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2019/12/16

小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「五」・「六」・「七」・「八」/ 保守主義者~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 硏究と熟考とは、靑年を、初め彼が思つたよりも、深入りさせた。偉大な宗敎としての基督敎の承認の後から、又別種の承認と、基督敎を奉ずる民族の文明に就ての色々の想像が起こつて來る。當時多くの省察に富む日本人には、否、恐らく國政を指導する敏感の人人にさへ、日本は全く外人の支配の下に移らんとする運命にあるやうに思はれたのである。尤も絕望ではなかつた。そして一縷の望だに殘る限り、國民の義務は明らかであつた。併し帝國に對して用ゐらるべき敵の力は抵抗すべくもない。そして其敵の力の强大さを硏究しながら、若き日本人は、抑も[やぶちゃん注:「そも」。]其力は如何にして何處より得來たつたかと、恐怖に近き驚嘆を以て怪しまざるを得なかつた。それは老牧師の斷言する樣に高級な宗敎に或る神祕的な關係を有するのであらうか。國家の繁榮は、天道の遵守と聖賢の敎に從ふ事の多少に依ると說く支那の古哲學は、確に此說を裏書きする。若し西歐文明の優れたる力は、実際西歐倫常[やぶちゃん注:「りんじやう」。常に守るべき人倫の道。]の優秀さを示すとせば、其高級な宗敎を採用し、全國民の改宗に努力すべきは、苟くも國を愛する者の明らかなる義務ではなからうか。其頃の靑年は支那の學問で敎育せられ、西洋の社會發達の歷史に通ぜざるは必然の理で、最高の物質的進步は、基督敎の理想とは相容れざる、又凡ての大なる道德と相反する、酷薄なる競爭に依つて重に發展したものだとは知るよしもなかつた。西洋に於てさへ今日無數の愚民は、兵力と基督敎の信仰との間に、或る神聖な關係があると想像して居る。そして我々の敎會の壇上から、政治的强奪を神意と認めたり、强力な爆藥の發明を神託と稱したりする說敎が爲されるのである。今でも我々の中には、基督敎を信ずる民族は、他敎を奉ずる民族を掠奪し絕滅せしめる天命を帶びてる[やぶちゃん注:ママ。]といふ迷信が殘つて居る。尤も偶には、我々は今でもトールとオヂン譯者註を信奉するものだといふ、確信を發表する人がある――此人達の說に依るとただ昔と異る所は、オヂンは今は數學者となり、トールの槌ムジヨルナーは、今は蒸氣で運轉せられるといふに過ぎない。併しこんな人は宣敎師からは、無神論者。恥知らぬ生を送る人と罵られる。

 

譯者註 何れも北歐神話中の神、トールは雷神にて、ムジヨルナーと云ふ槌を持つ、オヂンは學問敎化の神。

[やぶちゃん注:「トール」原文“Thor”。北欧神話に登場する主要な神の一柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦争神として活躍する。ウィキの「トール」によれば、『考古学的史料などから、雷神・農耕神として北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定されている。アーサソール(アースたちのソール)やオクソール(車を駆るソール)とも呼ばれる』。『北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Þórr』で、『推定音に近い日本語表記はソール』である。『トールは北欧神話のみならず』、『ゲルマン人の信仰に広く見られる神であり、古英語の文献に見られる Þunor や古高ドイツ語での Donar もトールを指すとみなされている。時代を下ったドイツの民話ではドンナー (Donner) の名で現』われ、十九『世紀の作曲家ワーグナーの歌劇でも』、『この名称が使用されている。これらの語はいずれもゲルマン祖語の *þunraz まで遡ることができると考えられており、その意味は「雷」と推定されている』。『同じく北欧神話に登場する神テュール(Týr)やソール(Sól)とはそれぞれ別の神である』。『アース神族の一員』で、『雷の神にして北欧神話最強の戦神。農民階級に信仰された神であり、元来はオーディンと同格以上の地位があった。スウェーデンにかつて存在していたウプサラの神殿には、トール、オーディン、フレイの』三『神の像があり、トールの像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている』。『やがて戦士階級の台頭によってオーディンの息子の地位に甘んじた。北欧だけではなくゲルマン全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。また、木曜日を意味する英語 Thursday やドイツ語 Donnerstag などはトールと同一語源である』。『雷神であることからギリシア神話のゼウスやローマ神話のユーピテルと同一視された』。『砥石(他の文献では火打石の欠けら)が頭に入っているため、性格は豪胆あるいは乱暴。武勇を重んじる好漢であるが、その反面少々単純で激しやすく、何かにつけてミョルニル』(トールが持つ稲妻を象徴する柄の短い鎚(つち)で、「トール・ハンマー」という名でも知られる)『を使いながら』、『脅しに出る傾向がある。しかし怯える弱者に対して怒りを長く持続させることはない。途方もない大食漢』。『雷、天候、農耕などを司り、力はアースガルズ』(アース神族の王国の名)『のほかのすべての神々を合わせたより強いとされる。フルングニル、スリュム、ゲイルロズといった霜の巨人たちを打ち殺し、神々と人間を巨人から守る要となっており』、古ノルド語で書かれた歌謡集である『エッダにも彼の武勇は数多く語られている』とある。

「オヂン」原文“Odin”。北欧神話の主神で、戦争と死の神であるオーディン。ウィキの「オーディン」によれば、『詩文の神でもあり』、『吟遊詩人のパトロンでもある。魔術に長け、知識に対し』、『非常に貪欲な神であり、自らの目や命を代償に差し出すこともあった』。『北欧神話の原典に主に用いられている古ノルド語での表記は Óðinn (』この日本語音写は『オージンに近い)であり、オーディンは現代英語などへの転写形である Odin に由来する』。『オーディンの名は"oðr"(狂った、激怒した)と-inn(~の主 など)からなり、語源的には「狂気、激怒(した者)の主」を意味すると考えられる。またこうした狂気や激怒がシャーマンのトランス状態を指していると考えれば「シャーマンの主」とも解釈可能である』。『アングロサクソン人に信仰されていた時代の本来の古英語形は Ƿōden(Wōden, ウォーデン)であり、これは現代英語にも Woden, Wodan (ウォウドゥン)として引継がれている。また、ドイツ語では Wotan, Wodan (ヴォータン、ヴォーダン)という』。八『世紀にイタリアで書かれた』「ランゴバルドの歴史」では、『G(w)odan(ゴダン)という名前で言及されている』。『各地を転々とした逸話があることから、本来は風神、嵐の神(天候神)としての神格を持っていたといわれる』。帝政期ローマの政治家・歴史家であったタキトゥスが書いたゲルマニアの地誌・民族誌「ゲルマーニア」(紀元後九七年~九八年)では、『ゲルマン人の最も尊崇する神をメルクリウスと呼んだが、これはギリシア・ローマのヘルメース/メルクリウスと同じく疾行の神であったゲルマンの神ヴォーダン(オーディン)を指すものと推測される』。『オーディンはメルクリウス同様、知恵と計略に長けた神であり、ローマ暦で「メルクリウスの日」にあたる水曜日はゲルマン諸語では「オーディンの日」と呼ばれる』。『例えば、水曜日は英語では Wednesday、ドイツ語では Wotanstag (通常はMittwoch)、オランダ語では woensdag、デンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語では onsdagとなる』。北欧神話に登場する一本の架空の宇宙樹『ユグドラシルの根元にあるミーミルの泉の水を飲むことで知恵を身に付け、魔術を会得する。片目はその時の代償として失ったとされる』。『また、オーディンはルーン文字の秘密を得るために、ユグドラシルの木で首を吊り、グングニル』(槍の名。後にオーディンが持つアイテムとなる)『に突き刺されたまま』、九日九夜、『自分を最高神オーディンに捧げたという(つまり自分自身に捧げた)。この時は縄が切れて助かった。この逸話にちなんで、オーディンに捧げる犠牲は首に縄をかけて木に吊るし槍で貫く』。地上の大宮殿『グラズヘイムにある』彼の宮殿『ヴァルハラに、ワルキューレ』(ドイツ語:Walküre:「戦死者を選ぶもの」の意で、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性及びその軍団を指す)『によってエインヘリャル(戦死した勇者)を集め、ラグナロク』(古ノルド語:Ragnarøk:「神々の運命」の意で、北欧神話世界に於ける「終末の日」を指す)『に備え』、『大規模な演習を毎日行わせるという。この演習では敗れた者も日没とともに再び蘇り、夜は大宴会を開き、翌日にはまた演習を行うことができるとされる』。『愛馬は八本足のスレイプニール。フギン(=思考)、ムニン(=記憶)という二羽のワタリガラスを世界中に飛ばし、二羽が持ち帰るさまざまな情報を得ているという。また、足元にはゲリとフレキ(貪欲なもの』『)という』二『匹の狼がおり、オーディンは自分の食事はこれらの狼にやって自分は葡萄酒だけを飲んで生きているという』。『主に長い髭をたくわえ、つばの広い帽子を目深に被り』、『黒いローブを着た老人として描かれる』が、『戦場においては黄金の兜を被り』、『青いマントを羽織って』『黄金の鎧を着た姿で表』わされる。『また、トールと口論した渡し守ハールバルズの正体は変装したオーディンである』。『最後はラグナロク』で、『ロキ』(古ノルド語:Loki:悪戯好きの神。その名自体が「閉ざす者」「終わらせる者」の意。神々の敵であるヨトゥン(「霜の巨人」)の血を引いている。しかしオーディンの義兄弟となってアースガルズに住み、オーディンやトールと共に旅に出ることもあった)『の息子であるフェンリルによって飲み込まれる(または噛み殺される)結末を迎える』とある。]

 

 それはさておき、やがて若き武士は、親戚の反對あるにも拘らず、基督敎徒たらんと決心した。これは隨分大膽な行爲であつた。併し幼年時代の敎育の結果として、彼は堅い意志を有つて居たから、兩親の悲みに依つてすら、決心を曲げられる事はなかつた。祖先の宗旨を棄つることは。一時の苦痛を意味するばかりでない。廢嫡、舊友の輕蔑、身分の喪失、及び赤貧から來るあらゆる難儀を意味するのである。併し彼は武士敎育に依つて、己れに克つことを敎へられて居た。彼は憂國の士として、眞理の探求者として、己れの義務だと思ふものを見た、そして恐れ悔やずに之に突進した。

 

[やぶちゃん注:原本では次の章番号は「Ⅵ」でなくてはならないのに「Ⅶ」と誤っており、しかもそのまま後の章も「Ⅷ」「Ⅸ」とやらかしてしまっている。底本は無論、以下の通り、正しく「六」に修正され、後も「七」「八」である。]

 

        

 近代科學から借り來たつた知識の助力で、破壞した信仰の跡へ、西洋の信仰をはめ込まうと望む者は、舊信仰破壞に用ゐた議論は、新信仰に對しても同樣の破壞力を有するといふ事に氣が附かぬ。一般の宣敎師は、彼自身近代思想の最高標準に達しもせず、元來彼等自身よりも、より强き東洋人に少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の科學を敎へた結果が、どうならうと豫見する事も出來ぬ。そこで彼の弟子が聰明であればある程、其弟子の基督敎徒たる期間が短いのを發見して、驚き遽てて[やぶちゃん注:「あはてて」。]居る。科學を知らぬ爲めにのみ、佛敎の宇宙說で滿足して居た、優秀な頭腦の再信仰を打破するのは、非常に困難ではない 併し其頭腦の中へ、東洋の宗敎的情緖の代りに西洋のを、儒敎及び佛敎の倫理の代りに、長老敎會(プレスビテリアン)若しくは侵禮敎會(バプチスト)の敎條(ドグマ)を置き代へようとするのは不可能である。我々の近代の福音布敎師は、此心理學的難關が道に橫はつて居る事に氣が附かぬ。ジエスイツト派や托鉢派(フライアー)の信仰が、其打破せんと力めた[やぶちゃん注:「つとめた」。]他宗敎と同樣に、迷信的であつた昔時に在つても、同樣な障害は存在して居た。されば其偉大な眞摯さと火の樣な熱心さで、驚くべき業積を擧げた西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]僧も、彼の空想を十分に實現するには、西班牙兵士の劍を必要と感じたに相違ない。改宗の事業に取つては、今日の情態は十六世紀に於けるよりも更に不利である。敎育は宗敎を離れ科學を基礎として改造された。我々の宗敎は倫理上の必要事項として、社會が承認する一形式となりつつある[やぶちゃん注:行末で打たれていないが、句点が必要。]我々の僧侶の職務は、道德の警官と徐々に變更されつつある。そして我々の敎會の尖塔の林立は、信仰の增進を證するのでない、ただ傳統に對する尊敬の增進を意味するばかりである。西洋の傳統が極東の傳統となる筈はない。そして外國宣敎師が、日本に於て、道德警官の役目を演ぜさせられる筈もない。既に我々の敎會中の尤も開化せるもの、尤も廣濶な敎養あるものは、宣敎師の無用なることを認め始めたのである。併し眞理を見る爲めには必らずしも舊い獨斷主義を棄てるにも及ばぬ、完全な敎育は之を示すに十分である。それで最も敎育ある國民獨逸は、日本の内地に一人の宣敎師をも送つて居らぬ。宣敎師努力の結果として、肝腎な改宗者の年々の報告よりも一層著しきは、日本の宗敎の改革と、日本僧侶の敎育程度を向上せよと勸誘する、日本政府の布告であつた。尤も此の布告の出る久しい以前から、富める宗派は、西洋式の佛敎學校を建設した。眞宗の如きは、既に巴里(パリ)や牛津(オツクスフオード)で敎育を受けた學者――其名は世界中の梵語學者に知られて居る――を有して居た。日本は確に其中世紀式の宗敎より一層高き形式の宗敎を要するであらう、併しそれは古來の形式から發展したものであらねばならぬ――外からでなく内から發展したものであらねばならぬ。西洋の科學といふ堅甲[やぶちゃん注:「よろひ」と当て訓しておく。]佛敎こそ、日本人の將來の需要に應ずるものであらう。

[やぶちゃん注:「長老敎會(プレスビテリアン)」“Presbyterian”。長老派教会(Presbyterian Church)。十六世紀の宗教改革運動によって生まれたカルビニズムに基づくプロテスタントの一派。教会組織に長老制度を採用しているところから、この名称が生まれた。則ち、末端の各個教会に於いては、牧師の他に教会員から選出された一定数の長老(presbyter:ギリシャ語で「年長の・古参の」が原義)が運営に有意に参加し、それらの教会が地方ごとにその長老会を組織し、さらに数地方の長老会を以って大会が作られ、その上に全国総会が置かれるという、厳格な階層的教会組織を成しているのを特徴とする(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「侵禮敎會(バプチスト)」“Baptist”バプティスト派。プロテスタントの最大教派の一つ。「幼児洗礼」を認めず、自覚的信仰に基づく「浸礼」を主張して「バプティスト」と称する。信仰と生活の唯一の権威としての聖書・信仰者の洗礼・集められた信仰者の教会・信仰者の祭司性・各個教会の自治・教会と国家の分離などで、特色ある主張に立つ。その起こりは、十七世紀イギリス分離派ピューリタンのジョン・スミスに溯る。彼は迫害からアムステルダムに逃れたが、仲間の一人トマス・ヘルウィスが帰国し、イギリス最初のバプティスト教会をロンドンに組織した(一六一二年)。バプティストのアメリカにおける発展は目覚ましく、黒人の間でも最大の教派となり、ヨーロッパでは、イギリス・ドイツなどに信徒数が多く、その他の大陸でも活発な伝道が行われている。日本では、万延元(1860)年にゴーブルによって伝えられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「ジエスイツト派」“Jesuits”。ジェスイット(Jesuit)は「イエズス会士」のことで、「ジェズイット派・教団」とは即ち「イエズス会」の異称である。

「托鉢派(フライアー)」“friars”。「托鉢修道会」。ウィキの「托鉢修道会」によれば、『ローマ・カトリック教会における修道会の形態のひとつであり、修道会会則により、私有財産を認めていない修道会をいう。特に、ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会のことを指す』。『中世中期、荘園領主化した既存の修道会の腐敗に対する反省としてうまれた。元来は修道院が所属する教区内で、修道士が托鉢を行い、善意の施しによって生活して衣服以外には一切の財産をもたなかった。設立当初には修道会自体も一切の財産を保有しなかったが、修道会自体の保有規定はのちに緩和された』。『既存の教会や修道会に対する厳しい批判から、従来の聖職者と激しい衝突を招く場合もあった。しかし、フランシスコ会(フランチェスコ会)、ドミニコ会ともにローマ教皇から認知され、とりわけドミニコ会は異端討伐の先兵になるなど、ローマ教皇を中心としたヒエラルキーの中に徐々に組み込まれていった』とある。

「眞宗の如きは、既に巴里(パリ)や牛津(オツクスフオード)で敎育を受けた學者――其名は世界中の梵語學者に知られて居る――を有して居た」パリに事蹟を残している真宗僧は小泉了諦(りょうたい 嘉永四(一八五一)年~昭和一三(一九三八)年)と善連法彦(よしつらほうげん 慶応元(一八六五)年~明治二六(一八九三)年)であろうか。二人は同行で、インド・セイロンでサンスクリット語・パーリ語を修め、その後でパリ・ロンドン・オックスフォードを巡っている。オックスフォード大学に留学し、サンスクリット語学の権威となったのは南条文雄(ぶんゆう 嘉永二(一八四九)年~昭和二(一九二七)年:詳しくはウィキの「南条文雄」を見られたい)のことであろう。]

 

 橫濱に於ける我が若き改宗者は、宣敎師の失敗の著しい一例となつた。あらゆる物を犧牲に供して、一基督敎徒――或は寧ろ一外國宗派の一員――となつて、一年も經たぬ中に、彼は公然それ程高價に購つた[やぶちゃん注:「あがなつた」。]信仰を抛棄した。彼は宣敎師等よりも遙かによく當代の大思想家の著述を硏究し了解した。其宣敎師等は、彼の提出する問に答へる事も出來ず、ただ最初に其一部分を硏究すべく彼に勸めた書籍は、全體としては信仰に害あることを斷言するに過ぎなかつた。併し彼等は、其の書籍に存在すると稱する誤謬を證明すること能はざるが故に、彼等の警告は何の役にも立たなかつた。彼は初め不完全な理論に依つて、獨斷的敎條に引き入れられたのであつたが、廣く深い理論に依つて、其敎條を超越して仕舞つた。彼は公然と、其敎義は眞の理義、若しくは事實に基づいたものでないといふことを、又彼自身は、宣敎師が基督敎の敵と呼ぶ人々の、意見に從はざるを得ぬといふことを表明して、敎會を去つた。宣敎師等は之を墮落と稱し、それに就いて色々の惡評を立てた。

 併し眞の墮落はまだ遙か遠くにあつた。彼は同樣の經驗を有する多くの人と違つて、宗敎上の問題は、一時彼から退却しただけであつて、彼が今迄學んだ處は、これから學ぶべきもののいろはに過ぎないと承知して居た。彼は宗敎といふものの比較的の價値――保守抑制の力としての宗敎の價値には、全く信を失はなかつた。或る眞理――文明と宗敎との關係に就ての眞理――の曲解が、初めに彼を誤らせて、改宗せしめたのであつた。支那の哲學は、僧侶なき社會は、決して發達せぬといふ。近代の社會學が認むる所の法則を彼に敎へた。又佛敎は、虛說――事實として衆生に示さる〻寓話、形式、記號――も善行の發達を助ける方便として、價値と存在の理由を有することを敎へた。此見解からは基督敎も彼には少しも興味を失はなかつた。そして基督敎民族は、道德優秀だといふ――開港場の生活には少しも實現されていない事實――宣敎師の敎は疑ひながらも、彼は自ら西洋に於ける、宗敎の道德に討する影響を目擊せんと望んだ。卽ち歐羅巴諸國へ行き、彼等の發展の原因と、彼等の强大な理由を硏究せんと望んだ。

 彼はかう思ふと直に實行に取り掛かつた。彼をして宗敎上の懷疑家たらしめた知的活動は、同時に政治上に於ても彼を自由思想家たらしめた。彼は之が爲め、當時の政策に反對な意見を公表して、政府の怒を買つた。それで彼は新思想の刺激の下に、不謹愼な言行を敢てする凡ての者と同樣に、國外退去の止むを得ざるに至つた。かくして彼には、遂に世界中を彷徨するに至るべき放浪生活が始つた。初めには朝鮮に隱れ家を求め、つぎに支那に往つて敎師生活をしたが、最後にはマルセール[やぶちゃん注:“Marseilles”。フランスのマルセーユ。]行の汽船に搭乘する自分を見出した。彼は無一文であつたが、歐羅巴でどうして生活するといふことは考へなかつた。若くもあるし、身長(せい)は高し[やぶちゃん注:「たかいし」。]、力業には長(た)けて居るし、儉約で貧乏には馴れて居るし、自分といふものに十分な自信を有つて居た。それに彼を助けて吳れる樣な、外國人に宛てた紹介狀も有つて居た。

 併し故鄕の地を再び蹈む迄には、長い年月を經過せねばならなかつた。

 

       

 其長い年月の間、彼が見た樣に西洋文明を見た日本人は他にない。彼は毆米二洲を胯にかけ[やぶちゃん注:「またにかけ」。]、多くの都市に住み、色々の職業に働いた――或る時は頭腦で、併し多くは手で――そして彼の周圍の生活の、最高最低、最善燒最惡を硏究することが出來た。併し彼は極東の眼を以て見たので、其判斷の仕方も我々の仕方ではなかつた。西洋が東洋を觀るのも、東洋が西洋を見るのも同じ事である――ただ異る處は、各自が尤も尊重する處のものは、他に尊重されぬがちであるといふことである。そして雙方とも半分は正しく、半分は間違つて居る。又完全なる相互の了解は甞てなかつたが、今後とてもある筈はない。

 西洋は彼には凡ての豫期よりも大きく見えた――巨人の世界の樣に。そして錢もなく友もなく、大きな都會に一人ぼつちで立つ時に、いかな大膽な西洋人をさへ、弱らせる所のものが、此東洋の一浪客を弱らせたに相違ない。それは幾百萬の忙しげに往來する市民には振り返つても見られぬといふ感に依つて、話し聲も聞こえぬやうな小止みなき車馬の轟きに依つて、巨大な建築物といふ生命のない怪物に依つて、心も手も安價な道具として、出來る限りの極度迄虐使する、富の力の偉大なる表現に依つて、喚起される漠然たる不安の感である。恐らく彼はドレイがロンドンを見た樣に歐洲の都市を見たのであらう――薄暗いアーチの重なり合つた陰氣な莊嚴さ、見渡されぬ迄つぎからつぎへと續く花剛岩の洞窟、麓には勞働の海が逆卷く石造建築の山、さては數世紀に跨がつて[やぶちゃん注:「またがつて」。]、徐々に集大成さるろ力の凄さを展開する洪大な場所――かういふ風に見たのであらう。併し日出をも日沒をも、又天(そら)をも風をも斷絕(たちき)つて見せぬ、無限に續く石崖と石崖との間に、彼に訴ふる美といふものは少しもなかつた。大都市に我々を惹き附ける所のものは、悉く彼を厭がらせ若しくは抑壓した。明かるい巴里ですら、間もなく彼を倦き倦きさせた[やぶちゃん注:「あきあきさせた」。]。それでも巴里は、彼が長く逗留した初めての外國都市であつた。佛國の弓術は、歐洲民族中の尤も天才的な國民の、審美的思想を反映するものとして、大いに彼を驚かした、併し少しも彼を樂ませなかつた。尤も彼を驚かしたのは、裸體の習作であつたが、其處に彼は只だ、彼が受けた禁欲主義的の敎育が、不忠不義に次いで、尤も癈棄すべく敎へた、人間の弱點の公然な告白を認むるに過ぎなかつた。近代の佛國文學も又彼を驚かした。彼は小說家の驚くべき藝術を了解し得なかつた。描寫の技巧の價値は、彼には見えなかつた。若し歐羅巴人がそれを了解する如く、彼をして了解せしめ得たとしても、彼はただ、才能をこんな製作に用ふることは、社會的腐敗を意味するものとの確信を棄てなかつたであらう。そして段々巴里の豪奢な實生活中に、當時の文藝に依つて與へられた信念の實證を見出した。彼は娛樂場、劇場、オペラなどへも往き、禁慾主義者と武士の眼を以て之を見た。そして西洋の價値ある生活といふ觀念は、何故に極東の放蕩懦弱[やぶちゃん注:「だじやく」。積極的に物事をしようとする意気込みを持たないこと。]といふ觀念と異る所なきかを怪しんだ。彼は流行社會の舞蹈場へ行つて、極東の淑德感には容すべからざる[やぶちゃん注:「ゆるすべからざる」。]、肉體露出の女禮裝を見た――これは巧みに、日本婦人をして愧死[やぶちゃん注:「きし」。深く恥じて死ぬこと。]せしむるに足る所のものを、暗示するやうに出來て居る。そして甞て日本に在つて、日本人が夏日炎天の下に、自然な、愼ましやかな、健康的な、半裸體で勞働して居るのを、西洋人が非難した言葉を思ひ出して、奇怪の感に打たれた。彼は又多數の大敎會(カシドラル[やぶちゃん注:“cathedral”。英語のそれの発音は実は「カテドラル」ではなく、「キャシードラル」に近い。])や敎會[やぶちゃん注:原文は“churches”。]を見た。そして其の直ぐ側に、惡の殿堂や、怪しげな美術品の密賣に依つて繁榮する商舖を見た。彼は偉い說敎師の說敎も聞いた、僧侶嫌ひの人々が、信仰と愛とを蔑視する暴言にも耳傾けた。富豪社會をも見た、貧民窟をも見た、兩者の裏面に潜む魔窟をも見た。併し宗敎の『抑制力』に至つては、更に見る處がなかつた。西洋の世界には信仰といふものはなかつた。ただ虛僞、假面と快樂追求の自己主義の世界で、宗敎の支配は受けずに警察の支配を受けるのみであつた。要するに人間としてそんな處に生まれたくない世界であつた。

 

註 佛國の畫家。

[やぶちゃん注:フランスの画家ポール・ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 一八三二年~一八八三年)のこと。アルザス地方のストラスブール生まれ。彼の主な活動拠点はパリであったが、一八六九年にロンドンに開いたドレ画廊は大成功を収め、同年から四年に亙って、イギリス人ジャーナリストで作家のウィリアム・ブランチャード・ジェロルド(William Blanchard Jerrold 一八二六年~一八八四年)とともに、ロンドン市内のスラム街や阿片窟などにも出向き、実に百八十点の版画を描いて、“London: A Pilgrimage”(「ロンドン――巡礼の旅」)を共著で出版している。小泉八雲は恐らくは同書やロンドンで描いた版画群を想起したものであろう。参照したウィキの「ポール・ギュスターヴ・ドレ」にある、ロンドンの悲惨な貧民街セブン・ダイアルズを描いた大英図書館蔵の版画(Seven Dials一八七二年)をリンクさせておく。]

 

 佛國よりも陰氣な、堂々たる力强い英國は、又別種な問題を考へさせた。彼は永久に增長する英國の富と、其陰に永久に增殖する醜汚の堆積を硏究した。彼は大きな港が諸國の貴重品――大部分は掠奪品――で塞(つま)つて居るのを見た。そして英人は今も祖先の如く海賊の國民なることを知つた。そして若し此國が只だ一箇月でも、他國をして食糧を供給せしむることが出來ぬとなつたら、數千萬の住民の運命はどうなるだらうと考へた。彼は又世界最大の都市の夜を醜惡ならしむる賣色、强欲の風を見た。そして見ぬ振りをする傳統的の僞善と、現狀に感謝を述べる宗敎と、必要のない國に宣敎師を送る無智と、病氣と惡德とを傳播せしむるに終はる、莫大な慈善事業とに啞然とした。彼は又諸國を旅行した英國の一偉人が、英國人の一割は常習的罪人か、或は貧民であるとの陳述書を見た。

 

註 「我々は知的修養に於ては野蠻の狀態を遙かに超越したが、道德に於てはそれ程の進步を見ない……我が國民の大多數は全く野蠻人の道德律の上に出でず、多く場合には却つて其下に下つた。道念不足は近代文明の大汚點である……我々の社會的及び道德的の文明は今も野蠻の狀態にある……我々は世界で尤も富める國である。それに我が人口の約二十分一貧民であり、三十分一は明白な罪人である。之に發見されざる罪人と、全然若しくは幾分か個人の慈善(ドクトル・ホークスリーの調査に據ると、ロンドンのみでも、年々七百萬磅[やぶちゃん注:「ポンド」。]の金が此目的に消費される)に依つて生活する貧民を加へて見ると、我が人口の十分一以上に確に實際上の貧民と罪人とであゐと信ぜられる」――アルフレツド・ラツセル・ウレース

[やぶちゃん注:イギリスの博物学者(生物学者・人類学者・地理学者)アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。彼の事蹟その他は私の「進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン」の本文及び私の注を参照されたい。以上の本文と「註」での引用はインドネシアとマレーシアに於ける探検と発見の記録である「マレー諸島」(The Malay Archipelago一八六九年刊行)の一節である。「ドクトル・ホークスリー」“Dr. Hawkesley”は不詳。

「七百萬磅」試みに明治三(一八七〇)年の為替レートで換算すると(この年、初めて一円銀貨が作られた)、一ポンドは四・八八円であるから、凡そ五円として、三千五百万円、明治初期の一円は恐らく現在の二万円を軽く越す価値があったと思われるが、それで取り敢えず二万円としても、七千億円という途方もない金額になる。]

 

 無數の敎會と、無數の法律があるのに此有樣である。確に英國の文明は、彼が進步の源泉だと信ずべく數へられた基督敎の力(實際はありもせぬ)を示すこと、他の國々の文明よりも少い。英國の市街は又彼に別種の事實を語つた。佛敎都市にはそんな光景は見られない。此文明は、正直者と狡猾漢との間の、又弱者と强者との間の、不斷の醜い爭鬪を示して居る。暴力と奸智とが結託して、弱者を此世の地獄に突き落として居る。日本にはこんな情況は夢にもなかつた。けれどもこんな狀況の全く物質的な結果及ひ智力的な結果は、ただ驚くべきものであると白狀せざるを得なかつた。そして彼は想像を絕する惡を見たけれども、又貧富兩者の中に多くの善をも見た。之が提供する大きな謎、無數の矛盾は、彼の力には解釋することが出來なかつた。

 彼は彼が足を蹈み入れたどの國の人間よりも英國人を好んだ、そして英國紳士社會の風習は、日本の武士(サムラヒ)、にどこか似て居るといふ感を與へた。彼は彼等の四角張つた冷やかさの後ろに、友愛や永續性の親切――彼が一度ならず經驗した親切――の大なる可能性を、滅多に使用されぬ情の深さを、又世界の半ばを支配し得た大なる勇氣を見透(みすか)す事が出來た。併し人間の功積の現はれて居るもつと大きい世界を見る爲めに、米國へ向け英國を去る前に、單なる國籍の相違といふ事は彼に何の興味をも與へなくなつた。西洋の文明を次第に驚くべき全體として見る樣になつた爲め、國籍の相違は朦朧として見えなくなつて仕舞つた。ただ到る處に――帝國、王國、共和國の何れを問はず――同樣な無慈悲な必要の活躍と同樣に驚くべき結果とが展開され、又到る處に全く極東の思想とは正反對な思想が基礎とされて居るのを見た。こんな文明は、それと唱和する一の情緖をも起こし得ぬもの――其中に住む間は愛すべき何者をも見出し得ず、永久に去らんとしても、悲むべき何者をも見出し得ぬものと考へざるを得なかつた。それは彼の魂と離る〻こと、丁度他の太陽の下にある他の遊星に於ける生物界の如くであつた。併し彼はその文明がどれ程人間の勞力を費やしたかを理解もし、どれ程の强い脅威であるかと感じもし、又其智力がどれ程廣く擴がつて居るかと推察もした。而かも彼はそれを憎んだ――-その恐ろしい全く計算的な機械作用を憎んだ、其功利的な鞏固さ[やぶちゃん注:「きようこさ(きょうこさ)」。強くしっかりして、ゆるがない様子。「強固」に同じいが、強固の場合は歴史的仮名遣は「きやうこ」。]を憎んだ、其習性、其貪欲、其盲目的な殘忍、其の途方もない僞善、其欲望の不正、其富の橫着さを憎んだ。道義的には此文明は言語道斷なものである、常識的には殘忍酷薄なものである。測る可からざる程深い墮落を其中に認めたが、彼が靑年時代の理想に匹敵する理想は少しも認められぬ。要するにそれは大きな餓狼的爭鬪であつた[やぶちゃん注:原文“It was all one great wolfish struggle;”。「それは一つの大きな、狼のように獰猛にして貪欲なる闘争であった」。]――然るに其中にも、實際善と認めざるを得ぬものがあるのは何故か、それは彼にはただ不可思議であつた。西洋の眞の偉大さは只だ知的である。單純な知識の高い高い冷(つめ)たい山の樣なもので、其永久の雪線の下では、情的理想は死滅する。日本の仁と義との文明は其幸福の會得に於て、其道義的憧憬に於て、其大なる信念に於て、其歡喜的な勇氣に於て、其素朴さと其謙讓さに於て、其眞面目(まじめ)な事と、足る事を知る事とに於て、確に西洋の文明よりも比較にならぬ程優つて居る。西洋の優越は倫理的でない。其優越の點は數へ切れぬ苦艱[やぶちゃん注:「くかん/くげん」。「苦難」に同じい。]を經て發達し、そして弱肉强食の道具に用ゐられた知力に存する。

 それにも拘らず、西洋科學の論理は、爭ふ可からざるものと彼も承知して居るのであるが、其科學は彼に其文明の益〻擴大すべきことと、苦惱は抵抗すべくも避くべくも測るべくもなく世界中に氾濫すべきことを告げた。日本は新しい形式の行動を學び、新しい形式の考へ方に熟達するか、然らざれば全然滅亡するか、他に取るべき方法はない。かう考へてる[やぶちゃん注:ママ。]中に疑問中の疑問が湧いて來た。それは凡ての聖賢が一度は考へねばならなかつた疑問で、『宇宙は道義的であるか』といふ疑問であつた。此疑問に佛敎は尤も深遠な解答を與へて居る。

 併し道義的であらうと非道義的であらうと、それは人間の微小な感情で宇宙の進行を測つたもの、[やぶちゃん注:最後に「に過ぎないのであり、別に」ぐらいを補わないと日本語として意味がとりにくい。]彼には論理で破る事の出來ない一の確信が殘つて居た――たとひ日月星辰から抗議を持ち込まれようとも、人間は未知の終點に向つて、全力を書くして最高の道義的理想を追ふべきものであるといふ確信が殘つて居た。日本は必要上外國の科學を習得し、敵の物質文明を、多分に採用するの止むを得ざるに至るであらう。併し如何に必要があつても、日本は其正邪の觀念、義務と名譽の理想を、そつくり棄てる譯には行かぬ。彼の心中にはやがて、徐々に一の成算[やぶちゃん注:成功する見込み。]が形成された――其成算は、後日彼を一國の指導者たらしめ、一世の師たらしめたのであるが[やぶちゃん注:この部分はモデルである雨森信成の事蹟とは好意的に捉えても一致しない。]、それは極力あらゆる國粹を保存し、何物にても國民の自衞に必要ならぬもの、若しくは國民の自己發展に益なきものの輸入には、大膽に反對しようといふのであつた。失敗しても恥にはならぬ上に、少くともそれで價値あるものの幾分かを崩壞の渦から救ふ事が出來よう。西洋の生活の浪費的なる事は、其快樂慾と苦悶過多よりも一層感銘を彼に與へた。彼は自國の赤貧に其强味を認めた。其非利己的な勤儉に、西洋と競爭し得る唯一の希望を懸けた。外國の文明は、それを見るにあらざれば了解し能はざる、自國文明の價値と美點とを了解せしめた。そして彼は故圖歸參の恩命の來る日を待ち焦れた。

 

       

 日出の少し前、曇りなき四月の朝の透明(すきとほ)る暗さの中をすかして、彼は再び故國の山を見た――眞黑な周圍の海から紫がかつた黑色に聳え立つ、遠くの高いきつたりとした山嶺を見た。彼を永の流浪から連れ歸りつつあつた汽船の後の方は、地平線が徐々に薔薇色の光で充たされつつあつた。甲板の上には、もう若干の外人が大平洋上の富士の、最も美はしい初姿を見んものと待ち構へて居た――曉の富士の初姿は、此世で、或はつぎの世までも、忘られぬ物の一であつたから。彼等は山脈の長い行列を凝視した、そして其の朧(おぼろ)げな、ぎざぎざした輪廓の向うの暗がりには、星がまだ微かに光つて居るのを見た――併し富士は見えない。『アー』と一人の船員は問はれて答へた。『貴君方は眼の附け處が低過ぎます。もつと上を御覽なさい、もつと高い處を』それで彼等は空の眞中近くまで眼を上げた。すると曉の色で不思議な幻(まぼろし)の蓮華の樣に、薄赤くなつた偉大なる頂上が見えた。其壯觀に打たれて彼等は沈默して仕舞つた。忽ち萬年の雪は金色に變はり、やがて白色になつた。其時は太陽が地平線の弓形を飛び越し、暗い山脈を飛び越し、一寸見(ちよつとみ)には星の上までも飛び越して、其光線を富士の頂上に投げつけて居たのであるが、巨大な裾野はまだ眞暗であつた。やがて夜は全く明けはなれた。軟らかい靑い光は天空に漲つて、凡ての色彩は眠りから覺めた。――そして來客の眼前には、橫濱の明かるい港が開いて居た。そして麓は見えぬ神聖な峯が、無窮の蒼穹に雪の精の如くに凡てを壓して居た。

 我が流浪者の耳には、尙ほ『アー眼の附け處が低過ぎる。もつと上を御覽なさい、もつと上を』が響いて居た――そして彼の胸に脹れ上がる、大きな抑へ難き情緖と漠然たる節奏を作(な)してゐた。間もなく凡ての物が朦朧となつた。上空の富士も、其下の霞がかつた靑から、綠に變はり行く小山嶺も、さては灣内に群がる船舶も、其外近代日本を形成する何物も見えなくなつた。ただ舊日本だけが見え出した。春の香りを微かに湛へた陸地の風が、彼の面を吹き、彼の血に觸れると、長く閉ぢて居た記憶の室から、彼が一旦抛棄して忘れんと努めた凡ての物の面影が飛び出した。彼は亡き人々の顏を見、年經りたる彼等の聲を思ひ浮かべた。彼は再び父の屋敷に居た時の小兒に歸つた。明かるい室から室へと彷徨(うろつ)き𢌞はり、疊の上に樹影の顫るへる日向(ひなた)で遊んだり、自然の風景を模した庭園の淺綠の夢の樣な平和さに眺め入つたりした。彼は再び邸内の祠へ、又は祖先の位牌の前へと、朝の禮拜に、彼の小さき歩みを導く、母の手の肌觸りを感じた。そして、今思ひついた新たな意味を以て、大人の唇で小兒の單純な祈誓をつぶやいた。

 

[やぶちゃん注:私は『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第一章  私の極東に於ける第一日 (六) ――ハーンが最初に行った寺を推定同定する――』の注で、本篇のこの最後の帰国の客船からの富士を見るシークエンスには、小泉八雲自身が来日した際に見た富嶽の感動が強く影響していると考えた。それを証明するために、ラフカディオ・ハーンが日本に着いて最初に記した紀行文“A WINTER JOURNEY TO JAPAN”の一節も原文と訳文(孫引き)を引いておいたので参照されたい。この記事は出版社ハーバー社特派員であったハーンが実に日本到着後、最初に手掛けた仕事として、本社へ送った記事である(但し、この直後に同社の彼に対する不当な扱いへの不満から、ハーンの方が契約を直ちに破棄したことは既に書いた)。]

2019/12/15

小泉八雲 保守主義者 (戸澤正保訳) / その「一」・「二」・「三」・「四」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A CONSERVATIVE”。「或る一人の保守主義者」)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第十話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 標題後の添え歌は、ややポイント落ちで、上句九字下げ位置であるが、引き上げ、同ポイントで示した。また、文中の途中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。

 なお、本篇は一種のモデル小説であり、そのモデルは本作品集冒頭で本書が献呈されている、雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)その人である。再掲すると、彼はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバーの一人で、ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きで』ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis 一八四三年~一九二八年:アメリカペンシルベニア州フィラデルフィア出身の理科教師・牧師・日本学者・東洋学者。ニュージャージー州の。オランダ改革派教会系の大学ラトガース大学を卒業したが、同大学で同時期に福井藩から留学していた福井藩士日下部太郎(弘化二(一八四五)年~一八七〇年五月十三日(明治三年四月十三日):卒業二ヶ月前に結核で現地にて急逝)と出会って親交を結び、その縁で来日した。明治四年七月に「廃藩置県」によって十ヶ月滞在した福井藩が無くなったが、翌年、フルベッキや由利公正らの要請により、大学南校(東京大学の前身)に移り、明治七(一八七四)年七月まで物理・化学及び精神科学などを教えた。明治八(一八七五)年の帰国後は牧師となったが、一方でアメリカ社会に日本を紹介する文筆や講演活動を続け、一八七六年には“The Mikado's Empire”を刊行している(構成は第一部は日本通史、第二部が滞在記)。以上はウィキの「ウィリアム・グリフィス」に拠った)『が化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『M・N・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある人物である。

 彼が本篇のモデルであることは、例えば、モト氏のサイト「日本式論」の「小泉八雲『ある保守主義者』」にも記されてある。但し、リンク先は本篇の簡略梗概となっているので、「第一節 ある保守主義者 雨森信成」をお読みになった後は、本篇に戻られ、後の部分は本篇読後に読まれんことをお薦めする。なお、それによれば、平川祐弘氏の「破られた友情――ハーンとチェンバレンの日本理解」(一九八七年新潮社刊)の「日本回帰の軌跡」に彼についての解説が載るらしい(私は未見)。なお、中川智視氏の論文「ある「西洋の」保守主義者 ラフカディオ・ハーンと一九世紀のアメリカ」(PDF)が非常に良い。やはり、読後に読まれたい。

 やや、長い(全八章)ので分割して示す。]

 

        第十章 保守主義者

 

 あまさかる日の入る國に來てはあれと

           やまと錦の色はかはらし

[やぶちゃん注:原文のローマ字表記に概ね従うと(「きては」は「きてわ」であるが、従わない)、

  あまざかる日の入る國に來てはあれど

     やまと錦の色はかはらじ

である。雨森の欧米遊学中の詠歌であろうか。]

 

       

 彼は内地の或る市に生まれた。其處は三十萬石の大名の城下で、外國人の來た事のない處であつた。高祿の武士であつた彼の父の屋敷は、城主の城を繞る濠の外にあつた。屋敷は大分廣く、後ろの方と周圍には、自然の風景を模した庭園があつて、其中に軍神の小さい祠があつた。今から四十年前には、かういふ屋敷が澤山あつたのである。藝術家の眼には、今でも歿つて居る少數のかういふ家屋は、仙女(フエーリー)の宮殿の樣で、其庭園は佛敎の極樂の夢のやうに見ゆる。

 併し武士(サムラヒ)の子は當時は嚴酷に訓練された。自分の書かうとする彼にも空想に耽る時間などはなかつた。父母の愛撫を受ける期間は痛ましくも短かつた。袴着の式――當時の大禮――もせぬ中から、出來るだけ乳臭い恩愛の手から引き隱し、子供氣の自然な衝動を制へる[やぶちゃん注:「おさへる」。]樣に敎養され勁た。家庭で母の傍に居られる間だけは、好(すき)な程母に甘へようとも、母に連れられて戶外(そと)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を步んで居るのを見附けられると、『まだ乳を飮むか』などと、遊び仲間からからかはれるのが常であつた。しかも母の傍に居られる時間は決して長くはなかつた。凡て優長な娛樂は敎養上嚴禁されて居た、そして病氣の時の外、衣食の滿足すら許されなかつた。殆ど目が利(き)けだすと直ぐ、義務を生存の指針と考へ、自制を行爲の第一要件と考へ、苦と死とを、一身に取つては輕いものと考へる樣に指導された。

 家庭内の眼につかぬ安居に於ての外、靑年期の間中、決して弛まない冷やかな沈着を養成しようといふ、此スパルタ的訓練には、更に一層凄い方面があつた。男の子は血を見ることにならされたのである。彼等は死刑の執行を見る爲めに連れ行かれ、そして何等の感動を表はさぬやうに仕込まれた。又歸宅すると、梅干の汁を混(ま)ぜて血の色に染めた飯を十分に喫して、潜んで居る恐怖の念を消すやうに仕向けられた。それよりももつとむつかしい事さへ、幼い男兒に要求せられる事があつた。――例へば、深夜刑場に獨りで行つて、勇氣の證據として、生首を持ち歸ることなどである。武士の間では、死者を恐れることは、生ける人を恐れると同樣に、輕蔑すべきものと考へられたのである。武士の子は何物をも恐れぬと證明されねばならなかつた。その證明に强要される態度は、完全なる冷靜さであつた。空威張[やぶちゃん注:「からいばり」。]も臆病の態度と同樣に擯斥された。

[やぶちゃん注:「擯斥」(ひんせき)は「退けること・除(に)けものにすること。「排斥」に同じい。]

 男の子が生長すると、快樂は重に、武士が不斷の戰爭準備である體力の練習――弓術、乘馬、相撲、劍術等に求めねばならない。遊び相手が幾人か彼の爲めに選ばるる。併しそれは彼よりも年嵩(としかさ)な家來の子で、武術の練習を補助する能力を有せぬばならぬ。彼等は又水泳、小舟の漕法をも敎へて、彼の筋力を發達せしめねばならない。彼は每日の大部分をこんな體育と、支那古典の硏究とに費やさしめらる〻のである。食物は潤澤であつても美味ではない。衣服は儀式の時の外は、薄くて質素である。そして暖を取る爲めに、火を用ふる事は許されぬ。冬の朝稽古に筆が握れぬ程手が冷えると、氷の採な水に手を突込んで、血行を恢復するやうに命ぜられる。足が寒氣で凍(こご)えると、雪の中を走り𢌞はつて、暖める樣にと命ぜられる。武家特殊の儀禮の訓練は、更に一層嚴であつた。そして彼の帶に挾める小さい刀は、伊達や玩具でない事を早くから敎へられる。又其用ひ方や、武家の掟(おきて)が命ずる時には、びくともせずに、何時でも、直に我が命を斷つ術を敎へられる

 

註 「それは眞實其方の父の首か」と或る領主が七歲になる或る武士の子に問うた。其子は直に事情を推察して仕舞つた、彼の前に据ゑられた斬り立ての首は、實は父の首ではなかつた。領主は騙されて居たのだつた。併し更に騙すのが必要であつた。それで小兒は死せる父に對する樣な悲嘆を表にして、生首を拜した後、次に自分の腹を切つた。其殘酷な孝心の表現で領主の疑は消えた。其間に勘氣を蒙つた父は、首尾克く[やぶちゃん注:「しゆびよく」。]逃げおほせた。此子供の話は日本の劇や歌に今でも仕組まれてある。

 

 又宗敎に關しても、武士(サムラヒ)の子の敎育は特殊なものであつた。彼は先づ古神道の神々と、祖先の靈を崇めることを敎へられ、つぎに支那の經書を讀ませられ、つぎに又佛敎の哲理と政義の幾分と敎へられた。併し同時に極樂地獄は、ただ無智の者への寓話で、優越の士は、ただ正道の爲めの正道の愛と、普遍の法則としての義務の會得とに依つてのみ、行ひを正し、卑吝の心を抱くべからざる旨を敎へられた。

[やぶちゃん注:「卑吝」「ひりん」。卑(いや)しくて吝嗇(けち)なこと。]

 少年期から靑年期に移ると、段々彼の行爲は監督を受けなくなる。自己の判斷で行動するの自由が次第に與へられる――併し過失は決して看過されず、重き犯罪は決して恕せられる事はなく、理由(いはれ)ある非難ある非難は死よりも恐れねばならぬ、といふことを十分承知の上でである。他の一方に於て、靑年の武士が大いに警戒すべき樣な、道德上の危險は甚だ少かつた。娼妓は多くの地方の城下には嚴禁されて居た。そして小說や劇に反映されて居た樣な、道義に關係のない俗界の俗事にさへ、若い武士は通じて居なかつた。彼は柔弱な情愛とか戀情とかに訴へる小說稗史を、全く男らしからぬ讀物として排斥する樣に敎へられた。それから觀劇も彼の階級には禁ぜられて居た

 

註 武家でも女子に、少くとも多くの地方では。芝居に行くことが出來た。たゞ男子は出來なかつた――行けば武士の作法を破ることになる。併し武士の家庭では、或は屋敷内では、特殊の私的興行が演ぜられることもあつた。其場合には旅稼ぎの役者を雇ふのである。自分は、今迄芝居へ行つた事がないと云つて、觀劇の招待に決して應じない溫良な老士族を多く知つて居る。彼等は今でも武士作法を守つてゐるのである。

 

 かう云ふ譯で、舊日本の善良な地方的生活では、若い武士は類稀なる[やぶちゃん注:「たぐひまれなる」。]純心純情の人となる事が出來た。

 

 自分が描き出さうとする若い靑年武士も、此の[やぶちゃん注:「かくの」。]如くに生ひ立つたのである――勇敢にしで禮儀正しく、克己心に富み、悅樂を排し、そして、愛の爲め忠義の爲め名譽の爲めには、卽座に一命を捨つるを辭せざる男となつたのである。併し體骼と精神に於ては、既に一角[やぶちゃん注:「ひとかど」。]の武士ではあつたが、まだ年齡に於ては殆ど子供に過ぎなかつた。其頃の事である、初めての黑船の來舶で國を擧げて驚倒する椿事が起こつたのは。

 

       

 海外に航する者は死に處すといふ家光の政策は、二百年の間、日本國民をして外國の事に全く無智ならしめた。海の彼方に發展しつつあつた巨大な强国に就ては、何も知られてなかつた。長崎には蘭人の居留地が永らく存在して居たが、日本の眞の地位――十六世紀式の東洋の封建制度が、三百年の先輩なる西の世界に壓迫されて居る狀態――に就ては何等啓發せしめる處がなかつた。其西の世界の驚くべき實況は、話して聞かせても日本人の耳には小兒を喜ばせる爲めの作り話の樣に聞こえたであらう、若しくは蓬萊宮の昔噺と一緖に考へられたであらう。『黑船』と呼ばれた米國艦隊の來舶に至つて、初めて政府は自國の防備の手薄さと、外患の切迫とに目を覺ましたのであつた。

 やがて第二次の黑船來航の報道に依る國民の興奮は、間もなく幕府の外國と戰ふの力なきことの暴露に依る驚愕に伴なはれた。これは北條時宗の時の蒙古來襲よりも、更に大なる危險の迫つた事を意味するに外ならない。蒙古の時は國民は神助を神に祈り、天子も親ら[やぶちゃん注:「みづから」。]伊勢の大廟で、祖先の靈に擁護を乞うたのであつたが、其祈りは聽き屆けられ、天地晦蒙、雷鳴電閃、神風吹う起こつて、忽必烈[やぶちゃん注:「クビライ」。元王朝初代皇帝。]の艦隊は沈沒せしめられた。此度とても、神助を乞ふ祈禱の捧げられぬ筈はなかつた。事實無數の家庭、幾千の神社で祈禱が行はれた。併し此度は神々も應じない、神風は起こらなかつた。我が主人公の少年武士も、父の庭内にある八幡の小さい祠に祈つたが、しるしがないので、神々も力を失つたか、或は黑船の異人は、より强い神々の擁護の下にあるかと疑つた。

 

       

 間もなく、夷秋は驅逐されぬに決定した事が明らかになつた。彼等は西からも東からも、幾百人となく入り込んで來た。そして彼等と保護するあらゆる手段が講ぜられた。彼等は日本の土地に、彼等自身の珍妙な市街を建てた。政府は更に、凡ての學塾に於ては、西洋

 

註 德川幕府。

 

の學問を學ぶべきこと、英語の講習は公敎育の重要課程たるべきこと、公敎育其者[やぶちゃん注:「そのもの」。]も、西洋流に改造せらるべきことを命令した。政府は猶ほ國家の將來は、懸かつて外國の國語と科學との、硏究練達にあるべかことを宣言した。卽ち此等の硏究が良好な結果を生み出す迄の間は、日本は實際上外人の支配に委ねられるといふ譯である。尤も事實はかう宣言せられた譯ではないが、此政策の歸着する所は明らかであつた。此事情が分かつた爲めに起こつた猛烈な感動の後に――民衆の大沮喪、武士の制へ附けた憤激[やぶちゃん注:“the suppressed fury of the samurai”。「武士階級の激怒」。]の後に――强い好奇心が起こつた。それは優勢な武力を見せただけで欲するものを得ることの出來た、無禮な外人の外貌性格に就てであつた。此一般的な好奇心は、夷狄の風習と居留地の異樣な市街を圖にした、安價な彩色版の大量な刊行と配付とに依つて、幾分か滿足せしめられ力た。外人の眼には其のけばけばしい木版畫は、諷刺畫(カリカチユア)としか見えなかつた。併し畫工の目的は、決して諷刺畫の積りではなかつたのである。彼は實際彼の眼に映つた通りに描かうと試みたのであるが、眼に映つた處は、猩々の樣な赤い毛の生えた、天狗の樣に鼻の高い、變痴奇[やぶちゃん注:「へんちき」。「へんてこ」に同じい。主に歌舞伎批評で明治期に生まれた語のようである。]な形と色の衣服を着、倉庫か牢屋の樣な建物に住んで居る、綠眼の怪物であつたのである。國内に幾百千と賣られた此等の版畫は、色々の不思議な觀念を與へたに相違ない。併し見馴れぬものを描き出さうとする試みとして、決して惡意あるものではなかつた。我々

が其頃の日本人の目にどういふ風に映つたかといふ事――いかに醜惡に、怪奇に、滑稽に見えたかといふのを了解する爲めには、此等の古版畫を硏究するがよい。

 城下の若武士達は、問もなく西洋人を見る機會を得た。それは藩侯に依つて、彼等の爲めに召し抱へられた敎師で英國人であつた。彼は藩兵に護衞せられて來た。そしても士として彼を厚遇せよとの命が下つた。彼は木版畫の外國人の樣に、全く醜くはなかつた。尤も毛は赤く眼の色は變つて居た。併し顏はさういやな顏ではなかつた。彼は直に倦まざる觀察の目標となり、又永くさうであつた。どれ程彼の一擧一動が注視せられたかは、西洋人に關する明治以前の珍妙な迷信を知らぬ者には推察されない。西洋人は知的で恐ろしい動物とは考へられたが、一般に普通の人間とは思はれなかつた。彼等は人間よりも、寧ろ動物に近いものと考へられた。彼等の身體は毛深く珍奇な形態を有し、齒は人間の齒とは異り、内臟は特殊なもので、道念[やぶちゃん注:「だうねん(どうねん)」。道義心。]は動物の道念であると考へられた。武士(サムラヒ)はさうでもないが、民衆が外人を見て畏懼したのは、形態上からではなく、迷信からの恐怖であつた。日本人は農民でも決して臆病ではなかつたのである。併し彼が當時の外人に對する感情を知るには、日本兩國に共通であつた、超自然力を備へて、人間の形態を裝ひ得る動物に就て、又は半人半神の動物の存在、又は古い繪本にある荒唐な動物――脚の長い、手の長い、そして髯のある怪物(足長手長)で、怪談の挿畫に描かれたり、或は北齋の筆で滑稽に描かれたりして居るものに就ての、古い信念を若干知悉することを要する。實際新來の異人等の容貌は、支那のヘロドタス[やぶちゃん注:歴史家の換喩。]に依つて語られた架空談に確證を與ふる樣に見え、彼等が着けた衣服は、人間ならぬ部分を隱蔽する爲めに、考案された樣に思はれたのである。それで新來の英國人敎師は、幸にも、自分は其事實を知らずに居たが、珍獸を觀察する樣な態度で内々觀察されて居た。それにも拘らず、學生からはただ鄭重に禮遇されて居た。彼等は『師に對しては影を蹈むこともならぬ』と敎ふる支那の經典に從つて彼を遇した。兎に角武士(サムラヒ)の學生には、師が苟くも敎へ能ふ[やぶちゃん注:「あたふ」。]限りは、其完全に人間たると否とは問題でなかつた。義經は天狗から劍法を授けられたのである。其外、人間ならぬ者が學者であり、詩人であつた例がある

[やぶちゃん注:「足長手長」「あしながてなが」。中国及び日本に伝わる妖怪。一種のみでなく、足長人と手長人という人形怪人二種を指す総称。ウィキの「足長手長」を引く。『足長人は「足長国」の住民、手長人は「手長国」の住民。その名の通り、それぞれ脚と手の長さが』、『体格に比較して非常に長いとされる。海で漁をする際には、常に足長人と手長人の』一『人ずつの組み合わせで海へ出て、足長人が手長人を背負い、手長人が獲物を捕らえるという』。『これらの存在は、中国の古代の』幻想地誌である「山海經」(せんがいきょう)に『記されている長股(ちょうこ)』・『長臂(ちょうひ)という足の長い・手の長い異国人物の伝説が起原であると考えられている』。明の『王圻』(おうき)とその次男王思義『が編纂した中国の類書』(百科事典)「三才圖會」(全百六巻。一六〇九年成立)にも出、その記述等をもとに医師寺島良安によって江戸時代中期の正徳二(一七一二)年頃に成立した「和漢三才圖會」では巻第十四「異國人物」に「足長」が「長脚(あしなが)」、「手長」が「長臂(ちやうひ)」として所載し、それぞれ脚の長さは一丈余(一丈は三・〇三メートル。実は「三才図会」では前者が二丈、腕の長さが二丈とするのを、良安は「難信」(信じ難し)として、孰れも「謂丈餘而可矣」(丈餘と謂ひて可ならん)と訂している)。『また、長脚人が長臂人を背負って海で魚を捕るということも記されており』(「長脚」の条に「三才圖會云長脚國在赤水東其國人與長臂國近其人常負長臂人入海捕魚」(「三才圖會」に云はく、『長脚國、赤水の東に在り。其の國人、長臂國と近し。其の人、常に長臂人を負ひ海に入りて魚を捕る』)とある(続く後半を略した)。以上は所持する「和漢三才図会」原本に拠って私が書いた)、『日本ではこれを画題とした絵画が御所の中に設置されている「荒海障子」(あらうみのしょうじ)にも描かれている』。室町時代の「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう:行誉らによって撰せられた百科辞書「塵添壒嚢鈔」には、『中国の王宮には奇仙・異人・仙霊のあやしき人といった画題の絵画を描く風習があったというので』、『それにならって我が国の皇居の荒海障子も描かれたのでは無いだろうかと記してある』。『また、中世ころの仏教説話では龍宮に足長と手長が存在してるという物語があったようで、そこでは龍王の眷属として登場している』。江戸時代にも『風来山人(平賀源内)の戯作』「風流志道軒傳」(巻四)『には足長と手長が登場して』おり、『挿絵にも描かれており、そこでもやはり足長人が手長人を背負っている』。『また、葛飾北斎、歌川国芳、河鍋暁斎といった画家が戯画などに描いているほか、都市部などで興業がおこなわれていた生人形(いきにんぎょう)の題材としても取り扱われ、製作されていた』(引用先に画像有り)。また、『江戸時代に書かれた松浦静山による随筆』「甲子夜話」の巻之廿六の第六条目の「平の海邊にして長脚を見る事」には(原本を確認して追記した)、『平戸のある武士が月の綺麗な夜に海で夜釣りをしていたところ、九尺』許り(二メートル七十三センチほど)の『脚を持つ者が海辺をさまよっており、ほどなく天候が急転して土砂降りに遭ったという逸話が語られている。その者の従者の語るところによれば、それは足長(あしなが)と呼ばれる妖怪で、足長が出没すると必ず天気が変わるとされている』。「甲子夜話」の『原文では前半に』先の「和漢三才図会」の『文を引いて長脚と長臂について述べているが、この平戸に現われた「足長」は特に俗にいわれる中国の伝説にもとづいた「足長手長」と同一のものであるわけではなく、足の長い点から「足長」と呼ばれているもので、「手長」のようなものも付き添っていない』とある。また、本邦のそれについては別に独立したウィキの逆転した巨人異人或いは鬼神「手長足長」があるので、それも引いておく。『手長足長(てながあしなが)は、秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人』異人。『その特徴は「手足が異常に長い巨人」で各地の伝説は共通しているが、手足の長い一人の巨人、または夫が足(脚)が異常に長く妻が手(腕)が異様に長い夫婦、または兄弟の巨人とも言われ、各地で細部は異なることもある。手の長いほうが「手長」足が長いほうが「足長」として表現される』。『秋田では鳥海山に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていた。鳥海山の神である大物忌神』(おおものいみのかみ)『はこれを見かね、霊鳥である三本足の鴉を遣わせ、手長足長が現れるときには「有や」現れないときには「無や」と鳴かせて人々に知らせるようにした。山のふもとの三崎峠が「有耶無耶の関」と呼ばれるのはこれが由来とされる』。『それでも手長足長の悪行は続いたため、後にこの地を訪れた慈覚大師』円仁『が吹浦』(現在の山形県の鳥海山大物忌神社)『で百日間』、『祈りを捧げた末、鳥海山は吹き飛んで手長足長が消え去ったという』。『また消えたのではなく、大師の前に降参して人を食べなくなったともいわれ、大師がこの地を去るときに手長足長のために食糧としてタブノキ』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキMachilus thunbergii:八~九月頃、球形で黒い果実が熟す。果実は直径一センチほどで、同じクスノキ科 Lauraceae のアボカドに近い味がする)『の実を撒いたことから、現在でも三崎山にはタブノキが茂っているのだという』。『福島の会津若松に出現したとされる手長足長は、病悩山(びょうのうざん、やもうさん、わずらわしやま。磐梯山の古名)の頂上に住み着き、会津の空を雲で被い、その地で作物ができない状態にする非道行為を行い、この状態を長期にわたり続けたという。その地を偶然訪れた旅の僧侶がことの事情を知り、病悩山山頂へ赴き、手長足長を病悩山の頂上に封印し、磐梯明神として祀ったとされている』。『このことをきっかけに、病悩山は磐梯山と改められ、手長足長を封印した旅の僧侶こそ、各地を修行中の弘法大師だったと言われている』。『福井の雄島にある大湊神社には、安島に最初に住んでいたのが手長と足長だったと伝わる。足長が手長を背負って海に入り、手長が貝』『をその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという』。『上記のような荒ぶる巨人としての存在とは別に、神・巨人・眷属神としての手長足長、不老長寿の神仙としての手長足長もみられる』。『室町時代に編纂された』「大日本国一宮記」(だいにほんこくいちのみやき:日本国内の一の宮の一覧)に『よると、壱岐(長崎県)では天手長男神社が国の一の宮であった』『とされ、天手長男(あめのたながお)神社と天手長比売(あめのたながひめ)神社の』二『社が存在していた』。『長野の上諏訪町(現・諏訪市)では、手長足長は諏訪明神の家来とされており』、『手長と足長の夫婦の神であるといわれ、手長足長を祀る手長神社、足長神社が存在する』。『この二社は記紀神話に登場している出雲の神である奇稲田姫(くしなだひめ)の父母・足名稚(あしなづち)と手名稚(てなづち)が祭神とされているが、巨人を祀ったものだという伝承もある』。『また、建御名方神』(たけみなかたのかみ)『が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神』(もれや(もりや)のかみ)『と共に建御名方神と戦ったとされる』。『これら社寺に関連する「てなが(手長)」という言葉について柳田國男は、給仕をおこなう者や従者を意味していた中世ころまでの「てなが」という言葉が先にあり、「手の長い」巨人のような存在となったのは後の時代でのことであろうと推論している』。「大鏡」(十一世紀末成立)の第三巻の「太政大臣伊尹(これただ/これまさ)」(藤原伊尹(延長二(九二四)年~天禄三(九七二)年:平安中期の公卿・歌人。藤原北家、右大臣藤原師輔の長男))伝には、硯箱に『蓬莱山・手長・足長などを金蒔絵にして作らせたということが記されており、花山院』(十世紀末)『の頃には、空想上の人物たる手長・足長が認知されていたことがわかる。これは』先に出た王圻の「三才圖會」などに『収録されている中国に伝わる長臂人・長股人(足長手長)を神仙図のひとつとして描くことによって天皇の長寿を願ったと考えられる』。『天皇の御所である清涼殿にある「荒磯障子」に同画題は描かれており、清少納言の』「枕草子」(第二十段)にも、既に『この障子の絵についての記述』(「淸涼殿の丑寅(うしとら)の隅の、北の隔てなる御障子(みさうじ)は、荒海の繪(かた)生きたるものどもの恐ろしげなる手長、足長などをぞ描(か)きたる、上(うへ)の御局(みつぼね)[やぶちゃん注:弘徽(こき)殿。]のをおしあけたれば[やぶちゃん注:いつも開けっぱなしにしているので。]常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。」)『が見られる』。『物語文学のひとつである絵巻物』「宇治橋姫物語絵巻」には、『主人公のひとりである中将を取り囲んで現われる異形の存在(「色々の姿したる人々」)として、みるめ・かぐはな・手なが・あしながという名が文章上では挙げられている』。『岐阜県高山市の飛騨高山祭の山車装飾、市内の橋の欄干の彫刻など手長足長のモチーフが多く見られ』、『これは嘉永年間』(一八四八年~一八五五年)『の宮大工が彫刻を手名稚と足名稚として高山祭屋台に取り付けたものが由来』『とされている。手長足長に神仙としてのイメージと、「山海経」や』『浮世絵などの絵画作品を通じての異民族・妖怪としてのイメージ、双方からのイメージが江戸時代後期には出来上がっていることがわかる』とある。]

 

註 かういふ話がある。菅原道眞(今天神として祀らるゝ)の師であつた、 大詩人都良香が、京都の御所の羅生門[やぶちゃん注:原文はちゃんと“Ra-jo-mon”なのであるから、正しく「羅城門」と訳すべきところである。]を通る時、丁度其時浮かんだ詩の一句を高らかに誦した――氣霽れて[やぶちゃん注:「はれて」。]風新柳の髮を梳る[やぶちゃん注:「けづる」。なお、以下の字空けはママ。] ――すると直に門内から重い嘲る樣な聲が唱和して云つた――氷融けて波舊苔鬚を洗ふ――都良香は見𢌞はしたが誰も居ない、家に歸つて弟子達に顚末を告げて、二句を反復唱へて聞かした。すると菅原道眞は第二句を讃めて曰つた――「實に第一句は人語である。併し第二句は鬼語である」と。

[やぶちゃん注:「都良香」(みやこのよしか 承和元(八三四)年~元慶三(八七九)年)は貴族で文人。主計頭(かずえのかみ)都貞継の子。最終官位は文章博士(もんじょうはかせ:大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士)従五位下・大内記・越前権介。ウィキの「都良香」によれば、『清和朝初頭の』貞観二(八六〇)年、『文章生に補せられ』、『文章得業生を経て』、貞観十一年に『対策に及第し、翌』貞観一二(八七〇)年、『少内記に任官』した。『同年に菅原道真が対策を受験した際、その問答博士を務め』ている(この事蹟から小泉八雲の「師」という表現は正しい)。また、その翌貞観十三年の太皇太后『藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために、儒者たちに議論させたが、良香は菅原道真と』とも『に日本や中国の諸朝の法律や事例に基づき、心喪』五『ヶ月・服制不要の旨を述べた』。貞観一四(八七二)年には式部少丞・平季長と』とも『に掌渤海客使』(渤海使の接待係)『を務める一方、自ら解文を作成して言道(ことみち)から良香への改名を請い、許されている』。貞観一五(八七三)年、『従五位下・大内記に叙任され』、貞観一七(八七五)年『以降は文章博士も兼ねた』。貞観十八年に『大極殿が火災に遭った際、廃朝』(天皇が服喪や天変地異などのために朝務に臨まないこと。但し、諸官司の政務は平常通り行われる)『及び群臣が政に従うことの是非について、明経・紀伝博士らが問われた際、良香は同じ文章博士の巨勢文雄と』とも『に、中国の諸朝において』、『宮殿火災での変服・廃朝の例はないが、春秋戦国時代の諸侯では火災に対して変服・致哭の例があることから、両者を折衷して廃朝のみ実施し、天皇・群臣は平常の服を変えるべきでないことを奏し、採用されている』。『陽成朝初頭の』元慶元(八七七)年には『一族の御酉』(みとり)らとともに『宿禰姓から朝臣姓に改姓した』。『詩歌作品を作る傍ら』、『多くの詔勅・官符を起草し』、貞観一三(八七一)年より編纂が開始された「日本文徳天皇実録」にも関与したが、完成する前』享年四十六で逝去した。『漢詩に秀で歴史や伝記にも詳しく、平安京中に名声を博していた。加えて立派な体格をしており』、『腕力も強かった。一方で貧しくて財産は全くなく、食事にも事を欠くほどであったという』。家集に「都氏文集」があり、『詔勅や対策の策問などの名文がおさめられている。漢詩作品は』「和漢朗詠集」・「新撰朗詠集」などに入集しており、勅撰歌人でもあって、「古今和歌集」に一首が収められてある。また、各種の伝承を記した「道場法師伝』」・「富士山記」・「吉野山記」等の作品もある。「富士山記」には『富士山頂上の実情に近い風景描写があ』り、『これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である』。『漢詩にまつわる説話が複数伝えられており、後世においても、漢詩人として評価されていたことが窺われる』。『ある人』(ここで小泉八雲が言っている本人ではない)『が羅城門』『を通った時に、良香の詠んだ漢詩を誦したところ、門の鬼が詩句に感心したという』(「江談抄」「本朝神仙伝」)。『良香が晩夏に竹生島に遊んだ際に作ったという「三千世界は眼前に尽き。十二因縁は心裏に空し。」の下の句は竹生島の主である弁才天が良香に教えたものであるという』(「江談抄」)。『また、活躍時期がやや異なるにもかかわらず、良香と菅原道真が一緒に登場する説話・逸話が見られる』。『良香の家で門下生が弓遊びをしていた際、普段勉学に追われていることから、とうていうまく射ることはできないであろうと道真に弓を射させてみたところ、百発百中の勢いであった。良香はこれは対策及第の兆候であると予言し、実際に道真は及第したという』(「北野天神縁起」)。『菅原道真に昇進で先を越されたことから、良香は怒って官職を辞し、大峰山に入って消息を絶った』。百『年ほど後、ある人が山にある洞窟で良香に会ったところ、容貌は昔のままで、まるで壮年のようであったという』(「本朝神仙伝」)。なお、ここで澤が示している漢詩は表記がおかしく、

氣霽風梳新柳髮 氷消浪洗舊苔鬚  都

 氣 霽(は)れては 風 新柳の髮を梳(けづ)る

 氷 消えて 波 舊苔(きうたい)の鬚(ひげ)を洗ふ

で、「和漢朗詠集」上の「早春」に御覧の通り、良香の詩句として載るものである。孰れも擬人法を用いたもので、事実、古来より賞讃され、二句目は鬼神の作と呼ばれた。

 

 併し禮節の假面を少しも外づさずに、外人敎師の習性は精細に視察された。そして其視察を比較しあつて、出來た最終の判斷は全く喜ばしいものではなかつた。敎師自身は兩刀手挾んだ弟子達から、己れにどんな評釋が下されたかは夢想だも爲し得なかつた。又敎室で作文を監督して居る中に、つぎのやうな會話の行はれて居るのを了解し得たとて、彼[やぶちゃん注:ここ以下では、この第「三」章の終りまで「彼」(かれ)は外人教師を指す。]が心の平和は增進される事はなかつたらう――『彼(あ)の肉の色を見給へ、柔らかさうではないか。造作もなく一擊で首は落ちるだらう』

 或る時彼は、彼等の相撲の取り方を試みさせられた。それはただ慰みの爲めと彼は想像した。併し實は彼等が彼の體力を測る企てであつた。そして彼は力士として高い評價を贏ち[やぶちゃん注:「かち」。「勝ち」に同じい。]得なかつた。『腕は確に强い』一人が云つた。『併し腕を使ふ時、身體(からだ)の使ひ方を知らぬ。そして腰が甚だ弱い。片附けるのに骨は折れぬ』

 『外國人と』他の一人が云つた。『戰ふのは樂だと僕は思ふ』

 『劍で戰ふのは樂だらう』も一人[やぶちゃん注:ママ。]が答へた。『併し彼等は鐡砲や大砲の使用法は、我々よりも上手だよ』

 『我々だつて上手になれるさ』最初の一人が云つた。西洋の戰法を習つて仕舞へば洋兵は恐る〻に足らん』

 『外人は』はも一人が云つた。『我々の樣に丈夫でない。直ぐ疲れる、そして寒氣に弱い。我々の先生も冬中室にどつさり火をおこして置くぢやないか。我々は五分間も其處に居ると頭痛がして來る』

 

 こんな事があるにも拘らず、若者等は敎師に對しては親切であつたので、敎師も彼等を愛した。

 

       

 大地震の樣に、豫告なしに大變事が起こつた。大名制度は郡縣制に變更される、武士階級は癈止される。全社會組織が改造される事になつた。我が靑年武士は、敢て忠勤を領主から天子に移すを困雖とも思はず、又彼[やぶちゃん注:ここでは戻って主人公の青年を指す。]の一家の富は、此瓦解の爲めに損はれることもなかつたが、此出來事は彼の心を悲痛に滿たしめた。彼は此改變に依つて國家の危機の大なることを知り、又古來の高い理想と、あらゆる大切と考へた物の消滅を感じた。併し徒に懊惱することの無益な事をも知つた。今は自己改造に依つてのみ國民は其獨立を救ひ得る。國家を愛する者の明瞭な義務は、此必要を認め、將來の舞臺に男らしい演出を見せる爲めに、己れを適當に訓練するに在る。

 武士の學校で、彼は大いに英語を學び、どうやら英人と話し得る自信を得た。そして長い髮を切り、兩刀を棄て、英語の稽古を、有利な狀況の下に繼續する爲めに、橫濱に出た。橫濱では凡てが見馴れ聞き馴れぬ物だらけで、初めは不快の感を懷いた。日本人さへ其處では外人との接觸で變つて居た。皆が皆野鄙で粗豪[やぶちゃん注:「そがう(そごう)」。荒っぽく、猛々しいこ。]で、彼の故鄕では平民もせぬ樣な言動を平氣でして居た。外國人に至つては、更に不愉快な感を與へた。折しも新居留民は、被征服者に對する征服者の態度を取り得た時で、開港場の生活は、今日よりずつと放慢であつた。煉瓦や漆喰塗りの木造建築物は、例の彩色版の異國風習圖の、不愉快な思ひ出を新たにした。そして西洋人に關する少年時代の空想を、容易く拂ひ退ける事が出來なかつた。廣い知識と經驗に基礎を置いた理性は、十分に彼等の何者たるかを理解したが、感情の上からは、彼等も同じく人類であるといふ感がしつくりと起こらなかつた。人種的感情は知力の發展よりも古い、そして人種感に伴なふ迷信は容易に取り除き難い。其上彼の武士魂も、時に見るもの聞くものの醜惡さに搔き立てられる――强さを挫き弱きを助けようといふ、父祖傳來の熱血を湧き立たせる出來事が多かつた。併し彼は知識の妨害物として、こんな反感を征服しようと努めた、國家の敵の眞相を靜かに攻究するのは、愛國者の義務であつたから。彼は遂に偏見なしに周圍の新生活を觀察するやうに自己を訓練した――其缺點と同樣に其美點をも、其短處と同樣に其長處をも。すると、彼は其處に仁愛を發見した、理想への憧憬をも發見した――其理想は、彼自身の理想とは異つて居るが、彼の祖先の宗敎と同樣に、幾多の戒律を要求するので、尊敬すべきものであることを知つた。

 此了解から、彼は敎育と敎化の事に沒頭して居る、一人の老牧師を愛し且つ信ずるに至つた。其老宣敎師は此若き武士には非凡な適合性があるのを見拔いたので、特に彼を改宗せしめたいと思つた。そして彼の信賴を得る爲めの勞を惜しまなかつた。彼は何くれと彼を助け、佛蘭西語、獨逸語、希臘語、拉典語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]までも少しづつ敎へた上に、可なり大量の書籍を悉く彼の侍祐閲讀に提供した。歷史、哲學、旅行記、小說を含む外國の書籍を涉獵することは、日本の學生に取つて容易に得られぬ特權であつた。彼は感謝を以て之に酬いた。それで書籍の所有主は後に苦もなく此祕藏弟子に、『新約全書』の一部を讀ませることに成功した。若者は『邪宗』の敎義の中に、孔子の說に似たる道義を發見し、驚嘆した。彼は老宣敎師に向つて云つた。『これは我々には新しい事ではありません、確に善い敎です。私はこれから此本を讀んで、そして熟考しませう』

 

2019/12/14

小泉八雲 業の力 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“BY FORCE OF KARMA”。言わずもがな乍ら、「カルマ」は業(ごう/歴史的仮名遣「ごふ」)である。サンスクリット「カルマ」(ラテン文字転写:karman:サンスクリットの動詞語根「クリ」(為(な)す)が語源。「羯磨(かつま)」と漢音写し、「KARMA」はその音転写された英語)に由来し、「行為・所作・意志による身心の活動とその結果の蓄積、及び、そうした身心の生活の行き着くところとしての宿命」を指す。特に狭義上では「過去(世)での善悪を問わない行為が必ず自分に返報される」とする因果応報の法則と同義で、もともとは仏教以前のインドの占星術の基である「ヴェーダ」哲学の根底に流れる思想である)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第九話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中途中に突如入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 標題後の添え辞はポイント落ち下インデント三字上げであるが、引き上げた。また、文中の途中に入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 訳者戶澤正保(底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している)氏については私の「小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)」の冒頭注を参照されたい。]

 

      第九章 業の力

 

『愛人の顏と朝日の顏は見上げる事が出來ぬ』 ――日本俚諺

[やぶちゃん注:原本では、

“The face of the beloved and the face of the risen sun cannot be looked at.”― Japanese Proverb.

であるが、こんな「ことわざ」は誰も知らぬ。流石に小説家でもあられる平井呈一氏は恒文社版「因果応報の力」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、この添え辞を、

   《引用開始》

好いたお方と朝日の顔は

  眺めようとてかなやせぬ

       ――日本のことわざ

   《引用終了》

と美事正鵠を射て素敵に訳しておられる(因みに、これは諺ではなく、近世の恋の都々逸である)。]

 

       

 近代科學の敎ふる所に依ると、初戀の熱情は、當該個人に取つては『全く凡ての之に關する經驗に先きだつものである』。語を變へて云ふと、凡ての感情中、尤ち嚴密に個人的なるべく思はる〻ものが、實は全く一個人の事件ではないのである。哲學も又久しい以前に同じ事實を發見して居る、そして戀情の神祕を說明する理窟は非常に面白い。科學は今迄の處、此題目に就ては嚴密に僅少の推察を提供するに留めてある。これは誠に遺憾である。といふのは、形而上學者は何時(いつ)の時にも適當に細述した說明を與へる事が出來ぬから

 

註 先天的であるの意、ハアバアト・スペンサー「心理學原理」中感情論の一節。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。当該引用(原文引用部“absolutely antecedent to all relative experience whatever”)という引用は、一八五五年刊の「心理学原理」(The Principles of Psychology)の第八章「感情」(CHAPTER VIII.: THE FEELINGS.)にあるセクション二百四(§ 204)の以下の末尾部分である。

   *

That the experience-hypothesis, as ordinarily understood, is inadequate to account for emotional phenomena, will be sufficiently manifest. If possible, it is even more at fault in respect to the emotions than in respect to the cognitions. The doctrine maintained by some philosophers, that all the desires, all the sentiments, are generated by the experiences of the individual, is so glaringly at variance with hosts of facts, that I cannot but wonder how any one should ever have entertained it. Not to dwell on the multiform passions displayed by the infant, before yet there has been such an amount of experience as could by any possibility suffice for the elaboration of them; I will simply point to the most powerful of all passions—the amatory passion—as one which, when it first occurs, is absolutely antecedent to all relative experience whatever.

   *

このスペンサーの前振りの条件は科学的でない心理学(私は若き日に心理学者になりたいと思っていたが、現在、追試実験不能の、動物心理学・実験心理学の一部分野を除く大方のそれは極めて非科学で怪しい擬似科学であると考えている)の中で、やや厳密さを感じさせて曖昧領域がやや明確化され、不完全ながら限定化されてはいる。されば、一応、安心して小泉八雲の引用も受け入れられるという気がする。そうして、改めて言うまでもなく、普通――人間個人の最初の恋――とは――精密な意味に於いて――科学としての生物学的意味に於いても――母への恋――である――ということは言うまでもない。我々個人にとっての「最初の他者」「恋人」とは原理的に「母」とイコールである。スペンサーがことさらに注意喚起をして除去しようとし、小泉八雲が、以下、青年期まで時間を短縮して恋の成立を解くこと自体が(これは無論、逆に小泉八雲も母喪失感のトラウマがのっぴきならないものであることを指しているのである。小泉八雲は終生、「母の肖像画が欲しい」と言い、「それが手に入るなら、金は幾らかかってもいい」と常々言っていたことを忘れてはならない)私は「マヤカシ」であると考えるし、「科学的」でないと考える。]

 

である――或は愛人の初めての一瞥は、戀する者の靈魂に、神聖な眞理の或る眠れる先天的な記憶を喚起すと敎ふるか、或は戀の幻影は、體現を求むる未生[やぶちゃん注:「みしやう」。]の靈魂に依つて作らるると敎ふるか、何れにしてもである。併し科學も哲學も極重要な一の事實――戀する者自身は自由選擇を爲(す)るのでない、彼等は只だ或る外力に動かさる〻のであるといふ事に就ては一致する。科學は此點には更に一步を進めて居る、初戀の責任は死せる祖先に在る、生ける當該者にはないと述べて居る。で初戀には或る種の幽玄な記憶(おもひで)があるやうに思はれる。尤も科學は佛敎とは異つて、我々は特殊の狀況の下に、前生を思ひ出し得るとは斷言せぬ。生理學に基礎を置く心理學は、此個人的の意味に於ける記憶の遺傳を不可能と斷ずる。併しより多く漠然とはして居るが、より强い記憶――無算數の祖先の記憶の總額――幾億兆京とも知らぬ經驗の總額――は遺傳するものなることを認めて居る。かくして心理學は我我の尤も不可解な感應――矛盾する衝動――不思議な本能又凡ての不合理に見ゆる愛惜、憎惡の念、――あらゆる漠然たる喜悅、若しくは悲哀の感等を說明することが出來る――これ等はただ個人の經驗だけでは說明の出來ぬものである。併し其心理學も未だ初戀に就ては、我々の爲めに多くを解釋するの餘裕を有たぬ――目に見えぬ過去の世界との關係に於ては、初戀こそ、凡ての人間の情緖中で、尤も幽玄にして尤も神祕なものであるが。

 我が西洋では此謎はかう云ふ風に現はれる。順當に强健に發達する靑年には、女性に對して、自己の肉體の優越感より生ずる、原始的の輕蔑を感ずる、一種の退化的時期が來る。併し丁度かうして少女等との交際が少しも面白くなくなつた時に、彼は突然戀の狂熱に罹るのである。彼の生涯の通路を、今迄見た事のない一人の乙女――併し他の人間の女子と異らない――普通人の眼には少しも驚嘆するに足らぬ――が橫斷する。其瞬間に大浪の押し寄する樣に、血が彼の心臟に吶喊[やぶちゃん注:「とつかん(とっかん)」。]する。そして彼の感覺は攪亂される。それから後狂熱の終はる迄、彼の生は全く其新發見の乙女に把握される。併し彼は其女に就いては何事も知らぬのである。ただ日光も彼女に觸る〻と一層美しく見ゆるといふ事を知るだけである。其蠱惑から彼を引き離すことは人間の知識では出來ぬ。併し一體其蠱惑力は誰れ人[やぶちゃん注:「たれびと」。]が有するのてあらう。其生ける偶像が有する力であらうか。否、心理學は我々に告げる、それは偶像崇拜者の心の中に潜む、死せる祖先の力である。死せる祖先が魔術を施すのである。愛する者の心の激動は祖先の激動である。一少女の手の最初の觸感で、彼の血管中を馳け𢌞る電氣の樣な戰慄も、同じく祖先の戰慄であると。

 併し何故に死せる祖先は他の女を排して其少女だけを欲するかが、此謎の意味深い點である。獨逸の大厭世家[やぶちゃん注:ショーペンハウエルのこと。彼の「恋愛は個人のためにあるのではなく種族のためにある」といった性愛の論理観を指すのであろう。]が提供した解決法は、科學的も心理學とは調和せぬ。死せる祖先の選擇は、進化學的に考へると、豫知よりは寧ろ記憶に基づいた選擇であるであらう。そして此謎は愉快ではない。

 實に或る合成寫眞に於けるが如く、過去世に彼等(死せる祖先達)を愛した凡ての女の面影が、彼女に復活して居るが故に、彼女を欲するのだといふ、ロマンチックな可能性はある。併し同樣に彼等が報いられずに愛した、凡ての女の合併せる魅力が、幾分彼女に現はれて居るが故に、彼女を欲するのだといふ可能性もある。

 假りに此不氣味な後說を取ると、情熱といふものは幾囘埋められても、死滅もせず休止もせぬものだと信ぜざるを得ぬ。酬いられずに愛した者が死ぬるのは、ただ見掛けだけで、實は其願望を叶へる爲めに、幾世代も他の人の心の中に生きて居るのである。彼等は多分幾世紀でも、愛した形態の再現を待つのであらう――永久に靑春の夢の中に、漠然たる記憶の綾を織り込みつつ。さればこそ、到達されぬ理想だの――惱める靈魂が、誰れとしも分からぬ女に憑依せられるなどといふ事實が存在するのである。

 處が極東では考へ方が違つて居る。自分がこれから書かうとして居ることは、彌陀の解釋法に關するものである。

 

       

 最近甚だ特殊な事情の下に死んだ僧侶がある。彼は大阪附近の一村落の、古い淨土宗の一派に屬する寺院の僧侶であつた。(其寺院は關西線で京都へ行くとき、汽車の中から見える)

[やぶちゃん注:丸括弧部分は原文は“(You can see that temple from the Kwan-Setsu Railway, as you go by train to Kyoto.)”である。「關攝(くわんせつ)」鉄道というのは今も昔もないのだが、これは「関(西の)摂(津と京都間に走る)鉄道」と読めなくはない。そもそもがこれが「關西」本「線」の誤記なのだとするのは、私には鉄道趣味はないが、どうも、腑に落ちない(但し、平井呈一氏も恒文社版「因果応報の力」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、注なしで『関西線』と訳してはおられる)。関西(本)線、少なくとも現在の愛知県の名古屋駅から亀山駅・奈良駅を経て大阪市浪速区の難波駅に至る鉄道本線としての関西本線は加茂などの京都府南部を通りはするが、それで「京都に行くとき」と言わないのではないかと私は思うからである。これは寧ろ、彼が執筆時に居た、神戸から東海道本線で京都に向かう際の鉄道「關」西にある大阪の旧称「攝」津の「鐡道線」を指しているのであり、大阪府に入ってすぐに線路から見える浄土宗寺院であると言っているのではないかと私には思われるのである。それだと、浄土宗で数ヶ寺に絞られる。しかし、路線も寺も、断定もしなし、寺の具体的候補も指示はしない。何故なら、この僧と寺の名誉のために私はそれを穿鑿したくないからである。

 彼は若く、眞面目で、そして非常に美しかつた――僧侶にしては美し過ぎたと女達は評した程である。彼は昔の佛師が作りた阿彌陀佛の美しい尊像の一體の樣に見えた。

 村の男達は彼を純潔な博識な僧と思つて居たが、それに間違ひはなかつた。併し女達は彼の道德と學問のみを考へなかつた。彼は彼の意志とは關係なく、ただの男として女を惹き附ける不運な魅力を有つてに居た。彼は村の女達許りではなく、他村の女達にも、宗敎的でなく讃美された。それで彼等の讃美は彼の硏究を妨害し、彼の默想を攪亂した。彼等は立派な口實を見附けては、全く彼を見、彼に話しかける爲めばかりに、常住[やぶちゃん注:ここに読点が必要。]寺へ出入した。そして僧として答へる義務がある疑問を發したり、僧として拒むことの出來ぬ奉納物を贈つたりした。中には宗敎上の法問で無く、彼を赤面せしめる樣な問を懸ける者もあつた。性來彼は溫順なので、町の蓮葉娘が、田舍娘には云ひ切らぬ樣なこと――そこなことを云ふなら歸れと命ぜざるを得ぬ樣なことを云つた時でも、辭を嚴にして威嚴を保つことは出來なかつた。それで内氣娘の無言の讃美から、若しくは阿婆摺れの諂諛[やぶちゃん注:「てんゆ」。侫(おもね)り諂(へつら)こと。「阿諛(あゆ)」に同じい。]から、畏縮すればする程、迫害は增大し來たつて、遂に彼が一身の苦艱[やぶちゃん注:「くかん」。辛い目に遇って苦しみ悩むこと。「艱難(かんなん)」に同じい。]となるに至つた。

 

註 日本では俳優が下級の多情な娘達も同樣な魅力を及ぼし、其魅力を殘酷に利用することは往々あるが、僧侶がこんな蠱惑を振るふ例は滅多にない。

[やぶちゃん注:「蓮葉娘」「はすつぱむすめ(はすっぱむすめ)」。活発で軽弾みな行動をとる若い女性の卑称。語源は諸説さまざまで、蓮の葉が風や水面(みなも)の波でゆらゆらするさまや、蓮の葉の朝露がころころと転がるさまを行動のそれに模したという説、蓮の葉商人は季節ごとに商品が変わった事、キワ物やマガイ物といった意味などから転用されたという説、また、井原西鶴の「好色一代女」(貞享三(一六八六)年板行)に上方の大店の問屋で雇用された上客を接待するための閨(ねや)をともにする女性として「蓮葉女」なる女が描かれており、そうした淫売的職業の名が由来だとする説などもあり、定かでない(ここはウィキの「蓮の葉」などを参照した)。

「阿婆摺れ」「あばずれ」。人ずれしていて厚かましく、品行のよくない女を指す卑称(現代では女性にのみ使われるが、江戸時代までは男にも使った)。漢字表記は、当て字で特に意味がなく、単に漢字音として「阿婆」の字が当てられたという説と、中国語で「年を取った女性」を指す「阿婆」という言葉から取られたとする説があるが、そもそもが余り発祥が判らぬ。近世語であろう。]

 

 彼は兩親を久しい前に失つて、浮世の羈絆(ほだし)はない。それで彼の職務とそれに伴なふ硏究にのみ沒頭し、禁制の情事を念頭に置くことは欲しなかつた。異常の美貌――生ける偶像の美貌――が只だ彼の不運であつた。彼が取り上げる事の出來ぬ[やぶちゃん注:如何にも生硬な訳である。「とても口にすることのできないような忌まわしい」というニュアンスである。]條件で富を提供する者もあつた。娘達は彼の脚下に身を投じ彼の愛を嘆願してはねられた[やぶちゃん注:「嘆願して」、「はねられた」。彼に拒絶されたの意。どうも戶澤氏は読点がお嫌いらしいが、どうにも当たり前の日本語としては読み難い。]。艷書は絕えず送られたが、いつも返事はない。或は『岩が根枕』だの『面影に寄る浪』だの『別(わ)れても末に逢はんとぞ思ふ小川』だのと云ふ古典的な謎の樣な文句を書いたのもあり、又或は技巧を弄せずに、只だ打附けにしめやかで、初戀の告白の切なる情の溢れて居るのもあつた。

[やぶちゃん注:「羈絆(ほだし)」正しくは音で「キハン」。「羈」も「絆」も、「繋ぎ止める(綱・繩)」の意で。「つなぎとめること」。また、「行動する際の足手纏いとなること」の意。「ほだし」は、もと「馬を繋ぐ繩」のこと。

「禁制の情事」江戸時代は浄土真宗は教祖親鸞が妻帯を許し、自らも妻帯したことから、真宗の僧は一般的な僧侶の女犯の罪には問われなかった。浄土宗の開祖法然は僧の妻帯を許容する立場をとっが、自らは妻帯しなかった。さすれば、ここで狭義の「禁制」というのは厳密には当たらない。但し、本書刊行は明治二九(一八九六)年であるが、この頃までは、日本の仏教全体の僧の対して、その妻帯を仏教戒律上から禁制の破戒であると批難する傾向は、実際、仏教界内外に強くあった。しかし、明治三十年代に入ると、こうした批判は仏教界内部でも急速に力を失ってゆき、宗派を問わず仏教全般に僧の妻帯が当たり前となってゆくようになってゆくのであった。

「或は『岩が根枕』だの『面影に寄る浪』だの『別(わ)れても末に逢はんとぞ思ふ小川』だのと云ふ古典的な謎の樣な文句を書いたのもあり」原文“Some were written in that classical enigmatic style which speaks of “the Rock-Pillow of Meeting,”and “waves on the shadow of a face,” and“streams that part to reunite.””である。平井呈一氏は恒文社版「因果応報の力」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では、『そういう恋文のなかには、「逢うことの千曳(ちびき)の岩を枕にぞ」とか、「面輪(おもわ)によする仇浪の」とか、流れても末は一つの思い川」とか、いやうに古風な掛けことがの多い文句で書かれたものもあれば、』と如何にも小説家らしい心の行き届いた訳をなさっておられる。]

 こんな手紙にも初めの中は、若僧の心動かざること彼が似て居る佛像の樣に、人目には見えた。併し實の處彼は佛ではない、弱い人間に過ぎなかつた。そして彼の境遇は辛いものであつた。

 或る一人の少年が寺へ來て、一封の手紙を渡し、送り主(むし)の名を囁くが否や闇の中へ逃げて往つた。後で寺の納所坊主[やぶちゃん注:「なつしよばうず」。寺院で会計・庶務を取り扱う僧。]の證言に依ると、僧は其手紙を一誦[やぶちゃん注:「いちじゆ/いちしよう(いっしょう)」。僧だからと戶澤氏はかく訳したのだろうが、原文は普通に“read”で、こないなもん、「誦」(声に出して読む)するはずもなく、訳として不適である。]し、再び封筒に入れて、疊の上の座布團の傍へ置いたといふ。それから久しい間、默想に耽るかの樣にぢつとして居たが、やがて硯箱を出して、宗門の上長宛てに一書を草し、それを机の上に置いた。つぎに時計と汽車の時間表を見も。時間は少し早かつた。夜は眞暗で風が吹いて居る。暫く佛壇の前に平伏して祈禱を捧げた。さで闇を衝いて寺を出で、丁度時間に汽車の線路へ着いた。そして岬一發の急行列車が囂々と進み來る影を見ながら、線路の中央に跪づいた。つぎの瞬間には、鐡軌(レール)を血みどろにして橫たはつた彼の殘骸は、提灯の光で見ただけでも、疇昔[やぶちゃん注:「ちうせき(ちゅうせき)」。「昔日・昨日」の意。]の不思議な美貌の讃美者を絕叫せしめるに十分であつた。

 

 上長に宛てた手紙は發見された。それにはただ彼は精神の力を失つたのを感じて。罪を犯さぬ爲めに自殺と決心した旨を述べであつた。

 も一つの手紙が置いたままに、床の上に橫たはつて居た――其手紙は女言葉で書かれてあつて、片言隻語も悉く謙讓な愛の詞でないものはなかつた。凡ての艷書の如く(艷書は決して郵便には託されぬ)日附もなく、名もなく、頭字(かしらもじ)もなく、封筒にも宿處が書いてない。我々の佶屈な英語に譯すと、不完全ながらつぎの樣なものである。

[やぶちゃん注:以下、手紙の引用は底本では全体が一字下げである。但し、ポイントは本文と同じである。なお、「ちよつと」のルビは「一瞬時」三字に当てたもので、「不束な」は「ふつつかな」と読む。「可祝」は「かしく」で、女性の手紙の末尾に用いる結語の挨拶。「かしこ」の音変化。]

 

 かやうな事を申し上げるのは、大それた事でせうが、申し上げずに居られませんので此手紙を差し上げます。賤しい私は、過ぐる彼岸會の折にお姿を拜見してから物思ひを始めました。そしてそれからといふもの一瞬時(ちよつと)も忘れる事が出來ません。のみならず日增しに思ひの淵に沈む計りで、眠ればお姿を夢に見、覺めてお姿の見えぬ時は、心は闇で空虛で、ただ泣いて計り居ります。此世に女と生まれて來ましたからには、身分の高いお方にも、嫌はれまいといふ大それた願を起こしました、不屆をお許し下さいませ。及ばぬお方と知りつつ此樣に心を惱ますとは何といふ愚かな心なしの仕業で御座いませう。でも此心を押へ附ける事は迚も出來ぬと諦めましたので、其心の奥から出て來る不束な詞を、不束な筆に寫して御覽に入れるので御座います。何卒哀れのものと思召して下さい。お願ひで御座いますから、すげない御返事をお遣はし下さいますな。これもただただ卑しい胸から溢れ出たものと、不憫の奢に思召し、只だ切なさ遣る瀨なさの餘りに、厚かましくも、此文を差し上げる心の程を――お慈悲を以て――御推察の上御判斷下さいませ。お情深い御返事を、一日千秋の思ひでお待ち申し上げます。めでたく可祝。

  御存じの者より戀し懷かしの方樣まゐる。

 

       

 自分は佛敎に精延せる日本の友人を訪ねて、此出來事の宗敎的觀察に就て質問した。自分には、其自殺は人間の弱さの告白としても、壯烈な行爲と思はれたのであつた。

 然るに友人はさう思はなかつた。却つてそれを非難した。聞いて見ると、罪を遁れる爲めに、自殺を考へるだけでも、佛陀は之を精神的に――聖者と伍する資格なしとて――勘當したものだと云ふ。彼の[やぶちゃん注:「かの」。]自殺せる僧はといふと、釋尊が愚者と名づけた者の一に該當する。己れの肉體を破毀して、罪の源泉を破毀したと想像し得るのは愚者のみであるといふのである。

 『併し』自分は抗議した。『此人の生活は純潔でした――彼は、意識せずに、他人に罪を犯させない爲めに、自ら死を求めたと假定すれば如何でせう』

 友人は皮肉に微笑した、そして云つた。

 『昔、家柄のよい容貌も美しい日本の女で、尼にならうと思つた者がありました。或る寺へ往つて、望の程を述べた處が、住持の上人は彼女に云ひました。「御身はまだ若い。今迄殿中の生活をなされたさうな。俗人の眼には甚だお美しい。其お顏故に、俗界の快樂に還らうといふ誘惑が、何れ參るでござらう。且つ又御身の願ひは一時の悲嘆から起こつたものぢや。お望みを叶へる事は出來申さぬ」併し彼女は尙ほ餘り熱心に懇願したので、上人は寧ろ打棄(うつちや)るがよいと考へて往つて了(しま)つた。彼女は一人取り殘されて、見𢌞はすと室には大きな火鉢――眞赤におこつた炭火の――がありました。彼女は其處にあつた火箸を眞赤になる迄燒いて、それで恐ろしくも顏を突き刺して傷つけ、其美しさを永久に破壞して了ひました。其時上人は肉の燒ける臭氣に驚かされて、急いで來て見ると、此有樣を見附けて嘆きました。併し彼女は、聲さへ震るはさずに、再び懇願しました。「私が美しいからとて、お弟子には取らぬと仰せられましたが、今はお取下されませういか』其處で彼女は入道を許されて尼となりました……さて何方(どちら)が優れて居りませう、此女の方でせうか、それとも貴君が感服しておいでの若僧の方でせうか』

 『併し顏を傷つけて醜くするのが、あの際、彼の[やぶちゃん注:「かの」。]僧の取るべき義務でしたらうか』と自分は問うた。

 『そんな事はありません。此女の行爲でも、誘惑の防禦としてのみ爲したのなら、取るに足らぬものでしたらう。自己毀損はどんなのでも佛法では禁じてあります。彼女は其禁を犯したのです。併し彼女は直に道に入り得る爲めに顏を燒いたので、罪に抵抗する意志の弱さを燒いたのではありませんから、彼女の過失は小さい過失でした。之に反して自殺した僧は大罪を犯したのです。彼は彼を誘惑した女共を改心させ、道に導くべきであつたのです。彼は弱くてそれが出來なかつた。若し又僧として罪を避ける事が出來ぬと感じたら、屑よく[やぶちゃん注:「いさぎよく」。]還俗して、俗人としての戒律を持せんと試みる方がよかつたでせう』

 『すると佛敎に從ふと、彼は何の善果をも得なかつたのですな』と自分は尋ねた。

 『どうも得たと想像することは出來ません。ただ佛法を知らぬ者に依つてのみ、彼の行爲は賞讃されるのです』

 『して佛法を知る人に依つては、其結果はどうなると考へられるのでせう――彼の行爲の業果(ごふくわ)は』

 友人は一寸默つて居たが、やがて考へ深さうに云つた。――

 『其自殺の一伍一什[やぶちゃん注:「いちごいちじふ」。「一部始終」に同じい。]は十分に分かりませんが、多分それは初めてではありますまい』

 『前生でも自害をして、罪を遁れようと試みた事があらうと仰しやるのですか』

 『さうです。或は幾つもの前生で』

 『彼の未來はどうなるでせう』

 『佛でないと其問には正確に答へることが出來ません』

 『併し佛の敎へにはどう書いてあります』

 『我々には彼の[やぶちゃん注:「かの」。]僧の心の中を、精確に知る事が出來ません、といふ事をお忘れになりましたな』

 『假りに罪を犯すことを遁れる爲めにのみ、死を求めたと致しますれば』

 『其時には、彼が完全に自分の意志を統制し得る迄、幾千萬囘でも同樣な誘惑に會ひ、それに伴なふあらゆる悲み、あらゆる苦しみを反復(くりかへ)すでせう。幾度死んでも克己といふ最高の任務を遁れることは出來ません』

 友人と別かれた後までも、彼[やぶちゃん注:「かれ」。]の言葉は自分にこびりついて退(の)かなかつた。そして今でもこびりつて居る。其言葉は、此章の始めに擧げた學說に就て、新たな考へを自分に起こさせた。自分には戀愛上の不可思議に關(かん)する、彼の凄壯な解釋は、我が西洋風の解釋よりも、寧ろより多く一考を價する樣に思はれてならぬ。自分は思ふ、死に導く戀愛は、幾囘となく埋められた情熱の飢餓といふだけよりも、もつと意味の深いものではないか。其上に長く忘れられた(前世の[やぶちゃん注:ここは底本では丸括弧内の二行割注で、戶澤氏による挿入注である。])罪過の避くべからざる應報(むくい)を意味するものではないだらうか。

 

2019/12/13

小泉八雲 趨勢一瞥 (戸澤正保訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“A GLIMPSE OF TENDENCIES”。内容から見て、急速に近代化する日本の現在の「趨勢(傾向)に就いての管見」といった謂いである)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第八話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 文中途中に突如入る注は四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げて本文と同ポイントで示し、前後を一行空けた。

 訳者戶澤正保(明治六(一八七三)年~昭和三〇(一九五五)年:パブリック・ドメイン)はイギリス文学者。東京外国語学校校長。「姑射」の号でシェイクスピア作品の翻訳を浅野馮虚(ひょうきょ)とともに手がけ、「沙翁(さおう)全集」を刊行したことで知られる。茨城県生まれ。菊池庸の二男であったが、戸沢正之の養子となった。明治三二(一八九九)年に東京帝国大学文科大学英文科を卒業(これから見て小泉八雲の教えを受けた可能性が高い)、大学院に進学、明治三五(一九〇二)年に山口高等学校教授となり、明治四〇(一九〇七)年からは嘗て小泉八雲や夏目漱石が罪人した第五高等学校教授を務めた。イギリス留学を経て、再び山口高等学校教授となり、昭和四(一九二九)年に弘前高等学校校長に就任、昭和七(一九三二)年、東京外国語学校校長に転じ、昭和一三(一九三八)年退官(以上はウィキの「戸沢正保」及び講談社「日本人名大辞典」などを参照した)。底本では「戸沢」ではなく「戶澤」と表記している。]

 

        第八章 趨勢一瞥


        

 開港場の外人居留地は、其極東的な周圍に著しい對照を呈して居る。其街路の整然たる醜惡さの中に、人は世界の此方側(こつちがは)には無い筈の場處を想ひ出させられる――恰も西洋の斷片が魔術的に海を超えて運び來られたかの如く。――リバープールや、マルセイユや、ニユーヨークや、ニユーオルレアンスや[やぶちゃん注:以上総ては港湾都市。]、さては一萬二千乃至五千哩[やぶちゃん注:「マイル」。約一万九千三百十三から八千キロメートル強の間。]彼方の熱帶植民地の市街の一部分が。商館の建物――日本の低く輕い商店に比較すれば巨大な――は財力の脅威を語る如くに見える。種々雜多の樣式の住宅――印度人の平屋建(バンガロー)[やぶちゃん注:“Indian bungalow”であるが、これは(アメリカ・)インディアンのそれと訳すべきところであろう。]から、小塔(ターレツト)[やぶちゃん注:“turrets”。建物の角から張り出した内部に小部屋を持つ小さな塔。]や張出窓(ボーウヰンドウ)[やぶちゃん注:“bow-windows”。一般に外側に弓型に出た張り出し窓。]を具へた英佛式の山莊風に至る迄の――は平凡な刈り込んだ灌木の庭園に圍繞[やぶちゃん注:「ゐねう(いにょう)」。]せられ、白い道路は固く卓子の樣に平らで、立ち込んだ樹木で劃(かぎ)られて居る。殆ど英米に於ける傳統的な凡ての物が此處に移植されてある。敎會の塔も見える、工場の煙突も見える、電信柱も見える、街燈も見える。鐡扉の附いた舶來煉瓦の倉庫、板がガラスの窓のある商店の店前(みせさき)、步道、鑄鐡の欄干(てすり)なども見える。朝刊夕刊又は週刊の新聞がある、倶樂部がある、圖書館がある。球廊(たまころがしば)[やぶちゃん注:“bowling alleys”。ボーリング場。]がある、撞球場[やぶちゃん注:“billiard halls”。]がある、酒場がある、學校がある、海員禮拜堂[やぶちゃん注:“bethels”。キリスト教徒の船員たちのために設けられた海岸近くの礼拝所。主に米国で用いられる語。]がある。電燈會社もある、電話會社もある。病院も法廷も監獄も外人警察署もある。外人の辯護士も醫者も薬劑師も、又外人の食品店、菓子舖、麪包屋[やぶちゃん注:「バンや」。]、牛乳屋、男女服裁縫師もある。外人の學枚敎師、音樂敎師もある。役場の事務と各種の公會に充(あ)てる公會堂もある――これは又素人演劇や講演や音樂會にも使用する。又偶(たま)には世界巡遊の劇團が暫し此處に逗留して、本國で爲(す)る樣に男を笑はせ女を泣かす事もある。クリケット場(グラウンド)もある。競馬場もある、公園――或は英國で所謂スクエーアもある[やぶちゃん注:この場合の(原文は““squares””)は「広場」のこと。]、――快走船(ヨツト)會、競技會、又は水泳場もある。又耳馴れた音樂の中には、ピアノ練習の果てしもなき絃聲、市中音樂隊(タウンバンド)の破る〻樣な響き、又折々は手風琴[やぶちゃん注:“accordions”。アコーディオン。]の喘ぐ樣な昔が聞こゆる――聞こえないのは實際ただ手廻はしオルガン[やぶちゃん注:“organ-grinder”。街頭での「箱型の手回しオルガン弾き」のこと。]の響きのみである。住民はといふと、英國人、佛國人、獨逸人、米國人、丁抹人[やぶちゃん注:「デンマークじん」。]、瑞典人[やぶちゃん注:「スウェーデンじん」。]、瑞西人[やぶちゃん注:「スイスじん」。]、魯國人[やぶちゃん注:「ろこくじん」。ロシア人。]と、それに伊大利人及びレバント人譯者註が薄く撒き散らされてある。それから支

 

譯者註 伊太利の東方地中海沿岸一帶の諸國諸島嶼の住人。

[やぶちゃん注:「レバント人」原文は“Levantines”。Levant(レバント又はレヴァント)とはウィキの「レバント」によれば、『東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。厳密な定義はないが、広義にはトルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域』。『現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル(およびパレスチナ自治区)を含む地域(歴史的シリア)を指すことが多い』とある。]

 

那人を忘れようとしたが[やぶちゃん注:「つい、忘れるところだった」の意。別に小泉八雲に意図はない。寧ろ、肌の色から日本人とつい区別して認識していなかったという謂いであろう。]、彼等も大勢居て、彼等だけで一隅を占領して居る。併し優勢な分子は英米人である――中でも英人が最多數を占めて居る。此等有力な人種のあらゆる缺點も長所の幾分も海外で硏究するよりも此處では一層明瞭に見られる――其故はこんな小さい社會では、各人が他の各人に就て凡てを知つて居るからである――全くここは極東といふ茫漠たる不知の沙漠中のオアシスである。書くに堪へぬ醜い噂もあれば、又貴く情深い美談もある――それは己れは利慾一點張りだと稱し、傳統の假面で美しい心を世間から隱して居る人々が爲した、立派な行動に就てである。

 併し外人の領域は、苦もなく橫斷し得る程の範圍を超えては居らぬ。そして久しからぬ中に再び消滅して了ふであらう――その理由は今に述べる。一體居留地の發展は早熟に過ぎた――殆ど米國西部諸州の『蕈の市』の如くに――そして出來上がると間もなく發展の極限に達したのである。

[やぶちゃん注:『蕈の市』は「きのこのまち」と訓じておく。原文は““mushroom cities””。「mushroom」には瞬く間に伸びてくる茸(きのこ)のさまから、「急成長する」という形容詞の用法があり、ここもその用法で、平井呈一氏は恒文社版「趨勢一瞥」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『「新開町(マッシュルーム・シティ)』と訳しておられる。以下の「市」も「いち」ではなく、「まち」(別に「し」でもよいが)と読んでおく。]

 居留地の周圍及びその先きには、本國人の市――眞の日本の市――が判然分からぬ方面にまで延びて居る。普通の居留人には、此本土人の市は祕密の世界である。彼は十年も居る中に、一度も其處へ行つて見る價値がないと思つて居るらしい。彼は單に一商人で、土俗の硏究者ではないから、それに何の興味も持たず、それがどんなに變つた物であるかと考へる暇もない。併し實は居留地を橫ぎるだけで、太平洋を橫ぎるのと同じなのである――其太平洋も兩人種の間の間隔より廣くはない。日本人市街の長い狹い迷路の中ヘ一人で入り込むと、犬には吠えられる、子供等にはたつた一人の外國人ででもあるやうに、ぢろぢろ見られるであらう。そして多分『異人』、『唐人』若しくは『毛唐人』と後ろから呼ばれるであらう――此最後の語は『毛深い外國人』といふ事で、決して讃辭として用ゐられるのではない。

 

        

 長い間居留地の商人は萬事に我が儘に擧動(ふるま)うた、そして日本人の商會に、西洋の商人ならば迚も承諾しようとも思はれぬ取引法を强要した――それは日本人は悉く詐僞漢だといふ外人の信念を表はす取引法であつた。外人は日本人から現品を受け取つて、久しく留め置いて調査に調査を重ね、手を盡くした後でないと、何物をも買はぬ――又は輸入の注文が來ても『手附金の多分な拂込』が伴なはぬと、之に應ずることをせぬ。日本の賣手買手がいくら反對しても遂に無效で、いやいやながら屈服せしめられた。併し彼等は時機を待つたのである――ただ遂には打勝たうといふ決心を以て屈服しつつ。外人町の急激な發展と、其處に投(おろ)されて成功した巨額な資本とを見て、彼等は先づ自ら成功する前に、大いに外人に學ぶべき所あるを知つた。彼等は敬服せぬが驚嘆した、そして心中では密かに外人を厭ひつつも、外人と取引きもし外人の爲めに働きもした。舊日本にあつては、商人は平百姓の下に位して居たのである。然るに此等の侵入外商は、王侯の氣位と制服者の傲慢とを冒して居る。雇主としては大抵苛酷で、時には殘忍である。それにも拘らず、彼等は營利の事に就ては驚く程怜悧で、帝王の如き生活をし、高い給金を拂つて居る。日本の若者に取つては、國家を外人の支配に移さざらんが爲めに、學ばざる可からざる事を學ぶには、彼等に使用せられて難儀をするも願はしい事であつた。いつかは日本も自分の商船と海外銀行と外國取引の信用とを得て、此等傲慢な外商を驅逐する日が來るであらう。先づ當分は敎師として彼等を恕し置くべきであるとした。

 

註 一八九五年七月二十一日の「ジヤパン・メール」を見よ。

[やぶちゃん注:「ジヤパン・メール」一八七〇年一月(明治二年十二月)に横浜で発行が開始された英字新聞“The Japan Weekly Mail”のことであろう(大正七(一九一七)年に現在も続く『ジャパン・タイムズ』(Japan times)に吸収合併された)。]

 

 そこで輸出輸入とも、貿易は全然外人の手に在つて生長し、無一物から數億の巨額に上つた。かくて日本はよく利用せられた。併し日本は學ぶ爲めに拂ひつつあるのを承知して居た。そして其忍耐は、侮辱の忘却と思ひ取られる程長く忍ぶといふ風の忍耐であつた。天運循環して日本の機會は來た。利を漁る外人の殺到が最初の好機を與へた。日本人との貿易の競爭が舊習を打破した。新しい商館は喜んで敢て手附金なしの注文を取つたので、巨額な前金を强奪することは出來ぬやうになつた。外人と日本人との關係も同時に改善された――それは日本人が虐遇さるれば突然團結するといふ危險な性能を現はし、短銃で嚇されなくなり、どんな罵詈をも許さず、そして尤も危險な惡漢(ごろつき)をでも、數分間で片附けて了ふ事を知つたからである。人民の屑なる開港場の亂暴な日本人に至つては、疾くから少し氣に入らぬ事があると、直ぐ攻勢を取るやうになつて居たのである。

 居留地の建設後二十年ならざるに、甞ては此國を擧げて彼等の有に歸するのも、ただ時の問題と思つて居た外人等は、此人種を餘りに見縊り過ぎて居た事に氣が附き始めた。日本人は如何にもよく學びつつあつたのであつた――『殆ど支那人と同樣に』。彼等は外人の小商人に取つて替はつた、そして樣々の商館は、日本人の競爭の爲めに閉店の止むなきに至つた。大商館にさへ、樂々と金儲けの出來る時代は過ぎ去つて、勉强の時代が始まりつつあつた。初めの頃は、外人の凡ての日用品は是非共外人に依つて供給されねばならなかつた――そこで卸商の保護の下に大きな小賣商が發達したのであつた。處が居留地の小賣業は明らかに前途を塞がれた。其の或る商賣は消滅した、消滅せざるものも目に見えて減少しつつあつた。

 今日では商館の安手代や雇人[やぶちゃん注:原文は“clerk or assistant”店で働く「売り子」はアメリカ英語では「sales clerk」、イギリス英語では「sales assistant」であるが、ここで小泉八雲は明らかに差異を示しているように見え、戸澤氏の「雇人」では今一つそれが出ない憾みがあるし、「安」(やす)を「手代」に被せてはなおのこと格落ちで、よく判らぬ。「clerk」は英語では狭義には「会計担当の社員」を指し、これを本邦の昔風の呼び名に従うなら、「手代」よりもその上の「番頭」であり、「手代」の下で平店員である「丁稚」の上の「手代」が寧ろ「assistant」なのではないか? 平井呈一氏も恒文社版「趨勢一瞥」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)で『外国商館の番頭や手代』と訳しておられる。]は、居留地のホテル生活には堪へられぬ。併し小額の月給で日本人の料理人(クツク)[やぶちゃん注:“cook”。]を雇ひ、若しくは日本人の飮食店から、一皿五錢乃至七錢で食事を仕出して貰ふ事が出來る。そして日本人の所有する『半洋風』の家に住んで居る。床に敷く絨毯や花莚[やぶちゃん注:“mattings”。平井氏は『畳』と訳しておられるが、ここは寧ろ、畳ほどには厚くない藺草で編んだ柄入りの文字通りの昔から本邦にある「花莚」(はなむしろ)、薄いマット状のものを指すものと考える。]は日本製である。家具は日本の家具商が供給する。衣服、襯衣[やぶちゃん注:「シャツ」。]、靴、ステッキ、洋傘、何れも日本製で、手水臺[やぶちゃん注:“washstand”。洗面台であろう。]の石鹼にさへ日本字が打込んである。喫煙家なら、馬尼刺葉卷[やぶちゃん注:「マニラはまき」。]を日本人の煙草屋から、洋商が同種のものを賣る代價よりも一箱半弗[やぶちゃん注:「はんドル」。]安く買ひ取る。書物が入用なら、外人の書籍商よりも大分安く、日本人から買ふ事が出來る――そしてより多く、よりよく精選した仕入品の中から買ひ取るのである。寫眞を撮らせたければ、日本人の寫眞店に行く――外人の寫眞屋は日本では生活が出來ぬのである。骨董が欲しければ、これも日本人の店へ行く――外商は百パーセント[やぶちゃん注:一割。]も高く請求するのが常である。

 又一方若し子供の多い者なら、日常の買物は、日本の肉屋、魚屋、牛乳屋、菓物屋、八百屋に依つて供給される。暫くの間は英米のハムやベイコンや鑵詰物を、外人の食料商から買ひ續けるかも知れぬ。併し日本人の店は、同じ品質の物を安價に提供する事を發見する。醇良な麥酒を飮むなら、それも多分日本の釀造所から來る。普通の葡萄酒や、其他の酒類の上等が入用なら、それも日本人の店は、外人の輸入商よりも安價に供給する。實際日本人の店から買ふ事の出來ぬ唯一のものは、どうせ買ふ力のないもの――卽ち富豪のみが買ふらしい高價な品物ばかりである。そして最後に、若し家族に病人が出來たら、日本人の醫者に診て貰へば、素と[やぶちゃん注:「もと」。以前に。]外醫に診て貰つた時、拂ひ拂ひした額よりも一割方安い謝禮で濟む。外人の醫者は今は生活が困難である――醫術以外に何か手緣る[やぶちゃん注:「たよる」。]ものがない限りは。外人の醫者が謝禮を一往診一弗に引き下げても、日本の醫者は二弗取つて、それで見事競爭に勝つ事が出來る。――それは日本醫は、醫者自身が藥劑を、外人の藥劑師を破產せしむる程の代價で賣るからである。勿論何處の國にも醫師は澤山ある。併し公立の病院若しくは陸軍の病院に院長たり得る腕前を有し、獨逸語を話す日本醫師は、其技術に於て容易に他の追隨を許さない。外人の醫師は多分之と拮抗することは出來まい。日水醫は藥品店へ持つて行く爲めの處方箋は吳れぬ。藥品店は彼の家にか、或は彼が司宰する病院の一室にあるのである。

 

 此等の事實は、澤山の中から手當り次第に搔き集めたのであるが、外人の商店卽ち米國人の所謂『ストーアス』[やぶちゃん注:““"stores,"””。ストア。]は、間もなく消滅するであらうといふことを示すものである。中には日本人中の小商人の不必要な、莫迦らしい欺瞞の爲めに却つて沒落を延ばしたもの日本人の欺瞞といふのは、外國の貼紙のある外國の壜に詰めて、怪しげな液體を賣らうとしたり、輸入品を僞造したり、或は商標を模造したりなどである。併し全體としての日本商人の常識は、こんな不德義には甚だしく反對して居るから、こんな惡弊は自然に止むであらう。日本商人は正直に外國人よりも安く賣る事が出來るのである。それは外國人よりも安價に生活し得るのみならず、競爭しながら金を儲け得るからである。

 これは居留地内でも少し前から認められるやうになつた。併しつぎの樣な妄想が行はれて居た。卽ち輸入及び輸出の大商館は難攻不落である、彼等は西洋との貿易の大勢を猶ほ支配し得る、日本の商會は外資の壓迫に對抗する資本を有せぬ、或は資本を用ふる商業上の方式(メソド)[やぶちゃん注:“methods”。メソッド。]を習得し得ぬであらう。小賣業は如何にも滅亡するであらう、併しそれは大(たい)した事でない。大商館は依然として殘り、增加し、而して其資本を益〻增大するであらうと。

 

       

 こんな外形的變化の行はれる中(うち)ぢゆう人種間の實際感情――東洋、西洋兩人種相互の嫌惡――は增大し續けた。開港場で發行される九若しくは十種の英字新聞の多數は、每日嘲弄輕蔑の辭で、此嫌惡の一側面を表現した。そして有力な日本の新聞紙は、賣り言葉に買ひ言葉で之に答へ、危險な反應を起こした。此等『反日本的』新聞紙が、た實際居留民の絕對多數の感情を代表せぬとしても――自分は代表すると信ずるのであるが――少くとも彼等は外資の壓力と、居留地の優越な勢力を代表して居る。日本贔負[やぶちゃん注:「ひいき」。「贔屓」に同じい。]の英字新聞は達識の人に依つて司宰せられ、非凡の新聞記者的能力を發揮しても、彼等の同業者の言說に依つて挑發せられた强い惡感を緩和するに足らない。英字新聞に揭げられた野蠻不道德の非難は、直に日本の日刊新聞紙上で、開港場の醜聞摘發で答へられた――そして幾百かの本土人の知る所となつた。此人種問題は强大な排外團に依つて、日本の政治上の問題とされた。居留地は惡德の溫室として公然攻擊された。そして國民の憤激は其極に達し、政府が斷乎たる處置を取つたので辛うじて大事に至らずして止んだ程であつた。それにも拘らず、外人記者に依つて、油は餘燼の上に注がれた。彼らは日支戰爭の初期に當つて、公然支那側に味方したのである。此政策は戰爭中繼續された。日本敗北の無實の噂が臆面もなく記載された。爭ふべからざる捷報まで不當にも過少視(けな)[やぶちゃん注:三字に対するルビ。]された。そして戰爭が濟むと『甘やかし過ぎたので、日本は危險な國になつた』といふ叫び聲を揚げた。間もなく魯國の干涉が喝采され、英國の同情が英國人の血を有つた者共に依つて咀はれた[やぶちゃん注:「のろはれた」。批難された。]。かかる時、かかる言辭を弄するの結果は、決してこんな事を寬假[やぶちゃん注:「くわんか(かんか)」。人の罪や欠点などを寛大に扱って咎めだてしないこと。]せざる國民に、寬暇せられざ侮辱を如へた事になる。それは憎惡の辭であると同時に驚愕――凡ての外人を日本の司法權の下に置く新條約の調印に依つて惹起された驚愕と、其背後に全國民を有するといふ、新たな恐ろしい意味の排外運動が又起こりはせぬかといふ、全く根據のなくもない恐怖との辭であつた。實際そんな運動の徵候は、外人を侮辱嘲弄せんとする一般の傾向と、或る稀な併し有意義な暴行に、判然と表はれて居たのである。政府は再び布告を發し、此等國民的憤怒の示威的行動を戒むるの必要を見出した。そこでそれも始まるや否や終熄した。併し此終熄は重に海軍國としての英國の友好的態度と、一朝世界の平和が危險を感ずる時、日本に及ぼす英國の政策の價値を認めたが故なることは疑ひない。英國は又日本の條約改正を可能ならしめた最初の國である――極東在住の臣民[やぶちゃん注:在日イギリス人のこと。]の熱烈な反抗の聲にも拘らず。日本の先輩達[やぶちゃん注:日本政府指導者。]はそれに感謝の意を有して居る。若し此事が無かつたら、居留民と日本人との間の憎惡は、恐れられた通りの結果を招來したかも分からない。

 勿論初めには相互の敵意は人種的であり、從つて自然であつた。併し後に發展した莫迦莫迦しい猛烈な偏見、惡意は、次第に增加する利害の衝突から來る避くべからざるものであつた。此情勢を具に會得し得る外人ならば、眞面目に和解の希望を懷き得るものではない。人種感、情緖的差別、言語、風習、信仰の牆壁は、數世紀間超ゆべからざるままに遺るであらう。たまには直觀的に相互の意中を推察し得る、除外例的の人物の相互接近より起こる暖かき友愛關係の例もあるが、槪して外人は日本人を了解せぬ事、日本人が外人を了解せぬと同樣である。外人に取つて誤解よりも更に惡るき事は、外人は侵入者の地位に在るといふ簡單な事實である。普通の場合、外人は日本人同樣の待遇を豫期するは無理である。これは只だ外人は餘計金を持つて居るから計りではない。人種的相違の故からでもある。外人に賣る値段と、日本人に賣る値段とに差違のあるのは通則である――殆ど全く外人相手の商店を除くの外は。若し外人が日本の劇場、見世物、其外何でも娛樂場、若しくは宿屋にでも入らうとすれば、事實上の國籍税を課せられる。日本の職工、勞働者、手代は外人の爲めに日本の相場では働かぬ――給金以外の或る目的な有する場合の外は。日本のホテルは――特に英米の旅客の爲めに經營されるホテルの外は――我々の勘定書を作るのに普通の値段ではせぬのである。此通則を維持する爲めに、大きな宿屋組合が作られた――國中の幾十百の宿屋業者を指揮し、地方の商人や小宿屋業者に命令し得る組合が作られた。外人は餘分の面倒を懸ける故に日本人よりも餘分の宿泊料を頂戴するといふ事が立派に告白された。そして其擧げた理由は事實である。併しこんな事實の下にも、人種感は明瞭である。大中心地に日本の旅客のみを目的に立つてる[やぶちゃん注:ママ。]旅館は、外人客を念頭に置かぬ、外人客に泊まられて損失を招く事が往々ある――それは、一には金のある日本の客は外國人を泊める旅館を好まぬのと、一には西洋の客は、日本人なら一行五人乃至八人の旅客に、有益に貸し得る室を獨占せんとするからである。尙ほ此事に關して一般に了解されて居ぬ事實が今一つある。それは舊日本に於ては、努力に對する報酬の問題は、客の意志に委せてある事である。日本の旅館は食物を殆ど實費で提供するのが常であつた(今でも田舍の宿屋はさうである)。そして眞の利益は、全く客の良心に手緣つて居た。旅館に茶代を置くといふ要件はそこから出たのである。貧しい客からは、志計り[やぶちゃん注:「こころざしばかり」。]、富める客からは多分の金額が豫期された――懸けた努力に準じて。同樣に雇人も爲した仕事の價値よりも雇主の懷中(ふところ)に相應する報酬を豫期した。職工は好い旦那の仕事をする時には、賃錢を指定するを好まなかつた。ただ商人のみが懸け引きをして顧客を搾らうとした――それが商人といふ階級の不道德な特權であつた。仕拂ひを客の意志に委せる習慣が、西洋人を相手にして好結果を得なかつた事は、容易に想像せられる。我々は賣買の事は凡て事務(ビジネス)と考へる。西洋に於ては、事務が純抽象的の道義心で行はれる事はない。精々比較的部分的の道義心で行はれるに過ぎぬ。寬厚の人は買はうと思ふ品物の代價を良心の決定に委せられるのを極力厭ふ。それは原料の價値と勞力の價値とを精確に知らぬと、出し過ぎたと思ふ程餘分に拂はねばならぬやうに、强ひられる氣がするからである。之に反して卑劣の徒は、好い事にして出來るだけ無に近い代金を拂はうとする。かういふ譯で西洋人との取引には特別の定價が日本人に依つて定められるに至つたのである。併し人種的反感の故に取引其者が[やぶちゃん注:「そのものが」。それ自体が、の意。]、場合次第で多少攻擊的になる。外人は啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]各種の熟練工の勞働に高價を拂はせられるのみならず、高い借地證に調印し、高い家賃に服從せしめられる。外人の家庭に在つては、高い給金を拂ひながら、最低級の日本人婢僕だけを雇ひ入れることが出來る。それでも彼等は長くは留まらぬ、それは彼等に要求せられる仕事を嫌ふからである。敎育ある日本人が、外人の雇傭を冀ふ明白な熱心さも、普通誤解されるのであるが、これは彼等の眞の目的は、多くの場合只だ日本の商館、商店、ホテル等に於ける同種の業務を見習はうといふのである。普通の日本人は外人の爲めに高い給金で一日八時間働くよりも、日本人の家で、低い給金で、一日十五時間働く方を好むのである。自分は大學卒業生が使用人として働くのを見た事があるが、それはただ或る特殊の事を學ばんが爲めに、働いて居たのであつた。

 

       

 實際尤も鈍感な外國人でも、國家の絕對獨立を確立せんとして、全力を注ぐに一致して居る四千萬の人民が、一國の輸出入貿易を外人の手に委ねて、安閑とし居ようとは信じ得なかつたであらう――特に開港場に於ける空氣を目擊してはである。領事裁判の下に、外人の居留地が日本の地に存在するといふ事其事が、國民の自負心に對して絕えざる憤激の種である――國民の無力の指示である。印刷物にも、排外團員の演說にも、議會に於ける演說にも、其通り聲明されてある。併し日本の全貿易を日本の手に收めたいといふ此國民的要望や、居留民としての外人に對する周期的挑戰の聲も、只だ一時の不安を惹起したるに過ぎない。日本人が相談相手たる外人を排斥せんとするのは、自らを傷けるに過ぎないと、自信ありげに主張された。彼等が日本の法律の下に移されんとする形勢に驚きながらも、居留地の商人は其法律の侵害に依つての外は、大資本に對する攻防が成功しようとは決して想像しなかつた。日本郵船會社が戰爭中に、世界最大の汽船會社の一になつた事も、日本が直接に印度や支那と交易しつつあつた事も、日本の銀行代理店が世界到る處の工業の大中心地に設けられた事も、日本商人が其子息を歐米に派遣し、健全な商業敎育を受けしめつつあつた事なども、薩張り[やぶちゃん注:「さつぱり(さっぱり)」。]念頭に置かなかつた。日本人の辯護士が、次第に多くの依賴人を有するに至り、日本の造船技師建築技師其他の技師が、政府傭聘の外人に替はりつつあるも、尙ほ歐米との輸出入貿易を統制しつつある外人代理店主は、驅逐せられるの日があらうとは考へなかつた。商業といふ機關は日本人の手にては用を爲さぬであらう、他の職業に於ける能力で、決して商業に於ける潜在能力を卜する事は出來ぬ。日本に投(おろ)された外國の資本は、之に對抗すべく作られた聯合に依つて、見事に脅かされる事はあり得ない。或る日本人の商店は、小規模の輸入業は爲し得よう、併し輸出業は歐米に於ける商業情態の完全なる知識と、日本人にどうしても得られぬ底の連絡と信用とを要すると豪語した。それにも拘らず、輸出入貿易の自信は、一八九五年七月に手もなく破られた。それは英國の一商館が日本の一商會を相手取り、注文の貨物引取方を拒絕したといふに對し、日本の法廷に告訴し、そして裁判には勝つて約三千弗を贏ち[やぶちゃん注:「かち」。「勝ち」に同じい。]得たが、突然今迄思ひもかけなかつた有力な組合が現はれ出て脅かされたのである。敗けた日本の商會は判決に對し控訴はしなかつた、そして欲(ほ)しいなら全額を直に支拂はうと表明した。併し其商會の屬して居る組合は、勝つた原告に和解を勸め、それが畢竟彼等の利益であらうと告げた。英國の商館は其時長く續けば全く破產させられる程の不買同盟(ボイコット)[やぶちゃん注:原文“boycotting”。底本ルビは「ボイコツト」であるが、後の原注と本文で促音化されて表記されてあるので特異的に促音表記で示した。]で脅かされて居るのであつた――全國のあらゆる商工業中心地に互る不買同盟で。和解は直に成立したが、商館は大損失を蒙つた、そして居留地は靑くなつた。此方法の不德義を非難する聲も可なり聞こえた

 

註 經驗に富んだ神戶の一商人は一八九三年八月七日の「神戶クロニクル」に寄書してつぎの如く云つた――『私はボイコットを擁護する譯ではないが、私の知つてる[やぶちゃん注:ママ。]限りでは、あらゆる場合に日本人を焦ら立たせ、彼等の感情を昂奮せしめ、正義の感を喚起させ、そして彼等を驅つて防禦の爲めに聯合せしめるに至つた挑戰的行動があつた』と。

 

 併しそれは法律も如何ともし難い方法であつた。不買同盟は法律では滿足に解決し得ざるものであるからである。そしてこれは日本人は、外國商館を否應なしに彼等の口授に服從せしめ得る――公正な手段でなくば、卑劣な手段でなりと――實力を有するといふ確證を提供したものである。巨大な組合が大商工業者に依つて組織された――其組合の命令は、電信に依つて完全に統一されて、反對者を破碎し、法廷の判決をも無視し得るのであつた。前にも日本人は度々ボイコットを企てたのであるが、いつも失敗したので、彼等の合同は不可能だと考へられて居た。併し此度の新しい成り行きは、彼等が失敗に依つて學ぶ所多かつた事を、又此聯合を一層改良すれば、外國貿易をたとひ彼等の手中に收めずとも――彼等の意思のままに統制し得るとの期待も決して無理ならぬ事を示した。つぎに來る大飛躍は、國民の希望――日本は日本人のみへ――の實現であるであらう。彼等の國は外國居留民へ開かれてあらうとも、外國の資本は、常に日本人組合の、意志のままに委ねられるであらう。

 

       

 以上の簡單な現況の記述は、日本に於ける大いに有竟義な社會現象の發展を證するに足りよう。勿論新條約の下に豫期せられる、國土の開放、工業の急激な發展、歐米との貿易額の年々の大增加は、多分外人渡來の增加を幾分か來たすであらう。そして此一時的の結果に欺かれて、避く可からざる大勢を誤算する者も多いであらう。併し經驗ある老商人は、今でも開港場の將來の發展は、日本人の競爭的商業の發達を意味するもので、遂に之が爲めに外商は驅逐せらる〻だらうと云つて居る。別社會としての外人居留地は消滅し、ただ文明國の凡ての重なる港に存する樣な、少數の大きな代理店のみが殘るであらう。そして居留地の棄てられた街と、高地にある贅澤な洋館は、日本人に依つて占有せられるであらう。大きな本國の投資は内地には爲されぬであらう。そして基督敎の傳道事業も、日本人宣敎師に委ねねばなるまい。丁度佛敎が全く日本の僧侶に、其敎義の敎化を委ねた迄は、日本に根を張らなかつた樣に、その如く基督敎も日本民族の情緖的並に社會的生活と調和する樣に改造される迄は、決して物にならぬであらう。さう改造された處で、二三の小さい宗派の形に於てしか存在する見込みはない。

 此社會的現象は、比喩に依つて說明するが一番よい。多くの點に於て、人間の社會は、生物學的に一個の有機體と比較され得る。何れにしても、其組織の中に無理やりに異物を押し込んで、それが同化されぬと、刺戟と分解とを惹起し、遂には自然に剝脫するか、或は人工的に切り取らねばならなくなる。日本は此異分子の剝脫に依つて、强健になりつつあるのだ。そして此自然的な經過は、凡ての居留地を取り戾し、領事裁判を癈止し、帝國内の何物をも外人の支配下に殘すまいといふ決心に依つて表はされて居る。此事は又外人雇傭者の解雇、外人宣敎師の橫柄に對して日本信者團の提起した抗議、及び外商に對する斷乎たる不買同盟等にも現はれて居る。又此の凡ての人種的運動の背後には、人種的反感以上のものが潜んで居る。卽ち外國の援助を受けるのは、國民の無力を證するものだ、其輸出入貿易が外人の手にある間は、帝國は世界の商業界の眼前に恥を曝すものだと云ふ確信が存して居る。日本の大商會の多くは、既に全く外國仲買人の支配を脫して居る。印度及び支那との大貿易は、日本の汽船會社に依つて行はれる、南米諸國との交通も、綿の直輸入の爲めに、日本郵船會社に依つて間もなく開かる〻筈である。併し外人居留地は、常に刺戟の源である、倦まざる國民的努力に依る商業的征服のみが國民を滿足せしめるだらう、そしてそれが支那との戰爭よりも、一層よく日本の世界に於ける眞の地位を證明するであらう。そしてその勝利も確に成就せられるだらうと自分は考へる。

 

       

 日本の將來はどうなるか。誰れでも現在の趨勢が將來迄繼續sるだらうといふ臆定の上に、積極的の預言を爲すことは敢てし能はぬ。併し恐ろしい戰爭の有無などは暫く論ぜず、又内亂の結果、憲法は無期限に抛棄[やぶちゃん注:「はうき(ほうき)」。「放棄」に同じい。]せられ、軍政の昔に還ること――近代的軍服を着けた將軍職の復活――などの有無は暫く論ぜず、善かれ惡かれ[やぶちゃん注:「よかれあしかれ」。]大變化があるべきは確實であらう。其變化は當然として、さて我々は此人種は急激な有爲轉變の時代を通じ、新たに得たる西來の知識を尤も有效に同化し續けるだらうといふ無理ならぬ假定に基づいて、或る狹い範圍内の豫言は爲し得ると思ふ。

 

 體格に於ては、日本人はつぎの世紀の終末に達せぬ中に、現在よりも大分優れたものとなるだらう。さう信ずるには三つの確な理由がある。第一は、帝國内の强壯な靑年の組織立つた敎練體育の兩訓練は、數代の中に獨逸の軍事敎練が爲した如き著しさ結果――身長、胸圍、筋骨發達の增加を來たすに相違ないと云ふ事である。第二は、都市の日本人は、滋養多き食物――肉を食ひ初めた事、從つて滋養分に富める食物が、生長發育を增進する生理的結果を齎すに相違ない事である。日本食と同樣に安價に西洋料理を賣る飮食店は、到る處無數に出現しつつあるのである。第三は、敎育と兵役義務の必然の結果たる結婚の遲延は、益〻良好なる子孫を產出するに至るべき事である。早婚は今や通則でなく除外例となつたから、弱い體格の小兒は從つて數に於て減少するであらう。今日本人の群集を見渡すと、體格に非常な大小の差ある事が目に附くが、これは此人種は嚴格な社會訓練の下に置けば、體格の大なる發展の可能な事を證するやうに思はれる。

 德義の進步は餘り期待されない――寧ろ其反對である。日本の昔の道義の理想は、少くとも我々の理想と同程度に高いものであつた。そして家長政治の靜かな溫かな時代には、實際其理想通りに生活する事も出來たのである。不信、不正直其他醜き罪過は、今よりも稀であつた事は、政府の統計の示す處で、犯罪の百分率は此數年確実に增す計りである――これは勿論種々の原因もあるが、就中生活難の强烈となつた證據である。昔の男女の貞操の標準は、我々の輿論に現はれた所に依ると、我々の社會よりも發展せぬ社會に屬するものであつたといふ。併し其方の道德が、我々に於けるよりも、低かつたと主張することの、當たれるや否やを自分は疑ふ。或る一點に於ては却つて高かつたのである。といふのは日本の妻女の貞節は、何の時代に於ても、一般に疑ふ可からざるものであるからである。

註 日本語には貞操といふ事を表現する言葉がないといふ陳述をした者があつた。これは英語にも貞操を表はす語がないと云ひ得ると同じ意味に於て眞である――名譽とか德とか純潔とか貞操とかいふ語は、皆他國語から英語に採用されたものであるから。試に日英辭書を開いて見よ、貞操といふ事を表はす多くの語を見出すでゐらう。貞操といふ(チヤスチチ)[やぶちゃん注:“chastity”。「チャスティティ」は「純潔・貞節・性的禁欲・思想・感情に於ける清純・文体・趣味などの簡素」の意。]は、ラテン語から佛語を通して、英語になつたのであるから、それは近代英語でないといふことの愚なると同樣に、千餘年前に日本語となつた漢字の道德に關する語は、日本語でないと云ふのは愚の極みであらう。此陳述は、この種の題目に於ける宣敎師の陳述の大部分の如く。此上にも人を誤らしむるものである。といふのは讀者は名詞がなければ、形容詞もなからうと推論させられるからである――然るに貞操を意味する純粹の日本語の形容詞は數多くあるのである。尤も普通に用ゐられる形容詞は、兩性に混用される――そして毅然、嚴格、不動、誠實等の日本的意義を有する。或る國語に抽象的の語を缺くことは、決して具體的な道念[やぶちゃん注:道徳観念。]の缺乏を意味するものでない――此事實は屢〻宣敎師に指摘したのだが彼等は悟らない。

[やぶちゃん注:「尤も普通に用ゐられる形容詞」「潔(いさぎよ)い」か? 因みに同じく両性で使用する同義の最も一般的な名詞は「操(みさお)」であろう。]

 

 男子の道德は之に比して非難すべき處が多かつたが、レツキー譯者註を引用するまでもなく、西洋でも之に優る情況にあつたとは云ひ得ない。靑年を放蕩への誘惑から保護する爲めに早婚が奬勵された。そして大抵の場合は其目的が達せられたと想像するのが至當である。蓄妾は富者の特權であつたが、之には弊害もあるが、又妻女を追つかけ引つかけ子を生む生理的過勞から救ふといふ効果もあつた。社會情態は西洋の宗敎が最善と臆定する所のものとは非常な懸隔があつたのだから、それの公平な判斷は、基督敎の僧侶に任せる譯に行

 

譯者註 英國の歷史家、歐羅巴の道德史の著あり。

[やぶちゃん注:ウィリアム・エドワード・ハートポール・レッキー(William Edward Hartpole Lecky 一八三八年~一九〇三年)はアイルランドのダブリン生まれの歴史家。ダブリンのトリニティ・カレッジに学び、アイルランド・イギリス及びヨーロッパに於ける宗教・道徳に関する研究を相次いで発表し、科学や合理思想の発展を中世から辿った。 一八九五年、ダブリン大学より自由統一派として下院に選出され、アイルランドの改革を主張したが、自治法案には反対した。一八九七年、枢密顧問官となった。主著に「合理主義の歴史」(History of Rationalism:一八六五年刊)・「十八世紀イギリス史」(History of England in the Eighteenth Century:全八巻。一八七八年~一八九〇年刊)などがある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

かぬ。少くとも一の事實は爭ふ可からざるものであつた――卽ち蓄妾制度は賣色業を制限した、大なる城市――大名の居住地――の多くに於ては娼家の存在が許されなかつたのである。凡てを公平に考慮して見ると、舊日本は、其家長制度にも拘らず、性道德に於てさへ、西洋諸國より非議[やぶちゃん注:「ひぎ」論じて非難すること。謗(そし)ること。]すべき點の少かつた事が見出されるであらう。人民は彼等の法律の要求する所よりも一層善良であつた。然るに今兩性の關係が新法典に依つて規定されるに至り――實際新法典が必要となつたのである――之に依つて起こるべき變化は願はしいが、直に良好な結果を現はすことは出來まい。突飛な改革は法律では成就されぬ。法律は直接に情操を作ることは出來ぬ。そして眞の社會的進步は、永い間の訓練敎誡に依つて發展した道義的情操の變化に依つてのみ爲される。當分の間は增加する人口過多と次第に激しくなる競爭とが知力の發達を促しつつも、性情を荒(すさ)ましめ、自利心を發達せしむるに相違ない。

 

 知的には大いに進步することに疑はない。併し日本は三十年間に眞に變形したと考へる人々が、我々に說く程急激な進步はあるまい。科學敎育は、何れ程民間に普及しようとも、直に實際の知力を西洋の標準迄高めることは出來ぬ。一般の能力は尙ほ數代の間低く留まるに相違ない。著しい除外例も可なりあるにはあるだらう。新たな知力上の優秀階級が現はれつつあるのは事實である。併し國民の眞の將來は、少數者の異常な能力よりも寧ろ多數者の一般能力に依るものである。特に恐らく今到る處に熱心に開拓せられつつある、數學の能力の發展に依るものであらう。現今にては數學が弱點である。年々多數の學生は、數學の試驗を通過し得ぬ爲めに、高等敎育の學府に入ることを阻止されて居る。併し陸海軍士官學校では、此弱點も遂には矯正さるべきことを示すに足る樣な結果が得られて居る。科學的硏究中の至難な學科も、そんな學科に頭角を顯はすことを得た者の子孫には段々至難でなくなるであらう。

 

 他の點に於ては或る一時的の後退は豫期せぬばならぬ。丁度日本が其力の普通限度以上のものを企圖しただけそれだけ其限度迄――或は寧ろ限度以下まで落下するに相違ない。こんな後退は自然にして又必然的なもので、それは捲土重來の恢復的準備以外の何者をも意味しないであらう。兆候は今或る官省の仕事に見えて居る――特に文部省の仕事に著しい。東洋の學生に西洋の學生の平均能力以上の學科を課さうとする考へ、英語を國語若しくは少くとも國語の一となさうとする考へ、又こんな敎練に依つて先祖傳來の考へ方感じ方を改良しようといふ考へは、亂暴な計畫であつた。日本は自己の靈を發展せしめねばならぬ、他の靈を藉るべきでない。一生を言語學に捧げた一人の親友が[やぶちゃん注:私は、この人物、誰であるのか知りたい。]、日本の學生間の行儀の墮落に就て話して居た時かう云つた『いや、英語其者が墮落に與つて力があつた』其詞は意味深長である。全日本國民に英語(彼等の權利に就ては永久に說法を聽いて居るが義務に就ては決して聽く事なき民族の國語[やぶちゃん注:「権利」は滔々と説くくせに、「義務」に就いては全く説教しない言語であると英語を揶揄しているのである。])を學ばせる事は殆ど無謀であつた。此政策は餘りに急激で又餘りに大規模に過ぎた。金と時との大浪費を惹起し、其上道義的感情の崩潰を助成した。將來に於ては、英語を學ぶ事、英國が獨逸話を學ぶ如くになるであらう。併し此英語の學修は、或る方面には徒勞であつたとしても、他の方面に於ては決して徒勞でなかつた。英語の影響は國語の變革を來たし、それをして豐富ならしめ、融通自在ならしめ、近代科學の發見に依つて起こされた、新式の思想を表現する事を得せしめた。此影響は永續するに相違ない。英語の日本語に吸收せられるのも多からう――佛語や獨語も同樣であらう。此吸收は既に敎育ある階級の詞遣ひの變化に於て顯著である事は、外國商業語の珍妙に穩形せるものが混合せる、開港場の日本語に於けると同樣である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、日本語の文法的組立も影響を受けた。自分は最近或る宣敎師が述べた如く、東京の街上を徘徊する小兒が『旅順港が陷落された』と叫んで、受動態(パツシヴ・ヴオイス)を用ふるのは、これも『神意(デイヴワイン・プロビデンス)』の致す所を示すものだとの說には賛成せぬが、日本語は國民の天禀[やぶちゃん注:「てんぴん」。天から授かった資質。生まれつき備わっているすぐれた才能。天賦。「天稟」とも書く。]の如く同化的で、新しい境遇の凡ての要求に適應し得る能力を示す證據だとは考へる。

[やぶちゃん注:最後の部分は原文を以下に示しておく。

   *

Furthermore, the grammatical structure of Japanese is being influenced; and though I cannot agree with a clergyman who lately declared that the use of the passive voice by Tokyo street-urchins announcing the fall of Port Arthur — (“Ryojunko ga senryo sera-reta!”) ― represented the working of“divine providence,” I do think it afforded some proof that the Japanese language, assimilative like the genius of the race, is showing capacity to meet all demands made upon it by the new conditions.

   *

「divine providence」はキリスト教神学で「神の摂理」と訳されることが多い。]

 多分日本は二十世紀になつてから、外國の敎師を今よりは感銘的に追懷するであらう。併し明治以前、支那に對して感じた樣に西洋に對しては國風通りに恩師に對する尊敬の念を感ずることはあるまい。其故は支那の學問は自發的に求めたのであるが、西洋の學問は暴力を以て日本に强ひつけられたものであるからである。日本は日本流の基督敎の宗派は殘るであらう。併し日本は英米の宣敎師を記憶すること、甞て日本の靑年を訓育した支那の傑僧を今日でも記憶するが如くにはないでであろう。そして我々が滯在の記念物を七重八重の絹に鄭重に包み、美しい白木の箱に納めて保存するやうな事はせぬであらう。我々は何等新しい美の敎訓を日本に敎へなかつた――何等彼等の情緖に訴へる物も與へなかつたからである。

 

小泉八雲 お春 (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“HARU”で、美称の接頭語の「お」はなく、原文では本文内も総て「お」はない)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第七話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

      第七章  お  春

 

 お春は大方は家庭で人となつた、世にも稀な優しい型の婦人を作り上げる舊式の敎育によつて。この家庭の敎育は、日本でなくては養はれない樣な、素直な心と自然に優美な擧止と從順と忠實な性質とを養つた。斯うして作り上げられた德性は、餘りに優しく美はしくて、昔の日本の社會以外には向かない。新しい社會のずつと激しい生活には(今尙ほその中に殘存しては居るが)最も賢明な準備ではなかつた。溫良な娘といふ者は全然良人の意の儘になるといふ條件に副ふ樣に躾けられたものである。嫉妬や悲哀や憤怒は、よしこの三つを皆共に禁じ得ない樣にする事情の下にあつても、決して表はさぬ樣に敎へられた。唯々優しさ一つを以て良人の不行跡を改めさせる樣にすることを期待せられた。一言で云へば、殆ど人間以上であることを、少くも外觀上完全なる無我の理想を實現することを要望せられてゐた。これを温良な娘は、同じ身分で、心遣ひも細やかに、女の心持ちを察して、傷めることをしない夫に對しては完全に仕果たしたのである。

[やぶちゃん注:「溫」と「温」の混用はママ。]

 お春は夫よりもずつと良い家柄に生まれた。夫には彼女の心根が本當には分からなかつた位で、少し過ぎてゐたのであつた、若い時に夫婦になつて、初めは貧しかつだのが、夫が商賣の才があつたので、追々と裕福になつた。が、お春は暮らしの困つてゐた時の方が、夫が自分を深く愛してくれた樣に思つた。そして女の考は斯ういふ事について滅多に違はないものである。

 お春は今も夫の着物を縫ひ、夫はその手際を賞めてゐた。何くれとなく傅づいて[やぶちゃん注:「かしづいて」。]、着物を着るにも脫ぐにも世話をし、綺麗な家の中の何から何まで氣持ちよい樣にした。朝用向きで出掛ける時には愛想よく見送りをし、歸つた時には喜んで迎へた。友人が來れば落ちなくもてなし、家事をよくもと思ふほど經濟に切りまはした。而して金のかかる事など何一つ求めない。又實際言ひ出すことは入らなかつた。夫はいつも物惜しみせず、實に派手な衣服を着せ、己が翅に身を飾る美しい銀色の蛾か何ぞの樣にして、芝居やその他の遊山に連れて往くのが好きであつた。春には櫻の花で名高い、夏の夜は螢火の飛び交ふので、秋はまた楓の紅葉で名高い、それぞれの行樂の場所へと、お春は夫に連れられて往つた。或る時は松の木立が舞妓の樣に搖らぐと見える舞子の濱に打連れて一日を暮らし、或る時は淸水の古い古い亭に半日を過ごした。そこでは何もかも五百年前の夢と見える、そこには高い鬱蒼たる樹木の陰があり、洞窟から迸る淸冽な水の歌があり、古風に靜かに吹き鳴らされる見えざる笛の訴ふるが如き音色がいつも聞こえる。恰も落日の上で金色の光が藍色に交じる樣に、平和と悲哀とを交じへた楚々として人に迫る音色である。

[やぶちゃん注:「舞子の濱」神戸市西部の垂水区の南西部、明石市に接する明石海峡に臨む海岸で、東に須磨の浦、西に明石海岸がある。明石海峡大橋の袂。現在は東西約二キロメートル、南北四百メートルの地が県立舞子公園となっている。嘗ては松の名所であったが、自動車の排気ガス等によって枯死してしまい、旧時の面影はない。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 斯うした物見遊山の外には、お春は滅多に出ることはなかつた。彼女の親兄弟も夫の身内も、他國に遠く離れて居たので、別に往く所とてもなかつた。彼女は家に居るのが好きであつた、床の間や佛壇などに供へる花を生けたり、座敷を飾つたり、泉水の馴れた錦魚に餌を遣つたりして。錦魚はお春が來るのを見ると頭を上げてやつて來る。

 まだ子供がなくて今まで知らなかつた喜ひや悲みを味はふ事もなかつた。それで彼女は丸髷に結つてゐでも極若い娘の樣であつた。して又子供の樣に單純であつたが、細かしい事をしてのける手並には夫も常々感服して、大きな仕事に就いても度々彼女の智慧を藉りる位であつた。さういふ時には大方女の心の方がその美しい頭よりは彼の爲めに良い判斷をしたのであらう。五年の間は彼女は十分樂しく暮らした。その間夫は日本の若い商人として、自分より天性の勝れた妻に對して、これ以上にとは望めぬ程に、思ひ遣りのある盡くし方をした。

 その時彼の態度が急に變つた。それが餘りに急激なので、その理由は子の無い妻が氣遣はなければならぬ樣なものではないと慥に感じた。實際の原因を悟ることが出來なかつたので、何か自分の盡くし方が足りなかつたためであると思はうとして、良心に問うて見たが効がなかつた。それでどうかして夫の氣に入らうと力の及ぶ限り努めた。然し夫は少しも感じなかつた。別に荒い言葉などは使はないが、默つてゐる陰には言ひたいのを抑へてゐるらしく思はれた。身分のよい日本人は妻に向つて口で荒い事をいふことは滅多にない。それは野鄙な粗暴な事と考へられてゐる。氣の荒くない敎育のある夫は妻の小言にすらも優しい言葉で答へる。日本の作法によれば、一遍の禮儀からでも、男らしい男はさういふ態度を取らなければならぬ。又これが唯一の安全な態度である。嗜みのある敏感な婦人はおめおめと粗暴な扱ひに服してはゐない。氣丈な女は、夫が何か腹立ちまぎれに言つな事のために自害もし兼ねない。そんな自殺をされると夫に取つでは一生の名折れである。所が口で言ふよりもつと遠まはしな、もつと安全な虐(いぢ)め方がある。例へば嫉妬を起こさせる樣な餘所々々しさや無頓着である。日本の妻はどんな事があつても嫉妬を表はさぬ樣に躾けられて來た。が、この感情は如何なる訓練よりも古い。愛と共に生じ、愛の存する限り存するであらう。何の咸じもない樣な顏をしてゐても、日本の妻女は西洋の妻女と同じ感情を有つてゐる。恰も華美を盡くした夜會の客をもてなす間にも、役目が濟んで獨り苦衷をやる時の來るのを心に祈り求むる、さうした西洋の妻女をその儘の感情を持つてゐる。

 お春には嫉妬すべき原因があつたが、餘りに子供の樣な心持ちで直ぐには其原因を推察しなかつた。召使たちもそれを覺らせる[やぶちゃん注:「さとらせる」。]のを餘りに氣の毒に思つた。夫は以前、家に居ても外へ出ても、晚にはいつも彼女と一緖に過ごすのが例であつた。が、今は每晚一人で出て往つた。初めての時は彼女に何か商用上の口實を言ひ置いたが、後には何の斷わりもせず、いつ歸る積りだとも言はなくなつた。此頃は無言の裏に彼女を虐待した。夫は今までとは變つて來た。『魔がさした樣に』と召使共は言つてゐた。事實彼は巧みにわなにかけられたのである。或る藝者のかけた一言が彼の意志を鈍らせ、一度の笑顏が彼の眼を眩ましたのであつた。其藝者といふのは彼の妻よりは遙かに不器量な女であつたが、やくざ男を綾なして破滅をさせては振り棄てる最後の際まで、いや引き締まる手管の網を張る事には至極老練な者であつた。お春 はさうと知る由もない。夫の解せぬ振る舞ひが度重なつて來るまでは、徒事(ただごと)でないとすらも思はなかつた。其時とても夫の金の行衞が分からぬのに氣づいただけであつた。每晚何處に往つて居るか夫は一度も知らせた事がなかつた。併し彼女は嫉妬がましく思はれはせぬかと、それを聞かうとはしなかつた。自分の心持ちを口に出して言ふ代りに、お春は夫に對して殊更優しく、もつと分かつた夫なら何もかも察する樣に遇らつた[やぶちゃん注:「あしらつた」。]。併し彼は商賣の事以外には頭の鈍い男であつた。彼は相變はらず晚に家を空け、良心が鈍るにつれて歸りが段々と遲くなつた。お春は妻たる者は夜いつも起きてゐて主人の歸りを待つべき事を敎へられてゐた。それが爲めに彼女は神經過敏になり、睡眠不足に伴なふ發熱の氣味やら、召使たちを定刻に臥せらせて後思ひに沈みながら獨り待つ間の淋しさに惱んだ。唯だ一度夫が大變遲く歸つた時、『こんなに遲くまで起きて居らせて濟まなかつた。これからこんなに待たないでくれ』と言つた。すると彼女は夫が自分のために本當に心を痛めたかと氣遣つて、氣持ちよく笑つて『い〻え、ねむくはありません。疲れはしませんよ。どうぞお氣に懸けないで』と言つた。そこで彼はその上氣にかけなかつた、――妻がさう言つたのを良い事にして。間もなく彼は夜通し家を空けた。其つぎの晚もさうした。又其つぎの晚も。三晚目に家を空けてからは、彼は朝飯に歸る事すらしなかつた。玆[やぶちゃん注:「ここ」。]に至つてお春は妻として何とか言はなければならぬ時が來た事を知つた。

 お春は夫の上を案じ我が身の上を案じながら朝の間を過ごした、女の心に此上ない深手を負はせる不行跡を初めて覺つて。忠實な召使共が彼女に何か話したので、後は察することが出來た。彼女は大分體[やぶちゃん注:「からだ」。]がわるかつたが、自分では氣づいて居なかつた。彼女は自分が受けたこの傷ましい、刺す樣な、胸わるき苦痛の爲めに腹立たしく――それも我儘ゆゑに腹立たしく――感じてゐるのだとばかり思つてゐた。今は言はずには居られぬ事を――自分の口から洩れる初めての非難の言葉を、どうしたら一番身勝手からでない樣に言へるかと考へこんでゐる時に正午となつた。その時車輪[やぶちゃん注:人力車のそれ。]の音が聞こえて、召使が『お歸りです』と呼ぶ聲に、彼女の心臟は一つの激動を以て躍つた。何もかも眩暈[やぶちゃん注:「めまひ」と訓じておく。]の渦をなして眼の前に朦朧と游動した。

 彼女は夫を出迎へに上がり口まで漸く步いて來カた、纎弱い[やぶちゃん注:「かよはい」。]全身は熱と苦しさと、更にその苦しさを見られはせぬかとの恐怖とに慄きながら。夫は驚いた。常の通りの笑顏を以て迎へることをせず、打震ふ片手で夫の絹の着物の胸元に取り縋つて、夫の胸の中に唯だ一片の性根があるかを見極めようとする樣な眼つきで、ぢつと見入つた。そして物を言はうとしたがそれは『あなた』と唯だ一言だけであつた。殆ど同時に力の無い手は緩み、眼は異樣な笑みを見せて閉ぢ、夫が手を出して支へる間もなく彼女は倒れた。夫は彼女を起こさうとした。が、彼女の一縷の命脈は絕えたのであつた。お春は死んで了つた。

 一同が驚愕し、泣き悲み、かへらぬ名を呼び立て、醫者を迎へたことは言ふまでもない。が、彼女は色白く靜かに美しく臥してゐた。苦痛も怒りも顏から去つて、嫁入つた日の笑顏を見せながら。

 公立病院から醫師が二人まで見えた。日本の軍醫たちである。彼等は直截な露骨な質問をした。夫の本性を眞髓まで截ち割る樣な質問をした。而して燒刄[やぶちゃん注:「やきば」。刃(やいば)に同じい。]の樣な冷たく鋭い事實を告げて、縡ぎれた[やぶちゃん注:「ことぎれた」。]人と共に彼を殘して去つた。

 

 彼の良心が目醒めたのは確で、彼が出家せぬのが不思議くらゐに思はれた。晝は京の絹織物や大阪の形染物の反物を積んだ店に、熱心に而かも無言に坐つてゐる。店員等は優しい主人と思つて居る。決して荒い小言など言はぬ。夜更けるまで働いてゐる事も度々である。彼は住居を變へた。お春の住んでゐたあの綺麗な家には餘所の人が居て、持主はつひぞ其處へは來ることが無い。今も猶ほ花を生けたり、池の錦魚を花あやめの風情でさしのぞくなよやかな影をそこに見はせぬかと思ふからであらう。併し何處に息はうとも、人々の寢鎭まつた折ふし、彼は同じ物言はぬ人の姿を己が枕邊に見ない譯には往かぬ。彼が着飾つて妻を裏切つたその晴着を、縫つたり火熨斗[やぶちゃん注:「ひのし」。布地の皺を伸ばすための道具。底の平らな金属製の器に木の柄を附けたもの。中に炭火を入れて熱し、布地に当てる。アイロンと同じ日本古来(平安時代に既にあった)のもの。]したり、心を盡くして仕上げようとしてゐるその姿を。又或る時は商賣の忙しい中に、大きな店の喧噪は絕え、帳簿の文字は薄らいで消え去り、訴ふるが如きささやかな聲が――神明に祈つても消すことの出來ぬ聲が――彼の淋しき心の底へと、問ふが如くに唯だ一言『あなた』と囁く。

 

[やぶちゃん注:本篇は軍医が来訪するところから見て、熊本時代の取材によるものかと思われる。]

2019/12/12

小泉八雲 戦後雑感 (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“AFTER THE WAR”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第六話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)が初出(調べて見たものの、初出クレジットは不詳)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。

 言うまでもないが、「戰後」とは、本書刊行の二年前に起こった日清戦争(明治二七(一八九四)年七月から翌明治二十八年四月十七日)で勝利し、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させて、事実上の半島の権益を我が物とし、割譲された台湾を平定した(同年十一月三十日)日清戦争勝利後の意である。

 一部の章の冒頭に配されたクレジットと場所は底本では、ややポイント落ちで下インデント四字上げであるが、ブラウザでの不具合を考え、有意にポイントを落して上方に引き上げた。原注及び訳者注は、底本ではポイント落ちで全体が五字下げであるが、行頭まで引き上げ、注群は前後を一行空けた。また、「四」には楽譜が二枚載るが、底本ではなく(底本では何故か曲想標語が消されているため)、原本のそれを、“Internet Archive”でダウン・ロードしたPDF画像からトリミングし、強い補正を加えて挿入した。

 

      第六章 戰後雜感

 

        

  一八九五年(明治二十八年)五月 兵庫にて

 今朝しも兵庫は、言ひ知れぬ光の澄み渡れる壯麗に浸つてゐる。霞立つ春の光は透かしみる遠景にまぼろしなどの樣な趣を與へる。形はくつきりとしてゐるが、生地の色ならぬ幽けき[やぶちゃん注:「かそけき」。]色調によつて殆ど理想化されてゐる。町の後ろの高き山々は、唯だ靑と言はんよりは靑の精と見ゆる雲なき蒼穹に屹立してゐる。

 甍の屋根の紺鼠に續く斜面の上高く、異樣な形せるものの壯大なる搖らぎと閃きとがある。自分には必らずしも初めて見る光景ではないが、いつ見ても愉快である。大きなけばけばしい紙の魚が高い竹竿に繫がれ、到る處に浮いてゐて、生きてゐる樣に見えもし動きもする。多數は高さ五尺から十五尺であるが、其處此處に大きな魚の尾に結びつけられた一尺足らずの小型のがある。中には四五尾の魚がその大きさに比例した高さに着いてゐるのもある、大きいのをいつも一番上にして。この魚の色も形も頗る巧に出來てゐることは、初めて見る外國人には必らず驚歎させる。吊つてゐる絲はロの中に着いてゐて、開いた口から入る風が體を實物の通りに脹らすばかりか、それを絕えずゆらゆらさせる。昇つたり降つたり、向きをかへたり、體をひねつたり、宛然生きた魚の樣に、尾は棚びき鰭はひらひらするさま、何の申し分もない。隣の家の庭には立派なのが二つ見える。一つは腹が樺色[やぶちゃん注:「かばいろ」。赤みを帯びた黄色。橙(だいだい)色を少し暗くした色。]で背が藍鼠、今一つは全身銀色で、双つとも大きな妙な眼をしてゐる。それが風に泳ぐ時の戰ぎは麥畠を渡る風の音の通りである。少し先きの方には今一つ大きなのがあつて、其には小さい眞紅な男の子が背の處に取り附いてゐる。赤い男の子は、赤ん坊の中から態と角力を取つたり怪鳥を捕る羂[やぶちゃん注:「わな」(罠)或は「あみ」(網)。原文は“traps”であるから、前者がよい。]をかけたりした、日本國中に生まれた子供の中で一番强い金時である。言ふまでもなく、この紙の鯉は、五月の男子出生の祝の季節だけ揭げられるので、屋根の上にそれがあるのは男の子の生まれた事を示し、その子が、實物のコヒ、卽ち大きな日本の鯉が瀧と落ちる早瀨を川上に昇る如くに、萬難を排して出世するやうに、との親達の希望の象徵である。

 日本の西南地方ではこの鯉を見るのは稀である。その代りに幟と呼ぶ非常に細長い綿布の旗が帆の樣に竪長に、桁[やぶちゃん注:「けた」。]や乳[やぶちゃん注:「ち」。]で竹竿に着いてゐるのを見る。其には激流中の鯉や、鬼共の征服者なる鍾馗や、松の木や龜やなどの何れも緣起のよい圖が彩色して描かれてゐるのである。

[やぶちゃん注:冒頭のクレジットに「一八九五年(明治二十八年)五月」とあるが、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年のまさに五月五日(日曜)の条に、『凱旋する兵士をセツ、一雄とともに見物する』とある。

「桁」原文は“spars”。ここは丸い細い木材のこと。

「乳」原文は“rings”。紐や竿を通すための小さな輪のこと。]

 

       

 今日本建國二千五百五十五年の此輝かしき春に當つて、これらの鯉は單に親達の希望を象徵するのみでなく、更に、大なる戰勝によつて再生した國民の抱負を象徵すると觀てよからう、帝國の軍事的復興、新日本の發祥は支那の征服に初まる。戰爭は終つた、未來は幾分曇つて居らぬでもないが、好望を宿してゐる樣に思はれる。更に高大な永續する偉業を爲さんがために、障碍は如何に暗澹たるものであらうとも、日本は恐怖も疑惑も有たぬ。恐らく將來の危險は此大なる自負心に存するのかも知れぬ。是は今囘の戰爭によつて生まれ出でた新しい感情では無い。これは連勝の歷史がいつも强め來たつた民族的感情である。宣戰の初から終局の勝利に就いては些の疑も抱かなかつた。國民全體に行き互つた深い熱誠はあつたが、外に表はれた感慨の兆候はなかつた。或る者は直に戰勝の歷史を書き初めた。寫眞石版や木版の挿畫の入つた週刊月刊の分册として購讀者に頒布せられた此程の歷史が、外固の觀戰者などが戰爭の終局について豫想を試みるにも至らぬ前から、全國に賣れ行いた[やぶちゃん注:「ゆいた」。行き渡った。]。初から終まで日本圖民は自國の實力と支那の無力とを信じて居た。玩具製造者は忽ち、遁げる支那兵や、日本の騎兵に斬り倒されてゐるのや、捕虜となつて豚尾[やぶちゃん注:「とんび」。辮髪のこと。後注を必ず参考されたい。]で繫ぎ合はされてゐるのや、名高い日本の將軍の前に叩頭して慈悲を乞うてゐる支那兵などを現はした、無數の巧妙な新案品を賣り出した。鎧を着た舊式の武者人形などは跡を絕つて、土や水や紙や絹で作つた日本の騎兵步兵砲兵の人形、要塞や砲臺の模型、軍艦の模型などが出て來た。熊本の旅團譯者註が旅順の堅壘[やぶちゃん注:「けんるい」。原文“the defenses”。要塞。]を襲擊した光景を器用な機械仕掛にした玩具があるかと思へば、今一つ同じく巧妙な松島艦と支那の鋼鐡艦幾隻かとの海戰を繰りかへすのもあつた。斯ういふ玩具が、コルクの彈丸をポンポン彈き飛ばす空氣銃や、何萬といふ玩其の劍や數知れぬ小さな喇叭[やぶちゃん注:「ラツパ」。]などと一緖に賣り物に出てゐる。子供等がそれをしきりなしに吹いてゐるのを聽くと、ニュー・オリアンズの或る除夜のブリキの喇叭の騷音を想ひ起こさせられる。捷報の到る每に、新しい色刷の繪が幾つとなく製作されて賣り出される。それらは粗末な安つぽい手際で、大抵は畫家の想像をその儘に描いたものであるが、民衆の自負心を喚起するには適してゐた。將棋の駒の一つ一つが日本か支那の將校兵士になつてゐるのも出來た。

[やぶちゃん注:「今日本建國二千五百五十五年」この明治二八(一八九五)年は皇紀(神武天皇即位紀元:明治五(一八七二)年に明治政府が太陰太陽暦から太陽暦への改暦を布告した、その六日後に国策として神武天皇即位を「紀元」とすることを布告した)で当年とされ、全国で各種の祝祭が行われた。

「行いた」動詞「行く」の連用形である「行き」のイ音便形に過去・完了・存続・確認の助動詞「た」が付いて「ゆいた」となったもの。

「豚尾」原文“their queues”。「辮髪」や「おさげ髪」を指す英語であるが、この「豚尾」は「辮髪(べんぱつ)」を指す差別和語で、福沢諭吉なども盛んに使っている。如何にもおぞましい。

「松島艦」日清戦争及び後の日露戦争で活躍した日本海軍の防護巡洋艦でフランス製。明治二五(一八九二)年竣工。ウィキの「松島(防護巡洋艦)」によれば、もとからして『清国』北洋艦隊『が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の』二『隻に対抗する軍艦として建造された』とある。明治二七年九月十七日に『旗艦として 黄海海戦に参加』したが、『この戦いで松島は、副砲砲郭に清国戦艦鎮遠が発射した』『砲弾が命中して大破、死傷者数』百『人を』出している。後、明治三八(一九〇五)年五月二十七日の日本海海戦に参加した。明治四一(一九〇八)年四月三十日、『遠洋航海中に馬公(台湾)で停泊中の午前』四『時頃』、『火薬庫が突然』、『爆発し、ほとんど瞬時に沈没した。爆発が後部寄りだったこともあり、殉難者は艦長、副長以下』二百二十一『名に及び、乗り込んでいた少尉候補生も』五十七『名中』三十三『名が殉難した。爆発の原因は不明である』とある。本艦は「三」で実見するシークエンスが出る。

「ニュー・オリアンズ」“New Orleans”。「ニュー・オリンズ」。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は一八七七(明治一〇)年十一月にシンシナティを出て、ニュー・オリンズに向かい、同地で七年に亙って新聞記者として活躍した。

「將棋の駒の一つ一つが日本か支那の將校兵士になつてゐるのも出來た」ウィキの「軍人将棋」に、本書刊行の十二年後の明治四〇(一九〇七)年に『書かれた書物「世界遊戯法大全」』(松浦政泰著・博文館刊)『には』現在の軍人将棋が『「いくさ将棋」の名で紹介されている。その中では『これは日清戦争の頃に出来たものかと思うが、仕組みが中々面白い所から、今は全国に普及して居る』』とあった。]

 

譯者註 旅順攻防に當つたのは熊本第六師團に屬する第十二旅團で、時の陸軍少將長谷川好道の帥ゐた[やぶちゃん注:「ひきゐた」。]小倉旅團であつた、と岡田哲藏氏の修正を附記する。著者が熊本の旅團と呼んでゐるのは第五高等學校の敎師として熊本の地に特に親しみを有つてゐたため、直に然う[やぶちゃん注:「さう」。]思ひ込んだのであらう。

[やぶちゃん注:「長谷川好道」(よしみち 嘉永三(一八五〇)年~大正一三(一九二四)年)は陸軍軍人(最終官位は元帥・陸軍大将)で韓国駐剳軍司令官・参謀総長・朝鮮総督を歴任した。長州藩支藩岩国藩士長谷川藤次郎の子として生まれ、剣術師範であった父について剣術を修め、「戊辰戦争」では精義隊小隊長として参戦している。明治一九(一八八六)年十二月に陸軍少将・歩兵第十二旅団長に昇進した。歩兵第十二旅団長時代に、日清戦争に出征m旅順攻撃で戦功を立てた。その後、陸軍中将・第三師団長から近衛師団長となり、日露戦争では「鴨緑江会戦」や「遼陽会戦」などで善戦した(ウィキの「長谷川好道」に拠る)。

「岡田哲藏」本底本全集の訳者の一人。『小泉八雲 初の諸印象(岡田哲蔵訳)/作品集「異国情趣と回顧」の「回顧」パート(総て岡田哲藏氏の訳)に入る』の冒頭注を見られたい。]

 

 一方で芝居はもつと完全に戰爭を出し物にして居た。戰役中の挿話が一つ殘らず舞臺に登された[やぶちゃん注:「のぼらされた」と訓じておく。]と云つても過言ではない。役者達は場面や背景の硏究に戰線を見舞ひ、人工の吹雪を利用して滿洲に於ける軍隊の艱苦を寫實的に演出しようとした。あらゆる武勇の事蹟は報告の來るや否や芝居に仕組まれた。喇叭手白神源太郞の最期、城壁を乘り越えて戰友のために城門を開いた原田重吉の剛勇、三百の步兵に對抗した十四騎の武勇、武器を持たぬ人夫等の支那の大隊に對する奇襲、さういつた樣な事實やその他の事蹟が幾百の劇場で演出せられた。忠君愛國の語句を書き表はした提灯を門並に揭げて、一つには帝國軍隊の快捷を祝し、一つには汽車に乘つて戰地に赴く出征兵士の眼を喜ばせた。軍隊輸送列車の絕えず通過する神戶では、斯ういふ提灯を揭げることが每晚々々幾週間も續いた。各町内の住民は更に醵金[やぶちゃん注:「きよきん(きょきん)」ある目的のために金を出し合うこと。]して旗を揭げ凱旋門を作つた。

 

註 成歡の戰に白神源次郞と呼ぶ日本の喇叭兵が「進め」の信號を吹けと命ぜられた。彼がその喇叭を一度吹き鳴らした時、宛も[やぶちゃん注:「あたかも」。]彈丸が肺を貫いて彼を倒した。戰友は彼致命傷を被つたのを見てその喇叭を取り上げようとした、彼は却つてそれを奪ひかへして唇にあて、力の限り今一度進軍ラッパを吹いて、バッタリ倒れて死んだ。今日本中の軍人學生に歌はれてゐる彼を題とした軍歌の簡譯を試みに揭げる。〔と前置して彼の[やぶちゃん注:「かの」。]吹き死の喇叭卒の軍歌を、昔の英吉利と蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコットランド」。]との對戰の間に生まれた尙武の歌などの樣な口調に、巧みに飜案したものを紹介してゐる。譯した歌は「白神源次郞」と題し、「日本の軍歌」「喇叭の響」に倣ひて」と註して、最も普通なバラッドの四行を一節としたもの九節にまとまつてゐる。今之を更に和譯するのは詮なきことゆゑ、單に原歌の全文を(是亦岡田哲藏氏の手控ヘより)轉載し、既に忘られんとするこの事蹟の記憶を新たにするに止める。――譯者附記〕

[やぶちゃん注:白神源次郎(しらがみげんじろう 明治元(一八六九)年~明治二七(一八九四)年:満二十五歳)についてウィキの「白神源次郎」から引く。『日本陸軍兵士。備中国浅口郡水江村(現在の岡山県倉敷市)出身』。『貧しい農家に生まれ、高瀬舟の人足などをして暮らしていた』。明治二七(一八九四)年に広島歩兵第二十一連隊に『入営してラッパ手となった。兵役中、源次郎の力強い喇叭は評判が高く』、同『連隊の喇叭手と言えば白神の名がでるくらいであったが』、『満期除隊した』。しかし、『日清戦争で予備役召集され、第五師団の一等卒として出征』、七月二十九日、「成歓の戦い」(せいかん(ソンファン)のたたかい)は日清戦争最初の主要な陸戦。現在の朝鮮半島忠清道成歓(グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近で戦われた)に『おいて、武田秀山中佐率いる右翼隊第』二十一『連隊第』九『中隊に属し、戦闘中、水濠にはまり』、『溺死した』。『現在、倉敷市船穂町水江東端・堅盤谷地区の墓地に墓がある』。『開戦にともない、戦争報道がなされる中、「死んでも口からラッパを離さなかった」無名戦士の美談が話題となり、この美談の主は誰かということになった。第五師団が白神源次郎の名を挙げたことが、当時の国民に熱狂的に受け止められ、彼をたたえる歌や詩が数多く作られ、当時の小学校教科書にも登場した。源次郎は金鵄勲章を受け』、『上等兵にも進級したと書いたものもあるが、当時の制度として戦死者の叙勲や進級は無かった』。明治二九(一八九六)年には、『高梁川の清流を見おろす墓所近くの小高い丘に地元の募金によって記念碑が建立されたが、後には源次郎にかわって木口小平の名が普及するようになって行った』。『美談の主は白神源次郎であると発表した』一『年後、溺死を公表したため』、『不都合が生じ』、『第五師団本営は「実は喇叭手は白神源次郎ではなく木口小平である」と発表しなおした。教科書も』七『年後に訂正され、美談の主は木口へと移っていったが、その後も源次郎の人気は根強く残り』、昭和七(一九三二)年(年)に軍人勅諭下賜』五十『周年事業で』、この第二十一『連隊が木口顕彰に動いた際には、白神説を否定するために、源次郎の除籍簿を「戦死」から「死亡」に書き直すような強引なことも行われた』とある。

 以下、ウィキの「木口小平」を引く。木口小平(きぐちこへい 明治五(一八七二)年~明治二七(一八九四)年:満二十一歳)は『日本陸軍兵士。ラッパ手として、死しても口からラッパを離さなかったとされた。その逸話は明治』三五(一九〇二)年から昭和二〇(一九四五)年まで『小学校の修身教科書に掲載され、戦前の日本においては広く知られた英雄であった』。『小平は現在の岡山県高梁市成羽の農業・木口久太の長男として生まれ』、『小学校に進学するが』、明治一七(一八八四)年十二月に『中退。その後』は『小泉鉱山で鉱山夫として働』いた。明治二五(一八九二)年一二月から、広島歩兵第二十一連隊に『入営し』、『歩兵二等卒となり』、明治二七(一八九四)年六月に『日清戦争に出征する。この時の所属は歩兵第』二一『連隊第』三『大隊第』十二『中隊で、中隊の喇叭(ラッパ)手を務めていた。同年』七『月の成歓の戦いに参加する中』、二十九日、『敵弾を受け』、『戦死したが、歩兵一等卒に進級するという扱いは受けなかった』。『歩兵第』二十一『連隊は宇品港から出発し』同年六月二十七日に朝鮮の『仁川に上陸』、七月二十九日午前三時、『清国軍と成歓で対峙し』、午前七時三十分までの『激戦によって清国軍を壊走させた。この戦いによって木口の属する第』十二『中隊の中隊長松崎直臣大尉は戦死、松崎大尉は日清戦争の戦死者第一号という。この戦闘中に木口は突撃ラッパを吹いている最中に被弾』し、『銃創により』、『出血し』て倒れたが、『絶命した後も口にはラッパがあったという。これは本人の精神力というよりも、死後硬直が原因であると指摘されている』。『死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手の噂話は、早くに内地に伝えられた。その喇叭手は誰かということが話題となり、軍は調査の結果』、『その喇叭手は実在し、名は「白神源次郎」であると発表した。岡山県浅口郡船穂村(後の倉敷市)出身の歩兵一等卒・白神源次郎の武勇は国民に広く伝えられ、また海外にも発信された。教科書にも採用され』、七『年後に名前を変えられるまで使われた』。『日清戦争後に、第』五『師団司令部は「諸調査ノ結果彼ノ喇叭手ハ白神ニ非ズシテ木口小平ナルコト判明セリ」と発表しなおした。白神は入営当時』二十一『連隊の喇叭手であったが』、『予備役召集の時点では喇叭手ではなかった。木口は喇叭手であり』、『白神と同日の戦死であった。なお』、『白神の死因が戦闘中の溺死であったことも「不都合」とされた。師団発表当時はまったく無名の木口に名前が置き換わったことに国民の間に驚きもあったし、すでに有名になっていた白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった』。『白神源次郎の記念碑は』明治三九(一九〇六)年に『立てられたが、木口小平の記念碑』の建立は大正三(一九一四)年に『なってからである。義務教育の無償化と』明治三六(一九〇三)年に『始まった国定教科書制度で、木口の名前が国民全体に徐々に浸透し、木口の顕彰も盛んになった。故郷である岡山県川上郡成羽町(現在の高梁市成羽)に「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた。さらに、昭和七(一九三二)年(年)になると、歩兵第』二十一『連隊が軍人勅諭下賜』五十『周年事業として銅像を造った。岡山招魂社に収められた写真の中から、木口らしい写真を選び出して銅像の元にしたが、これは木口の顔ではないとの異論もあった。このころ成羽町の碑の周りは「小平園」として整備された』。第二十一連隊の銅像は昭和二五(一九五〇)年に『濱田護國神社に移転されている』。明治三五(一九〇二)年に発売され、後年、「正露丸」と『改称される胃腸薬の「忠勇征露丸」に描かれているラッパのマークは木口の話を参考にした、との逸話が在るが、これは年代的には白神の話ということになる』。以下、「尋常小学校修身書」より。

   *

 キグチコヘイ ハ テキ ノ

 タマ ニ アタリマシタ ガ、

 シンデモ ラッパ ヲ

 クチ カラ ハナシマセンデシタ。

   *

「英吉利と蘇格蘭との對戰の間に生まれた尙武の歌」一三一四年六月二十四日にスコットランド王国とイングランド王国の間で行われた「バノックバーンの戦い」(Battle of Bannockburn:スコットランドに侵攻したエドワードⅡ世率いるイングランド軍が、スターリング近郊でロバートⅠ世とスコットランド軍と戦って大敗し、イングランドからの独立を勝ち取った)を題材とした、現在もスコットランドの非公式な国歌として広く認められている歌「スコットランドの花」(Flower of Scotland)を指すか。それならば、YouTube のPeter Coia氏の「Flower of Scotland sing-along lyrics」で歌と歌詞(電子化されてある)が聴け、読める。

 以下、全体が六字下げで、本文よりやポイント落ち(前の註よりも大きい)で上下二段で組んであるが、引き上げて一段とし、同ポイントで示した。]

 

喇叭手の最後

渡るにやすき安城の

名はいたづらのものなるか

湧き立ちかへるくれなゐの

血汐の外に道もなく

先鋒たりし我軍の

苦戰のほどぞ知られける。

 

この時一人の喇叭手は

取り佩く太刀の束の間も

進め、進めと吹きしきる

進軍喇叭のすさまじさ

その音忽ち打ち絕えて

再びかすかに聞こえけり。

 

打ち絕えたりしは何故ぞ

かすかになりしは何故ぞ

打ち絕えたりしその時は

彈丸のんどを貫けり

かすかになりしその時は

熱血氣管に溢れたり。

 

彈丸のんどを貰けど

熱血氣管に溢るれど

喇叭放さず握りつめ

左手に杖つく村田銃

玉とその身は碎くとも

靈魂天地 かけめぐり

 

なほ敵軍をや破るらん

あな勇ましの喇叭手よ

雲山萬里をかけへだつ

四千餘萬の同胞も

君が喇叭の響にぞ

進むは今と勇むなる。

[やぶちゃん注:本歌は加藤義清作詞、荻野理喜治作曲。YouTube の「賽河原幸之助」氏の「喇叭の響(安城の渡)【明治軍歌】」をリンクさせておく。

「安城」大韓民国京畿道の南部にある安城(アンソン)市。安城川は市内に源を発し、西に流れており、先に示した成歓とは南で接していて、安城川は安城の南西端(成歓の北)を流れているのが判る。

「村田銃」陸軍少将村田経芳が考案発明した単発小銃と連発銃。フランスのグラー銃やオランダのボーモン銃を手本にして明治一三(一八八〇)年単発の後装式施条銃を完成し、十三年式村田歩兵銃として制定された。口径十一ミリメートル、全長一メートル九センチ、重量四キログラム、最大射程二千メートル。これは、さらに日本人の体格に適するように改良を加えられ、十八年式村田銃として完成、続いて 明治二二(一八八九)年には無煙火薬を使用する村田連発銃として完成した。これは口径八ミリ、全長一メートル二十二センチ、重量四キログラム、最大射程二千二百メートルであった。十三年式と十八年式は日清戦争に使用されたが、連発銃の方は間に合わなかった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

 以下、平井呈一氏の恒文社版「戦後」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)を倣って、小泉八雲の名英訳を以下に掲げておく。

   *

      SHIRAKAMI GENJIRŌ.

(After the Japanese military ballad, Rappa-no-hibiki.)

 

    Easy in other times than this

      Were Anjo's stream to cross ;

    But now, beneath the storm of shot,

      Its waters seethe and toss.

 

    In other time to pass that stream

      Were sport for boys at play ;

    But every man through blood must wade

      Who fords Anjo to-day.

 

    The bugle sounds ; — through flood and flame

      Charges the line of steel ; —

    Above the crash of battle rings

      The bugle's stern appeal.

 

    Why has that bugle ceased to call ?

      Why does it call once more ?

    Why sounds the stirring signal now

      More faintly than before ?

 

    What time the bugle ceased to sound,

      The breast was smitten through ; —

    What time the blast rang faintly, blood

      Gushed from the lips that blew.

 

    Death-stricken, still the bugler stands !

      He leans upon his gun, —

    Once more to sound the bugle-call

      Before his life be done.

 

    What though the shattered body fall ?

      The spirit rushes free

    Through Heaven and Earth to sound anew

      That call to Victory!

 

    Far, far beyond our shores, the spot

      Now honored by his fall ; —

    But forty million brethren

      Have heard that bugle-call.

 

    Comrade ! — beyond the peaks and seas

      Your bugle sounds to-day

    In forty million loyal hearts

      A thousand miles away !

 

   *]

 

 この外にも戰爭の光輝はこの國の種々の重要な工業によつて、今少し永續する方法で表彰せられた。勝利や獻身的武勇の事蹟は、封筒や便箋の新しい圖案は言ふに及ばず、燒物や金物や、絹織物によつて記念せられた。絹の羽織註一の裏に、女子の縮緬註二の頭巾に、帶の刺繡に、長襦袢や子供の晴着の友禪模樣に描出されてゐる。更紗や手拭地の樣な安い形附物[やぶちゃん注:「かたつけもの」。型染め物。]は言ふまでもない。種々の漆器に、彫つた器の橫や蓋に、煙草入に、カフスボタンに、髮に挿すピンや笄[やぶちゃん注:「かうがい(こうがい)」。]の意匠に、挿櫛や爪楊枝にまでも描出されてゐる。小さい箱に容れた楊枝の一本一本に顯微鏡で見る樣な小文字で、戰爭に因んだ和歌が一首づつ彫りつけてある。斯うして媾和[やぶちゃん注:「講和」に同じい。]の時まで、少くとも媾和談判に來た支那全權を殺さうとした壯士註三の暴舉のあつた時まで、萬事は國民の願望し期待した通りになつたのであつた。

註一 ハオリは男も女も着る一種の上衣。裏の模樣には歎賞の辭もない程美しいのがある。

註二 チリメンは絹のクレープで、品質に差等[やぶちゃん注:「さとう」。等級の違いを意味する名詞。]がある。中には値も高く丈夫なのもある。

註三 壯士に現代日本の厄介物の一つである。彼等は大抵書生上がりで、無賴の狼藉者として雇はれて飯を食ふ徒である。政治家が選舉の折などに强制運動者として、又は反對黨の壯士に對抗して彼等を用ひる。私人が護身の爲めに壯士を雇ふこともある。近年日本の選舉騷動に於て、又度々の名士の襲擊に於ては大抵壯士連が主となつてゐる。ロシヤに虛無主義を胚胎せしめた原因には日本の現代の壯士を作り出した原因と幾多類似の點がある。

 

 併し、媾和條件が發表せられると、日本を威嚇するために、フランス、ドイツ、の援助を得て、ロシヤが干涉した。この三囘の提携に對しては何の抵抗もなかつた。日本は柔術を用ゐ、意想外の讓步によつて期待の裏をかいた。日本はその兵力について不安を感ずる時機を疾に經過してゐた。日本の能力は恐らく從來認められてをたよりも勝さつてゐる。且つ又、二萬六千の學校を有する敎育制度は絕大なる敎練の機關である。國土の中に於ては如何なる强國とも對抗出來る。唯だ海軍だけが弱點であつて、それに就いては十分承知してゐた。小さい輕裝巡洋艦から成る艦隊で操縱にはその人を得てゐた。その司令長官は二度の海戰で一隻を失ふことなく支那の艦隊を全滅させた。併し歐洲の三大强國の聯合海軍に向ふだけの噸數[やぶちゃん注:「トンすう」。排水量。]がない。その上日本陸軍の精鋭は出征中である。干涉の最好機會が巧みに擇ばれたのだ、さうして恐らく干涉以上の事を企ててゐたらしい。大きなロシヤの戰鬪級幾隻は戰鬪準備をしてゐた、その戰鬪艦だけでも日本の艦隊を壓倒したらう、愈〻勝つまでには多大の犧牲を拂ふことにはならうが。併しロシヤの行動は、英國が日本に對する同情を不氣味にも宣言したので、不意に抑へられた。三國で集める裝甲艦を短い海戰で壓伏し得るほどの艦隊を、英國は數週の中にアジヤの海に囘航することが出來るのであつた。この時ロシヤの巡洋艦から唯だ一發でも發砲しようものなら、それこそ全世界を戰爭の渦中に投じて了つたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「媾和條件が發表せられると、日本を威嚇するために、フランス、ドイツ、の援助を得て、ロシヤが干涉した」所謂、三国干渉。一八九五年四月十七日に調印された日清戦争の講和条約「下関条約」では、①清国は朝鮮が独立自主の国であることを確認すること、②リヤオトン(遼東)半島・台湾全島・ポンフー(澎湖)列島を日本に割譲すること、③二億両(テール:清国税関の銀単位。当時の日本円で三億円相当)の賠償金を支払うこと、④シャーシー(沙市)・チョンチン(重慶)・スーチョウ(蘇州)。ハンチョウ(杭州)の市港を開くこと、⑤揚子江航行権を与えること、⑥日本に最恵国待遇を与えることなどであった。ところが、②の遼東半島領有に反対するロシア・フランス・ドイツが共同でこれに干渉を始めた。調印六日後の四月二十三日、当時、満州への鉄道建設を目指していたロシア政府は、遼東領有の放棄を日本に勧告し、ロシアとの同盟関係にあったフランスと、ロシアの進出方向を極東に逸らすことを狙っていたドイツもこれに倣った。当時の日本の国力では三国に対抗できなかったため、同年五月五日これを受諾し、遼東半島を清国に還付することとした。以後、ロシアは満州に鉄道敷設権を獲得して遼東半島を租借地とし、フランス・ドイツ・イギリスも競って租借地を要求した。日本では「臥薪嘗胆」のスローガンで対ロシア報復の国民感情が扇動され、また逆に外交面での対英接近が進められていった(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」の複数の項目に拠った)。

「司令長官」初代連合艦隊司令長官伊東祐亨(ゆうこう/すけゆき 天保一四(一八四三)年~大正三(一九一四)年)。旧薩摩藩士。ウィキの「伊東祐亨」によれば、日本の連合艦隊と清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で明治二七(一八九四)年九月十七日十二時五十分より行われた「黄海海戦」では、『戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破し(日本側の旗艦「松島」の』四千二百十七トン『に対し、清国側の旗艦「定遠」は』七千二百二十トン『と、倍近い差があった)、黄海の制海権を確保した。この戦いは日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であった。清国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色も』濃く、翌明治二十八年一月二十日から始まった二度目の攻防戦「威海衛の戦い」で、『北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め』、明治二八(一八九五)年二月十三日、『北洋艦隊は降伏。丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げた。伊東は没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、丁重に丁汝昌の遺体を送らせたことはタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめた』。『戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務め』、明治三一(一八九八)年には海軍大将となり、明治三七(一九〇四)年二月八日に始まった『日露戦争では軍令部長として大本営に勤め』、翌年の『終戦の後は元帥に任じられた。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うした』硬骨の軍人である。]

 日本の海軍部内には三國を敵として戰はんとする熱烈な希望もあつた。さうなつた曉には偉い戰爭であつたらう.日本の司令官には夢にも降服するなどといふ者は無く、日本の軍艦に艦旗を降ろす樣な事は決してないから。

 陸軍も亦等しく戰爭を望んでゐた。從つて國民を抑制するには政府の全力を要した。自由の言論は禁遏[やぶちゃん注:「きんあつ」。禁じてやめさせること。「遏」は「止(とど)める・・絶つ・遮る」の意。]せられ、新聞紙は嚴に緘默せしめられ、曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]要求した償金の額を相當に增加する代償として、遼東半島を支那に還附する事によつて、平和は克復せられた。日本の國力發展のこの時期に當つて、國費を竭くして[やぶちゃん注:「つくして」。]ロシヤと戰ふことは工業商業及び經濟上最も慘澹たる結果を生ずるに決まつてゐた。併し國民の自尊心は深く傷けられ、國民は今なほ政府を怨むことを禁じ得ない。

[やぶちゃん注:「曩に要求した償金の額を相當に增加する」ウィキの「下関条約」によれば、既定の賠償金二億両は、『その後の遼東半島還付金』としての三千万両(銀百十一・九万キログラム)を上乗せして合計八百五十七・九万キログラム』(二〇一一年四月現在の日中銀取引相場価格で銀一キログラムは十二万円程度であるから、その相場では一兆二百九十四億円『前後に相当する。当時の金額では日本の国家予算』八千万円の四倍強に当たる三億六千万円前後となる)『以上の銀を日本は清国に対して』三『年分割で英ポンド金貨で支払わせた。日本はこれを軍事費にあてたほか、長年の悲願だった金本位制復帰の資金とした。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担となった』とある。]

 

       

          五月十五日 兵庫にて

 支那から歸つた松嶋艦が和樂園の前に碇泊してゐる。偉大なる勳功を顯はしたに似ず巨艦では無い。が併し、靑い水面から隆起する鋼鐡城塞として澄んだ光の中に橫はつてゐる有樣はたしかに恐ろしく見える。この軍艦を觀覽する許可が出たので人々は大喜びで、お祭にでも往くやうに皆々晴衣を着飾つてゐる。自分もその連中と同行することを許された。港内の船といふ船が皆見物人のために雇はれて來てゐる樣に見える。それほどにも自分等が着いた時この裝甲艦の周圍に群れ寄つた人數が多かつた。これ程多數の見物人が一時に艦に乘ることは出來ない。幾百人宛[やぶちゃん注:「づつ」。]かが交代に乘つては降りる間待たなければならなかつた。併し冷しい海の風の中で待つのは不愉快ではない。人々の喜んてゐる光景も見てゐて惡くはない。順番が巡つて來る時に押し寄せる勢と言つたら無い。押し合ひへしあひ、しがみつく有樣と言つたら、婦人が二人まで海に落ちて、水兵に引き上げられた。そして松島艦の水兵を命の親だと言へると思へば落ちても恨みはないと言つてゐる。實の處船頭連が幾人となくゐたので、溺死するなんて事は仕ようとしたつて出來はしなかつた。

[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年のまさに五月十五日(水曜)の条に、『黄海海戦の旗艦松島を一雄とともに見物する』とある。

「和樂園」「小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳)」の「七」に既出既注。現在の兵庫県神戸市兵庫区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった遊園地。そこでも注したが、現在須磨区にある「和楽園」とは場所が異なる。]

 國民が松島艦の乘組員に負ふ所は、二人の若い婦人の生命よりも更に重要なものがある。それで人々は當然愛を以て之に報いんとしてゐる、――幾千の人がしたいと思つてゐる金品の贈與は軍紀上許されてゐないので。士官も兵士も疲れてゐるに相違ないが、混雜も質問も、嬉しい程愛想よく辛抱してくれる。巨大な三十珊[やぶちゃん注:「サンチ」。センチメートル(原文は正しく“centimetre”)の約のフランス語読み。初期日本海軍の軍艦はフランス製であった。後注参照。]砲とその裝填裝置から斡囘機關に至るまで、速射砲、水雷[やぶちゃん注:所謂、魚雷(魚型(ぎょけい)水雷)である。]とその發射管、探照電燈とその構造など、何もかも見せて細かに說明してくれる。自分は外國人として特別の許可を要するにも拘らず[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、この本文内時制では小泉八雲となる前年で帰化していない。]、上も下も悉く案内してくれ、艦長室に在る兩陛下のお寫眞までも一目見ることを許され、黃綠江[やぶちゃん注:原文“Yalu”で、これは「鴨綠」(現在の北京語で「Yālù」)のラテン文字転写で、石川氏の「鴨綠江」(おうりょくこう:現代仮名遣)の誤字訳。]沖の大海戰の壯快な物語を聞かされる。斯うしてこの港の頭の禿げた老人も婦人も嬰兒も今日を晴れと松島艦を我が物にしてゐる。士官も候補生も、水兵も精一杯もてなしてゐる。お爺さん達に話してゐるのもあり、子供等に劍の柄を弄らせたり、兩手を擧げて『帝國萬歲』を唱へることを敎へてゐるのもある。疲れた母親たちのためには莚が布かれて、彼等は甲板の間の片陰に坐つてゐる。

[やぶちゃん注:「三十珊砲」正確には松島搭載のそれは三十二サンチのカネー砲(フランス語:canon Canet/英語:Canet guns:カネーは開発した技術者ギュスターヴ・カネー(Gustave Canet 一八四六年~一九一三年)の名)である。ウィキの「カネー砲によれば、カネーはこの三十二サンチ艦載砲を、『主として輸出マーケット向けに開発したが、当時のものとしては非常に強力であった。砲は最初』、一八八四年にスペイン海軍に』、六『隻の戦艦を含む大規模な海軍増強計画の一端として選択された』。『カネーの大日本帝国への売り込みは、さらに成功を収めた。お雇い外国人で艦船設計技師であった、ルイ=エミール・ベルタン』(Louis-Émile Bertin 一八四〇年~一九二四年)が一八八七年に『設計した』『防護巡洋艦』『松島』『の主砲として採用されたのである。これは、圧倒的な火力(強力な艦載砲、魚雷)を比較的小型の艦に実装するという』ベルタンが属した『青年学派』の思想(Jeune École:十九世紀半ばにフランスで提唱された海軍戦略思想の呼称)『に合致するものであった』。『この思想は、当時』、『前弩級戦艦』(ぜんどきゅうせんかん:戦艦の初期の形態を指し、一八九〇年代中頃から建造が始まり、弩級戦艦が登場した一九〇六年までの期間に建造されたプレの大型艦を指す)『を購入する予算を持たなかった帝国海軍の興味を強く引いたのである』。三十二サンチ主砲は「松島」・「厳島」・「橋立」の三『隻に採用され』ている、とある。同ウィキにある「防護巡洋艦松島の32 cmカネー砲」の写真と、小林清親画(明治二七(一八九四)年作)の松島のカネー砲の絵をリンクさせておく。

「速射砲」発射速度の早い砲の通称。ウィキの「速射砲」によれば、『砲の口径や発射速度などにはっきりした定義はない。通常』、『中口径の砲で、毎分』十~四十『発以上を発射可能なものを指すことが多い。装填作業が人間の操作を介さずに全自動で行われる小口径のもの』(四十ミリ乃至五十七ミリ『程度まで)は速射砲とは呼ばれず』、『機関砲と呼ばれる。艦載砲のほか、陸上部隊の対戦車砲なども速射砲と呼ばれることがある』。一八八七年、『イギリスのアームストロング社は』、四・七インチ(十二センチメートル)『砲を速射砲と名付けて発売した。それまでの艦砲の発射速度が毎分』一『発程度であったのに対し』、カタログ。データ上では五・三秒に『一発発射できるとされた。当時』、『弾丸を自動装填する技術はなく、また装薬には黒色火薬を使用していた関係で、これより大口径の砲では発砲後に砲身洗浄が必要とされていたことなどから、弾丸を人力で扱える中口径の砲の速射化が進められた。これ以降、アームストロング社製以外の大砲であっても、駐退機を備えるものは速射砲と呼ばれるようになる』。『アームストロングの速射砲を最初に導入したのは日本海軍で、イギリス海軍よりも早かった。日本で初めて速射砲を搭載したのは装甲巡洋艦千代田であった。日本海軍のアームストロング速射砲は』、まさに『日清戦争における黄海海戦の勝利に大きく寄与したとされている』とある(太字は私が施した)。

「水雷」因みに「威海衛の戦い」では既に水雷艇部隊も活動して有意な戦果を挙げている。

「黃綠江」〔(×)→「鴨綠江」(○)〕鴨緑江(おうりょくこう)は現在の中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境となっている川。白頭(ペクトゥ)山に源を発し、黄海に注ぐ。水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある。ここ。「黄海海戦」は、この河口の沖合で行われたことから「鴨緑江海戦」とも呼ばれる。]

 是等の甲板は僅二三箇月前には勇士の血に染みて居たのだ。所々に黑い斑點が、磨石で擦つてもまだ落ちずに殘つてゐる。人々はそれを心よりの畏敬を以て視る。この旗艦松島は巨彈を受くること二囘、裝甲の無い部分は小彈の亂射によつて穿孔されてゐる。艦は接戰の衝[やぶちゃん注:「しよう(しょう)」。要(かな)め。]に當つて乘組員の約半數を喪つた。排水量は四千二百八十噸に過ぎない。而も直面した敵は支那の鋼鐡艦二隻で各七千四百噸であつた。外面松島の裝甲は[やぶちゃん注:「外面」は確かに原文は“Outside,”であるが、コンマがあり、これは「見かけ上は、」という意である。石川氏も副詞的そう使ったのであろうが、読点ぐらいは打つべきだった。]、破碎された鋼鐡板は張り替へられて、少しも深い彈痕を示してゐぬ。併し案内者は甲板や砲塔を支へる鋼鐡檣[やぶちゃん注:「かうてつしやう(こうてつしょう)」。]や煙突などの數知れぬ修復の跡や、露砲塔の厚さ一呎[やぶちゃん注:一フートは三十・四八センチメートル。以下、後注参照。]の銅像板に星形の龜裂を殘した恐ろしい彈痕を誇り顏に指し示す。彼は又、下に降りて、艦を貫通した三十半珊[やぶちゃん注:後注参照。]の彈丸の通路を示した。彼は曰ふ『こいつにやられた時には震動で人間がこの位(と甲板から二尺程の處に手をやつて)撥ね上げられた。同時にあたりが眞暗になつて、一寸先きも見えなかつた。その中に右舷前方の大砲が一門粉碎されて、その係りの兵士は皆殺された事が分かつた。卽死四十名負傷多數で、その部分に居たものは一人も助からなかつた。搬出してあつた火藥が爆發したので甲板に火災が起こつた。そこで戰鬪を續けながら火を消し止めるために働かなければならぬ。顏や手の皮を吹き飛ばされた負傷者までが痛さを忘れて働き、死にかけてゐる人までが水を運ぶ手傳ひをした。併し味方の巨砲から更に一發を食はせて鎭遠號を沈默させてやりましたよ。支那の方には西洋人の砲術長が手傳つたのです。西洋の砲術長を向うにまはすのでなかつたら、餘り樂に勝て過ぎまさあ[やぶちゃん注:最後の部分は「よっぽどもっと楽に勝てたに違いありません」という謂いであろう。]』彼の吐く所は事實本音である。この日本晴れの春の日、松島艦の乘組員に取つて何より喜ばしい事は、直に戰鬪準備を開始し、恰も沖に碇泊して居たロシヤの大裝甲巡洋艦を襲擊せよとの命令であつたらう。

[やぶちゃん注:「松島」「排水量は四千二百八十噸」基準排水量は四千二百十七トン。

「支那の鋼鐡艦二隻で各七千四百噸」清国北洋艦隊の「定遠(じょうえん)」(常備排水量七千百四十四/満載排水量七千三百五十五トン)と「鎮遠」(常備排水量七千二百二十トン)。孰れもドイツ製。

「露砲塔の厚さ一呎」当該原文は“the foot-thick steel of the barbette”。一フートは三十・四八センチメートル。「バーベット」(barbette)とは「露砲塔」と訳され、ウィキの「バーベット」によれば(リンク先には自動可動する砲塔全体(但し、近現代のもの)の模式図が示されてあるので参照されたい)、『主に軍艦搭載用の砲台構造の一種で、上甲板に突き出した円筒形の装甲部を指す。その頂部に火砲が設置される。主砲や一部の副砲で用いられた』。『バーベットの内部には、エレベーター状の揚弾筒など、弾薬庫から砲弾・装薬を揚荷するための設備が保護されている。バーベットは、内部に弾薬がある関係で被弾した場合の危険度が高いため、舷側の垂直装甲、甲板の水平装甲とならんで戦艦の装甲では重要視される』。『露砲塔とは、火砲の基部(装填機構や旋回・俯仰角機構)より上がバーベットからむき出しとなる形式を指す。水平方向からの砲撃を受けた際に火砲の基部のみがバーベットによる装甲で守られる。現在の砲塔形式とは違い、完全な砲塔にはなっていない』。十九『世紀後期の装甲艦などに見られた。弾薬の装填は砲を最大仰角にしてから行った』。『この時代の艦砲は現在と異なり、直接照準の水平弾道で撃ち合ったので、防御も砲員を守るため』、『砲部の基部のみとし、水平方向以外からの脅威は考えられていなかった。基部から上は吹き晒しの露天式、もしくは命中弾の断片(スプリンター)に対する防御ができる程度の装甲でできたお椀状の屋根(フード)をつけた』。『しかし、次第にスプリンターの脅威が増すとともに、大砲の射程が伸びて砲弾の落下角度が大きくなり、砲の上部の防御が必須となり、本格的な砲塔に移行した。但し』、『対空砲・両用砲などでは、かなり後年まで使われた』。『露砲塔を主兵装とする軍艦は、バーベット艦、あるいは露砲塔艦とも呼んだ。フランス海軍の装甲艦「ル・ルドゥタブル」やイギリス海軍の前弩級戦艦「ロイヤル・サブリン級」などは露天式だった。清国海軍の「定遠型」やイタリア海軍の「デュイリオ級」はフード付きだった』とある。調べて見ると、防護艦松島のそれは上にフードが附いていたようである。

「艦を貫通した三十半珊の彈丸」三十センチ五ミリ砲弾のことであろう。敵の二艦「定遠」及び「鎮遠」には孰れも三百五ミリ砲が兵装としてあった。打ったのは後に出る「鎮遠」。ウィキの「鎮遠」によれば、一八九四年九月十七日、『黄海海戦中、日本の旗艦「松島」に直撃弾を与えた』が、「松島」は『大火災を生じながらも』、『厚い甲鉄のおかげで主要部を貫徹されず、威海衛に入った』とある。

「鎭遠號」は明治二八(一八九五)年二月十七日に威海衛で鹵獲(ろかく:戦地などで敵対勢力の装備品や兵器・補給物資を奪うこと)され、戦利軍艦として三月十六日に日本海軍に編入され、明治三七(一九〇四)年の「日露戦争」に日本海軍二等戦艦として「黄海海戦」・「旅順攻略戦」・「日本海海戦」に参加した。明治四四(一九一一)年十一月二十四日、装甲巡洋艦「鞍馬」の実験艦として破壊され、海底に没した(ウィキの「鎮遠」に拠る)。]

 

 

       

          六月九日 神戶にて

 去年下ノ關から神戶まで旅行する間に、幾つかの聯隊が、何れも白い軍服を着て、出征の途に上るのを見た。彼等兵士は自分が敎へた學生等と大層同じ樣に見える。(事實幾千かは學校を出たばかりである)それで斯ういふ若い者を出征させるのは可哀さうだと感ぜずには居られなかつた。子供らしい顏は如何にも淡白で快活で、人生の大なる悲哀などは一向知らぬげに見える。

 同行の英國人で陣營で生活して來たのが言ふには『何も心配することは無い。皆立派にやつてのけるよ』『それは分かつてゐるさ。然し暑さ寒さや滿洲の冬を案じて居るのだ。その方が支那人の鐡砲よりは恐ろしいからね』と自分は答へた。

[やぶちゃん注:「去年下ノ關から神戶まで旅行する間」「旅行」と言っているが、これは熊本五幸を辞任し、『神戸クロニクル』紙(日刊紙。正しくは“The Kobe Chronicle”)に記者(小泉八雲(Lafcadio Hearn)は若き日より、長く記者として生活してきたのであり、来日も出版社ハーバー社の通信員としてであった。但し、以前から不審を抱いていた同社に対し、到着直後に怒りが爆発、契約を破棄したのである)として勤めるために転居した際のことを言っている。ただ、当時は彼は未だ外国人であったため、政府から国内で移動するための「旅行免状」を必要としたことから、こう言っているものと思われる。銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二七(一八九四)年十月の条に、『上旬、門司から海路で神戸に向かう。途上、多くの出征兵士の列を見る』とある。]

 

註 實際戰爭で死んだ日本人の總數は、牙山の戰鬪から澎湖諸島の占領に至るまで僅に七百三十七人である。然し他の原因で死んだ者は、臺灣の占領中六月八日といふ最近までに、三千百四十人を算する。その中コレラによる者だけが千六百二人であゐ。是は兎に角、神戶クロニクル紙に發表された公報の數字でもある。

[やぶちゃん注:「牙山の戰鬪」既出既注の「成歓の戦い」の別称或いはその中の一戦闘。七月二十八日に日本軍は牙城に籠った清国兵を攻撃するため進発し、七月二九日午前三時二十分に佳龍里において、清国兵の攻撃により、歩兵第二十一連隊第十二中隊長であった松崎直臣歩兵大尉が戦死し(日本側初の戦死者とされる)、その他数名が死傷した(「安城の渡しの戦い」)。午前八時三十分、日本混成第九旅団が成歓の敵陣地を制圧した。例の先に出た白神や木口のそれは、まさにこの「安城の渡しの戦い」でのことであった。

「澎湖諸島の占領」一八九五年、日清戦争の下関条約により清から割譲を受け、日本が領有した、台湾(島)の西方約五十キロメートルに位置する台湾海峡上の島嶼群。島々の海岸線が複雑で、その総延長は約三百キロメートルにも達する。大小併せて約九十の島々から成るが、現在、有人島はそのうちの十九島である。中華民国の澎湖(ポンフー/ほうこ)県に属する。ここ。]

 

 喇叭の卷、日沒後に點呼したり、消燈の時刻を報じたりする喇叭の響は、幾年か日本の或る師團の所在地[やぶちゃん注:熊本。]に住む自分の夏の夕の娛樂の一つであつた。然し戰爭の期間は最後の一節の引き伸ばした訴ふるが如き音が以前とは異つた感動を與へた。節まはしが特殊なものだとは思はない。が、折々特別な感情をこめて吹奏せられるのだとよく思つた。全一師團の喇叭から一齊に星明かりに向つて發せられる時、百千(ももち)に交じるその音色に忘られ難いあはれさがある。その都度自分は眼に見えぬ喇叭手が年若く力猛き者どもを久遠の安息の暗き寂寞に招くのを夢想したものである。

 

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[やぶちゃん注:以上の楽譜は原本配置箇所相当に置いた。誰もが知っている旧陸軍消灯ラッパのメロディである。曲想標語・速度標語は“con expressione è a volonta.”とあるが、ちょっと綴りが不審。前の部分は「con espressione」(コン・エスプレッシオーネ)で「表情をこめて」の意であろう。後半最後の単語も正しくは「volontà」(ヴォロンタ:意思)ではないか? この「エ・ア・ヴォロンタ」とは「ad.libitumad lib.)」(アド・リビトゥム/アドリブ)と同じで、「演奏者がある程度まで自分の意志で自由に速さを決めてよい」という意味ではないかと思う。]

 

 今日はどこかの聯隊が歸るのを見に往つた。神戶驛から『楠公さん』(楠正成の英靈を祀つた大きな社)まで、彼等の通る往來の上に綠門が出來てゐた[やぶちゃん注:植物をあしらった緑の凱旋門で、種々の祭典・式典で作られた常套的な装飾である。]。市民は軍人等の凱旋後最初の食事を饗するの光榮に對して六千圓を寄附した。是までも幾大隊か同樣に親切な歡迎を受けた。彼等が食事をした神社の庭の幄舍[やぶちゃん注:「あくしや(あくしゃ)」。四隅に柱を立てて棟・檐(のき)を渡して布帛(ふはく)で覆った仮小屋。祭儀などの際に臨時に庭に設けるテント様のもの。]は旗や綠葉を以て飾られた。一同に對して寄贈品があつた。菓子や紙卷煙草や、尙武の歌を染め投いた手拭など。神社の門の前には本當に立派な凱旋門が立つて、前後兩面には歡迎の辭句が金文字で記され、頂上には地球の上に翼を擴げた鷹が登つてゐた。

[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年六月九日(日曜)の条に、『帰還する兵士が神戸駅から「楠公さん」まで行進するのを、万右衛門と見に行く』とある。万右衛門とは同居していたセツの養祖父稲垣万右衛門である。

「『楠公さん』(楠正成の英靈を祀つた大きな社)」兵庫県神戸市中央区多聞通にある理想の勤皇家として崇敬された楠木正成を祭る湊川(みなとがわ)神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。]

 

註 一八九四年九月十七日の大海戰の折、日本の巡洋艦高千穗の檣頭[やぶちゃん注:「しやうとう(しょうとう)」。帆柱の先端。]に一羽の鷹が止まつて、おとなしく捕まつて飼はれてゐた。艦内一同の愛撫を受けて後この瑞鳥は、天皇陛下に献上せられた。鷹狩は日本の武家の間に盛んに行はれた遊山であつて、鷹は見事に馴らされたものでゐつた。が、今後は以前にも增して鷹が勝利の徴[やぶちゃん注:「しるし」。]となりさうである。

[やぶちゃん注:「巡洋艦高千穗」日本海軍防護巡洋艦。イギリス・ニューカッスルのアームストロング社製。明治一八(一八八五)年に同巡洋艦「浪速」とともに進水、明治十九年七月に横浜港に到着。明治二三(一八九〇)年、佐世保鎮守府所管の第一種と定められる。日清戦争では「黄海海戦」、大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加した。第一次世界大戦における青島攻略戦従軍中の大正三(一九一四)年十月十八日未明に膠州湾においてドイツ帝国海軍水雷艇の魚雷攻撃を受け、沈没した(以上はウィキの「高千穂」に拠る)。]

 

 自分は最初萬右衞門を連れて神社に遠からぬ停車場の前に待つて居た。列車が着いて、番兵が見物人に步廊を立ち去らせた。外の街路では、巡査等は群集を制し、一般の通行を止めた。數分の後には大隊また大隊が、煉瓦のアーチになつた出口から、きちんと縱隊になつて行進して來た、卷煙草を燻らし[やぶちゃん注:「くゆらし」。]乍ら少し跛[やぶちゃん注:「びつこ(びっこ)」。]を曳いて步く半白の將校を先頭に立てて。群集は自分等の周圍に密集して來たが、喝采もしなければ談話すらもしない。通過する軍隊の步調を取つた跫音の外にこの靜寂を破るものはない。是等が曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]出征する時に見た同じ兵士だとは思へなかつた。肩章の數字だけがその事を示した。顏は日に燒けて獰猛に見えた。濃い髯を生やしたのも少くなかつた。紺の冬の軍服は磨れたり切れたり、靴はえたいの知れぬ恰好になつてゐた。然し、勢のよい大胯[やぶちゃん注:「おほまた」。]な足取りは鍊へられた兵士の足取であつた。最早若者ではなくて、世界中のどんな兵隊にでも向ふことの出來る荒武者であつた。殺戮も襲擊もやつて來た者共、筆紙に盡くせない樣な苦勞を重ねて來た者共そあつた。その顏形には喜悅も得意もない。鋭敏なその眼は歡迎の旗も裝飾も、地球を翼の陰にしてゐる武運長久の鷹を戴いた凱旋門をすらも見ない。恐らくは彼等の眼が餘りに屢〻人をして沈默ならしむる光景を目擊したためであらう。唯だ一人通りながら微笑したものがあつた。が自分は、子供の折アフリカから歸る兵隊を見てゐた時、一人のズアーヴ兵譯者註の顏に表はれた、刺す樣な嘲侮の微笑を想ひ起こした。見物人の中には、斯くまでに變化した理由を感じて、眼に見えて感激してゐる者も多かつた。兎にも角にも。彼等は前よりも勝れた兵士となつてゐる。而して歡迎され、慰安を與へられ、贈物を受け、人々の深く溫かい愛を受け、今後は馴れた舊の[やぶちゃん注:「もとの」。]兵營に落ち附くことになつてゐる。

 

譯者註 ズアーヴ兵は最初(一八三〇年)佛領アルヂェリアに於て募集した土民の輕步兵で、最初はフランス本國の兵士と同一中隊に編成せられてゐたが後にに別個の中隊をなして同一聯隊に屬する樣になつた。一八四〇年以後は全然本國の兵士を以て編成することになつたが、服裝だけに依然土民服を用ゐてズアーヴの名を存して居た。一八五〇年生れの著者が(多分、佛國[やぶちゃん注:「フランス」と読んでおく。]に於て敎育せられた)少年時代に見たといふのは、最早土民兵でなかつたに相違ない。

[やぶちゃん注:「多分、佛國に於て敎育せられた」「少年時代」「の著者」小泉八雲(Lafcadio Hearn)は十七歳の、一八六七年(慶応三年)十月二十八日、彼の面倒を見ていた大叔母サラ・ブレナンの破産により、通っていた聖カスパート校を中退、フランスの神学校に入学したようである(このフランス滞在の辺りは現在も事蹟殆んど判っていない)。その後、一八六八年(明治元年)頃には旧鵜ハーン家の使用人を頼ってロンドンに戻っているらしい。そうして、一八六九年(明治二年)、リヴァプールからニュー・ヨークへ、さらにシンシナティに移ったのであった。

「ズアーヴ兵」“Zouave”。ウィキの「ズアーブ兵」より引く。フランス語「Zouaves」は一八三一年、『アルジェリア人、チュニジア人を基本に編成されたフランスの歩兵』。『当時、北アフリカはフランスの植民地』であった。『第一次世界大戦でも、フランス陸軍の精鋭部隊として活躍した』が、『第二次世界大戦後の北アフリカ植民地の独立により』、一九六二年に『廃止された』(従って石川の注は正しい、というより、廃止後に生き残ったフランス歩兵の中でも特殊なグループに対する俗称ということになる)。『背中の彫り物、髭、ジャケットなど兵士の風俗に特色がある。特にその軍服のデザインは他国の軍隊でも参考にされた。例えば、教皇領の軍隊でも採用され、教皇のズアーブ兵(Papal Zouave)と称してイタリア統一運動に対抗する戦力として用いられた。アメリカ南北戦争でも、南北両軍にズアーブを称する義勇兵部隊があった。民間用のファッションにも取り入れられ、ゆったりとしたズアーブ』・『パンツ、ズアーブ』・『ジャケットなどが生まれている』とある。]

 

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[やぶちゃん注:以上の楽譜は原本配置箇所相当に置いた。先に掲げられた旧陸軍消灯ラッパの譜面が二度繰り返されたものである。消灯ラッパは、世界中で、軍人の墓の前でもその死を悼んでしばしば奏される。]

 

 自分は萬右衞門に話した。『今夜彼等は大阪なり、名古屋なりに着く。彼等は喇叭の響を聞いて、歸らぬ戰友を偲ぶであらう』

 老人は眞劍になつて答へた。『西洋の方は死人はもう歸らないと思ふでせうが、私共にはさうは思へません。日本人は死んだつて歸らないことはないのです。歸る途を知らぬ者はありません。支那から、朝鮮から、海の底から、死んだ人は皆歸つて來ました、え〻みんな。私共と一緖に居るのです。日の暮れる度に自分等を呼び戾した喇叭を聞きに集まります。あの人達は天子樣の軍隊がロシヤに向つて召集されるその時にも、亦喇叭の聲を聞くことでせう』

 

2019/12/10

小泉八雲 阿弥陀寺の比丘尼 (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE NUN OF THE TEMPLE OF AMIDA”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第五話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。

 原注及び訳者注は、底本ではポイント落ちで全体が五字下げであるが、行頭まで引き上げ、注群は前後を一行空けた。

 なお、諸資料によれば、本篇は島根県松江市上東川津町にある標高三百三十一メートルの嵩山(だけさん)(国土地理院図)に纏わる伝承がもとであるという。個人サイト「おしどり登山隊の山便り・風便り」のこちらの画像を読む前に見ておかれるのも、一興か、と存ずる。]

 

      第五章 阿彌陀寺の比丘尼

 

       

 お豐の夫は遠緣の者で、好いた同志で婿に來たのであるが、彼が領主に呼ばれて京へ出た時は、お豐は末の事など案じはしなかつた。唯だ悲しいばかりであつた。二人が一緖になつてから、斯うして離れて暮らすのは初めてであつた。然し父や母[やぶちゃん注:原文に拠ればお豊の実父母である。]も一緖にゐるし、またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、誰れよりも可愛い、いたいけな男子があつた。その上いつも用事の多い體であつて、家の事もせぬばならぬし、絹や木綿の着料を織る仕事もあつた。

[やぶちゃん注:「またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、」奇体な日本語である。“― though she would never have confessed it even to herself, —”で、「また、それを彼女は自身でさえおくびにも出さなかったけれども」の謂いである。]

 每日定めの時刻に、お豐は出てゐる夫の爲めに、お馴染みの座敷へ、可愛い漆塗りの膳に何もかも調へた少量の食事(先祖の靈前や神棚に供へる樣な眞似事の食事)を据ゑた。此食事は座敷の東側に供へられ、主人の座蒲團が其前に敷かれた。東の方に据ゑた譯は主人が東の方へ旅立つたからである。食事を下げる前に、お豐はいつも小さい椀の蓋を取つて見た。それは漆塗りの蓋の内側に湯氣がついてゐるかどうか見るためで、出した吸ひ物の蓋の内側に湯氣がかかつてゐれば、出てゐる人が無事だといふからである。若し湯氣が見えなければ其人は死んてゐる、それは其人の靈魂が食物を求めて歸つて來た徵である、と云ふのである。お豐は每日每日漆塗りの蓋に湯氣の珠が厚くかかつてゐるのを見た。

 

註 斯うして愛する不在者の靈に供へる食事を「かげぜん」(影の盆の義)と云ふ。『膳』といふ語は小さい卓子の樣な脚のある漆塗りの盆に載せた食事を指すにも用られる。それ故「影の御膳」といふ愈味に英譯するが「かげぜん」の適譯であらう。

 

 かの幼兒はいつも側に居る喜びの種であつた。滿三歲で、神々でなければ本當には答へられぬ樣な問をかけるのが好きであつた。この兒が遊びたいと言へば、お豐は仕事を措いて相手をした。子供が休まうとすれば、お豐は面白い話をして聞かせたり、誰れも到底分からない樣な事柄に就いて子供の問ふがままに、可愛い敬虔な返答をしたりする。夕方佛壇や神棚に小さい燈明が上がると、まはらぬ舌に父親の無事を祈る言葉を敎へた。子供が寢つくと側に針仕事を持つて來て寢顏の愛らしもを見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]。時によると夢を見てにつこりすることもある。すると觀音さまが子供と夢の中に遊んでゐるのだと心得て、世人の祈願の音を常住觀じ給ふ彼の乙女の菩薩に向つて口の中に經文を唱へた。

 

 時には、晴天の續く頃、坊やを背に負つてダケヤマ、(嶽山)に登ることもあつた。かうした遊山を坊やは大層喜んだ、面白いものを見せて貰へるばかりでなく、色々なものを聞かせて貰へるので。坂道は木立の中や森の中を拔け、草の生えた斜面や、形の面白い岩の側をまはつて往く。そこには胸に物語を祕めた花や、木の精を宿した樹木があつた。山鳩はコロッコロッと啼き、鳩はオワオ、オワオと鳴く。蟬はヂーヂーと啼いたりミンミンと啼いたり、カナカナと啼いてゐた。

 大事に思ふ人の不在を待ち佗びる者は、往かれさへすれば、皆この『だけ山』と呼ぶお山へお詣りをする。これは市(松江)の何處からでも見える。又その頂上からは幾箇國も見晴らせる。頂上には大方人の丈ほどの石が垂直に立てられてゐて、その前とその上とに小石が積まれてある。その傍に神代のさる姬宮を祀つた小さな神社が建つてゐる。この姬宮が懷かしき人の歸りを茲の[やぶちゃん注:「この」。]山の上に待ち焦れて、遂に石に化した。そこでこの處にお宮を建てたので、出てゐる人を案ずる者は今も此處に來てその無事に歸ることを祈願する。そしてそこに積んである小石を一つ持つて歸る。案じた人が歸つた時は、山の上の石の積んであつた舊の[やぶちゃん注:「もとの」。]場所に、その小石の外に今一つの小石を、お禮と記念との印として置いて來ることになつてゐる。

 お豐と坊やとお詣りをして家に歸り着くまでには、いつも夕闇が靜かに四邊をこめた。道も遠い上に、往きも還りも、町を圍む水田の間を、小舟に乘つて渡らねばならず、隨分時のかかる事であつた。星や螢が逍を照らすこともあり、月さへ上ることもあつた。するとお豐は小さい聲で月を詠じた出雲の童謠を坊やに歌つて聞かせるのが常であつた。

 

    ののさん(或はお月さん)いくつ。

    十三 ここのつ譯者註一

    それはまだ 若いよ、

    わかいも 道理譯者註二

    赤い色の帶と

    白い色の帶と、

    腰にしやんと結んで、

    馬にやる いやいや、

    牛にやる いやいや。

 

註 派手な色の帶は子供だけが締めるので斯ういふ。

譯者註一 「十三ここのつ」は有りふれた「十三七つ」に比して口調も惡しく數の感じも異樣ながら、出雲では今も斯く歌つてゐる由。

譯者註二 原文のローマ字をその儘に譯せば「若いも道理」となるが、原文の「いえ」の二音は松江の方言の『い』の間のびしたのを、著者がその儘音譯したものである、との落合貞三郞氏の攝明を附記して置く。

 

 藍色の夜の空には幾里も續く水田から、實に土より湧く聲と謂ふべき、聲高くも亦靜かに、泡立つ樣な合唱――啼き交はす蛙の聲――が立ちのぼる。お豐はそれを『メカユイ、メカユイ』『眼が痒ゆい、睡むくなつた』といつてゐるのだ、といつも坊やに言つて聞かせた。

 さうしてゐる間は楽しい時であつた。

 

       

 さうしてゐる中、三日の間に二度までも、永遠の攝理に屬する攝理によつて生死を司どる者が彼女の心を擊つた。初には幾度となく無事を祈つた優しき夫が己が許には歸られぬ、一切の形體の成り出でた元の塵に還つたと知らされた。その後間もなく坊やが、唐土[やぶちゃん注:「もろこし」と訓じておく。但し、原文は“the Chinese physician”で「漢方医」のことであろう。]の醫者も醒ますことの出來ぬ深き眠に就いたことを知つた。斯ういふ事實をお豊が覺つた[やぶちゃん注:「さとつた」。]のは電光によつて物の形が認められる樣な束の間であつた。この二つの電光の閃きの合間も、其から先きも、これぞ神々の慈悲なる一切無明の闇であつた。

 その闇は過ぎて、お豐は記憶と呼ぶ仇[やぶちゃん注:「かたき」。]に立ち向つた。他の者の前には、ありし日の如くに樂しく笑ましげな[やぶちゃん注:「ほほえましげな」。]顏をしてゐたが、この記憶の前には堪へ得なかつた。疊の上に玩具を並べたり、小さい着物を擴げたりして、小さな聲で話しかけたり、無言で微笑んだりした。併し微笑の果てはいつも激しくわつと泣き伏しては、頭を疊にすりつけて、他愛もない問を神々にかけるのであつた。

 

 或る日のことあやしき慰めを思ひ立つた。それは世に『とりつぱなし』と呼ぶ、死んだ人の靈魂を呼びかへす事であつた。ほんの一分でもよいから、坊やを呼びかへす事は出來まいか。それは坊やの靈魂をなやますことにならうが、母親のために少時[やぶちゃん注:「しばし」。]の苦痛は喜んで辛抱せぬことはあるまい。たしかにさうであらう。

 

 〔死んだ人を呼びかへすには、死靈を呼び出す呪文を知つてゐる坊樣か神主の許に往かなければならぬ。さうして故人の位牌をその人の許に持つて出ねばならぬ。

 それから齋戒の式が行はれ、位牌の前に燈明を點じ燒香をなし、祈禱または經文を唱へ、花や米の供物をする。但しこの時の米は生でなくてはならぬ。

 萬事整つた時に祭主は左手に弓の形をしたものを持ち、右手で手早く打ちながら、死んだ人の名を呼ぶ。其から大聲で『來たぞよ、來たぞよ、來たぞよ』と云ふ。そして斯う叫んでゐる中に彼の聲音が段々に變はる。終には死んだ人の聲そつくりになる。その靈魂が彼に乘り移るからである。

 

註 自分の來た事か知らせようと幾度も案内するものの事を、出雲の諺で「とりつぱなしのような」といふのは是からである。

 其から死んだ人が、口早に尋ねられることに答へるが、その間も『早く早く。歸つて來るのは辛いぞや、斯うして永くは居られぬ』と叫び續ける。そして答がすむと精靈は去つて往く。行者は氣が遠くなつて俯伏して了ふ。死んだ人を呼び戾すことは宜しくない。呼び戾されるとその人等の境遇は一段と辛くなる。冥府に歸ると前より低い所に落ちねばならぬ。

 今日では斯の樣なお呪ひ[やぶちゃん注:「おまじなひ」。]は法律で禁止されてゐる。昔はそれが慰めになつたものだ。併しこの禁制は良い掟で正當である。人心の中にある神性を侮蔑せんとする人もあるから〕

[やぶちゃん注:「とりつぱなし」原文は“Toritsu-banashi”で「とりっばなし」であるが、私はこのような「名」の招魂法を知らない。民俗学でもちょっと私は聴いたことがない。漢字も想起出来ない。近似した呪法をご存じの方は是非御教授願いたい。「執り離し」で冥界の死霊から魂を引き離して呼び返す執行法、魂振(たまふ)り、反魂(はんごん)の術か? 小泉八雲の説明によるなら、出雲独特のもので、しかしそれは明らかに後に出るように「いたこ」の「口寄せ」に酷似している。

「法律で禁止されてゐる」明文化された法律による禁止ではなく、明治新政府が慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)に発した悪名高き太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)及び明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などの国家神道政策の中で、廃仏毀釈に代表されるような仏教・修験道排撃と、民間の呪法及び「淫祠邪教」政策レベルで取り締まったことを指していよう。]

 

 そこで或る晚のこと、お豐も町外づれの淋しい小さな寺に往き、子息の位牌の前に跪き、口寄せの呪文を聞いてゐた。やがて行者の肩から覺えのある樣な聲が聞こえた。誰れのよりも好きな聲であつたが、風の戰ぎ[やぶちゃん注:「そよぎ」。]の樣に微かで細かつた。

 その紬い聲はお豐に向つて言つた。

 『母樣、早く聞いて下さい。路は暗く長いのでゆるゆるしては居られません』

 お豐は慄き[やぶちゃん注:「をののく」。]ながら尋ねた。

 『何故私は子供を亡くして悲しい思ひをしなければならないのですか。神々の思召しはどういふのでせうか』

 すると其に答があつた。

 『母樣、私の事をそんなに歎いて下さるな。私の死んだのは、母樣が死なないためです。年まはりが病氣のはやる悲しい年で、母樣が死ぬ事になつてゐたのが分かりました。それで、願をかけて母樣の代りに死ぬことが出來たのです。

 

註 「身代り」といふのが宗敎的の用語である。

 

 『母樣私の事を泣いて下さるな。死んだ者を悼むのは供養にはなりませぬ。冥府への道は淚の川を越えて往きます。母樣たちが歎くとその河の水が增して、精靈は通ることが出來ず、あちこちとさまよはねばなりませぬ。

 『それゆゑ、お願ひですから、お母樣、泣かないで下さい。唯だ折ふし水を手向けて下さい』

 

 

 

       

 その時からはお豐が泣いてゐることはなかつた。以前の通りにかひがひしく、娘としての孝養を盡くした。

 秋さり春來たつて、父親は新しく婿を迎へようと思つた。母親に向つて斯ういつた。

 『内の娘にもまた男の子でも出來たら、それこそ、娘にも自分等一同にも、此上ない喜びであらう』

 が、物の分かつた母親は答へた。

 『娘は別に悲しんでは居ませぬ。苦勞も惡い事も少しも知らぬほんのねんねえになつて了ひました』

 お豐が其の苦痛を知らぬやうになつたのは事實であつた。極々小さな物を妙に好く樣になつてゐた。初には寢床が大き過ぎて來た。大方子供を亡くしたあとの空虛の感じからであらう、それからは日一日と他の物が皆大き過ぎる樣に思はれて來た。家も馴れた座敷も床も、そこらにある大きな花瓶も、終には膳椀までも。御飯も子供の使ふ樣な小さな椀から、雛道具の樣な箸で、食べると言つてゐた。

 斯うした事には親達は優しく娘の氣任せにして置いた。して又外の事には別に變つた注文もなかつた。老夫婦はいつも娘の事を談り合つた。たうたう父親が切り出した。

 『うちの娘には餘所の人と一緖に居るのは辛からう。が、自分たちも寄る年で、その中[やぶちゃん注:「うち」。]娘を後に殘さねばなるまい。それで娘を尼にしたらば、先きの心配もをゐるまい。小さなお堂を建ててやつてもよいな』

 翌日母親はお豐に尋ねた。

 『お前尼さんになつて、小さな護摩壇や小さな佛樣のある小さい小さいお堂で暮らす氣はないかえ。私達はいつも近い所に居ますがね。若しその氣なら、お坊樣を賴んでお經を敎へて貰ふ樣に仕よう』

 お豐はそれを望んだ。そして極小さな尼の衣を拵へるやうに賴んだ。が尙母は言つて聞かせた。

 『外のものなら何でも小さく拵へさせて差支はないが、衣だけは大きいのを着なくては良い尼樣にはなれません。それがお釋迦の律ですよ』

 それで漸くい豐は外の尼達と同じ衣を着る氣になつた。

 

       

 兩親はお豐のために、阿彌陀寺といふ大きな寺のあつた境内に、一棟の尼寺、卽ち尼の寺を建てた。この尼寺も亦阿彌陀寺と呼んで、阿彌陀如來を本尊に、その他の佛樣をも招じた。至つて小さい護摩壇に玩具の樣な佛具を備へ、小さな經机には小さな經文を載せ、何れも小さな、衝立や鐘や掛軸があつた。お豐はここで兩親の歿後も永く暮らした。人々は彼女を阿彌陀寺の比丘尼と呼んだ。

 門前から少し離れて、一體の地藏尊があつた。この地藏は子供の病氣を直すといふ變つた地藏であつた。この地藏の前にはいつも小さな餅が上げてある。是は病氣な子供のために願をかけてゐる徵で、餅の數は子供の年齡を示してゐる。大抵は二つか三つで、稀には七つから十もあることがある。阿彌陀寺の比丘尼はこの地藏等の番をして、香を絕やさず、お寺の庭に咲いた花を上げた。庵寺の裏に小さな花園があつたのである。

 每日朝の間の托鉢を了へて歸ると、小さい機臺[やぶちゃん注:「はただい」或は「はた」。]の前に坐つて布を織るのが例であつた。物の役に立たぬほど狹いものであつたが、彼女の手織りは、身の上を知つてゐた方々の店屋に買ひ取られた。彼等は小さい茶椀だの小さい花瓶だの、庭に置く樣に變つた盆裁などを贈つた。

 彼女の何よりの娛樂は子供等を相手にすることで、それに不自由はなかつた。日本の子供の幼少時代は大抵社寺の境内で過ごされる。それで阿彌陀寺の庭で樂しく遊び暮らした子供も數多かつた。同じ通[やぶちゃん注:「とほり」。]に住む母親等は子供等をそこで遊ばせるのが好きであつた、唯だ比丘尼さんを莫迦にせぬ樣にと注意した。『時によると變な事をしても、それは一度可愛い坊やを有つてゐたのを亡くして、その悲みが母親の胸に耐へられなくなつたのです。それゆゑ尼さんには本當に大人しく、失禮の無い樣にしなくてはいけないよ』

 子供等は皆大人しくはあつたが、崇敬の意味で敬意を表したとは謂へなかつた。彼等はよく心得てゐて、そんな堅くるしい事はしなかつた。いつも彼女をお比丘尼さんと呼んで丁寧にお辭儀をしたが、それ以外には自分等の仲間の樣に隔てなく遇(あし)らつた。彼等は彼女と遊びをし、彼女は子供に可愛い茶椀でお茶を出したり、豆の樣に小さな餅を澤山に拵へたり、子供等の人形の着物にとて、綿布や絹布を織つてやつたりした。こんな風で彼女は子供等に肉親の姉の樣になつた。

 子供等は、每日每日彼女と遊んてゐる中に、もうさうして遊んでゐられないほど成人して、お寺の庭に來ないで浮世の仕事をする樣になり、やがては父となり母となつて、自分等の子供を遊びによこすやうになつた。さういふ子供等が又親達と同じ樣にお比丘尼さんを好くやうになつた。斯うして比丘尼はお寺の建つた時の事を覺えてゐる人達の子や孫や曾孫館と遊ぶまで長命した。

 人々も彼女が不自由をしないやうに心懸けた。いつでも自分一人で入るだけより多くの寄進があつた。それで彼女は子供達に大方仕たいだけよくしてやつたり、小さな生物などに有り餘るほど餌をやることが出來た。小鳥がお堂の中に巢を作つて、彼女の手から餌を食べた、そして佛樣の頭などに止まらぬやうになつた。

 

 この比丘尼の葬式があつてから、幾月か經つて、大勢の子供が自分の家にやつて來た。九歲ばかりの少女が一同に代つてつぎの樣に述べた。

 『をぢさん、私達は亡くなつたお比丘尼さんの事でお願ひに參りました。お比丘尼さんのお墓に大變大きなお石塔が立ちました。大さう立派なお石塔ですの。けれど、私達は小さい小さいお石塔を今一つ立てたいと思ひます。生きてゐた時に極小さいお墓が好きだとよく言つて居られましたから。石屋さんがお金さへ出せばお石塔をこさへて大變綺麗にして吳れると言つてゐます。それでをぢさんも何程かお出し下さるかと思ひました』

 『出しますとも。だがこれからは遊ぶ所がないでせう』と自分が言つた。

 娘は笑ひながら答へた。

 『やつぱり阿彌陀樣のお庭で遊びますよ。お比丘尼さんはそこに埋まつてゐます。私達の遊んでゐるのを聞いて喜ぶでせう』

 

[やぶちゃん注:エンディング――「自分」とは――最早――小泉八雲自身――であることは言うまでもない――この掌品の極め付けの素晴らしさは、まさにこの最後の現在時制との合致という点にこそあると言ってよい――

小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“FROM A TRAVELING DIARY”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第四話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)が初出(調べて見たものの、初出クレジットは不詳)である。

 なお、この前に配されてある田部隆次訳「第三章 門つけ」(原題“A STREET SINGER”)は、底本は異なるが、訳文は殆んど異同がないものを既に電子化注してあるので、そちらを読まれたい。但し、本底本版では田部氏の訳者注が附されてあり、それはリンク先底本ではカットされていたため、今回、追記しておいたので、確認されたい。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 各パートの冒頭に配されたクレジットと場所は、底本では下四字上げインデントでややポイント落ちであるが、ポイント落ちで引き上げた。

 銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、小泉八雲は明治二八(一八九五)年四月十五日(月曜)に京都へ家族で旅行に出(随伴者は妻セツ、セツの祖母、長男一雄、女中の梅であった)、『武家屋敷をホテルにした』、先の明治二十五年の単身の京都旅行の際、当時の五高校長であった嘉納治五郎に紹介され、京での定宿とした日光屋に泊まり、翌十六日、十七日と『市内見物をする』。十八日から二十日にかけては『内国勧業博覧会を見物』した。当時、ここに出品された『黒田清輝の「朝妝』(ちょうしょう:一八九三年作。後で注するが、本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるが、後、空襲で焼失、現存しない)『の展示をめぐって、裸体画論が論じられ』ていた(本篇の「四」で小泉八雲も取り上げている)。『二十一日、大極殿、東本願寺を見物』し、四月二十二日に『神戸に帰宅』した。本篇はそれを素材としている。

 本篇は全部で七つのパートに別れるが、紀行記録風に体裁を採っていることから、個人的に纏めて全部を示したい。さすれば、私が気になったもののみの注に留め、今までのような神経症的或いは煩瑣な(私にとって)既注の繰り返し注は極力抑えた(既に何度も繰り返しやってきたショーペンハウエルやハーバート・スペンサーの注や彼らの原拠探しなども今回はやめた)。悪しからず。]

 

      第四章 旅行日記より

 

        

   一八九五年四月十五日 大阪京都間の汽車中にて

 乘合の席で睡氣ざした時、橫になると云ふ譯にも往かぬ場合、日本の婦人はその左の長い袂を顏にあててから坐睡する。今この二等客車の中に三人の婦人が並んで睡つてゐる。何れも左の袂に顏を隱して、列車の動搖と共に一齊に搖れながら、緩やかな流に咲く蓮の花の樣に。(左の袂を使ふことは偶然か、それとも本能によるか、大方は本能によるのであらう。强く搖れる時に右手で吊り革か座席に摑まるに都合がよいから)この光景は美しくも亦可笑しい。が、上品な日本婦人が何をするにも、いつも出來るだけあでやかに氣を兼ねて、品よくすることの例として美はしく見える。それは更にいぢらしくもあある。その姿は又悲哀の姿であり、又時には惱ましき祈りの姿でもあるからである。是は皆、出來るだけ愉快な面もちの外は人に見せまいとする、練られた義務の觀念からである。

 この事で自分の經驗を想ひ起こす。

 長年自分の使つてゐた下男が徒にも快活な男と思はれてゐた。物を言ひかけられると何時も笑つてゐる、仕事をする時にはいつも嬉しさうにしてゐる、人世の面倒などといふものは少しも知らぬ顏に見えた。處が、或る日常人が誰れも側に居るものは無いと思つてゐる時に覗きこんで見ると、彼の氣の弛んだ顏に自分は喫驚した。豫(かね)で見た顏とはうつて變つてゐた。苦痛と憤怒の怖はい皺が現はれて三一十ほども老けて見えた。咳拂ひをして自分の居ることを知らせると、顏は忽ち滑らかに、柔らいで明かるくなつた。若返りの奇蹟でもある樣に。是は實に不斷の沒我的自制の奇蹟である。

 

        

          四月十六日 京都にて

 宿屋の自分の室の前の雨戶が押し除けられると、朝日がぱつと障子に射して、金色の地の上に小さい桃の樹の、くつきりした影を申し分なく描き出した。人間の筆では、瑕令日本の畫家の筆でも、この影繪を凌駕することは出來ない。ほつかりと黃色い地色の上に紺色に描き出されたこの不思議の繪は、目に見えぬ庭樹の枝の遠近に從つて、濃淡の差までも示してゐる。家屋の採光のために紙を用ゐる事が日本の美術に影響したのではないかと思はれる點などを考へさせられる。

 夜分障子だけを閉(た)てまはした日本の家は、大きな行燈の樣に見える。外へ繪を寫す代りに内側へ活動する影を寫す幻燈の樣である。晝間は障子に寫る影は外からばかりであるが、日の出る頃、恰も今朝の樣に、その光線が洒落た庭の上を眞橫に射す時には、その影繪は宜に絕妙である。

 藝術の起原を、壁にさした戀人の影を不用意に寫さうとした事に歸してゐる希臘の昔物語にも決して笑ふべきことは無い。大方一切の藝術的意識は、凡ての超自然の意識と等しく、影の硏究にその抑もの[やぶちゃん注:「そも(そも)の」。]發端を開くいてゐる。然し障子に寫る影は如何にも著しいので、原始的どころか、比類なく發達した、他には說明し雖い、或る日本特有の畫才の說明を暗示する。勿論、如何なる磨硝子よりも影の良く寫る日本紙の特質と、影そのものの特質も考察を要する。例へば、歐米の植物は、自然の許す限り恰好をよくするため、幾百年來の丹精によつて作り上げられた、日本の庭樹の樣な趣のある影繪を寫さない。

 自分は、この室の障子の紙が、寫眞の乾板の樣に、樹に射す日の寫した最初のうましき印象に對して、感受性を持つてゐてくれ〻ばよいと切望する。自分は既に形の崩れたのを憾みとしてゐる。美しき影は間延びを見せ初めた。

 

       

           四月十六日 京都にて

 日本に於て特に美しきものの中で、最も美しきは、高い所にある禮拜、休息の場所に到る途中、卽ち、是ぞといふものも無い所へ往く道路や、何があるといふでもない所に登る石段である。

 勿論、その特別な妙味は、人間の造營と、光や形や色に於ける自然の好氣分とが一致した時の感じで、雨の日などには消えて了ふといつた樣な、折にふれての妙味である。然しこれは、斯く氣まぐれなものであるに拘らず、嘆美すべきものである。

 斯ういふ登り口は、先づ石疊の坂道で、巨木の立ち並んだ、七八丁程[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十三メートルほど。但し、原文は“half a mile”。八百四メートル強。]の並木路といつた樣なもので初まる。石の怪獸が合間合間に置かれて道を護つてゐる。つぎに鬱蒼たる樹木の間を登つて更に大きな老樹の陰暗い臺地に出る大きな石段がある。其處からまた。何れも陰に浸つた幾つかの石段を登つては幾度か臺地に出る。登り登つて又更に登ると、漸くにして蒼然たる鳥居の彼方に當の目的が見える。小さな空な木造の祠、卽ち一つの『お宮』である。長い參道の莊嚴[やぶちゃん注:「ここは「さうごん」。]を極めた後、この靜寂と陰暗の高處に於て、斯うして受ける空虛の感じは眞に幽玄そのものである。

 佛閣に對する同樣の經驗は、幾百となく、之を得んと欲する者を待つてゐる。一例として京都市内に在る東大谷の寺域を擧げてもよい。堂々たる並木路が寺院の境内に通じ、境内からは幅員優に五十尺[やぶちゃん注:十五・一五メートル。但し、原文は“feet”で十五・二四メートル。]の、重くるしい、苔蒸した。立派な欄干の附いた石段が、壁を取りまはした墓地へ通じてゐる。その光景はデカメロン時代のイタリヤの遊園地へでも出さうに思はせる。が、上の臺地に着くと、唯だ門があるだけで、その中は墓地である。佛者の庭造りが、一切の榮華も權勢も唯だ斯うした寂滅に到る、といふ事を示さうとしたのであらう。

[やぶちゃん注:京都府京都市東山区円山町の親鸞の墳墓である大谷祖廟(通称は「東大谷」)一帯(グーグル・マップ・データ)。]

 

       

    四月十九日より二十日まで 京都にて

 内國觀業博覽會を觀るのに大方三日間を費やしたが、出品の大體の性質と價値とを鑑識するには中々十分でない。主として工部品であるが、其にも拘らず、あらゆる種類の生產物に驚くばかりに藝術の應用がしてあるので、殆ど皆氣持ちのよいものである。外國商人や自分等よりも烱眼な觀察者は、別な今少し變つた意味を見出してゐる。これまで東洋人が西洋の商工業に與へた最も恐るべき脅威が卽ちそれである。ロンドンタイムズ紙の通信員の所論に『英國に比べると凡てが一片[やぶちゃん注:原文“pennies”「ペニーズ」。後注参照。]に對する一ファージング(四分の一片)[やぶちゃん注:“farthings”。英国の小青銅貨で四分の一ペニーに相当する。一九六一年に廃止されて今はない。]の割である。……日本のランカシヤ(の工業)に對する侵略の歷史は朝鮮支那に封する侵略の歷史よりも古い。それは平和の征服で、事實成功せる無痛除血法である……この度の京都の博覽會は生產的企業に於て更に一大進步をなしたことの證明である……勞働者の賃銀が一週三志[やぶちゃん注:「シリング」。]、其他の生活費も之に準ずるといつた樣な國は、外の事が皆同じでも、一切の費用が日本の四倍に當たる競爭者を滅ぼすに極まつてゐる』とある。確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである。

[やぶちゃん注:「一片」[やぶちゃん注:「ペニー」(Penny)。通貨単位のそれ。複数形は「ペンス」(Pence)。但し、ここの原文は硬貨の複数形の“pennies”になっている(これは一ペニーを四分割した後の「ファージング」の関係からか?)。当時は十二ペンスで一シリング(shilling:一九七一年廃止)、二百四十ペンス(二十シリング)で一ポンド(pound)であった。

「ランカシヤ」“Lancashire”。僕らは地理の授業で覚えさせられたじゃないか、嘗ては綿産業で栄えたね。

「三志」本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ポンドは九・六円であったから、三シリングは一・四四円となる。現行価値換算(明治三十年代の一円を二万円に換算する資料に拠る)すると、週給で二万八千八百円。

「確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである」「柔術」はママ。比喩である。これについては、先行する本邦来日後の第二作品集で本作品集の前年明治二八(一八九五)年に刊行した“Out of the East”(「東の国から」)の“Ⅶ. Jiujutsu”(第七章 柔術)で語られてある。同作品集には本作品集電子化後に着手予定で、電子化後、この注を書き変えてリンクさせるつもりである。]

 博覽會の入場料も亦意義ある事である。唯だの五錢。然しこの少額でも巨額の收入になりさうである。蝟集する觀覽者の數が如何にも多い。多數の農民が每日京都に押し寄せる。多くは徒步で、巡禮でもする樣に。して又この度京へ上ることは、眞宗の大本山の落成式があつて、事實巡禮なのである。

[やぶちゃん注:最後のそれは東本願寺御影堂の落成式を指す。境内のほぼ中心にある堂で、屋根は瓦葺重層入母屋造。間口七十六メートル、奥行き五十八メートル、高さは三十八メートルあり、建築面積に於いては現在も世界最大の木造建築物で、明治一三(一八八〇)年起工、十五年の歳月がかかった。]

 美術部は一八九〇年の東京の美術展覽會[やぶちゃん注:明治二十三年十一月に開催された「明治美術会」第二回展を指すか。西洋油絵の大規模な展覧会の濫觴の一つである。]に比しては遙かに劣つてゐると思つた。結構なものもあるにはあるが、至つて少い。恐らく全國民が熱心にその精力と技術とを有利な方向に傾注してゐる證左かも知れぬ。現に美術が工業と組み合はされてゐる諸部門――陶磁器、象嵌、刺繡等に於ては、甞て無い精巧貴重な作品が陳列されてゐる。たしかに、そこにあつた幾つかの陳列品の眞價は、『支那が西洋工業の方式を採用したら、世界の市場に於て日本品を驅逐する事にならう』と云ふ、友なる日本人の感想に對する答辯を暗示した。

 そこで自分は答へた。『廉價品に於ては或はさうかも知れぬ。併し日本が製品の廉價なことのみを手緣り[やぶちゃん注:「たより」。]にする必要はない。日本は技術と良趣味とに於ける卓越に手緣る方が一層安全であると思ふ。一國民の技術的天才は安價な努力による如何なる競爭も及び難い特殊な價値を有つてゐる。西洋諸國の中では佛蘭西がその一例である。佛蘭西の富は隣國よりも低廉に生產し得ることに基因しては居らぬ。佛國製品は世界中最も高位である。佛國は奢侈品及び美術品を賣り出してゐる。是等の品物はその類の中で最良品であるが故に、凡ての文明國に於て賣れ行きがよい。日本が極東の佛蘭西となつて惡い筈はあるまい』

 

 美術部の中で殊に貧弱なのは油繪、西洋風の油繪の部である。日本人が日本固有の描法による油繪具で見事な繪の描けないと云ふ譯は無い。然し彼等が西洋の描法に倣はう[やぶちゃん注:「ならはう」。]とする企圖は極めて寫實的な取扱ひを要する習作に於てのみ、僅に平凡の域に達したに過ぎぬ。油繪具による理想畫は、西洋美術の法則に從つては未だ日本人の企及し得る所でない。大方油繪に於ても、將來、西洋の方式を國民精神の特殊の要求に適應せしめて、美の殿堂に入る新門戶を自ら發見することもあらう。が、今の處その樣な傾向は見えぬ。

 大きな鏡に向つた全身裸の婦人を描いた一畫面が公衆の惡感を惹起した。全國の新聞紙はその書の撤囘を要求し、西洋の藝術觀に對しては香ばしからぬ意見を吐いてゐた。然しその繪は日本の畫家の作であつた。それは駄作であつたが、思ひ切つて三千弗といふ値段がついてゐた。

[やぶちゃん注:本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ドルは一・九八円であるから、約六千円で、例の現代価値換算の一円二万円を適応するなら、一億二千万円相当である。]

 自分は少時[やぶちゃん注:「しばらく」と訓じておく。]その前に立つた、この繪の衆人に與へる感興を觀察しようと思つたのである。觀衆の大多數は農民で、驚いて見てはせせら笑ひ、何か嘲るやうな言葉を遺して、十圓乃至三十五圓といふ値段附けでこそあれ、遙かに見ごたへのある掛物の方へ往つて了ふ。その人物が西洋人の髮形をして描いてあつたので、批評は主に西洋の好尙に對して向けられてゐた。それを日本の繪と思ふ者は無いらしかつた。それが若し日本婦人の圖であつたなら、公衆はそんな繪を無事に置く事すらも承知すまいと思ふ。

 繪そのものに對する侮蔑は至當であつた。その作には少しも理想的の所がない。單に裸體の婦人が、人目のある所で仕たい[やぶちゃん注:「したい」。]筈のない事をしてゐる姿を描いたに過ぎぬ。而して唯だ裸體の婦人を描いただけの繪は、どれほど巧みに描けてゐても、藝術が何等かの理想を意味するなら、藝術ではない。その寫實的な所がそれの不快な點であつた。理想の裸體は神聖なもので、超自然なるものに對する人間の想像の中[やぶちゃん注:「うち」。]最も神に近いものであらう。が、裸體の人間は少しも神聖ではない。理想の裸體には何も纒ふことは入らぬ。その美妙さは蔽うたり切つたりすることを許さぬ美しき線から來るものである。生きた實物の人體はさういふ神韻ある線や形を有つてゐない。借問す[やぶちゃん注:「しやもん(しゃもん)/しやくもん(しゃくもん)」。試みに問うてみよう。]、畫家はその裸體より實感のあらゆる痕跡を除去し得るにあらずして、裸體そのもののために裸體を描出して可なりや。

 佛敎の格言に、個體に卽せずして物を觀る者のみ賢なり、と道破したのがある。而してこの佛者の見方こそ眞の日本藝術の偉大をなす所以である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲が見て批評しているのは、冒頭注で示した黒田清輝(せいき 慶応二(一八六六)年~大正一三(一九二四)年)の「朝妝(ちょうしょう)」(「妝」は粧(よそお)い」の意。原題は“Morning Toilette”)である。裸体画の大作で、ウィキの「黒田清輝」によれば、黒田がパリを去る直前の一八九三年に制作され(黒田は一八八四年から一八九三年までフランスに遊学したが、当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったものが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三及び美術商林忠正に出会い、一八八六年に画家に転向することを決意した)、『パリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得』ていた。日本ではこの前年の明治二七(一八九四)年の第六回「明治美術会」展に出品され、翌年のこの京都で行われた「第四回内国勧業博覧会」に出品されるや、『この作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展した。当時の日本では本作のような裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったのである』とある。既に述べた通り、この絵は本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるものであるが、後に太平洋戦争中の空襲によって焼失し、現存しない。同ウィキのカラー写真画像をリンクさせておく。また、この小泉八雲観覧時のシークエンスを髣髴させる、かのジョルジュ・ビゴーの戯画「黒田の裸婦像を見る人々」(原題“La femme nue de M. Kuroda”。「ムッシュ黒田の裸婦」)のそれもあるので同じくリンクさせておこう(フランス人画家・諷刺画家のジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot 一八六〇年~一九二七年)は、明治一五(一八八二)年一月に来日、明治時代の日本で十七年間の長きに亙って活動を行い、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は日本名「美郷」「美好」とも記した。明治三二(一八九九)年六月帰国)。本作のその後の数奇な運命は、テツ氏のブログ「てつりう美術随想録」の「焼けなかったコレクション(5)」に詳しい。それによれば、展覧後、スキャンダルの対象となったこの「朝妝」は、結局、住友家十五代当主春翠の手に渡った。『春翠は』、彼の別荘の『近所で起こったこの騒ぎに注目していたにちがいない。開催期間の終了後、実兄の西園寺公望の勧めで春翠は『朝妝』を買い取ったそうであるが、西園寺と黒田は留学中にすでに知り合っており、便宜をはかってあげたのだという見方もできる』。『また、当時の西園寺が文部大臣であったことを考えれば、政府が主催する内国勧業博覧会において持ち上がった騒動の火種を、身内の個人的なコレクションに収めてしまうことで世間の眼から隠してしまった、といえなくもない。要するに彼の行動は新しい芸術の擁護とも取れるし、巧妙な自己保身とも取れるのである。いずれにせよ西園寺公望とは、よほど頭の切れる男であったらしい』。その後、『黒田の』この「朝妝」は『須磨にあった住友家の別邸に飾られていたため』、空襲により『灰燼に帰してしまったのである(別邸跡は須磨海浜公園になっている)』とある。]

 

       

 斯ういふ考が浮かんだ。

 神聖なる裸體、絕對美の抽象である裸體は觀る者に幾分悲哀を交じへた驚愕と歡喜との衝擊を與へる。美術の作品にして之を與へるものは少い、完全に近いものが少いからである。然しさう云ふ大理石像や寶石細工がある。又『藝術愛好會』で出版した版畫の樣な、其等の作品の精巧な模寫がある。視れば視るほど驚歎の念が深くなる。一つの線でも、その一部分でも、その美が凡ての記憶を超絕してゐないものは無い。それ故斯ういふ藝術の祕訣は古來超自然と考へられた。事實又それが與へる美の觀念は人間以上である。現在の人生以外であると云ふ意味に於て超人間である。卽ち人間の知れる感覺の及ぶ限りに於て超自然である。

[やぶちゃん注:「藝術愛好會」“Society of Dilettanti”。「ディレッタンティ協会/ディレッタント協会(Dilettante Society)のこと。ウィキの「ディレッタンティ協会」によれば、『古代ギリシアやローマ美術の研究、およびその様式による新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンたちの協会』。一七三四年に、「グランド・ツアー」(Grand Tour:十七~十八世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った習慣的な大規模な国外旅行)『経験者のグループによって、ロンドンのダイニング・クラブ(』『Dining club)として結成された』。『ディレッタンティ協会を最初にリードしたのはフランシス・ダッシュウッド』(Francis Dashwood 一七〇八年~一七八一年:男爵)『で、メンバーの中には数人の公爵もいた。後には、画家ジョシュア・レノルズ』(一七二三年~一七九二年)、『俳優デイヴィッド・ギャリック』(David Garrick 一七一七年~一七七九年)、『作家ユーヴディル・プライス』(Uvedale Price 一七四七年~一八二九年)、古典学者・考古学者であった『リチャード・ペイン・ナイト』(Richard Payne Knight 一七五〇年~一八二四年)『なども参加した』。『メンバーが毎年、たとえば結婚式などで棚ぼた的に得た収入の』四%を『出し合うというシステムで、協会は急速に資金と影響力を増していった』。一七四〇『年代からはイタリア・オペラを後援し』、一七五〇『年代からはロイヤル・アカデミー設立の原動力となった。そのうえ、グランド』・『ツアーを続ける若者たちへの奨学金や』、『考古学』や古典研究者の実地旅行の支援や、『イギリスの新古典主義に大きな影響を及ぼすことになる『Ionian Antiquities』を彼らが出版する際に資金を提供した』とある。ここには記載はないが、考古学的古典的芸術遺物の模造などの指示や資金援助も当然、手掛けたことであろう。]

 その衝擊は如何なるものか。

 それは初めての戀の經驗に伴なふ心的衝擊に不思議にも似てをり、たしかにそれに緣のあるものである。プラトーンは美の衝擊を靈魂が神來[やぶちゃん注:「しんらい」神が乗り移ったかのように、突然、霊妙な感興を得ること。インスピレーション。原文は“Divine Ideas”(「神がかった発想」)。]の思想の世界を半ば想ひ起こすのである、と說いてむる。『この世界に於て彼の世界に在るものの姿又はその類似を見る者は、電擊の樣な衝擊を受け、謂はば己の内より取り出される』ショーペンハウワーは初戀の衝擊を全人類の魂の意志力と說いてゐる。現代に於てはスペンサーの實證心理が人間の感情中最も强烈なものは、その初めて現はれるときに、一切の個人的經驗に絕對に先行するものであると斷言して居る。斯く古今の思想が、哲學も科學も、人間の美に對して個人が初めて深く感ずるのは、決して個人的のものでないことを等しく認めてゐる。

 卓絕せる藝術の與へる衝擊に就いても同じ理法が行はれて差支ない。斯かる藝術に表現せられた人間の理想は、たしかに、觀る者の感情の中に祀られてゐる彼の全人類の過去の經驗、卽ち數へ盡くせぬ先祖等から遺傳した或るものに感銘を與へる。

 數へ盡くせぬとは正にその通りである。

 一世紀に三世代の割として、血族結婚が無かつたとすれば、或る佛國の數學者は、現在の佛國人は何れも紀元一千年代の二百萬人の血をその脈管内に藏してゐる割だと計算して

ゐる。若し西曆の紀元から起算すれば、今日の一人の先祖は千八百京(卽ち一八、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)といふ總數になる。然も二十世紀間くらゐは、人類生存の期間に比しては何程のものでもない。

 さて美の情緖は、人間の一切の情緖と等しく數へ難き過去に於ける、想像もつかぬ程に數知れぬ經驗を遺傳した產物に相違ない。個々の美的感覺にも頭腦の不思議な沃土に埋もれた億兆不可測の幽玄なる記憶の動めきがある。而して各人は己の中に美の理想を有つてゐる。それは嘗て眼に美しく映じた形や色や趣のありし知覺の無限の複合に外ならぬ。この理想は本質に於ては靜能的[やぶちゃん注:原文は“dormant”。「休眠している」の意。]であるが、潛伏してゐて、想像を對象として、任意に喚起することは出來ぬが、生ける感官が何物か略〻相連らなるものを知覺するときに、突如として點火する。その時彼の[やぶちゃん注:「かの」。]異樣な、悲しくも嬉しい身震ひを感ずる。其は生命の流と時の流との急激な逆行に伴なつて起こるものであつて、そこに百萬年千萬代の感動が一瞬時の感激に總括されるのである。而して己の精神から美の民族的理想を分離して、その漾へる[やぶちゃん注:「ただよへる」。]輪廓を珠玉や石に彫みつける奇蹟を行ふことの出來たのは、唯一つの文明に屬する美術家達、卽ち希臘人のみであつた。彼等は裸體を神聖なるものとして、吾人をして彼等が自から感じたと略〻等しく、その神聖を感せしめずには措かぬ[やぶちゃん注:「おかぬ」。]。彼等がその樣な作をすることの出來たのは恐らくエマースンが提言してゐる如く、彼等が完全な感覺を有つて居たからであらう。確に彼等がその彫像の如く美しかつたからではない。如何なる男も女もそのやうに美しくはあり得ぬ。是だけは確である。彼等は眼や眼瞼や頭や頰や口や頤や胴や手足の、今は亡き美しさの幾百萬とも數知れぬ記憶の複合である彼等の理想を觀取して、之を明瞭に定着したのである。

 希臘の彫刻そのものが、絕對の個性は存在せず、換言すれば肉體が細胞の複合體なるが如く精神も亦複合體なりとの證據を示してゐる。

 

       

           四月二十一日 京都にて

 全帝國に於ける宗敎的建築の最高の典型が丁度落成した。それでこの殿堂の大都會は、今またありし世紀間にその比を見たとは思はれぬ二大建築を加へた。一つは帝國政府の造營で、今一つは一般庶民の寄進である。

 政府の造榮は大極殿で、この聖都を開かれた人皇五十一代桓武天皇の大祭を記念するために建てたものである。この天皇の英靈に大極殿は奉献されたので、是は神道の社殿否凡ての社殿中最も壯麗なものである。然しそれは神社建築ではなくて、桓武天皇の時代の宮殿をその儘の模寫である。この在來の神社の樣式と脫した大建築が國民の感情に及ぼす影響とそれを思ひ立つた畏敬の念の深き詩趣とは、日本が今なほ祖先の靈によつて支配されてゐることを辨へてゐる者でなくては十分に理解することは出來ぬ。大極殿の建物は美しと云ふも愚かである。日本の都會の中で最も古いこの京都に於てすら、この建物は視る眼を驚かす。笄のついた[やぶちゃん注:「笄」は「かうがい(こうがい)」。髪掻きのそれであるが、ここは隠喩(換喩)の意訳。原文は“their horned roofs”で「角張った屋根群」である。]屋根の反りかへつた線によつて、今とは異つた奇想に富んだ時代の物語を蒼空に語つてゐる。就中、殊に軌を逸して奇拔な點は、二階になつた五つの塔のある門である。宛然支那の奇想そのものである、と人は謂ふであらう。色彩や構造に於ても樣式に劣らず奇拔なのに人目を惹く。それは殊に色交りの屋根に綠色の古代瓦を巧みに用ゐたために一層引き立つてゐる。桓武天皇の英靈も、建築の巫術によつて、過去が斯くも面白く呼びかへされてゐるのを、必らずや喜ばれるに相違ない。

 然し庶民の京都市への寄進は更に偉大である。壯麗なる東本願寺(眞宗)がそれである。西洋の讀者はその建築に八百萬弗の巨資と十七年の歲月を費やしたといふ事で、その結構の一斑を知ることが出來る。唯だ大きさの點では粗末な普請の他の日本建築に遙かに凌駕されてゐるが、日本の寺院建築に通じてゐる者は、高さ百二十八尺奧行百九十二尺長さ二百尺餘[やぶちゃん注:原文は総て“feet”。但し、“There are beams forty-two feet long and four feet thick; and there are pillars nine feet in circumference.”とある通り、ここは数字を尺換算して示してある。和訳のそれぞれをメートルに換算すると(丸括弧内はフィートの換算値)、高さ三十八・七八(三十九・〇一)、奥行き五十八・一八(五十八・五二)、長さ六十・六〇(約六十一メートル)メートル超えで先に示した実際のスケール(高さ三十八、奥行き五十八、間口七十六メートル)を間口を除けば、ほぼ正確に示している。]の伽藍を建てることの苦心を直に悟るであらう。その特殊の形狀、殊に屋根の長大な單線輪廓のために、この本願寺は實際よりも遙かに大きく見える。山の樣に見える。然し何處の國に持つていつても、是は驚く可き建築と見倣されるであらう。長さ四十二尺直徑四尺[やぶちゃん注:これも原文はフィートであるが、数値は同じ。同前で示す長さ十二・七二(十二・八)、直径一・二一(一・二一)メートル。]の木材が使つてある。周關九尺[やぶちゃん注:同前。二・七二(二・七四)メートル。]の圓柱がある。内部の裝飾の性質に就いては、正面の護摩壇の後ろに立てた襖の蓮の花の紬を描くだけに一萬弗かかつた、といふのでも推量出來る。斯う云ふ驚く可き造營が、殆ど凡て、勞作してゐる農民から銅貨で寄附された金でなされたのである。それでも佛敎が滅びつつあると考へる連中があらうとは。

 十萬餘の農民等がこの大落成式を見物に來た。廣庭に幾町步といふほど敷き詰めた莚の上に彼等は幾萬の群をなして坐つてゐた。自分は彼等が午後三時に斯うして待つてゐるのを見た。庭は生ある海と謂つてよかつた。併しその雲霞の群集は、儀式の初まるのを午後七時まで食はず飮まず、日の射す所に待たなければならなかつた。庭の片隅に、何れも白い着物を着て綺麗な白い帽子を被つた、二十人程の若い女の一隊が見えた。どういふ人達かと聞くと、側に居た人が『この大勢が幾時間も待つて居なければならぬから、中には病人も出るだらうと懸念される。そこで看護婦が發病者の手當てをする爲めに詰めて居るのだ、擔架も備へてある、それから運搬人夫も、醫者も大勢居ますよ』と答へた。

 この辛抱と信心とを自分は驚歎した。然しそれらの善男善女がこの壯大な寺院を斯く大切に思ふのは當然である。それは事實彼等自身の作り上げたものであつた、直接にも間接にも。と云ふのは、建築の仕事も少からず寄進の積りで行はれ、分けても大きな棟木などは、遠國の山腹から京都まで、信者の妻や娘の頭の毛で作つた綱で曳いて來たのであつた。その綱の一つで寺の内に保存されてゐるのは長さ三百六十呎餘[やぶちゃん注:百十メートルほど。]、直徑約三吋[やぶちゃん注:「インチ」。約七・六センチメートル。]もある。

[やぶちゃん注:この髪の毛は一部が現存する。「真宗本願寺派東本願寺」公式サイト内のこちらに、御影堂・阿弥陀堂『両堂の再建時、巨大な木材の搬出・運搬の際には、引き綱が切れるなどの運搬中の事故が相次いだため、より強い引き綱を必要としました。そこで、女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれたのが毛綱です』。『当時、全国各地からは、全部で』五十三『本の毛綱が寄進され、最も大きいものは長さ』百十メートル、太さ四十センチメートル、重さ約一トン『にも及びます。いかに多くの髪の毛が必要とされたかがうかがわれます』。『現在、東本願寺に展示されている毛綱は、新潟県(越後国)のご門徒から寄進されたもので、長さ』六十九メートル、太さ約三十センチメートル、重さ約三百七十五キログラムであるとある。毛綱の写真もある。]

 自分には國民の宗敎心のこの二大記念物の敎訓が、國家の繁營の增進と比例して、その宗敎心の倫理的勢力と價値との、未來に於ける確實なる增進を暗示した。一時財力の減少した事が、佛敎が一時衰運に向つたと思はれることの實際の說明である。外に表はれた佛敎の或る形式は衰亡するに相違ない。神道の或る迷信は自滅するに相違ない。併し、中心の眞理と之に對する認容は、擴まり强まり、國民の心に却つて根ざしを深め、今後國民が入らんとする、更に大なる更に困難なる生活の試煉に對して、力强き覺悟を與へるであらう。

 

       

        四月二十三日 神戶にて

[やぶちゃん注:これは京都旅行から神戸へ帰った(明治二八(一八九五)年四月二十二日)翌日の四月二十三日火曜日に「水産物展覧会」を「和楽園」に見物に行ったのを最終章に附録させたものである。和楽園は現在の兵庫県神戸市兵庫区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった遊園地であった。因みに、この二年後の明治三〇(一八九七)年、神戸の和田岬で行われた、これに続く「第二回水産博覧会」では、会期中の期間限定で本格的な「和楽園水族館」が開かれており(ここに出るのはもっと簡易の水槽展示であろう)、これは濾過槽設備を備えた国内初の水族館とされるものである。現在、神戸市須磨区若宮町に「和楽園展示館」があるが、旧和楽園はここの位置でないと思われる。]

 兵庫で、海に近い庭庭にある魚類其他水產の展覽會を見物した。場所の名は和樂園と呼んで『平和の樂みの庭』と云ふ意味である。風景を象どつた昔の庭園風の段取りで、まことその名にふさはしい。その端を越して廣い灣が見え、小舟に乘つた漁師や、照り榮える白帆の沖行く樣や、遙かの彼方には、地平線を塞いで、紫色に霞む山々の高く美しき群ら立ちが見える。

 澄んだ海水を湛へた色々な形をした池があつて、色の美しい魚が泳いてゐる。自分は水族館に入つた。そこには特に變つた魚類が硝子越しに泳いでゐた。紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」と読んでおく。凧、というより、烏賊昇りで、小泉八雲が見たのは生体のイカであろうか。]樣な形をした魚や、刀身の樣な形をした魚や、裏返しになつてゐる樣な魚や、袖の樣な鰭振りはえて舞妓の振るまひする、蝶の羽色をした妙な可愛らしい魚がゐた。

[やぶちゃん注:それぞれ種を同定したい誘惑に駆られるが、我慢する。]

 小舟や網や釣針や浮子(うけ)[やぶちゃん注:浮子(うき)のこと。]や漁火[やぶちゃん注:「いさりび」。]のあらゆる種類の模型を見た。あらゆる種類の漁獵法の細圖や、鯨を屠つてゐる[やぶちゃん注:「はふつてゐる(ほうっている)」。体を切ってバラバラにする。]模型と細目も見た。一つの畫面は凄いものであつた。太網にかかつた鯨の死の苦悶と、眞紅な泡の逆卷く中に小舟の躍つてゐる樣、裸な男が一人巨獸の背にに乘り、その姿だけが水平線上に飛び拔けて、大きな魚扠[やぶちゃん注:二字で「やす」と読む。先端が数本に分かれて尖った鉄製尖頭を長い柄の先に附けた魚具。但し、原文は“great steel”であるから、「銛(もり)」の方が相応しい。]を以て鯨を突き制すと。それに應じて血汐の噴水が迸つてゐる圖であつた。自分の側に日本人の父親と母親とが幼い男兒にその繪の說明をしてゐるのが聞こえた。母親は言つてゐた。

 『鯨が死にかかる時には、南無阿彌陀佛と唱へて、佛樣のお助けを願ひますよ』

 自分は別な方へ往つた、そこには馴れた鹿が居たり『金色の熊』が金網の中に飼つてあつたり、烏舍に入れた孔雀も居り、手長猿も居た。自分は鳥舍の傍の茶屋の緣に腰をかけて休んだ。すると捕鯨の圖を見てゐた人達が同じ緣にやつて來た。やがて彼の[やぶちゃん注:「かの」。]小兒が斯う言つてゐるのが間こえた。

[やぶちゃん注:「『金色の熊』」確かに““golden bear””とはあるが、何だろう? 平井呈一氏は恒文社版「旅日記から」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『ひぐま』と訳しておられる。確かにクマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis には、かなり明度の明るい褐色個体がおり、それを「黄色い熊」とは言うておかしくはないが、この時代に神戸の民間施設でエゾヒグマを飼っていた可能性は私は限りなくゼロに近いように思われる。寧ろ、ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus の中に見られる濃褐色の個体の幼体だと、色が薄く見えて「黄色い熊」と見えるようにも思える。或いは、可哀想に狭い檻の中で飼われて、皮膚病で毛が大半落ち、肌が剥き出しになった病気個体ででもあったのかも知れない。無論、別なクマではない四足獣類の可能性も視野には置かねばなるまいが、如何せん、描写がないので特定は不能である。]

 『お父さん、大變お爺さんの漁師がお舟の中に居ますね。あのお爺さんはどうして浦島太郞見たいに龍宮に行かないの』

 父親は答へた。『浦島は龜を捕へたが、それは本當の龜ぢやなくて、龍宮の王樣のお姬樣だつたから、その龜を親切にした御褒美があつたのさ。あのお爺さんは龜を捕へやしなかつたし、捕へたつて、あんまり年を取つてお婿さんになれやしないから、それで龍宮へは往かなかつたのさ』

 するとその子は花を眺め、噴水を眺め、白帆のある日の常たつた海を眺め、一番先きの紫色の山々を眺めて叫んだ。

 『お父さん、世界中にもつと綺麗な所がありますか』

 父親は嬉しさうに微笑んで、何か答へようとするらしかつた。が、まだ何も言はぬ中にその子は大聲を擧げ、飛び上がつて、手を拍つて喜んだ。孔雀が不意にその見事な尾を擴げたからであつた。皆が鳥舍の方へ馳け寄つた。それで彼の可愛い問に對する答は聞くことが出來なかつた。

 併し後になつて自分はつぎの樣に答へてもよからうと思つた。

 『坊や、これは實に美しいが、世界には美しいものは澤山あるから、之より美しい庭が幾つもあるだらう。

 『併し一番美しい庭はこの世には無い。それは西方淨土にある阿彌陀樣のお庭である。

 『生きてゐる間に惡い事をしない者は誰れでも、死んでからそのお庭に住むことが出來る。

 『そこでは天の鳥の尊い孔雀がその尾を日輪の如くに擴げながら、七階〔七菩提分の意か〕五力の法を唱へる。

[やぶちゃん注:〔 〕は訳者石川氏の訳者注。

「七階」調べて見ると、隋から唐にかけて席巻した都会型の仏教の一派である三階教に「七階仏名(ぶつみょう)経」があり、「仏名経」とは、諸仏の名号を受持しつつ、その功徳によって懺悔滅罪すべきことを説く複数の経典の名である。敦煌出土の「七階仏名経」も存在する。まあ、しかし石川氏の割注もそのような意であろう。

「五力」は「ごりき」と読み、悟りを開く方法である三十七道品(どうほん)の一部で、悪を破る五つの力を指す。信力(心を清らかにする力)・念力(記憶する力)・精進力(善に励む力)・定力(じょうりき:禅定する力)・慧力(えりき:真理を理解する力)の五つ。]

 『そこには玉泉の池〔七寳の池の意か〕があつて、その中に名づけ樣のない美しさの蓮華が咲いてゐる。その花からは絕えず虹色の光と、新しく生まれた諸佛の精靈とが昇る。

 『水は蓮の蕾の間をさざめき流れながら、その花の中に宿る魂に無限の記憶と無限の幻想と四つの無限の感情とに就いて語る。

[やぶちゃん注:「四つの無限の感情」「四無量心」(しむりょうしん)のこと。『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」』に既出既注。]

 『そこには神と人との差別が無い。阿彌陀の榮光の前には神々も身を屈め、「無量壽光の御佛」といふ句を以て初まる頌歌[やぶちゃん注:「しようか(しょうか)」。讃歌。]を唱へねばならぬ。

 『併し、天上の河の聲は幾千の人の和讃の樣に、「是れ未だ高しとせず、更に高きものあり。是れ現實に非ず、是れ平和に非ず」と歌つてゐる』

 

2019/12/09

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」 / 日本文化の神髄~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 日本の國民生活に於ける前記の不永存性と小規模とに對し、之に伴なふ何か代償的の長所があるのではないか。それを探究することは徒勞ではない。

 

 この國民性の極度の流動性はその特徵の著しきものである。日本國民はその微分子が斷えず循環してゐる一物質の樣である。而して其運動からして變はつてゐる。西洋諸國の人民の移動に比して、一點から一點に到る運動は微弱でも、全體に於ては大きく且つ變化に富んてゐる。その建前は又遙かに自然である。西洋文明には存在し得ぬほど自然である。歐洲人と日本人との移動の比較は、或る高速度の振動と或る低速度の振動との比較によつて示すことが出來る。但しこの場合高速度の方は人爲の力が加はつてゐることを示すが、遲い振動の方にはさういふ事はない。而して斯ういふ種類の上の差異には外觀以上の意義がある。或る意味では、米國人は盛んに旅行する國民だと自ら思つてゐてよい。が、又他の意味では、さう思ふのは信に間違つてゐる。一般の米囚人は、旅行する點に於ては、一般の日本人には及ばない。勿論諸國民の移動を比較するには、單に少數の有產階級のみでなく、大衆・卽ち勞働者を主として考へなければならぬ。國内に於ては日本人は文明人の中で最も盛んに旅行する國民である。彼等が最も盛んに旅行する人民であると云ふのは、彼等が殆ど山脈から成つてゐる國土にありながら、何等旅行に對する障碍を認めぬからである。日本で一番旅行をする者は汽車とか汽船とかに乘せて貰はんでも困らぬ手合である。

 我々に在つては、一般勞働者は日本の普通勞働者よりも遙かに不自由である。彼等はその種々の力が集團凝結の傾向を有する西洋の社會の複雜なる機關のために拘束せられるのである。彼等が倚存[やぶちゃん注:「依存」に同じい。]せぬばならぬ社會上產業上の機關が、自己の特殊の要求に應じて、彼等をして常に他の本然の能力を棄てて、或る特殊の人爲的能力を發達せしめるやうにするからである。

 彼等は單に勤儉によつて經濟的獨立を得る事を不可能にする樣な生活の標準で暮らさねばならぬ故にさうなのである。さうした獨立を得るためには、同じ束縛から脫しようと等しく努力してゐる幾千の異數の競爭者に優つた異數の性格と異數の材能とを有つてゐなければならぬ。約言すれば、彼等の特異な文明が機械や大資本の力を藉りずに生活してゆく彼等の本然の力を萎えさせたがために、日本人の如くに自由でないのである。斯く不自然な生活を營む事は、やがて獨立した移動の力を失ふ結果になる。西洋人が移動する前には色々な事を顧慮しなければならぬ。日本人の方は何も顧慮することはない、彼等は何の造作もなく嫌な所を去つて好な所に往くのである。何も彼等を妨げるものは無い。貧窮は障碍でなく、却つて刺戟である。荷物といふ程のものは無く、あつても數分間に始末の出來るものである。道の遠近などは何の事はない。彼等は一日五十哩[やぶちゃん注:「マイル」。約八十キロメートル半。]を苦もなく飛ばす脚を具へてゐる。西洋人の到底生活して往かれぬ樣な食物から、多分の榮養を攝取することの出來る不思議な胃囊を具へ、更に彼等は、未だ不健全な衣服や過多な便利品や爐やストーヴから暖を取る事や、皮の靴を穿く習慣によつて害せられてゐないので、能く寒暑や雨露を凌ぐ體質を具へてゐる。

 歐米人の履物の適否は普通に考へられてゐるよりも以上の意義を有つてゐる樣に思はれる。この履物が卽ち個人の自由の拘束を示してゐる。位格の高い事だけでも既にさうである。が、その樣式に於ては更に甚だしいものがある。歐米人の足は靴のために原の形から歪められて了つて、其目的のために進化し來たつた働きに堪へなくなつてゐる。其生理上の影響は足だけに止まらない。直接間接に移動機關に影響するのは當然、身體全部にその影響を及ぼす筈である。其弊害は全身だけで止まるであらうか。我々があらゆる文化の中に存してゐる最も愚劣な因習に從つてゐる事も、靴屋の橫暴に多年屈服し來たつた影響かも知れぬ。政治にも、風敎[やぶちゃん注:「ふうけう(ふうきょう)」。原文“social ethics”。「社会倫理」でよかろうが。]にも、宗敎制度にも、皮の靴を穿く習慣に多少關係のある缺陷があるかも知れぬ。肉體の壓屈に對する忍從は必らずや精神に對する忍從を助成する。

 普通の日本人――同じ樣な仕事にかけて西洋の職工よりは遙かに賃銀の安い日本の熟練工――は仕合せにも靴屋や仕立屋の世話にならぬ。彼等の足の恰好はよく、身體は健康で、心は自由である。彼が千里の旅行を思ひ立つたとすれば、五分間には旅の支度が出來る。彼の旅裝は七十五仙[やぶちゃん注:「セント」。前に述べた一ドル二万円として、一万五千円で高過ぎる。せいぜい二十五セントで十分だ。これは西洋人の旅装の最低金額を示したものかも知れぬ。]とはかからぬ。彼の手まはりは手巾[やぶちゃん注:手拭い。]一つに包める。十弗[やぶちゃん注:先の換算で現行の二十万円。]あれば一年の間働かずに旅が出來る。或は自分の腕だけでも渡つて步ける。或は又順禮[やぶちゃん注:「巡礼」に同じい。]して步く事も出來る。そんな事は野蠻人ならいくらでも出來る、といふかも知らぬ。其には相違ないが、文明人では誰れにも出來るとは言へぬ。而して日本人は過去少くも一千年来開明の民であつた。日本の職工が昨今西洋の製造業者を脅威する力を示してゐるのは是がためである。

 斯うして自由に移動し得ることを、我々は從來、歐米の乞食や浮浪人の生活と聯想することに馴れきつてゐたので、この事の眞の意義を正當に考へることが出來なかつた。我々は更に之を不潔と惡臭と云ふ樣な不快な事柄と聯想し來たつた。併しチェインバレン敎授が道破して居る樣に、『日本の群集は世界中で一番氣持ちがよい』[やぶちゃん注:ここで句点を打つべき。]浮浪人の如き日本の旅行者でも何厘といふ湯錢さへあれば每日入浴する。無ければ水で洗ふ。彼の包には櫛や小楊枝や剃刀や齒刷子が入つてゐる。彼は何事があつても鼻持ちならぬ樣になることはせぬ。行先へ着くと粗末ではあるが非のうてぬ着物を着た行儀のよいお客になりすます。

[やぶちゃん注:「チェインバレン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)ポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作』“BUSHIDO”に『触れているが』、『愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道を』「チェンバレンの散歩道」『と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。なお、小泉八雲は親しかったが、晩年にはチェンバレンとは距離を置いたようである。引用は彼の名著「日本事物誌」(Things Japanese)の「Bathing」(入浴)の第61節(リンク先は英文ウィキソース)。]

 

註 日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする、と云ふエドウィン・アーノルド卿の評言を嘲笑しようとする批評家もあつたが、この形容は的中してゐる。「麝香」と呼ぶ香料は控へ目に使へば、ニホヒヂレイニヤムのかをりと取り違へられ易い。女子を交じへた日本人の寄合では、何時もほんのりとした麝香の匂がする。着てゐゐ衣類が少量の麝香を入れた簞笥の中に藏つて[やぶちゃん注:「しまつて」。]あつたからである。この軟かな匂の外には日本の群集には何の臭氣も無い。

[やぶちゃん注:「ヂレイニヤム」“geranium”。ゼラニウムのこと。フウロソウ(風露草)目フウロソウ科フウロソウ属 Geranium。同属には二百種類以上あるとされ、そのアロマは現在も好まれる。中でも精油を抽出し得る種群のものは薔薇のような香りがすることから「ローズゼラニウム」とも呼ばれる。

「エドウィン・アーノルド」(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリスの新聞記者(探訪記者)・紀行作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人として知られ、ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『キングス・カレッジ・ロンドンを経て、オックスフォード大学へ進』み、『卒業後、バーミンガムのKing Edward's School (KES) の校長とな』った。一八五六年、『東インド会社の斡旋でインド』の『プネーに開校されたサンスクリット大学に招かれ』、七『年間』、『校長を務めた』。『アーノルドは神秘思想の研究に専念したいと欲し』、『ブッダガヤを訪れて仏教彫刻を研究』、『インド滞在時にソローの引用したインドの経典『バガヴァッド・ギーター』を翻訳するなど、以後の研究材料を集めた』。一八六一年、『イングランドに戻り、『デイリー・テレグラフ』』(The Daily Telegrap)に入社し、以来、四十年に亙って、『『デイリー・テレグラフ』紙の記者を務め、後に編集長となるに至る。在任中にニューヨークに渡り、『ニューヨーク・ヘラルド』』(The New York Herald)『の記者の一員としてヘンリー・モートン・スタンリー』(Henry Morton Stanley 一八四一年~一九〇四年:イギリス・ウェールズのジャーナリストで探検家。アフリカ探検及び遭難したスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone 一八一三年~一八七三年)を発見した人物として知られる)『のコンゴ川探検に随行、エドワード湖の名付け親となる。その後、同世代最高の詩人として』、政治家セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes 一八五三年~一九〇二年:イギリス帝国の植民地政治家。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得、植民地首相となり、占領地に自分の名「ローデシア」を冠した)『に認められた。アーノルドはその後、初代インド女帝ヴィクトリアより、イギリス領インド帝国が成立した後、爵位制度が公布されるに従って、ナイト爵に叙され』ている。『アーノルドはその後、文学活動を東アジア文学と英語詩の解釈に比重を置き、釈迦の生涯と故えを説く長編無韻詩『アジアの光』を刊行した。これはヒンディー語に翻訳され、ガンジーも愛読し、ジェームズ・アレンも引用している』一八八九年(明治二十二年)に『娘とともに来日し』、『日本の官吏・学者が開いた来日歓迎晩餐会の席上で』は、日本は「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と称賛したという。『この後、福澤諭吉が自宅に招いて慶應義塾でアーノルドを住まわせ、物心両面にわたって援助を続けた。アーノルドは慶應義塾の客員講師となり、化学及び英訳を担当した』。『日本式の家に住みたいと希望し、福沢門下の麻生武平が所有する麻布の日本家屋に居を構え』、『滞在中に』三『番目の妻で』三十七『歳年下の黒川玉(Tama Kurokawa)と結婚した。また』、一八九一年には、アメリカの画家ロバート・フレデリック・ブルーム(Robert Frederick Blum 一八五七年~一九〇三年)の『挿絵とともに、『ヤポニカ』』(Japonica)『に日本の美を追求した紀行文を記している』。先の『バジル・ホール・チェンバレンとも交わり、日本各地を旅した』。『その後、ペルシャ、トルコ、タイを訪問して、仏教に関する翻訳を数多く手がけるようになる。東洋の典拠に基づいて、古今の仏教を徹底的に見きわめた価値ある論評を書き続ける。また、スリランカで仏教徒となった頃から菜食主義者となり、ロンドンにおける菜食主義の動きの発端となった』とある。「日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする」という出典は未詳。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「ニホヒヂレイニヤム」原文は“musk-geranium”。「musk」は「麝香」の意。ヨーロッパ南部原産で葉に芳香があるゼラニウム・マクロリズム Geranium macrorrhizumShu Suehiro氏のサイト「ボタニック ガーデン 草花と樹木のデジタル植物園」のこちらで草体と花が見られる。]

 

 家財もなく、道具もなく、さつぱりした衣類を少し持つて暮らせることは、日本民族が生存競爭に於て持つてゐる勝味を示すばかりでなく、歐米の文明に於ける弱點の本質をも示すものである。是は我々の日常生活に於ける必需品の徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]多數なることを反省せしめずには措かぬ。我々は肉とパンとバタが無くては暮らせぬ。硝子窓と爐火、帽子、白シヤツ、毛の下着、深靴[やぶちゃん注:ブーツ。]、半靴[やぶちゃん注:通常の靴。]、トランクや鞄や箱類、寢臺、蒲團、シーツ、毛布が無くては暮らせぬ。何れも日本人が無くても濟ます、否實際、無くて却つて樂に暮らしてゐる品物である。假りに白いシヤツと云ふ金のかかる一項目に就いても、それは歐米の衣服の非常に大切な一部ではないか。而も『紳士の徽章』と謂はれるリネンのシヤツからして無用な衣類である。別に暖かくもなければ好い氣持ちでもない。これは歐米の服裝に於て、甞ては贅澤な階級差別の遺風であつたが、今では袖の外側に縫ひ附けてあるボタンの樣に無意味無用の長物である。

[やぶちゃん注:「リネン」“linen”。フランス語でlinière(リンネル)。亜麻の繊維を原料とした糸織物。強く、水分の吸収発散が早く、涼感がある。夏物衣料などに用いられる。]

 

       

 日本が成就した眞に偉大なる事蹟に對し、何等巨大なる象徴の無いことは、日本文明の特殊の作用を證明する。永久にその樣な作用を續けることは出來ぬが、今日までは然ういふ風にして驚く可き成功を收めて來た。日本は、我々が考へてゐる樣な大きな意味では、資本なくして生產してゐる。日本は本質に於て機械的人工的になることなくして產業的になつて來た。米の大收穫は幾百萬の微々たる農場から產出する。絹は幾百萬の小さい貧しい家庭から、茶は無數の小さい畠から產出する。京都に往つて世界に知られた陶磁器の大家、その人の作品が日本よりはロンドンやパリで更に名高い名工に、何か注文しに往つて見ると、その工場と云ふのは、米國の農夫なら到底住めぬ樣な木造の小さな家であらう。五吋[やぶちゃん注:「インチ」。十二・七センチメートル。]程の高さの品物に對して二百弗も取る樣な七寶燒の名人は大方小さな室六つ程の二階家の裏で、彼の稀代の珍品を拵へてゐる。全帝國に鳴り響いた日本で最上の絹の帶地は、建築費五百弗とはかからぬ建物の中で織られてゐる。仕事は勿論手織りである。然し機械で織つてゐる工場、遙か大規模の外國の工業を倒すほど精巧に織つてゐる工場とでも、少數の例を除いては、大して其より立派ではない。長い輕い低い一階か二階の小舍で、歐米に於て幾棟かの木造の厩を建てる位しかかかりさうもない。然し斯うした小舍が世界中に賣れる絹を作り出す。時によると、庭口の上に揭げた漢字が讀めるのでないと、聞き尋ねるか、機械の鳴くやうな音か何ぞで、漸くその工場と昔の屋敷や舊式の小學校舍との見別けがつく位のものである。大きな煉瓦の工場や釀造場もあるが、その數は至つて少く、外人居留地に接近してゐる時ですらも、四邊の景色と不釣合に見える。

 歐米の怪異的な大建築や、雜騷極りなき機械は產業資本の大なる結合によつて實現したものである。然るに斯ういふ結合は極東に於ては存在しない。その樣に結合せらる可き資本からして存在しない。假りに數世代の中に、斯の樣な金力の結合が出來上がるにしても、建築物の構造に於て同樣の結合を豫想することは容易でない。二階建の煉瓦造りさへ主なる商業の中心地に於て好成績を舉げなかつた。其上地震が日本をして永久に建築を筒單にすることを餘儀なくさせてゐるらしい。國土そのものが西洋建築の强制に反抗し、時には鐡道線路を搖り枉げ[やぶちゃん注:「ゆりまげ」。]、押し流して、新しき交通制度にすら反對する。

 斯く組織されるに至らないのは產業のみではない。政府までが同じ樣な狀態を呈してゐる。皇位の外何物も確立してゐない。不斷の變遷は國策と同一である。大臣も知事も局長も視學官[やぶちゃん注:旧文部省及び地方に置かれた教育行政官。地方に置かれた視学官は視学の統轄及び学事の視察や教員の監督を行った。]も、凡ての文武の高官が極めて不定期に、驚く程の短期間に異動し、群小吏員は其餘波によつて散亂する。自分が日本在住の初年を過ごした縣[やぶちゃん注:島根県。]では五年間に四人の知事を迎へた。熊本在住の間、大戰[やぶちゃん注:日清戦争。]の初まるまでに、彼の重要地點の師団長[やぶちゃん注:熊本鎮台の後身である大日本帝国陸軍第六師団のそれ。]が三度代つた。そこの高等學校は三年間に三人の校長を戴いた。敎育界に於ける更迭の頻繁なことは特に著しいものであつた。自分の在職中にすら、文部大臣の更まること四度、敎育方針の改まること四度以上であつた。二萬六千の公立學校はその管理上各地方合議に支配せられ、他の勢力の影響がなくても、議員の改選ごとに始終改變するを免れない。校長や敎員が常に轉々してゐる。僅に三十を越したばかりで、國内の大抵の府縣に奉職したといふ樣な者もある。斯ういふ事情の下に、一國の敎育が何等かの効果を收めたといふことは、實に奇蹟的と謂ふの外あるまい。

 我々は常に、凡そ眞の進步、大なる發達には、或る程度の安定が必要だと考へてゐる。が、日本は何等の安定もなくして大なる發達の可能なことの論破し難い證左を舉げてゐる[やぶちゃん注:行末で句点がない。]その理由は種々の點に於て歐米の國民性と正反對な國民性に存する。本來一樣に移動的なこの國民は、又一樣に感動し易く、大目的の方に舉國一致して進んだ。四千萬の全一團を、砂や水が風によつて形をなす樣に、その主權者の意向によつて形成せられるに任せた。而してこの改造を甘受することはこの國民生活の舊態、卽ち稀なる沒我と完全なる信義の行はれた往時の狀態に屬してゐる。日本の國民性の中に利己的個人主義の比較的に少いことは、この國を危地より救ふものであつた。この國民をして甚だしき優勢に對抗して自己の獨立を保つことを得しめた。之に對して日本はその道德を創生し保存した二大宗敎に感謝して可い。一つは己が一家又は自己を考へる前に先づ君と國とを思ふことを個人に敎へた神道と、今一つには、悲しみに勝ち、苦しみを忍び、愛する者の消滅と厭へる者の暴虐とを永久の法則として受け容れもやうに各個人を鍛鍊した佛敎とに感謝して可い。

 

 今日は硬化の傾向が見えてゐる。支那の呪であり弱味であつたと全然同樣な官僚主義の形成を誘致する樣な變化の危險が見える。新敎育の道德的効果は物質的の効果に比ぶ可きものが無かつた。純然たる利己と云ふ一般に認められた意味での『個人性』の缺如と云ふ非難は、つぎの世紀の日本人に對しては大方加へ得ぬであらう。學生の作文までが智力を單に進取の武器と見倣す新しい觀念と、甞てなかつた侵略的主我主義の情操とを反射してゐる。佛敎思想の消えなんとする名殘を胸中に留めて斯う書いてゐるものがある。『人生は本來無常である。昨日は富裕にして今日は貧困な者を屢〻見る。是は變化の法則による人間の競爭の結果である。吾人は競爭を免れ得ない。假令それを望まずとも、相互に鬪はなければならぬ。如何なる武器を執つて鬪ふべきか。其は敎育によつて鍛へられたる知識の劍を以てする』

 抑も[やぶちゃん注:「そも」。そもそも。]自我の敎養には二つの形式がある。一方は高貴なる性質の非凡なる發達に到り、他は之に就いて成るべく言はざるを可とするものを意味してゐる。然るに新日本が今攻究せんとしてゐるものは前者ではない。自分は人間の心情は、全國民の歷史に於いてもなほ、人間の理性よりは遙かに優つて貴重なものであり、人生のスフィンクスの凡ての殘忍な謎に答へるにも、比較に絕して勝つてゐることを、早晚示すであらうと信ずる一人であることを告白する。自分は今なほ、昔の日本人は、彼等が德に優れたることを智に優れたるよりも勝されりと考へてゐるだけで、歐米人よりも人生の難問題を解決するに近かつたと信じてゐる。終に臨んでフェルディナン・ブルンチエールの敎育に關する所論の一部を引用して結論に代へて見たい。

[やぶちゃん注:「フェルディナン・ブルンチエール」フェルディナント・ブリュンチエール(Ferdinand Brunetière  一八四九年~一九〇六年)フランスの作家・批評家。以下の引用元は不詳。]

 『一切の敎育的方策は、つぎに記すラメネーの名言の意味を人心に嵌入[やぶちゃん注:「かんにふ(かんにゅう)」はめ込むこと。]して之を深く印象しようとする努力が無いなら、無効に終はるであらう。「人間社會は相互の授與、卽ち人が人のために、或は各人が他の凡ての人々のために献身することに基づいてゐる。而して献身こそ凡ての眞の社會の要素である」然るに吾人はこの事を約一世紀間忘れ去らうとして來たのである。それ故、若し吾人が改めて敎育を受けることになれば、それはこの事を學ぶためにするのである。これを辨へねば、社會もなく敎育も無い。既存の目的が人を社會のために養成するのであるなら、たしかに然うである 個人主義は今日社會の秩序の敵であると同時に、敎育の敵である。初からさうであつた譯ではないが、さう成つて來たのである。永久に然うではないであらうが、今は慥にさうである。そこでこの個人主義を亡ぼさうとは努めぬまでも(さうするのは一方の極端から他の極端に陷ることになる)吾人は家族に對し、社會に對し、敎育に對し、國家に對して何をしようといふにも、個人主義に敵對してその事が行はれるのだ、と云ふことを認めなければならぬ』

[やぶちゃん注:「ラメネー」フェリシテ・ロベール・ド・ラムネー(Félicité-Robert de Lamennais 一七八二年~一八五四年)はフランスのカトリックの聖職者で思想家。キリスト教社会主義者でもあった。ラムネーの引用元は不詳。]

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 斯く冥想してゐるとき、一大都會の記憶が喚起される。空高く築き上げられて海の如くに轟いてゐる都會である。その轟きの記憶が先づ歸つて來る。つぎに幻想が形を成して來る。立ち並ぶ家々の山、その間の街路の峽谷の光景である。煉瓦や石の絕壁の間を幾哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六一キロメートル。]も跋涉し乍ら、寸地をも路まず、唯だ岩石の板を踏み、喧噪の雷霆の外何をも聞かなかつたので、自分は疲れてゐる 彼[やぶちゃん注:「か」。]の廣漠たる鋪石の路面の下深く、廣大なる洞窟の世界があつて、そこに水や蒸氣や火力を供給するために考案れた脈絡系統の層又層がある。兩側には幾十層列の窓を穿つた垂直面が屛立してゐる。日の目も見せぬ建築の斷崖である。仰げば蒼白な細布の如き空は縱橫無盡に裁たれてゐる、それは蜘蛛手に連らなる無數の電線である。右手の一廓には九千の人間が住んでゐる。向ひの家の借主は年額百萬弗の家賃を拂つてゐる。その先きの宅地を壓する大普請には七百萬弗の巨資もなほ足りぬのである。鋼鐡とセメント、眞鍮と石材とを以て造られ、費用を惜しまぬ欄干を附けた階段は十階二十階と續いてゐる。が、それを踏む者は無い、今は水力蒸氣力電氣力によつて昇降する。足を運ぶには餘りの高さに眼くらみ、行程も亦遠すぎる。この種の建物の十四階に五千弗の家賃を拂つてゐる友人は、一度もこの階段を踏んだことが無い。自分が今步いてゐるのも物好きにしてゐるので、用を足すためなら步きはせぬ。距離は遠く時間は貴重で、そんな悠長な骨折りをしては居られぬ。區から區へ、家から事務所へ、人は皆蒸氣の力で通ふ。家が高すぎ聲が屆かない。用を言ひ附けるにも應へるにも機械による。電氣の力で遠方の扉を開き、一指を動かして一百の家を照らし又暖める。

[やぶちゃん注:ここに出来する幻想の都会は欧米の当時の都会風景であるが、取り敢えず注しておくと、本書刊行(明治二九(一八九六)年三月)当時の為替レートでは、前年の一八九五年で一ドルは一・九八円で凡そ二円である。百万ドルは二百万円、明治三十年代で一円は現在の二万円の価値はあったとする信頼出来る単純換算値に従うならば四百億円、七百万ドルは千四百万円で千四百億円、五千ドルは百万円で二百億円相当となる。]

 凡そこの巨大たるや、堅く、嚴めしく、無言である。堅牢保存の實利的眼目に應用された數理上の力の巨大である。幾哩となく續いてゐる是等の殿堂、倉庫、店舖、その他名狀し難き各種の建物は美しいと謂はんよりは、寧ろ不快である。斯の如き建築を作り出した巨大なる生命、そは同情なき生命の巨大を感じ、彼等の絕大なる力、そは憐みなき力の絕大なる顯現を感ずるのみで意氣銷沈を覺える。是等は新しき產業的時代を建築に表はしたものである。而して車輪の轟き、蹄の音や人の跫音の騷がしさにはをやみもない[やぶちゃん注:「小止み無い」。少しの間も中断することがない。]。物一つ尋ぬるにも相手の耳に喚かねばならぬ。その高壓な環境の中に在つては、見るにも、理解するにも、動くにも、經驗を要する、馴れぬ者は恐慌の中に、暴風の中に、旋風の中にあるの感を有つ。而も凡て是れ秩序である。

 怪しくも廣き街路は、石橋鐡橋を架して、河を越え水路に跨がつてゐる。眼のとどく限り、叢立つ帆柱、蜘蛛手の帆綱が煉瓦や石の斷崖なる岸を隱して居る。錯綜極りなきその帆柱や帆桁に比しては森の木立も密ならず、さし交ふ枝も繁くはない。而も凡て是れ秩序である。

 

       

 約言すれば西洋人は永存のために建て、日本人は當座のために建てる。日本に於て永存の考を以て作られる日用品は少い[やぶちゃん注:底本は「作ら る」と脱字している。「作らるる」の可能性も否定は出来ないが、本書の場合、繰り返しの「るる」は圧倒的に「る〻」となることが多いので、かく補った。]。旅路の驛に着く每に損じては更へる草鞋。小幅幾つかを輕く縫ひ合はせては着、解いては洗濯する着物。旅館で客の代はる每につける新しい箸。窓にもなり壁にもなり、年に二囘張り替へる手輕な障子。秋ごとに表を替へる疊。この外枚舉に遑ない日常の事物が贊國民一般に永存せ裁物に甘んじてゐることを示す。

 普通の日本住宅はどんなにして出來るか。朝自分の家を出て、ぢき先きの四つ角を通る時に、そこの空地に竹の桂を立ててゐる者がある。五時間出てゐて歸つて來ると、その地所に二階家の骨組みが出來てゐる。翌日の午前には壁が泥と藁づた[やぶちゃん注:「藁苞(わらづと)」ならまだしも、聞き慣れぬ語である。「藁を纏めて束にした細長い蔦状にしたもの、藁束のことか? 原文は“wattles”で藁を網代型に編んだ壁の下地のこと。]とであらまし塗られてゐる。日の暮れには屋根に悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)。残らず。すっかり。]瓦が葺かれる。つぎの朝には疊が敷かれ、内壁の上塗りが仕上がつた。五日の中にその家が落成した。是は勿論安普請で、立派な家は建てて仕上げるのにずつと時がかかる。併し日本の都會は大部分斯ういつた風の建物で出來てゐる。家屋は粗末で金もかからぬ。

 

 支那の屋根の曲線が遊牧時代の天幕の記憶を傳へてゐるかも知れぬ、と云ふ意見に何處で初めて出會つたか、今想ひ起こすことは出來ぬが、その考は、自分が不實にも其を讀んだ本を忘れて了つたずつと後まで、自分の心に來往して、出雲に來て古い神社の、破風の端と棟の上とに奇異な十字形の突起を附けた、特殊の構造を見た時に、其よりは新しい建築樣式の可能なる起原に關する、彼の忘られた論文の筆者の提案が力强く想ひ起こされた。併し日本に於てはこの原始的建築の傳統以外にも、この民族の祖先が遊牧の民であつた事を示す事柄が多い。何時何處を見でも、我々が堅牢と呼ばんとするものが全然缺けてゐる。不永存と云ふ特徵が國民の外的生活の一切の物に認められる。唯だ僅に農民の昔ながらの服裝と彼の農具の形が例外である。その歷史に記された比較的に短い期間に於てすら、日本には六十餘の首都[やぶちゃん注:国府・藩庁のこと。]があつて、その大多數は全然跡をも留めぬと云ふ事實はさて措いても、日本の都市は一世代の間に改築されると槪說して差支ない、幾つかの神社佛閣と一二の厖大な城砦だけが例外をなしてゐる。が、通則として日本の都市は人一代の間に、形は兎もあれ、實質を變へる。火事や地震やその他の原因が幾分その理由と考へられるが、主な理由は家が永存する樣に建てられるのでないと云ふ事である。普通の人は祖先傳來の家を有つてゐない。凡ての人に親密なのは誕生の地でなくして、墳墓の地である。死者の安息の場所と、古い廟社の境域を除いては、永久なものとては殆ど無い。

 國土そのものが轉變の地である。河は水路を變へ、海岸は輪廓を變へ、平野は高さを變へる。火山は或は高まり或は崩れる。谷は流れ出づる熔岩や地滑りによつて堰かれる。湖水が生じた消滅したりする。實に二つなき『不二』の嶺の雪を頂いた奇しき姿に幾百年來畫家に靈感を與へた、その山の容[やぶちゃん注:「かたち」。]すら、自分がこの國に來てからでも、少し變つたと云ふことである。同じ短日月の間に全然容を改めた山も少くない。僅にこの國の大體の輪廓と。その山川の大體の容姿と、四季の變遷の大體とが固定してゐるばかりである。風景の美しさそれ自體からして大半幻覺的で、變化する色彩と去來する霧の美しさである。實にかかる風光に目馴れた者ならでは、大八洲の歷史に於ける、ありし實際の轉變も亦起こらんとする轉變の怪しき豫想も事なげに、立つ山々の霧の心は知る由もない。

[やぶちゃん注:富士山の形が変わったというのは小泉八雲の心理的印象の変化によるものであろう。]

 神々こそは變はることなく、山の上なる御社に現はれ給ひ、木下の闇に優しき畏こさを漲らせ給ふ。姿も體も具へられぬ故であらう。御社は流石に人の住居のやうに忘られ果つることは無い。が社殿は皆僅の年月の間に改築される。中にもいと畏こき伊勢の神宮は、神ながらの慣らはしに從ひ、二十年每に毀たれる[やぶちゃん注:「こぼたれる」。]定めで、神木は割かれて數々のお守に作られ、參詣者に分かたれる。

 

 轉變の大敎義を汲く佛敎はアリアン族の印度から、支那を經て傳來した。日本に於ける初期の佛閣を建てた人々は、他の民族の建築者で、堅牢に建てた。鎌倉にある支那風の建築を見るがよい[やぶちゃん注:円覚寺・建長寺のことを指しているものと思われる。但し、その建築は邦人の大工の手になるものである。]。その周圍の大都府は跡も留めないのに、幾百年を經てなほ存してゐる。併し佛敎の精神上の感化は何處の國に於ても、人心を驅つて物質の安定を愛させることは出來なかつた。宇宙は一つの迷夢であると云ふ敎義、人生は無限の旅の束の間の息ひ、人に對し場所に對し、物に對する一切の執着は悲哀の種であると云ふ敎義、一切の願望を滅し、涅槃の願望をすらも減することによつてのみ、人間が永久の平和に達し得ると云ふ敎義は確にこの民族の古來の感情と調和した。彼等はこの外來の信仰の深き哲理には一向心を用ゐたことはないが、その轉變の敎義は、永い間に、深く國民性を感化したに相違ない。この敎義は悟道と慰藉とを與へた。萬事をけなげに辛抱する新たな力を與へた。國民の特性である忍耐力を强めた。日本の藝術は佛敎の感化によつて、事實創始せられたと謂はぬまでも、大いに發達したものであるが、そこにも轉變の敎義がその痕跡を示してゐる。佛敎は、天地自然は夢である、迷である、幻影である、と說いた。が、又その夢の消えゆく印象と捕へ、最高の眞理に照らして解釋することも政へた。

 而して日本人はそれをよく學んだ。咲き出づる春の花の紅の色に、蟬の現はれては又去る態に、色褪する秋の紅葉に、雪の怪しき美しさに、見る眼を欺く浪や雲の往きかひに、不斷の意義ある古き寓話の心を解した。火災、洪水、地震、疾病等の災禍すらも、絕えず彼等に寂滅の理を悟らしめた。

[やぶちゃん注:以下、底本では章末まで、全体が一字下げ。この後、一行空けた。複数の仏典から引用したものを羅列したように思われる。例えば、二段落目のもの

The Sun and Moon, Sakra himself with all the multitude of his attendants, will all, without exception, perish; there is not one that will endure.

は、例の「東方聖典」第十九巻(Sacred Books of the East Vol. 19)の“The Fo-Sho-Hing-Tsan-King:A Life of Buddha by Asvaghosha Bodhisattva,translated from Sanskrit into Chinese by Dharmaraksha A.D. 420,and From Chinese into English by Samuel Beal” の“VARGA 24. THE DIFFERENCES OF THE LIKKHAVIS.”の第1883節に

The sun and moon, Sakra himself, and the great multitude of his attendants, will all, without exception, perish ; there is not one that can for long endure;

と、ほぼ同文を見出せる。我々には孰れも馴染みの仏教思想で、それこそ「兒童無智者と雖も知悉する所」であるからして、私は総てを検証して出典を示す気は毛頭、ない。悪しからず。]

 

 時間の中に存在するものは凡そ死滅を見れず。森も山も、一切のものは斯くあるべく存在す。有情の萬物は時間の中に生まる。

 日も、月も、帝程天と雖も、數多の隨神と共に、皆悉く死滅す。一として永存するものはあらず。

 初には諸物固定す、終には皆分解す。新たなる結合は新たなる物質を生ず。蓋し自然には一定不變の本體なきを以てなり。

 凡て合成せるものは老朽す。凡て合成せるものは永存する事なし。一粒の胡麻に至るまで、凡そ合成物にして水存するはあらず。萬物は變遷す。萬物は本來分解性を有す。

 凡ての合成物は、悉く不永久、不安定にして卑しむべきもの、必滅にして分解す。消え易きこと蜃氣樓の如く、幻影の如く、泡沫の如し。陶工の作れる凡ての陶器が終に破碎するが如く、人間の一生も亦終はる。

 物質自體の信仰は之を述べ難く、又表はし難し。物質は物にもあらず、物外にもあらず、この理は兒童無智者と雖も知悉する所なり。

 

2019/12/08

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”)は来日後の第三作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された)の第二話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集が初出ではなく、雑誌『太西洋評論』(Atlantic Monthly)の一八九五年十月発行に最初に発表したものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年:パブリック・ドメイン)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 原註は底本では四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。やや長い(全五章)ので分割して示す。]

 

      第二章 日本文化の神髓

 

       

 一艦を失ひ一戰に敗る〻ことなく、日本は支那の勢力を挫き、新たに朝鮮を興こし、領土を擴張して東洋の政局面を一變した。是れ實に政治上驚異すべきことと思はれたが、心理上には更に驚異すべきことである。蓋し日本人が曾て諸外國から期待せられなかつた技能――頗る優級なる技能――を大いに働かしたことを示すからである。僅三十年間に於ける所謂『西洋文明の採用』が日本人の頭腦に從來缺けて居た機能を附加した筈はない、と心理學者は知つてゐる。日本人の心性、德性の急激な變化を生じた筈はないと知つてゐる。斯の如き變化は一世代の間には起こらない。移植せられた文明の影響は遙かに緩慢で永續性ある心理的効果を生ずるには幾百年を要するのである。

[やぶちゃん注:冒頭部は日本が、本書刊行の二年前に起こった日清戦争(明治二七(一八九四)年七月から翌明治二十八年四月十七日)で勝利し、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させて、事実上の半島の権益を我が物とし、割譲された台湾を平定した(同年十一月三十日)事実を指す。]

 この點から觀る時に、日本は實に世界に於て殺氣)異數[やぶちゃん注:「いすう」。普通とは違った、他に例のないこと。異例。「数」はここでは「等級・地位」の意。]な國と見えるのであつて、日本の歐化の跡を眺めて最も驚歎すべきは國民の頭腦がよく斯程の衝擊に耐へたことである。この事實は史上他に比類の無い事ながら、その眞義は果たして何であるか。それは單に既存せる思想機關の一部を改修しただけであるといふ事になる。それすら幾多敢爲[やぶちゃん注:「かんゐ」。物事を困難に屈することなくやり遂げること。「敢行」に同じい。]の若き心には致命の苦痛であつた。西洋文明の採用は決して思慮なき人々の想像せるが如き容易な事ではなかつた。從つて今日まだ計上し盡くせざる代償を拂つて行つたこの心的改修が、この民族が常に特殊の技能を示し來たつた方面に於てのみ好結果を示してゐる事は極めて明白である。現に西洋の工藝上の發明の應用が日本人の手によつて立派に行はれたのも、主として國民が固有の奇異なる手法によつて年末熟練した職業に於て優秀な成績を舉げてゐるのである[やぶちゃん注:「舉げてゐるからなのである」「舉てゐればこそである」でないと日本語としておかしい。]。それには何等根本的改變があつたのでは無い。在來の技能を新しき大なる規模に轉じたに過ぎぬ。科學的職業に於ても同樣の結果を見る。或る種の科學、例へば醫學、外科手術(世に日本の外科醫の右に出る者は無い)、化學、檢鏡法には日本人の天性は生來適してゐて、是等の學藝に於ては何れも全世界に聞こえた成績を舉げてゐる。戰爭と國策とに於ても驚く可き手腕を示したが、日本人は往古以來、偉大な軍事的並に政治的手腕を以て特徵としてゐたのである。之に反して、國民性に合はない方面に於ては、何等目覺ましき事は行はれなかつた。例へば西洋音樂、西洋美術、西洋文學の硏究に在つては、時を費やして何等得る所なきの觀がある。歐米の藝術は險米人の心情には深甚なる感興を與へるが、日本人の心情には少しも同樣の感興を與へぬ。而して敎育によつて個人の心情を改造することが不可能であるのは深く思索する者の皆辨へてゐる事である。東洋の一民族の感情が僅々三十年の間に西洋思想の接觸によつて改造されようなどと考へるのは愚の至りである。理性よりは古くから存在し、從つて更に深奧な心情が、環境の變化によつて急激に變化し得ないのは、鏡の面が來往する反影によつて變化し得ないのと同一である。日本が神技の如く見事に成し遂げた事は、凡て何の自己改造もなくして行はれたもので、日本が今日、三十年前よりも、心情の上に於て歐米人に接近したと想像する者は、議論の餘地なき科學上の事實を無視するものである。

 

註 或局限された意味に於ては、西洋の藝術は日本の文學や演劇に影響した、但し、その影響の性質が自分の謂つてゐる民族的相異を立證してゐる。歐洲の演劇が日本の舞臺に向く樣に改作せられ、歐洲の小說日が本の讀者向きに書き直された。併し称譯は滅多に試みられない。原作の事實思想や感情等が一般の讀者や観客に理解し難いからである。筋だけが採用せられて、情趣や事實は全然改められる。「今樣マグダレン」が異つた部落と結婚する日本の娘になり、ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」が、日本の戰亂の物語となり、オンジヨルラが日本の學生になる類である。但し、「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功をはじめ、二三の稀なる例外はある。

[やぶちゃん注:「今樣マグダレン」“The New Magdalen”(原文は斜体ではない)はイギリスのヴィクトリア朝の人気小説家(推理作家・劇作家)であったウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins 一八二四年~一八八九年)の一八七二年から翌年に発表した長篇小説(もともと劇化を意図した作品らしい)。「Magdalen」は「マグダラのマリア」或は「更生した売春婦」の意で、「新・堕ちた女の物語」という邦訳があるようだ。閑田朋子氏の論文『三遊亭円朝による翻案落語「蝦夷錦古郷の家土産」種本の同定――Wilkie CollinsThe New Magdalen――」の「(三)『新・堕ちた女の物語』」に非常に詳しい梗概が載る。

『ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」』言わずと知れたロマン主義の作家ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)が一八六二年に刊行したフランス文学の名作長篇小説“Les Misérables”。本来は「悲惨な人々」或は「哀れな人々」という意味である。「オンジヨルラ」“Enjolras”は同小説の登場人物の一人であるジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)の政治活動での友人で、共和派の秘密結社のメンバーの青年アンジョルラス。ウィキの「レ・ミゼラブル」によれば、『天使のような容姿端麗の』二十二『歳の青年で、結社の首領。富裕な家庭の一人息子。一徹な理想主義者として革命の論理を代表』する人物で、『革命についてはかなり詳しく、些細なエピソードまで知っていて、それについてあたかも自分がそこにいたかのように語れる。その美貌のなかに、司教と戦士の性格を併せ持つ。彼にとって祖国は恋人であり、祖国と革命が青春のすべてになっている』。一八三二年六月五日の『ラマルク将軍の葬儀のあった夜、他の共和派と共に決起し、居酒屋コラントを中心としてバリケードを築き』、『バリケードに立て篭もって暴徒たちを指揮する。後にこの暴動は、六月暴動と呼ばれるようになる』とある。

『「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功』“Sorrows of Werther”。無論、かの天才ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が二十五歳の時に発表した書簡体小説(一七七四年初版では表題は“Die Leiden des jungen Werthers”であったが、一七八七年改訂版では "Die Leiden des jungen Werther" となっている。「若きウェルテルの苦悩」。名の部分は原音では「ヴェァター(ス)」「ヴェルター(ス)」が近い、と信頼出来るQ&Aサイトの回答にあった)。本邦での邦訳は明治二四(一八九一)年に『山形日報』に連載された高山樗牛訳によって初めて本格的に紹介された。高山の訳は原作の約五分の四を訳出しており、ここで小泉八雲が指摘するのもそれと考えてよかろう(初の完訳版は明治三七(一九〇四)年に漢詩人でもあった久保天随(得二)訳の『ゑるてる』である(以上はウィキの「若きウェルテルの悩み」に拠った)。]

 

 同情は理解によつて局限せられる。吾人は吾人の理解する程度まで同情を持つことが出來る。自分は或る日本人か支那人かに同情を持つてゐると思ふ人もあらうが、その同情は、小兒も大人も差等のない樣な極めて普通な感情の單純な部面を餘り離れては、決して眞實なものではあり得ない。東洋人の感情の中の複雜なものは、西洋の生活には何一つ正確に該當するものの無い、從つて吾人が充分に知ることの出來ない、祖先以來或は個人の種々の經驗の結合によつて成り立つたものである。同じ理由で、日本人は歐米人に對して至甚な同情を與へることは、よし心には願つても、出來ぬものである。

 西洋人に取つて、日本の生活は、理性感情何れの方面も(兩者は互に織り組まれてゐるので)その眞相を見分ける事が、依然として不可能であるが、同時に、又、日本の生活が自分等の生活に比して極めて小規模である、といふ確信を避けることは出來ぬ。日本の生活は風雅である。其は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならぬ興味と價値とを有つた美妙な可能性を具へてゐる。が、其を除いては、規模が如何にも小さく、西洋の生活はそれとの對照で殆ど超自然と見える。我々は眼に見える測定し得る體象[やぶちゃん注:ママ。]を判斷するより外はないから、さう批判して見ると、東西の感情の世界の間に、理智の世界の間に、何たる對照が見えることか。日本の首都の脆弱な木造の街衢[やぶちゃん注:「がいく」。「衢」は「四方に分かれた道」の意。人家などの立ち並ぶ土地・町・巷(ちまた)。「衢」の字自体も「ちまた」と読む。]と、パリやロンドンの往來の宏壯堅牢なのとの對照などは未だ遠く及ばぬ。東西兩者が彼等の夢想や抱負や感覺を發表したものを比較する時に、ゴシツクの大伽藍を神社の建築に比べ、ヴエルディの歌劇かヅアグナの三部歌劇を『藝者』の演奏に比べ、歐洲の敍事詩を和歌に比べる時に、感動の容積に於て、想腫の力量に於で、藝術的綜合に於て、その差異が如何に計數に絕してゐることか。成る程、西洋の令型は事官新興の藝術には相違ないが、遠く何れの時代に遡つても創作力に於ける差異は顯著の度を殆ど減じない。大理石の圓形競技場や、國又國に跨がる高架水道の築かれた、彼の羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]の偉大を極めた時代に於て、或は彫刻は技[やぶちゃん注:「わざ」。]神に入り、文學は比倫な希臘[やぶちゃん注:「ギリシア」。]の盛時に於て、固より然う[やぶちゃん注:「さう(そう)」。]であつたのである。

[やぶちゃん注:「ヴエルディ」言わずと知れた、「オペラ王」の異名を持ち、「リゴレット」(Rigoletto)・「椿姫」・(La traviata:「道を踏み外した女」。原作のアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が一八四八年作の長編小説の原題が“La Dame aux camélias”(「椿の花の姫さま」(主人公高級娼婦マルグリット・ゴーティエ(Marguerite Gautier)の源氏名)であることから、オペラもかく呼ばれることが多い)・「アイーダ」(Aida)などで知られるイタリアのロマン派音楽の作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。

「ヅアグナ」壮大な歌劇で知られるドイツの作曲家ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のこと。]

 つぎには日本の國力の勃興に關する今一つの驚異すべき事實を考察する事になるが、生產と戰爭とに於て日本が示し來たつた巨大な新勢力の物質的兆候は何處に現はれてゐるか。何處にも無い。吾人が日本の心情と理智との生活に缺けてゐると認める巨大といふ事は、產業商業にも缺けてゐる。國土は依然として舊の如く、地表に明治の變遷によつて殆ど面目を改めてゐない。玩具のやうな鐡道や電柱、橋梁や隧道は、日本の綠の野山に隱れて殆ど眼に入らぬ。開港場とその外人居留地を除いては、全國の都會に市街の外觀に於て西洋思想の感化を思はせるものは殆ど一つも無い。日本内地を旅行すること二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル弱。]に及んで猶ほ大規模な新文明の兆候を認め得ぬかも知れぬ。何處に往つても、商業が巨大な倉庫にその抱負を示してゐるのや、工業が幾萬坪の屋根の下に機械を据ゑ附けて居る有樣を見出すことはない。日本の都市は今猶ほ千年前の儘で、彼の岐阜提燈の樣に風雅であるかも知れぬが、それ以上に丈夫とは謂へぬ。木造の小舍の雜然たる集團に過ぎぬ。大なる勤めきと騷ぎとは何處にも無い。重い車馬の往來もなく、轟々轢轆[やぶちゃん注:「れきろく」。車の軋る音。]の音もなく、甚だしい急速もない。東京に於てすら、僻村の平穩を求めて得られぬ事はない。現今西洋の市場を脅威し極東の地圖を改めつつある新興勢力の、眼に見え耳に聞こえる兆候が斯くも乏しいことは、寄異な、殆ど不氣味と謂つて可いやうな感じを與へる。茫は或る神社を目指して、寥々[やぶちゃん注:「れうれう(りょうりょう)」。もの淋しいさま。]たる數哩[やぶちゃん注:一マイルは約一・六一キロメートル。]の坂路を登りつめた時、唯だ虛無と靜寂の神域――ささやかな祠のみが千古の樹陰に朽ち果ててゐる光景――を見る時の感想と略〻等しい。日本の力は、その古來の信仰の力のやうに、形に表はすことを必要としない。この兩つ[やぶちゃん注:「ふたつ」。]の力は大國民の深い實力の存する所、卽ち民族精神の中に存在する。

 

小泉八雲 作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」始動 / (序)・停車場にて

 

[やぶちゃん注:本篇は来日後の第三作品集(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE (心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「心」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認できる(「停車場にて」(原題“AT A RAILWAY STATION”はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。なお、この絵の少年は熊本第五高等学校時代に親しかった同僚英語教授佐久間信恭(のぶやす 文久元(一八六一)年~大正一二(一九二三)年:但し、熊本を離れる前にトラブルがあって疎遠となったようである。ウィキの「佐久間信恭」によれば、『性格の不一致により次第に対立を深め』、『ハーンは』五校『退職後の書簡において、佐久間は宣教師と結託して自分より優秀な教師のボイコットを首謀したと訴えているが、真相は不明である』とある)の親友で、小泉八雲も交流があった札幌農学校時代の同期生(二期生)高木玉太郎の長男弘(ひろむ:明治一九(一八八六)年生まれ)と考えられている。菌類のチャワンタケ(菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門チャワンタケ綱チャワンタケ目 Pezizales(盤菌類(Discomycetes))の研究家の個人サイト内の「ラフカディオ・ハーンが感動した少年のその後」によれば、『この少年は高木玉太郎という人の子供で、ハーンがこの子の顔の写真を見て純粋な日本の少年だと感動して借用したものである』『(高木に写真を送ってもらった事に対するハーンの礼状が最近八雲記念館に寄贈されている』)。『富士額で坊主頭、着物姿の』八『歳くらいの少年で、美少年というわけではないが端正で賢そうな顔をしている』。『高木はハーンの友人である佐久間信恭の友人であった』。『高木玉太郎には四人の子供がいた。長男弘、長女千代子、次女美代子、次男孝二の各氏で』。『長男弘(ひろむ)氏』の生年と『「心」の出版年から考えると』、『写真の少年は弘氏に間違いない』とあるからである(なお、何故、こちらのサイトにあるのはかというと、恐らく『因みに長女の千代子さんはキノコ学者川村清一の弟で陸水生物学者として著名な川村多実二と結婚している』とあることによるのであろう)。絵師は不明。また、偶然ではあろうが、この少年の顔、以下に示す「停車場にて」の子どもの顔にダブって、私には仕方がないのである。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。なお、標題や序の訳者は巻末分担表に指示がないが、恐らくは、この「停車場にて」の訳者田部氏が担当したものと思う。

 ネタバレしないように、後注を設けた。

 

 

   

     日本内面生活の暗示と反響

 

 

    詩人、學者、愛國者なる

     友人 雨森信成へ

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「雨森信成」(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

 

 

   

 この一卷のうちにある諸篇は日本の外面生活よりは、むしろ内面生活を取扱つて居る、――この理由で『心』と云ふ名稱の下にまとめられたのである。心の漢字は情緖的の意味で又心意とも解せられる、精神、勇氣、決心、情操、情愛、それから――私共が英語で『物の心』と云ふやうに、――内面の意味とも解せられる。

   一八九五年・九月十五日・神戶。

[やぶちゃん注:本書刊行時、小泉八雲は神戸におり、無職であった。熊本第五高等学校は明治二七(一八九四)年十月までに退職し(契約切れと、五高に馴染めなくなっていたこと(特に明治二四(一八九一)年(十一月十五日着)に五高に彼を招いて呉れ、敬意を持っていた校長嘉納治五郎が転任して以降)等の外に、著作への専念の希望もあった。神戸着は明治二十七年十月十日で、同月九日に『神戸ジャパン・クロニクル』社に記者として就職、神戸に転居していたが、疲労から眼を患い、この年の一月に退社していた。なお、この明治二八(一八九五)年年末十二月には東京帝国大学文科大学学長外山正一から英文学講師としての招聘を享けて受諾しており、時間ががかったが、翌明治二九(一八九六)年九月八日にセツと上京(セツは上京を八月二十七日とする)、九月十一日には帝大での授業を始めている。]

 

 

      第一章 停 車 場 に て

 

         明治二十六年六月七日

 昨日福岡から電報で、そこで捕へられた重罪犯人が、今日裁判のために正午着の汽車で熊本に送られる事を知らせて來た。一人の警官が今日罪人護送のために福岡へ出張してゐた。

[やぶちゃん注:本文前のクレジットは、底本では下五字上げインデントでポイント落ちである。]

 四年前一人の强盜が夜相撲町の或家に押入つて、家人をおどかして縛つて、澤山の貴重品を奪ひ去つた。警官のために巧みに追跡されてその盜賊は二十四時間内に贜品[やぶちゃん注:「ざうひん」。「贜」は「贓」の異体字。犯罪行為によって不法に手に入れた他人の財物。贓物(ぞうもつ)。]を賣捌く間もないうちに捕へられた。しかし警察署へ送られる途中鎖を切つて、捕縛者の劒を奪つて、その人を殺して逃げた。先週までそれ以上その盜賊の事は何も分らなかつた。

[やぶちゃん注:「相撲町」現在の熊本県熊本市中央区下通(しもとおり)(グーグル・マップ・データ)に「通り」の名として残る。その由来は江戸時代に細川藩お抱え力士がこの附近に居住していたことによるらしい。

「劒」当時の巡査は防具として短剣を佩刀していた。平成一五(二〇〇三)年に書かれた森良雄著「巡査帯剣の歴史」(PDF)によれば、巡査まで帯刀(洋刀(サーベル))の法的許可が下ったのは明治一五(一八八二)年である。因みに拳銃所持の許可はずっと遅く大正一二(一九二三)年以降であった(あまり知られていないが、それよりずっと以前の明治八(一八七五)年以降、永く本邦で普通に拳銃所持を許されていた職業がある。それは郵便配達夫であった)。第二次世界大戦敗戦後のごく初期の一時期は進駐軍に遠慮して自発的にサーベルを使用したが、昭和二一(一九四六)年一月GHQからの覚書によって拳銃携帯が許されて今日に至っている。]

 それから熊本の探偵がたまたま福岡監獄を見に行つて、その囚徒のうちに彼の頭腦に四ケ年間寫眞を燒きつけたやうになつてゐた顏を見た。看守に向つて『あれは誰です』と尋ねた『ここでは草部と記入されて居る窃盜犯です』と答があつた。探偵は囚人に近づいて云つた、

 『お前の名は草部ぢやない。野村貞一、お前は殺人犯の件で熊本へ御用だ』その重罪犯人は悉く白狀した。

[やぶちゃん注:「探偵」“detective”。刑事(英語では巡査も含むが、ここはまず刑事だろう)と訳すべきところである。]

 

 私は停車場への到着を目擊するために大勢の人々と一緖に行つた。私は憤怒を聞き又見る覺悟をしてゐた。私は暴力の行はるべき事さへ恐れてゐた。殺された警官は大層人望があつた。その親戚は必ずその見物のうちに居るだらう、それから熊本の群集は甚だ穩かとは云へない。私は又澤山の警官が警戒に當つて居る事と思つた。私の豫想はまちがつてゐた。

[やぶちゃん注:この「停車場」、駅は指示してもよかろう(実話である以上という点でである)。とある記事(冒頭で述べた理由からリンクを張らない)によれば、この駅は現在の「上(かみ)熊本駅」だという。当時は「池田駅」という名称で、九州鉄道の終点駅であったという。現在の熊本県熊本市西区上熊本二丁目にある「九州旅客鉄道(JR九州)」及び「熊本電気鉄道(熊本電鉄)」の「上熊本駅」である(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「上熊本駅」によれば、明治二四(一八九一)年七月に私設鉄道会社「九州鉄道」の「池田駅」として開業している(上熊本駅への改称は明治三四(一九〇一)年)。現在の熊本駅の北北東約三キロメートルの位置にある。]

 汽車は忙しさと騷しさのいつもの光景、下駄をはいて居る乘客の急ぎ足とでカラコロ鳴る音、日本の新聞と熊本のラムネを賣らうとする子供の呼び聲のうちに止まつた。

 埓[やぶちゃん注:「らち/らつ」。駅構内を仕切る囲い。]の外に私共は五分間程待つてゐた。その時警部によつで改札口から押されて罪人が出て來た、頭をうなだれてうしろ手に繩でしぱられた大きな粗野な樣子の男であつた。罪人と警官と兩方共改札口の前にとまつた、そして人々は前に押し出て、しかし默つて、見ようとした。その時警官は大股で呼んだ、――

 『杉原さん 杉原おきび、きてゐますか』

[やぶちゃん注:底本では「杉原さん」の後は字空け。脱字(脱記号)も疑われるが、敢えてママとした。原文は“Sugihara San! Sugihara O-Kibi! is she present?”であるから、ここは「『杉原さん!杉原おきび、きてゐますか』の「!」の脱字(誤植)の可能性が高い(本底本全集ではどの訳者も言い合わせたように殆んど「!」「?」の後の字空けをしない)。]

 背中に子供を負うて私のそばに立つてゐたほつそりした小さい女が『はい』と答へて人込みの中を押しわけて進んだ。これが殺された人の寡婦であつた、負うてゐる子供はその人の息子であつた。役人の手の合圖で群集は引き下つて囚人とその護衞との周圍に場所をあけた。その場所に子供をつれた女が殺人犯人と面して立つた。その靜かさは死の靜かさであつた。

 少しもその女にではなく、ただ子供だけに向つてその役人は話した。低い聲であつたが、大層はつきりしてゐたので、私は一言一句きく事ができた、――

 『坊つちゃん、これが四年前にお父さんを殺した男です。あなたは未だ生れてゐなかつたあなた母はさんのおなかにゐました。今あなたを可愛がつてくれるお父さんがないのはこの人の仕業です。御覽なさい、(ここで役人は罪人の顎に手をやつて嚴かに彼の眼を上げさせた)よく御覽なさい、坊つちやん、恐ろしがるには及ばない。厭でせうがあなたのつとめです。よく御覽なさい』

 母親の肩越しに男の子はすつかりあけた眼で恐れるやうに見つめた、それからすすり泣きを始めた、それから淚が出た、しかし畏縮しようとする顏をしつかり、そして從順に、續いて眞直にぢつと見て、見て、見ぬいた。

 群集の息は止つたやうであつた。

 私は罪人の顏の歪むのを見た、私はその鎖も構はないで突然倒れて跪いて、そしてその間聞いて居る人の心を震はせるやうに悔恨の情極つたしやがれ聲で叫びながら、砂に顏を打ちつけるのを見た、――

 『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊つちやん。そんな事をしたのは怨みがあつてしたのではありません、逃げたさの餘り恐ろしくて氣が狂つたのです。太變惡うございました、何とも申しわけもない惡い事を致しました。しかし私の罪のために私は死にます。死にたいです、喜んで死にます、だから坊つちやん、憐れんで下さい、勘忍して下さい』

 子供はやはり默つて泣いた。役人は震へて居る罪人を引き起した、沈默の群集はそれを通すために左右へ分れた。それから全く突然全體の群集はすすり泣きを始めた。そしてその日にやけた警官が通つたとき、私は前に一度も見た事のない物、めつたに人の見ない物、恐らく再び見る事のない物、卽ち日本の警官の淚を見た。

 群集は退散した、そしてこの光景の不思議な敎訓を默想しながら私は殘つた。ここには罪惡の最も簡單なる結果を悲痛に示す事によつて罪惡を知らしめた容赦をしないが同情のある正義があつた。ここには死の前に只容赦を希ふ絕望の悔恨があつた。又ここには凡てを理解し、凡てに感じ、悔悟と慚愧[やぶちゃん注:「ざんき」。自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと。]に滿足し、そしてままならぬ浮世と定め難き人心をただ深く經驗せるが故に憤怒でなく、ただ罪に對する大なる悲哀を以てみたされた群集(怒つた時には恐らく帝國に於て最も危險な群集)があつた。

 

 しかしこの一挿話のうち、最も東洋的であるから、最も著しい事實は、罪人の親たる感じ、どの日本人の魂にも一大分子となつて居る子供に對する潜在的愛情に訴へて悔恨を促した事であつた。

 

 日本の盜賊のうちで最も名高い石川五衞門が或役人の家に入つて殺して盜まうとした時、自分に手をさしのべた子供の笑顏に氣を取られて、その子供と遊んでゐて、遂に自分の目的を果す機會が全く失はれたと云ふ話がある。

 この話を信ずる事はむつかしくはない。每年職業的犯罪者が小兒に對して憐みを示した事が警官の記錄にない事はない。數ケ月前地方の新聞に恐るべき殺人事件(盜賊が一家をみなごろしにした事件)が記されてあつた。眠つて居る問に七人の人が文字通り寸斷されたが、警官は一人の小さい子供が全く害をうけずに血の溜りに獨りで泣いて居るのを發見した。警官は加害者がその小兒を害しないやうにと餘程注意したに相違ない事の疑ない證據を見出した。

 

[やぶちゃん注:この事件については、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二六(一八九三)年の四月二十二日(土曜)の条に、『「九州日々新聞」に「停車場で」の素材となった記事が掲載される。これに基づく執筆の時期は不明である』とあり、以下、本文冒頭でクレジットされる日には本篇についての記載はない。本底本の「あとがき」で田部氏は、『「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた』と記しておられものの、『第百九回「ラフカディオ・ハーンの会」ニュース』(二〇〇九年九月五日発行)によれば、『九州日日新聞』(明治二十六年四月二十二日付け)の記事を発見し、調査したところ、『ハーンが実際に池田駅(上熊本駅)に居合わせて犯罪者の到着を目撃したのではないらしいことが判った』とあり、田部氏の謂いは否定されるようだ。『作品化するに当って、ハーンが変更した事実は、①』巡査殺しの発生は、七『年前』のことであり、『子供は』七『歳で、母親に背負われてはいなかった。②犯人は佐賀から連行された。③人名(草部、野村貞一、杉原おきび)は』総て『ハーンの創作』であるとある。さても、幾つかのネット検索を掛けると、この事件について記した記事を見出すことは出来る。しかし、この犯人は処罰され、刑に服した以上(この犯行内容から考えて死刑ではなかろうし、一応、溯って明治の死刑執行一覧とその罪状を調べてみたが、見当らない)、その事件や裁判を穿鑿する気は毛頭、私には、ない。小泉八雲の本篇執筆の動機も奈辺――そのような鵜の目鷹の目の野次馬根性――にはないことは言うまでもないからである。

2019/12/07

第一書房昭和一二(一九三七)年三月刊「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)第六巻「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は本ブログで作品集「佛の畠の落穗」「異國情趣と囘顧」と、「日本お伽噺」群の電子化の底本とした英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データを視認した。字のポイントや字配は再現していない。便宜を考え、私の電子化を本文内でリンクさせた(分割版は最初の公開分に)。]

 

   あとがき

 

 『蟲の樂師』は譯者が明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]十月に提供した材料に據つて物されたものである。原著者がに述べて居る事は、社會事彙にも依つたのであるが、上野廣小路の松坂屋の向側に居た文中の所謂『蟲源』といふ蟲屋に就いて譯者が聽いたものにも依つて居る。引用の歌は、他の文で原著者が爲して居るやうに、羅馬字で原歌を示すことはしないで、ただその自由譯だけ揭げてあるのであるが、譯者はその原歌を知つて居るから、その自由譯の逐字譯はしないで、原歌を揭げることにした。そして譯文には、序に、憶ひ出せる限りその作者又は出處を添へて記すことにした。

[やぶちゃん注:以上については、既に『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「三」・「四」』の「三」私の注の中で細かに述べておいたので、必ずそちらを参照されたい。

 

 『死者の文學』は譯者が明治三十年七八兩月に亘つて蒐集した材料を使用して物されたのである。當時その材料を書留めるのに使用した雜記帳が不思議にも殘つてゐたので、文中引用の經語及び戒名は、それに參照して、多くは苦も無く復譯が出來たが、中に原著者が餘りに自由譯にした爲め、これがそれと突とめかねるのが一二あるのは遺憾である。

 序に原著者の戒名は正覺院淨華八雲居士であることを附記してよからう。

 

 『蛙』は譯者が明治三十年十二月に提供した材料に主として依つて物されたものである。引用の俳句で、今その原句の憶ひ出せぬのがあるのは遺憾である。原英文にはその作者の名は揭げて無いが、判知し得たものだけ、添へてしるして置いた。

 

   大正十五年十月   大 谷 正 信

 

 

 

 『佛の畠の落穗』は一八九七年ボストンのハウトン・ミフリン會社とロンドンのコンスタブル會社とから出版された。初めの五篇は『大西洋評論』で發表された物である。『佛土』と云ふ成語はあるが、多數の意見によつてこの譯語『佛の畠』を用ふる事にした。

 「生神」のうち濱口に關する記事は大阪朝日の記事によつた物、勿論精神は傳へてあるが、事實に違つたところがある。濱口五兵衞は紀州廣村濱口梧陵(七代目濱口儀兵衞)の事、津浪は安政元年十一月五日の夕方の出來事、被害者千四百餘人、行方不明老者は三十餘人あつた。當時濱口は老翁ではなく、三十五歲の壯齡であつた。明治維新の際開國論を唱へて國事に奔走し、維新後紀州藩の權大參事ととなり、後中央政府に入つて驛遞頭(後の遞信大臣)となつた。再び鄕里に歸つて和歌山縣大參事となつた。縣會開設と共に最初の議長にもなつた。明治十七年米國に行き、翌年ニユヨークで胃癌で歿した。六十六歲であつた。津浪後窮民に職を與へ、大堤防を築き、學校を建て(後の耐久中學もその一つ)、廣村のためにつくす事一方ならなかつたので、村民感激の餘り、濱口大明神と云ふ神社を建てようとしたが、梧陵翁は許さなかつた。前の歿後勝海舟の筆になつた石碑が建てられた。今和歌山縣會議事堂構内に銅像がある。令息濱口擔[やぶちゃん注:「たん」。]氏が英國留學當時、(ヘルン在世の頃)ロンドンの亞細亞協會で講演をした時、この文章を讀んですでに濱口の名を知つた多數の紳士淑女が、この講演者が濱口の令息である事を發見して、驚喜の餘り、湧くやうな拍手と歡呼を贈つたので、濱口擔氏も意外の面目を施したと云ふ禮狀をヘルン家に送つて居る。梧陵翁のあとは令孫濱口儀兵衞氏(山サ醬油釀造元)である。杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』ラツド博士著“Rare Days in Japan” 參照。

[やぶちゃん注:サイト「稲むらの火」のこちらの稲垣明男著『「稲むらの火」余聞――八雲宛の礼状が八戸図書館に残っていた――』PDF)でその礼状を見ることが出来る。

「杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』」大正九(一九二〇)年刊。恐らくそれを簡略化したものと思われる「濱口梧陵小傳」ならば、同じくサイト「稲むらの火」のこちらPDF)で読める。

「ラツド博士著“Rare Days in Japan”」 アメリカの心理学者・教育学者であったジョージ・トランブル・ラッド(George Trumbull Ladd 一八四二年~一九二一年:アメリカの実験心理学に大きく貢献し、また、日本の心理学の基盤を担った人物としても知られる)が一九一〇年に刊行した紀行文集。ウィキの「濱口梧陵」によれば、彼は嘉永五(一八五二)年に同じ醬油製造業者らとともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図ったが、この『耐久舎の伝統は、現在の耐久高校や耐久中学校に受け継がれている。当時の耐久高校は(校長は寳山良雄)、国内に留まらず』、『韓国等からの留学生も受け入れる等革新的な校風であったようで、文部大臣・小松原英太郎や伊藤博文の補佐を勤めたイェール大学教授・ジョージ・トランブル・ラッド(外国人として初めて旭日勲章を授かる)らの訪問を受けた。ラッドは、当時の広村を訪れた紀行文等を記した』「日本の稀日」を一九一〇年(実際の訪問は明治四〇(一九〇七)年)に『アメリカで出版している』とある。]

 「涅槃」――

[やぶちゃん注:以上はママ。謂い添えることはないということか。だったら書かなきゃいいのに。後に訳者分担表(電子化は省略)が載るのに。

 「人形の墓」は熊本で雇入れた「梅」と云ふ子守の身の上話であつた。その後八年間小泉家に仕へて後鄕里で嫁して幸福に暮らして居ると聞いて居る。「人形の墓」は熊本の習慣、最後に人の坐つたあとの疊をたたいて坐ると云ふのは出雲の俗說である。

 

 『異國情趣と囘顧』は一八九八年ボストンのリッツル・ブラウン會社とロンドンのサムスン・ロウ會社から出版された。へルンがリッツル・ブラウン會社から引續いて四册出版した物の第一册である。その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である。樓濱の醫師ハウル氏に捧呈してある。ただ一篇『帝國文學』に出た「靑色の心理」[やぶちゃん注:訳文(岡田哲蔵訳)では「蒼の心理」である。]を除いて全部新しい物である。

[やぶちゃん注:「樓濱の醫師ハウル氏に捧呈してある」『「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序』を参照。

「その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である」『「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序』の冒頭注で画像を掲げてあるので参照されたい。]

 「禪の一問」――

[やぶちゃん注:以上はママ。不審は同前。]

 「月の願」は長男一雄君との問答から始まつて居る、勿論屋根へ上つて竿で月を落す事は日本の昔ばなしから思ひついたのであらう。

 

 『日本お伽噺』[やぶちゃん注:リンクは冒頭の「化け蜘蛛」。]一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である。

[やぶちゃん注:リンク先の冒頭注で私が述べた通り、全部の収録でないこと、“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」)が取り上げられていないことを、何故、言わないのか? 甚だ不審と言わざるを得ない。

 

   大正十五年十月  田 部 隆 次

 

小泉八雲 環中流転相 (金子健二訳)  / 作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“WITHIN THE CIRCLE。「円環の内部にて」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の掉尾に配された第十一話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、個人的にはネタ晴らし的なこういう標題の意訳は、私は好まない。真の作家であられた平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では「環中語」と訳しておられる。それでこそ!]

 

      第十一章 環中流轉相

 

 私達の一身上の苦痛や觀樂は言葉で實際的に發表することは出來ぬものである。これをその儘の形で告げることは全く困難のものである。ただこれを惹起するに至つた事情を鮮明に描寫して、同情のある人の心に同種類の性質の感情を幾分なりと喚起させることが出來得るのみである。併し若しその苦痛なり歡樂なりを惹起した事情其物が全然一般の人間經驗と沒交涉の性質の物であるならば、如何にこれを表現したところで、それが惹起したところの感じ其儘の物を充分に他人に知らしめることが出來ぬ。故に私は私の前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう(ぜんしょう)」。]を見る苦痛の実感を語らうとしてもそれは見込の無い企[やぶちゃん注:「くはだて」。]である。私の言ひ得ることは各個人に起り來る苦痛は如何にこれを結合してみても、このやうな苦痛――無數の生命の錯綜した苦痛とは別種の物であるといふことである。それは言はば、私の凡ゆる神經が伸される[やぶちゃん注:「のばされる」。]だけ伸されて、百萬年を廼じて織られに織られた感覺の或る驚くべき織物に成りあがつた樣なものであつた。――又それは、言はば、その無限無量の經緯(たてよこ)の絲の全部が、その凡ての震へる絲にわたつて、過去の深淵の中から私の意識の中へ名の無い或る凄愴の物を――人間の頭腦の中に入れるには餘りに大き過ぎる恐怖を注ぎ込んでをる[やぶちゃん注:「織る」。]やうである。と言ふのは私は過去の世を眺めた時私自身が二倍、三倍、乃至八倍になつたからである。――私は等差級數によつて增加した。――私は百となり千となつた。――千の恐怖を以て畏れた。――千の苦悶を以て失望した。――千の惱を以て戰慄した。併し如何なる歡樂も知らなかつた。一切の快樂は霧の如く又夢の如く現れたが、ただ苦痛と恐れのみは事實であつた。――然もいつも、いつもこの苦とこの恐怖のみが增していつた。感覺が消滅したその刹那に一つの神聖な或者が俄然として現れて來てその恐怖に滿ちた幻影を滅し、ただ一つの實在の意識を私に再び與へてくれた。このやうに忽然として複雜の我(が)より縮小して單一の我(が)に復歸することの心地よさは到底言語に盡し得ざるものがある。嗚呼あの廣大無限の我(が)が潰崩して個性の盲目的、健忘的麻痺性に還るその有樣の心地よさよ!

 

 かくの如くにして私を救濟してくれた神聖な者の聲は言うた、『他人にも――同じ狀態に在るところの他の人達にも彼等の前生についで或物を見ることが許されてあつた。併し彼等の中の何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]といへども遙に遠いその前生を見渡すことに耐へ得なかつた。凡ゆる前生を見渡すことの出來る力は、我(が)の束縛から永劫に脫離した人のみに與へらる〻力である。かくの如き力を所有してをる人は迷ひの外に住するのである――形と名を脫却して住するのである。故に苦痛は彼等に近寄ることが出來ぬ。

 『併し汝は迷ひの中に住してをるが故に佛陀といへども汝にただ手近の道以外に後を顧みる力を與へ得ぬのである。

[やぶちゃん注:「ただ手近の道」自我という空しい仮象が持つ、不完全な智や果敢ない記憶のみを頼りとして仮定された過去(世)を貧しく想像する力しか有さないことを言っていると私は読む。]

 『汝は依然として美術、詩歌、音樂の戲事[やぶちゃん注:「ざれごと」。]に迷はされてをる――色と形の迷ひに――淫らな言葉、淫らな音に迷はされてをる。

 『自然と呼ぶ幻影――空寂と陰影の別名である――は依然として汝を欺き汝を迷はし、且つ物慾を熱愛する夢を以て汝の心を滿す。

 『然れども眞に識を愛する者はこの幻の自然を好愛してはならぬ――晴れたる天空の耀映を歡喜してはならぬ。――海の眺めにも――水の流る〻音にも――山、林、谷の形にも――是等の物の色に於ても歡喜悅樂を見出してはならぬ。

 『眞に識を愛する者は人類の事業を企圖することに、或は人類の會話を聞くことに、或は人類の感情的遊戲を觀察することに興味を持つてはならぬ。是等の凡ては煙の棚引けるが如く、蒸氣の薄くかがやくが如きものである――凡ては一時的で――凡ては幻影である。

 『人類が高尙崇高と呼んでをる快樂は淫逸の大なる物と、虛僞の巧妙なる物に外ならぬ――利己の心は形のみ美しく見ゆる有害の花に過ぎぬ――凡ては慾情の古き粘土に根を張つたものである。晴れたる日の耀映を悅び――山の色の日輪の𢌞轉によつてその色を變ずるを見て樂み――波のうねりの消えてゆく跡を見、タ陽の消えてゆくのを見――草木の花の中に魅力を見出すことは皆これ感覺の迷ひである。亦人間の行爲の大なるもの、或は美なるもの、或は英雄らしきものを見て歡喜することも等しくこれ感覺の作用である――何が故にと問へば、かくの如き歡樂は人類がこの憐れむべき世界に於て淺間敷くも手に入れようとして努力するところの事物を空想することの快樂と同一の物であるが故である。人類の欲して止まざる物とは何か、束の間の愛と名聲と榮譽――是等の凡ては束の間の水泡の如く空虛である。

 『天、太陽、大海――山、森、平野――美しく輝ける物、形をなせる物、色ある物の凡ては――幻である。人間の感情、思想、行爲――上下貴賤は何れに考へたにせよ――永久の目的以外の爲に考へられ又は爲されたところの一切の事柄は夢から生れた夢であつて、空虛を生むより外に何事をも爲すことが出來ぬ。明かな目には一切の自我の感じは――一切の愛惜、歡苦、希望乃至悔恨は等しく陰影である――老少、美醜は其の間に差別が無い――生死は一にして同、空間と時間は不斷の影遊びの舞臺乃至順序としてのみ存在するものである。

 『時の中に存在する凡ての物は消滅しなくてはならぬ。目覺めた者には時も無く所も無く變化も無い――夜も無く晝も無く――暑も無く寒も無く――月も無く季節も無く――現世も過去も亦未來も無い。形及び形の名は等しく無である、知識のみは事實である、故に知識を得る者にとりて宇宙は實體の幽靈と映ず。併しかう書いである――「過去と未來に於て時に打勝つた者は卓越した純知識の人たらざるべからず」と。

 『かくの如き知識は汝の有する物では無い。汝の目には影は依然として實質と映じ――闇黑は光明と寫り――空虛は美として映じてをる。故に汝の前生を見ることは汝に苦を與へるに過ぎぬ』

 

 私は問うた――

 『では、若し私が起原に溯つて――時といふもの〻發端迄溯つて觀察するだけの力が見出されたとしたならば――私は果して宇宙の祕訣を読破することが出來得るだらうか』

[やぶちゃん注:「宇宙の祕訣」原文“the Secret of the universe”。]

 答は與へられた、『否、その祕訣を讀み得るものは無限力のみである。若し汝は汝の有つてをる力以上に遙に遠くの過去を眺め得たにしても、その目に映じた過去は汝に未來となつて映じ來るであらう。その時汝はなほこれに耐へ得たならば、その未來は轉𢌞し來つて現在となるであらう』

 私は驚きながら私語した、『でもそれは又何が故に?――圓とは何か?』

 答はかうであつた、『圓とは別な物に非ず――圓とは生死の大きな幻の渦卷に外ならぬ――無知の徒は彼等自身の考へと行爲によりこの幻の渦に身を墮して[やぶちゃん注:「おとして」。]其所に留つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。然かもそれ自身に於て迷ひである』

[やぶちゃん注:「圓」“the Circle”。「円環」或いは「循環」。ここは最終段落の謂いからして「輪廻」に置換して認識してよい。]

2019/12/06

甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册

 

[やぶちゃん注:昨夜公開した「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の参考資料として本二条をフライングする。なお、詳しくはリンク先で注しておいたので、そちらをまず目を通した上で読まれたい。ダブるような注は煩瑣になるだけなので、基本、附さないからである。後の「27-6」では今までと違って「■やぶちゃんの呟き」ではなく特異的に文中注を附して対応した。

 

27-5 八歲の兒その前生を語る事

この頃、生れ替りてこの世に來れる小兒と人の云はやすことあり。

[やぶちゃん注:「云はやす」「云ふ囃す」。以下「付寫」までは底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

文政六年癸未年四月、多門傳八郞知行所百姓之忰、生替り前世之事共覺居物語致候奇談、所々專之風說故、右百姓親子共、傳八郞方え呼出相糺候所相違無ㇾ之、未曾有之珍事故、同人組頭衆迄耳打申達候書付寫

 

私知行所、武州多摩郡中野村、百姓源藏忰勝五郞、去午年八歲に而秋中より同人姉に向前世生替之始末相咄候得共、小兒之物語故取用不ㇾ申、度々右樣之咄申候に付、不思議成儀に存、姉儀父母え相咄候而昨年十二月中、改而父源藏より勝五郞え相尋候處、前世父者同國同郡小宮領、程窪村百姓久兵衞と申者之枠に而藤藏と申。自分二歲之節、久兵衞儀者病死仕候間、母え後家入に而半四郞と申者後之父に相成居候處、右藤藏儀、六歲之時疱瘡に而病死仕、夫より右源藏方え生替申候由相答、難取用筋に者有ㇾ之候得共、委敷慥成事共申候に付、村役人えも申出、得與相糺候處、世上取沙汰仕候儀故、程窪村半四郞方に而も沙汰及ㇾ承、同人儀、知行所源藏方え尋參り候故、相糺候處、小兒勝五郞申候通相違無ㇾ之、前世父母面體、其外住居等も相咄申候に付、程窪村半四郞方え小兒召連候處、是又少も違無ㇾ之、家内に對面爲ㇾ致候所、先年六歲に而病死仕候藤藏に似合候小兒に有ㇾ之、其後當春迄に折々懇意に仕候内、近村えも相知申候哉、此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候間、源藏勝五郞呼出相糺申候通、右之通兩人も相答申候。尤折々世上に而取沙汰仕候間、難取用筋には御坐候得共、御内々御耳打申上置候。以上。

   四月        多門傳八郞

前世、疱瘡に而相煩候節、田舍之儀、殊に貧窮之百姓之事故、藥用も不ㇾ致病死致し候由。尤父は隨分勞り遣し候由。葬送之節、瓶え入棺え入葬候節者、棺之上えあがり見物いたし居、甁計埋候由。夫より大造成廣野原え出候へば、此所に地藏菩薩、幷老人罷在出合、兩人にて所々連步行四季之草花有ㇾ之、山谷海川、絕景言語に難ㇾ及、所々連步行見物致させ、扨三ケ年過、最早生れ替らせ可ㇾ申、拾六歲に相成候はゞ亦々此方へ立戾可ㇾ申、夫迄生替居可ㇾ申爲申聞、野中源藏家之前え連行置候而、地藏老人者歸候間、源藏内え這入候處、其節源藏夫婦、殊之外いさかひ致居候間、胎内え難ㇾ入、暫いさかひも相濟候間、胎内え入候旨、右いさかひ之譯も有增覺居候由。半四郞儀今に繁昌にて、源藏より承候處少も相違無ㇾ之趣申候由。其外色々不思議共有ㇾ之候得共、一夕に承盡兼荒增書寫畢。

右勝五郞儀、賤敷百姓之悴に不似合至而行義能、おとなしく、生付も奇麗之旨、何を申も漸九歲之小兒故、萬端委敷承度、强而尋候得ば大きに恐れ、答出來兼、又者泣出候仕合故、菓子抔與へ遊ばせ置き、だましだまし尋候故、然與難ㇾ分事も多く、前世病死後、地藏之手元に罷在候三ケ年之内之事共は、二度目出生之節、家内騷々敷に紛、多亡却致し候由申ㇾ之。十六歲迄に者死候事故、只今之内親之爲仕事致し溜置候迚、一體籠細工を親共細工に致し候處、勝五郞籠細工上手にて、至て手奇麗に出來候を、晝夜精を出し拵へ、夫而巳かゝり居候由。平生至而小食に而、一度者漸一椀位にて、餘者不ㇾ食。魚類は何にても一切給べ不ㇾ申。菓子類少々喰候由なり。右の體にて、隣宅の梅塢がもとに多門が連れ來れるまゝ、予に見るべしと告たれど、幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず。人を遣して見せたるに、書記して復命す。

再生小兒、父差添在ㇾ之。尤何所庭にての儀に有ㇾ之、右の小兒は起居候所常の小兒に聊相替候樣子も無ㇾ之、私を見懸け、恥候體にて少し面をうつぶけ、其邊を立𢌞り候樣子、隨分おとなしく相見得申候。髮はけし坊主にて、毛赤く、面長く、瘦せたる方にて、色黑く有ㇾ之候得共、容儀も見苦しからず、伶俐の小兒と見請申候。年は何歲に相成候やと尋候得共、一向答不ㇾ申。只恥入候樣子に相見へ候而巳に候。着物は古き紺竪じま、木綿袷を着、帶も小倉じま木綿にて、腰に古き金入に緋縮緬の緣を取たる守袋を佩び居、白木綿緖の草履を著き居申候。親は四十五六歲にも可ㇾ有ㇾ之や、素より貧しき百姓の體にて、別に相替儀無ㇾ之候。四月十二日。

■やぶちゃんの呟き

「文政六年癸未」(みづのとひつじ/キビ)一八二三年。

「多門傳八郞」平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年の文政六(一八二三)年板行の「勝五郎再生記聞」では「おかど」と読んでいる。実在した著名人の後裔と考えられることは、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の注で示した。

「生替り」「うまれかはり」。

「專之風說故」「もちぱらのふうせつゆゑ」。

「相糺」「相ひ糺(ただ)し」。

「耳打申達候書付寫」「耳打ち申し達し候ふ書付(かきつけ)の寫(うつ)し」。この場合の「耳打ち」とは、公式な届書き文書としてお上に届け出るものではないが、何らかの不測の事態に対処するために、取り敢えず報告した書き付けを指すのであろう。

「去午年」「いんぬる午年(うまどし)」。文政五壬午(みずのえうま)年。

「に而」「にて」。

「秋中」「あきなか」。秋中旬。旧暦八月。同年は閏一月があったため、新暦では九月中旬から十月上旬に当たっている。

「向」「むかひ」。

「相咄候得共」「相ひ咄(はな)し候得(さふらえ)ども」。

「取用不ㇾ申」「取り用(もち)ひ申さず」。

「存」「ぞんじ」。

「姉儀父母え相咄候而昨年十二月中」「姉儀(ぎ)、父母へ相ひ咄し候ふ。而して昨年十二月中」。同年十二月はグレゴリオ暦では既に一八二三年(同年旧暦十二月一日は一月十二日)。

「改而」「あらためて」。

「久兵衞儀者病死仕候間」「久兵衞儀は病死仕(つかまつ)り候ふ間(あひだ)」。

「母え後家入に而」「母へ、後家入(ごけいり)にて」。「後家入」は後家の家に婿入りすること。未亡人に婿を迎えること。尋常に考えれば婿養子である。

「後之父」「あとのちち」。継父。養父。

「難取用筋に者有ㇾ之候得共」「取り用ひ難き筋(すぢ)には之れ有り候得ども」。

「委敷慥成事共」「委(くは)しく、慥(たし)かなる事ども」。

「得與」「とくと」。

「に而も」「にても」。

「及ㇾ承」「承(うけたまは)り及び」。

「前世父母面體」「前世(ぜんせ)の父母」(=実父藤五郎・継父半四郎・母しづ)「の面體(めんてい)」。

「違」「たがひ/ちがひ」。

「家内に對面爲ㇾ致候所」「家内(かない)に(て)對面致させ候ふ所」。

「似合」「にはひ」。よく似ている。

「相知申候哉」「相ひ知られ申し候ふや」。

「此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候」このように人々が出入りすることは尋常でなく、不測の事態が生ずる可能性を知行所の名主等が危ぶんで、訴え出たのである。

「疱瘡に而相煩候節」「疱瘡(はうさう)にて相ひ煩(わづら)ひ候ふ節(せつ)」。

「尤父は隨分勞り遣し候由」「尤(もつと)も、父は、隨分、勞(いたは)り遣(やり)し候ふ由(よし)」。

「瓶え入」「瓶(かめ)へ入れ」。「瓶」は甕棺(かめかん)のこと。小児で遺体が小さいからまず壺様のものに入れたのであろう。

「棺え入」「棺(ひつぎ)へ入れ」。思うに野辺送り用の木棺(丸桶)のそれであろう。

「葬候節者」「葬り候ふ節(せつ)は」。以下の映像「棺之上えあがり見物いたし居、甁計理候由」(「棺の上」へあがって「見物いたし居(を)り、甁(かめ)計(ばか)り理(う)め候ふ由」)は藤蔵(現在の勝五郎)の霊魂からのそれであることに注意。

「夫より」「それより」。

「大造成」「大造(たいさう)成(な)る」。驚くばかりに大層開けた。

「地藏菩薩」これは平田篤胤の「勝五郎再生記聞」には出ず、老人だけである。後に示される「再生勝五郞前生話」にも念仏の語が出、この小児の死後の体験シークエンスに地蔵菩薩が導きとして示現するのはごくごく至って自然なのに、である。「勝五郎再生記聞」では勝五郎が僧を嫌い、憎みさえする章段が出現する。私はこれは平田が吹き込んで作話させたものではないかと私は考えているほどである。則ち、ここに神道家平田によるフラットであるべき聴き取り内容への不正不当な介入、恣意的な創作による変形が見て取れるのである。

「幷」「ならびに」。

「罷在出合」「まかりありいであひ」。

「連步行」「つれありきゆき」。

「夫迄生替居可ㇾ申爲申聞」「それまで生(うま)れ替(かは)り居(を)り申すべく、申し聞(き)かすなり」。

「這入」「はいり」。

「難ㇾ入」「いりがたく」。

「暫」「しばらく」(して)。

「有增覺居候」「有增(あらまし)覺え居り候ふ」。夫婦の言い争いの内容(勝手不如意)についても概ねその内容を記憶しております。

「繁昌にて」今は仕事も上手くいっており。前の争いの原因を受けての謂いであろう。

「一夕に承盡兼荒增書寫畢」「一夕(いつせき)に承り盡(つく)し兼ね、荒增(あらまし)書き寫し畢(をはん)ぬ」。

「賤敷」「いやしき」。

「至而行義能」「至つて行義(儀)能(よ)く」。

「生付」「うまれつき」の容貌。

「何を申も」「なにをまうすも」。何と言っても頑是ない。

「漸」「やうやう」。

「委敷承度」「くはしくうけたまはりたく」。

「强而」「しいて」。

「又者」「または」。泣

「仕合故」「しあひゆゑ」。始末でありますから。

「抔」「など」。

「然與」「しかと」は。

「難ㇾ分事も多く」「わけがたきこと」。勝五郎の話は、聴いてもその意味が理解出来ないことも多く。

「罷在候」まかりありさふらふ」。

「騷々敷に紛」「さうざうしきにまぎれ」。

「多」「おほく」。

「に者」「には」。

「死候事故」「しにさふらふことゆゑ」。

「只今之内親之爲仕事致し溜置候迚」「只今の内(うち)、親の爲(ため)、仕事致し、溜(た)め置き候ふ迚(とて)」。

「一體」副詞で「総じて」「概して」であろう。

「夫而巳」「それのみ」。

「至而」「いたつて」。

「一度者漸一椀位にて」「一度(に)は漸(やうや)う一椀(膳)位(くらゐ)にて」。

「餘者不ㇾ食」「餘(よ)は」(他には)「食せず」。

「給べ」「たべ」。食べ。

「喰」「くひ」。

「右の體」「みぎのてい」。以上の通りであるので。

「隣宅」これは書いている松浦静山の隣りの屋敷であろう。

「梅塢」(ばいう)。恐らくは、幕臣で天守番を勤めた荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)であろう。仏教学者としても知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らを教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。彼の号は梅塢であり、静山と親しかった。但し、所持する二種の江戸切絵図で平戸藩上屋敷・下屋敷周辺を彼の姓名は見ても見当らない。

「予」静山。

「幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず」松浦の堅実にして慎重な実証的現実主義の一面が窺われる。いいね!

「書記して復命す」静山が命じた者が勝五郎を訪ね、事情聴取をし、その者が内容を書き記したものを報告書として提出させた。以下の段落がそれ、ということである。

「父差添在ㇾ之」「父、差し添ひて、之れ、在り」。

「尤何所庭にての儀に有ㇾ之」「尤も、何所(いづく)庭(には)」(=家庭)「にての儀に之れ有り」。普通の農家の家庭と変わらない、の謂いであろう。

「聊相替」「いささか(も)相ひ替(かは)り」。

「恥候體」「恥(は)ぢ候ふ體(てい)」。

「けし坊主」当時の一般的な子供の髪型の一つで、頭頂だけ、毛を残して、周りを全部剃ったもの。外皮のままの球形のケシの果実に似てることによる。

「伶俐」(れいり)頭の働きが優れていて賢いこと。

「而巳」「のみ」。

「紺竪じま」「こんたてじま」。

「木綿袷」「もめんあはせ」。

「金入」「かねいれ」。財布。

「緋縮緬」「ひぢりめん」。

「守袋」「まもりぶくろ」。

「佩び居」「おびをり」。

「緖」「を」。

「著き」「はき」。

「可ㇾ有ㇾ之や」「これ、あるべしや」。

 

 

27-6 同前又一册

某老侯より一册を示さる。前事なれども、小異、詳文とも覺ゆれば又載す。要するに冥怪のみ。

[やぶちゃん注:以下、「某老侯」則ち、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」で注した因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(号は冠山)が記した「兒子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))の初期形かと思われるものの写しである。一行空けた。【 】は底本では二行割注。ポイント落ちの箇所があるが、総て同ポイントで示し、字配も必ずしも再現していない。以下、特異的に挿入注を附した。]

 

  【武藏國中野村】再生勝五郞前生話

    武州多磨郡柚木領中野村小名谷津入(ヤツイリ)

     根津七軒町多門傳八郞知行所

文化一二乙亥年十月十日生 百姓源藏次男〔當未九歲〕

                 勝五郞

父苗字小谷田(コヤタ)〔當未四十九歲〕源藏

母         〔同 三十九歲〕せい

祖母        〔同 七十二歲〕つや

祖父        〔死〕     勘藏

姉         〔同 十五歲〕 ふさ

兄         〔同 十四歲〕乙次郞

妹         〔同 四 歲〕つね

   武州多磨郡小宮領程窪村

    下谷和泉賴通中根宇右衞門知行所

          百姓半四郞忰實父

     藤五郞忰〔六歲に而死〕 藤 藏

右文化二乙丑年生。同七庚午二月四日晝四つ時死。病症疱瘡。葬地同村之山。菩提所同領三澤村禪宗醫王寺。昨文政五午年十三囘忌也。

   藤藏養父苗字須崎 當未五十歲 半四郞

     母      同 四十九歲 し づ

   文化五戊辰年、藤藏五歲之時四十八歲に而死去。

   此跡に半四郞入候由、去文政五壬午年十三囘忌。

            藤藏實父 藤五郞

             初久兵衞と申候

   藤藏種替之兄弟 半四郞忰兩人 同娘兩人

[やぶちゃん注:「種替」(たねがへ)たぁ、おぞましい謂いじゃねえか! 糞野郎! なお、以下、思いの外の注釈のいらない驚くべき口語表現は、既にして当時の口語が現在のそれに極めて近いことを教える格好の実証である。

去午年十一月の頃、勝五郞、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郞、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて來たととふ。姉どふして生た先がしれるものかといへば、勝五郞あやしげなる體にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の久兵衞さんの子で、藤藏といつたよ。姉、そんならおとつさんとおつかさんにいおふといへば、勝五郞泣出し、おとつさんとおつかさんにいつちやうわるい。姉、そんならいふまい。わるい事するといつつけるぞよとて、其後兄弟げんくわなどすれば、かの事をいおふといふとじきにやめる事たびたびなれば、兩親是を聞つけ、いかなる惡事をなせしやとあんじ、娘ふさにせめとひければ、ふさやむ事を得ず、ありのまゝに告るに、源藏夫婦、祖母つやも、尤ふしんにおもひ、勝五郞をすかして、いろいろとせめ尋ねければ、そんならいおふとて、おらア程久保の久兵衞さんの子で、おつかさんの名はおしづさんといつた。おらが五つの時、久兵衞さんは死んで、其蹟に半四郞さんといふが來て、おれをかわゐがつてくれたが、おらアそのあくる年、六つで痘瘡で、それから三年めにおつかさんの腹にはいつて、それから生れたよといふ。兩親、祖母此を聞て大におどろき、どふぞして程久保の半四郞といふものを尋ねて見んとおもへども、身すぎ[やぶちゃん注:「身過ぎ」。暮らしを立てていくこと。また、その手だて。身の境遇。生業(なりわい)。]にまぎれ、そのまゝにうちすておきしに、母しづ[やぶちゃん注:ママ。「せい」でないとおかしい。]は、四つなる娘常に乳をのまする故、勝五郞は祖母つやにだかれて、每夜々々ねものがたりするゆへ、つや、勝五郞がきげんを見合せ、その死せし時の事を尋ね問ふに、勝五郞、四つくらいの時まではよくおぼへていたが、だんだんわすれたが、痘瘡で死んでつぼに入れられ、山にほうむられたとき、穴をほつてつぼをおとした時、どんといつた音はよくおぼへている。夫から内にかへつて、机[やぶちゃん注:ママ。臨終の床の藤蔵の「枕」の誤記であろう。]の上にとまつていたら、なんともしれぬじいさまのやうな人が來て、つれてゆくと、空を飛んであるいて、晝も夜もなしに、いつも日暮がたのやうだつけ。さむくもあつくもひだるくもなかつた。いくらとをくにいつても、内でねんぶつをいふこゑと、なにかはなすこゑが聞えた。うちであつたかいぼたもち[やぶちゃん注:製造過程の動作の「搔ひ餅飯」の音変化であろう。「ぼた」は納得出来る語源説がない。私はもっちりとした、ぼったりとした粘り気のある様態のオノマトペイアではないかと想像する。]をすへると、はなからけぶ[やぶちゃん注:「烟」。ここは湯気であろう。]を吞むやうであつたから、おばアさん、ほとけさまにはあついものをすへなさいよ。そしてぼうさまにものをやらつしやいよ。これがいつち[やぶちゃん注:一番。]いゝ事だよ。それからそのじいさまがつれて、此内の向ふのみちを通るとおもつたが、ぢいさま、もう死んでから三年たつたから、あの向ふのうちに生れろ。われがばアさまになる人は、きのいゝばアさまだから、あそこにやどれといつて、ぢいさまは先にいつてしまつて、おらアこの内にはいろうとおもつて、門口にいたら、内になにかおつかさんが、内がびんぼうで、おつかさんが江戶に奉公に出ずばなるまいといふ相談があつたから、まアはいるまいと庭に三日とまつていたが、三日めに江戶へ出るそうだんがやんだから、夫から其夜、あの窓のふし穴から内へはいって、へつつい[やぶちゃん注:「竈(かまど)」。]のわきに又三日居て、天からおつかさんのおなかにはいつた。おなかのうへのほうにいたら、せつなかろうとおもつて、わきのほうによつていた事もおぼへている。生れた時くろう[やぶちゃん注:「苦労」。]のなかつた事もよくおぼへているが、おとつさんとおつかさんにはいゝが、外の人にはいいなさんなといふ。祖母、此よし源藏夫婦に語る。夫より後は兩親に前生の事共ありのまゝかたり、程久保にいきたい、久兵衞さんの墓にやつておくれと度々いふ事なれば、源藏おもふやう、勝五郞希有なる事なれば、もしもその内に死ぬまじきものにも爲らねば[やぶちゃん注:冥界のことを臆面もなくべらべら語る不吉さからこやつは早晩「死んでしまわないとも限らないから」。]、なるほど程久保に半四郞といふもの、ありなしを尋ねたきものなれど、男の身として、あまりあとさきのかんがへなきやうに、人のおもわく[やぶちゃん注:世間体。]もいかゞなればと、當正月廿日、つやに、勝五郞をつれてゆくべしといゝければ、つや、勝五郞をつれて程久保村にゆき、此家かあの家かといへば、勝五郞まださきださきだといつて先にたつて行ほどに、此家だと、つやにかまはずかけこむゆへ、つやもつゞいてはいり、まづ主じの名を問ふに、半四郞とこたへ、妻の名を問へばしづと答ふ。此うちに藤藏といふ子がありしやといへば、十四年あと、六の年、ほうそうでなくなりましたといふ。つやははじめて勝五郞がいいし事のま事[やぶちゃん注:「誠(まこと)」。以下同じ。]なる事をかんじ、淚せきあへず。勝五郞が前生をおぼへてはなせし事をつぶさに語ば[やぶちゃん注:「かたれば」。]、半四郞夫婦もま事に奇異のおもひをなし、勝五郞をいだき、共になみだにしづみ、前生藤藏といゝて、六ツの時の顏色より、きりよう[やぶちゃん注:「器量」。]一段あがりたりなどいふに、勝五郞は向[やぶちゃん注:「むかひ」、]のたばこや[やぶちゃん注:「煙草屋」。]の屋根にゆびさし、まへかたはなかつたの[やぶちゃん注:「あんな形の屋根ではなかったね」の意。]、あの木もなかつたなどいふに、皆その通なれば、半四郞夫婦もいよいよがおりし[やぶちゃん注:「我折りし」。疑義の思いを断った。]となり。扨其日は谷津入にかへりしが、その後も二三度半四邸かたへつかはし、實父久兵衞が墓へも參らせしとなり。勝五郞、時々、おらアのゝさまだから大事にしておくれといゝ、また祖母にむかい、おらア十六で死ぬだろう。御嶽さま[やぶちゃん注:「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の小泉八雲の原註を参照されたい。]のおしへさしつたが[やぶちゃん注:御教え下さったが。]、死ぬはこはいものではないといゝしとぞ。兩親、勝五郞に、手前はぼうさまにならぬかといへば、おらアぼうさまになるのはいやといひし。近頃村中にては、勝五郞といはずして、ほど久保小僧とあだ名よび、近村より見に來る人もあれば、はづかしがりて、やにはににげかくるゝにより、勝五郞直ばなしは聞ことかなはず。祖母のものがたりにて此を書とむるものなり。扨源藏夫婦、祖母つやのうち、何ぞかねて善根をせし覺へありやと問ふに、何もさのみよき事もせず。祖母つや、明暮ねんぶつをとなへ、出家乞食の門口に立あれば、いつも錢弐文づゝ法捨[やぶちゃん注:ここは普通の「布施」と同義。]をするより外、善事といふほどの事もせざりしといふ。

 

2019/12/05

小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“THE REBIRTH OF KATSUGORŌ)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第十話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年:パブリック・ドメイン)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 本篇は江戸後期の復古神道(古道学)の大成者の一人として知られる稀代の国学者にして思想家であった平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年:本姓は大和田。医師でもあった。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後に備中松山藩士で兵学者の平田篤穏(あつやす)の養子となった。篤胤の名乗りは享和年間(一八〇一年~一八〇四年)以降。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長とともに「国学四大人(うし)」の一人と称される)が、文政六(一八二三)年に板行した「勝五郎再生記聞」に書かれた事件を素材としたものである。但し、後述するように、本篇は知られた「勝五郎再生記聞」を直接の原拠とするものではなく、それに先行する別な記録物に基づくものである当該書は、所謂、神隠しに逢ったと自称する農民の少年小谷田勝五郎(こやたかつごろう 文化一一(一八一四)年~明治二(一八六九)年)からの聞き書き等に基づく前世記憶実録譚である。ウィキの「小谷田勝五郎」によれば、勝五郎は、『武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『)の農家、小谷田源蔵の息子』であったが、文政五(一八二二)年(数え九歳)の時、『ある夜、突然』、『家族に「自分はもとは程久保村(現日野市程久保』(ここ)『)の藤蔵という子どもで』、六『歳の時に疱瘡』(天然痘)『で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。語った話が』、『実際に程久保村で起こった話そのものであり、村に行かなければ分からない話を知っていたということで』、『その当時』、『大騒ぎとなり、話は江戸まで知れわたった』(但し、程久保村は中野村の北直近である)。翌文政六年四月、『勝五郎の噂に関心を持った平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き』、七『月に聞き取った内容を』「勝五郎再生記聞」という書物に纏めた。二年後の文政八年には、『湯島天神の男坂下にあった平田が経営する国学塾「気吹舎』(いぶきや)『」に入門』して『平田の門人となっ』ている。『その後は父源蔵の家業である農業、目籠仲買業を引き継ぎ中野村で暮らしたとい』い、明治二年に五十五歳で死去し、『墓は同郡下柚木村の永林寺』(曹洞宗金峰山道俊院永林寺)にある(ここ)。個人ブログ「失なわれゆく風景」の「勝五郎生まれ変わり物語の舞台 八王子市東中野周辺」で墓が見られる。当該ウィキには小泉八雲の本篇への簡単な言及もある。また、平田はこの前年の文政五(一八二二)年にも、幽冥界往還事件を扱った「仙境異聞」を刊行している。これは文政三(一八二〇)年秋に江戸で噂となった「天狗小僧寅吉」の聴き書きで、彼はカスパー・ハウザーのように浅草観音堂の前に突如として現われ、「自分は幼い頃に天狗に攫われて神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受け、帰ってきた」と称したのであった。篤胤は、山崎をその家に訪問しただけでなく、彼を自身の養子として迎え入れて幽冥界研究の素材としたのである。なお、ネット上には「勝五郎再生記聞」や「仙境異聞」絡みのサイトは甚だ多く、未だにこの怪しい都市伝説への関心の変わらぬ人気が窺われる。

 私も中学自分にこの話を聴き、二十代の頃には、この「仙境異聞」や「勝五郎再生記聞」に興味を持ち、平田の原本を読み、幾つかの関連書も読んだが、個人的には、最終的に、心霊現象としては意識的或いは半無意識的詐欺レベルのもの(勝五郎の場合は彼及び死児藤蔵の兄弟姉妹或いは親族等の共同正犯の可能性を含む。さらに本来、バイアスがかかってはいけない聴き取る側自体が幽冥界の話に知らず知らず誘導していた嫌いが甚だ大きい)――但し、寅吉も勝五郎はかなり優れた知性を有しており、形成した架空世界の構築もそれなりにしっかりしており(特に寅吉はそうである)、思うに一種のパラノイア(偏執質)的人物(特に寅吉の方には粘着質特有の偏奇的性格や気分の変化の激しいところなどが甚だ感じられるように思う)と思われる――と判断しており、大衆や平田が挙ってこの話を無批判に信じたのは、現在でもしばしば発生する擬似心霊騒擾と同じく、一種の心理的な集団伝播(感染)で説明出来ると考えている。

 但し、この奇書に着目した近代人としては、小泉八雲はごくごく初期の人物であり、しかも彼が元西洋人である点で、すこぶる注目すべきであろう。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。書簡の署名・クレジットは底本では下方インデントのポイント落ちであるが、一字下げで引き上げて同ポイントとし、また、注も四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。他にもポイント落ちの部分が多数あるが、総て基本、同ポイントで示した。字空け等も一部を除いて再現していない。

 最後に言っておくと、小泉八雲の本篇の構成は本心霊事件を実に面白く読ませるものであるが、小泉八雲が原拠としたのは本文の終りにも出るが、現行の我々が知る「勝五郎再生記聞」そのものではないのである。本事件を扱った優れて詳細なサイト「勝五郎生まれ変わり物語」のこちらによれば、『八雲が勝五郎の転生を執筆するときに原本として使用したのは、土佐藩出身で明治天皇の側近として活躍した佐佐木高行』(後注する)『の蔵書』「珍説集記」と呼ばれる稀書が底本であり、『同書が、國學院大學図書館所蔵「佐佐木高行旧蔵書」コレクションのなかにあることが』、平成二〇(二〇〇八)年になって、『蔵書目録が刊行されたことにより』、本篇の原拠であることが初めて確かに確認されたとあるからである。さらに同サイトのこちらによると、この事件の発生した翌文政六年二月の『ある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)』(池田定常。本文内で注する)『という大名(鳥取藩の支藩』若桜(わかさ)藩『の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました』が、翌三『月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)』(彼の膨大な随筆「甲子夜話卷之廿七」の五・六話目にも「八の兒その前生を語る事」・「同前又一册」として本件を記している。私は「甲子夜話」の全電子化注を手掛けているが、未だ巻之六の途中である。本篇終了後、フライングしてそこのみを電子化することとしよう。【2019年12月6日追記】「甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册」を公開した。私は約束は守る男だ『や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚』(本篇に登場する)『などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には』、文政五年十一月に藤蔵と同じ六歳で『疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました』。続いて四月には、『中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は』、四月十九日に『源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました』。『多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤』『のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして』、同年四月二十二日に、『源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎』『へ来た勝五郎から直接』、『話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは』、四月二十二・二十三・二十五日の三『日間でした』。同年六月、『篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて』「勝五郎再生記聞」を纏め、七月二十二日からの『上洛に持参』し、『光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです』とある。さすれば、平田の「勝五郎再生記聞」とは実は本篇はかなり異なる。『「勝五郎再生記聞」なら読んだよ』という方にも、本篇はあたかも事件調書記録を読むように、はなはだ面白いはずである。従って「勝五郎再生記聞」との異同注記は気になった特別な部分のみとした。対照したのは二〇〇〇年岩波文庫刊の子安宣邦校注「仙境異聞 勝五郎再生記聞」である。同作の電子化されたものは、サイト「小さな資料室」の「資料366 平田篤胤『勝五郎再生記聞』」がよい(因みに、同サイトの『資料408 源義経「腰越状」(『吾妻鏡』による)』では私のサイトが紹介されている)。]

 

      第十章 勝 五 郞 の 轉 生

 

       

 これから書き下す事柄は作り物語では無い――少くとも私の作り出した物語の一つでは無い。これは日本の古い一つの記錄――或は寧ろ記錄類系ともいふべき物を飜譯したのであるが、それにはちやんと署名もしてあれば捺印もしてあり、その上この世紀の初期に溯つての日付さへ記入してあつた。私の友人の雨森(あめのもり)氏は日本や支那の珍しい寫本をいつも獵(あさ)つて步く仁(ひと)で、さういふ珍本を掘出すことにかけては非凡な腕前を持つてをるやうに見えるが、その仁(ひと)がこの寫本を東京の佐佐木伯爵家の書庫で見出したのである。氏はこれを珍しい本だと思つたので親切にも私にこれを寫させてくれた。私はその寫した書物を臺本としてこの譯をものしたのである。私は本書の附錄として書いたところの二三の註釋以外の事柄に關しては何等の責任を持つてをらぬ。

[やぶちゃん注:「雨森」雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。先のサイト「勝五郎生まれ変わり物語」によれば、『彼は、明治の初めに英仏に留学、英独仏の三か国語に堪能で、後には横浜のホテルニューグランドに出入りする洗濯業を営んでい』たとしつつ、『雨森は、英国留学時代に』先に示した佐々木『高行の長男高美と親しくなり、帰国後』、『佐佐木高行が主催していた『明治会叢誌』の編集者となり』、『佐佐木高行は蔵書家としても有名で、同家に親しく出入りしていた雨森は、蔵書のなかから「珍説集記」を見つけ八雲に見せたので』あったと、参考資料入手の経緯を語っている。

「佐佐木伯爵家」元土佐藩士で政治家の佐々木高行(文政一三(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)のこと。土佐三伯の一人(他に板垣退助・後藤象二郎)。後に侯爵となった。ウィキの「佐々木高行」によれば、『藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名』で、『明治政府高官の中でも保守派を代表する』一『人であり、明治天皇の信任を楯に』、『政治体制を巡り』、『伊藤博文らと争った』とある。]

 この譯文は讀み始めは多分面白味が讀者にうつつて來ぬと思ふが、それを忍耐して終り迄全部通讀して貰ひ度い。と言ふのはこの書は人間の前生追憶の可能であることを私達に敎へてをる以外に多くの事柄を暗示してをるからである。例へば既に消え去つて了つたところの封建時代の日本に關して、或はこの國の昔の宗敎――假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]それが高尙な佛敎で無かつたにせよ、西洋人の目から見て容易に眞相を捕へることの出來なかつた物のその幾部分かをこの記事によつて窺ふことが出來る――換言すれば日本の人達が前生と更生とに關して一般に抱いてをつた思想がこの書の中に能く現れてをる。故にこの事實の上に立つて觀察すればお役所の吟味が正確であつたこととか、或は證據として認められた事柄が信ずべき筋の物であつたとかなかつたとかいふことは當然小さな問題となつて仕舞ふ。

 

       

  多聞傳八郞の調書寫

     私の地内の百姓で目今武藏國多摩郡中村

     に住んでをる源藏と申す者の二男で當年

     九歲になりまする勝五郞の一件に次のや

     うな次第であります。

 昨年の秋の間のことでありましたが、或時、源藏の子、前記勝五郞がその姉に彼の前生のことや轉生のことを物語つたさうですが、姉はそれを子供の出鱈目な話だと思つて注意を拂はなかつたのです。併しその後勝五郞は同樣の物語を幾度も幾度も繰返すので姉も初めて不思議なことに思つて終にこれを兩親にも告げたのであります。

 去年十二月の間に源藏自身がこの事柄について勝五郞に質ねましたところがそれに對して勝五郞はかく公言したのであります。

 『私は前世では武藏國多摩郡の小宮樣の領内程窪村(ほどくぼむら)の百姓久兵衞とかいふ者の子でありました――

 『久兵衞の子と生れたこの私勝五郞は六歲の時に疱瘡を病んで死にました――

 『それから後源藏の家に轉生(うまれかは)つたのであります』

 

 この話は嘘のやうでしたが勝五郞は餘りに委しく餘りに明かにその物語の事情を繰返して話しますので、その村の庄屋や長老(おもたち[やぶちゃん注:ママ。])等はこれを形式の如く調べでみました。ところでこの事が早速世間に廣く知られたので伴四郞とかいふ者の家族の耳に入りました。伴四郞は程窪村に住んでをつた者であります。彼は私の地内の百姓、前記源藏の家へと參りました。そしてこの少年が彼の前世の兩親の肉體(からだ)の容子や顏の特色(かつこう)等に關してかねがね話してゐた事柄や、或は又、彼が前生で住んでゐた家の樣子等について物語つてをつた事柄が皆一つとして事實で無い物は無いといふことを知りました。そこで勝五郞は程窪村の伴四郞の家に引取られました。村の人達は勝五郞を見て藤藏さんそつくりだと申しました。藤藏といふのは餘程以前に、然かも六歲の時に死んで仕舞つた子供であります。その時以來この二家族は折さへあればお互に往復してをります。他の隣接村の人達はこれを傳聞したものと見え、勝五郞の顏を見に來る人が每日每日絕えないといふ有樣であります。

 

 以上の事實に關する證言が私の地内に住んでをる人達に依つて私の面前でなされましたから、私はその源藏なる男を私の家へ呼出して調べてみました。私の訊問事項に答へた彼の言葉は他の人達の述べた前記の口供事項と何等矛盾(ちがう[やぶちゃん注:意味を示すルビ。])するところはありませんでした。

 この種類の評判は世間に於て人々の間にひろがることは時々あるものであります。このやうな事柄は信ずることが困難であるのは固よりでありますが、私はただこの差當つての事件を御耳に入れまして、私の怠慢の罪を免れ度いばかりに御報告申上げる次第であります。

          〔署名〕多聞傳八郞

      文政六年(一八二三年)四月

[やぶちゃん注:「多聞傳八郞」原文“TAMON DEMPACHIRŌ”。冒頭注でも示した通り、「勝五郎再生記聞」では、この調書(しらべがき)の報告者の姓は「多門」でしかも、その読みは「おかど」である。実は後に出る先行する池田(冠山)貞常の「勝五郎再生前生話」でも「多門」であるから、以下、「多聞」は「多門」と読み換えて戴きたい。なお、先んずる人物ながら、旗本で通称「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)」で知られる多門重共(おかどしげとも 万治元(一六五八)年~享保八(一七二三)年)がいる。彼はかの「赤穂事件」に於いて、浅野長矩の取り調べと、切腹の副検死役を務め、「多門筆記」に長矩の様子を詳しく記した人物として著名であり、姓の特異な読み方と通称の一致から見ても、その正統な後裔と考えて問題なかろう。

 

  泉岳寺の僧貞金に與へた和直の書狀寫

 多聞傳八郞の調書が志田兵右衞門樣の手で寫されて、それが私の掌中に入つたので私は好都合でありました。私は今それを貴僧にお送り致すことの出來るのを光榮と存じてをります。貴僧はこの調書寫本と、それから貴僧が先般私に見せて下さいました觀山樣の御書とを一緖に、永く御保存相成ることは、貴僧にとりて御利益のことと思ひます。

             〔署名〕 和直

    六月二十一日(他に年代の記入無し)

[やぶちゃん注:「勝五郎再生記聞」にはこの書状自体が存在しない。

「貞金」は原文“TEIKIN”。冒頭注の引用と以下の泉岳寺のそれに従えば、「貞金」は「貞鈞」或は「貞均」が正しく「泉岳寺」公式サイトの「萬松山泉岳寺の縁起」を見ると、『現存する山門は天保年間に当寺』三十四『世大道貞均和尚によって建立され』とあるまさに泉岳寺住持である。以降の「貞金」も総て「貞鈞」又は「貞均」と読み換えて戴きたい

「和直」は“KAZUNAWO”。人物不詳。

「志田兵右衞門」は“Shiga Hyoëmon”であるから、「志賀」「滋賀」の誤読か誤植である。平井呈一氏は恒文社版「勝五郎再生記」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でも『志賀』となっている。但し、人物は不詳。

「觀山」“Kwan-zan”。冒頭注の引用に示された事実その他から考えるに、これは「觀山」が正しい。彼は因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)で、冠山は号である。ウィキの「池田定常」によれば、『旗本池田政勝の次男』で、『正室は』おらず、『子に池田定興(長男)、池田定保(六男)、徽姫(青木一貞継室)、鎮姫(織田信陽正室)、奉姫(池田喜長正室)、露姫』(冒頭注に出た夭折の娘)。『官位は従五位下、縫殿頭。松平冠山と呼ばれることもある』。安永二(一七七三)年に『先代の藩主・池田定得』(さだのり)『が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった』。『定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても』、『深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた』。享和二(一八〇二)年十一月、『家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる』(本件も隠居後二十一年後である)。『定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている』。寛政八(一七九六)年から翌九年に『記した巡見日記が「駿河めぐり」として』『翻刻されている』。また、文政六(一八二三)年には、『自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ』、「児子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))を記しているとある。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで「勝五郎再生前生話」の写本全篇が画像で見られる。以降の「觀山」も総て「冠山」と読み換えて戴きたい

 

 松平觀山から泉岳寺の僧貞金に與へた書狀寫

 この書面と同封で勝五郞轉生の物語書をお送り致します。この書は私が通俗的に書いてみたもので、その趣旨はかの佛敎の難有い[やぶちゃん注:「ありがたい」。]御敎へを信じない人達を沈默させる爲にはこの書が效果が多いと思つたからであります。言ふ迄も無くこれは文學書としてはつまらぬ作であります。私が今これを貴僧にお送りするのは、かういふ見方でこれを御覽下さつた場合にのみ御興味を引くことが出來得ると思つたからであります 併しこの話其物について申せば誤謬の點は一つもありません。と申しますのは私がこの話を勝五郞の祖母の口から直接に聽いたからであります。これをお讀みになつたら何卒私に御返却を願ひます。

             〔署名〕 觀山

  二十日(他に如何なる年代の記入も無し)

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはこの書状はない。]

 

 【寫 し】

 

    勝

 

 僧貞金が序(はしがき)に書いた說明書

 これは一つの眞實の出來事を書いた書である。その證據には編者松平觀山樣がこの事柄を委しく取調べる爲に本年三月二十二日親しく(中野村に)御出馬になつてをるではありませんか。觀山樣は勝五郞を一瞥なされた後にその祖母に凡ゆる委しい事をお質ねになつた。そして祖母の答へるま〻に委しくお書きになつた。

 その後この觀山樣は辱け無くも[やぶちゃん注:「かたじけなくも」。]この四月の十四日に是所(この寺)へお出でになつて、前記勝五郞の家族訪問の事柄をその貴い御口からお話になつた。剩へ[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]同月二十日には前記の書を私に讀むことを許しになつた。で私はこの御厚意に甘えて時を移さずこれを寫した。

   〔署名〕貞金僧(書きはん卽ち筆で個人用の

           署名印を書いたものゝ寫し)

     泉岳寺

     文政六年(一八二三年)四月二十一日

[やぶちゃん注:「〔署名〕貞金僧」の後の丸括弧内の書判についての解説は、底本では丸括弧内に二行書きポイント落ちの割注である。原本にある小泉八雲の注である。同じく「勝五郎再生記聞」にはこの記載はない。]

 

 【寫 し】

 

 この二家族の人達の名前

 

    源藏の家族

 

 勝五郞――文化十二年(一八一五年)十月十日生、文政六年(一八二三年)當九歲、武藏國多摩郡中村、谷津入に住める百姓源藏の二男――この村は多聞傳八郞の所有地(多聞の屋敷は江戶根津七軒町にあり)に在つて柞木(ゆずき)管内。

 

註 西洋人が記憶すべきことは日本では生れたばかりの子供は一歲として計算されゐのが常であるといふ事實である。

[やぶちゃん注:「谷津入」八王子市東中野にバス停名で現存する

「江戶根津七軒町」現在の台東区池之端二丁目。不忍池の端の北西部。

「柞木(ゆずき)」原文は“Yusuki”で「ゆすき」。金子氏が何故この漢字を当てているのか、よく判らない。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「柚木」で、読みは後者では「ゆぎ」である。但し、「柞木」で「ゆずき」と読むことはある。因みに「柞木」は「ははそ(は)のき」で楢(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus)の古名である。]

 

 源藏――勝五郞の父、姓は小矢田氏、文政六年當四十九歲、貧のため日夜籠を造つて江戶で商賣す、江戶居住中の旅宿は馬喰町相模屋といふ、宿屋の亭主は喜平と呼ぶ者。

 

 せい――源藏の妻、勝五郞の母、文政六年當三十九歲、嘗て尾張樣に事へた[やぶちゃん注:「つかへた」。]ことのある弓將家村田吉太郞と呼ぶ武士の女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、せい十二歲の時本田大之進殿の家に下女となつたと傳云[やぶちゃん注:「つたへいふ」。]、十三歳の時父吉太郞何かの理由で尾張樣から永のお暇がでて浪人となつた。そして文化四年(一八〇七年)四月二十五日七十五歲で歿した、彼の墓は下柞木(しもゆずき)村の永林寺といふ禪寺の墓地にある。

[やぶちゃん注:「村田吉太郞」不詳。「勝五郎再生記聞」には貼り付けられた紙に『村田吉太郎は織田遠江殿組にて、侍の所行にあらざる事ありて、寛政元丙年』(不審。寛政元年は一七八九年であるが、干支は己酉で合わない)『十一月廿一日追放仰付けられしとある書に見えたり。後に丹羽家(左京大夫どの)かゝへられしと或人いへり』とある。

「本田大之進」不詳。

「永林寺」冒頭注参照。勝五郎の墓がある寺と同じ。]

 

註 浪人とは主君を持たぬ流浪の武士を云ひ、一般にこの徒は自暴自棄の甚だ危險な者共であつたが、中には立派な人物もあつた。

 

 つや――勝五郞の祖母、文政六年當七十二歳、若い時松平隱岐守殿(大名)の御殿女中を勤めた。

[やぶちゃん注:「松平隱岐守」伊予国松山藩主で定勝系久松松平家宗家の誰かである。「若い時」を二十代と考えて文政六(一八二三)年から逆算すると、一七五〇年頃となり、伊予国松山新田藩二代藩主・伊予松山藩八代藩主松平定静(さだきよ 享保一四(一七二九)年~安永八(一七七九)年)辺りかと思われる。定勝系久松松平家宗家九代で官位は従四位下・隠岐守・侍従である。]

 

 ふさ――勝五郞の姉、本年十五歳。

 

乙二郞――勝五郞の兄、本年十四歲。

 

 つね――諮五郞の妹、本年四歲。

 

 

     伴四郞の家族

 

 藤藏――武藏國多摩郡程窪村で六歲の時に歿した、こ〻は江戶下谷新橋(あらばし)通[やぶちゃん注:原文は“Ata-rashi-bashi-dōri”。この「新橋」は確かに「あたらしばし」と読むはずである。金子氏が何故かくルビしているのか不審である。]に屋敷を持つてゐる中根右衞門の所有地、小宮管内――(藤藏)は文化二年(一八〇五年)に生れ文化七年(一八一〇年)二月四日四刻(午前十時)頃死す、病名は疱瘡。前記の程窪村の丘上の墓に葬る、菩提寺は三澤村の醫王寺、宗門は禪宗、去年文化五年(一八〇八年)藤藏の爲に十三囘忌の法會營まる。

 

註 佛敎では亡者の爲に一定の年期每に法會を營むことになつてゐて、それが次第に永さが多くなつて來て死後百年目に至るやうに定めてある。十三囘忌とは死後十三年目の法會である。第十三囘といふ數には前後の意味から考へて死者の死んだ年が第一年目として算へられてをることを讀者が了解しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「三澤村の醫王寺、宗門は禪宗」禅宗寺院で「医王寺」で旧村名「三沢」、「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「同領」にあるとしているからには、現在の中野区或いはその周辺にあるものと探してみたが、見当たらない。後に廃寺となったか、移転したか?]

 

 伴四郞――藤藏の養父、姓は鈴木、文政六年當五十歲。

[やぶちゃん注:読みは「はんしらう(はんしろう)」。]

 

 しづ――藤藏の母、文政六年當四十九歲。

 

 久平――(後に藤五郞)、藤藏の實父、原名は久平、後藤五郞と改名す、文化六年(一八〇九年)藤藏五歲の時四十八歲にて死す、彼の代りに伴四郞入婿。

[やぶちゃん注:「久平」“KYŪBEI ”。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「久兵衞」(きうべゑ(きゅうべえ))である。以下、「久平」は「久兵衞」と読み換えられたい。]

 

註 入婿とは兩親と同棲してをる女の第二番目の夫となること。但し養子。

 

 子供、二男二女――何れも藤藏の生母と伴四郞の間に出來た子。

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはここまで詳細な関係者の生活史記載はない。]

 

 大名松平觀山殿が通俗文で書かれた物語の寫し

 去年十一月の或日のこと、勝五郞が姉のふさと畠で遊んでゐた時このやうなことを質ねた、

 『姉さん、貴女はこの家へ生れて來る前に何所にをつたの?』

 ふさは答へた、

 『生れる前にどんなことがあつたかどうして分るものか』

 勝五郞は驚いた樣子で叫んだ、

 『では姉さんは生れる前に何があつたか思ひ出せないの?』

 ふさは問うた、

 『お前さんがそれを覺えてをるの?』

 勝五郞は答へた、

 『覺えてをりますとも、僕は程窪の久平さんの子でその時は藤藏といふもであつたんだよ、姉さんはそれを皆(みんな)知らないの?』

 ふさは言つた、

 『あらまあ! 何を言ふんですか、お父さんとお母さんに告げるわ』

 勝五郞は直に泣きだした。そして言つた、

 『姉さん告口しないで頂戴、お父さんとお母さんに告口したら大變だ』

 暫時の後ふさは答へた、

 『よし、よし、この度だけは言はないで置きませう、でも復(こんど)このやうな善くないことを少(ちよつと)でも言うたらその時こそは告口するよ』

 その日以後二人の間に喧嘩が持上る每に姉は弟を嚇して『い〻わ、い〻わ、――あの事をお父さんとお母さんに告げてやるから』と言つてゐた。これを言はれると勝五郞はいつも姉に降參して了つた。ところがこれが幾度も起つたのでたうとう或日のこと兩親はふさが弟を嚇してをるのを立聽きして了つた。そこで兩親は勝五郞が何か善くない事をやつたに相違ないと思つて、それを何とかして知り度いと考へた末ふさにこの事を質ねたのである。ふさは終に事實を明かした。これを聽いて源藏夫婦も勝五郞の祖母も何といふ不思議な事だらうと愕いて了つた。そしてその結果彼等は勝五郞を呼んで最初は甘言で賺し[やぶちゃん注:「すかし」。]次には嚇して、一體お前はどういふ意(こころ)でこのやうなことを言ふのだかと質ねた。

 勝五郞は躊躇した後かう答へた。

 『殘らず申します、僕は程窪の久平さんの子でありました、そしてその頃の僕のお母さんはおしづさんといふ名でありました。僕が五歲の時、久平さんは死んで、その代りに伴四郞さんといふ男が養子に來て僕を大變に可愛がつてくれました、併し僕はその翌年丁度六歲になつた時に疱瘡にか〻つて死んで了ひました、それから三年目に僕はお母さんのお腹に宿つて復(また)生れて來ました』

 これを聰いて兩親も祖母さんも大に驚いた。そして彼等は程窪の伴四郞といふ者について出來得る限り委しく調べて見ることにした。併し何といつても彼等は生活の糧を得ることに每日追はれてゐて、他の事柄の爲に殆んど時間を用ひることが出來なかつたので直に彼等の目的を遂行しようとしても駄目であつた。

 勝五郞の母せいは今はその女兒つね――四歳註一の――に夜な夜な乳をくれなくてはならなかつた。それが爲に勝五郞は祖母のつやに抱れて寢た。彼は時々寢ながらお祖母さんに話すことかあつた。或夜彼が非常に打寬いだ[やぶちゃん注:「うちくつろいだ」。]樣子で何事でも彼女に話しかけるといふ氣分になつてをつたので、お祖母さんは彼にお前が死んだ時にどんな事があつたのか私に敎へてくれぬかと言ひ出した。さうすると彼はかう答へた。――『四歲の時迄僕は何でも記憶してゐたが、それから後といふものはだんだん物忘れするやうになつて、今では澤山の事を忘れてをる。それでも未だ忘れてをらぬ事は疱瘡にか〻つて死んだことだ。それから未だ恐えてをることは壺註二に入れられて丘の上に埋められたことだ。丘にゆくと其所の地面に穴が一つ造られた。そして其所へ來た人達はその穴の中へ私の入つてをる壺を落した。ぽんといつて落ちたよ――あの音だけは今でも能く覺えてをるよ。それからどうしたのか知らぬがともかく僕は家へ歸つて僕の枕註三の近くを離れなかつた。曹くすると或る老人――お祖父らしい老人――が來て僕を連れ去つた。步いてゆく時何だか飛行でもやるやうに虛空を突切つて走つた。二人が走つた時は夜でも晝でも無かつた事を僕は記憶してをる。それは常に日沒時(たそがれ)の樣であつた。暑くも寒くも無く亦お腹(なか)もへらなかつた。二人は餘程遠く迄往つたやうに僕は思つてをるが、それにしても僕は僕の家で人々の話してをる聲をいつも聽くことが出來たよ、幽かではあつたが――そして僕の爲に念佛註四の聲が上げられてをるのが聞こえた。亦家庭(うち)の人達がお佛壇の前に溫い牡丹餅註五を供養してくれると僕はその香氣(にほひ)を吸ひ入れたことも記憶してをる――お祖母さん、佛樣に溫い食物を供へることを忘れてはいけません、お坊さんにでもさうですよ――これは大きな功德になるんだよ註六――それから、これはつい思ひ出すだけのことであるが、その老人は何か迂𢌞(とほまはり)した道を經(とほつ)て僕をこの場所へ件れて來たやうである――僕達の通つたのはこの村の向うの所だ。そして僕達は是所へ來た。彼はこの家を指差して僕に言うた――『さあ是所で轉生するんだよ、――お前は死んでから三年目になるが今この家で生れかはることになつてをる、お前のお祖母さんに成る人物(ひと)は大いさう親切だ、だから其所でお腹(なか)に宿つて生れて來るのはお前の幸福さ』かう言つて了うと老人は消え去つた。僕はこの家の入口の前で柿の樹の下で暫く立止つてゐた。それからいよいよ家に入らうとすると家の内側から話し聲が聞こえて來た。誰れかが言うた、『お父さんの收入(もうけ)が餘りに少いから、お母さんが江戶へ奉公に出掛けなくてはならぬだらう』。僕は『これではこの家へ入らないことにする』と思つた。そして三日間庭の中に留つてゐた。三日目になると結局こ〻のお母さんが江戶に出掛けないことにした。そこで私はその夜雨戶の節孔(ふしあな)から家の中に入つた――その後三日間といふものは竈(かまど)註七の側にとどまつてゐた。そしてその後初めてお母さんのお腹に入つた註八――私は全く少しの苦痛も知らずに生れて來たことを覺えてをる。――お祖母さん、『これはお父さんとお母さんに話してもい〻がその外の人には誰れにも話さないで下さいよ』

 

註一 日本の貧しい階級では西洋であるならば當然乳離れをさせる年限に子供が達した頃でも容易に乳離れをさせないで大きくなる迄乳をくれてをる、併しこの本に書いてある四は西洋の算へ方による三歲よりも著しく少いことになる。

註二 死者を大きな壺に納めて埋葬する風習に日本の遠い昔から見らるゝ例である。骨壺は普通に赤い土器である、所謂かめといふものである、かういふ壺は今日でもなほ用ひられてをる、但し今日では死者の大多數は西洋で知らない一種特有の形をした木棺の中に納められてをる。

註三 この意味は枕に頭を橫へて[やぶちゃん注:「よこたへて」。]寢るといふつもりでは無くて枕のあたりかさまよふとか、或は昆蟲(むし)でもとまる樣にその上に休むといつた風のことを意味するものである、肉體の無い靈魂は普通に室の家根の上に休むといはれてをる、次の文章に述べてある老人の幽靈は佛敎よりは寧ろ神道の思想であるらしい。

註四 佛敎のお禱りの句に南無阿彌陀佛を繰返すことである、念佛は阿彌陀宗――眞宗――以外の多くの佛敎宗派で[やぶちゃん注:「も」と入れないとおかしいですよ、金子先生。]繰返すものである。

註五 牡丹餅は米の飯に砂糖を混じて造つた一種の菓子。

註六 日本の佛敎文學の中にはこの種の忠告は陳腐となつてをる、こゝでいふ佛樣の意味はこの子供の心では佛其者を指差すのでは無くて宗ゐ死者を愛した人達が後生の幸福を希ふつもりで佛と呼んでをる人達の靈魂を指したものである、これは恰も西洋に於て死者を呼んで天使といふことが時々あるのと同樣である。

訪七 日本の臺所に於ける料理場である、西洋のかまどと非常に異つた意味を持つことがある。

[やぶちゃん注:本邦のそれは竈の複数配置や、焚口と炉という二方向開口、及び、その上部の排煙のための空間までも幅広く含むからであろう。]

註八 こゝで私は原文の二句を省くに如かずと思つた。それに西洋趣味にとりて餘りに露骨だと思つたからである。併しその句に興味が無いといふ譯では無い、省略した句の意味をいふならばこの子供は母親のお腹の中に居つてさへ愼重な態度で動作し、特に孝道を守つてをつたといふことを書いてをるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:この省略された二つの句の原文を見たいものである。因みに「勝五郎再生記聞」のこのシーンでは、

   *

其の後母の腹内へ入りたりと思はるれど、よくも覺えず。さて腹内にて母の苦しからむと思ふ事のある時は、側(わき)のかたへよりて居たる事のありしは覺えたり。さて生まるゝ時は何の苦しき事も無かりき。

   *

とある。]

 

 祖母は勝五郞が彼女に話してくれた事柄を源藏夫婦に語り聞かせた。そしてそれ以後勝五郞は少しも恐る〻ことなく自由に彼の前生話を兩親にしてゐた。彼は屢〻兩親に『程窪へ行き度い。久平さんのお墓參りをさせてくれ』と言つてゐた。源藏は勝五郞が變な子だから遠からず死ぬかも知れぬ、だから伴四郞といふ者が程窪に事實居たかどうかを迅く[やぶちゃん注:「はやく」。]調べてやつた方がよからうと考へた。併し彼はこのやうな事(このやうな事情の下でか?)を爲(す)るのは男としては輕率でもあり亦出過ぎたことにも見えると考へたから自分からす〻んでこの調べを實行することを欲しなかつた。そんな理由で彼は程窪へ自分で行くことは止めてお母(ふくろ)のつやにこの年の一月二十日に其所へ孫を連れていつてくれと賴んだのである。

 つやは勝五郞を連れて程窪へ行つた。二人が其村へ入ると彼女は手近の家を指差して勝五郞に『どれなの? この家? あれ?』と問うた。勝五郞は『否、もつともつと遠くだよ』と答へた。そして彼女の前に立つてさつさと急いだ。やつと一軒の住家に着いたので彼は『これなんだよ』と叫んだ。そしてお祖母さんの來るのも待たないで其家へ走り込んだ。つやは彼の後について家に入つて、この家の主人の名を問うた。問はれた者の一人は『伴四郞の家だよ』と答へた。お祖母さんは更に件四郞の妻の名を質ねた。答へは『しづ』といふことであつた。次に彼女はこの家に藤藏といふ子が生れたことがあつたかと問うた。『あるよ、併しその子は六歲の時に死んで仕舞つて今は十三年目になる』といふのがその答へであつた。

 この時つやは初めて勝五郞が今迄事實を話してをつたことを知つて溢れ落つる淚を禁ずることが出來なかつた。彼女はこの家の皆の人達に勝五郞が彼の前生を覺えてをつて彼女に話してゐたことを語々聞かせた。これを聽いて伴四郞夫婦は非常に驚いた。彼等は勝五郞を撫でて淚にかきくれながら、勝五郞は昔六歲の時に死んだところの藤藏として美しかつたよりも、今の方がもつと遙かに美しいなぞと言つてゐた。そのやうなことのあつた間勝五郞は周圍を見𢌞してゐた。そして伴四郞の家の向側に在る煙草屋の屋根を見て其所に指差しながら『あれは彼方になかつたんだが』と言うた。亦こんなことも言うたのである、『彼方の樹木はあんな所に無かつたが』と、是等は悉く眞實であつた。こんな譯で伴四郞夫婦は終に心の底から疑念を棄てて仕舞つた(我(が)を折つた)

 同日につやと勝五郞は中野村の谷津入に歸つて來た。この後源藏はその子を幾度も幾度も勝四郞の家に遺つて彼の前生の實父久平の墓に參詣することを許した。

 時としてはこのやうなことを勝五郞は言ふのである――『僕は佛樣(ののさま)註一だ、だから何卒僕を大切にして下さい』亦お祖母さんに『僕は十六歲になると死ねよ、でも御嶽樣(おんたけさま)註二が僕に敎へて下さつたことによると死ぬことは何でも無いさうだ』と言ふことも時々ある。兩親が彼に『お前は出家する心はないか』と問ふと彼は『そんな氣は無いよ』と答へる。

 

註一 ののさん又はののさまは子供の用ひる言葉であつて亡者の靈、卽ち佛樣のことである、神道では神樣といふ。ののさんを拜むといふことは神々を祭るといふことで兒童の用ひる言葉である、先祖の靈魂はののさんになる、卽ち神道の思想によれば神になる。

[やぶちゃん注:仏・神或いは神聖な対象を指す幼児語。私は祖母から「のんのんさま」と教えられた。語源については複数あるようだ。墓石店の公式サイト「石の立山」のこちらがよい。]

註二 御嶽樣を引合ひに出したことに關しては特に興味の多い物がある、併しこれにはやく長い說明を必要とする。

御嶽(おんたけ)又はみたけは信濃國の一靈峰の名である、巡拜人の靈場として崇められてをる所だ、德川將軍家の時代に律宗派の一心と呼ぶ僧侶がこの山に參詣した、彼は彼の生れた場所――江戶下谷坂下町――に歸つてから新しい宗敎を說き始めた、 そして彼は御嶽山に參籠してをつた間に修め得たといはるゝ法力を以て奇蹟を行ふ者として大に名聲を上げた、將軍は彼を危險な人物と見倣し八丈島に流した、彼は其所へ流されて數年を送つた、後許されて江戶に歸りあづま敎といふ新しい宗派を興した、これは神道を倣ねた[やぶちゃん注:「まねた」]佛敎であつた――卽ちこの宗敎の信者が特に崇めてゐた神は佛の權化としての大國主命及び少彥名命[やぶちゃん注:「すくなびこなのみこと」。]であつた。開闢祝詞(かいびやくのりと)にこの宗派のお祈禱であるがそれにはかう書いてある――「神聖な物ありその名を不動といふ、不動なれども動く、又形無し、形無けれども自ら形をとりて現はる、受知し得ざる神聖の體たり、天地にありては神と呼ばれ、萬有の中にありては靈と呼ばれ、人間にありてに心と呼ばる、天も、四海も、三千世界の大世界も、この唯一無二の實在から生れ出たものである、卽ち唯心から三千大千世界の形が出て來る」

[やぶちゃん注:「一心」(明和八(一七七一)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の行者で信濃出身。俗名は橋詰長兵衛。武蔵深谷の侠客であったが、妻の死を契機に木曾御岳信仰に入り、武蔵の修験僧普寛の開いた王滝口の先達(せんだつ)となり、江戸を中心に講を組織したが、不穏な教説を説いたとして、幕府に弾圧され、五十一歳で牢死した、と講談社「日本人名大辞典」にあり、小泉八雲の解説とは齟齬する。思うに、この後の小泉八雲の叙述から、明治六(一八七三)年に東京浅草の創始者とされる下山応助が全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集合させ、明治一五(一八八二)年に教派神道の一派として成立、政府の公認を得た御嶽教(おんたけきょう:現在も奈良県奈良市に教団本部御嶽山大和本宮を置く教派神道十三派の一つ。現行、祭神は国常立尊(くにのとこたちのかみ:「日本書紀」で本邦初の神とされる)・大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)・少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称する)と混同しているものと思われる。]

交化十一年(一八一四年)に下山應助といふ、もと、江戶、淺草、平衞門町の油商人であつた男が一心の敎法に基づいて巴講[やぶちゃん注:「ともゑかう」。]といふ宗敎同盟か組織した、この派は將軍家派亡の時迄榮えてゐたが、幕府の滅亡した時、混合の敎へたり或は神佛兩敎を混同したりすることを禁止する法令が發布された、下山應助はその時御嶽(みたけ)敎といふ名の下に新しき神道の一派を興すことの許可を願ひ出た――御嶽(みたけ)敎は通俗的には御嶽(おんたけ)敎と呼なれてをる、そしてその願ひは明治六年(一八七三年)に訃されたのである、應助は其後不動經といふ神典を神道の祝詞(のりと)に改作し、之れに名づくるに神道不動祝詞の名を以てした。この宗派はなほ續いてをる。その主なる寺院の一は東京の私の現住宅から約一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。初め、御嶽教本部は東京神田区小川町に置かれたが、富久町の小泉八雲旧居からは直線でも四キロメートルはあるから違う。よく判らぬ。]にある。

御嶽(おんたけ)さん(又は樣)にこの宗派の崇めてをる神の通俗的名稱である、卽ち實際は御嶽(みたけ)又は御嶽(おんたけ)峰に住んでをる神のことであるが、それは亦時としては御嶽の神の御告げによつて或は御感力によりて實相を啓示する高僧を指差すことにも用ひられる、勝五郞の言うた御嶽樣の意味は其頃(一八二三年)の高僧、卽ち應助地震を指差したことでゐるのは殆ど十中八九迄明かである、何故ならば應助はその當時巴敎の政主であつたから。

[やぶちゃん注:「巴敎」意味不明。この「巴」は「己」ので「この」とでも読ませたか。なお、長い注はここまで。以下、本文に戻る。]

 

 村の人達は彼を最早勝五郞とは呼ばないで程窪小僧(小僧とは僧侶にならうとして修業する若者のことである、併しこれは使走りをする者や或は時としては下僕の年若き者を呼ぶに用ひられたこともある、恐らく昔は男の子供は頭を剃つてをつたからだ、私はこの文の場合に於ての意味は佛敎の僧にならうとしてをる若者といふことだと考へてをる)と渾名をつけた。誰れかが彼に會はうとして家を訪れると彼は直に差しかつて奧へ走つて隱れて了ふ。だから彼とめんと向つて話をすることは出來ぬ。私はこの話を彼のお祖母さんから聽いたままに書き下した。

 私は源藏、その妻及びつやにお前さん達は何か功德をしたことがあるんだらうと質した。源藏夫婦は別にこれといつた善行は行(や)つた覺えは無いが、ただお祖母さんのつやが每日朝と晚には必ずお念佛を繰返して唱へることにしてをる、そしてお出家さんや巡禮者が戶口に來れば二文(もん)(當時にありては最も小さな貨幣で一仙[やぶちゃん注:「錢」に同じい。]の十分の一に相當す、今日厘といふ銅貨があつて中央に四角な孔が一つ明いてゐて、表面に支那文字のついてをるのがあるが文(もん)はそれと略々[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じものである)施すことにしてをつたと答へた。併しつやは是等の小功德の外に特に目立つた大善事を行つたことは無かつたのだ。――(勝五郞轉生の話はこれで終つた)

 

  譯者の註

[やぶちゃん注:この「譯者」とは英訳した小泉八雲自身のこと。]

 以上は『椿說集記』[やぶちゃん注:「椿說」は「珍說」に同じい。]と題した寫本から採つた物である。年代は文政六年四月から天保六年十月(一八二三年――一八三五年)迄の間のことである。寫本の終に―『文政年間から天保年間に至る――所有主、南仙波、江戶、芝、車町』とある。又その下に『西の窪。大和屋佐久治郞より購入、明治二年(一八六九年)廿一日?)』と書いてあつた。これに據りて考へて見るとこの寫本は南仙波と呼ぶ者が一八二三年から一八三五年の末に至る十三箇年間親しく耳に入れた話や、或は手に入れた寫本等からこれを寫し出したものと見える。

[やぶちゃん注:「南仙波」不詳。]

        

 今、誰れでも私の信、不信がこの事柄に何か關係でもあるかの如く考へて、お前さんが一體この話を信じてゐるのかねと質問する者があるとするならば、それは恐らく理由のたたぬ無理な質問だ、と思ふ。前生を思出すことが出來るかどうかといふ問題は、追憶する物は何であるかといふ問題に據依[やぶちゃん注:「依拠」に同じい。]してをることと私は考へてをる。若しそれが私達各人に宿つてをるところの無限性の全我といふものであるならば、私は『佛本生譚』[やぶちゃん注:「ほとけほんじやうたん」と読んでおく。]の全部を苦も無く信ずることが出來る。これに反してかの感覺や慾望の經緯(たてよこのいと)で織りみだされてをるところの妄我といふものに就いて考へるならば、私が夢に見たことのあるものを話せば私の考が最も能く現れることになる。これが夜の夢であつたか或は白書の夢であつたかといふ問題は何人にも關係の無いことだ――それはただ一場の夢であつだのだから。

 

 

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「五」 / 涅槃――総合仏教の研究~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。なお、本章冒頭の添え辞の改行は底本通りである。]

 

       

   ……『ある者は皆
   その複雜なる形、――天なり地なりに。
   暫らくの個性をかりに與へる
   精神と肉體の性質の
   集合體を離脫する』――『涅槃經』

[やぶちゃん注:「大般涅槃経」にはぴったりくる経文はない。但し、同様のことを同経では繰り返し語っていること、今までの引用と異なり、特異的な改行がなされていること(小泉八雲の原文でも同じ)などから、同経の語る概説として小泉八雲が作った感がするものではある。]

 凡ての目的論的系統には現代の心理學的分析の試驗にたへないやうな考がある、そして一大宗敎の臆說に關する以上の不充分な大意のうちには、疑もなく『形而上學者がいつも出られなくなる言葉の命題の迷路に出沒する信仰のいくつかの幽靈』が認められるであらう。しかし眞理も亦認められる、――卽ち倫理的進化の法則、進步の價、及び凡ての變化を超越せる不變の實在と私共との關係、これ等の達觀が認められる。

 人間が征服せねばならないと云ふ道德的進步の故障の絕大なる事についての佛敎の見解は、過去に關する私共の科學的知識、及び將來に關する知覺によつて充分に後援されて居る。これまでの精神的及び道德的進步は、理性や道德的感情よりも古い道德に對して、――原始的野獸生活の本能と肉慾に對して、――絕えず爭鬪して始めてなしとげられたのであつた。それから、普通の人は將來數百萬年を經過しないでは、惡い方の性質を脫する事は望まれないと云ふ佛敎の敎は、一つの理論と云ふよりもむしろ眞理である。ただ幾百萬囘の生れ變りによつて始めて、この現在の不完全な狀態に達する事もできのであつた、そして私共の最も暗黑な過去の暗黑な遺產が、今もやはり私共の理性や倫理感を左右する程に强いのである。道德の途への將來の前進の一步一步は、過去の數百萬の意志の集合の努力に反抗して蹈み出されねばならない。何故なれば、僧侶や詩人が、高尙な物への足場として使用するやうに敎へた過去の自我は死んでは居らない、なほ將來一千代程は死ぬらしくもない、――登つて行く足を捉へる力がある、――どうかするとその登る人を原始の粘泥の中へつき落す力さへある。

 それから欲望諸天に關する傳說については、――そこを通つて進む事は勝利を得た德がすでに得た物を拾てる力によるのだが、――俤敎は進化論的眞理の多い不思議な話を私共に與へる。道德的自己向上の困難は物質的社會狀態の改善と共になくなる事はない、――私共自身の時代ではかへつて增加する。世の中がもつと複雜になり、もつと多樣になるに隨つて、――思想も行爲の結果も同じく複雜多樣になる。智力の廣大、感性の上品、感情の博大、美感の强い活力、――凡てこれ等は倫理的機會を多くすると共に、又、倫理的危險をも多くする。文明の最高の物質的結果、及び快樂の可能性が增加すれば、自己征服の働きと倫理的平衡の力が必要になるが、これは古い下等な生存狀態には不必要で又不可能であつた。

 無常に關する佛敎の敎訓も亦現代科學の敎訓である、どちらか一方の言葉もそのまま他方の言葉になる、ハックスレイは最近のそして最も立派な論文の一つに書いた、『自然の知識は、益〻「天の凡ての唱歌團と地上の家具」とは、朦朧たる將成態から、――太陽と行星[やぶちゃん注:「恒星」に同じい。]と衞星の際限なき生長を通して、――物質のあらゆる變化を通して、――生命と思想の際限なき不同を通して、――恐らく私共がそれについて槪念ももたない、又、どんな槪念をつくる事もできない種類の存在を通して、――彼等が元來生じて來た名狀のできない潜伏狀態へ戾る進化の路に沿うて進む宇宙的實體の數塊の一時的體形に過ぎないと云ふ結論に導く。かくの如く、宇宙の最も明白なる屬性はその無常である事である』

 

註 「進化と倫理」

[やぶちゃん注:以上の段落の原文全文を示しておく。

 The Buddhist doctrine of impermanency is the doctrine also of modern science: either might be uttered in the words of the other. "Natural knowledge," wrote Huxley in one of his latest and finest essays, "tends more and more to the conclusion that 'all the choir of heaven and furniture of the earth' are the transitory forms of parcels of cosmic substance wending along the road of evolution from nebulous potentiality,—through endless growths of sun and planet and satellite,—through all varieties of matter,—through infinite diversities of life and thought,—possibly through modes of being of which we neither have a conception nor are competent to form any,—back to the indefinable latency from which they arose. Thus the most obvious attribute of the Cosmos is its impermanency."

これは、注にある通り、既出既注のイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)の“Evolution and Ethics”(「進化と倫理」。一八九三年刊。Project Gutenberg”のこちらで原文全文が読める)の“II. EVOLUTION AND ETHICS.[The Romanes Lecture, 1893.]”(「進化と倫理」(ロマネスでの講演:一八九三年))のほぼ忠実な一節である。]

 

 そして最後に、佛敬は凡ての結合の不安定、遺傳の倫理的意義、精神的進化の敎訓、道德的進步の義務に關する十九世紀の思想と著しく一致するばかりでなく、又それは私共の唯物論と唯心論の說、造物者と特別の創造に關する說、及び私共の靈魂不滅の信仰を一樣に否む點に於ても亦科學と一致する。しかし佛敎は西洋の宗敎の基礎その物を拒否するにも拘らず、私共に大きな崇敎上の可能性を現示して、――これまで存在したどの物よりも貴い博い科學的信條を暗示する事ができる。人格的神の信仰の消失して行く時、――個人的靈魂の信念が不可能になる時、――私共が宗敎と呼んでゐた一切の物から、最も宗敎的な心の人も避けるやうな時、――世界的懷疑が倫理的向上心に絕えず增加する重みのやうになつて行く時、――そんな私共の智力的進化の時代に、光明は東洋から捧げられるのである。そこにもつと古いもつと大きな信仰、――不可思議の實在に對して變な擬人論的觀念を有しない、そして靈魂の存在を否定するが、それにも拘らず外の如何なる系統よりも優れた道德の系統を敎へて、如何なる種類の將來の實際知識も破る事のできない希望を有する大きな信仰、に面して、私共は立つて居る、科學の敎によつて更に强くなつたこのもつと古い信仰の敎は、數千年間私共がさかさにうらおもてに考へてゐた物である。唯一の實在はである、――私共が實體と考ヘた物はただに過ぎない、――有形の物は眞實の物でない、――そして肉體は幽靈である。

 

2019/12/04

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「四」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       

   『無存は大乘の入口に過ぎない』
    ――『大品經意』
   『師波よ、眞實の事を語る者はどうして
    自分の事を「※曇は寂滅を說く、寂滅
    の敎を敎へる」と云ふのであらう。師
    波よ、自分は肉欲、惡意、煩惱の寂滅
    を說く、自分は惡にして、不善の(心)
    の色々の狀態の寂滅を說く』
    ――『摩訶婆拘』四卷三一章七節。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「賏」+(下)「隹」。音不明。「※曇」の小泉八雲の英文原文は“Samana Gotama”である。これは恐らく固有名詞ではなく、「沙門」で「男性の修行僧」の謂いである。

「無存」原文は“Non-existence”。「無」・「非存在」・「非在」。

「大品經意」「大品経」は「大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)」則ち、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の「摩訶般若波羅蜜経」(まかはんにゃはらみつきょう)のことだが、これはその注釈の謂いか。

「師波」原文“Siha”。パーリ語の「先生・師」の意の漢訳かとも思ったが、判らぬ。

「摩訶婆拘」原文“Mahavagga”。これは上座部仏教の「パーリ仏典」の「パーリ律」において、出家修行者(比丘・比丘尼)が属する僧伽(僧団)内の作法・規則及びその由来を説いたパートである「犍度」(けんど/パーリ語ラテン文字転写(以下同じ):khandhaka:カンダカ)の中の大品(だいほん/Mahā-vagga:マハー・ヴァッガ)のこと。]

 

 『人[やぶちゃん注:原文のローマ字では「にん」。]を見て法を說け』と云ふのは、佛法は相手の能力に應じて說かるべき物である事を敎ふる日本の諺である、そして佛敎の大系統は實際學ぶ者の智力程度に應じて順次に進步的階段(普通は五段)に分けてある、或はその他の方法で學ばれるやうにしてある。それから色々の宗門及びそこから分れた宗派にも特別に色々の敎理があるから、――滿足な佛敎の本體學大意をつくるためにはこれ等の澤山の敎義の間に、重要なそして衝突しない總合をつくる事が必要である。普通の[やぶちゃん注:「一般の日本人が認識している」の意。]佛敎は私共が講究してゐたやうな槪念を含んでゐない事は云ふまでもない。人々は本當の輪𢌞と云ふもつと簡單な信仰を固守する。人々はを前生で犯した過[やぶちゃん注:「あやまち」。]の罰或は報[やぶちゃん注:「むくい」。]をなす法則と解して居る。人々は涅槃について餘り心を勞しない、それよりは極樂の方をもつと考へる。極樂と云ふのは多くの宗門の人々が、直ちに來世に於て、善い人々の魂によつて受けられると信ずる物である。近代の宗派のうちで、最大のそして最も富んだ宗門――眞宗――の信者は阿彌陀佛の助けによつて、正しい人は死後直に西方淨土――蓮華の極樂――に行かれると信じて居る。私はこの小さい硏究に於て一般の信仰、或は單に一信仰に固有の敎理の說明をするのではない。

 

註 私は因果、極樂、後生、――或はその外そのやうな言葉を聞かない日は一日もない。しかし普通の人で「涅槃」の言葉を使ふのを聞いた事はない、そして涅槃のやうな事について質問して見るといつもその哲學的の意味は分つてゐない事を發見した。それに反して日本の學者は涅槃を實在として、――極樂を一時的の狀態或は寓話として話す。

[やぶちゃん注:「佛敎の大系統は實際學ぶ者の智力程度に應じて順次に進步的階段(普通は五段)に分けてある」何を指して言っているか不明。旧天台教学などの「五時教」(釈迦一代の教説を五つの時期的展開として分類し、経典解釈に対応させたもの)辺りから引っ張り出したものか。]

 

 しかし涅槃に到達する事については、高い敎理にも色々の相違がある。或人はその最上の福德はこの世でも得られる、或は少くとも見られると云ふ、又或人はこの現在は餘りに腐敗して居るから完全な生涯はできない、ただ善根を積んで、もつとよい世の中に再生する特權を得て、最高の福德に達するその聖さを得る機會を望む事ができるだけだと云ふ。もつと優れた生存の狀態を他の世界に置くこのあとの方の意見は、日本に於ける現代の佛敎の一般の思想をよく表はして居る。

 

 人間と動物の生存狀態は所謂欲界に屬する、――その數が四つある。その下に地獄がある、それについて多くの不思議な事が書いてある、しかし欲界も地獄もその小論文の目的と關係して考へるには及ばない。私共はただ人間界から涅槃までの精神進步の行程に關係があるだけである、私共は現代佛敎と共に、死生を返る巡禮は、少くとも人類の大多數に取つては、この地上に於て最高の狀態に到達したあとまでも續かねばならない事を假定する。この行程はこの世の狀態から、外の優れた世界にまで及んで居る、――先づ六つの欲天から、――それから十七の色界を通つて、――そして最後に四つの無色界を通る、――そのさきに涅槃がある。

[やぶちゃん注:これでは「欲界」内に「四」パートがあって、「その下に地獄がある」とあるが、それはおかしい。「欲界」、則ち、本能的欲望、淫欲と食欲を属性として有した衆生が住む世界(それが上位の色界及びその上の無色界の下に位置するというのは正しい)は、「八大地獄」から「六欲天」(上から他化自在天(たけじざいてん)・化楽天(けらくてん)・兜率天(とそつてん)・夜摩天(やまてん)・忉利天(とうりてん)・四大王衆天(しだいおうしゅてん))であり、「地獄」もそこに含まれ、所謂、六道、他の「餓鬼」・「畜生」・「修羅」・「人間」・「天上」の各道が総て欲界に含まれるからである。さすれば空間のそれを言うなら「地下世界」と人の「地上世界」と、「空中世界(天界)の内の最下層界」=六欲天とで三パートが、細かに区分けを数えれば、「六欲天」と「六道」で十二パートが欲界に属することになるからである。

 肉體生活の要求――食物、睡眠、男女關係の必要――は欲界で引續き感ぜられる、――私共が『天』と云ふ言葉で普通理解する物より、もつと高い實際界であるらしい。實際そのうちの或境遇は私共自身の世界よりはもつと惠まれた行星――もつと有難い太陽によつて溫められるもつと大きな天體――に存在すると想像されるやうな境遇である。そして或佛經のうちには事實これを遠く離れた星座のうちに置く物もある、――そしてこのは星から星へ、銀河から銀河へ、宇宙から宇宙へ存在の限度まで通じて居ると云ふ

 

註 この存在の高等な境遇或はその他の「佛土」の天文學的限定は讀者の微笑を促すかも知れないが、實は否定のできない可能性をもつて居る。

 

 四王天[やぶちゃん注:「六欲天」の「四大王衆天」の異名。以下同じ。]と云はれるこのところの諸天の第一では、生命は年の數ではこの地球より五倍長く續くが、その一年はこの地球の五十年に相當する。しかしその住民は飮食や結婚の習慣は人間と同じである。そのつぎの天、三十三天[やぶちゃん注:=「忉利天」。]では生命の長さが倍になる、同時に外の一事情がそれに應じて進步する、そして下等な種類の感情はなくなる。男女の結合はやはりあるが、しかもクリスト敎の或長老が可能になる事を願つたやうな風、卽ち、――ただ抱擁だけで新生命を生ずるやうになる。第三天(焰摩天と云ふ)[やぶちゃん注:=「夜摩天」。]では生命の長さは再び倍になつて、最もかすかな觸でも生命を創造する。第四天或は滿足の天(都史多天)[やぶちゃん注:「としたてん」。=「兜率天」。]では生命の長さはさらに增加する、第五天、或は化樂天では、不可思議な新しい力が得られる。主觀の快樂は意の如く客觀の快樂に變はる、願も思想も創造の力となる、――そして見ると云ふ行爲でも受胎出生の原因ともなる。第六天(他化自在天)では、第五天で得られた力がさらに發達する、そして客觀的快樂に變はつた主觀的快樂は、――實際の物のやうに、――外の人にも贈られ、或は外の人とも分つ事ができる。しかし、一瞬の眺め、――眼の一瞥、――は新しいをつくる事ができる。

 欲界は凡て肉體的生活の諸天である、――美術家と愛人と詩人の夢に答へさうな諸天である。しかし落ちないでそれを通り越す事のできる人は――(そして云つて置くが、落ちる事はむづかしくはない)――超肉體的地帶に入る、そして先づ入るところは有心有事靜慮或は客觀の諸天である。それには三つある、――銘々にそれぞれ前のより高尙で、――梵衆天梵輔天[やぶちゃん注:「ぼんほてん」。]、大梵天と名づけられて居る。その次に無心無事靜慮と云ふ諸天が來る。それにも三つある、その名にはそれそれ少光無量光光音光或は朗音光と云ふ意味がある。ここでは一時の境遇に可能である最高度の超肉感的歡喜が得られる。その上に隨喜靜慮と名づくる境遇がある。そこには喜びも苦しみも、或は何の種類の强い感情も存在しない、ただ靜かな消極的な歡喜、――神々しい平靜の歡喜があるだけである。これ等の天よりもさらに高いのは隨喜樂靜慮の八界である。それは無雲天福生天[やぶちゃん注:「ふくしやうてん」。]、廣果天無煩天[やぶちゃん注:「むぼんてん」。]、無熱天善見天善現天色究竟天[やぶちゃん注:「しきくきやうてん」。]である。ここには快樂と苦痛、名と形は全くなくなる。ただそこには觀念と思想が殘るだけである。

 

註 讀者はこの考によつて、スペンサー氏の平靜の美しい定義を思ひ出す、――「平靜は無數の色から成立して居るが無色である白色に喩へられる、同時に樂しい又苦しい心の氣分は或光線の割合を增して、他の光線の割合を較減ずる事の結果である光の變化に喩へる事ができる」――「心理學原理」

[やぶちゃん注:「有心有事靜慮或は客觀」原文“Ujin-ushi-shōryo, or Kak-kwan”。「靜慮」(せいりょ)は「精神を集中させる境地」を指し、「禅那」「禅定」などとも言われる。この三つの天は「初禅」と呼ばれる。

「無心無事靜慮」原文“Non-Existence (Mūjin-mushi-shōryo)”で英語は前に出た「非在」である。この三つの天は「第二禅」と呼ばれる。

「隨喜靜慮」小泉八雲は面倒臭くなったものか、天名をカットしている。下から少浄天・無量浄天・遍照天である。この三つの天は「第三禅」と呼ばれる。

「無雲天、福生天、廣果天」及び「無煩天、無熱天、善見天、善現天、色究天」を「第四禅」と呼び、後者の最上位層を特に「五浄居天」と称し、ここに属するものは寿命が尽きれば、そのまま仏と成るとされる。「福生天」と「廣果天」の間に「無想天」を置く説もある。

 ここの「註」はなかなかに私は好きなものであるので、原文を引いておく。

 One is reminded by this conception of Mr. Spencer's beautiful definition of Equanimity: ― "Equanimity may be compared to white light, which, though composed of numerous colors, is colorless; while pleasurable and painful moods of mind may be compared to the modifications of light that result from increasing the proportions of some rays, and decreasing the proportions of others." Principles of Psychology.

Principles of Psychology」は一八五五年刊。但し、その初版からはこれと同じ文字列は見出せなかった。]

 

 こんな超肉感的の界を通りぬける事のできる人は直ちに無色界に入る。これには四つある。第一の無色界では、凡て個性の感覺がなくなる、もと形の思想さへも滅して、ただ空無邊識無邊或はの觀念だけ殘る。第二の無色界ではこの無の觀念も消える、そしてその代りに識無邊の觀念が來る。しかしこの識無邊と云ふ平等觀は擬人的である、一種の煩惱である。それで第三界の無色界卽ち無所有處では消える。ここにはただ無限の無の觀念があるだけである。しかしこの界も、人の心の働きの助けによつて達せられる。この働きが止む、そこで第四の無色界に達する、――それを非想非々想處と云ふ。幾分人の心、――の究極の絕えかかつて居る顫動、――存在の最後の消えかかつて居るもや[やぶちゃん注:「靄」。]、――それがここに續いて浮んで居る。それが融ける、――そして無邊の天啓が現れる。自我の最後靈的の鎖から逃れて、夢を見てゐたが、直ちに涅槃の無邊の福德の中に入る。

 

註 涅槃と同意義に「無邊の福德」と云ふ言葉を使つた「彌蘭陀王問答」による。

[やぶちゃん注:「彌蘭陀王問答」は「一」に出て注した「彌蘭陀王問經」と同じ。]

 

 しかし凡ての人は以上に舉げた凡ての界を通過するわけではない、上る力に遲速のあるのは、打ち勝つべきの性質と、ならびにその人の天賦の德によるのである。或人は現世から直ちに涅槃に達する、或人はただ一度新しい生れ變りのあとで、或人は二囘三囘幾囘となしに生れ變つたあとで。同時に多くの人はこの世からすぐに超肉感的諸天の一つへ上る。こんな人は超と云はれるが、――そのうちで最高級の人は死後直ちに男として或は女として涅槃に達する。には二大別がある、――不還である。時として還は長い退步の性質を有する事がある。そして世界の成立の佛敎傳說によれば、最初の人々は光音天から落ちて來た人々であつた。進步の善體の敎理に關する著しい事實は、その進步は(甚だ珍らしい場合を除いて)直線に進む物とは考へられないで、波狀に進む物、――精神的運動律によつて進む物と考へられる。これはが涅槃に到達し得る色々の短い進路に關する不思議な佛敎の分類で例證される。この短い進路は不同に分けられる、――讀者は天と下界とに生れ變る數の同じ物、後者は不同な物である。この中間の階級には四通りある。日本の友人は私のためにつぎの表を作つてくれた、それによればこの問題が明瞭になる。

 

註 『大般涅槃經』にこの界に達した婦人の例がある、「阿難陀よ、難陀尼はこの世に人々を結びつける五つのきづなを破つて、最高の天に住む事になつて、――全くそこへ移つて、――そこから再び歸らぬ事になつた』

[やぶちゃん注:原始仏教時代から根強い仏教の変生男子(へんじょうなんし)説(如何なる布施や修行を積んでも女人は男性に一度生まれ変わらない限り涅槃には達し得ぬという女性差別)から考えると、極めて稀なケースと言える。あって当然、いいのだが、仏教が永く女人を差別してきた事実を隠蔽してはいけないと私は考えるので、敢えて注した。

 以下に、原本に配された図(ここここ)と底本訳本の図を挿入する。前者はProject Gutenberg”のこちらにあるもので(一枚目の下部のそれは図書館利用者の違法な書入れである)、後者は“Internet Archive”で全篇ダウン・ロードした底本から、トリミングし、かなり強い補正を加えて見易くしたものである。

 

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Nehan



[やぶちゃん注:以下に、邦訳の画像の上部の和文キャプションのみを、各ページ、上段の右から左へ、次に下段の同方向で活字化しておく。後の説明のために、後に【 】で番号を振った。

   *

三つの同じ生れ變りによつて天から涅槃に達する【1】

[やぶちゃん注:図右上方に「涅槃」、上部中央に「天」、下部中央に「人」。以下同じ。]

 

三つの同じ生れ變りによつて人間界から涅槃に達する【2】

 

二つの同じ生れ變りによつて天から涅槃に達する【3】

 

二つの同じ生れ變りによつて人間界から涅槃に達する【4】

 

三つの不同の生れ變りによる【5】

[やぶちゃん注:以上以外に、左「→」の基の左中央に「人間以外」。]

 

三つの不同の生れ變りによる【6】

 

二つの不同の生れ變りによる【7】

[やぶちゃん注:ここでも左「→」の基の左中央に「人間以外」。]

 

二つの不同の生れ變りによる【8】

   *

ただ、原本の図の配置と邦訳のそれの違いが非常に気になる。訳文の「この短い進路は同と不同に分けられる」という謂いを受けて読む、

◎日本の読者は恐らく殆んどが、「同」の上部右から左へ、而して次に下部の「不同」を右から左へ見て――則ち、【1】から【8】までの順列で見て――納得するものと思う

のであるが、まず、原本ではそうした群として示されていないのである(改ページであるから邦訳図版のようには絶対に読めない)。欧米の読者が図をどのような順で読むのが普通かは私には分らないが、私の推測では英文の左から右という筆記原則から考えると、

◎欧米人は【1】の次に【5】を見て、以下、→【2】→【6】(ページをめくって)→【3】→【7】→【4】→【8】の順序で読むのではなかろうか?

小泉八雲は少なくともそう欧米人に読まれるように配したとしか私には思えないのである。その意図は不明であるが、まあ、最終的には意識の中で「同」「不同」の別で再度読み返して整理し直すのであろうが、小泉八雲は、この涅槃への階梯の種別理解のための図を、異様に複雑な認知をせざるを得ないように、確信犯で配置している、としか私には思われないのである。私の読み方は間違っていようか?(仮に縦優先であったなら、【1】→【2】→【5】→【6】→【3】→【4】→【7】→【8】となり、多少複雑な読み取りは改善される) 識者の御意見をお聴きしたい。

 

 これは空想的に見えるかも知れないが、凡ての進步は必ず律調的であると云ふ眞理と調和して居る。凡ての人はこの大旅行の悉くの階段を通るわけではないが、どんな進路によつてなりとも解脫を得た人は皆、生れ變りの特別の境遇に屬しないが、心的發達の特別の境遇にのみ屬する或種類の才能を得る。これが六神通である、――㈠神足通、如何な障礙[やぶちゃん注:「しやうがい」。「障害」に同じい。]あつても、――たとへば厚い壁でも、――どこへでも通れる力、――㈡天眼通、無限の視力、――㈢天耳通、無限の聽力――㈣他心通、外の人々の心を讀む力、――㈤宿命通、前生を思ひ出す力、――㈥漏盡通、思ふままに涅槃に入る力を有する無限の智慧。この六神通力は先づ聲聞[やぶちゃん注:「しやうもん」。]の階級で發達し、それ以上緣覺菩薩の階級で開展する。聲聞の力は二千の世界に及ぶが、緣覺や菩薩の力は三千の世界に及ぶ、――しかし佛の力は全宇宙に及ぶ。たとへば、この第一の神聖な階級では、いくつかの前生の事を記憶すると共に、同じ數の來生を豫見する力がある、――つぎのもつと高い階級では前生の記憶の數が增加する、――そして菩薩の階級になると、凡ての前生は記憶に現れて來る。しかし佛は自分の前生を悉く見るばかりでなく、これまであつた或は有り得る凡ての生涯、――それから凡ての過去、現在、未來の人々の過去、現在、未來の思想及び行爲を見る。……さてこんな超自然的力の夢は注意の價値がある、それに關する倫理的敎訓があるからである、――その敎訓と云ふのは、合理的な物でも考へられない物でも、どの佛敎の臆說にも識にも織込んである物、――卽ち自己否定の敎である。超自然的力は個人的快樂のために使用してはならない、ただ最高の善行のため、――敎理の宣傳、人の救のためにのみ使用さるべきである。それりも小さい目的のために使用すれば、その力がなくなつて、――必ず退步の途につく事になる註一。感嘆や賞讃を得ようとしてその力を示す事は、聖き事を弄ぶ事になる、それで世尊自らも不必要にそれを見せびらかしたと云つて一度ひどく弟子に非難された事が記錄にある註二

 

註一 緣覺や菩薩の境遇に達した人は退步する事や、大きな誤りをする事はないが、それよりも低い精神の狀態ではさうでない。

註二 「毘那耶疏」――廣律小部、「東邦聖書」中一「ビナヤ本」カリバツガ第五、八、二、にある不思議な記を見よ。

[やぶちゃん注:「六神通」ウィキの「六神通」(ろくじんずう/ろくじんつう)によれば、『仏教において仏・菩薩などが持っているとされる』六『種の超人的な能力』・『神通力』のことで、『六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである』とある。以下、引用は同じ。

「神足」(じんそく)「通」『機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力』。

「天眼」(てんげん)「通」『死生智(ししょうち』)とも言い、『一切衆生の過去世(前世)を知る力』。

「天耳」(てんに)「通」普通は『聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳』力。

「他心」(たしん)「通」『他人の心を知る力』。

「宿命」(しゆくみやう(しゅくみょう)「通」『自分の過去世(前世)を知る力』。

「漏盡」(ろじん)「通」『自分の煩悩が尽きて、今生』(こんじょう)『を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力』。

「聲聞」(しょうもん)はサンスクリット語の「シュラーバカ」(「声を聞く者」の意)の漢訳語。「教えを聞く弟子」の意。ジャイナ教でも同じ意味で用いる。仏教では元来、ブッダの教えを聞いて修行する出家・在家の仏弟子を意味したが、後代になると、教団を構成する出家修行者のみを指すようになった。大乗仏教では、「縁覚(えんがく)」・「菩薩」と共に「三乗」の一つ。釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子。「縁覚」・「菩薩」に対しては、仏の教説によって四諦(しだい)の理(苦・集・滅・道)を悟り、阿羅漢になることを究極の目的とする仏弟子。しかし、その目的とするものが個人的解脱に過ぎないことから、大乗仏教の立場からは小乗の徒として批判される様態である(複数の辞書記載を綜合した)。

「緣覺」サンスクリット語プラティエーカ・ブッダ(「独りで覚った者」)の漢訳語。「独覚(どっかく)」とも訳し、また、「辟支仏(びゃくしぶつ)」という音訳語も用いられる。仏の教えに拠らず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者を指す。縁覚の観念は、もとはインドに実在した隠遁的な修行者(仙人)に由来するもので、仏教外のジャイナ教でもこの名称を用いている。仏教に取り入れられてからは、仏と仏弟子との中間に位する聖者と見做されようになった。大乗仏教ではやはり小乗の立場を表わすものとされ、大乗の立場を表わす「菩薩」より劣るが、他方、この三乗すべてが一乗(一仏乗)に帰すことも強調されている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「毘那耶疏」(びなやしょ)の「毘那耶」はサンスクリット語「vinaya」の漢音訳。「律」と訳す。比丘・比丘尼に関する仏が制定した禁戒を指す。漢訳されたものに「四分律」・「五分律」・「十誦律(じゅうじゅりつ)」・「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」の四つがある。「疏」は経典への注釈(書)。

「東邦聖書」「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)。「一」に既出既注。以下の指示原文は英文サイトのここにあるものと思われるが、語学力なく、小泉八雲の指す「不思議な記」は私には読めない。]

 

 かくの如く一生ばかりでなく、無數の生、――一つの世界ばかりでなく、數へきれぬ世界、――自然の快樂ばかりでなく超自然の快樂、――人格ぱかりでなく神格――を抛棄する事は、寂滅と云ふ哀れな特權のためではなく、極樂が與へる物にも遙かにまさる特權のためである。それは相對から絕對へうつる事、――凡ての精神的及び肉體的のまぼろしが消えて全能全知の無色の光明に入る事の意味である。しかし佛敎の臆說では、短い人生の生れ變りや境遇を一度記憶する事ができたら、それが永存性と有する事、――諸佛は凡て一であると敎へてゐながら、涅槃に入つて居る諸佛も一々識別のできる永存性のある事について幾分暗示を與へて居る。どうしてこの一元論と涅槃に入つた者が、希望によつては下界の人性を再び取る事ができると云ふ色々の證言とを調和させる事ができよう。この點に關して『妙法蓮華經』に甚だ著しい文句がある、たとへば多寳如來が『玉座の上に全く滅して』坐り、そして『千萬億阿僧祇劫の間全く入滅してゐたが、今この妙法を聽きに來た大聖』として大聽衆に紹介されて、その前で話す事になつて居る。これ等の文句は統一のうちに多樣性があると云ふ謎を私共に與へて居る、それは多寳如來及び同時に現れた無數の他の入滅した諸佛はそのただ一人の佛の化身であると云はれるからである。

[やぶちゃん注:「多寳如來」ウィキの「多宝如来」によれば、『サンスクリットではプラブータ・ラトナ Prabhūta-ratnaと言い、「多宝」は意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊(一塔両尊)にしたりする』。「法華経」の「見宝塔品第十一」には、『多宝如来は、過去仏(釈尊以前に悟りを開いた無数の仏)の』一『人であり、東方無量千万億阿僧祇(あそうぎ)の宝浄国に住するという(「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」というほどの意味)。中国、朝鮮半島、日本を通じて多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに』二体一組で『表される場合がほとんどである。釈迦如来と多宝如来を一対で表すのは、法華経の第』十一『章にあたる見宝塔品(けんほうとうほん)の次の説話に基づく』。『釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった』。『この説話に基づき、釈迦如来と多宝如来を一対で造像したり』、一『つの台座に釈迦如来と多宝如来が並んで坐す並坐像(びょうざぞう)が作られた』とある。]

 この調和は多元的一元論と云はれる臆說によつてできよう、――卽ち獨立であつて、しかも互に相たよる[やぶちゃん注:「頼る」。]意識の群、――或は物質の言葉で純粹な精神の事を云へば、原子的精神究極からできて居る單一實在の臆說である。この臆說は、佛敎の文句には敎理的には述べてないが、本文にも註釋にも明瞭判然と含畜されて居る。佛敎のの一である事はヱーテルが一であるのと同じである。ヱーテルはいくつかの單位の集合としてのみ考へられる註一

[やぶちゃん注:「ヱーテル」“ether”。古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。

 以下の注は改行を入れて非常に長い。]

 

註一 この見地はハルトマンのと非常に違つて居る、ハルトマンは「個體の多元態は凡て現象論の範圍に應ずる」と云ふ(英譯第二卷、二三三)讀者はむしろガルトンの思想を想ひ出す。ガルトンの說では、「人間は自分自身よりも遙か高い生活の發現に、多少無意識に貢獻する事がある、――複雜なる動物の個體的細胞はもつと高い種類の人性の發現に貢獻するやうに」(「遺傳の天才」三六一)今引用した書物の同じペーヂに出て居るもう一つの思想はもつと佛敎槪念を強く暗示して居る、――「私共は銘々の人間を、超自然的に自然の中へ加へられた物と考へてはならない、むしろすでに存在してゐたが、新しい形となつて以前の狀態の一定の結果として、 分離したものと考へねばならない。……私共は又「個體」と云ふ言葉にだまされてはならない。……私共に銘々の個人を兩親から全然別にならないものとして、――不可知の無際限の大洋に於て、普通の狀態によつて上げられ、形成される波として、見るべきである」

[やぶちゃん注:「ハルトマン」前に注で掲げた「生の哲学」・新カント派・ユングなどに影響を与えたドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン (Karl Robert Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)。この、

“all plurality of individuation belongs to the sphere of phenomenality.”

という引用は、調べたところ、彼の代表作「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten :一八六九年)を、イギリス在住の哲学者で翻訳家のウィリアム・チャタートン・クープランド(William Chatterton Coupland 一八三八年~一九一五年)が、一八九〇年に分冊(全三巻)で英訳した“Philosophy of the unconscious, speculative results according to the inductive method of physical science”(「無意識の哲学――物理的科学の帰納的方法に拠る推論的帰結」)のVolume 2の、ここ(“Internet archive”の英訳本同書の当該ページ。右ページの下から九行目)である。

「ガルトン」イギリスの人類学者・統計学者・探検家で、初期の遺伝学者として知られるフランシス・ゴルトン(Francis Galton 一八二二年~一九一一年)。母方の祖父は医者で博物学者のエラズマス・ダーウィンで、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンは従兄に当たる。

「遺傳の天才」“Hereditary Genius”(「遺伝的天才」)はゴルトンの一八六九年の著書。彼は一八八三年に「優生学」という言葉を初めて用いたことで知られており、本書の中では「人の才能がほぼ遺伝によって受け継がれるものである」と主張している。引用の、

 human beings“may contribute more or less unconsciously to the manifestation of a far higher life than our own,—somewhat as the individual cells of one of the more complex animals contribute to the manifestation of its higher order of personality.”

というのは、同書のGENERAL CONSIDERATIONS”(「一般的考察」)の掉尾(“Internet archive”の英訳本同書の当該ページ。左ページの最終文)である。]

 讀者に佛敎の臆說では涅槃には個性をも人性[やぶちゃん注:「じんせい」。ここは原文は“individuality or personality”であるから単に「人格」の意。]をも含蓄してゐない、ただ單に實體、――私共の言葉の意味で、精神體ではなく、ただ聖い意識だけ、――を、含蓄して居る事も記憶せねばならない。聖い精神と云ふ意味の「心」は、こんな實體を表はす言葉として日本の書物に使用される。たとへば「大日經疏」にこんな文句がある、――「の種子[やぶちゃん注:「しゆうじ(しゅうじ)/しゆじ(しゅじ)」。]が全く燃えつくして滅絕した時、その時眞空の佛心が得られる(佛敎の形而上學では、實體の高い狀態を說明する時にも「空性」[やぶちゃん注:「くうしやう(くうしょう)」。]と云ふ言葉を使用する事を云つて置く)「大藏法數」[やぶちゃん注:「だいざうほつす(だいぞうほっす)」。]の第五十一卷から取つたつぎの文句も亦興味があらう、――「經驗によつて如來は凡ての形、――宇宙の塵の粒程數へられない無數の形、――を有す。……如來は自ら欲する所へ、或は人の欲する所へ生れ出て、そこで、――生死の大海の上で凡ての衆生を濟度する。どこででも住むところ、見出せば、そこで體現する、これを意生身[やぶちゃん注:「いしやうしん(いしょうしん)」。]と云ふ……佛はをその體として、空間のやうに、淸靜のままである、これを法身と云ふ」

[やぶちゃん注:「大日經疏」(だいにちきやうしよ(だいにちきょうしょ))は仏典「大日経」(全七巻。大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来(=大日如来)が自由自在に活動し、説法する様を描いた経典で、第一章が教理であって後は実践行の象徴的説明となっている)の初めの六巻三十一品に対する注釈書。インド僧で来唐した善無畏(ぜんむい)は七二四年から翌年にかけて「大日経」を漢訳したが、その際、合わせてその内容を解説したものを、筆記者であった一行(いちぎょう 六八三年~七二七年)が筆記して二十巻とした。その一部には一行自身の天台的解釈を混入してはいるが、本邦の真言宗(東密)に於いては「大日経」を学ぶ上での唯一絶対の権威書として、古来より尊重されて書である(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「空性」仮象としての総ての存在には、それだけでは個別に存在し得る自性(じしょう)は内在しないことを知ることというような意味であろう。

「大藏法數」中国、明代の仏教書。七十巻。寂照の編著。勅命によるもので、仏教の名数の一から八万四千まで全四千六百八十五項目が並べられる。「第五十一卷から取つたつぎの文句」というのは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像)の右ページの五行目に「意生身」が現われ、前後するが、その後に「大海」の比喩が出、「淸靜」と「法身」もあって、その間に「虛空」(=「空間」)も出る。前の「經驗によつて如來は凡ての形、――宇宙の塵の粒程數へられない無數の形、――を有す。……如來は自ら欲する所へ、或は人の欲する所へ生れ出」ずるというようなことも、その前のページにそれらしい(全読解は出来ないので、あくまで「らしい」である)ことが書かれているように読める。

 以下、「註」が終わって本文に戻る。]

 

は(日本の敎理のどの綜合的試みに隨つても)諸佛から成立した物としてのみ會得される。しかしここで讀者は、西洋の哲學者がこれまで進んで來た思想の門以上に進んで來た事を考へる。一切は一である、――銘々は結合して一切と同一になる。私共は究極の實在は意識ある者の無數の單位から成立して居る事を想像する事を命ぜられるのみならず、――又銘々の單位が永久に外のどの單位とも同一で、又將成態[やぶちゃん注:読み方と意味は私の後注を見られたい。]に於て無限である註二を信ずるやうに命ぜられて居る。凡ての生物の中心の實在は眞のである、それを取り圍む見える形と、考へる我とは業に過ぎない。佛敎は私共の物理學上の原子說の代りに、精神的單位の宇宙と云ふ臆說をもつて末たと云つても多少の道理があらう。それは私共の物理學的原子說を當然非難してはゐないが、こんな言葉で表はせるやうな地位を取つて居る、『諸君が原子と云ふ物は實は結合物、全然無常不確實な集合體であるから、全然實體ではない。原子はただである』そしてこの見方は暗示的である。私共は本質や運動の究極の性質については全然知らない、しかし私共は知られたる物は知られざる物から進化して來た事、私共の元素の原子は結合物である事、それから私共が物質と勢力と呼ぶ物は單一にして無限の不可知の實在の種々の現れに過ぎない事の科學的證據をもつて居る。

 

註二 この佛敎思想の半分はテニスンの句に實際現はれて居る、――

「原子に於て、内部へ無限に、全體に於て、外部へ無限に」

[やぶちゃん注:「私共は究極の實在は意識ある者の無數の單位から成立して居る事を想像する事を命ぜられるのみならず、――又銘々の單位が永久に外のどの單位とも同一で、又將成態に於て無限である事を信ずるやうに命ぜられて居る」この太字(底本は傍点「ヽ」)を誤植と考える方がいるかもしれぬが、正しいのだ。ここの原文は、

We are not only bidden to imagine the ultimate reality as composed of units of conscious being,—but to believe each unit permanently equal to every other and infinite in potentiality.

と「and infinite in potentiality」だけが斜体となっているのである。但し、訳は、

   *

、「將成態に於て無限である事」を信ずるやうに、命ぜられて居る。

   *

ぐらいにして欲しかった。さて、「將成態」であるが、仕方ないが、これはルビもない以上は「しやうせいたい(しょうせいたい)」と読まざるを得ないと私は思う。そんな熟語は日本語にはない。ただ、これは訓読すれば「將(まさ)に成らんとする(狀)態」と読めることは判る。さすれば、英語原文の「infinite in potentiality」を考えて見れば、意味が一致は、する。則ち、「可能性としての無限であるという様態であること」を、信ぜよ、と命ぜられているというのである。……いや……しかし……流石に……この「将成態」の造語はひど過ぎる……と……私は思いますがね……田部先生!?!

「テニスン」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。美しい韻律と叙情性に富んだ作風により、日本でも愛唱されたが、小泉八雲も好きな詩人であったようで、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」』の冒頭にも引いている。引用は“Boundless inward, in the atom; boundless outward, in the Whole.”であるが、これは、一八三五年に創られ、一八四二年に詩集「Poems」で公開された、物語詩の失恋の長詩である“Locksley Hall ”(ロックスリー・ホール:英文ウィキにはこの詩の独立したページ「Locksley Hallがある。全篇は英文サイトのこちらを参照)の、一八八六年に創った続篇“Locksley Hall  Sixty Years After”の第一パートの末尾の一連(全篇は英文サイト(前のリンク先とは別)のこちらを参照)、

Sent the shadow of Himself, the boundless, thro' the human soul;

Boundless inward, in the atom, boundless outward, in the Whole.

の後半である。ここだけ訳しても意味なかろうが、

彼自身の影へと、その無限の魂へ――人としての魂を通して――送った……

無限の内界へ、原子の中へと、無限の外界へ向かって、全(すべ)てへ。

か。平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の注では、引用部を『微塵は内に限りなく、全』(すべて)『は外面(とのも)に限りなし』と訳しておられる。……いい訳だな……文学だな……詩だな……]

 

 不思議な佛畫がある、一見したところでは外の日本の繪のやうに熟練なる筆の思ひ切つた運びでできて居るやうだが、丁寧に檢査すると、もつと遙かに不思議な風にできて居る事が分る。その姿、その容貌、そのころも[やぶちゃん注:「衣」。]、その後光、それから背景、霞や雲の色や見映[やぶちゃん注:「みばえ」。]までも、――悉く調子や線の微細な點までも、顯微鏡的な漢字の集合でできて、――位地に隨つて着色し、光と影の必要に應じてその濃厚を異にしてある。要するに、この繪は全部經文でできて居る、卽ち微細な文字の寄木細工(モザイツク)である、――その一字づつもいくつかの畫(かく)の結合で、聲と意味とを同時に表はして居る。

 私共の宇宙はそんな風にできて居るのだらうか、――想像のできない親和力によつて性質と形狀を有するやうになつた單位の結合の結合の結合の結合でのみでき上つた際限のない幻影であらうか、――今は濃い影になつて密集したり、今は戰慄する光と色とになつて震へたり、――いつでもどこででも或洪大なる技術によつて兩極性のある一つの大きな寄木細工(モザイツク)になるやうに集められるが、それでも銘々の單位がそれ自身で不可解な複雜物であり、そしてそれ自身又象徵であり、文字であり、無限の謎の解けない文句の單一なる文字であると云ふやうにできて居るのであらうか。……化學者と數學者に尋ねて見よう。

[やぶちゃん注:これは小泉八雲が夢想した、拡大しても拡大しても文字が見える幻想の無限の曼荼羅であろう。]

2019/12/03

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「三」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       三

   『須菩提、もし我、我相か、人相か、
    衆生相か、壽者相かを有すとせば、
    我又瞋恨の念を有するならん。……
    色、聲、香、味、觸を信ずる者は布
    施すべからず』――『金剛經』

[やぶちゃん注:これは「金剛経」の「離相寂滅分第十四」の、

   *

須菩提、如我昔爲歌利王割截身體、我於爾時、無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。何以故、我於往昔節節支解時、若有我相、人相、衆生相、壽者相、應生瞋恨。須菩提、又念過去於五百世作忍辱仙人、於爾所世、無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。是故須菩提、菩薩應離一切相、發阿耨多羅三藐三菩提心。不應住色生心、不應住聲、香、味、觸、法生心、應生無所住心。若心有住、則爲非住。是故佛說、菩薩心不應住色布施。須菩提、菩薩爲利益一切衆生、應如是布施。如來說、一切諸相、卽是非相。又說、一切衆生、卽非衆生。

   *

が元であろう。「瞋恨」は「しんごん」で、「瞋」(自分が蔑(ないがし)ろにされた」という自己愛憤怒から生ずる憎悪・嫌悪)から「恨」(他者を怨み続けること)は生まれる。最後の部分は果敢ない眼前の現象に囚われた布施はしてはならないことを言う。]

 

 自覺した自我の無常であると云ふ敎理は、佛敎哲學の最も著しい物であるのみならず、又道德的に最も重要なる物の一つである。恐らくこの敎の倫理的價値は未だ西洋の哲學者によつて正しく評價されてゐない。どれ程人類の不幸は、直接間接にこれと反對の信仰によつて、――安定性の物があると云ふ迷によつて、――性格、境遇、階級、信條の區別は不變の法則によつて定められると云ふ迷によつて、――それから變らない、不朽の、感覺ある靈魂が神の氣まぐれで無窮の福か或は永遠の火かに運命が定められると云ふ迷によつて、――起されたであらう。疑もなく永久の憎惡によつて動かされる神の觀念、――不變の狀態に定められる永久不變の實體のある靈魂の觀念、――償ふ事のできない罪と、終る事のない罰の觀念は、以前の社會進步の半開狀態では價値がないわけでもなかつた。しかし私共の未來の進化のうちには、これ等の槪念は全然なくなるべき物である、そして西洋と東洋との思想の接觸によつて、これ等の槪念の衰亡の速度が增すと云ふ好結果になるであらう。これ等の槪念によつて起つた感情が殘つて居る間は、本當の容赦の念、人類同胞の感、博大なる愛の眼ざめがあり得ないだらう。

 それに反して、恆久、有限的安定性を認めない佛敎、一時的現象としての外は、性格や階級や種族の差別を認めない、――否、神と人との相違をさへ認めない――佛敎は、根本的に容赦の宗敎である。阿修羅と天人は、同じのただ變化ある發現に過ぎない、――地獄と極樂はただ永久の平和に達する旅の一時の休み場に過ぎない。凡ての人類に取つてただ一つの法則、――不變の神聖なる法則があるだけである、――その法則によつて最低の者が最高の者の場所に上らねばならない、――その法則によつて最惡の者が最善の者にならねばならない、――その法則によつて最も卑しい者も佛にならねばならない。こんな敎法には偏見の餘地も憎惡の餘地もない。愚痴だけが誤りと苦みの源となる、そして凡ての愚痴は自我の解體によつて、結局無限の光明のうちに消散すべき物である。

 

 たしかに私共が永久の人格、銘々に一つの化身だけの古い敎理を固執するうちは、今存在するやうな宇宙には何の道德的敎訓をも見出す事はできない。現代の知識は宇宙の行程に何等の正義をも發見しない、――私共に對して倫理的奬勵のために、提供してくれる精精のところは、その不可知力は單なる惡意の力ではないと云ふ事だけである。ハックスレイを引いて云へぱ、『道德的でもない、ただ單に無道德的』である。進化論的科學は、分散しない人格と云ふ觀念と一致するやうにはならない、そして私共は精神的發達及び遺傳の敎理を受け入れるとすれば、私共は又個體的解散の敎及び不可解の宇宙の敎をも又受け入れねばならない。それは又、實際、人間の高尙な能力は努力苦痛によつて發達した物である事、それから長く續いて、そのやうに敍述する事を私共に敎へて居る、しかしそれは又進化につぐに必ず解散がある事、――發達の頂上は同時に又退步の始まる點である事を敎へる。そしてもし私共は銘々皆單に死滅すべき種類の物、――草や木のやうに死滅すべき運命の物であるとすれば、――私共は未來を稗益[やぶちゃん注:「ひえき」。助けとなり、役立つこと。]するために苦しんで居ると云ふ證言に於て、どんな慰安を見出す事ができよう。私共が比較的不幸な境遇に生れて死ぬ事しかできない場合に、一萬年代も經たら、人類が多少幸福になれるかどうかの問題は、どうして私共の氣にかかるやうな事にならうか。或はハックスレイの反語を借りて云へば、『これから數百萬年後に、自分の子孫のうちで、ダービー競爭で勝つのがあると云ふ事實で、どんな償ひをイオヒッパスの馬譯者註がその悲哀に對して得られよう』

 

譯者註 北米、ニユメキシコ州のイオシーン河近傍から發堀[やぶちゃん注:ママ。]された骨から推定して世界最古の馬の一族となつて居る物。

[やぶちゃん注:「ハックスレイ」ダーウィンの進化論を支持して「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名でもって知られたイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。但し、自然科学者としての彼は、事実はダーゥインの自然選択説よりも、寧ろ、唯物論的科学を志向しており、参照したウィキの「トマス・ヘンリー・ハクスリー」によれば、『ダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)』とある。引用は孰れも“Evolution and Ethics”(「進化と倫理」。一八九三年刊。Project Gutenberg”のこちらで原文全文が読める)の“INTRODUCTORY ESSAY”の冒頭にある“THE STRUGGLE FOR EXISTENCE IN HUMAN SOCIETY”(「人類社会に於ける存在の闘争」。一八八八年)の一節である。

「イオヒッパス」Eohippus。エオヒップス。哺乳綱 ウマ目ウマ科 Equidae の絶滅化石属であるヒラコテリウム属 Hyracotherium のシノニム。始新世(新生代第二期の約五千六百万年前から約三千三百九十万年前まで)に北アメリカ大陸及びヨーロッパ大陸に棲息していた哺乳類。現生するウマ科動物の最古の祖先と考えられている。和名は「アケボノウマ」。ウィキの「ヒラコテリウム」によれば、最初の発見は一八三八年で、アメリカではなく、イギリスのサフォーク州の河畔で、歯の化石のそれとする。

「イオシーン河」綴りは「Eocene」ではないかと思われるのだが、位置不明。ただ、「Eocene」は、これ、「始新世」の英語なんだけど?]

 

 しかし宇宙の行程も、佛敎徒のやうに、凡て實在は唯一である、――人格は眞如をかくす迷に過ぎない、――『我』及び『汝』の凡ての差別は、滅すべき感覺から織り出したまぼろしの幕である、――私共の小さい感官に現れた時間と場所も空しい影である、――過去現在未來は正にである――と考へて見る事ができたら、全く別種の樣子を示すだらう。ダービー競馬の勝利者がイオヒッパスであつた事を記憶する事が充分できるとしたらどうだらう。一度人間であつた生類が生死の凡ての幕を通して、進化の進化を悉く返して、無情から有情への第一のかすかな發生の時までも、囘顧する事ができたら、――闍多伽(じやたか)(本生譚)[やぶちゃん注:前者はルビ、後者は本文。但し、後者は田部氏の意訳添えである。]の佛のやうに、その無數の化身の經驗を記憶してゐて、それを別の阿難陀のためにお伽噺のやうに物語る事ができたらどうだらう。

[やぶちゃん注:「闍多伽(じやたか)(本生譚)」“Jatakas”。「ジャータカ」(Jātaka)の漢音写。仏教での「前世の物語」「本生譚(ほんしょうたん)」。釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語集。十二部経の一つで漢訳は「本生経」。

「阿難陀」阿難に同じ。Ānanda(アーナンダ)。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歓喜」「慶喜」とも記される。但し、言うまでもないが、ここは仏教史での実在したとされる彼個人ではなく、別な時空間での彼に相当する人物の意である。]

 私共は形から形へと變る物はでは無く非我――あらゆる現象の背後にある一つの眞如――である事を知つた。涅槃に達せんとする努力は眞と僞、光明と暗黑、肉慾的と超肉慾的との間の永久の爭である、そして究極の勝利は精神的及び肉體的個性の全き解體によつてのみ得られる。自我の征服は一囘では充分でない、幾百萬の自我は征服されねばならない。卽ち僞りのは無數の時代の構成物で、――宇宙のさきまでも續く活力を有して居るからである。一つの蛹(さなぎ)を破壞して四散すれば、それが一々新しい蛹となつて現れる、――事によればもつと稀薄な、もつと透明なかも知れないが、同じやうな感覺的材料で織つた物、――無數の生命から遺傳した煩惱、激情、慾望、苦痛、及び快樂からが織り出した精神的及び肉體的織物が現れる。しかし何が感ずるのであらう、――まぼろしか實體かどちらだらう。

 自我意識の凡ての現象は誤りの自我に屬する、――しかしただ生理學者が云ふやうに、感覺は、感覺の說明をしない感覺傳通機官の產物に過ぎない。生理的心理學に於けると同じく佛敎に於ても、二つの感ずる實體の本當の敎はない。佛敎では唯一の實體はである、そしてこの實體に對して、僞りの自我は、それによつて正しい知覺が橫に曲げられ歪められる中間物、――そのうちに、そしてそのために感情と衝動が可能になる中間物の關係になる。無制限のは凡ての關係から離れて居る、私共の所謂苦痛や快樂をもたない、『我』と『汝』の相違、場所や時の差別を知らない。しかし人性の煩惱によつて制限されると、苦痛や快樂に氣がつく事は、丁度夢みる人が彼等の不實在的な事を意識しないで不實在を認めるやうである。自我意識に關する快樂苦痛及び凡ての感情は幻想である。誤りの自我は眠りの狀態が存在するやうにのみ存在する、そして感情、欲望、それから凡ての悲哀と激情はその眠りの幻影としてのみ存在する。

[やぶちゃん注:前段が「慾望」で、ここで「欲望」なのはママ。こういう差別化するのでもないただの訳語の文字の不統一というのは、電子化していて甚だ不愉快なことである。]

 しかし私共はここで科學と佛敎の分岐點に達する。現代の心理學は種族と個人の經驗を通して進化論的に發達しない感情を認めない、しかし佛敎は不死にして神聖なる感情の存在を信ずる。佛敎はこのの狀態に於て、私共の感覺、知覺、觀念、思想の大部分はまぼろしの自我にのみ關係して居る事、――私共の精神生活は利己主義に屬する感情欲望の流れと殆ど同樣である事、――私共の愛と憎、希望と恐怖、快樂と苦痛は迷である事を宣言する、――しかし又私共の知識の程度に應じて私共のうちに多少かくれてゐて、誤りの自我とは關係のない、そして無窮である高尙な感情があると宣言する。

 

註 「快樂と苦痛は觸から起る、觸がなければ起らず」――「阿吒婆拘」一一。

[やぶちゃん注:「阿吒婆拘」原文“Atthakavagga”。「阿吒婆拘鬼神大將上佛陀羅尼神呪經(あたばくきじんだいしょうじょうぶつだらにきょう)」のことか。「密教部(大正蔵)」に所収する。「漢籍リポジトリの「阿吒婆拘鬼神大將上佛陀羅尼神呪經――失譯」を見るに、

   *

如是等所觸惱者。所侵損者悉得除滅。

   *

がそれか。]

 

 科學は快樂と苦痛の究極の性質を不可解と云ふが、その無常の性質について佛敎の敎ふるところを幾分確かめて居る。兩方とも感情の第一要素でなく、むしろ第二の要素に屬するやうである、兩方とも進化、――本當の快樂も本當の苦痛もなくて、ただ極めてぼんやりした鈍い感情しかなかつた原始的狀態から、幾十億の生命の經驗を通して、發達した感覺の種類――であるやうに思はれる。進化が高ければ高い程苦痛が多く、凡ての感覺の量も一層多くなる。平均狀態が達せられたあとで、感情の量が減少し始める。美妙なる快樂と鋭敏なる苦痛は先づ消滅するに相違ない、それから次第にもつと複雜でない感情が、その複雜の程度に應じて消滅する、遂に凡て冷却して行く行星[やぶちゃん注:「かうせい」。「恒星」の同じ。]のうちに、最も下等な種類の生命にもあり得べき最も單純なる感覺も殘らなくなるだらう。

 しかし佛敎徒に隨へば、最高の道德的感情は人種や日月宇宙よりも長く生きる。粗野な性質の人に不可能な、純粹に無我の感情はに屬する物である。貴い性質の人には、その神聖なる分子は感覺を生じて來る、――煩惱の殼のうちに動いて來る事は丁度胎内で胎兒が動くやうである(それで煩惱の事を胎藏界如來の胎内〕と云ふ)もつと高い性質の人に取つては、自我的ではない感情は强く現れて出る、――まぼろしの自我の中から輝く事は丁度光明からの器を貫いて輝くやうである。個人よりも大きい純粹な無私の愛、――絕大の同情、――完全なる博愛はこれである。これ等の感情は人間の物でなく、人間のうちの佛の物である。これ等の感情が增大すると共に、自我の感情は悉くうすくなり弱くなり始める。まぼろしの自我の狀態は同時に淨化する、心の蜃氣樓のうちにの實體を暗くした不透明體は明くなり始める、そして無限の感覺は、光の戰慄のやうに、個性の夢を通つて神聖なる覺醒の方へ行く

 

註 「一切縛着の苦惱を解脫して究竟の樂を得るを大般涅槃[やぶちゃん注:「だいはつねはん」。]となす。癡愛[やぶちゃん注:「ちあい」。対象への盲目的な貪愛。的確な判断を失わせる執着心のこと。]等の心相悉く滅すればなり。癡愛の心相滅するが故に心性顯現して無量の德相を具へ難思の業用を示現す」。――黑田「大乘佛敎大意」

[やぶちゃん注:「胎藏界」(たいざうかい(たいぞうかい))は密教で説く二つの世界の一つ。大日如来の広大無辺な智慧を表象する「金剛界」の対で、こちらは大日如来の宇宙万物不変の本性である「理性(りしょう)」の面を表象する時空間を指す。仏の菩提心が一切を包み込んで育成することを「母胎」に喩えたもので具体的には蓮華によってシンボライズされる。

『黑田「大乘佛敎大意」』は「二」で既出既注。引用原本の「第二 解脱涅槃」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。]

 

 しかし眞理を求むる普通の人に取つては、この自我を淸淨にして、最後にそれを解體せしむる事は名狀のできない精進不退轉によつてのみできるのである。このまぼろしの個性は、ただ一生の間だけ續くが、それが天賦の性質の總計から、及びそれ自身の特別の行爲と思想の總計から、それに續く新しい結合、――新しい個性、――無我ののために新しい煩惱の牢獄を造るのである。名と形としては、誤りの自我は消散する、しかしその衝動は生き永らへて、再び結合する、そしてそれ等の衝動の最後の破壞――それ等の無形の活力の全滅――は幾十億の世紀を通して長い努力を要する。たえず燃えつくした激情の死灰の中から一層微妙な激情が生れる、――たえず煩惱の墓から新しい煩惱が生ずる。人間の激情のうちで最も强い物が最後まで殘る。それは超人間界までも遙かに押しよせる。その粗野な形が消え去つても、その偏向はやはりもとはそれから出たり、或はそれに織り込まれたりした感情、――たとへば美の感覺、及び美はしい物に對する心の喜悅、――に潜んで居る。下界ではこれは高尙な感情のうちに入れてある。しかし脫俗の境にあつては、この感情に耽る事には危險が伴ふ、觸れる事見る事は肉欲の束縛の鎖が切れたのを再び直す事にもならうから。兩性の凡ての世界以外に、そのうちで思想と記憶が觸知し得べき見らるべき客觀的事實となり、――そのうちで情緖的想像が實體になり、――そのうちで極めてつまらない願も創造的になると云ふ不思議な區域がある。

 

註 業の敎理が偏向の遺傳に關する現代科學の敎と幾分合致するのは、性格のこの傳播と永續の問題についてである。

 

 この大きな巡禮の道の大部を通して、それから欲望の凡ての地帶に於て、抵抗の精神的の强さに應じて、誘惑が增加すると西洋の宗敎的語法では云はれよう。續いて上るに隨つて、娛樂の可能性が更に加はり、力が增大し、感覺が高まる。自己征服の報酬は非常に大きい、しかし誰でもその報酬を得ようとして努力するのは空虛を得ようとして努力する事になる。人は快樂の境遇として天ど望んではならない、天の樂みにする誤りの思想はやはり肉欲のいひもで結ばれると書いてある。人は神や天使となる事を願つてはならない。『比丘よ、「この德によつて私は天使にならう」と考へて如何程宗敎生活をやつても、その人の心は熱心、忍耐、努力の方へは傾かない』と世尊は云つた。福德を得た人の義務を最も明瞭に敍述した物は『金光明最勝王經』に出て居る物である。この大王はありとあらゆる富と勢力を所有するやうになつてから、快樂を遠ざけ、榮華を賤しみ、『諸神の美』を授けられた女王の愛を拒んで、彼女自身の脣で、彼が彼女を遠ざけるやうに彼女から彼に賴ませる。彼女は從順に、しかし自然の淚を流して、彼に從ふ、そして彼は直ちに存在しなくなる。德の力で得た賞與をこんなにして拒否するのは、更に一段高い境遇の生類に、更に幸福に生れ變るやうな助けになる。しかしどんな境遇も望んではならない。涅槃が達せられるのは涅槃に對する願その物がなくなつてからである。

[やぶちゃん注:「金光明最勝王經」四世紀頃に成立したと見られる仏教経典の一つで、大乗経典に属し、本邦では「法華経」・「仁王経」とともに「護国三部経」の一つに数えられる「金光明経」(Suvarṇa-prabhāsa Sūtra:スヴァルナ・プラバーサ・スートラ:「スヴァルナ」(suvarṇa)は「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)は「輝き」で「黄金に輝く教え」の意)に、唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに加えて漢訳したもの。]

 

 そこで今度、私は佛敎の實體學の最も空想的なところへ少し入つて見よう、――そのうちに述べてある心的進化論の一通りの多少明瞭な槪念がないと、この敎理の暗示的價値が正しく判斷されない。たしかに私は讀者に、人間の知識で可能な究極の境以上に存在する物に關する說について考へて貰ひたい。しかし人間の知識の範圍内で硏究され調べられたところでは、佛說はどの外の宗敎的臆說よりも、よく科學的の意見と合致する事が發見される、そして佛說の或物は、現代の科學的發見の不思議な豫想である事が分る、――それ故私共自身の信仰よりも、遙かに古い信仰、そして最も博く發展した十九世紀の思想と遙かによく調和する事のできる信仰である事をただ想像するだけでも、尊敬すべき考慮の價値があると要求する事が不道理に見えるだらうか。

[やぶちゃん注:私は最終段落の小泉八雲の見解に激しく賛同する。しかし、その科学という倫理なき野蛮な増長慢が、科学技術の名に於いて暴走し、遂には人類を滅ぼすに至るまでにになってしまうことは、恐らくは小泉八雲先生は、予想されておられならなかったかとも思う。いや――それも見かけ上の生成と消滅の僅かな瞬時のことであってみれば――八雲先生はちょっと淋しく……いつものように……黙って……目を落とされるだけであろうか…………]

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       

   『世尊に申す、我相の觀念は觀念にあ
    らず、人相、衆生相、壽者相の觀念
    は觀念にあらず。その故は、尊き佛
    菩薩は一切の觀念を脫したればなり』
    ――『金剛經』

[やぶちゃん注:「離相寂滅分第十四」の最後の釈迦の台詞の掉尾部分の以下の英訳であろう。

   *

我相、卽是非相。人相、衆生相、壽者相、卽是非相。何以故、離一切諸相、則名諸佛。

   *]

 

 そこで今度は死ぬ物は何であるか、再生する物は何であるか、――過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を犯す物は何であるか、罰を受ける物は何であるか、――不幸の狀態より幸福の狀態に到る物、――自覺の絕滅のあとで涅槃に入る物、――『寂滅』のあとに殘つて、涅槃から歸る力のある物、――凡て似の感情が滅したあとで、四つの無限大の感情を經驗する物は何であるか、それを理解する事を試みよう。

[やぶちゃん注:「四つの無限大の感情」「四無量心」のこと。仏が四種の方面に余すところなく心を限りなく配ること。慈無量心(あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること)・悲無量心(あらゆる人と苦しみをともにする同感の心を限りなく起すこと)・喜無量心(あらゆる人の喜びを見て自らも喜ぶ心を限りなく起すこと)・捨無量心(いずれにも偏らない平静な心を限りなく起すこと)の四つ。]

 涅槃に入る物は感覺のある、又自覺せる自我ではない。とはただ無數の煩惱の一時の集合、空しきまぼろし、破れるにきまつて居る泡に過ぎない。それはが作つた物、――或はむしろ佛敬の人の主張するところでは、それはその物である。この意味を充分理解するためには、讀者は、この東洋哲學に於ては、行爲と思想は、物質的及び精神的現象と、――私共の所謂客觀的及び主觀的外見と――結合する力である事を知らねばならない。私共の踏む土地その物、――山と森、河と海、世界と月、要するに目に見える世界は行爲と思想の結合である或は少くとも業によつて定まつた存在である

 

註 「今我が現生は過去の業影なり。業影を執て自身と思ひ内にして眼耳鼻舌身外にして園林田宅僕婢妾。我が所有の思ひをなす。而して造業無量牽纏相引て窮極むることなし。過去の過去際を推すもその始めを知らず。……」――黑田眞洞「大乘佛敎大意」

[やぶちゃん注:黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)は仏教学者で浄土宗の僧。江戸生まれ。号は大蓮社精誉学阿。明治五(一八七二)年、東京増上寺で石井(いわい)大宣から法を享ける。智積院の弘現らに学んだ明治二十年、浄土宗学本校初代校長、明治三十年、浄土宗宗務執綱となり、宗務を刷新、宗憲を制定した。明治四〇(一九〇七)年、宗教大学(現在の大正大学)学長。「大乗仏教大意」は明治二六(一八九三)年仏教学会刊(東京)。引用はここの左ページ最終行から(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)。意味は難しくないが、ちょっと読みと読点等を附して再掲する。

   *

今、我が現生は過去の業影(がふえい)なり。業影を執(とり)て自身と思ひ、内にして眼・耳・鼻・舌・身、外にして園林・田宅・僕婢・妾、我が所有の思ひをなす。而して、造業(ざうがふ)無量(むりやう)、牽纏(けんてん)相引(あひひき)て窮-極(きは)むること、なし。過去の過去際(かこさい)を推(お)すも、その始めを知らず。

   *

この「業影」は「業」が影(=姿)となって仮に現われたものに過ぎないの意。「牽纏」は「纏(まつ)わり附くこと・付き纏(まと)うこと」で、「過去際」過去世の煩悩(=無明)の始まり。「推す」は「探す」で、前の「一」で注した十二因縁の輪廻にある通り、その煩悩は無始のものなのである。]

「草、木、土――凡てこれ等の物は佛になる」――「中陰經」

[やぶちゃん注:涅槃部経典の一つに数えられる「仏説中陰経」。竺仏念漢訳は上下二巻。全十二品からなり、七日毎に生まれ変わるという中陰の様子を印象づけたものという。]

「劔でも金屬でも精神の發現である、そのうちに凡ての力が充分に發達し完成して存する』――『祕藏寳鑰」

[やぶちゃん注:「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)は空海著。全三巻。天長七(八三〇)年頃の成立。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」(天長七(八三〇)年に淳和天皇が法相・三論・律・華厳・天台・真言の六宗にそれぞれの教義を述べた著述を朝廷に提出することを命じた際にそれに応じて空海が真言宗の教義を纏めたもの。「大日経」の「住心品」に説かれた人間の心の向上してゆく様子、則ち「心品転昇」の次第を当時存在した各宗に配当して真言宗の教判として十住心に体系化したもの。初めて開板されたのは鎌倉時代の建長六 (一二五四) 年であった)を自ら要約したもので、「十住心論」を「広論」と称するのに対して「略論」と呼ばれる。十住心の教判を立て,真言宗が一切諸教の上に立って、総てを包括するものであることが説かれてある。]

「有情と云ふも無情と云ふも、物質は法身なり」――「智勝祕疏」

[やぶちゃん注:「智勝祕疏」不詳。この手の謂いは大乗の一部で耳にすることのある説だが、ネットでこの書名の仏典は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

「顯敎では四大(地水火風)を無情として取扱つて居る。しかし密敎ではこれを三昧耶身、卽ち如來の應身と云ふ』――「卽身成佛義」

[やぶちゃん注:空海撰。これ以前の仏教では「三劫成仏(さんこうじょうぶつ)」や「歴劫成仏(りゃくこうじょうぶつ)」と称し、極めて長時空間の輪廻転生を経た結果、仏に成ることが出来ると説かれてきたのを、空海はこの書で「現在のこの身のままで仏に成ることが出来る」という意味での「即身成仏」を説いている。

「三昧耶身」は「さんまやしん」で「三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)」のこと。密教に於いて仏を表わす象徴物を指し、「三形(さんぎょう)」とも略称する。「三昧耶」とはサンスクリット語で「約束」・「契約」などを意味する「サマヤ」(samaya)から転じた語で、どの仏をどの象徴物で表わすかが経典によって、予め取り決められていることに由来する。

「應身」「おうじん」と読む。法・報・応の三身の一つ。この世に姿を現した仏身の意。広義には歴史上で悟りを成就した釈迦牟尼仏なども結果して応身である。]

「我々の心のどの形でも、佛の心と一致する時は、……その時は他界に入らない塵一つもない」――「圓覺疏」

[やぶちゃん注:唐代の僧で華厳宗第五祖の宗密(しゅうみつ 七八〇年~八四一年:四川省出身。禅と華厳とを統合した教禅一致を唱えた)の主著の一つである「円覚経疏(えんがくきょうしょ)」。正式には「円覚経大疏釈義鈔」。「円覚経」は大乗経典で一巻。唐の仏陀多羅(ぶっだたら)訳とされるが、偽経ともされる。大乗円頓(えんどん)の教理と観行(かんぎょう)の実践を説いたもの。注釈書も多い。正式には「大方広円覚修多羅了義経」。]

 

 私共が自我と呼ぶ業の我は心であり又體である、――二つとも衰へる、二つともたえず新しくなる。知られない始めから、この主觀客觀の二重の現象は代る代る分解し結合して居る、結合は生であり、分解は死である。成形か事情かで、の生死する外に、生も死もない。しかし再生の度每に、再結合は決して同一の現象の再結合ではない、――丁度生長から生長が胞子、運動から運動が起るやうに、――別に起つた結合である。それで幻影の自我は、形と事情に於て變るばかりでなく、又新しき合體と共に、實際の人格に於ても變る。一つの實在はある、しかし永久の個性、變らない人格はない、ただ幻影の自我。生と死の物すごいの上の、うねりにつぐうねりのやうな、ただまぼろしの自我につぐ自我があるだけである。そして海のあれるのでも、うねりの運動であつて、變形ではない、――動くのは波の形だけで、波その物ではない、――その通り生命の生死はただ形、――精神の形、物質の形、の出現と消散しかない。測られない實在は堤らない。『金剛般若波羅密經』に『凡ての形は眞でない、凡ての形よりも上に上る者は佛である』と書いてある。しかし體の全分解と精神の最後の消散のあとで、凡ての形の上に上る何物が殘つて居るのだらう。

[やぶちゃん注:「金剛経」の「如理実見分第五」に、

   *

佛告須菩提、「凡所有相、皆是虛妄。若見諸相非相,卽見如來。」。

(佛、須菩提に告ぐ、「凡そ有(あら)ゆる相は、皆、是れ、虛妄なり。若(も)し諸相は相に非ずと見ば,卽ち、如來を見ゆ。」と。)

   *

とある。]

 不完全なる人の誤れる意識のうしろに、――感覺、知覺、思想の向うに無意識に存在して、――私共が魂と呼ぶ物(それも宜は厚く織つてある迷の幕に過ぎない物)に包まれて、永久の神聖な物、對の實在がある、魂でも、人格でもない、ただ自我のない我、――無我の大我、のうちに包まれた佛がある。各のまぼろしの我のうちにこの聖い物が潜んで居る、しかも無數の物はただ一つである。生ある物には悉く無限の叡智が眠つて居る、――それは未だ進化しない、隱れた、未だ知られない、未だ感じない物であるが、最後にあらゆる無窮から覺めて、煩惱のすさまじき蛛巢[やぶちゃん注:「くものす」。]を拂つて、永久に肉の蛹(さなぎ)を捨てて、時間空間の最上の征服をするやうに定まつて居る。それで『華嚴經』に書いてある、『佛の子よ、如來の智慧をもたない者は一人もない。凡ての者がこれをさとらないのは、ただ迷へる思想と感情のためである。……自分は彼等に聖い道を敎へて、愚かなる思想を捨てさせ、彼等の心に潜んで居る廣大深遠なる叡智は佛自身の智慧と違つてゐない事を示さうと思ふ』

[やぶちゃん注:「華厳経」「大方広仏華厳経」のこと。サンスクリット語で書かれた完全な形の原典は未発見であるが、恐らくは四世紀頃、中央アジアで成立したものであろうとされる。謂わば、小経典を集成して「華厳経」と称したもので、最初から纏まって成立したものではなく、各章が各々、独立した経典であったと考えられている。この内、最古のものと考えられる章は、菩薩の修行の段階を説いた「十地品」で,一~二世紀頃の成立である。漢訳ではそれぞれ六十・八十・四十巻より成る「六十華厳」「八十華厳」「四十華厳」等があり、最後のものは、前二者の中の「入法界品」に相当する。思想的には、現象世界は、互いに働きかけつつ交渉し合い、無限に縁起し合うという事事無礙(じじむげ)の法界(ほっかい)縁起の思想に基づいており、菩薩行を説くことを中心としている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。以上の引用は、「華厳如来出現品」の、

   *

復た、次に佛子、如來の智慧、處として至らざることなし。何を以ての故に、一衆生として、如來の知慧を具有せざることなし。但だ、妄想顚倒執着を以て、而も證得せず。若し、妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智、則ち、現前することを得ん。

   *

後の部分は、平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳によれば(仮名遣はママ)、『我(われ)爾(なんじ)に其(そ)の道)(みち)を教(おし)へん。衆生(しゆじやう)をして煩悩(ぼんのう)を捨(す)てしめ、心(こころ)に没在(もつざい)せる深甚無量(しんじんむりれう)の智慧(ちゑ)の、よく仏智(ぶつち)に異(ことな)ることなきを示(しめ)さん』とある(私は「華厳経」の一致するフレーズを見出せなかった)。]

 

 ここで私共はこれ等の佛敎の根本的敎理と西洋の將卒の槪念との關係を考へて見よう。佛敎がこの浮幻世界の實在を否定するのは、現象としての現象の實在を否定するのではない、或は客觀的或は主觀的に現象を生ずる力を否定するのでもない事は明白である。としてのを拒否する事は全部の佛敎系統を拒否する事になるからである。眞の意味はかうである、卽ち、私共の知覺する物は決して實在その物でない、それから知覺すると雖もそれ自身不定にして煩恆の性質を有せる感情の集合の不安定な叢[やぶちゃん注:「さう」。集まり。]である。この立場は科學的には强い、――恐らく難攻不落である。本體その物については私共は全く何物をも知らない、私共は宇宙は廣大なる力の働きである事をのみ知つて居る、そしてそれ等の力の働きに現れた法則の一般相對的意味を識別しても、一切の非我なる物(外物)は、如何なる二人の人間にも決して同一ではない神經構造の振動によつてのみ、私共に現れるのである。それでもこんな變化のある不完全な知覺によつて、私共は凡ての形――凡ての客觀的或は主我的聚合物の永續性のない事七十分に會得するのである。

 實在をためす物は永存性である、そして佛敎徒はこの見ゆる宇宙に於てただ永久に流轉する現象を見て、物質的聚合物を實在でないと云つたのは、無常であるから、――少くとも、泡の如く、雲の如く、蜃氣樓の如く實在性をもつてゐないからである。それから、相對は思想の宇宙的形式である、しかし相對は永久性をもたないとすればどうして思想は永存性をもつ事ができよう。……かう云ふ見地から判斷すれば、佛敎の敎理は非實在論でなくて、眞の變形實在論である、正しくハーバート・スペンサーの言葉にそれと同じ意味がある、――『凡ての感情と思想はただ一時的であるから、――こんな感情や思想から成立して居る一生も亦同じく一時的であるから、――否、その間を人生が通過する對象も、それ程一時的てはないが、早晚、時々別々にその個性を失ふ途中にあるのだから、――私共は永久の物は凡てこれ等の變化する物の下にかくれた不可知的實在である事を知る

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。以上は、ハーバート・スペンサーの全十巻から成る「総合哲学体系」(System of Synthetic Philosophy)の第一巻の「第一原理」(First Principles:初版は一八六二年刊)の最終章「第二十四章 概括と結論」(CHAPTER XXIV.: SUMMARY AND CONCLUSION.)からと思われる(但し、一九〇〇年の改訂版か)が、実にこの部分はまさに「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(43) 大乘佛教(Ⅱ)」の終りの部分でも再度、引用されているのである。]

 

 その通り、私共の自我と云つて居る物は一時的の聚合物、――感覺的迷妄であると云ふ佛敎の敎は、――もし丁寧に調べたら、如何に眞面目な哲學者も拒否する事は殆んどできない事が分るであらう。科學的心理學者に知られたところでは、精神は色々の感情と、それから色々の感情の間の色々の關係からできて居る、そして感情は、生理學的に微細な神經の衝動と同一の簡單な感覺の單位から成立して居る。凡ての感情機官[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、同じ形態學的要素の進化的變形であるから、根本的には相似て居る、――そして凡ての感官は觸覺の變化である。或は、この上もなく簡單な言葉を使用すれば、感覺の機官――視覺、嗅覺、味覺、聽覺でも、――皆皮膚から發達したのである。人間の頭腦その物と雖も現代の組織學及び發生學の證明によれば、『その最初はただ眞皮の層の包みに過ぎない』そして思想は、生理學的及び進化論的に見れば。このやうに觸覺の變化である。視覺機官を通じて働く或振動は、頭腦のうちにその運動を起す、それによつて光と色の感覺が續いて起る、――別の振動は聽覺の構造に働いて音の感覺を起す、――別の振動は特別の組織に變化を起して、味、香、觸の感覺を起す。凡て私共の知識は、直接間接、肉體的感覺から、――觸覺から得られて發達する。勿論これは究極の說明にはならない、何故なれば何人も何がその觸覺を感ずるかを說明する事ができないからである。『形而下の物は一切又同時に形而上である』と云つたシヨウペンハウエルの言は至當である。しかし科學は充分に佛敎の立場、卽ち私共の所謂自我は凡て人種及び個人の肉體的經驗に關する感覺、情緖、感念、記憶の束(たば)である事、及び私共の不滅の願はただこの感覺的及び自己的な意識を無窮に續けたい願である事を正しく認めて居る。そして科學は、佛敎が感覺的自我の永久を否定する事にさへ加勢して居る。ヴントは云ふ、『心理學は私共の感覺のみならず、その感覺を新しくする記憶の心象も、その源は感覺と運動の機官の働きによる事を證明する。……この感覺的意識が永續すると云ふ事は經驗の事實と調和ができないやうに見えるに相違ない。そしてたしかに私共はこんな永續は倫理的要件であるかどうかを疑ふ、殊にこの永續の願が、もし成就するとしたら、堪へられない運命になりはしないかと一層疑ふ』

[やぶちゃん注:ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年)であるが、この謂いに相当する彼の哲学論文を探し得ないらしいQ&Aサイトのここの質問(消滅することが多いのであるが、今回は特異的にリンクする。何故なら、この質問者は小泉八雲の本篇の翻訳を担当していると宣うているからである。二〇〇八年十二月の質問である)の回答によれば、彼の代表作である「意志と表象としての世界」(Die Welt als Wille und Vorstellung:初編は一八一九年刊)の「続編」(一八四四年)の第二の十七章に『記述があり』、『ショーペンハウエル自体は、「学としての形而上学とは何か」と自問し』、『自然が我々に与える手がかりを解析(entziffern)し、先見性と後天性とを哲学者が主体的に明白如実な自己現象として結びつけること(芸術的創作)で成り立つと解釈してい』るとあった。しかも驚くべきことに、他の回答には――ショーペンハウアーがこう言っているなどというザレ言はまさにここで小泉八雲がかく言ったのが元凶なのだ――として、小泉八雲を糞味噌に批判している回答まで下方にあったのである。ただ、この――小泉八雲はただの「知ったかぶり」の糞だ――と指弾している人物の叙述を見たら、調子に乗って口を滑らさなけりゃいいのに――『ここ』は夏目漱石の『「坊ちゃん」の一節にヘーゲルが出てくることになぞらえて(ネタの応用・自分流に消化)ただ書いてる』だけなのだ――とまあ、有りがたくも例まで引いて鼻高々に批判しているんだが、しかし、一言、言っとくわな。「坊つちやん」は明治三九(一九〇六)年の発表だぜ? 本作品集は明治三〇(一八九七)年刊だがねぇ? 英語・哲学・日本文学に万事精通していると「知ったかぶり」しているこの回答者の程度が知れるってぇもんだぜ?!……にしてもだ……こんな質問しておいて、それをまあ恥ずかしくも晒したまま、平然と訳して、注附けて、さてもこれが万一、有料書籍として出版されているんだとしたなら……オソロシヤ! 俺は、絶対、買わねえぜ!…………【2019年12月4日改稿・追加】昨日の夕刻、何時も各種テクストの疑問箇所に御教授を戴くT氏により、

――本ショーペンハウアーの発言の引用元が発見され――示された。

T氏曰く、小泉八雲はフランス語は得意であったが、ドイツ語が読めたとは考えにくいことから、原本で読んだとは思われず、小泉八雲の引く英文そのもので調べられた由。

 その結果、これは、

「生の哲学」・新カント派・ユングなどに影響を与えたドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン Karl Robert Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)の代表的著作「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten :一八六九年)

を、

◎イギリス在住の哲学者で翻訳家のウィリアム・チャタートン・クープランド(William Chatterton Coupland 一八三八年~一九一五年)

が、

◎英訳

して、

◎一八八四年にニュー・ヨークのマクミラン社から初版を刊行した“Philosophy of the unconscious

こちらの彼の英文書誌データに拠った)

ここ(“Internet archive”の当該ページ画像。但し、これは一八九三年(ロンドン)刊の第二版)

◎“A.  THE  MANIFESTATION  OF  THE  UNCONSCIOUS  IN  BODILY  LIFE.

A 人生に於ける無意識の表明)

というパート標題の添え辞である、

   *

" The Materialists endeavour to show that all, even mental phenomena, are physical : and rightly ; only they do not see that, on the other hand, everything physical is at the same time metaphysical." — SCHOPENHAUER.

   *

末尾部分の引用であることが判るのである! 以下に小泉八雲の本文の引用部を示しておく。

   *

"Everything physical," well said Schopenhauer, "is at the same time meta-physical."

   *

但し、ハルトマンがショーペンハウアーのどのような著作から引用したのかは判らない。しかし、かくして、先のQ&Aサイトの回答の内、少なくとも出所は不明であるが、

★ショーペンハウアーの言葉としてハルトマンが「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten:一八六九年)に引用している事実

が確認された。同時に、

★同サイトの回答の一部の、おぞましい小泉八雲に対する誹謗中傷は――その悉くが――言われなき無智蒙昧の「知ったかぶり」の大嘘であることが証明された

のである。T氏に心より御礼申し上げるものである。

「ヴント」ドイツの生理学者・哲学者・心理学者で実験心理学の父と称されるヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt 一八三二年~一九二〇年)。引用は一八六三年刊の“Vorlesungen über die Menschen- und Tierseele”の英訳“Lectures on Human and Animal Psychology ”(「人間と動物の心理学に関する講義」)の一節であることが、グーグルブックスのこちらで判明した。]

2019/12/02

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“NIRVANA A STUDY IN SYNTHETIC BUDDHISM”。「ニルヴァーナ(涅槃)――包括的な仏教に就いての研究」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第九話である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とし、途中に挟まれる注はポイント落ち字で有意に字下げであるが、基本、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。章の添え辞の経の引用は六字下げポイント落ちであるが、ブラウザでの不具合を考え、同ポイントで三字下げで始め、途中で改行を施した。なお、「四」で涅槃に到る過程に相違があり、それをチャート化した図版(八図からなる)があるが、これは“Project Gutenberg”]にある英語原版のそれを挿入した上で、底本の日本語のそれを併置した。全五章であるが、一部の章が長い上、仏教用語が満載で、注をかなり附けざるをえない箇所が多いことから、分割して示す。]

 

   第九章 涅 槃

      總 合 佛 敎 の 硏 究

  

   『須菩提に告ぐ、この經典は信仰の少き者、
    ――我相、人相、衆生相、及び壽者相を
    信ずる者によつて聞かるべき物にあらず』
    ――『金剛經』

[やぶちゃん注:「金剛經」や「須菩提」は前の「小泉八雲 日本の民謡に現れた仏教引喩 (金子健二訳)」の最後の私の注を参照されたい。「我相」は「自我という観念の実在を信ずる者」、以下、「人相」は同じく「人の生命という観念の実在」を、「衆生」は「衆生という観念の実在」を、「壽者相」は「長生する人存在という観念の実在」をそれぞれ信ずる者を指し、そうした誤った認識者には、この經典を聴く資格はないというのであろう。但し、この小泉八雲の英訳は、同経に全く同義の形の完全フレーズでは出ないように思われる。幾つかの箇所を繋ぎ合わせて、成文化したものであろう。例えば、「大乗正宗分第三」の、

   *

須菩提、若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相、卽非菩薩。

   *

であるとか、「正信希有分第六」の、

   *

若取法相、卽著我、人、衆生、壽者。何以故。若取非法相、卽著我、人、衆生、壽者。是故不應取法、不應取非法。

   *

また、「究竟無我分第十七」の、

   *

須菩提、若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相、則非菩薩。所以者何。須菩提、實無有法、發阿耨多羅三藐三菩提心者。

   *

といった箇所を合成したと目されるということである。平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)も訳では、『須菩提(しゆぼだい)、‥‥是(この)諸(もろもろ)の衆生(しゆじよう)にして‥‥若(も)し法相を取るも、卽ち、我人衆生寿者(がにんしゆじやうじゆしや)に著(ぢやく)すれば‥‥是故(これゆゑ)に法(ほふ)を取るべからず。』とリーダを挟んでおられるのである。]

 

 涅槃とは、佛敎徒の心に取つて、正に絕對の無、――完全なる寂滅の意味に外ならないと云ふ疑念が歐米に今も廣く傳はつて居る。この觀念は誤つて居る。しかしそれには半分の眞理を含んで居るがために誤つて居るのである。この半分の眞理は、今一つの半分と結合しなければ、價値も興味もない、否、分りもしない。ところでその半分については普通の西洋人の頭では疑うて見る事もできない。

 實際、涅槃は絕滅の意味である。しかしこの個性の絕滅と云ふ事を魂の死と解するやうでは、私共の涅槃の槪念はまちがつて居る。或は印度の汎神敎によつて豫言されたやうに、涅槃は有限を無限に再び吸收する事と解すれば、再び私共の觀念は佛敎と無關係になる。

 けれども、もし私共が、涅槃とは個人的感覺、情緖、思想の消滅、――自覺ある個性の分散、――『我(われ)』と云ふ言葉の下に包含さるべき一切の物の絕滅の意味であると云へぱ、――それなら私共は佛敎の一面を正しく云ひ表はして居る。

 

 以上述へた事が矛盾したやうに見えるのは、ただ私共西洋の自我に關する見解から來るのである。私共に取つては自我は感情、觀念、記憶、執意を意味する、そしてドイツの唯心論を知らない人には、意識は自我ではあるまいとさへ考へて見る事もなからう。それに反して、佛敎徒は私共が自我と呼んで居る物は皆僞りであると云ふ。佛敎徒はの定義を下して、人種の肉體的及び精神的經驗によつてつくられた、――この滅すべき肉體に凡て關係して、それと共に分散すべき運命を凡て有して居る感覺、衝動、觀念のただ單なる一時的總計と考へて居る。西洋の推理から見て、あらゆる實在のうちで最も疑ふべからざる物と思はれる物を、佛敎の推理では、あらゆる迷妄のうちの最大の物、そしてあらゆる悲みと罪の源とさへ述べて居る。『心、思想、及び凡ての感覺は生死の法則に服從する。自我の知識及び生死の法則には摑むべきところも、感官を以て知覺すべき物もない。自我を知り、感覺の作用を知れば、「我」の觀念の餘地、或はその觀念をつくるべき根據はない。「自我」の思想は凡ての悲みの基となつて、――世界を鎖で縛るやうになる、しかし縛るべき「我」のない事を發見すれば、凡そこれ等の望は切斷される』

 

註 「佛所行讃經」

[やぶちゃん注:「佛所行讃經」「ブッダチャリタ」(サンスクリット語ラテン文字転写(以下同じ):Buddhacarita)。「仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)」のこと。古代インドの仏僧馬鳴(めみょう/アシュヴァゴーシャ 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)の著作とされる仏教叙事詩で、釈迦の生涯に題材を採った、二十八編の韻文から成るサンスクリットの美文体文学(カーヴィヤ:kāvya)。サンスクリット原典は前半の十四編のみが現存し、後半は散逸した。参照したウィキの「ブッダチャリタ」によれば、『馬鳴はクシャーナ朝で活躍した代表的な仏教文学者だが、本作は後の時代のグプタ朝において進められることになる仏典のサンスクリット化の先駆でもあり、また、超人的存在としての仏陀を、説話や比喩の多用で表現する仏教文学を、確立・大成した作品ともされる』。「仏所行讃」は「ブッダチャリタ」を中インド出身の訳僧曇無讖(どんむしん Dharmakṣema:ダルマクシェーマ/漢名・法楽 三八五年~四三三年)が『漢訳したもの』とある。原文に当たることが出来ない(原文ページは見つけたが、接続出来ない)ので、平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳にある当該の訓読文を恣意的に正字化して以下に示す(読みは一部に限った)。

   *

「心意及び諸根は、斯れ皆生滅の法なり。生滅の過(くわ)を了知(れうち)すれば、是れ則ち平等觀(びやうどうくわん)なり。是(かく)の如き平等觀を、是れ則ち身を知ると爲(な)す。身の生滅(しやうめつ)法(ほふ)たるを知らば、取(しゆ)無く亦受(じゆ)無し。如(も)し身(しん)の諸根を覺らば、我(が)無く我所(がしよ)無し。純一の苦の積衆(しやくじゆ)は、苦(く)生じ苦滅す。已に諸(もろもろ)の身相(しんさう)に、我無し我所無しと知らば、是れ則ち第一の、無盡淸凉處(むじんしやうりやうしよ)なり。我見(がけん)等(とう)の煩惱に、繋縛(けばく)せらるる諸の世間に、既に我所無しと見れば、諸縛悉く解脫せん。」

   *]

 

 以上の文句は甚だ明白に、意識は眞の自我ではない事、及び心に肉體と共に死ぬ事を暗示して居る。佛敎思想を知らない讀者は、つぎのやうな道理ある質問をするだらう、『それなら、業の說、道德進步の說、應報の說の意味がどうなるか』實際、西洋の本體的觀念を有するだけでは、『東邦聖書』にあるやうな佛典の飜譯の硏究を試みる事は、ペーヂ每に見たところ望みのない謎と矛盾とに對面する事にならう。私共は再生の說を發見するが、靈魂の存在は拒否されて居る。私共は現世の不幸は前世に犯した罪の罰であると聞かされて居るが、個人的の輪𢌞と云ふ事はない。私共は生類は再び個性を取ると云ふ記事を見るが、個性も人性も皆迷妄であると云はれる。深い種類の佛敎信仰を知らない人が、『彌蘭陀王問經』第一卷のつぎのやうな拔萃を果して理解する事ができるかどうかを私は疑ふ、――

[やぶちゃん注:「東邦聖書」は「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)で、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。小泉八雲の愛読している叢書である。

「彌蘭陀王問經」ウィキの「ミリンダ王の問い」によれば、『Milinda Pañha』(『ミリンダ・パンハ)は、仏典として伝えられるものの一つであり、紀元前』二『世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス』Ⅰ『世と、比丘ナーガセーナ(那先)』(以下引用の「那伽犀那尊者」(なかさいなそんじや)は彼。小泉八雲の原文では“Nagasena”)『の問答を記録したものである。パーリ語経典経蔵の小部に含まれるが、タイ・スリランカ系の経典には収録されていない(外典扱い)。ミャンマー(ビルマ)系には収録されている』。『戦前のパーリ語経典からの日本語訳では』「弥蘭王問経」「弥蘭陀王問経」『(みらん(だ)おうもんきょう)とも訳される』とある。成立経緯や内容はリンク先を見られたい。 

 以下の引用は全体が一字下げ。ポイントは本文と同じである。]

 

王問うて曰く、『那伽犀那尊者よ、死後生れかへらない者はありますか』那伽犀那尊は答ヘた、『罪障ある者は生れかへり、罪障なき者は生れかへりませぬ』

『那伽犀那尊者よ、世に靈魂なる物がありますか』『靈魂と云ふやうな物はありませぬ』

(同じ記事がその後の章に、『第一義門から云へば、陛下よ、そんな物はありませぬ』と云ふ說明づきでくりかへしてある)

『那伽犀那尊者よ、この體から他の體へ轉移する何者がありますか』『い〻え、ありませぬ』

『那伽犀那尊者よ、輪𢌞のないところに、再生があり得ませうか』『さうです、あり得ます』

『那伽犀那尊者よ、將に再生せんとする者は、彼が生れかはるだらうと云ふ事が分るでせうか』 『さうです、陛下よ、それは分ります』

 

 當然西洋の讀者は問ふだらう、――『どうして靈魂なくして生れかへる事ができよう。どうして輪𢌞なくして再生があらう。人性なくしてどうして、再生の個人的豫想ができよう』しかしこんな質問に對する答は、今云つた書物には發見されない。

 今ここに出した拔萃は例外的に困難なところを提供して居ると想像する事は誤りである。自我絕滅說に關して、今日英語の讀者に達し得べき殆ど凡ての佛典に、夥しい證據がある。恐らく大般(だいはつ)涅槃經[やぶちゃん注:「Mahāparinirvāṇa Sūtra」(マハーパリニルヴァーナ・スートラ)。釈迦の入滅(=「大般涅槃」)を叙述し、その意義を説く経典類の総称。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。]は『東邦聖書』にある最も著しい證據を與へて居る。涅槃に達する解脫の八種を叙して、私共が西洋の見方から、絕對的寂滅の行程と呼んでもよいと思ふ物を明細に說明して居る。その說明によれば、この八階段のうちの第一段に於て、眞理を追求する佛敎徒は未だ――主觀客觀の――形の觀念をもつて居る。第二段に於て、形の主觀的觀念を失つて、ただ外界の現象として形を見る。第三段に於て、もつと大きな眞理の知覺が近づく事を感じて來る。第四段に於て、形の凡ての觀念、抵抗の觀念、及び差別の觀念以上に達して、殘る物は無限の空間の觀念だけになる。第五段に於て、無限の空間の觀念が消えて凡て無限の平等と云ふ思想が來る。(ここは汎神論的唯心論の極度の境であると多くの人は想像するだらうが、それは佛敎の思想家が追求すべき道の半分の休息所である)第六段に於て『一切無』と云ふ思想が來る。第七段に於て無と云ふ觀念それ自身も消える。第八段に於て、凡ての感覺も觀念も存在しなくなる。それからそのあとに涅槃が來る。

 同じ經は、怖の死と建べるに常つて、怖が建かに第一、第二、第三、第四の瞑想の階段

をへて、『無限の空間だけが現れて居る心の狀態』へ、――それから『無限の思想のみが現れる心の狀態』へ、――それから特に『何物も全く現れない心の狀態』へ、――それから『意識と無意識との間の心の狀態』へ、――それから『感覺と觀念の兩方共、全く消え去つた心の狀態』へ、通過するやうに表はしてある。

 佛敎の一般觀念を得ようと魔面目に考へる讀者に取つては、こnな引證は必要である、卽ち原因結果の連續の根本的敎理と雖も、自我の實在を同じく否定して、同じやうな謎を暗示して居るからである。無明は行、卽ちを生ずる、は識、識は名色(みやうしき)、名色は六處(ろくしよ)、六處は觸、觸は受、受は愛、愛は取、取は有[やぶちゃん注:「う」。]、有は生[やぶちゃん注:「しやう」。]、生は悲と老と死を生ずる。疑もなく讀者は十二因緣の破滅に關する敎理を知つて居るから、ここにそれを詳しくくりかへす必要はない。しかし讀者は觸を止めて受を滅し、受を止めて名色を滅し、名色を止めてを滅する事を、この敎から想ひつく事ができる。

[やぶちゃん注:「無明」「むみょう」(ここでは面倒なので以下、現代仮名遣で示す)以下、十二因縁が示される。この「無明」は十二因縁の因果の結果であり、過去世の始め無き、迷妄の光無き「煩悩」のこと。その因果の連鎖を完全に断つことによって、輪廻も消滅するとするのである。

「行」「ぎょう」は「業」(ごう)と同義。

「識」「しき」。好悪に基づく区別・差別による不完全で偏頗な擬似認識。

「名色」「みょうしき」。精神的な存在と物質的な存在。人の擬似認識の対象となるものの総称。

「六處」「ろくしよ」。六つの人の不完全な感覚器官機能。眼・耳・鼻・舌・身(触覚)と意識感覚。

「觸」「そく」。「六処」の感覚器官に対し、それぞれの外界の感受擬似対象が接触すること。広く外界との接触の表現。

「受」「六処」による見かけ上の感受感覚・認識。

「愛」愛欲。仏教では広く母子の親愛も当然のこととして含まれる。

「取」執着。愛欲に伴って生ずる妄執。

「有」「う」。人が、見かけ上で「生存している」と認識する(される)状態。

「生」「しょう」。人として仮に生まれ、生を享ける、ということ。

「悲と老と死」十二因縁では「老死」で、あらゆる仮存在の老化と見かけ上の死を指す。そこで終わらず、迷いある限り、再び無明へと返っては因果を繰り返すのである。]

 

 明らかに、こんな文句によつて提供もれた謎を豫じめ解(と)かないで、涅槃の意味を學ばうとする事は望み難い。今日飜譯によつて英語の讀者に親しくなつて居る經文の本當の意味を理解する事のできる前に、神と靈魂、物質、精神に關する普通の西洋の觀念は佛敎哲學には存在しない、それに代る物は西洋の宗敎思想に於て丁度それに相當する物のない槪念である事を理解する事が必要である。特に、讀者は靈魂に關する神學的觀念を念頭から去つてしまう事が必要である。すでに引用した文句から見ても、佛敎哲學には個人的輪𢌞、及び單獨的永久的靈魂のない事が明らかになつて居る筈である。

 

小泉八雲 日本の民謡に現れた仏教引喩 (金子健二訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“BUDDHIST ALLUSIONS IN JAPANESE FOLK-SONG)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第八話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。]

 

      第八章 日本の民謠に現れた佛敎引喩

 

 日本民族の心の土壤が如何なる程度迄佛敎の理想に潤され又肥やされたかを委しく知らさうするには、昔のこの國の文化を代表してをる物をただ一つだけ見てもそれで十分であるのだ。ところが歐羅巴人になるとどうしてもこれが出來ぬ。何故かといへば極東の宗敎と極東人の生活の全部的關係を理解するためには、どんな歐羅巴人でもその一生涯を費して然かも到底學ぶことの出來ぬやうな或る種の經驗を必要とするのであつて、この經驗がなければどんな學識があつてもこの問題を了解することが出來ぬからである。併し過去に於て佛敎が如何なる感化を日本に及ぼしたかといふことは日本に來た西洋人の目にも到る所で明かに映じてをることである。一切の美術乃至大部分の工業的作物は象徵主義に訓練された人の目には常に佛敎傳說の表現として映じてをるのである。形式の上に何等かの特色を有してをるもの、或は苟も美しいと思はれるやうな手細工品にして――例へば子供の玩具類から王者の重代の寳物に至る迄――これを造り出した手業その者から考へてみて、或る意味に於ては最初佛敎に負ふところがあつたのだと公言し得ぬ物は一つも無い。大阪の工場から來る安物の更紗の中には京都の西陣織にも劣らぬ佛敎思想が織り込んであるのがわかる。鐡瓶の上の浮彫、番頭さんの火鉢の柄になつてをる唐金の象の頭[やぶちゃん注:恐らくは金属製の火鉢で、移動用にある二箇所の取っ手部分が象が鼻を垂らした形で象形してあるのである。]、紙襖の模樣、或は門口に見らるる極めてあるふれた裝飾用の木細工、金屬製の煙管に施した蝕鏤細工[やぶちゃん注:「しよくらう(しょくろう)」。原文“etchings”。エッチング。]、或は高價な花瓶の上に加へた琺瑯細工――是等は皆同一の雄辯さを以てこの國民の傳統的信仰を物語り得るのである。亦庭園設計の上にも佛敎の反映と反響が見られる。同樣に長くつらなつてをる店看板の無數の象形文字の上にも、或は銀貨や花に與へてあるところの驚嘆すべき適切な名稱に於ても、或は山、岬、瀑布、村落等の名に於ても、或は近代的な鐡道驛の名に於ても悉く佛敎の影響が現はれてをる。故に新文明といへど、ちかくの如く明らかになつてをるところの感化力を大いに動搖させるといふことは出來ぬのである。今や汽車と汽船とに依りて名高い靈廟[やぶちゃん注:特定のそれを指すのではなく、全国の交通手段を用いて参詣する寺社仏閣のこと。]に參詣人を送り出す一箇年間の人數は昔一箇年にあつた數よりは遙に多くなつてをる。お寺の鐘は柱時計や懷中時計の用ひられてをる時代なるにも拘らず依然として數百萬の人達に時の過ぐるを報じてをる。人々の言葉は昔ながらに佛敎口調で詩化されてをる。文學も戲曲も依然として佛敎言葉で滿されてをる 街道で最も普通に響いてをる聲――戲れてをる子供の歌、働きながら歌つてをる勞働者の齊唱、街頭で大聲張り上げて物賣り步く商人の叫び――是等の音ですら私の耳には尊者、菩薩の物語や、お經の句を思ひ出させることが屢〻ある。

 以上のやうな事柄を私は見たり聞いたりしたので、それを機緣に、佛敎徒のいうた事柄や引喩等を含んでをるところの歌謠集でも編んでみようかと最初考へてみた位である。併しその仕事の範圍が餘りに廣汎に亙つてをつて何所から手を下してよいのか直に決定することが出來なかつた。日本の歌謠は私達を當惑させる程種類が多いが――種類が餘りに多いのでそれに名をつけるだけで既にに多くの頁をとることになる――次のやうなのが主なる物である。先づ名高い物の一として謠曲がある。謠曲は戲曲的の歌謠であつてその大部分は高僧の作つた物である[やぶちゃん注:誤り。であるわけではない。いや、高僧の能楽師はいないというべきだ。但し、彼らの作詞背景に仏教思想が深く根を張っていることは言うまでもなく、以下の小泉八雲の謂いも正しい。]。恐らくその中の何れの十行をとつて見ても佛敎に關係の無い所は無い。次に長唄といふのがあるが、これには屢〻非常に長い歌がある。又淨瑠璃といふのがある。これは詩句で書いた全部小說的の物であつて、これを專門の謠手達が歌つて、一囘に五時間乃至六時間の長きに亙つて彼等の聽手を樂しませることが出來るのである。併しかういふ長い物は必然的に私の計畫から除外されたのである。だがその殘つた物の中には選擇することの出來るもつと短い形式の物が多かつた。最後に私は主として都々逸に私の計畫を限定することに決定した。都々逸は僅に二十六字を四行に列べた――(七、七、七、五)――小唄である。これは前に論じた街上で歌はれる歌謠よりは形式が正しく出來てをる。併し非常に流行してをる。隨つて都々逸は他の優秀な歌謠の多くに比較してみて佛敎の感化を受けてをる程度が大である。私は私のために集めた非常に澤山な歌謠の中からこの種類の典型として四十乃至五十だけ選擇した。

[やぶちゃん注:「都々逸」(どどいつ)は俗曲の一種。「都々一」「都度逸」「独度逸」「百度一」などとも記す。小学館「日本大百科全書」によれば、『歌詞から受ける印象によって「情歌」(じょうか)ともいう。江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の』二十六『文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。江戸で歌い出されたのは』一七九〇『年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る』一八五〇『年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる』。一八七〇『年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。すなわち、高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、『よしや武士』と題する小冊子にした。立志社の活動に用いられたのは、いうまでもない。大阪でも『南海謡集』(なんかいようしゅう)が出版され、「君が無ければ私(わた)しの権も、鯰(なま)づ社会の餌(えさ)となる」と、板垣退助を称賛している。とにかく、都々逸は全日本人の間に行き渡っていたので』、明治三七(一九〇四)年、黒岩涙香は『歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから』、『旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する『萬朝報』(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕(まくら)に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も』一九三〇『年代(昭和初期)に消滅した。なお、名古屋の熱田』『で歌われた『神戸節』(ごうどぶし)を都々逸の起源であるとみなす説もある』とある。]

 

 前生觀と未來再生觀を反映してをる歌謠は恐らく西洋人にとりて格段に興味が多からうと思ふ。併しそれは詩歌として價値が多いといふのでは無くて寧ろ比較的に珍らしい思想がその中に含まれてをるからである。この種の想像を宿した詩は英吉利の文學に於ては極めて稀であるが、日本では多ひに過ぎる程澤山あつて寧ろこのやうな思想は陳腐であるとさへ考へられてをる。ロゼッティーの『光りは俄然と』と題した詩のやうな美しい文藝的作品は――この詩が私達の心を魅するのは主として或る一つの透徹した精緻な思想がその中に宿つてをるからであつて、然かもその思想が過去一千八百年の久しきに亙つて私達の凡ゆる正敎固執主義の因習に依つて呪詛されてをつたのであるが――日本人に興味を與へることが出來るが、それはただに日本の最も無智な百姓でも常に起し得るところの空想乃至感情を西洋人が珍しくも飜譯的に改作したのだと思ふ程度に過ぎぬのだ。それにしても何人といへども是等の日本の歌謠の中に――或は寧ろ私自身が頗る無味乾燥的に譯して仕舞つたところの是等の拙譯の中に――ロゼッティーの神韵[やぶちゃん注:「韵」は「韻」に同じい。]漂渺たる思想その物の俤をすら見出すことが出來ぬのは明白である。

[やぶちゃん注:「ロゼッティーの『光りは俄然と』」“Rossetti's "Sudden Light,"”。イギリスの画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年)の、詩篇“Sudden Light”(「閃く光」)。「梅丘歌曲会館 詩と音楽」のこちらに原詩と藤井宏行氏の対訳「突然の光」が載る。以下、小泉八雲はその原詩を引いているのであるが、何故か、第三連をカットしている。以下にまず、上記サイトの原詩を引く。

   *

 I have been here before,

   But when or how I cannot tell:

  I know the grass beyond the door,

   The sweet keen smell,

The sighing sound,the lights around the shore.

 

 You have been mine before,――

   How long ago I may not know:

  But just when at that swallow's soar

   Your neck turned so,

Some veil did fall,-- I knew it all of yore.

 

  Has this been thus before?

   And shall not thus time's eddying flight

  Still with our lives our love restore

   In death's despite,

And day and night yield one delight once more?

   *

小泉八雲の引用は以下である。

   *

     I have been here before,—

       But when or how I cannot tell:

     I know the grass beyond the door,

       The sweet, keen smell,

   The sighing sound, the lights along the shore.

 

     You have been mine before,—

       How long ago I may not know:

     But just when at that swallow's soar

       Your neck turned so,

   Some veil did fall,—I knew it all of yore.

   *

 以下の訳詩は全体が四字下げであるが、一字下げで引き上げた。]

 

 是所ぞ、我執その昔(かみ)、住みにし所……

 されど何時? 如何に?

 そは、いかで語りえん。

 草は扉(とぼそ)の彼方に、

 (汐風)は强く、香ばしく、

 (波)の昔、かこつが如く、

 光りは岸に沿うて、

 これぞ、我が知れる物。

 

 汝(いまし)、以前(もと)、我(わ)が有(もの)……

 されど幾年(いくとせ)の昔?

 そは、いかで知りえん。

 燕(つばくら)の高く舞ふ時、

 汝(いまし)の頸(うなじ)動(ゆる)ぎて、

 面掩巾(ヴエール)は地に……

 これぞ皆、我が知ろにしことか、その昔(かみ)。

 

譯者註 この詩ば小泉先生が最も愛誦された英詩の一である。詩の大體の意味は二人の新婚の夫婦が靜寂な海岸に佇みながら何とはなしに汐風に吹かれてかる間にふと前世のことを思ひ出したといふ意味なのである。卽ち夫はこの磯邊は遠い遠い昔住んだことのある所だと感じたが、併しそれが何時のことであつたのか判然と記憶してをらぬ。と同時に我が新妻も遠い遠い昔既に我が戀人であつた樣に感じて來たのであゐ。その時燕が一つ高く空中に翔んだ。妻の白い頸筋がその燕の方へと向けられた。その刹那彼は俄然として彼の過去世も明確に意識した。そして彼の眼前に在る一切の物は彼が前世に於て既に知つてをつた物であることを悟つた。面持巾(ヴエール)が地に落ちたといふ句は心の曇りが晴れたことを意味するのであらう。譯中に(汐風)、(波)等とあるのは小泉先生の解釋を尊重する意味で特に原詩に無い語を挿入ら譯だ。

[やぶちゃん注:小泉八雲が最終連をカットした意図は私には分らない。ともかくも、第三連の私の拙訳(文語訳。金子氏に合わせた)を示しておく。

   *

 こは斯くも昔のことなりしか?

 成す能はざるや? 時の渦卷を飛翔し、

 猶ほも亦、我等が生に我等が愛をば甦らせ、

 然(しか)も、死さへ超越し、

 而して晝にも夜にも、今一度――歡喜を齎(もたら)さんことを……

   *]

 

 西洋の夢の神苑(みその)に實(みの)つて然かも神の嚴命に依りて人間の口に入ることを許されてをらぬ果實! そしてこの果實と同じ意味に見られてをつた思想は、今やロゼッティーに依りてかくの如く謎でもかけるやうに巧妙に取扱れたのであるが、この不可解な詩人的態度はかの古い東洋の宗敎から直接に湧いて來るところの日本人の每日の叫びに比して實に明々白々たる事實的相違を持つてをる。例へば日本の歌謠にかういふのがある、

 

譯者註 原文に日本の歌謠を羅馬綴りで示してないのは、英詩そのままに直譯することにした。これにその出所が不明であるばかりでなく、小泉先生がこれを耳で聽かれたのか、それとも書物で讀まれたのかそのへんのことも不明だからである。

[やぶちゃん注:以下、歌謡(都々逸)の引用は底本では四字下げであるが、一字下げとした。長いそれ(「(大意)」などと着くもの)はポイントが激しく落ちるが、本文とポイントで示した。]

 

 色は思案の外とはいへど、これも前生(さきせう)の緣であろ、

 

註 緣とは親和といふ意味の佛語(ぶつご)である、生から生への因果關係を表す語。

 

 二つ結んだ纜(ともづな)さへも、遠い前世の契り綱、(大意)

 

 袖觸(す)り合ふのも他生の緣よ、況(まし)て二人が深い仲、

 

 この樣な親切な男と同棲してをるのだからこの世は果報、私は前生の善報をこの世で收穫してをるのだ、(大意)

 

註 佛語の果報は通常カルマ卽ち因果、因緣等と同意義のものとして用ひられてをる。前世の行の惡報よりは寧ろ善報を表す場合が多い。併し時としては善惡兩樣に用ひられることもある。ここでは通俗的に果報の善い人卽ち幸運な人といふ意味に用ひてあるやうだ。

[やぶちゃん注:「カルマ」“Karma”。「業(ごう)」。もとはサンスクリット語で「行為・所作・意志による身心の活動及び意志による身心の生活」を意味する。仏教及びインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によって、それ相応の楽又は苦の報い(果報)が生じるとされる。]

 

 この種の歌謠の多くは槪ね情人同志が二世も二世も奘らうとする時に誓以合ふ習慣を述べたもので、その源は佛敎の格言に胚胎してをる。卽ち

 

親子は一世、

夫婦は二世、

主從は三世。

[やぶちゃん注:辞書その他で平然とこの説を掲げているが、これは私は思うに、中世から近世の、歴史的には新しい転生縁故認識ではないか? 三番目の「主從」がそれをよく物語っているように思われるのだ。]

 

 夫婦の關係がこのやうに二世だけに限定されてはをるが場合によりては熱烈にも七世までかけて誓つてをる實例も屢〻在る[やぶちゃん注:「七生」はこれ自体が永遠の謂いであり、これも南北朝初期の楠木正成の「七生報國」以降に人口に膾炙するようになったやはり新しいもので、私は正直、甚だ好かぬ言葉である。]。これは日本の戲曲が實際に證明してをるのみならず、戀愛のために自殺した者の書置が事實的に證據だて〻をる。次の例はこの題目を取扱つてをる點で特色のあるものだ――熱情から諷譏へと調子が變つてゆく點で――

 

髮は斬つても二世までかけた、深い緣(えにし)は切るものか、

二世と契りし寫眞をながめ、思ひいだして笑ひがほ、

とてもこの世で添はれるならば、蓮の臺(うてな)で新世帶、

 

註㈠ 髮を斬るといふことがあるからにはこれは女が主人公である。恐らくこの女の夫又は許婚[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]の戀人が死んだのであらう。彼女は佛敎徒の習慣によつて亡夫の菩提を弔ふために己が黑髮を斬つて貞操を守る心をここで表したのである。この題目に關する委しき事柄は私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”及び “Of Women's Hair.”を參考して貰ひ度い。

[やぶちゃん注:最後の「及び」は誤訳。間には、“the chapter,”と入るから「“Glimpses of Unfamiliar Japan”の中の“Of Women's Hair.”の章を」である。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (一)』から全八回である。但し、死んだ夫へのそれは一番最後の「八」でやっと出てくるので、言い添えておく。]

註㈡ ここには寫眞といふ言葉が用ひてあるからこの作は時代は古く無い。

註㈢ 二人の情人が一緖に自發的に自殺するといふ思想はここに胚胎してをる。これは情死歌と名をつけることが出來よう。

 

 二世までと約した間ではないか、今離れる位なら私は死に度い、(大意)

 

 さあ何としよう、二世かけた二人であるに、二人坐つた時に、三味線の絲がぷつつり切れて、(大意)

 

註 謠ひ女[やぶちゃん注:「うたひめ」。ここは芸妓。]の間では三味線の絲がこのやうな時に切れて仕舞ふと近い間に離別の悲が來ると考へられてをる。

 

 三世の因果を說いて二人の中の約束を固めるとは實に橫着な僧である、(大意)

 

註 獨身生活か守ることを誓つておきながらその戒か破つた僧侶のあることを歌つたもの。

 

 人間は幾度も幾度も殆ど限り無しに生を易へるやきに運命づけられてをるものである。併しそれかといつてただ一つの生の刹那的幸福はそれ自身に於て貴さが劣るといふことにはならぬ。例へばかうある、

 

 一夜會はぬのは實に悲の原因になる、何故ならばただ一生涯の中に同じ夜は二度と來ぬから、(大意)

 

 だが、例年に無く暑い夏は、例年に無い酷寒の冬を豫言し得ると同樣に、この生に於て餘りに幸福であるのは來世に於て大なる苦を受けることを表す、

 

 いつも私はこの樣に苦しんでばかりをる、恐らく私は前世で幸福が過ぎたのであらう、苦み方が足らなかつたのだ、(大意)

 

 前世と後世の信仰を歌つた歌謠が外來思想(佛敎思想)に依つて影響されたものであることは上述の如くであるが、これにつぐべきものは因果卽ちカルマの敎を說いた歌謠である。私は是等の歌謠の中から數種の自由譯をこ〻に提供すると共に、都々逸よりはもつと手のか〻つた、そして普通はもつと長い形式を有つてをるところの端唄の中からも類例を上げることにした。私の選んだ端唄は少くともその原形に於て――螢に關する美しい眞喩(シミリー)[やぶちゃん注:“simile”。直喩。]を含んでをる――非常に立派な物である。

 

 泣かないで私の方を向いて下さい、私の嫉妬心は皆消えて仕舞つた、不親切なことをいうたのを許して下さい、因果の力が私の舌の眼を抑へつけました、(大意)

 

 これは明かに嫉妬深い情人が己が罪を後悔して相手の女に許しを請うてをる有樣を歌つたものである。そして次の例は恐らくこの情人のために泣かされた女の返答である。

 

 妾[やぶちゃん注:「わらは」。]は何の因果で貴郞[やぶちゃん注:「あなた」。]の樣な不實な男と戀仲になつたのだらう、(大意)

 

 或は又このやうに叫んでをる、

 

 めぐる緣かや車の私、引くにひかれぬこの因果、

 

註 ここに言葉の戲れがあつて私が特に英譯しないで置いたものである。大體の意味は許婚[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]又は結婚した男女の不幸を歌つたもので、遲まきながら女の方からその結婚を語らうとしてをる意がここに現れてをる。

 

 因果の車といふことに關してもつと著しい例は次の如くである。

 

 親の意見であきらめたのを、又も輪𢌞で思ひ出す、

 

註 作詩の輪𢌞又は輪轉車の𢌞りといふ意で、生から生への移りゆきを表す言葉である。ここでいふ輪とは迷ひの大車卽ち因果の輪のことである。

 

 ここに端唄の實例がある、

 

 可愛い可愛いと嗚く蟲よりも、鳴かぬ螢が身を焦す、

 何の因果で實なき人に、しんを明かして嗚呼悔し、

 

 若し以上の歌謠が私達と心理的に全く正反對の立場に在るところの人達のみに依つて作り出さる〻ものとするならば、かの無常轉變の大法を攝取し耀映[やぶちゃん注:「えうえい(ようえい)」。照り輝くこと。時めき栄えること。栄耀。]したところの民謠その物の類聚に於てこれと全く異つたもの〻あるのを認むるのである。例へば一切の物質的事物が悉く不定滅却の相を具へ、現世の快樂は如法空虛の蔡であるといふ思想は基督敎も佛敎も大いに一致してをる點である。併し此二者の間に存する大きな相違は、私達が靈的の物についての兩者の敎――特に自我の性質に關しての兩者の說明の方法を比較した場合にのみ見出さる〻のである。但し自我その物が一つの非永遠的の混合體であるとか、或は物我は眞の識に非ずと說いてをる東洋の敎は、是等の流行歌の中に稀に現れてをるのみである。普通の人には自我といふ物がある。自我は一つの眞なる――假令それは增加性を有するものであるにせよ――人格それ自身であつて、生から生へと推移してゆくものである。深遠玄妙な敎は私達が自我であると自ら想像してをる物は實は全部私達の迷ひ――因果に依りて編れたところの闇冥の掩ひ[やぶちゃん注:「おほひ」。]――であつて、無限の自我、永遠の絕對以外に如何なる自我も存在し得ずと說いてをる。併しこれを理解し得る者は僅に敎養のある佛徒のみである。

 次に揭げた都々逸の中には普通の經驗に一致してをるところの思想乃至感情が多分に含まれてゐる。

 

 月に村雲、花には嵐、とかく浮世はま〻ならぬ、

 

註 これは特に不遇の戀愛を歌つたもので、二つの佛敎の諺の月に村雪花に風ままにならぬは浮世ならひ――あてが外れて失望するのはこの物憂き世界のつねである――といふ意を取入れたのである。浮世――飛去る又は不幸なこの世の意――といふ言葉は佛敎で最も普通に用ひられてをる常用語の一つてある。

 

 梅の香ばしい花が咲いたかと思つたら無常の風が吹いて來て散つて了つた、(大意)

 明日ありと思ふ心のあだ櫻、夜半に嵐の吹かぬものかは、

 影も形も消ゆればもとの、水とさとるぞ雪達磨、

 

註 達磨は禪宗第二十八代の師組であつて長い歲月の間面壁禪をやつたために双脚を失つたと傳云。脚の無い多くの玩具の人形に彼の名がついてをる。この玩具の達磨は脚は無いが能く體の平均も保つ

てゐていくら倒しても、いつも、もと通りに起上る。亦日本の子供の作る雪人形昔から同型を持つてをる。[やぶちゃん注:底本は「雪 形」と脱字。原文“The snow-men made by Japanese children have the same traditional form.”から推理して「人」とした。]

私が是等の歌謠を英語に譯した時、私のために助力してくれた日本の友人があつたが、その人は私に前記の歌謠の中に出て來た影といふ語を說明してきかせたが、それによれば、この語は或る靈的の意味を伴つてをるさうだ。してみゐとこの語にこの歌謠の全體に亙つて更に深遠な意味をつけ加へることになる。

 

 十五夜の月の如く、heart は十五歲迄。十五になると光りが衰へて闇が來る、戀ひといふもののために、(大意)

 

註 陰曆に依れば月の十五夜は常に滿月にゐたつてをる。この歌謠の中に出て來る佛敎引喩は迷ひ卽ち愛執の迷ひといふことである。そしてこの心の迷ひなるものを更に正道を暗くする闇その物にたぐひたのである。

 

 變る憂世に變らぬ物は、變るまいとの戀の道、

 ほんにつれないあの稻妻は、ふため見ぬうち消えてゆく、

 

註 佛敎で電火(いなづま)の光(ひかり)、石の火――燧石の閃光――をもつて一切の快樂の一時的なることを象徴してをる。ここではこれを戲れに用ひたのである。この歌謠は情人と會ふことの餘りに短いことか嘆じたものでゐる。

 

 可愛がられてつらさはまさる、ほんに憂世は歎きの巷、(大意)

 

註 戀ひはしてをるが嫉妬心の强いところの女が歌つたものである。私の日本の友人はこれを次の如く解釋した。曰く、男が親切であればある程、女の方ではその男が他の女と關係してその女に對しても同樣に親切であるだらうと心配して氣も狂はんばかりになつてをる、その意をこの歌で表しらのである云云。

 

 老少不定の身でありながら、時節待てとはきれことば、

 

註 老少不定は佛語である。この歌謠の意は下の如くである。この世の事は皆不定であるのに、私に婚禮することを待てといふのは實際貴殿(あなた)は私を愛してをらぬからだ、何故なら貴殿(あなた)のいはれる時節が來ないうちに私達二人の中の何れかが死なぬとも限らぬから。

 

 會ふは私の原因(たね)とは知れど、會はぬ歎きはなほつらい、(大意)

 

註 生者必滅、會者定離及び哀別離苦の佛書の句に據る。

 

 一つになることを考へて喜んでをるが其の反面に於て夕の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]が曉の淚の源となることのあるのを忘れてをる、(大意)

 

 無常を敎へてをる俗謠が一面にあるかと思へばその反面には次の如き都々逸もある。

 

 あだな笑顏に迷はぬ者は、木佛、金佛、石佛(いしぼとけ)、

 

註 石佛とは特に墓地に置かれてある石の佛像のことである。この俗謠は日本の隨所で流行してをる。私は各地でこれを聽いたことが幾度もある。

 

 然らば何が故に木佛、金佛、石佛がそのやうに無情であるか。それは活佛(いきぼとけ)は次の例にもある如く――これは滑稽的に非禮を犯したものではあるが――木佛、金佛、石佛のやうに無感覺の者で無かつたのは明かであるが故である。

 

 憂世を捨てよとはそれや、釋迦樣(逆さま)よ、羅睺羅(らごら)といふ子を忘れてか、

 

 しゃかむに(釋迦牟尼)はさきゃむにを日本風に譯した形である。故に釋迦樣とはさきゃ樣又は佛陀樣といふことになる。併し逆さまは日本語であべこべ又は顚倒の意に用ひられてをる。だから釋迦樣逆さまの發音差にはこの地口[やぶちゃん注:「ぢぐち」。語呂合わせ。]を示すだけの餘地が一寸ある。不安の戀には非禮の罪は免れぬ。

[やぶちゃん注:「羅睺羅(らごら)」原文“Ragora”。原注で“Râhula”。釈迦の実子で、後に釈迦の十大弟子の一人に数えられた人物。サンスクリット語「ラーフラ」(ラテン文字転写:Rhula)の漢音写。羅羅が生まれた時、「障害(ラーフラ)が生じた」と父ゴータマ・シッタルダ(釈迦)が語ったことから、この名がついたと伝えられているが、寧ろ、一男子の出生が釈迦を安心して出家の道に入らせる要因となったと考えられてもいる。釈迦は羅羅を半ば強制的に出家させたが、彼は少しも奢るところなく、二十歳で具足戒を受け、また、戒律の微細な規則まで厳格に守ったことから、「密行(みつぎょう)第一」と呼ばれるに至ったという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「不安の戀には非禮の罪は免れぬ。」訳が生硬で前との繋がりが判りにくい。“Love in suspense is not usually inclined to reverence.”であるから、「不安のただ中にある恋には通常のような(神聖なる仏に対して)敬意を払うゆとりなど、ないのである。」の謂い。]

 

 囘向するとて佛の前へ、二人向ひてこなべだて、

 

註 佛とは死者卽ち一人の佛のことである。これは私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”及び[やぶちゃん注:この「及び」は不用な誤り。「の」でよい。]“The Household Shrine”に揭げてある[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (九)』を参照されたい。また、その次の次である同『第十七章 家の内の宮 (十一)』の〈仏(ほとけ)〉と〈新仏(しんぼとけ〉の説明も見られたい。]。こなべだてとは情人同志の祕密會談をやることを表す日本の慣用語である。ちんちん鴨鍋――一つの鍋で鴨を煮て食べること――といふ句から出たものである。相思の男女か同一の膳で食事する樂みを形容したものに外ならぬ。ちんちんとは鴨鍋の液汁が沸騰する時の音を寫した語である。

 

 次に戀の邪魔者に對しては、かう言うてをる。

 

 花を凋落させる風と雨は憎い奴ではあるが、それよりも憎い奴は戀路の邪魔をする者、(大意)

 

 それでも神々のお助けを一所懸命に願つてをる。例へば、

 

 戀の闇路にお百度踏んで、主(ぬし)に會ひ度い神賴み(大意)

 

註 お百度といふことは百度お宮に參拜して一度每にお祈りをすることである。戀の闇路とは愛は迷ひより生ずるものなるが故に心の闇の有樣を表すものだといふ佛敎用語でゐる。主(ぬし)とは主人、持主又は屢〻地主といふ意味に用ひられることがある、戀愛上に關して用ひられる場合には愛着の心を起させた主人公卽ち情人を意味することとなる。

 

 次に揭げた戀愛歌謠に於て興味のあるのは佛敎引喩に主として關係してをることである。

 

 春の河原と主(ぬし)待つ宵は、こひしこひしが山となる、

 

註 この俗謠には實に美妙な語呂合せが仕組まれてをる。こひしは文字に書かないでただ音の上だけで見れば小石又は戀ひしといふことで、ここに言葉の戲れがある。次に賽の河原とは空想上の河床のことであつて、其所へ子供達の亡靈が小石を積みに往かなくてはならぬことになつてをる。ところが可哀相にもその石の重量が彼等の力を極度に緊張させるやうに增加してくるのである。この歌にはこれ以外になほ「地藏和讃」の句、卽ち是等の飢鬼が彼等の父母をもつて父こひし母こひしといつて叫ぶその聲を引用してをる。これは私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”の卷一、五九―一六一頁にある。

[やぶちゃん注:最後の注記の原本はここ(右ページ)と、ここ(見開き総て)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (九)』を参照されたい。私はその注で「地藏和讃」も引用してある。]

 

 戀の闇路に迷うてゆけば、明るい世界がよく見える、(大意)

 

註 戀の闇路を遠く步いて來た者は俗事がよく分るといふ意である。

 

 冷い心で外部から見れば戀ほど実に馬鹿なものは無いが、迷つた經驗の無い者では戀の味は分らぬ、(大意)

 

 三千世界に男はあれど、主(ぬし)にみかへる人はなし、

 

註 三千世界といふ言葉は佛敎で用ひられてをるものである。

[やぶちゃん注:「三千世界」「三千大千世界」の略称。仏教の宇宙観では、一世界とは須弥山(しゅみせん)を中心として九山八海、四洲(四天下)や日月などを合わせたものであるが、この一世界が 一千個集ったものを小千世界という。この小千世界が一千個集ったものが中千世界,この中千世界がさらに一千個集ったものが大千世界であるとする。この大千世界は小・中・大の各千世界から成っていることから、三千世界或いは三千大千世界と称する(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 

 浮氣に見えても操は堅い、泥の中から蓮(はちす)が生える、(大意)

 

註 佛敎で常用してをる直喩(シミリー)に西洋の讀者がこの英譯から想似し得る以上にここで顯著にあらはれてをる。是等の言葉は本職の唄ひ女[やぶちゃん注:芸妓。]か又は女郞の言葉であると想像されてをる。女郞の職業は嘲弄的には泥水家業と呼れてをる。女郞が自己辯護のために佛敎で用ひらゐる有名な比喩――泥中の蓮――をここで格段に且つ熱心に引用してをるところに興がある。

 

 血の池地獄も劍の山も、二人連れなら厭ひやせぬ、

 

註 血の池地獄は女の地獄である。劍の山は男が特に地獄で罰を受ける場所として一般に佛書に書いてある。

[やぶちゃん注:この男女の地獄での区別は、具体な地獄思想がでっち上げられた中国で生まれたものであろう。平凡社「世界大百科事典」の「血盆経(けつぼんきょう)」の記載を参考にすると、「仏説大蔵正経血盆経」と題して収められている全四百二十余字からなる小経があるが、それは、血の穢(けが)れ故に地獄へ堕ちた女人を救済するための経典であるとする。中国では明・清代にかなり広く流布していたもので、仏教・道教及び、ある特定結社のものなどが存在しており、内容も多少異なってはいるが、孰れも「血に関わる罪を犯した者は血の池地獄に堕ちる」と説かれている。一方、伝来し改変された本邦の「血盆経」では、「出産や月水の血によって地神・水神等を穢した女性のみが血の池地獄に堕ちる」とされているという。仏教伝来以前の古来から、日本には血を忌む思想が存在し、これに仏教の女性不浄観が習合し、女は血を流す存在であるがゆえに不浄、その墜ちる地獄としての血の池という短絡的な形成が見てとれると言えよう。一方の、「劍の山は男が特に地獄で罰を受ける場所」であるが、所謂「針の山地獄」に相当する「剣林処」にはそのような属性はない。しかし、私はこれは衆合地獄にあるとする「刀葉林(とうようりん)」地獄のことを指していると考える。ここは好色な人生に生きた男、それこそここに相応しい浮気ばかりした男が墜ちる地獄で、高い樹の上に裸体の美女が立っていて木の根元にいるその男の亡者を手招きする。男がむらむらときて樹にとりついて登り始めると、樹の幹は総て刀剣となり、枝葉は鋭い針となる。それでも性欲に任せて男は攀じ登らざるを得ず、結果、男の体は全身傷だらけとなる。さても木の頂きに達すると、美女はいない。下を見下ろすと、彼女は木の下にいて再び手招きする。そして男はまた体を切り傷つけつつ、木を降りる。しかし、美女はまたしても樹上にいる、という行為を永遠に続けるのである。男限定の落ちる地獄として、これはヴィジュアルに腑に落ちよう。]

 

 墨の衣に身はやつさねど、心一つは尼法師、

 髮は斬らねど心は佛、こん度會ふ迄尼法師、(大意)

 

 このやうにいうてはをるもの〻、法師でも尼でも迷ひの力から脫却することが困難なこともある。例へば、

 

 墨の衣をつけてはをれど、戀の闇路に迷ひ入る、

 

 私は都々逸の極めて眞面目なもの〻中から主として是等の實例を以上の如く選み出したのである。併し輕い氣持で謠つた都々逸の中には恐らくもつと屢〻佛敎引喩が宿つてをること〻思ふ。次にこの種のものを五組だけ舉げて數百種の見本に代へることにする。

 

 餘りに迅速(あはただしく)に話したので思ひ出すことが出來ぬ、そのために戀人は閻魔顏で願ひを容れる、(大意)

 

註 この意味はこの男が履行しようと思つてをる事柄以上のことを輕率に約束して了つたといふ意に外ならぬ。閻魔――梵語の Yama ――地獄の王又は靈魂の裁判人といふことである。佛典及び佛畫に書いてある閻魔は見るからにそれは恐しいどころの話では無い。この歌謠の中にある句は佛敎の俚言に借りるときの地藏顏返す時の閻魔顏とあるのに明かに關係を持つてをる。

 

 私は佛顏でその願ひを三度聽いてやつたが餘りに願ひが多いのでその後は閻魔顏で聽くでせう、(大意)

 彼等は一緖に樂んでをるが彼等のボートの下は地獄だ、河風よ早く吹け、私のためにつむじ風よ吹け、(大意)

 

註 地獄は種々の地獄を總稱した佛敎用語である。ここで言つてをることは船板一枚下は地獄といふ句、卽ち海上の危險を形容した句に關係してをる。この歌に嫉妬を皮肉つたものである。ここでいふ小船は恐らく屋根のある遊覽で管弦の遊びに用ひられるやうな物であらう。

 

 私は彼をとどまらせるために今鳴いた烏は月夜烏だというたが甲斐が無かつた、暁(あけ)の鐘は淋しくひびく、(うそを)つけない鐘が……(大意)

 (月夜烏といふてはみたが、うそのつけない曉の鐘)

 

註 月夜烏とは普通の烏が曉を告げるのに反して夕陽の沒する頃から旭日の昇る時迄常に嗚いてをる烏である。次に鐘とはお寺の鐘のことである。暁(あけ)の鐘は日本の各地でお寺から響いてをる鐘のことだ、次の句には洒落がゐる。卽ちつけないうそをつけないの意味と鐘をつけないの二つの意味を音の上に於て持つてをると解釋することが出來よう。

 

 三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と朝寢がしてみたい、

 

 私はこの最後の歌を珍しい物といふ意味で引用した。その理由はこれには不思議な歷史があるばかりでなく、この歌が直ぐその前に揭げた歌に類似した或る歌で明かに眞意が示されてをるとはいふもの〻、實際は外見と事實とは相違してをるからである。これは勤王の志を歌つた俗謠であつて、その作者は長州の木戶さんであつた。木戶さんはあの將軍家を顚覆して王室の權力を恢復し、日本の社會を造り直し、西洋の文明を輸入し適用するに至らしめたところの大運動の指導者の一人であつた。木戶、西鄕、大久保は明治維新の三傑だといはれてをるのは當然のことである。木戶さんはその友人の西鄕さんと一緖になつて京都で彼の計畫をたて〻をつた間にこの歌を彼の眞情の發露したものとして作り且つ謠つたのである。三千世界の烏といふ句は德川派を表現したものである。主(ぬし)(君主又は心の主)とは天皇を指示したものである。そへねは――共に寢ることであつて、將軍や大名から新たに妨害を加へられること無しに、玉座に對して直接の責任を帶び度いと望んでをる意を示したものである。これはかの率直な言葉で發表したならば暗殺を招いたかも知れぬやうな意見を吐露するための手段としてわざと流行唄を用ひたものであつて、これは日本の歷史上に於て必しも最初の實例では無かつた。

[やぶちゃん注:解説との齟齬で判ると思うが、金子氏は最初に提示した小唄を一般的な本邦でのそれに変えて訳してある。原文ではローマ字で、

    San-zen sékai no

    Karasu wo koroshi

    Nushi to soi-né ga

    Shité mitai

(三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と添寝がしてみたい)となっている。

「木戶」木戸孝允(きど たかよし/こういん 天保四(一八三三)年~明治一〇(一八七七)年。和田小五郎・桂(かつら)小五郎とも称し、新堀松輔の変名も用いた)は長門萩藩医和田昌景の次男。桂孝古の養子。嘉永二(一八四九)年吉田松陰の松下村塾に入り、後、江戸に遊学した。慶応元(一八六五)年、木戸と改姓。西郷隆盛と薩長同盟を結び、倒幕を謀る。明治新政府の中枢にあって、「五箇条の誓文」の起草や版籍奉還・廃藩置県を主導した。明治三(一八七〇)年には参議となり、翌年には岩倉遣外使節団の全権副使を務めた。内政重視の立場から征韓論や台湾出兵に反対し、独裁を強めていた大久保利通と対立、政権の主流から離れた。西南戦争の最中の明治十年五月二十六日に四十五歳で病死(推定ではアルコール性肝硬変とも)した。但し、本唄は高杉晋作(天保一〇(一八三九)年~慶應三年四月十四日(一八六七年五月十七日:長州藩士。長州藩士高杉小忠太の子。吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞と共に双璧と称され、後、江戸の昌平黌に学んだ。藩命により、奇兵隊を組織し、総監となり、四国連合艦隊の下関砲撃事件では講和に当たった。後に九州に一時亡命したが、挙兵して藩政を握り、藩論を討幕に統一し、第二次長州征伐では全藩を指揮し活躍したが、結核のため二十九歳の若さで亡くなった)は、江戸時代若しくは木戸孝允の孰れかが品川遊郭の土蔵相模で詠んだと伝えられるものである。「朝寝」は「あさい」とも読まれる。]

 

 私は木戶さんの歌に關して上の如く說明してをる間に、佛敎用語の三千世界(讀者の知らる〻通りこの集で二囘起つてをるが[やぶちゃん注:「登場しているが」の意。])といふことは私に二三の感じを與へてくれたから、その事柄をこ〻で述べてこの論文を適當に片附けて仕舞ふやうにする。私は數年前に初めて佛敎哲學の大樣を知らうと志した時、特に私の心を刺激した一つの事柄は佛敎の宇宙觀の廣大無邊なことであつたと記憶してをる。私は佛敎を硏究して感じたことは、この宗敎はただに人類の住んでをる一世界に對して救世の信仰を授けてくれたのみでは無くて、幾千萬劫の無量恆河沙の世界の宗敎として現れて來たものであつた。故に星辰の進化離滅に關する近世の科學的示現は、私の考によれば、宇宙の原則についての或る佛敎理論の大斷案の如きものである。そして私は今でもなほこの考をもつてをる。

 今日科學者は天體が物語つてをるところの新しい物語の驚くべき暗示を無視することは出來ぬ。今日の科學者は所謂心なるもの〻發達を目して宇宙を通じての惑星の生命成熟の一般的事相乃至出來事であるとして考へざるを得なくなつて來た。彼は私達自身の小さな世界と星辰及び天體の大集團との關係を比較して、恰も、ただ一つの夜光蟲と大海の燐光との關係以上のもので無いと觀察せざるを得ぬのである。東洋人の知力はこの驚くべき示現に接するや、これを以て彼等に悲みを加へるための知識としてよりは寧ろ信仰を促すための知識としてこれを認め得るやうに心の準備が出來てをつた。特にその點では西洋人よりは好都合であつたのだ。私は西洋人の知識と東洋人の思想とが將來何等かの結合をつくり得るやうになつたならば、その結果として、一種の新佛敎が新たに生れて來て、それが一切の科學の力を己れ自らの中に繼承し然かも内部的にはかの『金剛經』第十二章に預言してあるところの報酬を以て、これが眞理を求むる者に報い得ることを思はざるを得ぬ。今この經文をその儘に示せば――註釋家の言はともかくとして――彼等は無上の驚異を授けらるべし[やぶちゃん注:底本では「し」に傍点がなく、「と」にあるが、特異的に以上のように勝手に処理した。]いふ句に於て既に約束してあるところの報酬よりも、もつと多くの物が、如何なる精神的敎訓の中からでも果して公平無私に期待し得るや否や。

[やぶちゃん注:「金剛經」原文“the Sutra of the Diamond-Cutter”。大乗仏教の般若経典の一つである「金剛般若経」、正式名称「金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう」の略。サンスクリット語ラテン文字転写で「Vajracchedikā-prajñāpāramitā Sūtra」(ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)。ウィキの「金剛般若経」によれば、原題は「ヴァジュラ」(vajra)が、インドラの武器である「金剛杵」或いは『「金剛石」(ダイヤモンド)、「チェーディカー」(chedikā)が「裁断」、「プラジュニャーパーラミター」(prajñāpāramitā)が「般若波羅蜜」(智慧の完成)、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「金剛杵(金剛石)のごとく(煩悩・執着を)裁断する般若波羅蜜(智慧の完成)の経」の意』とある。平井呈一氏の恒文社版「日本の俗謡における仏教引喩」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳者注では、同経の第十三章の内容としておられる。但し、私が調べたところでは、「離相寂滅分第十四」の末尾のようである。原文は以下。

   *

須菩提、當來之世、若有善男子善女人、能於此經受持讀誦、則爲如來、以佛智慧、悉知是人、悉見是人、皆得成就無量無邊功德。

   *

平井氏のそれを参考にしつつ、勝手流で訓読しておく。

   *

須菩提(しゆぼだい)、當來の世(せい)に、若(も)し、善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんによにん)有りて、能(よ)く此の經に於いて受持(じゆぢ)し讀誦(どくじゆ)せば、則ち、如來は佛の智慧を以つて、悉(ことごと)く是(この)人を知り、悉く是人を見、皆、無量無邊の功德(くどく)を成就することを得(う)と爲(な)す。

   *

「須菩提」は釈迦十大弟子の一人で解空第一・被供養第一・無諍第一と称される「スブーティ」(Subhūti)のこと。「金剛経」は彼が釈迦に菩薩の在り方について問い、釈迦がそれに答える問答形式をとる。]

2019/12/01

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「六」・「七」 / 大阪にて~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。原本との章番号の差異は、原本自体の誤りであることは既に『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」』の「五」の前の私の注で述べた。

 

       

 私は前の論文で、日本の都會は木造の小屋の荒野に過ぎないといつた[やぶちゃん注:本作品集の前の「心」(“Kokoro”。明治二九(一八九六)年刊)の第二話“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”。「日本文化の神髄」の第一章の終りで“A Japanese city is still, as it was ten centuries ago, little more than a wilderness of wooden sheds”(「日本の都会は、未だに十世紀前のように、木造の小屋の荒野に過ぎない」)と言っている。後日、電子化予定。]。して、大阪もまたこの例に洩れない。しかし家屋の内部に於ては、いかなる日本の都合の脆弱な木造建築も、多くは美術的構造である。して、恐らくは大阪ほど多くの立派な住宅を有する都會はないだらう。京都は實際庭園については、一應富んでゐる――大阪には庭園を設ける餘地が比較的に乏しいから。しかし私はただ家屋についていつてゐるのである。外面だけでは、日本の町は木造の納屋とか、厩舍の並んだのに過ぎないやうであるが、その町の家屋の内部は驚くばかり美麗なことがある。普通日本家屋の外側は、往々一種の面白い奇異な形はあつても少しも美しくはない。して、多くの場合に於て、裏側または側面の塀は黑く燒いた板で蔽つてある。その焦げて、堅くなつた表面は、いかなるペンキ或は化粧漆喰よりも、よく熱と濕氣に抵抗するといはれてゐる。恐らくは石炭小舍を除いて、これほどくすぶつた風のものは想像し得られないだらう。しかし黑塀の内側の方は、審美的の趣向、人を歡ばすものがある。比較的低廉な住宅でも、この點に於ては左程影響を蒙つてゐない――何故といふに、最少の費用を以て最大の美を獲るといふことにかけては、日本人は萬國の民に優つてゐるからである。一方西洋國民の中で、最も工業的に進步せる、實際的の米人は、最大の費用を投じて最小の美を獲ることに成功してゐるだけである! 日本家屋の内部に關しては、モールス氏の『日本の家庭』から、大いに學ぶことができる。しかしその立派な著書でさへ、この問題について唯だ墨繪ほどの觀念を與へるに過ぎない。しかもかかる内部の美趣の半ば以上は、殆ど名狀し難き色彩の愛撫的魅力に存してゐる。色彩美を說明するやうにモールス氏の著書に挿畫を施すことは、ラシネー氏の著書、『歷史的服裝』の出版よりは、もつと費用のかかる、困難な事業であるだらう。假令さうしてさへも、常夏の感情を捉へて、それを保つやう工夫されたと見え乍ら、部屋の隅每に、人目を待つてゐる和らいだ明かるさ、完全な平靜、優雅纎細の祕密は、依然想像され得ないであらう。日本の活花といふ藝術を少々知つたため、西洋で私共が花束と呼んでゐる下品な、或は寧ろ粗暴なものを眺めるに忍びなくなつたと、私は五年前に書いた譯者註一。今日では、また私は日本室に親炙してきたので、西洋室は幾ら廣かつたり、便宜に出來てゐたり、贅澤に裝飾してあつても、嫌ひになつたといふことを加へねばならない。もし今、私が西洋の生活に歸つたならば、七箇年間仙鄕に暮らした後、醜惡と悲しみの世界へ再び歸つたトマス・ザ・ライマ譯者註二のやうに感ずるに相違ない。

 

譯者註一 本全集第三卷二一六――二一七頁參照。

[やぶちゃん注:落合氏が指示しているのはここ(“Internet Archive”の画像)で、私の電子化注では『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二〇)』の全パートである。

   *

 屢々夜の街頭で、特に祭禮の夜、ある小さな小屋掛けの前を、全然無言で鑑賞し乍ら通つて行く群集の光景に、私共の注意は引かれるだらう。その小屋掛けを覗いて見る機會を得るや否や、私共はそこには唯だ敷個の花瓶に花の小莖、或は花樹から新たに剪つた、輕い優美な枝を插したのがあるばかりのことを發見する。それは單に小さな花の展覽會だ。或は一層正確に云へば、活花に於ける巧妙なる技倆の自由なる展覽だ。何となれば日本人は私共野蠻人がする如く、花だけを亂暴に切り取つて、それを集めて無意味な團塊にするのでない。彼等は自然を熱愛するから、そんなことをしない。彼等は花の自然の美は、いかに多くその背景と裝置如何に因り、その葉や幹に對する關係如何に因るものであるかを知つて居る。して、彼等は自然が作つたまゝの一本の優美な枝や莖を選擇する。門外漢なる外國人諸君は、最初は毫もかゝる展覽を理解しないだらう。かゝる點に關しては、諸君の周圍に立つて見てゐる日本の最も平凡な人夫に比してさへ、諸君はまだ野蠻人だ。が、諸君が未だこの簡單な小展覽會に對する一般的興味を不思議と思つて見てゐる内に、その美が諸君の上にも生じてくるだらう。一種の天啓となつてくるだらう。して、諸君の西洋的自己優越感にも關らず、諸君が從來西洋で見た一切の花瓣展覽會は、是等の簡素なる數莖の自然美と比すれば、怪醜畸形に過ぎなかつたといふことを悟つて、屈辱を感ずるだらう。諸君はまたいかに花の背後にある、白又は薄靑の屛風が、洋燈又は提燈の光によつて、花の效果を增してゐるかに氣が付くだらう。何故と云へば、屛風は植物の影の美しさを見せるといふ特別の目的を以て排列してあるからだ。して、その上に投ぜられた莖や花の影法師は、いかなる西洋の粧飾藝術家の想像よりも遙かに美しい。

   *

但し、同書の他の後の方でも、小泉八雲は同様のことを言っている。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (二)』の冒頭で彼は、

   *

 日本人の花の活け方を少小[やぶちゃん注:「少々」に同じ。]――この技術を實地に知得するには、生來の本能的な美感の外に、歎年の研究と經驗が要るから、唯それを見たばかりで――學び得た後で、其後で始めて人は西洋人の生花裝飾の思想は、全く野卑だと考へることが出來る。この觀察は何等輕卒な隨喜渇仰の結果では無くて、内地に長く居住して樹立し得た確信である。自分はただ日本の熟練家だけがその活け方を知つて居るやうな風に――花瓶の中へ單に小枝を突き込むのでは無く、恐らくは剪伐(つみき)つたり姿を正したり、雅(みや)び極まる手細工をしたりに全(ま)る一時間の骨折をして――活けた、唯一本の花の小枝の言ふに言へぬ美はしさが解るやうになつて來たから、だから西歐人が『花束』と呼ぶものをば、花の野卑な虐殺であり、色彩觀念に對する凌辱であり、蠻行であり、言語道斷である、としか今は考へられないのである。それと稍々同じ樣に、またそれに似た理由で、古い日本の庭はどんなものであるかを知つてから後(のち)は、我が本國の費用を盡した庭を想ひ出すと、自然を犯す不釣合な物を創造するのに富なるのが、何を爲し遂げ得るかの無智な誇示としか考へられないのである。

   *

と述べているのである。]

譯者註二 十三世紀に蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコットランド」。]ペリクシヤー州に住んでゐた名物男。豫言的の詩を作つた人。仙女に愛せられ、數年をその女の許でくらしたと云はる。

[やぶちゃん注:「モールス氏」エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に「お雇い外国人」として来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文第一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は以下に示す“Japanese Homes and Their Surroundings”や「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。私は実は彼が三十年以上前の日記とスケッチをもとに、一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”(「日本での日々」)を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松)が大正六年に翻訳したものを、ブログ・カテゴリ『カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』で全図版入りで全電子化注を二〇一六年二月に終えている。

「日本の家庭」モースが帰国後に刊行した“Japanese Homes and Their Surroundings”(「日本の家屋とそれらの環境」)。日本家屋を多数のデッサンや図表を用いて判り易く解説したもので、一八八五年(明治十八年)に出版された(但し、出版年には書誌に微妙な違いがあり、英語版ウィキの“Edward S. Morseでは一八八五年初版の一八八八年(ハーパー社)の再版版を掲げ、日本版ウィキの「エドワード・S・モース」ではただ一八八五年とする。出版経歴を精査された磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の三〇九~三一〇頁の記載に拠ると、一八八六年(明治十九年)となっているであるが、その記載を見ると、『以前からの取り決めにしたがって』、雑誌『ピーボディ科学アカデミー紀要』『の一冊として刊行されるとともに、イギリスの出版社を含めた三社から出版され』たとある。磯野先生には失礼ながら、ここで『とともに』と述べておられるものの、実はメジャーに公刊される前の紀要版初版のそれは、実は一八八五年に刊行されたものなのではなかろうか?)。訳書としては図版の大きさから、斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)をお薦めする。実は、先に示したブログ・カテゴリ『カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』でも同書にへの言及が数多く見られ、私はそれらについても可能な限り、本書の原文や図版を引用している。目ぼしいものを以下に掲げておく。絵を見るだけでも損はない(章題より後の部分は私が勝手に添えたものである)

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 7 行灯 附“Japanese Homes and Their Surroundings”より「畳」の原文・附図と私の注」

同「第三章 日光の諸寺院と山の村落 5 美しい日本間と厠」

同「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 20 東京の住宅について」

同「第十一章 六ケ月後の東京 13 芝離宮」

同「第十三章 アイヌ 20 室蘭へ」

同「第十六章 長崎と鹿児島とへ 元垂水」

同「第十七章 南方の旅 欄間」

同「第十七章 南方の旅 京都にて 3 蜷川式胤実家」

同「第二十章 陸路京都へ 箱根寄木細工」

同「第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その一」

同「第二十五章 東京に関する覚書(22) 変わった袖垣のある家」

同「第二十六章 鷹狩その他 (7)下駄箱」

なお、同書原本総てを見たい方は、Internet Archive”のこちらの版がよかろうかと存ずる(最初の図版ページをリンクさせた)。

「ラシネー」フランスの画家でイラストレーター、文化史家でもあったアルバート・チャールス・オーギュスト・ラシネ(Albert Charles Auguste Racinet 一八二五年~一八九三年)。

「歷史的服裝」ラシネが一八八八年にパリで出版した“Le costume historique”(「服装史」)。約五百葉の版画・三百葉の彩色画・二百葉のモノクロ画で、主な歴史的衣服・装飾品・インテリア・日常品等を描いたもの。グーグル画像検索「Albert Charles Auguste Racinet Le costume historiqueをリンクさせておく。素晴らしい色彩である!

「トマス・ザ・ライマ」“Thomas-the-Rhymer”(原文表記)は「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲蔵訳)」で既出既注。]

 

 世間で唱道されてゐる如く(尤も私はそれを信じ得ないけれども)、西洋書家は日本畫の硏究からさほど學ぶべきものがないといふ事は、ありうるだらう。しかし西洋の家屋建築者は、日本室の硏究から、莫大の事實――特に壁面の處置と着色法について――を學ばねばならぬと、私は確信する。これらの無數の室内樣式が、分類され得るか否かも、私には疑はしいやうに思はれる。十萬戶の日本家屋に就いて、二戶の内部が全然同一の場合はあるまいと、私は思ふ(勿論、極めて貧しい者の家屋を除いて)――何故といふに、設計家は避けうる場合には、決して同一設計を繰り返さないから。彼が敎へる敎訓は、種類の無盡藏なる變化と結合せる完全なる趣味といふ事である。趣味! それは私共の西洋の世界に於て、何といふ稀有の事だらう! また、それはいかに材料の如何を問はざる、直感的な、俗物に傳へ難いものだらう! しかし趣味は日本人の生得權である。それは到る處に存してゐる――たとひ境遇に隨つて、且つまた境遇に基づく遺傳に隨つて、發達の量を異にするとも普通一般の西洋人は、ただその比較的平凡な方の形式――主として輸出貿易によつて見馴れた種類――を認めるだけである。して、槪して西洋人が日本の因襲的趣味の中で、最も歎賞するものは、日本では寧ろ劣俗と見倣されてゐる。それは西洋人が、苛も本來美麗なものを歎賞するのが、間違つてゐるといふのではない。代價二仙[やぶちゃん注:「セント」(cent)。百セントが一ドル。当時の換算だと現在の三百円ほど。]の手拭に染め出した意匠さへ、眞に優れた畫のこともある。それは時としては、立派な美術家が描いたものなのである。しかし最高な日本趣味の貴族的嚴正――均勢、性質、調子、抑制など諸條件の決定に於ける、その精巧絕妙なる複雜――に至つては、未だ嘗て西洋人の夢想だもせざる處である。この趣味が天晴れ立派に發揮されてゐるのは――特に色合に關しては――私人の邸宅内部に及ぶものはない。一組の部屋の裝飾配置に於ける、色彩の規則は――たとひ餘程の種類を許容するにせよ――衣服の問題に於ける色彩の規則にも劣ることなく嚴密なものである。一私宅の色合の調子だけでも、その主人の修養程度を示すに充分である。ぺンキ塗や、ワニシ塗はなく、壁紙も張つてない――ただ特別な部分に色を着けたり、磨きをかけたり、また掃除や塵掃ひの際の用意として、壁の底に沿つて約一尺五寸ほどの高さに、一種の紙の緣を施しただけである。漆喰はさまざまの色の砂や、貝殼と螺畑の斷片や、水晶片や、雲母で製せられる。壁面は花崗岩を眞似たり、黃銅鑛の如くきらめいたり、濃厚な樹皮の塊に彷彿したりしてゐる。しかし原料は何であらうとも、その發する色合は、羽織や帶に用ひる絹の色合に於けると、同一の完全無缺な趣味を示さねばならない。……この美の内部世界――正しくそれが内部世界であるがために――は、一切まだ外來の漫遊者には鎖されてゐる。外來者は漫遊中、古風な宿屋とか、茶店を訪問するときに、そこの室内に於て、精々その暗示を發見しうるだけである。

[やぶちゃん注:「ワニシ」ワニス。英語は「varnish」で「ヴァーニッシュ」の発音なので「ワニシ」は誤りではない。天然樹脂若しくは人造樹脂を、油性溶剤或いは揮発性溶剤に溶解させた塗料で、乾燥すると硬く透明となり、耐温湿性と絶縁性に富む塗膜となるため、油彩画・ヴァイオリン・床・帆柱・木工家具の仕上げや針金の被覆・紙鑢(やすり)の結合剤などに用いられる。]

 西洋の旅客中、日本の宿屋の妙味を解したり、或は單に身𢌞はりの世話についてばかりでなく、美しいものを作つて、眼をも娛ましめて、宿泊を愉快にするやう、大いに盡くされてゐることを考へる人が、幾らあるか知らんと私は思ふ。瑣々たる、癪に觸はつた事柄――彼等が蚤に攻められた實驗談や、彼等の親しく遭遇した不快なことども――を書いてゐる人は澤山ある。しかし每日新しい花が備へられ――いかなる歐洲の花屋も企及し得ないやうに活けられ――且つ屹度靑銅か、漆器か、陶器など、其の美術支那が置かれ、これに添ふるに季節の感情に適はしい一幅の畫を以てせる床の間の妙趣を書いてゐるものは、幾人あるだらうか? これらの瑣末な美的の待遇は、決して宿屋から代價を要求してゐるのではないけれども、茶代を遺る場合、これに對する、親切な心持ちを含ませるのが當然である。私は幾百軒の日本の宿屋へ泊まつたが、何等珍異なもの、または綺麗なものを見出し得なかつたのは、一軒しかない――それは新聞の鐡道驛で、客を捉へるため急造された、ぐらぐらした避難所のやうな宿屋であつた。

 大阪の私の宿に於ける、床の間について一言する――壁は砂と一種の鑢屑[やぶちゃん注:「やすりくづ」。“metallic filings”。]のやうなものを混ぜて塗つてあつたが、銀礦の美しい表面の如く見えた。床柱に結んである竹の花瓶には、一本は淡紅、他の一本は白の、美しい花盛りの、一對の藤の枝が挿してあつた。掛物――雄勁奔放、墨痕淋漓たる名家の揮毫――には、互に道を避けかねて、まさに鬪はんとする二匹の大きな蟹が、寫してあつた。して、『橫行世界』と題せる漢字によつて、畫興更に一段を加へてゐた。その意味は『世の中のことは、一切よこしまに行く』

 

譯者註 蟹の步き振りが傍若無人と見立てて、「橫行世界」と題せる讚句を、「世事すべて邪行す」といふ意味に取つてあるのは、通辯者[やぶちゃん注:小泉八雲に大阪行に随伴した通訳。]の誤解とすれぱ、面白い誤解でゐゐ。しかし或は先生が、意識的に特にこのやうな解釋を選ばれたのかも知れない。いづれにしても。この橫へそれた解釋、人生一般的に特に廣い解釋の方が、文趣更に一段を加へてゐる。

[やぶちゃん注:恐らくはその画幅に書かれていたのは「橫行天下」ではなかったか? 所謂、世界を勝手次第に自由に闊歩するの謂いではあるまいか? ただ、そこに横這いしか出来ない蟹が対面した絵を配したのは俳味に富んで面白いと私は思う。]

 

       

 私の大阪滯在に於ける最後の日は、買ひ物に費やした――それは主もに玩具屋と絹布商の方面であつた[やぶちゃん注:「二」に『玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前』、『反物商は本町』とあった。位置はそちらの私の注を参照されたい。玩具屋は長男一雄と巌のため、後者は妻セツのためであろう。]。或る日本の知人が、自身も商人であるが、私を伴れて𢌞つて、私の眼が痛んでくるまで珍らしい物品と見せた。私共は有名な絹布商店へ行つた――群集が非常に雜沓を極めてゐたので、日本の店に於て、椅子と勘定臺を兼ねた疊の吊床[やぶちゃん注:「つりどこ」。上の方は床の間の形に造ってあるが、下の床板がなく、座敷の畳がそのまま続いている簡略な床の間。「壁床」とも呼ぶ。]へ押し分けて達するのが、可也の骨折りであつた。そこで幾十人の踝足[やぶちゃん注:原文“barefooted”であるから、「裸足」の誤植と思われる。]の輕快な少年が、走つて商品の束を顧客へ運んでゐた。何故といふに、かやうな商店では、商品を棚へ載せて陳列するといふ事がないからである。日本の販賣員は疊の上の彼が坐つてゐる場處を離れない。彼が客の欲するものを承つてから叫んで命令を發すると、少年が間もなく兩腕で一杯見本を抱へて走つてくる。客が選擇をした後に、擴げられた商品は、また少年の手で卷いて收められ、店の背後の耐火倉庫へ運び去られる。私共の訪問の際、疊の吊床の大部分は、さまざまの色、種々の代價の絹布や天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]が、投げ散らされて、絢爛陸離[やぶちゃん注:「りくり」。美しく光り煌(きら)めくさま。]たる混沌を展開してゐた。玄關の近くに、福の神のやうに肥つて、陽氣な顏の、稍〻老いた監督[やぶちゃん注:番頭であろう。]が、繰り込む客を注意してゐた。二人の鋭い眼付の男が、店の中央の臺に立つて、ゆるゆる反對の方向へと轉じながら、窃盜の見張りをしてゐた。また他の番人も、橫の入口に陣取つてゐた。(序に、日本の萬引は甚だ巧妙である。大抵の大商店が、一箇年間に、彼等のために蒙る損害は、可也に多額だと、私は告げられた)店の側翼の建物の、低い天窓の下には、高さ二尺にも足らぬ小さな机を前にして、ずらりと並んだ簿記係、會計係、通信係が忙殺されつつあるのを、私は見受けた。夥しい販賣係は、銘々同時に澤山の客に應接してゐた。商賣の多忙さは烈しかつた。しかも執務の迅速は、組織の徹底的の完全を證明した。私はこの店が幾何[やぶちゃん注:「いくか」。]の人を使用してゐるかを尋ねた。して、私の知人は答へた――

 『多分ここには二百人もゐませう。まだ數個の支店があります。この店では、仕事が餘程つらいのです。しかし勤務時間は、普通の他の絹物商店よりも短くて、一日十二時間を越えることはありません』

 『給料は何うです?』と、私は質ねた。

 『給料はありません』

 『この店の一切の仕事は、無報酬で行はれるのですか?』

 『多分一人や二人、極上手な販賣係は、少しばかり貰つてゐませう――給料といふのではありませんが、每月少額の特別報酬です。それから、老監督(あの人はここに四十年も勤めてゐます)は、給料を受けてゐます。その他のものは食料以外、何も貰ひません』

 『よい食料ですか?』

 『いえ、極安い、粗食です。誰れでもここで年季奉公――十同年乃至十五年――を勤めた舉句には、自分で獨立して一軒の店が持てるやう、補助を與へられることになります』

 『大阪のすべての商店で、みなこんな情況ですか?』

 『さうです――何處でも同樣です。しかし今頃は澤山の丁稚が、商業學校の卒業生です。商業學校へ送られたものは、餘程遲くなつてから奉公を始めます。そして、子供から敎へ込まれたやうな、よい丁稚にならぬといふことです』

 『外國商館に傭はれてゐる日本人の店員は、もつと立派に暮らしてゐますよ』

 『私共はさつ思ひません』と、私の知人はきつぱり云つた。『成程、英語を上手に喋つて、外人の取引のやり方を知つてゐるものは、一日に七時間か、八時間働いて、一箇月五六十弗を貰ひますが、待遇が日本の商店で受けるのとちがひます。怜悧な人は外人の下に働くことを好きません。外人は日本人の店員や召使を非常に虐待したのです』

[やぶちゃん注:この人物のドル換算はおかしいと思う。当時の為替レートでは一ドルはほぼ二円であるから、五十ドルでも百円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、二百万円になり、あり得ない。二万円は高い換算額であるにしても、明治二十八年当時(本書刊行は明治三〇(一八九七)年)の大卒初任給が二十円、給与所得者年収二百四十四円であるから、如何に外国商館勤務でもこんなには貰えていないはずである。]

 『しかし今はさうではないのですか?』と、私は尋ねた。

 『多分あまり虐待しますまい。それは危險だと知つたのです。しかし昔は擲つたり[やぶちゃん注:「なぐつたり」。]、蹴つたりしたものです。日本人は丁稚や召使へ不親切な言ひ方をするのさへ、恥づかしいことと思つてゐます。ここのやうな店には、不親切な待遇といふことは、少しも存在してゐません。主人も監督も決して粗暴な言葉を發しません。御覽の通り、大人も子供も無給料で、

このやうに勉强して働いてゐます。外人がたとひいくら澤山の給料を出しても、こんな風に日本人を働かせることはできませんよ。私も外同商館で働いて、知つてゐます』

 日本の商賣や、技巧を要する工業に於て、氣の利いた奉公振りは、大抵無給だといつても過言ではない。恐らくは、全國の商賣仕事の三分の一は、賃銀なして行はれてゐるだらう。主從の關係は、双方の側に於ける完全なる信任となつてゐる。また道德的狀態の最も低級なものによつてさへ、絕對服從が確實に守られてゐる。これは私の大阪滯在中、最も深く印象された事實であつた。

 奈良への夜行列車が、大都會の賑やかな喧囂から私を運び去りつつある際、私はこの事實について不思議がり乍ら考へてゐた。私は數里に亙る屋根の上にてゐる上に――惠み深い仁德天皇の宮へ、永遠に煙の供物を捧げつつある、幾多工場の林立せる煙突の上に――夕闇が深くなりつつ行くのを眺めながら、猶ほそれを考へつづけた。不意に、無數の軒燈がきらめいてゐる上に――電燈が白い星の如く點々たる上に――次第に增し行く暗がりの上に――私は夕陽の名殘の赤い光の中へ輝いて聳立せる、堂々たる天王寺の古塔を見た。して、その塔の象徴せる信仰が、日本の最も偉大な都會の、あらゆる富と元氣と力の根抵なる、忍從と愛と信賴の精神を作ることを助けたのではないだらうかと、私は自ら尋ねてみた。

 

2019/11/30

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 舊日本がどしどし亡くなりつつあるといふのは、事實ではない。少くとも、今後百年以内に、亡くなる譯には行かない。恐らくは、全然滅亡することは、決してないだらう。幾多の珍らしい美しいものが消え失せたけれども、舊日本は依然として藝術の中に、信仰の中に、風俗習慣の中に、國民の心と家庭の中に、今猶ほ生き殘つてゐて、苟も具眼の士は、隨處にそれを見出しうるのである。しかも造船、時計製造、麥酒釀造、紡績などが行はれてゐる、この大都會ほど容易にそれを見出しうる處は、他にあるまい。實を申せば、私が大阪へ行つたのは、主もに寺院を見るためで、特に名高い天王寺を見るためであつた。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、造営は推古元(五九三)年と伝えられ、「荒陵寺(あらはかでら)」ともいう。主要伽藍は南北中軸線上に、南から南大門・中門・塔・金堂・講堂の順に配され、塔と金堂を包む回廊がめぐっている。この種の配置を一般に「四天王寺式」と呼んでいる。寺は建立後、幾度か罹災しているが、その都度、ほぼ旧規に則して復興され(現在の伽藍は第二次大戦後に復興されたもの)、国宝の「扇面法華経冊子」を始めとして、長い寺史を物語る多くの寺宝が伝わる、とある。]

 天王寺、もつと正確に云へば、卽ち四天王寺は、日本中で最古の佛寺の一つである。西曆第七世記の昔、用明帝の皇子で、推古女帝(西曆五七二――六二一年)[やぶちゃん注:現在、推古天皇の生没年は欽明天皇一五(五五四)年から推古天皇三六(六二八)年、在位は崇峻天皇五(五九三)年から没年までで、小泉八雲が示す西暦とは孰れも一致しないので注意されたい。]の世の攝政であつて、今は聖德太子と呼ばれる厩戶皇子によつて建立された。太子は日本の佛敎に取つてのコンスタンタイン大帝譯者註と呼ばれるのは尤もな事である。初めは父、用明天皇の世に於け

 

註 四天王は、持國(ドリタラーシトラ)增長(ヴイルードバクシヤ)廣日(ヴイルーバクシヤ)毘沙門(ヴアイシユマナ)である。彼等は世界の四方を防禦する。

譯者註 コンスタンタイン大帝(二七四――三三七年)は、始めて基督數を羅馬の國敎とした初代敎會の恩人。

[やぶちゃん注:原注の原文を示すと、“They defend the four quarters of the world. In Japanese their names are Jikoku, Komoku, Zocho, Bishamon (or Tamon);—in Sanscrit, Dhritarashtra, Virupaksha, Virudhaka, and Vaisravana,—the Kuvera of, Brahmanism.”

「コンスタンタイン大帝」ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語表記:Gaius Flavius Valerius Constantinus 二七〇年代前半~三三七年)はローマ帝国コンスタンティヌス朝第一代皇帝コンスタンティヌスⅠ世(在位:三〇六年~三三七年)。『複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた』。『ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の』一『人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、彼『自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした』と彼のウィキにある。]

 

る大爭鬪によつて、それから後には律令の制定と佛敎の學問の保護によつて、日本帝國に於ける佛敎の運命を決定したからである。その前の敏達[やぶちゃん注:「びだつ」。]天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立したのであつた。しかし用明帝の御代には、物部守屋といふ有力な貴族で、且つ外來宗敎の猛烈なる反對者が、かかる寬容に對して反抗し、寺院を燒き、僧侶を追放し、天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ。傳說によれば、皇軍が擊退されつつあつた際に、皇子――當時僅に十六歳――は、もし勝利を得たならば、四天王に對して寺院を建立することを誓つた。すると、立ちどころに、彼の軍勢の方に一個の巨大な姿がぬつと現はれ、守屋の軍勢はこれに睨まられて、散亂遁走した。佛敎の敵は全然ひどい敗北を蒙つた。して、その後聖德太子と呼ばれた若い皇子は、彼の誓願を守つた。天王寺が建てられた。して、叛賊守屋の富は、その維持に利用された。太子は寺の金堂と稱する部分に、日本に渡來した最初の佛像を安置した――如意輪觀音の像――して、その像は或る祭日には、今猶ほ一般へ示される。戰鬪中に出現した巨大の姿は、四天王の一つなる毘沙門であつたと云はれてゐる。今日に至るまで、毘沙門は勝利の授與者として崇拜されてゐる。

[やぶちゃん注:「敏達天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立した」不審。ウィキの「敏達天皇」によれば、『敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇』十四年(五八五年?)に『物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の』八月十五日、『病が重くなり崩御』(但し、「古事記」では没年は五八四年とされてある)し、『仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された』とある。

「天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ」用明天皇二(五八七)年七月に発生した「丁未(ていび)の乱」「物部守屋の変」。仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立した大連(おおむらじ)物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。詳しくはウィキの「丁未の乱」を参照されたい。

「如意輪觀音の像」Japantemple.com ~いにしえの日本を思う寺社巡り~」の『四天王寺の本尊「救世観音」とは?』に本尊変更などの解説とともに画像がある。]

 店肆の並んだ、陽氣な狹い賑やかな町から、天王寺の廢朽せる境内へ移つて行つたときの感は、何とも云ひにくい。日本人に取つてさへも、千二百年前日本に於ける最初の佛敎傳道事業の頃の生活狀態へ、記憶の上では後戾りをすることとなつて、一種超自然的の感じがあるに相違ないだらう。他の場所では、私の眼には紋切形で見慣れきつた信仰の象徵も、ここで見ると、まだよく見慣れない、異國的な、原始的形式のやうに映ずる。それから、私が未だ嘗て見たことのないものは、現實世界を離れた時處の感を與へて私を驚かした。實は元の建築は、あまり殘つてゐない。燒けてしまつた個所もあれば、修繕された個所もある。しかしその印象は矢張り一種特異である。それは改築されたり、修繕されたりしても、どこまでも韓唐[やぶちゃん注:「から・とう」。原文は“some great Korean or Chinese architect”であるから、朝鮮と中国。]の偉大なる建築家の作つた原型が保存もれてゐるからだ。此境内の古色蒼然たる光景、異樣な淋しげな美を筆で述べようとしても駄目である。天王寺がどんなものであるかを知るには、その凄いやうな頽廢を見ねばならない――古い木材の美しい漠然たる色合、消え行く幽靈のやうな灰色や黃色の壁面、風變はりな不順序、檐[やぶちゃん注:「ひさし」。]の下の異常なる彫刻――波や雪や龍や鬼の彫刻の、嘗ては漆と黃金を塗つて華麗であつたのが、今は歲月のため褪せて煙の如き色になつて、煙と共に渦を卷いて消え去らんとするやうである。彫刻で最も目醒ましいのは、奇想を凝らした五重の塔のものである。塔は今荒廢して、屋根の諸層の角から吊るした靑銅の風鐸は、殆ど落ちてしまつてゐる。塔と本堂は、四角形な庭の中に立つてゐて、庭の周圍には、開いた𢌞廊が連つてゐる。更に向うには、他の中庭、佛敎の學校、及び嚴疊な石橋を架せる、數多の龜の住んでゐる大きな池がある。石像や石燈籠や唐獅子や巨大な太鼓がある――玩具や珍奇な物品を賣る小屋もある――休憩のための茶店もある――それから、龜や鹿のために菓子を買ふことのできる菓子賣店もある。飼ひ馴らされた鹿は、餌を求めるため、そのつやつやした頭を屈めて、參詣者に近寄つてくる。二階作りの樓門があつて、大きな仁王の像が鎭護してゐる。仁王の手足は、アツシリヤの彫刻に於ける王の四肢の如き筋肉を有し、胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる。今一つの櫓門は、堂内が空虛である。多分昔は四天王の像があつたのであらう。珍らしいものが、なかなか夥しいのであるが、私はただ二つ三つの、最も異樣な經驗を書いてみよう。

[やぶちゃん注:「アツシリヤの彫刻」“Assyrian sculptures”。ウィキの「アッシリア」によれば、『アッシリア(Assyria)は現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。アッシュール市を中核とし、帝国期にはニネヴェやニムルドが都として機能した。歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。最終的にメソポタミア・シリア・エジプトを含む世界帝国を築』いたとある。グーグル画像検索「アッシリア 彫刻 王」をリンクさせておく。

「胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる」私は小さな頃に、見かけてよく知っているのだが、最近はまず見かけなくなったから、若い読者には意味が解らぬ方も多かろう。個人ブログ「秘境100選 Ver2」の「仁王像」(北海道札幌市東区にある曹洞宗金龍山大覚寺山門の仁王像と思われる)の写真を見られたい。そこに『仁王の赤い身体に白いものが張り付いていて、最初鳥の糞かと思った。案内役の僧に聞いてみると、これは唾や水で濡らした紙つぶてが乾いたものだそうである。自分の身体の悪いところに対応する仁王の身体に、濡らした紙つぶてを投げて当て、直るように祈願する。こうなると』、『仁王も医者の役目を果たしている』とあるので納得がいかれよう。]

 先づ第一に發見したことは、私が境内に入つたとき念頭に浮かんだ一個の臆測が、實際に確められたことである――ここの建築が特異である如く、禮拜の形式もまた特異ではないか知らんと思はれたのであつた。どういふ譯で、こんな感じが起こつたかわからない。ただ外門を入つてから直ぐに、建築に於けると同樣に、宗敎に於ても異常なものを見るやうな豫感を覺えたと云ひうるのみである。すると、私はやがてそれを鐘樓に於て發見した。これは二階作今の支那風建築で、そこに『引導の鐘』と呼ばれる鐘がある。何故といふに、その鐘の昔が、子供の靈魂を冥途に於て案内するからである。鐘樓の階下の室は、禮拜堂の設備がしてある。一見した時、ただ佛敎の禮拜が營まれつつあるのが眼についた。蠟燭が燃えて、厨子は金色に輝き、香煙が騰つて、一人の僧は祈を捧げ、女や子供は跪づいてゐた。しかし厨子の中の像をよく見ようと思つて、一寸入口の前に立ち止まると、私は忽ち見慣れぬ驚くべきものに氣がついた。厨子の兩側の棚の上、臺の上、厨子の上方下方、それから向うの方に、何百といふ數の子供の位牌が並んでゐて、それから、位牌と共に數千の玩具が並んでゐる。小さな犬、馬、牛、武者、太鼓、喇叭、厚紙製の甲冑、木刀、人形、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。凧。]、假面、猿、船の型、小型の茶器一式、小型の家具、獨樂、滑稽な福神の像――近代の玩具や、いつ頃流行したのか分からぬ玩具――數世紀に亙つて集つたもので、昔から今まで代々の死んだ子供全部の玩具がある。天井から人目の近邊へ、鐘を鳴らす一本の大きな綱が垂れてゐる。直徑約四吋[やぶちゃん注:「インチ」。約十センチメートル。]、種々の色を帶びてゐる。それは引導の鐘の綱である。しかもその綱は死んだ子供の涎掛で作られたもので、黃、靑、赤、紫や種々の中間の色合を帶びてゐる。天井は見えない。それは數百枚の死兒の小さな着物で遮ぎられてゐる。僧侶の側で、盛の上に坐つたり遊んだりしてゐる男女の子供達は、彼等の亡くなつた兄弟とか姉妹とかの位牌の前に納めるため、玩具を持つて來たのである。子を矢つた父とか母が、絕えず戶口ヘ來て、鐘の綱を引き、疊の上へ銅錢を投げては祈をさ〻げる。鐘の鳴る度每に、亡兒の靈魂がそれを聞きつけるのだと信ぜらてゐる――もう一度、好いた玩具や親の顏を見るために、歸つてくるのだとさへ信ぜられてゐる。南無阿彌陀佛といふ哀れげな小聲、鐘の響[やぶちゃん注:底本は「鏡の響」となっているが、相当箇所は“clanging of the bell”であるから、誤植と断じ、特異的に訂した。]、僧の讀經の深い唸り聲、貨幣の落ちる音、心地よい重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]抹香の薰り[やぶちゃん注:「かほり」。]、厨子の冷靜な黃金色に輝いた美しい佛陀、玩具の華麗な光、子供の着物の暗影、種々の色をした涎掛の驚くべき鐘の綱、座敷の上で遊んでゐる子供の樂げな笑聲――すべてこれは私に取つては、またと忘れられない凄いやうな哀れさの經驗であつた。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「北鐘堂」の解説によれば、『正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といい』、『北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ』、『春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえ』し、『このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のための鐘の音が絶え』ないとあり、『当堂の鐘は天井裏にあり、綱を引いてつく形式のため』、『鐘は見ることができ』ないとある。ネット上で複数の堂内の写真を見たが、最早、小泉八雲が激しい感動を覚えたそれは、残念ながら最早、過去のものとなっているようである。

 なお、以下は原本では一行空けで「Ⅳ」に続いている。しかし、原本を見ると、異様に長くこの「Ⅳ」が続き、やっとここで「Ⅴ」になるものの、その後が「Ⅵ」ではなく、「Ⅶ」となって終わっている。これは、原本の誤りであり、落合氏はそれを考慮して、以下を「五」として後を「六」「七」と繋げたものであると読める。

 

       

 鐘樓から遠からぬ所に、貴い泉を蔽へる珍らしい建物がある。床の中央が開いて、長さ十尺幅八尺位で、欄干が繞らしてある[やぶちゃん注:「めぐらしてある」。]。欄干から見おろすと、下の暗い中に大きな石の水盤がある。古くなつて色黑く、唯だ半分しか見えない大きな石の龜の口から、その中へ水が注いでゐる。龜の後部は床の下の暗い所へまで入つてゐる。この水を龜井水(かめのゐすゐ)といふ。この水の注ぐ盤は、半分以上白紙で充ちてゐる――無數の白紙の片に、一つ一つ漢字で戒名、卽ち人が死んでから附ける佛敎的の名が書いてある。堂の一隅の疊を敷いた處に、僅の料金で戒名を書いてくれる僧がゐて、死人の親類とか友人が、戒名を書いた紙片の一端を、長い棹の先きに直角に附けた竹の窩[やぶちゃん注:「あな」。]、と云はんよりは寧ろ竹の接ぎ目の口ヘ挾んで、字を書いた面を上に向けて龜の口へ紙を下げ、始終佛敎の呪文を唱へ乍ら、迸る水の下へやつてゐると、水盤の中へ洗ひ流される。私が泉へ行つて見た折、人が山をなして、五六人が戒名を龜の口の下へ持つて行つて、その間夥多の信心深い人々は、手に紙片を持つたま〻棹を用ひる機會を待つてゐた。南無阿彌陀佛のつぶやきが激流の音のやうであつた。水盤は數日每に一杯になつて、それから中を開けて、紙を燃してしまうのだと、私は告げられた。これを眞實とすれば、この繁忙な商業的都會に於ける佛敎の力の顯著なる證據である。こんな紙片が數千枚もなくては、水盤は一杯にならないからである。この水は死んだ人の名と、生きた人の祈とを齎して、聖德太子の許へ行き、太子は信者のために阿彌陀に向つて執り成しの力を用ひ玉ふのだといふことである。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「亀井堂」の解説によれば、『亀井堂は戦火で焼失後、昭和』三〇(一九五五)『年に再建され』『た。亀井堂の霊水は』、『金堂の地下より、湧き』出『ずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば』、『極楽往生が叶うといわれてい』る。堂の『東西桁行は四間』(七メートル二十七センチ)『あり、西側を亀井の間と』呼でおり、『東側は影向』(ようごう)『の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があり』、『中央には、その昔』、『聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されてい』るとある。]

 太子堂といふ堂には、聖德太子と侍者どもの像がある。高貴の人の用ひる椅子に坐せる太子の像は、實物大で、且つ彩色を施してあつて、千二百年前の服裝に、華麗なる帽を被つて、その支那式或は朝鮮式の靴は爪先きが反つてゐる。極めて古い陶器や、襖模樣などに、これと同樣の服裝を見ることがある。しかし顏は、その髭が支那風に垂れてゐるにも拘らず、典型的日本人の顏であつて、品位が備はり、親切らしく、冷靜である。私は像の顏から振り返つて、私のぐるりの人々の顏を見た時、矢張り太子と同一の型であつて、同じく落ち着いた半ば好奇心のある、不可思議な凝視の眼に出逢つた。

 

 天王寺の古代建築に對して、强大なる對照を呈するものは、大きな東西兩本願寺である。これは東京の兩本願寺に殆どそつくり似てゐる。大抵日本の大都會には、かやうな一對の本願寺がある――それぞれ十三世紀に創立された、大きな眞宗の東西兩派の一つに屬してゐる。その建築は地方の富及び崇敬的に重きをなす程度如何に從つて、大いさを異にするけれども、大抵同一の形式であつて、それは佛敎建築中、最も近代的且つ最も純日本的な形式を現はしてゐるといふことができる――大きく、莊嚴[やぶちゃん注:これは意味から「さう(そう)ごん」と読む。]で、華麗である。

 

註 この宗旨が、十七世紀に二派に分かれたことは、宗敎上でなく、政治上の原因を有つてゐた。だから、同派は宗敎的には一致してゐる。その法主は皇族の血續を承けてゐる。因つて御門跡といふ稱號がある。この宗旨の寺の境内を繞る塀は、皇居の塀と同樣の裝師的剜形を有することを、旅人は注目するだらう。

[やぶちゃん注:私は二十歳の頃に唯円の「歎異抄」に嵌まった。その際、この二派の後の分立には痛く鼻白んだもんだ。浄土真宗の二大分立についてご存じない方は、ウィキの「本願寺の歴史」を参照されたい。説明する気も起らん。

「剜形」「わんけい」或いは「ふちくりがた」とも読むようだ。“Travelers may observe that the walls inclosing the temple grounds of this sect bear the same decorative mouldings as those of the walls of the Imperial residences.”「抉り取った、削り取ったような装飾様式であること」のようだが、単に門跡寺院だから同じような成形の装飾様式を持つで別にいいんじゃなかろうか?]

 

 しかし兩寺院は、共に象徵、偶像、及び外部の儀式については、殆ど新敎的嚴肅を示してゐる。その質素にして、どつしりした門は、決して巨人の仁王によつて護衞されてゐない――その大きな檐の下には、龍や惡魔の群像はない――佛や菩薩の黃金色の群が、列を重ね、光背を積んで、聖殿の薄明裡に聳えてもゐい――隨喜渇仰のしるしの珍らしい殊勝なものを、高い天井から吊るしたり、佛壇の前へ懸けたり、玄關の格子に結んだりしたのもない――繪馬もなく、祈を書いた紙を結んだものもない。唯だ一つの外、象徵はない――それも大抵小さい。それは阿彌陀の像である。多分讀者は、佛敎に於て本願寺派は、ユニテリアン派譯者註が自由派基督敎に於て代表するのと、敢て異らざる運動を代表するものだといふ事を知つてゐるだらう。その獨身生活とすべて禁欲的修行を排斥する點、その呪符、卜筮、奉納物を禁じ、また救ひのための祈りの外、一切の祈りを禁ずる點、勤勉なる努力を人生の努力として强調する點、結婚の神聖を宗敎的束縛として維持する點、唯一永遠の佛陀を父とし救主として仰ぐ敎義、善い生活の直接の報酬として、死後に於ける樂園の約束、また就中、その敎育に熱心なる點――すべてこれらの諸點に於て、淨土の宗敎は、西洋の基督敎の進步的形式のものと多大の共通せるものを有つと云つても妥當であらう。して、それは滅多に傳道團や布敎隊へ足を向けないやうな、敎養ある人士から、たしかに尊敬を博してゐるその富、その尊嚴、その佛敎的迷信の低級な形式に對する反抗から判斷すれば、すべての佛敎宗派の中で、最も感情的分子の少いものと思はれるだらう。しかし或る點に於ては、多分最も感情的といふべきであらう。いかなる他の佛敎宗派も、

 

譯者註 所謂正統派基督敎の諸派が、三位一體說を信奉してゐるのに對して、ユニテリアンは、ただ一位の天父を信じ、基督をただ至高の人格と認め、その神性を認めないで、最も自由なる信仰を有し、儀式最も簡單である。

[やぶちゃん注:「ユニテリアン派が自由派基督敎に於て代表する」原文“Unitarianism represents in Liberal Christianity”。ユニテリアン(Unitarian)はキリスト教正統派の中心教義である父と子と聖霊の三位一体(トリニティ:Trinity)の信条に反対して「神の単一性(Unity)」を主張し、「イエスは神ではない」とする一派の人々を指す。厳密な意味での、「ユニテリアニズム(Unitarianism)」は宗教改革後、約半世紀経って現れており、十七世紀以後、イギリスに於ける著名なユニテリアンとしては。ビドル John Biddle・クラーク Samuel Clarke・プリーストリー Joseph Priestly・マーティノー James Martineau などが挙げられる。アメリカでは、イギリスから移住したプリーストリーによってフィラデルフィアに初めて「ユニテリアン教会」が建てられ、チャニング William Ellery Channingが一八二五年に「アメリカ・ユニテリアン協会」を設立した。一九六一年には「ユニバーサリスト教会」と合同して「ユニテリアン・ユニバーサリスト協会」が組織された。日本にユニテリアンが初めて紹介されたのは、明治二〇(一八八七)年、矢野文雄によってである(同年七月『郵便報知新聞』紙上)。明治四二(一九〇九)年頃には神田佐一郎・三並良)(みつなみりょう)・岸本能武太(のぶた)・安部磯雄らが機関誌『ゆにてりあん』の編集・執筆を行い、同誌は後に『宗教』に改題し、さらに日本最古のキリスト教雑誌である『六合(りくごう)雑誌』と合併したが、大正一〇(一九二一)年に終刊した。昭和二三(一九四八)年、「日本ユニテリアン協会」の創立総会が開かれ、ユニテリアンに関連する教会として「東京帰一(きいつ)教会」(初代会長今岡信一良(しんいちろう))が作られた。翌年、「日本ユニテリアン協会」は「日本自由宗教協会」と改称し、協会機関誌『創造』を刊行している。機関誌はその後『自由宗教』『まほろば』『創造』と誌名を変えながら発行され続け、昭和二七(一九五二)年には「自由宗教連盟」と改称、国際自由宗教連盟(IARF)に加盟した(IARFは明治三三(一九〇〇)年に創設され、三年に一度、大会を開催しているが、一九九九年には「地球共同体の創造 宗教者の使命」というテーマのもと、カナダのバンクーバーで第三十回大会が開かれた)。しかし、この一九九九年、宗教法人「東京帰一教会」は初代会長今岡氏の没後、後継者に適当な人材がなく、また、会員の老齢化などによって解散している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「Liberal Christianity」はその英文ウィキ