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2017/04/29

譚海 卷之二 河州交野郡王仁墳の事

 

河州交野郡王仁墳の事

○河内國交野郡藤坊と云(いふ)處に大なる磐石(ばんじやく)あり。上古王仁(わに)の墓なるよし、水戸光圀卿御糺しありて、王仁博士墓と云(いふ)文字を碑に刻し、石の前に建られたり。此石深更には聲を發しけるとて、里人恐(おそれ)て夜は此あたりへかよひ侍らず、泣石(なきいし)といひならはせり。石の大さ四尺ばかりにして駁蘚を生(しやうじ)たり、千歳(せんざい)の石いと珍しき事也。

[やぶちゃん注:

「交野郡」(かたのこほり)は旧河内国及び大阪府にかつてあった郡。現在の大阪府の東北端に当たる。

「藤坊」現在の大阪府枚方(ひらかた)市藤阪。以下の王仁の墓は同所に現存する。

「王仁」(わに 生没年不詳)は百済から日本に渡来して「千字文」と「論語」を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物。「日本書紀」では「王仁」、「古事記」では「和邇吉師(わにきし)」と表記されてある。伝承では百済に渡来した中国人であるとされ、この場合は姓である「王」から楽浪郡の「王氏」とする見解があるが、王仁が伝えたとされる「千字文」が、王仁の時代には成立していないことなどから、史料解釈上、実在を疑問視する説も多い。詳しくは参照したウィキの「王仁」をどうぞ。

「此石深更には聲を發しける」これは頗る面白いではないか。そもそもが神道好きで、仏像を破壊するのが大好きだった変態ナショナリストのコウモン野郎が、渡来人とされる王仁を、更には本当に彼の墓なのかも判らずに、安易に石碑なんか建てるから、こんな怪異が出来(しゅったい)したんじゃないのかい?! 或いは「俺は王仁じゃない!」と主張するためにその墓の中の誰かは叫んでいるのかも知れぬ。そう考えた方が合理的だ! ウィキの「王仁」を御覧な。そもそもが王仁の墓なんて呼ばれるずっと以前からの伝承では、この藤坂村の『の山中に鬼(オニ)墓と呼ばれる』二『個の自然石があり、歯痛やおこりに霊験があると伝えられていた。この塚は、平安時代の坂上田村麿が蝦夷征伐によって、蝦夷の』二人(アテルイとモレ)を『京都へ連行したが』、『帰順しないので打ち首にして埋めたとの説もある』とあるじゃないか! アイヌの怨念が叫ばせてるんだ! きっと!

「駁蘚」「ばくせん」と音読みしておく。「駁」(ハク)の原義は「いろいろな毛色の交じった斑(まだ)ら馬」のことで、ここは「入り交じること」であり、「蘚」はこの場合、苔や羊歯(しだ)及び地衣類、さらに種子植物のごく小型の雑草などの総称で、それらが入り混じってぎちゃごちゃと生え苔蒸し、八重葎となっていることを指すのであろう。]

甲子夜話卷之四 6 白烏の事

 
 
4-6 白烏の事

天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に獻じたることあり。みな人祥瑞と言ける。然に翌年京都大火し、禁闕も炎上す。其後、松平信濃守に【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】會して聞たるは、曰、某が實家中川の領内にては、たまたま白鳥を視ること有れば、輕卒を使てこれを逐索め、鳥銃を以て遂に打殺すことなり。其ゆへは白烏(シロカラス)は城枯(シロカラス)の兆とて、其名を忌て然り。野俗のならはし也と云て咲たりしが。

■やぶちゃんの呟き

 この話は最近、私が電子化した柴田宵曲 妖異博物館 「白鴉」にも出る。参照されたい。

「白烏」本文にある通り、白いアルビノのカラスであるので注意されたい。白鳥(はくちょう)ではないのでご注意あれ

「天明」天明は九年までで、グレゴリオ暦では凡そ一七八一年から一七八九年。

「獲て」「とりて」。

「然に」「しかるに」。

「翌年京都大火し、禁闕も炎上す」「禁闕」は「きんけつ」で皇居のこと。御所も回禄したとなると、これは尋常の記録に残らない火災ではないから、これは天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京都で発生した大火災、所謂、「天明の大火」のことと考えてよかろう。ということは白鴉の献上は天明七年のこととなる。「末か」と疑問詞を添えているし、末頃とは言えるから問題はない。ウィキの「天明の大火」によれば、『出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしのたいか)とも呼ばれた。単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)というと、通常はこの天明の大火のことを指す』。『京都で発生した史上最大規模の火災で、御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の』八『割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。江戸時代の京都はこの前後にも宝永の大火と元治のどんどん焼けで市街の多くを焼失しており、これらを「京都の三大大火」と呼ぶこともある』。三十日未明、『鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から』二日後の二月二日早朝で、『この火災で東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。幕府公式の「罹災記録」(京都町代を務めた古久保家の記録)によれば、京都市中』千九百六十七町の内、焼失した町は千四百二十四町、焼失家屋は三万六千七百九十七戸、焼失世帯六万五千三百四十世帯、焼失寺院二百一ヶ寺、焼失神社三十七社、死者は百五十名に及んだとする。但し、『死者に関しては公式記録の値引きが疑われ、実際の死者は』千八百名『はあったとする説もある』。『この大火に江戸幕府も衝撃を受け、急遽老中松平定信を京都に派遣して朝廷と善後策を協議した。また、この直後に裏松固禅の『大内裏図考證』が完成し、その研究に基づいて古式に則った御所が再建されることになるが、これは財政難と天明の大飢饉における民衆の苦しみを理由にかつてのような壮麗な御所は建てられないとする松平定信の反対論を押し切ったものであり、憤慨した定信は京都所司代や京都町奉行に対して朝廷の新規の要求には応じてはならないと指示している』とある。

「松平信濃守」「【御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子。此家に義子となる】」松平忠明 (ただあき 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)。豊後岡藩(現在の大分県の一部にあり、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市))第八代藩主中川久貞の次男であったが、旗本松平忠常の養子となり、本丸書院番頭(ばんがしら)となった。寛政一一(一七九九)年には蝦夷地取締御用掛筆頭として幕府直轄地となった東蝦夷地に向かい、アイヌの保護・道路の開削・樺太東西海岸の探査などを指揮した。享和二(一八〇二)年には駿府城代となったが、駿府で自害した(自害理由は調べ得なかった)。

「逐索め」「おひもとめ」。

「打殺す」「うちころす」。射殺する。

「兆」「きざし」。

「忌て然り」「いみてしかり」。忌んでそのように処置致すのである。

「咲たりしが」「わらひたりしが」。逆接或いは余韻を残す接続助詞「が」で擱筆しているのは今までの「甲子夜話」では特異点である。

 

南方熊楠 履歴書(その21) 書簡「中入り」

 

 ここまで書き終わったところ、友人来たり小生に俳句を書けと望むことはなはだ切なり。ずいぶん久しく頼まれおることゆえ、止むを得ずなにか書くことと致し候。この状はここで中入りと致し候。右の俳句を書き終わりて、また後分(あとぶん)を認(したた)め明日差し上ぐべし。今夜はこれで中入りと致し、以上只今まで出来たる小生の履歴書ごときものを御覧に入れ申し候。蟹は甲に応じて穴をほるとか、小生は生れも卑しく、独学で、何一つ正当の順序を踏んだことなく、聖賢はおろか常人の軌轍(きてつ)をさえはずれたものなれば、その履歴とてもろくなことはなし。全く間違いだらけのことのみ、よろしく十分に御笑い下されたく候。かつこれまでこんなものを書きしことなく、全く今度が終りの初物(はつもの)なれば、用意も十分ならず、書き改め補刪(ほさん)するの暇もなければ、垢だらけの乞食女のあらばちをわるつもりで御賞玩下されたく候。ただしベロアル・ド・ヴェルヴィユの著に、ある気散じな人の言に、乞食女でもかまわず、あらばちをわり得ば王冠を戴くよりも満足すべしと言いし、とあり。小生ごときつまらぬものの履歴書には、また他のいわゆる正則に(正則とは何の変わったことなき平凡きわまるということ)博士号などとりし人々のものとかわり、なかなか面黒きことどもも散在することと存じ申し候。これは深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然、美しいばかりで何の面白みもなきが、茶屋女や旅宿の仲居、空一どんの横扁(ひら)たきやつには、種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがあると一般なるべしと存じ候。

 大正十四年二月二日夜九時

[やぶちゃん注:書き出しは「大正十四年一月三十一日早朝朝五時前」であったから、途中で他のこともしている訳だが、起筆からここまでで既に実に二日と十六時間が経過している。

「軌轍(きてつ)」原義は車が通って出来た車輪の轍(わだち)。転じて、前人の行為のあと。前例。

「補刪(ほさん)」一般には「刪補(さんぽ)」。削ることと補うこと、取り去ったり、付け加えたりすること。刪除(=削除)と補足。

「あらばちをわる」「新鉢割る」は性的な隠語としては、処女と関係することを指す。破爪する。

「ベロアル・ド・ヴェルヴィユ」諸本注なし。南方熊楠の「十二支考」の「犬に関する伝説」の第四章の中に『十六世紀に仏国で出たベロアルド・ド・ヴェルヴィユの『上達方』などには、犬の声を今の日本と同じくワンとしおり』と出るのと同一人物であろうと思われるが、私の引用した平凡社の選集にも注は、ない。調べてみたところ、恐らくはフランスのルネサンス期後半の詩人で作家のフランシワ・ベロアルド・ド・ベェルヴィル(Francois Beroalde de Verville 一五五六年~一六二六年)ではないかと思われる。冒険小説や錬金術者にも手を染め、ウィキを管見すると、かなり猥褻な内容のものも書いているようだ。日本語訳にもそれらしい小西茂也氏訳の「艶笑十八講」(昭和二九(一九五四)年六興出版社刊)と言うのを見出せる(原作名不詳)。

「面黒きことども」「面白き」を反則させたブラック・ユーモア。或いは……いやいや……あまりに猥褻な推理なので……これは……言わずにおこう…………

「お三どん」主に厨(くりや)で働く下女。飯炊き女。広く女中の意でも用いる。

「横扁(ひら)たきやつ」西洋の女のような高い鼻の彫りの深い顔立ちではなく、如何にも当時の日本人にありがちな「横に平たい顔つき」の、所謂、面白くなさそうな「不細工な顔」。しかしそういう女に限って、「種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがある」ので一般的真理にて御座る、と南方熊楠は謂うのである。]

 

南方熊楠 履歴書(その20) 哀れな奴とはどういう輩を言うか

 

 友人(只今九大の農芸部講師)田中長三郎氏は、先年小生を米国政府より傭いにきたとき、拙妻は神主の娘で肉食を好まず、肉食を強いると脳が悩み出すゆえ行き能わざりし時、田中氏が傭われ行きし。この人の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草字、物産学よりも質が劣る、と。これは強語(きょうご)のごときが実に真実語(しんじつご)に候。むかし、かかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり。しかるに、今のはこれをもって卒業また糊口(ここう)の方便とせんとのみ心がけ各ゆえ、おちついて実地を観察することに力(つと)めず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。御承知通り本邦の暖地に松葉蘭(まつばらん)と申すものあり。このものの胞子が発生して松葉蘭となるまでの順序分からず、その隣近の諸類、羊歯(しだ)、木賊(とくさ)、石松(ひかげ)等の発生順序はみな分かりおるに、この松葉蘭のみ分からぬなり。前年平瀬作五郎氏(七十四歳で今年一月四日死亡。この人は銀杏(いちょう)の授精作用を発見して世界を驚かしたるが学位なしで死なれし)に恩賜賞金を下されし時、小生と協同してその賞金をもって松葉蘭の発生順序の研究に尽瘁することとし、小生この宅に多く松葉蘭を栽(う)えて実地検証し、平瀬氏は京都におりて毎年当地へ下り来たり、小生の報告と生本を受けてもち帰り、もっぱら解剖鏡検することと定め、十四年の久しきに渉(わた)って研究せし結果、小生鰹(かつお)の煮汁(にじる)を地に捨てて生ぜる微細の菌を万年青(おもと)の根に繁殖せしめ、それに松葉蘭の胞子をまけば発生するということをつきとめたり。しかるに、吾輩が研究せんとする状態は毎度地中にあって行なわれ、新芽が地上に現わるるときは吾輩が知り明らめんとする状態はすでに失われおる。しかしながら、この植物が必ず発生するようその胞子をまく方法を知った上は、件(くだん)の状態を明らめうるは遠きことにあらざるべしと二人ますます協力奮発するうち、濠州の二学者が相期せずして、この松葉蘭の発生順序を発見し、エジンバラの学会に報告したりとのことを聞き出して、小生より平瀬に報じたるに、平瀬東大へ聞き合わせてその実事たるを知り、力を落として多年の研究を止めしは去る大正九年ごろのことなりし。小生はたとい濠州の二学者がそんな発見ありたりとも、小生が気づきし松葉蘭の胞子を発芽せしむる方法とは別箇の問題なれば(同一のこととするも発見の方法は別途なれば)今に屈せず研究を続けおれり。さて平瀬にこのことを報じたる某博士は、小生がこの田舎にありて今に屈せず研究を続けおるを愍然(びんぜん)なことと笑いおると聞けり。

[やぶちゃん注:「田中長三郎」既出既注。米国招聘の件についてもリンク先を参照されたい。因みに、ここでは南方熊楠は彼を「友人」と称しているが、南方植物研究所設立の挫折後、台北大学教授となって赴任したが(熊楠によれば左遷)、そこでの書簡による田中の要請や不誠実な態度に強い不満を持ち(熊楠によれば、田中は自身の起死回生のために、熊楠をダシにして日本本土にアメリカ式の自身のための植物研究所を設立しようとしていたのだとする)、後に菌類図譜出版の援助を申し出た田中に対しても、信頼感を失っており、申出に躊躇している様子が窺える(一九九三年講談社現代新書刊「南方熊楠を知る事典」の月川和雄氏の田中長三郎の解説に拠る。ここで言っておくと、サイト「南方熊楠資料研究会」内の「南方熊楠を知る事典」は同書の全電子化は成されていないので注意されたい。私は原本を所持している)。

「松葉蘭」シダ植物門 Pteridophyta マツバラン綱 Psilotopsidaマツバラン目 Psilotales マツバラン科 Psilotaceae マツバラン属 Psilotum マツバラン Psilotum nudum。「生きた化石」の頭種とされる。ウィキの「マツバランによれば、『マツバラン科では日本唯一の種である。日本中部以南に分布する』。『茎だけで葉も根ももたない。胞子体の地上部には茎しかなく、よく育ったものは』三〇センチメートル『ほどになる。茎は半ばから上の部分で何度か』二又に『分枝しする。分枝した細い枝は稜があり、あちこちに小さな突起が出ている。枝はややくねりながら上を向き、株によっては先端が同じ方向になびいたようになっているものもある。その姿から、別名をホウキランとも言う。先端部の分岐した枝の側面のあちこちに粒のような』胞子嚢をつける。胞子嚢(実際には胞子嚢群)は三つに『分かれており、熟すと黄色くなる』。『胞子体の地下部も地下茎だけで根はなく、あちこち枝分かれして、褐色の仮根(かこん)が毛のように一面にはえる。この地下茎には菌類が共生しており、一種の菌根のようなものである』。『地下や腐植の中で胞子が発芽して生じた配偶体には葉緑素がなく、胞子体の地下茎によく似た姿をしている。光合成の代わりに多くの陸上植物とアーバスキュラー菌根』(菌根の中で大多数の陸上植物の根にみられるもの。根の外部形態には大きな変化は起こらず、根の細胞内に侵入した菌糸が「樹枝状体」(arbuscule)、種によっては「嚢状体」(vesicle)とを形成する。根の外部には根外菌糸が纏わりついて周囲に胞子を形成することも多い。この菌根はかつては構造的特徴からVA菌根(Vesicular-Arbuscular Mycorrhiza)と呼ばれていたが、嚢状体は見られないこともあるので、現在ではアーバスキュラー菌根と呼ばれる)『共生を営むグロムス門』(Glomeromycota:菌界の門の一つで現在は約二百三十種が記載されている。陸上植物の胞子体の根(シダ植物や種子植物といった維管束植物)や配偶体(コケ植物やシダ植物)の大半と共生してアーバスキュラー菌根を形成し、リン酸の吸収を助けていることで知られる。一般的には陸上植物に栄養を依存する(偏性生体栄養性)と考えられているが、いくつかの種は植物と共生せずに生存出来る可能性も指摘されている。全世界の地中に生息し、陸上植物の八割以上と共生することが出来る)『の菌類と共生して栄養素をもらって成長し、一種の腐生植物として生活する。つまり他の植物の菌根共生系に寄生して地下で成長する。配偶体には造卵器と造精器が生じ、ここで形成された卵と精子が受精して光合成をする地上部を持つ胞子体が誕生する』。『日本では本州中部から以南に、海外では世界の熱帯に分布する』。『樹上や岩の上にはえる着生植物で、樹上にたまった腐植に根を広げて枝を立てていたり、岩の割れ目から枝を枝垂れさせたりといった姿で生育する。まれに、地上に生えることもある』。『日本ではその姿を珍しがって、栽培されてきた。特に変わりものについては、江戸時代から栽培の歴史があり、松葉蘭の名で、古典園芸植物の一つの分野として扱われる。柄物としては、枝に黄色や白の斑(ふ)が出るもの、形変わりとしては、枝先が一方にしだれて枝垂れ柳のようになるもの、枝が太くて短いものなどがある。特に形変わりでなくても採取の対象にされる場合がある。岩の隙間にはえるものを採取するために、岩を割ってしまう者さえいる。そのため、各地で大株が見られなくなっており、絶滅した地域や、絶滅が危惧されている地域もある』とある。個人ブログ「シンガポール熱帯植物だより+あるふぁ」の記事も画像が多数あり、必見。

「順序」「発生順序」発生の動機とそのステージの変化の連続した様態。発生機序。

「木賊」シダ植物門トクサ綱 Equisetopsidaトクサ目 Equisetalesトクサ科 Equisetaceaeトクサ属 Equisetumトクサ Equisetum hyemale。同種は、あの茎の先端に土筆(つくし)の頭部のような胞子葉群をつけ、ここで胞子を形成する。

「石松(ひかげ)」植物界ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophytaヒカゲノカズラ綱 Lycopodiopsidaヒカゲノカズラ目 Lycopodialesヒカゲノカズラ科 Lycopodiaceaeヒカゲノカズラ属 Lycopodiumヒカゲノカズラ Lycopodium clavatum。広義のシダ植物であるが、見た目は巨大な苔の様相を呈する。ウィキの「ヒカゲノカズラによれば、『山野に自生する多年草で、カズラという名をもつが、つる状ながらも他の植物の上に這い上ることはなく、地表をはい回って生活している。針状の細い葉が茎に一面に生えているので、やたらに細長いブラシのような姿である』。『茎には主茎と側枝の区別がある。主茎は細長くて硬く、匍匐茎となって二又分枝しながら地表を這う。所々から根を出し、茎を地上に固定する。表面には一面に線形の葉が着いているが、葉はほぼ開出しているので、スギゴケ』(マゴケ植物門 Bryophytaスギゴケ綱 Polytrichopsidaスギゴケ目 Polytrichalesスギゴケ科 Polytrichaceaeスギゴケ属 Polytrichumスギゴケ Polytrichum juniperinum)『などのような感じになっている。側枝は短くて、数回枝分かれをし、その全体にやや密に葉をつける』。『夏頃に、胞子をつける。まず茎の所々から垂直に立ち上がる枝を出す。この茎は緑色で、表面には鱗片状になった葉が密着する。茎は高さ』五~一五センチメートル、『先端近くで数回分枝し、その先端に』胞子嚢穂をつけ、それは長さが二~一〇センチメートルで円柱形を呈する。胞子嚢を『抱えた鱗片状の胞子葉が密生したもので、直立し、やや薄い緑色』である、とある。

「平瀬作五郎」(安政三(一八五六)年~大正一四(一九二五)年一月四日)は植物学者。福井出身。ウィキの「平瀬作五郎によれば、福井藩中学校(現在の福井県立藤島高等学校)に入学、『油絵を学ぶ。卒業後、同校の中進業生図画教授助手を拝命』するが、明治六(一八七三)年に『油絵を学ぶために上京』、二年後には『東京での油絵留学から帰郷、岐阜県中学校図画教授方を拝命する』。明治二一(一八八八)年、『帝国大学理科大学』『植物学教室に画工として勤務』するようになり、二年後には『技手となる。主として図画を描いていたが、植物学に興味をいだき、明治二六(一八九三)年、『イチョウの研究を始める』。翌年一月に『最初の論文「ぎんなんノ受胎期ニ就テ」を』『植物學雜誌』に発表し、明治二十九年には『イチョウの精子を世界ではじめてプレパラートで確認した』。『平瀬作五郎によるイチョウの精子の』最初の『発見は、池野成一郎によるソテツの精子の発見に先立つ』明治二十七年一月であったとされており、『平瀬は、寄生虫かと思って当時助教授だった池野成一郎に見せたが、池野は一目見るなり「精子だ」と直感したという』。その後、明治二十九年九月九日に「花粉管端より躍然精蟲の遊動して活發に轉々突進する狀況を目擊」し、十月には「いてふノ精蟲に就テ」『という論文を発表している。これが世界で初めての裸子植物における精子の発見となり、池野成一郎によるソテツの精子の発見と合わせて、日本人による植物学への最も輝かしい貢献となった』。その後、一年して彼は『彦根中学へ転出し、一時は研究も断念、不幸な時期を体験している。しかし』明治四五・大正元(一九一二)年、『恩師ともいえる池野成一郎とともに、それぞれイチョウとソテツの精子の発見を高く評価されて、帝国学士院恩賜賞を授与された。ほとんど学歴のない平瀬に恩賜賞が授与される、というのは異例のことであった。もっともはじめは平瀬作五郎の授与は予定されていなかったらしく、「平瀬が貰わないのなら、私も断わる」と池野成一郎がいうので』、二人しての受賞となったという(下線やぶちゃん。ご覧の通り、彼の正規の最終学歴は福井藩中学校卒である)。『後半生は』京都の『花園中学校で教鞭をとった』。『平瀬作五郎が精子を発見したイチョウの木は、今でも東京都文京区白山にある東京大学理学部付属植物園の中に保存されている』とある。南方熊楠より十一年上

「生本」生体資料標本。

「万年青(おもと)」単子葉植物綱Liliopsidaユリ目 Lilialesユリ科 Liliaceaeオモト属Rohdea オモトRohdea japonica

「エジンバラの学会」エディンバラ植物学会。エディンバラ大学(University of Edinburgh)に置かれたものと思われる国際的な植物学会であろう。

「愍然(びんぜん)」可哀想なさま。憐れむべきさま。

 以下の二つの段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 小生はそんな博士を愍然と冷笑するなり。身幸いに大学に奉職して、この田舎にあり万事不如意なる小生よりは早く外国にこの研究を遂げたる者あるの報に接したりとて、その人が何のえらきにあらず。言わば東京にある人が田辺にあるものよりは早く外国の政変を聞き得たというまでのことなり。小生外国にありしうちは、男のみかは婦女にして、宣教または研学のためにアフリカや濠州やニューギニアの内地、鉄を溶かすような熱き地に入つて、七年も入牢も世界の大勢はおろか生れ故郷よりの消息にだに通ぜず、さて不幸にして研究を遂げずに病んで帰国し、はなはだしきは獣に食われ疫(やまい)に犯されて死せしものを多く知れり。これらは、事、志と違い半途にして中止せしは愍然というべきが、決して笑うべきにあらず。同情の涙を捧ぐべきなり。

 

 御殿女中のごとく朋党結托して甲を乙が排し、丙がまた乙を陥るる、蕞爾(さいじ)たる東大などに百五十円や二百円の月給で巣を失わじと守るばかりがその能(のう)で、仕事といえば外国雑誌の抜き読み受け売りの外になき博士、教授などこそ真に万人の愍笑(びんしょう)の的なれ。件(くだん)の博士は学問が好きで子を何人持つか覚えぬ人の由、桀紂(けつちゅう)がその身を忘ると孟子は言ったが、自分の生んだ多くもあらぬ子の数を記臆せずなどいうも、また当世はやりの一種の宣伝か。

[やぶちゃん注:ここに出る似非科学者の好色博士の実名を南方熊楠が記さなかったのは、返す返すも惜しい!

「蕞爾(さいじ)」非常に小さいさま。]

 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その3)

 

    *    *    *

      *    *    *

 

 眞夏の庭園は茂るがままであつた。

 すべての樹は、土の中ふかく出來るだけ根を張つて、そこから土の力を汲み上げ、葉を彼等の體中一面に着けて、太陽の光を思ふ存分に吸ひ込んで居るのであつた――松は松として生き、櫻は櫻として、槇は槇として生きた。出來るだけ多く太陽の光を浴びて、己を大きくするために、彼等は枝を突き延した。互に各の意志を遂げて居る間に、各の枝は重り合ひ、ぶつかり合ひ、絡み合ひ、犇き合つた。自分達ばかりが、太陽の寵遇を得るためには、他の何物をも顧慮しては居られなかつた。さうして、日光を享けることの出來なくなつた枝は日に日に細つて行つた。一本の小さな松は、杉の下で赤く枯れて居た。榊の生垣は背丈けが不揃ひになつて、その一列になつて、その頭の線が不恰好にうねつて居る。それは日のあたるところだけが生い茂り丈が延びて、諸の大きな樹の下に覆はれて日蔭になつた部分は、落凹んで了つたからであつた。又、それの或る部分は葉を生かすことが出來なくなつて、恰も城壁の覗き窓ほどの穴が、ぽつかりと開いて居るところもあつた。或る部分は分厚に葉が重り合つてまるく圓つて繁つて居るところもあつた。或る箇所は全く中斷されて居るのである。といふのは、丁度その生垣に沿うて植ゑられた大樹の松に覆ひ隱されて、そればかりか、垣根の眞中から不意に生ひ出して來た野生の藤蔓が、人間の拇指よりももつと太い蔓になつて、生垣を突分け、その大樹の松の幹を、恰も虜(とりこ)を捕へた綱のやうに、ぐるぐる卷きに卷きながら攣ぢ登つて、その見上げるばかりの梢の梢まで登り盡して、それでまだ滿足出來ないとみえる――その卷蔓は、空の方へ、身を悶えながらもの狂おしい手の指のやうに、何もないものを捉へやうとしてあせり立つて居るのであつた。その卷蔓のうちの一つは、松の隣りのその松よりも一際高い櫻の木へ這ひ渡つて、仲間のどれよりも迥に高く、空に向つて延びて居た。又、庭の別の一隅では、梅の新らしい枝が直立して長く高く、譬へば天を刺かこうとする槍のように突立つて居るのであつた。甞ては菊畑であつた軟かい土には、根強く蔓つた雜草があつて、それは何處か竹に似た形と性質とを持つた強さうな草であつた。それの硬い莖と葉とは土の表面を網目に編みながら這うて、自分の領土を確實にするためにその節のあるところから一一根を下して、八方へ擴がつて居た。試にその一部分をとつて、根引にしやうとすると、その房々した無數の細い根は黑い砂まじりの土を、丁度人間が手でつかみ上げるほどづつ持上げて來る。これが彼等の生きようとする意志である。又、「夏」の萬物に命ずる燃ゆるやうな姿である。かく繁りに茂つた枝と葉とを持つた雜多な草木は、庭全體として言へば、丁度、狂人の鉛色な額に垂れかかつた放埒な髮の毛を見るやうに陰鬱であつた。それ等の草木は或る不可見な重量をもつて、さほど廣くない庭を上から壓し、その中央にある建物を周圍から遠卷きして押迫つて來るやうにも感じられた。

[やぶちゃん注:「太陽の光を思ふ存分に吸ひ込んで居るのであつた――」は底本では「太陽の光を思ふ存分に汲ひ込んで居るのであつた――」で「汲ひ」は読めない。「吸ひ」の誤植と断じ、定本に従い、訂した。

「一本の小さな松は、杉の下で赤く枯れて居た。」は底本では句点がなく、以下と続いてしまっていておかしい。句点の脱字と断じて、定本に従い、句点を挿入した。

「迥に」「はるかに」。

「蔓つた」「はびこつた」。]

 

 併し、凄く恐ろしい感じを彼に與へたものは、自然の持つて居るこの暴力的な意志ではなかつた。反つて、この混亂のなかに絶え絶えになつて殘つて居る人工の一縷の典雅であつた。それは或る意志の幽靈である。かの拔目のない植木屋が、この庭園から殆んどその全部を奪ひ去つたとは言へ、今に未だ遺されて居るもののなかにも、確に、故人の花つくりの翁の道樂を偲ばずには置かないものが一つながら目につくのである。自然の力も、未だそれを全く匿し去ることは出來なかつた。例へば、もとはこんもりと棗形(なつめなり)に刈り込まれて居たであらうと思へる白斑(しらふ)入りの羅漢柏(あすならう)である。それは門から玄關への途中にある。それから又、座敷から厠を隱した山茶花がある。それの下の沈丁花がある。鉢をふせたやうな形に造つた霧嶋躑躅の幾株かがある。大きな葉が暑さのために萎れ、その蔭に大輪の花が枯れ萎びて居る年經た紫陽花がある。それらのものは巨人が激怒に任せて投げつけたやうな亂雜な庭のところどころにあつて、白木蓮、沈丁花、玉椿、秋海棠、梅、芙蓉、古木の高野槇、山茶花、萩、蘭の鉢、大きな自然石、むくむくと盛上つた靑苔、枝垂櫻、黑竹、常夏、花柘榴の大木、それに水の近くには鳶尾、其他のものが、程よく按排され、人の手で愛まれて居たその當時の夢を、北方の蠻人よりももつと亂暴な自然の蹂躙(じゆうりん)に任されて顧る人とてもない今日に、その夢を未だ見果てずに居るかと思へるのである。よし、庭の何處の隅にもそんなものの一株もなかつたとしたところが、門口にかぶさりかかつた一幹の松の枝ぶりからでも、それが今日でこそ徒らに硬(かた)く太く長い針の葉をぎつしりと身に着けていながらも、曾ては人の手が、懇にその枝を勞はり葉を揃へ、幹を撫ぜたものであつたことは、誰も容易に承認するのであらう。實は、それの持主である小學校長は、この次にはその松を賣らうと考へて、この松だけはこん度の貸家人が植木屋を呼ぶときには、根まはりもさせ鬼葉もとらせて置かうと思つて居るのであつた。

[やぶちゃん注:「今に未だ遺されて居るもののなかにも」底本では「未だ」が「未た」であるが、誤植と判断して「だ」とした。猶、先例に徴すると、この「未だ」は、これで「まだ」と訓じているものと思われる。

「羅漢柏(あすならう)」裸子植物門マツ門マツ綱マツ目ヒノキ科アスナロ属アスナロ Thujopsis dolabrata の漢名。和名は漢字表記では「翌檜」「明日檜」などと記す。

「霧嶋躑躅」ビワモドキ亜綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属キリシマツツジ(霧島躑躅)Rhododendron × obtusum。九州に自生するヤマツツジ(ツツジ属ヤマツツジ Rhododendron kaempferi var. kaempferi)とミヤマキリシマ(深山霧島)(ツツジ属ミヤマキリシマ Rhododendron kiusianum)との交配種と言われ、江戸時代の寛永年間(一六二四年~一六四四年)に薩摩で園芸品種として交配作出されたと考えられており、当然、自生品はないとされる。秋から冬にかけて紅葉する。因みに、佐藤が知っていたかどうかは判らぬが、属名のRhododendronはギリシャ語の「rhodon(バラ)+dendron(樹木)」の合成語で、「紅色の花をつける木」という意味である(種小名dobtusumは「円味を帯びた」の意)。

「巨人が激怒に任せて」底本は「巨人が激怒に狂せて」。「か」は間違いなく誤植で、「狂せて」は「くるはせて」では表現がおかしく、これも「任」の誤植と断じ、その通りになっている定本によって訂した。

「高野槇」マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目コウヤマキ科 コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata。日本及び韓国済州島の固有種で一属一種。勘違いしてはいけないのが、我々が通常、呼称している「槇(まき)」はマツ目マキ科 Podocarpaceae に属する球果植物の総称(「マキ」という種は存在しない。代表種はマキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus である)であって、本種とは科レベルで異なる全くの別種であることである。

「芙蓉」ビワモドキ亜綱アオイ目アオイ科 Malvoideae 亜科フヨウ属フヨウ Hibiscus mutabilis。なお、これ以下は、前にこの庭が語られた際に出てきていない種についてのみ注した。

「萩」マメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza のハギ類の総称であるが、最も一般的に我々が見るそれはハギ属ミヤギノハギ(宮城野萩)Lespedeza thunbergii である。

「常夏」「とこなつ」と読み、これはナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク変種(品種)トコナツ Dianthus chinensis var. semperflorens のこと。花弁が濃紅色を呈し、しかも四季を通じて開花することからこの名を持つ。

「鳶尾」「いちはつ」と読む。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ(一初)Iris tectorumウィキの「イチハツ」によれば、『外花被片に濃紫色の斑点が散らばり、基部から中央にかけて白色のとさか状の突起がある』。『中国原産の植物で、古く室町時代に渡来し、観賞用として栽培されてきた。昔は農家の茅葺屋根の棟の上に植える風習があったが、最近は少なくなった』。本来は園芸種であるが、『野生化しているものもある』。『種小名の tectorum は、「屋根の」という意味。アヤメの類で一番先に咲くので、「一初(イチハツ)」の名がある』とある。

「按排」「あんばい」。案配。程よく調和的に配置されていること。

「愛まれて」「いつくしまれて」。

「根まはり」小学校校長はこの松を売ると言っているから、これは所謂、樹木を移植するに先立ち準備する作業としての「根回(まわ)し」のことであろう。ウィキの「根回し」によれば、『成長した樹木を移植する場合、根系を傷めることから、活着できずに枯死したり』、『生育不良に陥る場合が多い。これを避けるために、半年前から』一『年程度前に、根元近くの太い根を切断し、切断部周辺から活発な新しい根の生育を促す。新しい根は、水分や養分をより活発に吸収することから、移植先でも活着することが期待できる。根切りの部位は適切に判断しないと、移植する前に樹木が衰微することもあるので、慎重に行う必要がある』とある。因みに、我々が使うあの厭な言葉、『物事を行う際に事前に関係者からの了承を得ておくこと(下打ち合わせや事前交渉などの段取り)』の意の「根回し」はこれが語源である。

「鬼葉」植木などで、刈り込むべき形や生育によくない無駄な葉を指す。小学館の「日本国語大辞典」には見出して出るが、その用例はまさにこの作品のここである。]

 

 故人の遺志を、偉大なそれであるからして時には殘忍にも思へる自然と運命との力が、どんな風にぐんぐん破壞し去つたかを見よ。それ等の遺された木は、庭は、自然の溌溂たる野蠻な力でもなく、また人工のアアティフィシャルな形式でもなかつた。反つて、この兩樣の無雜作な不統一な混合であつた。さうしてそのなかには醜さといふよりも寧ろ故もなく凄然たるものがあつた。この家の新らしい主人は、木の影に佇んで、この庭園の夏に見入つた。さて何かに怯かされて居るのを感じた。瞬間的な或る恐怖がふと彼の裡(うち)に過ぎたやうに思ふ。さてそれが何であつたかは彼自身でも知らない。それを捉へる間(ひま)もないほどそれは速かに閃き過ぎたからである。けれどもそれが不思議にも、精神的といふよりも寧ろ官能的な、動物の抱くであらうやうな恐怖であつたと思へた。

[やぶちゃん注:「アアティフィシャル」“artificial”“natural”の対義語。「人造の・人工的な・模造の・造りものの」、「不自然な・偽りの・わざとらしい」、「(人や文体などの対象の持つ)気取った・気障なといったナイマス印象」を指す。]

 

 彼は、その日、少時(しばらく)、新らしい住家のこの凄まじく哀れな庭の中を木かげを傳うて、步き𢌞つてみた。

 

 家の側面にある白樫の下には、蟻が、黑い長い一列になつて進軍して居るのであつた。彼等の或るものは大きな家寶である食糧を擔いで居た。少し大きな形の蟻がそこらにまくばつて居て、彼等に命令して居るやうにも見える。彼等は出會ふときには、會釋をするやうに、或は噂をし合うやうに、或は言傳を托して居るやうに兩方から立停つて頭をつき合せて居る。これはよくある蟻の轉宅であつた。彼は蹲(うづく)まつて、小さい隊商を凝視した。さうして暫くの間、彼は彼等から子供らしい樂を得させられた。永い年月の間、かういふものを見なかつた事や、若し目に入つたにしても見やうともしなかつたであらう事に、彼は初めて氣づいた。さう言へば、幼年の日以來――あの頃は、外の子供一倍そんなものを樂み耽つて居たにも拘らず、その思ひ出さへも忘れて居た――落ちついて、月を仰いだこともなければ、鳥を見たこともなかつた。そんな事に氣附いた事が、彼を妙に悲しく、また喜ばしくした。さういふ心を抱きながら臺所から立上つて、步み出さうとすると、ふと目に入つたのは、その白樫の幹に道化た態(なり)をして、牙のやうな形の大きな前足をそこへ突立てて嚙(おあぢ)りついて居る蟬の脱殼だつた。それは背中のまんなかからぱつくり裂けた、赤くぴかぴかした小さな鎧であつた。なおその幹をよく見て居ると、その脱殼から三四寸ほど上のところに、一疋の蟬が凝乎(ぢつ)として居るのを發見することが出來た。それは人のけはいに驚く風もないのは無理もない。その蟬は今生れたばかりだといふ事は一目に解つた。この蟲はかうして身動(みじろ)ぎもせず凝乎としたまま、今、靜かに空氣の神祕にふれて居るのであつた。その軟かな未だ完成しない羽、は言ふばかりなく可憐で、痛々しく、小さくちぢかんで居た。ただそれの綠色の筋ばかりがひどく目立つた。それは爽やかな快活なみどり色で、彼の聯想は白く割れた種子を裂開いて突出した豆の双葉の芽を、ありありと思ひ浮べさせた。それはただにその色ばかりではなく、羽全體が植物の芽生に髣髴して居た。生れ出すものには、蟲と草との相違はありながら、或る共通な、或る姿がその中に啓示されて居るのを彼は見た。自然そのものには何の法則もないかも知れぬ。けれども少くもそれから、人はそれぞれの法則を、自分の好きなやうに看取することが出來るのであつた。尚ほ熟視すると、この蟲の平たい頭の丁度眞中あたりに、極く微小な、紅玉色で、それよりももつと燦然たる何ものかが、いみじくも縷められて居るのであつた。その寶玉的な何ものかは、科學の上では何であるか(單眼といふものででもあらう)彼はそれに就て知るべくもなかつた。けれどもその美しさに就ては、彼自身こそ他の何人より知つてゐると思つた。その美しさはこの小さなとるにも足らぬ蟲の誕生を、彼をして神聖なものに感じさせ、禮拜させるためには、就中、非常に有力であつた。

[やぶちゃん注:「白樫」「しらかし」。ブナ目ブナ科コナラ属シラカシ Quercus myrsinaefolia

「そこらにまくばつて居て」「まくばつて」は「間配つて」で「まくばる」とは「適当な間隔をおいて配置する・配分する」という意の動詞。定本では「まくばられてゐて」(新潮文庫版の新仮名を歴史的仮名遣に変えた。以下、この注は略す)と変えられてある。

「子供らしい樂」の「樂」は「たのしみ」。定本にはそのようにルビも振る。

「道化た」「おどけた」。

「身動(みじろ)ぎ」底本は「身動(みじろ)き」と清音。清音でもよいかと思ったが、平安まで遡らないと一般的には清音使用は見られず、「日本国語大辞典」には、『古くは「みじろく」か』と推定記載しかないので、定本に従い、「ぐ」に改めた。

「その軟かな未だ完成しない羽、は全體は乳色で」読点はママ。誤植の可能性が極めて高いのであるが、底本では、行末の本来、組まない(組めない)箇所に敢えて飛び出て打たれてあり、これは確信犯の可能性を排除出来ぬので敢えてママとした。但し、定本では存在しない。

「ただそれの綠色の筋ばかりがひどく目立つた」私の教え子の知人が撮ったこの写真を参照されたい。

「縷められて居る」「ちりばめられてゐる」。

「單眼」セミは一対の複眼以外にその複眼の間に小さな逆三角形の頂点状の三つの単眼を持つ。羽化したてのそれは水滴のように透明であるが、直きに紅いルビー色に輝くようになる。神奈川県立の「愛川ふれあいの村」のブログのこちらの、この画像(羽化直後)とこの画像(その後)が判りやすい。Q&Aサイトの回答に、一般にセミの単眼は鳴くための時間帯を光によって知覚するためと考えられているようであるが、それだけの目的ならば複眼だけで十分に機能するように思われる。 セミは羽化して成虫となると、殆んどの時間を移動飛行に費やすことから、この単眼は寧ろ、飛行の補助や後背方向の監視のために必要なものと考えるべきであろうといったような主旨(「補助や後背方向の監視のため」というのは私の敷衍解釈なので注意されたい)の記述があったことを紹介しておく。

「彼自身こそ他の何人より知つてゐると思つた」ワ行の「ゐ」が本作本文で最初に現われるのは、ここが初めてである。ここまでの「ゐる」は総て「居る」と漢字表記している。これは種々の電子化を手がけてきた私の経験上の印象からの推理であるが、佐藤春夫は少なくともこの頃、ワ行の平仮名「ゐ」の字形を生理的に好まなかったのではないかと考えている。]

 

 彼のあるか無いかの知識のなかに、蟬といふものは二十年目位にやつと成蟲になるといふやうなことを何日(いつ)か何處(どこ)かで、多分農學生か誰かから聞き嚙つたことがあつたのを思ひ出した。おゝ、この小さな蟲が、唯一語に蛙鳴蟬騒と呼ばれて居るほど、人間には無意味に見える一生をするために、彼自身の年齡に殆んど近いほど、年を經て居やうとは!さうして彼等の命は僅に數日であらうとは!自然は今更に自然の不思議を感じた。(蟬ははかない。けれども人間の雄辯な代議士の一生が蟬ではないと、誰か言はうぞ。)

[やぶちゃん注:「蛙鳴蟬騷」「あめいせんさう(あめいせんそう)」。一般には「騷」ではなく「噪」の字が使われることが多い。蛙や蟬が喧(やkま)しく鳴くように、騒がしいだけで、何の役にも立たないという意から転じて、無駄な表現が多くて内容の乏しい意味のない議論や下手な文章を比喩する語として用いられる。語源は蘇軾の詩「出都來陳。所乘船上有題小詩八首」という詩の中の一節、「蛙鳴靑草泊 蟬噪垂楊浦」(蛙は鳴く 靑草(せいさう)の泊(はく) 蟬は噪ぐ垂楊(すいやう)の浦(ほ))に基づくとされる。]

 

 蟬の羽は見て居るうちに、目に見えて、そのちぢくれが引延ばされた。同時にそれの半透明な乳白色は、刻々に少しづつ併し確實に無色で透明なものに變化して來るのであつた。さうしてあの芽生のやうに爽快ではあるけれどもひ弱げな綠も、それに應じて段々と黑ずんで、恰も若草の綠が常磐木のそれになるやうな、或る現實的な強さが、瞭かに其處にも現れつつあるのであつた。彼はこれ等のものを二十分あまりも眺めつくして居る間に――それは寧ろある病的な綿密(めんみつ)さであつた――自づと息が迫るやうな嚴肅を感じて來た。

突然、彼は自分の心にむかつて言つた。

「見よ、この小さなものが生れるためにでも、此處にこれだけの忍耐がある!」

 それから重ねて言つた。

「この小さな蟲は己だ!蟬よ、どうぞ早く飛立て!」

 彼の奇妙な祈禱(きとう)はこんな風にして行はれた。この時のみならず常にかうして行はれてあつた。

[やぶちゃん注:以上のコーダは段落に行空けをせず、ソリッドに示した。

「常磐木」「ときはぎ」。ガリア目ガリア科アオキ属アオキ変種アオキ Aucuba japonica var. japonica。日本原産種。

「瞭かに」「あきらかに」。]

 

2017/04/28

「想山著聞奇集 卷の貮」 「麁朶(そだ)に髮の毛の生たる事」

 

 麁朶(そだ)に髮の毛の生たる事

 

Yamanbanoaminoke1

 

[やぶちゃん注:標題の読みは「目錄」より。図の右キャプションは、

 

 神田何某(かんだなにがし)よる差越(さしこし)たる圖(づ)

 

である。本文参照。]

 

Yamanbanoaminoke2

 

 我(わが)尾張の國春日井郡水野村の庄屋方に、焚殘(たきのこ)りの薪(たきぎ)の内なる接骨木(にはとこ)に似たる細き木に、【大き杖より少し太きほどの長さ三尺及びも有る枯木の樣にて枝も付居(つきをり)たる木なり。】長き女の髮の毛の樣なるもの幾筋も生(はえ)て有(あり)しを、風(ふ)と見出し、餘り珍敷(めづらしき)物とて、同所御代官陣屋へ訴出(うつたへいで)たり迚(とて)、大森何某なる人、名古屋へ持出(もちいで)たるを見しに、圖のごとく、成程(なるほど)、全く長き髮の毛、所々に生(はえ)て有(あり)。如何なるものとも評議付(つけ)かね、本草功者(こうしや)成(なる)ものなども居合(ゐあは)せたれども、唯珍敷と斗(ばかり)いふのみにて、辨(わきま)へ知り難くと、舊友神田何某、彼(かの)圖を文(ふみ)にそへて差下(さしくだ)しぬ。此(この)水野の邊(あたり)はすべて山中にて、柴(しば)薪(たきぎ)抔、所々にて苅取(かりとる)る故、何處(いづく)にて伐來(きりきた)りしにや分り兼たるとの事也。是は文政八年【乙酉(きのととり)】の事なり。記し置(おき)て異聞に備ふ。

 又、參州岡崎より西南一里程隔たる所に、大西村德性寺と云(いふ)寺有。【同國平地御坊の末寺なり。】右寺の其の方の庭前(ていぜん)に纔(わづか)斗(ばかり)の築山(つきやま)有。此所(ここ)の諸木には、幹並(ならび)に小枝にも、細き總(ふさ)の如き白苔(しらごけ)の長さ七八寸も有て、全く白髮(しらが)の如くにして、小枝などは圖のごとく双方へ見事に下(さが)り居(をり)たるも多く、又、生懸(はえかか)りなども有。同じ地續きにても、垣一重(ひとへ)隔たる隣家の雜木(ざふき)には更になく、右寺中にても、墓所などに生居(はえをり)たる木には少しもなし。その諸木と云(いふ)は、紅葉(もみぢ)・躑躅(つつじ)・柘植(つげ)・わくらなど色々あれども、いづれの木にも生居たり。全く地氣(ぢき)の然らしむるところなるか。珍敷事ゆゑ、心を留(とめ)て見來り置しなり。前文と、先(まづ)、似よりたる事とて、名古屋鶴重町眞廣寺の老僧の物語りなり。是を以て見る時は、か樣の類(たぐひ)は、隨分、諸國に有(あり)て珍敷からぬ事成(なる)歟(か)。聞(きき)まほし。

[やぶちゃん注:「麁朶」「粗朶」とも書く。切り取った木の枝。薪や諸対象の支えとしての添え木などに用いる。

「春日井郡水野村」現在の愛知県瀬戸市のこの附近(グーグル・マップ・データ)。

「接骨木(にはとこ)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属亜種ニワトコ Sambucus sieboldiana var. pinnatisecta。この木は民俗学的には興味深い木なのであるが、「似たる」なのでこれ以上は注さない。

「長き女の髮の毛の樣なるもの」これは恐らく、古くから「山姥の髪の毛(やまんばのかみのけ)」と呼ばれているキノコ類のライフ・サイクルに於ける一形態(器官)である「根状菌糸束(こんじょうきんしそく)」であろう。木に女の髮の毛が生えるとして、しばしば怨念話などを附会させた怪談として今でも聴くが、「株式会社キノックス」公式サイト内の「きのこの雑学」のこちらに以下のようにある。『ヤマンバノカミノケ(山姥の髪の毛)とは、特定のきのこ(子実体)を指す名前ではなく、樹木(小枝)や落葉上に「根状菌糸束」』(一般のキノコ類が我々が「きのこ」と呼んでいる、目に見える一般的にあの傘を持った子実体を形成する前段階として、地中や樹皮下等に形成されるもので、白色・褐色・黒色を呈し、直径数ミリメートルの紐状・糸状・根状のもの)『と呼ばれる独特の黒い光沢を持った太くて硬いひも状の菌糸の束に対して、伝説の奥山に棲む老婆の妖怪である「山姥(ヤマンバ)」の髪の毛になぞらえて命名されたもの』だとある。『この黒色の根状菌糸束を形成するきのこには、ホウライタケ属』(菌界担子菌門菌蕈(きんじ)亜門真正担子菌綱ハラタケ目ホウライタケ科ホウライタケ属 Marasmius)『やナラタケ属』(ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属 Armillaria)、『さらには子のう菌であるマメザヤタケ属』(子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱クロサイワイタケ亜綱クロサイワイタケ目クロサイワイタケ科マメザヤタケ属 Xylaria)『のきのこが含まれ、林内一面に網目状に伸びることもあれば、数メートルの長さに達するものまであ』る、とある。『通常、きのこの菌糸は乾燥に弱い』『が、ヤマンバノカミノケと呼ばれる菌糸束は細胞壁の厚い丈夫な菌糸が束の外側を保護していることから、乾燥や他の微生物からの攻撃に対して強靭な構造となってい』るとし、さらに『ヤマンバノカミノケの子実体を発見し、根状菌糸束であることを日本で始めて明らかにしたのは、世界的な博物学者として知られている南方熊楠で』あると記す(下線やぶちゃん。因みに、私は「南方熊楠」の電子化注も手掛けている)。『ヤマンバノカミノケは丈夫で腐り難いことから、アフリカのギニヤやマレー半島の原住民などは織物に利用しており、日本では半永久的に光沢があることから、神社やお寺などの「宝物」として奉納しているところもあるよう』だともある。あくまで怪談でないと御不満な方は、例えば、個人ブログ「俊平の雑学研究所」の「柿の木に生える恨みの髪の毛」などを、どうぞ。個人的にはの「木の断面から髪の毛???などはホンマに髪の毛に見えるで!

「文政八年」一八二五年。

「參州岡崎」旧三河国のほぼ中央に位置する、現在の愛知県岡崎市。

「大西村」現在の愛知県岡崎市大西。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「德性寺」同岡崎市大西一丁目七番地五に「徳正(とくしょう)寺」という浄土真宗の寺なら、現存する。

「平地御坊」「ひらちごばう」。旧岡崎城南西近くの岡崎市美合町(みあいちょう)にある浄土真宗本宗寺の別称。平地山の麓にあったかららしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「細き總(ふさ)の如き白苔(しらごけ)」子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea を見当にしてみたが、どうも画像を見る限り、それらしくないし、ロケーション(棲息域)もどうも同属が分布する場所としては相応しくない気がする。寧ろ、先の根状菌糸束は白いものの方が一般的のようだから、それを第一同定候補としておく。他にピンとくるものがあればお教え願いたい。

「名古屋鶴重町」現在の愛知県名古屋市中区錦三丁目。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「眞廣寺」現在の中区新栄に同名の寺があり、ここ(グーグル・マップ・データ)は旧鶴重町とは近いことは近い。宗派も同じく浄土真宗。]

 

2017/04/27

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その2)

 

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 「やつと、家らしくなつた」

 昨日、門前で洗い淨めた障子を、彼の妻は不慣れな手つきで張つたのである。最後の一枚を張り了つた時、夫はそれを茶の間と中の間のあひだの敷居へ納めやうとして立つて居る後姿を見やりながら、妻は滿足に輝いてさう言つた。

 「やつと家らしくなつた。疊は直ぐ換へに來ると言ふし」彼の女は同じ事を重ねて言つた。「私はほんとうに厭だつたわよ、おとつひ初めてこの家を見た時にはねえ。こんな家に人間が住めるかと思つて」

 「でも、まさか狐狸の住家ではあるまい」

 「でもまるで淺茅が宿よ。」

 「淺茅が宿か淺茅が宿はよかつたね。‥‥おい、以後この家を雨月草舍と呼ばうぢやないか」

 (彼等二人は――妻は夫の感化を受けて、上田秋成を讃美して居た。)

 夫の愉快げな笑ひ顏を、久しぶりに見た妻はうれしかつた。

 「そこで、今度は井戸換へですよ、これが大變ね。一年もまるで汲まないといふのですもの、水だつて大がい腐りますわねえ。」

 「腐るとも、毎日汲み上げて居なければ、己の頭のやうに腐る。」

 この言葉に、「又か」と思つた妻は、今までのはしやいだ調子を忘れておづおづと夫の顏を見上げた。しかし夫の今日の言葉はたゞ口のさきだけであつたと見えて、顏にはもとのままの笑があつた。それほど彼は機嫌がよかつたのである。それを見て安心した妻は甘へるやうに言ひ足した。

 「それに、庭を何とかして下さらなけやあ。こんな陰氣なのはいや!」

 疲れて壁にもたれかかつた妻の膝には、彼と彼の女との愛猫が、のつそりと上つて居るところであつた。「靑(猫の名)や。お前は暑苦しいねえ」と言ひながらも、妻はその猫を抱き上げて居るのである。彼の家庭には犬が居る。猫が居る。一たん愛するとなると、程度を忘れて溺愛せずにはいられない彼の性質が、やがて彼等の家庭の習慣になつて、彼も彼の妻も人に物言うやうに、犬と猫とに言ひかけるのが常であつた。それにかうして田舍に住むやうになつてからは、犬や猫と人間との距離は益々近かつた。

[やぶちゃん注:区切りの二行のアスタリスクは実際にはもっと下で、記号間の間も長いが、ブログのブラウザでの不具合を考えて短縮してある(定本は「*」一つ)また、傍点(ここでは太字)にも若干の疑義がある。実際、底本の傍点位置は幾つかの部分で本文活字の正確な右手中央になかったりする。「淺茅が宿か淺茅が宿」の中間の「か」は傍点を打たない方が自然であり、「はしやいだ」も「だ」を含めた全体に打った方がよく、「淺茅が宿淺茅が宿」「はしやいだ」である方がより自然と判断はするものの、誤植とするまでの明確な根拠を私は持たないのでママとした。因みに、定本では以上のパートには傍点は一切ない。

「淺茅が宿」ここで、上田秋成の、あの作品を出すこと自体が、既にして不吉な言上げであり、伏線である。特に、前に妻が内心、夫がかつて愛した女を今も思っているのではないかと疑う場面とも感応するように作られていると言える。

 以下、底本では三行分の空行がある。因みに、定本は前の区切りともに「*」一つで、明らかに異なった区切りとしてここでは存在することを認識する必要がある。即ち、時空間を遡った、主人公一家とは無縁な、この家に纏わる過去譚(以下に見る通り、先に出た案内人の女の語った、何とも言えぬ奇妙な饐えた臭いのする、それでいてどこかたまらない哀感の漂う噂話である)別時空への区切り、としてである。但し、次のパートは区切りなしで、また現在時制に戻ってはいる。しかし、この三行空白は、私は、他の区切りと同じ決定稿の「*」なんぞよりも遙かに効果的であると考えている。]

 

 

 

 彼等夫婦がこの家に住むやうになつた日から、遡つて數年の前である――

 

 この村で一番と言はれて居る豪家N家の老主人は、年をとつて、ひどく人生の寂寥を感じ出した。普通、人にとつてかういふ時に最も必要なものは、老ひと若きとを問はず異性であつた。さうしてこの老人は、都會から一人の若い女を連れて來た。この豪家は、この風流人の代にその田の半分を無くしたのだけれども、流石に老人の考へは金持らしいものであつた――ただ美しいだけで、何の能もないやうな女はつれて來なかつた。少し位は醜くとも、年さへ若ければ我慢して、村の爲めにもなり、それよりも自分の經濟の爲めにもなるやうな女を擇んだのであつた。一口に言へば、彼は、今までは村に無くて不自由をして居た産婆を副業にする妾を蓄へたのだ。それから自分の家の離れ座敷をとり外して、彼の屋敷からはすぐ下に當るところへ、それを建て直した。冬には朝から夕方まで日が當るやうな方角を考へて、四間の長さをつづく緣があつた。玄關の三疊を拔けて、六疊の茶の間には爐を切らせた。黑柿の床柱と、座敷の欄間に嵌込んだ麻の葉つなぎの棧のある障子の細工の細かさは、村人の目をそば立たせた。さすがはうちの山から一本擇りに擇つて伐り出した柱だ、目ざわりな節一つない、と大工はその中古の柱を愛撫しながら自分のもののやうに褒めた。さうして農家の神々しいほど廣い土間のある、太い棟や梁の黑い煤けた臺所とは變つて、その家には、板をしきつめた臺所に、白足袋を穿いて、ぞろぞろ衣服の裾を引曳つた女が、そこで立働くやうになつた。老人は、その家督を四十幾つかになつた自分の長男に讓つた。さてこの老人は幸福であつた。村の人人は、自分の年の半分にも足らぬ若さの茶呑友達を待た隱居に就てかげ口を利いた。併し、そんな事位は隱居の幸福を傷けはしなかつた。

[やぶちゃん注:「妾」「めかけ」。

「四間」七メートル強。

「黑柿」「くろがき」と読む。柿の木が数百年の樹齢を重ねて古木になると、稀に心材に墨で書いたような黒い紋様が入るものが出現し、こうした柿の木材を「黒柿」と称し、古くから非常に高級な加工材として珍重されてきた。愛知県岡崎市の「ギャラリー黒柿」の公式サイト内のを参照されたい。その写真を見るだけでも不思議に激しく惹かれる。

「麻の葉つなぎ」「麻の葉模様」という文様意匠の標準形態。六個の菱形の各頂点が中心となる一点で接し、さらに各頂点から中心点に直線を引いた幾何学文様。普通、それを連続させてこの「麻の葉つなぎ」として用いる。洋の東西に古くから見られる文様で、日本では平安時代の仏像の衣に切金(截金:きりかね)で表されているのが古く、室町時代の繡仏(しゅうぶつ)や幡(ばん)の地縫いにも見られる。近世になってからは大麻の葉に似ているところから「麻の葉」と呼ばれるようになり、庶民的な文様として親しまれた。応用形や変化形も多く、染織品・欄間・千代紙などにも見られる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。グーグル画像検索「麻の葉つなぎ 欄間で、ああ! これか! と私は納得した。

「擇りに擇つて」「えりにえつて」。

「引曳つた」「ひきずつた」。

 

「傷けは」「きずつけは」。]

 

 けれども、併しすべての平和と幸福とは、短い人生の中にあつて、最も短い。それは丁度、秋の日の障子の日影の上にふと影を落す鳥かげのやうである。つと來てはつと消え去る。老人のこれ等の平和の日も束の間であつた。

 

 若い妾は、程なく、都會から一人の若い男を誘うて來た。村の人人は、この若い男を「番頭さん」「お産婆の番頭さん」と呼んだ。村の人人は産婆には、果して「番頭さん」が入用なものかどうかを知らなかつた。さうしてこの隱居は、自分の若い妾が、自分には無斷で、若い「番頭さん」を雇入れた事に就て不滿であつた。非常に不滿であつた。第一にこの若い男女の生活は田舍の人人の目には贅澤すぎた。隱居の豫算とは少し違ひすぎた。隱居は彼等がもつとつつましやかであり得ると考へ初めた。その事を彼の妾に度々言ひつけた。初めは遠まわしに遠慮勝ちに、併しだんだん思ひき切つて言うやうになつた。或る夜には夜中言ひ募ることがあつた。「番頭さん」は多分これ等の對話を、壁一重に聞いたのだつたらう。或るそんな夜の後の日に――彼の女が初めて村へ來てから一年ばかりの後、若い「番頭さん」を若い妾が「雇入れ」てから半年ほどの後、或る夕方、彼等二人の男女の姿は、突然この村から消えた。

 

 夕方に村の方から歸つて來た馬方は、山路の夕闇のなかで、くつきりと浮上つて白い丸い顏が目についたので、よく見ると「Nさんのお産婆」だつた、とその次の朝村の人人に告げた。併し、これは多分、この男が實際にこれを見たわけではなく、彼等が居なくなつたと聞いた時に、思ひついた噓であつたかも知れない。でなければ彼は歸つて來ると直ぐその事を、珍らしげに、手柄顏に言ふべき筈だからである。人はこんな時に、ちよつとこんな事を言つて見たいやうな一種の藝術的本能を、誰しも多少持つて居るものである。 ――それはどうでもいいとして、この話は、話題に饑えて居る田舍の人人を當分の間、喜ばせた。さうして二十八の女には、七十に近いあの隱居よりは、二十四五の若者の方が、よく釣合うべき筈だつたといふのが、村の輿論であつた。

 

 痛ましいのは、若い妾に逃げられたこの隱居が、その後、植木の道樂に沒頭し出した事である。彼は花の咲く木を庭へ集め出した。今日はあの木をこちらに植ゑ變へ、昨日は別の庭からこの木を自分の庭にうつした。さうして明日は何かよい木を搜し出さねばと、每日每日、土いぢりに寧日がなかつた。春には牡丹があつた。夏には朝顏があつた。秋には菊があつた。冬には水仙があつた。さうして、彼の逃げて仕舞つた妻の代りに、二人の十と七つとの孫娘を、自分の左右に眠らせた床のなかで、この花つくりの翁は眠り難かつた。彼は月並の俳諸に耽り出した。

[やぶちゃん注:「寧日」「ねいじつ」は「穏やかで無事な日・安らかな日」の意。「寧日がなかつた」のは「土いぢり」に暇を持て余すこともなかった、の謂いではなく、若い妾に男と逃げられた精神的な抑鬱状態をそれによって誤魔化そうとしてに過ぎず、それはしかし、彼の不安をより倍加させ、結局、「眠り難かつた」、不定愁訴からくるところの頑固な不眠症状に悩まされるようになったのであろう。

「翁」定本に従うなら「おきな」。「竹取の翁」のブラック・ユーモアである。]

 

 隱居は死んだ、それから丁度一年經つた後に。彼は、かうして集めた花の木のそれぞれの花を僅かばかり樂しんだばかりであつた。さうしてその家は、彼の末の娘と共に村の小學校長のものになつた。村の校長はこの隱居の養子だつたからである。すると拔目のない植木屋があつて、算術の四則には長けて居り、それを實の算盤に應用することにも巧ではあつたけれども、美に就ては如何なる種類のそれにも一向無頓著な、當主の小學校長をたぶらかして、目ぼしい庭の飾りは皆引拔いて行つた。大木の白木蓮、玉椿、槇、秋海棠、黑竹、枝垂れ櫻、大きな花柘榴、梅、夾竹桃いろいろな種類の蘭の鉢。さうしてそれ等の不幸な木は、かくも忙しくその居所を變へねばならなかつた。土に慣れ親しむ暇もなかつた。かうしてそれ等のうちの或るものは、爲めに枯れたかも知れない。

[やぶちゃん注:不審なのは、老人が家督を継がせた「四十幾つかの」「自分の長男」はどうしたのか、そして、その長男の娘であろうところの、自分に添い寝させた二人の「孫」娘はどうなったのか、ということである。そうして、その長男が家督を継いだのにも拘わらず、老人の末娘の夫である校長は、何故に老人の養子になったのか、しかも、彼がこの老人が新築したこの家を手に入れることが出来たのか(長男は何故、文句を言わないのか? 仮に愛する末娘に生前に譲ったのだとするなら、その顛末が語られないのは不親切極まりないと私は思う。要するに話を読んでいて、私はそこに躓いてしまう人間なのである)、その辺りが一切、語られていないことである。私の疑問はおかしいだろうか? 諸士の御意見を伺いたい。なお、定本でもこの辺りの叙述は変更・追加はなされていない。

「白木蓮」双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレンMagnolia heptapeta。勘違いしている人が多いが、モクレン属モクレン Magnolia quinquepeta とは同属異種であって、そもそもが花の形と色がまるで異なり、後者の花は舌状を呈していて長く、全体が壺状を呈しており、色も濃い紅色から桃色である。

「玉椿」椿(ツツジ目ツバキ科 Theeae 連ツバキ属ヤブツバキ Camellia japonica)の美称として用いられる語ではあるが、佐藤は本作中では、かなり、植物を詳しく叙述していることから考えると、これは「椿」ではなく、「タマツバキ」の異名を持つ、椿とは全く異なる種である、ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属ネズミモチ(鼠黐)Ligustrum japonicum を指していると考えるべきと断ずる。六月頃に開花する。白い花序が多数出、木全体に真っ白の花の塊が散らばったようになる。生垣によく用いられる。

「槇」マツ目マキ科 Podocarpaceae に属する球果植物の総称。「マキ」という種は存在しない。代表種はマキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus

「秋海棠」スミレ目シュウカイドウ科シュウカイドウ属シュウカイドウ Begonia grandis。ベゴニアの仲間で江戸時代に中国から渡来した帰化植物。落葉高木である「海棠」=バラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属ハナカイドウ Malus halliana に似たような花を晩夏から秋にかけて咲かせることからの和名であって、両者は全く無関係な別種である。

「黑竹」普通は「くろちく」と読む。単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連マダケ属クロチク Phyllostachys nigra。現在の主産地は高知県中土佐町及び和歌山県日高町。

「枝垂れ櫻」バラ亜綱バラ目バラ科サクラ属シダレザクラ Cerasus spachiana f. spachiana(シノニム:Prunus pendula)。

「花柘榴」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ園芸品種ハナザクロ Punica granatum cv. Pleniflora。通常は結実せず、文字通り、花を楽しむ。別名を「八重柘榴(やえざくろ)」とも呼ぶ。

「梅」バラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume

「夾竹桃」リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Nerieae 連キョウチクトウ属セイヨウキョウチクトウ亜種キョウチクトウ Nerium oleander。全草有毒(心筋に作用する強心配糖体(cardiac glycosides)であるオレアンドリン(Oleandrin)を多く含む。その強い毒性(ヒトの場合のオレアンドリンの致死量は0.30mg/kgで、かの青酸カリをも上回る。重篤な中毒症状の場合には心臓麻痺で死亡し、枝を串にしただけで死亡した例もある。個人サイト「毒性物質事典」のに科学的詳細データが載る)で、植生した周辺土壌や、生木を燃した際に出る煙も有毒であり、腐葉土でも一年間は毒性が残る、とウィキのキョウチクトウにはある。

「蘭」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科Orchidaceae(ヤクシマラン亜科 Apostasioideae・アツモリソウ亜科 Cypripedioideae・ネジバナ亜科 Spiranthoideae・チドリソウ亜科 Orchidoideae・セッコク亜科 Epidendroideae・バンダ亜科 Vandoideae)。]

 

 小學校長は、丁度新築の出來上つた校舍の一部へ住んだ。自分の貰つたこの家は空家にして置いた。さうして居るうちにこの家を借り手があれば貸したいと考へ出した。住む人が無ければ、家は荒廢するばかりである。たとひ二圓でも一圓五十錢でも、家賃をとつて損になることはない、と校長先生の考へは極く明瞭である。ところが、田舍では大抵の人は自分自身の家を持つて居る、たとひ軒端がくづれて、朽ち腐つた藁屋根にむつくりと靑苔が生へて居るやうな破家なりとも、親から子に傳へ子から孫に傳へる自分の家を持つて居た。どんな立派な家にしろ、借屋をして住まねばならぬやうな百姓は、最後の最後に自分の屋敷を抵當流れにしてしまつた最も貧しい人々に決つて居た。かくて、あの隱居が愛する女のために、又自分の老後の樂しみにと建てたこの家は實に貧しい貧しい百姓の家に化した所以である。隱居が茶の間の茶釜をかけた爐には、大きないぶり勝ちな松薪が、めちやに投込まれて、その煙は田舍家には無駄な天井に邪魔されて、家から外へ拔けて行く路もなかつた。さうして部屋を形造つた壁、障子、天井、疊は直ぐに煤びて來た。氣の毒な百姓の一家は立籠つた煙などを苦にしては居られない。反つてそれから來る溫さに感謝して、秋の、冬の長い夜な夜なを、繩を綯うたり、草鞋を編んだりして、夜を更かさねばならなかつた。屋賃は四月(つき)目五月(つき)目位から滯り出した。疊はすり切れた、柱へはいろいろな場合のいろいろな痕跡がいろいろの形に刻みつけられた。「せめては下肥位はたまるだらう」と校長先生が考へたにも拘はらず、校長先生の作男が下肥を汲みに行く朝は、其處は何時も空虛ぽだつた。何となれば家の借り手の貧しい百姓が、自分の借りて居る畑へそれを運んで仕舞うた後であつたからだ。校長先生はひどくこの借家人を惡く思ひ初めた。會うほどの人には誰彼となく、貧乏な百姓の狡猾を罵り、訴へた。さうして「どうせ貧乏する位の奴は、義理も何も心得ぬ狡猾漢だ」といふ結論を與へ去つた。外の村人は、直ぐ校長先生の意見に賛同の意を示した。そこで校長先生は自分の論理が眞理として確立されたのを感じ出した。次には、こんな男に家を貸して置くよりも、寧ろ荒れるにまかせて置いた方がどれほどよいか解らないと思ひ出した。何故かといふに、この男に家を貸すことは、積極的に荒廢させることである。反つて、空家として打捨てて置くことはその消極的な方法である。さうしてこの借家人は逐ひ立てられた。村の人々は校長先生の態度は合理的だと考へた。

[やぶちゃん注:「靑苔が生へて居る」底本は「靑苔か生へて居る」。誤植と断じ、定本で訂した。

「破家」「あばらや」。定本ルビに拠る。

「松薪」「まつまき」。定本ルビに拠る。

「立籠つた」底本は「たてこもつた」とルビする。

「溫さ」「ぬくさ」と訓じておく。

「綯うたり」「なうたり」。繩をなったり。

「草鞋」「わらぢ」。

「夜を更かさねばならなかつた」底本は「夜を更かさねばならなかた」。脱字と断じ、定本で補った。「更かさねば」は「ふかさねば」。

「下肥」「しもごへ」。厠の排泄物。

「空虛ぽ」「からつぽ」。

 

「運んで仕舞うた後であつたからだ。」底本は句点なし。定本で補った。]

 

 これらの間――あの隱居が亡くなつてから後は、その庭の草や木のことを考へるやうな人は、一人もなかつた。家と庭とは荒れに荒れた。ただ一人、あの貧乏な百姓の小娘が、隱居が在世の折に植ゑられたままで、今は草の間に野生のやうになつて、年々に葉が哀れになり、莖がくねつて行く菊畑の黃菊白菊の小さな花を、秋の朝々に見出しては、ちゞくれた髮のかんざしにと折りとつた。

[やぶちゃん注:以上の、この家の過去譚は前に注した通り、一部に半可通なところがある(しかし敢えて言うならば、民俗伝承的噂話の属性はそうした半可通性を必ず保持するものであり、それは、言うなら、必要条件でさえあるとも言い得るものではある)ものの、この主人公が移った家の持つ、一種の「病める」部分、「田園の」、「憂鬱」で不吉な、凶宅的な印象を読者に与える点で非常に効果的であると言える。さらに言い添えると、私はこの話に、私の偏愛する芥川龍之介の庭」房」のような(リンク先は私の電子テクスト。「庭」は大正一一(一九二二)年、「玄鶴山房」は昭和元(一九二六)年で本作より後の作品である。佐藤春夫が芥川龍之介と親しくなったのは大正六(一九一七)年で、芥川龍之介が佐藤の西班牙犬の家(リンク先は私の電子テクスト)に好評を述べたことを直接のきっかけとしている)、救い難い滅びに向かうアッシャー家の崩壊との近似性を強く感ずる(冒頭の注で示した通り、後の定本では冒頭にポーの詩篇“Eulalie”の冒頭が引かれている)。]

 

 彼は緣側に立つて、庭をながめながら、あの案内者であつた太つちよの女が、道々語りつづけた話のうちに、彼一流の空想を雜へて、ぼんやり考へるともなく考へ、思ふともなく思ふて居た。

 

 「フラテ、フラテ」裏の緣側の方では、彼の妻の聲がして、犬を呼んで居る。「おおよしよし、ルポも來たのかい。おお可愛いね。フラテや、お前はね、今のやうにあんな草ばかりのところで遊ぶのぢやありませんよ。蝮が居ますよ。そうこの間のやうに、鼻の頭を咬まれて、喉が腫れ上つて、お寺の和尚さんのやうにこんな大きな顏になつて來ると、ほんとうに心配ぢやないか。いいかい。フラテはもうこの間で懲りたから解つたはね。ルポや、お前は氣をおつけよ。お前の方は溫和いから大丈夫だね‥‥」

 妻は牧歌を歌う娘のやうな聲と心持とで、自分の養子である二疋の犬に物云うて居る。さうして凉しい竹籔の風は、そこから彼の立つて居る方へ拔けて通りすぎた。

[やぶちゃん注:本作ではここで初めて二匹の犬の名が出る。前に注で出したように、定本では前に出ている。

「フラテ」これは実は本邦に古くからある「キリシタン」用語で、イタリア語で「兄弟」を意味する“frate”(音写:フラァーテェ)に由来し、「托鉢」「跣足のフランシスコ会士」「アウグスチノ会士」などを指す語であった。この名は幻想短篇の西班牙犬の家に登場する主人公の飼い犬の名と同一であり、両作の強い親和性を示すものでもある。

「ルポ」“lupo”はラテン語“lupus”由来で「狼」の意。この名は、前に注で出したように、定本では「レオ」(Leo:ラテン語で「ライオン」)と変わっている。

「蝮」「まむし」。

「溫和い」「おとなしい」。]

 

南方熊楠 履歴書(その19) 熊野での採集成果

 

 そのころは、熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧(もうまい)といえば蒙昧、しかしその蒙昧なるがその地の科学上きわめて尊かりし所以(ゆえん)で、小生はそれより今に熊野に止まり、おびただしく生物学上の発見をなし申し候。例せば、只今小生唯一の専門のごとく内外人が惟う粘菌ごときは、東大で草野博士が二十八種ばかり集めたに過ぎざるを、小生は百十五種ばかりに日本粘菌総数をふやし申し候。その多くは熊野の産なり。さて、知己の諸素人学者の発見もあり、ことに数年来小畔氏奮発して一意採集されてより、只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候。しかし、小生のもっとも力を致したのは菌類で、これはもしおついであらば当地へ見に下(くだ)られたく、主として熊野で採りし標品が、幾万と計えたことはないが、極彩色の画を添えたものが三千五百種ばかり、これに画を添えざるものを合せばたしかに一万はあり。田中長三郎氏が『大毎』紙に書いたごとく、世界有数の大集彙なり。また淡水に産する藻は海産の藻とちがい、もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし。その淡水藻をプレパラートにおよそ四千枚は作り候。実に大きな骨折りなりしが、資金足らずしてことごとく図譜を作らぬうちに、プレパラートがみな腐りおわり候も、そのまま物語りの種にまで保存しあり。実に冗談でないが沙翁(シェイクスピア)の戯曲の名同然 Lover’s Labour’s Lost ! なり。

[やぶちゃん注:「惟う」「おもう」。思う。

「粘菌」真核生物アメーバ動物門(Amoebozoa:アメーボゾア)コノーサ綱 Conosea変形菌亜綱 Myxogastria に属し、ツノホコリ亜綱 Ceratiomycetidae・真正粘菌亜綱 Myxogastromycetidae・ムラサキホコリ亜綱 Stemonitomycetidae に分かれ、さらに Parastelida 目・ハリホコリ目 Echinosteliida・コホコリ目 Liceida・ケホコリ目 Trichiida・ムラサキホコリ目 Stemonitida・モジホコリ目 Physarida に分類される生物群で、「変形体」と呼ばれる栄養体形態では、移動しながら微生物などを摂食する〈動物的〉性質を持ちながら、一方で、小型の「子実体」を形成して胞子によって繁殖するという〈植物的〉或いは〈菌類的〉性質を併せ持った特殊なライフ・サイクルを持つ生物群を指す。詳しくは私が参照したウィキの「変形菌」などを読まれたい。

「草野博士」草野俊助(明治七(一八七四)年~昭和三七(一九六二)年)は植物学者で日本に於ける菌・粘菌学研究の先駆者の一人。福島県出身。大正一四(一九二五)年に母校である東京帝国大学の教授となり、東京文理科大学教授も勤めた。「壺状菌類の生活史に関する研究で」で昭和八(一九三三)年に帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞、日本学士院会員で日本菌学会初代会長。

「小畔氏」南方熊楠の粘菌研究の高弟小畔四郎。既出既注。まさにこの勝浦行の折りに那智の瀧で初めて出逢って意気投合したのが始まり。

「一意」「いちい」。一つのことに精神を集中すること。

「只今日本の粘菌の総数は百五十に余り、まずは英米二国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなりおり候」ウィキの「変形菌」によれば、変形菌は現在、世界で約四百種が知られている(現在では一般にはその総てを「変形菌門コノーサ綱変形菌亜綱」に属させており、南方熊楠の研究当時とは分類学的にはかなり異なり、分子生物学の台頭により向後も変化し、種数も恐らくは爆発的に増えるのではないかと私には思われる。実は私も二十代の頃、南方熊楠を知った当時、採取・研究を志そうと思ったことがある)。

「菌類」(きんるい)は広義には菌界 Fungiの当時の伝統的な四大分類で言う、ツボカビ門 Chytridiomycota・接合菌門 Zygomycota・子嚢菌門 Ascomycota・担子菌門 Basidiomycota に属する所謂、茸(キノコ)・黴(カビ)・酵母などと呼称される生物群の総称であるが、熊楠の時代には実は粘菌(変形菌類)も菌類として扱われていた。但し、混同して貰っては困るのはこの場面に於いて南方熊楠が言っている「菌類」はもっと限定的で、主に担子菌門や子嚢菌門に属するところのキノコ類を指している点である。なお、現在(二〇〇八年発表)の既知の菌類の種数は約九万七千種とされるが、総種数については、一九九一年にイギリスのホークスワース(Hawksworth)が総現存種数を百五十万程度と推定しており、研究者によってその推定数値は五十万から九百九十万種と非常な幅がある(国立科学博物館 植物研究部の細矢剛氏の「日本には菌類が何種くらいいるか」(PDF)を参照されたい。ホークスワースの推定計算式も出ている)。本邦に植生するキノコの種数も約二千五百種が記載されているが、実際には四千から五千種が植生するとされる。さすれば、南方熊楠の標本数「三千五百種」「一万」というのは、同種のステージの違いなどのダブりを勘案したとしても、今現在でも驚異的と言え、「世界有数の大集彙なり」は自画自賛の誇大広告でもなんでもなく、まっこと凄い資料数なのである。

「田中長三郎」既出既注

「淡水に産する藻」淡水性藻類は多様な種に及び、淡水の河川・湖沼・湿地・水たまりに生育する藻類の他、樹幹・岩石・土壌・苔などの多少とも湿気のある所に植生する気生藻、氷や雪の上に生える氷雪藻、温泉に生える温泉藻、更には動物・植物・菌類・地衣類に共生している共生藻なども含まれる。藻類の内、褐藻類(不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae)や紅藻類(紅色植物門 Rhodophyta)は主に海産で淡水にはごく限られた種類が見られるだけであるが、緑藻類(緑藻植物門Chlorophyta 緑藻綱 Chlorophyceae)・珪藻類(オクロ植物門 Ochrophyta カキスタ亜門 Khakista 珪藻綱 Diatomea)などは海水・淡水の両方に産し、ミドリムシ類(ユーグレナ藻綱 Euglenophyceae ユーグレナ(ミドリムシ)目 Euglenales ユーグレナ(ミドリムシ)科 Euglenaceae ミドリムシ属 Euglena)はほぼ淡水産、ストレプト植物門 Streptophyta 車軸藻綱 Charophyceae シャジクモ目 Charales シャジクモ科 Characeae に属する車軸藻類は全淡水産である。現在、地球上には約三万種の藻類が知られているが、淡水藻類と海産藻類の割合はほぼ二分の一ずつである(以上は主に小学館「日本大百科全書」に拠った)。この記載に従えば、淡水藻類は凡そ世界で一万五千種で、熊楠がその「プレパラート」を「四千枚」作製したとあるのは単純に全種異種であるとするなら、現生淡水藻の四割弱の標本数となり、やはり驚異の数値となる。但し、藻類もやはりライフ・サイクル内での変形・変態が甚だしいから、これが総て異種である可能性は極めて低いと思われはする。

「もっぱら食用などにならぬから日本には専門家はなはだ少なし」金にならぬ生物の研究は、基本、南方熊楠が生きた時代から少しも進歩していない。明治の子どもが抱いた生物の不思議への素朴な疑問の多くは、未だに専門的に解き明かされてはいないのである。例えば、そうだな、私の「アオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ」をお読みあれ。これを面白いと思われる奇特な御仁には私の盗核という夢魔もお薦めする。

Lover’s Labour’s Lost !」ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)作の喜劇「恋の骨折り損」。一五九五年~一五九六年頃の作とされる。]

 

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅴ」パート

 

   Ⅴ

 

[やぶちゃん注:「キリストに與へる詩」は異同なし。]

 

 

 

 或る淫賣婦におくる詩

 

女よ

おんみは此の世のはてに立つてゐる

おんみの道はつきてゐる

おんみはそれをしつてゐる

いまこそおんみはその美しかつた肉體を大地にかへす時だ

靜かにその目をとぢて一切を忘れねばならぬ

おんみはいま何を考えてゐるか

おんみの無智の尊とさよ

おんみのくるしみ

それが世界(よ)の苦みであると知れ

ああそのくるしみによつて人間は赦される

おんみは人間を救つた

おんみもそれですくはれた

どんなことでもおんみをおもへばなんでもなくなる

おんみが夜夜(よるよる)うす暗い街角に餓えつかれて小猫のやうにたたずんでゐた時

それをみて石を投げつけたものは誰か

あの野獸のやうな人達をなぐさむるために

年頃のその芳醇な肉體を

ああ何の憎しみもなく人人のするがままにまかせた

齒を喰ひしばつた刹那の淫樂

此の忍耐は立派である

何といふきよらかな靈魂(たましひ)をおんみはもつのか

おんみは彼等の罪によつて汚れない

彼等を憐め

その罪によつておんみを苦め

その罪によつておんみを滅ぼす

彼等はそれとも知らないのだ

彼等はおのが手を洗ふことすら知らないのだ

泥濘(どろ)の中にて彼等のためにやさしくひらいた花のおんみ

どんなことでもつぶさに見たおんみ

うつくしいことみにくいこと

おんみはすべてをしりつくした

おんみの仕事はもう何一つ殘つてゐない

晴晴とした心をおもち

自由であれ

寛大であれ

ひとしれずながしながしたなみだによつて

みよ神神(かうかう)しいまで澄んだその瞳

聖母摩利亞のやうな崇高(けだか)さ

おんみは光りかがやいてゐるやうだ

おんみの前では自分の頭はおのづから垂れる

ああ地獄の月よ

おんみの行爲は此の世をきよめた

おんみは人間の重荷をひとりで脊負ひ

人人のかはりをつとめた

それだのに捨てられたのだ

ああ正しい

蒼ざめた地獄の月

病める猫よ

おんみはこれから何處へ行かうとするのか

おんみの道はつきてゐる

おんみの肉體(からだ)は腐りはじめた

大地よ

自分はなんにも言はない

此の接吻(くちつけ)を眞實のためにうけてくれ

ああ何でもしつてゐる大地

そして女よ

曾て彼等の讃美のまつただ中に立ちながら

ひとときのやすらかさもなかつた

おんみを蛆蟲はいま待つてゐるのだ

あらゆるものに永遠の生をあたへ

あらゆるものをきよむる大地

此の大地を信ぜよ

人間の罪の犧牲としておんみは死んでくださるか

自分はおんみを拜んでゐる

彼等はなんにもしらないのだ

わかりましたか

そして吾等の骨肉よ

いま一どこちらを向いて

おんみのあとにのこる世界をよくみておくれ

 

[やぶちゃん注:或る淫賣婦におくる詩には驚くべき異同があるので、長い詩篇であるが、改訂版を以上に掲げた。初版の後半部の初めの方に出る、

 

ああ地獄のゆり

 

(太字は底本では傍点「ヽ」)が、この改版では、

 

ああ地獄の月よ

 

と変えられている。これによって、六行後の

 

いたましい地獄の白百合

 

 

蒼ざめた地獄の月

 

と大きく改変されてある。これはシンボライズの大きな改変である。軽々には私にはどちらがよいとも言えぬ。しかし「ゆり」を「月」と変えた暮鳥には、明らかに死の影の囁きがあったのだと私には直観的に思われる

 また、初版の「いたましい地獄の白百合」の次行の「猫よ」も、改版では「病める猫よ」に変えられてある

 なお、初版で特異的に訂した最後から二行目の「いま一どこちらを向いて」(初版は「いま一どこららを向いて」)は正しく「こちら」となっている。]

 

 

 

[やぶちゃん注:溺死者の妻におくる詩四行目が初版は、

 

おんみの生(ライフ)は新しく今日からはじまる

 

だったものが、「ライフ」のルビがなくなり、

 

おんみの「生」は新しく今日からはじまる

 

に変更されている。私は萩原朔太郎なんかが好んでやらかした「生(らいふ)」というルビが生理的に大嫌いなので、この改変は好ましく感ずる。]

 

[やぶちゃん注:大きな腕の詩は初版十一行目の「見やうとすれば忽ちに力は消へてなくなるのだ」の「消へて」が正しい仮名遣に訂されている。これ以外は歴史的仮名遣の誤り(二箇所の「見やう」という誤り)も含めて異同はない。]

 

[やぶちゃん注:先驅者の詩は異同なし。

 初版はこれで「Ⅴ」が終わっているが、改版では初版の次の「Ⅵ」にある故郷にかへつた時が、この「Ⅴ」の掉尾に配されてある。詩篇内容の異同はない。]

 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)始動 (その1)

 

[やぶちゃん注:詩人佐藤春夫(明治二五(一八九二)年~昭和三九(一九六四)年)は慶応義塾大学を中退した後(入学は明治四三(一九一〇)年)、元芸術座の女優川路歌子(本名・遠藤幸子:当時十八歳)と同棲を始め、二人して犬二匹と猫一匹で神奈川県都筑(つづき)郡中里村字鉄(くろがね)(現在の横浜市青葉区鉄町(くろがねちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ))へ移って田園生活を始めた。そこで本作の原型となる「病める薔薇(さうび)」の執筆が開始された。

 現行の「田園の憂鬱」として知られる作品の冒頭五節四十枚が、まず、「病める薔薇」と題して大正六(一九一七)年六月の『黒潮』に発表された(春夫満二十五歳)

 その後、続稿五十枚が完成したが、『黒潮』編集者がその掲載を拒否したため、作者によって原稿は破り捨てられたが、翌大正七年九月、破棄された後半と同じ題材を含む「田園の憂鬱」を完成させて『中外』に発表した

 そうして、先の「病める薔薇」をさらに改作して、この「田園の憂鬱」と繫ぎ合わせて『病める薔薇 或いは「田園の憂鬱」』と題し、天佑社から大正七(一九一八)年十一月二十八日に作品集「病める薔薇」(同作品集は全九篇で、他に本作の前に「西班牙犬の家」、後に「步きながら」「圓光」・「李太白」・「戰爭の極く小さな挿話」・「或る女の幻想」・「指紋」・「月かげ」を収める)に未定稿のまま収録した

 

さらにその翌大正八(一九一九)年八月に更にその未定稿に加筆を行った上、『改作 田園の憂鬱或いは病める薔薇』と題して新潮社から刊行、現在、我々が「田園の憂鬱」として読むそれは、この最後のものを定本としたものである。

 その定稿の「田園の憂鬱」の方は、未だネット上では無料電子化はされていない模様であり、「青空文庫」のそれも未だ「校正中」(二〇一七年四月二十七日現在)で公開されていない(但し、新字旧仮名)。私は定稿の新字新仮名に直したそれを新潮文庫(昭和四二(一九六七)年改版版)で所持しているだけで、正字正仮名本を所持しない。近いうちに「青空文庫」を始めとして、定稿は公開されるであろうから、それを先駆けて気持ちの悪い新字新仮名なんぞで電子化してみても糞面白くもない。されば、ここでは、まず以って電子化されないであろう、大正七(一九一八)年十一月二十八日刊行の作品集「病める薔薇」の天佑社の初版に載る、未定稿である『病める薔薇(さうび) 或は「田園の憂鬱」』を電子化することとした

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの同初版の画像を視認した。底本の歴史的仮名遣の誤り等は総てママである(五月蠅くなるので、いちいち指摘はしない)。底本の傍点「ヽ」は太字とした。また、一部の各段落末にオリジナルな注を附した。その関係から、本文のみを読まれん人のために、注の後及び注が無い段落でも後を一行空けることとした(但し、直接話法の前後は一段落として認めず、原則、空けていない)

 本ブログでの電子化は、今、聊かの試練の中にあるところの、私の愛する春夫を愛する教え子の一人に捧げるものである――【2017年4月27日始動 藪野直史】]

 

 

 

     病める薔薇(さうび)

     
 或は「田園の憂鬱」

 

 

 

    (一九一九年五月作同年十二月改作。

     續篇「田園の憂鬱」一九一八年二月

     作をも含む。未定稿。)

 

[やぶちゃん注:以上は標題紙裏にポイント落ちで中央に記されてある。なお、現行の定稿ではこの改作表示に代わって、

 

I dwelt alone

In a world of moan,

And my soul was a stagnant tide.

                    Edgar Allan Poe

私は、呻吟(しんぎん)の世界で

ひとりで住んで居た。

私の靈は澱(よど)み腐れた潮であった。

        エドガア アラン ポオ

 

という引用(詩篇Eulalie「ユーラリー」の冒頭)がある(前注した新潮文庫版のそれを恣意的に正字化して示した)。因みに、私は本電子化で定稿との異同比較をするつもりは毛頭ない。何故なら、正字正仮名の定稿を私は所持しないからである。但し、注の中でどうしてもその必要を感じた場合は、その限りではない。]

 

 

 

     病める薔薇

  

 

 

 その家は、今や彼の目の前へ現れた。

 

 初めのうちは、大變な元氣で砂ぽこりを上げながら、主人の後になり前になりして、飛びまわり纏はりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になって、彼のうしろに二疋並んで、そろそろ隨いて來るやうになつた頃である。高い木立の下を、路がぐつと大きく曲(まが)つた時に、「あゝやつと來ましたよ」と言ひながら、彼等の案内者である赭毛の太つちよの女が、片手で日にやけた額から滴り落ちる汗を、汚れた手拭で拭ひながら、別の片手では、彼等の行く手の方を指し示した。男のやうに太いその指の尖を傳うて、彼等の瞳の落ちたところには、黑つぼい深綠のなかに埋もれて、ささやかな菅葺の屋根があるのであつた。それは、目眩(めまぐる)しいそわそわした夏の朝の光のなかで、鈍色にどつしりと或る沈着さをもつて光つて居る。

[やぶちゃん注:「纏はり」新潮文庫版には『纏(まつ)』とルビする。

「赭毛」「あかげ」。赤毛。

「菅葺」は新潮文庫版でもこうなっており、『かやぶき』のルビがある。

「鈍色」「にびいろ」。濃い灰色。]

 

 それが彼のこの家を見た最初の機會であつた。彼と彼の妻とは、その時、各各この草屋根の上にさまやうて居た彼等の瞳を、互に相手のそれの上に向けて、瞳と瞳とで會話をした。「いい家のやうな豫覺がある。」「ええ私もさう思うの。」

[やぶちゃん注:底本では、本段落の冒頭は一字空けがないが、誤植と断じて、一字空けた。]

 

 その草屋根を見つめながら步いた。この家ならば、何日か遠い以前にでも、夢にであるか、幻にであるか、それとも疾走する汽車の窓からででもあるか、何かで一度見たことがあるやうにも彼は思つた。その草屋根を焦點としての視野は、實際、何處ででも見出されさうな、平凡な田舍の橫顏であつた。然も、それが反つて今の彼の心をひきつけた。今の彼の憧れがそんなところにあつたからである。彼がこの地方を自分の住家に擇んだのも、亦この理由からに外ならなかつた。

 

 廣い武藏野が既にその南端になつて盡きるところ、それが漸くに山國の地勢に入らうとする變化――言はゞ山國からの微かな餘情を後曲(エピロオグ)であり、やがて大きな野原(のはら)への波打つ前曲(プロロオグ)ででもあるそれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此處にも、其處にも起伏してゝそれが形造るつまらぬ風景の間に、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じて居るあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下(へりくだ)つた草屋根があつた。それはTYHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬へば三つの劇しい旋風の境目に出來た眞空のやうに、世紀からは置放しにされて、世界からは忘れられて、文明から押流されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。

[やぶちゃん注:「其處にも起伏してゝ」定稿(新潮文庫版。以下、この指示は略す)では「ゝ」の部分が読点になっている。底本の誤植が深く疑われるが、暫くママとする。

TYH」しばらく、東京・横浜・府中ととっておく。

 

「旋風」定稿に従うなら「つむじかぜ」。]

 

 一たい、彼が最初にこんな路の上で、限りなく樂しみ、又珍らしく心のくつろいだ自分自身を見出したのは、その年の春も暮になつた或る一日であつた。こんな場所にこれほどの片田舍があることを知つて、彼は先づ愕かされた。しかもその平靜な四邊の風物は彼に珍らしかつた。ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海と嶮しい山とが劇しく咬み合て、その間で人間が微少にしかし賢明に生きて居る一小市街の傍を、大きな急流の川が、その胸の上に筏を長々と浮べさせて押合ひ乍ら荒々しい海の方へ犇き合つて流れてゆく彼の故郷のクライマツクスの多い劇曲的な風景にくらべて、この丘つづき、空と、雜木原と、田と、畑と、雲雀との村は、實に小さな散文詩であつた。前者の自然は彼の峻嚴な父であるとすれば、後者のそれは子に甘い彼の母であつた。「歸れる放蕩息子」に自分自身をたとへた彼は、息苦しい都會の眞中にあつて、柔かに優しいそれ故に平凡な自然のなかへ、溶け込んで了ひたいという切願を、可なり久しい以前から持つやうになつて居た。おゝ!そこにはクラシツクのやうな平靜な幸福と喜びとが、人を待つて居るに違いない。Vanity of vanity, all in vanity!空の空なる哉、すべて空なる哉」或は然うでないにしても‥‥。いや、理屈は何もなかつた。ただ都會のただ中では息が屛つた。人間の重さで壓しつぶされるのを感じた。其處に置かれるには彼はあまりに鋭敏な機械だと、自分自身で考へた。そればかりでない、其處が彼をいやが上にも鋭敏にする。周圍の騷がしい春が彼を一層孤獨にした。「嗟、こんな晩には、何處でもよい、しつとりとした草葺の田舍家のなかで、暗い赤いランプの影で、手も足も思ふ存分に延ばして、前後も忘れる深い眠に陷入つて見たい」といふ心持が、華やかな白熱燈の下を、石甃の路の上を疲れ切つた流浪人のやうな足どりで步いて居る彼の心のなかへ、切なく込上げて來ることが、まことに屢であつた。さうして矢も楯もたまらない、郷愁に似たやうな名づけやうのない心が、何處とも知れぬ場所へ、自分自身を連れて行けとせがむのであつた‥‥(彼は老人のやうな理智と靑年らしい感情と、それに子供ほどな意志とをもつた靑年であつた)

[やぶちゃん注:冒頭の「一たい、彼が」は底本では「一たい、彼か」であるが、誤植と断じ、定稿によって訂した。

「ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼」佐藤春夫は明治二五(一八九二)年四月九日、和歌山県東牟婁郡新宮町(現在の新宮市)に生まれた。

Vanity of vanity, all in vanity!」中世のドイツ生まれの神秘思想家トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis 一三七九年或いは一三八〇年~一四七一年)の書いた「キリストに倣いて」(De imitatione Christi)の一節。本書は〈第二の福音書〉〈中世の最高の信心書〉とも言われ、聖書に次いでカトリック教徒の霊的修練書として広く読まれている。但し、英訳では多くは“Vanity of vanities, all is vanity!”ようである。老婆心乍ら、訳の「空」は無論、総て「くう」と読む。

「いやが上」底本は「いやか上」。定本で訂した。

「石甃」「いしだたみ」。

「屛つた」「つまつた(つまった)」。

「嗟」「ああ」。

 

 その家が、今、彼の目の前に現れた。

 

 道の右手には、道に沿うて一條の小渠があつた。道が大きく曲れば、渠も従うて大きく曲つた。そのなかを、水は雜木林の裾や、柹の畑の傍や、厩の橫手や、藪の下や、桐畑や、片隅にぽつかり大きな百合や葵を咲かせた農家の庭の前などを、流れて行き流れて來るのであつた。巾六尺ほどのこの渠は、事實は田へ水を引くための灌水であつたけれども、遠い山間から來た川上の水を眞直ぐに引いたものだけに、その美しさは溪(たにかわ)と言ひ度いやうな氣がする。靑葉を透して降りそそぐ日の光が、それを一層にさう思はせた。へどろの赭土を洒して、洒し盡して何の濁りも立てずに、淺く走つて行く水は、時々ものに堰かれて、ぎらりぎらりと柄になく大きく光つたり、さうかと思ふと縮緬の皺のやうに纖細に、ぴくぴくと發作的に痙攣するやうに光つたりするのだつた。或は、その小さな閃きが魚の鱗のやうに重り合つた、凉しい風が低く吹いて水の面を滑る時には、其處は細長い瞬間的な銀箔であつた。薄(すすき)だの、もう夙くにあの情人にものを訴へるやうなセンチメンタルな白い小さい花を失つた野茨の一かたまりの叢(くさむら)だの、その外名もないしかしそれぞれの花や實を持つ草や灌木が、渠の兩側から茂り合ひかぶさりかかると、水はそれらの草のトンネルをくぐつた。さうしてその影を黑く凉しく浮べては、ゆらゆらと流れ去つた。或る時には、水はゆつたりと流れ淀んだ。それは旅人が自分の來た方をふりかへつて佇むのに似て居た。そんな時には土耳古玉のやうな夏の午前の空を、土耳古玉色に――或は側面から透して見た玻璃板(がらすいた)の色に映して居るのであつた。快活な蜻蛉は流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身輕く滑走して、時々その足を水にひたして、卵を其處に産みつけて居た。その蜻蛉は微風に乘つて、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで一行を追うやうに從うて居たが、何かの拍子についと空ざまに、高く舞ひ上つた。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい氣輕さが、自分の心に湧き出るのを彼は知つた。さうしてこの樂しい流れが、あの家の前を流れて居るであらうことを想ふのが、彼にはうれしかつた。

[やぶちゃん注:「小渠」「こみぞ」。以下の「渠」も総て「みぞ」と読む。

「灌水」「かんすい」。灌漑用水路。因みに、ネット上のQ&Aサイトを見ていたら、回答の中に本邦で「灌水」という語が使用されるようになったのは昭和四(一九二九)年からであると断定してあるのを見つけた。本底本の刊行は大正七(一九一八)年十一月である。この答えは噓である

「遠い山間から來た」の「遠い」は底本では「遠ひ」となっているが、これは誤植と断じて、定本で訂した。

「赭土」「あかつち」。

「洒し」「さらし」。晒し。

「銀箔」は底本では「銀泊」であるが、これでは意味がとれない。誤植と断じ、定本の「銀箔」に訂した。

「夙くに」「とつくに(とっくに)」。

「土耳古玉」「トルコだま」。トルコ石。ターコイズ(turquoise)。青又は青緑色の鉱物で美しいものは宝石や飾り石にする。ペルシャ原産であるが、トルコを経て欧州へ入ったことからかく呼ばれる。

「時々その足を水にひたして、卵を其處に産みつけて居た」「足」はママ。定本では「尾」に訂正されてある。

 

「子供らしい氣輕さが」底本は「子供らしい氣輕さか」であるが、誤植と断じ、定本で訂した。]

 

 劇しい暑さは苦しい、樂しい、と表現しやうとして木の葉の一枚一枚が、寶玉の一斷面のやうに輝くと、それらの下から蟬は燒かれて居るやうに呻いた。灼けた太陽は、空の眞中近く昇つて居た。併し、彼の妻は、暑さをさほどには感じなかつた。併し、彼の妻から暑さを防いだものは、その頭の上の紫陽花に紫陽花の刺繡のあるパラソル――貧しい婦の天蓋――ではなかつた。それは彼の女の物思ひであつた。彼の女は今步きながら考へ耽つて居る、暑さを身に感じる閑もないほど。かの女は考へた――さうすれば今間借りをして居る寺のあの西日のくわつと射し込む一室から凉しいところへ脱れられる。それよりもあの下卑た俗惡な慾張りの口うるさい梵妻の近くから脱(のが)れられる。さうして、靜に、凉しく、二人は二人して、言ひたい事だけは言ひ、言ひたくない事は一切言はずに暮したい住みたい。さうすれば、風のやうに捕捉し難い海のやうに敏感すぎるこの人の心持も氣分も少しは落着くことであらう。あれほどの意氣込みで田舍を憧れて來ながら、僅ながらも自分の畑の地面をどう利用しやうなどと考へて居るでも無く(それはもとよりさうであらうとは思つたけれども)それよりも本一行見るではなく字一字書かうとするでもなく、何一つ手にはつかぬらしい。さうして若しそんな事でも言ひ出せば、きつと吐鳴りつけるにきまつて居る。それでなくてさへも、もう全然駄目なものと思はれて居る――わけて自分との早婚すぎる無理な結婚の以後は、殊にさう思はれて居るらしい父母への心づかひもなく、ただ浮々と、その日その日の夢を見て暮して居るのである。何時(いつ)、建てるものとも的のない家の圖面の、然も實用的といふやうな分子などは一つも無いものを何枚も何十枚も、それは細(こま)かく細(こま)かく描いて居るかと思うと、不意に庭へ飛び出して、犬の眞似をして犬と一緒になつて、燃えて居る草いきれの草原を這つたり轉げまわつたりして居るかと思へば、突然破れるやうな大聲で笑ひ出したり叫び出したりするこの人は、ほんとうに何か非常に寂しいのであらう。何事も自分には話してはくれないから解る筈もない。何か自分には隱して居るのではなからうか‥‥。彼の女は、五六日前に讀み了つた藤村の「春」を思ひ出した。單純な彼の女の頭には、自分の夫の天分を疑うて見ることなどは知らずに、自分の夫のことを、その小説のなかの一人が、自分の目の前ヘ生活の隣りへ、その本のなかから拔け出して來たかのやうにも思つて見た。あれほど深い自信のあるらしい藝術上の仕事などは忘れて、放擲して、ほんとうにこの田舍で一生を朽ちさせるつもりであらうか。この人は、まあ何といふ不思議な夢を見たがるのであらう‥‥。それにしても、この人は、他人に對しては、それは親切に、優しく調子よくし乍ら、何故かうまで私には氣難かしいのであらう。若しや、あの人のある女に對する前の戀がまだ褪せきらない間に、私はあの人の胸のなかへ這入つて行つて、そのためにあの人はしばらくはあの女を忘れては居たけれども、根強く殘つて居たあの戀が何時の間にか再び自分をのけものにしてまた芽を出したのではなからうか。さうして私にはつらくあたる‥‥今のままでは、さぞかし當人も苦しいであらうが、第一そばに居るものがたまらない。返事が氣に入らないといつては轉ぶほど突きとばされたり、打たれたり、何が氣に入らないのか二日も三日も一言も口を利かうとはしなかつたり‥‥。あの人はきつと自分との結婚を悔いて居るのだ。少くとも若し自分とではなく、あの女と一緒に住んで居たならばどんなに幸福だつたろらうかと、時々、考へるに違ひない。實際あの女は、自分も知つて居るけれども、自分などよりはもつと美しく、もつと優しい。私はあの人があの女をどんなに深く思つて居るかはよく知つて居る‥‥いや、いや、さうではない。あの人はやつぱり彼の人自身で何か別のことを考へ込んで居るのである‥‥

「俺には優しい感情がないのではない。俺はただそれを言ひ現すのが恥しいのだ。俺はさういふ性分に生れついたのだ。」

[やぶちゃん注:「紫陽花に紫陽花の刺繡のあるパラソル」意味が半可通であるがママとする。定本では「紫陽花色に紫陽花の刺繡のあるパラソル」となっていて、躓かずに読める。脱字の可能性が極めて高くはある。

「婦の天蓋」底本に従うならば「をんなのてんがい」。

「彼の女」「かれのをんな」ではなく、「かのぢよ」と読んでいると思われる。定本では「かの女」で、本作では以降に多出するが、これをいちいち別に「かのをんな」と読んでいたのでは、リズムが頗る悪いからである。

「閑」定本では「ひま」とルビする。

「梵妻」「ぼんさい」と読み、僧侶の妻を言う。私は佐藤春夫の詳細年譜を持たないので、判らないが、この時、事実、二人は寺僧の持ち家に間借りをしていたものかも知れぬ。

「僅ながらも」底本では「僅なかがらも」となっている。意味がとれないので衍字と断じ、定本で訂した。

「さうして若しそんな事でも言ひ出せば、」底本は「さして若しそんな事でも言ひ出せば、」であるが、「さして」では意味が通らない。脱字と断じ、定本で訂した。

「浮々と」「うかうかと」。なお、定本では「ただうかうかと――ではないとあの人自身では言つても、とにかくうかうかと――」で、平仮名化し、挿入句が入っている(定本の拗音を普通に戻して表記した)。

「的」定本では「あて」とルビする。

『藤村の「春」』明治四一(一九〇八)年の発表。本底本刊行の十年前に当たる。

「あの女」私は佐藤春夫の事蹟に詳しくないので不詳としておく。

 

「あの人はやつぱり彼の人自身で何か別のことを考へ込んで居るのである‥‥」の「考へ込んで」の「へ」は左へ九〇度に転倒して「く」のように見える。訂した。]

 

 ふと、彼の女は、昨夜、いつになく打解けて彼が語つた時、彼の女にむかつて言つた夫の言葉を思ひ出すと、その言葉を反芻しながら步いた。そうして未だ見たことのない家の間どりなどを考へた。たとひ新婚の夢からはとつくに覺めたころであつても、こんな暑さの下ででも、ただ單に轉居するといふだけの動機で、こんなことを考へて悲しんだり、自ら慰めたりすることの出來るのは、まだ世の中を少しも知らない幼妻(をさまづま)の特權であつたからだ。さうしてそれがまた、あの案内者の女が、喋りつづけに喋つて居るその家の由來に就て、何の興味も持たぬらしく、ただ無愛想に空返事を與へて居るに過ぎなかつた所以ででもある。この案内の女は、その長い暑苦しい道の始終を、ながながと喋りつづけて休まなかつた――この女は自分の興味をもつて居るほどの事なら、他の何人にとつても、非常に面白いのが當然だと信じて居る單純な人人の一人であつたから。

[やぶちゃん注:「未だ」定本ではルビによって「未(ま)だ」と読んでいる。

「空返事」定本では「空」に「そら」とルビする。]

 

 こんな道を、彼等は一里近くも步いた。

 

 さうしてその家は、今、彼等一同の目の前にあつた。

 

 家の前には、果して渠が流れて居た。一つの小さな土橋が、茂るがままの雜草のなかに一筋細く人の步んだあとを殘してその上を步く人人に、あの巾一間あまりの渠を越させて、人人をその家の入口ヘ導く。

 

 入口の左手には大きな柹の樹があつた。さうして、その奧の方にもあつた。それらの樹の自由自在にうねり曲つた太い枝は、見上げた者の目に、「私は永い間ここに立つて居る。もう實を結ぶことも少くなつた」とその身の上を告げて居るのであつた。その老いた幹には、大きな枝の脇の下に寄生木が生えて居た。それに對して右手は、その屋敷とそれの地つづきである桐畑とを區限つて細い溝があつた。何の水であらう、水が涸れて細く――その細い溝の一部分を尚細く流れて男帶よりももつと細く、水はちよろちよろ喘ぎ喘ぎに通うて居た。じめじめとしたところを、一面に空色の花の月草が生え茂つて居た。また子供たちがこんペとうと呼んで居るその菓子の形をした仄赤く白い小さな花や、又赤まんまと子供たちに呼ばれて居る草花なども、その月草に雜つて一帶に蔓つて居た。それはなつかしい幼心(をさなごころ)をよびさます叢(くさむら)であつた。晝間は螢の宿であらう小草のなかから、葉には白い竪の縞が鮮に染め出された蘆が、すらりと、十五六本もひとところに集つて、爽やかな葉を風にそよがせて居るのであつた。屋敷の奧の方から流れ出て來た水は、それらの小草の、莖をくぐつてそれらの蘆の短い節々を洗ひきよめながら、うねりうねつて、解きほぐした絹絲の束のやうにつやつやしく、なよやかに搖れながら流れ出た。さうして、か細く長長しい或る草の葉を、生えたままで流し倒して、それを傳ひながら、それらの水はより大きな道ばたの渠のなかへ、水時計の水のやうにぽたりぽたりと落ちそそいで居た。彼にはこの家の後に湧き立つ小さな淸新な泉がありさうにも感ぜられた。

[やぶちゃん注:「寄生木」「やどりぎ」。本邦に植生するそれは一般的にはビャクダン目ビャクダン科ヤドリギ属ヤドリギ亜種セイヨウヤドリギ亜種ヤドリギ Viscum album subsp. coloratum である。半寄生性灌木で他の樹木の枝の上に生育する。

「月草」「つきくさ」。「空色の花」とあることから判るように、これは所謂、「露草」、単子葉植物綱ツユクサ亜綱ツユクサ目ツユクサ科ツユクサ亜科ツユクサ属ツユクサ Commelina communis の万葉時代以来の古名である。

こんペとうと呼んで居るその菓子の形をした仄赤く白い小さな花」「仄赤く」は「ほのあかく」。これは本文内で植生しているとする場所とその「仄赤」い「白い小さな花」、その花を子らが「こんぺとう」=金平糖と呼んでいること、それらから私が即座に想起する種から、双子葉植物綱ナデシコ目タデ科タデ属ミゾソバ Polygonum thunbergii(又は Persicaria thunbergii)に比定してよいと思われる。ウィキの「ミゾソバによれば、本邦では北海道から九州まで『小川沿いや沼沢地、湖岸などに分布する。 特に稲作地帯などでコンクリート護岸化されていない用水路脇など、水が豊かで栄養価が高めの場所に群生していることが多い』。『今でこそ護岸をコンクリートで固められてしまった場合が多いが、かつて日本各地で水田が見られた頃は、土盛りされていた溝や用水路、小川などの縁に普通に生えており、その見た目が蕎麦に似ていることが和名の由来になっている』。水辺などで三〇~一メートルほどに『生長し、根元で枝分かれして勢力を拡げ』て群生し、『花期は晩夏から秋にかけてで、茎の先端で枝分かれした先に』、直径四~七ミリメートルほどの『根元が白く先端が薄紅色の多数の花を咲かせる』。『なお、他のタデ科植物と同様に花弁に見えるものは萼である』とある(リンク先の写真を参照されたい)。他に「金平糖草」と呼ばれる種はツユクサ亜綱ホシクサ目ホシクサ科ホシクサ属シラタマホシクサ Eriocaulon nudicuspe があるが、こちらは東海地方の一部地域の湿地などに限定して植生する日本固有種で白い金平糖のような花が咲くが、分布域がモデルのロケ地である神奈川では合わないこと、淡い赤色を呈することはないことから除外出来る。

「赤まんま」犬蓼(いぬたで)の別称。ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科 Persicarieae Persicariinae亜連イヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta。「アカノマンマ」は本種の赤い小さな花や果実を赤飯に見立てた異名である。

「蔓つて」「はびこつて」。

 

「葉には白い竪の縞が鮮に染め出された蘆」葉の中央の脈が白くはっきりとしているのは薄(単子葉綱イネ目イネ科ススキ Miscanthus sinensis)か荻(ススキ属オギ Miscanthus sacchariflorus)である。敢えて主人公が「蘆」と言っているところから、後者でとる。]

 

 家の背後は山つづきで竹籔になつて居た。淸楚な竹のなかには素晴しく大きな丈の高い椿が、この竹籔の異端者のやうに、重苦しく立つて居た。屋敷の庭は丈の高い――人間の背丈けよりも高くなつた榊の生垣で取り圍まれてあつた。家全體は、指顧の遠さで見た時にさうであつた如く、目の前に置かれてみても、茂るにまかせた草の上に置かれ、樹樹の枝のなかに埋められてあつた。

[やぶちゃん注:「指顧」(しこ)は、最初に現認して、指さして見た時の、ある程度の、しかし遠くはない「近い距離」の謂い。冒頭二段落目の、案内の女がこの家を指差したシーンのロケーションを指す。

 

 犬は一疋ずつ土橋、の側から下りて行つて、灌水の水を交交に味ふのであつた。

[やぶちゃん注:「土橋、」の読点はママ。

 

「交交」「こもごも」。]

 

 彼はその土橋を渡らうともせずに、三徑就荒と口吟みたいこの家を、思ひやり深さうにしばらく眺めた。

[やぶちゃん注:「三徑就荒」知られた陶淵明の「歸去來辭」の中の一句。「三逕就荒 松菊猶存」(三逕(さんけい) 荒(くわう)に就(つ)けども 松菊(しようきく) 猶ほ存す)。但し、この句だけを独立して示しているから、主人公は「三逕(さんけい)荒(くわう)に就(つ)く」と終止した形で吟じたのかも知れない。但し、定本では「さんけいこうについて」とルビしてある

「口吟みたい」「くちづさみたい」。]

 

 「ねえ、いいぢやないか、入口の氣持が」

 彼はこの家の周圍から閑居とか隱棲とかいふ心持に相應した或る情趣を、幾つか拾ひ出し得てから、妻にむかつてかう言つた。

 「然うね。でも隨分荒れて居ること。家のなかへ這入つて見なければ‥‥」

 彼の妻は少々不安さうに、又、さかしげに氣まぐれな夫をたしなめる妻の口調をもつてさう答へた。併し、すぐ思ひかへして、

 「でも、今のお寺に居ることを思へば、何處だつていいわ。」

 今飮んだ水から急に元氣を得た二疋の犬は主人達よりも一足さきに庭のなかへ跳り込んだ。松の樹の根元の濃い樹かげを擇んだ二足の犬どもは、わがもの顏に土の上へ長長と身を橫へた。彼等は顏を突き出して、下顎から喉首のところを地面にべつたりと押しつけ、兩方から同じ形に顏を並べ合つた。さうして全く同じやうな樣子に體を曲げて、後脚を投げ出した樣子は、いかにも愛らしいシンメトリイであつた。赤い舌を垂れて、苦しげな息を吐き出し乍ら、庭に入つて來た彼等の主人達の顏を無邪氣な上眼で眺めて、靜かに樂しさうに尾を動かしてみせた。いかにも落着いたらしいその姿は、此處はもう自分たちの家だといふ事を充分に知つて居るらしいやうにも、彼には見られるのであつた。

[やぶちゃん注:「わがもの顏」底本は「わかもの顏」。定本に従って濁音表記とした。

 因みに、定本ではここのシーンの最後が心内語で少し継ぎ足されてあり、そこで二匹の犬の名前が「フラテ」と「レオ」であることが判るようになっている。]

 

 案内の女と彼の妻とは、その緣側の永い間閉されて居た戸を開けやうとして、鍵で鍵穴をがたがた言はせて居る。

 

 樹といふ樹は茂りに茂つて、綠は幾重にも積み重つた。錯雜した枝と枝とは網の目になり壁になり、軒になつて、庭はほとんど日かげもさし込まなかつた。土の匂は黑い地面から、冷冷(ひやびや)と湧いて來た。彼は足もとから立ちのぼるその土の匂を、香(かう)を匂ふ人のやうに官能を尖らかせて沁々と味うてみた――ぢやらぢやらと凉しく音を立てゝ居た鍵束の音がやまつて、緣側の戸が開けられるまで。

[やぶちゃん注:「官能を尖らかせて」底本は「官能をらかせて」。読めないので、脱字と断じ、定本で「尖」を補った。]

 

2017/04/26

南方熊楠 履歴書(その18) 勝浦へ向かう

 

 かくて小生舎弟方に寄食して二週間ならぬうちに、香の物と梅干しで飯を食わす。これは十五年も欧州第一のロンドンで肉食をつづけたものには堪えがたき難事なりしも、黙しておるとおいおいいろいろと薄遇し、海外に十五年もおったのだから何とか自活せよという。こっちは海外で死ぬつもりで勉学しおったものが、送金にわかに絶えたから、いろいろ難儀してケンプリジ大学の講座を頼みにするうち、南阿戦争でそのことも中止され、帰朝を余儀なくされたもので、弟方の工面がよくば何とぞ今一度渡英して奉職したしと思うばかりなるに、右ごとき薄遇で、小使い銭にも事をかかす始末、何をするともなく黙しおるうち、翌年の夏日、小生海水浴にゆきて帰る途中小児ら指さし笑うを見れば、浴衣の前破れてきん玉が見えるを笑うなり。兄をしてかかるざまをせしむることよというに、それが気に入らずばこの家を出よと迫る。その日はたまたま亡父母をまつる孟蘭盆(うらぼん)の日なるに、かくのごとき仕向け、止むを得ず小生はもと父に仕えし番頭の家にゆき寄食す。しかるに、かくては世間の思わく悪しきゆえ、また甘言をもって迎えに来たり、小生帰りておると、秋に向かうに随い薄遇ますますはなはだし。ここにおいて、一夕大乱暴を行ないやりしに辟易して、弟も妻も子供も散り失せぬ。数日して、もと亡父在世の日第一の番頭なりしが、大阪で十万円ばかり拵(こしら)へたる者を伴い来たる。この者は亡父の恩を受けしこと大なるに、亡父の死後、親には恩を受けたり子らには恩を受けずなどいい、大阪に止まって、兄が破産せしときも何の世話も焼かざりしものなり。よって烈しくその不忠不義を責めしに、語塞(ふさ)がる。よって、この者のいうままに小生父の遺産を計(かぞ)えしめしに、なお八百円のこりあり、ほしくば渡すべしという。かかる不義の輩に一任して、そのなすままに計えしめてすら八百円のこりありといいしなれば、実は舎弟が使いこみし小生の遺産はおびただしかりしことと思う。しかるに、小生はそんな金をもろうても何の用途もなければとて依然舎弟に任せ、その家で読書せんとするも、末弟なるもの二十六歳になるに父の遺産を渡されず常々怏々(おうおう)たるを見て、これもまた小生同席中弟常楠にかすめられんことを慮り、常楠にすすめて末弟に父の遺産分け与えしめ妻を迎えしめたり。しかるに、小生家に在ってはおそろしくて妻をくれる人なし。当分熊野の支店へゆくべしとのことで、小生は熊野の生物を調ぶることが面白くて、明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候。

[やぶちゃん注:「翌年の夏日」帰国の翌年であるから、明治三四(一九〇一)年の満三十四歳の夏である。本段落の最後に「明治三十五年」とあるが、これは南方熊楠の記憶違いで「明治三十四年である。

「語塞(ふさ)がる」意味がとりにくいが、唾を飛ばして不忠を指弾した後に逆接の接続助詞「に」で、しかもこの後で、「この者のいうままに小生父の遺産を計(かぞ)えしめしに」と続くとなれば、そこでこの男に、悠々と「まあ、まあ、ちょっとそこいらでお話をさせて下さい。」と口を挟まれ、亡父の遺産について「残高を計算を致して見ましょう」(第一の番頭だから相応しいといえば、相応しい)と話を変えられてしまった、ということであろう。義憤の口調から言えば、「話を突如、遮られた。」というニュアンスか。

「末弟」南方楠次郎(明治九(一八七六)年~大正一〇(一九二一)年)。熊楠の弟常楠より六つ下の末弟。後に西村家に入籍した。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の記載によれば、『兄熊楠を尊敬し、熊楠の在外中に蔵書、筆写本の整理に当っている。熊楠も九歳年下のこの末弟をもっとも可愛がり、在英中には楠次郎を呼び寄せて学問をさせたいと常楠に訴えたり、帰国後は自分の目にかけたお手伝いの女性を楠次郎の嫁にと奨めたりしたこともあった』とある。

「怏々」不平不満のあるさま。

「明治三十五年十二月に熊野勝浦港にゆき候」河出書房新社の「新文芸読本 南方熊楠」の年譜によれば、年だけでなく月も誤っている。それによれば、不仲の常楠と離れて、南紀の陸上植物類・藻類・菌類・粘菌類等の調査を始めるために現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(なちかつうらちょう)に向かったのは明治三四(一九〇一)年の十月末のことである。]

「想山著聞奇集 卷の貮」 「辨才天契りを叶へ給ふ事 附 夜這地藏の事」

 

 辨才天契りを叶へ給ふ事

  附 夜這地藏の事

 

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 元田沼家の藩中にて、其後流浪せし何某有。此人若きころ、江の島辨財天を格別に信仰なし、或年、かの嶋へ參籠してつらく思ふ樣(やう)、年頃、斯の如く信心なし奉れども、いか成(なる)尊容の天女にや、正眞(しやうしん)の御姿を拜したてまつらず。何卒、先(まづ)一度尊容を拜し奉り度(たし)と、大願を發し、頻りに其事を念じ奉るに、天女も祈願の切なるを納受(なうじゆ)なし給ひたるにや。或夜、内殿(ないでん)の扉を少し開き、差覗(さしのぞ)きて拜まれさせ給ふ。其御容貌の美敷(うつくしき)御事は申(まうす)迄もなく、寶冠の輝き、御衣(おんぞ)の美麗、見るもまばゆき御有樣にて、しかも女躰(によたい)の御事なれば、威あれども猛くましまさず。さはらば靡(なび)かせもし給はん[やぶちゃん注:「なびかす」は「気の動くままに従わせる」であるから、表面上は「触れなば、それに従って、身をなよなよとなびかせんとする」の意であが、他に「相手を自分の意に従わせる」の謂いもあるから、ここは「あたかも彼に身を任せるかのような媚態のポーズをとって見せる」の意も暗に含んでいる。深読みと思われるならば、以下の展開を読まれよ。]と見あげ奉りしに、更に天女とは思はれ給はず。昔の西施・貴妃などもかゝる有さまにて有しにやと、忽ち懸想(けさう)を發して、夫(それ)よりは晝夜戀(こひ)慕ひ奉りて、忘れ兼(かね)、あはれ拜まれさせましまさゞりしかば、かくの如き妄念をも發す間數(まじき)に、悲しき事とは成(なり)たり。元(もと)、わが誓願の空(むな)しからざるを不便(ひびん)に思召(おぼしめし)、納受なし給ひて、斯(かく)拜(をが)まれさせ給ひたる上は、天女の神通(じんつう)を以て、我等が妄想の切なるをも不便に思召、何卒、一度枕をかはし、深き煩惱を救ひ給へと、其後は晝夜他事(たじ)なく[やぶちゃん注:一つのことに専念して他のことを顧みず。余念なく。]、唯(ただ)此事をのみ祈願なし奉りしに、天女も誓願の切なるを默止兼(もだしかね)給ひたるにや、或夜、寢屋へ忍び來り給ひて託(たく)し給ふは、天女と現ぜし上は、凡夫(ぼんぷ)の如き色情の戲れは思ひもよらざる事なれども、汝が念願の切なるを默止兼て、今宵、願(ねがひ)の如く、一度、枕をかはし遣すべしとて、心よげに寶帶(ほうたい)を解(とき)[やぶちゃん注:単に羽衣のような美しい着衣の帯を解(ほど)くとも採れるが、ここは弁天であるから、被った宝冠の紐を解(と)き、帯を解(ほど)いてであろう。]、錦衣(きんい)の裳(もすそ)を掲げ、莞爾(くわんじ)として夜着の内へ入(いり)給ふ有樣(ありさま)、人間に少しも變らせ給はざれども、其玉顏(ぎよくがん)の美しき事、譬(たとふ)るに物なく、御肌(おんはだ)へのえならぬ匂ひは、伽羅(きやら)・麝香(じやかう)にもまさり、蓬萊(ほうらい)の仙女、上界の天女にも、斯迄(かくまで)の美人は二人とは有間敷(あるまじき)と、氣も魂(たましひ)も奪はれ、覺(おぼえ)なく添臥(そひふし)奉りしに閨中(けいちう)の御有樣は、何も人間に變る事なく、如何にも情相(あひ)細やかにて、首尾殘る所なく、世に珍敷(めづらしき)大望を遂(とげ)たり。然るに凡夫の淺ましさには、逢(あひ)奉りし後は、昔は物をおもはざりけりと敦忠卿の哥(うた)のごとく、彌(いよいよ)やるかたなく、觸(ふれ)奉りたる御肌の匂ひ、幾日も我身に殘りて苦敷(くるしく)、いかなる罪を蒙るとも、今一度の逢瀨を免(ゆる)させ給へと、一筋に慕ひ奉り、晝夜の差別なく念じつゞけたり。然るに又、念願の甚敷(はなはだしき)にや、現來(あらはれきた)り給ひて、再び枕をかはして打解(うちとけ)給ふ。其有さま、初にも增(まさ)りて嬉しく、かはゆく覺え奉りて、いつ迄も盡(つき)せず替らず、契(ちぎり)を籠(こめ)て給へかしと、一づに口説(くど)き續けたるに、天女もうるさくやおはしけん、我等は人間のごとく交りをなすべき身にあらねども、汝が二つなき命にもかへ、只管(ひたすら)、我を祈る心の切なるにめでゝ、一度ならず二度迄も契りを籠(こめ)たるは、汝の妄念を晴(はら)させんためなるに、いつ迄も飽(あく)事のなく、次第に思ひを重ね望(のぞみ)を增(ます)は、さりとは[やぶちゃん注:「これは、まあ! 何と!」。]、汝はわきまへのなき強慾邪淫の罪深き、足(たる)事をしらざるもの也(や)。左程のものとも思はずして、交りをなし、身を穢(けが)したるは、全く我等が誤りなり。よつて、過(すぎ)し節と今宵との汝が精液は、悉く返し戾すなりとて、夜具の上へ打付(うちつけ)給ふて、今より後は、再び我を念ずまじ、若(もし)、此上(このうへ)、念願を懸(かく)るものならば、初め汝が祈誓の如く、二つなき命を亡(なく)し、永く無間(むげん)地獄に墮し遣はすべきぞとの給ひて、天女は消失(きえうせ)給ひたり。是(これ)皆、まさしき事にて、夢にてはなく、殊に打付給ふ夜具の上に、固りる精液の澤山に有(あり)たるは、怪敷(あやしく)とも、恐敷(おそろしく)とも、實(げ)に縮入(ちぢみいり)たる事にて有しとて、後々は懺悔(さんげ)して毎々(しばしば)咄したるを聞(きき)おきたりとて、其(その)昔(むか)し或人の、予が友、内藤廣庭に折々咄したるを、又、予に咄したり。かの江の島の別當岩本院の先祖も、斯(かく)の如く、辨財天に馴染(なじみ)奉りたりとの咄し有て、聞置(ききおき)たれども、昔語りゆゑ、慥成(たしかなる)事を弁(わきま)へ兼(かね)、且は不審も多くて、今記(しる)すことを得ず。續古事談に云(いはく)、張喩(ちやうゆ)と云(いふ)もの有けり。ことのほかのすきもの、又、好色にて有ける。心にふかく風月をもてあそびて、身つねに名所に遊びけり。此人、つたへて貴妃のありさまを聞(きき)て、愛念の心をおこし、見ずしらぬ世の人をこひて、心をくだき身をくるしむ。離宮の深きあとにのぞみては、昔を思(おもひ)て淚をながし、馬㟴(ばくわい)のつゝみのほとりに行(ゆき)ては、いにしへをかなしみて腸をたつ。斯の如く思ひかなしめども、おなじ世に有(ある)人ならねば、いひしらすべきかたなく、徒(いたづら)になげき、徒にこひて、年月をすごすほどに、ある時、夢にびんつら[やぶちゃん注:「みづら(みずら)」に同じい。漢字表記は「角髪・角子・鬟・髻」などで、「みみつら(耳鬘)」の転とされる。上代の男子の髪の結い方の一種で、頭頂で髪を左右に分けてそれぞれ耳の脇で輪を作って束ねた結い方を指す。]ゆひたる童子來(きたり)ていはく、玉妃(ぎよくひ)のめす也、速(すみやか)に參るべしと。夢の中に、心よろこびをなすことかぎりなし。童子を先にたてゝ、やうやう行(ゆく)程に、ほどなく玉妃の宮殿にわたりぬ。たまのすだれを入て、錦のとばりに臨みぬ。玉妃は床(ゆか)[やぶちゃん注:後に掲げる「續古事談」の原典に従った。これは後に「張喩はしもに居たり」とあるように、一段少し高いところに彼女の御座所はあうのである。但し、後のシーンからそこにまた寝台もあるのである。]の上にあり。張喩はしもに居たり。年來の心ざしをのべて、その詞(ことば)、盡(つく)る事なし。玉妃、ねんごろにあはれみ、かたらふこと、人間の女の如し。むつびちかづきて後、其(その)思ひいよいよふかく、玉妃の手をとりてゆかの上にのぼらんとするに、身おもくてたやすく登る事をえず。妃の云く、汝は人間の身也、けがらはしくいやしくして、わが床に登りがたし。張喩、ねんごろにちかづかん事をのぞむ。其時、玉妃、人をよびて、えもいはぬ香湯をまうけて其身を洗浴(せんよく)さしめて後、手を取(とり)て床のうへに登るに、身輕(かろ)くして思ひの如くのぼりぬ。交り臥(ふす)事、よのつねの如し。なつかしく睦間敷(むつまじき)事、すべて言葉も及ばず。別れの思ひ、いまだのべ盡さゞるに、曉(あかつき)の風、やうやくに驚かす。人間(じんかん)にかへらずして、爰(ここ)に止(とど)まらん事を望めども、玉妃さらにゆるす事なし。ゆるさずといへども、その思ひ淺からざるけしき也。後會(こうくわい)を契りて云く、今(いま)十五日有(あり)てそのところ[やぶちゃん注:特定地を秘した意識的ボカシ。]に行(ゆき)て、再びあひみる事をえんと。このちぎりをきゝて後、夢早く覺(さめ)ぬ。別れの淚、枕の上にかわく事なく、空敷(むなしき)床におきゐて泣悲(なきかな)しめども、甲斐なし。其後、十五日を過(すぎ)て、契りし所へ行(ゆき)ぬ。彼(かの)所は廣き野なりけり。野煙(やえん)渺茫(べうばう)として、ゆけどもく人なし。たまたま牧童の一人にあへりけるに、試(こころみ)に是(これ)を問(とひ)ければ、かの童のいはく、けさいまだくらきより此野に有(あり)、朝霧のたへまに、えもいひしらぬ天女一人まみえて、我をよびていはく、是(これ)にもし人をたづぬるもの有(あら)ば、必ず是(これ)をあたへよとて、一通の書を殘して、霧のうちにきえ、雲の中にいりぬ。かの人の示せし人か[やぶちゃん注:「あの不思議な天女が言っていた人はあなたですか?」。]とて、其書を與へたり。是をきゝて、一たびはあはざる事をかなしみ、一度は書を殘せる事を喜ぶ。心を靜めまなこをのごひて、是をひらき見るに、一紙、言葉すくなくして四韻の詩[やぶちゃん注:四箇所の句末で韻を踏む八句からなる律詩。通常、以下のような七言律詩では初句も踏むので五韻であるが、初句は踏まない場合もあり、そもそも「律詩」の大原則を「四韻」とするので問題ない。]を書(かけ)り。その中の一句にいはく、

  天上觀榮雖ㇾ可ㇾ樂  人間集散忽足ㇾ悲

となんありける。人の思ひのむなしからざる事、古今もへだつる事なく、天上・人間もおのづからかよふ。誠に哀れなる事なりと云々。

[やぶちゃん注:「元田沼家の藩中にて、其後流浪せし何某」第九代将軍徳川家重とその子第十代将軍家治に仕え、側用人(明和四(一七六七)年就任)となって権勢を誇った田沼意次は、同年四月を以って二万石の相良(さがら)藩(遠江国榛原(はいばら)郡(現在の静岡県牧之原市))藩主となっている(意次の父意行は紀州藩の足軽に過ぎなかったが、第八代将軍吉宗に従って幕府の旗本となり、嫡子意次の代で異例の出世を遂げた)。天明六(一七八六)年に家治が没し、翌年、第十一将軍家斉(御三卿一橋家当主一橋治済長男で家治の養子となった)は就任、松平定信が老中となると、意次は罷免されて失脚、蟄居・減封が命ぜられ、退隠した意次から家督を継いだ意次の嫡孫田沼意明(おきあき)は陸奥下村藩(信夫郡下村(現在の福島県福島市佐倉下(さくらしも))一万石に転出させられ、相良城も廃城となって天明八年に徹底的に破却されている。その後、相良は天領となったが、文政六(一八二三)年に陸奥下村藩主若年寄田沼意正(意次四男)が相良に一万石の領主として復帰して相良城跡に相良陣屋を構え、幕末まで続いている。本「想山著聞奇集」は想山没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されたものであるから、藩士が「流浪」したからといって、意次失脚・相良藩消滅まで遡ると、六十三年も前の話柄となってしまい、この近過去形の書き出しでは不自然である(と私は思う)。されば、ここは陸奥下村藩主田沼氏というよりも、相良藩復帰後の田沼氏の「藩中」と採る方がより自然であるように思われる。

「江の島辨財天」私の電子テクスト注「新編鎌倉志卷之六」の「江島(えのしま)」を参照されたい。そこでも注したが、この現在の神奈川県藤沢市江の島にある江島(えのしま)神社に祭られているこの弁才天像(元は本尊。現在は辺津(へつの)宮(旧下宮)に祀られてある)は女性生殖器がリアルに彫り込まれていることで知られる、やや童女形の裸形像で、通称「裸弁天」と呼ばれる、妙音弁財天像(鎌倉中期以降の作像と推定されている)である。昭和二十八(一九五三)年芸苑巡礼社刊の堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」によれば、この下宮は建永元(一二〇六)年に宋から戻った慈悲上人良真が将軍実朝に上奏して建てた神社とされ、その弁財天像はそこに良真が建立した宋様の竜宮門の楼上に少女の竜女(乙姫)として造形され、祀られていたものらしい。明治の廃仏毀釈の対象となった折り、誰かが役人の目を盗んで、中津宮の床下に隠し置いて消失を免れたとある。その後、いい加減に管理され、子どもらが生殖器部分を棒で突いたりし、全体も激しく損傷したが、修復されて現在に至っている。なお、当該書は修復前の本像の写真や生殖器の彫琢の細部解説(生殖器の接写写真もあるが惜しいかなマスキングされている)、修復の際の誤謬等、極めて興味深い著作である。一読をお薦めする。]

「伽羅」伽羅(きゃら)油。香木の一つである沈香(じんこう:正しくは沈水香木(じんすいこうぼく))から採取される芳香を持った精油。ウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四と『非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、ワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』とある。

「麝香」「麝香」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus の♂の成獣にある麝香腺(陰部と臍の間にある嚢で、雌を引き付けるために麝香を分泌する)から得られる香料。ウィキの「麝香」によれば、麝香『は雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬の一種で』『ムスク(musk)とも呼ばれる』。『主な用途は香料と薬の原料としてであった。 麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられていたと考えられて』おり、『アラビアでもクルアーンにすでに記載があることからそれ以前に伝来していたと考えられる。ヨーロッパにも』六世紀には知として知られ、十二世紀にはアラビアから実物が伝来したという記録が残る。『甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として極めて重要であった。また、興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされ、六神丸、奇応丸、宇津救命丸、救心などの日本の伝統薬・家庭薬にも使用されているが、日本においても中国においても漢方の煎じ薬の原料として用いられることはない』。『中医学では生薬として、専ら天然の麝香が使用されるが、輸出用、または安価な生薬として合成品が使われることもある』。『麝香はかつては雄のジャコウジカを殺してその腹部の香嚢を切り取って乾燥して得ていた。香嚢の内部にはアンモニア様の強い不快臭を持つ赤いゼリー状の麝香が入っており、一つの香嚢からは』凡そ三十グラム程得られる。『これを乾燥するとアンモニア様の臭いが薄れて暗褐色の顆粒状となり、薬としてはこれをそのまま、香水などにはこれをエタノールに溶解させて不溶物を濾過で除いたチンキとして使用していた。ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地であるが、特にチベット、ネパール、モンゴル産のものが品質が良いとされていた。これらの最高級品はトンキンから輸出されていたため、トンキン・ムスクがムスクの最上級品を指す語として残っている』。麝香の採取のために『ジャコウジカは絶滅の危機に瀕し、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)によりジャコウの商業目的の国際取引は原則として禁止された』。『現在では中国においてジャコウジカの飼育と飼育したジャコウジカを殺すことなく継続的に麝香を採取すること』『が行なわれるようになっているが、商業的な需要を満たすには遠く及ばない。六神丸、奇応丸、宇津救命丸などは条約発効前のストックを用いているという』。『そのため、香料用途としては合成香料である合成ムスクが用いられるのが普通であり、麝香の使用は現在ではほとんどない』。『麝香の甘く粉っぽい香気成分の主成分』はムスコンと呼ばれる物質でこれを〇・三~二・五%程度含有し、ほかに微量成分としてムスコピリジン・男性ホルモン関連物質であるアンドロステロンやエピアンドロステロンなどの化合物を含むが、『麝香の大部分はタンパク質等である。麝香のうちの』約十%程度が『有機溶媒に可溶な成分で、その大部分はコレステロールなどの脂肪酸エステル、すなわち動物性油脂である』。「語源」の項。『麝香の麝の字は鹿と射を組み合わせたものであり、中国明代の『本草綱目』によると、射は麝香の香りが極めて遠方まで広がる拡散性を持つことを表しているとされる』。『ジャコウジカは一頭ごとに別々の縄張りを作って生活しており、繁殖の時期だけつがいを作る。そのため麝香は雄が遠くにいる雌に自分の位置を知らせるために産生しているのではないかと考えられており、性フェロモンの一種ではないかとの説がある一方』、『分泌量は季節に関係ないとの説もある』。『一方、英語のムスクはサンスクリット語の睾丸を意味する語に由来するとされる。これは麝香の香嚢の外観が睾丸を思わせたためと思われるが、実際には香嚢は包皮腺の変化したものであり睾丸ではない』。因みに、『ジャコウジカから得られる麝香以外にも、麝香様の香りを持つもの、それを産生する生物に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。霊猫香(シベット)を産生するジャコウネコやジャコウネズミ、ムスクローズやムスクシード(アンブレットシード)、ジャコウアゲハなどが挙げられ』、『また、単に良い強い香りを持つものにも同様に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。マスクメロンやタチジャコウソウ(立麝香草、タイムのこと)などがこの例に当たる』とある。

「逢奉りし後は、昔は物をおもはざりけりと敦忠卿の哥」権中納言藤原敦忠(延喜六(九〇六)年~天慶六(九四三年)の「拾遺和歌集」(七一〇番歌)の、

 

   題しらず

 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物思はざりけり

 

これは「百人一首」に採られているが、そこでは一般に、

 

 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物思はざりけり

 

とされ、それで人口に膾炙されてしまっている。

「別當岩本院」「新編鎌倉志卷之六」の「江島(えのしま)」の当該条と私の注を引いておく。

   *

巖本院(いはもといん) 島の入口(いりくち)、右の方にあり。客殿に、額、巖本院、朝鮮國螺山書すとあり。此島の別當にて、眞言宗、仁和寺の末寺なり。此島に、下の宮・上の宮・本社とてあり。下宮は下の坊司(つかさ)とり、上の宮は上の司とり、本社は巖本院司とるなり。下の坊と巖本院とは妻帶(さいたい)なり。上の坊は淸僧なり。是を江の島の三坊と云ふ。

[やぶちゃん注:岩本院古くは岩本坊と称し、小田原北条氏が厚い信仰を持った室町期から存在し、江戸期には慶安二(一六四九)年に京都仁和寺の末寺となって院号の使用が許され、島内の全社寺を支配する惣別当となった。後、岩本院と上之坊及び下之坊の間では参詣人の争奪に絡む利権抗争が燻り続けるが、寛永十七(一六四〇)年に岩本院が幕府からの朱印状を入手、まず上の坊を、次に下の坊を支配下に置いた。かくして宿坊営業や土産物を始めとする物産管理、開帳や出開帳等の興業事業の総権益を握り、岩本院には将軍や大名家が宿泊するなど、大いに栄えていた。江の島には三重の塔や弁財天像が祀られていた竜宮門等の建物や仏像があったが、明治の廃仏毀釈令によって破壊されてしまう。]

   *

「内藤廣庭」既出既注であるが、再掲する。不詳。ただ、想山と同時代人の、幕末の国学者で同じ尾張藩に仕えたこともある内藤広前(ひろさき 寛政三(一七九一)年~慶応二(一八六六)年)の初名は広庭である。同名異人か?

「續古事談に云、……」「續古事談」(鎌倉初期(跋文によるなら建保7(一二一九)年)に成立した説話集。先行する同時期の刑部卿源顕兼の「古事談」を受けたものであるが、編者は不詳である)のそれは設定から判る通り、大陸の作品の翻案物で、種本は北宋の秦醇(生没年未詳)の「驪山(りざん)記」「溫泉記」かと推定されている。例によって想山の引用はかなり正確であるが、想山のそれを加工データとして、岩波新古典文学大系版の「古事談・続古事談」の「卷第六 漢朝」当該章(但し、新字体)で校合しつつ、以下に示す。読みは一部にオリジナルに歴史的仮名遣で入れた。

   *

張喩[やぶちゃん注:原典では「張兪」「張愈」とも表記される。]といふもの有けり。ことのほかのすきもの、又、好色にて有ける。心にふかく風月をもてあそびて、身、つねに名所にあそびけり。此人、つたへて貴妃のありさまを聞て、遙(はるか)に愛念の心をおこす。みずしらぬ世の人をこひて心をくだき身をくるしむ。離宮[やぶちゃん注:玄宗が楊貴妃を最初に召し出した温泉のある驪山宮。]の古き[やぶちゃん注:想山は「深き」と誤読している。]あとにのぞみては、昔を思ひて淚をながし、馬嵬(ばくわい)のつゝみのほとりに行ては、いにしへをかなしみてはらわたをたつ。かのごとくおもひかなしめども、おなじ世にある人ならねば、いひしらすべきかたなし。いたづらになげき、いたづらにこひて年月をすごすほどに、あるとき、夢に、みづらゆひたる童子きたりていはく、

「玉妃のめすなり。すみやかにまゐるべし。」[やぶちゃん注:「長恨歌」や「長恨歌傳」等によれば、楊貴妃は仙界に行ってそこでは「玉妃太眞院」などと名乗っていたことになっている。]

と。夢の中の心、よろこびをなす事限なし。童子をさきにたてて、やうやうゆくほどに、程なく玉妃の宮殿にわたりぬ。玉の簾を入(いり)て、錦のとばりにのぞみぬ。玉妃はゆかの上にあり。張喩は下に居たり。としごろのこゝろざしをのべて、その詞つくる事なし。玉妃、ねんごろにあはれみかたらふこと、人間(にんげん)の女のごとし。むつびちかづきて後、其思ひいよいよふかし。玉妃の手をとりて床のうへにのぼらんとするに、身おもくて、たやすくのぼる事をえず。妃のいはく、

「汝は人間(にんげん)の身也、けがらはしくいやしくしてわが床にのぼりがたし。」

張喩、ねんごろにちかづかむ事をのぞむ。そのとき、玉妃、人をよびて、えもいはぬ香湯をまうけて、その身を洗浴せしめて後、手をとりてゆかのうへにのぼるに、身かろくして思(おもひ)のごとくにのぼりぬ。まじはりふすこと、よのつねのごとし。なつかしくむつまじき事、すべて詞も及ばず。わかれのおもひいまだのべつくさざるに、曉の風やうやくにおどろかす。人間(じんかん)にかへらずして、ここにとゞまらん事をのぞめども、玉妃さらにゆるすことなし。ゆるさずといへども、其思ひあさからざるけしきなり。後會を契りていはく、

「今十五日ありて、その所にゆきて、ふたゝびあひみることをえん。」

と。此契(ちぎり)を聞て後、夢早くさめぬ。わかれの淚、枕の上にかわくことなし。空むなしき床におきゐて、なきかなしめども甲斐なし。其後、十五日を過て、契し所へ行(ゆき)ぬ。かの所はひろき野也けり。野煙(やえん)渺茫(べうばう)として、ゆけどもく人なし。たまたま牧童の一人にあへりけるに、こゝろみにこれをとひければ、かの童のいはく、

「けさいまだくらきより此野にあり。朝霧のた絶間(たえま)に、えもいひしらぬ天女一人まみえて、我をよびていはく、『これにもし人をたづぬるものあらば、かならずこれをあたへよ』とて、一通の書を殘して、霧のうちにきえ、雲の中にいりぬ。彼(かの)人の示せし人か。」

とて、その書をあたへたり。これをききて、一たびはあはざる事をかなしみ、一度は書をのこせる事をよろこぶ。心をしづめ。まなこをのごひて、これをひらき見るに、一紙、ことばすくなくして、四韻の詩をかけり。その中の一句にいはく、

  天上觀榮雖ㇾ可ㇾ樂  人間亦散忽足ㇾ悲

[やぶちゃん注:「天上の觀榮は樂しむべしと雖も 人間(じんかん)の聚散(しうさん)は亦(また)悲しむに足る」。岩波版はこのように「亦」であるが、その注に諸本では「人間聚散足ㇾ悲」とあるとあり、想山のそれは誤りではない。その場合は「人間(じんかん)の聚散(しうさん)は忽(すなは)ち悲しむに足る」であろう。]

となむありける。人の思ひのむなしからざる事、古今もへだつる事なく、天上・人間(じんかん)もおのづからかよふ。まことにあはれなる事也。

   *]

 

 

 又、日本靈異記に、和泉國和泉郡血渟上山寺有吉群天女摸像、聖武天皇御世、信濃國優婆塞來住於其山寺、瞻睇之天女像而生愛欲繫ㇾ心ㇾ之、每六時願云如天女容好女賜ㇾ我、優婆塞夢見婚天女像、明日瞻ㇾ之、彼像裙腰不淨染汚、行者視ㇾ之而慚愧言、我願似女、何忝天女專自交ㇾ之、媿不ㇾ語他人【中略】里人聞ㇾ之、往問虛實、並瞻彼像、淫精染穢、優婆塞不ㇾ得隱事而愆具陳語諒委、深信ㇾ之者无感不應也【下略】[やぶちゃん注:底本は一部の返り点が不全なので私が勝手に訂した。]と云々。全く同日の談也。神佛も人の眞實を以(もつて)祈誓するときは、むりなる事にも應じ給ふもの也。まして正直なる事を祈願するにおいてをや。さて是を以て見る時は、小野小町の少將に打解(うちとけ)ざりしを、今の世までもつれなき事にいひつたふるは、うべ成(なる)かな。

[やぶちゃん注:「日本靈異記」「にほんりやういき(にほんりょういき)」は正式には「日本國現報善惡靈異記」で、平安時代初期に書かれた、現在、現存するところの最古の仏教説話集。著者は法相宗大本山である奈良の薬師寺の僧景戒で、上・中・下三巻から成り、原典は変則漢文で書かれている。成立年ははっきりしないものの、序と本文の記載内容から、弘仁一三 (八二二)年 とも推定されている。以上は「中卷」の「生愛欲戀吉祥天女像感應示奇表緣十三」(愛欲を生じ、吉祥天女(きちじやうてんによ)の像に戀ひ、感應して奇表を示す緣(えん)第十三)である。原文(こちらのページのものを加工させて貰った)と書き下し文(板橋倫行氏校注になる角川文庫刊を参考にしつつも、一部を私の訓読ポリシー(助詞・助動詞以外は漢字を用いる)に基づいて漢字或いは平仮名に直し、一部の訓読(「之」の指示語が省かれている等)には従っていない)を示す。読みも一部、追加した。

(原文)

和泉國泉郡血淳山寺、有吉祥天女像。聖武天皇御世、信濃國優婆塞、來住於其山寺。睇之天女𡓳像而生愛欲、繫心戀之、每六時願云、如天女容好女賜我。優婆塞夢見婚天女像。明日瞻之、彼像裙腰不淨染汙。行者視之而慚愧言、我願似女、何忝天女專自交之。媿、不語他人。弟子聞之、後其弟子、於師無禮。故嘖擯去。所擯出里、訕師程事。里人聞之、往問虛實、竝瞻彼、淫精染穢。優婆塞不得隱事而具陳語。諒委、深信之者、無感不應也。是奇異事矣。如涅槃經云「多婬之人畫女生欲」者其斯謂之矣。

(書き出し文)

 和泉(いづみ)の國泉(いづみ)の郡(こほり)血淳(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)有り。聖武天皇の御世、信濃國優婆塞(うばそこ)、其の山寺に來り住む。之(こ)の天女の像を睇(めかりう)ちて愛欲を生じ、心に繫(か)けて之れを戀ひ、六時每(ごと)に願ひて云はく、

「天女のごとき容好(かほよ)き女(をむな)を我に賜へ。」

と。

 優婆塞、夢に天女の像に婚(くがな)ふと見る。

 明くる日、之れを瞻(み)れば、彼(か)の像の裙(も)の腰、不淨に染(し)み汙(けが)れたり。行者、之れを視(み)て慚愧(ざんき)して言はく、

「我(われ)、似たる女を願ひたるに、何ぞ忝(かたじけな)くも天女專(もはら)自(みづか)ら之れに交(まじ)はる。」

と。媿(は)ぢて、他人(ひと)に語らず。

 弟子、(ひそ)かに之れを聞き、後、其の弟子、師に禮(いや)無し。故に嘖(せ)めて擯(お)ひ去る。擯(お)はれて里に出で、師を訕(そし)りて事を程(あらは)す。里人、之れを聞きて、往きて虛實(まことそらごと)ならんを問ひ、竝びに彼(か)の像を瞻(み)れば、淫精、染み穢れたり。優婆塞、隱す事を得ずして具(つぶ)さに陳(の)べ語りき。諒(まこと)に委(し)る、深う信(う)くれば、感の應ぜざる無きことを。是れ、奇異の事なり。「涅槃經(ねはんぎやう)」に云ふがごとく、『多婬の人、畫(か)ける女(ぢよ)に欲を生ず』といふは其れ、斯(か)く、之れを謂ふなり。

   *

「吉祥天女」吉祥天(きっしょうてん)は梵語の「シュリー・マハーデーヴィー」の漢語音写で、仏教の守護神である天部の一人。ヒンドゥー教の女神ラクシュミーが仏教に取り入れられたもので、「功徳天」「宝蔵天女」とも称する。ウィキの「吉祥天によれば、『ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされる。 仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする』。『早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった。 北方・毘沙門天の居所を住所とする。不空訳の密教経典『大吉祥天女十二契一百八名無垢大乗経』では、未来には成仏して吉祥摩尼宝生如来(きちじょうまにほうしょうにょらい)になると説かれる』。『吉祥とは繁栄・幸運を意味し』、『幸福・美・富を顕す神とされる。また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念(吉祥悔過・きちじょうけか)や五穀豊穣でも崇拝されている』。『天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇は天河の上空での天女=吉祥天の舞いを吉祥のしるしととらえ、役行者とともに、伊勢神宮内宮に祀られる女神([天照坐皇大御神荒御魂瀬織津姫)を天の安河の日輪弁財天として祀った。この時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞として、現在にいたるまで、宮中の慶事の度に催されている』とある。仏教の像形では弁財天と並んで極めて女性性を具現したものとして造形されるもので、私は弁財天よりも遙かに好きで、特に浄瑠璃寺の吉祥天立像は私のお気に入りの仏像の一つである。

「和泉の國泉の郡血淳(ちぬ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)有り」参考にした角川文庫版の板橋氏の注によれば、「和泉の國泉の郡」は大阪府泉北(せんぼく)郡であるが、この「血淳(ちぬ)」は不詳であるが、「泉州志」に槇尾山(ここ(グーグル・マップ・データ))に吉祥院の跡があると見え、それであろうとする。「𡓳像(せふざう)」は土で作った像のこと。想山は「摸像」としているが、これは誤読したものかも知れぬ。

「優婆塞(うばそく)」三帰(仏・法・僧の三宝に帰依すること)・五戒(在家信者が守らなければならない基本的な五つの戒めで「不殺生」・「不偸盗(ふちゅうとう)」・「不邪淫」・「不妄語」・「不飲酒(ふおんじゅ)」)を受けて正式の仏教信者となった男子。在家でもよい。因みに女性の場合は「優婆夷(うばい)」と称した。

「睇(めかりう)ちて」流し目で見て。淫猥のさまがよく伝わるいい語彙である。想山はここを「瞻睇」とし二字で「めかりうちて」と訓じているようである。おかしくはないし、そういう版本があるのかも知れない。或いは、彼が「睇」の字が一般的でなく読み難いと感じて、彼が省略した部分に出る「瞻(みる)」(注視して見る)をここに入れて判りやすくしたものかも知れない

「六時每(ごと)」板橋氏の注に、『晨朝、日中、日没、初夜、中夜、後夜をといひ、その時每に佛前に勤行する』こととある。「後夜」は「ごや」で、既に翌日で、現在の凡そ午前二時から午前六時頃を指す。その間に行う勤行をも「後夜」と呼ぶ。

「婚(くがな)ふ」性交する。

「裙(も)の腰」女性が下に穿く現在のスカートに当たる着衣。但し、この場合は彫られたそれであって実際の衣服のそれではない。

「不淨に染(し)み汙(けが)れたり」精液が飛び散って滲みになっているのである。

「慚愧(ざんき)」自己に対して恥じること。

「忝(かたじけな)くも」もったいなくも。

「禮(いや)無し」無礼な振舞いがあった。但し、これは別にそのことを漏れ聴いたから軽蔑して無礼になったというのではないようだ。この弟子自体が天性、そうした無礼な輩であったのであろう。

 なお、本話は「今昔物語集」にも、その「卷十七」で「吉祥天女𡓳像奉犯蒙罸語 第四十五」として引かれてある。以下小学館の日本古典全集を参考にして示す。□は破損部。

   *

 今は昔、聖武天皇の御代に、和泉の國、和泉國の郡の血渟(ちぬ)の上(かみ)の山寺に、吉祥天女の𡓳像(せふざう)在(まし)ます。其の時に、信濃の國より、事の緣有りて、其の國に來れる一人の俗[やぶちゃん注:この場合は在家であった道心者の謂い。後で弟子が出る以上、謂わば相応の修行をした半僧半俗の者であったと考えぬとおかしい。]有りけり。其の山寺に行きて、吉祥天女の𡓳像を見て、忽ちに愛欲の心を發(おこ)して、彼(か)の像に心を懸け奉りて、明け暮れ此れを戀ひ悲しむで[やぶちゃん注:恋い慕って。]、常に願ひて云く、

「此の天女の如くに、形(かた)ち美麗ならむ女(をむな)を、我れに得しめ給へ。」

と。

 其の後(の)ち、此の俗、夢に彼の山寺に行きて、其の天女の𡓳像を婚(とつ)ぎ奉ると見て、夢、覺めぬ。

「奇異也(なり)。」

と思ひて、明くる日、彼の寺に行きて、天女の像を見奉れば、天女の像の裳の腰に、不淨(ふじやう)の婬(いむ)付きて染みたり。俗、此れを見て、過(あやまち)を悔ひ、泣き悲しむで申さく、

「我れ、天女の像を見奉るに、愛欲の心を發すに依りて、『天女に似たらむ女を令得給(えしめたま)へ』と願ひつるに、忝なく□□□身を自らに交(まじ)へ奉る事を怖れ歎(なげ)く。」

と。然れば、此れを恥ぢて、此の事を努々(ゆめゆめ)、他(ほか)の人に語らず。

 而るに、親しき弟子、自然(おのづか)ら竊(ひそ)かに此の事を聞きけり。

 其の後、其の弟子、師の爲めに無禮(むらい)を成す故に、弟子、追ひ被去(さけられ)て、其の里を出でぬ。他の里に至りて、師の事を謗(そし)りて、此の事を語る。其の里の人、此の事を聞きて、師の許(もと)に行きて、其の虛實(こじち)を問ひ、幷びに、彼の天女の像に婬穢(いむゑ)の付きける事を尋ぬるに、師、隱し得る事不能(あたはず)して、具さに陳(の)ぶ。人皆(ひとみな)、此の事を聞きて、

「希有(けう)也(なり)。」

と思ひけり。

 誠(まこと)に懃(ねむごろ)に心を至せるに依りて、天女の權(かり)に示し給ひけるにや。此れ、奇異の事也。

 此れを思ふに、譬(たと)ひ多婬(たいむ)なる人有りて、好(よ)き女(をむな)を見て、愛欲の心を發(おこ)すと云ふとも、強(あなが)ちに念(おもひ)を繫(かく)る事を可止(やむべ)し。此れ極めて無益(むやく)の事也となむ語り傳へたるとや。

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 又、三河國渥美郡豐川村に三明院(さんみやうゐん)と云ふ有(あり)て、大なる堂に辨財天を安置す。靈驗新たなりとて、近隣は申(まうす)迄もなく。遠方よりも步みを運ぶ所とぞ。この三明院より一里程東に賀茂村と云有。此村の馬士(まご)何とやらん云ひしもの、生得(しやうとく)、天然自然の妙音[やぶちゃん注:声がいいこと。]にて、其上、間拍子(まびやうし)もよく、仍(よつて)、馬士歌(まごうた)は至(いたつ)ての上手にて、毎(いつ)も能(よく)諷(うた)ひ步行(ありき)たるよし。此者、或夜、右三明院の邊りを通りけるに、此邊には絶て見馴ぬ類ひまれなる美人彳(たたず)み居(をり)て、此馬士にいひけるは、われは人間にあらず、三明院の辨天也。われ、故有(ゆゑあり)て汝をおもふ事久し、仍(よつて)、今宵、竊(ひそか)に現(あらは)れ出(で)て故にまみゆ、人しれずして契りを結ぶべし、其變りに、汝の生涯を護り、豐かに暮させ申べし、去(さり)ながら、此事、必(かならず)、人に語るべからず、もし聊(いささか)にてももらす時は、卽座に一命を斷(たつ)べし、呉々(くれぐれ)も謹むべしとて、打解(うちとけ)てそひ臥(ふし)給ふ。天女、又、の給ふ樣(やう)、汝、每夜、歸りには馬に乘(のり)、每(いつ)も曲(きよく)節(ふし)面白く歌ひ行(ゆく)。音聲(おんじやう)誠(まことに)に妙にして、久敷(ひさしく)我(わが)心を動(うごか)したり、などゝかたりつゞけ給ひしとなり。然るに輕きものゝはかなさは、わづか二三度逢(あひ)奉りて後、竊に友達に此事を語ると、速(すみやか)に卽死したりとの事。此(この)加茂村にて慥(たしか)に聞來(きききた)りたるものありしが、この聞(きき)たるものゝ意(い)[やぶちゃん注:話の内容。]に、餘り虛(うそ)ら敷(しき)事なりと思ひて、再應(さいわう)、問返(とひかへ)もせずして、心なく聞流(ききなが)しおき、しかも一向(いつかう)古き事にてもなき由なるに、年歷も聞(きか)ず、馬士の名迄も忘れ、今思へば殘念なりと語りしもの有。此時、出(いで)給ひし天女は、頭には寶冠も頂き給はず、身に錦繡も纏ひ給はず、麁服(そふく)[やぶちゃん注:粗末な服。]にはなけれ共(ども)、尋常の女の衣服を着給へりしと也。もしは妖魅狐狸の類(たぐひ)にてはなきか。去(さり)ながら、神佛にも和光同塵(わかうどうぢん)[やぶちゃん注:仏教用語では仏菩薩が本来の威光を和らげて塵に穢れたこの世に敢えて仮りの身を現わし衆生を救うことを言う。]と云(いふ)事あれば、何ともいひがたし。扨(さて)、此この)三明院の辨才天は立像にて、十八九歳の女程(ほど)に見させ給ふと。定(さだめ)て作佛[やぶちゃん注:名人の手になる優れた仏像。]にや有らん、聞(きき)まほし[やぶちゃん注:見に行ってみたいものだ]。例年正月七日やらんに開扉(かいひ)なし、御衣(おんぞ)をとりかへ奉り置(おき)て、翌年、見奉れば、御すそことごとくきれて居るは、常々步行(ほぎやう)なし給ふ故也との事も、衆人口ずさむ事なりと。左も有る事にや。此話、猶、篤(とく)と聞訂度(ききただしたき)ものなり。右邊にては誰(たれ)しらぬものもなきとの事也。全く同日[やぶちゃん注:(先に示した事例と)同様。]の談也。

[やぶちゃん注:「三河國渥美郡豐川村」現在の渥美湾湾奧の愛知県豊川市付近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三明院」これは現在の愛知県豊川市豊川町波通(ここ(グーグル・マップ・データ))にある、曹洞宗龍雲山妙音閣三明禅寺三明寺(さんみょうじ)である。「豊川弁財天」の通称で知られる(本尊は千手観音)。ウィキの「三明寺によれば、寺伝に由ると大宝二(七〇二)年、『文武天皇が三河国に行幸の折、この地で病にかかったが、弁財天の霊験で全快したことから、大和の僧・覚淵に命じて堂宇を建立したのが始まりという』。『以後、真言宗の寺院として続いていたが、平安時代後期、源範頼の兵火により焼失し』、荒廃したが、応永年間(一三九四年~一四二八年)に『禅僧・無文元遷(後醍醐天皇の皇子)が諸堂を復興し、この際に禅宗に改宗し、千手観音を本尊とした。また、三重塔を建立し、大日如来像を安置したといわれる』。享禄四(一五三一)年に『三重塔が再建され』、天文二三(一五五四)年)には『本願光悦により弁財天宮殿が再建される。現存する本堂は』、正徳二(一七一二)年に『岡田善三郎成房により再建されたもの』とある(本書の板行は嘉永三(一八五〇)年であるから、想山はこの記載時には実地検証に出向いてはいないものの、作品内時制の当時のままということになる)。『豊川弁財天、または馬方弁財天と称される弁財天像は、平安時代の三河国司・大江定基が、愛人の力壽姫の死を悼み、力壽姫の等身大の弁財天を自ら刻して奉納したものと伝えられている。弁財天は裸身であり、十二単を着ており』、十二年に一度、『巳年に御衣装替えを行う慣わしがある』。『現在では、三河七福神の霊場の』一『つとして紹介され、安産・芸道・福徳・海運の守護神となっている。毎年』、一月と八月に『開帳される』とある(下線やぶちゃん)。なんだか、行って拝顔したくなってきた。

「賀茂村」現在の愛知県豊橋市賀茂町(かもちょう)。豊川市の東に豊川(河川名)を挟んで存在する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天然自然の妙音」弁財天はしばしば(江ノ島や鶴岡八幡宮のそれ)琵琶を弾く姿で造形されるように、音楽・技芸神として知られ、「大日経」では「妙音天」とか「美音天」と呼ばれている。まさにこの美声の馬子の若者に音楽の神さまであるはずの弁財天の方が惹かれて〈感応〉してしまったわけである。ミューズの霊感に触れた(それはコイツスすることに外ならない)者は実は或いは若死するしかないということをも暗に示しているのであろうか。私は無能無才であったことに感謝しなくてはなるまいよ。]

 

 又、武州入間郡富村【江戸より十里餘西なる】の地藏尊も靈驗新たにして、遠近(をちこち)、步みを步(はこ)ぶ所也。此地藏尊の事を、土俗、富の夜ばひ地藏と云(いひ)て、其(その)名高し。予、此事を其村の長(をさ)たるものに聞試(ききこころみ)るに、夜ばひをなさるゝ故と申(まうす)事に御座候と答ふ。夜ばひとは如何(いかに)なし給ふにやと問ふに、若き女、よき娘など有(ある)所へ御出(おいで)なされ、徒(いたづら)をなさるゝと申ことに御座候と云(いへ)り。然(しか)らば、現在慥成(たしかなる)事の有(あり)たるをしれりやと尋(たづぬ)るに、夫(それ)は存(ぞんじ)申さず、去(さり)ながら、昔より所々にて口々に申(まうし)侍る事故、噓にも有(ある)まじきにやと答(こたへ)て、さだかならざれども、古來、衆口に申侍る事故、何とも申がたし。能(よく)糺し度(たく)おもふのみ。是又、同樣の談なり。

[やぶちゃん注:「武州入間郡富村」埼玉県の旧入間郡内には「上富村」「下奥富村」「水富村」などがあったが、単独の「富村」は捜し得なかった。ところが、川越原人氏のサイト「川越雑記帳」の「川越の仏像・石仏・板碑」の「30 西福寺の石彫り三尊と道標」(この寺は川越市南大塚にある)の記載の中に、この西福寺というのは『天台宗に属し、木ノ宮山地蔵院と号し、川越市南大塚、西武鉄道南大塚駅に近く所在し、西面してたつ。草創の寺歴については不詳』であるが、この寺、現在の埼玉県入間郡三芳町(みよしまち)上富で旧『三芳野富に所在する多福寺とのあいだに木ノ宮地蔵尊の所有権に関して長いあいだの』係争『があって、いつ結審するのか、全く知りえなくなった。かくては寺の信用にもかかり、信徒の参拝もおぼつかないというので、十余年前にようやく和解して多福寺が保存することになったという。木ノ宮山という山号は、多福寺に安置してある地蔵尊はわが所有であるというので木ノ宮の名をつけたという』。『参道の入り口に丸彫り、円頂、立高一・五メートル『の石彫り地蔵尊を安置する。天明七年の造立』とあり、更に『木ノ宮地蔵のお前立が西福寺にあったころは、八月二十三日に祭礼が行なわれ、お祭が終ると、今度は多福寺に移して夜祭りを行なう。お祭りに使用するための大提灯は、今も西福寺につるしてある。多福寺に安置してある木ノ宮地蔵のことを、土地の人は夜這い地蔵と呼んでいるが、その晩に唄う歌詞は色気がすぎて聞くにたえない句ばかりであって、ここに記載することをはばかる』とあるのを見出した(下線やぶちゃん)。多福寺はここで(グーグル・マップ・データ)、その南西(リンク先を航空写真に切り替えて見る限り、境内地内と思われる)に「木ノ宮地蔵堂」があることが判る。私が着目したのはこの多福寺のある場所の、川越原人氏の記載の旧称『三芳野富』である。これは明らかに「三芳野」の「富」であろう。これから推して、この「富村」とはこの多福寺のある、現在の埼玉県入間郡三芳町上富周辺(まさに「中富」も見出せる)と比定してよく、しかも『夜這い地蔵』とくれば、比定は確実である。「三芳町」公式サイトに「木ノ宮地蔵堂」があり、地蔵の写真も出ている(さすがにお役所なれば夜這いのことは一切書かれていないが)。これが夜這い地蔵だッツ! と快哉を叫びかけたところが、株式会社クレインエイトの運営するサイト「妖怪伝説の旅」のこちらに「夜這い地蔵 三芳町」として短文ながら、「想山著聞奇集」を挙げて、この『夜這い地蔵は上富多福寺の地蔵尊のことで、昔、夜な夜な出ては、強盗や追いはぎ、果ては婦女を犯したとまで伝えられています。その結果、村人達の手によって、土中深くに埋められたと言うことです』とある(下線やぶちゃん)。さて? 真相は如何?]

 

 或人、此書を見て評論して云(いはく)。天女の御容貌、餘り美麗にして、しかも其擧動、甚だ婀娜(あだ)たる風情に過(すぎ)給ふは、筆にまかせ、事に過て著述(しるしのべ)たる樣に思はれ、よつて如何成(いかなる)老翁野夫(らうをうやぶ)も此談を讀(よめ)ば、心を動かさゞるはなきやうに思はれて、面白過(すぎ)て却(かへつ)て都(すべ)ての實事を失ふ姿にはなきやといへり。予答て云(いはく)。初(はじめ)、凡例(はんれい)に云置(いひおき)たる如く[やぶちゃん注:本書冒頭の「凡例」のこと。]、惣躰(さうたい)、聞(きく)まゝを違(たが)へざる樣に記すが、予が存念なり。然(しかれ)ども、其咄す人の辯舌に種々有(あり)て、虛實の量りがたき多きまゝ、虛(うそ)と思ひたるは記さず、實(まこと)と思ひたるのみを記す樣にはすれども、別(べつし)て神佛の靈驗には、奇怪に過(すぎ)たりと思ふ程の事もまゝあれども、夫(それ)は猶更、取捨(としすて)なし難きまゝ、兎角、慥成(やしかなる)咄を撰びて其儘に記せるのみ。予も此天女の事は餘り婀娜に過たりと思へども、左にはあらざるか。[やぶちゃん注:本当にそうのように全否定されるものであろうか?」。]山門の發足院の覺深阿闍梨(あじやり)、日光山瀧尾權現の靈託記を具(つぶさ)に記されし後記中に、權現を觀拜(くわんはい)なし奉らるゝ事有。其文に云(いはく)、忽然更見一大杉横伏、其上直立其容顏極高貴尊嚴、年齡十有七八計、垂綠髮於背後、着白杉赤袴、身向北面向ㇾ予、云々。是を以、見る時は、權現の高貴にしてしかも美麗なりし事は、前の天女と全く同樣の御事と思はる。か樣の神々の、凡夫(ぼんぷ)の執欲(しふよく)を濟(すく)はんとて、打解(うちとけ)給ふ程ならば、其有樣、人間にはまさりたまふて、何程(いかほど)書解(かきとく)とて、文筆の及ぶ事にはあらざるか。尤(もつとも)、強(しひ)て實とするにはあらず。理非虛實は見る人の心にまかするのみ。去(さり)ながら、此條は、淫奔(いんぽん)の壯男(そうだん)に理念を興(おこ)さしむるとて書顯(かきあら)はせしにはあらで、誡めんとて記せしもの也。見誤り給ふべからず。

[やぶちゃん注:「山門の發足院の覺深阿闍梨」江戸前期の皇族で真言宗僧であった覚深入道親王(かくしん/かくじん 天正一六(一五八八)年~慶安元(一六四八)年)。後陽成天皇第一皇子。仁和寺第二十一世門跡。「山門の發足院」はよく判らぬが、或いは彼は応仁の乱で焼失していた仁和寺の再建に尽力しているから、「山門」は仁和寺で「發足院」は焼け残っていた「院」家(いんげ:塔頭)の真光院を彼が足場として再興を「発」足(ほっそく)したという意味ではなかろうかなどと妄想した。大方の御叱正を俟つ。

「日光山瀧尾權現」現在の日光二荒山(にっこうふたらさん)神社の別宮滝尾神社。「日光山内」の北の奥の「白糸の滝」付近にある瀧尾神社。ここは弘仁一一(八二〇)年に空海によって宗像三女神の一人である田心姫(たきりびめ/たぎりひめ)を祭神として創建されたという伝説を残す。

「靈託記」不詳。識者の御教授を乞う。

「忽然更見一大杉横伏、其上直立其容肅極高貴尊嚴、年齡十有七八計、垂綠髮於背後、着白杉赤袴、身向北面向ㇾ予」我流で訓読しておく。

忽然として更に一つの大杉の横伏(よこぶせ)なるを見るに、其の上、直立せる其の容顏、極めて高貴にして尊嚴たり。年齡(よはひ)十有七、八計(ばか)り、綠髮を背の後ろに垂らし、白き杉(さん)と赤き袴(はかま)を着(ちやく)し、身、北面に向きて予に向ふ。

誤りがあれば御教授願いたい。]

 

予思ふに、此(この)條に三明院の辨財天と云ふは、恐くは辨財天に非ずして樂音天なるべし。樂音天は妙音天とも云(いひ)て、一切の音聲の事を好み給ふ天女也。仍(よつ)て申酉(さるとり)に配す【西は秋にして聲を司る。[やぶちゃん注:厳密に言えば、「申酉」は西南西」。]】所謂、吉祥天女の事也。故に琵琶を持(もち)給ふ。如何となれは、馬士(まご)の音聲に惚(ほれ)給ひて出現なし給ひたる故也。又、辨財天は障碍(しやうがい)を排ひ給ふ天女ゆゑ、弓矢を持給ひて財寶をも司り給ふゆゑ、辰巳(たつみ)に配當して別女(べつぢよ)なり。然共(しかれども)、繹氏(しやくし)[やぶちゃん注:仏家。]にて所謂辨財天と云は、金光明經(こんくわうみやうきやう)の説にして、則(すなはち)、吉祥天同一躰と云(いへ)り。是は、淨嚴律師の辨天祕訣に議論細密にして、我等如き淺智にて、再び論する事能はざる姿なれども、實は二神とも世に云七福神にして、則、北斗七星の眞形(しんぎやう)也。天の四七の神、地の四九の神、同一物にして、論群多々なれども、此所に辯論する事にあらざれば、略して委敷(くはしく)は論ぜず。何にもせよ、音聲(おんじやう)を慕ひて出現して契り給ふも、甚(はなはだ)の奇事なり。

[やぶちゃん注:ここで想山がいろいろ言っていることは、後代になって、煩雑な仏典解釈の分化の中で生じた同体異称を逆にやったものに過ぎない。しかし、弁財天は多様な分化を示しながらも、また反対に吉祥天や宇賀神その他の様々な神の属性やその存在を吸収しダブらせていったりもした。ここで彼が述べている「七福神」との集合も、ウィキの「弁財天」によれば、たかだか江戸期の新しい考え方で、『近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。室町時代の文献に、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を、天台宗の開祖・最澄が祀ったという伝承があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られている』。『また、元来インドの河神であることから、平安初期から末期にかけて仏僧が日本各地で活躍した水に関する事蹟(井戸、溜池、河川の治水など)に、また日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神の市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、泉、島、港湾の入り口などに、弁天社や弁天堂『として数多く祀られた。弁天島や弁天池など地名として残っていることもある。いずれも海や湖や川などの水に関係している』。『弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることも多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある』とあるのも、ハイブリッド化し、しかも自由自在にメタモルフォーゼしてゆく弁財天の戦略が見えてくる。

「金光明經」「スヴァルナ・プラバーサ・スートラ」の漢訳語。四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つで、本邦では「法華経」・「仁王経」とともに「護国三部経」の一つとされた。参照したウィキの「金光明経によれば、『原題は、「スヴァルナ」(suvarṇa)が「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)が「輝き」、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意』とあり、『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる』。この経典の漢訳は、現存するものではインド出身の曇無讖(どんむしん 三八五年~四三三年)が四一二年から四二一年頃にかけて漢訳したものが最も古いらしい。本邦には古くからこの曇無讖訳の「金光明経」が伝わっていたようであるが、その後、八世紀頃に義浄訳の「金光明最勝王経」が伝わり、鬨の聖武天皇がこれを写経して全国に配布、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立』、それらを別に『金光明四天王護国之寺と称』しているという。

「淨嚴律師」浄厳(じょうごん 寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)は江戸中期の真言宗僧。ウィキの「浄厳」によれば、『河内国の出身。新安祥寺流の祖』。但し、『宗派に関しては』、『彼が公式に「如法真言律宗」という呼称を採用したことから、彼を真言律宗中興の人物として同宗の僧侶とする見解もある』。慶安元(一六四八)年に『高野山で出家し』、万治元(一六五八)年、『南院良意から安祥寺流の許可を受けた。畿内において盛んに講筵を開き、また幕府の帰依を受け』て、元禄四(一六九一)年には第五代『将軍徳川綱吉と柳沢吉保の援助を受けて江戸湯島に霊雲寺を建立した』とある。

「辨天祕訣」弁才天女法の修法が記された浄厳の著作で正しくは「大辯才天祕訣」。国立国会図書館デジタルコレクションのから画像で視認出来る。私しゃ、読む気には毛頭ならぬが、よろしければ、どうぞ。

「七福神にして、則、北斗七星の眞形(しんぎやう)也」七福神が本地でその垂迹(シンボル)が北斗七星だというのであるが、七福神を北斗七星と結びつける解釈は確かにあるものの、安易な同数対応に過ぎない新しいトンデモ説であると私は思う。その証拠に七福神の中の「福禄寿」と「寿老人」(この二人は同一神ともされる)は、同源らしく孰れも道教では北斗星とは対極に配される南極星(現実には相応する星はない)の化身とされる。実際にもとは六福神だったかも知れぬし、地域によってはこれに一人加わる八福神だってある。そんな融通が利くのであれば、厳然たる北斗七星と強いて対応させる必要など、かえって方便の邪魔なだけであろう。

「天の四七の神」底本ではこの右に『(二十八神)』という編者注がある。

「地の四九の神」底本ではこの右に『(三十六神)』という編者注がある。前もこれも命数を挙げてもいいが、私もここの注の最初に述べ、想山も言っているように、これらは所詮、元は「同一物」である。知りたければ、御自分でお調べあれ。]

今度は

ついさっき、今度は三光鳥が鳴き出した。早なぁ、お前は、もう来たのかい……と思ったら、ふっと鳴きやんでしまった――後は若い鶯が、しきりに練習を始めている……

裏山の声――

裏山のコノハズクの声に目が覚めた――午前二時――あれは「仏法僧」とも「仏飯」とも聴こえない――あれは孤独者の見知らぬ友を呼ばう声だ……

2017/04/25

譚海 卷之二 武州玉川菊紋石の事

 

武州玉川菊紋石の事

○武州玉川の邊(あたり)、むら山と云(いふ)あたりより菊紋石をいだす。黑石にして菊花の白き文あり、甚(はなはだ)鮮(あざやか)なり、至(いたつ)てよき石には枝葉迄具(ぐ)し、宛然(ゑんぜん)たる花形を備(そなへ)たるあり。片々(へんぺん)うちくだきても皆然り、玉川水中に産する所の石也。

[やぶちゃん注:「武州玉川」現在の山梨県・東京都・神奈川県を流れる多摩川。

「菊紋石」凝灰岩の中の割れ目に結晶化した方解石が菊の花のように入って紋理を形成したもので、愛石家に珍重される。

「むら山」恐らくは中世の村山党の本拠地で、現在の東京都と埼玉県に跨る狭山丘陵付近の「村山郷」という旧称を多摩川河岸まで拡張した謂いであろう。青梅は菊花石(きっかせき)の産地として知られるから、現在の青梅市から羽村市附近か。

「宛然」まさにそっくりそのままであること。]

 

譚海 卷之二 下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事

 

下野國藥師寺瓦幷武州國分寺・大坂城瓦の事

○下野國萱橋と云(いふ)所は、佐竹五千石の領地也。其郷(がう)に藥師寺村と云有(あり)、往昔(むかし)諸國に藥師寺をおかれたる跡にて、今にその時の瓦時々土中より掘出(ほりいだ)すといへり。又武州甲州道中に、府中六所明神と云有、其近き所に國府寺今に殘(のこり)て有、此瓦も千年の物也。堂の雨(あま)だりに集め積(つみ)て有、好事(かうず)の者取去(とりさる)事あれば病惱(びやうなう)して異(い)有(あり)とて人(ひと)取(とる)事なし。大坂城中にも豐臣太閤築城の時のかわら往々あり、瓦文(かはらもん)に金(きん)をもちて菊桐(きくきり)の紋を燒付(やきつけ)たる物也。同城内に石の手水鉢(てうづばち)あり、甚だ大きなるもの也。本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ。又書院の雨だりに殘らず敷(しき)つめてある石は、三四寸の丸くひらたき石也、太閤の三合石と稱す。是も太閤此石の形を愛せられ、是をもちくるものには米三合づつ給はりにし故其名ありと云。

[やぶちゃん注:「下野國藥師寺」現在の栃木県南部の下野(しもつけ)市南河内地区に地名として薬師寺があり、下野薬師寺遺跡もある。ここ(グーグル・マップ・データ)であろう。ウィキの旧河内郡「南河内町」に『江戸期には佐竹氏、または、旗本・代官の支配地になり、いくつかの村が秋田藩にも属した』とある。「壹橋」は不詳だが、隣接した旧町名に下都賀郡石橋町(いしばちまち)があった。「壹橋」が「いちはし」と読むとすれば「石橋(いしはし/いしばし)」とは音が似通う。

「藥師寺」薬師如来は大乗仏教に於いて病気平癒等の現世利益に効験のある仏として古くから信仰されており、薬師寺と称する寺はかつて各地に建てられた。ウィキの「下野薬師寺跡」によれば、『栃木県南部、鬼怒川右岸に広がる広大な平野上に位置し、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことで知られる。当時、戒壇は当寺のほかに奈良の東大寺と筑紫の観世音寺にしか設けられておらず、これらは「三戒壇」と総称された。そのほか、道鏡が宇佐八幡宮神託事件ののち』、『当寺に左遷されたことでも知られる寺院である』。『下野薬師寺は衰退と中興を繰り返しており、現在は初期寺院跡の発掘調査が進んでいる。また、跡地には安国寺が設けられ、下野薬師寺の法燈を現在に伝えている』。『薬師如来を信仰する「薬師信仰」は、中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる。日本には飛鳥時代までに伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来』、天武天皇九(六八〇)年十一月に、『天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである』。『「下野」(当時は「下毛野」)の文字が六国史に頻出するようになるのもこの頃からで、大和国の薬師寺建立発願』から四年後の天武天皇一三(六八四)年に全国の五十二氏が『天武天皇より朝臣を賜姓され、下野国造家である下毛野君も大三輪君や大野君、上毛野君、中臣連、石川臣や櫻井臣等とともに朝臣姓を賜っている。その数年後以内』『には帰化した新羅人が下毛野国に賦田を受けて居住し始めたと記録されており、創建に関わったとされる直広肆下毛野古麻呂の名も同年』十『月の条に登場する』。『下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられており、『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」』『とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」』『と見える。また、下野市では下野薬師寺は』七『世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしている』。『現在でも「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる』。『発掘調査の結果、出土した瓦が大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから』、七『世紀末の天武朝の創建であると推定されている』。「続日本紀」によれば、天平勝宝元(七四九)年に『全国諸寺墾田地限が定められた折には、奈良の法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺などと並んで』五百町とされたとある。『奈良時代には、僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授ける戒壇が設けられた。当寺は東国の僧侶を担当し、中央戒壇(奈良の國分金光明寺(東大寺)戒壇院)と西戒壇(福岡の観世音寺戒壇院)に対して「東戒壇」とも呼ばれた。これらは「本朝三戒壇」(天下三戒壇、日本三戒壇とも)と総称され、国内の僧侶を統制した』。宝亀元(七七〇)年、『中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、当寺の造寺別当(造寺司の長官)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている』。道鏡は七七二年に当地で没したとされる(近くに墓がある)。『平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。その理由として、当寺は戒壇に拠って存続していて特定の教団を持っていなかったため、戒律軽視の流れに逆らえなかったと考えられている』。それでも「日本三代実録」によると、貞観一六(八七四)年に『平安京紫宸殿において大般若経の伝読』が行われたが、その「金字仁王経」七十一部が五畿七道各国に一部ずつ配布された際、『当寺には大宰府観世音寺および豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)とならび、各国配布分とは別の』一部が配置されており、『東国における当寺の位置付けの高さが窺われる』とある。鎌倉時代の建久四(一一九三)年には源頼朝より供僧三口が『寄せられたほか、鎌倉幕府からの積極的な後援がうかがわれ』、その後も『慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという』。『室町時代、室町幕府は禅宗への帰依が篤くした。戒律・真言に拠る当寺は新たな庇護者を求め、足利尊氏・直義が全国に安国寺利生塔を建てるという意向を容れ』、暦応二(一三三九)年には「安国寺」と改名した。但し、『一般的にはその後も近世まで「下野薬師寺」と呼称されていた』。『戦国時代、後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて堂宇は焼失し、以後威容を取り戻すことはなくなる』。『近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領』十石が寄進されており、『また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領』二十石が寄進された。この二つの寺は天和元(一六八一)年から享保四(一七一九)年にかけて『薬師寺の正統を争う訴訟を起こし』、議論の末、天保九(一八三八)年に、『「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する』『」という合意に達し現在に至っている』という。『発掘調査の結果』、『明らかとなった寺域は東西約』二百五十メートル、南北約三百三十メートルで、『伽藍配置は一塔三金堂で、伽藍中央に塔、そして』、『その北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である』。また、『中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに伽藍東には、伽藍内の塔が焼失した後に改めて建てられた塔があったことが確認され』ているから、これだけの伽藍、瓦もたんと出ようというものである。

「府中六所明神」現在の東京都府中市宮町にある旧武蔵国の総社であった大国魂(おおくにたま)神社。ウィキの「大國魂神社」によれば、『武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」とも呼ばれる』のことであろう。『古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。この長い巡礼を簡単に行えるよう、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの武蔵国の総社にあたる』。『当社は府中市中心部に鎮座するが、「府中」の市名はかつて武蔵国の国府があったことに由来する。当社の境内地がかつての武蔵国の国府跡』で江戸時代も『府中宿の中心部近くにあり、大鳥居から武蔵国分寺や武蔵国分尼寺までの道が整備されていた』。創建は景行天皇四一(一一一)年と伝えられ、『源頼朝が妻の安産祈願をし、また源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝祈願を』したといった伝承もある。因みにここの例祭は、暗闇の中で神輿渡御が行われていたことから「くらやみ祭」と呼ばれ、「ハレ」である当夜は近世まで男女の暗中での交合が許されていた。

「國府寺」昭和五〇(一九七五)年以降の発掘調査によって、先の大国魂神社境内の南北の溝と、旧甲州街道、及び、大國魂神社のすぐ北にある「京所道(きょうづみち)」に挟まれた、南北三百メートル東西二百ネートルの範囲が「国衙」であったことが判明している(以上はウィキの「武蔵国府跡」に拠る)。発掘調査で実際にここに語られている瓦が主要出土品として出ている

「此瓦も千年の物也」武蔵国府は奈良時代初期(平城京への遷都は和銅三(七一〇)年)から平安中期にかけて置かれていたから、良心的に捉えるなら、千年は誇張ではなく、寧ろ正確と言える(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記録である)。

「雨だり」雨だれが落ちる軒下。

「菊桐の紋」実際には豊臣秀吉が朝廷より下賜された桐紋のことであろう。実際に天皇家の菊紋と、それに次ぐとされる桐紋を合体させた紋はない。菊紋は菊を象ったものを装飾化することを許容された程度のもので、正規の家紋として認められたものではない。例えば大坂城天守閣の大棟や大破風などにある通称「太閤菊の紋」などを指しているのであろうが、復元物を見ても、天皇家の菊とは被らないように花弁の数が減らしてあり、デザインも大きく異なる。

「同城内に石の手水鉢あり、甚だ大きなるもの也」不詳(私は大阪城に行ったことがない)。識者の御教授を乞う。

「本願寺在住の時のものにして、繹蓮如といふ文字ほりつけてありとぞ」これは蓮如(応永二二(一四一五)年~明応八(一四九九)年)が京都市山科区にあった山科本願寺の第八世法主であった当時を指す。同寺の建立は文明一五(一四八三)年で、延徳元(一四八九)年に蓮如は五男の実如に本願寺を委譲して実如が第九世となっているが、蓮如はここで入滅しているから、この表現が正確であるとするなら、その六年間に造られた手水鉢ということになる(こちらの本願寺は天文元(一五三二)年に六角氏と法華宗徒によって焼き討ちされて消失した。現在、その跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っている)。]

 

甲子夜話卷之四 5 惠林寺の藏、信玄甲冑の事

 

4-5 惠林寺の藏、信玄甲冑の事

先年、甲州惠林寺の僧、信玄の遺物甲冑等を携て江都に出しことあり。予これを見んことを欲して、月桂寺に往てかの僧に面し、且其戎器を見るに、兵火の燼餘かと疑ひ問たれば、否らず、嘗て此寺兵亂にて燒れし後、甲州神祖の御領となりて、寺御修造あり。そのとき此等の甲冑はもと信玄の遺物なり、長く寺に藏むべしとて、神祖より賜り傳ふとなり。神祖の御文か時の老職の添翰か附てありしと覺ふ。明細に寫して藏め置しが、戊寅の火に燒亡す。可ㇾ惜。

■やぶちゃんの呟き

 前段に続く神祖家康の信玄絡みの逸話。

「惠林寺」(ゑりんじ)は現在の山梨県甲州市塩山小屋敷にある臨済宗乾徳山(けんとくさん)恵林寺。甲斐武田氏の菩提寺である。ウィキの「恵林寺によれば、天正一〇(一五八二)年三月、『織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)によりで武田氏は滅亡する。武田氏滅亡後、織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否したため』、『織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、『碧巌録』第四十三則の偈を発して快川紹喜は火定したといわれる。後代には快川の遺偈(ゆいげ)として広く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺偈として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺偈でなく後世の脚色である可能性を指摘している』。さて、同年六月、『本能寺の変により信長が討たれ、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱を経て三河国の徳川家康が甲斐を領する。武田遺臣を庇護した家康は織田氏による焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)を招き、恵林寺を再建した』とある(下線やぶちゃん)。

「江都」「えど」。

「月桂寺」現在の東京都新宿区河田町にある臨済宗正覚山月桂寺であろう。ウィキの「月桂寺新宿区)によれば、同寺の創建は、寛永九(一六三二)年、市ヶ谷に建てられた庵が基になっているとし、『その後、同庵は当地に移転し、円桂山平安寺とな』り、さらに、『小弓公方家・足利頼純の娘で、豊臣秀吉や徳川家康などに仕えた月桂院の篤い帰依を受けた』。『月桂院からは』百石の『朱印地を受け』、明暦元(一六五五)年に『彼女が死去した際には同寺で葬儀が行われ、寺号も正覚山月桂寺と改めたと言われている』。この寺は『江戸時代には臨済宗の関東十刹の一つに数えられる格式ある寺院になった』とある(下線やぶちゃん)。

「戎器」(じゆうき(じゅうき))は戦さに用いる武器・武具を言う。

「燼餘」「じんよ」。燃え残り。

「否らず」「しからず」。

「燒れし」「やかれし」。前注の織田信忠による焼き討ち。

「寺御修造あり」前注の下線部参照。

「藏む」「をさむ(おさむ)」。収蔵する。

「老職」老中職。

「添翰」「そへかん」と読んでおく。添え状。由来を認めた鑑定証のようなものであろう。

「附て」「つけて」。

「戊寅」「つちのえとら/ぼいん」。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月起筆で、何も冠せずにかく書く以上は、直近の戊寅ということになるから、文化一五・文政元(一八一八)年で、この年、恵林寺は蔵を焼くような大きな回禄に遭ったのであろう。

甲子夜話卷之四 4 甲州初て御手に入て神祖命令の事

 

4-4 甲州初て御手に入て神祖命令の事

甲州神祖の御手に入たる初に、令を出し給には、甲州の政は何事も信玄の致置候所に違ふ可からず。但毒箭を軍用に施し候こと計は、停止たるべしとなり。甲州の人民、立所に神祖の御厚德に伏し奉りしと云。いかさま合戰の勝負は武士の常なり。敵毒を以て人を苦しまするは武の道に非るべし。仰感も餘りある御事なり。

■やぶちゃんの呟き

「神祖」徳川家康。家康は天正一〇(一五八二)年の天正壬午(てんしょうじんご)の乱(甲斐・信濃・上野に於いて行われた主に徳川家康と北条氏直の戦い)後、国主不在(実効支配していた河尻秀隆は本能寺の変後に発生した旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆によって三井弥一郎に天正十年の六月十八日に殺害されていた)となっていた甲斐を支配下に置いた。

「政」「まつりごと」。

「信玄」武田信玄晴信(大永元(一五二一)年~元亀四(一五七三)年)。因みに、彼が父信虎を駿河に追放し、武田家第十九代として家督を相続して甲斐守護も継承したのは天文一〇(一五四一)年六月であった。信玄はさんざん家康を苦しめたが、それだけに戦国武将としての信玄の戦略や戦術は家康のメソッドに対して大きな影響を与えた敵将でもあった。

「但毒箭を軍用に施し候こと計は、停止たるべしとなり」「但(ただし)、毒箭(どくや)を軍用に施(ほどこ)し候(さふらふ)こと計(ばかり)は、停止(ちやうじ)たるべしとなり」。

「敵毒を以て人を苦しまするは」読み方がよく判らぬ。「敵」(かたき)とても「毒を以て人を苦しまするは」の意でとっておく。

「仰感」「ぎやうかん(ぎょうかん)」。仰いで君恩に感ずること。

 

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅳ」パート

 

   Ⅳ

 

[やぶちゃん注:人間の午後は「憂鬱」の「鬱」が「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:雨の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:荷車の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:歡樂の詩は初版の奇体な「自分の目はまつたく葷み」が、「自分の目はまつたく暈み」と「暈」の字で正しく記されてある。]

 

[やぶちゃん注:海の詩は初版の衍字としか思われない「この憂鬱な波のうねりりは」が正しく「うねりは」となっている。但し、「憂鬱」の「鬱」は「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:ザボンの詩初版の四行目「あひよりそうてゐるそのむつまじさ」が「あひよりそふてゐるそのむつまじさ」となっている。]

 

[やぶちゃん注:此處で人間は大きくなるのだは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:郊外にて初版詩篇中の三箇所(一箇所はもともと「麥穗」)の「麥ぼ」が「麥穗」に総て書き変えられてある。]

 

[やぶちゃん注:波だてる麥畑の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:刈りとられる麥麥の詩四行目「麥畑はすつかりいろづき」の「麥畑」が「麥畠」となっている。]

 

[やぶちゃん注:都會にての詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:大鉞は異同なし。]

 

 

 

 一本のゴールデン・バツト

 

一本の煙草はわたしをなぐさめる

一本のゴールデン・バツトはわたしを都會の街路につれだす

煙草は指のさきから

ほそぼそとひとすぢ靑空色のけむりを立てる

それがわたしを幸福にする

そしてわたしをうれしく

光澤(つや)やかな日光にあててくれる

けふもけふとて火をつけた一本のゴールデン・バツトは

騷がしいいろいろのことから遠のいて

そのいろいろのことのなかにゐながら

それをはるかにながめさせる

ああ此の足の輕さよ

 

[やぶちゃん注:初版一本のゴールデン・バツトでは六行目が「そしてわたしをあたらしく」となっている。この改版のそれは黙読しても朗読してみても、「そしてわたしをうれしく」「光澤(つや)やかな日光にあててくれる」とあるのは、表現上、どうみてもおかしい確信犯の改作とすれば、甚だしい改悪と言わざるを得ない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:初版ではここには詩篇記憶についてが挟まっているが、改版ではカットされている。]

 

[やぶちゃん注:收穫の時は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここ(「Ⅳ」のコーダ)に初版では詩篇が配されてあるが、改版ではカットされている。]

 

南方熊楠 履歴書(その17) 自力更生

 

 故菊池大麓男は、小生毎度英国の『ネーチュール』、東京の『東洋学芸雑誌』へ寄書するを読んで、はなはだ小生をほめられたと下村宏氏に徳川頼倫侯が話されたと聞く。この大麓男の言に、英国人は職業と学問を別にする、医者が哲学を大成したり、弁護士で植物学の大家があったりする、人間生活の安定なくては遠大の学業は成らぬということを知り抜いたからと申されし。すべて習慣が第二の天性を成すもので、初め学問を大成せんがために職業を勉めし風が基(もと)となりて、英人は父が職業を勉めた結果、大富人となり、その子は父の余光で何の職業を勉めずに楽に暮らし得る身なるに、なお余事に目をふらずに学問をもっぱら励むもの多し。いわゆる amateur(アマチュール)素人(しろうと)学問ながら、わが国でいわゆる素人浄瑠璃、素人角力と事かわり、ただその学問を糊口の方法とせぬというまでにて、実は玄人(くろうと)専門の学者を圧するもの多し。スペンセル、クロール、ダーウイン、いずれもこの素人学問にて千万の玄人に超絶せるものなり。これを見まねてか literary men(文士)と称するものまた多し。上述の、小生が小便をひっくりかえしたる陋屋の近処ながら、小生のとかわり立派な町通りに住居せし故アンドリュー・ラングなどは、生活のためといいながらいろいろの小説や詩作を不断出し、さて人類学、考古学に専門家も及ばぬ大議論を立て、英人中もっとも精勤する人といわれたり。この人などは大学出の人で多くの名誉学位を帯びたが、博士など称せず、ただ平人同様ミストル・ラングで通せしなり。

[やぶちゃん注:「菊池大麓」(だいろく 安政二(一八五五)年~大正六(一九一七)年)は数学者・教育行政家。男爵。元東京大学理学部教授(純正及び応用数学担当)。江戸の津山藩邸に箕作阮甫(みつくりげんぽ)の養子秋坪の次男として生まれたが、後に父の本来の実家であった菊池家を継いだ。二度に亙ってイギリスに留学、ケンブリッジ大学で数学・物理を学んで東京大学創設一ヶ月後の明治一〇(一八七七)年五月に帰国、直ちに同理学部教授。本邦初の教授職第一陣の一人となった。後の明治二六年からは初代の数学第一講座(幾何学方面)を担任し、文部行政面では専門学務局長・文部次官・大臣と昇って、東京・京都両帝国大学総長をも務めた。初期議会からの勅選貴族院議員でもあり、晩年は枢密顧問官として学制改革を注視し、日本の中等教育に於ける幾何学の教科書の基準となった「初等幾何学教科書」の出版や教育勅語の英訳に取り組んだ。(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。動物学者箕作佳吉は弟で、大麓の長女多美子は天皇機関説で知られる憲法学者美濃部達吉と結婚、その子で元東京都知事美濃部亮吉は孫に当たる。

「東洋学芸雑誌」明治一四(一八八一)年に東洋学芸社から創刊された自然科学を含む月刊誌。日本で最初の学術総合雑誌で、杉浦重剛と千頭(ちかみ)清臣が、井上哲次郎や磯野徳三郎らの協力のもと、その範をまさにイギリスの科学雑誌Natureに採り、啓蒙を目的として編集された。初期には文芸作品も掲載するなどで多くの読者を獲得したが、加藤弘之や菊池大麓を始めとした官学系学者を多用、一八九〇年代半ばからは科学啓蒙誌としての性格を強めていった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「下村宏」(明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は官僚・政治家。歌人としても知られ、佐佐木信綱主宰の竹柏会に所属して『心の花』に多くの作品を発表、生前に五冊の歌集をものしている。号は海南。ウィキの「下村宏」によれば、『玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られている』。南方熊楠と同じく『和歌山県出身』で、『和歌山中学、第一高等学校から東京帝国大学を卒業』後、明治三一(一八九八)年に『逓信省へ入省。郵便貯金の実務を学びにベルギーへ留学』、帰国後は為替貯金局長から台湾総督府の明石元二郎に招かれて民政長官となり、更に総務長官となった。大正一〇(一九二一)年に『台湾総督府を退官』して『朝日新聞社に入社、専務・副社長を歴任した』。昭和一二(一九三七)年には『貴族院議員に勅選され、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任』。昭和一八(一九四三)年、『社団法人日本放送協会会長となり』、敗戦の年の四月に組閣された『鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)となる。終戦直後戦犯として一時拘留された後に公職追放を受け、東京商業学校』(後に私立東京学園高等学校)『の運営に関わ』ったりした。

「徳川頼倫」(よりみち 明治五(一八七二)年~大正一四(一九二五)年)紀州徳川家第十五代当主で侯爵・貴族院議員。田安徳川家第八代当主徳川慶頼六男として東京に生まれた。明治一三(一八八〇)年に紀州徳川家第十四代当主(旧和歌山藩主)であった徳川茂承(もちつぐ)の養子となった。学習院に入学したものの、成績不振のため、中等学科を中退、山井幹六の養成塾に入っている。明治二九(一八九六)年、イギリスのケンブリッジ大学に留学して政治学を専攻、この留学中に南方熊楠と知り合い、彼の案内で大英博物館を見学したり、熊楠を介して孫文とも逢っている。明治三十一年に帰国、明治三十五年四月に東京市麻布区飯倉町(現在の東京都港区麻布台)の邸内に私設図書館。南葵(なんき)文庫を設立している。明治三九(一九〇六)年、徳川茂承の家督を継いだ。大正二(一九一三年に日本図書館協会総裁、大正一一(一九二二)年には宮内省宗秩寮(そうちつりょう:旧宮内省に所属した一部局で、皇族・皇族会議・華族・爵位などに関する事務を職掌した)総裁となっている(以上は人名事典等の複数の記載を参考に纏めた)。

「スペンセル」イギリスの哲学者・社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。一八五二年にThe Developmental Hypothesis(発達仮説)を、一八五五年にPrinciples of Psychology(心理学原理)を出版後、「社会学原理」「倫理学原理」を含むA Systemof Synthetic Philosophy(『総合哲学体系』一八六二年から一八九六年までの三十五年をかけて完成させるなど、多くの著作をものした。これらの著作はかれの“evolution”(「進化」)という着想に貫かれており、現在のダーウィニズムの「進化」という概念や、我々がダーウィン(Charles Robert Darwin 一八〇九年~一八八二年)は、の言葉と誤解している“survival of the fittest”(「適者生存」)という言葉は、実はダーウィンの進化論発表の直前に示された彼スペンサーによる概念及び造語である。一八八〇年から九〇年代の明治期の日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、『スペンサーの時代』と呼ばれるほどで、一八六〇年に出版されたEducation(教育論)は、尺振八の訳で明治一三(一八八〇)年に「斯氏教育論」と題して刊行され、『スペンサーの教育論』として人口に膾炙した。また、その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた(以上は主にウィキの「ハーバート・スペンサー」に拠った)。

「クロール」不詳。並列される人物と年順が齟齬するが、或いは、イギリスの牧師でアマチュア鉱物学者でもあったウィリアム・グレゴール(William Gregor:一七六一年~一八一七年:姓の音写は「グレガー」とも)か? ウィキの「ウィリアム・グレゴール」(及び同英文他)によれば、イングランド南西端のコーンウォール(Cornwall)での『牧師の時代に、鉱物の収集と分析を行い、アマチュアながら優れた分析技術をもつ鉱物学者となった。コンウォールの彼の教区内のメナカン谷』(Manaccan valley)『から採取した磁性の砂の中にこれまで知られていない元素の酸化物があることを発見』、一七九一年にmanaccanite(メナカナイト)と命名して『論文にした』が、その四年後の一七九五年、ドイツの化学者マルティン・ハインリヒ・クラプロート(Martin Heinrich Klaproth 一七四三年~一八一七年:彼は他にもウラン・ジルコニウム・セリウム・テルルの発見や、それらの幾つかの元素の命名者でもある)が『別の鉱石から発見し』、「チタン」チタン(ドイツ語:Titan/英語:titanium/ラテン語:titanium:原子番号二十二。元素記号Ti)と『命名した金属と同じ物であったことが』後に証明されたことから、「チタン」の発見者ともされる。『グレゴールは風景画、エッチング、音楽にも才能を示した』とあり、如何にも熊楠好みの人物ではある。

「アンドリュー・ラング」(Andrew Lang 一八四四 年~一九一二年)はスコットランド生まれの詩人・作家・民俗学者。七冊の詩集の他、イギリス・ヴィクトリア朝を代表する詩人テニソン(Alfred Tennyson 一八〇九年~一八九二年)の伝記や、処刑された悲劇のスコットランド女王メアリー・ステュアート(Mary Stuart 一五四二年~一五八七年)の研究書、その他、小説など六十巻を超す著作があるが、Custom and Myth(「習慣と神話」 一八八四年)・The Making of Religion(「宗教の起源」 一八九八年)等の文化人類学的業績、ホメロスの「オデュッセイア」(一八七九年)・「イーリアス」(一八八三年)などの翻訳が有名で一八七八年には「イギリス民俗学会」の設立にも尽力し、神話伝承の研究の先駆者としても知られているが、本邦では専ら、「アンドルー・ラング世界童話集」(Andrew Lang's Fairy BooksAndrew Lang's "Coloured" Fairy Books:童話を収集した十二冊の双書の総称。ラングが収集した広範囲な伝承民話集。ウィキの「アンドルー・ラング世界童話集」を参照されたい)の編著者としての方が馴染み深い。

「ミストル」“Mr.”。]

 

 しかるに、わが邦には学位ということを看板にするのあまり、学問の進行を妨ぐること多きは百も御承知のこと。小生は何とぞ福沢先生の外に今二、三十人は無学位の学者がありたきことと思うのあまり、二十四、五歳のとき手に得らるべき学位望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学し和歌山中学校が最後の卒業で、いつまで立ってもどこ卒業ということなく、ただ自分の論文報告や寄書、随筆が時々世に出て専門家より批評を聞くを無上の楽しみまた栄誉と思いおりたり。しかるに国許(もと)の弟どもはこれを悦ばず、小生が大英博物館に勤学すると聞いて、なにか是の博覧会、すなわちむかしありし竜(たつ)の口の勧工場(かんこうば)ごとき処で読書しおることと思いおりたるらしく、帰朝の後も十五年も海外におりて何の学位をも得ざりしものが帰ってきたとて仏頂面をする。むかしも尾張の細井平洲は四方に遊学せしが、法螺だらけの未熟な教師に就いたところが、さしたる益なしと悟って、多く書籍を買い馬に負わせて帰り、それで自修してついに大儒となれりと申す。こんなことは到底、早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟には分からず。いわんや、平凡なむかしの和歌山の女学校ぐらいを出たきりの、弟の妻には分からぬこと一層にて、この者ども小生を嫌うことはなはだしく、というと学問方法上の見解の差異のごとくで立派だが、実は小生は不図帰朝したので、小生が亡父より譲られた遺産墨弟が兄の破産の修繕に藉口して利用したるを、咎められはせぬかとの心配より出でし小言と後に知れ申し候。

[やぶちゃん注:「福沢先生」福澤諭吉(天保五(一八三五)年~明治三四(一九〇一)年)は摂津国大坂堂島浜(現在の大阪府大阪市福島区福島)にあった豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士福澤百助次男として生まれ、安政元(一八五四)年、十九の時に長崎へ遊学して蘭学を学んだ。以下、ウィキの「福澤諭吉」によれば、翌年、大坂を経て江戸へ出る計画を強行するも、兄から制止され、医師で蘭学者の緒方洪庵の「適塾(適々斎塾)」で学ぶこととなった。しかし腸チフスに罹患、回復後は一時、中津へ帰国している。安政三年、再び、大坂へ出て学んだ。同年には兄が死んで福澤家の家督を継いだものの、『遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書』『を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととな』った。安政四年には最年少二十二歳で『適塾の塾頭とな』っている。『適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた』。但し、生来、『血を見るのが苦手であったため』、『瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある』。『幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか』四十石の『勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで』、安政五年に『諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられ』、『江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾』『の講師となるために』『江戸へ出』た。『築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた』。『この蘭学塾「一小家塾」が後の学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている』。『元来、この蘭学塾は佐久間象山の象山書院から受けた影響が大き』かったという。安政六年、『日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこでは専ら英語が用いられており、諭吉自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影が無いことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった』。『諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだ後、蕃書調所へ入所した』ものの、『英蘭辞書が持ち出し禁止だったために』たった一日で退所している。安政六(一八五九)年の冬、『日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣すること』となり、万延元年一月十九日(一八六〇年二月十日)、『諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立』った。この辺りまでが、彼の本邦での福澤の修学時代で、以降の事蹟詳細はリンク先を参照されたが、この渡米からさらに渡欧して各国を視察して帰国、「西洋事情」(慶応二(一八六六)年から明治三(一八七〇年刊)を刊行して欧米文明の紹介に努め、芝新銭座に「慶應義塾」を創設、活発な啓蒙活動を展開、「学問のすゝめ」(初版は十七編で、明治五(一八七二)年から四年に亙って断続的に出版された)はベスト・セラーとなった。また『時事新報』を創刊、政治・時事・社会問題や婦人問題など、幅広く論説を発表した。

「二十四、五歳のとき手に得らるべき学位望まず、大学などに関係なしにもっぱら自修自学し和歌山中学校が最後の卒業」徹底した独立自尊を訴えるための見かけ上の自己韜晦であるが、既に冒頭で彼は「明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて、それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成蹟よろしからず。十九年に病気になり、和歌山へ帰り、予備門を退校して、十九年の十二月にサンフランシスコヘ渡りし」と記しているので嘘というのではない。南方熊楠は和歌山中学を卒業後、上京して共立学校で高橋是清から英語を学び(またこの頃、既に菌類研究への本格的意思が芽生えた)、翌明治一七(一八八四)年九月に東京大学予備門の入試を受けて合格、入学している(同期に夏目漱石・正岡子規・山田美妙らがいた)。しかし、翌年十二月には試験に落第し、明治一九(一八八六)年二月に帰省し、退学となった。渡米はその年の十二月二十二日であった。

「竜(たつ)の口の勧工場(かんこうば)」近代日本の百貨商品陳列所明治一〇(一八七七)年に上野公園で「第一回内国勧業博覧会」が開催されたが、その閉会後、出品者に売れ残りの品を返却したものの、出品者の希望があって、その一部を残留陳列して販売することとなり、翌年、商工業の見本館が開設された。これが「勧工場(かんこうば)」の始まりとなった。最初の開設場所には麹町辰ノ口(たつのくち)にあった旧幕府伝奏屋敷の建物を当てた。

「細井平洲」(ほそいへいしゅう 享保一三(一七二八)年~享和元(一八〇一)年)は儒学者。尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の農家に生まれた。本姓は紀氏。ウィキの「細井平洲」によれば、『幼くして学問に励み』、十六の時に『京都に遊学するが、当時』、有為な学者は殆んどが『江戸幕府や諸藩に引き抜かれていた』ため、失望、帰郷した。この時、『尾張藩家老竹腰氏家臣の子で折衷学派の中西淡淵が名古屋にも家塾の叢桂社を開くことを知り、そのまま師事する』。『後に中西の薦めにより』延享二(一七四五)年に『唐音研究のために長崎に遊学』。宝暦元(一七五一)年二十四歳の時、『江戸へ出て嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開き、武士だけでなく、町民や農民にもわかりやすく学問を広めた。また、西条藩・人吉藩・紀伊藩・大和郡山藩等の藩に迎えられ』、宝暦一三(一七六三)年、『上杉治憲(後の鷹山)の師とな』った(『治憲は後に米沢藩主となり、米沢藩が財政再建を成功させたことは有名』)。明和八(一七七一)年、米沢藩在国を一ヶ年とすること、神保綱忠らを付き添わせること等を条件として、月俸十人扶持を与えられ、『米沢藩の江戸におけるお抱え文学師範となって米沢に下向した』(この時と併せて三次に渡って米沢に下向、講義を行っており、藩校「興譲館」は平洲が命名している)。安永九(一七八〇)年五十三歳の時、御三家筆頭の『尾張藩に招かれ、藩校・明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)の督学(学長)になった』。寛政八(一七九六)年六十九歳の時には第三次の米沢下向を実現しているが、『この時、鷹山は米沢郊外の山上村関根(米沢市関根)まで師を出迎え、普門院にて旅の疲れをねぎらった。これは当時の身分制度を超えた師弟の姿として江戸時代中から知れ渡り、明治時代以降は道徳の教科書にも採用された』。『平洲が遺した言葉として、米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に送った「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」がある。要は「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味である』。山形県米沢市丸の内にある松岬(まつがさき)神社には藩主上杉鷹山とともに彼も祀られている、とある。

「早稲田大学(むかしの専門学校)ぐらいを出た舎弟」弟南方常楠のこと。常楠は卒業と同時に、父弥兵衛とともに酒造業を起こしたことは既に述べた。

「不図」「ふと」。予告もせずに急に。

「藉口」「しゃこう」と読む。何かにかこつけること。口実をもうけて言い訳をすること。]

 

2017/04/24

柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その2) / 「妖魅の會合」~了



 唐の貞元中、大理評事韓生なる者も駿馬を飼つてゐたが、或朝馬丁が厩舍に行つて見ると、馬は首を垂れ、汗びつしよりになつて喘いでゐる。非常な遠距離を疾驅したものの如くであつた。韓生は馬丁の報告を聞いて非常に怒り、夜ひそかに我が馬を盜み出して、そんなに疲弊させたのは何者だと云ひ、馬丁は苔で打たれたが、翌日も馬の疲勞してゐることに變りはない。馬丁は怪訝(けげん)に堪へず、その夕方は厩舍の戸を悉く閉ぢ、自分は中に入つて樣子を窺ふことにした。韓生の家には黑犬が一疋飼はれてゐたが、それが厩舍の戸に近付いて、且つ吠え且つ躍るやうにしてゐたかと思ふと、忽ち化して黑衣の一壯漢となつた。衣冠の類もすべて眞黑である。鞍を置き馬に跨がつて門のところに至り、世間並より遙かに高い門の垣を、一鞭くれて躍り越えた。黑衣の人はそのまゝいづくともなく駈り去つたが、何時聞かたつて戾つて來ると、先づ馬から下りて鞍を解く。黑衣の人はまた犬に逆戾りするのである。馬丁は仰天したけれど、誰にも話さず、依然注意を怠らなかつた。一夕黑犬が人に化し馬に乘つて去り、明け方近く歸つて來たのを見て、馬丁はその足跡を尋ねることにした。丁度雨あがりだつたので、蹄の跡は歷々と地に印されてゐる。南方十餘里の地點にある古墓の前で足跡は盡きた。馬丁は犯人を突き止めた探偵のやうに、この墓の側に小さな小屋を作り、先づこゝに來て張り番してゐると、果して夜になつて黑衣の人は馬に乘つてやつて來た。馬を下りて樹に繫ぎ、墓の中に入つて行く。墓の中には大勢居る樣子で、賑かに談笑してゐる。馬丁は小屋の中に俯伏しになつて、ぢつとその話を聞いてゐたが、暫くして黑衣の人は暇を告げて去らうとする。何人かぞろぞろ送つて出て墓の中は空になつた。褐色の衣を著た人が黑衣の人を顧みて、韓氏の名籍は今どこに在るか、と云ふ。あれは擣練石(きぬたいし)の下に隱して置きました、御心配御無用です、と答へてゐる。褐衣の方はまだ氣になる樣子で、用心して人に知られるなよ、知られると吾々の破滅だからな、と盜賊團めいたことを云つてゐたが、話を轉じて、時に韓氏の赤ン坊はまだ名が付かぬか、と聞き出した。あれはまだです、付いたら早速名籍に書き入れます、決して忘れあしません、などと云ふ。愈々以て探偵小説氣分が濃厚である。それでは明日の晩また來い、ゆつくり話さう、と褐衣の人が云ふのを最後に、黑衣の人は歸つて行つた。馬丁も明け方に家に還り、逐一韓生に密告に及んだ。韓生はじめて事の次第を知り、先づ肉を以て黑犬を誘ひ、出て來たところを縛つてしまつた。次に擣練石の下を調べて見たら、果して一軸の書があつて、韓氏の兄弟妻子から雇人に至るまで、洩れなく名前が記されてゐる。これが韓氏の名籍なるもので、一月ほど前に生れた子供だけが記されてゐない。犬は庭前に於て撲殺され、その肉は烹て雇人達に食はしめた。更に近郷の人を驅り催して、手に手に武器を携へ、郡南の古墓をあばいて數疋の犬を退治した。彼等はそれぞれ異つた毛色をしてゐたと「宜室志」にある。黑犬が突如として黑衣の人に化するあたりは、「西斑牙犬の家」(佐藤春夫)の趣があるが、あゝいふ超然たる存在ではない。彼等はどうしても惡黨の集團で、韓氏の名籍などを拵へ、何か惡事をたくらみつゝあつたとしか考へられぬ。

[やぶちゃん注:「貞元」七八五年~八〇五年。

「大理評事」大理寺(中央政府で裁判を扱うのはここと審刑院と刑部で、この三機関を「三法司」と呼んだ)の属官で、地方に派遣されて裁判の審理を掌り、断獄の際の連署を任とした。

 以上は「太平廣記」の「畜獸五」に「韓生」として「宣室志」から引いてある。

   *

唐貞元中、有大理評事韓生者、僑居西河郡南。有一馬甚豪駿。常一日淸晨、忽委首于櫪、汗而且喘、若涉遠而殆者。圉人怪之、具白于韓生。韓生怒。若盜馬夜出、使吾馬力殆、誰之罪。乃令朴焉。圉人無以辭。遂受朴。至明日、其馬又汗而喘。圉人竊異之、莫可測。是夕。圉人臥於廐舍。闔扉、乃於隙中窺之。忽見韓生所畜黑犬至廐中。且嘷且躍。俄化爲一丈夫、衣冠盡黑、既挾鞍致馬上、駕而去。行至門、門垣甚高、其黑衣人以鞭擊馬、躍而過。黑衣者乘馬而去、過來既。下馬解鞍。其黑衣人又嘷躍。還化爲犬。圉人驚異、不敢洩于人。後一夕、黑犬又駕馬而去、逮曉方歸。圉人因尋馬蹤、以天雨新霽、歷歷可辨。直至南十餘里。一古墓前、馬跡方絶。圉人乃結茅齋於墓側。來夕、先止於齋中。以伺之。夜將分、黑衣人果駕馬而來、下馬、繫于野樹。其人入墓、與數輩笑言極歡。圉人在茅齋中、俯而聽之、不敢動。近數食數頃、黑衣人告去。數輩送出墓外至於野、有一褐衣者。顧謂黑衣人曰、「韓氏名籍今安在。」。黑衣人曰、「吾已收在擣練石下。吾子無以爲憂。」。褐衣者曰、「慎毋泄、泄則吾屬不全矣。黑衣人曰、「謹受教。」。褐衣者曰、「韓氏稚兒有字乎。」。曰、「未也、吾伺有字、即編于名籍、不敢忘。」。褐衣者曰、「明夕再來、當得以笑語。」。黑衣唯而衣唯而去。及曉、圉者歸、遂以其事密告於韓生。生即命肉誘其犬。犬既至、因以繩系、乃次所聞。遂窮擣練石下。果得一軸書、具載韓氏兄弟妻子家僮名氏。紀莫不具、蓋所謂韓氏名籍也。有子生一月矣、獨此子不書、所謂稚兒未字也。韓生大異、命致犬于庭、鞭而殺之。熟其肉、以食家僮。已而率隣居士子千餘輩。執弧矢兵仗、至郡南古墓前。發其墓、墓中有數犬、毛狀皆異、盡殺之以歸。

   *

 この話、本邦文人間ではかなり好まれている(?)ようで、南方熊楠は、かの名著「十二支考」の「犬に関する伝説」(大正一一(一九二二)年『太陽』初出)で、

   *

唐の貞元中大理評事韓生の駿馬が、毎日櫪中(れきちゅう)で汗かき喘(あえ)ぐ事遠方へ行きて疲れ極まるごとき故、圉卒(ぎょそつ)が怪しんで廐舎に臥し窺うと、韓生が飼った黒犬が来って吼(ほ)え躍り、俄に衣冠甚だ黒い大男に化け、その馬に乗って高い垣を躍り越えて去った。次いで還り来って廐に入り、鞍(くら)を解いてまた吼え躍るとたちまち犬になった。圉人驚異したが敢えて洩(も)らさず、その後また事あったので、雨後のこと故圉人が馬の足跡をつけ行くと、南方十余里の一古墓の前まで足跡あり。因って茅(かや)の小屋を結び帰り、夕方にその内に入りて伺うと黒衣の人果して来り、馬を樹に繋(つな)ぎ墓内に入り、数輩と面白く笑談した。暫くして黒衣の人を褐衣(かつい)の人が送り出で、汝の主家の名簿はと問うと、絹を擣(つ)く石の下に置いたから安心せよという。褐衣の人軽々しく洩らすなかれ、洩れたらわれら全からじといい、また韓氏の穉童(ちどう)は名ありやと問うと、いまだ名付かぬ、付いたら名簿へ編入しようという、褐衣の人、汝、明晩また来り笑語すべしといって去った。圉人帰って韓生に告ぐると、韓生肉を以てその犬を誘い寄せ縄で括り、絹を擣(う)つ石の下を捜るに果してその家妻子以下の名簿一軸あり、生まれて一月にしかならぬ子の名はなし、韓生驚いて犬を鞭(むちう)ち殺し、その肉を煮て家僮(かどう)に食わせ、近所の者千余人に弓矢を帯びしめ古墓を発(あば)くと、毛色皆異なる犬数疋出たので殺し尽して帰ったとある。ハンガリー人も黒犬に斑犬を魔形とし、白犬は吉祥で発狂せぬと信ずる(グベルナチスの『動物譚原』二の三三頁注)。

   *

と引用し(引用は「青空文庫」版のそれを用いた)、岡本綺堂はその「支那怪奇小説集」(昭和一〇(一九三五)年サイレン社刊:この本は現在、「支那」を「中国」と改変して呼称されている。私はこの見当違いの自主自粛コードは書誌学的に極めて馬鹿馬鹿しいことだと考えている)に「黒犬」という題で訳されてある。「青空文庫」のこちらから引く。

   *

 

  黒犬

 

 唐の貞元年中、大理評事(だいりひょうじ)を勤めている韓(かん)という人があって、西河(せいか)郡の南に寓居していたが、家に一頭の馬を飼っていた。馬は甚だ強い駿足(しゅんそく)であった。

 ある朝早く起きてみると、その馬は汗をながして、息を切って、よほどの遠路をかけ歩いて来たらしく思われるので、厩(うまや)の者は怪しんで主人に訴えると、韓は怒った。

「そんないい加減のことを言って、実は貴様がどこかを乗り廻したに相違あるまい。主人の大切の馬を疲らせてどうするのだ」

 韓はその罰として厩の者を打った。いずれにしても、厩を守る者の責任であるので、彼はおとなしくその折檻(せっかん)を受けたが、明くる朝もその馬は同じように汗をながして喘(あえ)いでいるので、彼はますます不思議に思って、その夜は隠れてうかがっていると、夜がふけてから一匹の犬が忍んで来た。それは韓の家に飼っている黒犬であった。犬は厩にはいって、ひと声叫んで跳(おど)りあがるかと思うと、忽ちに一人の男に変った。衣服も冠もみな黒いのである。かれは馬にまたがって傲然(ごうぜん)と出て行ったが、門は閉じてある、垣は甚だ高い。かれは馬にひと鞭(むち)くれると、駿馬(しゅんめ)は跳(おど)って垣を飛び越えた。

 こうしてどこへか出て行って、かれは暁け方になって戻って来た。厩にはいって、かれはふたたび叫んで跳りあがると、男の姿はまた元の犬にかえった。厩の者はいよいよ驚いたが、すぐには人には洩らさないで猶(なお)も様子をうかがっていると、その後のある夜にも黒犬は馬に乗って出て、やはり暁け方になって戻って来たので、厩の者はひそかに馬の足跡をたずねて行くと、あたかも雨あがりの泥がやわらかいので、その足跡ははっきりと判った。韓の家から十里ほどの南に古い墓があって、馬の跡はそこに止まっているので、彼はそこに茅(かや)の小家を急造して、そのなかに忍んでいることにした。

 夜なかになると、黒衣の人が果たして馬に乗って来た。かれは馬をそこらの立ち木につないで、墓のなかにはいって行ったが、内には五、六人の相手が待ち受けているらしく、なにか面白そうに笑っている話し声が洩れた。そのうちに夜も明けかかると、黒い人は五、六人に送られて出て来た。褐色の衣服を着ている男がかれに訊いた。

「韓の家(いえ)の名簿はどこにあるのだ」

「家(うち)の砧石(きぬたいし)の下にしまってあるから、大丈夫だ」と、黒い人は答えた。

「いいか。気をつけてくれ。それを見付けられたら大変だぞ。韓の家の子供にはまだ名がないのか」

「まだ名を付けないのだ。名が決まれば、すぐに名簿に記入して置く」

「あしたの晩もまた来いよ」

「むむ」

 こんな問答の末に、黒い人は再び馬に乗って立ち去った。それを見とどけて、厩の者は主人に密告したので、韓は肉をあたえるふうをよそおって、すぐにかの黒犬を縛りあげた。それから砧石の下をほり返すと、果たして一軸(いちじく)の書が発見されて、それには韓の家族は勿論、奉公人どもの姓名までが残らず記入されていた。ただ、韓の子は生まれてからひと月に足らないので、まだその字(あざな)を決めていないために、そのなかにも書き漏らされていた。

 一体それがなんの目的であるかは判らなかったが、ともかくもこんな妖物をそのままにして置くわけにはゆかないので、韓はその犬を庭さきへ牽ひき出させて撲殺(ぼくさつ)した。奉公人どもはその肉を煮て食ったが、別に異状もなかった。

 韓はさらに近隣の者を大勢駆り集めて、弓矢その他の得物(えもの)をたずさえてかの墓を発(あば)かせると、墓の奥から五、六匹の犬があらわれた。かれらは片端からみな撲殺されたが、その毛色も形も普通の犬とは異っていた。

   *

『「西斑牙犬の家」(佐藤春夫)』ネット上に正規本文の電子テクストが見当たらないので、この注のために先程(二〇一七年四月二十四日)、ブログのこちらに電子化注しておいた。]

 この二つの話の共通點は、駿馬の疲勞が怪事發覺の發端をなすところに在る。一は妖異譚に傾き、一は探偵小説じみてしまつた爲、結末の空氣は大分違ふものになつたが、厩に繫がれた馬がいくら飼葉を與へても瘦せて行つたり、夜中人の乘る筈がないのに甚しく疲勞の色を見せてゐたりするのは、僅かに一つの話の核心をなす無氣味な事實である。

 日本人は一種の概念に捉はれて、むやみに猫を化けるものとし、犬を忠勤の例に引くけれど、支那の書物を讀めば犬の妖も決して少くない。「搜神後記」に出てゐる林慮山下の亭などは、男女倂せて十何人かの人が居り、白や黑の著物を著てゐるが、これが宿する者に害をなすといふ評判であつた。郅伯夷なる者がこゝに一宿した時、燭を明かにして坐し、經を誦してゐたところ、夜中に十數人の人間が入つて來て、そこで博奕を打ちはじめた。伯夷がひそかに鏡に照らして見るのに、人にあらずして群犬であつた。そこで燭を秉(と)つて起ち、麁相したふりをして一人の衣を燒いて見たら、間違ひなしに毛の燃える臭ひがした。今度は刀を以て刺す。初めは人の形をしてゐたが、遂に犬になつた。他は悉く走り去つたとある。前の「宣室志」の群犬が盜賊團なら、これは博奕打の一味であらう。妖をなす犬にもいろいろ階級があるらしい。

[やぶちゃん注:「麁相」は「そさう(そそう)」でしくじることの意の「粗相(そそう)」に同じい。

 以上は「搜神後記」の「第九卷」に載る以下。

   *

林慮山下有一亭、人每過此宿者、輒病死。云嘗有十餘人、男女雜沓、衣或白或黃、輒蒲博相戲。時有郅伯夷、宿於此亭、明燭而坐、誦經。至中夜、忽有十餘人來、與伯夷並坐、蒲博。伯夷密以鏡照之、乃是群犬。因執燭起、陽誤以燭燒其衣、作燃毛氣。伯夷懷刀、捉一人刺之、初作人喚、遂死成犬。餘悉走去。

   *]

 馬も犬も登場せぬが、もう一つ似た話を附け加へる。徐安は下邳の人で常に漁獵を好み、その妻の王氏は美貌を以て知られて居つた。開元五年の秋、安は海州に遊び、王氏が獨り下邳に暮らして居ると、一人の少年が現れて王氏と慇懃を通ずるやうになつた。ほどなく安は歸つて來たが、細君の態度は頗る冷かである。安はこれを怪しんだものの、歸つたばかりで俄かにその謎を解くことが出來ない。王氏は夕方になると粧ひを凝らして一室に居り、夜更けに見えなくなつて曉に戾つて來る。その出入するところは更に不明である。一日安がひそかに樣子を窺つてゐると、妻は古い籠に乘つて窓から外に出、曉になればまた同じやうにして歸ることがわかつた。安はこの行く先を突き止めなければならぬと思つたので、翌日は妻を一室に閉ぢこめ、自分が女のやうに着飾つて、短劍を袖にし、古籠に乘つて待ち構へた。二更の頃に至り、籠は自然と窓から飛び出し、忽ちに一つの山の頂きに達した。この邊は「廣異記」の話と大同小異で、そこには幕をめぐらし、華やかな灯をともし、酒肴を竝べてあつた。たゞ席に居るのは三人の少年だけで、女裝した安を迎へて、今日はお早いぢやありませんか、と云ふ。安は何も云はず、いきなり短劍を振り𢌞して三人をその場に斃した。然る後また籠に乘つて歸らうとしたが、籠はもう少しも飛ばうとせぬ。夜が明けて見たら、自分の斃した三人はいづれも古狐であつた。安はそれからどうして歸つたか、委しいことは何も書いてないが、安が家に歸つた後、細君は夕方になつてもお化粧をしなかつたといふので「集異記」の話は終つてゐる。

[やぶちゃん注:「下邳」(かひ)は現在の国江蘇省徐州市に位置する県級市の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「開元五年」七一七年。

「慇懃を通ずる」男女がひそかに情交を結ぶの意で、「史記」の「司馬相如傳」に基づく。

「二更」午後九時~午後十時以降の二時間。]

 この話は前の戸部令史や韓生に比して大分手輕く出來上つてゐる。徐安は相談相手がなかつたせゐもあるが、一切獨斷專行で、細君と同じ裝ひをして古籠に乘つた。籠が自然と窓から飛び出すのは、令史の馬や箒が空を飛ぶのと同じく、妖魅の致すところなのであらう。妖狐の化けた三少年は、所詮平素好んで漁獵を事とする徐安の敵ではない。事件は何人の手も借らず、安一人の手で解決してしまつた。その點簡單に過ぎる嫌ひはあるが、前の話と對照して見ると、自ら別種の興味を生じて來る。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「狐四」に「徐安」として、「集異記」の引用で載る。

   *

徐安者、下邳人也。好以漁獵爲事。安妻王氏貌甚美、人頗知之。開元五年秋、安遊海州、王氏獨居下邳。忽一日、有一少年狀甚偉、顧王氏曰、「可惜芳艷、虛過一生。」。王氏聞而悅之、遂與之結好、而來去無憚。安既還、妻見之、恩義殊隔。安頗訝之。其妻至日將夕、卽飾粧靜處。至二更、乃失所在。迨曉方囘、亦不見其出入之處。他日、安潛伺之。其妻乃騎故籠從窻而出。至曉復返。安是夕、閉婦于他室、乃詐爲女子粧飾、袖短劍、騎故籠以待之。至二更。忽從窻而出。徑入一山嶺、乃至會所。帷幄華煥、酒饌羅列、座有三少年。安未及下、三少年曰、「王氏來何早乎。」。安乃奮劍擊之、三少年死于座。安復騎籠、卽不復飛矣。俟曉而返、視夜來所殺少年、皆老狐也。安到舍、其妻是夕不復粧飾矣。

   *]

西班牙犬の家   佐藤春夫

 

[やぶちゃん注:本作は大正六(一九一七)年一月発行の『星座』初出。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの大正一一(一九二二)年十一月天佑社刊の作品集「病める薔薇」「薔薇」は彼の単独小説作品名としては「さうび(そうび)」と音読みする)所収の同作(正字正仮名)を画像で視認した。但し、時間を短縮するため、加工データとして「網迫の電子テキスト乞校正@Wiki」のこちらの電子テクスト(但し、新字新仮名で未校正データ)を使用させて貰った。網迫氏に深く感謝する(但し、網迫氏のそれは幾つかの箇所でかなり有意なタイプ・ミスではあり得ない異同が認められ、それは或いは後に改稿されたもののように見受けられるものである)。一応、私が所持する岩波文庫版「美しき町・西班牙犬の家」を一部で参考にしたが、底本を再現した。例えば、第二段落の「あちらこちらと氣せわしげに行き來するうちに」の「氣せわしげに」の「せ」は現行諸本は「ぜ」と濁るが、濁音には従わなかった。底本の傍点「ヽ」は太字とした。但し、一箇所だけ、「私の這入るのを見て狡さうにそつと目を開けて、のつそり起上つたからである。」の箇所は、底本では「私の這入るのを見狡てさうにそつと目を開けて、のつそり起上つたからである。」で読みようがなく、ここはどう考えても「這入(はい)るのを見て狡(ずる)さうに」の誤植としか思われないので、岩波文庫版を参考に特異的に訂した。「ほんとう」などの歴史的仮名遣の誤りもママである。

 因みに、標題「西班牙犬の家」は「スペインけんのいへ」と読む(佐藤は本作を戦後の少年向け刊行物では「スペイン犬の家」と表記している)。

 一部の語釈を先にしておく。

「西班牙犬」犬種は不明であるが、作者がわざわざ「スペイン犬」とし、大型個体であることろからは、スペイン原産の護蓄用犬種である「スパニッシュ・マスティフ」(Spanish Mastiff)が浮かぶ。但し、スパニッシュ・マスティフの真黒な個体というのはネット画像を見てもあまり見られない。また主人公は、「この種特有の房々した毛のある大きな尾をくるりと尻の上に卷上げたところはなかなか立派である」と言っているのも、必ずしも同犬にぴったりくるとは言い難いようだ。別な犬種を考えるべきか?

「フラテ」これは実は本邦に古くからある「キリシタン」用語で、イタリア語で「兄弟」を意味する“frate”(音写:フラァーテェ)に由来し、「托鉢」「跣足のフランシスコ会士」「アウグスチノ会士」などを指す語であった。

「蹄鍛冶屋」私は「ひづめかぢや」と読む。馬の蹄鉄を主に扱った鍛冶屋。

「潺湲たる」は「せんくわん(せんかん)たる」(「せいゑん」とも読む)で、水がさらさらと流れるさまを言う。

「造へ方」「こしらへかた」。

「異體の知れない」「えたいのしれない」。「得体」への当て字であるが、近代作家ではしばしば見られる。

「素木」「しらき」と当て訓しておく。

「あとすだり」「後ずさり」のこと。「日本国語大辞典」に「あとすだり」を鳥取・島根の方言として「あとずざり」に所載する。但し、佐藤春夫は和歌山出身である。

「ヰスラア」海の絵となると、アメリカ人画家・版画家で主にロンドンで活動したジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler 一八三四年~一九〇三)か。

「リップ、ヴンヰンクル」アメリカの小説家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving  一七八三年~一八五九年)の短編小説Rip van Winkle(「リップ・ヴァン・ウィンクル」 一八二〇年)の題名でありその主人公の名。ウィキの「リップ・ヴァン・ウィンクル」によれば、『アーヴィングがオランダ人移民の伝説を基にして書き上げたものであり、まさに「アメリカ版浦島太郎」と言うべきもの』。『アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬と共に猟へと出て行くが、深い森の奥の方に入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着いた。そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。ウィンクルは彼らにまじって愉快に酒盛りするが、酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう』。『ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していた。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では』二十『年もの年が過ぎ去ってしまっ』ていたというストーリーである。]

 

 

 

    西班牙犬の家

 

      (夢見心地になることの好きな人の爲めの短篇)

 

 

 フラテ(犬の名)は急に驅け出して、蹄鍛冶屋の橫に折れる岐路のところで、私を待つて居る。この犬は非常に賢い犬で、私の年來の友達であるが、私の妻などは勿論大多數の人間などよりよほど賢い、と私は言じて居る。で、いつでも散步に出る時には、きつとフラテを連れて出る。奴は時々、思ひもかけぬやうなところへ自分をつれてゆく。で近頃では私は散步といへば、自分でどこかへ行かうなどと考へずに、この犬の行く方へだまつてついて行くことに決めて居るやうなわけなのである。蹄鍛冶屋の橫道は、私は未だ一度も步かない。よし、犬の案内に任せて今日はそこを步かう。そこで私はそこを曲る。その細い道はだらだらの坂道で、時々ひどく曲りくねつて居る。私はその道に沿うて犬について、景色を見るでもなく、考へるでもなく、ただぼんやりと空想に耽つて步く。時々空を仰いで雲を見る。ひよいと道ばたの草の花が目につく。そこで私はその花を摘んで、自分の鼻の先に匂うて見る。何といふ花だか知らないがいい匂である。指で摘んでくるくるまわしながら步く。するとフラテは何かの拍子にそれを見つけて、ちよつと立とまつて、首をかしげて、私の目の中をのぞき込む。それを欲しいといふ顏つきである。そこでその花を投げてやる。犬は地面に落ちた花を、ちよつと嗅いで見て、何だ、ビスケツトぢやなかつたのかと言ひたげである。さうして又急に驅け出す。こんな風にして私は二時間近くも步いた。

 步いてゐるうちに我々はひどく高くへ登つたものと見える。そこはちよつとした見晴で、打開けた一面の畑の下に、遠くどこの町とも知れない町が、雲と霞との間からぼんやりと見える。しばらくそれを見て居たが、たしかに町に相違ない。それにしてもあんな方角に、あれほどの人家のある場所があるとすれば、一たい何處なのであらう。私は少し腑に落ちぬ氣持がする。しかし私はこの邊一帶の地理は一向に知らないのだから、解らないのも無理ではないが。それはそれとして、さて後(うしろ)の方はと注意して見ると、そこは極くなだらかな傾斜で、遠くへ行けば行くほど低くなつて居るらしく、どこも一面の雜木林のやうである。その雜木林は可なり深いやうだ。さうしてさほど太くもない澤山の木の幹の半面を照して、正午に間もない優しい春の日ざしが、楡や樫や栗や白樺などの芽生したばかりの爽やかな葉の透間から、煙のやうに、また匂(にほひ)のやうに流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向との加減が、ちよつと口では言へない種類の美しさである。おれはこの雜木林の奧へ這入つて行きたい氣持になつた。その林のなかは、かき別けねばならぬといふほどの深い草原でもなく、行かうと思へばわけもないからだ。

 私の友人のフラテも同じ考へであつたと見える。彼はうれしげにずんずんと林の中へ這入つてゆく。私もその後に從うた。約一丁ばかり進んだかと思うころ、犬は今までの步き方とは違ふやうな足どりになつた。氣らくな今までの漫步の態度ではなく、織るやうないそがしさに足を動かす。鼻を前の方につき出して居る。これは何かを發見したに違ひない。兎の足あとであつたのか、それとも草のなかに鳥の巣でもあるのであらうか。あちらこちらと氣せわしげに行き來するうちに、犬は其の行くべき道を發見したものらしく、眞直ぐに進み初めた。私は少しばかり好奇心をもつてその後を追うて行つた。我々は時々、交尾していたらしい梢の野鳥を駭かした。斯うした早足で行くこと三十分ばかりで、犬は急に立ちとまつた。同時に私は潺湲たる水の音を聞きつけたやうな氣がした。(一たいこの邊は泉の多い地方である)犬は耳を疳性らしく動かして二三間ひきかへして、再び地面を嗅ぐや、今度は左の方へ折れて步み出した。思つたよりもこの林の深いのに少しおどろいた。この地方にこんな廣い雜木林があらうとは考へなかつたが、この工合ではこの林は二三百町步もあるかも知れない。犬の樣子といひ、いつまでも續く林といひ、おれは好奇心で一杯になつて來た。かうしてまた二三十分間ほど行くうちに、犬は再び立とまつた。さて、わつ、わつ!といふ風に短く二聲吠えた。その時までは、つい氣がつかずに居たが、直ぐ目の前に一軒の家があるのである。それにしても多少の不思議である、こんなところに唯一つ人の住家があらうとは。それが炭燒き小屋でない以上は。

 打見たところ、この家には別に庭といふ風なものはない樣子で、また唐突にその林のなかに雜つて居るのである。この「林のなかに雜つて居る」といふ言葉はここでは一番よくはまる。今も言つた通り私はすぐ目の前でこの家を發見したのだからして、その遠望の姿を知るわけにはいかぬ。また恐らくはこの家は、この地勢と位置とから考へて見てさほど遠くから認め得られようとも思へない。近づいての家は別段に變つた家とも思へない。ただその家は草屋根であつたけれども、普通の百姓家とはちよつと趣が違ふ。といふのは、この家の窓はすべてガラス戸で西洋風な造へ方なのである。ここから入口の見えないところを見ると、我々は今多分この家の背後と側面とに對して立つて居るものと思ふ。その角のところから二方面の壁の半分づつほどを覆ふつたかずらだけが、言はゞこの家のここからの姿に多少の風情と興味とを具へしめて居る裝飾で、他は一見極く質朴な、こんな林のなかにありさうな家なのである。私は初め、これはこの林の番小屋でないかしらと思つた。それにしては少し大きすぎる。又わざわざとこんな家を建てて番をしなければならぬほどの林でもない。と思ひ直してこの最初の認定を否定した。兎も角も私はこの家へ這入つて見やう、道に迷ふたものだと言つて、茶の一杯ももらつて持つて來た辨當に、我々は我々の空腹を滿さう。と思つて、この家の正面だと思へる方へ步み出した。すると今まで目の方の注意によつて忘れられて居たらしい耳の感覺が働いて、おれは流れが近くにあることを知つた。さきに潺湲たる水聲を耳にしたと思つたのはこの近所であつたのであらう。

 正面へ廻つて見ると、そこも一面の林に面して居た、ただここへ來て一つの奇異な事には、その家の入口は、家全體のつり合ひから考へてひどく贅澤にも立派な石の階段が丁度四級もついて居るのであつた。その石は家の他の部分よりも、何故か古くなつて所々苔が生へて居るのである。さうしてこの正面である南側の窓の下には家の壁に沿ふて一列に、時を分たず咲くであらうと思へる紅い小さな薔薇の花が、我がもの顏に亂れ咲いて居た。そればかりでない、その薔薇の叢の下から帶のやうな幅で、きらきらと日にかがやきながら、水が流れ出て居るのである。それが一見どうしてもその家のなかから流れ出て居るとしか思へない。私の家來のフラテはこの水をさも甘さうにしたたかに飮んで居た。私は一暼のうちにこれらのものを自分の瞳へ刻みつけた。

 さて私は靜に石段の上を登る。ひつそりとしたこの四邊の世界に對して、私の靴音は靜寂を破るといふほどでもなく響いた。私は「おれは今、隱者か、でなければ魔法使の家を訪問して居るのだぞ」と自分自身に戲れて見た。さうして私の犬の方を見ると、彼は別段變つた風もなく、赤い舌を垂れて、尾をふつて居た。

 私はこつこつと西洋風の扉を西洋風にたたいて見た。内からは何の返答もない。私はもう一ぺん同じことを繰返さねばならなかつた。内からはやつぱり返答がない。今度は聲を出して案内を乞うて見た。依然。何の反響もない。留守なのかしらと空家なのかしらと考へてゐるうちにおれは多少不氣味になつて來た。そこでそつと足音をぬすんで――これは何の爲であつたかわからないが――薔薇のある方の窓のところへ立つて、そこから脊のびをして内を見まわして見た。

 窓にはこの家の外見とは似合しくない立派な品の、黑ずんだ海老茶にところどころ靑い線の見えるどつしりとした窓かけがしてあつたけれども、それは半分ほどしぼつてあつたので部屋のなかはよく見えた。珍らしい事には、この部屋の中央には、石で彫つて出來た大きな水盤があつてその高さは床の上から二尺とはないが、その眞中のところからは、水が湧立つて居て、水盤のふちからは不斷に水がこぼれて居る。そこで水盤には靑い苔が生えて、その附近の床――これもやつぱり石であつた――は少ししめつぽく見える。このこぼれた水が薔薇のなかからきらきら光りながら蛇のやうにぬけ出して來る水なのだらうといふことは、後で考へて見て解つた。私はこの水盤には少なからず驚いた。ちよいと異風な家だとはさきほどから氣がついたものの、こんな異體の知れない仕掛まであらうとは豫想出來ないからだ。そこで私の好奇心は、一層注意ぶかく家の内部を窓越しに觀察し始めた。床も石である。何といふ石だか知らないが、靑白いやうな石で水で濕つた部分は美しい靑色であつた。それが無雜作に、切出した時の自然のままの面を利用して列べてある。入口から一番奧の方の壁にこれも石で出來たファイヤプレィスがあり、その右手には棚が三段ほどあつて、何だか皿見たやうなものが積み重ねたり、列んだりして居る。それとは反對の側に――今、おれがのぞいて居る南側の窓の三つあるうちの一番奧の隅の窓の下に大きな素木のままの裸の卓があつて、その上には‥‥何があるのだか顏をぴつたりくつつけても硝子が邪魔をして覗き込めないから見られない。おや待てよ、これは勿論空家ではない、それどころか、つひ今のさきまで人が居たに相違ない。といふのはその大きな卓の片隅から、吸ひさしの煙草から出る煙の絲が非常に靜かに二尺ほど眞直ぐに立ちのぼつて、そこで一つゆれて、それからだんだん上へゆくほど亂れて行くのが見えるではないか。

 私はこの煙を見て今思ひがけぬことばかりなので、つい忘れて居た煙草のことを思出した。そこで自分も一本を出して火をつけた。それからどうかしてこの家のなかへ入つて見たいといふ好奇心がどうもおさへ切れなくなつた。さてつくづく考へるうちに、私は決心をした。この家の中へ入つて行かう。留守中でもいい這入つてやらう。若し主人が歸つて來たならばおれは正直にそのわけを話すのだ。こんな變つた生活をして居る人なのだから、さう話せば何とも言ふまい。反つて歡迎してくれないとも限らぬ。それには今まで荷厄介にして居たこの繪具箱が、おれの泥棒でないといふ證人として役立つであらう。私は蟲のいいことを考へて斯う決心した。そこでもう一度入口の階段を上つて、念のため聲をかけてそつと扉をあけた。扉には別に錠も下りては居なかつたから。

 私は這入つて行くといきなり二足三足あとすだりした。何故かといふに、入口に近い窓の日向に眞黑な西班牙犬が居るではないか。顎(あご)を床にくつつけて、丸くなつて居眠して居た奴が、私の這入るのを見て狡さうにそつと目を開けて、のつそり起上つたからである。

 これを見た私の犬のフラテは、うなりながらその犬の方へ進んで行つた。そこで兩方しばらくうなりつづけたが、この西班牙犬は案外柔和な奴と見えて、兩方で鼻面を嗅ぎ合つてから、向から尾を振り始めた。そこで私の犬も尾をふり始めた。さて西班牙犬は再びもとの床の上へ身を橫へた。私の犬もすぐその傍へ同じやうに橫になつた。見知らない同性同士の犬と犬とのかうした和解はなかなか得難いものである。これはおれの犬が温良なのにも因るが主として向うの犬の寛大を賞讚しなければなるまい。そこでおれは安心して入つて行つた。この西班牙犬はこの種の犬としては可なり大きな體で、例のこの種特有の房々した毛のある大きな尾をくるりと尻の上に卷上げたところはなかなか立派である。しかし毛の艷(つや)や、顏の表情から推して見て、大分老犬であるといふことは、犬のことを少しばかり知つて居る私には推察出來た。私は彼の方へ接近して行つて、この當座の主人である彼に會釋するために、敬意を表するために彼の頭を愛撫した。一體犬といふものは、人間がいぢめ拔いた野良犬でない限りは、淋しいところに居る犬ほど人を懷しがるもので見ず知らずの人でも親切な人には決して怪我をさせるものでない事を、經驗の上からおれは信じて居る。それに彼等には必然的な本能があつて、犬好きと犬をいぢめる人とは直ぐ見わけるものだ。私の考は間違ではなかつた。西班牙犬はよろこんでおれの手のひらを甜めた。

 それにしても一體、この家の主人といふのは何者なのであらう。何處へ行つたのであらう。直ぐ歸るだらうか知ら。入つて見るとさすがに氣が咎めた。それで入つたことは入つたが、私はしばらくあの石の大きな水盤のところで佇立したまゝで居た。その水盤はやつぱり外から見た通りで、高さは膝まで位しかなかつた。ふちの厚さは二寸位で、そのふちへもつてつて、また細い溝が三方にある。こぼれる水はそこを流れて、水盤の外がわをつたうてこぼれて仕舞ふのである。成程、斯うした地勢では、斯うした水の引き方も可能なわけである。この家では必ずこれを日常の飮み水にして居るのではなからうか。どうもたゞの裝飾ではないと思ふ。

 一體この家はこの部屋一つきりで何もかもの部屋を兼ねて居るやうだ。椅子が皆で一つ‥‥二つ‥‥三つきりしかない。水盤の傍と、ファイヤ、プレイスとそれに卓に面して各一つづゝ。何れもただ腰をかけられるといふだけに造られて、別に手のこんだところはどこにも無い。見廻して居るうちに私はだんだんと大膽になつて來た。氣がつくとこの靜かな家の脈搏のやうに時計が分秒を刻む音がして居る。どこに時計があるのであらう。濃い樺色の壁にはどこにも無い。あゝあれだ、あの例の大きな卓の上の置時計だ。私はこの家の今の主人と見るべき西班牙犬に少し遠慮しながら、卓の方へ步いて行つた。

 卓の片隅には果して、窓の外から見たとほり、今では白く燃えつくした煙草が一本あつた。

 時計は文字板の上に繪が描いてあつて、その玩具のやうな趣向がいかにもこの部屋の半野蠻な樣子に對照をして居る。文字板の上には一人の貴婦人と、一人の紳士と、それにもう一人の男が居て、その男は一秒間に一度づゝこの紳士の左の靴をみがくわけなのである。馬鹿々々しいけれどもその繪が面白かつた。その貴婦人の襞の多い笹べりのついた大きな裾を地に曳いた具合や、シルクハツトの紳士の頰髯の樣式などは、外國の風俗を知らない私の目にももう半世紀も時代がついて見える。さて可哀想なはこの靴磨きだ。彼はこの平靜な家のなかの、その又なかの小さな別世界で夜も晝も斯うして一つの靴ばかり磨いて居る。それを見て居るうちにこの單調な不斷な動作に、おれは自分の肩が凝つて來るのを感ずる。それで時計の示す時間は一時十五分――これは一時間も遲れて居さうであつた。机には塵まみれに本が五六十册積上げてあつて、別に四五冊ちらばつて居た。何でも繪の本か、建築のかそれとも地圖と言ひたい樣子の大册の本ばかりだつた。表題を見たらば、獨逸語らしく私には讀めなかつた。その壁のところに、原色刷の海の額がかゝつて居る、見たことのある繪だが、こんな色はヰスラアではないかしら‥‥おれはこの額がこゝにあるのに賛成した。でも人間がこんな山中に居れば、繪でも見て居なければ世界に海のある事などは忘れて仕舞ふかも知れないではないか。

 私は歸らうと思つた、この家の主人には何れまた會いに來るとして。それでも人の居ないうちに入込んで、人の居ないうちに歸るのは何んだか氣になつた。そこで一層のこと主人の歸宅を待たうといふ氣にもなる。これで水盤から水の湧立つのを見ながら、一服吸ひつけた。さうして私はその湧き立つ水をしばらく見つめて居た。かうして一心にそれを見つづけて居ると、何だか遠くの音樂に聞き入つて居るやうな心持がする。うつとりとなる。ひよつとするとこの不斷にたぎり出る水の底から、ほんとうに音樂が聞えて來たのかも知れない。あんな不思議な家のことだから。何しろこの家の主人といふのはよほど變者(かはりもの)に相違ない。‥‥待てよおれは、リップ、ヴンヰンクルではないか知ら。……歸つて見ると妻は婆になつて居る。‥‥ひよつとこの林を出て、「K村はどこでしたかね」と百姓に尋ねると、「え?K村、そんなところはこの邊にありませんぜ」と言はれさうだぞ。さう思ふと私はふと早く家へ歸つて見やうと、變な氣持になつた。そこで私は扉口のところへ步いて行つて、口笛でフラテを呼ぶ。今まで一擧一動を注視して居たやうな氣のするあの西班牙犬はぢつとおれの歸るところを見送つて居る。私は怖れた。この犬は今まで柔和に見せかけて置いて、歸ると見てわつと後から咬みつきはしないだらうか。私は西班牙犬に注意しながら、フラテの出て來るのを待兼ねて、大急ぎで扉を閉めて出た。

 さて歸りがけにもう一ぺん家の内部を見てやらうと、背のびをして窓から覗き込むと例の眞黑な西班牙犬はのつそりと起き上つて、さて大机の方へ步きながら、おれの居るのに氣がつかないのか、

「あゝ、今日は妙な奴に駭かされた。」

 と、人間の聲で言つたやうな氣がした。はてな、と思つて居ると、よく犬がするやうにあくびをしたかと思うと、私の瞬きした間に、奴は五十恰好の眼鏡をかけた黑服の中老人になり大机の前の椅子によりかゝつたまゝ、悠然と口には未だ火をつけぬ煙草をくわへて、あの大形の本の一册を開いて頁をくつて居るのであつた。

 ぽかぽかとほんとうに溫い春の日の午後である。ひつそりとした山の雜木原のなかである。

 
 

柴田宵曲 續妖異博物館 「妖魅の會合」(その1)

 

 妖魅の會合

 

 泉鏡花が「魅室」といふ題で書いた支那の話は「廣異記」に出てゐる。唐の開元中の話で、戸部令史の妻が姿色あり、不思議な病ひにかゝつたが、その病源を知ることが出來ない。令の家には一頭の駿馬が居つて、いくら飼葉(かひば)をやつても次第に瘦せて行く。令が鄰りに住む胡人の術士にこの話をすると、彼は事もなげに笑つて、馬は百里を行けば疲れる、況んや千里を行つて瘦せなかつたら寧ろ不思議だ、と云つた。令の家には他に馬に乘るやうな人が居らぬ。そんな筈はないと云つて承知しなかつたところ、胡人は更に驚くべき事實を語つた。君が當直で家に居らぬ夜、細君が乘つて出る、君はそれを知らぬのだ、もし僕の云ふ事が信ぜられなかつたら、當直の晩にそつと還つて樣子を見るがいゝ、といふのである。令は半信半疑ながら、その言に從ふと、果して夜になつて病妻は起き出し、粧ひを凝らして馬に鞍を置かせ、どこかへ出かける模樣である。婢は箒に跨がつてこれに隨ふ。忽ち空に舞ひ上つて見えなくなつた。令史大いに騷いて翌日胡人の許に行き、成程お説の通りだが、どうしたらよからうかと相談した。もう一晩樣子を見ろと云はれたので、その夜もひそかに歸り、幕の中に隱れて居つた。妻は昨夜の如く出かけようとして、そこらに誰か居りはせぬか、と問ふ。婢は箒に火をつけて四邊を照らす。令は狼狽の餘り大甕の中にもぐり込んだ。妻が乘る馬には事缺かぬが、婢の跨がるべき箒は燃してしまつて無い。何でもあるものにお乘り、箒に限つたことはないよ、と云はれて婢は大甕に乘り、馬のあとから空中に舞ひ上る。令史は恐ろしさに身じろぎもせずにゐると、やがて到著したのは山頂の林間であつた。このあたり正に支那のブロツケン山の概がある。群飮するもの七八輩、大いに歡を盡して散ずるに當り、婢は甕の中の令史を見付け出した。妻も婢も一杯機嫌で主人を引き出し、馬と甕とに乘つて去る。取り殘された令史が夜明けになつて見𢌞すと、もう誰も居らず、昨日の焚火がくすぶつてゐるに過ぎぬ。とぼとぼ步いて一月がかりで歸つたが、令の顏を見ると妻は驚いて、こんなに長いことどこへ行つていらしつたのですと云ふ。そこはいい加減に答へて置いて、また胡人のところへ相談に行つた。胡人はうなづいて、よろしい、今度出かけた後で施すべき手段があると云ひ、次の機會を待つて盛に火を焚きはじめた。やがて空中に憐れみを乞ふ聲が聞えたが、ぱたりと落ちて來たのは一羽の蒼鶴であつた。鶴は火の中に落ちて焚死し、妻の病ひはそれつきりよくなつた。令の妻を魅した者の正體は不明であるが、天狗が屎鴟(くそとび)となつて死ぬやうに、遂に蒼鶴となつて最期を遂げたものであらう。

[やぶちゃん注:先に本文の語注をしておく。

「唐の開元」七一三年から七四一年。これは玄宗の治世の前半で、彼が積極的に良政を行い、特に「開元の治」と呼ばれた唐の絶頂期であった。

「戸部」(こぶ)は尚書省に属した六部(他に吏部・礼部・兵部・刑部・工部)の一つで、戸籍・土地管理・租税や官人俸給などの財務関連の行政を司掌した官庁。

「令史」(れいし)は中央官庁の事務官の称。

「百里」唐代の一里は五五九・八メートルであるから、五十六キロメートル弱。

「千里」五百六十キロメートル弱。

「ブロツケン山」ドイツ中部のハルツ山地の最高峰ブロッケン山(Brocken)。標高千百四十一メートル。古代ケルト時代からの伝承がキリスト教の侵入によって変形された、年に一度、魔女たちが集まって饗宴(「ヴァルプルギスの夜」(Walpurgisnacht)と呼ぶ)山とされる。ゲーテの戯曲「ファウスト」で人口に膾炙する。、太陽光が背後から射し、影の側にある雲や霧の粒子によってその光が散乱されて、見る人の映じた影の周囲に虹と似た光の輪となって現れる「ブロッケンの妖怪」(ブロッケン現象)が起こりやすいことでも知られる。ここは夜に妻と下女が空中を飛び去って山頂でオーギーを開くこと、下女のまたがるのが箒であることなど、明らかにそうした西洋の魔女伝説の影響が見てとれる唐代伝奇と言える。

「蒼鶴」「サウカク(ソウカク)」と読んでおく。因みに、東洋文庫版の前野直彬氏の訳では『黒い鶴』とある。

「天狗が屎鴟(くそとび)となつて死ぬ」飛翔する妖怪であった天狗は、古くは、下級の烏天狗などを見ても判る通り、鳥類の変化(へんげ)として理解され、鷲・鷹や鳶(とび)の類の延長上に措定された想像上の生物とされた。「屎鴟」(くそとび:糞鳶)は現在ではタカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus の別称ともされる。

『泉鏡花が「魅室」といふ題で書いた支那の話』は鏡花四十歳の、明治四五(一九一二)年に書いた中国伝奇小説集「唐模様」の中の一章「魅室(みしつ)」である。一九四二年刊の岩波半版全集第二十七巻「小品」に載るそれを以下に電子化する。底本は総ルビであるが、読みは振れると判断した一部に限った。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

      魅室

 

 唐の開元年中の事とぞ。戸部(こぶ)郡の令史(れいし)が妻室(さいしつ)、美にして才あり。たまたま鬼魅(きみ)の憑(よ)る處となりて、疾病(やまひ)狂(きやう)せるが如く、醫療手を盡すといへども此(これ)を如何ともすべからず。尤も其の病源(びやうげん)を知るものなき也。

 令史の家に駿馬(しゆんめ)あり。無類の逸物(いちもつ)なり。恆に愛矜(あいきん)して芻秣(まぐさ)を倍(ま)し、頻(しきり)に豆を食(は)ましむれども、日に日に瘦せ疲れて骨立(こつりつ)甚だし。擧家(きよか)これを怪(あやし)みぬ。

 鄰家(りんか)に道術の士あり。童顏白髮にして年久しく住む。或時談(だん)此の事ことに及べば、道士笑うて曰く、それ馬は、日に行くこと百里にして猶(なほ)羸(つか)るゝを性(せい)とす。況や乃(いま)、夜(よる)行くこと千里に餘る。寧ろ死しせざるを怪(あやし)むのみと。令史驚いて言ふやう、我が此の馬はじめより厩(うまや)を出(いだ)さず祕藏せり。又家(いへ)に騎るべきものなし。何ぞ千里を行くと云ふや。道人の曰く、君(きみ)常に官に宿直(とのゐ)の夜(よ)に當りては、奧方必ず斯(こ)の馬に乘つて出でらるゝなり。君更に知りたまふまじ。もしいつはりと思はれなば、例の宿直(とのゐ)にとて家を出でて、試みにかへり來て、密かに伺うて見らるべし、と云ふ。

 令史、大(おほい)に怪(あやし)み、卽ち其の詞(ことば)の如く、宿直の夜(よ)潛(ひそか)に歸りて、他所(たしよ)にかくれて妻つまを伺ふ。初更に至るや、病める妻なよやかに起きて、粉黛盛粧(ふんたいせいしやう)都雅(とが)を極め、女婢(こしもと)をして件(くだん)の駿馬を引出(ひきいだ)させ、鞍を置きて階前(かいぜん)より飜然(ひらり)と乘る。女婢(こしもと)其の後(しりへ)に續いて、こはいかに、掃帚(はうき)に跨(またが)り、ハツオウと云つて前後して冉々(ぜんぜん)として雲に昇り去つて姿を隱す。

 令史少からず顚動(てんどう)して、夜明(よあ)けて道士の許に到り嗟歎(さたん)して云ふ、寔(まこと)に魅(み)のなす業(わざ)なり。某(それがし)將(はた)是(これ)を奈何せむ。道士の曰く、君乞ふ潛(ひそか)にうかゞふこと更に一夕(ひとばん)なれ。其の夜(よ)令史、堂前の幕の中(なか)に潛伏して待つ。二更に至りて、妻例の如く出でむとして、フト婢(こしもと)に問うて曰く、何を以つて此のあたりに生(いき)たる人の氣(き)あるや。これを我が國にては人臭(ひとくさ)いぞと云ふ議(こと)なり。婢(こしもと)をして帚(はうき)に燭(ひとも)し炬(たいまつ)の如くにして偏(あまね)く見せしむ。令史慌て惑ひて、傍(かたはら)にあり合ふ大(おほい)なる甕(かめ)の中に匐隱(はひかく)れぬ。須臾(しばらく)して妻はや馬に乘りてゆらりと手綱(たづな)を搔繰(かいく)るに、帚は燃(も)したり、婢(こしもと)の乘るべきものなし。遂に件(くだん)の甕に騎(の)りて、もこもこと天上(てんじやう)す。令史敢へて動かず、昇ること漂々(へうへう)として愈々高く、やがて、高山(かうざん)の頂(いたゞき)一(いつ)の蔚然(うつぜん)たる林(はやし)の間(あひだ)に至る。こゝに翠帳(すゐちやう)あり。七八人(しちはちにん)群(むらがり)飮むに、各(おのおの)妻を帶(たい)して並び坐して睦(むつま)じきこと限(かぎり)なし。更闌(かうた)けて皆分れ散る時、令史が妻も馬に乘る。婢(こしもと)は又其の甕に乘りけるが心着(こゝろづ)いて叫んで曰く、甕の中に人あり。と。蓋(ふた)を拂へば、昏惘(こんまう)として令史あり。妻、微醉(ほろゑひ)の面(おもて)、妖艷無比(えうえんむひ)、令史を見て更に驚かず、そんなものはお打棄(うつちや)りよと。令史を突出(つきだ)し、大勢一所に、あはゝ、おほゝ、と更に空中に昇去(のぼりさ)りぬ。令史間(ま)の拔けた事(こと)夥(おびたゞ)し。呆(あき)れて夜(よ)を明(あか)すに、山深うして人を見ず。道を尋ぬれば家を去ること正(まさ)に八百里程(りてい)。三十日を經て辛うじて歸る。武者ぶり着いて、これを詰(なじ)るに、妻、綾羅(りようら)にだも堪へざる狀(さま)して、些(ちつ)とも知らずと云ふ。又實(まこと)に知らざるが如くなりけり。

 

   *

少し語注すると、「初更」は現在の午後七時又は八時からの二時間で戌の刻に同じい。「都雅」とは雅びやかなことで、「冉々」は次第に進んでいくさま、「二更」は午後九時又は午後十時からの二時間で亥の刻、「八百里程」は四百四十八キロメートル弱。「綾羅(りようら)にだも堪へざる狀(さま)して」は高級な軽い綾絹や薄絹を羽織ってでさえその重みを持ちこたえることが出来ない、則ち、そのような批難の言葉に耐えられぬという風に、と言う意味で鏡花が好んだ表現である。

 ご覧の通り、原話(後掲)の後半部を完全にカットしていて、魅入られて妖女となった妻に「そんなものはお打棄(うつちや)りよ」と鏡花らしい一言をコーダとして言わせて実に慄然且つ極美である。

 原話は「廣異記」の「十」の「戸部令史妻」。以下に示す。

   *

唐開元中、部令史妻有色、得魅疾而不能知之。家有駿馬、恒倍芻秣而瘦劣愈甚。以問鄰舍胡人、胡亦術士、笑云、「馬行百里猶勁、今反行千里餘、寧不瘦耶。」。令史言、「初不出入、家又無人、曷由至是。」。胡云、「君每入直、君妻夜出、君自不知。若不信、至入直時、試還察之、當知耳。」。令史依其言、夜還、隱他所。一更、妻做靚妝、令婢鞍馬、臨階御之。婢騎掃帚隨後、冉冉乘空、不復見。令史大駭。明往見胡、瞿然曰、「魅、信之矣。爲之奈何。」。胡令更一夕伺之。

其夜、令史歸堂前幕中。妻頃復還、問婢、「何以有生人氣。」。令婢以掃帚燭火、遍然堂廡。令史狼狽入堂大甕中。須臾、乘馬復往。「適已燒掃帚、無復可騎。」。妻云、「隨有即騎、何必掃帚。」。婢倉卒、遂騎大甕隨行。令史在甕中、懼不敢動。須臾、至一處、是山頂林間、供帳簾幕、筵席甚盛。群飲者七八輩、各有匹偶。座上宴飮、合昵備至、數更後方散。婦人上馬、令婢騎向甕。婢驚云、「甕中有人。」。婦人乘醉、令推著山下。婢亦醉、推令史出、令史不敢言、乃騎甕而去。

令史及明都不見人、但有餘煙燼而已。乃尋徑路、崎嶇可數十里、方至山口。問其所、云是閬州、去京師千餘里。行乞辛勤、月餘、僅得至舍。妻見驚問、「久之何所來。」。令史以他答。復往問胡、求其料理。胡云、「魅已成、伺其復去、可遽縛取、火以焚之。」。聞空中乞命、頃之、有蒼鶴墮火中焚死。妻疾遂愈。

   *]

 

甲子夜話卷之四 3 會津領大地震の事【文政四年】

 

4-3 會津領大地震の事【文政四年】

會津侯の御預地、奧州大沼郡大石組と云處、高四千石計り、屬村十八九あり。人員男女合三千六七百も有り。山谷間の村なり。此處、辛巳十一月十九日、地震つよく、百三十軒ほど震壞れ、大破小破三百軒餘、人若干死亡、牛馬も損傷せり。夫より打續き晝夜いく度ともなく震りて、其ゆりよう左右前後には震はず、地上に突あげ、又地下に突さぐる如くにて、山谷鳴動し、山々裂崩、其あたりなる沼澤の沼と云大沼ぬけぬべきさまに付き【此沼周一里餘と云ふ】、人々不安、殊に雪中なれば諸人の難苦一方ならず。侯の役人出張て力を盡と雖ども爲ん方なく、領主より神社に令して祈禱せしめ、就中土津社には別て重祭あり。翌月十二日頃より地震も止み、鳴動も靜になり、諸人安堵の所、當正月四日又々地震、去冬よりも強く、鳴動も又盛んにて、大石組の村々、人の住居成り難きに至り、悉く其民を他處に移せり。時は大雪、處は山谷、老少男女四千に近き人を取扱、並に牛馬等の始末まで困難云計なし。諸人雪の上に薦筵(コモムシロ)或は席(タヽミ)を敷て日を渉る。此末いかになるべきやと衆庶安堵せずとなり。侯より御勘定所へ屆に及べりと云。

■やぶちゃんの呟き

「文政四年」「辛巳」(かのとみ)は一八二一年。この地震はネットのQ&Aサイトの回答によれば、マグニチュード五・五から六・六の直下型地震と推定されている。当時の陸奥会津藩は第七代藩主松平容衆(かたひろ)であるが、この翌年にわずか満十八歳で死去している。

「大沼郡大石組」こちらによって旧「大石組」の位置が判る。現在のこの中央の只見川左岸附近である(グーグル・マップ・データ)。

「震壞れ」「ゆりこはれ」。

「裂崩」「さけくずれ」。

「沼澤の沼」現在の福島県大沼郡金山町にあるカルデラ湖である沼沢(ぬまざわ)湖。ウィキの「沼沢によれば、『福島県会津地方の西部に位置し、かつては「沼沢沼」と呼ばれていた。湖水面高約』四七五メートル、面積約三・一平方キロメートル、水深約九十六メートルで、約四万五千年前と約五千四百年前の『大規模な噴火によって誕生した、新しいカルデラ湖である。カルデラ湖をさらに外輪山が取り囲む二重カルデラ地形のように見えるが、外側の外輪山様の地形は鮮新世の上井草カルデラからなり、沼沢カルデラとは無関係であるが上井草カルデラの新期の活動と見ることもある。カルデラを形成した大規模噴火の前後にも溶岩ドームなどを形成した小規模な噴火を何度も起こしており、これら一連のカルデラや溶岩ドーム群を総称して沼沢火山と呼んでいる』とある。

「周」「めぐり」。

「出張て」「でばりて」。

「力を盡と雖ども」「ちからをつくすといへども」。

「土津社」「はにつしや」は現在の福島県耶麻郡猪苗代町にある土津神社。陸奥会津藩初代藩主保科正之を祀る。

「當正月四日」余震記録は確認出来ないが、翌文政五年。

「取扱」「とりあつかひ」。避難誘導し。

「御勘定所」幕府のそれ。会津藩内には天領が多くあり、幕府の勘定所は蔵入地(幕府直轄領)と知行地に跨る業務を担当する郡奉行系統の職務が含まれ、そのなかには治安・治水業務が含まれていた。

 

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅲ」パート

 

   Ⅲ

 

[やぶちゃん注:「其處に何がある」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「憂鬱な大起重機の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「耳をもつ者に聞かせる詩」は七行目「そこに此の世界を破壞する憂鬱な力がこもつてゐるのだ」の「憂鬱」の「鬱」が改版では「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:人間に與へる詩は異同なし。初版で注したように、ここでも「ひつ裂き」はママである。これによって、彌生書房版全詩集や加工データとして使用した「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)の「ひき裂き」は私は正しくないと断ずるものである。]

 

[やぶちゃん注:わすれられてゐるものについては異同なし。]

 

[やぶちゃん注:寢てゐる人間については異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「子どもは泣く」は異同なし。]

 

 

 

 或る朝

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから………

 

 

[やぶちゃん注:初版の「Ⅲ」は「子供は泣く」で終わっているが、改版ではここに、初版の「Ⅱ」パートのコーダの或るが、上記のように改変されて(題名が「或る時」から「或る朝」に変えられた上、リーダ数が七点から九点に変更)ここにかく配されてある。]

 

南方熊楠 履歴書(その16) 帰国

 

 帰国して見れば、双親すでに下世して空しく卒塔婆(そとば)を留め、妹一人も死しおり、兄は破産して流浪する、別れしとき十歳なりし末弟は二十五歳になりおる。万事かわりはており、次弟常楠、不承不承に神戸へ迎えに来たり、小生の無銭に驚き(実は船中で只今海軍少将たる金田和三郎氏より五円ほど借りたるあるのみ)、また将来の書籍標品のおびただしきにあきれたり。しかして兄破産以後、常楠方(かた)はなはだ不如意なればとて、亡父が世話した和泉(いずみ)の谷川(たがわ)という海辺の、理智院という孤寺へ小生を寓せしめたり。しかるに、その寺の食客兼留守番に、もと和歌山の下士(かし)和佐某あり(この人今は大阪で自働車会社を営み、大成金で処女を破膜することをのみ楽しみとすと聞く)。これは和佐大八とて、貞享四年四月十六日京の三十三間堂で、一万三千の矢を射てそのうち八千三十三を通せし若者の後裔なるが、家禄奉還後零落(れいらく)してこの寺にいささかの縁あっておりたるなり。小生この人と話すに、和歌山の弟常楠方は追い追い繁盛なりという。兄の破産が崇って潰(つぶ)れたように聞くがというに、なかなか左様のことなし。店も倉も亡父の存日より大きく建て増せしという。不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子。これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候。

[やぶちゃん注:「帰国」前段で記した通り、南方熊楠の帰国は明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であった。

「下世」「げせい」と読んでおく。

「妹一人も死しおり」熊楠より五歳下の妹であった南方藤枝(南方熊楠表記「ふじえ」/戸籍表記「ふじゑ」 明治五(一八七二)年~明治二〇(一八八七)年)のことと思われる。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の南方藤枝の項によれば、『病弱であったことは母すみの日記等でうかがわれるが、熊楠の渡米の翌年九月五日、十六歳で死去した。妹の死を知ってほどなく』、『熊楠は植物採集中のアンナーバーの深林で大吹雪に遭遇した。その時、生後四十日ほどの子猫が現われ』、『足許で鳴いた。熊楠はこの小猫があるいは死んだ妹の生れ変わりかと思うと』不憫になり、『吹雪の中を抱えて走った。ようやく羊の放たれてある柵に来て、子猫を放ったが、その猫は、柵に沿うて熊楠の後を追っていつまでも鳴いていたという。「これを今もあはれなことと思ひ居る」と熊楠は回想している』とある。霊感鋭き熊楠らしい、忘れ難い話である。

「南方常楠」(明治三(一八七〇)年~昭和二九(一九五四)年)は既注であるが、再掲しておく。熊楠より三つ下の弟。東京専門学校(現在の早稲田大学)卒業後、父弥右衛門とともに酒造業を始め、南方酒造(現在も続く清酒「世界一統」で、こちらの公式サイトの「沿革」を参照されたい)の基礎を作り、和歌山市議会議員なども務めた。先行するに出る実父弥右衛門の臨終の遺言も参照されたい。

「金田和三郎」不詳乍ら、ネット情報を見ると、戦艦設計学を学んだ海軍技術者でもあった。事実、南方熊楠の「十二支考」の「馬に関する民俗と伝説」(大正七(一九一八)年『太陽』連載)の中で、『ロンドンで浜口担氏と料理屋に食した時、給仕人持ち来た献立書を見て、分らぬなりに予が甘麪麭(スイートブレット)とある物を注文し、いよいよ持ち来た皿を見ると、麪麭(パン)らしく見えず、蒲鉾(かまぼこ)様に円く豆腐ごとく白浄な柔らかなもの故、これは麪麭でないと叱ると、いかにも麪麭でないが貴命通り甘麪麭(スイートブレット)だと言い張り、二、三度言い争う。亭主予(かね)て予の気短きを知れば、給仕人が聞き違うた体に言い做なし、皿を引き将(も)て去らんとするを気の毒がり、浜口氏が自分引き取りて食べ試みると奇妙に旨(うま)いとて、予に半分くれた。予食べて見るに味わい絶佳だから、間違いはその方の不調法ながら旨い物を食わせた段感賞すと減らず口利(き)いて逃げて来た。翌日近処で心安かったから亭主に会って、あれは全体何で拵(こしら)えたものかと問うと、牝牛の陰部だと答えた。しかるに字書どもには甘麪麭は牝牛の膵(すい)等の諸腺と出づれど、陰部と見えず。ところが帰朝のみぎり同乗した金田和三郎氏(海軍技師)も陰部と聞いたと話されたから、あるいは俗語郷語に陰部をもかく呼ぶのかと思えど、この田舎ではとても分らず、牛驢の陰具を明の宮中で賞翫(しょうがん)した話ついでに録して、西洋通諸君の高教を俟(ま)つ』と出る(下線やぶちゃん)。

「和泉(いずみ)の谷川(たがわ)という海辺の、理智院」現在の大阪府泉南(せんなん)郡岬町(みさきちょう)(当時は深日(ふけ)村)多奈川(たながわ)谷川(たにがわ)に現存する真言宗宝珠山光明寺理智院。天平五(七三三)年に行基により創建。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトは

「和佐某」不詳。「大阪で自働車会社を営」んでいた「大成金」ならば判ろうという気もするが、どうも「処女を破膜することをのみ楽しみとす」というのでは、軽々に候補を示すわけにも行かぬので調べるのをやめた。

「和佐大八」江戸前期の紀州藩士で紀州竹林派の弓術家で、「通し矢の天下一」と讃えられた和佐範遠(のりとお 寛文三(一六六三)年~正徳三(一七一三)年)。ウィキの「和佐範遠によれば、『紀伊国和佐村禰宜(現在の和歌山県和歌山市和佐)に生まれた。父実延は、紀州竹林派の佐武源大夫吉全の弓術の弟子だった。範遠も紀州竹林派吉見台右衛門経武(法名:順正)』に師事、『弓術を学んだが、技量が優れていたので藩より稽古料を給された』という。貞享二(一六八五)年一一月、『父は借金で問題を起こし禄を召し上げられたが、範遠は許された』。貞享三(一六八六)年四月二十七日(南方熊楠は「貞享四年四月十六日」とするが、こちらの記載の方が詳細で正しい感じがする)、『京都三十三間堂で大矢数を試み、総矢数』一万三千五十三本の内、通し矢八千百三十三本で「天下一」となった。『この記録は以後破られることはなかった。だが、フェア・プレイの精神に欠けるところがあり、射る度に少しずつ前に進んだという』。範遠はこの記録達成の功績により、知行三百石に加増され、その後、貞享五(一六八八)年には紀州藩第三代藩主徳川綱教(つなのり)附きの射手役となり、二百石を加増されている。元禄八(一六九五)年には頭役並となっており、この間、元禄二(一六八九)年三月には師吉見順正から印可を得ている。しかし、理由は不明であるが(リンク元には書かれていない)、宝永六(一七〇九)年三月十三日に安藤陳武お預けとなり、田辺城に幽閉されてしまい、そのまま四年後、『失意のうちに、病に罹り』田辺城内で死去した(享年五十一)。但し、『遺跡は長男貞恒が継い』でおり、『和佐家は以降も代々藩の弓術師範役とな』って存続した、とある。その貞享三年四月二十七日に行われた『京都三十三間堂での大矢数』は、実に前日の『暮れ六つ』(午後六時頃)より開始されたが、翌日の朝辺りになって『調子が悪くなり』、『通し矢』の矢数『が少なくなった。そこに当時の天下一の記録保持者星野勘左衛門茂則が現れ、範遠の左手を小刀で切って』鬱血を治したところ、『調子を取り戻したという』とある。その末裔とはいえ、しかし、何とまあ、南方熊楠という男、どこにどんなになって居ようとも、傍には必ずトンデモない奴が一緒にいるもんだ!

「不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残せし八十歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かぬかというに、それは結構ということで、小生有りきり四円ばかりの紙幣をこの人に渡し、夜道一里ばかりあるきて停車場につき、切符を買わせ汽車に乗って三十分ばかりのうちに故郷に着きぬ。それより歩んで常楠の宅にゆくに、見しむかしよりは盛大の様子」不審なのは、理智院と和歌山市街は直線で十キロも離れていないことで、何故、熊楠は独りではなく、和佐を誘ったものか? 日本一の大立者と呼ばれんとせんとする大志を抱いて飛び出したものの、勝手気儘に外地に行き、結局、見かけ上は故郷に錦を飾るわけでもなく、実金銭はスッカラカンの無一文で帰ってきた彼は、流石に堂々と実家や弟に対峙する気概は実はなかったのかも知れぬ。そうしてみると、続く「これにて兄の破産につれて、弟の家道も大いに衰えたとは虚言で、全く小生の金銭のことに疎きにつけこみ、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申し候。当時、小生は堅固なる独身にて、弟はすでに妻もあれば二子もありし。人間妻を娶る時が兄弟も他人となるの始めと分かり申し候」という恨み節も、熊楠のそれにしては、いつものガツンとした悲憤慷慨調が妙になく、寧ろどこか、哀調をさえ帯びていることが判る。物蔭から遠慮がちに故郷の生家を覗き見るというポーズに、私はどこか、放蕩息子の帰還とまでは言わぬが、彼の〈puer eternus(プエル・エテルヌス/永遠の少年)〉性を感ずるシークエンスである。]

 

2017/04/23

柴田宵曲 續妖異博物館 「羅生門類話」

 

 羅生門類話

 

 近江守といふだけで名は傳はつて居らぬが、その館(やかた)に若い男どもが集まつて、今昔の話をしたり、碁や雙六を打つたりして酒を飮んでゐるうちに、安義の橋の話になつた。昔はこの橋へ人も行つたものだが、今は絶えて人が行かなくなつた、と一人が云ひ出すと、いや安義の橋を渡るぐらゐは自分にも出來る、どんな恐ろしい鬼がゐようとも、この御館にある一の鹿毛にさへ乘れば渡れぬ筈がない、と力む男があつた。一座の者は口を揃へて、それは面白い、眞直ぐに行かずに橫道を𢌞つたのでは、譃か本當かわかるぞ、と云ひ、端(はし)なく一場の爭論になつた。この事が近江守の耳に入つて、無益の事を云ひ爭ふ者どもぢや、倂し馬はいつでも貸してやるぞ、と云はれたので、もうあとへ引込むわけに往かぬ。已むを得ず、馬の尻の方に油を多く塗り、腹背を強く結び、輕やかな裝束を著けて乘り出した。已に安義の橋の橋詰めにかゝつた頃は、先程の酒も興奮もさめかけてゐる。日も山の端近くなつて、何となく心細げである上に、人里遠く離れた場所で、振り返つて見ても家の夕煙りが幽かに目に入るに過ぎぬ。橋の半ばまで來ると、思ひがけず人が欄干にもたれてゐる。然もそれが女で、濃い紅(くれなゐ)の袴を長く穿き、口許を袖で覆うて居つたが、馬上の男が通り過ぎるのを見て、恥かしながら嬉しいと思つた樣子である。これが普通の場所であつたならば、男の方も自分の馬に乘せて行きたいところであるが、音に聞えた安義の橋の上では、今頃こんな女のゐるわけがない。必定鬼であらうと分別して、目を塞いだまゝ走り過ぎる。女は男が何も言はずに通り過ぎるのを見て、これはつれない、私は思ひがけぬ場所に捨てて行かれた者でございます、せめて人里までその馬でお連れ下さい、と言葉をかけた。「今昔物語」の作者はこゝに「頭身の毛太る樣に」覺えたといふ形容を用ゐてゐるが、男は馬を早めて行く。あら情(つれ)なの人や、と後から追つて來る女の聲は、もう前のやうな可憐なものではなかつた。男は一心不亂に觀世音菩薩を念じ、駿馬に鞭打つて駈け拔けようとする。鬼は馬の尻に手をかけて引摺らうとしたが、油で滑つて思ふやうにならぬ。男が走りざまに見返ると、朱色の顏は圓座のやうに廣く、額に琥珀色の目が一つ、手の指は三つで五寸ばかりの鋭い爪が生えてゐる。頭髮は蓬の如く亂れ、身の丈九尺ばかりもある鬼であつた。男は肝潰れながら、たゞ觀世音を念じて走るほどに、漸く人里らしいところまで來た。そこまで追つて來た鬼は、また逢はうぞ、と云つて消え失せてしまつた。

[やぶちゃん注:「安義の橋」「あぎのはし」は通常は「安吉の歌詞」で近江国蒲生郡安吉郷の地区内を流れていた日野川(現在の滋賀県中部(湖東地域)を流れる)に架かっていた橋と推定されている。「梁塵秘抄」にも出、かつては近江の名所として京でも知られていたものらしが、それが平安末期にはかくも怪異出来の場所とされて人の通りもなくなったのは解せぬ。

「端なく」(はしなく)副詞で「思いがけなく・出し抜けに」の意。

「頭身の毛太る樣に」「かしらみのけ、ふとるやうに思ひければ」で、「今昔物語集」で頻繁に現われる最大級の恐怖感覚を現わす常套表現であるが、言わずもがな、芥川龍之介が「羅生門」で、下人が門の二階の死骸の中に、松の木端に灯をともして蹲っている老婆を見つけたシークエンスの後に、『下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。』と表現したことで、誰しも知るところの恐怖の語として今も生きている。

 この話は「今昔物語集」の「卷第二十七」の「近江國安義橋鬼噉人語第十三」(近江の國の安義(あき)の橋の鬼、人を噉(くら)へる語(こと)第十三)であるが、これは既に私の柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 目一つ五郎考(3) 一つ目と片目の注で電子化注を行っている。そちらを参照されたい。]

 それから近江守の館までどうして歸つたか、男は殆ど何も覺えぬくらゐであつた。館の人々は彼を出迎へて、口々にいろいろ問ひかけたが、男は腑拔けのやうになつてものも言はぬ。皆で氣を取り鎭めて、漸く安義の橋の顚末を聞くことが出來た。近江守は無益の爭論をして命を失ふところだつたではないかと戒めながら、馬はその男に與へた。男はしたり顏で家に歸り、妻子眷屬に安義の橋の話をして聞かせたが、内心の恐怖は全く去らぬ。その後も屢々家に怪しい事があるので、陰陽師(おんやうじ)に問ふと、これこれの日は重く愼むやうにといふことであつた。その日は朝から門をさし固めて、堅く物忌みをしてゐるところへ、門を敲く者がある。この男には同腹の弟があつて、陸奧守の家來になり、一人の母と一緒に任地に下つてゐたのが、久しぶりに歸つて來たのである。今日は堅い物忌みだから、明日になつたら對面しよう、それまでは人の家でも借りて居るやうに傳へさせたが、もう日は暮れてゐる。自分一人はどうにでもなりますが、連れて來た供の者やいろいろ持つて來た物の始末に困ります、實は母上も疾うに亡くなられましたので、そのお話も申さなければなりません、と云ふ。年頃老母の事は心許なく思つてゐたところではあり、この話を聞くと淚がこぼれて、たうとう禁を破つて逢ふことにした。廂の間の方に通して、兄弟泣く泣く語り合つてゐる。妻は簾の中で聞いてゐるうちに、どういふきつかけからか、二人が組打ちをはじめて、上になつたり下になつたりしてゐる樣子である。どうなさいました、と聲をかければ、早くその刀を持つて來い、と云ふ。氣でもお違ひなさいましたか、喧嘩はおやめなさい、と云つて刀を持つて行かなかつたところ、早く持つて來い、それではわしを死なせるつもりか、といふ聲が聞えたのを最後に、今度は弟が兄を組み伏せて、首をふつと食ひ切つてしまつた。取つた首を携へ、躍り上つて步きながら妻の方を見返つた顏は、夫から聞いた通りの鬼であつた。家内の者どもは皆泣き騷いだけれど、もうどうにもならぬ。鬼の姿は見えず、持つて來た品物とか、乘つて來た馬とかいふものは、すべて何かの骨や頭の類であつた。

 この話は何よりも謠曲の「羅生門」に似てゐる。つはものどもの酒宴に鬼の話が出て、爭論の末に渡邊綱が出かける順序は殆ど同じ事である。尤もこの男は綱のやうな勇士でないから、鬼の腕を切るどころの話でなく、辛うじて安義の橋を渡つて逃げ了せたにとゞまるが、羅生門の鬼が「時節を待ちて又取るべし」と云つたのと、腕を切られもせぬ安義の橋の鬼が「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」と云つたのとは揆を同じうするやうである。謠曲の作者は「今昔物語」のこの話からヒントを得たものと思はれる。

[やぶちゃん注:『謠曲の「羅生門」』観世信光(永享七(一四三五)年或いは宝徳二(一四五〇)年~永正一三(一五一六)年)作の能楽。羅生門に巣くう鬼と戦った渡辺綱の武勇伝を謡曲化した五番目物の鬼退治物。電子化してもよいが、こちらの宝生流謡曲 「羅生門」の』ページが、謡曲本文の電子化もなされており、いろいろ周辺的事象についての解説も豊富である。必読!

「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)はウィキの「渡辺綱」によれば、『嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)』。『通称は渡辺源次』。源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:父は鎮守府将軍源満仲。藤原道長の側近として知られ、後の清和源氏の興隆の礎を築いた名将)『四天王の筆頭として知られる』。『武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子として武蔵国足立郡箕田郷(現・埼玉県鴻巣市)に生まれる。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に』住み、『渡辺氏の祖とな』った。『摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。また先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである』。寛仁四(一〇二〇)年、『主君である頼光が正四位下・摂津守に叙されると、綱も正五位下・丹後守に叙され』ている。

「吉(よし)ヤ然リトモ遂ニ會ハザラムヤ」「……よし! よし!……たとえ今逃げおおせたとしても……何時か必ず再び会って……おのれの命、これ、捕らずに! おくものかッツ!」。

「揆を同じうする」「揆」は「き」で「軌を一にする」と同義。]

「前太平記」によれば、綱は雨の夜に羅生門まで出向いて鬼に出逢つたのではない。夜道にひとり佇む美女に同情して馬に乘せ、その家まで送り屆けようとする途中、忽ち鬼女と變じて綱を宙に吊り上げる。そこで刀を拔いて腕を切り落すのであるが、この趣向の端緒は安義の橋の女に見えてゐる。男は更に來し方行く末も思ほえず、搔き乘せて行かばやと考へたが、再案して通過するのである。綱だからこそ腕を切つて脱却し得たので、もしこの男が馬に乘せたら、卽座にお陀佛であつたに相違ない。物忌みに當つて腕を取り返しに來る一段も、「前太平記」では伯母になつてゐるが、これは弟を振り替へたのであらう。取り返すものはないから、命を取りに來たのである。綱のところへ來た鬼も、腕を取り返すばかりでなく、組み伏せて首を食ひ切りたかつたかも知れぬが、相手は賴光四天王中の隨一人で、さう手輕には往かなかつた。

[やぶちゃん注:「前太平記」のそれは「卷第十七」の「洛中夭怪(えうかい)の事 幷 渡邊綱鬼の腕を斬る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。なお、この話は「平家物語」の「劔卷」にあるものとコンセプトは殆んど同じである。]

「今昔物語」に現れた鬼の話はいくつもあるが、もう一つ羅生門の參考になるのは「獵師母成鬼擬敢子語」である。兄弟の獵師が山へ行つて、高い木の又に横樣に木を結ひ、そこにゐて鹿の來るのを待ち構へる。兩人は或距離を置いて向ひ合つてゐるわけである。九月の下旬で夜は極めて暗く、何者も見えぬから、たゞ耳ばかり澄ましてゐたが、鹿の來るけはひがない。そのうちに兄の登つてゐる木の上から、何者か手を下して髮を摑んだ。驚きながらも摑まれた手を探つて見ると、かさかさした人の手である。兄は眞暗な中で弟に聲をかけて、わしの髻(もとどり)を取つて上に引上げようとする者があつたら、どうするか、と尋ねた。現在髻を摑まれた者の言ひ草としては暢氣過ぎるやうだが、弟は目分量で射たらよからうと云ふ。實は今わしの頭を摑んで引き上げるやつがあるのだ、と聞いて、弟は聲を目當てに鴈俣(かりまた)の矢を放つた。正に暗中のウイルヘルム・テルである。慥かに手應へがあつたらしいので、頭の上を探つて見たら、細い手が髻を摑んだまゝ手首から斷ち切られてゐる。鹿は來ず、怪しい手に摑まれたりしたので、その夜は斷念して家に歸つた。兄弟には起ち居も不自由な老母があつたが、二人が山から戾ると頻りに唸る聲が聞える。どうかなされたか、と聞いても返事がない。灯をともして射切つた手を見るのに、どうも老母の手に似てゐる。二人が老母の居間の遣戸(やりど)を明けると、寢てゐた老母が起き上り、おのれ等は、と云つて摑みかゝらうとする。その時例の手を投げ込み、これは御手か、と云つて、またぴたりと締めてしまつたが、老母はほどなく死んだ。兄弟が立ち寄つて見れば、母の手は懷かに手首から射切られて居つた。母が老耄の結果、鬼になつて子供を食はうとしたのだと書いてある。

[やぶちゃん注:以上はかなり知られた「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」(獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと)第二十三)である。私は既に「諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事」の注で電子化注しているので参照されたい。]

 かういふ話は後世の化け猫によくある。化け猫の場合は大概猫が食ひ殺して、老母に化けてゐるやうであるが、これは母がそのまゝ鬼になつたので、羅生門の鬼のやうな恐ろしいものではない。倂し羅生門の鬼もうしろから綱の兜のしころを摑んでゐる。切られた腕があとに殘ることも同じである。老母は片腕切られたまゝ死ぬのだから、何かに化けて取り返しに來る一條を缺くのは云ふまでもない。

「山嶋民譚集」(柳田國男)にある駄栗毛左京は、佐渡の本間氏の臣下であつた。風雨の夜に馬が急に進まなくなつたり、熊の如き手で馬の尾を摑まれたりするのは、渡邊綱の佐渡版に近いが、これは越後の彌彦山附近に住む農夫彌三郎の母親で、惡念增長して鬼女となつたものであつた。左京に腕を切られた後、毎晩のやうに戸を敲いて哀願し、身分を白狀して腕を返して貰ふのだから、大した鬼ではない。片腕返還の際、左京との約束によつて永久に佐渡を去つたとある。

[やぶちゃん注:「駄栗毛左京」の姓は以下に示す柳田國男の原典では「だくりげ」と読んでいる。但し、サイト「福娘童話集」のこちらを見ると、「たくもさきょう」(歴史的仮名遣なら「たくもさきやう」)と読んでいる。

 以上は柳田國男の「山島民譚集(一)」(大正三(一九一四)年刊)の中の河童伝承の手接ぎ等に続く、「羅城門」の標題パートの中の「鬼」(頭書きパート)附近に出る。当該の「羅城門」の前半部分に当たる、「鬼」パートの前後のみを「ちくま文庫」版全集から引く。本文自体は連続した記述になっているため、ここだけを抜き出すとやや読み難いのは悪しからず。本文は漢字カタカナ混じりである。但し、底本は新字新仮名。ルビは拗音がないが、そのままで附した。頭書きは省略した。しかし、こういう文章を新字新仮名にするというのは、まっこと気持ちの悪いキテレツな文章が出来上がるという美事な例と私は存ずる。打ちながら、虫唾が走った。

   *

羅城門 肥前ト甲斐・常陸トノ河童談ヲ比較シテ最初ニ注意シ置クべキコトハ、後者ニハ馬ト云ウ第三ノ役者ノ加ワリテアルコト也。但シ釜無(カマナシ)ノ川原、又ハ手奪川(テバイガワ)ノ橋ノ上ニ在リテハ、馬ハマダ単純ナル「ツレ」ノ役ヲ勤ムルニ過ギザレドモ、追々研究ノ歩ヲ進メ行クトキハ、此ノ系統ノ物語ニ於テハ、馬ガ極メテ重要ナル「ワキ」ノ役ヲ勤ムべキモノナルコトヲ知ル。ソレニハ先ズ順序トシテ羅城門(ラジヨウモン)ノ昔話ヲ想イ起ス必要アリ。昔々源氏ノ大将軍摂津守(セツツノカミ)殿頼光ノ家人(ケニン)ニ、渡辺綱通称ヲ箕田源二ト云ウ勇士アリ。武蔵ノ国ヨリ出タル人ナリ。或ル夜主人ニ命ゼラレテ羅城門ニ赴キ、鬼卜闘イテ其ノ片腕ヲ切リ取リテ帰リ来ル。其ノ腕ヲ大事ニ保存シ置キタルニ、前持主ノ鬼ハ摂津ノ田舎ニ住ム綱ノ伯母ニ化ケテ訪問ン来タリ、見セヌト云ウ腕ヲ強イテ出サシメ之ヲ奪イ還(カエ)シテ去ル。事ハ既ニ赤本乃至(ナイシ)ハ凧(タコ)ノ絵ニ詳(ツマビラ)カナリ。羅城門ニハ古クヨリ楼上ニ住ム鬼アリテ悪(アシ)キ事バカリヲ為シ居タリシガ、一旦(イツタン)其ノ毛ダラケノ腕ヲ箕田源二[やぶちゃん注:渡辺綱の通称。]ニ切ラレシ頃ヨリ、頓(トミ)ニ其ノ勢ヲ失イシガ如クナレバ、多分ハ夫ト同ジ鬼ナランカ。而シテ其ノ取リ戻シタル腕ハ帰リテ後之ヲ接ギ合セタリヤ否ヤ、後日評ハ此ノ世ニ伝ワラズトイエド(イエドモ)、兎(ト)ニモ角(カク)ニモ近代ノ河童冒険譚ト頗(スコブ)ル手筋ノ相似タルモノアルハ争ウべカラズ。羅城門及ビ腕切丸ノ宝剣ノ話ハ、予ノ如キハ四歳ノ時ヨリ之ヲ知レリ。頼光サント太閤サントヲ同ジ人カト思イシ頃ヨリ之ヲ聞キ居タリ。全国ニ於テ之ヲ知ラヌ者ハアルマジト思エリ。然(シカ)ルニ、海ヲ越ユテ佐渡島ニ行ケバ、此ノ話ハ忽(タチマ)チ変ジテ駄栗(ダクリゲ)毛左京ノ武勇談トナリテ伝エラル。左京ハ佐渡ノ本間殿ノ臣下ナリ。或ル年八月十三日ノ夜、河原田(カワラダ)ノ館ヨリノ帰リニ、諏訪(スワ)大明神ノ社(ヤシロ)ノ傍ヲ通ルトキ俄(ニワカ)ノ雨風ニ遭(ア)ウ。乗リタル馬ノ些(スコ)シモ進マザルニ不審シテ後ノ方ヲ見レバ、雨雲ノ中カラ熊ノ如キ毛ノ腕ヲ延バシテ馬ノ尾ヲ掴摑(ツカ)ム者アリ。大刀(タチ)ヲ抜キテ之ヲ斬リ払エバ鬼女ノ形ヲ現ジテ遁(ノガ)レ行キ、其ノ跡ニ一本ノ逞(タクマ)シキ腕ヲ落シテ在リ。之ヲ拾イテ我ガ家ニ蔵シ置キタルニ、其ノ後毎晩ノヨウニ彼ノ処ニ来テ戸ヲ叩キ哀願スル者アリ。九月モ中旬ニ及ビテ終(ツイ)ニ対面ヲ承諾シタル処、這奴(コヤツ)ハ又化ケズトモ既ニ本物ノ老婆ナリキ。羅城門ノ鬼ノ如ク詐欺・拐帯(カイタイ)ヲモセズ、又何等ノ礼物ヲモ進上セザリシ代リニハ、散々ニ油ヲ取ラレテ閉口シ、悉(コトゴト)ク其ノ身上ヲ白状シタル後、イトド萎(シナ)ビタル右ノ古腕ヲ貰イ受ケテ帰リタリ。彼女ノ言(ゲン)ニ依レバ、以前ハ越後国弥彦(ヤヒコ)山附近ノ農夫弥三郎ナル者ノ母ナリ。悪念増長シテ生キナガラ鬼女トナリシ者ナルガ、駄栗毛氏トノ固キ約束モアリテ、再ビ此ノ島ニハ渡ラヌ筈ニテ国元へ還リ、後ニ名僧ノ教化ヲ受ケテ神様トナル。今ノ弥彦山ノ妙虎天(ミヨウトラテン)卜云ウ祠(ヤシロ)ハコノ弥三郎ガ老母ナリ〔佐渡風土記〕。越後方面ニ伝エタル噂ニ依レバ、神ノ名ハ妙多羅天(ミヨウタラテン)トアリ。岩瀬ノ聖了寺ノ真言法印(ホウイン)之ヲ済度(サイド)シ、今ハ柔和ナル老女ノ木像ト成ッテ阿弥陀堂ノ本尊ノ脇ニ安置セラル。但シ話ノ少シク相違スルハ、腕ハ我ガ子ノ為ニ斬ラレタリト云ウコト也。越後三島郡中島村ニ弥三郎屋敷ト云ウ故迹(コセキ)アリ。鬼女ハ此ノ地ノ出身ナリト云ウ。弥三郎或ル夜鴨網(カモアミ)ニ出掛ケテ鳥ヲ待チ居クルニ、不意ニ空中ヨリ彼ノ頭ノ毛ヲ摑ム者アリ。持ッタル鎌ヲ振イテ其ノ腕ヲ斬リ取リ家ニ帰リシガ、母親ハ腹ガ痛ムト言イテ納戸(ナンド)ニ臥(フ)シ起キ出デズ。翌朝戸ノ外ヲ見レバ鮮血滴リテ母ノ窻(マド)ニ入レリ。老婆ハ片腕無キ為ニ鬼女ナルコト露顕シ、終ニ家ヲ飛ビ出シテ公然ト悪行ヲ営ムコトトナリタリト云ウ〔越後名寄(エチゴナヨセ)四〕。此ノ話ニハ言ウ迄モ無ク前型アリ。『今昔物語』ノ中ニモ之ト似タル鬼婆ノ腕ノ話アリテ、倅(セガレ)ガ「スワ此カ」ト切リタル片腕ヲ母ノ寝処ニ榔擲ゲ込ミタリトアル話ナリ。而モ弥三郎婆ノ話ハ越後ニハ甚ダ多シ。刈羽(カリワ)郡中鯖石(ナカサバイシ)村大字善根(ゼコン)ニテハ、狼(オオカミ)ニ成ッテ漆山(ウルシヤマ)ト云ウ処ニテ人ヲ食イ、後ニ我ガ子ノ為ニ退治セラレテ八石山(ハチコクサン)ニ入ルト伝ウ。赤キ日傘ニ赤キ法衣ノ和尚ガ葬式ニ立ツトキハ、サテサテ有難イトムライジャト云イテ棺ヲ奪イ中ノ屍骸(シガイ)ヲ食ウ故ニ、飛岡ノ浄広寺ノ上人(シヨウニン)ノ代ヨリ青キ日傘ニ青キ法衣卜改メタリ〔日本伝説集〕。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *]

 綱の切つた腕も、左京の切つた腕も、もとの持主に還つた以後の消息はわからない、「譚海」の記載によると、大坂の藤堂家の藏屋敷には化物の足を切り取つた話があり、天滿の別當の許に納めてあつたさうである。うしろ足らしく、節のところから切られて居り、犬の爪のやうなものが生えて居つた。月山(ぐわつさん)の刀で切つたといふことが傳はつてゐるだけで、それに關する武勇傳もなし、化物の正體に就いても全く記されてゐない。

[やぶちゃん注:これは「譚海 卷之二 藤堂家士の子切取たる化者の足の事」である。リンク先の私の電子化注でお読みあれ。]

 

南方熊楠 履歴書(その15) ロンドンにて(11) 大英博物館出入り禁止から帰国へ

 

 こんなことにて兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に苦辛したが、亡父存日すでに亡父の一分と常楠の一分を含め身代となし、造酒業を開きおりしゆえ、兄の始末も大抵かたづけし。しかるに兄破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為換(かわせ)、学資を追い追い送り来たらず。小生大いに困りて正金銀行ロンドン支店にて逆為替を組み、常楠に払わせしもそれもしばらくして断わり来たれり。よって止むをえず翻訳などしてわずかに糊口し、時々博物館に之(ゆ)きて勤学するうち、小生また怒って博物館で人を撃つ。すでに二度までかかることある以上は棄ておきがたしとあって、小生はいよいよ大英博物館を謝絶さる。しかるにアーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝あり、八百屋か何かの書記より奮発して小説家となり、著名な人なり。今も存命なるべし)熊楠の学才を惜しむことはなはだしく、英皇太子(前皇エドワード七世)、カンターベリーの大僧正、今一人はロンドン市長たりしか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方たりしゆえ)、サー・ロバート・ダグラスまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰せり。この時加藤高明氏公使たりし。この人が署名して一言しくれたら事容易なりしはず、よって小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)を経由して頼み入りしも、南方を予よりもダグラスが深く知りおれりとて加勢しくれざりし。しかるに、今度という今度は慎んでもらわにゃならぬとて、小生の座位をダグラス男の官房内に設け、他の読書者と同列せしめず。これは小生また怒って人を打つを慮(おもんぱか)ってなり。小生このことを快からず思い、書をダグラス男に贈って大英博物館を永久離れたり。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に献納した物あり。今も公衆に見せおるならん。高野管長たりし土宜(どき)法竜師来たとき小生の着せる袈裟法衣等も寄付せり。ダグラス男に贈った書の大意は、日本にて徳川氏の世に、賤民を刑するにも忠義の士(倒せば大石良雄)を刑するにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口宣(こうせん)せり。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読みきかすに足らぬもの、また忠義の士はこれを重んずるのあまり、将軍の代理としてその言を書き留むるまでもなく、口より耳へ聞かせしなり。さて西洋にはなにか手を動かすと、これを発作狂として処分するが常なり(乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う)。日本人が人を撃つにはよくよく思慮して後に声をかけて撃つので決して狂を発してのことにあらず。今予を他の人々と別席に囲いてダグラス男監視の下に読書せしむるは、これ予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多かるべく、予を尊んでのことと思う人は少なかるべければ、厚志は千万ありがたいが、これまで尽力しくれた上はこの上の厚志を無にせぬよう当館に出入せざるべしと言いて立ち退き申し候。大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候。

[やぶちゃん注:「逆為替」金の受取側が「振出人」で、支払側が「名宛人」となる「為替手形」。現行では専ら、輸出代金の回収で用いられている。

「正金銀行」既出既注

「小生また怒って博物館で人を撃つ」前回の殴打事件が一八九七年十一月八日、今回のそれはそのほぼ一年後の一八九八年十二月六日で、しかも前回と同じ閲覧室であった。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの牧田健史氏の「英国博物館 The British Museum」によれば、この時のトラブルは『女性閲覧者の私語が原因となって館員との間で紛争となったもの』とある。

「大英博物館を謝絶さる」南方熊楠は閲覧室への出入禁止だけでなく、同博物館図書室自体の許されていた利用許可が停止されてしまったのである。

「アーサー・モリソン」イギリスのジャーナリストで作家、また東洋美術蒐集家でもあったアーサー・ジョージ・モリスン(Arthur George Morrison 一八六三年~一九四五年)。ウィキの「アーサー・モリソン」によれば、『ロンドンのイースト・エンドで生まれる。少年時代や教育については詳しいことは分かっていない』。一八八六年から一八九〇年まで『事務員として働いた後、新聞界に身を転じ、『ナショナル・オブザーヴァー』に籍を置いた。彼はここで様々な寄稿をするとともにロンドンのスラム街を描いた作品を発表、本として出版して評判を得た。以後スラムの生活を描いた小説などを多く発表』(Tales of Mean Streets(「貧民街の物語」 一八九四年)等)、『作家として名声を得た。東洋美術の第一人者としても著名で、蒐集した美術品は現在大英博物館に収蔵されている』。一八九四年に『シャーロック・ホームズが『最後の事件』によって連載終了になると、その穴を埋めるべく『ストランド・マガジン』はモリスンに新しい推理小説の連載を依頼した。こうして』一八九四年から一九〇三年まで、『探偵マーチン・ヒューイットの登場する推理小説が連載されることになる。マーチン・ヒューイットは決して超人的ではない平凡な探偵だが、ロンドンの風俗描写やシドニー・パジェットの挿絵などでなかなかの人気を博した。後年ヴァン・ダインやその他の評論家からも高く評価されている』とある。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「モリソン Morrison, Arthur 1863-1945」によれば、『熊楠とは一八九八年頃から頻繁に付き合っていたようである』とあるから、この二度目の殴打事件の年の事件前に出逢いがあったものであろう。松居氏は続けて、『モリソンには、のちに日本美術に関する著作があり、あるいはそうした関心がもとで熊楠と知り合ったかと想像される。熊楠の方も、他の年配の学者連とは違って、そう歳の変わらないモリソンとは気楽に付き合っていたのだろう。英国国王も会員となっているサヴィジ・クラブで遇されたことを「モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし」といぶかしがっていたくらいである』。『ところが、それから十数年経った一九一二年に、熊楠は最新版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の中にモリソンの略伝を見出す。生存中の人物のために一項を設けることはたしかに破格の扱いであり、やっと熊楠もモリソンの名声の高さに気が付いたのであった。それにしても、次のように描きだされたモリソンの飾らぬ横顔は、読むものに好感を抱かせずにはいないであろう』として、大正三(一九一四)年六月二日附柳田国男宛書簡から以下を引いておられる。『この人一語も自分のことをいわず、ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし、外国語は一つ知らず、詩も作り得ず、算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが、ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ、一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て、始めてその人非凡と知れり。』。

「大英百科全書」前注に出、以前にも注したEncyclopædia Britannica(エンサイクロペディア・ブリタニカ:「ブリタニカ百科事典」)。

「英皇太子(前皇エドワード七世)」(Edward VIIAlbert Edward 一八四一年~一九一〇年)は当時は母ヴィクトリア女王が在位しており、「プリンス・オブ・ウェールズ」(皇太子)の立場にあった。彼の王としての在位は一九〇一年から一九一〇年までの九年に過ぎず、崩御とともに次男ジョージ五世(George VGeorge Frederick Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)が王位を継いだ。

「カンターベリーの大僧正」当時のカンタベリー大司教(Archbishop of Canterbury:イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教)はフレデリック・テンプル(Frederick Temple 一八二一年~一九〇二年)。

「ロンドン市長」事件は一八九八年末であるから難しい。ネット上のデータでは一八九八年はSir John Moore なる人物で、翌一八九九年ならば、Alfred Newton なる人物である。後者か。

「サー・ロバート・ダグラス」既出既注

「加藤高明」既出既注

「小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)」小池張造(ちょうぞう 明治六(一八七三)年~大正一〇(一九二一)年)は外交官。松川藩士の子として福島県に生まれた。明治二九(一八九六)年に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官補となって朝鮮に勤務、翌年、英国在勤となり、加藤高明公使に能力をかわれた。明治三十三年に加藤が第四次伊藤博文内閣の外相に就任すると、秘書官兼書記官として本省に戻されたが、翌年には清国、翌々年には英国の公使館書記官となった。その後、ニューヨーク・サンフランシスコ・奉天の各総領事を勤め、明治四五(一九一二)年に英国大使館参事官となった。第一次山本権兵衛内閣では外務省政務局長、続く第二次大隈重信内閣の外相は再び加藤となり、その下で対華二十一カ条要求や中国第三革命をめぐって精力的に活動したが、外務官僚としては異例の志士的心情を持っていたことから何かと物議を醸した。寺内正毅内閣下で英国大使館参事官に任命されたが、辞職、阪神財閥の一つである久原本店の理事となって実業界入りした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「書をダグラス男に贈って」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『同日付の「陳状書」には、前回の事件を含めて日本人への度重なる侮辱があったと述べている』とある。

「高野管長たりし土宜(どき)法竜師」簡単に既注している。明治二(一八六九)年より高野山の伝法入壇に入った高僧。当時、真言宗法務所課長(明治一四(一八八一)年に二十七歳で就任)であった彼は、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本の真言宗の代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)・芦津実全(天台宗)・八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の仏教学者四名で渡米、ニュヨークを経て、ロンドンからパリへ向かい、仏教関係の資料の調査・研究を行ったが、この時、ロンドンで横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家に於いて南方熊楠と面会、以来、没するまでの三十年間に渡って膨大な往復書簡を交わしている。南方熊楠より十三年上。なお、彼が高野山(派)管長となるのは後の大正九(一九二〇)年であるので注意されたい。但し、ここは南方熊楠の誤りではなく、この書簡執筆時には「高野管長」であったのだから、問題ない。しかし、彼が「来たとき」に「小生」南方熊楠が「着」していた「袈裟法衣等も寄付せり」というのは私にはよく意味が判らない。土宜は自身の着替えの予備として持って来ていた袈裟や法衣を熊楠に贈ったものででもあったか。

「乃木将軍までも洋人はみな狂発して自殺せりと思う」乃木希典(嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年)年九月十三日)の自刃は熊楠の帰国から十二年後のことである。この熊楠の断定的謂いは、その頃に手紙のやりとりをしていた外国人からの情報の基づくものと思われる。

「大抵人一代のうち異(かわ)ったことは暮し向きより生ずるものにて、小生はいかに兄が亡びたればとて、舎弟が、小生が父より受けたる遺産のあるに兄の破産に藉口して送金せざりしを不幸と思い詰(つ)めるのあまり、おのれに無礼せしものを撃ちたるに御座候」これはかなり意外な自己分析と言える。彼はその暴力事件の最初にして最大の原因は弟の送金不通に対する鬱憤の山積に基づくと言っているからである。これは熊楠が自己の精神状態を平静に保てずに、他虐的行為によって代償的に暴行を揮ったという心的複合{コンプレクス)を認めている内容であり、はなはだ興味深いからである。]

 

 しかるに、このことを気の毒がるバサー博士(只今英国学士会員)が保証して、小生を大英博物館の分支たるナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)に入れ、またスキンナーやストレンジ(『大英百科全書』の日本美術の条を書きし人)などが世話して、小生をヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)に入れ、時々美術調べを頼まれ少々ずつ金をくれたり。かくて乞食にならぬばかりの貧乏しながら二年ばかり留まりしは、前述のロンドン大学総長ジキンスが世話で、ケンブリジ大学に日本学の講座を設け、アストン(『日本紀』を英訳した人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めんとしたるなり。しかるに不幸にも南阿戦争起こり、英人はえらいもので、かようのことが起こると船賃が安くても日本船に乗らず高い英国船に乗るという風で、当時小生はジキンスより金を出しもらい、フランスの美術商ビング氏(前年本願寺の売払い品を見に渡来した人)より浮世絵を貸しもらい、高橋入道謹一(もと大井憲太郎氏の子分、この高橋をエドウィン・アーノルド方へ食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり。アーノルドも持て余せしなり)という何ともならぬ喧嘩好きの男を使い売りあるき、買ってくれさえすれば面白くその画の趣向や画題の解説をつけて渡すこととせしが、これも銭が懐中に留まらず、高橋が女に、小生はビールに飲んでしまい、南阿戦争は永くつづき、ケンブリジに日本学講座の話しも立消えになったから、決然蚊帳(かや)のごとき洋服一枚まとうて帰国致し候。外国にまる十五年ありしなり。

[やぶちゃん注:「バサー博士」イギリスの古生物学者で特に棘皮動物門ウミユリ綱関節亜綱 Articulata に属するウミユリ類を専門に研究していたフランシス・アーサー・バサー(Francis Arthur Bather 一八六三年~一九三四年)。当時は大英博物館地質学部助手。因みに、彼は明治二六(一八九三)年夏に日本を訪れ、東京帝国大学理科大学を見学、動物学教授箕作嘉吉や飯島魁らと逢い、三浦の臨海実験所も訪問していることから、日本への近親感があったことも、南方熊楠との関係をよいものとしたものと言える。熊楠とは一九九三年講談社現代新書刊の「南方熊楠を知る事典」によれば、『交際は一八九四年からはじまったようだが、一八九七年六月十三日には、熊楠バサー夫妻に軍艦富士を見学させ、翌年十一月一日には、英国で建造された軍艦敷島の進水式に招いている。バザー夫人はスウェーデン人で』、『熊楠はこの夫人とも親しくなったようで、浮世絵を贈ったりしている』。『また、熊楠を大英博物館の植物学部長ジョージ・マレーに紹介したのも』彼で、後年の名著、冠輪(かんりん)動物上門腕足(わんそく)動物門 Brachiopoda の腕足類の化石をテーマとした考証論文「燕石考(えんせきこう)」の『執筆においても、熊楠はバザーから多大の恩恵を受け』た。熊楠より四歳年上。

「ナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)」ロンドン・サウスケンジントンにある「ロンドン自然史博物館」(Natural History Museum)のこと。この当時は大英博物館の一部門で、永らくその扱いであったが、一九六三年には独自の評議委員会を持つ独立博物館となって大英博物館分館扱いではなくなっている。

「スキンナー」不詳。綴りは“Skinner”か。

「ストレンジ」不詳。綴りは“Strange”か。

「ヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)」現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる四百万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館でロンドンのケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)。ヴィクトリア女王(一八一九年~一九〇一年)と夫のアルバート公(一八一九年~一八六一年)が基礎を築いた。前身は一八五一年のロンドン万国博覧会の収益や展示品をもとに、一八五二年に開館した産業博物館であった。現在、先の自然史博物館・人類学博物館・科学博物館・インペリアル・カレッジ・ロンドンなどと隣接している(以上はウィキの「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」に拠る)。

「ロンドン大学総長ジキンス」既出既注

「ケンブリジ大学」ケンブリッジ大学(University of Cambridge)。ウィキの「ケンブリッジ大学」によれば、『イングランド国王の保護なども受けて発展をはじめ、現存する最古のカレッジ、Peterhouse(ピーターハウス)は』一二八四年の創立で、『アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、ジョン・メイナード・ケインズ等、近世以降の人類史において、社会の変革に大きく貢献した数々の著名人を輩出してきた』大学である。

「アストン」既出既注

「南阿戦争」「なんあせんそう」は「ボーア戦争」(Boer WarAnglo Boer War)のこと。イギリスとオランダ系アフリカーナ(ボーア人或いはブール人とも呼ばれる)が南アフリカの植民地化を争った二回に亙る戦争全体を指す呼称であるが、ここは時制上、第二次ボーア戦争(独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と、大英帝国の間の戦争(一八九九年十月十一日~一九〇二年五月三十一日)の開戦を指す。

「フランスの美術商ビング氏」サミュエル・ビング(Samuel Bing 本名:Siegfried Bing  一八三八年~一九〇五年)のことであろう。ウィキの「サミュエル・ビング」によれば、パリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人で、一八七一年にフランスに帰化している。『日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介し、アール・ヌーヴォーの発展に寄与したことで有名』。『ハンブルクで生まれる。実家は祖父の代からフランスの陶器やガラス器の輸入業をしていた』。一八五〇『年代に父親がパリに店を開き』、一八五四『年にフランス中央部に小さな磁器製作所を買い取ったのをきっかけに、ハンプルグで学業を終えたのち渡仏』、『普仏戦争後に日本美術を扱う貿易商となり』、一八七〇『年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功する。初来日は』明治八(一八七五)年で、日本を訪問後は、『古いものから近代のものまで幅広く扱うようにな』った。『ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われており』、『また、ベルギー王立美術歴史博物館が所蔵する』四千『点の浮世絵もビングから購入したコレクターのものである』。『そのほか、パリの装飾美術博物館はもとより、オランダのライデン国立考古学博物館、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、ヨーロッパ各地の美術館に日本美術を納品した』。一八八八年より一八九一年まで、『日本美術を広く伝えるために複製図版と挿絵が掲載された』Le Japon artistique(「芸術の日本」)『という大判の美術月刊誌を』四十『冊発行し、展覧会も企画した。毎号数多くの美しい浮世絵で彩られた『芸術の日本』は、フランス語、英語、ドイツ語の』三『か国語で書かれ、美術情報だけでなく、詩歌、演劇、産業美術といった各分野の識者による寄稿によって日本文化そのものへの理解に貢献した』。一八九五年には『「アール・ヌーヴォーの店」(Maison de l' Art Nouveau)の名で画商店を開いた。日本美術だけでなく、ルネ・ラリックやティファニーなど、同時代の作家の工芸品も多数扱い、店はアール・ヌーヴォーの発源地として繁盛した』とある。

「高橋入道謹一」(生没年不詳)はここに見るように、イギリス時代の熊楠の破天荒な相棒。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「高橋謹一 たかはし きんいち 生没年不詳」によれば、『広島県出身。熊楠の「新庄村合併について(十二)」によると、高橋ははじめ、シンガポールで事業を興すという大井憲太郎』(天保一四(一八四三)年~大正一一(一九二二)年:豊前宇佐生まれの政治家・社会運動家。二十で長崎で蘭学を学び、後に江戸に出て、幕府の開成所舎密局世話心得となった。明治維新後は自由民権運動の急先鋒として活躍、フランス革命思想に感じて「仏国政典」「仏国民選議院選挙法」を邦訳、明治七(一八七四)年の「民撰議院設立建白書」では尚早論を唱えた加藤弘之と論戦した。「愛国社」設立に参加、明治一五(一八八二)年立憲自由党に入党、明治十七年の秩父事件などの過激自由民権運動を指導、明治十八年十一月に朝鮮独立党への援助が露見して大阪で逮捕された。明治二五(一八九二)年には「東洋自由党」を創設、さらに日本労働協会・小作条例調査会を組織して機関誌『新東洋』発刊した)『について渡ったが』、『こと成らず、日本領事館、藤田敏郎らが醵金(きょきん)して、本人の希望するロンドンへ送り出したという。その時、藤田は大倉組龍動(ロンドン)出張所支配人大倉喜三郎に紹介状を書いた。それには、「此高橋謹一なる者、先途何たる見込無御座候へども、達(たつ)て貴地へ赴き度と申に故、其意に任せ候間だ、可然(しかるべく)御厄介奉願上候」とあったという。大倉は高橋を雇い入れたが、暇さえあれば台所を手伝うふりしてビールを飲んで眠ってばかりいるので、大倉夫人から疎まれそこを出たという。その時大倉出張店に、熊楠の中学時代の恩師鳥山啓(ひらく)の息子、嵯峨吉が勤めていて、鳥山が』「熊楠なら世話好きだから面倒を見てくれるだろう」と『話したので』、『高橋は大英博物館へ熊楠を訪ねてやって来た。明治三十(一八九七)年のことである』。『熊楠は高橋をエドウィン・アーノルド男爵』(後注参照)『宅へ世話したが、ここでも酒を飲んでは大声で歌をうたったりするので追い出されてしまう。しかし、ロンドンへ来て二ヵ月ほど経っていて言葉もどうやら話し、また書くことができるようになっていたので、骨董商の加藤章造』(サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『ロンドンで、日本の美術品・骨董品などの輸入販売の店を開いてい』た人物で、熊楠は『たびたび加藤章造の店を訪ねて』親しくしていたらしい。また、『熊楠のロンドン時代の手記には「武州忍藩の家老職の子」とあ』ると記す)『と組んで古道具の売買をして糊口をふさぐ術は心得ていた』。『そのうち熊楠が、大英博物館で乱暴を働いたとして出入りが止められる。高橋は、報恩はこの時だ、一緒に商売をしようと言って熊楠に浮世絵の解説を書かせた。この商売が当って画家ウルナー女史が二十点を九百円という大金で買い上げて熊楠らを驚かせたことがある』。『こうして一年あまりを過ごし、明治三十三年(一九〇一)九月一日、熊楠は帰国の途につくが、熊楠を見送ったのは、たった一人この高橋謹一だけであった。後日譚ではあるが、熊楠のもとへ大正十五年六月二十四日差出の加藤章造、富田熊作の連名の絵ハガキがロンドンから届いている。文中、ロンドンの近況を述べたあと、「高橋謹一の消息は不明」とあった。異郷で人知れず亡くなったのであろうか』とある。

「エドウィン・アーノルド」サー・エドウィン・アーノルド(Sir Edwin Arnold 一八三二年~一九〇四年)のことではなかろうか? イギリスのジャーナリスト・紀行文作家・東洋学者・仏教学者にして詩人。ウィキの「エドウィン・アーノルド」によれば、『ヴィクトリア朝における最高の仏教研究者・東洋学者とされる』。詳しくはリンク先を見られたい。この彼のところへ「食客に世話せしときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことあり」は私は全集を所持しないので不詳。

「外国にまる十五年ありしなり」南方熊楠が渡米してサンフランシスコに着いたのは、明治二〇(一八八七)年一月七日で、イギリスから日本に帰国したのは明治三三(一九〇〇)年十月十五日(神戸上陸)であるから、実際の滞英期間は十二年と約九ヶ月であった。数えとしても十四年で、年数がおかしい。]

 

甲子夜話卷之四 2 御臺所御歌、近衞公返歌幷詩歌の事

 

4-2 御臺所御歌、近衞公返歌詩歌の事

當御臺所は陽明家の御養女なり。日光山二百年御神忌勅會のとき、近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】登山ありて、それより出府なり。登城御對顏、奧迄も通られたるよし。滯府中、御臺所より、螢を籠え入て贈り玉へるときの御詠とて傳聞す。

 めづらしき光りならねど時をしる

      淺ぢが宿の螢なりけり

   左大臣家のかへし

 言の葉の玉をもそへてをくりこす

      螢ぞやどの光りなりけり

此左府、鶴山と號せらる。器量ある人にて、文學にも長ぜられたりと聞く。其詩に、

[やぶちゃん注:以下の漢詩は総て底本では全体が一時下げ。]

  眞珠菴見盆梅

幾程盆梅始吐ㇾ芳。淸標不ㇾ競百花場。先教好鳥爭春信。未ㇾ使遊蜂竊晴香去蛾眉醉夢。吹來龍笛吟腸。慇懃調護避風雪。唯恐東君妬親粧

  又

培艱壺中別有ㇾ天。春魁獨占衆芳先。蘂含殘雪影愈潔。枝奪落霞色更妍。月桂讓ㇾ香多呈ㇾ媚。海棠分ㇾ艷未ㇾ論ㇾ眠。逋仙元有梅花癖。吟賞相親淨几邊。

  又

幾歳栽培能養成。順ㇾ天致ㇾ性自敷ㇾ榮。影隨姑射氷肌疲。香入羅浮春夢驚。綠萼濃呈千朶色。瓊容淡點十分淸。名花元是江南種。移得盆中子細評。

【殘雪、薄霞、月桂、海棠、皆梅名也。順ㇾ天致ㇾ性柳文語】

又よまれし哥ども世に傳へし中に、

 色に出て花野の秋にたくふらし

      蟲も千ぐさの聲のさかりは

いかにも新らしき趣向、これらをや秀逸とは申べき。この人宮中饗應の日、緋の直垂に打刀をぞさゝれける。これは足利家より讓られし故とぞ。京紳にて此裝束せらるゝは、陽明家の外に無しと云。惜哉、去年世を早うせられき。

■やぶちゃんの呟き

「當御臺所」第十一代軍徳川家斉の正室近衛寔子(このえただこ 安永二(一七七三)年~天保一五(一八四四)年)。後の広大院。実父は薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)、実母は側室市田氏(お登勢の方(慈光院))。ウィキの「広大院によれば、『最初の名は篤姫』(知られた後の第十三代将軍家定の正室天璋院が「篤姫」を名乗ったのはこの広大院にあやかったもの)、『於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と』三歳で婚約、『薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された』。第十代将軍『徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである』。『このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため』、『幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。茂姫と家斉の婚儀は婚約から』十三年後の寛政元(一七八九)年に行われた。茂姫は天明元(一七八一)年十月頃に、『豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また将軍家の正室は公家や宮家の娘を迎える事が慣例であるため、茂姫は家斉が将軍に就任する直前』『に島津家と縁続きであった近衛家及び近衛経熙』(つねひろ 宝暦一一(一七六一)年~寛政一一(一七九九)年:従一位・右大臣)『の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなったのである。また、父・重豪の正室・保姫は夫・家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった』とある(下線やぶちゃん)。当時、満四十二歳

「陽明家」近衛家の別称。宮中の門の一つである陽明門に因むもの。「近衛」も京都近衛の北、室町の東に邸宅を構えたことに由来する。

「日光山二百年御神忌勅會」文化一二(一八一五)年四月に挙行された東照宮二百回神忌。

「近衞左大臣殿【御臺所の養兄。諱、基前】」近衛基前(もとさき 天明三(一七八三)年~文政三(一八二〇)年)は父は近衛経熙の子。母は有栖川宮職仁親王の娘董子。この会見の折りは右大臣か左大臣。寔子より十歳年上

●以下、漢詩を我流で書き下しておく。但し、全部、意味が判っていて訓読している訳ではない。これといって深く惹かれ、意味を探りたい部分もない。されば細かな語注は附さぬ。悪しからず。判らないとどうにもならぬ箇所のみ先に附言しておくと、「逋仙」は宋代の隠逸詩人林逋(りんぽ 九六七年~一〇二八年)のこと。詩は作る傍から捨てたとされ、現存するものは少ないが、奇句多く、「山園小梅」の「疎影橫斜水淸淺 暗香浮動月黃昏」(疎影 橫斜(わうしや) 水 淸淺(せいさん) / 暗香(あんかう) 浮動 月 黃昏(わうこん))の二句は梅を詠んだ名吟とされる(「山園小梅」全詩はウィキの「林逋を参照されたい)。「姑射」は不老不死の仙人が住むされる山。藐姑射(はこや)山。「羅浮」とは広東省増城県北東に実在する山(標高一二九六メートル)であるが、大洞窟があって、古来そこには仙人が住むとされた仙境である。「瓊容」は珠玉のような美形。美しい梅花或いはそこにおかれた露の比喩か。

   *

 

  眞珠菴、盆梅を見る

幾程(いかほど)の盆梅 始めて芳(かんばし)きを吐く

淸標(せいひやう) 競はず 百花の場(ば)

先づ 好鳥をして春の信(まこと)を爭はしむ

未だ 遊蜂をして晴香を竊(ぬす)ましめず

蛾眉を點じ去つて 醉夢を醒まし

龍笛を吹き來たらせて 吟腸を惱ます

慇懃(いんぎん)たる調護(てうご) 風雪を避らしめ

唯だ 恐る 東君 親粧(しんせう)を妬(ねた)むを

 

  又

培艱(ばいかん)の壺中 別に天有り

春魁(しゆんくわい) 獨り衆芳先を占(し)む

蘂(しべ) 殘雪を含んで 影 愈(いよい)よ潔く

枝 霞に奪はれ落ちて 色 更に妍(うつく)し

月桂 香を讓り 多く 媚を呈し

海棠 艷を分ちて 未だ眠(ねぶ)りを論ぜず

逋仙(ほせん) 元(もと) 梅花の癖 有り

吟賞して相ひ親しむ 淨几(じやうき)の邊(ほとり)

 

  又

幾歳 栽培 能く養成す(やうじやう)す

天に順ひ 性(しやう)を致し 自(おの)づから榮を敷く

影 姑射(こしや)に隨ひて 氷肌 疲れ

香 羅浮(らふ)に入りて 春夢 驚く

綠萼(りよくがく) 濃呈(のうてい) 千朶(せんだ)の色(いろ)

瓊容(けいよう) 淡點(てんてん) 十分の淸(せい)

名花 元 是れ 江南の種(しゆ)

盆中に移し得て 子細 評せり

 

   *

「順ㇾ天致ㇾ性柳文語」『「天に順ひて性(しやう)を致し」とは柳の文の語(ご)。』「柳」は中唐の詩人柳宗元のこと。彼の「種樹郭橐駝傳(しゅじゅかくだでん)」という文の一節である。正確にはその「能順木之天、以致其性焉爾」(能(よ)く木の天に順(したが)ひ、以つて其の性を致すのみ)という表現を短縮したもので、木を育てるということは「木本来の持っている天然自然に従って、その内に持って生まれて「在る」ところの生きんとする性質(働き)を導いてやるだけのことに過ぎぬ」という謂いであろう。

「たくふ」「比ふ」「類ふ」で「似せる・匹敵させる」の謂いであろう。

「直垂」「ひたたれ」。

「打刀」「うちがたな」と訓ずる。室町時代以降は「刀(かたな)」と言った場合、日本刀ではこの「打刀」を指すと考えてよい。主に馬上合戦用である「太刀」とは異なり、徒戦(かちいくさ)用に作られた刀で、反りは「京反り」と称して刀身中央で最も反った形を呈する。これは腰に直接帯びた際に抜き易い反り方で、対人戦闘の際の実用性を考えてあるものである。長さも概ね成人男性の腕の長さに合わせたものが多く、これも即戦時の抜き易さが考慮されている。

「惜哉」「をしきかな」。

「去年」「こぞ」。この一語によって「甲子夜話卷之四」のこの部分は「甲子夜話」起筆から一ヶ月半以内に記されたものであることが判る。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月十七日の甲子夜を起筆とするが、近衛基前はその「前年」の文政三(一八二〇)年に逝去しているからである。されば、ここまでの記載は実に、その閉区間内(大晦日までは旧暦で四十三日間)に書かれたものであることが判り、静山の非常に意欲的な本書の記述スピードがここで知れるのである。

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅱ」パート

 

   Ⅱ

 

[やぶちゃん注:「萬物節」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「種子はさへづる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「或る雨後のあしたの詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「十字街の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ポプラの詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:風の方向がかわつたは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:はリンク先の私の注で示した通り、初版の最終行「見えない翼はその踵にもひらひらしてゐる」の「踵」は実際には《「路」-「各」+「童」》という異様な漢字活字になっている(底本二本とも確認)。しかし、この漢字は私は知らないし、大修館書店の「廣漢和辭典」にも収録せず、ネットの「Wiktionary」でも、この字を見出すことが出来なかったことから、この漢字をここに入れ込んでも、まず、殆んどの日本人は意味は勿論、それを読む(発音する)ことすら出来ないであろうと考えた。されば、初版ではここのみ、特異的に彌生書房版全詩集及び加工用データとして使った「青空文庫」版(底本・昭和四一(一九六六)年講談社刊「日本現代文學全集 54 千家元麿・山村暮鳥・佐藤惣之助・福士幸次郎・堀口大學集」)に従い、本文自体を「踵」の字として示したのであるが、案の定、この改版では「踵」になっている

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:としよつた農夫は斯う言つたは、後半の初版の一行「われあ大(でけ)え男になつた」の「大」が改版では「太」になっている(ルビはママ)。孰れが正しいとも判じ得ない。私は普通に「大」でよいと思う。]

 

[やぶちゃん注:よい日の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「朝朝のスープ」は初版の四行目の「家の内の日日に重苦しい空氣は子どもの顏色をまで憂鬱にしてきた」「鬱」の字が「欝」に変わっている。]

 

[やぶちゃん注:初版ではこの後に(則ち、「Ⅱ」パートのコーダに)、

 

  或る時

 

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて

これから‥…‥

 

があるが、この一篇は改版では標題が「或る朝」に変えられ上、リーダ数にも変更が加えられて、Ⅲの最後に配されてある。]

 

2017/04/22

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その2) / 「龍宮類話」~了

 

 孫思邈の話で思ひ出すのが嘗て讀んだ「世界お伽噺」の「指環の魔力」である。前後にいろいろ話があるけれども、必要な點だけに切り詰めると、マルチンといふ少年が金持の百姓のところに奉公する。一年勤めた報酬に一袋の砂を貰つて、大きな森にさしかゝつた時、女の泣き聲が聞える。森を出はづれた草原の隅に火が燃えてゐて、その中に女の子が苦しがつて泣いてゐるのであつた。マルチンは卽座に袋から砂を搔き出して振りかけ、火が消えたと思つたら、女の子の姿は見えなくなつて、小さな綺麗な蛇がマルチンの頸に卷き付いた。自分は蛇の王の娘であるが、うつかり遊びに出たところを村の子供達に見付かり、燒き殺されるところであつた、あなたにお禮をしたいから一緒に來て貰ひたい、父に今の話をすれば、お禮に何か上げるといふに違ひないが、その時は他の何も望まず、あなたの指に嵌めていらつしやる指環をいただきたいと仰しやい、といふ。これだけ教へた蛇はまた女の子の姿になり、マルチンを案内して洞窟の中の御殿に導(みちび)いた。蛇の王は孫思邈の場合と同じく、マルチンを上座に坐らせ、寶物を澤山持つて來させて、何でも好きな物をお持ち下さい、といふことであつたが、マルチンは女の子に教はつた通り指環を望む。王は何をか君に惜しまんやと承知し、この指環の魔力の事は誰にも話してはならぬ、とくれぐれも注意した上で渡してくれた。一つ擦れば直ちに十二人の若武者が出て、どんな事でも仕遂げるといふ不思議な指環を手に入れたマルチンは、これによつて俄かに幸福を得、これを失ふに及んでまた不幸に陷ることになつてゐる。

[やぶちゃん注:私は生憎、この話を知らなかったが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで全話を読むことが出来た。巖谷小波編「世界お伽噺第五十七編 露西亞(ロシヤ)の部」(明治三七(一九〇四)年博文館刊)とあり、『ヰルヘルム、ゴルドシユミツト』が収集したお伽噺集の中の『魔法の指環(ツアウベル リング)』が原文であるとする。]

「指環の魔力」の前年と不思議によく似た話が「今昔物語」にある。京に住む若い男といふだけで、名は傳はつて居らぬが、侍だらうといふことになつてゐる。觀音の信者で、每月十八日には必ず寺參りをして佛を禮拜することを怠らなかつた。或年の九月十八日に例の如く寺參りをして、南山科(やましな)の邊まで行つたところ、山深く人里離れたあたりで五十ばかりの男に出逢つた。杖の先に一尺ぐらゐの斑らな小蛇を懸けてゐるのが、まだ死にもせずに動くのを見て憐愍の情を起した。それから二人の間に問答があつて、若い男はその蛇を助けてやつてくれと云ふけれども、五十ばかりの男は承知しない。人間にはそれぞれ世渡りの道がある、自分は年來如意を作つてゐるので、牛の角を延すためには小蛇の油が必要なのだといふ。然らば自分の著物と替へて貰ひたいといふ話になり、結局綿衣と蛇とを交換する約束が成立した。男はその蛇のゐたといふ他の近くに行つて放し、水の中へ入るのを見屆けた上、安心して次の寺のある道を步いて行つた。二町ばかり來たところで、年の頃十二三ぐらゐの美しい少女に出逢ふ。この少女が、自分の命を助けていただいた御禮を申上げたいので、お迎ひに參りましたと云ふのを聞いて、はじめて先刻の小蛇であると知り、恐ろしくなつた。少女はお出で下さればお爲にならぬことはありませんと云ひ、大きな池のところまで來ると、ちよつとこゝでお待ち下さいと云つたまゝ、どこかへ見えなくなつた。再び姿を現した少女に伴はれて、型の如く目を閉ぢてゐる間に立派な宮殿の門前に立つて居つた。男は宮殿に入つて龍王に對面し、種々の饗應があつた後、あなたには如意の珠でも差上げたいが、日本は人の心がよくないから、とても持ちきれまいと云つて、厚さ三寸ばかりの金の餠を半分にしてくれた。少女はまた男に瞑目させて池の邊まで送り、繰り返し禮を述べて消え失せた。家に歸つたら、長い間どこへ行つてゐたかと云はれたところを見れば、浦嶋ほどの事はないにせよ、相當の時間を經過してゐたものらしい。如意の珠といふのはマルチンの貰つた指環に近い力のある寶物ではないかと想像せられるが、龍王が將來を見通して與へなかつたから、この男にはマルチンのやうな後難はない。金の餠は割つても割つても無くならぬので、男は生涯富裕であつた。

[やぶちゃん注:「如意」は「によい(にょい)」で、読経・説法・法会などの際に僧侶が手に持つ仏具。元はインドに於ける「孫の手」とされるもので、棒状で先端が指を曲げたように丸くなっている。獣骨や角或いは竹・木・金属など各種の材料で作った。

「二町」約二百十八メートル。

 以上は「今昔物語集」の「卷第十六」の「仕觀音人行龍宮得富語第十五」(觀音に仕(つかまつ)る人、龍宮に行きて富(とみ)を得る語(こと)第十五)である。

   *

 今は昔、京に有りける年若き男(をのこ)有りけり。誰人(たれひと)と語り傳へず。侍(さむらひ)なるべし。身貧しくして世を過ぐすに便(たより)無し。而るに、此の男、月每(ごと)の十八日に持齋(ぢさい)して、殊に觀音に仕りけり。亦、其の日、百の寺に詣でて、佛(ほとけ)を禮(らい)し奉りけり。

 年來(としごろ)、如此(かくのごと)く爲(す)る間、九月(ながつき)の十八日に、例の如くして、寺々に詣づるに、昔は寺少なくして、南山階(みなみやましな)の邊(ほとり)に行きけるに、道に山深くして人離れたる所に、五十許りなる男(をのこ)、値(あ)ひたり。杖の崎(さき)[やぶちゃん注:先。]に物を懸けて持ちたり。

「何を持ちたるぞ。」

と見れば、一尺許りなる小さき蛇(へみ)の斑(まだら)なる也。行き過ぐる程に見れば、此の小さき蛇、動く。此の男、蛇持ちたる男に云く、

「何(いど)こへ行く人ぞ。」

と。蛇持(へみもち)の云く、

「京へ昇る也。亦、主(ぬし)は何(いど)こへ御(おは)する人ぞ。」

と。若き男の云く、

「己(おの)れは佛(ほとけ)を禮(をが)まむが爲(ため)に寺に詣づる也。然(さ)て、其の持ちたる蛇(へみ)は何(なに)の料(れう)ぞ。」

と。蛇持の云く、

「此れは、物の要(えう)に宛(あ)てむが爲に、態(わざ)と取りて罷る也。」

と。若き男の云く、

「其の蛇(へみ)、己(おの)れに免(ゆる)し給ひてむや。生きたる者の命(いのち)を斷つは、罪得る事也。今日(けふ)の觀音に免し奉つれ。」

と。蛇持の云く、

「觀音と申せども、人をも利益し給ふ要の有れば、取りて行く也。必ず者の命を殺さむと不思(おもは)ねども、世に經(ふ)る人は樣々(さまざま)の道にて世を渡る事也。」

と。若き人の云く、

「然(さて)も、何の要に宛てむずるぞ。」

と。蛇持の云く、

「己(おの)れは、年來(としごろ)、如意(によい)と申す物をなむ造る。其の如意に牛の角(つの)を延(の)ぶるには、此(かか)る小さき蛇(へみ)の油を取りて、其れを以て爲(す)る也。然れば、其の爲に取りたる也。」

と。若き男の云く、

「然(さ)て、其の如意をば、何に宛て給ふ。」

と。蛇持の云く、

「怪しくも宣(のたま)ふかな。其れを役(やく)にして、要(えう)し給ふ人に與へて、其の直(あたひ)を以つて衣食に成す也。」

と。若き男の云く、

「現(げ)に去り難き身の爲の事にこそ有んなれ。然(さ)れども、只にて乞ふべきに非ず。此の着たる衣に替へ給へ。」

と。蛇持の云く、

「何に替へ給はむと爲るぞ。」

と。若き男の云く、

「狩衣にまれ、袴にまれ、替へむ。」

と。蛇持の云く、

「其れには替ふべからず。」

と。若き男の云く、

「然(さ)らば、此の着たる綿衣(わたぎぬ)に替へよ。」

と。蛇持、

「其れに替へてむ。」

と云へば、男、衣(きぬ)を脱ぎて與ふるに、衣を取りて蛇(へみ)を男に與へて去るに、男の云く、

「此の蛇は何(いど)こに有りつるぞ。」

と問へば、

「彼(か)しこなる小池に有りつる。」

と云ひて、遠く去りぬ。

 其の後(のち)、其の池に持ち行きて、可然(しかるべ)き所を見て、砂を崛(ほ)り遣りて、冷(すず)しく成(な)して放ちたれば、水の中にり入ぬ。心安く見置きて、男、寺の有る所を差して行けば、二町許り行き過ぐる程に、年、十二、三許りの女(をむな)の形(かた)ち美麗なる、微妙(みめう)の衣袴(きぬはかま)を着たる、來たり會へり。男、此れを見て、山深く此く値(あ)へれば、

「奇異也。」

と思ふに、女の云く、

「我れは、君の心の哀れに喜(うれ)しければ、其の喜び申さむが爲(ため)に來たれる也。」

と。男の云く、

「何事に依りて、喜びは宣ふぞ。」

と。女の云く、

「己(おの)れが命を生(い)け給へるに依りて、我れ、父母に此の事を語りつれば、『速(すみや)かに迎へ申せ。其の喜び申さむ』と有りつれば、迎へに來たれる也。」

と。男、

「此れは有りつる蛇(へみ)か。」

と思ふに、哀れなる物から、怖しくて、

「君の父母(ぶも)は何(いどこ)にぞ。」

と問へば、

「彼(かしこ)也。我れ、將(ゐ)て奉らむ。」と云ひて、有りつる池の方に將て行くに、怖ろしければ、遁れむと云へども、女、

「世も御爲に惡しき事は不有(あら)じ。」

と強(あなが)ちに云へば、憗(なまじひ)に池の邊(ほとり)に具して行きぬ。女の云く、

「此に暫く御(おは)せ。我は前(さき)に行きて、來たり給ふ由(よし)、告げて返り來たらむ。」

と云ひて、忽ちに失せぬ。

 男、池の邊に有りて、氣六借(けむつか)しく思ふ程に、亦、此の女、出で來たりて、

「將て來たらむ。暫く、目を閉ぢて眠(ねぶ)り給へ。」

と云へば、教へに隨ひて眠り入ると思ふ程に、

「然(さ)て、目を見開(みあ)け給へ。」

と云へば、目を見開けて見れば、微妙(めでた)く莊(かざ)り造れる門(もん)に至れり。我が朝(てう)の城(じやう)を見るにも、此(ここ)には可當(あたるべ)く非ず。女の云く、

「此に暫く居給ふべし。父母(ぶも)に此の由、申さむ。」

とて、門に入りぬ。

 暫く有りて、亦出來たりて、

「我が後(しりへ)に立ちて御(おは)せ。」

と云へば、恐々(おづお)づ女に隨ひて行くに、重々(ぢうぢう)に微妙(みめう)の宮殿共(ども)有りて、皆、七寶(しちほう)を以つて造れり。光り耀く事、限り無し。既に行き畢(は)てて、中殿(ちうでん)と思しき所を見れば、色々の玉を以つて莊(がざ)りて、微妙の帳床(ちやうどこ)を立てて、耀き合へり。

「此(こ)は極樂にや。」

と思ふ程に、暫く有てり、氣高く怖し氣(げ)にして、鬢(びん)長く、年六十許りなる人、微妙に身を莊(かざ)りて、出來たりて云く、

「何(いづ)ら、此方(こなた)に上り給へ。」

と。男、

「誰(たれ)を云ふにか。」

と思ふに、

「我を呼ぶ也けり。」

と。

「何(いか)でか參らむ。此(か)く乍ら仰せを承らむ。」

と畏(かしこま)りて云へば、

「何でか迎へ奉りて對面する樣有(やうあ)らむとこそ思さめ。速(すみや)かに上り給へ。」

と云へば、恐々(おづお)づ上(のぼ)りて居(ゐ)たれば、此の人の云く、

「極めて哀れに喜(うれ)しき御心(みこころ)に、喜び申さむが爲に迎へ申つる也。」

と。男の云く、

「何事にか候らむ。」

と。此の人の云く、

「世に有る人、子(こ)の思ひは更に知らぬ事、無し。己(おの)れは、子、數(あまた)有る中に、弟子(おとご)[やぶちゃん注:末っ子。]なる女童(めのわらは)の、此の晝、適(たまた)ま此の渡り近き池に遊び侍りけるを、極めて制し侍れども不聞(きか)ねば、心に任かせて遊ばせ侍るに、『今日、既に人に取られて死ぬべかりけるを、其(そこ)の來り合ひて、命を生け給へる』と、此の女子(をむなご)の語り侍れば、限り無く喜(うれ)しくて、其の喜(よろこ)び申さむが爲に迎へつる也。」

と。男、

「此れは蛇の祖(おや)也けり。」

と心得つ。

 此の人、人を呼ぶに、氣高く怖し氣なる者共(ども)來たれり。

「此の客人(まらうど)に主(ある)じ仕つれ。」

と云へば、微妙(みめう)の食物(じきもつ)を持ち來たりて居(す)へたり。自らも食ひ、男にも、

「食へ。」

と勸むれば、心解けても不思(おもは)ねども、食ひつ。其の味はひ、甘(むま)き事、限り無し。下(おろ)しなど取り上ぐる程に[やぶちゃん注:食べ残した料理を下げ始める頃合いに。]、主人の云く、

「己(おの)れは、此れ、龍王(りうわう)也。此に住みて久しく成りぬ。此の喜びに、如意(によい)の珠(たま)[やぶちゃん注:願うものを総て叶える魔法の宝珠(ほうじゅ)。]をも奉るべけれども、日本(につぽん)は人の心惡しくして、持(たも)ち給はむ事、難(かた)し。然(さ)れば、其こに有る箱、取りて來たれ。」

と云へば、塗たる箱を持ち來たれり。開(ひら)くを見れば、金(こがね)の餠(もち)一つ有り。厚さ三寸許り也。此れを取り出だして、中(なから)より破(わ)りつ。片破(かたわれ)をば箱に入れつ。今、片破を男に與へて云く、

「此れを一度に仕ひ失ふ事無くして、要(えう)に隨ひて、片端(かたはし)より破(わ)つつ仕ひ給はば、命(いのち)を限りにて、乏(とも)しき事、有らじ。」

と。

 然(しか)れば、男、此れを取りて、懷(ふところ)に差し入れて、

「今は返りなむ。」

と云へば、前(さき)の女子(をむなご)出で來たりて、有りつる門に將て出でて、

「前(さき)の如く眠(ねぶ)り給へ。」

と云へば、眠りたる程に、有りし池の邊(ほとり)に來たりにけり。女子の云く、

「我れ、此こまで送りつ。此れより返り給ひね。此の喜(うれ)しさは、世々(せぜ)にも忘れ難し。[やぶちゃん注:生涯、忘れることは御座いませぬ。]」

と云ひて、掻き消つ樣(やう)に失せぬ。

 男は家に返り來たれば、家の人の云く、

「何ぞ久く不返來(かへりき)たらざりつる。」

と。暫く、と思ひつれども、早う□日(か)を經(へ)にける也けり。[やぶちゃん注:「□」は意識的欠字であろう。「ちょっとの時間と思っていたものが、なんとまあ!……日をも経ってしまっていたのであった!」と、何日もが経過していたことに、この時、初めて気づいたその驚きを示したのである。]

 其の後(のち)、人に不語(かたら)ずして、竊(ひそ)かに此の餠の片破(かたわれ)を破(わ)りつつ、要(えう)の物に替へければ、貧しき事、無し。萬(よろづ)の物、豐かにて、富人(ふにん)とり成にけり。此の餠、破(わ)れども破れども、同じ樣に成り合ひつつ有りければ、男、一生の間、極めたる富人として、彌(いよい)よ觀音に仕(つかまつ)りけり。一生の後(のち)は、其の餠、失せて、子に傳ふる事、無かりけり。

 懃(ねむご)ろに觀音に仕れるに依りて、龍王の宮(みや)をも見、金(こがね)の餠をも得て、富人と成りる也けり。

 此れ、何(いづ)れの程の事と不知(しら)ず、人の語るを聞き傳へて、語り傳へたるとや。

   *]

 孫思邈より觀音信仰の男に至る話には共通性が多い。何かの話が支那、ロシア、日本に分れて別々の苗を遺したものかも知れぬが、その原典も徑路も一切不明である。孫思邈も「今昔物語」も皆水中の宮殿であつたのに、マルチンの話だけが洞窟なのは、國民性の相違によるか、龍王と蛇王の相違によるか、その邊も俄かに斷定出來ない。

 話は時代を遡るほど單純なのが原則ならば、こゝに「搜神記」の一話を擧げて置くのも無意義ではなからう。隋侯が周王の使者として齊に入つた時、深水の沙邊で三尺ばかりの小蛇が、熱沙の中にのたうち𢌞り、頭から血を出してゐるのを見た。隋侯これをあはれみ、わざわざ馬から下りて、鞭を以て水中に撥(は)ね、汝もし神龍の子ならば我を擁護すべしと云ひ、また馬に乘つて過ぎ去つた。使の用事を果して二箇月後に同じ道を通ると、一人の子供が珠を持つて來て隋侯に捧げた。お前はどこの子だ、と問へば、先日一命をお救ひ下さいました御恩は忘れませぬ、これはお禮のしるしに差上げたいのです、と云ふ。お前のやうな子供から、そんなものを貰はんでもいゝ、と云ひ捨てて去つたところ、その夜の夢に小兒はまた珠を捧げて現れた。私は蛇の子です、本日この珠を差上げましたのに、お受け下さいませんので、ここまで持つて參りました、どうか柾げてお納め下さい、といふのである。夜が明けて見たら、その珠は隋侯の枕許に在つた。傷蛇なほ恩を知り、重く報ずることを解す、人にして豈に恩を知らざらんや、と歸つて珠を周王に獻上したとある。

[やぶちゃん注:「隋侯」平凡社東洋文庫版の竹田晃訳「捜神記」(昭和三九(一九六四)年刊)の注によれば、『隋は漢の東にあった国で、周の諸侯であったと伝えられている』とある。現在の湖北省内。

「枉げて」「まげて」。]

 この話は熱沙中の小蛇を水中に撥ねやるだけで、財を投じて命を救ふこともなし、後日に宮殿に迎へられる話もない。たゞ小蛇が救命の恩を忘れず、珠を獻じて隋侯に酬ゆるに過ぎぬ。珠も明晃々たるものではあつたらうが、神異の點は記されてゐない。かういふ單純な話が後世になるに從ひ、種々の條件が加はり、雪まろげのやうに次第に大きくなるのではなからうか。

[やぶちゃん注:「明晃々たる」「めいくわうくわう(めいこうこう)たる」は「明煌煌たる」とも書き、きらきらと明るく光り輝くさまを言う。

 以上は「搜神記」の「第二十卷」の以下と思われるが、それは、胴の中央が大きく裂け傷ついた大蛇であって、しかも隋侯はそれを薬を以ってちゃんと治療してやっており、元気になった大蛇は自ら走り去る。そうして一年ばかりして、そのお礼として明光珠を持って来るのは童子なんぞではなく(そもそもが「大蛇」なんだから「童子」はおかしい)、その大蛇がそのままに銜えてくることになっている。どうも柴田のそれは話が頗る小説的(作為的)に膨らんでいる気がする。柴田が見たものは、この原話を後代の誰かが翻案してしまったものなのではなかったろうか? それとも別な伝本があるのか? 識者の御教授を乞う

   *

隋縣溠水側、有斷蛇邱。隋侯出行、見大蛇被傷、中斷、疑其靈異、使人以藥封之、蛇乃能走、因號其處斷蛇邱。、蛇銜明珠以報之。珠盈逕寸、純白、而夜有光、明如月之照、可以燭室。故謂之「隋侯珠」、亦曰「靈蛇珠」、又曰「明月珠」。邱南有隋季良大夫池。

   *

「隋侯珠」「靈蛇珠」「明月珠」先の東洋文庫の竹田氏の注によれば、『周代の和(か)氏(卞和(べんか)が楚の山中で見つけたいわゆる「和氏の璧』(へき)『」と並んで、中国では至宝とされていた』名立たる宝珠であったらしい。その名宝の璧と、そのために二度に渡って左足、次に右足を斬られる刑に処せられた卞和の話はウィキの「卞和に詳しい。因みに、この和氏の「璧」は遙か後に戦国時代の趙へと渡り、かの「完璧」の故事の由来となった。それもリンク先をどうぞ。]

柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その1)

 

  

 

 龍宮類話

 

 浦嶋太郎の話は、一番早い「浦嶋子傳」を見ても、その次の「續浦嶋子傳記」を見ても、浦嶋は海上に靈龜を釣り、船中に眠る間に靈龜變じて美女となり、蓬萊宮に伴はれることになつてゐる。御伽草子の時代になると、先づ釣り上げた龜を海に放し、翌日小舟にたゞ一人乘つた女房に逢ふ。これが龜の化したものであることは、龍宮城に伴はれて三年を過し、暫しの別れを告げる段になつてわかるのである。小學唱歌で習つたり、お伽噺で讀んだやうに、子供から龜を買ひ取る一條はどれにもない。

[やぶちゃん注:「浦嶋子傳」「うらしまこでん」と一応、読んでおく。柴田は「一番早い」と言っているから、これは浦島伝説の現存する最古の記載である「日本書紀」(舎人親王らの撰により養老四(七二〇)年完成)の「雄略紀」中の雄略天皇二二(四七八)年秋七月の下りである。ウィキの「浦島太郎」によれば、『丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、と最後に締めくくるが、この別巻がどの書を指しているのかは不明』である。孰れにせよ、「日本書紀」が完成した『頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていたことが窺い知れる』とあり、「日本書紀」の当該条は以下の下線部。後の下線部の訓読は自己流。

   *

廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。

(秋七月、丹波國(たにはのくに)餘社郡(よざのこほり)の管川(つつかは)の人、端江浦嶋(みづのえのうらしま)の子、舟に乘りて釣りす。遂に大龜(おほがめ)を得たり。便(たちま)ちに女(をとめ)と化-爲(な)る。是に、浦嶋の子、感(たけ)りて婦(め)にと爲(な)す。相ひ遂(した)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙-衆(ひじり)を歴(めぐ)り觀る。語(こと)は別の卷に在り。

   *

「餘社郡」は現在の京都府与謝郡は若狭湾奥西端と丹後半島の先端東部にあるが、「管川(つつかは)」は現在の河川名の「筒川(つつかわ)」と思われ、その川沿いのここ(グーグル・マップ・データ)に「浦嶋神社」(京都府与謝郡伊根町本庄浜)も現認出来る。同神社は創祀年代を天長二(八二五)年七月二十二日とし、「浦嶋子」を「筒川大明神」として祀るのが始めであると伝えられている。主祭神は「浦嶋子(浦島太郎)」である。

「續浦嶋子傳記」「ぞくうらしまこのでんき」と読む。作者不詳。延喜二〇(九二〇)年成立で、浦島伝説を神仙譚風に漢文で記し、後に主人公「浦島子」に代わって詠じた七言二十二韻、浦島子の和歌、絶句各十首に、「亀姫」の和歌・絶句各四首を付す。「丹後国風土記」(これが古浦島伝承では記載が最も詳しい。先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい(但し、中間部が省略されてある)。柴田が記す通りの展開で、海中の「博大の嶋」(龍宮城というより蓬莱山っぽい)へと向かう)「日本書紀」「万葉集」(八世紀半ば以降の成立。「卷九」の「高橋虫麻呂」作の長歌(第一七四〇番歌)に「詠水江浦嶋子一首」として浦島伝説が韻文化されている。やはり先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい)などの浦島伝説を基に、中国の「柳毅伝」・「漁父辞」・「高唐賦」・「洛神賦」「桃花源記」「続斉諧記」中の「劉阮天台」・「遊仙窟」などによる潤色を施したものである(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。

「御伽草子の時代」室町時代に成立した短編物語集「御伽草子」の「浦島太郎」が代表例で、現行の伝説の「亀の報恩」モチーフ(但し、ここでも自身が亀を釣るも放生の仏心を起こして海へ返すのであって子らが亀をいじめているのではない)や竜宮城・乙姫・玉手箱などのアイテムがここで完備された。しかし、竜宮城は依然、島嶼か陸地の如く描写されており、道教的な仙界としての蓬莱山の呪縛から自由になっていない。

「小學唱歌」文部省唱歌「浦島太郎」は、明治三三(一九〇〇)年の「幼年唱歌」の「中 第五 浦島太郎」(石原和三郎・作詞/田村虎蔵・作曲)が最初。その一番の歌詞は以下で、

   *

一 むかしむかし、うらしまは、

  こどものなぶる、かめをみて、

  あはれとおもひ、かひとりて、

  ふかきふちへぞ、はなちける。

   *

ここで初めて、積極的生物虐待者としての「チビッ子ギャング」像が形成されたのである。

「お伽噺」先のウィキの「浦島太郎」によれば、『明治期には長谷川武次郎が『日本昔噺』(ちりめん本)の一篇としてまとめ、ジェームス・カーティス・ヘボンやバジル・ホール・チェンバレン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英訳を行った』。明治三〇(一八九七)年『にはハーンの著書『Out of the East』によっても紹介されている』。『さらに巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治』四十三年から三十五年間の長きに亙って、『国定教科書の教材になり定着していった』とあるから、まさに先の石原和三郎の作詞になる「浦島太郎」が小学校の音楽の授業で歌われるようになった明治三十年代こそが、「チビッ子ギャング」出現のエポック(現在(二〇一七年)から丁度、百二十年前)であったことが判るのである。]

 龜を助けて放す話は支那にもある。「稽神錄」の宋氏も、「河東記」の韋丹も、漁夫に捕へられた龜を憫れみ、その價を拂つて水中に放してやるので、韋丹の如きは寒空に脱ぐべき著物もなし、自分の乘つてゐた驢馬を以て龜に易(か)へるのであつた。後日いづれも龜の化した人物にめぐりあび、宋の子は水死しなければならぬ運命を免れ、韋丹は四十歳近くまで碌々としてゐたのが、俄かに運が開けて御史大夫に至る。胡蘆先生なる者の説によると、韋丹に助けられた龜は實は神龍だといふことであつた。他人の運命を左右するほど靈威ある者が、どうして漁夫に捕へられて苦しんだか。それは一時の困厄で、聖人たると凡人たるとを問はず、皆免れ得ぬのだといふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:『「稽神錄」の宋氏』は「太平廣記」の「水族八」に「宋氏」として、「稽神錄」からとして載る。

   *

江西軍吏宋氏嘗市木至星子、見水濱人物喧集、乃漁人得一大黿。黿見宋屢顧、宋卽以錢一千贖之、放于江中。後數年、泊船龍沙、忽有一僕夫至、云、「元長史奉召。」。宋恍然。「不知何長史也。既往、欻至一府、官出迎。」。與坐曰、「君尚相識耶。宋思之、實未嘗識。」。又曰、「君亦記星子江中放黿耶。」。曰、「然、身卽黿也。頃嘗有罪、帝命謫爲水族、見囚於漁人、微君之惠、已骨朽矣。今已得爲九江長、相召者、有以奉報。君兒某者命當溺死、名籍在是。後數日、鳴山神將朝廬山使者、行必以疾風雨、君兒當以此時死。今有一人名姓正同、亦當溺死、但先期歳月間耳。吾取以代之、君兒宜速登岸避匿、不然不免。」。宋陳謝而出、不覺已在舟次矣。數日、果有風濤之害。死甚衆。宋氏之子竟免。

   *

「河東記」のそれは「韋丹」。

   *

唐江西觀察使韋丹、年近四十、舉五經未得。嘗乘蹇驢、至洛陽中橋。見漁者得一黿、長數尺、置於橋上、呼呻餘喘、須臾將死。群萃觀者、皆欲買而烹之。丹獨憫然、問其直幾何。漁曰、「得二千則鬻之。」。是時天正寒、韋衫襖褲、無可當者、乃以所乘劣衛易之。既獲、遂放於水中、徒行而去。時有胡蘆先生、不知何所從來、行止迂怪、占事如神。後數日、韋因問命、胡蘆先生倒屣迎門、欣然謂韋曰、「翹望數日、何來晚也。」。韋曰、「此來求謁。」。先生曰、「我友人元長史、談君美不容口、誠托求識君子、便可偕行。」。韋良久思量、知聞間無此官族。因曰、「先生誤、但爲某決窮途。」。胡蘆曰、「我焉知。君之福壽、非我所知。元公即吾師也、往當自詳之。」。相與策杖至通利坊、靜曲幽巷。見一小門、胡蘆先生卽扣之。食頃、而有應門者開門延入。數十步、復入一板門。又十餘步、乃見大門、制度宏麗、擬於公侯之家。復有丫鬟數人、皆及姝美、先出迎客。陳設鮮華、異香滿室。俄而有一老人、須眉皓然、身長七尺、褐裘韋帶、従二青衣而出。自稱曰、「元浚之。」。向韋盡禮先拜。韋驚、急趨拜曰、「某貧賤小生、不意丈人過垂採錄、韋未喩。」。老人曰、「老夫將死之命、爲君所生、恩德如此、豈容酬報。仁者固不以此爲心、然受恩者思欲殺身報效耳。」。韋乃矍然、知其黿也、然終不顯言之。遂具珍羞、流連竟日。既暮、韋將辭歸、老人卽於懷中出一通文字、授韋曰、「知君要問命、故輒於天曹、錄得一生官祿行止所在、聊以爲報。凡有無、皆君之命也。所貴先知耳。」。又謂胡蘆先生曰、「幸借吾五十千文、以充韋君改一乘、早決西行、是所願也。」。韋再拜而去。明日、胡蘆先生載五十緡至逆旅中、賴以救濟。其文書具言、明年五月及第、又某年平判入登科、受咸陽尉、又明年登朝、作某官。如是歷官一十七政、皆有年月日。最後年遷江西觀察使、至御史大夫。到後三年、廳前皂莢樹花開、當有遷改北歸矣。其後遂無所言、韋常寶持之。自五經及第後、至江西觀察使。每授一官、日月無所差異。洪州使廳前、有皂莢樹一株、月頗久。其俗相傳、此樹有花、地主大憂。元和八年、韋在位、一旦樹忽生花、韋遂去官、至中路而卒。初韋遇元長史也、頗怪異之。後每過東路、卽於舊居尋訪不獲、問於胡蘆先生。先生曰、「彼神龍也、處化無常、安可尋也。」。韋曰、「若然者、安有中橋之患。」。胡蘆曰、「迍難困厄、凡人之與聖人、神龍之與耑蠕、皆一時不免也、又何得異焉。」。

   *

「碌々と」(ろくろくと)は平凡なさま・役に立たないさま・何事もなし得ないさま。]

 宋や韋に助けられた龜は、それぞれ恩に報いてゐる。たゞその世界は浦嶋太郎とはかけ離れたもので、全然詩趣がない。後世の作者がこれにヒントを得て、浦嶋太郎の話に龜を助ける一條を加へたと解するのは躊躇せざるを得ぬ。現實的な宋や韋は最後の一段に於て、玉手箱から立ちのぼる一道の白氣のために、忽ち白髮の老翁と化するやうなこともなかつたが、浦嶋太郎の話が永く傳承され、多くの文藝に取入れられた最大眼目はこの玉手箱の白氣に在る。それは勿論蓬萊宮中の歡樂と照應すべきものだから、最初からさういふ場面を缺いてゐる「稽神錄」や「河東記」では玉手箱の出しやうがないのかも知れぬ。

「列仙全傳」の中で多少浦嶋の面影があるかと思ふのは孫思邈(そんしばく)である。或日一人の童子が小蛇を苦しめてゐるのを見、それを貰ひ受けて衣に包み、藥を塗つて放してやつた。十日ばかりたつて郊外の道を行くと、馬に乘つた白衣の少年が現れ、自分はあなたに命を助けられた蛇の兄であると名乘り、強ひてその家に連れて行つた。金碧燦爛たる立派な城郭で、庭には花木が生ひ繁つて居つたが、やがて多くの從者を隨へた紅い衣服の人が、彼を上座に招じ、厚く恩誼を謝した後、靑い衣服の少年を紹介して、これがあなたに助けられた者であるといふ。それから山海の珍味が出たけれど、恩遇は五穀を避けてゐる道士なので、酒だけしか飮まぬ。傍の人にこゝは何といふところかと問うたら、徑陽の水府であると答へた。彼ははじめて水底に不思議な世界のあることを知つたのである。三日ばかりして辭し去らうとした時、主人は多くの金銀絹綃の類を出して贈らうとしたが、堅く辭して受けぬので、今度は龍宮の妙藥凡そ三十種ばかりを持ち出し、何かの御用に立つこともあらうと云つて贈つた。果してこの藥は效驗の著しいものばかりであつた。

[やぶちゃん注:「孫思邈(そんしばく)」(五八一年或いは六〇一年~六八二年)は隋末から初唐の医家。京兆華原(けいちょうかげん:現在の陝西省耀県)の人。孫真人(そんしんじん)とも称される。七歳で学問を始め、二十歳の頃には老荘思想や百家の説を論じ、併せて仏典も好んだ。陰陽・推歩(天文や暦算)・医薬に精通していたが、太白山に隠居し、隋の文帝・唐の太宗や高宗が高位を約して招くも、これを受けなかったという。著書である「備急千金要方」の自序に『幼時に風冷に遭い、度々、医者に掛かり、家産を使い果たした。故に学生の時から老年に至るまで。医書を尊び親しんでいる。診察・薬方などを有識者に学び、身辺の人や自身の疾病を治すようになった。薬方や本草を学ぶのはよいが、薬方書は非常に多く、緊急時には間に合わぬ。そこで、多くの経方書(けいほうしょ)から集めて簡易につくったものが「備急千金要方」三十巻である。人命は貴く、千金の価値がある』と記しているという。他にも「福禄論」「摂生真録」「枕中素書」などの著書がある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「金銀絹綃」「きんぎんけんせう」と読んでおく。「綃」は畳語で「絹」と同じく「生糸(きいと)」の意。

 原文は以下(現代中国語(繁体字)に書き直したものか)と同源の話であろう。中文サイトからの引用だが、出典は明記されていないが、既に述べた通り、「列仙全傳」は所持せず、中文サイトでも探し方が悪いのか、見当たらぬので、孫思邈のポリシーではないが、応急処方として示しておくこととする。

   *

一次孫思邈外出、碰見一個牧童砍傷了一條小蛇、很是同情、就用衣服包好帶囘家來、用外傷藥敷好、包紮好傷口、放囘了草叢中。十幾天後、孫思邈出遊在外、遠遠來了一位穿白衣的少年。少年來到跟前、翻身下馬、跪倒便拜、「感謝你救了我的弟弟。」。孫思邈還未明白過來、少年又邀他到家中一坐、著就把自己的馬讓給孫思邈、自己跟在後邊走得很快。不多會兒就走進了一個城廓、但見花木盛開、殿宇輝煌。

有一個人穿戴打扮像是一位王者、帶著很多侍從、起身迎接他、説、「深蒙先生大恩、特意讓我的孩子請你。」。説著指著一個穿靑衣的小孩説、「前些天這孩子一個人外出、被一個牧童砍傷了、多虧先生您脱衣相救、這孩子才有今天。」。又讓穿靑衣的小孩跪倒磕頭。

孫思邈才想起脱衣救靑蛇的事、悄悄地問一個隨從的人這是什麼地方、那人説這是涇陽水府。王者便設下酒席歌舞宴請孫思邈。孫思邈正在練習道術的辟穀服氣、只喝了一點點酒。

在這個地方過了三天、孫思邈要走、王者搬出金銀綢緞相賜、孫思邈堅辭不要、王者又叫龍宮奇方三十首他兒子拿了、送給孫思邈説、「這些方子可以幫您濟世救人。」。就用車馬送孫思邈囘去了。孫思邈用這些方子試著給人治病、非常效驗、就把它編進了他撰寫的「千金方」一書中。

孫思邈一生治病救人、到了唐永徽三年、孫思邈已經一百多了。一天、他洗完澡穿好衣服、端端正正地坐在那裏對兒孫們説、「我將要到無何有之去了。」。説完就咽了氣。過了一個多月、臉色還像生前一樣、沒有改變、到盛殮時、忽然屍體不見了、只剩下了一堆衣裳。

   *]

 この話は宋氏や章丹に比べて大分浦嶋に似たところが多い。伴はれた場所が水底の城郭であり、歸りがけに土産をくれたりするあたり、日本の龍宮譚とほゞ同じである。殊に發端が童子の苦しめる蛇である一點は、最も看過すべからざるものと思はれる。

南方熊楠 履歴書(その14) ロンドンにて(10) 母の死・放蕩の兄南方弥兵衛のこと

 

 こんなことをいいおると果てしがないから、以下なるべく締めて申す。けだし、若いときの苦労は苦中にも楽しみ多く、年老(と)るに及んでは、いかな楽しきことにあうても、あとさきを考えるから楽しからぬものなり。小生ロンドンで面白おかしくやっておるうちにも、苦の種がすでに十分伏在しおったので、ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。仏国のリットレーは若きときその妹に死に別れたが、老年に及んでもその妹の顔が現に眼前にあるようだと嘆きし由。東西人情は古今を通じて兄弟なり。小生最初渡米のおり、亡父は五十六歳で、母は四十七歳ばかりと記臆す。父が淚出るをこらえる体(てい)、母が覚えず声を放ちしさま、今はみな死に失せし。兄姉妹と弟が瘖然(いんぜん)黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致し、天下不死的の父母なし、人間得がたきものは兄弟、この千万劫(ごう)にして初めて会う値遇(ちぐう)の縁厚き兄弟の間も、女性が一人でも立ち雑(まじ)ると、ようやく修羅(しゅら)と化して闘争するに及ぶ次第は近々述べん。

[やぶちゃん注:「ロンドンに着いて三年めに和歌山にあった母また死せり。」南方熊楠がロンドンについたのは明治二五(一八九二)年九月二十六日で、母すみは明治二九(一八九六)年二月二十七日に五十八歳で亡くなっている当時、熊楠満二十八であった。

「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方すみ」によれば、これは藤原伊周の一首とし(但し、私の所持する歌集類では見出せなかった。収録歌集等、識者の御教授を乞うものである)、熊楠は母逝去の報を知って、この和歌を以って『その死を悼(いた)み、弟から送られてきた、母の枕辺に兄弟が並んだ写真を見て自らを慰めた、という』とある。

「リットレー」フランスの医学史家・哲学者・文献学者・辞書編纂者にしてアカデミー会員であったエミール・マクシミリアン・ポール・リトレー(Émile Maximilien Paul Littré 一八〇一年~一八八一年)のことであろう。数ヶ国語を操り、ヒポクラテスのギリシア語校訂版と仏訳を完成(一八三九年~一八六一年)、コントの実証主義思想に共感して、コントが神秘主義的になった後も、理性を最重視する合理主義を説いた。彼を特に有名にしたのは、俗に「リトレ辞典」と呼ばれる四巻からなるDictionnaire de la langue franaise(「フランス語大辞典」一八六三年~一八七三年刊/補遺一八七七年刊)の編纂で、この辞書は語義と例文の他に、語源・語史・文法事項をも記述した画期的な辞典で、十九世紀から二十世紀の文人に大きな影響を与えたことで知られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「瘖然(いんぜん)」激しい失意によって言葉を発することも出来ないさま。

「悽然」(せいぜん)は深い悲しみに沈むさま。この「黙りうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触(さわ)り得るように視(み)え申し候。それについて、またいまだ一面識なき貴下も、この処を御覧にならば必ず覚えず悽然たるものあるを直覚致」すはずである、という箇所は、単に熊楠の父母を失った深い悲しみが今も続いていることの過剰なデフォルマシオンなのではないことに注意されたい。これはかなり知られたことであるが、南方熊楠は博覧強記だっただけでなく、ある種の「博乱狂気」的側面もあり、高野山山中の採集中にも幽霊を実際に見たと主張し、幽冥界を視認するような霊的な能力を持っていたと自認していた節がある。ここもそうした霊界を、今ここに現出させおるし、それを貴君(書簡の相手である日本郵船株式会社大阪支店副長矢吹義夫)がここに居られたならば実感させることさえも可能であるととんでもないことを言っているのである(と私は採る)。

「値遇(ちぐう)」「ちぐ」とも読み、縁あってめぐりあうこと、特に、仏縁あるものにめぐりあうことを指す。]

 

 この母が死せしころ、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががらあきになりおった。この人は酒は飲まねど無類の女好きで、亡父の余光で金銭乏しからざりしゆえ、人に義理を立てるの何のということなく、幇間(ほうかん)ごとき雑輩を親愛するのみゆえ、世人に面白く思われず。そのころ和歌山第一の美女というものあり。紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)の孫にて、この久野家は今まであらば男爵相当だが絶してしまえり。この女が若後家たりしを兄が妾とし、亡父が撰んでくれた本妻を好まず(これは和泉の尾崎という所の第一の豪家の女なり)、久野の孫女の外になお四人の女を囲いおりたり。そんなことにて万事抜り目多くて、亡父の鑑定通り、父の死後五年に(明治三十年)全く破産して身の置き処もなく、舎弟常楠の家に寄食し、その世話で諸方銀行また会社などへ傭われ行きしも、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さき相場に手を出し、たまたま勝たば女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類どもより本妻を保続するか妾(久野家の孫女)を保続するかと問いしに、三子まで生みたる本妻を離別して、妾と共棲すべしという。そのうち、この妾は借屋住居の物憂さに堪えず、䕃(かげ)り隠れて去りぬ(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となりしが、先年死におわる)。

[やぶちゃん注:「紀州侯の家老久野丹波守(伊勢田丸の城主)」現在の三重県度会郡玉城町(たまきちょう)田丸(たまる)字城郭にあった田丸城は、中世より伊勢神宮を抑える戦略的要衝として古くから争奪戦が繰り返された古城砦で、江戸時代には元和五(一六一九)年に徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩所領となり、遠江久野(くの)城城主であった付家老久野(くの)宗成が駿府藩徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま随員となって、紀州へ移った。頼宣はこの宗成に一万石を与えて田丸城城主として田丸領六万石を領させた。久野氏は紀州藩家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置いて政務を執らせた。久野氏はその後八代続いて明治維新に至っているから(ここまではウィキの「田丸城に拠る)、その最後の紀州藩田丸城代家老久野家八代当主久野丹波守純固(すみかた 文化一二(一八一五)年~明治六(一八七三)年の孫と思われる。純固は家臣を佐久間象山らに入門させて西洋式砲術を学ばせたり、領内に砲術練習場を設立したりしており、また、俳句・和歌・漢詩に巧みな文人でもあったという(ここはウィキの「久野純固に拠る)。ウィキではそれ以降の久野家の記載は追跡出来ないから(ウィキの「久野でも)、熊楠の言うように断絶してしまったものらしい。

「亡父が撰んでくれた本妻」「和泉の尾崎という所の第一の豪家の女」「女」は「むすめ」と訓じていよう。この本妻は「愛」という名で、「尾崎」は現在の大阪府阪南市尾崎町であろう。(グーグル・マップ・データ)。彼女と兄弥兵衛との間に生まれた長女南方くすゑ(明治二一(一八八八)年生まれ)は、後年、熊楠が可愛がった親族の一人であった。

「抜り目」「ぬかりめ」。抜けたところ。判断がいい加減、処理が不適切且つ不全なこと。

「父の死後」既出であるが、再掲しておくと、明治二五(一八九二)年。

「明治三十年」一八九七年。

「浮田桂造」(弘化三(一八四六)年~昭和二(一九二七)年)は実業家・衆議院議員。大坂生まれで、旧姓は梅咲。大阪府議・南区長を経て、明治二三(一八九〇)年の第一回総選挙で衆院議員に当選し、二期を務めた。また大阪舎密工業社長・東洋水材防腐取締役・関西水力電気取締役、及び共同火災海上運送保険・北浜銀行・浪速銀行等の役員を務め、大阪鉄道・天満(てんま)紡績の創立にも関わっている。

 因みに、放蕩息子兄弥兵衛は、晩年、和歌山を去って現在の呉市吉浦西城町(よしうらにしじょうちょう)で大正一三(一九二四)年に六十五歳で亡くなっている。]

 

南方熊楠 履歴書(その13) ロンドンにて(9) ロンドン交友録・「ブーゴニア伝説」の考証

 

 小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄き男なり。金銭あれば書籍を購(か)う。かつて福本日南が小生の下宿を問いし時の記文(日南文集にあり)にもこのことを載せ、何とも知れぬ陋室(ろうしつ)に寝牀(ねどこ)と尿壺(にょうつぼ)のみありて塵埃払えども去らず、しかれども書籍と標本、一糸乱れず整備しおるには覚えず感心せり、とありしと記臆す。いつもその通りなり。ロンドンにて久しくおりし下宿は、実は馬部屋の二階のようなものなりし。かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男を訪れし翌日、男より小生へ電信を発せられしも、町が分からずして(あまりの陋ゆえ)電信届かざりしことあり。しかして、この二階へ来たり泊(とま)り、昼夜快談せし人に木村駿吉博士等の名士多く、また斎藤七五郎中将(旅順海戦の状を明治天皇御前に注進申せし人。この人は仙台の醤油作るため豆を踏んで生活せし貧婦の子なり。小生と同じく私塾にゆきて他人の学ぶを見覚え、帰りて記臆のまま写し出して勉学せしという)、吉岡範策(故佐々友房氏の甥、柔道の達人、只今海軍中将に候)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙、オステン・サツケン男等その他多し。

[やぶちゃん注:「福本日南」(にちなん 安政四(一八五七)年~大正一〇(一九二一)年)はジャーナリスト・政治家。ウィキの「福本日南」によれば、『福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生まれる。本名は福本誠。幼名は巴。藩校修猷館に学び、後に長崎において谷口藍田(中秋)に師事し、更に上京して岡千仭に師事して専ら漢籍を修めた』。明治九(一八七六)年、『司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件(寮の料理賄いへ不満を抱き、校長を排斥しようとした事件)で、原敬・陸羯南』『らと共に退校処分となる』。『その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぎ』、明治二一(一八八八)年には彼と同じく南進論者であった『菅沼貞風と知友となり、当時スペイン領であったフィリピンのマニラに菅沼と共に渡ったが、菅沼が現地で急死したため、計画は途絶した』。『帰国後、政教社同人を経て』、明治二二(一八八九)年に陸羯南らと、『新聞『日本』を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。日本新聞社の後輩には正岡子規がおり、子規は生涯』、『日南を尊敬していたという』。明治二十四年七月には小沢豁郎・白井新太郎とともに発起人となって、アジア諸国及び南洋群島との通商・移民のための研究団体「東邦協会」を設立、『その後、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる』。明治三八(一九〇五)年には、招かれて、『玄洋社系の「九州日報」(福陵新報の後身、西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任』している。明治四十年の第十回『衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選。同年』、「元禄快挙録」の『連載を『九州日報』紙上で開始』した。これは『赤穂浪士称讃の立場に』立つ日南が、『忠臣蔵の巷説・俗説を排して史実をきわめようと著わしたものであり、日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の代表的見解を示し』、『現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立』したものとされる。彼は明治三一(一八九八)年から翌年にかけて、パリ・ロンドンに滞在しており、この時、南方熊楠と邂逅、そ『の時の交遊を描いた随筆「出てきた歟(か)」を』、後の明治四三(一九一〇)年の『大阪毎日新聞』に連載、これは熊楠の存在を全国に初めて紹介した記事ともされる、とある(下線やぶちゃん)。

「前田正名」(まさな 嘉永三(一八五〇)年~大正一〇(一九二一)年)は経済官僚で地方産業振興運動の指導者。鹿児島で薩摩藩藩医の子として生まれ、慶応年間(一八六五年~一八六八年)に長崎に留学したが、明治二(一八六九)年、フランスに渡ってフランス農商務省で行財政を学び、明治一〇(一八七七)年に帰国、内務省御用掛となた。後、「大隈財政」下の大蔵省にあって、直輸出論を提唱、大隈ブレーンの一人となった。明治十四年には農商務・大蔵大書記官となり、欧州経済事情調査に出張、明治十六年の帰国後は品川弥二郎らと組み、経済政策を構想、「松方財政」を批判して殖産興業資金の追加供給による強力な産業保護主義を主張、松方正義大蔵卿と対立した。明治二十一年に山梨県知事、翌年には農商務省工務局長・農務局長に復帰、その後は農商務次官・元老院議官・貴族院勅選議員となったものの、政府中枢の政策に同調出来ず、官界を去り、明治二五(一八九二)年以降は地方産業振興運動を指導し、地方実業団体・全国農事会等を系統的に組織化しては政府・議会にそれら団体の要求を建議する活動を行ったりしたが、晩年は不遇に終わった。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った。「頼まれ」たとあるのは、既に官界を去って地方産業振興運動に力を入れていた日本にいる前田から依頼されたのである。

「キュー皇立植物園」イギリスの首都ロンドン南西部のキュー地区にある王立植物園キュー・ガーデン(Kew Gardens:キュー植物園)。一七五九年に宮殿併設の庭園として始まり、現在では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を所蔵・保存している。

「シスルトン・ダイヤー男」イギリスの植物学者で、キュー・ガーデンが王立植物園となった後の第三代園長ウィリアム・ターナー・シセルトン=ダイアー男爵(Sir William Turner Thiselton-Dyer 一八四三年~一九二八年)。

「木村駿吉」既出既注

「斎藤七五郎」(明治二(一八七〇)年~大正一五(一九二六)年)は海軍軍人。南方熊楠が記すように、仙台の麹屋斎藤七兵衛の子として生まれ、苦学して進学したが、学費が続かず、小学校の教員となった。海軍軍人を志して上京、明治二六(一八九三)年、二十四歳で海軍兵学校を卒業、日清戦争(一八九四年~一八九五年)・北清事変(一九〇〇年)に従軍した後、日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)では「旅順口閉塞作戦」に「仁川(じんせん)丸」・「弥彦丸」の指揮官を勤め、その沈勇を謳われた。戦後は練習艦隊や軍令部の参謀を務め、アメリカ・イギリス駐在を経た後、第一次大戦(一九一四年~一九一八年)では巡洋艦「八雲」艦長としてインド洋方面の警備を担当した。大正七(一九一八)年の少将・呉鎮守府参謀長から、後、中将となって第五戦隊司令官・練習艦隊司令官を歴任、大正一三(一九二四)年に軍令部次長に就任、ワシントン会議後の海軍の指導者として嘱望されたが、在任中に病没した。但し、ロンドンでの南方熊楠は、この事蹟(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)では見出し得ないが、サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、海軍少尉であった頃に、彼の乗船していた「富士」が滞在中、南方熊楠が艦員を大英博物館へ案内したとあり、調べてみると、この「富士」はイギリス・ロンドンのテームズ社製で、明治三〇(一八九七)年八月十七日に竣工し、直ちに日本に回航されていることから(同年十月三十一日横須賀到着)この回航委員の一人として彼がイギリスに向かい、その折りに斎藤と熊楠は邂逅したと考えるのが自然のようである。また大正九(一九二〇)年には田辺を少将となった彼が訪れてもいるとある。

「吉岡範策」(はんさく 明治二(一八六九)年~昭和五(一九三〇)年)は海軍軍人。海軍中将。肥後国(現在の熊本県宇城市小川地区)に肥後藩士の長男として生まれた。済々黌卒業。明治二四(一八九一)年に海軍兵学校を卒業して海軍少尉となり、日清戦争では軍艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍、「富士」回航委員などを経て、明治三四(一九〇一)年に海軍大学校(二期生)を卒業し、明治三十七年には海軍少佐となった。日露戦争では第二艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦している。その後、海軍演習審判官や「橋立」艦長を経て、大正三(一九一四)年八月二十三日に「浅間」艦長に補された。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日でもあり、吉岡は第一次世界大戦に出征している。翌年、「筑波」艦長となる(同艦は翌年実施された観艦式に於ける大正天皇御召艦であった)。「金剛」艦長を経て、大正六(一九一七)年に海軍少将に昇進、その後、第一艦隊参謀長や連合艦隊参謀長を経て、大正十年には海軍中将・海軍砲術学校長となった(大正十三年予備役)。彼は「砲術の神様」とも呼ばれた(以上はウィキの「吉岡範策」に拠った)。

「佐々友房」(さっさともふさ 嘉永七(一八五四)年~明治三九(一九〇六)年)は政治家。肥後(熊本県)出身で、西南戦争では西郷軍に参加している。明治一四(一八八一)年に「紫溟(しめい)会」を結成して「国権主義」を唱えた。明治二十三年、熊本国権党副総理、同年衆議院議員(後、当選九回)。国民協会・帝国党・大同倶楽部などで指導的役割を果した。

「加藤寛治」(ひろはる 明治三(一八七〇)年~昭和一四(一九三九)年)は軍人。海軍大将。越前(福井県)出身で海軍兵学校卒。戦艦「三笠」の砲術長として日露戦争に出征、大正一〇(一九二一)年、ワシントン軍縮会議の随員となり、対米七割の強硬論を主張した。大正15年、連合艦隊司令長官、昭和四(一九二九)年には軍令部長となるが、翌年、ロンドン海軍軍縮会議で強硬論を主張して政府と対立、統帥権干犯問題(海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものとして右翼や政友会が当時の浜田内閣を攻撃した騒擾)を引き起こして辞職した。ロンドンでの南方熊楠との接点は確認出来なかった。

「鎌田栄吉」既出既注

「孫逸仙」既出の孫文。

「オステン・サツケン男」カール・ロバート・オステン・サッケン(Carl Robert von Osten-Sacken/ロシア名:Роберт Романович Остен-Сакен 一八二八年~一九〇六年)男爵はロシアの外交官で昆虫学者。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「オステン=サッケン Osten-Sacken, Baron 1828-1906」によれば、『ペテルスブルク生まれのロシアの男爵。一八五六年から七七年まで、外交官としてアメリカに二十年以上滞在した』(本文の次の段落冒頭で熊楠は「オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり」と記している)。『幼少時より昆虫学を愛好、北アメリカ産の膜翅類(まくしるい)(虻(あぶ)や蜂の類)に関する目録を作っている。ヨーロッパへ戻ってからは、ハイデルベルクに居住し、虻と蜂の分類法に取り組んだ』とし、『晩年のサッケンは、こうした自らの膜翅類に関する研究をさらにフォークロアの解釈にまで広げていくのだが、熊楠との付き合いもそこから始まることになる。すなわち、一八九四年、サッケンは前年発表した自らの「古代のビュゴニアについて」という聖書の中の蜂の伝説に関する論文を補完するための材料を提供してくれるよう、『ネイチャー』読者投稿欄に質問状を送った。これに対して応えたのが、熊楠の『ネイチャー』への第三作、「蜂に関する東洋人の諸信」だったのである』(次段で絵入りで簡単に語られている。この論文の題名と発表はSome Oriental Beliefs about Bees and Wasps(「ミツバチ類やジカバチ類についての幾つかの東洋の俗信」 NATURE, 1894.5.10))。この『熊楠の投稿論文に対して、すぐさまサッケンからの反応があったことは、次の一八九四年五月十六日付日記からわかる』。

   *

 夕(ゆう)ハイデルベルヒのバロン・オステン・サッケンより來書。予がネーチュールに出せるブンブン蟲の事を謝し、並に謝在杭の事實等を問はる。[やぶちゃん注:引用元の漢字を恣意的に正字化して示した(後の引用も同じ処理を施した)。「謝在杭(しゃざいこう)」は志怪小説や博物学的考証をも含む「五雜組」の著者謝肇淛(しゃちょうせい)の字(あざな)であって、誤記ではない。]

   *

『これに応えて、熊楠は翌日さっそくサッケンに返書を投函し、以後、文通が始まることになった。そして、この年の八月、サッケンがロンドンに滞在した折には、わざわざ熊楠の下宿を訪ねてさえいる』。以下がその一八九四年八月三十一日附の日記。

   *

 午後四時過、バロン・オステン・サッケン氏來訪され、茶少しのみ、二十分斗りはなして歸る。六十餘と見ゆる老人なり。魯國領事として新約克(ニューヨーク)にありしとのこと。

   *]

 

 オステン・サッケン男は、シカゴの露国総領事たり。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、斯学の大権威たりし。この人を助けて小生『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾長きもの Hanaabuyoutyu )が羽化せる虻(あぶ)で、きわめて蜜蜂に似たもの)を蜜蜂と間違えて、かかる俗信が生ぜし由を述べ、ハイデルベルヒで二度まで出板し、大英博物館にも蜜蜂とブンブンを並べ公示して、二虫間に天然模擬の行なわるるを証するに及べり。このことは近日『大毎』紙へ載するから御笑覧を乞いおく。このサツケン男(当時六十三、四歳)小生の弊室を訪れし時茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし。木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人なり。ロンドンへ来たりしとき、ほとんど文(もん)なしで予を訪れ、予も御同様ゆえ、詮方なくトマトを数個買い来たり、パンにバターをつけて食せしも旨(うま)からず、いっそ討死(うちじに)と覚悟して、あり丈(た)け出してビールを買い来たり、快談して呑むうち夜も更け渡り、小便に二階を下りると、下にねている労働者がぐずぐずいうから、室内にある尿壺、バケッツはもちろん、顔洗う水盆までも小便をたれこみ、なお、したくなると窓をそっと明けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくりかえし、追い追い下の室に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らず。正にこれ「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大眼玉を頂戴したことあり。一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が百円送られしこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢たりしなれ。まかぬ種ははえぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して百円となったものと見え候。

[やぶちゃん注:文中に挿入された「ブンブン」(後注参照)の幼虫(蛆)の絵を底本より画像で挿入した。

「両翅虫学 Dipterology 」昆虫綱有翅昆虫亜綱双翅(ハエ)目 Diptera(カ・ガガンボ・ハエ・アブ・ブユなどを含むグループで、極地を除くほぼ全世界に分布する。種数は約九万種に及び、昆虫類の中では甲虫類(Coleoptera:三十五万種超)・鱗翅(チョウ)目(十四万種超。蝶類よりも蛾類の方が多い(三分の二近く)。私は常々、和名の目の学名を「チョウ目」と呼ぶのは甚だおかしいと考えている)・膜翅(ハチ)目(Hymenopter)に次いで種数が多い。

「『聖書』の獅(しし)の尸骸(しがい)より蜂蜜を得たサムソンの話」「旧約聖書」の「士師(しし)記」の「第十四章」。以下に、日本聖書協会の一九五五年訳から当該全章を引く(引用元はウィキソースのこちら)。節番号は除去したが、節改行は残した。

   *

サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。

彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。

父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。

父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。

かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。

時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。

サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。

日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。

彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。

そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。

人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。

サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。

しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。

サムソンは彼らに言った、「食らう者から食い物が出、強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。

四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。

そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。

彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。

七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。

サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。

   *

「ブンブン」所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊。訳本で訳者は松居竜五・田村義也・中西須美氏)の当該論文の松居竜五氏の解説によれば、これは双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科 Syrphidae 『ハナアブ』(これは狭義の種としては、

ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

を指す。但し、総称との混同が甚だしいために現行では種としての和名「ハナアブ」は「ナミハナアブ」と呼ばれることが多くなってきている)に同定している。英文のEristalis tenaxのウィキを見ると、素人目には「きわめて蜜蜂に似たもの」に見え、また、何よりも、そこに“Rat-tailed maggot”(「鼠の尾のような蛆」)というキャプションで幼虫の写真が出るが、まさにこれは南方熊楠が描いたそれと非常によく似ていることが判り、以下に示すサッケンの論文にもこの種の学名がはっきりと記されてある

「雪隠虫」ハエ類の蛆のこと。

「ハイデルベルヒで二度まで出板し」これはオステン・サッケンがハイデルベルグで一八九四年に刊行した論文On the Oxen-born bees of the Ancients (Bugonia) and Their Relation to Eristalis tenax, a Two-winged Insect(「牛から生まれた蜂類の古典(ブーゴニア)と、双翅目昆虫の一種であるナミハナアブとの関係」)、及びそれを増補・改訂した同じくハイデルベルグで一八九五年に刊行したAdditional Notes in Explanation of the Bugonia-Lore of the Ancients, Eristalis tenax in Chinese and Japanese Literature(「古代人のブーゴニア伝説の解説への追補、第六 中国と日本の文献に現われるナミハナアブ」)を指していよう。なお、「ブーゴニア伝説」とはローマの代表的詩人ウェルギリウス(紀元前七〇年~紀元前一九年)の書いた「ゲオルギカ」(「農耕詩」 全四巻。紀元前二九年頃成立か)の第四巻に書かれてある蜜蜂の飼育に関わる叙述の中の「アリスタエウス物語」という蜜蜂の喪失と回復の伝承及びそれを濫觴とすると思われる牛や獅子を殺して腐らせるとそこから蜜蜂が生ずるという化生(けしょう)伝説を指す。こちらの「研究発表要旨」の冒頭にある上野由貴氏の「蜜蜂とアリスタエウスウェルギリウス『ゲオルギカ』における農業の担い手たち」を参照されたい。これらの南方熊楠の投稿論文とサッケンとのやりとりと、その両者への影響については、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「蜂のフォークロアに関する連作論文」に詳しいので参照されたい。

「天然模擬」自然界に於ける疑似的形態や生態。ミツバチ類、

膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属 Apis

と、ハナアブ類、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini 属ハナアブ Eristalis tenax

の(目レベルで異なる全くの別種一種の平行進化の結果としての外見上の酷似性を指している。これはベイツ型擬態(Batesian mimicry:毒や毒針を持つ生物とは違う種が同じ警戒色等を用いて捕食されないようにする擬態。擬態研究で進化論の発展に寄与したイギリスの博物学者・昆虫学者ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に由来する)の好例とされている。また、ウィキの「ハナアブによれば、ハナアブ類は、『その名の通り、成虫は花に飛来して蜜や花粉を食べるものが多いが、そうでないものもあ』り、『幼虫は有機物の多い水中でデトリタスを食べるもの、朽木内で育つもの、捕食性、植食性、きのこ食性など多様な生態に適応放散しており、それに合わせてその形態も著しく多様である』とある。

「このことは近日『大毎』紙へ載する」このようなものが『大阪毎日新聞』に載ったかどうかは私は承知していない(全集を持たないので確認出来ない)。識者の御教授を乞う。

「サツケン男(当時六十三、四歳)」当時のサッケンは満六十六歳であるから、寧ろ、やや若く見えたか。

「茶を供えしが、あまりに室内のきたなさにその茶を飲まずに去りし」柳田国男宛明治四四(一九一一)年十一月二十八日午前二時附書簡の中にも、サッケンのことを記した部分で、『小生近処より茶器かり來たり茶を出せしに、小生の生活あまりにきたないから茶を呑めば頭痛すとて呑まずに去られし珍談あり』と綴っている(引用は底本選集の別巻(柳田國男と南方熊楠の往復書簡集)を用いた)。

「一昨々年上京」本「履歴書」(書簡)は大正一四(一九二五)年一月三十一日筆であるが、南方熊楠はこの三年前の大正一一(一九二二)年に「南方植物研究所」設立資金募集のために上京している。

「交詢社」明治一三(一八八〇)年に創立された社交俱楽部。前年の九月に福沢諭吉や矢野文雄(龍溪)ら三十一名が会合して創設を決定、当時の中心メンバーは福沢(常議員会長)とし、以下は慶応義塾関係者で占められ、「知識を交換し、世務を諮詢(しじゅん:参考として他の機関などに意見を問い求めること。「諮問」に同じい)」ことを目的に掲げた。単なる社交組織に留まらず、実際には立志社・愛国社系の自由民権運動に対抗するという政治的狙いを持っていたと見られている。全国的な組織活動の結果、発足時千八百名の社員を擁し、構成員は地主・豪農層や商工業者・銀行家・官吏・学者・言論人・教員等、中央や地方の有力者で構成されていたから、まさに熊楠のような資金集めを目的としていた者には欠かせぬ場所であった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。]

2017/04/21

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅰ」パート

 

   Ⅰ

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の上部にデッサン風の挿絵があるが、この絵(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページの画像)、誰の描いたものか判らぬので、画像表示は控える。以後のパートでも挿絵が入るが、その指示は略す。]

 

 

[やぶちゃん注:「Ⅰ」の冒頭の詩「穀物の種子」(本文から「種子」は「たね」と読むべきである)に異同はない。]

 

 

[やぶちゃん注:「彼等は善い友達である」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「父上のおん手の詩」は最終行「此處ではるかにその手に熱い接吻(くちつけ)をしてゐる」が「くちづけ」と濁音表記となっている以外は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:ここにあるはずの初版の二行の短詩篇或る朝の詩

 

  或る朝の詩

 

冬も十二月となれば

都會の街角は鋭くなる……

 

は改版では、何故か除去されている。]

 

[やぶちゃん注:曲つた木は、改版では四行目「ねぢれくるはせたのは風のしわざだ」の「しわざ」に傍点「ヽ」が附されており、「小鳥をさえずらせる」が「小鳥をさえづらせる」と中途半端に訂されてある正しくは「さへづらせる」でなくてはならない。因みに彌生書房版全詩集版ではそう訂されてある。]

 

[やぶちゃん注:ランプは異同なし。]

 

 

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも

火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

[やぶちゃん注:初版の「詩」とは八行構成は同じであるものの、改行位置が二ヶ所で異なる。以下に初版を示す。

 

  夜の詩

 

あかんぼを寢かしつける

子守唄

やはらかく細くかなしく

それを歌つてゐる自分も

ほんとに何時(いつ)かあかんぼとなり

ランプも火鉢も

急須も茶碗も

ぼんぼん時計も睡くなる

 

これは朗読時の印象が著しく異なる特異点の改変と言える。彌生書房版全詩集版は初版を採用している。朗読の印象からは私も初版を支持する。]

 

 

 

[やぶちゃん注:遙にこの大都會を感ずるは、初版の十四行目の「その街街の大建築の屋根から屋根をわたつて行く」の頭の指示語「その」が除去されており、また、最後から三行目「此の大都會をしみじみと」及び次行の「此の大沙漠中につつ立つ林のやうな大煙筒を」のそれぞれの冒頭の「此の」が孰れも「その」に変更されてある。有意な変更であるが、詩想自身には微塵の変化もないので特異点ではない。]

 

[やぶちゃん注:何處へ行くのかは異同なし。]

  

[やぶちゃん注:梢には小鳥の巣があるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「春」は異同なし。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「首と脚」

 

 首と脚

 

 唐の至德の初め頃、魯旻の部將に王穆といふ者が居つた。南洋の戰に敗れて軍馬の潰走する中に穆もまじつてゐたが、この男が形貌雄壯である上に、乘つた馬も珍しく大きなものであつたため、頗る目立つたらしく、賊の一騎がうしろから迫ひ付いたと思ふと、忽ちその首を斫(き)つてしまつた。穆は一溜りもなく地に落ち、筋骨ともに斷たれたに拘らず、咽喉の筋だけが僅かに繫がつてゐた。はじめは冥然として何もわからなかつたが、ふと氣が付いた時、自分の首は臍の上に在る。手で持つて首をもとのところに附けようとしても、また直ぐ落ちてしまふ。暫くして自覺を取り戾したので、首を正しい位置に据ゑ、髮を二つに分けて縛つた後、はじめて坐つて見たが、精神は全く茫然たるものであつた。穆の馬は終始傍を離れなかつたので、夜になつていさゝか氣分がはつきりしたところで、馬が寢てくれれば乘れるのだが、とふと考へた。馬はその意を察知したらしく、脚を折つて穆の前に橫になつた。そこで辛うじて上に乘ると、馬はおもむろに起き上つて、東南に向つて步き出した。穆は首が落ちぬやうに兩手で押へてゐる。四十里ばかり行くと、穆の部下の兵卒が十餘人かたまつて步いてゐるのに出逢つた。彼等の方でも穆を認め、一先づ村の家に運び込んだが、こゝらは賊の據點からあまり離れて居らぬので、危險をおもんぱかつて本營のゐるところまで連れて行つた。穆はその城中に病ひを養ふこと二百餘日、遂に癒えたものの、頭は少し偏(かたよ)つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:「唐の至德」玄宗の三男粛宗の即位と同時に改元されて用いられた元号。七五六から七五八年。同二載(年)には安禄山が息子安慶緒に殺され、唐軍は長安を奪還、し粛宗は長安に帰還、史思明も一旦、唐に降伏している

「魯旻」「ろびん」と読んでおくが、調べてみると、当時の南陽(後注参照)の節度使(ここでは各地方の募兵集団の司令官)として魯炅(ろけい)と記すものが多い。彼は南陽郡太守であったが、安禄山の乱の勃発によって、その討伐軍の将の一人となった。後の七五九年、再蜂起した史思明を攻めたが、流れ矢に当たって死んでいる。

「王穆」「わうぼく(おうぼく)」と読んでおく。

「南洋」以下の原典を見ると「南陽」の誤りである。魯旻が節度使であった南陽郡である。現在の河南省南陽市と湖北省の随州市棗陽市に跨る地域であるが、この「至德」の末年に「鄧州」と改名されて消滅している。

「四十里」唐代の一里は五百五十九・八メートルであるから、二十二キロ三百九十二メートル。

 柴田は出典を後で「再生記」と記すが、これは「太平廣記」の「卷第三百七十六」の「再生二」を指している(「再生記」という書物はないので注意)。その「王穆」がそれで、原典は「廣異記」と記す。

   *

太原王穆、唐至德初、爲魯旻部將、於南陽戰敗、軍馬奔走。穆形貌雄壯、馬又奇大、賊騎追之甚眾。及、以劍自後穆頸、殪而隕地。筋骨俱斷、唯喉尚連。初冥然不自覺死、至食頃乃悟、而頭在臍上、方始心惋。旋覺食漏、遂以手力扶頭、還附頸、須臾復落、悶絶如初、久之方蘇。正頸之後、以發分係兩畔、乃能起坐、心亦茫然、不知自免。而所乘馬、初不離穆。穆之起、亦來止其前。穆扶得立、左膊發解、頭墜懷中、夜後方蘇。係發正首之後、穆心念、馬臥方可得上、馬忽橫伏穆前、因得上馬。馬亦隨之起、載穆東南行。穆兩手附兩頰、馬行四十里、穆麾下散卒十餘人群行、亦便路求穆。見之、扶寄村舍。其地去賊界四十餘里、眾心惱懼。遂載還昊軍。軍城尋爲賊所圍。穆於城中養病、二百餘日方愈、繞頸有肉如指、頭竟小偏。旻以穆名家子、兼身殉王事。差攝南陽令。尋奏葉令。餘、遷臨汝令。秩滿、攝棗陽令。卒於官。

   *

原文を見る限り、彼はその後も存えて官職を歴任している。]

 この話は戰場插話の一つで、斬られた首が全く身を離れず、不思議に命を取り止めたといふのであるが、奇談の種には困らぬ支那の事だから、失つた脚を取り戾す話もある。これは戰爭で脚を切られたわけではない。急病で亡くなつたのである。ところが愈々亡くなつて見ると、本人の命數がまだ盡きて居らぬ。もう一度娑婆へ還さなければならぬ段になつて、本人は脚が痛くて步けないと云ひ出した。冥官の間にもいろいろ評議が行はれたが、命數の盡きぬ者を呼び寄せたのは冥官の手落である。何とか臨機の處置を講ずることになつて、かういふ意見が提出された。たまたま新たに亡くなつた胡人があり、この者の脚は甚だ達者だから、これと取り換へたらよからうといふのである。誤つて亡くなつた男はこれを聞いて逡巡せざるを得なかつた。醜い胡人の身體の中で、最も醜いのが脚だから、それを身に著けて蘇るのは甚だ困る。倂し脚を取り換へなければ、お前はいつまでもこゝにゐなければならぬぞと云はれると、飽くまで強情を張り通すこともならず、たうとう足の取り換へを承認して、豁然復活した。人一倍綺麗好きなこの男は、生き返つた自分の脚を見る每に、殆ど死にさうな氣持になる。更に困つたのは、一方の胡人の子がこの男の脚を慕ふことで、道で出逢つたりする每に、必ず泣いて脚に抱き付いて來る。この難を免れるために、門には番人を置いて胡子の來るのを防ぎ、三伏の盛暑と雖も、衣を重ねて脚を現さぬやうにしなければならなかつた。

[やぶちゃん注:「胡人」中国人が北方や西域の諸民族を広く指して言った呼称で蔑称でもあった。唐代でも主として西域人を指したが、北方民族の意も存続した。前者の場合は東トルキスタンの住民の他、ペルシアやインド方面の民族、逆にソグド人だけを称することもあった。乾燥地帯で食に乏しく、日差しも強い地方であるから、彼らの足は日焼けして焼け、しかも骨張っていたものかとも想像され、それをここでは足が最も醜いと言っているのであろう。

「三伏」「さんぷく」と読み、陰陽五行説に基づく選日(せんじつ:暦注の一つ)で初伏(しょふく)・中伏(ちゅうふく)・末伏(まっぷく)の総称。通常は現行の七月中旬から八月上旬の酷暑の頃に合致することから、現在でも「三伏の候」「三伏の猛暑」など、酷暑を表わす言葉として用いられる。

 これは前の「太平廣記 卷第三百七十六 再生二」の「王穆」の六条後に出る「士人甲(易形再生)」で、原典は「幽冥錄」と注する。

   *

晉元帝世、有甲者、衣冠族姓、暴病亡、見人將上天、詣司命、司命更推校、算歷未盡、不應枉召。主者發遣令還。甲尤痛、不能行、無緣得歸。主者數人共愁、相謂曰、「甲若卒以痛不能歸、我等坐枉人之罪。」。遂相率具白司命。司命思之良久、曰、「適新召胡人康乙者、在西門外。此人當遂死、其甚健、易之、彼此無損。主者承教出、將易之。胡形體甚醜、殊可惡、甲終不肯。」。主者曰、「君若不易、便長決留此耳。」。不獲已、遂聽之。主者令二並閉目、倏忽、二人已各易矣。仍卽遣之、豁然復生、具爲家人説。發視、果是胡、叢毛連結、且胡臭。甲本士、愛玩手足。而忽得此、了不欲見。雖獲更活、每惆悵、殆欲如死。旁人見識此胡者、死猶未殯、家近在茄子浦。甲親往視胡屍。果見其著胡體。正當殯斂。對之泣。胡兒並有至性。每節朔。兒並悲思。馳往、抱甲。忽行路相逢、便攀援啼哭。爲此每出入時、恒令人守門、以防鬍子。終身憎穢、未曾視。雖三伏盛署、必復重衣、無暫露也。

   *

父の足を慕う胡人の少年が哀しい

 首と脚とを具へた二つの話は、「再生記」の終りに出てゐる。記憶のいゝ人ならば、以上の筋書を讃んだだけで、芥川龍之介の小説を想起するであらう。「首が落ちた話」の何小二は、日淸戰役に出て高梁の畑で遭遇した日本騎兵のために首を斬られる。彼は疵を負つたまゝ馬に搖られて行くうちに、川楊の生えた水際の泥の上に投げ出された。こゝで何小二に竈の黃いろい炎だの、母親の裙子(くんし)だの、磨い胡麻畑だの、大きな龍燈だの、纏足(てんそく)した女の足だの、種々の幻影を見させるのは、小説の主人公らしく仕立てるための作者の用意と思はれる。何小二の首は王穆のやうに落ちたわけではなかつたが、戰後理髮店の主人となつてから、人と喧嘩した際に古疵が破れ、咽喉の皮一枚を殘して床の上にころがり落ちた。「首が落ちた話」の主題はこれである。いくら支那が舞臺であるにしろ、明治の事柄になつてゐる以上、唐時代の話をそつくり嵌め込むわけには往かない。

[やぶちゃん注:「何小二」「かせうじ(かしょうじ)」。

「川楊」(かはやなぎ)は双子葉植物綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属のネコヤナギ Salix gracilistyla のこと。

「裙子(くんし)」中国で女性が腰から下に着ける衣。裳(も)・裳裾(もすそ)のこと。

「龍燈」燈夜(元宵(上元)節(陰暦正月一五日の夜)に行われる祭りでは、各家の門前に灯籠を飾って祝うが、その時、街中を練り歩く竹製の一際、大きな灯籠として「首が落ちた話」に描出されてある。以下のリンク先の原文を参照されたい。

 芥川龍之介の「首が落ちた話」は大正七(一九一八)年一月発行の『新潮』に掲載されたもの。エンディングの首が再度落ちるのは、明治二八(一八九五)年四月十七日に下関で行われた日清戦争後の日清講和条約の締結され、その『一年ばかりたつた、ある早春』のこと、とする。私の古い電子テクストでお読み戴きたい。但し、芥川龍之介がインスパイアした原話は、現行では清の蒲松齢の「聊齋志異」の「第三卷第二十二」の「諸城某甲」であるとされる。以下に示しておく。

   *

學師孫景夏先生言、其邑中某甲者、値流寇亂、被殺、首墮胸前。寇退、家人得尸、將舁瘞之、聞其氣縷縷然。審視之、咽不斷者盈指。遂扶其頭、荷之以歸。經一晝夜、始呻、以匕箸稍稍哺飲食、半年竟愈。又十餘年、與二三人聚談、或作一解頤語、衆爲鬨堂、甲亦鼓掌。一俯仰間、刀痕暴裂、頭流、共視之、氣已絶矣。父訟笑者、衆斂金賂之、又葬甲、乃解。

異史氏曰、一笑頭落、此千古第一大笑也。頸連一綫而不死、直待十年後、成一笑獄、豈非二三鄰人、負債前生者耶。

   *

「流寇」は匪賊のこと。蒲原有明の「『聊斎志異』より」明治三八(一九〇五)年『新古文林』初出)に訓読が出るので、「青空文庫」の新字新仮名版のを参考されたい。但し、伝本が異なるらしく、上記の文章そのままの訓読とはなっていない。

 なお、「首が落ちた話」は、柴田がのたまうような、切断された首が元に戻ったものの、その癒着部がまた奇体にも破裂して落ちて死んだ、という怪異を語るところなんぞに「主題」があるのではなお。何小二という市井の中国の民の一箇の生死の無惨さをシンボリックに描いた、芥川龍之介の反戦小説の走りとして評価すべきものである、と私は思う。私は何小二の走馬燈のようなシークエンスがすこぶる好きで哀しいのである。

 もう一つの小説は「馬の脚」である。主人公は忍野半三郎といふ三菱會社員で、腦溢血のために頓死したところ、これは人違ひであつた。もう一度送り返さなければならぬが、半三郎の脚は已に腐つてゐる。取り換へるべき人間の脚がないため、馬の脚が代用を勤めることになり、半三郎は頻りに拒んだけれど、本人の意志は毫も認められぬ。蘇生後の彼が「再生記」以上の悲劇に陷つたのは云ふまでもない。彼は一たび失踪し、その後細君の許にちよつと姿を見せたきりで、永久にわからなくなつた。作者は半三郎の日記を出したり、新聞記事を使つたり、いろいろ苦心をしてゐるが、第一革命以後の支那にこんな趣向を持ち出すのが最初から無理である。唐時代の話なら、命數未だ盡きずで納まるところを、入違ひの死者を迭り返すのは更に無理である。人の脚に繼ぐに馬の脚を以てするのは、胡人の脚を用ゐるのと同日の談ではない。

[やぶちゃん注:「忍野半三郎」「おしのはんざぶらう」。]

 作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月であつた。「馬の脚」は大正十四年一月である。前者を草した當時「再生記」は見てゐる筈なのに、約十年も後者を持ち出さなかつたのを見れば、この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう。

[やぶちゃん注:『作者が「首が落ちた話」を發表したのは大正六年十二月』既に記した通り、クレジット上は翌年一月一日(発行)である。

『「馬の脚」は大正十四年一月』同作は大正一五(一九二六)年一月及び二月号の『新潮』への二回分割連載であるから、明らかに柴田の誤認である。新字新仮名であるが、「青空文庫」ので読める。

「約十年」誤認に加えて「数え」の年数としてもおかしい(それでも「九年」である)。事実上の発表スパンは八年ほどである。

「この題材を現代の舞臺に使ふ無理を夙に感じてゐたものであらう」本作は確かに全体は「士人甲」に依拠し乍らも、実際にはゴーゴリの「鼻」を意識的にインスパイアした寓話小説としてとるべきであって、これもまた怪奇は額縁であって柴田の読みは浅いと言わざるを得ない。

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「ノツペラポウ」 附 小泉八雲「貉」原文+戸田明三(正字正仮名訳)

 

 ノツペラポウ

 

「東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極めて廣い濠があつて、それに沿つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた」――小泉八雲の「貉」はかういふ風に書き出されてゐる。

[やぶちゃん注:「ノツペラポウ」(のっぺらぼう)は「野箆坊」などと漢字表記し、通常は顔に目・鼻・口のない妖怪を指す。ウィキの「のっぺらぼう」によれば、明和四(一七六七)年の怪談集「新説百物語」には、『京都の二条河原(京都市中京区二条大橋付近)に、顔に目鼻や口のない化け物「ぬっぺりほう」が現れ、これに襲われた者の服には太い毛が何本も付着していたという、何らかの獣が化けていたことを髣髴させる描写がある』。しかし諸怪談の同形(目鼻口総て或いは孰れかの複数欠損)の妖怪(多出する)の場合は正体が不明の場合も多く、寛文三(一六六三)年の初期江戸怪談集の白眉とも言える「曾呂利物語」では、『京の御池町(現・京都市中京区)に身長』七尺(二メートル強)の『のっぺらぼうが現れたとあるが、正体については何も記述がない』。『民間伝承においては大阪府』、『香川県の仲多度郡琴南町(現・まんのう町)などに現れたと伝えられている』とある。

「紀國坂」(きのくにざか)は現在の東京都港区元赤坂一丁目から、旧赤坂離宮の外囲りの堀端を喰違見附(くいちがいみつけ:ここ(グーグル・マップ・データ))まで登る紀伊国坂(きのくにざか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。坂の西側の現在の赤坂御用地及び迎賓館の位置に、江戸時代を通じて、紀州徳川家の広大な屋敷があったことが名の由来。また、「茜坂(あかねざか)」「赤坂(あかさか)」は、この紀伊国屋坂の別名であって、それは根を染料とする茜(キク亜綱アカネ目アカネ科アカネ属アカネ Rubia argyi)が生えていた赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることに由来し、付近一帯の広域地名である「赤坂」の由来にもなっている。

「貉」(むじな)は、実在生物である穴熊(食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や貍(食肉目イヌ科タヌキ属ニホンタヌキNyctereutes procyonoides viverrinus)などの古称としてもあるが、民俗伝承中では専ら、狐や狸と併称される人を騙す通力を持った妖怪・妖獣としての怪奇生物の通称で、伝わるところの一般形状は狸に近い。但し、八雲がここで言った「むじな」はまさにそうした人を化かすところの妖狐・妖狸を中心とした妖怪獣類の総称として捉えるのがよい。因みに、後で示す原話の一つと目されるものでは「貉」ではなく「獺(かわうそ)」となっている。獺(食肉目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属日本本土亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon。他に北海道亜種 Lutra lutra whiteleyi もいた。ともに生物学的には絶滅したと考えざるを得ず、環境省も二〇一二年八月の「レッド・リスト」改訂でやっと正式に絶滅を宣言した。但し、愛媛県は二〇一四年十月更新の「愛媛県レッドデータブック2014」では依然として「絶滅危惧種」として指定している)も、本邦の民俗社会では年古ると通力を持つ妖獣と考えられていたのである。]

 八雲に從へば、この邊によく徘徊する貉(むじな)を見た最後の人は、京橋方面に住む商家の老人であつた。或晩おそく紀國坂を登つて行くと、濠の緣にんで泣いてゐる女がある。老人は咄嵯に身を投げるのではないかと判斷し、近寄つて聲をかけた。倂し女は依然として泣きやまぬ。ここは夜若い御婦人などの居るべき場所ではない、泣かずに事情を話して貰ひたい、と繰り返した時、女は泣きながら徐(おもむ)ろに立ち上つた。さうして今まで顏を掩つてゐた袖を下に落し、手で自分の顏を撫でたのを見ると、目も鼻も口もない。女を救ふ筈であつた老人は、きやツと叫ぶなり、一目散に逃げ出して紀國坂を駈け登つた……。

[やぶちゃん注:「蹲んで」「しやがんで」と読みたくなるが、後に出る戸川の訳では「かがんで」である

 小泉八雲の「狢」は原題が“Mujina”でかの名作品集“Kwaidan”(「怪談」一九〇四年刊)中の知られた一篇。まず、原文を示す。加工データはネット上にある原文ベタ・テクストを複数用い、それを、底本として“Internet Archive”原本画像を使用して校合した。なお、原注(“O-jochū”soba)は除去した。

   *

 

MUJINA

 

   ON the Akasaka Road, in Tōkyō, there is a slope called Kii-no-kuni-zaka, ―which means the Slope of the Province of Kii. I do not know why it is called the Slope of the province of Kii. On one side of this slope you see an ancient moat, deep and very wide, with high green banks rising up to some place of gardens; ―and on the other side of the road extend the long and lofty walls of an imperial palace. Before the era of street-lamps and jinrikishas, this neighborhood was very lonesome after dark; and belated pedestrians would go miles out of their way rather than mount the Kii-no-kuni-zaka, alone, after sunset.

   All because of a Mujina that used to walk there.

 

   The last man who saw the Mujina was an old merchant of the Kyōbashi quarter, who died about thirty years ago. This is the story, as he told it :―

   One night, at a late hour, he was hurrying up the Kii-no-kuni-zaka, when he perceived a woman crouching by the moat, all alone, and weeping bitterly. Fearing that she intended to drown herself, he stopped to offer her any assistance or consolation in his power. She appeared to be a slight and graceful person, handsomely dressed; and her hair was arranged like that of a young girl of good family. “O-jochū,”he exclaimed, approaching her,―“O-jochū, do not cry like that! . . .  Tell me what the trouble is; and if there be any way to help you, I shall be glad to help you.” (He really meant what he said; for he was a very kind man.) But she continued to weep,―hiding her face from him with one of her long sleeves. “O-jochū,” he said again, as gently as he could,―“please, please listen to me! . . .  This is no place for a young lady at night!  Do not cry, I implore you!―only tell me how I may be of some help to you!” Slowly she rose up, but turned her back to him, and continued to moan and sob behind her sleeve. He laid his hand lightly upon her shoulder, and pleaded:―“O-jochū!―O-jochū!―O-jochū! . . .  Listen to me, just for one little moment! . . . O-jochū!―O-jochū!”. . .  Then that O-jochū turned round, and dropped her sleeve, and stroked her face with her hand;―and the man saw that she had no eyes or nose or mouth,―and he screamed and ran away.

   Up Kii-no-kuni-zaka he ran and ran; and all was black and empty before him. On and on he ran, never daring to look back; and at last he saw a lantern, so far away that it looked like the gleam of a firefly; and he made for it. It proved to be only the lantern of an itinerant soba-seller, who had set down his stand by the road-side; but any light and any human companionship was good after that experience; and he flung himself down at the feet of the old soba-seller, crying out, "Aa!―aa!!― aa!!!

   “Koré! Koré”roughly exclaimed the soba-man. "Here! what is the matter with you?  Anybody hurt you?"

   “No―nobody hurt me,”panted the other,――“only. . . Aa!―aa!”. . .

   “―Only scared you?”queried the peddler, unsympathetically.  “Robbers?”

   “Not robbers,―not robbers,”gasped the terrified man. . . . “I saw . . .  I saw a woman―by the moat;―and she showed me . . . Aa! I cannot tell you what she showed me!”. . .

   “Hé! Was it anything like THIS that she showed you?”cried the soba-man, stroking his own face―which therewith became like unto an Egg. . . .  And, simultaneously, the light went out.

 

   *

 次にこちらにある、同作の戸川明三(戸川秋骨の本名。パブリック・ドメイン)氏訳になる「狢」(PDF)を視認して電子化しておく。画像底本は新潮文庫昭和二五(一九五〇)年発行初版の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」である。一部、記号に不審がある箇所は恣意的に訂した

   *

 

    貉

 

 東京の、赤坂への道に紀國坂といふ坂道がある――これは紀伊の國の坂といふ意である。何故それが紀伊の國の坂と呼ばれて居るのか、それは私の知らない事である。この坂の一方の側には昔からの深い極はめて廣い濠(ほり)があつて、それに添つて高い綠の堤が高く立ち、その上が庭地になつて居る、――道の他の側には皇居の長い宏大な塀が長くつづいて居る。街燈、人力車の時代以前にあつては、その邊は夜暗くなると非常に寂しかつた。ためにおそく通る徒步者は、日沒後に、ひとりでこの紀國坂を登るよりは、むしろ幾哩も廻り道をしたものである。[やぶちゃん注:「廻」は底本の用字。]

 これは皆、その邊をよく步いた貉のためである。

 

 貉を見た最後の人は、約三十年前に死んだ京橋方面の年とつた商人であつた。當人の語つた話といふのはかうである、――

 この商人がある晩おそく紀國坂を急いで登つて行くと、ただひとり濠(ほり)の緣(ふち)に踞(かが)んで、ひどく泣いている女を見た。身を投げるのではないかと心配して、商人は足をとどめ、自分の力に及ぶだけの助力、若しくは慰藉を與へようとした。女は華奢な上品な人らしく、服裝(みなり)も綺麗であつたし、それから髮は良家の若い娘のそれのやうに結ばれて居た。――『お女中』と商人は女に近寄つて聲をかけた――『お女中、そんなにお泣きなさるな!……何がお困りなのか、私に仰しやい。その上でお助けをする道があれば、喜んでお助け申しましせう』(實際、男は自分の云つた通りの事をする積りであつた。何となれば、此の人は非常に深切な男であつたから。)しかし女は泣き續けて居た――その長い一方の袖を以て商人に顏を隱して。『お女中』と出來る限りやさしく商人は再び云つた――『どうぞ、どうぞ、私の言葉を聽いて下さい!……此處は夜若い御婦人などの居るべき場處ではありません! 御賴み申すから、お泣きなさるな!――どうしたら少しでも、お助けをする事が出來るのか、それを云つて下さい!』徐ろに女は起ち上つたが、商人には背中を向けて居た。そして其袖のうしろで呻き咽びつづけて居た。商人はその手を輕く女の肩の上に置いて説き立てた――『お女中!――お女中!――お女中! 私の言葉をお聽きなさい。只一寸でいいから!……お女中!――お女中!』……するとそのお女中なるものは向きかへつた。そして其袖を下に落し、手で自分の顏を撫でた――見ると目も鼻も口もない――きやツと聲をあげて商人は逃げ出した。

 一目散に紀國坂をかけ登つた。自分の前はすべて眞暗で何もない空虛であつた。振り返つてみる勇氣もなくて、ただひた走りに走りつづけた擧句、やうやう遙か遠くに、螢火の光つて居るやうに見える提燈を見つけて、其方に向つて行つた。それは道側(みちばた)に屋臺を下して居た賣り步く蕎麥屋の提燈に過ぎない事が解つた。しかしどんな明かりでも、どんな人間の仲間でも、以上のやうな事に遇つた後には、結構であつた。商人は蕎麥賣りの足下に身を投げ倒して聲をあげた『あゝ!――あゝ!!――ああ!!!』……

『これ! これ!』と蕎麥屋はあらあらしく叫んだ『これ、どうしたんだ? 誰れかにやられたのか?』

『否(いや)、――誰れにもやられたのではない』と相手は息を切らしながら云つた――『ただ……あゝ!――あゝ!』……

『――只おどかされたのか?』と蕎麥賣りはすげなく問うた『盜賊(どろばう)にか?』

『盜賊(どろばう)ではない――盜賊(どろばう)ではない』とおぢけた男は喘ぎながら云つた『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の緣(ふち)で――その女が私に見せたのだ……あゝ! 何を見せたつて、そりや云へない』……

『へえ! その見せたものはこんなものだつたか?』と蕎麥屋は自分の顏を撫でながら云つた――それと共に、蕎麥賣りの顏は卵のやうになつた……そして同時に燈火は消えてしまつた。

               (戸川明三譯)

          
 Mujina.Kwaidan.

 

   *

ここで、柴田宵曲は原話の後半部の二度目のオドシ(一般に「再度の怪」と称される怪談の駄目押し構成の常套法の一つ)の梗概を示していないが、後段でそれをごく手短に示している。これは別に忘れた訳ではなく、読んでいくと判るが、話柄の展開上、男の「のっぺらぼう」を出したくなかったのである

 さて、本作の種本については柴田は問題としていないのであるが、平川祐弘編の小泉八雲「怪談・奇談」(一九九〇年講談社学術文庫刊)の「解説」では、小泉八雲は明治二七(一八九四)年七月刊の町田宗七編「百物語」の「第三十三席 御山苔松」の怪奇咄を原拠に比定している。但し、落語ネタとしてはもっと古くからあったものと想像され得るもので、江戸随筆等を丹念に探れば、より古式の原話或いは類話を見出し得るように思われる。取り敢えず、同書の「原拠」に出るそれを、恣意的に漢字を正字化して示しておく。底本は総ルビであるが、読みはごく一部に留めた。本文の拗音表記はその儘にしておいた。踊り字「〱」は正字化した。一部の原典の誤記と思われる漢字を恣意的に変更した

   *

 拙者の宅に年久しく仕へまする佐太郎といふ實直な老僕が御坐りますが、この男が若い時に遭遇した話しださうで御坐いますが、或日のこと赤坂から四谷へ參る急用が出來ましたが、生憎雨は降(ふり)ますし殊に夜中の事で御坐いますからドットいたしません次第で御坐いますが、急用ゆゑ致方なくスタスタとやッて參り紀の國坂の中程へ差掛ッた頃には雨は車軸を流すが如くに降(ふつ)てまゐり風さへ俄(にはか)に加はりまして物凄きこと言はむ方も御坐りませんからなんでも早く指(さ)す方(かた)へまゐらうと飛ぶが如くに駈出(かけだ)しますと、ポント何やら蹴付(けつけ)たものがありますから、ハット思ッて提灯(てうちん)を差し付(つけ)て見ると、コハ如何(いかに)高島田にフサフサと金紗(きんしや)をかけた形姿(みなり)も賤しからざる一人の女が俯向(うつむけ)に屈(かゞ)んで居(を)りますから、驚きながらも貴女(あなた)どうなさいましたト聞(きく)と俯向(うつむい)たまゝ持病の癪(しやく)が起りましてといふからヲヽ夫(それ)ハ嘸(さぞ)かしお困り、ムヽ幸ひ持合せの薄荷(はつか)がありますから差上(さしあげ)ませう、サヽお手をお出しなさいと言ふと、ハイ誠に御親切樣にありがたう御坐いますと禮を述(のべ)ながら、ぬッと上(あげ)た顏を見ると顏の長さが二尺もあらうといふ化物、アッと言(いつ)て逃出したのなんのと夢中になッて三四町もまゐると、向ふの方(はう)から蕎麥うわウイーチンリン蕎麥うわウイーチンリンと一人の夜鷹(たか)蕎麥屋がまゐりましたから、ヤレ嬉しやと駈寄(かけよつ)て、そゝ蕎麥屋さん助けてくれト申しますと蕎麥屋も驚きまして、貴郎(あなた)トど如何(どう)なさいました。イヤもうどうのかうのと言(いつ)て話しにはならない化物に此(この)先(さき)で遭ひました。イヤ夫(それ)は夫はシテどんな化物で御坐いました。イヤモどんなと言(いつ)て眞似も出來ませんドヾどうかミヽ水を一杯下さいト言ふとお易い御用と茶碗へ水を汲(くん)でくれながら、モシその化物の顏ハこんなでハ御坐いませんかト、言ッた蕎麥屋の顏が、また弐尺、今度はあッと言(いつ)た儘(まゝ)氣を失ッてしまひまして、時過(ときすぎ)て通りかゝツた人に助けてもらひましたが、後(のち)に聞(きゝ)ますると、それハ御堀(おほり)に栖(す)む獺(かはうそ)の所行(しはざ)だらうといふ評判で御坐いましたが、この説話は決して獺(うそ)の皮ではないさうで御坐います。

   *]

 かういふ顏の持ち主を普通にノツベラボウと宿してゐる。支那にも同類はあると見えて、某家の下男が夜茶を取りに行くと、若い女が木の蔭に向うむきに立つてゐる。暗くてよくわからぬが、どうやら同じ家の女中らしく思はれたので、笑談半分にその臂を捉へた。途端に女が振向いた顏を見ると、白粉を塗つたやうに眞白で、然も目も鼻も口もない。下男は絶叫して地に朴れたと「閲微草堂筆記」にある。

[やぶちゃん注:「茶を取りに行く」訳が不全。原文を見て戴くと判るが、別棟に「茶道具」をとりに行ったのである。

以上は「閲微草堂筆記」の「第八卷如是我聞二」の以下の太字で示した部分。

   *

崔莊舊宅廳事西有南北屋各三楹、花竹翳如、頗爲幽僻。先祖在時、奴子張雲會夜往取茶具、見垂鬟女子潛匿樹下、背立向墻隅。意爲宅中小婢於此幽期、遽捉其臂、欲有所挾。女子突轉其面、白如傅粉、而無耳目口鼻。絶叫仆地。眾持燭至、則無睹矣。或曰、「舊有此怪。」。或曰、「張雲會一時目眩。」。或曰、「實一黠婢、猝爲人阻、弗能遁。以素巾幕面、僞爲鬼狀以自脱也。」。均未知其審。然自此群疑不釋、宿是院者恒凜凜、夜中亦往往有聲。蓋人避弗居、斯鬼狐入之耳。又宅東一樓、明隆慶初所建、右側一小屋、亦云有魅。雖不爲害、然婢媼或見之。姚安公一日檢視廢書、於簏下捉得二。眾曰、「是魅矣。」。姚安公曰、「弭首爲童子縛、必不能爲魅。」。然室無人迹、至使野獸爲巢穴、則有魅也亦宜。斯皆空穴來風之義也。後西廳析屬從兄垣居、今歸從姪汝侗。樓析屬先兄睛湖、今歸姪汝份。子姪日繁、家無隙地、魅皆不驅自去矣。

   *

原典の後の部分は一九七一年平凡社刊の中国古典文学大系第四十二巻の訳によれば(拠った底本が異なるものか、訳が必ずしも明確には一致しない)、続く部分は、張雲のその怪異目撃事件への解三つ(実際に化物が出来した・張雲の錯覚・あの婢は性質(たち)の悪い奴で密会を見つけられて逃げられなかったことから白い巾(きれ)を被って化物の真似をした)を示す。最後のパートは、この邸宅は実はここだけでなく、他にも怪異の出来する棟があり、ある日、姚安(ようあん)公が書籍整理中、『竹籠(つづら)の下にいたムジナのような動物を二匹つかまえた』(下線やぶちゃん)。人々はこれこそ化物の正体であると騒いだが、姚安は「だったら、こんなに子どもの手を捻るのようにやすやすと捕えられてしまうはずもないと否定した。しかし、野獣の巣窟に成したというこの状況に至らせてしまった以上は、魑魅魍魎がここに巣食っているというべきである。それは「空穴來風の義」(「穴が開けばそこには当然、風が吹き込むものだ」式の道理。「荘子」に基づく諷喩)であるとそれに反論附記している(筆者袁枚のそれと採っておく。中文サイトではこれを姚安の続く言として採っている)。最後の部分は、その後、この邸宅の人の住んでいなかった建物には、ことごとく親族らが住むようになり、『空地がなくなったので、化物どもはすべて、追い払われなくても自分から出て行ってしまったろう』とある。柴田は何故、このムジナ(原文「」。現代中国語では「アナグマ」を指すから、まさに「貉」である)を出さなかったのか? まあ、事例があまりにも無抵抗でショボいからやめたものでもあろう。]

「夜譚隨錄」に出てゐる話は十何人も集まつて酒を飮んだ擧句であつた。大分いゝ機嫌になつて或地點まで歸つて來ると、これは月夜だつたので、紅い衣を著た婦人が牆(かきね)の邊にうづくまつてゐるのが見えた。醉ひに乘じてうしろから袖を引いたのは「閲徽草堂筆記」と同じであり、振向いた顏に眉目口鼻のないことも同じである。たゞ見る白面模糊として、豆腐の如く然りと記されてゐる。この男はよほどびつくりしたらしく、地上に仆れて氣絶してしまつた。仲間が駈け付けて介抱したので、暫くして漸く蘇つた。

[やぶちゃん注:以上は「夜譚隨錄」の「卷二紅衣婦人」。

   *

西十庫在西安門内、例有披甲人宿其中。某甲與同十餘人、沽酒夜飲、皆半酣。二更後、甲起解手、至庫旁永巷中、於月光下、隱隱見一紅衣婦人、蹲身牆邊、如小遺狀。甲醉後心動、潛就摟之、婦人囘其首、別無眉目口鼻、但見白面模糊、如豆腐然。甲驚僕地上。同人遲其來、往覘之、氣已絶矣、舁至鋪中救之、逾時始蘇、自述所遭如此。

   *]

 この三つの話は全く同工異曲である。夜の事だから、少し隔たつてゐれば顏などはよくわからない。うしろから臂を捉へたり、袖を引いたりするほどの近距離で、おもむろに振り向く顏に目鼻がないといふところに、この話の人を驚倒せしむる一大要素がある。

 併しノツペラポウを見るのは、悉く以上のやうな狀態に限られたわけではない。「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話は、文久三年の七月といふ時代がはつきり書いてある。夜の十時頃に高輪の海端を歩いて來ると、田町の方から盆燈籠の灯が近付いて來た。摺れ違ひざまに見ると、草履を穿いて稚い兒を背負つた女である。盆燈籠はその兒の手に持つてゐるのであつたが、その女の顏がノツペラボウであつた。擦れ違つたのは武士であるから、思はず刀の柄に手をかけたが、世の中には病氣か大火傷(やけど)などでこんな顏になる者がないとも限らぬと、思ひ返して躊躇するうちに、女は見返りもせずに行き過ぎてしまつた。このノツペラボウの女は、同じ晩に札の辻のところで蕎番屋の出前持が出逢つて居り、その男は恐怖の餘り自分の店の暖簾をくゞるや否や氣を失つて倒れた。翌朝品川の海岸に浮き上つた女の死髓は、二つばかりの女の兒を背負ひ、女の兒は紙が洗ひ去られて殆ど骨ばかりになつた盆燈籠を手にしてゐた。こゝで話は當然ノツペラボウの女に結び付かなければならぬが、水死者は目も鼻も口も尋常だつたさうである。

[やぶちゃん注:「文久三年」一八六三年。

 『「近代異妖篇」(岡本綺堂)にある話』は大正六(一九一七)年一月号『新小説』初出の「父の怪談」の一節。短いので「青空文庫」版からコピー・ペーストしておく。

   *

 その翌々年の文久三年の七月、夜の四つ頃(午後十時)にわたしの父が高輪の海ばたを通った。父は品川から芝の方面へむかって来たのである。月のない暗い夜であった。田町の方から一つの小さい盆燈籠が宙に迷うように近づいて来た。最初は別になんとも思わなかったのであるが、いよいよ近づいて双方が摺れ違ったときに、父は思わずぎょっとした。

 ひとりの女が草履をはいて、おさない児を背負っている。盆燈籠はその児の手に持っているのである。それは別に仔細はない。ただ不思議なのは、その女の顔であった。彼女は眼も鼻もない、俗にいうのっぺらぼうであったので、父は刀の柄に手をかけた。しかし、又考えた。広い世間には何かの病気か又は大火傷(おおやけど)のようなことで、眼も鼻もわからないような不思議な顔になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛んだ間違いになると、少しく躊躇しているうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗いなかに草履の音ばかりがぴたぴたと遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行った。

 父はそのままにして帰った。

 あとで聞くと、父とほとんど同じ時刻に、札の辻のそばで怪しい女に出逢ったという者があった。それは蕎麦屋の出前持で、かれは近所の得意先へ註文のそばを持って行った帰り路で一人の女に逢った。女は草履をはいて子供を背負っていた。子供は小さい盆燈籠を持っていた。すれ違いながらふと見ると、女は眼も鼻もないのっぺらぼうであった。かれはびっくりして逃げるように帰ったが、自分の店の暖簾(のれん)をくぐると俄かに気をうしなって倒れた。介抱されて息をふき返したが、かれは自分の臆病ばかりでない、その女は確かにのっぺらぼうであったと主張していた。すべてが父の見たものと同一であったのから考えると、それは父の僻眼(ひがめ)でなく、不思議な人相をもった女が田町から高輪辺を往来していたのは事実であるらしかった。

「唯それだけならば、まだ不思議とはいえないかも知れないが、そのあとにこういう話がある。」と、父は言った。

 その翌朝、品川の海岸に女の死体が浮きあがった。女は二つばかりの女の児を背負っていた。女の児は手に盆燈籠を持っていた。燈籠の紙は波に洗い去られて、ほとんど骨ばかりになっていた。それだけを聞くと、すぐにかののっぺらぼうの女を連想するのであるが、その死体の女は人並に眼も鼻も口も揃っていた。なんでも芝口辺の鍛冶屋の女房であるとかいうことであった。

 そば屋の出前持や、わたしの父や、それらの人々の眼に映ったのっぺらぼうの女と、その水死の女とは、同一人か別人か、背負っていた子供が同じように盆燈籠をさげていたというのはよく似ている。勿論、七月のことであるから、盆燈籠を持っている子供は珍らしくないかも知れない。しかしその場所といい、背中の子供といい、盆燈籠といい、なんだか同一人ではないかと疑われる点が多い。いわゆる「死相」というようなものがあって、今や死ににゆく女の顔に何かの不思議があらわれていたのかとも思われるが、それも確かには判らない。

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「近代異妖篇」の著者は、ノツペラボウの女がいはゆる死相を現じてゐたものではないかといふ説を持ち出してゐる。死相の事は何ともわからぬが、病氣や大火傷で不思議な顏になる方は想像出來ぬでもない。「雲萍雜志」に見えた有馬温泉の話などはその一例である。日暮れ方の湯桁(ゆげた)の中に、耳も目も鼻もない瘦法師のひとり入つてゐるのを見て、物蔭から窺つてゐるうちに、匆々に出て行つたが、その姿は繪にかいた骸骨同樣であつた。狐狸の仕業かと疑ひ、宿の主人に尋ねたら、その答へは實に意外なもので、その人は伏見屋といふ大坂の唐物一商人の娘、美人の聞えがあつたのを、姑の病中に鄰りより火事が起り、誰も助け出す者のなかつた時、火の中に飛び込んで抱へ出した。その火傷のために、目は豆粒ほどに明いて