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2019/06/19

魚屋の金八さんは 伊良子清白

 

魚屋の金八さんは

 

魚屋(なや)の金八さんは

入札場(ふだば)の鍾馗

いつも高札

一とにらみ

 

魚屋(なや)の金八さんは

三年に片頰

船で神鳴り

稻光り

 

魚屋(なや)の金八さんは

敲けば鳴らう

意地じや負けまい

情(なさけ)で折れる

 

魚屋(なや)の金八さんの

商賣(あきなひ)は

伊勢は一圓

雜喉場(ざこば)の浪華(なには)

鯛の千疋

いつもうごかす

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年十一月三十日刊の『新日本民謠』(第一)に掲載されているが、底本全集の「作品年表」では初出はそれ以前の『新日本民謠』かとする。

「魚屋(なや)」「さかなや」であるが、その音の略ではなく、原義は「納屋」で、室町時代に海産物を保存するために海岸に設けられた納屋に基づくものである。

「入札場(ふだば)」漁港の競り場。

「鍾馗」中国の民間信仰の魔除けの神。俗説では、唐の玄宗が病中に鍾馗が悪鬼を退治する夢を見、鍾馗の図を呉道子に描かせたことから始まるという。本来は大みそかに鍾馗の図を貼って悪霊を祓ったが、その後、端午の行事に吸収され、本邦にもそれで伝わった。容貌魁偉にして黒髭で、右手に剣を握る。

「三年に片頰」「みとせにかたほ」と訓じておく。「三年に片頰」で「滅多に笑わない」の意。慣用句「男は三年(さんねん)に片頰(かたほお)」で「男は何時も笑っていると威厳が損なわれるから、滅多に笑わぬ方がよい」という意味で用いる。

「雜喉場(ざこば)」広義には小魚(雑魚)を始めとする大衆魚を扱う魚市場を言い、「雑魚場」などとも表記されるが(但し、「雑魚」は当て字で、「喉」は魚を数える数詞という。ただ、「うじゃうじゃといる小さな物」という意味の「じゃこ」が語源であって「雑喉」も当て字とする説もある)、ここは狭義のそれで昭和六(一九三一)年まで大阪府大阪市西区の旧靱(うつぼ)地区の西部(この中央附近。グーグル・マップ・データ)にあった「雑喉場魚市場」を指す。慶安・承応(一六四八年~一六五五年)の頃にかけてここに開かれた古い魚市場で、遠近から魚介類が集積し、天満(てんま)の青物市場とともにその名をうたわれた(以上は所持する一九八四年講談社学術文庫刊の牧村史陽編「大阪ことば事典」に拠った)。]

入江のある風景 伊良子清白

 

入江のある風景

 

入江のある風景――

リヤス式海岸地形の一角、

白い燈臺が君臨する。

蜑女(あま)の眼鏡は黑い。

海圖にある大松が、

今日は全幹を以て震搖する。

内灣は川のやうに、

陸地に侵入した。

何と光つた秋の空だ、

鷗の翼が燒失する。

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年九月一日発行の『女性時代』(第三年第九号)に前の「神島外海」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。

「リヤス式海岸地形」リアス式海岸。「rias」はスペイン語で「深い入り江」(「ria」で「入江」)の意で、スペイン北西部ガリシア地方の入り江の多い海岸地形に因む)浸食で多くの谷の刻まれた山地が、地盤沈降又は海面上昇によって沈水し、複雑に入り組んだ海岸線を形成したものを指し、本邦では三陸海岸・志摩半島・若狭湾などが代表的である。]

神島外海 伊良子清白

 

神島外海

 

どうしてこんな景色があるか。

靑い髮の海が食ひちぎつたのだ。

危巖亂立、目もはるかに續く。

波の手が白く閃めく。

ど、ど、どーん、ど、ど、どーん、

ひつきりなしの釣瓶打だ。

天地廓寥、ただ響。

この沸えくりかへる坩堝(るつぼ)が、

がらんどうの中でつぶやく。

灰色の退屈が、

霧のやうに降るではないか。

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年九月一日発行の『女性時代』(第三年第九号)に次の「入江のある風景」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白、満五十五歳。年初より歌誌『白鳥(しらとり)』への短歌の投稿が定期的となり、十月からは『鳥人』で毎号短歌評も手掛けるようになった。十二月四日、佐藤惣之助が来訪、一泊している。

「神島」既出既注

「廓寥」「くわくれう(かうりょう)」は「広いだけで何もなくて寂しい様子・なんとなく寂しいこと」を謂う。]

2019/06/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(39) 「池月・磨墨・太夫黑」(6)

 

《原文》

 正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十數處ノ產地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虛誕ナリ。虛誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルべシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歷史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸着ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、【馬洗川】筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。【駒形神】東國ニテハ武藏橘樹郡城鄕村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戶アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘リ出ス。觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ幸館(カウダテ)ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(ジヤウキ)ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳說ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飮ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。【山王】胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。【馬頭觀音】又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。【橋ノ忌】此地ノ古傳ニテハ、池月ハ鄰村足柄下郡酒勾(サカワ)村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳說アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新タニ石ヲ立テヽ之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙(アブミ)ケ谷(ヤツ)アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字新居見(ニヰミ)、【馬塚】竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ說ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、【馬ノ首】百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。【片割シドメ】武州都築郡都岡(ツヲカ)村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徵ナリ。

 

《訓読》

 正史・演義の卷々を飜(ひるがへ)し見るも、池月・磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。從ひて、以上、二十數處の產地なるものは、其の何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は單に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之れを觀ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之れを比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、數ケ處に生れて、數ケ處にて死すと云ふことに歸着す。神變、驚くに堪へたり。池月のごときは、中國に老死し、或いは、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、【馬洗川】筑後三井(みい)郡の内、舊御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ處にも、之れを埋めたりと云ふ古塚あり〔「筑後地鑑」〕。此の邊りの地は佐々木高綱が宇治川の戰功に因りて封ぜられしと云ふ七百町[やぶちゃん注:約七平方キロメートル。]の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と稱する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり〔「筑後志」〕。【駒形神】東國にては、武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として將軍より拜領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と稱せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戶あり。曾つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。觀音堂の莊司橋は亦、池月を洗ひたりと稱する故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)には、藥師堂の側に生月塚ありて、梵文(ぼんもん)[やぶちゃん注:梵字の種子(しゅじ)。]を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此の地に埋めらると云ふ傍證無き限りは、以前は只だ名馬塚と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り傳へしならんと、前代の地誌家も之れを危みたり〔「利根川圖志〕」。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚は、今も之れを池月の墓とせずんば、止まざる人、あり。傳說に曰く、「池月、曾つて病ひす、當時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き來たりしが、其の人、死して、有らざりければ、馬も終に此の地にて果てたり。同村大字本莊(ほんじやう)には病馬の飮みしと云ふ泉あり。之れを「池月の水」と稱す〔「阪田郡誌」下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」・「首塚」と稱へたり。【山王】胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之れを山王社に祀れり。塚の上には松あり。【馬頭觀音】又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭觀音」と名づけ、此れは又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。【橋の忌(いみ)】此の地の古傳にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾の鎭守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる處にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此の橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき〔「相中襍誌(さうちゆうざつし)」〕。磨墨塚の尾張に在ることは、前に之れを述ぶ。首府の南郊、荏原郡馬入村に於ても、小田原北條時代の舊領主を梶原氏と稱せし爲るなるか、同じく摺墨塚の傳說あり。源太景季、愛馬を大澤に乘り入れ、馬、死して、之れを塚に埋づむと云ふこと、全く馬引澤の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す[やぶちゃん注:碑を刻んだ。「勒」には「轡」の意味もあるのでこれを縁語的に使ったものであろう。]。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或いは、此の馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此の地に至ると云へり〔「通俗荏原風土記稿」〕。阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)、【馬塚】竝びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて眞僞の爭ひあり。或いは、此の塚の所在に由り、義經行軍の路筋を證せんとする人、ありき〔「阿州奇事雜話」三〕。然るに、此の馬の壽命は、猶ほ、十數年長かりし、と云ふ說は頗る有力なり。磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一黨討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或いは、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之れを斬り殺したりとも傳へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此の馬が終りを取れりと云ふ村ありて、【馬の首】百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の齒の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。【片割(かたわれ)しどめ】武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川の岸に、「片割しどめ」と稱して、年々、花葩(はなびら)[やぶちゃん注:花弁(はなびら)に同じい。]の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此の地に來たりて、彼の花を蹈みてより、此くのごとき花の形となると云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。石と花との差こそあれ、此れも名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之れを粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

[やぶちゃん注:「演義」もとは中国で歴史上の事実を面白く脚色して俗語を交えて平易に述べた小説の類を指す。

「筑後三井郡ノ内、舊御原(みはら)郡ノ馬洗川」個人サイトと思しい「福岡史伝と名所旧跡」のこちらの「【池月の塚】(小郡市八坂)」に、『寿永二』(一一八三)年、『源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した』。「源平盛衰記」に『よると、義 仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら』、『両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)』。『この村の古老の言い伝えによると』、『佐々木高綱はその後』、『平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そして』、『ここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい』、『一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている』。『「池月」は』、『青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるが』、『はっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸』(一・四六メートル)『あり、大きくて逞しく、性質』、『強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかか』った『とも言われている』。『塚のそばに、梵字』(キリーク(阿弥陀如来)か?)『を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を』馬洗川『と言い、又』、『馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである』『(昭和五十七年二月四日』『小郡市教育委員会』『小郡市郷土史研究会』『「名馬池月塚」案内板より』)とあって、『写真は』(リンク先参照)『佐々木高綱が池月に跨り』、『何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川で』、『そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれてい』るとあり、また、現在、『「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせて』貰うことになるので、『見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよい』とされ、『「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るよう』だが、『その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極』く僅かなようであり、こ『この「名馬池月塚」も産地としてではなく』、『池月の終焉の地として紹介されて』おり、柳田國男が言うように、『この鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれ』ないとされつつ、ただ、『残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっ』ているとする。また、『ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで』、『久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南』五百メートル『の地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されて』ある、とある。ここに出る福岡県小郡(おごおり)市八坂にある「小郡池月苑(おごおりいけづきえん)」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。西側に老松神社があり、その西に接して小川があるので、これが「馬洗川」であると断じてよい。

「武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山」「駒形社」神奈川県横浜市港北区鳥山町のここに「名馬生唼(池月)の墓」として辛くもポイントされており、小祠も現存する。リンク先のサイド・パネルの個人の撮影になる画像を見ると、扁額に「馬頭觀世音」とある。サイト「散歩日記」の「馬頭観音堂(名馬池月の墓)」に堂(祠)内部の明瞭な画像が載り(今も供養がなされている様子がよく判る)、『佐々木高綱が駆っていた名馬「池月」(生唼)の墓として、霊を慰めるために建立された駒形明神が起源と伝わる「馬頭観音堂」』とあり、『この側には、佐々木高綱が建立した「鳥山八幡宮」や「三会寺」があり、また高綱の館もあったと云われて』おり、『「池月」を祀っていると云われる場所は(特にその発祥・由来について)日本各地にあるようですが、「最後の地」(お墓)ということならこちらで確定しているようです。現在は「馬頭観音堂」として、小さな祠が残されているのみとなっています』とある。「祠の傍らに」「厩に用ゐし井戶」とあるが、それは現認出来ない(祠の前方左に説明板があるが、老朽化して下半分が欠損しており、サイトの画像の撮影者も判読出来ないとしている。民家の角地であるから、或いはその個人宅地内に痕跡はあるのかも知れない)。

觀音堂の莊司橋」現認出来ない。

「下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)」「藥師堂の側に生月塚あり」現在の茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)幸主(こうしゅ)に薬師堂が現存する。また、ウィキの「幸主名馬尊」(こうしゅめいばそん)によれば、この幸主地区内には、『鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季』、二『人の陣屋の跡として伝えられている』とあって、『後に村人』が『それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田』(幸主の西北。ここ)『に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている』ともあった。「五霞町」公式サイト内の「幸主名馬尊」によれば、『宇治川合戦』後、『生唼(いけづき)』は、『幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため』、『塚をつくり、のちに拝殿が建立され』、『名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした』ともあったが、磨墨を祀った方の記載はなく、個人ブログ「小さなまちの夢」の「幸主名馬尊」によると、『「する墨の池」は、五霞町小福田に約』三千『平方メートルの沼地で、大正』九(一九二〇)『年頃まであったが、現在は干拓して水田になっている』とあり、どうも磨墨を祀ったそれは現存しないようである。なお、この奇体な石碑であるが、個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「幸主名馬尊(五霞町幸主)」に、薬師堂の『裏に回ると、塔があるが、こちらが名馬尊の御本体なのか』? 『そして石塔の前の石仏は馬頭観音だろうか』? として、頭部から明らかに馬頭観音と比定出来る石仏と、その背後に建つ巨大な石造物(形状は確かに類を見ない奇体なものであり、碑面上部には確かに梵字らしき陰刻が認められる)の写真が添えられてある。引用元である江戸末期の医師赤松宗旦著した利根川中下流域の地誌(安政二(一八五五)年序)「利根川圖志」の巻二に載る「生月塚」とする石碑と同じ形であるから、これで間違いない。本文の「五ヶ村島」の最後に赤松は(所持する一九三八年岩波文庫刊柳田國男校訂のそれに拠る)、

   *

幸舘村に生月の塚あり。下に載す。(生月といふは信(う)けがたし。されど古駿馬の塚なるべし)。

Meibaduka

   *

と記す。画像も同じ岩波文庫版の画像をトリミングして示した。図の右にあるキャプションは上から下へ、

幸舘村藥師堂
 生月塚

栗橋隆岩寺領

惣高三尺四寸五分 高二尺二寸
笠石前幅一尺九寸 奥行尺六寸

で、全体の高さが一メートル四センチメートル弱、笠を除いた本体部が六十七センチメートル弱。笠石は前方の幅が五十七・五七センチメートル、奥行き(本体部であろう)は四十八・四八センチメートルとなる。

「近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚」滋賀県長浜市常喜町(じょうぎちょう)。塚は現存しないか。なお、「坂田郡」が正しい。「阪田郡」という表記は明治期に突如、有意に現われたもので、どうもこれは「坂」の字の正字を「阪」と誤って使用したためらしい。

「同村大字本莊(ほんじやう)」恐らく、常喜町に北で隣接する滋賀県長浜市本庄町(ほんじょうちょう)のことである。

「池月の水」現存しないか。

『相州足柄上郡曾我村大字下大井」神奈川県足柄上郡大井町下大井。以下に記される通り、複数のランドマークを持つにも拘わらず、ネットには全く掛かってこない。総て残存しないというのはちょっと考え難いのだが。

「鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾」神奈川県小田原市酒匂。酒匂川河口の海に接した左岸。下大井のある曾我村とは三キロメートル強しか離れていないので近隣ではある。但し、狭義の「鄰村」、所謂、「隣り村」ではない。間に少なくとも「上府中村」「下府中村」「田嶋村」等が挟まっている。私がしばしばお世話になっている優れものの、近現代地図の対比が見られる埼玉大学教育学部の谷謙二(人文地理学研究室)Leaflet版の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを参照。

「僅かの溝川の石橋」上記に最後の比較地図に現在の酒匂堰が既に小流れとして存在しているから、この流れは江戸以前にあったと考えられ、位置的には当該マップのこの辺りが想定出来るのではないかとも思われる。

「荏原郡馬入村」不詳。しかしこれ、「馬込村」の誤りではあるまいか? 現在の東京都大田区の馬込地区である(ここは旧荏原郡である)。塚の正確な位置は不明だが、少なくとも同地区の南馬込三丁目十八番二十一号のここ(グーグル・ストリートビュー)に、明治三三(一九〇〇)年に馬込村の人々によって建てられた碑が現存しているからである(「大田区」公式サイトのこちらにその記載が有る)。「新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す」とあるが、本書の初版は大正三(一九一四)年刊である。これは正しく「近年」であろう。

「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」南馬込四丁目に「鐙坂」がある。サイト「坂マップ」のこちらに、『大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった』。『坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという。鐙谷の地名から名づけられたものという』(『大田区の標識より』)とある。先の比のある位置の僅か真東四百メートル位置である。

「阿波」「勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)」「竝びに海岸の赤石と云ふ里」徳島県小松島市新居見町(今、「徳島乗馬倶楽部」が地区内にある)並びにそこから僅か四キロメートル東南東に離れた徳島県小松島市赤石。と言うかねぇ……この新居見町と赤石の間のド真ん中にある、小松島市芝生町宮ノ前には、既出既注だけど、池月が石に化したとされる天馬石があるだけどなぁ? 以前にも引いたことがある個人ブログ「awa-otoko’s blog」の、「磨墨の天馬石(小松島 田野)」を見ると、ここにそれ(ブログ主がここを田野(ちっちゃな宮ノ前の南東の、広大な町域)とするのは旧郡の広域地名)がガッツリと書かれてあって、それに新居見を対比して別に掲げてある。まんず、そこたらじゅうにあるわけね! ただね、気になったのは、「山中に各々」でね、現在の赤石地区は、まさに柳田國男も言っている通り、完全な海岸端で「山中」の「山」がない(西橋の川の左岸で丘陵の麓がかかるだけ)わけよ。

「百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕」次の次の「磨墨ト馬蹄硯」で図像附きで出る。見易い画像を既に用意してある。お楽しみ!

「しどめ」バラ目バラ科ナシ亜科ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica。ボケ Chaenomeles speciosa の仲間。本州・九州の山林や山裾に自生する落葉小低木。早春にボケと似た花が咲く。ボケの代用として果実を鎮痛・咳止め・利尿に、果実酒を疲労回復・強壮などに用いる。

「武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川」現在の神奈川県横浜市旭区内の、今宿地区と二俣川地区の境となると、「今昔マップ on the web」ではこの中央辺りが候補となろうか。]

やれ買はう、それ買はう 伊良子清白

 

やれ買はう、それ買はう

 (小濱懷古)

 

やれ買はうそれ買はう、諸國は來るし

世間が明(あか)るていつも春

きけよ昔の小濱(をはま)の浦は

黃金(きん)の瓦が光つてた

 

浦は兩浦ふところ湊

冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中

千石船があたたまりによ

小濱民部(をはまみんぶ)(一)の森したによ

 

東京通ひの船頭の泊(とま)る

宿は伽羅の橋渡り

成田屋擬(もど)きで緞子(どんす)に胡坐(あぐら)よ

何虞でも夜(よ)つぴて風呂がたつたよ

 

所娘がやの字の帶で

お母(か)ん往(い)て來る提燈點けな

金魚のやうな花魁(おいらん)が

古市(ふるいち)(二)からもきてゐたよ

船に殘るは船靈御精靈(ふなだまごしやうりやう)

灘(なだ)の新菰(しんこも)鏡を拔いて

だだらあそびの風待(かざま)ちよ

戀の中宿東京は遠いしよ

 

山が枯れると帆檣(はしら)の林

雪の下にも歌舞の里よ

海からあがる日天(につてん)樣でも

揚屋(あげや)の大戶はあけられまいよ

 

昔々の赤鉢卷で

も一つ踊ろかそもそもの起りは

伊達の若衆の鞘當(さやあて)で

大船頭(おほせんどう)の頭(あたま)も剃つたよ

 註(一) 室町時代の地頭の名、今も旧址に
    お臺所松あり。

  (二) 冬は山田古市の遊廓より妓女多く
    來りて加勢せりといふ。

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年十二月一日に推定された『新日本民謠』(第二年第二号。茨城県水戸出身で東京主計学校卒の口語自由詩詩人大関五郎(明治二八(一八九五)年~昭和二三(一九四八)年:大正一〇(一九二一)年頃、「詩話会」の機関誌『日本詩人』に作品を発表、後に童謡や新民謡に転じ、北原白秋や野口雨情らの協賛で昭和六(一九三一)年に雑誌『新日本民謡」を刊行。詩集に「愛の風景」、民謡集に「煙草のけむり」など)の主宰した雑誌)に掲載。署名は「伊良子清白」。江戸以前の、当時、伊良子清白が診療所を構えていた鳥羽小浜(おはま)(現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう))の時代懐古詠。「帆檣(はしら)」の「はしら」は二字へのルビ。

「冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中」「南受(したう)け」は既出既注の南風のことで、「溫室(むろ)の中」はそのお蔭で冬でもとても暖かなことの比喩。

「小濱民部(をはまみんぶ)」答志郡小浜村に本拠を置き、伊勢湾に勢力を持っていた海賊の頭目で、戦国時代から安土桃山時代にかけては伊勢国司の北畠家に属した海賊的集団「小浜衆」の内、知られた小浜景隆(天文九(一五四〇)年~慶長二(一五九七)年:志摩国出身で、後に武田信玄・徳川家康に仕えた水軍の将。通称は民部左衛門。伊勢守)は大型の軍船安宅船(あたけぶね)を所有し、北畠家の海賊衆を束ねていたが、織田信長の援助を受けて志摩国統一を狙った九鬼嘉隆に敗れ、伊勢湾を追われた(以上はウィキの「小浜景隆」に拠った)。

「伽羅の橋」「伽羅」は「きやら(きゃら)」。梵語の漢訳で、狭義には香木として有名な沈香(例えばアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha 等)の別名であるが、ここは高級材を用いた贅沢な橋の謂い。

「成田屋」もとは歴代の歌舞伎俳優市川団十郎及びその一門の屋号。代々、成田不動を信仰したのに由来するという。ここは、後に彼らが荒事を得意としたところから転じて、「江戸前の景気のよいこと・威勢のよいこと」の意となった、それの意。

「緞子(どんす)」経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。

「古市(ふるいち)」三重県伊勢市古市地区(グーグル・マップ・データ)。ウィキの古市(伊勢市)によれば、『参宮街道の、外宮・内宮の中間にある古市丘陵』部に当たる一帯で、『江戸時代以前は、丘陵にあるため』、『水利が悪く民家もほとんどなく楠部郷に含まれていたが、伊勢参りの参拝客の増加とともに、参拝後に精進落としをする人々が増加したことにより』、『遊廓が増え』、『歓楽街として発達し、宇治古市として楠部』(くすべ)『郷から分かれた』。『江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ、元禄』(一六八八年~一七〇三年)『頃には高級遊女も抱える大店もできはじめた』。寛政六(一七九四)年の大火では『古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の天明』(一七八一年~一七八九年)『頃には妓楼』七十『軒、遊女』千『人、浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れていたという』。『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場した』。『江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで娼家や酒楼が並び』、『江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓、あるいはさらに大阪の新町、長崎の丸山をたして五大遊廓の一つに数えられた。代表的な妓楼としては、備前屋(牛車楼・桜花楼とも呼ばれた)、杉本屋(華表楼とも)、油屋(油屋騒動で有名』『)、千束屋(一九の膝栗毛に登場』『)などがあった』。『明治期に古市丘陵を迂回する道路が整備され』るに伴い、『衰退し』た、とある。

「鏡を拔いて」「鏡」は形が古鏡に似ていることから酒樽の蓋を指し、これで祝宴で酒樽の蓋を槌で割り開くことを言う。

「揚屋(あげや)」江戸時代、客が置屋(おきや)から太夫・天神・花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のこと。

「鞘當(さやあて)」意地立てから起こる喧嘩を言う。ここは遊女絡みのそれ。「恋の鞘当て」がまさにそれを意味する語で、もとは遊里で一人の遊女を巡って二人の武士が鞘当てをする歌舞伎の題材から生まれた語である。

「お臺所松」現存しないようである。]

吐綬鷄の賦 伊良子清白

 

吐綬鷄の賦

 

七面鳥は飛ばぬ鳥ですが

笑ふ鳥です

また、歌ひ手です

希代の艶魔で

煤を朱にする羽根を持てゐます

古風な勇婦ですが

また、派手な近代女性です

老孃で肥滿家です

日光の健啖家です

吐綬鳥です

美しい肉の組紐を見せびらかします

 

巴峽や閩廣(びんくわう)の山中には

野生の七面鳥が棲むといひます

それは神話中の鳥です

あなたの家の主婦は

朝な朝な大空によびかけます

天使は靑銅色と黑色とを授けます

七面鳥は廢墟ですか

そうです、薔薇の谷です

七面鳥は爛れてゐますか

そうです、美は創痍(きづ)の一種です

七面鳥は春の鳥ですか

そうです、地上の太陽です

 

七面鳥は殺さないで下さい

   (お聽きなさい)

千一夜物語の美女の肉が

巨人の家の鍋の底で

黑焦げに成つたといひます。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三〇)年十一月一日発行の『女性時代』(第二年第十一号)に掲載。署名は「伊良子清白」。「創痍(きづ)」のルビはママ。

「吐綬鷄」ここはまずは、アメリカ合衆国・カナダ南部・メキシコに分布するキジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo の異名としてよかろう。和名「七面鳥」は、頭部や頸部の羽毛がない赤い皮膚が露出して発達した肉垂(にくだ)れが、興奮すると赤・青・紫などの色に変化することに由来する。羽色は暗褐色と暗緑色とからなり、金属光沢を有する。しかし、詩篇中、第二連で中国の山中に「野生の七面鳥が棲む」として語られるのは、キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopan で、全くの別種である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 吐綬雞(とじゆけい)(ジュケイ類)」を見られたい。ジュケイ類はインド北部・台湾・中国・ネパール北部・パキスタン北部・ブータン・ミャンマー西部に分布し、ジュケイ Tragopan caboti・ミヤマジュケイ Tragopan blythii・ハイイロジュケイ Tragopan melanocephalus・ヒオドシジュケイ Tragopan satyra・ベニジュケイ Tragopan temminckii がいる。ジュケイ類は♂の側頭部に角のように見える二つの肉質突起があり、頸部の青や黄の肉垂れも大きく膨らむ(但し、この肉質突起と肉垂れは通常は収縮しており、興奮すると見える)。羽色も緋色・褐色・灰色などからなり、白っぽい円形斑紋を多数有し、和名はこの円紋が勲章(「綬」は「勲章に付ける短い紐」のこと)のように見えることに由来する。

「巴峽」「巴猿」の語で知られる湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州巴東県(グーグル・マップ・データ)の長江の急峻な渓谷。所謂「三峽」の域内である。

「閩廣(びんくわう)」狭義には福建省南部、広義にはそこに加えて台湾・浙江省南部・広東省東部と西部・海南省などを含むところの、所謂、閩南語を使用する地域の旧名。

「千一夜物語の美女の肉が」「巨人の家の鍋の底で」「黑焦げに成つたといひます」ちゃんと読んだことがないので判らぬが、巨人が出てくるところからは、「ハサン・アル・バスリの冒険(第五百七十六夜~第六百十五夜)」辺りか。]

2019/06/17

はだかむすめ 伊良子清白

 

はだかむすめ

 (浮世繪風に)

 

はだか娘は

千兩持むすめ

はだかなれども

あや錦

 

はだか娘は

海の精

靑い波間を

分けて入る

 

はだか娘は

寶をあさる

海の都の

たまあさる

 

はだか娘と

眞珠の貝は

波にもまれて

珠となる

 

裸むすめは

人魚か

しぼる濡髮

日に曝らす

 

はだかむすめよ

いつまではだか

金の解きがみ

櫛一つ

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三〇)年六月一日発行の『女性時代』(第二年第六号)に掲載。署名は「伊良子清白」。]

若布採り 伊良子清白

 

若布採り

 

嶋の二月(ぐわつ)は

若布採(わかめと)り。

若布採る日の

寒凪(かんなぎ)に、

海はちらちら

雪催ひ。

わかめ苅るとて

鎌(かま)次(す)げて、

すげた鎌の刅(は)

船首(みよし)にひかる。

夜明け千鳥の

磯めぐり。

 

島の二月は

若布採り。

雪の降る日の

薄くらがりに、

つめたい覗(のぞ)き箱(はこ)

波が越す。

やんれ、波越す

船(ふな)ばたに、

あがる若布の

淺みどり。

淚(なみだ)垂(た)るやうな

うしほの雫。

 

島の二月は

若布採り。

山は南(した)うけ、

なぞえのほし場(ば)。

若布かけたよ、

日和雲(ひよりぐも)。

風も眼を持つ

繩のはし。

まだ如月(きさらぎ)の

日脚(ひあし)は早く。

わかめほす手の

やれさて忙(せは)し。

 註 覗き箱は四方を硝子張に密閉した龕灯がたの箱、

 海底を窺ふに用ふ。

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年一月に推定された『むれ星』(第四巻第二号。東京中央電話局発行の雑誌か?)に掲載。署名は「伊良子清白」。同年四月二十日の詩人協会編アトリエ社刊のアンソロジー「一九三一年詩集」に再録(但し標題は「若布採」)。底本では数字を除く総ルビであるが、五月蠅いので、私の判断で必要と感じた部分だけのパラルビとした。「すげた鎌の刅(は)」の「刅」(刃)は底本では右の点はない字体である。「なぞえ」はママ。

「鎌(かま)次(す)げて」「挿げる」「箝げる」で、「枘(ほぞ)に嵌め込む」の意。海底から立ち上るワカメの仮根部分から上を掻き採るために長い竿の先に鎌を装着した漁具のそれである。

「南(した)うけ」既注。南風の異名と採る。

「なぞえ」斜面。歴史的仮名遣は「なぞへ」が正しい。

「覗き箱は四方を硝子張に密閉した」正直、一読、変な感じがする。私も嘗つて、能登の狼煙(のろし)の漁師の栄螺獲りに同乗させて貰ってそれを使用したことがあるが(バケツ一杯獲れた)、ワカメ刈り等に用いる覗き箱は、四方が板張りで底だけが硝子張りになっていて、覗くこちら側は無論、何もないのが普通ではないか? 四方も硝子張りにしたのでは強度が低下して壊れ易くなるし、水中の四方部分が硝子張りである必要性は私は全くないと思うのだが? これが正しいと言われる方は御教授あられたい。

「龕灯がた」「がんどう」型。「強盗提灯(がんだうぢやうちん(がんどうぢょうちん))」のことであろう。銅板・ブリキ板などで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転出来る蝋燭立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えない。]

鳥羽小うた 伊良子清白

 

鳥羽小うた

 

伊勢でご參宮(さんぐ)二見をかけて

鳥羽の入江の島めぐり

  鳥羽はよいとこよい港

  いつもあかるい海の色

 

戀の港の土產の中に

磯のあわびの片おもひ

  鳥羽はよいとこよい港

  いつもあかるい海の色

 

お伊勢參りに鳥羽見てかんせ

海の鏡に月もさえ

  宿の庭先港につゞく

  町になでしこ咲いてまつ

 

志摩の磯邊に波かきわけて

海女の握る手波の花

  一度見せたや殿方に

  主(ぬし)と焚火(たきび)にゆるすはだ

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年一月に推定された『鳥羽のうた』(詳細書誌不詳)に掲載。署名は「伊良子清白」。底本では総ルビであるが、五月蠅いので、私の判断で必要と感じた部分だけのパラルビとした。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(38) 「池月・磨墨・太夫黑」(5)

 

《原文》

 池月ハ又四國ニ出ヅト云フ說アリ。其說ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳說ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或說ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡第拾(ダイジフ)村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戲レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。【馬長壽】老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歲ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、【池】昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鐮倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬共ノ池月ニヲサヲサ劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。【海邊ノ牧】九州ニ於テ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ說アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ產シタリト云フ明瞭ナル記錄アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルべシト云フ〔三國名勝國會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因緣シテ同ジ傳說ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述べントスル名馬草ノ記事ヲ錄スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黑白二駿ヲ併セ產シタリト云フ說アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲奴可嶽(ヌカダケ)村大字唐洲(カラス)ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。【妙見】二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。【馬蹄石】此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ簑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此如ク傳說スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルべシ。

 

《訓読》

 池月は又、四國に出づと云ふ說あり。其の說は、此の馬、最後に阿波の勝浦に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、「後太平記」の記する所にかゝる。「後太平記(ごたいへいき)」は諸君御信用御隨意の書なり。但し、此の著者、之れを知りたりしや否やは別として、此の地方にも、一、二、同種の傳說は存せり。阿波三好郡加茂村の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或る說に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛煉(たんれん)したるが爲めならん。【馬長壽】老馬となりて後、中國邊りにて休息し、三百餘歲の壽を以てつ終ると云へり〔「阿州奇事雜話」一〕。土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曾つて、此の國にて駿馬を長曾我部元親に獻ずる者ありし時、元親が詞に、【池】「昔、當國池村より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鐮倉に獻上せりと聞けども、此の馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと傳へたり〔「南路志」四十七〕。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名譽の地にして、海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧なりしがごとし。【海邊の牧】九州に於いて、一つには豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古來、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ說あり〔「豐國小誌」〕。薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此の牧にも、夙(つと)に池月を產したりと云ふ明瞭なる記錄あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ〔「三國名勝國會」所引「伊佐古記」〕。北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、「延喜式」にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因緣して同じ傳說の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ。對馬の島の牧に於ては、亦、黑白二駿を併せ產したりと云ふ說あり。同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり、治承[やぶちゃん注:一一七七年~一一八一年。]の昔は一つの池ありき。磨墨、此の池の岸に遊び、聲高く嘶くときは、其の聲、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田と云ふ處まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失禮なる位の名馬、池月、是れなり。池月の嘶く聲も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。【妙見】二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ會するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往來を名づけて「朝草夕草」と云ふ、とあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。【馬蹄石】此の石の表に奔馬の蹄の跡、數十あるは、磨墨が池田に往來する通路なりしが爲めなりと云へり〔「津島記事」〕。千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは餘りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦卷山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此くのごとく傳說するに至れりと云へば〔「日本周遊奇談」〕、何か深き仔細の存することなるべし。

[やぶちゃん注:「阿波の勝浦」現在の徳島県勝浦郡勝浦町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後太平記(ごたいへいき)」南北朝後期から室町・戦国時代まで扱う軍記物で、「太平記」の後を引き継いだ形を採っている。江戸前期の多々良南宗庵一竜著で、延宝五(一六七七)年刊。全四十二巻。史実的には信用度が低い。

「阿波三好郡加茂村の井内谷」徳島県三好郡東みよし町(ちょう)加茂

「名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺」徳島県名西郡石井町藍畑(あいはた)第十附近。寺は不詳。暴れ川「四国三郎」の異名で知られる大河吉野川の右岸。

「長曾我部元親」(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)戦国大名。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、本山氏を始めとする土佐の諸豪族を倒して勢力を得、国司家一条氏を追放し、天正三(一五七五)年、土佐を統一した。さらに阿波三好氏・讃岐香川氏・伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし、同十一年、四国全域を支配した。しかし、その前年から、たびたび織田信長に攻撃され、同十三年、遂に豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り、土佐一国を安堵された。その後、九州征伐・小田原征伐・「文禄・慶長の役」や朝鮮出兵に従軍して、国力を疲弊させた。領内では惣検地を行い、分国法「長宗我部元親百箇条」を定めたことで知られる。

「當國池村」『「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」』「土佐日記」は初めの方の「大湊」滞留中の一条。以下。

   *

七日(なぬか)になりぬ。同じ港にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、甲斐なし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、「池」と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃に擔ひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

  あさぢふの野邊にしあれば水もなき池に摘(つ)みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き滿ちて、船子(ふなこ)どもは、腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海さへおどろかして、浪立てつべし。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

この「池」については、一九七九年岩波文庫刊「土佐日記」の鈴木知太郎氏の注によれば、『南国市十市』(とおち)『の西部にある池』とする。これに從えば、これは現在の石土池(いしづちいけ)の前身に比定されているようである。既出既注であるが、この石土池の西方に現在の高知県高知市池地区が広がるのである。偶然であろうが、ここでこの日(事実に基づくと、承平五(九三五)年の一月七日)に宮中で行われる「白馬の節会」を想起しているのもまた、柳田國男の文脈の中で読むと異様に目を引く。

『三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる……」既出既注

「海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧」柳田國男はその牧を現在のこの附近に比定していることになる。

「豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山」大分県大分市佐賀関(国土地理院図)の先端にある山らしいが、確認出来ない。

「薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田」鹿児島県指宿市池田。池田湖湖岸北東部。

「肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月」長崎県平戸市生月島

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された。

『以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ』これは「甲子夜話続篇」の第之五十七の第十五条目の「信州望月驛、月毛馬の事」である。以下(所持する東洋文庫版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。柳田國男の言うのは後半であるが、前半も含めて電子化した。【 】は割注)。

   *

予、先年木曾路旅行のとき、信州望月驛に宿せしに、牽せし月毛の馬は旅宿に留ずと云て、從臣等がこまりしことを、頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]左右にて語り出せしに、往事は忘れしが、何(イカ)さまかゝることも有りし迚、彼是の書を見るに、今(イマ)世に流布する「木曾路道中記」には、

『望月のみまきの駒は寒からじ布引山を北とおもへば 西行 望月の馬は月毛たるゆゑに、所の者は今に月毛の馬をば飼ざる也。』。

是に據れば、今俗もかゝるゆゑにて有んが、その忌憚[やぶちゃん注:「はばか」。]る故をしらず。又「木曾路名所圖會」に云。

『望月衡牧(モチヅキノミマキ)【望月の驛の上の山を云。今牧の原といふ】〕、昔は例年敕有りて駒牽あり。是により牧に望月の名あり。苦は御牧七鄕とて此近邊みな御牧有りしと云。望月の駒は性よし。又望月の神の嫌ひ給ふよしにて、望月幷に七鄕の内鹿毛の馬を置ず。他所より來れるも、一夜も駐ることを許さずとぞ。』。

是にては又齊しからず。

又、予が城下に生月(イケヅキ)と云島あり。居城より三里程なり。此島の中に古來より牧ありて馬を畜ふ。邑人傳ふ。昔賴朝卿のときに出し名馬の生囑(イケヅキ)と稱せしは、この牧より產せし所の駒なりと。又この牧地には、以前より其駒間々嶽落(ダキオチ)して死せり【嶽落とは岸上より地に墜るを謂ふ。里俗岸を云て嶽と謂ふ】。今里人の所ㇾ云は、この島に名馬草と云へる草あり。牧馬これを食すれば必ず名馬を產(ウ)む。されどもこの草、危岸絕壁の閒にありて、これに下臨せざれば喰ふこと難し。因て馬これを喰んとして則ち墜つ。このこと厩吏の局には云及さゞれど、里人は皆これを傳ふ。又「盛衰記」佐々木高綱宇治川を先登せし條に、この生囑のことを屢々擧れども、何國の產なることは記さず。又このとき梶原が乘たる磨墨(スルスミ)と云し名馬は、駿河國の產なりと云こと、彼國に云傳へりと。生囑のこと何かゞなるべき。

   *

「同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり」長崎県対馬市上県町(かみあがたちょう)伊奈はここだが、近傍というのは曲者で、判らぬ。現地名では見出せない。

「奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田」これがもし、長崎県対馬市豊玉町(とよたまちょう)唐洲だとすると、直線で伊奈の南南西二十四キロメートル以上離れている。すみっこ氏のブログ「対馬 すみっこ」の「対州馬たいしゅうば・対馬馬つしまうま」、及び、三河馬氏のブログ『「日本在来馬」歴史研究会』の「Ⅲ:対州馬ー対州馬の伝説」を見ると、表記や謂い方に違いはあるものの、孰れも、麿墨の方を――上県町田の浜――とし、池月の方を――豊玉町唐洲の池田――としているように読めるので、この同定で問題ないと思われる。

「妙見山」伊奈と唐洲の間にそのような山は確認出来ない。参考までに、「(一社)対馬観光物産協会ブログ」の「独断と偏見の対馬の神社セレクション」によれば、二村の境でなく、完全に唐洲地区内の海辺にあるのだが、元嶋神社というのがあって、ここは別名を妙見神社と呼び、現在の祭神は素戔嗚命であるが、元は『「北辰妙見」=「北極星」、あるいは天の中心を意味する「アメノミナカヌシ」で』あったとある。なお、最後の注も参照されたい。

「朝草夕草」読み不詳。個人的には「あさくさゆふぐさ」と訓じたい。

「仁田村大字飼所(かひどこ)」長崎県対馬市上県町飼所。伊奈からは直線で南東六キロメートル前後の位置にある。

「峯村大字三根」対馬市峰町(みねちょう)三根(みね)。言っておくと、ここが実は伊奈と唐洲の中間地点に当たり、町の名からも、ここのどこかのピークが「妙見山」なのではないかと私は思っている。]

鳥羽小唄 伊良子清白

 

鳥羽小唄

 

   

伊勢で御參宮二見をかけて

鳥羽の入江の島めぐり

  鳥羽はよいとこよいみなと

  いつも明るい海の色

   

坂手菅島答志を越えて

七ツ飛び島阿古浦まで

   

三十六島大島小島

見えりやかくれるかくれりや見える

   

日和山から伊勢の海ながめ

吹くは春風眞帆片風

   

沖の神島伊良古も見えて

末の霞の遠州灘

   

昔語れば九鬼嘉隆よ

今も城山眞珠じま

   

海女の鮑採り荒磯埼で

玉のはだへが黑むやら

   

磯の焚火にあたるは海女よ

十歲二十歲波かきわけて

   

春の朝富士秋の夜の月を

鳥羽で見て來た樋の山で

   

町は千軒海には萬波

出船入船川となる

   十一

東、東京口、西、大阪口よ

うらは振分け鳥羽みなと

   十二

潮のみちひきそりや海の水

志摩の女は實がある

   十三

戀のみなとの土產の中に

磯の鮑の片思ひ

   

小濱鯛池千疋鯛が

はねてとびます水の上

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年一月十八日附『朝日新聞』三重版に掲載。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、この年、満五十四歳。この年の一月に鳥羽の短歌雑誌『白鳥』(歌人で朝日新聞記者であった宮瀬渚花主宰の『白鳥(しらとり)』に新作の短歌九首を載せ、十二月にも同誌に発表、以後、この白鳥を中心に短歌の創作発表が続けられることとなる。九月十六日には五女明が生まれ、十二月には三女千里が結婚している。また、この年の十二月二十三日に春陽堂から刊行された「明治大正文学全集」第三十六巻「詩篇」に、詩集「孔雀船」から「安乘の稚兒」「五月野」「鬼の語」「月光日光」「不開の間」「秋和の里」が再録されている。

「坂手」三重県鳥羽市の沖六百メートルの直近の、伊勢湾口にある三重県鳥羽市坂手町坂手島(さかてじま)。地元では坂手を「さかで」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菅島」「すがしま」。既出既注

「答志」三重県鳥羽市市答志町及び桃取町に属する答志島(とうしじま)。東西約六キロメートル、南北約一・五キロメートル。面積約七平方キロメートルで、鳥羽湾及び三重県内では最大の島である。位置は、前の「菅島」の地図で確認出来る。

「七ツ飛び島」「七つ飛島」に既出既注そこで私なり考証をしている。

「阿古浦」「あこうら」。これは「阿漕浦」(あこぎうら)で、三重県津市東部の、三重県津市阿漕町(あこぎちょう)津興(つおき)附近を中心とした、岩田川河口から相川河口まで単調な砂浜海岸で、春は潮干狩り、夏は海水浴に利用され、冬は海苔の漁場となる。嘗つては伊勢神宮の供物の漁場で、殺生禁断の海であった。昔、貧しい漁夫平治(平次)が病母のためにこの海で魚を漁ったために罰せられ、簀巻きにされて海に沈められたという物語は、謡曲・浄瑠璃に歌われてよく知られる。同地の柳山津興に彼の霊を祀る阿漕塚がある。南半分は「御殿場浜」とも呼ぶ。この地名は、後世、より古い万葉以来の歌枕で、和歌山県御坊(ごぼう)市野島(のしま)附近の海岸とされるものの、未詳である「阿古根の浦」と混同され、この漢字表記もそれによるものと考えてよい。

「日和山」三重県志摩市磯部町的矢。私は毎年取り寄せる「的矢牡蠣」とともに、大好きな壺井栄の、ここをロケーションとし名掌品「伊勢の的矢の日和山」を思い出すのを常としている(リンク先は有峰書店新社の写真附きの電子テクスト)。私は嘗つて牡蠣を食いに訪れたが、タクシーの運転手に「日和山」と聴いても判らなかった。今回、再読してこの辺り(国土地理院図)の丘陵部と考えてよいことが判った(作品中で墓地のある高台で、ここにある禅法寺という寺の過去帳を見せてもらうシーンが出る)

「神島」既出既注

「伊良古」伊勢湾口対岸の伊良湖(いらご)岬。

「九鬼嘉隆」(天文一一(一五四二)年~慶長五(一六〇〇)年)は安土桃山時代の武将。右馬允・大隅守。代々、志摩国波切城(城址は三重県志摩市大王町波切のここ)を根拠地とし、初めは北畠氏に仕えたが、永禄一二(一五六九)年、織田信長が北畠具教を攻めるや、信長に応じ、以来、彼の麾下となり、水軍を率いてこれに従った。天正二(一五七四)年の伊勢長島の一向一揆、同五年の紀伊雑賀(さいか)の一向一揆を海上から攻撃し、また、翌六年の石山本願寺との合戦に際しては、本願寺側の援軍である毛利の水軍と対戦して、これを打ち破った。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、四国・九州の両役及び「文禄・慶長の役」に際しても、水軍の将として軍功があって、鳥羽城主となり、三万五千石を領した。しかし、秀吉の死後、徳川家康と和せず、「関ヶ原の戦い」では、その子守隆が東軍に属したが、嘉隆は西軍に属して、敗れた。戦後、家康に許されたが,紀伊で自殺している(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、一部を別史料で書き変えた)。

「城山」三重県鳥羽市鳥羽の鳥羽城址

「眞珠じま」上の地図で直近にある現在の「ミキモト真珠島」(正式島名)。明治二六(一八九三)年、当時「相島(おじま)」と呼ばれていたこの島で、御木本幸吉(安政五(一八五八)年~昭和二九(一九五四)年)が真珠養殖に成功して、ここを本拠地としたが、この当時はまだ「相島」であった。

「海女の鮑採り」音数律(小唄であるからより厳密であるはずではある)から「鮑」は「はう」と音読みしているかとも考えたが、如何にも耳障りが悪い。「あわび」で読んでおく。

「荒磯埼」わざわざ「埼」の字を選んでいるので、固有名詞と思ったが、見当たらない。一般名詞で採っておく。

「朝富士」三重県鳥羽市にある灯明(とうめい)山(遠目山とも書く)の別称。先の神島にあり、標高百七十一・七メートル(国土地理院図)。

「樋の山」鳥羽市鳥羽町の、旧伊良子清白の診療所の西方背後にある「樋ノ山」

「小濱鯛池」{おはまたひいけ」。サイト「鳥羽デジタルアーカイブズ」のこちらによれば、伊良子清白が診療所を開いていた小浜(おはま)村現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう)(国土地理院図))明治二二(一八八九)年に鳥羽町に合併されるが、昭和四二(一九六七)年に浜辺橋が完成するまでは、町営の渡船を利用しなければ、往来出来ない漁村であった。また、鳥羽町大字小鳥羽町大字小浜にあった料理旅館「鯛池 相生館」には鳥羽浜辺浦から定期船が運航されていた。ブログ「三重の鳥瞰図デジタルアーカイブ」のこちらで、往時の案内図が見られ(必見!)、「鯛池案内」の表紙絵を見ると、「千疋鯛」も判る気がする。]

2019/06/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(37) 「池月・磨墨・太夫黑」(4)

 

《原文》

 飛彈國[やぶちゃん注:ママ。「今昔物語集」の一本では「飛驒」を「飛彈」とする表記を見るが、今までも柳田國男は「飛驒」と記しているから、ここは誤植と断ずる。訓読では混乱するので特異的に訂した。]ニテハ池月ハ大野郡丹生川村(ニブカハ)大字池俣ヨリ出ヅト稱ス〔飛州志〕。池俣ハ乘鞍嶽西麓ノ村ナリ。恐クハ亦神聖ナル池アリシヨリノ村ノ名カ。乘鞍ト云フ山ノ名モ或ハ又馬ノ神ト緣由アリシモノナラン。池月ハ又近江ヨリ出デタリトノ說アリ〔越後名寄三十一〕。犬上郡東甲良村大字池寺ハ古クハ河原莊ノ内ニシテ、大伽藍アリシ地ナリ。名馬池月ハ此邊ニ生ル。池月ハ即チ池寺月毛ヲ略シタル名ナリ。而シテ磨墨ハ同ジ國伊香郡ノ摺墨鄕ニ於テ生レタルガ故ニ其名アルナリト云ヘリ〔淡海木間攫〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯ハ亦此地方ニテノ池月出生地ナリ。【爪石】同郡椿村大字小社牧久保ニ駒爪石アリ。徑(ワタリ)三尺バカリノ圓石ニシテ中央ニ爪ノ痕ニ類スル者存ス。池月此村ニテ育成セラレシ時蹈立テタル跡ナリト云フ〔伊勢名勝志〕。【駒ノ淵】然ルニ程遠カラヌ河藝郡河曲(カハワ)村大字山邊内谷ニモ同ジ傳說アリ。駒ノ淵ト稱スル周圍五十間餘ノ低地ハ即チ是ニシテ、以前幕府ノ官吏巡視ノ折之ヲ承認シ、右大將源賴朝卿之逸馬生唼出生之地ト云フ標木ヲ建テタルコトアリト云フ〔同上所引勢陽雜記〕。平蕪遠ク連ナル河内ノ枚方(ヒラカタ)ノ如キ土地ニ於テモ、尙池月ハ此地ニ生レタリト云フ口碑アレバ〔越後名寄所引寺島長安說〕、神馬ハ誠ニ至ラザル所無キナリ。更ニ中國ニ在リテハ安藝山縣郡原村大字西宗ノ四滿津(シマヅ)ト云フ處ヨリ磨墨出デタリト稱ス〔藝藩通志〕。或ハ又之ヲ池月ナリトモ云フ。【駒繫松】此村淨土ノ勇ケ松ハ、池月ヲ此樹ニ繫ギタリトテ古ヨリ其名高ク、神木トシテ崇メラル〔大日本老樹名木誌〕。石見鹿足郡藏木村大字田野原ニ早馬池アリ。池月此邊ヨリ出ヅト稱ス。元來野馬ニシテ池水ヲ泳グコト陸行ノ如シ。故ニ池月ト稱スト云フ。此地ハ山中ノ別天地ニシテ總稱シテ俗ニ吉賀ト呼べリ。吉賀鄕モト馬無シ。古今唯三名馬ヲ產スルノミ。磨墨ハ亦其一ナリト傳フ〔吉賀記上〕。但シ池月ハ或ハ長門須佐ノ甲山ニ生ルト云フ一說アル由ニテ、吉賀ノ故老ハ此一頭ノミハ隣國ノ口碑ニ割讓スルノ意アリシガ如シ〔同上〕。須佐ハ長門ノ東北隅ニシテ石見ト境スル山村ナレバ、龍馬ガ來往シテ其本居ヲ定メ得ザリシモノトモ解スルヲ得ン。而モ長門ノ通說ニ於テハ池月ノ生レタリシハ豐浦郡ノ御崎山ニシテ懸離レタル西隅ノ海岸ナルノミナラズ、磨墨モ亦同ジ牧ノ產ナリト主張スルナリ〔大日本老樹名木誌〕。【馬影池】之ト同時ニ石見ノ邑智郡出羽(イヅハ)村大字出羽ニ於テモ、馬影池ト云フ池アリテ亦池月此池ヨリ出ヅト傳フ。出羽ノ池月ハ誠ノ龍ノ駒ニテ、常ニ我影ヲ池ノ水ニ映シ又其池ノ水ヲ飮メリ〔石見外記〕。隱岐島ニテハ周吉郡ノ東海岸津居(ツヰ)ト云フ里ニ、牡池牝池ノ二ツノ池アリ。池ノ深サハ測リ知リ難ク岸邊ノ石ハ墨ノ如ク黑シ。白馬池月ハ則チ此水中ヨリ現ハレタリトアリテ、池ノ北ニ今モ駄島ナド云フ地名アリ。駄島ノ駄ハ牝馬ノコトナルべシ。【海ト馬】此池月ハ飛ビテ島前ニ渡リ、ソレヨリ大海ヲ泳ギテ出雲ニ來リシヲ、浦人之ヲ捕ヘテ亦鎌倉殿ニ獻上ス〔隱岐視聽合記〕。出雲ニ於テハ今ノ八束郡美保關村大字雲津ニ正シク其遺蹟アリ。池月ガ隱岐ヨリ渡リ著キシ時ノ蹄ノ跡岩上ニ殘レル外ニ、又自然ニ馬ノ姿ノ現ハレタル奇巖モアリト云ヘリ〔出雲懷橘談上〕。但シ雲津ハ夙ニ彼島渡航ノ船津ナリケレバ、二處ノ口碑ガ響ノ如ク相應ズルモ、特ニ之ヲ奇トスルヲ要セザルナリ。

 

《訓読》

 飛驒國にては、池月は大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)より出づと稱す〔「飛州志」〕。池俣は乘鞍嶽西麓の村なり。恐らくは亦、神聖なる池ありしよりの村の名か。乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん。池月は又、近江より出でたりとの說あり〔「越後名寄」三十一〕。犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺は、古くは河原莊(かはらのしやう)の内にして、大伽藍ありし地なり。名馬池月は、此の邊りに生る。池月は、即ち、「池寺月毛」を略したる名なり。而して磨墨は同じ國伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)に於いて生れたるが故に其の名あるなりと云へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯は亦、此の地方にての池月出生地なり。【爪石】同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保に「駒爪石」あり。徑(わたり)三尺ばかりの圓石(まるいし)にして、中央に爪の痕に類する者、存す。池月、此の村にて育成せられし時、蹈み立てたる跡なりと云ふ〔「伊勢名勝志」〕。【駒の淵】然るに、程遠からぬ河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷にも同じ傳說あり。駒の淵と稱する、周圍五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]餘の低地は、即ち、是れにして、以前、幕府[やぶちゃん注:江戸幕府。家康が清和源氏(新田氏)を祖と謳い、「吾妻鏡」を愛読書としたことは頓に知られる。]の官吏、巡視の折り、之れを承認し、「右大將源賴朝卿逸馬生唼出生之地」と云ふ標木を建てたることありと云ふ〔同上所引「勢陽雜記」〕。平蕪(へいぶ)遠く連なる河内の枚方(ひらかた)のごとき土地に於いても、尙ほ、池月は此の地に生れたりと云ふ口碑あれば〔「越後名寄」所引・寺島長安說〕、神馬は誠に至らざる所無きなり。更に中國に在りては、安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)と云ふ處より、磨墨、出でたりと稱す〔「藝藩通志」〕。或いは又、之れを、池月なりとも云ふ。【駒繫松】此の村淨土の「勇ケ松」、池月を此の樹に繫ぎたりとて、古へより、其の名、高く、神木として崇めらる〔「大日本老樹名木誌」〕。石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり。池月、此の邊りより出づ、と稱す。元來、野馬にして、池水(いけみづ)を泳ぐこと、陸行(りくかう)のごとし。故に池月と稱すと云ふ。此の地は山中の別天地にして、總稱して俗に「吉賀(よしが)」と呼べり。吉賀鄕、もと、馬、無し。古今、唯だ、三名馬を產するのみ。磨墨は亦、其の一つなりと傳ふ〔「吉賀記」上〕。但し、池月は、或いは、長門須佐(すさ)の甲山に生ると云ふ一說ある由にて、吉賀の故老は此の一頭のみは、隣國の口碑に割讓するの意ありしがごとし〔同上〕。須佐は長門の東北隅にして石見と境する山村なれば、龍馬が來往して其の本居(ほんきよ)を定め得ざりしものとも解するを得ん。而も、長門の通說に於いては、池月の生れたりしは、豐浦郡の御崎山にして、懸け離れたる西隅の海岸なるのみならず、磨墨も亦、同じ牧の產なりと主張するなり〔「大日本老樹名木誌」〕。【馬影池】之れと同時に、石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池アリテ、亦、池月、此の池より出づ、と傳ふ。出羽の池月は誠の龍の駒にて、常に我が影を池の水に映し、又、其の池の水を飮めり〔「石見外記」〕。隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり。池の深さは、測り知り難く、岸邊の石は、墨のごとく黑し。白馬池月は、則ち、此の水中より現はれたりとありて、池の北に今も「駄島(だしま)」など云ふ地名あり。「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし。【海と馬】此の池月は、飛びて島前(とうぜん)に渡り、それより大海を泳ぎて出雲に來たりしを、浦人、之れを捕へて、亦、鎌倉殿に獻上す〔「隱岐視聽合記」〕。出雲に於いては、今の八束(やつか)郡美保關村大字雲津に正(まさ)しく其の遺蹟あり。池月が隱岐より渡り著きし時の蹄の跡、岩上に殘れる外に、又、自然に馬の姿の現はれたる奇巖もあり、と云へり〔「出雲懷橘談」上〕。但し、雲津は夙(つと)に彼(か)の島、渡航の船津(ふなづ)なりければ、二處の口碑が響(ひびき)のごとく相ひ應ずるも、特に之れを奇とするを要せざるなり。

[やぶちゃん注:「大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)」現在の高山市丹生川町(にゅうかわちょう)池之俣(いけのまた)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「神聖なる池ありしよりの村の名か」上記地図を拡大して見ると、高い位置に「丹生池」、少し下がった位置に「土樋池」を見出すことは出来る。

「乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん」ウィキの「乗鞍岳」によれば、『飛騨山脈(北アルプス)南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高』三千二十六メートル『)を主峰とする山々の総称。山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの』八『峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など』二十三もの『峰があ』るとし、「山名の由来と変遷」に項には、延喜元(九〇一)年成立の歴史書「日本三代実録」(編者は藤原時平・菅原道真ら)の貞観一五(八七三)年の条に、『飛騨の国司の言葉』として、『大野郡愛宝山に三度』、『紫雲がたなびくの見た』、『との瑞兆を朝廷に言上した』とあり、この山は『「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれ』て、『その当時から霊山として崇拝されていた』。『平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ』、正保二(一六四五)年頃には『乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている』。文政一二(一八二九)年の「飛州誌」では、『「騎鞍ヶ嶽」と記されていた』。『飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた』とある。『日本には同名の乗鞍岳が複数あ』るが、一般に『「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している』とされる。『信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた』。『最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」』。『魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている』とある。因みに、池之俣直近の下方にある旗鉾伊太祁曽(はたほこいたきそ)神社(旗鉾はここの地名(高山市岐阜県丹生川町旗鉾)を単に冠したものだったようである)があり、サイト「大屋毘古神・五十猛命」(「おおやびこがみ」「いたけるのみこと」と読んでおく)の「伊太祁曽神社」には、その神社所有の素敵な円空作の男女神像の画像がある。

「犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺」犬上郡甲良町(こうらちょう)池寺(いけでら)

「河原莊(かはらのしやう)」不詳。

「大伽藍ありし地なり」池寺の地名由来でもある(事実、広くない地域に現在も十余りの池塘が確認出来る)、同地区に現存する天台宗龍応山西明寺(さいみょうじ)のこと。金剛輪寺・百済寺とともに「湖東三山」の一つに数えられる名刹である。詳しくはウィキの「西明寺(滋賀県甲良町)」を参照されたい。

「伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)」湖北内陸の滋賀県長浜市余呉町(よごちょう)摺墨

「伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯」三重県鈴鹿市三畑町と思われるが、「鳩峯」は見当たらない。

「同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保」三重県鈴鹿市小社町(小社町)(周縁(特に町外の北)に「椿」を冠する施設多し)と思われるが、「牧久保」は見当たらない。

「河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷」三重県鈴鹿市山辺町かと思われるが、内谷は見当たらない。

「安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)」広島県山県郡北広島町西宗と思われるが、「四滿津(しまづ)」『此の村淨土の「勇ケ松」』は孰れも見当たらない。但し、引用元の「大日本老樹名木誌」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ上段頭)には確かにそう書かれてある。

『石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり』以下のこの周辺域の名馬輩出は既出既注島根県鹿足郡吉賀町田野原。吉賀町内の東方端。殆んどが山岳で、深い渓谷を成す。可能性としては、南の端の方の高津川沿いにある一本杉神社、及び、そこに附帯する施設「吉賀町水源会館」附近か。池は確かにある。

「長門須佐(すさ)の甲山」山口県萩市須佐と思われるが、「甲山」は見当たらない。

「豐浦郡の御崎山」「懸け離れたる西隅の海岸」と云う表現からは、山口県下関市吉母(よしも)にある小倉ヶ辻、通称「吉母富士(よしもふじ)」(標高三百八・六メートル)か。しかし、御崎山という別称は現在見られない。この東直近の岬は本州最西端の地である「毘沙ノ鼻」である。別にずっと北の山口県下関市豊北町大字神田上に御崎神社があるが、周辺に有意なピークが見当たらない(東直近の堂山は標高百三十五・一メートル。国土地理院図)。そもそもがこれ、「大日本老樹名木誌」のどこに乗ってるのか、判らなかった。

『石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池あり』島根県邑智郡邑南町(おおなんちょう)出羽(いずわ)

『隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり』現行では「男池」・「女池」とし、合わせて「津井(さい)の池」と呼ぶ以下の場所である(グーグル・マップ・データ国土地理院図)。八年前、隠岐に旅した際、行きたいと思いながら、足の悪い妻を連れては行けそうになかったので、行きそびれた場所である。何故、行きたかったか? 小泉八雲がこの話に触れているからである。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十七)』の本文(原文附き)と私のかなり詳細な注を見られたい。それで、ここに注する必要はなくなるからである。今回、サイト「京見屋分店」の「津井の池~サイノイケ~探訪」(男池探訪とそこにあった奇体な石等の画像複数有り)及びその続編「津井の池伝説」を見つけたので、是非、見られたい。

『「駄島(だしま)」など云ふ地名あり』現認出来ず。

『「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし』何故、柳田國男はわざわざこんなことを言っているのか? まさか、「駄馬」だから♀なんて考えじゃないよね? 「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を参照されたいが、「駄馬」の用法は正当ではなく、「駄」は荷を背負う耐久力のある馬の謂いである。

「島前(とうぜん)」隠岐島という島があると思っている人が多いが、これは隠岐諸島の総称であり、「島前」(「島前三島」と呼ばれる「知夫里島」(知夫(ちぶり)村)・「中ノ島」(海士(あま)町)・西ノ島(西ノ島町)から構成される群島である)に対し、「島後」は「島前三島」から東の「島後水道」を隔てた「島後」(隠岐の島町)の一島から構成される。主な島はこの四島であるが、付属の小島は約百八十を数え、それらを纏めて「隠岐島」と呼ぶのである。

「八束(やつか)郡美保關村大字雲津」島根県松江市美保関町雲津。]

新涼三景 伊良子清白

 

新涼三景

 

 

  都 市

 

秋が走るよ

町々を

をとこをんなの

秋の脚

舖道(ほだう)のしめり

暑うても

秋の日射しは

花やかに

深山の奧の

生栗(なまぐり)が

靑い八百屋で

ゑみ割れる

無花果(いちじゆく)、葡萄

秋の實(みの)り

人の稔(みの)りの

秋の裝ひ

時が流れる

なめらかに

銀器(ぎんき)の

手ざはり

夕冷えに

月の片割れ

一つは空に

のこる一つは

ふところに

涼しや涼しや

 

 

  漁 村

 

とぶよ若鯔(わかいな)

  火のやうに

走る秋雲

  風や吹く

ただならぬ空の

  けしきとて

船はみだるる

  をちこちに

沖の朝日の

  鈍(にび)いろよ

 

 

  農 村

 

暑いとて、あついとて

  畠(はた)のとうもろこし

     毛があついとて

  星のふる夜は

     露もふる

  露にぶたれて

     玉蜀黍(とうもろこし)の

  赤い毛並(けなみ)が

     よれよれに

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年六月九日発行のアンソロジー「一九三〇年詩集」(詩人協会編アルス刊)に先の「ここは雲の路」及び後の「近代女性の顏」とともに掲載。「とうもろこし」のルビはママ。署名は「伊良子清白」。

「若鯔(わかいな)」出世魚として知られる条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の比較的成長した若魚(通常成体の「ボラ」(体長五十センチメートル前後)の前段階)の呼称。地域によって多少異なるが、概ね十八センチメートルから三十センチメートルほどまでのものを指すことが多い。]

ここは雲の路 伊良子清白

 

ここは雲の路

 

ここは雲の路

   神の路

人は通らぬ

   巖のみち

けんけん小雉子が

   雲で啼く

雉子は白雉子

   神の鳥

山々越えて

   火を鑽(き)りに

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年六月九日発行のアンソロジー「一九三〇年詩集」(詩人協会編アルス刊)に以下の「新涼三景」「近代女性の顏」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。本篇は伊勢神宮などの「鑽火神事(きりびのしんじ)」などの具体なそれと結びつけて読む必要は全くないと思われる。民俗社会の古代宗教幻想と読む方が遙かに胸に落ちる。]

志摩の神島 伊良子清白

 

志摩の神島

 

志摩(しま)の神島(かみしま)

    岩山で

冬涸(が)れ米硏ぐ

    水もない

をとこをんなの

    餅搗は

水の涸れたる

    岩山で

水はなうても

    餅は搗く

空臼(からうす)搗くのか

    かんからかん

 註 神島、伊勢灣口の小島、全島巖石を以

  て成り水利最も乏し。冬天降雨なきとき

  は岸の伊良子より水を搬入すといふ。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年四月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第四号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「神島」伊勢湾口の中央部やや渥美半島の伊良湖(いらご)岬寄りに位置する三重県鳥羽市神島町(ちょう)神島。周囲三・九キロメートル、面積〇・七六平方キロメートル。後の三島由紀夫の「潮騒」の舞台になったことで知られる(但し、作中の島名は神島の古名「歌島(うたじま)」)。現在の人口は三百人ほどで過疎化が進んでいる。参照したウィキの「神島」によれば、『古くは、歌島(かじま)、亀島、甕島などと呼ばれた。神島の名が示すように、神の支配する島と信じられていた。後に八大龍王を祭神として八代神社(やつしろじんじゃ)が設けられた。神社には、古墳時代から室町時代にわたる総数百余点の神宝が秘蔵されている。各種の鏡(唐式鏡、和鏡)や陶磁器などである』。『鳥羽藩の流刑地であったため、志摩八丈と呼ばれたこともあった』とあり、『かつては水を島内の』二『か所の小さなため池と井戸のみに頼っており、水不足にたびたび悩まされた』昭和五四(一九七九)年になって、やっと『鳥羽市より送水されるようになったが、本土の鳥羽市内も頻繁に水不足に悩まされる地域であったことから、鳥羽市とともに神島を含む離島も』、『また』、一九九二年四月より「南勢志摩水道用水供給事業」によって三重県松阪市飯高(いいたか)町の蓮(はちす)ダムから『給水を受けている。蓮ダムからの安定した給水により、水洗トイレ普及率が』百%に『なるなど』、『島民の生活の質が大幅に改善された。しかし』、二〇〇七年十月には、『船舶の投錨を原因とする海底送水管の破損により』、『島全体が断水する事態に陥った』りもしたとある。]

農村迎年歌 伊良子清白

 

農村迎年歌

 

水は雲出川(くもづ)の

砂さへ澱(よど)む

天(てん)の惠は

ふる白露(しらつゆ)か

反に九俵取り

名も豐田(とよだ)村

米は白玉

粒(つぶ)ぞろひ

米が光れば

田が光る

ほめて踊つて

働いた

田植稻苅り

籾挽(もみひき)すんで

四方(はう)米倉(こめぐら)

俵の山よ

明けりや正月

朝日がてらす

雪がつもつて

お宮よ

お城よ

 註 雲出川、南北伊勢を兩分する大河。

  豐田村、美田豐沃を以て鳴る農村。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年三月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第三号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「雲出川」奈良県との県境に位置する三峰山(みうねやま標高千二百三十五・二メートル)に源を発し、伊勢湾に注ぐ雲出川(くもずがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中央下部に三峰山を配した。

「豐田村」は明治二二(一八八九)年の町村制施行によって新屋庄村・川原木造村・川北村・須賀村・権現前村・小村の区域を以って成立している(ウィキの「豊田町(三重県)に拠る)。現在の松阪市嬉野町(うれしのちょう)の東端北部の、名松線権現前駅の北東一帯、この中央部の雲津川右岸広域に当たる。少し拡大すると、「嬉野新屋庄町(にわのしょうちょう)」・「嬉野川原木造(かわらこづくり)町」・「嬉野川北(かわぎた)町」(雲津川の南の中央部なので注意)・「嬉野須賀(すか)町」・「嬉野権現前町」・「嬉野小村(こむら)町」の総ての旧村名を含んだ現住地名を総て現認出来るのが嬉しい。]

伊良子清白の二つの文章を以前の記事の間に遡及挿入させた

今朝、先日、挟もうと思って、うっかり忘れてしまっていた、

詩集「孔雀船」の再版版(昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版)に附された、伊良子清白の「小序」

昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附された「伊良子淸白自傳」

の二つの文章を、未収録詩篇の年次系列に合わせて、特異的に操作して、これより前の位置に挿入した。特に前者の短文は、痛烈にして悲愴とも言える。

2019/06/15

魳子曳き 伊良子清白

 

魳子曳き

 

いばら背負(しよ)やこそ

女房はなげく

裸百貫荒灘稼ぎ

酒の負債(おいめ)が

海まで責(は)たる

雪のふる日に

魳子(こなご)曳き

 註 魳子(こなご)は魳(かます)の幼魚、

 荒天風雪の日に漁獲するを利とす。海上網を

 投じ急遽之を曳く、ために往々漁船の顚覆す

 ることあり。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年三月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第三号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「魳子」「こなご」「魳(かます)の幼魚」条鰭綱スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus の幼魚の異名の一つ。ウィキの「イカナゴ」によれば、『様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ(小女子)」』(無論、私もこれで認識している)、『西日本で「シンコ(新子)」。成長したものは北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、「カナギ(金釘)」などと呼ばれる。イワシなどと並んで沿岸における食物連鎖の底辺を支える重要な魚種である。季語、晩春』。『北半球の寒帯域から温帯域を中心に熱帯域まで、世界中に』五属十八種が分布し、沿岸の粒径〇・五から二ミリメートルの』『砂泥底に生息し、主にプランクトンを餌としている』。『日本産イカナゴは移動性が小さく』、『各地に固有の系統群が存在している』。『北方系の魚であるため』、『温暖な水域では夏には砂に潜って』、『夏眠を行う』。『水深』十~三十メートルの『砂底に粘着質の卵を産卵する。産卵期は冬(』十二『月)から翌年春(』五『月)で』、『寒冷な水域ほど』、『遅くなる』。一歳で十センチメートル『程度まで成長し、成熟』し、三年から四年で二十センチメートル『程度まで成長する』。『日本では沿岸漁業の重要な位置にあり、集魚灯を用いた敷網漁や定置網漁、船曳網により捕獲され、生食や加工用のほか養殖用飼料としても利用される。しかし、乱獲や生息環境の悪化および海砂の採集による生育適地の破壊』『により、日本各地で漁獲量は激減している。伊勢湾や瀬戸内海では年ごとに生育度合いや推定資源量を調査し』、『その年の漁獲量を決定している』。『特に、瀬戸内海では夏眠に適した粒度分布の海砂がコンクリートの骨材にも適していたため』、『夏眠水域の海砂が建設資材として大量に採取され、多くの漁場は壊滅的被害を受けた』。伊勢湾では、現在、冬季に資源調査を行って、春の漁獲実施の可否を判断しているが、二〇一六年及び二〇一七年には、前年末から二月にかけて行われた資源調査の結果、稚魚の捕獲数が著しく少なかったため、愛知県及び三重県では禁漁となっている。『兵庫県淡路島や播磨地区から阪神地区にかけての瀬戸内海東部沿岸部(播磨灘・大阪湾)では』、『イカナゴは』「いかなごの釘煮」という郷土料理として『親しまれている。佃煮の一種で、水揚げされたイカナゴの幼魚(新子)を平釜で醤油やみりん、砂糖、生姜などで水分がなくなるまで煮込む。この際、箸などでかき混ぜると身が崩れ、団子状に固まってしまうため』、『一切』、『かき混ぜない。炊き上がったイカナゴの幼魚は茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘に見えることから』、『「釘煮」と呼ばれるようになったとする説が有力である。「くぎ煮」は神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社』「伍魚福(ごぎょふく)」の『登録商標である』。『解禁と同時に水揚げされた』二センチメートル『ほどのいかなごの幼魚は、鮮度が落ちないよう』、『収穫後』、『ただちに釜揚げにされ、店頭に並ぶ。これを』「新子」又は「新子ちりめん」と『呼ぶ。釜茹でした後に乾燥させたものは』「カナギ(小女子)ちりめん」と『呼ばれる。これより大きいもの、およそ』四~五センチメートルの『大きさのものを釜茹でしたものは』「カマスゴ」と『呼ばれ、そのまま酢醤油やからし酢味噌で食べる。この際、一度炙ると香ばしさが出ておいしくなる』。『阪神地区、播磨地区では』、『春先になると』、『各家庭でイカナゴの幼魚を炊く光景が見られる。また』、『毎年』三『月末頃、出荷された釘煮が阪神地区、播磨地区のスーパーに山積みされるようになると、春の訪れとして消費が盛り上がる。明石海峡大橋のたもとにある淡路サービスエリアやJR新神戸駅・新大阪駅、神戸空港、大阪国際空港、関西国際空港などの土産物店でもイカナゴの釘煮は販売されており、生姜味のほか』、『山椒味、唐辛子味のものもみられる』。『なお、近畿地方のなかでも、前述の地域を除く他の地域ではイカナゴの釘煮は』、『あまり食されない。例えば』、『京都市では』、『いかなごの釘煮よりもちりめん山椒が主流である。年配者の中にはイカナゴ自体を下魚として嫌う傾向も散見される。また、前述の通り、一般にいかなごのくぎ煮は、幼魚である新子を調理したものであるが、淡路島などでは成魚であるフルセを調理する地域もある。フルセを調理したものはくぎ煮と明確に区別するため、佃煮の名称で扱われる』とある。いつもお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イカナゴ」もリンクさせておく。「漢字・学名由来」の「語源」パートの、『「いかり魚=カマス」の幼魚の意味。地方の呼び名に「かます子」とあるのと同じ。「いかり」とは「いかる=とがる」の意味で』、『栗の毬(いが)と同義語』。『イカナゴの小さいものが、いかなる魚の子であるかわからないため、「如何子」の意味』ともあり、さらに『〈い〉は語声強調の接頭語、〈かな〉は古語で糸のように方添いもの、〈ご〉は接尾語』とあって、まさにまさに眼から「鱗」!

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(36) 「池月・磨墨・太夫黑」(3)

 

《原文》

 武藏ニハ固ヨリ池月・磨墨ノ遺蹟ト云フモノ甚ダ多シ。就中西多摩郡調布村大字駒木野ノ傳說ニ於テハ、亦池月此國ニ產セシコトヲ主張スルナリ。其說ニ依レバ駒木野ハ古クハ駒絹ト書ケリ。【池田】源平ノ頃ニ村ヨリ西ニ當ツテ多摩川ノ北岸、今ノ三田村大字澤井ノ地ニ池田ト云フ沼アリ。【駒牽澤】或日此沼ノ邊ヨリ一頭ノ駒飛出シ、今ノ吉野村大字日影和田ト同村大字畑中トノ境ナル駒牽澤ト云フ處ヲ過ギテ、駒木野ノ里マデ馳セ來リシヲ、村民等網ヲ以テ奔馬ニ蔽ヒ掛ケテ終ニ之ヲ捕ヘ、亦鐮倉將軍家ニ獻上ス。後ニ高名ノ駿足池月ト聞エタルハ即チ此馬ノコトナリ〔新編武藏風土記稿〕。一匹ノ素絹ヲ引カセテ末ガ地ニ落チヌ程ニ奔セタリト云フ駿馬ノ話ハヨク之ヲ聞ク、ソレヲ思ヒ出サシムべキ昔物語ナリ。伊豆ノ田方郡弦卷山ノ中腹ニモ池月磨墨ヲ野飼ニ育テタル話アリ。磨墨此山ニ在リテ高ク嘶ケバ、池月ハ丹那村ノ山ヨリ遙カニ聲ヲ合セタリト云フ。【駒形神】弦卷山ノ山中ニハ其跡トシテ駒形ノ地名アリ、且ツソコニハ駒形神ヲ祀レリ。祠ノ傍ニ別ニ一箇ノ立石アリテ衣冠騎馬ノ神像ヲ刻スト云ヘバ〔日本山嶽志〕、即チ前ニ擧ゲタル輕井澤ノ駒形權現ト同ジ物ナランカ。駿河ハ普通ニ磨墨終焉ノ地トシテ認メラルヽガ、猶其西郡ニハ彼ガ生レタリト云フ家アリ。即チ安倍郡大川村大字栃澤ノ舊家米澤氏ニテハ、磨墨ハ此家ノ厩ニ產レタリト傳ヘ、厩ノ地ナリト云フ大岩ノ上ニ、【姥强力】蹄ノ跡及ビ其駒ヲ育テシト云フ老女ノ下駄ノ齒ノ跡殘レリ。此村ニハ更ニ一箇ノ奇巖ノ面ニ無數ノ馬蹄ノ痕ヲ印スルモノアリテ、里人之ヲ崇拜ス〔駿國雜志二十五〕。一說ニ栃澤村ノ民五郞左衞門ガ厩ニ池月ハ生レタリト云フハ、同ジ家ノ事ニシテ名馬ノ名ノミ何レカ誤聞ナルべシ。此家ハ又昔名僧聖一國師ヲ產シタリ。【明星】元亨釋書ノ傳記ニ、國師ノ母手ヲ擧ゲテ明星ヲ採ルト夢ミテ孕ムトアルハ因緣ナキニシモアラズ〔遊囊賸記〕。尙此ヨリ遠カラザル久須美ト云フ村ニモ、磨墨ノ生地ト稱シテ蹄ノ跡ヲ印シタル石アリト云フ〔駿國雜志同上〕。

 

《訓読》

 武藏には、固より、池月・磨墨の遺蹟と云ふもの、甚だ多し。就中、西多摩郡調布村大字駒木野の傳說に於いては、亦、池月、此の國に產せしことを主張するなり。其の說に依れば、駒木野は古くは「駒絹」と書けり。【池田】源平の頃に、村より西に當つて、多摩川の北岸、今の三田村大字澤井の地に「池田」と云ふ沼あり。【駒牽澤】或る日、此の沼の邊りより、一頭の駒、飛び出だし、今の吉野村大字日影和田と、同村大字畑中との境なる「駒牽澤」と云ふ處を過ぎて、駒木野の里まで馳せ來たりしを、村民等、網を以つて奔馬に蔽ひ掛けて、終に之れを捕へ、亦、鐮倉將軍家に獻上す。後に高名の駿足池月と聞えたるは、即ち、此の馬のことなり〔「新編武藏風土記稿」〕。一匹の素絹(そけん)を引かせて、末が地に落ちぬ程に奔(は)せたりと云ふ駿馬の話は、よく之れを聞く、それを思ひ出ださしむべき昔物語なり。伊豆の田方郡弦卷山の中腹にも、池月・磨墨を野飼に育てたる話あり。磨墨、此の山に在りて高く嘶けば、池月は丹那村の山より遙かに聲を合はせたりと云ふ。【駒形神】弦卷山の山中、其の跡として「駒形」の地名あり、且つ、そこには駒形神を祀れり。祠の傍らに、別に一箇の立石ありて、衣冠騎馬の神像を刻すと云へば〔「日本山嶽志」〕、即ち前に擧げたる輕井澤の駒形權現と同じ物ならんか。駿河は普通に磨墨終焉の地として認めらるくゝが、猶ほ、其の西郡には彼が生れたりと云ふ家あり。即ち、安倍郡大川村大字栃澤の舊家米澤氏にては、磨墨は此の家の厩に產れたりと傳へ、厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す〔「駿國雜志」二十五〕。一說に栃澤村の民、五郞左衞門が厩に池月は生れたりと云ふは、同じ家の事にして、名馬の名のみ何れか誤聞なるべし。此の家は又、昔、名僧聖一(しやういち)國師を產したり。【明星】「元亨釋書」の傳記に、國師の母、手を擧げて明星を採ると夢みて孕むとあるは、因緣なきにしもあらず〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。尙ほ、此(ここ)より遠からざる久須美と云ふ村にも、磨墨の生地と稱して、蹄の跡を印したる石ありと云ふ〔「駿國雜志」同上〕。

[やぶちゃん注:「西多摩郡調布村大字駒木野」現在の東京都八王子市裏高尾町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。高尾駒木野庭園などの名にそれが残る。【公開同日夕刻:削除・追記】何時もお世話になっているT氏より、これは多摩川の右岸にある現在の東京都青梅市駒木町であると御指摘を受けた。同氏によれば、「西多摩郡調布村大字駒木野」は明治二二(一八九八九)年四月一日の町村制施行により、下長淵村・上長淵村・駒木野村・友田村・千ヶ瀬村・河辺村が合併し、神奈川県西多摩郡調布村が成立、昭和二六(一九五一)年四月一日に青梅町・霞村との合併により、「青梅市」が発足して「調布村」は消滅している。確かに、この位置だと、以下の柳田國男の言う「西」が適合する。全くの私の錯誤であった。T氏に感謝申し上げる。

「三田村大字澤井」多摩川の北岸にある東京都青梅市沢井と思われる(上記旧駒木野から直線で約六キロメートルほど西北の多摩川上流)【前記追記により同日夕刻改稿】

『「池田」と云ふ沼』沢井地区には現認出来ない。

「素絹(そけん)」練っていない生糸で作った粗悪な絹布のこと。

「伊豆の田方郡弦卷山」以下も合わせて、前に出た「此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり」の注で詳細に考証済み。私はここと推定した(国土地理院図)。

「安倍郡大川村大字栃澤」静岡県静岡市葵区栃沢ウィキの「磨墨塚」に、伝承の各項の一つとして静岡県静岡市葵区大間の「福養(ふくよう)の滝」(栃沢の北北西七キロメートル)を挙げ、『大間の部落は、静岡西部を流れる藁科川の水源付近。昔、毎年』五月五日『の午前十時頃になると』、一『頭の馬が福養の滝の滝つぼにつかり』、『毛並みを整えていたという。後に米沢家で飼われて駿馬「磨墨」となった。これに因んで、この滝は「お馬が滝」と呼ばれるようになった』とあり、また、『福養の滝は別名「御馬の滝」あるいは「磨墨の滝」とも呼ばれた。名馬「磨墨」は、実は藁科の里「栃澤」の生まれということに由来する。また、福養の滝は、古来から「雨乞の滝」としても有名で、智者山神社の信仰と深い関係がある』とあった。

「厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す」ネット検索では掛からない。孰れも現存しないか。

「聖一(しやういち)國師」鎌倉中期の臨済僧円爾(えんに 建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)の諡号(しごう)。ウィキの「円爾」によれば、駿河国安倍郡栃沢(現在の静岡市葵区栃沢)に生まれる。『幼時より久能山久能寺』(静岡県静岡市清水区にある臨済宗補陀落山鉄舟寺の前身。当時は天台宗)で十八『歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒』『)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ。嘉禎元(一二三五)年、『宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした』。仁治二(一二四一)年、『宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち』、『上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく』、『真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き』、『禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる』。『なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である』十一月一日『を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている』。『没後の』応長元(一三一一)年、『花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた』。因みに、『博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされ』、『疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるため』ともある。

「元亨釋書」は日本初の仏教通史で全三十巻。その著者である臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は円爾の孫弟子である。但し、私の持つ同書の電子データでは、ここに出るとする逸話が見当たらない。]

譚海 卷之三 水戶中納言殿の事

 

水戶中納言殿の事

○水戶中納言光圀卿、經濟に達し給ひし事は、世に知る所也。有職儒臣に命ぜられて、撰述の物若干也。中に就て禮儀類典といふものは、好古の第一のものなり。本朝古禮車服等の制に至るまで、殘りなく集られ、二首卷餘に及べりとぞ。其中書面にて別れがたきものは、皆雛形にせられて、衣服の紋織物などは、其絹をそのまゝ少しづつあつめ、古代の塗物の色あひは板を少しばかりづつそのまゝにぬりて、其うるしの色あいを傳へ、古器の見合(みあはせ)になる樣にしてあり。圖籍(ずせき/とせき)ひながたぬりものの類、併(あはせ)て唐櫃に二舁(ふたかき)有、公儀へも一通進獻せられて、今紅葉山の書庫に納めありといへり。又大日本史と云もの撰述有、大部にて板行(はんぎやう)に成(なし)がたき故、書寫にて藏書有、今に於て筆耕の者日々書寫する事なり。その家中の二男已下を皆水戶の學校の彰考館に召れ、筆耕の役を勤させられ、筆耕料二人扶持づつ賜る事なりとぞ。

[やぶちゃん注:目録では標題は次と続けて「水戶中納言殿 柳澤吉保朝臣の事」となっているが、かく示した。

「水戸中納言光圀」水戸藩第二代藩主水戸(德川)光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年。初代頼房と側室久子の子。同母兄の頼重が病身であったため、六歳の時に継嗣となり、九歳で元服、寛文元(一六六一)年、父の死によって藩主となった。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、十八歳の時、「史記」「列伝」巻頭の「伯夷伝」を読んで感激し、学問に志すとともに、兄弟の序を尊び、のちに頼重(讃岐国高松藩主)の子綱条を養子として、藩主の地位を譲った。頼房の方針を継承して、藩政の整備に努め、水戸城下への上水道(笠原水道)を創設したりした。特に注目されるのは文教政策であって、明暦三(一六五七)年から「大日本史」(神武天皇から後小松天皇(在位:永徳二(一三八二)年~応永一九(一四一二)年)まで(厳密には南北朝が統一された元中九/明徳三(一三九二)年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った紀伝体の史書。本紀(帝王)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十六冊と目録五巻に亙る。携わった学者たちは「水戸学派」と呼ばれた)の編纂に着手し、寛文一二(一六七二)年には「史局」を開設して「彰考館」と命名した。本書は、漢文の紀伝体による本格的な日本の通史で、光圀が藩の財政支出の三分の一を費やしたと伝えられるのは過大としても、完成するのに明治三九(一九〇六)年までかかった大事業であった。このため、多くの学者を登用し、また、家臣を京都などへ派遣して、史料の収集に努めた。さらにこれと並行して、「礼儀類典」(朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録一巻、恒例二百三十巻、臨時二百八十巻、附図三巻の計五百十四巻)などの編纂を進め、また、「万葉集」の注釈を計画して、大坂の国学者契沖(近世最初の本格的「万葉集」訓読法で知られる)に依頼し、光圀の援助により、「万葉代匠記」の完成をみた。光圀の学問は、朱子学を基本とし、「大日本史」の構想にも、その立場から歴史上の人物に対し、道徳的評価を明確にしようとする意図があった。その朱子学の立場から、仏教に対しては極めてきびしく、領内の寺院を整理して、ほぼ半数を破却させた。元禄三(一六九〇)年に退隠し、翌日、権中納言に叙任された。在職中に昇任されなかったのは、時の将軍徳川綱吉との不和によると推測される。綱吉の「生類憐み令」などに対して光圀は批判的態度を示していたことはよく知られる。退隠後は、久慈郡太田に近い西山荘に住み、文事に専念したが、元禄七年に家老藤井紋大夫を手討ちにしたのは、その性格の激烈であったことを物語る。黄門(中納言の唐名)の漫遊記は、明治時代の創作で、事実ではない。諡は義公(以上は主文を「「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼は延宝元(一六七三)年の藩主就任から五回目の江戸出府に際して、通常の経路を採らず、上総から船で鎌倉に渡り、江戸へ向かうという迂遠な経路を辿って漫遊し、鎌倉では英勝寺を拠点として名所名跡を訪ね、この旅の記録を翌年、「鎌倉日記」という記録として纏めたが、それでは飽きたらず、これを元に貞享二(一六八五)年に河井恒久らに実務担当をさせて、地誌「新編鎌倉志」全八巻を作っている。私はオリジナル注釈を附した「新編鎌倉志」全巻の電子化をサイト内で遠い昔に完成し、原型の「鎌倉日記」もブログで電子化注を終えている。知らない人があまりに多いので言っておくと、「水戸黄門さま」は生涯に旅をしたのは、この鎌倉遊覧の一度だけなのである。さらに先の引用にも出てくるが、この旅の途中、金沢八景附近では仏像を損壊破棄したり、やりたい放題のことをしている、トンデモ爺さんなんである。

「車服」朝廷・公家の乗り物や服制。

「別れがたきもの」「わかれ」と読むしかないが、要するに判り難きもの、文面で認識することが難しいものの謂いである。

「圖籍」絵図と図書。

「見合(みあはせ)になる樣にしてあり」文章(或いは現行の器)と比較対照することが出来るようにしてある。

「紅葉山」前回、既出既注。]

譚海 卷之三 田安中納言殿樂堪能

 

田安中納言殿樂堪能

○田安中納言殿は、風流好(ごのみ)古人に超(こえ)させ給へり。音樂は殊に好(このま)せ給ふ餘りに、天下の禁書を集め折衷し給ひて、中古斷絕の舞樂までも悉く興しをこなひ給ふ。その再興の舞樂を一書に集成有て、紅葉山の伶人多(おほ)氏に給はり、今その家につたへてあり。伶家にも此御事をば樂(がく)の聖(せい)成(なる)べしと沙汰しあへる程の事也。攝家より簾中嫁取ののち、その女房にみな音樂を教へ傳へさせましまして、時々女樂(ぢよがく)の合奏有。又西陣の織屋の女を召下(めしくだ)し、邸中にて織物をおらせ、堀川の染物する女をも召れて、機(はた)の模樣このみ染(そめ)させ給ひ、京都の女工をそのまゝ江戸にて調じさせ給へり。深川の屋敷に時々をはしまして、手ぬぐひを戴き、木綿の浴衣など着たまひ、下種(げす)のわざをもせさせ給ふとぞ、其處(そこ)もさながら田舍の住居の如く、ゐろりに燒火(たくひ)し手自(てづから)茶などをもせんじめされけるとぞ。和歌は萬葉の風を好みよみ給へり、岡部衞士(ゑじ)と云もの萬葉を執し、その注解の新意を著(あらは)せしも新たに出來たり。此等をも殊に寵し給ひて、衞士を大和廻りに遺し給ひ、往古名所の分明ならざるをも多く糺させ給へり。又猿樂の觀世流の謠の章の說を正し、詞をも直し改(あらため)させ給へり。高砂の能のあひの狂言のことばなどは、全く此卿の御作也とぞ。

[やぶちゃん注:「田安中納言」田安(徳川)宗武(正徳五(一七一六)年~明和八(一七七一)年)第八代将軍徳川吉宗の二男。御三卿(ごさんきょう)田安家の祖で。国学者・歌人としても知られた。享保一四(一七二九)年元服、従三位左中将兼右衛門督に叙任され、「徳川氏」を称し、明和五(一七六八)年には権中納言に累進した。幼少より学問を好み、国学者荷田在満(かだありまろ)を召し抱え、ついで彼の推薦によって賀茂真淵(かもまぶち)を家臣とし、古典研究を深めて、三者互いに影響を与え合った。後の国学に与えた影響も大きい。歌集「天降言(あもりごと)」のほか、在満・真淵との歌論について議論の末に纏めた「歌体約言(かたいやくげん)」や、古典の注解評論である「伊勢物語註」「小倉百首童蒙訓」「古事記詳説」などを著し、また服飾・音楽・植物などの研究も行った、一種、博物学的好奇心の強い人物であったようである(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「紅葉山」(もみじやま)は旧江戸城の西丸の東北にある丘。ウィキの「紅葉山」によれば、『本丸と西丸のほぼ中間にあたる。古くは「鷲の森」とも呼ばれた。現在は東京都千代田区に属し、皇居を構成する一部となっている』。『太田道灌の江戸城築城以前から存在し、元は古墳であったとする説』『もあるが』、『確証はない。また、目青不動(最勝寺)は、元は紅葉山にあったものが』、『道灌の江戸城築城時に城外に移されたと言われている。その後は日枝神社が置かれたが、江戸城拡張工事により』、『これも移転』した。『江戸幕府成立後の』元和四(一六一八)年、『紅葉山に徳川家康の廟所(東照宮)が置かれ、家康の命日である』四月十七日『には、将軍が紅葉山の東照宮を参詣する「紅葉山御社参」は幕府の公式行事の』一『つであった。また、秀忠以後の歴代将軍の廟所も紅葉山に設置された。また、寛永』一六(一六三九)年『には城内の文庫が富士見亭から紅葉山に移転・整備され、「紅葉山文庫」と称された。また、「紅葉山御社参」などの重要行事に備えて音楽を掌る楽所も設置されていた』。『紅葉山の警備・防災のために紅葉山火之番(留守居→寺社奉行支配)、霊廟の管理を行う紅葉山坊主、楽所の管理と演奏を行う紅葉山楽人、東照宮や各将軍の霊廟を掃除する紅葉山掃除之者が置かれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「伶人」雅楽を奏する楽人。

「多氏」の内、大和等畿内出身の一流に、有名な宮廷伶人である多臣自然麻呂(おおのじねんまろ/しぜまろ/じぜまろ ?~仁和二(八八六)年)を祖とする家系がある。自然麻呂は、宮中での公的な雅楽と右舞を創始し、三十九年間の長きに亙って「雅楽の一者(いちのもの)」の座を占め、今日まで宮中に伝わる神楽の形式を定めた人物とされる。

「攝家より簾中嫁取」宗武は、後陽成天皇の男系五世子孫で関白・太政大臣となった近衛家久の娘通姫(通子 享保六(一七二一)年~天明六(一七八六)年:院号は宝蓮院或いは法蓮院)を正室に迎えている(享保一八(一七三三)年に江戸城二の丸に入り、二年後の享保二十年に婚姻)。

「堀川」京の堀川通り。元禄期(一六八八年~一七〇四年)発祥の友禅染めで知られる。

「深川の屋敷」江戸切絵図で確認すると、田安中納言下屋敷は旧深川、現在の東京都江東区森下のこの附近にあった。

「岡部衞士」賀茂真淵のこと。岡部は本姓、衛士は通称。]

磯の蛸壺殼 伊良子清白

 

磯の蛸壺殼

 

  北のうみ

 

因幡の國の

    しろうさぎ

雪の降る日は

    草の根齧(か)じる

白砂山(しろすなやま)に

    防風が萠えて

雪のなかにも

    春が來た

あらい浪打ち際

    兎はおどる

北のうみべの

    朝日の濱を

 

 

  蜜 柑 山

 

山は南受(したう)け 晴南(はれみなみ)風

みかんばたけは 小六月

潮のぬくみの 熊野の浦は

蜂がみかんの 臍を刺す

 

靑い浦波 靑い草

冬も蒲公英 咲く路で

靑い蜜柑の 籠(かご)の山

鋏(はさみ)ちよきちよき 日が永い

 註 此蜜柑山は奧熊野新宮以南の海岸潮岬近くをうたふたもの。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年二月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第二号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「防風」これは海岸の砂地に自生する多年草である、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis。本邦には北海道から南西諸島にかけて広く植生する。食用・薬用になる。花期は五~七月頃で、温暖なところほど早く開花する。花茎は立ち上がり、大きいものは五十センチメートルを越えることもあるが、一般には背は低いことが多い。白色の毛が多数生え、花序は肉質で白色、見た感じは、ごく小さなカリフラワーに似ている(以上はウィキの「ハマボウフウ」に拠る前のリンクは同ウィキの開花画像。因みに、薬草として知られる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata であって、属の異なる別種であり、しかも中国原産で本邦には自生しない)。

「南受(したう)け」初めて見る読み方であるが、小学館「日本国語大辞典」の「くだり」の方言解説で、主に東北及び北陸地方に於いて「南風」のことを「くだり」「くだりかぜ」と呼ぶことが判った。「くだりかぜ」には隠岐の採取が含まれており、伊良子清白の生地鳥取が近い。本篇は気におけない小唄民謡の拵えであるからには、鳥羽或いはロケーションの紀伊半島南部でも通用される語でなくてはならないと私は思う。それらの現地で「南風」を「したうけ」(下受け)と呼ぶ事実を御存じの方は御教授あられたい。

「小六月」陰暦十月の異称。雨風も少なく、春を思わせる暖かい日和(ひより)の続くところからいう。「小春」に同じいから、ここは初冬の頃と読み換えてよかろう。

「奧熊野新宮以南の海岸潮岬」和歌山県東牟婁郡串本町の岬(しおのみさき)(グーグル・マップ・データ)。和歌山県の最南端で太平洋に突出する。ここは本州最南端でもある。長さ約九百メートルの砂州で紀伊半島と結ばれた陸繋島で、標高 四十~六十メートルの海食台地から成る。台地上には上野 (うわの) ・出雲などの集落があり、各家は防風林や石垣で囲まれている。黒潮の影響で気候は温暖である。]

わかめ 伊良子清白

 

わ か め

 

苅れたか かれたか

   雪の日の わかめ

雪の朝あけ

   わかめを苅れば

濡れた細葉の

   うすみどり

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に先の「暖冬」「囃子」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。]

囃子 伊良子清白

 

囃 子

 

鳥羽の菅嶋

   鵜の鳥は

冬の日中に

   水くゞり

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に先の「暖冬」と後の「わかめ」 とともに掲載。署名は「伊良子清白」。

「菅嶋」は「すがしま」で三重県鳥羽市沖の伊勢湾口の東西に長い菅島のこと。現行の一島の住所表記は鳥羽市菅島町。人口は二〇一〇年の国勢調査では六百八十九人。島の面積は四・五二平方キロメートルあり、人口・面積ともに三重県では、菅島の北西近くにある答志島に次いで第二位で、同じ鳥羽市内の相差(おうさつ)及び志摩市志摩町和具と並んで、海女の多い地域として知られる(以上はウィキの「菅島」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2019/06/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(35) 「池月・磨墨・太夫黑」(2)

 

《原文》

 磨墨ハ多數ノ故鄕ヲ併セ有スル點ニ於テモ池月ト容易に兄弟シ難キ馬ナリ。【引田】關東方面ニ於テハ此名馬ノ生レ在所ト云フモノ、一ツニハ下野上都賀郡東大蘆村大字引田ナリ。【釜穴】村ヲ流ルヽ大蘆川ノ摺墨淵ノ片岸ニ、釜穴ト稱スル入口八九間ノ洞窟アリ。磨墨ハ此洞ヨリ飛出セリト云フコトニテ、岩ノ上ニ大キサ七八寸深サ一尺ニ近キ蹄ノ痕アル外ニ、【駒留石】村ノ長國寺ノ境内ニモ亦一箇ノ馬蹄石アリテ、其名ヲ駒留石ト稱シタリ〔駿國雄志二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ヒコマ)村ハ元ハ彥間ト書ケリ。昔ノ牧ノ址ナルヲ以テ今ノ字ニ改メシナルべシ。土地ノ人ノ說ニテハ世ニ名高キ池月磨墨ハ共ニ此地ノ出身ナリト云フ〔山吹日記〕。上總國ニモ磨墨出デタリト傳フル地少ナクモ二處アリ。其一ツハ木更津ノ町ニ近キ疊池(タヽミイケ)ト云フ池、【硯】其二ハ則チ東海岸ノ夷隅郡布施村硯ト云フ地ナリ。硯ニテハ高塚山ト名ヅクル丘陵ノ頂上、僅カナル平ニ一本松ノ名木アル邊ヲ昔ノ牧ノ跡ナリト傳ヘ、愛宕ヲ祀リタル小祠アリ。此岡ノ中腹ニモヤハリ小サキ池アリテ、其水溜リノ如何ナル旱魃ニモ涸レザルヲ、或ハ磨墨ノ井ト稱ス。此地方ノ口碑ニ依レバ、磨墨ハ此牧ノ駒ナリシヲ平廣常取リテ鐮倉將軍ニ獻上スト云ヘリ〔房總志科〕。此ヨリ更ニ一日程ノ南方、安房ノ太海村ノ簑岡ト云フ海邊ノ牧モ、池月磨墨ノ二駿ヲ產セリト云フ名譽ヲ要求ス。而シテ村ノ名ニモ池月村磨墨村ノ稱呼アリキト言ヘド、今日ノ何ニ該當スルカ不明ナリ〔十方菴遊歷雜記五篇下〕。此海岸ヨリハ、兎モ角モ或名馬ヲ出セシコトノミハ事實ナルガ如シ。同ジ太海村ノ大字太夫崎(タイフザキ)ハ、義經ノ愛馬薄墨一名ヲ太夫黑ト云フ駿足ヲ出セシヨリノ地名ナリト云フ。【岩穴】岬ノ岸ニ不思議ノ巖窟アリ。深黑測ルべカラズ。太夫黑ハ則チ其洞ヨリ出デタリト云ヒ、【硯】附近ニハ硯トスべキ多クノ馬蹄石ヲ產シ、且ツ馬ノ神ノ信仰ヲ保存セリ〔千葉縣古事志〕。一說ニ賴朝石橋山ノ一戰ニ敗レテ此半島ニ落チ來タリシ際、太夫黑ヲ手ニ入レタリ。【名馬不死】後ニ此馬ハ獨リ故鄕ニ還リ來タリ、今モカノ洞ノ奧ニ住シテ不死ナリ。山麓ノ名馬川ノ岸ヨリ波打際ニカケテ、折々駒ノ足跡ノ殘レルヲ見ルハ、人コソ知ラネ龍馬ノ胤ノ永ク絕エザル證據ナリト云ヘリ〔遊歷雜記同上〕。然ルニ右ノ太夫黑ハ古クハ奧州ノ秀衡ガ義經ニ贈ル所ト稱シ、池月磨墨ト共ニ南部三戶ノ住谷ノ牧ニ產スルコト、同處ノ馬護神ノ天明元年ノ祠堂記ニ詳カナルニ〔糠部五郡小史〕、或ハ又越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱ニ生レタリト云フ說アリ〔越後名寄三十一〕。讚岐木田郡牟禮村ニテハ此馬終焉ノ古傳碑文ニ依リテ明白ナリ〔讚岐案内〕。結局何レガ眞實ノ話ナルカ、予ハ之ヲ決シ得ズ。

 

《訓読》

 磨墨は、多數の故鄕を併(あは)せ有する點に於ても、池月と容易に兄弟し難き馬なり。【引田】關東方面に於いては、此の名馬の生れ在所と云ふもの、一つには、下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)なり。【釜穴】村を流るゝ大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり。磨墨は此の洞より飛び出だせりと云ふことにて、岩の上に大きさ、七、八寸、深さ一尺に近き蹄の痕ある外(ほか)に、【駒留石】村の長國寺の境内にも亦、一箇の馬蹄石ありて、其の名を駒留石と稱したり〔「駿國雄志」二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ひこま)村は元は「彥間」と書けり。昔の牧の址なるを以つて、今の字に改めしなるべし。土地の人の說にては、世に名高き池月・磨墨は、共に此の地の出身なりと云ふ〔「山吹日記」〕。上總國にも、磨墨出でたりと傳ふる地、少なくも二處あり。其の一つは、木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」と云ふ池、【硯】其の二は、則ち、東海岸の夷隅郡布施村硯(すずり)と云ふ地なり。硯にては高塚山と名づくる丘陵の頂上、僅かなる平(ひら)[やぶちゃん注:平地。]に一本松の名木ある邊りを昔の牧の跡なりと傳へ、愛宕(あたご)を祀りたる小祠あり。此の岡の中腹にも、やはり小さき池ありて、其の水溜りの、如何なる旱魃にも涸れざるを、或いは「磨墨の井」と稱す。此の地方の口碑に依れば、磨墨は此の牧の駒なりしを、平廣常、取りて鐮倉將軍に獻上すと云へり〔「房總志科」〕。此れより更に一日程の南方、安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊の牧も、池月・磨墨の二駿を產せりと云ふ名譽を要求す。而して村の名にも池月村・磨墨村の稱呼ありきと言へど、今日の何に該當するか不明なり〔「十方菴遊歷雜記」五篇下〕。此の海岸よりは、兎も角も、或る名馬を出せしことのみは事實なるがごとし。同じ太海村の大字太夫崎(たいふざき)は、義經の愛馬「薄墨(うすずみ)」一名を「太夫黑(たいふぐろ)」と云ふ駿足を出せしよりの地名なりと云ふ。【岩穴】岬の岸に不思議の巖窟あり。深黑、測るべからず。太夫黑は、則ち、其の洞より出でたりと云ひ、【硯】附近には硯とすべき多くの馬蹄石を產し、且つ、馬の神の信仰を保存せり〔「千葉縣古事志」〕。一說に、賴朝、石橋山の一戰に敗れて此の半島に落ち來たりし際、太夫黑を手に入れたり。【名馬不死】後に此の馬は、獨り故鄕に還り來たり、今も、かの洞の奧に住して不死なり。山麓の名馬川の岸より波打際にかけて、折々、駒の足跡の殘れるを見るは、人こそ知らね、龍馬の胤(たね)の永く絕えざる證據なりと云へり〔「遊歷雜記」同上〕。然るに、右の太夫黑は、古くは奧州の秀衡が義經に贈る所と稱し、池月・磨墨と共に、南部三戶の「住谷(すみや)の牧」に產すること、同處の馬護神の天明元年[やぶちゃん注:一七八一年。]の「祠堂記(しだうき)」に詳かなるに〔「糠部五郡小史」〕、或いは又、越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)に生れたりと云ふ說あり〔「越後名寄」三十一〕。讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり〔「讚岐案内」〕。結局、何(いづ)れが眞實の話なるか、予は之れを決し得ず。

[やぶちゃん注:「下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)」栃木県鹿沼(かぬま)市引田(ひきだ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

『大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり』個人サイトと思われる「鹿沼見て歩き」の「磨墨ケ渕 引田」の記載と、ストリートビューでの確認から、この橋(「天王橋」)附近と思われる。上記ページにはサイト主が手書きで写して電子化した、鹿沼図書館蔵の禁帯出の藁半紙に謄写版で印刷された上沢謙二氏著になる「磨墨ケ渕」という冊子(昭和三二(一九五七)年七月二十二日クレジット)の全文があるので是非読まれたい。子供向けに書かれ、大阪中央放送局のラジオ番組(昭和二年九月から翌年にかけて放送)のために上沢氏が執筆されたものであるが、非常に素敵な内容である。

「長國寺」不詳。引田地区の天王橋の左岸東北約四百メートル位置に曹洞宗大盧山長安寺という寺ならある。この誤りかと思ったが、「駿國雜志」の当該箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)(右ページの十行目)を確認したところ、確かに「長國寺」とあって、わざわざ『真言』宗と割注もあり、しかも『淵より三四町、東』(三百二十八~四百三十六メートル)とあるから、ちょっと違う。しかし、そこでは山号が字抜けになっており、どうもなんとも怪しい感じはする。

「同國安蘇郡飛駒(ひこま)村」栃木県佐野市飛駒町

『木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」』千葉県木更津市朝日に畳ヶ池(たたみがいけ)として現存する。「畳ヶ池」については磨墨に関わる記載を見出せないが、別に、頼朝絡みの由来ならたっぷりある。「石橋山の戦い」から辛くも房州に遁走した源頼朝が、兵を募りつつ、北上した際、木更津の人々ここの水辺に畳を敷きつめ、もてなしの宴を開いたことによるという。以上は個人サイトと思われる中の「千葉の歴史の道 房総往還を歩く」に拠ったが、そこにはまた、『頼朝が畳ヶ池で数度』、『昼を取る時、長須賀にいる農民が小さな籠に綺麗なお弁当を作り』、『献上した』ところ、『頼朝はこの気持に大層喜び』、『その農民に』「小籠」という『名字を与えた』ともあり、また、『食事の時に箸を忘れ』、頼朝の家臣が、或いは『頼朝が』、『池に生えていた葦を箸替わりにしようと切った』ところ、『手を怪我した。怒った頼朝は「葦なんて生えなきゃいい」と言った。それ以降』、『この池に葦生えない。(地元の人が根から取った』『という話もある)』ともあった。

「夷隅郡布施村硯(すずり)」国土地理院図で発見した。千葉県いすみ市下布施の硯である。同地区には天台宗硯山(すっずりさん)長福寺という寺があるが、当寺公式サイト(ウエッブサイト・アドバイザーが危険リスクを表示するのでリンクはしない。私は山号の読みと磨墨の記載を確認するためにリスクを容認した)には、『平家により鎌倉に追われた源頼朝は、平家追討の援軍を求めて房総にやって来た折、当寺に立ち寄ったと言われています。時の住職との話の中で、未だ山号の無いことを知った頼朝は「山号を授けるので書くものを持て」とおっしゃいました。住職の差し出した硯のあまりの見事さに「硯山」とすることになりました。そのとき以来この寺は「硯山無量壽院長福寺」(すずりさんむりょうじゅいんちょうふくじ)が正式名称になりました』。『また、書状を認めていた折、近くの山で馬のいななきが聞こえ、平家の追手かも知れないと考えた頼朝は、手にしていた筆を境内の槙の枝に掛け(これで、筆掛けの槙といわれるようになりました)』(現存するとある)、『見てくるように家来に命令』しましたが、『家来の連れて来た馬は、全身真っ黒な立派な馬でした。すっかり気に入った頼朝は』、『その馬に「磨墨」という名を付け、可愛がったといいます。都内某寺に「磨墨の墓」があり、墓誌に「布施の郡より得た馬」と書かれているそうです』とあった。『都内某寺』とはどこやねん!? 宗派が違うから伏せてるのだろうけれど、ちょっとムカつく!

「安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊」『「十方菴遊歷雜記」五篇下』のここであるが(国立国会図書館デジタルコレクション)、その幾つかの道程の地名を考えるに、これは千葉県鴨川市太海のこの附近ではないか? 則ち、「簑岡」は「嶺岡」の誤認か古名なのではないかというのが私の推理なのである。ここから東の内陸にかけて、自衛隊駐屯地などのいろいろな施設名に「嶺岡」の旧地名が複数冠り、その果てに大山(不動尊)があるからである。

「太海村の大字太夫崎(たいふざき)」千葉県鴨川市江見太夫崎。次注参照。

「名馬川」「LocalWiki」の『名馬橋 名馬「太夫黒」の伝承のこる小さな橋』に地図附きで以下のようにある。『鴨川市江見の吉浦地区(大字・太夫崎)の旧道に架かる「名馬橋(めいばはし)」。この橋の名も源頼朝の伝承に因んでいるらしい』。『この橋が架かっているのは「名馬川(めいばがわ)」という小川』で、『地元の人からこんな話がのこっていると聞いた』として、『頼朝が太夫崎(たゆうざき)まで来た時に、洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけた。地名をとって「太夫黒(たゆうぐろ)」と名を付け、自身の乗る馬とした。この橋から少し上流に、波切不動があり、伝承の馬がいたのはそこにある洞穴だという』(ここ)。名馬橋の改修前の画像と記事もこちらにある

『南部三戶の「住谷(すみや)の牧」』既注であるが、再掲しておくと、「南部九牧」の一つである「住谷野牧」のこと。青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。

「越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)」新潟市北区太夫浜(たゆうはま)

「讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり」既出既注の佐藤継信と太夫黒の墓の伝承。再掲しておくと、現在の香川県高松市牟礼町牟礼にある真言宗眺海山円通院洲崎寺(すさきじ)にある。ウィキの「洲崎寺」によれば、『源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると』、『戦災により』、『当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり』、『戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり』、『毎年』三月十九日には『慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている』とある。]

譚海 卷之三 樂器の家々 琴(続き)

 

(樂器の家々 琴)[やぶちゃん注:前回の続きと採る。]

○きんは本朝に其傳(でん)絕(たえ)たる時、延寶の比(ころ)華僧心越禪師彈法を傳へ來り、再たびきんをひく事になりて、「琴經(きんけい)」抔(など)云(いふ)書、人の見る事に成(なり)たり。然れども今時の琴は甲を用ひず、爪にてひく事にて、調子も甚微音也。物を隔ては分明に聞得る事かたきやう也。土屋某の茶道小野田東川と云者心越の弟子にて、琴を能(よく)ならひ取たる故、四辻殿關東下向有て御願有、東川を召れ、傳奏屋敷にて琴の彈法東川より御傳授有、數月の後(のち)事畢(ことおはり)て歸洛有、以來堂上方にきん有と云。

[やぶちゃん注:「琴」「きん」筝との相違は門外漢の私(妻はプロ級だが。後述)がぐたぐた述べるよりは、サイト「中国語スクリプト」の『「琴」と「箏」の歴史と構造の違い【図説】』が詳しくヴィジュアル的もの最適なので、そちらを見られたい。

「延寶」一六七三年~一六八一年。次注参照。

「心越禪師」江戸初期に清から亡命した禅僧東皐心越(とうこうしんえつ 一六三九年~元禄九(一六九六)年)。ウィキの「東皐心越」によれば、『俗姓は蒋氏、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある』。『詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、なかんずく』、『文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる』。『明国浙江省浦江県で生まれる。幼くして仏門に帰依し』、『呉門の報恩寺において寿昌無明の法嗣となる』。一六七六年(延宝四年)、『清の圧政から逃れるため』、『中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。薩摩に入』った。『澄一禅師の招聘によって延宝』九(一六八一)年に『長崎の興福寺に住』したが、『黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど』、『各地を遊歴』したが、『外国人でありながら』、『日本国内を旅行したため』、逆に『清の密偵と疑われ』、『長崎に幽閉され』てしまう。天和三(一六八三)年、『水戸藩の徳川光圀』『の尽力により釈放』され、『水戸に』移って、『天徳寺に住し』、『篆刻や古琴を伝え』た。元禄七(一六九四)年、体をこわし、『翌年、江戸の菊坂長泉寺、相州塔之沢温泉などで療養するも回復せず、天徳寺に戻ると同年』九『月に示寂した。享年』五十八。『心越の禅風は明代中国禅の特徴である念仏兼修であ』り、『また』、『心越自身も黄檗僧との交流が深かった。このため』、『心越を黄檗宗とする資料も多いが、法系上は曹洞宗に属する。日本曹洞宗の開祖道元とは別系であり、心越の法孫は曹洞宗寿昌派を称した』とある。現行の「金沢八景」の命名者としても知られる。詳しくは私の光圀の「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の私の注や、植田孟縉(もうしん)の「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の私の注(心越の漢詩、及び、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像を電子化掲載してある)を参照されたい。

「琴經」明の張大命纂になる琴学書。

「甲を用ひず、爪にてひく」「甲」は不詳。明らかに「爪」と差別化しているのだが、妻(五歳より琴を始め、画期的な現代邦楽研究所の第一期生にもなった(但し、卒業演奏の足を引っ張るのが嫌で、勿体ないことに、卒業一ヶ月前に退所した)に聴いたが、判らないとのことである。琴爪は別名「義甲(ぎこう)」とも呼ぶが、調べても「爪」との違いが判らない。識者の御教授を乞う。「調子も甚微音也」というところを見ると、大きく硬い素材か? 当初、鼈甲を考えたが、それでは却って柔らかな音になってしまうように思う。因みに、私の妻は三味線も所持するが、その撥は先端部分を鼈甲で蔽ってある。

「土屋某の茶道小野田東川」(おのだとうせん 貞享元(一六八四)年~宝暦一三(一七六三)年)は京生れの七弦琴の奏者。名は廷賓。先の心越が伝授した琴法を、杉浦正職(まさもと)から学ぶ。七弦琴の名人として知られ、その弾法を後世に伝えた。

「四辻殿」前回で注したが、室町家の別名で、花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。]

甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず

 

甲子夜話六

 

6-1 林子、古歌を辨ず

林氏云。「碧玉集」二、

 くだる世に生れあふ身は昔とて

      しのばむほどの心だになし

今其時を去る事又數百年なれば、昔を忍ぶ人の稀なるも怪しむべからず。近き世の一節あることさへ、今は語り合ふ友も少ければ、見るにつけ聞につけつつ語り候半。間中の慰寂に、筆まめに書とり玉へ。左あらば昔忍の草、此春雨におひひろごり申べし迚、ひたものひたもの慫慂なれば、又此册を書はじめけり。

■やぶちゃんの呟き

 最後は本巻の巻頭言となっている。

「林子」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「碧玉集」「碧玉和歌集」。室町後期から戦国期の下冷泉家の公卿で歌人の冷泉政為文安三(一四四六)年~大永(たいえい)三(一五二三)年)の家集。父持為は下冷泉家の祖。正二位・権大納言。後柏原天皇時代の歌壇で活躍し、本家集は後柏原天皇の「柏玉集」、三条西実隆の「雪玉集」とともに「三玉集」と称され、重んじられた。初名は成為であったが、足利義政より「政」の字を偏諱(へんき)を受けた。所持しないので歌の校合は出来ない。

「候半」「さふらはん」。

「間中」「かんちゆう」か。一般的ではないが人の命の「僅かの間」の意味か。

「慰寂」底本で編者は二字に『なぐさみ』と振る。

「ひたもの」副詞。ひたすら。やたらと。

甲子夜話卷之五 36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事 /甲子夜話卷之五~完遂

 

5-36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事

予久しく憶ふに、古へは歌はうたふことにて有けるを、今は哥はよみ出たる計にて、うたふことなし。流俗のうたふものは、別に其詞ありて殊にいやしければ、花前月下など哥よまんとき、其詞を弦詠せん迚、其頃名ありし山田檢校【豐一】に謀れば、山田乃予が爲に、三十一文字の歌章の筝曲を作りぬ。其後、家老長村内藏助が歸邑しけるにも、又同姓伊勢守が堺の奉行となり、其地に赴しときも、予餞別の歌をよみて、其祖筵にて侍妾に弦詠せしめければ、伊勢も長村も殊更に感悅して入興しける。長村を餞せしとき、

 鶯の谷より出て峰たかき

      霞にうつる春の初こゑ

伊勢を餞せしとき、

 住の江の松と久しきやがてまた

      岸による波かへりこん日も

然るにいつか世の中にても、風雅を好めるものは此筝曲を用るとぞ。林氏このことを面白き思立なりとて、度々激賞して、後には其本を知らぬやうにもなれば、記し置けと勸るまゝ玆にしるす。

■やぶちゃんの呟き

「山田檢校【豐一】」「豐一」は「とよいち」。宝暦七(一七五七)年生まれで、文化一四(一八一七)一四(一八一七)年没。江戸中期の音楽家で山田流箏曲の始祖。都名(いちな:もとは琵琶法師などがつけた名。名前の最後に「一」「市」「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする平曲の流派は一名をつけたので、「一方(いちかた)流」と呼ばれた。後には広く一般の盲人も用いた)は斗養一(とよいち)。号は勝善、幽樵など。尾張藩宝生流能楽師といわれる三田了任の子。幼時に失明。第二十八代惣録(江戸時代に検校・勾当の上にあって盲人を統轄した官職)長谷富(はせとみ)検校門下の山田松黒(しょうこく)に師事し、寛政九(一七九七)年一月、寺家村(じけむら)検校を師として検校に登官。寛政~享和年間(一七八九年~一八〇四年)にその作風が円熟し、その一門は、それまでの江戸の生田流を圧倒する勢力となった。文化一四(一八一七)年二月、第六十八代惣録に就任したが、その二ヶ月後に没した。河東節(かとうぶし:浄瑠璃の流派の一つで、享保二(一七一七)年に江戸半太夫の門から分かれた十寸見河東(ますみかとう)が創始したもの。優美で渋い江戸風の音曲で、古曲の一つに数えられている)をはじめ、その頃、江戸で行われていた各種の三味線音楽に通じ、彼の作品は、三味線音楽を箏曲化した新しい種目の音楽と評価される。門下から多数の派が生れた。主作品は「初音曲」「葵の上」「長恨歌」「小督曲(こごうのきょく)」「熊野(ゆや)」(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。静山より三つ年上。

「乃」「すなはち」。

「家老長村内藏助」(明和四(一七六七)年~文政三(一八二〇)年)は肥前平戸藩藩士で家老。京都の儒者皆川淇園(きえん)に学び、後に江戸に出て、佐藤一斎と交わった。帰藩後、藩校維新館学頭などを務め、家老となった。名は鑒(てらす)、通称、内蔵介。著作に「乙丑西帰記」「蒙古寇紀」などがある学者でもあった。

「歸邑」「きいふ(きゆう)」。帰藩。

「同姓伊勢守」松浦忠(まつらただし)であろう。文化一〇(一八一三)年から文化一二(一八一五)年まで堺奉行を務めている。

「祖筵」「そえん」。旅に出る人を送る送別(餞別)の宴席。この「祖」は道祖神のことで「筵」は席(場所)で、旅に際してそれを祀ることが語源であろう。漢語。

「住の江」大阪市住吉  の古称で歌枕。松浦の堺奉行出向に洒落たもの。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

甲子夜話卷之五 35 小宮山木工進の事

 

5-35 小宮山木工進の事

享保中、御代官にて名高かりし小宮山木工進【昌世】は、元御廣敷の賤吏より拔擢せられ、幹事の才は衆にすぐれたるものなりしとなり。小金原御狩のとき、百姓勢子のはたらき方、思召の如くならず。樣々御指麾を傳ふれども、兎角におもはしからざりしとき、木工進召せとの仰にて御前に出ければ、しかしかと御指授ありける。畏り候迚、その儘乘返して下知すれば、有合數多の百姓どもを、手足を使ふ如く自由に引廻しけるとなん。又鴻臺へ成せ玉ひしとき、數日前より北條、里見などの事ある書を檢點して、其地理古戰の次第を硏究しぬ。御遊覽の日に至り、果して此地の事心得る者や有と問せ玉へば、昌世御案内申ながら、來歷戰場の樣子など、詳明に言上せしかば、深くめでさせ玉ひしとなり。又一日御郊遊のとき、昌世路傍に蹲踞して拜し奉る。今年は作毛いかゞあらんと御尋ありければ、昌世謹で豐稔に候とぞ答奉りける。翌日老臣進謁のとき、今年諸國不登と聞しが、昨木工進に問せ玉へば、豐熟なりと云。兼て聞しめす所とは違へり。いづれか實なるべきとの仰なり。老臣退て司農官を呼び、木工進を詰問せしむ。木工進申けるは、今年の凶荒は衆の知る所なり。上より實に豐凶を問玉はんには、上に執政あり、下に奉行あり。各其順次を以て某に問玉ふべし。その時は實を以て答申さん。昨の御遊、殊に御機嫌もうるはしく、御興がてら御言葉を玉はりしことと存候へば、臣も亦御興を添奉らんと思ひて、答奉りき。もし凶荒と申さば、御遊興の中、俄に御憂念をも生じ奉らんやと、斟酌して申上つるまでなりと申けり。其次第、老臣より言上せしかば、いと御機嫌なりしとなん。又月光大夫人、飛鳥山へ遊ばせ玉ひしが、道より驟雨降出しければ、先金輪寺に雨を避させ玉ひしに、程なく雨は止たれど、木履無くては、山上の芝地露滋く、いかゞあらんとありしに、陪從數百の女中の履、俄に辨ずべきにあらず。とやかくと人々申合うち、折節金輪寺修繕のことありて、匠作局より運置し杉の貫板あまた有しを、いつか木工進かりの木履に作り出して、立所に辨ぜり。大夫人の遊山、陪從の輩少しもさゝはらざりしとなん。其機智敏捷なる、皆此類なりしと。

■やぶちゃんの呟き

「小宮山木工進」「こみやまもくのしん」と読む。平凡社「世界大百科事典」によれば、江戸中期の代官。生没年不詳。初め「源三郎」、後に「木工進・杢進・杢之進」と称した。字は君延、号は謙亭。辻弥五左衛門守誠(もりのぶ)の四男として生まれ、小宮山友右衛門昌言(まさとき)の養子となった。太宰春台に古学を学び、享保六(一七二一)年閏七月に幕府代官となっ。下総佐倉・小金牧の開墾などに当たり、褒賞されたこともあるが、晩年は不遇であった。「地方凡例録(じかたはんれいろく)」には、辻六郎左衛門守参(もりみつ)とともに「地方の聖」としてあげられている、とある。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「御廣敷」「おひろしき」。江戸城本丸と西の丸の大奥の側に設けられていた大奥勤務の役人の詰所。広敷用人以下の役人が詰め、大奥の総ての事務を司った。

「小金原」現在の千葉県松戸市小金原(こがねはら)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「御狩」第八代将軍吉宗のそれ。

「御指麾」「ごしき」。「指麾」は「指揮」に同じ。「麾」も「揮」ももとは軍勢の指揮を執る旗の意。

「有合數多の」「ありあふあまたの」。

「鴻臺」「こうのだい」。旧下総国の国府が置かれた、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「北條、里見」後北条氏と安房里見氏。両者は二次に亙る「国府台合戦」(天文七(一五三八)年、及び、永禄六(一五六三)年と翌年にかけての第二次合戦に大別される)の両雄。詳しくはウィキの「国府台合戦」を見られたい。

「作毛」稲の出来。

「不登」吉宗の問いであるので「ふとう」と音読みしておくが、訓じて「みのらず」とも読める。

「某」「それがし」。

「月光大夫人」第六代将軍徳川家宣の側室で、第七代将軍徳川家継の生母であった月光院(貞享二(一六八五)年~宝暦二(一七五二)年)本名は勝田輝子。家宣が死去して後、月光院と呼ばれた。父は元加賀藩士で浅草唯念寺住職勝田玄哲。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある区立公園飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都内の桜の名所の一つ。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。また、『「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(』二十五・七『メートル)よりも低い山ではないかとして』、二〇〇六年に『測量を行い、実際に愛宕山よりも低い』二十五・四『メートルであることを確認したとして』、『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが』、『採択されなかった』ともある。

「先」「まづ」。

「金輪寺」「きんりんじ」。飛鳥山北西直近の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。歴代江戸幕府将軍の御膳所を務めた格式ある寺院。

「木履」「ぼくり」。下駄。

「辨ず」適切に素早く処理する。

「匠作局」「しやうさくのつぼね」。「匠作」は旧修理職(しゅりしき)、木工(もく)寮の唐名。

「運置し」「はこびおきし」。

「貫板」「ぬきいた」貫(ぬき:柱と柱との間を横に貫いて繫ぐ材木)に用いる板材。

暖冬 伊良子清白

 

暖 冬

 

海が靑けりや

   冬やあたたかい

女黑けりや

   雪や降らぬ

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に以下の「囃子」「わかめ」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満五十三歳。以下、新作民謡調俗謡が少し続く。不二子の自死を天が癒すかのように、この年の二月九日、三男朴(すなお)が生れている。]

伊良子淸白自傳 / 昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附されたもの

 

 伊良子淸白自傳

 

 名は暉造、明治拾年拾月四日鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村に生る。幼時父母に伴はれて三重縣に轉住。其の地の小學校を經て津中學校を卒業した。中學在學中同志數名と共に和美會雜誌經文學等發行。詩は十六七歲から習作を試みた。次で京都府立醫學校(今の府立醫科大學)に入學三十二年卒業、後東京に出で傳染病硏究所東京外國語學校獨逸語學科に學んだ。醫學校在學中から「文庫」「靑年文」に寄稿し、出京後は「明星」初期の編輯に參與、またその頃大阪で發行せし「よしあし草」(後に「關西文學」)にも執筆した。常に「文庫」の同人として河井醉茗橫瀨夜雨其他の多くの同志と共に詩作に努力した。三十九年五月詩集『孔雀船』を出版、所載詩篇僅かに拾八篇であつた。出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した。十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた。かくて前後二十三年全く詩に遠ざかつたが、昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版に出版社の編集コンセプトとして依頼されて書いたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。

「暉造」「てるぞう」。

「明治拾年」一八七七年。

「鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村」(現在の鳥取市河原町(かわはらちょう)曳田(ひきた)。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「幼時父母に伴はれて三重縣に轉住」この母は伊良子清白の生母ではなく、継母である。彼を産んだツネは彼が生後十一ヶ月の、明治一一(一八七八)年九月四日に僅か二十歳で他界している。三重県津市下部田(現在の津市栄町(県庁前公園辺り附近)への一家転住は明治二〇(一八八七)年、清白満十歳の時のことである。

「小學校」立誠尋常小学校(現在の津市立南立誠小学校)へ転入学。翌年三月、同小学校を卒業後(この年で満十一歳)、四月から養正学校高等科(現在の津市立養正小学校)に進学し、翌明治二二(一八八九)年三月の同高等科一年修了を以って、四月より私立四州学館に入学、翌明治二十三年四月に「津中學校」(三重県津中学校(現在の三重県立津高等学校)に入学、卒業は明治二七(一八九二)年。

「經文學」同人誌『輕文學』の誤り。底本「凡例」では、明らかな誤りは編者が注記なしで訂することになっているから、或いは底本全集自体の誤植の可能性がある。

「京都府立醫學校(今の府立醫科大學)」現在の京都府立医科大学。入学は明治二十七年四月。

「三十二年卒業」正規の卒業試験に失敗して追試験で合格したため、卒業は明治三二(一八九九)年六月にずれ込んだ。

「傳染病硏究所」この叙述はちょっと悩ましい。年表では明治三四(一九〇一)年の条に、『十月から十二月まで、北里伝染病研究所で細菌学の講義を受けた』とあるのであるが、この当時、現在の国立東京大学医科学研究所の前身である「私立伝染病研究所」の初代所長が北里柴三郎であったが、「北里伝染病研究所」ではないからである。「北里伝染病研究所」は、そのずっと後の大正三(一九一四)年に、「私立伝染病研究所」が内務省から文部省に移管され、東京大学に合併されるに際して、初代所長北里が移管に反対し、所長を辞任(この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出し、「伝研騒動」と称される)、北里は同年十一月五日に私費を投じて「北里研究所」を設立しているからである。この年譜の方は「北里」柴三郎が所長をしていた「私立伝染病研究所」と読み換えないといけない。

「東京外國語學校」現在の東京外国語大学のメインの前身。

「三十九年五月詩集『孔雀船』を出版」明治三九(一九〇六)年五月五日佐久良書房刊の詩集「孔雀船」初版。

「出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した」この辺りの状況や経歴は「梅村二首」の私の注で略述しているので、それを参照されたい。

「十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた」大正一一(一九二二)年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜(現在の)へ転居、村医として診療所に住んだ。この中央附近に伊良子清白の家はあったが、現在は移築されて鳥羽マリンパーク内(ここ)に「伊良子清白の家」として復元されている。公式ガイド・データ(PDF)。

「昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた」昭和三(一九二八)年五月十九日に東京会館で催された橫瀬夜雨・伊良子清白誕辰五十年祝賀会出席を指す。この時、夜雨とともに河合酔茗の家に泊まって語り合った(しかし、これが三人が集った最後となった)。その後、鳥羽で清白は密かに新作の詩(主に民謡俗謡)の創作を再開し始めたのであった。]

小序 伊良子清白 / 詩集「孔雀船」の再版(昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版)に附されたもの

 

 小 序

 

 この廢墟にはもう祈禱も呪咀もない、感激も怨嵯もない、雰圍氣を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁斷礎の間、奇しくも何等かの發見があるとしたならば、それは固より發見者の創造であつて、廢滅そのものゝ再生ではない。

   昭和四年三月        淸 白

 

[やぶちゃん注:再版の、昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版(明治三九(一九〇六)年五月五日発行の初版「孔雀船」は佐久良書房刊)詩集「孔雀船」で追加されたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。]

鳥羽の入江 伊良子清白 (初出形復元)

 

鳥羽の入江

 

 

  春は鯛繩

 

春は鯛繩

夜延(よばえ)の大漁

からだちいばらも

花が咲く

 

 註 夜延は夜間海上に釣繩の絲を延べるをいふ

 

 

  鱶 釣 り

 

裸一貫 男で候

波は立つ程 吹け吹けあらし

やんれ、乘り出す、灘の上

鯛や鰆(さはら)の 小魚にや飽いた

漁師泣かせの

      鱶釣りに

 

 

  寢たか起きぬか

 

寢(ね)たか起きぬか

  萱野の貉(むじな)

 よいそらよい

沖の夜繩を

  鮫がとる

 

岳(たけ)の朝西風(あさにし)

  飛び出せ螇蚸(ばつた)

 よいそらよい

濱の鰯(いわし)を

  鮪(しび)が逐ふ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十二月一日発行の『民謠音樂』(第一巻第一号)に掲載されたもの。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満五十二歳。但し、この内、最後の「寢たか起きぬか」の一篇は、先行するこの年の四月十五日改造社刊の「現代日本文学全集」第三十七篇「現代日本詩・漢詩集」の「伊良子淸白篇」に九篇(八篇は「孔雀船」から採録)載った際に「ねたか起きぬか」(既に昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版を電子化済み。今回はその注で復元したそれを合成(底本ではここは注記附きでカットされている)して初出形を復元した)という題で単独独立詩篇新作追加として先行発表されているという、変わった経緯がある。また、この年は四月にロシア文学者中山省二郎の尽力で梓書房から詩集「孔雀船」の再刻本が刊行(伊良子清白は「小序」を追加している。この後に電子化する)され、同月には上記改造社のアンソロジーが、十一月には新潮社のそれが相次いで刊行された(新潮社版には「伊良子清白自伝」が書かれている。因みにこれは同全集編集コンセプトとして依頼されて書いたものである。やはりこの後に電子化する。また前者の改造社版に附された解説「明治大正詩史槪觀」では、北原白秋が伊良子清白を絶讃、この年の一月と十一月に出た日夏耿之介の「明治大正詩史」(上下巻)などによって、まさに伊良子清白再評価の機運がいやさかに高まった年であった(中山省二郎や北原白秋はこの年中に鳥羽に清白を訪ねてもいる)。しかし一方で、十一月十九日、次女不二子が自殺するという痛烈な不幸に遭遇している。不二子は大正一五(一九二六)年に大阪の女子神学校を卒業し、東成区の会社に就職したが、翌年には肺尖カタルを発症して入院しており、その予後は不詳であるが、自死したのは、伊良子清白の異母弟岡田道寿の鳥取の家でであった。

山も見えぬに 伊良子清白

 

山も見えぬに

 

   

 

山も見えぬに

釣する人は

妻子(つまこ)まつ身の

かなしかろ

 

   

 

十里二十里

日の沖中で

賴む雲行(くもゆき)

潮のいろ

 

   

 

小(こ)べりすふ浪

さびしいか浪も

底は百尋(ひろ)

絲(いと)が泣く

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年七月一日発行の『詩神』(第四巻第七号)に掲載。署名は「伊良子清白」。本詩篇は漢数字を除いて総ルビであるが、五月蠅いので、私が必要と思った部分のみのパラルビとした。伊良子清白、五十一歳。同号には「雁」(後の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に手を加えて収録。その際に「雁、雁」に改題)と「參宮船」(同作品集に収録。その際に題名を「參宮ぶね」に改題)の三篇の詩が載り、底本全集年譜のデータでは、実に大正一四(一九一五)年十一月の「海村二首」以来、実に三年二ヶ月振りの新詩篇発表である。底本全集年譜によれば、『五月十九日、東京会館での夜雨・清白誕辰五十年祝賀会に出席した。夜雨とともに酔茗宅に宿泊、三人が集う最後の機会となった。このころから翌年にかけて、ひそかに民謡俗謡を数多く詩作した』とある。]

2019/06/13

海村二首 伊良子清白

 

海村二首

 

  

 

船は小さくて見えぬが

突立つた巨人は

凱旋將軍のやうに

勇ましく姿を現はす

幾たりもいくたりも次々に歸てくる

港の灯は輝き波止場の浪は笑ふ

太い指と廣い掌(てのひら)

がつしりと櫓先を握んで

輕く船を操り乍ら

近づく海の勝利者

太い聲で最愛の者共をよびかけ

漁具を濱に卸すと

嬉しさうに寄り添ふ優しい聲と幼い響

今日の獲物は水子(かんこ)に一杯だ

人間の歡喜は陸に滿ち海に溢れる

彼はもう一日の疲れも忘れて仕舞ふ

烈しい勞働の苦痛も甘い思出となる

全世界の幸福はここに集る

一本の酒と妻子の笑顏の外

今は全く何物も彼の頭にないのだ

[やぶちゃん注:「歸て」はママ。「水子(かんこ)」は既注であるが、再掲すると、この「活間(いけま)」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のこと。]

 

   

 

海は妖魔である

私の窓からそつと忍びこんで

幾條の白髮を植ゑ去つたことであらう

老いは靜かに步み寄りて

塵の如く積り皺のごとくくひ入る

わたしの聽診器と手術刀は

黑と白とを象徵して

幾歲月の夜に董に

わたしの命運を暗くし明くし

そしてある夜颶風の眼が過ぎ去る時

わたしの病(やま)ひは重り

わたしの氣息(いき)は絕えんとし

子等は皆枕邊に集り

最後の祈禱(いのり)を捧げるであらう

その時曙は美しく輝き

海面一帶に大なる陽(ひ)は流れて

帆は集ひ私の船出を待つであらう

私は此村の巖陰で死ぬるのだ

故鄕の山の家を思はない

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十一月五日アルス刊の北原白秋・三木露風・川路柳虹編「現代日本詩人選」収録。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、既に四十八歳。同アンソロジーには伊良子清白の詩集「孔雀船」の「漂泊」「淡路にて」「安乘の稚兒」も再録されている。本刊行に際して出版社から新作の依頼があったものであろうが、伊良子清白にして、この口語自由詩はその内容(特に「二」)とともにここまで読んでくると一見、唐突で、驚愕に値する。但し、実は明治四一(一九〇八)年七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)の翻案詩「七騎落」を最後として、伊良子清白は明治四二(一九〇九)年から大正一三(一九二四)年までの、実に凡そ十五年半の間、底本全集の「著作年表」では、伊良子清白は詩篇は一篇も発表しておらず(旧作再録は除く)、詩壇というよりも文壇自体から完全に訣別してしまっていたのであった(明治四三(一九一〇)年三月の短い世論批評文三篇があるのみ)。しかも思えばまた、一方で詩壇にはこの間、大正六(一九一七)年には、かの萩原朔太郎が満三十一歳で第一詩集「月に吠える」を引っ提げて、そのかぶいた姿で登場しているのであってみれば、この口語自由詩は時代の流れとしてすこぶる附きで腑に落ちるとも言えるのである。因みに、この間の波乱万丈と言ってよい事蹟を底本全集年譜に拠りながら、端折って述べると、明治四十一年三月七日、次女不二子が誕生、同年夏より胃腸カタルの症状が深刻となり、紫静養を決意、十月を以って島根での勤務を辞して、大分県臼杵を静養地とし、妻と長女とともに移った。明治四十二年四月に大分県警察部検疫官となって大分町に住むも、翌年五月には日本領であった妻子とともに台湾へ渡り、台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務、明治四四(一九一一)年九月、三女千里誕生。翌年四月、台湾総督府台中監獄医務所長に就任、ゴシック建築の洋館の官舎に住んだ。同年八月長男力(つとむ)誕生。大正四(一九一五)年七月、同前医務所長を辞任し、台湾総督府防疫医となる。台北へ移り、台北病院及び台北監獄医務所の双方に勤務した。翌大正五年、三月、前記防疫医を辞し(以下は既注であるが、再掲する)、大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に突如、出現した詩篇「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」「大嵙崁悲曲」の注も参照)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、四月十九日に妻と神戸に入港した。同年六月下旬、京都市左京区浄土寺馬場町の川越精神病院に勤務が決まった。台北から子供たちを迎えて浄土時真如町の借家に住んだが、翌大正八(一九一九)年六月二十一日、妻幾美(きみ)が死産の上、逝去してしまう。次女不二子を父のところに預け、秋より後妻を探し、長女清の学校の担任であった鵜飼寿(とし)との縁談が年末に決まり、翌年一月五日に挙式、四月に鳥取に帰郷して亡き幾美を供養している。この頃より、開業の方途を探り始めている。大正一〇(一九二一)年三月七日、寿が次男正を産むが、六月、後妻寿は腹膜炎後に感染したとされるリンパ腺結核で休職、後に退職となった。同七月、三重県南牟婁郡市木村に転居し、区医及び下市木小学校校医として、村営市木医館に居住した。翌年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居し、村医として診療所に住んだ。年末の十二月十八日には、四女和が生れている。大正十二年、小浜小学校校医となる。大正一三(一九二四)年五月、長女清が大坂の医師と結婚している。なお、この間、大正一一(一九二二)年十月、翌年の一月と四月、日夏耿之介が『中央公論』に、後に「明治大正詩史」に大成されるものの原型評論を連載、そこで伊良子清白を『稀に見る天稟の技能者』『彗星の如き「孔雀船」』と激賞し、同じく大正十一年末頃には西条八十も講演で清白を再評価しており、これらが昭和四(一九二九)年の伊良子清白再評価の遠因ともなった。

燈火の花 伊良子清白

 

燈火の花

 

夕間暮いぶせき晝の

はてに咲く燈火(ともしび)の花

一つ立ち二つ雙(なら)び

千々にまた遠く連り

香も細く波漂はせ

闇の海根(うみね)をこそ絕ゆれ

 

沈みつゝ浮きつゝはるに

その花の花瓣(はなびら)ゆらぐ

夜(よる)の神(かみ)快樂(けらく)の家(いへ)に

摘みためぬ色美(いろよ)き花を

いぶきしぬ圓(まど)かに闇を

花の露外(と)にしたゝるか

 

また咲きぬ淚の家に

低首(うなだ)れて色褪せし花

ほのぼのと花片(はなびら)けぶる

その花のわなゝく每(ごと)に

蒼ざめし死の息(いき)通ひ

すさみ行く望(のぞみ)の光

 

惡の家(いへ)花(はな)穢(え)に咲きぬ

黑鈍(くろにび)のめぐりを纏(まと)ひ

蝕(むしば)みにひそめる花は

執(しふ)の色あくどくにほひ

蛇の髮(かみ)漂ふ莖(くき)を

力(ちから)にて廣(ひろ)ごり浮きぬ

 

かくて闇(やみ)波(なみ)いと高し

なべて花(はな)底(そこ)ひにかくる

濕(しめ)らへる曉(あかつき)の風

冷やかに香りを誘ふ

花消えて人(ひと)醒めはてぬ

求めつゝ垣根を繞(めぐ)る

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年四月一日発行の『女子文壇』(第三巻第五号)に掲載。署名は「伊良子清白」。本篇は特異的に総ルビ(これは高い飼率で当該雑誌の編集方針であろう)であるが、五月蠅いので、私が恣意的にパラルビとした。]

夏の夜 伊良子清白

 

夏 の 夜

 

林洩る菓物の

濃きかをり今しばし

高まりぬ時すぎし

花の香も殘るかに

くゆるめりめざめたる

家をめぐりひたひたと

波よせぬそは大き

夜の息この時に

われ思ふ外の方を

霰降り月光は

地に箔すまた磯は

家も低くいくみ竹

波に乘る浩々と

白き夜は海に居り

眠られずいとけなき

子心にかへりつゝ

われなきぬ

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年一月十五日発行の『文庫』(第三十三巻第四号)に掲載。署名は「伊良子清白」。底本全集年譜によれば、この年、六月前後、『文庫』編集部内で、伊良子清白が投稿した評論「鏡塵錄」と翻案詩「七騎落」について、早稲田派のグループが採用掲載の可否について問題提起をして紛争が起こり(結果的には七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)に二篇とも掲載された)、伊良子清白の『文庫』からの訣別が決定的になった。なお、この六月には島根県検疫医も兼任している。

「いくみ竹」「組竹」。葉が組み合って繁茂している竹の意。「古事記」に出る古語。]

小詩三篇 伊良子清白

 

小詩三篇

 

 

  帆 影

 

朝に來て浮木をひろひ

夕に出て寄藻(よりも)を燒きぬ

海士の子のすまひにをれば

貝がらに臥するも同じ

 

沖の方城廓(じやうかく)湧きぬ

須臾(すゆ)にしてまた沈み行く

帆づたひに漂ふ海を

眺めつゝ今日も暮しぬ

 

 

  い ま は

 

くだ物落ちぬさと漏るゝ

水のきほひに流れつゝ

月の光はかげ射しぬ

うれはしげにもをののきて

 

野の深林(ふかばやし)濕やかに

かをる一つの香をかげば

あえかの人の面影も

最後(いまは)の腕に觸れずやは

 

 

  風雨の後

 

雷(いかづち)默(もだ)し風雨(あらし)休(や)みて

天の大野は光滿ちぬ

焰の窓より落つる流

雲の盤溫(うづま)に爛(ただ)れ入りぬ

 

背(そびら)の鋒杉風を帶びて

峰路の景色は未だ止まず

隼(はやぶさ)斜(ななめ)に羽を伸して

日の入る彼方に翔り飛びぬ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年十二月三日発行の『金箭』(雑誌か。底本は当該初出ではなく、転載で、書誌データが附帯しない)に掲載。署名は「伊良子清白」。]

嵐の山 清白(伊良子清白)

 

嵐 の 山

 

嵐の山に來て見れば、

花は雪とぞ降りにける。

渡月橋上、繁華(はんげ)の子、

袖振りあふも名所かな。

 

一年前に花咲いて、

人のこゝろの切なりし。

二年前にはな散りて、

人の姿の艶なつし。

あはゝ、それは昔の物語。

 

今復た來る、天龍寺。

松の綠の深くして、

――深くもよしや、松は常盤木。

斷膓の音、鳴るは梵鐘。

 

我や捨てけむ、人やまだ

われを捨てけむ、辨へず。

落花風前、春は盡く。

戶無瀨に啼かむ、郭公鳥。

 

狂亂の躰(てい)、身は空殼、

流を渡り、峯を越え、

花の吹雪に、いざさらば、

消えて去なうよ、消えて去なうよ。

 

  (見れば可愛(いたいけ)、少人の、

  十三詣で、京の兒等、

  綺羅錦繡に身をまとひ、

  一步ふめば、轉法輪、

  二步ふめば、常樂土、

  此世からなる天人界。

  あらけたゝまし、屋方船、

  何に驚く、笛太鼓、

  またきこゆるは、天竺の、

  迦陵頻伽の歌の聲。

  蛾眉玉顏の花の盛りは、

  千々の黃金も擲たん。)

 

可笑しや心亂れては、

花を惜むの情(なさけ)だになし。

耳目に障る人間の、

行樂況して羨むべき。

 

ふりしきる雪、花の木蔭、

飛で四方に散亂し、

地(つち)を叩き水を撲ち、

咒咀(のろひ)の聲は、われ乍ら

あら面白の景色かな。

あはゝ、死ぬともうらまじ。

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行の『白鳩』(第一巻第三号)に掲載。署名「清白」。同年、伊良子清白、満二十九歳。底本全集年譜に『一月、旧年来の父の負債の負担、保険会社の職場環境との不適合などが嵩じ、また早稲田派の台頭で』、古巣の雑誌『文庫』『からも旧風が放逐されていく傾向』があからさまに現われてきていること『に不満を』抱き、『詩壇と訣別する意思を固めた』とある。また、三月頃には、河合酔茗が辞めた後の『文庫』の詩欄の選者問題では同人らと齟齬をきたしたりもした、とある。一方で自らの隠退の決意の証としたか、詩集「孔雀船」の出版への動きも同時進行で起こしている。また、三月末、現在の浜田市内にあった島根県立細菌検査所赴任の話が持ち上がり(赴任後は浜田則天堂病院副医院長を兼務)、酔茗ら詩人仲間の反対を押し切って、四月二十九日、六月には出産をひかえていた幾美を遠縁の人物に託して、再び東京の地を踏まぬかも知れぬという思いで、単身、旅立ち、大阪から瀬戸内海を海路で向かって、五月六日に着いているが、さても、その前日の五月五日、東京の左久良書房から彼の唯一の単行詩集「孔雀船」が刊行され、七日後の十二日、自らの詩集を手にしている(六月二十四日に長女が誕生)。本篇に漂うネガティヴな雰囲気、ある種、世紀末的「今様」風の趣きは、こうした伊良子清白自身の鬱屈を反映していると読めるように思われる。

「戶無瀨」「とむせ」と読み、京都市西京区嵐山にある渡月橋上流の古い地名。歌枕で紅葉の名所。

「空殼」私は「しひな(しいな)」と読みたい(「うつがら」の読みもあるが、如何にもリズムが悪いし、響きも悪い)。漢字表記は「粃」「秕」で、本来は、殻(から)ばかりで実のない籾(もみ)の意で、転じて、草木の果実のよく稔っていないものとなり、さらに広義に「中身の欠けているもの」「空っぽのもの」「価値のないもの」の意となった。

「況して」「まして」。]

天馳使 清白(伊良子清白)

 

天 馳 使

 

霜の光の白々(しらじら)と

おほはぬ空にうつろひて

秋は末なる星月夜

まほにうち見る人もなし

 

其夜の夢に我妹子(わぎもこ)は

最(いと)美(よ)き稚兒を見たりてふ

陽炎(かげらふ)燃ゆる春の國

いつか和子(わくご)は來るらん

 

天馳使(あまはせづかひ)翼伸(の)して

腕に花環をもたらさば

母の二人が亡魂(なきたま)も

或(ある)は仄かに復活(かへ)るべき

 

庭の木立のはらはらと

落葉は八重に積れども

稚兒が隱れし天(あま)の原

朝(あした)の色は綠なり

 

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年十二月一日発行の『白鳩』(第一巻第二号)。署名は「清白」。底本の「未収録詩篇」の同年パートはこの一篇のみ。本篇は特異的に総ルビである。しかし、これ、如何にも五月蠅い(電子化で読み難くなる)ので、今回は読みが振れると私が判断したもののみに限った。

 なお、前年、明治三十七年の「未収録詩篇」所収(一篇のみ)の長詩「海の聲山の聲」は既に以前に電子化している。同年、伊良子清白、二十七歳。一月、内国生命嘱託を辞し、二月に帝国生命保険会社の正式社員となっている。父政治は二月中旬に和歌山に転居し、三月初旬に医院を開業した。十二月半ば過ぎに「冬の夜」と総標題した「月光日光」「漂泊」(孰れも後の詩集「孔雀船」にごく僅かな手入れをして所収)「無題」の三篇を『文庫』投稿、翌年の一月一日発行の同誌(第二十七巻第六号)に掲載されている。

 全集年譜によれば、この翌明治三十八年は年初より父政治の医員開業が再び頓挫していた。同じ頃、父と別居し、縁談を求め始めたものの、胃腸カタルを発症している(これは生涯の彼の病いとなった)。二月から四月まで、帝国生命の出張で四国へ長期に巡回出張している。この間、青木繁の絵「海の幸」を『明星』誌上で見て後の詩篇「淡路にて」詩集「孔雀船」に改作して所収)の詩想を受けている(初出は同年九月発行『文庫』)。また、「万葉集」「枕草子」「紫式部日記」「更科日記」「方丈記」など多数の古典の読書も重ねている。『五月下旬、鳥取市東町の漢学者森本歓一・なかの長女で、鳥取女子師範学校を出て同附属小学校の訓導として勤務していた幾美(きみ)との縁談がまとまり、五月末、鳥取市で結婚、六月から大阪で新婚生活に入っ』ている。この頃、「戲れに」(手入れして詩集「孔雀船」に所収)が執筆されている。同月、帝国生命保険会社大阪支社から東京への転任の辞令を受けて、同月末の二十七日、妻とともに上京し、赤坂区新町の酒屋の持家を新居とした。保険診査医として関東周辺各地へ出張するが、最後の八月下旬の横須賀でのそれに於いて、「花柑子」「かくれ沼」「安乘の稚兒」(孰れも詩集「孔雀船」に所収。異同はリンク先を見られたい。なお、「かくれ沼」は「五月野」に改題している)を詩作している。十月には河合酔茗の家の近くに、十一月初旬には赤坂区台町に転居している。]

甲子夜話卷之五 34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

5-34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

憲廟御世、國用匱乏に及べる頃、蘭人の、銅に毒藥を塗り、幾度も燒返せば金に變ずると云奇方を識るもの渡來せり。勘定頭の荻原近江守など、荐りに此事を建言せしに、憲廟肯じ玉はず。金は煎して病藥に用ることあるものなり。誤りて毒製の金を用ゆるものあらば、人命に係るべきことなりとて、遂にその事を停めて、行はしめ玉はざりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「常憲廟」五代将軍徳川綱吉。

「匱乏」「きぼふ(きぼう)」。物資が不足していること。「匱」は「尽きる」の意。

「荻原近江守」荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)は旗本で、勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる。

「荐りに」「しきりに」。

甲子夜話卷之五 33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

 

5-33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

人魂、蟾蜍の說、前に云へり。又先年の事を思出せしは、鳥越の邸にて、群兒薄暮に乘じ、竿を以て蝙蝠の飛を撲つ。其時靑色なる光のもの、尾を曳きて飛來る。兒、皆、人魂なりと云て、相集て竿を以て打落す。靑光地に墮て猶光り有り。兒、足を以て踏で、而其ものを視に、豆腐の滓の如きものなりしと。是は何物のしかあるや。果して世に言ふ人魂か。

■やぶちゃんの呟き

「鳥越」平戸藩松浦家上屋敷(六義園・小石川後楽園などと並んで、江戸時代に造営された代表的な大名庭園の一つと謳われ、明治から大正にかけて多くの人々から親しまれた「蓬莱園」はその跡地であった)であろう。現在の東京都台東区鳥越の南直近の東京都台東区浅草橋の柳北公園の西北角に平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)碑があると、サイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」のこちらにある。

「人魂、蟾蜍の說、前に云へり」「蟾蜍」は「ひきがへる」。「5-10 人魂を打落して蟾蜍となる事」を指す。

「蝙蝠」「かはほり」。コウモリ。

「飛を撲つ」「とぶをうつ」。

「相集て」「あひつどひて」。

「靑光」「あをびかり」。

「視に」「みるに」。

「滓」「かす」。何らかの発光物質をコウモリが附着させて飛翔していたようである。これだけでは、それが自然物か人造物かは不詳。コウモリは雑食性であるから、ホタル(江戸であるから、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル科ヘイケボタル Luciola lateralis としておく)などを捕食し、その発行物質が附いたものか。ロケーションから見ると、同じルシフェリン(luciferin)-ルシフェラーゼ(luciferase)反応で発光するウミホタル(甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii)やヤコウチュウ(渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans)由来(海中の生物死骸等をコウモリが摂餌した際に附着した可能性を私は考えている)かも知れない。何らかの発光バクテリアやそれを共生させる発光植物類等も考え得るが、当時の江戸市中でそれらがコウモリに附着するほど有意に繁殖している場所を私は想起し得ない。

甲子夜話卷之五 32 長卷の事

5-32 長卷の事

眞田豐後守【幸善】語りしは、「大業廣記」の中に、小田原攻のとき、神君の御馬先に、長卷(ナガマキ)二百人とか三百人とかあり。其物は柄は三尺ばかり、刃は二尺ばかりのものと云ふ。今尾侯の家中、塚松彥之進と稱する人、この技の師範す。尾州居住と云。此兵器の用法は廣く傳へたきものなり。

■やぶちゃんの呟き

「長卷」「長巻の太刀」の略とされる。太刀の柄を一メートル余りの長さとしたもので、長大な野太刀の発生と同じく、斬撃戦用の武器として案出されたもの。江戸期に至って混同されたように、柄長で、石突(いしづき)をつけて、長刀(なぎなた)に類似したもので、また、長刀の形状発展にも影響したが、本来は太刀がその原形であるので、鞘はないものの、鐔を附け、長い柄には、一部分に組糸や革で巻き締めた柄巻(つかまき)も施される。「結城合戦絵詞」や、永正四(一五〇七)年成立の「細川澄元出陣影」に既に描かれることから、室町中期には盛行していたものと推定される(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。グーグル画像検索「長巻」をリンクさせておく。

「眞田豐後守【幸善】」江戸後期の大名で、老中・信濃松代藩第八代藩主の真田幸貫(ゆきつら 寛政三(一七九一)年~嘉永五(一八五二)年)の初名。ウィキの「真田幸貫」によれば、『徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている』とある。静山より三十一歳下。

「大業廣記」樋口栄芳(人物不詳)著「国朝大業広記」(こくちようたいぎようこうき)。徳川氏の来由、および天文一一(一五四二)年の家康の誕生から、元和二(一六一六)年の死没(没後の諸供養等の記事含む)までの、家康の事跡を中心とした編年体史書。明和元(一七六四)年自跋。

「小田原攻」「攻」は「ぜめ」。天正一八(一五九〇)年二月から七月の豊臣秀吉が家康軍を主力部隊として後北条を攻めた小田原征伐。

「尾侯」徳川御三家中筆頭格の尾張侯。尾張徳川家。

「塚松彥之進」不詳。

甲子夜話卷之五 31 暹羅國の古書翰

 

5-31 暹羅國の古書翰

[やぶちゃん注:「暹羅國」は「しやむろこく(しゃむろこく)」でタイ王国の古名(一九三九年までの正式国名)。以下は特別にまず返り点と送り仮名(カタカナ)を除去し句読点のみ残したものを示し、後に訓点に従って訓読したものを附す。その場合、漢文訓読に従った最低限の送り仮名を附した。また、どうしても読みに不都合が生ずる部分には、今回のみ、特異的に〔 〕で送り仮名や句読点を推定で補った。なお、底本では「明公」「日本國」「國王」「貴國」「王」などに於いて知られた礼法書式としての「平出」(へいしゅつ/びょうしゅつ:改行して行頭出しにすること)や闕字(けつじ:当該尊敬対象の単語の前を一字(時に二字)分空けること)らしきものが行われており、それらが二行に亙る場合は、一字下げを採っているが、ブラウザでの不具合を考え、字下げは無視した。訓読では繋げて機械的に句点部で改行した。書翰冒頭の一字下げのみ再現した。]

或人暹羅國の古書翰を示す。珍しければ茲に載。

 

 暹羅國臣握浮哪詩握科喇語末耶屢匕提匹喇那納興沙動勑釐、謹致書于

日本國臣酒井雅樂頭臺下。   恭惟、

明公紀綱明肅、綜理調停、雄鎭一方、藩屛金湯鞏固、撫綏萬姓、閻閭歌頌歡騰。偉政素著、芳聲邁聞、我

國王深嘉焉。茲奉我

國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶令旨。謂人共一天、國分兩地。海外諸邦、惟惟我國與

日本國、稱爲上最。自古以海道舟楫未通之時、傳聞

貴國威望名重。今則遐邇輳集、舟車所至、稔知

貴國地雄人傑。信諸邦視若天淵之異。今幸

天與良緣、同結和好。喜溢望外。第爲滄溟參商、不能親炙耿光以快素願。雖商舟絡繹、曾未得

王音頻教、盛使特臨、使知國土昇平、

起居殊勝。亦籍令諸邦咸羨我兩國厚愛之雅聲、名何其重耶。歳癸亥特遣使進短札菲儀、問候致敬。使囘拜喜

華翰厚貺。雖知

貴國政平俗美、永盟通和之意、止據本价之口說。故未得其眞。於心似有歉然爾。玆荷

貴國王餘波、國治民安、五穀登盛。惟柬埔寨逆醜尚未順服。必欲整師征討、歸向而後已。謹顓坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅齎書。敢仗將此情由、轉啓

貴國王、詳知其意、視同一國、相期和好、與天地日月並久。更祈彼此使者、歲々無間、凡有所欲、惟命是聽。商舶所至、悉聽兩平交易、不致濡滯、依汛通歸。均祈一體是幸。外有鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐發舟。商販已經三載未囘。不知何望、鼎力維持遣歸。均感無涯、我

國王最喜貴地所產良驥。前年差人求買。未得其超絕者。煩爲留心搜求奇駿、許來役購買。務在必得以副我

國王素望之意。

明公輔佐忠誠。維持兩國、同于一家、功莫大焉、來役望賜囘音、依汛道歸。統惟

炤亮、不宣。

Kanboijiakokusi

   奉將

 敬意。筦留幸甚。

 

○やぶちゃんの書き下し文

暹羅國臣の握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐、謹〔み〕て〔、〕日本國の臣酒井雅樂頭台下に書を致す。

恭しく惟〔ふ〕れば、明公紀綱明肅、綜理調停、一方に雄鎭し、藩屛金湯鞏固、萬姓を撫綏し、閻閭歌頌歡騰す。

偉政素と著はれ、芳聲遙に聞ふ、我〔が〕國王深く嘉す。

茲に我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶の令旨を奉す。

謂ふ〔、〕人〔、〕一天を共にし、國〔、〕兩地を分つ。

海外の諸邦、惟惟〔、〕我國と日本國と、稱して上最と爲す。

古〔へ〕より海道舟楫〔、〕未だ通ぜざるの時を以〔て〕すら、貴國の威望〔、〕名重きことを傳聞す。

今は則〔ち、〕遐邇輳集し、舟車の至る所、貴國の地〔、〕雄に〔、〕人〔、〕傑なるを稔知す。

信に諸邦に視ふれば〔、〕天淵の異なるがごとし。

今〔、〕幸に〔、〕天〔、〕良緣を與へ、同じく和好を結〔ぶ〕。

喜望〔、〕外に溢る。

第第〔、〕滄溟參商なるが爲に、耿光に親炙して以〔て〕素願を快すること能はず。

商舟〔、〕絡繹すと雖〔も〕、曾て未だ王音〔、〕頻〔り〕に教へ、盛使〔、〕特に臨み、使〔ひす〕ることを得ず〔。〕

國土昇平、起居〔、〕殊に勝れるを知〔る〕。

亦〔、〕籍に諸邦をして咸〔、〕我〔が〕兩國厚愛の雅聲を羨〔ま〕しむるは、名〔、〕何ぞ其れ重きや。

歳の癸亥〔、〕特に使を遣して〔、〕短札菲儀を進め、問候〔、〕敬を致す。

使〔、〕囘る、華翰厚貺を拜喜す。

貴國〔、〕政〔、〕平〔らか〕に、俗〔、〕美に、永く通和の意を盟ふを知ると雖〔も〕、止止〔、〕本价の口說に據〔る〕。

故に未だ其〔の〕眞を得ず。

心に於て歉然たること有るに似たるのみ。

玆に貴國王の餘波を荷ひ、國〔、〕治〔ま〕り、民〔、〕安く、五穀登盛なり。

惟惟〔、〕柬埔寨の逆醜〔、〕尚〔、〕未だ順服せず。

必〔ず〕師を整〔へ〕て征討し、歸向して後〔、〕已〔め〕んと欲す。

謹〔み〕て坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅を顓〔く〕して〔、〕書を齎す。

敢〔へ〕て仗る〔、〕此の情由を將〔つ〕て、貴國王に轉啓して、詳〔か〕に其意を知らしめ、視ること〔、〕一國に同〔じ〕、和好を相〔ひ〕期し、天地日月と並びに久しからんことを。

更に祈る〔、〕彼此の使者、歲々〔、〕間無〔く〕、凡そ欲する所有らば、惟惟〔、〕命〔、〕是〔れ、〕聽〔か〕ん。

商舶の至〔る〕所、悉く〔、〕兩平〔、〕交易することを聽し、濡滯を致さず、汛に依〔り〕て通歸せよ。

均しく祈る〔、〕一體に是〔れ、〕幸。

外に鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐が發舟〔、〕有〔り〕。

商販〔、〕已に三載を經て〔、〕未だ囘〔らず〕。

知らず〔、〕何〔をか〕望〔み〕、鼎力〔、〕維持して遣歸〔するかを〕。

均しく無涯に感ず、我〔が〕國王〔、〕最〔も〕喜ぶ〔、〕貴地〔、〕產する所の良驥。

前年〔、〕人を差〔は〕して求〔め〕買ふ。

未だ其〔の〕超絕なる者を得ず。

煩しく〔、〕爲に心を留〔め〕て奇駿を搜求し、來役に購買ふことを許せ。

務〔め〕て必〔ず〕得て以〔て〕我〔が〕國王〔の〕素望の意に副ふに在〔り〕。

明公輔佐忠誠〔たり〕。

兩國を維持して、一家に同ぜば、功〔、〕焉より大なるは莫〔く〕、來役に望む囘音を賜〔り〕て、汛〔に〕依〔り〕て遣歸せよ。

統〔て〕惟〔ふ〕るに〔、〕炤亮せよ、不宣。

[やぶちゃん注:以下、添えた原典の画像の文字列を電子化する。なお、二ヶ所に打たれた大きな丸印は意味不明。本邦の花押みたような、シャムの公文書の印なのか? 識者の御教授を乞う。

 

 歳丙寅孟夏望日  謹書

   謹具

     花幔帕肆端

 

     白絞沙肆端

 

   敬意を奉將す。筦留〔、〕幸〔、〕甚し。

 

書の始に酒井雅樂頭とあるは、按るに忠世と云し人なり。初名は萬千代。寬永譜に據に、元和三年父重忠卒するにより、仰を蒙て遺跡三萬三千石を領し、厩橋の城を賜ふ。擧用らるゝこと日々に進んで、政務を與り聞く。公家武家の事を沙汰し、異國他邦のことを相謀る【下略】。寬永十三年卒す。年六十四。然れば翰末に歲丙寅と云ものは、吾寬永三年にして、猷廟御代嗣の後四年に當る。台廟いまだ御在世の時の事なり。

■やぶちゃんの呟き

 総ての語をテツテ的に読解してここにそれを記す力は私にはないし、そのつもりも、さらさら、ない。そもそも「甲子夜話」の電子化コンセプトは「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」なのでここでは特異的に気分次第なのである。しかし、それでも知らんぷりの知ったかぶりは嫌だから、相応の記載はしたつもりではある。まあ、しかし、この奇体なシャム国使節の漢訳された奉書の本文とそのケッタイな訓読の電子化とだけでも、やった意味は「ある」と私は勝手に納得している。恐らくは誰かがその内に私の杜撰なこれを見つけては正確な注解をものして呉れることであろう。それまで私が生きて居られるかは判らぬが、それを楽しみにしている。

「臺下」「だいか」。手紙の脇付の一つ。相手に対する敬意を表わす。

「握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐」長いけれど、これがそのシャム国の使節団団長の名前(官職や称号も含んだそれ)なのであろう。音で取り敢えず読んでおくと(歴史的仮名遣)、「アクフ(/ブ)ダシアクカラゴヒバツヤルシチダイ(/テイ)ヒツラナナウコウシヤドウライ(/チヤク)リ」辺りか。

「酒井雅樂頭」静山が後で記している通り、戦国から江戸前期の大名で老中・大老を務めた、上野那波藩主・伊勢崎藩主・厩橋藩(上野国群馬郡厩橋。現在の群馬県前橋市)藩主、雅楽頭(うたのかみ)系酒井家宗家第二代の酒井忠世(ただよ 元亀三(一五七二)年~寛永一三(一六三六)年)である。ウィキの「酒井忠世」によれば、『後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている』。『酒井重忠の長男として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。徳川家康に仕え、天正』一六(一五八八)年に『後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉』し、天正十八年一月には『家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると』、『父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では六月の「会津征伐」、七月の第二次「上田合戦」に従った。慶長一〇(一六〇五)年に『将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり』、慶長十二年七月には『駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務め』ている。元和三(一六一七)年七月、『父重忠が死去して遺領の厩橋』三万三千石を『継ぎ、それまでの領地と併せて』八万五千石となった。元和九(一六二三)年、『秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わ』った。寛永九(一六三二)年五月には『松平康長の後任として西の丸留守居となり、江戸城大橋外から家臣を引き連れて旧秀忠屋敷である西の丸へ移』ったが、その七『月に家光が増上寺へ詣でた際』、『中風を起こして倒れ、家光から養生を命じられる。幕政には復帰しているが』、寛永一一(一六三四)年六月、『家光が』三十『万の大軍を率いて上洛した際』、翌七『月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は報をうけた家光の命により寛永寺に退去し、失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり』、同年十二月には『登城が許され』、翌十二年二月に家光が『忠世を面謁』し、五月に『西の丸番に復職』したものの、『老中職からは退けられた』。寛永一三(一六三六)年三月に『大老に任じられたが、まもなく』六十五『歳で没』したとある。静山の示す通り、このシャム国使節団来訪は「寬永三年」「丙寅」(一六二六)年のことで、当時、彼は第三代将軍家光の老中の一人であった。なお、この当時、シャムには山田長政(天正一八(一五九〇)年頃?~ 寛永七(一六三〇)年)がおり、大佐級の軍人になっていたから、この使節団の背後には彼の長政の意図が働いているものとも思われる

「惟〔ふ〕れば」「かんがふれば」(考ふれば)と仮に読んだ。

「明公」高位者への尊称。底本では平出されている上に実は一字下げとなっている。これは最初なので平出と闕字を合わせたものと見ておく。なお、この当時の天皇は後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年三月~寛永六(一六二九)年十一月)である。無論、これは形式上で、その「王」の「配下」の事実上の支配者である家光をも暗に示唆する。

「紀綱明肅」で一語で、本邦の政(まつりごと)が道義的に正しく「綱」「紀」「肅」(粛)正(=「明」)されていることを示すものであろう。

「綜理」「総理」に同じで、全体を統合監督して管理処理すること。

「雄鎭」「ゆうちん」。一国を治めるに相応しい雄大なる勢力を有すること。

「藩屛」「はんぺい」。防備のための囲い。「国防」の意であろう。

「金湯」「金城湯池(きんじやうたうち(きんじょうとうち)」の略。「守りが非常に固く、攻めるのが難しい城」の形容から、転じて、「堅固にして他から侵害されることのない勢力範囲」の意。「漢書」の「蒯通(かいとう/かいつう)伝」に基づくもので、「湯池」は「熱湯を張り湛えた堀」のこと。

「萬姓を撫綏し」「ばんせいをぶすいし」。総ての国民を労わり、その生活を安定させ。

「閻閭」「えんりよ」。村里の門や都城内の区画のを指す語であるが、ここは本邦の都鄙或いは巷間の謂いであろう。

「歌頌歡騰す」「かしようくわんとうす」。人民は歌い褒め称え、歓びの声を高らかに挙げている。「鼓腹撃壌」を支配者賛美に変質させたもの。

「素と」「そと」。文字通り、そのままに。

「聞ふ」「きこふ」か。「聴こえてくる」の意か。

「我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶」やはり音を当ててみると、「フラウライシンレツマリンヒツフラウボツダシヤウシヂウクワフラウボツリシヤウコラウシヤク(セキ)カリクコンナクワリサイ(セイ)アシユツヒ(ビ)ヤ」か。シャムではこの年にアユタヤ王国(プラサートトン王朝)第二十七代プラーサートトーン王サンペット五世(一六〇〇年~一六五六年)が王位に就いている。「普臘」はその名に少し似ている感じがする。彼についてはウィキの「プラーサートトーン」を見られたいが、そこには、彼は『同時代にアユタヤ王朝に仕えた日本人傭兵山田長政』(彼はスペイン艦隊の二度に亙るアユタヤ侵攻を孰れも斥けた功績によって先のアユタヤ王朝の国王ソンタム(後述)の信任を得、シャムの王女と結婚し、第三位の官位と王からの賜名を授けられていたほどの高官であった)『と自身の即位をめぐって宮廷内で対立したため、これを左遷した後、密命によって毒殺したとオランダの史料は記している。更に』彼は、『反乱の恐れがあるとして日本人傭兵隊の本拠地と言えるアユタヤ日本人町を焼き払った。この事件以降、日本人勢力はアユタヤ王朝において軍事的・政治的な力を失い、二度と往時の権勢を取り戻すには至らなかった』とある。

「遐邇」遠い所と近い所、遠近。また、遠方も近辺も。後者であろう。

「輳集」「そうしふ」。一つ所に集まり来たること。

「稔知す」そうした認識が長年に亙って積まれてよく知られている。

「信に」「まことに」。

「視ふれば」「うかがふれば」か。比して見させて戴くならば。

「天淵の異なるがごとし」天と地もの違いがあるのと同じである。

「滄溟」「滄海」に同じ。

「參商」「しんしやう」。「參商之隔(しんしょうのへだて)」の略。「參」が現在のオリオン座の「参星」、「商」が蠍座の「商星」で、東西に遠く離れたこの二つの星は、空に同時に現れることはないということから、「距離が非常に離れているために、会う機会がないこと」を指す故事成句となった。別に、夫婦・家族が離別したり、不仲になることの悪い譬えとしても使われ、こちらの方が語源的には先で、古代中国の神話上の帝王嚳(こく:高辛氏とも呼ぶ)の二人の息子は仲が悪くて常に争いをしていたことから、父嚳が互いに遠く離れた参星と商星を掌らせたという伝説に基づくからである。

「耿光」「こうこう」。明瞭にちかちかと光り輝くこと。転じて、堂々として徳にすぐれていること。

「素願を快すること能はず」素懐(普段からの切なる願い)を遂げて心の底から喜ぶことが出来なかった。

「絡繹」「らくえき」。往来が絶え間なく続くこと。

「王音〔、〕頻〔り〕に教へ」本邦の王(この場合は形の上はやはりあくまで「天皇」を意味しつつも、実質上の支配者たる将軍を意識しているものと読まねばなるまい)の名声を頻(しき)りに拝聴して。

「盛使」厳かな正規の使者・使節団。

「籍に」「しきりに」か。

「咸」「みな」(皆)か。

「名〔、〕何ぞ其れ重きや」ここは「その名聞(みょうもの)たるや、どんなにか重いことでありましょうか」という強調形。

「歳の癸亥」「癸亥」(みづのとゐ/キガイ)は元和九(一六二三)年で、この寬永三(一六二六)年の三年前に当たる。但し、この時のシャム王はアユタヤ王国(スコータイ王朝)第二十四代ボーロマトライローカナートソンタム王ボーロマラーチャー一世(一五九〇年~一六二八年十二月十三日)であった。ウィキの「ソンタム」によれば、前君主であった『シーサオワパーク親王』『を処刑し、即位』した人物で、『ビルマとの戦で同士討ちを嫌ったポルトガル人傭兵隊が役に立たなかったところに、当時戦国時代を終えたばかりの日本から渡ってきた、津田又左右衛門を筆頭とする日本人』六百『人を傭兵として雇った。このころ、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた』とある。なお、この時の奉書が何月であったか判らないが、この元和九年七月二十七日に家光は伏見城で将軍宣下を受けて、第三代将軍に就任している(満十九歳)

「短札菲儀」孰れも卑称の謙譲語で、「短札」は自身の書状を遜(へりくだ)って言う語、「菲儀」(ひぎ)は「薄謝」(如何にも粗末な礼物)の意。

「貺」音「キヤウ(キョウ)・カウ(コウ)」。「賜」に同じい。

「政」「まつりごと」。

「盟ふ」「ちかふ」(誓ふ)。

「止止」「ただただ」。

「本价」「ほんかい」。「我が方(シャム国)の使者」か。

「口說」「口頭の説明報告」か。

「歉然たる」「けんぜんたる」。「慊然」とも書き、「満足出来ないさま」の意。

「柬埔寨」「カンボジヤ」。カンボジア王国。当時の王政は弱体化しつつあり、ヴェトナムやシャムが侵攻を始めていた。

「逆醜」「逆らう下賤の輩(やから))」の謂いであろう。

「坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅」「コンナウジツモン通事アレツエツチヨクナワウヱエツ」「通事」の前が地名か官職か、後が名前か。

「顓〔く〕して」「うやうやしくして」と読んだ。礼を尽くして。

「齎す」「もたらす」。

「仗る」「よる」。「依る」で「頼む」の意。

「情由」「じやういう」。現在、以上で述べたところの現在のシャム国の置かれている事情。

「轉啓」事実上は本書簡の内容意図を天皇に上奏することであろう。言わずもがな、ひいては事実上の実権者たる将軍へ伝えることであるが、或いは、だから天皇に直ちに上「奏」され、その奉書着信の許諾を天皇に認められた上で、次に実務判断を下す将軍へと転送されるという本邦のシステムを存知した上で、「轉」と「啓」(絶対敬語のの「奏」の次位の語)が使われているのかも知れない。

「視ること」「我が国(シャム)を認識されること」の意。

「一國に同〔じ〕」「天皇の支配なさっておられる日本国と同じ天(あめ)の下にある一国として」の意か。

「並びに」同様に。

「間無〔く〕」「お時間をおとらせすることなく」の意か。

「兩平」「隔てなく平等に」の意か。

「濡滯」「じゆたい」。滞ること。遅れること。躊躇って遅れること。「遅滞」に同じ。

「汛に」不詳。「注ぐ」とか「増水」とか「水」に関わる漢字だが、これ、「迅」で「すみやかに」の意ではなかろうか?

「通歸」スムースに交流交易を開始することを指すか。

「鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐」例の如く音で示すと、「ランサイヤトンキンシヨウフ(/ブ)ナラウナビモクナウシヤブンテイリ」か。

「發舟」「出航」か。

「三載」三年。

「囘〔らず〕」「かへらず」。本国に戻って来ていない。

「鼎力」人に依頼や感謝する際に用いて「大いに力を尽くすこと」の意。

「良驥」「驥」は一日にして千里を走る名馬。駿馬。「なんだ、それが欲しかったのか、シャムの王様は」と思うかも知れぬが、ネットで見出し得た数少ない、当時の国外との交易公文書を見ると、本邦は朝鮮にも良驥を贈呈している。本邦が駿馬の産地であることは中国・挑戦・ヴェトナムなどの東アジア一帯によく知れ渡っていたものと思われ、それはまた、シャムでは山田長政を通じて、より詳しく伝えられていたと考えてよいのではあるまいか。

「差〔は〕して」「さしつかはして」。

「來役」「さしあたり来たるところの最初の正式な交易」のことを指すか。

「購買ふ」二字で「あがなふ」と読んだ。

「明公輔佐忠誠〔たり〕」王(天皇→将軍)輔佐役酒井雅楽頭への。

「焉より」「これより」。指示語。

「囘音」「お応え」(応答)か。

「遣歸」「使者を(よい返書を下賜下さって)送り返すこと」か。

「統〔て〕」「すべて」。

「炤亮」「せいりやう(しょうりょう)」。「洞察」の意。

「不宣」「ふせん」。手紙の末尾に記し、「書きたいことを十分に尽くしてはいない」という意を表す謙遜の結語。「不一」「不尽」に同じい。

「孟夏望日」陰暦四月十五日でグレゴリオ暦五月十日である。

「花幔帕肆端」「白絞沙肆端」「帕」の音は「パ」。よく判らぬが、私が最終的に至った推理結果は、これは奉書に添えた贈答品の目録ではあるまいか? 「肆端」は「四反」(したん)の替え字で、「花幔帕」「白絞沙」ともに高級絹織物の名称のように私には見えるのだが? 識者の御教授を乞う。

「奉將す」「奉行」(行ひ奉る)に同じい。

「筦留」「くわんりゆう(かんりゅう)」であるが、よく意味が解らない。「筦」は「司る」の意があるから、「本奉書を気にとどめて相応に処理すること」を指すか。

「按るに」「あんずるに」。

「據に」「よるに」。

「仰を蒙て」「おほせをかうむりて」。

「擧用らるゝ」「あげもちひらるる」。

「與り」「あづかり」。

「吾」「わが」。本邦の。

「猷廟」家光。

「御代嗣」「およつぎ」と訓じておく。

「台廟」秀忠。彼の戒名「台德院殿興蓮社德譽入西大居士」による尊称。

 なお、辻善之助校訂「史料 異國日記(十四)」(立教大学学術リポジトリPDFでダウン・ロード可能)の最後の方に、この文書と大炊頭藤原(土井)利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二一(一六四四)年:当時は老中で下総国小見川藩主。徳川家康の母方の従弟(家康の落胤説もある)に当たり、家康・秀忠・家光の三代に亙って老中(最後は大老)職を務め、絶大な権力を誇った)と雅楽頭藤原(酒井)忠世の返書二通(但し、総て白文)が載る。それを見るに、馬は確かに返礼として贈っているように書かれてある。

2019/06/12

春の歌 清白(伊良子清白)

 

春 の 歌

 

みどりいろこき野のすゑを

きよき小川ぞ流れける

きよき小川をきて見れば

れんげの花ぞ流れける

 

流しつ摘みつはるの日を

かれはひねもすあそぶなる

摘みつ流しつはるの日を

かれはひねもすうたふなる

 

   ○

 

ゆめにうぐびすおとづれて

こがねの鈴をならしゝが

うつゝに蛙なきいでゝ

泥の海となしにけり

 

ゆめにこてふの舞ひいでゝ

花の粉雪をふらしゝが

うつゝに蟇のあらはれて

軒の蚊柱すひにけり

 

   ○

 

をとめマリアのあらはれて

千々の寶をたびにけり

ことにすぐれてめでたきは

ちごのおもわのうつくしさ

 

二人のあねは雲にのり

一人のあねは草にたち

みそらの雨にうるほひて

ちごを守ると見えにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月十五日発行の『文庫』(第二十三巻第四号)掲載。署名は「清白」。この年、伊良子清白満二十六歳。一月から三月までに、「鬼の語」「花賣」「旅行く人」(孰れも後の詩集「孔雀船」に改作して所収)などの詩を次々に発表し、四月からはシラー・ハイネ・ウーラントなどのドイツ語の詩の翻訳作業に没頭、十一月の発表までを合わせると、二十六篇に及んだ。実生活では、横浜市戸部町から神田三崎町に転居し、『恵まれた文学環境』に至ったと思った最中、『父窮す、の報が』それを『破った』。父『政治の』『負債は総計』五千三百八十『円にのぼっ』ており、伊良子清白は貯えていた『預金の半ば近くを引き下ろし』、父に『送金』するとともに、『歩合制の嘱託医として三重県一帯をまわ』るという事態となった。なお、『この時の旅から、長篇詩』「海の聲山の聲」(この内の一部(「上の卷」内の「一」を独立させたもの)が後の詩集「孔雀船」に「海の聲」と改題改作されて所収された)『が生まれた』。この年の『十二月二十五日、父とともに』和歌山県東牟婁郡の『古座から和歌山市に移り』、父のこれまでの負債『清算と新規開業のために奔走』するという(引用は底本全集年譜に拠る)、波乱があった年でもある。]

甘き木の葉を手に載せて 清白(伊良子清白)

 

甘き木の葉を手に載せて

 

 

   

 

尊き君の手に解れて

よみがへりたるわが戀よ

尊ききみの手にふれて

花に隱るゝわが戀よ

 

尊き君の手に觸れて

形失ふわが戀よ

尊ききみの手にふれて

罪と知りぬるわが戀よ

高き調の悲哀(かなしみ)と

淸きしらべのほこりとを

生れながらにそなへたる

尊き君よこび人よ

 

丈(たけ)にあまれる黑髮を

雙(そう)のかひなにまつはせて

沖の小岩にたゞずめる

尊き君よ戀人よ

 

   

 

夢としいはゞ夢ならむ

あゝ夢よりもさらに夢

月に更けたる松原の

彼方に續く砂原

 

繪を見るごとき海の面に

月の光はかゞやきぬ

きみとふたりが手をとりて

渡らば愛の花咲かむ

 

甘き木の實を手に載せて

行くは夏の夜磯づたひ

高きにさめしわが戀は

再び君と醉(ゑ)ひにけり

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年九月十五日発行の『文庫』(第二十一巻第二号)掲載。署名は「清白」。]

新綠 清白(伊良子清白) / 河合酔茗との合作(初出形復元)

 

新 綠

 

 

  雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ

 

江戶の面影、並木道

古き榎(えのき)は荒くれて

行く人小さし見上ぐれば

日は勝ち若き葉に透る

 

雜司ケ谷(やつ)の樹の煙

蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)

冬の名殘のありありと

春は目につく薄汚(うすよご)れ

 

羽蟲を避けて木に隱る

都少女のかげ見えて

暮れ行く春の絲遊は

鳩の翼の銀を縫ふ

 

涅槃(ねはん)五千の春の暮

無數の童子(どうし)あらはれて

供養、飛行を見るごとく

みだれみだれて花ぞ散る

 

足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ

瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時

圓(まろ)き桂の繪に擦れて

白毛、拂子空(くう)を飛ぶ

[やぶちゃん注:本最終連三行目の「桂」は「柱」の誤植の可能性が高い。]

 

  晚春鶯賦

 

のぞみ、やはらぎ、悲みの

汝(な)が聲聞けば鶯よ

野邊の若葉の春の暮

「不思議」流るる心地する

 

美しき物人を去り

屬(たぐひ)も低き花鳥(はなどり)に

うつるは何の現象(あらはれ)ぞ

愧づ、われまたも樹を仰ぐ

 

瘦せたる鳥よ永劫に

女の胸は薄からん

嗚呼その聲の持ち主は

愁を語るつとめあり

 

夕の文(あや)は黑牡丹(こくぼたん)

聞くが如し薄墨の

闇を怖れぬ鶯は

靈(れい)なればなりいと高き

 

 

  十二社にて

 

茶汲女、興をたすけんと

他の緋鯉に麩を投げて

掌たゝくものごしの

こゝは都に遠からず

この子都路に家を持ち

母屋に鳩飼ふ過世(すぐせ)ならば

訛語(なまり)にはぢて積藁(つみわら)の

くどのかげにや隱れしを

 

藤山吹に行く春の

よきまらうどを送りても

瑞枝かげさすおばしまに

鏡は出さじふところの

 

聲も若きに鶯の

出ては野邊に捕らるゝを

けなげや君は花の上に

羽づくろひして世にゆかず

 

都少女がさゞめきの

もゝ囀りをよそにして

若葉のかげのさはやかに

襟くつろげて君と語らむ

 

[やぶちゃん注:これは明治三五(一九〇二)年五月十五日発行の『文庫』(第二十巻第三号)掲載。河合酔茗との合作。署名は「清白」。この年、伊良子清白、満二十五歳。三月に横浜海港検疫所が廃止となり、検疫医の任を解かれ、翌四月からは、内国生命保険会社に調査医として勤務した。同時に四月から九月まで、独逸協会学校独逸語専修科に入り、ドイツ語の学び直しを始めた(それが翌年明治三十六年と三十九年に『文庫』に発表されるハイネ・シラー・ウーラントなどの多くの訳詩に発揮されることとなる)。六月十三日から八月五日にかけて、同前の保険診査医として庄内平野の鶴岡・酒田などを拠点として出張旅行をしている。しかし、八月、同職を依願退職し、九月、東京外国語学校本科独逸語学科に入学している。しかし、十月には退職した内国生命から再び嘱託診査医の辞令を受けて復職している(その後の東京外国語学校の学籍等については、参考にしている底本全集年譜には記されていないので不明)。同月、京都医学校より「医学得業士」の称号(旧制専門学校の医学専門学校の卒業生に与えられた称号)が届いている。十月三十日より診査医として信越地方へ十日ほどの出張旅行をしたが、この帰途、秋和に滝沢秋暁を訪ね、既に電子化した、後の詩集「孔雀船」に所収されることとなる「秋和の里」が詠まれた。

 さて、本篇は一部を既に「新綠(雜司ケ谷鬼子母神に詣でて)」「晚春鶯語賦」の注で電子化している。それは、後に伊良子清白が三篇の内、「十二社にて」の前の二篇のみを昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」(全電子化済み)に少し手を入れてそれぞれ独立作として収録していたためである。しかし、ここで問題なのは、この三篇が合作であることである。何故、伊良子清白は最後の「十二社」を同作品集に再録しなかったのかを考えてみると、この詩篇が収録に値せずと彼が考えたとするよりも、この「十二社」のみはその主詠者が酔茗だったから、それを控えたのではなかったか? という推理である。

「十二社」「じうにそう(じゅうにそう)」と読む。東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守である熊野神社の古名。ウィキの「熊野神社(新宿区)によれば、『当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間』(一三九四年~一四二八年)『に創建されたものと伝えられている』(天文(一五三二年~一五五五年)或いは永禄(一五五八年~一五七〇年)『年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もある)。『鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初』、『自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので』、『後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。かつて存在した付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる』。『神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約』百『軒も並んでいたという。この賑わいは戦前まで続いていた』とあるから、この「茶汲女」というのが腑に落ちる。『その後』、『明治時代に入り名が熊野神社となり、その後神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成や』、『付近の開拓により姿を消し』、『景勝地としての様相は徐々に見られなくなっていった。しかし、熊野神社はその後』、『付近が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも新宿一帯の守り神として人々から信仰を得ている』。『祭神は櫛御気野大神』(くしみけぬのおほかみ:素戔嗚尊の別名)『・伊邪那美大神』とある。]

龍頭鷁首 清白(伊良子清白)

 

龍頭鷁首

 

 

  天 の 河

 

戀の臺の夢語り

葡萄葉深く露深く

軒端を走る栗鼠の

早きを時に恨みけり

 

椽に亂るゝ四つの袖

ほのめき光る夕つゞは

雲紫の西の方

情の花を照らすかな

 

耻らふらしく繪團扇の

影にかくるゝ戀人よ

涼しき風に端居して

夢見る勿れ星の眸

 

繁りあひたる八重葎

蚊柱たゝぬ庭石に

昔の跡を尋ぬれば

逢瀨久しき愁かな

 

嵐をいたみ雨をわび

若き命を惜しむまに

君とわれとに橫へて

白く流るゝ天の河

 

 

  蠟燭の火

 

暈をかぶれる蠟燭の

てらせる方にかたぶきて

眞白に咲ける山百合の

花の恐をさそふなり

 

巖の室なる壁のへに

のこりてともる火のために

血汐ぞ踴るいかなれば

かくまで弱きわれならん

 

迷の宮をさまざまに

つくりてくづす室の口

風に消えむの火の上に

あやしく惜しき思あり

 

火は消えにけりおどろきて

蘿閉せる巖を攀ぢ

みづからともす蠟燭の

美しき火を樂みぬ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月五日発行の『文庫』(第十八巻第五号)掲載。署名は「清白」。

「龍頭鷁首」読みは「りようとうげきしゆ(りょうとうげきしゅ)・りゅうとうげきしゅ(りゆうとうげきしゆ)・りようとうげきす(りょうとうげきす)」。船首にそれぞれ、竜の頭と鷁(中国の想像上の水鳥。白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷁(げき)〔?〕」を参照されたい)の首とを彫刻した二隻一対の船の呼称。中国由来であるが、本邦でも平安時代に貴族が池や泉水などに浮かべ、管弦の遊びなどをするのに好んで用いた。]

2019/06/11

夏祭 伊良子清白

 

夏 祭

 

雲の峯湧く眞晝中

顔(ぬか)より汗は溢(こぼ)れ出で

高くもうつか腕の脈

かつげや神輿(みこし)練(ね)れや町(まち)

 

胸は廣くも露はれて

聳ゆる肩や怒り肉(じし)

白き埃(ほこり)に塗(まみ)れたる

毛脛(けづね)は集(つど)ひ亂れけり

 

碎けて落つる金(きん)の鈴

亂れ打ちふる神の輿(こし)

心を奪ひ目を奪ひ

町を縱橫(たてよこ)練りて行く

 

出で入る息(いき)は荒立ちて

妻子(つまこ)も知らず家も見ず

太(ふと)き縞(しま)なる浴衣地(ゆかたぢ)の

肌ぬぎすつる男振り

 

汗と膩(あぶら)の眼に入りて

眩(くら)む彼方(かなた)の夏霞(なつがすみ)

咽喉(のんど)の渴(かわ)き鬨(とき)の聲

かつげや神輿(みこし)練れや町(まち)

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月五日発行の『明星』(第十五号)掲載。署名は「伊良子清白」。]

水仙の葉 清白

 

水仙の葉

 

むねに開くも花ならむ

むねに凋むも花ならむ

をとめの身にて强からば

さしもいたみを覺えずや

 

人めもはぢよ人の世に

美しきものゝ强かるは

すでにいたみを身にうけて

いまだ癒えぬをしめすなり

 

あらず弱きはをとめなり

水仙の葉のたをやかに

おひいでゝこそ冬空の

高く澄めるを持てるなれ

 

常に瞳はかゞやきて

常に唇しつかなる

をとめのために御空より

濃き甘露(あまつゆ)はくだるなり

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年八月十五日発行の『文庫』(第十八巻第二号)掲載。署名は「清白」。なお、底本全集の「著作年表」に載るデータでは、同じ明治三四(一九〇一)年八月の先立つ一日に発行された『明星』(第十五号)の「郭公の歌」で彼は「伊良子清白」の署名を初めて使用している。また、古巣の『文庫』誌では、彼がこの「清白」署名を用いた最初の作品となった。]

朝みだれ すゞ(伊良子清白)

 

朝みだれ

 

鐘よりつゞく鳥の聲

聞くや朝日の影はれて

君を夢みしあかつきは

人目忍びてくしけづる

振分髮の朝みだれ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年五月二十五日発行の『東海文學』(第一巻第五号)掲載。署名は単に「すゞ」。]

冨士椿 すゞしろのや(伊良子清白)

 

冨 士 椿

 (旅にて)

 

一ゆりゆれて南に

くづるゝ山や足柄の

果にあたりて箱根山

春の霞に歷史あり

 

はたけはたけの燒岩の

蛇紋の渦や麥五寸

それよ嶮はしき坂路に

つかれて下る廣野原

 

椿まづしき赤鳥居

鳩は噴火の夢をよぶ

葉がくれ落つる花の名に

强て名づくる富士つばき

 

市女小笠のま深にて

海道百里の花さかり

恩賜の琵琶を抱き行く

落人あらばふさはしき

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年四月十五日発行の『東海文學』(第一巻第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。底本全集著作年表では伊良子清白が「すゞしろのや」と署名する最後の作品である(次の「朝みだれ」は単に「すゞ」)。]

薔薇の毒 すゞしろのや(伊良子清白)

 

薔薇の毒

 

美の神々のみ手よりそ

こぼれおちたる白露の

凝りて成りたるをとめゆゑ

そのこのはだはきよくして

かりの疵さへあらざりき

 

一日うらゝに空はれて

やわらかにふく春の風

小草ふみわけをとめごは

うばら匂へる野の奧の

花の園生にきたりけり

 

千本の花の園生には

あかきのみこそさきにけれ

あかきうばらは野の風も

やへのかすみもおくつゆも

みなくれなゐにそめにけり

 

にほへる花の一枝を

をらんとすればあやにくの

刺はするどくをとめごの

たまの小指をきづつけて

血汐はきぬにしたゝりぬ

 

うまれてしより人の身の

血を見しことのあらざれば

またくうばらのくれないの

毒にそまりてあしざまに

指はいたむとおもひけり

 

年へてをとめうつぐしき

國のクヰーンとなりけるが

はじめておきし掟には

あかきうばらはとこしへに

うゝるなかれとかゝれけり

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年二月十二日発行の『東海文學』(第一巻第三号)掲載。署名は「すゞしろのや」。

「美の神々のみ手よりそ」の「そ」、「年へてをとめうつぐしき」の「ぐ」はママ。]

 

短篇一章 すゞしろのや(伊良子清白)

 

短篇一章

 

筆筒孔雀の尾羽(をば)を拔きて

弄(ろう)ずる紅顏(こうぐわん)君の爲に

興(きよう)ある傳奇(でんき)講(かう)じ行けば

梅花(ばいくわ)机頭(きとう)の席(せき)に點(てん)ず

 

氷踏みて藪の前に

橇引く群の後(あと)な追ひそ

裾長紫地に觸るゝを

女人(によにん)と嘲る童子(どうじ)あらん

 

藏(くら)の小窓(こまど)に獨り凭(もた)れ

柔(やら)かき髮を柱に垂れて

春の午(ご)葉を卷き笛に啣めば

囀(てん)ずる鶯律(りつ)を補ふ

 

名門(めいもん)の子氏(うぢ)を憚り

野路(のぢ)の末の蓬(よもぎ)に隱れ

時俟つ身と知らず

技藝(ぎげい)の園(その)に落ちんとす

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年一月一日発行の『國文學』(第二十五号)掲載(雑誌書誌不詳。底本全集の「著作年表」にはこの誌名と号数の後に『「初日影」』とあるが、これは新年号の謂いか? よく判らぬ)。署名は「すゞしろのや」。

「啣めば」「ふくめば」。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(34) 「池月・磨墨・太夫黑」(1)

 

《原文》

池月・磨墨・太夫黑   名馬池月ハ陸奧七戶立ノ馬ニテ鹿笛(シヽブエ)ヲ金燒ニ當テタル五歲ノ駒云々ト云フコトハ、口拍子ニモ言ヒ馴レタル盛衰記ノ本文ナルニ、妙ニ諸國ニ其出生地ト名乘ル處多シ。今試ミニ其數箇例ヲ擧ゲンカ。奧州三戶ニ在リテハ池月ハ名久井嶽(ナグヰダケ)ノ麓ノ牧住谷野(スミヤノ)ニ於テ生ルト云フ。【龍住ム池】嶽ノ頂ニ池アリ、龍アリ之ニ潛ミ住ム。一夜月明ニ乘ジテ牧ノ駒登リテ其水ヲ飮ミ忽チニ駿馬トナル。仍テ池月ト名ヅク云々〔糠部五郡小史〕。此說ハ最モ古記ノ所傳ニ近キガ如キモ、其由來ニ傳說ノ香高キノミナラズ、磨墨太夫黑スべテ同ジ牧ノ產ナリト稱スルガ如キ、寧ロ比較ヲ怠リタル地方學者ノ輕信ナリ。【月山權現】是レ恐クハ山ニ月山權現ヲ勸請セシ後ノ話ニシテ、池ト云ヒ名馬ト云フガ爲ニ乃チ池月ノ名ヲ推定セシナランノミ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(キツキ)ニテハ、池月ハ彼地ニ生レタリト云ヘリ。木直ハ古クハ木月ト書キ又七寸(シチキ)トモ唱フ。池月生レ落チテ其長四尺七寸(ヨサカナヽキ)アリシ故トモ云ヒ、又木月ハ「イキツキ」ノ上略ナリトモ說明シタリ〔月乃出羽路〕。此村ニ就キテハ後ニ猶一ツノ話アリ。同國飽海郡日向(ニチカウ)村大字下黑川ニ於テハ、池月ハ此村ノ百姓與平ナル者ノ先祖ガ獻上スル所ト稱ス。【池】村ニ一處ノ古池アリ。往昔此池ヨリ龍馬出デテ嘶キ、與平ガ家ノ牝馬之ニ感ジテ池月ヲ產ムト云フ。【馬塚】其母馬ノ塚ハ今モ此地ニ殘レリ〔三郡雜記上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根モ亦同ジ名馬ノ故鄕ナリト傳ヘラル。此村ノ地以前ハ大ナル沼ニシテ龍蛇之ニ住ス。池月ハ則チ之ヲ父トシテ生レシナリ。【駒ケ池】其後沼ノ水次第ニ乾キ、今ハ小サキ池トナリテ名ノミ昔ノ駒ケ池ト呼ブト云フ〔山形縣地誌提要〕。岩代河沼郡ノ谷地(ヤチ)ト云フ村ニモ之ト似タル傳說アリキ。【四十八沼】村ノ羽黑神社ノ境内ニ古クハ四十八箇ノ沼アリ。【竈】其最モ大ナルヲ親沼又ハ竈沼ト云フ。竈沼ノ主ハ則チ月毛ノ駒ニシテ、名馬池月ハ其子ナリ。此因緣ヲ以テ近世マデモ此邊ニ牝馬ヲ放牧スレバ往々駿馬ヲ得ルコトアリト信ゼラル〔新編會津風土記〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ヒソ)モ亦池月ノ生レタル地ト稱ス〔越後名寄三十一〕。即チ彌彥山ノ麓ナリ。彌彥ノ神ハ或ハ特ニ駒形ト緣故多キ神ナリシカ、此山ノ北麓ノ米水浦ニモ竃窟ト云フ洞アリテ靈泉湧出ス〔地名辭書〕。【島ノ牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(カウダ)ト云フ村ノ池ニ、昔一頭ノ馬ノ牧ヨリ出デ來タリテ住スルアリ。之ヲ此村ノ彌彥神社ノ神馬ニ獻ジタリシヲ、比類無キ名馬ナルコト世ニ聞エテ終ニ鎌倉殿ニ之ヲ奉ル。其折ノ賴朝公ノ下文及ビ梶原ガ添狀、共ニ判形アル者ヲ村ニ傳フルガ何ヨリノ證據ナリ。馬ノ名ヲ池好(イケズキ)ト呼ビシモ、全ク常ニ水邊ヲ愛シテ住ミシ爲ナリト云フ〔能登國名跡志〕。而シテ此地ハ疑モ無ク古代ノ島ノ牧ナリ。

 

《訓読》

池月・磨墨・太夫黑(たいふぐろ)   名馬池月は陸奧七戶立(しちのへだち)の馬にて、鹿笛(しゝぶえ)を金燒(かなやき)[やぶちゃん注:焼印。]に當てたる五歲の駒云々と云ふことは、口拍子にも言ひ馴れたる「盛衰記」の本文なるに、妙に諸國に其の出生地と名乘る處、多し。今、試みに其の數箇例を擧げんか。奧州三戶に在りては、池月は名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧、住谷野(すみやの)に於いて生まると云ふ。【龍住む池】嶽の頂きに池あり、龍あり、之(ここ)に潛み住む。一夜、月明に乘じて、牧の駒、登りて、其の水を飮み、忽ちに駿馬となる。仍(よ)つて「池月」と名づく云々〔「糠部(ぬかべ)五郡小史」〕。此の說は、最も古記の所傳に近きがごときも、其の由來に、傳說の香(か)、高きのみならず、磨墨・太夫黑、すべて、同じ牧の產なりと稱するがごとき、寧ろ、比較を怠りたる地方學者の輕信なり。【月山權現】是れ、恐らくは、山に月山權現を勸請せし後の話にして、池と云ひ、名馬と云ふが爲めに、乃(すなは)ち、池月の名を推定せしならんのみ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)にては、池月は彼の地に生れたりと云へり。木直は古くは「木月」と書き、又、「七寸(しちき)」とも唱ふ。池月、生れ落ちて、其の長(たけ)四尺七寸(よさかなゝき)ありし故とも云ひ、又、木月は「いきつき」の上略なりとも說明したり〔「月乃出羽路」〕。此の村に就きては、後に、猶ほ一つの話あり。同國飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川に於いては、池月は此の村の百姓與平なる者の先祖が獻上する所と稱す。【池】村に一處の古池あり。往昔、此の池より龍馬出でて、嘶き、與平が家の牝馬、之れに感じて、池月を產むと云ふ。【馬塚】其の母馬の塚は今も此の地に殘れり〔「三郡雜記」上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根も亦、同じ名馬の故鄕なりと傳へらる。此の村の地、以前は大なる沼にして、龍蛇、之(ここ)に住す。池月は、則ち、之れを父として生れしなり。【駒ケ池】其の後、沼の水、次第に乾き、今は小さき池となりて、名のみ、昔の「駒ケ池」と呼ぶと云ふ〔「山形縣地誌提要」〕。岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村にも、之れと似たる傳說ありき。【四十八沼】村の羽黑神社の境内に古くは四十八箇の沼あり。【竈】其の最も大なるを「親沼」又は「竈沼(かまどぬま)」と云ふ。「竈沼」の主(ぬし)は、則ち、月毛の駒にして、名馬池月は其の子なり。此の因緣を以つて、近世までも此邊に牝馬を放牧すれば、往々、駿馬を得ることありと信ぜらる〔「新編會津風土記」〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)も亦、池月の生れたる地と稱す〔「越後名寄」三十一〕。即ち、彌彥山(やひこさん)の麓なり。彌彥の神は、或いは特に駒形と緣故多き神なりしか、此の山の北麓の米水浦(よねみづうら)にも「竃窟(かまどのいはや)」と云ふ洞ありて、靈泉、湧出す〔「地名辭書」〕。【島の牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)と云ふ村の池に、昔、一頭の馬の、牧より出で來たりて住するあり。之れを、此の村の彌彥神社の神馬に獻じたりしを、比類無き名馬なること、世に聞えて、終(つひ)に鎌倉殿に之れを奉る。其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふるが、何よりの證據なり。馬の名を「池好(いけずき)」と呼びしも、全く常に水邊を愛して住みし爲めなりと云ふ〔「能登國名跡志」〕。而して此の地は、疑ひも無く古代の「島の牧」なり。

[やぶちゃん注:「七戶立(しちのへち)」青森県上北郡七戸町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここ。これは「戸立(へだち)馬」のことで奥州最大の駿馬の産地であった糠部郡(ぬかのぶのこおり:現在の岩手県と青森県に跨る)の「戸(へ)」のつく名馬産地の産であることを示す一種のブランド的呼称で、鎌倉時代前期には既に知られていた。

「鹿笛(しゝぶえ)」猟師が鹿を誘(おび)き寄せるために吹く、鹿の鳴き声に似せた笛。本邦のそれは、竹や鹿の角に、鹿の胎児の皮や蟇蛙の皮を張って作った。

『「盛衰記」の本文』「源平盛衰記」(わたしは「じょうすいき」と読むことにしている)の巻第三十四」の「東國兵馬の汰(さた)並びに佐々木、生唼(いけずき)を賜ふ」「事」の一節。引用は示さない。何故なら、「日本文学電子図書館」(J-TEXT)の国民文庫版を加工用に用いたものの、私が多量に字を推定で規定し、読み易く勝手に推定で訓じたものだからである(私は「源平盛衰記」は前半分の活字本しか持っていない)。これは書誌学的に正規表現の原文ではないので、引用は避けられたいである。

   *

[やぶちゃん注:前略。]此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節、祕蔵御馬三匹也。生唼・磨墨・若白毛とぞ申しける。陸奥國三戶立(さんんへだち)の馬、秀衡が子に元能冠者が進めたるなり。太く逞(たくま)しきが、尾髮、あくまで足りたり。此の馬、鼻、强くして、人を釣りければ、異名には「町君」と付けられたり。生唼とは黑栗毛の馬、高さ八寸、太く逞しきが、尾の前、ちと白かりけり。當時五歲、猶もいでくべき馬也。是も陸奥國七戶立の馬、鹿笛を金燒きにあてたれば、少も紛るべくもなし。馬をも人をも食ひければ生唼と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に參りて、

「君も御存知ある御事に候へども、弓矢取る身の敵に向ふ習ひは、能き馬に過ぎたる事なし。健馬に乘りぬれば、大河をも渡し、巖石をも落とし、蒐(あつむ)るも引くも、たやすかるべし。力は樊噲(はんくわい)、張良が如くつよく、心は將門、純友が如くに猛けれども、乘りたる馬、弱ければ、自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り。されば生唼を下し預りて、今度(このたび)、宇治河の先陣、つとめて、木曾殿を傾け奉り候ばや。」

と、傍若無人に、憚る所なく、申したり。

 佐殿、良(やや)案じ給けるは、

『我、土肥の杉山に、七人、隱れ居(ゐ)たりしに、梶原に助けられて、今、世に出づる事も、忘れ難き思ひなり、賜らばや。』

と思し召しけるが、又、案じて、

『蒲冠者も人してこそ所望申しつれ、景季が推參の所望、頗る狼藉なり。又、是れ程の大事に、馬に事闕(ことか)きたりと申すを、たばでも如何(いかが)有るべき。』

と、左右(さう)を案じて宣(のたま)ひけるは、

「景季、慥(まこと)に承れ。此の馬をば、大名小名・八箇國の者ども、内外につけて、所望ありき。就中(なかんづ)く大將軍に差し遣はす蒲冠者が、『ひらに罷(まか)り預らん』と云ひき。然(しか)れども、源平の合戰、未だ落ち居ず、木曾追討の爲めに東國の軍兵、大旨(おほむね)、上洛す。知んぬ、平家と木曾と一つに成りて大きなる騷ぎと成さなば、賴朝も打ち上ぼらん時は、馬なくても、いかゞはせん、其の時の料(れう)にと思ひて、誰々(たれたれ)にも給はざりき。是れは、生唼にも相ひ劣らず。」

とて、磨墨を、たびにけり。景季は生唼をこそ給らねども、磨墨、誠に逸物なりければ、咲(ゑ)みを含み、畏(かしこ)まつて罷り出づ。黑漆しの鞍を置き、舍人(とねり)、餘多(あまた)付けて、氣色(けしき)してこそ引かせたれ。

   *

「名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧住谷野(すみやの)」中世、南部氏がより馬産供給に応えるために形成した「南部九牧」の一つ「住谷野牧」で青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。「南部九牧」は他に「北野牧」(現在の岩手県九戸郡洋野町大野附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)・「三崎牧」(青森県九戸郡野田村)・「相内牧」(青森県三戸郡南部町相内)・「又重牧」(青森県三戸郡五戸町倉石又重及び五戸町等)・「木崎牧」(青森県三沢市及びその南の上北郡おいらせ町百石地区)・「蟻戸牧」(青森県上北郡野辺地町)」・「大間牧(青森県下北郡大間町)」・「奥戸牧(同大間町奥戸)」。

「地方學者」近世以前の研究者を指す。

「羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)」現在の秋田県大仙市南外(なんがい)木直沢(きじきざわ)附近かと思われる。

「七寸(しちき)」馬の丈(脚の先から肩までの高さ)を指す語を地名に転用したもの。因みに、以前に述べた通り。国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(き)」であるから、「七寸」一はメートル四十二センチメートルとなり、「四尺七寸」は国産馬では有意に異常に大きい。

「飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川」山形県酒田市下黒川

「羽前南村山郡西鄕村大字石曾根」山形県上山(かみのやま)市石曽根

「岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村」福島県河沼郡会津坂下町(あいずばんげまち)三谷谷地(みたにやち)である(実際には三谷と谷地は別地名であるが、合わせた地名も通用している模様である)。捜すのに手間取ったが、「新編會津風土記」の巻之八十九の「河沼群之四」「靑津組」の「靑津組二十六箇村」の中に「谷地(ヤチ)村」があり、その「谷地村」の当該箇所(次の頁に跨り、「羽黑神社」の記載有り)の前書部分の鶴ヶ城からの距離、隣接する地名から推理した結果、ここに到ることが出来た。問題はグーグル・マップ・データではその羽黒神社が見当たらないことであった。しかし、この現行の「谷地」の地名が記された南直近には「馬洗場」、西直近には「山ノ神」という柳田國男が喜びそうな地名が残っていることが、まず判った。そうして谷地の東の三谷地区に「廣瀬神社」というのがあり、最も直近であるのだ、調べてみても、ここが旧羽黒神社であった痕跡はなかった。しかし、どうも無視出来ない。何故なら、この廣瀬神社の位置は現在の谷地地区の南西に当たり、「新編會津風土記」の「羽黑神社」の記載の、「未申ノ二町五十間ニアリ」(二百二十七メートル)に一致するからであった。私はこの神社こそがこの「羽黑神社」なのではないかと思う。そこには「祭神保食神ナリ」(うけもちのかみ)とあるから、現在或いは嘗つてこの廣瀬神社の祭神が保食神であった事実が判れば、と期待したのだが、ネットでは祭神は判らなかった。ところが、ランダムに検索を掛けてゆくうちに、個人サイトと思しい「会津名水紀行」のこちらに、会津坂下町の「広瀬神社目薬沼(ひろせじんじゃめぐすりぬま)」というのを発見、そこに『坂下町から塩川方面へ車で走ると、田んぼの中、右側にうっそうとした杜が見えてきます。その杜に囲まれるように広瀬神社があり』(これはグーグル・マップ・データを航空写真に換えると、まさにその通りであることが判る)、『いくつかの沼が神沼として点在しています』。『目薬沼とは広瀬神社神沼の一つで、他に親沼、竈沼などの名があります。眼疾に効能があるといわれており、当村はもとより青木、青津村の養水となり、古くより地方開発の水利の神としても祭られています』とあったのだ! 則ち、やっぱり「羽黑神社」は現在の廣瀬神社なのだ! しかも、柳田國男の叙述では、もう沼は全部なくなっちまったように読めたのだが、まだ、ちゃんと幾つか残っているんだ! これで決まり! 気持ちいいゾ!!!

「四十八沼」これは各地に認められる名数で、言わずもがな、「阿弥陀如来の四十八願」に掛けたものである。

「越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)」新潟市西蒲(にしかん)区岩室村樋曽。「彌彥山(やひこさん)」の北北東四キロメートル弱の山間部。

「米水浦(よねみづうら)」吉田東伍著の明治四〇(一九〇七)年冨山房刊の「大日本地名辭書」を調べたところ、ここにあった(左ページ上段中ほどから中段)。その記載から、弥彦山の東方直下の海岸、現在の新潟県長岡市寺泊野積であることが判明した。しかも同海岸の北には「竃窟(かまどのいはや)」=「男釜・女釜」(上記記載を見よ)という名勝として今もある。但し、「大日本地名辭書」の記載によると、海食洞であったが、記載時には既に一つは崩落して洞を呈していないとある。

「能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)」石川県七尾市能登島向田町(のとじまこうだまち)であろう。次に国土地理院図を見てもらおう。すると、向田町の北西の突き出た半島があるが、此の尖端の地名を見ると、「牧鼻」とあるのが判る。「牧」だ。「でも、向田町じゃなくて、少なくとも今は能登島曲(まがり)町でしょう?」と返すかね? ではもう一度、グーグル・マップ・データに戻ってもらおう。そこでこの半島の中央にある「能登島家族旅行村Weランド」をクリックするぞ! どう? 住所は? 「あれ? 石川県七尾市能登島向田町になってるぞ? これってグーグル・マップ・データの間違いじゃないの?」ってか? それじゃ、同施設の公式サイトの「アクセス」を見て貰おうか。どうよ? 住所のところに「石川県七尾市能登島向田町牧山」て書いてあるだろ。そこで国土地理院をよ~く見てもらうと、「牧鼻」からこの附近にかけて、点線が引かれてあるのが判るんだ。則ち、この半島の先端部の東北の半分の一帯が、向田町の飛び地になっていることが判るんだ。その理由は古い時代の取り決めか、近現代の地権者の問題なのか何かは、私は知らない。しかし、地名をごろうじろ! 「鼻」に「山」なんだ。考えてみりゃ、島に馬の牧場を設置するのは、海が自然のテキサス・ゲートとなって、馬の脱出の心配をする必要が一切いらないから、理に叶っているじゃないか!

「彌彥神社」これをぼんやりと読んでしまい、さっき出てきた、越後平野西部の弥彦山(標高六百三十四メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る彌彦神社(いやひこじんじゃ:住所は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦。ウィキの「彌彦神社」によれば、『正式には「いやひこ」だが、神体山とする弥彦山など』、『関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる』とある。「万葉集」にも『歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている』とあり、ここが馬と関わるところの武人らとの関係が深い神社であることは言い添えておく)と勘違いしてはいけない! よく読んで! 柳田國男は「之れを、此の村の彌神社の神馬に獻じたりし」と言ってるんだ。「此の村」ってえのはこの能登島の旧向田村のことなんさ! 「そんな神社、ないよ?」ってか? ほれほれ! 石川県七尾市能登島向田町のここをご覧な! 「伊夜比咩神社」があるやろ、これ、「いやひめじんじゃ」や! 柳田が言っているのはこれやで!

「其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふ」鎌倉フリークの私としては、現存するならば是非、見たいものだ。

「古代の島の牧」中世、能登島には伊勢神宮領の「能登島御厨(のとじまのみくり(や))」(「御厨」は神饌の調進をする場所)や荘園が置かれていた。そもそもが「向田」とは、この伊勢神宮御厨としての「神田(こうだ)」から「向田」となったのである。ここに古代の馬の牧があったという記載は遂に調べ得なかったが、神饌には神馬も当然含まれるわけで、ここに古代に「能登島の牧」があったとしても何ら不思議ではないと私は思う。その証拠に「牧」を附した地名があるとも言えるのではないか?

2019/06/10

靈泉 すゞしろのや(伊良子清白)

 

靈 泉

 

河上よどむ岩が根の

水に浸りて山芹の

白き根にこそ氷りたれ

まだ雪ふらぬ岨の松

 

鳥の落羽と松の葉と

まじりてたまる河の隈

山の奧にもあたゝかき

玉の泉の湧きいづる

 

箭に傷きし山鳩も

ぬらさば癒えむ靈泉の

わくとも知らで山賤の

妹脊は冬を迎へけり

 

小さき泉のおとなれば

松の風にやまぎれけむ

やがてうまれんうましごの

幸をのみこそ祈りけれ

 

のぼる朝日を身にうけて

女の兒は山にうまれけり

產湯くまむとおりくれば

氷りて白き谷の水

 

まつの木陰におとありて

ほそきけぶりはあがりたり

くしき泉の巖村や

湯の香ぞ深き冬霞

 

髮を洗へば髮のいろ

面に灌げばおものはえ

玉の泉淨めたる

そのこは光はなちけり

山路のすゑにさまよひて

冬をさびしととくなかれ

泉と人のゑにしには

美しきこのうまれたり

 

[やぶちゃん注:ここより底本の明治三四(一九〇一)年パート。明治三四(一九〇一)年一月一日発行の『新潮』(第二年第一号)掲載。署名は「すゞしろのや」。この年で伊良子清白満二十四歳。一月、日本赤十字社病院を辞し、横浜海港検疫所検疫医員と横浜慈恵病院勤務を兼ねた生活が九月まで続いた。十月から十二月まで、北里伝染病研究所に於いて細菌学の講義を受講している。]

冬の水車場 すゞしろのや(伊良子清白)

 

冬の水車場

 

冬は來にけり水車場の

木立は枯れて霜柱

立つや宵々小狐の

來ては粉糠をぬすみ去る

 

苔むす杭に折かゝる

葦の枯葉に行く水の

水は朝に瘦せゆけど

からから車は廻りけり

 

廻れよ車汝が爲めに

主の身上も太らねば

米つく臼も太らねば

くるりくるりと廻れとぞ

 

藁屋の軒にうづくまる

里の小砂の山をつき

雀は低く下りなれて

小舍のひゞきに驚かず

 

古びし蜂の巢はあれど

恐れな子供病葉の

朽ちて重なる軒の梁

敵の甲は上にあり

 

いづれ土性、火性でも

水性でもなし畠に來て

麥蒔き了へし夕ぐれを

彼は聲なく歸るなり

 

鶴を放たばふさはしき

岸の並木の中にして

一本楡の木高きを

この小字の名にもせり

 

右せば里に出づるべく

左りは山と敎へたる

標の石の倒れしを

小舍の主は忘れたり

 

冬は來にけり倒れたる

石を忘るゝ冬は來て

今年も村にゆとりなく

橋はかゝらで暮るゝらん

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十二月十五日発行の『東海文學』(第一巻第二号)掲載。署名は「すゞしろのや」。]

噴火の後日 すゞしろのや(伊良子清白)

 

噴火の後日

 (數篇中一篇を揭ぐ)

 

石垣壞(くづ)れて立木を損じ

兒等喜悅(よろこび)の柿皆折れて

灰降り濁れる庭の池に

小手を拍(たゝ)けど鯉は寄らず

 

村人誰彼門(もん)に迫りて

米庫(こめぐら)開くを切(せつ)に乞へば

明日は戸の前蓆(むしろ)を布きて

施米(せまい)の料(りやう)の俵(たわら)を積まむ

 

岩屑落ちたる道を踏みて

木戶より山の燒を望めば

また地震(なゐ)震り來て鎭守の楠(くす)の

上に焰は强く上りぬ

 

竹の林の小家(こいへ)の中(なか)は

諸人(もろびと)互(たがひ)に肘を摩(す)りて

狹莚(さむしろ)一枚(ひとひら)席(せき)を學び

暗きを責むるか汚く罵(そし)る

 

白髮(しらが)の媼珠數を繰りて

佛名(みな)を唱ふる殊勝なれど

落ち行く夕日を朝日と誤り

物の笑の種を蒔きぬ

 

恐怖(おそれ)に人の性(さか)を損ひ

鍬硏ぎ鎌揮る勤を厭へば

教へ導く術(すべ)も盡きて

われ村長(むらをさ)の德は至らず

 

山燒焰しばし歇みて

野の色黃ばめば左右(さう)雲分れ

夕の空は步(ふ)の星屑の

領ずる境に限を見せぬ

 

大(だい)なる天地(てんち)の力を信じ

常の理及ばぬ微妙と知らば

自然の變轉旋るを俟ちて

我(われ)他(ひと)榮(さかえ)の時は到らん

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月二十三日発行の『新潮』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。現行の『新潮』(明治三七(一九〇四)年五月創刊)とは無関係。「料(りやう)」「俵(たわら)」「性(さか)」のルビはママ。意識的にルビを振っているのに、この歴史的仮名遣の誤りは異常。しかもこの一篇、今までの伊良子清白の詩篇に比して、有意に確信犯で韻律を崩そうとしているかのようにも思われる。最終二連の奇妙な事前哲学的叙述は、どうも私には言葉がいい加減に滑っているようで気に入らない。

「步(ふ)の星屑の」「領ずる境に限を見せぬ」よく判らない謂いだが、「步」には「天体の運行を推し量る」の意があるから、「雲の裂け目に見えている夜空の星くずの動きを司ってるところのその天界の力」に対して火山の自然力は自ずとその限界を見せていた、とでも言うのであろうか。]

自然は人に近づきて すゞしろのや(伊良子清白)

 

自然は人に近づきて

 

自然は人に近づきて

握手の時を與へけり

破れたる窓に飛び來るは

小鳥にあらぬ木の葉なり。

 

木の葉を拂ふこと勿れ

蝴蝶の墓も草花の

少さき枕も其中に

葬り隱す庭の土。

 

かの美しきと盛なると

亡ぼして後冬の日は

若き命の新しき

聲と色とをもたらせり。

 

八つ手の花の散るところ

南天の實は赤らみて

庭石傳ひいとけなき

冬は笑ひて來りけり。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月三日発行の『文星』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。この雑誌は、恐らく、この年の五月に四海堂から創刊された投稿雑誌と思われる。参照したサイト「大宅壮一文庫」の「創刊号コレクション明治収録雑誌一覧」によれば、社会・学界・詩学・美学・『時流文芸などを募集。投稿作品には文末に寸評を付して掲載』したとある。

「蝴蝶」蝶の美称である「胡蝶」に同じ。

「葬り」「はうふり」。

「かの美しきと盛なると」音数律から「かのくはしきとせいなると」と読んでおく。]

一ふし すゞしろのや(伊良子清白) / 河合酔茗・橫瀬夜雨との合作

 

一 ふ し

 

あやひも赤き加賀笠の

やがては嫁となる君も

あたらま白きたな首に

蛭藻からまる苗代や

 

七つ下りの杜のうへ

橫目を受けて卷帶の

植つかれては泥ながら

けしぎ休むる土手の芝

 

ほのめき出る明星の

光は水にあはけれど

苗をな投げそ苗投げて

飛沫も袖にかゝるもの

 

肩上ほそき撫肩や

膝にはつせば紅梅の

うつろひ易き染色を

謎にはかけぬあや襷

 

誰が戀さそふ橫笛か

背戶に吹なす音をきゝて

寐覺の夜半の木枕に

わりなき泪ながしたる

 

小窓の機に帶織りて

許せし人にくれしより

うき名そしげき藪のかげ

顏を袂におほひけり

 

夢はづかしき此ごろの

思を人にさとられて

うたになろともまゝよ只

なき名にあらぬ戀なれば

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十月十日発行の『關西文學』(第二十九号)掲載。であるが、河合酔茗・橫瀬夜雨との合作。署名は「すゞしろのや」。

「加賀笠」加賀菅笠。加賀国(石川県南部)から産出する菅笠。天和年間(一六八一年~一六八四年)の頃から流行したとされ、町家の女房や尼僧などが用いた。色が白く、糸縫いが細かくしてあり、恰好がよく、上物とされた。

「たな首」手首。

「蛭藻」「ひるも」であるが「蛭」と「藻」では気持悪過ぎ。ここは単子葉植物綱オモダカ目ヒルムシロ科ヒルムシロ属ヒルムシロ Potamogeton distinctus 或いは同属の仲間の異名であろう。ウィキの「ヒルムシロ」によれば、『浮葉性の水草で』、『また、ヒルムシロ属の種のうち、浮葉を展開するものの総称でもある』。『楕円形の葉を水面に浮かせる。穏やかな流水条件化で生育することもあり、細長い浮き葉の形はそれへの適応かとも見えるが、池などの止水にもよく出現する』。『地下茎は泥の中にあって横に這い、水中に茎を伸ばす。茎には節があり、節ごとに葉をつける。葉は互生するが、花序のつく部分では対生することもある』。『水中では水中葉を出す。水中葉は細長く、薄くて波打っている。次第に茎が水面に近づくと浮き葉を出し始める。浮き葉は細長い柄を持ち、葉身は楕円形で長さ』五~十センチメートルで、『幅』は二~四センチメートルほど。『先はやや』、『とがる。表側はつやがあって水をはじくが、ハスほどではない。葉はやや赤みを帯び、表側は黒っぽく、裏側は赤っぽく見える』。『花は夏以降に出る。葉腋からやや長い柄が出て、先端に棒状の花穂がつく。開花時には穂は水面から出て直立するが、花が終わると』、『横向きになって水中に入る』。『秋になると茎の先は膨らんで芋状になり、越冬芽を形成する』。『池や用水路で普通にみられるが、水田周辺からはほとんど消失した』。『日本では北海道から琉球列島まで、国外では朝鮮半島から中国、ミャンマーにまで分布する』。『名前の由来は蛭筵で、浮葉を蛭が休息するための筵に例えて名付けられたとされる』とある。

「七つ下り」夕七ツ(定時法で午後四時頃。不定時法だと季節的には午後四時半頃)を有「泥ながら」「ひぢながら」。

「けしぎ」不詳。「氣色」の濁音表記で、気持ちの謂いか。

「飛沫」「しぶき」。

「膝にはつせば」不詳。「發せば」で、「膝に向かって差し出した」或いは「放ったなら」だとしても、意味がよく判らない。識者の御教授を乞う。

「うき名そしげき」「そ」の清音はママ。強意の係助詞「ぞ」。

「なき名にあらぬ戀なれば」無意味な他愛もない軽い気持ちではない恋だから、の謂いか。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(33) 「龍馬去來」(2)

 

《原文》

 【養生奇瑞】土佐ノ龍馬ノ生立ハ正シク人間ノ阪田公時又ハ武藏房辨慶ナドト其類ヲ同ジクシ、不倫ナル比較ニテハアレドモ遠ク釋尊誕生ノ古傳ニ線(イトスヂ)ヲ引クモノ、即チ自分ガ假ニ名ヅケテ鬼子(オニノコ)傳說ト云フモノ是レナリ。此口碑ヤ本來單ニ現出ノ稀有ヲ誇張セントスル動機ニ基クモノナルべキカ。鬼鹿毛既ニ絕代ノ珍トスべクハ、ソノ小栗判官ノ如キ伯樂ト遭遇センコトハ愈多ク有リ得べカラザル機會ナリ。此故ニ諸國ノ靈山ニハ往々ニシテ人界ノ羈絆ヲ超脫シタル龍馬ノ住スルモノアルナリ。同ジク土佐ノ幡多郡足摺山ノ緣起ニモ、山中ニ龍馬ケ原ト云フ處アリ、千場ケ瀧ノ上ナリ。此原ニハ每夜龍馬出デテ笹ノ葉ヲ喰ムト云ヒ〔西郊餘翰四〕、又長岡郡岡豐(ヲガウ)村大字瀧本ノ毘沙門堂ノ瀧ハ、高サ十七間バカリニシテ中程ニ一段ノ水溜リアリ、【岩ノ窪】其傍ニモ龍ノ駒ノ足跡ト稱スル岩ノ窪アリト傳ヘタリ〔土州淵岳志〕。阿波阿波郡林村大字西林ノ岩津ノ淵ノ側ニ在ル馬蹄石モ、石ノ面ニ殘レルハ爪ヲ以テ押シタルガ如キ形ナレバ、俗ニ又牛ノ爪石トモ云フ〔燈下錄〕。要スルニ只ノ馬ノ蹄ノ痕ニハ非ザルナリ。薩摩ノ薩摩郡鶴田村大字紫尾(シビ)ノ祁答院(ケタフヰン)神興寺ノ山ニモ胎生尾(タイシヤウノヲ)ト云フ岩アリ。紫尾八景ノ一トシテ此地ヲ詠ジタル詩ノ句ニモ

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

ナドト見エタリ〔三國名勝圖會〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山ノ嶺平(ミネノダヒラ)ニハ、岩ノ上ニ駒ノ右ノ蹄ノ跡ト赤兒ノ右ノ足跡ト殘レリ。其場處ヲ「ノゴハズ」ト呼ブハ、觸ルレバ忽チ雨降ルト云フ信仰ニ基クモノヽ如シ〔山陽美作記〕。【岩ノ窪】同國苫田郡神庭(カンバ)村大字草加部ニハ、賀茂川ノ東岸ノ岩ニ龍馬ノ爪ノ跡數多ト、竝ニ馬桶ト名ヅケタル岩ノ窪二箇處アリテ龍ケ爪淵ト稱ス。其附近ニハ龍神ノ社アリ。楢村ト云フ部落ノ地ニ屬ス。【雨乞】旱魃ニ雨乞シテ靈驗アリ〔東作誌〕。【龍ケ爪】同郡堀阪ト云フ地ニモ川ニ臨ミシ岩ノ上ニ馬蹄ノ跡アルヲ、龍ケ爪ト名ヅケテ參詣スル者多カリキ〔山陽美作記〕。同國英田郡大野村大字川上ノ增(マス)ケ乢(タワ)ニモ古ヘ天ヨリ下リシ龍駒ノ爪形ヲ石ノ上ニ遺スモノアリ。之ヲ駒ケ爪石ト稱ス〔東作誌〕。此トハ遙カニ懸離レテ、陸前名取郡秋保(アキフ)村大字新川(ニツカハ)ニハ龍駒(リユウク)ケ嶽アリ。東嶽ト相竝べリ。山上ニ樹ナク只茆草ヲ生ズ、鄕人曰ク山中ニ龍駒アリ常ニ出デテ草ヲ食ムト、仍テ其山ニ名ヅケタリ〔奧羽觀迹聞老志〕。加賀ノ白山ニ於テモ古來龍馬ヲ生ズト傳ヘ、土人往々ニシテ蹄ノ跡ヲ峻巖邃壑ノ間ニ見ル。石川郡吉野谷村大字佐良ハ白山ノ麓ニ在リ。村ノ南半里ニ丈溪ト云フハ石壁千仭ナリ。村民市平ナル者曉ニ行キテ小サキ馬ノ尾ト鬣ト甚ダ長キガ躍リテ谿ニ入ルヲ見タリ。岩角ヲ蹴ツテ飛ブコト平地ノ如ク、忽チ其影ヲ見失フ云々〔白山遊覽圖記七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町ノ善法寺ノ池ノ水ハ龍宮ニ通フト稱シテ數數ノ奇特アリ。本堂ノ西南山ニ入ルコト三町バカリニシテ龍ケ澤アリ。龍馬ノ蹄ノ跡ト云フモノ存スト云フ〔三郡雜記下〕。羽後地方ニテモ龍馬ノ傳說ノ少ナカラザルコトハ後ニ再ビ之ヲ說クべキガ、【駒爪石】北秋田郡ノ戶鳥内(トトリナイ)ト云フ地ニモ路ノ傍ニ駒爪石ト稱スル神馬ノ跡アル石ヲ、祠ノ中ニ安置シテ崇敬シテアリキ〔眞澄遊覽記三十二下〕。【沼】同郡萩生山(ハギナリヤマ)ノ山奧ニハ怖シキ一ツノ沼アリ。雨降リ風吹カントスル際ニハ龍馬現ハレテ其岸ヲ馳セアルク。山民之ヲ見テ日和ノ占ト爲セリト云ヘリ〔同上三十一〕。此等ノ馬ドモハ單ニ凡人ノ羈絆ヨリ超脫スト謂フニ止マラズ、獨立シテ既ニ一箇ノ神ナリシニ似タリ。假ニ然ラズトスルモ、少ナクモ其生死出沒ノ點ニ於テ、尋常市井ノ荷車ニ營々スル者トハ全ク其範疇ヲ異ニシタリ。即チ一言ニシテ言ハヾ、彼等ハ皆天ヲ其鄕里トスル者ナリシ也。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(オハザマ)町ノ橫岨山(ヨコガケヤマ)ノ頂上ニハ龍ケ馬場ト稱スル地アリ。町ヨリ南方ニ當リテ眺望良キ地ナリ。龍ケ馬場ト云フハ廣サ七八尺長サ三十間バカリノ白砂淸淨ノ一區ニシテ、雷ノ烈シク鳴ル日ニハ必ズ白馬ノ毛ノ如キ五寸乃至八寸ノ毛ヲ降ラス故ニ、此ノ如キ珍シキ名ヲ負ヘルナリ〔和賀稗貫二郡鄕村志〕。但シ此毛ハ白馬ノ毛ナリヤ否ヤ多少ノ疑アリ。現ニ馬ヲ重要視セザル江戶ノ市中ニモ澤山ニ降リシコトアリ。時ハ寬政五年ノ七月十五日、江戶小雨降リテ其中ニ毛ヲ交ヘタリ。丸ノ内邊ハ別シテ多シ。多クハ色白ク長サ五六寸、殊ニ長キハ一尺二三寸ニ及ブ。色赤キ毛モタマタマ有リ。太サハ馬ノ尾ホドノ物ナリ。江戶中ニ遍ク降リシコト、何獸ノ毛ニテ幾萬疋ノ毛ナルヤ不審ノ事ナリト云ヘリ〔北窻鎖談二〕。此ヨリモ遙カ前ノ年ニ、阿部伊勢守殿居間ノ十間バカリ脇ノ櫻ノ木へ雷落チ、木ニモ其邊ニモ長サ五六寸ノ毛夥シク降リタリ。主人之ヲ集メテ蠅拂ニセラレシトハ氣樂ナル話ナリ〔觀惠交話下〕。近クハ明治四十五年四月十八日ノ時事新報ノ記事ニ、伊豆ノ大島三原山ノ麓ニ此毛降ル。【火山毛】新シキ學問ニテハ之ヲ火山毛ト呼ブ由ナレドモ、布哇ナドノ土人モ之ヲ神ノ毛ト尊敬スルト聞クノミナラズ、更ニ他ノ一方ニハ馬ガ丸ノマヽ降リタリトノ話モアレバ、要スルニ天ハ何ヲ降ラスカ到底測リ知ルべカラズ。此モ江戶ニテノ出來事ナリ。【馬降ル】今ヨリ凡ソ百六十年ホドノ昔、江戶ニ大霰ノ降リシ日、旗本ノ橋本安房守ガ庭前ニ一頭ノ馬降リ來ル。龍ノ揚ゲタルモノナラントノ說アリキ。落ツルハズミニカ腰ノ骨ヲ痛メテアリシ故ニ療養ヲ加ヘタリトアリ。不思議ノ上ノ不思議ハ、此馬ハ背ニ娑婆世界ノ乘鞍ヲ置キテアリシト云フコトナリ〔寓意草下〕。

 

《訓読》

 【養生奇瑞】土佐の龍馬の生立(おひたち)は、正(まさ)しく人間の阪田公時(さかたのきんとき)又は武藏房辨慶などと其の類を同じくし、不倫なる比較にてはあれども、遠く釋尊誕生の古傳に線(いとすぢ)を引くもの、即ち、自分が假に名づけて、「鬼子(おにのこ)傳說」と云ふもの、是れなり。此の口碑や、本來、單に現出の稀有を誇張せんとする動機に基づくものなるべきか。「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんことは、愈々、多く有り得べからざる機會なり。此の故に諸國の靈山には往々にして人界の羈絆(きはん)[やぶちゃん注:「羈」も「絆」も繋ぎ止める意で、一般には「何らかの行動を起こす際の足手纏いとなること」を言うが、ここは単に「現存在に於ける種々の制約。現実的しがらみ」の意。]を超脫したる龍馬の住するものあるなり。同じく、土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起にも、「山中に龍馬ケ原と云ふ處あり、千場ケ瀧の上なり。此の原には、每夜、龍馬出でて、笹の葉を喰む」と云ひ〔「西郊餘翰」四〕、又、長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧は、高さ十七間ばかり[やぶちゃん注:約三十一メートル。]にして中程に一段の水溜りあり、【岩ノ窪】其の傍らにも「龍の駒の足跡」と稱する岩の窪みありと傳へたり〔「土州淵岳志」〕。阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵の側に在る馬蹄石も、石の面に殘れるは、爪を以つて押したるがごとき形なれば、俗に又、「牛の爪石」とも云ふ〔「燈下錄」〕。要するに、只だの馬の蹄の痕には非ざるなり。薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺の山にも「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩あり。「紫尾八景」の一つとして此の地を詠じたる詩の句にも、

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

などと見えたり〔「三國名勝圖會」〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)には、岩の上に駒の右の蹄の跡と、赤兒の右の足跡と、殘れり。其の場處を「のごはず」と呼ぶは、觸るれば、忽ち、雨降ると云ふ信仰に基くものゝごとし〔「山陽美作記」〕。【岩の窪】同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す。其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す。【雨乞】旱魃に雨乞ひして靈驗あり〔「東作誌」〕。【龍ケ爪】同郡堀阪と云ふ地にも、川に臨みし岩の上に馬蹄の跡あるを、「龍ケ爪」と名づけて參詣する者多かりき〔「山陽美作記」〕。同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」にも、古(いにし)へ、天より下りし龍駒の爪形を石の上に遺すものあり。之れを「駒ケ爪石」と稱す〔「東作誌」〕。此れとは遙かに懸け離れて、陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」あり。東嶽と相ひ竝べり。山上に樹なく、只だ茆草(かやくさ)を生ず。鄕人曰く、「山中に龍駒あり、常に出でて草を食む」と。仍つて其の山に名づけたり〔「奧羽觀迹聞老志」〕。加賀の白山に於いても、古來、龍馬を生ずと傳へ、土人、往くにして蹄の跡を峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)の間に見る。石川郡吉野谷村大字佐良(さら)は白山の麓に在り。村の南半里に「丈溪」と云ふは、石壁千仭なり。村民市平(いちへい)なる者、曉に行きて、小さき馬の尾と鬣(たてがみ)と甚だ長きが、躍りて谿(たに)に入るを見たり。岩角を蹴つて、飛ぶこと、平地のごとく、忽ち、其の影を見失ふ云々〔「白山遊覽圖記」七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺の池の水は、龍宮に通ふと稱して、數數(かずかず)の奇特(きどく)あり。本堂の西南、山に入ること、三町ばかり[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]にして、「龍ケ澤」あり。龍馬の蹄の跡と云ふもの存すと云ふ〔「三郡雜記」下〕。羽後地方にても、龍馬の傳說の少なからざることは、後に再び之れを說くべきが、【駒爪石】北秋田郡の戶鳥内(ととりない)と云ふ地にも、路の傍らに「駒爪石」と稱する神馬の跡ある石を、祠の中に安置して崇敬してありき〔「眞澄遊覽記」三十二下〕。【沼】同郡萩生山(はぎなりやま)の山奧には、怖しき一つの沼あり。雨降り、風吹かんとする際には、龍馬、現はれて、其の岸を馳せあるく。山民、之れを見て、日和(ひより)の占(うら)と爲せりと云へり〔同上三十一〕。此等の馬どもは、單に凡人の羈絆より超脫すと謂ふに止まらず、獨立して、既に一箇の神なりしに似たり。假りに然らずとするも、少なくも、其の生死出沒の點に於いて、尋常市井の荷車に營々する者とは全く其の範疇を異にしたり。即ち、一言にして言はゞ、彼等は皆、天を其の鄕里とする者なりしなり。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)の頂上には、「龍ケ馬場」と稱する地、あり。町より南方に當りて眺望良き地なり。「龍ケ馬場」と云ふは、廣さ、七、八尺、長さ三十間[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]ばかりの、白砂淸淨の一區にして、雷の烈しく鳴る日には、必ず、白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす故に、此くのごとき珍しき名を負へるなり〔「和賀稗貫二郡鄕村志」〕。但し、此の毛は白馬の毛なりや否や、多少の疑ひあり。現に、馬を重要視せざる江戶の市中にも澤山に降りしこと、あり。時は寬政五年の七月十五日、江戶、小雨降りて、其の中に、毛を交へたり。丸の内邊りは、別して多し。多くは、色、白く、長さ、五、六寸、殊に長きは、一尺二、三寸に及ぶ。色、赤き毛も、たまたま有り。太さは馬の尾ほどの物なり。江戶中に遍(あまね)く降りしこと、何(なん)の獸(けだもの)の毛にて、幾萬疋の毛なるや、不審の事なりと云へり〔「北窻鎖談」二〕。此れよりも遙か前の年に、阿部伊勢守殿、居間の十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかり脇の櫻の木へ、雷、落ち、木にも、其の邊りにも、長さ、五、六寸の毛、夥しく降りたり。主人、之れを集めて、「蠅拂ひ」にせられしとは、氣樂なる話なり〔「觀惠交話」下〕。近くは明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]四月十八日の『時事新報』の記事に、伊豆の大島三原山の麓に、此の毛、降る。【火山毛(くわざんげ)】新しき學問にては、之れを「火山毛」と呼ぶ由なれども、布哇(ハワイ)などの土人も、之れを「神の毛」と尊敬すると聞くのみならず、更に、他の一方には、馬が丸のまゝ降りたりとの話もあれば、要するに、天は何を降らすか、到底、測り知るべからず。此れも江戶にての出來事なり。【馬降る】今より凡そ百六十年ほどの昔、江戶に大霰(おもほあられ)の降りし日、旗本の橋本安房守が庭前に、一頭の馬、降り來たる。龍の揚げたるものならんとの說ありき。落つるはずみにか、腰の骨を痛めてありし故に、療養を加へたりとあり。不思議の上の不思議は、此の馬は、背に、娑婆世界の乘鞍(のりくら)を置きてありしと云ふことなり〔「寓意草」下〕。

[やぶちゃん注:「阪田公時(さかたのきんとき)」「今昔物語集」巻第二十八「賴光郎等共紫野見物語第二」(賴光の郎等共、紫野に物を見たる語(こと)第二)、「古今著聞集」「巻第九 武勇」の「源賴光、鬼同丸を誅する事」、「古事談」巻第六(藤原道長の私的な競馬(くらべうま)の相手役として登場)などに登場する武士で、姓を「酒田」、また「金時」とも書き、幼名を金太郎、源頼光四天王の一人とされ、実在の人物と言うが、後世の「御伽草子」や伝承では山姥の子と設定され、相模国足柄山で育った怪童で頼光に見出され大江山の酒呑童子の征伐などに加わったとする伝承上の人物。総体を抱え込んだ限定された個人としての実在性は低い。

『「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんこと』「小栗判官」は中世から近世にかけて流行した説経節や浄瑠璃などの語り物の貴種流離譚の主人公。知られたもののでは以下のような筋立てである。京三条高倉の大納言兼家の嫡子小栗判官は、北菩薩(みぞろ)池の大蛇の化身と契ったが、罪を得て、常陸に流される。やがて美女の照手姫と結ばれるが、姫の一族(横山。姫は養女)に毒殺されてしまう。死んだ小栗は閻魔大王の命で、善人のゆえに娑婆へ帰され、「餓鬼阿弥(がきあみ)」と名づけられた。藤沢の上人の配慮によって、生きたミイラの如き餓鬼阿弥は、車に引かれ、熊野本宮へと向かい、そこで三七日(みなぬか:二十一日)の間、湯に浸され、めでたく元の体に戻る。一方、照手姫は海に沈められるところを救われるものの、人買いの手に渡され、各地を転々として重労働に苦しめられるが、知らずに餓鬼阿弥の車を運び、後、小栗と再会して都へ行く。細部にかなりの紆余曲折があり、ヴァージョン違いも多いが、その中で、横山一党が小栗に馬芸を乞うて、人食い馬「鬼鹿毛」に乗せて謀殺しようとするシークエンスを指す。サイト「み熊野ねっと」の「小栗判官」「小栗判官3 人喰い馬」が現代語訳で判り易い。

「土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起」高知県南西部土佐清水市の、所謂、足摺岬の尖端近くにある丘の上に建つ、真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の縁起に由来するものかと思われる。

「千場ケ瀧」恐らく、「千万滝」ではないかと思われ、推定落差五十メートルで足摺岬の断崖の南西に近年まで、存在したが、今は滝自体(水流)は完全に消失しているらしい滝フリークのこだる氏のブログ「長野県の滝」の中の「高知県の滝 土佐清水市の滝(10)足摺岬の千万滝」に写真附きで五十年(記事は二〇一二年のもの)前にはまだ存在したことが、感懐を以って書かれてある。当地に残る案内板の写真に「千万滝」と書かれたそれから、この中心附近(グーグル・マップ航空写真)「千万滝」はかつて存在したと思われるから、「龍馬ケ原」はその画面の上部一帯(金剛福寺の門前の足摺岬先端部の根の部分相当或いは南西部分の崖上部)となろう。

「長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧」現在の高知県南国(なんこく)市岡豊町(おこうちょう)滝本にある「毘沙門の滝」で「龍の駒の足跡」も現存する(地名は現在は清音)。「南国市」公式サイト内の「毘沙門の滝」の解説によれば(地図有り)、高さ三十メートル、三段に『わかれて落ちる滝で』、『中段には竜の駒の足跡といって、岩に大きな馬の蹄のような跡があ』ると明記されてある。『すぐ近くに毘沙門堂が建って』おり、『これは、昔弘法大師が大津の港に着いたとき、滝の音を聞いてここを訪ねて滝にうたれて身を清め、毘沙門天を彫刻しこれを祀ったのが毘沙門堂であると』されるとある。

「阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵」現在の岩津橋(いわづばし)附近か(ウィキの「岩津橋」にある Wikimedia OpenStreetMap のデータ)。同ウィキによれば、吉野川に架かる徳島県道百三十九号船戸切幡上板線の橋で、南岸は徳島県吉野川市山川町(ちょう)一里塚、北岸は同県阿波市阿波町乙岩津(おついわづ)である。

「薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺」現在、この寺は廃寺となって存在しない。現在の鹿児島県薩摩郡さつま町(ちょう)紫尾(しび)にある紫尾神社の境内地(推定。北直近)に寺の跡があるウィキの「紫尾神社(さつま町)」によれば、『旧くは「紫尾山三所権現」と称し』、『古くから祁答院七ヶ郷(山崎、大村、黒木、佐志、藺牟田、宮之城、鶴田)の総社として尊崇された』。なお、『当神社の拝殿の下から紫尾温泉の源泉が湧いていることから「神の湯」とも呼ばれている』とあり、さらに『社伝に、第』八『代孝元天皇の時代に開山され』、『「紫尾山」と号して創祀されたとも、また第』二十六『代継体天皇の時代に山中で修行をしていた空覚上人という僧の夢の中に神が現れ、「われはこの山の大権現なり、あなたが来るのを長い間待っていた。わがために社寺を建てて三密の旨を修し、大乗の法を広めよ」とのお告げがあり、翌朝上人が山頂に立つと尊い、いかめしい気があたりをつつんでいて』、『麓へ向かって』、『紫の美しい雲がたなびいていた。これを見た上人はこの山を紫尾山と名付けお告げに従い』、『山を下り、その麓を聖地と定め』、『社殿を建立「紫尾山三所権現」と称したという』。貞観八(八六六)年に『正六位上から従五位下へ昇叙された薩摩国「紫美神」に充てられるが』、『これを紫尾山の対麓に鎮座する出水市高尾野町唐笠木の同名神社に充てる説もある』。『上記紫尾山は神社の裏山に当たり、最初の社祠は紫尾山の山頂近くにあった。これを「上宮」と呼ぶのに対し、昔この山頂近くにあった社がたびたび暴風で倒壊し、また祭祀にも不便だったことから、当神社と出水市高尾野町唐笠木の同名神社の』二『か所に里宮として分祀し』て『「下宮」と呼んだといい』『(但し、薩摩郡さつま町柏原の「古紫尾神社」を下宮とする場合は「中宮」と呼ばれる)ともに紫尾山を信仰の対象とする山岳信仰を背景に建立された神社であったと思われ、当神社には中世に西国高野山の異名をとった「紫尾山祁答院神興寺」という供僧の坊が置かれ、修験者が群参したという』。『鎌倉、室町の両幕府に崇敬されたといい、江戸時代には薩摩藩主島津氏から尊崇され、この地域の鎮守神として社領の寄付や社殿の修復が行われた。また、寛永末年(』十七『世紀中頃)に当神社の神託によって永野金山が発見されたことで有名になった。このような金山発見のお告げをした神が座す社であるという伝承から、鉱山関係の参詣者が多かった。交通不便な場所に鎮座しているが、現在でも初詣には』一『万人ぐらいの人出で賑わう』とある(下線太字はやぶちゃん)。この記載から見る限りでは、近世初期には神興寺は廃されていたように読めてしまうのだが、そうではなかった巡礼者 rinzo 氏のブログ「薩摩旧跡巡礼」のこちらでは、この紫尾神社及び後背地の神興寺跡を実に丁寧に探索されており(画像多数。状態の非常によい(風化していない)馬頭観音像数体を見ることが出来る。必見! なお、これらから見ても、近世まで同寺は存在したことが素人にも推理出来る)、而してそこに以下のようにあったのである。『天正年間』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年))『に災害があった。それにより』、『神興寺の堂宇がことごとく荒廃し、ただ』、『権現廟だけが残っている状態となった』。『貞享二』(一六八五)『年四月、宮之城の真言宗寺院である神照寺の住持であった権大僧都快善という僧が』、『この山を訪れ、自らの閑居の地を占っていたのだが、この古跡のあまりの荒廃ぶりを哀れみ、資材を投じて当寺を再興し』、『朝は遠くの山を望んで心を澄まし、日が暮れると』、『温泉に入り』、『身を休め、日々』、『杖をついて徘徊し、春夏秋冬の風景を楽しみとしていた』とあり、さらに『元禄十』(一六九七)『年の春、紫尾八景を選び、狩野昭信に絵を頼み、それに諸山の僧侶が詩をつけ、一つの軸にして神興寺に納めた』。『その八景を胎生山』(本文に柳田國男が言う「紫尾八景」の『「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩』がある山であろう。但し、現在もその岩があるかどうかは不明)『・筆之山・錦之尾・両鹿勢・三日月山・光石・綾織山・陰陽師峯という』。『また、当山不動谷に奥の院を開き、そこから上宮権現に参詣する際』、『一歩一遍光明真言を唱え、また仁王経一万二千二百余巻を読誦した』とあって、途中で荒廃期はあったものの、戦国時代に復興し、その後、江戸中期までは神興寺はしっかり現存していたことが判るのである。

「曾生天馬世皆譚」「苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參」訓読を試みておく(底本には返り点のみ)。

曾つて天馬生ずるも 世(よ)皆(みな)譚(たん)たるのみ

苜蓿(もくしゆく)蹄痕(ていこん) 蘚(せん)に與(あた)へて參(しん)たり

一句目は、「天馬は最早、ただ語りのなかにのみにしかいない」ことを言ふ。「苜蓿」は飼い葉となるはずの、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha の異名。「蘚」は苔、「參」はよく判らぬが、「相並ぶこと」「交々(こもごも)になっていること」で、『天馬がいなくなって久しいから、「うまごやし」も天馬の蹄の跡も、ただ空しく苔に塗れていることだ』の意で私はとる。誤読とせば、御教授あられたい。

「美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)」岡山県津山市横山はここ。航空写真を見ると、ど真ん中の丘陵部に有意に平たい土地が見えるが、これは近代の開墾のよう。

「のごはず」「拭(のご)はず」で不可触の謂いである。こうした禁忌の石の場合、残っている可能性は大きいはずだが、ネットでは掛かってこない。

『同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す』現在の岡山県津山市草加部。現行、地区の東を流れる川は「加茂川」の表記であり、現在は加茂川の東岸は津山市楢(後に出る旧「楢村」)であるが、「歴史的行政区域データセット」を「岡山県苫田郡神庭村」を見ると、旧神庭村の村域は加茂川東岸を舐めるように含んでいることが判る。残念ながら、ネット上には二種の龍馬絡みの岩の窪や「龍ケ爪淵」は掛かって来ない。

「其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す」同地区には「一寸鏡(ますかがみ)神社」という変わった名の神社が現存するが、龍神を祀っているというデータはない。そこから南西南に少し行った位置の川畔に鷹山稲荷大明神というのはある。

「同郡堀阪」岡山県津山市堀坂。先の草加部と楢の北直近の加茂川東岸部。これらが極めて接近して、しかも川の岸辺に存在することから、これは地質学上の岩石の性質やその浸食様態の説明(私は高い確率で甌穴であろうと思う)で解明し得るものと思われる。

『同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」』美作市川上。「乢」は山岳の尾根や山稜の窪んで低い場所などを指す語。サイト「遺跡ウォーカー」のこちらで、この川上地区には「桂坪乢」の地名が現存し、しかもこの周辺には柳田國男の嫌いな古墳が多数あることが判り、この「龍駒の爪形」というのも、そうした古墳絡みである可能性が窺われる。

『陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」宮城県仙台市青葉区新川(にっかわ)はここであるが、「龍駒ケ嶽」「東嶽」は現認出来ない。但し、国土地理院図で見ると、同地区内の東に麓の地名から見て、明らかに山岳信仰のあったと思われるピークが複数存在するから、この辺りがそれかと思われる。

「茆草(かやくさ)」茅(ちがや)。

「峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)」峻(けわ)しい巌(いわお)や幽邃なる渓谷。

「石川郡吉野谷村大字佐良(さら)」石川県白山市佐良。手取川の東岸。白山山頂から南西約二十キロメートルの位置にある。

「丈溪」不詳。この辺りの手取川は渓谷を成してはいる。

「羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺」これは現在の山形県鶴岡市下川関根にある曹洞宗龍澤山(りゅうたくさん)善寳寺(ぜんぽうじ)の誤りではないか? ウィキの「善寳寺」によれば、『姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池』(かいばみいけ)『に身を隠したという伝承が残り』、『龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める』とあるからである。因みに、この貝喰池、多くの方が御存じのはず。一九九〇年頃に、この池にいる鯉が「人面魚」として盛んに喧伝され、シミュラクラ「人面魚」の都市伝説の元祖となったからである。グーグル画像検索「貝喰池 人面魚」をリンクさせておく。ほら! 覚えてるでしょ?

「北秋田郡の戶鳥内(ととりない)」秋田県北秋田市阿仁(あに)戸鳥内。「駒形石」は現存するかどうか不明。

「同郡萩生山(はぎなりやま)」不詳。

「日和(ひより)の占(うら)」天候急変の予兆とすること。

「陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)」岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)を冠するこの一帯(ポイントはその中の大迫町大迫)。「橫岨山(よこがけやま)」の位置は不明。

「白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす」ここを読んだ途端、昔(中学・高校時代)、「未確認飛行物体研究調査会」の会長(会員はたった二名)であった私は、一九五二年十月十七日、フランス南西部のオロロン=サント=マリー(Oloron-Sainte-Marie)に「空飛ぶ円盤」が出現、それに伴って白い糸状のものが大量に降ったという事件を思い出した。これは「エンゼル・ヘア」と呼ばれ、写真にも撮られている(まんず、古参のUFO研究家なら知らない奴はモグリと言ってもいいほど知られた事件である)。個人ブログ「きよりんのUFO報告」の『1952年円盤群と「エンゼルヘア」降下事件』から引用させて戴くと、この毛、『降下して電線などに引っかかっても、やがて蒸発して消えてしまったと』されており、『フランスのUFO研究家エメ・ミシェル』(Aimé Michel 一九一九年~一九九二年)『は、彼の著書』(原本は「Lueurs sur les soucoupes volantes」(「空飛ぶ円盤の光り」。一九五四年刊)。邦題は「空飛ぶ円盤は実在する」(一九五六年高文社刊・田辺貞之助訳)。私も実はこれで読んだ。今も持っているが、積み上げた下方にあって、引き出すと、本の山の下敷きになるので諦めた)『にこう書いてい』るとして当該書を引用されておられる。

   《引用開始》

 オロロンとガイヤック-1952年10月

1952年10月17日金曜日、オロロンでは素晴らしい天気だった。空は青く、雲ひとつなかった。12時50分ごろ、オロロン中学の舎監長イーヴ・プリジャン氏は中学の二階にある自分の部屋で食卓へ向かおうとしていた。かたわらに女教員であるプリジャン夫人と三人の子供らがいた。

 部屋の窓はすべて町の北方へ向かって開かれ、広い景観を示していた。息子のジャン・イーヴメプリジャンは窓のところに立っていた。人は彼を食事に呼んだ。が、そのとき、彼が叫んだ。

 「パパ、来て御覧よ、変なものが見えるよ!」すべての家族が彼のそばへ行った。プリジャン氏は次のように語っている。

 「北の方、青い空の奥に、奇妙な格好の綿のような雲がただよっていた。その上に、細長い円筒形のものが、明らかに45度ばかり傾いて、真直ぐに南西の方へゆっくり移動していた。私はその高さを二千ないし三千メートルと見積もった。そのものは白っぽく、光がなく、輪郭がはっきりしていた。上の端から白い煙が前立のように吹き出していた」

 「その円筒形のものの前に少し距離をおいて、30ばかりのほかのものが同じ進路を通っていた。肉眼では、それらは煙の塊に似た不恰好な球の形をしていた。しかし、双眼鏡でみると、中が赤く、まわりが非常に傾斜した黄色っぽい輪のようになっている球をはっきり見ることができた。その傾斜は」と、プリジャン氏は念を押していう。「中央の球体の下の部分をほとんど隠していた。しかし、上の方ははっきり見えていた。その〈円盤〉は2つずつならんで別々の道をすすみ、全体として、速くみじかいジグザグをなしていた。その2つの円盤が離れると2つのあいだに電光形に白っぽい筋ができた。」

 「これらの奇妙なものはたくさんの筋をうしろへ残し、それがゆっくりと分解しながら地面の方へおりてきた。数時間のあいだ、木立や電話線や家々の屋根の上にふわりとしたものがひっかかっていた。」

 これは未知の器械の飛翔によってオロロンの野にまきちらされた〈聖母の糸〉(蜘蛛の糸)の奇妙な物語である。その糸は毛糸かナイロンに似ていた。そして、もつれて塊になり、すみやかにジェラチン状になり、それから昇華して、消え去った。多くの目撃者がそれをとり、速やかな昇華の現象を見ることができた。中学の体操教師は運動競技場から大きな糸束をもってきた。中学の教師たちは大いにあやしみ、火をつけてみたところが、セロファンのように燃えた。理科の教師プーレ氏はその糸を入念にしらべたが、分析をする暇がなかった。しかし、彼は棒にまきつけた10メートルばかりの糸が昇華し消失するのを観察することができた。(以下略)

10月27日ガイヤックのトゥールーズ街に住むドール婦人は鳥小屋で鶏たちがさわいでいるのに気がついた。彼女は眼を空へあげてみた。そしてオロロンの人々が10日前に見たのとまったく同じものを見た。(中略)45度に傾斜した前立のある円筒形がゆっくり南西へ向かって行き、それを20個ばかりの〈円盤〉が取り巻き、太陽にきらめきながら、2つずつジグザグ形にすみやかにとんでいく。唯一の相違は、ここでは2つずつ並んだ円盤の幾組かが時によると非常に低いところまで降りてきたことで、その高さは証人により三百ないし四百メートルと見積もられた。これが約20分ほどつづき、やがて葉巻も円盤も地平線に消え去った。

 すると、早くも白い糸のかたまりが降りはじめ。円盤が見えなくなってしまったあとまでも、長いこと落ちてきた。

   《引用終了》

ああっ! 懐かしい! 英文のUFOサイト「LUFORU」の「Oloron-Sainte-Marie, Pyrénées-Atlantiques, France, Europe」で「エンゼル・ヘア」の写真その他が見られる。軽蔑の眼で見ている読者諸君のために、後の「火山毛」の注でちゃんとそれに応じているので安心なされよ。

「北窻鎖談」「鎖」は「瑣」の誤り。江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。当該話は巻之二の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。頭の見出し用の「一」をカットした。

   *

寛政丑年[やぶちゃん注:寛政五年は癸丑(みずのとうし)で正しい。]七月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九三年八月十四日。]、江戶小雨(こさめ)降て、其中に毛を降らせり。丸の内邊は別して多かりしとぞ。多くは色白く長サ五六寸、殊に長きは一尺二三寸もあり。色赤きもたまたま有しとぞ。京へも親しき人より拾(ひろひ)とりし毛を送り越(こ)せしが、馬の尾のふとさの毛なり。江戶中にあまねく降りし事、何獸の毛にて幾万疋の毛なりや。いと不審の事なりき。

   *

「阿部伊勢守殿」前の寛政五(一七九三)年よりも「遙か前」の人物で「阿部」姓で「伊勢守」となると、調べたところでは、備後福山藩第二代藩主で阿部家宗家第六代阿部正福(まさよし 元禄一三(一七〇〇)年~明和六(一七六九)年)しかいない。

「蠅拂ひ」獣毛を束ねて柄をつけた蠅や蚊を追うための道具。後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた。払子(ほっす)に同じ。但し、其れとは別に、武具・指物(さしもの)として、棹の先端に犛(やく)の毛を纏めて短く下げたもの(「かぶろ」とも呼ぶ)があり、ここは後者で採るべきか。

「今より凡そ百六十年ほどの昔」本書の刊行は大正三(一九一四)年であるから、単純計算では宝暦四(一七五四)年前後となる。徳川家重・家治の治世。

「橋本安房守」不詳。

「火山毛(くわざんげ)」Pele's hair のこと。ウィキの「ペレーの毛」によれば、『火山の爆発の際に、マグマの一部が吹き飛ばされ』、『空中で急速冷却し』て『髪の毛のようになったもののことを言う。非常に軽いため数』キロメートル『先まで風で運ばれる。ペレーの涙』(Pele's tear。火山の爆発の際にマグマの小さな塊りが固結したガラス質の粒の噴出物。礫状意外に滴型を呈するものがあり、「火山涙(かざんるい)」とも呼ぶ)『と同じように、火山噴出物の一つである。火山毛(かざんもう)』『ともいう。ペレーはハワイに伝わる火山の女神のことである』。『おもに玄武岩質の火山ガラスからなる褐色の細い単繊維であり、典型的なものは断面が円形に近く、直径は』〇・五ミリメートルよりも『細』く、『長さは最大』二メートルにも『およぶことがある』。『キラウエアに限らず』、『ニカラグアのマサヤ火山等でも知られる』とある。……でもね……オロロンのはそれじゃないようだよ……一九五二年にヨーロッパ近縁で大規模な噴火は起こってないもん…………なお、これらの本邦での「ペレーの毛」の降下を、古文献から蒐集し、学術的に仔細に検証したものとして、『地学教育と科学運動』第六十八号(二〇一二年七月発行)の小泉潔氏の論文「江戸(東京)にペレーの毛が降った?」PDFで読める。必見!

2019/06/09

誕生 すゞしろのや(伊良子清白)

 

 誕 生

 

谷の淸水をあたゝめて

產湯とらせし狹筵に

其子の肌は淸くして

松の嵐に吹かれけり

 

紅閉す薄霞

あまりかたちの稚さに

年まだわかきふた親は

なで抱くさへはゞかりぬ

 

炭燒く家の子なれども

菫咲く野の若草に

をとめとならん行すゑの

夢こそ花の園生なれ

 

產衣の色はみどりにて

柳にまじるさくら花

梢にまよふ胡蝶こそ

かりにその子の風情なれ

 

香ひの露のしたゝりて

むすぶがごとき唇の

まだ蕾なる紅に

夕の風のさはるてな

 

松の枯葉をたきくべて

夕げをかしぐその父の

かまどになれぬ手つきこそ

けふの吉き日にをかしけれ

 

この靜かなる夕暮を

產屋の窓に雲下りて

小雨はれ行く女松原

弱き日の影てらすなり

 

世を新しくなすものは

夕の星の色ならじ

小百合の花の野にあらじ

草のとぼそに聲あげて

すがたすぐれしちごをこそ

美の神々は招きけれ

 

藁屋の前にながれあり

ながれの上のまろ木ばし

故に繁る栗の樹を

うす紅ににほはして

よき子うまれし軒端より

夕の虹は根ざしたり

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年九月十五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

海の墓 すゞしろのや(伊良子清白)

 

海 の 墓

 

ますらたけをのおくつきは

黃金よそほふ宮ならじ

砂漠のくにの塔ならじ

たゞおほいなるわだつみを

はかばとわれはこたふべし

 

たいへいやうのめぐりなる

岸につらなる火の山の

火の環を見ればとこしえに

きみがたてたるいさをしの

花なるさまをあらはして

焰は空にのぼるなり

 

年うらわかきふなをさは

つとめのために身をすてゝ

おほくの人をすくひけり

沈みし舟にさゝげたる

ふかき感謝の花束は

紅匂ふ珊瑚樹か

巖のうへの星くづか

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年九月十二日発行の『明星』掲載。署名は「すゞしろのや」。「とこしえ」はママ。

「珊瑚樹」マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabukiウィキの「サンゴジュ」によれば、朝鮮半島・台湾・東南アジア温帯から亜熱帯地域に野生し、本邦では千葉県以西に分布し、『樹皮は灰褐色で皮目が多く、荒い』。『葉は長楕円形で、縁に小さくまばらな鋸歯がある。光沢と厚みのある革質で、枝から折り取ると白い綿毛が出る。若葉は褐緑~褐色であるが、やがて濃緑色へと変化する』。『初夏に円錐花序を出して小型の白い花を多数開花する』。『夏から秋にかけて赤く美しい楕円形の果実をつける。それを宝石』の珊瑚に喩えて『名付けられた。果実はさらに熟すと藍黒色となる』。『種小名の awabuki に示されるように、厚く水分の多い葉や枝は、火をつけても泡をふくばかりで燃えにくい。それゆえ、火災の延焼防止に役立つともいわれ、防火樹として庭木や生垣によく用いられる。また、魚毒植物としても知られており、沖縄県ではかつて毒流し漁に利用されていた』。現在、『横浜市、大東市、防府市の市の木』であるとある。私は三十二年間に亙って横浜市内の各高校に勤務し続けたが、市の木はサンゴジュだったとはつゆ知らなんだわ。]

ブログ1230000アクセス突破記念 梅崎春生 不動

[やぶちゃん注:本篇は作家デビュー以前の梅崎春生のごく初期の作品の一つである。昭和一八(一九四三)年六月発行の『東京市職員文芸部雑誌』第一号初出(当時、梅崎春生二十八歳)。戦後の昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。戦前の作であるから、少なくとも本篇初出は正字・旧仮名であるはずだが、原本を所持しないので、底本通り、新字新仮名とする。傍点「ヽ」は太字とした。本文中に私のオリジナルな注を挿入した。

 梅崎春生は昭和一四(一九三九)年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業(満二十五歳。卒業論文は「森鷗外」八十枚)後、この当時は東京市教育局養育研究所に勤務していた(同研究所は上野公園にあった。現在は国立西洋美術館が建っている)。実は本篇発表時は最後の「東京市」なのであって、この翌月七月一日に内務省主導による「東京都制」が施行され、地方自治体としての「東京市」と「東京府」は廃止されて現在の「東京都」が設置され、それまでの「東京市役所」の機能はこれ以降、「東京都庁」に移管されたのであった。但し、本作発表の前年の昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊したものの、肺疾患のために即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に同福岡市街の自宅で療養生活を送っているので、ほぼ一年近くの休職期間がある。因みに、翌昭和十九年三月には、徴用を恐れて東京芝浦電気通信工業支社に転職したが、六月に二十九歳で再び海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団、そこで暗号特技兵となって、終戦まで九州各地を転々としたのであった(以上は底本全集別巻年譜に拠った)。

 また、本作の主人公の友人として登場する「天願氏」は初期作品の傑作「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』(副題『新人創作特輯号』)に掲載された。リンク先は「青空文庫」のもの)でも一種、主人公のトリック・スターのように重要な役回りをするが、彼のモデルは梅崎春生の終生の友人であった同い歳の作家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学し、そこで梅崎春生と同級となって親交を結んだ)であるとされる。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、十三年で、本ブログが昨夜、1230000アクセスを突破した記念として公開する。因みに、本作は掌品ながら、後の漫画家つげ義春のある種の作品のような、奇妙なるリアリズムを感じさせる佳品と思う。【2019年6月9日 藪野直史】]

 

   不  動

 

 午後の二時頃、天願氏と私は上野駅のホールに立って、壁にかかっている時間表を眺めたり、ぼんやりと構内の雑踏を見渡したりしていた。日曜日のことであつたから、駅内はいつもより混んでいて、リュックサックを背負ったような男女や、バスケットを提げた田舎風の人々や、野菜行商の女達が、改札のあたりから出入口にかけて忙がしく往来した。窓や出入口から射す昼の光はあかるくて、拡声器の声は、次から次に、はっきりしない語尾をひびかせながら、建物の天井を這って消えて行った。

 此処まで来ても、まだ何処に行こうというあてはなかった。曖昧な気特で時間表を見上げたり、また行くのは止そうかと思ったりした。駅の構内に入っただけで、もう疲れたような気がした。

「とにかく、松戸まで買おうか」

 うん、と生返事しながら、まだ私はためらっていた。新宿の、鬼堂という友人のところへあそびに行こうか、などと思ったりして、気持がはっきり定まらなかった。しかし、駅内の群集の動きや、時折聞える汽笛の音が、何となくしきりに天願氏の旅情をかき立てるらしかった。

「とにかく、先ず松戸まで買つて、気がむけば途中で江戸川あたりに降りてもいいじゃないか」

「それもそうですね。しかし、もう二時だから」

「充分だよ。日が長いからね。とにかく切符を買う」

 天願氏は、渋団扇(しぶうちわ)のように張った肩を左右に振るような歩き方で、切符売場の方に急いで行った。私は、ふところ手をしたまま、そのまま佇(た)っていた。郊外に、新緑を見に行くという試みを、さまたげる事情は私には何もなかった。しかし、野や山に生い立った青葉や若葉を頭に浮べようとしても、なにか感興がうすかった。

 やがて切符を買って来た天願氏と共に、改札を通って歩廊に出た。歩廊は、季節にしては強い日光のために、鮮やかに日の当る部分と影の部分にわかれていた。そして歩廊の果ての、混凝土(コンクリート)の坂になったあたりを、風が白く吹いていた。私達は、歩廊の真中ほどにあるベンチにもの憂(う)く腰をおろした。長い間経った。線路の遠くから、カーヴのところでは少し傾きながら、電車が近づいて来る。その振動が、微かではあつたが歩廊ににぶく伝わって来た。それはだんだん大きくなる。私達は莨(たばこ)を捨てて立ち上った。

 

 松戸で電車からはき出された。歩廊から見る松戸の町は、昼間だのに夕暮のような感じがした。奥行きのなさそうな、此の佗しい町のむこうは、砂塵がうつすりと立っている。

「なにも、無さそうだな」

 ふところに突込んだ手で、肋(あばら)のあたりを撫でながら、私は向うの歩廊に目を転じた。汽車が着いていて、機関車が白い蒸気を出していた。

「あの汽車は何処行きだろう」

「我孫子(あびこ)に行こう」

 突然天願氏がさけんだ。「あの汽車にのれば間に合う」

 私達はそのまま、考える間もなく歩廊を走った。階段をかけ降りて、またかけ昇った。昇降口にかけ込んだとき、汽車がごとりと動き出した。私達は息を切りながら、顔を見合わした。

「よかったですね。間に合って」

「まったく」

 何がよかったのか、自分でもはっきり判らなかったが、私はそう言い、大へん得をしたような気持になっていた。列車は、大へん混んでいた。

 私達は車掌室の横に止ち、それから中には入れなかった。人いきれのこもった室の中で、私はじっと立っていた。私のそばには、陸軍の将校が二人やはり立っていて、時折低く話し合っていた。故郷に行くところらしかった。二人とも純粋な東北訛(なま)りで話していたが、将校というものは何時も立派な標準語で会話するものだというような、漠然たる感じを持っていた私は、そのことが珍しく、また親しみ深い良い感じがした。久し振りにうちに帰ると、小さい子供が自分を見忘れていて、もとのようになるまで十日位かかるという話をしていた。一駅も過ぎないうちに私は疲れて、壁に身を支えたりしたけれど、二人の将校は毅然と立ったままの姿勢で、汽車が揺れてもあまり身体を動かさなかった。

 

「此処まで来たんだから、ついでに成田まで行って見ようじゃないか」

 我孫子で乗越し賃銀をはらい、待合室に入ったとき、天願氏がこう言った。

「そう、ぼくはどうでも良いですよ」

 私は、成田が何処にあるかは知らない。此の我孫子ですら、地図の上ではどの辺になるのか見当がつきかねた。東京を離れた以上は、どこにどう行こうと私は同じ思いであった。時間を調べると、三十分後に出る汽車があった。[やぶちゃん注:主人公同様に不案内の読者のために、東京と我孫子と成田の位置関係をグーグル・マップ・データで示しておく。]

 そこらを一寸歩くことにきめて、私達は駅を出た。変哲もない田舎町がつづいている。まずしげなお土産屋や飲食店が、ほこりだらけの道の両側にならんでいる。道側に遊んでいる子供たちの眼は、東京の子にくらべると変に鋭くて、敵意を含んでいるような気配があった。

 馬糞の多い道を一丁程[やぶちゃん注:約百九メートル。]行くと、突きあたり、道は両側に分れていた。一つは、沼に行く道らしかった。そこにある近郊案内の立て札を読み、また同じ道をあるいて戻って来た。何ということもない。また待合室に腰かけて、汽車を待った。「疲れたかね」[やぶちゃん注:「沼」現在の我孫子市の北辺縁に貼り付くように東西に長い手賀沼のこと。]

 天願氏がにやにやしながら私の顔を見た。「貴公は、自然というものに対して興味を持たんらしいな」

「いや」と私も少し笑った。「興味もたないという訳じゃないけれど、――人間の方が面白いですな、自然よりは」

 しかし、何事に対しても興味の持ち方がうすいということは、私にとって生来のものであった。私は、自分が異質のものであるとは思いたくなかったけれど、そうした傾向は否めなかったのだ。人間に対しても、ミザンスロピィの形でしか、感情なり興味なりを持ち得なかった。もつとも環境のせいもあつた。役所で毎日、話と言えは猥談か、気の利いたつもりで泥臭い冗談しか言えないような同僚や上司と一しょに働いていれば、馬鹿でない限りはそうなってしまう。[やぶちゃん注:「ミザンスロピィ」misanthropy。英語で「人間不信・人間嫌い」の意。]

「これでも昔は、野山に行くのは好きだったんですがね」

 指で肋(あばら)を一本一本おさえながら、私は天願氏に言った。

 そのうちに改札が始まった。田舎の内儀(おかみ)さんの群と一緒に、ぞろぞろと歩廊になだれ込んだ。

 

 沼が右手に遠く、鈍く光ってはまた隠れ、また樹々の間からあらわれた。日はようやく傾きかけたようであつた。汽車は、空いていた。汽車が進んでゆくにつれ、天願氏は少しそわそわし始めた。

「どうしたんです」

「いや、一寸」窓の外ばかり見ている。

 天願氏の、数年前別れた妻との間にある男の子が、今日は日曜日だから、母方の祖父のうちに遊びに行っているかも知れない。(その子供は、妻の方に引きとられていた)祖父のうちが、此の沿線の汽車の窓から見えるところにあると言うのだ。

「もすこし先なんだ。もすこし――」語尾が少しふるえた。

 窓の外を、松林や、丘陵や、小川が次々に通り抜けた。家がぽつぽつと現われて来たかと思うと、たちまちそれが小さな部落となり、樹々にかこまれた低い家々が限界をさえぎったとき、天願氏は身体ごと乗り出すようにして、目をきらきらと光らした。

「あそこ!」

 瞬間にして、汽車はその部落を奔(はし)り過ぎた。

 暫(しばら)くの間私達はむき合って、黙っていた。汽車の轟音だけが、ごうごうとひびいた。窓から入る光線が、天願氏の顔をゆっくりと移動して行った。顔の陰影が変化するのは、丁度(ちょうど)表情が変って行くように見えた。

「ああ、成田までじゃなく、どこか遠いところまで行きたいなあ」

 暫く経って天願氏は独り言のように低い声で言った。

 

 成田の駅前は、大広場になっていて、夕方の淡い光の中で、成田停車場はまるで玩具のように見えた。天願氏の髪を、風がばらばらに吹いた。私達は参詣近道と書いた裏通りをゆるゆるとあるき出した。狭い道は不規則に折れ曲り、怪しげなカフェや、居酒屋がつらなっていた。門口に厚化粧をした女たちが椅子を出して腰かけ、私たちをうさん臭そうな顔で眺めたりした。それは変に私の嫌悪をそそった。私は出来るだけ目を外らしながら、少し前屈みになって急いだ。道は僅かながらも、登り坂になっていたのだ。そのうちに、大通りに出た。

「裏参道などと書いて、あれはきっとカフェの連中が客寄せに書いたんだろう」と私達は笑い合った。大通りは、どこの神社の町にもあるような土産店や、表だけがけはけばしい旅館などがずらずらと列(なら)んでいて、人々が動いているにも拘らず、芝居の書割りのように生気がなかった。夕方のせいか参詣客らしい姿はあまり見えず、道を歩いているのは町の男たちや商人らしかった。夕方の空には、綺麗(きれい)な鰯雲(いわしぐも)が出ていて、白い昼の月がうすくかかっていた。旅情が、それを見たとき始めて私の胸にほのぼのと湧き上って来た。

 不動は、森にかこまれていた。亀のいる池の石橋をわたり、石段をのぼった。石柱が沢山立っていて、寄付金と名前、壱千円也某、五百円也某といった具合に、金額が多いほど石柱も大きかった。それらが石段の両側に、墓碑のように連なり、風はそれをおおう樹々の茂みにそうそうと鳴った。私たちは黙って一歩一歩、石階をふんだ。

 本堂を横に切れて、後ろに廻ると、もはや本堂の背は夜であったが、壁面に僅か黄昏(たそがれ)が残っていた。そこには木彫の板がいくつもはめこんであった。私たちは顔を寄せてひとつひとつ見てあるいた。何の図柄か判らなかったが、どの絵も人間がたくさん彫られ、どの人間も同じ表情をし、同じ着物を着ていた。俗っぽい彫り方にもかかわらず、妙な迫真力があつた。不意に何か不気味なものを感じて振り返ると、人一人いない境内が背後にしらじらとひらけていた。[やぶちゃん注:私は成田山新勝寺に行ったことがないので、調べたところ、公式サイト内の「釈迦堂」によって、ここは現在、「本堂」(江戸後期の建立に成る)から「釈迦堂」に変更されていること、彼らが見たのは、この旧本堂の回廊の堂壁部分に施された、嶋村俊表作「二十四孝」や、松本良山作「五百羅漢」(及びその外の外回りの彫刻を彫物師後藤縫之助が手掛けているとある)の彫刻群であることが判明した。リンク先には画像もある。]

「寒い」

 夕方になって、少し冷えて来たのだ。その感じも、東京を離れた思いに強かった。

 まだ数枚の木彫板を見残して、私達は境内を通り抜け、脇へ降りる道をあるいた。

「すこし、金があるかね」

 私は袂(たもと)を探った。乏しい銅貨の音がした。街路に出て、燈の下で天願氏は金入れを出して、内をかぞえた。七円なにがしの金があった。

 相談の末、汽車賃だけ残して、のこりで一杯のむことにし、私達は歩きだした。先に立った天願氏の肩は、骨太だけれども何処か影がうすく、わびしかった。暗いところをあるくとき、二人の影は淡く地面にうつり、天願氏の影は、歩きぐせのために地面で躍るように動いた。空には、二十三夜の月が少しずつ光を増し、私達はことさら明るい通りを避けて、適当な居酒屋を探して行った。[やぶちゃん注:「二十三夜の月」但設定と思われる晩春の狭義の「二十三夜の月」は、夜の十一時近くの「月の出」になるので、時刻が遅過ぎるから(実は後のシーンで「九時を廻っているらしかった」とある)、ここは二十三日以前の三日月に成りかけた下弦の月をかく洒落て言ったに過ぎないと採っておくべきであろう。]

 薄汚ない暖簾(のれん)をかかげ、指で盃の形をつくつて見せ、あるかね、と聞くと、台所から親爺が顔を出して、まあ入んな、と答えた。そこで私達は中に入った。土間には卓子(テーブル)が一脚あって、両側に紅殻(べんがら)の剝げた樽が腰掛け代りに五つ六つ置いてあった。

「白だけど、いいかね」

「ああ、結構だよ」

 あちらこちら探し歩いた後だったから、もはやどんなものでもいい気特になっていた。私は、樽に腰を下して、掌を何となくすり合わした。

 湯吞茶碗を前にして、暫くしたら親爺が奥から大切そうに持って来た瓶から、冷たい濁酒(どぶろく)がとくとくと注がれた。粒が多い、濃い濁酒であった。

 親爺が、注文もしないのに持って来た、ほうぼうの煮付や、白い魚肉の酢味噌、そんなものをつつきながら、茶碗をほした。

「此の白馬はどこから持って来たのかね」[やぶちゃん注:「白馬」「しろうま」で濁酒の異名。白馬は神の供をする、酒は神に供える、というところからの色彩連想による俗語。違法醸造によるものであるから、かく隠語として用いたもの。]

「なに、河向うからだよ」と答えて、えへへ、とわらった。もしかすると、汽車賃に食い込むかも知れないと思ったが、そのうちに酔って来て、そんなことはどうでもよくなった。

 私達に向い合って馬方らしい老人がやはり飲んでいて、親爺と、今日見た溺死人の話をしていた。

 土間のむこうは部屋になっていて、親爺の女房らしい大きな女が牛のように横になっていた。側で子供がひとり手習いしていた。

 その子供には顎(あご)がなかった。[やぶちゃん注:事故によるものでないとすれば、先天性下顎骨欠損症或いは下顎骨が痕跡しかない疾患となろうか。]

「わたしたち二人で」と親爺は寝ている女をゆびさした。

「月に七升要りますがな」

 風が、暖簾を動かしていた。

 私達は、琉球(りゅうきゅう)や台湾や、遠い国の話をした。パパイヤや檳榔(びんろう)や、停子榔や泣き女の話をした。酔いが廻って来るにつれて、天願氏の放浪癖は益々そそられるらしかった。ずっと若い頃の、数年間にわたる大放浪の話を天願氏は低い声でめんめんと語った。[やぶちゃん注:「停子榔」読みも意味も不詳。当初、私は以下の「泣き女」との対表現から、台湾で檳榔や煙草を売る若い女性を指す「檳榔西施」かと思ったが、それはごく直近の風俗らしいので当たらない(御存じない方はウィキの「檳榔西施」を参照されたい)。次に前の「檳榔」の「榔」の一致と「子」から、アジアの広い地域で嗜好品とされる単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実、檳榔子(びんろうじ:アレコリン(arecoline)というアルカロイドを含み、タバコのニコチンと同様の作用(興奮・刺激・食欲の抑制など)を引き起こすとされ、依存性があり、また、発癌性が認められている)のことかとも思って調べて見たところ、ビンロウの中文ウィキに「倒吊子檳榔」の項があり、そこや他の中文記事を見ると、どうも檳榔子の中に下から上方へ成る実があり、その成分は他の実に比して激烈で、これを使用すると、死に至ることさえあるというようなことが書かれているようであり(私は中国語は解せない)、この「倒」は「停」と似ていて「子」も「榔」もあるから、これか? とも思ったのだが、そうすると「泣き女」との対表現が如何にも悪い。だったら、梅崎春生なら、「パパイヤや檳榔(びんろう)、その停子榔こと、或いは泣き女などの話をした」辺りの表現をするであろうと考えた。お手上げ。識者の御教授を乞う。但し、「停子榔」の文字列は日本語でも中国語でも引っ掛からない。「泣き女」葬儀や葬列の際に雇われて号泣する女性。本邦にも旧習としてあったが、中国・朝鮮半島・台湾を始めとして、ヨーロッパや中東など汎世界に見られる伝統的習俗であり、かつては普通に職業としても存在した。]

 そのうちに、もう何杯飲んだか判らなくなって、肴もあらかた食い尽した。全身が酔いのかたまりになるような気になった。馬方もかえってしまった。奥で寝ていた女房が起きて来て、土間に降りて暖簾を外し始めた。

「さて帰るかな」

 勘定をきくと、八円いくらになっていた。私は金は無いのだから、黙って天願氏の顔を見ていた。天願氏は黙然(もくねん)と金入れを出して、さかさに振った。しやがれた声で言った。

「親爺さん。一円ばかり足りない。上衣置いて行くから、明日まで待っと呉れ」

 器物を洗っていた親爺の顔に、ちょっと険しい表情が現われて、消えた。そして笑い顔になった。

「いや、そうおっしやるなら、明日でも良ござんす。上衣はいらないよ」

 私達は礼を言って、露地に出た。露地をあるくとき、私はにやにやした笑いが出てとまらなかった。理由はなく、可笑(おか)しくて可笑しくてたまらなかった。月が、馬鹿みたいに明るく照っていた。とうとう二人とも、一文なしになってしまった。天願氏も笑い出した。

「さて、これからどうするかな。今何時頃だろう」

 もう九時を廻っているらしかった。

「もう帰れないな」

「汽車賃もなし」

「宿屋に泊ろうか」

「金無しで?」と私は聞き返した。

 しかし、そうする外に方法はなかった。それでも私は苦境に立ったという気は少しもなかった。酔いのせいであったかも知れない。

 不動の裏手の、旧街道らしい道のそばにある成田屋という傾いた古い旅館に入って行った。女中も誰もいない。内儀らしい老女が出て来て、何だかだだっ広い部屋に通された。

 一本だけつけて貰って、二人で盃をゆるゆるとあけた。

「何だか変な具合になったな」

「新緑を見に来る筈だったんだが」

 ああそうだ、新緑を見に来たんだと、始めて気が付いた。しかし、上野を発ったときから、どんな新緑を見たか思い出そうとしても、頭に浮んで来るのは、灰色の家々や影のような人間の姿ばかりであった。

 此処の宿代は、今考えても仕方がないから、明朝起きて考えることにして、飯を食べた。酔いは依然として続いていた。

 部屋の硝子戸の外は不動の大樹がそびえ、月の光がぼんやりさしていた。私達は手拭いを借りて、階下の風呂場に行った。

 薄暗いじめじめした風呂で裸になり、代る代るすみっこの五右衛門風呂に入った。熱い湯に、腹から胸へと浸って行くとき、心臓がどきどき鳴って、咽喉(のど)まで何かかたまりが出て来るような気がした。手拭いで顔を拭きながら、にわかに荒涼たる想念が胸にのぼった。勿論、今日のことも、私にとってはごくささやかな放蕩にすぎぬ。しかし、此のような無定見な放蕩をくりかえすことによって、私の青春はやがて終って行くのであろう。

 流し場にしやがんでいる天願氏に、私は声をかけた。

「天願さん。ぼくが歌うから、あなた踊りなさい」

「よし」と天願氏は立ち上った。

 流し場の真中にきっと不動の如く立って、両手をそろえて体の両側につけた。肉の落ちた肩や胸をそらして、私の顔を見て、ハイツと言った。私はゆるく手を叩きながら歌い出した。天願氏の、故郷のうたであった。

 

  旅や浜宿い 草の葉ど枕

  寝(に)てん忘(わし)りらぬ  我家(わうや)のう側(すは)

  千鳥(ちじ)や浜うて  ちゅいちゅいな

 

 天願氏の肉体が、あやつり人形のように薄晴い電燈の下で、縦横無尽に動いた。ときどき歌の合のてに、元気よく掛声をかけた。出鱈目(でたらめ)の、その踊りを見ているうちに、私は変に悲しくなって来た。ふと先刻の汽車の中のことを思い出した。あのとき天願氏は、あの家の中に、自分の子供の姿をありありと見たのではないか。あのときは何も天願氏は言わなかったが、きっと子供の姿を見たに相違ない。私はそう思うといよいよ悲しくなり、顎を縁にのせたまま手拭いで風呂の湯をぴちやぴちやたたきながら、次第に歌の調子を早めて行った。


[やぶちゃん注:最後に天願氏が歌うのは、八重山民謡「浜千鳥」の一番である。たるー氏のブログ「たるーの島唄まじめな研究」の「浜千鳥」によれば、「浜千鳥」は「はまちじゅやー」と発音し、たる一氏の表記歌詞と沖繩方言音写では(歌詞には多様なヴァージョンがある旨の記載がある)、

 

旅(たび)や浜宿(はまやどぅ)い 草(くさ)ぬ葉(ふぁー)ぬ枕(まくら)

寝(に)てぃん忘(わし)ららん  我親(わや)ぬ御側(うすは)

千鳥(ちじゅやー)や浜(はま)うぅてぃ  ちゅいちゅいなー

 

である。私は梅崎春生はかなり正確に音写していると思う。リンク先では全曲と流派の異なる別バージョン、本民謡のルーツまで解説されているので、必見。]

2019/06/08

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今見たら、標題の次第。しかし、記念テクストの準備はない(ここのところ、柳田國男の「山島民譚集」の電子化注に神経症的になっているため)。明日、とりかかる。では――良き夢を――

大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)

 

䱱魚  名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎

 ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚

 ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記

 ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類記ス

――――――――――――――――――――――

鯢魚 溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニ

 テヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒

 樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三

 尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性

 ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京

 都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑

 メハ膈噎ヲ治ス

○やぶちゃんの書き下し文

䱱魚(にんぎよ)  「人魚」〔と〕名〔づく〕。此の類、二種あり。江湖の中に生じ、形、鮎(なまづ)のごとく、腹下につばさのごとくにして、足に似たるもの、あり。是れ、「䱱魚」なり。「人魚」とも云ふ。其の聲、小兒のごとし。又、一種、「鯢魚」あり。下に記す。右、「本草綱目」の說なり。又、海中に人魚あり。海魚の類に記す。

――――――――――――――――――――――

鯢魚(さんせううを) 溪澗の中に生ず。四足あり。水中のみにあらず、陸地にて、よく歩〔き〕動く。形も聲も「䱱魚」と同じ。但し、能く樹に上〔ぼ〕る。山椒〔の〕樹皮を食ふ。国俗、これを「山椒魚」と云ふ。四足あり。大いさ、二、三尺あり。又、小なるは、五、六寸あり。其の色、「コチ」に似たり。其の性〔(しやう)〕、よく膈噎〔(かくいつ)〕を治すと云ふ。日本、處々〔の〕山中の谷川にあり。京都魚肆〔(うをみせ)〕の小池にも時々生魚〔(せいぎよ)〕あり。小なるを生〔(なま)〕にて呑めば、膈噎を治す。

[やぶちゃん注:分離すると、注が重なるだけなので、特異的に二項を連続して示した。そのため、原典にはない罫線を間に挟んである種々の問題点(「鳴く」とか「樹に上ぼる」とか)はあるが、所謂、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ科 Hynobiidae の多くのサンショウウオ類(本邦に棲息する種群はウィキの「サンショウウオ」の「おもな日本産種」を参照されたいが、そこだけでも十九種が挙げられており、しかも、この内で日本固有種でないのはサンショウウオ科キタサンショウウオ属キタサンショウウオ Salamandrella keyserlingii 一種のみとされている)、及び、オオサンショウウオ科 Cryptobranchidae のオオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus(本種は日本固有種(但し、現在の分布は南西部(岐阜県以西の本州・四国・九州の一部)。なお、別に同属の中国固有種チュウゴクオオサンショウウオ Andrias davidianus がいるので「本草綱目」の内の一種は間違いなくそれを指す)孰れも、特に後者の「鯢魚(さんせううを)」はこれで完全にカバー出来る。

「䱱魚(にんぎよ)」和訓は単に四足を持つことから。実はこの小児のような声で鳴くという明の李時珍の「本草綱目」の記載は、実は先行する幻想地誌「山海経」に書かれた奇魚の属性をずらしてしまったものと思われる。同書の「北山経」に「又、東北二百里、曰龍侯之山、無草木、多金玉。決決之水出焉、而東流注于河。其中多人魚、其狀如䱱、四足、其音如嬰兒、食之無癡疾」とあるのだが、西晋から東晋の文学者で卜者であった郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)が注して、「䱱魚。䱱、見中山經。或曰、人魚卽鯢也、似鮎而四足、聲如小兒嗁[やぶちゃん注:音「テイ」。]。今亦呼鮎䱱爲。音蹏[やぶちゃん注:音「テイ」。]」とあるのを無批判にずらしてしまったものなのである。

「鮎(なまづ)」御存じのことと思うが、この漢字をアユ(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis)に当てるのは日本だけ。禅宗の公案的図画「瓢鮎図(ひょうねんず)」で知られる通り、中国ではナマズ(ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus)を指す(中国ではアユは「香魚」)。

「腹下につばさのごとくにして、足に似たるもの、あり」一見、ものものしい言い方なのは、スタートの基本を「魚」と措定してしまった結果、カエルなどと同様の生物としての括りが分類の中で不可能になってしまったからであろうと思われる。その証拠に、中国の本草書では同様の四足と蹼(みずかき)を有する大型のヒキガエル等を、わざわざこのような翼のような足に似たものなどとは言っていない(「本草綱目」ではカエルの類いは広義の「虫類」の「湿生類」に分類している)。

「其の聲、小兒のごとし」サンショウウオ類やオオサンショウウオは一般的に鳴かないと私は思う。「日本サンショウウオセンター」の記事を見ても「鳴かない」とあり(但し、ごく稀に一瞬、おし殺したような声(体内腔を用いた音か)を発することがあり、『ちょっとハスキーな声』と半分おふざけ気味で記してはある)、通常のサンショウウオ類が鳴いたとする記事はざっとみたところではない。ところが一件、サンショウウオ科サンショウウオ属ベッコウサンショウウオ Hynobius ikioi(阿蘇山系以南・霧島山系以北の鹿児島県北部・熊本県・宮崎県)が鳴くという記事を見つけたのだ。個人ブログ「古石交流館みどりの里」の「サンショウウオ(ベッコウ)が鳴く」である。記事の山名と方言と高度から見て、熊本県葦北郡芦北町古石の「大関山」(頂上で標高九百二メートル)と推定される。

   《引用開始》

『静かに』

勇治さんの制止に4人は耳を澄ました。

『ガー、ゲー、ゴー』

大関山の山頂近くの水源。標高約850m。

『これが、ベッコウサンショウウオの鳴き声です』

落ち葉が濡れてコケがはえてどこかでポタッ、、、ポタッと水滴の落ちる程度のかすかな水源となっている大きな岩の狭い隙間から鳴き声が聞こえる。

カエルでもない、カラスでもない、摩訶不思議な声である。

今回はベッコウサンショウウオの孵化を見にきた。

オタマジャクシが卵から孵化するのとほとんど同じように孵化し、すぐに岩の中に帰っていくらしく、ひょっとしたらその現場に行き会うかもしれなかった。

『どこにも無かバイ、オランバイ』

とあきらめてそろそろ帰ろうかと思い始めたときに勇治さんの制止が入った。

『デジカメのムービーモードで音をとることが出来たはずバイ』

慣れないムービーモードにしてスイッチを押し続けた。

写したつもりだがどうもおかしい。

再生してみるがやはりおかしい。

音の記憶として残すとするか。

あっちの岩とこっちの岩で鳴きあっている。

『ガー、ゲー、ゴー』

ひょっとすると恋の季節。今後産卵するのかも知れない。ラブコールしているのかもしれない。

『ゲー、ゴー、ゲー、ゲー、ゲー』

私も似てない鳴き声を出してみるとさらに応えてくる。

サンショウウオを見るよりもうんと珍しい鳴き声を聞くという体験をしたのかもしれない。

道無き林を抜けて山道を少し登ると大関山頂だ。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

……繁殖期に鳴くサンショウウオがいたとしても、これ、おかしくない気が、そこはかとなくしてきたのである。識者の御教授を乞うものであるが、ここに登場する方々は「確かに鳴く」と言っているのである。

「海魚の類」このずっと後に出る。

「鯢魚(さんせううを)」先に示した中国固有種のチュウゴクオオサンショウウオも現代中国語で「中國大鯢」、俗名で「中國娃娃魚」「娃娃魚」と呼ぶ。但し、ここで益軒は「大いさ、二、三尺あり。又、小なるは、五、六寸あり」と言っているようにオオサンショウウオを含む広義のサンショウウオ類を言っているのである。

「水中のみにあらず、陸地にて、よく歩〔き〕動く」ウィキの「サンショウウオ」によれば、『オオサンショウウオは繁殖期に川を遡上するとき以外はほとんど水中から出ることはないが、他の種類は陸上生活を送ることが多く、森林の落ち葉の下やモグラやネズミが掘った穴の中や、川近くの石の下などに生息する。繁殖期以外は』、『あまり人の目にはふれることはない』とある。

「能く樹に上〔ぼ〕る」これはあり得ないと思う。結局、体に山椒に似た香りがある種がいることから「山椒魚」と呼ばれることから、彼らが「山椒の樹皮を食ふ」と誤認されたに過ぎないと考える。

「コチ」「鯒」で、ここでは海産の条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属 Platycephalus の魚類、或いは、それと同じく体が著しく扁平で、頭が大きく、骨板に包まれ、多くの棘状突起や隆起線を持つ形態の似た魚類である。通常は、体を砂中に潜めて目だけを出し、周りの色彩に体色を似せるものであり、サンショウウオ類の形状と似てはいる。

「其の性〔(しやう)〕」ここでは、本邦に於ける漢方医学上の薬理効果を限定的に言っている。

「膈噎〔(かくいつ)〕」「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。しかし、ここは進行したそれではあり得ないから、広義の咽喉や気道附近での咽喉もとの「痞(つか)え」を広汎に指す謂いでよい。]

漁村の朝 すゞしろのや(伊良子清白)

 

漁村の朝

 

月きえかゝる山畠の

小道の茨露滿ちて

雉子なきたつ朝凪を

まだめざめずや春の海

 

海の香高く海松(みる)匍ひて

龍をまつれる岩窟の

上にかけたるみ注連繩

紫うすき雲迷ふ

 

浪間に立てし石鳥居

御輦(ぎよれん)のひゞきたえぬれど

古びし額にかしこくも

勅筆の跡拜まるゝ

 

大巖のあたり眞盛の

白き梅咲く寺の門

島より島の靑波に

細き橋こそかゝりたれ

 

朱塗の塔の欄干に

翅休むる海の鳥

十二神將ゑがきたる

扉ははげて殘りけり

 

僧をおとなふ蜑の兒は

佛の前にぬかづきて

盡きせぬ今日の海幸を

いのりうらなふ御鬮箱

 

背の山のいたゞきに

日和のさまを見に行きし

村の翁は皈り來て

雲の景色をかたるなり

 

磯にうけたる魚籠は

蘆の若葉になぶられて

春風ぬるき岩角を

潮干くあとや海の草

 

一葦の水を隔てたる

出島のあまや飯炊く

半ば隱れし苫舟の

煙立つなり竹の奧

 

長き蘿のはひのぼる

きり岸うねる松一木

昔は章魚のかゝりしと

津浪を語る旅路かな

 

法螺の貝吹く杉林

魚見の小屋の灯火は

今しばしにてきゆるらん

赤き旗こそ見えそむれ

 

菜たねにうづむ一村の

家疎らなる藁屋ぶき

霞の庭を漕ぎいづる

蜑の小舟の唄遠し

 

磯の松原島かけに

きたるうなゐに道とへば

渡を越えてかの岸の

柳の境行けよかし

 

小さき入江に落ちかゝる

瀧の白絲水涸れて

山聳えたる一廓

日出もこゝはおそからむ

 

渡まつ間の戲れに

汀に立ちて淺海の

水底近く沈みたる

白き小石を數へけり

 

乘合舟の可笑しさを

ひとつに包む朝霞

纜解きて棹さすは

今日も缺唇(いぐち)の渡守

 

日は染めかゝる離れ雲

茜さしたる海上(かいじやう)に

あれ見よ浮ぶ蛤の

吐き出したる王城の

えん浮檀金の花櫓

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年四月三十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「海松(みる)」緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。私の「大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)」を参照されたい。

「御輦(ぎよれん)」天皇などの乗る輿(こし)の一つ。行幸の際、方形の屋形を載せた轅(ながえ)を駕輿丁(かよちょう)が担(かつ)いだ。屋根に金銅の鳳凰を置くものを「鳳 輦」、宝珠形を置くものを「葱花(そうか)輦」と呼ぶ。

「大巖のあたり眞盛の」「大巖」は音数律から二字で「いはほ」と訓じているものと思う。

「翅休むる海の鳥」同前で「翅」は「つばさ」と読んでいよう。

「御鬮箱」「みくじばこ」。籤占(くじうら)である。

「背の山のいたゞきに」同じく「背」は「うしろ」と訓じておく。

「磯にうけたる魚籠は」本来なら「魚籠」は「びく」と読みたいが、ここは音数律から「うをかご」或いは「いをかご」であろう。「うをびく」は屋上屋でよくない。

「出島のあまや飯炊く」「飯炊く」はやはり音数律から「めしかしく」と読める。

「長き蘿のはひのぼる」「蘿」は「かづら」と訓じていよう。

「津浪を語る旅路かな」は文字通りの「津波」(颱風の大海嘯や地震のそれ)とすれば、先の「村の翁」と主人公は同道して海食崖の磯端をそぞろ歩きしているものか。老人は津波でひどくやられる前のことを追懐して、「ここは昔は章魚のよう掛かったところじゃった」と呟いたのであろう。

「赤き旗こそ見えそむれ」私はこの部分、やや腑に落ちない。魚群の回遊を見極めるための「魚見の小屋」であるが、そこ「の灯火は」「今しばしにてきゆるらん」とあるなら、曙であることを指すものか。であったら、この「赤旗」は魚群が見えたことの合図であるから、既に漁師たちは出たということか? しかし、真っ暗闇の暁の時間では、魚見は普通は出来ない。さても、では、これが曙であるのなら、魚見のためにこそ、小屋の内の火は消しておかねば、よく見えないはずである。そういう意味で私は不審なのである。この部分を実景として問題ないとされるのであれば、是非とも御教授を乞うものである。

「島かけ」清音はママ。

「渡を越えてかの岸の」この「渡」(わたし)は海浜の浅瀬或いは岩礁伝いのことか。

「山聳えたる一廓」音数律から「一廓」「ひとくるわ」であろうか。

「渡まつ間の戲れに」この「渡」(わたし)は後の景(「乘合舟」に乗っている)から、渡し舟のことであろう。但し、この詩篇のロケーションは私は島だとは思わない。伊良子清白が若き日より馴染んだ志摩半島などの漁村には、海からでないと容易には通行出来ないところが、有意に存在し、ここもそうした場所のような気がしてならないからである。そうさ、以前に私が注で述べた、昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」の大戸島のロケ地である石鏡(いじか)が、撮影当時でさえ、まさにそうした陸の孤島的場所だったからである。

「纜」「ともづな」。

「缺唇(いぐち)」口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)の昔の異称。ウィキの「口唇口蓋裂」から引く。『先天性異常の一つであり、軟口蓋あるいは硬口蓋またはその両方が閉鎖しない状態の口蓋裂と、口唇の一部に裂け目が現れる状態の口唇裂(唇裂)の総称。症状によって口唇裂、兎唇(上唇裂)、口蓋裂などと呼ぶ』。『口唇口蓋裂の有病率は』一千『人中』一人から四人『程度あり、現在は治療法も確立し』、殆んどが『外科手術により治療可能で、治療痕も目立たなくなっている』。『古くは外科手術も発展して』おらず、『成人しても裂け目が残っているケースが多く、「ミツクチ」「兎口(とくち)」と呼ばれたが、外科手術の発展』によって、『現代では整形手術が容易となり、その』結果、『裂け目が残るケースが殆ど無くなり、「ミツクチ」「兎口」は差別用語として扱われる』よう『になっている』。

「えん浮檀金」「えんぶだごん」。仏教の経典中にしばしば見られる想像上の金の名称のサンスクリット語の音写。「だごん」の部分は「陀金」「他金」などとも書かれる。。その色は紫を帯びた赤黄色で、金の中でも最も優れたものとされる。経典にみられる「香酔山(こうすいせん)」の南で「雪山」の北にある、「無熱池」の畔(ほとり)の「閻浮樹林」を流れる川から採取されるとされることから、この名がある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「花櫓」「はなやぐら」。美麗な高楼。高殿(たかどの)。文字通りの蜃気楼である。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(32) 「龍馬去來」(1)

 

《原文》

龍馬去來   馬蹄石ノ傳說ニハ更ニ今一ツノ根原アリ。カノ藤原廣嗣ガ愛馬ノ如キハ、單ニ乘手ガ一代ノ英傑ナリシノミニ非ズ、自分モ亦五百年ニ一タビ出現スル程ノ名馬ナリキ。天平十二年十月ノ頃ト買上ノ年月マデモ分明ナリ。【龍馬ノ嘶】廣嗣朝臣出デテ馬市ヲ見ルニ、墎(ウツロ)ノ中ニ在リテ一度ニ七聲ヅツ嘶ク馬アリ。高キ價ヲ拂ヒテ之ヲ買取リ飼育シテ見ルニ、紛レモ無キ龍ノ駒ナリキ。彼ハ此馬ニ乘リテ每日午後ヨリ一千五百里ノ路ヲ大和ニ往復シテ朝廷ノ公事ヲ勤メ、午前ハ太宰府ノ事務ヲ視タリト云フ〔古今著聞集二十〕。此話ハ惡クスルト彼ガ後任者大伴旅人ノ歌ニ

  龍(タツ)ノ馬モ今ハ得テシカ靑丹(アヲニ)ヨシ奈良ノ都ニ往キテ來ン爲

トアルヲ誤傳シタルモノナランモ〔萬葉集五〕、兎ニ角ニ九州ノ邊土ニハ斯ル神物ノ出デタリト云フ噂折々ハアリシナルべシ。即チ昔ノ人ノ英雄崇拜心ハ時トシテ馬ニモ及ビ、馬ノ中ニハ人間賢愚ノ差ヨリモ更ニ幾段カ烈シキ駿駑ノ相違アリト信ゼラレシナリ。【理想ノ名馬】平家琵琶流行ノ武家時代トナリテモ、此思想ハ常ニ存在シ、而シテ其名馬ノ名ハイツモ池月又ハ磨墨ニテアリキ。歷代ノ武士ガ名馬ニ憧憬セシ物語ハ無數ナリ。其極終ニハ怖ルべキ龍ノ駒ヲモ怖レザルニ至レリ。石州鹿足郡吉賀(ヨシガ[やぶちゃん注:ママ。])ノ谷ニハ古來馬ヲ產セズ、而モ一頭ノ駿馬相次ギテ此地ヨリ出デタリ。其二ツハ亦池月ト磨墨トニシテ次ニ徐ロニ之ヲ述べント欲ス。【名馬樋口】之ニ先ダチテ出デタルヲ樋口驪(ヒグチグロ)ト云フ。生レタル時長八寸ニ餘リ山野ヲ馳セ廻リテ口ヨリ常ニ火ヲ吐ケリ。困リテ火口トハ名ヅケシニテ、鹿足郡藏木村大字樋口ノ地名ハ寧ロ之ニ由ツテ起ルト云ヘリ。火口荒馬ナレバ人敢テ近ヅカズ。獨リ佐伯重行ナル者アリ、仙術ニヨリテ之ヲ御スルコトヲ得、之ニ乘リテ一日ニ石藝防ノ三州ヲ奔馳ス。朝廷聞シメシテ龍馬ノ獻上ヲ命ジタマヘドモ隨ハズ、一子小五郞ヲ人質トシテ終ニ之ヲ刑戮ス。重行遙カニ之ヲ察知シ、今ハ賴無シトテ此馬ニ乘リテ異國ニ立去ラントセシガ、馬鞭ノ影ニ驚キテ大字田野原河津ノ梅林ニ馳入リ、葛藟ニ蹶キテ倒レ死ス。【馬塚】今モ田ノ中ニ馬塚アリテ附近ニ龍馬ノ社ヲ祀ル。神體ハ馬ノ木像ナリ。此村永ク梅及ビ葛藟ヲ生ゼザルモ亦此因緣ノ爲ナリト云ヘリ〔吉賀記中〕。龍馬ヲ神ニ齋ヒシ近世ノ例ハ、阪本龍馬ノ鄕里ナル土佐ニモアリ。【池】又長岡郡十市村野村氏ノ系圖奧書ニ依レバ、同郡三里村大字池ノ百姓新兵衞、槇山生立ノ牝馬子ヲ孕ミタリシガ、腹ノ中ニテ既ニ嘶ク聲聞エタリ。永祿元年戊午ノ歲ノニ月初午ニ三足ノ駒生ル。【鬼鹿毛】鬼鹿毛ナルべシトノコトニテ豫テ打殺スべキ用意ヲシテアリシガ、生レ出ヅルヤ否ヤ馳セテ幸助ト云フ者ノ屋敷ニ飛ビ込ミタルヲ、大勢取卷キテ漸クノコトニテ之ヲ殺シ屍ヲ濱ニ棄ツ。【馬蘇生】然ルニ不思議ナル事ニハ此駒忽チ蘇生シテ厩ニ立返リ、平氣ニテ母馬ノ乳ヲ飮ミ、厩ヲ七遍廻リテ後終ニ南海ノ浪ニ走リ入リヌ。【祝神】野村氏ニテハ其龍馬ナルコトヲ知リテ家ノ祝神トシテ之ヲ祭リタリト云フ。近キ頃香美郡室丘ニアリタル龍馬ノ祠モ、多分ハ之ニ似タル異常ノ幼馬ナラント云フコトナリ〔土佐國群書類從九所錄龍馬祠記附錄〕。藤原廣嗣ノ愛馬ガ一度ニ七聲嘶キ、右ノ池村ノ龍馬ガ厩ヲ七度廻リタリト云フコトハ、偶合ニハ非ザルべシト思ハルヽ仔細アリ。前ニモ說キタル外南部ノ七鞍ノ怪馬ト同ジク、【妙見ト馬】北辰化生ノ古キ信仰ニ基クモノナルヤ略疑ナキナリ。美濃惠那山(エナサン)ノ頂上ニ馬ノ神アリ。九月九日ノ祭ニハ近鄕ヨリ多クノ凡馬ヲ牽キ登ル。社ハ池ノ側ニ七社列立ス。其池ノ岸ナル笹ノ葉ヲ取來リテ馬ニ飼ヘバ能ク病ヲ治スルコトヲ得ト信ゼラレタリ〔一宵話〕。此モ同ジ信仰ニ起因スルモノナルべシ。

 

《訓読》

龍馬(りゆうめ)去來   馬蹄石の傳說には、更に今一つの根原あり。かの藤原廣嗣が愛馬のごときは、單に乘手が一代の英傑なりしのみに非ず、自分も亦、五百年に一たび出現する程の名馬なりき。天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]十月の頃と買ひ上げの年月までも分明なり。【龍馬の嘶(いななき)】廣嗣朝臣、出でて、馬市を見るに、墎(うつろ)の中に在りて、一度に七聲づつ嘶く馬あり。高き價を拂ひて、之れを買ひ取り、飼育して見るに、紛れも無き龍の駒なりき。彼は此の馬に乘りて、每日、午後より一千五百里の路を、大和に往復して朝廷の公事を勤め、午前は太宰府の事務を視たりと云ふ〔「古今著聞集」二十〕。此の話は、惡くすると、彼が後任者大伴旅人の歌に[やぶちゃん注:とんでもないひどい誤り。後注参照

  龍(たつ)の馬も

     今は得てしか

        靑丹(あをに)よし

      奈良の都に

       往きて來(こ)ん爲(ため)

とあるを誤傳したるものならんも〔「萬葉集」五〕、兎に角に、九州の邊土には斯かる神物の出でたりと云ふ噂、折り折りは、ありしなるべし。即ち、昔の人の英雄崇拜心は、時として、馬にも及び、馬の中には、人間賢愚の差よりも更に幾段か烈しき駿駑の相違あり、と信ぜられしなり。【理想の名馬】平家琵琶流行の武家時代となりても、此の思想は常に存在し、而して、其の名馬の名は、いつも「池月」又は「磨墨」にてありき。歷代の武士が名馬に憧憬せし物語は無數なり。其の極(きよく)、終(つひ)には怖るべき龍の駒をも怖れざるに至れり。石州鹿足(かのあし)郡吉賀(よしが)の谷には、古來、馬を產せず、而も、一頭の駿馬、相ひ次ぎて此の地より出でたり。其の二つは、亦、「池月」と「磨墨」とにして、次に徐(おもむ)ろに之れを述べんと欲す。【名馬樋口】之れに先だちて出でたるを、「樋口驪(ひぐちぐろ)」と云ふ。生まれたる時、長(たけ)八寸(やき)に餘り[やぶちゃん注:蹄底から前脚肩位置までが一メートル四十五センチメートル超え。新生馬でこれはあり得ない。]、山野を馳せ廻りて、口より常に火を吐けり。困りて「火口(ひぐち)」とは名づけしにて、鹿足郡藏木村大字樋口の地名は、寧ろ、之れに由つて起こると云へり。火口、荒馬なれば、人、敢へて近づかず。獨り、佐伯重行なる者あり、仙術によりて、之れを御(ぎよ)することを得、之れに乘りて、一日に石・藝・防[やぶちゃん注:石見・安芸・周防。]の三州を奔馳(ほんち)す。朝廷、聞しめして、龍馬の獻上を命じたまへども、隨はず、一子小五郞を人質として終に之れを刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:死刑に処すること。]す。重行、遙かに之れを察知し、「今は賴み無し」とて、此の馬に乘りて異國に立ち去らんとせしが、馬、鞭の影に驚きて、大字田野原河津の梅林に馳せ入り、葛藟(かつるい)[やぶちゃん注:「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。]に蹶(つまづ)きて、倒れ、死す。【馬塚】今も田の中に馬塚ありて、附近に龍馬の社を祀る。神體は馬の木像なり。此の村、永く梅及び葛藟を生ぜざるも亦、此の因緣の爲めなりと云へり〔「吉賀記」中〕。龍馬を神に齋(いは)ひし近世の例は、阪本龍馬の鄕里なる土佐にもあり。【池】又、長岡郡十市村野村氏の系圖奧書に依れば、同郡三里村大字池の百姓新兵衞、槇山(まきやま)生立(おひたち)の牝馬、子を孕みたりしが、腹の中にて既に、嘶く聲、聞えたり。永祿元年戊午(つちのえうま)[やぶちゃん注:おかしい。元禄元年(一六八八年)は「戊辰(つちのえたつ)」である。干支を誤る資料は致命的に評価されない。「辰」で「龍」なんだから、わざわざ「午」にして墓穴を掘る必要なんかさらさらないのに「馬」鹿やなぁ。]の歲の二月初午に、三足(みつあし)の駒、生まる。【鬼鹿毛(おにかげ)】「『鬼鹿毛』なるべし」とのことにて、豫(かね)て打ち殺すべき用意をしてありしが、生れ出づるや否や、馳せて幸助と云ふ者の屋敷に飛び込みたるを、大勢、取り卷きて、漸くのことにて、之れを殺し、屍(しかばね)を濱に棄つ。【馬蘇生】然るに、不思議なる事には、此の駒、忽ち、蘇生して厩に立ち返り、平氣にて母馬の乳を飮み、厩を七遍廻りて後、終に南海の浪に走り入りぬ。【祝神】野村氏にては、其の龍馬なることを知りて、家の祝神(いはひがみ)として之れを祭りたりと云ふ。近き頃、香美郡室丘にありたる龍馬の祠も、多分は之れに似たる異常の幼馬ならんと云ふことなり〔「土佐國群書類從」九所錄「龍馬祠記」附錄〕。藤原廣嗣の愛馬が一度に七聲嘶き、右の池村の龍馬が厩を七度廻りたりと云ふことは、偶合には非ざるべしと思はるゝ仔細あり。前にも說きたる外南部(そとなんぶ)の七鞍の怪馬と同じく、【妙見と馬】北辰化生の古き信仰に基づくものなるや、略(ほぼ)疑ひなきなり。美濃惠那山(えなさん)の頂上に馬の神あり。九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る。社は池の側に七社、列立(れつりつ)す。其の池の岸なる笹の葉を取り來たりて馬に飼へば、能く病ひを治することを得と信ぜられたり〔「一宵話(ひとよばなし)」〕。此れも同じ信仰に起因するものなるべし。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は今まで本文に多数出現しているのであるが、初回は「駒ケ嶽」の最初で、その後、ここまでで十三回ほど出現している。今まで電子化しながら、私自身、『この読みはどうか?』と内心、ひどく気になっていたのだが、ここでそれに決着をつけることとした。根拠は小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項で、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、一貫して柳田國男はルビを振っていないから(「ちくま文庫」も全くルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりである。「駒ケ嶽」の最初にもその注を追加したので、読者の方々は私は「りゆうめ(りゅうめ)」と統一して読んでいるものと認識されたい。これは私自身のここまでの神経症的な内心の気持ちの悪さを払底するためのものであって、絶対的な柳田國男の著作の書誌学上の根拠があってのものではないから、それ以外で読みたい方は、どうぞ。但し、それで私に論議を吹っかけてこられても私は一切応じないので、悪しからず。

「墎(うつろ)」当初は柳田國男の「うつろ」のルビからも、馬市の「栅で囲った囲み」の意と読んだが、「墎」は牧場の柵ようなものではなく、城などの障壁を指すので不審に思っていたところ、後に示す「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」(鎌倉中期の九条道家の近習伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。全二十巻七百二十六話。建長六(一二五四)年十月頃の原型の完成後、後年に増補がなされている)の所持する原文を見ると(後掲する)、「郭中に一聲に續けていばゆる馬のこゑ聞えけるを尋ねて」となっており、新潮日本古典集成版では、これに添え訳で『大宰府の中で』とあって、こちらの方が遙かに腑に落ちた。則ち、柳田國男の文章に從うなら、馬市に向かったが、向かっている時点で、何と、大宰府内全体に響き渡るほどの嘶きをその馬がした、のである。物語はこちらであってこそ異類奇談たるものとなる。

「一千五百里」「大宝律令」で定められた当時の「一里」は当時の「一町」=「三百歩」と規定されている。当時の距離単位は後代のそれより有意に短い設定であるため、当時の「一里」は現行のそれとは大きく異なり、僅か約五百三十三・五メートルであったと推定されている。されば「一千五百里」は約八百キロメートルとなる。馬鹿馬鹿しいとは思ったが試みに単純実測してみたところ、大宰府から平城京までは最短でも約六百キロメートル弱は有にあるから、ドンブリ勘定では問題のない事実距離と言える。

『「古今著聞集」二十』「卷第二十 魚蟲禽獸」の事実上の巻頭(前に「禽獸魚蟲も皆思ふ所有るに似たる事」として「禽獸魚蟲、其彙(ゐ)、且千(しやせん)、皆、言ふ能はずと雖も、各々思ふ所有るに似たる者なり」(鳥・獣・魚・蟲などのありとある生き物は、その種類(「彙」は「類い」の意)、これ、甚だ多い(「且」「千」ともに「多いこと」を示す)が、彼らは言葉を発することが出来ないとはいえどもそれぞれに人と同じく思い感じるところがあるように見える存在である)とあるが、これは「序」である)で六七三番目の「右近少將廣繼、宰府に下り、時の間に千五百里の道を通ふ龍馬を得たる事」である。新潮日本古典集成版(底本は九条家本系古写本(広島大学附属図書館蔵))を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

 右近少將廣繼[やぶちゃん注:「廣嗣」が正しい。前回既注。]朝臣、太宰少貳(だざいのせうに)になりて[やぶちゃん注:前回、注した通り、左遷。]、天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]、宰府にくだりけるに、十月の比(ころ)、郭中に一聲につづけて七聲いばゆる馬のこゑきこえけるを尋ねて、高直(かうぢき)に買ひとりて、いたはりかひければ、龍馬(りゆうめ)にてぞありける。それに乘りて、午の刻よりかみには都府の政(まつりごと)にしたがひ、午の時より後には朝家(てうけ)の公事(くじ)をぞ、つとめける。一千五百里の道を時の間(ま)に通ひける、直人(ただびと)にはあらず。つひかの少將は神となりて、鏡の尊廟(そんべう)[やぶちゃん注:現在の佐賀県唐津市鏡にある鏡神社(グーグル・マップ・データ・以下同じ)。]とぞ申すなる。むかしの館の跡も、かの社のほどにてなん侍るとぞ[やぶちゃん注:「今昔物語集」では広嗣の家は肥前国松浦郡にあったと記す。]。

   *

「後任者」トンデモ級の誤り。藤原広嗣は「太宰少弐」(大宰府の次官で大宰大弐(最高次官。親王が帥に任ぜられて不在であるのに権帥もいない場合は代理で府務を統率した)の下に位した)で、旅人は「太宰帥」であるから、これは狭義の「後任者」ではない。しかも誤りが致命的なのは、広嗣左遷されて大宰府に行ったのは天平九(七三七)年の末であるのに対し、旅人が大宰帥として現地に赴いたのは神亀四 (七二七) 年頃であるから、旅人の方が先に大宰府で勤務しているという二重の間違いを柳田國男は犯しているからである。

「大伴旅人」(天智四(六六五)年~天平三(七三一)年)は奈良時代の政治家・歌人で、大納言安麻呂の長男。かの「万葉集」編纂者と目される家持の父。養老二(七一八)年に中納言、同四年に征隼人持節大将軍(せいはやとじせつたいしょうぐん)に任ぜられ、隼人(古代の南九州を拠点としていた一部族。主として大隅・薩摩地方を居住していた。五世紀中頃以降、概ね大和朝廷に服属の意を示した。勇猛敏捷であったため、徴用されて宮門の警護・行幸の先駆けなどを勤めた。大宝令では「隼人司」が置かれ、六年交代で朝廷に勤番し、勤番後は畿内・近江・播磨などへの土着が許された。しかし、八世紀の初め頃、彼らは反乱を起こし、たびたび鎮圧軍が派遣された。後、大隅・薩摩の国司に大宰府官人が任命されるようになってから、次第に完全に律令支配体制に組み込まれてしまった)の反乱鎮圧に功があった。神亀四(七二七)年頃、大宰帥となって九州に下ったが、天平二(七三〇)年には大納言に昇進して帰京した。但し、翌年に没した。「万葉集」に長歌一首・短歌五十三首(これに巻第五の無署名歌を加える説もある)・漢文の序・書簡が、「懐風藻」に詩一篇が残る。歌は大宰帥になってからのものが殆んどで、漢文学の素養に基づいた構想を持ち(ここで掲げたものはその代表歌)、情感にあふれた人事詠に特色がある。

「万葉集」巻第五の「雜歌」の悲痛な「太宰帥大伴卿の相聞の歌」二首(八〇六・八〇七)の一番目である。二首とも示す。この前書様の部分はプライベートな女性(不詳)との書簡の一部の引用であって前書ではない(書簡は旅人のそれとするもの、その女性のものとの二説があるが、漢籍の故事に基づく謂いから、私は旅人自身のそれとしか思えない)。

   *

 伏して來書を辱(かたじけな)くし、具(つぶ)

 さに芳旨(はうし)を承はりぬ。忽ち漢(あま

 のがは)を隔つる戀を成し、復た、梁(はし)

 を抱(いだ)く意(こころ)を傷ましむ。唯だ、

 羨(ねがは)くは、去留(きよりゆう)に恙無

 (つつみな)く、遂に雲を披(ひら)くを待つ

 のみ。

   歌詞兩首 大宰帥大伴卿

龍(たつ)の馬(ま)まも今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來(こ)む爲(ため)

現(うつつ)には逢ふよしも無しぬば玉の夜の夢(いめ)にを繼ぎて見えこそ

   *

書簡中の「漢(あまのがは)を隔つる戀」は、奈良と筑紫と遠く隔たっていることを牽牛織女の天の川伝承に譬えたもの。「梁(はし)を抱く意」とは「荘子」(「盗跖篇」)や「文選」などに見える知られた故事を踏まえたもの。春秋時代、魯の尾生という青年が橋の下で女を待っていたが、川かさが増してもそこを去らずに待ち続け、橋脚を抱いたまま水に飲まれて死んだという。芥川龍之介の「尾生の信」で人口に膾炙する(リンク先は私の古い電子テクスト)。「去留」は行住坐臥で日常の生活の意。「遂に雲を披(ひら)く」は、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏の注に『文王が姜公に逢う』や、その不思議に『輝くこと』、『雲を披いて太陽を見るごとくだった、という故事』を踏まえたもので、『貴人に会う形容』とある。

「石州鹿足郡吉賀(よしが)の谷」現行では島根県鹿足郡吉賀町(よしかちょう)と濁らない。個人サイト「柿木あれこれ」で、なんと! ここの出典である「吉賀記」が全文電子化されてあった! その解説によれば、「吉賀記」はこの吉賀の地方誌で、『田丸の村吏尾崎太左衛門の書で、吉賀開発よりの事実を記したものです。氏は若年の頃より』、『ひたすら老父へ古き言傳を聞き、又』、『神社仏閣に詣でては来由を尋ね、旧家を尋ねては代々の文を捜し求め、また名勝の旧跡を』、『險阻の地でも、足を運び』、『その眺望の景を書き残しました。その後』、『渡辺源宝により追加・補筆されたものです』とあり、同町の『広報よしか』二〇一五年十二月号PDF)によれば、尾崎太左衛門(元文五(一七四〇)年~文化九(一八一二)年)は四十三年間の長きに亙って、この吉賀地区内の庄屋を勤め、地域住民の信望が厚かったとあり、また、この「吉賀記」は太左衛門が書いてから十年あまり後の(尾崎の死後)文政四(一八二一)年に、津和野藩士で代官にもなった渡辺源宝が補筆したものとある。

「樋口驪(ひぐちぐろ)」以上のサイトの「吉賀記」中巻に(手筆本を起こしたとあるので、漢字表記はママとしたが、改行部を繋げた。また、私が句読点や記号を附し、一部の注を私の注に代え、私の推定の読み(引用元にはカタカナ以外の読みはない)にと注も挟んだ)、

   《引用開始》

樋口驪(くろ) 仁安年中[やぶちゃん注:一一六六年~一一六八年。]、藝の佐伯上郷(さえきかみさと)後葉[やぶちゃん注:子孫。]重行籠(こめ)たる[やぶちゃん注:飼っていた。]媽馬[やぶちゃん注:母馬。]産(うみ)たる駒なり。其尺、八尺に餘(あまり)、形勢逞しく、常に山野に駆(く)す。則(すなはち)、口より火焔を吐(はき)、又、光明を放つ。故、「火口くろ」とも云(いひ)、人、恐れて近寄らず。或時、重行面前へ出(いで)て頭を垂れ、再拝の貌をなす。重行不臆(おくせず)、馭之(これをぎよし)、直(ただち)に飛行(ひぎやう)す。重行、心の儘也。因て重行、仙術、弥増し[やぶちゃん注:「いやまし」。]、石・藝・防の三國、一日に駆す。依之(これによつて)、禁庭、聴え、「件(くだん)の龍馬を献上せよ」[やぶちゃん注:「との」の欠脱字か。]宣旨有(あり)と雖、重行、勅命に不應(おうぜず)、依て、一子小五郎を長(ちやう)南四郎に仰(おほせ)て誅戮し給ふ。舊跡、河津に記す。此馬の口付(くちつき)馬角は[やぶちゃん注:「口付」は馬丁であるから「馬角」はその人物の名か。]山岳幽谷を迷ひ、杉ヶ峠馬角谷に迷亡すといふ。時の人、重行を「千軒太夫」といふ。右にいふ龍馬に乗り、一日に三國を馳す故に名有り。「吉賀七不思議」の内なり。

   《引用終了》

また、ここに出る「舊跡、河津に記す」は同中巻の以下を指す。

   《引用開始》

馬 舩(むまぶね)[やぶちゃん注:蹄の後を記した石の名か。] 佐伯上郷後胤重行、寵愛したる龍馬、帝都へ不献(けんぜず)。故に勅命に背(そむく)[やぶちゃん注:「に依つて」辺りの脱字か。]一子小五郎、帝都へ召質(めしじち)し、長南四郎國氏に仰(おほせ)て、罰し給ふ。此(これ)は仁安元年九月十八日、重行、仙術天眼を以て、悟(さとり)、此(これ)、小五郎ヶ嶽へ上り、一子あ血烟(ちけむり)[やぶちゃん注:意味不明。サイト主の判読の誤りが疑われる。]靉靆たるを見て、「今は頼りなし。異国へも立去(たちさら)ん」と馬に鞭打(うち)しかは、河津川の畦瀧[やぶちゃん注:「あぜだき」で滝の固有名詞か。]中へ落(おち)、腹・足を冷す。又、一策(ひとむち)馳(はせ)て、河津へ走り、梅林に蹶是(ケッシ[やぶちゃん注:ママ。これに躓き。])して死すとなん。馬舩、凡(およそ)、水、廿石餘(あまり)入(いる)打込(うちこみ)たる足跡、又、重行木履(ぼくり)の跡、瀧中に有(あり)。今、雨乞に験(しる)し新た也。此瀧、底を洗ひ清め、龍神を勧請し、雨乞す。「吉賀十ヶ旧跡」[やぶちゃん注:の一つ、の意。]なり。防州の内、小五郎ヶ嶽は帝都にて小五郎誅戮にあふを歎きたる故名と成(なる)となん。

   《引用終了》

また、同中巻の「樋口」村の条には、

   《引用開始》

樋口村 吉桝 いかぢ 中河内 下河内 岡

 往古、向井谷郷・高津銀弥、高津川の源を尋(たづね)て、此奥谷へ入り、大なる莧蕗[やぶちゃん注:「ひゆぶき」と読むか。双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus の巨大なものととっておく。]を見て驚き、村と号し[やぶちゃん注:村の名と成し。しかし「ひゆぶき」から「ひぐち」は無理がある。]、八ヶ村の総名と成(なる)。又、大蛇か[やぶちゃん注:ママ。「が」か。]池・山峡を穿ち、沼水を抜(ぬく)。因て「樋口」[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]名、発(おこ)ると云(いふ)。 産物、牛の子。

   《引用終了》

とあって、柳田國男の解釈とは異なる(但し、柳田もこの転訛が怪しいことをやはり感じたものかとも思われる)。別に同書の上巻の方には(以下の馬の名の読みは総て引用元のもの)、

   《引用開始》

駒 三疋  「生食(いけつき)」田野原より出る。

「火口黒(ひくちくろ)」樋口より出る。

「馬角駒(ばかくこま)」福川にて生る。

追加

或説に、摺墨の名馬吉賀より出るといへり何れか、辨(べんじ)難し。追(おつ)て可正也(ただすべきなり)。又、「いけづき」は長州須佐甲山より出ると云(いひ)傳ふ。左もあらは、吉賀よりは「する墨」出し事、實正(じつしやう)ならんか。

   《引用終了》

「鹿足郡藏木村大字樋口」現在の島根県鹿足郡吉賀町樋口。吉賀町内の東方に当たる。

大字田野原河津」島根県鹿足郡吉賀町田野原。樋口の東隣りで、吉賀町内の東方端。ほとんどが山岳である。

「葛藟(かつるい)」「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。

「長岡郡十市村」高知県南国市十市(とおち)

「同郡三里村大字池」現在の高知県高知市池市が異なるが、先の十市地区の西方直近である。

「槇山(まきやま)生立(おひたち)」槇山産の。「槇山」は高知県高知市槇山町(ちょう)高知市池からは北西十キロメートル弱の内陸部

「三足(みつあし)の駒」奇形馬。チェルノブイリ以降、四足の畜類の奇形が盛んに画像で出て人々を恐懼させているが、実際には生物の奇形児はそれらに限らず、人でも、普通に(放射能汚染と無関係でも)実際には有意に多い。ただ、死産として父母にも見せずに処理してきた歴史があるのである。無論、放射能汚染をその大きな原因の一つとすることを私は積極的に肯定することは言い添えておく。

「鬼鹿毛(おにかげ)」名馬(武田信虎の愛馬)や霊馬(「新座市産業観光協会」公式サイト内の「鬼鹿毛の伝説」を参照。これは神に祀られているので是非読まれたい)の固有名詞でもあるが、この場合は、不吉な妖魅の馬(「鹿毛」は馬の毛色の代表色であるから、ここは全く単に忌まわしい「鬼馬」の謂いである)の謂いである。

「香美郡室丘」不詳。「土佐國群書類從」に当たることが出来ないのだが、或いは、現在の高知県香南市赤岡町のことかも知れない。

「美濃惠那山(えなさん)」長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈の最南端の山。標高二千百九十一メートル。ウィキの「恵那山」によれば、『恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣(えな)を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また、』「古事記」で『日本武尊が科野』(しなの)『峠(神坂峠』(みさかどうげ:木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高千五百六十九メートルの峠。恵那山から直線で東北約四キロ半の位置。ここ)『)で拝したのも恵那山の神である』。『江戸時代中期には毎年修験道者が礼拝に訪れ、前夜に恵那神社で禊ぎをして登山を行っていた』とはあるものの、その他、ネットで調べて見ても、この「頂上に馬の神」が祀られているとか、「九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る」に相当するような祭祀は現在は行われていない模様である(但し、次注参照)。

「社は池の側に七社、列立(れつりつ)す」「池」とあるが、山頂付近には現在、池はない。南東に尾根筋を三キロほど行った位置に「野熊の池」があるが、ネット上の幾つかの写真を見ても、「池の側」には祠は見られない。但し、サイト「YAMA HACK」の「恵那山|天照大神が生まれた歴史深い山!レベル別登山ルート4つ」には、『恵那山山頂には葛城社』・『富士社』・『熊野社』・『神明社』・『劍社』・『 一宮社の』七『つの社が祀られてい』るとはある。

「一宵話(ひとよばなし)」尾張藩藩校明倫堂の教授を務めた漢学者秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:号は滄浪)の考証随筆で、私も所持するのであるが、どうもここに柳田國男が解説するような部分を見出せない。巻之二の「龍の雲」に恵那山の話は追記で載るが、内容は以下と極めて簡略である。取り敢えず、吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化してその部分だけを示す(主文と追記の前半分は面白いが、恵那山とも馬とも全く関係がない呪(まじな)いに関わる奇談実話である)。

   *

比邊にては、美濃國惠那郡惠那山は、國中第一の高山なり。此山の祭りに、郡中の村々より、馬を引て登る事なり。其日には必大風雨する。是を土人の說(セツ)に、大勢(ゼイ)が登り二便(ベン)[やぶちゃん注:大便と小便であろう。]して、御山を穢(ケガ)から、神きたなくおぼして、洗ひ淨め給ふ雨なりといふ。是は神の御心とも覺へず。穢はしとおぼさば、祭うけ玉はぬがよし。客を請(シヤウ)じて、客の座敷よごせるを腹立るは、好(ヨキ)主人にはあらず。まして終日山中に居て、二便せぬものやほある。おもふに深山窮谷(シンザンキウコク)中に、欝蒸積充(ウツジヨウセキヂウ)する雲霧濕氣(ウソムシツキ)、數萬人の聲にひゞき動かされて、俄にさわぎ起るものならんかと、或人いへり。此亦理あり。

   *

万一、見落としていて見出せたなら、追記する。]

2019/06/07

前天橋立歌 すゞしろのや

 

前天橋立歌

 こは和鄕ぬしの哥につぎて早く出すべかりしを拙き詞の
 やさしくて久しく匣に祕めおきつるなり 流石に蠹魚の
 みは獨あるじの惠をよろこびたらんかし

[やぶちゃん注:「和鄕ぬし」既出既注。木船和郷。詳細不詳。

「哥」不詳。本篇は『文庫』投稿であるから、これ以前のかなり以前の号に和郷が投稿した天橋立を詠じた「哥」(短歌か詩篇)を指すものであろうとは思う。その「哥」を見たいものである。

「やさしくて」気恥ずかしくて。きまりが悪かったので。

「匣」「はこ」。手文庫箱。

「蠹魚」「しみ」。節足動物門昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」を参照されたい。]

 

つきあかし

つきのうさぎもくだりこむ

橋立小女郞まつにきてまへ

  (老狐異名)

   ○

更け行くなべに

    影沈む

一里の松の

    葉を黑み

あまつをとめが

    わすれたる

白き翼と

    まがふまで

月のひかりは

    みちにけり

さやけき月の

    やどるなる

涼しき露は

    葉にみちて

散らば桂や

    生ひもせん

枝を交ふる

    老松の

眞砂が原の

    月くらし

 

月やうやうに

    かたぶきて

いその洲崎に

    やどれるを

ゆめよりさむる

    水鳥の

おどろき立てば

    靜なる

蘆間の影も

    さわぎけり

   ○

なみのおと

まつのひゞきもなりあひの

かぜふきわたるあまのはしたて

  (順禮歌)

   ○

鈴のねくらき

    あかつきの

みてらのやまを

    のぼりきて

菅の小笠に

    松かさの

をりをりおつる

    つゞらをり

いたゞき近く

    みおろせば

 

雲の錦の

    色深み

かぎろひもゆる

    ひんがしの

花の浮城

    とだえして

紅匂ふ

    日の影は

西にいざよふ

    夕暮の

豐旗雲の

    なびくまで

長き日ねもす

    松ばらの

天の橋立

    わたるらん

 

鏡とすめる

    與謝の海の

玉藻刈るこが

    一葉ぶね

さをにみだるゝ

    浪の上に

黃金をくだく

    朝日子は

千本の松を

    吹きこゆる

みどりの風に

    うちのりて

今下つ枝を

    昇るなり

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年四月一日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「(老狐異名)」これは前のソリッドな三行の挿入詩篇の標題的後書き(後の「(巡禮歌)」もそうとしか採れないから)であるが、特に「橋立小女郞(はしだてこぢよらう)」がその「老狐」の「異名」とはとれる。

「與謝の海の」「よさのみの」。老婆心乍ら、「與謝の海」は天橋立の砂州で区切られた西の潟湖阿蘇海(あそのうみ)の古名で歌枕でもある。]

鏡のひぢ塵 すゞしろのや(伊良子清白)

 

鏡のひぢ塵

 (白浪子へのかへし)

 

梢離れて散る花も

みな天地を旅ねにて

ませの白菊霧ながら

手折れば千代の雪ぞ降る

 

長生殿の内に秋更けず

不老門の前に日傾かず

履を嚴にぬぎすてゝ

鶴の背に乘らんには

 

病の床に伏柴の

なげき樵るてふ有馬山

麓の里にうらぶれて

人こそ可惜やせにけれ

 

小衾つらき枕邊の

月にめざめてなやみなば

母のねぶりも安からで

なみだやまみにあぶるらむ

 

葡萄葉茂り橄欖(れもん)咲く

城の花園草長けて

いくさの雲をあふぎみし

速き馬前の夢の兒も

 

玉の冠の碎けては

浪に漂ふ洋の

島の木陰に沈み行く

紅の日を追ひにけり

 

庭に匂へる花の色

鏡の影の幻を

めにたてゝ見る塵ひぢに

おどろかんこそをかしけれ

 

しら鷺や

舟のへさきに巢をかけて

浪にゆられてしやんとたつ

 

對の花笠たをやかに

咲きこそまじれ桃櫻

春の錦の芦刈祭

舟に桂の棹さして

たけの袂をぬらし候へ

 

湊河原を行く水の

流れて早き短夜に

七ます星の影を見て

たゞなつかしと一言を

松吹く風に殘しけむ

みやべる思盡きざらば

 

柳の枝にかけしてふ

小琴に風の來る時

白き小指を絲に觸れ

薄暮橋の袂にて

かれにし人にゆくりなく

めぐりあひたるをりのごと

龍神潛む靑淵の

深きこゝろを君しらべなむ

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年三月二十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「白浪子」不詳。「有馬山」(兵庫県神戸市北区有馬町にある日本三古湯の一つである有馬温泉付近の山々を指す)の「城」址(後注で考察する)のある「麓の里に」住んでいた詩人らしい。検索すると、昭和一一(一九三六)年に渋谷白浪子著の句集「花薊」なる書を見出せる。但し、この人物も不詳なれば、同定は不能。

「可惜」「あたら」。副詞。立派なものが相応に扱われていないのを惜しむ意の「残念なことに。惜しいことに。価値のある存在が世に出でぬことが惜しまれるさま」。

「なみだやまみにあぶるらむ」「淚や/目見(まみ)に/溢(あぶ)るらむ」であろう。「あふる」は濁音もある。

「橄欖(れもん)」不審。「橄欖」はシソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea、「れもん」はムクロジ目ミカン科ミカン属レモン Citrus limon で全くの別種である。なお、ムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album(インドシナ原産であるが、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、種も食用にしたり、油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブに似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは、幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである、とウィキの「カンランにあり、レモンと同じムクロジ目 Sapindales で、旧分類ではミカン目 Rutales に属していたともある)があるが、これも同定比定候補とするには無理があるように私には思われる。オリーブはウィキの「オリーブ」によれば、『日本での栽培は香川県小豆島で』明治四三(一九一〇)年頃に『はじめて成功した(それ以前に平賀源内がオリーブ栽培に取り組んだが、ホルトノキ』(カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus:本州西側・淡路島・四国・九州・沖縄・台湾・インドシナなどに分布する常緑高木。和名にある「ホルト」は二説あり、「ポルトガル」のことを意味するという説(実際はポルトガル原産ではない)で、平賀源内による命名とされる説、一方で、江戸時代に薬用に使われていた「ホルト油」(「オリーブ油」のこと。「ポルトガル油」とも呼んだ)の採れる木と誤解されたためという説がある。以上はウィキの「ホルトノキ」に拠る)『をオリーブと誤認し』、『失敗している)。現在は香川県を含む四国全域、岡山県、広島県、兵庫県、九州、関東地方、中部地方、東北地方など全国各地で栽培されている』とあり、本邦への移植は本詩篇以後となるから、これはオリーブではない。対して、レモンはウィキの「レモン」によると、明治六(一八七三)年に『静岡県で栽培が開始され』、明治三一(一八九八)年には現在の『日本のレモンの主産地である』、『広島県の芸予諸島に』、『和歌山県からレモンの苗木がもたらされた』とあるから、有馬近辺にレモンが植生していても何らおかしくない。従ってこれはルビ通り、レモンを指すと考える。

「城」先の「有馬山」から考えると、有馬温泉を見下ろす落葉山山頂に築かれていた落葉山城城址(現在は落葉山城の主郭が山頂の南東に位置する兵庫県神戸市北区有野町唐櫃の妙見寺境内となっている。グーグル・マップ・データ)が候補となろうか。参照した中西徹氏のサイト「お城の旅日記」の「摂津 落葉山城」によれば、『落葉山城は、別名有馬城とも呼ばれ、築城者は定かではないが』、『南北朝時代に築かれたと考えられ、南朝方の湯山左衛門三郎が居城したと文献にある』。『戦国時代には、細川氏の重臣であった三好之長の子政長が』、この『落葉山城を拠点に播磨・丹波へと進出しようとした』が、天文八(一五三九)年、『三木城主別所家直が落葉山城を攻め、政長は河内国へと敗走した』。『その後落葉山城は、三田城主有馬村秀の支配下となり、天正』七(一五七九)『年に有馬加賀守が守る落葉山城を織田信忠が攻め』、『落城した』とあり、「いくさの雲をあふぎみし」「遠き馬前の夢の兒も」という詩句に遜色ない事蹟であるし、この部分、まさに「有馬」の「馬」も掛けてあって、すこぶる腑には落ちる

「湊河原」湊川の河原か。但し、有馬からは、有意に南西位置となり、水系も繋がっていない。南北朝で、「湊川の戦い」に意識をずらした時代詠へと転じたとすれば、判らなくはない。

「みやべる思」「雅べる思ひ」で、優美・風雅な感じの思いであろう。

「薄暮橋の袂にて」音数律から「薄暮/橋の袂にて」で「薄暮」を「ゆふぐれ」と当て訓して読んでおく。「薄暮橋」という固有名の橋は現認出来なかった。

「かれにし人」「離(か)れにし人」幽冥の境に遠く離れてしまったあのお方、の意でとっておく。

「ゆくりなく」副詞。思いがけなく・突然に。]

葡萄の葉蔭 すゞしろのや(伊良子清白)

 

葡萄の葉蔭

 (夜雨に代りて)

 

風しつかなる葡萄葉に、

ふかくひそめる紫の、

房をつむとて秋されば、

白き小指や染むるらむ。

 

たけの髮だにみだれねば、

花の插頭はさすべきを、

少女さびすとよそほはぬ、

ふりの袖こそさとびたれ。

 

露まだ深き下かげに、

よめらぬきみとさまよへば、

なれしものからまのあたり、

筑波のやまぞつゝましき。

 

色よき房をみ手つから、

袂のなかにさしいれて、

くちにふくめとのらするを、

まほにきくこそ胸痛め。

 

ますらをのこにましまさば、

やさしかりなむみことばを、

いろせのきみとなぞらへて、

つきぬおもひをかたらむに。

 

沈むおもてに見かへりて、

朝雲まよふ葡萄葉に、

まみをそむくるわが影を、

病とつらく見ますらむ。

 

慕へる人はおはさずも、

とつぎたまはゞうるはしく、

秋のこのみのうるゝとも、

ともには房はつまれえじ。

 

漣白きとばの江の、

岸べの里に月し見て、

慰めもなき人のよに、

なきぞをはらんわれなれば。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月二十日発行の『よしあし草』掲載(前の「枝垂櫻」と併載)。署名は「すゞしろのや」。「夜雨に代はりて」は「橫瀬夜雨(の感じている詩的気分)になり代わって」の意で、夜雨との合作「常陸帶」で既に述べた通り、伊良子清白はこの年の一月十日頃に上京した直後、筑波山麓横根(よこね)村(旧真壁郡横根村、現在の茨城県下妻(しもつま)市横根か。ここ(グーグル・マップ・データ))。筑波山の裾野の西方、小貝川の右岸)に夜雨を訪れ、初対面であったが、一ヶ月も滞在した。公開日時から見ても、そこでの親しい交友体験を回想して詠まれたものと推測される。登場する少女は如何なる人物かは判らぬが、実際に交わった土地の娘で、幻像ではあるまい。

「少女さびす」「をとめさびす」で、「乙女らしい優しい振る舞いをする」の意。

「さとびたれ」「里(俚)びたり」で、本来なら「田舎染みていて洗練されていないさま」「雅びでない様子」であろうが、ここは寧ろ肯定的に如何にも素朴で初々しい、妙に気取ったところがなく自然体である、の謂いであろう。

「病」「常陸帶」で既に述べた通り、夜雨は佝僂(くる)病であった。]

枝垂櫻 すゞしろのや(伊良子清白)

 

枝 垂 櫻

 

さても見事なおつゞら馬や、

海道百里の花盛。

 

七つ布團に曲碌すゑて、

ふとん張りして小性衆を乘せて。

 

小性衆の刀の朱塗のさやに、

しだれ櫻がしなだれかゝる。

 

靑貝摺の鐙の前に、

湖は漣八重霞。

 

霞漂ふ一夜の夢を、

蝶になりたや妓(よね)とねて。

 

葦にゆらるゝ月ならよかろ、

立つは白浪映るは柳。

 

小舟作りてお夏をのせて、

花の淸十郞に櫓を押さしよ。

 

裾は岩間の紫菫、

杉の林に富士さが見ゆる。

 

お城のご門で拜んだ山を、

くつわとりとり背にしよとは。

 

十里廿里に名の鳴る男、

伊達でくらそと思うてゐたに。

 

馬の口とり手綱を曳けば、

紙衣着るより肩身が狹い。

 

ざんざ松風ねざめのまゝを、

鷄も鳴かぬに別れて來たが。

 

千髮房々衣裳のこなし、

袖は振袖京染模樣。

 

染て悔しきあゐねずみ、

行燈暗かろ獨ねて。

 

覆ひかけたる長刀袋、

うす紫の笠袋。

 

光漂ふ蒔繪の長柄、

白い牡丹が二片三片。

 

影が映れば卯の花月毛、

湖は五色の唐錦。

 

箱根八里は狐が化かす、

殿さ急きやれけんざ笠。

 

關所こゆれば秋津の宮の、

森が見えますほのぼのと。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月二十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。「急き」はママ。

「つゞら馬」「葛籠馬」。江戸時代、背の両側に葛籠を附けた馬。

「曲碌」「曲彔」「曲祿」とも書く。椅子の一種。背凭れの笠木がカーブしているか、または背もたれとひじ掛けとがカーブした一本の棒で繋がっていることを特徴とする。「曲彔」という言葉は「曲彔木」の略で、「彔」は「木を斫(はつ)る」という意味で、「木材をはつってカーブをつくった椅子ということになる。現行でよく見かけるのは法会(ほうえ)の際などに僧が用いる脚の附いた椅子(背の倚り懸かる部分を半円形に曲げて脚をX字形に交差させたもの)であるが、背に鞍の上に附属させた花嫁御寮や荷を安定させるための座椅子様のものを指しているのであろう。

「妓(よね)」「娼(よね)」。ここは美人・美女の意。

「ざんざ」副詞。松風の音などを表わす一種のオノマトペイア。

「卯の花月毛」「卯の花」は実花ではなく「月毛」を修飾している。月毛は原毛色が栗毛又は栃栗毛の、見た目ではクリーム色から淡い黄白色の被毛の馬を指すが、ここはその中でも極めて「卯の花」のように白色に近い毛色の馬であることを指している。

「けんざ笠」不詳。「験者笠(げんざがさ)」と思って調べたが、そんな名の被り笠はない。識者の御教授を乞う。

「秋津の宮」私はここまでの道程から、「秋津」は日本列島を反転させたような(と私は勝手に幼少期より思っている)「芦ノ湖」で、その「宮」は「箱根神社」だと読んでいた。「關所こゆれば」との位置関係も合致するからであるが、困ったことに「芦ノ湖」を「秋津」と呼ぶ古名なく、「箱根神社」を「秋津の宮」と呼んだ古例もないのであった。さてさてここも識者の御教授を乞うものである。]

2019/06/06

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(31) 「御靈ト石」(2)

 

《原文》

 サテ此等ノ多クノ傳說ニ就キテ其馬主ノ生涯ヲ比較スルニ、一二ノ例外ヲ除キテハ極メテ著シキ第二ノ共通點アルカト思ハル。即チ彼等ハ單ニ一代一方ノ英俊ナリシト云フ外ニ、多クハイマダ齡ノ盛リニ於テ何レモ不自然ナル死ヲ遂ゲタル人ナリ。有餘ル生活力ヲ銷盡セズ、而モ執著ノ末成ラズシテ終ヲ取リタル人タチナリ。【念力】身ハ去リテ念力ヲ此世ニ留ムルニ必要ナル條件ヲ具ヘタル人々ナリ。思フニ我等ガ祖先ノ特ニ重要視セシハ此未了ノ念力ナリキ。昔ノ京都ノ八所ノ御靈ナドノ列名ヲ見レバ、共ニ其些シ以前ニ於テ、枉屈ヲ以テ死歿シタル貴族ナリシナリ。當時朝廷ノ公文ニハ、寃厲災ヲ爲スガ故ニ祭ルト書キテハアレド、恐クハ未ダ民間信仰ノ消息ニ精通セザリシ人ノ言ナルべキカ。復讐セラルヽ覺無キ下級ノ人民ガ、單ニ御氣ノ毒ナルヲ以テ神ニ祭ラント言フべキ道理無シ。然ラバ何故ニ斯ク迄弘キ信仰ガ行ハレタルカト問ハヾ、是レ全ク前代人ノ靈魂不朽ニ關スル槪念ガ此ノ如クナリシ結果ト言フノ外無キナリ。近キ頃ノ佐倉宗吾又ハ佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]ノ世直(ヨナホシ)大明神、サテハ伊豫ノ宇和島ノ和靈樣ノ如キ、若シ之ヲ以テ其人格ニ對スル景慕トスルナラバ、所謂上流ノ社會道德トハ或ハ合スべキモ、是レ要スルニ感謝ト祈禱トヲ混同シタル說ト謂フべシ。【御靈ノ祭】御靈系統ノ雜神ニ對シテハ、少ナクモ昔ハ謝恩ノ意味ノ祭アリシコトヲ聞カザルナリ。或ハ又神ノ憤怒ヲ和グル爲ニ祭ルト云フ者アラン。成程前ニ各地方ノ馬鬼ニ就キテ述べシガ如ク、神ノ「イキドホリ」ハ慥カニ存ス。併シ之ヲ我々ガ所謂怒リナリト言フコトハ難シ。例ヘバ甲ノ爲ニ害セラレテ乙丙丁ニ對シテ災ヲ爲ス神アリ。佛法ニ敎ヘラレタル我々ノ間ノ因果律ヲ適用スルトキハ、全然其外ニ立ツべキ現象ナリ。而シテ此災ヲ避ケンガ爲ノ祭ヲ、若シ贖罪ノ趣旨ニ出ヅル者ノ如ク說ク人アラバ、此モ亦罰ト祟トヲ同一視スルノ誤謬ヲ免レズ。蓋シ「タヽリ」ハ中世ノ用語トシテハ、神ノ怒又ハ之ニ基ク人ノ禍ヲ意味セリ。源重之ノ歌ニモ

  千早フルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナノリソネタヽリモゾスル

トアルナド其例ナリ。此歌ノ「ナノリソ」ハ、語ル勿レト云フ語ト神馬乘ル勿レト云フ語ト兩樣ニ用ヰタル掛ケ詞ナリ。【タヽリ】併シナガラ「タヽリ」ノ語原、及ビ最初ノ用法ハ之トハ異ニシテ、譬諭[やぶちゃん注:ママ。]ヲ「タトヘ」ト謂ヒ賞讚ヲ「タヽヘ」ト謂フト共ニ、「タヽリ」ハ單ニ神靈ノ語ヲ意味セシモノニ似タリ。彼ノ金屬ヲ熔ス爐ヲ「タヽラ」ト呼ブハ古キ日本語ニシテ、音ヨリ出デタル造語ナリトモ考ヘ得べキモ、此地名ガ深山淸淨ノ地ナドニ多ク、且ツ古クハ鑄物師ガ一種ノ巫覡ナリシ事ヲ思ヘバ、必ズシモ由無キ想像ニハ非ズ。畏多キコトナレドモ、大昔ノ皇后ノ御名ニ姬蹈鞴(ヒメタヽラ)ト申上グル方アリシモ、亦神ニ仕ヘタマヒシヨリノ御名カト思ハル。今日モ沖繩ニテハ「タヽリ」又ハ「神ターリ」ト云フハ、神ノ人ヘ託宣スルコトヲ意味スルナリ〔沖繩語典〕。而シテ此ノ古キ意味ニ於ケル「タヽリ」ノ神德ヲ、最モ著明ニ發揮スルニ適シタルハ、一念ノ力ノ强烈ナル人々ガ此世ニ生キ殘シタル御靈ナリ。【魂魄永住】幸ニシテ大ナル執著ヲ當代ニ留メタル名士タチナラバ、後世ノ佛敎徒ノ如ク、死スルヤ否ヤフイト極樂ニ向ヒ去ルガ如キ無責任ナル所業ハ敢テセズ、魂魄ト成リテ迄モ人間問題ヲ考慮シツヽアルナルべク、捨テヽ置ケバ或ハ災ヲ下スノ擧ニ出ヅルコトアランモ、賴ミヤウニ由リテハ勿論親切ナル世話奔走ヲ辭セザルナルべシ。【湊川】例ヘバ楠家ノ兄弟ハ、湊川ノ最後ニ際シテ何ト宣言シタリシカ。之ヲ根據ナキ妄想ト見ルコトハ、今人ト雖敢テセズ。我々現代人ノ理想モ亦復此ノ如キノミ。死シテ幽界ノ名士ト成ルコトヲ得バ男兒ノ能事ハ終レルナリ。尤モ此思想タルヤ、本來及ブ所甚ダ弘キモノナリキ。【戶神】例ヘバ眞言ノ佛法ニ於テ、獰猛無比ノ稱アル障礙神ノ義俠心ニ訴ヘテ境堺ノ守護ヲ委託スルコト、【人柱】或ハ其信仰ノ根原ナラントノ說アル門ノ側又ハ川ノ堤等ニテ人ヲ屠リ其靈魂ヲ利用シテ工作物ヲ防護セシムル慣習、即チ日本ナドニモ往々聞ク所ノ人柱ノ話、サテハ妖婆ノ輩ノ祕密ニ屬セシ物ヲ指シタル幼兒ノ指、食物ヲ見詰ムル所ヲ打斫リタル餓ヱタル犬猫ノ頸ナドガ、人ニ未然ノ善惡禍福ヲ教フルト云フガ如キモ、皆同ジ思想ニ屬スべカリシ者ナリ。【天滿宮】更ニ遠慮無キ斷定ヲ自ラ許スナラバ、彼ノ天滿大自在天神ノ信仰ノ如キモ、右ノ御靈ノ思想ヲ以テスルニ非ザレバ之ヲ解說スルコト能ハザルモノナリ。而シテ人間ニシテ能ク巖石ノ上ニ跡ヲ留メタリト云フハ、即チ此等ノ人々ノ乘馬ノ蹄ニ他ナラザルハ、誠ニ偶然ニハ非ザルナリ。【藤原廣嗣】古クハ菅公ト同ジク太宰府ノ官吏ニシテ靈死シタル藤原廣嗣、【新田義興】東京ノ附近ニテハ矢口ノ渡ニ千古ノ川浪ヲ咽バシメタル新田義興ノ如キ、何レモ馬ニ騎シテ白雲ト共ニ空中ヲ飛ビマハリ、終ニ恨ト言フ恨ハ悉ク報イ[やぶちゃん注:ママ。]去リ、猶靈ノ力ノ大ニ餘裕アルコトヲ示シタリ。而シテ其馬ノ足跡ニシテ若シ或岩石ノ上ニ在リトスレバ、神ト同ジク之ヲ祭ルハ極メテ自然ノ結果ニ非ズヤ。

 

《訓読》

 さて、此等の多くの傳說に就きて其の馬主の生涯を比較するに、一二の例外を除きては、極めて著しき第二の共通點あるかと思はる。即ち、彼等は單に一代一方(ひとかた)の英俊なりしと云ふ外に、多くは、いまだ齡(よはひ)盛りに於いて、何れも、不自然なる死を遂げたる人なり。有り餘る生活力を銷盡(しやうじん)[やぶちゃん注:消し(使い)尽くすこと。]せず、而も、執著の末(すゑ)成らずして終りを取りたる人たちなり。【念力】身は去りて、念力を此の世に留むるに必要なる條件を具へたる人々なり。思ふに、我等が祖先の特に重要視せしは、此の未了の念力なりき。昔の京都の「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」などの列名(れつみやう)を見れば、共に其の些(すこ)し以前に於いて、枉屈(わうくつ)[やぶちゃん注:「力で押さえつけること・抑圧すること」であるが、ここ受身形。]を以つて死歿したる貴族なりしなり。當時、朝廷の公文(くもん)[やぶちゃん注:律令時代の公文書(こうぶんしょ)の総称。]には、『寃(ゑん)、厲災(れいさい)を爲すが故に祭る』[やぶちゃん注:深い恨み(以上の「八所の御霊」の場合は今一つの無実の罪によるそれという意も同時に強く含んでいる)が災害と疫病を引き起こすが故に祭祀するものである。]と書きてはあれど、恐らくは、未だ民間信仰の消息に精通せざりし人の言なるべきか。復讐せらるゝ覺え無き下級の人民が、單に『御氣の毒』なるを以つて神に祭らんと言ふべき道理、無し。然らば、何故に斯くまで弘き信仰が行はれたるかと問はゞ、是れ、全く、前代人の靈魂不朽に關する槪念が此くのごとくなりし結果と言ふの外、無きなり。近き頃の佐倉宗吾、又は、佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]の「世直(よなほし)大明神」、さては伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」のごとき、若(も)し、之れを以つて、其の人格に對する景慕とするならば、所謂、上流の社會道德とは或いは合(がつ)すべきも、是れ、要するに、感謝と祈禱とを混同したる說と謂ふべし。【御靈の祭】御靈系統の雜神に對しては、少なくも、昔は、謝恩の意味の祭りありしことを聞かざるなり。或いは又、「神の憤怒を和(やはら)ぐる爲めに祭る」と云ふ者、あらん。成程、前に各地方の馬鬼に就きて述べしがごとく、神の「いきどほり」は慥かに存す。併し、之れを、我々が、所謂、「怒りなり」と言ふことは、難(かた)し。例へば、甲の爲めに害せられて、乙・丙・丁に對して災ひを爲す神あり。佛法に敎へられたる我々の間の因果律を適用するときは、全然、其の、外(そと)に立つべき現象なり。而して、此の災ひを避けんが爲めの祭りを、若(も)し、贖罪の趣旨に出づる者のごとく說く人あらば、此れも亦、罰と祟りとを同一視するの誤謬を免れず。蓋し「たゝり」は中世の用語としては、神の怒り、又は、之れに基づく、人の禍(わざは)ひを意味せり。源重之の歌にも

  千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする

とあるなど、其の例なり。此の歌の「なのりそ」は、「語る勿れ」と云ふ語と、「神馬乘る勿れ」と云ふ語と、兩樣に用ゐたる掛(か)け詞(ことば)なり。【たゝり】併しながら、

「たゝり」の語原、及び、最初の用法は、之れとは異にして、譬諭[やぶちゃん注:ママ。譬喩。]を「たとへ」と謂ひ、賞讚を「たゝへ」と謂ふと共に、「たゝり」は單に神靈の語を意味せしものに似たり。彼の金屬を熔(とか)す爐(ろ)を「たゝら」と呼ぶは、古き日本語にして、音(おと)[やぶちゃん注:鞴(ふいご)を踏む音のオノマトペイアの意と私は採った。]より出でたる造語なりとも考へ得べきも、此の地名が深山淸淨の地などに多く、且つ古くは鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事を思へば、必ずしも由(よし)無き想像には非ず。畏れ多きことなれども、大昔の皇后の御名に姬蹈鞴(ひめたゝら)と申し上ぐる方(かた)ありしも、亦、神に仕へたまひしよりの御名かと思はる。今日も沖繩にては、「たゝり」又は「神たーり」と云ふは、神の人へ託宣することを意味するなり〔「沖繩語典」〕。而して、此の古き意味に於ける「たゝり」の神德を、最も著明に發揮するに適したるは、一念の力の强烈なる人々が此の世に生き殘したる御靈なり。【魂魄永住】幸ひにして、大なる執著を當代に留めたる名士たちならば、後世の佛敎徒のごとく、死するや否や、「ふい」と極樂に向ひ去るがごとき無責任なる所業は敢へてせず、魂魄と成りてまでも人間問題を考慮しつゝあるなるべく、捨てゝ置けば、或いは災ひを下すの擧(きよ)に出づることあらんも、賴みやうに由りては、勿論、親切なる世話・奔走を辭せざるなるべし。【湊川】例へば、楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか。之れを根據なき妄想と見ることは、今人(きんじん)と雖も敢へて、せず。我々現代人ノ理想モ亦復(また)[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版に従い、「亦復の二字でかく読むこととする。]此くのごときのみ。死して幽界の名士と成ることを得ば、男兒の能事(のうじ)[やぶちゃん注:成すべきこと。]は終れるなり。尤も、此の思想たるや、本來、及ぶ所、甚だ弘きものなりき。【戶神】例へば、眞言の佛法に於いて、獰猛無比の稱ある障礙神(しやうげしん)の義俠心に訴へて境堺(きやうかい)の守護を委託すること、【人柱】或いは、其の信仰の根原ならんとの說ある門(もん)の側、又は、川の堤等にて、人を屠(ほふ)り、其の靈魂を利用して、工作物を防護せしむる慣習、即ち、日本などにも、往々聞く所の「人柱(ひとばしら)」の話、さては、妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指、食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸などが、人に未然の善惡禍福を教ふると云ふがごときも、皆、同じ思想に屬すべかりし者なり。【天滿宮】更に遠慮無き斷定を自ら許すならば、彼(か)の天滿大自在天神の信仰のごときも、右の御靈の思想を以つてするに非ざれば、之れを解說すること、能はざるものなり。而して、人間にして能く巖石の上に跡を留めたりと云ふは、即ち、此等の人々の乘馬の蹄に他ならざるは、誠に偶然には非ざるなり。【藤原廣嗣】古くは菅公と同じく、太宰府の官吏にして靈死(りやうし)[やぶちゃん注:死して御霊(ごりょう)となった怨念を持った死の意で、かく読んだ。]したる藤原廣嗣、【新田義興】東京の附近にては矢口の渡しに千古の川浪を咽(むせ)ばしめたる新田義興のごとき、何(いづ)れも馬に騎して白雲と共に空中を飛びまはり、終に恨みと言ふ恨みは悉く報い[やぶちゃん注:ママ。]去り、猶ほ、靈(れい)[やぶちゃん注:ここは「終に恨みと言ふ恨みは悉く報い去」っているので、通常の読みとした。]の力の大に餘裕あることを示したり。而して、其の馬の足跡にして、若(も)し、或る岩石の上に在りとすれば、神と同じく之れを祭るは、極めて自然の結果に非ずや。

[やぶちゃん注:「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」平安以来、疫病や天災を齎(もたら)すものとして恐れられた八座の御霊神。貞観五(八六三)年五月に御霊会が修せられた六座、則ち(以下、引用を示していない記載は複数の辞書記載を参考にしたものである)、

①崇道天皇(早良(さわら)親王(天平勝宝二(七五〇)年~延暦四(七八五)年)。光仁天皇第二皇子で桓武天皇の同母弟。神護景雲二(七六八)年に出家したが,宝亀元(七七〇)年、父光仁天皇の即位により親王となり、天応元(七八一)年の桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。しかし、延暦四(七八五)年、長岡京造営の推進者藤原種継の暗殺事件に連座し、同年九月二十八日に皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉され、次いで淡路に流されたが、その途次、絶食して自死した。これは藤原氏が権力を握るに到る過程で起った一連の謀略的事件で、政争の渦に巻込まれた犠牲者であった。事件後、桓武天皇の皇子安殿(あて)親王(後の平城天皇)が皇太子となったが、桓武天皇・早良親王の生母高野新笠(たかののにいがさ)や藤原乙牟漏(おとむろ 桓武天皇の皇后で後の平城天皇・嵯峨天皇の生母)の死、悪疫の流行、皇太子の罹病など、不吉なことが相次いだ。皇室や藤原氏はこれを親王の祟りとして恐れ、同十九年に「崇道天皇」と追号して淡路から大和に移葬した)

②伊予親王(?~大同二(八〇七)年:桓武天皇の第三皇子。政治的能力に優れ、天皇の信頼も厚く、三品(さんぼん:親王位階の第三位)に叙され、式部卿・中務卿を歴任したが、藤原宗成(式家)が謀反を企て、謀り事が現れて捕えられるや、親王を首謀者と讒言した。そこで母藤原吉子(後述)とともに捕えられて大和川原寺に幽閉され、そこで母子ともに毒をあおって自死した。これも藤原諸家の勢力争いの犠牲となったもので、弘仁一〇(八一九)年に先に削られていた「親王」の号を復した)

③藤原吉子(よしこ/きつし ?~大同二(八〇七)年:前注の通り、桓武天皇の夫人で伊予親王の母。父は右大臣藤原南家是公(これきみ)。延暦二(七八三)年に無位から一気に従三位に叙せられ、夫人(ぶにん)となったが、先の通りの藤原氏の政争に巻き込まれて伊予親王とともに自死した。当時の人々の同情を集めたという。同じく後の弘仁十年にその祟りを恐れて「夫人」の号に復し、承和六(八三九)年九月に従三位が、同年十月にはさらに従二位が贈られている)

④藤原広嗣(?~天平一二(七四〇)年:奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合(うまかい)の子。天平九(七三七)年に従五位下、翌年、大養徳(やまと)守・式部少輔となったが、同年末に大宰少弐に左遷された。天平一二(七四〇)年、上表して政治の得失を論じ、僧正玄昉(げんぼう)や吉備真備らの専権を非難し、政府に排除するよう、直言したが、入れられず、同年九月に乱を起したが、敗れ、肥前松浦郡値嘉島(ちかのしま)で捕えられ、処刑された。後の天平勝宝二(七五〇)年になって、斬刑された松浦郡の、唐津にある鏡神社に、これまた、肥前国司に左遷された吉備真備(後述)によって、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。これは広嗣処刑の後に玄昉が筑紫に左遷され、そこで歿したことから、これを広嗣の怨霊のせいとし、彼の怨霊を鎮めるための建立であった。奈良市高畑町にある新薬師寺の西隣りに鎮座する鏡神社は、その勧請を受けたもの)

⑤橘逸勢(たちばなのはやなり:?~承和九(八四二)年)平安初期の官人で書家。入居(いるいえ)の子で、「橘奈良麻呂の乱」(彼が藤原仲麻呂を滅ぼし、皇太子大炊王を廃して黄文王を立てようと企てたが、密告によって露見、未遂に終わった事件)で知られる奈良麻呂の孫。延暦二三(八〇四)年、遣唐使に従って空海・最澄らと入唐。唐人から「橘秀才」と称賛された。帰国後、従五位下に叙せられ、承和七(八四〇)年に但馬権守となったが、「承和の変」(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢らが謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。事件後に藤原良房の甥である道康親王が皇太子となったことから、藤原良房の謀略とされている)で捕えられ,本姓を除かれて「非人逸勢」と卑称され、伊豆に流罪となったが、護送の途中、遠江で病死した。当時、六十余歳であったという。後の嘉祥三(八五〇)年になって罪を許され、正五位下の位階が追贈れ、仁寿三(八五三)年にはさらに従四位下が贈位された。当時、冤罪を負って死んだことから、逸勢は怨霊となったと考えられて、貞観五(八六三)年五月に行われた神泉苑御霊会で五柱の御霊の一柱として祀られた。彼は空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称される書道の名人で、隷書を最もよくし、平安京の大内裏の諸門の額の多くは彼の筆に成ると言われているが、真跡として確認出来るものは今日殆んど伝わっていない)

⑥文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ 生没年未詳:平安前期の官人。承和六(八三九)年に従五位上、翌年に筑前守(同九年には「前筑前守」となっており、この間任を離れてはいたが、そのまま現地に留まって、来日中の新羅の廻易使李忠らと折衝している)となったが、承和十年、彼自身の従者であった陽侯氏雄(やこのうじお)が主人宮田麻呂が謀反を企てていると密告し(これは或いは新羅使との接触が関係しているとする説もある)、京及び難波宅の宮田麻呂の私邸が捜索を受け、兵具を押収、伊豆に配流された(彼の子らもそれぞれ流罪となっている)。真相は不明だが、前注に出た通り、貞観五年に行われた神泉苑御霊会で祀られており、当時の人々が宮田麻呂に同情的であったことが窺われる)

の六柱に、後、

⑦吉備真備(きびのまきび 持統七(六九三)年或いは九(六九五)年~宝亀六(七七五)年:奈良時代の学者で政治家。霊亀二(七一六)年に入唐留学生となり、天平七(七三五)年に帰朝し、「唐礼」「大衍暦経」などの多くの書籍・器物を将来した。同九年、藤原氏の公卿が相次いで疫病死したため、次第に宮廷内に重きをなした。先に出た天平一二(七四〇)年九月に起こった「藤原広嗣の乱」は真備らの失脚を目論んだもので、後の天平勝宝二(七五〇)年、真備は筑前守に左遷されている。しかし、翌三年、再び、入唐使として渡唐、同六年に帰朝、天平宝字八(七六四)年の「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」に功あり、従三位・参議・中衛大将となり、天平神護二(七六六)年に右大臣に上り詰めた。神護景雲三(七六九)年には「刪定律令」を編纂し、正二位となった。宝亀二(七七一)年、致仕した。地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなったのは近世以前では彼と菅原道真のみである。波乱万丈ではあるが、他の七柱とは異なり、生前の後半生では復権しており、八十一歳の天寿を全うしている。しかも「御霊」とされたのは何故かと考えるに、彼が政治的手腕と才知にずば抜けていたこと以外に、強力な陰陽道のプロであったからではなかろうか。ウィキの「吉備真備」の「伝説」の項に以下のようにある。「江談抄」や「吉備大臣入唐絵巻」などに『よれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果て』、『食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した』とある(なお、『真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる』)。『また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる』。『中世の兵法書などでは、張良が持っていたと』される伝説の道家色の濃い兵法書「六韜(りくとう)三略」の『兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とし』ている。『また、真備は陰陽道の聖典』「金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)」を『唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたと』もされる。『金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表』わす。なお、かの『安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが』、「金烏玉兎集」は『晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている』ものの、『伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた』が、その『ときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書』「文殊結集仏暦経」を『中国に持ち帰ったが、その書が』真備がもたらした原「金烏玉兎集」であるということらしい。また「今昔物語集」には『玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし』、「刃辛抄」では、陰陽道の書「刃辛内伝」を『持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている』とあるからである。因みに、かなり知られた話であるが、「宇治拾遺物語」には、『他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある』のである)

と、「火雷神(ほのいかずちのかみ)」と習合された、

⑧菅原道真(承和一二(八四五)年~延喜三(九〇三)年:言わずもがなであるが、記述のバランスから注しておく。平安前期の官人。政治家・文人・学者として名が高い。是善(これよし)の子で、母は伴(とも)氏。本名は「三」(「みつ」か)、幼名を「阿呼(あこ)」と称し、後世、「菅公」と尊称された。従二位右大臣に至った。承和一二(八四五)年、父祖三代の輝かしい伝統を持つ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ、向学心も旺盛で、貞観四(八六二)年、十八歳で文章生(もんじょうしょう)となり、十五年後の元慶元(八七七)年には文章博士となった。その間、少内記に任ぜられて、多くの詔勅を起草し、また、民部少輔(みんぶのしょう)として朝廷の吏務に精勤する一方、文章の代作や願文(がんもん)の起草など、盛んな文章活動を続け、父是善の没(元慶四(八八〇)年)後は、父祖以来の私塾である「菅家廊下(かんけろうか)」を主宰し、宮廷文人社会の中心となった。仁和二(八八六)年に讃岐守に転出したが、翌年、宇多天皇の即位に際して起こった「阿衡(あこう)事件」(「関白」(この称号が事件の発端)藤原基経と宇多天皇の間で起こった政治紛争)には深い関心を寄せ、入京し、基経に良識ある意見書を提出、左代弁(この事件で後に罷免)橘広相(ひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのであった。寛平二(八九〇)年、国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢され、その後、参議・左大弁に登用され、朝政の中枢に携わることになった(その現実的政策としてよく知られるのは「遣唐使の廃止」である)。その間も官位は昇進を続け、中納言・民部卿・権大納言・春宮大夫(とうぐうだいぶ)・侍読などの任に就いている。寛平九(八九七)年、宇多天皇は譲位したが、その遺誡により醍醐天皇は藤原時平とともに道真を重用し、昌泰二(八九九)年、時平の左大臣に対して、道真を右大臣に任じている。しかし、当時の廷臣には、儒家としての家格を超えた道真の栄進を嫉む者も多く、昌泰三(九〇〇)年には文章博士三善清行から辞職勧告の諭しを受けているが、道真はこれを容れなかった。また、他氏を着実に排斥してきた藤原氏にとって、道真は強力な対立者と見做されており、延喜元(九〇一)年、従二位に叙してまもなく、遂に政権と学派の争いの中、時平の中傷によって大宰権帥(ごんのそち)に左遷されてしまう。その後。大宰府浄妙院(俗称「榎寺(えのきでら)」)で謹慎すること二年、天皇の厚恩を慕い、望郷の念に駆られつつ、配所で没した。その晩年が悲惨であっただけに、死後の怨霊に対する怖れは当時から非常に強かった。それに関わる説話は「大鏡」巻二の「時平伝」や「北野天神縁起」などに見られる。時平は延喜九(九〇九)年に享年三十九歳の若さで死去するが、道真の霊は死後、天満自在天となり、青竜と化して、時平を殺したと噂された(ここまでの主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)ウィキの「菅原道真」によれば、『菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず』、『道真の政敵藤原時平が』『病死すると、続いて』、延喜一三(九一三)年には『道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜』二三(九二三)年死去)、『次いで』、『その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長』三(九二五)年)死去)が『次々に病死』した。さらには「北野天神縁起絵巻」で知られる大災厄(カタストロフ)が起こる。延長八(九三〇)年六月二十六日(ユリウス暦九三〇年七月二十四日)に『朝議中の清涼殿が落雷を受け』、「昌泰の変」に『関与したとされる大納言藤原清貫』(きよたか)『をはじめ』、『朝廷要人に多くの死傷者が出た』『上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された』とある。ウィキの「清涼殿落雷事件」は、より詳細なので引用すると、『この年、平安京周辺は干害に見舞われており』、この日、『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において』、『太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後』一『時頃より』、『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ』一『時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した』。『この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世』(たいらのまれよ)『も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく』、『死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包』((みぬのただかね)『が髪を焼かれて死亡。紀蔭連』(きのかげつら)『は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁』(あずみそうにん)『は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も』二『名死亡した』。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来』、『宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため』、『大混乱となった。穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は』、『清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後』(延長八年九月二十九日)『に崩御することとなる』。『天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』とある。なお(以下の主文は再び小学館「日本大百科全書」に戻した)、道真はそれに先立つ、延喜二三(九二三)年に従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとして、その七十年後の正暦四(九九三)年)には正一位左大臣が、後の同年中には太政大臣が追贈されている。こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上、その子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟である忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる。清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神と強く結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野の地に北野天満宮を建立、道真が没した太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を、安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほどは、大災害が起きる度に「道真の祟り」として恐れられた。こうして「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることとなったが、やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に「天神」は「学問の神」として信仰されるように至ったのである)

の二座を加えたものである。また、以上の御霊(怨霊)を祀った各神社をも指すが、特にこれらを「八所御霊(はっしょごりょう)」として纏め、現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入の上御霊神社及び中京区寺町通丸太町下ルの下御霊神社の両社に祭神として祀られたものがその代表である。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でも特に名高く、一方で京都御所の産土神(うぶすながみ)としても重要視された。

「佐倉宗吾」佐倉惣五郎(生没年未詳)の通称。江戸前期の義民。姓は木内。下総国印旛郡公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市台方(だいかた))の名主。彼が指導した闘争の経過や彼の役割については、「地蔵堂通夜(つや)物語」や「堀田(ほった)騒動記」などの実録文芸に伝えられるだけであるが、それらによれば、佐倉領主堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)の始めた新規の重課の廃止を、全領の名主たちが一致して郡奉行(こおりぶぎょう)に、次いで国家老(くにがろう)に要求したが、拒否され、江戸に出て、藩邸に訴えても、取り上げられず、惣代六人で、老中に駕籠訴(かごそ)したが、これも却下され、ついに惣五郎一人が将軍に直訴した(「通夜物語」は承応二(一六五三)年とする一方、「騒動記」では正保元(一六四四)と大きく異なっている)。この要請は実現されたものの、惣五郎夫妻とその男子四人は死刑に処せられた。しかし後、その祟りによって堀田家は断絶したというのである(実際には断絶しそうになったが、断絶などしていない。事実を記すと、堀田正信は後の万治三(一六六〇)年十月八日、突然、「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛で提出し、無断で佐倉へ帰城してしまい、幕法違反の無断帰城について、幕閣で協議がなされ、正信の上書や行動に同情的意見もあったものの、老中松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」(父・兄弟・妻子等の親族へ及ぶ処罰)に当たるが、狂人ならば免除出来るという理屈)で合意がなされ、同年十一月三日に処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主脇坂安政に預けられた。これは実は唐の松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたからともされるが、詳細は不明である)。しかし後年(正信の没後。正信は、安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主酒井忠直に預け替えられたが、延宝五(一六七七)年に密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し、それが発覚、これによって嫡男正休(まさやす)と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主蜂須賀綱通に預け替えられた。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍徳川家綱死去の報を聞き、この再々配流先の徳島にて鋏で喉を突いて自死している)、正信の亡き父正盛の功績によって長男正休に、お家再興が許されており、正休は天和元(一六八一)年に大番頭、翌年三月には徳川綱吉の子徳松の側役に任じられ、一万石の所領を与えられ、吉井藩主となった。その後は奏者番となり、近江宮川藩に移封された。彼の子孫は明治までしっかり続いている)。これらの物語には、矛盾したり、事実に反する点もみられるので、惣五郎非実在説や千葉氏復興運動とみる説なども唱えられているが、堀田氏時代の公津村名寄(なよせ)帳に、惣五郎分二十六石余の記載があり、正徳五(一七一五)年成立の「総葉(そうよう)概録」が、堀田氏時代に「公津村の民、總五(そうご)、罪ありて肆(さら)せらる時、自ら冤(えん)と称し、城主を罵りて死し、時々祟りを現はし、遂に堀田氏を滅す。因りて其の靈を祭りて一祠(いつし)を建て惣五宮と稱す」という説を伝えていることから、惣五郎の実在と処刑は否定し得ない。惣五郎の直訴状と称するものは後世の作とみられるが、高一石につき一斗二升の増米と小物成(こものなり)の代米支給停止に反対するという主要な要求は初期的であり、安永五(一七七六)年の「惣五摘趣(てきしゅ)物語」が、惣五郎が藩と対立した真因と主張する「仮早稲米」も、これまた初期に特徴的な為替米(藩米の領民への販売)とみられるから、惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定し得ない。その物語が、江戸中期以降の百姓一揆の成長のなかで、全藩一揆型の物語に成長したと見るべきであろう(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『佐野常言の「世直(よなほし)大明神」』江戸中期の旗本佐野政言(さのまさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四(一七八四)年)の誤りであろう。ウィキの「佐野政言」によれば、通称は善左衛門。『目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。妹に春日広瑞室、小宮山長則室』がおり、十『姉弟の末子で一人息子であった』。『佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし』、『代々』、『番士を務めた家であり、政言は』六『代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め』、安永二(一七七三)年『に致仕し、代わって』八『月に政言が』十七『歳で家督を相続(』五百『石)した』。安永六(一七七七)年に大番士、翌年には新番士となった。ところが、天明四(一七八四)年三月二十四日、『江戸城中で、若年寄・田沼意知に向かって走り出しながら「覚えがあろう」と』三『度叫んでから』、大脇差を抜いて『殿中刃傷に及んだ。その』八『日後に意知が絶命すると、佐野政言には切腹が命じられ、自害して果てた。葬儀は45日に行われたが、両親など遺族には謹慎が申し付けられたため出席できなかった。佐野家も改易となったが、遺産は父に譲られることが認められた。唯一の男子である政言には子がなかったこともあり、その後長く佐野家の再興はなかったが、幕末になって再興されている』。『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために』、『藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を』、『意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが』、『一向に昇進出来なかった事、等々』、『諸説あったが、幕府は乱心として処理した』。『田沼を嫌う風潮があった市中では』、『田沼を斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた』とある。

『伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」』安土桃山時代から江戸前期に生きた武将で伊達家家臣(家老)山家公頼(やんべきんより 天正七(一五七九)年~元和六(一六二〇)年)の御霊(みたま)に対する愛媛県宇和島を中心に四国・中国地方にある信仰及びその御霊を祀る和霊神社(愛媛県宇和島市和霊町(ちょう)のここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「山家公頼」によれば、公頼は通称は清兵衛。『最初は最上氏に仕えていた』が、『後、伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子・秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・』一千『石)として付けられた』。『初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩』十『万石のうち』、三『万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり』、『幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした』。『こうした行為が秀宗や』、『桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた』。『また』、『公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった』。元和六(一六二〇)年、同年の一月の『大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が』公頼が『不正をしたと秀宗に讒訴したため、公頼は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した』。『これは工事の進捗状況の報告』に於いて、『公頼と桜田の報告に齟齬があり、公頼が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだ』もの『とされ』ている。同年六月二十九日、『秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が』、『山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた』。『享年』四十二であった。『この襲撃事件で』は、『公頼のみならず、次男と三男も斬殺され』、九『歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された』『(なお、あまりに幼子であったため』『井戸には祠が祭られた)。さらに娘婿の塩谷内匠父子』三『人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた公頼の母と妻だけだった』。『長男は仙台にいたため無事』であった。ところが、『公頼の死後、宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し』(後の別引用参照)、『宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松の早世、秀宗の発病などは』、これ、『全て』、『公頼の祟りとして恐れられた』。『このため』、承応二(一六五三)年に『秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった』。但し、『怨霊伝説がある一方で、公頼には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり』、『宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている』。『公頼は財政難の宇和島藩において』、『質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせず』、『できるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた』。『ただ、そのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた』のであった。『遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺の西方約』六十メートル『の場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳の四隅を切断され、抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど、領民に慕われたことが伺える』とあり、ウィキの「和霊神社」には、『当社の分霊を祀る神社が、四国・中国地方を中心に日本各地にある』とある。他にウィキの「和霊騒動」もあり、かなり詳しい。それによれば、『事件後』、寛永九(一六三二)年、『秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃』元親『が圧死』し、『その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し』たため、『宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神としたが、その甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の』六『男、長男宗實が早世、次男宗時が病没、飢饉や台風、大地震が相次いだ。このことを「清兵衛が怨霊となり』、『怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は承応二年に『檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年』六月、『神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした』。現在のそれは享保一六(一七三一)年、第五代『藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた』ものであるとある。

「源重之」「千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする」源重之(生没年未詳)は水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首」の彼のページによれば、『清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。子には有数・為清・為業、および勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がいる。名は知れないが、男子のうちの一人は家集』「重之の子の集」を残している。『康保四年』(九六七)『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三年』(九七五)『正月、左馬助となり、貞元元年』(九七六)に『相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二年』(九九一)『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元年』(九九五)『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年』(一〇〇〇)『頃、六十余歳かという』とある。この一首は「続詞花和歌集」の「巻十九 物名」に、

   たちまのくになるいつしの宮といふ
   やしろにてなのりそといふものを題
   にて人の歌よめといひければ

 千早ふるいつしの宮の神のこま夢なのりそねたゝりもぞする

とあるもの。以上は「群書類従」のグーグルブックスの画像から起こした。出石神社(いずしじんじゃ)は、「いづしの宮」は現在の兵庫県豊岡市出石町(ちょう)宮内にある出石(いずし)神社。旧但馬国一宮。柳田國男は何も言っていないが、「なのりそ」にはもう一つの意味が掛けられてある。則ち、海藻の「なのりそ」=「神馬草(藻)」である。則ち、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)である。「ほんだはら」は「ほだはら」で「穂俵」の漢字を当てて、その気泡体部が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。ここではそうした神饌として供されることも多い「神馬藻(ほんだわら)」もハイブリッド(「神馬」だぞ!)に掛詞となっていると考えてこそ、柳田國男の図に当たったと言うべきと私は思う。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文及び私の注も参照されたい。

「鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事」鋳物師は錬金的に「火」を自在に操り、「火」は「日」に通じ、彼らは古代より祭祀に用いたと考えられる銅鐸や鏡などの神具、仏教伝来以降も梵鐘などの仏具の製造に直接に関わっていたから、この謂いはすこぶる腑に落ちる。

「姬蹈鞴(ひめたゝら)」媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)のことであろう。「日本書紀」に登場する女神(人物)で、初代天皇神武天皇の初代皇后で、「古事記」の「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に相当する。ウィキの「ヒメタタライスズヒメ」によれば、『伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いて皇后となり』、第二『代天皇の綏靖』((すいぜん)『天皇』(実在性は乏しい)『を産んだとされている』。名の由来は諸説あるが、その一つに、『名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある』とし、『「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説』の他に、『金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある』。『小路田泰直(奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」』(彼女の当初の名は「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ/ほとたたらいすすぎひめ)」である)『は陰部を指すとともに火床のことでもある』、『すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される』。『吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている』。但し、『本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった』。『彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという』。『「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある』とある。

個人ブログ「UFOアガルタのシャンバラ」の「沖縄の精神科の病院にはときどき神がかかった女性も診療にくる」に、蛭川立著「彼岸の時間 “意識”の人類学」(二〇〇二年春秋社刊)からの引用として、『沖縄の精神科の病院には、ときどき、神がかかった女性も診療にくる。そういうときには、この病院ではカルテに「カミダーリ」(巫病』(ふびょう:呪術者(シャーマン)が真にシャーマンになる過程(成巫過程)に於いて罹患する心身の異常状態を指す語)『)と書いて、近隣のユタを紹介したりもしていた。「ソゾ(』統合失調症『)には薬が効くけど、ターリ(巫病)には効かないからね、薬を出してもおさまらないさ」と、ドクターは語っていた』。『人がユタになるとき、沖縄ではだいたいある決まったコースをたどる。まず、「タカウマリ(高生まれ)」という先天的な資質(運命?)があると考えられている。そして、大人になってから「カミダーリ(神垂れ?神祟り?)」とか、「カミブリ(神触れ)」という、心身の異常を経験する。これはだいたい』二十歳から四十『歳ぐらいの女性に起こることが多い。病気や家庭の不和など、不幸な出来事がきっかけになる場合が多いが、特別なきっかけがなく』、『突然』、『起こることもある』。それは『医者に行っても治らない。自分でも意味が分からない場合は、ベテランのユタのところに相談に行く、先輩ユタは、お告げの主が誰なのか、何代前の祖先なのか、どういう神様なのかをみきわめ、それを拝むように指令する。守護霊的存在を特定してそれを拝むようになると』、『カミダーリはおさまり、かわりに必要に応じて先祖や神のメッセージを受け取ったり』、『病気を治したりすることができるようになる。こうしてユタが再生産される。はじめは日本人は戸惑うらしいのだが、必要なことは神の声が聞こえてきて助けてくれるというものらしい』。『カミダーリの症状は、妄想型の』『統合失調症』『の幻覚、妄想状態と似ているが、個々の点をみると』、『違っているところも多い。カミダーリは圧倒的に女性に多いし、同じ幻覚でも』統合失調症『では幻聴が多いが、カミダーリでは幻視が多い』。『アメリカでは近年、こうした巫病状態を霊的危機と呼んで、いわゆる精神病とは区別しようという考えも出てきている』とあった。

「楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか」楠木正成(永仁二(一二九四)年?~延元元/建武三(一三三六)年五月二十五日)と弟の正季(?~兄に同じ)の兄弟。「太平記」巻第十六の「正成兄弟討死の事」のシークエンスを言っている。所謂、後世、「七生報国の誓い」と言われるようになるそれである。以下に引く(底本は新潮日本古典集成を参考に恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

正成、座上に居つつ、舍弟の正季に向かって、

「そもそも最期の一念に依つて、善惡の生を引くといへり。九界(くかい)[やぶちゃん注:仏教で言う如来の世界を除いた「迷い」の世界を指す。]の間(あひだ)に何が御邊の願ひなる。」

と問ひければ、正季、

「からから。」

と打ち笑うて、

「七生(しちしやう)まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ。」

と申しければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、

「罪業深き惡念なれども、われもかやうに思ふなり。いざ、さらば、同じく生(しやう)を替へて、此の本懷を達せん。」

と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕に臥しにけり。

   *

「障礙神(しやうげしん)」呉音で読んだ(「ちくま文庫」版もそれ)。漢音なら、「しやうがいしん」である。謂わば、対極の二面性を持った荒神(こうじん)で、心を籠めて祀れば、その「義俠心」からそれを成就せんとする一方、少しでも不敬を働いたり、ないがしろにすることがあれば、逆に大きな障害(=障碍=障礙)を齎して、命さえ危うくなるタイプの古典的な荒ぶる神のことである。柳田國男は「眞言の佛法」と言っているが、代表的なそれは、天台宗の摩多羅神(またらじん:摩怛利神(またりしん))である。

「境堺(きやうかい)」特定の場所。後に出る建物の「門」や城壁とか、「川の堤」や橋である。道祖神や「塞の神」との属性との強い親和性が認められる。

『「人柱(ひとばしら)」の話』私の南方熊楠「人柱の話」(上)・(下)」(平凡社版全集未収録作品)を是非お薦めする。そこにもリンクさせてあるが、私の古いブログ記事「明治6年横浜弁天橋の人柱」も、知らない人は慄然とするであろう

「妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指」この日本語自体がよく判らないが、これは西洋の魔女の秘法か何かのように思われる。処刑された罪人の手を切り取ってミイラにしたものは西洋の黒魔術では、強盗がそれを持って家に侵入すれば、家人には盗人の姿が全く見えなくなるというのを読んだ記憶があるからである。

「食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸」蠱毒(こどく:古代中国に於いて用いられた動物を用いた呪術)の一つとして、よく知られたものである。本邦でも昔から知られていた。ウィキの「犬神」にも出る。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術』(蠱毒の異名)『が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつ』くが、『これを焼いて』、『骨とし、器に入れて祀る。すると』、『永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一『匹に魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある』。『大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売ったという霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』とある。

「天滿大自在天神」没後の菅原道真を神格化した呼称。ウィキの「天満大自在天神」が異様に詳しい。

「新田義興」彼の以下の話は既出既注。]

2019/06/05

『散文詩』を讀む人々のために(註釋の第二として) 生田春月 /「ツルゲエネフ(生田春月訳)」全電子化~了

 

    『散文詩』を讀む人々の

    ために(註釋の第二として)

               譯   者 

 此の老年の憂欝と未だ消滅せざる靑春の若々しさとのあやしく織り交ぜられてゐる美しい哲學、深遠な詩のエッセンスたる小さな力ある書物は、ツルゲエネフがその晚年の五年間(一八七八年――八二年)に、自身の並びに社會の日常生活を觀察し思考するの餘、折りにふれてそのノオトに書き留めて置いた寫生や空想や考察の中から、五十篇だけを選んで、一八八二年、露西亞の大雜誌「歐羅巴の使ひ」(ウエストニク・エフ口ピイ)の十二月號に於て發表したものである。その主筆のもとに送られた原稿には、もと何等の題も指定されてゐなかつた代り、その表紙に覺え書きめかしく“Senilia”と云ふ一語が書き流してあつた。これは羅甸語で老衰の義である[やぶちゃん注:底本は「考衰」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]、されば鷗外陣士もこれを「耄語」と譯してゐられたやうに覺えてゐる。獨譯者ランゲは云ふ、ツルゲエネフは人も知る如く、極めて謙遜な人である、それ欽この過謙の語を書き記したものであらうが然しこの作品には最も適當しないものである、何故と云ふのに。これには精神的老衰の痕跡すらも認められないからであると。そして彼は前記雜誌の主筆スタシユレヰツチが、作者の手紙の中に記されてゐる「散文詩」と云ふ言葉を、此の無韻ではあるが眞に詩的な考へ深い作品の表題に定めたのを頗る當を得た處置だと云つて、自らその名によつて獨譯を發表した。此譯にも散文詩の名を棄て得たかつたのは、それが既にこの名によつて一般に知られてゐるのと、今一つは散文詩なる文字に對する一種の愛着からであつた。けれども、ツルゲエネフがもとかの非常な謙遜な題を眼中に置いてゐた事だけは述べて置く必要があると考へる。

 ツルゲエネフはその原稿に添へて、スタシユレヰッチに與へた手紙の終りに左のやうに記してゐる、『……讀者が此の「散文詩」を一息に讀過しないようにと望みたい。でないと、その結果は恐らく退屈を來して、――そして「歐羅巴の使ひ」はその手から取落されてしまふであらう。むしろ一篇づゝ讀んで頂き度い、今日はこれ、明日はあれと云ふ風に――さうしたならば、多分その中から何物かがその胸に刻み込まれるであらうと思ふ……』と。全く、このやうな作品は一度や二度卒讀したのみでは十分でないのである。靜かな瞑想の中から生れたものは、また靜かに落着いて味はれなければならない。

 

 この集に對する大思想家及び大批評家の批評。

 クロポートキンは云ふ、『これは一千八百七十八年以降、彼の私生活もしくは公生活の、種々の事實から受けた印象に基いて書き留めた「飛ぴ行く思ひつき、思想、影像」である。これらは散文で書いてはあるが、優れた詩の眞の斷片であり、或るものは眞の寶玉である。或るものは深刻な剌戟を與へ、優れた詩人達の最もよい詩の樣に印象的である(「老婆」「乞食」「マーシヤ」「何と美しい、何と鮮かな薔薇だらう」)。而も一方には(「自然」「犬」)ツルゲエネフの哲學的思想を何よりも明かに語つたものがある』(田中純氏の譯による)

 ブランデスはこれを『立派な散文集』と嘆賞し、その「自然」を引き來つて、ツルゲエネフが沈欝の特性を認め、ゴオゴリ、ドストエフスキイ、トルストイと比較し、『獨りツルゲエネフは哲學者である』と斷じ、また云ふ、『抒情的な、空想的な一要素がそれらの中に最も詩的に閃いてゐると云ふ事を除いては、同樣に靑年時代の諸作より□[やぶちゃん注:脱字。「遙」或いは「更」か。]に深い憂愁を含んでゐる。此處に、最後に、彼は生の祕密に面して、それを小止みもない悲しみの中に象徵や幻影を以て設明してゐる。自然は頑固で冷淡である、それならば人をして受することを怠らしめるな。此處にはツルゲエネフが、ハムブルグからロンドンヘの寂しい旅行中、哀れな、いぢけた、鎖に繋がれた小さい猿の手をとつて一時間も坐つてゐる場面がある――此處には如何なる信仰書に於けるよりも更に眞實の信仰がある」(瀕戶義直氏の譯による)

 この小册子を讀んで先づ目に附くものは、作者の厭世思想である、それは最も深酷なニヒリズムである。人間の微小を二巨山によつて語らしめた「會話」、その宿命觀を披瀝した「老婆」、一瞬に於て人生の無常を觀じた「髑髏」、特にブランデスをして『ツルゲエネフにとつてはそれは、人類の理想は――正義も、理性も、優越も、善も、幸福も――悉く自然に對しては無關係の事である、そして決してそれ自身の精紳力で確立するものではないと云ふ事を理解した思想家の沈欝である』(瀨戶氏譯)云はしめた「自然」、それに老年の悲愁を託した「老人」、「明日は明日は」、「何を私は考へるだらう」。そして彼は常に常に死と云ふ大問題にはへつて來る。そして「世界の旅り」をさへ夢みてゐる。けれどもそれが何故激烈に心を打擊しないであらう? 何故にかくも溫かく柔かく心に沁み込むであらう? 何となれば、それは驚くべく沈靜な悲哀であるからである。[やぶちゃん注:この末尾は読点であるが、特異的に句点に訂した。]

 それはやはらかな少女の手のやうに撫でさすり、薄暗に於て靜かな落着いた聲音で囁くからである。また眞理に美くしい衣裳を纒はしめてゐるからである。(赤裸の眞理は決して人の心を動亂させないでおくものでない)とりわけ彼の厭世思想を特徴づけてゐる愛の教の爲めである。溫かい慈悲と慈愛の心のためである。たとへば、「乞食」、「雀」、「海上にて」、「鳩」。

 プウルヂエは云ふ、『彼の厭世思想はしばしば誠に强かりしも甞て人嫌に至れることはなかつた。思ふに、彼は方に斯くの如く人嫌と當然なるべきであつたらう、凡て厭世思想は、理想と現實との對比なる自然に對する呪咀なれば。然して一面に思想は人心の所產物なる故に、論理的に云はば、此の世を呪咀する權利を得んためには、此の心を激昂せしむるを要すべし。されど彼は決して斯くの如きことはなかつた。……彼は厭世思想家にして然も慈愛に富める人である。凡ての存在物が宿命的に老衰する樣は、彼をして致命の罪に處せられし可憐なる生物を、無辜の犠牲者なりと訴へしむるに至つた。……かくてツルゲエネフは其の作を靉靆たる慈愛の衣を以て包むに至つた。此れまさにその愛を捧ぐる女がその生涯の癒し難き不幸を語るその告白に面せる戀人の心の如くなるべし」(山田手捲氏の譯による)

 ブリュクネルは云ふ、『彼の厭世思想は後に至つてはじめて内面外面の經驗からして形成されたものではなく、彼に生得のものなのである。その上、その非常なる教養が更にそれを助成した。しかもその知識たるや。たとへぱベリンスキイの如きかき集められたものではないのである。……其處に人道的精神が加はつて來る――曾て靑年時代にバルザックが彼を親しましめなかつたのに反して、ジヨオジ・サンドが彼の崇拜を受けたのもその精神のためである。』

 ツルゲエネフは人間の醜惡と痴愚と利己主義とを深く感じて悲痛の思ひに打たれた。その感情が反語となり機智となりユウモアとなつて現れたものが「滿足せるもの」、「處世法」、「愚物」、「エゴイスト」、「友と敵と」、「神の饗宴」などであるが、然し彼は、溫厚なる彼は、それをも堪へようとする、『私を打て、然し健康に幸福に生きよ!』と言ふことが出來るのである(愚者の審判)。ウレフスカヤと共に何人(なんぴと)に感謝されなくとも怨むことをしないのである。

 この外、この集には蜂蜜も鋏けてはゐない。それは最も詩的で、薔薇の香り

のやうに喜ばしい。「薔薇」、「おとづれ」、「空色の國」(幸福の領と譯した方がいゝかも知れない)。然しそれらもまた憂欝な黑い帷に織り出されたる薔薇の花である。

 

 ツルゲエネフの晚年は、あゝ何等の苦痛、何等の孤獨! 彼は丁度かの獨逸の薄倖なロマンチシスト、彼が靑年時代に心醉してゐたかのハインリヒ・ハイネと相似たる運命に遭遇した。丁度同じ巴里で、丁度同じ death-in-life を彼は送らねばならなかつた。痛風だと思はれてゐたか實は頑强な病氣、脊髓の癌腫のために癈人のやうになつて、最後の數年間――丁度彼がこの散文詩を書いた時分である――を、ハイネの所謂蒲團の墓の中に橫はらねばならなかつた。そして彼は絕間なしに考へた、瞑想した、夢想した、囘想した、常に人生の謎に面して、人生の最後の大きな謎、――死に相面して。それ放に此悲痛な詩篇! 然り、この詩篇を讀む人は、この作者がかゝる境遇にあつたことを考へなくてはならない。彼が多年敬愛してゐて、その遺產の相續人に定めたヴィアルドオ夫人、彼のために無くてはならぬ人であり、彼に對して骨肉も及ばぬ世話を見てくれたそのヴィアルドオ夫人すら、後にはさまでの注意を彿はなくなつたのである。そして彼は孤獨に、愈々孤獨にその二二階に寢てゐたのだ。この事を想うてこの作品に對する時、一層力强く動かされずにゐられない!

 ツルゲエネフは、この五十篇を發表した翌年、卽ち一八八三年にその第二の故鄕なる巴里で逝いた――年は六十五歲であつた。

 

 ツルゲエネフの言葉の中でも、とりわけどうしても忘れ去ることの出來ない二箇を終りに添へて置きたい。

『人生は冗談ではない、慰みではない、勿諭快樂ではない……人生は重い苦痛である。放棄(あきらめの義)、永久の放棄――それが人生の祕義である。鍵である』フアウスト

『人生はただ人生のことを思慮せず、そして人生より何物をも要求せずして、安んじて人生が附與する僅少の賜物を受け、安んじてその賜物を利用する人を欺かない。汝は出來るだけ前に進め、しかし足が疲れたなら路傍に坐して、悲むことなく、また猜む[やぶちゃん注:「そねむ」。]ことなく、通行者を眺めるがよからう、彼らも遠くは行くまい……』通信 (昇曙夢氏譯による)

 

 

              ――了――

[やぶちゃん注:「然りは原典では「○」(特異的に大きな丸印)の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。注は附さない。なお、本文中で一部の個所のポイントを落としてあるが、無視した。

 以下、奥附。罫線や一部記号を省略、字配・ポイントは一致させていない。]

 

大正六年六月十三日印刷

           (定價金五十五錢)

大正六年六月十八日発行

[やぶちゃん注:印刷日は「十三」の「三」を手書きで「二」に訂正してある)]

散  文  詩

[やぶちゃん注:以上の書名は横書(右から左)で左右を▲の一辺で挟んである。]

著 作 者    生  田  春  月

發 行 者 東京市牛込區矢肅町三番堆申の九

         佐  藤  義  亮

發 行 所 東京市牛込區矢來町三番地

        新  潮  社

           八〇九番

       電話■町

           八九九番

[やぶちゃん注:「■」は字が擦れて判読不能。「番」か。以下振替は横書(同前)。]

   振替(東京)一七四二番

印 刷 所  東京市神田區宮本町五

       電話下谷、四〇六七番

         新潮社印刷部

     印 刷 者  高 橋 治 一

 

露西亞語 ツルゲエネフ(生田春月訳) / 「散文詩」本文~了

 

    露 西 亞 語

 

 疑ひ惑ふ日にあつても、國運を思うて心傷む日にあつても、汝のみは我が杖であり柱である。おゝ、偉大なる。信實なる、自由なる露西亞語よ! 汝がなかつたならば、いまの祖國のさまを見て、どうして絕望せずにゐられよう? 然しながら、かやうな言葉が、偉大なる國民に與へられたものでないとは誰か考へ得られようぞ!

    一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:本篇を以って底本の訳詩本文は終わっている。

 なお、この後に「註釋」が続くが、そこで掲げられてあるものは、既にそれぞれの各詩篇末に各個転配済みである。さらにその後には生田春月による「『散文詩』を讀む人々のために(註釋の第二として)」という解説が続く。次回はそれをここに電子化する。]

祈禱 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    祈  禱

 

 その祗るところが何であらうとも。人間はすべて奇蹟を祈るのである。どんな祈禱でも皆これに歸する。曰く『大いなる神よ、二二が四たることなからしめ給へ』

 たゞかゝる祈禱のみが人格ある者より人格ある者に捧ぐる眞の祈禱である。宇宙の靈に祈り、上天に祈り、カントの、ヘエゲルの、實體無形の神に祈るといふ事は、あり得べき事でもなく、また考ふべからざる事である。

 然し人格あり、生命あり、形體ある神なりとも、二二が四たることなからしめ得べきか?

 すべての信者は『然り』と答へなければならぬ、また自らそれを信じなければならぬ。

 然し理性が彼をしてかゝる不合理に反抗せしめる時はどうする?

 此の時シエイクスピアがその助けに來る。曰く『ホレエシオよ、天地の間には汝の哲學で夢みられるよりはより多くの事物(もの)がある。』

 しかも人々眞理の名によつて、なほも駁し來つたならぱ、かの有名な問ひを繰返しさへすれぱよい、曰く『眞理とは何ぞや?』

 さらば、我等盃を舉げて樂しまう、そして祈禱をしようではないか。

    一八八一年七月

 

カント、獨逸の大哲學者、「純正理性批判」によつて哲學に一時代を畫した、近世哲學の鼻祖である。】

ヘエゲル、カントに續いて起つた大哲學者、ツルゲエネフが獨逸に留學して學んだのはこのヘエゲル哲學である。】

二二が四とは理窟に合つた事、當然の事、それが二二が五にでもなれぱ、これ卽ち奇蹟である。あり得べからざる事が卽ち奇蹟。】

シエイクスビアは有名な沙翁、英國の大戲曲家で、このホレエシオよ云々の文句はその「ハムレツト」中にあるハムレツトの言葉である。ホレエシオはハムレツトの友人の哲學者。】

眞理とは何ぞや、これは猶太の代官ピラトが基督に反問した文句である。】

[やぶちゃん注:「然り」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]

我等なほ戰はん ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    我等なほ戰はん

 

 實に何でもない事が、時とすると人間をまるつきり變へてしまふものだ!

 憂愁の思ひに暮れて、或日私は街道(かいだう)を步いてゐた。

 私の心は重苦しい氣遣はしい感情に壓し附けられ、意氣沮喪の極に達してゐた。ふと頭(かしら)を擡(もた)げると……私の前には二列の高い白楊の間を街道(みち)は矢のやうに遠く走つてゐる。

 そしてそれを越えて、その道越えて、十步ばかり彼方(むかう)に、夏の眩しい太陽の黃金の光の中を、一群れの雀が列をつくつて飛んでゐた、遠慮氣もなしに、をかしげに、自ら恃(たの)むところがあるやうに!

 とりわけてその中の一羽は、必死の力を籠めて、わき道をはね、小さな胸をふくらまし、倣然として囀つてゐた。まるで何一つとして恐ろしいものがないと言ふやうに! 實に健氣(けなげ)ま小戰士ではある!

 しかも其時、空高く一羽の鷹が輪や描いてゐて、その小戰士を餌食(ゑじき)にしようとする風であつた。

 私はそれを見て、笑みをうかべ、身ぶるひして、憂愁の念は忽ち消え失せた。勇氣、剛膽、生存慾、ふたたび私の胸に還(かへ)つて來た。

 我が上にも、飛べよ我が鷹……

 我等もまた更に戰はう、何の恐ろしいことがあるものか!

    一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「我が」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]

僧 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私は隱者で聖者である一人の僧を知つてゐた。彼はたゞ祈禱の淨樂にのみ生きてゐた。そして祈禱に專念して、寺院の冷たい石疊の上に立ち盡してゐた、その足が膝の下から痺(しび)れて、柱のやうに無感覺になつてしまふまでも。しか彼はそれを感じなかつた、彼は立ち盡して祈禱しつゞけた。

 私は彼の心を知つてゐた、或は彼を羨んでゐたであらう。然し彼もまた私の心を知つてゐた、そして私を責めるやうなことはなかつた、私は彼の法悅に達し得なかつたけれども。

 彼はその憎むべき『自我(エゴオ)』を滅却する事に成功したのである。私もまたさうであるが、然し私が祈禱を顧みないのはあながち利己心から來たものではない。

 私の『自我(エゴオ)』は、多分彼のよりは一層私にとつて重苦しく、厭はしいものなのであらう。

 彼はすでに自分自身を忘れる方法を見出した……然し私もまたその方法を見出してゐる、いつもいつもと云ふわけではないけれども。

 彼は虛僞(いつはり)を言ふ人ではない……然し私もまた虛僞(いつはり)を言ふものではない。

    一八七九年十一月

 

、ツルゲエネフの見出したものは恐らく藝術であらう。】

 

止まれ! ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    止 ま れ !

 

 止(とゞ)まれ! 今私がお前を見るまゝに、永久に私の記憶に留(とゞ)まれ!

 お前の脣から最後の感激の聲は逃(のが)れ出て了(しま)つた。お前の眼には光も輝(かゞやき)もない。其眼は幸幅に壓せられたやうに曇つてゐる、それを現すのがお前の喜(よころび)であつたかの美――其方へお前が勝誇つた樣でもある弱つた手を差伸すやうに思はれたかの美――を有してゐると云ふ幸福な意識に壓せられたやうに曇つてゐる!

 何と云ふ光が――太陽の光よりも更に淸らかに更に氣高くも――お前の手足のまはりに、お前の着物のもつとも小さな襞(ひだ)の上までも注がれたであらう?

 いかなる神の愛撫の息吹(いぶき)がお前の波うつ捲髮(まきがみ)を弄んだであらう?

 その神の接吻はお前の大理石のやうに蒼白い額になほ燃えてゐる!

 これぞ祕密のあらはれである、詩歌の、人生の、戀愛の祕密のあらはれである! これぞ、これぞ不朽そのものである! これを外にして不朽はあり得ない、またあるを要しない。此の瞬間に、お前は不朽である。

 それは消えてしまふ、この瞬間は――そしてお前は再び一塊の灰、一人の女性(をんな)、一人の子供となつてしまふ……けれどもそれが何であらう! この瞬間に、お前は超越したのである、あらゆる無常(むじやう)のもの、流轉(るてん)するものを超越したのである。此のお前の瞬間は永遠に不滅であらう。

 止(とゞ)まれ! 而して私をもお前の不朽にあづからしめよ、私の靈魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])の中にお前の永遠の美を反映せしめよ!

    一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「お前」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]

常陸帶 すゞしろのや(伊良子清白) / 橫瀬夜雨との合作

 

常 陸 帶

 

  馬追の鈴

 

紫深き朝より、

くれなゐあする夕まで、

七度かはる筑波やま、

峯の色みて馴染みたれ。

 

產湯すてたる芒原、

馬追ひくれば大寶の、

沼におち行く山の影、

よする浪にぞ碎かるゝ。

 

勝鬨あげし八州は、

稻葉の波やうづむらん、

武藏鐙の花やかに、

妻どひしけむ夢の跡。

 

手綱牽くには少女子の、

艶ある髮の似合はずば、

一葉の舟の棹さして、

渡守る兒にやとはれうか。

 

樣は箱根の秋風に、

八里の霧や鈴の音、

轡執るのがつらいとて、

茨の中を行き暮らし。

 

富士は白絹杉林、

紅蓮くづるゝ秋の日を、

背にうけて雲遠き、

常陸をこひておはすらん。 (すゞしろのや)

 

 

  利根の川瀨

 

霞の底に月落ちて

遠山白む朝ぼらけ

 

からりころりの音低く

葦間を出る漁舟

 

櫛目みだれし前髮に

かざすは桃かさる島の

 

誰にきけとやあまの子が

小唄をのせし一葉の

 

利根の川瀨をこがんには

あまりに細き櫂なれや

 

流石に浪に逆らへば

舟は中洲になづみなん (夜)

 

小枝は靡く岸のへに

灯殘る柳蔭

 

鎌をさしたる草刈の

小手さしあげて舟やよぶ

 

かへすにをしき大川の

あゐに寫れる春の雲

 

菫の床をはなれては

雲雀の聲も迷ふらん

 

一つ二つと數ふれば

星は消えゆくかねの音

 

花の香暗き山蔭に

いかあるをちか撞くならん

 

川の景色をなつかしみ

かいとる業のつらからば

 

筵帆張れよ朝風に

筑波は明くる濃紫 (すゞしろ)

 

 

  かへらぬ浪

 佝僂病にて死したる小女あり、そが母はもと卑しき

 あそびなりき。

 

常世の國に流れては、

かへらぬ浪に誘はれて、

シロアム川に匂へりし、

小百合の花の散りにけり。

春長しへに霞立つ、

天の園生の歌聞きて、

君がみ魂はふるさとの、

菫の野にや遊ぶらん。

 

淚あやなき濁江に、

漂はされし母なれば、

甲斐無き子をも暗き世の、

光りとこそはたのみけめ。

 

鏡放たぬ處女子の、

玉なす肌をさながらに、

鹿(カ)鳴く山べにをさむれば、

あかとも罪は滅びんに。

 

さやけき眉のいつとても、

しをれ勝にて見(みゝ)えしが、

長き睫を閉しては、

瞳に寫る影ぞ無き。

 

 水は流れて  海に落ち、

  炎は空に  立ちのぼる。

 

 君は樂しや  浪高き、

  ヨルダム河を  越えしなり。

 

 綠にかへる  筑波根の、

  峰にも尾にも  雪消えて。

 

 み墓に植ゑし 八重櫻、

  八重の花こそ  咲きかゝれ。 (夜)

 

 

  江 戶 紫

 

薄暮寒き大橋の、

燈火淡き欄干に、

袖飜へし行く君は、

江戶紫のゆかり子か。

 

金釵斜にたいまいの、

かうがいにほふ黑髮や、

おくれ髮なぶる川風に、

ほそむる眉の似通ふを。

 

熊野の浦に聲あげて、

いをつる業は習ひしも、

わたり行く子をはしのへに、

よびとゞめんもつゝましく。

 

西に沈める夕月の、

光を胸に鑄りつけて、

橋のつめなる柳かげ、

見造る影は消えにけり。 (二人)

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月十五日発行の『文庫』掲載。橫瀬夜雨(パブリック・ドメイン)との合作。署名は「すゞしろのや」。前に述べた通り、この年一月十日頃に上京した直後、筑波山麓横根村(旧真壁郡横根村、現在の茨城県下妻(しもつま)市横根か。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。筑波山の裾野の西方、小貝川右岸)に橫瀬夜雨を訪れ、初対面であったが、一ヶ月も滞在しており、公開日時から見ても、そこで親しく膝を合わせて二人して詠んだものとも推測される。合作詩篇に於いて、詠者の担当部が示されている(各詩篇末の丸括弧)のは彼の合作詩篇では珍しい。「つらい」はママ。

「常陸帶」昔、正月十四日(古くは十一日)に常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯の献納が起源とされる。「帯占」「鹿島の帯」とも呼ぶ。現在は行われていないが、「常陸帯」という墨書した安産の御守りを出している。

「大寶の」「沼」「大寶」は現地名(後述)からは「だいほう」(現代仮名遣)と濁る。現在の横根地区の西北に接して茨城県下妻市大宝地区が地名として残るが、現在、この沼は干拓されて存在しない。「下妻市立騰波ノ江小学校」(「とばのえ」と読む)公式サイト内の「騰波ノ江小学校-騰波ノ江の盛衰と大宝沼干拓-」によれば(コンマを読点に代えた。リンク先には復元された昔の地図もある)、現在、『筑波山西方』の、この『下妻市北東部の騰波ノ江地区から関城町』・『明野にかけて』は、『見事な水田地帯が広がっている』が、『ここは、その昔、万葉歌人が「つくばねのもみぢちりしく風吹けばとばの淡海』(あふみ)『に立てる白波(鳥羽の淡海)」と、歌にも詠んだ騰波ノ江(鳥羽の淡海)跡である。この歌からも、万葉の時代、多くの人々がこの湖の美しさに心を奪われたことがうかがえる』。『鬼怒川は約二千年前、現在の流路になり、下妻市南部を東流し、比毛の所で小貝川と合流していた。鬼怒川の東流と付近の隆起によって小貝川が堰き止められ、その北側にできたのが鳥羽の淡海であ』った。『「常陸国風土記」筑波郡の条によると、「郡の西十里に騰波江あり、長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北とは並に新治の郡,艮(うしとら)のかたは白壁の郡なりし」とあり、その当時の湖の様子がしのばれる』。『しかし、この美しい湖沼も鬼怒川の流路が突然、石下方向への南流に変わると、その面影を失い始めた。その後、千年余り』、『不毛の土地であった鳥羽の淡海は、明治の近代的な水利事業をきっかけに』、『現在では多くの恵』み『を地域の人々に与えてくれている』。『そこで、この鳥羽の淡海が、現在の見事な水田地帯へと姿を変える様子を、大宝干拓に求めてみたい。大宝沼は、鳥羽の淡海の一部であり、それと起源を同じくする』。『干拓の歴史は、江戸時代までさかのぼる。そのころ』、『新田開発が全国的に盛んとなり、下妻市域にもいくつかの新田村が生まれた。これと並行していくつかの用排水路が設けられ、大宝沼は南に広がる平沼と会わせて大宝平沼とも呼ばれ、大宝』・『騰波ノ江地区十五カ村の用水源として利用されるようになった』。『十八世紀に入り』、『幕藩体制の立て直しのため、八代将軍吉宗は享保の改革に着手し、年貢増徴策のひとつとして、全国的に新田の開発を奨励した。この政策は下妻市域にも及び』、『大宝平沼の干拓が進められた』。『一方、湖の干拓により溜池水源の機能が低下したため、その代替用水として開削されたのが江連』(えづれ)『用水である。しかしこの用水も十八世紀後半には,鬼怒川の』水位『が低下したうえ、浅間山の噴火も手伝って』、『水路が役に立たなくなった。そのため、やむなく、大宝平沼の干拓地は再び』、『水面下に姿を消した』。『その後、大宝沼は百三十年以上も溜池として利用されてきたが、黒子堰から用水をひくようになると、その機能を失い、明治から大正にかけて』ここが重要)、『再び干拓が始まった。その結果』百四十一・一『ヘクタールの耕地が造成され,今日では、美田に生まれ変わっている』(引用元に『鬼怒川・小貝川サミット会議発行「鬼怒川 小貝川 自然 文化 歴史」より』とする)とある。さすれば、この清白が夜雨を訊ねた頃は、未だその「騰波ノ江(鳥羽の淡海)」の名残としての「大宝沼」(或いは一部)が未だ残っていたと読めるのである(恐らくは現在の大宝地区の西北の、糸繰川の上流部附近)。しかも、万葉好きの清白には時代幻想の一篇を詠まずんばおかれぬ古い歌枕であったのである

「勝鬨あげし八州は」個人的には江戸開幕以前の武蔵七党の時代まで溯りたい。

「武藏鐙」武蔵国で作られた鐙(あぶみ)。鋂(くさり:兵具に用いる鎖。長円形の鐶(かん)を交互に通して折り返して繋いだ鎖。)を用いず、透かしを入れた鉄板にして、先端に刺鉄(さすが:鐙(あぶみ)の鉸具(かこ:鐙の頭頂部の金具で、これを力革(ちからがわ:鐙を下げるために鞍橋(くらぼね)の居木(いぎ)と鐙の鉸具頭(かこがしら)とを繋ぐ革)に留め、鞍と鐙とを繋げる)に取り付ける金具。釘形で、回転し、力革の穴にさして止める)をつけ、直接に鉸具としたもの。小学館「デジタル大辞泉」の「さすが(刺鉄)」に添えられたカラー図版をクリックして以上の参考にされたい。なお、鐙の端に刺鉄を作りつけにするところから、和歌では「さすが」に、また、鐙は踏むところから「踏む」「文(ふみ)」の掛詞として古くから用いられた。

「さる島」同地区の南西にある猿島(さしま)郡の地名を掛けたものか。

「いかあるをちか」如何ある遠(をち)か」。どれほど離れたところでか。

「かいとる」「櫂執る」。

「佝僂病にて死したる小女あり、そが母はもと卑しきあそびなりき」佝僂(くる)病はビタミンD欠乏や代謝異常により生ずる骨の石灰化障害。典型的な病態は乳幼児の骨格異常で、現行では小児期の病態を特に「佝僂病」と呼び、骨端線閉鎖が完了した後のそれ以降の病態を「骨軟化症」と呼んで区別する。同疾患と母が「あそび」女(め)(売春婦)であったことの疾患上の連関性は基本、ないと考えてよかろう。因果応報的な差別的な添書きで、この設定(事実としてこの母子はいたのであろうが)はかなり不快な感じはするのであるが、しかし、実は夜雨も佝僂病であったのである。ウィキの「橫瀬夜雨」によれば、彼はここ『茨城県真壁郡横根村』の『生まれ』で、『本名』は『虎寿(とらじゅ)』。『幼時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。『文庫』に民謡調の詩を発表し』、明治三五(一九〇二)年、詩集「花守」を『刊行して、浪漫的な色彩で人気を博し』、明治四〇(一九〇七)年からは『河井酔茗主宰の詩草社に参加した。地方の文学少女たちが』、『その境遇への同情から』、『夜雨の妻になると言って数名やってきた』という話が、水上勉の「筑波根物語」に詳しく書かれれてあるという。『その後』、『結婚し、昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した』昭和九(一九三四)年、『急性肺炎により』『下妻の自宅で五十六歳で没した、とある。この夜雨の詩篇、私には一読、何か切実なものを感じさせる。なお、夜雨がクリスチャンであったという記載は見出せないから、以下のそれらは、或いはこの母子がクリスチャンであったのかも知れない。

「シロアム川」「Siloam」で、パレスチナ地方の古都エルサレムにある池のことか。古代イスラエル統一王国のダビデ王が建設した首都エルサレム(ダビデの町)の南端に位置する。「旧約聖書」によれば、ユダヤ王ヒゼキアがギホンの泉からシロアムの池まで地下水道を掘って水源を確保したとされる。「新約聖書」の「ヨハネ福音書」では、イエス・キリストがここで盲人を癒したとする。但し、二十一世紀になって百メートルほど離れた場所に別の遺構が発見され、そちらが本来の池であると考えられているという。

「鏡放たぬ」亡くなっても鏡を握って離さないの意で採る。短い生涯に於いても純真無垢な美麗な少女であったことの比喩としても、無論、よい。

「あかとも」「赤とも」で「赤」は赤子・子供であろう。乳幼児や処女の若い女子の死は、それだけで地獄に落ちるとする差別的仏教観が古代仏教より存在した(そもそも仏教は変生男子説で如何なる功徳を積んでも女性は男性に転生しないと極楽往生は出来ないことを基本としたことはあまり知られているとは思われない)ことに基づくものへの、非難を含むものか。キリスト教でも洗礼を受けずに亡くなれば、「リンボ」(辺獄。ラテン語:Limbus/英語:Limbo)に堕ちるとされる(「Limbus」は「周辺・端」で、原義は「地獄の辺縁」の意である)。

「ヨルダム河」ヨルダン川。ウィキの「ヨルダン川」によれば、『ヘルモン山(標高』二千八百十四『メートル)などの連なるアンチレバノン山脈やゴラン高原(シリア高原)などに端を発し、途中ガリラヤ湖となって北から南へと流れ、ヤルムーク川・ヤボク川・アルノン川などの支流をあわせて死海へと注ぐ』、総延長四百二十五キロメートルに及ぶ『河川である。主としてヨルダン(ヨルダン・ハシミテ王国)とイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっている。また、乾燥地帯における貴重な水資源となっている』。「新約聖書」に『よれば、洗礼者ヨハネがイエス・キリストに洗礼を授けたのがヨルダン川であった。ヨハネは、この川のほとりの「荒野」で「悔い改め」を人びとに迫って洗礼活動を行っていた。イエスはみずからの受洗ののちヨハネの創始した洗礼活動に参加するが、やがてヨハネの教団から独立してガリラヤへの宣教におもむいた』とある。]

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