年に東京の万笈閣(ばんきゅうかく)刊の過日庵祖郷(そきょう)編・小簑庵碓嶺補校になる類題発句集。但し、先立つ嘉永二(一八四九)年に出版願いが既に出されているから(サイト「ADEACアデック)」の「西尾市岩瀬文庫」の「古典籍書誌データベース」のこちらに拠る)、内容は幕末期のものである。]

 

 綿とりの笠や蜻蛉の一つづつ   也有

[やぶちゃん注:横井也有(よこいやゆう(歴史的仮名遣「よこゐやいう」) 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)は江戸中期の俳人。私の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「二」』の注を参照されたい。也有らしい動きのある一幅の絵である。]

 

 流れ行く泡に夢見る蜻蛉かな   仙溪

[やぶちゃん注:「仙溪」不詳。]

 

 浮草の花にあそぶや赤とんぼ   雨柳

 

 蜻蛉の一としほ赤し淵の上   (『俳諧古今六百題』ニアリ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「俳諧古今六百題」は大津で明一六(一八八三)年に出版された渓斎阿嚢(けいさいあのう)編の恐らくは類題発句集。]

 

 釣り下手の竿に來て寢る蜻蛉かな 也有

[やぶちゃん注:悪くない諧謔句である。やはり動きがあるのがいい。]

 

 蜻蛉の葉裏に淋し秋時雨     白圖

[やぶちゃん注:「白圖」「はくと」であろうが、不詳。]

 

 蜻蛉の十ばかりつく枯枝かな   士朗

[やぶちゃん注:加藤暁台門下で名古屋の俳壇を主導した井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。]

 

 よそごとの鳴子に逃げる蜻蛉かな 民花

[やぶちゃん注:「民花」不詳。]

 

 靑空や蚊ほど群れとぶ赤蜻蛉   繞石

 

 古墓や赤とんぼ飛ぶ枯樒    (碧雲會廣募句中ノモノ)

[やぶちゃん注:丸括弧同前。「枯樒」は「かれしきみ」。常緑木本のマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatum。仏前に供えることで知られる。ウィキの「シキミ」によれば、その由来は、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』というが、『なにより』、『年中』、『継続して美しく、手に入れやすい』ことから、『日本では』民俗社会で『古来より』、『この枝葉を仏前墓前に供えている』とある。なお、本種はその全部が危険な有毒植物でもあることはあまり知られていない。リンク先を見られたい。]

 

 淋しさをとんぼ飛ぶなり墓の上  繞石

 

 蜻蛉飛んで事無き村の日午なり  虛子

 

 タづく日薄きとんぼの羽影かな  花朗

[やぶちゃん注:「花朗」不詳。]

 

 蜻蛉の壁をか〻ゆる西日かな   沾荷

[やぶちゃん注:「沾荷」(せんか)。「続猿蓑」や芭蕉との歌仙などに見られ、恐らくは宗因門下で傑出し、芭蕉とも親しかった内藤露沾の弟子であろう。]

 

 蜻蛉とる入日に鷄の眼付かな   成美

[やぶちゃん注:夏目成美(寛延二(一七四九)年~文化一三(一八一七)は江戸中・後期の俳人。名は包嘉、通称は井筒屋八郎右衛門(第五代)。別号に随斎・不随斎など。江戸蔵前の札差井筒屋に生まれ、十六歳で家督を継いだ。父に学び、俳諧独行の旅人と称し、特定の派に属さなかった。加舎白雄・加藤暁台らと親交を結び、小林一茶を援助したことでも知られる。]

 

 蜻蛉の舞ふや入日の一世界    倚菊

[やぶちゃん注:「倚菊」不詳。]

 

 生壁に夕日射すなら赤とんぼ  芦帆

 

註 これは小さな色彩習作である。塗りたての壁の色は暖かい灰色と想はれて居る。

[やぶちゃん注:註は底本ではポイント落ち。「芦帆」不詳。]

 

 出る月と入る日の間や赤とんぼ  二丘

[やぶちゃん注:出羽最上漆山の大地主であった半沢久次郎二丘(?~安政三(一八五六)年)か。]

 

 タ影や流れにひたすとんぼの尾  如泊

[やぶちゃん注:「如泊」不詳。]

2019/10/14

小泉八雲 作品集「日本雑録」 / 民間伝説拾遺 / 「蜻蛉」(大谷正信訳)の「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Dragon-flies”。「守られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(全六話)の次のパート“Folklore Gleanings”(「民俗伝承拾遺集」)全三篇の最初に配されたたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは、整序されたものは見当たらない(今まで紹介していないが、同前の“Internet Archive”にはフル・テクスト・ヴァージョンはあるにはあるのであるが、OCRによる読み込みで、誤まりが甚だ多く、美しくなく、読み難く、味気ないのである)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。底本ではパート標題は以下の通り、「民間傳說拾遺」と訳してある。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。また、本文にはトンボ類の博物画的ないい挿絵が六葉入っており、これはどうしても併載したく思い、同前の“Internet Archive”で入手出来る全画像(PDF)から、挿絵画部分のみをトリミングして適切な位置に配した。キャプションは原文を示して、訳を添えた。

 本文内に禁欲的に(と思いつつ、結局、神経症的になると思う)注を挿入した。

 本篇は全五章から成るので、分割して示すこととした。]

 

 

  民間傳說拾遺

 

 

  蜻 蛉

 

       

 

 日本の古名の一つにアキツシマといふがある。それは『蜻蛉の島』といふ意味で、そして蜻蛉といふ意義の文字で書き現はされて居る。この蟲は、今はトンボといつて居るが、古代に於てはアキツと呼んだものである。思ふに、このアキツシマ卽ち『蜻蛉の島』といふ名は、同じくアキツシマと發音はするが、異つた文字を用ひて書か現はされて居る『豐穰な國』といふ意味を有つた、なほ一册古い日本の稱呼からして、聲音上思ひ附いたものであらう。それは兎も角、約二千六百年前に、神武天皇が大和の國を眺望しに或る山へ登られて、國の蜻蜓のとなめせるに似たり、と御附の人達に御述べになつたといふ傳說がある。この御言葉があつたので、大和の國は蜻蜓洲と言はれるやうになつた、しまひには此名が全土に及ぶやうになつた。そして蜻蛉は今日に至る迄も依然この帝國の徵號となつて居る。

[やぶちゃん注:「蜻蛉」(とんぼ)は昆虫綱 Insecta 蜻蛉(トンボ)目 Odonata の、均翅(イトトンボ)亜目 Zygoptera・均不均翅(ムカシトンボ)亜目 Anisozygoptera・不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera  に属するトンボ類。全世界で約五千種、本邦にはその内、二百種近くが棲息している。なお、ウィキの「トンボ」によれば、「とんぼ」の古称の由来は『諸説あり、たとえば以下のようなものがある』とする。『「飛羽」>トビハ>トンバウ>トンボ』という説、『「飛ぶ穂」>トブホ>トンボ』という説、『「飛ぶ棒」>トンボウ>トンボ』という説、『湿地や沼を意味するダンブリ、ドンブ、タンブ>トンボ』という説、『秋津島が東方にある地であることからトウホウ>トンボ』という説、『高いところから落下して宙返りのツブリ、トブリ>トンボ』という説などである』。『なお、漢字では「蜻蛉」と書くが、この字はカゲロウを指すものでもあって、とくに近代以前の旧い文献では「トンボはカゲロウの俗称」であるとして、両者を同一視している』。『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒(』セキソツ/『赤とんぼ)をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である』。なお、かく普通に一般人が用いた場合の「カゲロウ」とは、真正の「カゲロウ」類である、 有翅亜綱旧翅下綱 Ephemeropteroidea 上目蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera の仲間に、その成虫の形状に非常によく似ている、真正でない「カゲロウ」である、有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウ類及び、脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類を加えたものを指す。この「カゲロウ」の真正・非真正の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい

「アキツシマ」秋津島。日本の古称。古くは日本語としては珍しく「あきづしま」と濁った。小学館「日本大百科全書」によると、通説では、「日本書紀」の第六代孝安天皇の「葛城室之秋津嶋宮(かづらきのむろのあきつしまのみや)」の記事と、神武紀三十一年、同地に於ける秋津島の称の起源伝承をもとに、秋津を奈良県御所(ごせ)市内の地名とし、この地名が大和、さらに日本の総称、また大和にかかる枕詞となったと説いているが、しかし、孝安天皇の宮については「日本書紀」が『都を室(むろ)の地に遷(うつ)す。是(ここ)を秋津島宮といふ』と述べており、これは秋津を地名とは見做し難く、また、神武紀の称も「浦安国、細戈千足国」の称と並べられていて(後掲注参照)、寧ろ、賛称の一つに過ぎないと見るのが相応しい。上記の例と記紀雄略天皇の条の蜻蛉(あきづ)(=トンボ)にかけた起源伝承(「古事記」では雄略天皇の腕に食いついたアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、そこで倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と呼んだと出る)を除けば、他のすべてが大和の語とともに使用されているのも、賛称であるためであろう。その語義については、水辺の農耕平地のことを指す「アクツ」と関連させる説、秋=実りと解する説などがあるが、未詳である。国号としての単独使用は平安以後と考えられている。なお、耶馬(やま)=野馬(やま/陽炎)→蜻蛉(かげろう)→蜻蛉(とんぼ)と転義されたものとして、起源を耶馬台国の称に求める説もあるという。

「神武天皇が大和の國を眺望しに或る山へ登られて、……」「日本書紀」巻第三の終りの方に神武天皇三十一年(機械換算紀元前六三〇年)相当の条に、

   *

 卅有一年四月乙酉(きのととり)朔(つひたち)、皇(すめらみこと)輿巡幸(めぐりいで)ます。因りて、腋上嗛間丘(わきのかみのほほまのをか)に登りまして、國の狀(かたち)を𢌞(めぐ)らし望(おほ)せて曰(のたま)はく、

「妍哉(あなにゑや)、國、獲(み)えつ。内木錦(うつゆふ)の眞迮國(まさきくに)と雖も、猶ほ、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)ごとくもあるか。」

是れに由りて始めて「秋津洲(あきつしま)」の號有り。昔、伊弉諾尊(いさなきのみこと)此の國を目(なづ)けて曰(のたま)はく、『日本(やまと)は浦安國(うらやすのくに)、細戈千足國(くはしほこちたるくに)、磯輪上秀眞國(しわかみほつまくに)。』と。復た、大己貴大神(おほむなちのおほかみ)之れを目けて曰はく、』『玉牆内國(たまがきのうちつくに)。』と。饒速日命(にぎはやひのみこと)、天磐船(あまのいはふね)に乘りて。太虛(おほそら)翔行(めぐ)りて、是の鄕(くに)を睨(おせ)りて降りたまふに及至(いた)りて、故(か)れ[やぶちゃん注:そのために。]、因りて目づけて『虛空見日本國(そらみつのやまとのくに)』と曰ふと。

   *

とある。「蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)」はトンボの交尾行動を言ったもの。♂が尾端の附属器で♀の頭部(複眼の後部)挟んで、♀の生殖器♂が自身の副性器に差しこんだ形(私にはハート形に見える)を、雄雌が互いの尻を嘗めているように古代人は見たのである。

「蜻蜓」これも「とんぼ(う)」と読む。「蜻蛉」と区別する場合は、大型の「やんま」で訓ずる。「蜓」は大型のトンボに対して用いられることが多い。にしても、何故、大谷は「蜻蛉」と「蜻蜓」を混在させているのかが全く分からない。区別して使い分けている訳ではない。不審である。なお、底本は一部で「蜓」ではなく、おぞましい長い虫(ゲジやムカデ)やヤモリ(彼は好き)を指す「蜒」で誤植しているように見える箇所が散見されるが、ここは特異的に総てを正しく「蜓」とした。

 日本は、文字返りの意味で、蜻蜓の國と呼ばれる値値を充分に有つて居る。といふは、レインが詩的に述べて居るやうに、日本は『脈翅類愛好者にはまことのエルドラアド』だからである。恐らくは京北兩溫帶のどの國も、日本ほど多種類の蜻蛉を所持しては居まい。また熱帶國すらも、日本の種類の或る種の、ものより、もつと珍らしく美しい蜻蛉を造り得るかどうか、自分は怪しむものである。自分がこれまで見たうちで一番驚嘆すべき蜻蛉は、昨夏靜岡で捕つた一カロプテリツクスであつた。土地の人は『黑トンボ』と呼んで居るものであつた。が、その色は實際は非常に濃い紫色であつた。天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロウド(ビロード)」。]のやうな紫色のその細長い翅は――觸つて見ても――不思議な或る花の花瓣のやうに思はれた。縫針のやうにか細いその紫色の體は、光澤無しの金の点線の裝飾を有つて居つた。頭部と胸部とは眼の覺めるやうな金綠であつたが、眼は磨きをかけた金の球そつくりであつた。脚は、肢部に直角を爲して、丁度豆仙人の櫛の齒のやうな、何とも言へぬ纎細な棘がその内側を緣取つて居た。それは餘りに微妙なものだつたので、その平和を亂したことに一種の後悔の念を自分は覺え――神界に屬する者に要らぬ手出しをしたやうに感じ――た程であつた。――で、自分は直ぐとそのとまつて居た灌木へ返してやつた。……此の特殊な蜻蛉は燒津町の近くの淸流の附近だけに棲んで居るといふことである。が、然しこれは多くの可愛らしい變種の一つたるに過ぎぬのである。

[やぶちゃん注:「レイン」恐らくは、ドイツの地理学者で日本研究家として知られるヨハネス・ユストゥス・ライン(Johannes Justus Rein 一八五三年~一九一八年)である。明治七(一八七四)年にプロイセン王国政府の命により、日本の工芸調査を名目に来日し、工芸研究の傍ら、北海道を除く日本各地を精力的に旅行し、地理や産物を調査した。明治十年に帰国し、マールブルク大学地理学教授・ボン大学地理学教授を務め、多くの日本人ドイツ留学生の世話をした。以下の出典は不詳。

「エルドラアド」“Eldorado”。「エル・ドラード(El Dorado)」。「黄金郷」。大航海時代、スペインに伝わったアンデスの奥地に存在するとされた伝説上の黄金境。語源は十六世紀頃まで南米アンデス地方に存在した「チブチャ」文化(「ムイスカ」文化)に伝わっていた「黄金の人」の意の言葉に基づくもの。

「カロプテリツクス」“Calepteryx”。小泉八雲の繊細な描写でお判りなったことと思うが、所謂、「糸トンボ」と我々が読んでいる仲間の内の、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ(青膚蜻蛉)属 Calopteryx。インセクターの方は、八雲の記載で種同定が可能なのかも知れぬが、私は昆虫には詳しくないので同定比定は控える。アオハダトンボ Calopteryx japonicaか、ハグロトンボ Calopteryx atrata か。]

 

 だが、より美妙な蜻蛉は稀に目にするもので、且つ日本文學に出て來ることは滅多に無い。――それで自分が讀者の興味を呼び得るのは、ただ蜻蜓の詩歌と、民間傳說との方面に於てのみである。自分は蜻蜓の談論を古風な日本流儀で試みたいのである。そして自分が――奇妙な書物と永く人に忘られて居る圖畫との助を藉りて――此題目に就いても知り得た僅少の知識は、大半は、より普通な種類に關してである。

 

 だが蜻蛉文學を論述する前に蜻蛉の名稱に就いて少しく語る必要があらう。日本の古書は五十種許りを名ざさうとする。『蟲譜圖說』には實際その數に近い蜻蛉の彩色繪があるのである。が此書には、蜻蛉に似て居る蟲で、不穩當にも蜻蛉の部に入れてあるのが數々あり、又同一種の雄と雌とに異つた名が與へられて居るやうに思へる例が少からずある。之に反して、異つた種類の蜻蛉が四つも同じ普通名を有つて居るのを自分は知つて居る。そこで如上の事實を眼中に置いて居て、次記の目錄は先づ完全なものと思つてよからうと自分は敢て考へるのである。――

[やぶちゃん注:「蟲譜圖說」江戸後期の旗本で博物学者飯室昌栩(いいむろまさのぶ 寛政元(一七八九)年~安政六(一八五九)年)作の安政三(一八五六)年序を持つ昆虫図譜。飯室は江戸市ケ谷に住み、設楽(しだら)甚左衛門に学び、天保七(一八三六)年、越中富山藩主前田利保の主宰する博物研究会『赭鞭(しゃべん)会』に参加した。本「虫譜図説」は日本最初の体系的に分類された虫類図鑑である。同図説は国立国会図書館デジタルコレクションにもあるが、各ページを見るには「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の方が使い勝手がよい。同書の「卷之四 卵生蟲類七」の巻頭に「蜻蛉類」が載る。全体を一画面で見たい場合はこちらでPDF。なお、それに遙かに先行する、私の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜻蛉」も以下の読解の助けとなると思われるのでリンクさせておく。

 以下、底本では、全体が三字下げでボイント落ちである。完全に引き上げて、同ボイントで示した。なお、私は昆虫は守備範囲外なので、素人考えで推測して注している。誤りがあれば、御指摘戴けると幸いである。]

 

一、ムギワラトンボ(或は單にトンボ)卽ち麥藁蜻蛉――その身體が形も色も稍〻麥藁に似て居るので斯の[やぶちゃん注:「この」。]名がある。――これは多分蜻蛉のうちで一番普通なもので、且つ最も早く現はれるものであらう。

[やぶちゃん注:初っ端から悪いけれど、小泉八雲先生は冒頭から前段で指弾した誤りを御自身で犯してしまっている。恐らくは飯室の配列に習って(「虫譜図説」の当該頁。以下、断らなければ、総て早稲田の当該書画像である)、これを頭に持ってきたものであろう。無論、民間での蜻蛉の呼称のリストとなれば、特に問題はないものの、敢えて前段で同一種の異名(性的二型に基づくとしても)を問題視し、以下の自身のリストを、ある意味で昆虫学的にトンボ類の「完全なもの」と自負する以上は、性的二型を指示していないからには、やはりやや瑕疵の趣はある。さても則ち、これは次の「二」で掲げる、日本産亜種である、トンボ科ヨツボシトンボ亜科シオカラトンボ属シオカラトンボ亜種シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum ♀の異名である。ウィキの「シオカラトンボ」によれば、同種は♀や未成熟の♂では、『黄色に小さな黒い斑紋が散在するため、「ムギワラトンボ(麦藁蜻蛉)」とも呼ばれ』、『複眼は緑色で』ある。

 なお、この日本産トンボに就いての小泉八雲のリストは近代昆虫学のトンボ学の中でも、市井の非専門家の記載の中では有意に意義を持つものと思われ、専門家やインセクタ―の方の考察比定論文が当然あるのではなかろうかと、ネット検索を掛けたが、見当たらない。同じく、小泉八雲が概ね原拠として使用した飯室昌栩の「虫譜図説」の「蜻蛉」パートも論文か解説が有りそうなものと思ったが、残念ながらやはりネット上には見当たらないのだ。御存じの方があれば、お教え願いたい。

二、シホカラトンボ或はシホトンボ――卽ち、鹽辛蜻蛉或は鹽蜻蛉――尾の尖が鹽に浸つて居たやうな色をして居るので斯の名がある。シオカラとは鹽に漬けられた一種の魚の食品である。

[やぶちゃん注:同前の、亜種シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum の♂の異名である。ウィキの「シオカラトンボ」によれば、♂は『老熟するにつれて、体全体が黒色となり、胸部から腹部前方が灰白色の粉で覆われるようになってツートンカラーの色彩となる。この粉を塩に見立てたのが名前の由来である。塩辛との関係はない』とある。以下に、原本にある以上の二つ(くどいが、二種ではない)の画像を示す。挿絵では順序が逆転している。

 以下、総ての挿絵パートでは前後を一行空けた。]

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    Plate  1

Ⅰ.  SHIO-TOMBŌ (“SaltD.

Ⅱ.  MUGIWARA-TOMBŌ (“Barley -straw”)

訳す。「D.」は「Dragon-fly」の略と採った。「TOMBŌ」は江戸以前の「とんぼう」を採りたかったが、長音符なので間が抜けているが、「とんぼー」とした(原本本文でも総てが“Tombō”表記である)。

    図版 1

Ⅰ しほ・とんぼー(「塩」蜻蛉)

Ⅱ むぎわら・とんぼー(「麦の藁」)

「Barley」麦(コムギ・オオムギ・ライムギ・エンバクなどの、一見、外見の類似したイネ科 Poaceae 植物の総称)は、英語では「oat」・「wheat」・「barley」が用いられはするが、この単語は狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare を指す。但し、本邦の「麦藁」は広義のそれであるから、かく訳しておいた。]

三、キノトンボ、卽ち黃蜻蛉――まつ黃では無く、黃色い線や條のある赤味がかつた蜻蛉である。

[やぶちゃん注:「キノトンボ」原文“Kino-Tombō”。「ノ」は性質を表わす格助詞の「の」。トンボ目トンボ科アカネ属 キトンボ Sympetrum croceolum個人サイト「神戸のトンボ」の「キトンボ」によれば、本邦では『北海道・本州・四国・九州に分布』し、『海外では朝鮮半島,中国に分布する』が、『分布域の連続性から見て,朝鮮半島のものは日本のものと同じと見てよいであろう』とされる。『翅の前縁に沿って黄橙色帯が存在』し、『また翅のつけ根から結節』、『または』、『それを超えるくらいにまで黄橙色の部分が広がる.胸部・腹部はほとんど黒条斑が見られない』。『♂では成熟すると腹部背面などが赤色になる』。『♀の産卵弁は幅広く,また下方に突き出ている』とある。]

四、アヲトンボ。アヲといふ言葉は靑にも綠にも使ふ。で、異つた二種類の蜻蛉を――一つは綠。一つは金屬質の靑いのを――此名で呼んで居る。

[やぶちゃん注:緑色のというのは、恐らくトンボ亜目ヤンマ科アオヤンマ Aeschnophlebia longistigma を指していると見てよかろう。金属光沢で異なった種で「靑いの」というのであれば、思い出すのは、トンボ目カワトンボ科アオハダトンボ属アオハダトンボ GCalopteryx virgo であるが(先の「神戸のトンボ」の「アオハダトンボ」の画像等を参照されたい)、同色の金属光沢は多種で見られるので同定比定は控える。]

五、コシアキトンボ――腰明蜻蛉。普通斯く呼ばれて居る蜻蛉は黑と黃との斑のものである。

[やぶちゃん注: トンボ科ベニトンボ亜科コシアキトンボ属コシアキトンボ Pseudothemis zonataウィキの「コシアキトンボ」によれば、『腰空蜻蛉』とあり、『東南アジアから東アジアに広く分布するが、北海道には分布しない』。『全身は黒色で、腹部の白い部分が空いているように見えるために名づけられた。成熟したオスは腹部の付け根が白色、メスと未成熟のオスは黄色』。『腹部の白い部分を、暗闇に輝く電灯に見立てて、「電気トンボ」と呼ぶ地方もある。木立に囲まれた池や沼などに生息し』、『市街地の公園の池でも見られる』。『未成熟な成虫とオスはホバリングしながら生息水域上の狭い範囲を長時間飛翔する』とある。]

六、トノサマトンボ――殿樣蜻蛉。恐らくその色が美しいが爲めであらうが、種類の異つた澤山の蜻蛉を此名で呼んで居る。コシアキ卽ち腰明といふ名も、これと同樣、種々な變種の數々に與へられて居る。

[やぶちゃん注:不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を始めとして大型のヤンマ類や、やはり大型のヤンマ上科サナエトンボ科 Gomphidae の複数の種に対して、多くの地方でこの名が汎用されている。

七、コムギトンボ、卽ち小麥蜻蛉。――麦藁蜻蛉よりか少し小さい。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のこちらに『コムギワラトンボ』『ムギガラトンボ』と出るものであろう。そこには『此亦ムキワラトンボノ一種ニシテ身丈ノ文』(もん)『異なる者ニシテ小麥藁トンボと云大暑ノ比稀ニ在リ飛フコト髙クシテ採得ガタシ』とある。また、小野蘭山述の「重修本草綱目啓蒙」の「卷之二十七」の「蟲之二」の「蜻蛉」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)に、『身黑ク白糝(シロキコ)』(白い粉)『アルモノヲ シホカラトンボト云一名シホ【備前】シホカイ【加州】又豫州ニテハ身ニ灰ト黑ノ橫斑アルモノヲ シホカラトンボト云 又一種身ニ黃ト黑ノ橫斑アルモノヲ コムギトンボト云一名ムギハラトンボ【共豫州】』とある。「神戸のトンボの」のこちら(シオヤトンボ Orthetrum japonicum の解説)、『北海道・本州・四国では,本種以外のシオカラトンボ属では,シオカラトンボ Orthetrum albistylum speciosum とオオシオカラトンボ Orthetrum melania しかみられない』とあるから、「少し小さい」とあるからには、オオシオカラトンボは除外でき、調べて見ると、シオカラトンボに比べて、シオヤトンボの方が小柄で腹部が扁平で短いとあったので、シオカラトンボの若年個体でなければ、シオヤトンボの可能性が高いと言えようか。]




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    Plate  2

Ⅰ.  KINO -TOMBŌ

Ⅱ.  KO-MUGI-TOMBō

訳す。

    図版 2

Ⅰ きの・とんぼー

Ⅱ こむぎ・とんぼー

しかし、この「Ⅱ」の画は、どう見ても、上記本文で比定したシオカラトンボ属ではない。こんな特異な斑点を持つ種は、私は現に見たことがないから判らない。識者の御教授を乞う。これ、しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを不正確に転写したもののように見える。よく似た有意に大きな円紋がある。

 

八、ツマグロトンボ、卽ち褄黑蜻蛉。翅の端が黑いか又は濃い赤い色かなので、斯う呼ばれて居る蜻蛉で種類の異つた、居るのがある。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のこちらに『ツマクロトンボ』として出、『此亦江雞』(右頁の(コムギワラトンボ/ムギワラトンボに記された漢名。則ち、「七」の注で示した通り、それはシオカラトンボ属 Orthetrum である)『トノサマトンボノ如クニテ只翅ノ先黑クシテヤヽ大ナルモノツマグロトンボト云』とある。あまり翅の褄黒は目立つ感じではないが、オオシオカラトンボ Orthetrum melania が候補とはなろうか。しかし、それが「赤」いというのは小泉八雲の言うように別種であろう(そうした別種候補まで私は捜すだけの知識も余裕もない。悪しからず)。]

九、クロトンボ、卽ち黑蜻蛉。クロといふ語は色の濃い意味にも、黑い意味にも用ひるから、濃紅色の蜻蛉にも、濃紫色の蜻蛉にも、此名が與へられて居るのは不思議では無い。

[やぶちゃん注:直ちに想起する種は、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata ではある。現在も別名を「クロトンボ」と言う。但し、後の「十三」にハグロトンボは出る。]

十、カラカサトンボ、卽ち傘蜻蛉。この蜻蛉の身體は、形も色も、細かに割つた竹で骨組が出來て居て、それへ厚い油紙を張つたカラカサといふ傘をすぼめたのに似て居るといふことである。

[やぶちゃん注:不詳。似た種を想起できない。ところがこれ、飯室の「虫譜図説」のそれを見ると、『蜓』『カラカサトンボ』と標題するも、後のキャプションが『鉛山縣志云六足四翼……」に始まって異例の漢文が記され、最後に改行して『啓蒙圖ニ載スルモノ』とあって、これは本邦産トンボでない可能性が高い気がしてきた。だって、この「鉛山縣志」というのは「江西省鉛山縣志」で清の連柱等纂の華中地方の地方誌だからである(無論、本邦にも棲息するのかも知れぬが、判らぬ)。中文で「蜓」で調べても、蜻蛉の総称であって、種名は見出せなかった。

十一、テフトンボ、――卽ち蝶蜻蛉。翅のが蛾か蝶の翅模樣に似て居るので、この名を有つて居るのだから、同じ名でゐて種類の異つて居るのがある。

[やぶちゃん注:トンボ科チョウトンボ亜科チョウトンボ属チョウトンボ Rhyothemis fuliginosa が筆頭に挙げられるウィキの「チョウトンボ」によれば、『翅は青紫色でつけ根から先端部にかけて黒く、強い金属光沢を持つ。前翅は細長く、後翅は幅広い。腹部は細くて短い。腹長は』二~二・五センチメートルほどで、出現期は六~九月、羽化は六月中旬頃から『始まる。朝鮮半島、中国に分布し、日本では本州、四国、九州にかけて分布する。おもに平地から丘陵地にかけての植生豊かな池沼などで見られる。チョウのようにひらひらと飛ぶので』、『この和名がついている。日本以外にも、近縁種が多数存在する』とある。]

十二、シヤウジヤウトンボ、鮮やかな赤い色の或る蜻蛉を斯う呼んで居る。色が赤いので此名があるのである。支那及び日本の動物神話に於て、シヤウジヤウといふのは、人間以下のものではあるが、動物以上のもので、――姿をいふと、深紅な長い髮を生やした、巖疊な[やぶちゃん注:「ぐわんじやう」な。]子供のやうである。この深紅の髮毛から不思議な赤の染料加とれると言はれは居る。此の猩々は非常に酒が好きだと想像されて居る。そして日本の美術では此の動物は酒壺のあたりで踊つて居る處を普通は見せてある。

[やぶちゃん注:トンボ科アカネ亜科ショウジョウトンボ属タイリクショウジョウトンボ亜種ショウジョウトンボ Crocothemis servilia mariannaeウィキの「ショウジョウトンボ」によれば、『オスは和名の』伝承上の妖獣『ショウジョウ(猩猩)』(私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安」の「猩猩」を参照されたい。詳しく解説し、モデル動物も考証した)『から連想できるように真っ赤だが、メスはハクビシンを連想させる茶色である』。『オスは単独で池の縁に強い縄張りを持ち、縄張りの縁に沿って力強く哨戒飛行をする。他のオスが飛来すると斜め』二十センチメートル『弱の距離に位置関係を保ち、地形に合わせて低空編隊(にらみ合い)飛行を見せる。やや下側を飛ぶのが地主である。時に激しく羽音を立てて格闘するが、メスの飛来にはおおらかである。交尾は、概ね向かい合って上下飛行を繰り返した後、やや高く』二メートル『位に上昇し、オス同士の格闘よりやや弱く縺れ合い、数秒以内ですませているように見える。おつながり飛行は観察できない。交尾後にメスは飛びながらアオミドロなどの水草を腹の先でこするように産卵する。オスは、産卵中のメスの上空』一メートル『未満でホバリングし、他者(虫)の接近を許さない。雄の飛翔は速くてパワフルであり、風に乗ってゆっくり飛ぶことはなく、哨戒飛行の後はすぐに縄張り内のお気に入りの基点に止まり警戒を続ける。メスは同じオスの縄張りに居座らないで』、『産卵後はさっさと移動する。また、飛翔はオスに比べて緩やかである』。『羽化直後は黄色がかって羽もキラキラで初々しい。飛翔は弱々しく、午前中の最初の飛行でツバメやスズメの餌食になることが多く観察できる。飛翔後の晩は、巣立った池の周囲の開けた草地の地面から』十センチメートル『内外の高さの草の上に水平に止まっていることが多く、見つけやすい。草陰等に露を避けるようにぶら下がって止まっているのではない。概ね』二、三日で『姿を消す』。『ヤゴは、水底より水草に留まって生息している』。『食物は、肉眼では微小(ミジンコの』十分の一『程度)な動物プランクトンを希にみる程度の水盤でも冬を越し、十分に成長し』、『成熟する』。四『月の雨上がりの数日後の晴れた日には、一坪程の産卵繁殖池から』七~八『メートル離れた伸びたスズメノカタビラ』(単子葉植物綱イネ目イネ科イチゴツナギ属スズメノカタビラ Poa annua)『の(水没しない)繁茂地の湿った地面上でヤゴを発見することが多々あり、歩行は素早いので、陸上での採餌活動も推測される』とある。]

十三、ハクロトンボ、卽ち羽黑蜻蛉。

[やぶちゃん注:「九」の注で示した、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata と思うのだが、しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、所謂、イトトンボ型でなく、『形状赤卒』(アカトンボの異名)『ニ似テ』いるとし、図にも本文にも両後翅に五つ(実際には画には各六つ見える)の白い有意な円状の斑点がある。少なくとも、飯室の示すそれはハグロトンボではないと断言できる。なお、このハグロトンボ相当の小泉八雲の原本の挿絵は第五図であるが、本文と一致させるためにここに持ってきた

 


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[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

 Plate  5

HAGRUO-TOMBŌ

訳す。

 図版 5

はぐろ・とんぼー

この図も、明らかに飯室の「虫譜図説」の上下を入れ替えた写しである。]

 

十四、オニヤムマ、卽ち鬼ヤムマ。日本の蜻蛉のうちで一番大きなものである。どつちかといふと不快な色をして居る。身體は黑くて、あざやかな黃色い條がある。

[やぶちゃん注:日本最大のトンボとして知られる、不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii Sélys, 1854。種小名は、近代黎明期日本の生物研究に貢献したフィリップ・フランツ・フォン・ズィーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)に捧げられたものである。]

十五、キヤムマ、卽ち鬼ヤムマ。キエムマともいふ。エムマといふは死界の王で靈魂の審判者である。

[やぶちゃん注:この「キ」は通常、我々の知識では「鬼」ではなく、「黃(黄)」とすべきところではなかろうか? そうでないと、小泉八雲には悪いが、前との区別がつかなくなるからである。しかも、これは私はヤンマ類ではなく、トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ Sympetrum croceolum ではあるまいかと今は思っている。何故、「今は」と言ったというと、私は先の寺島良安の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜻蛉」に注して、

   *

・「胡黎(きやんま)」「小にして黃なる者なり」ここでのこれは、ネット情報を見る限りでは、特定の種ではなく、不均翅(トンボ)亜目トンボ科ヨツボシトンボ亜科シオカラトンボ属シオカラトンボ亜種(日本産)Orthetrum albistylum speciosum 或いはシオカラトンボ属オオシオカラトンボ Orthetrum triangulare melaniaの♀ではないかと思われる。トンボ科アカネ属キトンボ(黄蜻蛉)Sympetrum croceolum の和名があるが、この種は体部は赤く、翅の半分近くが黄色味を帯びたもので、この記載とはどうも一致しないように思われる。

   *

としたからである。寺島の文章は小泉八雲とそれは異なるから、別に新たに考証し直しても別段、そちらに影響はないとも考えてはいる。]

十六、シヤウリヤウトンボ、卽ち精靈蜻蛉。此名は、似よつた意味の、も一つの名、シヤウライ蜻蛉と共に、自分の知つて居るところでは、多くの種類の蜻蛉に與へられて居るやうである。

[やぶちゃん注:小学館「日本大百科全書」で朝比奈正二郎氏は「ショウリョウトンボ」(精霊蜻蛉)について、『昆虫のトンボのうち、夏季精霊会のころに多数現れるものをさすらしいが、その種類を正確に指示することは困難である』。七、八『月の候に』、『水田の上などをおびただしく徘徊』『するウスバキトンボなどをさすのかも知れない』とある。トンボ科ハネビロトンボ亜科ハネビロトンボ族ウスバキトンボ(薄羽黄蜻蛉)属ウスバキトンボ Pantala flavescens ウィキの「ウスバキトンボ」によれば(下線太字は私が附した)、『全世界の熱帯・温帯地域に広く分布する汎存種の一つで』、『日本のほとんどの地域では、毎年春から秋にかけて個体数を大きく増加させるが、冬には姿を消す』。『お盆の頃に成虫がたくさん発生することから、「精霊とんぼ」「盆とんぼ」などとも呼ばれる。「ご先祖様の使い」として、捕獲しないよう言い伝える地方もある。分類上ではいわゆる「赤とんぼ」ではないが、混称で「赤とんぼ」と呼ぶ人もいる』。『成虫の体長は』五センチメートル『ほど、翅の長さは』四センチメートル『ほどの中型のトンボである。和名のとおり、翅は薄く透明で、体のわりに大きい。全身が淡黄褐色で、腹部の背中側に黒い縦線があり、それを横切って細い横しまが多数走る。また、成熟したオス成虫は背中側にやや赤みがかるものもいる』とある。

「シヤウライ蜻蛉」は同じく「精霊蜻蛉」と漢字表記するようで、ネット上の記載では京都での「精霊」の訛りであるらしいともあった。平井呈一氏の恒文社版「トンボ」でもここは『ショウライ・トンボ(精霊トンボ)』と訳しておられる。というより、原文自体が“Sōrai-tambō, or " Dragon-fly of the Dead,"”となっているのを、大谷氏が勝手に省略してしまっているのである。これは痛い。]

十七、ユウレイトンボ――卽ち幽靈蜻蛉 種々な蜻蛉がこの名で呼ばれて居る。或る美しいカロプテリツクスで、その音無しに黑く飛ぶのが影の動くが如くに――蜻蛉の影の動くが如くに――思ひ誤らるゝやうな一種のカロプテリツクスの場合には、此名は殊に適切である、と自分は思つた。實際此の黑い蜻蛉に此名を附けたのは、影を幽靈だと思つた、原始的な思想を思はせる爲めであつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:後の「二十」の「ヤナギジヤラウ」の注を参照のこと。

「カロプテリツクス」“Calepteryx”。既出既注であるが、再度、注しておくと、所謂、「糸トンボ」と我々が読んでいる仲間の内の、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ(青膚蜻蛉)属 Calopteryx。私はやはり真っ先にハグロトンボ Calopteryx atrata を想起する。

 

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[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  3

YUREI-TOMBŌ(“GhostD.)or

KURO-TOMBŌ(“blackD.

訳す。

    図版 3

ゆうれい・とんぼー((幽霊」蜻蛉)又は

くろ・とんぼー(「黒」蜻蛉)

しかし、このキャプションでは、幽霊蜻蛉と黒蜻蛉(本文「九」)は同一種の異名であるように採れてしまう。まあ、小泉八雲の記載からはそれでも問題はないのだが。]

 

十八、カネツケトンボ或はオハグロトンボ。どつちも古昔夫のある婦人が齒を黑くする爲めに用ひた調劑に關係のある名である。だから御齒黑蜻蛉と譯していい譯である。オハグロ(御齒黑)或は鐡漿は齒を染めるに用ひる浸劑を呼ぶ普通の言葉であつた。カネヲツケルといふは、その品物を用ひる、或はもつと文字通りに言へば、『附着』するといふことである。だからカネツケトンボといふ稱呼は、鐡漿附け蜻蛉と譯しても宜い[やぶちゃん注:「よい」。]。此の蜻蛉の翅は半黑で、半分印氣に浸けたやうに見える。同じく繪のやうな、コウヤ卽ち紺屋といふ別名がある。

[やぶちゃん注:現行、これらは狭義にはやはり直前のハグロトンボ Calopteryx atrata の異名であるようである。「鐡漿」(おはぐろ/かね)「お歯黒」に就いては、私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二十五章 東京に関する覚書(6) 天象台の私の居室/鉄漿附けのスケッチ」の本文・挿絵・私の注を参照されたい。]

 

Plater4

[やぶちゃん注:「Ⅰ」は「十二」だが、「Ⅱ」がここに出るので、ここに配した。キャプションを電子化する。

    Plate  4

Ⅰ.  SHōJō -TOMBŌ

Ⅱ.  KANÉ-TUKÉ-TOMBō(“stained-with-KanèD.)

訳す。

    図版 4

Ⅰ しょーじょー・とんぼー

Ⅱ かね・つけ・とんぼー(「鉄漿(かね)を附けた」蜻蛉)]

 

十九、タノカミトンボ、卽ち田の神蜻蛉。赤と黃とが雜つた色の蜻蛉につけた名である。

[やぶちゃん注:小野蘭山述の「重修本草綱目啓蒙」の「卷之二十七」の「蟲之二」の「蜻蛉」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像)に、『赤卒』=赤蜻蛉の異名を列挙する中に『タノカミトンボ【會津】』と見出せるから、トンボ科アカネ(アカトンボ)属 Sympetrum の多様な赤蜻蛉類を指すと見てよい。ウィキの「赤とんぼ」によれば、世界では約五十種が記載されており、日本では二十一種が記録されているとして、リストが載る。狭義には、アカネ属アキアカネ Sympetrum frequens を指して俗に「赤とんぼ」と呼ぶ傾向がある。]

二十、ヤナギヂヨラウ、卽ち柳女郞。美しいが氣味の惡るい名である。といふのは、柳女郞といふは柳の木の靈であるから。非常に優美な蜻蛉で此の名で呼ばれて居るのが二種あると思ふ。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、『ヤナギ女﨟』(「女郎」ではないぞ! 大谷先生! 八雲先生もちゃんと“lady”って記してますよ!)『シヤウリヤウトンボ』とあって、

   *

淺水陰湿ノ地ニ生ス夏秋ノ間羣飛す深黑色ニシテリアリ其翅イカニモ力ナク疲労ノ状ナレハ俗に幽霊トンボト名ヅク

   *

とキャプションするのだ。私はその内容と、画の形状・色を見るに、これは間違いなく、

トンボ類ではなく、広義のカゲロウ類を指している

と断言できる。この広義の「カゲロウ」(真正・非真正を含む)の問題は、私はさんざんいろいろなところで注してきたので、ここでは繰り返さない。未読の方は、最も最近にその決定版として詳細に注した、「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の冒頭注『「かげろふ」の幼蟲は二年もかかつて水中で生長する』以下をお読み戴きたい。]

二十一、セキイシシヤ。卽ち赤衣使者。

[やぶちゃん注:中国での「赤とんぼ」の異称。「赤とんぼ」は夏の終ろうとする頃に決まって飛んで来るので、赤い衣を着たこの秋の季節の到来を告げる使者として擬人化して呼んだもの。]

二十二、ヤムマトンボ、此名は類語を重ねたやうなものである。ヤムマは大きな蜻蛉で、トンボはどんな蜻蜓でもさう呼ぶ。これは興味のある綠色をした蜻蛉につけた名である。出雲では之をヲンジヤウと呼んで居る。

[やぶちゃん注:「ヤムマ」はトンボ亜目ヤンマ科 Aeshnidae のヤンマ類(本邦産はウィキの「ヤンマ」を見られたい。主な種として十七種が挙がっている。既に述べた通り、門外漢の私にはそれらを識別して細かく比定同定する力はない)とオニヤンマ科 Cordulegastridae のオニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を含む。]

二十三、クルマヤムマ、卽ち車ヤムマ、――尾に圓盤のやうな附屬物があるのでさう呼んだものであらう。

[やぶちゃん注:これは尾部の附属物でピンときた。トンボ亜目 Anisoptera 下目ヤンマ上科サナエトンボ(早苗蜻蛉)科ウチワヤンマ(団扇蜻蜓)亜科ウチワヤンマ属ウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus である。ウィキの「ウチワヤンマ」によれば、『中国、朝鮮半島、日本』(本州・四国・九州)『ネパール、ミャンマー、タイ、ベトナム、ロシア北東部に分布する』。『名称に「ヤンマ」と付くが、サナエトンボの仲間である事は、頭部の複眼が接していない事からも判る。単に体が大柄なトンボ=ヤンマという思い込みから、ヤンマの名を付けられたに過ぎない。同じような思い込みで名がつけられたサナエトンボの仲間ではコオニヤンマ』(サナエトンボ科 Hageniinae 亜科コオニヤンマ属コオニヤンマ Sieboldius albardae)『がいるが、長時間飛行するヤンマ科に比べ、サナエトンボの仲間らしく、ある程度』、『飛翔したら』、『すぐに止まって休むという行動からも見分けられる』。全長は七~八・七センチメートルで、腹長は四・九~六センチメートル、後翅長は四~五・一センチメートル。『脚には黄斑がある』。『オス、メスともに腹部の第』八『節には、黄色を黒色で縁取ったうちわ状の広がりがある』。『オスは水辺の岸近くの枝先などに留まる。平地、丘陵地の深くて水面の開けた池や湖(湖底は砂泥で少し汚れた水質)に生息する』。『成熟したオスは縄張りをもち、水面から出た杭などの突起物の先端に静止して占有する。交尾も同様な場所の先端で静止して行う。その後、交尾態のまま飛び回って』、『産卵場所となる水面の浮遊物を探し、見つけると連結を解いて産卵する。産卵はメス単独で行われ、ホバリングをしながら』、『腹部の先で間欠的に浮遊物を打つ。卵は、糸で連なっている。卵の期間は』一~二『週間程度であり、幼虫で』一~二『年間を過ごす。幼虫は水深の深いところで生活する』とある。この団扇状突起は実際にパタパタと可動する(捕獲された方の記録にある)なお、十数件のインセクターの方の「ウチワエンマ」記載縦覧したが、遂にこの団扇状突起の機能を説明されたものに出逢えなかった。御存じの方は、御教授願いたい。]

二十四、アカトンボ、卽ち赤蜻蛉。種々な種類に此名を今つけて居る。だが殊に赤蜻蛉と古の詩人が言うて居るのは、小さな蜻蛉で、屢〻群を爲して居るものである。

[やぶちゃん注:既注。]

 

Plate6

[やぶちゃん注:キャプションを電子化する。

    Plate  6

Ⅰ. SÉKI-I-SHISHA(“Red-Robed Messenger”)

Ⅱ. AKA-TOMBŌ

訳す。

    図版 6

Ⅰ せき・い・ししゃ

Ⅱ あか・とんぼー

「Ⅰ」は前の「二十一」。]

 

二十五、トウスミトンボ、卽ち燈心蜻蛉。非常に小さい。古風な日本のラムプに使用するか細い、木の髓の心(しん)に身體が似て居るので此名があるのである。

[やぶちゃん注:「か細い」でお判りの通り、トンボ目均翅(イトトンボ)亜目イトトンボ科Agrionidae のイトトンボ類の内、特に小型の種類を俗に「トウスミトンボ」と呼ぶようである(イトトンボ全体を古くはそう呼んだとする記載もあった)。イトトンボ類は本邦では二十七種が知られ,体長約二センチメートルのヒメイトトンボ Agriocnemis pygmaea が「トウスミトンボ」(「トウスミ」は「豆娘」と書いたり、「とうしみ」と呼んだりするが、小泉八雲の謂うように、これは「灯心蜻蛉」「とうしんとんぼ」が訛ったものと考えるのが自然に思われる)その代表種か。]

二十六、モノサシトンボ、卽ち尺蜻蛉。これもまた甚だ小さな蜻蛉である。關節の條(すぢ)の十あるその身體がこの名を思ひ附かせたのである。――普通竹で出來て居る尋常一般の日本の物指は、甚だ幅の狹いもので、ただ十スン卽ち十吋[やぶちゃん注:「インチ」。しかし、この換算はいい加減。「一寸」は三十・三センチメートルであるのに、十インチは二十五・四センチメートルである。]に區劃されて居る。

[やぶちゃん注:均翅(イトトンボ)亜目モノサシトンボ科モノサシトンボ属モノサシトンボ Copera annulataウィキの「モノサシトンボ」によれば、『中国、朝鮮半島、日本に分布する』。『日本では、北海道、本州、四国、九州に広く分布する』が、『小笠原諸島と南西諸島での生息は確認されていない』。『成虫は中型で』、『イトトンボ亜目』Zygoptera『の中では大きい』。『秋に出現する個体は小さい』。『近縁種のオオオモノサシトンボ(学名:Copera tokyoensis (Asahina, 1848))』『と形態が酷似する』。『腹部に物差しのような等間隔』『の環状紋があり』、『和名』「物差し」『の由来となっている』。『後頭部に青白い斑紋があり』『複眼は左右に離れていて、複眼の内側に波状の斑紋がある』。『前翅と後翅は同じ形で同じ大きさ』で、『翅に黄色と黒の斑紋があり、若い個体の斑紋は赤色』を呈する。全長は♂で三・九~五センチメートル、腹長三・一~四センチメートル、後翅長は一・八~二・六センチメートル。『成熟すると』、『斑紋が水色となる』。『中脚と後脚の脛節は白くやや拡がる』。『腹部第』九『節』と第十『節が青白い』。『斑紋が黒化した個体も時々見られる』。♀の成虫は殆んど♂に同じ(孰れもごく少しだけ大きい)』で、『黄緑色と水色の個体がいる』。「ヤゴ」の『全長は約』二・七センチメートルで、『木の葉』のような三『枚の尾鰓は長大な柳葉状で、長さは腹長とほぼ同じ』。『下唇はスプーン形』を呈する。『平地から丘陵地にかけて分布』し、『河川の中流域の樹林に囲まれた池、沼や湿地』『でよく見られ』、『岸辺が暗い環境を好む』。『成熟したオスは縄張りを持ち』、『水辺の植物に翅を閉じて』『静止し、時々』、『周囲を飛翔してメスを探す』。『他のオスが近づくと追い払う』。『メスを見つけたオスは連結し、植物に止まって移精と交尾を行う』。『交尾は午前中に行われることが多い』。『交尾後』、『連結態のまま』、『水面付近の植物に産卵したり、メス単独で産卵したりする』。『ヤゴは捕獲されると』、『脚を縮め、U字型に体を曲げて死んだふりをする』。『生物化学的酸素要求量(BOD)が10-20 (mg/l)の汚れた止水の水質環境に生育する』。『卵期間は』一~二『週間程度』で、『幼虫(ヤゴ)期間は』四ヶ月から一年程度(一年に一、二世代を経過する)、『幼虫で越冬する』。『成虫の主な出現期間は』五月末から九月であるが、ライフ・サイクルから、四月や十~十一月に『見られることもある』とある。]

二十七、ベニトンボ、色が赤い爲めにつけたもので、淡紅色の美しい蜻蛉である。ベニといふは日本の女の子が或る場合にそれを脣や頰に少しつける一種の臙脂である。

[やぶちゃん注:トンボ科ベニトンボ亜科ベニトンボ属ベニトンボ Trithemis aurora。参照したウィキの「ベニトンボ」によれば、『湖沼や湿地などで見られる中型のトンボ。体長は約』四センチメートルで、『胸部には黒い縞模様があり、尾の先は黒くなる』。『羽の基部は茶褐色に色づく』。『オスの成虫は体色が赤紫色になるが、メスの体色はオレンジ色となる』とある。♂は、かなり特徴的な色で、小泉八雲が「臙脂」と言っているのが納得できる。]

二十八、メクラトンボ、卽ち盲蜻蛉。この名を有つた[やぶちゃん注:「もつた」。]蜻蛉は決して盲目では無い。然しその大きな身體を不細工に室内の品物へぶつつけるので、一時(いつとき)視力の無いものと想像されて居たのである。

[やぶちゃん注:ネット検索を掛けると、各地で「イトトンボ」類をこう呼んでいることが判った(差別和名でそのうち、消滅してしまうであろうが)。しかし、飯室の「虫譜図説」のそれを見るに、これは「イトトンボ」類ではない。小泉八雲はこのキャプションをもとに本文も書いているから、小泉八雲自身は「イトトンボ」の類とは思っていないものと私は思う。

二十九、カトンボ。卽ち蚊蜻蛉。――多分、亞米利加のモスキイトホークと同じ意味のものであらう。

[やぶちゃん注:無論、トンボではなく、双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae のガガンボ亜科 Tipulinae・シリブトガガンボ亜科 Cylindrotominae・ヒメガガンボ亜科 Limoniinae に属するガガンボ類の異名。

「モスキイトホーク」不審。原文は“Mosquito Dragon-fly”。しかし、アメリカ英語にこの単語は見出せない。そこで大谷氏の訳から“Mosquito hawk”で画像検索を掛けたところ、バッチリ「ガガンボ」のオン・パレードとなった! 英語では“Crane fly”とも呼ぶ。]

三十。クロヤマトンボ、卽ち黑山蜻蛉。――ヤマトンボ卽ち山蜻蛉といふがあるが、これは大抵綠色をして居るので、それと區別する爲めに斯く呼んだものであらう。

[やぶちゃん注:不詳。小泉八雲は殆んど緑色と言っているから、彼の認識はヤンマ或いはオニヤンマ類であろう。飯室の「虫譜図説」のこれで、これは寧ろ、キャプションも含めて「五」の「コシアキ・トンボ」(コシアキトンボ Pseudothemis zonata)に見えるのだが?

三十一、コヤマトンボ、卽ち小山蜻蛉。形も色も山蜻蛉に似て小さい。

[やぶちゃん注:トンボ目ヤマトンボ科コヤマトンボ属コヤマトンボMacromia amphigena amphigena「神戸のトンボ」のこちらを見られたい。

「山蜻蛉」ヤマトンボ科 Macromiidae はあるが、ヤマトンボという和名の種のトンボはいないようである。]

三十二、ツケテダン。ダンといふ語は雜色の織物への總名である。でツケテダンとは『色んな色の衣物を着たもの』と大まかに譯してもよからう。

[やぶちゃん注:飯室の「虫譜図説」のここに出る。画はヤンマ系。しかし、キャプションからこれも本邦産じゃないみたいなので、深追いしない。悪しからず。流石に――疲れた…………

 【2019年10月15日16:27追記】今になって、迂闊にも本篇「蜻蛉」の最後で、大谷氏が纏めてこれらの「蜻蛉」類に就いての訳注(一つに纏められてある)を附しているのに気づいた(則ち、以上の注はあくまで私独自の探究によるものである)。現在、取り敢えず、その訳者注をテクスト化したので、以下に取り敢えず示しておく。一見して分かる通り、学名が異なるものがある。これはシノニムであったり、後に学名変更が行われたものも含まれるが、拡大してみても、脱字としか思えない奇体な学名もある。明日以降、それらに就いては、私の個々の注を附して示したいと思うが、今日のところは、「譯者註」を追加するに留める(奇体な部分もそのままに示す。学名の綴りは拡大して確認した)。底本ではポイント落ち字下げであるが、本文と同じにした。学名が斜体になっていないのもママである。【同日21:21追記】気持ちが悪いので、酒を飲むのを切り上げて、注を附した。

譯者註 ムギワラトンボは學名 Orthctrum japonicus. シホカラトンボは別種では無く、麥藁蜻蛉の雄である。キノトンボは學名 Diplax croccola. アヲトンボは――學名上此名は無い。コシアキトンボの學名は Pseudothemis zonata。『蟲譜圖說』には、之をトノサマトンボともいふ人あり。トノサマトンボは腰が白い。キノトンボの一變種か。コムギトンボ――麥藁蜻蛉の一變種か。動物學上にはこの名は無いやうである。ツマグロトンボは殿樣蜻蛉の翅の尖端が黑いもの。クロトンボとカラカサトンボとは譯者には學名不詳。テフトンボの學名は Rhyothemis fuliginosus. 全身淡黑して翅の先き白し、と『蟲譜圖說』には書いてある。シヤウジヤウトンボの學名は Crocothemis servillia. ハグロトンボの學名は譯者はこれを知らぬ。オニヤムマの學名は Anotogaster Sieboldii[やぶちゃん注:種小名の頭文字大文字はママ。]. オホヤマトンボともいふ。キヤムマは「鬼ヤンマ」とあるが、鬼(き)では無く、黃(き)であらう。キトンボともいつて、黃色で、翅も淡黃、大小の黑點がその翅にゐる。學名未詳。シヤウリヤウトンボは、『言海』に據ると、キヤムマと同じものらしい。精靈祭頃に見るのにこの名を與へるのではあるまいか。ユウレイトンボ――動物學上にはこの名を見ぬ。カネツケトンボの學名は Calopteryz atrata[やぶちゃん注:ママ。]. タノカミトンボ――『蟲譜圖說』には、形キノトンボに似て、身丹黃、尻に黑斑あり、足黑く、翅赭色、とあれども、會津地方で或る種のもに與ヘて居る地方名らしい。ヤナキヂヤラウ 學名は譯者には分からぬ。セキイシシヤは別種では無く、猩々蜻蛉の別名である。ヤムマトンボの學名は Anax pa thenope[やぶちゃん注:属名はママ。脱字であろう。]. キンヤムマとも呼ぶ。クルマヤムマの學名は譯者には未詳。アカトンボ――これは種の名では無くて、小さな赤い色の蜻蛉の總稱かと思ふ。トウスミトンボの學名は  Agrion quadrigerum. モノサシトンボ――動物學上この名は無いやうである。ベニトンボもメクラトンボも動物學上認めぬもののやうである。前者は或は Psilocnemis annulata か。カトンボは實は蜻蛉では無い。蜉蝣科のものである。異名 Heptagenio binotata. 亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居るが、モスキイトホークは蚊を好んで食ふ一種の蜻蛉。日本のこのカトンボは蚊のやうに、小さいからこの名を有つて居るのであらう。クロヤマトンボの學名は譯者之を知らぬ。コヤマトンボの學名は Epophthalmiaa mphigena. ツケテダンといふは實は譯者にも不明である。『蟲譜圖說』に載つてゐたので、當時そのまま、譯者は原著者に報道したのであつた。

[やぶちゃん補足注:「ムギワラトンボは學名 Orthctrum japonicus」ありそうな感じだったが、欧文のリストを見たが、シオカラトンボOrthetrum albistylum speciosum のシノニムにはこれは見当たらなかった。或いは大谷氏は同属のシオヤトンボ Orthetrum japonicum japonicum を二名法で表記したものを誤認したのではなかろうかとも思われる。

「シホカラトンボは別種では無く、麥藁蜻蛉の雄である」私が注した通りで正しい。

「キノトンボは學名 Diplax croccola」キトンボ Sympetrum croceolum のシノニムには見当たらない。感じからは、大きな属名変更が行われた可能性があり、その際に種小名の綴りも変更されたのかも知れない。にしても、シノニムは記載ととして残る筈だが、「Diplax」属自体が全く見当たらない。不審。

「アヲトンボは」「學名上此名は無い」正しい。

「コシアキトンボの學名は Pseudothemis zonata」正しい。

「トノサマトンボは腰が白い。キノトンボの一變種か」私は注で「不均翅(トンボ)亜目オニヤンマ科オニヤンマ属オニヤンマ Anotogaster sieboldii を始めとして大型のヤンマ類や、やはり大型のヤンマ上科サナエトンボ科 Gomphidae の複数の種に対して、多くの地方でこの名が汎用されている」と述べた。それが孰れであっても、属名どころか科レベルのタクソンが異なるので変種ではなく、全くの別種となる。

「コムギトンボ――麥藁蜻蛉の一變種か。動物學上にはこの名は無いやうである」私は注でこれをシオヤトンボ Orthetrum japonicum の異名の可能性が大とした。同種は「麥藁蜻蛉」=シオカラトンボ属の一種であるから、もし私の同定が正しいとすれば、変種ではなくて同属の別種となる。

「ツマグロトンボは殿樣蜻蛉の翅の尖端が黑いもの」大谷氏は「殿樣蜻蛉」の同定を誤っているので、この説明は学術的には無効となる。

「クロトンボとカラカサトンボとは譯者には學名不詳」私は前者の候補の一つして、イトトンボ亜目カワトンボ上科カワトンボ科カワトンボ亜科アオハダトンボ属ハグロトンボ Calopteryx atrata を挙げた(あくまで名前の印象からではある)。後者は注で示唆したように、これは中国産種であって本邦には棲息せず、和名はない、とするのが結果した私の判断である。

「テフトンボの學名は Rhyothemis fuliginosus」現行は Rhyothemis fuliginosa で、種小名の末尾が異なるが、如何にもありそうな綴りであり、洋書の一部の種名索引を見るに、チョウトンボの古いシノニムであった可能性が高い。

「シヤウジヤウトンボの學名は Crocothemis servillia」現行は三名法で Crocothemis servilia mariannae であるから、正しい。

「ハグロトンボの學名は譯者はこれを知らぬ」実在するハグロトンボの学名は示した通り、Calopteryx atrata である。しかし、注で留保した通り、本種であるかどうかは怪しい。

「オニヤムマの學名は Anotogaster Sieboldii」正しいが、種小名の頭文字大文字は誤り。ただ、古記録を見ると、種小名を大文字化するものはしばしば認められる。

『キヤムマは「鬼ヤンマ」とあるが、鬼(き)では無く、黃(き)であらう』私も注でそう述べた。但し、「學名未詳」とあるが、私はこれはヤンマ類ではなく、トンボ目トンボ科アカネ属キトンボ Sympetrum croceolum ではあるまいか、という注を附した。そちらを見られたい。

「シヤウリヤウトンボは、『言海』に據ると、キヤムマと同じものらしい」所持する「言海」を見ると、『しやうりやうとんぼ』の項に『きやんまニ同ジ』とある。そこで「きやんま」の項を見ると、『黃蜻蜓』『とんぼうノ一個、やんまヨリ小クシテ、紅黃ナリ、初秋イ多ク飛ブ、聖靈祭ノ頃ナレバしやうりやうとんぼノ名モアリ。又、きとんぼ。胡黎』(「胡黎」には右に二重線)とある。

「ユウレイトンボ」「動物學上にはこの名を見ぬ」私は「二十、ヤナギヂヨラウ」の注で述べた通り、広義のカゲロウ類を指すものと考えている。これは確信に近い。

「カネツケトンボの學名は Calopteryz atrata」注で述べた通り、現行のハグロトンボ Calopteryx atrata の異名と私は考えている。大谷氏もそう考えたわけであるが、学名の属名が致命的におかしい。これは発音が出来ない。恐らく、植字ミスと思われる。

「タノカミトンボ」「會津地方で或る種のもに與ヘて居る地方名らしい」大谷氏は恐らく、私が注した「本草綱目啓蒙」を見たのだと思う。『タノカミトンボ【會津】』とあるからである。しかし、私はその記載からトンボ科アカネ(アカトンボ)属 Sympetrum の多様な「赤蜻蛉」類を指すと比定した。

「ヤナキヂヤラウ 學名は譯者には分からぬ」判らないはずである。注で示した通り、私はこれはトンボ類ではなく、広義のカゲロウ類と断じているからである。必ず、その注を見られたい。

「セキイシシヤは別種では無く、猩々蜻蛉の別名である」大谷先生、違います。どう考えても、見ても、中国での広義の「赤蜻蛉」の異称ですよ。

「ヤムマトンボの學名は Anax pa thenope」これは完全な植字工のミスである。「Anax pa」はオニヤンマ属 Anotogaster の誤植と見てまずはよいと思うが、問題は種小名で、オニヤンマ Anotogaster sieboldii とは全く異なる。オニヤンマ科 Cordulegastridae ではなく、ヤンマ科 Aeshnidae を調べても、およそ、この綴り字に似たものはいない。不審極まりない。「キンヤムマとも呼ぶ」とあるが、前掲通り、その学名とも一致しない。不審の極みである。

「クルマヤムマの學名は譯者には未詳」私はウチワヤンマ Sinictinogomphus clavatus に自信を以って同定比定した

「アカトンボ」「これは種の名では無くて、小さな赤い色の蜻蛉の總稱かと思ふ」正しい。

「トウスミトンボの學名は  Agrion quadrigerum」私はヒメイトトンボ Agriocnemis pygmaea  とした。綴りが話にならないほど異なるのだが、やはり英文の種索引を見ると、これはシノニムであった可能性が排除出来ない気がした。

「モノサシトンボ――動物學上この名は無いやうである」これは、外れです、大谷先生。モノサシトンボ Copera annulata です。

「ベニトンボもメクラトンボも動物學上認めぬもののやうである。前者は或は Psilocnemis annulata か」前者はベニトンボ Trithemis aurora と私は比定したが、この大谷の言う「Psilocnemis annulata」というのは、どうも、彼が調べる内に、前のモノサシトンボと混同して誤認して注してしまった可能性が極めて高いと私は思う。何故なら、モノサシトンボ Copera annulata、実は現在でも、別属の Psilocnemis の種として扱われる場合があるからである(ウィキの「モノサシトンボ」を参照されたい)。annulata」と「aurora」は生理的に気持ちが悪いほど似ているではないか。

「カトンボは實は蜻蛉では無い。蜉蝣科のものである。異名 Heptagenio binotata. 亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居るが、モスキイトホークは蚊を好んで食ふ一種の蜻蛉」「蜉蝣科」は致命的な誤り(或いは当時はそう思われていたか? いや、それはちょっとなかろう。そもそもカゲロウ科というタクソンは少なくとも現在は存在しない(蜉蝣(カゲロウ)目 Ephemeroptera はある)。既に注した通り、ガガンボ類、双翅(ハエ)目糸角(カ)亜目ガガンボ下目ガガンボ上科ガガンボ科 Tipulidae に属する。しかも、注で述べた通り、「亞米利加のモスキイトホークと同意味のものでもらう、と原著者は言うて居」りませんよ! 大谷先生! 小泉八雲は「モスキート・ドラゴン・フライ」って言ってるんですッツ! しかも、「モスキイトホーク」“Mosquito hawk”を逆引きすると、実はこれ、不均翅(トンボ)亜目 Anisoptera に属する多様なトンボ類を指す総称でんがな!

「日本のこのカトンボは蚊のやうに、小さいからこの名を有つて居るのであらう」おかしいですよ! 大谷先生! 彼らは「蚊」よりも驚くべく大きいじゃあないですか!?!

「コヤマトンボの學名は Epophthalmiaa mphigena」現行のコヤマトンボは Macromia amphigena amphigena。「Epophthalmia」なら、トンボの科の属にはあるが、本邦産種は同科にはいないようである。

「ツケテダンといふは實は譯者にも不明である。『蟲譜圖說』に載つてゐたので、當時そのまま、譯者は原著者に報道したのであつた」実状を暴露されましたな、大谷先生。しかし、誠実です。]

 

 上記の目錄のうちで、なほ進んで說明の要ある名は、『死者の蜻蛉』といふ意味のシヤウリヤウトンボ又の名シヤウライトンボだけであらうと思ふ。同じく無氣味なユウレイトンボ卽ち幽靈蜻蛉とは異つて、シヤウライトンボといふ名は、その姿形に關係を有つた名では無くて、或る種の蜻蛉には――翼ある馬として――死者が騎つて[やぶちゃん注:「のつて」。]居るといふ、妙な迷信から來て居るのである。舊曆七月の十三日の朝から十五日の夜半まで――盆會のあひだ――蜻蛉は、その時分にその舊の家を見舞はるミホトケサマ卽ち祖先の靈を背負つて居る、と言はれて居る。だから、佛敎の此の『萬靈節』中は、子供はどんな蜻蛉でもそれを――殊にその折家の内へ偶〻入つて來る蜻蛉を――いぢめることを禁ぜられる。蜻蛉と超自然界との此の想像されて居る關係が、今なほ方々の國に行はれて居る、蜻蛉とる子は『智慧を得ぬ』といふ意味の、古くからの諺を說明する役に立つ。も一つ奇妙な信仰は、或る種の蜻蛉はクワンノンナマ(觀音菩薩)を背に負うて居る、といふ信仰である。――背の斑點模樣が佛像の形に微かに似よりがあるからのことである。

[やぶちゃん注:「佛敎の此の『萬靈節』」原文は“this Buddhist " All-Souls,"”。本来、この「All-Souls」は、キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる「死者の日」または「万霊節(ばんれいせつ:All Soul’s Day)を指す。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed」(信仰を持って逝った人全ての記念日)と呼ぶ。大のキリスト教嫌いの小泉八雲が英語圏読者のために使ったのだと思うと、何となく、私は心にチクチクと、痛みを感ずるのである。]

2019/10/13

大和本草卷之十三 魚之下 海鰌 (クジラ)

【外】海鰌 倭名イサナドリ昔ハクジラヲモリニテツカス弓ニテ

 射ル死乄浦ニヨルイスナトリナリ古哥ニモヨメリ近江ノ

 湖ニイサナトリヲヨメルハ磯菜取ナリ月山叢談ニ捕

 巨鰍㳒アリ本邦ニクシラヲトル法ト同閩書曰巨能

 吞舟日中閃鬐鬣若簸朱※噴沫飛洒成雨其來

[やぶちゃん注:「※」=「方」+「廣」。電子化途中で不審を覚えたので、複数の同一文脈の複数の漢籍に当たったところ、「※」は「旗」であったので、訓読ではそれに代えた。

 也移如山嶽乍出乍没舟行相値必鳴金鼓以怖

 之云云刳為油○今案順和名抄以鯨鯢クシラトス

 崔約古今注鯨鯢大者長十里小者數丈一生數

 萬子異物志曰雄為鯨雌為鯢○海鰌魚之最大

 者泥鰌之最小者雖大小不同其形狀相似故

 以海鰌称ス日本ニテ海鰌其品凡六種アリ其内

 大小アリ慶長年中筑紫諸浦ノ漁人初テホコヲ

 以テツキ得テ油ヲトリ肉ヲスツ其後肉ヲ食シ

 腸ト骨ヲスツ又其後ワタヲ食ス其後頭骨ヲ

 食ス又クシラノヒケト云ハノトノ下ナルヲサナリ噐用ト

 ス皮ハ黑シ其内ニ白肉アリ又白肉ノ下ニ赤肉アリ味

 有好否冬春捕之春月最多シ海鰌ノ腸ノ名多

 シ百尋ト云長キ腸アリ可食凡鯨ノ油貧士賤

 民以爲燈油甚利民用○海鰌性熱肥膩多膏油

 食之生熱動風發瘡生痰多食難消化能傷脾胃

 病人及有脾積瘡疥者婦人有崩漏帶下病者不

 可食其近尾白肉味最好塩藏日久者夏月食之

 味美能峻補脾胃肥健於人虛冷無積滯人宜食

 止久瀉若新病濕熱盛者不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【外】海鰌(くじら) 倭名「いさなどり」。昔は、「くじら」を、もりにて、つかす、弓にて射る、死して、浦に、よる。「いすなとり」なり。古哥にも、よめり。近江の湖〔(うみ)〕に「いさなとり」をよめるは、「磯菜取(いそなどり)」なり。「月山叢談」に巨鰍を捕る㳒〔(はう)〕[やぶちゃん注:「法」の異体字。]あり。本邦に「クシラ」をとる法と、同じ。「閩書〔(びんしよ)〕」に曰はく、『巨〔(おほきなる)〕は能く舟を吞む。日中、鬐〔(ひれ)〕・鬣〔(たてがみ)〕を閃(ひらめ)かす。朱〔(あか)き〕旗を簸(あふ)る[やぶちゃん注:「煽(あお)る」の意。]がごとく、沫〔(しぶき)〕を噴して飛〔ばし〕洒〔そそぎ〕て雨と成し、其れ、來たるなり。移〔るに〕山嶽のごとく、出〔でつ〕、没〔しつ〕、す。舟の行き、相ひ値〔(あ)〕へば、必ず、金鼓を鳴らして、以つて之れを怖(をど)すと』云云〔(うんぬん)〕。刳〔(くり)〕て、油と為す。

○今、案ずるに、順が「和名抄」、「鯨鯢」を以つて「くしら」とす。崔約が「古今注」に『鯨鯢〔(げいげい)〕の大なる者、長さ十里。小なる者、數丈。一〔(いつ)〕に、數萬子を生む』〔と〕。「異物志」に曰はく、『雄を「鯨」と為し、雌を「鯢」と為す』〔と〕。

○海鰌(くじら)は、魚の最大なる者〔なり〕。泥鰌は最小なる者〔なり〕。大小〔は〕同じからずと雖も、其の形狀、相ひ似る。故に「海鰌」を以つて称す。日本にて海鰌、其の品、凡そ六種あり。其の内、大小あり。慶長年中、筑紫諸浦の漁人、初めて「ほこ」を以つて、つき、得て、油をとり、肉を、すつ。其の後、肉を食し、腸と骨を、すつ。又、其の後、「わた」を食す。其の後、頭骨を食す。又、「くじらのひげ」と云ふは、のどの下なる「をさ」なり。噐用とす。皮は黑し。其の内に白肉あり。又、白肉の下に赤肉あり。味、好否〔(かうひ)〕有り。冬・春、之れを捕へ、春月、最も多し。海鰌の腸〔(はらわた)〕の名、多し。「百尋〔(ひやくひろ)〕」と云ふ、長き腸あり。食ふべし。凡そ、鯨の油、貧士賤民、以つて燈油と爲し、甚だ民用に利〔せり〕。

○海鰌、性、熱。肥〔なる〕膩〔(あぶら)に〕、膏油、多し。之れを食へば、熱を生じ、風〔(ふう)〕を動かす。瘡を發し、痰を生ず。多く食へば、消化し難し。能く脾胃を傷つく。病人及び脾積〔(ひしやく)〕・瘡疥の有る者、婦人の崩漏(ほうろう)・帶下〔(こしけ)〕の病ひ有る者、食ふべからず。其の尾の近くの白肉、味、最も好し。塩藏〔して〕日〔の〕久〔しき〕者、夏月、之れを食へば、味、美〔(よ)〕し。能く脾胃を峻補し、人を肥健す。虛冷〔にして〕積滯の無き人、宜しく食ふべし。久しき瀉を止む。若〔(も)〕し、新病〔にして〕濕熱〔の〕盛〔んなる〕者〔は〕、食ふべからず。

[やぶちゃん注:哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目 Laurasiatheria 偶蹄(鯨偶蹄)目クジラ亜目Cetacea のクジラ類。その下位でヒゲクジラ下目 Mysticeti(シロナガスクジラ(白長須鯨。ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus)等)・ハクジラ下目 Odontoceti(マッコウクジラ(ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)やイルカ類(シャチ(マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca)も含まれる)等)に分かれる。但し、益軒は後で「イルカ」を独立項として出すので、それは除外される。

「いさなどり」濁音は底本のママ。また、これを「くじら」の古名とするのは、おかしい。「いさな」でよい。「いさなとり」(鯨魚取り・勇魚取り)は、言わずもがな、元は「クジラを捕る場所。漁」の意で、「海」・「浜」・「灘(なだ)」に掛かる枕詞である。

「いすなとり」文脈から見ると、益軒は、最終的に大型の鯨は銛や弓を放って後、浦に寄ってくるのを待つので、「居漁り(ゐすなどり)」(「すなどる」は「魚貝類を漁ること」の意である)と謂っているように思われるが、これは牽強付会としか思えない。小学館「日本国語大辞典」にも出ない。

「古哥にも、よめり」「万葉集」に十七首に詠み込まれている。不思議に惹かれる一首を紹介する。巻第十六の詠み人知らずの「無常の歌二首」の一つ、旋頭歌である(三九五二番)。

 鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮(しほ)干(ひ)て山は枯れすれ

大いなる自然にも死があるという釈教歌であう。

「近江の湖〔(うみ)〕」謂わずもがな、琵琶湖。

「磯菜取(いそなどり)」岸辺の水中に植生する食用に供される(ここは)淡水産水藻類や顕花植物の水草類を採ることを言っている。

「月山叢談」清の文人李文鳳撰。散逸しているものか、原文に当たることが出来なかった。

「巨鰍」この「鰍」の字は現行では通常、「カジカ」(条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux)を指すが、別に「ドジョウ」(条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ亜種ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus)の意もある

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「刳〔(くり)〕て」皮下の脂肪層に穴を空けて、それを抉(えぐ)り採ることを言っていよう。

「油と為す」後の箇所で、利用の変遷が語られてあるが、恐らく長く(一部の漁民以外は)鯨油を採取する目的のみでクジラ漁が行われていたことを意味している。嘗て下劣なアメリカがやっていたことと同じだ。その肉を日本に売り、私の世代までは小学校の給食に三日に上げず、鯨肉が出たものだった。因みに、私は捕鯨賛成派である。科学的にもミンククジラは増え過ぎており、北洋の生態系を壊しつつあることは、世界の鯨類学者が認めている。今もアメリカ物資汚染のお蔭で、私は鯨肉が大好きだ。

『順が「和名抄」、「鯨鯢」を以つて「くしら」とす』「和名類聚鈔」の巻第十九の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」に、

   *

鯨鯢(くちら) 「唐韻」に云はく、『大魚雄曰鯨【「渠」・「京」の反。】雌を「鯢」【音「蜺」。和名「久知良」。】と曰ふ』〔と〕。「淮南子」に曰はく、『鯨鯢、魚の王なり』〔と〕。

   *

とある。

「崔約」「崔豹」の誤り。晋(二六五年~四二〇年)の学者。晋恵帝(在位:二九〇年~三〇七年)の時に太子太傅丞に至っている。「古今注」は全三巻。

「長さ十里」当時の一里は約四百メートル強。それでもデカ過ぎ。

「數丈」当時の一丈は二メートル強。

「一〔(いつ)〕に、數萬子を生む」一度に数万の子を産む。あり得ない。

「異物志」三国時代の沈瑩(しんえい)の浙江臨海郡の地方地誌「臨海水土異物志」か。史上初の台湾の歴史・社会・住民状況を記載するものとして注目されるものである。

「日本にて海鰌、其の品、凡そ六種あり」サイト「くじら」のこちらで見ると、イルカ類を除いても(益軒は後で「海豚」の独立項を立てている)、本邦に棲息するクジラ類は十七種を数える。六種なんだから、益軒先生、名を挙げといてくれりゃあ、いいものを! まあ、

セミクジラ(背美鯨/勢美鯨:ヒゲクジラ亜目セミクジラ科セミクジラ属セミクジラ Eubalaena japonica

コククジラ(克鯨/児童鯨:ヒゲクジラ亜目ナガスクジラ上科コククジラ科コククジラ属コククジラ Eschrichtius robustus

シロナガスクジラ(白長須鯨:ナガスクジラ科ナガスクジラ属シロナガスクジラ Balaenoptera musculus

ナガスクジラ(長須鯨:ナガスクジラ属ナガスクジラ Balaenoptera physalus

ザトウクジラナ(座頭鯨:ナガスクジラ科ザトウクジラ属ザトウクジラ Megaptera novaeangliae

マッコウクジラ(マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus

かなあ?

「慶長」一五九六年から一六一五年。本邦の捕鯨史は縄文時代まで溯る。ウィキの「日本の捕鯨」によれば、約八〇〇〇年前の『縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していること』、約五〇〇〇年前の『縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている』とある。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている』。十一『世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が』八五一『年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも』十二『世紀には』、『湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。さても、この記載と関わる「突き取り式捕鯨時代」の項を見る。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し』、『突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。「鯨記」(明治元(一七六四)年著)に『よれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたのは』、一五七〇年頃(永禄十三年相当。室町時代)の『三河国であり』、六~八艘の『船団で行われていたとされる』。十六『世紀になると』、『鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては』、永禄四(一五六一)年に『三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には』、天正一九(一五九一)年に『土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が』慶長一五(一六一四)年に『著したとされる『慶長見聞集』によると、尾張と伊勢では鯨を突いていたが、関東では突くことはなかった。文禄期』(一五九二年~一五九六年)『に尾張の鯨突きの間瀬助兵衛が相模三浦に来て、鯨の突き取り漁が三浦半島に伝わったことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、慶長一一(一六〇六)年に、『泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し』、「突組」と『呼称された。この後』、元和四(一六一八)年には『忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』(太字下線は私が附した)とある。これから見ると、益軒の「矛突き漁筑紫発祥説」は信じ難い

「頭骨を食す」軟骨部のことであろう。

『「くじらのひげ」と云ふは、のどの下なる「をさ」なり。噐用とす』ヒゲクジラ亜目 Mysticetiのクジラの上顎部に見られる、繊維が板状になった器官。「ひげ板」とも呼ぶ。口腔内の皮膚がヒゲクジラ類に於いて独自に変化したもので、髭や毛とは由来が異なる。濾過摂食のためのフィルターとしての役割を持り、組成は皮膚の角質組織と同じケラチンから成る。上顎の左右に列を成し、それぞれ最大で三百枚程度が生える。「鯨ひげ」は、弾力性などに優れることから、古くから各種の加工材として使用された。参照したウィキの「鯨のひげ」によれば、『古い例としては、正倉院に鯨ひげ製の如意が宝物として収められている。特にセミクジラ科のものは、長くて非常に柔軟かつ弾力があることから重宝され、結果としてセミクジラ科の乱獲の一因ともなった。その後、弾力のある金属線やプラスチックが普及したため、現在では工芸的な用途を除いては需要は殆どない』。以下、使用用途例(一部を加工した)。

・釣竿(日本では、弾力性を生かして釣竿の先端部分に用いられる。現在でも一部で使用されている)

・衣服(整形用の骨に用いる。西洋ではコルセットやクリノリンなどの女性用下着やドレスの腰部に日本では裃の肩などに使用された)

・傘(西洋では傘の骨に用いた。フランス語で「傘の骨」を(os de )baleineというが、これは「鯨」(の「骨」)の意である)

・扇子(本邦で扇子の要(かなめ)として用いていた)

・呉服尺(本邦では着物の仕立て専用の物差しの材料に用いた。「鯨尺」とも呼ばれ、長さの特別独自単位としてその名が残っている。但し、「鯨のひげ」から作られたからとされるが、それは定かではない。鯨尺一尺は曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分に相当し、三十七・八八センチメートル相当である)

・発条(ぜんまい)(江戸時代の日本で「ぜんまい」の材料とされ、からくり人形などに使用された)

・文楽人形(操作索に用いることは有名)

「風〔(ふう)〕を動かす」「風邪」と使うように、漢方で疾患のもととなる悪い邪気を指す。

「瘡」皮膚の湿疹・糜爛。

「脾胃」漢方で広く消化器系を指す語。

「脾積〔(ひしやく)〕」消化器系の、想像上の寄生虫によって発生すると考えられた腫物やしこりの謂いであろう。

「瘡疥」疥瘡で「はたけがさ」、所謂、皮膚病の「はたけ」であろう。主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉を噴いたような発疹が複数個所発する皮膚の炎症性角化症の一つ顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。ウィルス感染原因が疑われているが、感染力はない。私は広汎な一種のアレルギー反応による皮膚疾患をも含んだ症状を指していると考えている。

「崩漏」女性生殖器からの尋常でない出血症状を指す語。

「帶下〔(こしけ)〕」下(お)り物。女性の内部生殖器官から分泌される粘液や組織片などの混合物。病的でないものも含まれる。

「尾の近くの白肉、味、最も好し」所謂、尾の付け根附近の肉で「尾の身」と呼ぶ。現行、一般には刺身を最上とする。私は脂っぽ過ぎて好まない。

「峻補」強い熱性の食材・中薬による保温法。

「積滯」血や痰などの病理上の有害産物が各組織・器官に積み重なって病態を呈していることを指す。

「久しき瀉」慢性の下痢。

「新病」罹患したばかりの病態のことか。

「濕熱」本来は相反してバランスをとるはずの「水」気と「熱」気の双方が体内で過剰になり、相互に融合して重積してしまい、発生する症状を指す。]

大和本草卷之十三 魚之下 鰺 (アジ類)

【和品】

鰺 順和名抄アチト訓ス生東海者形肥大夏秋

 多肉味美冬春味不美以塩漬而乾之亦佳無鱗

 尾上有厚鱗今案性温補發瘡腫痘瘡及諸瘡ヲ

 患ル者不可食又有室鰺嶋鰺味劣

○やぶちゃんの書き下し文

鰺(あぢ) 順〔(したがふ)〕の「和名抄」、「あち」と訓す。東海に生ずる者、形、肥大。夏・秋、肉、多く、味、美〔(よ)し〕。冬・春、味、美からず。塩を以つて漬けて、之れを乾かす。亦、佳なり。鱗、無く、尾の上に、厚き鱗、有り。今、案ずるに、性、温補〔にして〕、瘡腫〔(さうしやう)〕を發す。痘瘡及び諸瘡を患〔(わづらふ)〕る者、食ふべからず。又、室鰺〔(むろあぢ)〕・嶋鰺〔(しまあぢ)〕有り。味、劣れり。

[やぶちゃん注:取り敢えず、条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ属マアジ Trachurus japonicus としてよかろう。我々にとって最もお馴染みの食用魚であるが、ウィキの「マアジ」から一部を引用しておく。『成魚の全長は』五十センチメートル『に達するが、よく漁獲されるのは』三十センチメートル『程度までである。体は紡錘形でやや側扁し、頭長は体高より長い。側線は体の中ほどで下方に湾曲し、背鰭第』八『軟条下から尾まで直走する。この側線上には全体に亘って稜鱗(りょうりん : 俗称「ぜんご」「ぜいご」)と呼ばれる棘状の鱗が』六十九個から七十三個『並ぶ。臀鰭の前端部には』二『本の棘条がある。鰓蓋(さいがい、えらぶた)上縁に一つの黒色斑がある。口内では両顎・口骸骨・鋤骨(じょこつ)・舌に細歯がある。背側は緑黒色で腹側は銀白色、中間域は金色である』。『体色と体型は、浅海の岩礁域に定着する「居つき型(瀬付き群)」と、外洋を回遊する「回遊型(沖合回遊群)」で異なる。居つき型は全体的に黄色みが強く、体高が高い。一方、「回遊型」は体色が黒っぽく、前後に細長い体型をしている。例えば東京湾沿岸では居つき型を「キンアジ」「キアジ」、回遊型を「ノドグロ」「クロアジ」などと呼んで区別している』。『ムロアジ属 Decapterus 諸種、メアジ Selar crumenophthalmus 等の類似種がいるが、本種は第二背鰭・臀鰭の後ろに小離鰭が無いこと、側線の全てが稜鱗で覆われること、側線が体の中ほどで大きく下方に湾曲することで区別がつく』。『関西ではマアジを赤アジ、ムロアジを青アジとも呼ぶ』。『北西太平洋の固有種で、北海道から南シナ海までに分布する。特に日本海や東シナ海で個体数が多い』。『地方毎に独立した地方系群もあると考えられ、これらは遺伝子プール・形態・生態・産卵地もわずかずつ異なるとされる。主なものは九州北部群、東シナ海中部群、東シナ海南部群、小さい群として九州南方域、高知沖、関東伊豆付近、瀬戸内海、富山湾がある』。『回遊型は沿岸から沖合の中層・底層を群れで遊泳する。季節に応じた長距離の回遊を行い、春に北上・秋に南下する。一方、居つき型は浅海の岩礁付近に定着し、季節的な回遊をしない。食性は肉食で、動物プランクトン、甲殻類、多毛類、イカ、他の小魚等を捕食する』。『産卵期は地域の気候によって異なり、東シナ海では』一月であるが、『北海道では』八『月となる。早春の東シナ海で仔魚・稚魚が多数見られることから、回遊型は東シナ海で産卵し、これらが黒潮に乗って東アジア沿岸域に分散すると考えられている。産卵数は』成体♀の大きさによって異なり、約十万個から五十六万個に『達する。卵は直径』一ミリメートル弱の『分離浮性卵で』、四十『時間ほどで全長』二・五ミリメートルの『仔魚が孵化する。幼魚は流れ藻に付くことがあり、内湾の浅い海でも見られる』。二~三年で『成熟し、寿命は最長』十二『年という記録がある』。『本種は日本産アジ類の中でも特に漁獲が多く代表種となっていることから「真」が付く』。『新井白石は「アジとは味也、その味の美をいふなりといへり」と記している』。『地方名も多く、アヅ(富山・秋田)、メダマ(東京)、ノドクロ、クロアジ(東京 : 回遊型を指す)キアジ、キンアジ(東京 : 居つき型を指す)、アカアジ(関西 : 稚魚を指す)、ヒラアジ(和歌山・大阪・広島)、ホンアジ(和歌山)、トツカアジ、トツカワ(和歌山)、オオアジ(神戸・松江)、オニアジ(兵庫明石)、ゼンゴ(中国・四国地方)、キンベアジ(鹿児島)、ジンタン(鹿児島 : 稚魚を指す)等がある』。『関アジは豊予海峡で漁獲し、大分県大分市佐賀関で水揚げしたアジの商標である』。なお、アジ亜科 Caranginaeの総説であるウィキの「アジ」の「語源」によれば、『日本語の「アジ」は味が良いことに由来するといわれる』。『「魚」に「参」と書く漢字が当てられるが、この由来は諸説あり、「鱢(ソウ、魚偏に「喿」)」の字の写し間違いであるとする説』、『「おいしくて参ってしまう」の意であるとする説、最も美味の季節が旧暦の』三『月に当たるので』、旁(つくり)に『数字の「参」が使われたとする説などがある』とある。

『順の「和名抄」、「あち」と訓す』源順の「和名類聚鈔」巻十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類」第二百三十六に、

   *

鰺(アチ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『鰺【「蘇」「遭」の反。「騷」と同じ。和名「阿遲」。】。味、甘温。毒、無し。貌(かたち)、「鯼」に似て、尾に、白剌、相ひ次ぐ者なり。』〔と〕。

   *

とある。「ぜいご」をよく記して、アジ類の記載を思わせるが、しかし、「鯼」(音「ソウ」)はイシモチ(スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata 或いはニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii を指す)の俗字で、イシモチもニベも私はアジ類とは決して似ているとは思わない。

「性、温補〔にして〕、瘡腫を發す」「温補」は漢方で正常な体温を保時させ、補填する性質を謂うが、この文脈ではそれが、「瘡腫」(皮膚が腫れて膿を持った病態)を引き起こす、惹起し易いと言っているようにしか読めない。この「瘡腫」をもっと軽いアレルギ性湿疹と採るにしても、アジ類ではそう頻繁に多数の人に起こるとは考えられないから、この記載は不審である。

「痘瘡」天然痘。

「諸瘡」広義の皮膚の湿疹や糜爛を指す。

「室鰺」狭義にはアジ亜科ムロアジ属ムロアジ Decapterus muroadsi を指すが、ムロアジ属には多くの種が含まれる。ウィキの「ムロアジ」を参照されたい。中でも、クサヤモロDecapterus macarellus は「くさや」の最高級品として賞味される。私も四十年近く前、神津島の製造所で買って民宿で焼いて貰った(同宿の女性二人に大顰蹙を買ったが、宿の主人はにこにこしていた)が、あれは人生最高の「くさや」であった。製造元では「くさや」の漬ける伝来の原液を嘗めさせて貰ったが、非常に美味であったのも忘れられない。

「嶋鰺」しかし、「味、劣れり」はムロアジとともに、断固、抗議する。アジ類ではシマアジは刺身にして最も美味いものですよ! 益軒先生!]

2019/10/12

大和本草卷之十三 魚之下 鮹魚 (アカヤガラ)

鮹魚 本草ヲ見ルニ關東ニヤカラト云魚是乎細長

 クシテ箭ノ如ク圓ナリ又馬ノ鞭ノ如シ色少アカシ

 觜短ク尾ニマタアリ又觜長キモノアリ肉白シ膈噎ノ

 病ヲ治スト云西州ニモアリタコト訓スルハアヤマリナリ無毒

○やぶちゃんの書き下し文

鮹魚(ヤガラ) 「本草」を見るに、關東に「やがら」と云ふ魚、是れか。細長くして、箭〔(や)〕のごとく、圓〔(まどか)〕なり。又、馬の鞭のごとし。色、少し、あかし。觜〔(くちばし)〕短く、尾に「また」あり。又、觜、長きものあり。肉、白し。膈噎〔(かくいつ)〕の病ひを治すと云ふ。西州にも、あり。「たこ」と訓ずるは、あやまりなり。毒、無し。

[やぶちゃん注:条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヤガラ科ヤガラ属 Fistularia のヤガラ類。世界に四種を認めるが、本邦近海では、

アオヤガラ Fistularia commersonii

アカヤガラ Fistularia petimba

の二種が知られ、益軒のそれは後者である。ウィキの「ヤガラ」によれば、科名ヤガラ科 Fistulariidaeの『由来は、ラテン語の「fistula(パイプ)」』に由来する。『ヤガラ科の魚類はすべて海水魚で、太平洋・インド洋・大西洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布する』。上記アカヤガラ『は高級食用魚として珍重される』。ヤガラ科の『類はサンゴ礁や岩礁などの比較的浅い海で生活し、小魚や甲殻類を主に捕食する』。細長い筒状の口を使って、岩やサンゴの間に潜む獲物を吸い込むことに適応している』。『アカヤガラは味の良い魚で』、『入荷量が少ない、白身の高級魚として扱われ』、『椀物、鮨種、刺身で食べられる』。『細長い体と筒状の口』と、『後方に伸長する尾鰭の鰭条が』ヤガラ科の『魚類の特徴で』、『細長い体型をもち、吻(口先)は細長く筒状に発達する』。『最大で全長』一・八メートルに『まで達するが、通常は』一メートル『未満であることが多い』。『近縁のヘラヤガラ科』(ヨウジウオ亜目ヘラヤガラ下目ヘラヤガラ上科ヘラヤガラ科 Aulostomidae)『とよく似た外見を有するものの、ヤガラ類は口』鬚を『もたず、肛門の開口部が』、『腹鰭のすぐ後ろに位置するなど、形態学的な差異は比較的大きい』。『体表には鱗がなく、一部の種類では小突起が列状に並ぶ』。『側線は』、『よく発達し、背部正中に弧を描きながら』、『尾鰭鰭条にまで達する』。『背鰭と臀鰭は棘条を欠き、いずれも』十三~二十『本の軟条で構成され』ている。『尾鰭は二又に分かれ、中央の』二『本の鰭条が著しく伸長する』とある。

「本草」「本草綱目」の、巻四十四の「鱗之三」に、

   *

鮹魚【音「梢」。「拾遺」。】

集解【藏器曰、「出江湖。形似馬鞭、尾有兩岐如鞭鞘。故名。氣味、甘、平。無毒。】

主治【五痔・下血・瘀血在腹。藏器。】

   *

とあるが、「江湖に出づ」というのは淡水魚を指すので、これはヤガラではない。但し、現代中国語ではアカヤガラにこの「鮹魚」を当ててはいる。

「膈噎」「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。しかし、ここは広義の咽喉や気道附近での、咽喉もとの「痞(つか)え」を広汎に指す謂いでとってよかろう。]

小泉八雲 僧興義  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“The Story of Kōgi the Priest”。「僧興義の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭の「奇談」パートの掉尾である第六話目として置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「夢應の鯉魚」(構成としては明末の小説家馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の書いた白話小説「醒世恒言」第二十六の 「薛錄事魚服證仙」(「薛(せつ)錄事、魚服(ぎよふく)して仙を證すること」。録事は主任書記官。「魚服」は魚に化すること)、さらに溯る明代の白話小説「古今」の「淵」の辰巻三十五にある「魚服記」、「太平廣記」の「水族類」所収の「薛偉」の三種を勘案して典拠としたもの)を原拠としている。サイト「日本古典文学摘集」の原文現代語訳もある)をお薦めする。

 

 

  僧 興 義

 

 殆んど一千年前、近江の國の名高い三井寺に、興義と云ふ博學の僧がゐた。繪の大家であつた。佛像、山水、花鳥を殆んど同じ程度に巧みに描いたが、魚を描く事が最も得意であつた。天氣の好い日で、佛事の暇のある時には、彼はいつも漁師を雇うて琵琶湖に行き、魚を痛めないやうに捕へさせて大きな盥に放ち、その游ぎ𢌞るのを見て寫生した。繪を描いてから、勞りながら食物を與へて再び、――自分で湖水までもつて行つて、――放つてやるのがつねであつた。彼の魚の繪はたうとう名高くなつたので、人はそれを見に遠くから旅をして來た。しかし彼の凡ての魚の繪のうちで、最も不思議なのは、寫生ではなくて、夢の記憶から描いた物であつた。そのわけは、或日の事、彼が魚の游ぐのを見るために、湖岸に坐つて居るうちに思はずまどろんで、水中の魚と遊んだ夢を見た。眼をさましてから、その夢の記憶が餘りに鮮明であつたので、彼はそれを描く事ができた、そしてお寺の自分の部屋の床の間にかけて置いたこの繪を、彼は『夢應の鯉魚』と呼んだ。

[やぶちゃん注:「殆んど一千年前」小泉八雲の本作品集は明治三四(一九〇一)年の刊行であるが、原拠の上田秋成の「夢應の鯉魚」では「むかし、延長の頃」と始まる。延長は九二三年から九三一年である。

「三井寺」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山長等山園城寺(おんじょうじ)の別名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。園城寺は七世紀に大友氏の氏寺として草創され、九世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興された寺である。「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の三代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが、転じて三井寺となったとされる。

「興義」昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊の高田衛・稲田篤信編著「大学古典叢書1 新注 雨月物語」の注に、『僧興義曾つて江州三井寺に住み画名有り」(本朝画史)。また』、上田秋成(享保一九(一七三四)年~文化六(一八〇九)年))同じ『の頃の人で、鯉の絵にたくみであつた蛇玉・※史明がモデル』(「※」=「葛」-「人」+「ヒ」)とある。前者は生没年未詳の平安中期の僧で、藤原実範(さねのり)の子で天台僧。康平(一〇五八年~一〇六五年)頃の人。園城寺で学び、京の道澄寺(どうちょうじ)の別当を務め、画をよくしたという人物で(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、後者は葛蛇玉(かつじゃぎょく 享保二〇(一七三五)年~安永九(一七八〇)年のことである。ウィキの「葛蛇玉」によれば、葛は江戸中期の絵師で、『大坂の人。名は徹、のち季原。字は子明。洞郭とも号した。鯉の絵を得意としたため「鯉翁」と呼ばれ、上田秋成著『雨月物語』にある「夢応の鯉魚」のモデルと言われる』。『蛇玉の人となりは片山北海による墓碑銘』『によって知られる。木村宗訓の子孫が代々住職を務める浄土真宗の寺・玉泉寺の四代目・宗琳の次男として生まれる。後に長嶋喜右衛門なる者の婿養子となった。長嶋氏の祖は谷八(やつ)氏で、長嶋家の宗家は小早川隆景の子孫であることから、小早川谷八と称した。葛の姓は、この谷八の音「KOZU YATSU」を、葛「KATSU」としたと推測される』(私が馬鹿なのか、この説明、よく分らない。「KOZU」ではなく、「KOKU」なら判るんだけど)『画をはじめ橘守国、および鶴亭に学ぶ。後に宋元の古画を模して一家を成した』。明和三(一七六六)年二月二十二日の『晩、蛇が玉を咥えて来る夢を見て、目覚めると』、『そこに玉があった。これが何の吉祥か分からなかったが、この事件から自ら「蛇玉」と称するようになったという。この逸話を裏付けるように、「蛇玉図」の賛文に木版でこの逸話が記されており、同様の作品が他にもあることから、蛇玉は同図を名刺がわりに相当数』、『描いて配り、自らを売り込もうとしたとも考えられる』。『人柄は風流閑雅で、有閑公子の風があった。晩年には南木綿町に住み、当時の人名録にも名前が記載されている。享年』四十六。『墓所は、下寺町大蓮寺だが、墓石は残っていない。息子の蛇含(じゃがん)も絵師となったというが、その作品は全く知られていない。蛇玉の方も現在確認されている作品は極めて少なく』、たった六『点しかない』とある。リンク元にリストが出るが、その内の二枚は「鯉魚図」である。]

 興義は、彼の魚の繪を一枚も賣る事を喜ばなかつた。山水の繪、鳥の繪、花の繪は喜んで、手放したが、彼はいつも、魚を殺したり、喰べたりするやうな殘酷な者には、生きた魚の繪は賣りたくないと云つてゐた、そして彼の繪を買ひたがる人々は皆魚食の人々であつたから、彼等が如何程金を積んでも、彼はそれには迷はされなかつた。

 

 或夏の事、興義は病氣になつた、それから一週間物言ふ事も、動く事もできなくなつたので、彼は死んだと思はれた。しかし讀經など行はれたあとで、弟子達は體に幾分の溫み[やぶちゃん注:「あたたかみ」。原拠『暖(あたゝか)なるにぞ』。]のある事を發見して、暫らく埋葬を見合す事にして、その死骸らしく思はれる物のわきで、見張をする事に決した。同じ日の午後に、彼は突然蘇生した、そして見張の人々にかう云つて尋ねた、――

 『私が人事不省になつてから、幾日になりますか』

 『三日以上になります』一人の弟子が答へた。『いのちがお絕えになつたと思ひました、それで今朝日頃のお友達、檀家の人々がお寺に集まつておとひらひをいたしました。私達が式を行ひましたが、お體が全く冷たくないから、埋葬は見合せました、それで今さうした事を甚だ喜んでゐます』

 興義は成程とうなづいてから、云つた、

 『誰でもよいから、すぐに平(たひら)の助(すけ)のうちに行つて貰ひたい、そこでは今、若い人達が宴會を開いて居る――(魚を喰べて、酒を飮んで居る)――それで、云つて貰ひたい、――「あるじは蘇生しました、どうか宴會を止めて、卽刻來て下さいませんか、あなた方に珍らしい話をいたしますから」……同時に』――興義は續けて云つた――『助と兄弟達が、何をして居るか、見て來て貰ひたい、――宴會をしでゐないかどうか』

[やぶちゃん注:「助」原拠は『平(たひら)の助の殿』。先の高田・稲田編著「新注 雨月物語」の「助の殿」の注に、『国司の次官』とある。]

 それから一人の弟子が直ちに平の助の家に行つて、助と弟の十郞が、家の子掃守(かもり)[やぶちゃん注:ここは名前。]と一緖に、丁度興義が云つた通り、宴を開いて居る事を見て驚いた。しかし、その使命を聞いて三人は、直ちに酒肴をそのままにして、寺へ急いだ。興義は床から座蒲團に移つてゐたが、三人を見て歡迎の微笑を浮ベた、それから、暫らくお祝と御禮の言葉を交換したあとで、興義は助に云つた、

 『これから二三と尋ねする事があるが、どうか聞かせて下さい。第一に、今日あなたは漁師の文四[やぶちゃん注:「ぶんし」。]から魚を買ひませんでしたか』

 『はい、買ひました』助は答へた――『しかしどうして御存じですか』

 『少し待つて下さい』僧は云つた。……『その漁師の文四が今日、籠の中に三尺程の長さの魚を入れて、お宅の門へ入つた。午後の未だ早い時分でしたが、丁度あなたと十郞樣が碁を始めたところでした、――それから掃守が桃を喰べでゐながらその碁を見てゐました――さうでしたらう』

 『その通りです』助と掃守は益〻驚いて、一緖に叫んだ。

 『それから掃守がその大かな魚を見て』興義は續いて云つた、『すぐにそれを買ふ事にした、それから代を拂ふ時に、文四に皿に入れた桃をいくつか與へて、酒を三盃飮ませてやりました。それから料理人を呼んだら、その人は魚を見て感心しました、それからあなたの命令で、それを膾(なます)にして、御馳走の用意をしました。……私の云つた通りぢやありませんか』

 『さうです』助は答へた、「しかしあなたが、今日私のうちであつた事をどうして御存じですか、實に驚きます。どうかこんな事がどうして分りましたか聞かして下さい』

 『さあ、これからが私の話です』僧は云つた。[御承知の通り殆んど皆の人達は私を死んだと思ひました、――あなたも私のとむらひに來てくれましたね。しかし、三日前に私はそんなにひどく惡いとは思はなかつた、ただ弱つて、非常に熱いと思つたので、外へ出て少し涼まうと思つた。それから骨を折つて床から起き上つて、――杖にすがつて、――出かけたやうです。……事によればこれは想像かも知れない、しかしやがてその事は皆さん御自分で判斷ができませう、私はただあつた事を何でもその通りに述べるつもりです。私がうちからあかるい外へ出ると、全く輕くなつたやうな、――籠や網から逃げ出した鳥のやうに輕くなつたやうな氣がした。私は段々行くうちに湖水に達した、水は靑くて綺麗だつたから、しきりに游いで見たくなつた。着物を脫いで跳び込んで、そこら邊泳ぎ出した、それから、私は非常に早く、非常に巧みに游げるので驚いた――ところが實は、病氣の前は游ぐ事はいつも非常に下手であつた。……皆さんは馬鹿な夢物語だと思はれるだらうが――聽いて下さい。……私がこんなに新しい力が出で來たので不思議に思つて居るうちに、氣がついて見ると、私の下にも𢌞りにも綺麗な魚が澤山游いでゐた、私は不意に幸福な魚が羨しくなつて來た、――どんなに人がよく游げると云つたところで、魚のやうに、水の下で面白くは遊ばれないと思つた。丁度その時、甚だ大きな魚が私の目の前の水面に頭を上げて、人間の聲で私にかう云つて話しかけた、――「あなたの願は何でもなく叶ひます、暫らくそこでお待ち下さい」それから、その魚は下の方へ行つて見えなくなつた、そこで私は待つてゐた。暫らくして湖水の底から、――私に物を云つたあの大きな魚の背中に乘つて、――王公のやうな冠と禮服を着けた人が浮かび上つて來て、私に云つた、――『暫らく魚の境遇になつて見たいとの御身の願を知しめされた[やぶちゃん注:「しろし召(め)された」。]龍宮王から使をもつて來た。御身は多くの魚の生命を救つて、生物への同情をいつも示して居るから、神は今御身に水界の樂み[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を得させるために黃金の鯉の服を授け下さる。しかし御身は魚を喰ベたり、又魚でつくつた食物を喰べたりしないやうに注意せねばならない、――どんなによい香がしても、――それから漁師へ捕へられないやうに、又どうかして體(からだ)を害をする事のないやうにやはり注意せねばならない』かう云つて、その使者と魚は下の方へ行つて、深い水の中に消え失せた。私は自分を顧みると、私の全身が金のやうに輝く鱗で包まれてゐた、――私には鰭があつた、――私は實際黃金の鯉と化して居る事に氣がついた。それから、私の好きなところ、どこへでも游げる事が分つた。

 『それから、私が游いで、澤山の各所を訪れたらしい。〔ここで、原文には、近江八景を說明した歌のやうな文句が入れてある[やぶちゃん注:近江八景は「石山秋月」(いしやまのしゅうげつ:以下「の」を入れて読む)・「勢多(瀬田)夕照」・「粟津晴嵐」・「矢橋(やばせの)帰帆」・「三井晩鐘」・「唐崎夜雨」・「堅田(かたたの)落雁」・「比良暮雪」の名数。ウィキの「近江八景」で江戸後期の浮世絵師歌川広重の代表作である、錦絵名所絵揃物「近江八景」が見られる。]〕時々私は靑い水の面で躍る日光を見たり、或は風から遮ぎられた靜かな水面に反映する山や木の美しい影を見たりしただけで滿足した。……私は殊に島の岸――沖津島か竹生島か、どちらかの[やぶちゃん注:「沖津島」現在の滋賀県近江八幡市沖島町(おきしまちょう)の沖島。「竹生島」滋賀県長浜市早崎町にある竹生島(ちくぶしま)。]――岸が赤い壁のやうに水の中に映つてゐたのを覺えて居る。……時々私は岸に餘り近づいたので、通つて行く人の顏を見たり聲を聞いたりする事ができた、時々私は水の上に眠つてゐて、近づいて來る櫂[やぶちゃん注:「かい」。]の音に驚かされた事もある。夜になれば、美しい月の眺めがあつた、しかし私は片瀨[やぶちゃん注:有意に水深の浅い潟瀬の一般名詞でとっておく。]の漁舟のかがり火の近づいて來るのには幾度か驚かされた。天氣の惡い時には、下の方へ、――ずつと下の方へ、――一千尺も、[やぶちゃん注:三百三メートルであrが、残念ながら琵琶湖の最深部は北湖の西側の安曇川沖付近で百四メートルである。]――行つて湖の底で遊ぶ事にした。しかしこんな風に二三日面白く遊び𢌞つてゐたあとで、私は非常に空腹になつて來た、それで私は何か喰べる物をさがさうと思つて、この近所へ歸つて來た。丁度その時漁師の文四が釣をしてゐた、そして私は水の中に垂れてゐた鉤[やぶちゃん注:「はり」。]に近づいた。それには何か餌がついてゐて、よい香がした。私は同時に龍宮王の警告を想ひ出して、獨り言[やぶちゃん注:「ひとりごと」。]を云ひながら、游ぎ去つた、――「どうあつても魚の入れてある食物は喰べてはならない」それでも私の飢は非常に烈しくなつて來たので、私は誘惑に勝つ事ができなくなつた、それで又鉤のところへ游ぎかへつて、考へた、――「たとへ、文四が私を捕へても、私に害を加へる事はあるまい、――古い友達だから」私は鉤から餌を外す事はできなかつた、しかし餌の好い香は到底私が辛抱できない程であつた、それで私はがぶりと全部を一呑みにした。さうするとすぐに、文四は糸を引いて、私を捕へた。私は彼に向つて叫んだ、――「何をするんだ、――痛いぢやないか」――しかし彼には聞えなかつたらしい、直ちに私の顎に糸を通した。それから籠の中へ私を投げ入れて、お宅へ持つて行つたのです。そこで籠を開いた時、あなたと十郞樣が南の部屋で碁を打つてゐて、それを掃守が――桃を喰べながら――見物して居るのが見えた。そのうちに皆さんが私を見に椽側へ出て來て、そんな大きな魚を見て喜びましたね。私はできるだけ大聲で皆さんに、――「私は魚ぢやない、――興義だ、――僧興義だ、どうか寺へかへしてくれ」と叫んだが、皆さんが喜んで手をたたいて私の言葉には頓着しなかつた。それから料理人は臺所へもつて行つて、荒々しく俎板(まないた)の上に私を投げ出したが、そこには恐ろしく鋭い庖丁が置いてあつた。左の手で、彼は私を押へて、右の手で庖丁を取り上げた、――そして私は彼に叫んだ、――「どうしてそんなに殘酷に私を殺すのだ。私は佛の弟子だ、――助けてくれ」しかし同時に私はその庖丁で二つに割られるのを――非常な痛さとともに――覺えた、――そしてその時突然眠がさめた、そしてここの寺に歸つてゐた』

 

 僧がこの通り話を終つた時、兄弟は不思議に思つた、そして助は云つた――『今から思へば、なる程私達が見て居る間、魚の顎が始終動いてゐた、しかし聲は聞えなかつた。……それではあの魚の殘りは湖水に捨てるやうに、家へ使を出さねばならない』

 

 興義はすぐに病氣が直つた、そしてそれから又澤山の繪を描いた。死後餘程たつてから、彼の魚の繪が或時湖水に偶然落ちた事があつた、すると魚の形がその地の絹や紙から直ちに離れて游ぎ去つたと傳へられて居る。

 

[やぶちゃん注:この田部氏の訳は、興義の台詞がすこぶる良い。逐語訳的なのが――この場合は――実は非常に良いのだ。何故か? まるで小泉八雲が、たどたどしい日本語を喋るように感じられるからだ。この興義は実は小泉八雲自身なのだ。小泉八雲が水泳が大好きだったことはご存じの通り。「荘周、夢に胡蝶となる」張りに、ここでは「八雲、夢に鯉魚(りぎょ)となる」の気持ちで書いたに相違ないからである。]

小泉八雲 梅津忠兵衛  (田部隆次訳) 附・原拠「通俗佛敎百科全書」上巻「第百八十二 產神の事」


[やぶちゃん注:本篇(原題“The story of Umétsu Chūbei”。「梅津忠兵衛の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第五話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最後に原拠を示した。]

 

 

  梅津忠兵衞

 

 梅津忠兵衞は非常な力量と勇氣のある若い武士であつた。彼は戶村十太夫と云ふ地頭に仕へてゐた、その居城は出羽の國橫手の近傍の高い山の上にあつた。家中はその山の下に小さい町をつくつてゐた。

[やぶちゃん注:「梅津忠兵衞」出羽国久保田藩の優れた家老に梅津政景(天正九(一五八一)年~寛永一〇(一六三三)年がいるが、本篇や原拠を見ても事蹟が合わないから違う(この一門の誰かである可能性は排除は出来ない。リンク先は彼のウィキ)。但し、ウィキの「妹尾兼忠」(せおかねただ)に以下のようにある。注意! ネタバレになるので以下(※※※で挟んだ部分)は本篇を読んだ後に読まれる方がよい。】※※※『秋田県横手市に残る伝説に登場する人物である。通称が五郎兵衛であることから、妹尾五郎兵衛兼忠(せおごろべえかねただ)とも呼ばれている。また、怪力であったため』、『「大力妹尾兼忠(だいりきせおかねただ)」とも呼ばれている』。『昔、横手の武士、妹尾五郎兵衛兼忠』『が、用事があってまだ人気のない早朝に家を出た。蛇の崎橋(じゃのさきばし)』『を歩いていると、向こうから赤ん坊を抱いた女性が歩いてきて、兼忠にしばらく赤ん坊を抱いていてほしいと頼んできた。他に誰もいなかったため、兼忠はやむを得ず』、『赤ん坊を預かった』。『女性が去った後、兼忠は次第に赤ん坊が重くなってくるのに気付いた。さらに赤ん坊が成人のような目つきをし、兼忠の喉元をにらむため、危険を感じた兼忠は、小柄(小さな刀)を抜いて口にくわえた。赤ん坊の重みはいよいよ増し、ついに耐えきれなくなり思わず念仏を唱えた。小半時(』一『時間)ほどしてようやく女性が蛇の崎橋に戻ってきて赤ん坊を受け取り、お礼にお金を渡そうとしたため』、『兼忠が固辞すると、女性は「自分は土地の氏神で、いま氏子のひとりが難産で苦しんでいたので助けを求められた。あなたに預けた子はまだ産まれていない子で、だんだん重くなったのは母親が危険なときだった。あなたの念仏のおかげで親子ともども助かりました。子々孫々にわたり、力をあげます」と言って手ぬぐいを差し出した。兼忠は受け取って、用事のために急いで橋を去った』。『翌朝、兼忠は顔を洗おうとして、前日もらった手ぬぐいを思い出し、それで顔を洗った。手ぬぐいを絞ったところ簡単に切れてしまったので、兼忠は「力をあげます」という昨日の女性の言葉の意味を理解した。手ぬぐいが弱いのではなく、兼忠の力が強くなっていたのだった』。『横手城内で兼忠の怪力が評判になったころ、植木に使う大木を運搬中に蛇の崎橋で欄干に引っかかって』、『どちらにも動けなくなる出来事があった。兼忠が』丁度『通りかかり、大木を移動させようと必死に作業する人夫に、通行の邪魔であると声をかけた。人夫はつい、良くない言葉で返事をしたため、武士の兼忠はその無礼に怒り、大木を持ち上げるなり橋の下の横手川』『の川原に投げ落としてしまった。この大木を引き上げるのに』五十『人の人夫が』三『日かかったという』。元和八(一六二二)年の弾圧を受けた宗教系集団による「大眼宗一揆」(だいがんしゅういっき)の際、『兼忠は』二『間余りの角材を手に持って蛇の崎橋の上に立ち、一揆の信者たちをにらみつけ、追いのけて功名をあげた』『とも、また、兼忠の下駄は』、一『斗余り入る味噌桶の台ほどの大きさだったとも伝わる』。『ある雨の日、兼忠が足駄を履いて傘を右手に持ち、左の手の平に大石を乗せて、急な七曲がりの坂を苦もなく登って横手城』『へ登城する姿が、人々を驚かせたという。現在横手公園の一部となっている横手城本丸跡(秋田神社境内)には「大力無双妹尾兼忠」と刻まれた石碑と、彼が片手で運んだとされる大きな石が残っている』。ところが、『ある日、兼忠が横手川の関門の大扉をもってみなぎり落ちてくる水をささえ、押し戻してその力を誇示していた。このありさまを川岸で見ていた』一『人の老翁が笑いながら「上流をささえるより、下流を押し戻してみよ」と言ったので、兼忠「戻すに何の難しいことがあろうか」と扉を開いて下流に押し戻そうとしたが』、『満水に』一『町ほど流され、これではどうかと思ったとき、大水が渦を巻いたので』、『岸へかけ上がった。老翁すでにそこにはおらず、それ以来、兼忠の力は弱まったという』。『与謝蕪村が』、宝暦四(一七五四)年の「妖怪絵巻」の『なかで「蛇の崎』(じゃのさき)『が橋 うぶめの化物」として描いている』(同ウィキの当該画像はこちら。注に『横手城下町の内町(武家町)と大町、四日町などの外町(町人町)とを分ける横手川にかかる橋。送り盆祭りでも有名。菅江真澄の』「雪の出羽路」に『「蛇の崎」の名の由来が掲載されている。それによれば、大蛇と河童がこの渕で争い、なかなか勝負が着かなかったが、河童が別の渕に移ってヨロヨロとなった大蛇が渕の主になったという説話』に基づくという。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))『それによれば、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物。関口五郎太夫、雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」と説明をつけている』。『産女(うぶめ)が大力を授けるこの物語は「うぶめの礼物」型に属している。産女は、上述のように、城の山中の氏神だと名乗っている』。以下、注に彼は『佐竹氏家臣』で『兼貞とも。佐竹氏の久保田転封により須田美濃守(須田盛秀)とともに常陸国より従って来た茂木百騎の一人。秋田領横手城下の本町に居を構えたと伝わる』とあり、また、『妹尾五郎兵衛兼忠が大力を授かった話は、広く知られ、幕末から明治にかけて著名であった講談師桃川如燕は、これを粉飾して寄席の高座で「溝口半之丞」(「幽霊半之丞」とも)の題名で口演した』。※※※小泉八雲も本篇「梅津忠兵衛の話」として、この話を語っている。また、『柳田國男も』「日本の昔話」(初版は昭和五(一九三〇)年アルス「日本児童文庫」十一の「日本昔話集(上)」として刊行)に『「妹尾五郎兵衛」の伝承を記録している』(題名は「力士と産女」。第二段落総てが本話と同じ内容である)とあるから、この妹尾兼忠で間違いない

「戶村十太夫」江戸前期の武将で出羽国久保田藩(秋田藩)士の重臣に、通称を戸村家代々の当主の通称である十太夫を名乗る戸村義国(天正一九(一五九一)年~寛文一〇(一六七一)年)がいる。ウィキの「戸村義国」によれば、『戸村家は藤原秀郷の末裔とされる戸村能通(よしみち)により創始された家系であるが、南北朝時代に入って、南朝方に属した』六『代目の戸村又五郎(実名不詳』『)が宗家の那珂通辰』(なかみちとき)『と共に北朝方の佐竹貞義と戦って自刃し』、『一時』、『断絶した。その後、佐竹義人の三男・大掾満幹』(だいじょうみつとも:水戸城主)『との養子縁組を解消した佐竹義倭(よしやす/よしまさ)が前戸村氏の居城であった常陸国戸村城を再建したことにより、その姓を称して佐竹氏の一族とな』った。父の『義和は文禄の役の際に朝鮮高麗熊川にて病死した(一書には船中とも)。義国は父の顔を知らずに成長する。常陸戸村城より』、慶長七(一六〇二)年に『宗家・佐竹義宣が出羽久保田藩への国替えとなり、これに従い出羽に入』った。慶長10年から慶長十二年に『かけて用水路を完成させた(戸村堰)。主君・義宣と大坂冬の陣に従軍する。今福の戦いにおいて、佐竹軍は苦戦に陥り、刀鍔に銃弾を受けるが』、『怯まずに奮戦し、大坂方の将矢野正倫を討ち取った。その功で』第二『代将軍・徳川秀忠より』、『感状と刀「青江次直」を拝領する。その後、第二代『藩主・佐竹義隆の執政を務め』、寛永八(一六三一)年に『角館の代官として赴く』。寛文九(一六六九)年に『久保田藩が松前藩からの』「シャクシャインの乱」の『鎮圧応援要請を受けて派遣軍が編成されるが、義国は派遣軍の軍将となる。ただし、派遣前に乱が平定されたので派遣は中止となっ』ている。『長男の義宗に先立たれたため、その嫡男(義国の孫)義連が跡を継ぎ』、寛文一二(一六七三)年に横手城代となっている、とある。従って、彼以前の戸村義倭(よしやす/よしまさ)佐竹義人の三男)・義易(義倭の兄・佐竹義俊の五男)・義廣・義知・義和・忠義・義国と、それ以後の久保田藩士の宗家戸村十太夫家で横手城代を務めた、戸村義宗・義連・義輔(義寛)・義見・義孚・義敬・義道(義通)・義效もその候補となる。いや、寧ろ、最後に掲げる原拠では『仙北郡(ごほり)橫手宿の地頭』とある(「地頭」は江戸期にあっては、旗本や御家人といった大名に至らない小領主(概ね一万石未満)のことを意味する語としてあった)から、寧ろ、この義国よりも後の義連以降(義宗は父より早世したので彼ではない可能性が高い)の人物であると考えた方が事蹟には合うように思われるのだが(嘉連は寛文一二(一六七二)年に橫手城に入城しており、それ以降、代々「十太夫」を称した戸村氏の宗家(戸村十太夫家)が明治まで務めてもいる。しかし乍ら、前の注のモデルである伝説上の人物妹尾兼忠の記載には、彼が元和八(一六二二)年の「大眼宗一揆」で活躍したとあるからには、やはり、これは戸村義国と考えるべきかと思う(元和八年当時の義国は満三十一歳。但し、彼自身は横手城主ではない。ただ、この話の主人公は伝説上の人物だから、その辺を問題にしても実際には意味はないと思われる)。橫手城はここなお、元和六(一六二〇)年の「一国一城令」によって久保田藩領でも支城が破却されたが、横手城を重要な拠点と考えた初代藩主佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れている。

 忠兵衞は城門の夜番[やぶちゃん注:「やばん」。宿直(とのい)。]に選ばれた一人であつた。夜番には二通りあつた、――第一のは夕方に始まつて夜中に終り、第二のは夜中に始まつてあけ方に終るのであつた。

 或時、忠兵衞が第二の夜番に當つて居る時、不思議な事件に遇つた。眞夜中に夜番の務めにつかうとして山を上つて居る間に、彼は城の方へ行く曲つた道の最後の曲り角に一人の女が立つて居るのを見た。彼女は一人の子供を抱いてゐて、誰か人を待ち合せて居るやうであつた。そんな時刻に、そんな淋しい場所に女の居る事は、最も特別な事情でもなければ、說明のできない事であつた、そして忠兵衞は化け物は暮れてから人をだまして殺すために女の姿になる事を思ひ合せた。それで彼は目の前の女と見える物も本當に女であるかどうかを疑つた、それで彼女が彼の方へ話しかけるやうに急いで來たのを見て、彼は一言も云はないでやりすごしとした。しかし、女が彼の名を呼んで、甚だやさしい聲で、つぎのやうに云つた時に、彼は餘り驚いてさうはできなかつた、――『梅津殿、私は今夜大層困つてゐます、そしてせねばならぬ難儀な務めがあります、どうかほんの暫らくこの子供をもつてゐて下さいませんか』そして女は子供を彼にさし出した。

 忠兵衞はこの大層若さうに見える女を知らなかつた、彼はその魅力のある知らない聲を怪しんだ、超自然的誘惑を怪しんだ、何でも怪しんで見た、――しかし彼は元來深切であつた、そして化け物を恐れて、深切なる行爲を控えるのは卑怯だと思つた。返事もしないで子供を受取つた。『歸つて來るまでもつてゐて下さい』女が云つた、『すぐ歸ります』『もつてゐませう』彼は答へた、それから直ちに女は彼からふり向いて、彼が殆ど自分の眼を疑つた程、輕く、早く音もさせずにその道を離れて、飛ぶやうに山を下つて行つた。忽ちのうちに彼女は見えなくなつた。

[やぶちゃん注:「直ちに女は彼からふり向いて、」原文は“immediately the woman turned from him,”で、「直ぐに彼女は彼から離れ」或いは「直ちに彼女は彼に背を向けて」が至当である。]

 忠兵衞はその時始めて子供を見た。餘り小さくて、生れたばかりのやうに見えた。抱かれらまま甚だ靜かにしてゐた、少しも泣かなかつた。

 不意にそれが大きくなるやうに思はれた。彼は再びそれを見た。……否、それはやはり小さい物であつた。そして動きもしなかつた。何故大きくなつたと思つたのであらう。

 そのつぎにその理由が分つた、――そして彼は全身ぞつとするのを覺えた。子供は大きくなるのではなかつた、それは重くなるのであつた[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は前の「、」から「のであつ」まで打たれているが、誤植と断じ、かく補正した。]。……始めのうちそれはただ七八百目のやうであつたが、つぎにその重さが次第に二倍になり――三倍になり――四倍になつた。もう五貫目より輕い事はないと思はれて來た、――そしてやはりそれが重さを加へて行つた。……十貫[やぶちゃん注:一貫は三・七五キログラムであるから、五十六・二五キログラム。以下の経過部は注しない。]、――十五貫、――二十貫。……忠兵衞はだまされた事を知つた、――彼は人間と話したのではない事、――その子供は人間でない事を知つた。しかし約束は約束だ、武士たる者は約束は守らねばならない。そこで彼は子供を抱いてゐた、子供は刻々重くなつた、……三十貫――四十貫――五十貫。……どうなつて行くのか見當がつかなかつた、しかし彼は恐れない事、力の續く限り子供ははなさない事を決心した。……六十貫、――七十貫、――八十貫[やぶちゃん注:ぴったり三百キログラム。]。彼の筋肉は緊張の餘り震へ始めた、それでも重さが增して行つた。……『南無阿彌陀佛』彼は呻いた――「南無阿彌陀佛、――南無阿彌陀佛』彼がこの唱名を三度目に唱へた時、その重さは一時に消えた、そして彼は空手でぼんやり立つてゐた、――卽ち子供は不思議にも消えたのであつた。しかし殆ど同時に、その不可思議な女が、行つた時のやうに、又早く歸つて來るのを見た。やはり息をきらしながら、彼女は彼のところへ來た、その時始めて彼は彼女が甚だ美しい事を見た、――しかし彼女の額に汗が流れてゐた、そして彼女の袖には、今まで働いてゐたやうに、たすきがかかつてゐた。

 『梅津殿』彼女は云つた、『甚だ大きなお蔭に預かつた。私はここの氏神だが、今夜氏子の一人がお產をするので、私に助けを祈つた。しかしその骨折は中々であつた、私一人の力では、その氏子を助ける事ができない事が分つた、――それでお前の力量と勇氣を見込んで賴んだわけだ。そしてお前の手に置いたのは未だ生れ出ない子供であつた、それから始めて子供が段々重くなつて行くのを覺えた時分は、產門が閉ぢてゐたので大層危い時であつた。子供が餘り重くなつて、もうこれ以上その重さにたえられないと絕望した時、――丁度その時、母が死んだやうで、一族の者皆泣いたのであつた。その一時「南無阿彌陀佛」の唱名を三度お前が唱へてくれた、――そして三度目に、佛の力が助けとなつたので、產門が開いた。……それでお前のしてくれた恩は、適當に應じたい。勇氣のある武士に取つては力量より有用な物はあるまい、それ故お前ばかりでなく、お前の子供にも、子供の子供にも、大力量を授ける事にする』

 それから、この約束をして氏神は消えた。

[やぶちゃん注:「母が死んだやうで、」思うに、後掲する原拠では妊婦は死んだようには読めない。この原文を見ると、“the mother seemed to be dead,”で、これは寧ろ、「その母(妊婦)は死んだように見受けられて」或いは「死に瀕しているように見え」であって、実は妊婦である母も助かったと私には読める。恒文社版の平井呈一氏の訳も、『産婦の一命あわや絶えなんとして、』であり、講談社学術文庫の池田美代子氏の訳でも、『母親は死に瀕し、』である。田部氏も実は「母が死んだやうに見えて、」の謂いで訳したものではないか。小泉八雲の母ローザの喪失の心傷体験から考えても、敢えてここで彼が、原拠を変えて、その母を死んだとする可能性は、私は百%ないと考えている。

 

 梅津忠兵衞は非常に不思議に思ひながら、城の方へ進んだ。勤務を終つて、朝の祈りをする前に、いつものやうに顏と手を洗ひにかかつた。使つてゐた手拭をしぽらうとすると、その强い物が二つにきれたので驚いた。そのきれたのを重ねて、しぼつて見た、丁度ぬれ紙のやうに――又それがきれた。彼は四枚重ねてしぼつて見たが、結果は同じであつた。やがて、唐金[やぶちゃん注:「からかね」。青銅。]や鐡の色々の物を扱つて見ると、粘土のやうに彼の思ふ通りになる事を見て、彼は約束の通り大力を充分に授けられた事、それから物に觸れる時注意しないと手の中でつぶれる事をさとつた。

 うちに歸つてから、その夜その土地で出產があつたかどうか尋ねて見た。そして彼は丁度その事件のあつた時刻に出產のあつた事、それからその事情は氏神から聞いた通りであつた事を知つた。

 

 梅津忠兵衞の子供等は父の大力を相續した。彼の子孫の多くは――皆著しく强い人々だが――今この話の書かれた時、出羽の國に未だ住してゐた。

 

[やぶちゃん注:原拠は長岡乗薫(じょうくん)編の「通俗佛敎百科全書」(明治二四(一八九一)年仏教書院編刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で読める)の上巻の「第百八十二 神(うぶがみ)の事」である。以下の電子化では同国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。本文はここからである。原拠は読みは総ルビであるが、必要と思われる箇所のみに附した。ベタ文なので、句読点や記号を施し、段落も成形して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、一部、画像が擦れて見えない部分があったが、それは一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の同原拠を参考に補った。

   *

第百八十二  ○產紳の事

 出羽の國仙北郡(せんほくごほり)橫手宿(よこてしゆく)の地頭戶村十太夫といへるは、佐竹侯の一門なり。其居住は山の上にて、家中は山の下にあり。

 その家敷に、梅津忠兵衞とて、武勇の人、あり。

 馬まわりの役用にて半夜替(はにゃがは)りに出勤せらるゝに山をのぼり、道すじ「七曲」といふところにて、あやしげなる女にゆきあひける。夜九ツ[やぶちゃん注:定時法・不定時法ともに午前零時。]のかねもなりて、丑みつころともなる折から、女一人(いちにん)、山中(さんちう)をすぐること、つねの人間にはあらず、身をかまえて行(ゆき)ちがはんとするとき、女より梅津氏にいひけるは、

「我、今夜(こよひ)は此(この)ことにつきては、はなはだ辛勞(しんらう)することあり。君の助(たすけ)をたのまんと、今この處にきたりしなり。これを、しばらく、あづかりてたまはれ。」

と、いふ。

 差(さし)いだす物を見れば、いまだ產髮(うぶがみ)もそらざる、生れしまゝの赤子なり。梅津は、まことにあやしみながら、『おくれをとらじ』と、承知して、その子をいだきとりければ、女はよろこび、きゆるがごとく飛行(とびゆ)ける。

 梅津忠兵衞は、子をいだきての出勤もなりがたければ、暫時、たゝずむその間に、今の赤子の重き事、五貫、十貫、十五貫、貳拾貫目、三拾貫、金(かね)とも、石とも、たとへがたくなりけるゆゑ、武勇にたけき忠兵衞も、いふべくもなき奇怪なれば、われをわすれて、おもはずも、

「南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。」

と、念佛稱(となふ)るそのこゑの、いまだおわるやおわらぬに、重き赤子の、かたちもなく、夢(ゆめ)ごゝろなりける時、かの女、汗をながし、たすきをかけて、はたらきしと見えけるほどの顏色にて、梅津に對して、いひけるは、

「我は、これ、この山中の氏神なり。今夜(こよひ)、この山中の氏子の内に產をするものありけるに、難產としれたるゆゑ、『我(わが)ちからにはかなはじ』と思ふ子細のありけるゆゑ、君をたのみてあづけしは、まだ、うまれざる胎内の一子なり。次第次第に重(おもり)しは、產門、とじて、生(うまれ)かね、親子、ともに、今こそは命(いのち)のかぎり、家内中(かないぢう)、聲をあげたる其時なり、君、はからずも、念佛を稱へたまひし、その聲を、わが神力(じんりき)の助(たすけ)として、難なく、やすやす產しめたり。思ふ子細のありしとは、君は武門のことなれども、念佛申す人なれば、今夜(こよひ)の助力(じよりき)をたのみしなり。この恩、報じかへさんため、武勇の用の第一は力こそ爲(ため)なるべき力をあたへ、子孫、まづ、そのしるしを、のこさん。」

と、いひつゝ、神女は、うせにけり。

 それより、梅津、出勤して、遲刻ながらも半夜を替(かはり)、翌朝(よくてう)は面(かほ)を洗(あらひ)口そゝぎ、手拭をしぼるに、はからずも、手拭、きれて、二つとなる。又、折(をり)かさねてしぼりけるに、同(おなじ)くきれて、四つとなる。その時、昨夜の「七曲」の山中にて力をもらひしことをしり、神託、まさにあらたなることを、おそれみ、おそれみ、かの山中の民家にいたり、

「昨夜、產せしものやある。」

と、家々をたづぬるに、難產せしものありて、始末をかたる事、すこしも、たがはず。次第次第におもりしも、あやうかりし、その時に、たちまち、安產せしことも符合しける。

 それより、代々、力量の人にすぐるゝこと、奇談といふべし。

 勢州三重郡(みうゑごほり)川北村の醫師吉田玄格老は、若年の時、醫學修行のために諸國をめぐり、佛神(ぶちじん)の靈驗あることを、ことさらにたづねきゝて、道の記をのこされたり。しかも、この梅津の事は、その神女にあひし忠兵衞より、三代目の梅津氏と、ことさらに入魂(じゆこん)[やぶちゃん注:「昵懇」(じっこん)に同じい。]にて、まのあたり、書(かき)つけて、大坂高庵(かうあん)へ來りての物語なり。

[やぶちゃん注:「吉田玄格」不詳。よく似た名前では、林羅山の知人で、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)の長男で、江戸初期の土木事業家・儒者・書家・貿易商でもあった角倉素庵(元亀二(一五七一)年~寛永九(一六三二)年)がいる。本姓は吉田、彼の名は与一で、諱は玄之(後に貞順と改めた。素庵は号)。本阿弥光悦に書を学び、角倉流を創始して近世の能書家五人の一人に挙げられる人物であるが、事蹟から彼ではない

「大坂高庵」不詳。地名? 宿? 人名?]

 玄格は篤實なる儒醫にて、浮說(ふせつ)はかたらざる人なるがゆゑに、この事緣(じゑん)を筆(ひつ)せしなり。

 同じく此人のいへるに、奧州八崎(やつさき)のあたりは、人の家に死人あれば、早速に御禮參とて、氏神へゆきて、その神職をたのみ、『今日何の誰何十何歲にて何の時に死去仕候』とて、出產の時より、一生、氏子となし給ひて、あはれみましましたる御禮(おんれい)をのべけるとぞ。これも玄格の道の記にしるして、もちかへられたることなり。もつともなることなり。八ツ崎は三春といふところより、八里程、東にて、佛法も繁昌にて、津島の牛頭天王(ごづてんわう)をも尊敬して、札配(ふだくばり)も、多く、くだれるよし。此地は、いかなるゆゑにや、產婦は多(おほく)、墮胎して、子の育(そだち)かねるところなるゆゑ、秋田城の用達(ようだつ)坪井幸右衞門方(かた)には、子息七人、育(そだち)たるとて、城主より褒美したまへりとぞ。

[やぶちゃん注:「奧州八崎」以下、「三春」の「東」方約三十一キロメートルとあるが、「八崎」は福島県の統計資料編(PDF)を見るに、福島県いわき市小名浜市泉町内に存在することになっている(地図では「八崎」は確認出来ないが、沿岸地区である)。但し、ここは三春からは東南に倍の六十キロメートルほど離れている。違うか。

「津島の牛頭天王(ごづてんわう)」牛頭天王は本邦の神仏習合神の一つ。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに、素戔嗚命の本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山、愛知県津島市の津島神社(総本社とされる)に祀られ、祇園信仰の神(祇園神)ともされて全国の祇園社・天王社で祀られた。また、陰陽道では天道神と同一視された(以上はウィキの「牛頭天王」に拠った)。こちらのサイトの牛頭天王ページの一番下で、その紙札が見られる。

「秋田城」これは三春城の別称ではないかと思われる。江戸前期の大名秋田家第三代当主秋田俊季は、始め、常陸宍戸藩主であったが正保二(一六四五)年に陸奥三春に移封されているからである。

「用達」御用商人。

「坪井幸右衞門」不詳。]

 京の祇園町(ぎおんまち)にある疫伏社(やくぶせやしろ)といふは、淨藏貴所(じやうざうきしよ)の神靈(しんれい)にて、諸人、これをまつりて、「有卦(うけ)の宮」と稱し、その淨藏は八坂の塔の戌亥(いぬゐ)[やぶちゃん注:北西。]の方へかたぶきよるを、行德(ぎやうとく)にていのり、をこしたる、智人なり。

[やぶちゃん注:「疫伏社」「拾遺都名所図会」の巻之二の「左青龍首」に、「疫伏社(やくふせのやしろ)」として、『祇園西門の外、北の町にあり』。『疫神(やくじん)、諺(ことわざ)に曰はく「淨藏貴所を祭るなり」とぞ。又、云ふ所は、「文覺法師、行齋(ぎやうさい)して平家を咒咀(じゆそ)せい地なり」といふ』とある。また、「花洛名勝」の「東山之部  二」には、『祇園西楼門の外、北の町西側にあり。傳云(つたへていふ)、「祈願する時は、疫(えき)の病(やまい)を免(まぬか)るといふ。ゆゑに、疫鬼(えきき)降伏(かうふく)の神なりとぞ。一名「うけの宮」と号し、有卦(うけ)』(占い)『に入る人、多く參詣す。其故をしらず』とある(以上は「日文研」のデータベースのこちらの画像データを視認した。句読点と濁点を補ってある)。現在の八坂神社西楼門はここだが、それらしいものは見当たらぬ。

「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。単に浄蔵ともいう。公卿で優れた漢学者であった三善清行の子。一説に、母は嵯峨天皇の孫で、天人が懐中に入る夢を見て身ごもったという。四歳で「千字文」を読み、七歳で父を説得させ、仏門に帰し、熊野・金峯山などの霊山を遍歴して苦行を積んだ。延喜二(九〇二)年、十二歳の時、宇多法皇に謁見し、弟子となった。清涼房玄昭のもとで受戒し、三部大宝などを受け、大恵大法師に就いて、悉曇(しったん)の音韻を習得した。十九歳で比叡山横川(よかわ)に籠り、毎日、法華六部誦経、毎夜、六千反礼拝を行ったという。加持の名手として国家的祈禱から、貴人の病気治療まで、かなりの験徳を発揮したようで、入京した平将門を調伏したとか、死んだ父清行を蘇生させたとかいう、霊験譚が多い。その他、天文・医学・卜筮・管弦・文章などにも才能を発揮したという。また、阿弥陀仏の引接を期して念仏三昧を修し、七十四歳で東山の雲居寺に入滅したと際には、西向きに正念していたとして「往生伝」にも載せられてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「八坂の塔」八坂神社と清水寺の中間に位置する霊応山法観禅寺(現在は臨済宗)の五重塔の通称。伝承ではこの塔は崇峻天皇五(五九二)年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされる。]

「塔のかたぶきたるは、疫厲(ゑきれい)流行の兆(きざし)なり。」

とて、延喜(ゑんぎ)の帝より勅命ありて、淨藏、これをうけたまわりて、牛頭天王に禱誓(きせい)[やぶちゃん注:漢字はママ。]ありしこと、諸傳に見えたり。

[やぶちゃん注:「延喜(ゑんぎ)の帝」醍醐天皇(在位:寛平九(八九七)年~延長八(九三〇)年)。「延喜」はその間の九〇一年から九二三年まで。]

 その淨歲の若かりし時、囘國して出雲の國にいたり、社頭にこもりたまへるに、十月のはじめ、神あつまりの折からにて、日本國中の男女(なんによ)に夫婦(ふうふ)の緣を結びたまへるを、耳かたぶけて聞(きあ)るゝに、氏子、氏子の名をよびて、

「誰(たれ)がむすこには、誰がむすめのさだまる。」

など、みな、神のこゝろなりけるに、

「平(たいら)の中興(なかおき)が娘は、淨藏が妻よ。」

と、むすびたまへるより、淨藏貴所は、あさましく、けがらはしくおもひて、

「我、出家の大願ありて修行の本意(ほんゐ)を達せんと欲するに、何とて、妻のあらんや。」

と、つぶやきながら、下向して都にかへり、宮中にて修法(しゆほふ)の時、八歲ばかりの小女(せうぢよ)、茶をはこびて、淨藏にしたしみ、茶の、のみさしをのみけること、こゝろありげに見えけるより、出雲のことをおもひいだし、

『これこそ、かの中興が娘ならん。修行のさまたげ、魔事(まじ)なり。』

とおもひ、小女(せうぢよ)をとらへて、懷中の細刀(こがたな)にて、さしころし、内裏をにげいで、二十餘年、都にかへらず。

 しかれども、いまだ父母のましますゆゑに、恩愛にひかれて、都に入(いり)、つゐに妻帶の身となれるに、子息二人、出生(しゆつしやう)せり。しかるに、その妻なる人の、乳(ちゝ)の下に疵(きづ)あるを、

「何の跡ぞ。」

と、たづぬれば、

「われ、をさなき時、修行者のさしころしたる、あとなりけり。その修行者は、にげさりて、ゆきがたしれず。われは、ふしぎに、いきかへり、今に、ながらへ居るなり。」

と、いへるをきゝて、

「さては。そのとき、さしころせしは我なるに、今は夫婦となることの、神のむすびし緣は、これ、はじめて來(きた)ること、ならず。」

と、八坂の塔をいのるにも、二人の子息を膝へのせ、行力(ぎやうりき)の、をとろへざるを、ためされしとぞ。しかれば、しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき。

   *

 八雲は後半の浄蔵の話をカットしている。この後半の話は、ただ話者が前者とお同じで、最後の「しぬるも、いきるをも、神わざならぬことぞなき」という説経(神仏習合時代であるから「神わざ」でよい)という点で共通するだけの奇譚であるから、当然のことである。]

2019/10/10

小泉八雲 果心居士  (田部隆次訳)


[やぶちゃん注:本篇(原題“The story of Kwashin Koji”。「果心居士の話」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の「奇談」の第四話に置かれたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 ウィキの「果心居士」によれば、果心居士(生没年不詳)は『室町時代末期に登場した幻術師。七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。『安土桃山時代末期のものとされる愚軒による雑話集『義残後覚』には、筑後の生まれとある。大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆『古老茶話』によると』、慶長一七(一六一二)年七月に、『因心居士というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八『歳と答えた』とあり、『また』、天正一二(一五八四)年六月に、『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とある。以下、彼の幻術エピソードも続くが、本篇のネタバレになるので、後で読まれた方がよろしいかと存ずるので、引用しない。

 なお、私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』を電子化注しており、柴田氏の詳細な紹介(小泉八雲の本篇にも触れてある)が面白いので、是非、本篇読後に参照されたいが、実はその注で私は本作の原拠である、近代最後の正統的漢学者の一人で画もよくした石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」を電子化している。但し、それは国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して訓読したもので、今回は、小泉八雲旧蔵本を視認してゼロから作り直したものを最後に配した。

 

 

  果 心 居 士

 

 天正年間[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日(天正十年九月十二日相当)から施行された。]、京都の北の方の町に、果心居士と云ふ老人がゐた。長い白い鬚をはやして、いつも神官のやうな服裝をしてゐたが、實は佛書を見せて佛敎を說いて生活を營んでゐたのであつた。晴天の日にはいつも祇園の祠の境内で、木に大きな掛物をかけるのが習慣であつた、それは地獄變相の圖であつた。この掛物はそれに描いてある物が悉く眞に迫つて巧妙にできてゐた。そして老人はそれを見に集まつて居る人々に見せて、携へてゐた如意をもつて色々の責苦を詳しく說き示し、凡ての人に佛の敎に從ふやうに勸めて、因果應報の理を說いてゐた。その繪を見て、それについて老人の說敎するのを聞くために、人が群をなして集まつた、そして喜捨を受けるためにその前に敷いてあるむしろは、そこへ投げられた貨幣の山で、表面が見えない程であつた。

 その當時、織田信長が畿内を治めてゐた。彼の侍臣荒川某、祇園の祠へ參詣の途中、偶然そこでその掛物を見て、あとで殿中に歸つてその話をした。信長は荒川の話を聞いて興味を感じ、直ちに果心居士に幅を携へて參上するやうに命じた。

 掛物を見た時、信長はその繪のあざやかさに驚いた事を隱す事はできなかつた、鬼卒及び罪人は實際彼の眼前に動くやうであつた、そして彼は繪の中から叫號の聲を聞いた、そしてそこに猫いてある鮮血は實際流れて居るやうであつた、――それで彼は、その繪が濡れて居るのではないかと指を觸れて見ないわけに行かなかつた。しかし指は汚れなかつた、――卽ち紙は全く乾いて居るからであつた。益々驚いて信長はこの不思議な繪の筆者を尋ねた。果心居士はそれに對して、それは名高い小栗宗丹が、――靈威を得んがために淸水の觀世音に熱心に祈り、百日の間每日齋戒を行つたあとで、――描いた事を答へた。

[やぶちゃん注:「荒川某」後に弟で「荒川武一」も出るが、不詳。織田信長家臣では馬廻衆の荒川頼季(~天正二(一五七四)年:「伊勢長島一向一揆征伐」に参陣して討死)や荒川与十郎等がいる。

「小栗宗丹」小栗宗湛(そうたん 応永二〇(一四一三)年~文明一三(一四八一)年)は室町中期の画僧。「宗丹」とも書く。字は小二郎又は小三郎。「自牧」と号した。小栗満重の子。ウィキの「宗湛」によれば、『鎌倉府(鎌倉公方)の管轄国内の武士でありながら』、『室町幕府の征夷大将軍と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆の一つである常陸小栗氏の出身であり、初めは小栗 助重(おぐり すけしげ)という名(俗名)の武将であった。この頃の常陸小栗氏は』、応永三〇(一四二三)年)に『小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対し』、『反乱(小栗満重の乱)を起こして没落していた。その持氏が永享の乱を起こして自害すると、結城氏朝がその遺児(足利春王丸・足利安王丸)を擁して挙兵するが(結城合戦)、満重の子または弟(前者が有力)である助重がこの戦いで武功を立てたことにより、旧領への復帰を許され、家督を継承。しかし』、後の康正元(一四五五)年に『享徳の乱の最中』、『持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘(現在の茨城県筑西市)を失ってしまい、まもなく出家し』、『宗湛入道と号』した。『出家した宗湛は相国寺に入り、同寺で画僧周文に水墨画を学んだ』、寛正三(一四六二)年、『京都相国寺松泉軒の襖絵を描いて室町幕府』第八『代将軍足利義政に認められ、翌』年に『周文の跡を継いで』、『足利将軍家の御用絵師となった。その後、中央漢画界の権威として高倉御所・雲沢軒・石山寺などで襖絵を作成している』。文明五(一四七三)年『頃までの作画の記録は残っているが、宗湛作の遺品は発見されておらず、宗湛の書き残したものを』、『子の宗継が完成させた旧大徳寺養徳院の襖絵である「芦雁図」六面の内二面のみである。周文が高遠山水を得意としたのに対し、伝宗湛作品は平遠山水を特色としている』とある。]

 

 その掛物をたしかに信長が所望して居る事を見て、荒川はその時果心居士にその幅を信長公に獻上してはどうかと尋ねた、しかし老人は大膽に答へた、――『この繪は私のもつて居る唯一の寶で、それを人に見せて少し金を儲ける事ができるのです。今この繪を信長公に獻上すれば、私の生計の唯一の方法がなくなります。しかし、信任公が是非お望みとあれば、黃金壹百兩を頂きたい。それだけのお金で、私は何か利益のある商賣でも始めませう。さうでないと、繪はさし上げられません』

 信長はこの答を聞いて、喜ばないやうであつた、そして默つてゐた。荒川はやがて何か公の耳にささやいたが、公は承諾したやうにうなづいた、それから果心居士は少しのお金を賜はつて、御前から引き下がつた。

 

 しかし、老人が屋敷を離れると、荒川はひそかに跡を追つた、――奸計をもつてその繪を奪ひ取るべき機會を得ようとしたのであつた。その機會は來た、果心居士は郊外の山の方へ直ちに通ずる途に偶然さしかかつたからであつた。彼が山の麓の或淋しい場所に達した時、彼は荒川に捕へられた。荒川は彼に云つた、――『その幅に對して黃金百兩を貪るのは何と云ふ慾張りだらう。黃金百兩の代りに、三尺の鐡の一片をやる』それから荒川は劔を拔いて老人を殺して、幅を奪つた。

 

 翌日荒川は掛物を――果心居士が信長の邸を退出する前に包んだ通りに包んだままで、信長に獻上した、信長は直ちにそれを展いて掛ける事を命じた。しかし展いて見ると、信長も彼の侍も二人とも、繪は全く無い、ただ白紙だけである事を見て驚くばかりであつた。荒川はどうして、もとの繪が消え失せたか說明ができなかつた、そして彼は――知つてか或は知らないでか――主人を欺いた事について罪があるので、處罸されるときまつた。それで彼は長い間閉門蟄居を命ぜられた。

 

 荒川の閉門の時期が終るか終らないうちに、果心居士が北野の祠の境内にその名高い繪を見せて居ると云ふ通知があつた。荒川は殆んどその耳を信ずる事ができなかつた。しかしその通知を得て、彼の心にどうにかしてその掛物を奪つて、それで先頃の失策を償ふ事ができさうな望みが湧いて來た。そこで彼は急いで從者の幾人かを集めて、寺に急いだ、しかし彼がそこに達した時に、彼は果心居士が去つてしまつたと云はれた。

 幾日か後に、果心居士がその繪を淸水堂で見せて、大きな群集に對して、それについて說敎して居る事が知れて來た。荒川は大急ぎで淸水へ行つた、しかし、そこに着いた時、群集は丁度散つて居るところであつた、――卽ち果心居士は再び消えて、ゐなかつたのであつた。

 たうとう或日の事、荒川は思ひがけなく或酒店で果心居士を認めてそこで彼を捕へた。老人は自分の捕へられたのを見て、機嫌よくただ笑ふだけであつた、そして云つた、――『一緖に行つて上げるが、少し酒を飮むまでお待ちなさい』この要求には、荒川は異存はなかつた、そこで果心居士は十二の大盃を飮みつくして、觀て居る人々を驚かした。十二盃目を飮んでから少し滿足したと云つた、それから荒川は命じて彼を繩でしばつて信長の邸へ連れて行つた。

 邸の取調所で、果心居士は、直ちに奉行の取調を受けた、そして嚴しく責められた。最後に奉行は彼に云つた、――『お前は魔術で人を欺いてゐた事はたしかだ、その犯罪だけで、あ前はひどい罸を受ける資格がある。しかしもしお前がその繪を信長公に恭しく獻上すれば、今度はお前の罪は大目に見てやる。さもなければ、甚だ重い罸を必ず課する事にする』

 このおどかしを聞いて果心居士は困つたやうな笑方をした、――『人を欺くやうな罪を犯したのは私ではない』それから、荒川に向つて、彼は叫んだ、――『お前こそうそつきだ。お前は繪さし上げて信長公に諂はうとした[やぶちゃん注:「へつらはうとした」。]、そしてそれを盜むために私を殺さうとした。罪と云つたら、これ程の罪はどこにあるか。幸にして、お前は私を殺す事はできなかつた、しかし、お前の望み通りにできたらその行に對してどんな辯解ができるか。とにかく、繪を盜んだのはお前だ。私のもつて居る繪はただの寫しだ。お前が繪を盜んでから、信長公に獻上する事がいやになつたので、その祕密の行や心をかくすために、その罪を私に着せて、私が本物の繪を白紙の掛物と取替へたと云つて居るのだ。どこに本物の繪があるか私は知らない。多分お前は知つて居るのだらう』

 かう云はれて、荒川は怒りの餘り、驅け寄つて、果心居士を打たうとしたが、番人等に遮ぎられて果せなかつた。しかしこの不意の怒りの破裂は、奉行に荒川が全く無罪ではあるまいと思はせる事になつた。暫らく、果心居士を獄に下してから、奉行は荒川を嚴しく調べにかかつた。ところで荒川は元來訥辯であつたが、この場合、殊に興奮の餘り、殆ど云ふ事ができないで、吃つたり、撞着[やぶちゃん注:「どうちやく」。前後が相い矛盾すること。辻褄が合わないこと。]したりして、どうしても罪のありさうな形跡を表はした。そこで奉行は、荒川を打つて白狀させるやうに命じた。しかし事實の白狀らしい事も彼にはできさうになかつた。そこで彼は鞭で打たれて、感覺を失つて、死人のやうになつて倒れた。

 

 果心居士は獄にゐて、荒川の事を聞いて笑つた。しかし少ししてから、彼は獄吏に向つて云つた、――『あの荒川と云ふ奴(やつ)は全く姦邪[やぶちゃん注:「かんじや」。心が曲がっていて、よこしまなこと。]の振舞したので、私は態とこの罸を與へて、彼の惡い心根を懲らしてやらうとしたのだ。しかし、荒川は事實を知らないに相違ないから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明したいから、それで私はよく分るやうに一切の事を說明しますと今奉行に傳へてくれ給へ』

 それから果心居士は再び奉行の前に連れられて、つぎのやうな宣言をした、――『本當に優れた繪なら、どんな繪にも魂がある、そして、そんな繪には自分の意志があるから、自分に生命を與へてくれた人から、或は又正しい所有者から、離れる事を好まない事がある。眞の畫には魂がある事を證明するやうな話が澤山ある。昔、法眼元信が襖に描いた雀が何羽か飛んで行つて、そのあとが空になつた事はよく知られて居る。掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事もよく知られて居る。ところで、今の場合では、事實はかうだと私は信ずる、卽ち信長公は私の掛物の正當の所有者ではなかつたから、繪が信長公の面前で展かれた時、紙の上から自分で消えたのであらう。しかし、もし私が始めに云つた通りの價段、――卽ち黃金壹百兩、――をお出しになれば、その時は私の考では、繪はひとりで今白紙になつて居るところへ現れませう。とにかく、やつて見てはどうです。少しも危い事はない、――繪が現れなければ、金は直ちに返すまでの事だから』

[やぶちゃん注:「法眼元信」室町時代の絵師で狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男)で、狩野派二代目の狩野元信(かのうもとのぶ 文明八(一四七六)年~永禄二(一五五九)年)のこと。京都出身。大炊助、越前守、さらに法眼(ほうげん)に叙せられ、後世、「古法眼(こほうげん)」と通称された。父正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ、大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物(ウィキの「狩野元信」に拠った)。

「掛物に描いてある馬が每夜草を喰ひに出かけた事」掛物ではないが、よく知られた話では、九世紀後半の伝説的な名絵師巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳:宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んで、道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない)が仁和寺御室で壁画に馬を描いたが、夜な夜な、その馬が壁から抜け出て、田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。]

 こんな妙な斷言を聞いたので、信長は百兩を拂ふ事を命じて、その結果を見るために親しく臨席した。それから掛物は彼の前で展かれた、そして列席者一同の驚いら事には、その繪は、悉く詳細に現れたあ。しかし色が少しさめて、亡者と鬼卒の形が、前のやうに生きて居るやうでなかつた。この相違を見て、信長公は果心居士に向つて、その理由を說明するやうに求めた、そこで果心居士は答へた、――「飴めて御覽になつた繪の價値は、どんな價もつけられない繪の價値でした。しかし御覽になつて居る繪の價値は、正にお拂になつた物――卽ち黃金壹百兩――を表はして居ります。……外に仕方がございません』この答を聞いて列席の人々は、もうこれ以上この老人に反對する事は到底無效である事を感じた。彼は直ちに赦された、そして荒川も亦赦された、彼の受けた罸によつて彼の罪は十二分に償はれたからであつた。

 

 ところで、荒川に武一と云ふ弟がゐたが、――やはり信長の侍であつた。武一は荒川が打たれて獄に入れられたのを非常に怒つて、果心居士を殺さうと決心した。果心居士は再び放免されるや否や、酒屋へ行つて酒を命じた。武一はそのあとから店に入つて、彼を斬り倒し、首を切り落した。それから老人に拂はれた百兩を取つて、武一は首と金とを一緖に風呂敷に包んで、荒川に見せるために家に急いだ。しかし彼が包みを解いて見ると首と思つたのは空(から)の酒德利で、黃金は土塊[やぶちゃん注:「つちくれ」。]であつた。……それから間もなく、首のない體は酒屋から步き出して、――どこへだか、いつだか誰も知らないが、――消え失せた事を聞いて、この兄弟は益々驚くばかりであつた。

 

 一月ばかり後まで、果心居士の事は知られなかつた、その頃になつて、信長公の邸前で、遠雷のやうな大鼾[やぶちゃん注:「おほいびき」。]をして寢て居る一人の泥醉者があつた。一人の侍が、ぞの泥醉者卽ち果心居士である事を發見した。この無禮な犯罪のために、老人は直ちに捕へられて牢に入れられた。それでも眼をさまさない、そして牢で彼は十日十晩間斷なく眠り續けた、――その間たえずその高鼾が餘程遠くまで聞えた。

 

 この頃に、信長公は部下の一人である明智光秀の反逆のために死ぬやうになつたので、光秀がそれから政を取つた。しかし光秀の權力は十二日しか續かなかつた。

 ところで、光秀が京都の主人になつた時、彼は果心居士の事を聞いた、それから命じて、その囚人を彼の前に出させた。そこで果心居士は新しい君主の面前に呼ばれた、しかし光秀は彼に丁寧な言葉をかけて、賓客として待遇し、そして立派な饗應するやうに命じた[やぶちゃん注:ママ。「を」の脱字かも知れない。]。老人に御馳走をしてから、光秀は彼に云つた、――『聞くところによれば、先生は大層お酒が好きださうです、――一度にどれ程めし上がりますか』果心房士は答へた、――『量はよくは知らんが、酢へば止めます」そこで光秀公は果心居士の前に大盃を置いて、侍臣に命じて老人の飮めるだけ、幾度となく、酒を注がせた、そこで果心居士は、頂いて十度大盃を飮み干して、さらに求めたが、下來は酒が盡きた事を答へた。列席の人々で、この强酒ぶりに驚かない者はなかつた、そこで光秀公は果心居士に尋ねた、『先生、未だ不足ですか』 『はい、少し滿足しました』果心居士は答へた、――『ところで御親切の御返禮として、私の技(わざ)を少し御覽に入れませう。どうかその屛風を見てゐて下さい』彼は大きな八曲屛風を指した、それには近江八景が描いてあつた、そのうちの一つに、湖上遙かに舟を漕いで居る人があつた、――その舟は、屛風の表面では、長さ一寸にも足りなかつた。果心居士は舟の方へ手をあげて招いた、すると舟が突然向き直つて、繪の前面の方へ動き出すのが見えた。近づくに隨つて段々大きくなつた、そして船頭の顏つきが、はつきり認められるやうになつて來た。やはり段々近くなつて來た。――いつまでも大きくなつて、――たうとうそれが近くに見えて來た。それから突然、湖水が溢れて來るやうであつた、――繪から、部屋へ、――そして部屋は洪水になつた、そして水が膝の上まで達したので見物人は急いで着物をかかげた。同時に舟が、――本當の漁船が、――屛風の中から、滑り出すやうであつた、――そして一丁の艪の軋る音が聞えた。やはり部屋の中の洪水は增す一方であつたので、見物人は帶まで水に浸つて立つてゐた。それから舟は果心居士のところへ近づいて來た、そして果心居士はその舟に上つた、そこで船頭はふりかへつて、甚だ速かに漕ぎ去らうとした。それから舟が退いた時、部屋の水は急に低くなつて、――屛風の中へ退却するやうであつた。舟が繪の前面と思はれるところを通過するや否や、部屋は再び乾いた。しかし、やはり繪の中の舟は、繪の中の水の上を滑るやうであつた、――段々遠くへ退いて、段々小さくなつて行つて、たうとう最後に沖の中の一點となつて小さくなつた。それから、それは全く見えなくなつた、そして果心居士はそれと共に消えた。彼は再び日本には現れなかつた。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:)の漢文体の重厚な怪奇談集「夜窓鬼談」の下巻の第五話目の「果心居士 黃昏艸(くわうこんさう)」である。富山大学の「ヘルン文庫」の小泉八雲旧蔵本のそれを用いて、訓読文(原文は訓点附記の漢文。一部で推定で送り仮名を入れた)を以下に示す。一部の難読と判断されるものには私が推定で〔 〕で歴史的仮名遣で読みを振り(丸括弧は石川の附したもの。左ルビのものがあり、それは意味注で、文としては続かないものがあることを断っておく)、句読点や記号・濁点を加え、段落を成形して読み易くしておいた。下線は原本では右に附されてある。

   *

     果心居士 黃昏艸

 

 天正年間、洛北に、果心居士なる者、有り。年六十餘、葛巾〔かつきん〕道服、鬚髯〔しゆぜん〕、雪のごとし。祇園の祠〔やしろ〕に在りて、樹下に地獄變相〔ぢごくへんさう〕の圖を揭げ、舂(つ)く・磨(ひ)く・割(さ)く・烹(に)る、慘酷の諸刑、歷々として、眞に迫る。人をして戰慄(をのき)に勝〔た〕へざらしむ。居士、自〔みづか〕ら、鈎(によい)を把〔と〕つて、之れを諭示し、因果應報の理〔ことわり〕を說く。善を勸め、惡を懲し、以つて佛道に誘導す。老若〔らうにやく〕の羣集〔ぐんじゆ〕、錢を擲〔なげう〕つこと、山のごとし。

 時に織田信長、畿内を治む。其の臣荒川某、覩〔み〕て之れを奇とし、還りて右府〔うふ〕[やぶちゃん注:信長の称。彼は天正五(一五七七)年十一月十六日に従二位、同月二十日には右大臣兼右近衛大将となった。但し翌六年天正六年一月六日に正二位となるも、同年四月九日には右大臣・右近衛大将の両官を辞任している。これに拘るなら、この五ヶ月間を本話のロケーション時制と採ることも可能である。]に告ぐ。右府、人をして之れを召さしめ、幅を座傍に展〔てん〕す。彩繪、精密、閣魔・羅卒・諸罪人等、殆んど活動するがごとく、觀ること、之れを久しうして、鮮血、迸〔ほとばし〕り出で、呌號、幽かに聞ゆ。試みに手を以つて之れを拭へば、傅着〔ふちやく〕する者なし。右府、大いに怪しみ、乃ち、其の筆者を問へば、曰はく、

「小栗宗丹、淸水觀世音に祈りて、齋戒百日、遂に之れを作る。」

と。右府、之れを欲す。荒川氏をして意を達せしむ。居士曰はく、

「我れ、是の幅を以つて續命〔しよくみやう〕の寶〔たから〕となす。若〔も〕し、之れを亡〔ばう〕せば、簞瓢罄空〔たんへう〕(れい/つき[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が左ルビ。本字は「虚(むな)しい」の意ある。])〔くう〕[やぶちゃん注:米を入れる瓢簞が忽ちのうちに空となること。オマンマの食い上げ。])、生を全くすること能はざるなり。」

と。然れども、强いて之れを欲す。

「請ふ、百金を賜へ。以つて、養老の資となさん。然らずんば、愛を割くこと能はず。」[やぶちゃん注:この「愛」はママ。しかしこれ、「爰」の誤字ではあるまいか?]

と。右府、喜ばず。荒川、其の貪を怒り、且つ、右府に諂〔へつ〕らひ、將に圖(はか)る所、有らんとし、窮かに其の意を告ぐ。右府、之れを頷〔ぐわん〕す[やぶちゃん注:首を縦に振って許諾した。]。乃〔すなは〕ち、錢を賜ひて之を反〔か〕へす。居士、去る。

 荒川、居士を追ひて往く。日、將に昏れなんとす。漸く山麓に遇ひ、前後二人無き時に、居士を捕へて曰はく、

「汝、一畫を恡(おし)み、百金を貪ぼる。我れ、三尺の鐵、有り。以つて汝に與ふべし。」

と、言(げん)、いまだ竟〔をは〕らざるに、刀を拔きて、路傍に斃(たふ)す。幅を奪ひて還る。

 明日〔みやうじつ〕、右府に進む。右府、喜ぶ。之れを展ずれば、則ち、白紙のみ。荒川、愕然、流汗、衣に透〔とほ〕る。主を欺くの罪を以つて、門を閉ぢて蟄居す。

 居ること、十日、一友人來たり告げて曰はく、

「昨(きのふ)、北野の祠を過ぐ。老樹の下、一道士、幅を揭げ、捨財を集む。容貌・衣服、居士と異ることなし。居士に非ざるを得んや。」

と。

 荒川、大いに怪しみ、前罪を贖〔あがな〕はんと欲し、卒を率て北野に到る。到れば、則ち、渺たり[やぶちゃん注:姿が見えぬ。]。荒川、益々、怒る。然れども、之れを如何ともすること莫し。

 既にして孟蘭盆會〔うらぼんゑ〕に及び、諸寺、佛會〔ぶつゑ〕を修す。或る人、曰はく、

「居士、淸水寺に在りて、塲を設け、俗を誘ふ。」

と。

 荒川、喜ぶ。

 急〔いそぎ〕、徒を從へて到る。往來、紛雜、憧々〔しようしよう〕[やぶちゃん注:うろつくこと。])、織るがごとし。而して其の在る所を見ず。馳驅〔ちく〕索搜するも、相ひ似たる者なし。悒鬱〔いふうつ〕[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じい。])として望みを失ふ。歸路、八坂〔やさか〕を過ぐ。居士、一酒肆〔しゆし〕に在りて、榻〔しじ〕[やぶちゃん注:腰掛け。]に坐して飮む。卒、之れを認めて荒川に告ぐ。荒川、之れを窺ふに、果して居士なり。輙〔すなは〕ち、肆に入りて居士を捕ふ。居士、曰はく、

「暫く待て。飮み了りて將に往かんとす。」

と。數十碗を傾け、餐𩟖(むさぼりくら)ひて漸く盡く。曰はく、

「足れり。」

と。卽ち、縛に就きて去る。直ちに廳前〔てうぜん〕に坐す。之れを誚〔せ〕めて曰はく、

「汝、幻術を以つて人を欺く。罪、大惡、極る。若し、眞物を以つて上〔かみ〕に獻ぜば、其の罪を免るべし。若し、匿〔かく〕して譌〔いつは〕らば、應に以つて重刑に處すべし。」

と。居士、呵々大笑して、荒川に謂ひて曰はく、

「我れ、本〔もと〕、罪、無し。汝、主に媚び、我れを殺して幅を奪ふ。其の罪、至重〔しちやう〕なり。我れ、幸ひに傷つかず、今日、有るを致す。我れ、若し、死せば、汝、何を以つてか、罪を贖〔あがな〕ふ。幅のごときは、汝が奪掠〔だつりやく〕に任〔まか〕す。我が有る所は其の稿本〔こうほん〕のみ。汝、反〔かへ〕りて之れを匿し、主を欺くに白紙を以つてす。而して其の罪を掩〔おほ〕はんとす。我れを捕へて幅を求む。我れ、安〔いづく〕んぞ之れを知らんや。」

と。荒川、奮怒〔ふんぬ〕して拷掠〔かうりやう〕[やぶちゃん注:打ち叩いて罪を責めたり、白状させたりすること。]して實(じつ)を得んと欲す。上官、荒川を疑ふ。因つて荒川を詰責(きつせき)す。兩人、紛爭して、判ずること、能はず。乃ち、居士を一室に囚〔しう〕す。嚴に荒川を鞠訊〔きくじん〕[やぶちゃん注:罪を調べ問い糺すこと。]す。荒川、口〔くち〕訥〔とつ〕にして[やぶちゃん注:訥辨。話し方が滑らかでないこと。言葉による主張が苦手なこと。]、冤〔ゑん〕を辯ずること能はず。頗る苦楚〔くそ〕[やぶちゃん注:楚(しもと:鞭)などによる激しい拷問。]を受く。肉、爛れ、骨、折る。殆んど、死に垂〔た〕らんとす。居士、囚に在りて之れを聞き、獄吏に謂ひて曰はく、

「荒川は姦邪の小人たり。我れ、之れを懲さんと欲す。故に一時、酷刑を與ふ。子、上官に告げよ。實は、荒川の知る所に非ず。我れ、明らかに之れを告げん。」

と。

 上官、居士を召して之れを訊〔と〕ふ。

 居士、曰はく、

「名畫、靈、有り。其の主に非ざれば、則ち、留まらず。昔、法眼元信、群雀を畫く。一、二、脫し去る。襖、その痕〔あと〕を遺す。馬を畫けば、馬、夜、出でて艸を喰〔くら〕ふ。是れ、皆、衆人、知る所なり。顧〔かんが〕ふに、右府は其の主に非らず。故に、脫し去るのみ。然れども、初め、百金を以て價を約す。若し、百金を賜へば、或いは原形に復することあらんか。請ふ、試みに我れに百金を賜へ。若し、復せずんば、速やかに返し奉らん。」

と。

 右府、其の言を奇とし、則ち、百金を賜ふ。幅を展ずれば、畫圖、現然たり。然れども、諸〔もろもろ〕を前畫に比すれば、筆勢、神〔しん〕無く、彩澤、太〔はなは〕だ拙なり。仍つて、居士を詰〔なぢ〕る。居士、曰はく、

「前畫は則ち、無價の寶なり。後畫は百金に價する者。安んぞ相ひ同じきを得んや。」

と。

 上官・諸吏、對(こた)ふること能はず。遂に二人を免ず。

 荒川の弟武一は、兄の苛責に遇ひ、筋骨摧折〔さいせつ〕するを悲しみ、居士を讎視〔しうし〕して之れを殺さんと欲し、密かに跡を追ひて往く。

 又、一酒肆に飮むを見る。躍り入つて之れを斫〔き〕る。衆、皆、驚き、散ず。居士、牀下に朴〔たふ〕る。乃ち、其の首を斷じて帛〔きん〕に裹〔つつ〕み、併せて金を奪ひて去り、家に還りて兄に示す。兄、喜ぶ。帛を解へば、則ち、一〔いつ〕の酒壜(さかどつくり)のみ。二人、愕然たり。其の金を見れば、則ち、土塊〔つちくれ〕のみ。武一、切齒して右府に告ぐ。物色して之れを索〔もと〕む。渺〔べう〕として知るべからず。

 之れを久しうして、門側に、一醉人、有り。橫臥して、鼾、雷のごとし。諦觀すれば、則ち、居士なり。急(すみや)かに之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。𪖙々(こうこう)[やぶちゃん注:鼾のオノマトペイア。]と四隣を驚かす。十餘日に至るも猶、未だ覺めず。時に、右府、安土(あづち)に在りて將に西征せんとし、軍を率ゐて本能寺に館〔やかた〕す。

 光秀、反し、右府を弑〔しい〕して洛政を執る。居士の仙術有るを聞き、獄を開〔かい〕して之れを召す。

 居士、漸く覺〔さ〕む。乃ち、光秀の館に至る。光秀、酒を勸め、之れを饗して曰はく、

「先生、酒を好む。飮むこと、幾何(いくばく)ぞ。」

と。

 曰はく、

「量、無く、亂〔みだ〕るるに及ばず。」

と。

 光秀、巨盃を出だして、侍をして酒を盛らしめ、隨ひて飮み、隨ひて盛る。數十盃を傾く。缾〔かめ〕[やぶちゃん注:大きな酒壺であろう。]、已に罄〔つ〕きたり。一坐、大いに駭〔おどろ〕く。

 光秀、曰はく、

「先生、未だ足らざるか。」

と。曰はく、

「少實する[やぶちゃん注:少しばかり滿足する。]を覺ゆ。請ふ、一技を呈せん。」

 屛に近江八景を畫ける有り。舟、大いさ寸餘り。居士、手を揚げて之れを招く。舟、搖蕩〔えうたう〕[やぶちゃん注:揺れ動くこと。]として屛を出で、大いさ、數尺に及ぶ。

 而して坐中、水、溢〔あふ〕る。衆、僉〔み〕な、惶駭〔こうがい〕して、袴を褰〔かか〕げて偕立〔かいりつ〕す[やぶちゃん注:一斉に立ち上がった。])。俄然として股を沒す。居士、舟中に在り。偕工〔かいこう〕[やぶちゃん注:「偕」は棹(さお)を指し、ここは「船頭」のこと。]、槳(かぢ)を盪〔うごか〕し、悠然として去り、之(ゆ)く所を知らず。

[やぶちゃん注:以下、原典では全體が一字下げ。]

嘗て曰はく、「西陣に片岡壽安なる者あり。醫を業とし、頗る仙術を好む。一道士、有り。壽菴[やぶちゃん注:ママ。]を見て曰く、

「子、仙骨、有り。宜〔よろ〕しく道を修むべし。」

と。仍(すなは)ち一仙藥を授く。大いさ。棗核(なつめのみ)のごとし。之れを服すれば、身、輕く、神〔しん〕、爽〔さう〕なり。復た、穀食を念〔おも〕はず[やぶちゃん注:空腹にならず。]。一日(いちじつ)、奴〔ど〕[やぶちゃん注:下僕。]と爭ふ。怒り、甚し。杖を以つて之れを擊つ。忽ち、道士あり。

「汝、俗心、未だ脫せず。道に入ること能はず。乃ち、鉤〔によい〕を擧げて、背を打つ。服する所の仙藥、口より、出づ。道士、取りて去る。是れより復た、食を貪ること、常のごとし。或いは曰く、道士は則ち、果心居士なり、と。

   *

 私は、この屏風中の湖面へと消えて行く果心居士の映像が、すこぶる附きで好きである。私の『柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」』にそのシーンの原拠の挿絵も挿入してある。ご覧あれ。

小泉八雲 閻魔の庁にて  (田部隆次訳) (原拠を濫觴まで溯ってテツテ的に示した)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Before the Supreme Court”。「最高権威の法廷にて」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第三話に置かれたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

  閻魔の庁にて

 

 名高い佛僧存覺上人の『敎行信證』に云つてある、『人の禮拜する神多く邪神なり、故に三寳に歸依する者は多くこれに仕へず。かかる神を禮拜して恩惠を受けたる者も、後になりて、かかる恩惠は不幸を生ずる事を常に知る』日本靈異記の中に記してある話がこの道理のよい例である。

[やぶちゃん注:「名高い佛僧存覺上人の『敎行信證』に云つてある、」原文は“THE great Buddhist priest, Mongaku Shonin, says in his book Kyō-gyō Shin-shō :”で、まず僧侶の名が「存覺上人」ではなく、正字でなら恐らく「文覺上人」とあり、しかもご存じの通り、「敎行信證」は親鸞の名著大作であって、作者が違うし、同書を読んだことのある私にはこのような記載はないと思う。一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の平川氏の訳の訳者注には、『ハーンが依拠した『通俗仏教百科全書』の第一字』目『が欠字していたため』、小泉八雲にこの話を語った『郞読者が誤って「存覚上人」とハーンに教えた』ために、『英文では』再起のようになったのだとされ、当該書の訳では、『原拠』(最後に掲げる)『に従い、「存覺上人」の『教行信証六要鈔』にあらためた』とある。存覚(そんかく 正応三(一二九〇)年~応安六(一三七三)年)はウィキの「存覚」によれば、『鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧である。父は覚如』(「大谷廟堂」の寺院化(本願寺創成)に尽力して本願寺を中心とする浄土真宗教団の基礎を作り、本願寺の実質的な開祖となった甚物(一般に開祖は、親鸞とされるが、親鸞自身に開宗教団形成の意思は全くなく(そのそも「浄土真宗」とは法然の草創した浄土宗の真(まこと)の謂いであって、元来は宗派名でさえなかった)、本願寺成立後、覚如が事実上、創成した宗派である。私は覚如は親鸞の正統な法嗣ではないとさえ考えているほど、親鸞の教えを踏みにじっていると考える人間である)である。『存覚は、初期浄土真宗における優れた教学者で、父覚如を助けて浄土真宗の教線拡大に尽力したが、本願寺留守職や東国における門徒への対応などをめぐり対立し』、二『度の義絶と和解が繰り返された。和解後も本願寺別当職を継承しなかった』。『存覚は終生に』亙って、『教化活動に力を注ぎ、佛光寺の了源への多数の聖教書写を初め、関東や陸奥国・近江国・備後国などで多くの布教活動を行っ』ている、とある。彼の「教行信証六要鈔」は親鸞の「教行信証」の最初の注釈書で、延文五(一三六〇)年に完成されたものである。「豊後 光西寺 釈円爾会 教行信証六要抄会本 大谷派本願寺蔵版」の全文電子データをダウン・ロードして調べたところ、これに相当すると思われる部分を発見した。恣意的に正字化し、一部の歴史的仮名遣を訂し、以下に原文と訓読文(記号を追加した)を示す。

   *

○先涅槃文。卽出經名是別標也。已下皆同。言終不更歸依等者。問。天神地祗世之所貴何誡之乎。答。歸佛陀者釋敎軌範。崇神明者世俗禮奠。内外別故。法度如此。是則月氏晨旦風敎。所崇之神多邪神。故歸三寶者不得事之。故倶舍云。衆人恐所逼多歸依諸仙園苑及※[やぶちゃん注:「聚」の上に(くさかんむり)。]林孤樹制多等。此歸依非勝。此歸依非尊。不因此歸依能解衆苦。已上。

○まず『涅槃』の文。卽ち經名を出だす、これ別標なり。已下皆同じ。「終不更歸依」等といふは、問ふ、「天神地祗は世の貴ぶ所なり、何ぞこれを誡むるや。」。答ふ、「佛陀に歸するは釋敎の軌範、神明を崇むるは世俗の禮奠、内外別なる故に、法度かくの如し。これ、則ち月氏、晨旦の風敎、崇むる所の神は多く邪神なり。故に三寶に歸する者は、これに事うることを得ず。故に『倶舍』に云わく「衆人は所逼を恐れて多く諸仙の園苑、及び※林、孤樹、制多等に歸依す。この歸依は勝にあらず。この歸依は尊にあらず、この歸依に因りて能く衆苦を解せず。」。已上。

   *

「三寳」仏教で信仰の対象となる最重要のものである「仏」・「法」・「僧」の三つ。「仏」は釈迦、「法」はその説いた経典・教説、「僧」は教えを守る和合衆(僧集団)をいう。本質は一つと説かれており、末世では仏像・経巻・出家を指す。

「日本靈異記の中に記してある話」最後に掲げる。]

 

 聖武天皇[やぶちゃん注:(在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年。]の御世に、讃岐國山田郡に、布敷臣(ふしきのをみ)と云ふ人の一人子に衣女(きぬめ)と云ふ娘がおつた。衣女は容貌のよい大層强い女でありた、しかし彼女が十九になつて間もなく、その地方に危險な病氣が流行して、彼女もそれに襲はれた。兩親や親戚はその時、彼女のために或疫病神に祈つて、その神のためにさまざまの行をして、――彼女を助ける事を願うた。

[やぶちゃん注:「讃岐國山田郡」現在の高松市の牟礼町各町を除く木太町・林町・上林町・三谷町・西植田町・菅沢町以東に当たる。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。一部のネット記載では木田(きた)郡としその場合は、さぬき市(昭和)も含まれる。ウィキの「山田郡」の旧郡図も示しておく。]

 數日の間、人事不省になつてゐたあとで、病人の娘は或晚我にかへつて、兩親に自分の見た夢の話をした。彼女は疫病神が現れて、彼女にかう告げら夢を見た、――『お前のうちの人々がお前のために熱心に自分に祈つて、信心深く自分を崇めるから、自分はお前を本當に助けてやりたい。しかしさうするには誰か外の人の生命を與へねばならない。お前と同じ名の誰か外の娘を知つてゐないか』『知つてに居ります』衣女は答へた、『鵜足郡に私と同じ名の娘が居ります』『その女を自分に指し示せ』疫病神が云つて、眠れる人に觸(さは)つた、――それから觸(さは)られると共に、彼女は神と一緖に空中に浮んだ、それから忽ちのうちに、二人は鵜足郡の衣女の家の前に行つた。夜であつたが、うちの人々は未だ床についてゐなかつた、そして娘は臺所で何か洗つてゐた。『あれです』と山田郡の衣女が云つた。疫病神が帶にもつてゐた緋袋の中から鑿(のみ)のやうな長い鋭い道具を取出して、家に入つて、鵜足郡の衣女の顏にその鋭い道具をつき込んだ。そこで鵜足部の衣女は非常に苦悶して床の土に倒れた。山田郡の衣女は眼を覺して、その夢の話をした。

[やぶちゃん注:「鵜足郡」(うたり/うた・ぐん(こほり))は現在の丸亀市(土居町・土器町・飯野町各町・飯山町各町・綾歌町各町)及び坂出市(川津町)・綾歌郡宇多津町(吉田地区除く)・仲多度郡まんのう町(川東を除く長尾、炭所東、造田以東)附近。先の山田郡の西方に三郡を隔ててあった郡ある。ウィキの「鵜足郡」の旧郡図を示しておく。]

 しかし、それを物語つたあとで、彼女は再び人事不省になつた。三日間彼女は何事も分らないでゐら、そして兩親は彼女の囘復を望みなく思つてゐた。その時もう一度彼女は眼を開いて、物を云つた。しかし殆んど同時に彼女は床から起き上つで、物狂はしさうに部屋を見𢌞して、部屋から跳び出して、叫んだ、――『これは私のうちぢやない、――私の兩親ぢやない』……

 何か餘程變な事が起つたのであつた。

 鵜足郡の衣女は疫病神の鑿にさされて死んだ。兩親は歎き悲しんだ、檀那寺の僧侶達は彼女のために讀經して、遺骸は野外で火葬になつた。それから魂は冥途へ行つて閻魔大王の前に出た。しかし大王はこの少女を見るや否や叫んだ、――「この少女は鵜足郡の衣女だ、こんなに早くここへ連れて來ではならぬ。すぐ娑婆世界へかへせ、今一人の衣女――山田都の少女を連れて來い』その時鵜足郡の衣女の魂は閻魔大王の前に哀泣して訴へた、――『大王さま、私死にましてから三日以上になります、今頃は私のからだは灰と煙になつて居りますので、――私のからだはございません』 『心配には及ばぬ』畏ろしい大王は答へた、――『お前には山田郡の衣女のからだを與へる、――その女の魂は今すぐここに來る事になつて居るから。お前はからだが燒けた事は氣にかけなくともよい、お前には別の衣女のからだの方がもつともつと好都合だらう』それからかう云ひ終るや否や鵜足郡の衣女の魂は山田郡の衣女のからだに入つて再生した。

 

 ところで山田郡の衣女の兩親は、病人の娘が『これは私のうちぢやない』と叫びながら、叫びながら、跳び上つて驅け出すのを見た時に、――彼等は娘が發狂したと想像した、そして、そのあとから『衣女、お前はどこへ行く、――ちよつと、お待ち、お前は病氣だから、そんなに走つてはいけない』――と呼びながら、走つた。しかし、娘は止まらないで、走り續けて、たうとう鵜足部に行つて、死んだ衣女の家まで來た。そこへ驅け込んで、老人達を見た、それから、お辭儀をして、叫んだ、――『あ〻、うちへ歸つて嬉しい。……父樣も母樣も、お變りませんか』彼等はその女が何者だか分らなかつたから、狂人だと思つた、しかし母はやさしく彼女に問うて云つた、――『お前はどこから來ましたか』『冥途から來ました』衣女は答へた。『私はあなたの娘の衣女です、冥途から歸つて來たのです。しかし今はからだが違つてゐます、母樣』それから彼女はこれまでの話をした、そこで老人達は非常に驚いたが、どう信じてよいか分らなかつた。やがて山田郡の衣女の兩親は娘をさがしながら、その家に來た、それから二人の父と二人の母は一緖に相談して、娘に話をくりかへさせて、何度も質問した。しかしどんな質問に對しても彼女の答は、正しいので、彼女の話は疑はれなくなつて來た。たうとう、山田郡の衣女の母は、病氣の娘が見た妙な夢を述べてから、鵜足郡の衣女の兩親に云つた、――この娘の魂はあなた方のお子さんの魂だと私達は承知します。しかし、御覽の通りからだは私達の娘のからだです。それでこの娘は兩方の家の者ですね。これからはこの娘を兩方の家の娘とするに御同意ありたい』これには鵜足部の兩親も喜んで一致した、そして、その後衣女は兩家の財產を想続した事が記錄に殘つて居る。

 

 佛敎百科全書の著者は云ふ、『この話は日本靈異記第一卷の十二枚目の左のとこに見えて居る』

[やぶちゃん注:「日本靈異記第一卷の十二枚目の左」とあるが、何を間違ったものか、これは「日本靈異記」の「中卷」の「二十五 閻羅王の使の鬼召さるる人の饗を受けて恩を報ずる緣」の誤りである。それも後掲する。

 

[やぶちゃん注:まず、小泉八雲が原拠としたのは、「通俗仏敎科全書」の中巻の第九十五の「邪神の事」であるとされる。それをまず、示す。但し、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、その種本は後に示す「日本霊異記」であり、それは「今昔物語集」の巻二十の十八にも採録されてあって(実際には類話はもっと沢山ある)、さらにその濫觴は唐代の「冥報記」下に載るものが基であるとするので、さればこそ、その総てを以下で電子化して示すこととする。

 まずは、「通俗仏敎科全書」の中巻の第九十五の「邪神の事」。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここから視認した。読みは振れるものに留め、句読点や記号を補い、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。

   *

 第九十五  ○邪神の事

 一存覺(ぞんかく)上人の「敎行信證六要妙」に曰(いはく)、『月氏(げつし)、晨旦(しんたん)の風敎(ふうけふ)、崇(あがめ)る所の神、多く、邪神なり。故(かるがゆゑ)に三寶に歸する者は、之に事(つかへ)ず。邪神に事る者は損ありて、益なし』と、眞正(しんしやう)邪僞の決判あり。

 延喜(ゑんぎ)年中[やぶちゃん注:九〇一年~九二三年。]に、源の順(したがふ)が著せる「和名類衆(わみやうるいじゆ)」[やぶちゃん注:源順の漢和辞書「和名類聚鈔」。但し、延喜の後の承平四(九三四)年頃の成立である。但し、ここに記されているような内容は調べ得なかった。]に引證の、舊錄たる「日本靈異記」の中に、聖武天皇の御宇(みよ)の時、讚岐國山田郡(やまだおほり)の布敷臣(ふしきのしん)といふ人の女子(むすめ)に衣女(きぬめ)といふあり。その女子、急病のおこりたる時、疫病神(やくびやうがみ)にいのりて、命(いのち)をたすからんがために、さまざまとおこなひ、まつりければ、疫神(やくじん)、夢に告(つげ)て云く、

「汝、われをまつりあがむるがゆゑに、人の命をとりかへて、汝が命をたすくべし。此國に其方(そのはう)と同じ名の者、ある事をしらざるや。」

と、いへり。

 今の病人なる衣女、夢ごゝろにて、こたへけるに、

「同國にては、鵜足郡(うたりこをり)に、われと名の同じき女子(むすめ)ある事をしれり。」

と、いふ。

「さあらば。」

とて、疫神(やくじん)、その女子をつれて、鵜足郡の衣女が家に入(いり)て、緋囊(あかきふくろ)より、一尺ばかりの鑿(のみ)を出して、其家の女子(むすめ)なる衣女(きぬめ)が額(ひたひ)に打(うち)たつるとおもへば、にわかに、女子(むすめ)はうちたをれて、なやみ苦(くるし)むありさまなり。

 其時、山田郡の衣女が病氣はたちどころに平癒(へいゆう[やぶちゃん注:ママ。])して、歸(かへる)と覺(おもへ)て、夢、さめければ、急病人は本覆(ほんぷく)して、常のごとし。

 さて、その鑿をうたれたる鵜足郡の女子の衣女は、あへなく、命(いのち)終(をはり)にけり。

 其親屬らは、あつまりて、なげきけれども、人の命にかへられし事は、ゆめゆめしらぬことなれば、

「定まれる定業(ぢやうがう)のせんかたなし。」

と、野外におくりて、火葬のけむり、あとかたなくぞなりける。

 しかるに、その魂は冥土にゆき、爓魔(ゑんま)の前にいたるに、爓魔王、この女子を御覽ありて、[やぶちゃん注:歴史的仮名遣は「えんま」でよい。]

「これは、鵜足郡の衣女なり。今、來(きたる)べき者にあらず。山田の衣女を連來(つれきた)れ。今、來(きた)る鵜足の衣女は、いそぎて、娑婆へかへすべし。」

とのたまへば、衣女が申(まうし)のぶるには、

「われ事(こと)、死たるは三日以前のことなれば、死骸は火葬となりたるならん。かへしたまはりても、やどるべき體なし。いかゞはせんと。」

なげきければ、爓魔大王、のたまはく、

「汝、悲しむことなかれ。山田の衣女が死骸(しかばね)に、汝が魂をやどらせて蘇生(よみがへら)せん。」[やぶちゃん注:「山田の衣女」は実際には死んでいることになっているので「死骸」と呼称しているのであろう。但し、以下のシチュエーションは上手く繋がっておらず齟齬がある。後に示す「日本霊異記」の方が、理に適った形となっている。]

と、爓魔の聲のおはらぬに、山田の衣女、よみがへる。

 其父母も親屬もよろこぶこと、かぎりなし。

 しかるに、よみがへりたる女子の衣女、家の内を見まはして、

「是は吾家にあらず。我(わが)家は鵜足にあり。」

とて、かけ出(いで)んとするを、父母、おどろき、いだきとめ、

「汝は、これ、我子(わがこ)なり。何とて、かくはいひけるぞ。」

と、なだめてもなだめても、女子なかなか、きゝいれず。

 家をかけ出(いで)、鵜足の家にゆきいたり、

「是こそ、吾家なりけり。」

といひけるを、又、其家の父母は尙更におどろきて、

「我子は三日のさきに、はや、けむりとなり、灰となり、火葬したれば體は、なし。しかるに、體(からだ)入來(いりきた)り、『我家なり我子なり』といひけるは、不審(いぶかしき)ことなり。」

といひけるゆゑ、衣女、ことばをあらためて、冥土へゆきし物がたり、爓魔王の下知として魂(たましい)を入れかへられし、はじめをわりをいひければ、父母(ちゝはゝ)も聞(きゝ)わけ

ていよいよ落淚にぞ、およびけり。

 山田郡の父母も、あとよりたづね來りて、鵜足郡の父母にむかひて、

「其魂(たましい)は、その兩親の子息なり。其身が我等の產育(うみそだて)、足手(あして)のばせし吾子なれば、兩家の子として、たまはれ。」

と、女子(むすめ)一人に父母(ふぼ)四人、兩家のあとを讓(ゆずり)しと、「日本靈異記」上卷の十二紙(し)の左のところに見えたり。

○爓魔法王は眞(しん)也(なり)、正(しやう)也。疫病神は邪(じや)也、僞(ぎ)也。

○善導大師[やぶちゃん注:六一三年生まれで六八一年示寂。唐代の僧で、臨淄(りんし:山東省)の人とされる。中国の浄土教を大成し、称名念仏三昧を唱導した。主著「観無量寿経疏」。浄土教の濫觴として尊崇される。]の、『臨終正念(しやうねん)、決(けつ)に人命の長短、生(うまれ)てより下已(このかたすで)に定まれり。何ぞ鬼神を假(かり)て延之耶(これをのべん)や』とあるも、「倶舍論(くしやろん)」[やぶちゃん注:「阿毘達磨(あびだつま)倶舎論」のこと。五世紀頃、インドの世親(せしん)の著作。玄奘訳は全三十巻。小乗仏教の教理の集大成である「大毘婆沙論(だいびばしゃろん)」の綱要を記したもので、法相(ほっそう)宗の基本的教学書。]に、『※[やぶちゃん注:「聚」の上に(くさかんむり)。]林、孤樹等(とう)に歸依するは、勝(しやう)にあらず、尊にあらず』とあるも、みな、「六要鈔」の、『損ありて益なき』の義なり。いづれや、釋敎の軌範、ありがたき論釋なり。「現世利益和讚」[やぶちゃん注:親鸞聖の「浄土和讃」にある「現世利益和讃」十五首。]に、『南無阿彌陀佛をとなふれば、爓魔法王、尊敬(そんきやう)す』[やぶちゃん注:同前の第九首に「南無阿彌陀佛をとなふれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり」とある。]とありて、まことに爓魔は法王にて、善鬼神(ぜんきじん)なり。今の邪神なるものどもは、願力(がんりき)不思議の信心(しんじむ)は大菩提心なりければ、天地にみてる惡鬼神、みな、ことごとくおそるなり、とある邪惡の鬼神は、天地間(かん)にみちみちて、疫(やまひ)の神などゝいはるゝものどもなり。

   *

 次に、「日本霊異記」(正式名称は「日本國現報善惡靈異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)」。平安初期に書かれ、伝承された最古の説話集。著者は薬師寺の僧景戒)上の下巻の「閻羅王(えんらわう)の使(つかひ)の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報ずる緣第二十五」を示す。底本は昭和五二(一九七七)年角川文庫刊の板橋倫行校註本を用いたが、恣意的に概ね漢字を正字化し、読点も増やし、段落を成形した。読みは一部で推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

   閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗(あへ)を受けて、恩を報ずる緣第二十五

 讚岐の國山田の郡に、布敷(ぬのし)の臣(おみ)衣女(きぬめ)有り。

 聖武天皇の代に、衣女、たちまちに病を得たり。時に偉(たたは)しく百味を備けて[やぶちゃん注:たっぷりとした供物としての食物を用意し。]、門の左右に祭り、疫神(やくじん)に賂(まひ)して饗(あへ)す。

 閻羅王の使の鬼、來りて衣女を召す。

 其の鬼、走り疲れて、祭の食(じき)を見て、※(おもね)[やぶちゃん注:「貝」+「面」。]り就きて、受く。

 鬼、衣女に語りて言はく、

「我、汝の饗を受くるが故に、汝に恩を報いむ。若し、同じ姓、同じ名の人、ありや。」

といふ。

 衣女、答へて言はく、

「同じ國の鵜垂(うたり)の郡に同じ姓の『衣女』あり。」

といふ。

 鬼、衣女を率(ゐ)て、鵜垂の郡の衣女の家に往きて對面す。すなはち、緋(あけ)の囊より一尺の鑿(のみ)を出して、額(ぬか)に打ち立て、すなはち、召し將(ゐ)て去る。

 彼の山田の郡の衣女は、かくれて、家に歸りぬ。

 時に閻羅王、待ち校(かむが)へて言はく[やぶちゃん注:待ち受けて取り調べをして言うことには。]、

「こは召せる衣女に非ず。誤りて召せるなり。然れども、暫(しばらく)ここに留まれ。すみやか往きて山田の郡の衣女を召せ。」

といふ。

 鬼、かくすこと得ず、しきりに[やぶちゃん注:重ねて。再度。]山田の郡の衣女を召して、將(ゐ)て來たる。

 閻羅王、待ち見て言はく、

「まさに是れ召せる衣女なり。」

といふ。

 往(さき)の、かの鵜垂の郡の衣女は、家に歸れば、三日の頃を經て、鵜垂の郡の衣女の身を燒き失せり。

 更に還りて、閻羅王に愁へて白(まう)さく、

「體を失ひて依りどころなし。」

と、まをす。

 時に、王、問ひて言はく、

「山田の郡の衣女が體ありや。」

といふ。答へて言はく

「有り。」

といふ。

 王、言はく、

「其を得て汝が身となせ。」

といふ。

 因りて鵜垂の郡の衣女の身となりて、甦(い)く。

 すなはち、言はく、

「こは我が家に非ず。我が家は鵜垂の郡に有り。」

といふ。

 父母の言はく、

「汝は我が子なり。何の故にか然(しか)言ふ。」

といふ。衣女、なほ聽かず、鵜垂の郡の衣女が家に往きて言はく、

「まさにこは我が家なり。」

といふ。

 其の父母、言はく、

「汝は我が子にあらず。我が子は燒き滅(う)せり。」

といふ。

 ここに衣女、具(つぶさ)に閻羅王の詔(みことのり)の狀を陳(の)ぶ。

 時にかれこれ二つの郡の父母、聞きて、諾(うべな)ひ信(う)け、二つの家の財(たから)を許可(ゆる)し、付屬(さず)く。故に、現在の衣女、四(よたり)の父母を得、二つの家の寶を得たり。饗(あへ)を備へ、鬼に賂(まひ)す。こは功、虛(むな)しきに非ず。およそ、物有らば、なほ賂し饗すべし。これもまた、奇異の事なり。

   *

 次に「今昔物語集」巻第二十の「岐國女行冥途其魂還付他身語第十八」(讚岐國(さぬきのくに)の女(をむな)、冥途に行きて、其の魂(たましひ)、還へりて他(ほか)の身に付く語(こと)第十八)を示す。小学館「日本古典全集」版を参考に、漢字を概ね正字化し、読みを外に出したりし、段落も成形した。□は欠字。

   *

 今は昔、讚岐の國山田の郡(こほり)に一人の女、有けり。姓(しやう)は布敷(ぬのしき)の氏(うぢ)。

 此の女、忽ちに身に重き病を受けたり。然かれば、直(うるは)しく□[やぶちゃん注:「百」か。]味を備へて、門の左右に祭りて、疫神(やくじん)を賂(まかな)ひて、此れを饗(あるじ)す。

 而る間、閻魔王の使ひの鬼、其の家に來たりて、此の病ひの女を召す。其の鬼、走り疲れて、此の祭の膳(そなへもの)を見るに、此れに※(おもね)[やぶちゃん注:「※」=「靦」の左右を入れ替えた字体。]りて、此の膳を食ひつ。

 鬼、既に女を捕て將(ゐ)て行く間、鬼、女に語らひて云く、

「我れ、汝が膳(そなへもの)を受けつ。此恩を報ぜむと思ふ。若(も)し、同名同姓なる人、有りや。」

と。

 女、答へて云く、

「同じ國の鵜足の郡に、同じ名、同じ姓(しやう)の女、有り。」

と。

 鬼、此れを聞きて、此の女を引きて、彼(か)の鵜足の郡の女の家に行きて、親(まのあた)り、其の女に向ひて、緋(あけ)の囊より、一尺許りの鑿を取り出だして、此の家(いへ)の女の額(ひたひ)に打と立てて、召して將(ゐ)て去ちぬ。彼(か)の山田の郡の女をば免(ゆる)しつれば、恐々(おづおづ)家に返る、と思ふ程に、活(よみがへ)りぬ。

 其の時に、閻魔王(えむまわう)、此の鵜足の郡の女を召して來たれるを見て宣はく、

「此れ、召す所の女に非ず。汝ぢ、錯(あやま)りて此れを召せり。然(さ)れば、暫く此の女を留(とど)めて、彼(か)の山田の郡の女を召すべし。」

と。

 鬼、隱す事能はずして、遂に山田の郡の女を召して、將て來たれり。

 閻魔王、此れを見て宣はく、

「當(まさ)に此れ召す女也(なり)。彼(か)の鵜足の郡の女をば返すべし。」

と。

 然(しか)れば、三日を經て、鵜足の郡の女の身を燒き失ひつ。然(しか)れば、女の魂(たましひ)、身無くして、返り入る事能はずして、返りて閻魔王に申さく、

「我れ、返されたりと云へども、體(むくろ)失せて、寄り付く所、無し。」

と。

 其の時に、王、使ひに問ひて宣はく、

「彼の山田の郡の女の體(むくろ)は未だ有りや。」

と。使ひ、答へて云く、

「未だ有り。」

 王の宣はく、

「然(さ)らば、其の山田の郡の女の身を得て、汝が身と爲すべし。」

と。

 此れに依りて、鵜足の郡の女の魂、山田の郡の女(をむな)の身に入りぬ。

 活(よみがへ)りて云はく、

「此れ、我が家には非ず。我が家は鵜足の郡に有り。」

と。

 父母(ぶも)、活(よみがへ)れる事を喜び悲ぶ間に[やぶちゃん注:嬉し涙を成して喜んだのだが。]、此れを聞きて云はく、

「汝は我が子也(なり)。何の故に此(か)くは云ふぞ。思ひ忘れたるや。」

と。

 女、更に此れを用ゐずして、獨り、家を出でて、鵜足の郡の家に行きぬ。

 其の家の父母(ぶも)、知らぬ女の來たれるを見て、驚き怪しむ間、女の云はく、

「此れ、我が家也。」

と。父母の云はく、

「汝は我が子に非ず。我が子は早(はや)う燒き失ひてき。」

と。

 其の時に、女、具(つぶさ)に、冥途にして、閻魔王の宣ひし所の言(こと)を語るに、父母、此れを聞きて、泣き悲むで、生きたりし時の事共(ども)を問ひ聞くに、答ふる所、一事(いちじ)として違(たが)ふ事、無し。

 然かれば、體むくろ)には非ずと云へども、魂、現(あらは)に其れなれば、父母、喜びて、此れを哀(あはれ)び養ふ事、限無し。

 又、彼の山田の郡の父母、此れを聞きて、來たりて見るに、正(まさ)しく我が子の體(むくろ)なれば、魂(たましひ)非ずと云へども、形を見て、悲び愛する事、限無し。

 然かれば、共に此れを信じて、同じく養ひ、二家(ふたついへ)の財(たから)を領(れう)じてぞ有りける。此れを以つての、此の女獨りに付囑(ふぞく)して、現(うつつ)に四人の父母を持ちて、遂に二家の財を領じてぞ有りける。

 此れを思ふに、饗(あるじ)を備へて鬼を賂(まひな)ふ、此れ空しき功(くう)[やぶちゃん注:無駄な甲斐のない手立て。]に非ず。其れに依りて、此(か)く有る事也。又、人死にたりと云ふとも、葬する事、忩(いそ)ぐべからず。萬が一にも、自然(おのづか)ら此(かか)る事の有る也、となむ語り傳へたるとや。

   *

最後に、初唐に書かれた「冥報記」(作者は唐臨。六五〇年から六五九年の間、唐の高宗に御史大夫・吏部尚書として仕えた人物。内容は唐・隋の説話を中心に蒐集されたもので、因果応報の理を解く。現在、中国では散逸し、本邦の承和年間(八三四年~八四八年)に入唐した円行が持ち帰った唐写本(髙山寺蔵本)が日本にのみ残る現存最古写本とされる。先の「日本霊異記」に書名が出、上記以外にも「今昔物語集」の典拠ともなった)の原拠らしいものを示す。

   *

魏郡馬嘉運。以武德六年正月。居家。日晚出大門。忽見兩人。各捉馬一匹。先在門外樹下立。嘉運問。是何人。答云。是東海公使。來迎馬生取。嘉運素有學識。知州里。每有臺使。及四方貴客。多請見之。及是聞召。弗之怪也。

謂使者曰。吾無馬。使者進馬曰。以此迎馬生。嘉運卽樹下。上馬而去。其實倒臥於樹下也。俄至一官曹。將入大門。有男女數十人。在門外。如訟者。有婦人。先與嘉運相識。同郡張公謹妻。姓崔氏。手執文書。謂嘉運曰。馬生尚相識不。昔與張總管交遊。每數相見。總管無狀。非理殺我。我訴天曹。於今三年。

爲王天主救護公謹。故常見抑。今及得申官已追之。不久當至。疑我獨見枉害。

馬生那亦來耶。嘉運知崔氏被殺。及見方知死。使者引入門。門者曰公眠。未可謁。宜引就霍司刑處坐。嘉運見司刑。乃益州行臺郎中霍璋。見嘉運。延坐曰。

此府記室闕。東海公。聞君才學。欲屈爲此官耳。嘉運曰。家貧妻子不立。願君為言。得免爲幸。璋曰。若爾。使可自陳無學。吾當有以相明。俄有人來云。公眠已起。引嘉運入。見一人在廳事坐。肥短黑色。呼嘉運。前謂曰。聞君才學。

欲相屈爲記室耳。能爲之乎。運拜謝曰。幸甚。但鄙人野。頗以經業。教授後生。不足以尚管記之任。公曰。識霍璋不。答曰識之。因使召璋。問以嘉運才術。璋曰。平生知其經學。不見作文章。公曰。放馬生歸。卽命追陳子良。嘉運辭出。璋與之別曰。倩君語我家三狗。臨終語汝。賣我所乘馬。作烏浮圖。汝那賣馬自費也。速如我教。造浮圖所三狗。謂其長子也。嘉運因問。向見張公謹妻所云。天主者。爲誰。璋曰。公謹鄕人王五戒者。死為天主常救公謹。故得至今。今似不免矣。言畢而別。遣使者送嘉運。至一小澀徑。指令由此路歸。嘉運入徑便活。良久能起。時向夜半。妻子皆坐哭。嘉運具言之。其年七月。綿州人。姓陳名子良。暴死。經宿而蘇。自言。見東海公欲用爲記室。辭不識文字。

別有吳人陳子良。善章者。於是命彼捨此。後年吳人陳子良卒死。張公謹亦殂。

二人亡後。嘉運嘗與數人同行。於路忽見官府者。嘉運神色憂怖。唯諾趨走。須之。乃定。同侶問之。答曰。向見者。東海公使人。云欲往益州追人。仍說。子良極訴君。霍司刑爲君被誦讀。君幾不免。賴君贖生之福。故得免也。初嘉運在蜀。蜀人將決池取魚。嘉運時爲人講書。得絹數十匹。因買池魚放之。贖生謂此也。貞觀中。車駕在九城宮。聞之。使中書侍郎岑文本。就問其事。文本具錄。

以奏乞爾。嘉運。後爲國子博士卒官。

   *

私は読みこなせるわけではないが、これ、あまり似ているとは思われない。寧ろ、唐代の他の伝奇や後の志怪小説の方に本篇に酷似したものはあるように思われる。]

 

2019/10/09

小泉八雲 破約  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Of A Promise Broken”。「破られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の冒頭パート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第二話に置かれたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。

 本篇は小泉八雲の怪談作品の中で、私が第一に挙げる名篇で(小学校五年の正月に読んだ角川文庫版「怪談・奇談」(田代三千稔(みちとし)氏訳)での本篇の衝撃は今でも忘れられない)、私は既に二〇一二年に私のサイト「鬼火」の「心朽窩旧館 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、

OF A PROMISE BROKEN BY LAFCADIO HEARN(英語原文)

「破られし約束」 小泉八雲原作 藪野直史現代語訳(別に縦書版も作製してある)

を公開しているので、是非、参照されたい(個人的にはこの訳には秘かに自信を持っている)。なお、この優れた戦慄の真正怪談は、不思議なことに原拠が現在まで明らかにされていないようである。どなたかご存じの方は是非とも御教授願いたい。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。

 通常傍点「ヽ」は太字に代えた。一部に「◦」傍点があるが、そこは下線太字とした。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 

  破 約

 

 

       

 

 『私死ぬ事かまひません』死にかけて居る妻が云つた、――『ただ一つ氣にかかる事があります。私の代りにこのうちへ誰が來るでせう、それが知りたい』

 『愛する妻』悲しんで居る夫は答へた、『誰も代りなどは入れない。もう決して、決して再婚はしない』

 かう云つた時は、彼は心から云つたのであつた、今失ひかけて居る女を愛してゐたからである。

 『武士の誓にかけて?』かすかな微笑をもつて彼女は尋ねた。

 『武士の誓にかけて』彼は答へた、――彼女の靑白いやせた顏を撫でながら。

 『それなら、あなた』彼女は云つた 『あなたは私を庭に埋めて下さいね、――い〻でせう、――あの向うの隅に、私達が植ゑたあの梅の林の近くに。私は先から[やぶちゃん注:「せんから」。]この事を賴みたかつたのですが、もしあなたが再婚なさると、そんな近いところに墓のあるのがおいやでせうと思つたのです。今あなたが再婚しないと約束なさつたから、――それで私遠慮しないで私の願を申します。……私お庭に埋めて欲しい、時々あなたの聲が聞かれるでせうし、又春になつたら花が見られるでせうから』

 『好きなやうにして上げる』彼は答へた、『しかし今からそんな葬式の話は止めよう、もう駄目と云ふ程重いわけでもないのだから』

 『駄目ですよ』彼女は答へた、――『今日朝のうちに死にます。……しかし庭に埋めて下さいますね』

 『宜しい』彼は云つた、――『私共が植ゑた梅の木の影の下に、――そしてそこに立派な墓をたてて上げる』

 『それから小さい鈴を一つ下さいませんか』

 『鈴――?』

 『はい、棺の中へ小さい鈴を入れて下さい、――巡禮のもつて居るやうなあんな小さい鈴。あんなのを下さいませんか』

 『上げよう、そんな小さい鈴を、――それから何か外に欲しい物は』

 『外に何もありません』彼女は云つた、……『あなたいつでもあなたは私に大變親切にして下さいました。もう安心して死なれます』

 それから妻は瞑目して死んだ、――丁度疲れた子供が寢込むやうに無造作に。死んだ時美しい顏をしてゐた、そして頰に微笑があつた。

 

 彼女は庭園に、愛した樹の影の下に埋葬された、そして小さい鈴は一緖に埋められた。墓の上に家の定紋の飾りのある、そして「慈海院梅花明影大姉」と云ふ戒名のある立派な石碑がたてられた。

[やぶちゃん注:「慈海院梅花明影大姉」原文は、

"Great Elder Sister, Luminous-Shadow-of-the-Plum-Flower-Chamber, dwelling in the Mansion of the Great Sea of Compassion."

である。過去の殆んどの訳は、

 慈海院梅花明影大姉

とし、昭和三一(一九五六)年角川文庫刊の田代三千稔氏では、

 慈海院梅花照影大姉

とする。しかし、私はこれを先の現代語訳では、

 慈海院梅花庵照光大姉(正字表記「慈海院梅花庵照光大姊」)

と訳した。私は過去の諸家の邦訳には二箇所の問題点があると考えている一つは“Plum-Flower-Chamber”の“Chamber”が訳されていない点、今一つは戒名である“Luminous-Shadow”を果たして『明影』と漢訳することが正当かどうかという点である。私はいずれの問題も従来の訳では納得出来ないのである。前者は、院殿居士の「殿」は江戸時代の普通の武士階級の妻の戒名としてはあり得ないから、「庵」ではないかという判断である。更に、従来の『影』という文字が戒名としては私には如何にも字の座りが悪いのである(無論、「影」に「光」の意があることは百も承知でである)。更に“Luminous-Shadow”を凝っと見つめていると、ハーンは「影」という字を一辺倒に「物の影」「陰影」と解釈してしまい、古語としての「影」=「光」の意をここでは失念していたのではないか? とも思ったのである。そこから、私は「影を照らす」ではなく、「遍く仏光が照らし尽くす」というイメージを連想し(言っておくが、田中氏の訳の影響ではなく、全くの私の生理的印象である)、「照光」の訳を導き出したものである。「明光」でも悪くないが、全くの私の趣味からは「照光」のほうがピンとくるのである。私の漢訳戒名が致命的に誤りである(戒名としてはあり得ない)とされる方は、その証左をお示し戴いた上で、御教授願えると幸いである。]

 

        *       *

            *

 

 しかし妻の死後一年たたぬうちに、その武士の親戚や友人は、彼に再婚を迫り出した。『未だ若い』彼等は云つた、『そして一人息(むすこ)だ、子供がない。武士は結婚すべき義務がある。子供がなくて死んだら、祖先を祭つたり、供物をしたりする事を誰がするか』

 澤山のそんな申し立てによつて、彼はたうとう再婚するやうに說破された。花嫁は僅か十八であつた、そして庭にある墓の沈默の非難があつたが、深く彼女を愛する事のできる事が分つて來た。

[やぶちゃん注:最終の一文の原文は、

The bride was only seventeen years old; and he found that he could love her dearly, notwithstanding the dumb reproach of the tomb in the garden.

である。私は、先の現代語訳では、

この度(たび)の嫁ごは、やっと十七になったばかりであったが、彼はこの新しい若き妻を、心より愛し得るという実感を、確かに、持ち得てもいたのであった。……庭の……かの墓からの……無言の呵責を……何処かに感じながらも……。

と訳した。田部氏の訳は如何にも生硬に過ぎる。]

 

 

       

 

 結婚後七日目までは、若い妻の幸福の邪魔が起らなかつた、――七日目になつて、夫は夜、城につめて居る事の必要な或役を命ぜられた。獨り留守居をせねばならなかつた第一夜に、妻は說明のできないやうな不安を感じた、――理由は分らないが、何だか妙に恐ろしかつた。床についても眠られなかつた。何となしにあたりは重苦しかつた、――嵐の前に時としてあるやうな一種名狀し難い重苦しさであつた。

 丑の刻に、彼女は夜外の方で鈴の鳴る音を聞いた、――巡禮の鈴であつた、――そして彼女は今頃何の巡禮が士族屋敷を通るのかと不思議に思つた。やがて、暫らく休んでから、鈴がもつと近くひびいた。明らかに巡禮はこの家に近づいて來るのであつた、――しかし何故道もない裏から近づいて來るのであらうか。……突然犬が妙な恐ろしさうな風に吠え泣きをし出した、――そして夢の恐怖のやうな恐怖が彼女を襲うた[やぶちゃん注:ママ。]。……その鈴の音はたしかに庭であつた。……女中を起しに起きようとした。しかし起きる事もできない、――動く事もできない、――聲をあげる事もできない事が分つた。……そして近く、段々近く、鈴の音が聞えて來た、――そしてあ〻、その犬の吠えやうはどんなであつたらう。……それから影がそつと忍んで來るやうに、その部屋ヘ一人のがそつと入つて來た、――戶と云ふ戶は皆固く閉ざされたまま、それから、ふすまが動きもしないで、――經かたびらを着て、巡禮の鈴をもつた女が。死んでから餘程になるから、眼はない、――そしてほどいた髮の毛は顏の𢌞りに長く垂れてゐた、――そして彼女はその亂れた髮の毛の中から眼なくして見、舌なくして語つた、

 

 『いけないこのうちにゐてはいけない未だ私はこのうちの主婦だ出て行けそして出て行く理由を誰にも云つてはいけないもしあの人にあつたら八つ裂きにする

 

 さう云つて、その幽靈は消えた。花嫁は恐怖のために正氣を失つた。あけ方まで彼女はそのままになつてゐた。

 

 それでも、樂しい日の光を見ると彼女は見たり聞いたりした物の事實を疑つた。云つてはならないと云はれた事の記憶は未だ彼女をそんなにひどく惱ましてゐたので、彼女は夫にも誰にも、その幽靈の事を話す氣にはなれなかつた。しかし彼女はただ恐ろしい夢を見て病氣になつたのだと自分で納得する事が大方できた。

 しかし、翌晚は疑ふ事はできなかつた。再び丑の刻に犬が吠え泣きを始めた、――再び鈴がひびいた、――庭の方から徐ろに近づいて、――再び、聞いて居る彼女は起きて呼ばうとしたが駄目であつた、――再び死者は部屋に來て、小聲で叱つた、――

 

 『出て行けその理由は誰にも云つてはならないもしあの人にあつたら八つ裂きにする

 

 今度は幽靈は床の近くまで來た、――そして床の上で屈んで、つぶやいて、變な顏をして見せた。……

 翌朝武士が城から歸つた時、彼の若い妻は彼の前に平伏して歎願した、――

 『お願です』彼女は云つた、『こんな事を申上げるのは恩知らずで、失禮ですが、赦して下さい、しかし私を里へ歸して下さい、――今すぐ歸して下さい』

 『ここに何か面白くない事があるかね』夫は心から驚いて尋ねた。『誰か留守中に何か意地の惡い事でもしたかね』

 『そんな事ぢやありません――』彼女はすすり泣きをしながら答へた。『誰でも皆、ここでは私に大變親切にして下さいます。……けれども、私は續いてあなたの妻になつて居られません、――私出て行かねばなりません。……』

 『困つたね』彼は非常に驚いて叫んだ、『このうちで何か面白くない事があるのは甚だ殘念だ。しかし出て行きたい理由が分らない、――誰か大變不親切な事でもしない以上は。……本當に離緣してくれと云ふつもりでないだらうね』

 彼女は震へながら、泣きながら答へた、

 『離緣して下さらなければ、私は死にます』

 彼は暫らく默つてゐた、――どうしてこんな驚くべき事を云ひ出したのであらう。その理由を考へて見ても駄目であつた。それから何の感情をも面に表はさないで答へた、――

 『何も缺點のないお前を兩親の方へ送りかへすのは恥づかしい行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]であらう。何かさうして貰ひたい相應な理由を云つてくれたら、――どんな理由でも、わけの分る理由なら宜しいから、――私は離緣狀を書く事ができる。しかし、理由、――相圖な理由がなければ、離緣するわけには行かない、――私共の家の一譽は世間の人の口の端にかかつてはならないから』

 そこで彼女は云はずには居られなくなつて來た、そして彼女は一切の事を告げた――恐怖の苦痛のうちにつぎのやうに云ひ足した、――

 『もうあなたに話しましたから、私は殺されます、――殺されます。……』

 勇敢な人であり、又お化けなどを信ずる人ではないが、武士は一時非常に驚いた。しかしその事の簡單な自然の解決が心に浮んで來た。

 『お前は』彼は云つた、『お前は今大層神經を起して居る、誰かつまらない話をした者があるのぢやないか。ただこのうちで、變な夢を見たと云ふわけで、離緣するわけには行かない。しかし留守中にこんな風に苦しんでゐるのは、本當に氣の毒だ。今夜又城へ行かねばならないが、お前一人にしては置かない。お前の部屋にゐて、寢ず番をしてくれる武士を二人云ひつける、そしたら、安心して寢られるだらう。二人ともよい人だから、できるだけの注意をしてくれる』

 それから、夫がそれ程思ひやり深く、又それ程情け深く話してくれたので、妻は自分の恐怖が殆ど恥づかしく恐怖が殆どなくなつて來た程であるた、そしてこの家に止つてゐようと決心した。

 

 

       

 

 若い妻の保護を托された二人の武士は、大きな、强い、心の單純な人達であつた、――女や子供の保護者として經驗のある人々であつた。彼女の氣を引立てるために、花嫁に面白い話を聞かせた。彼女はこの人達と長い間話した。彼等の面白いおどけで笑つた、そして殆ど彼女の恐怖を忘れた。いよいよ眠るために床についた時、二人の武士はその部屋の一方で屛風のうしろに陣取つて碁を始めた、――彼女の邪魔にならないやうに。小聲で話してゐた。彼女は赤兒のやうに眠つた。

 しかし又、丑の刻に彼女は恐怖のうめきをもつて眼をさました、――例の鈴を聞いたのであつた。……それはもう近くに來てゐた、そして段々近くなつてて來た。彼女は飛び上つた、彼女は叫んだ、――しかしその部屋に動く物はない、――ただ死の如き沈默、――段々と增して行く沈默、――段々と濃くなつて行く沈默、――があるだけであつた。彼女は武士のところへ飛んで行つら、彼等は碁盤の前に、――動かないで、――銘々相手を坐つた目附でにらんでゐた。彼女は彼等に叫んだ、彼等をゆり動かした、彼等は凍りついたやうになつてゐた。……

 

 あとで彼等の云つたところでは、彼等は鈴を聞いた、――花嫁の叫びも聞いた、――起さうとして彼女がゆり動かしたのさへも知つてゐた、――そしてそれにも拘らず動く事も、物云ふ事もでもなかつた。その時から彼等は聞く事も、見る事もできなくなつた、黑い眠りが彼等を捉へたのであつた。

 

        *       *

            *

 

 夜明けになつて、主人は花嫁の部屋に入つて、消えかかつた燈火の光で、血の溜りの中に寢て居る若い妻の首のない死骸を見た。やはり未だ打ちかけの碁を前にして坐りながら二人の武士は眠つてゐた。主人の叫びを聞いて彼等は飛び上つた、そしてぼんやり床の上の恐怖すべき物を見つめてゐた。……

 首はどこにも見當らなかつた、――そしてその物すごい疵は、それが斬り取られたのでなく、もぎ取られた事を示した。血のしたたりはその部屋から椽側の角まで續いて、そこで雨戶は引裂かれたやうであつた。三人はその跡をたどつて庭に出た、――草地を通つて、――砂場を超えて、――𢌞りに花菖蒲のある池の岸に沿うて、――杉と竹との暗い蔭の下へ。そして不意に曲つたところで、彼等は蝙蝠のやうに嘲る[やぶちゃん注:「あざける」。]魔物と面と向つて立つて居る事に氣がついた、卽ち長く埋められた女の姿が、墓の前に棒立ちになつて、――一方の手に鈴をつかみ、他方に血の滴る首をもつて居るのであつた。……暫らくの間、三人は痺れたやうになつて立つてゐた。それから三人の武士は念佛を唱へながら、刀を拔いて、その姿を打つた。直ちにそれは――經かたびら、骨、及び髮の空しい散亂となつて、――地上に崩れた、――そして鈴はその崩壞のうちから、チリンと鳴つて轉がり出た。しかし筋肉のない右の手は、手首から離れながら、なほ放たないで、――その指はやはり血の滴る首をつかんで、――そして黃色の蟹の鋏が落ちた果物をつかんで放たないやうに――爪をたてて、さいなんでゐた。……

          *

        *

          *

 〔『これはひどい話だ』私はそれを物語つた友人に云つた。『一體復讐をしたければ、その死人は、男に對してすべきであつた』

 『男はさう考へます』彼は答へた。『しかし、それは女の感じ方ぢやありません、……』

 彼の云ふところは正しかつた。

 

小泉八雲 作品集「日本雑録」始動 / 奇談 / 「約束」(田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“Of a Promise Kept”。「守られた約束」)は一九〇一(明治三四)年十月にボストンボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“A JAPANESE MISCELLANY”(「日本雑記」。来日後の第八作品集)の巻頭に置かれたパート「奇談」(原題“Strange Stories ”)の第一話である。本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジットの入ったページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものとしては、「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」のこちらが、本田部訳(同一訳で正字正仮名)と対訳形式でなされており、よろしいかと思われる(海外サイトでも完全活字化されたフラットなベタ・テクストが見当たらない)。

 底本は英文サイトInternet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一一(一九三六)年十一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第七巻の画像データをPDFで落として視認した。なお、上記対訳サイトのそれは原文以外は全く参考にも加工用にも使用していないことをお断りしておく。その程度の自己拘束を私は私自身にかけて小泉八雲と向き合っている。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 本篇は知られた上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年板行であるが、執筆は十年前の明和五(一七六八)年であった)の「菊花の約(ちぎり)」(構成としては明代の馮夢龍(ふうむりゅう/ふうぼうりょう 一五七四年~一六四六年)の白話小説集「古今小説」の第十六話「范巨卿鷄黍死生交」(范巨卿(はんきよけい)鷄黍(けいしよ)死生(しせい)の交(まじは)り)を原拠としている)の話の短縮された翻案であるが、原作のくだくだしいデーティルが大胆に除去されており、究極の男気を鮮やかに浮き彫りにした名掌品怪談となっている。同原作は私自身、同作品集の「靑頭巾」(私はサイト版で原文及び私の現代語訳(但し、雰囲気を保持するために正字正仮名遣いである)と、高校教師時代のオリジナル授業ノートを公開している。言っておくが、「靑頭巾」はその内容(稚児愛・カニバリズム)から高校の古文の教科書には絶対に載らない作品であり、私のそれは独自に教材化したものである)に次いで偏愛するもので、さればこそここに単に安易に原拠として掲げるのには、激しい躊躇を感ずる。近い将来、オリジナルに独立させて電子化して示したい。それまで待てないというお方は、サイト「日本古典文学摘集」の原文現代語訳もある)をお薦めする。 なお、本篇については川澄亜岐子氏の論文『ラフカディオ・ハーン「守られた約束」について―原話と再話の比較から見えるもの―』(PDF)が緻密な解析をされており、必見である。それによれば、『ハーンが自分で原話を読んだ可能性は低く、日本人の家族や知人を通してこの物語を知ったと思われる』とある。その簡略性から見ても至当であろう。

 なお、献辞にある「ヱリザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人」とは小泉八雲の親友でアメリカの女性ジャーナリストで新聞・雑誌の編集者でもあったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)である。詳しくは、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について(全)』の挿入注(「昔、ここを平井呈一氏の訳で読んだ若き日の私は、……」で始まるもの)を参照されたい。

 本文内に禁欲的に注を挿入した。]

 

 

  日 本 雜 錄

 

 

  ヱリザベス・ビスランド・ウヱットモア夫人へ

 

 

  奇 談

 

 

  約 束

 

 『この秋早々歸ります』と、數百年前、赤穴(あかな)宗右衞門がその義弟丈部(はせべ)左門と別れる時、云つた。時は春、場所は播磨國加古村。赤穴は出雲の武士であつた、それで彼は鄕里を訪れようと思つた。

[やぶちゃん注:「數百年前」原拠と同じで、本篇でも最後の方で、戦国大名で出雲守護代であった尼子「經久」(あまごつねひさ 長禄二(一四五八)年~天文一〇(一五四一)年)の名と、それに滅ぼされた「以前の君主𪉹冶殿」の名が登場する。「雨月物語」の学術注釈は、その旧主を塩冶掃部介(えんやかもんのすけ ?~文明一八(一四八六)年)、室町から戦国にかけての武将で、通称、荒法師、出雲国守護代で京極氏の家臣であった人物とする。ウィキの「塩冶掃部介」によれば、『出雲の国人』で、文明一六(一四八四)年、『出雲の守護代尼子経久が主君京極政経によって追放された。掃部介は新たな守護代として月山富田城に入城』した。文明十八年の『元旦、毎年恒例の万歳が行われた。しかし、浪人となりながら』、『富田城奪回を狙っていた経久の策で、城で毎年芸能を披露する鉢屋衆は経久と密かに手を組んでおり、尼子軍に夜討ちを仕掛けられた。これにより、掃部介は妻子を殺害した後、自害した。富田城脇に彼の墓が残っている』とある。本作品集の刊行は明治三四(一九〇一)年であるから、四百十五年前後以前の話となる。間違え易いのは、後の「塩冶興久(えんやおきひさ)の乱」で、注意が必要であろうから、一言述べておく。ウィキの「尼子経久によれば、享禄三(一五三〇)年、経久の三男である塩冶興久(えんやおきひさ)『が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄』三年五月二十八日に『記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している』。『だが、この反乱は』天文三(一五三四)年に『鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり』、『自害した』とある事件である。

「播磨國加古村」兵庫県加古郡稲美町の大字加古(かこ)附近(グーグル・マップ・データ)。]

 丈部は云つた、――

『あなたの出雲、八雲立つ出雲の國は甚だ遠い。それ故恐らく或定(き)まつたお歸りの日を約束なさる事はむづかしいでせうが、もしその日が分つたら私共は幸に思ひます。さうしたら、私共は歡迎の宴の用意ができます。そしてお出でになるのを門に出て見張つて居られます』

 『さあ、その事については』赤穴は答へた、『私は旅にはよく慣れて居るから、或場所に着くにはどれ程かかるか豫め云ふ事ができます、それで定まつた日にここへ着く事は安心して云へます。重陽の佳節ときめて置いてどうでせう』

 『それは九月九日ですね』丈部は云つた、――『その頃は菊の花も咲くから、一緖に菊見もできます。愉快愉快。……それぢやお歸りは九月九日と約束して下さいますね』

 『九月九日』赤穴は別れの微笑を見せながら、くりかへした。それから彼は播磨の國加古村から、大胯[やぶちゃん注:「おほまた」。]に步き出した、――そして丈部左門とその母は、眼に淚を浮べてそのあとを見送つた。

 

 『月日に關守なし』と古い日本の諺は云ふ。速かに幾月か過ぎ去つた、そして秋――菊花の季節――が來た。そこで九月九日の早朝から、丈部は彼の義兄を歡迎する用意をした。品々の肴を調へ、酒を買ひ、客間を飾り、床の間の花瓶には二色の菊花を插した。その時、これを見てゐた母は云つた、――『出雲の國はここから百里以上もあります。山を越えてそこから來る旅は苦しくて疲れませう、赤穴が今日來る事ができるかどうかは、あてにならない。そんなに骨を折らないで、來るのを待つてからにしてはどうかね』 『いいえ、母樣』丈部は答へた――『赤穴は今日ここへ來ると約束しました、約束を破るやうな人ぢやありません。到着してから用意を始めるのを見たら、私達はあの人の言葉を疑つたと思ひませう、それが恥づかしい』

 

 その日は美はしく、空には一點の雲もなく、空氣は澄み渡つて世界はいつもより千里も廣くなつたやうに思はれた。朝のうち、多くの旅人は村を通つた――武士も幾人かあつた、そして一人一人の通るのを見守つてゐる丈部は、度々赤穴が近づくのを見たやうに思つた。しかし寺の鐘が正午を知らせたが、赤穴は見えなかつた。午後も續いて丈部は見張つて待つて見たが無駄であつた。日は沈んだ、しかしやはり赤穴の來るやうすはなかつた。それでも丈部は門に立つて往來を眺めてゐた。やがて母は來て云つた、――『諺に云ふ通り――男の心は秋の空のやうに早く變る事もあらう。しかし菊の花は明日も未だ鮮かであらうから、もう床についてはどうか、明朝になつてから、又赤穴を待ちたければ、待つ事にしては』 『母樣、お休みなさい』丈部は答へた、――『しかし私はやはり來るとしか信じられません』それから母は寢室に行つて、丈部は門にためらつてゐた。

[やぶちゃん注:「ためらつてゐた」原文は“lingered”。“linger”は「何かが気にかかっ居残る・いつまでも留まろうとする・後に残っている・なかなか去ろうとしない」の意。「躊躇(ためら)ふ」には漢字表記通り、「躊躇(ちゅうちょ)して一つ所をぶらぶらする・うろつく」の意がある。]

 

 夜は晝のやうに澄んでゐた、空には一面に星が動いて、銀河は異樣の光をもつて輝いてゐた、――靜けさを破る物は、ただ小川の音とはるかに吠える犬の聲だけであつた。丈部はやはり待つた、――細い月が近くの山のうしろに沈むのを見るまで待つた。その時やうやく彼は疑ひ恐れ始めた。丁度家に戾らうとした時、彼は遠くからたけの高い人が――甚だ輕く、かつ速く、――近づいて來るのを見た、そして直ちにそれが赤穴である事を認めた。

 『やあ』丈部は彼を迎へるために、跳び出して叫んだ、――『朝から今まで待つてゐました。……やはり約束を守つて下さつたね。……しかし兄樣、あなたはきつと疲れたでせう、――入つて下さい、――何でも用意してあります』彼は客間の正座へ赤穴を案内して、急いで細くなりかけて居るあかりを直した。丈部は續けて云つた、『母は今晚少し疲れて居るので、もう寢ました。しかし、やがて起しませう』赤穴は頭を振つて、不承諾の身振をちよつと示した。『兄樣、それではあなたの好きなやうに致しませう』と丈部は云つて、この旅客の前に暖い酒肴を置いた。赤穴は酒にも肴にも手を觸れないで、暫らく動かないで、默つてゐた。それから、母を起す事を恐れるかのやうに、――ささやきの聲になつて、云つた、――

 『こんなにおそく來るやうになつたわけを、これから云はねばならない。私が出雲へ歸ると、人々は以前の君主𪉹冶殿の厚恩を忘れて、あの冨田城を取つた謀叛人の經久(つねひさ)に媚を呈して居るのを見た。從弟の赤穴丹治[やぶちゃん注:「あかなたんぢ」。]が經久に仕へて、その家臣として富田の城内に住居して居るのを訪れねばならなかつた。彼は私に經久の前に出るやうに勸めた、私は新しい君主の顏を見た事がないから、重にその人の性格を見るためにその勸めに應じた。經久は熟練なる軍師で、非常な勇氣があるが、狡猾で殘忍である。溫は乙の人に仕へる事は決してできない事を知らして置く事を必要と思つた、その面前を下ると、稜は私の從弟に命じて私を留めた、――家の中から私を出さないやうにした。私は九月九日に播磨へ歸る約束のある事を云ひ張つたが、出る事を許してくれなかつた。それで私は夜城から逃げ出さうと思つたが、たえず見張りがついてゐたので、たうとう今日まで約束を果す方法は見出せなかつた。……』

 『今日まで!』丈部は驚いて叫んだ、――『城はここから百里以上もある』

 『さうです』赤穴は答へた、『人は一日に百里を行く事はできない。しかし、約束を守らなければ私はよくは思はれない事を思うた、それから私は「魂よく一日に千里を行く」と云ふ古い諺を思ひ出した。幸にして私は刀を携ふる事を許されてゐた、――それでやうやく私は歸つて來る事ができた。……母上を大事にして下さい』

 かう云つて、彼は立ち上つて同時に消えた。

 その時丈部は赤穴が約束を果すために自殺した事を知つた。

 

 未明に丈部左門は出雲の國富田城に向つて出發した。松江に着いて彼はそこで九月九日に赤穴宗右衞門は城内の赤澤丹治の家で切腹した事を聞いた。それから丈部は赤澤丹治の家に行つて、丹治の信義のない事を責めて、家族の面前で彼を殺して、自分は怪我もしないで逃れた。それから經久がこの話を開いた時、丈部を追はせないやうに命令を出した。卽ち經久自らは亂暴な殘忍な人ではあつたが、外の人の信を愛する事を尊敬して、丈部左門の友情と勇氣を感嘆する事ができたからであつた。

2019/10/08

昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の大谷正信氏の「あとがき」 / 同第八巻全電子化終了

 

[やぶちゃん注:以下は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の後期の作品集「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」三作の全電子化注の底本とした(英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落として視認した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻の「あとがき」である。本巻の訳者は田部隆次・大谷正信・戸川明三の三氏であるが、「あとがき」は田部・大谷氏に二名のみである(戸川氏は「耳無芳一の話」「貉」「葬られたる祕密」の三篇のみの担当であったので、恐らく「あとがき」は辞退されたものと考えられる。彼は英文学者を標榜する共訳者たちに対して引け目を感じていた節もあるようである)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 一部にごく簡単に注を附し、読者の便を考慮し、特異的に本文内に各話その他へのリンクを初出部に設けた。

 

 

 『天の河緣起そのほか』は千九百五年原著者歿後、米國では書肆ハウトン・ミフリン、英國では書肆コンスタブルから出版されたもので、「天の河緣起」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全四回分割である。]外五篇、そして「日本からの手紙」といふ一文が附錄となつて居る。そのうち「化け物の歌」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全十五回分割である。]と「鏡の少女」を除いてあとは全部、以前「大西洋評論」に掲載された。

[やぶちゃん注:「千九百五年原著者歿後」小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日に狭心症の発作で西大久保の自宅で急逝した。満五十四歳であった。

「書肆コンスタブル」ロンドンの“Archibald Constable & Co.”か。

「大西洋評論」前の田部隆次氏の「あとがき」を参照。]

 書名をそれに採り、また卷頭にそれを置いたほどあつて「天の河緣起」がその主要な文たること言ふまでも無い。これは夫人の談話と、そして天の河の傳說詩歌に關して出來得る限り廣く諸方から蒐めた材料とを、基として書いたものである。文中引用の和歌は原著では歌詞を五行に羅馬字で發音どほりに揭げ、次にその散文譯を載せてあるのであるが、その散文譯をそのまゝ日本語に逐字譯するのは無意義であるから、歌詞だけ、普通に見るやう二行にして書いて置いた。だが原著者が歌に對して加へて居る脚註は、そのまゝ譯してその個處に置いて置いた。殊にその個處に置かずともと思つたもので、書物の體裁上文末へ掲げることにしたのが五六あることを諒知せられたい。

 「化け物の歌」は讀んで知られるとほり「狂歌百物語」に據つたものである。引用の歌詞に對しては前文同樣に取扱つた。

 「鏡の少女」と「伊藤則助」[やぶちゃん注:ママ。正確には「伊藤則助の話」である。]は、前者は都賀庭鐘著「庭上奇觀垣根草」の第一卷にある「伊藤帶刀中將重衡の姬と冥婚の事」に據つたもの、後者はその第五卷にある「松村兵庫古昔の妖鏡を得たる事」に據つたのである。

[やぶちゃん注:大谷は原拠ではなく、原拠の原本を示している。但し、原拠は同書の単なる改題で本文は殆んど同じだから、問題はない。]

 「日本からの手紙」は千九百四年八月一日束京發信となつて居るが、申すまでも無く、手紙に擬した文で、事實さる人に郵送したものでは無い。

 『骨董』のうちの「蠅のはなし」は新著聞集卷五、執心篇第十一のうちにある「亡魂蠅となる」に據つたものである。英文は固よりその逐字譯では無い。

 同じく『骨董』のうちの「螢」の文中引用してある和歌俳句には、原文には作者の名が記るして無いのであるが、讀者の知識に資するところがあらうと思つて、譯文にはそれを附記して置いた。

 『怪談』のうち、「蝶」[やぶちゃん注:私の電子化は以上から全三回分割である。]の文中に引用してある俳句は、英文では三行に羅馬字で發音どほりに揭げ、次に散文譯を載せ、脚註も加へてあるのであるが、日本の讀者には原句だけで足りると考へたから、譯文では原句だけ、普通するやうに一行にして、揭げることにした。また原文では作者の名が揭げて無いが、自分の調査の屈くかぎり原作家の名を添へて記るすことにした。そして譯文の終に原文に對して譯者としての註解を三四序でに添へて置いた。

[やぶちゃん注:既に述べているが、大谷正信氏は英文学者であると同時に、曉石の俳号で俳句もものした俳人であった。]

 

 尙ほ斷わつて置きたい事は、本書『天の河緣起そのほか』が限行本として初めて、世に現はれた時には、フエリス・グリインスレツト氏の序文が添へてあつたのであるが、それは言ふまても無く、この全集の本文中に加ふべきものでは無いから、省いたことである。だが讀者の參考に資する處もあらうと思ふから左に逐字譯して揭げて置く。

[やぶちゃん注:「フエリス・グリインスレツト」前の田部氏の「あとがき」を参照。その原本の序文はInternet Archive”のこちらで視認でき、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらの目次の後の“INTRODUCTION”で読める。

 以下は底本では全体が二字下げポイント落ちである。]

 

 日本では小泉八雲として知られて居るラフカデイオ・ヘルンは、千八百五十年六月二十七日にアイオニア郡島の一つのリウカディヤで生れた[やぶちゃん注:原文は“Leucadia in the Ionian Islands”。既に注した通り、現在のギリシャのイオニア諸島の一つであるサンタ・モウラ島(現在のレフカダ島)の町リュカデイア(現在のレフカダ)のこと。]。父は英國陸軍に勤めて居た愛蘭土[やぶちゃん注:「アイルランド」。]生れの軍醫で、母は希臘人であつた。兩親ともヘルンがまだ子供の時分に死んだので[やぶちゃん注:大変な誤りである。或いは小泉八雲はそのように彼に書信で語っていたのかも知れない。母にも父にも捨てられたような形になった小泉八雲には、そう思うことが僅かな慰めででもあったのかも知れない。実際には父チャールズ・ブッシュ・ハーン(Charles Bush Hearn 一八一八年生まれ)は一八六六年に亡くなり(ハーン十六歳)、母ローザ・アントニオ・カシマチ(Rosa Antoniou Kassimatis 一八二九年生まれ)は一八八二年十二月十二日にギリシャのコルフ島の精神病院で亡くなった(ハーン三十四歳)。ローザの墓は小泉八雲の玄孫であられる方のごく最近の探索(その方のブログ記事。是非一読をお薦めする)の結果でも確かな所在は不明のようである。因みに彼女(小泉八雲の玄孫さん。ツイッターで相互フォローしている。若い。結婚間近)によれば、ハーンが母と最後に生き別れたのは僅か四歳、父とのそれは七歳であった。哀し過ぎる。]、ヘルンは大叔母に養はれて、僧侶[やぶちゃん注:原文“priesthood”。司祭職。]にするつもりの敎育を受けた。氏の羅典の學識と、そして疑も無く氏の微妙な理解力の或物とは、その訓練に負うて居るのである。が然し、僧侶として一生を送るといふ前途は、その穿鑿的な心と熱烈な氣質とは全く背馳したものであることを直ちに發見して、十九の歲に己が運命を開拓すべく亞米利加へ行つた。一時校正係として働いた後、シンシナティで新聞通信員として職を得た。聞もなく立身して主筆となり、四五年して『タイムス・デモクラツト』の編輯局員に加はるべくニユウオルレアンス[やぶちゃん注:ニューオリンズ。]に赴いた。此處で千八百八十七年まで暮して、その新聞に奇妙な空想的な文や亞刺比亞[やぶちゃん注:「アラビア」。]風の怪異な文を揭げ、種々な雜誌へ論文やスケツチを寄稿し、小さな珍らしい書物を幾つも出版した、そのうちに『異文學遺聞』[やぶちゃん注:前の田部氏の「あとがき」を参照。]とゴオチエの飜譯も含まれてゐる。千八百八十七年の冬、一友に書き送つたやうに、『靈感の蜂蜜を探す小さな文學蜂』なのだから、異國情趣に富んだ國への巡遊を始めた。二ケ年を主として佛領西印度で送り、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]で或る時期を文學著作に費してから、千八百九十年に或る雜誌ヘ一聯の文章を送るが爲めに日本に赴いた。その國のその驚くべき人民と、自分の氣分が非常に似て居る爲めに、竟に鄕里に在るが如き氣安い氣持を突然感じたらしく思はれる。氏は日本婦人と結婚し、その財產を確實にその家族に讓與し得らる〻やうにと、日木市民權を得、東京帝國大學の敎師となつた。そして引續き顯著な書物を幾册も世に出して、西洋世界への、日本の生活と藝術との眞精神の紹介者となつた。そして千九百四年九月の二十六日に心臟麻痺で死んだ。

[やぶちゃん注:「ゴオチエ」ピエール・ジュール・テオフィル・ゴティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)はフランスの詩人・小説家・劇作家・批評家。ハーンは母が亡くなる一八八二年(当時は『タイムズ・デモクラット』社文芸部長であった)にゴティエの“Une nuit de Cleopatre”(或る夜のクレオパトラ」。一八三八年作)をメインとした英訳本“One of Cleopatra's Nights and Other Fantastic Romances”(『「クレオパトラの一夜」とその他のファンタジックな物語集』)を刊行している。]

 

 目今蒐集中の多數の私信を除いては、この書は、雜誌のうちに、もしくは出版しても宜い程に圓熱して居る原稿のうちに、まだ自分で集めずに置いたヘルンの書き物の全部を含んで居る、が然し、 『究極の問題』と題した文章は、無瑕[やぶちゃん注:「むきず」。]なものであり、隨筆として完全なものではあるけれども、原著者は之を未完成だと思つて居た。だから原著者が生きて居たなら、その或る部分は訂正もし敷衍もしたことであらう。

 がこの一卷がその排列と修正に於て、他に比類を見ざる事、著者の精妙なタツチを缺いて居るにしても。それにも拘はらず、その最も特徵的な氣質の全部を見せて居り、また、文體にしても實質に關しても、恐らくはその諸著作のうち最も完成したまた最も有意義なものであらう。

 作者としての初年には、ヘルンはその藝術の理想をば非望的なものであるが如くに、特殊なものと思つて居たのであつた。八十年代の始に早や、氏はニユウオルレアンスからワシントンの僧ヱイランド・ボオル[やぶちゃん注:原文“the Rev. Wayland D. Ball”。一八五八年生まれで一八九三年没の牧師。]に送つた手紙(未發表の)に『古代の愛らしさを愛する者共が、長く胸に抱いて居た夢の――外國の大家を模範とし、北歐語の特徵たるあの力の要素を加へて一層力强くして、或る羅典の文體を英語で實現するといふ多年の夢の――未來の可能を自分に證明して居る。それは如何なる人と雖も完成する希望は抱けないが、一飜譯者と雖も言語の一新建築の大石工へ、自己の石を運ぶことは出來る』と述べて居る。この理想を實現するのにヘルンは間斷なしの骨折をした。氏はフロオベルとかゴオチエとかいふやうな、文體の妙手の著作に對して微細な解剖的な硏究を與へ、またその雜多な讀書にも一種特別の注意を佛つて選擇した。前述の友に更に再び書いて居る、『想像力に對して强い印象を與ふることをしない書物は決して一册も讀まぬ。が、斬新な、奇妙な、有力な譬喩を含んで居るものならば、題目の如何に拘はらず、どんな書物でも讀む。空想の土壤が無數の落葉に依つて實際に豐饒にさる〻時は、言語の花は自づと咲き出る』斯う言つて居る。最後にテクニツクの困難にまた、絕大な然し分別のある讀書に加ふるに、創作の長い思惟思案の時間を以てした。その日本の友人の雨森信成に、啻に文學的作文についてだけでは無く、廣く一般の藝術についての深い說が、それに含まれて居る文句を書き送つた。斯う言つて居る、――

[やぶちゃん注:「雨森信成」(あまもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでW・E・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『M・N・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

「さて君が書いたスケツチ、若しくは物語について、君がそれに全く不滿足を感ずるのなら、それ は恐らくは君が想うて居るものに――表現の不完全に――基くのでは無くて滯在して居る或る思想或ひは情緖なりが君の心の中で、充分にきつかりと、まだ形を成して居らぬといふ事實に基くのであらうと自分は思ふ。君は或るものを感じて居て、その感情を表現することが出來ないのである――その出來ないといふのは、それが何であるかをまだ十分に君が知つて居ないからのことで、他の原因は無いのである。我々は感じて居るとは知らずに物を感ずるもので、また我々の最も力强い情緖は最も漠とした言ひ述べ難いものである。それはさうしなければならぬ理由(わけ)のもので、さういふ情諸は感情の祖先傳來の集積であり、その多種多樣は、――一つの上へまた他の一つが重なつてそれをぼやかし、その力は異常に增大させながらも、それを朧にするからである。……無意識な頭腦作業がそんな潛在的感情或ひは思想を開展するに一番好い作業である。ゆつくり構へて幾度も幾度もその文を書いて居ると、その感情或ひは思想がその過程中に自づと――無意識に――開展することを自分は見て居る。それから又、漠然たるまゝで居るその感情を解剖しようと力める[やぶちゃん注:「つとめる」。]ことが時に屢々價値ある事業である。我々の心を動かすものは何であるか、それを正(まさ)しく理解しようとする努力は吽に成功を齎らす。……君が若し何かの感情を――何んでも構はぬ――心の中に强く潛んで居る(一寸入つて來た或る悲しみでも、理由(わけ)の分らぬ喜びでもいゝ)何かの感情を有つて居るなら、それは表現が出來るものだと確信して宜い。固より、或る種の感情はそれを開展するのは困難である。近日、君と相會ふの日、その思想が明白に頭へ來るまでに數月間自分がそれを書いた一頁を君に見せよう。……最上の結果が出て來ると、君はそれに驚くに相違無い。我々の最上の作品は無意識から出來て來るからである』

 こんな硏究と讀書と長時の思索とに依つて、ラフカディオ・ヘルンの散文は、終焉の日まで着々と圓熟して行つた。手際だけを言つても、この一卷はその最も歎賞すべき作品の一であつて、『天の河緣起』の最後の一節の如き、調の高まつた文句の處では、その豐麗な陰欝な音樂、その深甚な暗示は、最も偉大な英圖散文のほか、容易に之に匹敵するものを見出し得ぬものである。

 實質に於てもこの一卷は同じく意義に富んだものである。千八百八十四年、氏はその親友の一人へ手紙を書いて、ハアバフト・スペンサアのものを讀んだが爲めに、一切のイズムが心から消え去り、偉大なる疑の漠たる然し萬能な慰藉を得て、理智的に自分の地步を遂に發見し得たと、言つて居る。だから本書中の『究極の問題』――これは言はゞ、本書の屬和絃を打つて居るものであるが――の一文に於て我々は、スペンサアの哲學と心理學との氏への意味の殆んど抒情詩的な表現を有つて居るのである。それには、英國と佛國との心理學と、佛敎と神道との思想との氏獨自の混和があり、氏の著作では、氏自らその書翰の一つに言うて居るやうに、『單に旨く混合して居るのではなくして、化學元素の如くに絕對的に結合して、或る衝動を以て突進し合うて居る』音調がある。そしてこれに於て氏はその最も深い音を出して居るのである。途方も無く大きな科學界を包んで居る恐怖についての氏の堅實な熟視に於て、古い神話と迷信とを喚び起し復活し、その魔力に依つてあの底知れずの暗黑の上へ、消え失せた幾多の太陽の一點の靈光を投ずる氏の力に於て、氏は近代作家のうちでもリユウクレシヤ風な作家であつた。

[やぶちゃん注:「本書の屬和絃を打つて居るもの」原文は“the dominant chord of this volume”で、「本篇の持つ支配的なコード(比喩的な音楽的主調主題を支配する感情表現)」の謂いのようである。

「リユウクレシヤ風な」原文“Lucretian”で「ルクレティウス風の」の意。ティトゥス・ルクレティウス・カルス(ラテン語:Titus Lucretius Carus 紀元前九九年頃~紀元前五五年)は共和政ローマ期の詩人で哲学者。エピクロスの思想を詩「事物の本性について」に著した。ウィキの「ルクレティウス」によれば、『エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説』し、『説明の付かない自然現象を見て恐怖を感じ、そこに神々の干渉を見ることから』、『人間の不幸が始まったと論じ、死によってすべては消滅するとの立場から、死後の罰への恐怖から人間を解き放とうとした』。全六巻七千四百行から『なる六歩格詩』「事物の本性について」(ラテン語::De rerum natura)を『著して』、『唯物論的自然哲学と無神論を説いた』とある。]

 外貌では、人としてのヘルンは何等人好きのする男では無かつた。氏の日本人友達の一人が千九百五年十月のアトランティツク誌に描いた、輪廓のきつかりした氏の肖像では、『晚年には稍や肥滿してゐて、丈が低く、せいぜい五呎[やぶちゃん注:「フィート」。一メートル五十二・四センチメートル。]、步く時少し屈み氣味。顏色は少し褐色を帶び、どちらかと云へば毛深い皮膚、細い、尖つた鷲鼻、大きな飛び出た眼、それもその左は盲目で、右は非常な近眼』であつた。

 さう書き送つた雨森信成は、人としてのヘルンで無く、天才としのヘルンの憶ひ出を書いて居る。氏の最後の著作への此の序言を、それで結ぶのは當を得て居るかと思ふ。『初めて氏の宅で一と晚泊つた時に見た生き生きとした憶ひ出は、自分は永久に失はぬであらう。自分も亦遲くまで起きて居る習慣なので、その晚床へ入つて本を讀んだ。時計は朝の一時を打つた。が、ヘルンの書齋に明(あかり)がして居る。低い、嗄れた咳聲がきこえる。自分は我が友が病氣ではないかと氣遣つた。そこで自分は部屋から出て、友の書齋へ行つた。が然し、若し仕事をして居るなら、邪魔をしたくなかつたから、用心してほんの一寸戶を開けて、覗いて見た。友はその高い机に向つて、鼻を紙に觸れぬ許りにして、切りと[やぶちゃん注:「しきりと」。]書いて居るのが見えた。一枚一枚と書いて行く。暫くして友は頭を上げた。その時自分は何を眼にしたか! それは自分が能う[やぶちゃん注:「よう」。]知つて居たヘルンでは無く、別なヘルンであつた。その顏は不思議なほど白く、その大きな眼は光つて居つた。まるで何か此世ならぬものに接して居る者の如くであつた。

 その平凡らしい顏した男の裡に、魔神の火の娼き純潔な或る物が燃えて居たのであり、そしてその炎の中に、塵土の裡から生と詩とを呼び出し、人間の思想の最高な題目を捉へる心が住まつて居たのである』

 

      大正十五年六月   大谷正信

 

[やぶちゃん注:雨森のそれは鬼気迫るものを感じさせる貴重な引用である。なお、ブラウザの不具合を考えて最後の署名は底本の字配を再現してはいない。

 以下、底本では「第八卷要目索引」とあって、英文標題と献辞と邦訳が並んであり(ページ数は無表記)、その後に「小泉八雲全集第八卷飜譯分擔」の表(各篇和名標題のみ)があって、奥附となるが、総て略す。因みに、底本本文前の目次以前の扉標題なども略した。それらを除いて、底本「家庭版 小泉八雲全集」第八巻は、その総てをこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で電子化したこととなる。底本の本文冒頭「骨董」の「幽靈瀧の傳說」に手を染めたのが、一月余り前の九月四日であった。他の一切の電子テクストをほぼ完全に停止して一ヶ月、「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」の三作品集のオリジナル電子化注を完成し得たのは、私のブログやサイト史の中でも特異点の速さであったと言ってよい。この一ヶ月、台風で家の斜面の五メートルの枝垂桜が根っこからなぎ倒され、斜面が赤裸になり、屋根が飛ばされ、つらいことばかりであったので(四十年振りの友との再会の一時だけが幸せだった)、私は私だけに私独りで褒めてやりたい気がしている。小泉八雲の電子化注は向後も孤独に続ける覚悟である。

昭和一二(一九三七)年一月第一書房刊「家庭版 小泉八雲全集」(全十二巻)第八巻の田部隆次氏の「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は、本ブログ・カテゴリ「小泉八雲」で小泉八雲の後期の作品集「骨董」「怪談」「天の河緣起そのほか」三作の全電子化注の底本とした(英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落として視認した)、第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻の「あとがき」である。本巻の訳者は田部隆次・大谷正信・戸川明三の三氏であるが、「あとがき」は田部・大谷氏に二名のみである(戸川氏は「耳無芳一の話」・「貉」・「葬られた祕密」の三篇のみの担当であったので、恐らく「あとがき」は辞退されたものと考えられる)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 一部にごく簡単に注を附し、読者の便を考慮し、特異的に本文内に各話その他へのリンクを初出部に設けた(リンクの関係上、一部で半角空けを行った)。

 

 

  あ と が き

 

 『骨董』も『怪談』も原著者ヘルンが命名して、その漢字も同時にのせた原名そのままである。

 『骨董』は明治三十四年[やぶちゃん注:一九〇一年。]、書肆マクミランからロンドンとニユ^ヨークとで同時に出版された。マクミランの方でヘルンが送つた墓地の寫眞「獏」の繪の外に、當時在英の日本畫家伊藤氏、片岡氏などの繪を多く入れたので、ヘルンは甚だ喜ばなかつたと云はれる。この集中には以前雜誌に揭載されたものは一篇もなく、何れも始めてこの單行本に於て發表されたものばかりである。

[やぶちゃん注:「伊藤氏」この謂いからすると、各話の前後に配された絵を描いた、佐賀有田の生まれの画家江藤源次郎(えとうげんじろう 慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)の「江藤」の誤りである。ウィキの「江藤源次郎」にも、はっきりと『画家として生計を立てるのは楽でなく、絵画も高い値で売れないため、彼は日本関連の小説の挿絵画家としても活動した』とし、『ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著「骨董」の挿絵など多数ある』と明記されてある。しかも田部の謂いには別な誤りがあり、彼は『在英』ではなく、「在米」でなくてはならないのである(彼は二度遊学しているが、孰れもアメリカである)。小泉八雲が意志に反して挿入された彼の挿絵を「甚だ喜ばなかつた」というのは少し意外ではあった。確かにしかし、予期せぬ絵図が作品のイメージを捻じ曲げてしまう危険性を持つことを考えれば、当然とは言える。例えば人物などが読む前からそれで固着されてしまうのは小泉八雲にとって堪えられぬことであったには違いない。

「片岡氏」不詳。しかし、だとすると、「餓鬼」に配された、私が「貞景」と判読した(初代歌川国貞の門人で江戸後期の浮世絵師)、この絵しかない(或いは表紙絵か?)。識者の御教授を乞う。]

 「古い物語」中、出所の今分つて居るものでは、「幽靈瀧」「忠五郞のはなし」は、「文藝くらぶ」第七卷中の諸國奇談のうち、「茶碗の中」 「生靈」 「蠅のはなし」(大谷氏譯)は「新著聞集」、「常識」は「宇治拾遺物語」、「おかめのはなし」は「新選百物語」から取つてある。材料はこれによつたと云ふだけで、その實殆んど全くこれを改造して居る事は云ふまでもない。

 「茶碗の中」の如きも原文は一ペーヂにも足らぬ筋書のやうだが、纏まつた話であるのを、ヘルンはあの通り、作り直した。「おかめのはなし」の女主人公も原文によれば、嫉妬深い怒り易い、生前より死後に到るまで、夫を苦しめ通した惡女の標本のやうな女で、原作者はびどくこれを憎んで居る。その題も「嫉妬にまさる梵字の功力」と云ふ佛敎經文の有難さの宣傳めいて居るが、へルンの英譯の讀者は、この若くして死んだ不幸なおかめに同情をこそすれ、どうして憎めよう。

 「或女の日記」は、その記者であつた不幸な婦人の亡くなつたあとへ行つた後妻が、以前小泉家の奉公人であつたため、先妻の針箱で發見したこの日記を小泉夫人に示したのであつた。のちヘルンは夫人と共にこの人の墓に詣でた。もとより原日本文のたどたどしいものである事は、所々にある文章、歌、發句で分るが、ヘルンに取つてこの日記が興味のあるものであつたと同じく、西洋の讀者にも深い感動を與へて、本當の「ヒユマン・ドキユメント」と云はれたものであつた。原英文には脚註非常に多く、「三々九度」「相合傘」等の說明まで詳しく出て居るが、日本の讀者に必要でないものは多く省略した。

 「露の一滴」は佛敎の世界觀、「默想」は母性愛に關する考察、「眞夜中」は死に關する考察。「餓鬼」 「草雲雀」(大谷氏譯)「病理上の事」の諸篇はヘルンの哲學に深い根底を有せるヘルン獨步の小品、世界の何人もこの人の墨を摩するものはない。

[やぶちゃん注:「墨を摩する」(すみをまする)は「同等のレベルすれすれになるほど近づく。迫る。接近する」の意。]

 「尋常の事」に出て居る老僧は、當時牛込區富久町八番地臨濟宗妙心寺派道林寺の住職であつた丹羽雙明師の話によつたものである。この人當時七十歲前後、その閱歷は小說のやうであつた。卽ち文久三年[やぶちゃん注:一八六三年。]二月師が京都等持院の僧であつた時、浪士、伊豫の人三輪田綱一郞(女子敎育家三輪田眞佐子の夫)、江戶の人師岡節齋、會津の人大庭恭平等、平田篤胤の多くの門人と共に數十人相謀つて、その寺院に押入り、そこに安置してあつた足利尊氏、義詮、義滿の木像の首を斬つて三條大橋に梟け[やぶちゃん注:「かけ」。]、同時に勤王の宣言を出すと云ふ事件が起つた。そのためかどうか、師は等持院を去り還俗して裁判官となつた。東京で「高橋お傳」の裁判をもした。その後又僧籍に戾つて、終に道林寺の住職となつたが、師の前に中原南天棒師が、この寺の住職であつた。雙明師は學者であり、又詩人であつた。詩は淡窓門下の第一人であつたと云はれる。大正元年八月八日、八十三歲で遷化した。この雙明師から材料を得たと思はれるもの、ヘルンの富久町時代の作の所々に散見する。

[やぶちゃん注:「牛込區富久町」現在の東京都新宿区富久町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。既に注した通り、小泉八雲の東京での最初の五年間の旧居があった町である。

「道林寺」昭和二〇(一九四五)年の空襲によって堂宇及・伽藍を消失し、現在は東京都町田市相原町に移転している。

「丹羽雙明」詳細事蹟は田部の以上の記載以上のものを見出せなかった。

「等持院」現在の京都市北区等持院北町にある臨済宗萬年山等持院。足利氏の菩提寺で、足利尊氏の墓所としても知られる。以下に語られるのは「足利三代木像梟首事件」で、文久三(一八六三)年二月二十二日のこと、等持院にあった室町幕府初代将軍足利尊氏・第二代将軍義詮(よしあきら)、第三代義満の木像の首と位牌が奪取され、賀茂川の河原に晒された事件。足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現したもので、幕末の尊攘運動の一つであったが、京都守護職にあった会津藩主松平容保は厳重な捜査を命じ、同年八月、犯人は概ね捕縛され、処刑された(お預け・幽閉を含む)。詳しくはウィキの「足利三代木像梟首事件」を見られたい。

「三輪田綱一郞」三輪田元綱(文政一一(一八二八)年~明治一二(一八七九)年)は幕末・維新期の勤王家。通称、綱一郎。伊予生まれ。伊予松山日尾八幡祠官の子。京に出、大国隆正に学び、国学を修め、勤王の志士となって活動した。本事件に関わり、但馬国豊岡に幽閉された。慶応三(一八六七)年(明治元年前年)に放免され、維新後は神祇権少祐から外務権大丞を歴任した。贈従五位。

「三輪田眞佐子」(天保一四(一八四三)年~昭和二(一九二七)年)は明治・大正期の女子教育者。京の儒医宇田栗園(りつえん)の娘。明治二(一八六九)年、三輪田元綱と結婚したが、十年後に死別、明治一三(一八八〇)年に松山で「明倫学舎」を設立した。明治二〇(一八八七)年、上京して「翠松学舎」を開き、漢学を教えた。明治三五(一九〇二)年、「三輪田女学校」(現在の「三輪田学園」)を創立し、良妻賢母教育を教授した。著作に「女子の本分」など。

「師岡節齋」師岡正胤(もろおかまさたね 文政一二(一八二九)年~明治三二(一八九九)年)は国学者・勤王家で医師。通称は豊輔、節斎は号。ウィキの「師岡正胤」によれば、江戸の医家の子として生まれた。京で大国隆正に国学を学んだのち、嘉永五(一八五二)年に江戸「気吹舎」の平田銕胤(かねたね:平田篤胤の養子)に『入門して「篤胤没後の門人」となった。幕末期には同門の有志とともに尊王攘夷運動に奔走し、常に銕胤の近くにあって、さまざまな江戸情報を銕胤にもたらした』。『正胤の妻の兄が若年寄加納久徴(上総国一宮藩主)の取次頭取だった関係上、江戸幕府の内部情報を入手することができたのであ』った。本事件の主犯者の一人であったが、『正胤は厳刑に処せられるところを』、『公卿や土佐藩主・長州藩主などの計らいで』、『信濃国上田藩に禁固』六『年の身となった』。慶応三(一八六七)年の「王政復古」の大号令ののちは、『赦免され』、『新政府に出仕し、刑法官から監察司知事・弾正台大巡察などを歴任した』明治六(一八七三)年には、『京都松尾大社の大宮司となり、神道の振興に力を注いだ』。『なお、幕末から明治維新にかけての正胤は島崎藤村の小説『夜明け前』に、主人公青山半蔵(藤村の父島崎正樹がモデルとされる)の同志として実名で登場している』。後、『宮内省文学御用掛』や『伊勢神宮の本部教授となり、愛媛皇典講究所教授も務めた』。また、娘の師岡千代子』(明治八(一八七五)年~昭和三五(一九六〇)年)『は、社会主義者幸徳秋水の』二『度目の妻(のちに離縁)であ』ったとある。最後の一節はクるものがある。

「大庭恭平」(おおばきょうへい 天保元(一八三〇)年~明治三五(一九〇二)年)は会津藩密偵ウィキの「大庭恭平」によれば、文久二(一八六二)年に藩主松平容保が『京都守護職に任じられて上洛すると、これより先に上洛』した。『会津藩の重臣である田中玄清や野村左兵衛の密命で』、『浪人となって京都で活動する過激派の攘夷浪人の監視を行なうためだったとされている』。ところが、本『事件が起こり、大庭も犯人の』一『人であったため』、『捕縛されて信濃国上田藩に流罪となった』。慶応四(一八六八)年から「戊辰戦争」が『始まると』、『新政府軍は、大庭を釈放した』。『大庭は古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊に加わり』、『各地で戦功を立てた。会津藩が劣勢になると』、『仙台に赴き』、『援軍を願い出るが、既に仙台藩に戦闘の意志はない。そのため、同盟を結んでいた庄内藩へ赴き』、『会津藩救済を願い出る。だが、逆に庄内藩により牢獄へ送られ』、『越後高田に謹慎処分となった』。『会津藩が敗れると』、『死者の埋葬など』の『戦後処理に尽力し』、『会津藩は戊辰戦争で新政府により改易とされたが、大庭は会津藩の再興に尽力したという後年の逸話が広ま』った。明治三(一八七〇)年、『斗南藩として再興が認められると、刑法掛として出仕した』。『明治政府においても』、『多くの官職には就いたが、退職し、函館で隠棲生活を送った。晩年は室蘭にいる弟のもとで過ごしていたという』とある。

「高橋お傳」(嘉永五(一八五二)年~明治一二(一八七九)年)は上野国利根郡下牧村(現在の群馬県みなかみ町)の高橋九右衛門の養女。慶応三(一八六七)年、九右衛門は高橋波之助を婿養子にしたが、お伝はハンセン病にかかった夫を毒殺したとされ(事実誤認。後述)、その後、浅草蔵前の宿屋で古着商の後藤吉蔵を剃刀(かみそり)で殺害して金を盗み、間もなく捕えられ、市ヶ谷監獄内の刑場で斬首された。その生涯は仮名垣魯文作「高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)」(刑死直後の出版)や河竹黙阿弥作の新作歌舞伎「綴合於伝仮名書(とじあわせおでんのかなぶみ)」(刑死四ヶ月後の五月に新富座で初演)など、多くの読み物で世人の好奇心をそそり、彼女の名は「悪女」「毒婦」の代名詞とされてしまった。しかし実際には夫は病死であり、後藤の殺害も相手に非があった。その辺りはウィキの「高橋お伝」に詳しい。「お伝さん」の復権のためにも是非読まれたい。]

 「夢を食ふもの」の記事は、夫人が上野帝室博物館で、偶然「獏」と云ふ字のある三代將軍家光の枕と云ふものを見て歸つて、獏の夢を食ふ話、こはい夢を見たら獏に食はせる事、或は出雲の傳說によつて南天に喰べて貰ふ話などをしたのが發端であつた。しかしこの篇の初めにある魔の記事は夫人の記憶によれば、當時何かと材料を提供してくれた出雲の人、折戶德三郞(今は故人)と云ふ逓信省の官吏など務めた人から得たものであつた。

[やぶちゃん注:「折戶德三郞」詳細事蹟は私は不詳だが、中井孝子氏の博士学位論文「ハーンのミューズ―「暗号」解読の試み―」(名古屋大学大学院国際言語文化研究科国際多元文化専攻。PDFでダウン・ロード可能)によれば、この人物は小泉八雲の英訳翻訳の重要な協力者の一人で、しばしば小泉八雲の英訳の下書きをして手伝っていたこと、長谷川洋二氏(この方は私の教員の新米時代の同僚の世界史の先生であった)が『「お化けの歌」の英語の下訳が折戸徳三郎であると認めている』とあり、さらに、小泉八雲の長男小泉『一雄の証言では、折戸は表立つことが嫌いで誠実な人柄であった。彼の英訳の、アシスタントとしての「骨折った箇所」が大谷正信の「手柄」として横取りされているとする』とさえあり、さらに『折戸が、1890年』(明治二十三年)『ころから』、『ハーンの民話蒐集に協力し、1895年ころから』は『英訳を提供し』ていたともある人物である。]

 『怪談』は明治三十六年[やぶちゃん注:一九〇三年。但し、これは翌明治三十七年の誤りである。]四月、米國では書肆ハウトン・ミフリン、英國では書肆キーガン・パウル・トンンチ、兩方で出版になつたもの。そのうちの二篇「耳無芳一の話」及び「安藝之助の夢」は少し以前雜誌「大西洋評論」に掲載された。

[やぶちゃん注:「英國では書肆キーガン・パウル・トンンチ」ロンドンの“Kegan,Paul,Trench & Harper”。但し、こちらは英文書誌データを見る限りでは小泉八雲死後の一九〇五年の刊行。

「大西洋評論」“Atlantic Monthly”。一八五七年にマサチューセッツ州ボストンで、同題の文字通り月刊誌として発刊し(当初は奴隷制廃止を掲げた政治的総合文芸雑誌であった)、現在も“The Atlantic”として続いている。英文ウィキの「The Atlanticを参照されたい。]

 「耳無芳一の話」(戶川氏譯)は「臥遊奇談」卷二「琵琶の祕曲、幽靈を泣かしむ」と題するものによつた。この種の話は「骨董」のうちの「おかめのはなし」と同じく佛敎殊に經文の功德を宣傳したもので、日本では時々見られる物語の一つであるが、へルンの靈筆によつて非常に鮮やかなものになつて居る。

 「貉」(戸川氏譯)は「百物語」第三十三席御山苔松と云ふ人の話によつたもの。原文では貉(むじな)でなく、河獺(かはうそ)になつて居る。その他の點でも違つた處はある。

 「葬られたる祕密」(戶川氏譯)は「新選百物語」によつたもの。原文ではその題に「紫雲たなびく密夫の玉章」とある通り、數十通の密書をかくしてあつた事になつて居るが、英譯では只一通になつて居る。

 「姥櫻」 「十六日櫻」共に「文藝くらぶ」第七諸國奇談から取つたもの。「お貞のはなし」 「鏡と鐘」は「夜窻鬼談」から取つてあるが、前者は、二三の點を除けば殆んど別のものとなつて居る。たとへば、原漢文では杏生と阿貞の關係は、初めは客と妓であり、後には旦那と思ひものであるが、へルンの英譯では、長生とお貞の關係ははるかに美しいものとなつて居る。

 「食人鬼」は「佛敎百科全書」、「ろくろ首」は「怪物輿論」、「靑柳のはなし」は「玉すだれ」より取つてある。「雪女」へルンの序文にある通り、小泉家へ出入した東京府西多摩郡調布村の農夫から聞いたものであつた。

 私はここにヘルンが、これ等の材料を如何に改造し「換骨奪胎」して居るかの一例として「古今著聞集」にある「をしどり」の原文を轉載して讀者の參考に資したい。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げでポイント落ち。田部はかなりの部分を漢字表記代えており、読みも殆んど振っていないので、私が原本通りに電子化したものより、却って読み易くなっている。]

 

 陸奥に田村の鄕の住人、馬允(ばぜう)なにがしとかや云ふ男鷹を使ひけるが、鳥を得すして空しく歸りるに、赤沼と云ふ所にをしどり一つがひゐたりけるを、くるりをもちて射たりければ過たず雄烏に中りてけり。をしどりをやがてそこにてとりかひて、ゑがらをはゑぶくろに入れて家に歸りぬ。その次の夜の夢にいとなまめきたる女の小さやかなる、枕に來てさめざめと泣きゐたり。あやしくて何人のかくは泣くぞと問ひければ、咋日赤沼にて、させるあやまりも侍らぬに年比の男を殺し給へる、悲しびに堪へずしで參りて憂へ申すなり。この思ひによりて我身もながらへ侍るまじきなりとて、一首の歌をとなへて泣く泣く去りにけり。

  日くるればさそひしものをあかぬまのまこもかくれのひとりねぞうき

あはれに不思議に思ふ程に中一日ありて後ゑがらを見ければ、ゑぶくろにをしの雌鳥の腹をおのがはしにて貫きて死にてありけり。これを見てこの馬允やがて髻(もとどり)を切りて出家してけり。この所は前刑部大輔仲能朝臣が領になん侍るなる。

 

 隨筆のうち、「力ばか」はその頃、富久町にその名の白痴の少年がゐたが、その死後、小泉家へ出入の女髮結が來て話した通りを、薪屋の老人の話に擬して書いたもの。生れかはりと云ふ考は色々の形式となつて、日本人のうちに生きて居る事は事實である。

 「日𢌞り」はヘルンの傳記者に取つて有雖い參考になる。

 「蓬萊」は、谷中の美術院の展覽會で買つた蓬萊と題する掛物を眺めながらなした述懷である。

 

 『天の河緣起そのほか』中の「小よりも奇」は、ヘルンの草稿には A Forgiveness(罪を赦す)とあるが、後改めたものらしく察せられる。佛領西印度マルテイニーク島追懷の記事の二つ。サンピヱールを發して島を橫斷したのであつた。フローラン夫人の話はヘルンが夫人にも話した事のある事實談。

[やぶちゃん注:「サンピヱール」Saint-Pierre(サン・ピエール)は西インド諸島のフランス領マルティニーク(Martinique)島にある村。嘗てはマルティニークの県庁所在地だったが、一九〇二年(「骨董」と「怪談」の間である。小泉八雲はその知らせをどう感じたであろう)のプレー山(Montagne Pelée)の火山噴火による火砕流により、ほぼ完全に崩壊してしまった。死者は約三万人、陸上にいた人で生存者はわずか三人だけであったという。 噴火後、マルティニークの県庁は当時は小さな村でしかなかったフォール=ド=フランス(Fort-de-France)に移された。参考にしたウィキの「サン・ピエールマルティニークによれば、『プレー山の噴火が一段落した後』、『復興・再建はされたものの、県庁所在地という政治・経済・文化・交通の中心的地位を失ったこともあり』、『以前のような繫栄を取り戻すことはできなかった』とある。]

 最後に、ヘルンの最初の作『異文學遺聞』より最後の作『天の河緣起そのほか』に到るまで、到る所に散在せるが、殊に『骨董』『怪談』に到つて、その絕頂に達して居る怪談について一言したい。

 これ等の怪談の或者は、單に超自然的であり、不思議であると云ふ理由で、(たとへば「ろくろ首」の如き)、或者は輪𢌞の說から來て居るので、(「雉子のはなし」の如き)、又、或者は人間の魂が蝶になつたり、樹木の魂が人間になつたりして(「安藝之助の夢」「靑柳のはなし」の如き)へルンの所謂萬有は一と云ふ思想を表はしてゐるので、――それぞれヘルンの興味をそそつた。しかし、日本の怪談に最も多いから、ヘルンが最も多く取つたものは、執念、念力、殊に最後の一念から起つた怪談である。ヘルンはこれ等の怪談を以て滿足せず、更にそれを說明するために、「術數」の一篇を書いて居る。ヘルンに隨へば、「異常の念力をもつて死ぬ人、殊にその念力をもちながら自殺をする人の魂は、超自然的な力を有する」事になると云ふのが日本人の考方[やぶちゃん注:ママ。]である。卑近な例を見ても、或病にかかつて死んだ人は、その病氣を直す力のある神になる事がある。その理由は、その人の最後の一念はその病を直す事であつたからである。

[やぶちゃん注:「異文學遺聞」小泉八雲(当時は Patrick Lafcadio Hearn)が一八八四年(アメリカ在)、三十四歳の時、初めて翻訳でなく創作し刊行した “Stray Leaves from Strange Literature”(「奇妙な文学から迷い落ちた葉たち」。何故か、現行では「飛花落葉集」(平井呈一氏のお洒落な意訳か)という訳で出回っている)。]

 その外、これ等の怪談に表はれて居る民間信仰や俗說に對してヘルンは何と考へたであらうか。ヘルンの言を借りて云へば「凡て迷信であれ何であれ、禮拜信仰と云ふ一般思想には愚かな、をかしい分子などは少しもなく、何れも凡て人類が絕對的無限の方へ進まうとする眞面目な感心な向上心を表はしたもの」である。それでヘルンは敬虔なる態度を以て、これらを取扱つて、その背後にある美はしい思想、不思議な精神を眺めて居る。

 それからヘルンは「小說に於ける超自然の價値」と云ふ題の講義のうちにかう云つて居る。「……凡て大藝術にはそのうちに何か靈的な分子がある。……詩人や小說家にして時々讀者に多少怪談的興味を與ふる事のできない人は、決して眞に偉大なる作者でも偉大なる思想家でもない。……」

 

 

     *

 

 なほ『怪談』が出版になつた時、つぎの序文が添へてあつた。ハウトン書肆の顧問文士グリインシレツト氏のものかと思はれるが署名はない。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は凡そ二字下げポイント落ち。この原本原文はInternet Archive”のこちらで視認でき、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらの目次の後の“INTRODUCTION”で読める。最後に“March, 1904.”のクレジットは附されてある。

「グリインシレツト氏」フェリス・ロウェル・グリーンスレット(Ferris Lowell Greenslet 一八七五年~一九五九年) はアメリカの編集者にして作家で、 一九〇二年以降、彼は先の「ホートン・ミフリン社」の文芸顧問兼編集者を延べ五十二年(途中で離任期間が有る)に亙って続けた。]

 

 ラフカデイオ・ヘルンのいみじき日本硏究の新しいこの書物が、偶然世界が日本戰鬪艦最近行動の消息を、緊張せる期待をもつて待つて居る丁度その月に出版された事は、きはどい不思議な𢌞り合せである。ロシヤと日本の現在の戰爭の結果はどうなつても、西洋の武器で武裝して、西洋の意力で身構へした東洋の一國民が、西洋の一大强國に對して愼重に爭つて居ると云ふ事實に意味がある。こんな戰爭が世界の文明に及ぼす結果を豫言する事は、如何に聰明な人にもできない。ただ精々できる事は、目下の戰爭に關係ある複雜なる諸問題の單なる政治的及び統計的の硏究によらないで、むしろこの兩種族の心理を基として、そこに望みと恐れを置いて、できるだけ聰明に、この戰爭に從事せる兩國民の國民性を評價する事だけである。ロシヤ人は數十年に渡りて、歐洲の聽衆を心酔させた文學上の代辯者をもつてゐた。これに反して日本人はツルゲニエフやトルストイのやうな、そんな國民的な、そして世界的に認められた人物をもつてゐない。

 東洋の如何なる種族のうちにも、ラフカデイオ・ヘルンが私共の言葉に日本を飜譯する際に用ゐたよりも、もつと完全な天賦の洞察と同情をもつた、代辯を有した種族がいつかあつたとは思はれない。ヘルンが日本に於ける長い滯在、適應性に富んだ心、詩的想像力、及び驚くべく透明な文體は、文學的事業のうちの最も取扱に注意を要するものに彼を適任ならしめる。彼は驚くべきものを色々見て居る。それを驚くべき文體で語つて居る。現代日本の生活の如何なる點でも、ロシヤとの現在の衝突に關係ある社會上、政治上及び軍事上の問題のどの分子と雖も、彼がアメリカの讀者を喜ばせた著書のうちのどの書物かに明瞭にしてないものは一つもない。

 ヘルンは『怪談』の特色を「不思議な事の硏究と物語」として居る。この書物から想起される事は非常に多い。しかしその大多數はこの不思議と云ふ事實で始まり、又終るものであらう。目次で題名を讀んだだけでも、どこか遠く雛れた處でつかれた梵鐘を聞くやうである。物語の或ものは餘程古いものであるが、それでも目下日本の巡洋艦の甲板に群がつて居る小さい人々の魂と心そのものを照らして居るやうである。しかし物語の多數は、婦人小兒に關して居る、――それは世界で最も良いお伽話が織出されたやさしい材料である。この日本の乙女と妻と、鋭い眼の黑い髮の少女と少年、これ等も亦不思議である。彼等は私共と似て居ると共に、又似てゐない、それから空も丘も花も皆私共のと違つて居る。それでも私共に取つて實在でない世界をやさしく透明に靈的に描寫する事に於て、現代作家のうちの殆んど唯一人であるヘルン氏の魔法のやうな文體によつて、精神的實在と云ふ忘れられない感じを與へられる。

 一九〇三年二月「大西洋評論」にパウル・ヱルマ・モーア寄稿の洞察のある美しき論文に於て、ヘルン氏の魔術の祕訣は、彼の技術に『三種の相集まれるもの』があると云ふ事實によると云つてある。『印度の宗敎的本能――特に佛敎――それを歷史が日本の美感に植ゑつけたが、それに對するにヘルンは西洋の科學の解釋精神を以てして居る。それでこの三つのあり來りのものは、彼の心の特別の同情によつで融合されて、一つの豐富な珍奇なもの――以前に知られない一種の心理的感情を文學の方面に紹介した事になる程、それ程稀れなものになつて居る』モーア氏の論文はヘルン氏に認められ、又感謝されて、甚だ高い賞讚を受けた。それでもしここにそれを轉載する事ができるものなら、これ等古い日本の新しい物語の最も啓發的な總論になる事であらう。それ等の物語の正味はモーア氏の云ふ處によれば『印度の物すごき夢と日本の微妙な美と歐洲の假借しない科學とを甚だ不思議に混交した』ものである。

[やぶちゃん注:「パウル・ヱルマ・モーア」Paul Elmer More(一八六四年~一九三七年)アメリカのジャーナリストで評論家。英文ウィキが存在する。]

 

      大正十五年六月   田部隆次

 

[やぶちゃん注:なお、ブラウザの不具合を考えて最後の署名は底本の字配を再現してはいない。「大正十五年」は一九二六年。]

ブログ1270000アクセス突破記念 小泉八雲 日本からの手紙  (大谷正信訳) / 作品集「天の河緣起そのほか」全オリジナル電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A LETTER FROM JAPAN”は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の掉尾に配されたものである。但し、底本最後の大谷氏の「あとがき」(後に電子化する)では本篇は附録と認識されてある。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。標題に添えられたクレジットは底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した。

 なお、本篇は本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがつい先ほど、1270000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年10月8日 藪野直史】]

 

 

  日本からの手紙

 

     東京、千九百四年、八月一日。

 

 緑の平和を破るものは、ただ、遊んで居る子供等の聲と、蟬の鋭い啼き聲だけの、この閉靜な町外づれの此處にいては、總計五十萬人以上の軍隊の間に、近代の最もすさまじい戰爭の一つが、三四百哩[やぶちゃん注:一マイルは約千六百九メートル。四百八十三~六百四十四キロメートル。]離れた處で、今、進行中であること、或は、彼我兩土の間なる海上で一百の戰艦が戰つたといふことを想像するのは困難である。西洋列國中、その最も强大なものと、今なほ精力旺盛な人の多くが懷ひ出せる頃に、やつと西洋の科學を硏究し始めた一國民との間のこの爭鬪は、少くとも一方にとつては、國家の存亡にかかはる爭鬪である。已むを得ぬものであつた、此戰鬪は。或は延期は出來たかも知れぬが、確かに避けることの出來ぬものであつた。東洋と西洋との兩文明を同時に脅やかし得る帝國に――力弱くこれを阻まなければスカンデイナビアを幷呑し、支那を左右する將來を有つて居るやうに思へる、中世建設の一强國に――日本は大膽にも挑戰した。あらゆる工業的文明に對して、この爭鬪は非常に重大なものである。――日本にとつては、恐らくは、その國民的生命の無上の危機である。ところが、日本の艦隊、日本の陸軍が何をして居るか、これは世界は十分に報道に接して居るが、その國民が内に在つて何をして居るかに就いては、筆に上つて居るものは甚だ少い。

[やぶちゃん注:添えられたクレジットは日露戦争(明治三七(一九〇四)年二月八日から翌年九月五日まで)の最中で、旅順攻囲戦(同年八月十九日から翌年一月一日まで)の直前である。また、執筆当時に住んでいて、小泉八雲の終焉の地となったは、東京都新宿区大久保(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)である。以前に述べたが、再掲すると、「新宿観光振興協会」公式サイト内の「小泉八雲旧居跡」によれば、小泉八雲は明治二九(一八九六)年に『日本に帰化し』、『同年、東京帝国大学(東京大学)で英語・英文学を講ずることなって上京。この地に、約』五『年間住み』、『樹木の多い自証院一帯の風景を好んだ八雲は、あたりの開発が進んで住宅が多くなると、西大久保に転居し』たとある。東京都新宿区富久町に自證院はあり、現在の「小泉八雲旧居跡」の碑(成女学園内)はそこから北北東に百三十二メートルである。この孰れかであろう。小泉八雲は必ずしも同時時制で作品を書いていないことは、他の作品でも見られることで、奇異なことでも何でもない。寧ろ、熊本での出来事を松江に移して書いたりもしていることもあるので、ここを事実に照らして実地を孰れかに限定することは、微妙に難しさがあり、まさに小泉八雲こそ文学的真実という技巧をしばしば用いる作家なのである。但し、後で園芸師が多く居住しており、季節になると、躑躅園に大勢の客が来るとあるからは、終焉の地となった西大久保である可能性がすこぶる高い何故なら、昔からよく訪れるサイト「綺堂事物」の「大久保の躑躅(つつじ)」に、江戸時代後期から、『大久保の躑躅、亀戸天神の藤、堀切の菖蒲』は『江戸の三大花の名所となってい』たとあり、しかも大久保には、明治になってからも明治一六(一八八三)年に『元躑躅園、数年後に、南躑躅園ができた』。明治三六(一九〇三)年には七園にも『増え、花の種類』七千種、『株数は一万を越えるといわれた』とあるからである。このページ、嬉しいことに、最後に、「小泉八雲の西大久保」という短章があり、そこに、小泉八雲が『西大久保に居を構えた』のは明治三五(一九〇二)年三月十九日とする(但し、記載は自證院裏手とあってこれは移転前の位置である)。「西大久保の八雲邸」の写真(第一書房「小泉八雲全集 別巻」(昭和二(一九二七)年版より転載)もある。必見。]

 經驗に乏しい人の觀察には、日本人は何時もと異つたことは、何一つして居らぬやうに見えるであらう。ところが、この不思議な平穩は記錄に値ひするのである。對敵行爲の開始に當つて、非戰鬪員は凡て平常通りその職業に從事するやう、また外部の事件には出來得る限り心を勞しないやうにとの敕語が發せられた。そしてこの命令は一語もそむかれずに遵奉されて居る。或はかく想像する人があらう。此戰爭の犧牲と悲劇と不確實とが、殊に首府の生活にその陰影を投じたのである、と。かく想像するのは當然ではあるが、心配或は意氣沮喪の情態を示すものとては實際に全く何一つ無いのである。それどころか、國民一般の自信が喜ばしげな調子なのを見、また幾度の捷報[やぶちゃん注:「せうほう(しょうほう)」。勝ったという報知。「勝報」に同じ。]に接しても、國民の自負心が感心なほど制御されて居るのを見て誰れしも驚く。西からの海流が、日本人の屍體を其海岸に撒き散らしたことがある。鐡條網の防備のある陣地を襲擊して幾聯隊の兵士が絕滅したことがある。幾艘の戰鬪艦が沈沒したことがある。だが、如何な瞬間に於ても、國民的興奮は徵塵だもこれまでに見ない。人々は正(まさ)しく戰前どほりに、日日のその職業に從事して居る。物事の樂毫しさうな樣子は、正しく戰前と同じである。芝居や花の展覽は戰前に劣らず、贔屓を有つて居る。市外の生活は何の影響を蒙らず、他の年の夏同樣に、花は咲き、蟬は舞うて居るが、外見では、東京の生活はそれと同樣に、殆んど戰爭の事件の影響を蒙つて居ない。或る大勝利の報道に接した時――その時は花火を揚げ、提燈行列をして祝ふが――その時を除いては、國民的感情の何んの形跡も無い。そして、鈴をリンリン鳴らして走る男が、屢〻新聞號外を配つてあるくことが無ければ、この戰爭の話は凡て惡夢だと思ひ込ひことが出來る位である。

 それでも莫大な苦痛が、必然、あつた、――日本の宗敎たる社會的愛國的義務といふその念が抑制して居る眼に見えず、聲にきこえぬ苦痛があつた。最近の或る十七字詩が語つて居るやうに、勝利の報道は一度一度歡喜と共に苦痛を齎らすに相違無いのである。

       號外の度(たび)敵味方後家が殖え

[やぶちゃん注:この川柳(内容と無季語から俳句ではない)の作者は不詳。]

 この大靜肅と嬉嬉たる淚無さは、この人種のスパルタ以上の鍛練を證明して居るのである。古昔、この國民は、その情緖を隱す計りでは無く、精神的苦痛の如何なる壓迫の下に在つても、楽しさうな聲で物を云ひ、愉快さうな顏を人に見せるやうに訓練されたのであつた。そして彼等は今日もその敎訓を守つて居る。陛下の爲め、祖國の爲めに死ぬる者共を亡くした個人的悲哀を現すのは、今なほ、恥辱と考へられて居るのである。一般公衆は、恰も人氣のあろ芝居の舞臺面を看るやうに、戰爭の事件を觀て居るやうに思へる。興奮はせずして興味を感じて居る。そして、彼等の異常な自制心は『遊戲衝動』の種種な表現に特に示されて居る。到る處劇場は戰爭芝居(實際の事實に基いた)を興行して居り、新聞雜誌は戰爭物語、戰爭小說を載せて居り、活動寫眞は近代の戰爭の驚くべき仕方を見せ、また無數の工藝は、日本の勝利を記念する意匠の藝術品、或は實用品を製造して居る。

 然し現時の心理的情態は――國民的感情の樂しげに見え、面白がつて居るやうにすら見える調子は――どんな一般的敍述によるよりか、尋常普通な事實の記述――自分の日記に書き留めてある日常の事柄の記述――によつてよく示すことが出來る。

 

 寫眞屋が今度ほど多忙なことは、これまで一度も無かつた。受けた注文の半分も應ずることが出來なかつたといふはなしである。戰場へと送り出される幾百千の人は、寫眞を家族の者へ殘して置かう、また、親や子や愛して居る他の人達の寫眞を携へて行かうと思つたのである。過去六箇月の間、國民全體が寫眞を撮りつつあつたのである。

 社會學的に見て興味のある事は、寫眞といふ事が家庭の信仰の詩美に新しき、或る物を加へたといふことである。それが始めて輸入されたときから、寫眞は日本では流行になつた。文明の日本に劣る人種には、寫眞機に恐慌の念を抱かせる迷信が多くあるが、そんな迷信のどんなものも、一新工藝の迅速な發達に何等の障害を提供しなかつた。尤も寫眞に就いて二三の奇妙な民衆信仰があるにはある、――寫眞と寫眞に寫つた人との間に、不可思議な關係があるといふ思想があるにはある。一例を云へば、多人數が一團となつて寫した寫眞の中で、一人が不明瞭にまたは、ぼんやりと撮れて居ると、それは病氣に罹るか、死ねるかする前兆だと考へられて居る。だが、この迷信は、工藝上の價値を有つて居る。といふのは、寫眞屋をして是非とも、その仕事に注意せざるを得ざらしむるからで ――特にこの戰爭の場合、寫眞帖に保存して置くといふ目的とは異つた或る目的に、寫眞が必要になるかも知れぬので、誰れも彼もはつきりした立派な寫眞を有ちたいと思ふ場合、殊にさうである。

 過去二十年の間に、死んだ親や兄弟や夫や子供の寫眞を、佛壇の中にある位牌の橫へ立てて置くといふ習慣が次第に出來て來た。それでこの理由の爲めにも、出て行く軍人は、自分の立派な寫眞を殘して置きたいと思ふのである、

 古いさむらひの家庭に在つて、一家の者共の情愛を現す儀式は、死者に奉仕することに限られて居るのではない。或る場合には、家に居ない親や兄弟や夫や許嫁の寫眞を客間の床の上へ置いて、その前へ御馳走を供へる。かかる場合には、寫眞は小さな臺の上に据ゑて置く。そして、その人が現に、其處に居るかのやうにして、その御馳走をささげる。不在者に食事を供へるといふこの美はしい習慣は多分、肖像を描くどんな藝術よりか古いものであらう。が、この近代の寫眞は、この儀式の人間的詩味を增して居る。封建時代には、不在なその人が出て行つた方角へ向けて――北とか南とか東とか西とかへ向けて――食事を供へるが規則であつた。供へてから間少し置いて、料理した食物の入つて居る器の蓋を揚げて儉べて見る。漆塗りの内側に湯氣の露が濃く附いて居れば、誠に以て結構である。が、若しかその表面が乾いて居ると、それは、その人が死んだ兆[やぶちゃん注:「きざし」。]、肉體を離れた靈が供ヘ物の精氣を吸ひに歸つて來た印であると思はれて居た。

 

 恐らく世界の他の何處に見るよりか、『道戲衝動』が一層强い國にあつて、誰れしもこれを期待したらん如くに、時代精神が其年の花の展覽に發露された。自分の家の附近は、園藝師の居住區であるが、其處の花の陳列を自分は見物に行つた。この區域はその躑躅で有名で、每春その躑躅園は幾千といふ人の足を惹きつける。その時其處で陳列する灌木の、隙き間の無い花の塊(かたまり)と見ゆるものの(それも雪と白いものからして、あらゆる濃淡の度を異にした淡紅色を經て、焰と燃ゆる紫に至るまでの)驚くべき展覽をするからばかでは無く、人形の陳列が――生きた葉と花とで巧妙に造りなした幾群れの人物の陳列が――あるからである。實物大のこの人形は普通は歷史、或は戲曲の中の有名な事實を象(かたど)つたものである。多くの場合――全體では無いが――人形の身體と衣裳は、或る骨組みのあたりに育ち茂るやうに造り仕立てた枝葉と花とから成つて居る。そして、顏と手足とは何か肉色の造り物で表してあるのである。

 ところが今年は見世物の大多數は、戰爭の場面を象つたものであつた。日本の步兵と馬上のコサツク兵士との戰鬪とか、水雷艇の夜襲とか、戰鬪艦の沈沒とか。此最後に述べた見世物では、露西亞の水兵が荒海の中で一所懸命に泳いで居る處が見せてあつて、板紙づくりの波と泳いで居る人物とは、一本の綱を引張つて上がつたり、下がつたりするやうにしてあり、速射砲のパチパチいふ音は豆鉛の板で、工夫した機械仕掛けで眞似をして居た。

[やぶちゃん注:「速射砲」ここは単装艦載砲のそれ。通常は中口径の砲で、現行では毎分十~四十発以上を発射可能なものを指す。所謂、「アームストロング速射砲」で、これを最初に導入したのはまさに日本海軍で、イギリス海軍よりも早く、日本最初の速射砲搭載艦は装甲巡洋艦「千代田」で、既に日清戦争に於ける「黄海海戦」の勝利に大きく寄与したとされている(ウィキの「速射砲」に拠った)。]

 聞くところに捺ると、東鄕提督は、その職責の爲めに、櫻や梅の花をその季節に見る機會がないので、鉢植ゑの花木を幾つか東京へ注文されたさうで、園藝師は義俠すぎる程これに應じたさうである。

 

 對敵行動の始つた殆んど直ぐ後に、幾千といふ「戰爭畫」――大抵は廉い[やぶちゃん注:「やすい」。]石版畫――が出版された。圖も著色も支那との戰爭の折に發行されたのよりよかつたが、細かしい[やぶちゃん注:ママ。]處は餘程想像的なもので――露西亞の艦隊の樣子なんか全く想像的なものであつた。露西亞の艦隊との交戰の圖は、恐ろしく誇張的なものであつたが、感銘的なものであつた。最も驚くべき物は、一度も戰鬪をしない前に出來た露西亞軍の朝鮮での敗北の多くの繪で、これは畫家が「熱し過ぎて場面を見越して」書いたものであつた。そんな繪には、露軍がその士官を――甚だ立派な顏をして居る士官を――戰場に死んだままに遺棄して、大潰亂を爲して敗走して居る處が描いてあつて、一方、日本の步兵はと見ると、恐ろしく思ひ込んだ顏附きをして、速步で迫つて居る。こんな風に繪で以て勝利を豫言するの當不當、また賢不賢は疑ひを容れ得ることであらう。だが、聞けばかくする習慣は舊い習慣で、誰れもが共同に抱いて居る希望を、かく想像的に實現するのは目出度い事と思はれて居るのであると。兎に角、こんな繪に別に人を欺かうといふ計畫があるのでは無いので、繪はただ、人民一般の勇氣を支へる役に立つので、神も快よく見そなはせ給ふものなのである。

 初めのほど出た繪のうちで、それが今や氣味の惡るい位、實現せられて居るのがある。支那での幾多の戰勝も同樣に豫表されたのであつた。その戰勝は繪師の信念を十分に是認した。……今日戰繪は引き續いて增加して居るが、特性は變つて居る。寫眞の假借無き眞實と戰爭通信員のスケツチとが事實の鮮かさ、烈しさを齎らして藝術家の想像力を助けて居る。見越して書いた繪にはあどけ無い、そして、芝居じみた處があつたが、刻下[やぶちゃん注:「こくか(こっか)」。今現在。目下。]の繪には非常に悲劇的な現實が――一日一日、層一層、悲慘となりつつある現實が――現されて居る。今、この文を書いて居るまでに、日本はただの一度の戰役にも敗北をして居らぬ。が、その戰勝のうち高價な犧牲を拂つて得られたものが少からぬのである。

 戰爭が鼓吹した意匠の裝飾を有つた種種樣樣な品物――櫛、衿止、扇、胸針[やぶちゃん注:原文“brooches”。ブローチ。]、名刺入、財布といつたやうな品物――これをその十が一を數へ立てるのに一卷の書物が要るであらう。麪包菓子[やぶちゃん注:「パンがし」。]や砂糖菓子にも海軍か陸軍かの模樣が捺してあり、商店の硝子窻[やぶちゃん注:「窻」は「窓」の異体字。]又は紙貼り窻には――看板は云ふに及ばずで――日本の勝利の繪がそれに描いてある。夜になると商店の提燈が、その艦隊と陸軍とに對する國民の自負心を聲明する。そして、透し繪や玩具提鐙の新奇な模樣に就いて書けば一章全體を容易に充たすことが出來よう。その燈籠自らの炎が生ずる氣流で𢌞はる、新しい𢌞り燈籠が大變に流行つて來た。その𢌞り燈籠には露軍の防禦陣地を、日本の步兵隊が襲擊して居る處が描いてあつて、燈籠の透し繪が𢌞はる時に絕えず鮮かな閃きをさすやうに、その色紙に開けてあるたが、砲丸の炒裂と機關銃の一齊射擊とを思はせる。

 戰爭が鼓吹した藝術衝動が、西洋人の經驗には全然馴染みの無い方面に、――例を舉ぐれば、婦人の髮飾や衣服の材料の製造に――少々示現されて居る。戰爭畫の裝飾のある反物は實際流行になつて居るのである、――殊に下著にする縮緬と、羽織や袖用の紋模樣の絹の裏地がさうである。それよりももつと注目すべきは新奇な髮留めである。髭留めと私のいふのは、屈り易い金屬で造つた、日本でカンザシと云うて居る二叉の長い飾り物で、これにはそれを頭にする人の年齡に應じて多少飾りがしてあるのである。(若い娘が著ける簪は非常に裝飾的なもので、年老けた[やぶちゃん注:「としたけた」。]女の著けるのは無裝飾か、又は裝飾があつても珊瑚か寶石の珠一つだけである)其新奇な簪は記念用のものだと謂つてもよからう。交叉した日英國旗がその飾りとなつて居るのは日英同盟を祝したものである。もう一つは士官の帽と劒とが飾りになつて居る。一番いいのは戰鬪艦の小さな小さな金屬の模型が上に載つてゐるものである。此戰鬪艦簪は單に、風變りな品といふのでは無い。實際に美しい!

 豫想されたであらうやうに、今年の手拭の模樣の中で、陸海軍に關した題目が主要な位置を占めで居る。海軍の勝利を祝した手拭模樣は特に上出來であつた。模樣は大抵紺地に白でか、白地に黑でかである。一番いいものの一つは――これは紺と白とのであるが――沈沒した鋼鐡艦の檣頭[やぶちゃん注:「しやうとう(しょうとう)」帆柱の先。]を飛び𢌞つて居る、一群の海鷗が現してあるだけで、遙か遠くに水平線に沈まんとして居る日本の軍艦の橫面の輪廓が見せてある、……この圖案で、また他の多くの圖案で、殊に自分が感心したことは、日本の藝術家が、近代の戰艦の特徵を――その恰好の力强い意地惡るげな線を――甲蟲か蝦かの特殊な性質を我我の爲めに捉へたであらうと同樣に、巧に提へて居る其斬新な方法であつた。かかる鐡の怪物の容貌が與へる眞の印象を――通常普通な描寫手段では現すに甚だ困難な、大いさと力と威嚇との漠たる印象を――一瞥して傳へるだけの誇張が、その線には爲されて居るのである。

 この種の藝術的素畫で飾られて居る手拭のほかに、滑稽な戰爭繪――見てをかしくはあるが惡意は無いポンチ畫或は諷刺畫――のあるいろんな種類の手拭が賣り物とされて居る。放順口の艦隊を始めて攻擊した時に、露軍の士官が幾人か、日本がその先手の攻擊を敢てしようとは夢にも思はずに、大連の芝居を見に行つて居たが、これは世人は記憶して居るであらう。この事件が手拭の圖案の題目とされて居る。手拭の一方の端には、舞曲の踊子のクルクル舞を愉快さうに見入つて居る露西亞人數名の顏の滑稽な素畫がある。他の一端には、港へ歸つて來て、自分達の戰艦の帆柱だけが、水面に見えて居るのを見て居るその司今官共の顏の素畫があるのである。もう一つの手拭を見ると、――外科醫者の家の前で銘銘の喉に剌さつて居る種種な銃劒や、軍刀や、ピストルや、小銃を取つて貰はうといふので順番を待つて居る――魚の行列が描いてある。今一つの手拭の繪は、魚形水雷が與へた、沈沒してゐる巡洋艦の船腹の大穴を、素敵に大きな蟲眼鏡で檢べて居る露西亞の潛水夫を現して居る。こんな繪の根には、滑稽な歌か物語かが、簡潔な文句で、刷つてあるのである。

[やぶちゃん注:「ポンチ畫」「畫」は「ゑ」。ウィキの「ポンチ絵」によれば、『日本の明治時代に描かれた浮世絵の一種で、滑稽、諷刺的な絵を指した。後の漫画の原点といえる』。『文明開化期に日常使用されるようになった「ポンチ」という言葉は』文久二(一八六二)年に、『横浜でイギリス人』記者『チャールズ・ワーグマン』(Charles Wirgman 一八三二年~一八九一年)『によって創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ』』(The Japan Punch:この「パンチ」とは、恐らく人形劇の「パンチ」で、太っていて背が低く、鍵鼻で背中が曲がっており、乱暴で執念深く、権威に反抗する道化として描かれるイギリスの人形劇にトリック・スターとして登場する人物由来であろう(知られた『ジャパン・パンチ』のトレード・マークに日本人風のそれらしき人物が描かれてある)。イタリアの人形劇の「Pulcinella」(プルチネラ)の影響を受けて「Punchinello」(プルチネッロ)が作られ、十七世紀には「Punch」と名前が短くされたという)『に由来する。この『ジャパン・パンチ』は』明治二〇(一八八七)年まで、実に二十五年間の永きに亙って、『木版刷りで刊行が続いており、幕末刊行号の幾つかに「パンチ」が訛ったカタカナ表記の「ポンチ」という言葉がみられる』という。但し、明治一七(一八八四)年からは『石版刷りとなった。毎号、在日外国人を似顔絵を多用して諷刺して、情報誌としても役立つため』、『居留地在住の外国人に人気を博し、仮名垣魯文ら日本人も関心を持ってみていた』。明治七(一八七四)年、『魯文と河鍋暁斎は『ジャパン・パンチ』に似せた『絵新聞日本地(えしんぶんにっポンチ)』と題した漫画を売り物とした定期刊行物を出版したころには、大多数の日本人がポンチの意味を知っていたに違いなく』、明治一四(一八八一)年に『小林清親が戯画錦絵の『清親ポンチ』シリーズを版行したころには』、「ポンチ」『というのは日常語となっていたといわれる。また』、明治一五(一八八二)年八月からは、『清親が本多錦吉郎の後を継いで常連の投稿家として『團團珍聞』に風刺画を投稿し始めた。明治の前半期にはポンチは時局風刺画あるいは世相漫画の意味を有しており、それらは『ジャパン・パンチ』の作品を見て影響を受けたものが多数であった。暁斎、清親は『ジャパン・パンチ』を熱心に研究したことが知られ、ポンチの用語は、人民が主導で新国家体制を創ろうとしていた自由民権期に輝いた用語であった。しかし』、明治二二(一八八九)年に『大日本帝国憲法が発布されたことにより』、『自由民権運動は終息を迎え、その後のポンチは次第に諷刺のエネルギーを喪失してゆく。清親はコマ漫画やふき出し入りの漫画を試みたりしたが、諷刺の鋭い漫画は少なく』、明治二十年代末から三十年代に『かけて、子供だましの絵と化したポンチは』、『今泉一瓢、北沢楽天により「漫画」という新しい言葉に代わられていった』とある。]

 あの三井大商店は、こんな圖案の一番いいのを市場へ出したが、その上またフクサといふ、戰爭の美しい記念品を製造した。(フクサといふは或る特別な祝ひ事の折に友人へ送る贈り物へ掛ける裝飾的な絹の蔽ひ物、若しくは包み物で、受けた人はその贈り物だけ受取つてこれは返却するのである)これは最も重い最も高價な絹で出來て居て、適切な裝飾のある包みの中に收められて居る。或る袱紗には全速力を出して居る、日進、春日兩巡洋艦の著色畫がある。それから、もう一つの袱紗には、美しい漢字で、宣戰の詔勅の全文が刷つてある。

[やぶちゃん注:「日進」「春日」孰れも日露戦争で活躍した旧日本海軍の春日型装甲巡洋艦の二番艦と一番艦。]

 だが此方面の製品のうちで見た一番奇妙な物は女の赤ん坊用の絹著物であつた。紋模樣が織り出してある品物で、少し離れて眺めると、種種な色合が、また同じ色でも濃淡の度を異にした種種な色合が、巧妙に竝置されて居るが爲めに、何んとも言へぬほどに綺麗である。それをよく近寄つて眺めて見るといふと、この巧妙な圖案は全部戰爭畫を組み合せて造り爲してあることが判るのである。否、むしろ、繪の斷片を交ぜ合せて一つの驚歎すべき合成物を爲して居るといつた方がよからう。卽ち海戰とか、燃えて居る戰艦とか、爆發して居る敷設水雷とか、攻擊に向ふ水雷艇とか、日本步兵隊に擊退せられるコサツク兵の襲擊とか、陣地に突入する砲兵隊とか、要塞の强襲とか、霧の中を進軍する兵隊の長い行列とかがあるのである。卽ち血の色、焰の色もあれば、朝靄の色合、夕燒けの色合もあり、眞晝の空の靑もあれば、星のきらめく夜の紫もあり、海の灰色と、野畠の綠とがあり――實に驚歎すべき!物である。……陸海軍士官の子供なら、こんな著物を著せたとても、さして不都合なことはあるまいと想ふ。でも――何とも云ひやうの無い、物の哀れ!感ずることである。

[やぶちゃん注:終りの二箇所の「!」の後に字空けがないはママ。]

 

 戰爭の玩具は無數である。他に比して一層注目すべきもの三四だけ自分は記載を企て得られよう。

 日本の子供は種種な骨牌[やぶちゃん注:「かるた」。]遊びをする。古いのもあ今、餘程新しいのもある。例を舉ぐれば、歌の骨牌遊びがある。これは牌一枚一枚に、一つの歌の本文または一つの歌の一部分が、書いである一組の骨牌でする遊戲で、遊戲者は其一組の歌のどんな引用句でも、その作者の名前を記憶して居ることが出來なければならぬ。それから地理に關した骨牌の競技がある。牌一枚一枚に、有名な古蹟や町やお寺の名前が、或はまたそんな處の一寸した繪が、書いてあるが、遊戲者はそれに書いである場處が何處の縣、何處の國にあるか記憶して居ることが出來なければならぬ。此方面での最近の斬新な品は、露西亞の戰艦の繪のある一組の骨牌で、遊戲者は、書いてある名前の軍艦一艘一艘に就いて、それがどうなつたか――沈沒したか、戰鬪力を失つたか、或は旅順口に閉ぢこめられて居るか――言ふことが出來なければならぬ。

 も一つ別な骨牌遊戲で、その骨牌に日露兩國の戰鬪艦、巡洋艦及び水雷艇が書き現してあるのがある。この勝負に勝つた方は、自分の方へ取つた骨牌を引き裂いて、その『捕獲艦』を破壞してしまふ。然し店にはあらゆる種類の軍艦を幾包みも仕入れて有つて居る。それで一方の國の水雷、驅逐艦或は巡洋艦が悉く戰鬪力を失つた場合には、敗けた方は新艦を外國[やぶちゃん注:対戦相手或いは別な友人。無論、玩具屋も含まれる。]から買ひ求めることが出來るのである。水雷艇一艘約四分の一ペニイなら五艘買へる。

 玩具店は戰鬪艦の模型――木で造つたの、土で造つたの、陶器の、鉛の、錫の――色んな大いさの、色んな値段の――で一杯である。ゼンマイ仕掛けで動く大きいのの中に、敷島だの、富士だの、三笠だのと、日本の戰鬪艦の名の附いたのがある。日本の水雷艇が露西亞の軍艦を沈沒させるやうに出來で居る機械仕掛けの玩具がある。此種類の玩具の廉價なもののうちに、海軍の戰爭を現すに使ふ色砂入りの箱がある。子供は波に似るやうにその砂を敷きならべる。そして砂箱一つ每に鉛で造つた小さな船での二艦隊を買つて吳れる。日家の船は白で、露西亞の船は黑である。水雷の爆發は、小さく切つた朱色の紙片を、その砂の中ヘたてて象どることにしてある。

[やぶちゃん注:「敷島」敷島型戦艦一番艦。第一艦隊第一戦隊所属で日露戦争に参加し、二月九日から「旅順口攻撃」及び「旅順港閉塞作戦」に参加し、八月十日には黄海海戦に、翌明治三八(一九〇五)年五月二十七~二十八日の「日本海海戦」にも参加した。日露戦争では主力戦艦として、「旅順口攻撃」・「旅順港閉塞作戦」・「黄海海戦」・「日本海海戦」と。主な作戦総てに参加している。

「富士」富士型戦艦一番艦。日本海軍が初めて保有した近代的戦艦の一隻で、日本海軍軍艦の中でも最高厚の舷側装甲を持つ(最高四百五十七ミリメートル。後の大和型戦艦でも最大四百十ミリメートルであった)。

「三笠」日露戦争の「日本海海戦」で連合艦隊旗艦を務めた。神奈川県横須賀市に現存し、公開されている。]

 非常に貧乏な階級の子供等は手製で玩具を造る。子供に與ふべき玩具の價段と性質とを極めたあの古昔の封建時代の法律(ヰグモア教授の飜譯がある)が、今此子供等が現すその小器用さを發達せしめるに、與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力があつたのではなからうかと、自分は怪しんで居る次第である。つい此間自分の近處で、一群れの子供が、木切れと古釘とで卽製した艦隊でもつて、於順口の包圍の眞似遊びをして居るのを見た。水のはつてある盥が旅順口になつて居るのであつた。戰鬪艦は、帆柱のつもりに箸が突きたててあり、煙突のつもりに紙を卷いたものがたててある、板切れで象どつてあつた。適當に色で染めてある小さな旗が糊でその帆柱にくつつけてあつた。幾つかの小さな細い木片、その一一に短かい太い釘をたてて煙突と見せてあるのが、水雷艇と想像されて居た。定置の敷設水雷は、各〻長い釘が差し込んである、小さな四角な木切れで現てあつて、この小さな物を、釘の頭を下にして水の中へ落すと、長い間妙なピヨコピヨコした運動を續けるのである。他の四角な木で、短かい釘がかたまつて突きさしてあるのが、浮游水雷になつて居つて、模擬の小さな幾艘かの戰鬪艦が、絲で、浮游水雷を搜索するやうになつて居つた。日本の新聞の插繪が、戰爭の事件を可なり正確に、子供に想像させるのに役立つたのであるといふことは疑ふベくも無い。

[やぶちゃん注:「ヰグモア教授」アメリカの法学者で証拠法の専門家であったジョン・ヘンリー・ウィグモア(John Henry Wigmore 一八六三年~一九四三年)。ウィキの「ジョン・ヘンリー・ウィグモア」によれば、『カリフォルニア州サンフランシスコ出身。ハーバード大学で学び』、『ボストンで二年間弁護士として働いた後、慶應義塾大学でアメリカ法の教授として大学部法律科の開設に尽力した。慶應義塾大学では比較法や日本法を、特に江戸時代の法を研究しその成果を著わした』。その後、一八九三年に『ノースウェスタン大学法学部に招聘され』、一九〇一年から一九二九年にかけて同大学法学部長を務めた。『他に、アメリカ大学教授協会二代目会長、米国法曹協会の有力会員、同協会国際比較法部会の初代座長等も務め』、一九〇九年には『刑法学および犯罪学に関する国内会議を組織し、アメリカ刑法学犯罪学会を立ち上げ』ている。『その他、ノースウェスタン大学の航空法研究所やシカゴの科学捜査研究所の設立に』も参画している。一九〇四年に彼は“A Treatise on the Anglo-American System of Evidence in Trials at Common Law”(「アングロ・アメリカに於ける慣習法裁判での証拠の機序に関する論文」(邦訳は私))を著しているが、『この研究は、証拠法の進展について広範に扱うもので、一般に「ウィグモアの証拠法」として知られている。このウィグモアの証拠法は、今なおコロンビア特別区連邦地方裁判所を含むアメリカの多く裁判所で採用されている上に、日本の刑事手続にも影響を及ぼし』たものである、とある。彼が訳したという「子供に與ふべき玩具の價段と性質とを極めたあの古昔の封建時代の法律」というのは不詳。識者の御教授を乞う。]

 子供の海軍帽は固よりのこと、戰前よりか餘計に流行つて來た。光つた金屬の漢字で、戰鬪艦の名や、或はニツポンテイコク(日本帝國)といふ語を――水兵の帽に附いてゐる文字のやうに列べて――著けてある帽もある。處が、或る帽子には、船の名が英字で出て居る――YASHIMA とか、FUJI とかいつた風に。

 殆んど云ひ忘れさうであつたが、戰線へ召し寄せられる兵卒の大部分は、生きて歸る期待は抱いて居ないのであるが、その兵卒も亦遊戲衝動を有つて居るのである。彼等の願ふのは陛下の爲め、國家の爲めに死ぬnる者は凡て、其處へ寄り集まるものと信ぜられて居る、セウコソシヤ(招魂社)で記憶せられること、ただそれだけである。戰場への途中、此處の町外づれへ臨時滯在して居た兵士どもは、近處の子供達と戰爭ごつこをする閑[やぶちゃん注:「ひま」。]があつた。(どんな時でも日本の兵卒は子供に甚だ深切で、この邊の子供は、兵卒と一緖に行進をし、一緖に軍歌を歌ひ、そしてどんな眞面目な士官でも子供の敬禮に應ずるものと確信して正式に敬禮する)滯在して居た最終の聯隊が出て行く時に、お別れの喝采を停車場でしに集つた子供等へ玩具を兵隊が分配して吳れた。女の子へは、飾りに陸軍の徽號の附いて居る簪を、男の子へは木造の步兵や錫製の砲兵を吳れた。一番奇妙な贈り物は、『歸つて來れば本當のを持つて來て上げませう』といふ、冗談半分の約束をして吳れた、土細工の小さな、露西亞兵の首であつた。頭の頂きに絲金(いとがね)の小さな輪があつて、それへ護謨[やぶちゃん注:「ゴム」。]の絲をくつつけることの出來るものである。日淸戰爭の時分には、非常に長い辮髮のある土細工の小さな、支那人の頭の模型が流行のおもちやであつた。

 

 今度の戰爭はまた、トコニハといふあの美妙な品物の種種樣樣な新意匠を思ひつかせた。我が讀者のうちには、トコニハ卽ち『床庭』とはどんなものか知つて居らるる人は多くはない。これは庭園を極はめて縮小したもので――二尺平方以内位のもので――瀨戶物又は他の材粁の裝飾的な淺い鉢の中にしつらへ、裝飾のつもりで客間の床の上に置くものである。それには小さな池があり、支那型の、背の曲つた橋の架かつた小流があり、森を爲して神社の模型を覆ひかげらして居る、一寸法師的な木が植わつて居り、土燒きの石燈籠の模造があり、草葺き田舍屋の小村の觀すらもあらう。床庭が餘りに小さくない場合には、その池に本當の魚が泳いで居たり、築山の間を手飼ひの龜が這つて居たりするのを見ることも出來よう。時に、その床庭が蓬萊と龍宮とを現して居ることがある。

[やぶちゃん注:私は「床庭」という語では知らない。「盆景」ならよく知っている。古い明治期に作られたいろいろなミニチュア・セットが好きで、小学生の頃、それを一式持っていた祖母にねだってよく拵えたからである。地引網のセットが圧巻だった。]

 今、流行つて來て居る新奇な種類が二つある。一つはその港と要塞とを示した旅順口の模型で、それを見せるのに使ふ材料と一緖に、閉ぢこめられて居る艦隊と、封鎖して居る艦隊とを現す小さな小さな軍艦を、どういふ風に置いたらいいか、その小さな圖面を賣つて吳れるのである。も一つの床庭は、山脈や川や森のある朝鮮か支那かの風景で、澤山の玩具の兵卒――騎兵だの、步兵だの、砲兵だの――あらゆる攻擊防禦の姿勢の兵卒で、戰爭をして居るといふ風に見えるやうに造つてある。小さな留針ほどの大いさの大砲が密(みつ)に置かれて居る土燒きの微小な要塞が高みの陣地を占めて居る。適當に排列すると、見る眼にはパノラマの觀を呈する。前景の兵卒は長さ一寸位、少し遠くのはその半分位の長さ、山の上のは蠅より大きくは無い。

 だが、これまで造られた此種のもので目立つて最も斬新なのは、銀座の或る有名な店で近頃陳列した一種のトコニハである。カイテイノノイツケン(海底の一見)といふ題の書いてある貼り札で十分其意匠は判つた。此展覽物のはいつて居るスイボン卽ち『水盆』は海底に似るやうに半ば岩と砂とで充たされて居つて、前景に小さな魚が泳いで居るやうに見せてあつた。少し後ろの方に、高みの上に、龍王の娘の乙姬が多勢の御供の少女に取り圍まれて、海軍の軍服を著て互に握手して居る二人の男――戰爭で死んだ二人の勇士――マカロフ提督と廣瀨中佐――を、幽かな微笑を顏に浮かべて、じつと見て居るのであつた。……此兩人は生前互に尊敬し合つて居たのであるから、靈界での二人の會合をかく現すといふのは面白い思ひ付きであつたのである。

[やぶちゃん注:「マカロフ提督」ロシア帝国海軍中将で海洋学者でもあったスチパーン・オースィパヴィチュ・マカーラフ(Степа́н О́сипович Мака́ров 一八四九年~一九〇四年)。「第二回旅順口閉塞戦」攻防の最中の四月十三日、戦艦「ペトロパブロフスク」で日本艦隊の攻撃に向かったが、主力艦隊を認めるたために旅順港に引き返す途中、日本軍の敷設した機雷に触雷して爆沈、マカロフは将兵五百人とともに戦死した。

「廣瀨中佐」広瀬武夫(慶応四(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年)は旧竹田藩士で裁判官広瀬重武の次男。海軍兵学校卒。横須賀水雷隊艇長(大尉)から軍令部出仕後、ロシアへ留学、朝日水雷長(少佐)などを歴任したが、「旅順港閉塞作戦」を実務執行することとなり、自沈船「福井丸」指揮官として砲火をおかして目的位置に達した。しかし、途中、姿が見えなくなった部下の杉野孫七兵曹長(前年に軍艦「朝日」乗組員として、水雷長海軍少佐広瀬と出逢い、意気投合して非常に親しくなっていた。但し、以下に小泉八雲が言う「以前に氏の死を救つたことのある」という事実は私は知らない)を捜すうちに退避が遅れ、頭部にロシア軍の砲弾を受け、ばらばらになって即死した。死後、中佐に進級し、「軍神」に祭り上げられた。]

 

 海軍中佐廣瀨武夫といふ名は、恐らく英米の讀者には馴染みが無からうが、氏は日本の國民的勇士の一人に當然になつて居る。三月の二十七日、旅順港口第二囘閉塞企畫の際、同僚を――以前に氏の死を救つたことのある同僚を――助けんとして居る間に殺された。廣瀨は五年間公使館附海軍武官としてセント・ピイタアスブルグにいて、露西亞の陸海軍社會に幾多の友人を作つて居たのであつた。子供の時分からして其生涯は勉强と義務とに委ねられてあつて、氏の性質には一點利己的な處が無かつたと一般に云はれて居る。その同僚士官の多數の人と違つて、いつ何ん時國家の爲めに生命を棄てよ、と云はれるかも知れぬ者は結婚する道德的權利が無い、といふ意見を持して結婚せずに居た。それに耽つたとして知られて居る唯一の娛楽は身體の鍊磨で、日本中で一番上手な柔術家の一人と認められて居つた。氏の靈に對して人の拂ふ尊敬は、三十六歲で遂げたその勇壯な死の爲めといふよりも、寧ろその一生の勇壯な克己の爲めであつたのである。

[やぶちゃん注:「セント・ピイタアスブルグ」原文“St. Petersburg”。現在のサンクトペテルブルク(Санкт-Петербург:旧レニングラード)のこと。]

 今や氏の肖像畫は數千の家庭に揭げられ、その名は如何なる田舍村でも口にせられて居る。その名はまた萬千といふ數で賣られ行く樣樣な記念品の製造で披露されて居る。例を舉ぐれば、キネンボタン卽ち『記念釦』といふカウス・ボタンに新奇流行のがある。其ボタンは兩方とも、シチシヤウハウコク(七生報國)といふ銘と共に、中佐の微小の肖像畫がついて居るのである。廣瀨は、義務に對するその禁慾的な獻身を非議[やぶちゃん注:論じて非難すること。誹(そし)ること。]した友人に向つて、後醍醐帝の爲めに生命を棄てる前に、七たび生れ代つて君公の爲めに死にたいと述べた楠正成のあの有名な言葉を每度引用したと記されて居る。

 然し廣潮の靈に對して拂はれて居る最高の榮譽は、嘗ては西洋でも、希臘或は羅馬の愛國的勇士がその國人一般の愛を受けて不朽の地位へ高められ得た時は、有り得たが、今では東洋に於てのみ可能なる榮譽である。……氏の肖像が飾りになつて居る瀨戶物の盃が出來て居て、その肖像の下に金の表意文字で、グンシンヒロセチユウサといふ記名がしてある。グンといふ字は戰といふ意味、シンといふ字は――場合によつて『デイヴス』といふ意にも『デウス』といふ意にも用ひられるが――神(ゴツド)といふ意味である。この漢字の句を日本風に讀むと、イクサノカミである。勇敢な精神は絕滅はせぬ、立派に費やした生涯は無駄にはすたらぬ、勇敢な行爲は空[やぶちゃん注:「くう」。]にはならぬ、かう信じて居る幾千萬の人達に、中佐の此嚴正勇壯な靈が眞に神と拜まれて居るかどうか、これは私は分らぬ。然し、兎も角も、人間の愛情と感恩とはこれ以上に進むことは出來ぬので、舊日本は、その爲めに死ぬる甲斐のある榮譽をば、今もなほ與へ得るのであると承認しなければならぬのである。

[やぶちゃん注:『デイヴス』“divus”(ディーヴス)。ラテン語で「男の神」。

『デウス』“deus”(デウス)はラテン語で、古代ローマでは「神」の一般名称であったが、キリスト教勃興とともに「唯一神」としての意味が強くなった語である。]

 子供の學校はどの學校でも、其處の男女兒童は、行進曲になつて居る廣瀨中佐の歌を今歌つて居る。歌の文句と譜とは小さな本で出版になつて居て、その本の表紙にこの死んだ中佐の肖像畫が載つて居る。到る處で、そして日のうちのどんな時刻にも、其歌を人が歌つて居るのがきこえる。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

 一言一行潔よく日本帝國軍人の鑑を人に示したる廣瀨中佐は死したるか

 死すとも死せぬ魂は七たび此世に生れ來て國の惠に報いんと歌ひし中佐は死したるか

 我等は神州男兒なり汚れし露兵の彈丸にあたるものかと壯語せしますら武夫は死したるか

 名譽の戰死不朽の名赤心とどめて千軍の神と仰がるる廣潮中佐はなほ死せず

[やぶちゃん注:よく知られているのは文部省唱歌の「廣瀨中佐」で、明治四五(一九一二)年の「尋常小学唱歌 第四学年用」に初出したもの(作詞・作曲不詳)であるが、この軍歌「廣瀨中佐」は大和田健樹作詞・納所弁次郎作曲のもの。ブログ「陸・海軍礼式歌」のこちらで全篇が読める。曲はこちらでMIDIでダウン・ロード出来る。]

 

 西洋の最も强大な一國を相手として、自國の存亡に關する戰爭をしながら、この不思議な人民の嬉嬉たる自信を見――その指導者の智とその軍隊の勇とに對するその至上の信賴を見――刻下の過失を嘲弄するに當つての、その上機嫌な諷刺を見――刻下の世界震盪[やぶちゃん注:ママ。]的なる事件のうちにあつて、歌舞を見て感ずると同一樣な樂しみを感じ得る。その不思議な度量を見ると――誰れしもかう訊ねたくなる。「國民的敗北をしたなら、その精神上の結果はどうであらう』と。……思ふに、それは事情如何によることであらう。クロパトキンが日本に侵入するといふ、その輕卒な威嚇を實行し得るなら、日本國民は恐らく舉つて[やぶちゃん注:「こぞつて」。]起つであらう。然しさうで無いなら、どんな大不幸を知つても雄雄しく堪へ忍ぶであらう。いつからと知れぬ太古からして、日本は異變の頻繁な國であつた。一瞬時にして幾多の都市を破壞する地震があり、海岸地方の人口悉くを一掃し去る長さ二百哩[やぶちゃん注:三百二十二キロメートル弱。]の海嘯[やぶちゃん注:「かいせう(かいしょう)」。津波。]があり、立派に耕作された田畠の幾百里を浸す洪水があり、幾州を埋沒する噴火があつた。こんな災害が此人種を鍛鍊して甘從[やぶちゃん注:「かんじゆう」。甘んじて従うこと。]と忍耐とを養ひ來たつて居る。そしてまた戰爭のあらゆる不幸を勇ましく堪へ忍ぶ訓練も亦十分に爲し來たつて居る。これまで日本と最も近く接觸し來たつて居る外國國民にすらも、日本の度量は推量されないままで居た。攻擊を耐へ忍ぶその力は、攻擊に反抗するその力よりも或は遙か勝さつて居るのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「クロパトキン」アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン(Алексей Николаевич Куропаткин 一八四八年~一九二五年)は帝政ロシアの陸軍大臣。日露戦争時のロシア満州軍総司令官を歴任した人物である。

 以上を以って底本である第一書房昭和一二(一九三七)年一月刊の「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻本文は終わっている。]

2019/10/07

小泉八雲 小說よりも奇  (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“STRANGER THAN FICTION”(「(事実は)小説よりも奇なり」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の六番目に配されたものである。本作品集はInternet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。なお、本作品集ではこれだけが田部氏の訳で、他は総て大谷正信氏の訳である。理由は不明であるが、これだけが本作品集の中で、若き日の小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)の体験(彼は三十七歳の一八八七年から一八八九年にかけてフランス領西インド諸島マルティニーク島Martinique:現在もフランスの海外県。カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島(英語:Windward Islands:「風上の島々」の意)に属する島。リンクはグーグル・マップ・データ)に長い旅をしている)に基づく国外での体験に基づく特異点の一篇であること、元版の第一書房全集(小説・随筆・評論部等は全く家庭版も内容は同じ)の第二巻所収と同じロケーションである、一八九〇年の来日直前に刊行した作品集「佛領西インドの二年間」(Two Years in the French West Indies)の訳を大谷が担当していることと関係があるのかも知れぬ。寧ろ「そうだったら大谷氏の訳でいいのじゃないか?」とされる向きもあるかも知れぬが、或いはロケ地と異国の異なった雰囲気を訳文にも特異的に違った感じで出すために、敢えて大谷が田部に懇請して、ここだけがかく成ったとも言えるのではあるまいか?

 傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

 

  小說よりも奇

 

 本當の西印度日和であつた。私は友人の公證人と二人で島を橫斷してゐた。その道は熱帶の森林から雲まで屈曲して上り、それから再び籐、竹、甘蔗などのある、黃金色に綠の交つた斜面や、紫、靑、灰色の峯のある勝れた風景の地を環なりに下つて、貿易風の盛んに吹く海岸へ出る驚くべき道である。午前中は全部上りであつた、――勇ましい小さい騾馬のために、大槪は馬車のあとから步いた、――それから、海は私共の背後に上つて來て、最後に、たえず高くなつて來る地平線の下に、靑い、菫のやうに靑い、大きな海の壁のやうに見えて來た。暑さは蒸氣浴の暑さのやうであつた。しかし空氣は、その熱帶の香があるので、呼吸するのは愉快であつた、――その香は不思議な樹液の香、土から發する妙な芳ばしい香、香氣あるものの腐敗から起る蒸發、――などからできる香であつた。その上眺望は天國を硯くやうであつた。それからヘゴや竹の蔭になつた峽谷を騷がしく下つて行く激流を見るのも面白かつた。

[やぶちゃん注:「公證人」原文“notary”。契約その他の私権に関する事実を中心に、公的な証明を与える職にある者。法律関係を明確にして、紛争を予防する役割を果たす。その資格・権限などは国や時代によって多種多様で、ローマ法の影響の濃いラテン系に属するフランスなどでは、一般に法律の専門家として扱われている。

「籐」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連 Calameae に属するトウ類。但し、原文は“cane”(ケイン)で、これは「籐・竹・棕櫚(シュロ)・サトウキビ(甘蔗)などの茎を総称」する語である。以下の「竹」や「甘蔗」もこの一語を意訳して延ばしたものである。

「騾馬」奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus。♂のロバと♀のウマの交雑種の家畜。両親のどちらよりも優れた特徴部分を有し、雑種強勢の代表例とされる。

「ヘゴ」原文“tree-fern”。「木生シダ」。「ヘゴ」は狭義には常緑性大形の木生シダであるシダ植物門シダ綱ヘゴ目ヘゴ科ヘゴ属ヘゴ Cyathea spinulosa を指す。後者の「ヘゴ」類ならば、本邦でも紀伊半島南部や八丈島を北限として四国・九州南部・屋久島より南等でよく見かける(日本では全六種が植生)。]

 紅白の蝶のやうな花の咲きみだれた生垣に沿うてできて居る門の前に、友人は馬車を止めた。『ここへ立ち寄らねばならないのだが』彼は云つた、――『一結に來ませんか』二人は馬車から下りた。友人は鞭の太い方で門をたたいた。門内には、樹蔭のある庭の一方に、母屋の玄關が見える。向うに椰子の竝樹[やぶちゃん注:「なみき」。]と、黃ばんだ甘蔗の幾分が見える。やがて帆木綿のずぼんと大きな麦稈帽[やぶちゃん注:「むぎわらぼう」。]の外、何もつけてゐない黑人が、びつこを引きながら門をあけに來た、――そのあとヘピヨピヨ鳴く雛(ひよこ)のむれ、驚くべきむれがついて來た。その大きな麥稈帽の下にある黑人の顏は見えなかつた。しかし、私は彼の手足や體が妙にしなびて、――干からびて、恰も竹のやうに見える事に氣がついた。私は、こんな氣味の惡い人間を見た事はない。それから雛(ひよこ)のついて來る事も不思議であつた。

 『やあ、お前の雛(ひよこ)はいつも元氣だね』公證人が叫んだ、『……フローラン夫人にお目にかかりたい』

[やぶちゃん注:「フローラン夫人」“Madame Floran”。「Floran」はフランス語で「花」。]

 『はい、かしこまりました』その怪物は西印度の土語で、嗄れ聲の返事をした。それから、私共の前をぴつこを引いて行つた。ふの干からびた踵のあとから、雛(ひよこ)が悉く跳んだりピヨピヨ鳴いたりしてつづいた。

『あいつは』私の友人は云つた、『八九年前に、毒蛇にかまれたんです。不思議に直つて、いや、先づ、半分直つてから、ずつとやせて骸骨のやうになつて居るのです。あのびつこを引くところを見給へ』

 その骸骨は家のうしろへ見えなくなつた。それから私共は、表玄關に暫く待つてゐた。それから蜂の色の頭巾を卷いて、あやめの色のきものをきた、見るからに立派な混血の女が、夫人は家があついから、庭で休んで下さるやうにと云はれましたと云ひに來た。そこで椅子と小さい卓が、蔭のある處へ置かれた。それから混血の女がレモンや、砂糖シロツプや、林檎液のやうな香のする透明な地作りのラム酒や、厚い赤い粘土製の素燒の壺に入れた氷のやうな冷水などを持つて來た。私の友人は、その飮料の世話をした。それから、女主人は挨拶に來て一緖に坐つた、――造幣局から出たばかりの銀貨のやうな色の髮をした、よい老婦人であつた。私共を歡迎してくれた時の、この微笑のやうな、やさしい微笑を私はこれまでに見た事はない。さうして、私は彼女の昔の西印度の少女時代の方が、果して今の彼女――やさしい皺、臼い髮、それから正直な黑い輝いた眼をした彼女――もつと綺麗であり得たかを訝る。……

 

 それからさきの會話は、何かの用件に關する事ばかりであつたので、私は加はる事ができなかつた。公證人はやがて整ふべき事は整へて、それから、その上品な婦人から別れのやさしい言葉を云はれたあとで、私共は出發した。再びみいらのやうな黑人が――小さい彌次馬のやうな雛(ひよこ)を悉く引きつれて――門をあけに私共の前をびつこを引いて行つた。私共が馬車に落着いてからも、その案山子[やぶちゃん注:「かかし」。]のやうな老物のあとを追ふ雛のピヨピヨが未だ聞えてゐた。

 『あれはアフリカの魔術ですかね』私は尋ねた。……『どうして、あの雛をだますのだらう』

 『妙――だね』公證人は、私共の車が走り出した時答へた。『あの黑人は、もう今では少くとも八十になる筈だ。しかしまだもう二十年は生きさうだ、――畜生』

 私の友人のこの言葉――『畜生』――を云つた調子に、餘程驚いたが、それは、この人ほど親切な同情のある、それから不思議に偏見と云ふもののない人はない事を、私は知つてゐたからであつた。これには何か話があるだらうと思つて、默つて待つてゐた。

[やぶちゃん注:「畜生」原文“wretch”(レェッチ)。原義は「哀れな人・みじめな人」であるが、卑称(罵詈雑言)で「恥知らず!・嫌われ者が!・こいつめ!」の意がある。]

 『君』暫くして、その農場を全く離れてから、公證人は云つた。「君の云ふあの老人の魔術使ひ、あれはあの土地で生れた生れながらの奴隷です。あの土地は、私共の訪問した夫人の夫のフローラン氏の財產でした。夫人はその人の從妹で、愛し合つて結婚したものです。結婚して二年程たつた時分に、一揆が起つた(幸に子供がなかつた)――一千八百四十八年の黑人の一揆です、農場の主人が多數殺されたが、フローラん氏は眞先に殺された人の一人でした。それで今日遇つたあの黑人、――君の謂はれたあの老魔術使ひ、――あれが畠を捨てて、一揆に加はつたのです。いゝですか』

 『なる程』私は云つた、『しかし暴民を恐れて、さうしたのかも知れない』

 『さうとも、外のものも皆同じ事をしたんだから。しかしフローラン氏を殺したのはあの男で、――何も理由がないのに、――彎刀で斬り殺したのです。襲はれた時は、フローラン氏が、――畠から一哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約千六百九メートル。]程下つた處を、馬で家へ歸る途中でした。……白面(しらふ)ではフローラン氏に向ふ事などはとてもできない。それで奴は無論醉つて、――氣違ひのやうに醉ぱらつてやつたのです。大槪の黑人は、勇氣をつけると云つて、地蜂を中へ入れて、ラム酒を飮んだものです』

[やぶちゃん注:「彎刀」原文“cutlass”(カットレス)。反り身になった幅広の短剣。昔、船乗りが用いた。農業用具でもあり、カリブ海や中米の熱帯雨林やサトウキビ畑の収穫時にも使用される。同じ用途で、中南米の原住民が使う「マチェーテ」というより大きな鉈もある。]

 『しかし』私はさへぎつた。『その奴が未だフローラン家の農場に居るといふのはどうしたのかね』

 『待ち給へ。軍隊で暴民の取締ができた時、フローラン氏の殺害者をさがしたが、見つからない。奴は甘蔗畠の中に、――フローラン氏の甘蔗畠に、――野鼠のやうに、蛇

のやうに――隱れてゐたのだ。或朝、憲兵が未だ彼をさがして居る間に、家に驅け込んで、夫人の前に倒れて、泣いたり叫んだりして「あい、やい、やい、やい、――私は殺しました、――私は殺しました、――あい、やい」丁度此通りの文句を云つたのです。それからお慈悲を願つた。何故フローラン氏を殺したかと尋ねられた時、そんな事をさせたのは、惡魔の故だと云つたのです。……處で、夫八は彼を赦してやつた』

 『どうして、そんなことができたものですかね』私は尋ねた。

 『何しろ、夫人は始めから非常に信心深い、――眞面目に信心深い人でした。「今私がお前を赦して上げるやうに、神樣も私を赦して下さい」と云つただけで、召使達にその男を隱させたり、食物を運ばせたりして、たうとうその騷ぎの終るまで隱し通した。それから元通り仕事に出して、それ以來ずつとあの農場で働いて居るのです。勿論、今では年を取つたから畠では何の役にも立たない、――ただ雛(ひよこ)の世話をするだけですが』

 『しかし、どうして』私は頑張つた、『親類の人達が、夫人にあれを赦させたのですかね』

 『それは、夫人が主張したところでは、あの男は精神的には責任がない、――自分のやつて居る事は何だか分らずに人殺しをした氣の毒な馬鹿者に過ぎない、と云ふのです。それから自分でさへ赦す以上、外の人々はもつと容易に赦せるわけだと主張したのです。それで相談の結果、親類達は夫人の好きなやうに、この事件を處分する事にきめたのです』

 『しかし何故でせう』

 『あの惡者を赦してやると云ふ事に夫人が一種の宗敎的慰安――一種の宗敎的快樂――を見出して居る事を、皆が知つてゐたからですね。夫人は赦してやるばかりでなく、世話をしてやるのが、キリスト敎徒としての義務だと想像したのです。僕等はその考は間違だと思ふが――しかし、その考はよく分つた。……まあ、宗敎と云ふものは、どんな事を人にさせるものかと云ふ、一例になyりますな』……

 

 新しい事實に不意に出合ふ事や、前に想像もしなかつた事を何か不意に知覺する事は、心ならざる微笑を起させる事がある。友人が未だ話をして居る間に私は思はず微笑した。すると、善良なる公證人の顏はくもつた。

 『おや、君は笑ふね』彼は叫んだ、――『君はをかしいと思ふのですね。それはいけない、――それは間違つて居る。……しかし、君は信じない。君は、本當の宗敎、――本當のキリスト敎と云ぶものはどんなものか分らないのです』

 『失敬、君の話は一言一句疑はない。もし、知らずに笑つたとすれば、それは驚かざるを得ないものがあつたからですよ』……

 『何をさ』彼は眞面目になつて尋ねた。

 『その黑人の驚くべき本能に對してです』

 『あゝ、成程』彼は是認するやうに答へた。『さうです、さうです、動物の猾智、――野獸の本能でした。……廣い世界で、彼を救ふことのできる人は夫人だけであつた』

 『ところで、彼はそれを知つてゐた』私は附け加へて見た。

 『否(いや)――否(いや)――否(いや)』私の友は斷然反對した。――『それを知つてゐたわけはない。ただ感じたのです。……そんな本能は、知識も思想も理解も不可能な頭腦、人間の心ではなく動物の頭腦にあるのです』

 

2019/10/06

小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“THE STORY OF ITŌ NORISUKÉ”は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の五番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 標題であるが、現行では原拠(後掲)の表記に従い、総て「伊藤則資の話」と訳されている

 原注は最後に一つだけあるが、本文注に挿入し、四字下げポイント落ちであるのを、本文と同ポイントで、頭から示した。

 最後に小泉八雲旧蔵本を底本に原拠を示した。]

 

 

  伊 藤 則 助 の 話

 

 山城の國宇治町に、六百年許り前に、その祖先は平家の、伊藤帶刀則助といふ若い士が住まつて居た。伊藤は美男子で氣だでがやさしく、中中、學問があつて武藝に長けてゐた。が一家は貧しく、高責な武人間に、彼に眷顧を與へるものが一人も無かつたから、その前途の望みは乏しかつた。文學の硏究に身を委ね、(日本の物語作者の言ふ)『ただ風月を友と』して、極く質素な生活(くらし)をして居つた。

[やぶちゃん注:「伊藤帶刀則助」不詳。冒頭注で述べた通り、原拠は『伊藤帶刀』(たてはき)『則資』とする。]

 或る秋の夕暮、琴引山といふ小山の近處をただ一人散步して居ると、たまたま同じ路を辿つて居る少女に追ひ付いた。その子は立派な服裝(なり)をしてゐて、年の頃は十二か十三ぐらゐに思はれた。伊藤はそれに會釋して、『日が直ぐ暮れますよ、お孃さん、それに此處は少し淋しい處です。道に迷つたのですか』と言つた。その子は晴れやかな笑顏をして見上げて、そんな事はと云つた樣子をして、『い〻え。私はこの近處に御奉公を致して居りまミヤヅカヒで御座います。もう少し行けばよう御座います』と返事した。

[やぶちゃん注:「琴引山」「琴彈山」とも。雅氏のブログ「月詣草紙」の「涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野」に、この附近は『平重衡卿の北の方』であった『藤原輔子(当時女性の名前は伏せられるので役職名の大納言典侍と呼ばれてることが多い)と』重衡が『斬首の前日に最後の再会を果たした地で』とあり、『一の谷の戦いで捕えられ』、『鎌倉に送られていた重衡が、壇ノ浦での平家滅亡後南都の要請で奈良に送られる途中のこと』で、『二人が再開した場所に流れていた川は後にこの逸話から『合場川』』と名付けられ、『大納言典侍が重衡の行列を涙ながらに琴を弾き見送った丘陵を『琴弾山』と名付けられた』と伝える、とある。また、「京都府宇治郡名蹟志」を引用され(原書に当たれないので、一部に手を加えさせて貰って整序した)、

   *

相場川(合場川)

醐南端にあり、平重衡源氏の囚虜となり、鎌倉より南都に送らるるとき、内室、此處に要して對面せしより、此稱あり。

琴彈山

相場川背後の丘卽ち之れなり、内室、重衡に別るに臨み、琴を山下に彈きし別離を惜みし所として此稱あり。

石田岡(琴彈山)

琴曳山一帯の地を伝ふ、古來和歌の名區なり。

重衡墓

小字外山街道十三番地民家の裏に在り。重衡、義經に囚われ、木津の邊りに斬らる。内室、その首級をこの地に葬り、佛心寺に居り、其瞑福を祈る。今、其佛心寺、なし。

   *

とあるとある。以下、「平家物語」の「重衡被斬(きられ)」の二人の印象的な哀しい再会が引かれるので、是非参照されたい。その後で、『合場川のバス停』の『すぐ後方がこ』の『琴弾山だと、伏見区のwebのあ』ったとあるので、この附近(グーグル・マップ・データの航空写真)かと思われる。現在は平地となっていって、丘陵らしきものも、残念ながら全く見られない。東南近くに「重衡塚」がある。

 その子がミヤヅカヒといふ言葉を使つたので、伊藤はその女の子は高位な方に奉公して居るに相違ないと知つたが、どんな名家も其附近に住まつて居ることを聞いたことが無いから、その子の云ふことを怪しんだ。だが、ただかう云つた、『私は私の家(うち)のある宇治ヘ今歸るところです。此處は大變淋しい處ですから、途中、一緖に行つて上げませう』

 その子はその申し出を喜んだらしく、しとやかに御禮を述べた。で、話しながら二人は一緖に步んで行つた。その子は天氣の事、花の事、蝶蝶の事、鳥の事、一度、宇治へ見物に行つた事、自分が生れた都の名所の事を話した。伊藤には、その子の爽やかなお喋舌(しゃべり)を聽いて居ると、時間が愉快に經つて行つた。やがて、その道の或る曲り目で、二人は若木の杜[やぶちゃん注:「もり」。]で大變に暗い小村へ入つた。

 

〔此處で、自分は、此話を中斷して、諸君に話さなければならぬ事がある。日本には、晴れ切つた非常に暑い天氣の折にも、いつまでも暗くて居る田舍村があつて、其暗さは實地にそれを見なければ讀者には想像が出來ぬといふ事である。東京の近處にさへ、そんな村は澤山ある。そんな村から少し離れると家は一軒も無い。常磐木[やぶちゃん注:「ときはぎ」。]の茂つた杜のほか、何んにも見えぬ。其杜は、普通若い杉と竹とから成つて居るが、暴風の害を蒙らぬやう其村を被ひ、且つまた種種な目的に材木を供給する用を爲して居る。木は密植してあるから、幹と幹との間を通つて行く餘地が無い。帆柱のやうに眞直ぐに立つて居て、日を遮る屋根をつくるほどに、其頂部を交じへて居る。草葺きの田舍家は何れも皆、植林中の空いた地を占めていて、其樹木が其まはりに家の高さの倍の垣を造つて居る。其樹木の下は、眞つ晝間でもいつも薄暗がりで、家は朝か夕方かは半ば蔭になつて居る。殆んど不安の念を起こさせるこんな村の第一印象は、それ獨特の一種の薄氣味惡るい妙味を有つて居る、其透明な暗がりでは無くて、其靜けさである。家敷は五十ら百もあることがあらう。しかし何も見えず何んの音も聞えず、ただ、眼には見えぬ小鳥の囀り、時たまの鷄の啼き聲、蟬の叫びがあるだけである。だが、蟬もへ其杜を餘りに暗いと思ふのか、微かに啼く。日を愛する蟲だから、村の外の樹木を好むのである。自分は云ひ忘れたが、時に眼に見え梭[やぶちゃん注:「ひ」。機織りのシャトル。]の――チヤカトン、チヤカトンといふ――音を耳にすることがあらう。――が、其聞き慣れた音が、この大なる綠の無言のうちに在つては、仙鄕のもののやうに思はれる。其靜寂の理由は人が家に居ないといふただそれだけである。大人は、弱い老人少しを除いて、凡て、女は赤ん坊を背に負うて、近處の野畠へ行つて居り、子供の大部分は、多分一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。]より少からぬ遠くの一番近い學校に行つて居る。實際、こんな薄暗いひつそりした村に居ると、誰れしも『世の養ひを享けたる太古の人は、何物も求むるところ無く、世また物澤に、――人は無爲にして萬物化育し、――其靜かなること深淵の如く、國人すべて皆心安らかなりき。』といふ管子の文に書いてある情態の不思議な永存を眼前に視て居るやうな氣がする〕

[やぶちゃん注:「管子」(くわんし(かんし):春秋時代の斉の宰相管仲の著と伝えられる書。全七十六編。先秦から秦・漢時代にかけての政治・経済・文化などが、儒家・道家・法家・陰陽家など複数の思想的立場から記述されている。実際には漢代までの間に多くの人の手によって記述追補編纂された書である)の巻第十三の、次の一節。

   *

夫正人無求之也。故能虚無。虚無無形。謂之道、化育萬物、謂之德。

(夫(そ)れ、正人は之れを求むる無し。故に能く虚無たり。虚無、形、無し。之れを「道」と謂ひ、萬物を化育する、之れを「德」と謂ふ。)

   *

鬼丸紀氏の論文「『管子』四篇における養生説について」(『日本中國學會報第三十五集』所収。PDFでダウン・ロード可能)の本条の解説に(一部に濁点を打った)、『虛靜の道はもとは自然界の法則であり、それによって自然現象か成り立つものであったが、同時に人がそれを守り行うことによって、人文現象に正しく對應できるようになる。人はこのような考え方のもとに、人事に自然界の法則を導入し、人と自然界との合一を理想とした結果、人事と自然現象とは連續的なものとなり、相互に影響を及ぼし合うようになった。「萬物を化育」するのは、本來、自然現象に屬するものであるが、ここでは「義」、「禮」、「法」なとの人間社會の中で守り行うべき規範と竝べて、聖人の「德」として說かれている。人は虛靜の法を守り行うことによって、人間の諸事を誤りなくなし遂げると同時に、萬物を化育することもできるという考え方が現われている。自然界の理法を體得することは、自然界と一體となることてあり、そこで自然現象にまで人の力が及ぶわけである』とある。「虚静」とは、元来は「荘子」の思想の一つで、欲望を一切捨て去って、心の中に不信や疑念などがなく、落ち着いて、自然のあるがままの世界に身を委ねることを謂う語である。]

 

 ………伊藤がその村へ著いた時は餘程暗かつた。日は早、沈んでしまつて、夕燒けはその樹木の蔭では薄明りも與へて居なかつたからである。その子はその大道に通じて居る狹い小路を指さして『あの、御深切な御旦那樣、私はこちらへ參らなければなりません』と云つた。『それでは家まで送つて行つて上げよう』と伊藤は答へて、行く手を見ながらといふより探りながら、その子と一緖にその小路へ曲つた。ところが、その女の子は頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]、その暗がりにぼんやり見える小さな門の前で――其先に在る住家の光(あかり)が見える格子作りの門の前で停つた。『私が御奉公致して居ります御邸は此處で御座います。ここまで遠く寄り道をして下すつたことで御座いますから、入つて少し御休みになつて下さいませんか』と云つた、伊藤はそれを諾した。この手輕な招きを嬉しく感じ、どんな立派な身分の人がこんな淋しい村にわざわざ住まふことにしたものか知りたいと思つた。高位の一家が、政府に不滿を抱くとか、政治上の紛紜[やぶちゃん注:「ふんうん」或いは連声(れんじょう)で「ふんぬん」物事が入り乱れていること。事態が縺(もつ)れること。もめ事。]があるとかで、時にこんな風に引退することがあると知つて居たから、自分の眼の前のこの邸に住まつて居る人達の身の上も、さうであらうと想像した。其年若い道伴れ[やぶちゃん注:「みちづれ」。]が、開けて吳れた門を潛ると[やぶちゃん注:「くぐると」。]、四角な大きな庭があつた。うねうね小川が橫ぎつて居る、山水の景を小さく模した、其造り微かに見分けられた。『ほんの一寸の間、御待ちになつて下さいまし。御出でのことを申しに參りますから』と其子は云つて、家の方へ急いで行つた。廣廣した家ではあつたが、餘程古さうで、それに今とは異つた時代の建て方であつた。引き戶は閉(し)めて無かつたが、光(あかり)のして居る家の中は、緣の正面に亘つて美くしい簾が掛かつて居るので見えなかつた。其簾のうしろに影がいくつか――女の影がいくつか――動いて居た。――すると、不意に琴の音が夜に波打つて響いて來た。其彈き方が如何にも輕くまた旨いので、伊藤は自分の耳を信ずることが殆んど出來なかつた。耳を欹てて[やぶちゃん注:「そばだてて」。]居るうちに、うつとりするやうないい氣持ちが――妙に哀れの籠もつたいい氣持ちがして來た。どんな女でも、どうしてあんなに彈くことが覺えられたらうと怪しんだ――彈き手は女なのか知らと怪しんだ――自分は、この世の音樂を聽いて居るのか知らとさへ怪しんだ。魔力がその音と共に、自分の血の中へ入つたやうに思はれたからである。

 

 そのやさしい音樂は歇んだ[やぶちゃん注:「やんだ」。]。すると、それと殆んど同時にあの小さな宮仕が其橫に來て居ることを知つた。『おはひり下さるやうにとのことで御座います』と云ふのであつた。入口へ案内されて行つて、其處で草履を脫ぐと、ラウヂヨ卽ち其一家の召使頭だと伊藤が思つた年長けた女が、閾際[やぶちゃん注:「しきいぎは」。]まで迎へに出た。其老女はそれから部屋を幾つか通つて、家の裏側の大きな明かるい部屋へ連れて行つて、何度も恭しく辭儀して、高位の人が坐る上席に就いて吳れと乞ふのであつた。部屋が物物しげなのと、其裝飾の珍らしい、美しさとに驚いた。やがて、女中が幾人か出て茶菓を供へて吳れたが、前へ置かれた荼椀も他の器物も稀れな高價な細工のもので、且つ亦、其持主が高位な人だと知れる模樣で飾りがしてあることに氣付いた。どんな氣高い人がこんな淋しい隱退處を選んだものだらう、どん事がこんな孤獨を望ませるやうにしたものだらう、と段段怪しんで來た。ところが、老女は

 『あなたは宇治の伊藤樣だと――あの伊藤帶刀則助樣だと思ひますが、違ひますか』

と訊ねて突然その囘想を妨げた。

 伊藤は如何にもと頭を下げた。自分の名をあの小宮仕に云ひはしなかつたのであるし、それにその訊ね方にまたびつくりした。

 老女は言葉を續けて云つた。『どうか、私の御尋ねを失禮だとは思つて下さいますな。私のやうな老人はいろんな事を御尋ねしてもいいので御座いませう、不都合な珍らしがりで無くて。あなたが此家に御出になつた時、あなたのお顏に見覺えがあると思ひました。だから、他の事をお話しする前に、疑ひを晴らすだけにお名前を御伺ひ致したので御座います。御話し致したい大切な事が御座います。あなたはよくこの村をお通りになるので、私共の若い姬君樣が或る朝あなたの御通りになるのを不圖、御覽になりまして、その時からといふもの、晝も夜もあなたの事を考へておいでになります。本當に、餘り心思ひになつて病氣におなりで、私共は大變に心配して居ります。其爲めに、あなたのお名前とお住居を見つけるやう取り計らひまして、手紙を差し上げようとして居る處ヘ――どうで、御座いませう、思ひがけも無い!――あなたがあの召使と一緖に私共の門へ御出で下さいました。まあ、あなたに御會ひしてどんなに嬉しいか到底も口には申し上げられません。あまりに仕合せで本當だとは思へないくらゐで御座います。實際、かうして御會ひ出來たのはエンムスビノカミの――仕合せな緣組みの絲の結びを繋いで下さる、あの出雲の神樣の――惠みの御計ひに違ひないと私は思ひます。そんな仕合せな運が、あなたをこちらヘ御連れ申したことで御座いますから、否(いや)とは仰せになりは致しますまい――そんな緣組みの――姬君樣のお心をお喜ばせ申す――邪魔が何も無いのなら』

 

 その當座、伊藤には、どう返答していいか分らなかつた。その老女が若し本當のことを云つたのなら、異常な機會が、其身に捧げられて居るのであつた。非常な熱情あればこそ、高家の息女が、自分と[やぶちゃん注:「おのづと」と訓じておく。]求めて、富も無ければ、何んの前途の望みも無い、主人無しの名も無い士の愛を求めなされるのである。だが一方また、女の弱味に附け込んで、己が利を增さうとするのは男の面目とすべきことでは無い。それにまた、事情が氣掛りな不思議である。だが、かう思ひ掛けない申し出をどう斷わつていいか少からず心を惱ました。暫く無言で居てから返事した。

 『私には妻はありませんし、許嫁はありませんし、どんな女とも何の關係もありませんから、邪魔は少しも無い譯であはります。今まで私は兩親と暮して來て居りますが、緣談の事は兩親は一度も話したことはありません。知つて置いて戴かねばなりませんが、私は貧乏士で、高位の方方の間に私を庇護して下さる方がありませんし、身の境遇のよくなる機會が見つかるまでは、妻を娶らうとは思つて居ませんでした。御申し出の事は、私に取つて光榮至極ではありますが、私はまだ高貴な姬君に思つていただくに足らぬ身だと思うて居ります、とかう申し上げるほかはありません』

 老女はその言葉を聞いて滿足に思つたらしく微笑して、かう返事した。

 『姬君樣に御會ひになるまで、御極めにならぬがおよろしいで御座いませう。御會ひになつたなら多分、御躊躇(ためらひ)にはなりますまい。どうか、私と一緖にお出になつて下さいませんか、姬君樣へ御引き合せ致しますから』

 前のよりも大きな別な客間へ案内されたが、行つて見ると御馳走の支度が出來てゐて、上座へ就かせられてから一寸の間、獨り其處へ待たされた。老女は姬君樣を連れて歸つて來た。その若い女主人分を始めて一目見た時、伊藤は庭に居て琴の音を聽いた時覺えた、あの不思議な驚きと悅びとの身戰ひを再び感じた。こんな美しい人は一度も夢にも見たことが無かつたのである。綿雲を通して見る月の光りの如く、光りがその身から出て、その衣裳を通して輝いて居るやうであり、その解けて、垂れて居る髮の毛は身動きにつれて搖れて、春のそよ風に動く枝垂れ柳の枝のやうであり、その唇は朝露を帶びた桃の花のやうであつた。伊藤はその姿を眺め見て恍惚とした。正(しやう)のアマノカハラノオリヒメの姿を――輝く天の川の傍に住む織女の姿を見て居るのでは無いかと思つた。

 にこにこしてその老母[やぶちゃん注:ママ。後では「老女」。]は、その美しい姬の方へ向いたが、姬は眼を伏せ、頰を赧く[やぶちゃん注:「あかく」]して默つたままで居るので、姬に向つてかう云ふのであつた。

 『どうで御座いませう、あなた! こんな事があらうとは少しも望みも出來ない折に、あなたが會ひたいと仰しやるその當のお方が、自分から、お越しになつたので御座いますよ。こんな運のいいことは全く、神樣の御心からでなければ、出來る筈は御座いません。それを思ふと嬉しくて、泣きたくなります』

[やぶちゃん注:「!」の後に底本では字空けはない。特異的に挿入した。後の三箇所も同じように処理した。以下では注さない。]

老女は聲に出して咽び泣いた。そして、袖で淚を拭ひながら、言葉を續けて、

 『それで、これからあなた方お二人のなさることはただ――どちらもおいやだ、といふことはありますまいが、むいやで無いななら――瓦に約束をして、そして、一緖に婚禮のお祝ひをなさることで御座います』

と言つた。

 

 伊蒔は無言で答へた。自分の前に坐つて居る、その比類無しの眼に見える物が、その意志を痺らせ、その舌を縛つてしまつたのである。召使の女達が器物や酒を携へて入つて來た。婚禮の膳部が二人の前に竝べられ、固めの杯が取り交はされた。それでも伊藤は元のやうに失神したやうになつてゐた。此珍事の不思議さと、新婦の麗はしさの驚きとがまだ、その頭を混亂させてゐた。未だ嘗て覺えたことの無い一種の嬉しさが――大なる靜寂の如くに――その胸に一杯になつた。が、段段と、そのいつもの落著きを囘復して、それからは困らずに話をすることが出來るやうになつた。酒を遠慮無くお相伴して、今までその心を抑へて居た疑惑と恐怖を、卑下してではあつたが陽氣に、思ひ切つて話した。その間その新婦はもとの如く月の光りのやうに靜かにしてゐて、眼は決して上げず、物を言ひかけられると赤面か、微笑かして、それに應へるだけであつた。

 伊藤は老女に向つてかう言つた。

 『幾度も獨りで散步をして、この村を通つたことがありますが、この御屋敷の在ることは知りませんでした。それでこちらへ入つてからといふもの、御宅樣がどうしてこんな淋しい住居場をお選びになつたのだらうかと、不思議に思つて居りました。……あなたの姬君樣と、私と互に約束を取り交はしたのに、私が御一家のお名を、まだ知らぬとは可笑しな事に思はれます』

 かう云ふと、一抹の影が老女の情け深い顏を橫ぎつた。そして新婦は、それまで殆んど口をきかなかつたが、眞靑になつて非常に心を傷めて居る樣子であつた。暫く無言の後に老女はかう答へた。

 『私共の祕密を長く隱して置くことは六つかしいことで御座いませうし、それにあなたは、私共の家の一人におなりになつて居ることで御座いますから、どんなことがあらうと、本當のことをお知らせ致さなければならないと思ひます。では、伊藤樣、申し上げます、あなたの花嫁は、あの不仕合せな三位中將重衡卿の娘なので御座います』

 此言葉を――『三位中將重衡卿」といふ言葉を――聞いて此若士は、身體中の血管に氷の寒氣[やぶちゃん注:「さむけ」。]を感じた。平家の將軍であり、政治家であつた重衡卿は、死んで塵土に歸してから三世紀を經て居る。そこで伊藤は突然、身の𢌞りの物凡ては――部屋も燈火も饗宴も――過去の一場の夢である、己が前の姿は人間で無くて、死んだ人間の影である事を知つた。

[やぶちゃん注:「平重衡」(保元二(一一五七)年或いは保元元(一一五六)年~文治元六月二十三日(ユリウス暦一一八五年七月二十一日)享年二十九)は平清盛の五男。母は平時子で宗盛・知盛・徳子らの同母弟。応保二(一一六二)年に叙爵し、尾張守・左馬頭などを経て、治承三(一一七九)年に左近衛権中将、翌年には蔵人頭と累進した。極官が正三位左近衛権中将であったことから「本三位中将」とも称された。文武兼備の人物で、蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方、源平争乱が勃発すると、武将として奮迅の活躍をし、治承四年五月には、以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧し、同年十二月には、興福寺及び東大寺攻撃の総大将となって、大仏殿以下の伽藍を焼き打ちした。このため、仏敵として強い非難を受けた。翌年三月には「墨俣川の戦い」で源行家を撃破し、「平家都落ち」の後も、寿永二(一一八三)年閏十月の「水島合戦」や翌月の「室山合戦」などに於いても勝利を収めた。しかし、翌年二月の「一の谷の戦い」で捕虜となり、兄宗盛のもとに使者を遣わし、三種の神器の返還と源平の和議を試みようとするも、実現せず、翌月、鎌倉に護送された。その人柄から、源頼朝に厚遇されるが、先の怨みを昂じさせた興福・東大両寺の衆徒の強い要求によって、奈良に送られ。南都焼き打ちの張本人として木津川畔で斬首された。「平家物語」は、虜因の身となった重衡を、平家の滅亡を象徴する非運の武将として哀切に描いている(ここは主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「平重衡」によれば、『重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった』とある。

「三世紀」小泉八雲の本篇の時制設定は重衡が没してから三百年後の、室町末期(戦国初期)の一四八五年、文明十七年前後辺りという設定になっている

 が、つぎの瞬間に其氷の如き寒氣は去つてしまつた。蠱惑[やぶちゃん注:「こわく」。人心を怪しい魅力で惑わすこと。誑かすこと。]が歸つて來て、身の𢌞りに深くなつて行くやうであつた。少しも恐れを感じなかつた。その新婦はヨミから――死の黃泉の場處から――彼へ遣つて來やのであつたのに、彼の心は全く奪はれてしまつて居たのであつた。幽靈と結婚するものは、幽靈にならなければならぬ。――しかし、己が前のその美しい幻の額に、心痛の影でも齎らすやうな考へを、言葉なり顏色なりで、洩らすよりか死ぬる方が、一度で無く、幾度でも死ぬる方が、優(ま)しだといふ氣になつて居ることを知つた。その捧ぐる愛情には、少しの疑ひも有たなかつた。優(やさ)しからぬ目的があつての事ならば、騙して爲した方がよかつたらうにと考へると、其愛情が眞實なことがうなづかれるのであつた。が、そんな考へや思ひは瞬時に消えてしまつて、今、身の前に現れ來たつて居る、その不思議な地位をそのまま受け入れて、壽永の昔、重衡の息女が自分を婿と選んだなら、自分が爲したであらう通りに振舞はうと決心した。

[やぶちゃん注:「壽永」。一一八二年から一一八三年まで。重衡の死の「文治」の前の「元暦」の、その前の年号。但し、平家方では「都落ち」した後も、次の「元暦」とその次の「文治」の元号を使用せずに、この「寿永」を、その滅亡まで引き続いて使用していたから、ここは、主人公も祖先は平家であり、霊姫も重衡の娘であるからして、平家滅亡の文治元(一一八五)年三月二十四日まで広げて考えてもよかろう。]

 『噫、あれは本當に殘念なことで御座いました。重衡卿樣の無慙な御最期の事は聞いて居ります』

叫んだ。

 老女は啜り泣きしながら、答へて言つた。

 『え〻本當に無慙な御最期で御座いました。御承知のとほり、乘つておいでになつた馬が矢に當たつて死んで、御主人の上へ倒れました。聲を上げて助けをお求めになりましたが、それまで御恩に暮して居た者共は、危急の際であるのに見棄てて逃げてしまひました。それから俘囚(とりこ)になつて、鎌倉へ送られになりましたが、鎌倉では誠に人を侮つた取扱ひをして、そして到頭、世に亡い人にしてしまひました原註一。奥方と御子――此處に居られます此娘子――とは其時、身を隱して居られました。到る處、平家の者を探して殺したからで御座います。重衡樣のお歿(かく)れの音信が著きますと、母人には心の痛みに堪へかね、其爲めこの娘子さんが、――血緣の方方はいづれもお歿(かく)れになるか、姿をお隱しになるかしまして、――私のほか誰れ一人御世話申し上げる人も無く、御殘りになつたので御座います。その時はやつと五歲になられてゐました。來る年も來る年も、此處から其處へと、巡禮姿で旅してさまよひました。……が、そんな悲しい話は今は折を得ませぬ』

原註一 重衡は――當時タイラ(卽ちヘイケ)方がしてゐた――都の防禦に勇しく戰つた後、ミナモトの軍勢の將、義經に襲はれて敗れた。家長といふ、弓に熟練な士が重衡の馬を射倒して重衡は、悶へもがくその馬の下敷きになつた。或る伴の者に換へ馬を連れて來るやう賴んだが、その男は逃げて行つた。それから重衡は家長に捕へられ、しまひに賴朝のところへ送られた。賴朝といふは源家の首長で、重衡を籠で鎌倉へ送らせたのである。鎌倉では色色加辱を受けてから、――詩を詠んで殘酷な賴朝の心すら感動せしめ得て――一時は斟酌した待遇を蒙つた。然しその翌年、嘗て淸盛の命によつて、南都の僧と戰つたことがあるので、その南都の僧の乞ひによつて處刑された。

と淚を押し拭ひながら、その乳母は叫んだ。

[やぶちゃん注:「家長」庄家長(しょういえなが 生没年未詳)は武蔵国児玉党(現在の埼玉県本庄市栗崎)の武将。]

 『昔が忘れられない年寄り女の愚かな心を御許し下さいませ。御覽なさいませ、私がお育て申した、その小さな娘子が本當に、今は姬君樣におなりになりました。――高倉天皇の結構な御世に暮して居ますれば、この方(かた)にどんな身の運命(さだめ)が除(の)けて置いてあることで御座いませう! では御座いますが、自分の好きな夫をお持ちになりました。それが一番のお仕合せで御座います。……が、時刻が更けました。合𢀷のお床の用意は出來て居ります。朝までは身のお世話を御二人御互に御任せ申し上げなければなりません』

[やぶちゃん注:「高倉天皇の結構な御世」後白河天皇第七皇子で安徳天皇・後鳥羽天皇らの父である高倉天皇(応保元(一一六一)年~治承五(一一八一)年)の在位は仁安三(一一六八)年四月九日から治承四(一一八〇)年三月十八日。皇太后は平清盛の娘滋子(建春門院)。平家滅亡の四年前に病死した。

「合𢀷」読みは「がふきん(ごうきん)」で、本来は「結婚式を挙げること」の意。「礼記」の「昏義」に由来し、「巹」は「巹」とも書き、「結婚式を挙げること」を謂う。瓢(ふくべ)を両分した杯のことで、古代中国で婚礼の際に夫婦が一つずつ手にして汲みかわしたとすることに基づく。但し、ここは「合衾(ごうきん)」と同じで、初夜(の寝具)のこと。]

 老女は起ち上つて、客間と次の部屋とを分かつ襖を推し開け、二人を其寢間へ案内した。それから幾度も喜びと祝ひの言葉を述べてさがつたので、伊藤は新婦と二人きりになつた。

 一緖に臥せりながら、伊藤はかう云つた。

 『あなたが私を夫に有たうと始めてお思ひになつたのは、何時のことで御座いますか』

 (萬事が如何にも、眞實らしく見えるので、自分の身の𢌞りに編まれて居る、この幻のことを殆んど、考へなくなつたからである。

 女は鳩の啼くやうな聲で答へた。

 『我が君樣、私が始めてあなた樣に、御目にかかりましたのは、私の乳母と一緖に參りました、石山寺でで御座いました。あなた樣に御目にかかつたばつかりに、その時その折からこの世が、私には全く變つてしまひました。が、あなたは御覺えになつて居りません。二人が出會つたのはこの世、あなた樣の今の世ではなかつたので御座いますから。ずつとずつと昔のことで御座いました。その時からあなた樣は、幾度も死んだり、生れたりなされて、幾度も美くしい身をお有ちになりました。が、私はいつも、今、私を御覽のままで居りました。あなた樣を夫(をつと)にとの强い願ひを掛けたばつかりに、別な身體(からだ)に生れることも、別な境涯の者に生れ變はることも出來なかつたので御座います。我が君樣、私は人間の世の幾代を、あなた樣をお待ち致して居たので御座います』

 ところが、この花婿はこんな不思議な言葉を聞いても、少しも恐ろしくは思はずに、一生涯、來たらん幾生涯凡てに、その女の腕を自分の身の𢌞りに感じ、その女の愛撫の聲を耳にすることより他の事は何も欲しなかつた。

 

 しかし、寺の鐘の響きが夜の明けたことを報じた。鳥が囀り始め、朝の微風が木木を囁かせた。突然、かの年寄りの乳母が、寢間の襖を明け放つて大聲で、

 『お別れになる時刻で御座います。日の目に會うて一緖に御出になつてはなりません、一刻も。お身の破滅で御座います! 互に暇乞ひなさらなければなりません』

 一言も云はずに伊藤は、直ぐにも歸らうとした。今、聽いた警戒(いましめ)の意味を朧氣ながら悟つて、身を全く運命に任せた。自分の意志はもはや、自分のものでは無かつた。ただ、その影の如き新婦の心を悅ばせようと望むばかりであつた。

 新婦は珍らしい彫刻(ほり)のある、小さな硯を則助の手に置いてかう云つた。

 『あなた樣は學者でゐらせられますから、この小さな贈り物も、お蔑(さげす)みはなさるまいと思ひます。これは高倉天皇の御意によつて、私の父が拜領致しましたお品で、古う御座いますから、妙な恰好を致して居ります。父が拜領したものといふだけの理由で、私は大切に致しておりました』

 伊藤はその返しに、自分の刀の笄を記念として受け取るやうに乞うた。その笄は、梅に鶯の模樣を、金銀の象眼で飾つてあつた。

[やぶちゃん注:「笄」は「かうがい(こうがい)」で、この場合は武家の男性が、小刀や短刀の鞘に差して、飾りとしたり、髪の乱れを整えたり、実践に於いては手裏剣のように投擲して相手を傷つけるのに用いたごく小型の小刀風のものを指す。]

 それから例の小さな宮仕が、庭の外へ案内にやつて來て、新歸とその乳母とは、家の入口まで一緖に來た。

 

階段の下で振り返つて別れの辭儀をしようとすると、その老女はかう言つた。

 『このつぎの亥の年に、あなたが此處へおいでになつたと、同じ月の同じ日の同じ時刻にまた、お會ひ致しませう。今年は寅の年でありますから、あなたは十年、お待ちにならなければなりません。が、申し上げられない色々の理由(わけ)がありまして、此處では又、御目にかかることは出來ません。私共は京都の近處の、高倉天皇樣や私共の祖先や、私共に仕へてゐるものが、多勢住まつて居る處へ行かうと思つて居ります。平家の者は皆、あなたがお越しになると悅びませう。御約束致しました其日に、籠をお迎ひに差し上げます』

[やぶちゃん注:「今年は寅の年」先の本篇の推定時制の文明一七(一四八五)年前後の寅年は、文明一四(一四八二)年の壬寅(みずのえとら)及び明応三(一四九四)年の甲寅(きのえとら)となり、そこから十年後の亥年は、前者ならば、延徳三年(一四九一)年の辛亥(かのとい)、後者ならば、文亀三(一五〇三)年の癸亥(みづのとい)となる。実は、原拠にはその約定の年の干支を『辛亥』としているので、延徳三年(一四九一)年で決まりである。但し、老女の謂うように、この規制の意味は私には解らぬ。

 

 伊藤が門を出た時には、村の上に星が輝いて居た。が、往還へ達すると、森閑とした幾哩の野の向うに、黎明の空が明かるくなりつつあるのが見えた。懷に新婦の贈り物を納れて居た。その聲の魅惑が、耳に殘つて居た――そしてそれにも拘らず、不審の手指で觸はつて見て居る、その形見の品が無かつたなら、夜前の思ひ出は眠りの思ひ出である、自分の生命はまだ、自分のものである、と信ずることが出來たであらう。

 だが、自分の身を確かに運命づけたのだといふ確信は、少しも遺憾の念を起こさなかつた。ただ、別れの苦しみと、その幻が、自分に再び繰返さるるまでに過ごさなければならぬ春秋の思ひとに心を惱ますだけであつた。十年!――その十年の每日每日が、どんなに長く思へることであらう! その手間取りの神祕は、これを解くことを望み得なかつた。死者の祕密な慣習はただ、神だけが知つておいでになるのである。

 

 幾度も幾度も、その獨りの散步の折、伊藤は、過去を今一目見たいものと、朧氣の希望を抱いて、琴引山のその村を訪ねた。だが、二度と、夜も晝も、その暗い小徑にあつた田舍風な門を見つけることは出來なかつた。また、夕燒けに獨り步いて居る、あの小さな宮仕の姿を二度と見ることは出來なかつた。

 村の人達は、在りもせぬ家のことを、丁寧に訊ねるものだから、誑かされて居るのだと思つた。高位の方で、この村に今まで住まつて居られた方は一人も無い、と言ふのであつた。その近處に彼が話すやうな、そんな庭は一つもそれまであつたことは無いと言ふ。が、その云ふ場處の近くに、大きな寺が一宇あつたことがある。その墓地の石碑で、今でも見ることの出來るのが少し殘つて居ると言ふ。伊藤は茂つた藪の中に、村人のいふ墓碑を發見した。古風な支那型のもので、苔や地衣に蔽はれて居た。それに刻んである文字は、もはや判讀することが出來なかつた。

 自分が遭遇したかの不思議な事件に就いては、伊藤は何人にも語らなかつた。が、その友人や近親は、その容貌も樣子も非常に變つたことを直ぐに認めた。醫者は身體(からだ)には何の病氣も無いと明言したけれども、日一日と靑くなり、また瘠せて來るやうで、顏附は幽靈のやう、起ち居振舞ひは影のやうであつた。もともと、いつも物を考へ込んで、獨りで居たのであるが、この頃は以前に彼が面白がつた事のどれにも――それで名を成さうと希望することの出來た、あの文學の硏究にも冷淡になつたやうに思はれた。その母に――結婚させたなら、その前の野心を鼓舞するかも知れぬ。[やぶちゃん注:句点はママ。]その人生の興味を復活するかも知れぬ、と母は考へたから――自分は生きて居る女には結婚しないといふ約束をしたと話した。かくして歲月は足を引き摺るやうに經つて行つた。

 到頭、亥の年が來、秋の季節が來た。が、伊藤にはその好きな獨りでの散步が最早出來なかつた。床から起きることさへ出來なかつた。誰れもその原因を推測することは出來なかつたけれども、その生命(いのち)の潮は次第に引いて行つて、その眠りを屢〻で死と間違へるほど、それ程深くまた長く眠つた。

 そんな眠りから、或る晴れやかな夕暮れ、子供の聲に目覺まされた。すると今は消えて無いあの庭の門へ、十年前に、案内して吳れた、あの小さな宮仕が床の橫に居るのが見えた。その子は蹟辭儀をして、にこりと笑つて、そしてかう言つた。『京都近くの大原へ、其處に今度のお家がありますが、それへ今夜あなた樣を御迎ひ致しますといふこと、御籠がお迎ひに來て居りますといふこと、それをあなた樣に申し上げるやうにと云ひ付かりました』そして、その子は姿を消した。

 伊藤は、自分が日の光りの見えぬ處へ招かれるのであることを知つた。しかし、その傳言が餘りに嬉しかつたので、起き上つてその母を傍へ呼ぶほどの元氣が出た。母へ其時始めて自分の新婦の話を聞かせて、貰つた硯を見せた。自分の棺の中へ納めて下さいと賴んで――そして、やがて死んだ。

 

 その硯は彼と共に埋められた。が、葬式前にこの道の人が調べて見て、それは承安年間(紀元一一七一―一一七五)に造られたもので、それには高倉天皇の時代に居た、或る工人の刻印があると言つた。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、前の「鏡の少女」と同じく、江戸末期の弘化五(一八四八)年一月に板行された、大坂の戯作者で名所図会作者として有名な暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年:姓は木村、名は明啓)編の、「當日奇觀」巻之第一巻の第二話「伊藤帶刀(たてわき)中將、重衡の姬と冥婚」である。但し、実は当該原拠自体が、その序文の記載から、それよりもかなり以前に出版された、江戸中期の読本作家で儒学者・医師でもあった文人都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?:大坂の文人。上田秋成は都賀の「古今奇談繁野話(しげしげやわ)」(明和三(一七六六)年板行)に触発されて「雨月物語」を書いたことは有名)著とされる(署名は「草官散人」)「席上奇觀垣根草」を外題を変えただけで、再版・改題したものである。今回、元の「席上奇觀垣根草」の活字版画像データも入手したが、特に大きな異同は見当たらぬので、小泉八雲が実際に原拠とした以下で電子化することとした。なお、

 ここでは富山大学「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化した。但し、読みは五月蠅いので、振れると思われる一部に留めた。歴史的仮名遣の誤りはママである。読み易さを考えて、私が句読点・記号を附加し、段落も成形した。一部に濁音を附した。なお、原拠には古屋敷の前で則資が待っており、そこに少女の奉公人がやってくるところを描いた挿絵がある。

   *

   伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚

 弘長の頃、宇治の邊(へん)に伊藤何某といふものあり。先祖より平氏の侍なりしが、壽永の後(のち)は、世を宇治に逃(のがれ)て、仕官の望(のぞみ)もなく、風月を友として暮しけり。

[やぶちゃん注:「弘長」は鎌倉中期、文応の後、文永の前で、一二六一年から一二六四年まで。鎌倉幕府将軍は第六代宗尊親王で、執権は第六代北条(赤橋)長時(非得宗。時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎで、実際には先の第五代時頼が権力を握っていた)。但し、以下はその末裔であるから、時代はずっと後という設定である。]

 それが末(すへ)に、伊藤帶刀則資といふあり。生れ淸げに、心ざま、いと優(ゆ)にやさしき男なり。

 或時、所用の事ありて、都に出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、暮に及て[やぶちゃん注:「およびて」。]、琴彈(ことひき)山の麓を通るに、年のころ、十五、六才ばかりなる女の童(わらは)、そのかたち、きよらかなるが、只一人、ゆくあり。

 帶刀、やがて、袖をひかへて[やぶちゃん注:引いて。]、

「かく暮に及びて、具(ぐ)したる人もなく、いづちへかおはすやらん。」

といふに、

「このあたりに宮仕し侍るものにこそ。」

と答ふるけわひ[やぶちゃん注:様子。]、思ひくだすべき品にはあらじと[やぶちゃん注:不審な判断を下すべき人品ではないようだ、と安心し。]、

「我は宇治(うぢ)のあたりへまかるものなり。道の便(たより)あしからずは、伴ひ參らせん。」

といふに、いなむ色なく、さまざま物語し、もて行うち、松杉の一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]しげれるほとりに、あやしの編戶ひきつくろひたる許(もと)にて、

「これこそ宮仕(みやづかへ)參らす方なり。道のつかれをも、はらし給ひてんや。」

と、いゝすてゝ、内に入(いる)。

 帶刀も、『主(あるじ)は、いかが人やらん』と、みいれたるに、よしある人の隱家(かくれが)と覺(をぼへ)て、庭のけしきも、おのづからなる風情にて、尾花・くず花、露、ちりやり、水に紅葉(もみぢ)うづもれ、霜にうつろひたる菊の籬(まがき)、一重(ひとへ)をへだてゝ、あれたる軒ながらに、簾、なかば、たれて、燈、かすかに、きらめき、琴の音(ね)、ほのかにもるるにぞ、いとゞ、其(その)名(な)、ゆかしく[やぶちゃん注:知りたく思って。]たちやすらひたるに、先の女童(めのわらは)出(いで)て云、

「あるじの御方(かた)にきこへ參らせたれば、『何かは苦しかるべき。こなたへいらせ給へ』と侍る。とく、とく。」

と云(いふ)に、帶刀、よろこびて、内にいるに、六十じばかりと覺しき老女、出(いで)て、奧の殿(との)にいざなふ。

 帶刀、いなむことなく座につけば、折敷(をしき)に檞葉(かしはば)しきて、菓物(くだもの)やうのもの、うづたかく盛出(もりいで)て、饗ずるさま、『いよいよ、なみならぬ人のかくれ家。さては高家(かうけ)の人の、妾(おもひもの)を、かくは、しつらひ置(をき)給ふやらん。さるにても、此とし月、往かへりするに、かゝるすまひありとだに、しらぬことのいぶかしさよ』と思ひめぐらすに、老女、居(い)よりて、

「君は、正(まさ)しく伊藤何某(なにがし)の殿(との)にては、をはさずや。」

といふに、帶刀、をどろきてみゆれば、老女、うち笑ひ、

「老らくの心せかれて、あらましをもきこへ侍(はんべ)らねば、いぶかしみ給ふも理(ことはり)なり。君、此あたりを、折々、徃(ゆき)かよひ給ふを、わが賴(たのみ)たる姬君。いつのほどにか、垣間見(かいまみ)給ひ、夜晝となく、戀しく覺(をぼ)しわづらひ給ふことの、やるかたなさに、折もあらば、人傳(ひとづて)ならで、きこへまいらせんとおもふに、甲斐(かい)ありて、女(め)の童が、はからずも伴ひ參らせしは、出雲の神のむすばせ給ひけんゑにしなるらめ。かゝるわびしきすまひを、『うし」とおぼさずば、姬君の心をもなぐさめ給はんや。」

と懇(ねんごろ)にかたるに、

「某(それがし)、はからずも、かく世をしめやかに暮したもふ御隱家(かくれが)をおどろかし奉るつみをも問(とひ/とがめ[やぶちゃん注:前は右ルビ、後は意味注の左ルビ。以下同じ。])給はず、あさからぬ御心ざし、などか、いなみ參らせん、さいわひ、いまだ、さだまる妻とても侍(はんべ)らず、久米(くめ)の岩橋、かけてしたまはらば、渡らでやあるべき。」

[やぶちゃん注:「久米(くめ)の岩橋」「役(えん)の行者」が大和の葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)まで架け渡そうとしたという伝説上の橋。葛城の神が夜間しか働かなかったため、完成しなかったという。多く、和歌で男女の契りが成就しないことのたとえとされる歌枕である。]

といふに、老女、悅びて奧に入、しばしありて、いざなひ參らする上﨟のてりかゞやくばかりのよそほひ、柳の黑髮、春の風になびき、桃花(とうくは)のくちびる、朝の露に濕(うるほ)ひて、よろこびの色、まなじりにはあまれど、すこしは、はぢらひ給ふけしき、春の夜(よ)のおぼろにかすむ月影の風情に、帶刀、目くれ、こころ、飛(とん)で、しらず、月の宮人(みやびと)、天(あま)の河原(かはら)の織女(をりひめ)ならずやと、こゝちまどふに、老女、云、

「かねてより、戀しと覺(おぼ)し給ひし殿の、はからずも來り給ひて、花の下紐(したひも)とくる春に逢ふうれしさ、そだて參らせしわらはが悅び、老が身のくせとて、淚、こぼるゝまでよ。」

とて、酒肴を出して、かりに婚儀を催ふす。

 帶刀も、覺へず、數盃(すはい)をかたぶけて後(のち)、うちくつろぎて、

「かゝる山里にかくをはする君は、いかなるかたの世を忍びましますにや。きかまほしさよ。」

といふに、老女、面(をもて)愁ひを含(ふくみ)て、

「とても、つつみはつべき事にも侍らねば、明らかにきこへ參らせん。これこそ、故(こ)三位(さんゐ)中將重衡卿のわすれがたみの君にこそ。」

といふに、帶刀、はじめて、黃泉(よみぢ)の人なることをしるといへども、すこしもあやしまず、なを、その詳(つまびらか)なる事をとヘば、老女、淚をおさへて、云(いはく)、

「君(きみ)も、世(よく)々、恩顧のかたなれば、などかは、わすれ給ふべき。さても、過(すぎ)ぬる治承の秋の嵐に、故内府(こないふ)も、ろくもきえさせ給ひしこそ、くらき夜(よ)に灯(ともしび)うち消(けし)たるここ地して、やすき心もなきうちに、越路(こしぢ)なる木曾の深山(みやま)より、兵、おびたゞしく責(せめ)のぼるといふ程こそあれ、主上・門院をはじめ奉り、一門の人々、そこはかとなく迷ひ出給ひ、我君(わがきみ)も、北の方は都にとゞめ給ひて、御供にをくれじと、名殘はつきぬ有明の、月の都に遷幸の時こそ、めぐり逢ふべしと、緣をのみぞなく、須磨の内裡(だいり)も、さかしきつはものゝ襲ひ奉りて、又もや、うつゝ心もなく、はるばる、西海の波の上にさすらへ給ひ、つゐには吾妻ゑびすの勝(かつ)にのりて、主上(しゆじやう)をもおそれ奉らざるに、賴み覺(おぼ)したる西國のつはものも、山の井の淺きは、人の心にてかはりゆく世のさまを御覽じて、主上は、龍のみやに御座をうつされ、御一門、殘りなく、秋の木の葉のちりどりにならせ給ひし中にも、ひとしほ、心うきは、我君にて、御心もたけくいさみ給ひ、御一門の果(はて)をも見給ひ、『御幸(みゆき)の供奉のしんがりを』と覺(おぼ)し給ひし甲斐もなく、心なきつはものゝ射まいらせし矢に、召(めさ)れたる御馬のおどろきしに、御供にさふらいし者も、さる人、心の折(をり)なれば、餘所(よそ)の時雨(しぐれ)に見なし參らせて、つゐに、おりかさなりて、生捕(いけどり)奉しこそ。今更(いまさら)、心きえて、淚に、むねもふたがれ侍(はんべ)り。ころしも、姬君は、いまだ五つにならせ給ふを[やぶちゃん注:重衡が捕縛されたのは寿永三(一一八四)年であるから、当時、数え五歳として、先に示した本話柄の推定時制の文明一四(一四八二)年(これに限定する理由は注する)から、生きていたら、彼女はこの時、実に二百八十三歳ということになる。]、わらは、いだき參らせ、北の方もろとも、こゝかしこにかくれすみて、いつしか、兵(つはもの)、しりぞき、しら浪(なみ)しづまりて、めでたく、都へかえらせ給ふやらんと、心は、はるか和田(わた)の原、八十嶋(やそしま)かけて行(ゆき)かよふ、つなでもきれて、御一門のうせ給ひしあらまし、我君のとらはれと成[やぶちゃん注:「なり」。]給ひしこと、きくに、夢とも現(うつゝ)とも、わきがたく[やぶちゃん注:信じられず。]、さるにても世のうさをしろしめす神のちかひもをはさば、今一度の見參(げんざん)もと、おもふに、かひなき御運(ごうん)の末、覺(おぼ)ししらぬ罪をかづきて、うきを見給ふ。都渡(みやこわた)し北の方は、それがために、ほどなく、むなしくならせ給ふ。黃泉(よみぢ)の御宮仕(みやづかへ)とおもへども、此君をかしづき參らする人も侍(はんべ)らねば、おしからぬ命(いのち)を深山邊(みやまべ)に、ならの葉ふきわたす草の庵(いほ)、たれとへとてか、呼子鳥(よぶこどり)、淚の雨にかきくれて、あかしくらすうちにも、やうやう生長(をいたち)給ふにつけても、あはれ、昔の世なりせば、いか成[やぶちゃん注:「なる」、]公達をも、むこがねにと、むかしをしのぶそのうちに、きみと、すく世(せ)の契り、たえもせで、せちに戀させ給ふ甲斐ありて、かく、まみヘ給ふことになん侍り。」

と物語(ものがたり)に、姬も、そゞろに淚にくれ給ヘば、帶刀も、覺へず、感傷にたへず、老女、淚をとゞめて、

「かゝるめでたき折に、しづのをだまきくりかへすべき事ならぬを、よしなき長物語(ながものがたり)に、姬君の、さぞや、心なしとや、覺したまふらん。とし頃の、闇路(やみぢ)をてらす春の日に、おもひの氷、うけとけ給へ。」

と、戲(たはむれ)て、老女は一間へ退きぬ。

 帶刀、姬の手をとりて閨(ねや)にいれば、そらだきのかほり、ゑならず、いときよらかにかざりたる文臺・草紙・歌集なんど、とりそろへたるに、詠草(えいそう)と覺しくて、

[やぶちゃん注:以下の歌はブラウザの不具合を考え、上の句と下の句を分離した。]

  うちもねであふとみる夜の夢もがな

   うつゝの床はひとりわぶとも

  ならひしも物おもふねやのひとりねに

   うきを忍ぶののきの松風

帶刀、硯、引よせて、

  ほのみつる心の色や入初(いりそめ)し

   戀の山路のしをりなるらん

  ゆめかとも猶こそたどれ戀衣

   かさねそめぬる夜半(よは)の現(うつゝ)を

姬、くりかへし吟じて、みづから、

「とても夢うつゝふみまよひたる初尾ばな染ぬる色のかはらで」

と、きこゆるに、

「さるにても、君、いつしか見そめ給ひしにや。」

といふに、姬、うちわらひて、

「君は、まことにしり給ふまじ。過(すぎ)し頃、乳母なるものに具せられて、石山寺に詣でたりしに、君は、とくより、かしこにおはせしが、たがひに、それとみれば、見もし給ひて、岩手の山の岩つゝじ、下(した)もゆるおもひは余所(よそ)にもらさねば、心うくも、さそはれて見うしなひ參らせしより、露、わするゝひまもなく、君は世をへだて給へども、わが身ひとつは、もとの身にして、おもひのけふり、たゆむことなく、幾年月を重ねたりしを、あはれとも見給へ。」

と、きくに、帶刀も、

「すく世より、契りしことよ。」

と、いとゞあはれにおぼへて、新手枕(にいたまくら)をかはすとすれば、八聲(やごゑ)の鳥[やぶちゃん注:夜の明け方に鳴く鷄。]にうちをどろかされぬるに、老女のこえして、

「山本(やまもと)の神ならずとも、晝ははゞかりあり。かさねての見參は、ふす猪のとしの秋にこそ。」

といふに、帶刀。裝束して出(いづ)れば、重ねて、老女、云(いはく)、

「門院(もんゐん)[やぶちゃん注:清盛の娘で安徳天皇の母建礼門院徳子。]、大原の奧にすませ給ひて後は、世のうきよりはまさりしとて、主上をはじめ、一門の人々を、殘りなくむかへ給へば、我君・北の方もろとも、とくより、かしこへ參り居させ給ふ。姬君は其頃、門院、いまだしろしめさゞりしゆへ、めすこともなく、いたづらに此所にひとりすみわび給ふ。折にはまいらせ給へども、彼(かの)御所に姬君の局(つぼね)も侍らず。そのうへ、はかばかしき御供の侍も侍らねば、此年月、むなしく過(すご)し侍り。ちか頃は、此殿(このとの)も、あれまさりたれば、いよいよ、大原の御所にうつらせ給はんことをおもへども、君に、一度、逢瀨のうへにてこそと、まちわびたるけふの見參(げんざん)に侍(はんべ)れば、ねがはくは、大原に參り給ひ、此よし啓(けい)し給ひ、むかえの車、たまはるやうになん、申給へかし。此事、くれぐれ賴參(たのみまい)らす。」

といふに、帶刀、

「露たがへじ。」

と諾(だく)す。

 姬君、床の邊(ほとり)より一面の硯を出して、

「これこそ、高麗(こま)の國より奉りたる『遠山(とをやま)』といふ名硯(めいけん)なるを高倉のみかど、父上に給はりしとぞ。父上、常々、古硯をめでさせ給ひしゆへ、御最後の時まで「松蔭の硯」を身に添たまひしが、知識と賴(たのみ)たまひたる吉水(よしみづ)[やぶちゃん注:現在の東山区八坂鳥居前東入円山町にある安養寺(グーグル・マップ・データ)。吉水坊と称して法然が三十数年の間ここを本拠に称名念仏を宣揚した。]のひじり法然上人に布施物にさゝげ給ひ、「遠山」は母君の手にのこり、わらは給はりて、朝夕、(あさゆふ)、手なれ侍れども、ちぎりは石のかたきによせ、又も見へまいらせんため、ちかごと[やぶちゃん注:誓詞。]に代(かへ)て遣(をく)りまいらす。」

と宣ふに、帶刀も「浪に千鳥」の笄(かうがい)を末(すへ)のかたみにのこして、立出(たちいで)るに、姬君は、たゞうちふして泣(なき)給ふ。

 老女、さまざますかしまいらすうちに、心つよくも立出(たちいで)たりしが、又、こんために枝折(しをり)して麓(ふもと)に出(いづ)るに、宇治の里には、宵よりかえりのおそきをいぶかり、こゝかしこ尋ねもとむる家の子に行逢(あひ)て、そのやうをたづぬれども、唯(たゞ)、「みちにふみまよひて」とばかり答へて、家にかえりても、其面影のわすれやらず、ゆめかとおもへど、うつり香は、はだへにたしかに、むつごとは耳にのこりて、其人の、今も身に添(そふ)心地して一間なる所に引籠(ひきこもり)て、父母にだに、まみヘざりしが、重ねて琴彈山(ことひきやま)にわけ入て、ありし所と覺しきを尋るに、只、松柏、生茂(をいしげ)り、よもぎみだれ、すゝきむれたちたるほとりに、苔むしたる五輪、かたぶきて、しるしの名もきえて、みヘわかず。

 よらんかたなくかなしきに、今更、わかれたるごとく、うちふして、淚にくれたりしが、さてしもあるべきことならねば、それより直(すぐ)に、大原にまかりて、一門の人々の姓名をしるされし過去帳をみるに、姬の名はもらされたり。

「さては。門院、世にましましたる頃は、いまだ、姬もつゝがなく、その上、おさなくして、壽永の亂、出來(いでき)たれば、しろしめめさゞりしも理(ことはり)なり。」

と、姬の名をしるしのせ、猶も、うしろの山にそとば[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]たて、その頃、世にたぐひなきひじりの西山(せいざん)上人ときこえ給ひしを請(しやう)じて、開眼(かいげん)の供養など行ひ、これなん、老女が局(つぼね)といひしなるべし[やぶちゃん注:意味不明。それらしい墓所を見つけたということか?]と、のこることなく沙汰して、宇治にかえり、再び妻を迎ふることもなく、あけくれ、「遠山の硯」をその人のおもかげ見るごとく、いつくしみ、身をはなさずありしが、十とせ許)ばかり)をへて、辛亥(かのとい)といふとしの秋の頃、いさゝか風のこゝちしたりしが、させる事にも侍らねば、庭のけしきをも詠めんと、障子ひらきたるに、過(すぎ)しとしの、女(め)の童(わらは)、いづちともなく、きたりて、

「今宵、御迎ひを參らせんとのことなり。」

と、いふに、帶刀。、はじめて猪(ゐ)のとしにといゝしをおもひあはせて、

「さては。今宵に命(いのち)きわまりたり。」

と、はじめて、父母にも、ありし次第を物語(ものがたり)て、

「死したらん後(のち)は、『遠山の硯』をも棺(くはん)にをさめて、大原の山に葬り給へかし。」

と、くれぐれあつらへ置(をき)て、その夜(よ)、俄に身まかりぬ。

 父母、その言葉のごとく、大原に葬りて、多くの僧をやとひて、二人の菩提をねんごろにいのりしが、雨の夜(よ)などには、帶刀・姬の、手をとり、女の童をつれて、大原の里・「おぼろの淸水」などのあたりにて、みたるものも侍りしときこえければ、父母、かなしく覺へて、水陸(すいりく/せがき)の薦(せん/ほうじ)[やぶちゃん注:施餓鬼会(せがきえ)。]、法華書寫なんど、いみじき功德を行ひたりしゆへにや、そのゝちは、見たる者もなかりしとぞ、語り傳へ侍(はんべ)る。

   *

私は大の和歌嫌いだが、本篇に限っては幽魂との相聞歌は、やはりあるべきと存ずる。少し、残念である。

「おぼろの淸水」「朧の清水」寂光院への参道の途中にある泉水で、建礼門院が寂光院に入る道すがら、日が暮れ、月の明かりの中、この泉に姿を映されたという。参照した「京都大原観光保勝会」公式サイト内のこちらに地図がある。]

2019/10/05

小泉八雲 鏡の少女  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」巻之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“THE MIRROR MAIDEN”(「鏡の処女」)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の四番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。挿入原注は四字下げポイント落ちであるが本文と同ポイントで、頭から示した。

 実は本篇は既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』で、原文と、同じ大谷正信氏の後の出版のもの(新潮文庫昭和二五(一九五〇)年古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」所収)、及び、原拠をも示してあるのであるが、私はこの付喪神の「彌生」が好きだから、今回は、また、独立記事として、全くのゼロから総てをやり直した最後に掲げる原拠も小泉八雲旧蔵本のそれに拠った

 

 

  鏡の少女

 

 足利將軍時代に南伊勢の大河内明神の神社が頽廢したところ、其國の大名北畠公は戰爭や他の事情の爲めに、其建物の修繕を圖ることが出來なかつた。そこで、其社を預つて居た神官の松村兵庫といふが京都へ行つて、將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名の細川公に助力を求めた。紬川公は其神官を懇切にもてなし、大河内明神の有樣を將軍に言上しようと約束した。然し、兎に角、社殿修理の許可は相當な取調べをし、又、可也手間を取らねば與へられまいと云つて、事が取極められる間、都に止まつて居るやうにと松村に勸めた。其處で松村は家族の者を京都へ呼び寄せて、昔の京極の處に家を一軒借りた。

[やぶちゃん注:「大河内明神」現在の三重県伊勢市辻久留(つじくる)にある、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社志等美神社(しとみじんじゃ)と同じ社地内にある外宮摂社大河内神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「志等美神社」によれば、『社殿は別であるが、志等美神社と同じ玉垣の中に鎮座している』。『外宮の摂社』十六『社のうち第』八『位である』。本話柄時制より後の『戦国時代に大河内神社が』再び(?)『荒廃した後、上社の境内社であった山神社となった』とあり、さらに、『現在の社名の読みは「おおこうち」であるが、古文書では「オホカハチ」、「オホガフチ」などのフリガナが付されている』ともある。

「北畠公」次注に出現する時制設定であるならば、室町中期の公卿で権大納言・正二位で、伊勢国司北畠家第四代当主にして伊勢国守護大名であった北畠教具(のりとも 応永三〇(一四二三)年~文明三(一四七一)年)となる。ウィキの「北畠教具」によれば、『父が戦死した時は』七『歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた』が、嘉吉元(一四四一)年、十九歳で伊勢国司となった。その際、『将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康』『の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った』。文安五(一四四八)年には『長野氏と所領を巡り』、『合戦を行っている』とあって、設定と合致する。

「松村兵庫」「斎宮歴史博物館」公式サイト内の学芸普及課課長榎村寛之氏の「第17話  伊勢と斎院を結ぶちょっと面白い話」に、本篇の最後に掲げる原拠に基づきつつ、以下のようにある。『三重県の松阪市内、といってもかなり郊外に、大河内城という城跡があります。室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所です。この国府、つまり大河内城の西南に大河内明神という社があり、北畠家の尊崇厚かったのですが、ご多分に漏れず、戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなっていました』。その頃、『この神社の神主に松村兵庫なる者がおり、室町幕府管領細川家につてがあったので、京に上って窮状を訴えたのですが、嘉吉の乱で六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されたり、ほどなく八代将軍として足利義政が就任したりと物情騒然の折からなかなかよい回答も得られず、ただ待つばかりでした。しかし兵庫はもともと風流人でしたので、この際和歌の道を究めようと、京極今出川に寓居したのです』とある。

「細川公」以上の時制設定から、これは若き日の細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と考えてよいように思われる。彼は文安二(一四四五)年に畠山持国(徳本)に代わって十六歳で管領に就任しているが、それ以前に摂津・丹波・讃岐・土佐の守護であったから、「將軍に信用されて居ると知られてゐた、大大名」に矛盾しないからである。

 この家は、綺麗で廣かつたが、長い間、人が住まずに居たのであつた。不吉な家だと世間で言つて居つた。その京極側に井戶が一つあつた。そして、何んとも原因知れずに、その井戶で溺死した前の借家人が幾人もあつたからである、然し松村は、神官のことだから、惡靈など更に恐れず、直ぐと、この新居で居心地よく暮した。

 

 その年の夏大旱魃があつた。幾月も一滴の雨も五畿内に降らなかつたので、川床は涸れ、井戶は干て[やぶちゃん注:「からびて」と訓じておく。]、この都にさへ水の拂底を見た。ところが、松村の庭の井戶は相違らず水が殆んど一杯で、その――非常に冷たく淸く、微かに靑味帶びて居た――水は泉が供給するらしく思はれた。暑い季節の間、町の方方から水貰ひに多勢人が來たが、松村は欲しいだけいくらでも人に汲ませた。それでも水の供給は減るやうには見えなかつた。

 ところが、或る朝、近處の家から水汲みに來た、年若い下男の死骸が、其井戶に浮んで居るのが見つかつた。自殺の原因は何一つ想像出來なかつたので、松村は、其井戶に就いての面白からぬ話を數數想ひ出して、何か眼に見えぬ怨恨の業ではないか知らと疑ひ始めた。そこで、其まはりに垣を造らせようと思つて、其井戶を調べに行つた。すると、獨りで其處に立つて居る間に、水の中で、何か生きて居る物がするやうに、突然、物が動くので驚いた。其動きがやがて歇むと[やぶちゃん注:「やむと」。]、見た處十九か二十歲ぐらゐの若い女の姿が、其靜かな水面に明らかに映つて居るのが見えた。切りとお化粧をして居るやうで、脣へ紅をさすのが判然(はつきり)見えた。初めは其顏は橫顏だけ見えてゐたが、やがてのこと、その女は松村の方を向いてにこりと笑つた。直ぐに其心臟に異常な衝動を感じ、酒に醉つたやうに眩暈[やぶちゃん注:「めまひ」。]がして、――月の光りの如く白くまた美しく、いつも次第に美しさを增すやう思はれ、また闇黑ヘ彼を引き下ろさう、下ろさうとするやう思はれる、そのにこりとした顏だけが殘つて、一切の物が暗くなつた。だが、彼は一所懸命に意志を取り戾して眼を閉ぢた。それから眼を開けて見たら、その顏は消えて居り、世は明かるくなつて居た。そして自分は井桁から下へうつむいて居ることを知つた。あの眩暈がもう一秒續いたなら――あののまぶしい誘惑がもう一秒續いたなら、二度と日の目を見ることは出來なかつたことであらう。……

 家へ歸ると、皆の者にどんな事があらうと、その井戶へ近寄らぬやう、どんな人にもその水を汲ませぬやう命じた。そして、その翌日、丈夫な垣をその井戶のまはりに造らせた。

 

 垣が出來てから一週間許りすると、その長の旱天(ひでり)が風と稻光りと雷――全市が、その轟きで地震で顫へるやうに、ふるへたほどの恐ろしい雷――との伴うた大風雨で絕えた。三日三晚その土砂降りと電光と雷鳴とが續き、鴨河は未だ嘗て見ぬほど水嵩が增して、多くの橋を流し去つた。その風雨の三日目の夜、丑の刻に、その神官の家の戶を敲くものがあつて、内へ入れて吳れと賴む女の聲が聞えた。が、松村は井戶での事を思ひ出して、あぶないと思つたから、その哀願に應ずることを召使の者共に禁じた。自分で入口の處へ行つて、かう訊ねた。

 『誰れだ』

 すると女の聲が返事した、

 『御免下さい! 私で御座います――あの彌生で御座います!………松村樣に申し上げたい事が――大切な事が御座いまして、何卒(どうぞ)、開けて下さいませ!』……

 松村は用心して戶を半分開けた。すると井戶から自分を見てにこにこと笑つた、あの美しい顏が見えた。しかし今度はにこにこしては居ないで、大變悲しさうな顏をして居つた。

 『私の家へは、はいらせぬ』と神官は呶鳴つた。『お前は人間では無い。の者だ。……何故、お前はあんなに意地惡るく人を騙して殺さうとするのだ?』

 そのの者は珠のちりんちりん、いふやうな調子のいい聲(タマヲコロガス)で返事した。

 『私の申し上げたいと思ひますのは、その事に就いてで御座います。……私は決して人を害ね[やぶちゃん注:「そこね」。]ようとは思つて居りません。が、古昔(むかし)から毒龍があの井戶に住んで居りました。それがあの井戶の主で御座いました。それであの井戶には水がいつも一杯にあるので御座います。ずつと前に、私はあの水の中へ落ちまして、それであれに仕へることになつたので御座います。自分がその血を飮むやうにと、私に、人を騙して死なせるやうにさせたので御座います。が、今後は信州の鳥井ノ池といふ池に棲むやう神樣が、今度、御云ひ付けになりまして、神樣はあれをこの町へ二度と歸らせてはやらぬと御極めになりました。で、御座いますから今夜、あれが去(い)つてしまつてから、あなた樣のお助けを御願ひに、出て來ることが出來たので御座います。その龍が去(い)つてしまひましたから、今、井戶には水が少ししか御座いません。云ひ付けで探させて下されば、私の身體(からだ)が見つかるで御座いませう。どうか、御願ひで御座います、早く私の身體(からだ)を井戶から出しで下さいませ。屹度、御恩返しは致しますから』……

 かう言つてその女は闇へ消ええた。

[やぶちゃん注:「信州の鳥井ノ池」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 夜明けまでに風雨は過ぎ去つた。日が出た時には澄んだ靑空に雲の痕も無かつた。松村は早朝、井戶掃除屋を呼びに遣つて、井戶の中を搜させた。すると誰れもが驚いたことには井戶は殆んど干涸らびてゐた。容易(たやす)く掃除された。そして其底に頗る古風な髮飾りと妙な恰好の金屬の鏡とが見付かつたが――身體は動物のも人間のも、何んの痕跡も無かつた。

 だが、松村は此鏡が、その神祕の證明を與へはせねか知らと想つた。そんな鏡はいづれも己の魂を有つて居る不思議な品物で――鏡の魂は女性だからである。その鏡は餘程古いもののやうで、錆が厚く著いて居つた。が、神官の命で丁寧に、それを掃除させて見ると、稀なそして高價な細工だといふことが判り、その裏に奇妙な模樣があり、文字も數數あることが知れた。その文字には見分けられなくなつて居るものもあつたが、日附の一部分と、『三月三日』といふ意味の表意文字とは見極はめることが出來た。ところで、三月は昔は彌生(いや增すといふ意味)と云つたもので、祭り日となつて居る三月の三日は、今なほ彌生の節句と呼んで居る。あのの者が自分の名を『彌生』と云つたことを想ひ起こして松村は、自分を訪ねた靈の客は、この鏡の魂に他ならぬ、と殆んど確信した。

 だから、その鏡は靈に對して拂ふべき顧慮を以て、鄭重に取り扱はうと決心した。丁寧に磨きなほさせ、銀を著けなほさせてから、貴重な木でそれを容れる箱を造らせ、その箱を仕舞つて置く別室を家の中に用意させた。すると、その箱を恭しくその部屋へ置いた、丁度その日の晚に、神官が獨りで書齋に坐つて居ると忽然、その彌生が、その前へ姿を現した。前よりも、もつと美しいぐらゐであつたが、その美はしさの光りは、今度は淸い白雲を透して輝く夏の月の光りの如く軟かいものであつた。頭低く、松村に辭儀をしてから、玉のやうな美くしい聲でかう言つた。

 『あなたが、私の獨り住居を救ひ、私の悲しみを除(と)つて下さいましたから、御禮に上りました。……私は、實は、御察しの通り、鏡の魂なので御座います。齊明天皇の御世で御座いました。私は百濟から始めてこちらへ連れて來られたので御座いまして、嵯峨天皇の時まで、御屋敷に住まつて居たので御座いますが、天皇は私を皇居の加茂内親王に御與ヘになつたので御座います。その後、私は藤原家の寶物になりまして、保元時代までさうで

〔齊明天皇の治世は六五五年(紀元)から六六二年まで。嵯峨天皇は八一〇年から八四二年まで。百濟は朝鮮の西南部にあつた古の王國で、初期の日本史によくその名が出て居る。内親王は皇室の血統の方。昔の宮廷階級には高貴な婦人に二十五階級あつて、内親王は席次では第七階であつた〕

[やぶちゃん注:「保元時代」一一五六年から一一五八年まで。

「加茂内親王」は一般名詞で「賀茂斎院」のことであろうと思われる。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇女を指し、伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」とも称した。さても嵯峨天皇の多くの内親王の内には、実に初代賀茂斎院と成った第八皇女有智子(うちこ)内親王(大同二(八〇七)年~承和一四(八四七)年)がいるので、彼女である。大同四(八〇九)年に父の嵯峨天皇が即位すると、翌弘仁元(八一〇)年に僅か四歳で賀茂斎院に卜定されている。ウィキの「有智子内親王」によれば、同九年、斎院司が開設され、同一四(八二三)年二月には、三品に叙され、封百戸を賜る(同年四月に嵯峨天皇が譲位)、天長八(八三二)年十二月に病により、退下し、同一〇(八三三)年、二品に昇叙。承和十四年十月二十六日(八四七年十二月七日))に薨去した。享年四十一であった。『有智子内親王は』弘仁元(八一〇)年に起こった「薬子の変」を契機として、『初代賀茂斎院に定められたと言われる。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で』、弘仁一四(八二三)年、『嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品に叙したという。その詩作は『経国集』などに合計』十『首が遺されており、日本史上数少ない女性漢詩人の一人である』とある。或いは、この「彌生」、才媛にしてどこかで政争の被害者であったかも知れない有智子内親王の魂をも暗に示されているのではなかろうか?

ゐましたが、その時にあの井戶へ落とされたので御座います。あの大戰爭の幾年の間私は

〔幾世紀の間、天皇の好配と宮廷の貴女とは藤原家から選まれた。保元時代は一五六年から一一五九年まで。ここに云ふ戰爭は平家源氏間の、あの有名な戰爭〕

其處に置かれたまま人に忘れられて居たので御座います。そのの主は、元は此邊一帶

〔昔の信仰では湖水や泉にはいづれも眼には見えぬ守護者があつて、時に蛇又は龍の姿を取ると想はれて居た。湖水や池の靈は普通イケノヌシ卽ち『池の主』と云つて居た。此處には『主(ぬし)』といふ名を井戶に棲む龍に與へてあるが、本當は井戶の守護者は水神といふ神である〕

にあつた大池に棲んでゐた毒龍で御座いました。その大池が、お上(かみ)の命令で、家を其處ヘ建てる爲めに、埋められましてから、その龍はあの井戶を我が物にしたので御座います。私はあの井戶へ落ちてから、それへ仕へることになりまして、あれが無理に私に人を多く死なせるやうにしたので御座います。だが、神樣があれを永久に追ひ拂ひになりました。……あの、私に、も一つ御願ひが御座います。私の前の持主と家柄が續いて居りますから、將軍義政公へ私を獻上して下さいませんでせうか、御願ひ致します。最後のこの御深切さへして戴けますれば、私はあなた樣に幸福を持つて參りませう。……が、その上にあなた樣の身に危ういことがあることを御知らせ致します。この家には、明日から、おいでになつてはいけません。この家は壞れますから』……

 そしてかう警戒の言葉を述べると共に、彌生は姿を消した。

[やぶちゃん注:ここで「將軍義政公」と言っていることから、先の注で示した通りの規制の限定期間である嘉吉・文安の頃(一四四一年から一四四九年まで)の内、少なくともこの彌生の懇請のシークエンスは、足利義政が将軍宣下を受けて第八代足利幕府将軍に就任した文安六(一四四九)年四月二十九日よりも後となり、しかも文安六年は七月二十八日(ユリウス暦一四四九年八月十六日)宝徳に改元されるから、物謂いに拘るなら、その僅か三ヶ月に限定することも可能となり、この全体の出来事が「夏」に設定されている以上、この話はまさにその限定期間に合致すると言っても差し支えないとも思われるのである。

 

 松村はこの豫戒によつて利益を享けることが出來た。翌日、自分の家の者共と品物とを別な町へ移した。すると殆んどその直ぐ後に、初めのよりかもつと猛烈なくらゐの暴風が起こつて、その爲めの洪水で、それまで住まつてゐた家は流されてしまつた。

 その後暫くして松村は、細川公の厚意によつて將軍義改に謁見するを得て、その不思議な來歷を紙に書いたものと一緖に、かの鏡を獻上した。そして、その時鏡の魂の豫言が實行された。將軍はこの珍らしい贈り物を大いに喜ばれて、松村へ高價な賜物を與へられたばかりで無く、大河内明神の神殿再建に澤山の寄附金をされたからである。

 

[やぶちゃん注:本篇の原拠は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の布村弘氏の「解説」によれば、江戸末期の弘化五(一八四八)年一月に板行された、大坂の戯作者で名所図会作者として有名な暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年:姓は木村、名は明啓)編の、「當日奇觀」巻之第五巻頭に配された「松村兵庫(まつむらひやうこ)古井(こせい)の妖鏡(ようきやう)」である。但し、実は当該原拠自体が、その序文の記載から、それよりもかなり以前に出版された、江戸中期の読本作家で儒学者・医師でもあった文人都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~寛政六(一七九四)年?:大坂の文人。上田秋成は都賀の「古今奇談繁野話(しげしげやわ)」(明和三(一七六六)年板行)に触発されて「雨月物語」を書いたことは有名)著とされる(署名は「草官散人」)「席上奇觀垣根草」を外題を変えただけで、再版・改題したものである。私は「席上奇觀垣根草」を、昭和二(一九二七)年刊の「日本名著全集」第十巻「怪談名作集」(活字版)を所持しており、比較して見たが、特に大きな異同は見当たらぬので、小泉八雲が実際に原拠とした以下で電子化することとした。

 ここでは富山大学「ヘルン文庫」の旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化した。但し、読みは五月蠅いので、振れると思われる一部に留めた。歴史的仮名遣の誤り(かなり激しい)はママである。読み易さを考えて、私が句読点・記号を附加し、段落も成形した。一部に濁音を附した。なお、原拠には悪龍が去るその瞬間を描いたと思しい挿絵がある。

   *

      松村兵庫古井の妖鏡

 南勢(なんせい)大河内(をゝかわち)の鄕は、そのかみ、國司の府にて、南朝の頃までは、北畠殿こゝにおはして、一方を領(りやう)じたまふ國府の西南に大河内明神(をゝかはちめうじん)の社(やしろ)あり。國司より宮宇(きうう/やしろ[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が意味添え風の左ルビ。以下同じ。])も修理(しゆり)したまひ、神領もあまた寄(よせ)られしが、漸(やうや)く衰廢(すいはい/あれはて)して、嘉吉・文安の頃にいたりては、社頭も雨露(うろ)におかされたまふ風情なりしかば、祠官(しくはん/かんぬし)[やぶちゃん注:神主と同義。]松村兵庫(まつむらへうご)なるもの、都に登りて、時の管領(くはんれい)細川家に由緖あるにたよりて、修造(しゆざう)の事を訴ふるといへども、前(さきのさきの)將軍義教公、赤松がために弑(しい)られたまひ、後嗣(こうし/よつぎ)も、ほどなく、早世(さうせい)ありて、義政公、將軍の職を繼(つぎ)たまふ。打續(うちつゞき)て公(をゝやけ)の事(こと)、繁きに、其事(そのこと)となく、すぎ侍(はんべ)れば、兵庫は、もとより文才もかしこく和哥の道なども幼(いとけなき)より嗜(たしみ/すき[やぶちゃん注:右ルビは「たしなみ」の脱字。])たりしかバ幸(さいはひ)に滯留して、其奧儀(おうぎ)をもきはめんと、京極(きやうごく/てらまち)今出川の北に、寓居(ぐうきよ/かりずみ)して公(をゝやけ)の沙汰を待居(まちゐ)たり。

 旅舘の東北(ひがしきた)にあたりて、一(ひとつ)の古井(こせい/ふるゐ)ありて、むかしより、時々、よく人を溺(をぼ/とる)らすときゝたれども、宅眷(たくけん/かない)とてもなく、從者(じうしや)一人のみなれば、心にも挾(さしはさ)まず、暮しけり。

 其頃、畿内、大(をゝゐ)に旱(ひでり)して、洛中も水に乏しき折(をり)にも、かの古井は涸(かる)ることなく、水(みづ)、藍(あい)のごとくみちたれば、近隣より汲(くみ)とる者、多し。されども、人々、心して汲(くむ)ゆへにや、溺るゝ者もなかりしに、或日(あるひ)、暮(くれ)の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)、例のごとく汲(くま)んとして、久しく井中(いちう)を窺ひ居たるを、「あやし」と見るうちに、忽(たちまち)墜(をち)いりて、溺れ死したり。井水(いすい)きわめて深ければ、數日(すじつ)を經て、漸くその死骸をもとめ得たり。

 是より、兵庫、あやまちあらん事を怖れて、垣など、嚴しくしつらひたりしが、去(さる)にても、あやしとおもふより、たちよりて、竊(ひそか)に窺ふに、中(なか)に、年の頃、廿(はたち)ばかりと覺しき女の、なまめけるが、粧飾(さうしよく)、いとうるはしく粧(よそほ)ひて、あり。兵庫をみて、すこし、顏そむけて笑ふ風情(ふぜい)、その艷(えん)なる事、世のたぐひにあらず、魂(たましい)、飛(とび)、こゝろ、動(うごき)て、やがて[やぶちゃん注:そのまま。]、ちかよらんとせしが、おもひあたりて、

『扨は。かくして人を溺らす古井の妖(よう/ぬし)なるべし。あな、をそろし。』

と、急に立(たち)さりて、從者にも、此よし、かたく制して、近付(ちかづか)しめず。

 或夜(よ)、二更[やぶちゃん注:現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。]の頃より、風雨、はなはだ烈しく、樹木を倒(たを)し、屋瓦(をくぐは/やねのかはら)を飛(とば)せ、雨は盆を傾(かたぶ)くるごとく、閃電(せんでん/いなづま)、晝のごとく霹靂(へきれき/はたゝがみ)、をびたゝしく震ひ、天柱(てんちう)も折(くじ)け、地維(ちゆい)[やぶちゃん注:普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱を指し、転じて「大地」の意。「天柱」の対語。]も崩るゝかとおもふうちに、天(そら)晴(はれ)て夜も明(あけ)たるに、兵庫、とく起(をき)て、窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ、表に、女の聲して案内を乞ふ。

「誰(たそ)。」

と、とヘば、

「彌生(やよひ)。」

と、答ふ。

 兵庫、あやしみながら、裝束(しやうぞく)して戶をひらき、一間に請(しやう)じて、これを見れば、先に井中にありし女なり。

 兵庫が云(いはく)、

「女郎(ぢよらう)は井中の人にあらずや。何ぞ、みだりに人を惑して殺すや。」

 女、云(いはく)、

「妾(せう)は人をころす者にあらず。此井、毒龍(どくりやう)ありて、むかしより、こゝにすむ。ゆへに大旱(たいかん/をゝひでり)といへども、水、かるゝ事、なし。妾(せう)は中音(なかむかし)、井に墜(をち)て、遂に龍(りやう)のために役便(えきし/せめつかはる)せられ、やむことを得ずして、色(いろ)を以て、人を惑し、或は、衣裝・粧具(さうぐ/くしかうがい)の類(るい)を以(も)て、欺(あざむ)き、すかして、龍(りやう)の食くら)ふところに供するのみ。龍(りやう)、人血(にんけつ/ひとのち)をこのみて、妾(せう)をして、これを弁(べん)ぜしむる[やぶちゃん注:処理させる。]。其辛苦、堪(たへ)がたし。昨夜、天帝の命ありて、こゝをさりて、信州鳥居(とりゐ)の池にうつらしむ。今(いま)、井中(ゐちう)、主(ぬし)、なし。此時、君(きみ)、人をして妾(せう)を拯(すくふ)て、井を脱(だつ/のがれ)せしめ給へ。脱することを得ば、おもく、報ひ奉るべし。」

と、いひ終りて、行方(ゆきがた)をしらず。

 兵庫、數人(すにん)をやとひて、井をあばかしむるに、水、涸(かれ)て、一滴も、なし。

 されども、井中、他(た)のものなく、唯(たゞ)笄簪(けんさん/かうがいかんざし)のるいのみなり。

 漸(やうや)く、底に至りて、一枚の古鏡(こきやう)あり。

 よくよくあらひ淸めて、是をみるに、背に、

「姑洗之鏡(こせんのかゞみ)」

といふ四字の款識(あふしき)[やぶちゃん注:普通は「くわんしき(かんしき)」と読む。「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘で、鐘・鼎・鏡などの鋳造部に刻した銘・銘文を指す。]ありて、

「さては『彌生』といひしは、此ゆへなり。」

と、香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を清め、匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)じ、一間(ひとま)なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに、其夜、女、又、來りて云(いふ)やう、

「君(きみ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)みをのがれて、世に出る[やぶちゃん注:「いづる」。]ことを得侍(えはんべ)るうへ、不淨を淸めて、穢(けがれ)をさりたまひしゆへ、とし月の腥穢れ(せいえ/なまくさきけがれ)をわすれ侍(はんべ)り。そも、此井は、むかし、大(をゝゐ)なる池なりしを、遷都の時、埋(うづ)めたまひ、漸(やうやう)形ばかりをのこしたまふ。都を遷(うつ)したまふときは、八百神(やをよろづ)の神々、きたりたすけ給ふゆへ、其(その)むかしよりすみたりし毒龍(どくりう)も、せんすべなくして、井中(せいちう)をしめて、すまひ侍(はべ)り。妾(せう)は、齊明天皇の時、百濟國(くだらこく)よりわたされて、久しく宮中に祕め置(おか)れしが、嵯峨天皇のときに、皇女賀茂の内親王にたまはり、夫(それ)より後(のち)、兼明(かねあきら)親王[やぶちゃん注:延喜一四(九一四)年生まれで永延元(九八七)年没。醍醐天皇の第十六皇子で、朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。]の許(もと)に侍(はんべ)り。遂に藤原家に傳はり、御堂殿(みどうどの)[やぶちゃん注:藤原道長。]、ことに祕藏したまひしが、其後(のち)、保元(ほうげん)の亂に、誤りて、此(この)井に墜(をち)てより、長く毒龍(どくりう)に責(せめ)つかはれて今日(こんにち)にいたる。十二律(りつ)[やぶちゃん注:中国及び日本の古くからの音名。一オクターブ内に半音刻みに十二の音がある。]にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)、妾(せう)は、『三月三日』に鑄る所の物なり。君(きみ)、妾(せう)を將軍家にすゝめたまはゞ、大(をゝゐ)なる祥(さいわい)を得給ふべし。其上、此所(このところ)、久しくすみたまふ所にあらず。とく、外(ほか)に移り給へ。」

と、懇(ねんごろ)にかたり終りて、かきけすごとくにして、其形をみず。

 兵庫、その詞(ことば)のごとく、翌日、外(ほか)に移りて、事のやうを窺ふに、次の日、故(ゆへ)なくして、地、をちいり、家(いへ)も崩(くずれ)たり。

 ますます、鏡(かゞみ)の靈(れい)にして報ゆるところなるをさとりて、これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公、古翫(こぐはん/ふるきどうぐ)を愛したまふ折(をり)なれば、はなはだ賞(しやう)したまひ、傳來するところまであきらかに侍(はんべ)るにぞ、第一の奇寶(きほう)としたまひ、兵庫には、其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ、猶も、社頭再建は公(をゝやけ)より沙汰すべきよしの嚴命をかうむりて、兵庫は本意(ほゐ)のごとく、多年の愁眉(しうび)をひらきぬ。

 其後(のち)、此(この)鏡、故(ゆへ)ありて、大内(をゝち)の家に賜りしが、義隆、戰死の後は、その所在をしらずとぞ、いひつたへ侍(はんべ)る。

   *

大内義隆の戦死は天文二〇(一五五一)年。さても、既に私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』の注の最後でも述べたが、講談社学術文庫版の「解説」で布村氏も述べておられる通り、小泉八雲は原拠の展開順序を少し入れ替えた上、細部に手を加えて整合性を出している。最初に発生する不審な井戸での溺死者を「隣家の婢」から「近所の下男」へと変更しているのは、誘惑する「彌生」が女形であるからして八雲の処理の方が腑に落ちるし、彌生の最初の訪問も、原話では嵐の晴れた中であるが、八雲は嵐の中に設定しており、これが、まさに彌生の話中の毒龍移動の最中とマッチして、やはり共時的でダイナミックである。また、エンディングも、原話が大陥没による崩落で家が倒壊するというシークエンスを、龍との絡みを駄目押しに考えたものであろう、激しい大暴風の洪水で、完膚までに押し流されてしまうという、泉鏡花ばりのカタストロフ処理を施しているのも、これまた、小気味よいではないか。

小泉八雲 『究極の問題』  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:本篇(原題“"ULTIMATE QUESTIONS"”(ダブル・クォーテーション・マーク附きである。大谷訳では再現されていない)は一九〇五(明治三八)年十月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON MIFFLIN AND COMPANY)刊の“THE ROMANCE OF THE MILKY WAY AND OTHER STUDIES & STORIES”(「『天の河の恋物語』そして別の研究と物語」。来日後の第十二作品集)の三番目に配されたものである。本作品集は“Internet Archive”のこちら(目次ページを示した)で全篇視認でき(本篇はここから)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、このブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)に次いで、死後の公刊となった作品集である。

 底本は上記英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落とし、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。]

 

 

  究極の問題


 ずつと前の或る記憶である。……雲無き眞午(ひる)の光りを溶びて居る御影石の建物の間の、鐡のやうに鏗鏗[やぶちゃん注:「かうかう(こうこう)」。「鏗」は「金石の打ち合う音」の意で、「鐘や硬質の石の音などが鳴り渡るさま」を言う。]響く御影石の匍道を自分は步いて居る。物の影は短かくて鋭い。その輝かしい暑い空氣はそよとも動かむ。そしてその街路での物の音は、妙に高い自分の跫音だけである。……不意に或る變な感じが――物すべてが虛妄だといふ感じ、卽ち疑ひが――疼かせる衝動といつたやうな風に、自分を襲ふ。鋪道、巨大な切石、鐡栅、眼に見ゆるもの凡て、夢で!ある。光、色、形、重さ、堅さは――感覺に訴へ得る存在物の凡ては――ただ、實在の幻影である。それに對して人間の國語が何等の語をも有たぬ一つの無限な靈性の表現に過ぎぬ。……

[やぶちゃん注:「!」の後の字空けがないのはママ。]

 この經驗は、『綜合哲學』――その讀みやうを或る亞米利加の友人が自分に敎へたのであつたが――の第一卷を硏究して起きて來たのであつた。自分はあれが容易には讀めなかつた。それは一つには自分が思索が遲(のろ)いからでもあるが、主として自分の心がこんな方面に努力を續けて行く、訓練をそれまで蒙つて居なかつたからであつた。『第一原理』を學ぶのに幾月もかかつた。あの叢書のうちの書卷で、これと同じほど骨の折れたのは他に無い。自分は一度に一節――稀に二節――を讀むことにして、前節が確かと解つたと思ふまでは、新規な節を讀むことを敢て爲なかつた。自分の進行は、暗がりにある長く幾つも續いて居る梯子を初めて登る人の進行のやうに、甚だ用心深く又甚だ遲かつた。終に光明に達すると、自分は事物に對する不意な新規な視方を得た――物の表面の虛妄を瞬時看ることが出來た。そして其時からしてこの世界が、自分にはもう二度と、それまでと全く同じものとは見えなくなつた。

[やぶちゃん注:『綜合哲學』小泉八雲が深く敬愛するハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)の一八六〇年刊行の“System of Synthetic Philosophy”(「総合哲学体系」)。本書を解説したウィキの「総合哲学体系」によれば、『スペンサーは本書で社会発展を主題としており、社会進化論を基礎とした社会学の理論を提唱した。社会学とは宇宙が進化する終局としての社会有機体の原因と発達について研究する学問として定義し、それを社会の均衡を形態学的に研究する社会静学と、社会の均衡にいたる力を生理学的に研究する社会動学に分かれる。そして有機体として社会が成立しているという把握に基づきながら個人の社会的な機能が相互に関連しながらある種の均衡状態を維持する社会状態を研究し、社会はコミュニケーションに基づいた協働で成立しており、社会の成員の意識は集合体の内部で散在していると特徴付ける。この散在する個々の意識を結合させて機能を分化させながら社会が連携している完全社会の状態をもたらすためには自由競争が必要であると論じた』。従って、『スペンサーにとって社会の全体と個人の自由は矛盾せず』、『結びついていた。社会の変動はこの社会状態の変動であり、強制的な協働に裏付けられた軍事型社会の状態は自発的な協働に裏付けられた産業型社会へと進化すると考えていた。軍事型社会では集権的な社会構造が成立しているものの、産業型社会では文献的な社会構造を備えていながら個々人が緊密に結合している。スペンサーの見解において、産業型社会の具体例は19世紀の近代イギリス社会であった。スペンサーは本書で資本主義の理論を社会学的に捉えることを試みている』とある。]

 

 二十年以上も前のこの記憶と、その時の異常な身戰きとが、世界最大の思索家が我等に遺した最後の、そして前のに劣らず貴重な一册の中にある「究極の問題」といふ論文を讀んで最近また自分に復活して來た。生死の謎は一生の知的勞苦の夕暮れに、その巨大な心へ自づと浮かんで來たのであつて、その謎に就いての氏の址最後の發言が、其論文に收められて居る。確かに氏の我我に語らんとする處のものの實質は、或はその「綜合哲學」から推知し得たのかも知れぬ。が、あらゆる深い思索家の心を惱ます問題に關する個人的觀念を薯者が述べて居る處に、この最後の論文の特殊の興味が存して居る。恐らくは我我のうちで、氏の純乎として科學的な態度に滿足したままで居れたものは少なからう。『意識といふ形の下(もと)に我我に湧き出づる』力と、萬物を形成するあの知り得べからざる力とは同一不二であるとの氏の言明を十分に受け入れて居ながらも、この師の多くの門弟は、直接氏に向つて『だが、人の身は死ぬると分解して無くなるといふ前途を思つて、あなたはどう御感じになりますか』と質問する或る機會を渇望したに相違無い。ところが、この全く感情的な質問に對して氏は、我我の如何なるものが願ひ得た通り、率直に且つ十分に――恐らくは、より以上に率直にすら――答へて居る。氏は辯解的に斯く述べて居る。『年のいつた人達は共通の多くの囘想を有つて居るに相違無い。自分が今心に有つて居る一囘想は疑ひも無く頗る有りふれたものである。過去幾年間、春、花の蕾が開いて行くのを看て居る時、こんな考へが起こつた、「自分は花の蕾の開くのを二度と、また見るであらうか。自分は未明に鶫[やぶちゃん注:「つぐみ」。]の囀りに目覺さるることが二度と、またあるであらうか」と。最後は長く延期されさうでは無いから、從つて究極の問題を默想する傾向が次第に募つて來る』……それから氏は、『如何にしてか何が故にかとの、また何處よりしてかと何處へかとの』此究極の問題は、基督敎の信條を受け入れることの出來ぬ人達の心には、當時の思想が大多數の人の心を占めて居るよりも、もつと廣い容積を占めて居る、と、かう我我に語つて居る。生の問題は絕大なものであるといふ事は、嚴正科學が提供し得る一切の幇助を思索に與へて、自由に且つ廣く、且つ深く思索してもいいとして居る人達だけに明白になるので、其思索家の知識が大きければ大きいほど、此問題は愈〻差し迫つたものに思はれ、恐ろしいものに思はれ、愈〻絕望的に解答不可能なものに思へるのである。ハアバアト・スペンサア自らにはこの問題は、尋常人の心が理解出來ないほどの巨大なものであつたに相違無い。そして死期が近づくに從つて、愈〻刻薄に氏を壓して氣掛りを大ならしめたのである。氏は――これはその壯大な心理學にも、其大著作の他の書卷にも、明らかに仄めかしてあるが――死後、意識ある個性が繼續するといふ如何なる信仰に對しても、何等合理な證據が存在して居ないといふ確信を避けることが出來なかつた。

[やぶちゃん注:ここで標題のダブル・クォーテーション・マークの意味が判然とする。スペンサーの最晩年、死の前年の一九〇二年刊の随想“Facts and Comments”(「事実と評言」)の中に、“40. Ultimate Questions?”を見出すことが出来た。

 以下、底本では全体が一字下げ。前後に私が「*」を附して小泉八雲の本文と区別した。]

   *

 原始的信仰を硏究して、そして夢が思はす考へからして、覺めると歸つて來て、死ぬると不定の時間の間去つて行く、漂泊する離魂について野蠻人が得て居る結論のほかには、後生といふ觀念には何等の根源が無いことを發見してからは――頭腦と意識との間に存する、測り得べからざる關係を熟考して、そして頭腦の活動無くして意識の存在する證據はこれを得ることは出來ぬといふことを發見してからは、物質組織が不活動になつた後に、なほ、意識が繼續するといふ思想は、我等はこれを放棄せざるを得ざるやうに思はれる。

   *

 この整齊たる[やぶちゃん注:「せいせいたる」整然と揃っているさま。]發言のうちには、希望の語は一つもない。しかし、これを發展せんと欲する人は發展せしめて、一縷の希望の種(たね)にされようかと思へる、非常に用心して述べてある疑ひが一つ少くとも氏の發言のうちにある。『放棄せざるを得ざるやうに思はれる』といふ用心した文句は、人智の現在の情態[やぶちゃん注:ママ。]では意識の繼續を信ずべき、何等の理由も無いけれども、未來のより大なる或る知識は、それ程に覺束無くは無い前途の望みを抱かしめて吳れるかも知れぬ、といふことを確かに暗示して居る。が、今の今、我等に見えて居る前途には、さすが思索家中のこの最大思索家も二の足を踏んだ。

[やぶちゃん注:同前の引用と同じ。同じ仕儀を施した。]

   *

 ……死んで意識が無くなると同時に、生存してゐたといふことを知つて居る、といふことが無くなつてしまふといふことは、奇妙なまた嫌はしい[やぶちゃん注:「いとはしい」。]結論のやうに思はれる。自分の末期の一呼吸と共に、誰れもに取つて、自分がこの世に生きて居なかつたのと同じ事になる、といふのだから。

 それからまた、その意識そのものは――それが繼續して居る時間中、それは果して何んであるか。そして、終はる時、それはどうなるか。意識といふは、我我の知識をも我我の想像をも超絕して居る處の、あの無限永久のエネルギイの分化された、そして個個にされた一個の形であるといふ事、そして死ぬると其要素は、其要素が出で來たつた、その無限永久のエネルギへ逆戾りするといふ事、それを推定し得るのみである。

   *

 自分の末期の一呼吸と共に誰れもに取つて自分がこの世に生きて居なかつたと同じ事になる、さうであらうか?恐らくは、その個人にはさうであらう――その個人の勞力によつて一層賢しくなり[やぶちゃん注:「さかしくなり」。]、一層よくなつた人類には、確かにさうでは無い。……然し、この世界は去つてしまふに相違無い。去つた後でこの世界は宇宙に對して、人類が住つて[やぶちゃん注:「すまつて」。]居なかつたと同じことであらうか。このことは、惑星相互間の未來の交通の可能如何によるかも知れぬ。……しかし幾多の太陽、幾多の惑星より成るこの宇宙全體も亦、死滅しなければならぬのである。死滅した後で字宙全體は、理知ある生物が、その無數の世界の上で勞したり、苦しんだりしたことが無かつたと同じことであらうか。我我は少くとも、生のエネルギイは絕滅出來ないものであるといふ確信を抱いて居り、且つまた、そのエネルギイがまだこれからして開展さるべき幾多の宇宙に於て、別な生と別な思想とを構成する役に立つであらう、といふ鞏固な蓋然信念を抱いて居る。……がしかし、想像の上のあらゆる可能を先づあるものとして置いて――過去のあらゆる因果律に由る存在物と未來のあらゆる因果律に由る存在物との間に、或る理解し得べからざる關係がありさうだといふことをも許容して――この幻の如き生の全體が因果律を超越して居るものに對して、何を意味するかといふ、大きな恐ろしい問題が殘つて居る。稻妻の明滅が夜に何等の記錄を殘さぬが如くに、その闇黑[やぶちゃん注:「あんこく」。]に幾十百千萬億の宇宙が來ては去つて、しかも、存在して居たといふ何等の痕跡も殘さぬかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「?」の後に空欄がないのはママ。]

 この問題のあらゆる方向に、ハアバアト・スペンサアは思索を與へたに相違無い。が、現在構成されて居る處の人間の智力は、これに何等の解答を提供することは出來ぬ、と明白に公言して居る。この世界がこれまでに產出したうちで、一番大きな心が――人間のあらゆる知識を組織的に排列した、近代科學に革命を與ヘた、唯物論を永久に追ひ拂つた、あらゆる生の靈的渾一[やぶちゃん注:「こんいつ」。いろいろなあらゆるものが融け合って一つになること。「渾」は「混じる」「総て」の意。]を我等に示現した、あらゆる倫理を永遠不易な根抵の上に立て直した心が――蚊蚋[やぶちゃん注:「ぶんぜい」カやブヨのような小さな存在の謂い。]の歷史、或は一太陽の歷史を、同じ明快さを以て、しかも、同じ普遍的な法式によつて解釋し得た心が生の謎の前へ出ては、殆んど子供の心に劣らぬ手緣りない[やぶちゃん注:「たよりない」。]ものであることを自白した。

[やぶちゃん注:「?」の後に字空けがないのはママ。]

 が然し、自分にとつては、氏のこの最後の論文の價値は、多くの不確實と多くの蓋然とのその悲壯な敍述のうちに、信念の言明に頗る類せる或る物を誰れも見分けることが出來るといふ事實に存して居る。我我には、頭腦が死んだ後、意識が持續するといふ如何なる信念をも抱くべき根據は、まだ一つも無いと確信しては居るけれども、意識なるものの究極の性質は、依然として測り知ることは出來ぬ、といふことを記憶せよと命ぜられて居る。意識と得見られぬものとの關係は、我我には推測が出來ないけれども、意識といふものは無限なエネルギイの一表現として考へなければならぬこと、また、その要素は、死によつて分解すると、時間の無い、そして量の無い生の根源へ還るのであらうといふこと、を我等は思はせられる。……今日の科學もまた、如何なる物でも存在して居たものは悉く――いつか動物となり、或は植物となつて動いて居た個個の生は悉く――いつか人間の意識の中で動いて居た感情と思想とは悉く――感覺界を越えて、自己記錄を閃めかせたに相違無いと我我に保證して居る。そして、我我はこれを知ることは出來ぬけれども、かかる記錄の最善のものは、永存性を有つやう運命づけられて居るかも知れぬと、想像せざるを得ぬのである。この後の方の題目に就いては、色々と明白な理由があつて、ハアバアト・スペンサアは長く無言のままで居た。しかし、讀者は『第一原理』の最終の第六版の中の、或る顯著な一節――意識は宇宙エエテルのものかも知れぬといふ假說を論じて居らるる一節――を深く考察してよからう。この假說は、氏は輕輕にこれを片付けては居ない。そして、その不妥當なることを證明しながらも、まだ、人間の心では理解の出來ぬ或る眞理を、不完全に現して居るのかも知れぬ、と告げて居るやうである。――かう書いてある、

[やぶちゃん注:「宇宙エエテル」“the cosmic ether”。古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し,「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。

 以下、同前の仕儀を施した。]

   *

 意識が本來具へて居るものは、萬有に滲み亘つて居るエエテルであるといふ假定が、矛盾を有たぬ唯一の假定である。この物は――網膜に於ける光線の作用が證明する如く、――運動をして居る物質の分子に影響され得るもので、そして逆にまた分子の運動に影響を與へ得るものであるといふことを、我我は知つて居る。この假定を追うて行くと、空間凡てに滲み亘つて居る計りで無く、物質凡てに滲みみ亘つて居るこのエエテルは、神經系の或る部分に於て特殊の事情の下に、感情といふものを將來するやうな工合に、神經的變化によつて影響され得るものであつて、且つまた交換的に、さういふ事情の下に神經的變化に影響を與へ得るものである、と假定することが出來よう。然し、若し我我が、この說明を受け入れるならば、感情の潛在勢力は普遍なものであること、また、感情がこのエエテルの中に開展發達して來るといふ事は、或る神經中心に起こる極はめて複雜な事情の下にあつて、始めて出來するものであるといふことを、假定しなければならぬ。が然しこれは、このエエテルは何んであるかを知らぬのであるから、且つ又、最もよく判斷の出來得る人達の自白によれば、これまで造られた假說のうちで、エエテルが有つて居る力悉くを說明する假說は、一つも無いといふことであるから、說明に似たものといふに過ぎぬ。斯の如き說明は、この現象を性質の知れない記號を以て、記號づけるだけのことで、それ以上のことはしないのだと云つてもいい。(『第一原理』、千九百年の確定版七十一章)

 

 幼稚な空虛からして、徐徐に開展進化し來たつたこの複雜な意識は――他の形に於て、生きて居る物共によつて、廣く表現されて居る意識なるものは――如何なる生物でもその發達發育中、無意識な物質と見えるものから現れ出づる處の、そして、意識なるものは或る初步の形に於て遍在なものではなからうかといふ考へを起こさせる處の、この意識なるものは――實に測り知ることの出來ぬものである。(『自傳』第一卷四百七十頁)

   *

 あらゆる近代の思索家の中で、スペンサアは恐らく、有力な證據が支へて居ない假說は、どんな假說もこれに奬勵を與へることを避けるのに、最も用心深い思索家であつた。氏自らの信條の筒單な總額すらも、三つの蓋然の陳述として、至當の差し控へを以てして、漸く發言して居る。卽ち、無限のエネルギイの分化され、個性化された一つの形が意識であるといふ事、意識は死によつて分解して消える事、意識の要素は死後萬有の根源へ還つて行く事、これである。此無限の神祕に對する我我の心的態度に就いては、氏の助言は平明である。我我はこの永遠の大法に身を任せて、『知られざる或る力が仕出かす、この宇宙の過程は無慈悲ではあるが、しかも、そのうちに何處にも報復といふことは見出されぬ』といふことを記憶してゐて、我我が古昔から承け來たつて居る、迷信的恐怖の遺產を征服するに努めなければならぬ、といふのである。(『事實と註釋』二百〇一頁)

 同じその短かい論文のうちに、今一つ殊に興味ある自白がある、――卽ち、空間の恐怖を認知して居る文である。尋常普通の心にすらも、これを理解するのに眞面目な硏究は少しも要らないあの天文學上の驚くべき事實が、我我に思はざるを得ざらしめる處の無限の空間といふ念は、實に人を慄然たらしめるものである。――幾百萬の太陽の赫赫たる光りも、それへ何の光りも何の暖か味も、齎さぬあの永久の夜といふ其茫漠たる觀念である。然しハアバアト・スペンサアの智力には、空間といふ觀念は、比較にならぬほど非常に神祕に、且つ洪大に現れ來たつたのに相違無い。數學家だけが、位置の幾何學竝びに空間關係の神祕が論じである章の――『假令、生の神祕を貫き得ても、更に一層超絕的な神祕が殘るであらう』といふ悸然[やぶちゃん注:「きぜん」或いは「はつ」とと当て訓しているかも知れぬ。怖れや驚きのために、心臓がドキドキするさま。]とするやうな言明の――十分の意義を理解することが出來ることであらう。がしかし、ハアバアト・スペンサアは、そんな幾何學的神祕の槪念を離れて、赤裸裸たる空間そのものの問題が、氏の生涯の夕暮れに、氏には魔攻(まぜめ)となり、消魂事[やぶちゃん注:「せうこんじ」。「驚きや悲しみのあまりに気力を失うこと」或いは「我を忘れて物事に耽ること」の意。両意で私は採る。]となつた、と我我に語つて居る。

[やぶちゃん注:以下、同前の仕儀。]

   *

 ……創造に或は進化に――どちらと考へてもいいが――それに均しく先立つて居て、そして擴がりに於ても、時間に於ても、均しく兩者を無限に起絕して居る、この普遍な構成素其物といふ考へがつぎに起こつて來る。兩者を超絕してといふのは、苟くも考ヘるとなれば、兩者は始めがあつたものと考へなければならぬのに、空間には始めといふものが無かつたからである。想像の力の達し得る限り、四方八方を探求すると、想像の力が橫ぎつた部分は、それに比べれば全く無限小といふべき程の未探索の地が、その先(さき)にある空空漠漠たるこの存在といふ考へは――それに比べれば、我我の測り知り得べかららざる恒星系は縮んで、一小點となるやうな空間があるのだといふ考へは壓倒的に絕大で、思ひ想ふに堪へぬ考へである。近年は、根源も原因も無くして無限のがいつからとなく存在し來たつて居るので、その空間はいつまでも存在するに相違ないものだといふ意識は、それを考へまい、それを避けたいといふ感じを自分に起こす。

   *

 無限の空間といふ觀念が、自分の心とは比較を絕して遙かに强大な心に、どんな風に影響を與へ得るものか、これは自分には分らぬ。また、空間關係の諸法則が幾何學者に提出する、或る種の問題の性質はどんなものか、これは自分は描測が出來ぬ。然し、その觀念が自分の弱い想像力の裡に喚起する、恐怖の原因を決定して見ようとすると、自分にはその感情の種種異つた要素を――科學の啓示が我等に思はしめる(合理なまた不合理な)特殊の觀念に對應する特殊の種種な恐怖を――見分けることが出來る。そのうち一つの感じは――恐らくこれがその恐怖心の主要な要素と思ふが――無限の空間を占めて居る、あの言語に絕した見得べからざるものの中(なか)に、永遠永久に閉ぢ籠められて居るといふ考へが起こるのである。

 この感じの背後には、永久に取圍まれて居るといふ考へ以上のことが存して居る。――それからまた、名なきものによつて永久に貫かれ、橫ぎられ、震はされて居るといふ念がある。――その上また、奧の奧の祕密ののどんな小さな分子も、それの永久の接觸を避けることは出來なからうといふ確實さがある。――なほ進んで、自分のが、光線の遠さを以て、光線の速さ以上の速さを以て、あらゆる銀河を越え、科學がそれを用ひて以てその量を示し得るどんな符號も知らぬほど絕大な時間の繼續を越えて突進し得ても、そして更に前へ前へ、上へ下へと飛んで行くことが出來ても、――いつまでも、いつまでも、自分のそのは如何なる邊端にも、決して達し得られない、如何なる中心からも決して、少しも遠のくことが出來ないのだといふ恐ろしい確信がある。といふのは、その無聲境にあつては、大きさと高さと深さと時間と方向とが、悉く呑み込まれ居て、其處では關係といふことは、飛び走つて居る自分の意識のその一小點――原子無しの音響無しの名稱無しの際限無しの潛在勢力の中を獨り脈搏つて居る、恐怖心の一小分子――に對しての外、全く何等の意味も有ち得ないものであるからである。

 

 それから、その潛在勢力といふ考へが別な性質の恐怖を――無限の可能(ポシビリテイ)といふ恐怖を惹起する。といふのは、恰も物質なるものは、全く無きが如くに物質を通して誰れもその起伏の流れを感ずることが出來ぬほどに微細にではあるが、しかも、それが一秒の分數(ぶんすう)間に爲す振動の數を數へるのに、一生を費やしても足りぬほどに迅速に――脈搏つこの測り知るべからざるものは、無邊際から我我に戰くからである、――そして無限の力が、その最も輕い震ひにも住んで居り、――永遠の重さが、その最も微かなわななきにも、その後ろに迫つて來て居るからである。その幽遠な感觸には、一花の著色も或は一宇宙の消滅も等しく造作の無いものであらう。此處ではそれは色彩の妙趣と迷妄とを以て人目を悅ばしめ、其處では一群の巨大な太陽を飛び出させる。人間の心が可能だと考へ得る(しかも、その人間の心なるものは、どの位また物を考へることが出來ないで、永久居なければならねものか)一切の物が、その底知れねもののたつた一と振動で如何なる處にも、到る處に、造られ得るのである。……

[やぶちゃん注:「戰く」は「わななく」或いは「をののく」であるが、この語は自動詞で「恐怖・寒さ・興奮などで震える」であるから、日本語として成形するなら、「我々を戰かせるからである」でないと日本語しておかしい。]

 

 或る人達が我我に信ぜしめんと欲したやうに、の消滅といふ恐怖が最上の恐怖であるとは眞であらうか。……といふのは、無限の渦卷の中にあつて、自分といふものが永久に存續するといふ思ひは、口之を[やぶちゃん注:「くち、これを」]述ぶべからざる大恐怖を――完全にそれを意識するには餘ろに絕大な或る一種の恐怖の忽如たる[やぶちゃん注:「こつじよたる」。俄かなさま。たちまち。突然。忽然。]數刹那を――迅速な、暗い、瞬時的瞥見に於てのみ堪へられる一種の恐怖の惹起するに足るからである。そして、我我は絕對なものと一つである――それの底無しの淵に在つての朧氣なるおののかの點點である――といふ信念は、意識といふものは頭腦の崩壞と共に無くなると思考せざるを得ぬ人達にのみ、慰安の信念となる得るのである。……自分には、知り得べきものの境界線を突破しようと、新らたなる企てを試みる度每に、人間の智慧を否應無しに後戾させる處の、あの偉大な疑惑と恐怖とを率直に云ふを敢てする人は少い(全く無い)やうに思はれる。若しその境界線がだしぬけに突き下げられたなら――知識が突然に且つ洪大に擴められて、その現時の境界を越えたなら――恐らくは我我はその示現に堪へることが出來ないであらう……

 

 パアシヷル・ロオヱル氏の驚く可き書物『火星』は、地球よりも古くて、また進んで居る或る世界の住民と――埋知に於ても道德に於ても、我我よりか遙か高く進化して居て、今なほ我等の科學の裏を搔いて居る幾千の神祕を說明し得る生物の一種と――交信が出來る場合の結果に就いて考へさせる。恐らくは、そんな事があつたなら、我我の全文明よりも幾萬年、或は幾百萬年古い知識の、假令、結果は借り得るとしても、手段は理解することが出來ないであらう。しかし或るより古い惑星からしてより大なる知識が突然到來するといふことは、人類の現在の道德情態の故を以てして、我我にはただ、破滅を齎すに過ぎないことになるのではなからうか。――人種の絕滅といふ結果になりさへもしないであらうか。……

[やぶちゃん注:「パアシヷル・ロオヱル氏の驚く可き書物『火星』」火星人の存在を唱え、「火星の運河」を描いたことで知られる、アメリカのボストン出身の天文学者で日本研究者でもあったパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell 一八五五年~一九一六年)が一八九五年に刊行した“Mars”のこと。ウィキの「パーシヴァル・ローウェル」によれば、彼は明治二二(一八八九)年から明治二六(一八九三)年にかけて(小泉八雲の来日は明治二十三年であるが、彼との実際の接触はなかったものと思われる)、日本を五回訪れ、通算、約三年間滞在した、とある。『来日を決意させたのは大森貝塚を発見した』動物学者でお雇い外国人であったエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)『の日本についての講演だった。彼は日本において、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンと交流があった。神道の研究等日本に関する著書も多い』。『日本語を話せないローウェルの日本人観は「没個性」であり、「個性のなさ、自我の弱さ、集団を重んじる、仏教的、子供と老人にふさわしい、独自の思想を持たず輸入と模倣に徹する」と自身の西洋的価値観から断罪する一方で、欧米化し英語を操る日本人エリートたちを「ほとんど西洋人である」という理由から高く評価するといった矛盾と偏見に満ちたものであったが、西洋の読者には広く受け入れられた』とある。ローウェルへの小泉八雲の言及は既に『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (九)』・同『第二十六章 日本人の微笑 (五)』や、後の遺作となった「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注 (2)  新奇及び魅力」(孰れも私の原文附き電子化注)にも見られ、小泉八雲が終始深い関心を寄せていたことが判る(なお、私はブログでE.S.モース著石川欣一訳「日本その日その日」の全電子化注を完遂している)。因みに、芥川龍之介は本作品集刊行の十九年後、大正一三(一九二四)年十月号『文藝春秋』に「侏儒の言葉」の一節として、火星人のことを書いている。『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)  火星』を参照されたい。]

 或る國民の大多數が倫理的にこれを受け入れる準備が出來てゐないうちに、危險なより高等な知識を撒布すれば、保守的本能が常に必ず、これを妨げるといふことは、法則であるやうに思はれる。そして(個人個人の例外はあるものとして)より高い知識を得る力は、そんな知識によりて利益を蒙り得べき德性が進化開展し來たる時、始めて發達するものと想像すべき理由がある。若し、他の世界と知的通話を爲すの力が萬一、今、我我に役に立ち得るならば、我我は早速これを得べきであると想ふ。然し若し、何か不思議な機會で、エエテル電信の或る方法と云つたやうなものを發見して――この力を得ることが早過ぎたならば、その使用は十中八九屹度、禁止せられるであらう……例へて云へば、近くの或る惑星の人間と通信する手段を發見したといふ罪に問はれた人に、中世時代にどんな事が出來したらうか!想つて見るがいい。確かに其發明者と、その裝置とその記錄とは、焚かれたらう。その勞苦の如何なる痕跡も、記憶も、根絕(ねた)やしされたらう。今日でも、人間の經驗がそれを支へない眞理の突然の發見は、現存して居る確信に全然反對した事實の突然の啓示は、迷信的恐怖の或る狂熱的復活を――科學の呼吸の根を止め、一千年の間、心的闇黑へ世界を再び投げ込むやうな宗敎的な或る恐慌を――惹起することであらう。

[やぶちゃん注:のキリスト教嫌いであった小泉八雲の持つ絶対の恐怖感は、恐らく今も連綿と続く現在的で未来に続く、なまじいにちっとばかり下らない「知識」(現行の先端科学技術をも含む)を持ってしまった人類だけが、それ故に滅亡するまで背負い続ける孤独感に由来するものである。則ち――この無限の大宇宙にあって「人類以外の高等な存在が必ずある」――という科学的根拠を実は持たない待望感(カール・セーガンなどは「ドレイクの方程式」(Drake equation:我々の銀河系に存在し、人類と接触し得る可能性のある地球外文明の数を推定する方程式。一九六一年にアメリカの天文学者フランク・ドレイク(Frank Drake 一九三〇年~)によって考案された。詳しくはウィキの「ドレイクの方程式」を参照)を以ってその存在を「必ずさわにある」としたが、宇宙論的にも生物学的にも、またそれを基にした通常の常識的確率論からも、私は残念ながら――そうした生命存在と人類の生存の針の頭が一致する時間がある可能性はゼロに等しい――と今は考えている。若い頃はUFOや宇宙人の存在を真面目に信じていた御目出度い自分がいたのであるが)に基づく「人類は孤独ではない」と信じたい原始宗教的な意識(孤独への神経症的フォビア)に依拠するものであると考えている。かく言っても小泉八雲先生は黙って微笑されるものと信じている。先に示した芥川龍之介の「火星」(小泉八雲の期待を裏切って、芥川龍之介らしくすこぶる絶望的でアイロニックである)を引いて終りとしよう。

   *

 火星の住民の有無を問ふことは我我の五感に感ずることの出來る住民の有無を問ふことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出來る條件を具へるとは限つてゐない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保つてゐるとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸[やぶちゃん注:「すずかけ」。]を黃ばませる秋風と共に銀座へ來てゐるかも知れないのである。

   *]

2019/10/04

小泉八雲 化け物の歌 (後書き部)  (大谷正信訳) / 化け物の歌~了

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信訳)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

 上記の狂歌を詠ましめた說話、及び民間信仰の殆んど凡ては支那から來たもののやうに思はれる。そして木の精の日本物語も大部分は、その根本を支那に有つて居るやうである。東洋の花の精また木の精は、まだ西洋の讀者には少ししか知られてゐないから、次記の支那物語は或は興味あるものと思はれるかも知れぬ。

 

 日本の書物では唐の武三思と呼ばれて居る――花が好きなので有名な――支那の學者があつた。殊に牝丹が好きで、極はめて巧みに、また根氣よくそれを栽培した。

〔ピオニイに此處では――日本で大いに尊む花の――牝丹をいふ。八世紀の頃、支那から輸入されたといふことで、五百を下らざる變種が今日本の庭園師によつて栽培されて居る〕

 或る日のこと眉目頗る美はしい少女が武三思の家へ來て、使つて吳れと賴んだ。譯があつて賤しい勤めを求めなければならぬやうになつたのであるが、文學敎育を受けた身であるから、出來るなら學者の家に傭はれたいのであると言ふのであつた。武三思はその美くしさに惚れて、それ以上何も問ひ糺しもせずに自分の家へ入れた。使つて見るとただ善良な召使といふだけでは無く、その藝能を思つて見ると、貴紳の邸宅か或はまた王侯の宮殿で育つて來た者ではなからうか、と武三思に思はれる程であつた。禮儀作法は申し分無く知つて居り、位最も高い貴婦人だけが敎はるやうな、優雅な藝事を心得ていて、書にも繪にもあらゆる種類の詩歌を作ることにも驚くばかりに巧みであつた。武三思はやがて、その女を戀ひするやうになり、どうしたらその女は喜ぶかと、そればかり考へた。學問友達や他のえらい訪問客がその家へ來ると、その客をもてなさせにいつも、この新參の召使を呼ぶのであつたが、その姿を見たものは何れも、皆その温雅と愛敬とに非常に驚いた。

 或る日武三思は有名な道術數師の、狄仁傑といふえらい人の訪問を受けた。ところが、その召使は主人の呼ぶのに應じなかつた。武三思は、狄仁傑に見せて感心させようと思つて、自分で探しに行つた。が、何處にも居なかつた。家中搜しても居なかつたので、武三思は客間へ戾るといふと、廊下をその前を音も無しにするすると通つて行く、その召使の姿が不意に見えた。そこでその名を呼んで後を追うて出た。するとその召使は半ば振り返つて、蜘蛛のやうに壁へ身を平たくくつつけた。そして武三思が其處へ行くと、後ろへ壁の中へと沒して行つて、――壁土の上へ描いた繪のやうに平らに――色の附いて居る影のほか、眼に見えるものは何も殘つて居なかつた。だが、その影が唇と眼とを動かして、小聲でかう言つた。

 『御召しに從ひませんで誠に申し譯がありません。……私は人間では無いので御座います。――私は牡丹の魂で御座います。あなたが牡丹をあんなにも可愛がつて下さいましたから、それで人間の形になつて、あなたにお仕へ申すことが出來ました。ところが、今あの狄仁傑が參りました――あの人は恐ろしく禮儀正しい人で御座いまして――私はもうこの姿をして居ることが出來ません。……私は私の出で來た元の處へ歸らなければなりません』

 さう言つて壁の中へ沈み込んで、全く消えてしまつた。その居た處にはありのままの壁土のほか、何も無かつた。そして武三思はその召使の姿を二度と見なかつた。

 この話は日本人が『開天遺事』と呼んで居る支那の書物に載つて居る。

[やぶちゃん注:ここに出る話は「古今百物語評判卷之一 第五 こだま幷彭侯と云ふ獸附狄仁傑の事」に出ており、そこで武三思・狄仁傑(孰れも実在の人物である。因みに、小泉八雲は後者を“Teki-Shin-Ketsu”と記すが、採らない)を詳細に注しているのでそちらを参照されたいそこで「開天遺事」にも注して、『正しくは「開元天寶遺事」。小学館「日本大百科全書」によれば、『盛唐の栄華を物語る遺聞を集めた書。五代の翰林(かんりん)学士などを歴任した王仁裕(じんゆう)』(八八〇年~九五六年)『が、後唐(こうとう)』(九二三年~九三六年)『の荘宗のとき、秦』『州節度判官となり、長安に至って民間に伝わる話を捜集し』、百五十九『条を得て』、『本書にまとめたという』。但し、『南宋』『の洪邁』(こうまい 一一二三年~一二〇二年)は『本書を王仁裕の名に仮託したものと述べている。玄宗、楊貴妃』『の逸話をはじめ、盛唐時代への憧憬』『が生んだ風聞、説話として味わうべき記事が多い』とある。但し、以上の牡丹の精の話は、中文サイトの「開元天寶遺事」の原文を調べて見ても、見当たらなかった。話柄の類型は唐代伝奇や後の志怪小説(特に浮かぶのは「聊齋志異」辺り)にありがちなものではある。識者の御教授を乞う』と書いた。今回、再度調べたが、やはり、ない。ただ、中文サイトで「武三思 狄仁傑 牡丹」で調べると、盛んに京劇関連やドラマ絡みでこの話らしき記載が盛んに認められる。出典を突きとめることは私が中国語が出来ぬのであきらめた。再度、懇請しておく。【2019年10月5日追記】いつも各種テクストに対して情報を下さるT氏よりメールを戴き、本篇の出拠は「太平廣記」の「妖怪三」に載る「素娥」と思われると指摘があった。但し、『「牡丹の魂」ではなく「花月之妖」とかかれていますが』とあり、「太平廣記」の原文とその引用元のデータを示され、最後に『「開天遺事」は、「山岡元隣」の眼晦ましでは』ないか? との御指摘もあった。以下に中文サイトから「太平廣記」の「妖怪三」の「素娥」を一部の字や記号を変更して示す。

   *

素娥者、武三思之妓人也。三思初得喬氏靑衣窈娘、能歌舞。三思曉知音律、以窈娘歌舞、天下至藝也。未幾、沉於洛水、遂族喬氏之家。左右有舉素娥曰。相州鳳陽門宋媼女、善彈五弦。世之殊色。三思乃以帛三百段往聘焉。素娥既至、三思大悅、遂盛宴以出素娥。公卿大夫畢集、唯納言狄仁傑稱疾不來。三思怒、於座中有言。宴罷、有告仁傑者。明日謁謝三思曰、某昨日宿疾暴作、不果應召。然不覩麗人。亦分也。他後或有良宴、敢不先期到門。素娥聞之。謂三思曰。梁公彊毅之士。非款狎之人。何必固抑其性。再宴不可無、請不召梁公也。三思曰。儻阻我宴、必族其家。後數日、復宴、客未來、梁公果先至。三思特延梁公坐於寢、徐徐飮酒、待諸賓客。請先出素娥、略觀其藝。遂停杯、設榻召之。有頃。蒼頭出曰。素娥藏匿、不知所在。三思自入召之、皆不見。忽於堂奧隙中聞蘭麝芬馥、乃附耳而聽、卽素娥語音也。細於屬絲。纔能認辨、曰。請公不召梁公、今固召之、不復生也。三思問其由、曰。某非他怪、乃花月之妖。上帝遣求。亦以多言蕩公之心、將興李氏。今梁公乃時之正人、某固不敢見。某嘗爲僕妾、敢無情。願公勉事梁公、勿萌他志。不然。武氏無遺種矣。言迄更問。亦不應也。三思出。見仁傑。稱素娥暴疾。未可出。敬事之禮。仁傑莫知其由。明日、三思密奏其事、則天歎曰。天之所授、不可廢也。出「甘澤謠」。

   *

出典とする「甘澤謠」は晩唐最末期の官人で伝奇小説を得意とした袁郊の作で、同前の仕儀で原話(やはり標題は「素娥」)を引くと、

   *

 素娥者、武三思之人也。三思初得喬氏青衣窈娘、能歌舞。三思曉知音律、以窈娘歌舞天下至藝也。未幾、沉於洛水、遂族喬氏之家。左右有舉素娥者曰、「相州風陽門宋媼女、善彈五弦、世之殊色。」。三思乃以帛三百段往聘焉。

 素娥既至、三思大悅、遂盛宴以出素娥。公卿大夫畢集、唯納言狄仁傑稱疾不來。三思怒、於座中有言。宴罷、有告仁傑者。明日、謝謁三思、曰、「某昨日宿疾暴作、不果應召。然不睹麗人、亦分也。他後或有良宴、敢不先期到門。」。素娥聞之、謂三思曰、「梁公強毅之士、非款狎之人、何必固抑其性。若再宴、可無請召梁公也。」。三思曰、「倘阻我宴、必族其家。」。

 後數日、複宴。客未來。梁公果先至。三思特延梁公坐於寢、徐徐飮酒、待諸賓客。請先出素娥、略觀其藝、遂停杯設榻召之。

 有頃、蒼頭出曰、「素娥藏匿、不知所在。」。三思自入召之、皆不見。忽於堂奧隙中聞蘭麝芬馥、乃附耳而聽、卽素娥語音也、細於屬絲、才能認辨、曰、「請公不召梁公、今固召之、某不複生也。」。三思問其由、曰、「某非他怪、乃花月之妖。上帝遣來、亦以多言蕩公之心、將興李氏。今梁公乃時之正人、某固不敢見。某嘗爲僕妾、寧敢無情。願公勉事梁公、勿萌他志。不然、武氏無遺種矣。」。言訖、更問亦不應也。

 三思出見仁傑、稱素娥暴疾、未可出。敬事之禮、仁傑莫知其由。明日、三思密奏其事、則天嘆曰、「天之所授、不可廢也。」。

   *

である。まさにこれこそ原拠であると考えてよい。T氏に深く感謝する。

「ピオニイ」原注原文では“The tree-peony (botan)”とある。「Peony」は、本来、落葉小低木であるユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa の英名である。ネイティヴの発音の音写は「ピアニィ」に近い。]

小泉八雲 化け物の歌 「一四 フルツバキ」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信訳)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

    一四 フルツバキ

 昔の日本人には、昔の希服人同樣、花の精があり、樹の精があつて、それに關した面白い說話がある。また惡意を有つたものが棲つて居る木を――化け物木を――信じて居つた。不氣味な木多くあるが中に、あの美しいツバキ(學名カメリア・ジヤポニカ)は不吉な木だとされた。少くとも赤花の種類のは、さうとされてゐた。尤も白花のは評判がよくて珍物としで尊重されてゐたものである。その大きな厚ぼつたい深紅の花には、こんな妙な癖がある。色が褪せ始めると、身ごと莖から離れて、どたと耳にきこえる音を立てて落ちる。昔の日本人の想像(こころ)には、この重い赤花が落ちるのは、刀で斬られて、人間の首が落ちるやうに思はれた。そしてその落ちる鈍音は、斬られた首が地を打つ時のどたといふ音のやうだと言はれてゐた。それにも拘らず、椿はそのつやつやした葉が美しいが爲めに、日本の庭には好んで植ゑられたやうであり、またその花は床の飾りに使はれて居た。然しサムラヒの家では軍[やぶちゃん注:「いくさ」。]の間は決して椿を床花に使はぬが規則であつた。

[やぶちゃん注:ツツジ目ツバキ科ツバキ連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica。]

 讀者は次記の狂歌に於て――これは奇怪な(グロテスク)點に於ては、集中一番のもののやう自分には思へるが――化け椿がフルツバキ卽ち『古椿』と呼ばれて居るに氣が付くであらう。若木は化け物癖は無いもの――そんな癖は幾年經つて始めて發達するもの――と思はれて居た。他の氣味の惡るい木――例へば柳や榎の如き――もまた年經てから始めて危險になると言はれて居た。それと似た信仰が氣味の惡るい動物――子猫の時には無邪氣であるが、年とると魔物になる猫の如き――について行はれて居たものである。

[やぶちゃん注:「奇怪な(グロテスク)」原文は“grotesques”で複数形になっているので可算名詞としての「奇怪なもの」の意。「グロテスク」は語源としては、「地下墓所」や「洞窟」を意味するイタリア語の“grotta”(グロォッタ)、ギリシャ語で「隠れた場所」に遡る、ラテン語の“crypta”(クリプタ:やはり「地下墓所」・「洞窟」の意)に由来する。ここで「洞窟」というのは、西暦六四年の「ローマ大火」の後に、ネロが建設を開始した未完の宮殿群「ドムス・アウレア」(Domus Aurea:黄金宮殿)の部屋と回廊のことを指した。これらは長い間、放置され、地中に埋もれていたが、十五世紀になって再発見されている。参照したウィキの「グロテスク」によれば、この「ドムス・アウレア」には、『人、動物、植物などをモチーフとした装飾壁面が施されており、自然法則や本来の大きさを無視して人から植物へ、さらには魚、動物へと連続して変化する奇妙な模様が見られた』こと、最盛期のルネサンスに当たる十六世紀には、『ラファエロがその模様をバチカン宮殿回廊の内装に取り入れ、これが「地中 = 洞窟(grotto)で発見された古代美術」から「グロテスク装飾」と呼ばれるようになった』こと、更にそうした奇怪な人工物や人口洞穴を庭園に造作することが貴族の間で流行したことから、現行の主な意味合いへと傾いていったのである。]

 

 夜嵐に血しほいただく古椿

    ほたほた落ちる花の生首

〔三句目のフルといふ語には――フル(イ)卽ち『古』といふ形容詞として又フル卽ち「振る」といふ動詞として――二重の勤めを爲せれて居る、ナマクビ(文字通りでは「生な首」)といふ言葉は斬つたばかりの、血がまだ滲んで居る人間の首を意味する〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「古椿」(挿絵は木の切り口らしきものが怪しい魔性のものに変じたものが描かれてある)の本文に、

 夜嵐に血しほいたゝく古椿ほたほた落る花の生首 □□

狂号判読不能。いろいろ考えたが、だめ。小泉八雲偏愛の一句であるだけに、慎重を期してかくした。是非にも識者の御教授を乞うものである。

 

 草も木も眠れる頃の小夜風に

    眼鼻のうごく古椿かな

〔二つの日本語がメといふ假名で書ける。一つは「芽」の意味、一つは「眼」の意味である。ハナといふ發音も同樣に「花」にもなり「鼻」にもなる。奇怪なものとしては、此歌は確かに成功し居る〕

[やぶちゃん注:挿絵の左中央にあり、

 草も木も

  眠れる比の

   小夜風に

    目鼻の動く

     古椿かな 宝山亭

           金丸

とある。]

 

 ともしびの影あやしげに見えぬるは

    油しぼりし古椿かも

〔アヤシゲはアヤシ卽ち「怪しい」、「不思議な」、「超自然的な」、「疑はしい」といふ形容詞から造つた名詞である。カゲといふ語は「光」と「影」と兩方の意味で――此處では二重の暗示に用ひられて居る。古への日本の燈に用ひた植物性の油は、椿の實から採つたものであつた。讀者は「古椿」といふ言葉は――椿は古くなると化け物の木になると想像されて居るから――「化け椿」といふのと同じだと記憶してゐなければならぬ〕

[やぶちゃん注:挿絵の冒頭に、

 燈火の

  影あやしけに

   みえぬるは

    油しほりし古椿かも

           スンフ

             望月樓

とある。「スンフ」は駿府。

 底本ではこの後に一行空けがあるだけであるが、原本では、このように(“Internet Archive”の当該ページ)大型の「*」の三角頂点配置のブレイクが入って終わって、後書き部になっているので、ここで切る。]

2019/10/03

小泉八雲 化け物の歌 「一三 フダヘガシ」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信訳)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

      一三 フダヘガシ

〔ヘガシは動詞ヘグ『剝ぐ』の使然形[やぶちゃん注:使役形。]である。フダヘガシといふ言葉は『御札を剝がす化け吻』を意味する。讀者は自分の「靈の日本」のうちにフダヘガシの立派な日本物語があるのを見られるであらう〕

[やぶちゃん注:私が既に電子化した『小泉八雲 惡因緣 (田部隆次訳) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」』のこと。]

 家家は聖句や護符で惡靈が入らぬやうに護られて居る。日本のどんな村にも、或は町のどんな橫丁にも。夜、戶が締つて居る時、そんな聖句を見ることが出來る。戶はトブクロヘ推し入れてしまふから、日中は、それを見ることが出來ぬ。さういふ聖句はオフダ(御札)と呼ばれて居る。白い紙片に漢字で書いてあるもので、飯糊でそれを戶に貼るのである。それには種類が多い。經から――例へば『般若波羅密多心經』か『妙法連華經』から――選んだ聖句のもある。陀羅尼――あの魔力のある――からの聖句もある。その家の宗旨を示して居る。祈りの言葉だけのもある。……この外に、種種な小さな聖句や小さな版畫が窻や隙間の上に、或は橫に貼つてあるを見ることが出來る――その或るものは、神道の神の名であり、或るものは象徵的な印畫だけか、又は佛や菩薩の繪である。凡て皆な神聖な護符――オフダ――である。何れもその家を護つて吳れるもので、かく守護されて居る家へは、その御札を除かなけれぱ、化け物も幽靈も夜中、入ることが出來ぬのである。

 執念を有つた幽靈は自分では御札を剝がすことが出來ぬ。が、嚇かしたり、約束事をしたり、賄賂を使つたりして、誰れか人にそれを取り除かせようとつとめる。で、戶から御札を剝がして貰ひたがる幽靈をフダヘガシと呼ぶのである。

 

 へがさんと六字の札を幽靈も

    なんまいだあと數へてぞ見る

〔四句目はつぎのやう二樣に讀める。

ナンマイダア――「何枚だ?」

ナム(アム)アイグア――「南無阿彌陀!」

南無阿弥陀佛といふ呼びかけの折りは、眞宗といふ大宗旨の信者が主として唱へるが、他宗の人も、殊に死者に祈りを捧げる時に、これを唱へる。それを唱へる間、祈つて居る人は數珠で祈りの數を數へる。この習慣がカゾヘテ(『數へて』)の語を用ひて仄めかしてある〕

[やぶちゃん注:原拠「狂歌百物語」の「札へかし」の挿絵の右手中ごろの位置から、

 へかさんと

  六字の札を  花前亭

     幽㚑も

  なんまいたあと

   かそへてそ見る

とある。]

 

 ただいちのかみの御札はさすがにも

    のりけなくともへがしかねけり

[やぶちゃん注:原拠の本文に、

 唯一の神の御札はさすかにものりけなくともへかし兼けり 樣星

とある。狂号の「樣」は自信がない。なお、平井呈一氏は一九七五年恒文社刊の平井呈一氏の訳(「骨董・怪談」所収の「天の川綺譚」の「化けものの歌」)ではこの句に注を附され、『これには原注がないが、「ノリ」は「糊」と「法(のり)」をかけたものと思われる』とあるのは至当である。]

小泉八雲 化け物の歌 「一二 ウミバウズ」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信訳)』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

     一二 ウミバウズ

 卓の上へ、身を上に脚を下にして大きな章魚[やぶちゃん注:「たこ」。]を載せて見給へ、――さうすると、ウミバウズが卽ち『海の坊主』といふ空想を初めて思ひ付かせた怪異な實物が眼前にあることになる。この姿勢の下の方にぎろつとした眼を有つた、この大きな禿げた軀(からだ)は坊主の剃髮した頭に歪みなりに[やぶちゃん注:「歪んだ風体のままに」の意。]似て居り、下に這うて居る脚(或る種類では黑い蹼[やぶちゃん注:「みづかき」。]で緊がつて居る)は坊主の衣(ころも)のひらひらする動搖を想はしめるからである。……海坊主は日本の化け物文學にまた古風な繪本に隨分と出て來る。天氣の惡るい時、餌食を捉へに、深い海から現れ出るのである。

[やぶちゃん注:蛸を冒頭に出して、すこぶるヴィジュアルに説明し、西欧の読者がイメージし易いようにしている辺りは、流石であるが、しかし、実は原文は“cuttlefish”であって、タコではなく、イカなのである。この翻案は結果した理解の上では正しいと言えるし、小泉八雲の謂いは明らかにイカではなく、タコを説明しているから、いい。小泉八雲は『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (二)』で海坊主に言及している。そちらの私の注も参照されたい。]

 

 板一重下は地獄にすみぞめの

    ばうずの海に出るぞあやしき

〔洒落の說明が出來かねる。……アヤシイは「怪しい」、「驚く可き」、「超自然的」、「面妖な」、「疑はしい」といふ意味である。初めの二句に、フナイタイチマイシタハヂゴク(「船板ただ一枚の下は地獄」)といふ佛敎敵俚諺が用ひてある。(この諺を引月して居る今一つの歌に就いては自分の「佛の畠の落穗」の第八章を見られたい〕

[やぶちゃん注:本文の「海坊主」の掉尾に、

 板一重下は地こくに墨染の坊主の海に出るぞあやしき 懿斎

狂号の判読は正直、自信はない。「懿斎」は「しさい」と読む。

「板一重下は地獄」「いたひとへしたはぢごく」だが、普通、現行は「板子(いたご/いたこ)一枚下は地獄」であろう。「板子」は和船の舟底に敷く揚げ板を指す。

「佛の畠の落穗」明治三〇(一八九七)年に刊行した“GLEANINGS IN BUDDHA-FIELDSSTUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”(「仏陀の畑(仏国土・浄土)の落穂集 極東に於ける手と魂の研究」:来日後の第四作品集)の第八章“VIII BUDDHIST ALLUSIONS IN JAPANESE FOLK-SONG”のここ(“Internet Archive”のこちらに左の206ページ)の六行目にある、

Now they are merry together; but under their boat is Jigoku.

Blow quickly, thou river-wind,—blow a typhoon for my sake!

を指す。訳すなら、

今、彼らは互いに陽気だが、しかし、彼らの舟の下は地獄だ。

吹け! 素早く! 川風よ!――俺のために! 嵐よ! 吹くがいい!

か。第一書房家庭版全集(昭和一二(一九三七)年刊の第六巻所収で訳者は落合貞三郎)では、以下のように訳されてある。

彼等は一緖に樂んでをるが彼等のボートの下は地獄だ、河風よ早く吹け、私のためにつむじ風よ吹け、(大意)

且つ、その後に『註 地獄は種々の地獄を總稱した佛敎用語である。ここで言つてをることは船板一枚下は地獄といふ句、卽ち海上の危險を形容した句に關係してをる』(中略)『ここでいふ船(ボート)は恐らく屋根のある遊覽船で管弦の遊びに用ひられるやうな物であらう』ともある。]

小泉八雲 化け物の歌 「一一 バケヂザウ」  (大谷正信訳)

 

[やぶちゃん注:本篇の詳細は『小泉八雲 化け物の歌 序・「一 キツネビ」(大谷正信訳)』の私の冒頭注を参照されたい。

 標題の中にここにだけ読点が入っている。]

 

     一一、バケヂザウ

 子どもの亡靈の救主たる地藏菩薩の像は、日本佛敎の中にあつて最も美しい、また最も人間味のあるものの一つである。この佛の彫像は殆んど到る處の村落に、また到る處の路傍に見ることが出來るが、地藏の彫像には――例へば姿を色々に扮して、夜間步き𢌞ると云ふやうな――無氣味なことをするのがあると云はれて居る。さういふ地藏の彫をバケヂザウと呼ぶ。變形をする地藏といふ意味である。傳統的な繪では、小さな男の子が――その立像が動いて徐ろに自分の方へ頭を屈めるとは思ひもかけずに――地藏の石像の前ヘいつもの餅の御供物を置かうとして居るところが畫いてある。

[やぶちゃん注:「化け地蔵」で日文研の「怪異・妖怪伝承データベース」で検索すると、六件がヒットし、神奈川県大磯・栃木県日光市・同旧三重村大字五十部・大阪市・三重県・茨城県岩井市の旧伝