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2019/12/10

小泉八雲 阿弥陀寺の比丘尼 (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE NUN OF THE TEMPLE OF AMIDA”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第五話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎については、『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」』の私の冒頭注を参照されたい。

 原注及び訳者注は、底本ではポイント落ちで全体が五字下げであるが、行頭まで引き上げ、注群は前後を一行空けた。

 なお、諸資料によれば、本篇は島根県松江市上東川津町にある標高三百三十一メートルの嵩山(だけさん)(国土地理院図)に纏わる伝承がもとであるという。個人サイト「おしどり登山隊の山便り・風便り」のこちらの画像を読む前に見ておかれるのも、一興か、と存ずる。]

 

      第五章 阿彌陀寺の比丘尼

 

       

 お豐の夫は遠緣の者で、好いた同志で婿に來たのであるが、彼が領主に呼ばれて京へ出た時は、お豐は末の事など案じはしなかつた。唯だ悲しいばかりであつた。二人が一緖になつてから、斯うして離れて暮らすのは初めてであつた。然し父や母[やぶちゃん注:原文に拠ればお豊の実父母である。]も一緖にゐるし、またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、誰れよりも可愛い、いたいけな男子があつた。その上いつも用事の多い體であつて、家の事もせぬばならぬし、絹や木綿の着料を織る仕事もあつた。

[やぶちゃん注:「またそれとは人には愚か我が心にさへ明かしはすまいが、」奇体な日本語である。“― though she would never have confessed it even to herself, —”で、「また、それを彼女は自身でさえおくびにも出さなかったけれども」の謂いである。]

 每日定めの時刻に、お豐は出てゐる夫の爲めに、お馴染みの座敷へ、可愛い漆塗りの膳に何もかも調へた少量の食事(先祖の靈前や神棚に供へる樣な眞似事の食事)を据ゑた。此食事は座敷の東側に供へられ、主人の座蒲團が其前に敷かれた。東の方に据ゑた譯は主人が東の方へ旅立つたからである。食事を下げる前に、お豐はいつも小さい椀の蓋を取つて見た。それは漆塗りの蓋の内側に湯氣がついてゐるかどうか見るためで、出した吸ひ物の蓋の内側に湯氣がかかつてゐれば、出てゐる人が無事だといふからである。若し湯氣が見えなければ其人は死んてゐる、それは其人の靈魂が食物を求めて歸つて來た徵である、と云ふのである。お豐は每日每日漆塗りの蓋に湯氣の珠が厚くかかつてゐるのを見た。

 

註 斯うして愛する不在者の靈に供へる食事を「かげぜん」(影の盆の義)と云ふ。『膳』といふ語は小さい卓子の樣な脚のある漆塗りの盆に載せた食事を指すにも用られる。それ故「影の御膳」といふ愈味に英譯するが「かげぜん」の適譯であらう。

 

 かの幼兒はいつも側に居る喜びの種であつた。滿三歲で、神々でなければ本當には答へられぬ樣な問をかけるのが好きであつた。この兒が遊びたいと言へば、お豐は仕事を措いて相手をした。子供が休まうとすれば、お豐は面白い話をして聞かせたり、誰れも到底分からない樣な事柄に就いて子供の問ふがままに、可愛い敬虔な返答をしたりする。夕方佛壇や神棚に小さい燈明が上がると、まはらぬ舌に父親の無事を祈る言葉を敎へた。子供が寢つくと側に針仕事を持つて來て寢顏の愛らしもを見戍つた[やぶちゃん注:「みまもつた」。]。時によると夢を見てにつこりすることもある。すると觀音さまが子供と夢の中に遊んでゐるのだと心得て、世人の祈願の音を常住觀じ給ふ彼の乙女の菩薩に向つて口の中に經文を唱へた。

 

 時には、晴天の續く頃、坊やを背に負つてグケヤマ、(嶽山)に登ることもあつた。かうした遊山を坊やは大層喜んだ、面白いものを見せて貰へるばかりでなく、色々なものを聞かせて貰へるので。坂道は木立の中や森の中を拔け、草の生えた斜面や、形の面白い岩の側をまはつて往く。そこには胸に物語を祕めた花や、木の精を宿した樹木があつた。山鳩はコロッコロッと啼き、鳩はオワオ、オワオと鳴く。蟬はヂーヂーと啼いたりミンミンと啼いたり、カナカナと啼いてゐた。

 大事に思ふ人の不在を待ち佗びる者は、往かれさへすれば、皆この『だけ山』と呼ぶお山へお詣りをする。これは市(松江)の何處からでも見える。又その頂上からは幾箇國も見晴らせる。頂上には大方人の丈ほどの石が垂直に立てられてゐて、その前とその上とに小石が積まれてある。その傍に神代のさる姬宮を祀つた小さな神社が建つてゐる。この姬宮が懷かしき人の歸りを茲の[やぶちゃん注:「この」。]山の上に待ち焦れて、遂に石に化した。そこでこの處にお宮を建てたので、出てゐる人を案ずる者は今も此處に來てその無事に歸ることを祈願する。そしてそこに積んである小石を一つ持つて歸る。案じた人が歸つた時は、山の上の石の積んであつた舊の[やぶちゃん注:「もとの」。]場所に、その小石の外に今一つの小石を、お禮と記念との印として置いて來ることになつてゐる。

 お豐と坊やとお詣りをして家に歸り着くまでには、いつも夕闇が靜かに四邊をこめた。道も遠い上に、往きも還りも、町を圍む水田の間を、小舟に乘つて渡らねばならず、隨分時のかかる事であつた。星や螢が逍を照らすこともあり、月さへ上ることもあつた。するとお豐は小さい聲で月を詠じた出雲の童謠を坊やに歌つて聞かせるのが常であつた。

 

    ののさん(或はお月さん)いくつ。

    十三 ここのつ譯者註一

    それはまだ 若いよ、

    わかいも 道理譯者註二

    赤い色の帶と

    白い色の帶と、

    腰にしやんと結んで、

    馬にやる いやいや、

    牛にやる いやいや。

 

註 派手な色の帶は子供だけが締めるので斯ういふ。

譯者註一 「十三ここのつ」は有りふれた「十三七つ」に比して口調も惡しく數の感じも異樣ながら、出雲では今も斯く歌つてゐる由。

譯者註二 原文のローマ字をその儘に譯せば「若いも道理」となるが、原文の「いえ」の二音は松江の方言の『い』の間のびしたのを、著者がその儘音譯したものである、との落合貞三郞氏の攝明を附記して置く。

 

 藍色の夜の空には幾里も續く水田から、實に土より湧く聲と謂ふべき、聲高くも亦靜かに、泡立つ樣な合唱――啼き交はす蛙の聲――が立ちのぼる。お豐はそれを『メカユイ、メカユイ』『眼が痒ゆい、睡むくなつた』といつてゐるのだ、といつも坊やに言つて聞かせた。

 さうしてゐる間は楽しい時であつた。

 

       

 さうしてゐる中、三日の間に二度までも、永遠の攝理に屬する攝理によつて生死を司どる者が彼女の心を擊つた。初には幾度となく無事を祈つた優しき夫が己が許には歸られぬ、一切の形體の成り出でた元の塵に還つたと知らされた。その後間もなく坊やが、唐土[やぶちゃん注:「もろこし」と訓じておく。但し、原文は“the Chinese physician”で「漢方医」のことであろう。]の醫者も醒ますことの出來ぬ深き眠に就いたことを知つた。斯ういふ事實をお豊が覺つた[やぶちゃん注:「さとつた」。]のは電光によつて物の形が認められる樣な束の間であつた。この二つの電光の閃きの合間も、其から先きも、これぞ神々の慈悲なる一切無明の闇であつた。

 その闇は過ぎて、お豐は記憶と呼ぶ仇[やぶちゃん注:「かたき」。]に立ち向つた。他の者の前には、ありし日の如くに樂しく笑ましげな[やぶちゃん注:「ほほえましげな」。]顏をしてゐたが、この記憶の前には堪へ得なかつた。疊の上に玩具を並べたり、小さい着物を擴げたりして、小さな聲で話しかけたり、無言で微笑んだりした。併し微笑の果てはいつも激しくわつと泣き伏しては、頭を疊にすりつけて、他愛もない問を神々にかけるのであつた。

 

 或る日のことあやしき慰めを思ひ立つた。それは世に『とりつぱなし』と呼ぶ、死んだ人の靈魂を呼びかへす事であつた。ほんの一分でもよいから、坊やを呼びかへす事は出來まいか。それは坊やの靈魂をなやますことにならうが、母親のために少時[やぶちゃん注:「しばし」。]の苦痛は喜んで辛抱せぬことはあるまい。たしかにさうであらう。

 

 〔死んだ人を呼びかへすには、死靈を呼び出す呪文を知つてゐる坊樣か神主の許に往かなければならぬ。さうして故人の位牌をその人の許に持つて出ねばならぬ。

 それから齋戒の式が行はれ、位牌の前に燈明を點じ燒香をなし、祈禱または經文を唱へ、花や米の供物をする。但しこの時の米は生でなくてはならぬ。

 萬事整つた時に祭主は左手に弓の形をしたものを持ち、右手で手早く打ちながら、死んだ人の名を呼ぶ。其から大聲で『來たぞよ、來たぞよ、來たぞよ』と云ふ。そして斯う叫んでゐる中に彼の聲音が段々に變はる。終には死んだ人の聲そつくりになる。その靈魂が彼に乘り移るからである。

 

註 自分の來た事か知らせようと幾度も案内するものの事を、出雲の諺で「とりつぱなしのような」といふのは是からである。

 其から死んだ人が、口早に尋ねられることに答へるが、その間も『早く早く。歸つて來るのは辛いぞや、斯うして永くは居られぬ』と叫び續ける。そして答がすむと精靈は去つて往く。行者は氣が遠くなつて俯伏して了ふ。死んだ人を呼び戾すことは宜しくない。呼び戾されるとその人等の境遇は一段と辛くなる。冥府に歸ると前より低い所に落ちねばならぬ。

 今日では斯の樣なお呪ひ[やぶちゃん注:「おまじなひ」。]は法律で禁止されてゐる。昔はそれが慰めになつたものだ。併しこの禁制は良い掟で正當である。人心の中にある神性を侮蔑せんとする人もあるから〕

[やぶちゃん注:「とりつぱなし」原文は“Toritsu-banashi”で「とりっばなし」であるが、私はこのような「名」の招魂法を知らない。民俗学でもちょっと私は聴いたことがない。漢字も想起出来ない。近似した呪法をご存じの方は是非御教授願いたい。「執り離し」で冥界の死霊から魂を引き離して呼び返す執行法、魂振(たまふ)り、反魂(はんごん)の術か? 小泉八雲の説明によるなら、出雲独特のもので、しかしそれは明らかに後に出るように「いたこ」の「口寄せ」に酷似している。

「法律で禁止されてゐる」明文化された法律による禁止ではなく、明治新政府が慶応四年三月十三日(一八六八年四月五日)に発した悪名高き太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)及び明治三年一月三日(一八七〇年二月三日)に出された詔書「大教宣布」などの国家神道政策の中で、廃仏毀釈に代表されるような仏教・修験道排撃と、民間の呪法及び「淫祠邪教」政策レベルで取り締まったことを指していよう。]

 

 そこで或る晚のこと、お豐も町外づれの淋しい小さな寺に往き、子息の位牌の前に跪き、口寄せの呪文を聞いてゐた。やがて行者の肩から覺えのある樣な聲が聞こえた。誰れのよりも好きな聲であつたが、風の戰ぎ[やぶちゃん注:「そよぎ」。]の樣に微かで細かつた。

 その紬い聲はお豐に向つて言つた。

 『母樣、早く聞いて下さい。路は暗く長いのでゆるゆるしては居られません』

 お豐は慄き[やぶちゃん注:「をののく」。]ながら尋ねた。

 『何故私は子供を亡くして悲しい思ひをしなければならないのですか。神々の思召しはどういふのでせうか』

 すると其に答があつた。

 『母樣、私の事をそんなに歎いて下さるな。私の死んだのは、母樣が死なないためです。年まはりが病氣のはやる悲しい年で、母樣が死ぬ事になつてゐたのが分かりました。それで、願をかけて母樣の代りに死ぬことが出來たのです。

 

註 「身代り」といふのが宗敎的の用語である。

 

 『母樣私の事を泣いて下さるな。死んだ者を悼むのは供養にはなりませぬ。冥府への道は淚の川を越えて往きます。母樣たちが歎くとその河の水が增して、精靈は通ることが出來ず、あちこちとさまよはねばなりませぬ。

 『それゆゑ、お願ひですから、お母樣、泣かないで下さい。唯だ折ふし水を手向けて下さい』

 

 

 

       

 その時からはお豐が泣いてゐることはなかつた。以前の通りにかひがひしく、娘としての孝養を盡くした。

 秋さり春來たつて、父親は新しく婿を迎へようと思つた。母親に向つて斯ういつた。

 『内の娘にもまた男の子でも出來たら、それこそ、娘にも自分等一同にも、此上ない喜びであらう』

 が、物の分かつた母親は答へた。

 『娘は別に悲しんでは居ませぬ。苦勞も惡い事も少しも知らぬほんのねんねえになつて了ひました』

 お豐が其の苦痛を知らぬやうになつたのは事實であつた。極々小さな物を妙に好く樣になつてゐた。初には寢床が大き過ぎて來た。大方子供を亡くしたあとの空虛の感じからであらう、それからは日一日と他の物が皆大き過ぎる樣に思はれて來た。家も馴れた座敷も床も、そこらにある大きな花瓶も、終には膳椀までも。御飯も子供の使ふ樣な小さな椀から、雛道具の樣な箸で、食べると言つてゐた。

 斯うした事には親達は優しく娘の氣任せにして置いた。して又外の事には別に變つた注文もなかつた。老夫婦はいつも娘の事を談り合つた。たうたう父親が切り出した。

 『うちの娘には餘所の人と一緖に居るのは辛からう。が、自分たちも寄る年で、その中[やぶちゃん注:「うち」。]娘を後に殘さねばなるまい。それで娘を尼にしたらば、先きの心配もをゐるまい。小さなお堂を建ててやつてもよいな』

 翌日母親はお豐に尋ねた。

 『お前尼さんになつて、小さな護摩壇や小さな佛樣のある小さい小さいお堂で暮らす氣はないかえ。私達はいつも近い所に居ますがね。若しその氣なら、お坊樣を賴んでお經を敎へて貰ふ樣に仕よう』

 お豐はそれを望んだ。そして極小さな尼の衣を拵へるやうに賴んだ。が尙母は言つて聞かせた。

 『外のものなら何でも小さく拵へさせて差支はないが、衣だけは大きいのを着なくては良い尼樣にはなれません。それがお釋迦の律ですよ』

 それで漸くい豐は外の尼達と同じ衣を着る氣になつた。

 

       

 兩親はお豐のために、阿彌陀寺といふ大きな寺のあつた境内に、一棟の尼寺、卽ち尼の寺を建てた。この尼寺も亦阿彌陀寺と呼んで、阿彌陀如來を本尊に、その他の佛樣をも招じた。至つて小さい護摩壇に玩具の樣な佛具を備へ、小さな經机には小さな經文を載せ、何れも小さな、衝立や鐘や掛軸があつた。お豐はここで兩親の歿後も永く暮らした。人々は彼女を阿彌陀寺の比丘尼と呼んだ。

 門前から少し離れて、一體の地藏尊があつた。この地藏は子供の病氣を直すといふ變つた地藏であつた。この地藏の前にはいつも小さな餅が上げてある。是は病氣な子供のために願をかけてゐる徵で、餅の數は子供の年齡を示してゐる。大抵は二つか三つで、稀には七つから十もあることがある。阿彌陀寺の比丘尼はこの地藏等の番をして、香を絕やさず、お寺の庭に咲いた花を上げた。庵寺の裏に小さな花園があつたのである。

 每日朝の間の托鉢を了へて歸ると、小さい機臺[やぶちゃん注:「はただい」或は「はた」。]の前に坐つて布を織るのが例であつた。物の役に立たぬほど狹いものであつたが、彼女の手織りは、身の上を知つてゐた方々の店屋に買ひ取られた。彼等は小さい茶椀だの小さい花瓶だの、庭に置く樣に變つた盆裁などを贈つた。

 彼女の何よりの娛樂は子供等を相手にすることで、それに不自由はなかつた。日本の子供の幼少時代は大抵社寺の境内で過ごされる。それで阿彌陀寺の庭で樂しく遊び暮らした子供も數多かつた。同じ通[やぶちゃん注:「とほり」。]に住む母親等は子供等をそこで遊ばせるのが好きであつた、唯だ比丘尼さんを莫迦にせぬ樣にと注意した。『時によると變な事をしても、それは一度可愛い坊やを有つてゐたのを亡くして、その悲みが母親の胸に耐へられなくなつたのです。それゆゑ尼さんには本當に大人しく、失禮の無い樣にしなくてはいけないよ』

 子供等は皆大人しくはあつたが、崇敬の意味で敬意を表したとは謂へなかつた。彼等はよく心得てゐて、そんな堅くるしい事はしなかつた。いつも彼女をお比丘尼さんと呼んで丁寧にお辭儀をしたが、それ以外には自分等の仲間の樣に隔てなく遇(あし)らつた。彼等は彼女と遊びをし、彼女は子供に可愛い茶椀でお茶を出したり、豆の樣に小さな餅を澤山に拵へたり、子供等の人形の着物にとて、綿布や絹布を織つてやつたりした。こんな風で彼女は子供等に肉親の姉の樣になつた。

 子供等は、每日每日彼女と遊んてゐる中に、もうさうして遊んでゐられないほど成人して、お寺の庭に來ないで浮世の仕事をする樣になり、やがては父となり母となつて、自分等の子供を遊びによこすやうになつた。さういふ子供等が又親達と同じ樣にお比丘尼さんを好くやうになつた。斯うして比丘尼はお寺の建つた時の事を覺えてゐる人達の子や孫や曾孫館と遊ぶまで長命した。

 人々も彼女が不自由をしないやうに心懸けた。いつでも自分一人で入るだけより多くの寄進があつた。それで彼女は子供達に大方仕たいだけよくしてやつたり、小さな生物などに有り餘るほど餌をやることが出來た。小鳥がお堂の中に巢を作つて、彼女の手から餌を食べた、そして佛樣の頭などに止まらぬやうになつた。

 

 この比丘尼の葬式があつてから、幾月か經つて、大勢の子供が自分の家にやつて來た。九歲ばかりの少女が一同に代つてつぎの樣に述べた。

 『をぢさん、私達は亡くなつたお比丘尼さんの事でお願ひに參りました。お比丘尼さんのお墓に大變大きなお石塔が立ちました。大さう立派なお石塔ですの。けれど、私達は小さい小さいお石塔を今一つ立てたいと思ひます。生きてゐた時に極小さいお墓が好きだとよく言つて居られましたから。石屋さんがお金さへ出せばお石塔をこさへて大變綺麗にして吳れると言つてゐます。それでをぢさんも何程かお出し下さるかと思ひました』

 『出しますとも。だがこれからは遊ぶ所がないでせう』と自分が言つた。

 娘は笑ひながら答へた。

 『やつぱり阿彌陀樣のお庭で遊びますよ。お比丘尼さんはそこに埋まつてゐます。私達の遊んでゐるのを聞いて喜ぶでせう』

 

[やぶちゃん注:エンディング――「自分」とは――最早――小泉八雲自身――であることは言うまでもない――この掌品の極め付けの素晴らしさは、まさにこの最後の現在時制との合致という点にこそあると言ってよい――

小泉八雲 旅行日記より (石川林四郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“FROM A TRAVELING DIARY”)は来日後の第三作品集「心」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)。一八九六(明治二九)年三月にボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版)の第四話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集ではなく、雑誌『大西洋評論』(Atlantic Monthly)が初出(調べて見たものの、初出クレジットは不詳)である。

 なお、この前に配されてある田部隆次訳「第三章 門つけ」(原題“A STREET SINGER”)は、底本は異なるが、訳文は殆んど異同がないものを既に電子化注してあるので、そちらを読まれたい。但し、本底本版では田部氏の訳者注が附されてあり、それはリンク先底本ではカットされていたため、今回、追記しておいたので、確認されたい。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 各パートの冒頭に配されたクレジットと場所は、底本では下四字上げインデントでややポイント落ちであるが、ポイント落ちで引き上げた。

 銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、小泉八雲は明治二八(一八九五)年四月十五日(月曜)に京都へ家族で旅行に出(随伴者は妻セツ、セツの祖母、長男一雄、女中の梅であった)、『武家屋敷をホテルにした』、先の明治二十五年の単身の京都旅行の際、当時の五高校長であった嘉納治五郎に紹介され、京での定宿とした日光屋に泊まり、翌十六日、十七日と『市内見物をする』。十八日から二十日にかけては『内国勧業博覧会を見物』した。当時、ここに出品された『黒田清輝の「朝妝』(ちょうしょう:一八九三年作。後で注するが、本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるが、後、空襲で焼失、現存しない)『の展示をめぐって、裸体画論が論じられ』ていた(本篇の「四」で小泉八雲も取り上げている)。『二十一日、大極殿、東本願寺を見物』し、四月二十二日に『神戸に帰宅』した。本篇はそれを素材としている。

 本篇は全部で七つのパートに別れるが、紀行記録風に体裁を採っていることから、個人的に纏めて全部を示したい。さすれば、私が気になったもののみの注に留め、今までのような神経症的或いは煩瑣な(私にとって)既注の繰り返し注は極力抑えた(既に何度も繰り返しやってきたショーペンハウエルやハーバート・スペンサーの注や彼らの原拠探しなども今回はやめた)。悪しからず。]

 

      第四章 旅行日記より

 

        

   一八九五年四月十五日 大阪京都間の汽車中にて

 乘合の席で睡氣ざした時、橫になると云ふ譯にも往かぬ場合、日本の婦人はその左の長い袂を顏にあててから坐睡する。今この二等客車の中に三人の婦人が並んで睡つてゐる。何れも左の袂に顏を隱して、列車の動搖と共に一齊に搖れながら、緩やかな流に咲く蓮の花の樣に。(左の袂を使ふことは偶然か、それとも本能によるか、大方は本能によるのであらう。强く搖れる時に右手で吊り革か座席に摑まるに都合がよいから)この光景は美しくも亦可笑しい。が、上品な日本婦人が何をするにも、いつも出來るだけあでやかに氣を兼ねて、品よくすることの例として美はしく見える。それは更にいぢらしくもあある。その姿は又悲哀の姿であり、又時には惱ましき祈りの姿でもあるからである。是は皆、出來るだけ愉快な面もちの外は人に見せまいとする、練られた義務の觀念からである。

 この事で自分の經驗を想ひ起こす。

 長年自分の使つてゐた下男が徒にも快活な男と思はれてゐた。物を言ひかけられると何時も笑つてゐる、仕事をする時にはいつも嬉しさうにしてゐる、人世の面倒などといふものは少しも知らぬ顏に見えた。處が、或る日常人が誰れも側に居るものは無いと思つてゐる時に覗きこんで見ると、彼の氣の弛んだ顏に自分は喫驚した。豫(かね)で見た顏とはうつて變つてゐた。苦痛と憤怒の怖はい皺が現はれて三一十ほども老けて見えた。咳拂ひをして自分の居ることを知らせると、顏は忽ち滑らかに、柔らいで明かるくなつた。若返りの奇蹟でもある樣に。是は實に不斷の沒我的自制の奇蹟である。

 

        

          四月十六日 京都にて

 宿屋の自分の室の前の雨戶が押し除けられると、朝日がぱつと障子に射して、金色の地の上に小さい桃の樹の、くつきりした影を申し分なく描き出した。人間の筆では、瑕令日本の畫家の筆でも、この影繪を凌駕することは出來ない。ほつかりと黃色い地色の上に紺色に描き出されたこの不思議の繪は、目に見えぬ庭樹の枝の遠近に從つて、濃淡の差までも示してゐる。家屋の採光のために紙を用ゐる事が日本の美術に影響したのではないかと思はれる點などを考へさせられる。

 夜分障子だけを閉(た)てまはした日本の家は、大きな行燈の樣に見える。外へ繪を寫す代りに内側へ活動する影を寫す幻燈の樣である。晝間は障子に寫る影は外からばかりであるが、日の出る頃、恰も今朝の樣に、その光線が洒落た庭の上を眞橫に射す時には、その影繪は宜に絕妙である。

 藝術の起原を、壁にさした戀人の影を不用意に寫さうとした事に歸してゐる希臘の昔物語にも決して笑ふべきことは無い。大方一切の藝術的意識は、凡ての超自然の意識と等しく、影の硏究にその抑もの[やぶちゃん注:「そも(そも)の」。]發端を開くいてゐる。然し障子に寫る影は如何にも著しいので、原始的どころか、比類なく發達した、他には說明し雖い、或る日本特有の畫才の說明を暗示する。勿論、如何なる磨硝子よりも影の良く寫る日本紙の特質と、影そのものの特質も考察を要する。例へば、歐米の植物は、自然の許す限り恰好をよくするため、幾百年來の丹精によつて作り上げられた、日本の庭樹の樣な趣のある影繪を寫さない。

 自分は、この室の障子の紙が、寫眞の乾板の樣に、樹に射す日の寫した最初のうましき印象に對して、感受性を持つてゐてくれ〻ばよいと切望する。自分は既に形の崩れたのを憾みとしてゐる。美しき影は間延びを見せ初めた。

 

       

           四月十六日 京都にて

 日本に於て特に美しきものの中で、最も美しきは、高い所にある禮拜、休息の場所に到る途中、卽ち、是ぞといふものも無い所へ往く道路や、何があるといふでもない所に登る石段である。

 勿論、その特別な妙味は、人間の造營と、光や形や色に於ける自然の好氣分とが一致した時の感じで、雨の日などには消えて了ふといつた樣な、折にふれての妙味である。然しこれは、斯く氣まぐれなものであるに拘らず、嘆美すべきものである。

 斯ういふ登り口は、先づ石疊の坂道で、巨木の立ち並んだ、七八丁程[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十三メートルほど。但し、原文は“half a mile”。八百四メートル強。]の並木路といつた樣なもので初まる。石の怪獸が合間合間に置かれて道を護つてゐる。つぎに鬱蒼たる樹木の間を登つて更に大きな老樹の陰暗い臺地に出る大きな石段がある。其處からまた。何れも陰に浸つた幾つかの石段を登つては幾度か臺地に出る。登り登つて又更に登ると、漸くにして蒼然たる鳥居の彼方に當の目的が見える。小さな空な木造の祠、卽ち一つの『お宮』である。長い參道の莊嚴[やぶちゃん注:「ここは「さうごん」。]を極めた後、この靜寂と陰暗の高處に於て、斯うして受ける空虛の感じは眞に幽玄そのものである。

 佛閣に對する同樣の經驗は、幾百となく、之を得んと欲する者を待つてゐる。一例として京都市内に在る東大谷の寺域を舉げてもよい。堂々たる並木路が寺院の境内に通じ、境内からは幅員優に五十尺[やぶちゃん注:十五・一五メートル。但し、原文は“feet”で十五・二四メートル。]の、重くるしい、苔蒸した。立派な欄干の附いた石段が、壁を取りまはした墓地へ通じてゐる。その光景はデカメロン時代のイタリヤの遊園地へでも出さうに思はせる。が、上の臺地に着くと、唯だ門があるだけで、その中は墓地である。佛者の庭造りが、一切の榮華も權勢も唯だ斯うした寂滅に到る、といふ事を示さうとしたのであらう。

[やぶちゃん注:京都府京都市東山区円山町の親鸞の墳墓である大谷祖廟(通称は「東大谷」)一帯(グーグル・マップ・データ)。]

 

       

    四月十九日より二十日まで 京都にて

 内國觀業博覽會を觀るのに大方三日間を費やしたが、出品の大體の性質と價値とを鑑識するには中々十分でない。主として工部品であるが、其にも拘らず、あらゆる種類の生產物に驚くばかりに藝術の應用がしてあるので、殆ど皆氣持ちのよいものである。外國商人や自分等よりも烱眼な觀察者は、別な今少し變つた意味を見出してゐる。これまで東洋人が西洋の商工業に與へた最も恐るべき脅威が卽ちそれである。ロンドンタイムズ紙の通信員の所論に『英國に比べると凡てが一片[やぶちゃん注:原文“pennies”「ペニーズ」。後注参照。]に對する一ファージング(四分の一片)[やぶちゃん注:“farthings”。英国の小青銅貨で四分の一ペニーに相当する。一九六一年に廃止されて今はない。]の割である。……日本のランカシヤ(の工業)に對する侵略の歷史は朝鮮支那に封する侵略の歷史よりも古い。それは平和の征服で、事實成功せる無痛除血法である……この度の京都の博覽會は生產的企業に於て更に一大進步をなしたことの證明である……勞働者の賃銀が一週三志[やぶちゃん注:「シリング」。]、其他の生活費も之に準ずるといつた樣な國は、外の事が皆同じでも、一切の費用が日本の四倍に當たる競爭者を滅ぼすに極まつてゐる』とある。確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである。

[やぶちゃん注:「一片」[やぶちゃん注:「ペニー」(Penny)。通貨単位のそれ。複数形は「ペンス」(Pence)。但し、ここの原文は硬貨の複数形の“pennies”になっている(これは一ペニーを四分割した後の「ファージング」の関係からか?)。当時は十二ペンスで一シリング(shilling:一九七一年廃止)、二百四十ペンス(二十シリング)で一ポンド(pound)であった。

「ランカシヤ」“Lancashire”。僕らは地理の授業で覚えさせられたじゃないか、嘗ては綿産業で栄えたね。

「三志」本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ポンドは九・六円であったから、三シリングは一・四四円となる。現行価値換算(明治三十年代の一円を二万円に換算する資料に拠る)すると、週給で二万八千八百円。

「確に產業上の柔術は意想外の結果を生ずべきである」「柔術」はママ。比喩である。これについては、先行する本邦来日後の第二作品集で本作品集の前年明治二八(一八九五)年に刊行した“Out of the East”(「東の国から」)の“Ⅶ. Jiujutsu”(第七章 柔術)で語られてある。同作品集には本作品集電子化後に着手予定で、電子化後、この注を書き変えてリンクさせるつもりである。]

 博覽會の入場料も亦意義ある事である。唯だの五錢。然しこの少額でも巨額の收入になりさうである。蝟集する觀覽者の數が如何にも多い。多數の農民が每日京都に押し寄せる。多くは徒步で、巡禮でもする樣に。して又この度京へ上ることは、眞宗の大本山の落成式があつて、事實巡禮なのである。

[やぶちゃん注:最後のそれは東本願寺御影堂の落成式を指す。境内のほぼ中心にある堂で、屋根は瓦葺重層入母屋造。間口七十六メートル、奥行き五十八メートル、高さは三十八メートルあり、建築面積に於いては現在も世界最大の木造建築物で、明治一三(一八八〇)年起工、十五年の歳月がかかった。]

 美術部は一八九〇年の東京の美術展覽會[やぶちゃん注:明治二十三年十一月に開催された「明治美術会」第二回展を指すか。西洋油絵の大規模な展覧会の濫觴の一つである。]に比しては遙かに劣つてゐると思つた。結構なものもあるにはあるが、至つて少い。恐らく全國民が熱心にその精力と技術とを有利な方向に傾注してゐる證左かも知れぬ。現に美術が工業と組み合はされてゐる諸部門――陶磁器、象嵌、刺繡等に於ては、甞て無い精巧貴重な作品が陳列されてゐる。たしかに、そこにあつた幾つかの陳列品の眞價は、『支那が西洋工業の方式を採用したら、世界の市場に於て日本品を驅逐する事にならう』と云ふ、友なる日本人の感想に對する答辯を暗示した。

 そこで自分は答へた。『廉價品に於ては或はさうかも知れぬ。併し日本が製品の廉價なことのみを手緣り[やぶちゃん注:「たより」。]にする必要はない。日本は技術と良趣味とに於ける卓越に手緣る方が一層安全であると思ふ。一國民の技術的天才は安價な努力による如何なる競爭も及び難い特殊な價値を有つてゐる。西洋諸國の中では佛蘭西がその一例である。佛蘭西の富は隣國よりも低廉に生產し得ることに基因しては居らぬ。佛國製品は世界中最も高位である。佛國は奢侈品及び美術品を賣り出してゐる。是等の品物はその類の中で最良品であるが故に、凡ての文明國に於て賣れ行きがよい。日本が極東の佛蘭西となつて惡い筈はあるまい』

 

 美術部の中で殊に貧弱なのは油繪、西洋風の油繪の部である。日本人が日本固有の描法による油繪具で見事な繪の描けないと云ふ譯は無い。然し彼等が西洋の描法に倣はう[やぶちゃん注:「ならはう」。]とする企圖は極めて寫實的な取扱ひを要する習作に於てのみ、僅に平凡の域に達したに過ぎぬ。油繪具による理想畫は、西洋美術の法則に從つては未だ日本人の企及し得る所でない。大方油繪に於ても、將來、西洋の方式を國民精神の特殊の要求に適應せしめて、美の殿堂に入る新門戶を自ら發見することもあらう。が、今の處その樣な傾向は見えぬ。

 大きな鏡に向つた全身裸の婦人を描いた一畫面が公衆の惡感を惹起した。全國の新聞紙はその書の撤囘を要求し、西洋の藝術觀に對しては香ばしからぬ意見を吐いてゐた。然しその繪は日本の畫家の作であつた。それは駄作であつたが、思ひ切つて三千弗といふ値段がついてゐた。

[やぶちゃん注:本文内時制の明治二八(一八九五)年の為替レートでは、一ドルは一・九八円であるから、約六千円で、例の現代価値換算の一円二万円を適応するなら、一億二千万円相当である。]

 自分は少時[やぶちゃん注:「しばらく」と訓じておく。]その前に立つた、この繪の衆人に與へる感興を觀察しようと思つたのである。觀衆の大多數は農民で、驚いて見てはせせら笑ひ、何か嘲るやうな言葉を遺して、十圓乃至三十五圓といふ値段附けでこそあれ、遙かに見ごたへのある掛物の方へ往つて了ふ。その人物が西洋人の髮形をして描いてあつたので、批評は主に西洋の好尙に對して向けられてゐた。それを日本の繪と思ふ者は無いらしかつた。それが若し日本婦人の圖であつたなら、公衆はそんな繪を無事に置く事すらも承知すまいと思ふ。

 繪そのものに對する侮蔑は至當であつた。その作には少しも理想的の所がない。單に裸體の婦人が、人目のある所で仕たい[やぶちゃん注:「したい」。]筈のない事をしてゐる姿を描いたに過ぎぬ。而して唯だ裸體の婦人を描いただけの繪は、どれほど巧みに描けてゐても、藝術が何等かの理想を意味するなら、藝術ではない。その寫實的な所がそれの不快な點であつた。理想の裸體は神聖なもので、超自然なるものに對する人間の想像の中[やぶちゃん注:「うち」。]最も神に近いものであらう。が、裸體の人間は少しも神聖ではない。理想の裸體には何も纒ふことは入らぬ。その美妙さは蔽うたり切つたりすることを許さぬ美しき線から來るものである。生きた實物の人體はさういふ神韻ある線や形を有つてゐない。借問す[やぶちゃん注:「しやもん(しゃもん)/しやくもん(しゃくもん)」。試みに問うてみよう。]、畫家はその裸體より實感のあらゆる痕跡を除去し得るにあらずして、裸體そのもののために裸體を描出して可なりや。

 佛敎の格言に、個體に卽せずして物を觀る者のみ賢なり、と道破したのがある。而してこの佛者の見方こそ眞の日本藝術の偉大をなす所以である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲が見て批評しているのは、冒頭注で示した黒田清輝(せいき 慶応二(一八六六)年~大正一三(一九二四)年)の「朝妝(ちょうしょう)」(「妝」は粧(よそお)い」の意。原題は“Morning Toilette”)である。裸体画の大作で、ウィキの「黒田清輝」によれば、黒田がパリを去る直前の一八九三年に制作され(黒田は一八八四年から一八九三年までフランスに遊学したが、当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったものが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三及び美術商林忠正に出会い、一八八六年に画家に転向することを決意した)、『パリのサロン・ナショナル・デ・ボザールに出品して好評を得』ていた。日本ではこの前年の明治二七(一八九四)年の第六回「明治美術会」展に出品され、翌年のこの京都で行われた「第四回内国勧業博覧会」に出品されるや、『この作品の出展の可否をめぐって論争となり、社会的問題にまで発展した。当時の日本では本作のような裸体画は芸術ではなくわいせつ物であるという認識があったのである』とある。既に述べた通り、この絵は本邦画壇に於ける裸婦画の嚆矢とされるものであるが、後に太平洋戦争中の空襲によって焼失し、現存しない。同ウィキのカラー写真画像をリンクさせておく。また、この小泉八雲観覧時のシークエンスを髣髴させる、かのジョルジュ・ビゴーの戯画「黒田の裸婦像を見る人々」(原題“La femme nue de M. Kuroda”。「ムッシュ黒田の裸婦」)のそれもあるので同じくリンクさせておこう(フランス人画家・諷刺画家のジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot 一八六〇年~一九二七年)は、明治一五(一八八二)年一月に来日、明治時代の日本で十七年間の長きに亙って活動を行い、当時の日本の世相を伝える多くの絵を残したことで知られる。署名は日本名「美郷」「美好」とも記した。明治三二(一八九九)年六月帰国)。本作のその後の数奇な運命は、テツ氏のブログ「てつりう美術随想録」の「焼けなかったコレクション(5)」に詳しい。それによれば、展覧後、スキャンダルの対象となったこの「朝妝」は、結局、住友家十五代当主春翠の手に渡った。『春翠は』、彼の別荘の『近所で起こったこの騒ぎに注目していたにちがいない。開催期間の終了後、実兄の西園寺公望の勧めで春翠は『朝妝』を買い取ったそうであるが、西園寺と黒田は留学中にすでに知り合っており、便宜をはかってあげたのだという見方もできる』。『また、当時の西園寺が文部大臣であったことを考えれば、政府が主催する内国勧業博覧会において持ち上がった騒動の火種を、身内の個人的なコレクションに収めてしまうことで世間の眼から隠してしまった、といえなくもない。要するに彼の行動は新しい芸術の擁護とも取れるし、巧妙な自己保身とも取れるのである。いずれにせよ西園寺公望とは、よほど頭の切れる男であったらしい』。その後、『黒田の』この「朝妝」は『須磨にあった住友家の別邸に飾られていたため』、空襲により『灰燼に帰してしまったのである(別邸跡は須磨海浜公園になっている)』とある。]

 

       

 斯ういふ考が浮かんだ。

 神聖なる裸體、絕對美の抽象である裸體は觀る者に幾分悲哀を交じへた驚愕と歡喜との衝擊を與へる。美術の作品にして之を與へるものは少い、完全に近いものが少いからである。然しさう云ふ大理石像や寶石細工がある。又『藝術愛好會』で出版した版畫の樣な、其等の作品の精巧な模寫がある。視れば視るほど驚歎の念が深くなる。一つの線でも、その一部分でも、その美が凡ての記憶を超絕してゐないものは無い。それ故斯ういふ藝術の祕訣は古來超自然と考へられた。事實又それが與へる美の觀念は人間以上である。現在の人生以外であると云ふ意味に於て超人間である。卽ち人間の知れる感覺の及ぶ限りに於て超自然である。

[やぶちゃん注:「藝術愛好會」“Society of Dilettanti”。「ディレッタンティ協会/ディレッタント協会(Dilettante Society)のこと。ウィキの「ディレッタンティ協会」によれば、『古代ギリシアやローマ美術の研究、およびその様式による新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンたちの協会』。一七三四年に、「グランド・ツアー」(Grand Tour:十七~十八世紀のイギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った習慣的な大規模な国外旅行)『経験者のグループによって、ロンドンのダイニング・クラブ(』『Dining club)として結成された』。『ディレッタンティ協会を最初にリードしたのはフランシス・ダッシュウッド』(Francis Dashwood 一七〇八年~一七八一年:男爵)『で、メンバーの中には数人の公爵もいた。後には、画家ジョシュア・レノルズ』(一七二三年~一七九二年)、『俳優デイヴィッド・ギャリック』(David Garrick 一七一七年~一七七九年)、『作家ユーヴディル・プライス』(Uvedale Price 一七四七年~一八二九年)、古典学者・考古学者であった『リチャード・ペイン・ナイト』(Richard Payne Knight 一七五〇年~一八二四年)『なども参加した』。『メンバーが毎年、たとえば結婚式などで棚ぼた的に得た収入の』四%を『出し合うというシステムで、協会は急速に資金と影響力を増していった』。一七四〇『年代からはイタリア・オペラを後援し』、一七五〇『年代からはロイヤル・アカデミー設立の原動力となった。そのうえ、グランド』・『ツアーを続ける若者たちへの奨学金や』、『考古学』や古典研究者の実地旅行の支援や、『イギリスの新古典主義に大きな影響を及ぼすことになる『Ionian Antiquities』を彼らが出版する際に資金を提供した』とある。ここには記載はないが、考古学的古典的芸術遺物の模造などの指示や資金援助も当然、手掛けたことであろう。]

 その衝擊は如何なるものか。

 それは初めての戀の經驗に伴なふ心的衝擊に不思議にも似てをり、たしかにそれに緣のあるものである。プラトーンは美の衝擊を靈魂が神來[やぶちゃん注:「しんらい」神が乗り移ったかのように、突然、霊妙な感興を得ること。インスピレーション。原文は“Divine Ideas”(「神がかった発想」)。]の思想の世界を半ば想ひ起こすのである、と說いてむる。『この世界に於て彼の世界に在るものの姿又はその類似を見る者は、電擊の樣な衝擊を受け、謂はば己の内より取り出される』ショーペンハウワーは初戀の衝擊を全人類の魂の意志力と說いてゐる。現代に於てはスペンサーの實證心理が人間の感情中最も强烈なものは、その初めて現はれるときに、一切の個人的經驗に絕對に先行するものであると斷言して居る。斯く古今の思想が、哲學も科學も、人間の美に對して個人が初めて深く感ずるのは、決して個人的のものでないことを等しく認めてゐる。

 卓絕せる藝術の與へる衝擊に就いても同じ理法が行はれて差支ない。斯かる藝術に表現せられた人間の理想は、たしかに、觀る者の感情の中に祀られてゐる彼の全人類の過去の經驗、卽ち數へ盡くせぬ先祖等から遺傳した或るものに感銘を與へる。

 數へ盡くせぬとは正にその通りである。

 一世紀に三世代の割として、血族結婚が無かつたとすれば、或る佛國の數學者は、現在の佛國人は何れも紀元一千年代の二百萬人の血をその脈管内に藏してゐる割だと計算して

ゐる。若し西曆の紀元から起算すれば、今日の一人の先祖は千八百京(卽ち一八、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇)といふ總數になる。然も二十世紀間くらゐは、人類生存の期間に比しては何程のものでもない。

 さて美の情緖は、人間の一切の情緖と等しく數へ難き過去に於ける、想像もつかぬ程に數知れぬ經驗を遺傳した產物に相違ない。個々の美的感覺にも頭腦の不思議な沃土に埋もれた億兆不可測の幽玄なる記憶の動めきがある。而して各人は己の中に美の理想を有つてゐる。それは嘗て眼に美しく映じた形や色や趣のありし知覺の無限の複合に外ならぬ。この理想は本質に於ては靜能的[やぶちゃん注:原文は“dormant”。「休眠している」の意。]であるが、潛伏してゐて、想像を對象として、任意に喚起することは出來ぬが、生ける感官が何物か略〻相連らなるものを知覺するときに、突如として點火する。その時彼の[やぶちゃん注:「かの」。]異樣な、悲しくも嬉しい身震ひを感ずる。其は生命の流と時の流との急激な逆行に伴なつて起こるものであつて、そこに百萬年千萬代の感動が一瞬時の感激に總括されるのである。而して己の精神から美の民族的理想を分離して、その漾へる[やぶちゃん注:「ただよへる」。]輪廓を珠玉や石に彫みつける奇蹟を行ふことの出來たのは、唯一つの文明に屬する美術家達、卽ち希臘人のみであつた。彼等は裸體を神聖なるものとして、吾人をして彼等が自から感じたと略〻等しく、その神聖を感せしめずには措かぬ[やぶちゃん注:「おかぬ」。]。彼等がその樣な作をすることの出來たのは恐らくエマースンが提言してゐる如く、彼等が完全な感覺を有つて居たからであらう。確に彼等がその彫像の如く美しかつたからではない。如何なる男も女もそのやうに美しくはあり得ぬ。是だけは確である。彼等は眼や眼瞼や頭や頰や口や頤や胴や手足の、今は亡き美しさの幾百萬とも數知れぬ記憶の複合である彼等の理想を觀取して、之を明瞭に定着したのである。

 希臘の彫刻そのものが、絕對の個性は存在せず、換言すれば肉體が細胞の複合體なるが如く精神も亦複合體なりとの證據を示してゐる。

 

       

           四月二十一日 京都にて

 全帝國に於ける宗敎的建築の最高の典型が丁度落成した。それでこの殿堂の大都會は、今またありし世紀間にその比を見たとは思はれぬ二大建築を加へた。一つは帝國政府の造營で、今一つは一般庶民の寄進である。

 政府の造榮は大極殿で、この聖都を開かれた人皇五十一代桓武天皇の大祭を記念するために建てたものである。この天皇の英靈に大極殿は奉献されたので、是は神道の社殿否凡ての社殿中最も壯麗なものである。然しそれは神社建築ではなくて、桓武天皇の時代の宮殿をその儘の模寫である。この在來の神社の樣式と脫した大建築が國民の感情に及ぼす影響とそれを思ひ立つた畏敬の念の深き詩趣とは、日本が今なほ祖先の靈によつて支配されてゐることを辨へてゐる者でなくては十分に理解することは出來ぬ。大極殿の建物は美しと云ふも愚かである。日本の都會の中で最も古いこの京都に於てすら、この建物は視る眼を驚かす。笄のついた[やぶちゃん注:「笄」は「かうがい(こうがい)」。髪掻きのそれであるが、ここは隠喩(換喩)の意訳。原文は“their horned roofs”で「角張った屋根群」である。]屋根の反りかへつた線によつて、今とは異つた奇想に富んだ時代の物語を蒼空に語つてゐる。就中、殊に軌を逸して奇拔な點は、二階になつた五つの塔のある門である。宛然支那の奇想そのものである、と人は謂ふであらう。色彩や構造に於ても樣式に劣らず奇拔なのに人目を惹く。それは殊に色交りの屋根に綠色の古代瓦を巧みに用ゐたために一層引き立つてゐる。桓武天皇の英靈も、建築の巫術によつて、過去が斯くも面白く呼びかへされてゐるのを、必らずや喜ばれるに相違ない。

 然し庶民の京都市への寄進は更に偉大である。壯麗なる東本願寺(眞宗)がそれである。西洋の讀者はその建築に八百萬弗の巨資と十七年の歲月を費やしたといふ事で、その結構の一斑を知ることが出來る。唯だ大きさの點では粗末な普請の他の日本建築に遙かに凌駕されてゐるが、日本の寺院建築に通じてゐる者は、高さ百二十八尺奧行百九十二尺長さ二百尺餘[やぶちゃん注:原文は総て“feet”。但し、“There are beams forty-two feet long and four feet thick; and there are pillars nine feet in circumference.”とある通り、ここは数字を尺換算して示してある。和訳のそれぞれをメートルに換算すると(丸括弧内はフィートの換算値)、高さ三十八・七八(三十九・〇一)、奥行き五十八・一八(五十八・五二)、長さ六十・六〇(約六十一メートル)メートル超えで先に示した実際のスケール(高さ三十八、奥行き五十八、間口七十六メートル)を間口を除けば、ほぼ正確に示している。]の伽藍を建てることの苦心を直に悟るであらう。その特殊の形狀、殊に屋根の長大な單線輪廓のために、この本願寺は實際よりも遙かに大きく見える。山の樣に見える。然し何處の國に持つていつても、是は驚く可き建築と見倣されるであらう。長さ四十二尺直徑四尺[やぶちゃん注:これも原文はフィートであるが、数値は同じ。同前で示す長さ十二・七二(十二・八)、直径一・二一(一・二一)メートル。]の木材が使つてある。周關九尺[やぶちゃん注:同前。二・七二(二・七四)メートル。]の圓柱がある。内部の裝飾の性質に就いては、正面の護摩壇の後ろに立てた襖の蓮の花の紬を描くだけに一萬弗かかつた、といふのでも推量出來る。斯う云ふ驚く可き造營が、殆ど凡て、勞作してゐる農民から銅貨で寄附された金でなされたのである。それでも佛敎が滅びつつあると考へる連中があらうとは。

 十萬餘の農民等がこの大落成式を見物に來た。廣庭に幾町步といふほど敷き詰めた莚の上に彼等は幾萬の群をなして坐つてゐた。自分は彼等が午後三時に斯うして待つてゐるのを見た。庭は生ある海と謂つてよかつた。併しその雲霞の群集は、儀式の初まるのを午後七時まで食はず飮まず、日の射す所に待たなければならなかつた。庭の片隅に、何れも白い着物を着て綺麗な白い帽子を被つた、二十人程の若い女の一隊が見えた。どういふ人達かと聞くと、側に居た人が『この大勢が幾時間も待つて居なければならぬから、中には病人も出るだらうと懸念される。そこで看護婦が發病者の手當てをする爲めに詰めて居るのだ、擔架も備へてある、それから運搬人夫も、醫者も大勢居ますよ』と答へた。

 この辛抱と信心とを自分は驚歎した。然しそれらの善男善女がこの壯大な寺院を斯く大切に思ふのは當然である。それは事實彼等自身の作り上げたものであつた、直接にも間接にも。と云ふのは、建築の仕事も少からず寄進の積りで行はれ、分けても大きな棟木などは、遠國の山腹から京都まで、信者の妻や娘の頭の毛で作つた綱で曳いて來たのであつた。その綱の一つで寺の内に保存されてゐるのは長さ三百六十呎餘[やぶちゃん注:百十メートルほど。]、直徑約三吋[やぶちゃん注:「インチ」。約七・六センチメートル。]もある。

[やぶちゃん注:この髪の毛は一部が現存する。「真宗本願寺派東本願寺」公式サイト内のこちらに、御影堂・阿弥陀堂『両堂の再建時、巨大な木材の搬出・運搬の際には、引き綱が切れるなどの運搬中の事故が相次いだため、より強い引き綱を必要としました。そこで、女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれたのが毛綱です』。『当時、全国各地からは、全部で』五十三『本の毛綱が寄進され、最も大きいものは長さ』百十メートル、太さ四十センチメートル、重さ約一トン『にも及びます。いかに多くの髪の毛が必要とされたかがうかがわれます』。『現在、東本願寺に展示されている毛綱は、新潟県(越後国)のご門徒から寄進されたもので、長さ』六十九メートル、太さ約三十センチメートル、重さ約三百七十五キログラムであるとある。毛綱の写真もある。]

 自分には國民の宗敎心のこの二大記念物の敎訓が、國家の繁營の增進と比例して、その宗敎心の倫理的勢力と價値との、未來に於ける確實なる增進を暗示した。一時財力の減少した事が、佛敎が一時衰運に向つたと思はれることの實際の說明である。外に表はれた佛敎の或る形式は衰亡するに相違ない。神道の或る迷信は自滅するに相違ない。併し、中心の眞理と之に對する認容は、擴まり强まり、國民の心に却つて根ざしを深め、今後國民が入らんとする、更に大なる更に困難なる生活の試煉に對して、力强き覺悟を與へるであらう。

 

       

        四月二十三日 神戶にて

[やぶちゃん注:これは京都旅行から神戸へ帰った(明治二八(一八九五)年四月二十二日)翌日の四月二十三日火曜日に「水産物展覧会」を「和楽園」に見物に行ったのを最終章に附録させたものである。和楽園は現在の兵庫県神戸市兵庫区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にあった遊園地であった。因みに、この二年後の明治三〇(一八九七)年、神戸の和田岬で行われた、これに続く「第二回水産博覧会」では、会期中の期間限定で本格的な「和楽園水族館」が開かれており(ここに出るのはもっと簡易の水槽展示であろう)、これは濾過槽設備を備えた国内初の水族館とされるものである。現在、神戸市須磨区若宮町に「和楽園展示館」があるが、旧和楽園はここの位置でないと思われる。]

 兵庫で、海に近い庭庭にある魚類其他水產の展覽會を見物した。場所の名は和樂園と呼んで『平和の樂みの庭』と云ふ意味である。風景を象どつた昔の庭園風の段取りで、まことその名にふさはしい。その端を越して廣い灣が見え、小舟に乘つた漁師や、照り榮える白帆の沖行く樣や、遙かの彼方には、地平線を塞いで、紫色に霞む山々の高く美しき群ら立ちが見える。

 澄んだ海水を湛へた色々な形をした池があつて、色の美しい魚が泳いてゐる。自分は水族館に入つた。そこには特に變つた魚類が硝子越しに泳いでゐた。紙鳶[やぶちゃん注:「かみだこ」と読んでおく。凧、というより、烏賊昇りで、小泉八雲が見たのは生体のイカであろうか。]樣な形をした魚や、刀身の樣な形をした魚や、裏返しになつてゐる樣な魚や、袖の樣な鰭振りはえて舞妓の振るまひする、蝶の羽色をした妙な可愛らしい魚がゐた。

[やぶちゃん注:それぞれ種を同定したい誘惑に駆られるが、我慢する。]

 小舟や網や釣針や浮子(うけ)[やぶちゃん注:浮子(うき)のこと。]や漁火[やぶちゃん注:「いさりび」。]のあらゆる種類の模型を見た。あらゆる種類の漁獵法の細圖や、鯨を屠つてゐる[やぶちゃん注:「はふつてゐる(ほうっている)」。体を切ってバラバラにする。]模型と細目も見た。一つの畫面は凄いものであつた。太網にかかつた鯨の死の苦悶と、眞紅な泡の逆卷く中に小舟の躍つてゐる樣、裸な男が一人巨獸の背にに乘り、その姿だけが水平線上に飛び拔けて、大きな魚扠[やぶちゃん注:二字で「やす」と読む。先端が数本に分かれて尖った鉄製尖頭を長い柄の先に附けた魚具。但し、原文は“great steel”であるから、「銛(もり)」の方が相応しい。]を以て鯨を突き制すと。それに應じて血汐の噴水が迸つてゐる圖であつた。自分の側に日本人の父親と母親とが幼い男兒にその繪の說明をしてゐるのが聞こえた。母親は言つてゐた。

 『鯨が死にかかる時には、南無阿彌陀佛と唱へて、佛樣のお助けを願ひますよ』

 自分は別な方へ往つた、そこには馴れた鹿が居たり『金色の熊』[やぶちゃん注:確かに““golden bear””とはあるが、何だろう? 平井]が金網の中に飼つてあつたり、烏舍に入れた孔雀も居り、手長猿も居た。自分は鳥舍の傍の茶屋の緣に腰をかけて休んだ。すると捕鯨の圖を見てゐた人達が同じ緣にやつて來た。やがて彼の[やぶちゃん注:「かの」。]小兒が斯う言つてゐるのが間こえた。

[やぶちゃん注:「『金色の熊』」確かに““golden bear””とはあるが、何だろう? 平井呈一氏は恒文社版「旅日記から」(一九七五年刊「東の国から・心」所収)では『ひぐま』と訳しておられる。確かにクマ科クマ亜科クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis には、かなり明度の明るい褐色個体がおり、それを「黄色い熊」とは言うておかしくはないが、この時代に神戸の民間施設でエゾヒグマを飼っていた可能性は私は限りなくゼロに近いように思われる。寧ろ、ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus の中に見られる濃褐色の個体の幼体だと、色が薄く見えて「黄色い熊」と見えるようにも思える。或いは、可哀想に狭い檻の中で飼われて、皮膚病で毛が大半落ち、肌が剥き出しになった病気個体ででもあったのかも知れない。無論、別なクマではない四足獣類の可能性も視野には置かねばなるまいが、如何せん、描写がないので特定は不能である。]

 『お父さん、大變お爺さんの漁師がお舟の中に居ますね。あのお爺さんはどうして浦島太郞見たいに龍宮に行かないの』

 父親は答へた。『浦島は龜を捕へたが、それは本當の龜ぢやなくて、龍宮の王樣のお姬樣だつたから、その龜を親切にした御褒美があつたのさ。あのお爺さんは龜を捕へやしなかつたし、捕へたつて、あんまり年を取つてお婿さんになれやしないから、それで龍宮へは往かなかつたのさ』

 するとその子は花を眺め、噴水を眺め、白帆のある日の常たつた海を眺め、一番先きの紫色の山々を眺めて叫んだ。

 『お父さん、世界中にもつと綺麗な所がありますか』

 父親は嬉しさうに微笑んで、何か答へようとするらしかつた。が、まだ何も言はぬ中にその子は大聲を舉げ、飛び上がつて、手を拍つて喜んだ。孔雀が不意にその見事な尾を擴げたからであつた。皆が鳥舍の方へ馳け寄つた。それで彼の可愛い問に對する答は聞くことが出來なかつた。

 併し後になつて自分はつぎの樣に答へてもよからうと思つた。

 『坊や、これは實に美しいが、世界には美しいものは澤山あるから、之より美しい庭が幾つもあるだらう。

 『併し一番美しい庭はこの世には無い。それは西方淨土にある阿彌陀樣のお庭である。

 『生きてゐる間に惡い事をしない者は誰れでも、死んでからそのお庭に住むことが出來る。

 『そこでは天の鳥の尊い孔雀がその尾を日輪の如くに擴げながら、七階〔七菩提分の意か〕五力の法を唱へる。

[やぶちゃん注:〔 〕は訳者石川氏の訳者注。

「七階」調べて見ると、隋から唐にかけて席巻した都会型の仏教の一派である三階教に「七階仏名(ぶつみょう)経」があり、「仏名経」とは、諸仏の名号を受持しつつ、その功徳によって懺悔滅罪すべきことを説く複数の経典の名である。敦煌出土の「七階仏名経」も存在する。まあ、しかし石川氏の割注もそのような意であろう。

「五力」は「ごりき」と読み、悟りを開く方法である三十七道品(どうほん)の一部で、悪を破る五つの力を指す。信力(心を清らかにする力)・念力(記憶する力)・精進力(善に励む力)・定力(じょうりき:禅定する力)・慧力(えりき:真理を理解する力)の五つ。]

 『そこには玉泉の池〔七寳の池の意か〕があつて、その中に名づけ樣のない美しさの蓮華が咲いてゐる。その花からは絕えず虹色の光と、新しく生まれた諸佛の精靈とが昇る。

 『水は蓮の蕾の間をさざめき流れながら、その花の中に宿る魂に無限の記憶と無限の幻想と四つの無限の感情とに就いて語る。

[やぶちゃん注:「四つの無限の感情」「四無量心」(しむりょうしん)のこと。『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」』に既出既注。]

 『そこには神と人との差別が無い。阿彌陀の榮光の前には神々も身を屈め、「無量壽光の御佛」といふ句を以て初まる頌歌[やぶちゃん注:「しようか(しょうか)」。讃歌。]を唱へねばならぬ。

 『併し、天上の河の聲は幾千の人の和讃の樣に、「是れ未だ高しとせず、更に高きものあり。是れ現實に非ず、是れ平和に非ず」と歌つてゐる』

 

2019/12/09

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「四」・「五」 / 日本文化の神髄~了

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 日本の國民生活に於ける前記の不永存性と小規模とに對し、之に伴なふ何か代償的の長所があるのではないか。それを探究することは徒勞ではない。

 

 この國民性の極度の流動性はその特徵の著しきものである。日本國民はその微分子が斷えず循環してゐる一物質の樣である。而して其運動からして變はつてゐる。西洋諸國の人民の移動に比して、一點から一點に到る運動は微弱でも、全體に於ては大きく且つ變化に富んてゐる。その建前は又遙かに自然である。西洋文明には存在し得ぬほど自然である。歐洲人と日本人との移動の比較は、或る高速度の振動と或る低速度の振動との比較によつて示すことが出來る。但しこの場合高速度の方は人爲の力が加はつてゐることを示すが、遲い振動の方にはさういふ事はない。而して斯ういふ種類の上の差異には外觀以上の意義がある。或る意味では、米國人は盛んに旅行する國民だと自ら思つてゐてよい。が、又他の意味では、さう思ふのは信に間違つてゐる。一般の米囚人は、旅行する點に於ては、一般の日本人には及ばない。勿論諸國民の移動を比較するには、單に少數の有產階級のみでなく、大衆・卽ち勞働者を主として考へなければならぬ。國内に於ては日本人は文明人の中で最も盛んに旅行する國民である。彼等が最も盛んに旅行する人民であると云ふのは、彼等が殆ど山脈から成つてゐる國土にありながら、何等旅行に對する障碍を認めぬからである。日本で一番旅行をする者は汽車とか汽船とかに乘せて貰はんでも困らぬ手合である。

 我々に在つては、一般勞働者は日本の普通勞働者よりも遙かに不自由である。彼等はその種々の力が集團凝結の傾向を有する西洋の社會の複雜なる機關のために拘束せられるのである。彼等が倚存[やぶちゃん注:「依存」に同じい。]せぬばならぬ社會上產業上の機關が、自己の特殊の要求に應じて、彼等をして常に他の本然の能力を棄てて、或る特殊の人爲的能力を發達せしめるやうにするからである。

 彼等は單に勤儉によつて經濟的獨立を得る事を不可能にする樣な生活の標準で暮らさねばならぬ故にさうなのである。さうした獨立を得るためには、同じ束縛から脫しようと等しく努力してゐる幾千の異數の競爭者に優つた異數の性格と異數の材能とを有つてゐなければならぬ。約言すれば、彼等の特異な文明が機械や大資本の力を藉りずに生活してゆく彼等の本然の力を萎えさせたがために、日本人の如くに自由でないのである。斯く不自然な生活を營む事は、やがて獨立した移動の力を失ふ結果になる。西洋人が移動する前には色々な事を顧慮しなければならぬ。日本人の方は何も顧慮することはない、彼等は何の造作もなく嫌な所を去つて好な所に往くのである。何も彼等を妨げるものは無い。貧窮は障碍でなく、却つて刺戟である。荷物といふ程のものは無く、あつても數分間に始末の出來るものである。道の遠近などは何の事はない。彼等は一日五十哩[やぶちゃん注:「マイル」。約八十キロメートル半。]を苦もなく飛ばす脚を具へてゐる。西洋人の到底生活して往かれぬ樣な食物から、多分の榮養を攝取することの出來る不思議な胃囊を具へ、更に彼等は、未だ不健全な衣服や過多な便利品や爐やストーヴから暖を取る事や、皮の靴を穿く習慣によつて害せられてゐないので、能く寒暑や雨露を凌ぐ體質を具へてゐる。

 歐米人の履物の適否は普通に考へられてゐるよりも以上の意義を有つてゐる樣に思はれる。この履物が卽ち個人の自由の拘束を示してゐる。位格の高い事だけでも既にさうである。が、その樣式に於ては更に甚だしいものがある。歐米人の足は靴のために原の形から歪められて了つて、其目的のために進化し來たつた働きに堪へなくなつてゐる。其生理上の影響は足だけに止まらない。直接間接に移動機關に影響するのは當然、身體全部にその影響を及ぼす筈である。其弊害は全身だけで止まるであらうか。我々があらゆる文化の中に存してゐる最も愚劣な因習に從つてゐる事も、靴屋の橫暴に多年屈服し來たつた影響かも知れぬ。政治にも、風敎[やぶちゃん注:「ふうけう(ふうきょう)」。原文“social ethics”。「社会倫理」でよかろうが。]にも、宗敎制度にも、皮の靴を穿く習慣に多少關係のある缺陷があるかも知れぬ。肉體の壓屈に對する忍從は必らずや精神に對する忍從を助成する。

 普通の日本人――同じ樣な仕事にかけて西洋の職工よりは遙かに賃銀の安い日本の熟練工――は仕合せにも靴屋や仕立屋の世話にならぬ。彼等の足の恰好はよく、身體は健康で、心は自由である。彼が千里の旅行を思ひ立つたとすれば、五分間には旅の支度が出來る。彼の旅裝は七十五仙[やぶちゃん注:「セント」。前に述べた一ドル二万円として、一万五千円で高過ぎる。せいぜい二十五セントで十分だ。これは西洋人の旅装の最低金額を示したものかも知れぬ。]とはかからぬ。彼の手まはりは手巾[やぶちゃん注:手拭い。]一つに包める。十弗[やぶちゃん注:先の換算で現行の二十万円。]あれば一年の間働かずに旅が出來る。或は自分の腕だけでも渡つて步ける。或は又順禮[やぶちゃん注:「巡礼」に同じい。]して步く事も出來る。そんな事は野蠻人ならいくらでも出來る、といふかも知らぬ。其には相違ないが、文明人では誰れにも出來るとは言へぬ。而して日本人は過去少くも一千年来開明の民であつた。日本の職工が昨今西洋の製造業者を脅威する力を示してゐるのは是がためである。

 斯うして自由に移動し得ることを、我々は從來、歐米の乞食や浮浪人の生活と聯想することに馴れきつてゐたので、この事の眞の意義を正當に考へることが出來なかつた。我々は更に之を不潔と惡臭と云ふ樣な不快な事柄と聯想し來たつた。併しチェインバレン敎授が道破して居る樣に、『日本の群集は世界中で一番氣持ちがよい』[やぶちゃん注:ここで句点を打つべき。]浮浪人の如き日本の旅行者でも何厘といふ湯錢さへあれば每日入浴する。無ければ水で洗ふ。彼の包には櫛や小楊枝や剃刀や齒刷子が入つてゐる。彼は何事があつても鼻持ちならぬ樣になることはせぬ。行先へ着くと粗末ではあるが非のうてぬ着物を着た行儀のよいお客になりすます。

[やぶちゃん注:「チェインバレン」イギリスの日本研究家でお雇い外国人教師であったバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain 一八五〇年~一九三五年:ハーンとは同い年)ポーツマス近郊のサウスシー生まれ。参照したウィキの「バジル・ホール・チェンバレン」によれば、『彼は俳句を英訳した最初の人物の一人であり』、日本についての事典や文法書、「古事記」などの英訳、アイヌや琉球の研究でも知られる。『「王堂」と号して、署名には「チャンブレン」と書いた』。彼は若き日、『オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した』という(以下、アラビア数字を漢数字に代え、注記号を省略した)。明治六(一八七三)年『五月二十九日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌一八七四年から一八八二年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。ついで一八八六年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、一八八八年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、一八九〇年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、一八九九年初版、一九〇五年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作』“BUSHIDO”に『触れているが』、『愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(一八九一年)も執筆し、これは多くの版を重ねた』(「マレー」(John Murray)はイギリスの出版社。ダーウィンの「種の起源」を出版したことで私でさえも知っている当時の超弩級の出版元である)。『一九〇四年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、一九一一年離日』し、この時、『東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道を』「チェンバレンの散歩道」『と別称している』と記す。因みにまた、後にドイツに帰化した反ユダヤ主義の政治評論家で脚本家であったヒューストン・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 一八五五年~一九二七年)は彼の末弟であり、彼は作曲家リヒャルト・ワーグナーの娘を妻としたことから、彼もワーグナー家と晩年、交流があったともある。なお、小泉八雲は親しかったが、晩年にはチェンバレンとは距離を置いたようである。引用は彼の名著「日本事物誌」(Things Japanese)の「Bathing」(入浴)の第61節(リンク先は英文ウィキソース)。]

 

註 日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする、と云ふエドウィン・アーノルド卿の評言を嘲笑しようとする批評家もあつたが、この形容は的中してゐる。「麝香」と呼ぶ香料は控へ目に使へば、ニホヒヂレイニヤムのかをりと取り違へられ易い。女子を交じへた日本人の寄合では、何時もほんのりとした麝香の匂がする。着てゐゐ衣類が少量の麝香を入れた簞笥の中に藏つて[やぶちゃん注:「しまつて」。]あつたからである。この軟かな匂の外には日本の群集には何の臭氣も無い。

[やぶちゃん注:「ヂレイニヤム」“geranium”。ゼラニウムのこと。フウロソウ(風露草)目フウロソウ科フウロソウ属 Geranium。同属には二百種類以上あるとされ、そのアロマは現在も好まれる。中でも精油を抽出し得る種群のものは薔薇のような香りがすることから「ローズゼラニウム」とも呼ばれる。

「エドウィン・アーノルド」(Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)はイギリスの新聞記者(探訪記者)・紀行作家・東洋学者・日本研究家・仏教学者・詩人として知られ、ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『キングス・カレッジ・ロンドンを経て、オックスフォード大学へ進』み、『卒業後、バーミンガムのKing Edward's School (KES) の校長とな』った。一八五六年、『東インド会社の斡旋でインド』の『プネーに開校されたサンスクリット大学に招かれ』、七『年間』、『校長を務めた』。『アーノルドは神秘思想の研究に専念したいと欲し』、『ブッダガヤを訪れて仏教彫刻を研究』、『インド滞在時にソローの引用したインドの経典『バガヴァッド・ギーター』を翻訳するなど、以後の研究材料を集めた』。一八六一年、『イングランドに戻り、『デイリー・テレグラフ』』(The Daily Telegrap)に入社し、以来、四十年に亙って、『『デイリー・テレグラフ』紙の記者を務め、後に編集長となるに至る。在任中にニューヨークに渡り、『ニューヨーク・ヘラルド』』(The New York Herald)『の記者の一員としてヘンリー・モートン・スタンリー』(Henry Morton Stanley 一八四一年~一九〇四年:イギリス・ウェールズのジャーナリストで探検家。アフリカ探検及び遭難したスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone 一八一三年~一八七三年)を発見した人物として知られる)『のコンゴ川探検に随行、エドワード湖の名付け親となる。その後、同世代最高の詩人として』、政治家セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes 一八五三年~一九〇二年:イギリス帝国の植民地政治家。南アフリカの鉱物採掘で巨富を得、植民地首相となり、占領地に自分の名「ローデシア」を冠した)『に認められた。アーノルドはその後、初代インド女帝ヴィクトリアより、イギリス領インド帝国が成立した後、爵位制度が公布されるに従って、ナイト爵に叙され』ている。『アーノルドはその後、文学活動を東アジア文学と英語詩の解釈に比重を置き、釈迦の生涯と故えを説く長編無韻詩『アジアの光』を刊行した。これはヒンディー語に翻訳され、ガンジーも愛読し、ジェームズ・アレンも引用している』一八八九年(明治二十二年)に『娘とともに来日し』、『日本の官吏・学者が開いた来日歓迎晩餐会の席上で』は、日本は「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と称賛したという。『この後、福澤諭吉が自宅に招いて慶應義塾でアーノルドを住まわせ、物心両面にわたって援助を続けた。アーノルドは慶應義塾の客員講師となり、化学及び英訳を担当した』。『日本式の家に住みたいと希望し、福沢門下の麻生武平が所有する麻布の日本家屋に居を構え』、『滞在中に』三『番目の妻で』三十七『歳年下の黒川玉(Tama Kurokawa)と結婚した。また』、一八九一年には、アメリカの画家ロバート・フレデリック・ブルーム(Robert Frederick Blum 一八五七年~一九〇三年)の『挿絵とともに、『ヤポニカ』』(Japonica)『に日本の美を追求した紀行文を記している』。先の『バジル・ホール・チェンバレンとも交わり、日本各地を旅した』。『その後、ペルシャ、トルコ、タイを訪問して、仏教に関する翻訳を数多く手がけるようになる。東洋の典拠に基づいて、古今の仏教を徹底的に見きわめた価値ある論評を書き続ける。また、スリランカで仏教徒となった頃から菜食主義者となり、ロンドンにおける菜食主義の動きの発端となった』とある。「日本人の集まつてゐゐ所はヂレイニヤムの花の樣な匂がする」という出典は未詳。

「麝香」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「ニホヒヂレイニヤム」原文は“musk-geranium”。「musk」は「麝香」の意。ヨーロッパ南部原産で葉に芳香があるゼラニウム・マクロリズム Geranium macrorrhizumShu Suehiro氏のサイト「ボタニック ガーデン 草花と樹木のデジタル植物園」のこちらで草体と花が見られる。]

 

 家財もなく、道具もなく、さつぱりした衣類を少し持つて暮らせることは、日本民族が生存競爭に於て持つてゐる勝味を示すばかりでなく、歐米の文明に於ける弱點の本質をも示すものである。是は我々の日常生活に於ける必需品の徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]多數なることを反省せしめずには措かぬ。我々は肉とパンとバタが無くては暮らせぬ。硝子窓と爐火、帽子、白シヤツ、毛の下着、深靴[やぶちゃん注:ブーツ。]、半靴[やぶちゃん注:通常の靴。]、トランクや鞄や箱類、寢臺、蒲團、シーツ、毛布が無くては暮らせぬ。何れも日本人が無くても濟ます、否實際、無くて却つて樂に暮らしてゐる品物である。假りに白いシヤツと云ふ金のかかる一項目に就いても、それは歐米の衣服の非常に大切な一部ではないか。而も『紳士の徽章』と謂はれるリネンのシヤツからして無用な衣類である。別に暖かくもなければ好い氣持ちでもない。これは歐米の服裝に於て、甞ては贅澤な階級差別の遺風であつたが、今では袖の外側に縫ひ附けてあるボタンの樣に無意味無用の長物である。

[やぶちゃん注:「リネン」“linen”。フランス語でlinière(リンネル)。亜麻の繊維を原料とした糸織物。強く、水分の吸収発散が早く、涼感がある。夏物衣料などに用いられる。]

 

       

 日本が成就した眞に偉大なる事蹟に對し、何等巨大なる象徴の無いことは、日本文明の特殊の作用を證明する。永久にその樣な作用を續けることは出來ぬが、今日までは然ういふ風にして驚く可き成功を收めて來た。日本は、我々が考へてゐる樣な大きな意味では、資本なくして生產してゐる。日本は本質に於て機械的人工的になることなくして產業的になつて來た。米の大收穫は幾百萬の微々たる農場から產出する。絹は幾百萬の小さい貧しい家庭から、茶は無數の小さい畠から產出する。京都に往つて世界に知られた陶磁器の大家、その人の作品が日本よりはロンドンやパリで更に名高い名工に、何か注文しに往つて見ると、その工場と云ふのは、米國の農夫なら到底住めぬ樣な木造の小さな家であらう。五吋[やぶちゃん注:「インチ」。十二・七センチメートル。]程の高さの品物に對して二百弗も取る樣な七寶燒の名人は大方小さな室六つ程の二階家の裏で、彼の稀代の珍品を拵へてゐる。全帝國に鳴り響いた日本で最上の絹の帶地は、建築費五百弗とはかからぬ建物の中で織られてゐる。仕事は勿論手織りである。然し機械で織つてゐる工場、遙か大規模の外國の工業を倒すほど精巧に織つてゐる工場とでも、少數の例を除いては、大して其より立派ではない。長い輕い低い一階か二階の小舍で、歐米に於て幾棟かの木造の厩を建てる位しかかかりさうもない。然し斯うした小舍が世界中に賣れる絹を作り出す。時によると、庭口の上に揭げた漢字が讀めるのでないと、聞き尋ねるか、機械の鳴くやうな音か何ぞで、漸くその工場と昔の屋敷や舊式の小學校舍との見別けがつく位のものである。大きな煉瓦の工場や釀造場もあるが、その數は至つて少く、外人居留地に接近してゐる時ですらも、四邊の景色と不釣合に見える。

 歐米の怪異的な大建築や、雜騷極りなき機械は產業資本の大なる結合によつて實現したものである。然るに斯ういふ結合は極東に於ては存在しない。その樣に結合せらる可き資本からして存在しない。假りに數世代の中に、斯の樣な金力の結合が出來上がるにしても、建築物の構造に於て同樣の結合を豫想することは容易でない。二階建の煉瓦造りさへ主なる商業の中心地に於て好成績を舉げなかつた。其上地震が日本をして永久に建築を筒單にすることを餘儀なくさせてゐるらしい。國土そのものが西洋建築の强制に反抗し、時には鐡道線路を搖り枉げ[やぶちゃん注:「ゆりまげ」。]、押し流して、新しき交通制度にすら反對する。

 斯く組織されるに至らないのは產業のみではない。政府までが同じ樣な狀態を呈してゐる。皇位の外何物も確立してゐない。不斷の變遷は國策と同一である。大臣も知事も局長も視學官[やぶちゃん注:旧文部省及び地方に置かれた教育行政官。地方に置かれた視学官は視学の統轄及び学事の視察や教員の監督を行った。]も、凡ての文武の高官が極めて不定期に、驚く程の短期間に異動し、群小吏員は其餘波によつて散亂する。自分が日本在住の初年を過ごした縣[やぶちゃん注:島根県。]では五年間に四人の知事を迎へた。熊本在住の間、大戰[やぶちゃん注:日清戦争。]の初まるまでに、彼の重要地點の師団長[やぶちゃん注:熊本鎮台の後身である大日本帝国陸軍第六師団のそれ。]が三度代つた。そこの高等學校は三年間に三人の校長を戴いた。敎育界に於ける更迭の頻繁なことは特に著しいものであつた。自分の在職中にすら、文部大臣の更まること四度、敎育方針の改まること四度以上であつた。二萬六千の公立學校はその管理上各地方合議に支配せられ、他の勢力の影響がなくても、議員の改選ごとに始終改變するを免れない。校長や敎員が常に轉々してゐる。僅に三十を越したばかりで、國内の大抵の府縣に奉職したといふ樣な者もある。斯ういふ事情の下に、一國の敎育が何等かの効果を收めたといふことは、實に奇蹟的と謂ふの外あるまい。

 我々は常に、凡そ眞の進步、大なる發達には、或る程度の安定が必要だと考へてゐる。が、日本は何等の安定もなくして大なる發達の可能なことの論破し難い證左を舉げてゐる[やぶちゃん注:行末で句点がない。]その理由は種々の點に於て歐米の國民性と正反對な國民性に存する。本來一樣に移動的なこの國民は、又一樣に感動し易く、大目的の方に舉國一致して進んだ。四千萬の全一團を、砂や水が風によつて形をなす樣に、その主權者の意向によつて形成せられるに任せた。而してこの改造を甘受することはこの國民生活の舊態、卽ち稀なる沒我と完全なる信義の行はれた往時の狀態に屬してゐる。日本の國民性の中に利己的個人主義の比較的に少いことは、この國を危地より救ふものであつた。この國民をして甚だしき優勢に對抗して自己の獨立を保つことを得しめた。之に對して日本はその道德を創生し保存した二大宗敎に感謝して可い。一つは己が一家又は自己を考へる前に先づ君と國とを思ふことを個人に敎へた神道と、今一つには、悲しみに勝ち、苦しみを忍び、愛する者の消滅と厭へる者の暴虐とを永久の法則として受け容れもやうに各個人を鍛鍊した佛敎とに感謝して可い。

 

 今日は硬化の傾向が見えてゐる。支那の呪であり弱味であつたと全然同樣な官僚主義の形成を誘致する樣な變化の危險が見える。新敎育の道德的効果は物質的の効果に比ぶ可きものが無かつた。純然たる利己と云ふ一般に認められた意味での『個人性』の缺如と云ふ非難は、つぎの世紀の日本人に對しては大方加へ得ぬであらう。學生の作文までが智力を單に進取の武器と見倣す新しい觀念と、甞てなかつた侵略的主我主義の情操とを反射してゐる。佛敎思想の消えなんとする名殘を胸中に留めて斯う書いてゐるものがある。『人生は本來無常である。昨日は富裕にして今日は貧困な者を屢〻見る。是は變化の法則による人間の競爭の結果である。吾人は競爭を免れ得ない。假令それを望まずとも、相互に鬪はなければならぬ。如何なる武器を執つて鬪ふべきか。其は敎育によつて鍛へられたる知識の劍を以てする』

 抑も[やぶちゃん注:「そも」。そもそも。]自我の敎養には二つの形式がある。一方は高貴なる性質の非凡なる發達に到り、他は之に就いて成るべく言はざるを可とするものを意味してゐる。然るに新日本が今攻究せんとしてゐるものは前者ではない。自分は人間の心情は、全國民の歷史に於いてもなほ、人間の理性よりは遙かに優つて貴重なものであり、人生のスフィンクスの凡ての殘忍な謎に答へるにも、比較に絕して勝つてゐることを、早晚示すであらうと信ずる一人であることを告白する。自分は今なほ、昔の日本人は、彼等が德に優れたることを智に優れたるよりも勝されりと考へてゐるだけで、歐米人よりも人生の難問題を解決するに近かつたと信じてゐる。終に臨んでフェルディナン・ブルンチエールの敎育に關する所論の一部を引用して結論に代へて見たい。

[やぶちゃん注:「フェルディナン・ブルンチエール」フェルディナント・ブリュンチエール(Ferdinand Brunetière  一八四九年~一九〇六年)フランスの作家・批評家。以下の引用元は不詳。]

 『一切の敎育的方策は、つぎに記すラメネーの名言の意味を人心に嵌入[やぶちゃん注:「かんにふ(かんにゅう)」はめ込むこと。]して之を深く印象しようとする努力が無いなら、無効に終はるであらう。「人間社會は相互の授與、卽ち人が人のために、或は各人が他の凡ての人々のために献身することに基づいてゐる。而して献身こそ凡ての眞の社會の要素である」然るに吾人はこの事を約一世紀間忘れ去らうとして來たのである。それ故、若し吾人が改めて敎育を受けることになれば、それはこの事を學ぶためにするのである。これを辨へねば、社會もなく敎育も無い。既存の目的が人を社會のために養成するのであるなら、たしかに然うである 個人主義は今日社會の秩序の敵であると同時に、敎育の敵である。初からさうであつた譯ではないが、さう成つて來たのである。永久に然うではないであらうが、今は慥にさうである。そこでこの個人主義を亡ぼさうとは努めぬまでも(さうするのは一方の極端から他の極端に陷ることになる)吾人は家族に對し、社會に對し、敎育に對し、國家に對して何をしようといふにも、個人主義に敵對してその事が行はれるのだ、と云ふことを認めなければならぬ』

[やぶちゃん注:「ラメネー」フェリシテ・ロベール・ド・ラムネー(Félicité-Robert de Lamennais 一七八二年~一八五四年)はフランスのカトリックの聖職者で思想家。キリスト教社会主義者でもあった。ラムネーの引用元は不詳。]

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇の書誌その他は『小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳)/ その「一」』の私の冒頭注を見られたい。]

 

       

 斯く冥想してゐるとき、一大都會の記憶が喚起される。空高く築き上げられて海の如くに轟いてゐる都會である。その轟きの記憶が先づ歸つて來る。つぎに幻想が形を成して來る。立ち並ぶ家々の山、その間の街路の峽谷の光景である。煉瓦や石の絕壁の間を幾哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六一キロメートル。]も跋涉し乍ら、寸地をも路まず、唯だ岩石の板を踏み、喧噪の雷霆の外何をも聞かなかつたので、自分は疲れてゐる 彼[やぶちゃん注:「か」。]の廣漠たる鋪石の路面の下深く、廣大なる洞窟の世界があつて、そこに水や蒸氣や火力を供給するために考案れた脈絡系統の層又層がある。兩側には幾十層列の窓を穿つた垂直面が屛立してゐる。日の目も見せぬ建築の斷崖である。仰げば蒼白な細布の如き空は縱橫無盡に裁たれてゐる、それは蜘蛛手に連らなる無數の電線である。右手の一廓には九千の人間が住んでゐる。向ひの家の借主は年額百萬弗の家賃を拂つてゐる。その先きの宅地を壓する大普請には七百萬弗の巨資もなほ足りぬのである。鋼鐡とセメント、眞鍮と石材とを以て造られ、費用を惜しまぬ欄干を附けた階段は十階二十階と續いてゐる。が、それを踏む者は無い、今は水力蒸氣力電氣力によつて昇降する。足を運ぶには餘りの高さに眼くらみ、行程も亦遠すぎる。この種の建物の十四階に五千弗の家賃を拂つてゐる友人は、一度もこの階段を踏んだことが無い。自分が今步いてゐるのも物好きにしてゐるので、用を足すためなら步きはせぬ。距離は遠く時間は貴重で、そんな悠長な骨折りをしては居られぬ。區から區へ、家から事務所へ、人は皆蒸氣の力で通ふ。家が高すぎ聲が屆かない。用を言ひ附けるにも應へるにも機械による。電氣の力で遠方の扉を開き、一指を動かして一百の家を照らし又暖める。

[やぶちゃん注:ここに出来する幻想の都会は欧米の当時の都会風景であるが、取り敢えず注しておくと、本書刊行(明治二九(一八九六)年三月)当時の為替レートでは、前年の一八九五年で一ドルは一・九八円で凡そ二円である。百万ドルは二百万円、明治三十年代で一円は現在の二万円の価値はあったとする信頼出来る単純換算値に従うならば四百億円、七百万ドルは千四百万円で千四百億円、五千ドルは百万円で二百億円相当となる。]

 凡そこの巨大たるや、堅く、嚴めしく、無言である。堅牢保存の實利的眼目に應用された數理上の力の巨大である。幾哩となく續いてゐる是等の殿堂、倉庫、店舖、その他名狀し難き各種の建物は美しいと謂はんよりは、寧ろ不快である。斯の如き建築を作り出した巨大なる生命、そは同情なき生命の巨大を感じ、彼等の絕大なる力、そは憐みなき力の絕大なる顯現を感ずるのみで意氣銷沈を覺える。是等は新しき產業的時代を建築に表はしたものである。而して車輪の轟き、蹄の音や人の跫音の騷がしさにはをやみもない[やぶちゃん注:「小止み無い」。少しの間も中断することがない。]。物一つ尋ぬるにも相手の耳に喚かねばならぬ。その高壓な環境の中に在つては、見るにも、理解するにも、動くにも、經驗を要する、馴れぬ者は恐慌の中に、暴風の中に、旋風の中にあるの感を有つ。而も凡て是れ秩序である。

 怪しくも廣き街路は、石橋鐡橋を架して、河を越え水路に跨がつてゐる。眼のとどく限り、叢立つ帆柱、蜘蛛手の帆綱が煉瓦や石の斷崖なる岸を隱して居る。錯綜極りなきその帆柱や帆桁に比しては森の木立も密ならず、さし交ふ枝も繁くはない。而も凡て是れ秩序である。

 

       

 約言すれば西洋人は永存のために建て、日本人は當座のために建てる。日本に於て永存の考を以て作られる日用品は少い[やぶちゃん注:底本は「作ら る」と脱字している。「作らるる」の可能性も否定は出来ないが、本書の場合、繰り返しの「るる」は圧倒的に「る〻」となることが多いので、かく補った。]。旅路の驛に着く每に損じては更へる草鞋。小幅幾つかを輕く縫ひ合はせては着、解いては洗濯する着物。旅館で客の代はる每につける新しい箸。窓にもなり壁にもなり、年に二囘張り替へる手輕な障子。秋ごとに表を替へる疊。この外枚舉に遑ない日常の事物が贊國民一般に永存せ裁物に甘んじてゐることを示す。

 普通の日本住宅はどんなにして出來るか。朝自分の家を出て、ぢき先きの四つ角を通る時に、そこの空地に竹の桂を立ててゐる者がある。五時間出てゐて歸つて來ると、その地所に二階家の骨組みが出來てゐる。翌日の午前には壁が泥と藁づた[やぶちゃん注:「藁苞(わらづと)」ならまだしも、聞き慣れぬ語である。「藁を纏めて束にした細長い蔦状にしたもの、藁束のことか? 原文は“wattles”で藁を網代型に編んだ壁の下地のこと。]とであらまし塗られてゐる。日の暮れには屋根に悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)。残らず。すっかり。]瓦が葺かれる。つぎの朝には疊が敷かれ、内壁の上塗りが仕上がつた。五日の中にその家が落成した。是は勿論安普請で、立派な家は建てて仕上げるのにずつと時がかかる。併し日本の都會は大部分斯ういつた風の建物で出來てゐる。家屋は粗末で金もかからぬ。

 

 支那の屋根の曲線が遊牧時代の天幕の記憶を傳へてゐるかも知れぬ、と云ふ意見に何處で初めて出會つたか、今想ひ起こすことは出來ぬが、その考は、自分が不實にも其を讀んだ本を忘れて了つたずつと後まで、自分の心に來往して、出雲に來て古い神社の、破風の端と棟の上とに奇異な十字形の突起を附けた、特殊の構造を見た時に、其よりは新しい建築樣式の可能なる起原に關する、彼の忘られた論文の筆者の提案が力强く想ひ起こされた。併し日本に於てはこの原始的建築の傳統以外にも、この民族の祖先が遊牧の民であつた事を示す事柄が多い。何時何處を見でも、我々が堅牢と呼ばんとするものが全然缺けてゐる。不永存と云ふ特徵が國民の外的生活の一切の物に認められる。唯だ僅に農民の昔ながらの服裝と彼の農具の形が例外である。その歷史に記された比較的に短い期間に於てすら、日本には六十餘の首都[やぶちゃん注:国府・藩庁のこと。]があつて、その大多數は全然跡をも留めぬと云ふ事實はさて措いても、日本の都市は一世代の間に改築されると槪說して差支ない、幾つかの神社佛閣と一二の厖大な城砦だけが例外をなしてゐる。が、通則として日本の都市は人一代の間に、形は兎もあれ、實質を變へる。火事や地震やその他の原因が幾分その理由と考へられるが、主な理由は家が永存する樣に建てられるのでないと云ふ事である。普通の人は祖先傳來の家を有つてゐない。凡ての人に親密なのは誕生の地でなくして、墳墓の地である。死者の安息の場所と、古い廟社の境域を除いては、永久なものとては殆ど無い。

 國土そのものが轉變の地である。河は水路を變へ、海岸は輪廓を變へ、平野は高さを變へる。火山は或は高まり或は崩れる。谷は流れ出づる熔岩や地滑りによつて堰かれる。湖水が生じた消滅したりする。實に二つなき『不二』の嶺の雪を頂いた奇しき姿に幾百年來畫家に靈感を與へた、その山の容[やぶちゃん注:「かたち」。]すら、自分がこの國に來てからでも、少し變つたと云ふことである。同じ短日月の間に全然容を改めた山も少くない。僅にこの國の大體の輪廓と。その山川の大體の容姿と、四季の變遷の大體とが固定してゐるばかりである。風景の美しさそれ自體からして大半幻覺的で、變化する色彩と去來する霧の美しさである。實にかかる風光に目馴れた者ならでは、大八洲の歷史に於ける、ありし實際の轉變も亦起こらんとする轉變の怪しき豫想も事なげに、立つ山々の霧の心は知る由もない。

[やぶちゃん注:富士山の形が変わったというのは小泉八雲の心理的印象の変化によるものであろう。]

 神々こそは變はることなく、山の上なる御社に現はれ給ひ、木下の闇に優しき畏こさを漲らせ給ふ。姿も體も具へられぬ故であらう。御社は流石に人の住居のやうに忘られ果つることは無い。が社殿は皆僅の年月の間に改築される。中にもいと畏こき伊勢の神宮は、神ながらの慣らはしに從ひ、二十年每に毀たれる[やぶちゃん注:「こぼたれる」。]定めで、神木は割かれて數々のお守に作られ、參詣者に分かたれる。

 

 轉變の大敎義を汲く佛敎はアリアン族の印度から、支那を經て傳來した。日本に於ける初期の佛閣を建てた人々は、他の民族の建築者で、堅牢に建てた。鎌倉にある支那風の建築を見るがよい[やぶちゃん注:円覚寺・建長寺のことを指しているものと思われる。但し、その建築は邦人の大工の手になるものである。]。その周圍の大都府は跡も留めないのに、幾百年を經てなほ存してゐる。併し佛敎の精神上の感化は何處の國に於ても、人心を驅つて物質の安定を愛させることは出來なかつた。宇宙は一つの迷夢であると云ふ敎義、人生は無限の旅の束の間の息ひ、人に對し場所に對し、物に對する一切の執着は悲哀の種であると云ふ敎義、一切の願望を滅し、涅槃の願望をすらも減することによつてのみ、人間が永久の平和に達し得ると云ふ敎義は確にこの民族の古來の感情と調和した。彼等はこの外來の信仰の深き哲理には一向心を用ゐたことはないが、その轉變の敎義は、永い間に、深く國民性を感化したに相違ない。この敎義は悟道と慰藉とを與へた。萬事をけなげに辛抱する新たな力を與へた。國民の特性である忍耐力を强めた。日本の藝術は佛敎の感化によつて、事實創始せられたと謂はぬまでも、大いに發達したものであるが、そこにも轉變の敎義がその痕跡を示してゐる。佛敎は、天地自然は夢である、迷である、幻影である、と說いた。が、又その夢の消えゆく印象と捕へ、最高の眞理に照らして解釋することも政へた。

 而して日本人はそれをよく學んだ。咲き出づる春の花の紅の色に、蟬の現はれては又去る態に、色褪する秋の紅葉に、雪の怪しき美しさに、見る眼を欺く浪や雲の往きかひに、不斷の意義ある古き寓話の心を解した。火災、洪水、地震、疾病等の災禍すらも、絕えず彼等に寂滅の理を悟らしめた。

[やぶちゃん注:以下、底本では章末まで、全体が一字下げ。この後、一行空けた。複数の仏典から引用したものを羅列したように思われる。例えば、二段落目のもの

The Sun and Moon, Sakra himself with all the multitude of his attendants, will all, without exception, perish; there is not one that will endure.

は、例の「東方聖典」第十九巻(Sacred Books of the East Vol. 19)の“The Fo-Sho-Hing-Tsan-King:A Life of Buddha by Asvaghosha Bodhisattva,translated from Sanskrit into Chinese by Dharmaraksha A.D. 420,and From Chinese into English by Samuel Beal” の“VARGA 24. THE DIFFERENCES OF THE LIKKHAVIS.”の第1883節に

The sun and moon, Sakra himself, and the great multitude of his attendants, will all, without exception, perish ; there is not one that can for long endure;

と、ほぼ同文を見出せる。我々には孰れも馴染みの仏教思想で、それこそ「兒童無智者と雖も知悉する所」であるからして、私は総てを検証して出典を示す気は毛頭、ない。悪しからず。]

 

 時間の中に存在するものは凡そ死滅を見れず。森も山も、一切のものは斯くあるべく存在す。有情の萬物は時間の中に生まる。

 日も、月も、帝程天と雖も、數多の隨神と共に、皆悉く死滅す。一として永存するものはあらず。

 初には諸物固定す、終には皆分解す。新たなる結合は新たなる物質を生ず。蓋し自然には一定不變の本體なきを以てなり。

 凡て合成せるものは老朽す。凡て合成せるものは永存する事なし。一粒の胡麻に至るまで、凡そ合成物にして水存するはあらず。萬物は變遷す。萬物は本來分解性を有す。

 凡ての合成物は、悉く不永久、不安定にして卑しむべきもの、必滅にして分解す。消え易きこと蜃氣樓の如く、幻影の如く、泡沫の如し。陶工の作れる凡ての陶器が終に破碎するが如く、人間の一生も亦終はる。

 物質自體の信仰は之を述べ難く、又表はし難し。物質は物にもあらず、物外にもあらず、この理は兒童無智者と雖も知悉する所なり。

 

2019/12/08

小泉八雲 日本文化の神髄 (石川林四郎訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”)は来日後の第三作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE ”(心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された)の第二話である。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。また、本篇は本作品集が初出ではなく、雑誌『太西洋評論』(Atlantic Monthly)の一八九五年十月発行に最初に発表したものである。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認出来る(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者石川林四郎(はやし りんしろう 明治一二(一八七九)年~昭和一四(一九三九)年:パブリック・ドメイン)は東京帝大での小泉八雲の教え子。語学に堪能で、名通訳と呼ばれた。東京高等師範学校講師・第六高等学校教授を経て、東京高等師範学校教授となった。昭和四(一九二九)年の大学制制定とともに東京文理科大学教授(英語学・英文学)となった。その間、アメリカ・イギリスに二度、留学、大正一二(一九二三)年には「英語教授研究所」(ハロルド・パーマー所長)企画に参加し、所長を補佐して日本の英語教育の改善振興に尽力した。パーマーの帰国後、同研究所長に就任、口頭直接教授法の普及にに努めた。また、雑誌『英語の研究と教授』を主宰、後進を指導した。著書に「英文学に現はれたる花の研究」「英語教育の理論と実際」などがあり、この他、「コンサイス英和辞典」・「同和英辞典」の編集にも当たっている(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(二〇〇四年刊)に拠る)。

 原註は底本では四字下げポイント落ちであるが、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。やや長い(全五章)ので分割して示す。]

 

      第二章 日本文化の神髓

 

       

 一艦を失ひ一戰に敗る〻ことなく、日本は支那の勢力を挫き、新たに朝鮮を興こし、領土を擴張して東洋の政局面を一變した。是れ實に政治上驚異すべきことと思はれたが、心理上には更に驚異すべきことである。蓋し日本人が曾て諸外國から期待せられなかつた技能――頗る優級なる技能――を大いに働かしたことを示すからである。僅三十年間に於ける所謂『西洋文明の採用』が日本人の頭腦に從來缺けて居た機能を附加した筈はない、と心理學者は知つてゐる。日本人の心性、德性の急激な變化を生じた筈はないと知つてゐる。斯の如き變化は一世代の間には起こらない。移植せられた文明の影響は遙かに緩慢で永續性ある心理的効果を生ずるには幾百年を要するのである。

[やぶちゃん注:冒頭部は日本が、本書刊行の二年前に起こった日清戦争(明治二七(一八九四)年七月から翌明治二十八年四月十七日)で勝利し、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させて、事実上の半島の権益を我が物とし、割譲された台湾を平定した(同年十一月三十日)事実を指す。]

 この點から觀る時に、日本は實に世界に於て殺氣)異數[やぶちゃん注:「いすう」。普通とは違った、他に例のないこと。異例。「数」はここでは「等級・地位」の意。]な國と見えるのであつて、日本の歐化の跡を眺めて最も驚歎すべきは國民の頭腦がよく斯程の衝擊に耐へたことである。この事實は史上他に比類の無い事ながら、その眞義は果たして何であるか。それは單に既存せる思想機關の一部を改修しただけであるといふ事になる。それすら幾多敢爲[やぶちゃん注:「かんゐ」。物事を困難に屈することなくやり遂げること。「敢行」に同じい。]の若き心には致命の苦痛であつた。西洋文明の採用は決して思慮なき人々の想像せるが如き容易な事ではなかつた。從つて今日まだ計上し盡くせざる代償を拂つて行つたこの心的改修が、この民族が常に特殊の技能を示し來たつた方面に於てのみ好結果を示してゐる事は極めて明白である。現に西洋の工藝上の發明の應用が日本人の手によつて立派に行はれたのも、主として國民が固有の奇異なる手法によつて年末熟練した職業に於て優秀な成績を舉げてゐるのである[やぶちゃん注:「舉げてゐるからなのである」「舉てゐればこそである」でないと日本語としておかしい。]。それには何等根本的改變があつたのでは無い。在來の技能を新しき大なる規模に轉じたに過ぎぬ。科學的職業に於ても同樣の結果を見る。或る種の科學、例へば醫學、外科手術(世に日本の外科醫の右に出る者は無い)、化學、檢鏡法には日本人の天性は生來適してゐて、是等の學藝に於ては何れも全世界に聞こえた成績を舉げてゐる。戰爭と國策とに於ても驚く可き手腕を示したが、日本人は往古以來、偉大な軍事的並に政治的手腕を以て特徵としてゐたのである。之に反して、國民性に合はない方面に於ては、何等目覺ましき事は行はれなかつた。例へば西洋音樂、西洋美術、西洋文學の硏究に在つては、時を費やして何等得る所なきの觀がある。歐米の藝術は險米人の心情には深甚なる感興を與へるが、日本人の心情には少しも同樣の感興を與へぬ。而して敎育によつて個人の心情を改造することが不可能であるのは深く思索する者の皆辨へてゐる事である。東洋の一民族の感情が僅々三十年の間に西洋思想の接觸によつて改造されようなどと考へるのは愚の至りである。理性よりは古くから存在し、從つて更に深奧な心情が、環境の變化によつて急激に變化し得ないのは、鏡の面が來往する反影によつて變化し得ないのと同一である。日本が神技の如く見事に成し遂げた事は、凡て何の自己改造もなくして行はれたもので、日本が今日、三十年前よりも、心情の上に於て歐米人に接近したと想像する者は、議論の餘地なき科學上の事實を無視するものである。

 

註 或局限された意味に於ては、西洋の藝術は日本の文學や演劇に影響した、但し、その影響の性質が自分の謂つてゐる民族的相異を立證してゐる。歐洲の演劇が日本の舞臺に向く樣に改作せられ、歐洲の小說日が本の讀者向きに書き直された。併し称譯は滅多に試みられない。原作の事實思想や感情等が一般の讀者や観客に理解し難いからである。筋だけが採用せられて、情趣や事實は全然改められる。「今樣マグダレン」が異つた部落と結婚する日本の娘になり、ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」が、日本の戰亂の物語となり、オンジヨルラが日本の學生になる類である。但し、「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功をはじめ、二三の稀なる例外はある。

[やぶちゃん注:「今樣マグダレン」“The New Magdalen”(原文は斜体ではない)はイギリスのヴィクトリア朝の人気小説家(推理作家・劇作家)であったウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins 一八二四年~一八八九年)の一八七二年から翌年に発表した長篇小説(もともと劇化を意図した作品らしい)。「Magdalen」は「マグダラのマリア」或は「更生した売春婦」の意で、「新・堕ちた女の物語」という邦訳があるようだ。閑田朋子氏の論文『三遊亭円朝による翻案落語「蝦夷錦古郷の家土産」種本の同定――Wilkie CollinsThe New Magdalen――」の「(三)『新・堕ちた女の物語』」に非常に詳しい梗概が載る。

『ヴィクトル・ユーゴーの「レー・ミゼラブル」』言わずと知れたロマン主義の作家ヴィクトル=マリー・ユーゴー(Victor-Marie Hugo 一八〇二年~一八八五年)が一八六二年に刊行したフランス文学の名作長篇小説“Les Misérables”。本来は「悲惨な人々」或は「哀れな人々」という意味である。「オンジヨルラ」“Enjolras”は同小説の登場人物の一人であるジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean)の政治活動での友人で、共和派の秘密結社のメンバーの青年アンジョルラス。ウィキの「レ・ミゼラブル」によれば、『天使のような容姿端麗の』二十二『歳の青年で、結社の首領。富裕な家庭の一人息子。一徹な理想主義者として革命の論理を代表』する人物で、『革命についてはかなり詳しく、些細なエピソードまで知っていて、それについてあたかも自分がそこにいたかのように語れる。その美貌のなかに、司教と戦士の性格を併せ持つ。彼にとって祖国は恋人であり、祖国と革命が青春のすべてになっている』。一八三二年六月五日の『ラマルク将軍の葬儀のあった夜、他の共和派と共に決起し、居酒屋コラントを中心としてバリケードを築き』、『バリケードに立て篭もって暴徒たちを指揮する。後にこの暴動は、六月暴動と呼ばれるようになる』とある。

『「ヴェルテルの哀愁」の詳譯の顯著なる成功』“Sorrows of Werther”。無論、かの天才ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が二十五歳の時に発表した書簡体小説(一七七四年初版では表題は“Die Leiden des jungen Werthers”であったが、一七八七年改訂版では "Die Leiden des jungen Werther" となっている。「若きウェルテルの苦悩」。名の部分は原音では「ヴェァター(ス)」「ヴェルター(ス)」が近い、と信頼出来るQ&Aサイトの回答にあった)。本邦での邦訳は明治二四(一八九一)年に『山形日報』に連載された高山樗牛訳によって初めて本格的に紹介された。高山の訳は原作の約五分の四を訳出しており、ここで小泉八雲が指摘するのもそれと考えてよかろう(初の完訳版は明治三七(一九〇四)年に漢詩人でもあった久保天随(得二)訳の『ゑるてる』である(以上はウィキの「若きウェルテルの悩み」に拠った)。]

 

 同情は理解によつて局限せられる。吾人は吾人の理解する程度まで同情を持つことが出來る。自分は或る日本人か支那人かに同情を持つてゐると思ふ人もあらうが、その同情は、小兒も大人も差等のない樣な極めて普通な感情の單純な部面を餘り離れては、決して眞實なものではあり得ない。東洋人の感情の中の複雜なものは、西洋の生活には何一つ正確に該當するものの無い、從つて吾人が充分に知ることの出來ない、祖先以來或は個人の種々の經驗の結合によつて成り立つたものである。同じ理由で、日本人は歐米人に對して至甚な同情を與へることは、よし心には願つても、出來ぬものである。

 西洋人に取つて、日本の生活は、理性感情何れの方面も(兩者は互に織り組まれてゐるので)その眞相を見分ける事が、依然として不可能であるが、同時に、又、日本の生活が自分等の生活に比して極めて小規模である、といふ確信を避けることは出來ぬ。日本の生活は風雅である。其は一方[やぶちゃん注:「ひとかた」。]ならぬ興味と價値とを有つた美妙な可能性を具へてゐる。が、其を除いては、規模が如何にも小さく、西洋の生活はそれとの對照で殆ど超自然と見える。我々は眼に見える測定し得る體象[やぶちゃん注:ママ。]を判斷するより外はないから、さう批判して見ると、東西の感情の世界の間に、理智の世界の間に、何たる對照が見えることか。日本の首都の脆弱な木造の街衢[やぶちゃん注:「がいく」。「衢」は「四方に分かれた道」の意。人家などの立ち並ぶ土地・町・巷(ちまた)。「衢」の字自体も「ちまた」と読む。]と、パリやロンドンの往來の宏壯堅牢なのとの對照などは未だ遠く及ばぬ。東西兩者が彼等の夢想や抱負や感覺を發表したものを比較する時に、ゴシツクの大伽藍を神社の建築に比べ、ヴエルディの歌劇かヅアグナの三部歌劇を『藝者』の演奏に比べ、歐洲の敍事詩を和歌に比べる時に、感動の容積に於て、想腫の力量に於で、藝術的綜合に於て、その差異が如何に計數に絕してゐることか。成る程、西洋の令型は事官新興の藝術には相違ないが、遠く何れの時代に遡つても創作力に於ける差異は顯著の度を殆ど減じない。大理石の圓形競技場や、國又國に跨がる高架水道の築かれた、彼の羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]の偉大を極めた時代に於て、或は彫刻は技[やぶちゃん注:「わざ」。]神に入り、文學は比倫な希臘[やぶちゃん注:「ギリシア」。]の盛時に於て、固より然う[やぶちゃん注:「さう(そう)」。]であつたのである。

[やぶちゃん注:「ヴエルディ」言わずと知れた、「オペラ王」の異名を持ち、「リゴレット」(Rigoletto)・「椿姫」・(La traviata:「道を踏み外した女」。原作のアレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)が一八四八年作の長編小説の原題が“La Dame aux camélias”(「椿の花の姫さま」(主人公高級娼婦マルグリット・ゴーティエ(Marguerite Gautier)の源氏名)であることから、オペラもかく呼ばれることが多い)・「アイーダ」(Aida)などで知られるイタリアのロマン派音楽の作曲家ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 一八一三年~一九〇一年)。

「ヅアグナ」壮大な歌劇で知られるドイツの作曲家ヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)のこと。]

 つぎには日本の國力の勃興に關する今一つの驚異すべき事實を考察する事になるが、生產と戰爭とに於て日本が示し來たつた巨大な新勢力の物質的兆候は何處に現はれてゐるか。何處にも無い。吾人が日本の心情と理智との生活に缺けてゐると認める巨大といふ事は、產業商業にも缺けてゐる。國土は依然として舊の如く、地表に明治の變遷によつて殆ど面目を改めてゐない。玩具のやうな鐡道や電柱、橋梁や隧道は、日本の綠の野山に隱れて殆ど眼に入らぬ。開港場とその外人居留地を除いては、全國の都會に市街の外觀に於て西洋思想の感化を思はせるものは殆ど一つも無い。日本内地を旅行すること二百哩[やぶちゃん注:「マイル」。三百二十二キロメートル弱。]に及んで猶ほ大規模な新文明の兆候を認め得ぬかも知れぬ。何處に往つても、商業が巨大な倉庫にその抱負を示してゐるのや、工業が幾萬坪の屋根の下に機械を据ゑ附けて居る有樣を見出すことはない。日本の都市は今猶ほ千年前の儘で、彼の岐阜提燈の樣に風雅であるかも知れぬが、それ以上に丈夫とは謂へぬ。木造の小舍の雜然たる集團に過ぎぬ。大なる勤めきと騷ぎとは何處にも無い。重い車馬の往來もなく、轟々轢轆[やぶちゃん注:「れきろく」。車の軋る音。]の音もなく、甚だしい急速もない。東京に於てすら、僻村の平穩を求めて得られぬ事はない。現今西洋の市場を脅威し極東の地圖を改めつつある新興勢力の、眼に見え耳に聞こえる兆候が斯くも乏しいことは、寄異な、殆ど不氣味と謂つて可いやうな感じを與へる。茫は或る神社を目指して、寥々[やぶちゃん注:「れうれう(りょうりょう)」。もの淋しいさま。]たる數哩[やぶちゃん注:一マイルは約一・六一キロメートル。]の坂路を登りつめた時、唯だ虛無と靜寂の神域――ささやかな祠のみが千古の樹陰に朽ち果ててゐる光景――を見る時の感想と略〻等しい。日本の力は、その古來の信仰の力のやうに、形に表はすことを必要としない。この兩つ[やぶちゃん注:「ふたつ」。]の力は大國民の深い實力の存する所、卽ち民族精神の中に存在する。

 

小泉八雲 作品集「心――日本内面生活の暗示と反響」始動 / (序)・停車場にて

 

[やぶちゃん注:本篇は来日後の第三作品集(原題“KOKORO; HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE (心――日本の内的生活の暗示群と共鳴群)であるが、以下のリンクで判る通り、「序」では標題部を漢字「心」で代えてある)は一八九六(明治二九)年三月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この刊行時は既に「Lafcadio Hearn」ではなく、小泉八雲である(但し、出版物(英文)は総て亡くなるまで「Lafcadio Hearn」名義ではある)。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら出版社及び少年の絵の入った扉表紙(赤インク印刷で「心」が浮かぶ)で示した。出版社のクレジット(左ページ)及び以下に電子化した序(右ページ。標題が英語でなく黒インク印刷で大きく「心」とある)はこちら)で全篇視認できる(「停車場にて」(原題“AT A RAILWAY STATION”はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める。なお、この絵の少年は熊本第五高等学校時代に親しかった同僚英語教授佐久間信恭(のぶやす 文久元(一八六一)年~大正一二(一九二三)年:但し、熊本を離れる前にトラブルがあって疎遠となったようである。ウィキの「佐久間信恭」によれば、『性格の不一致により次第に対立を深め』、『ハーンは』五校『退職後の書簡において、佐久間は宣教師と結託して自分より優秀な教師のボイコットを首謀したと訴えているが、真相は不明である』とある)の親友で、小泉八雲も交流があった札幌農学校時代の同期生(二期生)高木玉太郎の長男弘(ひろむ:明治一九(一八八六)年生まれ)と考えられている。菌類のチャワンタケ(菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門チャワンタケ綱チャワンタケ目 Pezizales(盤菌類(Discomycetes))の研究家の個人サイト内の「ラフカディオ・ハーンが感動した少年のその後」によれば、『この少年は高木玉太郎という人の子供で、ハーンがこの子の顔の写真を見て純粋な日本の少年だと感動して借用したものである』『(高木に写真を送ってもらった事に対するハーンの礼状が最近八雲記念館に寄贈されている』)。『富士額で坊主頭、着物姿の』八『歳くらいの少年で、美少年というわけではないが端正で賢そうな顔をしている』。『高木はハーンの友人である佐久間信恭の友人であった』。『高木玉太郎には四人の子供がいた。長男弘、長女千代子、次女美代子、次男孝二の各氏で』。『長男弘(ひろむ)氏』の生年と『「心」の出版年から考えると』、『写真の少年は弘氏に間違いない』とあるからである(なお、何故、こちらのサイトにあるのはかというと、恐らく『因みに長女の千代子さんはキノコ学者川村清一の弟で陸水生物学者として著名な川村多実二と結婚している』とあることによるのであろう)。絵師は不明。また、偶然ではあろうが、この少年の顔、以下に示す「停車場にて」の子どもの顔にダブって、私には仕方がないのである。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年二月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第五巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。なお、標題や序の訳者は巻末分担表に指示がないが、恐らくは、この「停車場にて」の訳者田部氏が担当したものと思う。

 ネタバレしないように、後注を設けた。

 

 

   

     日本内面生活の暗示と反響

 

 

    詩人、學者、愛國者なる

     友人 雨森信成へ

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「雨森信成」(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。]

 

 

   

 この一卷のうちにある諸篇は日本の外面生活よりは、むしろ内面生活を取扱つて居る、――この理由で『心』と云ふ名稱の下にまとめられたのである。心の漢字は情緖的の意味で又心意とも解せられる、精神、勇氣、決心、情操、情愛、それから――私共が英語で『物の心』と云ふやうに、――内面の意味とも解せられる。

   一八九五年・九月十五日・神戶。

[やぶちゃん注:本書刊行時、小泉八雲は神戸におり、無職であった。熊本第五高等学校は明治二七(一八九四)年十月までに退職し(契約切れと、五高に馴染めなくなっていたこと(特に明治二四(一八九一)年(十一月十五日着)に五高に彼を招いて呉れ、敬意を持っていた校長嘉納治五郎が転任して以降)等の外に、著作への専念の希望もあった。神戸着は明治二十七年十月十日で、同月九日に『神戸ジャパン・クロニクル』社に記者として就職、神戸に転居していたが、疲労から眼を患い、この年の一月に退社していた。なお、この明治二八(一八九五)年年末十二月には東京帝国大学文科大学学長外山正一から英文学講師としての招聘を享けて受諾しており、時間ががかったが、翌明治二九(一八九六)年九月八日にセツと上京(セツは上京を八月二十七日とする)、九月十一日には帝大での授業を始めている。]

 

 

      第一章 停 車 場 に て

 

         明治二十六年六月七日

 昨日福岡から電報で、そこで捕へられた重罪犯人が、今日裁判のために正午着の汽車で熊本に送られる事を知らせて來た。一人の警官が今日罪人護送のために福岡へ出張してゐた。

[やぶちゃん注:本文前のクレジットは、底本では下五字上げインデントでポイント落ちである。]

 四年前一人の强盜が夜相撲町の或家に押入つて、家人をおどかして縛つて、澤山の貴重品を奪ひ去つた。警官のために巧みに追跡されてその盜賊は二十四時間内に贜品[やぶちゃん注:「ざうひん」。「贜」は「贓」の異体字。犯罪行為によって不法に手に入れた他人の財物。贓物(ぞうもつ)。]を賣捌く間もないうちに捕へられた。しかし警察署へ送られる途中鎖を切つて、捕縛者の劒を奪つて、その人を殺して逃げた。先週までそれ以上その盜賊の事は何も分らなかつた。

[やぶちゃん注:「相撲町」現在の熊本県熊本市中央区下通(しもとおり)(グーグル・マップ・データ)に「通り」の名として残る。その由来は江戸時代に細川藩お抱え力士がこの附近に居住していたことによるらしい。

「劒」当時の巡査は防具として短剣を佩刀していた。平成一五(二〇〇三)年に書かれた森良雄著「巡査帯剣の歴史」(PDF)によれば、巡査まで帯刀(洋刀(サーベル))の法的許可が下ったのは明治一五(一八八二)年である。因みに拳銃所持の許可はずっと遅く大正一二(一九二三)年以降であった(あまり知られていないが、それよりずっと以前の明治八(一八七五)年以降、永く本邦で普通に拳銃所持を許されていた職業がある。それは郵便配達夫であった)。第二次世界大戦敗戦後のごく初期の一時期は進駐軍に遠慮して自発的にサーベルを使用したが、昭和二一(一九四六)年一月GHQからの覚書によって拳銃携帯が許されて今日に至っている。]

 それから熊本の探偵がたまたま福岡監獄を見に行つて、その囚徒のうちに彼の頭腦に四ケ年間寫眞を燒きつけたやうになつてゐた顏を見た。看守に向つて『あれは誰です』と尋ねた『ここでは草部と記入されて居る窃盜犯です』と答があつた。探偵は囚人に近づいて云つた、

 『お前の名は草部ぢやない。野村貞一、お前は殺人犯の件で熊本へ御用だ』その重罪犯人は悉く白狀した。

[やぶちゃん注:「探偵」“detective”。刑事(英語では巡査も含むが、ここはまず刑事だろう)と訳すべきところである。]

 

 私は停車場への到着を目擊するために大勢の人々と一緖に行つた。私は憤怒を聞き又見る覺悟をしてゐた。私は暴力の行はるべき事さへ恐れてゐた。殺された警官は大層人望があつた。その親戚は必ずその見物のうちに居るだらう、それから熊本の群集は甚だ穩かとは云へない。私は又澤山の警官が警戒に當つて居る事と思つた。私の豫想はまちがつてゐた。

[やぶちゃん注:この「停車場」、駅は指示してもよかろう(実話である以上という点でである)。とある記事(冒頭で述べた理由からリンクを張らない)によれば、この駅は現在の「上(かみ)熊本駅」だという。当時は「池田駅」という名称で、九州鉄道の終点駅であったという。現在の熊本県熊本市西区上熊本二丁目にある「九州旅客鉄道(JR九州)」及び「熊本電気鉄道(熊本電鉄)」の「上熊本駅」である(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「上熊本駅」によれば、明治二四(一八九一)年七月に私設鉄道会社「九州鉄道」の「池田駅」として開業している(上熊本駅への改称は明治三四(一九〇一)年)。現在の熊本駅の北北東約三キロメートルの位置にある。]

 汽車は忙しさと騷しさのいつもの光景、下駄をはいて居る乘客の急ぎ足とでカラコロ鳴る音、日本の新聞と熊本のラムネを賣らうとする子供の呼び聲のうちに止まつた。

 埓[やぶちゃん注:「らち/らつ」。駅構内を仕切る囲い。]の外に私共は五分間程待つてゐた。その時警部によつで改札口から押されて罪人が出て來た、頭をうなだれてうしろ手に繩でしぱられた大きな粗野な樣子の男であつた。罪人と警官と兩方共改札口の前にとまつた、そして人々は前に押し出て、しかし默つて、見ようとした。その時警官は大股で呼んだ、――

 『杉原さん 杉原おきび、きてゐますか』

[やぶちゃん注:底本では「杉原さん」の後は字空け。脱字(脱記号)も疑われるが、敢えてママとした。原文は“Sugihara San! Sugihara O-Kibi! is she present?”であるから、ここは「『杉原さん!杉原おきび、きてゐますか』の「!」の脱字(誤植)の可能性が高い(本底本全集ではどの訳者も言い合わせたように殆んど「!」「?」の後の字空けをしない)。]

 背中に子供を負うて私のそばに立つてゐたほつそりした小さい女が『はい』と答へて人込みの中を押しわけて進んだ。これが殺された人の寡婦であつた、負うてゐる子供はその人の息子であつた。役人の手の合圖で群集は引き下つて囚人とその護衞との周圍に場所をあけた。その場所に子供をつれた女が殺人犯人と面して立つた。その靜かさは死の靜かさであつた。

 少しもその女にではなく、ただ子供だけに向つてその役人は話した。低い聲であつたが、大層はつきりしてゐたので、私は一言一句きく事ができた、――

 『坊つちゃん、これが四年前にお父さんを殺した男です。あなたは未だ生れてゐなかつたあなた母はさんのおなかにゐました。今あなたを可愛がつてくれるお父さんがないのはこの人の仕業です。御覽なさい、(ここで役人は罪人の顎に手をやつて嚴かに彼の眼を上げさせた)よく御覽なさい、坊つちやん、恐ろしがるには及ばない。厭でせうがあなたのつとめです。よく御覽なさい』

 母親の肩越しに男の子はすつかりあけた眼で恐れるやうに見つめた、それからすすり泣きを始めた、それから淚が出た、しかし畏縮しようとする顏をしつかり、そして從順に、續いて眞直にぢつと見て、見て、見ぬいた。

 群集の息は止つたやうであつた。

 私は罪人の顏の歪むのを見た、私はその鎖も構はないで突然倒れて跪いて、そしてその間聞いて居る人の心を震はせるやうに悔恨の情極つたしやがれ聲で叫びながら、砂に顏を打ちつけるのを見た、――

 『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんして下さい、坊つちやん。そんな事をしたのは怨みがあつてしたのではありません、逃げたさの餘り恐ろしくて氣が狂つたのです。太變惡うございました、何とも申しわけもない惡い事を致しました。しかし私の罪のために私は死にます。死にたいです、喜んで死にます、だから坊つちやん、憐れんで下さい、勘忍して下さい』

 子供はやはり默つて泣いた。役人は震へて居る罪人を引き起した、沈默の群集はそれを通すために左右へ分れた。それから全く突然全體の群集はすすり泣きを始めた。そしてその日にやけた警官が通つたとき、私は前に一度も見た事のない物、めつたに人の見ない物、恐らく再び見る事のない物、卽ち日本の警官の淚を見た。

 群集は退散した、そしてこの光景の不思議な敎訓を默想しながら私は殘つた。ここには罪惡の最も簡單なる結果を悲痛に示す事によつて罪惡を知らしめた容赦をしないが同情のある正義があつた。ここには死の前に只容赦を希ふ絕望の悔恨があつた。又ここには凡てを理解し、凡てに感じ、悔悟と慚愧[やぶちゃん注:「ざんき」。自分の言動を反省して恥ずかしく思うこと。]に滿足し、そしてままならぬ浮世と定め難き人心をただ深く經驗せるが故に憤怒でなく、ただ罪に對する大なる悲哀を以てみたされた群集(怒つた時には恐らく帝國に於て最も危險な群集)があつた。

 

 しかしこの一挿話のうち、最も東洋的であるから、最も著しい事實は、罪人の親たる感じ、どの日本人の魂にも一大分子となつて居る子供に對する潜在的愛情に訴へて悔恨を促した事であつた。

 

 日本の盜賊のうちで最も名高い石川五衞門が或役人の家に入つて殺して盜まうとした時、自分に手をさしのべた子供の笑顏に氣を取られて、その子供と遊んでゐて、遂に自分の目的を果す機會が全く失はれたと云ふ話がある。

 この話を信ずる事はむつかしくはない。每年職業的犯罪者が小兒に對して憐みを示した事が警官の記錄にない事はない。數ケ月前地方の新聞に恐るべき殺人事件(盜賊が一家をみなごろしにした事件)が記されてあつた。眠つて居る問に七人の人が文字通り寸斷されたが、警官は一人の小さい子供が全く害をうけずに血の溜りに獨りで泣いて居るのを發見した。警官は加害者がその小兒を害しないやうにと餘程注意したに相違ない事の疑ない證據を見出した。

 

[やぶちゃん注:この事件については、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二六(一八九三)年の四月二十二日(土曜)の条に、『「九州日々新聞」に「停車場で」の素材となった記事が掲載される。これに基づく執筆の時期は不明である』とあり、以下、本文冒頭でクレジットされる日には本篇についての記載はない。本底本の「あとがき」で田部氏は、『「停車場にて」の記事は、著者が實際巡査殺しの犯人を停車場に迎へたのであつた』と記しておられものの、『第百九回「ラフカディオ・ハーンの会」ニュース』(二〇〇九年九月五日発行)によれば、『九州日日新聞』(明治二十六年四月二十二日付け)の記事を発見し、調査したところ、『ハーンが実際に池田駅(上熊本駅)に居合わせて犯罪者の到着を目撃したのではないらしいことが判った』とあり、田部氏の謂いは否定されるようだ。『作品化するに当って、ハーンが変更した事実は、①』巡査殺しの発生は、七『年前』のことであり、『子供は』七『歳で、母親に背負われてはいなかった。②犯人は佐賀から連行された。③人名(草部、野村貞一、杉原おきび)は』総て『ハーンの創作』であるとある。さても、幾つかのネット検索を掛けると、この事件について記した記事を見出すことは出来る。しかし、この犯人は処罰され、刑に服した以上(この犯行内容から考えて死刑ではなかろうし、一応、溯って明治の死刑執行一覧とその罪状を調べてみたが、見当らない)、その事件や裁判を穿鑿する気は毛頭、私には、ない。小泉八雲の本篇執筆の動機も奈辺――そのような鵜の目鷹の目の野次馬根性――にはないことは言うまでもないからである。

2019/12/07

第一書房昭和一二(一九三七)年三月刊「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)第六巻「あとがき」

 

[やぶちゃん注:以下は本ブログで作品集「佛の畠の落穗」「異國情趣と囘顧」と、「日本お伽噺」群の電子化の底本とした英文サイト“Internet Archive”のこちらにある画像データを視認した。字のポイントや字配は再現していない。便宜を考え、私の電子化を本文内でリンクさせた(分割版は最初の公開分に)。]

 

   あとがき

 

 『蟲の樂師』は譯者が明治三十年[やぶちゃん注:一八九七年。]十月に提供した材料に據つて物されたものである。原著者がに述べて居る事は、社會事彙にも依つたのであるが、上野廣小路の松坂屋の向側に居た文中の所謂『蟲源』といふ蟲屋に就いて譯者が聽いたものにも依つて居る。引用の歌は、他の文で原著者が爲して居るやうに、羅馬字で原歌を示すことはしないで、ただその自由譯だけ揭げてあるのであるが、譯者はその原歌を知つて居るから、その自由譯の逐字譯はしないで、原歌を揭げることにした。そして譯文には、序に、憶ひ出せる限りその作者又は出處を添へて記すことにした。

[やぶちゃん注:以上については、既に『小泉八雲 蟲の樂師 (大谷定信訳) / 「三」・「四」』の「三」私の注の中で細かに述べておいたので、必ずそちらを参照されたい。

 

 『死者の文學』は譯者が明治三十年七八兩月に亘つて蒐集した材料を使用して物されたのである。當時その材料を書留めるのに使用した雜記帳が不思議にも殘つてゐたので、文中引用の經語及び戒名は、それに參照して、多くは苦も無く復譯が出來たが、中に原著者が餘りに自由譯にした爲め、これがそれと突とめかねるのが一二あるのは遺憾である。

 序に原著者の戒名は正覺院淨華八雲居士であることを附記してよからう。

 

 『蛙』は譯者が明治三十年十二月に提供した材料に主として依つて物されたものである。引用の俳句で、今その原句の憶ひ出せぬのがあるのは遺憾である。原英文にはその作者の名は揭げて無いが、判知し得たものだけ、添へてしるして置いた。

 

   大正十五年十月   大 谷 正 信

 

 

 

 『佛の畠の落穗』は一八九七年ボストンのハウトン・ミフリン會社とロンドンのコンスタブル會社とから出版された。初めの五篇は『大西洋評論』で發表された物である。『佛土』と云ふ成語はあるが、多數の意見によつてこの譯語『佛の畠』を用ふる事にした。

 「生神」のうち濱口に關する記事は大阪朝日の記事によつた物、勿論精神は傳へてあるが、事實に違つたところがある。濱口五兵衞は紀州廣村濱口梧陵(七代目濱口儀兵衞)の事、津浪は安政元年十一月五日の夕方の出來事、被害者千四百餘人、行方不明老者は三十餘人あつた。當時濱口は老翁ではなく、三十五歲の壯齡であつた。明治維新の際開國論を唱へて國事に奔走し、維新後紀州藩の權大參事ととなり、後中央政府に入つて驛遞頭(後の遞信大臣)となつた。再び鄕里に歸つて和歌山縣大參事となつた。縣會開設と共に最初の議長にもなつた。明治十七年米國に行き、翌年ニユヨークで胃癌で歿した。六十六歲であつた。津浪後窮民に職を與へ、大堤防を築き、學校を建て(後の耐久中學もその一つ)、廣村のためにつくす事一方ならなかつたので、村民感激の餘り、濱口大明神と云ふ神社を建てようとしたが、梧陵翁は許さなかつた。前の歿後勝海舟の筆になつた石碑が建てられた。今和歌山縣會議事堂構内に銅像がある。令息濱口擔[やぶちゃん注:「たん」。]氏が英國留學當時、(ヘルン在世の頃)ロンドンの亞細亞協會で講演をした時、この文章を讀んですでに濱口の名を知つた多數の紳士淑女が、この講演者が濱口の令息である事を發見して、驚喜の餘り、湧くやうな拍手と歡呼を贈つたので、濱口擔氏も意外の面目を施したと云ふ禮狀をヘルン家に送つて居る。梧陵翁のあとは令孫濱口儀兵衞氏(山サ醬油釀造元)である。杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』ラツド博士著“Rare Days in Japan” 參照。

[やぶちゃん注:サイト「稲むらの火」のこちらの稲垣明男著『「稲むらの火」余聞――八雲宛の礼状が八戸図書館に残っていた――』PDF)でその礼状を見ることが出来る。

「杉村廣太郞氏著『濱口梧陵傳』」大正九(一九二〇)年刊。恐らくそれを簡略化したものと思われる「濱口梧陵小傳」ならば、同じくサイト「稲むらの火」のこちらPDF)で読める。

「ラツド博士著“Rare Days in Japan”」 アメリカの心理学者・教育学者であったジョージ・トランブル・ラッド(George Trumbull Ladd 一八四二年~一九二一年:アメリカの実験心理学に大きく貢献し、また、日本の心理学の基盤を担った人物としても知られる)が一九一〇年に刊行した紀行文集。ウィキの「濱口梧陵」によれば、彼は嘉永五(一八五二)年に同じ醬油製造業者らとともに広村に稽古場「耐久舎」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図ったが、この『耐久舎の伝統は、現在の耐久高校や耐久中学校に受け継がれている。当時の耐久高校は(校長は寳山良雄)、国内に留まらず』、『韓国等からの留学生も受け入れる等革新的な校風であったようで、文部大臣・小松原英太郎や伊藤博文の補佐を勤めたイェール大学教授・ジョージ・トランブル・ラッド(外国人として初めて旭日勲章を授かる)らの訪問を受けた。ラッドは、当時の広村を訪れた紀行文等を記した』「日本の稀日」を一九一〇年(実際の訪問は明治四〇(一九〇七)年)に『アメリカで出版している』とある。]

 「涅槃」――

[やぶちゃん注:以上はママ。謂い添えることはないということか。だったら書かなきゃいいのに。後に訳者分担表(電子化は省略)が載るのに。

 「人形の墓」は熊本で雇入れた「梅」と云ふ子守の身の上話であつた。その後八年間小泉家に仕へて後鄕里で嫁して幸福に暮らして居ると聞いて居る。「人形の墓」は熊本の習慣、最後に人の坐つたあとの疊をたたいて坐ると云ふのは出雲の俗說である。

 

 『異國情趣と囘顧』は一八九八年ボストンのリッツル・ブラウン會社とロンドンのサムスン・ロウ會社から出版された。へルンがリッツル・ブラウン會社から引續いて四册出版した物の第一册である。その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である。樓濱の醫師ハウル氏に捧呈してある。ただ一篇『帝國文學』に出た「靑色の心理」[やぶちゃん注:訳文(岡田哲蔵訳)では「蒼の心理」である。]を除いて全部新しい物である。

[やぶちゃん注:「樓濱の醫師ハウル氏に捧呈してある」『「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序』を参照。

「その初版は日本風のへちまの圖案のある裝釘の綺麗な書物である」『「異国情趣と回顧」(「異國情趣と囘顧」)始動 / 献辞・序』の冒頭注で画像を掲げてあるので参照されたい。]

 「禪の一問」――

[やぶちゃん注:以上はママ。不審は同前。]

 「月の願」は長男一雄君との問答から始まつて居る、勿論屋根へ上つて竿で月を落す事は日本の昔ばなしから思ひついたのであらう。

 

 『日本お伽噺』[やぶちゃん注:リンクは冒頭の「化け蜘蛛」。]一九〇二年東京、長谷川の出版にかかる繪入りの日本お伽噺叢書の第二十二册から第二十五册までになつて居る物である。

[やぶちゃん注:リンク先の冒頭注で私が述べた通り、全部の収録でないこと、“The Fountain of Youth”(「若返りの泉」)が取り上げられていないことを、何故、言わないのか? 甚だ不審と言わざるを得ない。

 

   大正十五年十月  田 部 隆 次

 

小泉八雲 環中流転相 (金子健二訳)  / 作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」~完遂

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“WITHIN THE CIRCLE。「円環の内部にて」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の掉尾に配された第十一話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 なお、個人的にはネタ晴らし的なこういう標題の意訳は、私は好まない。真の作家であられた平井呈一氏は恒文社版(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では「環中語」と訳しておられる。それでこそ!]

 

      第十一章 環中流轉相

 

 私達の一身上の苦痛や觀樂は言葉で實際的に發表することは出來ぬものである。これをその儘の形で告げることは全く困難のものである。ただこれを惹起するに至つた事情を鮮明に描寫して、同情のある人の心に同種類の性質の感情を幾分なりと喚起させることが出來得るのみである。併し若しその苦痛なり歡樂なりを惹起した事情其物が全然一般の人間經驗と沒交涉の性質の物であるならば、如何にこれを表現したところで、それが惹起したところの感じ其儘の物を充分に他人に知らしめることが出來ぬ。故に私は私の前生[やぶちゃん注:「ぜんしやう(ぜんしょう)」。]を見る苦痛の実感を語らうとしてもそれは見込の無い企[やぶちゃん注:「くはだて」。]である。私の言ひ得ることは各個人に起り來る苦痛は如何にこれを結合してみても、このやうな苦痛――無數の生命の錯綜した苦痛とは別種の物であるといふことである。それは言はば、私の凡ゆる神經が伸される[やぶちゃん注:「のばされる」。]だけ伸されて、百萬年を廼じて織られに織られた感覺の或る驚くべき織物に成りあがつた樣なものであつた。――又それは、言はば、その無限無量の經緯(たてよこ)の絲の全部が、その凡ての震へる絲にわたつて、過去の深淵の中から私の意識の中へ名の無い或る凄愴の物を――人間の頭腦の中に入れるには餘りに大き過ぎる恐怖を注ぎ込んでをる[やぶちゃん注:「織る」。]やうである。と言ふのは私は過去の世を眺めた時私自身が二倍、三倍、乃至八倍になつたからである。――私は等差級數によつて增加した。――私は百となり千となつた。――千の恐怖を以て畏れた。――千の苦悶を以て失望した。――千の惱を以て戰慄した。併し如何なる歡樂も知らなかつた。一切の快樂は霧の如く又夢の如く現れたが、ただ苦痛と恐れのみは事實であつた。――然もいつも、いつもこの苦とこの恐怖のみが增していつた。感覺が消滅したその刹那に一つの神聖な或者が俄然として現れて來てその恐怖に滿ちた幻影を滅し、ただ一つの實在の意識を私に再び與へてくれた。このやうに忽然として複雜の我(が)より縮小して單一の我(が)に復歸することの心地よさは到底言語に盡し得ざるものがある。嗚呼あの廣大無限の我(が)が潰崩して個性の盲目的、健忘的麻痺性に還るその有樣の心地よさよ!

 

 かくの如くにして私を救濟してくれた神聖な者の聲は言うた、『他人にも――同じ狀態に在るところの他の人達にも彼等の前生についで或物を見ることが許されてあつた。併し彼等の中の何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]といへども遙に遠いその前生を見渡すことに耐へ得なかつた。凡ゆる前生を見渡すことの出來る力は、我(が)の束縛から永劫に脫離した人のみに與へらる〻力である。かくの如き力を所有してをる人は迷ひの外に住するのである――形と名を脫却して住するのである。故に苦痛は彼等に近寄ることが出來ぬ。

 『併し汝は迷ひの中に住してをるが故に佛陀といへども汝にただ手近の道以外に後を顧みる力を與へ得ぬのである。

[やぶちゃん注:「ただ手近の道」自我という空しい仮象が持つ、不完全な智や果敢ない記憶のみを頼りとして仮定された過去(世)を貧しく想像する力しか有さないことを言っていると私は読む。]

 『汝は依然として美術、詩歌、音樂の戲事[やぶちゃん注:「ざれごと」。]に迷はされてをる――色と形の迷ひに――淫らな言葉、淫らな音に迷はされてをる。

 『自然と呼ぶ幻影――空寂と陰影の別名である――は依然として汝を欺き汝を迷はし、且つ物慾を熱愛する夢を以て汝の心を滿す。

 『然れども眞に識を愛する者はこの幻の自然を好愛してはならぬ――晴れたる天空の耀映を歡喜してはならぬ。――海の眺めにも――水の流る〻音にも――山、林、谷の形にも――是等の物の色に於ても歡喜悅樂を見出してはならぬ。

 『眞に識を愛する者は人類の事業を企圖することに、或は人類の會話を聞くことに、或は人類の感情的遊戲を觀察することに興味を持つてはならぬ。是等の凡ては煙の棚引けるが如く、蒸氣の薄くかがやくが如きものである――凡ては一時的で――凡ては幻影である。

 『人類が高尙崇高と呼んでをる快樂は淫逸の大なる物と、虛僞の巧妙なる物に外ならぬ――利己の心は形のみ美しく見ゆる有害の花に過ぎぬ――凡ては慾情の古き粘土に根を張つたものである。晴れたる日の耀映を悅び――山の色の日輪の𢌞轉によつてその色を變ずるを見て樂み――波のうねりの消えてゆく跡を見、タ陽の消えてゆくのを見――草木の花の中に魅力を見出すことは皆これ感覺の迷ひである。亦人間の行爲の大なるもの、或は美なるもの、或は英雄らしきものを見て歡喜することも等しくこれ感覺の作用である――何が故にと問へば、かくの如き歡樂は人類がこの憐れむべき世界に於て淺間敷くも手に入れようとして努力するところの事物を空想することの快樂と同一の物であるが故である。人類の欲して止まざる物とは何か、束の間の愛と名聲と榮譽――是等の凡ては束の間の水泡の如く空虛である。

 『天、太陽、大海――山、森、平野――美しく輝ける物、形をなせる物、色ある物の凡ては――幻である。人間の感情、思想、行爲――上下貴賤は何れに考へたにせよ――永久の目的以外の爲に考へられ又は爲されたところの一切の事柄は夢から生れた夢であつて、空虛を生むより外に何事をも爲すことが出來ぬ。明かな目には一切の自我の感じは――一切の愛惜、歡苦、希望乃至悔恨は等しく陰影である――老少、美醜は其の間に差別が無い――生死は一にして同、空間と時間は不斷の影遊びの舞臺乃至順序としてのみ存在するものである。

 『時の中に存在する凡ての物は消滅しなくてはならぬ。目覺めた者には時も無く所も無く變化も無い――夜も無く晝も無く――暑も無く寒も無く――月も無く季節も無く――現世も過去も亦未來も無い。形及び形の名は等しく無である、知識のみは事實である、故に知識を得る者にとりて宇宙は實體の幽靈と映ず。併しかう書いである――「過去と未來に於て時に打勝つた者は卓越した純知識の人たらざるべからず」と。

 『かくの如き知識は汝の有する物では無い。汝の目には影は依然として實質と映じ――闇黑は光明と寫り――空虛は美として映じてをる。故に汝の前生を見ることは汝に苦を與へるに過ぎぬ』

 

 私は問うた――

 『では、若し私が起原に溯つて――時といふもの〻發端迄溯つて觀察するだけの力が見出されたとしたならば――私は果して宇宙の祕訣を読破することが出來得るだらうか』

[やぶちゃん注:「宇宙の祕訣」原文“the Secret of the universe”。]

 答は與へられた、『否、その祕訣を讀み得るものは無限力のみである。若し汝は汝の有つてをる力以上に遙に遠くの過去を眺め得たにしても、その目に映じた過去は汝に未來となつて映じ來るであらう。その時汝はなほこれに耐へ得たならば、その未來は轉𢌞し來つて現在となるであらう』

 私は驚きながら私語した、『でもそれは又何が故に?――圓とは何か?』

 答はかうであつた、『圓とは別な物に非ず――圓とは生死の大きな幻の渦卷に外ならぬ――無知の徒は彼等自身の考へと行爲によりこの幻の渦に身を墮して[やぶちゃん注:「おとして」。]其所に留つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。併しこれは時の中に於てのみ實在を有つてをる。然かもそれ自身に於て迷ひである』

[やぶちゃん注:「圓」“the Circle”。「円環」或いは「循環」。ここは最終段落の謂いからして「輪廻」に置換して認識してよい。]

2019/12/06

甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册

 

[やぶちゃん注:昨夜公開した「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の参考資料として本二条をフライングする。なお、詳しくはリンク先で注しておいたので、そちらをまず目を通した上で読まれたい。ダブるような注は煩瑣になるだけなので、基本、附さないからである。後の「27-6」では今までと違って「■やぶちゃんの呟き」ではなく特異的に文中注を附して対応した。

 

27-5 八歲の兒その前生を語る事

この頃、生れ替りてこの世に來れる小兒と人の云はやすことあり。

[やぶちゃん注:「云はやす」「云ふ囃す」。以下「付寫」までは底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

文政六年癸未年四月、多門傳八郞知行所百姓之忰、生替り前世之事共覺居物語致候奇談、所々專之風說故、右百姓親子共、傳八郞方え呼出相糺候所相違無ㇾ之、未曾有之珍事故、同人組頭衆迄耳打申達候書付寫

 

私知行所、武州多摩郡中野村、百姓源藏忰勝五郞、去午年八歲に而秋中より同人姉に向前世生替之始末相咄候得共、小兒之物語故取用不ㇾ申、度々右樣之咄申候に付、不思議成儀に存、姉儀父母え相咄候而昨年十二月中、改而父源藏より勝五郞え相尋候處、前世父者同國同郡小宮領、程窪村百姓久兵衞と申者之枠に而藤藏と申。自分二歲之節、久兵衞儀者病死仕候間、母え後家入に而半四郞と申者後之父に相成居候處、右藤藏儀、六歲之時疱瘡に而病死仕、夫より右源藏方え生替申候由相答、難取用筋に者有ㇾ之候得共、委敷慥成事共申候に付、村役人えも申出、得與相糺候處、世上取沙汰仕候儀故、程窪村半四郞方に而も沙汰及ㇾ承、同人儀、知行所源藏方え尋參り候故、相糺候處、小兒勝五郞申候通相違無ㇾ之、前世父母面體、其外住居等も相咄申候に付、程窪村半四郞方え小兒召連候處、是又少も違無ㇾ之、家内に對面爲ㇾ致候所、先年六歲に而病死仕候藤藏に似合候小兒に有ㇾ之、其後當春迄に折々懇意に仕候内、近村えも相知申候哉、此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候間、源藏勝五郞呼出相糺申候通、右之通兩人も相答申候。尤折々世上に而取沙汰仕候間、難取用筋には御坐候得共、御内々御耳打申上置候。以上。

   四月        多門傳八郞

前世、疱瘡に而相煩候節、田舍之儀、殊に貧窮之百姓之事故、藥用も不ㇾ致病死致し候由。尤父は隨分勞り遣し候由。葬送之節、瓶え入棺え入葬候節者、棺之上えあがり見物いたし居、甁計埋候由。夫より大造成廣野原え出候へば、此所に地藏菩薩、幷老人罷在出合、兩人にて所々連步行四季之草花有ㇾ之、山谷海川、絕景言語に難ㇾ及、所々連步行見物致させ、扨三ケ年過、最早生れ替らせ可ㇾ申、拾六歲に相成候はゞ亦々此方へ立戾可ㇾ申、夫迄生替居可ㇾ申爲申聞、野中源藏家之前え連行置候而、地藏老人者歸候間、源藏内え這入候處、其節源藏夫婦、殊之外いさかひ致居候間、胎内え難ㇾ入、暫いさかひも相濟候間、胎内え入候旨、右いさかひ之譯も有增覺居候由。半四郞儀今に繁昌にて、源藏より承候處少も相違無ㇾ之趣申候由。其外色々不思議共有ㇾ之候得共、一夕に承盡兼荒增書寫畢。

右勝五郞儀、賤敷百姓之悴に不似合至而行義能、おとなしく、生付も奇麗之旨、何を申も漸九歲之小兒故、萬端委敷承度、强而尋候得ば大きに恐れ、答出來兼、又者泣出候仕合故、菓子抔與へ遊ばせ置き、だましだまし尋候故、然與難ㇾ分事も多く、前世病死後、地藏之手元に罷在候三ケ年之内之事共は、二度目出生之節、家内騷々敷に紛、多亡却致し候由申ㇾ之。十六歲迄に者死候事故、只今之内親之爲仕事致し溜置候迚、一體籠細工を親共細工に致し候處、勝五郞籠細工上手にて、至て手奇麗に出來候を、晝夜精を出し拵へ、夫而巳かゝり居候由。平生至而小食に而、一度者漸一椀位にて、餘者不ㇾ食。魚類は何にても一切給べ不ㇾ申。菓子類少々喰候由なり。右の體にて、隣宅の梅塢がもとに多門が連れ來れるまゝ、予に見るべしと告たれど、幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず。人を遣して見せたるに、書記して復命す。

再生小兒、父差添在ㇾ之。尤何所庭にての儀に有ㇾ之、右の小兒は起居候所常の小兒に聊相替候樣子も無ㇾ之、私を見懸け、恥候體にて少し面をうつぶけ、其邊を立𢌞り候樣子、隨分おとなしく相見得申候。髮はけし坊主にて、毛赤く、面長く、瘦せたる方にて、色黑く有ㇾ之候得共、容儀も見苦しからず、伶俐の小兒と見請申候。年は何歲に相成候やと尋候得共、一向答不ㇾ申。只恥入候樣子に相見へ候而巳に候。着物は古き紺竪じま、木綿袷を着、帶も小倉じま木綿にて、腰に古き金入に緋縮緬の緣を取たる守袋を佩び居、白木綿緖の草履を著き居申候。親は四十五六歲にも可ㇾ有ㇾ之や、素より貧しき百姓の體にて、別に相替儀無ㇾ之候。四月十二日。

■やぶちゃんの呟き

「文政六年癸未」(みづのとひつじ/キビ)一八二三年。

「多門傳八郞」平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年の文政六(一八二三)年板行の「勝五郎再生記聞」では「おかど」と読んでいる。実在した著名人の後裔と考えられることは、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の注で示した。

「生替り」「うまれかはり」。

「專之風說故」「もちぱらのふうせつゆゑ」。

「相糺」「相ひ糺(ただ)し」。

「耳打申達候書付寫」「耳打ち申し達し候ふ書付(かきつけ)の寫(うつ)し」。この場合の「耳打ち」とは、公式な届書き文書としてお上に届け出るものではないが、何らかの不測の事態に対処するために、取り敢えず報告した書き付けを指すのであろう。

「去午年」「いんぬる午年(うまどし)」。文政五壬午(みずのえうま)年。

「に而」「にて」。

「秋中」「あきなか」。秋中旬。旧暦八月。同年は閏一月があったため、新暦では九月中旬から十月上旬に当たっている。

「向」「むかひ」。

「相咄候得共」「相ひ咄(はな)し候得(さふらえ)ども」。

「取用不ㇾ申」「取り用(もち)ひ申さず」。

「存」「ぞんじ」。

「姉儀父母え相咄候而昨年十二月中」「姉儀(ぎ)、父母へ相ひ咄し候ふ。而して昨年十二月中」。同年十二月はグレゴリオ暦では既に一八二三年(同年旧暦十二月一日は一月十二日)。

「改而」「あらためて」。

「久兵衞儀者病死仕候間」「久兵衞儀は病死仕(つかまつ)り候ふ間(あひだ)」。

「母え後家入に而」「母へ、後家入(ごけいり)にて」。「後家入」は後家の家に婿入りすること。未亡人に婿を迎えること。尋常に考えれば婿養子である。

「後之父」「あとのちち」。継父。養父。

「難取用筋に者有ㇾ之候得共」「取り用ひ難き筋(すぢ)には之れ有り候得ども」。

「委敷慥成事共」「委(くは)しく、慥(たし)かなる事ども」。

「得與」「とくと」。

「に而も」「にても」。

「及ㇾ承」「承(うけたまは)り及び」。

「前世父母面體」「前世(ぜんせ)の父母」(=実父藤五郎・継父半四郎・母しづ)「の面體(めんてい)」。

「違」「たがひ/ちがひ」。

「家内に對面爲ㇾ致候所」「家内(かない)に(て)對面致させ候ふ所」。

「似合」「にはひ」。よく似ている。

「相知申候哉」「相ひ知られ申し候ふや」。

「此節者日々右勝五郞を見物に所々より參り候者有ㇾ之候に付、知行所より訴出候」このように人々が出入りすることは尋常でなく、不測の事態が生ずる可能性を知行所の名主等が危ぶんで、訴え出たのである。

「疱瘡に而相煩候節」「疱瘡(はうさう)にて相ひ煩(わづら)ひ候ふ節(せつ)」。

「尤父は隨分勞り遣し候由」「尤(もつと)も、父は、隨分、勞(いたは)り遣(やり)し候ふ由(よし)」。

「瓶え入」「瓶(かめ)へ入れ」。「瓶」は甕棺(かめかん)のこと。小児で遺体が小さいからまず壺様のものに入れたのであろう。

「棺え入」「棺(ひつぎ)へ入れ」。思うに野辺送り用の木棺(丸桶)のそれであろう。

「葬候節者」「葬り候ふ節(せつ)は」。以下の映像「棺之上えあがり見物いたし居、甁計理候由」(「棺の上」へあがって「見物いたし居(を)り、甁(かめ)計(ばか)り理(う)め候ふ由」)は藤蔵(現在の勝五郎)の霊魂からのそれであることに注意。

「夫より」「それより」。

「大造成」「大造(たいさう)成(な)る」。驚くばかりに大層開けた。

「地藏菩薩」これは平田篤胤の「勝五郎再生記聞」には出ず、老人だけである。後に示される「再生勝五郞前生話」にも念仏の語が出、この小児の死後の体験シークエンスに地蔵菩薩が導きとして示現するのはごくごく至って自然なのに、である。「勝五郎再生記聞」では勝五郎が僧を嫌い、憎みさえする章段が出現する。私はこれは平田が吹き込んで作話させたものではないかと私は考えているほどである。則ち、ここに神道家平田によるフラットであるべき聴き取り内容への不正不当な介入、恣意的な創作による変形が見て取れるのである。

「幷」「ならびに」。

「罷在出合」「まかりありいであひ」。

「連步行」「つれありきゆき」。

「夫迄生替居可ㇾ申爲申聞」「それまで生(うま)れ替(かは)り居(を)り申すべく、申し聞(き)かすなり」。

「這入」「はいり」。

「難ㇾ入」「いりがたく」。

「暫」「しばらく」(して)。

「有增覺居候」「有增(あらまし)覺え居り候ふ」。夫婦の言い争いの内容(勝手不如意)についても概ねその内容を記憶しております。

「繁昌にて」今は仕事も上手くいっており。前の争いの原因を受けての謂いであろう。

「一夕に承盡兼荒增書寫畢」「一夕(いつせき)に承り盡(つく)し兼ね、荒增(あらまし)書き寫し畢(をはん)ぬ」。

「賤敷」「いやしき」。

「至而行義能」「至つて行義(儀)能(よ)く」。

「生付」「うまれつき」の容貌。

「何を申も」「なにをまうすも」。何と言っても頑是ない。

「漸」「やうやう」。

「委敷承度」「くはしくうけたまはりたく」。

「强而」「しいて」。

「又者」「または」。泣

「仕合故」「しあひゆゑ」。始末でありますから。

「抔」「など」。

「然與」「しかと」は。

「難ㇾ分事も多く」「わけがたきこと」。勝五郎の話は、聴いてもその意味が理解出来ないことも多く。

「罷在候」まかりありさふらふ」。

「騷々敷に紛」「さうざうしきにまぎれ」。

「多」「おほく」。

「に者」「には」。

「死候事故」「しにさふらふことゆゑ」。

「只今之内親之爲仕事致し溜置候迚」「只今の内(うち)、親の爲(ため)、仕事致し、溜(た)め置き候ふ迚(とて)」。

「一體」副詞で「総じて」「概して」であろう。

「夫而巳」「それのみ」。

「至而」「いたつて」。

「一度者漸一椀位にて」「一度(に)は漸(やうや)う一椀(膳)位(くらゐ)にて」。

「餘者不ㇾ食」「餘(よ)は」(他には)「食せず」。

「給べ」「たべ」。食べ。

「喰」「くひ」。

「右の體」「みぎのてい」。以上の通りであるので。

「隣宅」これは書いている松浦静山の隣りの屋敷であろう。

「梅塢」(ばいう)。恐らくは、幕臣で天守番を勤めた荻野八百吉(おぎのやおきち 天明元(一七八一)年~天保一四(一八四三)年)であろう。仏教学者としても知られ、特に天台宗に精通して寛永寺の僧らを教えた。「続徳川実紀」編修に参加している。彼の号は梅塢であり、静山と親しかった。但し、所持する二種の江戸切絵図で平戸藩上屋敷・下屋敷周辺を彼の姓名は見ても見当らない。

「予」静山。

「幽冥の談を云者を見るべくも非ざれば往かず」松浦の堅実にして慎重な実証的現実主義の一面が窺われる。いいね!

「書記して復命す」静山が命じた者が勝五郎を訪ね、事情聴取をし、その者が内容を書き記したものを報告書として提出させた。以下の段落がそれ、ということである。

「父差添在ㇾ之」「父、差し添ひて、之れ、在り」。

「尤何所庭にての儀に有ㇾ之」「尤も、何所(いづく)庭(には)」(=家庭)「にての儀に之れ有り」。普通の農家の家庭と変わらない、の謂いであろう。

「聊相替」「いささか(も)相ひ替(かは)り」。

「恥候體」「恥(は)ぢ候ふ體(てい)」。

「けし坊主」当時の一般的な子供の髪型の一つで、頭頂だけ、毛を残して、周りを全部剃ったもの。外皮のままの球形のケシの果実に似てることによる。

「伶俐」(れいり)頭の働きが優れていて賢いこと。

「而巳」「のみ」。

「紺竪じま」「こんたてじま」。

「木綿袷」「もめんあはせ」。

「金入」「かねいれ」。財布。

「緋縮緬」「ひぢりめん」。

「守袋」「まもりぶくろ」。

「佩び居」「おびをり」。

「緖」「を」。

「著き」「はき」。

「可ㇾ有ㇾ之や」「これ、あるべしや」。

 

 

27-6 同前又一册

某老侯より一册を示さる。前事なれども、小異、詳文とも覺ゆれば又載す。要するに冥怪のみ。

[やぶちゃん注:以下、「某老侯」則ち、「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」で注した因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(号は冠山)が記した「兒子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))の初期形かと思われるものの写しである。一行空けた。【 】は底本では二行割注。ポイント落ちの箇所があるが、総て同ポイントで示し、字配も必ずしも再現していない。以下、特異的に挿入注を附した。]

 

  【武藏國中野村】再生勝五郞前生話

    武州多磨郡柚木領中野村小名谷津入(ヤツイリ)

     根津七軒町多門傳八郞知行所

文化一二乙亥年十月十日生 百姓源藏次男〔當未九歲〕

                 勝五郞

父苗字小谷田(コヤタ)〔當未四十九歲〕源藏

母         〔同 三十九歲〕せい

祖母        〔同 七十二歲〕つや

祖父        〔死〕     勘藏

姉         〔同 十五歲〕 ふさ

兄         〔同 十四歲〕乙次郞

妹         〔同 四 歲〕つね

   武州多磨郡小宮領程窪村

    下谷和泉賴通中根宇右衞門知行所

          百姓半四郞忰實父

     藤五郞忰〔六歲に而死〕 藤 藏

右文化二乙丑年生。同七庚午二月四日晝四つ時死。病症疱瘡。葬地同村之山。菩提所同領三澤村禪宗醫王寺。昨文政五午年十三囘忌也。

   藤藏養父苗字須崎 當未五十歲 半四郞

     母      同 四十九歲 し づ

   文化五戊辰年、藤藏五歲之時四十八歲に而死去。

   此跡に半四郞入候由、去文政五壬午年十三囘忌。

            藤藏實父 藤五郞

             初久兵衞と申候

   藤藏種替之兄弟 半四郞忰兩人 同娘兩人

[やぶちゃん注:「種替」(たねがへ)たぁ、おぞましい謂いじゃねえか! 糞野郎! なお、以下、思いの外の注釈のいらない驚くべき口語表現は、既にして当時の口語が現在のそれに極めて近いことを教える格好の実証である。

去午年十一月の頃、勝五郞、姉ふさとたんぼにて遊びながら、勝五郞、姉に向ひ、兄さんはどこからこつちの内に生れて來たととふ。姉どふして生た先がしれるものかといへば、勝五郞あやしげなる體にて、そんならおまへも生れぬさきの事はしらぬかといふ。姉、てまへはしつているのか。おらアあの程久保の久兵衞さんの子で、藤藏といつたよ。姉、そんならおとつさんとおつかさんにいおふといへば、勝五郞泣出し、おとつさんとおつかさんにいつちやうわるい。姉、そんならいふまい。わるい事するといつつけるぞよとて、其後兄弟げんくわなどすれば、かの事をいおふといふとじきにやめる事たびたびなれば、兩親是を聞つけ、いかなる惡事をなせしやとあんじ、娘ふさにせめとひければ、ふさやむ事を得ず、ありのまゝに告るに、源藏夫婦、祖母つやも、尤ふしんにおもひ、勝五郞をすかして、いろいろとせめ尋ねければ、そんならいおふとて、おらア程久保の久兵衞さんの子で、おつかさんの名はおしづさんといつた。おらが五つの時、久兵衞さんは死んで、其蹟に半四郞さんといふが來て、おれをかわゐがつてくれたが、おらアそのあくる年、六つで痘瘡で、それから三年めにおつかさんの腹にはいつて、それから生れたよといふ。兩親、祖母此を聞て大におどろき、どふぞして程久保の半四郞といふものを尋ねて見んとおもへども、身すぎ[やぶちゃん注:「身過ぎ」。暮らしを立てていくこと。また、その手だて。身の境遇。生業(なりわい)。]にまぎれ、そのまゝにうちすておきしに、母しづ[やぶちゃん注:ママ。「せい」でないとおかしい。]は、四つなる娘常に乳をのまする故、勝五郞は祖母つやにだかれて、每夜々々ねものがたりするゆへ、つや、勝五郞がきげんを見合せ、その死せし時の事を尋ね問ふに、勝五郞、四つくらいの時まではよくおぼへていたが、だんだんわすれたが、痘瘡で死んでつぼに入れられ、山にほうむられたとき、穴をほつてつぼをおとした時、どんといつた音はよくおぼへている。夫から内にかへつて、机[やぶちゃん注:ママ。臨終の床の藤蔵の「枕」の誤記であろう。]の上にとまつていたら、なんともしれぬじいさまのやうな人が來て、つれてゆくと、空を飛んであるいて、晝も夜もなしに、いつも日暮がたのやうだつけ。さむくもあつくもひだるくもなかつた。いくらとをくにいつても、内でねんぶつをいふこゑと、なにかはなすこゑが聞えた。うちであつたかいぼたもち[やぶちゃん注:製造過程の動作の「搔ひ餅飯」の音変化であろう。「ぼた」は納得出来る語源説がない。私はもっちりとした、ぼったりとした粘り気のある様態のオノマトペイアではないかと想像する。]をすへると、はなからけぶ[やぶちゃん注:「烟」。ここは湯気であろう。]を吞むやうであつたから、おばアさん、ほとけさまにはあついものをすへなさいよ。そしてぼうさまにものをやらつしやいよ。これがいつち[やぶちゃん注:一番。]いゝ事だよ。それからそのじいさまがつれて、此内の向ふのみちを通るとおもつたが、ぢいさま、もう死んでから三年たつたから、あの向ふのうちに生れろ。われがばアさまになる人は、きのいゝばアさまだから、あそこにやどれといつて、ぢいさまは先にいつてしまつて、おらアこの内にはいろうとおもつて、門口にいたら、内になにかおつかさんが、内がびんぼうで、おつかさんが江戶に奉公に出ずばなるまいといふ相談があつたから、まアはいるまいと庭に三日とまつていたが、三日めに江戶へ出るそうだんがやんだから、夫から其夜、あの窓のふし穴から内へはいって、へつつい[やぶちゃん注:「竈(かまど)」。]のわきに又三日居て、天からおつかさんのおなかにはいつた。おなかのうへのほうにいたら、せつなかろうとおもつて、わきのほうによつていた事もおぼへている。生れた時くろう[やぶちゃん注:「苦労」。]のなかつた事もよくおぼへているが、おとつさんとおつかさんにはいゝが、外の人にはいいなさんなといふ。祖母、此よし源藏夫婦に語る。夫より後は兩親に前生の事共ありのまゝかたり、程久保にいきたい、久兵衞さんの墓にやつておくれと度々いふ事なれば、源藏おもふやう、勝五郞希有なる事なれば、もしもその内に死ぬまじきものにも爲らねば[やぶちゃん注:冥界のことを臆面もなくべらべら語る不吉さからこやつは早晩「死んでしまわないとも限らないから」。]、なるほど程久保に半四郞といふもの、ありなしを尋ねたきものなれど、男の身として、あまりあとさきのかんがへなきやうに、人のおもわく[やぶちゃん注:世間体。]もいかゞなればと、當正月廿日、つやに、勝五郞をつれてゆくべしといゝければ、つや、勝五郞をつれて程久保村にゆき、此家かあの家かといへば、勝五郞まださきださきだといつて先にたつて行ほどに、此家だと、つやにかまはずかけこむゆへ、つやもつゞいてはいり、まづ主じの名を問ふに、半四郞とこたへ、妻の名を問へばしづと答ふ。此うちに藤藏といふ子がありしやといへば、十四年あと、六の年、ほうそうでなくなりましたといふ。つやははじめて勝五郞がいいし事のま事[やぶちゃん注:「誠(まこと)」。以下同じ。]なる事をかんじ、淚せきあへず。勝五郞が前生をおぼへてはなせし事をつぶさに語ば[やぶちゃん注:「かたれば」。]、半四郞夫婦もま事に奇異のおもひをなし、勝五郞をいだき、共になみだにしづみ、前生藤藏といゝて、六ツの時の顏色より、きりよう[やぶちゃん注:「器量」。]一段あがりたりなどいふに、勝五郞は向[やぶちゃん注:「むかひ」、]のたばこや[やぶちゃん注:「煙草屋」。]の屋根にゆびさし、まへかたはなかつたの[やぶちゃん注:「あんな形の屋根ではなかったね」の意。]、あの木もなかつたなどいふに、皆その通なれば、半四郞夫婦もいよいよがおりし[やぶちゃん注:「我折りし」。疑義の思いを断った。]となり。扨其日は谷津入にかへりしが、その後も二三度半四邸かたへつかはし、實父久兵衞が墓へも參らせしとなり。勝五郞、時々、おらアのゝさまだから大事にしておくれといゝ、また祖母にむかい、おらア十六で死ぬだろう。御嶽さま[やぶちゃん注:「小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)」の小泉八雲の原註を参照されたい。]のおしへさしつたが[やぶちゃん注:御教え下さったが。]、死ぬはこはいものではないといゝしとぞ。兩親、勝五郞に、手前はぼうさまにならぬかといへば、おらアぼうさまになるのはいやといひし。近頃村中にては、勝五郞といはずして、ほど久保小僧とあだ名よび、近村より見に來る人もあれば、はづかしがりて、やにはににげかくるゝにより、勝五郞直ばなしは聞ことかなはず。祖母のものがたりにて此を書とむるものなり。扨源藏夫婦、祖母つやのうち、何ぞかねて善根をせし覺へありやと問ふに、何もさのみよき事もせず。祖母つや、明暮ねんぶつをとなへ、出家乞食の門口に立あれば、いつも錢弐文づゝ法捨[やぶちゃん注:ここは普通の「布施」と同義。]をするより外、善事といふほどの事もせざりしといふ。

 

2019/12/05

小泉八雲 勝五郎の転生 (金子健二訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“THE REBIRTH OF KATSUGORŌ)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第十話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集はInternet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものはProject Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年:パブリック・ドメイン)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 本篇は江戸後期の復古神道(古道学)の大成者の一人として知られる稀代の国学者にして思想家であった平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年:本姓は大和田。医師でもあった。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後に備中松山藩士で兵学者の平田篤穏(あつやす)の養子となった。篤胤の名乗りは享和年間(一八〇一年~一八〇四年)以降。荷田春満・賀茂真淵・本居宣長とともに「国学四大人(うし)」の一人と称される)が、文政六(一八二三)年に板行した「勝五郎再生記聞」に書かれた事件を素材としたものである。但し、後述するように、本篇は知られた「勝五郎再生記聞」を直接の原拠とするものではなく、それに先行する別な記録物に基づくものである当該書は、所謂、神隠しに逢ったと自称する農民の少年小谷田勝五郎(こやたかつごろう 文化一一(一八一四)年~明治二(一八六九)年)からの聞き書き等に基づく前世記憶実録譚である。ウィキの「小谷田勝五郎」によれば、勝五郎は、『武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野』(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『)の農家、小谷田源蔵の息子』であったが、文政五(一八二二)年(数え九歳)の時、『ある夜、突然』、『家族に「自分はもとは程久保村(現日野市程久保』(ここ)『)の藤蔵という子どもで』、六『歳の時に疱瘡』(天然痘)『で亡くなった」と言い、あの世に行ってから生まれ変わるまでのことを語った。語った話が』、『実際に程久保村で起こった話そのものであり、村に行かなければ分からない話を知っていたということで』、『その当時』、『大騒ぎとなり、話は江戸まで知れわたった』(但し、程久保村は中野村の北直近である)。翌文政六年四月、『勝五郎の噂に関心を持った平田篤胤は勝五郎を自分の屋敷に招き』、七『月に聞き取った内容を』「勝五郎再生記聞」という書物に纏めた。二年後の文政八年には、『湯島天神の男坂下にあった平田が経営する国学塾「気吹舎』(いぶきや)『」に入門』して『平田の門人となっ』ている。『その後は父源蔵の家業である農業、目籠仲買業を引き継ぎ中野村で暮らしたとい』い、明治二年に五十五歳で死去し、『墓は同郡下柚木村の永林寺』(曹洞宗金峰山道俊院永林寺)にある(ここ)。個人ブログ「失なわれゆく風景」の「勝五郎生まれ変わり物語の舞台 八王子市東中野周辺」で墓が見られる。当該ウィキには小泉八雲の本篇への簡単な言及もある。また、平田はこの前年の文政五(一八二二)年にも、幽冥界往還事件を扱った「仙境異聞」を刊行している。これは文政三(一八二〇)年秋に江戸で噂となった「天狗小僧寅吉」の聴き書きで、彼はカスパー・ハウザーのように浅草観音堂の前に突如として現われ、「自分は幼い頃に天狗に攫われて神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受け、帰ってきた」と称したのであった。篤胤は、山崎をその家に訪問しただけでなく、彼を自身の養子として迎え入れて幽冥界研究の素材としたのである。なお、ネット上には「勝五郎再生記聞」や「仙境異聞」絡みのサイトは甚だ多く、未だにこの怪しい都市伝説への関心の変わらぬ人気が窺われる。

 私も中学自分にこの話を聴き、二十代の頃には、この「仙境異聞」や「勝五郎再生記聞」に興味を持ち、平田の原本を読み、幾つかの関連書も読んだが、個人的には、最終的に、心霊現象としては意識的或いは半無意識的詐欺レベルのもの(勝五郎の場合は彼及び死児藤蔵の兄弟姉妹或いは親族等の共同正犯の可能性を含む。さらに本来、バイアスがかかってはいけない聴き取る側自体が幽冥界の話に知らず知らず誘導していた嫌いが甚だ大きい)――但し、寅吉も勝五郎はかなり優れた知性を有しており、形成した架空世界の構築もそれなりにしっかりしており(特に寅吉はそうである)、思うに一種のパラノイア(偏執質)的人物(特に寅吉の方には粘着質特有の偏奇的性格や気分の変化の激しいところなどが甚だ感じられるように思う)と思われる――と判断しており、大衆や平田が挙ってこの話を無批判に信じたのは、現在でもしばしば発生する擬似心霊騒擾と同じく、一種の心理的な集団伝播(感染)で説明出来ると考えている。

 但し、この奇書に着目した近代人としては、小泉八雲はごくごく初期の人物であり、しかも彼が元西洋人である点で、すこぶる注目すべきであろう。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。書簡の署名・クレジットは底本では下方インデントのポイント落ちであるが、一字下げで引き上げて同ポイントとし、また、注も四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。他にもポイント落ちの部分が多数あるが、総て基本、同ポイントで示した。字空け等も一部を除いて再現していない。

 最後に言っておくと、小泉八雲の本篇の構成は本心霊事件を実に面白く読ませるものであるが、小泉八雲が原拠としたのは本文の終りにも出るが、現行の我々が知る「勝五郎再生記聞」そのものではないのである。本事件を扱った優れて詳細なサイト「勝五郎生まれ変わり物語」のこちらによれば、『八雲が勝五郎の転生を執筆するときに原本として使用したのは、土佐藩出身で明治天皇の側近として活躍した佐佐木高行』(後注する)『の蔵書』「珍説集記」と呼ばれる稀書が底本であり、『同書が、國學院大學図書館所蔵「佐佐木高行旧蔵書」コレクションのなかにあることが』、平成二〇(二〇〇八)年になって、『蔵書目録が刊行されたことにより』、本篇の原拠であることが初めて確かに確認されたとあるからである。さらに同サイトのこちらによると、この事件の発生した翌文政六年二月の『ある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)』(池田定常。本文内で注する)『という大名(鳥取藩の支藩』若桜(わかさ)藩『の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました』が、翌三『月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)』(彼の膨大な随筆「甲子夜話卷之廿七」の五・六話目にも「八の兒その前生を語る事」・「同前又一册」として本件を記している。私は「甲子夜話」の全電子化注を手掛けているが、未だ巻之六の途中である。本篇終了後、フライングしてそこのみを電子化することとしよう。【2019年12月6日追記】「甲子夜話卷之廿七 5/6 八歲の兒その前生を語る事/同前又一册」を公開した。私は約束は守る男だ『や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚』(本篇に登場する)『などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には』、文政五年十一月に藤蔵と同じ六歳で『疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました』。続いて四月には、『中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は』、四月十九日に『源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました』。『多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤』『のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして』、同年四月二十二日に、『源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎』『へ来た勝五郎から直接』、『話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは』、四月二十二・二十三・二十五日の三『日間でした』。同年六月、『篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて』「勝五郎再生記聞」を纏め、七月二十二日からの『上洛に持参』し、『光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです』とある。さすれば、平田の「勝五郎再生記聞」とは実は本篇はかなり異なる。『「勝五郎再生記聞」なら読んだよ』という方にも、本篇はあたかも事件調書記録を読むように、はなはだ面白いはずである。従って「勝五郎再生記聞」との異同注記は気になった特別な部分のみとした。対照したのは二〇〇〇年岩波文庫刊の子安宣邦校注「仙境異聞 勝五郎再生記聞」である。同作の電子化されたものは、サイト「小さな資料室」の「資料366 平田篤胤『勝五郎再生記聞』」がよい(因みに、同サイトの『資料408 源義経「腰越状」(『吾妻鏡』による)』では私のサイトが紹介されている)。]

 

      第十章 勝 五 郞 の 轉 生

 

       

 これから書き下す事柄は作り物語では無い――少くとも私の作り出した物語の一つでは無い。これは日本の古い一つの記錄――或は寧ろ記錄類系ともいふべき物を飜譯したのであるが、それにはちやんと署名もしてあれば捺印もしてあり、その上この世紀の初期に溯つての日付さへ記入してあつた。私の友人の雨森(あめのもり)氏は日本や支那の珍しい寫本をいつも獵(あさ)つて步く仁(ひと)で、さういふ珍本を掘出すことにかけては非凡な腕前を持つてをるやうに見えるが、その仁(ひと)がこの寫本を東京の佐佐木伯爵家の書庫で見出したのである。氏はこれを珍しい本だと思つたので親切にも私にこれを寫させてくれた。私はその寫した書物を臺本としてこの譯をものしたのである。私は本書の附錄として書いたところの二三の註釋以外の事柄に關しては何等の責任を持つてをらぬ。

[やぶちゃん注:「雨森」雨森信成(あめのもりのぶしげ 安政五(一八五八)年~明治三六(一九〇六)年)はプロテスタント源流の一つである「横浜バンド」のメンバー。ウィキの「雨森信成」によれば、『伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる』。『福井藩士である松原十郎の次男として生まれ』、明治四(一八七一)年に『福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年三月、『藩主松平春嶽の招きでWE・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた』。二年後、『廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師SR・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ』。『明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された』(この年、『信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となっ』ている)。『MN・ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行』、『その後』、『新潟で宣教活動と医療活動をしていたエディンバラ医療宣教会のTA・パームの通訳兼助手になった』が、『現地人の迫害で説教中に拉致される事件』などがあり、三ヶ月で『ブラウン塾に戻っ』ている。明治八(一八七五)年、『キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師とな』った。明治十年には『築地の東京一致神学校の第一期生にな』り、明治十四年、『ワイコフの先志学校の教師とな』っている。『後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた』。明治三六(一九〇三)年には『横浜グランドホテル内でクリーニング業を営ん』でいた、とある。先のサイト「勝五郎生まれ変わり物語」によれば、『彼は、明治の初めに英仏に留学、英独仏の三か国語に堪能で、後には横浜のホテルニューグランドに出入りする洗濯業を営んでい』たとしつつ、『雨森は、英国留学時代に』先に示した佐々木『高行の長男高美と親しくなり、帰国後』、『佐佐木高行が主催していた『明治会叢誌』の編集者となり』、『佐佐木高行は蔵書家としても有名で、同家に親しく出入りしていた雨森は、蔵書のなかから「珍説集記」を見つけ八雲に見せたので』あったと、参考資料入手の経緯を語っている。

「佐佐木伯爵家」元土佐藩士で政治家の佐々木高行(文政一三(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)のこと。土佐三伯の一人(他に板垣退助・後藤象二郎)。後に侯爵となった。ウィキの「佐々木高行」によれば、『藩士と郷士の身分が確立されている土佐藩の中で上士の板垣退助や谷干城と同じく、郷士に対し寛大だった人物として有名』で、『明治政府高官の中でも保守派を代表する』一『人であり、明治天皇の信任を楯に』、『政治体制を巡り』、『伊藤博文らと争った』とある。]

 この譯文は讀み始めは多分面白味が讀者にうつつて來ぬと思ふが、それを忍耐して終り迄全部通讀して貰ひ度い。と言ふのはこの書は人間の前生追憶の可能であることを私達に敎へてをる以外に多くの事柄を暗示してをるからである。例へば既に消え去つて了つたところの封建時代の日本に關して、或はこの國の昔の宗敎――假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]それが高尙な佛敎で無かつたにせよ、西洋人の目から見て容易に眞相を捕へることの出來なかつた物のその幾部分かをこの記事によつて窺ふことが出來る――換言すれば日本の人達が前生と更生とに關して一般に抱いてをつた思想がこの書の中に能く現れてをる。故にこの事實の上に立つて觀察すればお役所の吟味が正確であつたこととか、或は證據として認められた事柄が信ずべき筋の物であつたとかなかつたとかいふことは當然小さな問題となつて仕舞ふ。

 

       

  多聞傳八郞の調書寫

     私の地内の百姓で目今武藏國多摩郡中村

     に住んでをる源藏と申す者の二男で當年

     九歲になりまする勝五郞の一件に次のや

     うな次第であります。

 昨年の秋の間のことでありましたが、或時、源藏の子、前記勝五郞がその姉に彼の前生のことや轉生のことを物語つたさうですが、姉はそれを子供の出鱈目な話だと思つて注意を拂はなかつたのです。併しその後勝五郞は同樣の物語を幾度も幾度も繰返すので姉も初めて不思議なことに思つて終にこれを兩親にも告げたのであります。

 去年十二月の間に源藏自身がこの事柄について勝五郞に質ねましたところがそれに對して勝五郞はかく公言したのであります。

 『私は前世では武藏國多摩郡の小宮樣の領内程窪村(ほどくぼむら)の百姓久兵衞とかいふ者の子でありました――

 『久兵衞の子と生れたこの私勝五郞は六歲の時に疱瘡を病んで死にました――

 『それから後源藏の家に轉生(うまれかは)つたのであります』

 

 この話は嘘のやうでしたが勝五郞は餘りに委しく餘りに明かにその物語の事情を繰返して話しますので、その村の庄屋や長老(おもたち[やぶちゃん注:ママ。])等はこれを形式の如く調べでみました。ところでこの事が早速世間に廣く知られたので伴四郞とかいふ者の家族の耳に入りました。伴四郞は程窪村に住んでをつた者であります。彼は私の地内の百姓、前記源藏の家へと參りました。そしてこの少年が彼の前世の兩親の肉體(からだ)の容子や顏の特色(かつこう)等に關してかねがね話してゐた事柄や、或は又、彼が前生で住んでゐた家の樣子等について物語つてをつた事柄が皆一つとして事實で無い物は無いといふことを知りました。そこで勝五郞は程窪村の伴四郞の家に引取られました。村の人達は勝五郞を見て藤藏さんそつくりだと申しました。藤藏といふのは餘程以前に、然かも六歲の時に死んで仕舞つた子供であります。その時以來この二家族は折さへあればお互に往復してをります。他の隣接村の人達はこれを傳聞したものと見え、勝五郞の顏を見に來る人が每日每日絕えないといふ有樣であります。

 

 以上の事實に關する證言が私の地内に住んでをる人達に依つて私の面前でなされましたから、私はその源藏なる男を私の家へ呼出して調べてみました。私の訊問事項に答へた彼の言葉は他の人達の述べた前記の口供事項と何等矛盾(ちがう[やぶちゃん注:意味を示すルビ。])するところはありませんでした。

 この種類の評判は世間に於て人々の間にひろがることは時々あるものであります。このやうな事柄は信ずることが困難であるのは固よりでありますが、私はただこの差當つての事件を御耳に入れまして、私の怠慢の罪を免れ度いばかりに御報告申上げる次第であります。

          〔署名〕多聞傳八郞

      文政六年(一八二三年)四月

[やぶちゃん注:「多聞傳八郞」原文“TAMON DEMPACHIRŌ”。冒頭注でも示した通り、「勝五郎再生記聞」では、この調書(しらべがき)の報告者の姓は「多門」でしかも、その読みは「おかど」である。実は後に出る先行する池田(冠山)貞常の「勝五郎再生前生話」でも「多門」であるから、以下、「多聞」は「多門」と読み換えて戴きたい。なお、先んずる人物ながら、旗本で通称「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)」で知られる多門重共(おかどしげとも 万治元(一六五八)年~享保八(一七二三)年)がいる。彼はかの「赤穂事件」に於いて、浅野長矩の取り調べと、切腹の副検死役を務め、「多門筆記」に長矩の様子を詳しく記した人物として著名であり、姓の特異な読み方と通称の一致から見ても、その正統な後裔と考えて問題なかろう。

 

  泉岳寺の僧貞金に與へた和直の書狀寫

 多聞傳八郞の調書が志田兵右衞門樣の手で寫されて、それが私の掌中に入つたので私は好都合でありました。私は今それを貴僧にお送り致すことの出來るのを光榮と存じてをります。貴僧はこの調書寫本と、それから貴僧が先般私に見せて下さいました觀山樣の御書とを一緖に、永く御保存相成ることは、貴僧にとりて御利益のことと思ひます。

             〔署名〕 和直

    六月二十一日(他に年代の記入無し)

[やぶちゃん注:「勝五郎再生記聞」にはこの書状自体が存在しない。

「貞金」は原文“TEIKIN”。冒頭注の引用と以下の泉岳寺のそれに従えば、「貞金」は「貞鈞」或は「貞均」が正しく「泉岳寺」公式サイトの「萬松山泉岳寺の縁起」を見ると、『現存する山門は天保年間に当寺』三十四『世大道貞均和尚によって建立され』とあるまさに泉岳寺住持である。以降の「貞金」も総て「貞鈞」又は「貞均」と読み換えて戴きたい

「和直」は“KAZUNAWO”。人物不詳。

「志田兵右衞門」は“Shiga Hyoëmon”であるから、「志賀」「滋賀」の誤読か誤植である。平井呈一氏は恒文社版「勝五郎再生記」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でも『志賀』となっている。但し、人物は不詳。

「觀山」“Kwan-zan”。冒頭注の引用に示された事実その他から考えるに、これは「觀山」が正しい。彼は因幡国鳥取藩支藩の若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)で、冠山は号である。ウィキの「池田定常」によれば、『旗本池田政勝の次男』で、『正室は』おらず、『子に池田定興(長男)、池田定保(六男)、徽姫(青木一貞継室)、鎮姫(織田信陽正室)、奉姫(池田喜長正室)、露姫』(冒頭注に出た夭折の娘)。『官位は従五位下、縫殿頭。松平冠山と呼ばれることもある』。安永二(一七七三)年に『先代の藩主・池田定得』(さだのり)『が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった』。『定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても』、『深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁、塙保己一、林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた』。享和二(一八〇二)年十一月、『家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる』(本件も隠居後二十一年後である)。『定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている』。寛政八(一七九六)年から翌九年に『記した巡見日記が「駿河めぐり」として』『翻刻されている』。また、文政六(一八二三)年には、『自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ』、「児子再生前世話」(勝五郎再生前生話(さいせいぜんしょうばなし))を記しているとある。早稲田大学図書館古典総合データベースのこちらで「勝五郎再生前生話」の写本全篇が画像で見られる。以降の「觀山」も総て「冠山」と読み換えて戴きたい

 

 松平觀山から泉岳寺の僧貞金に與へた書狀寫

 この書面と同封で勝五郞轉生の物語書をお送り致します。この書は私が通俗的に書いてみたもので、その趣旨はかの佛敎の難有い[やぶちゃん注:「ありがたい」。]御敎へを信じない人達を沈默させる爲にはこの書が效果が多いと思つたからであります。言ふ迄も無くこれは文學書としてはつまらぬ作であります。私が今これを貴僧にお送りするのは、かういふ見方でこれを御覽下さつた場合にのみ御興味を引くことが出來得ると思つたからであります 併しこの話其物について申せば誤謬の點は一つもありません。と申しますのは私がこの話を勝五郞の祖母の口から直接に聽いたからであります。これをお讀みになつたら何卒私に御返却を願ひます。

             〔署名〕 觀山

  二十日(他に如何なる年代の記入も無し)

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはこの書状はない。]

 

 【寫 し】

 

    勝

 

 僧貞金が序(はしがき)に書いた說明書

 これは一つの眞實の出來事を書いた書である。その證據には編者松平觀山樣がこの事柄を委しく取調べる爲に本年三月二十二日親しく(中野村に)御出馬になつてをるではありませんか。觀山樣は勝五郞を一瞥なされた後にその祖母に凡ゆる委しい事をお質ねになつた。そして祖母の答へるま〻に委しくお書きになつた。

 その後この觀山樣は辱け無くも[やぶちゃん注:「かたじけなくも」。]この四月の十四日に是所(この寺)へお出でになつて、前記勝五郞の家族訪問の事柄をその貴い御口からお話になつた。剩へ[やぶちゃん注:「あまつさへ」。]同月二十日には前記の書を私に讀むことを許しになつた。で私はこの御厚意に甘えて時を移さずこれを寫した。

   〔署名〕貞金僧(書きはん卽ち筆で個人用の

           署名印を書いたものゝ寫し)

     泉岳寺

     文政六年(一八二三年)四月二十一日

[やぶちゃん注:「〔署名〕貞金僧」の後の丸括弧内の書判についての解説は、底本では丸括弧内に二行書きポイント落ちの割注である。原本にある小泉八雲の注である。同じく「勝五郎再生記聞」にはこの記載はない。]

 

 【寫 し】

 

 この二家族の人達の名前

 

    源藏の家族

 

 勝五郞――文化十二年(一八一五年)十月十日生、文政六年(一八二三年)當九歲、武藏國多摩郡中村、谷津入に住める百姓源藏の二男――この村は多聞傳八郞の所有地(多聞の屋敷は江戶根津七軒町にあり)に在つて柞木(ゆずき)管内。

 

註 西洋人が記憶すべきことは日本では生れたばかりの子供は一歲として計算されゐのが常であるといふ事實である。

[やぶちゃん注:「谷津入」八王子市東中野にバス停名で現存する

「江戶根津七軒町」現在の台東区池之端二丁目。不忍池の端の北西部。

「柞木(ゆずき)」原文は“Yusuki”で「ゆすき」。金子氏が何故この漢字を当てているのか、よく判らない。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「柚木」で、読みは後者では「ゆぎ」である。但し、「柞木」で「ゆずき」と読むことはある。因みに「柞木」は「ははそ(は)のき」で楢(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus)の古名である。]

 

 源藏――勝五郞の父、姓は小矢田氏、文政六年當四十九歲、貧のため日夜籠を造つて江戶で商賣す、江戶居住中の旅宿は馬喰町相模屋といふ、宿屋の亭主は喜平と呼ぶ者。

 

 せい――源藏の妻、勝五郞の母、文政六年當三十九歲、嘗て尾張樣に事へた[やぶちゃん注:「つかへた」。]ことのある弓將家村田吉太郞と呼ぶ武士の女[やぶちゃん注:「むすめ」。]、せい十二歲の時本田大之進殿の家に下女となつたと傳云[やぶちゃん注:「つたへいふ」。]、十三歳の時父吉太郞何かの理由で尾張樣から永のお暇がでて浪人となつた。そして文化四年(一八〇七年)四月二十五日七十五歲で歿した、彼の墓は下柞木(しもゆずき)村の永林寺といふ禪寺の墓地にある。

[やぶちゃん注:「村田吉太郞」不詳。「勝五郎再生記聞」には貼り付けられた紙に『村田吉太郎は織田遠江殿組にて、侍の所行にあらざる事ありて、寛政元丙年』(不審。寛政元年は一七八九年であるが、干支は己酉で合わない)『十一月廿一日追放仰付けられしとある書に見えたり。後に丹羽家(左京大夫どの)かゝへられしと或人いへり』とある。

「本田大之進」不詳。

「永林寺」冒頭注参照。勝五郎の墓がある寺と同じ。]

 

註 浪人とは主君を持たぬ流浪の武士を云ひ、一般にこの徒は自暴自棄の甚だ危險な者共であつたが、中には立派な人物もあつた。

 

 つや――勝五郞の祖母、文政六年當七十二歳、若い時松平隱岐守殿(大名)の御殿女中を勤めた。

[やぶちゃん注:「松平隱岐守」伊予国松山藩主で定勝系久松松平家宗家の誰かである。「若い時」を二十代と考えて文政六(一八二三)年から逆算すると、一七五〇年頃となり、伊予国松山新田藩二代藩主・伊予松山藩八代藩主松平定静(さだきよ 享保一四(一七二九)年~安永八(一七七九)年)辺りかと思われる。定勝系久松松平家宗家九代で官位は従四位下・隠岐守・侍従である。]

 

 ふさ――勝五郞の姉、本年十五歳。

 

乙二郞――勝五郞の兄、本年十四歲。

 

 つね――諮五郞の妹、本年四歲。

 

 

     伴四郞の家族

 

 藤藏――武藏國多摩郡程窪村で六歲の時に歿した、こ〻は江戶下谷新橋(あらばし)通[やぶちゃん注:原文は“Ata-rashi-bashi-dōri”。この「新橋」は確かに「あたらしばし」と読むはずである。金子氏が何故かくルビしているのか不審である。]に屋敷を持つてゐる中根右衞門の所有地、小宮管内――(藤藏)は文化二年(一八〇五年)に生れ文化七年(一八一〇年)二月四日四刻(午前十時)頃死す、病名は疱瘡。前記の程窪村の丘上の墓に葬る、菩提寺は三澤村の醫王寺、宗門は禪宗、去年文化五年(一八〇八年)藤藏の爲に十三囘忌の法會營まる。

 

註 佛敎では亡者の爲に一定の年期每に法會を營むことになつてゐて、それが次第に永さが多くなつて來て死後百年目に至るやうに定めてある。十三囘忌とは死後十三年目の法會である。第十三囘といふ數には前後の意味から考へて死者の死んだ年が第一年目として算へられてをることを讀者が了解しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「三澤村の醫王寺、宗門は禪宗」禅宗寺院で「医王寺」で旧村名「三沢」、「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「同領」にあるとしているからには、現在の中野区或いはその周辺にあるものと探してみたが、見当たらない。後に廃寺となったか、移転したか?]

 

 伴四郞――藤藏の養父、姓は鈴木、文政六年當五十歲。

[やぶちゃん注:読みは「はんしらう(はんしろう)」。]

 

 しづ――藤藏の母、文政六年當四十九歲。

 

 久平――(後に藤五郞)、藤藏の實父、原名は久平、後藤五郞と改名す、文化六年(一八〇九年)藤藏五歲の時四十八歲にて死す、彼の代りに伴四郞入婿。

[やぶちゃん注:「久平」“KYŪBEI ”。「勝五郎再生前生話」でも「勝五郎再生記聞」でも「久兵衞」(きうべゑ(きゅうべえ))である。以下、「久平」は「久兵衞」と読み換えられたい。]

 

註 入婿とは兩親と同棲してをる女の第二番目の夫となること。但し養子。

 

 子供、二男二女――何れも藤藏の生母と伴四郞の間に出來た子。

[やぶちゃん注:同じく「勝五郎再生記聞」にはここまで詳細な関係者の生活史記載はない。]

 

 大名松平觀山殿が通俗文で書かれた物語の寫し

 去年十一月の或日のこと、勝五郞が姉のふさと畠で遊んでゐた時このやうなことを質ねた、

 『姉さん、貴女はこの家へ生れて來る前に何所にをつたの?』

 ふさは答へた、

 『生れる前にどんなことがあつたかどうして分るものか』

 勝五郞は驚いた樣子で叫んだ、

 『では姉さんは生れる前に何があつたか思ひ出せないの?』

 ふさは問うた、

 『お前さんがそれを覺えてをるの?』

 勝五郞は答へた、

 『覺えてをりますとも、僕は程窪の久平さんの子でその時は藤藏といふもであつたんだよ、姉さんはそれを皆(みんな)知らないの?』

 ふさは言つた、

 『あらまあ! 何を言ふんですか、お父さんとお母さんに告げるわ』

 勝五郞は直に泣きだした。そして言つた、

 『姉さん告口しないで頂戴、お父さんとお母さんに告口したら大變だ』

 暫時の後ふさは答へた、

 『よし、よし、この度だけは言はないで置きませう、でも復(こんど)このやうな善くないことを少(ちよつと)でも言うたらその時こそは告口するよ』

 その日以後二人の間に喧嘩が持上る每に姉は弟を嚇して『い〻わ、い〻わ、――あの事をお父さんとお母さんに告げてやるから』と言つてゐた。これを言はれると勝五郞はいつも姉に降參して了つた。ところがこれが幾度も起つたのでたうとう或日のこと兩親はふさが弟を嚇してをるのを立聽きして了つた。そこで兩親は勝五郞が何か善くない事をやつたに相違ないと思つて、それを何とかして知り度いと考へた末ふさにこの事を質ねたのである。ふさは終に事實を明かした。これを聽いて源藏夫婦も勝五郞の祖母も何といふ不思議な事だらうと愕いて了つた。そしてその結果彼等は勝五郞を呼んで最初は甘言で賺し[やぶちゃん注:「すかし」。]次には嚇して、一體お前はどういふ意(こころ)でこのやうなことを言ふのだかと質ねた。

 勝五郞は躊躇した後かう答へた。

 『殘らず申します、僕は程窪の久平さんの子でありました、そしてその頃の僕のお母さんはおしづさんといふ名でありました。僕が五歲の時、久平さんは死んで、その代りに伴四郞さんといふ男が養子に來て僕を大變に可愛がつてくれました、併し僕はその翌年丁度六歲になつた時に疱瘡にか〻つて死んで了ひました、それから三年目に僕はお母さんのお腹に宿つて復(また)生れて來ました』

 これを聰いて兩親も祖母さんも大に驚いた。そして彼等は程窪の伴四郞といふ者について出來得る限り委しく調べて見ることにした。併し何といつても彼等は生活の糧を得ることに每日追はれてゐて、他の事柄の爲に殆んど時間を用ひることが出來なかつたので直に彼等の目的を遂行しようとしても駄目であつた。

 勝五郞の母せいは今はその女兒つね――四歳註一の――に夜な夜な乳をくれなくてはならなかつた。それが爲に勝五郞は祖母のつやに抱れて寢た。彼は時々寢ながらお祖母さんに話すことかあつた。或夜彼が非常に打寬いだ[やぶちゃん注:「うちくつろいだ」。]樣子で何事でも彼女に話しかけるといふ氣分になつてをつたので、お祖母さんは彼にお前が死んだ時にどんな事があつたのか私に敎へてくれぬかと言ひ出した。さうすると彼はかう答へた。――『四歲の時迄僕は何でも記憶してゐたが、それから後といふものはだんだん物忘れするやうになつて、今では澤山の事を忘れてをる。それでも未だ忘れてをらぬ事は疱瘡にか〻つて死んだことだ。それから未だ恐えてをることは壺註二に入れられて丘の上に埋められたことだ。丘にゆくと其所の地面に穴が一つ造られた。そして其所へ來た人達はその穴の中へ私の入つてをる壺を落した。ぽんといつて落ちたよ――あの音だけは今でも能く覺えてをるよ。それからどうしたのか知らぬがともかく僕は家へ歸つて僕の枕註三の近くを離れなかつた。曹くすると或る老人――お祖父らしい老人――が來て僕を連れ去つた。步いてゆく時何だか飛行でもやるやうに虛空を突切つて走つた。二人が走つた時は夜でも晝でも無かつた事を僕は記憶してをる。それは常に日沒時(たそがれ)の樣であつた。暑くも寒くも無く亦お腹(なか)もへらなかつた。二人は餘程遠く迄往つたやうに僕は思つてをるが、それにしても僕は僕の家で人々の話してをる聲をいつも聽くことが出來たよ、幽かではあつたが――そして僕の爲に念佛註四の聲が上げられてをるのが聞こえた。亦家庭(うち)の人達がお佛壇の前に溫い牡丹餅註五を供養してくれると僕はその香氣(にほひ)を吸ひ入れたことも記憶してをる――お祖母さん、佛樣に溫い食物を供へることを忘れてはいけません、お坊さんにでもさうですよ――これは大きな功德になるんだよ註六――それから、これはつい思ひ出すだけのことであるが、その老人は何か迂𢌞(とほまはり)した道を經(とほつ)て僕をこの場所へ件れて來たやうである――僕達の通つたのはこの村の向うの所だ。そして僕達は是所へ來た。彼はこの家を指差して僕に言うた――『さあ是所で轉生するんだよ、――お前は死んでから三年目になるが今この家で生れかはることになつてをる、お前のお祖母さんに成る人物(ひと)は大いさう親切だ、だから其所でお腹(なか)に宿つて生れて來るのはお前の幸福さ』かう言つて了うと老人は消え去つた。僕はこの家の入口の前で柿の樹の下で暫く立止つてゐた。それからいよいよ家に入らうとすると家の内側から話し聲が聞こえて來た。誰れかが言うた、『お父さんの收入(もうけ)が餘りに少いから、お母さんが江戶へ奉公に出掛けなくてはならぬだらう』。僕は『これではこの家へ入らないことにする』と思つた。そして三日間庭の中に留つてゐた。三日目になると結局こ〻のお母さんが江戶に出掛けないことにした。そこで私はその夜雨戶の節孔(ふしあな)から家の中に入つた――その後三日間といふものは竈(かまど)註七の側にとどまつてゐた。そしてその後初めてお母さんのお腹に入つた註八――私は全く少しの苦痛も知らずに生れて來たことを覺えてをる。――お祖母さん、『これはお父さんとお母さんに話してもい〻がその外の人には誰れにも話さないで下さいよ』

 

註一 日本の貧しい階級では西洋であるならば當然乳離れをさせる年限に子供が達した頃でも容易に乳離れをさせないで大きくなる迄乳をくれてをる、併しこの本に書いてある四は西洋の算へ方による三歲よりも著しく少いことになる。

註二 死者を大きな壺に納めて埋葬する風習に日本の遠い昔から見らるゝ例である。骨壺は普通に赤い土器である、所謂かめといふものである、かういふ壺は今日でもなほ用ひられてをる、但し今日では死者の大多數は西洋で知らない一種特有の形をした木棺の中に納められてをる。

註三 この意味は枕に頭を橫へて[やぶちゃん注:「よこたへて」。]寢るといふつもりでは無くて枕のあたりかさまよふとか、或は昆蟲(むし)でもとまる樣にその上に休むといつた風のことを意味するものである、肉體の無い靈魂は普通に室の家根の上に休むといはれてをる、次の文章に述べてある老人の幽靈は佛敎よりは寧ろ神道の思想であるらしい。

註四 佛敎のお禱りの句に南無阿彌陀佛を繰返すことである、念佛は阿彌陀宗――眞宗――以外の多くの佛敎宗派で[やぶちゃん注:「も」と入れないとおかしいですよ、金子先生。]繰返すものである。

註五 牡丹餅は米の飯に砂糖を混じて造つた一種の菓子。

註六 日本の佛敎文學の中にはこの種の忠告は陳腐となつてをる、こゝでいふ佛樣の意味はこの子供の心では佛其者を指差すのでは無くて宗ゐ死者を愛した人達が後生の幸福を希ふつもりで佛と呼んでをる人達の靈魂を指したものである、これは恰も西洋に於て死者を呼んで天使といふことが時々あるのと同樣である。

訪七 日本の臺所に於ける料理場である、西洋のかまどと非常に異つた意味を持つことがある。

[やぶちゃん注:本邦のそれは竈の複数配置や、焚口と炉という二方向開口、及び、その上部の排煙のための空間までも幅広く含むからであろう。]

註八 こゝで私は原文の二句を省くに如かずと思つた。それに西洋趣味にとりて餘りに露骨だと思つたからである。併しその句に興味が無いといふ譯では無い、省略した句の意味をいふならばこの子供は母親のお腹の中に居つてさへ愼重な態度で動作し、特に孝道を守つてをつたといふことを書いてをるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:この省略された二つの句の原文を見たいものである。因みに「勝五郎再生記聞」のこのシーンでは、

   *

其の後母の腹内へ入りたりと思はるれど、よくも覺えず。さて腹内にて母の苦しからむと思ふ事のある時は、側(わき)のかたへよりて居たる事のありしは覺えたり。さて生まるゝ時は何の苦しき事も無かりき。

   *

とある。]

 

 祖母は勝五郞が彼女に話してくれた事柄を源藏夫婦に語り聞かせた。そしてそれ以後勝五郞は少しも恐る〻ことなく自由に彼の前生話を兩親にしてゐた。彼は屢〻兩親に『程窪へ行き度い。久平さんのお墓參りをさせてくれ』と言つてゐた。源藏は勝五郞が變な子だから遠からず死ぬかも知れぬ、だから伴四郞といふ者が程窪に事實居たかどうかを迅く[やぶちゃん注:「はやく」。]調べてやつた方がよからうと考へた。併し彼はこのやうな事(このやうな事情の下でか?)を爲(す)るのは男としては輕率でもあり亦出過ぎたことにも見えると考へたから自分からす〻んでこの調べを實行することを欲しなかつた。そんな理由で彼は程窪へ自分で行くことは止めてお母(ふくろ)のつやにこの年の一月二十日に其所へ孫を連れていつてくれと賴んだのである。

 つやは勝五郞を連れて程窪へ行つた。二人が其村へ入ると彼女は手近の家を指差して勝五郞に『どれなの? この家? あれ?』と問うた。勝五郞は『否、もつともつと遠くだよ』と答へた。そして彼女の前に立つてさつさと急いだ。やつと一軒の住家に着いたので彼は『これなんだよ』と叫んだ。そしてお祖母さんの來るのも待たないで其家へ走り込んだ。つやは彼の後について家に入つて、この家の主人の名を問うた。問はれた者の一人は『伴四郞の家だよ』と答へた。お祖母さんは更に件四郞の妻の名を質ねた。答へは『しづ』といふことであつた。次に彼女はこの家に藤藏といふ子が生れたことがあつたかと問うた。『あるよ、併しその子は六歲の時に死んで仕舞つて今は十三年目になる』といふのがその答へであつた。

 この時つやは初めて勝五郞が今迄事實を話してをつたことを知つて溢れ落つる淚を禁ずることが出來なかつた。彼女はこの家の皆の人達に勝五郞が彼の前生を覺えてをつて彼女に話してゐたことを語々聞かせた。これを聽いて伴四郞夫婦は非常に驚いた。彼等は勝五郞を撫でて淚にかきくれながら、勝五郞は昔六歲の時に死んだところの藤藏として美しかつたよりも、今の方がもつと遙かに美しいなぞと言つてゐた。そのやうなことのあつた間勝五郞は周圍を見𢌞してゐた。そして伴四郞の家の向側に在る煙草屋の屋根を見て其所に指差しながら『あれは彼方になかつたんだが』と言うた。亦こんなことも言うたのである、『彼方の樹木はあんな所に無かつたが』と、是等は悉く眞實であつた。こんな譯で伴四郞夫婦は終に心の底から疑念を棄てて仕舞つた(我(が)を折つた)

 同日につやと勝五郞は中野村の谷津入に歸つて來た。この後源藏はその子を幾度も幾度も勝四郞の家に遺つて彼の前生の實父久平の墓に參詣することを許した。

 時としてはこのやうなことを勝五郞は言ふのである――『僕は佛樣(ののさま)註一だ、だから何卒僕を大切にして下さい』亦お祖母さんに『僕は十六歲になると死ねよ、でも御嶽樣(おんたけさま)註二が僕に敎へて下さつたことによると死ぬことは何でも無いさうだ』と言ふことも時々ある。兩親が彼に『お前は出家する心はないか』と問ふと彼は『そんな氣は無いよ』と答へる。

 

註一 ののさん又はののさまは子供の用ひる言葉であつて亡者の靈、卽ち佛樣のことである、神道では神樣といふ。ののさんを拜むといふことは神々を祭るといふことで兒童の用ひる言葉である、先祖の靈魂はののさんになる、卽ち神道の思想によれば神になる。

[やぶちゃん注:仏・神或いは神聖な対象を指す幼児語。私は祖母から「のんのんさま」と教えられた。語源については複数あるようだ。墓石店の公式サイト「石の立山」のこちらがよい。]

註二 御嶽樣を引合ひに出したことに關しては特に興味の多い物がある、併しこれにはやく長い說明を必要とする。

御嶽(おんたけ)又はみたけは信濃國の一靈峰の名である、巡拜人の靈場として崇められてをる所だ、德川將軍家の時代に律宗派の一心と呼ぶ僧侶がこの山に參詣した、彼は彼の生れた場所――江戶下谷坂下町――に歸つてから新しい宗敎を說き始めた、 そして彼は御嶽山に參籠してをつた間に修め得たといはるゝ法力を以て奇蹟を行ふ者として大に名聲を上げた、將軍は彼を危險な人物と見倣し八丈島に流した、彼は其所へ流されて數年を送つた、後許されて江戶に歸りあづま敎といふ新しい宗派を興した、これは神道を倣ねた[やぶちゃん注:「まねた」]佛敎であつた――卽ちこの宗敎の信者が特に崇めてゐた神は佛の權化としての大國主命及び少彥名命[やぶちゃん注:「すくなびこなのみこと」。]であつた。開闢祝詞(かいびやくのりと)にこの宗派のお祈禱であるがそれにはかう書いてある――「神聖な物ありその名を不動といふ、不動なれども動く、又形無し、形無けれども自ら形をとりて現はる、受知し得ざる神聖の體たり、天地にありては神と呼ばれ、萬有の中にありては靈と呼ばれ、人間にありてに心と呼ばる、天も、四海も、三千世界の大世界も、この唯一無二の實在から生れ出たものである、卽ち唯心から三千大千世界の形が出て來る」

[やぶちゃん注:「一心」(明和八(一七七一)年~文政四(一八二一)年)は江戸後期の行者で信濃出身。俗名は橋詰長兵衛。武蔵深谷の侠客であったが、妻の死を契機に木曾御岳信仰に入り、武蔵の修験僧普寛の開いた王滝口の先達(せんだつ)となり、江戸を中心に講を組織したが、不穏な教説を説いたとして、幕府に弾圧され、五十一歳で牢死した、と講談社「日本人名大辞典」にあり、小泉八雲の解説とは齟齬する。思うに、この後の小泉八雲の叙述から、明治六(一八七三)年に東京浅草の創始者とされる下山応助が全国の御嶽大神を崇拝する信仰者を集合させ、明治一五(一八八二)年に教派神道の一派として成立、政府の公認を得た御嶽教(おんたけきょう:現在も奈良県奈良市に教団本部御嶽山大和本宮を置く教派神道十三派の一つ。現行、祭神は国常立尊(くにのとこたちのかみ:「日本書紀」で本邦初の神とされる)・大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)・少彦名命の三柱の大神を奉斎主神として「御嶽大神」と奉称する)と混同しているものと思われる。]

交化十一年(一八一四年)に下山應助といふ、もと、江戶、淺草、平衞門町の油商人であつた男が一心の敎法に基づいて巴講[やぶちゃん注:「ともゑかう」。]といふ宗敎同盟か組織した、この派は將軍家派亡の時迄榮えてゐたが、幕府の滅亡した時、混合の敎へたり或は神佛兩敎を混同したりすることを禁止する法令が發布された、下山應助はその時御嶽(みたけ)敎といふ名の下に新しき神道の一派を興すことの許可を願ひ出た――御嶽(みたけ)敎は通俗的には御嶽(おんたけ)敎と呼なれてをる、そしてその願ひは明治六年(一八七三年)に訃されたのである、應助は其後不動經といふ神典を神道の祝詞(のりと)に改作し、之れに名づくるに神道不動祝詞の名を以てした。この宗派はなほ續いてをる。その主なる寺院の一は東京の私の現住宅から約一哩[やぶちゃん注:「マイル」。約千六百九メートル。初め、御嶽教本部は東京神田区小川町に置かれたが、富久町の小泉八雲旧居からは直線でも四キロメートルはあるから違う。よく判らぬ。]にある。

御嶽(おんたけ)さん(又は樣)にこの宗派の崇めてをる神の通俗的名稱である、卽ち實際は御嶽(みたけ)又は御嶽(おんたけ)峰に住んでをる神のことであるが、それは亦時としては御嶽の神の御告げによつて或は御感力によりて實相を啓示する高僧を指差すことにも用ひられる、勝五郞の言うた御嶽樣の意味は其頃(一八二三年)の高僧、卽ち應助地震を指差したことでゐるのは殆ど十中八九迄明かである、何故ならば應助はその當時巴敎の政主であつたから。

[やぶちゃん注:「巴敎」意味不明。この「巴」は「己」ので「この」とでも読ませたか。なお、長い注はここまで。以下、本文に戻る。]

 

 村の人達は彼を最早勝五郞とは呼ばないで程窪小僧(小僧とは僧侶にならうとして修業する若者のことである、併しこれは使走りをする者や或は時としては下僕の年若き者を呼ぶに用ひられたこともある、恐らく昔は男の子供は頭を剃つてをつたからだ、私はこの文の場合に於ての意味は佛敎の僧にならうとしてをる若者といふことだと考へてをる)と渾名をつけた。誰れかが彼に會はうとして家を訪れると彼は直に差しかつて奧へ走つて隱れて了ふ。だから彼とめんと向つて話をすることは出來ぬ。私はこの話を彼のお祖母さんから聽いたままに書き下した。

 私は源藏、その妻及びつやにお前さん達は何か功德をしたことがあるんだらうと質した。源藏夫婦は別にこれといつた善行は行(や)つた覺えは無いが、ただお祖母さんのつやが每日朝と晚には必ずお念佛を繰返して唱へることにしてをる、そしてお出家さんや巡禮者が戶口に來れば二文(もん)(當時にありては最も小さな貨幣で一仙[やぶちゃん注:「錢」に同じい。]の十分の一に相當す、今日厘といふ銅貨があつて中央に四角な孔が一つ明いてゐて、表面に支那文字のついてをるのがあるが文(もん)はそれと略々[やぶちゃん注:「ほぼ」。]同じものである)施すことにしてをつたと答へた。併しつやは是等の小功德の外に特に目立つた大善事を行つたことは無かつたのだ。――(勝五郞轉生の話はこれで終つた)

 

  譯者の註

[やぶちゃん注:この「譯者」とは英訳した小泉八雲自身のこと。]

 以上は『椿說集記』[やぶちゃん注:「椿說」は「珍說」に同じい。]と題した寫本から採つた物である。年代は文政六年四月から天保六年十月(一八二三年――一八三五年)迄の間のことである。寫本の終に―『文政年間から天保年間に至る――所有主、南仙波、江戶、芝、車町』とある。又その下に『西の窪。大和屋佐久治郞より購入、明治二年(一八六九年)廿一日?)』と書いてあつた。これに據りて考へて見るとこの寫本は南仙波と呼ぶ者が一八二三年から一八三五年の末に至る十三箇年間親しく耳に入れた話や、或は手に入れた寫本等からこれを寫し出したものと見える。

[やぶちゃん注:「南仙波」不詳。]

        

 今、誰れでも私の信、不信がこの事柄に何か關係でもあるかの如く考へて、お前さんが一體この話を信じてゐるのかねと質問する者があるとするならば、それは恐らく理由のたたぬ無理な質問だ、と思ふ。前生を思出すことが出來るかどうかといふ問題は、追憶する物は何であるかといふ問題に據依[やぶちゃん注:「依拠」に同じい。]してをることと私は考へてをる。若しそれが私達各人に宿つてをるところの無限性の全我といふものであるならば、私は『佛本生譚』[やぶちゃん注:「ほとけほんじやうたん」と読んでおく。]の全部を苦も無く信ずることが出來る。これに反してかの感覺や慾望の經緯(たてよこのいと)で織りみだされてをるところの妄我といふものに就いて考へるならば、私が夢に見たことのあるものを話せば私の考が最も能く現れることになる。これが夜の夢であつたか或は白書の夢であつたかといふ問題は何人にも關係の無いことだ――それはただ一場の夢であつだのだから。

 

 

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「五」 / 涅槃――総合仏教の研究~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。なお、本章冒頭の添え辞の改行は底本通りである。]

 

       

   ……『ある者は皆
   その複雜なる形、――天なり地なりに。
   暫らくの個性をかりに與へる
   精神と肉體の性質の
   集合體を離脫する』――『涅槃經』

[やぶちゃん注:「大般涅槃経」にはぴったりくる経文はない。但し、同様のことを同経では繰り返し語っていること、今までの引用と異なり、特異的な改行がなされていること(小泉八雲の原文でも同じ)などから、同経の語る概説として小泉八雲が作った感がするものではある。]

 凡ての目的論的系統には現代の心理學的分析の試驗にたへないやうな考がある、そして一大宗敎の臆說に關する以上の不充分な大意のうちには、疑もなく『形而上學者がいつも出られなくなる言葉の命題の迷路に出沒する信仰のいくつかの幽靈』が認められるであらう。しかし眞理も亦認められる、――卽ち倫理的進化の法則、進步の價、及び凡ての變化を超越せる不變の實在と私共との關係、これ等の達觀が認められる。

 人間が征服せねばならないと云ふ道德的進步の故障の絕大なる事についての佛敎の見解は、過去に關する私共の科學的知識、及び將來に關する知覺によつて充分に後援されて居る。これまでの精神的及び道德的進步は、理性や道德的感情よりも古い道德に對して、――原始的野獸生活の本能と肉慾に對して、――絕えず爭鬪して始めてなしとげられたのであつた。それから、普通の人は將來數百萬年を經過しないでは、惡い方の性質を脫する事は望まれないと云ふ佛敎の敎は、一つの理論と云ふよりもむしろ眞理である。ただ幾百萬囘の生れ變りによつて始めて、この現在の不完全な狀態に達する事もできのであつた、そして私共の最も暗黑な過去の暗黑な遺產が、今もやはり私共の理性や倫理感を左右する程に强いのである。道德の途への將來の前進の一步一步は、過去の數百萬の意志の集合の努力に反抗して蹈み出されねばならない。何故なれば、僧侶や詩人が、高尙な物への足場として使用するやうに敎へた過去の自我は死んでは居らない、なほ將來一千代程は死ぬらしくもない、――登つて行く足を捉へる力がある、――どうかするとその登る人を原始の粘泥の中へつき落す力さへある。

 それから欲望諸天に關する傳說については、――そこを通つて進む事は勝利を得た德がすでに得た物を拾てる力によるのだが、――俤敎は進化論的眞理の多い不思議な話を私共に與へる。道德的自己向上の困難は物質的社會狀態の改善と共になくなる事はない、――私共自身の時代ではかへつて增加する。世の中がもつと複雜になり、もつと多樣になるに隨つて、――思想も行爲の結果も同じく複雜多樣になる。智力の廣大、感性の上品、感情の博大、美感の强い活力、――凡てこれ等は倫理的機會を多くすると共に、又、倫理的危險をも多くする。文明の最高の物質的結果、及び快樂の可能性が增加すれば、自己征服の働きと倫理的平衡の力が必要になるが、これは古い下等な生存狀態には不必要で又不可能であつた。

 無常に關する佛敎の敎訓も亦現代科學の敎訓である、どちらか一方の言葉もそのまま他方の言葉になる、ハックスレイは最近のそして最も立派な論文の一つに書いた、『自然の知識は、益〻「天の凡ての唱歌團と地上の家具」とは、朦朧たる將成態から、――太陽と行星[やぶちゃん注:「恒星」に同じい。]と衞星の際限なき生長を通して、――物質のあらゆる變化を通して、――生命と思想の際限なき不同を通して、――恐らく私共がそれについて槪念ももたない、又、どんな槪念をつくる事もできない種類の存在を通して、――彼等が元來生じて來た名狀のできない潜伏狀態へ戾る進化の路に沿うて進む宇宙的實體の數塊の一時的體形に過ぎないと云ふ結論に導く。かくの如く、宇宙の最も明白なる屬性はその無常である事である』

 

註 「進化と倫理」

[やぶちゃん注:以上の段落の原文全文を示しておく。

 The Buddhist doctrine of impermanency is the doctrine also of modern science: either might be uttered in the words of the other. "Natural knowledge," wrote Huxley in one of his latest and finest essays, "tends more and more to the conclusion that 'all the choir of heaven and furniture of the earth' are the transitory forms of parcels of cosmic substance wending along the road of evolution from nebulous potentiality,—through endless growths of sun and planet and satellite,—through all varieties of matter,—through infinite diversities of life and thought,—possibly through modes of being of which we neither have a conception nor are competent to form any,—back to the indefinable latency from which they arose. Thus the most obvious attribute of the Cosmos is its impermanency."

これは、注にある通り、既出既注のイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)の“Evolution and Ethics”(「進化と倫理」。一八九三年刊。Project Gutenberg”のこちらで原文全文が読める)の“II. EVOLUTION AND ETHICS.[The Romanes Lecture, 1893.]”(「進化と倫理」(ロマネスでの講演:一八九三年))のほぼ忠実な一節である。]

 

 そして最後に、佛敬は凡ての結合の不安定、遺傳の倫理的意義、精神的進化の敎訓、道德的進步の義務に關する十九世紀の思想と著しく一致するばかりでなく、又それは私共の唯物論と唯心論の說、造物者と特別の創造に關する說、及び私共の靈魂不滅の信仰を一樣に否む點に於ても亦科學と一致する。しかし佛敎は西洋の宗敎の基礎その物を拒否するにも拘らず、私共に大きな崇敎上の可能性を現示して、――これまで存在したどの物よりも貴い博い科學的信條を暗示する事ができる。人格的神の信仰の消失して行く時、――個人的靈魂の信念が不可能になる時、――私共が宗敎と呼んでゐた一切の物から、最も宗敎的な心の人も避けるやうな時、――世界的懷疑が倫理的向上心に絕えず增加する重みのやうになつて行く時、――そんな私共の智力的進化の時代に、光明は東洋から捧げられるのである。そこにもつと古いもつと大きな信仰、――不可思議の實在に對して變な擬人論的觀念を有しない、そして靈魂の存在を否定するが、それにも拘らず外の如何なる系統よりも優れた道德の系統を敎へて、如何なる種類の將來の實際知識も破る事のできない希望を有する大きな信仰、に面して、私共は立つて居る、科學の敎によつて更に强くなつたこのもつと古い信仰の敎は、數千年間私共がさかさにうらおもてに考へてゐた物である。唯一の實在はである、――私共が實體と考ヘた物はただに過ぎない、――有形の物は眞實の物でない、――そして肉體は幽靈である。

 

2019/12/04

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「四」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       

   『無存は大乘の入口に過ぎない』
    ――『大品經意』
   『師波よ、眞實の事を語る者はどうして
    自分の事を「※曇は寂滅を說く、寂滅
    の敎を敎へる」と云ふのであらう。師
    波よ、自分は肉欲、惡意、煩惱の寂滅
    を說く、自分は惡にして、不善の(心)
    の色々の狀態の寂滅を說く』
    ――『摩訶婆拘』四卷三一章七節。

[やぶちゃん注:「※」=(上)「賏」+(下)「隹」。音不明。「※曇」の小泉八雲の英文原文は“Samana Gotama”である。これは恐らく固有名詞ではなく、「沙門」で「男性の修行僧」の謂いである。

「無存」原文は“Non-existence”。「無」・「非存在」・「非在」。

「大品經意」「大品経」は「大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)」則ち、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の「摩訶般若波羅蜜経」(まかはんにゃはらみつきょう)のことだが、これはその注釈の謂いか。

「師波」原文“Siha”。パーリ語の「先生・師」の意の漢訳かとも思ったが、判らぬ。

「摩訶婆拘」原文“Mahavagga”。これは上座部仏教の「パーリ仏典」の「パーリ律」において、出家修行者(比丘・比丘尼)が属する僧伽(僧団)内の作法・規則及びその由来を説いたパートである「犍度」(けんど/パーリ語ラテン文字転写(以下同じ):khandhaka:カンダカ)の中の大品(だいほん/Mahā-vagga:マハー・ヴァッガ)のこと。]

 

 『人[やぶちゃん注:原文のローマ字では「にん」。]を見て法を說け』と云ふのは、佛法は相手の能力に應じて說かるべき物である事を敎ふる日本の諺である、そして佛敎の大系統は實際學ぶ者の智力程度に應じて順次に進步的階段(普通は五段)に分けてある、或はその他の方法で學ばれるやうにしてある。それから色々の宗門及びそこから分れた宗派にも特別に色々の敎理があるから、――滿足な佛敎の本體學大意をつくるためにはこれ等の澤山の敎義の間に、重要なそして衝突しない總合をつくる事が必要である。普通の[やぶちゃん注:「一般の日本人が認識している」の意。]佛敎は私共が講究してゐたやうな槪念を含んでゐない事は云ふまでもない。人々は本當の輪𢌞と云ふもつと簡單な信仰を固守する。人々はを前生で犯した過[やぶちゃん注:「あやまち」。]の罰或は報[やぶちゃん注:「むくい」。]をなす法則と解して居る。人々は涅槃について餘り心を勞しない、それよりは極樂の方をもつと考へる。極樂と云ふのは多くの宗門の人々が、直ちに來世に於て、善い人々の魂によつて受けられると信ずる物である。近代の宗派のうちで、最大のそして最も富んだ宗門――眞宗――の信者は阿彌陀佛の助けによつて、正しい人は死後直に西方淨土――蓮華の極樂――に行かれると信じて居る。私はこの小さい硏究に於て一般の信仰、或は單に一信仰に固有の敎理の說明をするのではない。

 

註 私は因果、極樂、後生、――或はその外そのやうな言葉を聞かない日は一日もない。しかし普通の人で「涅槃」の言葉を使ふのを聞いた事はない、そして涅槃のやうな事について質問して見るといつもその哲學的の意味は分つてゐない事を發見した。それに反して日本の學者は涅槃を實在として、――極樂を一時的の狀態或は寓話として話す。

[やぶちゃん注:「佛敎の大系統は實際學ぶ者の智力程度に應じて順次に進步的階段(普通は五段)に分けてある」何を指して言っているか不明。旧天台教学などの「五時教」(釈迦一代の教説を五つの時期的展開として分類し、経典解釈に対応させたもの)辺りから引っ張り出したものか。]

 

 しかし涅槃に到達する事については、高い敎理にも色々の相違がある。或人はその最上の福德はこの世でも得られる、或は少くとも見られると云ふ、又或人はこの現在は餘りに腐敗して居るから完全な生涯はできない、ただ善根を積んで、もつとよい世の中に再生する特權を得て、最高の福德に達するその聖さを得る機會を望む事ができるだけだと云ふ。もつと優れた生存の狀態を他の世界に置くこのあとの方の意見は、日本に於ける現代の佛敎の一般の思想をよく表はして居る。

 

 人間と動物の生存狀態は所謂欲界に屬する、――その數が四つある。その下に地獄がある、それについて多くの不思議な事が書いてある、しかし欲界も地獄もその小論文の目的と關係して考へるには及ばない。私共はただ人間界から涅槃までの精神進步の行程に關係があるだけである、私共は現代佛敎と共に、死生を返る巡禮は、少くとも人類の大多數に取つては、この地上に於て最高の狀態に到達したあとまでも續かねばならない事を假定する。この行程はこの世の狀態から、外の優れた世界にまで及んで居る、――先づ六つの欲天から、――それから十七の色界を通つて、――そして最後に四つの無色界を通る、――そのさきに涅槃がある。

[やぶちゃん注:これでは「欲界」内に「四」パートがあって、「その下に地獄がある」とあるが、それはおかしい。「欲界」、則ち、本能的欲望、淫欲と食欲を属性として有した衆生が住む世界(それが上位の色界及びその上の無色界の下に位置するというのは正しい)は、「八大地獄」から「六欲天」(上から他化自在天(たけじざいてん)・化楽天(けらくてん)・兜率天(とそつてん)・夜摩天(やまてん)・忉利天(とうりてん)・四大王衆天(しだいおうしゅてん))であり、「地獄」もそこに含まれ、所謂、六道、他の「餓鬼」・「畜生」・「修羅」・「人間」・「天上」の各道が総て欲界に含まれるからである。さすれば空間のそれを言うなら「地下世界」と人の「地上世界」と、「空中世界(天界)の内の最下層界」=六欲天とで三パートが、細かに区分けを数えれば、「六欲天」と「六道」で十二パートが欲界に属することになるからである。

 肉體生活の要求――食物、睡眠、男女關係の必要――は欲界で引續き感ぜられる、――私共が『天』と云ふ言葉で普通理解する物より、もつと高い實際界であるらしい。實際そのうちの或境遇は私共自身の世界よりはもつと惠まれた行星――もつと有難い太陽によつて溫められるもつと大きな天體――に存在すると想像されるやうな境遇である。そして或佛經のうちには事實これを遠く離れた星座のうちに置く物もある、――そしてこのは星から星へ、銀河から銀河へ、宇宙から宇宙へ存在の限度まで通じて居ると云ふ

 

註 この存在の高等な境遇或はその他の「佛土」の天文學的限定は讀者の微笑を促すかも知れないが、實は否定のできない可能性をもつて居る。

 

 四王天[やぶちゃん注:「六欲天」の「四大王衆天」の異名。以下同じ。]と云はれるこのところの諸天の第一では、生命は年の數ではこの地球より五倍長く續くが、その一年はこの地球の五十年に相當する。しかしその住民は飮食や結婚の習慣は人間と同じである。そのつぎの天、三十三天[やぶちゃん注:=「忉利天」。]では生命の長さが倍になる、同時に外の一事情がそれに應じて進步する、そして下等な種類の感情はなくなる。男女の結合はやはりあるが、しかもクリスト敎の或長老が可能になる事を願つたやうな風、卽ち、――ただ抱擁だけで新生命を生ずるやうになる。第三天(焰摩天と云ふ)[やぶちゃん注:=「夜摩天」。]では生命の長さは再び倍になつて、最もかすかな觸でも生命を創造する。第四天或は滿足の天(都史多天)[やぶちゃん注:「としたてん」。=「兜率天」。]では生命の長さはさらに增加する、第五天、或は化樂天では、不可思議な新しい力が得られる。主觀の快樂は意の如く客觀の快樂に變はる、願も思想も創造の力となる、――そして見ると云ふ行爲でも受胎出生の原因ともなる。第六天(他化自在天)では、第五天で得られた力がさらに發達する、そして客觀的快樂に變はつた主觀的快樂は、――實際の物のやうに、――外の人にも贈られ、或は外の人とも分つ事ができる。しかし、一瞬の眺め、――眼の一瞥、――は新しいをつくる事ができる。

 欲界は凡て肉體的生活の諸天である、――美術家と愛人と詩人の夢に答へさうな諸天である。しかし落ちないでそれを通り越す事のできる人は――(そして云つて置くが、落ちる事はむづかしくはない)――超肉體的地帶に入る、そして先づ入るところは有心有事靜慮或は客觀の諸天である。それには三つある、――銘々にそれぞれ前のより高尙で、――梵衆天梵輔天[やぶちゃん注:「ぼんほてん」。]、大梵天と名づけられて居る。その次に無心無事靜慮と云ふ諸天が來る。それにも三つある、その名にはそれそれ少光無量光光音光或は朗音光と云ふ意味がある。ここでは一時の境遇に可能である最高度の超肉感的歡喜が得られる。その上に隨喜靜慮と名づくる境遇がある。そこには喜びも苦しみも、或は何の種類の强い感情も存在しない、ただ靜かな消極的な歡喜、――神々しい平靜の歡喜があるだけである。これ等の天よりもさらに高いのは隨喜樂靜慮の八界である。それは無雲天福生天[やぶちゃん注:「ふくしやうてん」。]、廣果天無煩天[やぶちゃん注:「むぼんてん」。]、無熱天善見天善現天色究竟天[やぶちゃん注:「しきくきやうてん」。]である。ここには快樂と苦痛、名と形は全くなくなる。ただそこには觀念と思想が殘るだけである。

 

註 讀者はこの考によつて、スペンサー氏の平靜の美しい定義を思ひ出す、――「平靜は無數の色から成立して居るが無色である白色に喩へられる、同時に樂しい又苦しい心の氣分は或光線の割合を增して、他の光線の割合を較減ずる事の結果である光の變化に喩へる事ができる」――「心理學原理」

[やぶちゃん注:「有心有事靜慮或は客觀」原文“Ujin-ushi-shōryo, or Kak-kwan”。「靜慮」(せいりょ)は「精神を集中させる境地」を指し、「禅那」「禅定」などとも言われる。この三つの天は「初禅」と呼ばれる。

「無心無事靜慮」原文“Non-Existence (Mūjin-mushi-shōryo)”で英語は前に出た「非在」である。この三つの天は「第二禅」と呼ばれる。

「隨喜靜慮」小泉八雲は面倒臭くなったものか、天名をカットしている。下から少浄天・無量浄天・遍照天である。この三つの天は「第三禅」と呼ばれる。

「無雲天、福生天、廣果天」及び「無煩天、無熱天、善見天、善現天、色究天」を「第四禅」と呼び、後者の最上位層を特に「五浄居天」と称し、ここに属するものは寿命が尽きれば、そのまま仏と成るとされる。「福生天」と「廣果天」の間に「無想天」を置く説もある。

 ここの「註」はなかなかに私は好きなものであるので、原文を引いておく。

 One is reminded by this conception of Mr. Spencer's beautiful definition of Equanimity: ― "Equanimity may be compared to white light, which, though composed of numerous colors, is colorless; while pleasurable and painful moods of mind may be compared to the modifications of light that result from increasing the proportions of some rays, and decreasing the proportions of others." Principles of Psychology.

Principles of Psychology」は一八五五年刊。但し、その初版からはこれと同じ文字列は見出せなかった。]

 

 こんな超肉感的の界を通りぬける事のできる人は直ちに無色界に入る。これには四つある。第一の無色界では、凡て個性の感覺がなくなる、もと形の思想さへも滅して、ただ空無邊識無邊或はの觀念だけ殘る。第二の無色界ではこの無の觀念も消える、そしてその代りに識無邊の觀念が來る。しかしこの識無邊と云ふ平等觀は擬人的である、一種の煩惱である。それで第三界の無色界卽ち無所有處では消える。ここにはただ無限の無の觀念があるだけである。しかしこの界も、人の心の働きの助けによつて達せられる。この働きが止む、そこで第四の無色界に達する、――それを非想非々想處と云ふ。幾分人の心、――の究極の絕えかかつて居る顫動、――存在の最後の消えかかつて居るもや[やぶちゃん注:「靄」。]、――それがここに續いて浮んで居る。それが融ける、――そして無邊の天啓が現れる。自我の最後靈的の鎖から逃れて、夢を見てゐたが、直ちに涅槃の無邊の福德の中に入る。

 

註 涅槃と同意義に「無邊の福德」と云ふ言葉を使つた「彌蘭陀王問答」による。

[やぶちゃん注:「彌蘭陀王問答」は「一」に出て注した「彌蘭陀王問經」と同じ。]

 

 しかし凡ての人は以上に舉げた凡ての界を通過するわけではない、上る力に遲速のあるのは、打ち勝つべきの性質と、ならびにその人の天賦の德によるのである。或人は現世から直ちに涅槃に達する、或人はただ一度新しい生れ變りのあとで、或人は二囘三囘幾囘となしに生れ變つたあとで。同時に多くの人はこの世からすぐに超肉感的諸天の一つへ上る。こんな人は超と云はれるが、――そのうちで最高級の人は死後直ちに男として或は女として涅槃に達する。には二大別がある、――不還である。時として還は長い退步の性質を有する事がある。そして世界の成立の佛敎傳說によれば、最初の人々は光音天から落ちて來た人々であつた。進步の善體の敎理に關する著しい事實は、その進步は(甚だ珍らしい場合を除いて)直線に進む物とは考へられないで、波狀に進む物、――精神的運動律によつて進む物と考へられる。これはが涅槃に到達し得る色々の短い進路に關する不思議な佛敎の分類で例證される。この短い進路は不同に分けられる、――讀者は天と下界とに生れ變る數の同じ物、後者は不同な物である。この中間の階級には四通りある。日本の友人は私のためにつぎの表を作つてくれた、それによればこの問題が明瞭になる。

 

註 『大般涅槃經』にこの界に達した婦人の例がある、「阿難陀よ、難陀尼はこの世に人々を結びつける五つのきづなを破つて、最高の天に住む事になつて、――全くそこへ移つて、――そこから再び歸らぬ事になつた』

[やぶちゃん注:原始仏教時代から根強い仏教の変生男子(へんじょうなんし)説(如何なる布施や修行を積んでも女人は男性に一度生まれ変わらない限り涅槃には達し得ぬという女性差別)から考えると、極めて稀なケースと言える。あって当然、いいのだが、仏教が永く女人を差別してきた事実を隠蔽してはいけないと私は考えるので、敢えて注した。

 以下に、原本に配された図(ここここ)と底本訳本の図を挿入する。前者はProject Gutenberg”のこちらにあるもので(一枚目の下部のそれは図書館利用者の違法な書入れである)、後者は“Internet Archive”で全篇ダウン・ロードした底本から、トリミングし、かなり強い補正を加えて見易くしたものである。

 

Img_004

 

Img_005
Nehan



[やぶちゃん注:以下に、邦訳の画像の上部の和文キャプションのみを、各ページ、上段の右から左へ、次に下段の同方向で活字化しておく。後の説明のために、後に【 】で番号を振った。

   *

三つの同じ生れ變りによつて天から涅槃に達する【1】

[やぶちゃん注:図右上方に「涅槃」、上部中央に「天」、下部中央に「人」。以下同じ。]

 

三つの同じ生れ變りによつて人間界から涅槃に達する【2】

 

二つの同じ生れ變りによつて天から涅槃に達する【3】

 

二つの同じ生れ變りによつて人間界から涅槃に達する【4】

 

三つの不同の生れ變りによる【5】

[やぶちゃん注:以上以外に、左「→」の基の左中央に「人間以外」。]

 

三つの不同の生れ變りによる【6】

 

二つの不同の生れ變りによる【7】

[やぶちゃん注:ここでも左「→」の基の左中央に「人間以外」。]

 

二つの不同の生れ變りによる【8】

   *

ただ、原本の図の配置と邦訳のそれの違いが非常に気になる。訳文の「この短い進路は同と不同に分けられる」という謂いを受けて読む、

◎日本の読者は恐らく殆んどが、「同」の上部右から左へ、而して次に下部の「不同」を右から左へ見て――則ち、【1】から【8】までの順列で見て――納得するものと思う

のであるが、まず、原本ではそうした群として示されていないのである(改ページであるから邦訳図版のようには絶対に読めない)。欧米の読者が図をどのような順で読むのが普通かは私には分らないが、私の推測では英文の左から右という筆記原則から考えると、

◎欧米人は【1】の次に【5】を見て、以下、→【2】→【6】(ページをめくって)→【3】→【7】→【4】→【8】の順序で読むのではなかろうか?

小泉八雲は少なくともそう欧米人に読まれるように配したとしか私には思えないのである。その意図は不明であるが、まあ、最終的には意識の中で「同」「不同」の別で再度読み返して整理し直すのであろうが、小泉八雲は、この涅槃への階梯の種別理解のための図を、異様に複雑な認知をせざるを得ないように、確信犯で配置している、としか私には思われないのである。私の読み方は間違っていようか?(仮に縦優先であったなら、【1】→【2】→【5】→【6】→【3】→【4】→【7】→【8】となり、多少複雑な読み取りは改善される) 識者の御意見をお聴きしたい。

 

 これは空想的に見えるかも知れないが、凡ての進步は必ず律調的であると云ふ眞理と調和して居る。凡ての人はこの大旅行の悉くの階段を通るわけではないが、どんな進路によつてなりとも解脫を得た人は皆、生れ變りの特別の境遇に屬しないが、心的發達の特別の境遇にのみ屬する或種類の才能を得る。これが六神通である、――㈠神足通、如何な障礙[やぶちゃん注:「しやうがい」。「障害」に同じい。]あつても、――たとへば厚い壁でも、――どこへでも通れる力、――㈡天眼通、無限の視力、――㈢天耳通、無限の聽力――㈣他心通、外の人々の心を讀む力、――㈤宿命通、前生を思ひ出す力、――㈥漏盡通、思ふままに涅槃に入る力を有する無限の智慧。この六神通力は先づ聲聞[やぶちゃん注:「しやうもん」。]の階級で發達し、それ以上緣覺菩薩の階級で開展する。聲聞の力は二千の世界に及ぶが、緣覺や菩薩の力は三千の世界に及ぶ、――しかし佛の力は全宇宙に及ぶ。たとへば、この第一の神聖な階級では、いくつかの前生の事を記憶すると共に、同じ數の來生を豫見する力がある、――つぎのもつと高い階級では前生の記憶の數が增加する、――そして菩薩の階級になると、凡ての前生は記憶に現れて來る。しかし佛は自分の前生を悉く見るばかりでなく、これまであつた或は有り得る凡ての生涯、――それから凡ての過去、現在、未來の人々の過去、現在、未來の思想及び行爲を見る。……さてこんな超自然的力の夢は注意の價値がある、それに關する倫理的敎訓があるからである、――その敎訓と云ふのは、合理的な物でも考へられない物でも、どの佛敎の臆說にも識にも織込んである物、――卽ち自己否定の敎である。超自然的力は個人的快樂のために使用してはならない、ただ最高の善行のため、――敎理の宣傳、人の救のためにのみ使用さるべきである。それりも小さい目的のために使用すれば、その力がなくなつて、――必ず退步の途につく事になる註一。感嘆や賞讃を得ようとしてその力を示す事は、聖き事を弄ぶ事になる、それで世尊自らも不必要にそれを見せびらかしたと云つて一度ひどく弟子に非難された事が記錄にある註二

 

註一 緣覺や菩薩の境遇に達した人は退步する事や、大きな誤りをする事はないが、それよりも低い精神の狀態ではさうでない。

註二 「毘那耶疏」――廣律小部、「東邦聖書」中一「ビナヤ本」カリバツガ第五、八、二、にある不思議な記を見よ。

[やぶちゃん注:「六神通」ウィキの「六神通」(ろくじんずう/ろくじんつう)によれば、『仏教において仏・菩薩などが持っているとされる』六『種の超人的な能力』・『神通力』のことで、『六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである』とある。以下、引用は同じ。

「神足」(じんそく)「通」『機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力』。

「天眼」(てんげん)「通」『死生智(ししょうち』)とも言い、『一切衆生の過去世(前世)を知る力』。

「天耳」(てんに)「通」普通は『聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳』力。

「他心」(たしん)「通」『他人の心を知る力』。

「宿命」(しゆくみやう(しゅくみょう)「通」『自分の過去世(前世)を知る力』。

「漏盡」(ろじん)「通」『自分の煩悩が尽きて、今生』(こんじょう)『を最後に、生まれ変わることはなくなったと知る力』。

「聲聞」(しょうもん)はサンスクリット語の「シュラーバカ」(「声を聞く者」の意)の漢訳語。「教えを聞く弟子」の意。ジャイナ教でも同じ意味で用いる。仏教では元来、ブッダの教えを聞いて修行する出家・在家の仏弟子を意味したが、後代になると、教団を構成する出家修行者のみを指すようになった。大乗仏教では、「縁覚(えんがく)」・「菩薩」と共に「三乗」の一つ。釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子。「縁覚」・「菩薩」に対しては、仏の教説によって四諦(しだい)の理(苦・集・滅・道)を悟り、阿羅漢になることを究極の目的とする仏弟子。しかし、その目的とするものが個人的解脱に過ぎないことから、大乗仏教の立場からは小乗の徒として批判される様態である(複数の辞書記載を綜合した)。

「緣覺」サンスクリット語プラティエーカ・ブッダ(「独りで覚った者」)の漢訳語。「独覚(どっかく)」とも訳し、また、「辟支仏(びゃくしぶつ)」という音訳語も用いられる。仏の教えに拠らず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者を指す。縁覚の観念は、もとはインドに実在した隠遁的な修行者(仙人)に由来するもので、仏教外のジャイナ教でもこの名称を用いている。仏教に取り入れられてからは、仏と仏弟子との中間に位する聖者と見做されようになった。大乗仏教ではやはり小乗の立場を表わすものとされ、大乗の立場を表わす「菩薩」より劣るが、他方、この三乗すべてが一乗(一仏乗)に帰すことも強調されている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「毘那耶疏」(びなやしょ)の「毘那耶」はサンスクリット語「vinaya」の漢音訳。「律」と訳す。比丘・比丘尼に関する仏が制定した禁戒を指す。漢訳されたものに「四分律」・「五分律」・「十誦律(じゅうじゅりつ)」・「摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)」の四つがある。「疏」は経典への注釈(書)。

「東邦聖書」「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)。「一」に既出既注。以下の指示原文は英文サイトのここにあるものと思われるが、語学力なく、小泉八雲の指す「不思議な記」は私には読めない。]

 

 かくの如く一生ばかりでなく、無數の生、――一つの世界ばかりでなく、數へきれぬ世界、――自然の快樂ばかりでなく超自然の快樂、――人格ぱかりでなく神格――を抛棄する事は、寂滅と云ふ哀れな特權のためではなく、極樂が與へる物にも遙かにまさる特權のためである。それは相對から絕對へうつる事、――凡ての精神的及び肉體的のまぼろしが消えて全能全知の無色の光明に入る事の意味である。しかし佛敎の臆說では、短い人生の生れ變りや境遇を一度記憶する事ができたら、それが永存性と有する事、――諸佛は凡て一であると敎へてゐながら、涅槃に入つて居る諸佛も一々識別のできる永存性のある事について幾分暗示を與へて居る。どうしてこの一元論と涅槃に入つた者が、希望によつては下界の人性を再び取る事ができると云ふ色々の證言とを調和させる事ができよう。この點に關して『妙法蓮華經』に甚だ著しい文句がある、たとへば多寳如來が『玉座の上に全く滅して』坐り、そして『千萬億阿僧祇劫の間全く入滅してゐたが、今この妙法を聽きに來た大聖』として大聽衆に紹介されて、その前で話す事になつて居る。これ等の文句は統一のうちに多樣性があると云ふ謎を私共に與へて居る、それは多寳如來及び同時に現れた無數の他の入滅した諸佛はそのただ一人の佛の化身であると云はれるからである。

[やぶちゃん注:「多寳如來」ウィキの「多宝如来」によれば、『サンスクリットではプラブータ・ラトナ Prabhūta-ratnaと言い、「多宝」は意訳である。法華経に登場する、東方の宝浄国の教主。釈尊の説法を賛嘆した仏である。多宝塔に安置したり、多宝塔の両隣に釈迦牟尼仏と合わせて本尊(一塔両尊)にしたりする』。「法華経」の「見宝塔品第十一」には、『多宝如来は、過去仏(釈尊以前に悟りを開いた無数の仏)の』一『人であり、東方無量千万億阿僧祇(あそうぎ)の宝浄国に住するという(「無量千万億阿僧祇」とは「無限のかなた」というほどの意味)。中国、朝鮮半島、日本を通じて多宝如来単独の造像例はほとんどなく、法華経信仰に基づいて釈迦如来とともに』二体一組で『表される場合がほとんどである。釈迦如来と多宝如来を一対で表すのは、法華経の第』十一『章にあたる見宝塔品(けんほうとうほん)の次の説話に基づく』。『釈尊(釈迦)が説法をしていたところ、地中から七宝(宝石や貴金属)で飾られた巨大な宝塔が出現し、空中に浮かんだ。空中の宝塔の中からは「すばらしい。釈尊よ。あなたの説く法は真実である」と、釈尊の説法を称える大音声が聞こえた。その声の主は、多宝如来であった。多宝如来は自分の座を半分空けて釈尊に隣へ坐るよう促した。釈尊は、宝塔内に入り、多宝如来とともに坐し、説法を続けた。過去に東方宝浄国にて法華経の教えによって悟りを開いた多宝如来は「十方世界(世界のどこにでも)に法華経を説く者があれば、自分が宝塔とともに出現し、その正しさを証明しよう」という誓願を立てていたのであった』。『この説話に基づき、釈迦如来と多宝如来を一対で造像したり』、一『つの台座に釈迦如来と多宝如来が並んで坐す並坐像(びょうざぞう)が作られた』とある。]

 この調和は多元的一元論と云はれる臆說によつてできよう、――卽ち獨立であつて、しかも互に相たよる[やぶちゃん注:「頼る」。]意識の群、――或は物質の言葉で純粹な精神の事を云へば、原子的精神究極からできて居る單一實在の臆說である。この臆說は、佛敎の文句には敎理的には述べてないが、本文にも註釋にも明瞭判然と含畜されて居る。佛敎のの一である事はヱーテルが一であるのと同じである。ヱーテルはいくつかの單位の集合としてのみ考へられる註一

[やぶちゃん注:「ヱーテル」“ether”。古代ギリシア時代から二十世紀初頭までの間、実に永く想定され続けた、全世界・全宇宙を満たす一種の物質の名称。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、地水火風に加えて、「エーテル」(「輝く空気の上層」を表わす言葉)を第五の元素とし、天体の構成要素とした。近代では、全宇宙を満たす希薄な物質とされ、ニュートン力学では「エーテル」に対し、「静止する絶対空間」の存在が前提とされた。また、光や電磁波の媒質とも考えられた。しかし、十九世紀末に「マイケルソン=モーリーの実験」で、「エーテル」に対する地球の運動は見出されず、この結果から、「ローレンツ収縮」の仮説を経、遂に一九〇五年、アインシュタインが「特殊相対性理論」を提唱し、「エーテル」の存在は否定された(ここまでは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に拠った)。但し、現在でも擬似科学や一部の新興宗教の中に「エーテルの亡霊」が巣食って蠢いている。

 以下の注は改行を入れて非常に長い。]

 

註一 この見地はハルトマンのと非常に違つて居る、ハルトマンは「個體の多元態は凡て現象論の範圍に應ずる」と云ふ(英譯第二卷、二三三)讀者はむしろガルトンの思想を想ひ出す。ガルトンの說では、「人間は自分自身よりも遙か高い生活の發現に、多少無意識に貢獻する事がある、――複雜なる動物の個體的細胞はもつと高い種類の人性の發現に貢獻するやうに」(「遺傳の天才」三六一)今引用した書物の同じペーヂに出て居るもう一つの思想はもつと佛敎槪念を強く暗示して居る、――「私共は銘々の人間を、超自然的に自然の中へ加へられた物と考へてはならない、むしろすでに存在してゐたが、新しい形となつて以前の狀態の一定の結果として、 分離したものと考へねばならない。……私共は又「個體」と云ふ言葉にだまされてはならない。……私共に銘々の個人を兩親から全然別にならないものとして、――不可知の無際限の大洋に於て、普通の狀態によつて上げられ、形成される波として、見るべきである」

[やぶちゃん注:「ハルトマン」前に注で掲げた「生の哲学」・新カント派・ユングなどに影響を与えたドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン (Karl Robert Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)。この、

“all plurality of individuation belongs to the sphere of phenomenality.”

という引用は、調べたところ、彼の代表作「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten :一八六九年)を、イギリス在住の哲学者で翻訳家のウィリアム・チャタートン・クープランド(William Chatterton Coupland 一八三八年~一九一五年)が、一八九〇年に分冊(全三巻)で英訳した“Philosophy of the unconscious, speculative results according to the inductive method of physical science”(「無意識の哲学――物理的科学の帰納的方法に拠る推論的帰結」)のVolume 2の、ここ(“Internet archive”の英訳本同書の当該ページ。右ページの下から九行目)である。

「ガルトン」イギリスの人類学者・統計学者・探検家で、初期の遺伝学者として知られるフランシス・ゴルトン(Francis Galton 一八二二年~一九一一年)。母方の祖父は医者で博物学者のエラズマス・ダーウィンで、進化論で知られるチャールズ・ダーウィンは従兄に当たる。

「遺傳の天才」“Hereditary Genius”(「遺伝的天才」)はゴルトンの一八六九年の著書。彼は一八八三年に「優生学」という言葉を初めて用いたことで知られており、本書の中では「人の才能がほぼ遺伝によって受け継がれるものである」と主張している。引用の、

 human beings“may contribute more or less unconsciously to the manifestation of a far higher life than our own,—somewhat as the individual cells of one of the more complex animals contribute to the manifestation of its higher order of personality.”

というのは、同書のGENERAL CONSIDERATIONS”(「一般的考察」)の掉尾(“Internet archive”の英訳本同書の当該ページ。左ページの最終文)である。]

 讀者に佛敎の臆說では涅槃には個性をも人性[やぶちゃん注:「じんせい」。ここは原文は“individuality or personality”であるから単に「人格」の意。]をも含蓄してゐない、ただ單に實體、――私共の言葉の意味で、精神體ではなく、ただ聖い意識だけ、――を、含蓄して居る事も記憶せねばならない。聖い精神と云ふ意味の「心」は、こんな實體を表はす言葉として日本の書物に使用される。たとへば「大日經疏」にこんな文句がある、――「の種子[やぶちゃん注:「しゆうじ(しゅうじ)/しゆじ(しゅじ)」。]が全く燃えつくして滅絕した時、その時眞空の佛心が得られる(佛敎の形而上學では、實體の高い狀態を說明する時にも「空性」[やぶちゃん注:「くうしやう(くうしょう)」。]と云ふ言葉を使用する事を云つて置く)「大藏法數」[やぶちゃん注:「だいざうほつす(だいぞうほっす)」。]の第五十一卷から取つたつぎの文句も亦興味があらう、――「經驗によつて如來は凡ての形、――宇宙の塵の粒程數へられない無數の形、――を有す。……如來は自ら欲する所へ、或は人の欲する所へ生れ出て、そこで、――生死の大海の上で凡ての衆生を濟度する。どこででも住むところ、見出せば、そこで體現する、これを意生身[やぶちゃん注:「いしやうしん(いしょうしん)」。]と云ふ……佛はをその體として、空間のやうに、淸靜のままである、これを法身と云ふ」

[やぶちゃん注:「大日經疏」(だいにちきやうしよ(だいにちきょうしょ))は仏典「大日経」(全七巻。大毘盧遮那(だいびるしゃな)如来(=大日如来)が自由自在に活動し、説法する様を描いた経典で、第一章が教理であって後は実践行の象徴的説明となっている)の初めの六巻三十一品に対する注釈書。インド僧で来唐した善無畏(ぜんむい)は七二四年から翌年にかけて「大日経」を漢訳したが、その際、合わせてその内容を解説したものを、筆記者であった一行(いちぎょう 六八三年~七二七年)が筆記して二十巻とした。その一部には一行自身の天台的解釈を混入してはいるが、本邦の真言宗(東密)に於いては「大日経」を学ぶ上での唯一絶対の権威書として、古来より尊重されて書である(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「空性」仮象としての総ての存在には、それだけでは個別に存在し得る自性(じしょう)は内在しないことを知ることというような意味であろう。

「大藏法數」中国、明代の仏教書。七十巻。寂照の編著。勅命によるもので、仏教の名数の一から八万四千まで全四千六百八十五項目が並べられる。「第五十一卷から取つたつぎの文句」というのは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像)の右ページの五行目に「意生身」が現われ、前後するが、その後に「大海」の比喩が出、「淸靜」と「法身」もあって、その間に「虛空」(=「空間」)も出る。前の「經驗によつて如來は凡ての形、――宇宙の塵の粒程數へられない無數の形、――を有す。……如來は自ら欲する所へ、或は人の欲する所へ生れ出」ずるというようなことも、その前のページにそれらしい(全読解は出来ないので、あくまで「らしい」である)ことが書かれているように読める。

 以下、「註」が終わって本文に戻る。]

 

は(日本の敎理のどの綜合的試みに隨つても)諸佛から成立した物としてのみ會得される。しかしここで讀者は、西洋の哲學者がこれまで進んで來た思想の門以上に進んで來た事を考へる。一切は一である、――銘々は結合して一切と同一になる。私共は究極の實在は意識ある者の無數の單位から成立して居る事を想像する事を命ぜられるのみならず、――又銘々の單位が永久に外のどの單位とも同一で、又將成態[やぶちゃん注:読み方と意味は私の後注を見られたい。]に於て無限である註二を信ずるやうに命ぜられて居る。凡ての生物の中心の實在は眞のである、それを取り圍む見える形と、考へる我とは業に過ぎない。佛敎は私共の物理學上の原子說の代りに、精神的單位の宇宙と云ふ臆說をもつて末たと云つても多少の道理があらう。それは私共の物理學的原子說を當然非難してはゐないが、こんな言葉で表はせるやうな地位を取つて居る、『諸君が原子と云ふ物は實は結合物、全然無常不確實な集合體であるから、全然實體ではない。原子はただである』そしてこの見方は暗示的である。私共は本質や運動の究極の性質については全然知らない、しかし私共は知られたる物は知られざる物から進化して來た事、私共の元素の原子は結合物である事、それから私共が物質と勢力と呼ぶ物は單一にして無限の不可知の實在の種々の現れに過ぎない事の科學的證據をもつて居る。

 

註二 この佛敎思想の半分はテニスンの句に實際現はれて居る、――

「原子に於て、内部へ無限に、全體に於て、外部へ無限に」

[やぶちゃん注:「私共は究極の實在は意識ある者の無數の單位から成立して居る事を想像する事を命ぜられるのみならず、――又銘々の單位が永久に外のどの單位とも同一で、又將成態に於て無限である事を信ずるやうに命ぜられて居る」この太字(底本は傍点「ヽ」)を誤植と考える方がいるかもしれぬが、正しいのだ。ここの原文は、

We are not only bidden to imagine the ultimate reality as composed of units of conscious being,—but to believe each unit permanently equal to every other and infinite in potentiality.

と「and infinite in potentiality」だけが斜体となっているのである。但し、訳は、

   *

、「將成態に於て無限である事」を信ずるやうに、命ぜられて居る。

   *

ぐらいにして欲しかった。さて、「將成態」であるが、仕方ないが、これはルビもない以上は「しやうせいたい(しょうせいたい)」と読まざるを得ないと私は思う。そんな熟語は日本語にはない。ただ、これは訓読すれば「將(まさ)に成らんとする(狀)態」と読めることは判る。さすれば、英語原文の「infinite in potentiality」を考えて見れば、意味が一致は、する。則ち、「可能性としての無限であるという様態であること」を、信ぜよ、と命ぜられているというのである。……いや……しかし……流石に……この「将成態」の造語はひど過ぎる……と……私は思いますがね……田部先生!?!

「テニスン」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの詩人アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)。美しい韻律と叙情性に富んだ作風により、日本でも愛唱されたが、小泉八雲も好きな詩人であったようで、『小泉八雲 日本の女の名 (岡田哲蔵訳) その「一」』の冒頭にも引いている。引用は“Boundless inward, in the atom; boundless outward, in the Whole.”であるが、これは、一八三五年に創られ、一八四二年に詩集「Poems」で公開された、物語詩の失恋の長詩である“Locksley Hall ”(ロックスリー・ホール:英文ウィキにはこの詩の独立したページ「Locksley Hallがある。全篇は英文サイトのこちらを参照)の、一八八六年に創った続篇“Locksley Hall  Sixty Years After”の第一パートの末尾の一連(全篇は英文サイト(前のリンク先とは別)のこちらを参照)、

Sent the shadow of Himself, the boundless, thro' the human soul;

Boundless inward, in the atom, boundless outward, in the Whole.

の後半である。ここだけ訳しても意味なかろうが、

彼自身の影へと、その無限の魂へ――人としての魂を通して――送った……

無限の内界へ、原子の中へと、無限の外界へ向かって、全(すべ)てへ。

か。平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の注では、引用部を『微塵は内に限りなく、全』(すべて)『は外面(とのも)に限りなし』と訳しておられる。……いい訳だな……文学だな……詩だな……]

 

 不思議な佛畫がある、一見したところでは外の日本の繪のやうに熟練なる筆の思ひ切つた運びでできて居るやうだが、丁寧に檢査すると、もつと遙かに不思議な風にできて居る事が分る。その姿、その容貌、そのころも[やぶちゃん注:「衣」。]、その後光、それから背景、霞や雲の色や見映[やぶちゃん注:「みばえ」。]までも、――悉く調子や線の微細な點までも、顯微鏡的な漢字の集合でできて、――位地に隨つて着色し、光と影の必要に應じてその濃厚を異にしてある。要するに、この繪は全部經文でできて居る、卽ち微細な文字の寄木細工(モザイツク)である、――その一字づつもいくつかの畫(かく)の結合で、聲と意味とを同時に表はして居る。

 私共の宇宙はそんな風にできて居るのだらうか、――想像のできない親和力によつて性質と形狀を有するやうになつた單位の結合の結合の結合の結合でのみでき上つた際限のない幻影であらうか、――今は濃い影になつて密集したり、今は戰慄する光と色とになつて震へたり、――いつでもどこででも或洪大なる技術によつて兩極性のある一つの大きな寄木細工(モザイツク)になるやうに集められるが、それでも銘々の單位がそれ自身で不可解な複雜物であり、そしてそれ自身又象徵であり、文字であり、無限の謎の解けない文句の單一なる文字であると云ふやうにできて居るのであらうか。……化學者と數學者に尋ねて見よう。

[やぶちゃん注:これは小泉八雲が夢想した、拡大しても拡大しても文字が見える幻想の無限の曼荼羅であろう。]

2019/12/03

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「三」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       三

   『須菩提、もし我、我相か、人相か、
    衆生相か、壽者相かを有すとせば、
    我又瞋恨の念を有するならん。……
    色、聲、香、味、觸を信ずる者は布
    施すべからず』――『金剛經』

[やぶちゃん注:これは「金剛経」の「離相寂滅分第十四」の、

   *

須菩提、如我昔爲歌利王割截身體、我於爾時、無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。何以故、我於往昔節節支解時、若有我相、人相、衆生相、壽者相、應生瞋恨。須菩提、又念過去於五百世作忍辱仙人、於爾所世、無我相、無人相、無衆生相、無壽者相。是故須菩提、菩薩應離一切相、發阿耨多羅三藐三菩提心。不應住色生心、不應住聲、香、味、觸、法生心、應生無所住心。若心有住、則爲非住。是故佛說、菩薩心不應住色布施。須菩提、菩薩爲利益一切衆生、應如是布施。如來說、一切諸相、卽是非相。又說、一切衆生、卽非衆生。

   *

が元であろう。「瞋恨」は「しんごん」で、「瞋」(自分が蔑(ないがし)ろにされた」という自己愛憤怒から生ずる憎悪・嫌悪)から「恨」(他者を怨み続けること)は生まれる。最後の部分は果敢ない眼前の現象に囚われた布施はしてはならないことを言う。]

 

 自覺した自我の無常であると云ふ敎理は、佛敎哲學の最も著しい物であるのみならず、又道德的に最も重要なる物の一つである。恐らくこの敎の倫理的價値は未だ西洋の哲學者によつて正しく評價されてゐない。どれ程人類の不幸は、直接間接にこれと反對の信仰によつて、――安定性の物があると云ふ迷によつて、――性格、境遇、階級、信條の區別は不變の法則によつて定められると云ふ迷によつて、――それから變らない、不朽の、感覺ある靈魂が神の氣まぐれで無窮の福か或は永遠の火かに運命が定められると云ふ迷によつて、――起されたであらう。疑もなく永久の憎惡によつて動かされる神の觀念、――不變の狀態に定められる永久不變の實體のある靈魂の觀念、――償ふ事のできない罪と、終る事のない罰の觀念は、以前の社會進步の半開狀態では價値がないわけでもなかつた。しかし私共の未來の進化のうちには、これ等の槪念は全然なくなるべき物である、そして西洋と東洋との思想の接觸によつて、これ等の槪念の衰亡の速度が增すと云ふ好結果になるであらう。これ等の槪念によつて起つた感情が殘つて居る間は、本當の容赦の念、人類同胞の感、博大なる愛の眼ざめがあり得ないだらう。

 それに反して、恆久、有限的安定性を認めない佛敎、一時的現象としての外は、性格や階級や種族の差別を認めない、――否、神と人との相違をさへ認めない――佛敎は、根本的に容赦の宗敎である。阿修羅と天人は、同じのただ變化ある發現に過ぎない、――地獄と極樂はただ永久の平和に達する旅の一時の休み場に過ぎない。凡ての人類に取つてただ一つの法則、――不變の神聖なる法則があるだけである、――その法則によつて最低の者が最高の者の場所に上らねばならない、――その法則によつて最惡の者が最善の者にならねばならない、――その法則によつて最も卑しい者も佛にならねばならない。こんな敎法には偏見の餘地も憎惡の餘地もない。愚痴だけが誤りと苦みの源となる、そして凡ての愚痴は自我の解體によつて、結局無限の光明のうちに消散すべき物である。

 

 たしかに私共が永久の人格、銘々に一つの化身だけの古い敎理を固執するうちは、今存在するやうな宇宙には何の道德的敎訓をも見出す事はできない。現代の知識は宇宙の行程に何等の正義をも發見しない、――私共に對して倫理的奬勵のために、提供してくれる精精のところは、その不可知力は單なる惡意の力ではないと云ふ事だけである。ハックスレイを引いて云へぱ、『道德的でもない、ただ單に無道德的』である。進化論的科學は、分散しない人格と云ふ觀念と一致するやうにはならない、そして私共は精神的發達及び遺傳の敎理を受け入れるとすれば、私共は又個體的解散の敎及び不可解の宇宙の敎をも又受け入れねばならない。それは又、實際、人間の高尙な能力は努力苦痛によつて發達した物である事、それから長く續いて、そのやうに敍述する事を私共に敎へて居る、しかしそれは又進化につぐに必ず解散がある事、――發達の頂上は同時に又退步の始まる點である事を敎へる。そしてもし私共は銘々皆單に死滅すべき種類の物、――草や木のやうに死滅すべき運命の物であるとすれば、――私共は未來を稗益[やぶちゃん注:「ひえき」。助けとなり、役立つこと。]するために苦しんで居ると云ふ證言に於て、どんな慰安を見出す事ができよう。私共が比較的不幸な境遇に生れて死ぬ事しかできない場合に、一萬年代も經たら、人類が多少幸福になれるかどうかの問題は、どうして私共の氣にかかるやうな事にならうか。或はハックスレイの反語を借りて云へば、『これから數百萬年後に、自分の子孫のうちで、ダービー競爭で勝つのがあると云ふ事實で、どんな償ひをイオヒッパスの馬譯者註がその悲哀に對して得られよう』

 

譯者註 北米、ニユメキシコ州のイオシーン河近傍から發堀[やぶちゃん注:ママ。]された骨から推定して世界最古の馬の一族となつて居る物。

[やぶちゃん注:「ハックスレイ」ダーウィンの進化論を支持して「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名でもって知られたイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)。但し、自然科学者としての彼は、事実はダーゥインの自然選択説よりも、寧ろ、唯物論的科学を志向しており、参照したウィキの「トマス・ヘンリー・ハクスリー」によれば、『ダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)』とある。引用は孰れも“Evolution and Ethics”(「進化と倫理」。一八九三年刊。Project Gutenberg”のこちらで原文全文が読める)の“INTRODUCTORY ESSAY”の冒頭にある“THE STRUGGLE FOR EXISTENCE IN HUMAN SOCIETY”(「人類社会に於ける存在の闘争」。一八八八年)の一節である。

「イオヒッパス」Eohippus。エオヒップス。哺乳綱 ウマ目ウマ科 Equidae の絶滅化石属であるヒラコテリウム属 Hyracotherium のシノニム。始新世(新生代第二期の約五千六百万年前から約三千三百九十万年前まで)に北アメリカ大陸及びヨーロッパ大陸に棲息していた哺乳類。現生するウマ科動物の最古の祖先と考えられている。和名は「アケボノウマ」。ウィキの「ヒラコテリウム」によれば、最初の発見は一八三八年で、アメリカではなく、イギリスのサフォーク州の河畔で、歯の化石のそれとする。

「イオシーン河」綴りは「Eocene」ではないかと思われるのだが、位置不明。ただ、「Eocene」は、これ、「始新世」の英語なんだけど?]

 

 しかし宇宙の行程も、佛敎徒のやうに、凡て實在は唯一である、――人格は眞如をかくす迷に過ぎない、――『我』及び『汝』の凡ての差別は、滅すべき感覺から織り出したまぼろしの幕である、――私共の小さい感官に現れた時間と場所も空しい影である、――過去現在未來は正にである――と考へて見る事ができたら、全く別種の樣子を示すだらう。ダービー競馬の勝利者がイオヒッパスであつた事を記憶する事が充分できるとしたらどうだらう。一度人間であつた生類が生死の凡ての幕を通して、進化の進化を悉く返して、無情から有情への第一のかすかな發生の時までも、囘顧する事ができたら、――闍多伽(じやたか)(本生譚)[やぶちゃん注:前者はルビ、後者は本文。但し、後者は田部氏の意訳添えである。]の佛のやうに、その無數の化身の經驗を記憶してゐて、それを別の阿難陀のためにお伽噺のやうに物語る事ができたらどうだらう。

[やぶちゃん注:「闍多伽(じやたか)(本生譚)」“Jatakas”。「ジャータカ」(Jātaka)の漢音写。仏教での「前世の物語」「本生譚(ほんしょうたん)」。釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語集。十二部経の一つで漢訳は「本生経」。

「阿難陀」阿難に同じ。Ānanda(アーナンダ)。釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞(たもん)第一」と称せられた。禅宗では迦葉の跡を継いで、仏法付法蔵の第三祖とされる。「阿難陀」は漢語意訳では「歓喜」「慶喜」とも記される。但し、言うまでもないが、ここは仏教史での実在したとされる彼個人ではなく、別な時空間での彼に相当する人物の意である。]

 私共は形から形へと變る物はでは無く非我――あらゆる現象の背後にある一つの眞如――である事を知つた。涅槃に達せんとする努力は眞と僞、光明と暗黑、肉慾的と超肉慾的との間の永久の爭である、そして究極の勝利は精神的及び肉體的個性の全き解體によつてのみ得られる。自我の征服は一囘では充分でない、幾百萬の自我は征服されねばならない。卽ち僞りのは無數の時代の構成物で、――宇宙のさきまでも續く活力を有して居るからである。一つの蛹(さなぎ)を破壞して四散すれば、それが一々新しい蛹となつて現れる、――事によればもつと稀薄な、もつと透明なかも知れないが、同じやうな感覺的材料で織つた物、――無數の生命から遺傳した煩惱、激情、慾望、苦痛、及び快樂からが織り出した精神的及び肉體的織物が現れる。しかし何が感ずるのであらう、――まぼろしか實體かどちらだらう。

 自我意識の凡ての現象は誤りの自我に屬する、――しかしただ生理學者が云ふやうに、感覺は、感覺の說明をしない感覺傳通機官の產物に過ぎない。生理的心理學に於けると同じく佛敎に於ても、二つの感ずる實體の本當の敎はない。佛敎では唯一の實體はである、そしてこの實體に對して、僞りの自我は、それによつて正しい知覺が橫に曲げられ歪められる中間物、――そのうちに、そしてそのために感情と衝動が可能になる中間物の關係になる。無制限のは凡ての關係から離れて居る、私共の所謂苦痛や快樂をもたない、『我』と『汝』の相違、場所や時の差別を知らない。しかし人性の煩惱によつて制限されると、苦痛や快樂に氣がつく事は、丁度夢みる人が彼等の不實在的な事を意識しないで不實在を認めるやうである。自我意識に關する快樂苦痛及び凡ての感情は幻想である。誤りの自我は眠りの狀態が存在するやうにのみ存在する、そして感情、欲望、それから凡ての悲哀と激情はその眠りの幻影としてのみ存在する。

[やぶちゃん注:前段が「慾望」で、ここで「欲望」なのはママ。こういう差別化するのでもないただの訳語の文字の不統一というのは、電子化していて甚だ不愉快なことである。]

 しかし私共はここで科學と佛敎の分岐點に達する。現代の心理學は種族と個人の經驗を通して進化論的に發達しない感情を認めない、しかし佛敎は不死にして神聖なる感情の存在を信ずる。佛敎はこのの狀態に於て、私共の感覺、知覺、觀念、思想の大部分はまぼろしの自我にのみ關係して居る事、――私共の精神生活は利己主義に屬する感情欲望の流れと殆ど同樣である事、――私共の愛と憎、希望と恐怖、快樂と苦痛は迷である事を宣言する、――しかし又私共の知識の程度に應じて私共のうちに多少かくれてゐて、誤りの自我とは關係のない、そして無窮である高尙な感情があると宣言する。

 

註 「快樂と苦痛は觸から起る、觸がなければ起らず」――「阿吒婆拘」一一。

[やぶちゃん注:「阿吒婆拘」原文“Atthakavagga”。「阿吒婆拘鬼神大將上佛陀羅尼神呪經(あたばくきじんだいしょうじょうぶつだらにきょう)」のことか。「密教部(大正蔵)」に所収する。「漢籍リポジトリの「阿吒婆拘鬼神大將上佛陀羅尼神呪經――失譯」を見るに、

   *

如是等所觸惱者。所侵損者悉得除滅。

   *

がそれか。]

 

 科學は快樂と苦痛の究極の性質を不可解と云ふが、その無常の性質について佛敎の敎ふるところを幾分確かめて居る。兩方とも感情の第一要素でなく、むしろ第二の要素に屬するやうである、兩方とも進化、――本當の快樂も本當の苦痛もなくて、ただ極めてぼんやりした鈍い感情しかなかつた原始的狀態から、幾十億の生命の經驗を通して、發達した感覺の種類――であるやうに思はれる。進化が高ければ高い程苦痛が多く、凡ての感覺の量も一層多くなる。平均狀態が達せられたあとで、感情の量が減少し始める。美妙なる快樂と鋭敏なる苦痛は先づ消滅するに相違ない、それから次第にもつと複雜でない感情が、その複雜の程度に應じて消滅する、遂に凡て冷却して行く行星[やぶちゃん注:「かうせい」。「恒星」の同じ。]のうちに、最も下等な種類の生命にもあり得べき最も單純なる感覺も殘らなくなるだらう。

 しかし佛敎徒に隨へば、最高の道德的感情は人種や日月宇宙よりも長く生きる。粗野な性質の人に不可能な、純粹に無我の感情はに屬する物である。貴い性質の人には、その神聖なる分子は感覺を生じて來る、――煩惱の殼のうちに動いて來る事は丁度胎内で胎兒が動くやうである(それで煩惱の事を胎藏界如來の胎内〕と云ふ)もつと高い性質の人に取つては、自我的ではない感情は强く現れて出る、――まぼろしの自我の中から輝く事は丁度光明からの器を貫いて輝くやうである。個人よりも大きい純粹な無私の愛、――絕大の同情、――完全なる博愛はこれである。これ等の感情は人間の物でなく、人間のうちの佛の物である。これ等の感情が增大すると共に、自我の感情は悉くうすくなり弱くなり始める。まぼろしの自我の狀態は同時に淨化する、心の蜃氣樓のうちにの實體を暗くした不透明體は明くなり始める、そして無限の感覺は、光の戰慄のやうに、個性の夢を通つて神聖なる覺醒の方へ行く

 

註 「一切縛着の苦惱を解脫して究竟の樂を得るを大般涅槃[やぶちゃん注:「だいはつねはん」。]となす。癡愛[やぶちゃん注:「ちあい」。対象への盲目的な貪愛。的確な判断を失わせる執着心のこと。]等の心相悉く滅すればなり。癡愛の心相滅するが故に心性顯現して無量の德相を具へ難思の業用を示現す」。――黑田「大乘佛敎大意」

[やぶちゃん注:「胎藏界」(たいざうかい(たいぞうかい))は密教で説く二つの世界の一つ。大日如来の広大無辺な智慧を表象する「金剛界」の対で、こちらは大日如来の宇宙万物不変の本性である「理性(りしょう)」の面を表象する時空間を指す。仏の菩提心が一切を包み込んで育成することを「母胎」に喩えたもので具体的には蓮華によってシンボライズされる。

『黑田「大乘佛敎大意」』は「二」で既出既注。引用原本の「第二 解脱涅槃」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。]

 

 しかし眞理を求むる普通の人に取つては、この自我を淸淨にして、最後にそれを解體せしむる事は名狀のできない精進不退轉によつてのみできるのである。このまぼろしの個性は、ただ一生の間だけ續くが、それが天賦の性質の總計から、及びそれ自身の特別の行爲と思想の總計から、それに續く新しい結合、――新しい個性、――無我ののために新しい煩惱の牢獄を造るのである。名と形としては、誤りの自我は消散する、しかしその衝動は生き永らへて、再び結合する、そしてそれ等の衝動の最後の破壞――それ等の無形の活力の全滅――は幾十億の世紀を通して長い努力を要する。たえず燃えつくした激情の死灰の中から一層微妙な激情が生れる、――たえず煩惱の墓から新しい煩惱が生ずる。人間の激情のうちで最も强い物が最後まで殘る。それは超人間界までも遙かに押しよせる。その粗野な形が消え去つても、その偏向はやはりもとはそれから出たり、或はそれに織り込まれたりした感情、――たとへば美の感覺、及び美はしい物に對する心の喜悅、――に潜んで居る。下界ではこれは高尙な感情のうちに入れてある。しかし脫俗の境にあつては、この感情に耽る事には危險が伴ふ、觸れる事見る事は肉欲の束縛の鎖が切れたのを再び直す事にもならうから。兩性の凡ての世界以外に、そのうちで思想と記憶が觸知し得べき見らるべき客觀的事實となり、――そのうちで情緖的想像が實體になり、――そのうちで極めてつまらない願も創造的になると云ふ不思議な區域がある。

 

註 業の敎理が偏向の遺傳に關する現代科學の敎と幾分合致するのは、性格のこの傳播と永續の問題についてである。

 

 この大きな巡禮の道の大部を通して、それから欲望の凡ての地帶に於て、抵抗の精神的の强さに應じて、誘惑が增加すると西洋の宗敎的語法では云はれよう。續いて上るに隨つて、娛樂の可能性が更に加はり、力が增大し、感覺が高まる。自己征服の報酬は非常に大きい、しかし誰でもその報酬を得ようとして努力するのは空虛を得ようとして努力する事になる。人は快樂の境遇として天ど望んではならない、天の樂みにする誤りの思想はやはり肉欲のいひもで結ばれると書いてある。人は神や天使となる事を願つてはならない。『比丘よ、「この德によつて私は天使にならう」と考へて如何程宗敎生活をやつても、その人の心は熱心、忍耐、努力の方へは傾かない』と世尊は云つた。福德を得た人の義務を最も明瞭に敍述した物は『金光明最勝王經』に出て居る物である。この大王はありとあらゆる富と勢力を所有するやうになつてから、快樂を遠ざけ、榮華を賤しみ、『諸神の美』を授けられた女王の愛を拒んで、彼女自身の脣で、彼が彼女を遠ざけるやうに彼女から彼に賴ませる。彼女は從順に、しかし自然の淚を流して、彼に從ふ、そして彼は直ちに存在しなくなる。德の力で得た賞與をこんなにして拒否するのは、更に一段高い境遇の生類に、更に幸福に生れ變るやうな助けになる。しかしどんな境遇も望んではならない。涅槃が達せられるのは涅槃に對する願その物がなくなつてからである。

[やぶちゃん注:「金光明最勝王經」四世紀頃に成立したと見られる仏教経典の一つで、大乗経典に属し、本邦では「法華経」・「仁王経」とともに「護国三部経」の一つに数えられる「金光明経」(Suvarṇa-prabhāsa Sūtra:スヴァルナ・プラバーサ・スートラ:「スヴァルナ」(suvarṇa)は「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)は「輝き」で「黄金に輝く教え」の意)に、唐の義浄が自らインドから招来した経典を新たに加えて漢訳したもの。]

 

 そこで今度、私は佛敎の實體學の最も空想的なところへ少し入つて見よう、――そのうちに述べてある心的進化論の一通りの多少明瞭な槪念がないと、この敎理の暗示的價値が正しく判斷されない。たしかに私は讀者に、人間の知識で可能な究極の境以上に存在する物に關する說について考へて貰ひたい。しかし人間の知識の範圍内で硏究され調べられたところでは、佛說はどの外の宗敎的臆說よりも、よく科學的の意見と合致する事が發見される、そして佛說の或物は、現代の科學的發見の不思議な豫想である事が分る、――それ故私共自身の信仰よりも、遙かに古い信仰、そして最も博く發展した十九世紀の思想と遙かによく調和する事のできる信仰である事をただ想像するだけでも、尊敬すべき考慮の價値があると要求する事が不道理に見えるだらうか。

[やぶちゃん注:私は最終段落の小泉八雲の見解に激しく賛同する。しかし、その科学という倫理なき野蛮な増長慢が、科学技術の名に於いて暴走し、遂には人類を滅ぼすに至るまでにになってしまうことは、恐らくは小泉八雲先生は、予想されておられならなかったかとも思う。いや――それも見かけ上の生成と消滅の僅かな瞬時のことであってみれば――八雲先生はちょっと淋しく……いつものように……黙って……目を落とされるだけであろうか…………]

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「二」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」』の冒頭の私の注を参照されたい。]

 

       

   『世尊に申す、我相の觀念は觀念にあ
    らず、人相、衆生相、壽者相の觀念
    は觀念にあらず。その故は、尊き佛
    菩薩は一切の觀念を脫したればなり』
    ――『金剛經』

[やぶちゃん注:「離相寂滅分第十四」の最後の釈迦の台詞の掉尾部分の以下の英訳であろう。

   *

我相、卽是非相。人相、衆生相、壽者相、卽是非相。何以故、離一切諸相、則名諸佛。

   *]

 

 そこで今度は死ぬ物は何であるか、再生する物は何であるか、――過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を犯す物は何であるか、罰を受ける物は何であるか、――不幸の狀態より幸福の狀態に到る物、――自覺の絕滅のあとで涅槃に入る物、――『寂滅』のあとに殘つて、涅槃から歸る力のある物、――凡て似の感情が滅したあとで、四つの無限大の感情を經驗する物は何であるか、それを理解する事を試みよう。

[やぶちゃん注:「四つの無限大の感情」「四無量心」のこと。仏が四種の方面に余すところなく心を限りなく配ること。慈無量心(あらゆる人に深い友愛の心を限りなく配ること)・悲無量心(あらゆる人と苦しみをともにする同感の心を限りなく起すこと)・喜無量心(あらゆる人の喜びを見て自らも喜ぶ心を限りなく起すこと)・捨無量心(いずれにも偏らない平静な心を限りなく起すこと)の四つ。]

 涅槃に入る物は感覺のある、又自覺せる自我ではない。とはただ無數の煩惱の一時の集合、空しきまぼろし、破れるにきまつて居る泡に過ぎない。それはが作つた物、――或はむしろ佛敬の人の主張するところでは、それはその物である。この意味を充分理解するためには、讀者は、この東洋哲學に於ては、行爲と思想は、物質的及び精神的現象と、――私共の所謂客觀的及び主觀的外見と――結合する力である事を知らねばならない。私共の踏む土地その物、――山と森、河と海、世界と月、要するに目に見える世界は行爲と思想の結合である或は少くとも業によつて定まつた存在である

 

註 「今我が現生は過去の業影なり。業影を執て自身と思ひ内にして眼耳鼻舌身外にして園林田宅僕婢妾。我が所有の思ひをなす。而して造業無量牽纏相引て窮極むることなし。過去の過去際を推すもその始めを知らず。……」――黑田眞洞「大乘佛敎大意」

[やぶちゃん注:黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)は仏教学者で浄土宗の僧。江戸生まれ。号は大蓮社精誉学阿。明治五(一八七二)年、東京増上寺で石井(いわい)大宣から法を享ける。智積院の弘現らに学んだ明治二十年、浄土宗学本校初代校長、明治三十年、浄土宗宗務執綱となり、宗務を刷新、宗憲を制定した。明治四〇(一九〇七)年、宗教大学(現在の大正大学)学長。「大乗仏教大意」は明治二六(一八九三)年仏教学会刊(東京)。引用はここの左ページ最終行から(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像)。意味は難しくないが、ちょっと読みと読点等を附して再掲する。

   *

今、我が現生は過去の業影(がふえい)なり。業影を執(とり)て自身と思ひ、内にして眼・耳・鼻・舌・身、外にして園林・田宅・僕婢・妾、我が所有の思ひをなす。而して、造業(ざうがふ)無量(むりやう)、牽纏(けんてん)相引(あひひき)て窮-極(きは)むること、なし。過去の過去際(かこさい)を推(お)すも、その始めを知らず。

   *

この「業影」は「業」が影(=姿)となって仮に現われたものに過ぎないの意。「牽纏」は「纏(まつ)わり附くこと・付き纏(まと)うこと」で、「過去際」過去世の煩悩(=無明)の始まり。「推す」は「探す」で、前の「一」で注した十二因縁の輪廻にある通り、その煩悩は無始のものなのである。]

「草、木、土――凡てこれ等の物は佛になる」――「中陰經」

[やぶちゃん注:涅槃部経典の一つに数えられる「仏説中陰経」。竺仏念漢訳は上下二巻。全十二品からなり、七日毎に生まれ変わるという中陰の様子を印象づけたものという。]

「劔でも金屬でも精神の發現である、そのうちに凡ての力が充分に發達し完成して存する』――『祕藏寳鑰」

[やぶちゃん注:「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)は空海著。全三巻。天長七(八三〇)年頃の成立。「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」(天長七(八三〇)年に淳和天皇が法相・三論・律・華厳・天台・真言の六宗にそれぞれの教義を述べた著述を朝廷に提出することを命じた際にそれに応じて空海が真言宗の教義を纏めたもの。「大日経」の「住心品」に説かれた人間の心の向上してゆく様子、則ち「心品転昇」の次第を当時存在した各宗に配当して真言宗の教判として十住心に体系化したもの。初めて開板されたのは鎌倉時代の建長六 (一二五四) 年であった)を自ら要約したもので、「十住心論」を「広論」と称するのに対して「略論」と呼ばれる。十住心の教判を立て,真言宗が一切諸教の上に立って、総てを包括するものであることが説かれてある。]

「有情と云ふも無情と云ふも、物質は法身なり」――「智勝祕疏」

[やぶちゃん注:「智勝祕疏」不詳。この手の謂いは大乗の一部で耳にすることのある説だが、ネットでこの書名の仏典は見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

「顯敎では四大(地水火風)を無情として取扱つて居る。しかし密敎ではこれを三昧耶身、卽ち如來の應身と云ふ』――「卽身成佛義」

[やぶちゃん注:空海撰。これ以前の仏教では「三劫成仏(さんこうじょうぶつ)」や「歴劫成仏(りゃくこうじょうぶつ)」と称し、極めて長時空間の輪廻転生を経た結果、仏に成ることが出来ると説かれてきたのを、空海はこの書で「現在のこの身のままで仏に成ることが出来る」という意味での「即身成仏」を説いている。

「三昧耶身」は「さんまやしん」で「三昧耶形(さんまやぎょう/さまやぎょう)」のこと。密教に於いて仏を表わす象徴物を指し、「三形(さんぎょう)」とも略称する。「三昧耶」とはサンスクリット語で「約束」・「契約」などを意味する「サマヤ」(samaya)から転じた語で、どの仏をどの象徴物で表わすかが経典によって、予め取り決められていることに由来する。

「應身」「おうじん」と読む。法・報・応の三身の一つ。この世に姿を現した仏身の意。広義には歴史上で悟りを成就した釈迦牟尼仏なども結果して応身である。]

「我々の心のどの形でも、佛の心と一致する時は、……その時は他界に入らない塵一つもない」――「圓覺疏」

[やぶちゃん注:唐代の僧で華厳宗第五祖の宗密(しゅうみつ 七八〇年~八四一年:四川省出身。禅と華厳とを統合した教禅一致を唱えた)の主著の一つである「円覚経疏(えんがくきょうしょ)」。正式には「円覚経大疏釈義鈔」。「円覚経」は大乗経典で一巻。唐の仏陀多羅(ぶっだたら)訳とされるが、偽経ともされる。大乗円頓(えんどん)の教理と観行(かんぎょう)の実践を説いたもの。注釈書も多い。正式には「大方広円覚修多羅了義経」。]

 

 私共が自我と呼ぶ業の我は心であり又體である、――二つとも衰へる、二つともたえず新しくなる。知られない始めから、この主觀客觀の二重の現象は代る代る分解し結合して居る、結合は生であり、分解は死である。成形か事情かで、の生死する外に、生も死もない。しかし再生の度每に、再結合は決して同一の現象の再結合ではない、――丁度生長から生長が胞子、運動から運動が起るやうに、――別に起つた結合である。それで幻影の自我は、形と事情に於て變るばかりでなく、又新しき合體と共に、實際の人格に於ても變る。一つの實在はある、しかし永久の個性、變らない人格はない、ただ幻影の自我。生と死の物すごいの上の、うねりにつぐうねりのやうな、ただまぼろしの自我につぐ自我があるだけである。そして海のあれるのでも、うねりの運動であつて、變形ではない、――動くのは波の形だけで、波その物ではない、――その通り生命の生死はただ形、――精神の形、物質の形、の出現と消散しかない。測られない實在は堤らない。『金剛般若波羅密經』に『凡ての形は眞でない、凡ての形よりも上に上る者は佛である』と書いてある。しかし體の全分解と精神の最後の消散のあとで、凡ての形の上に上る何物が殘つて居るのだらう。

[やぶちゃん注:「金剛経」の「如理実見分第五」に、

   *

佛告須菩提、「凡所有相、皆是虛妄。若見諸相非相,卽見如來。」。

(佛、須菩提に告ぐ、「凡そ有(あら)ゆる相は、皆、是れ、虛妄なり。若(も)し諸相は相に非ずと見ば,卽ち、如來を見ゆ。」と。)

   *

とある。]

 不完全なる人の誤れる意識のうしろに、――感覺、知覺、思想の向うに無意識に存在して、――私共が魂と呼ぶ物(それも宜は厚く織つてある迷の幕に過ぎない物)に包まれて、永久の神聖な物、對の實在がある、魂でも、人格でもない、ただ自我のない我、――無我の大我、のうちに包まれた佛がある。各のまぼろしの我のうちにこの聖い物が潜んで居る、しかも無數の物はただ一つである。生ある物には悉く無限の叡智が眠つて居る、――それは未だ進化しない、隱れた、未だ知られない、未だ感じない物であるが、最後にあらゆる無窮から覺めて、煩惱のすさまじき蛛巢[やぶちゃん注:「くものす」。]を拂つて、永久に肉の蛹(さなぎ)を捨てて、時間空間の最上の征服をするやうに定まつて居る。それで『華嚴經』に書いてある、『佛の子よ、如來の智慧をもたない者は一人もない。凡ての者がこれをさとらないのは、ただ迷へる思想と感情のためである。……自分は彼等に聖い道を敎へて、愚かなる思想を捨てさせ、彼等の心に潜んで居る廣大深遠なる叡智は佛自身の智慧と違つてゐない事を示さうと思ふ』

[やぶちゃん注:「華厳経」「大方広仏華厳経」のこと。サンスクリット語で書かれた完全な形の原典は未発見であるが、恐らくは四世紀頃、中央アジアで成立したものであろうとされる。謂わば、小経典を集成して「華厳経」と称したもので、最初から纏まって成立したものではなく、各章が各々、独立した経典であったと考えられている。この内、最古のものと考えられる章は、菩薩の修行の段階を説いた「十地品」で,一~二世紀頃の成立である。漢訳ではそれぞれ六十・八十・四十巻より成る「六十華厳」「八十華厳」「四十華厳」等があり、最後のものは、前二者の中の「入法界品」に相当する。思想的には、現象世界は、互いに働きかけつつ交渉し合い、無限に縁起し合うという事事無礙(じじむげ)の法界(ほっかい)縁起の思想に基づいており、菩薩行を説くことを中心としている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。以上の引用は、「華厳如来出現品」の、

   *

復た、次に佛子、如來の智慧、處として至らざることなし。何を以ての故に、一衆生として、如來の知慧を具有せざることなし。但だ、妄想顚倒執着を以て、而も證得せず。若し、妄想を離るれば、一切智、自然智、無礙智、則ち、現前することを得ん。

   *

後の部分は、平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳によれば(仮名遣はママ)、『我(われ)爾(なんじ)に其(そ)の道)(みち)を教(おし)へん。衆生(しゆじやう)をして煩悩(ぼんのう)を捨(す)てしめ、心(こころ)に没在(もつざい)せる深甚無量(しんじんむりれう)の智慧(ちゑ)の、よく仏智(ぶつち)に異(ことな)ることなきを示(しめ)さん』とある(私は「華厳経」の一致するフレーズを見出せなかった)。]

 

 ここで私共はこれ等の佛敎の根本的敎理と西洋の將卒の槪念との關係を考へて見よう。佛敎がこの浮幻世界の實在を否定するのは、現象としての現象の實在を否定するのではない、或は客觀的或は主觀的に現象を生ずる力を否定するのでもない事は明白である。としてのを拒否する事は全部の佛敎系統を拒否する事になるからである。眞の意味はかうである、卽ち、私共の知覺する物は決して實在その物でない、それから知覺すると雖もそれ自身不定にして煩恆の性質を有せる感情の集合の不安定な叢[やぶちゃん注:「さう」。集まり。]である。この立場は科學的には强い、――恐らく難攻不落である。本體その物については私共は全く何物をも知らない、私共は宇宙は廣大なる力の働きである事をのみ知つて居る、そしてそれ等の力の働きに現れた法則の一般相對的意味を識別しても、一切の非我なる物(外物)は、如何なる二人の人間にも決して同一ではない神經構造の振動によつてのみ、私共に現れるのである。それでもこんな變化のある不完全な知覺によつて、私共は凡ての形――凡ての客觀的或は主我的聚合物の永續性のない事七十分に會得するのである。

 實在をためす物は永存性である、そして佛敎徒はこの見ゆる宇宙に於てただ永久に流轉する現象を見て、物質的聚合物を實在でないと云つたのは、無常であるから、――少くとも、泡の如く、雲の如く、蜃氣樓の如く實在性をもつてゐないからである。それから、相對は思想の宇宙的形式である、しかし相對は永久性をもたないとすればどうして思想は永存性をもつ事ができよう。……かう云ふ見地から判斷すれば、佛敎の敎理は非實在論でなくて、眞の變形實在論である、正しくハーバート・スペンサーの言葉にそれと同じ意味がある、――『凡ての感情と思想はただ一時的であるから、――こんな感情や思想から成立して居る一生も亦同じく一時的であるから、――否、その間を人生が通過する對象も、それ程一時的てはないが、早晚、時々別々にその個性を失ふ途中にあるのだから、――私共は永久の物は凡てこれ等の變化する物の下にかくれた不可知的實在である事を知る

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。以上は、ハーバート・スペンサーの全十巻から成る「総合哲学体系」(System of Synthetic Philosophy)の第一巻の「第一原理」(First Principles:初版は一八六二年刊)の最終章「第二十四章 概括と結論」(CHAPTER XXIV.: SUMMARY AND CONCLUSION.)からと思われる(但し、一九〇〇年の改訂版か)が、実にこの部分はまさに「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(43) 大乘佛教(Ⅱ)」の終りの部分でも再度、引用されているのである。]

 

 その通り、私共の自我と云つて居る物は一時的の聚合物、――感覺的迷妄であると云ふ佛敎の敎は、――もし丁寧に調べたら、如何に眞面目な哲學者も拒否する事は殆んどできない事が分るであらう。科學的心理學者に知られたところでは、精神は色々の感情と、それから色々の感情の間の色々の關係からできて居る、そして感情は、生理學的に微細な神經の衝動と同一の簡單な感覺の單位から成立して居る。凡ての感情機官[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]は、同じ形態學的要素の進化的變形であるから、根本的には相似て居る、――そして凡ての感官は觸覺の變化である。或は、この上もなく簡單な言葉を使用すれば、感覺の機官――視覺、嗅覺、味覺、聽覺でも、――皆皮膚から發達したのである。人間の頭腦その物と雖も現代の組織學及び發生學の證明によれば、『その最初はただ眞皮の層の包みに過ぎない』そして思想は、生理學的及び進化論的に見れば。このやうに觸覺の變化である。視覺機官を通じて働く或振動は、頭腦のうちにその運動を起す、それによつて光と色の感覺が續いて起る、――別の振動は聽覺の構造に働いて音の感覺を起す、――別の振動は特別の組織に變化を起して、味、香、觸の感覺を起す。凡て私共の知識は、直接間接、肉體的感覺から、――觸覺から得られて發達する。勿論これは究極の說明にはならない、何故なれば何人も何がその觸覺を感ずるかを說明する事ができないからである。『形而下の物は一切又同時に形而上である』と云つたシヨウペンハウエルの言は至當である。しかし科學は充分に佛敎の立場、卽ち私共の所謂自我は凡て人種及び個人の肉體的經驗に關する感覺、情緖、感念、記憶の束(たば)である事、及び私共の不滅の願はただこの感覺的及び自己的な意識を無窮に續けたい願である事を正しく認めて居る。そして科學は、佛敎が感覺的自我の永久を否定する事にさへ加勢して居る。ヴントは云ふ、『心理學は私共の感覺のみならず、その感覺を新しくする記憶の心象も、その源は感覺と運動の機官の働きによる事を證明する。……この感覺的意識が永續すると云ふ事は經驗の事實と調和ができないやうに見えるに相違ない。そしてたしかに私共はこんな永續は倫理的要件であるかどうかを疑ふ、殊にこの永續の願が、もし成就するとしたら、堪へられない運命になりはしないかと一層疑ふ』

[やぶちゃん注:ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer 一七八八年~一八六〇年)であるが、この謂いに相当する彼の哲学論文を探し得ないらしいQ&Aサイトのここの質問(消滅することが多いのであるが、今回は特異的にリンクする。何故なら、この質問者は小泉八雲の本篇の翻訳を担当していると宣うているからである。二〇〇八年十二月の質問である)の回答によれば、彼の代表作である「意志と表象としての世界」(Die Welt als Wille und Vorstellung:初編は一八一九年刊)の「続編」(一八四四年)の第二の十七章に『記述があり』、『ショーペンハウエル自体は、「学としての形而上学とは何か」と自問し』、『自然が我々に与える手がかりを解析(entziffern)し、先見性と後天性とを哲学者が主体的に明白如実な自己現象として結びつけること(芸術的創作)で成り立つと解釈してい』るとあった。しかも驚くべきことに、他の回答には――ショーペンハウアーがこう言っているなどというザレ言はまさにここで小泉八雲がかく言ったのが元凶なのだ――として、小泉八雲を糞味噌に批判している回答まで下方にあったのである。ただ、この――小泉八雲はただの「知ったかぶり」の糞だ――と指弾している人物の叙述を見たら、調子に乗って口を滑らさなけりゃいいのに――『ここ』は夏目漱石の『「坊ちゃん」の一節にヘーゲルが出てくることになぞらえて(ネタの応用・自分流に消化)ただ書いてる』だけなのだ――とまあ、有りがたくも例まで引いて鼻高々に批判しているんだが、しかし、一言、言っとくわな。「坊つちやん」は明治三九(一九〇六)年の発表だぜ? 本作品集は明治三〇(一八九七)年刊だがねぇ? 英語・哲学・日本文学に万事精通していると「知ったかぶり」しているこの回答者の程度が知れるってぇもんだぜ?!……にしてもだ……こんな質問しておいて、それをまあ恥ずかしくも晒したまま、平然と訳して、注附けて、さてもこれが万一、有料書籍として出版されているんだとしたなら……オソロシヤ! 俺は、絶対、買わねえぜ!…………【2019年12月4日改稿・追加】昨日の夕刻、何時も各種テクストの疑問箇所に御教授を戴くT氏により、

――本ショーペンハウアーの発言の引用元が発見され――示された。

T氏曰く、小泉八雲はフランス語は得意であったが、ドイツ語が読めたとは考えにくいことから、原本で読んだとは思われず、小泉八雲の引く英文そのもので調べられた由。

 その結果、これは、

「生の哲学」・新カント派・ユングなどに影響を与えたドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマン Karl Robert Eduard von Hartmann 一八四二年~一九〇六年)の代表的著作「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten :一八六九年)

を、

◎イギリス在住の哲学者で翻訳家のウィリアム・チャタートン・クープランド(William Chatterton Coupland 一八三八年~一九一五年)

が、

◎英訳

して、

◎一八八四年にニュー・ヨークのマクミラン社から初版を刊行した“Philosophy of the unconscious

こちらの彼の英文書誌データに拠った)

ここ(“Internet archive”の当該ページ画像。但し、これは一八九三年(ロンドン)刊の第二版)

◎“A.  THE  MANIFESTATION  OF  THE  UNCONSCIOUS  IN  BODILY  LIFE.

A 人生に於ける無意識の表明)

というパート標題の添え辞である、

   *

" The Materialists endeavour to show that all, even mental phenomena, are physical : and rightly ; only they do not see that, on the other hand, everything physical is at the same time metaphysical." — SCHOPENHAUER.

   *

末尾部分の引用であることが判るのである! 以下に小泉八雲の本文の引用部を示しておく。

   *

"Everything physical," well said Schopenhauer, "is at the same time meta-physical."

   *

但し、ハルトマンがショーペンハウアーのどのような著作から引用したのかは判らない。しかし、かくして、先のQ&Aサイトの回答の内、少なくとも出所は不明であるが、

★ショーペンハウアーの言葉としてハルトマンが「無意識の哲学」(Philosophie des Unbewussten:一八六九年)に引用している事実

が確認された。同時に、

★同サイトの回答の一部の、おぞましい小泉八雲に対する誹謗中傷は――その悉くが――言われなき無智蒙昧の「知ったかぶり」の大嘘であることが証明された

のである。T氏に心より御礼申し上げるものである。

「ヴント」ドイツの生理学者・哲学者・心理学者で実験心理学の父と称されるヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt 一八三二年~一九二〇年)。引用は一八六三年刊の“Vorlesungen über die Menschen- und Tierseele”の英訳“Lectures on Human and Animal Psychology ”(「人間と動物の心理学に関する講義」)の一節であることが、グーグルブックスのこちらで判明した。]

2019/12/02

小泉八雲 涅槃――総合仏教の研究 (田部隆次訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“NIRVANA A STUDY IN SYNTHETIC BUDDHISM”。「ニルヴァーナ(涅槃)――包括的な仏教に就いての研究」)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第九話である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字とし、途中に挟まれる注はポイント落ち字で有意に字下げであるが、基本、行頭まで引き上げ、同ポイントで示し、前後を一行空けた。章の添え辞の経の引用は六字下げポイント落ちであるが、ブラウザでの不具合を考え、同ポイントで三字下げで始め、途中で改行を施した。なお、「四」で涅槃に到る過程に相違があり、それをチャート化した図版(八図からなる)があるが、これは“Project Gutenberg”]にある英語原版のそれを挿入した上で、底本の日本語のそれを併置した。全五章であるが、一部の章が長い上、仏教用語が満載で、注をかなり附けざるをえない箇所が多いことから、分割して示す。]

 

   第九章 涅 槃

      總 合 佛 敎 の 硏 究

  

   『須菩提に告ぐ、この經典は信仰の少き者、
    ――我相、人相、衆生相、及び壽者相を
    信ずる者によつて聞かるべき物にあらず』
    ――『金剛經』

[やぶちゃん注:「金剛經」や「須菩提」は前の「小泉八雲 日本の民謡に現れた仏教引喩 (金子健二訳)」の最後の私の注を参照されたい。「我相」は「自我という観念の実在を信ずる者」、以下、「人相」は同じく「人の生命という観念の実在」を、「衆生」は「衆生という観念の実在」を、「壽者相」は「長生する人存在という観念の実在」をそれぞれ信ずる者を指し、そうした誤った認識者には、この經典を聴く資格はないというのであろう。但し、この小泉八雲の英訳は、同経に全く同義の形の完全フレーズでは出ないように思われる。幾つかの箇所を繋ぎ合わせて、成文化したものであろう。例えば、「大乗正宗分第三」の、

   *

須菩提、若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相、卽非菩薩。

   *

であるとか、「正信希有分第六」の、

   *

若取法相、卽著我、人、衆生、壽者。何以故。若取非法相、卽著我、人、衆生、壽者。是故不應取法、不應取非法。

   *

また、「究竟無我分第十七」の、

   *

須菩提、若菩薩有我相、人相、衆生相、壽者相、則非菩薩。所以者何。須菩提、實無有法、發阿耨多羅三藐三菩提心者。

   *

といった箇所を合成したと目されるということである。平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)も訳では、『須菩提(しゆぼだい)、‥‥是(この)諸(もろもろ)の衆生(しゆじよう)にして‥‥若(も)し法相を取るも、卽ち、我人衆生寿者(がにんしゆじやうじゆしや)に著(ぢやく)すれば‥‥是故(これゆゑ)に法(ほふ)を取るべからず。』とリーダを挟んでおられるのである。]

 

 涅槃とは、佛敎徒の心に取つて、正に絕對の無、――完全なる寂滅の意味に外ならないと云ふ疑念が歐米に今も廣く傳はつて居る。この觀念は誤つて居る。しかしそれには半分の眞理を含んで居るがために誤つて居るのである。この半分の眞理は、今一つの半分と結合しなければ、價値も興味もない、否、分りもしない。ところでその半分については普通の西洋人の頭では疑うて見る事もできない。

 實際、涅槃は絕滅の意味である。しかしこの個性の絕滅と云ふ事を魂の死と解するやうでは、私共の涅槃の槪念はまちがつて居る。或は印度の汎神敎によつて豫言されたやうに、涅槃は有限を無限に再び吸收する事と解すれば、再び私共の觀念は佛敎と無關係になる。

 けれども、もし私共が、涅槃とは個人的感覺、情緖、思想の消滅、――自覺ある個性の分散、――『我(われ)』と云ふ言葉の下に包含さるべき一切の物の絕滅の意味であると云へぱ、――それなら私共は佛敎の一面を正しく云ひ表はして居る。

 

 以上述へた事が矛盾したやうに見えるのは、ただ私共西洋の自我に關する見解から來るのである。私共に取つては自我は感情、觀念、記憶、執意を意味する、そしてドイツの唯心論を知らない人には、意識は自我ではあるまいとさへ考へて見る事もなからう。それに反して、佛敎徒は私共が自我と呼んで居る物は皆僞りであると云ふ。佛敎徒はの定義を下して、人種の肉體的及び精神的經驗によつてつくられた、――この滅すべき肉體に凡て關係して、それと共に分散すべき運命を凡て有して居る感覺、衝動、觀念のただ單なる一時的總計と考へて居る。西洋の推理から見て、あらゆる實在のうちで最も疑ふべからざる物と思はれる物を、佛敎の推理では、あらゆる迷妄のうちの最大の物、そしてあらゆる悲みと罪の源とさへ述べて居る。『心、思想、及び凡ての感覺は生死の法則に服從する。自我の知識及び生死の法則には摑むべきところも、感官を以て知覺すべき物もない。自我を知り、感覺の作用を知れば、「我」の觀念の餘地、或はその觀念をつくるべき根據はない。「自我」の思想は凡ての悲みの基となつて、――世界を鎖で縛るやうになる、しかし縛るべき「我」のない事を發見すれば、凡そこれ等の望は切斷される』

 

註 「佛所行讃經」

[やぶちゃん注:「佛所行讃經」「ブッダチャリタ」(サンスクリット語ラテン文字転写(以下同じ):Buddhacarita)。「仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)」のこと。古代インドの仏僧馬鳴(めみょう/アシュヴァゴーシャ 紀元後八〇年頃~一五〇年頃)の著作とされる仏教叙事詩で、釈迦の生涯に題材を採った、二十八編の韻文から成るサンスクリットの美文体文学(カーヴィヤ:kāvya)。サンスクリット原典は前半の十四編のみが現存し、後半は散逸した。参照したウィキの「ブッダチャリタ」によれば、『馬鳴はクシャーナ朝で活躍した代表的な仏教文学者だが、本作は後の時代のグプタ朝において進められることになる仏典のサンスクリット化の先駆でもあり、また、超人的存在としての仏陀を、説話や比喩の多用で表現する仏教文学を、確立・大成した作品ともされる』。「仏所行讃」は「ブッダチャリタ」を中インド出身の訳僧曇無讖(どんむしん Dharmakṣema:ダルマクシェーマ/漢名・法楽 三八五年~四三三年)が『漢訳したもの』とある。原文に当たることが出来ない(原文ページは見つけたが、接続出来ない)ので、平井呈一氏の恒文社版「涅槃 大乗仏教の研究」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳にある当該の訓読文を恣意的に正字化して以下に示す(読みは一部に限った)。

   *

「心意及び諸根は、斯れ皆生滅の法なり。生滅の過(くわ)を了知(れうち)すれば、是れ則ち平等觀(びやうどうくわん)なり。是(かく)の如き平等觀を、是れ則ち身を知ると爲(な)す。身の生滅(しやうめつ)法(ほふ)たるを知らば、取(しゆ)無く亦受(じゆ)無し。如(も)し身(しん)の諸根を覺らば、我(が)無く我所(がしよ)無し。純一の苦の積衆(しやくじゆ)は、苦(く)生じ苦滅す。已に諸(もろもろ)の身相(しんさう)に、我無し我所無しと知らば、是れ則ち第一の、無盡淸凉處(むじんしやうりやうしよ)なり。我見(がけん)等(とう)の煩惱に、繋縛(けばく)せらるる諸の世間に、既に我所無しと見れば、諸縛悉く解脫せん。」

   *]

 

 以上の文句は甚だ明白に、意識は眞の自我ではない事、及び心に肉體と共に死ぬ事を暗示して居る。佛敎思想を知らない讀者は、つぎのやうな道理ある質問をするだらう、『それなら、業の說、道德進步の說、應報の說の意味がどうなるか』實際、西洋の本體的觀念を有するだけでは、『東邦聖書』にあるやうな佛典の飜譯の硏究を試みる事は、ペーヂ每に見たところ望みのない謎と矛盾とに對面する事にならう。私共は再生の說を發見するが、靈魂の存在は拒否されて居る。私共は現世の不幸は前世に犯した罪の罰であると聞かされて居るが、個人的の輪𢌞と云ふ事はない。私共は生類は再び個性を取ると云ふ記事を見るが、個性も人性も皆迷妄であると云はれる。深い種類の佛敎信仰を知らない人が、『彌蘭陀王問經』第一卷のつぎのやうな拔萃を果して理解する事ができるかどうかを私は疑ふ、――

[やぶちゃん注:「東邦聖書」は「東方聖典叢書」(Sacred Books of the East)で、ドイツ生まれで、イギリスに帰化したインド学者(サンスクリット文献学者)・東洋学者・比較言語学者・比較宗教学者・仏教学者であったフリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Müller 一八二三年~一九〇〇年)によって編集され、オックスフォード大学出版局によって一八七九年から一九一〇年にかけて刊行された、アジアの諸宗教の聖典の英語翻訳を集成した全五十巻からなる壮大な叢書。ヒンドゥー教・仏教・道教・儒教・ゾロアスター教・ジャイナ教・イスラム教の主要な聖典を収録している(ウィキの「東方聖典叢書」に拠る)。小泉八雲の愛読している叢書である。

「彌蘭陀王問經」ウィキの「ミリンダ王の問い」によれば、『Milinda Pañha』(『ミリンダ・パンハ)は、仏典として伝えられるものの一つであり、紀元前』二『世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス』Ⅰ『世と、比丘ナーガセーナ(那先)』(以下引用の「那伽犀那尊者」(なかさいなそんじや)は彼。小泉八雲の原文では“Nagasena”)『の問答を記録したものである。パーリ語経典経蔵の小部に含まれるが、タイ・スリランカ系の経典には収録されていない(外典扱い)。ミャンマー(ビルマ)系には収録されている』。『戦前のパーリ語経典からの日本語訳では』「弥蘭王問経」「弥蘭陀王問経」『(みらん(だ)おうもんきょう)とも訳される』とある。成立経緯や内容はリンク先を見られたい。 

 以下の引用は全体が一字下げ。ポイントは本文と同じである。]

 

王問うて曰く、『那伽犀那尊者よ、死後生れかへらない者はありますか』那伽犀那尊は答ヘた、『罪障ある者は生れかへり、罪障なき者は生れかへりませぬ』

『那伽犀那尊者よ、世に靈魂なる物がありますか』『靈魂と云ふやうな物はありませぬ』

(同じ記事がその後の章に、『第一義門から云へば、陛下よ、そんな物はありませぬ』と云ふ說明づきでくりかへしてある)

『那伽犀那尊者よ、この體から他の體へ轉移する何者がありますか』『い〻え、ありませぬ』

『那伽犀那尊者よ、輪𢌞のないところに、再生があり得ませうか』『さうです、あり得ます』

『那伽犀那尊者よ、將に再生せんとする者は、彼が生れかはるだらうと云ふ事が分るでせうか』 『さうです、陛下よ、それは分ります』

 

 當然西洋の讀者は問ふだらう、――『どうして靈魂なくして生れかへる事ができよう。どうして輪𢌞なくして再生があらう。人性なくしてどうして、再生の個人的豫想ができよう』しかしこんな質問に對する答は、今云つた書物には發見されない。

 今ここに出した拔萃は例外的に困難なところを提供して居ると想像する事は誤りである。自我絕滅說に關して、今日英語の讀者に達し得べき殆ど凡ての佛典に、夥しい證據がある。恐らく大般(だいはつ)涅槃經[やぶちゃん注:「Mahāparinirvāṇa Sūtra」(マハーパリニルヴァーナ・スートラ)。釈迦の入滅(=「大般涅槃」)を叙述し、その意義を説く経典類の総称。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。]は『東邦聖書』にある最も著しい證據を與へて居る。涅槃に達する解脫の八種を叙して、私共が西洋の見方から、絕對的寂滅の行程と呼んでもよいと思ふ物を明細に說明して居る。その說明によれば、この八階段のうちの第一段に於て、眞理を追求する佛敎徒は未だ――主觀客觀の――形の觀念をもつて居る。第二段に於て、形の主觀的觀念を失つて、ただ外界の現象として形を見る。第三段に於て、もつと大きな眞理の知覺が近づく事を感じて來る。第四段に於て、形の凡ての觀念、抵抗の觀念、及び差別の觀念以上に達して、殘る物は無限の空間の觀念だけになる。第五段に於て、無限の空間の觀念が消えて凡て無限の平等と云ふ思想が來る。(ここは汎神論的唯心論の極度の境であると多くの人は想像するだらうが、それは佛敎の思想家が追求すべき道の半分の休息所である)第六段に於て『一切無』と云ふ思想が來る。第七段に於て無と云ふ觀念それ自身も消える。第八段に於て、凡ての感覺も觀念も存在しなくなる。それからそのあとに涅槃が來る。

 同じ經は、怖の死と建べるに常つて、怖が建かに第一、第二、第三、第四の瞑想の階段

をへて、『無限の空間だけが現れて居る心の狀態』へ、――それから『無限の思想のみが現れる心の狀態』へ、――それから特に『何物も全く現れない心の狀態』へ、――それから『意識と無意識との間の心の狀態』へ、――それから『感覺と觀念の兩方共、全く消え去つた心の狀態』へ、通過するやうに表はしてある。

 佛敎の一般觀念を得ようと魔面目に考へる讀者に取つては、こnな引證は必要である、卽ち原因結果の連續の根本的敎理と雖も、自我の實在を同じく否定して、同じやうな謎を暗示して居るからである。無明は行、卽ちを生ずる、は識、識は名色(みやうしき)、名色は六處(ろくしよ)、六處は觸、觸は受、受は愛、愛は取、取は有[やぶちゃん注:「う」。]、有は生[やぶちゃん注:「しやう」。]、生は悲と老と死を生ずる。疑もなく讀者は十二因緣の破滅に關する敎理を知つて居るから、ここにそれを詳しくくりかへす必要はない。しかし讀者は觸を止めて受を滅し、受を止めて名色を滅し、名色を止めてを滅する事を、この敎から想ひつく事ができる。

[やぶちゃん注:「無明」「むみょう」(ここでは面倒なので以下、現代仮名遣で示す)以下、十二因縁が示される。この「無明」は十二因縁の因果の結果であり、過去世の始め無き、迷妄の光無き「煩悩」のこと。その因果の連鎖を完全に断つことによって、輪廻も消滅するとするのである。

「行」「ぎょう」は「業」(ごう)と同義。

「識」「しき」。好悪に基づく区別・差別による不完全で偏頗な擬似認識。

「名色」「みょうしき」。精神的な存在と物質的な存在。人の擬似認識の対象となるものの総称。

「六處」「ろくしよ」。六つの人の不完全な感覚器官機能。眼・耳・鼻・舌・身(触覚)と意識感覚。

「觸」「そく」。「六処」の感覚器官に対し、それぞれの外界の感受擬似対象が接触すること。広く外界との接触の表現。

「受」「六処」による見かけ上の感受感覚・認識。

「愛」愛欲。仏教では広く母子の親愛も当然のこととして含まれる。

「取」執着。愛欲に伴って生ずる妄執。

「有」「う」。人が、見かけ上で「生存している」と認識する(される)状態。

「生」「しょう」。人として仮に生まれ、生を享ける、ということ。

「悲と老と死」十二因縁では「老死」で、あらゆる仮存在の老化と見かけ上の死を指す。そこで終わらず、迷いある限り、再び無明へと返っては因果を繰り返すのである。]

 

 明らかに、こんな文句によつて提供もれた謎を豫じめ解(と)かないで、涅槃の意味を學ばうとする事は望み難い。今日飜譯によつて英語の讀者に親しくなつて居る經文の本當の意味を理解する事のできる前に、神と靈魂、物質、精神に關する普通の西洋の觀念は佛敎哲學には存在しない、それに代る物は西洋の宗敎思想に於て丁度それに相當する物のない槪念である事を理解する事が必要である。特に、讀者は靈魂に關する神學的觀念を念頭から去つてしまう事が必要である。すでに引用した文句から見ても、佛敎哲學には個人的輪𢌞、及び單獨的永久的靈魂のない事が明らかになつて居る筈である。

 

小泉八雲 日本の民謡に現れた仏教引喩 (金子健二訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“BUDDHIST ALLUSIONS IN JAPANESE FOLK-SONG)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第八話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者金子健二(明治一三(一八八〇)年~昭和三七(一九六二)年)氏は新潟県中頸城郡新井町出身の英文学者。高田中学校から東京の郁文館中学校・第四高等学校を経て、明治三八(一九〇五)年、東京帝国大学英文科卒。一九〇七年から一九〇九年まで米国のカリフォルニア大学バークレー校大学院に学び、帰国後、広島高等師範学校教授、大正一三(一九二四)年、在外研究員として渡欧、大正一五(一九二六)年、文部省督学官、後に東アジア・インドに調査旅行をした。昭和八(一九三三)年、旧制静岡高等学校校長・姫路高等学校校長を務め、日本女子高等学院教授(校名変更で日本女子専門学校教授)、学校法人「東邦学園」理事となり、校名変更後の昭和女子大学の初代学長・理事を務めた。中世英文学が専攻であったが、インドや夏目漱石など関心は広かった(ウィキの「金子健二」に拠った)。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。]

 

      第八章 日本の民謠に現れた佛敎引喩

 

 日本民族の心の土壤が如何なる程度迄佛敎の理想に潤され又肥やされたかを委しく知らさうするには、昔のこの國の文化を代表してをる物をただ一つだけ見てもそれで十分であるのだ。ところが歐羅巴人になるとどうしてもこれが出來ぬ。何故かといへば極東の宗敎と極東人の生活の全部的關係を理解するためには、どんな歐羅巴人でもその一生涯を費して然かも到底學ぶことの出來ぬやうな或る種の經驗を必要とするのであつて、この經驗がなければどんな學識があつてもこの問題を了解することが出來ぬからである。併し過去に於て佛敎が如何なる感化を日本に及ぼしたかといふことは日本に來た西洋人の目にも到る所で明かに映じてをることである。一切の美術乃至大部分の工業的作物は象徵主義に訓練された人の目には常に佛敎傳說の表現として映じてをるのである。形式の上に何等かの特色を有してをるもの、或は苟も美しいと思はれるやうな手細工品にして――例へば子供の玩具類から王者の重代の寳物に至る迄――これを造り出した手業その者から考へてみて、或る意味に於ては最初佛敎に負ふところがあつたのだと公言し得ぬ物は一つも無い。大阪の工場から來る安物の更紗の中には京都の西陣織にも劣らぬ佛敎思想が織り込んであるのがわかる。鐡瓶の上の浮彫、番頭さんの火鉢の柄になつてをる唐金の象の頭[やぶちゃん注:恐らくは金属製の火鉢で、移動用にある二箇所の取っ手部分が象が鼻を垂らした形で象形してあるのである。]、紙襖の模樣、或は門口に見らるる極めてあるふれた裝飾用の木細工、金屬製の煙管に施した蝕鏤細工[やぶちゃん注:「しよくらう(しょくろう)」。原文“etchings”。エッチング。]、或は高價な花瓶の上に加へた琺瑯細工――是等は皆同一の雄辯さを以てこの國民の傳統的信仰を物語り得るのである。亦庭園設計の上にも佛敎の反映と反響が見られる。同樣に長くつらなつてをる店看板の無數の象形文字の上にも、或は銀貨や花に與へてあるところの驚嘆すべき適切な名稱に於ても、或は山、岬、瀑布、村落等の名に於ても、或は近代的な鐡道驛の名に於ても悉く佛敎の影響が現はれてをる。故に新文明といへど、ちかくの如く明らかになつてをるところの感化力を大いに動搖させるといふことは出來ぬのである。今や汽車と汽船とに依りて名高い靈廟[やぶちゃん注:特定のそれを指すのではなく、全国の交通手段を用いて参詣する寺社仏閣のこと。]に參詣人を送り出す一箇年間の人數は昔一箇年にあつた數よりは遙に多くなつてをる。お寺の鐘は柱時計や懷中時計の用ひられてをる時代なるにも拘らず依然として數百萬の人達に時の過ぐるを報じてをる。人々の言葉は昔ながらに佛敎口調で詩化されてをる。文學も戲曲も依然として佛敎言葉で滿されてをる 街道で最も普通に響いてをる聲――戲れてをる子供の歌、働きながら歌つてをる勞働者の齊唱、街頭で大聲張り上げて物賣り步く商人の叫び――是等の音ですら私の耳には尊者、菩薩の物語や、お經の句を思ひ出させることが屢〻ある。

 以上のやうな事柄を私は見たり聞いたりしたので、それを機緣に、佛敎徒のいうた事柄や引喩等を含んでをるところの歌謠集でも編んでみようかと最初考へてみた位である。併しその仕事の範圍が餘りに廣汎に亙つてをつて何所から手を下してよいのか直に決定することが出來なかつた。日本の歌謠は私達を當惑させる程種類が多いが――種類が餘りに多いのでそれに名をつけるだけで既にに多くの頁をとることになる――次のやうなのが主なる物である。先づ名高い物の一として謠曲がある。謠曲は戲曲的の歌謠であつてその大部分は高僧の作つた物である[やぶちゃん注:誤り。であるわけではない。いや、高僧の能楽師はいないというべきだ。但し、彼らの作詞背景に仏教思想が深く根を張っていることは言うまでもなく、以下の小泉八雲の謂いも正しい。]。恐らくその中の何れの十行をとつて見ても佛敎に關係の無い所は無い。次に長唄といふのがあるが、これには屢〻非常に長い歌がある。又淨瑠璃といふのがある。これは詩句で書いた全部小說的の物であつて、これを專門の謠手達が歌つて、一囘に五時間乃至六時間の長きに亙つて彼等の聽手を樂しませることが出來るのである。併しかういふ長い物は必然的に私の計畫から除外されたのである。だがその殘つた物の中には選擇することの出來るもつと短い形式の物が多かつた。最後に私は主として都々逸に私の計畫を限定することに決定した。都々逸は僅に二十六字を四行に列べた――(七、七、七、五)――小唄である。これは前に論じた街上で歌はれる歌謠よりは形式が正しく出來てをる。併し非常に流行してをる。隨つて都々逸は他の優秀な歌謠の多くに比較してみて佛敎の感化を受けてをる程度が大である。私は私のために集めた非常に澤山な歌謠の中からこの種類の典型として四十乃至五十だけ選擇した。

[やぶちゃん注:「都々逸」(どどいつ)は俗曲の一種。「都々一」「都度逸」「独度逸」「百度一」などとも記す。小学館「日本大百科全書」によれば、『歌詞から受ける印象によって「情歌」(じょうか)ともいう。江戸末期から明治にかけて愛唱された歌で、七七七五の』二十六『文字でさえあれば、どのような節回しで歌ってもよかった。現今のものは、初世都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)の曲調が標準になっていると伝わっている。江戸で歌い出されたのは』一七九〇『年代(寛政期)のことで、「逢(あ)うてまもなく早や東雲(しののめ)を、憎くやからすが告げ渡る」などが残っている。人情の機微を歌ったものが多いが、最盛期に入る』一八五〇『年代(安政期)以降は、さまざまな趣向が凝らされ、東海道五十三次や年中行事、あるいは江戸名所といったテーマ別の歌も現れてくる』。一八七〇『年代(明治期)になると、硬軟の二傾向が明確になる。文明開化を例にとると、「ジャンギリ頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」「文明開化で規則が変わる、変わらないのは恋の道」などである。このうち、硬派の路線が自由民権運動と結び付き、思想の浸透に一役買っている。すなわち、高知の安岡道太郎は「よしや憂き目のあらびや海も、わたしゃ自由を喜望峰」といった歌をつくり、『よしや武士』と題する小冊子にした。立志社の活動に用いられたのは、いうまでもない。大阪でも『南海謡集』(なんかいようしゅう)が出版され、「君が無ければ私(わた)しの権も、鯰(なま)づ社会の餌(えさ)となる」と、板垣退助を称賛している。とにかく、都々逸は全日本人の間に行き渡っていたので』、明治三七(一九〇四)年、黒岩涙香は『歌詞の質を高めようと、「俚謡正調」(りようせいちょう)の運動を提唱した。おりから』、『旅順攻撃の真っ最中で、涙香が経営する『萬朝報』(よろずちょうほう)に発表された第一作は、「戟(ほこ)を枕(まくら)に露営の夢を、心ないぞや玉あられ」であったが、都々逸の衰退とともに、この運動も』一九三〇『年代(昭和初期)に消滅した。なお、名古屋の熱田』『で歌われた『神戸節』(ごうどぶし)を都々逸の起源であるとみなす説もある』とある。]

 

 前生觀と未來再生觀を反映してをる歌謠は恐らく西洋人にとりて格段に興味が多からうと思ふ。併しそれは詩歌として價値が多いといふのでは無くて寧ろ比較的に珍らしい思想がその中に含まれてをるからである。この種の想像を宿した詩は英吉利の文學に於ては極めて稀であるが、日本では多ひに過ぎる程澤山あつて寧ろこのやうな思想は陳腐であるとさへ考へられてをる。ロゼッティーの『光りは俄然と』と題した詩のやうな美しい文藝的作品は――この詩が私達の心を魅するのは主として或る一つの透徹した精緻な思想がその中に宿つてをるからであつて、然かもその思想が過去一千八百年の久しきに亙つて私達の凡ゆる正敎固執主義の因習に依つて呪詛されてをつたのであるが――日本人に興味を與へることが出來るが、それはただに日本の最も無智な百姓でも常に起し得るところの空想乃至感情を西洋人が珍しくも飜譯的に改作したのだと思ふ程度に過ぎぬのだ。それにしても何人といへども是等の日本の歌謠の中に――或は寧ろ私自身が頗る無味乾燥的に譯して仕舞つたところの是等の拙譯の中に――ロゼッティーの神韵[やぶちゃん注:「韵」は「韻」に同じい。]漂渺たる思想その物の俤をすら見出すことが出來ぬのは明白である。

[やぶちゃん注:「ロゼッティーの『光りは俄然と』」“Rossetti's "Sudden Light,"”。イギリスの画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 一八二八年~一八八二年)の、詩篇“Sudden Light”(「閃く光」)。「梅丘歌曲会館 詩と音楽」のこちらに原詩と藤井宏行氏の対訳「突然の光」が載る。以下、小泉八雲はその原詩を引いているのであるが、何故か、第三連をカットしている。以下にまず、上記サイトの原詩を引く。

   *

 I have been here before,

   But when or how I cannot tell:

  I know the grass beyond the door,

   The sweet keen smell,

The sighing sound,the lights around the shore.

 

 You have been mine before,――

   How long ago I may not know:

  But just when at that swallow's soar

   Your neck turned so,

Some veil did fall,-- I knew it all of yore.

 

  Has this been thus before?

   And shall not thus time's eddying flight

  Still with our lives our love restore

   In death's despite,

And day and night yield one delight once more?

   *

小泉八雲の引用は以下である。

   *

     I have been here before,—

       But when or how I cannot tell:

     I know the grass beyond the door,

       The sweet, keen smell,

   The sighing sound, the lights along the shore.

 

     You have been mine before,—

       How long ago I may not know:

     But just when at that swallow's soar

       Your neck turned so,

   Some veil did fall,—I knew it all of yore.

   *

 以下の訳詩は全体が四字下げであるが、一字下げで引き上げた。]

 

 是所ぞ、我執その昔(かみ)、住みにし所……

 されど何時? 如何に?

 そは、いかで語りえん。

 草は扉(とぼそ)の彼方に、

 (汐風)は强く、香ばしく、

 (波)の昔、かこつが如く、

 光りは岸に沿うて、

 これぞ、我が知れる物。

 

 汝(いまし)、以前(もと)、我(わ)が有(もの)……

 されど幾年(いくとせ)の昔?

 そは、いかで知りえん。

 燕(つばくら)の高く舞ふ時、

 汝(いまし)の頸(うなじ)動(ゆる)ぎて、

 面掩巾(ヴエール)は地に……

 これぞ皆、我が知ろにしことか、その昔(かみ)。

 

譯者註 この詩ば小泉先生が最も愛誦された英詩の一である。詩の大體の意味は二人の新婚の夫婦が靜寂な海岸に佇みながら何とはなしに汐風に吹かれてかる間にふと前世のことを思ひ出したといふ意味なのである。卽ち夫はこの磯邊は遠い遠い昔住んだことのある所だと感じたが、併しそれが何時のことであつたのか判然と記憶してをらぬ。と同時に我が新妻も遠い遠い昔既に我が戀人であつた樣に感じて來たのであゐ。その時燕が一つ高く空中に翔んだ。妻の白い頸筋がその燕の方へと向けられた。その刹那彼は俄然として彼の過去世も明確に意識した。そして彼の眼前に在る一切の物は彼が前世に於て既に知つてをつた物であることを悟つた。面持巾(ヴエール)が地に落ちたといふ句は心の曇りが晴れたことを意味するのであらう。譯中に(汐風)、(波)等とあるのは小泉先生の解釋を尊重する意味で特に原詩に無い語を挿入ら譯だ。

[やぶちゃん注:小泉八雲が最終連をカットした意図は私には分らない。ともかくも、第三連の私の拙訳(文語訳。金子氏に合わせた)を示しておく。

   *

 こは斯くも昔のことなりしか?

 成す能はざるや? 時の渦卷を飛翔し、

 猶ほも亦、我等が生に我等が愛をば甦らせ、

 然(しか)も、死さへ超越し、

 而して晝にも夜にも、今一度――歡喜を齎(もたら)さんことを……

   *]

 

 西洋の夢の神苑(みその)に實(みの)つて然かも神の嚴命に依りて人間の口に入ることを許されてをらぬ果實! そしてこの果實と同じ意味に見られてをつた思想は、今やロゼッティーに依りてかくの如く謎でもかけるやうに巧妙に取扱れたのであるが、この不可解な詩人的態度はかの古い東洋の宗敎から直接に湧いて來るところの日本人の每日の叫びに比して實に明々白々たる事實的相違を持つてをる。例へば日本の歌謠にかういふのがある、

 

譯者註 原文に日本の歌謠を羅馬綴りで示してないのは、英詩そのままに直譯することにした。これにその出所が不明であるばかりでなく、小泉先生がこれを耳で聽かれたのか、それとも書物で讀まれたのかそのへんのことも不明だからである。

[やぶちゃん注:以下、歌謡(都々逸)の引用は底本では四字下げであるが、一字下げとした。長いそれ(「(大意)」などと着くもの)はポイントが激しく落ちるが、本文とポイントで示した。]

 

 色は思案の外とはいへど、これも前生(さきせう)の緣であろ、

 

註 緣とは親和といふ意味の佛語(ぶつご)である、生から生への因果關係を表す語。

 

 二つ結んだ纜(ともづな)さへも、遠い前世の契り綱、(大意)

 

 袖觸(す)り合ふのも他生の緣よ、況(まし)て二人が深い仲、

 

 この樣な親切な男と同棲してをるのだからこの世は果報、私は前生の善報をこの世で收穫してをるのだ、(大意)

 

註 佛語の果報は通常カルマ卽ち因果、因緣等と同意義のものとして用ひられてをる。前世の行の惡報よりは寧ろ善報を表す場合が多い。併し時としては善惡兩樣に用ひられることもある。ここでは通俗的に果報の善い人卽ち幸運な人といふ意味に用ひてあるやうだ。

[やぶちゃん注:「カルマ」“Karma”。「業(ごう)」。もとはサンスクリット語で「行為・所作・意志による身心の活動及び意志による身心の生活」を意味する。仏教及びインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によって、それ相応の楽又は苦の報い(果報)が生じるとされる。]

 

 この種の歌謠の多くは槪ね情人同志が二世も二世も奘らうとする時に誓以合ふ習慣を述べたもので、その源は佛敎の格言に胚胎してをる。卽ち

 

親子は一世、

夫婦は二世、

主從は三世。

[やぶちゃん注:辞書その他で平然とこの説を掲げているが、これは私は思うに、中世から近世の、歴史的には新しい転生縁故認識ではないか? 三番目の「主從」がそれをよく物語っているように思われるのだ。]

 

 夫婦の關係がこのやうに二世だけに限定されてはをるが場合によりては熱烈にも七世までかけて誓つてをる實例も屢〻在る[やぶちゃん注:「七生」はこれ自体が永遠の謂いであり、これも南北朝初期の楠木正成の「七生報國」以降に人口に膾炙するようになったやはり新しいもので、私は正直、甚だ好かぬ言葉である。]。これは日本の戲曲が實際に證明してをるのみならず、戀愛のために自殺した者の書置が事實的に證據だて〻をる。次の例はこの題目を取扱つてをる點で特色のあるものだ――熱情から諷譏へと調子が變つてゆく點で――

 

髮は斬つても二世までかけた、深い緣(えにし)は切るものか、

二世と契りし寫眞をながめ、思ひいだして笑ひがほ、

とてもこの世で添はれるならば、蓮の臺(うてな)で新世帶、

 

註㈠ 髮を斬るといふことがあるからにはこれは女が主人公である。恐らくこの女の夫又は許婚[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]の戀人が死んだのであらう。彼女は佛敎徒の習慣によつて亡夫の菩提を弔ふために己が黑髮を斬つて貞操を守る心をここで表したのである。この題目に關する委しき事柄は私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”及び “Of Women's Hair.”を參考して貰ひ度い。

[やぶちゃん注:最後の「及び」は誤訳。間には、“the chapter,”と入るから「“Glimpses of Unfamiliar Japan”の中の“Of Women's Hair.”の章を」である。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十八章 女の髮について (一)』から全八回である。但し、死んだ夫へのそれは一番最後の「八」でやっと出てくるので、言い添えておく。]

註㈡ ここには寫眞といふ言葉が用ひてあるからこの作は時代は古く無い。

註㈢ 二人の情人が一緖に自發的に自殺するといふ思想はここに胚胎してをる。これは情死歌と名をつけることが出來よう。

 

 二世までと約した間ではないか、今離れる位なら私は死に度い、(大意)

 

 さあ何としよう、二世かけた二人であるに、二人坐つた時に、三味線の絲がぷつつり切れて、(大意)

 

註 謠ひ女[やぶちゃん注:「うたひめ」。ここは芸妓。]の間では三味線の絲がこのやうな時に切れて仕舞ふと近い間に離別の悲が來ると考へられてをる。

 

 三世の因果を說いて二人の中の約束を固めるとは實に橫着な僧である、(大意)

 

註 獨身生活か守ることを誓つておきながらその戒か破つた僧侶のあることを歌つたもの。

 

 人間は幾度も幾度も殆ど限り無しに生を易へるやきに運命づけられてをるものである。併しそれかといつてただ一つの生の刹那的幸福はそれ自身に於て貴さが劣るといふことにはならぬ。例へばかうある、

 

 一夜會はぬのは實に悲の原因になる、何故ならばただ一生涯の中に同じ夜は二度と來ぬから、(大意)

 

 だが、例年に無く暑い夏は、例年に無い酷寒の冬を豫言し得ると同樣に、この生に於て餘りに幸福であるのは來世に於て大なる苦を受けることを表す、

 

 いつも私はこの樣に苦しんでばかりをる、恐らく私は前世で幸福が過ぎたのであらう、苦み方が足らなかつたのだ、(大意)

 

 前世と後世の信仰を歌つた歌謠が外來思想(佛敎思想)に依つて影響されたものであることは上述の如くであるが、これにつぐべきものは因果卽ちカルマの敎を說いた歌謠である。私は是等の歌謠の中から數種の自由譯をこ〻に提供すると共に、都々逸よりはもつと手のか〻つた、そして普通はもつと長い形式を有つてをるところの端唄の中からも類例を上げることにした。私の選んだ端唄は少くともその原形に於て――螢に關する美しい眞喩(シミリー)[やぶちゃん注:“simile”。直喩。]を含んでをる――非常に立派な物である。

 

 泣かないで私の方を向いて下さい、私の嫉妬心は皆消えて仕舞つた、不親切なことをいうたのを許して下さい、因果の力が私の舌の眼を抑へつけました、(大意)

 

 これは明かに嫉妬深い情人が己が罪を後悔して相手の女に許しを請うてをる有樣を歌つたものである。そして次の例は恐らくこの情人のために泣かされた女の返答である。

 

 妾[やぶちゃん注:「わらは」。]は何の因果で貴郞[やぶちゃん注:「あなた」。]の樣な不實な男と戀仲になつたのだらう、(大意)

 

 或は又このやうに叫んでをる、

 

 めぐる緣かや車の私、引くにひかれぬこの因果、

 

註 ここに言葉の戲れがあつて私が特に英譯しないで置いたものである。大體の意味は許婚[やぶちゃん注:「いひなづけ」。]又は結婚した男女の不幸を歌つたもので、遲まきながら女の方からその結婚を語らうとしてをる意がここに現れてをる。

 

 因果の車といふことに關してもつと著しい例は次の如くである。

 

 親の意見であきらめたのを、又も輪𢌞で思ひ出す、

 

註 作詩の輪𢌞又は輪轉車の𢌞りといふ意で、生から生への移りゆきを表す言葉である。ここでいふ輪とは迷ひの大車卽ち因果の輪のことである。

 

 ここに端唄の實例がある、

 

 可愛い可愛いと嗚く蟲よりも、鳴かぬ螢が身を焦す、

 何の因果で實なき人に、しんを明かして嗚呼悔し、

 

 若し以上の歌謠が私達と心理的に全く正反對の立場に在るところの人達のみに依つて作り出さる〻ものとするならば、かの無常轉變の大法を攝取し耀映[やぶちゃん注:「えうえい(ようえい)」。照り輝くこと。時めき栄えること。栄耀。]したところの民謠その物の類聚に於てこれと全く異つたもの〻あるのを認むるのである。例へば一切の物質的事物が悉く不定滅却の相を具へ、現世の快樂は如法空虛の蔡であるといふ思想は基督敎も佛敎も大いに一致してをる點である。併し此二者の間に存する大きな相違は、私達が靈的の物についての兩者の敎――特に自我の性質に關しての兩者の說明の方法を比較した場合にのみ見出さる〻のである。但し自我その物が一つの非永遠的の混合體であるとか、或は物我は眞の識に非ずと說いてをる東洋の敎は、是等の流行歌の中に稀に現れてをるのみである。普通の人には自我といふ物がある。自我は一つの眞なる――假令それは增加性を有するものであるにせよ――人格それ自身であつて、生から生へと推移してゆくものである。深遠玄妙な敎は私達が自我であると自ら想像してをる物は實は全部私達の迷ひ――因果に依りて編れたところの闇冥の掩ひ[やぶちゃん注:「おほひ」。]――であつて、無限の自我、永遠の絕對以外に如何なる自我も存在し得ずと說いてをる。併しこれを理解し得る者は僅に敎養のある佛徒のみである。

 次に揭げた都々逸の中には普通の經驗に一致してをるところの思想乃至感情が多分に含まれてゐる。

 

 月に村雲、花には嵐、とかく浮世はま〻ならぬ、

 

註 これは特に不遇の戀愛を歌つたもので、二つの佛敎の諺の月に村雪花に風ままにならぬは浮世ならひ――あてが外れて失望するのはこの物憂き世界のつねである――といふ意を取入れたのである。浮世――飛去る又は不幸なこの世の意――といふ言葉は佛敎で最も普通に用ひられてをる常用語の一つてある。

 

 梅の香ばしい花が咲いたかと思つたら無常の風が吹いて來て散つて了つた、(大意)

 明日ありと思ふ心のあだ櫻、夜半に嵐の吹かぬものかは、

 影も形も消ゆればもとの、水とさとるぞ雪達磨、

 

註 達磨は禪宗第二十八代の師組であつて長い歲月の間面壁禪をやつたために双脚を失つたと傳云。脚の無い多くの玩具の人形に彼の名がついてをる。この玩具の達磨は脚は無いが能く體の平均も保つ

てゐていくら倒しても、いつも、もと通りに起上る。亦日本の子供の作る雪人形昔から同型を持つてをる。[やぶちゃん注:底本は「雪 形」と脱字。原文“The snow-men made by Japanese children have the same traditional form.”から推理して「人」とした。]

私が是等の歌謠を英語に譯した時、私のために助力してくれた日本の友人があつたが、その人は私に前記の歌謠の中に出て來た影といふ語を說明してきかせたが、それによれば、この語は或る靈的の意味を伴つてをるさうだ。してみゐとこの語にこの歌謠の全體に亙つて更に深遠な意味をつけ加へることになる。

 

 十五夜の月の如く、heart は十五歲迄。十五になると光りが衰へて闇が來る、戀ひといふもののために、(大意)

 

註 陰曆に依れば月の十五夜は常に滿月にゐたつてをる。この歌謠の中に出て來る佛敎引喩は迷ひ卽ち愛執の迷ひといふことである。そしてこの心の迷ひなるものを更に正道を暗くする闇その物にたぐひたのである。

 

 變る憂世に變らぬ物は、變るまいとの戀の道、

 ほんにつれないあの稻妻は、ふため見ぬうち消えてゆく、

 

註 佛敎で電火(いなづま)の光(ひかり)、石の火――燧石の閃光――をもつて一切の快樂の一時的なることを象徴してをる。ここではこれを戲れに用ひたのである。この歌謠は情人と會ふことの餘りに短いことか嘆じたものでゐる。

 

 可愛がられてつらさはまさる、ほんに憂世は歎きの巷、(大意)

 

註 戀ひはしてをるが嫉妬心の强いところの女が歌つたものである。私の日本の友人はこれを次の如く解釋した。曰く、男が親切であればある程、女の方ではその男が他の女と關係してその女に對しても同樣に親切であるだらうと心配して氣も狂はんばかりになつてをる、その意をこの歌で表しらのである云云。

 

 老少不定の身でありながら、時節待てとはきれことば、

 

註 老少不定は佛語である。この歌謠の意は下の如くである。この世の事は皆不定であるのに、私に婚禮することを待てといふのは實際貴殿(あなた)は私を愛してをらぬからだ、何故なら貴殿(あなた)のいはれる時節が來ないうちに私達二人の中の何れかが死なぬとも限らぬから。

 

 會ふは私の原因(たね)とは知れど、會はぬ歎きはなほつらい、(大意)

 

註 生者必滅、會者定離及び哀別離苦の佛書の句に據る。

 

 一つになることを考へて喜んでをるが其の反面に於て夕の笑[やぶちゃん注:「ゑみ」。]が曉の淚の源となることのあるのを忘れてをる、(大意)

 

 無常を敎へてをる俗謠が一面にあるかと思へばその反面には次の如き都々逸もある。

 

 あだな笑顏に迷はぬ者は、木佛、金佛、石佛(いしぼとけ)、

 

註 石佛とは特に墓地に置かれてある石の佛像のことである。この俗謠は日本の隨所で流行してをる。私は各地でこれを聽いたことが幾度もある。

 

 然らば何が故に木佛、金佛、石佛がそのやうに無情であるか。それは活佛(いきぼとけ)は次の例にもある如く――これは滑稽的に非禮を犯したものではあるが――木佛、金佛、石佛のやうに無感覺の者で無かつたのは明かであるが故である。

 

 憂世を捨てよとはそれや、釋迦樣(逆さま)よ、羅睺羅(らごら)といふ子を忘れてか、

 

 しゃかむに(釋迦牟尼)はさきゃむにを日本風に譯した形である。故に釋迦樣とはさきゃ樣又は佛陀樣といふことになる。併し逆さまは日本語であべこべ又は顚倒の意に用ひられてをる。だから釋迦樣逆さまの發音差にはこの地口[やぶちゃん注:「ぢぐち」。語呂合わせ。]を示すだけの餘地が一寸ある。不安の戀には非禮の罪は免れぬ。

[やぶちゃん注:「羅睺羅(らごら)」原文“Ragora”。原注で“Râhula”。釈迦の実子で、後に釈迦の十大弟子の一人に数えられた人物。サンスクリット語「ラーフラ」(ラテン文字転写:Rhula)の漢音写。羅羅が生まれた時、「障害(ラーフラ)が生じた」と父ゴータマ・シッタルダ(釈迦)が語ったことから、この名がついたと伝えられているが、寧ろ、一男子の出生が釈迦を安心して出家の道に入らせる要因となったと考えられてもいる。釈迦は羅羅を半ば強制的に出家させたが、彼は少しも奢るところなく、二十歳で具足戒を受け、また、戒律の微細な規則まで厳格に守ったことから、「密行(みつぎょう)第一」と呼ばれるに至ったという(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「不安の戀には非禮の罪は免れぬ。」訳が生硬で前との繋がりが判りにくい。“Love in suspense is not usually inclined to reverence.”であるから、「不安のただ中にある恋には通常のような(神聖なる仏に対して)敬意を払うゆとりなど、ないのである。」の謂い。]

 

 囘向するとて佛の前へ、二人向ひてこなべだて、

 

註 佛とは死者卽ち一人の佛のことである。これは私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”及び[やぶちゃん注:この「及び」は不用な誤り。「の」でよい。]“The Household Shrine”に揭げてある[やぶちゃん注:私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (九)』を参照されたい。また、その次の次である同『第十七章 家の内の宮 (十一)』の〈仏(ほとけ)〉と〈新仏(しんぼとけ〉の説明も見られたい。]。こなべだてとは情人同志の祕密會談をやることを表す日本の慣用語である。ちんちん鴨鍋――一つの鍋で鴨を煮て食べること――といふ句から出たものである。相思の男女か同一の膳で食事する樂みを形容したものに外ならぬ。ちんちんとは鴨鍋の液汁が沸騰する時の音を寫した語である。

 

 次に戀の邪魔者に對しては、かう言うてをる。

 

 花を凋落させる風と雨は憎い奴ではあるが、それよりも憎い奴は戀路の邪魔をする者、(大意)

 

 それでも神々のお助けを一所懸命に願つてをる。例へば、

 

 戀の闇路にお百度踏んで、主(ぬし)に會ひ度い神賴み(大意)

 

註 お百度といふことは百度お宮に參拜して一度每にお祈りをすることである。戀の闇路とは愛は迷ひより生ずるものなるが故に心の闇の有樣を表すものだといふ佛敎用語でゐる。主(ぬし)とは主人、持主又は屢〻地主といふ意味に用ひられることがある、戀愛上に關して用ひられる場合には愛着の心を起させた主人公卽ち情人を意味することとなる。

 

 次に揭げた戀愛歌謠に於て興味のあるのは佛敎引喩に主として關係してをることである。

 

 春の河原と主(ぬし)待つ宵は、こひしこひしが山となる、

 

註 この俗謠には實に美妙な語呂合せが仕組まれてをる。こひしは文字に書かないでただ音の上だけで見れば小石又は戀ひしといふことで、ここに言葉の戲れがある。次に賽の河原とは空想上の河床のことであつて、其所へ子供達の亡靈が小石を積みに往かなくてはならぬことになつてをる。ところが可哀相にもその石の重量が彼等の力を極度に緊張させるやうに增加してくるのである。この歌にはこれ以外になほ「地藏和讃」の句、卽ち是等の飢鬼が彼等の父母をもつて父こひし母こひしといつて叫ぶその聲を引用してをる。これは私の“Glimpses of Unfamiliar Japan”の卷一、五九―一六一頁にある。

[やぶちゃん注:最後の注記の原本はここ(右ページ)と、ここ(見開き総て)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第三章 お地藏さま (九)』を参照されたい。私はその注で「地藏和讃」も引用してある。]

 

 戀の闇路に迷うてゆけば、明るい世界がよく見える、(大意)

 

註 戀の闇路を遠く步いて來た者は俗事がよく分るといふ意である。

 

 冷い心で外部から見れば戀ほど実に馬鹿なものは無いが、迷つた經驗の無い者では戀の味は分らぬ、(大意)

 

 三千世界に男はあれど、主(ぬし)にみかへる人はなし、

 

註 三千世界といふ言葉は佛敎で用ひられてをるものである。

[やぶちゃん注:「三千世界」「三千大千世界」の略称。仏教の宇宙観では、一世界とは須弥山(しゅみせん)を中心として九山八海、四洲(四天下)や日月などを合わせたものであるが、この一世界が 一千個集ったものを小千世界という。この小千世界が一千個集ったものが中千世界,この中千世界がさらに一千個集ったものが大千世界であるとする。この大千世界は小・中・大の各千世界から成っていることから、三千世界或いは三千大千世界と称する(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 

 浮氣に見えても操は堅い、泥の中から蓮(はちす)が生える、(大意)

 

註 佛敎で常用してをる直喩(シミリー)に西洋の讀者がこの英譯から想似し得る以上にここで顯著にあらはれてをる。是等の言葉は本職の唄ひ女[やぶちゃん注:芸妓。]か又は女郞の言葉であると想像されてをる。女郞の職業は嘲弄的には泥水家業と呼れてをる。女郞が自己辯護のために佛敎で用ひらゐる有名な比喩――泥中の蓮――をここで格段に且つ熱心に引用してをるところに興がある。

 

 血の池地獄も劍の山も、二人連れなら厭ひやせぬ、

 

註 血の池地獄は女の地獄である。劍の山は男が特に地獄で罰を受ける場所として一般に佛書に書いてある。

[やぶちゃん注:この男女の地獄での区別は、具体な地獄思想がでっち上げられた中国で生まれたものであろう。平凡社「世界大百科事典」の「血盆経(けつぼんきょう)」の記載を参考にすると、「仏説大蔵正経血盆経」と題して収められている全四百二十余字からなる小経があるが、それは、血の穢(けが)れ故に地獄へ堕ちた女人を救済するための経典であるとする。中国では明・清代にかなり広く流布していたもので、仏教・道教及び、ある特定結社のものなどが存在しており、内容も多少異なってはいるが、孰れも「血に関わる罪を犯した者は血の池地獄に堕ちる」と説かれている。一方、伝来し改変された本邦の「血盆経」では、「出産や月水の血によって地神・水神等を穢した女性のみが血の池地獄に堕ちる」とされているという。仏教伝来以前の古来から、日本には血を忌む思想が存在し、これに仏教の女性不浄観が習合し、女は血を流す存在であるがゆえに不浄、その墜ちる地獄としての血の池という短絡的な形成が見てとれると言えよう。一方の、「劍の山は男が特に地獄で罰を受ける場所」であるが、所謂「針の山地獄」に相当する「剣林処」にはそのような属性はない。しかし、私はこれは衆合地獄にあるとする「刀葉林(とうようりん)」地獄のことを指していると考える。ここは好色な人生に生きた男、それこそここに相応しい浮気ばかりした男が墜ちる地獄で、高い樹の上に裸体の美女が立っていて木の根元にいるその男の亡者を手招きする。男がむらむらときて樹にとりついて登り始めると、樹の幹は総て刀剣となり、枝葉は鋭い針となる。それでも性欲に任せて男は攀じ登らざるを得ず、結果、男の体は全身傷だらけとなる。さても木の頂きに達すると、美女はいない。下を見下ろすと、彼女は木の下にいて再び手招きする。そして男はまた体を切り傷つけつつ、木を降りる。しかし、美女はまたしても樹上にいる、という行為を永遠に続けるのである。男限定の落ちる地獄として、これはヴィジュアルに腑に落ちよう。]

 

 墨の衣に身はやつさねど、心一つは尼法師、

 髮は斬らねど心は佛、こん度會ふ迄尼法師、(大意)

 

 このやうにいうてはをるもの〻、法師でも尼でも迷ひの力から脫却することが困難なこともある。例へば、

 

 墨の衣をつけてはをれど、戀の闇路に迷ひ入る、

 

 私は都々逸の極めて眞面目なもの〻中から主として是等の實例を以上の如く選み出したのである。併し輕い氣持で謠つた都々逸の中には恐らくもつと屢〻佛敎引喩が宿つてをること〻思ふ。次にこの種のものを五組だけ舉げて數百種の見本に代へることにする。

 

 餘りに迅速(あはただしく)に話したので思ひ出すことが出來ぬ、そのために戀人は閻魔顏で願ひを容れる、(大意)

 

註 この意味はこの男が履行しようと思つてをる事柄以上のことを輕率に約束して了つたといふ意に外ならぬ。閻魔――梵語の Yama ――地獄の王又は靈魂の裁判人といふことである。佛典及び佛畫に書いてある閻魔は見るからにそれは恐しいどころの話では無い。この歌謠の中にある句は佛敎の俚言に借りるときの地藏顏返す時の閻魔顏とあるのに明かに關係を持つてをる。

 

 私は佛顏でその願ひを三度聽いてやつたが餘りに願ひが多いのでその後は閻魔顏で聽くでせう、(大意)

 彼等は一緖に樂んでをるが彼等のボートの下は地獄だ、河風よ早く吹け、私のためにつむじ風よ吹け、(大意)

 

註 地獄は種々の地獄を總稱した佛敎用語である。ここで言つてをることは船板一枚下は地獄といふ句、卽ち海上の危險を形容した句に關係してをる。この歌に嫉妬を皮肉つたものである。ここでいふ小船は恐らく屋根のある遊覽で管弦の遊びに用ひられるやうな物であらう。

 

 私は彼をとどまらせるために今鳴いた烏は月夜烏だというたが甲斐が無かつた、暁(あけ)の鐘は淋しくひびく、(うそを)つけない鐘が……(大意)

 (月夜烏といふてはみたが、うそのつけない曉の鐘)

 

註 月夜烏とは普通の烏が曉を告げるのに反して夕陽の沒する頃から旭日の昇る時迄常に嗚いてをる烏である。次に鐘とはお寺の鐘のことである。暁(あけ)の鐘は日本の各地でお寺から響いてをる鐘のことだ、次の句には洒落がゐる。卽ちつけないうそをつけないの意味と鐘をつけないの二つの意味を音の上に於て持つてをると解釋することが出來よう。

 

 三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と朝寢がしてみたい、

 

 私はこの最後の歌を珍しい物といふ意味で引用した。その理由はこれには不思議な歷史があるばかりでなく、この歌が直ぐその前に揭げた歌に類似した或る歌で明かに眞意が示されてをるとはいふもの〻、實際は外見と事實とは相違してをるからである。これは勤王の志を歌つた俗謠であつて、その作者は長州の木戶さんであつた。木戶さんはあの將軍家を顚覆して王室の權力を恢復し、日本の社會を造り直し、西洋の文明を輸入し適用するに至らしめたところの大運動の指導者の一人であつた。木戶、西鄕、大久保は明治維新の三傑だといはれてをるのは當然のことである。木戶さんはその友人の西鄕さんと一緖になつて京都で彼の計畫をたて〻をつた間にこの歌を彼の眞情の發露したものとして作り且つ謠つたのである。三千世界の烏といふ句は德川派を表現したものである。主(ぬし)(君主又は心の主)とは天皇を指示したものである。そへねは――共に寢ることであつて、將軍や大名から新たに妨害を加へられること無しに、玉座に對して直接の責任を帶び度いと望んでをる意を示したものである。これはかの率直な言葉で發表したならば暗殺を招いたかも知れぬやうな意見を吐露するための手段としてわざと流行唄を用ひたものであつて、これは日本の歷史上に於て必しも最初の實例では無かつた。

[やぶちゃん注:解説との齟齬で判ると思うが、金子氏は最初に提示した小唄を一般的な本邦でのそれに変えて訳してある。原文ではローマ字で、

    San-zen sékai no

    Karasu wo koroshi

    Nushi to soi-né ga

    Shité mitai

(三千世界の烏を殺し、主(ぬし)と添寝がしてみたい)となっている。

「木戶」木戸孝允(きど たかよし/こういん 天保四(一八三三)年~明治一〇(一八七七)年。和田小五郎・桂(かつら)小五郎とも称し、新堀松輔の変名も用いた)は長門萩藩医和田昌景の次男。桂孝古の養子。嘉永二(一八四九)年吉田松陰の松下村塾に入り、後、江戸に遊学した。慶応元(一八六五)年、木戸と改姓。西郷隆盛と薩長同盟を結び、倒幕を謀る。明治新政府の中枢にあって、「五箇条の誓文」の起草や版籍奉還・廃藩置県を主導した。明治三(一八七〇)年には参議となり、翌年には岩倉遣外使節団の全権副使を務めた。内政重視の立場から征韓論や台湾出兵に反対し、独裁を強めていた大久保利通と対立、政権の主流から離れた。西南戦争の最中の明治十年五月二十六日に四十五歳で病死(推定ではアルコール性肝硬変とも)した。但し、本唄は高杉晋作(天保一〇(一八三九)年~慶應三年四月十四日(一八六七年五月十七日:長州藩士。長州藩士高杉小忠太の子。吉田松陰の松下村塾で久坂玄瑞と共に双璧と称され、後、江戸の昌平黌に学んだ。藩命により、奇兵隊を組織し、総監となり、四国連合艦隊の下関砲撃事件では講和に当たった。後に九州に一時亡命したが、挙兵して藩政を握り、藩論を討幕に統一し、第二次長州征伐では全藩を指揮し活躍したが、結核のため二十九歳の若さで亡くなった)は、江戸時代若しくは木戸孝允の孰れかが品川遊郭の土蔵相模で詠んだと伝えられるものである。「朝寝」は「あさい」とも読まれる。]

 

 私は木戶さんの歌に關して上の如く說明してをる間に、佛敎用語の三千世界(讀者の知らる〻通りこの集で二囘起つてをるが[やぶちゃん注:「登場しているが」の意。])といふことは私に二三の感じを與へてくれたから、その事柄をこ〻で述べてこの論文を適當に片附けて仕舞ふやうにする。私は數年前に初めて佛敎哲學の大樣を知らうと志した時、特に私の心を刺激した一つの事柄は佛敎の宇宙觀の廣大無邊なことであつたと記憶してをる。私は佛敎を硏究して感じたことは、この宗敎はただに人類の住んでをる一世界に對して救世の信仰を授けてくれたのみでは無くて、幾千萬劫の無量恆河沙の世界の宗敎として現れて來たものであつた。故に星辰の進化離滅に關する近世の科學的示現は、私の考によれば、宇宙の原則についての或る佛敎理論の大斷案の如きものである。そして私は今でもなほこの考をもつてをる。

 今日科學者は天體が物語つてをるところの新しい物語の驚くべき暗示を無視することは出來ぬ。今日の科學者は所謂心なるもの〻發達を目して宇宙を通じての惑星の生命成熟の一般的事相乃至出來事であるとして考へざるを得なくなつて來た。彼は私達自身の小さな世界と星辰及び天體の大集團との關係を比較して、恰も、ただ一つの夜光蟲と大海の燐光との關係以上のもので無いと觀察せざるを得ぬのである。東洋人の知力はこの驚くべき示現に接するや、これを以て彼等に悲みを加へるための知識としてよりは寧ろ信仰を促すための知識としてこれを認め得るやうに心の準備が出來てをつた。特にその點では西洋人よりは好都合であつたのだ。私は西洋人の知識と東洋人の思想とが將來何等かの結合をつくり得るやうになつたならば、その結果として、一種の新佛敎が新たに生れて來て、それが一切の科學の力を己れ自らの中に繼承し然かも内部的にはかの『金剛經』第十二章に預言してあるところの報酬を以て、これが眞理を求むる者に報い得ることを思はざるを得ぬ。今この經文をその儘に示せば――註釋家の言はともかくとして――彼等は無上の驚異を授けらるべし[やぶちゃん注:底本では「し」に傍点がなく、「と」にあるが、特異的に以上のように勝手に処理した。]いふ句に於て既に約束してあるところの報酬よりも、もつと多くの物が、如何なる精神的敎訓の中からでも果して公平無私に期待し得るや否や。

[やぶちゃん注:「金剛經」原文“the Sutra of the Diamond-Cutter”。大乗仏教の般若経典の一つである「金剛般若経」、正式名称「金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう」の略。サンスクリット語ラテン文字転写で「Vajracchedikā-prajñāpāramitā Sūtra」(ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)。ウィキの「金剛般若経」によれば、原題は「ヴァジュラ」(vajra)が、インドラの武器である「金剛杵」或いは『「金剛石」(ダイヤモンド)、「チェーディカー」(chedikā)が「裁断」、「プラジュニャーパーラミター」(prajñāpāramitā)が「般若波羅蜜」(智慧の完成)、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「金剛杵(金剛石)のごとく(煩悩・執着を)裁断する般若波羅蜜(智慧の完成)の経」の意』とある。平井呈一氏の恒文社版「日本の俗謡における仏教引喩」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)の訳者注では、同経の第十三章の内容としておられる。但し、私が調べたところでは、「離相寂滅分第十四」の末尾のようである。原文は以下。

   *

須菩提、當來之世、若有善男子善女人、能於此經受持讀誦、則爲如來、以佛智慧、悉知是人、悉見是人、皆得成就無量無邊功德。

   *

平井氏のそれを参考にしつつ、勝手流で訓読しておく。

   *

須菩提(しゆぼだい)、當來の世(せい)に、若(も)し、善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんによにん)有りて、能(よ)く此の經に於いて受持(じゆぢ)し讀誦(どくじゆ)せば、則ち、如來は佛の智慧を以つて、悉(ことごと)く是(この)人を知り、悉く是人を見、皆、無量無邊の功德(くどく)を成就することを得(う)と爲(な)す。

   *

「須菩提」は釈迦十大弟子の一人で解空第一・被供養第一・無諍第一と称される「スブーティ」(Subhūti)のこと。「金剛経」は彼が釈迦に菩薩の在り方について問い、釈迦がそれに答える問答形式をとる。]

2019/12/01

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「六」・「七」 / 大阪にて~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。原本との章番号の差異は、原本自体の誤りであることは既に『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」』の「五」の前の私の注で述べた。

 

       

 私は前の論文で、日本の都會は木造の小屋の荒野に過ぎないといつた[やぶちゃん注:本作品集の前の「心」(“Kokoro”。明治二九(一八九六)年刊)の第二話“THE GENIUS Of JAPANESE CIVILIZATION”。「日本文化の神髄」の第一章の終りで“A Japanese city is still, as it was ten centuries ago, little more than a wilderness of wooden sheds”(「日本の都会は、未だに十世紀前のように、木造の小屋の荒野に過ぎない」)と言っている。後日、電子化予定。]。して、大阪もまたこの例に洩れない。しかし家屋の内部に於ては、いかなる日本の都合の脆弱な木造建築も、多くは美術的構造である。して、恐らくは大阪ほど多くの立派な住宅を有する都會はないだらう。京都は實際庭園については、一應富んでゐる――大阪には庭園を設ける餘地が比較的に乏しいから。しかし私はただ家屋についていつてゐるのである。外面だけでは、日本の町は木造の納屋とか、厩舍の並んだのに過ぎないやうであるが、その町の家屋の内部は驚くばかり美麗なことがある。普通日本家屋の外側は、往々一種の面白い奇異な形はあつても少しも美しくはない。して、多くの場合に於て、裏側または側面の塀は黑く燒いた板で蔽つてある。その焦げて、堅くなつた表面は、いかなるペンキ或は化粧漆喰よりも、よく熱と濕氣に抵抗するといはれてゐる。恐らくは石炭小舍を除いて、これほどくすぶつた風のものは想像し得られないだらう。しかし黑塀の内側の方は、審美的の趣向、人を歡ばすものがある。比較的低廉な住宅でも、この點に於ては左程影響を蒙つてゐない――何故といふに、最少の費用を以て最大の美を獲るといふことにかけては、日本人は萬國の民に優つてゐるからである。一方西洋國民の中で、最も工業的に進步せる、實際的の米人は、最大の費用を投じて最小の美を獲ることに成功してゐるだけである! 日本家屋の内部に關しては、モールス氏の『日本の家庭』から、大いに學ぶことができる。しかしその立派な著書でさへ、この問題について唯だ墨繪ほどの觀念を與へるに過ぎない。しかもかかる内部の美趣の半ば以上は、殆ど名狀し難き色彩の愛撫的魅力に存してゐる。色彩美を說明するやうにモールス氏の著書に挿畫を施すことは、ラシネー氏の著書、『歷史的服裝』の出版よりは、もつと費用のかかる、困難な事業であるだらう。假令さうしてさへも、常夏の感情を捉へて、それを保つやう工夫されたと見え乍ら、部屋の隅每に、人目を待つてゐる和らいだ明かるさ、完全な平靜、優雅纎細の祕密は、依然想像され得ないであらう。日本の活花といふ藝術を少々知つたため、西洋で私共が花束と呼んでゐる下品な、或は寧ろ粗暴なものを眺めるに忍びなくなつたと、私は五年前に書いた譯者註一。今日では、また私は日本室に親炙してきたので、西洋室は幾ら廣かつたり、便宜に出來てゐたり、贅澤に裝飾してあつても、嫌ひになつたといふことを加へねばならない。もし今、私が西洋の生活に歸つたならば、七箇年間仙鄕に暮らした後、醜惡と悲しみの世界へ再び歸つたトマス・ザ・ライマ譯者註二のやうに感ずるに相違ない。

 

譯者註一 本全集第三卷二一六――二一七頁參照。

[やぶちゃん注:落合氏が指示しているのはここ(“Internet Archive”の画像)で、私の電子化注では『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (二〇)』の全パートである。

   *

 屢々夜の街頭で、特に祭禮の夜、ある小さな小屋掛けの前を、全然無言で鑑賞し乍ら通つて行く群集の光景に、私共の注意は引かれるだらう。その小屋掛けを覗いて見る機會を得るや否や、私共はそこには唯だ敷個の花瓶に花の小莖、或は花樹から新たに剪つた、輕い優美な枝を插したのがあるばかりのことを發見する。それは單に小さな花の展覽會だ。或は一層正確に云へば、活花に於ける巧妙なる技倆の自由なる展覽だ。何となれば日本人は私共野蠻人がする如く、花だけを亂暴に切り取つて、それを集めて無意味な團塊にするのでない。彼等は自然を熱愛するから、そんなことをしない。彼等は花の自然の美は、いかに多くその背景と裝置如何に因り、その葉や幹に對する關係如何に因るものであるかを知つて居る。して、彼等は自然が作つたまゝの一本の優美な枝や莖を選擇する。門外漢なる外國人諸君は、最初は毫もかゝる展覽を理解しないだらう。かゝる點に關しては、諸君の周圍に立つて見てゐる日本の最も平凡な人夫に比してさへ、諸君はまだ野蠻人だ。が、諸君が未だこの簡單な小展覽會に對する一般的興味を不思議と思つて見てゐる内に、その美が諸君の上にも生じてくるだらう。一種の天啓となつてくるだらう。して、諸君の西洋的自己優越感にも關らず、諸君が從來西洋で見た一切の花瓣展覽會は、是等の簡素なる數莖の自然美と比すれば、怪醜畸形に過ぎなかつたといふことを悟つて、屈辱を感ずるだらう。諸君はまたいかに花の背後にある、白又は薄靑の屛風が、洋燈又は提燈の光によつて、花の效果を增してゐるかに氣が付くだらう。何故と云へば、屛風は植物の影の美しさを見せるといふ特別の目的を以て排列してあるからだ。して、その上に投ぜられた莖や花の影法師は、いかなる西洋の粧飾藝術家の想像よりも遙かに美しい。

   *

但し、同書の他の後の方でも、小泉八雲は同様のことを言っている。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十六章 日本の庭 (二)』の冒頭で彼は、

   *

 日本人の花の活け方を少小[やぶちゃん注:「少々」に同じ。]――この技術を實地に知得するには、生來の本能的な美感の外に、歎年の研究と經驗が要るから、唯それを見たばかりで――學び得た後で、其後で始めて人は西洋人の生花裝飾の思想は、全く野卑だと考へることが出來る。この觀察は何等輕卒な隨喜渇仰の結果では無くて、内地に長く居住して樹立し得た確信である。自分はただ日本の熟練家だけがその活け方を知つて居るやうな風に――花瓶の中へ單に小枝を突き込むのでは無く、恐らくは剪伐(つみき)つたり姿を正したり、雅(みや)び極まる手細工をしたりに全(ま)る一時間の骨折をして――活けた、唯一本の花の小枝の言ふに言へぬ美はしさが解るやうになつて來たから、だから西歐人が『花束』と呼ぶものをば、花の野卑な虐殺であり、色彩觀念に對する凌辱であり、蠻行であり、言語道斷である、としか今は考へられないのである。それと稍々同じ樣に、またそれに似た理由で、古い日本の庭はどんなものであるかを知つてから後(のち)は、我が本國の費用を盡した庭を想ひ出すと、自然を犯す不釣合な物を創造するのに富なるのが、何を爲し遂げ得るかの無智な誇示としか考へられないのである。

   *

と述べているのである。]

譯者註二 十三世紀に蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコットランド」。]ペリクシヤー州に住んでゐた名物男。豫言的の詩を作つた人。仙女に愛せられ、數年をその女の許でくらしたと云はる。

[やぶちゃん注:「モールス氏」エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は明治期に来日して大森貝塚を発見、進化論を本邦に移植したアメリカ人動物学者でメーン州生、少年時代から貝類の採集を好み、一八五九年から二年余り、アメリカ動物学の父ハーバード大学教授であった海洋学者ルイ・アガシー(Jean Louis Rodolphe Agassiz 一八〇七年~一八七三年)の助手となって動物学を学び、後に進化論支持の講演で有名になった。主に腕足類のシャミセンガイの研究を目的として(恩師アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたことへの疑義が腕足類研究の動機とされる)、明治一〇(一八七七)年六月に「お雇い外国人」として来日、東京大学に招聘されて初代理学部動物学教授となった。二年間の在職中、本邦の動物学研究の基礎をうち立てて東京大学生物学会(現日本動物学会)を創立、佐々木忠次郎・飯島魁・岩川友太郎・石川千代松ら近代日本動物学の碩学は皆、彼の弟子である。動物学以外にも来日したその年に横浜から東京に向かう列車内から大森貝塚を発見、これを発掘、これは日本の近代考古学や人類学の濫觴でもあった。大衆講演では進化論を紹介・普及させ、彼の進言によって東大は日本初の大学紀要を発刊しており、また、フェノロサ(哲学)やメンデンホール(物理学)を同大教授として推薦、彼の講演によって美術研究家ビゲローや天文学者ローウェルが来日を決意するなど、近代日本への影響は計り知れない。モース自身も日本の陶器や民具に魅されて後半生が一変、明治一二(一八七九)年の離日後(途中、来日年中に一時帰国、翌年四月再来日している。電子化本文第一段落目を参照)も明治一五~一六年にも来日して収集に努めるなど、一八八〇年以降三十六年間に亙って館長を勤めたセーラムのピーボディ科学アカデミー(現在のピーボディ博物館)を拠点に、世界有数の日本コレクションを作り上げた。その収集品は以下に示す“Japanese Homes and Their Surroundings”や「日本その日その日」とともに、近代日本民俗学の得難い資料でもある。主に参照した「朝日日本歴史人物事典」の「モース」の項の執筆者であられる、私の尊敬する磯野直秀先生の記載で最後に先生は(コンマを読点に変更させて戴いた)、『親日家の欧米人も多くはキリスト教的基準で日本人を評価しがちだったなかで、モースは一切の先入観を持たずに物を見た、きわめて稀な人物だった。それゆえに人々に信用され、驚くほど多岐にわたる足跡を残せたのだろう』と述べておられる。私は実は彼が三十年以上前の日記とスケッチをもとに、一九一三年(当時既に七十五歳)から執筆を始め、一九一七年に出版した“Japan Day by Day”(「日本での日々」)を石川欣一氏(明治二八(一八九五)年~昭和三四(一九五九)年:ジャーナリスト・翻訳家。彼の父はモースの弟子で近代日本動物学の草分けである東京帝国大学教授石川千代松)が大正六年に翻訳したものを、ブログ・カテゴリ『カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』で全図版入りで全電子化注を二〇一六年二月に終えている。

「日本の家庭」モースが帰国後に刊行した“Japanese Homes and Their Surroundings”(「日本の家屋とそれらの環境」)。日本家屋を多数のデッサンや図表を用いて判り易く解説したもので、一八八五年(明治十八年)に出版された(但し、出版年には書誌に微妙な違いがあり、英語版ウィキの“Edward S. Morseでは一八八五年初版の一八八八年(ハーパー社)の再版版を掲げ、日本版ウィキの「エドワード・S・モース」ではただ一八八五年とする。出版経歴を精査された磯野直秀先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の三〇九~三一〇頁の記載に拠ると、一八八六年(明治十九年)となっているであるが、その記載を見ると、『以前からの取り決めにしたがって』、雑誌『ピーボディ科学アカデミー紀要』『の一冊として刊行されるとともに、イギリスの出版社を含めた三社から出版され』たとある。磯野先生には失礼ながら、ここで『とともに』と述べておられるものの、実はメジャーに公刊される前の紀要版初版のそれは、実は一八八五年に刊行されたものなのではなかろうか?)。訳書としては図版の大きさから、斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)をお薦めする。実は、先に示したブログ・カテゴリ『カテゴリー「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳』でも同書にへの言及が数多く見られ、私はそれらについても可能な限り、本書の原文や図版を引用している。目ぼしいものを以下に掲げておく。絵を見るだけでも損はない(章題より後の部分は私が勝手に添えたものである)

「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第二章 日光への旅 7 行灯 附“Japanese Homes and Their Surroundings”より「畳」の原文・附図と私の注」

同「第三章 日光の諸寺院と山の村落 5 美しい日本間と厠」

同「第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 20 東京の住宅について」

同「第十一章 六ケ月後の東京 13 芝離宮」

同「第十三章 アイヌ 20 室蘭へ」

同「第十六章 長崎と鹿児島とへ 元垂水」

同「第十七章 南方の旅 欄間」

同「第十七章 南方の旅 京都にて 3 蜷川式胤実家」

同「第二十章 陸路京都へ 箱根寄木細工」

同「第二十章 陸路京都へ モース先生茶の湯体験記 その一」

同「第二十五章 東京に関する覚書(22) 変わった袖垣のある家」

同「第二十六章 鷹狩その他 (7)下駄箱」

なお、同書原本総てを見たい方は、Internet Archive”のこちらの版がよかろうかと存ずる(最初の図版ページをリンクさせた)。

「ラシネー」フランスの画家でイラストレーター、文化史家でもあったアルバート・チャールス・オーギュスト・ラシネ(Albert Charles Auguste Racinet 一八二五年~一八九三年)。

「歷史的服裝」ラシネが一八八八年にパリで出版した“Le costume historique”(「服装史」)。約五百葉の版画・三百葉の彩色画・二百葉のモノクロ画で、主な歴史的衣服・装飾品・インテリア・日常品等を描いたもの。グーグル画像検索「Albert Charles Auguste Racinet Le costume historiqueをリンクさせておく。素晴らしい色彩である!

「トマス・ザ・ライマ」“Thomas-the-Rhymer”(原文表記)は「小泉八雲 赤い夕日 (岡田哲蔵訳)」で既出既注。]

 

 世間で唱道されてゐる如く(尤も私はそれを信じ得ないけれども)、西洋書家は日本畫の硏究からさほど學ぶべきものがないといふ事は、ありうるだらう。しかし西洋の家屋建築者は、日本室の硏究から、莫大の事實――特に壁面の處置と着色法について――を學ばねばならぬと、私は確信する。これらの無數の室内樣式が、分類され得るか否かも、私には疑はしいやうに思はれる。十萬戶の日本家屋に就いて、二戶の内部が全然同一の場合はあるまいと、私は思ふ(勿論、極めて貧しい者の家屋を除いて)――何故といふに、設計家は避けうる場合には、決して同一設計を繰り返さないから。彼が敎へる敎訓は、種類の無盡藏なる變化と結合せる完全なる趣味といふ事である。趣味! それは私共の西洋の世界に於て、何といふ稀有の事だらう! また、それはいかに材料の如何を問はざる、直感的な、俗物に傳へ難いものだらう! しかし趣味は日本人の生得權である。それは到る處に存してゐる――たとひ境遇に隨つて、且つまた境遇に基づく遺傳に隨つて、發達の量を異にするとも普通一般の西洋人は、ただその比較的平凡な方の形式――主として輸出貿易によつて見馴れた種類――を認めるだけである。して、槪して西洋人が日本の因襲的趣味の中で、最も歎賞するものは、日本では寧ろ劣俗と見倣されてゐる。それは西洋人が、苛も本來美麗なものを歎賞するのが、間違つてゐるといふのではない。代價二仙[やぶちゃん注:「セント」(cent)。百セントが一ドル。当時の換算だと現在の三百円ほど。]の手拭に染め出した意匠さへ、眞に優れた畫のこともある。それは時としては、立派な美術家が描いたものなのである。しかし最高な日本趣味の貴族的嚴正――均勢、性質、調子、抑制など諸條件の決定に於ける、その精巧絕妙なる複雜――に至つては、未だ嘗て西洋人の夢想だもせざる處である。この趣味が天晴れ立派に發揮されてゐるのは――特に色合に關しては――私人の邸宅内部に及ぶものはない。一組の部屋の裝飾配置に於ける、色彩の規則は――たとひ餘程の種類を許容するにせよ――衣服の問題に於ける色彩の規則にも劣ることなく嚴密なものである。一私宅の色合の調子だけでも、その主人の修養程度を示すに充分である。ぺンキ塗や、ワニシ塗はなく、壁紙も張つてない――ただ特別な部分に色を着けたり、磨きをかけたり、また掃除や塵掃ひの際の用意として、壁の底に沿つて約一尺五寸ほどの高さに、一種の紙の緣を施しただけである。漆喰はさまざまの色の砂や、貝殼と螺畑の斷片や、水晶片や、雲母で製せられる。壁面は花崗岩を眞似たり、黃銅鑛の如くきらめいたり、濃厚な樹皮の塊に彷彿したりしてゐる。しかし原料は何であらうとも、その發する色合は、羽織や帶に用ひる絹の色合に於けると、同一の完全無缺な趣味を示さねばならない。……この美の内部世界――正しくそれが内部世界であるがために――は、一切まだ外來の漫遊者には鎖されてゐる。外來者は漫遊中、古風な宿屋とか、茶店を訪問するときに、そこの室内に於て、精々その暗示を發見しうるだけである。

[やぶちゃん注:「ワニシ」ワニス。英語は「varnish」で「ヴァーニッシュ」の発音なので「ワニシ」は誤りではない。天然樹脂若しくは人造樹脂を、油性溶剤或いは揮発性溶剤に溶解させた塗料で、乾燥すると硬く透明となり、耐温湿性と絶縁性に富む塗膜となるため、油彩画・ヴァイオリン・床・帆柱・木工家具の仕上げや針金の被覆・紙鑢(やすり)の結合剤などに用いられる。]

 西洋の旅客中、日本の宿屋の妙味を解したり、或は單に身𢌞はりの世話についてばかりでなく、美しいものを作つて、眼をも娛ましめて、宿泊を愉快にするやう、大いに盡くされてゐることを考へる人が、幾らあるか知らんと私は思ふ。瑣々たる、癪に觸はつた事柄――彼等が蚤に攻められた實驗談や、彼等の親しく遭遇した不快なことども――を書いてゐる人は澤山ある。しかし每日新しい花が備へられ――いかなる歐洲の花屋も企及し得ないやうに活けられ――且つ屹度靑銅か、漆器か、陶器など、其の美術支那が置かれ、これに添ふるに季節の感情に適はしい一幅の畫を以てせる床の間の妙趣を書いてゐるものは、幾人あるだらうか? これらの瑣末な美的の待遇は、決して宿屋から代價を要求してゐるのではないけれども、茶代を遺る場合、これに對する、親切な心持ちを含ませるのが當然である。私は幾百軒の日本の宿屋へ泊まつたが、何等珍異なもの、または綺麗なものを見出し得なかつたのは、一軒しかない――それは新聞の鐡道驛で、客を捉へるため急造された、ぐらぐらした避難所のやうな宿屋であつた。

 大阪の私の宿に於ける、床の間について一言する――壁は砂と一種の鑢屑[やぶちゃん注:「やすりくづ」。“metallic filings”。]のやうなものを混ぜて塗つてあつたが、銀礦の美しい表面の如く見えた。床柱に結んである竹の花瓶には、一本は淡紅、他の一本は白の、美しい花盛りの、一對の藤の枝が挿してあつた。掛物――雄勁奔放、墨痕淋漓たる名家の揮毫――には、互に道を避けかねて、まさに鬪はんとする二匹の大きな蟹が、寫してあつた。して、『橫行世界』と題せる漢字によつて、畫興更に一段を加へてゐた。その意味は『世の中のことは、一切よこしまに行く』

 

譯者註 蟹の步き振りが傍若無人と見立てて、「橫行世界」と題せる讚句を、「世事すべて邪行す」といふ意味に取つてあるのは、通辯者[やぶちゃん注:小泉八雲に大阪行に随伴した通訳。]の誤解とすれぱ、面白い誤解でゐゐ。しかし或は先生が、意識的に特にこのやうな解釋を選ばれたのかも知れない。いづれにしても。この橫へそれた解釋、人生一般的に特に廣い解釋の方が、文趣更に一段を加へてゐる。

[やぶちゃん注:恐らくはその画幅に書かれていたのは「橫行天下」ではなかったか? 所謂、世界を勝手次第に自由に闊歩するの謂いではあるまいか? ただ、そこに横這いしか出来ない蟹が対面した絵を配したのは俳味に富んで面白いと私は思う。]

 

       

 私の大阪滯在に於ける最後の日は、買ひ物に費やした――それは主もに玩具屋と絹布商の方面であつた[やぶちゃん注:「二」に『玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前』、『反物商は本町』とあった。位置はそちらの私の注を参照されたい。玩具屋は長男一雄と巌のため、後者は妻セツのためであろう。]。或る日本の知人が、自身も商人であるが、私を伴れて𢌞つて、私の眼が痛んでくるまで珍らしい物品と見せた。私共は有名な絹布商店へ行つた――群集が非常に雜沓を極めてゐたので、日本の店に於て、椅子と勘定臺を兼ねた疊の吊床[やぶちゃん注:「つりどこ」。上の方は床の間の形に造ってあるが、下の床板がなく、座敷の畳がそのまま続いている簡略な床の間。「壁床」とも呼ぶ。]へ押し分けて達するのが、可也の骨折りであつた。そこで幾十人の踝足[やぶちゃん注:原文“barefooted”であるから、「裸足」の誤植と思われる。]の輕快な少年が、走つて商品の束を顧客へ運んでゐた。何故といふに、かやうな商店では、商品を棚へ載せて陳列するといふ事がないからである。日本の販賣員は疊の上の彼が坐つてゐる場處を離れない。彼が客の欲するものを承つてから叫んで命令を發すると、少年が間もなく兩腕で一杯見本を抱へて走つてくる。客が選擇をした後に、擴げられた商品は、また少年の手で卷いて收められ、店の背後の耐火倉庫へ運び去られる。私共の訪問の際、疊の吊床の大部分は、さまざまの色、種々の代價の絹布や天鵞絨[やぶちゃん注:「ビロード」。]が、投げ散らされて、絢爛陸離[やぶちゃん注:「りくり」。美しく光り煌(きら)めくさま。]たる混沌を展開してゐた。玄關の近くに、福の神のやうに肥つて、陽氣な顏の、稍〻老いた監督[やぶちゃん注:番頭であろう。]が、繰り込む客を注意してゐた。二人の鋭い眼付の男が、店の中央の臺に立つて、ゆるゆる反對の方向へと轉じながら、窃盜の見張りをしてゐた。また他の番人も、橫の入口に陣取つてゐた。(序に、日本の萬引は甚だ巧妙である。大抵の大商店が、一箇年間に、彼等のために蒙る損害は、可也に多額だと、私は告げられた)店の側翼の建物の、低い天窓の下には、高さ二尺にも足らぬ小さな机を前にして、ずらりと並んだ簿記係、會計係、通信係が忙殺されつつあるのを、私は見受けた。夥しい販賣係は、銘々同時に澤山の客に應接してゐた。商賣の多忙さは烈しかつた。しかも執務の迅速は、組織の徹底的の完全を證明した。私はこの店が幾何[やぶちゃん注:「いくか」。]の人を使用してゐるかを尋ねた。して、私の知人は答へた――

 『多分ここには二百人もゐませう。まだ數個の支店があります。この店では、仕事が餘程つらいのです。しかし勤務時間は、普通の他の絹物商店よりも短くて、一日十二時間を越えることはありません』

 『給料は何うです?』と、私は質ねた。

 『給料はありません』

 『この店の一切の仕事は、無報酬で行はれるのですか?』

 『多分一人や二人、極上手な販賣係は、少しばかり貰つてゐませう――給料といふのではありませんが、每月少額の特別報酬です。それから、老監督(あの人はここに四十年も勤めてゐます)は、給料を受けてゐます。その他のものは食料以外、何も貰ひません』

 『よい食料ですか?』

 『いえ、極安い、粗食です。誰れでもここで年季奉公――十同年乃至十五年――を勤めた舉句には、自分で獨立して一軒の店が持てるやう、補助を與へられることになります』

 『大阪のすべての商店で、みなこんな情況ですか?』

 『さうです――何處でも同樣です。しかし今頃は澤山の丁稚が、商業學校の卒業生です。商業學校へ送られたものは、餘程遲くなつてから奉公を始めます。そして、子供から敎へ込まれたやうな、よい丁稚にならぬといふことです』

 『外國商館に傭はれてゐる日本人の店員は、もつと立派に暮らしてゐますよ』

 『私共はさつ思ひません』と、私の知人はきつぱり云つた。『成程、英語を上手に喋つて、外人の取引のやり方を知つてゐるものは、一日に七時間か、八時間働いて、一箇月五六十弗を貰ひますが、待遇が日本の商店で受けるのとちがひます。怜悧な人は外人の下に働くことを好きません。外人は日本人の店員や召使を非常に虐待したのです』

[やぶちゃん注:この人物のドル換算はおかしいと思う。当時の為替レートでは一ドルはほぼ二円であるから、五十ドルでも百円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、二百万円になり、あり得ない。二万円は高い換算額であるにしても、明治二十八年当時(本書刊行は明治三〇(一八九七)年)の大卒初任給が二十円、給与所得者年収二百四十四円であるから、如何に外国商館勤務でもこんなには貰えていないはずである。]

 『しかし今はさうではないのですか?』と、私は尋ねた。

 『多分あまり虐待しますまい。それは危險だと知つたのです。しかし昔は擲つたり[やぶちゃん注:「なぐつたり」。]、蹴つたりしたものです。日本人は丁稚や召使へ不親切な言ひ方をするのさへ、恥づかしいことと思つてゐます。ここのやうな店には、不親切な待遇といふことは、少しも存在してゐません。主人も監督も決して粗暴な言葉を發しません。御覽の通り、大人も子供も無給料で、

このやうに勉强して働いてゐます。外人がたとひいくら澤山の給料を出しても、こんな風に日本人を働かせることはできませんよ。私も外同商館で働いて、知つてゐます』

 日本の商賣や、技巧を要する工業に於て、氣の利いた奉公振りは、大抵無給だといつても過言ではない。恐らくは、全國の商賣仕事の三分の一は、賃銀なして行はれてゐるだらう。主從の關係は、双方の側に於ける完全なる信任となつてゐる。また道德的狀態の最も低級なものによつてさへ、絕對服從が確實に守られてゐる。これは私の大阪滯在中、最も深く印象された事實であつた。

 奈良への夜行列車が、大都會の賑やかな喧囂から私を運び去りつつある際、私はこの事實について不思議がり乍ら考へてゐた。私は數里に亙る屋根の上にてゐる上に――惠み深い仁德天皇の宮へ、永遠に煙の供物を捧げつつある、幾多工場の林立せる煙突の上に――夕闇が深くなりつつ行くのを眺めながら、猶ほそれを考へつづけた。不意に、無數の軒燈がきらめいてゐる上に――電燈が白い星の如く點々たる上に――次第に增し行く暗がりの上に――私は夕陽の名殘の赤い光の中へ輝いて聳立せる、堂々たる天王寺の古塔を見た。して、その塔の象徴せる信仰が、日本の最も偉大な都會の、あらゆる富と元氣と力の根抵なる、忍從と愛と信賴の精神を作ることを助けたのではないだらうかと、私は自ら尋ねてみた。

 

2019/11/30

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「四」・「五」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」』の私の冒頭注を参照されたい。]

 

       

 舊日本がどしどし亡くなりつつあるといふのは、事實ではない。少くとも、今後百年以内に、亡くなる譯には行かない。恐らくは、全然滅亡することは、決してないだらう。幾多の珍らしい美しいものが消え失せたけれども、舊日本は依然として藝術の中に、信仰の中に、風俗習慣の中に、國民の心と家庭の中に、今猶ほ生き殘つてゐて、苟も具眼の士は、隨處にそれを見出しうるのである。しかも造船、時計製造、麥酒釀造、紡績などが行はれてゐる、この大都會ほど容易にそれを見出しうる處は、他にあるまい。實を申せば、私が大阪へ行つたのは、主もに寺院を見るためで、特に名高い天王寺を見るためであつた。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、造営は推古元(五九三)年と伝えられ、「荒陵寺(あらはかでら)」ともいう。主要伽藍は南北中軸線上に、南から南大門・中門・塔・金堂・講堂の順に配され、塔と金堂を包む回廊がめぐっている。この種の配置を一般に「四天王寺式」と呼んでいる。寺は建立後、幾度か罹災しているが、その都度、ほぼ旧規に則して復興され(現在の伽藍は第二次大戦後に復興されたもの)、国宝の「扇面法華経冊子」を始めとして、長い寺史を物語る多くの寺宝が伝わる、とある。]

 天王寺、もつと正確に云へば、卽ち四天王寺は、日本中で最古の佛寺の一つである。西曆第七世記の昔、用明帝の皇子で、推古女帝(西曆五七二――六二一年)[やぶちゃん注:現在、推古天皇の生没年は欽明天皇一五(五五四)年から推古天皇三六(六二八)年、在位は崇峻天皇五(五九三)年から没年までで、小泉八雲が示す西暦とは孰れも一致しないので注意されたい。]の世の攝政であつて、今は聖德太子と呼ばれる厩戶皇子によつて建立された。太子は日本の佛敎に取つてのコンスタンタイン大帝譯者註と呼ばれるのは尤もな事である。初めは父、用明天皇の世に於け

 

註 四天王は、持國(ドリタラーシトラ)增長(ヴイルードバクシヤ)廣日(ヴイルーバクシヤ)毘沙門(ヴアイシユマナ)である。彼等は世界の四方を防禦する。

譯者註 コンスタンタイン大帝(二七四――三三七年)は、始めて基督數を羅馬の國敎とした初代敎會の恩人。

[やぶちゃん注:原注の原文を示すと、“They defend the four quarters of the world. In Japanese their names are Jikoku, Komoku, Zocho, Bishamon (or Tamon);—in Sanscrit, Dhritarashtra, Virupaksha, Virudhaka, and Vaisravana,—the Kuvera of, Brahmanism.”

「コンスタンタイン大帝」ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語表記:Gaius Flavius Valerius Constantinus 二七〇年代前半~三三七年)はローマ帝国コンスタンティヌス朝第一代皇帝コンスタンティヌスⅠ世(在位:三〇六年~三三七年)。『複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた』。『ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の』一『人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、彼『自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした』と彼のウィキにある。]

 

る大爭鬪によつて、それから後には律令の制定と佛敎の學問の保護によつて、日本帝國に於ける佛敎の運命を決定したからである。その前の敏達[やぶちゃん注:「びだつ」。]天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立したのであつた。しかし用明帝の御代には、物部守屋といふ有力な貴族で、且つ外來宗敎の猛烈なる反對者が、かかる寬容に對して反抗し、寺院を燒き、僧侶を追放し、天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ。傳說によれば、皇軍が擊退されつつあつた際に、皇子――當時僅に十六歳――は、もし勝利を得たならば、四天王に對して寺院を建立することを誓つた。すると、立ちどころに、彼の軍勢の方に一個の巨大な姿がぬつと現はれ、守屋の軍勢はこれに睨まられて、散亂遁走した。佛敎の敵は全然ひどい敗北を蒙つた。して、その後聖德太子と呼ばれた若い皇子は、彼の誓願を守つた。天王寺が建てられた。して、叛賊守屋の富は、その維持に利用された。太子は寺の金堂と稱する部分に、日本に渡來した最初の佛像を安置した――如意輪觀音の像――して、その像は或る祭日には、今猶ほ一般へ示される。戰鬪中に出現した巨大の姿は、四天王の一つなる毘沙門であつたと云はれてゐる。今日に至るまで、毘沙門は勝利の授與者として崇拜されてゐる。

[やぶちゃん注:「敏達天皇は、朝鮮の僧侶に佛敎を說くことを許し、また二個の寺院を建立した」不審。ウィキの「敏達天皇」によれば、『敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇』十四年(五八五年?)に『物部守屋が天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。その年の』八月十五日、『病が重くなり崩御』(但し、「古事記」では没年は五八四年とされてある)し、『仏教を巡る争いは更に次の世代に持ち越された』とある。

「天皇の軍隊に向つて戰を挑んだ」用明天皇二(五八七)年七月に発生した「丁未(ていび)の乱」「物部守屋の変」。仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立した大連(おおむらじ)物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた。これから先、物部氏は衰退した。詳しくはウィキの「丁未の乱」を参照されたい。

「如意輪觀音の像」Japantemple.com ~いにしえの日本を思う寺社巡り~」の『四天王寺の本尊「救世観音」とは?』に本尊変更などの解説とともに画像がある。]

 店肆の並んだ、陽氣な狹い賑やかな町から、天王寺の廢朽せる境内へ移つて行つたときの感は、何とも云ひにくい。日本人に取つてさへも、千二百年前日本に於ける最初の佛敎傳道事業の頃の生活狀態へ、記憶の上では後戾りをすることとなつて、一種超自然的の感じがあるに相違ないだらう。他の場所では、私の眼には紋切形で見慣れきつた信仰の象徵も、ここで見ると、まだよく見慣れない、異國的な、原始的形式のやうに映ずる。それから、私が未だ嘗て見たことのないものは、現實世界を離れた時處の感を與へて私を驚かした。實は元の建築は、あまり殘つてゐない。燒けてしまつた個所もあれば、修繕された個所もある。しかしその印象は矢張り一種特異である。それは改築されたり、修繕されたりしても、どこまでも韓唐[やぶちゃん注:「から・とう」。原文は“some great Korean or Chinese architect”であるから、朝鮮と中国。]の偉大なる建築家の作つた原型が保存もれてゐるからだ。此境内の古色蒼然たる光景、異樣な淋しげな美を筆で述べようとしても駄目である。天王寺がどんなものであるかを知るには、その凄いやうな頽廢を見ねばならない――古い木材の美しい漠然たる色合、消え行く幽靈のやうな灰色や黃色の壁面、風變はりな不順序、檐[やぶちゃん注:「ひさし」。]の下の異常なる彫刻――波や雪や龍や鬼の彫刻の、嘗ては漆と黃金を塗つて華麗であつたのが、今は歲月のため褪せて煙の如き色になつて、煙と共に渦を卷いて消え去らんとするやうである。彫刻で最も目醒ましいのは、奇想を凝らした五重の塔のものである。塔は今荒廢して、屋根の諸層の角から吊るした靑銅の風鐸は、殆ど落ちてしまつてゐる。塔と本堂は、四角形な庭の中に立つてゐて、庭の周圍には、開いた𢌞廊が連つてゐる。更に向うには、他の中庭、佛敎の學校、及び嚴疊な石橋を架せる、數多の龜の住んでゐる大きな池がある。石像や石燈籠や唐獅子や巨大な太鼓がある――玩具や珍奇な物品を賣る小屋もある――休憩のための茶店もある――それから、龜や鹿のために菓子を買ふことのできる菓子賣店もある。飼ひ馴らされた鹿は、餌を求めるため、そのつやつやした頭を屈めて、參詣者に近寄つてくる。二階作りの樓門があつて、大きな仁王の像が鎭護してゐる。仁王の手足は、アツシリヤの彫刻に於ける王の四肢の如き筋肉を有し、胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる。今一つの櫓門は、堂内が空虛である。多分昔は四天王の像があつたのであらう。珍らしいものが、なかなか夥しいのであるが、私はただ二つ三つの、最も異樣な經驗を書いてみよう。

[やぶちゃん注:「アツシリヤの彫刻」“Assyrian sculptures”。ウィキの「アッシリア」によれば、『アッシリア(Assyria)は現在のイラク北部を占める地域、またはそこに興った王国。アッシュール市を中核とし、帝国期にはニネヴェやニムルドが都として機能した。歴史地理的名称としてのアッシリアはチグリス川とユーフラテス川の上流域、つまりメソポタミアの北部を指し、メソポタミア南部は一般にバビロニアと呼ばれる。最終的にメソポタミア・シリア・エジプトを含む世界帝国を築』いたとある。グーグル画像検索「アッシリア 彫刻 王」をリンクさせておく。

「胴體には、信心深き人々が唾をつけて投じた白紙の小球が、滿面に點々してゐる」私は小さな頃に、見かけてよく知っているのだが、最近はまず見かけなくなったから、若い読者には意味が解らぬ方も多かろう。個人ブログ「秘境100選 Ver2」の「仁王像」(北海道札幌市東区にある曹洞宗金龍山大覚寺山門の仁王像と思われる)の写真を見られたい。そこに『仁王の赤い身体に白いものが張り付いていて、最初鳥の糞かと思った。案内役の僧に聞いてみると、これは唾や水で濡らした紙つぶてが乾いたものだそうである。自分の身体の悪いところに対応する仁王の身体に、濡らした紙つぶてを投げて当て、直るように祈願する。こうなると』、『仁王も医者の役目を果たしている』とあるので納得がいかれよう。]

 先づ第一に發見したことは、私が境内に入つたとき念頭に浮かんだ一個の臆測が、實際に確められたことである――ここの建築が特異である如く、禮拜の形式もまた特異ではないか知らんと思はれたのであつた。どういふ譯で、こんな感じが起こつたかわからない。ただ外門を入つてから直ぐに、建築に於けると同樣に、宗敎に於ても異常なものを見るやうな豫感を覺えたと云ひうるのみである。すると、私はやがてそれを鐘樓に於て發見した。これは二階作今の支那風建築で、そこに『引導の鐘』と呼ばれる鐘がある。何故といふに、その鐘の昔が、子供の靈魂を冥途に於て案内するからである。鐘樓の階下の室は、禮拜堂の設備がしてある。一見した時、ただ佛敎の禮拜が營まれつつあるのが眼についた。蠟燭が燃えて、厨子は金色に輝き、香煙が騰つて、一人の僧は祈を捧げ、女や子供は跪づいてゐた。しかし厨子の中の像をよく見ようと思つて、一寸入口の前に立ち止まると、私は忽ち見慣れぬ驚くべきものに氣がついた。厨子の兩側の棚の上、臺の上、厨子の上方下方、それから向うの方に、何百といふ數の子供の位牌が並んでゐて、それから、位牌と共に數千の玩具が並んでゐる。小さな犬、馬、牛、武者、太鼓、喇叭、厚紙製の甲冑、木刀、人形、紙鳶[やぶちゃん注:「たこ」。凧。]、假面、猿、船の型、小型の茶器一式、小型の家具、獨樂、滑稽な福神の像――近代の玩具や、いつ頃流行したのか分からぬ玩具――數世紀に亙つて集つたもので、昔から今まで代々の死んだ子供全部の玩具がある。天井から人目の近邊へ、鐘を鳴らす一本の大きな綱が垂れてゐる。直徑約四吋[やぶちゃん注:「インチ」。約十センチメートル。]、種々の色を帶びてゐる。それは引導の鐘の綱である。しかもその綱は死んだ子供の涎掛で作られたもので、黃、靑、赤、紫や種々の中間の色合を帶びてゐる。天井は見えない。それは數百枚の死兒の小さな着物で遮ぎられてゐる。僧侶の側で、盛の上に坐つたり遊んだりしてゐる男女の子供達は、彼等の亡くなつた兄弟とか姉妹とかの位牌の前に納めるため、玩具を持つて來たのである。子を矢つた父とか母が、絕えず戶口ヘ來て、鐘の綱を引き、疊の上へ銅錢を投げては祈をさ〻げる。鐘の鳴る度每に、亡兒の靈魂がそれを聞きつけるのだと信ぜらてゐる――もう一度、好いた玩具や親の顏を見るために、歸つてくるのだとさへ信ぜられてゐる。南無阿彌陀佛といふ哀れげな小聲、鐘の響[やぶちゃん注:底本は「鏡の響」となっているが、相当箇所は“clanging of the bell”であるから、誤植と断じ、特異的に訂した。]、僧の讀經の深い唸り聲、貨幣の落ちる音、心地よい重げな[やぶちゃん注:「おもたげな」。]抹香の薰り[やぶちゃん注:「かほり」。]、厨子の冷靜な黃金色に輝いた美しい佛陀、玩具の華麗な光、子供の着物の暗影、種々の色をした涎掛の驚くべき鐘の綱、座敷の上で遊んでゐる子供の樂げな笑聲――すべてこれは私に取つては、またと忘れられない凄いやうな哀れさの經驗であつた。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「北鐘堂」の解説によれば、『正式には、黄鐘楼(おうしょうろう)といい』、『北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ』、『春秋の彼岸にはお参りの人でごったがえ』し、『このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、先祖供養のための鐘の音が絶え』ないとあり、『当堂の鐘は天井裏にあり、綱を引いてつく形式のため』、『鐘は見ることができ』ないとある。ネット上で複数の堂内の写真を見たが、最早、小泉八雲が激しい感動を覚えたそれは、残念ながら最早、過去のものとなっているようである。

 なお、以下は原本では一行空けで「Ⅳ」に続いている。しかし、原本を見ると、異様に長くこの「Ⅳ」が続き、やっとここで「Ⅴ」になるものの、その後が「Ⅵ」ではなく、「Ⅶ」となって終わっている。これは、原本の誤りであり、落合氏はそれを考慮して、以下を「五」として後を「六」「七」と繋げたものであると読める。

 

       

 鐘樓から遠からぬ所に、貴い泉を蔽へる珍らしい建物がある。床の中央が開いて、長さ十尺幅八尺位で、欄干が繞らしてある[やぶちゃん注:「めぐらしてある」。]。欄干から見おろすと、下の暗い中に大きな石の水盤がある。古くなつて色黑く、唯だ半分しか見えない大きな石の龜の口から、その中へ水が注いでゐる。龜の後部は床の下の暗い所へまで入つてゐる。この水を龜井水(かめのゐすゐ)といふ。この水の注ぐ盤は、半分以上白紙で充ちてゐる――無數の白紙の片に、一つ一つ漢字で戒名、卽ち人が死んでから附ける佛敎的の名が書いてある。堂の一隅の疊を敷いた處に、僅の料金で戒名を書いてくれる僧がゐて、死人の親類とか友人が、戒名を書いた紙片の一端を、長い棹の先きに直角に附けた竹の窩[やぶちゃん注:「あな」。]、と云はんよりは寧ろ竹の接ぎ目の口ヘ挾んで、字を書いた面を上に向けて龜の口へ紙を下げ、始終佛敎の呪文を唱へ乍ら、迸る水の下へやつてゐると、水盤の中へ洗ひ流される。私が泉へ行つて見た折、人が山をなして、五六人が戒名を龜の口の下へ持つて行つて、その間夥多の信心深い人々は、手に紙片を持つたま〻棹を用ひる機會を待つてゐた。南無阿彌陀佛のつぶやきが激流の音のやうであつた。水盤は數日每に一杯になつて、それから中を開けて、紙を燃してしまうのだと、私は告げられた。これを眞實とすれば、この繁忙な商業的都會に於ける佛敎の力の顯著なる證據である。こんな紙片が數千枚もなくては、水盤は一杯にならないからである。この水は死んだ人の名と、生きた人の祈とを齎して、聖德太子の許へ行き、太子は信者のために阿彌陀に向つて執り成しの力を用ひ玉ふのだといふことである。

[やぶちゃん注:公式サイトの「境内案内」の「亀井堂」の解説によれば、『亀井堂は戦火で焼失後、昭和』三〇(一九五五)『年に再建され』『た。亀井堂の霊水は』、『金堂の地下より、湧き』出『ずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば』、『極楽往生が叶うといわれてい』る。堂の『東西桁行は四間』(七メートル二十七センチ)『あり、西側を亀井の間と』呼でおり、『東側は影向』(ようごう)『の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があり』、『中央には、その昔』、『聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されてい』るとある。]

 太子堂といふ堂には、聖德太子と侍者どもの像がある。高貴の人の用ひる椅子に坐せる太子の像は、實物大で、且つ彩色を施してあつて、千二百年前の服裝に、華麗なる帽を被つて、その支那式或は朝鮮式の靴は爪先きが反つてゐる。極めて古い陶器や、襖模樣などに、これと同樣の服裝を見ることがある。しかし顏は、その髭が支那風に垂れてゐるにも拘らず、典型的日本人の顏であつて、品位が備はり、親切らしく、冷靜である。私は像の顏から振り返つて、私のぐるりの人々の顏を見た時、矢張り太子と同一の型であつて、同じく落ち着いた半ば好奇心のある、不可思議な凝視の眼に出逢つた。

 

 天王寺の古代建築に對して、强大なる對照を呈するものは、大きな東西兩本願寺である。これは東京の兩本願寺に殆どそつくり似てゐる。大抵日本の大都會には、かやうな一對の本願寺がある――それぞれ十三世紀に創立された、大きな眞宗の東西兩派の一つに屬してゐる。その建築は地方の富及び崇敬的に重きをなす程度如何に從つて、大いさを異にするけれども、大抵同一の形式であつて、それは佛敎建築中、最も近代的且つ最も純日本的な形式を現はしてゐるといふことができる――大きく、莊嚴[やぶちゃん注:これは意味から「さう(そう)ごん」と読む。]で、華麗である。

 

註 この宗旨が、十七世紀に二派に分かれたことは、宗敎上でなく、政治上の原因を有つてゐた。だから、同派は宗敎的には一致してゐる。その法主は皇族の血續を承けてゐる。因つて御門跡といふ稱號がある。この宗旨の寺の境内を繞る塀は、皇居の塀と同樣の裝師的剜形を有することを、旅人は注目するだらう。

[やぶちゃん注:私は二十歳の頃に唯円の「歎異抄」に嵌まった。その際、この二派の後の分立には痛く鼻白んだもんだ。浄土真宗の二大分立についてご存じない方は、ウィキの「本願寺の歴史」を参照されたい。説明する気も起らん。

「剜形」「わんけい」或いは「ふちくりがた」とも読むようだ。“Travelers may observe that the walls inclosing the temple grounds of this sect bear the same decorative mouldings as those of the walls of the Imperial residences.”「抉り取った、削り取ったような装飾様式であること」のようだが、単に門跡寺院だから同じような成形の装飾様式を持つで別にいいんじゃなかろうか?]

 

 しかし兩寺院は、共に象徵、偶像、及び外部の儀式については、殆ど新敎的嚴肅を示してゐる。その質素にして、どつしりした門は、決して巨人の仁王によつて護衞されてゐない――その大きな檐の下には、龍や惡魔の群像はない――佛や菩薩の黃金色の群が、列を重ね、光背を積んで、聖殿の薄明裡に聳えてもゐい――隨喜渇仰のしるしの珍らしい殊勝なものを、高い天井から吊るしたり、佛壇の前へ懸けたり、玄關の格子に結んだりしたのもない――繪馬もなく、祈を書いた紙を結んだものもない。唯だ一つの外、象徵はない――それも大抵小さい。それは阿彌陀の像である。多分讀者は、佛敎に於て本願寺派は、ユニテリアン派譯者註が自由派基督敎に於て代表するのと、敢て異らざる運動を代表するものだといふ事を知つてゐるだらう。その獨身生活とすべて禁欲的修行を排斥する點、その呪符、卜筮、奉納物を禁じ、また救ひのための祈りの外、一切の祈りを禁ずる點、勤勉なる努力を人生の努力として强調する點、結婚の神聖を宗敎的束縛として維持する點、唯一永遠の佛陀を父とし救主として仰ぐ敎義、善い生活の直接の報酬として、死後に於ける樂園の約束、また就中、その敎育に熱心なる點――すべてこれらの諸點に於て、淨土の宗敎は、西洋の基督敎の進步的形式のものと多大の共通せるものを有つと云つても妥當であらう。して、それは滅多に傳道團や布敎隊へ足を向けないやうな、敎養ある人士から、たしかに尊敬を博してゐるその富、その尊嚴、その佛敎的迷信の低級な形式に對する反抗から判斷すれば、すべての佛敎宗派の中で、最も感情的分子の少いものと思はれるだらう。しかし或る點に於ては、多分最も感情的といふべきであらう。いかなる他の佛敎宗派も、

 

譯者註 所謂正統派基督敎の諸派が、三位一體說を信奉してゐるのに對して、ユニテリアンは、ただ一位の天父を信じ、基督をただ至高の人格と認め、その神性を認めないで、最も自由なる信仰を有し、儀式最も簡單である。

[やぶちゃん注:「ユニテリアン派が自由派基督敎に於て代表する」原文“Unitarianism represents in Liberal Christianity”。ユニテリアン(Unitarian)はキリスト教正統派の中心教義である父と子と聖霊の三位一体(トリニティ:Trinity)の信条に反対して「神の単一性(Unity)」を主張し、「イエスは神ではない」とする一派の人々を指す。厳密な意味での、「ユニテリアニズム(Unitarianism)」は宗教改革後、約半世紀経って現れており、十七世紀以後、イギリスに於ける著名なユニテリアンとしては。ビドル John Biddle・クラーク Samuel Clarke・プリーストリー Joseph Priestly・マーティノー James Martineau などが挙げられる。アメリカでは、イギリスから移住したプリーストリーによってフィラデルフィアに初めて「ユニテリアン教会」が建てられ、チャニング William Ellery Channingが一八二五年に「アメリカ・ユニテリアン協会」を設立した。一九六一年には「ユニバーサリスト教会」と合同して「ユニテリアン・ユニバーサリスト協会」が組織された。日本にユニテリアンが初めて紹介されたのは、明治二〇(一八八七)年、矢野文雄によってである(同年七月『郵便報知新聞』紙上)。明治四二(一九〇九)年頃には神田佐一郎・三並良)(みつなみりょう)・岸本能武太(のぶた)・安部磯雄らが機関誌『ゆにてりあん』の編集・執筆を行い、同誌は後に『宗教』に改題し、さらに日本最古のキリスト教雑誌である『六合(りくごう)雑誌』と合併したが、大正一〇(一九二一)年に終刊した。昭和二三(一九四八)年、「日本ユニテリアン協会」の創立総会が開かれ、ユニテリアンに関連する教会として「東京帰一(きいつ)教会」(初代会長今岡信一良(しんいちろう))が作られた。翌年、「日本ユニテリアン協会」は「日本自由宗教協会」と改称し、協会機関誌『創造』を刊行している。機関誌はその後『自由宗教』『まほろば』『創造』と誌名を変えながら発行され続け、昭和二七(一九五二)年には「自由宗教連盟」と改称、国際自由宗教連盟(IARF)に加盟した(IARFは明治三三(一九〇〇)年に創設され、三年に一度、大会を開催しているが、一九九九年には「地球共同体の創造 宗教者の使命」というテーマのもと、カナダのバンクーバーで第三十回大会が開かれた)。しかし、この一九九九年、宗教法人「東京帰一教会」は初代会長今岡氏の没後、後継者に適当な人材がなく、また、会員の老齢化などによって解散している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。「Liberal Christianity」はその英文ウィキの、日本語版相応の「自由主義神学」に「Liberal theology」「Theological liberalism」「リベラル」「リベラリズム」は、『キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つ。その発生以来、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派』(Ecumenism:キリスト教の教派を超えた結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のこと。世界教会主義とも呼ぶが、そこから転じて、キリスト教相互のみならず、より幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことを指す場合もある)『の多くが採用する立場』。『「自由主義」の語は社会学・政治学用語からの仮借であり、神学分野では「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」の意である。教義・教理の批判的研究である教義史を確立させた』。『かつては新神学(New Theology)とも呼ばれ、日本のキリスト教界にも大きな影響を与えた』とある。詳しくはリンク先を読まれたい。]

 

京都の東本願寺を實現せしめたやうに、强く普通人民の信仰と愛情を動かすことはできない。しかも本願寺派獨得の宗旨宣布法によつて、最も質樸無學な人々に手を伸ばしうると共に、一方またその學問によつて、知的階級をも動かす事ができる。この派の僧侶で、西洋の主もなる大學を卒業したものも少くはない。して、佛敎硏究の種々の方面に於て、聲譽を歐洲に馳せたものもある。古い方の佛敎の宗派が、絕えず隆盛に赴きつつある眞宗の勢力に壓倒されて、衰微に陷るべきか否かは、少くとも興味ある問題である。たしかに後者は一切のものが好都合である――皇室の御思召、富、學殖及び堅固なる敎團組織などが、さうである。これと同時に、眞宗よりも更に幾世紀も古い思想感情の習性を向うへ𢌞はして戰ふ場合、かかる便宜が果たして有効であるか否かは、疑問とならざるを得ない。恐らくは西洋の宗敎界は、此問題に關して預言の根據を置くべき先例を提供するだらう。羅馬舊敎が今日も依然、どんなに强大なまで存在してゐるか、ルーサー[やぶちゃん注:“Luther”。マルティン・ルター。]の時代以來、どんなにあまり變化しないでゐるか、今日の進步的信仰箇條が、どんなに或る具體的崇拜物に對する古い靈的飢渇――何かに觸れ、何かを胸に押しつけようとする欲求――を滿足させる力に缺乏してゐるか、――これらの事實を思ひ浮かべてみると、もつと古い佛敎諸派の偶像崇拜が、今後數百年、矢張り民衆の愛情裡に廣やかな領域を占めて行かぬとは限らない。それから、また眞宗の擴張に對する一つの珍らしい障害は、自己の犧牲といふ問題に關して、頗る深く根ざせる民族感情に存するといふことは、注目に値する。たとひ多くの腐敗が、疑もなく古い諸宗派に存するにせよ――たとひ食物及び獨身生活に關する誓と守らうともしない僧侶が、幾多あるにせよ――古い理想は決して未だ亡びてゐない。して、日本の佛敎徒の多數は、まだ眞宗僧侶の比較的愉快な生活に不賛成を表はしてゐる。僻陬[やぶちゃん注:「へきすう」。「僻地」に同じい。]に於て、眞宗が特に嫌惡の眼を以て見られてゐる處では、子供達がいたづらな歌をうたつてゐのを聞くこともある――

 

    眞宗坊主よいものだ。

    女房持つて、子持つて、

    うまい魚(さかな)をたべてゐる。

 

 これは私をして佛陀在世の時、佛敎徒に關する世間一般の批評を想起せしめた。これは屢〻『毘那耶』[やぶちゃん注:原文“Vinaya”。「律」。サンスクリット語「ヴィナヤ」の漢音訳。仏教に於いて僧集団(僧伽(そうが):サンガ)に属する出家修行者が守らなければならない規則のこと、及びそれを記した仏典の総称。]の經文に記され、殆ど歌尾の疊句の觀を呈してゐる――

 『そこで、民衆は不快を感じた。して、呟いて不平を訴へた。「これらの人々は、依然としてこの世の愉快を樂んでゐるやうな行動をしてゐる!」それから、彼等はこのことを佛尊に告げた』

[やぶちゃん注:以上は「四分律」(Dharmagupta-vinaya:仏教の上座部の一派である法蔵部(曇無徳部)に伝承されてきた律。ウィキの「四分律」によれば、中国及び『日本に伝来した諸律の中では、最も影響力を持ったものであり、中国・日本で律宗の名で総称される律研究の宗派は、ほとんどがこの四分律に依拠している』とある)に繰り返し現われる類似のシークエンスでの語句を繋げたものある。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『‥‥時(とき)に諸(もろもろ)の居士有り、‥‥に詣(いた)りて観看(くわんかん)す。‥‥を見(み)、見已(みをは)りて皆(みな)譏嫌(きげん)』(仏教用語で「世間の人が謗(そし)り嫌うこと」)『して言(い)わく』(ママ)、『「‥‥諸(もろもろ)の比丘(びく)これを聞(き)いて、世尊(せそん)の所(みもと)に往(ゆ)き‥‥此(この)因縁(いんねん)を以(もつ)て具(つぶさ)に世尊(せそん)に白(まを)す。」』と訳しておられる。]

 

註 僧侶の妻帶を禁ずる民法が撤廢されてから、特にさうである。眞宗以外の宗派の梵妻[やぶちゃん注:僧侶の妻を指す語。]は、滑稽で、且つあまり敬意を含まないも稱で呼ばれてゐる。

[やぶちゃん注:「民法」は誤り。明治五(一八七二)年四月二十五日の太政官布告百三十三号の「自今、僧侶肉食妻帶畜髮等可爲勝手事」に拠る。また、諸記事を見るに、本書が刊行された明治三〇(一八九七)年には、仏教界自体が(親鸞が妻帯して教義として許しているので浄土真宗以外。これは江戸時代もそうであった)、戒律に反する妻帯を認める方向へ既に傾いていたらしい。]

 

 天王寺以外、大阪には頗る古い歷史を有つた幾多の神社佛閣がある。高津の宮は、その一つである。そこでは、人々が日本のあらゆる天皇の内で、最も愛慕さる〻仁德天皇の靈に對して祈りを捧げるのである。現今天皇の社祠が立つてゐる場處に、天皇の宮殿があつた。して、市の眺望を恣にし得られる、この場處こそは、『古事記』に保存さる〻樂い傳說の舞台である――

[やぶちゃん注:「高津の宮」現在の大阪市中央区高津(こうづ)にある神社高津宮(こうづぐう)。難波高津宮に遷都した第十六代仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇・祖母の神功皇后・父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。貞観八(八六六)年、第五十六代清和天皇の勅命により、難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて、仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正一一(一五八三)年、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽(ひめこそ)神社を当社の地主神として摂社とした(ウィキの「高津宮」に拠った)。

 以下引用は全体が四字下げ同ポイントである。]

 

ヽヽヽ於ㇾ是天皇登高山、見四方之國。詔ㇾ之、於國中煙不ㇾ發、國皆貧窮、故自ㇾ今至三年、悉除人民之課役、是以大殿破壞、悉雖雨漏、都勿修理、以ㇾ※[やぶちゃん注:「※」=「木」+「咸」。]受其漏雨、遷避于不ㇾ漏處、後見國中、於國滿煙、故爲人民富、今科課役、是以三百姓之榮、不ㇾ苦役使、故稱其世、謂聖帝世也。

[やぶちゃん注:「古事記」「下巻(しもつまき)」の仁徳天皇の条の初めの方にある一節(既に「日本書紀」のそれは本篇冒頭の添え辞である伝仁徳天皇の歌の注で示した)。正確には「故稱其世」は「故稱其御世」。訓読しておく。

   *

……是(ここ)於いて、天皇(すめらみこと)、高山(たかやま)に登りまして、四方(よも)の國を見たまひて、之れに詔(の)たまひしく、

「國中(くぬち)に、煙(けぶり)、發(た)たず。國、皆、貧-窮(まづ)し。故(かれ)[やぶちゃん注:されば故に。だから。]、今より三年(みとせ)に、悉(ことごと)に人民(おほみたから)の課役(みつきえだち)[やぶちゃん注:「みつき」は「貢」で奉物、「えだち」は労役。]を除(ゆる)せ。」

と。

 是を以(も)ちて、大殿、破(や)れ壞(こぼ)れて、悉に、雨、漏れども、都(かつ)て修-理(をさ)めたまはず、※[やぶちゃん注:「※」=「木」+「咸」。水を流す「樋(とい/ひ)」か。](ひ)を以ちて其の漏るる雨を受けて、漏らざる處に遷(うつ)り避(さ)りましき。

 後に國中を見たまへば、國に、煙、滿てり。故(かれ)、

「人民、富めり。」

と爲したまひて、今は課役を科(おほ)せたまひき。是れ、百姓(おほみたから)の榮えて、役使(えだち)に苦まざるを以つてす。故(かれ)、其の御世を稱へて、「聖帝(ひじりのみかど)の世」と謂(まを)す。

   *]

 

 それは千五百年前であつた。今もしこの善い天皇が、かの高津の宮から――多くの人々が信ずる如く――現代大阪の煙を見そなはし玉ふならば、天皇は當然『朕の民はあまりに富すぎてきた』と考へ玉ふことであらう。

 市外に、神功皇后の三韓征伐を助けた海神を祀れる、もつと有名な住吉神社がある。住吉には綺麗な巫女、美しい境内、大きな池などがある。池に架せる橋は非常に灣曲してゐるので、靴を脫がずに、そこを渡るには、胸墻[やぶちゃん注:「きやうしやう(きょうしょう)」。胸の高さほどに築き上げた盛り土。原文は“parapet”。これって、「橋の欄干」でいいんじゃないの?]にすがりつかねばならぬ。堺には妙國寺がある。その庭には數株の頗る古い蘇鐡の樹がある。その一本は十六世紀に信長によつて移されてから、泣き悲しんだので、また寺へ戾されたといはれてゐる。これらの蘇鐡の下の土地は、滿面厚い、光つた、亂雜になつたた毛皮の塊のやうなもので蔽はれてゐる――半ば赤味を帶び、半ば銀灰色である。それは毛皮ではない。幾百萬の針の堆積である。これらの樹は鐡を好み、その錆を吸つて强くなるとといふので、巡禮者が『蘇鐡に食はせるため』そこへ投じたのである。

[やぶちゃん注:「住吉神社」大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社。詳しくはウィキの「住吉大社」を見られたい。

「妙國寺」大阪府堺市堺区材木町東にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙国寺。ウィキの「妙国寺」によれば、永禄五(一五六二)年、『阿波国より兵を起こして畿内を支配していた三好長慶の弟・三好実休(じっきゅう)が日珖(にっこう)に帰依し、『大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地と寺領』五百『石を寄進し、日珖を開山とする当寺が設立された』。「霊木・大蘇鉄の伝説」に、樹齢千百年余と『云い、次のような伝説が残っている』。『織田信長はその権力を以って』天正七(一五七九)年に『この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は』。『庭先で妙な声を聞き、森成利』(なりとし)『に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし』、『家来が刀や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな』、『血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。これにより』、『徳正殿を建て、寺の守護神として宇賀徳正龍神を祀ることとした。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないという』とある。今も天然記念物としてある蘇鉄の写真はこちら。]

 樹木の話の序に、私は難波屋[やぶちゃん注:「なにはや」。]の傘松のことを舉げねばならぬ。それが巨大な木であるといふことよりも、それが境街道に小さな茶店を開いてゐる大家族を養つて行くことにためである。この木の枝は、柱を組み合はせた枠の上で、外方と下方へ向けて伸びるやう馴らしてあるため、全體は百姓が被る笠といふ種類の、すばらしい綠色の帽子の觀を呈してゐる。松の高さは六尺にも足りないが、恐らくは二十方碼[やぶちゃん注:「ヤード」。十八強平方メートル。]に廣がつてゐる――其幹は、枝を支へてゐる枠の外部からは、無論毫も見えない。多くの人が茶屋へ來て松を見物する。して、一椀の茶を飮む。それから大抵誰れも或る記念品を買ふ――恐らくはその樹の木版畫、その樹を賞めて詠んだ歌を刷つたもの、少女の簪などである。簪はこの松――柱の枠をも含めた――全體の、綠色の立派な小模型で、一羽の小さな鶴が止まつてゐる。茶店難波屋の一家は、この樹を人に見せたり、かかる土產品を賣つたりして、ただ立派に暮らして行けるばかりでなく、その子供達をも敎育することができる。

[やぶちゃん注:「大阪あそ歩(ぼ)マップ集」のこちら(PDF)に、「難波屋の笠松跡」として地図入りで以下の記事がある。『江戸時代には難波屋という茶屋があり、その庭には枝ぶりがすばらしい松があって、紀州街道の名物でした。見物料の代わりに団子を売っていて「笠松は低いが団子は高い」と風刺されたといいます。昭和初期まで団子を売っていましたが、残念なことに戦後の食糧難で土地を開墾して芋などを植えたことから』、『土に栄養がなくなり、笠松は枯死しました。しかし安立小学校にて安立笠松会が松を植樹し、大きく育てて笠松の復活、伝承を試みています』とある。]

 

 私は大阪の他の有名な社寺――非常に古くて、頗る珍異なる傳說の纏はつてゐるのが、幾つもある――のことを述べて、讀者の忍耐を煩はさうと欲するものではない。しかし私は敢て一心寺の墓地について數語を試みよう。そこの墓石は、私が見たものの中では、頗る奇拔なものである。本門の近くに、朝日五郞八郞といふ力士の墓がある。彼の名は、多分重量一噸[やぶちゃん注:「トン」。]もありさうな、圓盤狀の大石の面に彫つてある。して、この圓盤は力士の石像の背上に載せてある――力士は怪奇な形姿を呈し、金泥を施せる眼は、眼窩から飛び出でて、容貌は努力のため、いかにも扭れてゐる[やぶちゃん注:「ねぢれてゐる」。]。それは半ば滑稽的で、半ば猛惡な光景である。その近くに、平山半兵衞といふ者の墓がある。これは瓢簞の恰好をした石碑である。瓢簞は旅人が酒を運ぶために使用するもので、最も普通の形は沙時計に似てゐて、ただ下部が上部よりも、や〻大きなだけである。して、その器は、酒が滿ちてゐるか、または一部分滿ちてゐる場合にのみ眞直ぐに立つことができる――だから日本の或る歌の中に、酒好きの人が、その瓢簞に向つて、『お前と一緖に倒れる』といつてゐる。たしかに酒豪連中が、この墓地の一區を占領してゐる。何故なら、同じ列にこれと頚似せる形の墓が、他に數個もあるからである また、一個の墓は一升德利の形をしてゐて、碑面には經文から取つたものではない句が刻んである。しかしすべての中で最も奇異な碑石は、眞直ぐに坐つて、前肢を以て腹つづみを打つてゐるらしい大きな石の狸である。その腹の面に井上傳之助といふ名と共に、次の句が刻してある――

 

    月夜よし念佛唱へて腹鼓

 

 この墓の花瓶は、酒瓶の形をしてゐる。墓石の臺は、岩を積んだもので、處々岩の間に、狸坊主の像が散見してゐる。私の著書の讀者は、日本の狸が、人間の形に化け、腹を打つて太鼓のやうな音を出す力を有つものと信ぜられてゐることを、多分知つてゐるでせう。それは惡戲とするため、屢〻佛僧の姿に化け、また甚だ酒が好きだといはれてゐる。無論、墓地に於ける、かやうな像は、ただ奇僻[やぶちゃん注:「きへき」。他のものと異なり、変わっていること。ひどく偏っているさま。]を現はすに過ぎないので、且つ惡趣味だと判斷されてゐる。希臘や羅馬の墓にも、死に關して――否、寧ろ人生に關して――現代人の感情に取つて嫌惡不快の感を催させるやうな情操、または情操めいたものを現はせる可笑げな繪畫及び彫刻のあつたことが思ひ出された。

 

註 狸は通常 badger と英譯してあゐが、狸といふ名の獸は、眞正の badger ではなく、一種の食果狐である。それは「浣熊(あらひぐま)の顏をした犬」とも呼ばれてゐゐ。しかし眞正の badger も日本に棲んで居る。

[やぶちゃん注:「一心寺」大阪府大阪市天王寺区逢阪(おうさか)にある浄土宗坂松山(ばんしょうざん)一心寺(いっしんじ)。「骨仏(こつぼとけ)」の寺としてよく知られている(詳しくはウィキの「一心寺」を参照されたい)。

「この圓盤は力士の石像の背上に載せてある」恐らく、一部の読者はこの大きさを誤解していると私は思う。松岡永子氏のブログ「にわたずみ」の「小泉八雲の見た大阪(1) 一心寺」を見られたい。その他の酒豪の墓や発句などを一応、検索してみたが、ネット上に画像は見当たらない。

「badger」(ベージャー)はアナグマ、本邦産種では食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマMeles anakuma を指す。食肉目イヌ型亜目イヌ下目イヌ科タヌキ属ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus であって、混同されることが多いが、全くの別種である。なお、「浣熊(あらひぐま)」はイヌ亜目クマ下目イタチ小目アライグマ科アライグマ亜科アライグマ属アライグマ Procyon lotor で、アメリカ合衆国・カナダ南部・中央アメリカ(メキシコなど)を原産地とする外来種であり、本邦の個体は外来種として定着した問題種である。

「食果狐」不審。原文は確かに“fruit-fox”であるが、これは現在、哺乳綱翼手(コウモリ)目大翼手(オオコウモリ)亜目オオコウモリ上科オオコウモリ科 Pteropodidae の果実食をするコウモリのことを指す(彼らは顔がキツネに似ている)ので、前後から考えても、おかしな謂いとしかとれない。そもそもがホンドタヌキは果実も食すものの、完全な雑食性(肉食もする)であり、通称としても全く相応しくない。

2019/11/28

小泉八雲 大阪にて (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」・「三」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“IN ŌSAKA”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第七話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 なお、この前に配すべき「人形の墓(田部隆次訳)」(原題も“NINGYŌ-NO-HAKA”)は既に電子化注済み(底本が異なるが、同訳者の本底本からの再録であり、有意な異同を認めない)である。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 冒頭の和歌の添え辞は上に引き上げた。傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全七章と長いので、分割して示す。]

 

      第七章  大阪にて

 

 たかきやに上りて見れは煙立つ

    民のかまとはにきはひにけり ――仁 德 天 皇

[やぶちゃん注:「新古今和歌集」の「巻第七 賀歌」の巻頭に配された、確かに「仁德天皇御歌」とする以下であるが(七〇七番)、

   みつきもの許されて國富めるを御覽じて

 たかき屋に登りて見れば煙(けぶり)たつ

    民の竈(かまど)はにぎはひにけり

「新古今和歌集」以前の「和漢朗詠集」の「勅史」には作者不明として見え、岩波新日本古典文学大系「新古今和歌集」(田中裕・赤瀬信吾校注。一九九二年刊)の脚注によれば、実際には誤伝で、もとは延喜六(九〇六)年に成された「日本紀竟宴和歌」の一つで、藤原時平が既に聖帝とされていた仁徳天皇を題にして詠じた、

 高殿に登りて見れば天の下よもに煙りて今ぞ富みぬる

が変形されて誤って伝えられたものであるとし、『平安末期には仁徳天皇御歌とされた(古来風身体抄・上ほか』とある(『ほか』とは「水鏡」か)。歌のシチュエーションは『仁徳天皇四年』(西暦機械換算三一六年)『春、天皇が高台(たかどの)に登り烟気(けぶり)が立たないのを見て、課役をとどめ、七年夏四月、烟気の多いのを見て、后に「朕、既に富めり」と述べた故事(日本書紀による)』とし、『四方拝荷通づるか』とある。「日本書紀」の原文は以下。

   *

四年春二月己未朔甲子。詔群臣曰。朕登高臺以遠望之。煙氣不起於域中。以爲百姓既貧。而家無炊者。朕聞。古聖王之世。人人誦詠德之音。家家有康哉之歌。今朕臨億兆。於茲三年。頌音不聆。炊煙轉踈。卽知。五穀不登。百姓窮乏也。封畿之内。尙有不給者。況乎畿外諸國耶。

三月己丑朔己酉。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。以息百姓之苦。是日始之。[やぶちゃん注:中略。]

七年夏四月辛未朔。天皇居臺上、而遠望之。煙氣多起。是日、語皇后曰。朕既富矣。豈有愁乎。皇后對諮。何謂富焉。天皇曰。煙氣滿國。百姓自富歟。皇后且言。宮垣壤而不得脩。殿屋破之衣・被露。何謂富乎。天皇曰。其天之立君。是爲百姓。然則君以百姓爲本。是以古聖王者。一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之。則朕貧也。百姓富之。則朕富也。未之有百姓富之君貧矣。

   *]

 

       

 約三百年前、束印度商會の任務を帶びて日本を訪問した船長ヂヨン・セーリス譯者註は、大阪の都會について書いた――

 

譯者註 ヂョン・セーリスは平戶に於ける英國商館の創立者。三隻より成る商船隊に船長として、リチヤード・コツクスと共に東洋に航し、千六百十三年六月十一日、平戶に着し、領主に歡迎され、更に安針アダムスの斡旋により、江戶及び駿府に赴き、家康より通商の許可を受けた。

[やぶちゃん注:ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)はイギリス船として初めて日本に来航したイギリスの「東インド会社」(East India Company)の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官。肥前国平戸に到着したのは慶長十八年五月四日(グレゴリオ暦一六一三年六月二十一日(但し、当時のイギリスはユリウス暦を用いており、それでは六月十一日となる。落合氏はユリウス暦に従っている。開幕から十年後で家康は慶長一〇(一六〇五)年四月に将軍職を辞し、秀忠に譲って大御所となって慶長一二(一六〇七)年には駿府城に移っていた)。イギリス商館は同年九月一日に家康によってイギリスとの通商許可が出された後に建設された。これが日英の国交の始まりとなった。

「三隻」セーリスは一六一一年四月十八日(ユリウス暦)にイギリス国王ジェームズⅠ世から将軍徳川家康に宛てた親書と献上品を載せ、イギリスを三隻で出航したが、他の二隻は別地で任務し、先に帰国している。

「リチヤード・コツクス」ステュアート朝イングランドの貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めたリチャード・コックス(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)。ウィキの「リチャード・コックス」によれば、『スタフォードシャー州・ストールブロックの人』で、『在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」』(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks:一六一五年(慶長二十年・元和元年)~一六二二年(元和八年))は、『イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である』。慶長一八(一六一三)年、『コックスは東インド会社によって日本に派遣され』、『江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した』。元和元(一六一五)年には、『平戸において、三浦按針が琉球から持ち帰ったサツマイモを九州以北で最初に栽培したといわれている』。一六一五年六月五日(元和元年五月九日)の『日記に、「豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。」と書いている』。元和二(一六一六)年には、『征夷大将軍・秀忠に朱印状更新を求めるため江戸に参府し』、翌年には英国王ジェームズⅠ世の『家康宛ての親書を献上するため』、『伏見で秀忠に謁見したが、返書は得られなかった。この頃から』、『オランダによるイギリス船隊への攻撃が激しくなり、その非法を訴えるため』、元和四~五年(一六一八年~一六一九年)の間に、二度目の『江戸参府を行』い、一六一九年にも『伏見滞在中の秀忠を訪問した』。元和六(一六二〇)年の「平山常陳(ひらやまじょうちん)事件」(平山常陳なる人物が船長をつとめる朱印船が二名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリス及びオランダの船隊によって拿捕された事件。江戸幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となった。ここはウィキの「平山常陳事件」に拠る)では、『その積荷と密航宣教師スーニガ及びフローレスの国際法上の扱いをめぐり』、『幕府に貢献した』。しかし、元和九(一六二三)年の「アンボン虐殺事件」(「アンボイナ事件」とも称する。オランダ領東インド(現在のインドネシア)モルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島)にあったイングランド商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件。これによってイングランドの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占した。東南アジアから撤退したイングランドはインドへ矛先を向けることとなった。ここはウィキの「アンボイナ事件」に拠った)を『機にイギリス商館の閉鎖が決まったため』、『日本を出国、翌年帰国の船中で病死した』とある。

「安針アダムス」徳川家康に外交顧問として仕え、「三浦按針(あんじん)」(一般には彼の日本名のそれはは「安」ではなく「按」である)の日本名で知られる、イングランド人の元航海士であったウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六年四月二十四日(一六二〇年五月十六日))。日本に最初に来たイギリス人とされる。少年期、造船所に勤め、やがて水先案内人となった。イギリス艦隊に船長として従事した後、オランダに渡り、一五九八年、司令官ヤコブ・マフの率いる東洋遠征船隊に水先案内として乗船、五隻からなる同船隊は途中で四散したが、彼の乗船したリーフデ号は太平洋を横断し、一六〇〇年四月十九日(慶長五年三月十六日)、豊後臼杵湾の佐志生(さしう:現在の大分県臼杵市)と推定される地点に漂着した。彼は船長の代理として大坂に赴き、徳川家康と会い、家康の命令を受け、船を堺より関東の浦賀に回航した。かねてより、関東貿易の開始を熱望する家康はアダムズとの会談を通じ、彼にその期待をかけ、日本橋の近くに屋敷を与え、また、浦賀の近くの三浦半島の逸見(へみ:現在の神奈川県横須賀市)に知行地を給した。「三浦按針」の名はこのようにして生まれた(按針は「パイロット=水先案内」の意味)。アダムズは、同僚のヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン Jan Joosten van Lodensteyn(Lodensteijn) 一五五六年~一六二三年:オランダの航海士で朱印船貿易家。「ヤン・ヨーステン」は名で、姓は「ファン・ローデンステイン」。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに漂着、徳川家康に信任され、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲附近で、この「八重洲」の地名は彼自身の名に由来し、「ヤン=ヨーステン」が訛った日本名「耶楊子(やようす)」と呼ばれるようになり、これが後に「八代洲」(やよす)となり、「八重洲」(やえす)になったとされる。やがて、東南アジア方面での朱印船貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが、帰国交渉が捗らず、結局、諦めて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した)とともに、まさに家康の外交顧問的存在となり、家康に数学・幾何学の初歩を教授するほか、外交の諸問題に関与し、反カトリックのオランダ・イギリスの対日通商開始を側面より促進したばかりか、朱印状を受けて東南アジアに渡航した。また、伊豆の伊東でイギリス型帆船を建造したことでも知られる。彼はイギリス人ながら、イギリスの対日通商政策とは意見を異にするなど、国際人として家康外交の展開に重要な役割を演じた。日本人を妻としたが、五十五歳で肥前平戸で病死した。妻は馬籠勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれ、夫妻の墓は按針塚と名づけられて、逸見に近い塚山公園に現存する(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 『我々は大阪の頗る大都會たることを見出した。その大いさは郭内の倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に比すべきほどで、幾多の耽腿な、高い、木造の橋を、倫敎に於けるテムズ河ほどの幅を有する河に架けて、交通の便が圖つてある。我々は若干の立派な家屋をそこに見た。しかし、多くではなかつた。それは日本全國の主要港の一つである。驚くばかり大きく、且つ堅固な城がある……』

[やぶちゃん注:「郭内の倫敦」旧ロンドン・ウォール(London Wall:紀元後二世紀頃からローマ人によりロンディニウム(ラテン語:Londinium) の周辺に作られた防御壁であり、その後十八世紀まで維持された。ロンディニウムは現在のロンドンを流れるテムズ川沿岸にあり、ローマ人にとって戦略的に重要な港町であった)、現在の歴史的に古い金融地域に当たるCity of London(グーグル・マップ・データ)があるが、そうだとするとセーリスは目測を誤っている。実際の大阪は二倍は有にあったはずである。]

 西曆十七世紀の大阪について船長セーリスがいつたことは、今日の大阪についても殆ど同樣に眞實である。それは今野猶ほ頗る大都合であつて、また日本全國の主要港の一つである。それは西洋人の見解に從へば、『若干の立派な家屋』を有し、『テムズ河程の幅を有する河』――淀川――に架せる『幾多の壯麗な木造の橋』(並びに鐡材及び石材を用ひたる橋をも)を有してゐる。それから、漢時代の支那に於ける城塞の樣式に基づいて、秀吉によつて、且つ堅固な』城は、散層の高さある櫓が失せ、また(一八六八年に)[やぶちゃん注:]立派な宮殿が破壞されたのにも關らず、依然として工兵技師[やぶちゃん注:“military engineers”。]を鎗嘆せしむるものがある。

[やぶちゃん注:「一八六八年」慶応四年。慶応三年12月九日(一八六八年一月三日)に発せられた「王政復古」の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移って居城していたが、慶応四年一月三日(一八六八年一月二十七日)、旧幕府軍の「鳥羽・伏見の戦い」での敗北によって、慶喜は船で江戸へ退却、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱の中で、大阪城は出火、御殿・外堀の四・五・七番櫓など、城内建造物の殆んどが焼失してしまった(ウィキの「大阪城」に拠った)。]

 

 大阪は二千五百年よりもつと古い。だから日本の最古の都會の一つである――尤も現今の名は、大きな川の高い土地といふ意味の『大江の阪』を略したので、それは僅々十五世紀に始つたものと信ぜられてゐるが、それより以前は浪速(なには)と呼ばれてゐた。歐洲人が日本の存在を知つたよりも數世紀前に、大阪は帝國の經濟と商業の大中心であつた。して、現今に於てもさうである。すべて封建時代を通じて、大阪の商人は日本の諸侯に對する銀行家と債權者であつた。彼等は米穀の租稅を金銀に兩替をした――彼等はその數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一・六キロメートル。]に亙る防火の倉庫内に、全國用の穀類、綿、絹を貯藏した――して、彼等は諸大名に軍資金を供給した。秀吉は大阪を彼の軍事上の首府とした――嫉妬的で、且つ慧眼なる家康は、この大都會を恐れた。して、その大資本家輩が有する財政的勢力に鑑みて、彼等の富を殺ぐことを必要と考へた。

 今日の大阪――一八九六年[やぶちゃん注:本書刊行(一八九七(明治三〇)年九月)の前年。]の大阪――は、廣大なる面積を占め、約六十七萬の人口を有つてゐる[やぶちゃん注:大阪府単位では同年で既に倍以上の百三十七万七千六百人に達している。]。廣袤[やぶちゃん注:「くわうぼう(こうぼう)」の「広」は東西の、「袤」は南北の長さを指す。幅と長さで「広さ・面積」のこと。]と人口に關しては、現今ただ帝國第二の都會たるに過ぎないが、大隈伯[やぶちゃん注:大隈重信。]が最近の演說に述べた如く、財政、產業、及び商業の上では、東京に優つてゐる。堺、兵庫、及び神戶は、實際ただその外港である。しかも、後者はめきめきと橫濱を凌駕しつつある。内外人共に、神戶が外國貿易の最要港となるだらうと、確信を以て豫言してゐる。何故なら、大阪が全國で最も優秀なる商業的手腕あるものを牽引しうるからである。現今大阪の外周貿易に於ける輸出入高は、一箇年約一億二千萬弗を示してゐる。して、その内地と沿海の商業は莫大なものである。殆どすべての人のすべての需用品が大阪で製造される。して、帝國のいづれの地方に於ても、苟も愉快に暮らしてゐる家庭の用具調度に對し、大阪の工業が幾分の貢獻をしないものは殆ど無い。これは東京がまだ存在しなかつた餘程以前にも、多分さうであつた。今猶ほ殘つてゐる一つの古謠には、『出船千艘、入船千艘』といふ繰り返しの文句がある。その語の作られた頃には、和船だけであつた。今日は汽船もあれば、種々の裝具を備へた大洋航海の船もある。埠頭に沿つて數哩の間、帆檣や煙筒が一見殆ど限りなく列つてゐる。尤も太平洋航路及び歐洲郵便線路の巨舶は、吃水の深いため入港ができないから、大阪の荷物を神戶で取扱つてゐる。しかしこの元氣旺盛なる都會は、數個の汽船會社を有し、今や千六萬弗の費用を投じて、その港灣改良の工事を企ててゐる。二百萬の人口と、少くとも三億弗の外國貿易額を誇るべき大阪は、次の半世紀に實現し難き夢ではない。大阪は各種の大なる商業組合の中心であり、また紡績會社の本場であるといふことを、私は殆どいふに及ぶまい。その紡績機械は一晝夜の中に、職工の交代がただ一囘に止まり、二十三時間運轉を續け、その製造糸量は、英國の工場に比すれば、一錘[やぶちゃん注:「すい/つむ」。紡錘を数える単位。]に就いて二倍に達し、印度ボンベー市[やぶちゃん注:“Bombay”。インドのボンベイ。]の工場を凌ぐこと三割乃至四割に及んでゐる。

 

註 大阪には四百個以上の商業會社がある。

[やぶちゃん注:「一億二千萬弗」明治二八(一八九五)年の為替レートで一ドルは一・九八円でほぼ二円であるから、二億四千万円に相当し、明治三十年代の一円を現在の二万円相当とする推定に則れば、四百八十兆円に相当する。明治二十八年の日本の通貨流通高は二億六千万円、同年の日本の国家予算は八千五百万円であったから、実にその三倍に当たる。]

 

 世界の各大都市は、その市民に或る特質を與へるものと信ぜられてゐる。して、日本では大阪人は殆ど一見してわかるといはれてゐる。私は東京人の性格は、大阪人の性格ほどに顯著でないといひきると思ふ――丁度米國に於てシカゴの人は、紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]或はボストンの人よりも一層早く認め得られるのと同樣である。大阪人は一種の植故な理解と輕快なる元氣を有し、且つ一般に最新式流行に通曉し、或は更に少々それよりも先だつてゐるやうな風がある。これは工業上及び商業上、相互の競張の烈しい結果を示してゐる。要するに、大阪の商人或は製造業者は、政治上の首府なる東京に於ける、その競爭者よりは商業上、遙かに長い經驗の遺產を有つてゐる。恐らくはこのことが、大阪の旅商人の世間に認められたる優秀なる手腕を幾分說明するだらう。この旅商人は、現代化されたる階級であつて、目醒ましい型の人物を提供してゐる。汽車或は汽船で旅行の際、諸君は一寸談話を交じへた後にも、その何國人であるかを確に決定し難いやうな紳士と、偶然知り合ひになる事があるかも知れない、彼は最新式で、且つ最上型の衣服を着け、服裝に申し分なき趣味を示してゐる。彼は佛獨英のいづれの國語にても、同樣によく諸君と語ることができる。彼はいかにも慇懃である。しかし極めて種々の人物と調子を合はせて行くことができる。彼は歐洲を知つてゐる。して彼は諸君が極東で行つたことのある地方と、また諸君が地名さへ知らぬ場處についても、諸君に非常なる知識を與へることができる。日本に關しては、各地方の特產物とその比較的價値及び沿革に精通してゐる。彼の顏は愉快である――鼻は眞直であるか、またはや〻彎曲してゐる――口は黑い繁つた鬚で蔽はれてゐる。眼瞼だけが、幾分諸君をして、東洋人と會話をしてゐるのだと想像することを得しめるのである。これが今日の大阪の旅商人の一典型である――日本の尋常の小官吏に優さる[やぶちゃん注:「まさる」。]ことは、恰も王公が從僕に於けるが如くである。若し諸君が大阪の都會で逢ふ場合には、諸君は多分彼が日本服を着用してゐるのを見出すであらう――立派な趣味の人ならでは、なかなかできないやうな服裝をしてゐて、且つ日本人よりは寧ろ假裝せる西垣牙人[やぶちゃん注:「スペインじん」。]或は伊太利人のやうに見えるだらう。

 

       

 生產及び分配の中心として大阪が名を馳せてゐるため、日本全國の都會中、最も近代化した、最も純日本的特徵の乏しい都會と、大阪を想像する人があるだらう。しかし大阪は、その反對である。日本の他の大都會に於けるりも大阪に於ては、西洋服を見受けることがもつと稀である。この大市場の群集ほど、華美な服裝をしたものはなく、またこれほど綺麗な町もない。

 大阪は種々の流行を作りだす處だと思はれてゐる。して、目下の流行は色が多樣へ向つて行く、愉快なる趨勢を示してゐる。私が日本に來た時、男子の衣服の主色は黑であつた特に暗靑色であつた。いかなる男子の群集も、この色合の團塊を呈するのが普通であつた。今日はもつと色調が輕快である。して、種々の灰色――濃い灰色、鋼鐡色の灰色、靑がかつた灰色、紫がかつた灰色――が、優勢を占めてゐるやうに見える。しかしまた幾多の心地よい變色もある――例へば、靑銅色、金褐色、『茶色』[やぶちゃん注:原文ではここのみ“"tea-colors,"”とクォーテーション・マークが附いているせいである。英語の「brown」を日本の如何にも日本語らしい色名に英訳したのである。]などである。婦人の衣服は、無論もつと變化に富んでゐる。しかし男女いづれも、成人に對する流行の性質は、嚴格なる良風美趣の法則を放擲するやうな傾向を示してゐない――はでやかな色彩は、ただ子供と藝妓の衣裳にのみ現はれてゐる――藝妓には永遠の若さの特權が與へられてある。最近流行の藝妓の絹羽織は、燃ゆるが如き靑空色であることを、私はここに述べておく――熱帶のやうな色で、それを着てゐる人の職業が、遠方から見てもすぐわかる。しかし高級の藝妓は、服裝の好尙が地味である。私はまた寒氣の節、戶外で男女の着ける長い外套のことを話さねばならぬ。男子のは、西洋のアルスター型長外套[やぶちゃん注:“ulster”。アルスター外套。ゆったりとした長い厚めの男女のコートで、防水処理が施され、ベルトがついていることもある。もともとアイルランドのアルスター地方産の羊毛で作られたのでこの名がつけられた。アルスター・コートはトレンチ・コートの原型で、本来はダブルである。オーダー専門店「BOTTONE公式サイト内のこちらが歴史と変遷をよく教えてくれる。]を適當に修飾したもののやうである。して、小さな肩被[やぶちゃん注:「かたおほひ」と訓じておく。原文は“cape”。肩と背を覆う袖なしのマント状部分。所謂、シャロック・ホームズの着ているあれを想起すればよい。]が附いてゐる。地質は羊毛で、色は淡褐色或は灰色が普通である。婦人のには、肩被がなく、大抵黑無地の大幅羅紗を用ひ、澤山に絹の緣がついて、前の襟が低く裁つてある。それは咽喉から足までボタンでとめてあつて、全く上品に見える。尤も下に結んでゐる、太く重い絹の帶の蝶形を容れるため、背部では餘程廣くゆるやかにしてある。

[やぶちゃん注:最後の部分は“though left very wide and loose at the back to accommodate the bow of the great heavy silk girdle beneath.”で、帯を「蝶」型に結んでその下に「容れる」=「収める」ことになるため、の謂いだろう。平井呈一氏は恒文社版「大阪」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で『ただし、背中は、下へお太鼓をしめた帯がはいるから、背幅を広くゆっくり取ってある』と訳しておられ、私のような無粋な男でも全く躓かずに意味が判る。]

 

 風習の點に劣らず建築に於ても、大阪は依然殆ど理想的に日本風になつてゐる。廣い大通もあるが、大抵町幅は甚だ狹い――京都の町よりも狹い位である。三階の家屋や二階の家屋の町もあるが、平家造りのものが數方哩[やぶちゃん注:“square miles”。平方マイル。]にも及んでゐる。市の全部は、瓦葺屋根を有する低い木造建築の聚團である。しかし東京の町よりも、その看板や看板の繪に於ては、一層面白く、活氣を帶び、珍異である。また市全體が、その多くの水路のために、東京より更に景色がよい。日本のヴエニス[やぶちゃん注:“Venice”。]と呼ばる〻のも過稱ではない。何故なら、淀川の諸支流によつて、數個の大きな部分に分劃[やぶちゃん注:「ぶんかく」。「区画」に同じい。]されてゐる外に、運河が東西南北に通つてゐるからである。淀川に面した町よりも狹い運河の方が、もつと興趣に富んでゐる。

 これらの水路の一筋を見通す眺めは、街路の通景のやうなものとして、これほど珍らしいものが殆ど日本にあるまい。運河は鏡の面の如く靜かに、兩岸の家屋を支へてゐる高い石造の堤壁の間を流れて行く――二階乃至三階の家屋が、すべて丸太を施して石垣の外へのばされ、正面はそつくり水上に張り出してゐる。それは後方からの壓迫を暗示するやうに、ごちやごちやに集つてゐる。して、この押し合ひ、詰め込んでゐる趣は、意匠の整齊[やぶちゃん注:「せいせい」。整い揃えること。整い揃っていること。]が缺けてゐるため、更に增加してゐる――いづれの家も他の家と全然似てゐるといふことはなく、悉皆[やぶちゃん注:「しつかい(しっかい)」。悉(ことごと)く皆(みな)。残るくまなく総て。]或る名狀し難き極東風の奇異さ――一種の民族的特性――を有してゐるので、時も場處も非常に遠いといふ感じが起こる。欄干の附いた可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]小さな緣側が、張り出してゐる。格子のついた、玻璃をはめない出窓の下に、鬼子のやうな小さな露臺があつて、[やぶちゃん注:ここは“glassless windows with elfish balconies under them, and rootlets over them like eyebrows; tiers of tiled and tilted awnings;”という原文を見ても、よく意味も分からぬし、情景も見えて来ない。平井呈一氏は『格子を打った、ガラス戸のない出窓の下には、箱庭みたいな露台があり、』と訳しておられる。]上方には眉毛のやうな小屋根がある。瓦を葺いた彎曲した庇が出でてゐる。また大きな檐[やぶちゃん注:「のき」。]は、或る時刻には、土臺へまで影を投ずる。木材の造作が大抵黑い――星霜を經たためか、または汚れたために――ので、影は實際よりも一層深いやうに見える。影の内部の方に、露臺の柱や、緣側から緣側への竹梯子や、磨いた指物細工の隅角[やぶちゃん注:「すみかど」。]など、いろいろの突出したものが、ちらつと見える。時には莚蓆[やぶちゃん注:二字で「むしろ」と訓んじおく。]や、竹を割いて作つた幕、卽ち簾や、大きな表意文字を書いた木綿の暖簾が吊つてある。して、すべてこれが忠實に水中に倒さに[やぶちゃん注:「さかさ」。]映つてゐる。種々雜多の色彩は、畫家を欣ばすべき筈だ――磨いた古い材木の黃焦茶色、チヨコレート色、栗色の褐色。莚蓆や簾の濃い黃色。漆喰を塗つた面の淺黃白色。瓦の落ちついた灰色など。……私が最近に運河を見た時、かやうな見通しの光景は、春靄の魅惑に鎖ざされてゐた。それは早朝であつた。雙が立つてゐた橋から二百碼[やぶちゃん注:「ヤード」。約百八十三メートル。]先きでは、家々の前面が靑くなり始めた。もつと向うでは、透明な蒸氣のやうであつた。それから更に遠方では、明かるい光の中へ突然溶けて消えるやうに見えた。宛然[やぶちゃん注:「ゑんぜん」まさにその(ここは「夢」)通りと思われるさま。(ここは「夢」に)そっくりであるさま。]夢の行列であつた。私は笠と簑をつけた百姓が棹さしてゐる小舟の進行を注視した――それは昔の繪本にある百姓のやうであつた。小舟と人間が、輝いた靑色に變はり、それから灰色に變はり、それから、私の眼前で――滑るが如くに涅槃裡[やぶちゃん注:「ねはんり」。“glided into Nirvana.”。]に沒入した。その輝いた春靄によつて、かやうに作られたる無形といふ觀念は、音響の無いために更に强められた。何故なら、これらの掘割の町は、商店の町が騷々しいと同じほどに靜かだから。

 

 日本で大阪ほど數多の橋を有する都會は、他にない。市區の名は橋に基づいてつけられ、距離も橋を標點としてある――いつも高麗橋[やぶちゃん注:「こうらいばし」。原文“Koraibashi, the Bridge of the Koreans,”。ここ(グーグル・マップ・データ)。]から計算される。大阪の人は何處へ行くにも、その場處へ最も接近した橋の名を思ひ起こして、すぐに道筋を知るのである。しかし主要なる橋の數が百八十九個もあるから、かかる見當の定め方は、他國の人に取つては、あまり役に立たぬ。若し商人であれば、橋の名を覺えなくても、仕入れをしようと思ふどんな品でも見出すことが出來る。大阪は帝國に於て商賣上、最も整頓せる都會である。また、世界中で最も秩序整然たる都會の一つである。それは昔から同業組合の都會であつて、種種の商業及び製造業は、昔の習慣に基づいて、今猶ほ特別な區や町に集つてゐる。だから、すべての兩替屋は北濱に店を持つてゐる――これは日本のロンバード街譯者註である。反物商は本町を獨占してゐる。材木商はすべて長堀と西橫堀にゐる。玩具製造者は南久寳寺町と北御堂前にゐる。金物商は安藤寺橋通を占有してゐる。藥品商は道修町にゐる。また指物師は八幡筋にゐる。その他多くの商賣も、それから娛樂の場處も、そんな風になつてゐる。劇場は道頓堀にあつて、手品師、歌ひ手、踊りの藝人、輕業師及び賣卜者[やぶちゃん注:「ばいぼくしや」。占い師。]は、すぐその附近の千日前にゐる。

 

譯者註 佛敎の商業區に於ける銀行通。

[やぶちゃん注:私は大阪に今まで三度しか行ったことがない。しかもその内の一度は中学の修学旅行であり、二度目は某高等学校に於ける人権委員会委員長としての全同協全国大会への参加であり、三度目は国立文楽劇場での「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言の全観覧のためであって、凡そ殆んど散策したこともなく、地理的知識も皆無に近い。されば、以上の場所を地図で示すのは私自身にとってはただ部外者としての地図上の各地の関係性以外の属性を示すのみであり、注しても、判る人には無用の長物で、大阪を知らぬ人には「地図を見てもねぇ」という人も多かろうと思い、当初は一切注さないことにして公開したが、一日経って、やはり最低の地図上の相当位置は示すことに考えを変えた。

「北濱」現在の大阪府大阪市中央区北浜(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の一部。現在も「大阪取引所」を中心とした金融街で、ウィキの「北浜」によれば、『東京の金融街である兜町が「シマ」と呼ばれるのに対し、北浜は「ハマ」と呼称される』とある。

「ロンバード街」Lombard Street は先に示した旧ロンドン・ウォールの中のシティ・オブ・ロンドンの、「イングランド銀行」から東に走る三百メートルほどの通りの名称。多くの銀行や保険会社が軒を連ねているため、「ロンドン金融市場」の別名として慣用されている。イギリスでは十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放したが、この前後から北イタリアのロンバルディア(Lombardia)出身の商人たち(ロンバルディア人。これが名の由来)が来住し、貿易と絡めて、両替・為替業を営み、銀行業者の地位を確立した(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「本町」中央区本町。江戸時代以来、ここは繊維・衣料関係の町として栄え、北隣の安土町と同様、近江商人の多い町であった。

「長堀と西橫堀」ここの中央東西が前者の名を残す「長堀通り」、Pマークの南北の部分が後者(西横堀川があったが、埋め立てられた)。

「南久寳寺町」「みなみきゅうほうじまち」(原題仮名遣。以下同じ)は大阪府大阪市中央区南久宝寺町

「北御堂前」中央区本町にある北御堂、本願寺津村別院附近。

「安藤寺橋通」中央区南船場にある安藤寺橋を中心とした東西の通り。

「道修町」中央区道修町(どうしゅうまち)

「八幡筋」道頓堀の北側の、三つ目の東西の通りの通称。このレッド・マーク附近

「千日前」中央区千日前。]

 

 大阪の中央部には、幾多の頗る大きな建築がある一一劇場、料理屋、それから全國に有名な旅館など。しかし西洋風の建物の數は、目立つて少い。尤も八百乃至九百本の工場の煙突がある。しかし工場の建築は、槪して西洋式の設計でない。眞正の『外國』式建築は、一軒のホテル、二重勾配屋根を有する府廰、花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所、立派な近代風の郵便局、造幣局、造兵廠、數種の製造所及び釀造所である。しかしこれらのものは、非常に散在してゐるので、實際、此都會の極東的性質と反せる、特異な印象を與へない。だが、一つ全然外國風な一小區城がある――これは古い居留地で、まだ神戶が存在しなかつた時代に起こつたものである。その街路は立派に作られ、建物は堅固に出來てゐるが、いろいろの理由で、宣敎師の住居に委ねてある――ただ一軒の古くから殘つてゐる商會と、多分一軒か二軒の代理店が開店してゐる。この荒唐したる居留地は、大なる商業上の荒野に於ける靜けさの沃地(オーエーシス)[やぶちゃん注:“oasis”。オアシス。]である。大阪の商人間に、この建築風を模倣しようとの試みもない。實際、日本の都會で大阪ほど、西洋建築へ對して好意を示さないものはない。これは鑑識が足りないからではなく、經濟上の經驗によるのである。大阪は西洋風に――石材、煉瓦及び鐡を以て――建築するのが、その利益疑ふべからざる時と場處に於てのみさうするであらう。東京に行はれてゐるやうに、かかる建築を投機的に企てるといふことはないだらう。大阪の遣り方は、じりじり進む方であつて、また確實なものに投資する。確實な見込みのある場合には、大阪商人は盛んなる提案をする――二年前、或る鐡道の買收と復興のために五千六萬弗を政府へ提供したのは、その一例である。大阪のすべての家屋の内で、朝日新聞社が最も私を驚かした。朝日新聞は日本の新聞紙中、最大なものである――恐らくはいかなる東洋語で發行せらる〻新聞も、その右に出づるものはあるまい。それは日刊繪入新聞で、その編輯法は頗る巴里の新聞に似てゐる――文藝欄があつて、外國小說の飜譯や、時事に關する輕妙奇警な閑話などが載せてある。人氣の高い作家に多額の金を拂ひ、また通信と電報に莫大の費用を投じてゐる。その插畫――現今或る婦人の手に成る――は、丁度佛敎のポンチ雜誌が、英國の生活に於ける如くに、新舊あらゆる日本の生活を充分に寫し出してゐる。それは兩面印刷機を使用し、特別な列車を契傭[やぶちゃん注:「けいよう」。長期に雇い入れる契約をすることであろう。]し、して、その配布は帝國の大抵の場處へ及んでゐる。だから朝日新聞社は、大阪に於ける最も綺麗な建築の一つであらうと、私は確に期待してゐた。しかしそれは昔の武士屋敷であつた――その邊では、殆ど最も靜かで、また質素な趣のある場處であつた。

[やぶちゃん注:このオチは凄い! 「株式会社 朝日プリンテック」公式サイトのこちらに画像が小さいが、中之島の武家屋敷時代の写真が二枚ある。平井呈一訳一九七五年刊恒文社版「仏の畑の落穂 他」の冒頭に、ここで小泉八雲が訪れた当時とする朝日新聞社本社写真があるが、廂を除いて殆んど変わらない。これはビックリだ!

「一軒のホテル」不詳。それが判りそうな出版物はあるようだ。旧位置とホテル名をお教え願えれば幸いである。

「二重勾配屋根を有する府廰」これは西大組江之子島上之町(現在の西区江之子島二丁目)にあった二代目庁舎のこと。修飾の原文は“mansard roof”(マンサード・ルーフ)で「腰折れ屋根」のこと。切妻屋根の変形で、屋根の勾配が上部がゆるく、下部が急な二段構造になっているもの。十六世紀の中頃にイギリス・イタリアで用いられルーブル宮殿にも採用された。十九世紀中頃、特にフランスやアメリカで一般的となり、アメリカでは「ギャンブレル屋根」(gambrel roof)とも称する。屋根裏部屋の天井を高くし、広い空間を確保出来る利点がある。北海道地方で家畜飼料用倉庫(サイロ)に採用されているのも、この利点からである。名称はフランスの建築家 F.マンサールに因むとされる。ウィキの「大阪府庁舎」のこの画像が当時のそれ。マンサード・ルーフだと言われれば、そうも見えなくはないが、この写真ではよく判らぬ。

「花崗石の柱の古典式玄關を有する市役所」当時は上記の大阪府旧庁舎の北側に建っていた。画像は見当たらない。

「二年前、或る鐡道の買收と復興のために五千六萬弗を政府へ提供した」不詳。識者の御教授を乞う。]

 すべてこの地味で、且つ賢い保守主義は、私を欣ばせたといふことを、私は告白せねばならぬ。日本の競爭力は、今後永く昔の質朴な生活を維持して行く力に存するに相違ない。

 

註 外國領事館は、一八六八年の内亂に際して、大阪を去つて神戶に避難した。それは大阪では本國の軍艦を以て、よく領事館を保護することができたかつたからである。一たび神戶へ移つてから後、その深い灣が與へる便宜は、大阪居留地の運命を終はらしめた。

 

       

 大阪は帝國の大商業學校である。日本のあらゆる地方から、靑年が工業或は商業の特殊な部門を學ぶために、ここへ送られる。いかなる缺員の地位へ對しても、澤山の志望者がある。だから商人はその丁稚を選擇するのに、頗る用心深いといふことである。志望者に關して、當人の人物と、身許をよく注意して調べる。丁稚の親、または親戚は、一文も金を拂はない。奉公の期限は、商工業の性質によつて異る。しかし普通歐洲に於ける徒弟奉公期間と全く同じほどに長い。して、或る種の商業では、十二年乃至十四年に及ぶのもある。かやうなのは反物商の場合に、普通要求せらる〻奉公期限であると私は聞いてゐる。しかも反物商の丁稚は、一箇月にただ一日の休みしかなくて、一日に十五時間も働かねばならない。徒弟の全期間を通じて、彼は何等の賃銀を受けない――ただ寢食と絕對に必要な被服を受けるだけである。主人は彼に一箇年に二枚の衣服を與へ、下駄を給することになつてゐる。恐らくは盛大な祝祭などの日に、少許[やぶちゃん注:「すこしばかり」。]の小遣錢を惠まれることがある――しかしこれは契約には規定してない。しかし彼の奉公年限が終はると、主人は彼が獨立して、小規模な商賣を始めるに足るだけの資本を與へるか、若しくは何か他の方法によつて、實際有力なる援助を與へる――例へば、商品或は金員について、信用貸の便宜を計つてやる。多くの丁稚は、その主人の娘を娶る。その場合には、若夫婦が世の中へ乘り出すに當つて、大抵必らず好都合である。

 これらの長い徒弟勤務の訓練は、品性の嚴格な試驗であると考へることができる。假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]丁稚は決して荒々しい挨拶を受けないけれども、彼はいかなる歐洲の事務員も堪へないやうなことを堪へねばならぬ。彼は毫も閑暇を有たない――睡眠に必要な時間を除いては、自分の時間と稱すべきものを有たない。彼は昧爽[やぶちゃん注:「まいさう(まいそう)」。「昧」は「ほの暗い」、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・暁・未明」。]から夜遲くまで、おとなしく、また着實に働かねばならぬ。最も質素な食物で滿足せねばならぬ。さつぱりした身嗜み[やぶちゃん注:「みだしなみ」。]をせねばならぬ。して、決して不機嫌を見せてはならぬ。放蕩な性質を有つてゐるものとは思はれてゐない。またかかる過失に陷る機會も與へられてゐない。數箇月も引き續いて、晝夜その店を離れないやうな丁稚もある――營業時間に坐つてゐるのと、同一の疊の上で寢に就く。絹布類の大商店の店員は、特に室内にばかり居るので、彼等の不健康らしい蒼白色は、世間に知れ互つた事實である。年々歲々、彼等は每日十二時間乃至十五時間も同一の場所に坐つてゐる。だから、どうして彼等の脚が、達磨のやうに落ちてしまはないかと不思議に思はれる。

 

註 日本の通俗的傳說によれぱ、佛敎の偉大なる長老で、且つ修道者なる達磨は、九年間の絕えざる冥想のため、兩脚を失つたと云はれてゐる。達磨の可笑げな[やぶちゃん注:「をかしげな」。]人形が、普通の子供の玩具となつてゐる。それは脚がなくて、また内部に重量[やぶちゃん注:「おもり」。]を入れて、いくら投げても、いつも眞直ぐな態度を保つやうに仕組んである。

 

 時としては道德上の失敗者もある。恐らくは丁稚が店の金員を幾らか濫用して、放蕩に費消してしまうこともあるだらう。恐らくはもつと惡るいことを行ふ場合もあるだらう。しかしどんな事件であらうとも、彼は滅多に逃亡しようとは考へない。もし彼が饗宴に浮かれたならば、それから一兩日身を隱してゐても、やがて自分から戾つてきて白狀し、詫びを入れる。彼は二三囘、或は多分四囘位までも、その放縱の過失を宥される[やぶちゃん注:「ゆるされる」。]だらう――もし眞に内心が姦惡であるといふ證據がない限りは――して、彼の前途、彼の家族の感情、彼の祖先の名譽、それから一般商人の資格などの諸點に照らして、彼の缺點について、懇懇と說諭されるだらう。彼の境遇の困難は、親切な思ひやりを以て考へられ、決して小過失のために解傭[やぶちゃん注:「かいよう」。契約雇用解除。]されることはない。解傭は多分彼の一生を破滅させることになるだらうから、その明白な危險に對して彼の蒙を啓くため、あらゆる注意が加へられる。大阪は實際馬鹿な行爲を演ずるのには、日本中で最も不安な場處である――大阪の危險で、且つ邪惡な階級は、東京のそれよりも更に怖ろしい。して、この大きな都會の日々の新聞は、正しく丁稚が學ばねばならぬ義務の一部である、行政上の法則に背いたために、或は貧窮に陷つたり、或は餘儀なく自殺をしたりする人々の恐るべき實例を與へてゐる。

 丁稚が極めて幼年の頃、奉公に入つて、その商店に於て殆ど養子のやうに育て上げられた場合には、主人と丁稚の間に頗る强い愛情關係が生じてくる。主人へ對し、或は主家の人々へ對して、非常な獻身的な美談が、屢〻傳へられる。時としては、破產した商人が、昔の番頭によつて、その高貴を復興されることもある。また、丁稚の愛情が奇異なる極端となつて現はれることもある。昨年一つの珍事があつた。或る商人の一人息子――十二歲の少年――が、惡疫流行の際、虎列剌[やぶちゃん注:「コレラ」。]病で殪れた[やぶちゃん注:「たふれた」(音は「エイ」)。死んだ。]。亡くなつた子供と非常に親密であつた十四歲の丁稚は、葬式の後、間もなく汽車の前へ身を投げて自殺した。彼は一通の手紙を殘した――

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本でも本文と同ポイントで全体が二字下げである。引き上げ、前後を一行空けた。少年の署名は底本では下インデント三字上げ。]

   

 長い間、御世話樣に相成り、御高恩は言葉に申し述べ難く候。只今これ限り相果て候こと、不義理の至りに存じ侯へ共、再び生まれ變はつて御恩を報じ可申上候。ただ妹おのと[やぶちゃん注:“O-Noto”。彼の妹の名前。]のことのみ心配に候。何卒同人へ宜しく御目をかけ下され度願上候。

              間 野 由 松

    御 主 人 樣

 

[やぶちゃん注:小泉八雲は遺作となってしまった「神國日本」の「家族の宗教」にも、この話を紹介している。『「恐らく尤も異樣なのは、十四歳の少年が、その主人の小さい子息なる子供の靈に侍するために、自殺したといふ事である』(私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(4) 家族の宗教(Ⅰ)」を見られたい。また、銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)の明治二八(一八九五)年の十月の記事に、『この頃、主人の幼い子供の死のあとを追って鉄道自殺した少年のことを知る』とある。]

小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「五」・「六」 / 日本美術に於ける顔について~了

 

 [やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「一」』を参照されたい。]

 

       

 私は今頃外國の繪入新聞或は雜誌を眺める時、その彫刻畫にあまり愉快を見出さないといつた。大抵それは私に嫌惡を催させる事が多い。その畫は私に取つて粗末で醜く、またその寫實的な觀念は、淺薄と思はれる。かやうな作品は何ものをも想像力に委ねるといふ事がない。して、いつも折角の骨折りを無駄に歸せしめる。普通の日本畫は多くのものを想像力に殘しておく――否、强く想像力を刺激せずには止まぬ――して、決して努力を裏切らない。歐洲の普通の彫刻畫に於ては、一切のものが細密で、且つ個性化されてゐる。日本畫に於ては、一切のものが非人格的で、且つ暗示的である。前者は何等の法則を示さない。それは特殊性の硏究である。後者は常に法則について幾らか敎へる處がある。して、法則と關係のない限りは、特殊性を抑制して現はさない。

 西洋美術は餘りに寫實的だと日本人がいふのを耳にすることが屢〻ある。して、その判斷は眞理を含んでゐる。しかしその日本人の趣味に反する寫實主義、特に顏面表情の點に於ける寫實主義は、單に細部の緻密のために咎むべきではない。細部そのものはいかなる美術に於ても非難されてゐない。また最高の美術は、細部が最も精巧に描寫されたものなのである。神性を發見し、自然の粹を超越し、動物及び花卉に對する出世間的理想を發見した美術は、細部のできうる限り鋭い完全を特徵としてゐた。して、希臘美術に於ける如く、日本美術に於ても、細部を用ひて、憧憬の目的に反するよりは、寧ろ輔助[やぶちゃん注:「ほじよ(ほじょ)」。「補助」に同じい。]となしてゐる。西洋現代の插畫の寫實主義に於て、最も多く不愉快を與へるのは、細部の夥多[やぶちゃん注:「くわた(かた)」。物事が多過ぎるほどにあること。夥(おびただ)しいさま。]でなく、私共がやがて悟るであらう如くに、細部が表徵となることである。

 日本美術に於て、人相上の細部を抑制したことに關して、最も奇異なる事實は、私共がこの抑制を見ようとは、最も期待しない方面、卽ち浮世繪と稱する作品に、最も明らかに現はれてゐる事である。何故なら、たとひ[やぶちゃん注:この「たとひ」という訳語は呼応もなく、原文を見ても、明らかに不要で判り難くさせているだけである。]この派の畫家は、實際甚だ美しく幸福な世界の畫を描いたのであるが、彼等は眞實を反映すると公言してゐたからである。或る形式の眞理を彼等はたしかに示したのであつた。しかしその趣は私共の普通の寫實觀念とは異つたものであつた。浮世繪畫家は現實を描いたけれども、嫌惡すべき或は無意味の現實を描いたのではなかつた。題材の選擇によつてよりは、寧ろ彼の拒斥[やぶちゃん注:「きよせき(きょせき)」。原文“refusal”。拒絶。]の點によつて、一層彼の地位を證明した。彼は對照と色のことを支配する法則、自然の聯結の一般性、昔の美と今の美に對する秩序を探求した。その他の點に於ては、彼の美術は決して憧憬的ではなかつた。それはありのま〻の事物を廣く網羅した美術であつた。だからたとひ彼の寫實主義はただ不易性、一般性、及び類型の硏究にのみ現はれてゐるにも關はらず、彼は正しく寫實主義者であつた。して、普遍的事實の綜合を示し、自然を法則の體系化したるものとして、この日本畫はその手法上、眞正の意味に於て科學的である。これに反して、一層高尙な美術、憧憬的な美術(日本美術にまれ、また古代希臘美術にまれ)は、その手法上主もに宗敎的である。

  美術の科學的と憧憬的の兩極端が相觸れる處に、兩者によつて認めらる〻或る普遍的な審美上の眞理が見出されるだらう。兩者はその沒人格的に於て一致する。兩者は個性化することを拒否する。して、これまで存在したうちで最も高尙な美術が與へる敎訓には、この兩者共通の拒否に對する眞正の理由が暗示されてゐる。

 大理石、寳玉、或は壁畫を問はず、古代の頭の美は、何を表現してゐるか?――例へば、ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭の美は何を示すか? 單なる美術批評家の著作から答を求めるのは無用である。科學のみがそれを與へ得るのだ。讀者はそれをハーバート・スペンサーの人物美に關する論文のうちに見出すであらう。かかる頭の美は知的材能の超人的完全なる發達と均衡を意味してゐる。私共が『表情』と稱するものを構成する、一切容貌の變差は、それが所謂『性格』なるものを現はすに比例して、ますます完全なる類型からの分離を現はす――して、かかる完全型からの分離は多少不愉快、若しくは苦痛なものである。或はさうあるべきである。何故なら、『吾人を欣ばす容貌は、内部的完全の外面に於ける相關であつて、吾人をして嫌惡を催さしむる容貌は、内部的不完全の外面に於ける相關である』からである。スペンサー氏は更に進んでいつてゐる。たとひ平凡な顏面の背後に偉大な人格があつたり、また、立派な容貌が、貧弱な精神を隱してゐることが往々あるにしても、『これらの例外は、惑星の攝動か、その軌道の一般的楕圓形を破壞しないのと同じく、この法則の一般的眞理を破壞することはない』

[やぶちゃん注:「ウィンケルマン」は「二」で既出既注。但し、彼「の著書の卷頭を飾れる」「リューコセーアのの驚嘆すべき頭」とある書は不明。処女作の「ギリシア美術模倣論」(Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst:一七五五年)かと思い調べたが、私はそれらしい絵を見出すことが出来なかった(「これかなぁ」と思うものもキャプションが読めないので諦めた。新しい英訳本ではこの表紙っぽい気もした(グーグルブックスの“Winckelmann's Images from the Ancient World: Greek, Roman, Etruscan and Egyptian”))。私が調べたのは“Internet Archive”の彼の著作画像である。何方か、お調べ戴き、これだと指定願えると、恩幸、これに過ぎたるはない。【2019年11月30日:追記】いつも全テクスト作業に貴重な情報を頂戴するT氏が発見して下さった!

   《引用開始》

 「ウィンケルマンの著書の卷頭を飾れる、かのリューコセーアの驚嘆すべき頭」は”Internet Archive”の、

"The history of ancient art among the Greeks 1850”のこの口絵

と思われます。この口絵の説明がありません。しかし、藪野様の引用された google book の図版説明を見ると[やぶちゃん注:ずっと下げて行くと、画像が見える。]、Fig54, 55, 56が”Leucotha”と書かれ、特にFig55が”Head of statue of Laucothea in the Museo Capitolino”と書かれています[やぶちゃん注:画像の前の方の数字を打った画像解説リスト内。]。google bookの最初には、

This Dover edition, first in 2010, contains all copperplateengrave illustrations from Monumenti antichi inesiti, by Johan Joachim Winckelmann, originally published by the author in Rome in 1767.

とあるので、元本は”Monumenti antichi inesiti”であることがわかります。これも”Internet Archive”の(但し、イタリア語)、

 ”Monumenti antichi inesiti”(挿絵のあるp178)

で、Fig55と全く同一のものを見ることができます。この図(google Bookの表紙)が ”Head of statue of Laucothea”であるとすると(イタリア語はチンプンカンプンですので)、同じ図が卷頭に現れる本は、最初に書いた”The history of ancient art among the Greeks 1850”になります。 "The history of ancient art among the Greeks”は複数の版が archive には有りますが、卷頭 (その近くも含め)に在るのは、上記版のようです。

   《引用終了》

T氏に感謝申し上げるとともに、「リューコセーア」(イーノー。次注参照)の美しさに打たれた。“The history of ancient art among the Greeks 1850”の全部をPDFで落とし、当該画像をソフトでトリミング、周囲の黄変部や絵内部の汚損を可能な限り、除去し、ここに掲げることとした。

 

Leucothea

 

「リューコセーア」“Leucothea”。ギリシア神話に登場する女性(死後に女神)イーノー(ラテン文字転写:Īnō)。テーバイの王女として生まれ、後にボイオーティアの王妃となった。死後、ゼウスによって女神とされ、海の女神レウコテアー(Leukothea)或いはレウコトエー(Leukothoe)として信仰された。レウコテアーとは「白い女神」の意。詳しくは参照したウィキの「イーノー」を見られたい。]

 希臘美術も日本美術も、スペンサー氏が『表情は形成中の容貌である』譯者註と、簡單な形式に云ひ現はした人相上の眞理を認めた。最高の美術、卽ち神聖界に到達するため現實を超越した希臘美術は、完成された容貌の夢を私共に與へる。今猶ほ誤解を受けるほど、西洋美術よりも廣大なる日本の寫實主義は、ただ『形成中の容貌』、或は寧ろ形成中の容貌の一般法則を私共に與へるのである。

 

譯者註 これは「完成された容貌」に對していつたものである。希臘美術は理想的完成の容貌に對すゐ憧憬の夢を示してゐる。日本の寫實主義も亦殆ど理想主義と稱すべきほど、廣く一般的な趣を見せてゐるといふ趣意が、この一段に述べてある。

[やぶちゃん注:「スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。小泉八雲の引用元は捜し得なかった。【2019年11月40日:追記】先のT氏より、Essays Scientific, Political, and Speculative II”の“Personal Beauty(リンク先は“Internet Archive”の同書画像の当該ページ。左ページの中央)の以下の一節である旨、お教え戴いた。

In brief, may we not say that expression is feature in the making ; and that if expression means something, the form of feature produced by it means something?

これも感謝申し上げるものである。

 

       

 かやうにして私共は希臘美術と日本美術が、兩者同樣に認識した共通の眞理に到達した。卽ち個人的表情の無道德的意義である。して、私共が人格を反映する美術に對する歎賞は、無論無道德である。何故なら、個人的不完全の描寫は、倫理的意義に於ては、歎賞に値する題材でないから。

 眞に私共を惹きつける顏容は、内部の完全或は完全に近いものの外形に於ける相關と考へられるけれども、私共は槪して内部の道德的完全を少しも現はさないで、寧ろその反對の種類の完全を暗示するやうな人相に興味を認めてゐる。この事實は日常生活にさへも明白である。私共が秀でた蓬々[やぶちゃん注:「ほうほう」。伸びて乱れているさま。]たる眉、鋭い鼻、深く据わつた[やぶちゃん注:「すわつた」。]眼、どつしりした顎を備ヘた顏を見て、『何といふ力!』と叫ぶ場合、私共は實際に力の認識を表白してゐるのである。しかしそれはただ進擊と殘忍の本能の基をなすやうな種類の力である。私共が鷲の嘴の如く彎曲した强い顏、所謂羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]人風の橫顏を有する人物を賞賛する時、私共は實際掠奪人種の特徵を賞讚してゐるのである[やぶちゃん注:「賛」と「讚」の混在はママ。]。實際私共は單に獸性、殘酷、或は狡猾の特徵のみ存する顏を歎賞するのではない。しかしまた私共は、或る聰明の徵候と結合せる場合には、頑固、進擊性、及び苛酷の徴候を歎賞するのも事實である。私共は男らしい人格といふ觀念を、いかなる他の力の觀念よりも優さつて、進擊的の力と共に聯想するとさへ云へるだらう。この力が肉體的であらうと、或は知力的であらうとも、少くとも普通の選擇では、私共はそれを心の眞に優等なる諸能力よりも以上に評價してゐる。して、聰明なる狡猾を呼ぶのに、『明敏』といふ誇飾語[やぶちゃん注:「こしよくご」。原文は“euphemism”(ユーフォメィズム)で「婉曲法・婉曲語句」の意。但し、漢語の「誇飾」は「華麗な美文体」を意味する。]を以てしてゐる。恐らくは希臘の男性美の理想が、或る現代人に發揮された時、それは寧ろ崇高とは正反對の特徵の烈しい發達を示せる顏よりも、普通の看者[やぶちゃん注:「みるもの」と訓じておく。]に興味を與へることが少いだらう――何故なら、完全なる美の知的意義は、人間の最高なる諸能力の完全なる均衡といふ奇蹟を、鑑賞しうる人にして、始めて悟られうるからである。近代美術に於ては、私共は性の感情に訴へる婦人美を求めたり、っまたはかの父母の本能に訴へる兒童美を求めたりしてゐる。して、私共は男性の描寫に於ける眞正の美を目して、只單に不自然と呼ぶのみでなく、猶ほまた柔弱だと評するに相違ない。戰爭と戀愛は、近代生活を反映する嚴肅なる美術に於ては、依然として二つの基調をなしてゐる。しかし美術家が美或は德の理想を示さうと欲する時は、矢張り古代の知識から借用せざるを得ないといふことが認められるだらう。借用者として、彼は決して全然立派な成功を舉げることはできない。何故なら、彼は幾多の點に於て、古代希職人の程度よりも遙かに劣等人種に屬してゐるからである。或る獨逸の哲學者は、旨くいつた。『希臘人がもし現代に蘇生したならば、彼等は現代の藝術品を評して――それは全く眞を穿つた評言である――一切の部門に亙つて皆全く野蠻的であると公言するだらう』創造したり保存したりするたのためよりも、泉ろその撲滅したり、破壞したりするたのために、正々堂々と聰明と崇拜するやうな時代では、何うして藝術品が、さうならないで居られよう?

[やぶちゃん注:「或る獨逸の哲學者」不詳。識者の御教授を乞う。]

 私共自身に對しては、たしかに發揮されたくないやうな能力を、何故このやうに崇拜するのか?疑ひもなく、その主もな理由は、私共は自身に所有したいと望むものを崇拜し、また現今文明の競爭的大戰鬪に於ては、進擊力、特に知的進擊力の大價値を知つてゐるからである。

 西洋生活の瑣々たる現實と個人的感情主義の兩者を反映するものとして、西洋美術は倫理的には只單に希臘美術の下位に列するのみでなく、また日本美術にさへも劣つてゐることが見出されるだらう。希臘美術は神聖に美しいものと神聖に賢いものに對する、民族の憧憬を表はした。日本美術は人生の簡素淳朴なる快樂、形と色に於ける自然律の認識、變化に於ける自然律の認識、それから社會的秩序と自己抑制によつて調和を得たる生活といふ感じを反映してゐる。近代西洋美術は快樂の飢渴、享樂の權利に對する戰場としての人生といふ觀念、それから競爭的奮鬪に於ける成功に缺くべからざる無愛想な諸性質を反映してゐる。

 西洋文明の歷史は、西洋人の人相に書かれてゐると、いはれてゐる。東洋人の眼によつて西洋人の顏面表情を硏究するのは、少くとも興味がある。私は屢〻日本の子供に歐米の挿畫を見せて、そこに描いてある顏に關する彼等の無邪氣な批評を聞いて、自分で面白がつたことがある。これらの批評の完全な記錄は、興味と共に價値をも有するだらう。しかし今囘の目的のために、私はただ二囘の實驗の結果を提供するにとどめよう。

 第一囘は九歲の兒童に對する實驗であつた。或る夜、私はこの兒童の前へ數册の繪入雜誌を並べた。數頁をめくつてから後、彼は叫んだ。『何故外國の畫家は怖はいものを描くのが好きですか?』

 『どんな怖はいもの?』と、私は尋ねた。

 『これです』といつて、彼は投票場に於ける選舉人の一團を指した。

 『これは何も怖はくない』と、私は答へた。『これは西洋では、皆立派な繪なのだから』

 『でも、この顏! こんな顏は世界にある筈はありません』

 『西洋では當たり前の人物なのだよ。實際怖はい顏は、滅多に描かないから』

 彼は私が眞面目でゐないと思つたらしく、愕きの眼を圓くした。

 

 十一歲の少女に、私は有名な歐洲美人を現はせる彫刻畫を見せた。

 『惡るくはありませんね』といふのが、彼女の批評であつた。『でも、大層男のやうですわ。それから、眼の大きいこと!……口は綺麗ですね』

 口は日本人の人相に於ては、餘程大切である。して、この少女はその點について鑑賞の語を吐いた。私はそれから紐育[やぶちゃん注:「ニュー・ヨーク」。]の一雜誌所載の或る實景描寫の畫を彼女に示した。彼女は質問を發した。『この繪にあるやうな人達が、ほんたうにゐますか?』

 『澤山ゐる』と、私はいつた。『これは善い普通の顏で――大抵田舍者で百姓なのだ』

 『お百姓ですつて! 地獄から出た鬼のやうです』

 『何もこんな顏が惡るいことはない。西洋にはもつと非常にわるい顏があるから』と、私は答へた。

 『こんな人なら、實際見るだけでも、わたしなど死んでしまひますでせうよ』と、彼女は叫んだ。『わたしこの御本は嫌ひです』

 私は彼女の前へ日本の繪本――東海道の風景畫――を置いた。彼女は嬉しさうに手を拍いて[やぶちゃん注:「たたいて」。]、半ば見かけた私の外國雜誌を押しのけた。

 

2019/11/27

小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「二」・「三」・「四」

 

[やぶちゃん注:本篇については、『小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「一」』を参照されたい。]

 

      

 ストレーヂ氏の論文によつで挑發された批評は、日本美術に對して正鵠を失つてゐたけれども、それは當然であつて、またその美術に對する無知とその目的の誤解を示せるものに外ならない。それは一見してその意義が讀まれるやうな美術ではない。それを正當に理解するためには多年の硏究が必要なのである。私は敢て恰も文典に於ける法及び時制のやうな該美術に於ける詳細に通曉し得たと揚言する事はできないが、しかし古い繪雙紙や、今日の安い版畫、特に繪入新聞にある顏は、私に取つて毫も非現實なものと思はれないし、況して[やぶちゃん注:「まして」。]『絕對に狂氣』じみてゐるとは思はれないと、私は附言し得るのである。それが實際私に取つて奇怪に思はれた時代もあつた。今ではいつもそれが面白く、また折々は美麗だと思ふことがある。もし他のいかなる歐洲人も、かかることを云ふものはないと、私に告げられるならば、その時、私はすべての他の歐洲人が過つてゐるのだと公言せざるを得ない。もしこれらの顏が、大部分の西洋人に取つて荒唐不稽[やぶちゃん注:「荒唐無稽」に同じい。]なものと思はれたり、或は精神のないものと見えたりするならば、それは大部分の西洋人がそれを理解しないからである。して、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]英國駐剳[やぶちゃん注:「ちゆうさつ」。外交官などが任務のために暫く外国に滞在すること。「駐在」に同じい。]日本公使閣下が、いかなる日本婦人も未だ嘗て日本の繪雙紙と安い版畫の婦人に似たことはないといふ說を欣んで承認するにしても、私は依然として承認を拒まざるな得ない。私は主張するが、それらの畫は眞實であつて、聰明、優雅、美麗を示してゐる。私は日本の繪雙紙の婦人を、あらゆる日本の街頭に見る。私は日本の繪雙紙に見出さる〻殆どあらゆる普通型の顏――子供と娘、花嫁と母、刀自[やぶちゃん注:「とじ」。もとは「戸主(とぬし)」の意で、「刀自」は当て字。年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ古称。原文“matron”は「品位ある年長の既婚婦人・夫人」を指す。]と祖父、貧民と富者、美しいのや、平凡なのや、賤しげなのや――を、實地に見てゐる。もし日本に住んだことのある熟練なる美術批評家輩が、この附言を嘲笑するといふことを私に告げられるならば、彼等は最も普通の日本畫さへも理解し得るだけに、充分長く日本に住まなかつたか、または充分日本人の生活に親炙[やぶちゃん注:「しんしや(しんしゃ)」。親しく接してその感化を受けること。]しなかつたか、または充分公平にその美術を硏究しなかつたに相違ないと、私は答へる。

 

註 日本美術が理想的顏面表情に於て偉大なる成績を舉げうることは、その佛畫によつて充分に證明される。普通の版畫に於て、畫が小規模の場合には、顏の故意らしい紋切形が滅多に目につかない。して、こんな場合には、美の暗示が一層容易に認識される。しかし畫が稍〻大きくて、例へば、畫の卵形が直徑一寸以上の場合などには、緻密な細部に馴れた眼には、同一の畫法も不可解に映ずることもあるだらう。

 

 日本へまだ來ない前には、私は或る日本畫に於ける顏面表情の缺乏に對して困惑を感ずるのが常であつた。私は告白するが、その顏は當時に於てさヘ一種の不思議な魅力を有たない[やぶちゃん注:「もたない」。]ことはなかつたけれども、私から見ると、ありさうもないやうに思はれた。その後、極東に於ける經驗の最初の二年間――丁度その時期に於ては、いかなる西洋人も決して眞に悟ることのできぬ人民に關して、自分は一切のことを知りつ〻あるのだと外人は想像し易い――私は或る形狀の優雅と眞實を認め、且つ日本の版畫に於ける强烈なる色彩美を幾分感ずることができた。しかし私はその美術の一層深い意義については、何等悟得する處がなかつた。その色彩の充分なる意義さへも、私は知らなかつた。全然眞實であつた多くのことも、私は當時珍奇異風と考へてゐた。幾多の美しさを意識しつ〻も、私はその美の理由を揣摩[やぶちゃん注:「しま」。「揣」も「摩」もともに「おしはかる」意で、「他人の気持ちなどを推量すること」。忖度揣摩。]することさへもできなかつた。顏面が外見上因襲主義である場合には、さもなかつたならば驚くべき藝術的材能[やぶちゃん注:「才能」の別表記。]も、可惜[やぶちゃん注:「あたら」。古い形容詞「可惜(あたら)し」の語幹から出来た副詞。「惜しくも・残念なことに」。]發達を抑へられてゐることを示すものと私は想像した。その因襲主義は、一たび意味を闡明[やぶちゃん注:「せんめい」。明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。]すれば、普通の西洋畫が現はす以上のものを示す象徴の意味たるに過ぎないといふことが、私の念頭に決して浮かばなかつた。しかし、それは私がまだ古い野蠻的な影誓の下に留つてやたからであつた。その影響が私をして日本畫の意義に盲目ならしめたのであつた。して、今や遂に少々わかつてきてからは、私に取つて因襲的で、未だ發達を遂げざる、半野蠻なものと見えるのは、西洋の挿畫術である。英國の週報や米國の雜誌に於ける人氣の多い繪畫は、今では無味、下品、拙劣なものとして私に印象を與へる。けれども、この問題に於ける私の意見は、普通の日本の版畫と普通の西洋の挿畫とを比較した場合に限る。

 恐らくは次の如くいふ人もあるだらう。假令一步を讓つて、私の主張を承認するとしても、苟も眞正の美術は何等の解釋を要すべきでない。また、日本の作品の性質が劣つてゐるのは、その意味が一般的に認識され得ないことを是認してゐるのでも證明される。誰れでも上のやうな批評をする人は、西洋美術は何れの處に於ても同樣に理解され得るものと想像せねばならぬ。西洋美術の或るもの――その精粹のもの――は、多分さうであらう。して、日本美術の或るものも亦さうであらう。しかし私は讀者に附言し得るのであるが、普通の西洋の書籍の挿畫或は雜誌の彫刻畫は、丁度日本畫が日本を見たことのない歐洲人に於けると同樣、日本人に對してわかりにくい。日本人が普通の西洋彫刻畫を理解するには、西洋に住んでゐたことがなくてはいけない。西洋人が日本畫の眞と美と面白い氣分を悟るには、その畫の反映する生活を知らねばならぬ。

 日本協會の席上、一人の批評家は日本畫に顏面表情の缺けてあるのを因襲主義だといつて非難した。彼はこの理由に基づいて、日本美術を古代埃及人[やぶちゃん注:「エジプトじん」。]の美術と比較し、して、因襲主義の手法によつて制限を蒙つてゐるから、兩者共に劣等なものであると見倣した。しかしラオコロン譯者註を模範的美術として崇拜する現代は、希臘[やぶちゃん注:「ギリシヤ」。]美術さへ因襲主義の手法を脫してゐなかつたことを正しく認めねばならない。それは私共が殆ど企及[やぶちゃん注:「ききふ(ききゅう)」。「計画を立てて努力して到達すること」。また、「肩を並べること・匹敵すること」。ここは後者。]し得べくもない美術であつた。しかしもそれは如何なる形式の現存美術よりも更に因襲的であつた。して、その神々しい美術さへ、藝術的因襲手法の制限内に發展をそげ得たことが證明さる〻からには、形式主義といふ非難は日本美術に蒙らせるのに適はしき[やぶちゃん注:「ふさはしき」。]非難ではない。或る人は希臘の因襲手法は、美のそれであつたが、日本畫のそれには、美もなければ、意義もないと答へるかも知れない。しかしかかる說が出るのは、希臘美術は幾多近代の批評家と敎師の努力によつて、私共に取つては、私共の野蠻的先祖達に取つてよりも、稍〻一層わかり易いものとされてゐるに反し、日本美術はまだそのウンケルマン譯者註一をも、レツシング譯者註二をも見出してゐないからに過ぎない。希臘の因襲的顏面は實際生活に於ては見られない。いかなる生きた人の頭も、かほどに廣い顏面角を呈するものはない。しかし日本の因襲的顏面は、一たび美樹上に於けるその象徵の眞價値が適當に了解された曉には、到る處に見受けられる。希臘美術の顏は不可能なる完全、超人的進化を示してゐる。日本畫家の描ける一見無表情な顏は、生けるもの、實在せるもの、日常のものを現はしてゐる。前者は夢である。後者は普通の事實である。

 

譯者註 ラオコオンはトロイの神官であつたが、海神の祭式を営んでゐゐ際、二匹の蛇が海から現はれ、始めに彼の二子に捲きつき、更にそれを助けんとした彼をも捲いて、父子三人を殺した。この苦悶を表はせる有名なる群像の彫刻は、十六世紀の初、羅馬[やぶちゃん注:「ローマ」。]に於て發見され、今は法皇宮殿に藏してある。

譯者註一 ウンケルマン(一七一七――一七六八年)は獨逸の美術批評家。希臘美術の理想的特性を闡明した彼の大著「古代美術史」は、偉大なる影響を及ぼした。

譯者註二 レツシング(一七二九――一七八一年)は獨逸の評論家且つ戲曲家。希臘藝術に關する立派な著書及び論文がある。

[やぶちゃん注:「ラオコオン」原本“Laocoön ”。ギリシア伝説に出る、トロイアのアポロンの神官。トロイア戦争の十年目に、撤退を装うギリシア軍が勇士たちをその腹中に潜ませた巨大な木馬を残して戦場を去った際、それが女神アテナへの奉納品どころか、敵の姦計に他ならないと見抜いた彼は、木馬を城内に引き入れることに反対したが、その時、海から現れた二匹の大蛇に二人の息子ともども、締め殺された。この大蛇は、彼が神官の身にも拘わらず、結婚し、子どもをもうけた罰として、アポロンが送ったとも、アテナが木馬の城内引入れに反対した彼を罰するために送ったとも言われる(平凡社「世界大百科事典」に拠る。以下は同じ平凡社の「百科事典マイペディア」から)。その三人が襲われる姿を表わした大理石彫刻「ラオコオンと息子たち」は、一五〇六年、ローマのティトゥス帝浴場跡で発見され、現在、バチカン美術館が蔵している(これ。リンク先はウィキの「ラオコオン論争」にある現物写真)。この彫刻は紀元前一世紀のロードス島の彫刻家たちによって製作されたもので、そのローマ的に過剰な悲劇性は後代に影響を与え、以下に述べるレッシングらの「ラオコオン論争」を起こした。

「ウンケルマン」ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann 一七一七年~一七六八年)はドイツの考古学者・美術史家。貧しい靴屋の家に生れた。高等学校時代よりギリシア・ラテン語に惹かれ、一七三八年、ハレ大学に入学して神学を、一七四一年よりイエナ大学で医学を学んだ。一七四八年から一七五四年までビュナウ伯爵家の司書を務める。画家エーゼルとの交遊によってギリシア美術・文学への興味を深める。カトリックに改宗した彼は、一七五五年、国王奨学金を得、ローマへ留学、一七六三年からはバチカン図書館の古代遺物・文書の責任者となった。古代美術を讃えた処女作「ギリシア美術模倣論」(Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werke in der Malerei und Bildhauerkunst:一七五五年)を始め、優れた研究書を発表し、古代美術史研究の創始者となったばかりでなく、古典美術を規範とするその姿勢は、同時代に於ける新古典主義の潮流を導いた。ほかに「古代美術史」(Geschichte der Kunst des Altertums:一七六四年)がある(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。ウィキの「ラオコオン論争」によれば、『ヴィンケルマンは自著を通して、当時の美術の主流に対して異を唱えた。ヴィンケルマンは精密な観察に基づいた記述を重視し、そこから得た知覚的印象から実質的及び帰納的に美の法則を打ち立てようとした』。『その際彼が基準としたのは古典、特に古代ギリシア美術の模倣であった』とある。

「レツシング」ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing 一七二九年~一七八一年)はドイツの劇作家・批評家。彼のウィキによれば、『ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテ』・シラー・カント・ヤコービ・メンデルスゾーンなどの当時のドイツ文学者・思想家に『多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており、この転生思想は現代日本への影響も大きい』とある。彼にはまさに「ラオコオン」(Laokoon)と題した芸術論があり(一七六六年発表)、これは先のヴィンケルマンの一七五五年の「ギリシャ美術模倣論」でのラオコーン像賛美に挑んだものであった。トロイアの神官ラオコオンの非業の死を表わした例の大理石群像と、この出来事を歌ったウェルギリウスの詩句との比較を手がかりとして、〈絵画(美術一般)と文学との限界〉に就いて説いたもので、両者は、古来、謂い慣わされてきた近親関係にも拘わらず、模倣の対象・媒体材料・技法を異にし、「絵画」は〈空間に並存する物体を形と色に依って〉、「文学」は〈時間とともに継起する「行為」を分節音(言語)に依って〉描くものだと規定した。それ故に、「絵画」が〈行為〉を、「文学」が〈物体〉を描いて美的効果をあげるためには、それぞれに特殊な工夫を必要とするとするもであった(以上は平凡社「世界大百科事典」その他に拠った)。]

 

       

 日本畫に、一見した處、人相上の因襲主義があるのは、個性を類型に、個人の人格を一般的人道に、細部を全體の感情に從屬せしめるといふ法則で、一部分を說明する事ができる。エドワード・スレーンヂ氏は、この法則について幾分日本協會に敎へようと試みたが、誤解されて無效に歸したのであつた。日本畫家は、例へば一匹の昆蟲を描くとして、そのやうにはいかなる歐洲畫家も描き得ない。彼はそれを生かしてみせる。彼はその獨得の運動、その性質、すべてそれによつて一目類型として識別さる〻ものを見せる――しかも筆を揮ふこと僅に數囘にして一切これを成就する。けれども彼は、その一枚一枚の翅面に、一本一本の翅脈を現はしたり、その觸角の各關節を示したりすることはない。彼は細密に硏究したやうにではなく、實際一目で見たま〻のやうに描き出す。私共は蟋蟀や蝶や蜂が何處かに止まつてゐるのを見る瞬間に、一切その身體の細部を決して見るものではない。私共はただいかなる種類の動物であるかを、決定するに足りるだけのことを觀察する。私共は類型的のものを見て、決して各個的特異の點を見ない。だから日本の畫家はただ類型だけを描く。一々の細部を再現するのは、典型的の性質を各個的特異に從屬させることになるであらう。極めて綿密な細部は、細部の認識によつて、類型を卽時に認識することが助けられる場合の外は、滅多に現はされてゐない。例へば、一本の光線がたまたま蟋蟀

 

註 彫刻の場合に、これに異つてゐる、骨や角や象牙に刻まれ、また適當に賦彩されたる昆蟲の作品は、これを手に取つて見るとき、重量以外の點では、眞正の昆蟲と殆ど區別のできぬことも往々ある。しかし絕對的寫實主義はただ骨董的で、美術的ではない。

 

の脚の關節に當つたり、或は蜻蛉の甲から複色の金屬的閃光を反射したりする場合である。これと同樣に、花を描くに際して、畫家は一個特殊の花でなく、類型的の花を描く。彼は種族の形態學的法則、卽ち象徵的に云へば、形狀の裏面に潜める自然の思想を示すのである。此手法の結果は、科學者をも驚嘆せしめることがある。アルフレツド・ラツスル・ウオラス氏は日本畫家の描いた植物寫生集を、氏が從來見た、もののうちで、『最も優秀だ』といつてゐる。『一莖、一枝、一葉、悉く一氣呵成に一と筆でできてゐる。極めて複雜なる拉物の性質と配景が、天晴れ巧みに描かれ、また莖と葉の關節は最も科學的に示されてゐる』(圈點は私が施したものである)ここに注意すべきことは、その作品は『一と筆でできて』ゐて、簡單そのものであり乍ら、しかも現存最大博物學者譯者註の一人の意見によれば、『最も科學的だ』といふことである。して、その故は如何? それは類型の性質と類型の法則を示すからである。それから、また岩石と絕壁、丘陵と原野を描くに當つて、日本畫家は一般的性質を示すのみで、人に倦怠を與ふるやうな塊團の細部を寫さない。しかも細部は大要の法則の完全なる硏究によつて、うまく暗示されてゐる。更に日本畫家の日沒及び日出の描寫に於ける色彩硏究を見るがよい。彼は決して視界内のあらゆる緻密なる事實を現はさうと試みないで、私共に與へるのに、ただかの偉大な明かるい色調と彩色の混和を以てする。それは他の幾多の些々たることどもが忘れられた後にも、依然として記憶裡に徘徊し、して、見たものの感じをその裡に再び作るのである。

 

譯者註 ウオラス氏を指す。ダーウヰンとは全然獨立に、しかも暗合的に、自然淘汰說を發見した人(一八二二――一九一三年)

[やぶちゃん注:「アルフレツド・ラツスル・ウオラス」アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)は、『イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見した結果、ダーウィンは理論の公表を行った。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした』十九世紀の『主要な進化理論家の一人である。その中には自然選択が種分化をどのように促すかというウォレス効果と、警告色の概念が含まれる』。『心霊主義の唱道と人間の精神の非物質的な起源への関心は当時の科学界、特に他の進化論の支持者との関係を緊迫させたが、ピルトダウン人ねつ造事件の際は、それを捏造を見抜く根拠ともなった』。『イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は』「マレー諸島」(The Malay Archipelago)として一八六九年に出版され、十九世紀の『科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった』(ウィキの「アルフレッド・ラッセル・ウォレス」の冒頭概要のみ)。彼に就いては、「ナショナルジオグラフィック」(二〇〇八年十二月号)の「特集:ダーウィンになれなかった男」が詳細にして核心を突いており、お薦めである。ダーゥインとの関係については、私の「進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第二章 進化論の歷史(5) 五 ダーウィン(種の起源)」を参照されたいが、私の注はかなり長い。なお、小泉八雲の引用は、彼の「マレー諸島」の二十章「アンボイナ」(ⅩⅩ:AMBOYNA)の一節である。

 

 さて、美術のこの一般的法則は、日本の人身描寫と、また(この場合には他の諸法則も亦働くのであるが)人面描寫にも適合する。一般的の型が描かれ、しかも最も巧妙な佛國の[やぶちゃん注:「フランスの」の意。]寫生家でさへ、往々殆ど競爭し難きほど力强く描かれてゐる。個人的特異は示されてゐない。諷刺畫の滑稽氣分や演劇の描寫に於て、顏面的表情が强烈に現はれてゐる場合にさへ、それは個人的特徵によつてでなく、一般的類型性によつて現はされてゐる。恰も古代の舞臺上で希臘の俳優によつて、形式的假面を用ひて現はされたやうに。

 

       

 普通の日本畫に於ける顏の描寫法について、二三の槪說を試みたなら、その描寫法の敎へることを理解するに助けとなるだらう。

 人物の若さは主要な筆觸[やぶちゃん注:「ひつしよく(ひっしょく)」。「絵画などに於いて筆捌きによって生じた色調やリズム感などの効果」だが、これはもう英語原単語の方がよい。“touches”。「タッチ」である。]數本だけで濟まして、顏と頸のさつぱりした滑らかな曲線を以て現はしてある。眼と鼻と口を暗示する筆觸の外には、何等の線もない。曲線が充分に肉のたつぷりした豐富さと滑らかさと圓熟を語つてゐる。物語の挿繪としては、年齡または境遇は、髮の結び方と衣服の樣式で示されてゐるから、容貌を細密に現はすに及ばない。女の姿に於ては、眉毛のないことが、妻または寡婦たることを示し、亂れ髮は悲みを見せ、惱める思ひは、まがふ方なき姿勢と手振りに現はれてゐる。實際髮と衣裳と態度が殆ど一切のことを說明するに足つてゐる[やぶちゃん注:「たつてゐる」。足りている。]。しかし日本畫家は容貌を示す五六本の筆觸の方向と、位置に於ける極めて微妙なる變化によつて、性格の同情的皮は非同情的なるかをほのめかす方法を知つてゐる。して、この暗示は日本人の眼では決して看過されることはない。また、これらの筆觸を殆ど目につかぬほど堅くしたり、柔らかくしたりすることは、精神的意味を有してゐる。それでも、これは決して個人的でなく、ただ人相上の法則の暗示に過ぎない。未成年の場合(男兒や女兒の顏)には、單に柔らかさと溫和さの一般的表示がある――幼兒の具體的愛嬌よりは、寧ろ抽象的魅力が現はれてゐる。

 

註 日本の現今の新聞祇の挿繪に於ては(私は特に「大阪朝日新聞」の小說欄に挿める[やぶちゃん注:「はさめる」。]立派な木版畫を指すのである)、これらの暗示は馴れた西洋人の眼にさへも全然よくわかる。[やぶちゃん注:改行はママ。]

私はここに一つの珍らしい事實を想起する。私にそれが日本に關する如何なる書物にも書いてあつたのを讀んだ記憶を有たない。新來の西洋人は往々日本人について、その甲乙を區別し難いことをこぼしてゐる。して、この困難を日本人種に於ける人相の强き特徵の缺乏に歸してゐる。彼は私共西洋人の一層鋭い特徵ある人相が日本人に取つては全然同樣な結果を呈することを想像してゐない。幾多の日本人が私に云つた。「長い間、私は西洋の甲乙を區別するのが、非常に困難でした。いづれの西洋人も皆私には一樣に見えました」

 

 今一層成人となつた型の描寫に於ては、線が一層數多く、また一層强められてゐる――これは性格が中年に於ては、顏面筋肉の現はれ始まるに從つて、必然更に顯著になつてくるといふ事實を證してゐる。しかしここには單にこの變化の暗示があるだけで、何等個性の硏究は現はれてゐない。

 老人を現はす場合には、日本畫家はすべての皺、窪み、組織の萎縮、目尻の皺、白髮、齒が拔けた後に生ずる顏の輪線の變化を描く。男女老人に性格が現はれてゐる。一種のやつれた美はしさを有する表情、情深い諦めの顏つきによつて私共を欣ばすやうなのもあれば、また殘忍な狡猾、貪欲或は嫉妬の面色によつて私共に嫌惡の感を起こさせるのもある。老年の型は澤山ある。しかしそれは人生の狀態の諸型であつて、個人のそれではない。その畫は或る標本から描かれたのでなく、個人存在の反映ではない。その價値は、その畫が一般的人相上或は生物學上の法則について示せる認識から生ずるのである。

 顏面表情の點に於て、日本美術が遠慮勝ちであるのは、東洋社會の倫理と一致するといふことを、この場合注意する價値がある。出來得る限りあらゆる個人的感情を隱し、外面には微笑を含んだ愛嬌や平然たる諦めの風を見せつつ、苦痛と激情をかくすのが、長い年代の間、行爲の法則であつた。日本美術の謎に對する一つの關鍵[やぶちゃん注:「くわんけん(かんけん)」。もと「閂(かんぬき)と鍵」で「戸締り」の意、更に転じて「物事の最も重要なところ・要点」。]は、佛敎である。

 

小泉八雲 日本美術に於ける顔について (落合貞三郎訳) / その「一」

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“ABOUT FACES IN JAPANESE ART”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第五話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。注は四字下げポイント落ちであるが、同ポイントで行頭に引き上げ、挿入の前後を一行空けた。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。全六章あり、冒頭から底本の誤りが多く、注が増えたので、分割して示す。]

 

     第五章 日本美術に於ける顏について

 

       

 國民文庫(ナシヨナル・ライブラリー)に於ける日本美術蒐集品に關する頗る興味ある論文が、昨年倫敦[やぶちゃん注:「ロンドン」。]に催されたる日本協會(ジヤパン・ソサイテイー)の席上で、エドワード・ストレーンヂ氏によつて朗讀された。ストレーンヂ氏は日本美術に對する同氏の鑑賞を證明するのに、日本美術の諸原理――細部の描寫を或る一つの感覺、または觀念の表現に隷屬せしむること、特殊を全般に隷屬せしむること――の解說を以てした。氏は特に、日本美術に於ける裝飾的要素及び彩色印刷の浮世繪派について述べた。一部僅に數錢を値する小册子に示さる〻日本の紋章學さへも、『普通の形式的裝飾の意匠に於ける敎育』を含んでゐると、氏は說いた。氏は日本の形板(かたいた)版意匠の非常なる工業的價値に論及した。氏は日本の手法の周到なる硏究によつて、書物の挿畫法の上に得らるべき利益の性質を說明しようと試みた。して、氏はオーブリ・ビアズリー譯者註一、エドガア・ヰルスン、スタインレン・イベルス、ホツスラー譯者註二、グラッセット・シユレー、及びラントレックのやうな諸美術家の作品に於ける、これらの手法の影響を舉げた。最後に、氏は或る日本の原理と印象主義の現代西洋に於ける一派の主張の一致を指摘した。

 

譯者註一 ビアズリー(一八七四――一八九八年)は、千九百年代に於ける、英國の世紀末文藝潮流の一つなる、耽美主義頽廢派の作家と提携し、書籍雜誌の挿繪に鬼才を發揮した人。

譯者註二 ホツスラー(一八三四――一九〇三年)は、米國に生まれ、巴里[やぶちゃん注:「パリ」。]に學び、英國に定住した色彩畫家。銅版印刷術に最も妙を得た。

[やぶちゃん注:「國民文庫(ナシヨナル・ライブラリー)」“the National Library”。これは複数あるイギリスの国立の美術館「the National Art Library」や博物館・図書館のことを指すのではなかろうか。大英博物館以来、近現代、複数の箇所のイギリスの国立の美術館に日本美術コレクションがあり、例えば、「日文研」の「外像」データベースのこちらに、ここに出る絵画研究者ストレンジ氏の一八九七年の論文「日本の挿絵:日本における木版画と色摺り版画(浮世絵版画)の歴史」の「勝川春章『おだまき』を演じる女形の役者」の画像に、「サウス・ケンジントン博物館国立美術図書館所蔵の版画より」(Katsugawa Shunsho. Actor in the principal female part of the play "Udamaki." From a print in the National Art Library. South Kensington Museum.)とあることなどから、そう推測した。平井呈一氏も恒文社版「日本美術における顔について」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)でただ『国立美術館』と訳されており、特定の単立の美術館を指していないように読めるからでもある。

「昨年」本書刊行の前年であるなら、一八九六年。

「日本協會(ジヤパン・ソサイテイー)」“The Japan Society”。イギリス・ロンドンに本部を置く日英の交流促進に携わる非営利組織「ロンドン日本協会」。一八九一年(明治二十四年)に創設された、ヨーロッパと日本とを結ぶ協会としては、最も古い組織である。

「エドワード・ストレーンヂ」エドワード・フェアブラザー・ストレンジ(Edward Fairbrother Strange 一八六二年~一九二九年)。英文のこちらの彼の論文リストを見ると、多岐に亙る美術品批評研究を行っている人物であることが判る。

「オーブリ・ビアズリー」イギリスのイラストレーターで、詩人・小説家であったオーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley 一八七二年~一八九八年)。『ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれたが、病弱』で二十五歳の若さで亡くなった(ウィキの「オーブリー・ビアズリー」に拠る)。

「エドガア・ヰルスン」今は忘れられているイギリスのイラストレーターであるエドガー・ウィルソン(Edgar Wilson 一八六一年~一九一八年)。英文ブログ「WormwoodianaLost Artists - Edgar Wilsonを参照されたい。小泉八雲の本篇についても触れられてある

「スタインレン・イベルス」「スタインレン・イベルス」なる画家はいない。これは原本から見て(単語の字空けが他の作家の姓名のそれと異なって有意に空いている)、“Steinlen,  Ibels”のコンマの脱落で、二人の画家名である。前者は、フランス出身のイラストレーターであるセオフィル・アレクサンドル・スティンレンThéophile-Alexandre Steinlen 一八五九年~一九二三年)であろう。フランス語サイトのこちらに年譜がある。一方、後者は、フランスの画家・イラストレーターで、十九世紀末のパリで活動した前衛的芸術家集団「ナビ派」(Les Nabis:ヘブライ語で「預言者」の意)の画家の一人であるアンリ=ガブリエル・イベルスHenri-Gabriel Ibels 一八六七年~一九一四年)である。平井呈一氏も恒文社版では無批判に『スタンレン・イベルス』とフルネームでとってしまわれておられる。

「ホヰツスラー」アメリカの画家・版画家ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler  一八三四年~一九〇三年)である。彼は主にロンドンで活動し、彼のウィキによれば、『印象派の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した』とある。

「グラッセット・シユレー」ここは原文がちゃんとGrasset,  Cheret,となっているのを、落合氏が見落として誤訳したか、誤植でこうなってしまった誤りである。前者は、スイスの装飾芸術家ウジェーヌ・グラッセEugène Grasset 一八四五年~一九一七年)で、「ベル・エポック」Belle Époque:フランス語で「良き時代」。概ね十九世紀末から第一次世界大戦勃発(一九一四年)までのパリが繁栄した華やかな時代及びその文化を回顧して用いられる後代の呼称)の期間、パリで様々なデザイン分野に於いて活躍し、「アール・ヌーヴォー」Art nouveau:十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に活発化した国際的美術運動。フランス語で「新しい芸術」の意)の先駆者とされる芸術家である。一方、後者は、フランスの画家でリトグラフ作家・イラストレーターであったジュール・シェレJules Chéret 一八三六年~一九三二年)で、特にポスター分野では大変な人気作家となった。彼も「アール・ヌーヴォー」の先駆者の一人とされる。平井呈一氏は恒文社版で『グラッセ、シュレ』とちゃんと別人として示しておられる。

「ラントレック」言わずと知れたフランスの画家アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ―ロートレック―モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa 一八六四年~一九〇一年)。]

 

 かかる講演は英國に於ては、大抵反對の批評を挑發しないでは止まないだらう。何故なら、それは一種の新しい思想を暗示したからである。英國の輿論は思想の輸入を禁じはしない。もし新鮮なる思想が始終提供されないならば、一般社會は不平を訴へることさへもある。しかしその新思想の要求は攻勢的である。社會はそれらの思想に向つて知的戰鬪を試みようと欲する。新しい信仰或は思想を、鵜呑みに受け容れしめようと勸說したり、一躍直に結論に達するやう賺かす[やぶちゃん注:「すかす」。]のは、山岳をして牡羊の如く跳躍せしめようとするに異らない。もし『道德的に危險』と思はれない思想ならば、社會は欣んで說得さる〻ことを欲するが、しかし劈頭第一に、その斬新なる結論に到達せる心的徑路の一步一步が、絕對的に正確なることを認めねば承知しないのである。日本美術に對するストレーンヂ氏の正當ではあるが、しかし殆ど熱情橫溢の槪[やぶちゃん注:「おほむね」。]ある賞讃が、論諍なくして通過するといふことは、固より有りうきべくもなかつた。それにしても、日本協會の連中から異議が起こらうとは、誰れ大も豫期しなかつたであらう。しかし協會の報告によつて見れば、ストレーンヂ氏の意見は、該協會によつてさへも、いつもの英國流の態度を以て迎へられたことがわかる。英國の美術家が日本人の手法を硏究して、或る重要なことを學びうるだらうといふ考は、實際に嘲笑を浴びせられた。それから、會員諸氏が加へた批評は、その論文の哲學的部分が誤解されたか、或は注意を惹かなかつたかといふことを示した。或る一紳士は、無邪氣に不平を洩らして、彼は『何故に日本美術は、全然顏面の表情を缺いてゐるか』を想像し得ないといつた。また他の一紳士は、日本の浮世繪にあるやうな婦人が、決してこの世にありうべくもないと附言し、して、彼はそれに描かれた顏は、『絕對に狂氣』であると說いた。

 それから當夜の最も奇々怪々な事件がつづいて起こつた――それは日本の公使閣下が、それらの反對說に確證を與へ、且つこれらの版畫は『日本に於てはただ通常なものと見倣されてゐる』と、辨解的言說を添へた事であつた。通常なもの! 昔の人々の判斷では、恐らく通常であつたらうが、今日に於ては審美的贅澤品なのだ。論文に舉げられた美術家は、北齋、豐國、廣重、國芳、國貞などの珍重すべき人々であつた。しかし公使閣下は、この問題を瑣末なものと考へたらしい。その證據には、彼は機に乘じて愛國的ではあるが、突然にも話頭を轉じて會員の注意を戰爭の方に向かはしめた。此點に於て彼は日本の時代精神を忠實に反映してゐる。現今日本の時代精神は、外國人が日本の美術を賞めるのを殆ど我慢が出來ないのである。不幸にも、目下のいかにも正當にして且つ自然なる軍事的自負心に支配されてゐる人々は、大軍備の擴張と維持は――最大の經濟的用心を以て行はれない限り――早晚國家的破產を促すと共に、國家將來の產業的繁榮は、同民的美術感の保存と養成によること尠からぬといふことを反省してゐない。否、日本が用ひてその最近の戰勝を得た手段材料は、公使閣下が何等の價値をも附することなかつたらしい美術感そのものの通商的結果によつで、主もに購はれたのであつた。日本はいつまでも續いて、その美術觀念にたよらねばならぬ。かの花莚の製造の如き、平凡な產業方面に於てさへもさうである。何故なら、單なる低廉製品の默に於ては、日本は支那よりも安く賣ることは決してできないだらうから。

[やぶちゃん注:「日本の公使」明治二九(一八九六)年当時のイギリス公使は青木周蔵(天保一五(一八四四)年~大正三(一九一四)年)で、ドイツ公使兼任であった。ウィキの「青木周蔵」によれば、『外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した』とある。

「彼は機に乘じて愛國的ではあるが、突然にも話頭を轉じて會員の注意を戰爭の方に向かはしめた。此點に於て彼は日本の時代精神を忠實に反映してゐる。現今日本の時代精神は、外國人が日本の美術を賞めるのを殆ど我慢が出來ないのである。不幸にも、目下のいかにも正當にして且つ自然なる軍事的自負心に支配されてゐる人々は、大軍備の擴張と維持は――最大の經濟的用心を以て行はれない限り――早晚國家的破產を促すと共に、國家將來の產業的繁榮は、同民的美術感の保存と養成によること尠からぬといふことを反省してゐない」」一八九六年直近の「戰爭」は日清戦争で、明治二八(一八九五)年四月十七日に終わったが、台湾割譲を受けてその平定を終えた一八九五年十一月三十日を広義の終結と見るならば、話しとしておかしくない。この頃、日本はアジアの近代国家として認められ、国際的地位が向上し、巨額の賠償金は国内産業の発展に活用されて、日本はまさに本格的な工業化の第一歩を踏み出した頃であったからである。

「花莚」(はなむしろ)。麻糸又は綿糸の撚(よ)り合せ糸を経(たて)糸とし、緯(よこ)糸には畳表に用いるイグサを各種の色に染めて模様を織り込んだ織り物。製品の殆んどは敷物用で、花茣蓙(はなござ)とも呼ぶ。岡山・広島・福岡県を名産地とする。]

 

小泉八雲 塵 (落合貞三郎訳)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題は“DUST”)は一八九七(明治三〇)年九月に、ボストンの「ホートン・ミフリン社」(HOUGHTON, MIFFLIN & CO.)から出版された来日後の第四作品集「佛の畠の落穗――極東に於ける手と魂の硏究」(原題は“Gleanings in Buddha-Fields  STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”。「仏国土での落穂拾い――極東に於ける手と魂の研究」)の第四話である。この底本の邦訳では殊更に「第○章」とするが、他の作品集同様、ローマ数字で「Ⅰ」「Ⅱ」……と普通に配しており、この作品集で特にかく邦訳して添えるのは、それぞれが著作動機や時期も全くバラバラなそれを、総て濃密に関連づけさせる(「知られぬ日本の面影」や「神國日本」のように全体が確信犯的な統一企画のもとに書かれたと錯覚される)ような誤解を生むので、やや問題であると私は思う。

 本作品集は“Internet Archive”のこちら(出版社及びクレジット(左ページ)及び目次(右ページ)を示した)で全篇視認できる(本篇はここから)。活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める(本篇はここから)。

 底本は英文サイト“Internet Archive”のこちらにある、第一書房が昭和一二(一九三七)年三月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第六巻の画像データをPDFで落として視認した。

 訳者落合貞三郎については「小泉八雲 街頭より (落合貞三郎訳)」の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。標題の添え辞は三字下げポイント落ちであるが、ブラウザの不具合を考えて行頭まで引き上げてポイントを落とした。一部の「!」「?」の後に字空けはないが、特異的に挿入した。また、途中に漢字の書き方が画像で入るが、上記の“Project Gutenberg”版にある画像を使用して、当該部に挿入した。]

 

      第四章 塵

 

『菩薩は、一切のものを空間の性質を有すると見做すべきである――永遠に空間に等しきものとして。本質なく、實體なく』――『サッダアールマ・ブンダリーカ』經句

[やぶちゃん注:「サッダアールマ・ブンダリーカ」原文“SADDHARMA-PUNDARÎKA.”。「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」(現行のサンスクリット語ラテン文字転写は「Saddharma Puṇḍarīka Sūtra」)は「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意味の漢訳での総称で、サンスクリット語原題の『意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什』(くらまじゅう)『訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である』と、ウィキの「法華経」にある。引用の漢訳原文は「序品第一」の一節で、「或見菩薩 觀諸法性 無有二相 猶如虚空」(或いは、菩薩の諸法の性は、二相有ること無し。猶ほ虛空のごとしと觀ずるを見る。)である。]

 

 私は町はづれまでぶらぶら散步した。私の通つて行つた町は、でこぼこになつて田舍街道となつた。それから、山の麓の小部落の方へ向つて、田圃の中を經て曲つてゐた。町と田圃の間に、建物のない廣漠たる地面があつて、子供の好きな遊び場所となつてゐる。そこには樹木があり、ごろごろ轉がり遊ぶによい草地があり、小石も澤山ある。私は立ち止つて子供達を眺めた。

 路傍で、濕つた粘土を弄つて[やぶちゃん注:「いぢつて」。]面白がつてゐるのがある。小規模の山や川や田の形、小さな村落、百姓の小屋、小さな寺、池や彎曲した橋や石燈籠のある庭、それから、石の破片を碑石とした小さな墓地――こんなまで粘土で作つてゐる。彼等はまた葬式の眞似をする――蝶や蟬の死骸を土に埋めて、塚の上で經文を讀む風をする。彼等も明日はこんなことを敢てしないだらう。何故なら、明日は死人の祭の初日だからである。盆の祭の間は、昆蟲類をいぢめることは嚴禁されてゐる。特に蟬を苦しめてはいけない。或る蟬の頭上には、小さな赤い文字があつて、亡靈のもだといはれてゐる。

[やぶちゃん注:後の『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」』でもこれを小泉八雲は註で述べているのであるが、私はそれがどの種を指し、どのような模様をそのように見、その文字は何を意味するのか、不学にして知らない(平井呈一氏は恒文社版「塵」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)で、『戒名』と訳しておられる。これは想像だが、しかし多様な模様とは思われないから、私は梵字の種子(しゅじ)を指すのではないかと秘かに思ってはいる)。識者の御教授を乞うものである。「赤い」と言うならヒグラシであるが……。]

 どこの國の子供も、死の眞似ごとをして遊ぶ。人格的個性の念が起こつてこないうちは、死といふことを眞面目に考へることはできない。して、この點に於ては、子供の考へ方が、自意識を有する成人よりも、恐らくは一層正鵠を得てゐるだらう。無論、もし或る晴天の日、これらの子供達が、遊び仲間の一人は永久に去つてしまつた――他の場所で再生するために去つて行つたと告げられるならば、漠然ながらも眞實に損失の念を感じ、はでやかな袖を以て、幾たびも目を拭ふこととなるだらう。しかし間もなく、損失は忘れられ、遊戲は復た開始されるだらう。物の存在がなくなるといふ觀念は、子供心にはなかなかわかりかねる。蝶や鳥や花や葉や樂しい夏そのものも、ただ死ぬる事の眞似をやつてゐるのだ――彼等は去つてしまつたやうでも、雪が消えてから、すべてまた皆歸つてくる。死に對する眞の悲哀と恐怖は、疑惑及び苦痛に對する經驗を徐々に積んだ後、始めて私共の心中に起こつてくるのである。して、これらの男兒や女子は日本人であり、また佛敎徒であるから、死について、讀者諸君や私が感ずるやうには、將來決して感ずることはないだらう。彼等は誰れか他人のためには、それを恐怖すべき理由を見出すだらうが、彼等自身のためには決して見出さないだらう。何故なら、彼等は既に幾百萬遍も死んできてゐるので、丁度誰れでも引き續いた齒痛の苦を忘れる通り、その苦痛を忘れてゐるだらうからである。花崗岩にまれ、蛛網[やぶちゃん注:「くものす」と当て訓しておく。]の絲にまれ、すべての物質は、幽靈のやうなものだと敎へる彼等の信條のあやしくも透徹せる先に照らしてみれば――恰も最近發見されたエックス光線が、筋肉組織の不思議界を照明する如くに――この現在の世界は、彼等が子供時代に作つた粘土の風景に於けるよりは、一層大きな山や川や田はあつても、彼等に取つて更に一層現實なものと思はれることはないだらう。して、恐らくは更に一層現實なものではあるまい。

[やぶちゃん注:「最近發見されたエックス光線」X線はドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen 一八四五年~一九二三年)が本書刊行の二年前の、一八九五年十一月八日に発見した特定の波長域(0.01~数百Å)を持つ電磁波。彼はこの功績によって一九〇一年の第1回ノーベル物理学賞を受賞している。「X」という呼称の由来は数学の「未知数」を表わす「X」で、レントゲンの命名に由る。]

 この考が浮かぶと共に、私は不意に輕い打擊を覺えた。これは私のよく馴れてゐる打擊である。して、私は物質非實在の思想に襲はれたのだと知つた。

 

 この萬物空虛の念は、ただ大氣の溫度が、生命の溫度と頗る均等なる關係狀態を呈して、私が肉體を有してゐることを忘れるやうな場合にのみ起こつてくる。寒氣は堅强といふ苦しい觀念を促す。寒氣は個人性といふ迷想を鋭くする。寒氣は主我慾を盛んならしめる。寒氣は思想を麻痺させる。して、夢の小さな翼を縮めてしまう。

 今日は溫かい、靜かな天氣で、一切のものをありのま〻に考へることのできるやうな日だ――海も山も野も、その上を蔽へる靑い空虛の穹窿に劣らず現實らしくない。すべてのものが蜃氣樓だ――私の肉體的自我も、日光にてらされた道路も、眠さうな風のもとにゆるく漣波[やぶちゃん注:「さざなみ」。]をうつてゐる穀物も。稻田の靄氣[やぶちゃん注:「あいき」だが「もや」と当て訓しておく。]の向うにある草葺の屋根も、それから遠く一切のものの後にある、山骨[やぶちゃん注:「さんこつ」。山の土砂が崩れ落ちて岩石の露出した部分。ガレ場。]の露はれた丘陵の靑い皺も。私は私自身が幽靈であるといふ感じと、また幽靈に襲はれてゐるといふ感じの、二重の感じを有つてゐる――世界といふすばらしく明かるい幽靈に襲はれて。

 

 その野原には男や女が働いてゐる。彼等は色彩を帶びたる動く影だ。して、彼等の足の下の土――それから彼等は出でたのだ、して、またそれへ歸つて行くだらう――も同樣に影だ。ただ彼等の背後に潜める、生殺の力こそ眞實なのだ――隨つで見えないのだ。

 夜がすべての更に小さな影を呑み込んでしまう如く、この幻像的な上は畢竟私共を呑み込んで、それからそのま〻消滅してしまうであらう。しかし小さな影も、その影を喰べたものも、その消えたのと同樣確實に、また現はれるにきまつてゐる――何處かで、何とかして、復た物質化するに相違ない。私の足の下のこの土地は、天(あま)の河と同じほどに古い。それを何と呼ばうとも――粘土といひ、土壤といひ、塵土といつても――その名は單に何等それとは共通性なき人間の感覺の象徵に過ぎない。實際それは名がなく、また名を附することもできない。ただ勢力、傾向、無限の可能性の團塊である。何故なら、それはかの際涯なき生死の海が打ちよせて作つたものだからである――生死の海の巨濤は、永遠の夜から密かに波を打ち乍ら、碎けて星の泡沫[やぶちゃん注:「しぶき」。]と散つてゐるのだ。それは無生命ではない。それは生命によつて自らを養ひ、また有形の生命がそれから生ずる。それは業報の塵土であつて、新しい結合に入らうと待ちかまへてゐる――佛者が中有[やぶちゃん注:「ちゆうう」。]と稱する、生と生の中間狀態に於ける、祖先の塵土である。それは全く活力から作られてゐる。して、活力以外の如何なるものからも作られてゐない。しかもそれらの活力は、單にこの地球だけのものでなく、數へきれぬほどの既に消滅し去つた世界の活力を含んでゐる。

[やぶちゃん注:「中有」は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

 苟も目に見えるもの、手に觸れうるもの、量りうべきもので、嘗て感性の混じたことのないものがあるか――快樂或は苦痛につれて振動したことのない原子、叫び或は聲でなかつた空氣、淚でなかつた點滴があるか。たしかにこの塵土は感じたことがある。それは私共が知つてゐる一切のものであつた。また幾多私共が知り得ないものでもあつた。それは星雲や恒星であつたり、惑星や月であつたことが、幾たびであつたか云ひつくせない。それはまた神でもあつた――太陽の神であつて、邈乎[やぶちゃん注:「ばくこ(ばっこ)」。① 遙かに遠いさま。年代の遠く隔たるさま。]たる昔の時代に於て、多くの世界がそれをめぐつて拜んだのであつた。『人よ、汝はただ塵に過ぎざることを記憶せよ』――この語はただ物質主義說としては深遠であるが、その見解未だ皮相の域を脫してゐない。何故といふに、塵はどんなものか。『塵よ、汝は太陽たりしことを記憶せよ。また再び太陽となるべきことをも記憶せよ……汝は光明、生命、愛たりしなり。而して今後また、永劫不斷の宇宙的魔法により、必らず幾たびも斯く變化せん』

 

 何故なら、この宇宙といふ大幻像は、單に發展と滅亡の交替以上のものであるからである。それは無限の輪𢌞である。それは果てしなき轉生である。かの古昔の肉體復活の預言は、虛僞ではなかつた。それは寧ろあらゆる神話よりも大きく、あらゆる宗敎よりも深い眞理の豫表であつた。

 幾多の太陽は、彼等の炎の生命を失つてしまう。しかし火の消えた彼等の墓から、また新しい幾多の太陽が元氣よく現はれてくる。幾多の滅んだ世界の死骸は、すべて或る太陽の作用による火葬檀へ移つてゆく。しかし彼等自身の灰燼から、彼等はまた生まれる。この地球の世界も滅びるにきまつてゐる。その海洋は悉く幾多サハラの沙漠を現出することとなるだらう。しかしそれらの海洋は、嘗ては太陽のうちに存してゐたのである。して、その枯死した潮流は、火によつて生き返されて、また別世界の海岸に轟々たる波を打ち寄せるであらう。轉生と變形――これらは寓話ではないのだ! どんなことが不可能だらう? 鍊金術者と詩人の夢は、決して不可能ではない――實際鐡渣[やぶちゃん注:鉄の滓(おり)・沈殿物。]を黃金に、寶玉を生ける眼に、花を肉に變化することができる。どんなことが不可能だらうか? もし海洋が世界から太陽へ、太陽からまた世界へと移つて行くことができるならば、死滅した個性の塵土――記憶と思想の塵土は、どうなるだらうか? 復活は存在する――しかし西洋の信仰で夢想されてゐるいかなるものよりも、一層偉大なる復活だ。死んだ感情は、消滅した太陽や月と同じく確實に復活するであらう。ただ私共が現今認知しうる限りでは、全然同一個性の復歸といふものはないだらう。再現はいつも以前存在してゐたのを再び結合したもの、類緣のものを整理したもの、前世の經驗の滲みこんだ生命が更に完成されたものであるだらう。宇宙は業報である。

 

 自身は無常だといふ觀念から私共が畏縮するのは、單に迷妄と痴愚のためである。何故なら、元來私共の個性とは何であるか。極めて明白に、それは毫も個性ではない。それは數へ盡くされぬほどの複雜性である。人間の身體はどんなものか。幾萬億の生ける實體から作られた形態、細胞と呼ばる〻個體の一時的の聚團である。それから、人間の靈魂はどんなものか。幾億兆の靈魂の複合物である。私共は一人殘らず悉くみな、以前に生きてゐた生命の斷片の、限りなき複合物である。して、絕えず人格を分解させては、また構成する宇宙的作用は、私共一人一人の上に恆久に行はれ、また現在の瞬間にも行はれてゐる。いかなる人でも、嘗て全然新しい感情、絕對に新しい思想を有したことがあるか。私共の一切の感情と思想と希望は、いかに人生の移り行く季節を通して變化し生長するにしても、ただ他の人々――大部分は死滅した人々、幾億兆の過去の人々――の感覺と觀念と欲望の集合と再度の集合に過ぎない。細胞と靈魂はそれら自身、再度の集合であつて、過去に於てさまざまの力の編まれたのが、更に現在に於て聚結せるものである――それらの力に就いては、それは宇宙間一切の幻影を作る造物主のものだといふことを除いては、何事もわかつてゐない。

 諸君が(私が諸君といふのは、靈魂の他の聚團――私のよりも外の聚團を意味する)果たして眞に一個の聚團として不滅を願ふか否か、私は附言する事ができない。しかし私は告白するが、『わが心はわれに取つて一王國なり』ではない。寧ろそれは奇怪なる共和國である。それは南米諸共和國に頻發する革命騷動によるよりも、一層多く日々惱まされてゐる。して、合理的と想像せられてゐる名目上の政府は、かかる紊亂の永續は望ましくないと宣言してゐる。私の心には、空高く翔らうと欲する靈魂もあれば、水の中(海水だと私は思ふ)を游泳しようと欲する靈魂もある。また、森林の中或は山の絕頂に住まうと欲する靈魂もある。それから、大都會の喧囂雜沓をあこがれる靈魂や、熱帶地方の孤獨な場所に住まうと願ふ靈魂もある。更にまた、裸體的野蠻のいろいろな程度にあるもの――租税を納める必要なき遊牧的自由を要求するもの――保守的且つ根膽纎麗優雅で、帝國と封建的傳統に對して忠良なるもの――虛無主義で、サイベリヤ[やぶちゃん注:“Siberia”。シベリア。]の流刑に値するやうなもの――袖手[やぶちゃん注:「しうしゆ(しゅうしゅ)」。懐手(ふところで)。労を惜しんで、自分からは手を下さないこと。]、無爲を嫌つてぢつと落ち著いて居られぬもの――非常な默想的孤立に安住してゐて、ただ多年を隔てて折々そのうごめくのを私が感じうるやうな仙人じみたもの――呪物崇拜の信仰を有するもの――多神敎的なるもの――囘々敎[やぶちゃん注:イスラム教。]を主張するもの――僧院の蔭と抹香の薰り、蠟燭の幽かな光とゴシック建築の暗影と崇高を愛する中世的なもの――さまざまの靈魂が私の中に入つてゐる。これらの一切の間に於ける協同一致は思ひもよらぬことである。いつも惱みがある――反抗、紛擾、内亂が起こる。大多數のものは、かかる狀態を嫌つてゐる。欣んで他へ移住しようとするものも多くある。して、少數の賢明なものは現存組織の全滅後でなくては、一層よい狀態を望んでも結局駄目だと感じてゐる。

 

 私が一個人――一個の靈魂! 否、私は一つの群衆である――幾萬兆といふ、考も及ばないほど夥しい群衆なのだ。私は時代に時代を重ね、劫億に劫億を積んだものだ。今私を作つてゐる集合は、數へきれぬほどたびたび解散しては、また他の散らばつたものとまじり合つたのである。だから、次囘の消散分解を何の懸念すべきことがあらうか? 恐らくは、太陽のさまざまの時代、燃燒の幾億萬年を經た後に、私を組織する最上の要素が、再び集合することがあるかも知れない。

 

 『何故』といふ理由の說明を想像しさへも得らる〻ならば! 『何處から』と『何處へ』の問題に、それよりも遙かに困難が少い。その譯は、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]漠然ながらも、現在が未來と過去を私共に確保するからである。しかし『何故』は!

 

 少女のやさしい聲が、私の空想を醒ました。彼女は『人』といふ漢字の書き方を幼弟に敎へようとしてゐる。初め彼女は砂の中へ、右から左へ向けで、下方へ傾斜する一畫[やぶちゃん注:「いつかく」。]を引く――

 

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 それから、彼女は左から右へ向けて、下方へ曲線をなす一畫を引く――

 

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 この二つを結合して、完全な一字を成すやうに書いたのが『人』である。男女の性如何を問はず人を意味する。または人類を意味する――

 

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 次に彼女は、この字形の意義を實際的說明によつて、幼兒の記憶に印しようと試みた――この說明法は多分學校で學んだのだらう。彼女は一つの木片を二つに割つて、それから、文字の二畫が成すと殆ど同じ角度に、木の二小片を互に釣り合はせるやうにした。『さあ、御覽なさい』と、彼女はいつた。『一方は片一方の助けがあればこそこんなに立つてゐるのよ。一方だけでは立てませんわね。だから、この字は「人」です。人は助けがなくては、この世に生きて行かれません。助けられたり助けたりして、誰れも生きてゆけるのですよ。もしみんながほかの人を助けなければ、みんな悉く倒れて、死んでしまうのです』

 この說明は言語學的には正確ではない。左右の兩畫は、進化論によれば、一對の足を現はしてゐる――原始時代の畫文字[やぶちゃん注:「ゑもじ」。]に現はれた人間の身體全部の形が、現代の表意文字には兩肢だけ遺存して表はれてゐるのだ。しかし美はしい敎訓的空想の方が、科學的事實よりも一層多く重要である。それはまたあらゆる形狀、あらゆる出來事に賦與するに倫理的意義を以てする、古風な敎授法の一つの面白い實例である。加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]、單に道德的知識の一條項としても、それはすべての世俗的宗敎の心髓と、すべての世俗的哲學の最良部分を含んでゐる。この鳩のやうなやさしい聲を有し、ただ一つの文字の無邪氣な福音を說く可愛らしい乙女は、實に世界的尼僧である! 眞にその福音のうちにこそ、究竟の問題に對する唯一の可能なる現在の答が存してゐる。もしその完全なる意義が世界一般に感ぜられ――愛と助けの精神的並びに物質的法則の完全なる暗示が、普く[やぶちゃん注:「あまねく」。]遵奉さる〻に至らば、理想主義者の說に從へぱ、忽然此一見堅牢な具象世界は煙と消えてしまうであらう! 何故なら、いかなる時にも、苟も一切人間の心が、思惟と意志に於て大敎主の心に一致する場合は、『一塊土一粒塵と雖も佛道を成就せざるものは莫からむ』と、書いてあるから。

[やぶちゃん注:「人」の解字は小泉八雲が語る如く、ヒトを横から見た象形で、一画目は「頭から手まで」を表わし、二画目は「胴体から足まで」を表わしたものである。サイト「JapanKnowledge」の「第10 人の形から生まれた文字〔1〕」が甲骨文も表示されていて、よい。しかし、小泉八雲の少女への讃辞には心から完全に同意するものである。

 なお、意味は腑に落ちるものの、最後の引用仏典は私には不明である。識者の御教授を乞う。]

 

2019/11/26

大和本草卷之十三 魚之下 龍涎 (龍涎香)

 

龍涎 本草綱目龍條下有之曰是羣龍所吐涎沫

浮出畨人採得貨之亦有大魚腹中剖得者能收

腦麝不散入諸香亦詳于潛確類書九十四巻○

典籍便覧云龍涎嶼在大食國春間群龍交戯於

上而遺涎沫於洋水國人駕舟採之其涎初若脂

膠黃黑色頗作魚腥氣久則成大塊或魚腹中取

出如斗大焚之亦淸香倭俗クシラノ糞ト云如

蠟而游者也眞僞ヲ知ントセハ燒テ烟ノ直ナルハ眞ナ

リ斜ナルハ偽也浦ニテ拾得ル事マレ也其價貴キナルハ黃

金ニ倍レリ或云是馬ノ鮓答ノ類海鰌ノ腹ヨリ生ス

ル者歟但其中ニ烏章魚ノ骨交ハレハ若ハ海鰌ノ

吐カ或海鰌潮ヲノム時偶龍涎アツテ浮ヘル

ヲノミテ糞中ニマシハリ出ルカ今案ニ典籍

便覧ノ說可用畨人諸香ニ和ス其香久シテ散セス

又ニホヒノ玉トス此物蠻語ニアンペラト云長崎ニ蕃客持來

○やぶちゃんの書き下し文

龍涎〔(りゆうぜん)〕 「本草綱目」、「龍」の條下、之れ、有り。曰はく、『是れ、羣龍の吐く所〔の〕涎〔(よだれ)の〕沫〔(しぶき)〕、浮〔き〕出〔づ〕。畨人〔(ばんじん)〕、採り得て、之れを貨〔(くわ)〕にす。亦、大魚の腹中、剖〔(き)り〕得る者、有り。能く腦〔(なう)〕・麝〔(じや)〕を收めて、散ぜず。諸香に入る。亦、「潛確類書」九十四巻に詳かなり』〔と〕。

○「典籍便覧」に云はく、『「龍涎嶼〔りゆうぜんしよ)〕」は大食國に在り。春の間、群龍、上に交はり戯れて、涎〔の〕沫を洋水に遺〔(のこ)〕す。國人、舟に駕〔(が)〕して、之れを採る。其の涎、初め、脂膠〔(あぶらにかは)〕のごとく黃黑色、頗る魚腥〔(ぎよせい)〕の氣を作〔(な)〕す。久しければ、則ち、大塊と成る。或いは、魚の腹の中〔より〕取り出〔だす〕。斗〔(ます)〕の大〔なるが〕ごとし。之れを焚〔(た)〕けば、亦、淸香〔あり〕』〔と〕』云云。倭俗、『「くじら」の糞』と云ふ。『蠟のごとくして、游(うか)ぶ者なり。眞僞を知らんとせば、燒きて烟の直〔(すぐ)〕なるは、眞なり。斜めなるは偽なり。浦にて拾ひ得る事、まれなり。其の價、貴きなるは、黃金に倍れり[やぶちゃん注:「倍せり」の誤記か。]』〔と〕。或いは云はく、『是れ、馬の鮓答〔(さとう)〕の類。海鰌〔(くじら)〕の腹より生ずる者か。但し、其の中に、烏〔(いか)〕・章魚〔(たこ)〕の骨、交はれば、若(も)し〔く〕は、海鰌の吐くか。或いは、海鰌、潮をのむ時、偶〔(たまたま)〕、龍涎あつて、浮べるをのみて、糞中にまじはり出づるか。今、案ずるに、「典籍便覧」の說、用ふべし。畨人、諸香に和す。其の香、久しくして散ぜず。又、「にほひの玉」とす。此の物、蠻語に「アンペラ」と云ふ。長崎に蕃客、持ち來たる。

[やぶちゃん注:生物ではない特異点の記載。所謂、マッコウクジラ(ハクジラ小目マッコウクジラ科マッコウクジラ属マッコウクジラ Physeter microcephalus)の腸内に発生する結石で、香料の一種として珍重される「龍涎香(りゅうぜんこう)」「アンバーグリス」(英語:Ambergrisである。ウィキの「龍涎香」によれば、『灰色、琥珀色、黒色などの様々な色をした大理石状の模様を持つ蝋状の固体であり芳香がある。龍涎香にはマッコウクジラの主な食料である、タコやイカの硬い嘴(顎板:いわゆるカラストンビ)が含まれていることが多い。そのため、龍涎香は消化できなかったエサを消化分泌物により結石化させ、排泄したものとも考えられているが、その生理的機構や意義に関しては不明な点が多い。イカなどの嘴は龍涎香の塊の表層にあるものは原形を保っているが、中心部の古いものは基質と溶け合ったようになっている。マッコウクジラから排泄された龍涎香は、水より比重が軽いため』、『海面に浮き上がり海岸まで流れ着く。商業捕鯨が行われる以前はこのような偶然によってしか入手ができなかったため』、『非常に貴重な天然香料であった。商業捕鯨が行われている間は鯨の解体時に入手することができ、高価ではあったが』、『商業的な供給がなされていた。1986年以降、商業捕鯨が禁止されたため、現在は商業捕鯨開始以前と同様に』、『偶然によってしか入手できなくなっている』。英語のそれは『「灰色の琥珀」を意味するフランス語』ambre gris(アンブル・グリ)に由来する。『龍涎香がはじめて香料として使用されたのは7世紀ごろのアラビアにおいてと考えられている』。『また、龍涎香という呼び名は』、『良い香りと』、『他の自然物には無い色と形から』、『『龍のよだれが固まったもの』であると中国で考えられたためである。日本では、室町時代の文書にこの語の記述が残っているため』、本『香料が伝来したのはこの頃ではないかと推測されている』。『香料として使用する場合にはエタノールに溶解させたチンキとして使用され、香水などの香りを持続させる効果がある保留剤として高級香水に広く使用されていた』。『また、神経や心臓に効果のある漢方薬としても使用されていた』。『龍涎香の構成成分の大部分はステロイドの一種であるコプロスタノールとトリテルペンの一種であるアンブレイン』(Ambrein)『である。このうち』、『アンブレインの含量が高いものほど品質が高いとされる。このアンブレインが』、『龍涎香が海上を浮遊する間に日光と酸素によって酸化分解をうけ、各種の香りを持つ化合物を生成すると考えられて』おり、『これらの化合物は合成香料として製造されており、龍涎香の代替品として使用されている』。『また』、『龍涎香には含まれていないが』、『龍涎香と類似した香りを持つ化合物も多く知られており、それらも龍涎香の代替品として使用されている』とある。かのアメリカの作家ハーマン・メルヴィル(Herman Melville 一八一九年~一八九一年)の名作「白鯨」(Moby-Dick; or, The Whale)の第九十二章は、『章題がAmbergrisとあり、その内容もマッコウクジラの解体時に龍涎香を入手する様子を詳しく描写している』。『中国、明代の趣味人向け道具』の『解説には、「スマトラ国にある竜涎嶼(小島)では、たくさんの龍がざこねしていて、その垂らしたよだれが採集された香』とし、『海面に浮かんでいたものが最上品、岸に漂着し』て『埋まっていたものが次、魚がよだれを食べ糞となり、腹から取り出したものが次の品」という説明がある』(引用書名を「長物志」と注する)という。

『「本草綱目」、「龍」の條下……』巻四十三の「鱗之一」の「龍」の条の最後に、

   *

龍涎 機曰、「龍吐涎沫、可制香。」。時珍曰、「龍涎、方藥鮮用、惟入諸香、云能收腦・麝數十年不散。又言焚之則翠烟浮空。出西南海洋中。云是春間羣龍所吐涎沫浮出。畨人採得貨之、毎兩千錢。亦大有魚腹中剖得者。其狀初若脂膠、黃白色、乾則成塊、黃黑色、如百藥煎而膩理。久則紫黑、如五靈脂而光澤。其體輕飄、似浮石而腥臊。

   *

とある。

「畨人」これは「畨」の音通で「蕃」で、中国人が異民族を誹って言う「野蛮人」の意の「蕃人(ばんじん)」の謂いであろうと踏んでおく。

「貨」非常な価値を持つ財宝の意。

「腦・麝」龍脳と麝香。前者は「ボルネオール」(borneol:C10H18O:「ボルネオショウノウ」とも呼ばれる二環式モノテルペン(Monoterpene:C10H16:テルペンの分類の一つで、二つのイソプレン単位からなり、環を持つタイプ。テルペン(terpene)とはイソプレン(isoprene:二重結合を二つ持つ炭化水素を構成単位とする炭化水素)を構成単位とする炭化水素で、植物・昆虫・菌類などによって作り出される生体物質の一つ)。ウィキの「ボルネオール」によれば、『歴史的には紀元前後にインド人が』、六~七『世紀には中国人が』、マレーや『スマトラとの交易で、天然カンフォルの取引を行っていたという。竜脳樹はスマトラ島北西部のバルス(ファンスル)とマレー半島南東のチューマ島に産した。香気は樟脳に勝り』、『価格も高く、樟脳は竜脳の代用品的な地位だったという。その後』、『イスラム商人も加わって、大航海時代前から香料貿易の重要な商品であった。アラビア人は香りのほか』、『冷気を楽しみ、葡萄・桑の実・ザクロなどの果物に混ぜ、水で冷やして食したようである』とある。後者は鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus に属するジャコウジカ類の♂の麝香腺から得られる香料と薬の原料とされた「ムスク」(musk)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」に詳しい述べてあるので参照されたい。

「を收めて、散ぜず」これは急速な香りの減衰を抑えて、永くそれらの香りを保持する持続薬としての効用を言っているようである。

「潛確類書」「潜確居類書」とも。明代の学者陳仁錫(一五八一年~一六三六年)が編纂した事典。

「典籍便覧」明代の范泓(はのう)撰になる本草物産名の類纂書。

「龍涎嶼〔りゆうぜんしよ)〕」先の引用によればスマトラにある島(「嶼」は小島の意)の名前とするが、伝説上の架空の島であろう。

「大食國」不審。これはイスラム帝国の旧称である。

「魚腥の氣を作す」魚の生臭い匂いを発する。

『「くじら」の糞』寺島良安も「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」(リンク先は私の古い電子化注)の「鯨」の項でそう書いている。

「眞僞を知らんとせば、燒きて烟の直〔(すぐ)〕なるは、眞なり。斜めなるは偽なり」之と全く同じことを、どこかで電子化したのだが、思い出せない。発見し次第、追記する。

「馬の鮓答の類」「鮓答」(さとう)とは、馬に限らず、各種獣類の胎内結石或いは悪性・良性の腫瘍や免疫システムが形成した異物等を称するものと私は認識している。私の「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 鮓荅(へいさらばさら・へいたらばさら) (獣類の体内の結石)」で詳しく論じているので参照されたい。

「アンペラ」上記リンク先で考証したが、「鮓答」なるものは、もともと日本語ではなく、ポルトガル語の「pedra」(「石」の意。ネイティヴの発音をカタカナ音写すると「ペェードラ」)+「bezoar」(「結石」ブラジルの方の発音では「ベッゾア」)の転であろう。また、古い時代から、一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で「pādzahr」、「pad (expelling) + zahr (poison) 」(「毒を駆逐する」の意)を語源とする、という記載も見られる。牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたともある。別名を当該の獣類の名に繋げて「~のたま」と呼び、「鮓答(さとう)」とも書いた。但し、例えば大修館書店「廣漢和辭典」の「鮓」を引いても、この物質に関わる意味も熟語示されていない。現代中国音では「鮓荅」は「zhǎ dā」(ヂァー・ダァー)で、やや「ペェードラ」に近い発音のように思われるから、それを漢音写したものかも知れない。益軒のは「アンバーグリス」と「ペェードラ」を組み合わせたキマイラのように感ずる。 しかし、「アンペラ」(莚)はないだろ!? 一説にポルトガル 「amparo」(日覆い)からとする例のやつ、烏賊の「エンペラ」で連関するってかあッツ!?! 

ブログ・アクセス1290000突破記念 梅崎春生 行路

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年十月号『不同調』に初出で、昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 途中に二箇所だけ、その昔のシークエンス時制と梅崎春生の事蹟を確認・比較するため、私のオリジナルな注を挟んでおいとた。

 文中終わりで出る「碌々(ろくろく)と」とは「平々凡々と」の意である。若い読者のために言い添えておく。

 梅崎春生の絶妙な仕掛けが――最後に――ある。お味わいあれ。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログが本日、午前中、1290000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年11月26日 藪野直史】]

 

   行  路

 

 針金ほどの細い鰻(うなぎ)である。それをブツ切りに切って皿に盛り、板台に幾皿も並べてあるのだが、切断された部分部分がまだ生きていて、ピンピン皿の外に飛び出そうとするのを指でつまんで皿に戻しながら、

「さあ、一皿十円。さあ十円ですよ」

 一間[やぶちゃん注:約一メートル八十二センチメートル。]ほどのよしず張の店で、店先にむらがったお客達の肩越しに聞えて来るのは、そんな甲(かん)高い女の声で、あった。梅雨の合間のぬかるみ道を歩き悩みながら、その張りのある女声にふと耳をとめた私は、何だかそれに聞き覚えがあるような気がしたから、洋傘を支えにして何気なく客の肩越しに斜にのぞきこむと、丁度(ちょうど)顔をこちらにむけた声の女の視線が偶然私の姿をとらえたらしく、日を輝かせながら、まあ、と驚いた時の眼をパチパチさせるその癖でも、まぎれもない栄子の姿であった。

「お栄さんじゃないか」

 私も少からず驚いて口走った。暫(しばら)く見ないうちに少し肥った色白の頰に栄子は驚きの色をかくせない陰影のある笑みを浮べて、裏の方へ、と手振りで私に示しながら、

「ケイちゃん。店の方たのんだわよ」

 へい、と答えて奥から出て来た若者は、復員服を着て二十四五らしいが、眉の形の良い端正な横顔を、よしずにそって裏に廻りながらちらと眺めた印象が、

 ――似てるじゃないか。――

 私は栄子と相知って此の十年余の歳月を、その感じだけで胸苦しくよみがえらせていた。

「暫くだったわね」

 裏の木戸から出て来て、何か感慨深そうに栄子はしげしげと私を眺めながら、

「でも貴方はかわらないわね。私はとても変ったでしょう」

「いや。綺麗(きれい)になったよ」

「へえ。口が旨くなったわね。これでもあたし、此の間までは上野の地下道に寝泊りしてたんだから」

 こんな事で私に嘘を言う女ではないから、その事も本当に違いない。私が黙っていると、

「驚いた。驚いたでしょう」

「驚きもしないが、大変だったろう」

 うふん、と含み笑いをしながら、私の手の弁当箱に眼を走らせ、

「相変らず腰弁というところね。それは空なの」

 一寸待ちなさいと、ためらう私から弁当箱を取上げて木戸へ入って行ったが、暫くして出て来て、

「お土産。商売物だけど」

 こだわりのない明るい調子であつた。受取ると弁当箱の中に、先刻見た切れ切れの鰻(うなぎ)が詰っているらしく、アルミの蓋にはねあたる幽(かす)かな感じと妙な重量感が手に伝わって来た。

「此処じゃお話も出来ないから、一寸そこまで出ましょう」

「店の方はいいのかい」

「いいの。任せてあるから」

 よしずの向うで先刻の若者の声らしく、ええ一皿十円、たったの十円と呼ぶのが聞えて来た。

 此の前逢った時から三年程も経つが、その歳月を一足飛びに越えて隔りを感じさせないのも、栄子という女の持つ性格ゆえには違いなかったが、また私と栄子の交情が特殊のものであるせいでもあった。栄子に言われるまま歩き出し、露地を廻るとそこらはやくざなマアケット地帯で、両側の屋台屋台に栄子はあるきながら挨拶を交したり交されたりするところからみれば、栄子は既にここでも相当な顔らしく、私は恰幅(かっぷく)の好い栄子の後姿を追いながら、此の女のこんな強さはどんな処から来るのかといぶかる思いでもあった。泥のはねを気にして立ち悩む私に、栄子はふと振返ってまぶしそうな眼を向けたが、身体を反(そ)らして飛込んだのがやはり屋台の一軒で、

「おばさん。つけてくれない」

 棚に並んだ瓶を見るまでもなく飲屋と知れるが、昼酒でもあるまいとためらう私に栄子ほはげしく手まねきした。

 すわりの悪い腰掛けで、曇天の光が青ぐらく落ちて来て、私は盃に注がれた変に黄色い洒に口をつけた。酒を口に入れるのも久し振りで、そのせいか薬品じみた抵抗がふと舌にさからうのだが、栄子は鮮やかな飲みぶりで、盃を持つ手ももの慣れた風情であった。此の女も何時からこんなに酒に慣れたのかと、記憶の空白を確め廻していると、

「あれからどの位経ったかしら」

「そう。あれが十九年の三月だったから」

「もう三年あまりね」

 その時は栄子は着のみ着のままで、険しく暗い顔をして私を訪ねて来たのであった。しかしどんなに暗く栄子が絶望していても、今までの例ではまた不死鳥のように此の女は立ち上って来た。その事を私は言いたくて、

「でもお栄さんはどうにかして生き抜けるたちらしいね」

「どうにかなる。どうにかなるものよ」

 栄子は盃を乾しながら、かわいた笑い声を立てた。私と始めて相知った頃の栄子は、こんな笑い方はしなかった。淋しそうな笑いを片頰に一寸浮べるような女であつた。今のように肥ってはいなくて、すらりとした形の良い少女であった。

 それは確か私が大学に入った年のことで、同じ高等学校から来た古田という私の友達がいて、それから栄子を紹介されたのだ。古田の話では従妹だということであったが、その頃栄子は何処か私立の音楽学校に通っているとの話で、一寸しゃれたスウツなど着てその癖髪はおさげのままであった。不調和がそのまま此の少女には調和となっていて、それが変な魅力となっていた。手を膝にあてて丁寧にお辞儀するような少女であった。全体の感じが稚ない様子だったから少女と書いたが、歳はもう十八九になっていたと思う。

 古田という男はきりっとした顔立ちの男であったし、それに仲々の漁色家だという評判だったから、勿論(もちろん)従妹だなどという彼の口舌を私は信じていなかった。また信ずるにしても信じないにしても、それは私にかかわりあることではなかった。しかしこんな稚なさを不幸におとし入れることは、何か無惨な気もしなくはなかった。私の知る限りでは古田の今までの相手は、女給とかダンサアとかそんな種類の女に限られていたから、そんな女たちと同列に栄子を置くことがふと傷ましく思われたのだ。

 古田とはもとから私は知っているが、漁色家といっても悪どいやり方ではなく、ただ責任のない愛情を楽しもうとする、言わば単純なエピキュリアンに過ぎなかったから、あるいはなおのこと栄子は愛情の方途に迷ったのかも知れない。とにかく若い栄子が古田に愛情を打ち込んでいることは、他処目(よそめ)の私にも判る位であった。そんな無計算な愛情の吐露が、遊びのつもりでいた古田には重苦しくなって来たのであろう。私の下宿にある時やって来て、あの女にもかなわん、と私に洩(mら)したことがある。

「だってあれは君の従妹だろう」

 古田はそれを聞いて首をちぢめて苦笑しながら、しつこい従妹だよ、とはき出すように言った。

 その言葉を聞いた時、私はふと古田に微かな憎悪を感じていた。

 その頃既に古田は栄子と肉体的関係があったのだと思う。ただの精神的な恋情なら、古田ほどの男が身をかわせない筈がないからだ。私がその時古田を憎む気持が起ったというのも、彼の無責任な生活態度に対してではなく、純な女に不幸を植えつけたという点であったに相違ない。三人でいる時、栄子がときどき古田を眺めるあの熱っぽい眼を私は思い出していたのだ。古田はその頃栄子と二人になることを嫌ってか、よく私を誘いこんで同座させていた。

 ある夜日比谷公会堂で音楽会があって、待ち合せて行く約束になっていたのだが、約束の場所でいくら待っても古田が来ず、やむなく私は栄子と二人で聴きに行ったことがある。もともと私は音楽に趣味があるわけではなく、ほんのつきあいに過ぎなかったが、栄子は音楽学校に通っていただけあってその夜も譜本をたずさえて来ているほどであった。約束の時間が過ぎた時私はすぐ、古田がすっぽかしたと思ったが、栄子は、も少し、も少し、と少しずつ時間を伸ばして、背伸びなどして遠くを眺め、仲々あきらめ切れぬ風情であった。そこを離れて公会堂に行くときも、栄子は何度も振返って探し求める眼付になったりした。

 その夜の演奏曲目は何であったか覚えていない。終って外に出ると空は一面の星で、私達はぶらぶらと公園の中を日比谷停車所の方に歩いた。音楽の後感がまだ身体に残っていて、風爽かな初夏の夜であった。

 演奏中からも栄子は何か沈んだ風(ふう)であったが、歩いている時も言葉少く顔色が冴えない模様で、話しかける私の言葉にもはっきりしない受け答えぶりであった。丁度(ちょうど)噴水のところまで来た時栄子は何か思い詰めたように身体ごと私を押して来た。

「ねえ田代さん。何故今日古田さんは来なかったの。何故来なかったんでしょう」

 突然のことなのでふと私が気押されて黙ると、栄子は急に甲(かん)高い声になって独語のように叫んだ。

「でも私はあの人を信じてるわ。あの人は人を偽るような人じゃないわ」

 声音が乱れたので私が驚いて栄子を見ると、月の光の加減か栄子の顔は真蒼であった。陶器のような冷たい頰に、ふと涙のいろを見たような気もしたが、栄子は両掌で顔をおおって、つと私に背を向けた。お下髪(さげ)が大きく揺れて、その間から細い頸(くび)筋が見えた。月の光はそこにも落ちていた。堪え難い程の哀憐の情がその時私の胸を衝き上げて来たのである。私はしかし何故かはげしい狼狽を感じながら身体を硬くして、花々の香しるい夜の径を急ぎ足に歩き出していた。

 しかし栄子と古田の交情も、間もなくあっけなく終った。古田が召集されて支那に渡ったかと思うと、すぐ戦死してしまったのである。戦死の場所は上海戦線であった。

 古田の母親からそんな報(しら)せがあって一遇間ほど経った夜、私の下宿に栄子が訪ねて来た。玄関に出て見ると暗い土間に栄子は影のように立っていて、私の姿を見るとキラキラ光る眼で私をじっと見た。憔悴(しょうすい)の色が濃くかぶさり、何か別人にも見えた。とりあえず部屋に通しながら、古田の戦死を何時知ったのかという私の問いにも答えず、部屋のすみに斜にすわり、私の視線を避けるような物ごしで、

「田代さん酒を飲みたいわ。飲まして」

 激しい口調であった。

 栄子が心に受けた打撃は私にも良く判るのだから、こんな場合、場あたりの慰めも無意味だと思い、女中を呼んで私は酒を注文した。この頃(昭和十二三年頃)は酒が飲みたければ下宿の帳場に注文して、つけでいくらでも飲むことが出来たのだ。

 その夜栄子はかなり酒を飲んだ。

 その話によると、栄子は古田と結婚する約束をしていたそうで、古田の戦死を知って彼女が古田の実家を訪ねてみると、母親が出て来て、古田には内縁だけれども既に妻があるということを、冷たい顔で栄子に話したという事であった。古田が自分と約束をしておきながら、家に内縁の妻を持っていたことが栄子に惑乱する程の打撃を与えたのだ。

「古田が東京を立つ時、何故駅まで来なかったんだね」

「そんな感傷的なことは厭だとあの人は言うんですもの」

 駅には古田の母親とその内縁の妻らしい女が来ていた。その女は人目もはばからず手巾(ハンカチ)を眼にあてていたが、古田は明るい顔で見送人と挨拶を交していた。私は栄子が来てはいないかと時々気になって四辺を見廻したりしたが、汽車が出るまで栄子は見当らなかった。やがて万歳の声と共に、窓から古田が振る帽子がだんだん小さく消えて行った。

「死んじやったもの仕方が無いさ」

 私も少し酔って栄子にそんな事を言った。

「死んじやったからいけないのよ」

 栄子は濁った眼で私を見っめたが、

「他に女の人がいるなんて、男ってそんなものかしら、そんなものなの」

「ああ、そんなものだよ」

 そのうちに夜が更けて電車も無くなったようだから、私は下宿に頼んで寝床をとってもらった。栄子は酔っていて、少からず乱れていたから、独り戻すのは危険な気もした。それにまた別の気持もあった。

 いよいよ寝る段になって酔った栄子が着換えしようとする時、手が乱れて裸の胸が見えた。乳首がちらりとのぞかれたが、それは桑の実のような黒さであった。栄子はばたんばたんと乱暴にふるまいながら、床に入った。

「あなたは良い人ね。ほんとに良い人ね」

 良い訳がないさと、私は胸の中で呟いたが、栄子はその時眼を閉じて幽かな寝息を立てていた。電燈の光線が栄子の顔に隈(くま)をっくって、いつもの稚ない表情から急に大人びた暗さであった。

 その夜挑んだのが私であったということを私は書いておかねばならぬ。不幸に陥ちた女をそんな風(ふう)に取扱うことは、何か弱みにつけこむようで後ろめたくないこともなかったが、境遇から来る不幸というものは、私には本質的なものでなく、人間にとっては意匠にすぎないと思われた。不幸という点からすれは、栄子よりその夜の私の方が遙か不幸であるのかも知れなかった。

 しかし私の挑みに対して、栄子はもっと激しい情熱で応じて来た。それはほとんど自棄じみた烈しさで、それは私を愛しているためでは絶対になく、ただただ自分を満たすためであることを、私はその瞬間に本能的に感じ取っていた。悦楽の頂上にあって栄子は唇を私の耳に寄せ、

「――憎い。憎いわ」

 歯ぎしりするような調子でそう呻いた。

 翌朝私達はぼんやり起き上っていた。昨夜のことを悔ゆる気特は勿論(もちろん)私にはなかった。私は貧しい朝膳に向いながら、昨夜栄子が憎いと叫んだ言葉は、誰にむけられていたのだろうと考えた。古田に対してか、それとも私に対してか。或いは栄子は自分自身にその瞬間そんな憎悪を感じているのかも知れなかった。私が探り得た身体の感触では、栄子は明かにみごもっていた。

 しかしその朝、栄子は意外なほど明るくなっていて、朝食を食べながら声を立てて笑ったりした。昨夜までの苦しみをすっかり置き忘れた風(ふう)であった。

「で、これからどうするんだね。故郷に帰るのか」

 栄子の故郷は九州で、小地主の父親だけがいるということを私は聞き知っていた。

「帰らないわ」

「学校に戻るのか」

「学校はもう止めよ」栄子はそう言って笑った。「私は看護婦になるの。そして従軍するの」

 その日一緒に外に出て、銀座で映画を見て別れた。それは喜劇映画だったが、栄子は笑う処になると人一倍笑ったりした。そんな栄子の心理を私はふと解しかねていた。

 それから栄子は長い間私を訪ねて来なかった。

 看護婦になると言っていたがどうしたのか、腹の子供はどうしたのか、そんな事を私は時折気にかけていたが、やがて私も卒業期が迫って論文作製などに忙しくなったから、そんな心配も次第に心からうすれ始めていた。ある初冬の日私が図書館の大階段を降りて来ると、その下に黒っぽい看護婦の服を着た女がいて、それが栄子であった。驚く私に栄子はにこやかに笑いかけながら、淡々とした口調で言った。

「明日出発して支那に行くのよ」

 へええ、と思わず私は声に出しながら栄子の容姿を上から下まで眺めた。

「今下宿にお訪ねしたんだけれど、図書館にいらっしゃると聞いたから、先刻から待っていたのよ」

 看護服は良く栄子に似合った。以前より少し肉付きが良くなって、顔の辺も成熟した表情であった。それと私の関心をひいたのは、態度に何か自信が出来ていて、それが一層栄子を美しく見せた。

 立話も出来ないので私達は建物を廻って歩き出した。

「何故今まで連絡しなかったの」

「何故って、私にも判らないのよ」と栄子は一寸顔を染めた。「貴方のことをあまり思い出さなかったのよ。ところがいよいよ遠くに行く段になって、とっても貴方に会いたくなったのよ。もう御卒業ですってね」

 葉の枯れ落ちた銀杏(いちょう)並木の彼方、青色の冬空を背景にして安田講堂が茶褐色にそそり立っていた。そこを歩きながら栄子が言った。

「あの建物は何。厭な形ね。お墓の形をしてるじゃないの」

 まことそれは墓石の形であった。朝夕それを眺めていて、その時始めて私は気が付いていた。

 子供はどうしたのかとうとう聞かなかったが、栄子の話では看護婦の教習所のような処に暫く通って、そして従軍を志願したという話であった。それを話す口調があまり淡淡としていたから、子供を産んだにしても流したにしても、そんな一身上の大事が表情に陰影を落さない筈はないと私は思った。しかし栄子はそんなこだわりをいささかも見せていなかったのだ。不幸をてんで受付けないような強い資質を此の女は始めから持っていたのではないか。思い立っていきなり従軍看護婦になるというのも、思えば私には理解出来ないことであった。私はその頃召集が来はしないかと毎日ビクビクしていたのだ。

 別れ際に私が、

「もう古田のことなど忘れてしまっただろうね」と冗談めかして言うと、栄子は急に淋しそうな顔をした。

「ええ、近頃は忘れちゃったけどね、あの時はほんとに辛かったわ。あんなに深く絶望したことって無いわ。あんな気持は男には判らないでしょうね」

「判らないことはないさ。しかしその傷のなおり方は男よりは早いようだね」

「そんな事を言う」栄子は口辺にふしぎな笑みをちょっと浮べたが、直ぐしみじみした調子になって、「貴方にも又そのうち、御厄介になることがあるかも知れないわ。住所が変ってももとの処に言い残しといてね」

 そして私達は別れた。

 その夜私は遅くまで眠れなかった。栄子と今日出逢い、そしてみすみす遠くへ手離したということ、それが実感として私に来た。私は長い間栄子のことを思いつづけていたような気分におちていた。実際としては近頃私は栄子の事を忘却し勝ちであったが、逆に言えは苦しいから私は私の意識を眠らせようと努力しているのかも知れなかった。何だかそんな感じを突きつめて行けば、私は栄子と最初出会った時から、栄子に切ない気持を抱いて来たようであった。あの一夜のことが今なお私に罪業感を残さぬのは、私のエゴイズムではなくて、そんな気持の責任を私が持っているからに違いなかった。しかし現実には私は栄子と距離をへだてている。それは何の故だろうと私は思うのであった。

 二箇月程経って栄子から手紙が来た。上海の陸軍病院からであった。私は古田が上海で戦死した事を咄嗟(とっさ)に思い起していた。現実のありかたからすればそれは偶然というものかも知れないが、私には何だか栄子の成意が働いているように思えた。その手紙には、近く奥地へ出発するという意味のことが、検閲を考慮してか廻りくどく書かれてあった。

 その翌年の春、私は学校を卒業した。学校の教師にもなりたくなかったし、それと言ってもどんな仕事にも情熱を感じなかった。すすめる人があって、私はある役所に入った。仕事は面白い筈もなかったが、月給を貰えないとなるとすぐ生活に困る身上であった。新体制ということが叫ばれ、誠に住みにくい世であった。栄子の消息はそれ切りなかった。

 私は長年住み慣れた本郷の下宿を引払って郊外のアパアトに移った。結婚をすすめる人もあったが、大てい私は笑って断った。しかしその時栄子の事を考えていたわけではない。なるほど栄子は私の心の中に住んでいたけれども、現実的な像としてではなく、小さな額縁に入った絵のような具合に残っているだけであった。それが私の生活を乱すということはあり得なかった。ただ何となく私はすべての女に興味をなくしていた。結婚生活というものに対しても、私はいささかも魅力を感じていなかった。気持がはっきり踏切りっかぬまま私はその役所に一年余通っていた。

 大陸から戻って来た栄子が私のアパアトを探して訪ねて来たのも、そんな沈滞したひと日のことであった。私が夕食の菜をぶら下げてアパアトに戻って来ると、管理人のお内儀が玄関で私を呼び止めて、

「女の方が部屋にいらっしゃいますよ」

 と言った。誰だろうと私はいぶかしく思ったが、次の瞬間に栄子ではないかということを直ぐ考えた。その外(ほか)に私の部屋に訪ねて来る女人など居る訳は無かったからである。

 扉をあけると栄子は私の机の前にすわって私のアルバムを拡げていたが、私の姿を見るとバタンとそれを閉じて居ずまいを正した。

「今夜泊めてね。お願い」

 栄子は看護婦の服装ではなくて、草臥(くたび)れたスウツを着ていた。部屋のすみに小さなトランクが置いてあったが、その金具も脱(はず)れかかっていた。身体全体に疲労のいろが深く、眉目のあたりがきわ立って荒れた感じであった。

「もう看護婦は止めたのかい」

 私のその言葉に答えず、背広を脱ぐ私をしげしげと眺めながら、

「田代さんも背広を着るようになったのね」

 そんなことをポツンと言ったりした。

 近所の知合いの酒屋に少しばかり都合してもらって、その夜は飲んだ。栄子は大変酒が強くなった感じで、小気味良く盃をあけていたが、それでもそのうちに好い色になった。何か大陸での生活を話したがらない風なので、私も強いてそこに触れなかったが、酔うにつれて栄子の険しい眉も少しずつ晴れて行くようだった。そんな時に、ふと音楽学校時代の栄子の清純な俤(おもかげ)がよみがえって来たりした。そして私も少し酔った。

 日米関係が険悪になりかけていて野村大使が渡米している時のことだったから、私達の話も自然に其処に落ちて、私も何時かは戦いに引っぱり出されるだろうというようなことを私が言ったら、栄子は眉を寄せいやな顔をして言った。

[やぶちゃん注:「野村大使」海軍軍人で外交官であった野村吉三郎(明治一〇(一八七七)年~昭和三九(一九六四)年)は第二次近衛内閣の時、昭和一六(一九四一)年一月に駐米大使に任命され、ぎりぎりまで日米交渉に努めた.同年十二月七日(日本時間十二月八日)のマレー作戦と真珠湾作戦で米・英・蘭と開戦したが、針の莚に座るような思いで、その後の半年をワシントンD.C.で過ごし、抑留者交換船で日本に戻ったのは翌年八月中頃であた(以上はウィキの「野村吉三郎」に拠った)。則ち、このシークエンスの時制は昭和十六年一月以降、開戦前夜までということになる(実は、後で昭和十六年十月末か、十一月であろうことが判る)。なお、この頃、梅崎春生は昭和十五年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業、東京都教育局に勤務していたから、この主人公田代の経歴とそれは一致していると言ってよい。]

「戦争。戦争って厭なものよ。あんな厭なものはない。兵隊ってけものよ。おお厭だ」

 嚙んではき出すような口調だった。そして最後の一句と共に、栄子は肩をすくめて身ぶるいした。

「だって君は進んで志願したのだろ」

「言わないで。そんな事言わないで」

 栄子は掌を上げて私をさえぎる風な手付をしたが、急に身体をくずし、声を忍ばせて突然泣き出した。掌で顔をおおい首を深く垂れているので、頚筋が斜に見えた。あの昔の細く脆(もろ)そうな頸とはちがって、何か筋肉質のものを思わせる妙な逞しさがそこにはあった。

 栄子は直ぐに泣き止んだ。そしてキラキラ濡れた眼で、また何杯も盃をほした。

 その夜眠っている私に、栄子は荒い呼吸使いで抱きついて来た。酒の匂いが鼻に来て、私は眠りからはっきり覚めていた。栄子は着ているものを全部脱ぎすてていた。暗闇の底でそれは感じですぐ判った。

 それは娼婦よりももっと荒くれた仕草だった。私は数年間禁欲を続けていたので、失敗するかも知れない予感が胸をかすめたが、そんなものを圧倒するような激しい情熱であった。そしてその情熱は盲目的なものでなく、私を誘導しようとする巧みなものを秘めていた。私は意識的にそれに呼応して行った。私はその時自分がかなり努力していることを感じていた。そして何故だかは判らないが、その瞬間でも栄子との距離をはっきり感知していた。栄子があえいでいるのも、自分の空白を満たすためなので、私とは全然関係ないような気がした。そして営みは終った。

 疲れ果てて私達は横たわっていた。部屋の床から秋の虫が低く鳴き出していた。

「私は故郷に帰りたいわ」と栄子が暫(しばら)く経って言った。郷愁めいたものが、やはりその時私の胸にも湧いていたのである。

「私戦場にいる時、ほんとに一度でも良いから内地に戻って、音楽を聞きたいと、そればかり考えてたわ。それはほんとに辛かったわ。貴方には判らない事よ」

 暫くして私が、君はいくつになる、と聞いたら低い声で、二十五よ、と答えた。

 翌朝起きて見たら栄子は既に起きていて、驚いたことにはちやんと朝食も拵(こしら)えてあった。卓をはさんで食事をとりながら、栄子がこんな事を言った。

「今まで私は何をやっても失敗してばかりいるんだけれど、此度はしっかりやるわ。私東京で何処か職を探そうと思うの」

「故郷へ帰った方が良いんじゃないか」

「何故よ。何故いいの」

 一晩休んだせいか栄子はすっかり生気を取戻していて、私の言葉をあざわらうような表情をした。

「職探すって大変だぜ」

「どうにかなるわよ」自信に満ちた声であった。

 役所に出るために私は出かけ、栄子とは駅で別れた。別れる時栄子は私に、アルバムから写真を一枚貰ったわよ、と私にささやいた。

 それから一箇月位して手紙が来た。それによると栄子は或る芸能社に入り、その専属になって芸の道にいそしんでいるということであった。芸の道とは何か。私には判断がつかなかった。しかし文面の感じから言えば、栄子は非常に現状に満足しているらしく思えた。しかしそんな栄子を私はもはや想像出来なくなっていた。私が漠然と慕っている栄子は、もはや現実の栄子ではなかった。その食い違いは何かいらいらと私の心に触れて来た。私がもっと積極的な立場を執れば、栄子は今と違った方向をたどったかもしれない。しかしそんな事を考えることは、無意味と言えば無意味極まる事であった。

 ついに私が触知し得なかった部分が栄子の心にひそんでいて、それが栄子の方向を決定したのではないか。栄子は絶望するたびに新しい脱皮を敢行するらしかった。ふしぎな事には、古田を通じて男というものに絶望した時も、戦争の実体にふれて絶望した時も、栄子は私の処にやって来た。そして肉体的に私と結合を敢てした。

 脱皮のためのカタルシスのような役割を、私は栄子の為に引き受けているのかも知れなかった。そう考えると、私は言いようもない荒涼たるものが胸の中に吹き荒れて来るような気がした。戦争の傷痕を重ねることによって栄子は成長して行くが、私はその間にむなしく青春を終えるらしい。私はカタルシスの座を持ち得ないまま、老い朽ちて行くらしかった。私は栄子との二度の結合も、肉体的な問題は別として、精神的にはますます空白を深めて行っただけであった。

 あるいは栄子は私を通じて、古田への思慕を郷愁の如くよみがえらしているのかも知れなかった。栄子がアルバムから剝いで行った写真は、学生の私と古田が肩を組んで写った写真である。

 一箇月程経って日本はあの無謀な太平洋戦争に突入した。

 ある日私の役所で演芸慰問会があって、私も何となくそれを見に行った時、番組に音楽漫才というのがあって、その名に栄子という字が書かれてあった。もともとそんな演芸方面にうとい私ではあったけれども、ふとそれはあの栄子ではないかと思った。何とか芸能社というのもそんな芸人の団体らしかったし、此の前の手紙も何だかそんな意味のことが書かれていたような気がする。しかし音楽漫才とはどんな事をするのか知れないけれども、音楽会に本譜をたずさえて来たような栄子が、そんな処に落ちるということは想像だけでも私の堪えられないことであった。私は厭な胸騒ぎを暫く味った末、まだ演技が始まらないうちにと、楽屋の方に廻ってみた。

 そしてそれは、あの栄子であった。

 強い化粧をほどこして仮面じみた風貌の栄子と、私は楽屋口で暫く話をした。ごく短い会話であったけれども、私はなじる気持が自然に口に出たにちがいない。栄子は弁解するような口調で言った。

「こんなことやっていて、本当に惨めだと思うわ。しかし仕方がないのよ。生きて行かなくちゃならないもの」

「それにしても本名で出なくっても――」

「いえ、それが本名で出るのよ。私はもう身体をはって生きて行こうと思うの。生きて行くにはそれ以外に道はないわ」

 出番だというので栄子は一寸私を振返って奥の方に入って行った。観客席の方に私は戻ったが、席の方にはどうしても入る気がしなかった。私は廊下に立ちすくみ、観客席から流れて来る笑声を聞きながら、ふとあふれて来る涙を押えかねていた。その束の間の感傷の中で、栄子がどこまでも堕ちるのなら私も一緒におちてやろうかという兇暴な思念にとらわれていた。――

 それから私は栄子の消息を聞かなかった。戦争の状態は段々悪くなって、島々を次々に取戻されて行った。重苦しい日々がっづいた。そして昭和二十年に入った。

 三月、ついに私がおそれていた召集令状が来た。

 三月十五日の入隊だというので、私がその用意をしている時であった。三月十日に本所深川が炎上し、その煙は私のアパアトからも見えた。私は別段感慨なくそれを眺めていた。

[やぶちゃん注:梅崎春生の本格的招集(実際には昭和十七年一月に一度召集されて対馬重兵隊に入隊したが、肺疾患のために即日帰郷している)は昭和十九年の六月である(佐世保相ノ裏海兵団配属)。従って、ここは時制的には梅崎春生の事蹟からは虚構である。なお、終戦時、梅崎春生は満三十歳であった。]

 翌日私のアパアトに栄子が訪ねて来た時、私は始めて栄子が本所に住んでいたことを思い出していた。栄子は着のみ着のままという姿で、肩の所の着物が裂けていたが、どこにも怪我はしていなかった。剝き出した肩の肉が少しよごれて、変に動物的な感じをそそった。栄子の顔は表情がすっかり無い感じでその癖眼ばかりぎらぎらと光っていた。何か気持がうわずっているらしく、部屋に入るなり両手を拡げて、

「死骸がこんなよ。ぞろぞろよ」

 そして両掌で顔をおおうと、暫くじっとしていた。頰がげっそりこけて髪はばらばらに乱れていた。

 しかし暫くしているうちに、少し落着いて来たらしく、私の外套をまとって火鉢にかぶさっていた。眼を上げてあたりを見廻した。

「何故荷物をまとめてるの。疎開するの」

「召集が来たのだよ」

 栄子は私を見て蒼い顔をしたが、何とも言わなかった。

 その夜私は栄子と同じ床に寝た、燈を消してからも栄子は身ぶるいしている感じで、しきりに顔を私の胸にすりよせて来た。うわごとのように何かしゃべっていた。

「皆死んじやったのよ。皆、一人残らず」

「死んだって良いよ」と慰める心算(つもり)で私も答えた。「お栄さんだけ生き残ればそれで沢山だよ」

「皆死んじゃった。あの子も死んじゃったよ」

 栄子は私の言う事も聞えぬ風(ふう)でうたうような調子でそう言った。あの子って誰だい、と笑いながら私が問い返そうとしたとたん、私の胸をかすめたのは、あの最初の夜身ごもっていた栄子の身体のことであった。私は口をつぐんだ。あるいは栄子は子供を産んだのかも知れなかった。栄子のその後のがむしゃらな生き方も、そんな事実を支えとしていたのかも知れないと思い当った時、私は錐(きり)を胸に刺されたようで、思わず栄子を抱く手に力をこめていた。栄子はじっとしていた。暫くして、

「貴方も戦争に行くのね。可笑(おか)しいわ」

 ぽつんとそう言った。

 翌朝早く私は起きた。出発の時間であった。栄子はやや元気を取戻していて、昨日のような錯乱の徴(しるし)はなかった。もし行く処がなければ私の部屋を使えるように管理人に話しても良いと思ったが、栄子はそれを断った。ただ写真を焼いたから、もう一枚呉れと言うだけであった。私は荷物をほぐして、アルバムをそっくりやった。生きて再び栄子と会える事もないと思うと、私の青春に栄子がどんな重大な意味を持っていたかが、悔恨に似た情と共に判然して来るのであった。

 駅まで送ろうかと栄子は言ったが、私は断った。そんなの感傷的だと思っているんでしょう、と栄子はその時始めて声を出して笑ったが、その眼は何か遥かなものを見つめているような具合であった。――

 その日から三年経つ。

 もはや栄子とも逢えぬと思いこんでいたのが、今この青ぐらい屋台店で一緒に酒を汲み交しているということが妙に可笑しくて、私はその気持を栄子に伝えたく、

「お互に此の十年間、何だかバラバラの生き方をして来て、そしてこんな処で又会ったりして本当におかしいな」

 酔いが少し廻って来たらしい。復員後私も又平凡な役人として碌々(ろくろく)とつとめているが、此の十年間自分の青春について考えて来たことが、何かことごとく虚しい妄想にすぎない気がするのも、ようやく私の気持が老い始めて来たせいに違いない。もはや現在の栄子に対しては、気持の食違いもなく淡々と面接出来るようであった。

「お栄さんが鰻(うなぎ)屋などとは思いもつかないね。もう音楽は止めたの」

「ああ。忘れてしまったわよ」

 栄子も盃をほしながら

「あたしも燈取虫みたいに、あっちへぶっつかりこっちへぶっつかりして生きて来たけれど、結局悲しかっただけで、何にも残っていなかった」

「そうかも知れないな」

 栄子の言葉はしみじみと私の胸にも落ちた。身体がばらばらになるような眼にあっても、此の女は強く生きて来た。

「終戦後は地下道に寝泊りさ。身寄りも皆消息がなくなってね。それからどうにかしなくちゃいけないと思って茨城に行ってさ、漫才をやってた頃の相棒がいてね、鰻が沢山とれるのよ、あそこらは」

「でケイちゃんというのは?」

「ああ、あの子は地下道で知合いになったのさ。一寸良い子でしょう」

 私はよしず越しに見たその若者の横顔を思い出していた。肩のきりっとした良い顔であった。そしてその顔は、あの古田の顔の感じにそっくりだった。一目見た時、それは私の胸に来ていたのである。肉付きがよくなって年増らしい落着きの出来た今の栄子の顔を私はふとぬすみ見ながら、その事が妙にかなしく心に沈みこんで来た。古田を嫉妬する気持から、今は私は遠く隔たっていたが、何か気持の感傷に私は落ちていた。

 台に置いた弁当箱が幽(かす)かに鳴った。手を伸ばして押えると、鈍く動きが手につたわって来た。箱の中で鰻はまだ生きて、はねかえっているらしかった。

 酔いが掌の尖まで届くのを覚えながら、私はその感触を暫く確めつづけていた。

 

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「八」 / 京都紀行~了

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 私はこれまで見たことのない方面を經て、別の道を辿つて歸つた。そこは寺ばかりであつた。非常に大きな美しい宅地の多い場所で、また魔法のために鎭められたやうに靜かであつた。住宅も店もない。ただ兩側に道路から後へ傾斜した淡黃色の塀があるのみであつた。塀は城壁のやうであるが、笠石や靑瓦の小さな屋根で蔽つてある。して、この黃色の傾斜せる塀(長い間隔を置いて一寸法師のやうな小門が穿つてある)の上に、杉と松と竹の柔らかな大きな茂林があつて、その中を貫いて天晴れ立派な彎曲を見せた屋根が聳えてゐる。これらの靜かな寺院の町が、秋の午後の光線で黃金を浴びた見返しの光景は、多年吐露しようと試みても駄目であつた思想のいかにも完全なる表現を、たまたま或る詩中に見出したやうな愉快の竦動[やぶちゃん注:「しようどう(しょうどう)」。「三」に出た「悚動」に同じ。ここは「慎み畏まること」の意か。というより、原文は“a thrill of pleasure”で、所謂、「衝動」「スリル」「ぞうぞくする感じ」の方が正しいだろう。]を私に與へた。

 しかもその魅力は何を以てできてゐたか。立派な塀はただ泥土を塗つたもの、山門や寺院は木材を組み合はせて瓦を載せたもの、叢林、石細工、蓮池は單なる造園に過ぎない。何等の堅牢なもの、何等の永續的なものはない。しかし線と色と影の、いかにも美麗なる聯結であつて、どんな言葉を用ひても、それを描寫する事はできない程である。否、假令[やぶちゃん注:「たとひ」。]その土塀は檸檬色の大理石に、その瓦は紫水晶に、寺院の材料は大光明王の經文に說いてある宮殿のそれの如き貴重なものに變はつたにしても、それでも此光明の美的暗示、夢のやうな安靜、渾然圓熟せる愛らしさと柔らかさを秋毫も[やぶちゃん注:「しうがう(しゅうごう)も」。熟語原義は「秋に抜け替わった獣の極めて細い毛」の意から「極めて小さいこと・微細なこと・わずかなこと」で、「聊(いささ)かも」の意。]も增す事はないだらう。恐らくはこの藝述がかくまでに驚嘆すべき所以は、まさしくその作り上げたものの材料が、かくまでに脆弱だからである。最も驚くべき建築、卽ちかの最も人を恍惚たらしむる風景は、最も輕い材料で作られてゐる――雲の材料で。

 しかし美をただ高價とか、堅固とか、『しつかりし實在』と聯結させてのみ考へる人人は、決してそれをこの國に求めてはいけない――この國を稱して日出の國といふのは、まことに當を得てゐる。何故なら、日出は幻迷の時だからである。山間や海邊にある日本の村落を――春曙秋晨[やぶちゃん注:「しゆんしよしうしん」。原文“a spring or autumn morning”。そっちの方が今の日本人には遙かに判る。]、恰も徐々ともちあかつて行く霧や霞を通して――日出後に眺めた光景ほど美はしいものはない――しかし實際的な觀察者に取つては、魅惑は霧や霞と共に消えてしまう。生硬な白光の下に、彼は紫水晶の宮殿も、黃金の帆も見出すことができぬ。ただ脆い木造草葺の小舍と、素木[やぶちゃん注:せめても「しらき」と訓じておく。]のま〻の奇異なる日本型船を見るのみだ。

 恐らくはいづれの國に於ても人生を美化する一切のものは、この通りであらう。人間界や自然界を面白く眺めるためには、私共は主我的或は客觀的の幻影を通してそれを見ねばならない。どんな風にそれが私共に映ずるかは、私共の内部に存する精神的狀態如何による。それにも關はらず眞なるものも眞ならざるものも、ひとしく其本體に於ては幻影的である。俗惡なもの、珍貴なもの、一見はかなく思はれるもの、永久的に見ゆるもの、すべて一樣に幽靈のやうなものに過ぎない。生まれてから死ぬるまで、いつも心の美麗なる靄を通して眺めてゐる人こそ最も幸福なのである――就中、愛の靄を通して眺めるにまさつたものはない。それはこの東洋の輝ける日光の如く、平凡なものを黃金に化するのである。

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「七」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 京都を立つ前に、私は畠山男子譯者註の墓を訪ねようと思つた。彼女の葬られてゐる場所を數人に尋ねても、わからなかつたので、丁度檀家を訪問のため私の宿へ來た僧侶に聞いてみようと思ひついた。彼はすぐに答ヘた。『末慶寺の墓地です』末慶寺といふのは、案内書にはしるしてなく、またどこか市の外づれに建てられた寺であつた。私は直に車を雇つて、約半時間の後、その門へ達した。

 

譯者註 畠山勇子は千葉縣安房國長狹郡鴨川町の女。明治二十四年[やぶちゃん注:一八九一年。]五月近江國大津に於て、露國皇太子が巡査津田三藏のため負傷するや、上下ために震駭す。この報千葉縣下に傳はるや、當時某家に雇はれ居たる勇子は、大に憂ひ、主家に請ひて直ちに京都に赴き、五月二十日夕景、京都府廰の門前に到り、露國大臣と日本政府に宛てたる二通の書面を車夫をして門番所に差出さしめ、やがて懷中より鋭利なる剃刀を取出し、自殺を遂ぐ。遺骸は京都大宮松原なる末慶寺に埋葬せらる。(「大日本人名辭書」)

[やぶちゃん注:憂国の烈女として知られる畠山勇子(慶応元一月二日(一八六五年一月二八日)~明治二四(一八九一)年五月二十日)は、「大津事件」でロシアとの国交が悪化するのを憂慮し、自らの死をもって国の危急を訴えた人物。安房国長狭(ながさ)郡(千葉県)生まれ。父治兵衛の没後、家運が傾き、十七歳で若松吉蔵に嫁いだが、二十三歳で離婚。勤王の侠商として知られた伯父榎本六兵衛を頼って上京した。万里小路家、横浜の実業家原六郎家、日本橋区室町の魚商の奉公人となったが、国政に関心を寄せ、国史や政治小説を愛読、周囲からは変人と目された。明治二四(一八九一)年五月に「大津事件」が勃発すると、悲憤慷慨し、「急用で故郷に帰らねばならない」といって暇をとり、伯父を訪ね、翌朝、新橋発二番列車に乗った。同月二十日、京都に着くと、本願寺などを詣で、同日午後七時過ぎ、京都府庁の門前で国を憂慮する気持ちを認(したた)めた遺書を残して、腹(以下のウィキでは『胸』とある)と喉を切って自殺した。満二十六歳であった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。より詳しい事蹟や写真はウィキの「畠山勇子」を見られたい)。「大津事件」は同年五月十一日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロビッチ(当時二十二歳)が、大津において、警備の巡査津田三蔵に斬られて負傷した事件。その裁判を巡って、政府側と大審院長児島惟謙(いけん)との見解が対立、紛糾した。別名「湖南事件」とも呼ぶ。皇太子一行が人力車で京町筋を通行中、路上の警備にあたっていた津田巡査が,突然、抜剣して皇太子の頭部に切りつけた。その動機は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるという噂を信じたためであった。旧刑法では謀殺未遂は死刑にならなかったが、政府側はロシアの報復を恐れ、不敬罪を適用して死刑にすることを企図し、裁判に強力に干渉した。しかし、大審院の臨時法廷は、大津地方裁判所で同月二十七日に開かれ、犯人は謀殺未遂に立件され、無期徒刑を宣告された(津田は七月二日に北海道標茶町(しべちゃちょう)にあった釧路集治監に移送・収監されたものの、身体衰弱につき、普通の労役ではなく藁工に従事したが、同年九月二十九日に急性肺炎を発症、翌三十日未明に獄死した)。この裁決は司法権の独立を守ったものとして広く知られている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。なおこのロシア皇太子は後にロマノフ王朝最後の皇帝ニコライⅡ世となったが、ソビエト連邦の成立後、退位して幽閉され、一九一八年七月十七日に妻や子どもとともに処刑された)。小泉八雲(Lafcadio Hearn)は先行する来日後の第二作品集「東の国から」(Out of the EastReveries And Studies In New Japan:副題は「新しい日本に就いての夢想と研究」。明治二八(一八九五)年三月刊。なお、小泉八雲の帰化手続きが終わって「Lafcadio Hearn」から「小泉八雲」に改名していたのは明治二九(一八九六)年二月十日であるので、この時は未だ「Lafcadio Hearn」である)の「XI YUKO: A REMINISCENCE」(「勇子――一つの追想」)を既に書いて居る。同作品集は、近い将来、電子化注に取り掛かる予定である。また、それにもさらに先行する彼の来日後最初の大作である“Glimpses of Unfamiliar Japan”(一八九四年刊)にも、既に『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十七章 家の内の宮 (二)』(リンク先は私の古い全電子化の一篇)で畠山勇子のことを記しているのである。

「末慶寺」(まつけいじ)は下京区中堂寺西寺町(ちゅうどうじにしでらちょう)にある浄土宗の寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 私が來意を告げた僧は、墓地――頗る大きい――に私を案内し、墓を示してくれた。からりと晴れた秋の日は、一切のものに光を浴びせ、墓面に幽靈のやうな黃金色を加味してゐた。そこに立派な大きな文字を深く彫つて、『烈女』といふ佛敎の尊稱接頭語を加へて、少女の名がしるしてあつた――

 

    烈女畠山勇子墓

 

 墓は手入れがよく行う屆いて、草は最近きちんと刈つてあつた。碑前に建てられた小さな木造の庇が、供へられた花、樒[やぶちゃん注:「しきみ」。]の枝、及び一個の淸水を入れた茶椀を蔽うてゐた。私は勇壯で犧牲的な靈魂に向つて心から敬意を表し、慣例の文句を唱へた[やぶちゃん注:本寺は浄土宗であるから「南無阿弥陀仏」であろう。]。他の參詣者の中には、神道の式によつて拜禮をするのも見受けられた。その邊には澤山の墓石が輻輳[やぶちゃん注:「ふくそう」。車の「輻(や)が轂(こしき)に集まる」意で、対象物が一ヶ所に集まること。込み合うこと。]してゐたので、碑背を見るために、私は塚域を踏む無禮を冒さねばならないことを知つた。しかし私は彼女が宥恕[やぶちゃん注:「いうじよ(ゆうじょ)」。寛大な心で許すこと。見逃してやること。]してくれるだらうと確信したから、恭しく踏み乍ら、背後へ𢌞つて行つて、碑文を寫した。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げでしかも碑本文は字間が半角空けてあるが、行頭へ引き上げ、字間は再現していない。]

 

勇子安房長狹郡鴨川町人天性好義明治二十四年五月二十日

有憂國事來訴京都府廰自斷喉死年二十七

            谷   鐡 臣 誌

            府 下 有 志 建 石

 

戒名は『義勇院頓室妙敬大姉』と讀れた。

[やぶちゃん注:訓読を要しないと思うが、一応、示しておく。

勇子、安房長狹郡鴨川町の人。天性、義を好む。明治二十四年五月二十日、憂國の事、有り、京都府廰に來り訴へ、自(みづか)ら喉(のど)を斷ちて死す。年、二十七。

碑文を書いた谷鉄臣(たに てつおみ 文政五(一八二二)年~明治三八(一九〇五)年)は元武士で官吏。近江彦根の町医者の長男として生まれ、江戸・長崎で経学、蘭方医学を学び、家業を継いだ。文久三(一八六三)年、彦根藩士にとりたてられ、藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官を務めた。

 なお、ここに示された戒名は墓の裏の墓誌に書かれているように見えるが、ネット上で複数の写真を確認しても、碑の表裏にはこの戒名は見当たらない。不審。或いは、位牌が寺内にあり、それを記したものか。識者の御教授を乞うものである。後で小泉八雲が彼女の葬儀が『神官によつて營まれた』以下の事実と関係があるものかも知れない。また、畠山勇子辞世の歌とされるものを見つけたので、以下に電子化しておく。

 

 今日來る

   ちなみも深き

      知恩寺の

  景色のよさに

     憂ひも忘るる

 

サイト「京都観光文化を考える会・都草」のこちらの画像にあるものをもとに、一部に手を加えて示した。]

 

 寺で僧は私に悲劇の遺物と紀念品を見せてくれた。小さな日本の剃刀は血が皮となつて、嘗て白く柔らかな紙を厚く其柄にまきつけたのが、固まつて一個の堅い赤色の塊となつてゐるもの――安價な財布――血で硬くなつた帶と衣類(着物の外は、すべて寺へ寄進するに先だち、警察の命令により洗濯された)――手紙及び控へ帳――勇子及びその墓の寫眞(私はこれを買ひ求めた)――墓地に於て葬式が神官によつて營まれた折の集會の寫眞などであつた。此神葬祭の事實は私に興味を與へた。何故なら、自殺は佛敎によつては宥されても、神佛兩信仰が同一の見地から考へる事は出來なかつたであらうから。衣類は粗末で安價のものであつた。彼女は旅費と埋葬の費用に當てるため、最上の所持品を質に入れたのであつた。私は彼女の傳記、死の物語、最後の手紙數通、種々の人が彼女のことを詠んだ歌――頗る高位の人の作歌もあつた――及び拙い肖像畫を載せた小册子を買つた。勇子とその親戚達の寫眞には、何も目立つたことはなかつた。かかる型の人々は、日常日本のいづこに於ても見ることができる。その册子の興味は、ただ著者とその主題の人物に關する心理的方面のみであつた。勇子の手紙は、日本人のかの奇異なる興奮歌態を示してゐた。恐ろしい目的は一刻の油斷なく緊張しながらも、しかも心は最も些々たる事實問題にも、あらゆる注意を與へ得るやうになつてゐる。控へ帳もまた同樣の證據を示した――

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げであるが、行頭へ引き上げた。字空けも再現していない。]

 

   明治二十四年五月十八日

金五錢    日本橋より上野へ車代

 

   同    十九日

金五錢    淺草馬町へ車代

金一錢五厘  下谷の髮結さんへ磨ぎ代として

金十圓    馬場の質屋佐野よち受け取る

金二十錢   新町へ汽車代

金一圓二錢  橫濱より靜岡へ汽車代

 

   同    二十日

金二圓九錢  靜岡より橫濱へ汽車代

金六錢    手紙二通の切手代

金十四錢   淸水にて

金十二錢五厘 傘のため車屋へ

[やぶちゃん注:ここで彼女が自死に際して静岡の清水へ向かったのか、私には不明である(親族がそこにいたのであろうか)。識者の御教授を乞うものだが、……私はそこで――静岡――義憤――自死――で……ふと、思い出すことがあるのだ……私のミクシィの古い友人で、私にその未明に遺書をメールし、静岡空港建設に抗議して静岡県庁前で焼身自殺(二〇〇七年六日午前三時五十分頃)した静岡の――井上英作氏――のことである。こちらの私の記事(遺書も電子化してある)を見られたい…………

 

 しかしここに現はれた整然たる規律的才能に對して、珍らしい對照を呈するのは、暇乞ひの手紙の詩趣であつた。それは次のやうな感想を含んでゐた――

 

 『八十八夜も夢の如く過ぎて、氷は淸けき滴りと變はり、雪は雨となりぬ。やがて櫻の花咲きいでて人の心をよろこばす。されど未だ風さへ觸れぬほどに、早くも散り始めるこそ哀れなれ。しばらくして、風は落花を吹き上げて、晴れ渡りたる春の空に舞はしむ。しかも妾[やぶちゃん注:「わらは」。]を愛し玉ふ方々の心は晴れやらで、春の愉快をも感じ玉はざるならん。續いて梅雨の季節となれば、皆樣の御心の中には一つの樂みもなからん………[やぶちゃん注:九点リーダはママ。以下同じ。]あはれ如何にかせまし。一刻として皆樣を思ひ奉らぬ時はなし………されどすべて氷も雪も遂には、とけて水となり、菊の香ばしき蕾は霜の中に咲く。何卒後日このことを御考へ下されたし………今は妾に取つて霜の時、菊の蕾の時と申すべきならむ。いよいよ花を開きさへせば、いとも皆樣をよろこばし奉ることならん。浮世にながらへ得ざるは、すべての人の運命、詮方なし。吳々も[やぶちゃん注:「くれぐれも」。]妾を不孝者と思召し玉はざるやう願ひ奉る。また妾を陰府へ失ひ玉ひしものと御考へ下さることなく、ただ將來の幸福を待ち玉はんことを』

 

 この小册子の編者は、この典型的婦人に豐かなる讃辭を浴びせ乍らも、しかもあまりに東洋流の婦人批評法に墮してゐた。官廰へ宛てた勇子の手紙に於て、彼女は家族的要求を述べてゐる。して、れを編者は婦人の弱點として批評を加へ、彼女は實際肉體的利己心の絕滅を成就したもの〻、彼女の家族について述べるのは『甚だ愚か心であつたと書いてゐる。もつと他の點に於ても、その册子はつまらぬものであつた。その平凡なる事實の曝露といふ、生硬强烈なる光の下に照らしてみると、一八九四年に書いた私の『勇子』と題する小品文譯者註は[やぶちゃん注:既注の第二作品集「東の国から」(Out of the EastReveries And Studies In New Japan)の「勇子――一つの追想」(XI YUKO: A REMINISCENCE)のこと。刊行は明治二八(一八九五)年三月刊であるが、「書いた」のは前年であるからおかしくない。]、あまりにも空想的に思はれた。しかし、それにも關はらず其事實の眞の詩味――單に國民の忠愛の情を表明せんがために、若い婦人をして自ら生命を捨つるに至らしめた純なる理想――は、依然として減ずることはない。取るに足らざる些細な乾燥なる事實を取り上げて、その大事實にけちをつけることは決して出來ない。

 

譯者註 本全集第四卷「東の國から」の最後の一篇である。

[やぶちゃん注:「第四卷」は「第五卷」の誤り。私の電子化が待ちきれない方は、 Internet Archive”のこちらから画像でどうぞ(戸澤正保氏の訳になる「勇子――追憶談」)。]

 

 この犧牲の行爲は、私を感動せしめたよりも、更に多く國民の感情を激勵した。勇子の寫眞と彼女に關する小册子は幾千となく賣れた。幾多の人が彼女の墓に詣つて[やぶちゃん注:「まゐつて」。]、供物を獻げ、また末慶寺にある遺物を眺めて敬慕の情に打たれた。して、凡てこれは誠に尤もなことと私は思つた。もし平凡な事實が、西洋で人々が好んで『上品な感情』と稱するものに取つて、不快の感を催さしめるとすれば、その上品は不自然で、その感情は淺薄であることの證據である。其の美は内的生命に存することを認めてゐる日本人に取つては、平凡些細な俗柄は、貴重なものである。それらは勇壯義烈の感を更に强め、且つ眞實ならしめる功能がある。あの血に汚れた、貧弱な物品類――粗末で地味な着物と帶、安價な小財布、質屋へ行つたことの覺え書き、手紙や寫眞や緻密な警察記錄に現はれたる赤裸々の尋常一樣な人間味の面影――すべてこれらは、恰もそれだけ眼に訴へる證據となつて、この事實を作つた感情に對する理解を充分完全ならしめる助けとなる。もし男子が日本一の美人であつて、彼女の家族は最も高い地位の人々であつたならば、彼女の犧牲の意義が身に浸みて感ぜられることは、遙かに少かつたであらう。實際の場合に於て、高尙なことを行ふものは、槪して普通の人であつて、非凡の人ではない。して、一般人民はこの尋常な事實のお蔭で、自分達の仲間の一人に於ける勇壯な特質を最もよく見ることを得て、自分達の光榮を感じてくる。西洋の多數の人は、普通人民から彼等の倫理學を今一度改めて習はねばならないだらう。西洋の敎養ある階級は、あまりに長く似て非なる理想主義、單なる因襲的肩書の雰同氣のうちに生活してきたので、純眞正直な溫かい感情は、彼等の眼には卑劣俗惡に映ずるのである。して、その當然避け難き罰として、彼等は見ること、聞くこと、感ずること、考へることができなくなつてくる。哀れなる勇子が、彼女の鏡の裏に書いた小さな歌詞の中には、西洋の月並的理想主義の大部分に於けるよりも、一層多くの眞理が含まれてゐる――

[やぶちゃん注:以下の短歌は底本では四字下げ。]

 

くもりなくこころの鏡みがきてぞよしあしともにあきらかにみむ

 

小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「六」

 

[やぶちゃん注:本篇については『小泉八雲 京都紀行 (落合貞三郎訳) / その「一」・「二」』を参照されたい。]

 

       

 翌朝私が大行列を見るため外出すると、街上は群集充滿、誰れも動けないやうに見えた。けれど尼、すべての人々が動いてゐた。或は寧ろ𢌞流してゐた。丁度魚が群れをなしてゐるやうに、一般的にいつか知らぬ間にじりじりと滑るやうに進んでゐた。一見すると、人の頭と肩が堅固に押し合つえゐるやうな雜沓の中を通つて、私は苦もなく、約半哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは千六百九・三四メートルであるから、約八百五メートル。]ほどの距離にある親切な商人の家へ達した。どうしてこんなに人がぎつしり集つて、しかもそれがこのやうに安易に進み得るかといふ疑問は、日本人の性格のみが解釋を與へうるのである。私は一度も亂暴に推しのけられなかつた。しかし日本の群集は必らずしもすべて一樣ではない。その中を通過しようとすると、不快な結果を蒙るやうな場合もある。無論群集の靡くやうな流動性は、その性質の溫和に比例する。しかし日本に於けるその溫和の背景は、地方に隨つて大いに差異がある。中央部及び東國地方では、群集の親切さはその新文明に對する未經驗に比例するやうに見える。この多分百萬人にも及ぶ莫大の群集は、驚くほど優しく、また上機嫌であつた、その譯は、大部分の人々は、質樸な田舍者であつたからである。巡査がいよいよ行列のために通路を開くやうにしたとき、群集は我が儘勝手をいひ張らないで直に最も從順に列を作つた――小さな子供は前面に並び、大人は後方に控へて。

 九時といふ豫告であつたが、行列は殆ど十一時までも現はれなかつた。して、そのぎつしり詰まつた町の中で長く待つことは、辛抱づよい佛敎信者に取つてさへ窮屈であつたに相違ない。私は商人の家の表座敷で親切にも座布團を與へられた。しかし座布團は頗る柔らかで、待遇は慇懃を極めたものであつたけれども、私は遂にぢつとしてゐる姿勢に倦いてきたから外の群集の中へ出て行つて、初めは一方の足で立ち、それから他の片足で立つてゐて、待つ事の經驗に變化を與へた。けれども、かやうに私の場所を去るに先だち、幸にも私は商人の家に於ける客の中で、數名の頗る美しい京都の貴婦人を見ることができた。そのうちには一人の公爵夫人[やぶちゃん注:原文は“a princess”。「とある未婚の皇女」、昔風に言えば「ある宮家のお姫さま」か。但し、英語のプリンセスは「英国以外の公爵夫人」の意もある。但し、「公爵」のその「夫人」となると、皇族に限定されず、元公家及び勲功を認められた旧武家などを中心とした広汎な人物のその夫人となる。因みに、平井呈一氏も恒文社版「京都旅行」(一九七五年刊「仏の畑の落穂 他」所収)では『さる宮家の姫君』と訳しておられる。これが誰なのか判らぬので、二様の訳を示しておく。]もあつた。京都はその婦人の美で有名である。して、私がこれまで見たうちで最も美しい日本婦人がそこにゐた――それは公爵夫人ではなく、商人の長男の内氣な若い花嫁であつた。美はただ皮相にとどまるといふ諺は、『皮相の見解に過ぎない』といふことは、ハーバート・スペンサーが生理學の法則によつて充分に證明してゐる。して、同一の法則は、舉止品位の優美は容色の美よりも更に一層深長なる意義を有することを示してゐる。花嫁の美は、まさしくかの體骼全部に亙つて力の最も有效に現はれてゐる種類の、世にも稀なる優美な形姿であつた――初めて見たとき人をびつくりさせ、更に見るたび每にますます驚嘆止まざらしむる優美であつた。日本の綺麗な女が、固有の美麗なる衣服でなく、他國の服裝をした場合にも、同樣綺麗に見えるのは頗る稀である。私共が普通日本婦人に於て優美と稱するものは、希臘人が優美と呼んだと思はれるものよりは、寧ろ形狀と姿勢の上品さである。この場合に於ては、その長い、輕い、細い、恰好のよい、申し分のないやうに緊まつた姿は、いかなる服裝をも品よく見せるであらう。そこには風の吹くときに若竹が示すやうな、たをやかな優美さが偲ばれた。

[やぶちゃん注:「ハーバート・スペンサー」小泉八雲が心酔するイギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (一五)』の私の注を参照されたい。私がこのブログ・カテゴリ「小泉八雲」で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。原題は“Japan: An Attempt at Interpretation”(「日本――一つの試論」)。英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月二十六日(満五十四歳)の同九月にニュー・ヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から刊行された)もスペンサーの思想哲学の強い影響を受けたものである。「皮相の見解に過ぎない」という引用は、一八九一年刊の「科学的・政治的・思索的エッセイ集』(Essays: Scientific, Political, and Speculative)の第二巻十四章「個人的美」(Vol. 2, Ch. XIV, Personal Beauty)にある以下である。

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The saying that beauty is but skin deep is but a skin-deep saying.

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このパラドキシャルな明言は実に素敵だ。]

 

 行列のことを詳しく述べるのは、無暗に讀者を倦怠せしめるに過ぎないから、私はただ二三の槪說を試みるだけにしよう。行列の趣旨は、第八世紀に於ける京都の奠都の時から明治の今日に至るまで、京都の歷史上、諸時代に行はれたさまざまの文武の服裝を示し、また該歷史の中に活躍した主もなる武將の人物を現はすといふことであつた。少くとも二千名の人が大名、公卿、旗本、武士、家來、雲助[やぶちゃん注:原文は“carriers”であるから判らぬではないが、せめても「中間」(ちゅうげん)の方がいいように思う。]、樂師、白拍子に扮して、行列をなして進んで行つた。白拍子の役は藝者が勤めた。その中には大きな華でな[やぶちゃん注:「はでな」。]翼ある蝶々のやうな服裝をしたのもあつた。甲冑武器、古い頭飾りや衣裳は、實際過去の遺物であつて、舊家や職業的骨董家や私人の蒐集家からこの催のため出品されたのであつた。優秀れた武將――織田信長、加藤淸正、家康、秀吉――は、傳說に基づいて表現されてゐた。實際に猿のやうな顏の人が、有名な秀吉の役を演じてゐるのを見受けた。

 これらの過去の時代の光景が、人々の側を通つて行くとき、彼等はぢつと沈默を守つてゐた――西洋の讀者に取つては、不思議に思はれるかも知れないが、實はこの無言靜肅といふ事實は、非常な愉快を示してゐるのだ。實際、騷々しい表現によつて賞讃を示すとふこと一一例へば拍手喝采の如き――は、國民的情操と一致してゐない。軍隊の歡呼さへも、輸入されたものである。して、東京に於ける示威運動じみた喧囂[やぶちゃん注:「けんがう(けんごう)」。喧(やかま)しく騒がしいさま。]も、多分近頃から始つたもので、且つまた不自然の性質を帶びてゐる。私は千八百九十五年[やぶちゃん注:明治二十八年。本篇時制と同年。]に、その年のうちに神戶で二囘までも人を感動させるやうな、鎭まりかへつた光景を記憶してゐる。第一囘は行幸の場合であつた[やぶちゃん注:当時の神戸には御用邸があった。明治一九(一八八六)年に宇治川河口弁天町西側の海岸沿いにあり、三千九百七十坪の広大な敷地を擁した。明治四〇(一九〇七)年、東京倉庫が買い取っている。明治天皇の神戸への行幸は全二十四回で、この御用邸への行幸は九回という。思うにこれは、この「平安遷都千百年紀念祭」は開催が遅れたことは既に述べたが、同年五月二十三日に明治天皇が二条城本丸に行幸していることが確認出来たので、或いはこの時に神戸御用邸に立ち寄ったものかも知れない。]。非常な群集で、前方の數列は車駕通過の折跪坐したが、一つの囁き聲さへも聞こえなかつた。第二囘の目ざましい鎭靜は、出征軍が支那から凱旋の折であつた。その軍隊が歡迎のために建てられたる凱旋門の下を進行するに當つて、人民は一言の聲をも發しなかつた。私がその譯をきくと、『我々日本人は無言の方が一層よく政情を表はしうると考へる』といふ返事を受けた[やぶちゃん注:銭本健二氏が担当された小泉八雲の年譜(一九八八年恒文社刊「ラフカディオ・ハーン著作集 第十五巻」所収)によれば、日清戦争が終わり、日清講和条約が調印(四月十七日)され、同年『五月五日(日)、凱旋する兵士』の『出迎えの行列』『をセツ、一雄とともに『加わ』って見たことが記されてあり、また、凡そその一ヶ月後の六月九日(日)の条にも『帰還する兵士が神戸駅から「楠公さん」まで行進するのを、万右衛門と見に行く』(セツの養祖父稲垣万右衛門)とある。]。私はまたここに述べてもよいと思ふが、最近の日淸戰爭中、日本軍の戰鬪前に於ける氣味わるい靜肅は、いよいよ砲門を開くのよりも一層多く喧騷な支那人を恐怖せしめたのであつた。例外はあるけれども、一般的事實として次の如く述べ得ると思ふ。日本では感情がその苦樂いづれを問はず、深ければ深いほど、また場合が莊嚴或は悲壯であればあるほど、感じたり、行動したりする人々は、自然と呼ますます多く無言になつてくる。

 或る外國の見物人はこの時代行列を評して活氣がないといつた。して、燒きつけるやうな日光の下で着馴れぬ甲胃の重さのため壓迫された勇將の勇ましくない態度や、部下の隱しきれぬ疲勞についで、兎角の批判を加へた。しかし日本人に取つては、すべてかやうな點は阻つて一層その行列を現實化したのであつた。して、私は全くそれに同意であつた。事實、軍國史上の英雄豪傑は、ただ特異の場合に於てのみ