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2017/10/22

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 私は憐れむ


Watasihaaware

   私は憐れむ

 

 私は憐れむ、自らを、他人を、あらゆる人を、鳥を、獸を、生きとし生けるものを。

 私は憐れむ、子供を、老人を、不幸な者を、幸福者を。不幸な者にもまして幸福者を。

 私は憐れむ、戰勝に誇る隊長を、偉大なる畫家を、詩人を、思想家を。

 私は憐れむ、殺人者を、その犧牲を、醜きを、美しきを、壓制者を、虐げられし者を。

 どうしたら、この哀憐を去れよう。そのため、生きる心地もない。……哀憐の上に、倦怠までが襲ひかかる。

 倦怠よ、哀憐に融け入る倦怠よ。地獄の極み。

 せめては羨む心があつたら、いや、それもある。――石を、石を羨む。

             一八七八年二月


*   *   *

今日は早朝から義叔父の葬儀である。ここでフライングして、これのみとする。これは昨夜、予約公開したものである。

2017/10/21

佐藤春夫「女誡扇綺譚」校正終了

十回分割公開したブログ版の佐藤春夫「女誡扇綺譚」を校正し、かなりの量のミス・タイプを全回に亙って訂正した。  

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) めぐりあひ

 

 

     散文詩拾遺

 

Kiguu

   めぐりあひ

 

 私はこんな夢を見た。暗い空が低く垂れさがつてゐる。私は、大きた角だつた石ころが一面に散らぱつてゐる、ひろびろとした荒野を辿つてゆく。

 小徑は石のあひだを紆つてゐる。何をしに、何處へとも知らず、私はその道をたどつてゆく。

 ふと私の眼の前の、その細い道のうへに、何かしらうつすらと小さな雲のやうなものがあらはれた。……見つめてゐるうちに、その雲はやがて、身の丈のすらりと高い女になつた。まつ白なきものに淡色の帶を締めてゐる。……その女は急ぎ足で、私から遠ざかつてゆく。薄い紗に蔽はれてゐるのでその顏は見えない。髮の毛さへも見えないけれど。私の心は、ひたすらにその女のあとを追ひ慕つた。私にはその女が、美しい懷しい愛らしい人のやうに思はれた。……

 どうしても追附いて、ひと目なりとその顏をうち眺め、その眸(め)に見入りたいと思つた。ひと目でもその眼が見たかつた。いや、見なければならないと思つた。

 ところか、私が急げば急ぐほど、女の方もますます足を早めるので、どうしても追附けないのである。

 するとそのとき、小徑に筋かひに、平たい大きな石があらはれた。女は行手をふさがれて、石の手前で立止つた。私は喜びと期侍とに身をふるはせ、内心は怖れを感じながら、急ぎ足で馳せ寄つた。

 私が何も言ひ掛けないのに、女は靜かに振返つた。……けれど矢張(やつぱ)り、女の眸(ひとみ)は見られなかつた。

 眼は閉ぢてゐた。

 その顏はすきとほるやうに白かつた。着ている白衣のやうに白かつた。露はな兩腕は、脇に垂れさがつたまま動かない。

 さながら女は石に化したやう。そのからだも顏立ちも、悉く大珊石の像を思はせた。

 女は手も足も曲げないで、ゆつくりと身をうしろに倒れると、その平らな板石のうへに沈むやうに身を橫へた。ふと氣がつくと私も何時の間にか、間じ石の上に、女と並んで橫はつてゐる。幕石の面に刻まれた彫像もさながら仰向きに身を伸ばし、兩手は祈りの形に胸の上に組んで、さて私もやはり石に化してゆくやうな氣がした。

 幾瞬かがながれた。ふと女は起き上つて、再び遠のいて行つた。

 私はそのあとを追はうとした。しかし私は身動きも、組みあはせた兩手を解きほぐすこともできず、なんとも言ひやうのない悲しみを抱いて、空しくその後姿を見送るばかりだつた。

 すると、女はふとこちらを振返つた。そのときはもう、生き生きと表情に富んだ顏も、冴え冴えときらめく瞳もはつきりと見えた。女はじつに私に眼を注いで、音も無い笑ひに口もとを綻ばせた。――「起きあがつて、こちらへお出でなさい。」 女はさう言つた。

 私はやはり身じろぎもできない。

 すると女は再び笑みを浮べて、みるみるうちに遠ざかつて行つた。そのとき不意に色の燃え出でた薔薇の冠を、たのしげに頭のうへに揺りながら。

 私は身動きもならず口も利けずに、墓石のうへに取り殘された。

             一八七八年二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

『めぐりあひ』 この詩ははじめ『女』と題された。なほ手稿には「小説」に用いると傍記されてゐる。これに依つて見ると、トゥルゲーネフは『散文詩』のうち少くも或るものは、小説のための素材として書きとめて置いたものと見られる。

   *

「紆つて」「めぐつて」。]

2017/10/20

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ロシヤ語


Russia

   ロシヤ語

 

 懷疑の朝、母國の運命をさまざまに疑ひ惱む夕、おんみだけはわたしの杖であり柱でつた。おお、大いなるロシヤ語。力づよく、眞實の、不羈のロシヤ語よ。もしおんみがなかつたなら、いま母國に跳梁するものの姿を眺めて、どうして絶望せずにをられようか。しかしこのやうな國語が、偉大ならぬ國民に與へられてゐようなどとは、とても信じるかけには行かない。

             一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。なお、この「ロシヤ語」を以って「散文詩」(初版「セニリア」本文)パートは終わり、以下、「散文詩拾遺」パートとなる。また、本詩篇には新改訳がある。

「不羈」(ふき)は「不羇」とも書き、「羈」も「羇」も「繋(つな)ぐ」の意で、 物事に束縛されず、行動が自由気ままであることを言う。

「一八八二年六月」この前年、ロシアではアレクサンドルⅢ世が即位、反動政策を行って革命運動への弾圧が激しくなっていた。ツルゲーネフはこの凡そ十五ヶ月後の、翌一八八三年九月三日に脊髄ガンのためにパリで客死した。サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」によれば、『彼の遺骸がロシアに送り出されるとき、パリ北駅では盛大な儀式が催され、ペテルブルグの葬式は国葬として行われた』とある。二月革命によってニコライⅡ世がソヴィエトにより退位しロシア帝国が終焉を迎えたのは、彼の死から三十三年後の一九一七年のことであった。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 祈り


Inori

   祈り

 

 人間の祈りは、所詮奇蹟を祈る心だ。どんな祈りも、一句に歸する。「神よ、二二が四なること勿らしめ給へ。」

 この樣な祈りだけこそ、人間が人間にする本當の祈りなのだ。萬有の精神に祈り、至上者に祈り、カントの、ヘーゲルの、純粹にして形なき神に祈ることは、できもせず考へられもしない。

 だが現身の、生ける、形ある神にせよ、果して二二が四なること勿らしめ得るだらうか。

 いやしくも信者ならば、できると答へる外はなからう。しかも、自らさう信じるの外はなからう。

 だが若し彼の理性が、こんな譫言に叛旗を飜したとしら?

 そこで、シェークスピヤが助けに來る、――「この世には色んなことがあるものだ、なあホレーショ」云々。

 もしもまた、眞理の名に於いて抗議が出たら、例の有名な質問を繰反すがよい、――「眞理とはなんぞや。」

 されば飮み且つ歌ひ、さて祈らうではないか。

             一八八一年六月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

「この世には」云々 これは『ハムレット』 の中にある有名な文句。 There are more things in heaven and earth, Horatio……Hamlet, ,  Act I, Sc. V, 166

   *

中山版の本挿絵は左が擦れてしまっているので、今回、新たに一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版の綺麗なものを読み込んで示した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) なほも鬪ふ


Warehanaho

   なほも鬪ふ

 

 時としてなんといふくだらぬ瑣末事が、人間一匹をがらりと變へてしまふことだらう。

 ある日わたしは、疑惑に胸を一ぱいにして、大きな道を步いてゐた。

 重くるしい豫感に胸は緊めつけられて、心は愈々沈むばかりだつた。

  わたしは頭をあげた。脊の高いポプラ並木のあひだを、道はどこまでも眞直ぐに走つてゐる。

 その道を越して十步ほど向ふに、雀の一家族が縱列をつくつて、金色にかがやく夏の日を浴びながら、ぴよんぴよん跳ねてゐる。元氣よく、樂しげに、自信に滿ちて。

 なかでも一羽だけ、人を人とも思はぬ不敵な聲で囀りながら、しきりに嗉囊(ゑぶくろ)をふくらませ、すんずん列を離れてゆく。その樣子は、あつぱれち英雄兒だ。

 一方、空高く、一羽の大鷹が舞つてゐる。宿命の手に導かれて、彼が引つさらはうと狙つてゐるのは、この英唯兒なのかも知れない。

 なれを目たとき、明るい笑がこみ上げて來た。私は身を搖すつて笑つた。忽ち、暗い思念はかけり去つて、勇猛心や、生の意欲が、ひしひしと胸にわきあがつた。

 わたしの頭上にも、わたしの大鷹が來て舞はば舞へ。

 われら、なほも鬪ふ。なんのその。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「嗉囊」の「嗉」は印刷が不全で(へん)の部分にほぼ「日」の字が、(つくり)は殆んどが消えてしまって判読不能であるものの、「素」の左上部の感じが私には、した。「日」偏の「餌」に相当する字は見出せない。されば、取り敢えずこの字を当てておいた。言わずもがなであるが、「嗉囊(そのう)」は 鳥類・軟体動物・昆虫類・貧毛類の消化管の一部で、食道に続く薄壁の膨らんだ部分を指し、食べ物を一時的に蓄えておく器官を指すから、意味としては腑に落ちるからである。別字が想定出来る方は、御教授戴けると助かる。因みに、中山省三郎譯「散文詩」では、ここは単に『胸』であり、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版では『餌ぶくろ』である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 僧


Kousou

   

 

 わたしは一人の僧を知ってゐた。行ひ澄ました隱棲の人で、祈禱をただ一つの慰めに日を送ってゐた。あまり祈禱に凝りすぎて、禮拜堂の冷い床に立ち暮らしたため、膝から下は棒材のやうに固く腫れあがつてゐた。この痺れた足で佇みながら、やはり祈禱を上げてゐた。

 彼の気持は、私にはよく分つた。のみならず、羨んでさへゐたかも知れない。だが彼の方でも、私の氣持を理解するのがよいのだ。彼のやうな法悦境には所詮緣のない私だけれど、非難などはせぬがよいのだ。

 彼は首尾よく、自己を滅ぼすことができた。つまりかの仇敵『自我』を滅却し得た。しかし、私が祈禱を上げないのも、利己のためでは毛頭ない。

 私の自我に於ける、彼の自我の彼に於けるよりも、恐らく一層厭はしく執念深いものであらう。

 彼は忘我の方法を發見した。だが私だつて、曲りなりにその方法は持つてゐる。彼のやうに不斷のものとは行かないけれど。

 彼は噓を吐かぬ。私だつて噓は吐かぬ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

2017/10/19

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) とどまれ


Todomare

   とどまれ

 

 とどまれ。いま私の見る姿のままで、いつまでも私の記憶にとどまれ。

 いま御身の唇から、靈感に燃える終節(フイナーレ)のひと聲が羽ばたいて去つた。御身の眼は、もはやきらきらと輝かない。幸福に壓し伏せられた者のやうに、その光は失せる。一つの美をみごとに表出(あらは)し了せたといふ自覺の喜びに壓し伏せられて、その光は消える。羽ばたき去る美のあとを追つて御身は、勝ち誇ろ力も失せた兩手を、空しくさし伸べるかのやうだ。

 はつ秋の午後の日ざしよりも淸らに濃やかな光が、御身の手足に沿うて、薄絹のどんな細かな襞々にも流れたことぞ。

 どんな神の居て、情の籠るその息吹きに、御身の振りみだした捲毛の髮を、やさしく後(うしろ)へ靡かせたのだ。

 その神の接吻(くちづけ)の痕は大理石(なめいし)のやうに蒼ざめた御身の額に、まだ燃えてゐる。それこそは、發かれた神秘の痕だ。詩の、生の、戀の神秘の。……ああ終に、それこそは不滅のものの姿だ。これを措いては、不滅はない。またある要もない。いま、この瞬間、御身は不滅だ。

 この瞬間は過ぎる。そして御身は再び一握の友に、女性に、子供になる。……だが、それが御身にとつてなんだらう。今この瞬間、御身は現身(うつそみ)を超える。流轉のものの外に立つ。この御身の瞬間は、決して盡きるときがあるまい。

 とどまれ。そして私をも、御身の不滅にあやからしめよ、私の魂に、御身の『永遠』の餘映を落さしめよ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。訳者註。

   *

『とどまれ』 これはトゥルゲーネフ反省のよき友、助言者、また純粹な意味での戀人であつたヴイアルドオ夫人(Pauline Viardot, 1821―1910)に捧げられた頌歌と解される。

   *

 本篇は新改訳れ!」)がある。なお、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛞蝓(なめくじ)


Namekuji

なめくち    蜒蚰螺。附蝸

        鼻涕蟲。陵蠡

        托胎蟲。土蝸

蛞蝓

        【和名奈女久如

クワウ イユイ  俗云奈女久知里】

 

本綱蛞蝓生太山池澤及陰地沙石垣下宗奭曰蛞蝓蝸

牛二物也蝸牛之老者而以爲一物甚謬也蛞蝓二角身

肉止一段蝸牛四角背上別有肉以負殼行其二物共主

治功用相似而皆制蜈蚣蠍故生擣塗蜈蚣傷立時痛止

△按本草集解蛞蝓蝸牛之辨異論多唯以宗奭之註爲

 的此物無殼有蜒蚰螺之名故大惑矣【蚰蜒卽蚨虶名倒之爲蜒蚰乎名義未詳】

 蛞蝓 色灰黃白洗浄則純白頭有小肉角眼纖背有

 細黑點而無足兩脇有肉裙相連行有涎大抵二三

 寸肌滑而濃蝸牛之肌滑而麁二物相似而各別也蛞

 蝓初生圓而一靣數十欑生如鮫粒然一一離形稍長

 蝸牛初生大一二分許螺也

 又有蛞蝓夏月緣于屋上變螻蛄者人往往見之然悉

 不然矣深山中有大蛞蝓長近尺者

造贋象牙法 以鹿角屑與蛞蝓煑熟擴於板上乾之薄

 爲板片任意切成爲噐飾

生蛞蝓法 用鼠尾草浸醴注于陰地不月生小蛞蝓亦

 奇術也蓋未知其始試之者

 

 

なめくぢ    蜒蚰螺〔(えんいうら)〕

        附蝸〔(ふくわ)〕

        鼻涕蟲

        陵蠡〔(りやうれい)〕

        托胎蟲〔(たくはいちゆう)〕

        土蝸〔(どくわ)〕

蛞蝓

        【和名、「奈女久如」。

         俗に「奈女久知里〔(なめくじり)〕」と云ふ。】

クワウ イユイ

 

「本綱」、蛞蝓、太山・池澤及び陰地の沙・石垣の下に生ず。宗奭〔(さうせき)〕が曰く、『蛞蝓と蝸牛とは、二物なり。蝸牛の老する者を以つて一物と爲るは、甚だ謬〔(あやま)〕りなり。蛞蝓は二の角〔(つの)〕にして身の肉、止(たゞ)一段なり。蝸牛は四の角にして、背の上に、別に肉有りて、以つて殼(から)を負ひて行く。』〔と〕。其の二物、共〔に〕主治功用、相ひ似て、皆、蜈蚣〔(むかで)〕・蠍(さそり)を制す。故に、生〔(なま)〕にて擣〔(つ)〕きて、蜈蚣の傷に塗る。立-時(たちどころ)に、痛み、止む。

△按ずるに、「本草」の「集解」、蛞蝓・蝸牛(かたつぶり)の辨、異論、多し。唯だ、以つて宗奭の註、的と爲す。此の物、殼〔(から)〕無くして、「蜒蚰螺」の名、有り。故に大いに惑ふ【「蚰蜒」は卽ち、蚨虶〔(げじ)〕の名。之れを倒〔(たふ)して〕、「蜒蚰」と爲せしか。名義、未だ詳らかならず。】。

蛞蝓は、色、灰黃白、洗浄すれば、則ち、純白なり。頭に小さき肉の角、有り、眼、纖(ほそ)く、背に細かなる黑點有りて、足、無く、兩脇に肉の裙(すそ)有りて相ひ連なり、(は)ひ行(あり)き、涎〔(よだれ)〕有り。大抵、二、三寸。肌、滑かにして濃〔(こまやか)〕なり。蝸牛の肌、滑かにして麁(あら)し。二物、相ひ似て、各々、別なり。蛞蝓、初生、圓〔(まどか)〕にして、一靣〔(いちめん)〕、數十、欑〔(むらが)りて〕生〔ず〕。鮫粒のごとく然〔(しか)〕り。一一(いちいち)、離〔れ〕、形、稍〔(やや)〕長〔(ちやう)〕ず。蝸牛の初生は、大いさ、一、二分〔(ぶん)〕許りの螺(バイ)なり。

又、蛞蝓に、夏月、屋上に緣(はひのぼ)り、螻蛄(けら)に變ずる者、有り。人、往往〔にして〕之れを見る。然れども、悉く〔は〕然からざるなり。深山の中に大なる蛞蝓、長さ尺に近き者、有り。

贋(にせ)象牙を造る法 鹿角の屑(すりくづ)を以つて蛞蝓と煑熟〔(にじゆく)〕し、板の上に擴げ、之れを乾かし、薄く板片と爲し、任意に切り成し、噐〔(うつは)〕の飾りと爲す。

蛞蝓を生ずる法 鼠-尾(みそはぎ)草を用ひて、醴〔(あまざけ)〕に浸し、陰地に注(そゝ)ぐ。月あらずして小蛞蝓を生ず。亦、奇術なり。蓋し、其れ、始めて之れを試みる者、未だ知らず。

 

[やぶちゃん注:軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda 有肺目 Pulmonata に属するもの内(但し、現行の知見では系統学的には異鰓類の一群と考えられており、異鰓上目 Heterobranchia の中の一目に格下げする分類体系も提唱されている)、殻が退化している種群の総称。科としては、

収眼類の、

アシヒダナメクジ科 Vroniceliidae(本科の上位タクソンは収眼目 Systellommatophora ともする)

ホソアシヒダナメクジ科 Rathouisiidae(同じく収眼目とも)

柄眼類の、

サカムリナメクジ科 Testacellidae(本科の上位タクソンは柄眼目 Stylommatophora Oleacinoidea上科 Oleacinoidea ともする)

ニワコウラナメクジ科 Milacidae

オオコウラナメクジ科 Arionidae

ナメクジ科Philomycidae

などに分かれる。また、一般的に見かけることが多く、和名としてそれを持つ種はナメクジ科ナメクジ属ナメクジ Meghimatium bilineatumである。本種は薄紫色を呈し、体側に一対の黒い縦筋有し、背面中央にはやや不明瞭な黒い縦筋を一本持つ。湿気のある場所でしか棲息できないことから、日中は木の洞や樹皮の裏などに潜んでおり、主に雨上がりの夜などに活動をする。本文でも薬効が語られているが、実際、現在も漢方ではコウラナメクジ科 Limax 属のコウラナメクジ類(原産は主にヨーロッパとされる。本コウラナメクジ科は背面に薄い皿状の殻片を残存させている。本邦には棲息していなかったが、二〇〇六年に侵入が確認されている)が止咳・解毒・消腫・通経絡作用があるとされ、喘息・咽頭炎・腫れ物・顔面神経麻痺・痙攣などで使用される。一般には火で炙って乾燥させて粉末にしたものを服用するが、本邦の民間療法では喘息や咳嗽、声を良くするなどと称して生のナメクジをそのまま食べるという方法もあった。これは頗る危険で、カタツムリの項で注した通り、寄生虫の日和見感染により、脳疾患などを引き起こす可能性が深く疑われているから、絶対にやってはならない。脅しだと思ってる輩がいると困るので、一つ挙げておくと、重症例では、脱皮動物上門線形動物門双線綱円虫目擬円形線虫上科 Metastrongyloidea に属するジュウケツセンチュウ(住血線虫)属カントンジュウケツセンチュウ(広東住血線虫)Angiostrongylussyn. Parastrongyluscantonensis に感染することによって生ずる広東住血線虫症で重症例では死亡例もある(「国立感染症研究所」公式サイトの「広東住血線虫症とは」を参照されたい)。「耳囊 卷之六 魚の眼といえる腫物を取(とる)(まじない)の事」の私の注も参照されたい。はっきり言って、これらの寄生虫の中には手で触れても侵入してくるリスクがゼロとは言えない種もいるのが事実である。だから、今では悲しいことだが、カタツムリを保育園や幼稚園では触らせないのである。

 

「奈女久如」東洋文庫版では「如」をママとし、横に『知』と訂正注する。確かに「和名類聚抄」「本草和名」でも「知」であるし、「如」と「知」は書き誤り易いから、これは良安の誤記とすべきではある。

「太山」」東洋文庫版訳では『大山』となっているが、「本草綱目」そのものに「太山」とある。意味は奥深い「大」きな山の一般名詞でよくはある。

「陰地」東洋文庫版訳では『陰湿地』となっている彼らの属性上、陰地の湿気の高い場所でなくては棲息出来ないから正しい訳と言える。

「宗奭〔(さうせき)〕」寇宗奭(こうそうせき)。宋代の本草(薬物)学者。「本草衍義」を撰した。

「本草」「本草綱目」。良安が同書の記載の錯雑(実際、他の項でも錯雑しているのに)をかなりきつい口調で批判するのは珍しいことである。

『「蜒蚰螺」の名、有り。故に大いに惑ふ』良安先生に激しく同感。

「蚨虶〔(げじげじ)〕」音は「フウ」。先行する節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha のゲジ(通称「ゲジゲジ」)類のこと。

「倒〔(たふ)して〕」上下の文字を逆転させて。こういう安易な方法で別種を示していたとすれば、中国本草学のそうした部分のいい加減さは致命的に危い。

「麁(あら)し」「粗し」。

「蛞蝓、初生、圓〔(まどか)〕にして、一靣〔(いちめん)〕、數十、欑〔(むらが)りて〕生〔ず〕。鮫粒のごとく然〔(しか)〕り」「鮫粒」は「鮫の肌の粒」の意であろう。ここは、良安先生、素晴らしい! これはナメクジの発生を実地に観察したのでなければ、書けない代物であり、その描写は頗る正確である。

「螺(バイ)なり」ここは殻を持っているというのではなく、螺(にな:巻貝)の軟体部と相同であることを示していると読んでおく。

「蛞蝓に、夏月、屋上に緣(はひのぼ)り、螻蛄(けら)に變ずる者、有り」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類であるが、ここは一応、良安の記載であるから、本邦産のそれ、グリルロタルパ(ケラ)属ケラ Gryllotalpa orientalis である。折角、前の注で褒めましたのに! 良安先生、それは酷いです!

「人、往往〔にして〕之れを見る」見ません!

「悉く〔は〕然からざるなり」「総ての蛞蝓が螻蛄になるわけではない」って、ナメクジはケラにはなりませんて!!

「贋(にせ)象牙を造る法」面白い記載であるが、こうした事実を確認出来ない。識者の御教授を乞う。

「鼠-尾(みそはぎ)草」フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ミソハギ属ミソハギ Lythrum anceps

「醴〔(あまざけ)〕」甘酒。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その3)/女誡扇綺譚~了

 

 幾目目かで社へ出てみると、同僚の一人が警察から採つて來た種(たね)のなかに、穀商黃(くわう)氏の下婢(かひ)十七になる女が主人の世話した内地人に嫁することを嫌つて、罌粟(けし)の多量に食つて死んだといふのがあつた。彼女は幼くして孤兒になり、この隣人に拾はれて養育されてゐたのだといふ。この記事を書く男は、臺灣人が内地人に嫁することを嫌つたといふところに焦點を置いて、それが不都合であるかの如き口吻(こうふん)の記事を作つてゐた。――あの廢屋の逢曳(あひびき)の女、――不思議な因緣によつて、私がその聲だけは二度も聞きながら、姿は終(つひ)に一瞥することも出來なかつたあの少女は、事實に於ては、自分の幻想の人物と大變違つたもののやうに私は今は感ずる。


 

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その2)



 まづ第一にその穀屋といふのは思つたより大問屋であつた。又、主人といふのは寧ろ私の訪問を觀迎した位(くらゐ)だ。この男は
臺灣人の相當な商人によくある奴で内地人とつきあふことが好きらしく、ことに今日(けふ)は娘がそんな靈感を持つてゐる噂が高まつて、新聞記者の來るのがうれしいと言ふのであつた。さうして店からずつと奥の方へ通してくれた。

「汝來仔請坐(ニイライアチンツオ)」

 と叫んだのは娘ではなく、そこに、籠の中ではなくて裸の留木(とまりぎ)にゐた鸚鵡(あうむ)である。

 娘は、しかし、我我の訪れを見てびつくりしたらしく、私の名刺を受取つた手がふるへ、顏は蒼白になつた。それをつつみ匿(かく)すのは空しい努力であつた。彼女は年は十八ぐらゐで、美しくない事はない。私はまづ彼女の態度を默つて見てゐた。

「あ、よくいらつしやいました」

 思ひがけなくも娘は日本語で、それも流麗な口調であつた。椅子にかけながら私は言つた――

「お孃さん。あなたは泉州語(ツヱンチヤオご)をごぞんじですか?」

「いいえ!」

 娘は不意に奇妙なことを問はれたのを疑ふやうに、私を見上げたが、その好もしい瞳のなかに噓はなかつた。私はポケツトから扇をとり出した。それを半ばひろげて卓子(テーブル)の上に置きながら私はまた言つた――

「この扇を御存じでせう」

「まあ」娘は手にとつてみて「美しい扇ですこと」物珍らしさうに扇の面(おもて)を見つめてゐた。

「あなたはその扇を御存じない筈はないのです」私は試みに少しおこつたやうに言つてみた。

「ケ、ケ、ケツ、ケ、ケ」

 鸚鵡が私の言葉に反抗して一度に冠(かんむり)を立てた。

 みんなが默つてゐるなかに、不意に激しく啜泣(すすりな)く聲がして、それは鸚鵡の背景をなす帳(とばり)の陰から聞えて來たのだ。淚をすすり上げる聲とともに言葉が聞えてきた――

「みんなおつしやつて下さいまし、お孃さま。もう構ひませんわ。その代りにその扇は私にいただかしてください」

「………………」

 誰(たれ)も何(なん)と答へていいかわからなかつた。世外民と私とは目を見合(みあは)した。

 姿の見えない女はむせび泣きながら更に言つた。「誰方(どなた)だか存じませんが、お孃さまは少しも知らない事なのです。わたしの苦しみ見兼ねて下さつただけなのです。ただあなたが拾つておいでになつたその扇――蓮の花の扇を私に下さい。その代りには何でもみんな申します」

「いいえ。それには及びません」私はその聲に向つて答へた。「私はもう何も聞きたくない。扇もお返ししますよ」

「私のでもありませんが」推測しがたい女は口ごもりながら「ただ私の思ひ出ではあります」

「さよなら」私たちは立ちあがつた。私は卓上(たくじやう)の扇を一度とり上げてから、置き直した。「この扇はあの奧にゐる人にあげて下さい。どういふ人かは知らないが、あなたからよく慰めておあげなさい。私は新聞などへは書きも何もしやしないのです」

「有難うございます。有難うございます」黃(くわうぢやう)の目には淚があふれ出た。

 

 *     *     *     *

    *     *     *

 

佐藤春夫 女誡扇綺譚 六 ヱピロオグ (その1)

 

 

         ヱピロオグ

 

 

 あの廢屋はさういふわけで私の感興を多少惹いた。何ごとにもさう興味を見出さなかつたその頃の私としては、ほんの當座だけにしろそんな氣持になつたのは珍しいのだが、それらすべての話をとほして、私は主として三個の人物を幻想した。市井の英雄兒ともいふべき沈(シン)の祖先、狂念によつて永遠に明日(みやうにち)を見出してゐる女、野性によつて習俗を超えた少女、――とでもいふ、ともかく、そんな人物が跳梁するのが私には愉快であつた。そいつを活動のシネリオにでもしてみる氣があつて、私は「死の花嫁」だとか「紅(くれなゐ)の蛾」などといふ題などを考へてみたりしたほどであつた。しかしさう思つてみるだけで、やらないと言ふかやれないと言ふか、ともかく實行力のないのが私なので、その私が前述の三人物の空想をしたのだからをかしい。意味がそこにあるかも知れない。さうして私自身はといふと、いかなる方法でも世の中を征服するどころか、世の力によつて刻刻に壓しつぶされ、見放されつつあつた。尤も私は何の力もないくせに精一杯の我儘をふるまつて、それで或程度だけのことなら押し通してもゐたのだ。それでは何によつて私がやつとそれだけでも強かつたか。自暴自棄。この哀れむべき強さが、他(た)のものと違ふところは、第一自分自身がそれによつて決して愉快ではないといふことにある。私は事實、刻刻を甚だ不愉快に送つてゐた。それといふのも私は當然、早く忘れてしまふべき或る女の面影を、私の眼底にいつまでも持つてゐすぎたからである。

 私は先づ第一に酒を飮むことをやめなければならない。何故かといふのに私は自分に快適だから酒を飮むのではない。自分に快適でないことをしてゐるのはよくない。無論、新聞社などはど酒よりもさきにやめたい程だ。で、すると結局は或は生きることが快適でなくなるかも知れない惧れがある。だが、若しさうならば生きることそのものをも、やめるのが寧ろ正しいかも知れない。……

 柄になく、と思ふかも知れないが、私は時折にそんなことをひどく考へ込む事があつた。その日もちやうどさうであつた。折から世外民が訪れた。

「君」世外民はいきなり非常な興奮を以て叫んだ。「君、知つてゐる?――禿頭港(クツタウカン)の首くくりはね……」

「え?」私はごく輕くではあるが死に就て考へてゐた折からだつたから少しへんな氣がした。

「首くくり? 何の首くくりだ?」

「知らないのか? 新聞にも出てゐるのに」

「私は新聞は讀まない。それに今日で四日(か)社(しや)を休んでゐる」

「禿頭港で首くくりがあつたのだよ。――あの我我がいつか見た家さ。――誰(たれ)も行かない家さ。あそこで若い男が縊死してゐたのだ。新聞には尤も十行ばかりしか出ない。僕は今、用があつて行つたさきでその噂を聞いて來たのだからよく知つてゐるが、あの黑檀の寢牀(ねどこ)を足場にしてやつたらしいのだ。美しい若い男ださうだよ、それがね、口元に微笑をふくんでゐたといふので、やつぱり例の聲でおびき寄せられたのだ、『花嫁もたうとう婿をとつた』と言つてゐるよ――皆(みんな)は。それがさ、やつぱりもう腐敗して少しくさいぐらゐになつてゐたのださうだ。僕は聞いてゐてゾクツとした。我我が聞いたあの聲やそれに紅(あか)い蛾なぞを思ひ出してね」

 私もふつと死の惡臭が鼻をかすめるやうな氣がした――あの黴くさい廣間の空氣を鼻に追想したのだらう。世外民はその家の怪異を又新らしく言ひ出して、私がそこで拾つた扇を氣味惡がり私にそれを捨ててしまふやうに説くのであつた。――この間はあんなに興味を持つて、自分でも欲しいやうなことを言つた癖に。尤も私がやらうと言つた時にはやはり、今と同じく不氣味がつて、結局いらないとは言つたが。私としてはまた世外民にやらうと思つた程だから、捨ててしまつても惜しいとも思はないが、私はその理由を認めなかつた。また、いざ捨てよと言はれると、勿體ないほど珍奇な細工にも思へた。私は世外民の迷信を笑つた。

「大通りの眞中(まんなか)で縊死人(いしにん)があつてそれが腐るまで氣がつかない、といふのなら不思議はあるだらうが、人の行かないところで自殺したり逢曳(あひびき)したりするのは、一向當り前ぢやないか。――ただあんな淋しいところが市街のなかにあるのは、何かとよくないね」

 私はその家の内部の記憶をはつきり目前に浮べてさう言つた。

 同時に私にはこの縊死の發見に就て一つの疑問が起つた。といふのは、あの部屋のなかで起つた事は誰(たれ)もそこに這入つて行かない以上は、一切發見される筈がない。あそこには開(ひら)いた窓が一つあるにはあつたが、そこには靑い天より外には何も見えない――つまり天以外からは覗けない。もし臭氣が四邊(あたり)にもれるにしては、あの家の周圍があまりに廣すぎる。さう考へてゐるうちに、私は大して興味のなかつたこの話が又面白くなつて來るのを感じながら言つた。

「出鱈目さね。いや、死人(しにん)はあつたらう。若い美しい男だなんて。もう美しいか醜いか年とつたか若いかも見分けがつくものか」

「いや、でも皆(みんな)さう言つてゐる」

「それぢや誰(だれ)がその死人を發見したのだ? あそこならどこからも見えず、誰も偶然行つてみるわけはないがな」ふと、私は場所が同じだといふことから考へて、この縊死人――年若く美しいと傳へられる者と、いつか私が空想し獨斷したあの逢曳とがどうも關係ありさうに思へて來た。そこで私は世外民に言つた。「いつでもいいが今度序(ついで)に、その死人を發見したのはどんな人だか聞いてきてもらひたいものだ。それがもし泉州(ツヱンチヤオ)生れの若い女だつたらもう何もかもわかるのだよ。――いつか我我が聞いたあの廢屋の聲の主(ぬし)も。それから今度の縊死人の原因も。――本當に若い男だつたといふのなら、それや失戀の結果だらう。――幽靈の聲にまどはされて死ぬより失戀で死ぬ方がよくある事實だものね。尤も二つとも自分から生んだ幻影だといふ點は同じだが」

 私は大して興味はなかつた。しかし世外民が大へん面白がつた。罪を人に着せるのではない。これは本當だ。事實、世外民は先づ興味をもちすぎた。さうしてそれが私に傳染したのだ。世外民は私の觀察に同感すると早速、その場を立つて發見者を調べるために出かけた程なのだ。近所行つて聞けばわかるだらうといふので。

 間もなく、世外民は歸つて來たが、その答(こたへ)を聞いて私は、臺灣人といふものの無邪氣なのに、今更ながら驚いたのである。彼等の噂するところによると、それは黃(くわう)といふ姓の穀物問屋の娘が――家は禿頭港(クツタウカン)から少し遠いところにあるさうだが――彼女が偶然に夢で見たといふその男がどうやら死んだ若者だし、それが這入つて行つた大きな不思議な家といふのが、どうも禿頭港のあの廢屋らしい。その暗示によつて、なくなつた男の行方を搜してゐた人人はやつと發見することが出來たといふのである。靈感を持つた女だといふ風に人人が傳へてゐると言ふ。

 私は無智な人人が他(た)を信ずることの篤いのに一驚すると同時に、そんな事を言つてうまうまと人をたぶらかすやうな少女ならば、いづれは圖圖(づうづう)しい奴だらうと思ふと、何もかもあばいてやれといふ氣になつた。私はまだ年が若かつたから人情を知らずに、思へば、若い女が智慧に餘つて吐(つ)いた馬鹿馬鹿しい噓を、同情をもつて見てやれなかつたのだ。

「世外民君。來て一役(ひとやく)持つてくれ給へ」

 私は例の扇をポケツトに入れ、それから新聞記者の肩書のある名刺がまだ殘つてゐるかどうかを確めた上で外へ出た。無論、その穀物問屋へ行かうと思ひ立つたからである。さうして娘に逢へば扇を突きつけて詰問しさへすれば判るが、ただその親が新聞記者などに娘を會はせるかどうかはむづかしい。會はせるにしてもその對話を監視するかもしれない。世外民がうまくその間で計らつてくれる手筈ではあるが、それにしてもその娘が泉州(ツヱンチヤオ)の言葉しか知らなかつたらそれつきりだがなどと思つてゐるうちに、私はもうさつき勢ひ込んだことなどはどうでもなくなつた。自分に何の役にも立たない事に興味を持つた自分を、私は自分でをかしくなつた。

「つまらない。もうよさう」

世外民はしかし折角來たのだからといふ。それに穀物問屋はすぐ二三軒さきの家だつた。それから後(のち)の出來事はすべて私の考へどほりと言ひたい所だが、事實は私の空想より少しは思ひがけない。

 

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) そのひと


Nn

   そのひと

 

 あなたのみぶりは優しい。そなたの足おとはかるい。淚も知らねば、笑(え)みせず、そなたは生(いのち)のみちを行く。何を見ようがそしらぬ顏で。つんと澄ました憎らしさ。

 そなたの心はさとい。氣だてもなかなか親切だ。さりながら、男なんぞはどこ吹く風と、お高くとまつて見向きもしない。

 見れば見るほど、なんとそなたの美しさ。……きれう自慢か、じまんでないか、心の裏は誰にも見せぬ。生れついての薄情もので、他所(よそ)樣の情けなどにはすがりは申さぬ。

 行きずりに、投げるひとみは影深けれど、想ひのふかい眼ではない、よく澄んだ底を覗けば空つぽだ。

 かくて行く、シャンゼリゼェの大通り。グルックの不粹な樂のしらべにつれて、よろこびもなく悔いもなく、やさしい影が過ぎてゆく。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:これには新改訳があり、前半が大きく改訳されている。そちらの私の注も参照されたい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 航海


Koukai

   航海

 

 ハンブルクから小さな汽船に乘つてロンドンへ向ふ途中、船客は私を入れて二人きりであつた。私と、それに小さな猿と、これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商入がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた。

 甲板のベンチに細い鎖で繋いである猿は、くるくると𢌞りながら、小鳥のやうな聲で哀しげに啼いた。

 私が通りすがるたぴに、猿は眞黑な小さな手を伸ばして、人間そつくりの陰氣な眼で私を見あげた。その冷たい手を握つてやると、すぐ啼きやんで、もう𢌞るのもやめた。

 海上は全くの無風で、あたり一面にひそともせぬ鉛色の卓布を擴げてゐた。海面は非常に狹く見えた。と言ふのは、マストの先も見えぬほどのひどい濃霧で、そのもやもやする水氣のため、視力が鈍つてゐたからである。太陽はこの霧の面に、ぼんやりと赤い斑(ふ)になつてゐたが、沈む前には深秘なほど眞紅に燃え立つた。

 重い絹布に見るやうな長い眞直な襞が、次々に船首から走り出ては、やがて皺ばみ、段々大きく広擴がり、終に起伏を失つて空しく搖れながら消えて行つた。物倦い外輪の足搔(あがき)の下に卷く渦は、乳白の微かな泡を立てて、蜿々と蛇のやうな波のうねりに突當つては崩れ、やがてまた合さると、矢張り濃霧の中に吞まれて行つた。

 絶間なく、猿の啼聲に劣らぬ物悲しさで、船尾の小さな鐘が鳴つてゐた。

 時々海豹が浮び上るかと思ふと、いきなり飜筋斗(もんどり)打つて姿を沒したが、滑らまな水面はそのため別に亂れもしなかつた。

 船長は日に燒けた暗い顏の、沈默がちな男で、短いパイプをくゆらしては、凍てついたやうな海面に、腹立たしげに唾を吐いた。

 何を聞いても切れ切れなむつつり聲で返事をした。で私は、唯一人の道連であるあの猿を相手にする外に仕方がなかつた。

 濃霧はじつと動かない。うとうとと睡氣を催しさうになるその水氣に、二人ともしつとり濡れて、知らず知らず同じ事を思ひふけりながら、まるで親身の者どうしのやうに、いつまでも一緒にゐた。

 今でこそ私は微笑んでゐる。だがあの時は、それどころではなかつた。

 私たちはみんな、一つ母親の子供だ。あの小さな動物が私に賴つて大人しくなり、まるで肉身の者のやうに縋つて呉れたのが、私には有りがたかつたのだ。

            一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「ハンブルク」現在のドイツ連邦共和国の特別市であるハンブルク(ドイツ語:Hamburg:正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク」(Freie und Hansestadt Hamburg, フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク。位置は後のトラフェミンデの地図リンクで確認されたい)。ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約百十キロメートル遡った港湾都市。十三世紀後半以後、ハンザ同盟の主要都市として活躍、諸国との貿易によって繁栄、今日でも自由港区(自国の関税法を適用せずに外国貨物の自由な出入を認める港区)を持ち、ドイツにおける世界への門としてヨーロッパ大陸最大の海運業の中心であり続けている。本詩篇が作られた当時は、ウィーン体制下(一八一四年から一八一五年に行われたウィーン会議以後)であったが、一八七一年のプロイセン王ヴィルヘルムⅠ世のドイツ帝国成立の際にも、ハンブルクは孰れの州にも属さず、独立を維持している。但し、この詩篇内の時制はツルゲーネフが大学を卒業し、ベルリン大学で勉強するために船で出発した一八三八年の体験に基づくものかも知れない。その当時のドイツはまだ、オーストリアを盟主とするドイツ連邦下にあった。なお、もし、この詩篇が、この時の体験に基づくものとすると、実は彼の内心(当時も、そしては創作時も)のっぴきならない強いトラウマの影響下にあったか、現にあることが推定されるのである。それは、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」に明らかで、このハンブルクに至る直前(と思われる)、『彼が乗った汽船がトラフェミンデ』((グーグル・マップ・データ))『で炎上した事件はさまざまに語り継がれているが、彼の振る舞いが卑劣だったという点では共通している。彼はフランス語で』「『助けてください。私はやもめの母の一人息子なのです!』」『と叫んだともいわれ、この出来事以来、生涯に渡って彼の心に深い疼きを残した』とあるからである。私は本詩篇の激しい孤独感と、猿との共感、末尾の「私たちはみんな、一つ母親の子供だ」という感懐に、その事件後の彼の心象風景を強く感ずるのである。

「私と、それに小さな猿と、これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商入がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた」ここは「私と、それに小さな猿と――これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商入がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた。――」辺りの表記にして貰いたいところである。「ウィスチチ種」の原文は“уистити”で、これは霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目マーモセット(キヌザル)科マーモセット(キヌザル)亜科マーモセット(キヌザル)属Callithrixの仲間、特に英名Common Marmoset、コモンマーモセット Callithrix(Callithrix) jacchusと思われる。体長約十六から二十一センチメートルで尾長は三十センチメートル強の長さを持つ、ブラジル北東部原産の新世界ザルで、耳の周辺に白い飾りのような毛を持つことと、首を傾げる仕草が特徴とされる。ヨーロッパでは古くからペットとして飼われており、現在も猿の仲間のペットとしては一番人気だそうである。また、本種は現在、マウスよりも人間に近い実験動物として利用されており、新世界ザルとしては初めて全ゲノム配列が決定されてもいる。ツルゲーネフがここで強い共感をこの子に抱いたのも、或いは、そうした生物学的「人間性」を感じたから、かも知れぬ、などと私は夢想する。]

2017/10/18

老媼茶話巻之四 高木大力

老媼茶話卷之四

 

 

     高木大力(だいりき)

 

 高木右馬助、美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼祕藏の士、世に聞へたる大力(だいりき)なり。

 壱年、本國を浪人して京・伏見に徘徊せし。此折、「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」と詠じて、伊勢路を越(こゆ)る山道にて、夕陽、西にうすづく頃、七尺斗(ばかり)の大男、柿の頭巾を引(ひつ)かぶり、四尺斗(ばかり)の大刀を差(さし)、兩人、道の眞中(まんなか)に立(たち)はだかり、大の眼(まなこ)を見出し、

「いかに旅人。命、惜しくば、衣類・大小・平包、殘らず渡し、丸裸にて通るべし。さらずば、一足もやらぬ也。」

と云(いふ)。

 右馬介、聞(きき)て打笑(うちわら)ひ、

「己等は三輪の謠(うたひ)を知らざるや。『秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ』と云(いへ)り。我も衣裳一にて、秋風、身に染(しみ)て、はだ寒し。先(まづ)おのれらが衣裳を、こなたへ渡せ。」

といふ。盜人共、はらを立、

「扨々、存知の外(ほか)、きも、ふとき男哉(かな)。おのれ、いにしへの大竹丸(おほたけまる)におとらざる鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎をしらざるか。いで、もの見せん。」

と兩人の盜人、右馬介が左右より、進みよる。

 壱人の男、右馬介が右の腕を取(とる)所を、振(ふり)はなち、件(くだん)の男が元首(もとくび)をしめ付(つけ)、中(ちう)に提(さげ)、はるかなる谷底へ人礫(ひとつぶて)に抛捨(なげすて)る。

 殘りし男、是を見て、太刀引拔(ひきぬき)、天窓下(てつぺんおろ)しに切付(きりつけ)たるを、引(ひき)はづし、刀持(もち)たる手を、つかともに握りひしぎ、前へ引居(ひしす)へ、

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし。己、さこそ命のおしかるべし。我を誰(たれ)とかおもふ。愛宕山太郎坊天狗とは我(わが)事也。然に、此道におのれが樣なるあぶれもの有(あり)て旅客をなやますと聞(きき)、いましむべき爲(ため)、あらはれたり。命斗(ばかり)はたすくるなり。已來、能々(よくよく)愼め。」

とて刀をもぎ取(とり)、刃(やいば)の方を首のかたへ押(おし)まげ、二重三重に卷付(まきつけ)、道の傍(かたはら)なる松の木へ、したゝかにくゝり付(つく)。

 其後は、上方へ登り、五、六年も過(すぎ)て、右馬介、入湯(にふたう)するに、骨ふとく、長(たけ)たかき坊主の、俄道心(にはかだうしん)とみへたるが、首へ布切を卷(まき)ながら、湯へ入あり。

 右馬介、見て、

「御出家、首のまわりを布にて包み給ふは、いたみ有(あり)ての事か。布をといて、入(いり)玉へ。」

といふ。

 坊主は目をふさぎ、唯、餘言(よげん)なく念佛斗(ばかり)申居(まうしゐ)たりけるが、是を聞(きき)て申(まうす)樣(やう)、

「さんげに罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

 某(それがし)は元近江路にて、鈴鹿山の天狗次郎・十刀太郎とて、隱れなき盜人の内にて、天狗次郎とは我(わが)事也。某、十三の年より、辻切(つぢぎり)をいたし、四、五年以前迄、凡(およそ)人の弐、三百も切殺(きりころ)し候べし。

 關山通(どほり)に立出(たちいで)、往來の旅人を待(まつ)所に、壱人の旅の男、來(きた)る。

『尋常の者ぞ。』

と、やすやすと心得、引(ひつ)とらへひつぱがんと致し候得ば、彼(かの)もの、十刀太郎が首元をとらまへ、蟲けらをひしく樣にひしぎ殺し候へて、其後、我をとらへ、殺しもやらず生(いか)しもやらず、如此(かくごとく)刀の刃を首の方へおし𢌞し卷付置(まきつけおき)て、則(すなはち)、壱丈斗(ばかり)の大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候。此刀、何とぞ首よりはづし申度(まうしたく)、樣々致し候得ども、人力(じんりき)に及不申(およびまうさず)。是非なく、ケ樣(かやう)に首を卷、差置候に隨ひ、霜、刃にふれ、皮、切(きれ)、肉、たゞれ、痛(いたみ)、難忍(しのびがたし)。此(この)湯に入(いり)、痛をたて候得ば、白瘡(はくさう)をさゝげ、ふた、作り、膿水(のうすい)、とまり、暫(しばらく)の内、心よく罷成(まかりなり)候。今は昔の猛惡を後悔し、一心に彌陀成佛を願(ねがひ)候。」

とて首の布をはづすをみれば、我(われ)からみたる刀なり。

 右馬介、

『扨は伊勢路の盜賊よ。』

と心に思ひ、人なき所へ坊主をよひよせ、

「其時の旅人は、我也。此(これ)以來、必(かならず)、惡心をひるがへし、佛道に歸依して、生涯を終るべし。」

と、能々(よくよく)、後來(こうらい)、禁(いまし)め、刀のまきめに、ゆびを入(いれ)、一はじき、はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

 坊主、手を合(あは)せ、淚を流し、

「我、深き御慈悲にて大苦痛をまぬかれ、現世未來成佛身(げんせみらいじやうぶつしん)を得候。此以來、いかならん御奉公成(なり)とも可仕(つかまつるべく)候。御家來になし、召仕(めしつか)はれ給はるべし。命、限り御みや仕へ申すべし。」

とて、夫(それ)より、主從の契約(ちぎり)をなし、隨身(ずゐじん)、給仕なしたりとなん。

 此右烏介、尾州より美作の國へ越(こゆ)る時、乘物、弐挺(ちやう)の棒をくゝり合(あはせ)、老母と妻と男子弐人とをのせて、棒の先へ具足櫃(ぐそくびつ)・葛籠(つづら)のたぐひ、結ひ付(つけ)、夫(それ)を右馬介壱人にて、かるがると荷行(にゆき)たり。

 又、ある時、ためしものを切に、目釘穴、くぼく、目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに、目釘竹を取(とり)て、目釘穴にあてて指を以(もつて)是(これ)ををすに、目釘竹のめぐり、削(けずるる)がごとくにかけて、目釘穴のうら迄、通りたり。鐵槌(かなづち)にて打共(うつとも)、可入(いるるべき)物に、あらず。

 力の分限、知りがたし。

 森家の侍には、すべて、大力、多し。不破伴左衞門は、其身、鐵體(てつたい)にてや有(あり)けん、名越三左衞門、備前兼光を以(もつて)切に、澁皮(しぶかは)も、むけず。

 森家の者共、指料(さしれう)の刀、壹腰(ひとこし)も切るゝ事なく、鎗にて、やうやう、突殺(つきころ)しけるといへり。

 不破が力は高木に一倍ましたり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「高木右馬助」(明暦二(一六五六)年~延享三(一七四六)年)は江戸前期から中期にかけて実在した知られた武術家。名は重貞。もと、美作津山藩士で、十六歳で高木折右衛門より高木流体術の極意を受け、後に竹内流を学んで、「高木流体術腰回り」を創始した。自らの号をとって「格外流」とも称した。その後、浪人して美濃に住み、九十一歳の天寿を全うした(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「美作(みまさか)の太守森内記(げき)長繼」(慶長一五(一六一〇)年~元禄一一(一六九八)年)は大名。寛永一一(一六三四)年に美作津山藩(現在の岡山県津山市)第二代藩主。延宝二(一六七四)年に隠居した。後、死の前年の元禄十年に津山藩改易されるが、備中西江原藩二万石を与えられて、そこで森家を再興している。本来、彼は森忠政の重臣関成次の長男であったが、忠政の実子が全て早世したため、忠政の外孫に当たる長継が忠政の養子に選ばれた。

「鈴鹿山、いかになり行(ゆく)」これは「新古今和歌集」の「巻第十七 雑歌」に載る西行法師の一首(一六一三番歌)、

 

    伊勢にまかりける時よめる

 鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになりゆくわが身なるらん

 

を指す。

「七尺」二メートル一二センチメートル。

「柿の頭巾」柿渋で染めた頭巾。防水効果がある。

「四尺」一メートル二十一センチメートル。これはとんでもない長刀である。

「兩人」ここまで叙述はやや不親切。盗人は二人組である。

「平包」衣類などを包むための布。大型の後の風呂敷のようなもの。

「三輪の謠(うたひ)」謡曲名。玄賓僧都(げんぴんそうず)(ワキ)が毎日庵を訪れる一人の女(前シテ)に衣を与えたが、三輪の神杉にその衣がかかっているというので行ってみると、三輪明神(後シテ)が現れ、三輪の神話を語り、天の岩戸の神楽を舞うというストーリー。

「秋も夜寒に成(なり)候程に御衣(おんぞ)を一重(ひとへ)給り候へ」謡曲「三輪」の前半の前シテとワキの問答の一節(太字部分)。前後を含めて引く。

   *

上ゲ歌

地〽 秋寒き窓の内 秋寒き窓の内 軒の松風うちしぐれ 木の葉かき敷く庭の面(おも) 門(かど)は葎(むぐら)や閉ぢつらん 下樋(したひの)の水音も 苔に聞えて靜かなる 此の山住(やまず)みぞ淋しき

問答

シテ

「いかに上人に申すべきことの候。秋も夜寒(よさむ)になり候へば、おん衣(ころも)を一重(へ)たまはり候へ。

ワキ「易き間(あいだ)のこと。この衣を參らせ候ふべし。

シテ「あらありがたや候。さらば御暇申し候はん。」

ワキ「暫く。さてさておん身はいづくに住む人ぞ。」

シテ「わらはが住み家(か)は三輪の里。山もと近き處なり。その上、『我が庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは』とは詠みたれども、何しに我をば訪(と)ひ給ふべき。なほも不審に思し召さば、訪(とふら)へ來ませ。」

   *

シテの台詞の「我が庵は三輪の山もと戀しくは」は「古今和歌集」の「雑下」に載る「よみ人知らず」の一首(九八二番歌)「わが庵は三輪の山もと戀しくはとぶらひ來ませ杉立てる門」で、古注では「三輪の明神の歌」とされるので、伏線と言える。

「大竹丸」大嶽丸。ウィキの「大嶽丸」より引く。『伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼。峠を雲で覆って暴風雨や雷、火の粉など神通力を操った』。『鈴鹿峠周辺には大嶽丸を討伐した坂上田村麻呂を祀る田村神社(甲賀市)や、大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺(東近江市)などが今も点在している』。『御伽草子『田村草子』では、俊仁将軍の子である「ふせり殿」と称した田村丸俊宗が退治した伊勢鈴鹿山の鬼神が大嶽丸である』。なお、『『田村草子』では田村丸俊宗という名前であるが、『鈴鹿草子』『鈴鹿物語』『田村三代記』ではそれぞれ名前が異なるため、以下』、『田村麻呂で統一する』。『桓武天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に大嶽丸という鬼神が現れ、鈴鹿峠を往来する民や都への貢物が届かなくなり、帝は坂上田村麻呂に大嶽丸の討伐を命じ、田村麻呂は三万騎の軍を率いて鈴鹿山へ向かった。大嶽丸は悪知恵を働かせて峰の黒雲に紛れて姿を隠し、暴風雨を起こして雷電を鳴らし、火の雨を降らせて田村麻呂の軍を数年に渡って足止めした』。『一方で鈴鹿山には天下った鈴鹿御前という天女が住んでいた。大嶽丸は鈴鹿御前の美貌に一夜の契りを交わしたいと心を悩ませ、美しい童子や公家などに変化して夜な夜な鈴鹿御前の館へと赴くものの、思いは叶わなかった。大嶽丸の居場所を掴めずにいた田村麻呂が神仏に祈願したところ、その夜に微睡んでいると』、『老人が現れて「大嶽丸を討伐するために鈴鹿御前の助力を得よ」と告げられた。田村麻呂は三万騎の軍を都へ帰し、一人で鈴鹿山を進むと見目麗しい女性が現れ、誘われるままに館へ入り閨で契りを交わす。女性が「私は鈴鹿山の鬼神を討伐する貴方を助けるために天下りました。私が謀をして大嶽丸を討ち取らせましょう」と鈴鹿御前であった女性の助力を得た』。『鈴鹿御前の案内で大嶽丸の棲む鬼が城へ辿り着いたものの、鈴鹿御前から「大嶽丸は三明の剣に守護されて倒せない」と告げられる。鈴鹿御前の館へ戻り、夜になると童子に変化した大嶽丸がやってきた。鈴鹿御前が大嶽丸に「田村麻呂という将軍が私の命を狙っている。守り刀として貴方の三明の剣を預からせてほしい」と返歌すると、大嶽丸から大通連と小通連を手に入れた。次の夜も館へ来た大嶽丸と、待ち構えていた田村麻呂が激戦を繰り広げる。正体を現した大嶽丸は身丈十丈の鬼神となり』、『日月の様に光る眼で田村麻呂を睨み、天地を響かせ、氷の如き剣や鉾を投げつけたが、田村麻呂が信仰する千手観音と毘沙門天が払い落とした。大嶽丸が数千もの鬼に分身すると田村麻呂が神通の鏑矢を放ち、一の矢が千の矢に、千の矢が万の矢に分かれて数千もの鬼の顔を射る。大嶽丸は抵抗するも、最後は田村麻呂が投げた騒速』(そはや:坂上田村麻呂が奥州征伐に遠征する際、兵庫県加東市の清水寺に祈願し、無事帰京したことで奉納したと伝えられる大刀)『現に首を落とされた。大嶽丸の首は都へと運ばれて帝が叡覧され、田村麻呂は武功で賜った伊賀国で鈴鹿御前と夫婦として暮らした』。『ところが大嶽丸は魂魄となって天竺へと戻り、顕明連の力で再び鬼神となって陸奥国霧山に立て籠って日本を乱し始めたため、田村麻呂と鈴鹿御前は討伐のために陸奥へと向かった。大嶽丸は霧山に難攻不落の鬼が城を築いていたが、田村麻呂はかつて鈴鹿山で鬼が城を見ていたため』、『搦め手から鬼が城へと入ることができた。そこに大嶽丸が蝦夷が島の八面大王の元より戻ってきて激戦となり、再び田村麻呂によって首を落とされた。大嶽丸の首は天へと舞い上がって田村麻呂の兜に食らいつくが、兜を重ねて被っていたため』、『難を脱し、大嶽丸の首はそのまま死んだ。大嶽丸の首は宇治の平等院に納められたという』。『江戸時代の東北では、御伽草子『鈴鹿の草子』『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などを底本として、東北各地に残る田村麻呂伝説と融合した奥浄瑠璃の代表的演目『田村三代記』で語られた』。『渡辺本『田村三代記・全』では大嶽丸は鈴鹿山に棲んでおらず、登場時から奥州霧山嶽を居城としている』。『鈴木本『田村三代記』では天竺の八大龍王の配下、青野本『田村三代記』では天竺の金毘羅大王の配下とされる』。『「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、『吾妻鑑』をはじめ東北での田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、地域に即した改変がなされているのも『田村三代記』の特徴である』。『大嶽丸は悪路王と同一視されることもある。伊能嘉矩は、各地の伝承に見える大嶽丸・大竹丸・大武丸・大猛丸の名はみな転訛であり、大高丸→悪事の高丸→悪路王と通じるので、つまりは本来ひとつの対象を指していたと結論している』。『小松和彦は今日では鈴鹿山の大嶽丸の名はあまり知られていないが、かつての京の都では大嶽丸は大江山の酒呑童子と並び称されるほどの妖怪・鬼神であったとしている』とある。本篇は、今までの諸篇と異なり、奥州色がないが、或いは、この再生した大嶽丸の奥州での再起や、平安時代初期の蝦夷の首長悪路王伝承との絡みによって、或いは三坂の意識の中で奥州と通底していたものかも知れない

「十刀太郎」読み不祥。「じっとう」か「とがたな」か。

「引(ひき)はづし」真後ろへ素早く退いて、かわし。

「握りひしぎ」「握り拉ぎ」。握り潰し。

「皆是身命爲第一寶(カイゼシンメイダイツホウ)とて、生ある者の、命、おしまざるはなし」ネット検索を掛けると、「源平盛衰記」の一本(私の所持するものには見当たらなかった)の「巻第十五 宇治合戦」(治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の「橋合戦」のシーン)の中にこの文字列を見出せた「一切衆生法界圓滿輪皆是身命爲第一寶(いつさいしゅじゅあほうかいゑんまんりんかいぜしんみやうだいいつほう)とて生ある者は、皆、命を惜しむ習ひなれ共」である。これが出典か?

「愛宕山太郎坊天狗」無論、相手を決定的に脅すための詐称。相手が「天狗次郎」(この時には相手がそっちだは認識していない)ならば、当然、言上げで勝てる名であるからである。

「入湯(にふたう)するに」温泉名が書かれていない。有馬か。

「布をといて、入(いり)玉へ」高木は布を巻いた首の部分まで(というよりも、後で判る通り、その首のためにこそ入っているのであるが)湯にどっぷりと浸かっているのを見て、不潔を咎めたのである。

「さんげ」「懺悔」。本邦では近世まで清音が普通。に罪滅すと承るにより、くわしく御物語申也。

「關山通(どほり)」宿(ここ(グーグル・マップ・データ))から北西に鈴鹿峠を越える道筋。関山は関宿の後背の山並みを指す。

「壱丈」約三メートル。

「大天狗となり、虛空に飛(とび)てうせ申候」話を作ったというより、その恐るべき怪力(刀の先を首の周りに曲げて輪にして枷のようにかけた事実に驚愕し、その詐称を鵜呑みにして、幻覚を見たとすべきところであろう。或いは、作話する意識が幾分かあり、そこにこの男の弱さを見て取った高木は最後の仕上げを以下でした、と言うのが正しいのかも知れない。

「痛をたて」「たて」は「斷て」か。一時的に痛みを止めることが出来るというのであろう。「白瘡(はくさう)をさゝげ」傷口の爛れた部分が白い瘡になって剝がれてぶら下がり。

「ふた、作り」その後に瘡蓋が出来て。

「膿水(のうすい)、とまり」膿の浸出もおさまり。

「からみたる」「絡みたる」素手で捻じ曲げて頸に絡ませた。

「まきめ」「捲き目」。曲げて捲きつけた箇所。

「はじき」「彈(はじ)き」。はじきければ、元のごとく、引(ひき)のびぬ。

「ためしものを切ルに」名刀工の名物や新たに打った刀の試し切りをする際に。

「目釘」刀身が柄から抜けるのを防ぐため、刀の茎(なかご)の穴と柄の表面の穴とに刺し通す釘。竹・銅などを用いる。目貫(めぬき)とも呼ぶ。

「くぼく」窪んでいるだけで、中央に穴が開いているだけであったか、或いは後の叙述から見るに、針ほどの貫通穴さえ開いていなかったのかも知れぬ。

「目くぎ竹は、穴一倍、大きなりけるに」目釘竹の方は、穴(或いはただの窪み)よりも一回り大きいものであったのであるが。

「不破伴左衞門」不詳。「不破が力は高木の」その「倍」はあったというのだか、どうも私はこの最後の部分がよく判らぬ。「森家の侍にはすべて大力」が多かったとして、彼の名を出すのだから、不破は森家の家臣としか読めないだろう。

彼は「森家の者共」がその「指料(さしれう)の刀」を如何に振っても、一つの傷も不破に与えることが出来ず(さすればこそ恐らくは最初に出る「名越三左衞門」(不詳)も森家家臣であろうとしか読めぬのだ)、結局「鎗」(やり)で、やっと突き殺した、というのは、訳が分からん。不破なる大力の家臣が乱心したのかしらん? 識者の御教授を乞うものである。

「備前兼光」既出既注。]

老媼茶話巻之三 如丹亡靈 / 老媼茶話巻之三~了

 

     如丹(じよたん)亡靈

 

 奧州會津大口(おほくち)村といふ所に大仙寺といふ山寺有(あり)。此寺に如丹(じよたん)といふ美僧、住居(すまゐ)せり。此僧、元、しら川の武士、男色のことにて人を打(うち)、十六の年、出家し、當年貳拾三に成(なる)と、いへり。

 其頃、曹洞宗の學僧多き中に、文志・愚學・如丹、此三僧也。文志は金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村龍谷寺に住し、愚學は五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)の住呂(ヂウりよ)。如丹は此寺に住せり。

 此村に庄右衞門といふ百姓の娘に「まき」といふ美女あり。如丹、究(きはめ)て美僧なりしかば、まき、深く思ひ込(こみ)、人目を包(つつ)み、月日を送れり。

 大仙寺の庭に、梅・桃、多(おほく)植(うえ)て、數をつらね、花開落の後(のち)、實を結ぶ。

 夏の初(はじめ)より、まき、來り、寺の軒端に彳(たたずみ)て、もの思(おもふ)氣色(けしき)有(ある)に似たり。

 ある時、又、女、來り、礫(つぶて)を以て桃を落(おとす)。

 如丹、戸をひらき、女をしかりて、

「いとけなき童は桃を落すも是非なし、汝、いくつの年にて、いたづらをするぞ。桃も未(いまだ)、熟すまじ。重(かさね)て來たらんは、くせ事たるべし。」

といふ。女、笑(わらひ)て、

「桃に色々有(あり)、山桃・さ桃・姫桃。」

と云(いひ)て、目に情をよせ、戲(たまむれ)て、梅子(ばいし)をなげて如丹に打(うつ)。

 如丹、女のけしきをみて、心有(こころある)事を知り、戸をとぢて、取(とり)あわず。

 或(ある)五月雨(さみだれ)の夕(ゆふべ)、小夜更(さよふけ)て、如丹が寢屋の戸をたゝく。

「誰(たそ)。」

といへば、音なく答へねば、また、たゝく。

 如丹、止事(やむごと)なく、戸をひらけば、女、急ぎ、内いる。

 如丹、驚(おどろき)て、

「汝、何(なん)とて、夜、來(きた)る。」

女の曰(いはく)、

「日頃、御僧の我を匂引し玉ふ、其心有(そのこころある)を知(しり)て、今宵、爰(ここ)に來れり。」[やぶちゃん注:「匂引」は注で考証する。]

 如丹、女を押出(おしいだ)し、

「佛邪婬(ぶつじやいん)の、いましむ。汝、我(わが)爲の外道(げだう)なり。早々家に歸れ。」

女、聞(きき)て、

「我、爰に來る事、覺悟なきにあらず。僧、かたく情(なさけ)をいどまば、爰に死(しし)て、二度(ふたたび)、家に歸らじ。さのみ、こと葉(ば)をついやすべからず。もし、壱度(ひとたび)同床に枕をならべば、此(これ)已後、二度(ふたたび)情(なさけ)をしとふまじ。」

 如丹、是非なく、其夜は、かの心に隨ふ。

 女、悦(よろこび)て日頃の心ざしをとげ、曉、家に歸りぬ。

 是より、如丹、行義、大きに亂れて破戒の僧と成(なる)。

 此事、度重(たびかさなり)て、如丹が噂、村に沙汰有り。

 或時、秋の頃、時雨ふりける夕べ、村の若きものども、

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」

とて、打連(うちつれ)、行(ゆき)けるに、寺のはゐり口に、雨にぬれたる女足駄(をんなあしだ)有(あり)けるを、かたがたは、如丹が寢屋へ打込(うちこみ)、かたがたは手にさげ、持歸(もちかへ)り、女の親に見せけるに、まさか、父庄右衞門、是を見て、大きにいかり、娘を呼(よび)て強(つよく)いましめ、

「己(おのれ)、奸僧(かんそう)の爲にたぶらかされて、生涯をあやまる、と、きけり。以來、かたく愼(つつしみ)て、女の行義を亂すべからず。もし、又、心あらたむる事ならずは、此弐品を以て心の儘に死を定むべし。」

と云(いひ)て、細繩(ほそなは)壱筋・剃刀(かみそり)一刃(いちぢん)をあたへ、一室に押入(おしいれ)、外より堅く戸をとぢ、湯水を絶(たた)す事、一日、庄右衞門妻、是を見て、悲み泣(なき)て、

「我娘、終日食(シヨク)せず、きかつ、忍びかたかるべし。邪見の親、何(なん)とて斯(かく)情(なさけ)なき。是、皆、人の空言(そらごと)なり。何ぞ、さのみつらくあたるべきや。」

といふて、食事を調へ、扉を開き見るに、娘は、みづから、首を〆(しめ)て倒れ居(をり)たり。

 母、大きに驚き、聲を上(あげ)て、近所の者を呼立(よびたつ)る。

 皆人(みなひと)、集り來りて是を見るに、死(しし)て程經(ほどへ)たりとみへて、身體、ひえかへり、又、生(いく)べき能(よき)手立(てだて)なし。

 女、既に死して後、彌(いよいよ)此事止むべからずして、如丹が不義、上(かみ)へ聞(きこ)へ、此(この)故に、如丹、犯戒(ぼんかい)の掟(おきて)のがれずして、邪婬の罪、悉(ことごと)く禁札に書顯(かきあらは)し、如丹をいましめて、傳馬(てんま)にしばり付(つけ)、辻々町々、引晒(ひきさら)し、藥師川原にて、はつつけに懸(かけ)らるゝ。

 如丹、最後にいはく、

「我、壱度(ひとたび)釋門に入(いり)て三衣(さんえ)を着し、一寺の住呂と成(なり)、今、破戒の刑に行はるゝ。是、過去宿惡の報ひなり。大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也。」

と、いへり。

 誠に最期の忘念や、此寺に、とゞまりけん、此(これ)以後、大仙寺の住持、若(もし)、如丹が噂かたり出せば、必(かならず)、妖怪有(あり)、といへり。

 事を好む者有(あり)て、かの寺へ尋行(たづねゆき)、住寺に逢(あひ)て此よしを聞(きく)に、住寺、答(こたへ)て、

「此事、誠に在(あり)候。今宵、此寺に留(とどま)りて其怪敷(あやしき)を見給へ。」

といふ。

 既に日も暮過(くれすぎ)て、夜、三更に及(および)て佛壇の方に、若き男女の聲にて、かなしみ歎く音(こゑ)、有(あり)て、いつくしき僧の、年頃、廿四五斗(ばかり)成が、十六、七の、女の首を、いだき、此者の枕本(まくらもと)に來り、立居たり。

 程有(ほどあり)て、庭の方より、靑き玉の光、渡り、草村(くさむら)を、こけありき、首もなき女のむくろ、手に細引(ほそびき)をさげ、いづくともなく、走り來り。

 件(くだん)の男、此妖怪を見て、曉を待得(まちえ)ず、早々、我宿へにげ歸(かへり)ぬと、いへり。

 材木町秀長寺の卓門(たくもん)和尚、正德三年の秋九月の末、大仙寺無住の折、僧衆弐、三人、大仙寺尋行(たづねゆき)て、一夜(ひとよ)、とまりし。

 暮より、雨ふりいだし、いとゞだに住僧もなき古寺の淋しさに、各各(おのおの)いろりへ立寄(たちより)、柴(しば)折(おり)くべて、茶を煮て、如丹が噂物語せし折、佛壇のかたより、弐拾弐三のうつくしき僧、ぬり笠をかぶり、手にぬり鉢をさゝげ、杖をつき、暫く座中をあるき𢌞りて、消(きえ)ては、又、顯(あらは)れ、あらはれては消(きゆ)。終夜、迷ひあるきしを、卓門和尚、見たる、との物語なり。

 

 

老媼茶話三終

 

[やぶちゃん注:「奧州會津大口(おほくち)村」不詳。識者の御教授を乞う。底本に『おおくち』とルビする以上、編者は判っているものと思われるのだが。

「しら川」白河藩。陸奥国白河郡白河(現在の福島県白河市)周辺を知行した。

「大仙寺」不詳。識者の御教授を乞う。現存すれば、大口村の位置も判るのだが。

「如丹」不詳。並称された秀でた曹洞宗の学僧とする「文志」「愚學」も不詳。

「金山谷(かなやまだに)板(いた)おろし村」「金山谷」は現在の福島県大沼郡金山町であるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、「板おろし村」は不詳。金山町内に現在、「玉梨新板」という地名ならば、確認出来る。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「龍谷寺」不詳。現存しない模様。

「五目組(ごめぐみ)慈現寺(じげんじ)」現在の福島県喜多方市のこの中央付近一帯の広域地名と推定される(グーグル・マップ・データ)。根拠はこちら(陸奥国耶麻郡之十一の五目組地理図。但し、上が東なので注意)。現在の複数の地名・河川名がこの旧地図とよく一致する

「住呂(ヂウりよ)」「住侶」。但し、歴史的仮名遣「ぢゆうりよ」が正しい。

「人目を包(つつ)み」人目を避けて、というより、ここはまだ、如丹へのモーション以前であるから、彼に恋い焦がれていることをおくびにも出さず、人に察せられぬように気を遣って、の意。

「くせ事」道義にもちるゆゆしき事。

「桃」バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica

「山桃」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra

「さ桃」「早桃」で早生の桃の古名、或いは現行ではバラ科スモモ亜科スモモ属スモモ Prunus salicina の一品種の名ともなっているが、前者でよい。

「姫桃」矢張り、現行では早生の桃の名としてあるようである。「まき」は自分が山家の田舎娘で未だ男を知らぬこと、しかし、今、熟れかけている確かな女性(にょしょう)であることをこの三種の表現で示そうとしている。

「情」「じやう」或いは「おもひ」。

「匂引し玉ふ」「匂」はママ。牽強付会すれば、美僧の男性フェロモンが娘に影響して彼女の方から惹かれて彼のところにやってきたの意として、「にほひびき」とでもやってみたくはなるところだが、どうもそんな熟語も読みも知らぬ。これは思うに、「勾引」の誤字(或いは底本編者に失礼乍ら、誤判読)ではあるまいか? さすれば、その美貌のあたなが、あなたの意志とは無関係に、私の心を常日頃から無理矢理にあなたのtころへ連れ去らせる、「勾引(かどわか)し給ふ」と読めるからである。

「其心有(そのこころある)を知(しり)て」如丹もまんざらではない、私に惹かれていることを知って。無論、「まき」の思い切った誘惑(モーション)に過ぎないが、結局、効果を発揮することにはなる。

「いどまば」抗って拒否するというのであれば。

「しとふ」「慕ふ」。

「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、寺へ行(ゆき)、遊ぶべし。」底本では「いざや、雨ふり淋敷(さびしき)に、」の部分を字の文とし、直接話法は『寺へ行遊ぶへし』のみ。従がえない。

「はゐり口」「入り口(ぐち)」。

「かたがたは」ある者たちは。

「手にさげ」女足駄を。

「きかつ」「飢渇」。

「邪見」ここは、厳しさを越えて惨たらしい点に於いて仏教的に正しくない考えの意。

「是、皆、人の空言(そらごと)なり」純真無垢の処女の少女であってほしいと思う母親の誤った悲しい好意的理解。

「傳馬」本来は逓送用の馬。江戸時代は主要幹線路の宿駅ごとに一定数を常備させて公用にあてた。公の仕置き(処罰)であるから、伝馬を使うのは腑に落ちる。

「藥師川原」既出既注

「三衣(さんえ)」「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣で、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製した)・大衣(だいえ=鬱多羅僧衣(うったらそうえ):七条の袈裟で上衣とする)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に袈裟で、正規の僧(彼は一寺の住持となっている)として認められたことを指す。

「大仙寺有らん限りは我(わが)惡名をそしるべし。是、我一念の留(とどま)る所也」なかなか難しい。「大仙寺が続く限りは、我が悪名を常に謗るべき恥ずべきものとして、憎み、その穢(けが)れ故に、決して口に出すことなかれ! 我れのような破戒僧のあったことをおくびにも出すな! 何故なら、我れの堕地獄の恨みの一念は、この寺にずっと留まり続けるからである!」というの意味で採っておく。そうしないと、後の怪異を上手く説明出来ないからである。

「草村(くさむら)」「草叢」。

「こけありき」「轉(こ)け步き」。

「むくろ」「骸(むくろ)」。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町(ざいもくまち)内。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「材木町(会津若松市)によれば、『材木町は』慶長一五(一六一〇)年、『それまで集中して米代の西、城郭内にあった木材売買関連の商家が移って成立したとされる』。『河原町の西から南方向に続く町で、会津藩により治められていた江戸時代においては若松城下のうち城郭外西部に位置する』五『間の通りであった。また、当時の材木町周辺は、湯川などの洪水によりたびたび被害を被っており、家屋が流されることがあったほか、町割が改めて行われることもあったとされる』とある。

「秀長寺」曹洞宗龍雲山秀長寺。現存。(グーグル・マップ・データ)。

「卓門和尚」不詳。

「正德三年」一七一三年。第七代将軍徳川家継の治世。]

2017/10/17

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 「爽やかに美はしかりし花さうび……」


Ikabakari

   「爽やかに美はしかりし花さうび……」

 

 今では何に出てゐたかも覺えてゐない、遠い遠い昔のことだ。私はひとつの詩を讀んだ。

 それも間もなく忘れてしまひ、一行目だけが記憶にのこつた、――

 

   爽(さわ)やかに美はしかりし花薔薇……

 

 いまは冬、雪は窓硝子に張りき、暗い部屋には蠟燭が一本燃えてゐる。その片隅に、かじかんで坐つてゐる私の心に、鳴りまたひびく、――

 

   爽やかに美はしかりし花さうび……

 

 郊外にあるロシヤ風の別莊の、低い窓に對してゐる自分の姿が浮びあがる。靜かな夏の夕べは、うつろひながら夜に溶けいらうとし、晝の暑さのまだのこる空氣には、木犀草(レゼダ)と菩提樹の花が匂ふ。窓邊には少女がひとり坐つて、さし伸べた兩の腕に身をもたせ、頸(うなじ)を肩さきに埋めてゐる。おし默つてじつと空に見いる姿は、夕星のきらめき出るのを待つてゐるやう。物思はしげなその眸は、なんと素直(すなほ)な感動に滿ちてゐるのだらう。半ば開いて物問ひたげな唇は、なんといふ無邪氣さで心に觸れて來るのだらう。まだ花のひらききらず、心の亂れも知らぬ胸の、なんと安らかな息づき。幼な顏のまだ失せきらぬ面立(をもだち)なんといふ優しさ、また淸らかさ。私は話しかけようともせずに、愛(いと)しさに鳴る自分の胸の鼓動を聽いてゐる、――

 

   さわやかに美はしかりし花さうび……

 

 部屋のなかは、いよいよ暗くなつてくる。燃え盡きかかる蠟燭は淋しくはじけ、ひくい天井に影は搖れ走り、壁の外には霜の罅破(ひわ)れる音がする。そして、退屈な老人のつぶやきが聞える……

 

   さわやかに美はしかりし花さうび……

 

 また別の面影が眼の前に立ちあがる。……田舍暮らしの樂しい團欒、そのさざめき。ブロンド色の頭が二つ互ひにくつつき合ひながら、住んだ眸をはにかみもせず私に送る。眞紅な頰は笑ひを堪(こら)へて波だち、腕と腕とは仲よく組んで、立てる無邪氣な聲音もひとつに絡みあふ。その向ふ、居心地のいい室の奧には、やはり若さにあふれる別の手が、指もつれしながら古ピアノの鍵盤をたたいてゐるランネルのランネルのワルツの曲の合間には、家長然と納つたサモワルのつぶやき聲もする……

 

   さわやかに美はしかりし花さうび……

 

 蠟燭は朧ろに消えかかる。……誰だ、そこで陰にこもつた嗄れ聲で咳き入るのは。足もとには、私にとつて唯ひとりの伴侶の老犬が蹲り、身をすり寄せて顫へてゐる。ああ寒い、凍えさうだ。……みんた死んだ、死んでしまつた、……

 

   さはやかに美しかりし花さうび……

             一八七九年九月

 

[やぶちゃん注:最初の本文引用の「薔薇」はママ。訳者註が二つある。因みに、訳注記号は表題に附されてあるから、註の頭の引用部分は、「花薔薇」ではなく、「花さうび」でないと、厳密にはおかしい。

   *

『爽やかに美はしかりし花薔薇……』この表題は、諷刺詩人ミヤトリヨフP. Miyatoliov,1796―1844の詩句を借りたもの。その『薔薇』 Roza の第一聯に――

 

  爽やかに美はしかりし花さうび

  わが園にうつし咲かせて心たのしも、

  春あさく置くつゆ霜のしげくして

  しも朽つるひたに厭ふと心うれたし。

   *

ランネル 墺太利の作曲家 Joseph Franz Karl Lanner 1801―1843

   *

本篇は新改訳「うるわしく、さわやかなりし、ばらの花……」がある。そちらでオリジナルに私が細かな注を附してあるので、そちらも是非、参照されたい。

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 何を思ふだらうか


Watasihananiwo

   何を思ふだらうか

 

 臨終の迫るとき、もしもまだ思考の力が殘つてゐたら、私は何を思ふだらうか。

 夢み且つまどろみ、生の賜物を碌々味ひもせずに、徒(あだ)に過した一生を悔むだらうか。

 「え、もう死ぬのか。本當か。いやいや早過ぎる。だつてまだ何も仕遂げてはゐないではないか。……やつと今、何かする氣になつた所ではないか。」

 それでも、過ぎた日々を思ひ出すだらうか。纔かながら、私の身にもあつた明るい幾瞬を思ひ浮べて、忘れ得ぬ面影、その面輪に、心は佇むだらうか。

 それと樣々の身の惡業が、記憶に甦るだらうか。私の魂は、既に及ばぬ痛悔に責め苛まれるだらうか。

 それとも、生の彼岸に待受けてゐるものを思ふだらうか。そして本當に、何かが待つてゐるのだらうか。

 いや、恐らく私は、何も思ふまいと力めるに違ひない。行手に立ち罩める怖しい闇黑を見ずにゐたいばかりに、何か詰らぬ事を強ひて思ひ浮べるに違ひない。

 曾て私は、或る男が臨修の床に橫はりながら、燒胡桃(くるみ)を嚙らせて呉れないと駄々をこねる光景に接したことがある。が然し、その男の昏(くら)む眼底には、何かしら傷き死んで行く小鳥の破れ翼に似たものがあつて、脈々と顫へてゐるのを見過し得なかつた。

             一八七九年八月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 絞首刑!


Kouzai

   絞首刑!

 

 「一八O五年の話だが」と、私の昔馴染が語りはじめた、「アウステルリッツ戰役の直前のこと、僕の勤務してゐた聯隊が、モラヴィヤに宿營した。

 住民を苦しめることは勿論、一切迷惑を掛けてはならんといふ嚴しいお達しだつた。聯合軍とは言ひ條、奴等は僕たちを妙な眼で見てゐたからね。

 その時の僕の從卒といふのが、もと僕の母親の領地で農奴だつた男で、エゴールといふ名だつた。正直なおとなしい奴でね、子供の時からの馴染だから、まるで友達のやうにしてやつてゐた。

 或る日、僕の泊つてゐた家で、泣く喚く、いやはや大騷動がもち上つた。なんでもお主婦(かみ)の鷄が二羽とか盜まれてね、それを僕の從卒になすり附けるといふ始末さ、で先生、大いに申開きに力めたが、たうとう僕まで證人に引張り出した。

 『いや、このエゴール・アフターモノフに限つて、人の物を盜るなんて……』と、僕も辯護に口を酸くしたが、お主婦の奴、てんから受け附けない。

 と、その時、よく揃つた馬蹄の響が往來に聞えて來た。總司令官が幕僚を從へて通り掛つたのだ。

 皮膚のたるんだ、でつぷりした司令官は、俯向き加滅に悠々と馬に並歩を踏ませて來る、

 肩章の總が胸もとに垂れてゐる。

 その姿が眼入ると、お主婦はいきなり馬前に轉げ出て跪いた。髮も着物も振り亂して、しきりに僕の從卒の右を指しながら、金切聲で訴へ出した。

 『將軍さま』と喚くのだ、『閣下さま、お裁き下さいまし。どうお助けなすつて、お救ひなすつて。……あの兵隊が、私の物を奪(と)りましたので。』

 一方エゴールは、帽子を手に閾の上に突立つて、まるで番兵みたいに胸を張り足を引き附けたまま、一言も口が利けないのだ。往來の眞中に停つた將軍一行の姿に度膽を拔かれたのか、降掛つて來た飛んでもない災難に呆氣に取られたのか、ただもう棒立ちになつて眼ばかりぱちくりさそて、顏色と言つたら土色に變つてゐる。

 將軍は他に氣を取られてゐるやうな暗い眼を奴に投げると、復立たしげに『それで?』と言つた。エゴールは偶像みたいに突立つて、齒を剝出してゐる。橫から見てゐると、まるで笑つてでも居るやうだ。

 すると將軍は、『絞首刑!』と言ひ棄てて、そのまま馬に拍車をくれた。はじめは元の並足だつたが、やがて速步にしてすんずん遠ざかつた。幕僚も急いでその後を追ふなかに、ただ一人副官だけが鞍上から振返つて、エゴールの方をちらと見た。

 命令にもとるわけには行かない。エゴールは間もなく捕まつて、刑場に曳かれた。

  彼はもう半死半生の態だつた。それでもやつと二度だけ、『神樣、ああ神樣』と聲を上げて言つた。その後は聞えるか聞えぬかの聲で、『神樣が御存じだ、私でないことは。』

 愈〻僕と別れる段になると、彼はひどく泣いた。僕もおろおろ聲だつた。

 『エゴール、なあエゴール』と僕は叫んだ、『それをなんだつてお前、閣下に申し上げなかつたのだ。』

 『神樣が御存じです、私でないことは』と可哀想に噦(しやく)上げながら、彼は繰反した。

 一方お主婦はと言ふと、あまりの峻烈な判決に膽を潰してしまつて、今度は自分が大聲で泣き出す始末だつた。あたりの誰彼に命乞ひを賴み𢌞るかと思ふと、牝鷄はもう見附かつたから、自分で行つて明しを立てて來るなど口走つた。……

 そんな事を言つても、今さら手後れなことは言ふ迄もない。何ぶん戰時のことだ。君、軍紀だよ。お主婦は身も世もなく、泣き喚くだけだつた。

 さてエゴールは、坊さんに懺悔をして聖餐を受けると、私に言ふのだ。

 『ねえ旦那、お主婦さんにくよくよするなと言つて下さい。私はもう、なんとも思つてやしませんから。』」

 昔馴染は、この從卒の最後の言葉を繰返して、さて呟くのだつた、「エゴールシカ、私の可愛いい、天晴れなエゴールシカ。」

 そして、淚が老人の頰を傳はつた。

             一八七九年八月

 

[やぶちゃん注:「アウステルリッツ戰役」「アウステルリッツ」(チェコ語:スラフコフ・ウ・ブルナSlavkov u Brna/ドイツ語表記Austerlitz)は現在のチェコ共和国モラビア地方の中心都市ブルノ市の東方にある小都市。一般に言われる「アウステルリッツの戦い」は、一八〇五年にオーストリアがロシア・イギリス等と第三次対仏大同盟を結成、バイエルンへ侵攻したことに端を発する戦争。当時オーストリア領(現チェコ領)であったスラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)郊外に於いて同年十二月二日にナポレオン率いるフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を破った戦いを指す。

「モラヴィヤ」(モラヴィア:Moravia/チェコ語:Morava)は広義には現在のチェコ共和国の東部の呼称。この地方のチェコ語方言を話す人々は「モラヴィア人」と呼ばれ、チェコ人の中でも下位民族とされて差別されてきた歴史がある。この「主婦」もそうした一人として見るべきであろう。アウステルリッツの戦いのあった一八〇五年の戦役では、ウルムの戦いでフランス軍がオーストリア部隊を降伏させて、十一月十三日にウィーン入城を果たしたため、敗走したオーストリア皇帝フランツ二世がここモラヴィアへ後退、ロシア皇帝アレクサンドル一世率いるロシア軍と合流している。オーストリア領内であるが、この記述から、早々と友好国であるロシアがモラヴィアに駐屯していたことが知られる。

「並足」「常步(なみあし)」。馬の四足の内、常に二脚或いは三脚が地面に着き、体重を支えて進む状態を指す。

「速足」「速步(はやあし)」。「だくあし」とも呼び、「跑足」「諾足」「跪足」等と書く。馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと。「並歩(なみあし)」と「駈歩(かけあし)」の中間。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 五 女誡扇

 

 

           女誡扇

 

 

 私がいやがる世外民を無理に強いて、禿頭港(クツタウカン)の廢屋の中へ、今度こそ這入(はい)つて行つたのは彼がその次に南へ出て來た時であつた。多分最初にあの家を發見してから五日とは經てゐなかつたらう――世外民は當時少くとも週に二度は私を訪れたものなのだから。

「さあ。今日こそ僕の想像の的確なことを見せる。運がよければ、君がそれほど氣に病む幽靈の正體が見られるかも知れないよ」

 私はかう宣言して、この前の機會と同じ時刻を撰んだ。そこに幽靈のゐないことを信じてゐる私は、しかし、自分の事を、高い雕欄(てうらん)のいい窪みを見つけて巣を營んでゐる双燕(さうえん)を驚愕させる蛇ではないかと思つて、最初は考へたのだが構はないと思つた。といふのはもしそこに一對の男女がゐるやうならば、自分はその時の相手の風態(ふうてい)によつては、わざと氣がつかないふりをして、彼等をその家の居住者のやうに扱つて、自分達が無法にも闖入したのを謝罪しようと用意したからである。私たちはそれだからごく普通の足音をさせて、あの石の圓柱のある表からこの前の日のとほりに入口を這入つた。その時、さすがに私もちよつと立止つて聞き耳を立ててはみた。勿論どんな泉州(ツヱンチヤオ)言葉も聞かれはしなかつた。それだのに困つた事に、世外民は氣味惡がつて先に這入らないのだ。表の廣間のなかはうす暗くて、またこんな家のどこに二階への階段があるか、私には見當がつきにくい。しかし世外民は口で案内して、表扉を這入つて廣間の左或は右の小扉(ことびら)を開いてみたら、そこから上るやうになつてゐるだらう、といふのである。その廣間といふのは二十疊以上はあるだらう。四つの閉めた窓の破れた隙間からの光で見ると、他(た)には何一つないらしい。私は這入つて行つた。その時、思はず私が呻つたのは、例の聲を聞いたからではないのだ。ただの閉め切つた部屋の臭ひである。どんな臭ひとも言へない。ただ蒸(む)れるやうなやつで、それがしかし建物(たてもの)がいいから熱いのではない。割に冷たくつてゐて蒸れるとでもいふより外には言ひ方がない。この臭ひを、世外民は案外平氣らしかつた。天井を見ると眞白(まつしろ)に粉(こ)がふいて黴(かび)がはえてゐる。その黴の臭ひだつたかも知れない。私たちは先づ右の扉を開けた。――果してすぐそこが階段であつた。幅二尺位(ぐらゐ)の細いのが一直線に少し急な傾斜で立つてゐる。それが上からの光で割に明るい。何も怖氣(おぢけ)がさすやうなものは一つもないが、また私は傳説をさう眼中におかないが、それでもやはりさう明るい心持にはなれないことは確(たしか)だ。氣味が惡いと言つては言ひすぎるが、私はよく世外民をひつぱつて來たと思つた。私はひとりででも一度來てみる意志はあつたのだが、もしもひとりだつたらあまり落着いて見物はしにくいかと思ふ。それにしてもあんな傳説を迷信深く抱(いだ)いてゐる人人が、たとひそれは二人連れであつた事が確でも、第一日(にち)によくまあここへ來たものだと言へる。いや、よくもここを撰ぶ氣になつたものだ。私はこの細い階段を戀人たちが互に寄りそひながらおづおづして、のぼつて行つた時を想像してみた。

[やぶちゃん注:「雕欄(てうらん)」(ちょうらん)は二階のテラスなどの彫刻を施した欄干(らんかん)のこと。]

 私は世外民を振り返つて促しながら、階段を昇り出した。そこには私の想像を滿足させることには、ごく稀にではあるがこのごろでもそこを昇降する人間があることは疑へなかつた。といふのは、それは何も鮮かな足跡はないのだが、寧ろ譬へば冬原(たうげん)の草の上におのづと出來た小徑(こみち)といふ具合に、そこだけは他(た)の部分より黑くなつて、白い塵埃のなかから、階段の板(いた)の色がぼんやり見えてゐるのであつた。二階には人のけはひはない。私は幽靈の正體は先づ見られさうにもないと思つた。二階ヘ出た。

 案外にそこは明るかつた。その代りどうしてだか急に暑くムツとした。人影のやうなものは何もなかつた。氣が落着いて來たので私は何もかも注意して見ることが出來たが、床の上にもまた人が步いたあとがあつて、それがまた一筋の道になつて殘つてゐる。L形(エルがた)になつた部屋の壁のかげから、光が帶になつて流れて來る。この部屋へ澤山の明るさを供給してゐるのは、その窓で、人の步いたあともまたその窓の方へ行つてゐる。壁のかげに誰かがピツタリと身をよせて隱れてゐるやうな氣もする。私はその窓の方へおのづと步いて行つた。我我の足元から立つ塵は、光の帶のなかで舞ひ立つた。顏に珍しく風が當つて、明るい窓といふのが開(あ)いてゐること、その壁に沿うて一つの臺があることが、一時(じ)に私の目についた。臺といふのはごく厚く黑檀(こくたん)で出來たもので、四方には五尺ほどの高さの細い柱が、その上にはやはり黑檀の屋根を支へてゐる。その大きさから言つて寢牀(ねどこ)のやうに思はれた。

「寢牀だね」

「さうだ」

 これが私と世外民とが、この家へ這入つてからやつと第一に取交(とりかは)した會話であつた。寢牀には塵は積つてはゐなかつた――少(すくな)くとも輕い塵より外には。さうして黑檀は落着いた調子で冷冷(ひえびえ)と底光りがしてゐた。私は世外民を顧みながら、その寢牀の上を指さした。私の指が黑檀の厚板(あついた)の面(おもて)へ白くうつつた。

 世外民は頷いた。

 その寢牀の外には家具と言へば、目立つものも目立たないものも文字通りに一つもなかつた。話に聞いたあの金簪(きんさん)を飾った花嫁姿の狂女は、この寢牀の上で腐りつつあつたのではないだらうか。それにしてはこれだけの立派な檀木(たんぼく)の家具を、今だにここに遺してあるのは、憐憫によつてではなく、やはり恐怖からであらう。

 寢牀のうしろの壁の上には大小幾疋かの壁虎(やもり)が、時時のつそりと動く。尤もこれは珍しい事ではない。この地方では、どこの家の天井にだつて多少は動いてゐる。内地に於ける蜘蛛ぐらゐの資格である。ただこの壁の上には、廣さの割合から言つて少少多すぎるだけだ。六坪ほどの壁に三四十疋(ぴき)はゐた。

 世外民はどうだか知らないが、私はもう充分に自分の見たところのもので滿足であつた。歸らうと思つて、歸りがけにもう一度窓外の碧(あを)い天を見た。その他(た)の場所はあまりに氣を沈ませたからだ、歸らうとして私はふと自分の足もとへ目を落すと、そこに、ちやうど寢牀のすぐ下に扇子(せんす)見たやうなものがある――骨が四五本開(ひら)いたままで。私は身をかがめて拾つた。そのままハンケチと一緒に自分のポケツトのなかへ入れた。なぜかといふのに世外民はいつの間にか歸るために、私に世を向けて四五步も步き出してゐたからだ。

 世外民も私も下りる時には何だかひどく急いだ。表の入口を出る時には今まで壓へてゐた不氣味が爆發したのを感じて、我我は無意識に早足で出た。さうして無言をつづけてその屋敷の裏門を出た。

「どうだい。世外民君。別に幽靈もゐなかつたね。」

「うむ」世外民は不承不承に承認しはしたが「しかし、君、あの黑檀の寢臺の上へ今出て來た大きな紅い蛾を見なかつたかね。まるで掌ほどもあるのだ。それがどこからか出て來て、あの黑光りの板(いた)の上を這つてゐるのを一目は美しいと思つたが、見てゐるうちに、僕はへんに氣味が惡くなつて、出たくなつたのだ」

「へえ。そんなものが出て來たか。僕は知らなかつた。僕はただ壁虎(やもり)を見ただけだ。君、君の詩ではないのか。幻想ではないのか」

 ――私は世外民があの寢牀(ねどこ)の上で死んだ狂女のことをさう美化してゐるのだらうと思つた。

「いいや、本當だとも。あんな大きな赤い蛾を、僕は初めてだ」

 私は步きながら、思ひ出してさつきの扇(あふぎ)をとり出してみた。さうして豫想外に立派なのに驚き、また困りもした。

 その女持(をんなもち)の扇子といふのは親骨(おやぼね)は象牙で、そこへもつて來て水仙が薄肉(うすにく)に彫つてある。その花と蕾との部分は透彫(すかしぼり)になつてゐる。それだけでも立派な細工らしいのに、開(あ)けてみると甚だ凝つたものであつた。表には殆んど一面に紅白の蓮(はす)を描(ゑが)いてゐる。裏は象牙の骨が見えて――表一枚だけしか紙を貼つてゐないので、裏からは骨があらはれるやうに出來てゐたのだが、その象牙の骨の上には金泥(きんでい)で何か文章が書いてある。

「君」私はもう一度表を見返しながら世外民に呼びかけた。「玉秋豐(ぎよくしうほう)といふのは名のある畫家かね」

「玉秋豐? さ。聞かないがね。なぜ」

 私は默つてその扇子を渡した。世外民が訝しがつたのは言ふまでもない。私もちよつと何と言つていいかわからなかつた――私は無賴兒ではあつたが、盜んで來たやうな氣がしていけないのだ。私はそのままの話をすると、世外民は案外何でもないやうな顏をして、それよりも仔細にその扇をしらべながら步いてゐた――

「玉秋豐? 大した人の畫(ゑ)ではないが職人でもないな。不蔓不枝(ふまんふし)」彼はその畫賛を讀んだのだ。

「愛蓮説のうちの一句だね、不蔓不枝。――だが女の扇(あふぎ)にしちや不吉な言葉ぢやないか。蔓(つる)せず枝せざるほど婦女にとつて悲しい事はあるまいよ。どうしてまた富貴多子(ふうきたし)にでもしないのだらう――平凡すぎると思つたのかな」

「一たい幸福といふのは平凡だね。で、その富貴多子とかいふのは何だい」

「牡丹が富貴、柘榴が多子さ」世外民は扇のうらを返して見て、口のなかで讀みつづけながら「おや、これは曹大家(さうたいか)の女誡(ぢよかい)の一節か。專心章だから、なるほど、不蔓不枝を選んだかな……」

 扇は案外に世外民の興味をひいたと見える。それを吟味して彼がそんなことを言つてゐる間に、私はまた私で同じ扇に就て全く別のことを考へてゐた。

 その扇はうち見たところ、少くとも現代の製作ではない。さうしてその凝つた意匠は、その親が、愛する娘が人妻にならうとする時に與へるものに相當してゐる。―恐らく沈家(シンけ)のものに相違ないであらう。昔、狂女がそれを手に持つて死んでゐなかつたとも限らない。その扇だ。更に私は假りに、禿頭港(クツタウカン)の細民區の奔放無智な娘をひとり空想する。彼女は本能の導くがままに悽慘な傳説の家をも怖れない。また昔、それの上でどんな人がどんな死をしたかを忘れ果ててあの豪華な寢牀(ねどこ)の上に、その手には婦女の道德に就て明記しまた暗示したこの扇を、それが何であるかを知らずに且つ弄(もてあそ)び且つ飜(ひるがへ)して、彼女の汗にまみれた情夫に凉風(りやうふう)を贈つてゐる……。彼女は生きた命の氾濫にまかせて一切を無視する。――私はその善惡を説くのではない。「善惡の彼岸」を言ふのだ……

[やぶちゃん注:ここは注を敢えて最後に持って来た。

「玉秋豐」不詳。

「愛蓮説」宋の儒者周茂(一〇一七年~一〇七三年:茂叔は字。名は敦頤(とんい))の作。以下が全文。

   *

水陸艸木之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明獨愛菊。自李唐賴、世人甚愛牡丹。予獨愛蓮之出淤泥而不染、濯淸漣而不妖、中通外直、不蔓不枝、香遠益淸、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。予謂、菊花之隱逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。

(水陸草木の花、愛すべき者、甚だ蕃(おほ)し。晋の陶淵明、獨り、菊を愛す。李唐より來のかた、世人、甚だ牡丹を愛す。予、獨り蓮の淤泥(をでい)より出づるも、染まらず、淸漣に濯(あら)はるるも妖(えう)ならず、中(なか)、通じ、外、直(なほ)く、蔓(つる)せず枝(えだ)せず、香り、遠くして、益々淸く、亭亭(ていてい)としてうき植(た)ち、遠観すべくして褻翫(せつぐわん)すべからざるを愛す。予、謂(おもへ)らく、「菊は花の隱逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は華の君子たる者なり」と。噫(ああ)、菊を、之れ、愛するは、陶の後、聞く有ること、鮮(すくな)し。蓮を之れ愛するは、予に同じき者、何人(なんぴと)ぞ、牡丹を、之れ、愛するは、宜(むべ)なるかな、衆(おほ)きこと。)

「曹大家(さうたいか)の女誡(ぢよかい)」「たいか」はママ。後漢の中国初の女性歴史家で作家の班昭(四五年?~一一七年?)の著になる『曹大家(こ)「女誡」』(「家」は「か」ではなく「こ」と読み慣わすらしい)。班昭は曹世叔という人の妻であったことから、曹大家(たいこ)と尊称された。和熹太后に仕え、宮廷で教育係として重きをなし、兄班固の著わした歴史書「漢書」を彼の亡き後、引き継いで完成させたことでも知られる。「女誡」は彼女が婚期を迎えた自分の娘のために書き記した教訓書(女性教育書)であるが、当時の知識人に歓迎されて広く流布し、中国の女訓書の原型ともいうべきものとなった。「卑弱第一」「夫婦第二」「敬愼第三」「婦行第四」「専心第五」「曲從第六」「和叔妹第七」という構成と内容を持つ(「奈良女子大学学術情報センター」の解説を参考にした)。その「專心章」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る(本文は全百七十五字。リンク先の後には注解が附されてある)。個人サイト「兩漢魏晉學庵」の曹世叔妻伝の「専心第五」に以下のように訳されてある。

   《引用開始》

礼に、夫が再度妻を娶る道は記されているが、妻が再度夫に嫁ぐという文は無い。(※儀礼に曰く。父が生きている時は、母の為の服喪をどうして一年とするのか。最も尊い者が生きている時は、敢えて服喪を伸ばさないのである。父は必ず三年の喪に服して後に(後妻を)娶る。子の志を達する為である。)

故に夫は天であると言うのである。(※儀礼に曰く。夫は妻の天である。婦人が二夫に仕えないのは、天を二つに割る事はできないという事と同じである。)天から逃げる事はできず、夫から離れる事はできないからである。

行いが神祇の心に違えば、天はこれを罰し、行いが礼儀に違えば夫はこれを大切にしなくなる。

故に女憲に「一人(の夫)の心を得る事、これを永畢(一生添い遂げる)という。一人(の夫)の心を失う事、これを永訖(一生独り身で終える)という。」と言うのである。

これにより述べるならば、夫の心を得なくてはならないのである。

必要なのは、媚びへつらい適当に親しむという事ではない。本より夫に心を専らにし、容儀を正す事が第一である。

礼儀を守り潔白であり、道端の声を聴かず、横目で物を見る事無く、外に出ては艶やか過ぎず、家の中でも身なりに気を遣い、他人と群集まる事無く、家の前を見張る事が無い。これを心を専らにして容儀を正すという。もし、挙措が軽薄で、落ち着き無く周りを眺めたり聞き耳を立て、家の中では髪を乱して身なりを整えず、外に出ては艶めかしく媚を売り、言葉は道に外れ、見るべきでない物を見る。これを心を専らにして容儀を正す事ができないという。

   *

本小説に於けるキー・ポイントは、この主張の核心にある「女の再婚を決して許さぬ」誡である。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝸牛(かたつむり)


Katatumuri

かたつふり  蠡牛 蚹羸

 蝓 山蝸

       蝸羸 蜒蚰羸

蝸牛

       土牛兒

       【和名加太

        豆不利】

コウ ニウ

 

本綱蝸牛生池澤草樹間形似小螺白色頭形如蛞蝓但

背負殼耳頭有四黒角行則頭出驚則首尾俱縮入殻中

其身有涎能制蜈蝎夏熱則自懸葉下往往升高涎枯則

自死也此蟲有角如牛故得牛名

     夫木牛の子にふまるな野へのかたつふり角あれはとて身をはたのみそ

                   寂蓮

△按蝸牛【俗出出蟲】有而四角二者其短其短者非角露眼之

 甚者也物觸則縮角出入最速

 莊子所謂有國于蝸牛左角者曰蠻民國于右角者曰

 觸氏爭地而戰伏尸數萬者是也蓋蟭螟蟲窠蚊睫之

 類共是寓言耳

蝸牛 治小便不通者搗之貼臍下以手摩之【加麝香少許更妙】

 又治脱肛【虛冷毎因大便脱肛】用蝸牛【燒灰】豬油和傅立縮

緣桑蠃 【一名桑牛又名天螺】

本綱此螺全似蝸牛黃色而小雨後好緣桑上者取用藥

正如桑螵蛸之意主治大腸脱肛及驚風

 

 

かたつぶり  蠡牛〔(れいぎう)〕

       蚹羸〔(ふるい)〕

       
蝓〔(いゆ)〕

       
山蝸〔(さんくわ)〕

       蝸羸〔(くわるい)〕

       蜒蚰羸〔(えんゆるい)〕

蝸牛

       土牛兒

       【和名、「加太豆不利」。】

コウ ニウ

 

「本綱」蝸牛は池澤・草樹の間に生ず。形、小さき螺〔(にな)〕に似て、白色。頭の形、蛞蝓(なめくぢ)のごとし。但し、背に殻を負ふのみ。頭に四つの黒き角、有り。行くときは、則ち、頭を出だす。驚くときは、則ち、首尾、俱に縮(ちゞ)まり、殻の中に入る。其の身に涎〔(よだれ)〕有りて、能く蜈(むかで)・蝎(さそり)を制す。夏、熱するときは、則ち、自〔(みづか)〕ら葉の下に懸かり、往往〔にして〕高きに升(のぼ)る。涎、枯るれば、則ち、自〔(おのづか)〕ら死す。此の蟲、角、有りて、牛のごとし。故に牛の名を得。

「夫木」

 牛の子にふまるな野べのかたつぶり

     角あればとて身をばたのみそ

                 寂蓮

△按ずるに、蝸牛【俗に「出出蟲〔(ででむし)〕」。】四つの角有りて、二つは短かし。其の短かき者は角に非ず、露-眼(でめ)の甚しき者なり。物に觸れて、則ち、縮(ちぢ)んで、角を出入すること、最も速し。

「莊子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蝸牛の左の角に國〔(くに)〕有るをば「蠻民」と曰ふ。右の角に國ある者を「觸氏」と曰ふ。地を爭ひて戰ふ。尸〔(しかばね)〕を伏すること、數萬』といふは、是れなり。蓋し、蟭螟蟲〔(せうめいちゆう)〕、蚊の睫(まつげ)に窠(すく)ふの類〔(たぐひ)〕、共〔(とも)〕に是れ、寓言〔たる〕のみ。

蝸牛 小便の通ぜざる者を治す。之れを搗きて臍の下に貼(つ)けて、以つて手〔に〕て之れを摩つ【麝香、少し許り、加〔ふれば〕、更に妙なり。】。又、脱肛を治す【虛冷〔にして〕毎〔(つね)〕に大便に因りて脱肛〔せるもの〕。】蝸牛を用ひて【灰に燒く。】豬〔(ぶた)〕の油に和して、傅く。立〔ちどころに〕縮むる。

緣桑蠃(くはのきのかたつぶり) 【一名、「桑牛」、又、「天螺」と名づく。】

「本綱」、此の螺、全く、蝸牛に似て、黃色にして小さし。雨の後に、好んで桑の上に緣(はひのぼ)る者、藥に取り用ふ。正に桑螵蛸〔(さうへうせう)〕の意ごとし。大腸脱肛及び驚風を治することを主〔(つかさど)〕る。

 

[やぶちゃん注:軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda有肺目 Pulmonata の内の陸生有肺類で貝殻を持つ種群(貝殻を失ったナメクジを除く)であるが、一般的には殻が細長くないものを指すことが多い。或いは真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科 Helicoidea或いはそのマイマイ上科 Helicoidea オナジマイマイ科 Bradybaenidae マイマイ属 Euhadra に属する種群(模式(タイプ)種はミスジマイマイ(三条蝸牛)Euhadra peliomphala。樹上性で、関東地方南部から中部地方東部に分布する日本固有種。関東地方南西域・中部地方南東部・伊豆諸島の神津島以北に分布)が我々日本人が「かたつむり(蝸牛)」と称しているものをほぼ包括すると言ってよかろう。

 

「かたつぶり」ウィキの「カタツムリ」の「名称」によれば、『日本語における名称としてはカタツムリの他に、デンデンムシ、マイマイ、蝸牛(かぎゅう)などがある。語源については諸説がある』とし、「カタツムリ」は『笠つぶり説、潟つぶり説、片角振り説など諸説ある』が、『「つぶり」は古語の「つび(海螺)」で巻貝を意味する』ところはほぼ確定的と私は思っている。「デンデンムシ」は『子供たちが殻から出ろ出ろとはやし立てた「出ん出ん虫」(「出ん」は出ようの意)であるとの説があ』り、「マイマイ」は『「デンデンムシ」と同様に子供たちが』「舞え! 舞え!」『とはやし立てたことに由来するとの説がある』。また、漢名「蝸牛」は『動作や頭の角がウシを連想させたためとみる説がある』。『柳田國男はカタツムリの方言(デデムシ、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジ)の分布の考察を通して、『蝸牛考』において方言というものは時代に応じて京都で使われていた語形が地方に向かって同心円状に伝播していった結果として形成されたものなのではないかとする「方言周圏論」を展開した』ことで知られるが、『晩年の柳田は方言周圏論の問題点を認識するようになっていた』と附す。私はこの柳田國男の「蝸牛考」が好きで、既にその初版をブログのカテゴリ「柳田國男」で総て電子化注している(二〇一五年二月二十四日から二〇一六年二月十三日までの二十八回分割)ので、関心のある方は、是非、お読み下さると幸いである

「蚹羸」「本草綱目」原典や東洋文庫版では「蚹蠃」とし、後者はルビを『ふら』とする。但し、中文本草を調べる限り、「羸」でも誤りではない。それでも、「蠃」は巻貝を指す一般的な字であるから、こちらの方が判り易いことは事実である。

蝓」東洋文庫は「蝓」に作るが、同字。「本草綱目」も「」となっている。

「蝸羸」「蚹羸」と同じく「本草綱目」原典や東洋文庫版では「蝸蠃」で、ルビを『から』とする。同じく「蠃」の方が判り易い。以下、「蜒蚰羸」「蝸羸」「蜒蚰羸」の「羸」も同前。

「其の身に涎〔(よだれ)〕有りて、能く蜈(むかで)・蝎(さそり)を制す」一部の海産巻貝の外套膜から分泌される粘液に弱毒性があるやに記憶しているが、カタツムリのそれが有毒で、ムカデやサソリまでもがそれを忌避するというのは聴いたことがない(但し、カタツムリ類に寄生する寄生虫は非常に危険で、ヒトに日和見感染して脳に入り込んだりした場合には重い症状を呈することはある)。

「升(のぼ)る」「昇る」。

「牛の子にふまるな野べのかたつぶり角あればとて身をばたのみそ」「夫木和歌抄」の「卷廿七」の「雜九」に載る寂蓮法師の一首であるが、「野べ(野邊)」は「庭(には)」の、「角あればとて」は字余りで「角のあればとて」の誤り。整序して示すと、

 牛の仔に踏むまるな庭のかたつぶり角(つの)のあればとて身をば賴みそ

である。

「四つの角有りて、二つは短かし。其の短かき者は角に非ず、露-眼(でめ)の甚しき者なり」誤り。カタツムリ類は大触角一対と小触角一対の計四本が通常伸ばしている際には「つの」のように突き出ているが、上方の大触覚の先に眼がある(但し、明暗を認識するだけで、視覚的に像を結ぶことはないと考えられている)。因みに、童謡に出る「やり」は、この「つの」、触角ではなく、恋矢(れんし)と言う交尾管(陰茎)(カタツムリは雌雄同体で、二匹が互いにこれを出し合って角の後方側面にある生殖孔(右巻きでは右側、左巻きでは左側)に互にそれを挿入し合う形で交尾が行われる)で、普段は軟体部中央下部の矢嚢に収納されており、見ることはないが、交尾の際、内部からそれが反転翻出する

『「莊子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蝸牛の左の角に國〔(くに)〕有るをば「蠻民」と曰ふ。右の角に國ある者を「觸氏」と曰ふ。地を爭ひて戰ふ。尸〔(しかばね)〕を伏すること、數萬』』「蠻民」は「觸氏」の誤りであり、「觸氏」は「蠻氏」の誤り。これは「荘子」の「則陽篇」の以下の下線太字部分。全体は、魏の恵王が隣国斉が盟約を破ったことに憤って斉を責めようとしたのを、魏の宰相で荘子の友人であった恵子がそれを押し留めるために魏の賢人戴晋人(たいしんじん)を呼んで、意見を述べさせるシークエンスの譬え話である。但し、恵子は恵王の子の襄王の時の宰相であるから、作り話である。

   *

惠子聞之而見戴晉人。戴晉人曰、「有所謂蝸者、君知之乎。」。曰、「然。」。「有國於蝸之左角者曰觸氏、有國於蝸之右角者曰蠻氏、時相與爭地而戰、伏尸數萬、逐北旬有五日而後反。」。君曰、「噫、其虛言與。」。曰、「臣請爲君實之。君以意在四方上下有窮乎。」君曰、「無窮。」。曰、「知遊心於無窮、而反在通達之國、若存若亡乎。」。君曰、「然。」。曰、「通達之中有魏、於魏中有梁、於梁中有王。王與蠻氏、有辯乎。」君曰、「無辯。」。客出而君惝然若有亡也。

   *

惠子、之れを聞きて戴晋人を見(まみ)えしむ。戴晋人、曰く、「所謂、蝸(くわ)なる者、有り、君(きみ)、之れを知るか」と。曰く、「然り。と。「蝸の左角(さかく)に國(くに)する者有り、『觸氏(しよくし)』と曰ふ。蝸の右角(いうかく)に國する者有り、『蠻氏(ばんし)』と曰ふ。時に相ひ與(とも)に地を爭ひて戰ひ、伏尸(ふくし)、數萬、北(に)ぐるを逐(お)ひて旬(じゆん)有(いう)五日(ごにち)[やぶちゃん注:十五日。]にして、後(のち)反(かへ)る。」と。君、曰く、「噫(ああ)、其れ、虛言ならんか。」と。曰く、「臣、請ふ、君の爲に之れを實にせんを[やぶちゃん注:では、私めは、本当のことを王のために言わせて貰いたく存じます。]。君、四方上下[やぶちゃん注:全宇宙。]を在(み)るに、窮まり有りと以-意(おも)ふや。」と。君、曰く、「窮まり無し。」と。曰く、「心を無窮に遊ばしむるを知りて、反(かへ)つて通達の國[やぶちゃん注:実際に道が通っていて行くことが出来る国。]を在(み)れば、存(そん)するがごとく亡きがごときか。」と。君、曰く、「然り。」と。曰く、「通達の中(うち)に、魏、有り。魏の中に於いて、梁[やぶちゃん注:魏の首都。]、有り。於梁の中に於いて、王、有り。王と蠻氏と、辯(わきまへ)有るか。」と。君、曰く、「辯へ、無し。」と。客、出でて、君、惝然(しやうぜん)として亡(うし)なふもの有るがごとし。

   *

「蟭螟蟲〔(せうめいちゆう)〕、蚊の睫(まつげ)に窠(すく)ふ」先行する蚊(か) 附 蚊母鳥の本文の「蟭螟」及び私の注を参照。

「寓言」譬え話。

「摩つ」送り仮名はママ。「まつ」と読んでいるか。東洋文庫訳は『摩擦する』とある。擦り撫でる。

「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ(麝香鹿)属 Moschus のジャコウジカ類の成獣のには、を誘うための性フェロモンを分泌する麝香腺が陰部と臍の間にあるが、これは、その嚢を抜き取って乾燥させたもの。一般には媚薬として珍重される。

「虛冷」腹の中が精気がなくなって冷えている状態。

「大便に因りて脱肛〔せるもの〕」大便の排泄時に限って脱肛する症状。

「灰に燒く」十分に焼いて灰にする。

「縮むる」脱肛が戻る。

「緣桑蠃(くはのきのかたつぶり)」「桑牛」「天螺」この「蠃」はママ。浜田善利難波恒雄論文「生薬牛の研究) 縁桑螺の基源動物について」(『薬史学雑誌』1990Vol. 25No.1(PDF)の十四ページから開始)という恐るべき詳細な考証によって、これは有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科オナジマイマイ属Bradybaena ravida に同定されている。

「桑螵蛸〔(さうへうせう)〕」東洋文庫注に『螵蛸はかまきりが木の上に卵を生んでつくる房のこと。桑の木の上にある正にものが薬用としてよいものとされる』とある。

「の意ごとし」東洋文庫訳では『の場合とよく似ている』とする。

「驚風」複数回既出既注であるが、再掲する。一般には小児疾患で「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。]

2017/10/16

老媼茶話巻之三 女大力

 

     女大力(をんなだいりき)

 

 三州吉田の城主、池田三左衞門輝政の妹、惡女にて大力(だいりき)なり。山崎左馬之助妻と成(なり)、離別の後、剃髮して天久院といふ。

 ある時、吉田城内、狼籍者、有(あり)。

 人、數多(あまた)、斬殺(きりころ)し、天久院のもとへ切入(きりい)

 天久院、鉢卷をし、袴の裾、高くからげ、大長刀(おほなぎなた)をかい込(こみ)、仁王立(にわうだち)にたち、大(だい)の眼(まなこ)を見ひらき、扣(ひかへ)玉へば、狼籍もの、此けんまくをみて、大きに恐れ、逃行(にげゆく)を、追懸(おひかけ)、串切(くしざし)に切放(きりはなし)し玉ふ。

 凡(およそ)、百人力有(あり)と、いへり。

 又、吉田城中に化物ありて、女房のうせける事、數多(あまた)也。人々、おそれおのゝく。

 或日、天久院の、ぼたん臺(だい)の下に生敷(なましき)人のほね、あり。

 是を見る者、

「化物、他より通ひ來(きた)るにあらず。城中に紛居(まぎれゐ)たり。」

とて、彌(いよいよ)、怪(あやし)み、おそれける。

 ある夜、天久院、つふりへ、女の衣裳をかぶり、寢たるふりをなしてうかゞひ給ふに、「小ちく」といふ女房、此所へ來り、頻りに高鼻をかぎて、馬の息のごとし。

 天久院、ひそかに是を見玉ふに、彼(かの)女房、氣色(けしき)、すさまじく成(なり)、眼(まなこ)、光(ひかり)、口、耳の際(きは)迄、さけ、天久院飛懸(とびかか)り、衣裳ぐるみにおしつゝみ、表へ、かけ出(いで)むとする。

 天久院、腕をのべ、件(くだん)の化物のつふりを、

「みし。」

と、とらへ、抓(つかみ)ふせ玉へば、牛のほへるごとく、うなりけるを、こぶしを握り、つぶりをはりつぶし玉へり。

 尾、二股にさけ、五尺餘の大猫にてありし、となり。

 

[やぶちゃん注:恐るべき烈女である!

「三州吉田」三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町にある豊橋公園内)にあった城。戦国時代の十六世紀初頭にその前身が築城され、十六世紀末に大改築が行われた。戦国時代には三河支配の重要拠点の一つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁となった(以上はウィキの「吉田城」に拠る)。

「池田三左衞門輝政」(永禄七(一五六五)年~慶長一八(一六一三)年)は安土桃山から江戸前期にかけての大名。美濃池尻城主・同大垣城主・同岐阜城主から、この三河吉田城主を経て、播磨姫路藩の初代藩主となり、姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。天正一八(一五九〇)年の小田原征伐・奥州仕置での功績によって、同年九月に秀吉の命で吉田城主となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」で前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げ(岐阜城の戦い)それによって戦後、家康の命で播磨姫路に加増移封されて姫路藩主となっているから、ここは冒頭で「三州吉田の城主」と言っている以上、その閉区間が作品内時制となる。

「山崎左馬之助」山崎家盛(永禄一〇(一五六七)年~慶長一九(一六一四)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名で摂津国三田城主・因幡国若桜藩初代藩主。ウィキの「山崎家盛によれば、「関ヶ原の戦い」で、『石田三成の挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝える一方、大垣城に拠っていた三成と面会し西軍に与することを約束した。家盛は、西軍として細川幽斎が守る丹後国田辺城攻め(田辺城の戦い)に加わるが、積極的に攻め入ることなく、ほとんど膠着状態のまま帰結した。戦後、家盛は西軍に与した罪により』、『改易されそうになるが、義兄・池田輝政の尽力』『や三成の挙兵の報告をした功があるとして許され』、慶長六(一六〇一)年『に因幡若桜』『に加増転封となった』とある。彼女との離別の年次は明らかではないが、こちらの記事(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ : 池田家の猛女、天球院と関ヶ原)によれば、『家盛は側室を作って正妻ほったらかしで殆ど家に戻ろうともしなかった』ともあり、それ以下の関ヶ原以降の叙述を読む限りでは、「関ヶ原の戦い」の直後には別居していたと読める。池田輝政に再嫁した徳川家康二女督姫(良正院)を妻とともに救ったという、物語佐馬奥方三田)(PDF)では二人がともに謀って戦国を乗り切ったとあるが、どうも前のリンク先の話の方がしっくりくる(そこでは弟で因幡鳥取藩初代藩主池田長吉(ながよし)の所に行って弟に養わせたともある)。

「天久院」天球院が正しい(永禄一一(一五六八)年~寛永一三(一六三六)年)。輝政の妹。山崎家盛との間には子はなく後に離縁して池田家に戻った。龍峰寺の江山景巴に帰依し、寛永八(一六三一)年に妙心寺天球院の開基となっているらしい。

「けんまく」「劍幕(見幕・權幕)」。怒って興奮しているさな。いきり立って荒々しい態度や顔つき。

「串切(くしざし)に切放(きりはなし)し玉ふ」腹部辺りを一突きにした後、その胴体を完全に上下に切り離したということであろう。とんでもない臂力(ひりょく)である。

 凡よそ)、百人力有(あり)と、いへり。

「うせける事」「失せける事」。

數多(あまた)也。人々おそれおのゝく。

「ぼたん臺(だい)」「牡丹臺」。城の中の庭園の牡丹の鉢植えを並べた観賞用の棚であろう。

「生敷(なましき)」未だ新しい骨。舐りそこなった皮肉などが附着していたものかも知れぬ。

「つふり」頭。

「女の衣裳をかぶり」彼女は剃髪して尼僧の格好をしているのであるが、か弱く見せて化け物に油断させるため、女房の上着を被ったのである。

「小ちく」「こちく」でよかろう。女房の名。

「高鼻をかぎて」高く鼻を上げては、何か、ものを嗅ぐ様子を見せて。

「のべ」「伸べ」。

「こぶしを握り、つぶりをはりつぶし玉へり」何もつけていない素手の拳固で、巨大な(「五尺」は一・五メートル)猫又の頭を殴りつけて、完全に潰してしまったというのである。恐るべし!

「尾、二タ股にさけ」妖怪猫又。詳しくは「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」の私の注を参照されたい。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その2) / 四 怪傑沈氏~了

 

 世外民といふ風變りな名を、私はこの話の當初から何の説明もなしに連發してゐることに氣がついたが、これは私の臺灣時代の殆んど唯(ゆゐ)一の友人である。この妙な名前はもとより匿名である。彼のペンネームである。彼の投稿したものを見て私はそれを新聞に採錄した。私は彼の詩――無論、漢詩であるが、その文才を十分解(かい)したといふわけではないが、寧ろその反抗の氣概を喜んだのである。しかし、その詩は一度採錄したきりだつた。當局から注意があつて、私は呼び出されて統治上有害だと言ふのでその非常識を咎められた。再度の投稿に對しては、私は正直にその旨を附記して返送した。すると、世外民は私を訪ねて遊びに來た。見かけは優雅な若者であつたが、案外な酒徒で、盃盤が私たちを深い友達にした。彼は臺南から汽車で一時間行程の龜山(クウソアム)の麓の豪家(がうか)の出(しゆつ)であつた。家は代秀才を出したといふので知られてゐた。その頃の私は、つまらない話だが或る失戀事件によつて自暴自棄に堕入(い)つて、世上のすべてのものを否定した態度で、だから世外民が友達になつたのだ。この頃の私にいつも酒に不自由させなかつたのがこの世外民だ。だが私が世外民の幇間(ほうかん)をつとめたと誰(たれ)も思ふまい。第一に世外民は友をこそ求めたが幇間などを必要とする男ではなかつた。私はその點を敬してゐた。――この話として何(なん)の用もあることではないが、私の交遊錄を抄錄したまでである。彼が私との訣別を惜んで私に與へた一詩を私は覺えてゐる。――あまり上手な詩でもないさうだが、私にはそんなことはどうでもいい。

 

    登彼高岡空夕曛

    斷雲孤鵠嘆離群

    溫盟何不必杯酒

    君夢我時我夢君

 

[やぶちゃん注:最後の漢詩は底本では総ルビで縦に二句で二行であるが、前を一行空けで、かく、示した。漢詩をルビに従って漢字仮名交りで書き下してみる。

 

 彼(か)の高岡(かうかう)に登れば 空しく夕曛(せきくん)

 斷雲(だんうん)の孤鵠(ここう) 離群(りぐん)を嘆く

 溫盟(をんめい) 何ぞ杯酒を必(ひつ)とせんや

 君(きみ) 我を夢みむ時 我 君を夢みむ

 

起句の「夕曛」は落日の余光をいう。「鵠」は大型の白い水鳥。白鳥や鸛(こうのとり)に相当。「溫盟」は心の籠った暖かな友情の契り。

「堕入(い)つて」ママ。何故か「堕」にはルビがない。「おちいつて」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 自然


Sizen

   自然

 

 地面の下の、大きな部屋にゐる夢を見た。高い天井の部屋で、やはり地下の光を思はせる明暗のない明るさに滿ちてゐる。

 部屋の中央に一人の氣崇い女性が、寛やかな綠衣を着て坐つてゐる。片手に頰を支へて、深い思ひに耽るらしい。

 私は一目見て、この女性こそ『自然』なのだと覺つた。すると忽ち激しい畏怖が、氷のやうに魂の底までしみ渡つた。

 私はその女性に近づいて、恭々しく一禮して呼びかけた。

 「おお、人みなの母上、何をお考へですか。もしや人類の行末の事ではありますまい。どうしたら彼らの手に、できる限りの完成と至福を、授けてやれようかといふ事ではありますまいか。」

 女性は悠然と、その暗い怖しい眸を私に向けた。唇が動くかと思ふと、鐡を打ち合はせでもするやうな大聲が響いた。

 「私は、どうしたら蚤の脚の筋を、もつと丈夫にしてやれるか知らと考へてゐるのだよ。敵の手を逃れるのに都合のいいやうにね。今では攻防の釣合ひが破れたから、また元通りにしなくてはいけない。」

 「なんですつて」と私は吃つた、「そんな事をお考へですか。私ども人類は、あなたの愛する子等ではありませんか。」

 女性は微かに眉を顰めた。

 「天地の間に何一つ、私の子供でないものはない」と、やがて彼女は言つた、「私は皆同じ樣に面倒を見てやるし、皆同じやうに滅してやるのだよ。」

 「ですが善は、理性は、正義は?……」と私はまた口籠つた。

 「それは人間の言葉ぢやないの」と、鐡のやうな聲が答へた、「私の眼には善も惡もない、理性も私の掟ぢやない。それから正義つて一體なんのことなの。私はお前さんたちに生命を上げました。私はそれを取返して、また他の物に遣るのだ。蛆蟲に遣らうと、人間に遣らうと、私としちや同じ事です。……お前さんたちはお前さんたちで、せいぜい自分の事に氣をつけるがいいのさ、私の邪魔だてをしてお呉れでない。」

 私が何か言返さうとしたとき、遽かに大地が搖れて、陰に籠つた地鳴りがしたので、目がさめた。

             一八七九年八月

 

[やぶちゃん注:「遽かに」「にはかに(にわかに)」。]

和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚯蚓(みみず)


Mimizu

みみす  螾 

     曲蟺 寒

 蟺 堅蚕

蚯蚓

     歌女。地龍子

     【和名美々須】

キウイン

 

本綱平澤地中有之四月始出十一月蟄結雨則先出晴

則夜鳴其鳴長吟故曰歌女其行也引而後申其塿如丘

故名蚯蚓或云結時能化爲百合也與𧒂螽同穴爲雌雄

今小兒陰腫多以爲此物所吹如咬人形如風眉鬚皆

落惟以石灰水浸之良

蚯蚓【鹹寒有小毒】 路上踏殺者名千人踏入藥更良蓋性寒

而下行性寒故能除諸熱疾下行故能利小便治足疾通

經絡也【孟子所謂蚓上食稿壤下飮黃泉故性廉而寒】

蚯蚓屎曰六一泥以其食細泥無沙石也性畏葱及鹽鹽

之日暴則須臾成水亦安葱内亦化成水也

△按蚯蚓其老大者白頸【和名可布良美々須】一種有青白色縱黒

 文者人觸急動走今人は用蚯蚓【去泥】生以酒呑之以爲

 聲音藥最有効然本草不載爲聲音藥且性寒有小毒

 不熱症人漫勿用蓋據長吟歌女之名義者乎

 爲蚯蚓及蟻所吹小兒陰腫者以火吹簡令婦人吹之

 或用蟬蛻煎水洗仍服五苓散卽腫消痛止

深山中有大蚓丈余者近頃丹波柏原遠坂村大風雨後

 山崩出大蚯蚓二頭一者一丈五尺一者九尺五寸人

 爲奇物也異國亦有大蚓出

 東國通鑑云髙麗太祖八年宮城東蚯蚓出長七十尺

 時謂渤海國來投之應

 

 

みみず  螾〔(きんいん)〕  䏰〔(くじん)〕

     曲蟺〔(きよくぜん)〕 寒〔(かんけん)〕

 蟺〔(ゑんぜん)〕  堅蚕〔(けんさん)〕

蚯蚓

     歌女〔(かぢよ)〕   地龍子〔(ちりやうし)〕

     【和名、「美々須」。】

キウイン

 

「本綱」、平澤・地中に之れ有り。四月、始めて出づ。十一月、蟄結〔(ちつけつ)〕す。雨ふるときは、則ち、先づ、出で、晴るるときは、則ち、夜る、鳴く。其の鳴くこと、長吟す。故に「歌女」と曰ふ。其れ、行くことや、引きて、後〔(のち)〕、申〔(の)〕ぶ。其の塿〔(つち)〕、丘のごとし。故に「蚯蚓」と名づく。或いは云ふ、結〔(けつ)〕する時、能く化して百合と爲る〔と〕。𧒂螽〔(いなご)〕と穴を同〔じく〕し、雌雄を爲す。今、小兒〔の〕陰、腫るること、多くは以つて此の物の爲に吹かるゝごとし。人を咬めば、形、大風〔(たいふう)〕のごとくにして、眉・鬚、皆、落つ。惟だ、石灰の水を以つて之れを浸して、良し。

蚯蚓【鹹、寒。小毒有り。】 路上に踏み殺さるゝ者を「千人踏〔(せんにんたう)〕」と名づく。藥に入るるに、更に良し。蓋し、性、寒にして下行し、性、寒なる故、能く諸熱の疾を除く。下行する故に、能く小便を利し、足の疾を治し、經絡を通すなり【「孟子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蚓〔(いん)〕は、上は稿壤〔(こうじやう)〕を食ひ、下は黃泉〔(くわうせん)〕を飮む』〔と〕。故に、性、廉〔(つつまし)くし〕て寒なり。】。

蚯蚓の屎(くそ)を「六一泥〔(りくいつでい)〕」と曰ふ。以其れ、細かなる泥を食ひて、沙石無きを以つてなり。性、葱及び鹽〔(しほ)〕を畏る。之れに鹽(しほ)〔を〕つけ、日に暴〔(さら)〕せば、則ち、須臾〔にして〕水と成る。亦、葱の内に安(を)きても亦、化して水と成るなり。

△按ずるに、蚯蚓、其の老いて大なる者は「白頸」なり【和名、「可布良美々須〔(かふらみみず)〕」。】一種、青白色にして縱(たつ)に黒き文〔(もん)〕の者、有り、人、觸るれば、急に動き走る。今、人は蚯蚓を用ひて【泥を去る。】、生〔(なま)〕にて、酒を以つて之れを呑めば、以つて聲音の藥と爲り、最も、効、有り。然れども、「本草」に聲音の藥たること載せず。且つ、性、寒、小毒、有〔れば〕、熱症ならざる人、漫(みだり)に用ふること勿〔(な)〕かれ。蓋し、長吟〔より〕「歌女」の名義に據〔(よ)〕る者か。

 蚯蚓及び蟻の爲めに吹かれて、小兒〔の〕陰、腫るる者は、火吹簡(〔ひふき〕だけ)を以つて婦人をして之を吹かしむ、或いは蟬蛻〔(せんぜい)〕を用ひて、水に煎じて、洗い、仍〔(すなは)〕ち、五苓散〔(ごれいさん)〕を服すれば、卽ち、腫れ、消え、痛み、止〔(や)〕む。

深山の中に、大蚓〔(おほみみず)〕、丈余の者、有り。近頃、丹波柏原遠坂村、大風雨の後、山、崩れ、大蚯蚓二頭を出〔(いだ)〕す。一つは一丈五尺、一つは九尺五寸。人、奇物と爲すなり。異國にも亦、大蚓出〔(いづ)〕ること有り。

「東國通鑑」に云はく、『髙麗太祖八年、宮城〔(きうじやう)〕の東に、蚯蚓、出づ。長さ七十尺。時に渤海國來投の應なりと謂ふ。

 

[やぶちゃん注:環形動物門 Annelida 貧毛綱 Oligochaeta のミミズ類。本邦で一般的に知られる種はナガミミズ目ツリミミズ科 Eisenia 属シマミミズ Eisenia fetida である。

 

「みみず」勘違いしている方も多いので言っておくと、歴史的仮名遣でも「みみず」であって、「みみづ」ではない。これは有力な語源説である「目不見(めみえず)」からも立証出来る

螾〔(きんいん)〕」以下の別名の読みは東洋文庫を参考に歴史的仮名遣で示した。

「平澤」平地の沢。

「蟄結す」穴籠りする。

「夜る、鳴く。其の鳴くこと、長吟す」既に何度も述べた通り、ミミズに発声器官はなく、鳴かない。直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ(螻蛄)類の鳴き声の誤認である。しかし、「歌女」という別名は、何とも、いい。

「申〔(の)〕ぶ」「伸(の)ぶ」(伸びる・伸ばす)に同じい。

「塿〔(つち)〕」東洋文庫訳の読みを援用した。

「結〔(けつ)〕」先の「蟄結」の意。

「能く」しばしば。

「化して百合と爲る」これなら「歌女」の異名もしっくりくる。

𧒂螽〔(いなご)〕」既出項。直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類。それにしても「穴を同〔じく〕し、雌雄を爲す」という説は驚き桃の木山椒の木だね!

「小兒〔の〕陰」小児の陰部。ほれ、ミミズに小便かけるとおちんちんが腫れる、だ! 凄いね、中国の本草書に早くからかく書かれていたんだね。

「以つて此の物の爲に吹かるゝごとし」このミミズに毒の気を吹きかけられたために発症したのである、という意味。

「人を咬めば」ミミズは人を咬みません! 何か、別種の蠕動性の生物類(ムカデ等)を誤認しているように思われる。

「大風」東洋文庫訳では、『風寒・風熱等が原因となっておこる病気の重症のもの』とするが、漢方で「大風」と言った場合、圧倒的にハンセン病のことを指す。顔面の体毛が殺げ落ちるというのは、後者の症状の一様態とした方が腑に落ちる。

「千人踏」千人の人の影の精気をその死骸に受けることによる呪的霊力を保持すると考えたのである。

「寒」エネルギ属性が下位の、陰気を主とする属性。

「下行」漢方で総ての下に向かう流れ(運動方向・推移様態・現象傾向)を指す。

『「孟子」に所謂〔(いはゆ)〕る、『蚓〔(いん)〕は、上は稿壤〔(こうじやう)〕を食ひ、下は黃泉〔(くわうせん)〕を飮む』〔と〕』「孟子」「滕文公章句下」の最終章に出る。斉の匡章(きょうしょう)が孟子に自国の斉の陳仲子(ちんちゅうし)を清廉の士として讃えたの対して孟子が反論した一節に出る。

   *

孟子曰、於齊國之士、吾必以仲子爲巨擘焉、雖然仲子惡能廉、充仲子之操、則蚓而後可者也、夫蚓上食槁壤、下飮黃泉、仲子所居之室、伯夷之所築與、抑亦盗跖之所築與、所食之粟、伯夷之所樹與、抑亦盗跖之所樹與、是未可知也。

(孟子曰く。「齊國の士に於ては、吾、必ず仲子を以つて巨擘(きよはく)とせん。然りと雖も、仲子惡(いづく)んぞ能く廉ならん。仲子が操を充つるときは、則ち、蚓(いん)にして後に可なる者なり。夫(そ)れ、蚓は、上、槁壤を食らい、下、黃泉を飮む。仲子が居る所の室は、伯夷が築く所か。抑々(そもそも)、亦、盜跖〔(たうせき)〕が築く所か。食らふ所の粟は、伯夷が樹(う)うる所か。抑々、亦、盜跖が樹うる所か。是れ未だ知んぬべからず、と。)

   *

「巨擘」手の指の親指の如く突出した人物。「稿壤」は乾いた土のこと。「黃泉」は濁った地下の水。ここでの孟子は孝・忠の原則を自然でないとして独り清廉に生きん者ならば、それはミミズにでもなれらねば達成できぬことだと論破しているのであるが、このシークエンスでの孟子は如何にも厭な感じがする。

「廉〔(つつまし)くし〕て」読みは東洋文庫訳のルビを参考にした。清廉にして。多分に前の「孟子」の謂いが影響した謂いである。

「六一泥〔(りくいつでい)〕」東洋文庫注に『泥が六、沙石が一の割合ということであろうか。『本草綱目』には陶弘景の言として「入合丹据釜用」とあるので、道教で丹を調合するとき、調合薬を入れた釜を泥封するのに用いるということであろう。しかし、六一泥にはもう一つあり、それは雌黄・牡蠣殻・胡粉・石灰・赤石脂・食塩末など六つの材料各一両を水で調合したものをいう。『抱朴子』(金丹)に出てくる、金丹をつくるために調合した薬材を泥封するに用いる六一流とは、こちらの方のようである』とある。

「之れに鹽(しほ)〔を〕つけ、日に暴〔(さら)〕せば、則ち、須臾〔にして〕水と成る」こりゃ、ナメクジみたようだが、塩をかけて日光に曝せば、ミミズは体液を水のように吸い出されて確実に死ぬ。しかし、水になるわけでは、無論、なく、雨後に溺死した死骸として長く見かけるように、干からびても外皮のクチクラ層はしっかり残る。

「葱の内に安(を)きても亦、化して水と成る」ミミズの飼育サイトに餌として絶対に入れてはいけないものとして「辛いもの・塩分の濃いもの」としてネギが挙げてある。しかし、Q&Aサイトのネギ農家の質問で、収穫した葱のゴミの部分を畑の中に山のように置いているが、その下に多数のミミズが棲息しているとあるから、ミミズがネギを忌避するとは思われない

「白頸」以下に和名を別に出す以上は「はつけい(はっけい)」と読むべきか。これは所謂、成体のミミズの頭部方向に存在する「環帯」のことを指していよう。個体によってこの部分は他の体節より色が薄く、この名が腑に落ちるからである。ウィキの「ミミズ」によれば、『成熟したミミズは、体の前の方にいくつかの体節にまたがった肥大した帯状部分を持つ。この部分は外見では中の体節が区別できなくなっているから、そこだけ幅広く、また太くなった節があるように見える。これを環帯と呼んでいる。多くの大型ミミズ類では、環帯より前方の腹面に雄性生殖孔が、環帯の腹面に雌性生殖孔がある。なお、多毛類においては生殖腺はより多くの体節にまたがって存在する例が多い。ミミズにおいてそれがごく限られた体節にのみ存在することは、より異規体節制が進んだものとみなせるから、より進化した特徴と見ることができる』とある。

「可布良美々須〔(かふらみみず)〕」これは前に「老いて大なる者は」という属性から、日本におけるミミズの最大種(最大長四十センチメートルにも達する)の一つで、西日本の山林に棲息する青紫色の光沢を持った、環形動物門貧毛綱ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi を想定してよいかと思われる(後に別に「一種、青白色にして縱(たつ)に黒き文〔(もん)〕の者」を挙げているが、ここは以下の名称から、同じ種を記載していると読むこととする)。その特異な光沢色に言及していないのが残念である)。ウィキの「シーボルトミミズ」によれば、『山ミミズなどの異名も知られる。なお、目立つものであるためか各地に方言名が多く残っている。四国ではカンタロウと言われることがあちこちに記されている。和歌山県でもカンタロウと呼ばれる他、カブラタとの呼称も知られる』とある。ここに出る本種の地方名「カブラタ」は「可布良美々須」(東洋文庫は『かぶらみみず』とルビする)とほぼ一致する。ここで良安が別種として示すその種の色を「青白色」としているのはまさに本種の特徴である。「縱(たつ)」(たて)「に黒き文〔(もん)〕」があるとするが、同種には黒い紋は普通はない。しかし、強い青の金属光沢を持つ本種は、背部中央の光沢が見方によっては有意な縦筋に見えないことはないから、おかしいとは言えない。なお、巨大種としては別にジュズイミミズ目ジュズイミミズ科ジュズイミミズ属ハッタジュズイミミズ Drawida hattamimizu がおり、体長は六十センチメートルほどであるが、よく伸びると一メートルにも達して見える(但し、本種は少なくとも現在は石川県河北潟周辺、滋賀県の琵琶湖周辺、それに福井県の三方五湖周辺にのみに限定棲息している)

「人、觸るれば、急に動き走る」ウィキの「シーボルトミミズ」によれば、運動性能はミミズ類の中では非常に高い部類に属し、『地上での動きは意外に素早』く、『また、季節によって大きく移動することも知られている。夏場には尾根筋から斜面にかけて広く散らばって生活するのに対して、それらの個体全てが越冬時には谷底に集まる。つまり、春には谷から斜面に向けて、秋には斜面から谷底に向けて移動が行われる』。『これに関わってか、本種が身体の前半を持ち上げるようにして斜面を次々に滑り降りる様や、林道の側溝に多数がうじゃうじゃと集まっている様子などがしばしば目撃され、地元の話題になることなどがある』。『このような現象の理由や意義は明らかにされていないが』、研究者は『天敵であるだろう食虫類は常時多量の餌を求めることから、このような習性はこの種の現存量が一定しないだけでなく、大きな空白期間を作ることになるので、この種を主要な餌として頼れない状況を作ること、また同じく天敵となるイノシシに対してはその居場所が一定しないことになるので餌採集の場所を学習することを困難にしているのではないかと』いう仮説を立てている、とある。因みに、本種には粘液を噴射する能力があり、『本種を見つけた際に素手で掴んだところ、ミルクのような白い液が飛び出し、顔や眼鏡にかかったという』研究者の報告があり、『恐らくは背孔から発射されたものと思われ、タオルで拭った後には特に変化はなかったという。国外ではミミズにそのような能力がある例が幾つか知られ、例えばオーストラリアの Didynogaster sylvaticus はフンシャミミズの名で呼ばれ、別名を「水鉄砲ミミズ」と言い、時に粘液を』六十センチメートル『も飛ばすという。本種では他に聞く話ではないので、本種にその能力はあるもののいつも使うわけではないのだと思われる』とある。これは先の所謂、ミミズに小便の伝承との連関性が感じられるようにも思われるが、以上の記載から見ても、当該噴出液に毒性は認められないと言ってよかろう

「生〔(なま)〕にて、酒を以つて之れを呑めば、以つて聲音の藥と爲り、最も、効、有り。然れども、「本草」に聲音の藥たること載せず。且つ、性、寒、小毒、有〔れば〕、熱症ならざる人、漫(みだり)に用ふること勿〔(な)〕かれ。蓋し、「長吟」・「歌女」の名義に據〔(よ)〕る者か」既に薬効は示されているが、ウィキの「ミミズ」によれば、『漢方薬では「赤竜」・「地竜」』『または「蚯蚓(きゅういん)」と称し、ミミズ表皮を乾燥させたものを、発熱や気管支喘息の発作の薬として用いる。なお、民間療法が、日本各地に伝承している』。『また、特定のミミズには、血栓を溶かす酵素を持つことも知られている』。『血栓を溶かす酵素を持つミミズであるルンブルクスルベルス』(オヨギミミズ目オヨギミミズ目 Lumbriculidae 科ルンブリクス属 Lumbricus rubellus:ヨーロッパ原産のミミズの一種。「赤ミミズ」などと呼ばれることもある。学名は「ルンブリクス」と読むのが正しい)『の粉末を入れた健康食品(ルンブロキナーゼ)が発売されている。日本の医師の研究で、臨床試験されて効果も発表されている』。『そのための専用のミミズを育成している。その発表で血管にできたプラークをも溶かすと言われているが、広く認められたものではない』とある。

「吹かれて」毒気を吹きつけられて。

「火吹簡(〔ひふき〕だけ)」火吹き竹。

「婦人をして」女性だから優しく吹くのが効果的という意味ではなく、恐らくは陰気の生物である蚯蚓を、同じ陰の属性を持つ人間の女性が吹くことで、その症状を癒す力があると考えたものと私は解釈する。

「蟬蛻〔(せんぜい)〕」蝉の抜け殻。漢方では「蝉退(せんたい)」と称する生薬で、鎮痛・消炎・解熱・痙攣鎮静作用があり、アレルギーにも有効とされる。湿疹・蕁麻疹・汗疹(あせも)・アトピー性皮膚炎に効く消風散などにも含まれている。

「五苓散〔(ごれいさん)〕」猪苓(チョレイ:菌界担子菌門真正担子菌綱チョレイマイタケ目サルノコシカケ科チョレイマイタケ属チョレイマイタケ Polyporus umbellatus の菌核。消炎・解熱・利尿・抗癌作用等がある)三分(ぶん)・茯苓(ブクリョウ:アカマツ・クロマツなどのマツ属の植物の根に寄生する菌界担子菌門菌じん綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド(松塊)Wolfiporia extensa の菌核。利尿・鎮静作用がある)三分・蒼朮(ソウジュツ:キク目キク科オケラ属ホソバオケラ(細葉朮)Atractylodes lancea の根茎。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用等がある)または白朮(ビャクジュツ:オケラ属オケラ Atractylodes japonica の根茎。健胃・利尿効果がある)三分・沢瀉(タクシャ:水生植物である単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科サジオモダカ属ウォーター・プランテーン変種サジオモダカ Alisma plantago-aquatica var. orientale の塊茎。抗腎炎作用がある)五分・桂皮(ケイヒ:桂枝とも。クスノキ目クスノキ科ニッケイ属(シナ)ニッケイ Cinnamomum sieboldii の樹皮。(シナモン Cinnamomum zeylanicumは近縁種)発汗・発散作用・健胃作用がある)二分の調剤物(「一分」は三十七・五ミリグラム)。利尿効果が主で、吐き気・嘔吐・下痢・浮腫(むくみ)・眩暈(めまい)・頭痛などに適応する。

「丹波柏原遠坂村」不詳。現在の兵庫県丹波市柏原はここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、「遠阪川」の名が残るものの、そこはここより遙かに北である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈五尺」四メートル十八センチメートル。

「九尺五寸」二メートル八十八センチメートル弱。孰れもデカ過ぎ。誇大風聞で、実態は先に示したシーボルトミミズであろう。

「東國通鑑」一般に「とうごくつがん」と読まれる。朝鮮半島の編年体の歴史書。李氏朝鮮の世祖の時代に着手され、徐居正らにより成宗時代の一四八四年に成立した。外紀一巻・本文五十六巻。檀君に始まって箕子・衛満ら、漢四郡、三国時代、新羅を経て、高麗末期までを対象とするが、内容は既存の「高麗史節要」や「三国史節要」及び中国の史書などを流用しているものの、誤りも多いため、現在は歴史史料として重視されていないが、本邦では上記の史書「高麗史」「三国史記」などが稀覯本扱いであったため、徳川光圀が寛文七(一六六七)年に本書を出版したことから、長らく、朝鮮半島史についての基礎文献であった。現代の韓国の民族主義の基幹をなす「檀君紀元」は本書での即位年の記述が元となっている(以上はウィキの「東国に拠る)。

「髙麗太祖八年」九二五年。

「宮城」この当時の高麗の首都は現在の朝鮮民主主義人民共和国南部にある開城(ケソン)市。(グーグル・マップ・データ)。

「七十尺」二十一メートル強。

「時に渤海國來投の應なり」「來投」は降服の意。「應」「まさに~べし」の再読文字の意味から分かる通り、事前の兆し・予兆の意。八世紀から十世紀にかけて中国東北地方を中心に沿海州から朝鮮半島北部に亙って栄えた渤海国(六九八年にツングース系靺鞨(まっかつ)族の首長大祚栄が建国。唐の制度・文物を摂取して仏教を保護し、日本とも国交があった)は正にこの翌九二六年、契丹(モンゴル系でツングースとの混血種族)に滅ぼされた。]

2017/10/15

佐藤春夫 女誡扇綺譚 四 怪傑沈(シン)氏 (その1)

 

    怪傑沈(シン)氏

 

 この風變りな一日(にち)の終りに私と世外民とは醉仙閣(ツイツエンコ)にゐた。――私たちのよく出かける旗亭である。

 これが若し私が入社した當時のやうな熱心な新聞記者だつたら、趣味的ないい特種(とくだね)でも拾つた氣になつて、早速「廢港ローマンス」とか何とか割註をして、さぞセンセイショナルな文字を罹列することを胸中に企ててゐただらうが、その頃は私はもう自分の新聞を上等にしてやらうなどといふ考へは毛頭なかつた。每日の出社さへ滿足には勤めずにわが酒徒世外民とばかり飮み暮してゐた。諸君はさだめし私の文章のなかに、さまざまな蕪雜(ぶざつ)を發見することだらうと覺悟はしてゐるが、それこそ私がそのころ飮んだ酒と書き飛ばした文字との覿面(てきめん)の報いであらう……。

[やぶちゃん注:「蕪雜」雑然としていてととのっていないこと。]

 ――で、私たちは醉仙閣で飮んでゐた。

 世外民は、禿頭港(タツタウカン)の廢屋に對して心から怪異の思ひがしてゐるらしい。さう言へばあの話はいかに支那風(しなふう)に出來てゐる。廢屋や廢址(はいし)に美女の靈が遺つてゐるのは、支那文學の一つの定型である。それだけにこの民族にとつてはよく共感できるらしい。しかし、私はといふとどうもさうは行かない。私がそのうちで少しばかり氣に人つた點と言へば、その道具立(だうぐだて)が總てきくその色彩が惡くアクどい事にあつた。もしこれを本當に表現することさへ出來れば、浮世繪師芳年(よしとし)の狂想などはアマイものにして仕舞ふことが出來るかも知れない。そのなかにある人物は根強く大陸的で、話柄の美としてはそれが醜(しう)と同居してゐるところの野蠻(やばん)のなかに近代的なところがある。幽靈話とすればそれが夜陰(やいん)や月明(げつめい)ではなしに、明るさもこの上ない烈日(れつじつ)のさなかなのが取柄だが、總じてこの話は怪異譚(くわいいだん)としては一番價値に乏しい。それだのに世外民などは專らそこに興味を繫いでゐるらしい。いや、むしろ恐怖してさへゐる。彼は自分が幽靈と對話したと思つてゐるかも知れない。

 私は世外民の荒唐無稽好(ず)きを笑つてゐる。――といふのはそれに對しては私はもうとつくに思ひ當つたことがあるからだ。なぜ私はあの時すぐ引返して、あの廢屋の聲のところへ入込(いりこ)んでゐなかつたらうか。さうすれば世外民に今かうは頑張らせはしないのだ。それをしなかつたといふのも世外民があまり厭がるのと、それよりも空腹であつたのと、また億劫(おつくふ)な思ひをして行つてみるまでもなく解つてゐると信じたからだ。それもすぐに、さうと氣がついたのならよかつたのに、あんな判りきつた事が、なぜ一時間も經つてからやつと氣がついたといふのだらう。多分、あまりに思ひがけなく踏込(ふみこ)まうとするその刹那であつた爲めと、二階から響いて來た言葉が外國語だつたのと、それにつづいてあの老婦人の大袈裟な戰慄の身振りやら、ちよつと異樣な話やらで、全くくやしい事だが私も暫くの間は、多少驚かされたものと見える。本當に理智の働く餘裕はなかつたらしい。――廢屋だと確めて置いた家の中から人聲(ひとごゑ)がしたのであつてみれば、それはその家の住人でない誰(たれ)かが、そこにゐたのにきまつてゐる。その人のために我我は這入(はい)つて行くことを遠慮する理由は少しもなかつた筈だ。現に安平(アンピン)の家のなかにだつて網を繕つてゐた人間の聲がしても我我は平氣で闖入して行つた程だ。何のために我々は躊躇したか。世外民が「人が住んでゐるんだね」と言つたからだ。世外民は何故そんなことを言つたか。それはその時の彼の心理を考へなければならない。多分、聲が我我の踏み込んだ瞬間に恰もそれを咎めるがごとく響いた事が一つ――しかも、その言葉の意味は、あとで聞けば全く反對のものであるが。またあの廢屋は安平のものよりも數十倍も堂堂としてゐて荒れながらにもなほ犯しがたい權威を具へてゐた事。最後に一番重(おも)なる理由としてはそれが單に、女の若さうな玲瓏(れいろう)たる聲であつたが爲めに、若い男である世外民も私も無意識のうちに妙にひるんでゐたのである。さうして、その聲に就ては何の考へることをもせずに、ただびつくりして歸つて來てしまつたのである。

[やぶちゃん注:「玲瓏たる」宝玉を思わせるような美しい声の形容。]

「何(なん)にしても這入つて見さへすればよかつたのになあ。馬鹿馬鹿しい、誰が幽靈の聲などを聞くものか。生きて心臟のドキドキしてゐる若い女――多分、若くて美しいだらうよ、そんな氣がするな――それがそこにゐただけの事さ。――生きてゐればこそものも言ふのさ……」

「でも、むかしから傳はつてゐるのと同じ言葉を、しかも泉州(ツヱンチヤオ)言葉を、それもそのたつた一言を、その女が何故(なぜ)我我に向つて言ふのだ」

 世外民は抗議した。

「泉州言葉は幽靈の專用語ではあるまいぜ。泉州人(ツヱンチヤオナン)なら生きた人間の方がどうも普通に使ふらしいぜ。アハ、ハハ。それが偶然、幽靈が言ひ慣れた言葉と同じだつたのは不思議と言へば不思議さね。――でもたつたそれだけの事だ。君はあの言葉が我我に向つて言はれたと思ひ込むから、幽靈の正體がわからないのだよ。――外(ほか)の人間に向つて言つた言葉が偶然我我に聞かれたのだ。いや。我我を外の人間と間違へて、その女が言ひかけたのさ。さうと氣がついたから、たつた一言(ひとこと)しか言はなかつたのだ。君、何でもないよくある幽靈だぜ、あれや……」

「それぢや、昔からその同じ言葉を聞いたといふその人達はどうしたのだ」

「知らない」私は言つた。「それや僕が聞いたのぢやないのだからね。――ただ、多分は君のやうな、幽靈好きが聞いたのだらうよ。だから僕は自分の關係しない昔のことは一切知らないのだ。ただ今日の聲なら、あれは正(まさ)しく生きてる若い女の聲だよ! 世外民君、君は一たいあまり詩人過ぎる。舊(ふる)い傳統がしみ込んでゐるのは、結構ではあるが、月の光では、ものごとはぼんやりしか見えないぜ。美しいか汚いかは知らないが、ともかく太陽の光の方がはつきりと見えるからね」

「比喩など言はずに、はつきり言つてくれ給へ」一本氣な世外民は少々憤(おこ)つてゐるらしい。

「では言ふがね、亡びたものの荒廢のなかにむかしの靈が生き殘つてゐるといふ美觀は、――これや支那の傳統的なものだが、僕に言はせると、……君、憤つてはいかんよ――どうも亡國的趣味だね。亡びたものがどうしていつまでもあるものか。無ければこそ亡びたといふのぢやないか」

「君!」世外民は大きな聲を出した。「亡びたものと、荒廢とは違ふだらう。――亡びたものはなるほど無くなつたものかも知れない。しかし荒廢とは無くならうとしつつある者のなかに、まだ生きた精神が殘つてゐるといふことぢやないか」

「なるほど。これは君のいふとほりであつた。しかしともかくも荒廢は本當に生きてゐることとは違ふね。だらう? 荒廢の解釋はまあ僕が間違つたとしてもいいが、そこにはいつまでもその靈が橫溢(わういつ)しはしないのだ。むしろ、一つのものが廢れようとしてゐるその蔭からは、もつと力のある潑剌(はつらつ)とした生きたものがその廢朽を利用して生れるのだよ。ね、君! くちた木にだつてさまざまな茸(きのこ)が簇(むらが)るではないか。我我は荒廢の美に囚はれて歎くよりも、そこから新しく誕生するものを讃美しようぢやないか――なんて、柄(がら)にないことを言つてゐら。さういふ人生觀が、腹の底にちやんとしまつてある程なら、僕だつて臺灣三界(がい)でこんなだらしない酒飮みになれやしないだらうがね。だからさ、僕がさういふ生き方をしてゐるかどうかは先づ二の次(つぎ)にしてさ」

「成程。――ところがそれが禿頭港(クツタウカン)の幽靈――でないといふならば、その生きた女の聲と何の關係があるんだらう?」

「下らない理窟を言つたが僕のいふのは簡單なことなのだ。ね、我我の聞いたあの聲の言つたのは『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』云云(うんぬん)といふのだつたさうだね。それや無論誰(たれ)が聞いても人を待つてゐる言葉さ。で、あの場所の傳説のことは後(あと)にして、虛心に考へると、若い女が――生きた女がだよ、人に氣づかれないやうな場所にたつたひとりでゐて、人の足音を聞きつけて、今の一言を言つたとすれば、これは男を待つてゐるのぢやないだらうかといふ疑ひは、誰(だれ)にでも起る。あたりまへの順序だ。我我があの際(さい)、すぐさう感じなかつたのが反(かへ)つて不思議だ。あの際、僕があれを日本語で聞いたのだつたら一瞬間にさう感附くよ。そこであの場所だが、氣味の惡い噂があつて人の絶對に立ち寄らない場所だ。しかも時刻はといふと近所の人人がみな午睡(ごすゐ)をする頃だ。戀人たちが人に隱れて逢ふには絶好の時と所ではないか。――それも互によほど愛してゐると僕が考へるのは、それはいづれあそこからさう遠いところに住んでゐる人ではなからうが、それならあの家に纏はる不氣味千萬な噂はもとより知つてゐるのだらうから、迷信深い臺灣人がその恐ろしさにめげずに、あの場所を擇(えら)ぶといふところに、その戀人たちの熱烈が現れてゐる。それから、また僕は考へるね。そのふたりは大部以前から、あの時刻とあの場所とを利用することに慣れてゐるのだ。でない位(くらゐ)なら、そんないやな場所へ、女が先に來て待つ度胸も珍しいし、男だつてそれぢやあまり不人情さ。――君が、あの聲を聞いて咄嗟(とつさ)にそれをその住人のものと斷定してしまつたのも無理はないよ。彼等はそこをもう自分たちふたりの場所と信じ切つてゐるほど、その場所に安心し慣れ切つてゐるのだ。それならばこそ我我の足音聞いただけて輕輕しく、あんな聲をかけたりしたのだ。――あそこへは全く近よる人もないと見えるね。そのくせあの家は、女ひとりで這入つて行つても何の怖ろしい事もないほど、異變のない場所なのさ。若い美しい女――藝者(ゲイチア)の五葉仔(ゲフユア)のやうな奴かな。いや、若い女ではなくつて―――」

[やぶちゃん注:「藝者(ゲイチア)」「チ」の部分は実は擦(かす)れて縦棒一本とそこから右に直角に突き出た一本しか判読出来ない。現代の中国音の音写だと「者」は「ヂゥーア」であることから、取り敢えず「チ」で補っておいた

「五葉仔(ゲフユア)」不詳。中国の芸妓界の隠語か? 識者の御教授を乞う。一人前になる直前の芸妓、所謂、本邦の「半玉(はんぎょく)」・「雛妓(おしゃく)」・「舞妓(まいこ)」のようなものか? 或いはそれよりも若い「禿(かむろ)」か?

「―――」(三字分)はママ。但し、頭の一字分で改行であることから、植字工のミスかも知れない。]

「聲は若かつたがな」

「さ、聲は若くつても、事實は圖太い年增女(としまをんな)かも知れないな。でなけりや、やつぱり必ず若い熱烈なる少女か。――それはどうでもいい。判らない。しかし兎も角もさ、今日(けふ)のあの聲は不埓(ふらち)かは知らないが不思議は何もない生きた女のもので、あそこが逢曳(あひびき)の場所に擇ばれてゐたといふ事と、又それだから、あそこにはほんの噂だけで何の怪異もない事は、おのづと明瞭さ。僕は疑はない――ああ、這入つて見れやよかつたのになあ」

「例によつてそろそろ理窟つぽくなつたぞ。――理窟には合つてゐさうだよ。ただね、それが僕の神經を鎭めるには何の役にも立(たた)ない」

[やぶちゃん注:「立」のルビは「た」しかないが、特異的に補った。]

「さうかい。困つたね」

 世外民はやつぱりに私に同感しようとはしない。私は少しばかり、ほんの少しだが、忌忌(いまいま)しかつた。私は酒を飮めば飮むほど、奇妙に理窟つぽくなる。人を説き伏せたくなる。そこでお喋りになるといふごく好くない癖があつた。自分では頭が冴えてゐるやうな氣がするんだが、それは醉つぱらひの己惚(うぬぼ)れで傍(はた)で聞いたらさぞをかしいのだらう。私はつづけた。

「仕方がない。君は何とでも思ひ給へ。だが、今日の事實は怪異譚(くわいいだん)としてはまるで何の値打(ねうち)もないのだがなあ。禿頭港(クツタウカン)で聞いた話にしたつて、因緣話にはなつてゐるものか。――そんな見方をすれや、せいぜい三面特種の値打だ。寧ろ面白いのは、あんな荒つぽいいやな話のなかに案外、支那人といふものの性格や生活といふものの現はれてゐることだ。……」

「夜中(やちう)に境界標(へう)の石を四方へ擴げる話か。――あれや、君、臺灣の大地主(おほぢぬし)のことなら、みんなあんな風に言ふんだ。あれこそ臺灣共通の傳説だよ。――現に」と世外民は酒で蒼くなつた顏を苦笑させて、

「僕の家のことだつてもさう言つてらあ!」

「へえ? これはなほ面白い。いづれはどこかに本當の例が、事實あつたのだらうがね。多分、あの沈(シン)家が本當だらう。それにしてもそいつをどこの大地主にも應用するところはえらい。實際、あの話はあらゆる富豪といふものを簡單明瞭に説明するからね。ふむ。さうかね。だがそれよりも僕にもつと面白いのは犂(からすき)でよぼよぼの老寡婦を突き殺す話だ。――僕はその沈の祖先といふのは粗野な惡黨でこそあるがなかなかの人傑(じんけつ)だつたやうな氣がするのだ。ね、さうでなければ道理に合はない。いかに淸朝の末期に近い政府だつて、また先(さき)が植民地の臺灣だからと言つて、さうさう腐敗した碌(ろく)でなしの役人ばかりをあとへあとへ派遣したわけではあるまい。それが皆(みんな)丸められるのだ。單に金(かね)の力だけではあるまい。沈にはきつと役人たちよりもえらい經營の才があつたのだ――まあ聞きたまへ、僕の幻想だから。胡蘆屯(コロトン)附近と言へば、君、この島でも最もよく開墾された農業地だらう。『……いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ。……婆さん。さあどいた。畑といふものは荒して置くものぢやない。……本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ』か。さう言つてひらりと馬を下りて自分の手で突き殺したと言つたね。僕には強い實行力のある男の橫顏が見えるやうな氣がするんだ。さういふ男の手によつてこそ、未開の山も野も開墾出來るのだ。草創時代の植民地はさういふ人間を必要としたのだ。役人たちの目の利(き)いたものは、彼の事業を、政府自身の爲めに樂しみにしてゐたかも知れないのだ。その報酬に惡德を見逃すばかりか、暗には奬勵してゐたかも知れないのだ。その男はちやんとそれを心得てゐた。その遺言が更に面白いではないか。『三十年すれば』いかに植民地政治でもだんだん行屆(ゆきとゞ)いて整つて來た擧句には、彼が折角開拓した廣大な土地を、今度は彼よりももつときい暴虐者が出て左右することを見拔いてゐたのだ。何と怖ろしい識見ではないか――彼は政治といふものの根本義を、まるで社會學者みたいに知つてゐて、それを利用したのだ。人のものを掠奪(りやくだつ)してそれへすつかり仕上げをかけて、やれ田だのと畑だのと鍍金(めつき)をするのさ、そいつを賣拂(うりはら)つて金(かね)にへる。それから商賣をするんだね。全く商賣といふものは世(よ)が開化した後(のち)の唯一の戰爭だからね。しかも安全な戰爭だ――元手の多い奴ほど勝つに定(きま)つてゐる。彼は自分の子孫たちに必勝の戰術を傳授して置いたのさ。奴の仕事は何もかも生きる力に滿ちてゐる。萬歳だ。ところでさ、そのやうな先見のある男でも、自然が不意に何をするかは知らなかつたのが、人間の淺ましさだ。繁茂してゐた自然を永い間かかつて斬(き)り苛(さいな)んだ結果に贏(か)ち得た富を、一晩の颶風(はやて)でやつぱりもとの自然に返上したといふのだから好(い)いな。態(ざま)を見やがれさ。――するとやつぱり因果應報といふことになるのかな。僕はそんなことを説教するつもりではなかつたつけな……」

[やぶちゃん注:「贏(か)ち得た」「贏」(音「エイ」)は「もう(儲)ける・あま(余)る・の(伸)びる・つつ(包)む・にな(荷)う・か(勝)つ」と訓じ、「余分に残る・残す・余分な残りもの」「利益を得る・儲ける・その利益や儲け」「賭(かけ)や競争で勝つ」の意がある。]

 私はいつの間にかひど醉つて來て、舌も纏れては來るし、段段冴えて來ると己惚(うぬぼ)れてゐた頭がへんにとりとめがなくなり、ふと口走つた――「花嫁の姿をして腐つてゐたつて? よくある奴さ。花嫁の姿をして死ぬ。それがだんだん腐つてくる、か。生きてゐる奴で冷たくなつて、だんだん腐つてくるのもある。金簪(きんさん)で飾つてさ、ウム」

 世外民はこれも亦いつもの癖で、深淵のやうに沈默したまま、私のをかしな言葉などは聞き咎めるどころか、てんで耳に入(はい)らぬらしく、老酒(ラウチユウ)の盃(さかづき)を持ち上げたままで中空を凝視してゐた。

「世外民、世外民。この男の盃を持つてゐるところには少々魔氣(まき)があるて」

 

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ブログ1010000アクセス突破記念 西村少年 梅崎春生

 

[やぶちゃん注昭和三一(一九五六)年十二月発行の『別冊文藝春秋』に初出。翌年四月角川書店刊の作品集「侵入者」に収録された。

 本篇は恐らく、梅崎春生自身の実体験に基づく小説と考えてよい。午砲(ドン)が鳴らされ(彼の知られた三篇アンソロジー小説「輪唱」の中の一話砲」は昭和二三(一九四八)年九月発表)、「聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店」とあることから、戦前であり、春生の年譜的事実から言えば、彼は大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子小学校に入学しており、本文に「西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た」とあるから、作者の事実に則したものであるとするならば、大正一五(一九二六)年の時代設定と捉えて問題ない。

 本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1010000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年10月15日 藪野直史】]

 

   西村少年

 

 その西村という級友に、僕らはヨリトモという綽名(あだな)をつけた。ヨリトモとは源頼朝のことで、義経なんかをいじめた関係上、頼朝は僕ら子供の間ではあまり人気がなかった。むしろ憎まれてさえいた。

 西村は頭でっかちで、背もあまり高くなかった。頭でっかちのくせに、走るのが速く、体操もうまかった。色が白くて、皮膚もつやつやしていた。つまり、見るからに、僕たちよりは栄養が良かったのだ。僕らの級友は平均的にあまり栄養が良くなかったらしい。

 毎年の秋、その市の小学校が全部代表選手を出して、リレー競走をやるのだが、僕らの学校はいつもビリか、ビリから二番だった。

 代表選手はもちろん六年生だが、その六年の選手の校庭での練習を僕らは見る。選手たちは得意になって走っている。何と速いんだろう、まるでオートバイみたいじゃないか、と僕らはささやき合うのだが、いざ大会になって僕らが見物に出かけると、我が校の選手はたいがいの場合どんじりで、校庭の練習で見せた颯爽(さっそう)さはなく、疲れ果ててよたよたと足を動かしているに過ぎないのだ。どんなに声援をおくってもダメだった。

「何故だろうなあ」

 がっかりして帰途につきながら、僕らは話し合う。

「練習の時はあんなに速かったのになあ」

 校庭で走っているぶんには結構速く見えるのに、他校との競走となるとどうもうまく行かないと言うのも、つまるところは実力が劣っていたのだろう。体力がそれだけ劣っていたわけだ。そしてそれは栄養にも大いに関係している。

 僕らの小学校は海辺にあった。

 学区内には、漁師町や商人町や下級給料者の住宅街だのが、ごちゃごちゃに入り乱れていた。

 海辺の埋立地には格納庫があり、水上飛行機の発着場になっていた。そこから小さな港があり、港を抱くようにして腕みたいな形で岬(みさき)が伸びて曲っていた。その腕の掌にあたる場所にも人家があって、また午砲(ドン)打ち場がそこにあった。

 正午になってドンが鳴ると、学校中の窓ガラスがびりびりと慄えた。ドンの響きはいつも僕らの腹に強くこたえた。それほど僕らのお腹は空いていたわけだ。

 ドンの砲手が、西村のお父さんだった。

 西村のお父さんは退職軍人で、恩給でゆったりと暮していて、ドン打ちは道楽みたいな副業だということだった。八字髭(ひげ)を立てた、眼つきのするどい、ずんぐりした体格の小父さんだった。頭と背骨をまっすぐに立てた、特有の歩き方を見ただけでも、それはいかにも在郷軍人の典型という感じがした。

 

 西村少年は僕らが五年二学期の時、師範学校の付属小学校から転校して来た。

 何故西村小父さんほその息子を、優秀な付属から僕らの小学校に、あまり優秀でないこの小学校に転校させたのか、今考えてみてもよく判らない。何か特別な理由があったのか、それともただ通学距離が近いという理由だけだったのか。僕らは五年の一学期から、中学校や女学校に進学するものだけ集まって、特別学級をつくっていた。進学する者の数が少く、男女合わせて五十人ぐらいしかいなかった。だから僕らの組は、男女組または混合組と呼ばれていた。

 僕らは女はニガテだった。それまで男の子ばかりの級で、女と机を並べたことがなかったのだから、今までは校庭や講堂だけのつき合いで、無視出来たのだが、机を並べて一緒に学ぶ、あるいは成績を競うということになると、そんなわけに行かなかった。

 その頃この学校では、女の子は男の子より一段下位にあるもの、質的に段差があるもの、と一般に考えられていた。あるいは僕らだけでそう考えていた。強いてそう考えていた。だからこれを呼ぶのに「オナゴ」を以てした。あるいは「メス」。

 学校の用事以外では、僕らはオナゴと話し合うことはなかった。話しかけもしなかったし、話しかけられもしなかった。休み時間に一緒に遊ぶことはなかった。学校の帰りも別々に帰った。

 オナゴとつき合うことは恥辱であるという具合に、僕らはお互いにけんせいし合っていた。

 オナゴは恥辱である、と僕らが考えるのに、理由がないでもなかった。僕らは何かあるたびに男子ばかりの組の者から、「やあい、男女組」「やあい、混合組」とののしられた。男女組、あるいは混合組という名称そのものが、恥辱の代名詞になっていたわけだ。ところが僕ら自身は、恥辱ではあり得ない。すなわちかんたんな引き算によって、オナゴは恥辱である、という答が出て来るわけだった。

 しかし、引き算ではそう答が出ても、そっくりそのままを信じるわけにも行かない節があった。学校のふだんの成績、またはモギ試験の成績などで、大体においてオナゴの方が良好だったのだ。いつかのモギ試験などでは、一番から七番までが全部オナゴで、やっと八番目に男が入るということなどもあって、僕らはたいへん面白くなかった。そうなるとオナゴだのメスだのと呼び捨てることによって、軽視したり無視したりは出来ない。もっともそういう面白くなさが、かえってオナゴを蔑視する方向へ、蔑視しようとあがく方向へ、僕らを追いやっていたということもあるが。

「なんだい。あたしたちがメスなら、あんたたちはオスじゃないか」

 女子の中で勇ましいのがいて、ある時こう反発した時の、僕らの激昂ぶりは実にはげしかった。入学以来、こんなに怒ったことはないほどに、集団的に怒った。オスとは何ごとだ。動物や植物じゃあるまいし、オスとは何ごとだ。人間をつかまえて、オスとは何ごとだ。メスのくせに生意気な。あやまれ。あやまれ。その勇敢なる女子の名前は、河合政子と言ったが、河合政子はあやまるかわりに泣き出した。声を放って机に泣き伏した。豊かな黒髪を机に這(は)わせ、白いうなじを慄わせながら、河合政子は口惜しげに大泣きに泣いた。

 

 その河合政子と西村一作が、時折教室で顔を見合わせて、にっこりと笑うということを見つけたのは、いや、見つけたのか創作したのか知らないが、とにかくそういうことを言い出したのは、アンパンという綽名の子だった。アンパンの由来は、その子が聯隊(れんたい)にアンパンを納めている店の子だったからだ。

「今日も顔を見合って、ニヤッと笑ったぞ」

 アンパンは口をとがらせて、僕らに報告した。

「あいつら、お互いにホレ合っとるらしいぞ」

 僕らは単純にして複雑な気持でその報告を聞いた。西村の席も河合の席も、教室の後部にある。アンパンの報告によると、後部であることを利用して、つまり皆に気付かれないと安心して、笑いを交しているというのだ。では、どういう時に笑いを交すか。先生から指されて、西村がうまく答える。そして西村は着席する。ちらと河合を見る。そこに笑いが交される。あるいは河合が指され、うまく答える。河合は着席しながら、ちらと西村を見る。笑いがそこに交されるというのだ。その説明を聞いた時、僕らすべての胸にもやもやとした、隠微な感情がしばらくたゆたった。怒り。憎しみ。妬(ねた)み。悲しみ。その他百千の気持が。

「付属から来たくせに生意気な!」

 僕らは付属小学校を憎んでいた。憎み、反発し、軽蔑していた。羨望するかわりに侮蔑していた。柔弱であるという点において、ゼイタクであるという点において、侮蔑していた。それはオナゴに対する僕らの感情と、どこか似通っている点もあった。その付属から転校してきたということで、西村は僕らの仲間の中で、ある特殊な位置に置かれていたのだ。

「西村を殴(なぐ)ろうか」

 アンパンが提議したが、それに応じるものはなかった。殴るという行動によって、僕らの百千の感情が表現されるわけでなし、かえって誤解される(誰に?)おそれもあるような気がするし、先生に見つかると叱られるにきまっているし、それに西村の喧嘩の実力がまだ判っていないし(足も速いし休操も巧いから、相当に強いかも知れない)提議したアンパンもうやむやにそれを引っ込めてしまった。

 そして誰言うとなく、西村のことをヨリトモと呼ぶことになった。オナゴが政子なら、男はヨリトモにきまっている。それがその綽名(あだな)の由来だった。おそらくその頃、歴史の時間で、そのくだりを習っていたのだろう。

「ヨリトモ」

「おい。ヨリトモ」

 誰も西村の本名を呼ぶものはなくなってしまった。もちろん僕らが何故彼をヨリトモと呼ぶか、直ぐにそれはオナゴたちに伝わったし、当の政子にも伝わったに違いなかった。

「ヨリトモ」

 この綽名に西村はすこし当惑したらしい。僕らの組のほとんどが綽名を持ち、それで呼び合っているのだから、綽名をつけられたと言って、そのことで怒るわけには行かない。それから、何故ヨリトモ政子とはやし立てるのか、おそらく付属在校時代はもっと男女間が親しくて、だからそんな綽名をつけられても、軽いからかいに過ぎなかっただろうから、僕らのつけたヨリトモという呼称に対して、どう身構えていいのか判らなかったらしい。軽いからかいにしては、その呼び方に悪意その他が強くこめられていたからだ。

 しかしそういうことで、西村と河合の間は妙にぎごちなく、つまりひそかに笑いを交すということが、そのままの形でこわばってきたのだ。そのこわばりは僕らにも感染した。そのこわばりの中でヤユすることで、僕らの呼び方にはますます悪質なものがこもって来た。

「ヨリトモ」

「ヨリトモ」

 河合政子も明かにこわばっていた。そしてそのこわばりに全身をもって反抗していた。彼女は組で一番美しい容貌と身体を持っていた。そして勇敢で、寛容だった。いくら寛容でも、こわばる時にはこわばる。成績も良かった。モギ試験でも必ず上位の五人のうちに入っていた。つまりいろんな点において、オナゴの中では、群を抜いていたわけだ。だから僕らが西村をヨリトモと呼び、それが直ちに政子に反応して、政子が困惑することを、内心快とする一部のオナゴたちもあったのだ。そういうオナゴたちは西村のことを、さすがに面と向ってではないが、かげではヨリトモと呼んでいるらしかった。

 そしてある日のこと、西村とアンパンは大喧嘩をした。

 アンパンがあまりにも西村のことを、ヨリトキ、ヨリトモと呼び過ぎたからだ。それも西村が単独にいる時でなく、また男ばかりの時でなく、直ぐ近くに女子たちが、河合政子などもいる時に、そう呼び過ぎたのだ。西村は顔面を硬化させて、黙っていた。その綽名には応答しなかった。

 争いが起きたのは、放課後の掃除当番の時だ。女子たちは皆帰って、当番の男子たちだけが机を動かしたり、帚(ほうき)ではいたりしていた。その帚の使い方がなっとらんと言うので、アンパンが西村の帚を取り上げようとしたのだ。

「帚をよこせ。お前は机運びになれ!」

「イヤだ」

 西村は拒絶した。机運びより帚使いの方が高級だという考えは皆にあった。

「だってお前のはき方は、ムチャじゃないか。ゴミがあちこち残っとる。帚はおれがやる」

「イヤだ」

「よこせったら。ヨリトモ!」

 瞬間に西村は帚を床に投げ捨てた。パッとアンパンに飛びかかった。二人の身体は床にころがり、格闘となった。ごろごろところがり回り、手足がはげしくぶつかった。

 僕らは慣習にしたがって、ぐるりとそこに輪になり、見物した。一対一の喧嘩にはたから手を出さない不文律があったのだ。西村はアンパンを組み伏せながらあえいだ。

「ヨリトモと言うか! まだ言うか!」

「何をヨリトモ!」

 今度はアンパンが力をこめてひっくり返した。

「何を。このヨリトモ野郎!」

 そのアンパンを足で蹴り上げて、西村がアンパンの上におっかぶさった。西村は涙を流しながら、アンパンの顔を両手で連打した。

「まだ言うか! まだヨリトモと言うか!」

 僕は知っていた。西村が怒っているのは、自分がヨリトモと呼ばれることではなく、自分がヨリトモと呼ばれることによって、河合政子が困惑することであることを。そのことは僕の胸をはげしくしめつけた。それはあきらかに嫉妬の感情だった。強い強い嫉妬の情が、僕の全身をがたがたと慄わせた。

 

 そしてその喧嘩は、ついに西村の勝利に終った。西村の執拗(しつよう)な攻撃に、アンパンは戦意を失ったのだ。西村の最後の打撃に、アンパンはワッと泣き声を上げ、敗北を表明した。

 しらじらとした喧嘩の終りが来た。西村はほこりをはらって立ち上ったが、勝利者の表情ではなかった。見物の僕らも別にどよめかず、勝利者を祝福することもなく、敗北者を慰撫することもなく、しらじらと元の掃除の部署に戻った。アンパンの泣き声だけが、いつまでもひびいた。

 アンパンの表現を借りれば、僕も西村に負けないほど、河合政子にホレていた。口には出さなかったけれども、心の底からホレていたのだ。

 そしておそらくアンパンも、またその他の大部分のわが組のオスたちも!

老媼茶話巻之三 天狗

 

     天狗

 

 加藤嘉成の士に、小嶋傳八、一子(いつし)惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるか、ひぐれて見へず。さまざま尋見(たづねみ)れ共、行衞、更に知れず。傳八夫婦、鳴悲(なきかな)しみ、佛神へきせいをかけ、御子(ミコ)・山伏を賴み、色々、祈禱なす。甲賀丁(ちやう)に古手屋(ふるてや)甚七といふもの、傳八方へ來り申(まうし)けるは、

「是(ここ)の惣九郎樣、廿日斗(ばかり)前の曉(あかつき)頃、我等、用事有(あり)て、はやく起(おき)、見せの戸をひらき候折(をり)、大山伏兩人、跡先(あとさき)に立(たち)、惣九郎樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそぎ候が、壱人の山伏、我等が方へ參り、

『此邊に十斗(ばかり)成(なる)子共のはくべきわらぢのうりものは、これなきや否や。』と申(まうす)。

『無(なし)。』

答へ候へば、夫(それ)より、いづく行(ゆき)候や、姿を見失ひ申候。」

と語る。

 傳八夫婦、聞(きき)て、

「扨(さて)は天狗にさらわれたるもの也。」

とて、其頃、妙法寺の日覺上人といふ、たつとき出家を賴(たのみ)、五の町車川の端に護摩壇をかざり、法家坊主弐拾人斗(ばかり)にて經讀祈禱する。

 七日にまんずる日中(ひなか)、一點の雲なき靑天、虚空にちいさき物、見ゆる。見物の諸人、山をなして、空を見るに、東より大とび壱羽、飛來(とびきた)り、是をさらい取(とら)んとする事、度々なり。

 時に、壱羽、金色(こんじき)の烏(からす)、何方共(いづかたとも)なく飛來り、此鳶を隔(へだ)て近づけず、段々に地にくだり、間近く見るに、人なり。三拾番神の壇に落(おち)たるを見るに、小嶋惣九郎也。

 諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をば、

「佛の再來也。」

と諸人、沙汰せし、といへり。

 惣九郎は、一生、空氣(うつけ)に成(なり)、役にたゝざりしと也。

 

[やぶちゃん注:これは、柴田宵曲の妖異博物館「天狗の誘拐」にも紹介されている(リンク先は私の電子化注のそれが出る最後のパート)。

「加藤嘉成」陸奥会津藩初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)とその嫡男で陸奥国会津藩第二代藩主となった加藤明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)(複数回既出既注)の名を混同した誤り今までの記事から見て、後者と思われる。但し、先の柴田宵曲の妖異博物館「天狗の誘拐」では、勝手に父の方「加藤嘉明」として紹介してある。不審。

「小嶋傳八」不詳。

「ひぐれて」「日暮れて」。この前後、原典は「何方へ行けるかかひくれて見へす」。「搔い(き)暮れて」と読めなくもないが、底本編者は「か」の一字ダブりは衍字と判断しているので、今回は除去した。

「きせい」「祈誓」。

「御子(ミコ)」「巫女」。

「甲賀丁(ちやう)」現在の福島県会津若松市相生町(あいおいまち:(グーグル・マップ・データ))の中の旧町名。ウィキの「相生町会津若松市によれば、『甲賀町(こうかまち)は若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、南側は甲賀町口、北側は滝沢組町に接する幅』四『間あまりの通りであった。傍出町として大工町があったほか、甲賀町は文禄年間の成立で、蒲生氏郷が日野(近江)から移住した商工業者を置いた町であるとされる。このため、かつては日野町と呼ばれていたが、加藤氏が甲賀町と改称したとされる』とある。

「古手屋(ふるてや)」古着や古道具を売買する店。

「子共のはくべきわらぢのうりもの」「子供の履くべき草鞋の賣り物」。

「さらわれたる」「わ」はママ。「攫はれたる」。

「妙法寺」現在の福島県会津若松市馬場本町(相生町の東隣接地区で、前の古手屋甚七の家からごく近いと思われる)に、現在は顕本法華宗の別格本山である宝塔山妙法寺があるから、ここであろう。ウィキの「妙法寺会津若松市)によれば、明徳二(一三九一)年に『会津出身の僧日什が、故郷会津に帰国した際、城主蘆名氏が寄進』したとある。但し、『戊辰戦争で堂宇』は全焼してしまったとある。(グーグル・マップ・データ)。

「日覺上人」不詳。識者の御教授を乞う。

「五の町」同じく先の相生町の中の旧町名。ウィキの「相生町会津若松市によれば、『五之町(ごのまち)は、若松城下の城郭外北部、当時の上町に属する町で、西側の大町から馬場町を経て東側の中六日町に至る幅』三『間の通りであった。また、四之町の北に位置していたほか、五之町には元禄年間に移った臨済宗実相寺があった。西側の大町から馬場町までを下五之町、東側の馬場町から中六日町までを上五之町といった』とある。

「車川」河川名であるが、不詳。地図を見ると、現在の相生町の北西には川らしきものがあり、その直線上を辿って同地区を越えた辺りに身近に川らしきものが南東に少し見えるから、現在は相生地区下では暗渠になっていると推定されるものが旧車川なのかもしれない。この川らしきもの、実は妙法寺の北直近でもあるのである。

「法家坊主」ママ。「法華坊主」。川端での祈禱パフォーマンスは布教にも一役買ったことであろう。

「大とび」「大鳶」。

「是」空中に浮かぶ「ちいさき物」。実は空中を浮遊する小嶋惣九郎である。

「さらい」ママ。「攫ひ」。

「金色(こんじき)の烏(からす)」神武東征の際に高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武天皇のもとに遣わされて、彼を熊野から大和橿原へと道案内したとされる神の使いたる鴉(一般的に三本足とされる)である八咫烏(やたがらす)の変形であろう。山伏らの修験道と密接な関係を持つ熊野三山に於いて、八咫烏は太陽の化身(金色と連関)ともされ、またミサキ神(死霊が鎮められた神霊としての神の使い)ともされており、熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されるが、「日本書紀」では同じ神武東征の場面に金鵄(きんし:金色の鳶(とび))が長髄彦(ながすねひこ)との戦いで神武天皇を助けたともされることから、「八咫」と「鵄」がしばしば同一視或いは混同されるからである(ここはウィキの「八咫烏を参考にした)。

「三拾番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 明日(あす)は明日(あす)こそは


Asukoso


   明日(あす)は明日(あす)こそは

 

 暮れて行く一日一日のなんと空しく、味氣なく、はかないものであることぞ。その殘す跡形(あとかた)のなんと乏しく、その一刻一刻のなんと愚かしく、無意味に流れ過ぎたことぞ。

 しかも猶、人は生きたいと望む。生を重んじ、希望を生(いのち)に、己れに、未來に繫ぐ。……ああ人は、どんな幸を未來に俟つのであらうか。

 一體なぜ人間は、來たるべき日々に、今しがた暮れたこの日に似ぬものの姿を、思ひ描かうとするのであらうか。

 いや人間は、そんな事は思ひもしないのだ。人はもともと考へることを好まない。そしてこれは、賢明と言ふべきだ。

 「なあに、明日(あす)は、明日(あす)こそは」と、人は己れを慰める。この「明日(あす)」の日が、彼を墓場へ送り込むそのときまで。

 さて、一旦墓のなかに橫はれば厭でも考へごとはやめなければなるまい。

             一八七九年一月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」には挿絵はない。

 

「橫はれば」「よこたはれば」。「た」の脱字が疑われるが、読めないわけではないのでママとした。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 鳩


Hato

   

 

 わたしは、なだらかな丘の上に佇んでゐた。見渡すかぎり一面の麥の穰(みの)りは、金色のまた銀いろの海原をなして、なだらに擴つてゐる。

 しかしこの海には、波ひとつ立たない。大氣は蒸し暑く、そよりともしない。今にも大きな夕立が來さうな氣配。

 あたりはまだ暑い日ざしで、草いきれに煙つてゐる。が、麥畑の彼方遠からぬあたりに、鼠色の雨雲がむくむくと涌き出で、地平の半ばを蔽うてゐる。

 物みなは息を凝らしてゐる。物みな、凄じい落日の光に蒸されて、萎(な)え凋んでゐる。一鳥の姿もなく、聲もない。雀までが影をひそめた。ただ何處かすぐ間近に、大きな山牛蒡の葉が一枚、ばさばさと鳴りはためく。

 畠垣の苦蓬の香が、強く鼻をつく。わきおこる雨雲を眺めてゐると、なんとなく胸さわぎがしてくる。――「さあ急げ、急いでこい」とわたしは心のなかでつぶやく、「ひらめけ、金の蛇。鳴れよ、雷。まがつ雨雲は搖(ゆる)げ、飛べ、そそぎ降れ、そし斷て、のしかかるこの倦怠を。」

 けれど雨雲はじつとして動かない。ひつそりと鳴りをひそめた大地のうへに、相變らず重くのしかかつてゐる。思ひなしか僅かに膨らみ、やや黑みを增しただけである。

 そのとき、鼠一色の雲の面を、何かしら一片の雪とも、白いハンカチとも見まがうものが、ひらひらと掠めて過ぎた。それは、村の方から飛んで來た一羽の鳩だつた。

 みるみる一直線を引いて飛びかけり、森のなかに姿を消した。

 幾瞬かが流れた。矢張り同じ不氣味な靜寂が、あたりを領してゐる。けれど見よ、雪の面を今度は二枚のハンカチが、二片の雪が、もと來た道を引返す。それは先刻(さつき)の白鳩が二羽になつて塒(ねぐら)に急ぐ姿であつた。

 にはかに、嵐の幕は破れた。沛然として慈雨が來た。

 わたしは大急ぎで、やつと家に辿りつくことができた。――風は狂ひ吼え、雲は赤く低く、きれぎれに裂けて走る。物みな渦卷き入りみだれるなかを、篠つく雨の脚が大搖れに揺れながら地面を叩く。稻妻は靑くはためきわたり、雷鳴は、とだえてはまた轟く砲聲のやう。硫黃の匂ひもする。……

 ふと屋根庇のかげを見ると、二羽の白鳩が仲よく、明り窓の緣に並んでとまつてゐる。友を迎へに飛んで行つたのも、運れ戾されて恐らく命拾ひしたのも。

 二羽ともまん丸にふくれて、たがひの羽毛の觸れ合ふのを感じてゐる。

 樂しげな二羽の鳩よ。お前たちを眺めるわたしの心も樂しい。相も變らず孤獨なわたしだけれど。

             一八七九年五月

 

[やぶちゃん注:五段落目の最後には鍵括弧閉じるは、実は、ない。なくても問題はないとも言えなくもないが、矢張り落ち着かない。一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳の神西訳を元に池田氏が訳し直した「はと」によって特異的に補った。また、底本ではページ最終行であるため、クレジットが本文末の下二字上げインデントで入るが、改行した。

「山牛蒡」原文は“лопуха” で、これはキク亜綱キク目キク科ゴボウ属 Arctium を指すが、ここはユーラシア原産の我々の馴染みのゴボウ Arctium lappa でとってよいであろう。中山省三郎譯「散文詩」では「馬蕗」とあるものの、これは牛蒡の葉が、同じキク科のフキ Petasites japonicus に似ており、馬が好んで食べた事に由来するゴボウの別名である。

「苦蓬」キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium。ウィキの「ニガヨモギ」によれば、草高は四〇センチメートルから一メートルほどで、『全体を細かな白毛が覆っていて、独特の臭いがある。葉は』十五センチメートル『ほどの羽状複葉で互生する。葉の表面は緑白色、裏面は白色。花期は』七~九月で、『多数の黄色い小さな花を円錐状につける』。『原産地はヨーロッパ』であるが、『北アメリカ、中央アジアから東アジア、北アフリカにも分布している。日本には江戸時代末期に渡来した』。学名は「聖なる草」を『意味するエルブ・アブサントに由来する。英名』(worm wood:「ワーム」は蛇)『はエデンの園から追放された蛇の這った後に生えたという伝説に由来するとも、防虫剤に使ったからともいわれる』。『北欧のバイキングの間では死の象徴とされていた』。『葉、枝を健胃薬、駆虫薬としてもちいる。干したものを袋に詰め衣類の防虫剤として使う』。『清涼飲料水、リキュール、ハーブ酒などに香り付けなどの目的でつかわれる。食品添加物として認可されており、狭義ではカフェインと同じく苦味料に分類される。ニガヨモギを用いたリキュールでは、「緑の魔酒」ともいわれるアブサンが有名だが、白ワインを主にニガヨモギなどのハーブを浸けた、チンザノなどのベルモットの方が一般的である』。『一度にたくさん摂取すると含まれるツヨン』(thujone:「ツジョン」とも。モノテルペン。ケトン)『により嘔吐、神経麻痺などの症状が起こる。また、習慣性が強いので連用は危険である』とある。また、「新約聖書」の預言書とされる「ヨハネの黙示録」の第八章(一〇と一一)には、「第三のみ使いがラッパを吹き鳴らした。するとたいまつのように燃えている大きな星が落ちた。それは川の三分の一と水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、川の三分の一が苦よもぎのように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んでしまった」と書かれてあるが(引用は私の所持するフランシスコ会聖書研究所訳注版(昭和四七(一九七二)年中央出版社刊を用いた)、『これは正確にはニガヨモギではなく』、同属の別種『Artemisia judaica だとする説が有力であ』り、また、私は他でも何度か述べたが、チェルノブイリ原発事故直後から、この「黙示録」の一節と事故を重ね合わせ、『しばしば「ウクライナ語(あるいはロシア語)でニガヨモギはチェルノブイリ」などと言われることがあるが』『(ウクライナ語ではチョルノブイリ)』、『これは実は『正確ではな』く(私も教師時代にしばしばこの話をしたものだったが)、『ウクライナ語の「チョルノブイリ」(чорнобиль / chornobilʹ)』はニガヨモギの近縁種であるオウシュウヨモギ Artemisia vulgaris であって、種としてのニガヨモギを指すものではない。『チョルヌイ(chornyj)は「黒い」、ブイリヤ(bylija)は「草」の意味で、直訳すれば』、『「黒い草」となる。一方、ニガヨモギ Artemisia absinthium の方はポリン』(полин / polin)『であって、チェルノブイリではない。このオウシュウヨモギ Artemisia vulgaris(=チョルノブイリ)はニガヨモギ Artemisia absinthium と『ともに、原発事故』で全世界に知られるようになってしまった『チェルノブイリ周辺で自生し、その地の地名になっている』のではあるが、ロシア語でもオウシュウヨモギは「チェルノブイリニク」(Чернобыльнык / Chernobylʹnyk)、ニガヨモギは「ポルイニ」(Полынь / Polynʹ)であって、両者は厳然と区別されている。『これらが混同され』た上に、ファンダメンタリスト聖書原理主義者)の終末思想宣伝に我々は乗せられたに過ぎないことを、ここで明記しておきたい(下線太字やぶちゃん)。]

2017/10/14

佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その2) / 三 戰慄~了

 

 その四代ほど前といふのは、何でも泉州(ツヱンチヤオ)から臺灣中部の胡蘆屯(フロトン)の附近へ來た人で、もともと多少の資産はあつたさうだが、一代のうちにそれほどの大富豪になつたに就(つい)ては、何かにつけて隨分と非常なやり口があつたらしい。虛構か事實かは知らないけれどもこんなことを言ふ――例へば、或時の如き隣接した四邊(あたり)の田畑の境界標(きやうかいへう)を、その收穫が近づいたところを見計(みはから)つて、夜(よる)のうちに出來るだけ四方へ遠くまで動かして置く。その石標(せきへう)を抱(だ)いて手下の男が幾人も一晩のうちに建てなほして置くのだ。次の日になると平氣な顏をして、その他人の田畑を非常な多人數(たにんず)で一時(じ)に刈入れにかかつた。所有者達が驚いて抗議をすると、その石標を楯に逆に公事(くじ)を起した。その前にはずつと以前から、その道の役人とは十分結託してゐたから、彼の公事は負ける筈はなかつた。彼は惡い役人に扶(たす)けられまた扶けて、臺灣の中部の廣い土地は數年のうちに彼のものになり、そこのどの役人達だつて彼の頤(おとがひ)の動くままに動かなければならないやうになつた、惡い國を一つこしらへた程の勢(いきほひ)であつた。一たいこの頃、沈(シン)は兄弟でそんなことをしてゐたのだが、兄の方は鹿港(ロツカン)の役所の役人と口論の末に、役人を斬らうとして却つて殺されてしまつた。これだつても、どうやら弟の沈が仕組んで兄を殺させたのだといふ噂さへある程で、兄弟のうちでも弟の方に一層惡性(あくせい)がある。實際、兄の方はいくらかはよかつたらしい。ある時、彼等のいつもの策で、隣(となり)の畑へ犂(からすき)を入れようとしたのだ。その時にはその畑に持主が這入つてゐるのを眼の前に見ながら、最も圖太(づぶと)くやりだしたのだ。といふのはその畑の持主といふのは七十程の寡婦だつた。だから何の怖れることもなかつたのだ。しかし第一の犂(からすき)をその畑に入れようとすると、場にあつたこの年とつた女は急に走つて來て、その犂の前の地面へ小さな體(からだ)を投げ出した。

「――助けて下さい。これは私の命なのです。私の夫と息子とがむかし汗を流した土地です。今は私ががかうして少しばかりの自分の食ひ代(しろ)を作り出す土地です。――この土地を取り上げる程なら、この老(おい)ぼれの命をとつて下さい!」

 沈(シン)の手下に働くだけに惡い者どもばかりではあつたけれども、さすがに犂(からすき)をとめたまま、土をさへ突(つ)かうとする者もなかつた。男どもは歸つてこの事を兄の沈に話すと、彼は苦笑をして「仕方がない」と答へたさうだ。弟の沈はその時は何も知らなかつた。しかし、その後(ご)二三日して見廻りに來て、馬上から見渡すと彼等の畑のなかにひどく荒れてゐるところがあるので作男どもを叱つた。するとそれが例の寡婦の畑だと判つて、初めてその事情を聞いた。なるほど、今もひとり老ぼれの婆さんがそこにゐるのを見ると、彼は馬を進めた。さうして近くに働いてゐた自分の作男に、言つた――

「犂(からすき)を持つて來い」

 主人の氣質を知つてゐるから作男は拒(こば)むことが出來なかつた。主人は再び言つた――

「ここの荒れてゐる畑ヘ、犂を入れろ。こら! いつもいふ通り、おれは自分の地所の近所に手のとどかない畑があるのは、氣に入らないのだ」

 老寡婦はこの前と同じ方法を取つて哀願した。作男が主人の命令とこの命懸けの懇願との板挾みになつて躊躇してゐるのを見ると、沈は馬から下りた。畑のなかへ步み入りながら、

「婆さん。さあ退(ど)いた。畑といふものは荒(あら)して置くものぢやない」

 さう言ひながら、大きな犂(からすき)を引いてゐる水牛の尻に鞭(むち)をかざした。婆さんは沈の顏を見上げたきり動かうとはしたかつた。

「本當に死にたいんだな。もう死んでもいい年だ」

 言つたかと思ふと、ふり上げてゐた鞭を強(したゝ)かに水牛の尻に當てた。水牛が急に步き出した。無論、婆さんは轢殺(ひきころ)された。

「さあぐづぐづせずに、あとを早くやれ――。こんな老ぼれのために廣い地面を遊ばして置いてなるものか」

 いつもと大して變らない聲でさう言ひながら、この男は馬に乘つて歸つてしまつた。これほどの男だからこそ、その兄があんな死に方をした時にも、世間では弟の穽(おとしあな)に落ちたのだと言つて、でも自分の手に懸けないだけがまだしも兄弟の情(じやう)だ、などと噂したさうである。何(なに)にしても、兄が死んでしまつてから弟がその管理を一切ひとりでやつた。その後(ご)、その家は一層榮えるし、彼は七十近くまで生きてゐて――惡い事をしても報いはないものかと思ふやうな生涯を終る時に、彼は一つの遺言をしたのだ。その遺言は甚だ注意すべきものである。

「今から後(のち)、三十年經つたら我我の家族は、田地をすつかり賣り拂つて仕舞(しま)はなけりやならない。それから南部の安平(アンピン)へ行つてそこで舟を持つて本國の對岸地方と商賣をするのだ」

[やぶちゃん注:「仕舞(しま)はなけりやならない」は底本では「仕舞(しま)はなけやならない」であるが、読めないので、脱字と断じて特異的に「り」を挿入した。]

 その理由を尋ねようと思ふともう昏睡してしまつてゐた。しかし子供はその遺言を守つて、安平(アンピン)の禿頭港(ツタウカン)へ出て來たのだと言ふ。――この遺言の話はやつぱり沈(シン)の一族からずつと後(のち)に洩れたといふので皆知つてゐたが、あの一晩の颶風(はやて)が基(もと)で、それこそ颶風(はやて)のやうに沈家に吹き寄せた不幸の折から、世間の人人は沈家の祖先の遺言から、またその祖先のした惡行をさまざまに思ひ出して、因果は應報でさすがに天上聖母は沈の持舟(もちぶね)を守らない。――あの遺言こそまるで子孫に今日(けふ)の天罰を受けさせようと思つて、老寡婦の死靈(しりやう)が臨終の仇敵(きうてき)に乘り移つたのだとか、あの颶風(はやて)はその老寡婦が犂(からすき)で殺されてから何十年目の祥月命日であるとか、人人は沈家の悲運を同情しながらもそんなことを噂した。何にしても、大きな不運の後(あと)であとからあとから一時(じ)に皆、死に絶えてしまつて、遺(のこ)つた人といふのは年若い娘ひとりで、それさへ氣が狂つて生きてゐた。

 祖先にたとひどんな噂があらうとも、かうして生きてゐる纖弱(かよわ)い女をほつて置くわけにはいかないといふので、近隣の人人は、いつも食事くらゐは運んでやつた。それが永い間絶えなかつたといふのも、いはば金持の餘德とも言へよう。といふのは食事を運んでやる人たちは、その都度何かしら、その家のそこらに飾つてある品物の手輕なものを、一つ二づつこつそりと持つて來る者があるらしかつた。部屋にあつたものは自(おのづ)と少(すくな)くなり、さうなると近隣でも相當な家の人達はもうそこへ行かなくなつた――他人のものを少しづつ掠(かす)めてくるやうな人たちの一人と思はれたくないと思つて、自(おのづ)と控へるやうになつたのである。そのりにはまた、厚かましい人があつて、當然のやうな顏をして品物を持つて來てそれを賣拂(うりはら)つたりするやうな人も出て來た。下さいと言つて賴むと氣の違つてゐる人は、極く大樣(おほやう)にくれるといふことであつた。――「さあ、お祝ひに何なりと持つておいで」高價なものをさういふ風に奪はれて、やつぱりあの家では昔の年貢を今收めゐてゐるのだよなどと、口さがない人人は言つた。

 どういふ風に、娘は氣が違つてゐるのかといふのに、娘は刻刻に人の――恐らくは彼女の夫(をつと)の、來るのを待つてゐるらしかつた。人の足音が來さへすれば叫ぶのだ――泉州(ツヱンチヤオ)言葉で、

「どうしたのです。なぜもつと早く來て下さらない?」

 ――つまり、我我が聞いたのと全く同じやうな言葉なのだ。彼女は姿こそ年とつたがそ聲は、いつまでも若く美しかつた! ――我我が聞いたその聲のやうに?

 その聲を聞いて、人人は深い哀れに打たれながら、その部屋へ這入つて行くと、彼女は人人を先づ凝視して、それからさめざめと泣くのだ。待つてゐた人でなかつた事を怨むのだ。そこで人人は明日こそその當(たう)の人が來るだらうと言つて慰める。彼女はまた新しい希望を湧き起す。彼女はいつも美しい着物を着て人を待つ用意をしてゐた。たしかに海を越えて來るその夫を待つてゐるのだといふことは疑ひなかつた。さういふ風にして彼女は二十年以上も生きてゐたのだらう―

[やぶちゃん注:ダッシュ一字分はママ。ここは行末であるが、私はここで改行と読んだ。]

「私が十七の年に、初めてこの家へ來たころには、その人はまだ生きてゐたものです」と、この長話を我我に語つた禿頭港(クツタウカン)の老婦人は言つた。――この婦人ももう六十に近いであらうが四十年位(くらゐ)前にこの家へ嫁に來たものと見える。「私は近づいてその人を見た事はありませんけれども、天氣の靜(しづか)な日などには、よく皆(みんな)が『またお孃さんが出てゐるよ』といふものだから、見ると走馬樓(ツアウベラウ)の欄干によりかかつて、ずつと遠い海の方を長いこと――半日も立つて見てゐるらしいやうなことがよくありました。夫を乘せた舟の帆でも見えるやうに思つたものですかねえ。いづれやつぱりその海が見えるからでせう、お孃さんのゐる部屋といふのは、あの二階ばかりで、外の部屋ヘは一足(ひとあし)も出なかつたさうです。皆はお孃さん、お孃さんと呼び慣はしてはゐましたが、その頃はもうやがて四十ぐらゐにはなつてゐるだらうといふ事でした。それが、何日(いつ)からかお孃さんの姿をまるで見かけなくなつたのです。病氣ででもあらうかと思つて人が行つてみると、お孃さんはそこの寢牀(ねどこ)のなかでもう腐りかからうとしてゐたさうです。金簪(きんさん)を飾つて花嫁姿をしてゐたと言ひますよ。――それが不思議な事に、それだのに、その人が二階へ上らうとすると、やつぱりお孃さんが生きてゐた時と同じやうに、凉しい聲でいつもの言葉を呼びかけたさうです。ね! 貴方がたの聞いたのと少しも違はない言葉ですよ! だから死んでゐようなどとは露(つゆ)思はなかつただけにその人は一層びつくりしたとの事です。それから後(のち)にも、その聲をそこで聞いたといふ人は時時あつたのです。――お孃さんは病氣といふよりは、もしや飢ゑて死んだのではあるまいかと云ふ人もあります。といふのはその家のなかには、昔こここにあつた見事な樣々の品物が、もうに何一つ殘つてゐなかつたさうですから。さうして死骸に附いてゐた金簪(きんさん)は葬(とむらひ)の費用になつたと言ひます」

佐藤春夫 女誡扇綺譚 三 戰慄 (その1)

 

 

    戰慄

 

 

 老婆は改めてやつと語り出した、初めはひとり言(ごと)めいた口調で……

「……さういふ噂は長いこと聞いてはゐました。けれどもその聲を本當に、自分が本當に聞いたといふ人を――見るのは初めてです。若い男の人たちは、一たいそこへ近づいてはいけなかつたのです。貴方がたは最初、私にその裏口をおききになつた時に、私はほんたうはお留めしたいと思つたのですが、それには長い話がいるし、また昔ものが何をいふかとお笑ひになると思つたものですから……。それに今はもう月日も經つたことではあり、私もまさかそんなことがあらうと信じなかつたものだから……。でも、私は何か惡い事が起らねばいいと氣がかりになつて、實は貴方がたの樣子をこちらから見守つてゐたところです。――あれは昔から幽靈屋敷だといふので、この邊では誰(だれ)も近づく人のなかつたところなのです。――ごらんなさい。あそこの大きな龍眼肉(ゲンゲン)の樹には見事な實(み)が鈴生(すゞなり)りにみのるのですが、それだつて採りに行く人もない程です……」

 彼女は向うに見える大樹を指さし、自(おのづ)とその下の銃樓が目についたのであらう――

「昔はあの家は、海賊が覘(ねら)つて來るといふので、あの櫓(やぐら)の上に每晩鐡砲をもつて不寢番(ふしんばん)が立つた程の金持でした。北方の林(リン)に對抗して南方の沈(シン)と言へば、誰ひとり知らぬ人はなかつたのです。いいえ、まだつい六十年になるかならぬぐらゐの事です。大きな戒克船(ジヤンク)を五十艘も持つて、泉州(ツヱンチヤオ)や漳州(チンチヤオ)や福州(チウチヤオ)はもとより廣東(カントン)の方まで取引をしたといふ大商人で船問屋(ふなどんや)を兼ねてゐました。『安平港(アンピンカン)の沈(シン)か、沈の安平港か』とみんな唄つたものです。――御存じの通りそのころの安平港はまだ立派な港で、そのなかでも禿頭港(タツタウカン)と言へば安平と臺南(たいなん)の市街とのつづくところで、港内でも第一の船着(ふなつ)きでした。これほど賑やかなところは臺南にもなかつた程だといひます。――沈(シン)は本當に安平港の主(ぬし)だつたと見える。――沈家(シンけ)が沒落すると一緒に、安平港は急に火が消えたやうになりました。沈(シン)のゐない安平港へは用がないと言つて來なくなつた船が澤山あるさうです。それに海はだんだん淺くなるばかりで、しかもいつの間にか氣がついた頃にはすつかり埋(うづ)まつてゐたのですよ。この急な變り方までが、まるで沈家にそつくりだと、今もよくみんなして年寄たちは話し合ひますよ。……沈の家ですか? それがまた不思議なほど急に、一度に、唯の一夏(ひとなつ)の、しかも只の一晩のうちに急に沒落したのです。百萬長者が目を開けて見ると乞食になつてゐたのです。夢でもかうは急に變るまい。他人事(ひとごと)ながら考へれば人間が味氣(あぢき)なくなる――と、家の父はこの話が出るとよくさう言ひました。何でも沈の家ではその時、盛りの絶頂だつたのです。今の普請(ふしん)もついその三四年前に出來上つたばかりで、その普請がまた大したもので、石でも木でもみんな漳州(チンチヤオ)や泉州(ツヱンチヤオ)から運んだので、五十艘の持船(もちふね)がみんな、その爲めに二度づつ、そればかりに通うたといふ程ですよ。それといふのも沈家には、この子の爲めなら、双親(ふたおや)とも目がないという可愛い、ひとり娘があつて、それの婿取りの用意にこんな大がかりな普請をしたものださうです。それに美しい娘だつたさうです――私が見た時には、もう四十ぐらゐになつてもゐたし、落(おち)ぶれてれてへんになつてはゐましたが、それでもさう聞けばなるほどと思ふやうなところはありました……」

[やぶちゃん注:「戒克船(ジヤンク)」「戒」はママ。「戎克船」の誤りである。英語で“junk”であるが、元来はジャワ語で「船」の意。中国の沿岸や河川などで用いられている伝統的な木造帆船の総称。多数の水密隔壁により、船内が縦横に仕切られ、角形の船首と蛇腹式の帆を持つのが特徴。

「それに美しい娘だつたさうです」の「それに」は「それは」の誤植が疑われる感じはする。]

「そんなにまた、急に、どうして沈の家が沒落したのです?」世外民は、性急に話の重大な點をとらへてたづねた。

「ごめんなさい、私は年寄で話が下手で」――聞いてゐるうちに解つて來たが、この老婆は上品な中流の老婦人であつた。「怖ろしい海の颶風(はやて)だつたのです。陸(をか)でも崩れた家が澤山あつたさうです。それはさうでせう。――ごらんなさい、あの沈(シン)の家の水門の石垣でさへあの角(かど)が吹き崩されたのださうです。さうしてそれを直すことさへもう出來なかつたので、今もそのままに殘つてゐるのですが、夜(よ)が明けてみてその石垣――そのころはまだ築いたばかりの新しい石垣の、あんな大きな石が崩れ落ちてゐるのを見て、沈の主人は心配さうにそれを見てゐたさうです。運の惡い事に、その晩、宵のうちは靜かな滿月の夜でもあつたさうだし、沈の五十艘の船はみんな海に出てゐたのださうです。沈の主人は――五十位(ぐらゐ)の人だつたさうですが、崩れた石垣を見るにつけても、海に出てゐた持船(もちぶね)が心配だつたのでせう。船の便りは容易に知れなかつたさうですが、五日(か)經つても十日經つても歸る船はなかつたさうです。ただ人間だけが、それも船出した時の十分の一ぐらゐの人數(にんず)がぽつぽつと病み呆けて歸つて來て、それぞれに難船の話を傳へただけでした。無事に歸つた船は只の一艘もなかつたさうです。尤も、人の噂では、港にゐて颶風(はやて)に出會はなかつた船も三艘や五艘あつたに相違ないが、友船(ともふね)が本當に難船したことから惡企(わるだく)みを思ひついて、自分達の船も難船して自分は死んだやうな顏をして、船も荷物も橫領したまま遠くへ行つてしまつて歸つて來なかつたものも、どうやらあるらしいと言ひます。現に何處(どこ)とかの誰(たれ)は廣東(カントン)で、死んだ筈の何の某(なにがし)に逢つたの、名前と色どりとこそ變つてゐたが沈(シン)の船の『躑躅(てきちよく)』とそつくりのものを廈門(ヱイムン)で見かけたなどと、言ふ人もあつたさうです。何(なん)にしても一杯に荷物を積み込んだ大船(おほふね)が五十艘歸つて來なかつたのです。その騷ぎはどんなだつたか判るではありませんか。なかには沈自身の荷物ではないものも半分以上あつて、荷主(にぬし)は、みんな沈の家へ申し合せて押(おし)かけて、その償ひを持つて歸つたさうです。普請や娘の支度などで金を費(つか)つたあとではあり、それに派手な人で商ひも大きかつただけに、手許(てもと)には案外、金(きん)も銀も少(すくな)かつたと言ひます。人の心といふものは怖ろしいもので、かうなつて仕舞ふと、取るものは殘らず取立てても、拂つて貰へる可(べ)きものは何も取れない。そればかりか殆んど日どりまで定つてゐた娘の養子は斷つて來たさうです。もともと金持の沈と緣組をする筈で貧乏人の沈と緣を結ぶつもりではなかつたからでせう。……おお、、あそこに、いい日蔭が出來ました。あそこへ行つてまあ腰でもお掛けなさい」

[やぶちゃん注:「躑躅」不詳。ルビは「てきちよく」とあるが、「てきしよく」の誤植であろう。現行の日本では植物のツツジであるから、それを船体に描いた船のことかとかとも思ったが、中国語ではこれは本来、「
足踏みをする」という意味で、船名としては不吉であるから不審である。識者の御教授を乞うものである。

 老婆は、ちやうど前栽(ぜんさい)に一本だけあつた榕樹が、少し西に傾いた日ざしによつてやや廣い影を造つたのを見つけて、さう言ひながら自分がさきに立つて小さな足でよちよちと步いた。今まで別に氣がつかずにゐたが、この老婆の家といふのも大したことはないが一とほりの家で、昔の繁華の地に殘つてゐるだけの事はあつた。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、この老婆は纏足であることがこの描写から判る。]

 樹(こ)かげで老婆は更に話しつづけた。彼女はよほど話好きと見えて、また上手でもある。ただ小さい聲で早口で、それが私にとつては外國語だけに聽きとりにくい場合や、判らない言葉などもある。私は後(のち)に世外民にも改めて聞き返したりしたが、更に老婆の説きつづけたことは次のやうである――

 前述のやうな具合で沈の家が沒落し出すと、それが緒(いとぐち)で主人の沈は病氣になりそれが間もなく死ぬと同時に、緣談の破れたことを悲しんでゐた娘は重なる新しい歎きのために鬱鬱としてゐた擧句、たうとう狂氣してしまふ。その娘を不憫に思つてゐるうちにその母親も病氣で死んでしまふ。全く、作り話のやうに、不運は鎖(くさり)になつてつづいた。

 一たいこの沈といふ家に就(つい)て世間ではいろいろなことを言ふ。

 

 *     *     *     *

    *     *     *

老媼茶話巻之三 幽靈

 

     幽靈

 

 融通寺(ゆつうじ)町に古館山城安寺と云(いふ)淨土寺有(あり)。爰に女の幽靈の像あり。幽靈は蒲生秀行の乳母なり。其折は此寺に住僧もなく、覺夢といふ閑主坊(かんしゆばう)住めり。此うば、その僧にゆかり有りけん、兼て導師を賴置(たのみおき)り。しかるに乳母、罪なくして人の爲にざんせられて、秀行卿の御母公(おんははぎみ)の御にくみを蒙り、終(つゐ)に、其つみ、申(まうし)ひらく事あたはず、自ら刃(やいば)にふして死(しに)たり。最後に申置(まうしおく)、

「葬(はふ)り、火葬。」

の由、覺夢が方へ申來(まうしきた)り、則(すなはち)、

「今夕、棺を寺へ持來(もちきた)るべし。」

と、なり。

 覺夢、元より、一文不通(いちもんふつう)の愚僧なれば、引導のすべを知らず。

「いかゞせん。」

と案じ居たり。

 葬の義、申來辰の下刻成(な)るに、日中に、佛壇、ひゞき渡り、何となく物すごく、空のけしきもたゞならず、かき曇(くもり)、風吹(かぜふき)、小雨ふり出(いで)て、物さわがしく、覺夢、寺にたまりかね、桂林寺町、九郎右衞門といふ繪師とかねがねむつまじく交(まじは)りける間、急ぎ、かの九郎右衞門方へ來り、右の有增(あらまし)を語る。

 九郎右衞門、其頃、金輪組(かなわぐみ)と云(いふ)男だての内(うち)也。此由聞(きき)、云(いふ)は、

「何樣(なにさま)、今日の氣色(けしき)、空のたゝずまひ、けしからぬ樣子なり。必(かならず)、今夕、葬(はふり)の節は妖怪有るに極(きはみ)たり。引導の義は、口のうちにて經文らしき事をつぶやき、其後(そののち)、念佛を申せば、すむ事也。我も汝とひとつに、棺にはなれず、立添(たちそひ)て、火車(くわしや)來りて抓(つかみ)さらはんとせば、刀を拔(ぬき)て切拂(きりはら)ひ寄せつけまじ。わらと、柴とへ、油を多くそゝぎ、假(たとへ)大雨ふる共(とも)、火のきへざる樣にすべし。急ぎ、寺へ歸り、葬禮の儲(まうけ)をすべし。」

とて、覺夢と打(うち)つれて、九郎左衞門も寺へ來り、待居(まちゐ)たり。

 すでに、日、暮(くれ)、棺を寺へ持來りけるに、俄(にはか)に、雨ふり出(いだ)し、風吹(かぜふき)、稻光(いなびかり)、隙(ひま)なくして、空は墨を摺(すり)たるごとく、眞闇(まつくら)に成(なり)、すさまじさ限りなし。送りの者共も、已に棺へ、黑雲、覆ひ懸り、雷、ひゞき渡り、大雨、頻りにふり、數ある灯燈(ともし)も消(きえ)ければ、棺を寺の前に打捨(うちす)て、壱人もなく、逃(にげ)たり。

 覺夢坊、かいがい敷(しく)、衣の袖をたすきにかけ、棺へ乘懸(のりかか)り、念佛を大音(だいおん)に申(まうす)。

 九郎右衞門は、大はだぬぎに成(なり)、大脇差をさして、是も棺へ立懸り、黑雲の、うづ卷(まき)、𢌞(めぐ)る内を、打拂ひ、打拂ひすれば、黑雲、次第に遠ざかり、雨風、忽(たちまち)、止(やみ)、元の靑天に成りしかば、棺をわら・たきゞの上にすへ、引導にも及ばず、火を懸(かく)。

 猛火、さかんにもへのぼり、火定(くわじやう)も既に成納(じやうなう)し、曉(あかつき)、白骨を拾(ひろ)ひとり、寺の乾(いぬゐ)の角(すみ)、大き成(なる)榎の下へ埋(うづめ)たり。

 其後(そののち)、一日ありて、此女の幽靈。晝夜となく、寺中を、まよひ、ありく。

 覺夢、九郎右衞門に件(くだん)の由を語る。

 九郎右衞門、密(ひそか)に寺へ來り、片影(かたかげ)よりのぞき見て、此幽靈の像を寫(うつし)たり、と云(いへ)り。

 年月を舊(ふり)て、幽靈も出(いで)ず成りにけり。

 此寺、むかしより、妖怪有り。或は寺に夜を更(ふか)し、雪隱へ行(ゆき)けるに、雪隱の内より、一目の入道、不斗(ふと)、出(いで)て、彼(かの)者を突倒(つきたふし)たりければ、件(くだん)の男、死入(しにいり)ける、といへり。

 今も、乾の角、榎の本(もと)にては、禿(かむろ)・古入道の類(たぐひ)は、見るもの、度々(たびたび)なり。

 

[やぶちゃん注:「融通寺(ゆつうじ)町」福島県会津若松市大町に融通寺という寺ならある。ここ(グーグル・マップ・データ)。ところが、ウィキの「本町(会津若松市)」によれば、現在の会津若松市本町(ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の融通寺の南西一キロ圏内)内は嘗て融通寺町(ゆつうじまち)があった。『若松城下の城郭外、当時の下町に属する町で、融通寺口郭門から北に続き、西名古屋町に至る幅』四『間の通りであった。浄土宗城安寺があり、これは融通寺が文禄元年に大町に移転した跡にあるとされる。また、昭和時代には呉服商などの商店が多かったとされている』(下線やぶちゃん)とある。

「古館山城安寺」鶴ヶ城下の若松観音霊場の第二十三番として大町の「城安寺」が挙がっているが、確認出来ない。諸データを見る限り、廃寺となっている。従って山号の読みも不詳である。

「蒲生秀行」(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年)は安土桃山から江戸初期にかけての大名。陸奥会津藩主。蒲生賦秀(氏郷)嫡男。既出既注

「乳母」とあるから、話柄の時制は秀行が生まれた天正一一(一五八三)年以降から、彼が重臣同士の対立による御家騒動(蒲生騒動)によって秀吉の命で慶長三(一五九八)年三月に会津九十二万石から宇都宮十八万石で移封された十五年間か、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって、陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した時から、慶長一七(一六一二)年五月十四日の死去(享年三十)の凡そ十二年の間の孰れかとなる。

「覺夢」不詳。

「閑主坊(かんしゆばう)」特に何をするでもなく、管理者がいないので、管理をしている僧形の名ばかりの坊主の謂いらしいが、私は嘗てこの熟語を見たことがない。

「導師」亡くなった際の葬儀に於いて死者に引導を渡す(僧が死者に迷いを去り、悟りを開くように説き聞かせること)僧。

「ざんせられて」「讒(ざん)せられて」。讒言(ざんげん:他人を陥れようとして、事実を枉(ま)げ、偽って悪(あ)しざまに告げ口をすること)をされて。

「秀行卿の御母公」蒲生氏郷の正室で織田信長の次女であった相応院(そうおういん 永禄元(一五五八)年或いは永禄四年~寛永一八(一六四一)年)。ウィキの「相応院(蒲生氏郷正室)」によれば、『信長の四男である羽柴秀勝とは知恩院塔頭瑞林院に秀勝と同じく墓があることから』、『共に母を養観院とする同腹姉弟とみられる』。永禄十一年、『近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が織田氏に臣従したとき、信長は賢秀の子・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として取ったが、その器量を早くから見抜いて』、永禄一二(一五六九)年の『大河内城の戦い後に』、『自らの娘を与え』、『娘婿として迎えた』。彼女は秀行との間に『息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている』。『その後、夫・氏郷は豊臣秀吉に臣従し、陸奥会津』九十二『万石の大名になるが』、文禄四(一五九五)年に四十歳で死去』し、『後継の秀行は家臣団の統制がままならず』、『会津から宇都宮』十二『万石に減封・移封された』。彼女もともに『宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから』、会津六十万石に戻されている。しかし、慶長一七(一六一二)年に秀行が三十歳で死去、『その跡を継いだ孫の蒲生忠郷』も寛永四(一六二七)年に二十五歳で死去してしまう。しかも『忠郷には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが』、彼女が『信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことから』、『特別に、姫の孫にあたる忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩』二十『万石へ減移封の上』、『家督を継ぐことを許された』。しかし『その忠知も』寛永一一(一六三四)年に『嗣子なくして早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった』。『晩年は京都嵯峨で過ごし』、八十一歳で死去した。『法名は相応院殿月桂凉心英誉清薫大禅定尼姉』で『墓所は京都左京区の知恩寺』とある。

「にくみ」「憎み」。

「ふして」「伏して」。短刀に咽喉を突き立てて。

「葬(はふ)り、火葬」「の由、覺夢が方へ申來(まうしきた)り」「今夕、棺を寺へ持來(もちきた)るべし」自害に至る状況から考えて、彼女が自由に城を出て、覚夢の元に直接に告げに行くことは考えられないから、孰れも御付きの使者の申し越しによるもの考えられる。この時代、本邦では特に火葬は特異な葬送法ではなかったが、ここでは自死に至る状況の中に投げ込まれた遺言として、明らかに特殊な意図、讒言によって死を迎えねばならぬ彼女の強い遺恨の思いを、火葬の紅蓮の炎に幻視していると見るのが正しい。

「元より、一文不通(いちもんふつう)の愚僧」「引導のすべを知らず」経文が読めぬどころか、恐らくは文盲に近い状態の坊主とは名ばかりの輩(やから)であったものらしい。浄土宗の寺だから、「南無阿彌陀佛」を唱える、書くこと、寺名を漢字で書くぐらいしか出来なかったと考えてよかろう。

「辰の下刻」午前八時二十分頃から九時頃まで。

「桂林寺町」現在の会津若松市七日町・融通寺(ゆつうじ)町のあった本町・西栄町・日新町などの旧町名。この中央を中心とした一帯と思われる(グーグル・マップ・データ)。

「九郎右衞門といふ繪師」不詳。

「金輪組(かなわぐみ)」不詳。「男だて」とあるから、やや侠客的な集団のようである。

「引導の義は、口のうちにて經文らしき事をつぶやき、其後、念佛を申せば、すむ事」「らしき」が非常に面白く利いている。

「火車(くわしや)」悪行を積み重ねた末に死んだ者の亡骸を、葬儀や墓場から奪い去って行くとされる妖怪の名。既出既注

「儲(まうけ)」「設け」。準備。

「灯燈(ともし)」読みは私の趣味で当て読みした推定。

「かいがい敷(しく)」如何にも僧侶然として頼もしい感じのする様子で。その内実はそうではないのであるが、ここは葬儀の参列者が皆、逃げ帰ってしまったので、逆に噓の読経なんぞをせずともよくなったから、どこかでホッとして余裕が出たとも言え、正統幽霊話ながら、覚夢はピエロ役として非常に上手く笑いを採る機能を果していると言える。

「うづ卷(まき)」「渦巻く」の動詞の連用形で採り、下の「𢌞(めぐ)る」(読みは私の趣味で推定)と対とした。

「火を懸(かく)。」底本は『火を懸、』と「かけ」と読み、以下に続けているが、それでは、以下のシーンとの繋がりがだらだらするので、私は採らない。

「さかんにもへのぼり」「盛んに燃え昇り」。「もへ」はママ。

「火定(くわじやう)」火定(かじょう)は仏語で、本来は、不動明王が三昧(さんまい)に入って身から自然に炎を発すること(火生(かしょう)三昧或いは単に火生とも言う)。或いは、即身成仏を願う修行者が、自ら焼身死することによって入定することを指す、特殊な語であるが、ここは単に死者を火葬にすることを指している。

「成納(じやうなう)」あまり聴かない熟語であるが、ある行為や現象が完全になし遂げられることの謂いであろう。火葬に於いて完全に遺体を焼き終えることを指している。

「乾(いぬゐ)」北西。何か意味があるようだが、判らぬ。或いは、「此寺、むかしより、妖怪有り。或は寺に夜を更(ふか)し、雪隱へ行(ゆき)けるに、雪隱の内より、一目の入道、不斗(ふと)、出(いで)」たりしたとあり、今は寺内には出ぬものの(そこがミソ)彼女の遺骨を埋めた「乾の角、榎の本(もと)にては、禿(かむろ)」(童女姿の妖怪(あやかし))や「古入道の類(たぐひ)は、見るもの」(者)「度々(たびたび)」あるというとこから見ると、覚夢から聴いたか、或いは以前から妖怪が寺の建物内に出現することを知っていた九郎右衛門が知恵を利かせて、そうした妖怪をこの場所に封じ込める手段として、この榎の下を選んでわざわざ強い怨念を持った彼女の骨を埋めたのだと逆に読める。但し、それでもこの方位との関係性は判らぬ。識者の御教授を乞う。

「片影(かたかげ)」「片蔭」。物蔭。

「死入(しにいり)ける」気絶した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 岩


Iwao

   

 

 あなたは海邊に年を經た灰色の岩を見たことがあるか。麗らかに晴れわたる日の滿ち潮につれて、四方から生き生きと波の寄そせる樣を。寄せては打ち、甘え戲れ、眞珠(あこや)なす水沫を千々に碎いて、苔蒸す岩頭(がしら)を洗ふのを。

 岩はいつまでも、同じ岩の姿である。けれど、その暗灰色の岩膚には、きれいな彩目があらはれる。

 それは遠い昔を物語るのだ。花崗質(みかげ)の熔岩がやつと固まりかけながら、まだ一團の炎と燃えてゐた頃のことを。

 そのやうに私の老いた心にも、つい近頃まで、若い女性らの魂が打寄せては碎けた。その優しい愛撫のために、夙(とう)の昔に褪せ凋れて私の彩目も、搔き立てられて紅らんだ。然し所詮は、消えた炎の跡形にすぎない。

 波げ退(ひ)く。けれど彩目は失せない。きびしい冬風に吹かれても・

             一八七九年五月

 

[やぶちゃん注:第四段落の「夙(とう)の昔に褪せ凋れて私の彩目も」の「て」は「た」の誤植か? 「跡形」は痕跡の意味の「あとかた」。にしても、この第四段落は意味が採りにくく、正直、訳としてはよろしくない。本篇に新改訳があるのは、そうした事情があるものと推察する。新しいものでは、この段落は『それとおなじく、わたしの老いた心にも、このあいだ、若い女性のまごころが八方からおしよせた。その愛撫の波にふれて、わたしの心は紅らみかけた。それは、とうの昔にあせた色どり、すぎし日の炎の跡なのだ!』と訳されており、素直に腑に落ちるのである。

「水沫」「みなわ」(歴史的仮名遣でも「みなは」ではない)。新改訳にもそうルビが振られてある。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) キリスト


Kirisuto

   キリスト

 

 自分がまるで子供になつて、天井の低い村の教會にゐる夢を見た。古びた聖像の前に細い蠟燭が幾本か、ちらちらと赤い舌を動かしてゐる。

 その炎の一つ一つは、虹のやうな暈(かさ)を着てゐる會堂の中はぼんやりと薄暗い。が、多勢の人々が私の前に立つてゐる。

 みな紅毛の、百姓頭ばかりだつた。それが時とともに、搖れたり下つたり、また上つたりするやうな、そよそよと渡る夏の微風に靡く、重い麥の穗に似てゐた。

 不意に誰かしら、後の方から步み寄つて、私と並んで立つた。

 私は振向いて見なかつたが、蟲の知らせでその人こそキリストだと覺つた。

 感動や好奇心や恐怖や、色々な氣持が私の胸を一杯にした。

 私は思ひ切つて、隣りの人の顏を見た。

 當り前の顏だつた。そこらの人の顏とよく似た顏だつた。物靜かな眼でまじまじと、稍〻上を見てゐる。唇は閉ぢてゐるが、強く結んでゐるのではなくて、下唇のうへに上唇が休んでゐる樣に見える。短い顎髯が二つに分れてゐる。兩手は胸に組合はせて、ぴくりともしない。着物は皆と同じである。

 「これがキリストで堪るものか」と私は思つた、「こんな平凡な、當り前の男が。そんな事があるものか。」

 私は外方(そつぽ)を向いた。けれど。その平凡な男から眼を外らさぬ中に、並んでゐる男は矢張りキリストなのだと感じた。

 私はまた勇氣を出して振返つた。そして又も、普通の人間と少しも變らぬ平凡な顏を見出した。ただ見知らぬだけである。

 すると急に悲しくなつて眼が覺めた。そしてやつと、普通の人間と少しも變らぬ顏こそ、キリストの顏なのだとさとつた。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「靡く」「なびく」。

「これがキリストで堪るものか」の「堪る」は「たまる」と読む。「溜まる」と同語源で、「こらえる・がまんする・保ちつづける」であるが、「そんことになったら、たまったもんじゃない!」などと下に打消表現を伴って用いることが殆んどである(ここも反語による否定表現)。「こんな平凡な顏の輩(やから)がキリストであってたまるもんか!」の意である。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 敵と友


Tekitomo

   敵と友

 

 無期徒刑の囚人が牢を破つて、一目散に逃げ出した。すぐその後から、追手がかかつた。

 囚人は一生懸命に逃げた。追手は遲れはじめた。

 すると、川ぷちの崖に出た。川幅は狹いが、水は深い。囚人は泳ぎを知らなかつた。

 此方の岸から向ふ岸に、朽ちた細い板が渡してある。脱走囚はそれに片足を掛けた。そしてふと見𢌞すと丁度川緣に、自分の一番の親友と、一番仲の惡い敵とが佇んでゐた。

 敵は默つて腕を拱いてゐた。親友の方は聲を限りに叫んだ。

 「おお、おお。君は何をするのだ。載でも違つたのか。その板のすつかり腐つてゐるのが分らないのか。――君の重みでそれが折れたら最後、どうしたつて助かりつこはないぞ。」

 「だつて他に逃道はないのだ。そら、追手の足音が聞えるぢやないか」と、哀れな男は絶望の呻きをあげて、板を渡りはじめた。

 「とても見ちや居られない。君をむざむざ見殺しにはできない」と、助けたい一心で親友は叫んで、脱走囚の足許の板を引いた。

 で、彼は忽ち、さかまく波に落ちて溺れてしまつた。

 敵はそれを見ると、滿足の笑を浮べて去つた。親友は岸に坐り込んで、不幸な友達を思つて苦い淚を流した。

 けれど友達の死について、自分を責めようなどとは、爪の先程も考へなかつた。

 「言ふことを聽かないからだ。俺の言ふことを……」と、彼は沈み込んで呟いた。

 「が、それにしても」やがて彼は、口に出して言つた、「あの男は一生、怖しい牢屋で苦しむ事になつてゐたのだ。少くとも今ぢや惱みもあるまい。ずつと樂になつたらう。さういふ𢌞りあはせだつたのだな。もとより、人情として忍びないが。」

 さう言つて、この善良な男は、不運な友達を思つてひどく咽び泣いた。

           一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「滿足の笑」「笑」は「えみ」であろう。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ニンフ


Ninf

   ニンフ

 

 半圓を描く、美しい山脈(やまなみ)を前に、私は佇んでゐた。綠なす若樹の森が、山の頂から麓までを隈なく蔽つてゐる。

 山脈のうへに、南方の空は靑々と澄み、太陽は中天に光の箭を弄ぶ。足もとには小流が、半ば草に埋れてさらさらと鳴る。

 ふと私は古い傳説を思ひ出した。――キリスト降誕の最初の世紀に、一艘の希臘船が、エーゲの海を渡つて行つた時のことを。……

 時は正午、風もなく穩かな日和だつたとか。……遽かに揖取の頭上にあたつて、はつきりと呼ぶ聲があつた、「汝、かの島のほとりを行くとき、高らかに呼べ。――大いなるパンは死せりと。」

 楫取は驚き畏れた。が、船が島のほとりを過ぎるとき、その聲の命じたままに呼んだ、「大いなるパンは死せり。」

 忽ち、彼の叫びびに應ずる如く、その無人の島の岸邊一帶には、激しい啜泣き、呻き、また長く尾を曳く嘆きの聲が起つた。「死せり、大いなるパンは死せり。」

 この傳説を思ひ出したとき、奇妙な考が湧いて來た。――「いま私も、何か叫んで見たらどうだらうか。」

 しかし、歡び溢れるあたりの眺めを前にしては、死を思ふ氣にはなれなかつた。で私は聲を限り叫んで見た、「甦れり、大いなるパンは甦れり。」

 すると、おおなんといふ不可思議、私の呼聲に應じて、ひろびろと半圓をなす綠の山々から親しげな笑が響き、歡びの聲、どよめきが湧き起つた。「彼は甦れり、パンは甦れり」と、若やぐ聲々が一齊にさざめいた。前方の眺めは忽ち、大空高く燃える太陽よりも明るく、草間に奏でる小流よりも愉しげに笑み崩れた。そして、忙しく地を蹴る輕い足音が聞え、綠の樹がくれに雪をあざむく輕羅や、生き生きと紅らむ裸身がちらつき始めた。……見ると樣々のニンフたち――樹のニンフ、森のニンフ、バッカスの祭尼たちが、山頂から麓の野邊めがけて、駈け下りて來る。

 その姿は、一どきに森の端々に現れた。氣崇い顏のめぐりに捲髮の房を搖り、しなやかな手に手に花束と鐃鈸を捧げ、高らかなオリンポスの笑ひを、身の動きにつれて搖りこぼしながら……

 眞先に進むのは女神で、身の丈は群を拔き、且つ一番美しい。肩には箙、手に弓、波を打つ捲毛の髮には、銀の月の利鎌がかかつてゐる。……

 ディアーナとは、貴女のことだつたのか。

 そのとき、女神は步みを止めた。從ふニンフ達もみな立止まつた。高らかな笑聲は歇んで、ひつそりとなつた。私は見た、啞のやうに默り込んだ女神の額が、忽ち死の蒼白に蔽はれるのを。足は化石したやうに佇み、なんとも言へぬ恐怖に口は明き、大きく見開いた眼は遙か遠方に注がれるのを、何を彼女は見たのだらう。何を見詰めてゐるのだらう。

 その眼の行方を追つて、私は振返つた。……

 遙か空の涯、野の盡きるあたり、キリスト教會の金の十字架が、白い鐘塔の上に一點の炎となつて燃えてゐた。この十字架を女神は見たのだ。

 私は背後に、長い嗟嘆を聞いた。その聲は琴の斷絃の響に似て、あやしく顫へる。私が眼をかへすと、既にニンフ達は消えて跡形もなかつた。……森は相變らずひろびろと綠に、ただ處々枝葉の繁みを透して、何かしら白い物影を見え隱れさせる、それはニンフたちの衣の端であつたか、谿間を這ひ上る靄であつたか、私は知らない。

 とまれ、消え失せた女神達を思つて、私の胸は悲しかつた。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「箭」「や」。矢。

「小流」「こながれ」。

「希臘船」「ギリシヤせん」。

「遽かに」「にはかに(にわかに)」。

「揖取」「かぢとり(かじとり)。

「甦れり」「よみがへれり(よみがえれり)」。

大いなるパンは甦れり。」

「輕羅」「けいら」。体に纏うごく薄い懸け物。

「紅らむ」「あからむ」。

「バッカスの祭尼」「祭尼」は「さいに」で巫女(みこ)のこと。バッカスBacchusは言わずもがな、ローマ神話の酒(ワイン)の神で、ギリシア神話のディオニソスDionysosに相当する。各地を遍歴して人々に葡萄の栽培を教えたが、そこから生み出される葡萄酒の酔いに象徴されるような熱狂的ディオニソス信者が現われ、特に女性の狂信的信仰者を「マイナス」(Maenad:複数形はマイナデス、ギリシャ語で「わめきたてる者」の意)と呼び、一種のトランス状態の中で踊る、その崇拝者集団を「バッカスの巫女」と呼んだ。そうした連中をイメージしつつ、それらを精霊の一種に還元した謂いであろう。

「氣崇い」「けだかい」。崇高な。

「搖り」「ゆり」。揺らし。

「鐃鈸」「ねうばち(にょうばち)」ここ小型のシンバル。

「箙」「えびら」。狩場や戦場に於いて矢を入れるための筒状の携帯具。腰に装着するもの背負い型のものがあるが、ここは後者であろう。

「利鎌」「とかま・とがま」切れ味のよい鎌。

「ディアーナ」(ラテン語:Diāna)はローマ神話に登場する狩猟・貞節と、月の女神。新月の銀の弓を手にする処女の姿が特徴。日本語では長母音記号を省略してディアナとも呼ぶ。英語読みのダイアナ(Diana)でも知られる。ギリシア神話ではアルテミスに相当する。南イタリアのカプアとローマ付近のネミ湖湖畔のアリキアを中心に崇拝されていた(以上はウィキの「ディアーナに拠る)。

「歇んで」「やんで」。止んで。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) スフィンクス


Sfinx

   スフィンクス

 

 黃灰色の、きしめく沙。上面(うはつら)は崩れ易く脆く、下の層は固い、その沙が、見わたす限り涯もなく。

 沙漠――この屍灰の大海原のうへ、埃及のスフィンクスは、大な頭を擡げる。

 その突出して巨きな唇、上向きに擴がつて靜かに動かぬ鼻孔、また二つの弧を高々と刻む眉の下に、半ば醒め半ば夢みる切れ長の眼。それら皆、何を語らうとするのか。

 それは、何事かを語らうとする。現に語りつつさへある。が然し、ひとりエディプスのみその謎語を解き、その言葉なき言葉をさとる。

 おお、しかし、私もどうやら、こんな面相は見覺えがある樣だ。尤も、埃及的な所は全く無いけれど。……

 白皙の卑(ひく)い額、秀でた頰骨、段のない短小な鼻、皓い齒並のきれいな口許、軟かな口髭、縮れた頰鬚、遠く離れ離れに附いた小つぽけな眼、さて頭には天然の櫛目に割れた蓬々の髮をいただくお前……カルプよ、シードルよ、セミヨンよ。ヤロスラーフの、リャザンの土百姓、私の兄弟、紛れもないロシヤの骨肉よ。お前も何時の間にか、スフィンクスの仲間入りをしてゐたのか。

 お前も、何かを語らうとするのか。さう、お前も亦、スフィンクスなのだ。

 お前の、その色艶のない、しかし雍奥深い眼……それも亦、何事かを語る。……矢張り言葉のない言葉を、昔ながらの謎語を。

 だが、お前のエディプスは何處なのだ。

 お前、全ロシヤのスフィンクスよ。お前のエディプスになるには百姓帽子を被つただけでは、惜しいかなまだ足りぬ。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:訳者註。

   *

百姓帽子を被つただけでは云々 この句は當時のスラブ派の人々に向つて投げられた鋭い諷刺である。すなわち同派の人々が、ともすれば好んでお國振りの百姓の服裝をするのが、トゥルゲーネフの眼にはいたずらに民衆の歡心を買はうとする淺薄な努力とうつつたのである。

   *

中山省三郎譯「散文詩」の註では、この「百姓帽子」に『國粹一點ばりのスラヴ主義者たちを諷したもの』とする。なお、本詩を理解する一助になろうかと思われる事蹟を、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」から引用する。当時、ドイツにいたツルゲーネフは一八六七年、『小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし』、『祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃している』。その後、一八七七年(既にイギリスを経てフランスに移り住んでいた)、七『年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の』一『つである。今度は』一八七〇『年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである』。『この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は』一八七八年に『執筆した』本「散文詩」『に反映している』。本詩が、まさに、そうした詩の一篇であることは疑いない。

 

「埃及」「エヂ(ジ)プト」。

「蓬々」「ほうほう」。髪が伸びて乱れているさま。

「カルプよ、シードルよ、セミヨンよ。」原文は“Карп, Сидор, Семен,”。ロシアの一般的な庶民的な名前と思われる。

「ヤロスラーフの、リャザンの、」リャザン(Рязань)は現在のロシア連邦リャザン州の州都。ロシア古代・中世史では馴染み深い地名で(但し、それらに登場するリャザンは現在「スターラヤ・リャザン」(古リャザン)と呼ばれる、現リャザンの南東に位置する別な場所であった)、オカ川(ヴォルガ川最大の支流)の右岸に位置する重要な河港でもある。ヤロスラーフ(Ярослав)は、かつてここに首都機能を置いたリャザン公国がヤロスラーフ賢公(Ярославль 九七八年~一〇五四年:キエフ大公。キエフ公国にキリスト教を布教し、法典編纂・文藝振興を行ったことから「ムードリ」(賢公)と呼称された)の血を受け継いでいるので、このように呼んだものか。なお、一九〇四年にはこのリャザンにロシア最初の社会民主主義グループが誕生していることは、この詩の注として明記しておいてよいであろう。]

2017/10/13

老媼茶話巻之三 杜若屋敷

 

      杜若(かきつばた)屋敷

 

 天正十八年庚寅(かのえとら)九月五日、蒲生飛驒守氏郷、近江國蒲生郡(がもうのこほり)より奧州黑川の城へ入(いり)玉ふ。鳴海甲斐守も御供して黑川來り、三の町と云(いふ)所にて屋敷給り、住せり【甲斐守錄千石。常世村を領せり。】。

 江州より遠來(とほくきた)りける禿小性(かむろこしやう)に花染(はなぞめ)といふ美童(びどう)有(あり)。容色、甚(はなはだ)うるはしく、「桃花の雨をふくみ、海棠の眠れる姿」といふべし。

 甲斐守、寵愛して、傍(かはら)を離れず、宮仕(みやづかひ)せり。

 花染、小鼓・謠(うたひ)好みければ、大町(おほまち)當麻(たいま)の寺近くに了覺院といふ山伏、小鼓・謠の上手なりければ、此山伏を師匠として、花染、謠を習(ならひ)けり。

 花染、杜若(かきつばた)を甚(はなはだ)愛しければ、甲斐守、花染をなぐさめん爲、庭に深く池をほらせ、杜若を植(うえ)させ、くもでに橋を渡し、三河の國のやつはしの面影をうつし、片原に小亭を作り、花染、明暮、爰(ここ)に有て小鼓を打(うち)、杜若のうたひ、樂しみけり。誠花染は、唐のあい帝の御袖を立(たち)給(たまふ)薰賢(くんけん)、周のぼく王の餘桃(よたう)のたはむれをなせし彌子賀(びしか)にも劣(おとる)まじき男色なりしかば、了覺、深く愛念し、便(たより)を求(もとめ)、ふみ玉章(たまづさ)を書送(かきおく)る。

 甲斐守、此よしつたへ聞(きき)、華染に、

「了(りよう)覺が汝に心をかけ、數通(すつう)の艷書を送ると聞(きく)。汝、何とて、今迄、我につゝみたる。子細を申すべし。」

といひければ、花染、是を聞(きき)、淚を流し、なくなく申けるは、

「我は、元近江の佐保山の賤敷(いやしき)土民の子にて候を、御取立、御身近く召仕(めしつかまつら)れ候。誠公恩の深きを思へば、山より高く、海よりも探し。かゝる御情を無(む)に仕(つかまつり)候て、いかで、かかり染(そめ)にも、外人(ほかびと)に心を移し申(まうす)べき。君(きみ)に、にくまれ奉りては、我身の行衞、如何可仕(いかがつかまつるべき)。露程(つゆほど)も御疑心を得奉りては、命(いのち)有(あり)ても、生(いき)がいなし。若(もし)了覺に同床の契り有(ある)かと御疑も候はゞ、今宵、ひそかに了覺が方に罷り越(こし)、了覺が首を打(うち)、御目に懸(かく)るへべし。」

と云(いひ)ければ、甲斐守、

「尤(もつとも)然るべし。是(これ)にて切(きり)とゞむべし。」

とて、差居(さしをき)たる脇ざしを花染にとらせける。

 花染、押戴(おしいただき)、其夜、更(ふけ)て、うす衣を打(うち)かつぎ、人目を忍び、了覺院が庵の軒に立忍(たちしの)び、ひそかに扉を音(おと)づれければ、了覺、立(たち)て戸をひらき、花染をみて、大きに悦び、急ぎ、内へしやうじ入るゝ。

 花染、座に着(つき)、了覺に申(まうす)樣、

「日頃、わりなくの玉(たま)ふを、かり染の御たわむれと、うわの空に存(ぞん)ぜしに、僞(いつはり)ならぬ御心底と告(つげ)しらするものありて、御心ざし、もだしがたく、主人、甲斐守、今宵、他行(たぎやう)せしを幸(さひはひ)に、是迄、忍び參(まゐり)候。數ならぬ某(それがし)に、深き御心盡しの程、返す返すも過分に候。」

とて、目に秋波の情をよせ、こと葉を盡し、嘲(アザムキカ)ければ、了覺、深く悦び、色々、心を盡し、馳走をなす。

 はな染、機嫌克(よく)戲れ懸り、了覺に酒をしいければ、了覺、いたく呑(のみ)、醉(ゑひ)ける。

 花染、盃をひかへ、小鼓取(とり)て、打ならし、肴に杜若の謠、所望しければ、了覺、扇拍子を取(とり)、うたふ。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」

と謠(うたひ)なから、了覺、おぼへず、とろりとろりと眠(ねふり)ける。

 折を見すまし、花染、鼓、抛捨(なげすて)、甲斐守が呉(くれ)たりし脇差、壹尺八寸備前長光を拔(ぬき)て、了覺が高もゝ、車骨(くるまぼね)より筋違(すぢちがひ)にかけて、

「ふつゝ。」

と切落(きりおと)す。

 了覺、目を覺(さま)し、手を突(つき)て起直(おきなほ)り、

「己に油斷をなし、闇打(やみうち)にせらるゝ事、無念也。」

と齒がみをなし、血眼(ちまなこ)を見ひらき、にらみ付(つけ)たる面魂(つらだましひ)、鬼神(きしん)のごとくなれば、花染、二の刀を打得(うちえ)ずして走り出(いで)、逃行(にげゆき)しを、

「何方迄(いづかたまで)も、のがさじ。」

と、刀を拔(ぬき)、杖につき、跡より追懸(おひかく)る。

 花染、道の側(そば)なる觀音堂に走り付(つき)、柱を傳へ、天井へあがり、隱れ居(ゐ)たり。

 了覺、程なく追來(おひきた)りけるが、花染が隱居たるを見付(みつけ)、傳へ上(のぼ)らんとするに、五體不具にして上り得ず、次第に、正念、亂(みだれ)れば、はがみをなし、

「己、三日とは、やりたてしものを。」

とて、みづから首かきおとし、うつふしに倒れ伏(ふし)、死す。

 花染、急ぎ、天井よりおり、了覺が首を引(ひつ)さげ、我家へ歸り、甲斐守に見せければ、甲斐守、大きに悦(よろこび)、花染をほめて申けるは、

「汝、容色の人に勝れたるのみならず、心の勇も人に勝れり。此了覺は、力も強く、打物(うちもの)も達者にて、世に聞へたる強勢(がうぜい)ものなるを、斯(かく)やすやすと打留(うちとむ)る事、幼年の働(はたらき)には、けなげなり。老行(おひゆく)末(すゑ)、賴有(たのみあり)。」

と、色々の褒美をあたへける。

 扨(さて)、了覺が首を瓶(かめ)に入(いれ)、裏の乾(イヌイ)に埋(うづ)めける。

 或説に了覺が首を摺鉢に入、土器(かはらけ)を蓋(ふた)にし、埋(うづみ)けり、といへり。是、陰陽師(おんみやうじ)のまじないの法にて、かくすれば、跡へ祟(たたり)をなさず、といふ。「壓勝(あつしやう)の法」といへり。

 其夕べ、花染、何心なく伏(ふせ)たりしに、了覺が亡靈、花染が枕元に彳(たたず)み、脇差を拔(ぬき)、花染がのんどを搔切(かきき)ると覺(おぼえ)けるが、其曉(あかつき)、血を吐(はき)て死(しに)たり。

 甲斐守、是を聞、いと不便(ふびん)に覺ければ、花染が死骸、當麻の寺に送り埋(うづめ)、法名を「萃容(ふやう)童子」と名付、跡(あと)、能(よく)、とむらひける。

 昨日迄、盛(さかり)なりし花の姿も、今日引(ひき)かへて、古塚の主(ぬし)となるこそ、哀(あはれ)なれ。

 了覺院、殺されし後より、甲斐守屋敷にては、夜、うしみつ過(すぐ)る頃にもなれば、震動して、座敷にて小鼓を打(うち)、毎晩、杜若の謠をうたふ間(あひだ)、家内の男女、おそれをなし、日、暮(くる)れば、書院行(ゆく)者なし。

 或時、甲斐守、只ひとり、座敷に有ける折、日たそかれ過(すぐ)る頃、庭の築山(つきやま)の隱(カゲ)より、了覺院、手に小鼓を提(さげ)、出來(いできた)り、座敷へ上(あが)り、甲斐守と對座(タイザ)し、眼(まなこ)を見ひらき、甲斐守を、

「礑(ハタ)。」

と白眼付(にらみつけ)、いたけ高(だか)になり、またゝきもせず、守り居たり。

 甲斐守、元來、大剛の者なりしかば、少も臆せず、

「己、修驗(シユゲン)の身として邪(ヨコシマ)の色におぼれ、みすから霜刃(さうじん)の難(なん)に逢へり。なんぞ我にあだなすの理(ことはり)あらんや。すみやかに妄執を去(さつ)て、本來空(ほんらいくう)に歸れ。」

と、

「ちやう。」

ど、にらまへければ、了覺が死靈、白眼負(にらみまけ)て、朝日に消(きゆ)る霜のごとく、せんせんとして、消失(きえうせ)けり。

 其夜、甲斐守伏(ふし)たりし枕元に、了覺が靈、來り、つくねんと守り居たり。

 甲斐守目を覺(さま)し、枕元の脇差、取(とり)、拔打(ぬきうち)に切に、影なく消失(きえうせ)たり。

 甲斐守、間もなく、櫛曳(くしびきの)陣に討死し、子、なくして、跡、絶(たえ)たり。

 其後、會津の御城主替りける度々、此屋敷拜領の士、了覺が死靈になやまされ、住(すむ)者なく、誰(たれ)云(いふ)ともなく、「杜若屋敷」とて、明(あき)屋敷となる。

 足輕、番を致しけるに、壱人弐人にては、おそろしがり、勤不得(つとめえず)して、拾人斗(ばかり)にて勤ける。

 いつも、暮每(くれごと)に、座敷にて、鼓の聲有(あり)て、杜若の謠(うたひ)をうたふ。足輕共、おづおづ座敷の體(てい)を窺(うかがふ)に、大山伏のおそろしげ成(なる)が鼓を打(うち)て謠をうたふ也。是を見るもの、氣をうしなひ、死に入(いり)ける。

 寛永四年五月廿五日、加藤式部少輔明成、會津入部ましましける。

 此時、杜若屋敷主(あるじ)は天河作之丞と云(いひ)て三百五捨石取(とる)士也。或(ある)夕(ゆふべ)、奧川大六・梶川市之丞・佃(つくだ)才(サイ)藏・守岡八藏、作之丞方へ夜咄(よばなし)に來(きた)り、醉後(すゐご)に、大六、

「誠や、此屋敷にて杜若の謠をうたへば、さまざま不思義有(あり)といへり。心見(こころみ)に謠ふべし。」

とて、各(おのおの)、同音に杜若の「くせ」をうたふ。

 折節、さも美敷(うつくしき)兒(チフゴ)、かぶり狩衣を着し、扇をひらき、謠につれて舞けるが、暫く有(あり)て消失(きえうせ)たり。

 次の間に、六尺屛風を立置(たておき)しが、其上を見越して大山伏、面(おもて)斗(ばかり)出(いだ)し、

「此屋敷にては其謠はうたわぬぞ。止(やめ)よ、止よ。」

といふて失(うせ)たり。

 猶、謠、止(やめ)ず謠(うたふ)折、例の山伏、座敷へ來り、

「未(いまだ)止ぬか。」

と云て、才藏があたまを、はる。

 才藏、刀を拔(ぬき)、山伏を切らんとすれば、姿、忽(たちまち)、消失(きえうせ)たり。

 其後も、了覺が靈、甚(はなはだ)あれけるまゝ、作之丞、了覺が靈を祭り、「杜若明神」と名付(なづけ)、私(わたくし)にほこらを立(たて)、祭りをなし、僧をやとい、靈を吊(とむらひ)ければ、其後、了覺が亡靈、靜(しづま)りて、何の崇りもなさず。

 杜若明神、後には家護靈神と號せり、といへり。

 

[やぶちゃん注:「天正十八年」一五九〇年。

「蒲生飛驒守氏郷」(弘治二(一五五六)年~文禄四(一五九五)年)近江出身。初名は賦秀(やすひで)。キリスト教に入信(洗礼名・レオン或いはレオ)。織田信長・豊臣秀吉に仕え、九州征伐・小田原征伐の功により会津四十二万石(後に九十二万石)を領した。転封から没するまで陸奥黒川城(=鶴ヶ城)主であった。最後は病死で享年四十。

「蒲生郡」旧郡域は現在の蒲生郡に加えて、竜王町の全域・日野町の大部分・近江八幡市の大部分・東近江市の一部に当たる。参照した旧域はウィキの「蒲生郡」を見られたい。

「鳴海甲斐守」不詳。識者の御教授を乞う。

「三の町」「三之町」。ウィキの「上町(会津若松市)」(「うわまち」と読む)によれば、『若松城下の城郭外北部に属しており、西側の大町から馬場町を経て東側甲賀町に至る東西を結ぶ通りで、二之町の北に位置していたほか、幅は』三『間であった。西側の大町から馬場町までを下三之町、東側の馬場町から甲賀町までを上三之町といった。ただし、本町は現在の上町の町域には含まれないとされている』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「錄」ママ。「祿」。

「常世村」非常に珍しい地名であるから、現在の福島県喜多方市塩川町常世(とこよ)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「禿小性(かむろこしやう)」年少の小姓(こしょう)。ここに見るように、多く男色の相手であった。

「大町(おほまち)」現在の福島県会津若松市大町(ここ(グーグル・マップ・データ))附近。

「當麻(たいま)の寺」会津若松市日新町(ここ(グーグル・マップ・データ)東北角が先の大町の西南角と接する)内の「当麻丁(たいまちょう)」。ウィキの「日新町(会津若松市)」によれば、『若松城下の城郭外北部、当時の下町に属する町で、南側は赤井丁、北側は大和町に接し、桂林寺町の西側に位置する幅』四『間の通りであった。当麻丁は当麻町とも書いたほか、職人、商人などが住んでいたとされる。また、町名は当麻山東明寺があったことによるとされる』とあるから、この「寺」とは現存しない、この当麻山東明寺のことである。

「了覺院」不詳。

「杜若」「伊勢物語」の「東下り」を素材とした後シテを杜若の精とする複式様の夢幻能で、洗練された詞章・音楽・煌(きら)びやかな装束としっとりした舞いで知られる謡曲「杜若」を指すと同時に、実際の杜若(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。見分け方は花蕚体の中央内に綾目がなくことと、葉に中肋がないこと)の花をも含ませる。

「くもで」「蜘蛛手」。「伊勢物語」の「東下り」の段に擬えた。

「三河の國のやつはし」同前。現在、愛知県知立市八橋町寺内にある無量寿寺内にある「八橋旧跡」に比定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「唐のあい帝」これは前漢の第十二代皇帝哀帝(紀元前二十五年~紀元前一年:在位期間:紀元前七年~没年まで:姓・諱:劉欣)の誤り。唐王朝最後の皇帝哀帝(十七歳で暗殺)とは別人。

「御袖を立(たち)給(たまふ)」底本には「立」の右に編者による添漢字『断』がある。ウィキの「哀帝(漢)」によれば、『男色を意味する』「断袖」『という語は、董賢と一緒に寝ていた哀帝が、哀帝の衣の袖の上に寝ていた』寵愛していた美童「薰賢」(人呼称の固有名詞。そうした慈童の源氏名のようなものであろう)『を起こさないようにするため』、『衣を切って起きた、という故事に基づく』とある。

「周のぼく王」周の第五代穆(ぼく)王(紀元前九八五年?~紀元前九四〇年)であるが、以下の注で述べるように、ここは戦国時代の衛の君主霊公の誤り

「餘桃(よたう)のたはむれ」美童の少年相手の男色行為のこと。故事成句「余桃の罪」に基づく。昔、衛の霊公に寵愛された慈童弥子瑕(びしか:後注参照)は、食べた桃があまりにも美味だったので、食べかけを主君に献じて喜ばれたことに由来する。しかし、寵愛が衰えてからは、それを理由に罰せられたという「韓非子」の「説難篇」にある故事で、「余桃の罪」は現在、「権力者の寵愛などが気まぐれであてにならぬこと」の譬えである。

「彌子賀(びしか)」「彌子瑕」が正しいウィキの「弥子瑕」によれば、『弥子瑕(びしか、旧字体=正字体:彌子瑕)は戦国時代の衛国の君主霊公に寵愛されていた男性。韓非の著した』「韓非子」の「説難篇」において、君主に諫言したり、『議論したりする際の心得を説く話に登場する』。『当時』、『衛国では君主の馬車に無断で乗った者は足斬りの刑に処された。ある日』、『弥子瑕に彼の母が病気になった』、『と人が来て知らせた。弥子瑕は母の元へ、君主の命と偽って霊公の馬車に乗って駆けつけた。霊公は刑に処されることも忘れての親孝行を褒め称えた』。『別のある日、弥子瑕は霊公と果樹園へ遊びに出た。そこの桃は大層美味だったため、食べ尽くさずに半分を霊公に食べさせた。霊公は何と自分を愛してくれていることかと彼を褒め称えた』。『歳を取り』、『美貌も衰え』、『霊公の愛が弛むと』、過去の出来事が蒸し返され、『君命を偽って馬車に乗り』、『食い残しの桃を食わせたとして弥子瑕は刑を受けた』。『韓非はこの故事(「余桃の罪」)を以って、君主から愛されているか憎まれているかを察した上で自分の考えを説く必要があると説いている』。「春秋左氏伝」によれば、『衛の大夫・史魚が弥子瑕を辞めさせ、賢臣・蘧伯玉を用いるよう進言し、史魚の死後にそのことがかなえられたという』とある。史魚の謂いから考えると、弥子瑕はイケメンではあったが、内実はただのチャラ男だったということになろう。

「ふみ玉章(たまづさ)」ラヴ・レター。

「華染」ママ。

「つゝみたる」「包みたる」。包み隠してきたのか?

「近江の佐保山」近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山附近の古称と思われる。ここにあった佐和山城(ここ(グーグル・マップ・データ))は佐々木定綱の六男佐保時綱が築いた砦が前身で、この城は古くは「佐保山城」と呼ばれていたからである。

「かかり染(そめ)」ママ。「假染め」。

「生がい」ママ。「生き甲斐(がひ)」。

「しやうじ」「招じ」。

「わりなくの玉(たま)ふを」何とも尋常でなく私めへの思いを述べらるるを。

「もだしがたく」黙って見過ごすわけにもゆかず。

「しいければ」「強いければ」。

「思ひの色を世に殘して 主(ぬし)は昔に業平なれど 形見の花は 今(いま)爰(ここ)に 在原の 跡な隔(へだて)そ杜若 跡な隔そ杜若 澤邊(さはべ)の水の淺からず」読点を使用せず、謡曲の間に合わせて間隙を入れて示した。謡曲「杜若」の前半のシテとワキとの掛け合いの終りから、上ゲ歌の途中まで。私の持つそれでは「主は昔に業平なれども」とある。

「壹尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「備前長光」ウィキの「長光」より引く。『鎌倉時代後期の備前国(岡山県)長船派(おさふねは)の刀工。長船派の祖・光忠の子とされる。国宝の「大般若長光」をはじめ、華やかな乱れ刃を焼いた豪壮な作から直刃まで作行きが広く、古刀期においてはもっとも現存在銘作刀が多い刀工の一人である』。

「高もゝ」「高股」。

「車骨(くるまぼね)」不詳。当初、車のように丸い膝の膝蓋骨を考えたが、文脈を子細に検討すると、高股(大腿部)を、「車骨」なる部分から「筋違(すぢちがひ)に」袈裟がけにして、ばっさり、「と切落」したとあるから、これが片足の大腿部自体が斬り落とされたと読むしかなく、そうすると、「車骨」とは、大きな円形を成し、車軸が入るように大腿部が丸い孔に入っているところの骨盤骨を指すのではないか? と次に推理した。しかし、ここで「日本国語大辞典」を引くと、「車骨」は「大きな骨」とあるから、これはただ「大腿骨」を指すことが判明した。大力無双の男の大腿骨を、斜めに、しかも小振りの脇差で一刀両断するというのは、相当な力と技が必要である。この「花染」、ただの美少年ではない

「三日とは、やりたてしものを」意味不明。底本は「三日とはやりたてしものを」。識者の御教授を乞う。私は「逸り立て」(気負い立つ)から「覚悟をもってやり遂げる」の意ととり、直後に自害していることから、「(この恨みを以って)三日とは(待たさずに、貴様のいの命を)奪い去って見せてやるぞッツ!」という意味で取り敢えず採った。実際には三日どころか、その翌日(「その夕べ」そうとらえるのが時制的には自然である)の夜にとり殺されているのであるが

「乾(イヌイ)」北西。

「壓勝(あつしやう)の法」不詳。そもそもがこれ、陰陽道の悪鬼・怨霊の祟り封じの呪法だとうのであるが、それが前者の「了覺が首を瓶に入、裏の乾(イヌイ)に埋めける」という仕儀がそれなのか、以下の「了覺が首を摺鉢に入、土器を蓋にし、埋けり」という仕儀がそれなのか判らぬ。両方を足せばよいのだろうが、そうなると甕と擂鉢の有意な相違があるから、駄目である。

「萃容(ふやう)」「萃」は集まるの意。従ってこれは花の「芙蓉」の意味ではなく(それも掛けているかも知れぬが)、美しい「容」姿が「萃」(あつま)っているの謂いであろう。

「古塚の主(ぬし)」「ぬし」は謡曲の読みに合わせて私が振った。

「うしみつ」「丑三つ」「丑滿つ」。

「いたけ高(だか)」「居丈高」。「威丈高」とも書くが、当て字。人に対して威圧的な態度をとるさま。

「霜刃」霜のように光る鋭い刀の刃。

「あだなす」「仇成す」。

「本來空(ほらいくう)」仏語。一切のものは、元来、仮りの存在でしかなく、実体のない「空」であるという、そうした本質を指す。

「ちやう。」「ちやうど(ちょうど)」で「はったと・かっと」の意。目を見開いて対象を睨みつけるさまを指すが、私は今までもそうしたオノマトペイアを直接音(直接話法)に準じて、かく、表わしている。それが、より怪奇談の臨場感を倍化せると信ずるからである。

「にらまへ」「睨まへ」。「にらまふ」は他動詞ハ行下二段活用で「睨みつける」の意。

「せんせんとして」「閃々として」か。きらきらと輝きを伴いながら。

「つくねんと」副詞。独りで何もせず、ぼんやりしているさま。

「櫛曳(くしびきの)陣」九戸政実(くのへまさざね)の乱(天正一九(一五九一)年)を指すか。これは南部氏一族の有力者であった九戸政実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣方軍勢(蒲生氏郷・堀尾吉晴・井伊直政)に対して起こした反乱。この反乱軍側の武将の一人に櫛引清長がいるからである。則ち、私の推理が正しいとすれば、蒲生氏郷の家臣の一人であった鳴海甲斐守なる人物はこの九戸政実の乱制圧軍の一人として参戦し、敵の櫛引清長の陣に突撃して果てたという解釈である。

「寛永四年五月廿五日」一六二七年七月八日。

「加藤式部少輔明成」「猫魔怪」に既出既注。

「天河作之丞」不詳。以下の人名も同様なので、注を略す。

「くせ」掉尾の「序ノ舞」の前にある後半の山場。以下に示す。

   *

地〽 しかれども世の中の ひとたびは榮え ひとたびは 衰ふる理(ことは)りの 誠なりける身の行方 住み所(どころ)求むとて 東(あづま)の方に行く雲の 伊勢や尾張の 海面(うみづら)に立つ波を見て いとどしく 過ぎにし方の戀しきに 羨ましくも かへる浪かなと うち詠(なが)めゆけば信濃なる 淺間の嶽(だけ)なれや くゆる煙(けふり)の夕氣色

シテ〽 さてこそ信濃なる 淺間の嶽に立つ煙

地〽 遠近人(をちこちびと)の 見やはとがめぬと口ずさみ 猶はるばるの旅衣 三河の國に着きしかば こゝぞ名にある八橋の 澤邊に匂ふ杜若 花紫のゆかりなれば 妻しあるやと 思ひぞ出づる都人 然るに此物語 その品(しな)おほき事ながら とりわき此八橋や 三河の水の底(そこ)ひなく 契りし人びとのかずかずに 名を變へ品を變へて 人待つ女 物病(ものやみ)み玉簾(たますだれ)の 光も亂れて飛ぶ螢の 雲の上まで往(い)ぬべくは 秋風吹くと 假(かり)に現はれ 衆生濟度の我ぞとは 知るや否や世の人の

シテ〽 暗きに行かぬ有明の

地〽 光普(あまね)き月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして 本覺眞如の身を分け 陰陽(いんによう)の神といはれしも ただ業平の事ぞかし 斯樣(かやう)に申す物語 疑はせ給ふな旅人 遙々來ぬる唐衣 着つつや舞を奏(かな)づらん

   *

以上に後に、シテの「詠」、

シテ〽 花前(くわぜん)に蝶舞ふ。紛々たる雪

地〽 柳上(りうしやう)に鶯飛ぶ片々たる金(きん)

が入って「序ノ舞」となる。

「うたわぬ」ママ。「謠はぬ」。

止(やめ)よ、止よ。」

「あれける」「荒れける」。

「やとい」ママ。「雇ひ」。

「杜若明神、後には家護靈神と號せり」怨霊を祀って宥め、それを逆に家や一族や都市及び国家の防備に転用するのは、御霊信仰に限らず、古来からの汎世界的な老獪なシステムの代表的な方策である。]

2017/10/12

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 天主の宴會

 

   天主の宴會

 

 おるとき天主が、その碧瑠璃の宮殿で大宴會を思ひたたれた。

 あらゆる德といふ德はみんな招かれた。とはいへ招かれたのは美德にかぎられて、男性はをらず、婦人ばかりであつた。

 大小の德たちが大ぜい集まつた。小さな德は大きな德よりも快活で、愛想もよかつた。がとにかく、一同はみんな嬉しさうで、近親や知合ひの間柄にふさはしい態度で、つつましく話をし合つた。

 ふと天主は、二人の婦人が互ひに見も知らぬ同志らしいのに氣づかれた。

 主はその一人の手を取つて、もう一人のそばへ連れて行かれた。

 「恩惠」――種は第一の歸人を指さして、かう言はれた。

 「感恩」――さらに第二の婦人を指さして、言葉をつがれた。

 二人の美德は、言ひやうのない驚きの色を面(おもて)にあらはした。天地の開(ひら)けてこのかた幾千年、二人は初めて相見たのである。

            一八七八年十二月

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) エゴイスト


Ego

   エゴイスト

 

 彼には、家庭の笞になるあらゆる素質が具つてゐた。

 生れながらに健康と富とに惠まれ、長い生涯を通じて矢張り富み且つ健康であり、一遍の過失にも陷らず、一度の心の一躓きも知らず、失言もなく、未だ曾て的を射外したこともなかつた。

 その潔白さは、一點の曇もなかつた そして己れの潔白に傲つて、緣者、親友、知人の別なく、ひとしく地に踏まへた。

 彼にとつて、潔白こそは資本だつた、彼はこれから、飽くことない高利を貪つた。

 潔白は彼に、無慈悲である權利、・また道德律によつて命ぜられる善を顧みぬ權利を賦與した。從つて彼は無慈悲であり、善行を顧みなかつた。何故なら、道德律によつて強ひられるとき、善は既に善では無いからである。

 彼は自分一個のこと、かくも世の範とすべき自分のことにしか、心を勞さなかつた。そして他人が、彼に就いて心を勞すること些かでも薄いときは、本當に腹を立てた。

 それと同時に、彼は自らエゴイストだとは思つてゐず、而も何物にも增してエゴイストを非難し、エゴイズムを攻擊した。無理もない、他人のエゴイズムは、己れのそれの妨げになるからだ。

 自分の身に些かの弱さも見ぬ彼は、他人の弱さに理解を持たず、從つて少しの容赦もしなかつた。總じて彼は、何物にも亦何人にも理解を持たなかつたが、それは彼自身四方八方蟻の這出る隙もなく自我に取圍まれてゐたからである。

 彼は恕の心の何かをさへ解しなかつた.自分を恕す要を感じたことがない以上、なんで他人を恕すことが要らう。

 己れの良心の法廷、己れの心の神の面前に立つても、この驚くべき德行の畸人は、昂然と眉を上げて、はつきりと言ひ切る、「如何にも私は、立派な有德の士です。」

 死の床でも、この言葉を繰反すだらう。そして、一點の汚點、瑕瑾の跡もない石のやうな彼の心は、依然なんの動搖も覺えぬであらう。

 ああ、安價に購はれ、自足し、我執の強い美德の醜さよ。お前の厭はしさは、惡德の明らさまな醜さに比べて、勝るとも劣らない。

            一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」版にはこの中山版の挿絵はない。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ヴレーフスカヤ夫人を記念して


Sinobite

   ヴレーフスカヤ夫人を記念して

 

 荒れ果てて見る影もないブルガリヤの一寒村。朽ち歪む納屋は急場を凌ぐ野戰病院と變り、その檐端の土にまみれて彼女は、チフスのために二週間あまりも、じめじめと惡臭のする藁を死の床としてゐた。

 已意識を失つた彼女に、義理にも眼を呉れる軍醫は一人も無かつた。彼女にまだ立上る氣力のあつた間、その苦しい内にも心からの看護を受けた病卒たちは、今に燒けつく彼女の唇を濕ほさうと瓶の破片(かけら)に數滴の水を受けては、代る代るに疫病の床を這ひ出た。

 若く美しい彼女の名は、上流の人々の間にも聞え、時めく大官の噂話にも上つてゐた。世の婦人は嫉み、男子は爭つてその裳を追つた。中に幾人かは、ひそかに深い戀情を寄せた。生は彼女に微笑みかけた。が、しかし、微笑は時として淚に如かぬ。

 優しい穩やかな心よ。しかもその裡には、何といふ力強さ、何といふ烈しい犧牲心の燃えてゐたことぞ。助を求める人々への合力。――そのほかには、何の幸福も知らなかつた。知りもせず、求めもしなかつた。ほかの幸福は一顧もせずに、久しい以前から唯これにのみ心を潜めてゐた。滅却しがたい信仰の火に全身全靈を燃やして、隣人への奉仕に自らの身を捧げた。

 その魂の深み、心の奥底に、そんな秘寶が秘められてゐたのか。唯一人それを窺ひ得たものはなく、また今となつては固より、窺ひ知る術もない。

 また、何で知ることが要らうか。犧牲は果され、業(わざ)は畢つた。

 それにせよ、その屍に向つてすら、何人の感謝も捧げられなかつたことを思ふとき、この胸は張裂ける。よし彼女が、感謝の言葉などは見向きもせずに、頰を染めて押返したであらうとも。……

 ねがはくは優しき幽魂、敢へて御身の奧津城に捧げなす遲ればせのこの花を、ふかく咎めたまふな。

             一八七八年九月

 

[やぶちゃん注:訳者註。〔 〕は一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の注を参照して、私が脱字と断じ、挿入した。

   *

『ヴレーフスカヤ夫人をしのんで』 原稿には單に『ユ・ぺ・ヴェをしのんで』とあつて、發表の際にも遠慮して名は伏せられた儘であった。すなはちこの一篇は、男爵夫人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(J. P. Vrevskaja, 1841―1878)の思出に捧げられたもの。早く夫と死別した夫人は、一八七七年の夏折柄の露土戰爭に慈善看護婦を志願して戰地におもむき、翌七八年舊一月の末、ブルガリヤで病死した。トゥルゲーネフ〔は〕夫人と親しく、彼の氣持は次の手紙からも明らかである。――「お眼にかかってからといふもの、あなたが心から親しいお友達と思へてなりません。それに貴女と御一緒に暮したい氣持が、拂つても拂つても消えないのです。とは申せわたしのこの願ひは、思ひきつて貴女のお手を求めるほどに抑制のないものではありませんでしたし(さう、わたしももう若くはないし――)、その他にも色々なことが妨げになりました。そのうへ貴女が、フランス人の言ふ une passade(出來心)に心を許される方ではないことも、私はよくよく承知してゐましたから。」(一八七七年二月七日附)二人が最後に會つたのは、その年の夏にトゥルゲーネフが歸國した時で、すでに夫人が慈善看護婦を志願した後であつた。ちなみにこの作の日附も、從來四月と誤讀されてゐた。

   *

後の中山省三郎氏の註にも、『ツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた』とある。因みに、二人は、二十七歳違いで、この書簡の一八七七年当時で、ツルゲーネフは六十三、ヴレーフスカヤは三十六歳であった。

 

「濕ほさう」「うるほさう(うるおそう)」。]

佐藤春夫 女誡扇綺譚 二 禿頭港(クツタウカン)の廢屋

 

    禿頭港(クツタウカン)の廢屋

 

 道を左に折れると私たちはまた泥水のあるところへ出た。片側町(まち)で、路に沿うたところには石垣があつて、その垣の向うから大きな榕樹が枝を路まで突き出してゐた。私たちはその樹かげへぐつたりして立ちどまつた。上衣を脱いで煙草へ火をつけて、さて改めてあたりを見まはすと、今出て來たこの路は、今までのせせつこましい貧民區よりはよほど町らしかつた。現に私たちが背を倚(よ)せてゐる石垣も古くこそはなつてゐるけれども相當な家でなければ、このあたりでこれほどの石垣を外圍(そとがこ)ひにしたのはあまり見かけない。さう思つてあたりを見渡すと、この一廓は非常にふんだんに石を用ゐてゐる。みな古色を帶びてそれ故(ゆゑ)目立たないけれども、このあたりが今まで步いて來たすべての場所とその氣持が全く違つて、汚いながらにも妙に裕(ゆた)かに感ぜられるといふのも、どうやら石が澤山に用ゐてあることがその理由であるらしい。

[やぶちゃん注:「榕樹」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa。]

 この町筋――と云つても一町足らずで盡きてしまふが、この片側町の私たちの立つてゐる方方(はうばう)は、それぞれに石圍(いしがこ)ひをした五六軒の住宅であるが、その別の側、卽ち私たちが向つて立つた前方は例によつて、惡臭を發する泥水である。黑い土の上には少しばかりの水が漂うてゐて、淺いところには泥を捏(こねく)り步きながら豚が五六疋遊んでゐるし、稍深さうなところには油のやうなどろどろの水に波紋を畫(ゑが)きながら家鴨(あひる)が群れて浮んでゐる。この水溜の普通のものと違ふところは、これは濠(ほり)の底に涸れ殘つたものであることである。大きな切石がこの泥池のぐるりを御丁寧に取り圍んでゐる。しかも幅は七八間もあり、長さはと言へばこの町全體に沿うてゐる。深さは少くも十尺はある。この濠の向うには汀(みぎは)からすぐに立つた高い石圍ひがある。長い石垣のちやうど中ほどがすつかり瓦解してしまつてゐる。いや悉く崩れたのではないらしい。もともとその部分がわざと石垣をしてなかつたらしい。その角であつた一角がくづれたのに違ひない。落ち崩れた石が幾塊か亂れ重なつて、埋(うづ)め殘された角角(かどかど)を泥の中から現してゐる。その大きな石と言ひ巨溝と言ひ、恰も小規模な古城の廢墟を見るやうな感じである。いや、事實、城なのかも知れないのだ――崩れた石垣の向うのはづれに遠く、一本の竜眼肉(ゲンゲン)の大樹が黑いまでにまるく、靑空へ枝を茂らせてゐて、そのかげに灰白色の高い建物があるのは、ごく小型でこそはあれ、どうしたつて銃樓(じうろう)でなければならない。圓い建物でその平(たひら)な屋根のふちには規則正しい凹凸をした砦があり、その下にはまた眞四角な銃眼窓(じうがんそう)がある。

[やぶちゃん注:「竜眼肉(ゲンゲン)」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan。音写すると、一般に「龍眼」は「ロンガン」「リンギン」であるが、台湾語の入門書を見ると、台湾閩南語では「gîng-gíng」の発音表記があるから、或いは、春夫はこれを音写したつもりなのかも知れない。]

「君!」

 私は、またしても古圖をひらいてゐる世外民の肩をゆすぶつて彼の注意を呼ぶと同時に、今發見したものを指さした――

「ね、何だらう、あれは?」

 さう言つて私は步き出した、その小さな櫓(やぐら)の砦の方へ。――屋敷のなかには、氣がつくとほかにも屋根が見える。それの長さで家は大きな構(かまへ)だといふことがわかる。その屋敷を私は見たいと思つた。石圍ひの崩れたところからきつと見えると思つた。何でもいい、少しは變つたものを見なければ、禿頭港(クツタウカン)はあまり忌忌(いまいま)しすぎる。

 石垣のとぎれた前まで來ると、それを通して案の定、家がしかも的面(まとも)に見えた。いや、偶然にさう見るやうな意向によつて造られてゐたのである。また石圍ひの中絶してゐるのはやはりただ崩れ果てたのではなく、もとからそこが特にあけてあつた跡があがある。水門としてであらう。何故かといふのに濠(ほり)はずつとこの屋敷の庭の中まで喰入(くひい)つてゐて、崩れた石圍ひの彼方も亦、正しい長方形の小さい濠である。十艘の舢舨(サンパン)を竝べて繫ぐだけの廣さは確(たしか)にある。さうしてその汀に下りるために、そこには正面に石段が三級ある。――しかもその水は涸(かわ)き切つてしまつて、露(あら)はな底から石段まではどう見ても七尺以上の高さがある。――もしこの石段にすれすれになるほど水があつたならば、今は豚と家鴨(あひる)との遊び場所であるこの大きな空しい濠も一面に水になるであらう。それにしてもこれ程の濠を庭園の内と外に築いた家は、その正面からの外觀は、三つの棟(むね)によつて凹字形(あふじけい)をしてゐる。凸字形の濠に對して、それに沿うて建てられてゐる。正面に長く展(ひろ)がつた軒は五間もあり、またその左右に翼(つばさ)をなして切妻を見せてゐる出屋(だしや)の屋根は各(おのおの)四間はあらう。それが總(そう)二階なのである。――一たいが小造りな平家を幾つも竝べて建てる習慣のある支那住宅の原則から見て、これは甚だ大きな住居と言へるであらう。私はくたびれた足を休める意味でしやがんだ序(ついで)に、土の上へこの家の見取圖をかき、それから目分量で測つた間數(けんすう)によつて、この建物は延坪百五十坪は優にあると計算した。一たい私は必要な是非ともしなければならない事に對してはこの上なくづぼらなくせに、無用なことにかけては妙に熱中する性癖が、その頃最もひどかつた。

「何をしてゐるんだい?」

 世外民の聲がして、彼は私のうしろに突立(つゝた)つてゐた。私は何故かいたづらを見つけられた小兒のやうにばつの惡いのを感じたので、立つて土の上の圖線(づせん)を踏みにじりながら、

「何でもない……。――大きな家だね」

「さう。やつぱり廢屋だね」

 彼から言はれるまでもなく私もそれは看て取つてゐた。理由は何もないが、誰(たれ)の目に見てもあまりに荒れ果ててゐる。澤山の窓は殘らずしまつてゐるが、さうでないものは戸そのものがもう朽ちて、なくなつてしまつたに相違ない。

「全く豪華な家だな。二階の亞字欄(あじらん)を見給へ。實に細かな細工だ。またあの壁をごらん。あの家は裸の煉瓦造りではないのだ。美しい色ですつかり化粧してゐる。一帶に淡い紅色の漆喰(しつくひ)で塗つてある。そのぐるりはまたくつきりと空色のほそい輪廓だらう。色が褪せて白(しら)ちやけてしまつてゐるところが、却つて夢幻的ではないか。走馬樓(ツアウベラウ)の軒下の雨に打たれないあたりには、まだ色彩がほんのりと殘つてゐる」

[やぶちゃん注:「走馬樓(ツアウベラウ)」二階以上に付けられた回り廊下のこと。]

 私が延坪を考へてゐる間に、同じ家に就て世外民には彼の觀方(みかた)があつたのだ。彼の注意によつて私はもう一ぺん仔細に眺め出した。なるほど、二階の走馬樓――ヹランダの奥の壁には、淡いながらに鮮かな色がしつとり、時代を帶びてゐた。事實この廢屋は見てゐるほど、その隅隅から素晴らしい豪華が滾々と湧き出して來るのを感じた。たとへばその礎(いしづゑ)である。普通土間(どま)のなかに住んでゐる支那人の家は、その礎は一般にごく低い。地面よりただ一足だけ高くつくられてゐる。それだのに今我我の目の前にあるこの廢屋の礎は、高さ三尺ぐらゐはあり、やはり汀(みぎは)に揃つた切石で積み疊んであつた。もつと注意すると、水門の突當りにあたる場所には、その汀に三級の石段があることはもう知つてゐるが、その奧の家の高い礎にもやはり二三級の石段がある。その間口二間ほどの石段の兩側に、二本の圓柱(ゑんちう)があつて、それが二階の走馬樓(ツアウベラウ)を支へてゐるのだが、この圓柱は、……どうも少し遠すぎてはつきりとはわからないけれども、普通の外(そと)の柱よりも壯麗である。上の方には何やらごちやごちやと彫刻でもしてあるらしい。その根元にあたるあたり、地上にはやはり石の紬工で出來た大きな水盤らしいのが、左右相對(シンメトリイ)をして据ゑつけてある。――これらの事物がこの正面を特別に堂堂たるものにしてゐるのが私の注意を惹いた。私には、そこはこの家の玄關口ではないかと思はれて來た。

 そこで私は自分の疑問を世外民に話した――

「君、ここが正面、――玄關だらうかね」

「さうだらうよ」

「濠(ほり)の方に向いて?」

「濠? ――この港へ面してね」

 世外民の「港」といふ一言(ごん)が自分をハツと思はせた。さうして私は口のなかで禿頭港(クツタウカン)と呼んでみた。私は禿頭港を見に來てゐながら、ここが港であつたことは、いつの間にやらつい忘却してゐたのである。一つには私は、この目の前の數奇(すき)な廢屋に見とれてゐたのと、もう一つにはあたりの變遷にどこにも海のやうな、港のやうな名殘(なごり)を搜し出すことが出來なかつたからである。この點に於ては世外民は、殊に私とは異つてゐる。彼はこの港と興亡を共にした種族でこの土地にとつては私のやうな無關心者(ストレンヂア)ではなく、またそんな理窟よりも彼は今のさつき古圖を披(ひら)いてしみじみと見入つてゐるうちに、このあたりの往時の有樣を腦裡に描いてゐたのであらう。「港」の一語は私に對して一種靈感的なものであつた。今まで死んでゐたこの廢屋がやつと靈を得たのを私は感じた。泥水の濠ではないのだ。この廢渠(はいきよ)こそむかし、朝タ(てうせき)の滿潮があの石段をひたひたと浸した。走馬樓(ツアウベラウ)はきららかに波の光る港に面して展(ひら)かれてあつた。さうして海を玄關にしてこの家は在つたのか。――してみれば、何をする家だかは知らないけれども、この家こそ盛時の安平(アンピン)の絶好な片身(かたみ)ではなかつたか。私はこの家の大きさと古さと美しさとだけを見て、その意味を今まで全く氣づかずにゐたのだ。

 今まで氣づかなかつただけに、私の興味と好奇とが相縺(あひもつ)れて一時(じ)に昂(たかま)つた。

「這入(はい)つてみようぢやないか。――誰(だれ)も住んではゐないのだらう」私は息込(いきご)んでさう言つたものの、濠(ほり)を距(へだ)てまた高い石圍ひを繞(めぐら)してゐるこの屋敷へはどこから這入れるのだか、ちよつと見當がつかなかつた――道ばたの廢屋なら、さつき安平でやつたやうについ、つかつかと這入り込んでみたいのだが。後(のち)に考へ合せた事だが、入口が直ぐにわからないといふこの同じ理由が、この廢屋を、その情趣の上でも事實の上でも、陰氣な別天地として保存するのに有力であつたのであらう。

 その家のなかへ這入つてみたいといふ考へが、世外民に同感でない筈はない。世外民はきよろきよろとあたりを見廻してゐたが、我我が背をよせて立つてゐた石圍ひの奧に、家の日かげに臺灣人の老婆がひとり、棕櫚(しゆろ)の葉の團扇(うちは)に風を求めて小さな木の椅子に腰かけてゐるのを彼は見つけた。彼は直ぐにそこヘ步いて行つて、何か話をしてゐた。向側の廢屋を指さしたりしてゐる樣子で、そのふたりの對話の題目はおのづと知れる。

 世外民はすぐに私の方へ向つて歸つて來た。「わかつたよ、君。あの道を行つて」彼は言ひながら濠のわきにある道を指さして「向うに裏門があるさうだ。少し入組んでゐるやうだが、行けば解るとさ。――やつぱり廢屋だ。もう永いこと誰(だれ)も住んでゐないさうだ。もとは沈(シン)といふ臺灣南部では第一の富豪の邸(やしき)だつたのださうだ。立派な筈さ」

 話しながら私たちはその裏門を搜した。世外民が不確(ふたしか)な聽き方をして來てゐたので、私たちはちつとまごついた。こせこせした家の間へ入り込んでしまつた。尋ねようにもあたりに人は見當らなかつた。このあたりは割に繁華なところらしいのだが、人氣のないのは、今が午後二時頃の日盛りで、彼等の風習でこの時刻には大抵の人間が午睡(ごすゐ)を貪つてゐるのである。私たちは仕方なしにいい加減に步いたが、もともと近いところまで來てゐた事ではあり、また目ざす家は聳えてゐたから自(おのづ)とわかつた。但(たゞし)、その家はあの濠のあちらから見た時には、ただ一つの高樓であつたが、裏へ來て見ると、その樓(やぐら)の後(うしろ)には低い屋根が二三重もつながつてゐた。所謂(いはゆる)五落(らく)の家といふのはこんなのであらうが、大家族の住居(すまゐ)だといふことが一層はつきりすると同時に、あの正面の二階建が主要な部屋だといふことは確かだ。私たちは他(た)の場所よりも、あの走馬樓(ツアウベラウ)のある二階や圓柱のあつた玄關が第一に見たかつた。それ故、私たちは裏門を入るとすぐに、低い建物はその外側を廻つて、表へ出た。

[やぶちゃん注:「五落の家」不詳。五代に亙って繁栄し、没落した豪家の家の謂いか? 識者の御教授を乞う。]

 圓柱はやはり石造りであつた。遠くから、上部にごちやごちやあると見たものは果して彫刻で、二本の柱ともそこに纏(まつは)つてゐる龍を形取(かたど)つたものであつたが、一つは上に昇つてゐたし、一つは下に降りようとしてゐた。雨に打たれない部分の凹みのあたりには、それを彩つた朱や金が黑みながらもくつきりと殘つてゐた。割合から言つて模樣の部分が多すぎて、全體として柱が低く感ぜられたし、また家の他(た)の部分にくらべて多少古風で莊重すぎるやうに私は感じた。しかし私と世外民とは、この二つの柱をてんでに撫でて見ながら、この家が遠見よりも、ここに來て見れば近(ちか)まさりして贅沢なのを知つた、細部が自(おのづ)と目についたからである。尤も、もし私に眞の美術的見識があつたならば、たかが殖民地の暴富者(ばうふしや)の似而非(えせ)趣味を嘲笑(あざわら)つたかも知れないが、それにしても、風雨に曝されて物每(ごと)にさびれてゐる事が厭味(いやみ)と野卑とを救ひ、それにやつとその一部分だけが殘されてあるといふことは却つて人に空想の自由をも與へたし、また哀れむべきさまざまな不調和を見出すより前にただその異國情緒を先づ喜ぶといふこともあり得る。況んや、私は美的鑑識にかけては單なるイカモノ喰ひなことは自ら心得てゐる。

 紬長い石を網代(あじろ)に組み竝べた床(ゆか)の緣(えん)は幅四尺ぐらゐ、その上が二階の走馬樓(ツアウベラウ)である。私たちはそこへ上つてみたいのだ。觀音開きになつた玄關の木扉(もくひ)は、一枚はもう毀(こぼ)れて外れてしまつてゐた。殘つてゐる扉(とびら)に手をかけて、私は部屋のなかを覗いた。――二階へ上(あが)る階段がどこにあるだらうかと思つて。支那家屋に住み慣れてゐる世外民には大たいの見當が判ると見えて、彼はすぐづかづかと二三步廣間のなかへ步み込んだ。

「××××、××××!」

 不意にその時、二階から聲がした。低いが透きとほつやうな聲であつた。誰(だれ)も居ないと思つてゐた折りから、ことにそれが私のそこに這入らうとする瞬間であつただけに、その呼吸が私をひどく不意打した。ことに私には判らない言葉で、だから鳥の叫ぶやうな聲に思へたのは一層へんであつた。思ひがけなかつたのは、しかし、私ひとりではない。世外民も踏み込んだ足をぴたと留(と)めて、疑ふやうに二階の方を見上げた。それから彼は答へるが如くまた、問ふが如く叫んだ――

「××!?

「××!?

――世代民の聲は、廣間のなかで反響して鳴つた。世外民と私とは互に顏を見合せながら再び二階からの聲を待つたけれども、聲はそれつきり、もう何もなかつた。世代民は足音を竊(ぬす)んで私のところへ出て來た。

「二階から何か言つたらう」

「うん」

「人が住んでゐるんだね」

 私たちは聲をしのばせてこれだけのことを言ふと、這入つてくる時とは變つた步調で――つまり遠慮がちに、默つて裏門から出た。しばらく沈默したが出てしまつてからやつと私は言つた。

「女の聲だつたね。一たい何を言つたのだい? はつきり聞えたのに何だかわからなかつた」

「さうだらう。あれや泉州人(ツヱンチヤオナン)の言葉だものね」

 

[やぶちゃん注:「泉州」現在の福建省の台湾海峡に面した港湾都市泉州市を中心とした広域地名。唐代から外国貿易で発展し、インドやアラブまで航路が通じ、イスラム寺院・景教寺院などの遺跡もある。(グーグル・マップ・データ)。正確に音写するなら「チュァンヂォゥ」。]

 普通に、この島で全く廣く用ゐられるのは廈門(エイムン)の言葉で、それならば私も三年ここにゐる間に多少覺えてゐた――尤も今は大部分忘れたが、泉州(ツヱンチヤオ)の言葉は無論私に解らう筈はなかつたのである。

「で、何と言つたの――泉州言葉で」

「さ、僕にもはつきりと解らないが。『どうしたの? なぜもつと早くいらつしやらない。……』――と、何だか……」

「へえ、そんな事かい。で、君は何と言つたの」

「いや、わからないから、もう一度聞き返しただけだ」

 私たちはきよとんとしたまま、疲勞とと不審と空腹とをごつちやに感じながら、自然の筋道として再び先刻(さつき)の濠に沿うた道に出て來た。ふと先方を見渡すと、自分たちが先刻そこから初めてあの廢屋を注視したその同じ場所に、老婆がひとり立つて、ぢつと我我がしたと同じやうに濠を越してあの廢屋をもの珍しげに見入つてゐるのであつた。それが、近づくに從つて、今のさつき世外民に裏門への道を教へた同じ老婆だといふことが分かつた。

「お婆さん」その前まで來た時に世外民は無愛想に呼びかけた。「噓を教へてくれましたね」

「道はわかりませんでしたか」

「いいや。……でも人が住んでゐるぢやありませんか」

「人が? へえ? どんな人が? 見えましたか?」

 この老婆は、我我も意外に思ふほど熱心な目つきで私たちの返事を待つらしい。

「見やしませんよ。這入つて行かうとしたら二階から聲をかけられたのさ」

「どんなぬ聲? 女ですか?」

「女だよ」

「泉州(ツヱンチヤオ)言葉で?」

「さうだ! どうして?」

「まあ! 何と言つたのです!?

「よくわからないが、『なぜもつと早く來ないのだ?』と言つたと思ふのです」

「本當ですか? 本當ですか! 本當に、貴方がた、お聞きになつたのですか! 泉州言葉で『なぜもつと早く來ないのだ?』つて!?

「おお!」

 臺灣人の古い人には男にも女にも、歐洲人などと同じく演劇的な誇張の巧みな表情術がある。その老婆は今それを見せてゐるが、彼女のそれはただの身振りではなく眞情が溢れ出てゐる。恐怖に似た目つきになり、氣のせゐか顏色まで靑くなつた。この突然な變化が寧ろ私たちの方を不氣味にした位である。彼女はその感動が少し鎭まるのを待ちでもするやうに沈默して、しかし私たちに注いだ凝視をつづけながら、最後に言つた――

「早く緣起直(えんぎなほ)しをしておいでさい。――貴方がたは、貴方がたは死靈(しりやう)の聲を聞いたのです!」

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「鶴になつた人」

 

 鶴になつた人

 

   人に死し鶴に生れて冴返る  漱石

 

嘗て鳴雪翁がこの句を説くに當り、丁令威の故事を引合ひに出してあつたと記憶する。丁令威の事は「搜神後記」に出てゐるが、遼東の人で、道を靈虛山に學ぶ。後に鶴に化して遼に歸り、城門の華表(くわへう)の柱にとまつた。少年が弓を以て射ようとすると、鶴は飛び立つて空中に徘徊し、「鳥あり鳥あり丁令威、家を去りて千年今始めて歸る、城郭は故(もと)の如くにして人民は非なり、何ぞ仙を學ばずして塚壘壘たるや」と言ひ、遂に天高く舞ひ去つた。遼東の丁姓の人の間に、先祖に登仙した人のあつたことを傳へてゐるが、その名前はわからぬさうである。千年たつて郷里に歸つたのでは、浦嶋太郎より更に時間が長い。假りに城郭は舊の如くであつたにせよ、故人の存する者なきは當然であらう。丁令威は道術の士だから、人の仙を學ばずして早く死するのを憫れんだのである。

[やぶちゃん注:「人に死し鶴に生れて冴返る」明治三〇(一八九七)年二月、「正岡子規へ送りたる句稿 その二十三」の中の一句。子規による他者の秀作を記した選句帖「承露盤」に入っている。漱石満三十歳直前(熊本第五高等学校英語教師時代)の作句と推定される(漱石は二月九日生まれ)。駄句である。私は漱石の俳句でこれはと思うた句は一句とてない。

 陶淵明作と伝える志怪小説集「搜神後記」のそれは第一巻の「丁令威」。

   *

丁令威、本遼東人、學道於靈虛山。後化鶴歸遼、集城門華表柱。時有少年、舉弓欲射之。鶴乃飛、徘徊空中而言曰、「有鳥有鳥丁令威、去家千年今始歸。城郭如故人民非、何不學仙離塚壘。」。遂高上沖天。今遼東諸丁、云其先世有升仙者、但不知名字耳。

   *

「華表」建築物に添えて建立される記念標柱。一般的には台座・蟠龍柱(とぐろを巻いた龍)・承露盤とその上の蹲獣像から成る。]

 

 鶴は仙禽と稱せられるほどで、仙人とは緣が深い。鶴背の仙人は畫圖としても平凡なものであるが、丁令威と同じく鶴に化した話もいくつかある。蘇耽も鶴に化した一人で、城郭の東北に聳えてゐる樓の上にとまつた。或人がこれを射ると、彼は爪を以て樓の板に次のやうな文句を書いて、いづこともなく飛び去つた。その痕があだかも漆(うるし)で書いたものの如くであつたが、文句の内容は「城郭は是なり、人民は非なり、三百甲子一たび來り歸る、吾は是れ蘇耽なり、我を彈するは何ぞや」といふので、丁令威の語を踏襲したに過ぎぬ。※(しふ)玄英は屍解仙化するに當り、腦天から一道の白菊が立ち昇ると見る間もなく、一羽の鶴になつて飛び去つたとあるのみで、丁令威や蘇耽のやうな話は傳はつてゐない(列仙全傳)。

[やぶちゃん注:「※(しふ)」=「金」+「寸」。

「蘇耽」ArtWikiの「蘇耽」に金井紫雲の「東洋画題綜覧」の解説が記されているので引くと(引用符を打たなかったのは、漢字を恣意的に正字化し、読み易くするために記号を追加したことによる)、

   *

蘇耽は支那の仙人、その母に仕へて孝なることと、後に鶴に化すといふのが如何にも興味があり、仙人中でも異色のもので、「列仙傳」第二卷に曰く、

蘇耽、郴人、事母至孝、嘗遇異人授神仙術、日侍膳、母思鮓卽出市鮓以献、問所從來曰、便県、母始異之、一日忽灑掃庭除、母問其故、曰仙道已成上帝來召、母曰、汝仙去吾誰養、乃留一櫃云、所需卽有、又云、明年大疫、取庭前井水橘葉救之、耽仙去已而果疫、母日活百餘人、後耽化鶴來郡城東北樓、時有彈之者、乃以爪攫樓板、似漆書云、城郭是人民非、三日甲子一來歸、吾是蘇耽、彈我何爲。

その「蘇耽乘鶴」は古來、好畫題として行はれ、「後素説」にも之を擧げてゐる。

   *

とある。他に彼に就いては、中文サイト道教典」の「耽」に、

   *

「洞仙傳」、蘇耽者、桂陽人也。母食欲得魚、耽往市去家數百里、俄頃便返。後留一櫃兩盤於家中、謂母曰、須食魚扣小盤、欲得錢扣大盤、所須皆立至。

「神仙傳」、蘇耽桂陽人、有數十白鶴降于門、遂昇雲而去。後有白鶴來郡城東北樓門上、人或挾彈彈之。鶴以爪攫樓門似漆書云、「城郭是、人民非、三百甲子一來歸、吾是蘇仙、君彈我何爲。」。

「水經注」、蘇耽郴縣人、少孤事母至孝。忽辭母仙去、後見耽乘白馬還山中、人稱爲蘇仙、爲之立祠、因名山爲馬嶺山。

   *

とあった。個人のページらしき櫃と蘇耽の母も読まれたい。

「※(しふ)玄英」不詳。]

 

 則天武后の末年、益州に一人の膏藥翁があつた。常に一箇の壺を携へて城中に藥を賣り、それで生活して居つたが、常に貧しいのはいふまでもない。普通の人のやうな食事は攝(と)らず、時に淨水を飮むだけである。一年餘りこんな事を續けてゐるうちに、大いに人々の信賴を得、この翁の藥を飮めば癒えざる者なしと云はれた。本人は更に世事に貪著(とんぢやく)せず、或時は江岸に遊んで水を眺めて永い日を消し、或時は山に登つて沈思默考するだけであつたが、有識者に遇へば翁一流の疾病觀を述べるのを常とした。一日錦江に到り、衣を脱いで身を淨め、壺中から一粒の丸藥を取り出して飮むと、側にゐた者を顧みて、わしは久しくこの土に謫せられて居つたが、その期限も漸く滿ちた、これから嶋に歸ると云ひ、白鶴に化して飛び去つた。その衣も藥も皆水に沒し、何も殘つてゐなかつた(瀟湘錄)。

[やぶちゃん注:以上は「瀟湘錄」の「説郛」の巻三十三を出典とする「老父賣藥朱仁」。中文ウィキソース「瀟湘錄」から加工して引く。

   *

則天末年、益州有一老父、攜一藥壺於城中賣藥、得錢卽轉濟貧乏、自常不食、時卽飮淨水。如此經歳餘、百姓賴之、有疾得藥者、無不愈。時或自遊江岸、凝眺永日、又或登高引領、不語永日。每遇有識者、必告之曰、「夫人一身、便如一國也。人之心卽帝王也、傍列髒腑、卽内府也、外張九竅、卽外臣也、故心病則内外不可救之、又何異君亂於上、臣下焉可止之。但凡欲身之無病、必須先正其心、不使氣索、不使狂思、不使嗜欲、不使迷惑、則心無病。心既無病、則内輔必堅髒腑、雖有病不難療之也。外之九竅、亦無由受病也。況藥有君有臣、有佐有使、或攻其病、君先臣次、然後用佐用使、自然合其宜。加以佐小不當其用、心自亂也、又何能救病。此又國家任人也。老夫常以此爲念、每見愚者一身、君不君、臣不臣、使九竅之邪、總納其病、以至於良醫自逃、名藥不效、猶不自知治身之病後時矣。悲夫、士君子記之。」。忽一日獨詣錦江、解衣淨浴、探壺中、惟選一丸藥、自吞之、謂衆人曰、「老夫謫罪已滿、今卻歸島嶼。」。俄化爲一白鶴去、其衣與藥壺、並沒於水、求尋不得。

   *

「則天武后の末年」武則天の在位は六九〇年から七〇五年二月まで。

「益州」現在の四川盆地と漢中盆地一帯を指す。

「錦江」現在の四川省省都成都市中心部を流れる川で岷江の支流。長江水系。]

 

 以上の話は略々同一系統のもので、話本位に見ればさのみ興味は感ぜられぬ。話として面白いのは「集異記」の徐佐卿であらう。

 玄宗皇帝の天寶十三年、九月九日の重陽に沙苑の獵が行はれた。たまたま一羽の鶴が雲間に飛ぶのを見、帝自ら失を放たれると、失はあやまたず鶴に中(あた)り、そのまゝ落ちて來さうになつたが、地面から一丈ぐらゐのところで、忽ちまた舞ひ上り、西南をさして飛んで行つた。一同見えるだけ見送るうちに、遂に姿を消してしまつた。

 益州の城から十里ばかり離れたところに、明月觀といふ建物がある。山により水に臨み、樹木の茂つた場所で、諸方から道士の集まる中に、東廊の第一院といふのが最も幽絶であつた。靑城の道士徐佐卿なる者があつて、一年に三四度は必ずやつて來る。その風格がおのづから異るものがあるので、院の正堂を明けて置いて、佐卿の來るのを待つやうにしてゐた。佐卿は三日五日ぐらゐ逗留することもあり、十日間ぐらゐゐて靑城に歸ることもある。彼は久しきに亙り道士達に傾仰されて居つたが、或日例の如くやつて來て、何だか不愉快さうな顏をしてゐる。やゝあつて院中の人に向ひ、今日わしは山中で流れ矢に中つた、別に大した怪我もないが、この矢は人間の所有すべき性質のものでないから、こゝの壁に留めて置く、そのうちに矢の主(ぬし)が尋ねて來たら、これを返して貰ひたい、粗末にしてはならぬぞ、と云ひ、「留箭之時。則十三載九月九日也」の十三字を壁に記して去つた。安祿山の亂が起つたのはその後である。玄宗皇帝は亂を避けて蜀に行幸されることになり、圖らずもこの明月觀に立ち寄られた。帝は塵俗の氣を絶した環境を愛(め)でられ、各室をあまねく見て步かれたが、遂にこの室に入つて壁にかけた矢を一瞥されると、直ちに侍臣に命じて取らしめられた。矢は紛れもない、帝の放たれたものであるけれど、それがどうしてここに來てゐるか、その徑路がわからぬ、道士達は帝より尋ねられるまゝに、事實あつた通り奉答した。失が沙苑に於て用ゐられたものである以上、その矢に中つた鶴は佐卿でなければならぬ。帝は深くこの事を奇とし、自ら放たれた矢を藏して寶とされた。その後蜀の人で佐卿に逢つた者は一人もなかつたさうである。

[やぶちゃん注:この話、現存する「集異記」にはなく、「太平廣記」の「神仙三十六」に「廣德神異錄」を出典として「徐佐卿」で載る。

   *

唐玄宗天寶十三載重陽日獵於沙苑。時雲間有孤鶴徊翔。玄宗親御弧矢中之。其鶴卽帶箭徐墜、將及地丈許、欻然矯翼、西南而逝。萬衆極目。良久乃滅。益州城西十五里、有道觀焉。依山臨水、松桂深寂。道流非修習精者莫得而居之。觀之東廊第一院、尤爲幽寂。有自稱靑城山道士徐佐卿者、淸粹高古、一歳率三四至焉。觀之耆舊、因虛其院之正堂、以俟其來。而佐卿至則棲焉、或三五日、或旬朔、言歸靑城。甚爲道流所傾仰。一日忽自外至、神彩不怡、謂院中人曰、「吾行山中、偶爲飛矢所加、尋已無恙矣。然此箭非人間所有、吾留之於壁、後年箭主到此、卽宜付之、慎無墜失。」。仍援毫記壁云、「留箭之時、則十三載九月九日也。」。及玄宗避亂幸蜀、暇日命駕行遊、偶至斯觀、樂其嘉境、因遍幸道室。既入此堂。忽覩其箭。命侍臣取而翫之、蓋御箭也。深異之、因詢觀之道士。具以實對。卽視佐卿所題。乃前沙苑從田之箭也、佐卿蓋中箭孤鶴耳。究其題、乃沙苑翻飛、當日而集于斯歟。玄宗大奇之、因收其箭而寶焉。自後蜀人亦無復有遇佐卿者。

   *

「十三載九月九日」安禄山の乱は天宝十四載の十一月に勃発している。

「益州の城」長安から益州成都までは直線でも六百キロメートルを超える。]

 

 丁令威以下の人々は、いづれも「人に死し鶴に生れ」たもので、身を仙禽に變へてから人間の生活は營まなかつたのに、徐佐卿だけは鶴となつて矢を受けた後、人間の姿で明月觀に現れてゐる。彼はその點に於て他の人の企て及ばぬ自在を得てゐたのであらうか。丁令威も蘇耽も射られた事は同じであるが、佐卿ひとり身に受けたのは、帝箭の威力の然らしむるところであらうか。然も遂に一結杳然として消息を絶つてゐるのが、この話の神韻縹渺たる所以であらう。

[やぶちゃん注:「一結杳然」「いつけつえうぜん(いっけつようぜん)」とは、文章の後に残っている風情。文章を締めくくった後に、匂うように余韻が残るさまを言う語。]

2017/10/11

女誡扇綺譚 佐藤春夫 始動 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址


女誡扇綺譚   佐藤春夫

 

[やぶちゃん注:「女誡扇綺譚」(ぢよかいせんきたん(じょかいせんきたん))は大正一四(一九二五)年『女性』に発表された、彼の怪奇小説中、傑作の呼び名高い一篇である。作者自身が、浪漫的作品の最後のものと評し、その自作中でも五指に入るであろうと言ったほど、愛着を示したいわくつきの幻想作品である。

 底本は昭和四(一九二九)年改造社刊の「日本探偵小説全集」の「第二十篇 佐藤春夫・芥川龍之介集」所収のものを国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(活字本を持っているはずなのだが、数ヶ月かけても見出せない。書庫の奈落で妖怪(あやかし)の餌食にでもなったものか?)。

 現在、私はある理由から、あらゆることに対し、実は全く積極的な意欲を失っている。それでも行っている毎日の幾つかの電子化注は、翻刻は、ある種の感情を抜き去った自動作用であり、注は、ともすれば鬱屈する感性を意識的に逸らすために、その作業の閉じられた密室の中で、現実を孤独に遮断して思念した結果として吐き出しているような代謝物に過ぎないと断じてもよい。しかし、そうした誤魔化しにも遂に疲れてきた。しかし、ここで停滞するわけにも行かぬ。それは再起動自体の困難が容易に予想されるからである。この電子化は、そういう意味で敢えて自分に課すものである。

 以上の心理状態から、原則、注は附さないこととする。附け出すと「あれもこれも」となるのが私の悪い癖だからである。但し、本文表記等への強い疑義があった場合、及び、私が不学なために意味が判らない語、私が強い興味があることについては、例外的に附すこととする。一度、附した読みは原則、繰り返したくないが、中国音のそれは、前出が大分前の場合は、再度、振る程度の、読者への最低限の配慮は忘れないつもりではある。万一、読めない箇所はリンク先の底本で確認されたい。注は当該語句の含まれる形式段落の末に附した。

 そう言っている傍からであるが、冒頭に出る「赤嵌城(シヤカムシヤ)址」は注が必要であろう。これは「赤崁楼(せきかんろう)」の別名で「赤嵌楼」「紅毛楼」とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡。原名は「プロヴィンティア」(Provintia:普羅民遮城)と称し、一六五三年に、前年に起ったオランダ人と漢人の衝突事件である「郭懐一事件」後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、「プロヴィンティア」は「東都承天府」と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。佐藤は本文でこれを「TE CASTLE ZEELANDIA」(“TE”“THE”の脱字か?)と記しているが、これは厳密には別な城で、参照したウィキの「赤崁楼」によれば、一六二四年、『澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し商館や砲台を築城した。台江西岸の一鯤沙洲(今の安平)には「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)が築城され、台湾統治の中心となり、城砦東側には「台湾街」(現在の延平街一帯)と「普羅民遮街」(現在の民権路)が建築された。前者は台湾で最も繁栄した商業地として「台湾第一街」と呼ばれるようになり、校舎は台湾で初めて計画されたヨーロッパ式都市計画であった』。『オランダ人による台湾統治では漢族移民や平埔族に対し厳しい統治方式を採用した。そのため』、『漢人の不満が爆発』、『「郭懷一事件」が発生した。この事件は間もなく鎮圧されたが、オランダ人は事件の再発を防止するために「普羅民遮街」の北方』地区に新たな『「プロヴィンティア」を建築した。周囲約』百四十一メートル、城壁の高さ十・五メートルの『城砦には』、『水源が確保され、食料が備蓄されるなど、有事の際の防衛拠点都として準備され、漢人はこの城砦を赤崁楼或いは紅毛楼と称した』とあるように、「プロヴィンティア」の前にあった別な要塞が「THE CASTLE ZEELANDIA」(安平古堡)である。『オランダの投降後、鄭成功はゼーランディアを「安平鎮」と改称』、『鄭氏の居城とし、既に東都承天府と改名されたプロヴィンティアと共に、台湾の最高業機構を構成した。しかし半年後に鄭成功が病没すると、世子鄭経』一六六四『年に東都を廃し、「東寧」と改称』、『「東寧国王」を自称するようになった。承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになった』。一七二一『年、朱一貴が清朝に対して反乱を起こすと、赤崁楼の鉄製門額が武器鋳造の材料とされた。その後も人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け』、『赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した』。十九『世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には海神廟と文昌閣、五子祠は病院及び医学生の宿舎として利用されている』とある。その他、多数の現地の地名が出るが、注は省略する。ともかくも舞台は現在の中華民国台南市((グーグル・マップ・データ))である。ただ、どうも佐藤春夫のロケーション設定にはかなり問題があるらしい。それについては黒羽夏彦氏の「台湾史を知るためのブックガイド#21」が詳しいので、参照されたい。また、海王星氏のブログ記事「女誡扇綺譚に見る往時の台南」(全三回)も大いに参考になるので、必見。

 なお、底本は総ルビであるが、私が読め、読みにブレが生じないと思った箇所はすべて振らず、極めてストイックな部分だけに限定した。字配や記号等の配置は、概ね、ブログのブラウザに合わせたので、底本通りではない。踊り字「く」は正字化し、また、傍点「ヽ」は太字で示した。

 底本をPDFでダウン・ロードし、安物ソフトで読み取らせてもたものの、底本の文字の劣化が激しいこと、旧字であることに加えて、総ルビが災いし、殆んど読み取れず、結局、ほぼ一からタイピングせねばならない仕儀となった。かく、これは、全く気儘で迂遠な電子化である。悪しからず。【2017年10月11日始動 藪野直史】]

 

 

     女誡扇綺譚

 

 

    赤嵌城(シヤカムシヤ)址

 

 クツタウカン――字でかけば禿頭港。すべて禿頭(クツタウ)といふのは、面白い言葉だが物事の行きづまりを意味する俗語だから、禿頭港とはやがて安平港(アンピンカン)の最も奧の港といふことであるらしい。臺南(たいなん)市の西端れで安平の廢港に接するあたりではあるが、さうして名前だけの説明を聞けばなるほどと思ふかも知れないが、その場所を事實目前に見た人は、寧ろ却つてそんなところに港(カン)と名づけてゐるのを訝しく感ずるに違ひない。それはただ低い濕つぽい蘆荻(ろてき)の多い泥沼に沿うた貧民窟みたやうなところで、しかも海からは殆んど一里も距(へだた)つてゐる。沼を埋め立てた塵塚(ちりづか)の臭ひが暑さに蒸せ返つて鼻をつく厭な場末で、そんなところに土着の臺灣人のせせこましい家が、不行儀に、それもぎつしりと立竝んでゐる。土人街のなかでもここらは最も用もない邊(へん)なのだが、私はその日、友人の世外民(せいがいみん)に誘はれるがままに、安平港(アンピンカン)の廢市を見物に行つてのかへり路を、世外民が參考のために持つて來た臺灣府古圖の導くがままに、ひよつくりこんなところへ來てゐた。

 

 *     *     *     *

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 人はよく荒廢の美を説く。亦その概念だけなら私にもある。しかし私はまだそれを痛切に實感した事はなかつた。安平(アンピン)へ行つてみて私はやつとそれが判りかかつたやうな氣がした。そこにはさまで古くないとは言へ、さまざさの歷史がある。この島の主要な歷史と言へば、蘭人の壯圖(さうと)、鄭成功(ていせいこう)の雄志、新しくはまた劉永福(りうえいふく)の野望の末路も皆この一港市(かうし)に鬪聯してゐると言つても差支ないのだが、私はここでそれを説かうとも思はないし、また好古家で且(かつ)詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない。私が安平で荒廢の美に打たれたといふのは、又必ずしもその史的知識の爲めではないのである。だから誰でもいい、何も知らずにでもいい。ただ一度そこヘ足を踏み込んでみさへすれば、そこの衰頽した市街は直ぐに目に映る。さうして若し心ある人ならば、そのなかから悽然たる美を感じさうなものだと思ふのである。

[やぶちゃん注:「壯圖」規模が非常に大きくて立派な計画。

「また好古家で且詩人たる世外民なら知らないこと、私には出來さうもない」文の繋がりが悪いが、ママ。「また好古家で」あり、「且」つ「詩人たる世外民なら知らないこと」などないから、「私には」うまくそれを説くことは「出來さうもない」といった意味であろう。]

 臺南から四十分ほどの間を、土か石かになつたつもりでトロツコで運ばれなければならない。坦坦たる殆んど一直線の道の兩側は、安平魚(アンピンヒイ)の養魚場なのだが、見た目には、田圃ともつかず沼ともつかぬ。海であつたものが埋まつてしまつた――といふより埋まりつつあるのだが、古圖によるともともと遠淺であつたものと見えて、名所圖繪式のこの地圖に水牛を曳かせた車の輞(は)が半分以上も水に漬かつてゐるのは、このあたりの方角でもあらう。しかし今はたとひ田圃のやうではあつても陸地には違ひない。さうしてそこの、變化もとりとめもない道をトロツコが滑走して行く熱國(ねつこく)のいつも靑靑として草いきれのする場所でありながら、荒野のやうな印象のせゐか、思ひ出すと、草が枯れてゐたやうな氣持さへする。これが安平の情調の序曲である。

[やぶちゃん注:「安平魚(アンピンヒイ)」条鰭綱ネズミギス目サバヒー亜目サバヒー科サバヒー属サバヒー Chanos chanosウィキの「サバヒー」によれば、『身がミルクのように白い色をしている』とあり、『台湾では大衆魚として古くから親しまれており』、『台南市の安平漁港周辺が有名な産地だったため』、「安平魚」と呼ばれた。『「サバヒー」とは「虱目魚」(白話字:Sat-ba̍k-hî)を閩南語』(びんなんご」閩南地方(現在の福建省南部)で話される言葉で、狭義には泉州・漳州・厦門など福建省南部で話されている言葉を指し、東南アジアでは「福建語」とも呼ばれる。広義には、狭義の言葉に加えて台湾・浙江省南部・広東省東部及び西部や海南省などで話される言語的に類似性の高い言葉の総称。ここはウィキの「閩南語」に拠った)『読みしたものである。名前の由来について、足立倫行著『アジア海道紀行』(文春文庫)の中では、この魚の両目が脂肪性の膜で覆われているためもともとは「塞目魚(サバヒー)」と呼びならわしていたものが、後に同じ音である「虱目魚」の字が当てられるようになったという説が紹介されている』。『サバヒーは産卵期になると、台湾の南部海岸一帯などに稚魚の群が大挙して押し寄せてくるため、その稚魚を捕獲して養殖することが古くから(鄭氏台湾の時代、つまり』十七『世紀頃から)行われてきた。日本統治時代の』二十『世紀初頭には養殖水産物の』実に八十五『%、終戦時から中華民国統治時代初期にあたる』一九四〇『年代後半には養殖魚の』六十『%近くをサバヒーが占めていたという記録も残っている』とある。『身は淡泊だが』、『ぱさぱさしており、小骨が多いといった特徴があるため、台湾では一般にサバヒー粥(虱目魚粥)やサバヒーの肉団子入りスープ(虱目魚丸)などの料理方法で供されることが多い。中でも台南地区のサバヒー粥は特に有名である』ともある。

「輞(は)」「は」は誤ったルビで、歴史的仮名遣で「わ」でよい。「輪」の訓を当てたもの。 「おほわ(おおわ=大輪)」とも訓ずる。厳密には昔の馬車や牛車や農耕車輛の大きな車輪の外周を包む箍(たが)の部分を指した。]

 トロツコの着いたところから、むかし和蘭人(オランダじん)が築いたといふ TE CASTLE ZEELANDIA 所謂土人の赤嵌城(シヤカムシヤ)を目あてに步いて行く道では、目につく家といふ家は悉く荒れ果てたままの無住である。あまりふるくない以前に外國人が經營してゐた製糖會社の社宅であるが、その會社が解散すると同時に空屋になつてしまつた。何れも立派な煉瓦づくりの相當な構への洋館で、ちよつとした前栽(ぜんさい)さへ型(かた)ばかりは殘つてゐる。しかし砂ばかりの土には雜草もあまり蔓(はびこ)つてはゐない。その竝び立つた空屋の窓といふ窓のガラスは、子供たちがいたづらに投げた石のためででもあらうか、破(わ)れて穴があいてないものはなく、その軒(のき)には巣でもつくつてゐるのか驚くほどたくさんな雀が、黑く集合して喋りつづけてゐる。

[やぶちゃん注:「蔓(はびこ)つてはゐない。」の末尾は行末で句点がないが、補った。]

 私たちは試みにその一軒のなかへ這入つてみた。内にはこなごなに散ばつて光つてゐるガラスの破片と壞れた窓枠とが塵埃に埋まつてゐるよりほかに何もなかつた。しかし二階で人の話聲がするので上(あが)つてみると、そこのベランダに乞食ではないかと思へるやうな裝ひをした老人が、これでも使へるのだらうかと思はれるぼろぼろになつた魚網をつくろつてゐる傍(かたはら)に、この爺(おやじ)の孫ででもあるか、五つ六つの男の子がしきりにひとり言を喋りながら、手であたりの埃(ごみ)を搔き集めて遊んでゐたらしいのが、我我の足音に驚いて闖入者を見上げた。老漁夫も我我を怖れてゐるやうな目つきをした。彼等はどこか近所の者であらうが、暑さをこの廢屋の二階に避けてゐたのであらう。ともかくもこれほど立派な廢屋が軒を連ねて立つてゐる市街は、私にとつては空想も出來なかつた事實である。(この二三年後に臺灣の行政制度が變つて臺南の官衙(くわんが)でも急に增員する必要が生じた時、これらの安平(アンピン)の廢屋を一時(じ)、官舍にしたらよからうといふ説があつたが尤もなことである)。

 赤嵌城址(シヤカムシヤし)に登つてみた。たゞ名ばかりが殘つてゐるので、コンクリートで築かれた古い礎(いしずゑ)のあとがあるといふけれども、どれがどれだかさすがの世外民もそれを知らなかつた。今は税關俱樂部(クラブ)の一部分になつてゐる小高い丘の上である。私の友、世外民はその丘の上で例の古圖を取(とり)ひろげながら、所謂安平(アンピン)港外の七鯤身(こんしん)のあとを指さし、又古書に見えてゐるといふ鬼工奇絶と評せられる赤嵌城の建築などに就て詳しく説明をしてくれたものであるが、私は生憎と皆忘れてしまつた。さうして私の驚いたことといふのは、むかし安平の内港と稱したところのものは、今は全く埋沒してしまつてゐるのだといふだけの事であつた――全くあまり單純すぎた話ではあるが事實、私は歷史なんてものにはてんで興味がないほど若かつた。さうしてもし世外民の影響がなかつたならば、安平などといふ愚にもつかないところへ來てみるやうな心掛さへなかつたらう。さういふ程度の私だから、同じやうな若い身空で世外民がしきりと過去を述べたてて咏嘆めいた口をきくのを、さすがに支那人の血をうけた詩人は違つたものだ位にしか思つてゐなかつたのである。そのやうな私ではあり、またいくら蘭人壯圖(さうと)の址(あと)と言つたところで、その古(いにしへ)を偲ぶよすがになるやうなものとても見當らないのだから一向仕方がなかつたけれども、それでもその丘の眺望そのものは人の情感を唆(そそ)らずにはゐないものであつた。單に景色としてみても私はあれほど荒凉たる自然がさう澤山あらうとは思はない。私にもし、エドガア・アラン・ポオの筆力があつたとしたら、私は恐らく、この景を描き出して、彼の「アツシヤ家の崩壞」の冒頭に對抗することが出來るだらうに。

[やぶちゃん注:「七鯤身(こんしん)」臺南市街の沖にあった島或いは大きな砂洲の総称。T氏のサイト「中国耽美紀行」の「億載金城」に、大きいものから順に「一鯤身」(いちこんしん Yī kūn shēn)から「六鯤身」乃至「七鯤身」と称された、とある。]

 私の目の前に廣がつたのは一面の泥の海であつた。黃ばんだ褐色をして、それがしかもせせつこましい波の穗を無數にあとからあとか飜して來る、十重(へ)二十重といふ言葉はあるが、あのやうに重ねがさねに打ち返す波を描く言葉は我我の語彙にはないであらう。その浪は水平線までつづいて、それがみな一樣に我我の立つてゐる方向へ押寄せて來るのである。昔は赤嵌城(シヤカムシヤ)の眞下まで海であつたといふが、今はこの丘からまだ二三町も海濱がある。その遠さの爲めに浪の音も聞えない程である。それほどに安平(アンピン)の外港も埋まつてしまつたけれども、しかしその無限に重なりつづく濁浪(だくらう)は生溫い風と極度の遠殘の砂に煽(あふ)られて、今にも丘の脚下まで押寄せて來るやうに感ぜられる。その濁り切つた浪の面(おもて)には、熱帶の正午に近い太陽さへ、その光を反射させることが出來ないと見える。光のないこの奇怪な海――といふよりも水の枯野原の眞中に、無邊際(むへんざい)に重(かさな)りつづく浪と間斷なく鬪ひながら一葉(えふ)の舢舨(サンパン)が、何を目的にか、ひたすらに沖へ沖へと急いでゐる。

[やぶちゃん注:「舢舨(サンパン)」「舢舨」は広東語。中国南部や東南アジアで使用される平底の木造船の一種。]

 白く灼(や)けた眞晝の下(もと)。光を全く吸ひ込んでしまつてゐる海。水平線まで重なり重なる小さな浪頭。洪水を思はせるその色。翩飜(へんぽん)と漂うてゐる小舟。激しい活動的な景色のなかに闃(げき)として何の物音もひびかない。時折にマラリヤ患者の息吹のやうに蒸れたのろい微風が動いて來る。それらすべてが一種内面的な風景を形成して、象徴めいて、惡夢のやうな不氣味さをさへ私に與へたのである。いや、形容だけではない、この景色に接してから後(のち)、私は亂醉の後の日などに、ここによく似た殺風景な海濱を惡夢に見て怯(おびや)かされたことが二三度あつた。――このやうな海を私がしばらく見入つてゐる間、世外民もまた私と同じやうな感銘を持つたかも知れない、――このよく喋る男もたうとう押默つてしまつてゐた。私は目を低く垂れて思はず溜息を洩らした。尤も多少は感慨のせゐもあつたかも知れないが、大部分は炎天の暑さに喘いだのである。今更だが、かういふ厚さは蝙蝠傘などのかげで防げるものではない。

[やぶちゃん注:「
闃(げき)」静まりかえったさま。ひっそりとして人気(ひとけ)のないこと。

「ウ、ウ、ウ、ウ――」

 不意に微かに、たとへばこの景色全體が呻くやうな音が響き渡つた、見ると、水平線の上に一隻の蒸汽船が黑く小さく、その煙筒(えんとう)や檣(ほばしら)なふどが僅かに見える程の遠さに浮んでゐた。沿岸航路の舟らしい。さうしてさつきから浪に搖れてゐる舢舨(サンパン)はそれの艀(はしけ)で、間もなく本船の來ることを豫想して急いでゐたものらしい。

「あの蒸汽はどこへ着くのだい」

 私が世外民に尋ねると、我我の案内について來たトロツコ運搬夫が代つて答へをした――

「もう着いてゐる。今の汽笛は着いた合圖です」

「あそこへか。――あんな遠くへか」

「さうです。あれより内へは來ません」

 私はもう一ぺん沖の方を念の爲めに見てから呟いた――

「フム、これが港か!」

「さうだ!」世外民は私の聲に應じた。「港だ。昔は、臺灣第一の港だ!」

「昔は……」私は思は無意味に繰返した。それが多少感動的でいやだつたと氣がついた時、私は輕く虛無的に言ひ直した。「昔は……か」

 丘を下りて我我の出たところは、もと來た路ではなかつた。ここは比較的舊い町筋であると見えて、一たいが古びてゐた。あたりの支那風の家屋はみんな貧しい漁夫などのものと見えて、あのヹランダのある二階建の堂堂たる空屋にくらべるまでもなく、小さくて哀れであつた。さうしてもともと所謂鯤身(こんしん)たる出島の一つであつたと見えて、地質は自(おのづ)から變つてゐた。砂ではなくもつと輕い、步く度(たび)に足もとからひどい塵が舞ひ立つ白茶けた土であつた。但(たゞし)、來たときと一向變らないことは、そのあたりで私は全く人間のかげを見かけなかつた事である。通筋の家家は必ずしも皆空屋でもないであらうのに、どこの門口(かどぐち)にも出入する人はなく、又話聲さへ洩れなかつた。私たちが町を一巡した間に逢つた人間といふのはただあの廢屋のヹランダにゐた漁夫と小兒とだけである。行人(かうじん)に出逢ふやうなことなどは一度もなかつた。深夜の街とてもこれほどに人氣(ひとけ)が絶えてゐることはないと言ひたい。しかも眩しい太陽が照りつけてゐるのだから、さびしさは一種別樣(べつやう)の深さを帶びてゐた。我我は默默と步いた。不意にあたりの家竝(やなみ)のどこかから、日ざかりのつれづれを慰めようとでもいふのか、絃(ヒエン)と呼げれてゐる胡弓をならし出した者があつた。

「月下の吹笛(すゐてき)よりも更に悲しい」

 詩人世外民は、早くも耳にとめて私にさう言ふのであつた。月下の吹笛を聯想するところに彼の例のマンネリズムとセンチメンタリズムとがあるが、でも彼の感じ方には賛成していい。

 私たちは再び養魚場の土堤(どて)の路をトロツコで歸つたが、それの歸り着いたところ、臺南市の西郊が、私のこれから言はうとする禿頭港(クツタウカン)なのである.安平(アンピン)見物を完(まつた)うするためにこのあたりをも一巡しようと世外民が言ひ出した時、時刻が過ぎてしまつてひどく空服(くうふく)を覺えてゐながらも私が別に、もう澤山だと言はなかつたところを見ても、私がこの半日のうちに安平に對して多少の興味を持つやうになつてゐたことは判るだらう。

[やぶちゃん注:「空服」はママ。]

 しかしトロッツコから下りて一町とは步かないうちに、私は禿頭港などは蛇足だつたと、思ひ始めたのである。ただ水溜(みづたまり)の多い、不潔な入組(いりく)んだ場末といふより外には、一向何の奇(き)もありさうには見えなかつた。

 

 *     *     *     *

    *     *     *

 

老媼茶話巻之三 允殿館大入道

 

     允殿館(じやうどのだて)大入道

 

[やぶちゃん注:今回、以上の通り、「允殿館」を「じやうどのだて(じょうどのだて)」と読んだ。これは個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」に振られたルビに従ったものである。]

 

 飯寺村庄九郎と云もの、小力(こぢから)有(あり)て相撲(すまひ)なども取(とり)、米も、五、六俵、背負ひありくもの也。

 此もの、南町といふ所に親類有。行(ゆか)で叶はぬ用有(あり)て、雨のそぼ降(ふる)黃昏(たそがれ)に宿をいで、中野ゝ十文字原に懸(かか)り、允殿館弐五輪の前より成願寺前へ出(いで)んと、弘眞院(こうしんゐん)の北の細道をとふるに、荒神堂の大杉の本(もと)に、白き物、見ゆる。

 庄九郎、怪敷(あやしく)おもひ、立留(たちどま)り、能(よく)見るに、かの者、間ぢかくきたるを見れば、面(おもて)の長さ、三尺斗(ばかり)有(ある)女、竹杖を突(つき)、髮を亂し、眼(まなこ)は皿のごとくにて、かたびらをかぶり、

「まてまて。」

と云(いひ)て來(きた)る。

 庄九郎、したゝかものなれば、少も臆せず、脇差に手をかけ、

「おのれ、我に何用有るぞ。」

と足早に行過(ゆきすぐ)る。

 彼(かの)女いふ。

「歸りに此道を通り見よ。其時、思ひしらせん。」

と云。

庄九郎、是を聞かぬふりにて、南立町の親類の方へ行(ゆく)。

 折節、近くより、人、數多(あまた)打寄居(うちろりゐ)たりけるが、庄九郎が顏色を見て、

「其方が色あひ、常ならず。道にて口論にてもせぬか。」

といふ。

 庄九郎、右のあらまし語りければ、何(いづれ)も驚(おどろき)、

「允殿館には化物有り、といい傳ふるは誠にて有りし。必(かならず)、歸りには晒屋町へ出(いで)、湯川を渡り、石塚前より材木町出(いで)、歸るべし。」

と云。

 庄九郎、元來、じやうこわきものなれば、

「もとの道を歸らずは、臆病なりとはらはるべし。」

と思ひ、

「たとい、化物出(いで)たりとも、何事のあるべき。近道也。先の道を歸るべし。」

とて、もと來(きた)る道を歸るに、夜も深々と更過(ふけすぎ)、杉の木梢(こづゑ)をわたる風、身に染々とおそろしく、頭(かしら)の毛、立(たち)のぼる心持するに、道の傍に、先の女、立居(たちゐ)たりけるが、庄九郎をみて、

「それこそ、さきの奴め。それ、とり逃(にが)し玉ふな。」

と、こと葉を懸(かく)るに、眞黑なる大入道、大手をひろげ、飛(とび)て懸りける。

 庄九郎、此時、日頃の強氣(がうき)、失(うせ)、ころぶともなく、走(ハシル)ともなく、田も畑も一參(いつさん)に飯寺村へかけ付(つけ)、戸を蹴放(けはな)し内へ入(いり)、氣を失ひ、死入(しにいり)ける。

 其後、四、五十日、打伏(うちふし)、氣色、常ごとくに成(なり)にけるが、夫(それ)より大臆病(おほおくびやう)ものと也、氣拔(きぬけ)て、日暮は外出もならぬやうに成たり。

 その明(あく)る春、夫(ブ)にさゝれ、江戸登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける。

 

[やぶちゃん注:「允殿館(じやうどのだて)」既出既注であるが、再掲しておく。現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。冒頭注で示した個人サイト「城郭放浪記」の「陸奥・允殿館」も参照されたい。

「飯寺村」既出既注であるが、本話柄では地理が一つのネックとなっているので、再掲する。現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。

「五、六俵」幕府の制度規格では一俵は三斗五升であったが、時代や地域によって増減があった。一応、規格値で換算すると、一俵は三十七・五キログラムのなるから、百八十七・五から二百二十五キログラムに相当する。

「南町」現在の福島県会津若松市南町(みなみまち)か。鶴ヶ城の南直近。(グーグル・マップ・データ)。

「中野ゝ十文字原」現在の福島県会津若松市門田町大字中野附近であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「允殿館弐五輪」允殿館跡にあった二基の五輪塔か。

「成願寺」前にも出たが、現在、この名の寺はない。

「弘眞院(こうしんゐん)」福島県会津若松市門田町年貢町(附近(グーグル・マップ・データ)。但し、地図には寺は出ない)に現存する。真言宗。

「とふるに」ママ。「通(とほ)るに」。

「荒神堂」不詳。

「三尺斗(ばかり)」九十一センチメートルほど。

「かたびら」「帷子」。

「まてまて。」「待て待て。」。

「南立町」「みなみたてまち」と読んでおく。先に「南町」とあったから、同町内の地名と思われる。ウィキの「町(会津若松に、当時の南町地区には「竪町」があったとあるから、これであろう。

「晒屋町」「さらしやまち」と読んでおく。前注同様、ウィキの「町(会津若松に、当時の南町地区には「晒屋町」があったとある。後の地名から察すると、現在の南町の西にあったと推定する。

「湯川」既出既注。

「石塚」現在の湯川新水路を渡った東の石塚観音堂であろう。(グーグル・マップ・データ)。

「材木町」現在の福島県会津若松市材木町。(グーグル・マップ・データ)。このルートから飯寺に帰るのは、地図を見て戴けば判る通り、決して異様に無駄に大きな遠回りではないようだ。但し、彼は「先の道を歸る」のが「近道」だと明言しているから、彼の住まいは恐らく、飯寺地区の南方東にあったのであろう。

「じやうこわきもの」底本の編者の添漢字によれば「じやう」は「情」。「情強(こは)き者」で、頑固者の意味であろう。

「はらはる」ママ。「笑はる」。

「一參(いつさん)」「一散」。

「夫(ブ)にさゝれ」幕藩領主が普請・掃除・交通などのために、領民に人足役を賦課していた夫役(ぶやく)の一人に指名され。

「江戸登り、半年程過(すぎ)、江戸にて死(しに)ける」彼の死と、本怪異の直接の連関性は認められないものの、人格変容を起させたからには、死の致命的遠因とは言える。彼は、この怪異(帰りの)に遭遇しなければ、力自慢としてのきっぱりとした剛毅の自負も失うことは無かったし、長生きもしたであろうからである。そうした暴虎馮河の蛮勇への戒めの意味が、この何気ない後日談には込められているように私は思う。]

老媼茶話巻之三 飯寺村の靑五輪

 

     飯寺(にひでら)村の靑五輪(あをごりん)

 

[やぶちゃん注:「飯寺(にひでら)」の「ひ」は推定「飯」の「いひ」からの転訛と考えて「にひ」とした。底本は『にいでら』とするが、これは底本が現代仮名遣ルビを方針としているからに過ぎない。以上から、今回は敢えて歴史的仮名遣を「にひでら」と考えた。]

 

 南山(みなみやま)街道飯寺村、道ばた右の方の田の中に、大垣あり。其塚の上に大榎(おほえのき)有(あり)。

「慈現院壇と云(いふ)山伏、生(いき)ながら入定(にふじやう)せし所故(ゆゑ)、俗、慈現院壇と云。」

と、ふるき者の噺(はなし)也。

 今も深夜に聞(きか)ば、塚の中にて、ほら貝を吹(ふく)音、聞ゆ、といへり。

 此塚の東向ひ、靑五輪と云(いふ)有(あり)。此五輪、夜々(よなよな)、化(ばけ)て、慈現院より靑五輪迄、一面に鐵のあみをはり、往來の人を、さまたぐる。

 或夜更過(よふけすぎ)て、南山のもの、此所を通りけるに、六尺斗(ばかり)の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、

「にこり。にこり。」

と笑(わらふ)。

 此男、元來、不敵氣(ふてきげ)もの也。

 是をみて、走り懸り、大入道がてつぺんを、したゝかに切付(きりつく)る。

 手ごたへして、網も、山伏も、入道も、消失(きえうせ)て、深夜の闇と也けり。

 其夜明(そのよあけ)て、件(くだん)の男、夕べ、化物に逢(あひ)ける道筋へ來(きた)る。

 尋見(たづねみ)るに、靑五輪の天窓(アタマ)を、半分、切りくだき、血の色、すこし、見えたり。

 是より、刀をば「五輪くだき」と名付(なづけ)、祕藏せりと也。

 

[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、前の「酸川野幽靈」とともに紹介されている。

「飯寺村」現在の福島県会津若松市門田町(もんでらまち)大字飯寺(にいでら)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南西、阿賀川右岸。

「南山街道」会津西街道。会津藩主保科正之によって整備された、会津若松城下から下野の今市に至る街道。会津からは「下野街道(しもつけかいどう)」「日光街道」「江戸街道」「南山通(みなみやまどお)り」とも呼ばれた、とウィキの「会津西街道にある。この「南山」とは天領であった会津南山御蔵入領(あいづみなみやまおくらいりりょう:現在の福島県南会津郡・大沼郡の大半)を指す。個人ブログ「花鳥風月visual紀行」の南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その1)を参照されたい。

「慈現院壇と云(いふ)山伏」不詳。しかし、今も地中で法螺貝を吹くばかりか、以下に見るように、人を脅すとなれば、彼は入定なんぞ、していないばかりか、煩悩の果てに妖怪していることになる。但し、これらは狐狸の類いが、慈現院壇の話に合わせて、かく成しているのかも知れぬ。それは、判らぬ。

「慈現院より」「慈現院壇より」が正しい。これでは慈現院という寺があるように読めてしまう。

「六尺斗(ばかり)」一メートル八十二センチほど。

の大山伏と、同(おなじ)長(た)けなる黑入道と、口より火を吹出(ふきいだ)し、鐵の網を張り、其網の内に、兒法師(ちごはうし)・女童(めのわらは)の首、いくつも懸(かか)り有(あり)て、此首共、此男を見て、

「にこり。にこり。」

「不敵氣(ふてきげ)もの」大胆で恐れを知らぬ、蛮勇を誇るような輩。

「てつぺん」天辺。脳天。]

老媼茶話巻之三 酸川野幽靈

 

   酸川野(すかはの)幽靈

 

 いつの頃にや有りけん。猪苗代御城代何某と云(いふ)人、酸川野河原(すかはのがはら)なぐさみに出(いで)けるに、畑中に、いかにも年ふりたる燈籠有(あり)。畑打(はたうつ)老人に尋(たづね)ければ、

「いつの世に誰(たれ)か立置(たておき)し燈籠に候やらん、知りたる人もなく候。此燈籠取捨候得(とりすてさふらえ)ば、其人に祟ると申(まうす)ならはし候儘(まま)、畑中に御座候得ば、じやまに成(あり)候得共、無是非(ぜひなく)置(おき)候。爰(ここ)は昔、寺院に候と申傳へ候」と語る。何某、聞(きき)て、

「怨靈の祟りといふは、夫(それ)、人のいゝなしなるべし。何にもせよ苔(コケ)むしたる燈籠にて庭に立(たてて)然るべし。」

とて、下人に持(もた)せ歸り、則(すなはち)、築山(つきやま)の植込(うえこみ)に立置(たておき)たり。

 其夜、更(ふけ)て、御城の御門、けはしくたゝき、

「我は堀貫村の彦兵衞と云(いふ)者なり。爰、明けよ。」

と云。

 門番、戸扉の透(すき)より見れば、髮を、はらにて、たばね、上につゞれを着、繩帶をしたる、いかにも賤敷(いやしき)土民也。此故(このゆゑ)に門番、門をひらかず。やゝ暫有(あり)て、彦兵衞、

「何とて、門をひらかざるぞ。」

とて、門を飛越(とびこえ)、内へ入(いる)。

 門番、すかさず、彦兵衞と引組(ひきくみ)、夜明(よあく)るまで捻合(ねぢあひ)て、曉、彦兵衞、行衞なく成(なり)たり。

 門番の足輕、氣を失ひ、死入(しにいり)けるを、人、見付(みつけ)、水を吞ませ、氣付(きつけ)をくれ、漸(やうやう)人心地付(つき)たり。

 其明(あく)る夜、亦、來り。

 いつものごとく、門をたゝき、

「爰、明(あけ)よ、爰、明よ。」

といふ。

 別の足輕、番を勤(つとめ)いたりしが、有無(うむ)に答へず。

 彦兵衞、腹を立(たて)、門をおどり越(こえ)、御城代何某の伏居(ふしゐ)たる枕に彳(たたずみ)て、大きにいかりたるけしきにて、

 「其方、何故に、纔(わづか)、形斗(ばかり)殘りたる我(わが)なきあとの印(しるし)の燈籠を奪取(うばひとり)たる。急ぎ、元の所へ返すべし。返さば、其通り、返さずは、恨(うらみ)をなさん。」

と云。

 何某は夢覺(ゆめさめ)、枕元の刀、引拔(ひきぬき)、切付(きりつけ)たるに、彦兵衞は、影なく、消失(きえうせ)けり。

 曉、みれば、庭に建(たて)たる件(くだん)の燈籠の笠石に、刀の疵跡、有(あり)。

 燈篭を元の所へ返しければ、何の怪敷(あやしき)事もなかりし、となり。

 

[やぶちゃん注:本話は「柴田宵曲 妖異博物館 斬られた石」に、次の「飯寺村の靑五輪」とともに紹介されている。

「酸川野河原(すかはのがはら)」現在の福島県耶麻郡猪苗代町若宮地区大字酸川野(すかわの)。中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。藩政時代の宿場町。

「なぐさみ」気晴らし。

「じやま」「邪魔」。

「いゝなし」ママ。「言ひ做(な)し」。事実とは違うことを事実らしく言うこと。

「堀貫村」不詳。

「はらにて、たばね」「藁にて、束ね」。底本の編者添漢字に拠る。

「つゞれ」「綴れ」。破れた部分を継ぎ接(は)ぎした襤褸(ぼろ)の衣服。

「いかにも賤敷(いやしき)土民也」灯籠とそぐわぬが、或いはこの「彦兵衞」なる者、遠い昔、富裕な農民であった者が没落したものか。

「有無(うむ)に」副詞。全く。

「其通り」我、何事もなさず、平静たらん。

「燈篭」「篭」は底本の用字をそのままとした(「燈」は底本は前も総て「灯」)。底本で、ここまで総て「籠」であったものが、ここのみ「篭」であるからである。]

老媼茶話巻之三 血脈奇特

 

     血脈奇特(けちみやくきどく)

 

 會津塔寺(たふじ)、鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞といふ者、元、江州の、やばせの者なり。喜右衞門代に塔寺に移る。前度(まへど)、九郎兵衞、諸國順禮して國々を𢌞りける折節、西國の内、鰐(ハニ)の御崎といふ所を通るに、此所、船渡(ふなわたし)にて、弐、三拾人、取乘(とりのせ)、風間(かざま)も克(よく)、船を押出(おしいだ)し、船、沖中へ漕出(こぎいだ)しけるに、船、沖中にて、

「ひし。」

と引居(ひきすへ)、動かさず、船、海へ沈まんとす。

 船頭、大きに色を失ひ、乘合(のりあひ)のもの共へ申(まうし)けるは、

「斯(かく)申(まうす)某(それがし)を始(はじめ)、各(おのおの)、何にても、海上へ抛入(なげいれ)給ふべし。其内(そのうち)、鰐(わに)の見入(みいり)たる人の抛入給ふ品を海中引込(ひきこま)ば、其人、入水(じゆすい)いたさるべし。是は前度も有りし事にて候。」

と云。

 乘合の者共、てん手(で)に題目・念佛・我國々の氏神を大音(だいおん)に念じ、或は菅笠・羽織・ゆかた・かたびら・手拭の類(たぐひ)、思ひ思ひに、なげ入(いれ)ける。

 九郎兵衞、なげ入(いれ)し三尺手拭、中(なか)を一結(ひとゆ)ひ、なげ入しが、抛(なぐ)るとひとしく、海中へ引込(ひきこみ)ける。

 殘る者とども、口々に申(まうす)樣、

「何國(なんごく)の御人(おひと)かは存不申候得共(ぞんじまうさずさうらえども)、前世宿業と思召(おぼしめし)、御入水の事、是非も無御座申(ござなくまうす)も御笑止、情なく候得共、御壱人にて數多(あまた)の人の命、御助けと申(まうす)。かく申内(まうすうち)に、今にも此船、くつ返り候へば、壱人も、命、たすかる者、是、なし。迚(とて)も御遁有間敷(おんのがれあるまじき)事なり。御覺悟、有(ある)べし。」

と、船頭・乘合の者ども、一同、申(まうし)ける。

 九郎兵衞も、

「是非に及ばぬ事也。委細心得候。」

とて船のへさき立出(たちいで)、高聲に、念佛、百遍斗(ばかり)、既に海へ飛入(とびい)らんとする折、なかば沈(しづみ)たる船、

「くつ。」

と、浮上(うきあが)りけるまゝ、船頭力を得、櫓(ろ)をはやめければ、難なく、岸に着(つき)たり。

 各(おのおの)も悦び、九郎兵衞も、不思義の命、助かり、急ぎ、船より上(あが)るに、九郎兵衞、首に懸(かけ)たる血脈袋(けちみやくぶくろ)のひも、とけて、血脈、なし。

 大勢乘合のもの、奇異の思(おもひ)をなしたり。

 血脈の奇特(きどく)ゆへ、命、助(たすか)りたるに疑(うたがひ)なし。

 此血脈は奧州會津若松、允殿(じやうどの)館成願寺(じやうぐわんじ)、決觀和尚の血脈なり。

 元祿年中の事也。

 

[やぶちゃん注:酷似した前半の展開を持つ話に「宗祇諸國物語 遁れ終(は)てぬ鰐(わに)の口がある。リンク先の私の電子化注を参照されたい。但し、そちらは後日談が悲劇である

「血脈(けちみやく)」仏教用語。広義には、師が弟子や信徒に仏教の精髄を受継がせること、師弟の系譜という様態を言うが、ここは狭義で、密教や禅宗に於いて、師から弟子や信徒に戒を授ける際、その保証として師が与える正統な授戒の証しとしての証明書たる血脈図のこと。

「奇特(きどく)」神仏の持っている超人間的な力。霊験。一般に広く「非常に珍しく、不思議なさま」の意もあるが、ここは前者。私は後者(「言行や心がけなどが優れており、褒めるに値するさま」の意もある)の場合は「きとく」と分けて読むことにしている。

「會津塔寺(たふじ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺一帯の旧地域名。周辺(グーグル・マップ・データ)。

「鍋屋喜右衞門親(おや)、九郎兵衞」孰れも不詳。

「江州の、やばせ」矢橋(やばせ)。現在の滋賀県草津市の集落地名。ここから船に乗って対岸に達すると、東海道の近道になることから、古くから、琵琶湖岸の港町として栄えた。近江八景の「矢橋帰帆」でも知られる。附近(グーグル・マップ・データ)。

「前度(まへど)」以前。読みは底本の編者ルビに従った。

「鰐(ハニ)の御崎」「鰐」は鮫(さめ)のことであるが、位置不詳。識者の御教授を乞う。「風間」風が止んでいることも指し、それでとってもよいが、ここは風の吹き具合の意で採っておく。その方が、沖合で船が(風があるのに)鰐に魅入られて止まってしまうというシーンがより生きると考えるからである。

「克(よく)」「良く」。

「御笑止」「笑いうべきおろかなこと・ばかばかしいこと」であるが、ここは寧ろ、『「そんな馬鹿な!」とはお思いでしょうが』という意味であろう。

「會津若松、允殿(じやうどの)館」現在の福島県会津若松市に所在した城館。中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建つ。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「成願寺」不詳。

「決觀和尚」不詳。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 二兄弟


Nikyou

   二兄弟

 

 幻に見たことである。

 わたしの眼の前に二人の天使、つまり二つの精靈が現はれた。

 ここに天使をわざわざ精靈と言ひかへたのは、二人とも衣らしいものは何一つ着けぬ裸身で、肩には長い丈夫さうな翼が生えてゐたからである。

 二人ともまだ若い。その一人は稍〻肥り肉(じし)で、滑らかな皮膚と、房々した黑い捲髮を持つてゐる。濃い睫毛の下で、鳶色の眼が柔和さうに動く。愉しげなその眸には、どこか知ら柔媚と貪婪の色が見える。顏立はうつとりするほど美しいが、どことなく意地の惡い傲慢な所もある。眞紅な厚い唇は、心もち顫ヘてゐる。そして恰も權力ある者のやうに自信に滿ちた懶い微笑を浮べてゐる。きれいな花冕が艷(つや)やかな髮の上にかるく乘つて、こぼれ花は天鵞絨のやうに柔かな眉毛の邊に漂つてゐる。金の矢で留めた斑らな豹の皮が、まるまるした肩の先から腰の膨らみまで、ふわりと垂れてゐる。翼の羽は薔薇色を流し、その先の方は赤紫に光る鮮血に浸しでもしたやうに、紅くきらめく。折々、羽毛がはげしく顫ひ立つと、春の雨に似た快い銀の響がする。

 もう一人は瘠せて、皮膚の色も黃ばんでゐる。息をつくたびに肋骨が仄かに見える。美しい渦を捲きもせずに眞直で、薄くなり初めた亞麻色の髮。蒼ざめた灰色の眼は、大きくまん圓に見開かれて、そこを迸るのは不安さうな、異樣にきらめく眸(まなざし)、半ば開いて、魚のやうな齒並を覗かせた小さな口許、引緊つた鷲鼻、一面に生毛の生えたしやくれ頤など、顏立は見るからに鋭い。かさかさなその唇は、これまで一度の微笑も浮べたこともないやうに見える。

 それは端正な、怖しげな、無慈悲な顏だつた。(尤もあの美男の方も、優しく可愛らしい顏立ながら、慈悲の色は見えなかつた。)第二の若者の頭には、禳りも知らず折れ朽ちた麥の穗の數條が、色腿せた草の葉で編んで卷附けてある。腰には灰色の粗布をまとつて、鼠色に鈍(に)びた兩の翼を、靜かに脅かすやうに搖つてゐる。

 この二人は一刻も離れられない親友と見えた。

 互に肩を凭せかけ、第一の若者の柔かさうな片手は葡萄の房のやうに、相手の骨立つた肩先に懸つてゐる。第二の若者の細い手首は、瘦せこけた長い五本の指もろとも、相手の女のやうな胸のあたりを、蛇のやうに這つてゐる。

 そして私には或る聲が聞えた。それはかう響いた。――

 「お前の眼の前に立つのは『愛』と『飢』、血を分けた二人の兄弟だ。生くるもの總てに取つては、大切な二つの臺石だ。

 「この世に生くるもの皆、食はんが爲に働き、生まんが爲に食ふ。

 「『愛』と『飢』と、この二つのめざす所は一つだ。この世の生の絶えぬため。――己れの生、他人の生の差別を起える、遍在の生を絶やさぬため。」

             一八七八年八月

 

[やぶちゃん注:最後の声の前二段落の末尾の鍵括弧閉じるがないのはママ。連続した同一の声の切れ目として自然な手法である。太字「しやくれ」は底本では傍点「ヽ」。

 訳者註。

『精靈 守護精霊(ゲニイ)である。希臘羅馬兩教會と同じく、露西亞教會でも、人は生まれながらに善惡二體のゲニイを持つものとされてゐた。その姿は普通繪畫彫刻に二枚の翼あるものとして現される。』

「ゲニイ」とあるが、詩の原文の「精靈」に当たる箇所が“гения”となっている。гений(ゲェニヒ)は「古代ローマの守護神・人の運命を支配する霊(善霊・悪霊ともに含む)」の意。

 

「柔媚」は「じうび(じゅうび)」と読む。艶(なま)めかしいこと。媚(こ)び諂(へつら)うこと。

「懶い」「ものうい」。

「花冕」「くわべん(かべん)」。花を模した或いは実花製の冠(かんむり)であるが、後の描写から、実際の花で出来たそれである。

「天鵞絨」「ビロウド」或いは「ビロード」。

「鈍(に)びた」濃い鼠色を呈した。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 新聞記者


Tuusin

   新聞記者

 

 二人の友達が卓を挾んで茶を飮んでゐる。

 そのとき往來で、時ならぬ騷ぎがはじまつた。哀れつぽい呻き聲や、いきり立つた罵聲にまじつて、彌次馬の小氣味よささうな嘲笑がひびいた。

 「やあ、誰か毆られてるぞ」と、友達の一人が窓から首を出して言つた。

 「罪人か、それとも人殺しかね」と、もう一人が聞いた、「いや、何をしたにしろ、無法きはまる私刑なんか許しては置けないぞ。さあ、ひとつ助太刀してやらう。」

 「だが、あれは人殺しぢやないよ。」

 「人殺しぢやない? ぢや泥棒か。どつちみち同じことだ。彌次馬の手から救ひ出してやらう。」

 「いや、泥棒でもない。」

 「泥棒ぢやないつて? ぢや出納役か、鐡道の役人か、聯隊の御用商人か、ロシヤ出來の文藝保護者(メケーナス)か、辯護士か、溫健主義の編輯長か、社會奉仕の先生か。……何はともあれ、助けてやらうよ。」

 「いや違ふ。毆られてゐるのは新聞記者だよ。」

 「新聞記者だつて? ぢや、まあ、お茶を頂いてからにしよう。」

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:「ロシヤ出來」「出來」は「しゆつらい」と読んでおく。ロシアから来たところの、の意。「しゆつたい」はその音変化ながら、物品や事件・事態の起動や発生に対して用いられ、人に対してはあまり用いられないからである。

「文藝保護者(メケーナス)」原文は“мецената” меценат(ミツナート)は「文芸の保護者」の意。これは所謂、英語のパトロン(patron:後援者・支援者・芸術保護者)のこと。英語のそれはウィキの「パトロンによれば、『ラテン語のパテル(pater、父)から派生した同じくラテン語のパトロヌス(patronus)に由来し、客に利益を与える者の意味であった。パトロヌスとは古代ローマにおいて存在した私的な庇護関係(クリエンテラ、パトロキニウム)における保護者を指し、被保護者であるクリエンテスとの関係は一種の親子関係にも擬せられた。パトロヌスはクリエンテスに対して法的、財政的、政治的援助を与える存在であり、こうした役割からもっと一般的に保護者を意味してパトロンが使われるようになった』とあるが、それとは別に、古代より『為政者、貴族および富裕層は、芸術パトロネージュを彼らの政治的野心、社会的地位および特権を強化するために利用した。すなわち、パトロンは、スポンサー』(広告主)『として機能したのである。現代では、英語以外のほとんどの言語では、スポンサーとしてのパトロンを指す場合、ローマ皇帝アウグストゥスの寛大な友人で助言者であったガイウス・マエケナス』(ガイウス・キルニウス・マエケナス(ラテン語:Gaius Cilnius Maecenas 紀元前七〇年~紀元前八年:共和政ローマ期からユリウス・クラウディウス朝期にかけて活躍した政治家。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの腹心で、外交・政治・文化に於ける助言者でもあった。アウグストゥス期に活躍した多くの新世代詩人や文学者の最大の支援者としても知られ、後世にはマエケナスの名前は「裕福さ」を示すものとなり、また、そこから、文化・芸術家の経済的社会的保護者としての意味をも有するようになった。ここはウィキの「ガイウス・マエケナスに拠った)『に由来するメセナ(フランス語: mécénat)と呼称する』とあり、神西の「メケーナス」はその語源の人名“Maecenas”の音写である。]

2017/10/10

柴田宵曲 續妖異博物館 「獺」

 

 

 

 雨の頻りに降る夕暮れ、丁初といふ男が堤の道を步いて來ると、靑い着物で靑い傘をさした婦人がうしろから呼び止めた。この雨の降る中を女が平氣で步くのは怪しい、人間ではないかも知れぬと思つたので、足を早めたところ、女の迫つて來る速度も早くなる。一散走りに駈け出して振り向いたら、女は堤の上からどぶんと水に飛び込んでしまつた。正體は大きな獺(かはうそ)で、著物や傘と見えたのは蓮の葉であつたと「搜神記」にある。「甄異志」に出て來る一女子も、衣裳はそれほど綺麗ではなかつたが、容貌は美しかつた。手の指が甚だ短いのを見て、妖であるかと疑つた時、その者早くも察知して戸を飛び出し、獺となつて水中に沒し去つた。

[やぶちゃん注:「獺」哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科 Lutrinae のカワウソ類。以上は中国のそれであるから、カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra。後続は本邦のそれであるから、絶滅したカワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon となる。「搜神記」のそれは第十八巻の以下。

   *

呉郡無錫有上湖大陂、陂吏丁初天、每大雨、輒循隄防。春盛雨、初出行塘、日暮囘顧、有一婦人、上下靑衣、戴靑傘、追後呼、「初掾待我。」。初時悵然、意欲留俟之。復疑本不見此、今忽有婦人、冒陰雨行、恐必鬼物。初便疾走。顧視婦人、追之亦急。初因急行、走之轉遠、顧視婦人、乃自投陂中、氾然作聲、衣蓋飛散。視之、是大蒼獺、衣傘皆荷葉也。此獺化爲人形、數媚年少者也。

   *

これを見ると、「丁初」は酔狂で雨の堤を歩いていたのではなく、堤の決壊などを監視するための下級官吏であったことが判る。

「甄異志」「しんいし」と読んでおくが、不詳。以上は「太平廣記」の「水族五 水族為人」に「甄異志」を出典ととして「楊醜奴」として載る。

   *

河南楊醜奴常詣章安湖拔蒲、將暝、見一女子、衣裳不甚鮮潔、而容貌美。乘船載蓴。前就醜奴。家湖側、逼暮不得返。便便字原空闕。據明鈔本補。停舟寄住。借食器以食。盤中有乾魚生菜。食畢、因戲笑、醜奴歌嘲之、女答曰、「家在西湖側、日暮陽光。託蔭遇良主、不覺寬中懷。」。俄滅火共寢、覺有臊氣、又手指甚短、乃疑是魅。此物知人意、遽出戸、變爲獺、徑走入水。

   *]

 

 獺の化して女になる話は日本にもある。獺の行動は河童と紛らはしい點もあるが、嬋娟(せんけん)たる美女に化する一事は、到底河童のよくするところではあるまい。綠の荷葉をかづき、水中に姿を沒するあたりは、慥かに兩者共通のものである。

[やぶちゃん注:「嬋娟」「嬋妍」とも書く。容姿の艶(あで)やかで美しいさま。]

 

「裏見寒話」などを見ると、笛吹川の獺も人を取る。或人が川を渡つた時、忽ち波が起つて獺が追つて來た。岸の上に逃げてもまだ追つて來るので、鐡砲で打ち留めたが、その大きさは犢(こうし)ほどあつたといふ。獺にしては少し大き過ぎるやうである。倂し同じ書物に獺は人を取るものでない、人を取るのは川太郎卽ち河童であるなどとあつて、兩者の境界が頗る明瞭でない。

[やぶちゃん注:以上は国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像で視認出来る(左端)。]

 

 獺の妖をなす苗は「太平廣記」だけでも相當あるが、割合に變化に乏しく、列擧する興味がない。「子不語」の「獺異」の中にある、案上に酒肴を備へて置いて、獺の飮食に任せたところ、遂に醉つ拂つて足許が危くなり、地にころぶこと三囘、怪遂に絶ゆなどといふ話は、格別面白いこともないけれど、先づ變つた方に屬するであらう。

[やぶちゃん注:以上のまさに獺祭の失敗譚は「續子不語」の第七巻の「獺異」の中の以下の一条。

   *

今年二月初二日、郷塾師沈昭遠來説獺祟、衣上遺毛可數、向予告急、欲辭館去、勸之誦「穢跡咒」、又猝不能成誦、但偶憶「本草」、有「熊食鹽而死、獺飮酒而斃」之語、舊聞丁未進士徐景芳嘗用以除館中獺妖、令沈姑試之。是晚、置雙鯽樽酒於案上、二更獺至、沈已迷不能聲、但見獺超案飮酒、樽欹、就案餂遺酒有聲、食魚亦盡。既跳下、欲登沈牀、則前足甫起、而後足不隨、墮地者三、蓋獺醉矣。逃去、今遂絶。

   *

「案上」机の上、或いは、神や上位者に物を捧げる際に用いた高台。]

 

 妖から一步離れる觀はあるが、均州の百姓で七十以上になつて、獺を十何頭も飼つてゐる男があつた。彼はこの獺を訓練し、これに魚を捕らせて生活してゐる。隔日にこの獺を放すのであるが、放す時には深い溝の出入り口を閉ぢ、逃げられぬ用心をする。日本の鵜飼ひと同じ事で、針も綸(いと)も網も用ゐずに利益を擧げてゐるのである。獺どもはこの老人に馴れて、彼が手を敲くとその膝許に集まつて來る。獺よりも老人の方が妖に近い感じがするが、これは實際にその状況を見た人の話として「酉陽雜俎」に出てゐる。

[やぶちゃん注:以上は「酉陽雜俎」の「巻五 詭習」に載る以下。

   *

元和末、均州鄖郷縣有百姓、年七十、養獺十餘頭。捕魚爲業、隔日一放。將放時、先閉於深溝斗門内令饑、然後放之、無綱舌之勞、而獲利相若。老人抵掌呼之、群獺皆至、緣袷藉膝、馴若守狗。部郎中李福親觀之。

   *

原文の「元和」は、ここでは唐の憲宗李純時代の元号。八〇六年か八二〇年。「均州勛郷縣」は現在の湖北省十堰(じゅうえん)市鄖(うん)陽区。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 これと好個の對照をなすのが「夜譚隨錄」の「獺賄」で、涼州では獺が多いため、一頭百錢ぐらゐで賣買される。勿論肉を食ふためである。折蘭なる者は偉大な髓軀の持ち主で、食事は人の何人前も平らげるが、特に獺の肉を喜んで食べた。雍正年間、軍に從つて出征した時、山道で偶然十數頭の獺に出くはした。彼等は皆後足で人のやうに立ち、背を連ねて趨る。折が馬を下つて追駈けると、獺はひらりと身をひるがへし、折の前に跪いて泣き聲を出し、饒命饒命と云つた。命をお助け下さいといふのである。折は同行四人と共にこれを聞き、大いに驚いて遂につかまへることをやめた。その夜折等が野營してゐる幕の外に、何者か來た音がしたので出て見たら、多くの獺が各々草の葉につゝんだ棗(なつめ)の實を捧げ、折の足許に置いて去つた。全部で二斗餘りあつたさうである。かうなると、獺に魅せられるどころの話ではない。獺の上前をはねるわけだから、彼等から見れば折蘭は妖以上に恐るべき存在であつたらう。河童のお禮とか贈り物とか云へば、先づ魚類と相場がきまつてゐるやうだが、ここで獺が棗を齎(もたら)すのはいさゝか意外であつた。舞臺が山中で魚を捕る便宜がなかつたのかも知れぬ。昔の人といふうちにも殊に武人は單純である。折蘭はこの事あつて以來、獺を食ふことをしなかつた。時に人から勸められても、わしは獺から賄ひを受けた、同類を食ふわけに往かぬ、と云つて斷るのを常とした。意外なほど義理堅かつたものと見える。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の巻二に「獺賄」として載る。

   *

涼州多獺、吐魯番醃而貨之、百錢一頭。味似南方果子狸、而肥大過之。武生折蘭者、膚施人。虯髯偉質、食兼數人、而尤喜啖獺。雍正間、從軍出塞、徑山丹道上、見獺十數頭、皆人立、連臂而趨。折下馬逐之、獺翻身返面、向折長跪、聲啾啾可辨、同聲曰、「饒命、饒命。」。折與同行四人共聞之、大以爲異、遂舍去。是夜、露宿於野、聞帳外有簌簌聲、出視、見群獺各挾草葉、裹沙棗、置榻畔而去、收之得二斗餘。折詈不複食獺。後有人勸之、折曰、「吾曾受獺賄、可複食同類乎。」。

   *

「涼州」現在の甘粛省の寧夏回族自治区一帯にかつて設置された州(現在では甘粛省全体の別称となっている)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「饒命饒命」「ぜうめいぜうめい(じょうめいじょうめい)」。「饒命」は「有り余るほどの豊かな命(を!)」の意であるが、恐らくは、獺の鳴き声に当漢字したオノマトペイアであろう。

「棗」クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba

「二斗」「夜譚隨錄」は清の和邦額(一七三六年~?)の小説集であるから、当時の一斗は一〇リットル強であるから、凡そ三十一リットル。]

 

 その後「慶長見聞集」を讀んだら、「其上かはうそは老て河童と成て人を取ると古記にも見えたり」とあるのが目に付いた。河童の歷史はあまり古くないらしいが、こゝに古記といふのは何であらうか。河童と獺との類似性を考へる場合、獺が老いて河童になるといふ記載は、一應參照する必要がありさうである。

[やぶちゃん注:「慶長見聞集」(けいちょうけんもんしゅう)は近世初期の随筆書。単に「見聞集」とも称する。全十巻。著者は後北条氏の遺臣三浦五郎左衛門茂正(浄心)で、慶長一九(一六一四)年)の成立とされるが、後人の仮託とする説もあり、寛永期(一六二四年~一六四四年)の内容も含まれていることから、確証は得られない。徳川家康入国から草創期にかけての江戸の町の形成と、住民の生活・人情、世相と風俗などが多く記載されている(小学館「日本大百科全書」に拠る)。私は所持しないので示せないが、国立国会図書館デジタルコレクション早稲田大学古典籍総合データベースにあるので(リンク先は当該書トップ)、お探しあれ。私は、疲れた。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 老人


Roujinn

   老人

 

 つひに重苦しい暗い日は來た。

 自らの患ひ、親しい人々の病苦、老年の闇と寒さ。……お前の慈しんだもの皆、お前が吾を忘れて心を捧げたもの皆は、いま千々に摧(くだ)け落ちる。道は下る。

 何を爲よう。歎かうか、哭かうか。いや、それとても所詮、お前をも何人をも慰める力はあるまい。

 日に日に枯れ跼(こご)んでゆく木梢(こぬれ)に、葉は愈〻小さく、愈〻疎らだ。しかし、その翠のみは渝らない。

 ああ、お前も亦凋め。元の己れに、自らの思出に凋み入れ。そのとき、歸一の魂の奥深く、お前のありし日の生、お前のみが達し得る生は、今なほみづみづしい春の日の翠と、愛と力を湛へて、馥郁と薰じ耀かう。

 が、心せよ、哀れな老人。ゆめ行手を窺ひみるなかれ。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:太字「自らの」は底本では傍点「ヽ」。なお、最後から二つ目の段落の末にある「薰じ」の「薰」は底本では「董」で意味が通らない。特異的に誤植と断じて、かく、変えた。

「爲よう」「しよう」。

「哭かうか」「なかうか」。

「渝らない」「かはらない」。「變らない」に同じい。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 二人の富者


Hutarihugou

   二人の富者

 

 富者ロスチャイルドが、その莫大な收入の中から何萬と知れぬ額をさいて、育英だの醫療だの養老だのの事業に投じるのに對する、人々の讃辭を耳にするとき、私もいつしよに感動し讃美する。

 感動し讃美しながらもわたしは、曾て寄邊ない孤兒になつた姪をそのあばら屋に引き取つた、ある貧乏な百姓夫婦のことを忘れることができない。

 「カーチェンカを引取るとなると」婆さんが言つた、「一文のこらず彼女(あれ)にかかつて、スープに入れる鹽も買へますまいよ。」

 「なあに、さうなつたら、鹽氣のないのにするさ」と爺さんは答へた。

 ロスチャイルドだつて、この爺さんには及びもつかない。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:「ロスチャイルド」既出既注。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 瑠璃いろの國


Ruriiro

   瑠璃いろの國

 

 ああ瑠璃いろの國。光と幸と靑春とに滿てる、瑠璃いろの國よ。私は夢にお前を見た。

 私たち幾人か、目も彩(あや)の畫舫を行(や)ると、風にはためく長旒のもと、白帆は鵠(こふ)の鳥の胸のやうにふくらむ。

 ともに舟を行(や)るのが、誰なのかは知らぬ。けれど私は全靈に感じる――彼等もまた私に劣らず、靑春の幸と悦びとに滿ちてゐるのを。

 それにせよ、私は彼等に氣を散らさない。あたりに見出すものは唯ひとつ、見わたす限りのさざ波を、金色の鱗を搖する涯しない瑠璃いろの海原。仰ぐ頭上にも、同じく涯しない瑠璃いろの海原。それを橫切つて優しい太陽は、祝祭に醉ひ痴れた者のやうにめぐる。

 時あつて私たちの間に、神々の哄笑に似た響たかい歡笑がわきあがる。

 と思へばまた、誰かしらの口から、ふしぎな美と靈の力とに滿ちた詩句や言葉がほとばしる。すると蒼穹までが應へを返すやう、四圍の海原も共鳴りしてどよめく。そしてふたたび、幸ひみちた靜寂に返る。

 やはらかな波の穗をくぐつて、輕舟は矢のやうに泛びただよふ。舟を送るのは空を吹く風ではなく、私たちみなの高鳴る心臟に舟は操られてゆく。恰も生あるもののやうに、私たちの心の向く方角へ從順に舳をかはす。

 島々は現はれ、島々は消える。それら半ば透明の魔法の島は、碧石や靑玉や、さまざまの晶玉の光を流す。

 島々の曲浦は、うつとりと夢の匂ひを私たちに送る。その島の一つは、白薔薇や鈴蘭を、玉なす雨と注ぎかける。またある島からは、長い尾をひいた虹色の鳥が、はたはたと舞ひたつ。

 鳥の群は頭上に飛びかひ、鈴蘭の花は、舷の滑肌(なゆはだ)をかすめながら、眞珠(あこや)なす海泡に溶けて入る。

 うかぶ花と舞ふ鳥のまにまに、幽かに妙なる樂音は漂ひ、そのなかには女の歌聲も聞きわけられる。

 あたりのものみな、大空も海原も、檣にはためく白帆も、艫に泡立つ水尾(みを)も、ひたすらに愛の言葉をものがたる。

 私たちみなの戀人らは、姿こそ見えぬが皆それぞれに、身近かに寄添つてゐる。一瞬、とざした眼を見ひらけば、そこに彼女の眼はきらめき、微笑が花をひらく。彼女の手はこの手を取つて、凋む秋のない常夏の國へと、優しげに牽く。

 ああ、瑠璃いろの國よ。私は夢にお前を見た。

             一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:六段落目の「ほとばしる」は底本では「ほどばしる」。誤植と断じて、特異的に清音とした

「畫舫」「ぐわばう(がぼう)」は、本来は絵を描いたり、彩色を施したりした中国の遊覧船で、転じて、美しく飾った遊覧船を言う。

「長旒」「ちやうりう(ちょうりゅう)」と読む。幅が狭く丈の長い旗のこと。

「鵠(こふ)の鳥」ルビはママ。一見、コウノトリ目コウノトリ科コウノトリ属コウノトリ Ciconia boyciana のように読んでしまうが、原文は“Лебединой”で、これは「白鳥」のことで、中山訳も新版の岩波文庫訳も「白鳥」とする。無論、あのカモ目カモ科 Anserinae 亜科のハクチョウ類を指す。現在は「白鳥」という漢名が一般的だが、本邦では古代から「鵠」と書き、「くくひ・くぐひ(くくい・くぐい)」(清音が古い)の古称を持っており、古語で「鵠の鳥」と書いて「かふのとり」と読ませ、それで「くぐい」「白鳥」の意で用いてきた経緯がある。従って訳として誤りではない

「響たかい」「響き高い」。

「歡笑」「くわんせう(かんしょう)」喜び楽しんで笑うこと。

「泛び」「うかび」。

「舳」「へさき」。

「舷の滑肌(なゆはだ)」「ふなばたのなゆはだ」。読みはママ。何となく判らぬではないが、このルビような語は、まず、私は聴いたこともなく、使ったこともない。新版の岩波文庫では『なめらかな舟べり』とある。本詩篇は全体に佶屈聱牙な漢語が多過ぎ、本来、この詩篇の持つところの、陽光に輝くロケーションのワイドな大海原の航海の仮想(夢)の雰囲気が致命的に殺がれてしまっている。神西は恐らく一番、新改訳をしたかった一篇だったのではなかろうか?

「眞珠(あこや)なす」真珠のような。新版の岩波文庫では『真珠とまごう』とする。

「檣」「ほばしら」。

「艫」「とも」。

「凋む」「しぼむ」。

「常夏」「とこなつ」。

「牽く」「ひく」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) キャベツ汁


Kyabetu

   キャベツ汁

 

 後家の百姓婆さんの所で、二十になる村一番の働き者の伜が死んだ。

 その村の女地主の奧さんが、婆さんの不幸を聞いて、葬式の日に訪ねて行つた。

 婆さんは家にゐた。

 婆さんは丁度小屋の眞中の、卓子の前に棒立ちになつて、左の腕をだらりと下げたまま、右の手でのろのろと、煤けた壺の底から實(み)のないキャべツ汁を掬つては、一匙一匙と口へ運んでゐた。

 婆さんの頰はこけ、顏色は暗かつた。眼は眞赤に泣き腫(はら)してゐる。でも身體だけは、教會へ行つた時の樣に、眞直に伸してゐる。

 「まあ、まあ」と奧さんは心に思つた、「こんな時に、よくも食べられること。本當にこの人達は、みんななんてがさつな心の持主だらう。……」

 そして奧さんは數年前に、生れて九ケ月になる娘を失くしたとき、悲嘆のあまり、せつかくペテルプルグの郊外に見附けて置いた立派な別莊を斷つて、そのひと夏を町に送つた事を思ひ浮べた。

 婆さんは相變らず、キャベツ汁を啜つてゐる。

 奧さんけ堪へかねてたうとう、「タチヤーナ」と言つた、「本當に、呆れますね、お前は一體、生みの息子が可愛くはないの。よくもまあ、物を食べる氣になれるのね。そのキャベツ汁が、よく咽喉に閊へないことね。」

 「ヴァーシャは死にました」と婆さんは小聲に言つた。すると悲しい淚がまた、こけた頰を傳はつた、「つまりは私も死んで、生き埋めになつたと同じことです。でも、この汁を棄ててはなりませぬ。鹽氣が入つてゐますによつて。……」

 奧さんは肩を竦めたきり、默つて出て行つた。彼女にとつて、鹽ほど安いものは無かつたから。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:「閊へない」「つかへない」。

「竦めた」「すくめた」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) 羽蟲


Hamusi

   羽蟲

 

 窓を明けひろげた大きな部屋に、二十人ほどの人々と一緒にゐる夢を見た。

 婦人も子供も老人も雜つてゐる。私達はみな、何か大層有名なことを話題にして、がやがやと聞分けられぬ聲で喋つてゐる。

 すると不意に、がさりと音がして、長さの三寸もあらうと見える大きな羽蟲が、窓から飛び込んだ、羽根を擴げて一旋すると、壁にとまつた。

 それは蠅か地蜂に似てゐる。胴は泥色で、平たく硬さうな羽根も同じ色だ。頭はまるで蜻蛉のやうに角ばつて大きく、毛の生えた足を踏み開いてゐる。その頭も足も、血にまみれたやうに紅い。

 このふしぎな羽蟲は、頭を絶えず左右上下に𢌞轉して、足をうごかす。急に壁を離れるかと思ふと、部屋ぢゆうをぶんぶん飛び𢌞る。やがてまた壁にとまるとその儘じつとして、身體ぢゆうを憎々しげにうごめかす。

 私たちは皆一樣に、嫌惡と恐怖にとつつかれた。いや、むしろ凄氣をさヘ感じてゐた。そんな羽蟲は見たこともないので、みんな口々に叫んだ、「あの化物を追ひだせ。」 しかし誰一人、傍へ寄る勇氣はなく、ただ遠くの方からハンカチを振るばかりだつた。羽蟲がまた飛び立つと、一同は思はず後ずさりした。

 一座のうちで唯一人、蒼ざめた顏の靑年だけが、いかにも腑に落ちぬ面持で一同を眺めまはしてゐた。いつたい何が持ちあがつたのか、なぜ皆が騒ぐのか全くわからぬので、肩をすくめ薄笑ひを浮べた。彼の眼にはその羽蟲は見えず、不吉な羽根の唸りも聞えないのだ。

 ふと羽蟲は、じつと彼に眼をつけたと見る間に、いきなりその頭めがけて飛びかかつて、額のちやうど眼の上のあたりを一螫しした。靑年は微かな呻き聲を立てて、そのまま倒れて死んでしまつた。

 怖しい蠅はすぐ飛び去つた。その時になつてやつと、私たちはこのお客さんの正體に思ひあたつた。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:これは所謂、旧約聖書「列王紀」や新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの悪魔 Beelzebub(ベルゼブブ)、ヘブライ語で「蠅の王」であろう。死を齎される者には実は死の使者は見えぬということか。挿絵は一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」では、中山に配されたそれが、有意な角度を以って斜めにして配されてあり、確かにその方が効果的と判断したので、中山訳で用いたものをその角度に傾けて添えた

「凄氣」(せいき)は、すさまじい気配、の意。

「一螫し」「ひとさし」。]

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) ほどこし


Hodokosi

   ほどこし

 

 大きな都會に近い往還を、病み呆けた老人が步いて行く。

 一足ごとに蹌(よろめ)き、躓き、絡みつく萎(な)え細つた兩の脚を引摺りながら、まるで他人のやうな步みを、力無く重たげに踏みしめた。ぼろぼろの衣を身の𢌞りに垂らし、むき出しの頭は胸もとに落して、生きる力も盡き果てて見える。

 やがて道傍の石に腰を下した彼は、前に跼み込んで、肘を膝に兩手で顏を蔽うた。くねり曲つた指の間を淚が、乾いて白い土埃の上に落ちた。

 彼は昔を思ふ。……

 彼は思ひ出す、昔はどんなに丈夫で富んでゐたかを。その健康をどんなに浪費したかを。

 その富を敵味方の見境もなく、どんなに振撒いたかを。いま、彼には一塊の麪包もない。

 人々はみな彼を見棄てた。それも、敵よりも友達が先に。……物乞ひをするまでに落ちぶれねばならぬのか。その胸を鹹(しほから)さと恥がさいなむ。

 涙は默々と、白い土埃に落ちる。

 ふと彼は、自分の名を呼ぶ聲を耳にした。彼は力無い頭をもたげ、見知らぬ男を眼前に見出した。

 その顏は穩に眞面目だが、嚴(いか)つい氣色はない。眼にきらめきは見えぬが、淸らかに澄んでゐる。射透すやうな眸には、少しの惡意も見えない。

 「君は財産をすつかり撒いて仕舞つたのだね」と逼らぬ聲が聞えた、「だが、善い事をしたのを、今さら悔む氣はないのだね。」

 「悔みなど致しません」と、老人は吐息まじりに答へた、「かうして、默つて死んでゆきます。」

 「で、若しもこの世の中に、君の前に手を差伸べる乞食が居なかつたとしたら」と見知らぬ男は續けた、「君も自分の慈悲の心を示す相手がなく、從つて慈悲の修業もできなかつた譯だね。」

 老人は答へずに、沈思した。

 「だから君も、今となつては傲(たかぶ)らぬがよいのだ」と見知らぬ男は言葉を繼いだ、「さあ行つて手を伸べ給へ。そして君も、世の慈悲深い人達に、その慈悲の心を行(おこなひ)に現はす機會を與へてやるがいい。」

 老人は見顫ひして眼を上げたこが、その男の姿はもう其處にはなく、はるか道の彼方に、一人の通行人が現れた。

 老人は近づいてゆき、手を伸べた。けれど通行人は、冷やかな一瞥のほかには、何も呉れなかつた。

 その後(うしろ)から來たもう一人の男は、しるしばかりの施しを彼に與へた。

 老人はその銅錢でパンを買つた。すると、物乞ひで得たこの一片は、不思議に甘かつた。

 汚辱が胸を緊めつけるどころか、靜かな悦びが湧いてきた。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:「跼み込んで」「かがみこんで」と訓じておく。

「麪包」「パン」。]

老媼茶話巻之三 亡魂

 

     亡魂

 

 下野宇都宮上川原町、長嶋市左衞門と云(いふ)者の女房、究(きはめ)て邪見なるもの也。子なくして養子をなしける。市三郎とて廿四になり、靜成(しづかな)る者也。

 其養子を深くにくみ、夫市左衞門をすゝめ、田川といふ所へ、夜、川殺生(かはせつしやう)に連行(つれゆき)、川端にて市三郎を切殺(きりころ)し、死骸を川へ深く沈め、空知(そし)らずして、宿へ歸り、程過(ほどすぎ)て、親本・近所へは、

「惡所へはまり、金をつかひ、缺落(かけおち)せし。」

といゝ觸(ふら)して、缺落の訴(うつたへ)をする。

 依之(これによつて)、宇都宮御城下、町々在々、人體書(にんていがき)にて、ふれ出(いづ)る。

 市三郎、兄弟もなく、新(シタ)しきゆかりも絶(たえ)てなかりしかば、夫(それ)なりに濟(すみ)たり。

 市三郎を殺せしは四月初(はじめ)成りしに、其月の十五、六日より、市左衞門女房、市三郎死靈(しりやう)に取付(とりつか)れ、我身に隱せし惡事を吐(ハキ)出(いだ)し、一生の恥を顯はし、果(はて)には、鋏を以て、おのれが舌を、はさみ切(きり)、血みどろに成(なり)、五月三日の暮方に狂死(くるひじに)に死(しに)たり。

 女のなきがらを、う津宮の淸閑寺葬るに、野邊へ送り行(ゆく)道、鵜梶兵左衞門と云(いふ)ものゝ石橋の上にて、晴たる空、俄(にはか)に、かき曇り、大雷大雨、ふり、くら闇と成り、黑雲、棺(くわん)の上へ落懸(おちかか)り、棺をうづ卷(まき)、さらいとらんとする事、三度也。

 此折の引導は、清閑寺七代目、南如無活傳溪(ナンニヨムクワツテンケイ)上人とて、俗姓山本、勘介賴鈍が孫也。

 棺の上へ覆ひ懸り、大音聲(だいをんじやう)にて經をよみ、終(つゐ)に棺をとられず、雨止(あめやみ)て、はるゝなり。

 其後、引導をすまし、火葬にするに、棺の内より、靑き火、盛(さかん)に燃出(もえいで)て、おのづからに燒(やけ)たり。是、業火(がふくわ)と云(いひ)て大惡人にある事也といへり。

 寛文十九年五月四日の事也。

 心淨妙遊信女と名づく。

 宇津の宮淸閑寺の過去帳にあり。

 

[やぶちゃん注:「下野宇都宮上川原町」現在の栃木県宇都宮市大通り附近と思われる(グーグル・マップ・データ)。この地区の中央を南西―東北に貫通する通りの名が「上河原通り」であること、南西に「中河原町」「下河原町」が続くことから推定した。

「其養子を深くにくみ」「靜成(しづかな)る者」なのに、何故に深く憎んだのかが記されていないのが頗る不満である。満二十三歳という青年である。長嶋市左衛門の年増の女房こそが、実は若き市三郎に色目を遣って断られ、逆に市三郎から諫められたりしたものではあるまいか? それなら、この女房の恨みは愛憎反転によって致命的に深くなるからである。昨今の下らぬ不倫騒ぎの話が私を刺激したわけではない。三坂は、この救いようもなくこの世を去って亡霊となった市三郎にこそ、もっと静かなりに、現世上のヒューマンなキャラクターを与えてやるべきだったのではないか? さすればこそ、女房の狂乱や青い怪火の出来(しゅったい)にある重みが加わるのに、と甚だ不満なのである。

「夫市左衞門をすゝめ」市三郎のあることないことを悪意で謂い重ねて、遂には殺害の実行を唆(そそのか)すことに成功したというのであるが、夫がその実行犯を容易に受け入れるところには、夫も市三郎をよからず思っていた事実を措定しなくてはならぬ。その場合、前注で措定したような忌まわしい事実があって、女房が肘鉄・諫言を受けた腹いせに「市三郎が私を誘惑した」「あんたを殺して駈け落ちしようと慫慂した」などという、ないことないことを積み重ねたのであれば、凡愚な夫は殺害実行役を積極的に買って出ると私は思うのである。

「川殺生」川漁。

「親本」「親元」。後で親しい縁者も絶えていたとあるから、遠い親戚の孤児(みなしご)をこの親許代わりの者が預かって養っていたものであろう。

「惡所」遊廓。

「缺落(かけおち)」「驅け落ち」と同じい。小学館「日本大百科全書」によれば、広義には本文通り、「欠落」と書き、貧困・借財その他の原因で失踪することを指し、欠落(かけおち)する者があると、その者の属する町村の役人は、奉行所・『代官所に届け出る。奉行所では、親類や町村役人に一定の期限を定めてその捜索を命じ、初め』、三十日『を限りとし』その三十日『以内に捜し出さないときは、さらに』三十日『を限って捜索を命じ、このようにして』三十日ずつ、『六度まで延長された。のちに幕府御料の村では初めから』百八十日『限りの尋ねが命じられた』。その百八十日『限りを経過しても』、『欠落人が捜し出せないと、尋ね人は処罰され、改めて永尋(ながたずね)が命ぜられた。欠落人は急度叱(きっとしか)りの刑に処せられた。欠落人の財産は親類、五人組、村役人らに管理させ、田畑は村惣作(そうさく)(村に管理させ、田畑の耕作や年貢弁納の義務を負わせること)とした。永尋が命ぜられ、または欠落人が帳外(ちょうがい)(人別帳から削除される)となるときは、欠落人の跡株(相続田畑)は相続人の願い出により、相続が許され』た。発見された『欠落人は罪科など不当な点がなければ』、『帰住が許された』とある。ただ、特に「駆落」と表記した場合、多くは広義の「欠落」の中でも『恋愛関係の男女が家出する事例を、やや特別視して』称した言葉で、ここはそれ。『法律上は失踪に違いはないが、江戸時代の男女間には姦通(かんつう)や身分制度などの刑事的・社会的規制が強く、女が遊女』であった場合(虚偽ながら、この場合は悪所通いにドップリはまってのそれであるから、これに当たる)は、『前借金も絡むなどの特殊な事情』を区別するためであった、とある。サイト「松本深志高校落研OB会」の「9.遊女の一生」によれば、これとは別に遊廓自体が私的に探索追補をしたとある。遊女を手引きして遊廓から逃亡させ、手に手を取っての「駆け落ち」の場合、『見世側としては、黙って見逃すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。遊女は吉原へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあり、命を絶たれてしまう遊女もいた』とある。

「缺落の訴をする」この場合、長嶋は相手の遊女や所属した遊廓等は不明とし、養子で家督を継ぐはずの彼の失踪のみを訴え出たということであろう。そうしないと、失踪した遊女の有無から、訴えの嘘がすぐばれてしまうからである。

「人體書(にんていがき)」人相書(にんそうがき)のこと。当該人物の顔つきや身なりを文章で箇条書にしたもの。御存じのことと思うが、テレビの時代劇等では似顔絵を描いたものが出てくるが、あれは視覚的インパクトと展開をスムースにするために脚色であって真っ赤な嘘である。総ては文書のみで、かなり細かく記されてあった。個人ブログ「団塊オヤジの短編小説goo」の『「江戸時代の人相書きは文字だけで書かれていた」について考える』で現物と活字化したものが見られる。

「ふれ出る」「觸れ出づる」。

「新(シタ)しきゆかり」「新」はママ。「親しき所緣(ゆかり)」。父母兄弟等の近親直系親族。

「夫(それ)なりに濟(すみ)たり」そのまま触書(ふれがき)を発行したばかりで、探索は打ち切られてしまった。

「市左衞門女房、市三郎死靈(しりやう)に取付(とりつか)れ、我身に隱せし惡事を吐(ハキ)出(いだ)し、一生の恥を顯はし、果(はて)には、鋏を以て、おのれが舌をはさみ切(きり)、血みどろに成(なり)、五月三日の暮方に狂死(くるひじに)に死(しに)たり」凄惨乍らも、未だ怪異の出来(しゅたい)とは言い難い。女房が如何に邪見(よこしま)な性格であったとしても、精神的には何の罪もない市三郎を死に追いやった調本であるわけだから、措定される嘘八百に流石に耐え切れぬ良心の欠片(かけら)が内在し、その罪障感から、発狂して成した仕儀と解釈しても、何ら、問題ないからである。

「う津宮」ママ。「宇都宮」。

「淸閑寺」不詳。但し、長嶋の居所と推定した、同じ栃木県宇都宮市大通りの五丁目に清厳寺(せいがんじ)」という寺が存在する(浄土宗。山号芳宮山)。開基は宇都宮頼綱((グーグル・マップ・データ))。ウィキの「清厳寺によれば、宇都宮家当主第五代宇都宮頼綱は元久二(一二〇五)年、『幕府より謀反の嫌疑を受け、これを機に熊谷で隠居生活を送っていた当代の英傑・熊谷直実(熊谷蓮生入道)の勧めにより』、『法然に帰依』し、承元二(一二〇八)年に『出家して実信房蓮生と号し』、『念仏道に入った。頼綱は京に住んで証空にも師事し、幕府から罪が許された後の』建保三(一二一五)年に『市内・宿郷町に当寺の起源となった念仏堂を建立した』。現在の清厳寺は現在の地図では推定される上川原からは近過ぎる嫌いがあり、川も渡らずに行けるのであるが、或いは、ここをモデルとして名を架空のものとしたものかも知れぬ。

「鵜梶兵左衞門」不詳。

「棺(くわん)」「ひつぎ」と訓じてもよいが、座位の縦桶が当時の棺桶であるから、かく読んでおいた。

「さらいとらん」ママ。「攫(さら)ひ盜(と)らん」。

「南如無活傳溪(ナンニヨムクワツテンケイ)上人」不詳。

「勘介賴鈍」武田信玄の伝説的軍師として知られる山本勘助(明応二(一四九三)年若しくは明応九(一五〇〇)年~永禄四(一五六一)年)であろうが、彼に「賴鈍」という名は確認出来ない(一般には本名を「晴幸」とする)。Q&Aサイトの答えによれば、嫡子勘蔵(天文二二(一五五三)年~天正三(一五七五)年:源蔵・勘之丞・信供とも)は「長篠の戦い」で戦死しており、次男助次郎も戦死、三男に下村安笑(源三郎?)というのがいるが、養子に行ったものと思われ、山本姓ではない。ただ、勘助には娘がおり、その婿養子山本十左衛門尉(饗庭利長の次男頼元)の妻とあったとあるのは大いに気になる。しかもこの養子は山本十左衛門尉(?~慶長二(一五九七)年)を名乗って、山本家を継いでいるのである。ウィキの「山本十左衛門によれば、天正一〇(一五八二)年三月、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻によって武田氏が滅亡し、最終的に徳川家康が甲斐を領有するが、十左衛門尉は同年六月二十二日に『徳川家臣大須賀康高から所領を安堵されており』、同年八月に『武田遺臣が家康への臣従を誓約した天正壬午起請文においても「信玄直参衆」に名を連ねており、旗本に属していたことが確認される。さらに同年閏正月』十四日『には徳川家康から所領』『を安堵されている』とある。また、『没後、山本氏は嫡男・平一が継ぐが』、慶長一〇(一六〇五)年に『平一は急死し、さらに、子の『弥八郎、素一郎も相次いで死去し』てしまい、『山本家は浪人する。末子・三郎右衛門(三代菅助、正幸)は』寛永一〇(一六三三)年に『淀藩主・永井尚政に仕え』、天和二(一六八二)年に『子孫四代菅助が常陸国土浦藩主・松平信興に仕官し、子孫は松平家臣として明治維新に至』たとするから、この頼元の子の中に出てこない頼純なる子がいた、その子が出家して長生きをして法名を「南如無活傳溪」と称した、とすれば、本話の時制(江戸前期。但し、最終注参照)から見て、必ずしもおかしくはないようにも思う。十左衛門尉頼元は婿養子ではあるが、勘助の子として山本家を継いでおり、その頼元の子ならば初代勘助の孫となるからである。但し、勘助の実在自体が不明であり、単に怪奇談に箔を附けるためのもののようにも見える。「南如無活傳溪」なる僧が実在し、勘助孫を称していた事実があれば、是非、お教え戴きたい

「火葬にするに、棺の内より、靑き火、盛(さかん)に燃出(もえいで)て、おのづからに燒(やけ)たり」このシークエンスこそが、怪談のキモである。火葬にしようとしたが、火をつける前に、棺桶の中から、青白い火が激しく燃え立って、その怪火によってすっかり灰燼と化したというのは、合理的説明を無化するからである。

「寛文十九年五月四日」
寛文は十三年(グレゴリオ暦一六七三年)で終わっており、おかしい。このおかしなクレジットにより、本話の信憑性はガタ落ちとなる。前の幾つもの不審箇所と合わせ、本話は事実ではないと指弾されても、これでは、仕方ない。実録(風)怪談にはあってはならないミスである。良心的に誤字とみるなら、「寛文」ではなく、「寛永」か。であれば、寛永十九年五月四日はグレゴリオ暦で一六四二年六月一日となる

2017/10/09

トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) NECESSITAS, VIS, LIBERTAS


Necessitasvislibertas

   
 NECESSITAS, VIS, LIBERTAS

 

           ――淺浮彫

 

 鐡の壁画のやうに無表情な、洞ろな眸をした老婆が、脊の高い骨と皮ばかりの身に大股を踏んで、杖みたいに凋びた片手で前方の女を押してゐる。

 それが、見るからに逞しい大女で、立派な肉置(ししおき)はヘラクレスのやう。太い猪首に小さな頭を托し、兩眼は盲いてゐる。こはまた、瘦せて小さな女の子を押してゐる。

 眼の明いてゐるのは、女の子だけだ。彼女は強情に身をくねらせ、きれいな纖細(かぼそ)い腕を振り上げる。生き生きした顏は、勇氣と苛立ちの色を示す。彼女は從順を嫌ふ。押されてゆくのを嫌ふ。だが矢張り、服從して步まねばならぬ。


   
NECESSITAS, VIS, LIBERTAS

 

 お望みなら譯してみたまへ。

             一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:挿絵は中山版が三人の頭部部分総てに黒い故意に摺ったような汚れが入ってしまっていて、特に女の子の頭や姿自体の識別が非常に出来にくいので、今回、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」のそれを新たに複写して示すこととした。

 訳者註。

NECESSITAS, VIS, LIBERTAS 『必要、力、自由』。

註の斜体はママ。

 

NECESSITAS,VIS,LIBERTAS」:中山氏はシンプルに上記のように記しているが、この三つの単語には以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「お望みなら譯してみたまへ」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うのである。

“necessitas”必然(的なこと)。強制・圧迫。境遇・立場。危急・急迫・苦境。繋がり・関係付ける力・情。

“Vis”力・権力・勢力。活動力・実行力・勇気・精力。