愚かな望みを君に託す
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三日後には義母の見舞いに名古屋へ旅立つ……
愚かな私の渾身の記念テクストのために……
ちょとだけ
あなたの力を少しだけ分けて下さいませんか?……
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三日後には義母の見舞いに名古屋へ旅立つ……
愚かな私の渾身の記念テクストのために……
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あなたの力を少しだけ分けて下さいませんか?……
農園に雪が降った。ミンノー県の34のお邸の農場を久しぶりに東西に狩った。シロウサギ34羽・ハイイイロウサギ18羽・クロウサギ9羽。一羽の撃ち洩らしもせなんだ。クリスマスの神の恩寵に感謝する。御主人は今日、何処ぞのお邸で、「奉教人の死」とか言う小説を朗読なされ、痛く御満悦でお帰りになられた。まあ、あの酔っ払いの自己満足を聴かされたお客人も、溜まったもんではあるまいがの……(おっとこれは失言じゃった)。
「耳嚢」に「物は一途に無候ては成就なき事」を収載した。
*
物は一途に無候ては成就なき事
都て物事にも、たとひ神佛へ祈ればとて一途になくては叶はぬ道理也。纔の初尾(はつを)を獻じ願ひを叶へんといふ愚夫の心かたひかな。物の多少にはよるべからず、十二銅の初尾も其身分によるべき事也。攝州大坂道頓堀の河原に乞食同樣の躰にて呪(まじなひ)をなせる出家あり。其後江戸表へ下りしと聞て、あるいざりありしが、未年若の身分、何卒右呪にて快氣もする事ならばと、其出家を尋べしと江戸表へ下り、もとより貯なき身なれば乞食同樣物貰ひて居たりしが、大勢群集して呪の僧來れりと言故、右のいざりも其所へいたり出家に向ひ、御身は大坂道頓堀に居給ひし人ならずやと尋ければ、成程其出家也といふ故、左あらば年月尋たり、何卒御身の呪にて我等が兩足を立て給はるべしといひければ、成程加持いたし遣(つかは)すべし、何を布施に出し候やといひしを、彼のいざり大に怒り、是迄無益(むやく)の事に汝を尋けるかな、聞しに違ふまいす哉、我等只今往來の惠を乞ふ身分也、何か布施物(ふせもつ)の有べきと言ければ、出家から/\と笑ひ、人に一大事を賴むからは其身の精心を表さずして何の感應か有らん、汝が傍にある面桶(めんつう)の中に穢はしき食物あり、是を布施に可致と言ふ。爰におゐて右のいざり、成程面白き事也、此品は穢らはしき食物ながらわれ今日の露命を繋ぐ食物也、是を布施にせんと差出しければ、彼僧右の食に水をかけ一粒も不殘(のこさず)喰終りて、然らば加持可致とて何か呪文を唱へ、汝が志決定(けつじやう)の上は呪の加護あるべし、いざ立見候樣にと申しけるが、一心の通力や何の苦もなく立上り快く成しとや。水野日州物語を爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項の「心取」は如何にも本話柄のプラシーボ効果に連関するように私には感じられる。
・「心かたひ」底本では「かたひ」の右に『(難い)』とある。「心堅し」では真面目でひたむきの意となるから不適、「心難し」はそのようないい加減な心では(依願成就は)困難である、ということになるか。私は初読、「心かたゐ」の誤りではないかと思った。「心乞食」で、如何にも心さもしい、という意味で読んだ。現代語訳もそれを用いた。
・「十二銅の初尾」は、十二文の初穂、のこと。初穂とは、本来は、その年初めて収穫した穀物を、神仏へ奉納することを指したが、収穫物に代えて金銭を奉るものを初穂銭、初穂と呼んだ。室町期頃より初穂を「はつお」と発音したことから、「初尾」とも表記するようになった。「十二」は底本の鈴木氏の注に『社寺のお灯明に十二灯を上げる代りに、紙に十二文包んで上げたのが始めで、後には』神仏への奉納に限らず、あらゆる投げ銭・御ひねりのの『最低額を意味するようになった。獅子舞などを舞わすには十二文が最低で、十二銅の獅子舞で曲がないというしゃれことばができた』と記す(中間部は私が解釈して補った)。
・「呪」訳では、まじないによって禍いを祓うことを意味する「呪禁」(じゅごん)を用いた。
・「いざり」はママ。ここは「居ざり」であるが、そのまま「居ざり」とすると、読者の中には足のたたぬ片輪の乞食をイメージする方があると思われる。しかしそれは間違いで、その後、江戸に出てから「もとより貯なき身なれば乞食同樣物貰ひて居たりし」とあるのと矛盾する(大阪でも乞食をしていたとなればこのような表現はしない。されば、「もとより貯なき身」であるから、貧しくはあったが、しかし、日雇いか何かのその日暮しではあるものの、相応な生業には就いていたものと思われる。そこで訳では、足の不自由な男、と訳しておいた。これは私が「言葉狩り」を恐れて訳語を選んだのではないことを特に注するために記した。その証拠に、江戸下向後のシーンでは正真正銘の「居ざり」となっているので、そのまま使用してある。
・「まいす」売僧。堕落僧を指したり、僧を罵ったりする語。糞坊主。
・「感応」人々の信心が神仏に通じて、そのしるしが現われることを言う。
・「面桶(めんつう)」「ツウ」は唐音。一人前ずつ飯を盛って配るための曲げわっぱ。後に乞食の持つ物乞いの入れ物を言うようになった。めんぱ。めんつ。
・「おゐて」はママ。
・「水野日州」水野日向守近義(ちかのり 延享2(1745)年~?)。宝暦12(1762)年書院番、明和3(1766)年小納戸役。寛政9(1797)年には徳川家斉の二男で世継ぎとなった、後の徳川家慶に付いて西の丸に勤めた(主に底本の鈴木氏の注を参考にした)。
■やぶちゃん現代語訳
物事は一途な思いが御座らねば成就せぬという事
総べて物事というものは、たとえ神仏に祈るに際しても、一途でなくては、その願いも叶わぬというのが道理というものなのである。僅かな初穂を奉じて願いを叶えようなんどというのは、愚者のさもしい心の現われである。但し、ここで言う「僅かな初穂」とはその額の多少を言うのではない。十二文の初穂であっても、その地位境遇によって自ずと一途な思いの現われととるべきかどうか決まってくるものなのである――。
摂津大阪は道頓堀の河原に、乞食同様の風体(ふうてい)にて呪禁(じゅごん)を為(な)す出家が居ったが、その後、この出家は江戸表へと下ったとかいう専らの噂で御座った。
さて、ここ大阪に、一人の足の不自由な男が御座った。
彼は、その出家の呪禁の効きめの評判やら、既に江戸に下向してしもうたという話やらを聴きつけて、未だ若い身の上のこと故、何としても、この不自由な足、それがが呪禁にて快気しようものなら、とその出家を探そうと江戸表に下った。元来、貯えとてない身であったので、乞食同様、物乞いをして生活する毎日で御座った。
そんなある日、大勢の人々が群集して、
「呪禁の僧がやって来た!」
と言上げする声が聴こえたので、かの居ざりもその人だかりの中を分け入るようにして飛び込むと、そこに御座った出家に向かって、
「御坊(ごぼう)は大阪は道頓堀に居られて御座った御仁にてはござらぬか?」
と訊ねたところ、
「如何にも――その出家にて御座るが――」
「いや! 左様ならばこそ! 永い年月、捜しあぐねて御座った! 何卒、御坊の呪(まじな)いにて、我らが両足、立つるよう、御療治の程、相願い奉りまする……」
と願ったところ、出家は、
「永のお待ちにてあれば。如何にも加持祈禱し申し上げん――時に――何を布施としてお出し下さるのか――の?」
と言った。これを聞いたかの居ざりは、激しく怒って、
「なんちゅう、こっちゃ!……今日の今日まで、儂は、愚かにも無駄に、あんさんを待って居ったちゅう、こっちゃ! 聴きしに違(たご)う、呆れ果てた売僧(まいす)じゃて! 我ら、只今、往来の恵みを乞うて生き居る身分じゃて、何ぼう、布施致す物のあろう筈も、ない!」
と口汚く、罵った。すると出家は、からからと大笑いして、
「はっ! はっ! はっ! 人に一生の大事を頼もうなら――それなりの偽りなき真心というを表わさないでは、何の神仏の感応やあらん!――どうれ――そこなお主の傍にある面桶(めんつう)の中に――何やらん穢らわしい食い物が御座ろう程に――それを布施と致すがよい――」
と言った。ここに到って、この居ざり、
「成程、面白いことじゃ!……この品は……穢らわしい食い物乍ら、我、今日(きょうび)、一日(いちじつ)の露命を繋ぐ糧(かて)じゃて!……これを布施と、せん!」
と、面桶を差し出(い)だいたところ、かの僧は、この半ば腐れた食べ物に水をぶっつ掛け、一粒も残さず食い終わって、
「――されば。加持致すとしょう。」
と、口中にて何やらん呪文を唱えたかと思うと、直に、
「お主の願いの誠心から出でて――あらゆる『信』を疑わざるの上は――呪(まじな)いの御加護――必ずやある――さあ、立ってみて御座ろう様に!――」
と申したところ、正にその一心が神仏に通じ、不可思議なる力によったものか――何の苦もなく立ち上がって、足は最早、快癒致いておったと……
これは水野日向守近義(ちかのり)殿が物語ったのを、私がここに記したものである。
プラネテス ΠΛΑΝΗΤΕΣ!
キタゾ!
ヨツパラツタ状態ノ儘今朝通勤途中ノ東海道線デ讀ム
横濱駅ニ着イタ時
僕ハ涙デクシヤクシヤニナッテヰタ
第一話
41ページ最下段ノこま
造花ノ花ヲ持ツタゆーり
コノこまヲ見テ泣カナイ奴ハ
人間ヂヤ
ネエ!
(彼は僕に「プルートゥ」を読んで下さいと嘗て貸してくれた男――また僕は彼に――借り――が出来た)
漢書の発表は何如? 今度、逢うときはお前の卒論への助言を、きっと約束するぜ!
うん! 考古学は楽しいぞ! 発掘を体験しろ! 社会に出ることなんかより、まずは楽しい!
……線香が断ち切れやした……
僕は、大学生の時、落研の天才的落語家のトリで、それ――「絶ち切れ線香」――を聴いた――
落語で泣いたのは――
それが最初で最後である……
核密約の事実が現出する今、我々は、当時の政府を特別背任罪と破防法違反で告訴する権利、いや、義務がある。
俺達は、馬鹿――無知な大衆なんぞではないぞ!――
「耳嚢」に「鬼谷子心取物語の事」を収載した。
*
鬼谷子心取物語の事
安永の頃、淺草馬道に鬼谷子といひて鍼治の業をなし、且雲氣の學を以人の吉凶等を悟り抔したる奇翁あり。其年百歳餘といへ共誰も其年をしる人なし。右の門人予が許へ來りて語りけるは、此程鬼谷子を久留米侯より呼れしに、甚其術信仰の上、老翁なるを以尊敬又類ひなし、或時老人の事故玄關より駕(かご)に乘、門の出入も駕の儘可致とて其譯申渡、時々呼れしが、兩三度目にもありなん、例の通り裏門へ參り乘輿(じやうよ)の儘通りけるを門番人咎めけるは、何者なれば乘輿の儘通るとありし故、しかじかの免(ゆる)しありと附添の人斷しが、番士何分承知無之故駕を下り通りしが、最早重ては久留米侯へ召さるも斷を申參るまじと申故、右門人諌けるは、大家(たいけ)の事なれば左程の事はあるべき也。是迄の老生を御惠み有りとて駕にて門内を通行も又類ひなき事也、是迄の通立入侯方可然と申ければ、鬼谷子曰、我富貴金銀の望なしといへども、下賤の老翁を二十萬石餘の諸侯より招き恩遇ある事、いかでかいなみ嫌ふ事更になし、然しながら人と參會懇意にするに合氣と成候ではゆかぬ事あるもの也、至て親しきもてなしの内へ一節ふしを付れば恩遇不絶もの故、某(それがし)輕き身分を大家の門内駕にて通路はその寵過の過たるなれども、纔二十萬石の家にて、門内駕にての通路をゆるし、又門にて咎るといふ、號令の不行屆也、重てまいりまじきと申遣けるは、定て右の門番の心得違などゝ申被相招候半(まうしあひまねかれさふらはん)、其節はいか樣にも此身をへりくだりて、重ては門内駕にては不通行樣可致(つうかうせざるやういたすべし)、此時上下和合して永く交歡をたたざるもの也と語りしが、果して左ありしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:老中首座でありながら御入用方を兼務出来ぬ、門内駕籠にて通行可と言われながら門番が罷りならぬという、道理に合わぬ事実という点で連関。
・「鬼谷子」この名は元来は、「史記」に現われ、合従連衡で知られる縦横家の蘇秦及び張儀の師とされている(両者の列伝に「鬼谷先生」の名が掲げられている)が、鬼谷の伝は他になく、実在は疑われている。所謂、算命学(干支暦や陰陽五行説を元にした本邦の易占い)の祖とされる。その名を名乗るとは、なかなかの強者と言うべきであろう。
・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることを言っているように思われる。
・「安永の頃」西暦1772年~1780年。
・「淺草馬道」浅草寺の北東部を南北に走る通り。浅草から昔の吉原土手に向う馬道町のこと。現在は浅草2丁目及び花川戸1~2丁目に跨る馬道商店街となっている(一説には新吉原の客が馬で通った道に由来するとも言う)。
・「雲氣」空中に立ち上るところの精神的エネルギ、所謂、オーラのこと。古来、天候・勝敗・吉凶・生死など、広く人や事象の未来を予知する根拠とした。
・「久留米侯」有馬頼徸(よりゆき 正徳4(1714)年~天明3(1783)年)。筑後国久留米藩第7代藩主。摂津有馬氏の庶流で、21万石。ウィキの「有馬頼ゆき」(ブラウザ標題ひらがなママ)によれば、彼は『有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていた。特に頼徸が優れていたのは和算であった。和算は江戸時代前期に関孝和によって成立したもので、当時は代数式、行列式、円に関する計算などがそれであった。頼徸はその和算に対して深く興味を持ち、関流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学んだ』。『頼徸は、それまでは52桁しか算出されていなかった円周率を、さらに30桁算出し、少数の計算まで成立させた。明和6年(1769年)には豊田文景の偽名で「拾機算法」五巻を著した。これは、関孝和の算法を自分自身でさらに研究し進めたものをまとめたものである』。その評価を見ると『幕府からその才能を認められて江戸増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もこれまでの歴代藩主よりさらに上である左少将に叙任されることとなった。また、将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領することができるという「国鶴下賜」を三度も受けている。これは徳川御三家や伊達氏、島津氏、前田氏などの大藩しか賜らないという厚遇であったため、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けることとなった』とあり、『頼徸の治世は54年の長きに渡り、また頼徸自身が優れた藩主だったこともあって久留米藩の藩政は比較的安定化し、頼徸はその治績から「久留米藩の吉宗」と賞賛されるに至った。なお、頼徸と同時期の教養人、新発田藩・溝口直温、松江藩・松平宗衍と並んで「風流三大名」と称される』と、大絶賛である(記号の一部を変更した)。
■やぶちゃん現代語訳
鬼谷子の深謀遠慮の語りについての事
安永の頃、浅草馬道に鬼谷子という鍼治療を生業(なりわい)と成し、且つまた、雲気の学を以って人の吉凶を占うという奇体な老人が御座った。その年齢は百歳とも言われるが、実際のところ、知る者は御座らぬ。私の知り合いで、その鬼谷子の門人の一人であった者がおり、私の家へ訪ねて来た折りに語ったことで御座る――。
最近、鬼谷先生は久留米侯有馬頼徸(よりゆき)殿の屋敷に招かれまして、その鍼術・雲気観相の学、殊の外、御崇敬御信心になられ、また、老翁にてあらせらるることによりても、御尊敬なされておられた。ある時、特に高齢の老人のこと故、屋敷の玄関を出たところから直ぐに駕籠に乗ることを特に許され、また、裏門の出入りの折りも、駕籠に乗ったままにて致すがよい、と藩主頼徸殿から直々の御達しにて、その後もたびたび呼ばれて御座った。
ところが、確か三度目のことで御座ったか、例の通り、裏門に回って駕籠のまま入ろうとしたところが、門の番人がこれを咎めて、
「何者かッ!? 駕籠のまま、入らんとするは!?」
大仰に叫ぶ。
「これこれの由、既にお許しを戴いて御座りまする。」
と鬼谷先生お付きの者が、慇懃に断わりを入れたのだが、番士は、知らぬ存ぜぬの一点張り。なればと、鬼谷先生は駕籠を降りて通った。その際、鬼谷先生は付き添いの者に次のように告げた。
「……最早、向後、重ねて久留米候からのお召しがあろうともお断り申し上げよ。もうこちらへは参るまいよ……。」
これに、その付き添いの者は、
「……先生、大家にては、得てして、こういうことがよく御座りまする……。御老体を慮らるるとて、駕籠にて門内通行御構いなし、という有り難いお達しからして、これはもう例なきことにて御座いまするれば……。どうか、これまで通り、お召しに従ごうが、よろしかろうと存知まするが……。」
と久留米候の格式と温情に配慮し、また、せっかくの厚遇を惜しんで申し上げたところ、鬼谷先生応えて曰く、
「……儂は金銀財宝地位権勢なんどにはまるで興味はない……ない、とは言うても、驕りは、せぬて……儂の如き下賤の爺、それを二十万石余の御諸侯方よりお招きに預かり、これまた御厚遇頂いておるを……何故、厭い嫌うなんどということが御座ろうか……いやもう、誠(まっこと)、有り難きことと思うておる……思うておるが……しかし乍らじゃ……人が人と交わり合って、それぞれの志を理解し合い、互いに誠の懇意を深うするには……互いの「気」と「気」が、ぴたりと「合」とならいでは、ゆかぬものじゃして……到って親しき御もてなしを受けておる、その中に、今、一つの影を射すような変化が生じた……しかし、その変異に対する対応如何によっては……その手厚い待遇が、殊更に高まる、ちゅう所以よ……儂の如、軽い身分の者が、大家の門内を駕籠のまま通るなんどということは……そりゃ、はあ、過ぎた御寵愛、御厚遇じゃ……じゃが……たかが、二十万石の御一家にあって……藩主が門内駕籠にての通行を許したものが……かたや、はたまた、下賤の門番が門で咎むるなんどということは……凡そ、藩主の号令が、まるで行き届いておらぬということじゃ……さても、そこでじゃ……『もうこちらへは参りますまい』……と申し上ぐれば……きっと……『これは門番の心得違いにて』……なんどと仰せられて……再びお招き頂くことに相成るわけじゃ……さても、その節にこそは……この身を如何様にもへり下ってじゃな、二度とは門内駕籠にては通らぬように致す……それが、よいのじゃ……その時こそ、総ての「上」なるものと「下」なるものが和合致いて……そうして……我らの交歓も永く絶えざる堅固なものと、なるのじゃて。」
と語ったので御座るが……、果して後日、久留米侯御家中と鬼谷子とは、ここで語った通り、睦まじき縁を永く保ったとか、言うことで御座った。
『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。
これが、200000アクセス記念を除く、今年の私にとって忘れ難い最後の作品ということになろうかと思う。
相応な趣向を凝らした。御笑覧あれかし。
*昨夜、プレ公開したが、題名・結構に幾つかの不満足があり、また、ルートの一部に勘違いしていた箇所を発見したので、今、修正した。クレジットに変化は起こらないので、特に補正の注記はしていない。これで正式公開である。
「耳嚢」に「松平康福公狂歌の事」を収載した。
*
松平康福公狂歌の事
天明元年の頃、老中一﨟たりし松平右京太夫輝高卒去の後は、慶福(やすよし)公一﨟たり。松平左近將監(しやうげん)堀田相模守松平右近將監松平右京太夫迄、何れも一﨟にて御入用方を勤られしに、京兆卒去の後、御入用方の事水野出羽守被仰付侯故、康福公の家士抔は本意なくも思ひなんと巷説ありしが、事を好む者の作説や、又は防州公は元來博學にて見量有人故實に自詠なるや、人の語りけるは、康福公、御名代として朝疾く上野へ御越(こし)の途中、東叡山へ町家より豆腐を入れ候者、おかもちへ豆腐を入、片荷に持ものなかりけん、石を天秤棒にかけ一荷にして通りしを康福公輿中(よちう)より見給ひて、あれは何也と尋給ひしに、駕脇の者しか/\の由答へければ、歸館後近臣に其譯咄し給ひ、おもしろき事故狂歌せしと被申ける由。
世を荷ふ心は慶(やす)しあめが下豆腐に石も時の釣り合
□やぶちゃん注
○前項連関:天明元(1781)年の出来事で連関。
・「松平康福公」(享保4(1719)年~寛政元(1789)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。記載通り、天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となっている。以下、参照したウィキの「松平康福」によれば、『これまで勝手掛(財政担当)は老中首座が兼務する不文律があったが、田沼意次の強い意向で勝手掛は同列の水野忠友にまわされる。その埋め合わせとして天明5年(1785年)、1万石加増』されたと、本記事絡みのことが記載されている。尤も『娘を意次の子田沼意知に姻がせている』という事実もある。また、『天明6年(1786年)の田沼意次失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明8年(1788年)4月3日に免職され』たとも記す。
・「一﨟」首座。筆頭。
・「松平右京太夫輝高」(享保10(1725)年~天明元(1781)年)は上野国高崎藩藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任、宝暦8(1758)年に老中。官位は周防守、佐渡守、因幡守、右京亮、最終官位は従四位下の侍従で右京大夫。安永8(1779)年、老中首座松平武元死去に伴い老中首座及び慣例であった勝手掛も兼ねた。参照にしたウィキの「松平輝高」によれば、『天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる』と、やはり本件の内容が最後に記される。
・「松平左近將監」松平乗邑(のりさと 貞享3(1686)年~延享3(1746)年)は肥前唐津藩第3代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保8(1723)年に老中となり、以後、『足掛け20年余りにわたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。ここで問題となっている財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保15(1730)年を辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし、元文2年(1737年)には勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が9代将軍となったため、家重から疎んじられるようになり、延享2年(1745年)、家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され、加増1万石を没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。「酒井忠恭」は「ただずみ」と読む。ここで老中首座酒井忠恭がここで挙がっていないのは、3年程と就任期間が短かったことや、寛延の百姓一揆に関わって罷免されているせいかも知れない。
・「堀田相模守」堀田正亮(ほったまさすけ 正徳2(1712)年~宝暦11年(1761)年)は出羽国山形藩3代藩藩主・下総国佐倉藩初代藩主。寺社奉行・大坂城代を経て老中。先に記した酒井忠恭の罷免を受けて寛延2(1749)年に老中首座となった。在職中に死去した(以上はウィキの「堀田正亮」を参照した)。
・「松平右近將監」松平武元(たけちか 正徳3(1714)年~安永8(1779)年)は上野国館林藩第3代藩主・陸奥国棚倉藩藩主・上野国館林藩初代藩主(再封による)。奏者番・寺社奉行・老中。宝暦11(1761)に先の老中首座堀田正亮の在職死去を受けて老中首座となった。参照したウィキの「松平武元」によれば、『明和元年(1764年)老中首座。徳川吉宗、徳川家重、徳川家治の三代に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた』とある。因みに、次の老中首座が松平輝高となるのである。
・「松平右京太夫」松平輝高。右京太夫は彼の最終官位。
・「御入用方」勝手掛老中=老中首座のこと。延宝8(1680)年に置かれた(とあるが人物を特定し得なかった)もので、幕府の経理財政全般を担当、記事に言う「老中一﨟」老中筆頭である。
・「京兆」京兆尹(けいちょういん)のこと。左京大夫・右京大夫の唐名。ここでは勿論、松平右京太夫松平輝高のこと。
・「水野出羽守」水野忠友(享保16(1731)年~享和2(1802)年)三河国大浜藩藩主・駿河国沼津藩初代藩主。幕閣にあっては田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄・側用人から、まさにこの天明元(1781)年9月18日に老中格に異動し、同年10月1日に勝手掛となっている。更に天明5(1785)年には正式な老中に就任している。しかし『天明6年(1786年)、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の子息を廃嫡とし、かわりに分家旗本の水野忠成(大和守)を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、松平定信の指令で免職の憂き目にあ』った。それでも『10年後の寛政9年(1797年)に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)9月19日に死去した』(以上は、ウィキの「水野忠友」を参照した)。
・「防州公」松平康福のこと。彼は11歳の元文元(1736)年に従五位下周防守となっている。
・「東叡山」天台宗関東総本山東叡山寛永寺。徳川家光開基、開山は徳川家康のブレーン南光坊天海。徳川将軍家の祈祷所にして菩提寺で、歴代将軍15人の内、6人が眠っている。
・「おかもち」「お」はママ(正しくは「をかもち」)。岡持。平たい浅い桶に、持ち手と蓋の付いている入れ物。料理を入れて持ち運ぶのに用いる。
・「世を荷ふ心は慶しあめが下豆腐に石も時の釣り合」「豆腐に石」は、老中筆頭である自分から当然与えられるべき国の財政を掌握する勝手掛が奪われ、側用人に毛が生えたに過ぎない老中格の水野出羽守忠友が勝手掛を仰せ付けられるという、職掌上の著しい不均衡を揶揄している。
やぶちゃん通釈:
世を背負ってその政務を執り行うのだという今の私の心持ちに――いやもう不安も不満も全く以って御座らぬ――誠(まっこと)平穏にして平らか――天下に――片や豆腐――片や石とても――それで時の釣り合いが平らかにとれておる――というので御座ったれば――のう――
■やぶちゃん現代語訳
松平康福公の狂歌の事
天明元年の頃、老中の一﨟で御座った松平右京大夫輝高殿卒去の後は、松平康福(やすよし)公が一﨟となられた。松平左近将監乗邑(のりさと)殿、堀田相模守正亮(まさすけ)殿、松平右近将監武元(たけちか)殿、そして松平右京太夫輝高殿に至るまで、何れの御方々も、一貫して、老中一﨟と財政財務を一手に掌る御入用方を兼務なされてこられた。ところが、京兆輝高殿卒去の後、御入用方につきては、側用人上がりの老中格に過ぎぬ水野出羽守忠友殿が仰せつかった。――康福公の御家来衆などは、さぞかし本意(ほい)なきこととお腹立いのことであろう、なんどと巷では専らの噂で御座った。――
――さても、これから語ることは――好事家の作り話であるか、はたまた――周防守康福公というお方は、元来が博学にして見識ある御方でも御座ったれば、誠、御自詠なされたものでもあったか――ともかくも――ある人の語ったこと――。
――かような仕儀となった後のある日、老中一﨟たる康福公が、将軍家御名代として朝早く上野東叡山寛永寺へ故将軍家御廟御参拝のため、お越しになる途中のことで御座った。
たまたま同じ東叡山へ向けて、町屋からお寺へ豆腐をお納めに参る者が通り掛かった。
その出前持ちは、岡持に豆腐を入れ――その片方に担う荷がこれといってなかったせいで御座ろう――大きなごろた石を天秤棒の片方に縄で釣るして天秤両荷にし、お輿の傍を目立たぬように通って行った。
それを康福公が御輿の中からご覧になられ、
「……あれは、一体、何を……どうして、おるのじゃ?……」
とお尋ねになられた。御輿の脇に控えておった御家来が、豆腐の出前持ちが石を以って天秤棒の釣り合いと致いておる次第にて御座いまする、とお答え致いたところが、その日、お邸へご帰還の後、近臣らにこの話をなされ上、
「如何にも面白きこと故、狂歌に致いた。」
と仰せられた、とのこと――
世を荷ふ心は慶(やす)しあめが下豆腐に石も時の釣り合
「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」に「野女」を収載した。怠けていた訳ではないことは読んで頂ければ分かる。最後の注の「治鳥」の翻刻に通常の数倍の労力を要したからである。日本野鳥の会にも入っていたことはあるが、どうも鳥には苦手意識が働いてしまうのである。
ガイラよ
誰もが「食いたい」と感ずると思ってはいけない
世の中には
人を食いたいとも
誰より一番になりたいとも思わぬ「化け物」もいるのだ
(それを実は化け物と世間では呼ぶのだ)
葬られることも
愛されることも
求めない存在があることを――知れ
――また
それを知らぬ哀しく同情にさえ値しない
ものを数字による序列でしか認識出来ない
――如何にも哀れな
僕らよりもおぞましい
「人間」という「化け物」がいることを――知れ
弟よ――
……今日はシロ・ハイ・クロウサギ、とりまぜて30分で57匹も仕留めたわい……儂の不自由な右手も、まあ、捨てたもんじゃ、ない……それにしても、ウサギをとればとるほどに……もう18個も儂の袋には、ピンクのまだらの「うさたま」なるもんがあるんじゃが……それは、儂が苦手とする、人に手紙を出さねば割れぬという噂じゃて……これは「不幸の手紙」と変わらんから、のぅ……いつまでも儂には割れぬ卵、じゃて……
昭和30年代に私が小学校で見た芥川龍之介の「魔術」の紙芝居の現物を求めています。話柄の総ての画が保存されていれば、多少の汚損は問いません。価格は委細相談致します。満足出来るお値段で引き取ることが可能であると存じます。かしこ
「地獄変」は……全く以って僕の計算違いで、後半をはしょることになって、相済まぬ……時間を勘違いしたままに朗読した僕は……「私(わたくし)が至らなかったのです!」……と、あの市川昆の「こゝろ」の「私」のように土下座したい気でいることだけは、分かってくれ給え……
しかし……「魔術」と「彼 第二」はちょいとばかり――ぴぴっと、きただろ?
これをずっとやりたいと思っていたのだ……
凝っと聴き入っていくれた君らに
僕は本当に――
心より感謝する――
「耳嚢」に「井伊家質素の事」を収載した(今回は不明な部分があり、同僚の日本史の先生の御教授を願って、納得出来る訳に仕上げることが出来た。ここに記して感謝致します)。
*
天明元年若年寄被仰付ける兵部少輔(ひやうぶせういう)は、井伊家の惣領家なれど高貳萬石也。當兵部少輔實子無之故、掃部頭次男を養子に仰付けるに、掃部頭より兵部少輔へ養子の合力(かふりよく)四百石宛の由也。然るに兵部少輔は小身の上不勝手に付、家來より掃部頭家來迄、右合力増の儀内々申談候處、成程尤の事ながら、掃部頭は三十萬石の高ながら、嫡子玄蕃頭いまだ部屋住の折ならば五百石の合力に侯間、増候儀難成事の由、挨拶有し候と聞傳へし旨、山村信濃守物語ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:三つ前の「江戸武氣自然の事」の天明元年の出来事で連関。
・「井伊家」これについては、井伊宗家である井伊掃部頭家と、分家でありながら、本文に表わされるように「惣領家」である兵部少輔家について説明が必要である。以下はウィキの「井伊氏」に拠る。
藤原氏の後裔を称する井伊氏は、天正18(1590)年、井伊直政(後に徳川四天王の一人として知られる)は家康の関東入府に伴って『上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられる。直政の死後、直政の子の井伊直勝は1604年(慶長9年)に近江国彦根に移り築城したが、1615年(元和元年)幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲った』(ウィキの記載では『直勝は病弱だったといわれる』とあるからそれが理由か。また、本文では「三十萬石」とあるが、直孝の代には更に天領の城付米預かりとして2万石(知行高換算5万石)を付与されて35万石の格式の譜代大名となっている)。江戸時代の彦根藩家は直澄、直該(、直幸、直亮、直弼と』歴代『の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄』であった。
一方、井伊直政の長男直勝は亡父の官名である兵部少輔を世襲し、3万石として安中藩藩主となって分家となった。宗家とは反対に『この直勝が興した系統は、安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。直勝の曾孫である当時の掛川藩主・兵部少輔直朝が精神病だったために改易』の憂目にも遭っている。『しかし、宗家・掃部頭家から直興(直該)の4男・直矩を兵部少輔家5代目に迎えての家名再興存続が許されて、城を持たない2万石の与板藩主となった。その後、10代・井伊直朗が若年寄となったため、城主格に昇格した』と記す。これが分家でありながら、嫡流の再興ということから、「惣領家」と呼ばれる所以なのであろう。
・「天明元年」は西暦1781年。
・「兵部少輔」井伊直朗(なおあきら 寛延3(1750)年~文政2(1820)年)のこと。越後与板藩第6代藩主で、直勝の井伊兵部少輔家10代に当る。彼は4代藩主井伊直存(なおあり)の三男であったが、宝暦10(1760)年、先代藩主の兄井伊直郡(なおくに)の死去前日にその養嗣子となり、翌年、後を継いで藩主となっている。後、大坂城加番(かばん:正規の大番の加勢役)や『奏者番を努め、天明元年(1781年)9月には西の丸若年寄、文化元年(1804年)8月には城主格とな』っている。『婿養子としていた井伊直広は寛政4年(1792年)閏2月に早世していたため、その子の井伊直暉が後を継いだ』とある(以上はウィキの「井伊直朗」を参照した)。但し、底本の鈴木氏注では天明6(1809)年から若年寄とし、誤りと断ずるが、これは恐らく鈴木氏の誤りである。
・「掃部頭二男」「掃部頭」は当時の井伊宗家宗主、井伊直幸(享保14(1729)年~寛政元(1789)年)のこと。彦根藩第12代藩主で江戸幕府大老であった。ウィキの「井伊直幸」によると、『幕政では田沼意次と共に執政していたが、田沼に賄賂を積んで大老の座を手に入れたという噂もあった。天明6年(1786年)に将軍・家治が死去すると、若年寄で同族の井伊直朗や大奥と共謀して次の権力の座を狙ったが、政争に敗れ天明7年(1787年)、大老職を辞』した、とある。その「二男」は井伊直広(なおひろ 明和6(1769)年~寛政4(1792)年)井伊直幸の八男(二男は単なる誤伝であろう)であったが、本文にある通り、越後与板藩6代藩主井伊直朗の養子となった。しかし、没年でお分かりの通り、家督相続前、23歳で死去、代わって、直広の長男であった直暉が井伊直朗嫡子となった(以上、直広についてはウィキの「井伊直広」を参照した)。
・「合力」この場合は、養子を出す側である「三十萬石」の井伊宗家の養子持参金としての養子を受ける「貳萬石」乍ら、井伊「惣領家」でもある井伊兵部少輔家への経済的援助を言う。
・「小身」通常は第一義的には身分が低いことを言うが、ここでは地位は若年寄と高位であるから、無城の与板藩2万石の低い俸禄(石高)を言ったものであろう。
・「玄蕃頭」井伊直富(なおとみ 宝暦13(1763)年~天明7(1787)年)第12代藩主直幸の三男。官位は従四位下、玄蕃頭。ウィキの「井伊直富」によると、『生年は宝暦10年(1760年)ともされる。兄の井伊直尚が早世したため、彦根藩嫡子となる。安永4年(1775年)徳川家治に拝謁し叙任。同9年(1780年)には少将に任ぜられたが天明7年(1787年)に25歳(あるいは28歳)で早世した。代わって、弟の井伊直中が嫡子となった』とある。岩波版で長谷川氏は直幸の六男井伊直中(明和3(1766)年~天保2(1831)年)のこととするが、天明元(1781)年には、まだ直富は生きている(彼も玄蕃頭ではあった)から、「嫡子玄蕃頭」という謂いそのものが有り得ないと思われる。因みに、ウィキの「井伊直中」によれば、その後、『寛政元年(1789年)に直幸が死去したため、家督を継いで彦根藩第13代藩主とな』ったとする。『直中は寛政の改革に倣い積極的な藩政改革を行ない、財政再建のための倹約令や町会所設置による防火制度の整備、殖産興業政策を行ない、寛政11年(1799年)には藩校として稽古館を創設し、算術や天文学、砲術など多岐に指導し人材育成に努めた(後に弘道館と改名)。ほかにも治水工事などの干拓事業を行ない、藩祖の井伊直政らを祀るために井伊神社を創設し、さらに佐和山に石田群霊碑を建立し石田三成の慰霊を行った』ともあり、こうした井伊直中の華々しい事実がこの記事の錯誤を生じた理由かも知れない(但し、その場合、「耳嚢」の初期作品の内容校訂作業が後年に行われことを意味することにもなることを認識する必要がある)。なお、この井伊直中は幕末の大老井伊直弼の実父でもある。
・「いまだ部屋住の折ならば五百石の合力に侯」「部屋住」とは嫡子であるが未だ家を継いでいない状態の男子を言っている。宗家当主である父井伊直幸は未だ健在であったが、幕府大老として江戸表で激務と政争に明け暮れていた。世継である井伊直富は恐らく実質的な藩政を司っていたと思われるが、当時の彼には何と500石の俸禄しか与えていなかったことを指している。実質的な嫡男にさえ500石しか『小遣い』を与えていないのに、二男(正しくは八男)にどうして400石以上の合力(経済援助)なんど出来ようはずがない、と言うのである(以上は同僚の日本史の先生に『合力』を願った結果、到達した見解である)。
・「山村信濃守」山村十郎右衛門良旺(たかあきら 生没年探索不及)宝暦3(1753)年に西丸御小納戸、同8(1758)年に本丸御小納戸、明和5(1768)年に御目付、安永2(1772)年には京都町奉行に就任、同年中に信濃守となった。安永7(1777)年には御勘定奉行となった。根岸との接点は、良旺が御目付で、根岸が評定所留役若しくは勘定組頭であった前後のことであろうと思われる。やはり、根岸の情報源の一人と思しい。
■やぶちゃん現代語訳
井伊家の質素倹約の事
天明元年、若年寄仰せ付けられた井伊兵部少輔直朗(なおあきら)殿は、井伊家嫡流であったが、石高は二万石しかなかった。この兵部少輔直朗殿には男子がなかったため、井伊掃部頭直幸殿の次男であった直広殿を養子にと仰せつけられたところ、養子を出す掃部頭直幸殿から養子となる兵部少輔直朗殿への、合力料としての養子持参金は四百石で、との返答があった。しかし、兵部少輔直朗殿は、若年寄とは申せ、二万石と俸禄が少なかった上に、当時、経済的にも不如意であったことから、直朗殿家来より掃部頭直幸殿御家臣へ、この度の養子合力料の加増の儀に付、非公式に内々の申し入れが御座ったのであるが、掃部頭直幸殿御家臣からは、
「……成程仰せられ候儀、尤ものこと乍ら、掃部頭直幸殿は三十万の石高乍ら……当主直幸殿の嫡子であらせられる玄蕃頭直冨殿でさえ、未だ部屋住の身にて在れば、五百石しか小遣いを与えて御座らぬ――お世継でさえ、かくなる仕儀なれば、お求めになられているような加増の儀は――これ全く、成り難きことにて、御座る。」
ときっぱりとした拒絶の旨、返答が御座った、と伝え聞いて御座る、と山村信濃守良旺(たかあきら)が物語った。
僕の右手が如何にも不具合であり、妻の足も致命的に悪くなってきたので、今日明日と湯治に出る。
僕の動物たちと農園を頼む。粗方、朝から2度ばかし周回し、餓えている動物には相応の施しをしておいた。故に、よろしく頼む。
――エルモライのモノローグ――
……イ・サンシャンのコルホーズが出来てこの方、ミンノー県のお邸の農場の寂れようは一通りではない……
……動物のいなくなった家畜小屋が軒を連ね、居たかと思えば、羊や鶏が、地面を小突き、牧草の夢を見ながら餓えて死ぬのを待ちよったりする。そんな時、儂は末期の水と、たっぷりの牧草をやることにしておるんじゃ……
……ひどいところは、井戸さえ空っぽになって幽霊屋敷のごと、なっておる……ババ・イアガの棲家と変わりないわい……
……かつて若い頃……クロウサギだけは儂も時に撃ち仕損じる時があった……じゃが……続けて二発ほど当らんかった時にはリロード(※下記注参照)さえすれば、必ず仕留めることが出来るんじゃ……ということは知っておるよな? 皆の衆?……
……それにしても……今朝の感触では、シロウサギの奴、少々、すばしっこくなったような気がするんじゃが? 年のせいかのう?……
※やぶちゃん注:銃では弾倉に新たに弾を装填することであるが、ここでは画面の更新ボタン(そこが自分の動物広場なら通常の更新ボタン、他人のそれならば画面下にあるその人の「動物広場」のアイコン・ボタン)をクリックすることにひっかけて言った。そうすると画面が最初の、そのウサギを捕獲する前の状態に戻るはずである。これによってハイ・スピードでターゲットが点滅するクロウサギでも撃ち漏らすことは絶対にない。捕獲途中に通信の不具合やCPUが低下して、画面の動きが遅くなり、ポイント・クリックにタイム・ラグが生ずる場合なども、それで対処した方が時間を無駄にしないで済む――ということに実は最近、気づいたのである。
「耳嚢」に「頓智不可議事」を収載した。
*
頓智不可議事
有德院樣御代御小納戸(おこなんど)を勤たりし落合郷八郎は、後に小十人頭被仰付、表勤に成しが、
二代目も落合郷八といひて奧勤いたし、其後御留守居番相勤め予も
日々出合知る人にてありし。代々郷八と名乘る故爰に記しぬ。
小十人頭被仰付間もなく御成にて組一同御前近く平伏し居たりしに、御馴染の事故(ゆゑ)郷八出居候哉、其方組の者名面(なをもて)定て覺へつらん、逸々(いちいち)可申と御いたづらに上意ありければ、中々組の者の名前可覺(おぼゆべき)樣なかりしに、郷八畏(かしこま)りて組の者へ向ひ、御尋に候間一人づゝ銘々名前を可申上(まうしあぐべし)と申渡、名乘しとや。上にも尫弱(わうじやく)成(なる)者と御笑ひ殊の外御機嫌よかりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:言い回しの頓智で連関すると言えるが、一連の吉宗エピソードとしてのそれとするほうがよかろう。
・「頓智不可議」「議すべからざる」と読む。この「議」はあげつらう、非難するという意味であるが、そこまで事大主義的にあげつらうのも阿呆らしいので「馬鹿に出来ない」と訳した。落合郷八のとっさの機転は、とぼけているけれど、意地悪い問いを巧みに処理した機知を言うのであろうが、正直、私には余り面白い話としては読めない。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「御小納戸」御小納戸衆。小姓(こしょう)に次ぐ将軍側近で、将軍私有の金銀財物調度・衣服調髪・膳番(ぜんばん:食事一般)・馬方・鷹方・筒方・庭方などの身辺雑務を担当。
・「落合郷八郎」一代目は落合豊久(元和2(1682)年~延享3(1746)年)。底本の鈴木氏の注によれば、郷八が正しく、『吉宗の紀州時代からの家臣で、享保元年御家人に列し小納戸役、同十四年小十人頭、元文三年御先鉄砲頭』となったとする。享保元年は1716年で吉宗将軍就任の年。元文3年は1738年、亡くなった延享3(1746)年の前年には将軍職が家重に委譲されている。更に鈴木氏はこの二代目は、その落合豊久養子であった郷八居久(すえひさ 享保2(1717)年~天明元(1781)年)で、安永6(1777)年に御留守居番であったと記す。根岸は「予も日々出合知る人にてありし」と過去形を用いている。これは「耳嚢」の執筆の着手が郷八居久の死後である天明元(1781)年以降(天明5(1785)年頃とされる)であったことを示す証左である。
・「小十人頭」扈従人を語源とすると思われる「小十人」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊。前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点にいるのが小十人頭(小十人番頭)であった(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の鈴木氏の注によれば、若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。流石に就任直後で部下400人の顔と名を一致させるのは困難である。
・「表勤」幕府の相応な行政・司法等の一般職(将軍家に直接関わる奥向きではない)に就くことを言っているようである。辞書などを引いてもぴんと来る解説がない。
・「奧勤」この場合は、広く将軍家に近侍する職に就くことを言っているように思われる。辞書などの記載ではぴんと来ない。
・「御留守居番」宿直により大奥の警備と奥向きの諸務を取り扱った。老中配下。しばしば耳にする留守居役というのは別職(同じく老中配下で大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城保守であったが、留守居番とは直接の上下関係はなかった、とウィキの「留守居」には記されている)。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
・「尫弱」底本ではこの右に『(横着)』と注する。この「尫」に近似した字(「兀」の一画目を「ハ」に代えた字。やはり「オウ」と読む)の「弱」との熟語は存在し、「弱い」「虚弱」の意味であるが、それに、「横着」という意味はない。吉宗が横着を「オウジャク」と発音しものに、衒学的に(もしくは将軍家の言葉として差別化するために)この字を当てたものか。
■やぶちゃん現代語訳
馬鹿に出来ない咄嗟の頓智の事
有徳院様の御代、御納戸役を勤めた落合郷八郎殿は、後に小十人頭を仰せつけられ表勤めとなった者であるが――二代目も落合郷八といって、奥勤めを致し、その後、御留守居番を勤め、私も日常的によくお会いした方であった。代々「郷八」と名のっていたことをここに記しおく――小十人頭を仰せつけられて間もなく、上さまの御成の際、組一同で御前近くに平伏して御座ったところが、上さまは、
「おお、郷八か! その方、組の者の名と顔は、もうとうに覚えたであろうな。一人ひとり名を申してみよ!」
と、聊か意地の悪いお戯れのご上意が御座ったのじゃが、流石に着任後間もないこと、郷八殿、己が支配の組の者どもの名を覚えてなんど御座らぬ。さればこそ、郷八殿、畏まって、組の者どもへ徐ろに、
「お尋ねにてあればこそ! 一人ひとり名前を申し上ぐるがよいぞ!」
と申し渡し、各々、粛々と名のったとか。
上さまは、
「この! 横着者めが!」
と、お笑いに遊ばされながらも、殊の外、上機嫌にてあらせれた、ということで御座る。
兄貴も食いたかったんだろ? 人をさ? だからこそ 俺は 食ったのに――
「耳嚢」に「戲書鄙言の事」を収載した。
*
戲書鄙言の事
戲書鄙言(ぎしよひげん)取用(とりもちふ)べき事なけれど、又當世の姿或ひは人の心得にも成べければ、桑原豫州見せられたるを爰に記す。
仁過れば弱く成り、義過ればかたくなり、禮過ればへつらひに
成り、智過ればうそをつく。信過れば損をする。
氣はながく勤はつよく色うすく食細して心廣かれ
世の中は諸事おまへさまありがたひ恐入とは御尤なり
不用なは御無事御堅固いたし候つくばひ樣に拙者其許
□やぶちゃん注
○前項連関:前二つで語ってきた天下の道理も、現実的にはかくあれかしと連関。但し、それより後半部は、遙かに前の「諺歌の事」のざれ歌の、
世にあふ歌
世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと
世にあわぬ歌
世にあはじそふでござらぬ去ながら是は御無用先規(せんき)ない事
と同工異曲ではある。
・「戲書鄙言」の「戲書」は戯れに書いた悪戯書き。戯れ書きのこと。「鄙言」は一般には卑俗な言葉のことを言うが、ここでは合わせて広く流言飛語の意でとった。
・「桑原豫州」桑原伊予守盛員(くわはらもりかず 生没年探索不首尾)のこと。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行・作事奉行・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年)・大目付を歴任、寛政10(1798)年には西ノ丸御留守居役。本話は、彼が勘定奉行であった折りのものと考えてよいであろう。底本の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』であったそうである。
・「仁過れば弱く成り、義過ればかたくなり、禮過ればへつらひに成り、智過ればうそをつく。信過れば損をする」ここに現れた仁・義・礼・智・信は儒教に於いて人として守るべき五つの道、五常。それらも過剰になれば、とんだしっぺ返しを食らうことを皮肉に返した内容である。
やぶちゃん通釈:
――情けが過ぎれば軟弱になり、道義に拘れば意固地となり、礼儀ばかりに目が向けばへつらいに堕し、知恵が昂じれば嘘をつく。信じ過ぎたら損をする――
・「氣はながく勤はつよく色うすく食細して心廣かれ」
やぶちゃん通釈:
――気長第一 お勤めがっつり 色気あっさり 食は細くて ♪心は~♪ ♪青空!~♪――
・「世の中は諸事おまへさまありがたひ恐入とは御尤なり」
やぶちゃん通釈:
――世の中は よろず何より……「お前さま♡」……「ありがたい!」……「恐れ入りまする……いや、もう……「ご尤ものことにて御座りまする」――
・「不用なは御無事御堅固いたし候つくばひ樣に拙者其許」の「つくばひ樣」は蹲様」で、「様」の字の草体字の別称である。字体がうずくまったような形に見えることから言ったが、これは当時、多く目下の者の宛名の下に用いたものであった。ここでは文字としては敬称でありながら、手紙の相手を見下したものとしての「つくばひ樣」を用いることへ不快を示しているものと思われる。
やぶちゃん通釈:
――世の中に 要らぬは 美事干乾びた 木乃伊(ミイラ)の様なるがちがちの 聴くも不快な あの言葉……「御無事」……「御堅固」……「致し候」……「つくばい『様』」……に……「拙者」「そこもと」――
■やぶちゃん現代語訳
流言飛語の事
流言飛語に類したものをは殊更に取り上げるのも如何とは思うが、当世の姿を映すもの、或いは人の心得にもなりそうなもので御座れば、桑原伊予守盛員殿に見せられたそれを、ここに記しおく。
――仁過れば弱く成り、義過ればかたくなり、禮過ればへつらひに成り、智過ればうそをつく。信過れば損をする――
――氣はながく勤はつよく色うすく食細して心廣かれ――
――世の中は諸事おまへさまありがたひ恐入とは御尤なり――
――不用なは御無事御堅固いたし候つくばひ樣に拙者其許――
「耳嚢」に「江戸武氣自然の事」を収載した。
*
江戸武氣自然の事
浪華(なには)の鴻池善右衞門(こうのいけぜんゑもん)といへるは洛陽第一の豪家にて、大小の諸侯の用金等不引請(ひきうけざる)はなし。天明元年牧野越中守どの諸司代被仰付、土岐美濃守御城代被仰付、未在江戸にて被居(をられ)し折から、善右衞門儀伊勢參宮いたし江戸表へ出候處、牧野家は親しき譯も有之哉、濱町中屋敷の長屋をかし、家來分にて右善右衞門居(をり)たりける。當時金銀用向等相賴候諸家よりの饗應大かたならず、日々菓子珍味等給りけると也。或日善右衞門借用の長屋前にて、家中の子供大勢遊び居たりしを、善右衞門見及び手代に申けるは、所々より給りし菓子夥しく捨(すつ)る外なし、あの子供衆へ振廻ひ可然(しかるべし)と申ける故、手代ども右の子供を呼侯て菓子を出し、その譯申けるに、右子供申けるは、我々は侍の子也、捨る菓子を可喰(くふべき)や、善右術門は何程富貴也とも元來町人なり、不埒の申し條かなとて菓子を投返し、或は石を打抔いたし以の外騷ぎしかば、手代色々詫言して、全く右躰(みぎてい)の儀に無之(これなき)段申ければ、流石に子供故了簡いたしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:子であろうと天下の道理は大人の武士と同じで連関する。
・「浪華」は大阪の古称。浪速・難波・浪花などと表記する。
・「鴻池善右衞門」は、当時の関西きっての豪商鴻池家で代々当主に受け継がれた名前。ここでは天明元(1781)年から判断して6代目(5代目は明和元・宝暦14(1764)年に死去している)か。鴻池家についてはウィキの「鴻池善右衞門」によれば、『遠祖は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)であると言われている。兵庫県伊丹市で造酒業を営んでいた鹿介の子の鴻池新六幸元から、初代の正成(生年不詳 - 1693年)、2代目の之宗(1667年 - 1736年)、3代目の宗利と続き、摂津国鴻池醸造業から、初代正成が1619年に大坂へ移り、1625年には大坂と江戸の間の海運、蔵物輸送や酒造などを手がけ、1656年には酒造を廃業して両替商をはじめ、大名貸、町人貸、問屋融通など事業を拡大し鴻池財閥を形成する。3代目宗利は新田開発や市街地整備も手がけ地代を得る。上方落語の「鴻池の犬」、「はてなの茶碗」に鴻池善右衛門の名前が登場する』とある。因みに、以降の記載に拠れば、10代目鴻池善右衛門(天保12(1841)年~大正9(1920)年)は、明治10(1877)年に第十三国立銀行(現・三菱東京UFJ銀行)を創設、その後は日本生命保険の初代社長に就任、近代日本の金融・貿易界の発展に尽力した人物として銘記される人物である。
・「洛陽」中国のそれに擬えた京都の異称であるが、ここでは広く京阪神を言うのであろう。
・「牧野越中守どの」牧野貞長(享保18(1733)年~寛政8(1796)年)のこと。常陸笠間藩(現・茨城県笠間市)主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任。官位は従四位下、備後守、侍従。天明元(1781)年は、大坂城代から京都所司代に転じた年である。
・「諸司代」所司代が通常表記。前掲注よりこれは京都所司代。京都の治安維持を職務とする。
・「土岐美濃守」土岐定経(享保13(1728)~天明2(1782)年))のこと。上野国沼田藩第3代藩主。官位は従四位下、美濃守。に奏者番から寺社奉行となり、天明元年(1781)年に大坂城代となっている。ここで彼を提示した意図が今一つ分からないが、彼も当時、大金を善右衞門から借り受けていた人物として知られていたのであろう。そこを勘案して、後の訳に再登場させた。
・「御城代」ここでは大坂城代。大坂城の保守警備と大阪在勤の幕府諸役人の統轄、就任と同時に割り当てられる大阪近郊の臨時所領の支配、及び西国大名の監視を職務とする。将軍直属で、有力な譜代大名が任ぜられた(以上、牧野貞長から本件までの注は主にウィキの各項を参照した。リンクは張らないがここに謝して明記する)。
・「濱町」現在の東京都中央区日本橋浜町。新大橋に近い隅田川沿いに牧野家の中屋敷はあった。
・「中屋敷」ウィキの「江戸藩邸」の記載に拠れば、上屋敷(大名とその家族が居住した屋敷で、普通、江戸城に最も近い屋敷が上屋敷となった)の控えとして建てられたもので、多くは隠居した大名・成人した跡継ぎの屋敷とされた。上屋敷近くに位置し、屋敷内に長屋が設けられ、本国から従ってきた家臣・藩士らが居住した。なお、下屋敷は別邸として機能し、江戸郊外に置かれたものが多い、とある。
・「手代」商家にあって番頭と丁稚(でっち)の中位の使用人。
・「全く右躰の儀に無之」恐らく丁稚は当初、「捨てなあかんもんやさかい差し上げまひょ。」ぐらいな軽率な謂いをしたのであろう。子供らの剣幕に「……いえ、その……生菓子やさかい、いつまでももつもんとちゃいますやろ……仰山、もろうてからに、儂らでは食い切れまへんのや……ゆくゆく時間が経って無駄に捨てなあかんことになる前に……もろうたばかりの美味しいお菓子やさかい、お子たちにも分けて差し上げよ……言う、御主人さまのお心遣いですよって……いえ、もう決して、捨てる腐りかけたもんを出したんとは、ちゃいますて……」と言ったような弁解をしたものと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
江戸の武家魂は自ずと子供にもあるという事
浪花の鴻池善右衛門という者は京阪随一の富豪で、如何なる大名諸家と雖も、彼に金の貸付を致さざる者はなかったと言ってよい。
時は天明元年、牧野越中守殿が所司代を仰せ付けられ、また、土岐美濃守が御城代を仰せつけられたが、未だ参勤交代の折柄、両人共に江戸に居られた頃のことで御座る。
かの善右衛門、伊勢参参宮りを致いた折り、大きく足を延ばし、江戸表へと罷り出た。その折り、牧野家は、かねてより善右衛門と親しくして御座った縁もあったのか、浜町に御座った中屋敷の長屋を彼に貸し、善右衛門を家中家来の身分にて江戸滞在中の住居として、住まわせて御座った。当時、彼のもとには、当家牧野越中守殿からは勿論のこと、土岐美濃守殿以下、諸家からの金銀御用の用向き引きも切らず、それに関わって日々の善右衞門への饗応も半端ではなかった。彼の長屋には、その賂(まいない)として、日々。豪華な菓子や山海の珍味といったものが、賜れておったということで御座った。
そんなある日のこと、善右衛門が借りて御座った長屋の前にて、牧野家御家中の藩士の子らが大勢遊んで御座った。
善右衛門はそれを見て、己が手代を呼び、
「処々より頂戴致いた菓子、夥しく、最早、捨つるより外、ない。一つ、あの子供衆に振舞ってやるがよかろう。」
と申した。それを聞いた手代は、その子供らを呼び集め、菓子を出だし、それを分け与えんことの仔細を述べたところが、その子らは、
「我等は侍の子じゃ! 捨てねばならぬ菓子なんど、喰らうものか! 善右衛門とか言う者、何程の金持ちか知らんが、所詮、町人じゃ! 如何にも侍の子を馬鹿にした不埒な物謂い!」
と言うが早いか、子ら皆々、善衛門方長屋へ向けて菓子を投げ返し、或いは石など投げ打ち致し、以ての外の大騒動と相成ってしもうた。
されば、手代は慌てて色々と詫び言を致いて、
「……全く以って……その……そのようなことは……一分も御座りませねば……」
と詫びを申したところ、流石に子供らも納得して許した、とのことで御座った。
もう一度……あの伏木の百間道路の、あのガソリンスタンドの角から……ぬらぬらした臓物をジーンズ地の鞄に潜ませて――一人――旅に出ようと思う……
僕は僕の下腹部を食いちぎる
お前は一つ間違えている
人には誰でも「抒情詩」時代があると思ってるな
それは
とんだ思い違いだゼ
抒情詩だと?!
クソをケツのアナからクチまでハミでるくらい
俺が突っ込んでやる――
現在 196650アクセス
200000アクセス記念のテクストはこの2日間で何とか完成出来た。後は、諸君にかかったのだ――
出来上がると、早くアップしたい気持ちになるのは、生き急ぐアランのような僕の貧乏根性である――
誰か、アカデミズムの連中は着手しているであろうが、僕はそれをネットで、早くも、やってしまいたい――
……しかしこの2日間……僕は永遠の僕の愛人の、その生々しい肉体を、ピンセット一本(!)で解体剖検しているような……ひどく辛く嫌な気持ちになったことも……また事実、なのだ……
……その男の生前の言葉を借りるならば――「それは何か木の幹に凍つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた」と言える仕儀であった……
……早く……誰か……僕が眠っているうちに……この20000字を超えるテクストのために……200000のアクセスをしてくれないか?
「耳嚢」に「天道の論諭の事」を収載した。
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天道の論諭の事
或儒者の申けるは、君父を弑(しい)し或は盜賊をなし人倫に背きし事あれば、公儀或は地頭領主より踵(くびす)を廻らさず誅戮(ちうりく)を加へ給ふ、是天道の常也。然るにさまでの惡事にはあらねど、日用の小事にも道に背きたる事あれども、これは誅戮を上より加へ給ふ程に至らず。然れども天道ゆるし給はぬ日には、たとへば三間(げん)の道も一間づゝせまくなし給ふ道理也といひぬ。實(げに)も面白き諭(たと)へならん。父母の子を思ふも君の臣を見給ふも此心あるべし。聊の惡と見ても愼むべき事ならんと爰に記す。
□やぶちゃん注
○前項連関:言葉を用いた技巧・機転という点で連関する。
・「君父を弑し」「弑」は、正に家臣・家来が君主を、子が親を殺す場合にのみ用いる語である。弑虐。⇔誅。
・「誅戮」罪科ある者とその縁者を武力を以って討伐すること。一族を罪に処して殺し尽くすこと。
・「三間」1間=6尺=約1.82mであるから、約5.46m。
・「實(げに)」は底本のルビ。
・「諭(たと)へ」本字義には、教え諭す、とは別に「喩」との同義を持つ。題名も同じく比喩を用いた言説(ディスクール)という意味の「論諭」である。
■やぶちゃん現代語訳
天下の道理について比喩を効果的に用いた論説の事
ある儒学者が申したこと――
――主君や父を弑(しい)し、或いは盜賊となって非道の行いを成し、人の「倫(みち)」に背くことあれば――御公儀或いは地頭や領主といったお方が瞬く間に誅戮をお加えになられる、ということ――これは天下の「道理」というものの常識である。――
――然るに、弑虐(しいぎゃく)・大盗人(おおぬすっと)と言った極悪の行い、ではなく――それ程までの悪事ではないけれども――日常のちょっとした場面の中にあっても――道に背くことは――ある――あるけれども、これに対しては、御公儀或いは地頭や領主といったお方は、誅戮を上よりお加へなられる程のことには至らぬ。――
――然れども、そのちょっとした悪を――「天道」がお許しになられぬ場合には――喩えて言えば――
――その者が歩む人生の三間(さんげん)の「道」を――一間(いっけん)ずつ――だんだんに――狭くなさるる――
――これぞ「道」理というものなのである――
実に面白い比喩であると思う。父母が子のことを慮(おも)う場合も、また主君が臣を監(み)る場合にも、この心がなくてはなるまい。また、我らも、ちょっとした悪事・悪戯といった程度のことと思うことをも、必ずや慎まねばならぬこと、と思うこと頻り、ここに記して自戒と致す。
騙されたと思って視聴してみることをお薦めする。2chの書き込みが五月雨式にテロップで出るだけで、動画的醍醐味はないが、整序された文章といい、音楽効果といい、エンディングの写真といい、極めて質の高い都市伝説となっている。この編集者は素晴らしい才能を持っていると思う。「心霊」とあるが、深夜に一人で視聴しても恐らく多くの人は、「恐い」と感じる前に、確かに何だか「ちょっといい」と感じることを請け合う。どうか、これからでも御覧あれ。確かに「ちょっといい」という余韻が残る。一つ一つは短いが、7話全部を通して視聴すると30分以上はかかる。
(なお、リンク先はニコニコ動画にログインしないと視聴は出来ない。僕はニコニコの回し者ではないが、無料だし、加入して損はない。因みに、加入して嫌な思いは――先日の「こころ 後編」を見てしまったこと以外では――とりあえず、ない)
「耳嚢」に「下賤の者にも規矩見識のある事」を収載した。
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下賤の者にも規矩見識のある事
或年の暮に予が親しかりし浪人、貧しき暮しながら身上も心成(こころなり)に仕廻(しまはし)、よりていたずかわしき暮の大晦日の氣色を觀じ居たりしに、門口をさゞい/\とゆふ/\と商ふ聲しける故、不思議にもおかしく思ひて螺貝(さざい)を買ふて春の肴にせんと呼入ければ、右商人螺(さざい)は無之、菜斗りの由にて青菜十四五把籠の内におけり。子細も有らんと多葉粉茶抔振舞、何故にさゞいと呼侯哉と尋ければ、我等事夫婦さしむかひにて甚貧しく暮しぬ。さりながら三十年來螺を商ひいたし、屋敷十軒あり、右の方にてさゞいとだに呼侯へば、例のさゞい賣來りしとて、菜を持參りても其外何を持參侯ても調ひ給候へば夫婦のたつきは有なれ、御身に不限、強て求め給はずとも不苦と語りぬ。世にはかゝる異物もありしと右浪人一方齋語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:たかが一弓術の師範にも太古神代の箙の有職故実に通じる智があったように、弓ならぬ棒手振(ぼてぶ)りにも、ある意味、広く人一般の手本ともなる工夫の巧者があるという連関。
・「身上も心成に仕廻、よりていたずかわしき暮の大晦日の」底本には右に『(尊經閣本「身上も可成に仕廻致いそかはしき大晦日の」)』とある。「身上」は財産・懐具合、「心成に仕廻」は、思い通りに成し終える、の意であろう。「いたずかわしき」は正しくは「いたづかはしき」。これは「労(いたづ)がはし」(努める・疲れるの意の「労(いた)つく」という動詞から派生した形容詞)で、煩わしい、面倒だ、気苦労だ、の意であるが、類語相当の尊経閣本の「いそかはしき」の意を採って訳した。
・「門口を……」以下、商人の台詞までを、浪人一方齋の直接話法とし、一部に私の補足を加えて翻案してみた。
・「さゞい」軟体動物門腹足綱古腹足目サザエ科リュウテン属サザエ亜属サザエTurbo cornutus。栄螺。「さざい」は「さざえ」が音変化を起したもの(こういう現象はイ音便とは言わない)。「さだえ」とも呼んだ。「さざい」は実際に発音してみると、成程、売り声としては通りがよいし、発音もし易い。
・「一方齋」不詳。話柄から、根岸御用達の情報源の一人であった可能性が極めて高い。
■やぶちゃん現代語訳
下賤の者にも手本ともなろう工夫の巧者ありという事
ある年の暮れのこと――その頃、私が親しくしておった一人の浪人があったのだが――その御仁、貧しい暮し向きながらも、今年は何とか借金も粗方返済致いて、穏やかに正月を迎えられそうだということで、例になく、慌しい大晦日の巷(ちまた)の雰囲気を、家(うち)にあって心静かに味おうておったと言う。その折りのこと……
……ふと、長屋の門口を、
「……さざい~……さざい~……」
という売り声の通るのが聞こえて御座った。
すると、さても何やらん、不思議に風流な気になり申し、
――一つ、栄螺(さざい)でも買(こ)うて、春迎えの祝い酒、その肴と致そう――
と思い至り、その棒手振(ぼてぶ)りを呼び入れたところ、
「――栄螺は御座いません――菜、ばかり――」
とあっけらかんと言うので御座る――確かに、見れば、青菜ばかり十四、五把、籠の内に積んでおるだけ……。
……拙者は最前申しましたる通り、聊か柄にも合わぬ風流めいた心持ちにあったればこそ、何か子細あってのことと思い、暫く、間口に棒を下ろさせ、煙草や茶などをその棒手振りに振る舞いつつ、
「……時に、何故に『さざい』と呼ばわって御座るか。」
と訊ねてみたので御座る……。
……すると、その男は、次のごと、語りまして御座る……。
……「――あっしら、夫婦(めおと)二人きり、お恥ずかしいばかりの貧しい暮しをしてごぜえやすが――そうは申しましても、とりあえずは三十年この方、ただただ、栄螺ばかりを商って参りやして、御用達(ごようたっし)頂いてごぜえやすお屋敷も、十軒ばかしはごぜえやす――さても、今日ように栄螺がのうて、雜葉(ざっぱ)の野菜しか仕入れが出来ませなんだ折りも――そのお屋敷辺りへ参りやして、
……さざい~……さざい~……
やらかしやすと、お屋敷内の人は――件の栄螺売りが来た――と呼び入れて下せえやす――と、栄螺がのうても――こんなして、ありきたりの青菜を持ち参りやしても――その他どんなもんを持ち参りやしても――不思議と、お叱りを受けることもなく、お買い上げ下せえやすもんで――まぁ、そんでもって、あっしら夫婦の生業(なりわい)も立ちいってごぜえやすんで――お侍(さむれえ)さまに限らねえことでごぜえやすが、無理して買(こ)うて頂かんでも一向に構いませんで。へぇ――」……
……「世にはこうした変わり者もおるので御座る。」
とこの浪人、一方齋殿が語った。
「耳嚢」に「弓術故實の事」を収載した。
*
弓術故實の事
近き頃紀伊國公、神代のサカツラの箙(えびら)を弓町の職人へ被仰付しに、弓町にても右サカツラの箙の事知る者なく、江戸表名にあふ弓の師範へも承り合けるが、知る人なし。或人右サカツラは、有德院樣の御代御好(おこのみ)にて被仰付候箙の事なるべし、右箙は猿の毛を逆さに植し事也といへる故、何れ其事ならんと右の趣に相調へ紀州公へ相納ければ、公御覧遊して大きに笑わせ給ひ、右、有德院樣御物好(ものずき)にて被仰付、神代の箙の名を御かり被成、さかつらと銘遊されしと聞及ぬ。かゝる品にはなしとて御返しに相成ければ、又々所々詮議して弓術師範いたしける吉田彌五右衞門方へ承合けるに、彌五右衞門大に笑ひ、さかつらといへるはかつらにて措へたる箙也。則神代は今の如く形影を餝(かざ)りたるにはなく、かつらの若きをたわめて箙に拵へし也。早桂と書てさかつらと讀事と教へける故、その通にいたし納ければ、紀州公これは誰に習ひけるやと右弓師に御尋故、ありの儘に申上たれば、吉田の名字なのり侯程ありて古實者也と御意のありしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関は認められないが、6つ前の「儉約を守る歌の事」が「當紀州公」を、続く5つ前の「紀州治貞公賢德の事」も同一人、紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞を主人公とする流れと連関する。
・「紀伊國公」紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞(享保13(1728)年~寛政元(1789)年)のこと。前掲「儉約を守る歌の事」注参照。
・「サカツラの箙」「箙」は矢を入れて背負うための道具。大槻文彦編『大言海』には以下のような記載がある(駒澤大学総合教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」HP内の「ことばの溜め池」2002年10月29日の条より孫引き。但し、一部の漢字を正字に直し、記号の一部を全角化、また、返り点と思われる縦罫を排除した)。
さか-つら(名)【逆頰】〔つらとは、頰(ほほ)の古言なり〕(一)頬鬚(ほほひげ)の、逆立ちたるものなるべし。もみあげの條、參見すべし。霊異記(平安末期)下、第九縁「有人、鬚生逆頬、下着緋、上着鉀(ヨロヒ)」奥羽永慶軍記、廿九、大森合戰事「逆頬の赤きに、一尺許りの白髭をうゑて」(二)次條を見よ。〔0779-1〕
さかつら-えびら(名)【逆頰箙】〔前條を見よ〕箙の一種。熊、又は、猪の毛皮にて包みたるもの、其毛並(けなみ)を、逆(さか)に、上へ向はしむ、熊、猪は、猛く強き獸なる故曰に、軍陣に用ゐる、式正の物として、大將の用とす。(貞丈雑記、十一)略して、さかつら。 庭訓徃來(元弘)六月「逆頬箙、胡籬、石打征矢」義經記、五、忠信吉野山合戰事「丈(たけ)、六尺許なる法師、云云、さかつらえびら、矢ノ配(くばり)、尋常なるに、云云」易林節用集(慶長)上、器財「逆頰箙(サカツラエビラ)」後照院殿装束抄(群書類從)「執柄家、自小隨身用逆顏(サカツラ)、云云、殿上人の間は、葛、公卿以後、逆顔也」記七十一番職人盡歌合(文安)五十四番、箙細工「閨の内に、枕傾け、眺むれば、さかつらにこそ、月も見えけれ」」〔0779-1〕
また、小学館のデジタル「大辞泉」では、
箙の一種。方立(ほうだて)の表面をイノシシの毛皮で包んだもの。1枚の皮で包むために毛並みが背面は下に、他の三面は逆に上に向くところからいう。主将以下は軍陣に用い、公卿の随身も用いた。
とする。これら記載によれば、最初の仕様の方が正しい「サカツラの箙」に極めて近いと言えよう。岩波版の長谷川氏の注でも『後文の早桂はかえって誤解』とある。なお、「北海道大学附属図書館北方資料高精細画像電子展示」の中に嘉永元(1848)年の写本として 「早桂箙古事(サカツラ ノ エビラ コジ)」という書があり、その書誌情報には「馬術の秘伝書中より箙に関する記事を抜写」したものの旨、記載があるのだが、この画像を見ると、何とその冒頭に示されている「弓術故實之事」は、この「耳嚢」の記事とほぼ同文である。この22/35ページでは猪皮・熊皮等で包んだ逆頬箙の絵も見ることが出来る。本来ならば、この冊子全体を翻刻すればよいのだが、そのパワーは今の私にはない。リンク先で各自お読み頂きたい(実は大槻の引用する伊勢流武家故実家の伊勢貞丈「貞丈雑記」も所持しているが、引用箇所の確認さえしていない。安易な引用で済まないが、その程度には今の私は疲弊しているということを告白しておく)。
・「弓町」岩波版長谷川氏の注によれば、現在の中央区銀座二丁目辺りの旧称で、弓師が多く店を開いていた。
・「笑わせ」ママ。
・「吉田彌五右衞門」不詳。「吉田の名字なのり」の注参照。
・「桂」双子葉植物綱マンサク目カツラ科の落葉高木カツラCercidiphyllum japonicum。
・「吉田の名字なのり」弓道の一派である日置(へき)吉田流の名を名乗って、の意。日置流とは、古流の逸見流を学んだ日置弾正政次(へきだんじょうまさつぐ 正次とも)が確立したとされる和弓の流派の一つ。以下、主にウィキの「日置流」を参照にすると、『日置弾正正次は室町時代(15世紀後半)の人といわれているが諸説あり、神仏の化身と称されたり、日置吉田流初代・吉田上野介重賢と同一人物であるとされたりするが、架空の人物との説が有力である』とされ、日置弾正の高弟の一人とされる、実在した吉田重賢(しげかた 寛正4(1463)年~天文12(1543)年)が実際の流祖と考えてよいように思われる。重賢は近江国蒲生郡河森(現・滋賀県蒲生郡竜王町川守)の出身で、古く宇多源氏(近江源氏)をルーツとしている。日置吉田流では、以後、継承者は吉田姓を名乗ることが多かったために吉田流ともいうが、現在では一部を除いて日置流と呼ぶ場合が多い、とのことである。継承者系図を見ると本話当時は既に、日置流自体が多くの分派分流を生じており、ここに現れた「吉田彌五右衞門」なる人物を特定することは出来なかった。
■やぶちゃん現代語訳
弓術に纏わる故実の事
最近のことである。紀伊和歌山藩藩主徳川治貞公が、神代の御代に用いられたという「サカツラの箙」を弓町の職人に誂えるよう仰せられたところが、かの弓町にても、この「サカツラの箙」なる物について知っておる者がなく、その弓師、江戸表の名にし負う弓の御師範の方々へも照会致いてみたけれども、これについて知る者は一向におらなんだ。そんな中、ある人が、
「このサカツラなる箙は、有徳院吉宗公の御治世、上様直々のお好みということで仰せつけられましたる箙の事にて御座ろうかと思わるる――何でも、この箙は、猿の毛を、普通の箙のように下方に向かって植えるのでは御座なく、箙の口、上に向かって逆さに植えたものにて――それが一見、猿の頰のように外へ膨らんだごと見ゆる――もので御座った、と聞き及んだことが御座る。」
と申したことから、かの弓師、
「如何にも! そのことならん!」
と、その通りの仕様にて相誂え、紀州公へお納め申し上げたところが、公は御覧遊ばされて大いにお笑いになられ、
「わっはっは!……『さかつらの箙』と申すは、かくなる尚武の物をお好みになられた有徳院様が仰せつけられた品で、神代のありがたい箙につけられておったという名をお借りになられて、『さかつら』とは御銘をお付け遊ばされたと聞き及んではおる……が……このような下卑た奇体なる品では、ない。」
と言って、弓師にお返しになられた。
困り果てた弓師は、またしてもいろいろと調査照会に飛び回ったので御座ったが、先に訪ね漏らしておった、やはり弓術師範を致しおる吉田彌五右衞門という方の元へ、藁にも縋る思いで伺い、有り体に訊ね申したところが、彌五右衞門殿は大いに笑い、
「わっはっは!……『さかつらの箙』と申すは、桂の木で拵えた箙のこと。則ち神代の御代にあっては、当世の如く見栄えを慮って下らぬ飾りを成すようなことは致さず、桂の若木を撓(たわ)めて拵えたもので御座った――『早桂』と書いて『さかつら』と読むので御座る。」
と教えて呉れたによって、その通りに誂えて納めたところが、紀州公は、
「……これは!……一体、誰に、この技法を習ったのじゃ?」
と件の弓師にお訊ねになられた。職人がありのまま申し上げたところが、
「ふむ! 成程な……吉田という苗字を名乗っておるだけあって……弓の有職故実に通じておるわけじゃ!」
と、殊の外、お褒めの言葉を賜った、ということである。
人生が孤独を紡ぐのではない
孤独が人生を紡ぐのだ
あなたも君も
そして
僕も
そこにこそ
人生という「幻象」の秘儀は潜んでいる
互いの瞳を見よ――
君の瞳に僕は映っているのだよ 確かな僕が――
切り画師の友がこれをプレゼントしてくれた
そのメールに
「連れ合いの尾形優は尾形亀之助の棺に山茶花を納めたとあったから私は尾形の命日は山茶花忌=カメリアエレジーと決めたの」
とあった
尾形亀之助はきっと喜んでいる
時空を超えて 今日は
尾形亀之助と君と僕と 一緒に色ガラスの街を闊歩しているのだ
気をつけないといけない
尾形亀之助は きっと君を僕から奪う――
だから先手を打って 僕は僕の「色ガラスの街」に
君を封じ込めた
これでもう 君は 僕だけのものなのです――
「耳嚢」に「江戸贔屓發句の事」を収載した。句解釈で納得が行くのに手間取った話柄である。
*
江戸贔屓發句の事
京都さる堂上(たうしやう)の、あづまの祭禮を笑ひて、其頃の俳諧師其角へ一首の狂歌を給りぬ。
あづまなる鄙の拍子のあなるかな神田祭りの鼓うつ音
其角いきどふりて、
花薄大名衆をまつり哉
かくいたしけると也。近き頃百萬といへる俳諧師、其角のこゝろを追て江戸自慢を、
人留めて涼しく通る祭かな
□やぶちゃん注
○前項連関:前とは特に連関を感じさせないが、二つ前の「小刀の銘の事」の討ち入りと本話に登場する俳人其角はよく知られた関係がある(後注参照)。また、ここまで「犬に位を給はりし事」以降は、直前の「水野家士岩崎彦右衞門が事」が岡崎で中部地方である以外、総て上方の話であった。そうした流れへの一石とも言えるか。
・「堂上」堂上家のこと。公家の格式の一つで、清涼殿昇殿を許されているか、公卿に就任することが可能な家柄を言う。
・「其角」宝井其角(たからいきかく<当初は母方の姓である榎本を名乗る>寛文元(1661)年~宝永4(1707)年)蕉門十哲の一人。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医の長男として出生、父の紹介で松尾芭蕉の門弟となった。芭蕉没後は「虚栗」(みなしぐり)「枯尾花」等を編し、日本橋茅場町に江戸座を開いて、江戸俳諧の最大勢力となった。句集「五元集」等。彼は大阪の井原西鶴とも親しく、知られる限りでは2度上方へ上り、西鶴に面会している。また、彼は赤穂義士討入前夜、四十七士の一人であった大高源五と知り合い意気投合、討入も傍見したとよく言われる。真偽の程は定かでないが、しばしば「忠臣蔵」のドラマ等でも登場し、其角の豪放磊落にして喧嘩っ早く酒好きといった気質は、確かに義士を讃える江戸っ子として、正にぴったりな人物と言えるであろう(以上は、主にウィキの「宝井其角」を参考にした)。この話が事実譚として信じられていたのならば(以下の発句の錯誤からこれは明らかな都市伝説なのであるが)、この堂上は西鶴辺りから其角を知っていたという設定なのかも知れない。
・「あづまなる鄙の拍子のあなるかな神田祭りの鼓うつ音」「あづま」の「あ」に対して、「あなる」(「あんなる」の撥音便無表記で「なり」は伝聞推定――実は婉曲――と判断し、あるそうだ、あるという、の意。断定「なり」の場合もあるが採らない)が頭韻を踏み、更にその「あなる」と「悪(あ)なる」が掛けられている。後は洒落て私の勝手気儘訳にさせてもらいましたえ(←京都弁のイントネーションで)――狂歌だろうが、和歌は苦手なので、よく分からない。他に隠れた修辞がありせば御教授を乞う。「神田祭」は神田明神(神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場等の総氏神)祭礼で江戸三大祭の一つ。当時は隔年で旧暦九月十五日に行われ、その頃は山車を繰り出す祭りであった(山車は関東大震災で殆んどが焼失して廃されたという)。
やぶちゃんの通釈:
東夷(「あ」ずまえびす)の ど田舎の 祭りの太鼓は なんやえろう おかしな拍子で 「あ」んのどすてなぁ――「あ」、かんポン!――「あ」、かんポン!――神田(「かん」「だ」)祭りも「あかなんだ」 なんとまあ 拍子抜けたる 拍子よのぅ
・「花薄大名衆をまつり哉」底本では右に『尊經閣本「夕月や大名達を花すゝき」』とある。実は、ここに至ってこの話が都市伝説であることが判明する。この句は其角の句ではないことが判明するからである。本話柄は芭蕉七部集の第五になる「猿蓑」(松尾芭蕉監修・向井去来及び野沢凡兆撰になる蕉門の発句及び連句集の第五編。芭蕉は元禄4(1691)年5~6月に京都でこれを修している)の「巻之四」に現れる次の連句を元に捏造されたものである(岩波文庫昭和41(1966)年刊の中村俊定校注「芭蕉七部集」より引用)。
神田祭
さればこそひなの拍子のあなる哉
神田祭の鼓うつ音 蚊足
拍子さへあづまなりとや
花すゝき大名衆をまつり哉 嵐雪
即ち、この句は宝井其角と同じく蕉門十哲の一人(彼は延宝元(1673)年入門で十哲中最古参)であった服部嵐雪(はっとりらんせつ 承応3(1654)年~宝永4(1707)年)の吟なのである。以下、岩波文庫1989年刊の堀切実編注「蕉門名家句選(上)」の堀切実氏の注を参考にしながらも、なるべくオリジナルに、これを読み解いてみたい。
まず、前句(堀切氏は俳諧歌と呼称される)の「蚊足」(ぶんそく)という人物であるが、これについて堀切氏は『上州館林藩藩士であった嵐雪の友人の蕉門丁亥郎蚊足か。京の談林系俳人和田蚊足と見る説もある』とされる(中村俊定氏は前者に断定)。この後者の「蚊足」なる人物は芭蕉の去来宛書簡にも登場し、和田蚊足も後に江戸蕉門となっている点、この「耳嚢」の話の設定からも、『京の談林系』という履歴はしっくりくる。
さて、まず前句で、この蚊足が神田祭を揶揄する。
やぶちゃん通釈:
神田祭り言うてもな 葵祭とちっとも似とらしまへん 「徒然草」の一節(ひとふし)やないけれど さればこそ田舎の者の祭りやおへんか 太鼓の拍子の音一つにも なーんやおかしい響きがおますな
それに対して、嵐雪はまず「拍子さへあづまなりとや」と付句する。これらは総て次の句の一種の前書群として読むのが正しいのだろうが、私には破調の付句のように見えるのだ。
やぶちゃん通釈:
この野郎! 東(あずま)を夷(えびす)と言うにことかき 祭太鼓の拍子の音(ね)さえ 夷太鼓(えびすだいこ)と言うんかい!
本話と一致した憤怒のポーズである。堀切氏はこれに「拾遺和歌集」巻七に所収する『「吾妻にて養はれたる人の子は舌だみてこそ物はいひけれ」などを下敷きにした表現か』と推測されている。
それを受けて、嵐雪自身が、神田祭の豪華さを発句形式で謳い上げるのである。堀切氏は「花すゝき」に注して「俳諧七部集大鏡」から引いて『「諸候方よりも祭礼の警固を仕給ふを行列を花芒といへるなるべし」と説く』とされ、更に『神田祭で「造花の尾花に張抜きの月を配した」山車を「武蔵野」と称したことから、「花すゝき」が着想されたとみる説(川島つゆ『芭蕉七部集俳句鑑賞』)も参考になろう』と付説されている。山車(前注参照)の実際の造花の尾花の他、警護の武者の旗指物などをススキに見立てたものか。この後半は尊経閣本「耳嚢」の「夕月や」という表現と三つ巴になってきて、如何にもヴィジュアルに面白くなってくる。
やぶちゃん通釈:
警護の武者の群れ――旗指物は武蔵野一面に薄が花開いたかのようだ――神田祭はさながら――かの大名衆を芒の穂の如く靡き打ちそろえた――祭り!――
・「百萬」底本注で鈴木氏は明和年間の俳諧師で俳諧選集「八題集」を編んだと記す。岩波版長谷川氏注には『安永ごろ八丁堀住の伽羅庵小栗百万あり』とも記す。何れの俳諧師についても、私はそれ以上のことを捜し得なかった。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「百葉」とあるが、これは所謂、烏焉馬の誤りであろう。「萬」と「葉」は明らかに草書で似通う。
・「人留めて涼しく通る祭かな」口の干ぬ間にの感があるので言い難いが、当初、これは本当に神田祭若しくは江戸自慢の祭りの句なのであろうか、と思わず疑ってしまった。単純に考えると「涼しく」に引かれる「祭」は明らかに夏の葵祭であろう。そうなると俄然、こちらは葵祭の揶揄のようにも見えてくるのである。しかし、そうすると「其角のこゝろを追て江戸自慢」という根岸の言葉は矛盾して響く。「江戸自慢」が響いてこないのである。いや、更によく考えてみると、「涼し」と「祭」では禁則の二重の季詞となる。されば、これはやはり「神田祭」の「祭」であって、その固有名詞によって季は秋ということになろう。「涼し」は、さすれば季語としてではなく、様態としての「すっきりしている、煩わしさがなくて気が楽だ」「潔くて立派だ」という意味で用いられたということになる。神田祭の、そこにこそ、東国武士、江戸っ子の真骨頂としての「祭」の真の姿を見ている、という解が私のこの句への到達点である。
やぶちゃん通釈:
神田祭の山車と武者行列が通って行く――人々は立ち止って晴れやかに にこやかに それを迎える――それは奇態な僑奢や鼻につくおすましとは無縁――すっきりと潔く立派なその「通り」――これぞ、「祭り」を見たというもんさ!
なお、私の畏敬する「耳嚢」現代語訳サイトの当記事現代語訳「江戸びいきの句のこと」では、これらの後半二句の「祭」を正統的歳時記から夏の季語と採って、更に中古に於ける「祭」=京都賀茂神社例祭=葵祭とし、両句共に、京の葵祭を揶揄したものとする解が示されている。それは吉田氏への投稿者の句解釈を採用したものであって、訳の末尾にその投稿者の解説が示されている(詳しくはリンク先を参照)。その解釈は連句の解釈に長けた方の手になるものと思われ、句の表現の裏の裏を読んで、葵祭にシンボライズされるところの京の存在を完膚なきまでにこきおろした凄い解釈で、誠に面白いものではある(これは確かに掛け値なしに面白い。是非ご覧あれ)。しかし乍ら、「猿蓑」所収のものは、表記の通り、「神田祭」を題(前書)とする句であり、「まつり」は秋祭たる神田祭を指すことは疑いようがない。蚊足の揶揄を受けて、根岸の言う通り、「江戸贔屓發句」として神田祭を読んだものであることも明白である。テクスト論的には可能であり、都市伝説としての尾鰭をつけた解釈としても舌を巻くもの乍ら、徹頭徹尾、観念的で映像が見えてこない点で俳諧解釈としては致命的な瑕疵があり、私にはいずれの訳も、当該句の解釈の一選択肢としても、また、連句的多層的読みの許容範囲としても、残念ながら肯じ得ないものである。若年の頃は乱暴狼藉廓通いにとち狂ったという実際の作句者嵐雪の意識の中にも、また、都市伝説上の作者俠客めいた「大兵肥滿(だいひやうひまん)の晉子(しんし)」其角の意識の中にも、更には、これを現に書き記しているところの作者根岸鎮衛の意識の中にも、このような悪意としての機智の働きは、ない、何より、この両句は江戸自慢の句でなくてはならない、と私は思うものである。
・「明和」西暦1764年から1772年迄。「耳嚢 巻之一」の下限は天明2(1782)年春までであるから、最近でよいであろう。其角や嵐雪(彼等は偶然にも没年が一緒である)の生きた時代を閉鎖区間と捉え、本句所収の「猿蓑」成立の元禄4(1691)年を最下限とすれば、凡そ80~90年の隔たりがあることになる。
■やぶちゃん現代語訳
江戸贔屓の発句の事
京都のさる堂上のお公家さまが、東の祭礼の野卑を嘲笑(あざわら)い、その頃京でも知られていた宝井其角に、一首の狂歌をお送りなさった。
あづまなる鄙の拍子のあなるかな神田祭の鼓うつ音
これを読んだ其角は激怒して、
花薄大名衆をまつりかな
と返しを致いたそうである。
さても、最近のこと、百萬という俳諧師が、この其角の心を追慕して、詠んだ江戸自慢の句。
人留めて涼しく通る祭かな
昨日、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、195000を超えた。本年中に200000アクセスに到達しそうな勢いである。記念すべきそれに、ある記念電子テクストを考えてはいるが、果たして完成するかどうかは微妙である。鋭意努力する所存ではある。