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2019/01/16

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 顏

 

  

 

ねぼけた櫻の咲くころ

白いぼんやりした顏がうかんで

窓で見てゐる。

ふるいふるい記憶のかげで

どこかの波止場で逢つたやうだが

菫の病鬱の匂ひがする

外光のきらきらする硝子窓から

ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。

 

私はひとつの憂ひを知る

生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて

ふたたび永遠にかへつて來ない。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二一)年一月号『日本詩人』初出。初出は以下。

   *

 

  顏

 

ねぼけた櫻のさくころ

白いぼんやりした顏がうかんで

窓で見てゐる。

ふるいふるい記憶のかげて[やぶちゃん注:ママ。]

どこかの波止場で逢つたやうだが

たいさう惱ましい顏のやうだが[やぶちゃん注:「たいさう」はママ。]

𦰌の病鬱の匂ひがする[やぶちゃん注:「𦰌」はママ。]

外光のきらきらする硝子窓から

あゝ遠く消えてしまつた。虹のやうに。

 

私はひとつの憂ひを知る

生涯(らいふ)のうす暗い隅を通つて

ふたゝび永遠にかへつて來ない。

あゝ悔恨の酢えた淚は

殘像の頰にもながれてゐる。

 

   *

初出の最後の二行はカットして良かった。「ふたゝび永遠にかへつて來ない」と感ずる「憂ひ」には「殘像の頰にもながれ」る「悔恨の酢えた淚」など、あろうはずがない、絶対の永遠の憂愁には、この二行は蛇足以外の何ものでもないからである。

 「定本靑猫」とは異同が全くなく、特異点の再録詩篇である。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 遺傳

 

  遺  傳

 

人家は地面にへたばつて

おほきな蜘蛛のやうに眠つてゐる。

さびしいまつ暗な自然の中で

動物は恐れにふるへ

なにかの夢魔におびやかされ

かなしく靑ざめて吠えてゐます。

  のをあある とをあある やわあ

 

もろこしの葉は風に吹かれて

さわさわと闇に鳴つてる。

お聽き! しづかにして

道路の向ふで吠えてゐる

あれは犬の遠吠だよ。

  のをあある とをあある やわあ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのです。」

 

遠くの空の微光の方から

ふるへる物象のかげの方から

犬はかれらの敵を眺めた

遺傳の 本能の ふるいふるい記憶のはてに

あはれな先祖のすがたをかんじた。

 

犬のこころは恐れに靑ざめ

夜陰の道路にながく吠える。

  のをあある とをあある のをあある やわああ

 

「犬は病んでゐるの? お母あさん。」

「いいえ子供

犬は飢ゑてゐるのですよ。」

 

[やぶちゃん注:「向ふ」はママ。大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出では、オノマトペイア「のをあある とをあある のをあある やわああ」は総て一字下げで、「お聽き! しづかにして」は「お聽き、しづかにして」で迫力が減衰している。「こころ」は「心臟」に「こゝろ」とルビしている他は、有意な異同はない。「定本靑猫」には再録されていない。一見、「月に吠える」の猫の二番煎じ的印象を受けるが、こちらの方がオノマトペイアも詩篇の言わんとするところも、より深刻で、私はブラック・ユーモアを気取った「猫」よりも、こちらの方が遙かに好きだ。私の萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 猫と比較対照されたい。……ああっ! これは私の亡き母! 犬は亡き三女のアリス! そうして……少年は淋しい私そのものではないか!?!……

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 惡い季節

 

  惡 い 季 節

 

薄暮の疲勞した季節がきた

どこでも室房はうす暗く

慣習のながい疲れをかんずるやうだ

雨は往來にびしよびしよして

貧乏な長屋が並びてゐる。

 

こんな季節のながいあひだ

ぼくの生活は落魄して

ひどく窮乏になつてしまつた

家具は一隅に投げ倒され

冬の 埃の 薄命の日ざしのなかで

蠅はぶむぶむと窓に飛んでる。

 

こんな季節のつづく間

ぼくのさびしい訪問者は

老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です。

ああ彼女こそ僕の昔の戀人

古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ。

 

こんな白雨のふつてる間

どこにも新しい信仰はありはしない

詩人はありきたりの思想をうたひ

民衆のふるい傳統は疊の上になやんでゐる

ああこの厭やな天氣

日ざしの鈍い季節

 

ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は

ああもう どこにだつてありはしない。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年一月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」に有意な異同は認めない。

「白雨」は「はくう」で、通常は「明るい空から降る雨・俄か雨・夏の夕立」を指すが、「冬」と「薄命の日ざし」と時制を示しており、冬の夕暮れのざっと降り出したそれである。減衰した夕暮れの日差しはあるが、そこに白っぽく見えるほどに俄かに降り出した雨を指している。

「古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ」「影の影」を中心に美事な一行である。]

2019/01/15

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 囀鳥

 

  囀  鳥

 

軟風のふく日

暗鬱な思惟(しゐ)にしづみながら

しづかな木立の奧で落葉する路を步いてゐた。

天氣はさつぱりと晴れて

赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた

愉快な小鳥は胸をはつて

ふたたび情緖の調子をかへた。

ああ 過去の私の鬱陶しい瞑想から 環境から

どうしてけふの情感をひるがへさう

かつてなにものすら失つてゐない

人生においてすら。

人生においてすら 私の失つたのは快適だけだ

ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。

 

[やぶちゃん注:「囀鳥」は「てんてう(てんちょう)」と読ませるようである。「囀っている鳥」の意ではある。大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』(創刊号)初出。初出では標題が「快適を失つてゐる」で、最終行「ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。」が「ああしかし あまりに久しく快適を失つてゐる。」で太字は傍点「●」(大きな黒丸)である以外は、有意な異同は認められない。「定本靑猫」でも有意な異同は認めない。]

南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)

 

[やぶちゃん注:これは現在、ブログ・カテゴリ「柳田國男」で進行中の「山島民譚集」の「河童駒引」のこちらのパートの最後の注のために緊急電子化する。緊急なれば、必要最小限度の注に留めた。

 底本は所持する一九八五年平凡社刊の「南方熊楠選集」の「別巻」の両者の往復書簡集に拠る。これは新字新仮名であるが、仕方がない。

 クレジットは底本では一字上げ下インデントであるが、上に引き上げた。割注風の部分はポイント落ちであるが、同ポイントで出した。]

 

 

 柳田国男より 南方熊楠宛

   明治四十五年四月二十九日

『雪の出羽路』巻十二、羽後平鹿郡栄村大字大屋寺内の条に、この国秋田、能代、横手、河口等に河童相伝という接骨の薬あり、その主剤はいずれも「扛板帰(こうはんき)」なり。この扛板帰を、地方によりては「河童の尻ぬぐい」といい、または河童草というと有之候が、この植物につきて何か御心当りは無之や伺い上げ候。

 また今西氏説に、朝鮮に「揚水尺」と称する一種の民種あり、妓生もとこれより出で、柳器を製して生を営みしもののよし。水尺とは水を探す杖かと考え候が如何。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月一日夜一時

 小生、四月三十日朝より今に眠らず、顕微鏡を捻し、はなはだ疲れたれどもこの状認め、明朝下女をして出さしむ。

 滕成裕の『中陵漫録』巻六に、川太郎のことをいうとて、奥州にこの害なけれども、西国には時々この害に遇う、云云、とあり。しかるに、貴書によれば羽後にある由なり。また『遠野物語』によるも、奥州にあるなり。ひとえに書を信ずべからざること、かくのごとし。

 さて同書(『中陵漫録』巻一三)に、万病回春に扛板帰あり、和名イシミカワという草に充つ、今時薬肆にもこの草を売る、よく折傷、打傷を治すこと妙なり、という。按ずるに、日向国より出づる河白(かっぱ)相伝正左衛門薬というあり、よく骨を接(つ)ぎ死肉を治す妙薬なり。この由来を尋ぬるに、日向国に古池あり、毎歳河白のために人命を失う。ある人、薄暮この池の辺を過ぐ、河白手を出して足踵を引く。この人鎌(かま)をもって河白の手を切り取って帰る。この人梁下に釣り置く。これより毎夜来て板戸を叩いてその手を請う。この人、大いに罵って追いちらす。およそ来ること一七(いちしち)夜、この人河白に請いていわく、この手乾枯して用に立つことなしと言えば、河白対えていわく、われに妙薬あり、妙薬をもって生活(いけいか)すという。これによって、この人戸を開きてその手を投じ去る。この夜のうちに一草を持ち来たり置く。この人考うるに、妙薬と言いしはこの草なるべしとて、乾し置き、人の金瘡および打傷の人に施すにはなはだ妙なり。これによって毎歳採って打傷の薬とす。これを名づけて河白相伝正左衛門薬という。はなはだ流行するに至って、その近隣の人々この草を知らんとすることを恐れて、今は黒霜となすなり。余案ずるに、毎夜来て板を扛いて帰るという、回春に扛板帰という意に暗に相合す。おそらくは、扛板帰の名はなはだ解しがたし、河白はすなわちカッパなり、この草湿草にして河白の住むべきところに多く生うる草なり、その理その自然に出づるなり。

 扛は『康熙字典』に「横関(かんぬき)を対拳(さしあ)ぐるなり、また挙ぐるなり」 とあり、成裕はたたくの意にこじつけたり。似たことながらはなはだ正しからず。板をかつぐもの筋ちがうて板を持つに堪えざりしに、この草の即効にてたちまちふたたび板を扛(あ)げかついで帰れりというような意、山帰来に似たことと察し侯。この草をイシミカワということ分かりがたし。『塩尻』(帝国書院刊本、巻六)に、イシミカワという草、河内国錦部郡石見村のみにあり、他所になしとその所の者の話、とあり。これは石見(いしみ)という名よりこじつけたる説と存じ候。なにか乱世のころ、この草を用い薬とし、威神膏とか一心膏とか名づけたるより、イシンコウ、イシミカワと転訛したるかと察し申し候。

 多紀安良(?)の『広急赤心済方』(今の『家庭漢一療類典』[やぶちゃん注:「一」の横に編者の不審を表わす記号が右に打たれてある。]ごときもの)にもこの事を図し、その神効を説きあり。扛板帰(いしみかわ)をカッパグサまたカッパノシリヌグイと言う由は今始めて承る。ただし、イシミカワと同じく蓼属中のもので、ママコノシリヌグイというものあり。未熟な採集家はよく間違うなり。田辺辺すべて熊野にはママコノシリヌグイ多きも、イシミカワは見当たらず、和歌山近在にはイシミカワ多く、ママコノシリヌグイ少なし。右『塩尻』に一村にしかなき由いうところを見ると、なにか薬用に使いしらしく候。全く無用のものなら、そんなことに気を付けぬはずなり。

Isimikawatomamakonosirinugui

[やぶちゃん注:南方熊楠直筆の挿絵。右側が「山島民譚集」の「河童駒引」「イシミカハ」(イシミカワ)で、上部に学名「Persicaria perfoliata L.」、左側が「マヽコノシリヌグヒ」(ママコノシリヌグイ)で、上部に学名「Polygonum senticosum Fr. et Sav.」(これは同種の現行の学名 Persicaria senticosa (Meisn.) H.Gross のシノニムである)。ナデシコ目タデ科イヌタデ属ママコノシリヌグイはウィキの「ママコノシリヌグイによれば、「継子の尻拭い」で、「トゲソバ」(棘蕎麦)の別名を持つ一年草で、『和名は、この草の棘だらけの茎や葉から、憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から来ている。韓国では「嫁の尻拭き草」と呼ばれる。漢名は刺蓼(シリョウ)』。『他の草木などに寄りかかりながら』、『蔓性の枝を伸ばし、よく分岐して、しばしば藪状になる。蔓の長さは』一~二メートルで、『茎は赤みを帯びた部分が多く、四稜があり、稜に沿って逆向きの鋭い棘が並んでいる』。『柄のある三角形の葉が互生し、さらに茎を托葉が囲む。葉柄と葉の裏にも棘がある』。五~十月頃、『枝先に』十『個ほどの花が集まって咲く。花弁に見えるのは萼片で』、『深く』五『裂し、花被の基部が白色で、先端が桃色。花後には黒色の痩果がつく』。『東アジアの中国、朝鮮半島から日本の全土に分布』し、『やや湿り気のある林縁や道端などに生える』とある。南方熊楠のキャプションは右から、

「葉柄葉裏(ウラ)ニツク」

「花短キ穗ヲナス」

「花雄藥八」(「雄花を薬に入れる」の意かと思ったが、違う。「八」不詳)

「實南天ノ實ノ

 如ク開(「同」かも知れぬ)ク緑碧白

 紅紫黑■(「抔」か?)異色ニテ

 一寸見事ナリ。」

(以上が「イシミカワ」のキャプションで、以下は「ママコノシリヌグイ」)

「花球顆ヲナス

  花雄藥七」(「七」不詳)

「葉柄葉ノ端ニツク

 表ニツカズ」

「實ハソバノ乾果ノ如シ。」

「托葉莖ヲ抱キ込ムノミ莖托

         葉ノ中心

         ヲ貫カズ」

とある。]

 ウナギツカミ。これはこの辺の田間にはなはだ多き草なり。他に異品あり。アキノウナギツカミ、ナガバノウナギツカミ等なり。

Unagitukami

[やぶちゃん注:ウナギツカミの図。上に学名「Polygonum sagittatum L.」が記されてある。ウナギツカミは「鰻摑み」でシノニムに「Polygonum sieboldii Meisn.」がある、タデ科タデ亜科タデ属 Polygonum の一年草。異名に「ウナギヅル」がある。茎の下部は地を這って、節から根を下ろし、上部は分枝して立ち上がり、稜角と逆向きの刺(とげ)があって、他物に絡みつき、高さ一メートル余となる。葉は披針形で、先は鈍く時に鋭く、長さ四~八センチメートル、幅一・五~三センチメートルで、基部は心臓形を成し、並行する葉耳(ようじ:岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイトを参照されたい)がある。質は薄く、やや粉白を帯び、無毛。裏面の葉脈上に逆向きの刺がある。葉鞘の縁(へり)は斜めに切れる。花穂は頭状、花は上半部が帯紅色で長さ三ミリメートル、花被は五枚、雄しべは八本、花柱は三本。痩果は卵状三稜形、黒色で、光沢はない。水辺に生え、日本全土、朝鮮、中国、東シベリアに分布する。夏開花するものを「ウナギツカミ」といい、秋開花するものを「アキノウナギツカミ」として区別することがある(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 右三品いずれも蓼属に属する草なり。㈠㈡[やぶちゃん注:ここに編者注があり、イシミカワとママコノシリヌグイのこととする。]はやや蔓草の体あり、㈢[やぶちゃん注:同前。ウナギツカミのこととする。]はまず偃地[やぶちゃん注:「えんち」。地面に伏せて広がること。]し後に直上す。

 ウナギツカミはこれをもってウナギ、ナマズ等すべっこいものをつかむに、鈎刺(かぎばり)あるゆえ難なく摑み得るなり。ママコノシリヌグイ、イシミカワ、いずれも鈎刺一層強し、人を傷つけるなり。ママコを悪(にく)む継母、これをもってその尻を拭うて傷つくという意なり。イシミカワはカッパ人の尻ぬく返報に、人がその尻をこの草でぬぐい苦しめやるべしという義にて、カッパノシリヌグイというも同意と存じ候。河童身滑りて捕えがたきゆえ、この草をもって執え得[やぶちゃん注:「とらえう」。]と信ぜるより、カッパ草(ぐさ)ということと存じ候。

 さて支那の扛板帰に充てて薬効ありと信ぜるより、和俗の名にちなみてカッパよりこの薬法を伝えたと言い出せしことと存じ候。田辺辺の屠児[やぶちゃん注:差別用語。中世・近世に於いて家畜などの獣類を殺すことを業とした人。]、牛黄をゴインと申す。これは牛黄と熊野の牛王と同音なるゆえ、牛王=牛王印にちなんで牛黄を牛印というに似たることと存じ候。マタタビは、貝原の説に、真の実Matatabinomi と、御承知のごとく猫に食わす実(み)のごときもの実は寄生虫の巣Matatabinokiseityuuno と、二様の実を結ぶゆえ「再実(またたみ)」の義の由、真偽は知らず、とにかくマタタビという名古くよりありしなり。しかるに、牟婁・日高郡の山民の話に、むかし旅人あり、霍乱にて途上に死せんとす、たまたまマタタビを得てこれを舐(ねぶ)り霍乱愈(い)え、再びまた旅に上り行きしゆえ、復旅(またたび)というと言い伝え候は、一層似たることなり。(『和名抄』に、和名ワタタビとあれば、貝原の説ははなはだ疑わし。)

 前便申し上げ候『訓蒙図彙大成』に見え候、京の猿舞(まわ)し、伏見より出づるということ、黒川道祐の『遠碧軒記』上の三に、猿牽は京に六人あり、所々にありて外のは入らず。京にては因幡薬師町に住す、山本七郎右衛門という。子供あれども一人ずつはまた拵ゆ[やぶちゃん注:「こしらゆ」。室町時代から、ハ行下二段動詞「こしらふ」がヤ行に転じて使われた古語。]。伏見のも京へば入らず、他所のは入らざるはずなり。伏見のは装束をさせて舞わす。京のは内裏方へ行く時は急度(きっと)装束す。正月五日に内裏へ行き、その外は親王様誕生の時は内裏に行く、姫宮のときは参らず。常も町をありきて他処のは入らざるなり。この六人のもの猿を六疋使う、内裏にて官をあがる、銀一貫ほどずつなり。

 猿舞しのことは『嬉遊笑覧』に多くかきあり、御存知のことゆえ今ここに抄せず。

 北村季吟の『岩つつじ』という書、貴下見しことありや、承りたく候。『続門葉和歌集』ごとく男色に関する物語の歌を集めたるものの由、平田篤胤の『妖魅考』に見え申し候。小生多年捜せども見当たらず、今も存するものにや。

 オポのこと、Burtonの『メジナとメッカ記行[やぶちゃん注:ママ。]』によれば、アフリカおよびアラビアにも似たものある由なり。しかし、別に抄するほどのことなき略註なれば、ここに抄せず。

 すこぶる睡たきにつき擱筆す。以上

[やぶちゃん注:以下、追伸風で、全体が底本では二字下げとなっている。]

本書封せんとして『和漢三才図会』蔓草類を見るに、赤地利をイシミカワに充てたり(今はミゾソバに当つ)。「骨を接ぐこと膠(にかわ)のごとし(堅固にするゆえ)、石膠(いしみかわ)と名づく」、ミカワはニカワの訛りなり、と。

 

 

 南方熊楠より 柳田国男宛

   明治四十五年五月二日夜十一時

 拝啓。小生、今午前三時貴方への状認めおわり眠たく、それより臥し今夕眼さめ、かれこれするうち一、二町内の当地第一の旅館失火全焼。かの毛利氏の妻の里方にて、毛利氏は今夜中村啓次郎等来たり、山口熊野の選挙運動大気焰最中の全焼ゆえ、大狼狽のことと存じ申し候。小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し、顕微鏡学にのみかかりおり、目悪く、さりとて中止するわけにも行かず、一昨日来眠らず、今暁よりようやく今夕まで眠り候。そんなことゆえ精神弱り、考えも鈍り候ゆえか、「カッパの尻拭い」の義、今朝差し上げ候状のはちと考え過ぎた説と存じ申し候。すなわちこの名義は「カッパの尻をこの草の刺(はり)でぬぐいこまらせやり復讐することならん」と申せしは考え過ぎにて、「カッパの体は尻また糞までも滑るゆえ、尻の拭い料なきゆえ、かのウナギツカミでウナギをつかむごとく、この草の刺ありて物にひっかかるを利用してカッパがこの草もて自分の尻を拭う」という義と存じ申し候。右訂正候なり。故に、ママコノシリヌグイと鉤刺は等しくありあがら[やぶちゃん注:ママ。「ながら」か。]、カッパノシリヌグイのはその鈎刺を利用、ママコノシリヌグイのは害用することと存じ候。

[やぶちゃん注:底本、「旅館失火全焼」に注して、『明治四十五年五月二日夜、中屋敷町にありし旅館兼料亭五明楼焼く。建坪百十余坪(二階あり)焼失、損害一万余円。(『田辺町史』)』とある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(5)

 

《原文》

 以上數箇所ノ接骨藥ハ本來其家ノ總領ト河童トノ外ニハ誰知ル者無キ祕密ナルべキ筈ナルニ、ポツポツト其噂ノ世ニ傳ハリタルハ此モ亦不思議ナリ。下條(シモデウ)ノ切疵藥ハ田野ニ生ズル所ノ蔓草ヲ以テ藥種トス。油類麺類ト差合アリト云フ迄ハ兎ニ角、魚類ヲ食フべカラズトアルハ河童ノ藥トシテハ少シク平仄ノ合ハヌ話也。日向國高鍋ノ庄左衞門ナル者、曾テ河童ト鬪ヒテ其一腕ヲ斬取リテ歸ル。河童哀求シテ其腕ヲ乞ヒ、此モ手繼ノ祕法ヲ祕シ去ルコト能ハズ、命ノマヽニ藥物ヲ臚列シテ見セタリ。然ルニ腕ヲ取返シ欣ビテ門ヲ出デ顧ミテ言フニハ、吾詳カニ藥劑ヲ述べタレドモワザト其一ヲ闕キタリト、終ニ水ニ沒シテ又追フべカラズ。【河童藥法】庄左衞門藥ハ後盛ニ世ニ行ハレ、用ヰテ金創打撲(ウチミ)ニ傅(ツ)クレバ神效アレドモ、全ク切レタル手足ノミハ繼ギ兼ヌルハ其一味ノ不足スル爲ト云フ〔水虎錄話〕。虛誕(ウソ)ヲ吐クホドナラバ丸々無用ノ草ヲ指示シテ可ナリ。半分約ヲ守ルト云フモ如何ナリ。博多ノ河童ハ鷹取氏ニ向ヒテ、イヤ僞ハ人間ノ器量ニコソアレ、化物ノ心ハ只一筋ニ行クモノニテ、命ヲ助ケラレ手ヲ求ムル間ハ、中々人ヲ欺クべキ餘裕ナシト言ヘリ。次ノ話ヲ考ヘ合ストキハ、此方ガ尤モラシク聞ユルナリ。河童ノ藥ト云フモノハ東ハ出羽ノ果ニモアリ。羽後平鹿(ヒラカ)郡榮村大屋寺内ノ某氏ニ於テ製スル河童相傳ト云フ接骨藥(ホネツギグスリ)ハ、黑燒ニシテ飮ミ藥トシ又傅藥(ツケグスリ)トス。此藥ヲ賣ル者秋田市ニモ能代町ニモ住シ、通名(トホリナ)ヲ又市ト云ヘリ。同ジク平鹿郡ノ橫手給人町(キフニンマチ)須田源六郞家傳ノ正骨藥、仙北郡長信田(ナガシタ)村川口ノ鷹嘴(タカノハシ)太右衞門ガ製スル飛龍散モ共ニ亦河童ノ相傳ニシテ、其家ハ兼ネテ骨接醫者ヲ業トセリ。此類ノ祕藥ニシテ河童ガ人間ヨリ夙ク知リ居タリト云フモノハ外ニモ多ク、何レモ其主劑ハ漢名ヲ扛板歸(コウハンキ)、和名ヲ「イシミカハ」【河童草】一名「カツパソウ」、又ハ「カツパノシリヌグヒ」ナドト稱スル植物ナリ〔雪之出羽路十二〕中陵漫錄卷十三ニ曰ク、萬病回春ニ扛板歸アリ。和名「イシミカハ」ト云フ草ニ當ツ。今時藥肆ニモ此ノ草ヲ賣ル。能ク折傷打傷ヲ治スルコト妙ナリト云フ。按ズルニ日向國ヨリ出ル河童相傳正左衞門藥ト云フアリ。能ク骨ヲ接ギ死肉ヲ活カス妙藥ナリ。【池】昔日向ニ古池アリ。每歳河童ノ爲ニ人命ヲ失フ。【鎌】或人薄暮此池ノ邊ヲ過グ。河童手ヲ出シテ足踵(カヽト)ヲ引ク。此人鎌ヲ以テ河童ノ手ヲ切リ取リテ歸リ、梁下ニ釣リ置ク。是ヨリ每夜來タリテ板ヲ扣イテ其手ヲ乞フ。其人大ニ罵リテ追ヒ散ラス。凡ソ來ルコト一七夜、此ノ人河童ニ謂ツテ[やぶちゃん注:ママ。]曰ク、此手乾枯シテ用ニ立ツコト無シト云ヘバ、河童對ヘテ曰ク、我ニ妙藥アリ之ヲ以テ活カスト。此人ヲ開キテ其手ヲ投ジ去ル。此夜ノ中ニ一草ヲ持チ來タリ置ク。考フルニ妙藥ト言ヒシハ此草ナルべシトテ、乾カシ置キテ金創及ビ打傷ノ人ニ施スニ甚ダ妙ナリ。之ニヨリテ每歳採リテ打傷ノ藥トス。甚ダ流行スルニ至ツテ近隣ノ人々此草ヲ知ラントスルヲ恐レ今ハ黑霜(クロヤキ)トス。按ズルニ每夜來タリテ板ヲ扛(タヽ)キテ歸ルト云フ、回春ニ扛板歸トアルト暗ニ相合ス云々〔以上〕。併シナガラ扛(コウ)ハ擧グル也、叩クコトニハ非ズ。此漢名ノ起原ハ、怪我人ガ即坐ニ本復シテ、歸ル時ニハ又板ヲ擔ギテ行カルルト云フ迄ノ意味ニテ、右ノ河童ノ因緣ニ結ビ附クルコトハ些シク難儀ナリ。但シ或地方ニテ之ヲ「河童ノ尻拭ヒ」ト呼ブハ、此草ガ水畔ニ生ジ莖ニ刺アリテ河童ノ滑ラカナル肌膚ヲモ擦リ得レバナランカ〔南方熊楠氏〕。

 

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[やぶちゃん注:当該パート内には『扛板歸・イシミカハ 草木圖卷七ヨリ』というキャプション(右から左)を持ったイシミカワの図が配されてある。「草木図説(そうもくずせつ)」は江戸後期の医師で植物学者であった飯沼慾斎(天明二(一七八二)年~慶応元(一八六五)年:本姓は西村、名は長順。伊勢出身。母方の親戚で漢方医の飯沼長顕の養子となった。江馬蘭斎・宇田川玄真に蘭方を学び、美濃大垣で開業、五十歳で隠居し、植物研究に専念した)。日本最初のリンネ分類法による植物分類図鑑。二十四綱目に分けて図解してある。全三十巻で草部二十巻は安政三(一八五六)年~文久二(一八六二)年に刊行されたものの、残りの木部十巻は未刊となった。後に牧野富太郎らが増訂版を刊行して補った。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像では、一部の黒い葉の表面の葉脈が潰れてしまって見えないので、「ちくま文庫」版全集の画像を撮り込もうと思ったが、『いやいや! この際、原典を引くに若(し)くはない!』と考え直した。国立国会図書館デジタルコレクションのにあったんだな! これが! 右ページの解説(柳田國男は左の図のみを引用している)も読み易い。ご覧あれ! 見易くするために少しだけハイライトをかけておいた。

 

《訓読》

 以上、數箇所の接骨藥(ほねつぎぐすり)は、本來、其の家の總領と河童との外(ほか)には誰(たれ)知る者無き祕密なるべき筈なるに、ぽつぽつと其の噂の世に傳はりたるは、此れも亦、不思議なり。下條(しもでう)の切疵藥(きりきずぐすり)は田野に生ずる所の蔓草(つるくさ)を以つて藥種(やくしゆ)とす。「油類・麺類と差合(さしあひ)[やぶちゃん注:差し障り。悪しき食い合わせ。]あり」と云ふまでは兎に角、「魚類を食ふべからず」とあるは、河童の藥としては、少しく平仄(ひやうそく)の合はぬ[やぶちゃん注:辻褄が合わない。]話なり。日向國(ひうがのくに)高鍋(たかなべ)の庄左衞門なる者、曾て河童と鬪ひて其の一腕を斬り取りて歸る。河童、哀求(あいぐ)して其の腕を乞ひ、此れも手繼(てつぎ)の祕法を祕し去ること能はず、命(めい)のまゝに藥物を臚列(ろれつ)[やぶちゃん注:連ね並べること。「羅列」に同じい。「臚」は「並べる」の意。]して見せたり。然るに、腕を取り返し、欣びて門を出で、顧みて言ふには、「吾(われ)、詳らかに藥劑を述べたれども、わざと、其の一(ひとつ)を闕(か)きたり[やぶちゃん注:取り除いておいたのだ。]」と。終に水に沒して、又、追ふべからず。【河童藥法】庄左衞門藥(くすり)は、後(のち)、盛んに世に行はれ、用ゐて、金創(きんそう)・打撲(うちみ)に傅(つ)くれば神效あれども、全く切れたる手足のみは、繼ぎ兼(か)ぬるは、其の一味の不足する爲と云ふ〔「水虎錄話」〕。虛誕(うそ)を吐くほどならば、丸々、無用の草を指示して可なり。半分、約を守ると云ふも、如何(いかが)なり。博多の河童は鷹取氏に向ひて、「いや、僞(いつはり)は人間の器量にこそあれ、化物の心は只一筋に行くものにて、命を助けられ、手を求むる間(あひだ)は、中々、人を欺(あざむ)くべき餘裕なし」と言へり。次の話を考へ合はすときは、此の方が、尤もらしく聞ゆるなり。河童の藥と云ふものは東は出羽の果(はて)にもあり。羽後平鹿(ひらか)郡榮村大屋寺内(おほやてらうち)」の某氏に於いて製する河童相傳と云ふ接骨藥(ほねつぎぐすり)は、黑燒にして飮み藥とし、又、傅藥(つけぐすり)とす。此の藥を賣る者、秋田市にも能代町(のしろまち)にも住し、通名(とほりな)を「又市(またいち)」と云へり。同じく平鹿郡の橫手給人町(きふにんまち)須田源六郞家傳の「正骨藥(せいこつやく)」[やぶちゃん注:推定訓。]、仙北郡長信田(ながした)村川口の鷹嘴(たかのはし)太右衞門が製する「飛龍散」も、共に亦、河童の相傳にして、其の家は兼ねて骨接(ほねつぎ)醫者を業とせり。此の類の祕藥にして河童が人間より夙(はや)く知り居(をり)たりと云ふものは外にも多く、何(いづ)れも其の主劑は、漢名を「扛板歸(コウハンキ)」、和名を「いしみかは」【河童草】一名「かつぱそう」、又ハ「かつぱのしりぬぐひ」などと稱する植物なり〔「雪之出羽路」十二〕「中陵漫錄」卷十三に曰く、萬病回春に「扛板歸」あり。和名「イシミカハ」と云ふ草に當つ。今時、藥肆(やくし)[やぶちゃん注:薬種屋。薬店。「くすりみせ」と訓じているかも知れない。]にも此の草を賣る。能く折傷(をれきず)・打傷(うちきず)を治すること、妙なりと云ふ。按ずるに、日向國より出(いづ)る「河童相傳正左衞門藥」と云ふあり。能く骨を接(つ)ぎ、死肉を活かす妙藥なり。【池】昔、日向に古池あり。每歳(まいとし)、河童の爲に人命を失ふ。【鎌】或る人、薄暮、此の池の邊(あたり)を過ぐ。河童、手を出(いだ)して足踵(かゝと)を引く。此の人、鎌を以つて河童の手を切り取りて歸り、梁下(はりした)に釣り置く。是れより、每夜、來たりて、板を扣(たた)いて其の手を乞ふ。其の人、大いに罵りて、追ひ散らす。凡そ來ること、一七夜(いちしちよ)[やぶちゃん注:七日目の夜。]、此の人、河童に謂つて曰はく、「此の手、乾枯(かんこ)して用に立つこと無し」と云へば、河童、對(こた)へて曰はく、「我に妙藥あり、之れを以つて活(い)かす」と。此の人、を開きて、其の手を投じ、去る。此の夜の中(うち)、一草を持ち來たり、置く。考ふるに、『妙藥と言ひしは此の草なるべし』とて、乾かし置きて、金創及び打傷の人に施すに、甚だ妙なり。之れによりて、每歳、採りて、打傷の藥とす。甚だ流行するに至つて、近隣の人々、此の草を知らんとするを恐れ、今は黑霜(くろやき)とす。按ずるに、每夜來たりて、「板」を「扛」(たゝ)きて「歸」ると云ふ。『回春に扛板歸』とあると暗(あん)に相合(さうがふ)す云々〔以上〕。併しながら、「扛」(コウ)は「擧(あ)ぐる」なり、「叩く」ことには非ず。此の漢名の起原は、「怪我人(けがにん)が即坐に本復(ほんぷく)して、歸る時には、又、板を擔ぎて行かるると云ふまでの意味にて、右の河童の因緣に結び附くることは、些(すこ)しく難儀なり。但し、或る地方にて、之れを「河童の尻拭(しりぬぐ)ひ」と呼ぶは、此の草が水畔に生じ、莖に刺(とげ)ありて、河童の滑らかなる肌膚をも擦り得ればならんか〔南方熊楠氏

[やぶちゃん注:「日向國(ひうがのくに)高鍋(たかなべ)」現在の宮崎県児湯(こゆ)郡高鍋町(グーグル・マップ・データ)。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらによれば、『河童(ガタロウ)を高鍋ではひょうすんぼう、ひょうすぼという。ある春の雨の夜、高鍋の殿様が水源不足に悩んでいると、堀端の茂みから黒い影がヒュルル…ヒュルル…と鳴きながら出てきた。その夜、殿様の枕元に年を経たひょうすんぼうが』三『匹出て、夢に水源の場所を教えた。用水路が造られ、以来高鍋でも米が豊かに取れるようになった』(平成一一(一九九九)年宮崎県発行「宮崎県史 別編 民俗」の要約)とある。また、ここより北の内陸の日向市東郷町にも河童伝承があり、サイトmiyazaki ebooksの『日向に伝わる伝説。「ひょうすんぼ」(河童)について』に「ひょすぼ岩」の伝説が記されてある。この岩は残念ながら、現存しないが、何かしんみりするいい話である。必読。

「羽後平鹿(ひらか)郡榮村大屋寺内(おほやてらうち)」現在の秋田県横手市大屋寺内(グーグル・マップ・データ)。地図を拡大して見ると、如何にも河童が好きそうな池や沼が数多くある。

「橫手給人町(きふにんまち)」不詳。秋田県由利本荘市給人町(グーグル・マップ・データ)なら現存するが、ここは平鹿郡横手町(現在の横手市の前身)だったことはないし、横手の市街地から四十キロメートル以上も西である。識者の御教授を乞う。 なお、「給人」は江戸時代は幕府・大名から知行地、或いは、その格式を与えられた旗本や家臣を指す。正確には蔵米ではなく知行地を与えられた武士を指したが、全国的には後には「給人」格式を与えられながら、知行地を剝奪して蔵米知行に移行された者が有意に増えたが、東北・九州の外様では本来の知行制度が長く残った。【2018年1月16日追記】早速、いつものT氏より丁寧な情報提供があった。この「給人」は久保田藩の支城横手城に配置された武士を指し、その居住する屋敷町を言った。個人サイト「古い町並み」の「横手市の町並」に、慶長七(一六〇二)年、秋田藩への『佐竹氏の入部とともに、横手には伊達盛重が配置された。元和元』(一六一五)年『の一国一城令でも、取り壊しを免れ、領内支配の拠点として所領預りが置かれた。その後、須田氏』三『代、戸村氏が』八『代が横手城代として続き、藩政時代の県南地方の政治・軍事・経済の中心となって明治に至った』。『旭川以東の武家屋敷地区を内町、以西の町屋地区を外町と呼んでいた。内町は原則的に支配別・家格別に屋敷割りをされた。中期以降の居住形態を見ると、戸村組下の給人は本町・裏町・新町・御免町・上根岸・下根岸・嶋崎、向組下の給人は羽黒・羽黒新町・羽黒御免町となっている。また戸村支配の足軽は侍屋敷の北端に、向支配の足軽は侍屋敷の南端に屋敷割りされた』(太字は私が附した)とある。ウィキの「横手市」によれば、明治二二(一八八九)年四月一日の『町村制の施行により、横手』三十一町、『横手前郷村の区域をもって』、『鹿郡横手町が発足』『した』とあり、この「三十一町」の注釈に町名が並ぶが、上記の殆んどの町がそこに含まれていることが判る。秋田県公文書館の横手絵図」を見ると(左方向が北)、家臣の屋敷が横手城の南北、横手川東岸域に整然と配されてあるのが判る。「グーグル・マップ・データ」ではこの範囲相当となろう。柳田の言う「給人町」という町名を見出すことは出来ないが、拡大すると、上記の「羽黒町」が城跡の南に、本町が城跡直下西の横手川蛇行部に見られるから、これら全体を「橫手給人町」と呼んでいたものと考えられる。

『須田源六郞家傳の「正骨藥(せいこつやく)」』不詳。これが判れば、「橫手給人町」の位置も同定出来ると思ったのだが。

「仙北郡長信田(ながした)村川口」現在の秋田県大仙市太田町太田附近(グーグル・マップ・データ)。バスターミナル名に「長信田」があり、「長信田郵便局」もある。ウィキの「長信田村」によって「川口村」があったことが判るが、具体的な位置は不詳【2018年1月16日追記】私の探し方が悪かった。いつものT氏より御指摘があり、上記の長信田の南一キロ半程離れたところから川口川にかけて「太田町川口」(東北にも飛び地が有る)があり、ここ(グーグル・マップ・データ)であることが判明した。前の給人町とともにT氏に御礼申し上げる。

『鷹嘴(たかのはし)太右衞門が製する「飛龍散」』昭和三八(一九六三)年六月一日発行の『あきた』(通巻十三号)の宮崎進氏(当時、秋田市在住で日本民俗学会員のコラム記事「秋田の河童(かっぱ)伝説」によれば(原記事のPDFも有り!)、『さて、秋田におけるカッパ伝承を隅なく調べることは困難であるが「綜合郷土研究」(昭和十四年)によると、北秋の真中、早口、大阿仁、南秋の男鹿中、河辺の和田・由利の川内・北内越、仙北の角館・神宮寺、雄勝の東成瀬などのカッパ伝説が採録されている。しかしカッパが駒を川の中に引込もうとする形式をもって「河童駒引伝説」は男鹿中村の一つだけで、他はこの部分が忘失され、馬の尾について厩に入り、そこで人間に発見され、命乞いして助けられ、謝恩に人の命を取らぬこと、または物を献ずるという結末が多い』。『雄勝町西馬音内の大仁川や、「蛇の崎の河童コ雄河童コだ」という早口文句が残っていた横手市にも、カッパ伝説は多いのだが割愛して、その横手に合併した旧黒川村のカッパ殉難記を書き止めておこう』。『黒川村の百万刈はその名のように米どころであるが、ある年横手の戸村城代がこの土地で狩りをしたとき、城代の草履取りが百万刈を流れる百曲川のカッパに取られたというので、城代が怒って川を干しあげ、九十九の曲り淵に棲むカッパを皆殺しにした。そのため河水は濁り、別名を濁川と呼ぶようになったという残酷物語』。『害悪説も一面観だが、壱岐の島や長崎県の島々では、カッパを田の神・福の神としているそうだから受け取り方はさまざま、河川は灌漑水となりまた洪水となる。河伯神の両面の性格はカッパにも見られるわけだ』。『カッパの秘伝といわれる接骨薬は秋田にも多い。平鹿郡栄村大屋寺内(横手市)某氏の家伝薬、仙北郡長信田村川口(太田村)某家の飛竜散もカッパ直伝という伝説は、菅江真澄翁によって伝えられたが、その飛竜散は今日でも秋田市で売られている。まさに"生きている伝説"ではある。全国に多いカッパ相伝の接骨薬は、和漢三才図絵に「その手肱能く左右に通脱す」という故事に根源があるのではないか』。『土崎町では』、『むかし』、『河伯祭を行なったことが旧記に見える。川口に臨むため』、『毎年水死者が多いので、旧暦六月住吉神社に祈祷し、神供の一臼餅を夕暮れを待って川に流したという。同様の祭りは県内各地にも見られたが、カッパ祭りは要するに水神祭りの変化である』とあるのにびっくりして、検索してみたのだが、残念! 「飛龍(竜)散」は現存しないようだ。せめて写真でなりと、残っていないかなぁ……

『「扛板歸(コウハンキ)」、和名を「いしみかわ」【河童草】一名「かつぱそう」、又ハ「かつぱのしりぬぐひ」などと稱する植物』被子植物門双子葉植物綱タデ目タデ科イヌタデ属イシミカワ Persicaria perfoliataウィキの「イシミカワ」より引く。『和名には石見川・石実皮・石膠の字が当てられ、それぞれの謂われが伝えられるが、いずれが本来の語源かはっきりしない。漢名は杠板帰(コウバンキ)』(但し、同種の中文ウィキを見ると、「扛板歸」でも正しいことが判る)。『東アジアに広く分布し、日本では北海道から沖縄まで全国で見られる』一『年草。林縁・河原・道端・休耕田などの日当たりがよく』、『やや湿り気のある土地に生える』。『茎の長さは』一~二メートルに『達し、蔓状。葉は互生し』、『葉柄は長く』、『葉の裏側につく。葉の形は三角形で淡い緑色で、表面に白い粉を吹いたようになっている。さらに』、『丸い托葉が完全に茎を囲んでおり、まるでお皿の真ん中を茎が突き抜けたようになっているのがユニークである。他の種にも類似した托葉があるが、この種では特に大きいために』、『よく目立つ。茎と葉柄には多数の下向きの鋭いとげ(逆刺)が生える』。七~十月に『薄緑色の花が短穂状に咲く。花後につく』五ミリメートル『ほどの果実は熟して鮮やかな藍色となり、丸い皿状の苞葉に盛られたような外観となる』。『この藍色に見えるのは』、『実際には厚みを増し、多肉化した萼で、それに包まれて、中にはつやのある黒色の固い痩果がある。つまり、真の果実は痩果なのだが、付属する器官も含めた散布体全体としては、鳥などについばまれて種子散布が起こる漿果のような形態をとっていることになる』。『中国では全草を乾かして解熱・下痢止め・利尿などに効く生薬として利用する』。『蔓状の茎に生えた逆刺を引っ掛けながら、他の植物を乗り越えて葉を茂らせる雑草でもあり、特に東アジアから移入されて』、『近年』、『その分布が広がりつつある北アメリカでは、その生育旺盛な様子から』、「Mile-a-minute weed」(「一分で一マイル草」)、『あるいは葉の形の連想から』「Devil's tail tearthumb」(「悪魔の尻尾のティアトゥーム」。 tearthumb」はナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii に近縁な同じタデ科 Polygonaceae の草の英名)『などと呼ばれ、危険な外来植物として警戒されている』とある。さても、『この草、何だか、知ってる』と思ったら、「耳囊 卷之五 痔疾のたで藥妙法の事」に「石見川(いしみかは)といへる草に、白芷(しろひぐさ)を當分に煎じ用ゆれば奇妙のよし。吉原町の妓女常に用(もちゆ)る由、吉原町などの療治をせる眼科長兵衞物語也。」とあるのを遠い昔に注したのだったわ。

『「中陵漫錄」卷十三に曰く……』水戸藩の本草学者佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年:中陵は号)が文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここに出るのは、巻之十三の「正左衞門藥」のかなり忠実な引用である(私は手元にある吉川弘文館随筆大成版で比較している)。但し、中陵は『和名「イシミカハ」』の部分を「イイトミカハ」と誤って記しているのを訂してある。また、中陵は「河童」を一貫して「河白」と書いており、初出の部分に「カツパ」とルビを振っている。これは、河童とは別な中国の水神「河伯」を本邦で誤って河童同一視したものの誤字であろう。但し、「相合(さうがふ)す」の後に原文では、

   *

恐らくは「扛板歸」の名、甚だ解しがたし。河白は乃(すなは)ちカツパなり。此草、濕草にして河白の住むべき所に多く生(おふ)る草なり。其(その)理(ことはり)、其(それ)、自然に出るなり。

   *

で終わっている。

「近隣の人々、此の草を知らんとするを恐れ、今は黑霜(くろやき)とす」「黑燒き」に同じい。民間薬の調法の一種で、通常は爬虫類・昆虫類などの主に動物を、土器の壺で原形をとどめたまま、蒸し焼きにし、真黒く焼いた(炭化させた)もの。薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源を持つとする説もあるが、「神農本草」などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの、黒焼きは見当たらない。恐らくは、南方熊楠が未発表稿「守宮もて女の貞を試む」で考察しているように(リンク先は私の古い電子テクスト注)、『古来日本に限った俗信』の所産かと思われる。「日葡辞書」に「Curoyaqi,Vno curoyaqi」が見られることから室町末期には一般化していたと思われ、後者の「鵜の黒焼き」というのは、咽喉に刺さった魚の骨などをとるのに用いる、と説明されている(ここは主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。なお、本来の黒焼きは原形をそのまま留めておいて炭化させるのであるが、イシミカワを壺に詰めて黒焼きにすれば、その時点で原型を留めなくなり、ただのクシャクシャした黒い塊りになるだけであろうから、その辺に生えているイシミカワだとは思われないということであろう。

「每夜來たりて、「板」を「扛」(たゝ)きて「歸」ると云ふ。『回春に扛板歸』とあると暗(あん)に相合(さうがふ)す云々」。『回春に扛板歸』は当時、「扛板歸」が回春剤(精力快復剤)となるという巷間の噂があったのであろう。それで、毎晩、閨の戸を叩いて、夜這いしてくるという、シークエンス上の類感呪術的効果を中陵は謂っているのである。

『「扛」(コウ)は「擧(あ)ぐる」なり、「叩く」ことには非ず』「扛」は確かに「持ち上げる・担ぐ・運ぶ」「(重いものを両手で)差し上げる」といった意味であるが、ウィキの表記の「杠」は全然違う意味で、「小さな橋」、「横木・旗竿」、「大型の竿秤(さおばかり)」の意である。

『此の漢名の起原は、「怪我人(けがにん)が即坐に本復(ほんぷく)して、歸る時には、又、板を擔ぎて行かるると云ふまでの意味』板に乗せられて瀕死の雰囲気で来た病人が、薬が強力に効いて、やって来る時に乗せられていたその担架を、ひょいと一人で担いで帰る、というそれこそ、温泉等でありがちな謳い文句である。

『或る地方にて、之れを「河童の尻拭(しりぬぐ)ひ」と呼ぶは、此の草が水畔に生じ、莖に刺(とげ)ありて、河童の滑らかなる肌膚をも擦り得ればならんか〔南方熊楠氏〕』これは明治四五(一九一二)年五月一日夜一時というクレジットを頭に記す(この三ヶ月後の七月三十日に明治天皇が崩御して大正元年に改元される)、南方熊楠から柳田國男宛の書簡に基づく。かなり分量があるので、別箇に電子化した。南方熊楠と柳田國男の往復書簡三通(明治四五(一九一二)年四月二十九日~同年五月一日)」を見られたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 厭やらしい景物

 

  厭やらしい景物

 

雨のふる間

眺めは白ぼけて

建物 建物 びたびたにぬれ

さみしい荒廢した田舍をみる

そこに感情をくさらして

かれらは馬のやうにくらしてゐた。

 

私は家の壁をめぐり

家の壁に生える苔をみた

かれらの食物は非常にわるく

精神さへも梅雨じみて居る。

 

雨のながくふる間

私は退屈な田舍に居て

退屈な自然に漂泊してゐる

薄ちやけた幽靈のやうな影をみた。

 

私は貧乏を見たのです

このびたびたする雨氣の中に

ずつくり濡れたる 孤獨の 非常に厭やらしいものを見たのです。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『表現』初出。初出には標題の後に全体が三字下げポイント落ちの以下の通りの会話体の長い添え辞が附されてある。改行は筑摩版全集に拠った。二十鍵括弧は初出にある。「てす」「仕末」はママ。太字は傍点「●」(大きな黒丸)である。

   *

『貧乏に對する恐れ。それは生活上に於て、最

も厭はしいものてす。

あなたはそれを感じませんか』

『すべての經濟學の良心が、貧乏の恐怖にある

といふ仕末ですか』

『いいえ、智識の詮索ではなく、むしろ人間本

能の傾向から、純一な趣味の上から、私共詩人

考へて居ることを、あなたも感じてご覽んな

さい。どんな經濟學よりも底深く。』

   *

詩篇本文は「精神さへも梅雨じみて居る。」が「精神さへも梅雨(つゆ)じみてゐる。」、「私は退屈な田舍に居て」が「私は退怠な田舍に居て」(誤植か?)、「私は貧乏を見たのです」が「私は貧乏を見たのです」(太字は傍点「●」(大きな黒丸))、「ずつくり濡れたる 孤獨の 非常に厭やらしいものを見たのです。」の「厭」に「いや」のルビを附している。「定本靑猫」では「精神さへも梅雨じみて居る。」と「雨のながくふる間」の間にある行空けが存在せず、全体が四連ではなく、三連構成となっており、他の再録詩集でもそうなっている他は、有意な異同を認めない。

 萩原朔太郎には病的な自然恐怖と貧乏恐怖がある。彼の都会趣味・ブルジョア感覚は生れ持っての、彼自身のあまり関わらぬ部分が多く、殊に指弾されるべきものではないが、しかし、彼のこの特異なフォビア(phobia:恐怖症。古代ギリシア語の「恐怖」の意「ポボス」(ラテン文字転写:phobos)が語源)は、特定のは病跡学的には掘り下げる価値があるものと思う。私はまた、彼の日常の行動の異常(食事の際に食物をこぼす・壁の特定の一箇所を触れる等の特殊なルーティン)を見るに、所謂、ADHDAttention-deficit hyperactivity disorder:注意欠陥・多動性障害)の注意欠陥型ではないかと疑っている。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 思想は一つの意匠であるか

 

  思想は一つの意匠であるか

 

鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで

ひとつの思想を步ませながら

佛は蒼明の自然を感じた

どんな瞑想をもいきいきとさせ

どんな𣵀槃にも溶け入るやうな

そんな美しい月夜をみた。

 

「思想は一つの意匠であるか」

佛は月影を踏み行きながら

かれのやさしい心にたづねた。

 

[やぶちゃん注:「𣵀」は「涅」の異体字であり、誤りではない(筑摩版全集は強制校訂で「涅」とする)。大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出と殆んど(「𣵀槃」は「涅槃」)違わない点で、特異点である。「定本靑猫」では、「佛は蒼明の自然を感じた」の最後に句点を打つこと、「𣵀槃」を「涅槃」とすること、『「思想は一つの意匠であるか」』を『「思想は一つの意匠であるか?」』と疑問符を配する点で異なる。

「蒼明」見慣れない語であるが(小学館の「日本国語大辞典」にも収録されていない)、ごく最近はよく使われ、人名などにも用いられるらしい。そこでは「透明感のある蒼み掛かった白」を指すらしい。ここはやや緑の勝った生き生きとした自然総体の、そうした透明なイメージを色合いに表現したものではあろう。

『「思想は一つの意匠であるか」』ブッダよ、その通りだ。宗教も思想であり、思想はまた、ただ外見を美しく見せているだけの、装飾的考案、趣向に過ぎぬ。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蒼ざめた馬

 

 

 

  

        觀念(いでや)もしくは心像(いめえぢ)の世界に就いて

 

 

 

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな 因果の 宿命の 蒼ざめた馬の影です。

 

[やぶちゃん注:以上はパート標題「意志と無明」(左ページ)の裏(右ページ)に記された献辞。「無明」(むみやう(むみょう))とは、「真理を知らないという無知」を指す仏教用語。サンスクリット語で「アビドヤー」。原始仏教に於いては、四諦(したい:四つの真理(諦:サティヤ)のこと。釈迦はブッダガヤーの菩提樹下でこの四諦の真理を悟ったとされ、四つの真理とは「苦諦」・「集諦(じったい)」・「滅諦」・「道諦」の四つを指し、「苦」とは人間の生が苦しみであること、「集(じゅ)」とは煩悩による行為が集まって苦を生みだすこと、「滅」とは煩悩を絶滅することで涅槃に達すること、「道」とはそのために八正道(はっしょうどう:「正見」(正しい見解)・「正思」(正しい思惟)・「正語」(正しい言語行為)・「正業(しょうごう)」(正しい行為)・「正命(しょうみょう)」(正しい生活)・「正精進」(正しい努力)・「正念」(正しい想念)・「正定(しょうじょう)」(正しい精神統一)の八つの徳目)に励むことを指す)の理或いは縁起の理を知らないことが「無明」であると定義される。大乗仏教に於いては「真如の理を知らない」或いは「有を無と見、無を有と見る」誤りと定義される。「貪(とん)」・「瞋(しん)」・「癡(ち)」の三大煩悩の内の「癡」に相当し、「貪」と「瞋」とが情的煩悩であるのに対し、「無明」=「癡」は知的煩悩であり、煩悩の中でも最も根本的な煩悩とされる。

 

 

 

  蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

 

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりん)から

すぐに すぐに外(づ)りさつてこんな幻像を消してしまへ

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

[やぶちゃん注:「外(づ)りさつて」のルビ「づ」はママ。「ず」が正しい。初出も「づ」であるから萩原朔太郎の誤りである。大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』(創刊号)初出。初出では

「すくりん」のルビが「すくりーん」

『私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!』が「私の意志信じたいのだ。馬よ」(太字は傍点「●」(大きな黒丸)

となっており、詩篇の最後に、字下げポイント落ちで、

   ――宿命の不可抗力に就いて――

という添書きがある。「定本靑猫」は以下。

   *

 

  蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です。

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫膜(すくりん)から

すぐに すぐに 外(ず)りさつてこんな幻像を消してしまへ。

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

   *

筑摩書房版全集は例の消毒をして、「映畫膜」を「映畫幕」とし、そのルビ「すくりん」を「すくりーん」にし、「外(づ)りさつて」を「外(ず)りさつて」と直している。しかし、少なくとも「すくりん」は他の再録でも一貫して長音符を打っていないのだから、この校訂は絶対に不当であるし、「定本靑猫」でも「映畫膜」はママである。「定本靑猫」ではその「卷尾に」で、『この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、倂せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と述べている以上、「幕」の消毒も不当であると言える。

「定法」「ぢやうはふ(じょうほう)」と読む。「決まっている規則・決まった法式」或いは「いつものやりかた・しきたり」であるが、前者の意。

乾板」「かんぱん」は写真用語「dry plate」の訳語。透明なガラス板に写真乳剤を塗布し、乾燥させた写真感光材料の一種。最初期のゼラチン乾板は一八七一年にイギリスの医師で写真家でもあったリチャード・リーチ・マドックス(Richard Leach Maddox 一八一六年~一九〇二年) が発明した。乳剤の湿潤中に撮影し、乾燥すると感度を失ってしまう湿板に対し、乾燥後も撮影が可能なので「乾板」と呼んだ。現在では、特殊な精密科学分野等を除くと、殆んどがまずフィルムに置き換えられ、さらにそれも電荷結合素子(CCDCharge-Coupled Device)にとって代わった。ここは「生涯(らいふ)の映畫膜(すくりん)」の一コマ一コマを写真乾板に置き換えて比喩したものであるが、以上から、若い諸君には、こうした注が不可欠となってしまったのは、萩原朔太郎にはちょっと淋しい気がするであろう。

「蒼ざめた影を逃走しろ」いいコーダだ。にしても、これも如何にも、私の嫌いなフューチュアリスモ風ではあるなあ……]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 笛の音のする里へ行かうよ

 

  笛の音のする里へ行かうよ

 

俥に乘つてはしつて行くとき

野も 山も ばうばうとして霞んでみえる

柳は風にふきながされ

燕も 歌も ひよ鳥も かすみの中に消えさる

ああ 俥のはしる轍(わだち)を透して

ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる

その風光は遠くひらいて

さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす

ひとのしのびて耐へがたい情緖である。

 

このへんてこなる方角をさして行け

春の朧げなる柳のかげで 歌も燕もふきながされ

わたしの俥やさんはいつしんですよ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。やはり表現主義のスピード・運動を主題としたものに、視聴覚をアレンジしたものと読む。初出及び「定本靑猫」は有意な異同を認めない。本篇を以ってパート「閑雅な食慾」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 天候と思想

 

  天候と思想

 

書生は陰氣な寢臺から

家畜のやうに這ひあがつた

書生は羽織をひつかけ

かれの見る自然へ出かけ突進した。

自然は明るく小綺麗でせいせいとして

そのうへにも匂ひがあつた

森にも 辻にも 賣店にも

どこにも靑空がひるがへりて美麗であつた

そんな輕快な天氣に

美麗な自働車(かあ)が 娘等がはしり𢌞つた。

 

わたくし思ふに

思想はなほ天候のやうなものであるか

書生は書物を日向にして

ながく幸福のにほひを嗅いだ。

 

[やぶちゃん注:「かあ」は「car」で「自働車」三字へのルビ。大正一〇(一九二一)年十二月号『表現』初出。前の「靑空」「最も原始的な情緖」と同時に書かれたもの(後者は初出誌も同じ)であり、一連の表現主義風の流れを受けているが、寧ろ、ここでは一九〇九年にイタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti 一八七六年~一九四四年)の「未来派宣言」(イタリア語:Manifesto del futurismo/フランス語:Manifeste du futurisme:フランスの日刊紙『ル・フィガロ』(Le Figaro)に発表。「共産主義者宣言」(Manifest der Kommunistischen Partei:一八四八年)を茶化したものである)に端を発したフューチュアリスモ(未来派)風の詩篇と読める。書生は室内から外界へと躊躇なく「突進し」、そこでは「靑空がひるがへ」って、「美麗な自働車(かあ)」や「娘等がはしり𢌞つ」ているのは、「速さ」に象徴される現代科学技術文明への呆けた手放しの讃美であって、それが美事にフューチュアリスモと一致する、何より、その代表選手としての「美麗な自働車(かあ)」が、確信犯の「未来派宣言」の剽窃だからである。同宣言の「四」には実際、「自動車」の「速度」の「美」を以下のようにぶち上げているからである(前者は森鷗外の明治四二(一九〇九)年五月発行の『スバル』第五号所収の訳文(恐らくはドイツ語か英語からの重訳であろう。ミクシィのコミュニティ「未来派」にあったものを恣意的に正字化し、別な信頼出来るデータで校合した)「未來主義の宣言十一箇條」のもの。後者はウィキの「未来派宣言の鈴木重吉訳。一九六五年紀伊國屋書店刊「悪について」より)。

『四 吾等は世界に一の美なるものの加はりたることを主張す。而してその美なるものの速なることを主張す。廣き噴出管の蛇のごとく毒氣を吐き行く競爭自働車、銃口を出でし彈丸の如くはためきつつ飛び行く自働車はsamothrakoの勝利女神より美なり。』

『四 われわれは、世界の栄光は、一つの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車……霰弾に乗って駈るかのように咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい。』

 また、末尾の「思想はなほ天候のやうなものであるか」という呟きは、フューチュアリスモが一九二〇年代に入って、イタリアのファシズムに大いに『受け入れられ、戦争を「世の中を衛生的にする唯一の方法」として賛美』(ウィキの「未来派に拠る)するに至るのを萩原朔太郎は嗅ぎ取っていたものとも読めないことはない。「書生は書物を日向にして」とは学生が過去の書物(文学)を旧態然とした無価値な智として、日向に投げ捨て、読もうとすることを止めるという〈過去だけでなく、前近代或いは既に古ぼけてしまった近代との鮮やかな絶縁〉を意味していることを示すものと読む。「未来派宣言」(訳は同前)は、

『一 吾等の歌はんと欲する所は危險を愛する情、威力と冒險とを當とする俗に外ならず。

二 吾等の詩の主なる要素は、膽力、無畏、反抗なり。

三 從來詩の尊重する所は思惟に富める不動、感奮及睡眠なりき。吾等は之に反して攻擊、熱ある不眠、奔馳、死を賭する跳躍、掌を以てすると拳を以てするとの歐打を、詩として取り扱はんとす。』

『一 われわれは危険を愛し、エネルギッシュで勇敢であることを歌う。

二 われわれの詩の原理は、勇気、大胆、反逆をモットーとする。

三 在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、クイック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、なぐり合いを讃えよう。』

で始まっている。因みに、私は「サモトラケのニケ」(フランス語:Victoire de Samothrace):リンク先はウィキサモトラケのニケの画像)を幼い頃から偏愛しており、未来派の絵画や彫刻は凡そ児戯に類したものとしか捉えていないし、そのファッショな「思想」にも相容れず、大々々々大嫌いな芸術思潮であると言い添えておく。

「定本靑猫」では「
そんな輕快な天氣に」が「そんな輕快な天氣の日に」となっている以外は有意な異同を私は認めない。

2019/01/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(4)

 

《原文》

 併シ何レニシテモ右ノ河童藥ノ話ニハ少カラズ御伽噺的分子ヲ含メリ。如何ニ妙藥ナレバトテ切ラレシ手ノ繼ガルべキ道理アルコトナシ。但シ靈藥ノ靈藥タル所以トシテ、最初ノ程ハ先ヅ先ヅソレ位奇妙ナル效能アリシモノトシテ置クナリ。然ルニ此ノ如キ奇談モ九州以外ニヤハリ多クノ類例アリ。何事ニヨラズ天下一品ト云フ物ハ此ノ世ニ無シト言ヒテ可ナリ。試ミニ其一二例ヲ揭グレバ、【馬】甲斐北巨麻郡[やぶちゃん注:「巨摩」はかくも書いた。]下條(シモデウ)村ニ昔ハ下條ノ切疵藥トテ有名ナル妙藥アリ。此モ釜無川ノ河童ノ傳授ナリト稱ス。農夫アリ、或年ノ冬薪ヲ馬ニ附ケテ甲府ノ町へ賣リニ行キシ歸リニ、此川ノ川原ニシテ日暮レ霙降リ來ル。其時曳キタル馬ノ少シモ動カザルヲ怪シミテ振返リ見レバ、十二三歳ノ男ノ兒ガ馬ノ尾筒ニ縋リ居ル。如何ニ叱リテモ手ヲ放サズ、アマリ憎ラシケレバ年甲斐モ無ク少々腹ヲ立テ、腰差ノ刀ヲ拔キテ切拂フ眞似ヲシタルニ始メテ遁ゲ去レリ。【馬洗】然ルニ其ノ夜宅ニ歸リテ馬ヲ洗ハントスルニ、尻尾ノ根モトニ猿ノ手ノ如キ物一ツブラ下リテアリ。不思議ニ思ヒツツモ之ヲ藏ヒ置クニ、其ノ夜中ニ戸ノ外ニ來テ小兒ノ如キ聲ニテサモ悲シゲニ旦那旦那ト呼ブ者アリ。私ハ河童デアリマス、ドウゾアノ手ヲ返シテ下サレト言ヒ、且ツ切ラレテ萎ビタル手足ニテモ、元ノ通リニ繼ギ得ルコトヲ告ゲタリ。此河童モ性來好人物ノ河童ナリト思シク、主人ノ掛引ニ逢ヒテハタト當惑ハシタルモ、元々自分ノ方ガ理窟モ惡ク且ツ弱味モアルコト故、終ニ其ノ祕法ヲ傳授シテ腕ト交換シテ去リシノミナラズ、翌朝ハ別ニ澤山ノ鯉鮒ナドヲ戸口ノ盥ノ中ニ入レテ行キタリ。主人ハ慨然トシテ曰ク、我豈(アニ)獸類ヲシテ其ノ食ヲ分タシメンヤト、悉ク魚ヲ川ニ放ス。而モ一包二十四文ノ切疵藥ノミハ河童ノ餘德トシテ盛ニ賣レタルガ故ニ、結句一鄕ノ分限者ト成リスマシ、更ニ又河童退治ノ高名ハ國中ニ響キ渡リシ次第ナリ〔裏見寒話六〕。【橋ノ怪】常陸行方(ナメカタ)郡現原(アラハラ)村大字芹澤ト大字捻木(ネヂキ)トノ間ヲ流ルヽ手奪(テバヒ)川ハ梶無(カヂナシ)川ノ上流ナリ。橋アリ手奪橋(テバヒバシ)ト云フ。寬正六年夏ノ頃芹澤俊軒ト云フ人此ノ邊ヲ逍遙シ、日暮レテ此ノ橋ヲ過ギテ歸ラントスルニ馬前(スヽ)マズ。怪シミテ後ヲ顧ミレバ怪物アリテ馬ノ尾ヲ捉フルヲ見ル。乃チ刀ヲ拔キテ其ノ腕ヲ斫リ之ヲ携ヘ還ル。然レドモ其ノ何物タルヲ知ラズ。其ノ夜俊軒ガ寢所ニ入リ來タリ拜伏シテ訴フル者アリ。吾ハ前川(ゼンセン)ニ住メル河童ナリ。公ノ爲ニ一手ヲ斬ラル。願ハクハ腕ヲ返セ、吾ニ金創接骨ノ妙藥アリ、幸ニ以テ我ガ腕ヲ接ギ且ツ奇方ヲ君ニ傳ヘテ謝意ヲ表セント言フ。俊軒愍然トシテ腕ヲ返ス。河童大ニ悅ビテ其ノ祕傳ヲ授ケ且ツ曰ク、爾後日々魚ヲ獻ゼン。若シ魚ヲ獻ゼザルニ至ラバ吾命ノ終レルヲ知リタマヘ云々。明日果シテ魚一雙ヲ庭上ノ梅ノ枝ニ懸ケ、久シキヲ經テ斷スルコト無シ。數年ノ後一日魚ヲ見ズ。仍テ下男ヲシテ前川ヲ搜ラシムルニ、河童果シテ死シ其ノ屍ハ逆流シテ今ノ東茨城郡橘村與澤(ヨザハ)ノ地ニ止マル。【手接】乃チ其地ニ葬リ祠ヲ建テ手接明神ト謂フ。水旱疾疫ニ際シ之ニ禱ルニ驗アリ。手奪川(テバヒガハ)ノ名ハ此ニ起リ、芹澤氏金創藥家傳ノ妙方亦之ヲ祖トス。今遠孫芹澤潔ト云フ人此地ニ住シテ尚接骨ノ藥ヲ販ギツヽアリ〔茨城名勝誌〕。

 

《訓読》

 併(しか)し、何れにしても、右の河童藥(かつぱやく)の話には、少からず、御伽噺(おとぎばなし)的分子を含めり。如何に妙藥なればとて、切られし手の繼がるべき道理あることなし。但し、靈藥の靈藥たる所以として、最初の程は、先づ先づ、それ位(くらゐ)奇妙なる效能ありしものとして置くなり。然るに、此くのごとき奇談も、九州以外に、やはり多くの類例あり。何事によらず、天下一品と云ふ物は此の世に無しと言ひて可なり。試みに、其の一、二例を揭(あ)ぐれば、【馬】甲斐北巨麻(きたこま)郡下條(しもでう)村に、昔は「下條の切疵藥(きりきずやく)」とて有名なる妙藥あり。此れも、釜無川の河童の傳授なりと稱す。農夫あり、或る年の冬、薪を馬に附けて、甲府の町へ賣りに行きし歸りに、此の川の川原にして、日、暮れ、霙(みぞれ)降り來たる。其の時、曳きたる馬の少しも動かざるを怪しみて、振り返り見れば、十二、三歳の男の兒(こ)が、馬の尾筒(をづつ)[やぶちゃん注:獣の尾の付け根の丸く膨れた部分を指す。「ちくま文庫」版全集『ビトウ』と振るが、採らない。]に縋(すが)り居(を)る。如何に叱りても、手を放さず、あまり、憎らしければ、年甲斐も無く、少々、腹を立て、腰差(わきざし)の刀を拔きて、切り拂ふ眞似をしたるに、始めて、遁げ去れり。【馬洗(うまあらひ)】然るに、其の夜、宅に歸りて、馬を洗はんとするに、尻尾の根もとに猿の手のごとき物、一つ、ぶら下りてあり。不思議に思ひつつも、之れを藏(しま)ひ置くに、其の夜中に、戸の外に來て、小兒のごとき聲にて、さも悲しげに、「旦那、旦那」と呼ぶ者あり。「私は河童であります、どうぞ、あの手を返して下され」と言ひ、且つ、切られて萎(しな)びたる手足にても、元の通りに繼ぎ得ることを告げたり。此の河童も、性來(しやうらい)、好人物の河童なりと思(おぼ)しく、主人の掛引(かけひき)に逢ひて、はた、と當惑はしたるも、元々、自分の方が、理窟も惡く、且つ弱味もあること故、終に其の祕法を傳授して腕と交換して去りしのみならず、翌朝は別に澤山の鯉・鮒などを戸口の盥(たらひ)の中に入れて行きたり。主人は慨然(がいぜん)として曰はく、「我れ、豈(あ)に獸類をして其の食を分たしめんや」と、悉く、魚を川に放す。而(しかれど)も[やぶちゃん注:私の勝手訓。「ちくま文庫」版は『而(しか)も』。]、一包二十四文の切疵藥のみは河童の餘德として盛んに賣れたるが故に、結句、一鄕の分限者[やぶちゃん注:金持ち。]と成りすまし[やぶちゃん注:ここではフラットに「結果として成り果(おお)せた」の意。]、更に又、河童退治の高名は國中に響き渡りし次第なり〔「裏見寒話」六〕。【橋の怪】常陸行方(なめかた)郡現原(あらはら)村大字芹澤ト大字捻木(ねぢき)との間を流るゝ手奪(てばひ)川は梶無(かぢなし)川の上流なり。橋あり、手奪橋(てばひばし)と云ふ。寬正六年[やぶちゃん注:一四六五年。「応仁の乱」勃発の二年前。]夏の頃、芹澤俊軒と云ふ人、此の邊を逍遙し、日暮れて、此の橋を過ぎて歸らんとするに、馬、前(すゝ)まず。怪しみて、後ろを顧みれば、怪物ありて、馬の尾を捉(とら)ふるを見る。乃(すなは)ち、刀を拔きて、其の腕を斫(き)り、之れを携へ還る。然れども、其の何物たるを知らず。其の夜、俊軒が寢所に入り來たり、拜伏して訴ふる者、あり。「吾は前川(ぜんせん)[やぶちゃん注:家の真向かいを流れる川の意。]に住める河童なり。公の爲に一手を斬らる。願はくは、腕を返せ。吾に金創(きんさう)・接骨(ほねつぎ[やぶちゃん注:ずっと後の方でこの読みが振られている。])の妙藥あり、幸ひに以つて我が腕を接ぎ、且つ、奇方(きはう)を君に傳へて、謝意を表せん」と言ふ。俊軒、愍然(びんぜん)[やぶちゃん注:憐れむべきさま。]として、腕を返す。河童、大いに悅びて、其の祕傳を授(さづ)け、且つ曰はく、「爾後(じご)[やぶちゃん注:これより後。]、日々、魚(うを)を獻ぜん。若(も)し、魚を獻ぜざるに至らば、吾(わが)命の終れるを知りたまへ」云々(うんぬん)。明日(みやうじつ)、果して、魚一雙[やぶちゃん注:二尾。二つで一組のものを「雙」(双)と言う。]を庭上の梅の枝に懸け、久しきを經て、斷すること、無し。數年の後、一日、魚を見ず。仍(より)て、下男をして前川を搜らしむるに、河童、果して、死し、其の屍は逆流して、今の東茨城郡橘村與澤(よざは)の地に止(とど)まる。【手接(てつぎ)】乃(すなは)ち、其地に葬り、祠(ほこら)を建て、「手接明神(てつぎみやうじん)」と謂ふ。水旱(すいかん)[やぶちゃん注:洪水と干魃(かんばつ)。]・疾疫(しつえき)[やぶちゃん注:悪性の流行病(はやりやまい)。]に際し、之れに禱(いの)るに、驗(しるし)あり。「手奪川(てばひがは)」の名は此(ここ)に起り、「芹澤氏金創藥家傳の妙方」亦、之れを祖とす。今、遠孫・芹澤潔(せりざはきよし)と云ふ人、此の地に住して、尚(なほ)接骨(ほねつぎ)の藥を販(ひさ)ぎつゝあり〔「茨城名勝誌」。〕。

[やぶちゃん注:「甲斐北巨麻(きたこま)郡下條(しもでう)村」現在の韮崎市藤井町北下條げじょう・藤井町南下條(げじょう)に相当する地域(北下條はここで、南下條はここ。孰れもグーグル・マップ・データ)。西直近を釜無川が流れる。工夫の南西約十キロほどの位置にある。

「下條の切疵藥(きりきずやく)」現存はしない模様である。

「猿の手のごとき物」ここで「猿」が出て来たことは記憶しておく必要がある。ご存じの方も多いと思うが、ずっと後に出るように、永く、猿は厩を守る神として、その頭蓋骨が厩に祀られたりしてきた民俗習俗があるからである。

「慨然(がいぜん)」憤り嘆くさま。嘆き憂えるさま。

「我れ、豈(あ)に獸類をして其の食を分たしめんや」反語。「儂は、しがない農夫の身にてはあれど、畜生の上に、人として、生まれた身じゃて、どうして、異類たる獣どもの食い扶持までも割かさせて食うなどということが、出来ようか、いや、出来ぬ!」。これは人と畜生や異類(河童)との差別的認識ではなく、生きとし生けるもの(献上された魚のそれ及び生物としての河童)に対する素朴な仏教的な慈悲心の表われと読むべきである。而してその判り易い殺生戒の遵守を以ってしても、彼には分限者に成るべき資格が既にここで与えられてあるのである。

「而(しかれど)も」文中で注した通り、私が意図的に勝手に訓じたものであるが、かく読んでこそ、「結句」(結局)、「一鄕の分限者」成り果(おお)せたとする後日談が腑に落ちると考えるからである。

「常陸行方(なめかた)郡現原(あらはら)村大字芹澤ト大字捻木(ねぢき)との間を流るゝ手奪(てばひ)川は梶無(かぢなし)川の上流なり。橋あり、手奪橋(てばひばし)と云ふ。」現在の茨城県行方市芹沢と同捻木の間に架かる橋がここYahoo地図。二つの大字地名が確認出来る)。サイト「茨城妖怪探検隊」の「手奪橋の河童伝説で画像も見られ、痒いところに手が届くで、河童(リンク先では現地では「七郎河童」という名を持っていることが判る)の死後、それを祀ったとされる場所、本文の「手接明神(てつぎみやうじん)」、現在の手接神社(本文の「東茨城郡橘村與澤(よざは)」は現在の茨城県小美玉市与沢。先の手奪橋から直線で三・六キロメートル北西の梶無川の右岸(南側)にある。(グーグル・マップ・データ))を訪問した手接神社の河童伝説の別ページもある! 河童の神社!! 必見!!! また、Romanブログまほらにふく風に乗っての「手接神社(小美玉市)を見ると、つげ義春並みにドキッとくる手形の奉納写真もあるぞ!

「芹澤俊軒」上記のページ等を見ると、なんと! 「新撰組」の初代筆頭局長であった芹沢鴨の先祖であるらしく、この手接神社附近で城持ちの豪族であったともする。

「其の屍は逆流して」何故、逆流出来るのか? それは恐らく、妖怪としての河童が完全な陰気に基づく生物という認識があったからであろうと私は思う。

「芹澤潔」不詳。この片の製造した薬も現存はしない模様である。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 最も原始的な情緖

 

  最も原始的な情緖

 

この密林の奧ふかくに

おほきな護謨(ごむ)葉樹のしげれるさまは

ふしぎな象の耳のやうだ。

薄闇の濕地にかげをひいて

ぞくぞくと這へる羊齒(しだ)植物 爬蟲類

蛇 とかげ ゐもり 蛙 さんしようをの類。

 

白晝(まひる)のかなしい思慕から

なにをあだむが追憶したか

原始の情緖は雲のやうで

むげんにいとしい愛のやうで

はるかな記憶の彼岸にうかんで

とらへどころもありはしない。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『表現』初出。初出は以下。「あだむ」は傍点であるが、大きな「●」である。

   *

 

  最も原始的な情緖

 

この密林の奧ふかくに

巨大な護謨葉樹(ごむえふじゆ)のしげれるさまは

ふしぎな象の耳のやうだ。

薄やみの濕地に影をひいて

ぞくぞくと這へる羊齒(しだ)植物、爬蟲類

蛇、蜥蝪、蛙、蠑螈(ゐもり)、山椒魚(さんしようを)の類。

 

白晝(まひる)の悲しい思慕から

なにをあだむが追憶したか

原始の情緖は雲のやうで

無限にいとしい愛のやうで

はるかな記憶の彼岸にうかんで

捉へどころもありはしない。

 

   *

 「定本靑猫」は有意な異同は認めない。

 この一篇、直前の空」に続いて如何にも表現主義的な印象であるが、それ以上に、表現主義の「青騎士」第一回展に参加したこともある一人(但し、彼は「表現主義」という区分的思潮では到底、括りきれない)である、かのフランスの画家アンリ・ジュリアン・フェリックス・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau 一八四四年~一九一〇年)の一連の優れた森林幻想の作品群、Le lion, ayant faim, se jette sur l’antilope(ライオンは、飢えていて、アンテロープに襲いかかる」一八九八年~一九〇五年)・La Charmeuse de serpents(「蛇使い」一九〇七年)・Le Rêve(「夢」一九一〇年)などが素材となっているのではないかと私は強く思う(リンク先は総て仏文のウィキの当該の絵の画像)。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 靑空

 

  靑 空

 

           表

 

このながい烟筒(えんとつ)は

をんなの圓い腕のやうで

空にによつきり

空は靑明な弧球ですが

どこにも重心の支へがない

この全景は象のやうで

妙に膨大の夢をかんじさせる。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出は標題と添え辞が全く異なり、細部に気になる異同があるので以下に示す。

   *

 

  印 象

       とある都會の上空にて

 

このながい煙突は

女の圓い腕のやうで

空にによつきり

空は靑明な球形ですが

どこにも重心の支へがない。

この全景は象(ざう)のやうで

妙に澎大の夢をかんじさせる。

 

   *

「澎」は「水の漲(みなぎ)るさま・水の湧き立つさま」であるから、誤字か誤植であろう。

 本篇は「定本靑猫」には再録されていない。

「表現詩派」「表現主義派の詩の感じで」「表現主義の詩のように」「表現主義詩風(ふう)に」の意であろう。「表現主義」(Expressionismus)は「ドイツ表現主義」とも呼ばれ、ウィキの「ドイツ表現主義」によれば、ドイツに於いて第一次世界大戦前に始まり、一九二〇年代に最盛となった芸術運動で、客観的表現を排して内面の主観的な表現に主眼をおくことを特徴とした。建築・舞踊・絵画・彫刻・映画・音楽など各分野で流行し、「黄金の二十年代」と呼ばれ、ベルリンを中心に花開いた。『日本を含む世界各地の前衛芸術に影響を与え、現代芸術の先駆となった』。『日本においては、単なる「表現主義」(「表現派」)ではなく「ドイツ表現主義」(「ドイツ表現派」)という言い方がなされることがあるが、これがどのような経緯で使われるようになったかについて明確に記載している文献は存在しない。ただ、 第二次世界大戦前から日本で「ドイツ表現派」という呼び方が用いられていたことを示す、次のような文献が存在する』として、大正一一(一九二二)年十一月発行の雑誌『解放』に山岸光宣が発表した評論「独逸表現派の社会革命劇 トルレルの『転変』を中心として」があり、また、大正一二(一九二三)年一月三日及び二月二日附『東京朝日新聞』で田中總一郎が「独逸表現派戯曲家」という記事を書いている。本詩篇の初出は大正一〇(一九二一)年十二月であるが、上記の添え辞に変更された本書は、大正一二(一九二三)年一月発行であるから、時制的に「ドイツ表現主義」が持て囃された時期と、よく一致しており、本詩篇のイメージも、かの表現主義に拠った絵画グループ『青騎士』(ドイツ語:der Blaue Reiter:ブラウエ・ライター:元は一九一二年にロシア人画家ヴァシリー・カンディンスキー(Василий Васильевич Кандинский:ラテン文字転写:Wassily Kandinsky)と動物を好んで描いたドイツ人画家フランツ・マルク(Franz Marc)が創刊した綜合的な芸術年刊誌の誌名であり、また、ミュンヘンに於いて一九一一年十二月に集まった主として表現主義画家たちによる自由な芸術家サークル)に参加した画家たち(第一回展にはハンス・アルプ、パウル・クレー、アンリ・マティス、エミール・ノルデ、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーが、第二回展にはエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、カジミール・マレーヴィチ、ジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネーといった錚々たる面々が参加している。ここはウィキの「騎士を参考にした)に参加した画家たちの絵を確かに髣髴させ、短篇ながら、成功していると私は感じる。

「弧球」聴き慣れない熟語で朔太郎の造語の可能性が高いが、しかし「穹窿」や「蒼穹」のイメージに「天球」を合わせたものとして腑には落ちるし、詩語として悪くはない。また、この堅い造語(推定)の音「コキユウ(コキュウ)」を和らげるのにここにのみ特異的に「ですが」という敬体を敢えて用いたのも掟破り乍ら、成功していると言える。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 馬車の中で

 

  馬車の中で

 

馬車の中で

私はすやすやと眠つてしまつた。

きれいな婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷(ちまた)をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄(ひづめ)の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

きれいな婦人よ

旅館の花ざかりなる軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月八日附『朝日新聞』初出。初出は総ルビ(以前に注した通り、それは特に新聞の場合、ほぼ確実に新聞社が勝手に附したもの。但し、不審なものはない)で、副題として「――敍情小曲――」と添える。表記に変更はあるが、有意な意味変動はない。但し、一つ気になることがあるので、ルビを総て除去して以下に示す

   *

 

  馬車の中で

      ――敍情小曲――

馬車の中で

私はすやすやと眠つて了つた。

綺麗な婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷をはしり

すずしい綠蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも

行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

綺麗な婦人よ

旅館の花ざかりなる

軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。

 

   *

この「いつしか海の匂ひも」/「行手にちかくそよいでゐる。」と、「旅館の花ざかりなる」/「軒にくるまで」の部分は、新聞社に送った原稿でも一行であったのではないかと推測する。即ち、新聞の版組に於いて、横列の一行字数が制限されているため、新聞社がこの二つの部分を(前者は句点を含んで二十二字、後者は十五字で、他の行より有意に長い。他で長いのは「私はすやすやと眠つて了つた。」で十四字である)勝手に改行してしまったものと思われるからである。

 「定本靑猫」は有意な異同はない。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 閑雅な食慾

 

  閑雅な食慾

 

松林の中を步いて

あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店(かふえ)である。

をとめは戀戀の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十二月号『日本詩人』初出。初出との異同は、

二行目「かふえ」のルビは「カフエ」とカタカナ

四行目「ひと」は「人」と漢字

五行目の方の「珈琲店」のルビは無し

六行目「をとめ」は「少女」に「をとめ」のルビを附したもの

八行目「取つて」は「とつて」と平仮名

十行目「空」は「堂」(これは誤植の可能性が高いと推定

最終行「たいそう」は「たいさう」と誤表記

である。

 「底本靑猫」は有意な異同を認めない。

「戀戀」(れんれん)は「思い切れずに執着すること」或いは「恋い慕って思い切れないさま」を言う。

「羞」昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集」第九巻では、「羞(はにかみ)とルビし、昭和一一(一九三六)年四月刊の新潮文庫「萩原朔太郎集」でも同じ仕儀をしているから、「はにかみ」と訓じてよかろうとは思うのだが、実は新潮文庫のそれが出る一ヶ月前の同年三月刊に「定本靑猫」は刊行されており、これを定本と自負して名打ったにも拘らず、この「はにかみ」のルビがないのは頗る不審であり、その点に於いて、この字を「はにかみ」と読むと断定することは私は微妙に留保したい気持ちがある。しかも、痙攣的に面倒臭いことに、最後の自選となった昭和一四(一九三九)年の詩集「宿命」では、「羞」を「羞恥」に変えてしまい、その二字に「はぢ」とルビしているのである。これは即ち、この「羞」で「はぢ」と読んでいた可能性を排除出来ないからでもある。

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)

 

Kumataka

 

くまたか

      【和名久万太加】

角鷹

 

△按角鷹乃鷹之類而大悍者也全體形色雌雄大小皆

 同于鷹大於鷹三倍焉本草綱目鷹與角鷹相混云頂

 有毛角故曰角鷹蓋毛角在耳穴上蔽耳毛宛如角然

 鷹毛角微而常不見怒則四五分竪爾此毛角常脹起

 如憤則四五寸竪故特立角鷹名性最猛悍多力能搏

 狐狸兔猿之類不劣於鷲奧州常州有之彼山人毎養

 之馴教以使搏鳥獸亦如鷹取其尾造箭羽其尾十二

 枚黑白文重重成列鮮明者爲上老則尾文斜而逆上

 謂之逆彪最爲貴珍

八角鷹 乃角鷹之屬小者大如鳶皁色尾羽黑與赤黃

 斑如畫間有如八字文此亦爲箭羽以爲奇珍

[やぶちゃん注:「畫」は「盡」であるが、ルビと送り仮名の「ヱカクカ」により、誤字と断じて特異的に訂した。]

 

 

くまたか

      【和名、「久万太加」。】

角鷹

 

△按ずるに、角鷹は乃〔(すなは)〕ち鷹の類にして、大いに悍(たけ)き者なり。全體の形・色、雌雄の大小、皆、鷹に同じく、鷹より大なること、三倍せり。「本草綱目」に、鷹と角鷹と、相ひ混じて云はく、『頂きに、毛角有り。故に「角鷹」と曰ふ』と。蓋し、「毛角」〔と〕は、耳の穴の上に在りて、耳を蔽ふ毛〔にして〕、宛(さなが)ら、角(つの)のごとく〔に〕然〔(しか)〕り。鷹の毛角は微〔(かすか)〕にして、常に〔は〕見へず[やぶちゃん注:ママ。]。怒(いか)るときは、則ち、四、五分〔(ぶ)〕竪(た)つのみ。此の〔角鷹の〕毛角は常に脹(ふく)れ起こる。如〔(も)〕し憤(いきどほ)るときは、則ち、四、五寸、竪つ。故に特に角鷹の名を立つ。性、最も猛悍、多力にして、能く狐・狸・兔〔(うさぎ)〕・猿の類を搏つこと、鷲に劣らず。奧州・常州に、之れ、有る。彼〔(か)〕の山人、毎〔(つね)〕に之れを養ひ、馴〔らし)〕教へて、以つて鳥獸を搏たしむ。亦、鷹のごとく、其の尾を取りて、箭(や)の羽を造る。其の尾、十二枚、黑白の文〔(もん)〕重重〔(ぢゆうぢゆう)として〕[やぶちゃん注:重なり合うように。]列を成す。鮮-明(あきら)かなる者、上と爲す。老〔(らう)〕すれば、則ち、尾の文、斜めにして、逆に上る。之れを「逆彪(さかふ)」と謂ひ、最も貴珍と爲す。

八角鷹(はちくま) 乃ち、角鷹の屬の小き者なり。大いさ、鳶のごとく、皁〔(くろ)〕色。尾羽(〔を〕ばね)、黑と赤黃と斑〔(まだら)〕にして畫(ゑが)くがごとし。間〔あひだ)〕に「八」の字のごとくなる文〔(もん)〕有り。此れも亦、箭の羽と爲して、以つて奇珍と爲す。

[やぶちゃん注:本邦産はタカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalisウィキの「クマタカ」によれば、『ユーラシア大陸南東部、インドネシア、スリランカ、台湾』に分布し、全長はで約七十五センチメートル、で約八十センチメートル。翼開長は約一メートル六十センチメートルから一メートル七十センチメートルに達し、『日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る』。但し、『翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると』、実は『相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ』。『頭部の羽毛は黒い。後頭部には白い羽毛が混じる冠羽をもつ。この冠羽が角のように見えることも和名の由来とされる。幼鳥の虹彩は褐色だが、成長に伴い黄色くなる』。『森林に生息する。飛翔の際にあまり羽ばたかず、大きく幅広い翼を生かして風を』捉らえて『旋回する(ソアリング)』(soaring:上昇気流を利用して長時間滞空すること。)『こともある。基本的には樹上で獲物が通りかかるのを待ち襲いかかる。獲物を捕らえる際には翼を畳み、目標をめがけて加速を付けて飛び込む。日本がクマタカの最北の分布域であり』、『北海道から九州に留鳥として生息し、森林生態系の頂点に位置している。そのため』、『「森の王者」とも呼ばれる。高木に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『繁殖は』一『年あるいは隔年に』一『回で、通常』一『回につき』一『卵を産むが』、『極稀に』二『卵産む。抱卵は主にメスが行い、オスは狩りを行う』。『従来、つがいはどちらかが死亡しない限り、一夫一妻が維持され続けると考えられてきたが』、二〇〇九『年に津軽ダムの工事に伴』って『設置された猛禽類検討委員会の観察により、それぞれ前年と別な個体と繁殖したつがいが確認され、離婚が生じることが知られるようになった』。『クマタカは森林性の猛禽類で調査が容易でないため、生態の詳細な報告は少ない。近年繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』という。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と』二『通りの漢字表記事例がある。歴史的・文学上では双方が使われてきており、近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。なお、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』とある。なお、クマタカの英名は「Mountain hawk-eagle」或いは単に「hawk eagle」である。即ち、「hawk」(「鷹」。タカ:俗にタカ目 Accipitriformes(ワシタカ目とも訳す)の中の大型種)であり、「eagle」(「鷲」ワシ:俗にタカ(ワシタカ)目の中の中・小型種)であるという奇体な(中間型という謂いであろう)もので、中央・南アメリカに棲息するタカ目タカ科セグロクマタカ属 Spizaetus の「スピザエトゥス」は、荒俣宏氏の「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「タカ」の項によれば、『ギリシャ語の〈ハイタカ spizas〉と〈ワシ aetos〉』の合成であるとある。如何に「ホークとイーグル」「鷹と鷲」の民俗的分類がいい加減かが露呈する、いい例である。

 

「本草綱目」良安が本書名をフルで書くのは極めて珍しく、しかも鷹と角鷹を一緒くたに説明している、と正面切って批判的に述べているのも特異点である。「禽部」の巻四十九、「禽之四 山禽類」の「鷹」の「釋名」に以下のように出る(良安が一部を既に鷹」で引いている)。

   *

鷹【「本經中品」。】

釋名角鷹【「綱目」。】。鷞鳩。時珍曰、鷹以膺擊、故謂之鷹。其頂有毛角、故曰角鷹。其性爽猛、故曰鷞鳩。昔少皥氏以鳥官名。有祝鳩・鳲鳩・鶻鳩・睢鳩・鷞鳩五氏。蓋鷹與鳩同氣禪化、故得稱鳩也。「禽經」云、『小而鷙者皆曰隼、大而鷙者皆曰鳩』是矣。「爾雅翼」云、在北爲鷹、在南爲鷂』。一云、大爲鷹、小爲鷂。「梵書」謂之嘶那夜。

   *

「八角鷹(はちくま)」「乃ち、角鷹の屬の小き者なり」後者は誤りであるが、姿は確かによく似ている。「蜂熊」「八角鷹」「蜂角鷹」はクマタカとは属の異なる独立種、タカ科ハチクマ属ハチクマ Pernis ptilorhyncus であるウィキの「ハチクマ」を引く。『和名は同じ猛禽類のクマタカに似た姿で、ハチを主食とする性質を持つことに由来する』。『ユーラシア大陸東部の温帯から亜寒帯にかけての地域に広く分布する。ロシアのバイカル湖付近から極東地域、サハリン、中国東北部にかけての地域とインドから東南アジアで繁殖し、北方で繁殖した個体は冬季南下して、インドや東南アジア方面の地域に渡り越冬する』。『日本では初夏に夏鳥として渡来し、九州以北の各地で繁殖する』。『日本で繁殖した個体は、同様に東南アジアにわたるサシバ』(タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus。既注)『が沖縄・南西諸島を経由して渡りをおこなうのとは異なり、九州から五島列島を経て大陸に渡り、そこから南下する。鹿児島県下甑島を通過する個体もおり、年齢を判別できた個体のうち、幼鳥が』九十二%『であった』。『渡りの方向は西方向が中心で北や南への飛去も観察されている』。『春には秋とは異なる経路をとり、大陸を北上した後、朝鮮半島から南下することが』、『人工衛星を使った追跡調査から明らかになっている』。全長五十七~六十一センチメートルで、他種と同じく、『雌の方がやや大きい。体色は通常体の上面は暗褐色で、体の下面が淡色若しくは褐色であるが、特に羽の色は個体差が大きい。オスは風切先端に黒い帯があり、尾羽にも』二『本の黒い帯があり、瞳が黒い。メスは尾羽の黒い帯が雄よりも細く、瞳が黄色い』。六亜種に分類されている。本邦種『ユーラシア大陸西部に分布するヨーロッパハチクマ』(Pernis apivorus)『とは近縁種で、同種とする見解もある』。『丘陵地から山地にかけての森林に、単独かつがいで生活する。日本での産卵期は』六『月で、樹上に木の枝を束ね産座に松葉を敷いたお椀状の巣を作り』、一~三個(通常は二個)の『卵を産む。抱卵期間は』二十八~三十五『日で、主に雌が抱卵する。雛は孵化してから』三十五~四十五『日で巣立つ。巣立ち後』、三十~六十『日程度で親から独立する。冬になると』、『東南アジアに渡って越冬するが、毎年同じ縄張りに戻ってきて育雛をする。このとき』、『巣も毎年繰り返し再利用するため、年々新たに付け加えられる木の枝によってかなりの大きさとなる。その下部は排泄物がしみこんで富栄養の腐植質となるが、ここでハナムグリの一種である』アカマダラハナムグリ(昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科 Cetoniinae のマダラハナムグリ属アカマダラハナムグリ Poecilophilides rusticola)『の幼虫が発育する』。『食性は動物食で、夏と冬にはスズメバチ類やアシナガバチ類といった社会性の狩り蜂の巣に詰まった幼虫や蛹を主たる獲物とし、育雛に際してもばらばらの巣盤を巣に運んで雛に与える。コガタスズメバチのような樹上に営巣するハチのみならず、クロスズメバチやオオスズメバチなど、地中に巣を作るハチの巣であっても、ハチが出入りする場所などから見つけ出し、同じ大きさの猛禽類よりも大きい足で巣の真上から掘り起こし、捕食してしまう。また、時には養蜂場のハチの巣を狙うこともある』。『ハチの攻撃を受けても』、『ハチクマは滅多に刺されることがない。これは硬質の羽毛が全身に鱗のように厚く密生しており、毒針が貫通しないためと考えられている。また、ハチクマの攻撃を受けたハチは』、『やがて反撃をしなくなることがあるが、詳しい理由は判明していない。ハチの攻撃性を奪うフェロモン、もしくは嫌がる臭いを身体から出しているという説や、数週間にわたって、時には複数羽で連携してしつこく巣に波状攻撃を仕掛けることで、ハチに巣の防衛を諦めさせ、放棄して別の場所に移るように仕向けさせているという説がある』。『ハチ類の少なくなる秋から冬にかけては昆虫類や小鳥、カエル、ヘビ等の動物も捕食する』。『猛禽類では餌を独占する傾向が強いが、ハチクマは、餌を巡り滅多なことでは同種同士で争うことはない。これは上記のように集団で巣を襲うからと考えられる』とある。]

2019/01/13

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 怠惰の曆

 

 

 

  

 

 

 

     

 

いくつかの季節はすぎ

もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた

馬車はごろごろと遠くをはしり

海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる

なんといふ怠惰な日だらう

運命はあとからあとからとかげつてゆき

さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる

もう曆もない 記憶もない

わたしは燕のやうに巢立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。

むかしの戀よ 愛する猫よ

わたしはひとつの歌を知つてる

さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう

ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

 

[やぶちゃん注:「翔つてゆかう」はママ。初出はない(確認出来ない)。「定本靑猫」では「むかしの戀よ 愛する猫よ」が「むかしの人よ 愛する猫よ」に改変されているが、その後の詩集「宿命」では「戀」に戻した上で感嘆符を附し、「むかしの戀よ 愛する猫よ!」としている。

 私は個人的にこの「さうして遠い海草の焚」(た)「けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げやう」! というコーダが好きだ。これはもう、万葉人の藻塩焼くそれである。その古代の侘しくも懐かしい夕暮れの焼けた空から、詩人は「爛れるやうな接吻』(キス)『を投げやう』! と言うのだ。「もう曆もない 記憶もない」遠い時代をドライヴしてきた「かなしい情熱」のだけが支えである詩人の呼ぶ声が哀しくも素敵ではないか!
 

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) さびしい來歷

 

  さびしい來歷

 

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形の幻像よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核(たね)を嚙みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來歷だらう。

 

[やぶちゃん注:「核」の字は底本では(つくり)が「亥」ではなく、「玄」の一画目と三画目を一本した奇体な字体で、表示出来ないため、筑摩書房版全集校訂本文の採用する「核」で示した。大正一一(一九二二)年六月号『日本詩人』初出。初出に有意な異同はない。「底本靑猫」は以下。

   *

 

  さびしい來曆

 

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形(まり)の幻像(いめいぢ)よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ。なんたるとりとめのない寂しさだらう!

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核を嚙みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた。

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來曆だらう。

   *

「來曆」は「來歷」の方が私などにはしっくりくるのだが、実は本書目次」詩篇標題事実、しい曆」っていのであった。

「野蔦」「のづた」。ブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus に属する多様なツタ類を指すが、それに、全くの別種であるセリ目ウコギ科 Aralioideae亜科キヅタ属キヅタ Hedera rhombea をも含めて考えた方がよい。

「もろこし」「蜀黍」「唐黍」。老婆心乍ら、トウモロコシではない。単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor である。熱帯アフリカ原産の一年草の穀物。丈が高くなるところから「高黍」(たかきび)とも呼び、或いは中国語の「高粱」(Gāoliang)の音写に成る外来語「コーリャン」や、種名の「ソルガム」が商品名として知られる。ウィキの「モロコオシによれば、『穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界』で第五位に位置する耕作穀物で、『乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する』とある。

 なお、本篇を以ってパート「さびしい靑猫」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) さびしい來歷

 

  さびしい來歷

 

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形の幻像よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核(たね)を嚙みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來歷だらう。

 

[やぶちゃん注:「核」の字は底本では(つくり)が「亥」ではなく、「玄」の一画目と三画目を一本した奇体な字体で、表示出来ないため、筑摩書房版全集校訂本文の採用する「核」で示した。大正一一(一九二二)年六月号『日本詩人』初出。初出に有意な異同はない。「底本靑猫」は以下。

   *

 

  さびしい來曆

 

むくむくと肥えふとつて

白くくびれてゐるふしぎな球形(まり)の幻像(いめいぢ)よ

それは耳もない 顏もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ

夏雲よ。なんたるとりとめのない寂しさだらう!

どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ戀人もありはしない。

わたしは駱駝のやうによろめきながら

椰子の實の日にやけた核を嚙みくだいた。

ああ こんな乞食みたいな生活から

もうなにもかもなくしてしまつた。

たうとう風の死んでる野道へきて

もろこしの葉うらにからびてしまつた。

なんといふさびしい自分の來曆だらう。

   *

「來曆」は「來歷」の方が私などにはしっくりくるのだが、実は本書目次」詩篇標題事実、しい曆」っていのであった。

「野蔦」「のづた」。ブドウ目ブドウ科ツタ属 Parthenocissus に属する多様なツタ類を指すが、それに、全くの別種であるセリ目ウコギ科 Aralioideae亜科キヅタ属キヅタ Hedera rhombea をも含めて考えた方がよい。

「もろこし」「蜀黍」「唐黍」。老婆心乍ら、トウモロコシではない。単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor である。熱帯アフリカ原産の一年草の穀物。丈が高くなるところから「高黍」(たかきび)とも呼び、或いは中国語の「高粱」(Gāoliang)の音写に成る外来語「コーリャン」や、種名の「ソルガム」が商品名として知られる。ウィキの「モロコオシによれば、『穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界』で第五位に位置する耕作穀物で、『乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する』とある。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 輪廻と轉生

 

  輪廻と轉生

 

地獄の鬼がまはす車のやうに

冬の日はごろごろとさびしくまはつて

輪𢌞(りんね)の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。

ああ こんな陰鬱な季節がつづくあひだ

私は幻の駱駝にのつて

ふらふらとかなしげな旅行にでやうとする。

どこにこんな荒寥の地方があるのだらう

年をとつた乞食の群は

いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆさ

禿鷹の屍肉にむらがるやうに

きたない小蟲が燒地(やけち)の穢土(ゑど)にむらがつてゐる。

なんといふいたましい風物だらう

どこにもくびのながい花が咲いて

それがゆらゆらと動いてゐるのだ

考へることもない かうして暮れ方(がた)がちかづくのだらう

戀や孤獨やの一生から

はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽靈のやうに見えるばかりだ。

どこを風見の鷄(とり)が見てゐるのか

冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。

 

[やぶちゃん注:標題の「廻」の字体はママ。本文内に二箇所で現れる「輪𢌞」と「𢌞る」の「𢌞」は実は底本では(えんにょう)の上に載る中の部分が「巳」ではなく「己」となっている字体(「グリフウィキ」のこれ)で表記が出来ないことから、最も近い字体として「𢌞」を配したものである。筑摩版全集校訂本文も当然の如く、標題を含めて総て「𢌞」となっている。

「ふらふらとかなしげな旅行にでやうとする」の「でやうとする」はママ(これまでにも萩原朔太郎しばしばやらかしている歴史的仮名遣の誤りであり、特に私は躓かない)。

九行目の「いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆさ」の「さ」は明らかにおかしいのであるが、「ママ」で、言わずもがな、「いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき」の「き」の誤植であるが、正誤表があるわけでもないので、ここは特異的にママで出した

 大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』初出。

 初出は「禿鷹」(はげたか)が「禿鷲(はげわし)」(ルビ有り)である以外は有意な異同は認めない。

 「定本靑猫」では、

「どこにこんな荒寥の地方があるのだらう」が「どこにこんな荒寥の地方があるのだらう!」

となり、

「なんといふいたましい風物だらう」も「なんといふいたましい風物だらう!」

で、最終行の、

「冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれてゐる。」が「冬の日のごろごろと𢌞る瘠地の丘で もろこしの葉つぱが吹かれてゐる。」

となっている以外は、有意な異同を認めない。但し、これらは朗読では有意に変化が起こる。

 老婆心乍ら、標題の「轉生」は「輪廻」(「輪𢌞」)と対になっているから「てんしやう」(てんしょう)以外の読みはあり得ない。

「心像」は「しんざう」で「image」の訳語で、過去の経験や記憶などをもととして具体的に心の中に思い浮かべたもの。「心象」と同じだから「しんしやう(しんしょう)」と読みたくなるし、「像」には「シヤウ(ショウ」の音はあるから、ここはちょっと自分勝手にそう読みたい。幸い、朔太郎は後の再録の孰れでも「いめいぢ」などというかったるいルビは振っていないから、「しんしやう」でよかろうかと勝手に合点させて貰う。

「瘠地」「やせち」。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 五月の死びと

 

  五月の死びと

 

この生(いき)づくりにされたからだは

きれいに しめやかに なまめかしくも彩色されてる

その胸も その脣(くち)も その顏も その腕も

ああ みなどこもしつとりと膏油や刷毛で塗られてゐる。

やさしい五月の死びとよ

わたしは綠金の蛇のやうにのたうちながら

ねばりけのあるものを感觸し

さうして「死」の絨氈に肌身をこすりねりつけた。

 

[やぶちゃん注:初出なし(確認されていない)。「底本靑猫」では再録せず。「絨氈」は「じゆうたん」で問題ない表記であるが、筑摩書房版全集校訂本文は、またしても過剰な消毒薬を散布せずにはおかぬ。「絨毯」に変えてしまっている。いいかね? 「じゆうたん」(現代仮名遣「じゅうたん」)は現行の辞書でも漢字表記を「絨緞」「絨毯」「絨氈」と載せているんだ! どこの誰が「じゆうたん」は「絨毯」でなくては誤りだと言ったんだ?!

 さても、この詩篇、エレナ幻想の一つであろう。エレナは洗礼名で、本名は馬場ナカ、朔太郎の妹ワカの友人であった。明治二三(一八九〇)年生まれの朔太郎より四つ歳下、朔太郎が十七歳の頃に出逢っている。吉永哲郎論文「さみしい男」の文学史―――朔太郎のエレナ憧憬をめぐって ―――(共愛学園前橋国際大学論集・二〇〇四年三月発行・PDF・分割発表の一篇)によれば、明治四二(一九〇九)年に、『高崎の医師佐藤清と結婚し』、『二子をもうけたが、結核を病み、転地療養を続けるうち』、大正六(一九一七)年五月五日、二十八歳の若さで亡くなっている。『高崎の柳川町のハリスト正教会(現・下小鳥町)の「教会銘度利加(洗礼名が記載されている大判本)」の「第二簡其の二」に』、「洗礼日大正三年五月十七日 洗礼名 エレナ」の『名が記載されていた』とある。

「綠金」「ろくきん」或いは「りよくきん」で、緑色を帯びた金色のこと。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 野鼠

 

  野  鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

泥土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日傭人(ひようとり)のやうに步いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない。

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年五月発行の『日本詩集』初出。初出や「定本靑猫」には有意な異同は認めない。

「幔幕」「まんまく」昔の軍陣や屋内外での式典会場・遊覧の野天などで、周囲に張り巡らす、遮蔽と装飾を兼ねた横に長い幕。本来は「布を縦に縫い合わせたもの」が「幔」で、「横に縫い合わせたもの」を「幕」と称した。

「俥」「くるま」人力車。

めるとんmelton。布面が密に毛羽(けば)で覆われた、手触りの暖かい紡毛(ぼうもう)織物。柔軟で保温性に富み,やや厚手である。黒無地或いは縞柄や霜降りに染め、オーバー・マント・婦人子供服・制服などの防寒用服地として用いられる。

「づぼん」ズボン。

「日傭人(ひようとり)」日雇人夫。「日傭取」が正字。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱な風景

 

  憂 鬱 な 風 景

 

猫のやうに憂鬱な景色である

さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき

りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。

もうとつくにながい間(あひだ)

だれもこんな波止場を思つてみやしない。

さうして荷揚げ機械のばうぜんとしてゐる海角から

いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。

そのうへ帆船には綿が積まれて

それが沖の方でむくむくと考へこんでゐるではないか。

なんと言ひやうもない

身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。

ああ神よ もうとりかへすすべもない

さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒のやうに泣いて居やう。

 

[やぶちゃん注:「居やう」はママ。大正一一(一九二二)年七月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」には有意な異同は認めない。

りんねるlinen。「リネン」とも呼ぶ。亜麻(あま:キントラノオ目アマ科アマ属アマ Linum usitatissimum)の繊維を原料とする織物。強くて水分の吸収発散が早く、涼感があるため、夏物の衣料などに用いられる。

「海角」「かいかく」で、通常は「海に突き出た陸地の先端部である岬とか鼻を言うが、ここは港の荷揚げ機械が配されてあるのであるから、港湾内に突き出た人口の突堤と読むべきである。

「生物意識」朔太郎は明らかに眼に見えない霊的な何ものかを考えている。そこを経て海陸に運ばれて行ったヒトを含む総ての動植物の、そこでの残留思念や感情を、かく言っているものと私は採る。

 この詩篇の後の左ページ(右ページには「ああ神よ もうとりかへすすべもない」(改行)「さうしてこんなむしばんだ囘想から いつも幼な兒の」(行末)「やうに泣いて居やう」の三行が配されてある)には、以下の「海岸通之圖」が配されてある。これは筑摩版全集解題によれば、「西洋之圖」と同じくサンフランシスコの絵葉書とある。これはこの詩篇の「波止場」のシークエンスと珍しく親和性が見られる配置となっているので、ここに掲げておくこととした。]

 

Kaigandoorinozu

 

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 猫柳

 

  猫  柳

 

つめたく靑ざめた顏のうへに

け高くにほふ優美の月をうかべてゐます

月のはづかしい面影

やさしい言葉であなたの死骸に話しかける。

ああ 露しげく

しつとりとぬれた猫柳 夜風のなかに動いてゐます。

ここをさまよひきたりて

うれしい情(なさけ)のかずかずを歌ひつくす

そは人の知らないさびしい情慾 さうして情慾です。

ながれるごとき淚にぬれ

私はくちびるに血潮をぬる

ああ なにといふ戀しさなるぞ

この靑ざめた死靈にすがりつきてもてあそぶ

夜風にふかれ

猫柳のかげを暗くさまよふよ そは墓場のやさしい歌ごゑです。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』初出。初出は四行目の「死骸」が「死臘」(「屍蠟」の誤記か誤植)であるのが大きな異同で、「定本靑猫」は特に有意な異同はない。個人的には「屍蠟」が断然、いい。既出既注であるが、再掲しておくと、「屍蠟」(しろう)は死体が蠟状に変化したもの。死体が長時間、水中又は湿気の多い土中に置かれ、空気との接触が絶たれると、体内の脂肪が蠟化し、長く原形を保つ。そうした遺体現象を指す。

「猫柳」私の好きなキントラノオ目ヤナギ科ヤナギ属ネコヤナギ Salix gracilistyla。花期は三~四月。本種は雌雄異株で、雄株と雌株がそれぞれ雄花と雌花を咲かせ、銀白色の毛状の目立つ花穂を猫の尾に見立てたのが和名の由来である。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) かなしい囚人

 

  かなしい囚人

 

かれらは靑ざめたしやつぽをかぶり

うすぐらい尻尾(しつぽ)の先を曳きずつて步きまはる

そしてみよ そいつの陰鬱なしやべるが泥土(ねばつち)を掘るではないか。

ああ草の根株は掘つくりかへされ

どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐる。

なんといふ退屈な人生だらう

ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする。

この幽靈のやうにさびしい影だ

硝子のぴかぴかするかなしい野外で

どれも靑ざめた紙のしやつぽをかぶり

ぞろぞろと蛇の卵のやうにつながつてくる さびしい囚人の群ではないか。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『日本詩人』初出。初出は有意な異同を認めない。「定本靑猫」では「どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつてゐる。」を「どこもかしこも曇暗が日ざしがかげつてゐる」とする。聞き慣れぬ「曇暗」は「どんあん」で、どんよりと曇った翳りの謂いであろうから、後者が正当かとは思う。しかし、別にここにまた、筑摩版全集の異常な消毒校訂本文を見出すのである。そこでは、「ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする。」の最後の句点を除去しているのである。しかも後の再録でも総て句点はないのに、だ! こんなことが許されていいものか?!

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寄生蟹のうた

 

  寄生蟹のうた

 

潮みづのつめたくながれて

貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた

ああここにはもはや友だちもない 戀もない

渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる

その草の根はけむりのなかに白くかすんで

春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。

おぼろにみえる沖の方から

船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。

あやしくもここの磯邊にむらがつて

むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる

それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹(やどかり)の幽靈ですよ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出も「定本靑猫」も有意な異同を認めない。標題に「寄生蟹(やどかり)うた」とルビして貰いたかった。本詩を見つけた中学生の時、「やった! カクレガニの現代詩があった!」(「カクレガニ」は節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵亜(エビ)目短尾下目カクレガニ科 Pinnotheridae に属するカニ類の中で、海綿動物・腔腸動物・棘皮動物・軟体動物(斧足類(二枚貝類)・腹足類(巻貝類)・腕足類)などの体壁や体腔及び外套腔・排泄腔などに入り込んで寄生するカニ類,科名を略した「ピンノ」の愛称で知られる)と空喜びして、読み終えて後にがっくりと肩を落とした慘めな少年の私を忘れないからだ。言わずもがなだが、「寄生蟹(やどかり)」は十脚目抱卵亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類である。罪創りな! 朔太郎!

「齲ばみ」「むしばみ」。

「楫」「かぢ」。初出では異体字の「檝」を用いている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 綠色の笛

 

  綠色の笛

 

この黃昏の野原のなかを

耳のながい象たちがぞろりぞろりと步いてゐる。

黃色い夕月が風にゆらいで

あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。

さびしいですか お孃さん!

ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ綠です。

やさしく歌口(うたぐち)をお吹きなさい

とうめいなる空にふるへて

あなたの蜃氣樓をよびよせなさい

思慕のはるかな海の方から

ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。

それはくびのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする

いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』初出。初出では、「さびしいですか お孃さん!」は「さびしいですか、お孃さん」で、コーダの「いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!」も「いつそこんな悲しい暮景の中で、私は死んでしまひたいのです、お孃さん」と迫力がない。「定本靑猫」では「幻像」に「いめぢ」とルビすることと、「いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!」が「いつそこんな悲しい景色の中で 私は死んでしまひたいのよう! お孃さん!」の二箇所(厳密には「暮景」を「景色」としているので三点)、で大きく相違するが、そちらは逆に粉飾にして過剰で厭だ。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 鴉毛の婦人

 

  鴉毛の婦人

 

やさしい鴉毛の婦人よ

わたしの家根裏の部屋にしのんできて

麝香のなまめかしい匂ひをみたす

貴女(あなた)はふしぎな夜鳥

木製の椅子にさびしくとまつて

その嘴(くちばし)は心臟(こころ)をついばみ 瞳孔(ひとみ)はしづかな淚にあふれる

夜鳥よ

このせつない戀情はどこからくるか

あなたの憂鬱なる衣裳をぬいで はや夜露の風に飛びされ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』初出。初出や「定本靑猫」に有意な異同を認めない。なお、「鴉毛」であるが、「定本靑猫」後の昭和一四(一九三九)年の詩集「宿命」(創元選書)に再録した際にのみ、朔太郎は「鴉毛」に「からすげ」という訓を振っている。現行、これに従って読まれているようである。これはあの鴉の暗い紫を帯びた黒い頭髪の謂いであろう。私はつい、マスカレードのような、実際のカラスの羽を髪飾りにした女性を想起してしまうのは困ったものだ。

「麝香」ジャコウジカ(哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschusの総称)の雄の下腹部にある鶏卵大の包皮腺(香嚢)から得られる香料。紫褐色の顆粒で芳香が極めて強く、強心剤・気つけ薬など種々の薬料や、香水にも用いられる。詳しくは、私の生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(7) 三 色と香() 肛門腺及び蛾類性フェロモン」の本文及び私の注「麝香鹿」を参照されたい。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) くづれる肉體

 

  くづれる肉體

 

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で

わたしはくづれてゆく肉體の柱(はしら)をながめた

それは宵闇にさびしくふるへて

影にそよぐ死(しに)びと草(ぐさ)のやうになまぐさく

ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。

ああこの影を曳く景色のなかで

わたしの靈魂はむずがゆい恐怖をつかむ

それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島島を渡つてきた

それは風でもない 雨でもない

そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ

さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。初出や「定本靑猫」に有意な異同を認めない。

「死(しに)びと草(ぐさ)」「風にそよぐ」と近似した異名からは、単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科ヒガンバナ連ヒガンバナ属ヒガンバナ Lycoris radiata が想起はされるが、朔太郎がそれをイメージしたかどうかは判らぬ。ウィキの「ヒガンバナによれば、『彼岸花の名は秋の彼岸頃から開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある』(本種は全草が『有毒で、特に鱗茎にアルカロイド』alkaloid)『を多く含』み、『経口摂取すると』、『吐き気や下痢を起こし、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死に至ることもある』『鱗茎はデンプンに富む』。主な『有毒成分であるリコリン』(lycorine)『は水溶性で、長時間水に曝せば』、『無害化が可能であるため、救飢植物として第二次世界大戦中などの戦時や非常時において食用とされたこともある』。『また、花が終わった秋から春先にかけては葉だけになり、その姿が食用のノビル』(野蒜。ヒガンバナ科ネギ亜科 Allieae 連ネギ属ノビル Allium macrostemon。小さな頃、母と一緒に裏山でよく採って食べた)『やアサツキ』(浅葱。ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum)『に似ているため、誤食してしまうケースもある』。『鱗茎は石蒜(せきさん)という名の生薬であり、利尿や去痰作用があるが、有毒であるため』、『素人が民間療法として利用するのは危険である』)。『別名の曼珠沙華は、『法華経』などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。ただし、仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである(近縁種ナツズイセン』(夏水仙。ヒガンバナ属ナツズイセン Lycoris squamigera)『の花は白い)。『万葉集』に見える「いちしの花」を彼岸花とする説もある』(巻第十一「路の邊(へ)の壱師(いちし)の花のいちしろく人皆知りぬ我が戀妻を」(二四八〇番))。『また、毒を抜いて非常食とすることもあるので』、「悲願の花」という『解釈もある(ただし、食用は』『危険である)』。『異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあるが、反対に「赤い花」「天上の花」の意味で、めでたい兆しとされることもある。日本での別名・地方名・方言は千以上が知られている』とある。私はヒガンバナが好きである。私の家の斜面には亡き母が育てた白いヒガンバナが時々咲く。嘗て私はブログの曼珠沙華逍遙で、ヒガンバナの異名を蒐集したことがある(但し、「シニビトグサ」はなかった)。お暇なら、ご覧あれ。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 艶めかしい墓場

 

  艶めかしい墓場

 

風は柳を吹いてゐます

どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。

なめくぢは垣根を這ひあがり

みはらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる。

どうして貴女(あなた)はここに來たの

やさしい 靑ざめた 草のやうにふしぎな影よ

貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない

さうしてさびしげなる亡靈よ

貴女のさまよふからだの影から

まづしい漁村の裏通りで 魚(さかな)のくさつた臭ひがする

その膓(はらわた)は日にとけてどろどろと生臭く

かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

 

ああ この春夜のやうになまぬるく

べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ

妹のやうにやさしいひとよ

それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない

さうしてただなんといふ悲しさだらう。

かうして私の生命(いのち)や肉體(からだ)はくさつてゆき

「虛無」のおぼろげな景色のかげで

艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。初出は有意な異同を認めない。「定本靑猫」は、「どうして貴女(あなた)はここに來たの」が「どうして貴女(あなた)はここに來たの?」、「さうしてさびしげなる亡靈よ」が「さうしてさびしげなる亡靈よ!」でヴィジュアルに印象が強化されては見える以外は、やはり有意な異同を認めない。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(3)

 

《原文》

河童家傳ノ金創藥 サテ此カラガ本論ナリ。今若シ河童ヲ以テ一種ノ獸類トスルナラバ、正シク前ニ揭ゲシ傳ノ一例ト見ルべキ昔話アリ。即チ非常ニ效能ノ大ナル金創藥(キンサウヤク)ヲ河童ヨリ傳授セラレタリト云フ多クノ物語是ナリ。自分十二三歳ノ頃世ニ公ニセラレシ書物ニ、石川鴻齋翁ノ夜窻鬼譚(ヤソウキダン)ト云フ者アリ。自分ノ耳ヲ悅バセシ最初ノ話ハ此文集ノ中ニ在リキ。奇拔ナル插畫アリシ事ヲ記憶ス。【片手】袴ヲ著ケタル立派ナル若衆ガ奧方ノ前ニ低頭シ一本ノ手ヲ頂戴スルノ圖ニシテ、其手ハ恰モ天竺德兵衞ガ蝦蟆(ガマ)ノ手トヨク似タリ。此少年コソハ即チ河童ノ姿ヲ變へタル者ニシテ、奧方ノ爲ニ斬取ラレタル自分ノ片手ヲ返却シテ貰フ處ナリ。タシカ九州ハ柳河(ヤナガハ)ノ城下ニ於テ、河童或強勇ナル奧樣ニ無禮ヲ働キテ手ヲ斫ラル。泣イテ[やぶちゃん注:ママ。]其罪ヲ謝スルガ故ニ、憐愍ヲ以テ其手ヲ返シ與ヘタルニ、禮物ニ川魚ヲ持參セリト云フ話ナリシカト思フ。此同ジ話ノ異傳カトオボシキモノ、少クモ九州ニ二ツアリ。其一ハ博多細記ニ見ユ。筑前黑田家ノ家臣ニ鷹取運松庵ト云フ醫師アリ。妻ハ四代目ノ三宅角助ガ娘、美婦ニシテ膽力アリ。或夜厠ニ入リシニ物蔭ヨリ手ヲ延バシテ惡戲ヲセントスル者アリ。【河童ノ手】次ノ夜短刀ヲ懷ニシテ行キ矢庭ニ其手ヲ捉ヘテ之ヲ切リ放シ、主人ニ仔細ヲ告ゲテ之ヲ燈下ニ檢スルニ、長サハ八寸バカリニシテ指ニ水搔アリ、苔ノ如ク毛生ヒテ粘リアルハ、正シク本草綱目ニアル所ノ水虎(スヰコ[やぶちゃん注:ママ。])ノ手ナリト珍重スルコト大方ナラズ。然ルニ其夜モ深更ニ及ビテ、夫婦ガ寢ネタル窻ニ近ク來リ、打歎キタル聲ニテ頻ニ訴フル者アリ。私不調法ノ段ハ謝リ入ル、何トゾ其手ヲ御返シ下サレト申ス。河童ナドノ分際ヲ以テ武士ノ妻女ニ慮外スルサヘアルニ、手ヲ返セトハ長袖ト侮リタルカ、成ラヌ成ラヌト追返ス。斯クスルコト三夜ニ及ビ、今ハ々ニ泣沈ミテ憫ヲ乞ヒケレバ、汝猶我ヲ騙カサントスルカ、我ハ外治ノ醫家ナルゾ。冷エ切ツタル手足ヲ取戾シテ何ニセント言フゾト罵ル。御疑ハ御尤モナレドモ、人間ノ療治トハ事カハリ、成程手ヲ繼グ法ノ候ナリ。【腕ノ共通】三日ノ内ニ繼ギサヘスレバ、假令前ホドニハ自由ナラズトモ、コトノ外殘リノ腕ノ力ニナリ候。偏ニ御慈悲ト淚ヲコボス。【鯰】此時運松庵モ稍合點シ、然ラバ其藥法ヲ我ニ傳授セヨ、腕ハ返シ與フべシト云ヘバ、河童是非ニ及バズトテ障子越ニ一々藥法ヲ語リテ書キ留メサセ、片手ヲ貰ヒテ罷リ還リ、更ニ夜明ケテ見レバ大ナル鯰ノマダ生キタルヲ、庭前ノ手洗鉢ノ邊ニサシ置キタリシハ、誠ニ律義ナリケル話ナリ。【ヒヤウスへ】次ニ笈埃(キウアイ)隨筆ノ中ニハ、肥前諫早(イサハヤ)在ノ兵揃(ヒヤウスヘ)村天滿宮ノ神官澁江久太夫ノ家ノ歷史トシテ此話ヲ傳ヘタリ。事ノ顚末ハ全ク博多ノ鷹取氏ノト同ジク、唯彼ハ醫師ナルニ反シテ此ハ本草ニモ緣ナキ普通ノ神主ナレドモ、利害の打算ト外交的手腕トニ於テハ甲乙アルコトナク、有利ナル交換條件ヲ以テ安々ト河童手繼ノ祕法聞取リ、永ク之ヲ一子相傳ノ家寶トシテ、近國ノ怪我人ニ河童藥ノ恩惠ヲ施シタリト云へリ。

 【澁江氏】右三書ノ傳フル所、果シテ何レヲ眞トスべキカヲ知ラザルモ、要スルニ澁江氏ハ河童ト淺カラザル緣故アリ。肥後ニモ河童ノ退治ヲ職トスル一箇ノ澁江氏アリキ。今ノ菊池神社ノ澁江公木氏ナド或ハ其沿革ヲ承知セラルヽナランカ。但シ自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵輔(ヒヤウスヘ)ト云フ村ノ名無シ。恐クハ亦傳聞ノ誤ナラン。【水神】九州ノ南半ニ於テハ河童ノ別名ヲ水神(スヰジン[やぶちゃん注:ママ。])ト謂ヒ或ハ又「ヒヤウスヘ」ト謂フ〔サヘヅリ草〕。狩野探幽ノ筆ト稱スル百化物(ヒヤクバケモノ)ノ畫卷ノ中ニモ、「ヒヤウスヘ」ト云フ物アリ。太宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスべ」ノ宮アリ。此ハ俗ニ謂フ河太郞ノコトナリト稱ス〔南蘭草下〕。【菅公】昔菅公ガ筑紫ノ配處ニテ詠マレタリト云フ歌ニ

  イニシヘノ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男氏ハ菅原

ト云フ一首アリ〔和漢三才圖會四十〕。此歌ハ僅ナル變更ヲ以テ又左ノ如クモ傳ヘラル〔同上八十〕。

  ヒヤウスヘニ約束セシヲ忘ルナヨ川立チ男我モ菅原

之ヲ以テ觀レバ、「ヒヤウスヘ」ハ本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル。【守札】諫早(イサハヤ)附近ノ澁江氏ガ同ジク天滿宮ノ祠官ナリシコト、及ビ一説ニハ長崎ノ邊ニ住スル澁江文太夫ナル者、能ク水虎ヲ治シ護符ヲ出ス、河ヲ涉ル者之ヲ携ヘ行ケバ害ナシト云ヒ、或ハ若者等海ニ小石ヲ投ジテ戲レトセシヲ怒リ、河童此澁江氏ニ托シテ其ノ憤リヲ述べタリト云フコトヲモ考フレバ〔同上〕、村ノ名ヲ兵揃(ヒヤウスヘ)ト誤リ傳ヘタル仔細ハ必ズシモ想像ニ難カラズ。而シテ右ノ一首ハ、此男ハ菅原氏ノ一族ノ者ナレバ川ニ立チテモ害ヲ加フルコトナカレ、以前「ヒヤウスヘ」神ト結ビタル約束ヲ嚴守セヨト云フツモリニテ、拙(ツタナ)キナガラニヨク要領ヲ得、河童硏究上有力ナル一史料ナリ。

 

《訓読》

河童(かつぱ)家傳の金創藥(きんさうやく) さて、此れからが、本論なり。今、若(も)し、河童を以つて一種の獸類とするならば、正(まさ)しく前に揭げし傳の一例と見るべき昔話あり。即ち、非常に效能の大なる金創藥(きんさうやく)を、河童より傳授せられたりと云ふ多くの物語、是れなり。自分、十二、三歳の頃、世に公にせられし書物に、石川鴻齋(いしかはこうさい)翁の「夜窻鬼譚(やそうきだん)」と云ふ者あり。自分の耳を悅ばせし最初の話は、此の文集の中に在りき。奇拔なる插畫ありし事を記憶す。【片手】袴を著(つ)けたる立派なる若衆が、奧方の前に低頭し、一本の手を頂戴するの圖にして、其の手は恰(あたか)も天竺德兵衞が蝦蟆(がま)の手と、よく似たり。此の少年こそは、即ち、河童の姿を變へたる者にして、奧方の爲に斬り取られたる自分の片手を返却して貰ふ處なり。たしか、九州は柳河(やながは)の城下に於いて、河童、或る強勇なる奧樣に無禮を働きて手を斫(き)らる。泣いて其の罪を謝するが故に、憐愍(れんびん)を以つて其手を返し與へたるに、禮物に川魚を持參せりと云ふ話なりしかと思ふ。此の同じ話の異傳かとおぼしきもの、少くも、九州に二つあり。其の一つは「博多細記」に見ゆ。筑前黑田家の家臣に、鷹取運松庵と云ふ醫師あり。妻は四代目の三宅角助が娘、美婦にして膽力あり。或る夜、厠(かはや)に入りしに、物蔭より手を延ばして、惡戲をせんとする者、あり。【河童の手】次の夜、短刀を懷(ふところ)にして行き、矢庭(やには)に其の手を捉へて、之れを切り放し、主人に仔細を告げて、之れを燈下に檢(けみ)するに、長さは八寸ばかりにして、指に水搔(みづかき)あり、苔(こけ)のごとく、毛、生(お)ひて粘りあるは、『正(まさ)しく「本草綱目」にある所の「水虎(すゐこ)」の手なり』と珍重すること、大方ならず。然るに、其の夜も深更に及びて、夫婦が寢ねたる窻(まど)に近く來たり、打ち歎きたる聲にて頻(しき)りに訴ふる者あり。『私、不調法の段は謝り入る、何とぞ、其の手を御返し下され』と申す。『河童などの分際(ぶんざい)を以つて武士の妻女に慮外するさへあるに、「手を返せ」とは長袖(ちやうしう)と侮りたるか、成らぬ、成らぬ』と追ひ返す。斯(か)くすること三夜に及び、今は々(たえだえ)に泣き沈みて憫(あはれみ)を乞ひければ、『汝、猶、我を騙(たぶら)かさんとするか、我は外治(がいち)の醫家なるぞ。冷え切つたる手足を取り戾して何にせんと言ふぞ』と罵(ののし)る。『御疑ひは御尤もなれども、人間の療治とは事かはり、成程、手を繼(つ)ぐ法の候(さふらふ)なり。【腕の共通】三日の内に繼ぎさへすれば、假令(たとひ)前ほどには自由ならずとも、ことの外、殘りの腕の力になり候。偏(ひとへ)に御慈悲』と淚をこぼす。【鯰】此の時、運松庵も稍(やや)合點(がてん)し、『然らば、其の藥法を我れに傳授せよ、腕は返し與ふべし』と云へば、河童、『是非に及ばず』とて障子越しに、一々、藥法を語りて、書き留めさせ、片手を貰ひて罷(まか)り還り、更に、夜明けて見れば、大なる鯰(なまづ)の、まだ生きたるを、庭前の手洗鉢(てうづばち)の邊(あたり)にさし置きたりしは、誠に律義(りちぎ)なりける話なり。【ひやうすへ】次に「笈埃(きうあい)隨筆」の中には、肥前諫早(いさはや)在(ざい)の兵揃(ひやうすへ)村天滿宮の神官澁江久太夫の家の歷史として此の話を傳へたり。事の顚末は全く博多の鷹取氏のと同じく、唯、彼は醫師なるに、反して、此れは本草にも緣なき普通の神主なれども、利害の打算と外交的手腕とに於ては甲乙あることなく、有利なる交換條件を以つて安々(やすやす)と河童手繼(てつぎ)の祕法、聞き取り、永く、之れを一子相傳の家寶として、近國の怪我人に河童藥の恩惠を施したりと云へり。

 【澁江氏】右三書の傳ふる所、果して何れを眞とすべきかを知らざるも、要するに、澁江氏は河童と淺からざる緣故あり。肥後にも河童の退治を職とする一箇の澁江氏、ありき。今の菊池神社の澁江公木(しぶえきみき)氏など、或いは其の沿革を承知せらるゝならんか。但し、自分の知る限りに於いては、肥前には「兵輔(ひやうすへ)」と云ふ村の名、無し。恐くは亦、傳聞の誤りならん。【水神】九州の南半(みなみはん)に於いては河童の別名を「水神(すゐじん)」と謂ひ、或いは又、「ひやうすへ」と謂ふ〔「さへづり草」〕。狩野探幽の筆と稱する「百化物(ひやくばけもの)」の畫卷(ゑまき)の中にも、「ひやうすへ」と云ふ物、あり。太宰府天滿宮の末社の一(ひとつ)に、『「ひやうすべ」の宮』あり。此れは『俗に謂ふ、「河太郞(かはたらう)」のことなり』と稱す〔南蘭草下〕。【菅公(かんこう)】昔、菅公が筑紫(つくし)の配處にて詠まれたりと云ふ歌に

  いにしへの約束せしを忘るなよ川立(かはだ)ち男氏(うぢ)は菅原

と云ふ一首あり〔「和漢三才圖會」四十〕。此の歌は僅かなる變更を以つて、又、左のごとくも傳へらる〔同上八十〕。

  ひやうすへに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原

之れを以つて觀(み)れば、「ひやうすへ」は、本來、「河童」のことには非ずして、化物退治を以つて專門としたる神なりしか、と思はる。【守札】諫早(いさはや)附近の澁江氏が、同じく天滿宮の祠官なりしこと、及び、一説には、長崎の邊(あたり)に住する澁江文太夫なる者、能く水虎を治(じ)し[やぶちゃん注:統治し。]、護符を出だす、河を涉(わた)る者、之れを携へ行けば、害なし、と云ひ、或いは若者等(ら)、海に小石を投じて戲(たはむ)れとせしを、怒り、河童、此の澁江氏に托して、其の憤りを述べたりと云ふことをも考ふれば〔同上〕、村の名を兵揃(ひやうすへ)と誤り傳へたる仔細は必ずしも想像に難からず。而して右の一首は、『此の男は菅原氏の一族の者なれば、川に立ちても害を加ふることなかれ、以前「ひやうすへ」神と結びたる約束を嚴守せよ』と云ふつもりにて、拙(つたな)きながらに、よく要領を得(え)、河童硏究上、有力なる一史料なり。

[やぶちゃん注:やっと迂遠な枕が終わって河童が登場する。柳田先生、温泉からここまで、こんな枕が必要でしょうかねぇ?

「石川鴻齋」(天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年)は三河(愛知県)豊橋の商家に生まれた幕末から近代の儒者・漢学者。西岡翠園に師事し、詩文の他、文人画にも優れた。明治一〇(一八七七)年、四十四で東京に転居し、同じ三河出身の和泉屋市兵衛が経営していた書店に勤め、編集に携わった。また、芝増上寺の浄土宗学校の開校に際しては漢学の教師に就任。同年、清国の全権公使何如璋(かじょしょう)を始めとする副使・随員らが宿所として増上寺に滞在した際には筆談を以って会談に加わった。翌明治十一年に詩文集「芝山一笑」を刊行、漢学者としての名声が高まり、この時期に注釈本など数多くの著作を手がけた。小野湖山・前田黙鳳・依田学海・富岡鉄斎などとも親交があった。

「夜窻鬼譚(やそうきだん)」「夜窗鬼談」が正しい(窻」「窗」は孰れも「窓」の異体字)。上巻は明治二二(一八八九)年、下巻は明治二七(一八九四)年に東京の東陽堂から出版された、完全に漢文で書かれた非常に優れた怪異小説集。私の偏愛する怪談集であり、何時かはオリジナルに訓読を試みたいと思っている名著である。上巻四十四篇、下巻四十二篇、都合、計八十六篇から成る。小泉八雲の「果心居士の話」(The story of Kogi the Priest)(「日本雑記」(A Japanese Miscellany)・明治三四(一九〇一)年)・「お貞の話」(The Story of O-Tei)及び「鏡と鐘」(Of A Mirror And A Bell)(「怪談」(Kwaidan)・明治三十七年)の三篇は、本書の「果心居士」・「怨魂借體」・「祈得金」から素材や着想を得ている。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全篇(下巻はこちら)が読める。柳田國男が言っているのは上巻の「河童」で、ここから。右手にはその挿絵も見られる

「天竺德兵衞」(てんじくとくべえ 慶長一七(一六一二)年~?)は江戸前期に実在した商人で探検家。ウィキの「天竺徳兵衛」によれば、『播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという』。寛永三(一六二六)年、十五歳の時、『京都の角倉』(すみのくら)『家の朱印船貿易に関わり、ベトナム、シャム(現在のタイ)などに渡航。さらに』ヤン・ヨーステンヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(Jan Joosten van LodensteynLodensteijn) 一五五六年?~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。日本名は「耶楊子(やようす)」。『教科書などで知られている「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」』。『オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス』(William Adams 一五六四~元和六(一六二〇)年:江戸初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士で貿易家。三浦按針(みうらあんじん)の日本名で知られる)『とともに』慶長五(一六〇〇)年四月に『豊後に漂着』した。『徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来する。「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる』。『やがて東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが』、『帰国交渉がはかどらず、結局』、『あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)『とともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった』。『帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後』、自身の見聞録「天竺渡海物語」(「天竺聞書」とも)を『作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる』。『高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている』。『死去した後に徳兵衛は伝説化し、江戸時代中期以降の近松半二の浄瑠璃』「天竺徳兵衛郷鏡(てんじくとくべえさとのすがたみ)」(宝暦一三(一七六三)年四月竹本座初演。尾崎光弘氏のコラム「本ときどき小さな旅」のこちらにシノプシスがある)や、四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」(文化元(一八〇四)年江戸河原崎座夏芝居初演。先の「天竺徳兵衛郷鏡」を下敷きにした作で、天竺帰りの船頭徳兵衛が自分の素姓を吉岡宗観(そうかん)、実は大明(だいみん)の臣木曽官の子と知り、父の遺志を継いで日本転覆の野望を抱き、蝦蟇(がま)の妖術を使って神出鬼没、将軍の命をねらうが、巳の年月揃った人の生き血の効験によって術を破られるというストーリー)で『主人公となり、妖術使いなどの役回しで人気を博した』とある。「蝦蟆(がま)の手」というのは、その歌舞伎化されたものの妖術シーンに基づく。

「たしか、九州は柳河(やながは)の城下に於いて」先のリンクの冒頭は、「筑後柳川邊。古多河童」(筑後柳川邊り、古へ、河童多し)と始まる。

「斫(き)らる」「斬」に同じい。

「憐愍(れんびん)」憐れみ、情けをかけること。同情。

「博多細記」不詳。

「鷹取運松庵」「九州の東方を往く」(第一巻・二〇一七年五月発行・PDFサンプル)の「特集1 カッパ王国九州」の地図に福岡県福岡市中央区に「鷹取運松庵屋敷跡」というのが示されてある。

「三宅角助」本山一城氏のサイト「黒田武士の館」内の「黒田騒動講談本の登場人物の実名と変名の比較」というページに、本名は三宅角左衛門、変名が三宅角助で、『加藤清正旧臣の子』とある。

『「本草綱目」にある所の「水虎(すゐこ)」』李時珍の「本草綱目」の、あろうことか、「蟲之四 濕生類」の「溪鬼蟲」の「附錄」に、

   *

附錄水虎。時珍曰、「襄沔記」云、中廬縣有涑水、注沔。中有物如三四歳小兒、甲如鱗鯉、射不能入。秋曝沙上。膝頭似虎掌爪。常没水出膝示人。小兒弄之便咬人。人生得者、摘其鼻、可小小使之、名曰水虎。

   *

と出る。寺島良安は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類(かいるい)」で「水虎」を掲げて、この本文を引き、

   *

Suiko

すいこ

水虎
       【本草蟲部附

        錄出水虎蓋

        此非蟲類今

シユイ フウ  改出于恠類】

 

本綱水虎襄沔記注云中廬縣有涑水注沔中有物如三

四歳小兒甲如鯪鯉射不能入秋曝沙上膝頭似虎掌爪

常没水出膝示人小兒弄之便咬人人生得者摘其鼻可

小使之

按水虎形狀本朝川太郎之類而有異同而未聞如此

 物有乎否

 

 

すいこ

水虎
       【「本草」蟲の部の附錄に

        水虎」を出だす。蓋し

        此れ、蟲類に非ず。今、

シユイ フウ  改めて恠類に出だす。】

 

「本綱」に、『水虎は「襄沔記」〔(じやうべんき)〕注に云はく、中廬(ちうろ)縣に涑水(そくすい)有りて、沔中〔(べんちう)〕に注(そゝ)ぐ。物有り、三~四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉〔(りやうり)〕のごとく、射(ゆみい)ても入ること能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎〔の〕掌・爪に似たり。常に水を〔に〕没し、膝を出だして、人を〔に〕示す。小兒、之を弄〔(もてあそ)〕べば、便〔(すなは)〕ち、人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで、之れを小使〔(こづかひ)〕にすべし。

按ずるに、水虎の形狀、本朝「川太郎」の類〔(たぐひ)〕にして、異同有り。而〔れども〕未だ聞かず、此くのごとき物、有るや否や。

   *

と述べている。私は「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」を遠い昔に総て電子化注しているが、古い仕儀なので、漢字の正字化を徹底して読みも増やし、図も添えた。私の詳細注も附してあるのでそちらも見られたい。しかし、水搔きがあるなんてどこにもかいてありませんぜ!

「長袖(ちやうしう)」袖括(そでくく)りして鎧を装着する武士に対し、長袖の衣服を着ているところから、公卿・僧・神官・学者・医師(江戸時代の医者は圧倒的に僧形(そうぎょう)の者が多かった)などを指した蔑称。

「外治(がいち)の醫家」「外科医」に同じい。

「成程」ここは「確かに」「実際、本当に」の意。

「繼(つ)ぐ」「接ぐ」。

「殘りの腕の力になり候」残っている方の腕に、ある程度まで、力添えが出来るようなレベルにまでは回復致すので御座います。但し、後に示した「和漢三才図会」の「川太郎」の叙述を見ると、所謂、「通臂」で左右の腕の骨が左右どちらにもそのまま移動して用を足せる意が記されているのは、非常に興味深い。

「是非に及ばず」仕方がない。

「ひやうすへ」現代仮名遣表記では「ひょうすえ」地域によっては「ひょうすべ」とも呼ばれており、現行では九州を中心に伝承される河童に類似した人型妖怪の名である。ウィキの「ひょうすべ」によれば、『ひょうすべは、日本の妖怪の一種。佐賀県や宮崎県をはじめとする九州地方に伝承されている』。『河童の仲間と言われ、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるが』、『河童よりも古くから伝わっているとも言われる』。『元の起源は古代中国の水神、武神である兵主神であり、日本へは秦氏ら帰化人と共に伝わったとされる』。『元々武神ではあるが日本では食料の神として信仰され、現在でも滋賀県野洲市、兵庫県丹波市黒井などの土地で兵主』(ひょうず:八千矛神(やちほこのかみ))『神社に祀られている』。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。『佐賀県武雄市では』、嘉禎三(一二三七)年に武将橘公業(たちばなのきみなり)が『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』。『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』。『別名には』他に、『ひょうすぼ、ヒョウスンボ、ひょうすんべなどがある』。『河童の好物がキュウリといわれることに対し、ひょうすべの好物はナスといわれ、初なりのナスを槍に刺して畑に立て、ひょうすべに供える風習がある』。『人間に病気を流行させるものとの説もあり、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するという』。『ナス畑を荒らすひょうすべを目撃した女性が、全身が紫色になる病気となって死んでしまったという話もある』。『また、ひょうすべはたいへん毛深いことが外観上の特徴とされるが、ひょうすべが民家に忍び込んで風呂に入ったところ、浸かった後の湯船には大量の体毛が浮かんでおり、その湯に触れた馬が死んでしまったという』。『似た話では、ある薬湯屋で毎晩のようにひょうすべが湯を浴びに来ており、ひょうすべの浸かった後の湯には一面に毛が浮いて臭くなってしまうため、わざと湯を抜いておいたところ、薬湯屋で飼っていた馬を殺されてしまったという話もある』。『鳥山石燕らによる江戸時代の妖怪画では、伝承の通り毛深い姿で、頭は禿頭で、一見すると人を食ったようなユーモラスな表情やポーズで描かれている』。『これは東南アジアに生息するテナガザルがモデルになっているともいわれる』とある。以下に、同ウィキのパブリック・ドメインの「ひょうすべ」の画像を掲げておく。

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佐脇嵩之(さわきすうし 宝永四(一七〇七)年~明和九(一七七二)年):英一蝶晩年の弟子)の「百怪図巻」(元文二(一七三七)年作)に描かれた「へうすへ」の図

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鳥山石燕(とりやませきえん 正徳二(一七一二)年或い同四年~天明八(一七八八)年)の「画図百鬼夜行」(安永五(一七七六)年板行)より「ひやうすべ」の図

「笈埃(きうあい)隨筆」江戸中期の旅行家で俳人でもあった百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四)年)紀行随筆。私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 「河童の執念」』の注で同書の当該の「水虎」の部分(結構な分量がある)を電子化しているので参照されたい

「澁江久太夫」竹村匡弥(まさや)氏の論文『「河童が相撲を取りたがる」という伝承に関する研究――野見宿禰と河童の別称である「ひょうずべ」の関係を中心として――(『スポーツ史研究』第二十一号(平成 二〇(二〇〇八)年発行)PDF)という非常に優れた論考の、「3-1 河童を自在に統御する渋江家」で、「北肥戰誌」(馬瀬俊継編・享保五(一七二〇)年成立。肥前を中心とした戦記物)『には、「渋江家由来の事」として、以下の記述がみられる』として(以下、恣意的に漢字を正字化した)、

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抑々彼の鹽見城主澁江家の先祖を如何にと尋ねるに、人王三十一代敏達天皇には五代の孫、左大臣橘諸兄の末葉なり。此の諸兄才智の譽世に高く、聖武天皇の御宇既に政道の補佐たりしより後、其孫從四位下兵部大輔島田丸猶朝廷に仕え奉る。然るに神護景雲[やぶちゃん注:七六七年~七七〇年。]の頃、春日の社常陸國鹿島より今の三笠山へ移らせ給う[やぶちゃん注:ママ。]の時、此島田丸匠工の奉行を勤めけるに、内匠頭何某九十九の人形を造りて匠道の祕密を以て加持したる程に、忽ち彼の人形に火便り風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到りて神力を播し[やぶちゃん注:「はし」。行き渡らせ。]、精力を勵し被召仕[やぶちゃん注:「めしつかふまつられ」。]ける間、思の外大營の功早速成就成りけり。斯て御社の造營成就の後、彼の人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前如前[やぶちゃん注:衍字か。「なほまへのごとく」と訓じておく。]、人馬六畜を侵して甚世の禍となりけり。今の河童是也。此事稱德天皇遙に叡聞ましまし、其時の奉行人なれば兵部大夫島田丸急ぎ彼の化人[やぶちゃん注:「けにん」。]の禍を鎭め可申旨詔を被下けり。斯て兵部大夫勅命を蒙り、則其趣を河中水邊に觸れ𢌞りしかば、其後は河伯の禍なかりけり。從是[やぶちゃん注:「これより」。]して彼の河伯を兵主部[やぶちゃん注:「ひやうすべ」]と名く。主は兵部という心成べし。夫れより兵主部を橘氏の眷屬とは申す也。

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とあって、非常に判り易く、また、腑に落ちる伝承であることが判る。

「菊池神社の澁江公木(きみき)氏」天保四(一八三三)年~大正三(一九一四)年)幕末から明治期の肥後出身の神職。神職で国学者であった渋江松石の孫。木下犀潭(さいたん)に学び、肥後熊本藩の重臣小笠原氏の子弟の教育に当たった。維新後、現在の熊本県菊池市隈府(わいふ)にある菊池神社(ここ(グーグル・マップ・データ)。南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏三代を祀る)の宮司となり、私塾遜志堂を開いた。公木(きみき)は本名

『狩野探幽の筆と稱する「百化物(ひやくばけもの)」の畫卷(ゑまき)』引用元の「南蘭草(ならんそう)」は幡国鳥取藩支藩若桜藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)が「松平冠山」名で書いた考証随筆で、そこには「狩野探幽が書ける百怪物といふ軸を見つるに、ひやうすべといふもの有」とあるらしい(ツイッター情報)。しかし、現物は聴いたことも見たこともない。識者の御教授を乞う。

「太宰府天滿宮の末社の一(ひとつ)に、『「ひやうすべ」の宮』あり」同じくツイッター情報で同じ「南蘭草」の上記引用の直後に「此を荻野梅塢に問ひしに、太宰府天滿宮の末社に『ひやうすべの宮』あり。これは俗にいふ河太郎を祭れるなり」とあるらしい。但し、当該末社を調べて見たが、見当たらない。識者の御教授を乞う。

「昔、菅公が筑紫(つくし)の配處にて詠まれたりと云ふ歌に……私は既に「諸國里人談卷之二 河童歌」の注で、本「山島民譚集」のこの前後を引いて考証しているので参照されたい

『「和漢三才圖會」四十〕』先に示した私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「水虎」の次で電子化注してあるが、古い仕儀なので、漢字の正字化を徹底して、読みも増やし、図も添えた。私の詳細注も附してあるのでそちらも見られたい

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Kawatarou

かはたらう  一名川童

      【深山有山童同

       類異物也

       性好食人舌忌

       見鐵物也】

川太郎

 

按川太郎西國九州溪澗池川多有之狀如十歳許小

 兒裸形能立行爲人言髮毛短少頭巓凹可盛一匊水

 每棲水中夕陽多出於河邊竊瓜茄圃穀性好相撲見

 人則招請比之有健夫對之先俯仰搖頭乃川太郎亦

 覆仰數囘不知頭水流盡力竭仆矣如其頭有水則力

 倍於勇士且其手肱能通左右滑利故不能如之何

 也動則牛馬引入水灣自尻吮盡血也渉河人最可愼

   いにしへの約束せしを忘るなよ川たち男氏は菅原

 相傳菅公在筑紫時有所以詠之於今渡河人吟之則無

 川太郎之災云云偶雖有捕之者恐後崇〔祟〕放之

 

 

かはたらう  一名「川童(かはらう)」

      【深山に「山童〔(やまわろ)〕」

       有り。同類〔にして〕異なり。

       性〔(しやう)〕、好みて人の舌

       を食ふ。鐵物〔(かなもの)〕を

       見るを忌むなり。】

川太郎

 

按ずるに、川太郎は西國九州溪澗池川に多く之れ有り。狀(かた)ち、十歳許りの小兒のごとく、裸-形(はだか)にて、能く立行〔(りつかう)〕して人言〔(じんげん)〕を爲(な)す。髮毛短く、少頭の巓〔(てん)〕、凹〔(へこ)み〕、一匊水〔(いちきくすい)〕を盛る。每〔(つね)〕に水中に棲(す)みて、夕陽に多く河邊に出でて、瓜・茄〔(なすび)〕・圃-穀(はたけもの)を竊〔(ぬす)〕む。性〔(しやう)〕、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて之れを比〔(くら)〕べんことを請ふ。健夫有りて之れに對するに、先づ、俯仰〔(ふぎやう)〕して頭を搖〔(ゆら)〕せば、乃〔(すなは)〕ち、川太郎も亦、覆仰(うつふきあをむ)くこと數囘にして、頭の水、流れ盡〔(つき)〕ることを知らず、力竭〔(つ)き〕て仆〔(たを)〕る。如〔(も)〕し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り(ぬけ)て、滑-利(なめら)かなり。故に之れを如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣〔(すいわん)〕に引〔き〕入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉-河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

   いにしへの約束せしを忘るなよ

      川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以(ゆゑん)有りて之れを詠せらる。今に於いて、河を渡る人、之れを吟ずれば、則ち、川太郎の災〔(わざはひ)〕無しと』云云と。偶々〔(たまたま)〕、之れを捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて、之れを放つ。

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「此の歌は僅かなる變更を以つて、又、左のごとくも傳へらる〔同上八十〕」「ひやうすへに約束せしを忘るなよ川立ち男我も菅原」これは「和漢三才図会」の地誌パートの中の「大日本国」パートの、巻八十にある「肥前」の部の「菅原第明神」の箇所で、以下に電子化するが、柳田の記載は、これより前の部分から総てが、良安のこの記載に拠っていることが判る。但し、一首の表記は柳田の引用とは違いがある

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菅原大明神  在兵揃村 【自諫早十里南】

  祭神 菅丞相

   ひやうすへに川たちせしを忘るなよ川立ち男我も菅原

 此邊多有水獸而捕人渉河人書件唄於竹葉投川則

 水虎不爲害

――――――――――――――――――――――

又長崎之邊有稱澁江文太夫者能治水虎而嘗出符渉

 河人携其符則不害矣或時有壯士等戲飛礫於海中

 若干也於是水虎來于澁江家告曰從長崎管令黒田

 家西泊營向我栖投礫若累日不止則爲對彼家災害

 也因澁江訴上件趣人咸以爲奇

菅原大明神  兵揃(ひやうすべ)村に在り。【諫早より、十里、南。】

  祭神 菅丞相

   ひやうすべに川たちせしを忘るなよ川立ち男我も菅原

此の邊りに、多く、水獸(かはたろう[やぶちゃん注:ママ。以下、同じ。])有りて、人を捕る。渉河(かちわたり)の人、件〔(くだん)〕の唄を竹の葉に書きて、川に投ずれば、則ち、水虎(かはたろう)、害を爲さずといふ。

――――――――――――――――――――――

又、長崎の邊りに、澁江文太夫と稱する者、有り。能く水虎を治〔(をさ)〕む。嘗て、符を出だす。河を渉る人、其の符を携(たづさ)へれば、則ち、害、あらず。或る時、壯士等有り、戲れに礫〔(つぶて)〕を海中に飛ばす〔こと〕若干(そこそこ)たり。是に於いて、水虎、澁江が家に來りて、告げて曰はく、「長崎管令黒田家の西泊の營〔(えい)〕[やぶちゃん注:陣屋。]より、我が栖〔(すみか)〕に向けて礫を投げり。若〔(も)〕し、累日〔(るいじつ)〕[やぶちゃん注:「何時まで経っても」の意。]止まずんば、則ち、爲めに、彼〔(か)〕の家に對して災害(わざはひ)せん」〔と〕なり。因りて、澁江、上件〔(じやうけん)〕の趣きを訴ふ。人、咸(みな)[やぶちゃん注:皆。]、以つて奇と爲す。

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さて、柳田は前で「自分の知る限りに於いては、肥前には「兵輔(ひやうすへ)」と云ふ村の名、無し。恐くは亦、傳聞の誤りならん」と言っているのであるが、ここにははっきりと「兵揃(ひやうすべ)村に在り」とし、しかも「諫早より、十里、南」とまで記している。これは如何にも不審である。そこで調べてみたところ、個人ブログ「仮称リアス式「肥前諌早の兵揃村」で、長崎県長崎市多以良町に「兵頭」(読み不明だが、「ひょうず」と読みたくなること請け合い)という地名があり、ここは現在の長崎市内で『俗に東長崎と呼ばれている』が、この『地域は昔は諌早領だった』と記されてある。諫早市街からは、西で二十五キロメートルほどしか離れてはいないけれど、これは気になる。そこに示された「電子国土ポータル」には確かに「兵頭」の地名を確認出来、しかも近くのごくごく川沿いにぽつんと神社があるではないか。いよいよ気になるが、この神社、よく判らぬ。まんず、私の力ではここまでだ。]

2019/01/12

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(2)

 

《原文》

非類靈藥ヲ知ル  鹿狐ノ徒ガ山中ニ於テ手療治ヲ試ミ居タリト云フ口碑ハ、モト靈泉ノ奇特ガ天然ニ具備スル者ニシテ、自ラ無知ノ鳥獸ヲ感應セシムルニ足リ、世ノ常ノ醫藥ノ如ク人間ノ智巧ヲ以テ作リ上ゲタル者ニ非ザルコトヲ意味シ、素朴單純ナル前代ノ人ヲシテ容易ニ其ノ有難味ヲ悟ラシムルコトヲ得。始メテ此ノ噂ヲ立テタル人若シ有リトスレバ物ノ分ツタ人ナリ。イヅレ御寺ノ和尚カ何カニテ、カノ行基菩薩弘法大師性空上人ナドヲ日本國ノ隅々マデモ引張リマハシ、終ニ之ヲ世界ニ稀ナル大旅行家トシタル人々ノ所業ナルカモ知レズ。但シ人間ガ非類ノ物ヨリ生活方法ノ一部ヲ模倣シタリト云フ話ハ外ニモアリ。獨リ鷺之湯鹿之湯等ノ由來記ニ限リシコトニハ非ズ、昔ノ日本人ニハ耳馴レタル物語ナリシナリ。【淺瀨】例ヘバ下總ノ鴻ノ臺ハ、曾テ小田原北條ノ軍勢攻メ寄セシ時、搦手ノ備薄キ處ヲ突カント欲シテ川ノ瀨ヲ知ルニ苦シム。時ニ中流ニ鴻ノ立ツヲ見テ漸ク渡ルコトヲ待タルガ故ニ此ノ地名ハ起リシニテ、之ヲ國府臺トスルハ誤リナリト云リアリ〔十方庵道産雜記初篇上〕。【薤】鷺ニ就テモ古クヨリ一ノ話ヲ傳フ。丹波國ニ住ム者靑鷺ヲ射ル。後ニ家ノ薤(ニラ)畠ヲ來テ荒ス者アリ。暗中ニコレヲ射止ムレバ前ニ遁ゲタル鷺ナリ。薤ノ葉其ノ傷ノ矢ノ板ニ卷キ附キテアリ。矢創ヲ癒ヤサンガ爲ニ薤ヲ摘ミシヲ知リ、之ヲ憫ミテ佛門ニ入ル云々〔三國傳記〕。薤ノ金創(キンサウ)ニ效アルコトハ兎ニ角動物ヨリ教ヘラレタリト見ユ。【雀】下野雀宮(スヾメノミヤ)ノ由來ニ、曾テ針ヲ包ミタル饅頭ヲ人ニ欺カレテ丸吞ニシ大イニ苦シミ居タル男、庭前ノ雀ガ草ヲ口ニシテ弱リタル友雀(トモスヾメ)ニ食ハスヲ見ル。ヤガテ其ノ雀尻ヨリ光レル物ヲ出シ元氣快復ス。光ル物ハ針ニシテ草ハ即チ薤ナリ。男モ之ニ習ヒテ薤ヲ食ヒテ針ヲ出シ雀ノ恩ヲ謝シテ神ニ祀ルトアリ〔東國旅行談〕。【無名異】佐渡ノ島ニハ無名異(ムミヤウイ)ト云フ一種ノ鑛物ヲ出ス。今日ハ茶碗ヤ盃ヲ燒ク原料ナレド、本來ハ血止ノ妙藥ナリ。【雉】始メテ其ノ效能ヲ知リタルハ、或時網ノ爲ニ足ヲ損ジタル一羽ノ雉、小石ヲ以テ傷所ヲ摩擦シ程無ク飛去ルヲ見テ、其ノ石ノ外科ノ治療ニ用立ツヲ知リ得タルナリト云フ。此ノ話ハ支那ノ書ニモ之ヲ揭ゲタレド〔本草綱目〕、【佐渡島】佐渡ニテハ此ヲ彼島ノ出來事ナリト傳フ。此ノ島ニハ黃金ヲ産スル故ニ金ノ隣ノ土マデモ何ト無ク價値ヲ認メラルルニ至リシナラン。雉ハ桃太郞以來ヨク色々ノ援助ヲ與ヘタリ。或人獵ニ出デ如何ニ狙ヒテモ鐵砲ノ中ラヌ雉ヲ見ル。不思議ニ思ヒテ網ヲ以テ之ヲ生捕リ、翼ノ下ヲ檢スレバ小サキ紙アリ。1抬2(シヤクコウシヤクカク)ノ四字ヲ書ス[やぶちゃん注:「1」=「扌」+{(つくり)(上)「合」+(下)「辛」}。「2」-「扌」+{(つくり)(上)「巳」+(下)「力」}]。即チ仙人道士ノ祕傳タル護身ノ符字(フジ)ナリ〔難波江六〕。鐵砲ノ玉ヲ除ケテ網ノ厄ヲ免レシムルコト能ハザリシ矛盾ハ、自分ノ明シ得ザル點ナレド、兎ニ角ニ是ガ百年前ノ稀有ノ出來事ニハ非ズシテ、現ニ日露戰爭ノ際ニモ、右ノ雉ノ守札ヲ身ニ帶ビテ出陣セシ勇士多カリシコトハ事實ナリ。

 

《訓読》

非類靈藥を知る  鹿・狐の徒(と)[やぶちゃん注:輩(やから)。]が、山中に於いて手療治(てりやうじ)[やぶちゃん注:(医者にかからずに)自分で治療すること。]を試み居たりと云ふ口碑は、もと、靈泉の奇特(きどく)が天然に具備する者にして、自(みづか)ら無知の鳥獸を感應せしむるに足(た)り、世の常の醫藥のごとく、人間の智巧(ちかう)[やぶちゃん注:物事を成す才知に優れていること。]を以つて作り上げたる者に非ざることを意味し、素朴單純なる前代の人をして容易に其の有難味を悟らしむることを得。始めて此の噂を立てたる人、若(も)し有りとすれば、物の分つた人なり。いづれ、御寺の和尚か何かにて、かの行基菩薩・弘法大師・性空(しやうくう)上人なども、日本國の隅々までも、引つ張りまはし、終(るゐ)に之れを世界に稀れなる大旅行家としたる人々の所業なるかも知れず。但し、人間が非類[やぶちゃん注:人間以外の禽獣などを指す。]の物より、生活方法の一部を模倣したり、と云ふ話は外にもあり。獨り、「鷺の湯」・「鹿の湯」等の由來記に限りしことには非ず、昔の日本人には耳馴れたる物語なりしなり。【淺瀨】例へば下總の「鴻の臺(こうのだい)」は、曾つて、小田原北條の軍勢、攻め寄せし時、搦手(からめて)の備(そなへ)薄き處を突かんと欲して、川の瀨を知るに、苦しむ。時に中流に鴻(こう)の立つを見て、漸(やうや)く渡ることを待たるが故に、此の地名は起りしにて、之れを「國府臺(こふのだい)」とするは誤リナリト云ふアリ〔「十方庵道産雜記」初篇上〕。【薤(にら)】鷺に就きても古くより一(ひとつ)の話を傳ふ。丹波國に住む者、靑鷺を射る。後に、家の薤(にら)畠を、來て荒す者、あり。暗中にこれを射止むれば前に遁げたる鷺なり。薤の葉、其の傷の矢の板に卷き附きて、あり。矢創(やきず)を癒やさんが爲に薤を摘みしを知り、之れを憫(あはれ)みて、佛門に入る云々〔「三國傳記」〕。薤の金創(きんさう)に效あることは兎に角、動物より教へられたりと見ゆ。【雀】下野(しもつけ)雀宮(すゞめのみや)の由來に、曾つて針を包みたる饅頭(まんじう)を人に欺(あざむ)かれて丸吞(まるのみ)にし、大いに苦しみ居たる男、庭前の雀が、草を口にして、弱りたる友雀(ともすゞめ)に食はすを見る。やがて、其の雀、尻より光れる物を出(いだ)し、元氣、快復す。光る物は針にして、草は、卽ち、薤なり。男も之れに習ひて、薤を食ひて、針を出(いだ)し、雀の恩を謝して神に祀る、とあり〔「東國旅行談」〕。【無名異】佐渡の島には「無名異(むみやうい)」と云ふ一種の鑛物を出(いだ)す。今日は茶碗や盃を燒く原料なれど、本來は血止(ちどめ)の妙藥なり。【雉】始めて其の效能を知りたるは、或る時、網の爲に足を損じたる一羽の雉、小石を以つて傷所(きずどころ)を摩擦し、程無く飛び去るを見て、其の石の外科の治療の用立(ようだ)つを知り得たるなりと云ふ。此の話は支那の書にも之れを揭(かか)げたれど〔「本草綱目」〕、【佐渡島】佐渡にては此れを彼(か)の島の出來事ナリト傳ふ。此の島には黃金を産する故に、金の隣の土までも、何と無く、價値を認めらるるに至りしならん。雉は桃太郞以來、よく、色々の援助を與へたり。或る人、獵に出で、如何に狙ひても、鐵砲の中らぬ雉を見る。不思議に思ひて網を以つて之れを生け捕り、翼の下を檢(けみ)スレバ小さき紙あり。「1抬2(しやくこうしやくかく)」の四字を書(しよ)す[やぶちゃん注:「1」=「扌」+{(つくり)(上)「合」+(下)「辛」}。「2」-「扌」+{(つくり)(上)「巳」+(下)「力」}]。卽ち、仙人道士の祕傳たる護身の符字(ふじ)なり〔「難波江」六〕。鐵砲の玉を除(よ)けて、網の厄(やく)を免(まぬか)れしむること能はざりし矛盾は、自分[やぶちゃん注:柳田國男。]の明し得ざる點なれど、兎に角に、是れが百年前の稀有(けう)の出來事には非ずして、現(げん)に日露戰爭の際にも、右の雉の守札(まもりふだ)を身に帶びて出陣せし勇士、多かりしことは事實なり。

[やぶちゃん注:「性空上人」(延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都生まれ。「書写上人」とも呼ばれる。三十六の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家、霧島山や筑前国脊振山で修行し、康保三(九六六)年に播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けている。天元三(九八〇)年(年)には蔵賀上人とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから、山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている(以上はウィキの「性空」に拠った)。

『下總の「鴻の臺(こうのだい)」』現在の千葉県市川市国府台(グーグル・マップ・データ)。戦国時代、国府台城があった。この城は扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明一〇(一四七八)年十二月に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤(よりたね)を助けて、下総国境根原(現在の千葉県柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まるものであるが(ウィキの「国府台城」に拠る)、古くは下総国国府が置かれていたと、ウィキの「国府台(市川市)」にはある。そうなると、この「鴻の台」説は分が悪い。なお、国府台城址は現在、「里見公園」となっている。

「小田原北條の軍勢、攻め寄せし時」戦国時代、小田原北条氏と、里見氏を始めとする房総諸将との間で戦われた「国府台合戦」(天文七(一五三八)年の第一次合戦と、永禄六(一五六三)年と翌七年の第二次合戦に分けられる)の戦場で、第一次のそれは、江戸川沿いにあった国府台城に天文七年十月に足利義明(第二代古河公方足利政氏の子)が里見義堯(よしたか)・真里谷信応(まりやつのぶまさ)らの軍兵一万を従えてに入り、対する北条氏綱も嫡男氏康や、弟の長綱ら、二万の軍兵を率いて、江戸城に入って、十月七日、緖戦が開始されたが、足利義明は戦死し、里見義堯は義明戦死の報を受けるや、一度も交戦することなく戦線を離脱、北条軍は真里谷信応を降伏させた上で、彼の異母兄信隆を真里谷氏当主とした。これによって勢力地図が一変して権力の「空白域」と化した上総国南部には、この戦いで殆んど無傷であった里見義堯が進出、真里谷氏の支配下にあった久留里城・大多喜城などを占領して房総半島の大半を手中に収めることになった。第二次は第一次合戦後に国府台は千葉氏重臣小金城主高城胤吉の所領になったが、千葉氏が北条氏の傘下に入ったため、同地も事実上、北条領となっていた。永禄六(一五六三)年になって北条氏康と武田信玄が、上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃した際、謙信の要請を受けた里見義堯が、嫡男義弘を救援に向かわせた際、この国府台で、これを阻止しようとする北条軍と衝突したとされる戦いを指す。結局、里見軍は上杉派の太田資正らの支援を受けて武蔵には入ったものの、松山城が陥落したため、両軍ともに撤退して終わった。その他詳しくは参考にしたウィキの「国府台合戦を見られたい。

「鴻(こう)」既出既注。これも私はヒシクイ(カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris。本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる)で採りたい。中型クラス(孰れも七十八センチメートルから一メートル程度)の彼ら雁(がん)が立っているから、浅瀬だと読む方がシークエンスとしては洒落れていると判断するからである。

「薤(にら)」「韮」「韭」とも書く。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum。種子は「韮子(きゅうし)」という生薬として腰痛・遺精・頻尿に使い、葉は「韮白(きゅうはく)」という生薬で強精・強壮作用がある、とウィキの「ニラ」にはあるが、外傷に効くとは、ない。

「靑鷺」私の好きな哲人、ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 蒼鷺(アオサギ)」を参照されたい。

「下野(しもつけ)雀宮(すゞめのみや)」現在の栃木県宇都宮市雀宮町(ちょう)にある雀宮神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「雀宮神社」によれば、『旧社格は郷社』。『歴史と趣のある神社として、地元民に敬愛されている。この地域を治めていた宇都宮氏の信仰は篤く、雀宮神社を、城を守る四神の内、南の『朱雀』と位置づけ、城主がしばしば遠乗りをしてお参りに来たと』伝え、『雀宮神社は皇族である御諸別王』(みもろわけのおう:「日本書紀」等に伝わる古代日本の皇族で、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと:崇神天皇皇子)の三世孫で彦狭島王(ひこさしまおう)の子)『を祭神としていることから』、正徳三(一七一三)年、『東山天皇から金文字で『雀宮』と書かれた勅額が掲げられていたため、日光社参をする将軍家をはじめとして、諸大名は下馬して参拝したと』もいう。『この神社の創建年代などについては不詳であるが、この神社の周辺の地名の由来ともなった神社であり、日光街道・日光東往還の雀宮宿が置かれた』。『伝承によれば、由緒は、平安時代に遡る。かつて台新田村雀宮宿と称しており』、長徳三(九九七)年に『創建されたと伝わる』。『一条天皇』『の御代、藤原実方が陸奥守(むつのかみ)に任ぜられ、陸奥国へと赴く途中、当地に滞在したのち、任国へと下ったという』。『実方の妻、綾女(あやめ)が、実方を慕って任国に向かおうとした。綾女姫が当地まで来たところ、重篤な病に伏せり、臨終の床で、次のように遺言したとされる』。『「われ、夫中将実方を陸奥国にまで尋ね参らせんとせしが、病のため、此処にて死す。われの持てるこの宝珠は、大日孁尊(だいにちれいそん=天照大神)と、素盞嗚命(すさのおのみこと)との盟約の折の宝珠な』る『が、藤原家に預け置かれり。藤原家の宝珠なれど、この地に止めさせ、産土神(うぶすながみ)と斎き祀り(いつきまつり)せば、当地は長く繁栄なるべし。」』と。『郷人等はその遺言を奉じて、その宝珠を土地の産土神として尊く祀ったという』。『その後、長徳三』(九九七)年九月十九日、『藤原実方がこの地を訪れて、神社を創建し、後に自身も合祀されたとも伝わる』。明治三五(一九〇二)年に記された「下野神社沿革誌」に『よると、雀宮神社と綾女神社は元来』、『それぞれに』、祭神 素戔嗚命 相殿一座藤原實方朝臣命(雀宮神社) 祭神宇賀御魂命(綾女神社)『とされている。境内社として祀られていた綾女神社は』、明治四二(一九〇九)年『五月、湯殿神社とともに雀宮神社に合祀された記録がある。現在』、『境内社として祀られている綾女稲荷神社と同一とは判然されないが、綾女姫の伝承から祀られたものとみられる』。『また、この地に伝えられる言説に、御諸別王(みもろわけのきみ)を祭神とする説がある』。『御諸別王が、東国を治めた際に、雀宮周辺を本拠地とされ』、「日本書紀」の『「早くより善政を得たり」とした記述があるとされている。そのため、後に人々から「鎮(しずめ)の宮」と尊称されたという。雀宮神社の祭神として祀られたという御諸別王を実質的な祖とした毛野氏一族は東国第一の豪族である。そうした関連性からであろうと思われるが、八幡太郎義家(源義家)が御諸別王を祭神として祀ったという』とある。小学館「日本国語大辞典」の「雀宮」を引くとに、(は上記の神社のある地名・宿駅)まさにここに書かれた逸話が、『伝説的昔話』として記されてある。『間男した妻に謀られて、男が針がはいった餠を食べさせられて苦しんでいると』、『やはり一羽の雀が苦しんでいる。別な雀が来て草を食わせると尻から針が出たのを見て、男は韮(にら)を食べると』、『針が出たので、雀を大明神にまつったという』とある。この雀と針の由来譚は後付けであろう。「鎮めの宮」の転訛の方がまだ信じられる。

「無名異(むみやうい)」佐渡で産する硫化鉄を多量に含んだ赤色の粘土。ウィキの「無名異焼によれば、この土は『止血のための漢方薬でもあった。また、佐渡金山採掘の際に出土したため、その副産物を陶土に利用して焼かれ』始めた。文政二(一八一九)年に『伊藤甚平が無名異を使って楽焼を焼いたのが始まりで、安政四(一八五九)年に『伊藤富太郎が本格化させた』のが、現在に「無名異焼(むみょういやき)」として伝承されてある。

「此の話は支那の書にも之れを揭(かか)げたれど〔「本草綱目」〕」「本草綱目」「金石之三」に「無名異」が載る。

   *

無名異【宋「開寶」。】

釋名時珍曰、無名異、瘦詞也。

集解志曰、無名異出大食國、生於于上、狀如黑石炭。番人以油煉鍊如石、嚼之如餳。頌曰、今廣州山石中及宜州南八里龍濟山中亦有之。黑褐色、大者如彈丸、小者如黑石子、采無時。曰、無名異形似石炭、味別。時珍曰、生川、廣深山中、而桂林極多、一包數百枚、小黑石子也、似蛇黃而色黑、近處山中亦時有之。用以煮蟹、殺腥氣、煎煉桐油、收水氣、塗剪剪燈、則燈自斷也。

氣味甘、平、無毒。頌曰、鹹、寒。伏硫黃。

主治金瘡折傷内損、止痛、生肌肉【「開寶」】。消腫毒癰疽、醋磨敷之【蘇頌】。收濕氣【時珍】。

發明時珍曰、按「雷炮炙論序」云、無名止楚、截指而似去甲毛。崔昉「外丹本草」云、無名異、陽石也。昔人見山雞被網損其足、去、銜一石摩其損處、遂愈而去。乃取其石理傷折、大效、人因傅之。

[やぶちゃん注:「附方」は略す。]

   *

太字下線は私が引いたが、「山雞」とは中国南部に棲息するキジ目キジ科コシアカキジ属 Lophura のことだ。まさにそのまんまではないか。これは民俗学上の平行進化ではあり得ないことだと思う。

「雉の守札」佐渡にはもう三度も行っているが、この話は知らない。今度行ったら、調べてみよう。]

ブログ・アクセス1180000突破記念 柳田國男 山島民譚集(河童駒引・馬蹄石) 原文・訓読・附オリジナル注始動 / 小序・再版序・「河童駒引」(1)



柳田國男 山島民譚集(河童駒引・馬蹄石)

 

[やぶちゃん注:本「山島(さんとう)民譚集」の初版は大正三(一九一四)年に甲寅(こういん)叢書刊行会から「甲寅叢書」第三冊として甲寅叢書刊行所から発行された日本の民譚(民話)資料集で、特に河童が馬を水中に引き込む話柄である河童駒引(かっぱこまびき)伝承と、馬の蹄(ひづめ)の跡があるとされる岩石に纏わる馬蹄石(ばていせき)伝承の二つを大きな柱としたものである。書名にある「山島」は、「魏志倭人伝」の中に出る本邦の記載、「倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑」(倭人は帯方[やぶちゃん注:帯方(たいほう)郡。二〇四年から三一三年の百九年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた郡名。]の東南、大海の中に在り。山㠀[やぶちゃん注:「山島」。]に依り、國邑(こくいう)を爲(な)す)という、日本の地形的立地形状を示す語で、イコール、「日本」の意で柳田國男は用いている。

 底本は同書の再版版である、正字正仮名の、昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)を国立国会図書館デジタルコレクションのこちら画像で、視認して用いたが、「ちくま文庫」版全集(擬古文のままの新字新仮名という気持ちの悪い代物)をOCRで読み込んだものを加工用に使用した。但し、本書は漢字カタカナ混じりの擬古文でかなり読み難い。柳田國男自身が後に掲げる「再版序」で『斯んな文章は當世には無論通じない』と断じ『筆者自らも是を限りにして』『この文體を』『罷めてしまつた』と言っているほどで、ルビのない漢字や熟語でも若い読者が読みを戸惑う箇所もしばしばあるように思う。

 そこで、まず、

原文を掲げ(《原文》と頭に附す)

て、

その後にカタカナをひらがなに直し、読みに含まれる送り仮名の一部を送ったり、句読点や記号をさらに挿入したり、変更したりし、さらに推定(「ちくま文庫」版を参考にした)で歴史的仮名遣で読みを増やしたものを《訓読》として配し

て、若い読者の便宜を図った。その場合、漢文訓読の規則に従い、助詞・助動詞相当の漢字はこれをひらがなに直すこととした(但し、太字の文中標題部ではそれを適応しなかった)。

 なお、本書は、上部に頭書き用の罫があり、その上に本文内容を示す小見出しがポイント落ちで示されてある。これをブログで再現することは不可能なので、その小見出しは本文注に目立つように、【 】で適切と思われる箇所に本文と同ポイントで挿入した。本文内のポイント落ち割注は底本に従い、〔 〕でやはり同ポイントで示した。踊り字「〱」は正字化した。

 さらに、その後や文中にオリジナルにストイックに注を附したが、今までのように手取足取りはしない(例えば書名注は私が聴いたことのない、全く知らないもの以外は原則として附さないこととする)。特に、以下に示す「再版序」の最後の方で、柳田國男が『地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い』と心配している、河童及び馬蹄石関連の本文中の旧地名の所在地については、旧地名でも判然と判る場所は注しないが、私自身が全く分からない、しかも気になる旧地名は柳田國男の思いを受けて、探索して注しておきたいと考えている。そこで最後に彼は『假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない』と述べている地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない』と述べている。さても柳田先生、八十七年後の今、遅ればせながら、不肖私が、その暴虎馮河を致さんとせんとしております。お許しあれ。だらだらとした文章でなかなか切れないが、なるべくソリッドな形で分割公開する。

 なお、本電子化は、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨日、2019年1月11日午後3時半に1180000アクセスを突破した記念として始動するものである。今回公開する分だけで、実働九時間を要した。また、永い戦いとなりそうだ。【2019年1月12日 藪野直史】]

 

 

  山島民譚集

 

 

《原文》


    小 序

 

橫ヤマノ 峯ノタヲリニ

フル里ノ 野邊トホ白ク 行ク方モ 遙々見ユル

ヨコ山ノ ミチノ

一坪ノ  淸キ芝生ヲ  行人(ギヤウニン)ハ  串サシ行キヌ

永キ代ニ コヽニ塚アレ

イニシヘノ神 ヨリマシ 里ビトノ ユキヽノ栞

トコナメノユル勿レト カツ祈リ 占メテ往キツル

此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏

ネモゴロニ我勸進(クワンジン)ス

旅ビトヨ 石積ミソヘヨ コレノ石塚

 

《訓読》

 

    小 序

 

橫やまの 峯のたをりに

ふる里の 野邊とほ白(じろ)く 行く方(かた)も 遙々見ゆる

よこ山の みちの(と)に

一坪の  淸き芝生(しばふ)を  行人(ぎやうにん)は  串さし行きぬ

永き代に こゝに塚あれ

いにしへの神 よりまし 里びとの ゆきゝの栞(しほり)

とこなめのゆる勿(なか)れと かつ祈り 占(し)めて往きつる

此ふみは その塚どころ 我はその 旅の山伏(やまぶし)

ねもごろに我(われ)勸進(くわんじん)す

旅びとよ 石積みそへよ これの石塚

 

[やぶちゃん注:柳田國男にして珍しくロマン主義的文学的序である。

「橫やま」「よこ山」起伏が少ないが、横にずっと連なっている山々。

「たをり」「撓り」で、山の稜線の窪んで低くなっている鞍部のこと。ここは往々にして複数の方向や部落への辻を形成し、そこは異界との通路であり、塞ノ神や道祖神といった石神が祀られた。

「ふる里」「古里」。故郷。但し、以下の「行く方」を考えれば、「經る里」(行き過ぐる田舎)の意も掛けていよう。

「とほ白(じろ)く」「遠白く」。ぼんやりと白く霞んではっきり見えないさま。

(と)」両側の山の迫った狭い、二つの広い地域(異界)を繫ぐ門のように感じられる場所。前の「たをり」の地勢をその場に立って別に表現したものと採ってよい。

「行人」そこを行く人や旅の人。

「串さし」これは恐らく「櫛占(くしうら)」などと酷似した辻占(つじうら)の一種であろうと思われる。後世には、女や子どもが遊び半分に行なった占いの一つとなったもので、後世のそれは、黄楊(つげ)の櫛を持って、異界からの霊気が滞留する辻に立ち(故に妖魔が跳梁する場所であると同時に、予言等の超自然の霊的な力が普通以上に作用する場でもある)、「逢ふ事を問ふや夕(ゆふ)げの占相(うらまさ)に黃楊(つげ)の小櫛(おぐし)も驗(しるし)見せなむ」(「黃楊(つげ)」は「告げ」を掛けた呪言)という古歌を三度唱え、結界を作って米を播(ま)き、櫛の歯を鳴らし、その境界内をたまたま通行した人の口にした言葉を聞いて吉凶を占った。これは恐らく非常に古くからあったれっきとした大人たちの詞占(ことうら)の一種の変形である。「串さし」は正に「神聖な櫛の歯を折って地面に刺す」のであって、邪気の侵入を防いで、正しい結界形成をし、正確な「告げ」を得るためのボーダー設定行為を言っているのかも知れない。

「永き代に こゝに塚あれ」後の「ゆる勿(なか)れ」と対構造を成すから、「未来永劫に渡ってここに神聖な塚として、あれかし!」と一応は採れる。しかし「こゝに塚あれ」は、「今は埋もれてしまってないように見えるけれども、ここには確かにそうした神聖な塚があったし、今も地の中にある!」という謂いの強調形、或いは命令形であると同時に、「已に過去に於いてより在(あ)ったのだ!」という、已然形の本来の意味をも示すものかも知れない。

「よりまし」「依り座し」。動詞。神霊が依り宿り。

「ゆきゝの栞(しほり)」道途の道標(みちしるべ)。この「行き來」は未知の危険を孕んだ旅路と同時に、同様な「人生行路」の意でもある。

「とこなめの」「とこなめ」(常滑)は「河床や谷道の岩などに水苔が附いて常に滑らかなこと」の意であるが、その「途絶えることなく続く」ことを言うか。しかしちょっとしっくりくる感じはしない。寧ろ、屋上屋であるが、「とこしなへに」(未来永劫に)「ゆる勿(なか)れ」の意と採りたくなる。これ、或いは「万葉集」巻第一「雑歌」の「吉野宮に幸(いでま)せる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」長歌(三十七番)の反歌(三十八番)、

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)のゆる事なくまたかへり見む

を元に「ゆる」を引き出すために配した、柳田國男の造った枕詞かも知れぬ。

「占(し)めて」占いを成して。

「此ふみ」まさに柳田國男の本書「山島民譚集」を指す。

「その塚どころ」その古来より辻占を成し、未来の安全を祈願したのと同じ民草のための習俗を封じた塚そのものなのである、というのである。

「我はその 旅の山伏(やまぶし)」柳田國男自身を民俗社会のそうした風俗を体現し「山島民譚集」という「塚」を設けた、名も無き、これもまた日本の特殊な宗教史を象徴する神仏(密教系)習合の修験道の山伏に擬えたのである。

「ねもごろに」「懇(ねもごろ)に」懇(ねんご)ろに。心を籠めて。熱心に。

「勸進(くわんじん)す」本来は仏教に限定された、仏道修行に励むことが功徳になるということを人に教え、仏道に入ることを勧めるという意であるが、神仏習合後は、広く寺社の堂塔や祠を造営したり、その修理のために必要な寄付を募ることを指すようになった。失われつつある民草の話を後世に伝える一里塚として「こ」「の石塚」の「山島民譚集」を勧進した、と柳田は宣言するのである。本書購入の利益(りやく)広告の宣伝っぽいニュアンスである。

「旅びと」「石積みそへよ」で、本書以降の次代の資料や研究を本書の購読たちに希望してコーダとする。]

 

 

 再 版 序

 山島民譚集を珍本と呼ぶことは、著者に於ても異存が無い。それは今から三十年も昔に、たつた五百部を印刷して知友同好に頒つたといふ以上に、この文章が又頗る變つて居るからである。斯んな文章は當世には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があったわけで無い。大げさな名を附けるならば苦悶時代、即ち俗に謂ふ雅文體が段々と行き詰まつて、今見る「である文」はまだ思ひ切つて出あるけない一つの過渡期に、何とかして腹一ぱいを書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色々の形を以て表示せられたので、言はばその數多い失敗した試みの一例なのである。無論誰一人この文體を採用した者は無いのみか、筆者自らも是を限りにして罷めてしまつたのだが今日となつては歷史的な興味が、他人で無いだけに自分には特に深い。何が暗々裡の感化を與へて、斯んな奇妙な文章を書かせたかといふことが、先づ第一に考へられるが、久しい昔になるのでもう是といふ心當りは無い。たゞほんの片端だけ、故南方熊楠氏の文に近いやうな處のあるのは、あの當時濶達無碍[やぶちゃん注:「かつたつむげ」。心が広くて物事に拘らず、思うままにのびのびとしているさま。「闊達無礙」とも書く。]の筆を揮つて居た此人の報告や論文を羨み又感じて讀んで居た名殘かとも思ふ。但し南方氏の文は、勿論是よりも遙かに自由で、且つさらさらと讀みやすく出來て居る。私の書いたものが變に理窟つぽく、又隅々[やぶちゃん注:「すみずみ」。]の小さな點に、注意を怠らなかつたといふことばかりを氣にして居るのは、多分は吏臭とでも名づくべきものだらう。今はさうとも言へまいが、あの頃はいはゆる御役所の文章が衰頽を極めて居た。讀まずに居られぬから人が讀むといふだけで味も鹽氣も無く又冗漫で措辭の誤りが多かつた。私たちは自身も刀筆の吏[やぶちゃん注:「たうひつのり」。「刀筆」は、古代中国で紙の発明以前に用いた竹簡に文字を記す筆及びその誤りを削り取るのに用いた小刀を指し、そこから転じて、筆・記録の意となった。ここはそうした記録を掌る小官吏。但し、当時の柳田國男は法制局参事官で宮内書記官と内閣書記官記録課長兼任しており、本書刊行の大正三(一九一四)年四月には貴族院書記官長に就任している。これを「小吏」とは逆立ちしても言わない。]でありながら、是が厭で厭でたまらなかつた。さうして事情の許す限り、努めて每日の氣持に近い、意見書や復命書を書かうとして居たのである。それは或程度まで成功したかも知れぬが、その應用にはおのづから限度がある。一たび職掌を越えて河童や馬蹄石の問題を取り扱はうとすると、日頃の練習が却つて惡い癖となつて、忽ちお里を顯はしてしまつたのは苦笑の他は無いのである。それからもう一つ、是も氣が咎めるから白狀して置くが、ちやうど此本を書いた頃、私は千代田文庫の番人[やぶちゃん注:「千代田文庫」は明治以降内閣によって保管されてきた古書・古文書のコレクションである「内閣文庫」のこと。現在は内閣府所管の独立行政法人「国立公文書館」に移管されて同館が所蔵している。先に示した内閣書記官記録課長がここで言う「番人」である。]をして居た。さうしていろいろの寫本類を、勝手に出し入れをして見ることが出來たのである。斯んなにまで澤山の記錄を引用しなくとも、もつと安々と話は出來たのであるが、それが驅け出しの學徒の悲しさであり、又實は内々の味噌でもあった。お蔭で河童論などは何だか重くるしく、且つ妙に齒切れの惡いものになつて居る。今から考へると決して利益だつたとは言へない。たゞそのために愈々世に遠く、珍本と呼ばるゝ條件を具へるようになつたことだけは、筆者の爲にも好い記念ではあつた。

 この書に揭げた二つの問題のうち、一方の水の神の童子が妖恠と落ちぶれるに至つた顚末だけは、あの後の三十年に相應に論究が進んで居る。最初自分がやゝ臆病に、假定を試みたことが幾分か確かめられ、これと關聯して又新たなる小發見もあつた。今少し具體的な結論を下しても、反對をする人はもうあるまいといふまでになつて居る。他の一方の馬の奇跡についても、別な解を下す人はまだ現はれず、しかも私が引用したのと同じ方向の證據資料が、永い間には次々と集積して、何れも倍以上の數に達して居る。一度はこの本を解きほぐして、書き改めて見ようとしたこともあつたが、其時間も無かつたのみならず、又その必要も無いやうな感がある。その上にこのやゝ奇を好んだ一卷の文は、日本民俗學の爲にもあとの港の燈の影のやうなものである。是をもう一度そつくりと本の形で、世に殘して奥ことも意味が有るかと思ふ。少し氣になるのは地名稱呼の改廢で、是を今日の行政區劃に引き當てておけば便利だらうと思つたが、もうその中にはわからなくなつて居るものも若干ある。やはり必要の生じた際に、利用者自らが個々の土地について、もう一度調べるより他はなからうと思ふ。古い書物に載錄せられたものは言ふに及ばず、自分が直接に見たり聞いたりした事實でも、再び尋ねて見るともう誰も知つて居ないといふ場合は多い。假に多少の改訂增補をして見たところで、到底この一卷を現代の書とすることは出來ない。たゞ著者たる自分が後世人の中にまじつて、もう一度三十年後の新たなる批判を聽く機會を得たことを幸ひとするのみである。

   昭和十七年七月

             柳 田 國 男

 

 

      

 

 

  河   駒  

 

《原文》

【溫泉】鷺之湯鶴之湯鹿之湯貉之湯其ノ他  溫泉ハ我ガ邦ノ一名物ニシテ兼ネテ又多クノ傳説ノ源ナリ。溫泉ノ名ヲ呼ブニ、都會ノ人又ハ遠方ヨリ往ク人ハ、有馬ノ湯或ハ草津ノ湯ナドト所在町村ノ名ヲ以テスレドモ、諸國ノ溫泉ニハ大抵別ニ其ノ名前アリ。一ノ山村ニ二箇所以上ノ湯ガ湧クトキ、之ヲ一ノ湯二ノ湯ト謂ヒ元湯(モトユ)新湯(シンユ)ト名ヅケ若シクハ熱湯(アツユ)溫湯(ヌルユ)ナドト區別スルハ常ノ事ナレドモ、唯一箇所ノ湯ニテモ亦名前アリ。ソレガ又鷺之湯鹿之湯貉之湯(ムジナノユ)ナドト、動物ノ名ヲ用ヰシモノノミ多キハ、異國ノ旅人等ニハ定メテ奇妙ニ感ゼラルヽコトナルべシ。

 サテ何故ニ諸國ノ溫泉ニ鷺鶴鹿ノ類ヲ名乘ル者此ノ如ク多キカ。之ヲ土地ノ人ニ訊ヌルニ其ノ答モ亦略一樣ナリ。今其ノ二三ノ實例ヲ語ランカ、【白鷺】先ヅ東北ニハ陸奧下北郡川内村蠣崎ノ鷺之湯ハ、昔火箭(ヒヤ)ニ中ツテ脛碎ケタル白鷺アリテ此ノ泉ニ來タリ浴シ、日ヲ經ルマヽニ癒エテ飛ビ去リシガ故ニ斯ク名ヅク〔眞澄遊覽記六〕。【鸛】羽後仙北郡峯吉川村ノ鴻之湯ハ昔鴻ノ鳥角鷹(クマタカ)ト鬪ヒテ脛折レタルヲ此ノ溫泉ニ溫メテ之ヲ治セリ〔月之出羽路二〕。羽前西田川郡湯田川村湯田川ノ溫泉ハ和銅五年ニ始メテ湧出ス。手負(テヲヒ)ノ白鷺此ノ湯ニ浸リテ傷平癒シテ飛ビ去リシヨリ效驗ヲ知ルコトヲ得タリ。故ニ鷺之湯ト稱ス。【鶴】同郡溫海(アツミ)村溫海ノ溫泉ハ大同二年ニ白鶴來タツテ之ニ浴シ足ノ痛ミヲ癒シテ飛ビ去リシカバ之ヲ鶴之湯ト謂リ。今源助ト云フ者ノ家ノ後ニ此ノ湯アリ〔三郡雜記下〕。而シテ右ノ大同二年ト云フハ奧羽ノ傳説ニ於テ最モ有名ナル昔ナリ。【鳩】越前大野郡五箇(ゴカ)村上打波(カミウツナミ)鳩ケ瀨(ハトガセ)ノ鳩ト云フ冷泉ハ、每朝鳩ノ來タリ浴スルニ心附キテ之ヲ發見シ、【鹿】同郡小山(ヲヤマ)村深井場(フカヰバ)ノ炭酸冷泉ノ一ヲ古來鹿井之湯(シカノヰノユ)ト稱セシハ領主斯波義種(シバヨシタネ)獵ニ出デテ手負鹿ノ泉ニ浴スルヲ見出セシニ基クト云フ〔大野郡誌〕。但馬ノ城崎(キノサキ)ニモ鸛之湯(コウノユ)アリ。舒明天皇ノ御時ニ脚ヲ病メル鸛鳥(コウノトリ)常ニ此處ノ水ニ立ツヲ怪シミ、其ノ鳥飛ビ去ツテ後其ノ水ニ手ヲ入レテ見ルニ暖カキ靈湯ナリ云云ト語リ傳フ〔日本轉地療養誌〕。【蛇】武藏ニテモ多摩川ノ上流ナル小河内(ヲガウチ)ノ溫泉ハ同樣ノ理由ヲ以テ之ヲ蛇之湯ト名ヅク〔十方庵遊歷雜記初篇上〕。同ジ西多摩郡平井村字鹽澤(シホザハ)ニモ寶光寺ノ境内ニ鹿之湯ト云フ溫泉アリキ。寺ノ開山文濟禪師ガ天文六年ニ始メテ庵ヲ此ノ山ニ結ビシ頃、朝每ニ足ヲ傷ツケタル一鹿ノ庵ノ前ヲ往復スルヲ見ル。其ノ跡ヲ繋ゲバ麓ノ谷ニ溫泉ノ湧キ出ヅルアリ。【權現】即チ藥師佛ヲ安置スル外ニ、鹿湯權現(ロクタウゴンゲン)ヲ勸請シ來タツテ此ノ地ノ守護神トス〔新篇武藏風土記稿〕。【有馬】攝州有馬ノ湯ノ梶原ニ就テハ有馬大鑑ニ左ノ如キ説アリ。【蜘蛛】建久二年二月半、吉野ノ僧仁西(ニンサイ)熊野權現ノ御告ニ由リ此ノ地ニ來タリ、御神ノ教ニ任セ蜘蛛ノ引ク絲ヲシルベニ山ニ分ケ入リツヽ、古キ跡ヲ尋ネテ十二坊舍ヲ建ツ云云〔古名錄四〕。【三輪】此話ハ此ノ山ニ三輪明神ヲ祀リシコトヽ關係アルべシ。美作勝田郡湯之鄕(ユノガウ)村ノ鷺之湯モ、圓仁法師白鷺ニ由リテ溫湯ノ所在ヲ知ルト、元龜元年ノ藥師堂緣起ニ見ユ〔東作誌〕。【金掘】豐後北海部郡下北津留(シモキタツル)村藤河内(フジカワチ)村鷺來ケ迫(ロクガサコ)ノ炭酸泉ニモ文字ニ因ミテ同種ノアリ。昔此ノ山ニ金ヲ採ラントスル者、圖ラズ坑中ニ靈泉ノ迸リ出ヅルヲ見ル。時ニ脚ヲ傷メタル鷺來タリテ其ノ泉ニ浸リ忽チ疵癒エテ飛ビ去ル。依ツテ始メテ其ノ驗ヲ知リ且ツ其處ヲ鷺來ケ迫ト名ヅクルニ至レリ云云〔豐後溫泉誌〕。白鷺鹿ノ輩ハ古來皆靈物ナリ。溫泉ノ發見者ガ神主又ハ僧侶ナリシ場合ニ、必ズ其動物ガ土地ノ神佛ノ使者傳令ナリシコトヲ附加スルハ誠ニ當然ノ事ニシテ、是ダケノ偶合ナラバ未ダ怪シムニ足ラズトス。

 今日ノ溫泉ハ半ハ避暑地、遊覽地也。サホド病人デモ無キ者ガ所謂保養ノ爲ニ出掛ケテ行ク場處トナレリ。然シナガラ二三百年前迄ノ湯ノ宿ハ不自由ヲ極メタルモノナリキ。難儀ヲシテ山ノ中へ往ク昔ノ湯治客ハ決シテ今ノ紳士ノ如キ氣樂人ニ非ズ。殊ニハ戰爭頻繁ニシテ外科醫術ノ進步セザリシ時代ニハ、溫泉ハ言ハヾ天然ノ病院ナリ。亂世ハ戰場ニテ命ヲ殞ス者モ勿論今ヨリハ遙カニ多カリシナランガ、一旦助カリタル手負人モ傷養生ハ中々面倒ナリキ。【隱家】良醫ヲ求メテ其ノ治癒ヲ受クルヨリモ、先ヅ以テ五體ノ利カヌ間ハ敵ニ發見セラレヌ爲、靜カニ山中ニ隱レ居ルコトノ必要ナリシハ、全ク右ノ鷺鹿ノ類ト同ジ。若シ領分内ノ深山ナドニ右ノ如ク金創ニ效アル溫泉アレバ、ソレコソ誠ノ天ノ惠ナリシナリ。有馬草津ハ千年來ノ名湯ナレド、其靈驗ノ十分ニ發揮セラレテ終ニ日本ノ一名物トナリシハ、恐ラクハ亦後世鷺之湯鹿之湯等ノ傳ガ發生セシ時代、即チ略戰國ノ斬合時代以後ノ事ナルべシ。世ノ中太平ニ及ブト共ニ、箭ノ傷、刀ノ創ガ早ク平癒スルト云フノミニテハ廣告トナラヌ故ニ、是等ノ話モ少シヅツ變形シテ、鳥獸マデガ脚氣血ノ道「リウマチス」ヲ、苦ニシテ居タルガ如ク語リ傳ヘザレバ、折角ノ理窟ガ段々不明ニナリ行ク也。

《訓読》

【溫泉】鷺之湯・鶴之湯・鹿の湯・貉之湯・其の他  溫泉は我が邦の一名物にして、兼ねて又、多くの傳説の源(みなもと)なり。溫泉の名を呼ぶに、都會の人又は遠方より往く人は、「有馬の湯」或いは「草津の湯」などと、所在町村の名を以つてすれども、諸國の溫泉には、大抵、別に其の名前あり。一(ひとつ)の山村に二箇所以上の湯が湧くとき、之れを「一の湯」・「二の湯」と謂ひ、「元湯(もとゆ)」・「新湯(しんゆ)」と名づけ、若(も)しくは「熱湯(あつゆ)」・「溫湯(ぬるゆ)」などと區別するは常の事なれども、唯(ただ)一箇所の湯にても、亦、名前あり。それが又、「鷺(さぎ)の湯」・「鹿の湯」・「貉の湯(むじなのゆ)などと、動物の名を用ゐしもののみ多きは、異國の旅人等には定めて奇妙に感ぜらるゝことなるべし。

[やぶちゃん注:「鷺(さぎ)」鳥綱新顎上目ペリカン目サギ科 Ardeidae のサギ類の総称。イメージに登り易いのは「白鷺(しらさぎ)」であるが、これも種名ではく、上記のサギ類の内で羽毛が白色の種群を指す。詳しくは私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)」の私の冒頭注を参照されたい。

「鶴」ツル目ツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に別れる。同じく私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」を参照されたい。

「鹿」本邦ではこれで「しし」と読んで猪(哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ Sus scrofa)を意味することが有意に多いが、ここは狭義の「しか」、鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon でよい。本邦には、北海道固有亜種エゾシカ Cervus nippon yesoensis・本州固有亜種 Cervus nippon centralis・四国及び九州固有亜種キュウシュウジカ Cervus nippon nippon(江戸時代にヨーロッパで分類に使用された亜種として命名されてしまったために亜種名が「nippon」(基亜種)になってしまっている)・対馬固有亜種ツシマジカ Cervus nippon pulchellus・種子島の沖の馬毛島(まげしま)産で阿久根大島と臥蛇島に移入した日本固有亜種マゲシカ Cervus nippon mageshimae・屋久島固有亜種ヤクシカCervus nippon yakushimae・慶良間諸島固有亜種ケラマジカ Cervus nippon keramae の全七亜種が棲息する。

「貉(むじな)」は本邦では、狭義には主に哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma Temminck を指す語であるが、民俗社会ではニホンアナグマはイヌ亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides と有意に混同、一緒くたにされているので、両種と採ってよい(なお、これに食肉目ネコ亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata をも含める記載を散見するが、ハクビシンは近世・近代の外来種である可能性を排除出来ず、それらよりも時制的には溯るケースが多い民俗社会の存在を肯定し得ないので、私は民俗学的にはハクビシンを「貉」に含めるべきではない、含めない方が無難であると考えている。]

 さて、何故に諸國の溫泉に鷺・鶴・鹿の類(たぐひ)を名乘る者、此くのごとく多きか。之れを土地の人に訊ぬるに、其の答へも亦、略(ほぼ)一樣なり。今、其の二、三の實例を語らんか、【白鷺】先づ、東北には陸奧下北郡川内村蠣崎(かきざき)の「鷺の湯」は、昔、火箭(ひや)に中(あた)つて、脛(すね)、碎けたる白鷺ありて、此の泉に來たり浴し、日を經(ふ)るまゝに、癒えて飛び去りしが故に、斯(か)く名づく〔「眞澄遊覽記」六〕。【鸛(こふのとり)】羽後仙北郡峯吉川村の「鴻(こう)の湯」は、昔、鴻の鳥、角鷹(くまたか)と鬪ひて、脛、折れたるを、此の溫泉に溫めて、之れを治(なほ)せり〔「月之出羽路」二〕。羽前西田川郡湯田川村湯田川の溫泉は、和銅五年[やぶちゃん注:七一二年。]に始めて湧出す。手負(てをひ)の白鷺、此の湯に浸りて、傷、平癒して飛び去りしより、效驗(かうげん)を知うことを得たり。故に「鷺の湯」と稱す。【鶴】同郡溫海(あつみ)村溫海の溫泉は、大同二年[やぶちゃん注:八〇七年。]に、白鶴、來たつて、之れに浴し、足の痛みを癒(いや)して飛び去りしかば、之れを「鶴の湯」と謂へり。今、源助と云ふ者の家の後(うしろ)に、此の湯あり〔「三郡雜記」下〕。而して右の大同二年と云ふは、奧羽の傳説に於いて最も有名なる昔なり。【鳩】越前大野郡五箇(ごか)村上打波(かみうつなみ)字(あざ)鳩ケ瀨(はとがせ)の「鳩」と云ふ冷泉は、每朝、鳩の來たり浴するに心附きて、之れを發見し、【鹿】同郡小山(をやま)村深井場(ふかゐば)の炭酸冷泉の一(ひとつ)を、古來、「鹿井の湯(しかのゐのゆ)」と稱せしは、領主斯波義種(しばよしたね)、獵(かり)に出でて、手負鹿(てをひじか)の、泉に浴するを見出せしに基づくと云ふ〔「大野郡誌」〕。但馬の城崎(きのさき)にも「鸛の湯(こうのゆ)」あり。舒明天皇の御時[やぶちゃん注:在位は六二九年~六四一年。この時期、元号はない。]に脚を病める鸛鳥(こうのとり)、常に此處の水に立つを怪しみ、其の鳥、飛び去つて後、其の水に手を入れて見るに、暖かき靈湯なり云云(うんぬん)と語り傳ふ〔「日本轉地療養誌」〕。【蛇】武藏にても、多摩川の上流なる小河内(をがうち)の溫泉は同樣の理由を以つて之れを「蛇の湯」と名づく〔「十方庵遊歷雜記」初篇上〕。同じ西多摩郡平井村字鹽澤(しほざは)にも寶光寺の境内に「鹿の湯」と云ふ溫泉ありき。寺の開山文濟禪師が天文六年に始めて庵を此の山に結びし頃、朝每に足を傷つけたる一鹿(いちろく)の庵の前を往復するを見る。其の跡を繋(つな)げば、麓の谷の溫泉の湧き出するあり。【權現】即ち、藥師佛を安置する外に、鹿湯權現(ろくたうごんげん)を勸請し來たつて、此の地の守護神とす〔「新篇武藏風土記稿」〕。【有馬】攝州有馬の湯の梶原に就ては「有馬大鑑」に左のごとき説あり。【蜘蛛】建久二年[やぶちゃん注:一一九一年。]二月半(なかば)、吉野の僧仁西(にんさい)、熊野權現の御告に由り、此の地に來たり、御神の教(おしへ)に任せ、蜘蛛の引く絲をしるべに、山に分け入りつゝ、古き跡を尋ねて、十二坊舍を建つ云云〔「古名錄」四〕。【三輪】此の話は此の山に三輪明神を祀りしことゝ關係あるべし。美作勝田郡湯之鄕(ゆのがう)村の「鷺の湯」も、『圓仁(ゑんにん)法師、白鷺に由りて溫湯の所在を知る』と、元龜元年[やぶちゃん注:一五七〇年。]の「藥師堂緣起」に見ゆ〔「東作誌」〕。【金掘(きんほり)】豐後北海部郡下北津留(しもきたつる)村藤河内(ふじかわち)村鷺來ケ迫(ろくがさこ)の炭酸泉にも文字に因みて同種のあり。昔此の山に金(きん)を採らんとする者、圖らず、坑中に靈泉の迸(ほとばし)り出づるを見る。時に、脚を傷めたる鷺、來たりて、其の泉に浸り、忽ち、疵(きず)、癒えて、飛び去る。依つて始めて其の驗(しるし)を知り、且つ、其の處を「鷺來が迫(ろくがさこ)」と名づくるに至れり云云〔「豐後溫泉誌」〕。白鷺・鹿の輩(やから)は、古來、皆、靈物なり。溫泉の發見者が、神主又は僧侶なりし場合に、必ず、其の動物が土地の神佛の使者・傳令なりしことを附加するは、誠に當然の事にして、是だけの偶合ならば、未だ怪しむに足らずとす。

[やぶちゃん注:「陸奧下北郡川内村蠣崎(かきざき)」現在の青森県むつ市川内町蛎崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。ブログ「ライター斎藤博之の仕事」の二〇〇九年六月の「蠣崎(むつ市川内)~菅江真澄の歩いた下北」という記事によれば、ここの「鷺の湯」は現存する。「蠣崎(むつ市川内)」の記事によれば、江戸後期の旅行家で博物学者でもあった『菅江真澄』(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)『が蠣崎を訪れたのは』、寛政五年五月朔日(一七九三年六月四日)のことで、『下北半島に来る以前の数年間を「蝦夷が島」(北海道)で過ごしていた真澄は、松前領主の先祖にあたる蠣崎氏の城跡に触れ、こう書いている。「古城の址に木立ふりたるは、いつの頃にや、松前のおほんつかさの遠つみおやの、柵し給ひしところといへり」』(引用元を「奥の浦々」とされる。これが柳田が「眞澄遊覽記」と記すものである)。『この城に蠣崎蔵人信純という武将がいた。安藤氏の水軍を後ろ盾に、南部氏の本家である八戸根城の政経に戦を挑む。安藤水軍と北方民族・それに天台修験を味方に付けて、かなりの勢力となった。しかし、陣営の中に南部氏を手引きする者がいて、奥戸(大間町)から上陸した南部方に背後を突かれ、安藤氏の拠点があった渡島半島の上ノ国に逃れたと云う。南部側の資料に従えば』、康正二(一四五六)年の『ことである。のちに、上ノ国花沢城の蠣崎季繁は下ノ国家政の娘を養女とし、武田信広を婿に迎えた。その子孫が松前領主となった。松前領主の祖先は、下北半島の蠣崎氏なのであった』。『「蠣崎の里を過なんとすれば行人の云、ここに鷺の湯といふよき湯あり。むかし火矢にあたりて、はぎのくだかれたる鷺の、湯に入って日をふれるまま、いゑてとび去ぬ。さりければしか名づけて、身をうちたる人に、わきてめぐりよしなどいへり」。鷺の湯は、蠣崎の集落から北へ外れたところにある。いまは湯は温(ぬる)くなったが、眼に効くと言い、湧き出る丘の上に薬師を祀って、むらびとが護(まも)っている』とある。また、小堀光夫氏の論文「伝説研究と菅江真澄―柳田國男『山島民譚集(一)をめぐって―」PDF)には、柳田が元にした菅江の原典が示されている

「火箭(ひや)」敵方の建築物に遠距離から火を放つために放つ矢。現代の焼夷弾に相当する。既にして戦闘が日常的に行われていたロケーションを柳田が出していることに注意。「鸛(こふのとり)」「鴻(こう)の湯」「鸛(こふのとり)」と「鴻(こう)」では漢字も異なり、歴史的仮名遣もかく違うだけでなく、実は生物学的には別種を指すので柳田の頭書き【鸛】は実はよろしくない。「鴻(こう)の湯」は「鴻(こう)」である以上、まず第一にこれは「大型の水鳥」を指す漢語で、本邦の代表種はオオハクチョウ(カモ目カモ亜目カモ科 Anserinae 亜科オオハクチョウCygnus cygnus である(私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」も参照されたい)。次に「鴻(こう)」はもっと小型のガンの仲間であるヒシクイ(カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis serrirostris本邦に渡り鳥として南下してくるのは他に、オオヒシクイ Anser fabalis middendorffii がいる)の異名でもある(私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴻(ひしくひ)〔ヒシクイ・サカツラガン〕」を参照。寺島良安は「鴻」をヒシクイに同定していることが判る)。私は、オオハクチョウもいいが、ちょっとデカ過ぎてお湯につかっている画像がしっくりこない。全長七十八センチメートルから一メートル、翼開長で一・四二~一・七五メートルのヒシクイが丁度、いいだろう。さても、柳田は「鴻(コウ)」の音の類似性から「鸛(コフ)」=コウノトリをここに誤って当ててしまうというトンデモナイことを仕出かしてしまったのである。鸛はコウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana で、そもそもが日本では野生はまず見かけることはない。分布域は東アジアに限られ、中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することがあり、その時に稀に見かける程度であって、本邦の温泉にわざわざ湯治には、まず来ないだろう(絶対ないとは言えないが)。因みに、コウノトリは現在、総数で二千から三千羽と推定され、絶滅の危機にある種なのである。

「羽後仙北郡峯吉川村」現在の秋田県大仙市協和峰吉川峰吉川。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鴻の湯」の名では現認出来ない。

「角鷹(くまたか)」森林性猛禽類の一種である、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensisウィキの「クマタカ」によれば、『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と』二『通りの漢字表記事例がある。歴史的・文学上では双方が使われてきており、近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。なお、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。因みに、『近年』、『繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』とある。総論であるが、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」も参照されたい。

「月之出羽路」先に出た菅江真澄が出羽六郡を探勝した地誌の一書。「雪の出羽路」と図絵集「勝地臨毫」と合わせて、先に出た「菅江真澄遊覧記」と総称しているのである。本書は菅江の著作からの引用が有意に多い。

「羽前西田川郡湯田川村湯田川」山形県鶴岡市湯田川。ここ(グーグル・マップ・データ)。御覧通り、湯田川温泉として現存している。

「同郡溫海(あつみ)村溫海」現在の山形県鶴岡市湯温海甲附近(グーグル・マップ・データ)。「あつみ温泉」として現存。ウィキの「あつみ温泉」には、『開湯は約』千三百『年前とされ、役小角が発見したと伝えられる。但し』、『弘法大師による発見説や』、ここにあるように、『鶴が傷ついた脛を浸していたところを発見したなどの説もある。温海川の川底から湧出した温泉が、河口に流れ』、『日本海を温かくしていたことが温泉名の由来となっている』。『鎌倉時代後期には既に湯治場が形成されており、江戸時代には庄内藩の湯役所が設けられ、浴客を収容する宿屋が並び温泉地の情景を見せるようになった。湯治客が食材を買うための朝市は約』二百六十『年前から始まり、今日も続いている』とある。

「源助と云ふ者の家」同温泉の公式サイトで湯本を探してみたが、現認出来ない。

「大同二年と云ふは、奧羽の傳説に於いて最も有名なる昔なり」柳田國男はここにかく書いた時、「遠野物語」の一節を思い出していたに違いない。私の最近の仕儀である『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 二四~三〇 家・山中の異人』の冒頭二四で、『村々の舊家を大同と云ふは、大同元年に甲斐國より移り來たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村將軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本國なり。二つの傳を混じたるに非ざるか』で全く同じ言い回しを使っているからである。そちらの注も参照されたいが、但し、その詳細を読まれれば、柳田が「大同二年」に限定するのは実は的を射ていないことが判る

「越前大野郡五箇(ごか)村上打波(かみうつなみ)字(あざ)鳩ケ瀨(はとがせ)」現在の福井県大野市上打波(かみうちなみ)に「鳩ケ湯温泉」として一軒宿として現存する。同公式サイトによれば、『山鳩がここに湧き出る泉で傷を癒しているのを見た地元の農民は、この泉が温泉であることを知る。江戸時代には集落の公衆浴場になり、明治時代には温泉宿としてもスタート、大正時代には現在の位置に離れも作り人々を癒してきた。しかし昭和』三六(一九六一)年に『「北美濃地震」が発生、周辺の集落の人々は里に降り、結果』、『この宿だけが残った』。『この宿を明治時代より営んでいたのは森嶋家』で、五代目であった『宏さんはこの家族経営の後継者として若い時分から働いていた。秘湯ブームやトレッキングブームもあり、宿の名は口コミで広まっていた。が、平成』二五(二〇一三)『年、宏さんは山菜採りの最中、足を滑らせて不慮の死を遂げる』百『年続いた宿は突然閉鎖を余儀なくされたの』であったとあり、大雪による建物の崩壊から鳩ヶ湯温泉が復活するまでの記事を是非、読まれたい

「同郡小山(をやま)村深井場(ふかゐば)」現在の福井県大野市深井地区と思われる(グーグル・マップ・データ)。こちら(『浅井くんの趣味のページ』とあるが、さらに上位アドレスを探ると、税理士であられるようだ)の方がまさに『大野市深井地区』を訪れておられるが、目当てであった『深井鉱泉旅館は廃墟で』あったとあるので、炭酸冷泉の鉱泉場自体は現存しないようである。その下にその足で上記の「鳩ヶ湯温泉」を訪れて、写真を添えておられる。

「斯波義種(しばよしたね)」(正平七/文和元(一三五二)年~応永一五(一四〇八)年)は南北朝から室町時代の武将で守護大名。室町幕府管領斯波義将の弟。加賀・越前・若狭・信濃・山城の有力地の守護を歴任した。

『西多摩郡平井村字鹽澤(しほざは)にも寶光寺の境内に「鹿の湯」と云ふ溫泉ありき』現在の東京都西多摩郡日の出町平井にある、新しく建てた露座の「鹿野(ろくや)大仏」の名で称される、曹洞宗塩澤山(えんたくざん)寳光寺内に鉱泉跡が残る。同寺は文明一〇(一四七八)年に開山である以船文済(いせんもんさい)和尚がこの塩澤の地に来たって、もとあった天台宗の寺菩提院を改宗し、曹洞宗の寺院として寳光寺を建立したもので、「鹿の湯」もこの開山の和尚が発見したもので、その経緯は、『ある日、一頭の鹿がご開山様の草庵前を行き来していたそうです。その鹿をよく見ると、なんと足に怪我をしていました。鹿は次の日も、その次の日も同じように行き来を繰り返していたため』、『ご開山様は不思議に思って後をつけました。すると、鹿は草庵の北側の谷間に湧き出る泉で傷ついた足を癒していたというのです。暫くすると』、『鹿は怪我も治り』。『山へ消えていったそうです』。『ご開山様はこの泉を「鹿の湯」と命名し、怪我で苦しんでいる人のために草庵を建て、浴室を作ったそうです。そして、この評判が人から人へ伝わり、多くの人が来るようになりました』。『この「鹿の湯」は怪我や皮膚病によく効くとされ、明治のころまで大変繁盛し、多摩七湯の一つとしても有名だったそうです』とある。(ここまでは総て同寺の公式サイトに拠る遠近孝一氏のブログ「戦国ネット すきらじ」の『戦国武士も癒された幻の「鹿の湯」』が非常に優れており、必見(「鹿の湯」跡もヴァーチャルに見られる!)必読!

「藥師佛を安置」調べて見ると、寳光寺の本尊は聖観世音菩薩である。因みに、曹洞宗でこの本尊というのは異例で、普通は釈迦如来である。調べて見たところ、これは先に示した改宗前の天台宗だった頃の本尊を粗末には出来ないということで、そのままお祀りしているためであることが判った。さすれば、この薬師如来は何かと考えれば、これはその霊泉の湧き出たところに祀ったのが、病気平癒に親和性のある薬師如来であったということである。前の遠近孝一氏のブログの写真、にも小祠がある。そこに薬師仏と鹿湯権現が祀られているものと考えてよい(遠近氏曰く、『祠には「鹿の湯大権現」が祀られているそうです』とある。工事中のために中を覗くことは出来なかったのである)。

「權現」仏教では、仏が衆生を救うために神・人など仮の姿となってこの世に現れること及びその現れた化身を指し、「権化」とも言うが、それよりも本邦では神仏習合による本地垂迹(ほんじすいじゃく)説での、仏(本地)が衆生を救うために日本の各種の神の姿となって仮にこの世に現れた(垂迹)とする考え方に及びその仮に化身した神を指す。ここでは鹿がまさに垂迹したそれなのである。

「有馬大鑑」生白堂行風撰の有馬の地誌・紀行「迎湯有馬名所鑑」か? 同書は目録題を「有馬大鑑迎湯抄」と称する。延寶六(一六七八)年大坂伊勢屋山右衛門刊で全五巻五冊。

「仁西(にんさい)」「有馬温泉」公式サイトのこちらによれば、『有馬温泉の守護神として名高い湯泉神社の縁起によれば、泉源を最初に発見したのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二柱の神であったと記されています。この二神が有馬を訪れた時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴していました、ところが数日でその傷が治っており、その水たまりが温泉であったと伝えられています』。『温泉のありかを教えてくれたこの三羽のカラスだけが有馬に住むことを許されたと伝えられており、「有馬の三羽からす」と呼ばれています』。『有馬温泉の存在が知られるようになったのは、第』三十四『代舒明天皇』(五九三年〜六四一年)、第三十六代『孝徳天皇』(五九六年〜六五四年)の『頃からで』、『両天皇の行幸がきっかけとなり』、『有馬の名は一躍有名になりました。日本書紀の「舒明記」には』、舒明三(六三一)年九月十九日から十二月十三日までの八十六日間にも亙って『舒明天皇が摂津の国有馬(原文は有間)温湯宮に立ち寄り』、『入浴を楽しんだという記述があり、それを裏付けています』。「釈日本紀」に『よると、孝徳天皇も同じく有馬の湯を愛され、大化の改新から』二年後の大化三(六四七)年十月十一日から『大晦日還幸までの』八十二日もの『間、左大臣(阿部倉梯麿)・右大臣(蘇我石川麿)をはじめとする要人達を多数おつれになり』、『滞在されたとの記述があります』。『「有馬温泉史話」によれば、舒明天皇・孝徳天皇の度重なる行幸により世間に名をしられるようになった有馬温泉ではありますが、その後』、『徐々に衰退に向かっていったといわれ』、『これを再興し』、『有馬温泉の基礎を開いたのが名僧行基で』、『行基は聖武天皇』(七〇一年〜七五六年)『の信任あつく、主に池を築き、溝を掘り、橋をかけ、お堂を築くことなどに力を発揮し』、『大きな業績を残した高僧といわれています』。『行基が大坂平野の北、伊丹の昆陽に大池(昆陽池)を掘っていたときのこと、一人の人に会いました。その人は「私は体の中に悪いはれ物ができて、数年来苦しんでおります、聞くところによりますと、有馬の山間には温泉があり、病気にはたいそう良いそうです。私をそこへなんとか連れて行ってくださいませんか。」と頭を地に付けて懇願しました。哀れに感じた行基はその人の望みを叶えるため、有馬に連れて行く途中、さらにあれこれと望みごとを頼むその人の願いをかなえてやると、不思議なことにその人は金色荘厳なみ仏の姿となり、有馬温泉を復興するようにと言って』、『紫雲に乗って東方へ飛び去ってしまいました』(これも垂迹)。『行基は感嘆のあまり、如法経を書写して泉底に埋め、等身大の薬師如来像を刻み、一宇の堂を建て、そこへ尊像を納めたといわれています。これは、行基の徳に感じた薬師如来が温泉を復興させ、有馬温泉発展の基礎を行基に築かしめることとなったとされております、事実、行基がここに堂を建立して以来、約』三百七十『年の間、有馬は相当な賑わいを見せたと伝えられています』。『平安時代に入ると、各種の文献にも散見されるようになり、多くの文人や天皇、また重臣たちも有馬を訪れたとされており、清少納言も枕草子のなかで「出湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともに湯」と書いております、つまり、当時すでに伊勢の榊原温泉とならんで有馬温泉が天下三大名湯の一つとして高い評価を受けていたわけです』。以下が「中興の仁西」のパート。『時代は流れて、承徳元』(一〇九七)『年、天災が有馬を襲いました。「温泉寺縁起」によると、「堀川天皇の承徳元年、有馬に洪水があって、人家を押し流し、温泉も壊滅した」とあります。諸説はありますが、この大洪水以後』、九十五『年間の有馬はほとんど壊滅状態のまま推移したものだと考えられています』。『荒廃しきっていた有馬を救ったのは、仁西(にんさい)という僧で、源平合戦で平家が滅亡した直後、吉野(奈良県)からやってきた仁西が有馬の再興を果たすこととなりました』。『仁西は大和の国・吉野にあった高原寺の住僧でありましたが、ある時』、『紀伊の国・熊野権現に詣でた折、夢のお告げをうけました、それは「摂州有馬の山間に温泉がある。近頃、はなはだしく荒廃しているにつき、行って再興せよ」というものでありました』。『仁西は謹んで受けましたが、有馬への道筋がわかりませんでした、そこで熊野権現に訪ねてみたところ、「庭の木の葉にくもがいる。その糸のひくところに従っていけ」とのことであり、翌朝目覚めて庭にでてみると、確かに夢のお告げ通りで、仁西はくもの糸に従い、有馬へと向かいました。しかし、中野村の二本松まで来たところで、くもの糸を見失い』、『途方にくれていると、突然』、『老人が現れ』、『仁西を山上まで案内し、一枚の木の葉を投げ』、『「この葉が落ちたところが霊地である」と教えてくれました』(これも垂迹)。『さっそくその教えに従い葉の落ちたところを探してみると、そこには行基が開いた温泉があったということです。そこで、里人を集め泉源をさらえ、承徳の洪水より』、『一世紀に及ぶときを経て』、『有馬温泉の復興に成功したのでありました』。『温泉の復活とともに、仁西は温泉寺を改修し』、十二の『宿坊を営みました。これは源頼朝が鎌倉幕府を開く』一『年前、すなわち建久』二(一一九一)年の『ことと伝えられています』。なお、十二『の宿坊の管理は仁西が吉野からつれてきた』、河上・余田氏らの平家の残党であったといわれております』。『現在、有馬において「坊」の文字がつく宿が多いのは、このときの流れをくむか、あるいはそれにあやかってつけられたものといわれております』とある。

「此の話は此の山に三輪明神を祀りしことゝ關係あるべし」現在の神戸市北区有馬町にある温泉神社には、「摂津國名所圖會」によれば、「湯山三所權現と稱す。祭神三座。中央熊野權現、左三輪明神、右鹿舌(かじた)明神なり。此神は郡内羽束(はつか)山香下(かした)明神にて、神躰は少彦名命(すくなびこなのみこと)なり。三座の中、三輪明神を當山の地主神とす」と記してある(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらの画像を判読した)。柳田が言っている関係するという部分は、活玉依毘売(いくたまよりひめ)のもとに、毎夜、美麗な男が夜這いに来、それから直ちに身籠った。不審に思った父母が彼女を質すと、「名も知らぬ立派な男が夜毎にやって来る」と告げ、父母は、その男の正体を知ろうと、糸巻きに巻いた麻糸を、針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針に附けた糸は、戸の鍵穴から抜け出ており、糸を辿ると、三輪山の社(やしろ)で続いていた。糸巻きには糸が三回り分だけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという三輪山伝承と糸が親和性があるからという意味であろうか。

「美作勝田郡湯之鄕(ゆのがう)村」現在の岡山県美作市湯郷(ゆのごう)(グーグル・マップ・データ)。湯郷温泉として現存。し、その中に「湯郷 鷺温泉館」というのもある。

「圓仁法師」(延暦一三(七九四)年~貞観六(八六四)年)は第三代天台座主。大師号は慈覚大師。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで、出自は壬生(みぶ)氏。十五才の時に最澄の弟子となり、入唐後、五台山・大興善寺などで学び、帰朝後、延暦寺三世座主に任ぜられ、天台宗山門派の祖となった。彼によって天台宗は著しく密教化したとされる。

「豐後北海部郡下北津留(しもきたつる)村藤河内(ふじかわち)村鷺來ケ迫(ろくがさこ)」現在の大分県臼杵市藤河内(ふじかわち)にある「六ヶ迫(ろくがさこ)温泉」(グーグル・マップ・データ)。「鷺来ヶ迫温泉 源泉 俵屋」公式サイトの「歴史」によれば、江戸の元文年間(一七三六年~一七四一年)に、『一羽の傷ついた白鷺が、山奥にある一つの泉(現在、俵屋の中にある白鷺泉)に、毎日毎日』、『傷を癒しに来ており、数日後』、『完治したといわれる。不思議に思った里人は、臼杵町の禅師にこの事を告げた。それを聞いて禅師は驚いた』。『数日前、夢枕に白鷺となった御山明神から「これより北方向二里の地に薬水あり、この薬水をもって広く病人を救うべし」とお導きを受けていたからだ。思いがけぬ『不思議な一致』を稲葉公にお伝えし長年の探索の末、ついに薬水を発見した』(これも垂迹)。『この白鷺の奇跡のことから地名を、鷺が来た谷(迫)ということで鷺来ヶ迫(ろくがさこ)という名になった』。「迫(さこ)」は山間(やまあい)の小さな谷を言い、岡山県以西の中国地方と九州地方に多く見られる。同様の語として千葉県などでは「さく」がある。また「狭間(はざま)」も同様の意味で使用される地形語でもある。このような小さな谷に開かれた田が「迫田(さこた)」であり、「俚言集覧」に『美作(みまさか)にて山の尾と尾との間を「さこ」と云ふ。其處に小水ありて田有るを「さこ田」と云ふ』とある。迫田は谷田・棚田と同様に一枚一枚の耕地は零細であり、労働力の投入量に比して収穫量は決して多いものではなかった(ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「炭酸泉」同前サイトに『含炭酸ナトリウム・カルシウム炭酸水素塩・塩化物泉』とあり、さらにこの鷺来ヶ迫温泉の源泉である「俵屋旅館」は「白鷺泉」の名を持っているから、この伝承の本家本元ということになる。

「其の動物が土地の神佛の使者・傳令なりしこと」「古事記」の倭建命(やまとたけるのみこと)に致命傷を与えることとなる伊吹山の神は彼の前に牛ぐらいの大きさの白い大猪(倭建命はこれをただの使者と誤認して、言挙げしてしまう)が神の正身(しょうしん)であったように、もともとは使者や伝令などではなく、神そのものの垂迹した化身なのである。それはここまでの垂迹ケースを見れば、一目瞭然である。後代に至るに従い、神が獣に成るのは不遜という下らぬ考えが侵入したものと私は思っている。]

 今日の溫泉は半(なかば)は避暑地、遊覽地なり。さほど病人でも無き者が、所謂、保養の爲に出掛けて行く場處となれり。然しながら、二、三百年前までの湯の宿は不自由を極めたるものなりき。難儀をして山の中へ往く昔の湯治客は、決して今の紳士のごとき氣樂人に非ず。殊には、戰爭、頻繁にして外科醫術の進步せざりし時代には[やぶちゃん注:室町末期から戦国・安土桃山時代を想定していよう。]、溫泉は言はゞ「天然の病院」なり。亂世ハ戰場にて命を殞(おと)す者も、勿論、今よりは遙かに多かりしならんが、一旦、助かりたる手負人も傷養生は、中々、面倒なりき。【隱家(かくれが)】良醫を求めて其の治癒を受くるよりも、先づ以て、五體の利(き)かぬ間は敵に發見せられぬ爲(ため)、靜かに山中に隱れ居(を)ることの必要なりしは、全く右の鷺・鹿の類と同じ。若(も)し、領分内の深山などに右のごとく金創(きんさう)[やぶちゃん注:刃物による切り傷。]に效ある溫泉あれば、それこそ誠の天の惠(めぐみ)なりしなり。有馬草津は千年來の名湯なれど、其の靈驗(れいげん)の十分に發揮せられて、終(つゐ)に日本の一名物となりしは、、恐らくは亦、後世、「鷺の湯」・「鹿の湯」等の傳が發生せし時代、即ち、略(ほぼ)戰國の斬合(きりあひ)時代以後の事なるべし。世の中、太平に及ぶと共に、箭(や)の傷、刀の創(きず)が早く平癒すると云ふのみにては、廣告とならぬ故に、是等の話も少しづつ變形して、鳥獸までが脚氣・血の道・「リウマチス」を、苦にして居(ゐ)たるがごとく語り傳ヘざれば、折角の理窟が、段々、不明になり行くなり。

[やぶちゃん注:「血の道」月経、則ち、婦人の血に関係のある病態を総合したもので、月経時・月経前・月経後・妊娠時・分娩後(産褥(さんじょく)時)・流産後・妊娠中絶後・避妊手術後・「更年期の血の道症」に分けられる。症状としては、のぼせ・顔面紅潮・身体の灼熱感・冷え・眩暈(めまい)・耳鳴り・肩こり・頭痛・動悸・発汗・興奮・不眠・月経不順・不正出血・肝斑(かんはん・かんぱん:両頬骨に沿って左右対称にほぼ同じ形・大きさで出現するシミ。比較的広い範囲で、輪郭がはっきりしないもやっとした形で広がる。額や口の周辺にも出現するものの、目に近い周囲には発生しない)・痺れ・脱力感などがあり、更年期障害類似の自律神経失調症と言える(主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「リウマチス」関節痛や関節変形を生じる関節リウマチ(Rheumatoid ArthritisRA)のことであろう。病因は現在でも判然とはしていないが、概ね自己の免疫システムが誤認を起こし、主に手足の関節を侵すところの炎症性自己免疫疾患で、遺伝的素因も疑われる代表的な膠原病の一つである。しばしば血管・心臓・肺・皮膚・筋肉といった全身臓器にも障害が及ぶ(以上はウィキの「関節リウマチ」に拠る)。]

2019/01/11

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 題のない歌

 

  題のない歌

 

南洋の日にやけた裸か女のやうに

夏草の茂つてゐる波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた

ふはふはとした雲が白くたちのぼつて

船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。

わたしは鶉のやうに羽ばたきながら

さうして丈(たけ)の高い野茨の上を飛びまはつた

ああ 雲よ 船よ どこに彼女は航海の碇をすてたか

ふしぎな情熱になやみながら

わたしは沈默の墓地をたづねあるいた

それはこの草叢(くさむら)の風に吹かれてゐる

しづかに 錆びついた 戀愛鳥の木乃伊(みいら)であつた。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出・「定本靑猫」に有意な異同を認めない。「錆」(さ)「びついた」「戀愛鳥の木乃伊(みいら)」は絶妙の詩語である!

「鶉」「うづら」。キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonicaウズラは叢の中にいて、飛ばない或いは飛ぶのが苦手であると思い込んでいる方が私は多いと思うので、一言、言っておくと、彼らはしっかりちゃんと飛ぶ。それより何より、ウズラはキジ科 Phasianidae の中で唯一、渡りを行う「渡り鳥」なのである。ウィキの「ウズラによれば、本邦(主に本州中部以北)・モンゴル・朝鮮半島・シベリア南部・中国『北東部などで繁殖し、冬季になると日本(本州中部以南)、中華人民共和国南部、東南アジアなどへ南下し』、『越冬する』。『日本国内の標識調査の例では北海道・青森県で繁殖した個体は主に関東地方・東海地方・紀伊半島・四国などの太平洋岸で越冬し、九州で越冬する個体は主に朝鮮半島で繁殖した個体とされる(朝鮮半島で繁殖して四国・山陽地方・東海地方へ飛来する個体もいる)』とある。

「野茨」「のいばら」。私の好きな、バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ Rosa multiflora

「彼女」フロイトを出す以前に、船は女性名を附すことはご存じの通り。

「碇」「いかり」。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしい山

 

  恐ろしい山

 

恐ろしい山の相貌(すがた)をみた

まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる

おほきな蜘蛛のやうな眼(め)である。

赤くちろちろと舌をだして

うみざりがにのやうに平つくばつてる。

手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ𢌞つた

さびしくおそろしい闇夜である

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。自然はひつそりと息をひそめ

しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。

すぐ近いところにそびえ

怪異な相貌(すがた)が食はうとする。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年五月号『日本詩人』初出。初出や「定本靑猫」は有意な異同を認めないが、またしても筑摩書房版全集は強制消毒校訂を行っている。即ち、

   *

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いて[やぶちゃん注:底本はここで行末。]る。自然はひつそりと息をひそめ

   *

であるのを、

   *

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。

自然はひつそりと息をひそめ

   *

としているのである。初出は確かに改行しているし、ここはまず、句点があるから、改行という判断であろうが(事実、こういう表現を萩原朔太郎がすることは、まず普通はないとは言える)、しかし、原稿を確認しているわけでもないのに、初版の校訂本文をかくいじくるのは、私は、やっぱりおかしいと思う。

 この山は浅間山ではないかと推測する。大正一〇(一九二一)年及び翌年に小規模噴火の記録があり(月は不明)、朔太郎はこの大正十年の七月下旬に室生犀星に招かれて軽井沢に遊んでいる。

うみざりがに」節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目ザリガニ下目アカザエビ科アカザエビ亜科ロブスター(ウミザリガニ)属 Homarus のロブスター(Lobster)類の和名である。この時代に朔太郎が生きたロブスターを見たり、食べたり出来た可能性はすこぶる低いと思われるが、フランス料理の著名な食材として、また、西洋絵画の図版等でその存在をハイカラな彼はよく知っていたのであろう。

「平つくばつてる」「へいつくばつてる(へいつくばってる)」。平たく這いつくばっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) みじめな街燈

 

 

  さびしい靑猫

 

 

[やぶちゃん注:パート標題(左ページ)。その裏の右ページに以下の献辞。そのポイントは本文と同じである。]

 

ここには一疋の靑猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。

 

 

 

  みじめな街燈

 

雨のひどくふつてる中で

道路の街燈はびしよびしよぬれ

やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる

はうはうぼうぼうとした烟霧の中を

あるひとの運命は白くさまよふ

そのひとは大外套に身をくるんで

まづしく みすぼらしい鳶(とんび)のやうだ

とある建築の窓に生えて

風雨にふるへる ずつくりぬれた靑樹をながめる

その靑樹の葉つぱがかれを手招き

かなしい雨の景色の中で

厭やらしく 靈魂(たましひ)のぞつとするものを感じさせた。

さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。

影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出であるが、初出での標題は「雨の中を彷惶する」(「惶」はママ。「徨」の誤植か朔太郎の誤字であろう)であるが、詩篇本文には有意な異同はない。「定本靑猫」では「道路の街燈はびしよびしよぬれ」が「道路の街燈はびしよびしよにぬれ」が目立つが、私は説明的な後者は本篇最終行の「に」で沢山であって、支持しない。

「はうはうぼうぼう」困った表現である。まず、後半の「ぼうぼう」は「烟霧」の形容としては、「果てしなく広がっているさま」或いは「ぼんやりしてはっきりしないさま」の意の「茫茫」でよかろうが、この「ぼうぼう」の歴史的仮名遣は「ばうばう」で誤りということになる。しかし、強制消毒校訂をするはずの筑摩書房校訂本文は「ぼうぼう」のままである。不審である。さても、前の「はうはう」は私は「対象が多いさま」甚だ盛んなさま」を言う「彭彭」以外にはないと考える。これは「ほうほう」で、歴史的仮名遣は正しく「はうはう」となるから、よい(霧の中だから「這うように歩くさま。やっとのことで歩くさま」の意の副詞「這ふ這ふ」(歴史的仮名遣「はふはふ」・現代仮名遣「ほうほう」)という御仁もあろうが、それでは係りがせっかく改行した次行に渡ってしまうし、私には、それでは謂いが漫画のようで糞表現だと思う。「はうはう」と「ぼうぼう」は孰れも「とした」に続く形容動詞の語幹である)。異義のある方は、御教授を乞うものである。

「靑樹」「あをき」「せいじゆ」孰れにも読めるが、その樹木のあるのが「とある建築の窓」であり、「風雨にふるへる」ほどのものでしかないのであってみれば、これは高い樹木ではあり得ず、鉢植えの中低木でなくてはおかしい。さすれば、これは常緑で枝も青い低木の、ガリア目ガリア科アオキ(青木)属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica ではないかと思われ、さすれば、ここは「あをき(あおき)」で読むべきかと思う。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 鷄

 

  

 

しののめきたるまへ

家家の戸の外で鳴いてゐるのは鷄(にはとり)です

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然からよびあげる母の聲です

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

朝のつめたい臥床(ふしど)の中で

私のたましひは羽ばたきをする

この雨戸の隙間からみれば

よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです

されどもしののめきたるまへ

私の臥床にしのびこむひとつの憂愁

けぶれる木木の梢をこえ

遠い田舍の自然からよびあげる鷄(とり)のこゑです

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

戀びとよ

戀びとよ

有明のつめたい障子のかげに

私はかぐ ほのかなる菊のにほひを

病みたる心靈のにほひのやうに

かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを

戀びとよ

戀びとよ。

 

しののめきたるまへ

私の心は墓場のかげをさまよひあるく

ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥

このうすい紅(べに)いろの空氣にはたへられない

戀びとよ

母上よ

早くきてともしびの光を消してよ

私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

[やぶちゃん注:正七(一九一八)年一月号『文章世界』初出。初出は総ルビであるが、この当時のこうした総ルビの作品は、概ね、編集者や校正者が勝手に附したものであって、それを以って云々することは厳に慎まれなければならない。例えば「大風」には初出は「おほかぜ」とルビするが、恐らくはそれが自身の読みと異なったが故にこそ、彼はここで「たいふう」と振った可能性が高い。初出には有意な相違を私は認めない。後の「定本靑猫」では「私のたましひは羽ばたきをする」を「私のたましひは羽ばたきする。」が朗読での大きな相違で、後者を私は支持するものである。ともかくも、この「とをてくう、とをるもう、とをるもう。」というオノマトペイアは格別に素晴らしい!

「地角」は「ちかく」(初出ルビもそうなってはいる)で、これには、「大地の隅(すみ)・遠く離れた土地の涯(はて)・僻遠の地」の他、「陸地の細く尖って海中に突出した所。岬。地嘴(ちし)」の意があるが、これはもう、全体の雰囲気から、前者以外にはない。

 本篇を以ってパート「憂鬱なる櫻」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 佛の見たる幻想の世界

 

Kohuunarukantai

 

[やぶちゃん注:前の「憂鬱の川邊」と本篇の間にある挿絵「古風ナル艦隊」。作者・引用元不詳。さても、先の「西洋之圖」とこの二枚を、萩原朔太郎は、詩篇とは全く無関係に挿絵を挿入していることは明らかである。私は総じて評論〈文学〉を総じて胡散臭いものと感ずる人間であるが、中でも詩人を評論するのは至難の技だと思うによって、たいして読んでもいないから何とも言えぬが、初版「靑猫」のこの二枚の挿絵は、何故、ここに挿入されているのか? という素朴な疑問に真っ向から分析を加えている論文はあるのだろうか? 寧ろそれは、文芸評論家のそれではなく、生活史に甚だ問題のある萩原朔太郎という詩人の病跡学的範疇に入るものという気が強くしている(私は『日本病跡学雑誌』を長らく購読し続け、その方面の心理学者や精神科医の著書ならば、ごまんと読ませて貰っている。但し、それらも残念ながら、八割方は『こんなもん、俺でも書ける』レベルのものであったことも事実ではある)。単なる西欧ハイカラ趣味嗜好なんぞで解釈出来る部類のものでは毛頭ない。そうした分野からの画期的な分析やアプローチが是非とも望まれるもののように思われてならない。

 

 

 

  佛の見たる幻想の世界

 

花やかな月夜である

しんめんたる常盤木の重なりあふところで

ひきさりまたよせかへす美しい浪をみるところで

かのなつかしい宗教の道はひらかれ

かのあやしげなる聖者の夢はむすばれる。

げにそのひとの心をながれるひとつの愛憐

そのひとの瞳孔(ひとみ)にうつる不死の幻想

あかるくてらされ

またさびしく消えさりゆく夢想の幸福とその怪しげなるかげかたち

ああ そのひとについて思ふことは

そのひとの見たる幻想の國をかんずることは

どんなにさびしい生活の日暮れを色づくことぞ

いま疲れてながく孤獨の椅子に眠るとき

わたしの家の窓にも月かげさし

月は花やかに空にのぼつてゐる。

 

佛よ

わたしは愛する おんみの見たる幻想の蓮の花瓣を

靑ざめたるいのちに咲ける病熱の花の香氣を

佛よ

あまりに花やかにして孤獨なる。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年一月号『文章世界』初出。初出は総ルビであるが、この当時のこうした総ルビの作品は、概ね、編集者や校正者が勝手に附したものであって、それを以って云々することは厳に慎まれなければならない。例えば「蓮」には「はちす」とあるが、朔太郎が「はす」ではなく「はちす」と詠んだかどうかは、私には断定出来ないということである(但し、個人的には「はちす」と読みたい私はいる)。初出も後の「定本靑猫」も有意な相違を私は認めない。

「しんめんたる」不詳。私はこんな形容動詞は知らぬ。どうも朔太郎の造語のようである。調べて見ると、筑摩版全集第三巻の「原稿散逸詩篇」の中の、小学館版の「萩原朔太郎全集遺稿上」(全集自体は昭和一八(一九四三)年から翌一九(一九四四)年にかけての刊行)に活字化されて載りながら、現在、詩稿が存在しない詩篇の一つ(無題)に、

   *

あはれしんめんたる雨の渚に

たましひはひたにぬれつつ步むらむ

くねりつつうちよする浪

浪の音のきえさり行けば

うちよする浪の音の

浪の音の消えさりゆけば

たましひは砂丘の影に夢むらむ。

   *

というのがあるのを発見した。また、本篇初出の翌年の大正八年八月号『文章世界』に載せた散文詩(アフォリズム)の中に、まさに本篇のイメージを言い換えたもの出現し、そこでも「しんめんなる」が用いられてある。最後の附記(これは本文と関係するものではないが、本条は萩原朔太郎のアフォリズム群の一番最初期に含まれる一篇であり、その後の散文詩としての彼のアフォリズムを考える上で非常に示唆に富む主張が語られていることから、敢えて添えた)含め、長いが、以下に示す。筑摩版全集第五巻を用いたが、太字「いぢや」(イデア:idea)は底本では傍点「●」(有意に大きな黒丸)、下線は通常の傍点「ヽ」である。

   *

 

     美しき涅槃

 

 私は美しいいぢや(觀念)をみた。プラトーンに、耶蘇に、マホメツトに、そして釋迦に。

 ともあれ、人間のすべてのいぢやは虹の幻覺にすぎない。いぢやは一つの『美しき夢』である。それ故、願ふらくは吾人をして、より美しき夢を選ばしめよ。もしくは『神』もしくは『佛』もしくは天國、もしくは西方淨土、もしくは理性の王國、これらのすべてのいぢやの中、最もよきいぢやとは、けだし最も高潮的な情緖――最も抒情詩的な美――を持てるものに外ならぬ。何故ならば、それは人間をして、充分なる幸福、卽ち『甘き陶醉』に導くからである。

 およそ人間のいぢやの中、釋迦の夢みたいぢやほど偉大にして價値あるものはない。かくの如く智慧深く、かくの如く深酷に、しかもかくの如く異常な情緖的魅惑をもつたものはない。耶蘇の情緖は、その熾烈なパツシヨンに於て、よく人を興奮させるものがある。卽ちそこには動的な美とリズムがある。然るに釋迦の感情は、内に大なる理智をふくんで、しかも靜かに之れを押し流して行く大河の美に似て居るではないか。

 息ふに小乘佛教の趣味ほど、人生に對して『美しき月影』をあたへるものはない。それは熱帶の河に咲く蓮の花の情調である。あらゆる人間の慾望と、らちゆる生命意識とを否定した釋迦、げに人生そのものをすら惡なりとした彼。偉大なるヒューマニチイの大否定者。しかしこの恐ろしい價値の否定者は、そのすべての總勘定に於て、ただ一つの價値を許した。その一つの價値とは何であるか。それこそ人性に於て、惡の惡、醜の醜と認めるところの者、卽ち『死』そのものの價値ではなかつたか。

 そもそも『價値としての死』とは何か。言ふ迄もなく『美としての死』『善としての死』『眞としての死』であり、一言にしていいへば『情緖としての死』である。ここにかの怪しげなる『涅槃』の夢は浮かんでくる。眞理と冥合せる死、至善としての死、世に之れほど神祕的な幻想があるか。かかるいぢやは、人心の奧深くひそむ象徴の機密にふれてのみ、始めて幽かにその匂ひをかぐことができる。いて言葉につくすべきものではない。

 思ふ。熱帶の眞晝、しんめんたる森林の奧に居て、ほのかに匂ふ蓮の花の微光を。そもそも佛の涅槃は、靑白き病熱の幻覺にすぎないのであらうか。ともあれ、夢の中の生をして、夢の中の事實を信ぜしめよ。ああ、一つの魅惑ある情緖――美しき涅槃。

 

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

 附記。散文詩と抒情詩――特に自由詩形による抒情詩――との區別は、私にとつて明白でない。倂し、思ふに、そんな區別はどこにもないのだらう。丁度、詩と散文との識域がぼかしになつてゐるやうに、散文詩と自由詩(抒情詩としての)の識域もぼかしになつてゐるのだらう。要するにより情緖的なものが抒情詩であり、より槪念的なものが散文詩である。だから今日に於て、眞の意味での抒情詩と言へば、徹底した直感的表現、卽ち所謂『象徵詩』より外にはないわけである。象徵詩以外の自由詩は、皆一種の散文、若しくは散文詩と見るのが至當である。元來言へば始から完全の韻律がない日本語に於て、自由詩といふやうな槪念の存在すべき理由がない。日本語で自由詩の槪念を許すならば、古事記や、源氏物語や、徒然草やは、すべて皆自由詩である。言ひ代へれば、自由詩卽ち散文詩である。倂し、西洋に起つた自由詩の運動は、高踏派や古典派の形式偏重に對する浪漫主義の新發展であるから、それが散文詩への弛緩――韻律上の墮落――でなくして、全く抒情詩としての權威――純粹詩歌としての權威――に於て新方面を望んだ者であることが明らかである。之れに反して、日本には本來『韻律』といふものがないのである。日本語には『調子(タイム)』だけあつて『旋律(メロデイ)』がない。それ故、日本でいふ自由詩とは、單に『調子の自由』といふことであつて『韻律の自由』といふことにならない。日本には昔から散文詩といふ言葉もなく、敍事詩といふ言葉もなかつた。何故ならば、すべての散文――古事記や、源氏物語や、平家物語や――は、それ自身に於て散文詩であるからである。日本語で書けば必ず一種の調子が出る。そしてこの調子が、日本語に於ける唯一のリズムである。だから日本で『詩』と言へば、一定の格調あるフレーズを、一定の格調なきフレーズに對照させる時にのみ意義があるのである。尤も西洋でも、近來『自由詩は詩に非ず』といふ説が權威を持つてゐるやうだが、日本のやうに自由詩そのものの意義が空虛な所では、尚更のこと『自由詩は詩に非ず』でなければ、ならない。――倂し、ここで『詩に非ず』といふのは、狹義の意味の詩、卽ち『抒情詩に非ず』といふ意味なのは勿論である。詩(ポエム)の槪念を擴大すれば、自由詩と雖も、失張一種の詩であるにはちがひないが、かくては詩といふ言葉が、散文に對して言はれる特質を失つてしまふ。――だから自分は、要するに、散文と、散文詩と、觀念抒情詩と、純粹抒情詩との識域をば、一つの曖昧なぼかしの上に置きたいと思ふ。現代の日本詩人は、自ら抒情詩人と名乘る必要もなく、自ら散文詩人と斷る必要もない。彼の作が、果して抒情詩の批判に於て許さるべきものか――しかく[やぶちゃん注:「然く・爾く」(副詞「しか」+副詞語尾「く」)で「そのように・そんなに」の意であろう。]情緖的、象徵的であるか――若しくはそれが抒情詩として許すべく、あまりに槪念的、明的であるかといふこと、卽ち事案上、それは『詩としての價値』をもつか『散文としての價値』を持つかといふことは、全く讀者自身の觀照に一任すべき問題でなければならぬ。散文詩と散文との批判も全く之れに準ずべきである。私はかりに自作に對して『散文詩』といふ名稱をあたへた。倂しそれが、若し讀者に對して次のやうな觀念――詩といふべくあまりに實感的(非情緖的)であるとかあまりに槪念的であるとかいふ觀念――をあたへるならば、私は直ちに詩といふ名義を撤囘したい。之れに反して、若しそれが讀者に充分なる情緒的興奮(魂を現實以外に引きあげる興奮)をあたへることができるならば、あへて必しも散文詩と斷らないで一層大膽に抒情詩と自稱してもよいのである。

   *

さて、これらから推すに、「しんめんなる」は「眞面なる」であり、「如何にもそう呼ぶに相応しい内実と外見をその対象が持っているさま」「真実にして誠(まこと)にそう呼ぶに相応しいさま」という意味と採ってよいと私は考えている

「常盤木」「ときはぎ(ときわぎ)」であろう(初出ルビもそうなってはいる)。但し、現行の植物学上の「常緑広葉樹(林)」を指してはいない。まさに「しんめんなる」永遠に枯れることのない聖樹でなくてはならぬ。

「愛憐」「あいれん」であろう(初出ルビもそうなってはいる)。「哀憐」と同じで、「哀れみ、慈(いつ)しむこと」の意。]

2019/01/10

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱の川邊

 

  憂鬱の川邊

 

川邊で鳴つてゐる

蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい

しぜんに生えてる

するどい ちひさな植物 草本(さうほん)の莖の類はさびしい

私は眼を閉ぢて

なにかの草の根を嚙まうとする

なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために

げにそこにはなにごとの希望もない

生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ

梅雨だ

じめじめとした雨の點滴のやうなものだ

しかし ああ また雨! 雨! 雨!

そこには生える不思議の草本

あまたの悲しい羽蟲の類

それは憂鬱に這ひまはる 岸邊にそうて這ひまはる

じめじめとした川の岸邊を行くものは

ああこの光るいのちの葬列か

光る精神の病靈か

物みなしぜんに腐れゆく岸邊の草むら

雨に光る木材質のはげしき匂ひ。

 

[やぶちゃん注:「そうて」はママ。大正七(一九一八)年四月号『感情』初出。初出との有意な違いは、二行目の「蘆」が「芦」で「よし」とルビし、「葦」に「あし」とルビすることと(これは本来は実は必要なルビである)、「しかし ああ また雨! 雨! 雨!」が「しかし ああ また雨 雨 雨」で「!」がないことである(漢字表記の違いは複数あるが、「芦」以外はここでは挙げないこととする)。「定本靑猫」も有意な相違はない(敢えて言えば「じめじめとした」が「じめじめした」となる)。参考までに言っておくと、「定本靑猫」後の昭和一四(一九三九)年の詩集「宿命」では「精神」に「こゝろ」とルビしているが、無論、ここではそれを気にする必要はない。

「蘆」(よし)「葦」(あし)であるが、植物学的には同一種の異名で、単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis を指す。漢字では「葦」「芦」「蘆」「葭」も生物学的には総て同一種なのである。ところが、朔太郎はここで明らかに、この二つを異なった対象として併置していることが判るから、何とかしなくては注にならない。困ったなと思って調べたところ、ときしらず氏の「ときしらずのブログ◎迂闊な話」の「葦(あし)と葦(よし)」に大修館書店「明鏡国語辞典」には、『もと成熟したものを「葦」、穂がすっかり出そろわないものを「蘆」、穂の出ていないものを「葭」と書き分けた』とあるそうで(私は所持しないので確認は出来ない)、これで、伸びてはいるが、穂が包まれていたり、少ししかほうけていない「蘆(よし)」と、しっかり伸びきって穂をしっかり開いている「葦(あし)」が混在している川辺をイメージすればよいということになろう。]

2019/01/09

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 黑い風琴

 

  黑い風琴

 

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ

あなたは黑い着物をきて

おるがんの前に坐りなさい

あなたの指はおるがんを這ふのです

かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

 

だれがそこで唱つてゐるの

だれがそこでしんみりと聽いてゐるの

ああこのまつ黑な憂鬱の闇のなかで

べつたりと壁にすひついて

おそろしい巨大の風琴を彈くのはだれですか

宗教のはげしい感情 そのふるへ

けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!

お祈りなさい 病氣のひとよ

おそろしいことはない おそろしい時間はないのです

お彈きなさい おるがんを

やさしく とうえんに しめやかに

大雪のふりつむときの松葉のやうに

あかるい光彩をなげかけてお彈きなさい

お彈きなさい おるがんを

おるがんをお彈きなさい 女のひとよ。

 

ああ まつくろのながい着物をきて

しぜんに感情のしづまるまで

あなたはおほきな黑い風琴をお彈きなさい

おそろしい暗闇の壁の中で

あなたは熱心に身をなげかける

あなた!

ああ なんといふはげしく陰鬱なる感情のけいれんよ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年四月号『感情』初出。初出との違いで有意に印象が違うのは「れくれえむ!」の「!」がないこと、同じく最後から二行目の「あなた!」の「!」がないことで、他は有意な相違はない。「定本靑猫」では「かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに」が「かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに………」と九点リーダが入っていること、「時間」の二字に「とき」のルビが振られていること(これは正しい改善と感ずる)、こと以外には有意な相違はない。なお、「れくれえむ」(requiem:鎮魂曲・レクイエム・死者の冥福を祈る哀歌・悲歌・挽歌。ラテン語で「安息を」の意で、死者ミサの入祭文の最初の語に由来する)については、筑摩書房版全集の校異に、『「れくれえむ」は、正しくは「れくいえむ」requiem であるが、作者が語感の上であえてこの形にしたか、單純な誤記か、明瞭でない。また、作者生前の諸本もすべて「れくれえむ」のままなので、本全集でも校訂を加えなかった』と特異的に注が附されてある。これは編者の卓見というべきである。たまには褒めておこう。

「とうえんに」形容動詞であるが、こんなは知らない。「とうえん」で調べて見ても、しっくりくるものはない。ネットのとあるQ&Aサイトで、この意味を訊ねたものへの複数の回答があった。その一つに、「嗒焉」で、我を忘れてうっとりするさま。「嗒然」と同じとするもの、ある方は、朔太郎の造語と解釈するのが自然とし、透き通った艶めかしさと言った意味で『「透艶に」という漢字を当てた』別の方の回答を評価し、『教会のパイプオルガンの音は、まさしく、透明感のあるつややかな美しい音』に相応しいとする。別なある方は、『恋人エレナ(洗礼名)の死の翌年に書かれた詩です。場所はギリシャ正教の教会ですね。れくれーむはレクイエム。エレナのお葬式の印象が強いと思います。キリスト教の言葉に「祷援」があります。祈りで他人を支えること。仮名は「たうゑん」ですが、朔太郎はこの言葉を耳で聞いて漢字を調べなかったのかもしれません』としつつ、「透艶」というのは『パイプオルガンの荘厳な音の形容に相応しくない。詩人なら避けます』と一蹴している。私は「とうゑん」であるが、永遠に透徹する感じで「透遠」を当て字した。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 夢にみる空家の庭の祕密

 

Seiyounozu

 

[やぶちゃん注:ここ(「憂鬱なる花見」の後。左ページ)に以上の「西洋之圖」が入る。ヴィジュアルに底本から撮ることとしているため、綴目近くにハレーションのようなものが入っているのはお許しあれ。筑摩版全集解題によれば、以上の画像はサンフランシスコの絵葉書とある。それにしても、この詩篇の間に、これは、ねえだろ! 朔太郎!

 

 

  夢にみる空家の庭の祕密

 

その空家の庭に生えこむものは松の木の類

びわの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類

さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝

またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物

およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類

地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる

それら靑いものの生命(いのち)

それら靑いもののさかんな生活

その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

またじめじめとした垣根のあたり

なめくぢ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした氣味わるいすがたをみる。

さうしてこの幽邃な世界のうへに

夜(よる)は靑じろい月の光がてらしてゐる

月の光は前栽の植込からしつとりとながれこむ。

あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ

わたしの心は垣根にもたれて橫笛を吹きすさぶ

ああ このいろいろのもののかくされた祕密の生活

かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界

月光の中にうかびいづる羊齒(しだ) わらび 松の木の枝

なめくぢ へび とかげ類の無氣味な生活

ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の祕密と

いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。「びわ」はママ(筑摩書房版全集は「びは」に強制校訂されている)。

 しかし、ここに大きな問題を見出す筑摩書房版全集の校訂本文は、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

の部分を、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ

夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

と二行に分けているが、底本の版組を再現すると、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も

晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

となっており、これは一行であることは、全く論議や校訂の埒外なのである。しかも、初出形も、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ、夜も晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

と一行なのである。しかも理由を述べずに、天下の筑摩書房版全集は確信犯で二行に分けているのである(校異にそれが出るから、確信犯なのだ。原稿で確認し修正をしたのならまだしも、そのようなことは「校訂凡例」には書かれていないのである)。こんなことが許されるとは私には到底思われない。但し、後の「定本靑猫」では二行に分けられているようではある。だからと言って、「靑猫」の本文をいじっていいことには到底ならぬ! しかも、それに先行する、昭和三(一九二八)年第一書房版「萩原朔太郎詩集」と翌昭和四年の新潮社刊「現代詩人全集」第九巻のここを同全集の校異で見ると、

   *

ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ 夜も

晝もさよさよと悲しくひくくながれる水の音

   *

と、朗読のリズムから見ても、とってもあり得ない形なのである。これはこの初版「靑猫」の版組を読み違えたものに他ならない。あん? 「何じゃ! こりゃッツ!?!」(ジーパン刑事風に)

 なお、初出は全体に改行に違いは見られるものの、表現に有意な差はなく、「定本靑猫」も同様である。

「松の木」裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus

「びわの木」被子植物門双子葉植物綱バラ目バラ科サクラ亜科ナシ連ビワ属ビワ Eriobotrya japonica

「桃の木」バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica

「まきの木」マツ綱マツ目マキ科 Podocarpaceae のマキ(槇)類或いはマキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

「さざんか」双子葉植物綱ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属サザンカ Camellia sasanqua

「さくら」モモ亜科スモモ(サクラ)属サクラ亜属Cerasus のサクラ(桜)類。

「しだ」「羊齒」。概ねシダ植物門シダ綱シダ目 Pteridales に属するシダ(羊歯)類。維管束を持った非種子植物で、胞子によって増殖するシダ植物類。旧来の分類が大きく変わったので、詳しくはウィキの「シダ植物」を見られたい。

「わらび」「蕨」。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ属ワラビ Pteridium aquilinum

「ぜんまい」「薇」。シダ綱ゼンマイ科ゼンマイ属ゼンマイ Osmunda japonica。ワラビとの違いは、新芽の段階でワラビには小さな芽が三つあるのに対し、「ゼンマイ」は大きな渦巻状の芽が一つあることが素人でも分かる大きな違いで、「ワラビ」には微量ながら、発癌物質であるプタキロサイド(ptaquiloside)が含まれ、「ゼンマイ」には含まれていないことである。

「もうせんごけ」「毛氈苔」。食虫植物として知られるナデシコ目モウセンゴケ科モウセンゴケ属モウセンゴケ Drosera rotundifolia

「なめくぢ」軟体動物門腹足綱ナメクジ科ナメクジ Meghimatium bilineatum

「へび」脊索動物門脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ上科 Xenophidia

「かへる」脊椎動物亜門両生綱無尾目 Anura

「とかげ」脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目トカゲ亜目 Sauria

「幽邃」「いうすい(ゆうすい)」は景色が奥深く静かなこと。

「前栽」元国語教師としては「せんざい」の読みを示す義務がある。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 憂鬱なる花見

 

  憂鬱なる花見

 

憂鬱なる櫻が遠くからにほひはじめた

櫻の枝はいちめんにひろがつてゐる

日光はきらきらとしてはなはだまぶしい

私は密閉した家の内部に住み

日每に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる

その卵や肉はくさりはじめた

遠く櫻のはなは酢え

櫻のはなの酢えた匂ひはうつたうしい

いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を步きにでる

さうして日光が遠くにかがやいてゐる

けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて

思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ

野山にたはむれる靑春の男女によせる

ああいかに幸福なる人生がそこにあるか

なんといふよろこびが輝やいてゐることか

いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で

わかい娘たちは踊ををどる

娘たちの白くみがいた踊の手足

しなやかにおよげる衣裝

ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか

花見のうたごゑは橫笛のやうにのどかで

かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。

いま私の心は淚をもてぬぐはれ

閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすりなく

ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命(いのち)をもとめ

なにものの影をみつめて泣いてゐるのか

ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで

遠く花見の憂鬱なる橫笛のひびきをきく。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出と有意な異同はない。「定本靑猫」では、中間部の、

   *

ああいかに幸福なる人生がそこにあるか

なんといふよろこびが輝やいてゐることか

   *

が、

   *

ああ なんといふよろこびが輝やいてゐることか

   *

となっている以外には大きな異同はない。確かに、私はこの「いかに幸福なる人生がそこにあるか」という部分はいらぬと思う。序でに言っておくと、萩原朔太郎のよく使う「酢え」はどうも好きになれない。「饐え」でないと、私は生理的に気に入らない。それにしても、実は桜が(特に双子葉植物綱バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属品種ソメイヨシノ(染井吉野)Cerasus × yedoensisSomei-yoshino)嫌いな作家は多いな。にしてもこれもまた徹底してないぞ! 是非ともここでも、後の梶井基次郎の「櫻の樹の下には」(昭和三(一九二八)年十月稿。同年十二月に雑誌『詩と詩論』第二冊に発表。リンク先は私の古い古い電子テクスト)の大詩人の感想を御拝聴したいもんだね。俺? 俺は作家じゃないからね、ソメイヨシノ、好きだぜ、ただ、亡き母と約束したのに、花見の前の二〇一一年三月十九日、母はALSで亡くなった、だから、もう、花見は、しない。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる

 

  恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 

 註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。

 

[やぶちゃん注:「註」は繋がった一文であるが、全体が一字下げになってポイント落ちで二行に書かれている。ブラウザの不具合を考え、上に引き上げ、二行目の三字下げを無視した。悪しからず。大正六(一九一七)年五月号『感情』初出。「てふ」を字音通りに読めとする朔太郎伝説の一篇である。初出には有意な異同を感じないが、敢えて言えば、

   *

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

   *

の三行が、

   *

私の靑ざめた屍體のくちびるに、額に、かみに、かみのけに、ももに、胯に、腋のしたに、 足くびに、足のうらに、みぎの腕にも、ひだりの腕にも、腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

   *

一行で巻きつく蛇のように連続していて、その〈ぬたくる〉感覚が初出の方が遙かに効果的であるように思う。「ちうちう」と〈腐亂した詩人の屍體の體液を吸ふ蝶(てふ)〉の幻聴がよく聴こえる気がする。因みに言っておくが、動物の腐乱死体に普通に群がるのは蠅ばかりではない。蝶も群がる。「万葉集」に蝶を詠んだ歌がないのは、風葬や遺体の野晒しが一般的であった上代に於いて人の死体に群がる蝶をまがまがしいものと捉えたからという説もあるくらいだ。

「胯」は「また」かも知れぬが、「またぐら」と、前の「股」から差別化し、より限定した萎えた性器のある風景としての股間を指すものとして、そう読みたいと思う。また、後書きは、ポイント落ちで全体が三字下げで、

   *

詩中平假名にて書きたる「てふてふ」は文字通り「て、ふ、て、ふ」と發音して讀まれたし「チヨー、チヨー」と讀まれては困る。

   *

となっている(「註」の字はない)。

 なお、本篇を以って第一パート「幻の寢臺」は終わっている。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蠅の唱歌

 

  

 

春はどこまできたか

春はそこまできて櫻の匂ひをかぐはせた

子供たちのさけびは野に山に

はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。

さうして私の心はなみだをおぼえる

いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ

この心はさびしい

この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした

しだいにおほきくなる孤獨の日かげ

おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。

いま室内にひとりで坐つて

暮れゆくたましひの日かげをみつめる

そのためいきはさびしくして

とどまる蠅のやうに力がない

しづかに暮れてゆく春の夕日の中を

私のいのちは力なくさまよひあるき

私のいのちは窓の硝子にとどまりて

たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年五月号『感情』初出。初出標題は「蠅の唄歌」。最終行の「唱歌」も「唄歌」。誤植ではなく、この二字で「うた」と読ませているのかも知れぬとしておこう。まあ、「唱歌」と代えたのだから、そこまで穿って考える必要はなかろうという気もする。「定本靑猫」でも採っているが、有意な異同はない。しかし、思う。萩原朔太郎は飢えて死ぬ蠅を見ようとはない。恐いのだ。朔太郎に梶井基次郎の「冬の蠅」(昭和三(一九二八)年二月稿。雑誌『創作月刊』同年五月号初出。リンク先は私の化石のような電子テクスト)の感想が聴きたいなと、ふと、思った。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 野原に寢る

 

  野原に寢る

 

この感情の伸びてゆくありさま

まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに

いのちの芽生のぐんぐんとのびる。

そこの靑空へもせいのびをすればとどくやうに

せいも高くなり胸はばもひろくなつた。

たいさううららかな春の空氣をすひこんで

小鳥たちが喰べものをたべるやうに

愉快で口をひらいてかはゆらしく

どんなにいのちの芽生たちが伸びてゆくことか。

草木は草木でいつさいに

ああ どんなにぐんぐんと伸びてゆくことか。

ひろびろとした野原にねころんで

まことに愉快な夢をみつづけた。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『秀才文壇』初出。初出標題は「ひろびろとした野原で夢を見る」であるが、朔太郎特有の粘着質の説明調や直喩を減ずれば、同世代の山村暮鳥(朔太郎より二歳年上)と似てくる。しかし、暮鳥のそれっぽい詩群、例えば「風は草木にささやいた」や「雲」は前者が大正七(一九一八)年の、後者は大正一四(一九二五)年の刊行(生前に入稿したが、出版を見ずに逝去した)である。因みに、山村暮の全詩篇電子化完遂てい。]

2019/01/08

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)

 

Hayabusa

 

はやぶさ   鸇【音旃】 鶻【音骨】

       晨明

【鶽同】

      【和名八夜布佐】

チユン

 

陸佃云鷹之搏噬不能無失獨隼爲有準毎發必中張九

齡曰雌曰隼雄曰鶻【𩾲𩾥並同】蓋鷹不擊伏隼不擊胎如遇懷

胎者輙放不殺鶻擊鳩鴿及小鳥以煖足旦則縱之此鳥

東行則是日不東往擊物西南北亦然此天性義也隼狀

似鷹而蒼黑胸腹灰白帶赤其背腹斑紋初毛不正易毛

後略與鷹同全體不似鷹鷂能擊鴻鴈鳬鷺不能擊鶴鵠

及告天子鶺鴒之類性猛而不悍鷹鷂之屬同類並居則

相拒而争攫隼鶻者雖同類並居而不拒或同鷙一鳥亦

相和並食

 鷹摯鴻鴈動以翅被搏而昏迷是所以鷹脚長也隼摯

 鴻鴈而不搏翻攀首喰折是所以隼脚短也

三才圖會云鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中

其拳隨空中卽側身自下承之捷於鷹

[やぶちゃん注:「隨」では訓読出来ないので、東洋文庫訳を参考にして、これを「堕」と読み換えて訓読した。この前の部分もそのままでは文が繋がらないので自在勝手に語を挿入した。]

               西園寺相國

  はけしくも落くるものか冬山の雪にたまらぬ峰の朝風

佐之婆 隼之小者其大如鳩有青色者【阿於佐之婆】赤毛者

 【阿加佐之婆】共能捉小鳥自朝鮮來未聞本朝巢鷹之

                  定家

  夕日影櫛もさしばの風さきに野邊の薄の糸やかけまし

 

 

はやぶさ   鸇〔(せん)〕【音、「旃〔(セン)〕」。】

       鶻〔(こつ)〕【音、「骨」。】

       晨明〔(しんめい)〕

【「鶽」、同じ。】

      【和名、「八夜布佐」。】

チユン

 

陸佃〔(りくでん)〕が云はく、「鷹の搏〔(う)ち〕噬〔(か)むに〕、失〔すること〕無きこと、能はず。獨り、隼は準〔(じゆん)〕[やぶちゃん注:照準。狙い。]有りと爲〔(し)〕、發(はな)つ毎に、必ず中〔(あた)〕る」〔と〕。張九齡が曰く、雌を「隼(はやぶさ)」と曰ひ、雄を「鶻」と曰ふ【「𩾲」「𩾥」、並びに同じ。】。蓋し、鷹は伏〔(ふ)せるもの〕を擊たず、隼は胎〔(はら)めるもの〕を擊たず。懷胎の者に遇ふごときは、輙〔(すなは)〕ち、放ちて、殺さず。鶻は鳩・鴿〔(いへばと)〕及び小鳥を擊〔(げき)〕して、以つて足を煖〔(あたた)〕め、旦〔(あした)〕には、則ち、之を縱(ゆる)す。此の鳥、東に行けば、則ち、是の日は、〔鷹は〕[やぶちゃん注:東洋文庫訳を参考に補った。]東に往きて物を擊たず。西・南・北、亦、然り。此れ、天性の義なり。隼、狀、鷹に似て、蒼黑、胸・腹、灰白にして赤を帶ぶ。其の背・腹、斑紋あり。初めの毛は正しからず、毛を易へて後、略(あらあら)鷹と同じ〔たり〕。全體、鷹・鷂〔(はいたか)〕に似ず、能く鴻〔(ひしくひ)〕・鴈〔(がん)〕・鳬〔(かも)〕・鷺を擊つ。鶴・鵠〔(くぐひ)〕及び告天子〔(ひばり)〕・鶺鴒〔(せきれい)〕の類を擊つこと、能はず。性、猛にして悍(たけ)からず。鷹・鷂の屬は、同類、並み居れば、則ち、相ひ拒(こば)んで、争ひ、攫(つか)む。隼・鶻は、同類、並み居ると雖も、拒まず、或いは同じく一鳥を鷙(と)るにも亦、相ひ和して並(なら)び食ふ。

 鷹は鴻・鴈を摯(と)るに、動(ややもす)れば、翅を以つて搏(う)たれて昏迷す。是れ、鷹の脚の長き所以なり。隼は鴻・鴈を摯(う)ちても搏(う)たれず。翻(ひるがへ)りて、首を攀〔(よ)〕ぢ、喰ひ折る。是れ、隼の脚の短き所以なり。

「三才圖會」に云はく、『鶻、拳(こぶし)の堅き處、大いさ、彈丸のごとく、俯して鳩・鴿を擊ちて、之れを食ひて〔ける〕。鳩・鴿、其の拳に中〔(あた)〕る〔に〕、空中に堕〔(お)〕つ。卽ち、身を側〔(そばだ)〕て、自〔みづか)〕ら下〔(くだ)〕り、之れを承〔(う)く〕ること、鷹よりも捷(はや)し』〔と〕。

               西園寺相國

  はげしくも落ちくるものか冬山の

     雪にたまらぬ峰の朝風

佐之婆(さしば) 隼の小さき者なり。其の大いさ、鳩のごとく、青色有る者【「阿於佐之婆〔(あをさしば)〕」。】、赤き毛の者【「阿加佐之婆〔(あかさしば)〕」。】〔と云ひ〕、共に能く小鳥を捉〔(と)〕る。朝鮮より來たる。未だ本朝〔にては〕巢鷹のを聞かず。

                  定家

  夕日影櫛〔(くし)〕もさしばの風さきに

     野邊の薄〔(すすき)〕の糸やかけまし

[やぶちゃん注:ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ亜種ハヤブサ Falco peregrinus japonensis なんだけど、何だか、絵図が幻鳥並みにスゴいんですけど?! ウィキの「ハヤブサ」を引く。『南極大陸を除く全世界』に分布する。『種小名peregrinusは「外来の、放浪する」の意』で、『寒冷地に分布する個体群は、冬季になると温帯域や熱帯域へ移動し』、『越冬する』。『日本では亜種ハヤブサが周年生息(留鳥)し、冬季に亜種オオハヤブサ』(Falco peregrinus pealei)『が越冬のため』、『まれに飛来する(冬鳥)』。全長はが三十八~四十五センチメートル、は四十六~五十一センチメートルで、翼開長は八十四~百二十センチメートル体重〇・五~一・三キログラムで、外のタカ類同様、『メスの方が大型になる』。『頭部の羽衣は黒い。頬に黒い髭状の斑紋が入る』。『体上面や翼上面の羽衣は青みがかった黒』。『喉から体下面の羽衣は白く、胸部から体側面にかけて黒褐色の横縞が入る』。『眼瞼は黄色く』、『虹彩は暗褐色』。『嘴の色彩は黒く、基部は青灰色』で『嘴基部を覆う肉質(ろう膜)は黄色』。『河川、湖沼、海岸などに生息する。和名は「速い翼」が転じたと考えられている』『主にスズメやハト、ムクドリ、ヒヨドリなどの体重』一・八『キログラム以下の鳥類を食べる』。『獲物は飛翔しながら後肢で捕えたり、水面に叩きつけて捕える』。『水平飛行時の速度は』百『㎞前後、急降下時の速度は、飼育しているハヤブサに疑似餌を捕らえさせるという手法で計測したところ、時速』三百九十キロメートル『を記録した』。『巣をつくらずに(人工建築物に卵を産んだり、他の鳥類の古巣を利用した例もある』『)、日本では』三~四月に三~四『個の卵を断崖の窪みに産む』。『主にメスが抱卵し、抱卵期間は』二十九~三十二日で、『雛は孵化してから』三十五~四十二『日で巣立つ』。『生後』二『年で性成熟する』とある。

 

「鸇〔(せん)〕」この字、本邦ではハヤブサを指す以外に、別種のタカ目タカ科サシバ(差羽・鸇)属サシバ Butastur indicus をも指すので注意が必要である。後に出る「佐之婆(さしば)」がそれだ。ウィキの「サシバ」によれば、別名を「大扇(おおおうぎ)」とも呼び、中国北部・朝鮮半島・『日本で繁殖し、秋には沖縄・南西諸島を経由して東南アジアやニューギニアで冬を越す。一部は沖縄・南西諸島で冬を越す。日本では』四月頃、『夏鳥として本州、四国、九州に渡来し、標高』千メートル『以下の山地の林で繁殖する』。『全長は、で約四十七センチメートル、で約五十一センチメートル、翼開長は一・〇五~一・一五メートル』。『雄の成鳥は、頭部は灰褐色で、目の上の白い眉斑はあまりはっきりせず、個体によってはないものもいる。体の上面と胸は茶褐色、のどは白く中央に黒く縦線がある。体下面は白っぽく』、『腹に淡褐色の横縞がある。雌は眉斑が雄よりも明瞭で、胸から腹にかけて淡褐色の横縞がある。まれに全身が黒褐色の暗色型と言われる個体が観察される』。『主にヘビ、トカゲ、カエルといった小動物、セミ、バッタなどの昆虫類を食べる。稀にネズミや小型の鳥等も捕らえて食べる。人里近くに現』われ、『水田などで狩りをする』。『本種は鷹の渡りをみせる代表的な鳥である。秋の渡りは』九『月初めに始まり、渡りの時には非常に大きな群れを作る。渥美半島の伊良湖岬や鹿児島県の佐多岬ではサシバの大規模な渡りを見ることができる。なお春の渡りの際には秋ほど大規模な群れは作らない』。『本州の中部地方以北で繁殖したサシバは第』一『番目の集団渡来地、伊良湖岬を通り、別のサシバと合流して佐多岬に集結』、『大陸の高気圧が南西諸島に張り出し、風向きが北寄りに変化したときに南下飛行を開始』し、第三の渡来地である徳之島で休息、次に第四の渡来地である『宮古群島で休息する。一部は沖縄本島、周辺の離島で休息する鳥もいる』。その後、第五渡来地が台湾の満州郷、第六渡来地が『フィリピンのバタン諸島で』、後に『フィリピン、インドネシアまで広がって越冬する』とある。『平均時速は約』四十キロメートルで、『一日の平均距離は』四百八十キロメートル前後にまで達するとある。『朝の飛び立ちは』六時頃で、その日の』午後六時までには『すべて休息地に入る』。『ノンストップ』だと、十二『時間飛び続ける』ことが可能ともある。『越冬する鷹も』おり、『宮古諸島では「落ち鷹」という』。その『宮古島では渡りのサシバを捕らえて食べる文化があった。夜、木に登り、樹上で眠っている本種の足を握り、捕えていた。また、子どものおもちゃとしても用いられることもあった』が、『現在の日本では禁猟であり、捕えると処罰対象となる』。『宮古島においては、サシバが飛来する季節には、周知のためのポスターの掲示やパトロール班による見回りが行われる』そうである。『まれに鷹狩に用いられた』ともあった(下線太字やぶちゃん)。そうか! 芭蕉と杜国が見たのは、サシバだったのだ!


 鷹一つ見付てうれし伊良湖崎   芭蕉


私の古い
「芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる」(但し、分量膨大に附き、ご覚悟あれかし)を、どうぞ! 因みに、中国では本種サシバは現在「灰面鷲」の漢名で呼ばれ、中国では本種が十月十日前後に北方から南へ渡って来て越冬し、その渡りの主要地が台湾の八卦臺地及び恆春半島で、しかも十月十日は中華民國の「國慶日」であるため、「國慶鳥」の名で呼ばれることが中文の同種のウィキに記されてあった。なお、余談であるが、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機「隼(はやぶさ)」は愛称で、正式には「一式戦闘機」と言い、太平洋戦争に於ける事実上の主力機として五千七百機以上が製造された。旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機(零戦)に次いで二番目に多く、陸軍機としては第一位であった。昔、模型を作ったのを思い出した。

「旃〔(セン)〕」この字は「旃旌(センセイ)」という熟語で漢文や軍記物でよく見かける。「旗・無地の赤い旗」の意である。

「晨明〔(しんめい)〕」渡りの際に早朝に飛び立つからではあるまいか?

「陸佃〔(りくでん)〕」(一〇四二年~一一〇二年)は宋代の文人政治家。以下は彼の著わした訓詁学書「埤雅(ひが)」から。巻十四に、『今鷹之搏噬不能無失獨隼為有準故其毎發必中』とあった。

「張九齡」(六七三年~七四〇年)は盛唐の詩人で政治家。玄宗の宰相となって、安禄山の「狼子野心」を見抜き、「誅を下して後患をて」と玄宗に諫言したことでも知られるが、悪名高い李林甫や楊国忠らと対立して荊州(湖北省)に左遷された。官を辞した後は故郷に帰り、閑適の世界に生きた。詩の復古運動に尽くしたことでも知られ、文集に「曲江集」がある。名詩「照鏡見白髮」は原禽類 鴿(いへばと)(カワラバト)の私の注を参照。しかし、彼には「鷹鶻圖讚序」というのはあるものの、調べた限りでは、ここに書かれたような内容は記されていない。どこまでが引用なのかも含めて、出典不詳と言わざるを得ない。但し、「御定淵鑑類函」の巻四百二十二に、

   *

鷂一

原爾雅曰鷣負雀鷂也 廣雅曰籠鷂也 詩義問曰晨風今之鷂餘並以鸇爲晨風 詩義疏曰隼鷂也齊人謂之題肩或曰雀鷹春化爲布穀此屬數種皆爲隼 莊子曰鷂爲鸇鸇爲布穀布穀復爲鷂此物變也 增本草釋名曰鴟鳶二字篆文象形一云鴟其聲也鳶攫物如射也隼擊物凖也鷂目擊遥也詩疏云隼有數種通稱爲鷂爾雅謂之茅鴟齊人謂之擊正或謂之題肩梵書謂之阿黎耶 本草集解曰鴟似鷹而稍小其尾如舵極善髙翔專捉雞雀鴟類有數種按禽經云善摶者曰鷂竊黝者曰鵰骨曰鶻瞭曰鷂展曰鸇奪曰又云鶻生三子一爲鴟鶻小於鴟而最猛捷能擊鳩鴿亦名鷸子一名籠鸇色靑向風展翅迅搖搏捕鳥雀鳴則大風一名晨風小於鸇其脰上下亦取鳥雀如攘掇也一名鷸子隼鶻雖鷙而有義故曰鷹不擊伏隼不擊胎鶻握鳩而自暖乃至旦而見釋此皆殺中有仁也小雅采芑注曰隼鷂屬文直作爲鷂 孔穎逹曰隼者貪殘之鳥鸇鷂之屬玉篇云宿祝鳩也 春秋考異郵曰隂陽氣貪故題肩擊宗均注曰題肩有爪芒爲陽中隂故擊殺也 郯子曰虎之摶噬也疑隼之搏噬也凖鷹之搏噬不能無失獨隼爲有凖故每發必中

   *

というこの辺りに酷似した文章を見出せた。また、同じところに、

   *

唐柳宗元鶻曰有鷙曰鶻者巢於長安薦福浮圖有年矣浮圖之人室於其下者伺之甚熟爲余之曰冬日之夕是鶻也必取鳥之盈握者完而致之以燠其爪掌左右易之旦則執而上浮圖之跂焉乃縱之延其首以望極其所如往必背而去之焉東矣則是日也不東逐西南北亦然嗚呼孰謂爪吻毛翮之物而不爲仁義器耶

も叙述との一致部分がありそうだ。私の能力ではここまで。悪しからず。

「雌を「隼(はやぶさ)」と曰ひ、雄を「鶻」と曰ふ【「𩾲」「𩾥」、並びに同じ。】」この最後の割注は「鶻」に限定したそれであろう。

「初めの毛は正しからず」最初に生える毛は成体のそれではなく。

「略(あらあら)」ほぼ。

「悍(たけ)からず」獰猛ではない。

『「三才圖會」に云はく……』国立国会図書館デジタルコレクションの画像のに図、に解説が載る。ああ、しかし、「堕」ではなく、やっぱり「隨」だなあ?【2019年1月10日追記】いつも種々のテクストで情報をお教え下さるT氏から、以下のメールを頂戴した。

   《引用開始》

三才圖會の「鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中其拳隨空中卽側身自下承之捷於鷹」の元ネタは陸佃の「埤雅巻第八」の「釈鳥」の「鶻」です。

調べて、ビックリで、四書全書版「埤雅巻第八」の「釈鳥」の「鶻」では、

鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中其拳「隨」空中卽側身自下承之捷於

ですが、しかし、「重刊埤雅巻第八」の「釈鳥」の「鶻」では、

鶻拳堅處大如彈丸俯擊鳩鴿食之鳩鴿中其拳「堕」空中卽側身自下承之捷於鷹

となっています。[やぶちゃん注:中略。ここには上記の詳細な引用元が示されてある。]全然一件落着になりませんが、何か、筑摩書房の編集校正が入ったような状態なのでしょうか?

ついでに、以下は「埤雅卷八」の「隼」と、「本草綱目」の「鴟」の「集解」、「五雜俎」の「卷九」の「物部一」、「本朝食鑑」の「隼」の「集解」が元ネタです。

陸佃云鷹之搏噬不能無失獨隼爲有準毎發必中(「埤雅」卷八「隼」)

張九齡曰雌曰隼雄曰鶻【𩾲𩾥並同】(元不明)

蓋鷹不擊伏隼不擊胎如遇懷胎者輙放不殺鶻擊鳩鴿及(「本草綱目」「鴟」「集解」。「云、曰鷹不擊伏、隼不擊胎。鶻握鳩而自暖、乃至旦而見釋、此皆殺中有仁也」)

小鳥以煖足旦則縱之此鳥東行則是日不東往擊物西南北亦然此天性義也(「五雜俎」卷九「物部一」。「云、鶻與隼、皆鷙擊之鳥也。然鶻取小鳥以暖足、旦則縱之。此鳥東行、則是日不東往擊物、西南北亦然、蓋其義也。隼之擊物、過懷胎者、輒釋不殺、蓋其仁也、至鷹則無所不噬矣。故古人以酷吏比蒼鷹也」)

隼狀似鷹而蒼黑胸腹灰白帶赤其背腹斑紋初毛不正易毛後略與鷹同全體不似鷹鷂(「本朝食鑑」卷六「禽之四」「隼」「集解」。「隼似ㇾ鷹而蒼黑、臆腹灰白帶ㇾ赤、其背腹斑紋、初毛不ㇾ正、易ㇾ毛後略與ㇾ鷹同、然全體不ㇾ似鷹鷂」)

能擊鴻鴈鳬鷺不能擊鶴鵠(「本朝食鑑」同前。「能擊鴻鴈鳬鷺不ㇾ能ㇾ摯鶴鵠及雲雀鶺鴒燕之類

告天子鶺鴒之類性猛而不ㇾ悍鷹鷂之屬同類並居則相拒而争攫隼鶻者雖同類並居而不拒或同鷙一鳥亦相和並食(「本朝食鑑」同前。「雲雀[注:=「告天子」・鶺鴒之類、性猛而不ㇾ悍、鷹鷂之屬、同類並居、則相拒而爭攫、隼者雖同類並居而不ㇾ拒、相和並食」)

鷹摯鴻鴈動以翅被搏而昏迷是所以鷹脚長也隼摯鴻鴈而不搏翻攀首喰折是所以隼脚短也(「本朝食鑑」同前。「凡鷹摯鴻鳫、動以ㇾ翅被ㇾ搏而昏迷、至損傷亦有、是鷹脚)

   《引用終了》

私が引用を端折ってしまった箇所を総て挙げて下さり、御礼のしようもないほど感激している。ともかくも、冒頭の「隨」か「堕」かの点であるが、T氏への御礼の返信として、私は、

   *

「堕」の字は旧字体が「墮」で、調べて見ますと、本邦の古文の中でもしばしば、この旧字の「墮」を、誤って「隨」と記すものが見受けられますから、私は恐らくこれは「墮」が正しく、「堕」、「落ちる」の意でやはりよいのではないかと思っています。いつも文句を言ってばかりいる東洋文庫に従うのはちょっとシャクですが、そうでないと、この部分を意味が通るように読むことが難しいように私は感じるからです。

   *

と言うことしか出来なかった。今年もまた年初からT氏に御厄介になってしまった。再度、御礼申し上げるものである。「呆られることなく、今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。」。

「西園寺相國」「はげしくも落ちくるものか冬山の雪にたまらぬ峰の朝風」「西園寺相国鷹百首」「西園寺殿鷹百首」とも呼ばれる歌集で、作者は西園寺公経(承安元(一一七一)年~寛元二(一二四四)年)とも西園寺実兼(建長元(一二四九)年~元亨二(一三二二)年)作ともされるが、未詳。明応四(一四九五)年に尭恵が細川成之に同書の注を授けていることから、十四世紀後半から十五世紀末には成立していたと考えられている。伝本は非常に多い。その中の一首。「朝風」は「晨風(しんぷう)」を訓読して字を代えたもので、実はハヤブサの別名である。

「巢鷹のを聞かず」巣を作って繁殖したという話は聴かない。

「定家」「夕日影櫛〔(くし)〕もさしばの風さきに」「野邊の薄〔(すすき)〕の糸やかけまし」不詳。定家の生活から思うに、空想もいいとこという気がするね。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 春の感情

 

  春の感情

 

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ

そのにほひをかいでゐると氣がうつとりとする

うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ

春がくるときのよろこびは

あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ

ふるへる めづらしい野路のくさばな

おもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音色

なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて

春はしつとりとふくらんでくるやうだ。

春としなれば山奧のふかい森の中でも

くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに

私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す

たとへば毒だけ へびだけ べにひめぢのやうなもの

かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて

ひねもすさびしげに匂つてゐる。

 

春がくる 春がくる

春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ

そこにもここにも

ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ

また藪かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。

 

[やぶちゃん注:初出は大正七(一九一八)年一月号で創刊号の『新生』であるが、最後に示すように初出の最後の附記によって、本篇の創作は前年大正六年の四月である。また標題は初出では「春がくる」。

「菌」「きのこ」。

「毒だけ」「毒茸」(どくだけ)であるが、本来、正しくは「どくたけ」と濁らない。これはウィキの「キノコ」の「キノコの名称」の項に、『日本語のキノコの名称(標準和名)には、キノコを意味する接尾語「〜タケ」で終わる形が最も多い。この「〜タケ」は竹を表わす「タケ」とは異なる。竹の場合は「マ(真)+タケ(竹)」=「マダケ」のように連濁が起きることがあるが、キノコを表わす「タケ」は本来は』、決して『連濁しない。キノコ図鑑には「〜ダケ」で終わるキノコは一つもないことからも』、『これがわかる。しかし一般には「えのきだけ」、「ベニテングダケ」のような誤表記が多い』とあることがその証左である。さて、朔太郎はここで以下「べにたけ」及び「べにひめぢ」と明らかに等価で並列させているから、これを「毒茸(どくきのこ)」の意で用いているのではなく、有毒な茸の中の特定の一種(或いは種群)として用いていると考えるのが至当である。しかし現行、「ドクタケ」という標準和名のキノコはない。しかし、私が食して死亡する例もままある猛毒のキノコとして筆頭に浮かべるものは、後掲するシロタマゴテングタケやタマゴテングタケとともに、菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ハラタケ目テングタケ科テングタケ属ドクツルタケ Amanita virosa であるウィキの「ドウクツルタケ」によれば、『日本で見られる中では』、『最も危険な部類の毒キノコであり』、『注意を要する。シロコドク(秋田県)、テッポウタケの地方名がある』。『北半球一帯に分布。初夏から秋、広葉樹林及び針葉樹林の地上に生える。中型から大型で、色は白。湿っているときはやや粘性がある。柄にはつばとつぼ、そしてささくれがある。傘のふちに条線はない。水酸化カリウム』三『パーセント液を傘につけると黄変する』。『胞子はほぼ球形。シロツルタケ』(ハラタケ目テングタケ科テングタケ属ツルタケ変種シロツルタケ Amanita vaginata var. alba:但し、本種も生食すると中毒を起こす)『やハラタケ科』(ハラタケ目ハラタケ科 Agaricaceae)『などの白い食用キノコと間違える可能性があるので注意が必要である。例えば、シロオオハラタケ』(ハラタケ属シロオオハラタケ Agaricus arvensis)『とドクツルタケは見かけはほぼ同じであるが、ツボの有無、ひだの色などから見分けることができる。猛毒のシロタマゴテングタケ』(ハラタケ目テングタケ科テングタケ属シロタマゴテングタケ Amanita verna:一本食べただけで死に至るほどの猛毒を持つ。新潟県では「イチコロ」の地方名を持つ。ウィキの「シロタマゴテングタケ」を参照)『とは「水酸化カリウム溶液につけても変色しないこと」「柄にささくれが無いこと」などから区別できる』。『欧米では「破壊の天使」(Destroying Angel)という異名をもち、日本においても死亡率の高さから、地方名で「ヤタラタケ」』(矢鱈に多く命を落とすの意らしい)『「テッポウタケ」などとも呼ばれる。また、同じく猛毒のシロタマゴテングタケやタマゴテングタケ』(テングタケ科テングタケ属タマゴテングタケ Amanita phalloidesウィキの「タマゴテングタケ」によれば、『中毒症状はドクツルタケやシロタマゴテングタケ同様』に二『段階に分けて起こる。まず食後』二十四『時間程度でコレラの様な激しい嘔吐・下痢・腹痛が起こる。その後、小康状態となり、回復したかに見えるが、その数日後、肝臓と腎臓等内臓の細胞が破壊され劇症肝炎様症状を呈し』、『高確率で死に至る』とある)『とともに猛毒キノコ御三家と称される』。『毒性が極めて強いため、素人は白いキノコは食すのを避けるべきとする人やキノコの会もある』。『毒成分は環状ペプチドで、アマトキシン類(α-アマニチンなど)、ファロトキシン類(ファロイジンなど)、ビロトキシン類、ジヒドロキシグルタミン酸などからなる』。『その毒性は』、一『本(約』八『グラム)で』一『人の人間の命を奪うほど強い。摂食から』六~二十四『時間でコレラ様の症状(腹痛、嘔吐、下痢)が起こり』、一『日ほどで治まったかに見えるが、その約』一『週間後には、肝臓や腎臓機能障害の症状として黄疸、肝臓肥大や胃腸からの出血などが現れる。早期に胃洗浄や血液透析などの適切な処置がされない場合、確実に死に至る』とある。私が朔太郎の「毒だけ」を本種ドクツルタケに同定比定したい理由は、まず後に出る「べにひめぢ」との差別化をするためだが、それ以上に本種が和名に「ドク」を持つこと以外に、森の中にぼうっと白くスマートに立ち上がるその姿(シロタマゴテングタケも同じではある)が、まさに女性的霊的妖的でしかも致命的猛毒を有するというところが如何にも朔太郎好みであるように思ったからである。御叱正を俟つ。

「へびだけ」「蛇茸」。ハラタケ綱ハラタケ目テングタケ科テングタケ属キリンタケ節ヘビキノコモド Amanita spissacea に同定比定したい有毒種。形状はウィキの「ヘビキノコモドキを見られたい。「蛇茸擬き」で、では「ヘビキノコ」はというと、これは同じテングタケ属キリンタケ Amanita excelsa の別名として確かにあるものなのであるが、「もどき」が毒なら、本家は大丈夫かと、ウィキの「キリンタを読んでみると、『可食だが』、『美味ではないとする文献、有毒とする文献が存在するため、食べることは避けた方がよい』とあるから、このキリンタケに比定してもよかろうか。ともかくもこちらも食べぬがよろしい。

「べにひめぢ」表記がおかしい。これは正しくは「べにしめじ」で(食用のシメジは本来はハラタケ目シメジ科シメジ属ホンシメジ Lyophyllum shimeji を指すが、流通では他種が含まれる。「しめじ」は「占地」「湿地」「占地茸」「湿地茸」等と漢字表記される。「べに」は「紅」)、これは別名として「ベニシメジ」の名を現在も有し、概ね一般人がイメージする毒々しい色の毒茸として、後掲するベニテングダケとともに定番とも言える、ハラタケ目ベニタケ科ベニタケ属ドクベニタケ節ドクベニタケ Russula emetica と完全同定してよい。但し、これはその見た目の割には毒性は前二者と比較すると低い。ウィキの「ドクベニタケによれば、『夏から秋に様々な森林下に発生する菌根菌。傘は赤からピンク色。雨などによって色が落ち、白くなっていることもある。傘の表面が皮状になっていて容易にむくことが出来る。ひだは白色。肉は白色でとても辛く無臭。硫酸鉄(Ⅱ)水溶液と反応し』、『ピンク色に変色する。柄は白色。有毒。毒成分はムスカリン類、溶血性タンパク。本種は類似種が多いので同定が難しい』。『毒キノコの識別法の誤った俗説として、縦に裂ければよい、派手な色のものは有毒などとするものが生じた背景にはドクベニタケの存在が大きかったと言われている。これはドクベニタケが、子実体が球状細胞から構成されていて裂こうとするとぼろぼろ崩れてしまうベニタケ科』(Russulaceae)『のキノコであること、また赤やピンクといった目立つ色をしていること、さらにいかにも毒キノコ然とした刺激に富んだ味に起因する。実際には毒キノコの大半はベニタケ科以外の科に属しているので容易に縦に裂け、ベニテングタケ』(テングタケ属ベニテングタケ Amanita muscaria:童話の「ドクキノコ」のイメージ・チャンピオンであるが、実は毒性はさほど強くない。但し、近縁種に猛毒種があるのでこれも手を出してはいけない)『などを除くと』、『地味な色のものが普通であり、味もむしろ美味なものがしばしばある』。『毒成分はムスカリン類、溶血性タンパク。旧い文献などでは、不食(毒はないが、食べられない)として記載されているものがあるため』、『注意』が必要。『味は辛味があり、食感はぼそぼそとしている。スペインでは辛い味付けの料理に利用されている。外観が非常にそっくりな食用キノコに、ヤブレベニタケ』(ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属ヤブレベニタケRussula lepida 或いはベニタケ属の総称)『などが存在するため、安易に食べてはならない』とある。

 以下、初出を示す。

   *

 

  春がくる

 

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ、

そのにほひをかいでゐると氣がうつとりとする、

うれはしい、かなしい、さまざまのいりこみたる空の感情、

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ、

春がくるときのよろこびは

あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ、

ふるえる めづらしい野路の草ばな、

おもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音いろ、

なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて

春はしつとりとふくらんでくるやうだ。

春としなれば山奧のふかい森の中でも、

くされた木株の中でもうごめくみみづのやうに、

私のたましひはぞくぞくとしてきのこを吹き出す、

たとへば毒だけ、へびだけ、べにひめぢのやうなもの、

かかる菌(きのこ)の類はあやしげなる色香をはなちて、

かかる春に日をなやましくにほつてゐる。

そうして私の陰氣な心は、

春を愛するよころびにふるえてゐる、

ああ 春がくる、

春がくる、

春がくるときのよろこびは、

あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ、

そこにもここにも、

ぞくぞくとして吹きだす菌(きのこ)、毒たけ

また籔かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。

             (大正六年四月の作)

   *

「定本靑猫」にも改変再録するが、有意な変化はない。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 月夜

 

  月  夜

 

重たいおほきな羽をばたばたして

ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ。

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれてゆく生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ

この生物のもつひとつのせつなる情緖をみよ

あかるい花瓦斯のやうな月夜に

ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『詩歌』初出。初出との大きな違いはないものの(最終行の句点を除いて初出は全行末に読点を打つ)、標題は「月夜」ではなく、「深酷なる悲哀」である。特に問題なのは「羽」で、

初出では「羽(つばさ)」のルビ

があり、これは読みに於いてかなり重大な示唆を持つ。本詩篇は朔太郎遺愛のものであったらしく、後の複数の詩集に何度も再録されているのであるが、筑摩版全集校異を見ると、この後の、

大正一二(一九二三)年の詩集「蝶を夢む」では、「翼(つばさ)」

昭和三(一九二八)年第一書房版「萩原朔太郎詩集」では、「翅」(ルビなし)

翌昭和四年新潮社刊「現代詩人全集」第九巻では、「翅(はね)」

昭和一一(一九三六)年三月刊の「定本靑猫」では、「翅」(ルビなし)

同年四月刊の新潮文庫「萩原朔太郎集」では、「翅(はね)(但し、同書にはこの詩篇は「月夜」と「騷擾」の別題で二篇掲載されており、後者の「騷擾」では「翼(つばさ)」である)

となっている。以上の経緯を見る限りに於いて、本詩集「靑猫」では、朔太郎は、ここは「つばさ」と読ませるつもりであると考えるべきである(因みに、私はずっと「はね」と読んできたが、「つばさ」と読んでいた読者はまずいないと私は思う)。

 他に「情緖」が「感情」となっている点で相違が見られる。

 「花瓦斯」「はながす(ガス)」と読む(「ガス」は「gas」)。種々な形に綺麗に飾り立てて点火したガス灯のこと。装飾兼用の広告灯として明治前期から用いられた。小学館の「精選版日本国語大辞典」には明治一一(一八七八)年三月二六日附『東京日日新聞』の記事が例文に引かれており、『花瓦斯を設けたる裝飾のさまいと嚴かにして、且つ美麗を極めたり』(漢字を正字化した)とあり、平凡社「世界大百科事典」の「イルミネーション」の項には、この前年の明治十年六月の新富座再建時に点灯された『ガス灯のサインであった花瓦斯なども一種のイルミネーションである』とある。]

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 靑猫

 

  靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい女性をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の並木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

 

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一疋の靑い猫のかげだ

かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ

われの求めてやまざる幸福の靑い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『詩歌』初出。詩集標題詩篇であるから、殆んど変化はないが、特に初出と「定本靑猫」を以下に示す。まず、初出。

   *

 

  靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ、

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ、

すべてのやさしい女性を求めるために、

すべての高貴な生活を求めるために、

この都會にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ、

街路にそうて立つ櫻の並木、

そこにも無數の雀がさゑづつてゐるではないか。

 

ああ この大きな都會の夜に眠れるものは、

ただ一疋の靑い猫のかげだ、

悲しい人類の歷史を語る猫のかげだ、

わが求めてやまざる幸福の靑い影だ、

いかならん影をもとめて、

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに、

そこの裏町の壁にさむくもたれて、

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

   *

以下、「定本靑猫」版。但し、底本(筑摩版全集)の「並木」が「竝木」になっているのは編者による正字化処理によるものと断じ、「並木」とした。

   *

 

  靑  猫

 

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい娘等をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の並木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一匹の靑い猫のかげだ

かなしい人類の歷史を語る猫のかげだ

われらの求めてやまざる幸福の靑い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

 

   *

なお、本篇の「定本靑猫」での配置に就いては、前の
群集の中を求めて步く」の私の注を是非、読まれたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) その手は菓子である

 

  その手は菓子である

 

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな靑い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああ その手の上に接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだらう

指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ

その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。

かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指

すつぽりとしたまつ白のほそながい指

ぴあのの鍵盤をたたく指

針をもて絹をぬふ仕事の指

愛をもとめる肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚のうへに

かるく爪先をふれ

かるく爪でひつかき

かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指

おすましで意地惡のひとさし指

卑怯で快活なこゆびのいたづら

親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性

ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき

すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい

その手の甲はわつぷるのふくらみで

その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出は大きな改変はないが、細部の語句や表記に違いが散見されるので、以下に示す。

   *

 

  その手は菓子である

 

そのじつにかわゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとして品(しな)がよく

まるでちいさな靑い魚くづのやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああ その手のうへに接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだ

指と指との谷間に咲くこの不思議の花の風情はどうだ

そのにほひは麝香のやうで薄く汗ばんだ桃のやうだ

かくばかり美しくみがきあげた女性のゆび、すつぽりとしたまつ白のほそながいゆび

ぴあのの鍵盤をたたくゆび

針をもて絹をぬふ仕事のゆび

愛をもとめる男の肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚のうへに

かるく爪先をふれ、かるく爪でひつかき、かるくしつかりと押えつけるやうにするゆびのはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび、はげしく狡猾にくすぐるゆび

おすましで意地惡のひとさしゆび

卑怯で快活な小ゆびのいたづら

親ゆびの肥え太つたうつくしさとその暴虐なる野蠻性

ああ そのすべすべとみがきあげた一本の指を押しいただき

すつぽりとくちにふくんでしやぶつてゐたい、いつまでたつてもしやぶつてゐたい

その手の甲はわつぷるのふくらみで、その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうな意地のきたない無恥の食慾

     
 (最も美しき者の各部分に就いて、その一)

   *

「魚くづ」は「うろくづ」或いは「いろくづ」と読む。「(最も美しき者の各部分に就いて、その一)」という後書きが附されてあるが、私の知る限りではこれの「その二」は知らない。見つけたら、追記する。私はフェティシズムの極地としてのそれなら、断然、初出を支持する。特に多くの「指」を「ゆび」と平仮名書きしたところに視覚的な舐めるようなそれが実に効果的に現出している。因みに、「定本靑猫」でもやや手を加えて再録しているが、「接吻」に「きす」とルビを振ってみたり、句読点を加えたりという小手先の仕儀がいらいらとして目立ち、五十歳の詩人のフェティシュは、最早、老耄して萎えてしまっていると言わざるを得ない(六十四歳の川端康成が書いた「片腕」の方が遙かに生々として凄いと思う)。何? 「定本靑猫」版を示さないで、どうして批判するかって? いやいや、この〈批判行為〉は正当である。何故なら、冒頭注で述べた通り、朔太郎自身が「定本靑猫」で『此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と言っているのだから。見たけりゃ、青空文庫」定本で見りゃいい。面倒だから示さぬのではない。枯れびしゃってしまって示すにあまりに哀れだから、である。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 群集の中を求めて步く

 

  群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぶ

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか

みよこの群集のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない

ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いて行くことか

ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましくなるやうだ。

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで

どこへどうしてながれ行かうとするのか

私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい

浪の行方は地平にけむる

ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。

 

[やぶちゃん注:底本傍点「ヽ」の「ぐるうぶ」はママ。「ぐるうぷ」の誤植で、筑摩版全集もそう校訂し、後掲する通り、萩原朔太郎自身が「定本靑猫」で修正している。大正六(一九一七)年六月号『感情』初出。初出は最終行が、

ただひとつの悲しい方角をもとめるために。

となっている点で大きく異なる。私はぼかしたメタファーより、初出形の顕在的な絶望への傾斜の方が好みである。まあ、孰れにせよ、先行する「さびしい人格」に強烈な自己同一性を覚えてしまった私のような読者には、小規模なダルな都会偏愛の二番煎じの感は拭えない。

 本篇は後の詩集「定本靑猫」(昭和一一(一九三六)年版畫莊刊)で以下のように改作されて載る(筑摩版全集に拠る)。改変部に下線部を引いた(誤植訂正を含み、語句カット・字空け挿入の場合は当該行全体に下線を引いた)

   *

 

 群集の中を求めて步く

 

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居るのをもとめる

群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ。

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ。

ああ 春の日のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。

みよ この群集のながれてゆくありさまを

浪は浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみとみなそこの日影に消えてあとかたもない

ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影[やぶちゃん注:この前にあった「ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも步いて行くことか」の一行をカットしている。]

たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは淚ぐましい

いま春の日のたそがれどき

群集の列は建築と建築との軒をおよいで

どこへどうしてながれて行かうとするのだらう。

私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影。

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい

もまれて行きたい。[やぶちゃん注:この前にあった二行『浪の行方は地平にけむる/ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。』をカットし、前行の最後をリフレインする形に変更。]

   *

七行目の「おほきな群集の中にもまれてゆくのは樂しいことだ。」は呼応の齟齬修正として修辞上、正しい。既に述べたように、小手先のエンディング改変は私は気に入らぬ。なお、「定本靑猫」には全体の詩篇の組成コンセプトに、特別な配慮がなされており、本詩篇の後に、「ホテル之圖」(右から左書き)というキャプションを持つ版画(私は作者不詳)が配され、その下半分に、散文詩が掲げられ(昔、版画電子化ていので参照されたい)、それを介した後に、本詩集にも載る「靑猫」がごく一部を改変されて載るのである。この配置は〈ダルな都会詩人たち〉の彼らにしか判らない(と思い込んでそれを特権としている)〈都会の憂鬱を過剰に演出する順列装置となっていることがあからさまに判ってくる。私はこの「定本靑猫」の版画群と添えられた散文詩が、最初に出逢った中学時代から、好きで好きでたまらない(特に「停車場之圖」。同じく画像散文詩電子てい)のであるが、ここに関しては、今回、この操作を知り、如何にもなそのやり口には、多少、鼻白む気がしたことを言い添えておきたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 强い腕に抱かる

 

 い腕に抱かる

 

風にふかれる葦のやうに

私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる

女よ

おまへの美しい精悍の右腕で

私のからだをがつしりと抱いてくれ

このふるへる病氣の心を しづかにしづかになだめてくれ

ただ抱きしめてくれ私のからだを

ひつたりと肩によりそひながら

私の弱弱しい心臟の上に

おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ

ああ 心臟のここのところに手をあてて

女よ

さうしておまへは私に話しておくれ

淚にぬれたやさしい言葉で

「よい子よ

恐れるな なにものをも恐れなさるな

あなたは健康で幸福だ

なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません

ただ遠方をみつめなさい

めばたきをしなさるな

めばたきをするならば あなたの弱弱しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ

いつもしつかりと私のそばによりそつて

私のこの健康な心臟を

このうつくしい手を

この胸を この腕を

さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『感情』初出。初出標題が「い心臟と肉體に抱かる」である以外は、特に有意な異同は認められない。]

2019/01/07

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 沖を眺望する

 

  沖を眺望する

 

ここの海岸には草も生えない

なんといふさびしい海岸だ

かうしてしづかに浪を見てゐると

浪の上に浪がかさなり

浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ

ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ

空にうかべる島と船とをながめ

私はながく手足をのばして寢ころんでゐる

ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ

沖に向つて眺望する。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年二月号『感情』初出。短詩で表現も至って当たり前乍ら、私の偏愛する一篇であり、私の心の中では最後の「沖に向つて眺望する」が何度も二十代の時からリフレインし続けてきたものである。初出とは表現の微妙な変異がある。やはり私のそれを電子化した古いテクストを参照されたい。私はこの詩の「ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ」という一行を読むにつけ、朔太郎満二十七歳(大正二(一九一三)年四月製作)の折りの自筆自選の手作りの歌集「ソライロノハナ」に記された、エレナ幻想とも称すべき大磯ノ海平塚を思い出すのを常としている(「ソライロノハナ」の中では「二月の海」という「一九一一、二」のクレジット(明治四十四年)を添えるパートが、この二章から構成されている)。リンク先はやはり孰れも私の古い電子テクストであるが(今回、正漢字表記をやり直しておいた)、「ソライロノハナ」自体がまず普段、読まれることの少ないものであるから、未読の方は、是非、読まれたい。

萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 寢臺を求む

 

  寢臺を求む

 

どこに私たちの悲しい寢臺があるか

ふつくりとした寢臺の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか

私たち男はいつも悲しい心でゐる

私たちは寢臺をもたない

けれどもすべての娘たちは寢臺をもつ

すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ

さうして白い大きな寢臺の中で小鳥のやうにうづくまる

すべての娘たちは 寢臺の中でたのしげなすすりなきをする

ああ なんといふしあはせの奴らだ

この娘たちのやうに

私たちもあたたかい寢臺をもとめて

私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。

みよ すべての美しい寢臺の中で 娘たちの胸は互にやさしく抱きあふ

心と心と

手と手と

足と足と

からだとからだとを紐にてむすびつけよ

心と心と

手と手と

足と足と

からだとからだとを撫でることによりて慰めあへよ

このまつ白の寢臺の中では

なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ

なんといふいぢらしい感情のためいきだ。

けれども私たち男の心はまづしく

いつも悲しみにみちて大きな人類の寢臺をもとめる

その寢臺はばね仕掛けでふつくりとしてあたたかい

まるで大雪の中にうづくまるやうに

人と人との心がひとつに解けあふ寢臺

かぎりなく美しい愛の寢臺

ああ どこに求める 私たちの悲しい寢臺があるか

どこに求める

私たちのひからびた醜い手足

このみじめな疲れた魂の寢臺はどこにあるか。

 

[やぶちゃん注:大正六(一九一七)年四月号『感情』初出。有意な異同は認められない。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)

 

Tumi

 

すゝみだか  【和名須々美太加

 つみ     或云豆美】

雀鷂

        雀𪀚【ゑつさい】

       【和名悦哉】

△雀鷂乃鷂之屬翅彪橫如卷成者名藤黑彪

雀𪀚 雀鷂之雄也其大如鵯共能捉雀小鳥

                  定家

    かたむねをなほかひ殘すゑつさいのいかにしてかは鶉とるらん

鶙鵳【和名乃世】 鷂之屬今人不畜用之捉鳥不及諸鷹也

 

 

すゞみだか  【和名、「須々美太加」。

 つみ     或いは云ふ、「豆美」。】

雀鷂

        雀𪀚〔(ヱツサイ)〕【「ゑつさい」。】

       【和名、「悦哉」。】

△雀鷂〔は〕乃〔(すなは)ち〕鷂〔(はいたか)〕の屬(たぐ)ひ。翅〔の〕彪(ふ)、橫に卷き成す者のごとくなるを、「藤黑の彪(ふ)」と名づく。

雀𪀚(ゑつさい)は 雀鷂(つみ)の雄なり。其の大いさ、鵯(ひよどり)のごとく、共に能く雀・小鳥を捉〔(と)〕る。

                  定家

    かたむねをなほかひ殘すゑつさいの

       いかにしてかは鶉とるらん

鶙鵳〔(ていけん)〕【和名、「乃世〔(のせ)〕」。】 鷂の屬。今、人、之れを畜用せず。鳥を捉(と)ること、諸鷹〔(しよよう)〕に及ばざればなり。

[やぶちゃん注:タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis gularis の他に、八重山列島固有亜種リュウキュウツミ Accipiter gularis iwasakiiが確認されている。「雀鷹」とも書く。ここは主文がそので、「雀𪀚(ゑつさい)」がそのである。ウィキの「ツミ」によれば、インドネシア・カンボジア・シンガポール・タイ・中国・台湾・フィリピン・ブルネイ・ベトナム・マレーシア・ラオス及びマーシャル諸島・朝鮮半島・日本に棲息し、夏季に中国『東部や日本、朝鮮半島で繁殖し、冬季は中』『国南部や東南アジアに南下して越冬する。日本では基亜種が温暖な地域では周年生息(留鳥)するが、寒冷地では冬季に南下(夏鳥)することもある』。全長はで三十センチメートル、で二十七センチメートル、翼開長は五十~六十三センチメートル、体重は七十五~百六十グラム。漢字表記の「雀」は『「小さい」の意で、和名はスズメタカが変化したメスに対しての呼称に由来する』(とか言って、この転訛過程、全然判らないんですけど! 信じ難い!)。『下面は白い羽毛で覆われる』。『眼の周囲は黄色』い。『幼鳥は上面が暗褐色、下面が淡褐色の羽毛で覆われる。胸部に縦縞、腹部にハート状、体側面に横縞状の暗褐色の斑紋が入る。虹彩は緑褐色。オスの成鳥は上面が青味がかった灰色、胸部から体側面はオレンジ色の羽毛で覆われる。虹彩は赤褐色。メスの成鳥は上面は灰褐色、下面には暗褐色の横縞が入る。虹彩は黄色』い。『平地から山地の森林に生息』し、『単独もしくはペアで生活する』。『食性は動物食で、主に小形鳥類を食べるが、爬虫類、小形哺乳類、昆虫なども食べる。漢字表記の雀はスズメも含めた小型の鳥類を捕食することにも由来し、英名』(Japanese sparrowhawk)『(sparrow=スズメ)と同義』。『繁殖期には縄張りを形成する。針葉樹の樹上に木の枝を組み合わせた巣を作り』四~六『月に』一『回に』二~五『個の卵を産む。メスのみが抱卵を行い、抱卵期間は約』三十『日。雛は孵化から約』三十『日で巣立つ』。『本来』、『ツミは、巣の半径』五十メートル『以内に侵入するカラスなどの捕食者に対し』、『防衛行動を行うことから、卵や雛の捕食を避けるためにオナガ』(スズメ目カラス科オナガ属オナガ Cyanopica cyana)『がツミの巣の周囲で繁殖することが多かった。だが』、『近年ではカラスの個体数が増加し、ツミが防ぎきれなくなったことから』、『カラスに対し』、『あまり防衛行動を行わなくなり、オナガがツミを頼りにすることが減ってきている』とある。

「かたむねをなほかひ殘すゑつさいのいかにしてかは鶉とるらん」よく判らん。片方の胸(或いは翼か)をひどく怪我しているのか?

「鶙鵳〔(ていけん)〕【和名、「乃世〔(のせ)〕」。】」うじゃうじゃ良安言って「ノセ」という和名の独立種がいるように書いているのだが、そんな名のハイタカの仲間は見当たらない。「和名類聚鈔」の巻十八「羽族部第二十八 羽族名第二百三十一」に、

   *

鶙鵳 「廣雅」云、『鶙鵳【「帝」「肩」二音。「漢語抄」云「乃世」。】]鷂屬也』。

   *

と、鷹匠辺りがダメな鷹を「ノセ」とか言っているように誤認したか、或いはそう、区別していたかして、独立種と誤認したものではなかろうか? 現行では単にハイタカの異名としている。鷹」では、雌より雄が小さいことから、『「兄(せう)」と稱す【和名、「勢宇」。「小(セウ)の字音のごとし。】」とあったし、」の項では鷂の雄を「兄鷂(このり)」としていた。「兄」は古語で「せ」である。「野」生のハイタカ類のちんまい弱そうな鷹狩には使えそうもない雄を「野兄」で「のせ」と呼んだのではあるまいか? などと夢想したりした。]

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)

 

Haitaka

 

はしたか    鷣【音淫】 負雀

はいたか   【和名波之太加俗云波以太加】

【音耀】

      
○兄鷂【このり】

セウ    【和名古能里】

 

△鷂似鷹而小者非鷹之雛別此一種也遍身如鷹多黑

斑腹有黃黑斑者有赤白交斑者又有胸腹灰赤色交黑

赤斑背純黑含光者皆能捉鳬鷺已下小鳥而鷙鴻鴈等

者少矣

兄鷂 鷂之雄也脚極細而易折能捉鶉已下小鳥最俊

 者捉鷺 又有丹兄鷂者毛色如塗丹

凡鷹以雌爲狩獵之用惟鷂雌雄共兼用尾州木曾山中

 及北國有之

                  定家

  はいたかの飛て落たる村草に駒打よせてひねりぬく也

  同じ秋渡るこのりはさもあらて雀鷹こそ餌ふたふになれ

 

 

はしたか    鷣〔(いん)〕【音「淫」。】 負雀

はいたか   【和名、「波之太加」。

        俗に云ふ、「波以太加」。】

【音、「耀〔(エウ)〕」。】

      ○兄鷂【「このり」。】

セウ    【和名、「古能里」。】

 

△鷂は鷹に似て、小さき者なり。鷹の雛に非ず。別に、此れ、一種なり。遍身、鷹のごとく、黑斑多く、腹に黃黑の斑有る者、赤白〔の〕斑を交じる者有り。又、胸・腹、灰赤色に〔して〕黑赤〔の〕斑を交へ、背、純黑〔にして〕光〔澤〕を含む者〔も〕有り。皆、能く鳬(かも)・鷺已下〔(いか)〕〔の〕小鳥を捉へ、鴻〔((ひしくひ))〕・鴈〔(がん)〕等を鷙〔(と)〕る者は少し。

兄鷂(このり) 鷂(はいたか)の雄なり。脚、極めて細くして折れ易し。能く鶉〔(うづら)〕已下の小鳥を捉〔(と)〕る。最も俊なる者は鷺を捉る。 又、「丹兄鷂(たんこのり)」といふ者有り、毛の色、丹〔(に)〕を塗りたるがごとし。

凡そ、鷹〔は〕雌を以つて狩獵の用と爲す。惟だ、鷂は雌雄共に兼用す。尾州・木曾の山中及び北國〔に〕之れ有り。

                  定家

  はいたかの飛びて落ちたる村草〔(むらくさ)〕に

     駒打ちよせてひねりぬくなり

  同じ秋渡るこのりはさもあらで

     雀鷹〔(すずめだか)〕こそ餌〔(ゑ)〕ふたふになれ

[やぶちゃん注:なぜかしら私の非常に好きな、タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisusウィキの「ハイタカ」によれば、『ユーラシア大陸の温帯から亜寒帯にかけての広い地域に分布して』おり、『日本では、多くは本州以北に留鳥として分布しているが、一部は冬期に暖地に移動する』。全長はで約三十二センチメートル、で約三十九センチメートル。『オスは背面が灰色で、腹面には栗褐色の横じまがある。メスは背面が灰褐色で、腹面の横じまが細かい』。『「疾き鷹」が語源であり、それが転じて「ハイタカ」となった。かつては「はしたか」とも呼ばれていた』(孰れも「疾」の訓の「早い」の「はし」の転訛であろう)。『元来』、『ハイタカとは、ハイタカのメスのことを指す名前で、メスとは体色が異なるオスはコノリと呼ばれた』「大言海」に『よれば、コノリの語源は「小鳥ニ乗リ懸クル意」であるという』。『低地から亜高山帯にかけての森林や都市部に生息する。樹上に木の枝を束ねたお椀状の巣を作る』。『食性は動物食で、鳥類や昆虫類などを空中または地上で捕食する』。一回で四、五個の『卵を産む』。『オオタカ』(タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis)『と共に鷹狩に用いられた』とある。グーグル画像検索「Accipiter nisusをリンクさせておく。

 

「鳬(かも)」広義のカモは、カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas の中でも、小型な種群を指す。

「鷺」広義にはサギ科 Ardeidae のサギ類を総称するが、ここはサイズが中型から小型のものに限られてくるので、はっきりとは言い難い。但し、サギ科コサギ属コサギ Egretta garzetta 辺りより小型の種群を指していると考えるのが妥当であろう。それでも成体は全長六十センチメートルにも達する。

「鴻〔((ひしくひ))〕」カモ科マガン属ヒシクイ Anser fabalis。全長七十八センチメートルから一メートルに達する

「鴈」広義のガン(「雁」)は先に示した広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科AnserinaeCygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称である。

「鶉〔(うづら)〕」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica。全長は約二十センチメートルで、翼開長でも九・一~十・四センチメートルである。のハイタカのターゲットの個体の大きさの限界値は頗る小さい。恐らくは、より体重が小さく、脚も細いから、襲う対象の全長がさらに三回以上も小さくなってしまうのであろうか。

「村草〔(むらくさ)〕」叢。

「雀鷹〔(すずめだか)〕」「雀鷂」とも書き、前項の「鷹」に既出。タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 

「餌〔(ゑ)〕ふたふになれ」意味不明。識者の御教授を乞う。]

萩原朔太郞 靑猫 (初版・正規表現版)始動 序・凡例・目次・「薄暮の部屋」

 

[やぶちゃん注:本書は大正一二(一九二三)年一月二十六日に新潮社より発行された。

 底本は所持する昭和四八(一九七三)年五月一日発行の「新選 名著複刻全集 近代文学館」(財団法人日本近代文学館刊行・新選名著複刻全集近代文学館編集委員会編集・株式会社ほるぷ出版製作)の「萩原朔太郞 靑猫 新潮社版」(アンカット装)を用いた。

 なお、加工データとして旧字旧仮名の「青空文庫」版(昭和五〇(一九七五)年五月筑摩書房発行「萩原朔太郎全集第一卷」底本・kompass氏入力・小林繁雄氏及び門田裕志氏校正)のテキスト・データ・ファイル(リンク先下方)を使用させて戴いた。ここに謝意を表する。但し、この「青空文庫」のデータは旧字旧仮名と名打っているが、「青空文庫」の表字制限基準のために、例えば、標題の「靑猫」からしてが「青猫」であるように、完全な『旧字』再現にはなっていない。さらに、参考データが底本とした筑摩書房版「萩原朔太郎全集」は初版の表記表現を同全集編集者が正当とする〈校訂〉(私は〈漂白消毒〉校訂と称している)したものであって、初版の「靑猫」そのものの再現ではない点にも注意せねばならぬ。

 以上から、私のこの初版の正規表現版(無論、字体によっては電子表記出来ないものがあり、完全とは言えぬのは無論である)は、ネット上にある「靑猫」の屋上屋のデータであるとは全く考えていない。私は既に、このブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」で『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版』を昨年完遂させているが、本電子化もそれと同じようなコンセプトとなろう。

 さらに、私も所持するその筑摩書房「萩原朔太郎全集第一卷」とも校合し、初出形との有意な異同等についても必要と判断したものは注で示す(実際には六年ほど前に幾つかの改変の激しい初出形は電子化しているので、リンクでそれを示した箇所も多い)。

 なお、萩原朔太郎は、後に版畫莊から昭和一一(一九三六)年三月に詩集「定本靑猫」を刊行し、その「卷尾に」で、『この書の中にある詩篇は、初版「靑猫」を始め、新潮社版の「蝶を夢む」第一書房版の「萩原朔太郎詩集」その他既刊の詩集中にも散在し、夫夫[やぶちゃん注:「それぞれ」。]少し宛詩句や組方を異にしてゐるが、この「定本」のものが本當であり、流布本に於ける誤植一切を訂正し、倂せてその未熟個所を定則に改定した。よつて此等の詩篇によつて、私を批判しようとする人人や、他の選集に拔粹しようとする人人は、今後すべて必ずこの「定本」によつてもらひたい』と述べてはいる。しかし、私は本電子化で〈萩原朔太郎という私の愛する詩人を真っ向から批判・批評しよう〉などというつもりは毛頭なく、だいたいからして、「靑猫」と「定本靑猫」とは詩集標題とは裏腹に、実際には初版「靑猫」とは全く異なる詩人自身による既刊詩集からの改作を含んだアンソロジーなのであり、「定本」と名乗ったからと言って、初版の詩集「靑猫」を無化し、否定する意図は萩原朔太郎にはないのは一目瞭然であると私は考えている。また、さらに言えば、萩原朔太郎の詩篇改変の中には有意に改悪と感じられるケースもままある(これは彼に限らず、総ての作家たちの宿命でもある)。されば、「定本靑猫」に採って、しかも有意の改作を施した初版「靑猫」所収の詩篇については、この「定本靑猫」を「定本」とせよという限定言辞としては無論、有効であろうからして、それらについては比較検討してみようとは思う。

 表記字体は底本の雰囲気を出すために主本文を明朝体とする(ゴシック太字が目次等で使用されているためでもある。英文は私の趣味でローマンとした)。文字のポイントや字配は、必要があれば、底本に従うようにしたが、ブラウザの不具合の関係上、必ずしも再現してはいない。また、ヴァーチャルに楽しめるように、画像で示すのがよいと判断した部分はそれを掲げた。ルビは後に同ポイント丸括弧で添え、傍点「ヽ」は太字に代えた。【西曆二〇一八年一月七日始動 藪野直史】]

 

Hakohyousi

 

[やぶちゃん注:箱表紙(箱の底で三本の大型クリップにより表紙寄りで接合されたもの)右から本体を挿し入れる形)。本詩集の装幀は総て著者に依る。左上部に、白ラベルに総て薄いブルーで、

 

猫   靑

版年三二九一曆西

Sakutaro-Hagiwara

 

とあり、二重枠(外側は太い罫)で囲んだものが貼り付け。右下中央寄りで、

 

 

とブラックで印刷されている。]

 

Hakose_2

 

[やぶちゃん注:箱の背。

 

靑 猫 詩集    萩

 

とブラックで印字。他の面には文字は無いので画像は省略する。]

 

Hontaihyousise

 

[やぶちゃん注:本体(パラフィン掛け)表紙と背(裏表紙は文字がないのでカットした)。黄土色のクロス装。箱と同じ文字のラベルが今度は右側上にブラックで印刷されて貼り付けられており(印字が同じなので電子化しない)、背は、

 

 靑 猫 詩集

 

である。]

 

Tobira