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2017/12/15

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第七章 生存競爭(4) 四 同種内の競爭

 

     四 同種内の競爭

 

 動植物各種の生む子の數の非常に多いことは、既に前章に述べた通りであるが、自然界には隅々まで各種の動植物が壓し合ふやうに位置を占領して居るから、到底新に多くの生物を收容すべき餘地はない。それ故、代々生れる子の中から平均親と同數だけより生長し終えることは出來ず、その他は悉く何かの理由によつて、途中に死んでしまはなければならぬ。若し生れる子が皆互に寸分も違はぬものであつたならば、この際孰れが生き殘るか敦れが死ぬるかは全く偶然に定まる理窟であるが、既に第五章で述べた通り、野生動植物にも著しい變異性があつて、一對の親より生れた子にも形狀・性質ともになかなか互に相違するものがあり、全く相同じきものは決してないから、少數のものだけより生き殘ることが出來ぬといふ場合には、生き殘るべきものと死すべきものとの運命が自然に定まつて居る。卽ち一個一個の間に多少の相違がある以上は、敵に食はれぬやうに身を護るに當つても、異種屬の生物と競爭するに當つても、また食物を得るために同胞と相爭ふに當つても、各々多少の優劣あるは免れぬ所であるから、優つたものは生き殘つて生長し、繁殖し、劣つたものは死に絶えてしまふことになる。

 例へば「いなご」は常に鳥類に食はれるものであるが、多數に生れた子の中には、生れながら後足の發達の度に幾分かの相違があり、隨つて跳ねることの幾らか速いものと幾らか遲いものとがある、これは人間にも同じ兄弟の中に足の達者なものと弱いものとがあるのと同樣である。これが皆鳥類に追はれ捕へられようとする場合には、如何なるものが最もその難を逃れる見込を有するかといへば、無論最も後足の發達した最も跳ねることの巧なものである。尤も人間の競走にも常に一番になる名人が偶然滑つて轉んだために負けることがあるやうに、後足の最も發達したものが鳥に食はれることもあるには相違ないが、大體からいへば、先づこの通りであらう。そこで代々多數に生れる子の中から最も後足の發達したもの若干だけが生き殘つて繁殖し、その他のものは皆鳥に食はれてしまふとすれば、この性質は遺傳によつて常に一代より次の代に傳はり、代々少しづゝ進んで、終には後足の頗る發達した「いなご」が出來なければならぬ。

 また鼴鼠は常に蚯蚓を食つて生きて居るものであるが、蚯蚓を食ふ動物は外にも隨分澤山にあるから、多數に生れる鼴鼠の子は蚯蚓を餘程巧に取らぬと餓死せなければならぬ。然るに同じく生れた子の中にも前足の爪の發達に多少の相違があり、爪の幾らか大きくて鋭いものもあれば、幾らか小くて鈍いものもある。之が皆同樣に蚯蚓を追うて步く場合には、如何なるものが最も速く蚯蚓を捕えて飽食する見込を有するかといへば、

勿論爪の最も大きく鋭いものである。そこで代々多數に生れる子の中から最も爪の發達したもの若干だけが生き殘り、他のものは殘らず餓死してしまふとすれば、この性質は遺傳によつて常に一代より次の代に傳はり、代々少しづゝ進んで、終には爪の頗る發達した鼴鼠が出來る筈である。

[やぶちゃん注:「鼴鼠」は「もぐら」と読む。]

 以上掲げた例は兩方とも單に理窟だけを示すために、事柄を非常に簡單にして論じたが、實際に於ては素より決して斯く簡單な譯のものではない。例へば「いなご」が鳥に追はれるときにも、たゞ後足さへ發達して居れば必ず競爭に勝つとは限らぬ。同じく綠色の「いなご」でも、綠葉にとまれば鳥の目に觸れ難いが、白壁の上にとまれば著しく目立つから、先づ鳥の攻擊を受ける。それ故、何處にも構はずにとまる足の速い「いなご」よりは、足は弱くても自身と同色の處のみを選んでとまる「いなご」の方が助かり易い。また同じく綠葉にとまる「いなご」の中では、たとい跳ねることは少々遲くても、體色が最も葉の色に近いものが最後まで鳥の攻擊を逃れる譯である。また後足が發達すれば宜しいといつても、決して無限に何處までも大きく成れるものではない。凡そ生物の體といふものは頭・胴・手・足などが集まつて、初めて完全な一個體が出來て居るのであるから、一個體をなせる各器官の間には極めて親密な關係があり、決して或る一種の器官が他の器官に構はずに大きくはなれぬ。後足ばかりが無暗に大きくなつては、從來の小さな口で咀嚼し、從來の短い腸で消化し吸收するだけの滋養分では、之を養ひ切れぬ故、先づこれらから改まらなければ出來ぬことである。今ここには僅に二三箇條を擧げたに過ぎぬが、生存競爭の際に勝負に影響を及ぼす事項は殆ど無數にあるから、一々の場合に如何なるものが勝つかは、その生物の構造・生理・習性・外界の事情等が悉く解つた上でなければ、確に豫言することも出來ぬ。斯かる次第で實際に於ては決して例に述べた如き簡單なものではないが、敵に食はれぬための競爭に於ても、餌を食ふための競爭に於ても代々多數に生れる子の中で如何なるものが勝ち、如何なるものが負けるかは決して偶然に定まる譯ではなく、常に一定の標準によつて定まるといふことだけは、誰も爭ふことの出來ぬ事實である。

 代々一定の標準に隨つて淘汰して行けば、その生物に一代每に僅かづゝ變化し、代を重ねるに隨つて、この變化も積つて著しく現れ、終には先祖に比べると殆ど別種かと思はれる程になることは、人間の飼養する動植物の方には幾らも例があるが、野生の動植物にも同種内の競爭の結果として、やはり、一種の淘汰が常に行はれて居る。倂し之は人間の干渉を受けず、自然に行はれるもの故、自然淘汰と名づける。人爲淘汰に於ては飼養者が淘汰すること故、その生物は代々飼養者の理想とする所に向つて少しづゝ進んで行くが、自然淘汰に於ては生存競爭の結果として自然に淘汰が行はれること故、その生物は代々生存競爭の際に利ある點が少しづゝ發達して行く。恰も鳩の中から胸の最も脹れたものを代々選んだので、今日のパウターが出來、また尾の最も擴がるものを代々選んだので、今日のファンテイルが出來た如く、「いなご」の先祖から代々後足の最も發達したものだけが生き殘つたので、現在の如き「いなご」が出來、また鼴鼠の先祖から代々前足の爪の最も大きく鋭いものだけが生き殘つたので、現在の如き鼴鼠が出來たといふやうな譯である。

[やぶちゃん注:文中のハトの品種については、先行する第三章 人の飼養する動植物の變異(3) 二 鳩の變種を参照のこと。]

 こゝに附けていふべきは、同種内の生存競爭は必ずしも個體間ばかりに行はれるとは限らぬことである。動物には單獨の生活をなすものと、團體を造つて生活するものとあるが、團體を造つて生活するものでは、常に團體と團體との間に劇しい競爭が行はれ、生存競爭に利益ある性質を帶びた團體は勝つて長く存立し、不利益な性質を帶びた團體は忽ち敗れて亡び失せる。それ故、斯かる種類の動物に於ては生存競爭の單位は團體で

あるが、如何なる團體が最も勝つ見込を有するかと考へると、いふまでもなく、その内の個體の數が相當に多くて、之が皆協力一致し、尚進んでは共同の事業を分擔して各自專らその擔當の局に當るやうな團體が最も強い。如何に多數の個體より成る團體でも、その中の各個體のなすことが互に矛盾するやうでは、勞力の總量は如何に多くても、その大部分は團體内で互に打ち消し合ひ、到底團體として敵と對立して競爭することは出來ぬ。然るに團體競爭の結果として、競爭に利益ある性質を帶びた團體のみが常に生き殘つて子を殘すから、こゝに述べた如き性質は一代每に自然淘汰によりて進步し、團體内には一定の秩序が生じ、分業が行はれ、各個體は幾分かその獨立を失ひ、全團體は恰も一段等級の高き個體の如きものとなることになる。社會と名づけるものは卽ち斯かる團體である。

明恵上人夢記(オリジナル訳注) 56

56

一、同二月十九日の夜、高階(たかしな)に宿る。夢に云はく、一院より御使ひ來る。即ち御札を賜はる。其の 御名は家信と云々。其の御札の狀に云はく、「摧邪輪(ざいじやりん)」を借り召す。卽ち、「摧邪輪」の所説の如く、造らるゝ物に寶樹等、有り、又、四人の菩薩像有り。予、思はく、下卷に此の四人の菩薩を出せりと云々。其の御札の狀に、此に候ふ物、此の圖を造りしなり。本を賜はりて見合せむが爲に之を借り召す。又、予に見せしめむが爲に之を賜はる也。心賢く人の借りしに遣はさずして置きて之を進上せむと思ふと云々。案じて曰はく、大明神幷(ならび)に賀茂の事也。【家信御名□由と云々。】

[やぶちゃん注:「同年」前に柱の「一」のあるのが気になる(貼り添えした可能性)が、クレジットからは無理なく、前の「55」から続くから、一応、建保七(一二一九)年と採っておく。

「高階(たかしな)」底本注に『あるいは高階泰経男経仲か。経仲は建保四年(一二一六)年出家、六十歳』とある。「朝日日本歴史人物事典」によれば、高階経仲(保元二(一一五七)年~嘉禄二(一二二六)年)は公卿で後白河院及び後鳥羽院の近臣。高階泰経(大治五(一一三〇)年~建仁元(一二〇一)年)は後白河院の近臣。若狭守高階泰重の子。寿永二(一一八三)年に従三位に叙せられた。九条兼実の「玉葉」によれば後白河『法皇第一の近臣』で、法皇の寵愛ぶりとその権勢は丹後局(高階栄子)とも比されるほどだった)の子で本名は業仲。仁安三(一一六八)年に蔵人となり、後、石見守・常陸介・右衛門佐を歴任、従四位上・右馬頭となるが、文治元(一一八五)年十二月、源義経と行家の謀反への加担が疑われて頼朝の怒りを買い、父泰経とともに解官された。後に許されて、播磨守・内蔵頭となり、父と共に後白河法皇に近侍して、院庁の別当を務めた。法皇の没後は後鳥羽上皇の側近として仕え、院別当となり、常に院御所に祗候した。元久元(一二〇四)年に正三位に叙せられている。但し、夢を見た泊まった屋敷は高階経仲邸ではあっても、夢のロケーションはそうだとは述べていないので、注意が必要

「一院」底本注に『後鳥羽院』とある。当時、現に後鳥羽院の寵臣であった高階経仲の家に泊まって見た夢に後鳥羽院からの手紙が届くといふのは、腑に落ちる。言わずもがなであるが、これは後に起こる「承久の乱」(承久三(一二二一)年五月勃発)で完敗した後、上皇は同年七月に出家し、隠岐島(隠岐国海士郡の中ノ島。現在の海士(あま)町)に配流される。

「其の 御名は」一字空けはママ。「一院」に敬意の改行や字空けがない以上、この字空けは不審で、最後の割注から見ると、或いは「其の御名は□由家信」の謂いで「□由」の箇所は法号辺りであったのではなかろうか? それを明恵は夢の中ではっきり聴いたのだが、覚醒後には忘れてしまっていたので、「□」と欠字にしたのであろう。

「家信」底本注に『あるいは藤原雅長男家信か。家信は嘉禎二年(一二三六)八月二十二日没、五十五歳』とある。正三位・非参議。詳細な事蹟が伝わらないので、夢の意味を解読することが出来ない。

「摧邪輪(ざいじやりん)」底本の編者ルビは「さいじやりん」であるが、一般に「ざい」と濁る。明恵が尊敬していた法然の著した「選擇本願念佛集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)の誤った解釈や邪見を徹底的に反駁した書。全三巻。法然が称名念仏を浄土往生の正業とする立場に対、そこに大乗仏教に於ける発菩提心(ほつぼだいしん)の意義が欠落していることを、激しい口調で批判している。建暦二(一二一二)年十一月二十三日に脱稿したが、翌年、明恵はさらに「摧邪輪莊嚴記」(ざいじゃりんしょうごんき)一巻を著して、さらにその主張を補足している。この夢は明恵の法然批判への強い自信と覚悟が漲っていることは確かであう。

「借り召す」自敬表現。

「大明神幷に賀茂の事也」よく判らぬが、私は前に出た「一院」や「家信」なる実在の高貴な人物名が、実はそれらの御方を指すのではなく、諸々(住吉・伊勢・春日など)の「大明神」及び、現在の京都府京都市にある賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の二つの神社が祀る「賀茂の」神(古代の賀茂氏の氏神で、古くは賀茂大神とも称した)という仏の垂迹神であると解読し得たという風に採った。なお、「賀茂」を具体に挙げたのは京の神霊の代表だから特に問題を私は感じない。

□やぶちゃん現代語訳

56

 同二月十九日の夜は、高階家に滞在した。そこで、こんな夢を見た。

 

……後鳥羽院からという御使いの者が到来する。直ちに、その使者から、御手紙を賜はった。しかし、その差出人は院ではなく、御前には何故か、「家信」何某とあるのであった……。

 其の御手紙のある条に曰く、

――「摧邪輪(ざいじゃりん)」を借り召したい。即ち、「摧邪輪」の所説が説くように、仏によって造られた対象に宝樹などがあり、また、四人の菩薩像が、ある。私(家信)が思うには、当該書の下巻に、この四人の菩薩のことを解説してある――

と……

 さらに、その御手紙の別な条には、

――その書に於いて貴僧が語った対象について、私は私なりにその図像を造って描いてあるのである。そこで、貴僧のその「摧邪輪」を賜わって、私の想起した図像と一致伊しているあどうか校合そて見合わせようと思うたがために、この「摧邪輪」を借り召すのである。また、実に私に見せんがためにこそこの「摧邪輪」は存在するのであるから、是が非でも、この「摧邪輪」なる優れた書を私に賜はるように。心を賢くして澄まし、誰か、人の借りんとしても決して遣わさずして、私の手元に置き、そうして、私の確信が正しかったと納得した暁には、これを後鳥羽院に進上しようと思うておる――

と……

 

 覚醒後に考えてみるに、この「一院」や「家信」と仰せられたのは、実は諸々の「大明神」並びに「賀茂の神」のことだったのだ、と腑に落ちたのであった。【家信様は御名を「□由」とか申すとか……。】

2017/12/14

老媼茶話巻之七 牛裂

 

     牛裂

 

 北方(きたかた)に彦惣といふものあり。大惡無道の者也。ばくち・大酒・盜(ぬすみ)を産業(なりはひ)として月日をおくる。

 同所の玉法寺といふ淨土宗の坊主を殺し、金銀・衣服・什物(じふもつ)を盜取(ぬすみとり)、寺に火を付(つけ)、燒(やき)たり。

 彦惣、兩親妻子、有(あり)。

 父、此事をほのかにきゝて、彦惣をよび、大きにいましめ、段々の惡逆をゆび折(をり)かぞへ立て、いゝ聞(きか)せ、

「己れ、此以後、かゝる大惡無道を止間敷(やむまじき)ならば、我(われ)、直(ぢき)に其筋の御役所へ罷出(まかりいで)、汝を極刑におこなふべし。其時、恨むべからず。」

といかりければ、彦惣、物もいわず、飛(とび)かゝり、七拾餘の父がもとゞりをつかみて、うつぶしに引伏(ひきふ)せ、傍に有りける山刀を以て父が天窓(あたま)を切割(きりわり)、うち殺しける。

 近隣へは頓死と僞り、その夜、葬禮、過(すぐ)しける。

 彦惣が舅(せうと)は、善六と云(いひ)て、酒屋にて、内證(ないしやう)、ゆたかにくらしける。彦惣、善六に度々合力(かふりやく)をたのみけるまゝ、もだしがたく、弐度に金子弐百兩見續(みつぎ)けれども、不殘(のこらず)、博奕(ばくち)に打込(うちこみ)、赤裸になりたり。

 依之(これによつて)、舅の善六も彦惣を見かぎり、不通同前になり、出入なし。

 彦惣、是をふかくいきどをり、善六子の善八といふもの、越後新潟へ商ひにゆく折、道にまち受(うけ)、善八を切殺(きりころ)し、金子をうばひとりたり。

 此事、天知る地知るにて、皆人(みなひと)、知りければ、舅善六方へもくわしく聞(きこ)へけり。

 善六、此よしを聞(きき)、大きに驚き、娘かたへもひそかに、

「かく。」

と告(つげ)、

「彦惣方を夜逃(よにげ)にして、子どもつれ立(だち)、歸るべし。彦惣、惡逆、其筋へ訴へ出(いづ)る。」

由、文(ふみ)して申遣(まうしつかは)しけるに、彦惣女房は、夫と違ひ、しうとに至孝(シイカウ)成る者なりしかば、彦惣母、六拾に餘り、立居(たちゐ)不自由成老(おい)の身を、日頃、彦惣、邪見ほういつに當りける。

 母は子の不孝なるをかなしみ、

「身を渕河へ沈めん。」

と、泣(なき)もだへけるを、女ぼう、色々といたはり慰(なぐさめ)、彦惣が、きげんよき折節、樣々泣(なき)くどき、母に不孝、改(あらたむ)べきよし、いけんをいへ共、彦惣、且て用ひざりければ、

「里へ逃歸(んげかへ)るべき。」

と思ひ定(さだめ)けれども、姑にふかく名殘りをおしみ、今日迄も有(あり)けるが、文をみて、

「彌(いよいよ)親もとへ立歸るべき。」

と究(きは)めけれ共、

「我(われ)、此所(ここ)にあらずんば、必(かならず)、母をも父を殺したるごとくに殺害すべし。とやせん、かくやあらまじ。」

と、終夜、獨り淚に沈(しづみ)けるが、猶も、姑に名殘(なごり)をすて兼(かね)、壱日二日とおくりけるうちに、善六がおこせし文を、彦惣、女房の手箱より見出し、大きにはらを立(たて)、其(その)夕(よ)さり、女房と弐人の子を、〆殺(しめころ)しける。

 子とも壱人は女にて拾壱、壱人は男にて七に成(なり)ける。

 彦惣が母、是を見て、

「己(おのれ)には天魔の入替(いれかは)りたるか。」

と、彦惣に取付(とりつき)けるを、

「老ぼれめ、何をするぞ。」

とて、右の足を以(もつて)母の橫腹をしたゝかに、けたりければ、いとゞさへ、風一吹(ひとふき)の老(おい)の身なり、あばら骨、二、三枚、おれければ、則(すなはち)、息絶(きたえ)、空敷(むなしく)成る。

 近所の者共、寄集(よりあつま)り、

「前代未聞の大惡人、このものを取逃しなば、御公儀樣より我等に御祟(たた)り可被成(なさるべし)。」

と、大勢にて彦惣を取(とり)こみければ、彦惣、死に狂ひに脇差を拔(ぬき)、散々、切(きり)ちらしけるを、たゝきふせ、嚴敷(きびしく)いましめ、御代官元へ行(ゆき)ける。

 此折も、五、六人、手を負(おひ)ける。

 彦惣、強く拷問に懸り、前々の惡事、悉くあらわれ、湯河原にて牛裂におこなはれける。

 けんぶつの諸人、不便(ふびん)といふ者なく、にくまぬものは、なかりける。

 

[やぶちゃん注:「牛裂」戦国から江戸初期にかけて行われた死刑法の一つ。ウィキの「によれば、『罪人の両手、両足と』、二頭又は四頭の『ウシの角とを縄でつないだのち、ウシに負わせた柴に火を点け、暴れるウシを』二『方または』四『方に走らせて罪人の身体を引き裂き、死に至らしめる処刑法である』。『美濃の斎藤政利、会津の蒲生秀行などが領内の罪人にこの刑を科した』。『「倭訓栞」に、「堺にて切支丹の咎人を刑せしに一人此刑にあふ云々」とある。家康公御遺訓百箇条第二十一条に、「牛裂、釜煎等の厳刑は将軍家之不及行処也」とある』また「加賀藩刑事記録索引」によれば元和八(一六二二)年、『持筒足軽が「衆道(男色)ノ事ニテ」牛裂きに処された』とあるという(下線太字やぶちゃん)。

「北方(きたかた)」敢えてかく編者が底本でルビを振るということは、ここまで多くのロケーションが東北である以上、現在の福島県会津地方の北部に位置する喜多方市と考えてよいか。しかし、だとすると、しかし処刑されたという「湯河原」が判らぬ。しかしだ! これって! 「湯川河原」の脱字か「湯川原」だったら、どうよ?! それなら散々、老媼茶話巻之三 藥師堂の人魂で考証した処刑場と一致するんでないかい?! それで、キマりだ!!!

「彦惣」「ひこさう(ひこそう)」と読んでおく。

「玉法寺」不詳。

「内證(ないしやう)」暮らし向き。経済状況。

「弐度に」二度に亙って。

「金子弐百兩」二度、合わせて、であろう。

「見續(みつぎ)けれども」「貢けれども」。

「不通同前」音信不通同様。

「至孝(シイカウ)」原典ルビはママ。

「とやせん、かくやあらまじ」「どうしましょう……幾らなんでも、(母を殺すという)そこまで非道なことをなすことはないかしら……」。

「おこせし文」「遣(おこ)せし・「致(おこ)せし」で、「先方からこちらへ送って寄越した手紙」。

「夕(よ)さり」夜。]

甲子夜話卷之四 4-19 乘賢の時世、儉素の話

能登守乘賢の嫡子、飛彈守乘恆は、部屋住にて病歿せり。其附を勤たりし者の話なりとぞ。飛州住居の明り障子は、次の間よりして、皆諸方呈書の封紙もて張れり【父加判ゆへ呈書多くあるなり】。因て所々に人名斜めに見へしとなり。日々髮を結ふに膏油を用ひず。美男掌と【草也】云ものを、鬢水入に浸して用ゆる計なり。又髮に用ゆる元結と云もの、紙捻なり。其紙捻は、草履取の某と云し奴よく作れりとて、其もの作ることになり、年々の暮に、靑銅三百文づゝ、其褒美とて有司より渡せりと云。當年世風の質素なること、これにて推量るべし。又乘賢の供頭勤めしもの、家貧しくして、いつも純黃の八丈紬の羽折計を着したり。乘賢登城の時、御門々の同心ども、遙に其黃紬の色を見て、乘賢たるを知る目印となりしとなり。今の世とはかくまで物事違たることなりと。是等の事ども皆林氏の談話なり。

■やぶちゃんの呟き

「能登守乘賢」これはのような誤認疑惑はなく、確かに美濃国岩村藩第二代藩主で老中であった松平能登守乗賢(のりかた 元禄六(一六九三)年~延享三(一七四六)年)である。

「飛彈守乘恆」松平飛騨守乗恒(のりつね 享保九(一七二四)年~元文五(一七四〇)年)は美濃国岩村藩の嫡子で第二代藩主松平乗賢の次男。官位は従五位下。岩村藩嫡子として育てられ、元文元(一七三六)年に徳川吉宗に御目見した。元文三(一七三八)年には叙任するが、家督相続前の元文五(一七四〇)年に十六歳で早世した。代わって、本家の下総国佐倉藩から乗薀が養子に迎えられ、嫡子となっている。

「次の間よりして、皆」居間の本間は勿論、次の間から全部。

「呈書の封紙」諸役方から上呈される書簡の包封紙。

「加判」老中のこと。本来は、文書に判を加えたり、連判・合判したりすることであるが、それが公文書に花押(かおう)を加えるような重職の意を示すこととなり、鎌倉幕府では執権の副官である連署、江戸幕府では将軍直属の政務一般の総理をした老中の意となった。

「膏油」そのまま読むなら「かうゆ(こうゆ)」で、「膏」は粘性の強い半固形状の油塊、「油」は液体状の油を指すが、ここは単に髪を整えるとともに髪型を保持するための鬢付けのそれで、二字で「あぶら」と訓じてよい。当時のそれは植物油・晒木蠟(さらしもくろう:ハゼノキ(ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)の果皮から圧搾して得た油脂を漂白或いは脱色したもの)・丁子(ちょうじ:バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum。現在のクローブのこと)その他、複数の香料で製した純植物性の固練(かたね)りの専用髪油であった。他にも多様な香料を配合したものが使用された。廣野郁夫氏のサイト「木のメモ帳」の続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのかを参照されたい。

「美男掌」底本には『びなんかづら』とルビする。これはアウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科サネカズラ属サネカズラ Kadsura japonica の異名。常緑の蔓(つる)性木本で、古くはこの蔓から粘液を採って整髪料に使っていたことによる。同じく前の廣野氏の続・樹の散歩道 鬢付け油は何を原料としているのかを参照されたい。

「鬢水入」「びんみづいれ」。

「計なり」「ばかりなり」。

「紙捻」「こより」。

「草履取「ざうりとり」。

「靑銅三百文」現代に換算すると、三千五百円前後か。

「有司」役方。納戸方。

「八丈紬」「はちぢやうつむぎ」黄八丈のこと。黄色地に茶や鳶(とび)色などで縞や格子柄を織り出した絹織物。初め、八丈島で織られたことから、この名があるという。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術が齎されていたため、絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされる。

「林氏」さんざん既出既注の林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

譚海 卷之二 江戸非人・穢多公事に及たる事

 

江戸非人・穢多公事に及(および)たる事

○同年夏品川溜非人がしら松右衞門缺落(かけおち)せし事有。是は享保年中より、非人のものは穢多(ゑた)團左衞門支配に仰付られ、博奕(ばくち)に耽る非人は、團左衞門より高利の金子をかり、返濟に迷惑し、缺落(かけおち)せしもの多く、その催促、左衞門より非人小屋頭の者をはたり、返濟延引に及(およぶ)ものをば、團左衞門處へ呼(よび)よせ、牢の如きものに入置(おれおき)、はたる事に成(なり)しゆへ、小屋頭も、たまらず、缺落致し、そのさいそく、又、團左衞門より松右衞門へきびしく申(まうし)かけ、松右衞門も、たまらず、缺落せし也。淺草溜(あくさため)のかしら善七事、數年、團左衞門が無道を惡(にく)みをり、因(よつ)て萬事(ばんじ)、貴(じつ)かたに勤め、安永元年の春、淺草溜燒失の節も、御普請金、上(かみ)より出され候外(ほか)、善七、私(わたくし)の物入(ものいれ)を致し、萬事、嚴重に再興いたし、御褒美等、被ㇾ下(くだされ)、御稱美の上、善七、願(ねがひ)を申上(まうしあげ)、團左衞門無法の致(いたし)方について、支配の非人、年々、難澁、離散致し、御用も勤(つとま)りかね候次第を申上、御吟味に相成(あひなり)、團左衞門事は金子の義、承知不ㇾ申(まうさざる)分に申上、團左衞門支配の手代數人、不屆に相成、入牢被伸仰付(おほせつけられ)、右御裁許、相濟(あひすむ)迄、團左衞門を善七に御預(おあづけ)に相成候。右に付(つき)、古來は、非人ゑたの支配に無ㇾ之(これなき)候間、穢多支配御免被ㇾ下(くだされ)候樣に願上(ねがひあげ)、善七、由緒書(ゆいしよがき)等(とう)、指上(さしあげ)候。右由緒には、善七先租は、本國常陸佐竹義宣家臣車丹波守と申(まうす)事、申立候也。

 

[やぶちゃん注:「同年夏」前条を受けるが、その前条がまた、その前の伊豆大島三原山の安永の大噴火を受けるので、安永六(一七七七)年夏である。

「非人頭松右衛門」現在の南品川三丁目附近が品川宿北宿の外れとなるが、江戸時代、ここにある真言宗海照山品川寺(ほんせんじ)の脇には松右衛門を名乗る非人頭の役所(屋敷)と「品川溜(ため)」(「「溜(ため)」は重病や幼少の犯罪人を平癒若しくは成長するまで収容した施設。非人頭の配下の者はそこでそうした収容者たちの面倒をここで見た)があり、彼は江戸の北の一方の雄「浅草溜り」の非人頭で、ここに出る車善七と江戸を二分する被差別民の統率者であった。hakyubun氏の「旧聞アトランダム」の「江戸六地蔵 (2)―6 品川寺 品川松右衛門と投込み寺」によれば、彼ら非人頭の配下の仕事は溜めの『御用役であり、また浅草弾左衛門』(ここの出る「團左衞門」と同一人物)『配下の長吏の采配で鈴ヶ森刑場の管理、罪人仕置き手伝い、あるいは江戸流入の潰れ百姓(野非人)の刈込みや追い返し、盗人やキリシタン、捨て子などの見張りなど、司法に拘わる』最下級役人としての仕事をこなしていた。

「缺落(かけおち)」貧困や悪事などのために居住地を離れ、行方をくらますこと。

「享保年中」一七一六年から一七三六年。

「非人」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の「非人」の注を参照されたい。

「穢多」私の「小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)」の「穢多」の注を参照されたい。

「團左衞門」江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領、穢多頭(えたがしら)。「彈左衞門」の表記の方が一般的。ウィキの「弾左衛門」にから引く。『江戸幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領などを除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した』。『また、浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた』。『戦国時代において、関東の被差別民の有力者は小田原近在の山王原の太郎左衛門であり』。『弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者に過ぎなかった(ただし、太郎左衛門家の権力も、それほど強いものではなかったとされる)。ところが』、天正一八(一五九〇)年『に後北条氏が滅亡し、代わって徳川家康が関東の支配者とな』ると、『小田原太郎左衛門は後北条氏より出された証文を根拠に』、『引き続き』、『被差別民の支配権を主張したが、家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという』。『弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、遊女屋などを支配するとされていた(「弾左衛門由緒書」偽書)。このうち職人などは早い時期に支配を脱した』。宝永五(一七〇八)年『に京都の傀儡師・小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴え』、『これに勝訴したため、傀儡師・歌舞伎も弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。特に』正徳三(一七一三)年『初演の歌舞伎十八番の一つ』「助六」は、二代目市川團十郎が『弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は』、宝永六(一七〇九)年に『死去した弾左衛門集誓をモデルにしたといわれている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。これに刺激を受け、非人頭の車善七が訴え出たが、弾左衛門が勝訴した』(享保七(一七二二)年)。『非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれるにいたった(ただし、一部の猿回し・芝居・能師・三河万才は、安倍晴明の子孫であり』、『陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた)』。『身分的には被差別階層であったが、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工などの製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇った。皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式』一『万石、財力』五『万石などと伝えられた。また一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった』。「弾左衛門由緒書」等に『依れば、秦から帰化した秦氏(波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛の家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり』、治承四(一一八〇)年、『鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝の朱印状を得て』、『中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張するためのものとみられている。しかし、江戸幕府がこの主張を認めたのは、太郎左衛門より弾左衛門を支配者にした方が都合が良く、その点で両者の利害が一致したからではないかといわれている』。『弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸』内『)である。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていた。屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち』三百から四百人もの『役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない』。『幕末に活躍した第』十三『代弾左衛門は、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いで幕府に協力した功労によって』、慶応四年一月(一八六八年)に配下六十五名と『ともに被差別民から平民に取立てられた。明治維新後に弾直樹(内記)と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと』、明治二二(一八八九)年に死去した、とある。また、底本の竹内氏の注に、『江戸のエタ支配頭団左衛門が、非人支配を一時かねた時の話で、非道をとがめられて、罰せられた。しかし車前七はエタ支配を返上したというのである』ともある。「火方御役儀祝儀に三芝居の座中參入の事」で私が示した注を再度、引いておくと、当該条の底本注には、『近世ではエタ非人などの賤民は特別に頭目を設けて自治的支配をさせた。浅草の車善七と品川の松右衛門は江戸の非人頭であった。町人百姓外なので、芝居役者も一応はその支配下に入ったのである』とある(「乞兒」は「乞食」と同義で「子」の意ではない)。部落解放同盟東京都連合会公式サイト内の「非人」によれば、非人の長吏頭であった弾左衛門(言葉上の誤解を生む嫌いがあるので注しておくと彼は、穢多・非人集団内の長であり支配者だったのであって、差別支配をしていた武士階級の側の上位支配者ではない)の支配下にあった四人(一時期は五人)の有力な非人頭の中でも、ここに出てくる車善七は特に有力で、享保四(一七一九)年以降になると、弾左衛門や各地の長吏頭の支配から独立しようと幕府に訴えを繰り返したが、しかし弾左衛門を超える経済力・政治力(江戸中期まで弾左衛門は歌舞伎を興行面でも支配していた)を持っていなかった彼ら非人たちは、結局、最後まで弾左衛門の支配下に置かれ続けた、とある。なお、同サイト内には車善七のルーツを武家とする自筆の上申書『「浅草非人頭車千代松由緒書」(天保一〇(一八三七)年)』が載る(千代松は車善七の幼名)必読である。そこには、また『非人頭として車善七につぐ勢力を持っていた品川非人頭松右衛門も、その元祖は三河出身の浪人三河長九郎であるという家伝を伝えてい』るともある(下線太字やぶちゃん)。「弾左衛門を超える経済力・政治力」というのは、江戸中期まで弾左衛門が歌舞伎を興行面でも支配していたことを指す。但し、同サイトの「歌舞伎と部落差別の関係」には、『歌舞伎は大衆芸能として大きな人気を誇り、大奥や大名にまでファン層を拡大』すると、『歌舞伎関係者は、こうした自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざし』、宝永五(一七〇八)年に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、遂に「独立」を果たしたものの、『しかし、歌舞伎役者は行政的には依然』、『差別的に扱われ』、『彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受け』、『歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことで』あった、とある。因みに、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞録であるが、そうした昨日までの弾左衛門の旧支配構造の記憶は江戸のある階級以下の人々にとっては、未だに隠然たる力を持つものであったに違いないことは想像に難くない。

「はたり」「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「實かたに」堅実に。

「安永元年の春」「燒失」これは恐らく、明和九年二月二十九日(グレゴリオ暦一七七二年四月一日)に発生した「明和の大火」の類焼であろう。同年は十一月十六日(一七七二年十二月十日) 改元して安永となった。

「私(わたくし)の物入(ものいれ)を致し」私財を投入致し。

「御褒美等、被ㇾ下(くだされ)、御稱美」第十代将軍徳川家治から。

「佐竹義宣」(よしのぶ 元亀元(一五七〇)年~寛永一〇(一六三三)年))は戦国から江戸前期の武将で出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主。佐竹義重の長男で、母は伊達晴宗の娘(伊達政宗は母方の従兄)。北条氏政や伊達政宗と戦い、常陸の南方(みなみかた)三十三館(国人領主三十三氏)を謀殺、江戸重通(しげみち)から水戸城を奪って居城とし、五十四万石余の大名となった。しかし、石田三成派であった義宣は、「関ヶ原の戦い」で徳川家康からその曖昧な態度を憎まれ、慶長七(一六〇二)年に出羽二十万石に転封させられた。久保田城を居城とし、土豪勢力を排除して藩体制を確立した。石田三成がかつて福島正則らに殺害されようとした際には救助するなど、律義な性格の持ち主であったという。

「車丹波守」戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で佐竹氏家臣の車斯忠(くるま つなただ ?~慶長七(一六〇二)年)。常陸国車城主で、「車丹波」の名で知られた。ウィキの「車斯忠によれば、文明一七(一四八五)年に『岩城常隆が車城を攻め、岩崎二階堂氏系の車氏』『の一族である砥上某を滅ぼした』。『常隆は弟・隆景(好間三郎)を車城に配し、佐竹氏領侵攻のための拠点とした。この隆景が車氏(岩城氏系車氏)を名乗り、斯忠は隆景の曾孫にあたる』。『常陸車城主・車兵部大輔義秀の子として誕生。佐竹北家』四『代当主・佐竹義斯から偏諱を受けたと思われる』。『父・義秀は岩城氏の対佐竹氏最前線として抗していたが、後に佐竹氏に降り、斯忠は半ば人質同然として佐竹義重に仕える。義重に重用され』、『次第に側近として力を持つようになったと思われる』。元亀二(一五七一)年七月、『同じく側近として佐竹氏を支えていた和田昭為が白河結城氏の下に逃亡』『して以降は智謀を武器に』、『多くの外交工作を行った。また武勇にも優れていたが、反面』、『民政面では不手際が多く、そのことで城主の任を解かれ、一時』、『追放されたこともあったと伝わる。そのため』、『岩城氏に属して伊達氏との戦に在陣していた記録も残っている』。慶長五(一六〇〇)年の『徳川家康の会津征伐を前にして佐竹氏を離れて、上杉景勝の下で陸奥国福島城・梁川城に在番しているが、これは名目上中立の立場をとる佐竹氏が上杉氏に助力するために、反徳川の急先鋒であった斯忠を送り込んだものとも言われている。同年の関ヶ原の戦いの後に佐竹氏に復帰するが、戦後仕置きにおいて常陸水戸』五十四『万石から出羽国秋田』十八『万石への移封に反発』、『徹底抗戦を唱え、妹婿の大窪久光や馬場政直らと水戸城奪還を企てるものの』、失敗し、『捕らえられ』、『磔刑に処せられた』とある。『咳をしたため』、『発見され』、『捕らえられたと伝わっており、そのためか』、『捕らえられた場所(車塚)で「咳の神様」を祭っている。幕末時代に吉田松陰が水戸に訪れた時、車塚に通りかかり、この話に深く感動したという。また、近くには吉田城跡があり、佐竹氏時代の車丹波守の居館と推定される』。『なお、嫡男(弟とも)の善七郎は、江戸浅草の非人頭「車善七」の初代であるという説がある』と、最後にしっかりと記されてあった。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(26) 兎 二

 

       

 

 秋に次いでは冬の句が多く、冬の中ではまた雪に関するものが半(なかば)以上を占めている。雪と兎との間には月の場合のような伝説的な因縁はない。冬になると雪国の兎の毛は白くぬけ替るという話もあるが、そんな点から雪に結び付けたとも思われぬ。先ず冬季において自然に生じた因縁と見るべきである。

[やぶちゃん注:「冬になると雪国の兎の毛は白くぬけ替るという話」事実。ウィキの「ニホノウサギ」によれば、ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus の全身の毛衣は褐色』で、『腹部の毛衣は白』『く、『耳介の先端は黒い体毛で被われている』が、『東北地方や日本海側の積雪地帯、佐渡島の個体群は冬季に全身の毛衣が白くなる』とあり、『積雪する地域では』、『秋頃より体毛の色が抜け落ちはじめ、冬には耳介の先端の黒い体毛部分を除き』、『白化し、早春頃より白い体毛が抜け、徐々に赤褐色から茶褐色の体毛が生えてくる』とある。また、ペット・サロン・サイトの記載によれば、ウサギ類(ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae)には、概ね、大きな換毛期が年二回と、小さな抜け変わりが年二回あり、大きなそれは、冬毛が夏毛に生え換わる春、及び、夏毛が冬毛に生え換わる秋である。この抜け替わりには種差や個体差が激しく、また、抜け毛が激しいものと、そうでないものでは、見た目の印象が大きく異なる(ウサギは一般に長めのガード・ヘアと短めのアンダー・コートの二種の毛が体表を蔽っているが、このガード・ヘアが局所的に抜けて、下のアンダー・コートが覗いて、禿げちょろけたように見える場合もあるようである。どうしても、ここで言っておきたいが、「博物誌」と名づける以上は、こうした「話」の事実の虚実を調べ上げてはっきりさせなければ駄目である。私が興味深い部分も多い本書に、ある意味、決定的に失望するのは、そうした核心部の致命傷にある。]

 

 初雪に白きは黑し兎の目      蓮求

 初雪の市にうらばや雅子兎     正秀

 初雪や兎の耳のあたゝまり     応三

 兎にも耳をれやある雪の山     鬼貫

 庭の雪目ばかり走る兎かな     茶井

 白雪に我影さがす兎かな      不勝

 薄雪に兎のかげや山ばたけ     李謙

 獵師情有や雪に兎は軒を借ル    栂庚

 借(かり)られて往クや兎に雪の傘 古漣

 世にまかせ雪の色なら兎かな    嵐靑

 雪折の竹に耳たつ兎かな      花橋

   山中に子供と遊びて

 雪の日に兎の皮の髭作れ      芭蕉

   雪の竹に菟(うさぎ)

   畫(ゑがき)しに所望

   言下

 雪の竹は菟兵法(びやうはう)のしなひかな

                  一雪

 

 兎の目は秋にも「のぼせ目」の句があった。白兎の目といえばルビーのような可憐な色を連想するのが当然だと思われるのに、蓮求はどうしたものか「白きは黑し」といっている。白い兎に赤い目が調和すると同じく、初雪の中に一点紅を認めるのも悪くないはずであるが、茶井は兎の白い方に重きを置いて、雪の上を兎が走る場合、姿はなくて赤い目ばかり見えるという趣向にしてしまった。これでは穿(うが)ちになって面白くない。

 兎の耳は応三の句が最も微妙な感覚を持っている。鬼貫が雪の山には立木の雪折の如く、兎の耳折もあるだろうといったのは、要するに言葉を弄(もてあそん)んだに過ぎぬ。それよりは雪所の竹の音を聞いて、兎が耳を立てるという句の方が、平凡ながら遥に自然である。

 芭蕉の句は一本に「雪の中に」とある。子供に対していった言葉で、去来が大にこの句に感じたところ、芭蕉は「是を悦ばん者越人と汝のみならんと思ひしに果して然り」といって上機嫌だったというようなことも伝えられている。「兎の皮の髭作れ」に関してもいろいろな説があるが、芭蕉の句が真の自然に帰する一歩手前のものと見てよかろうと思う。

 不勝の句、李謙の句は共に兎の影を捉えている。雪の上に白い兎が影を落すというところに興味を持った句らしい。古漣の句は猫でも借りて行くように、飼兎を借りて行く場合を詠んだのであろうか。実際雪の日に傘をさして、借りた兎を抱えて行くものとすれば面白いが、何か他に意味があるならまた考え直さなければならぬ。一雪の「菟兵法」は、雪に竹がしなうのを竹刀(しない)に利かせたまでのことであろう。談林の句が一応人を驚かすようであって、われわれの心に訴えるものがないのは、常にこうした言葉の奇をのみ心がけるからである。

 正秀の「雉子兎」は狩猟の獲物と解せられる。右に挙げた句の中で最も生趣に富んでいるのはこれであろう。

[やぶちゃん注:俳号「茶井」「栂庚」は孰れも底本にルビがない。さすれば、前者は「ちやゐ(ちゃい)」、後者は「ばいこう」と読めということであろう。

 芭蕉の「雪の日に兎の皮の髭作れ」には異形句が多く、これは「去来抄」に載るもので、

 

 雪の日に兎の皮の髭つくれ

 

であるが、「いつを昔」(其角編・元禄三(一六九〇)年刊)では、

 

   山中子供とあそびて

 雪の日に兎の皮の髭作れ

 

とあるものの、山本健吉氏などに言わせると(「芭蕉全句」講談社学術文庫)、『其角は句の記憶が杜撰だ』そうで、山本氏は元禄三年正月十七日附万菊丸(愛弟子坪井杜国)宛の『前年冬の句と歳旦吟を報告した中にこの句があり』、そこでは、

 

   山中の子供と遊ぶ

 初雪や兎の皮の髭つくれ

 

とある。因みに岩波文庫「芭蕉俳句集」(一九七〇年刊)では中村俊定氏は「雪の中に」を標準句形(最も古い句形とするが、この場合、私は上記の下線太字部から、ちょっと不審を持つ)として採用している。

 さて、「去来抄」(「同門評)では、

   *

 

 雪の日に兎の皮の髭つくれ   芭蕉

 

魯町曰く、「此句意、いかゞ。」。去來曰、「先(まづ)、前書に子どもと遊びてと有れバ、子共のわざと思はるべし。強(しい)て理會(りかい)すべからず。機關(からくり)を踏み破りてしるべし。昔、先師、此句を語りたまふに、予、甚だ感動す。先師曰、『是を悦バん者、越人と汝のミと思ひしに、果してしかり』とて、殊更の機嫌なりし。或いは曰く、『雪ハ越後兎の緣に出(いで)たり。』。來曰く、『此説の古キ事、神代卷に似たり。』。或いは曰く、『兎の皮の髭つくるハ、雪中寒キゆへ也。』。來曰、『如此(かくのごとく)に解せバ、「暑日(あつきひ)に猿若髭をはづしけり」の類(たぐひ)なるべし。いとあさまし。』。」。

   *

とある。「魯町」は去来の弟。

 服部土芳はこの句を「赤冊子」で「初雪に」の句形で掲げ、『初雪の興也。ざれたる句は作者によるべし。先(まづ)は實體(じつてい)也。猶、あるべし』と述べているが、これについて山本健氏は前掲書で『的確な評語』とし、『この句を見据えたら、この句の解を誤ることはないはずだ。雪が降った時、それは子供にとって寒さよりまず喜びであって、彼らは争って外に飛出すものだから、「雪の中に」という形が生きてくる。だが、「初雪には」いっそう興ずる心の弾みがある、初雪をよろこんで、雪の中を兎のように跳ね回っている子供たちに、兎の毛皮で髭でもつけたらどうだと戯れに呼びかけたのである。このように解しておけば、まずこの句の弾んだ心を捕え得たことになろう。初五と中七との間に表現上のギャップがあるが、「雪の日に」や「雪の中に」より「初雪に」の方が幾分なだらかに接続するだろう』と解釈しておられ、非常に共感出来る。]

 

 兎網かゝる哀(あはれ)や越(こし)の雪 不憚(ふたん)

 

 この句は越路という限られた地方と、兎網というものを持出した点に特色があるが、その趣は十分に現れていない。

[やぶちゃん注:「兎網」ウサギの通り道になる丘陵や山の麓などに予め、網を張り巡らしておき、山頂から大勢の勢子(せこ)で追い立てて狩る方法。「追い山」とも呼び、かの唱歌「故郷(ふるさと」)」の冒頭の「兎追ひし彼の山」のそれである。作詞者高野辰之は長野県中野市出身である。]

 

   雪中待人といふ

 うさぎ煮て橇(かんじき)の音きく夜かな 大江丸

 

 越路ならずとも雪深い国の情景であろう。雪を前書に用いて句の背景にしたので、昔も雪の降り積る夜、炉辺に兎の肉を煮ながら人の来るのを待っている。折から耳に入る橇の音は、多分待つ人のそれに相違あるまい。兎を煮る句は大魯にもあったが、あれは過去の出来事として点ぜられたに過ぎず、現在肉を煮つつある趣はこの句のようにこまやかに現れていなかった。橇はソリとも読み、カンジキとも読む。この場合は後者でないと字数が合わぬ。

[やぶちゃん注:「橇(かんじき)」積雪に足を深く踏込んでしまったり、氷結した雪の表面で滑らぬよう、靴や藁靴の下に装着した特殊な履き物。古名を「かじき」と称し、木の枝を曲げて作り、葛(かずら)などで鼻緒を編んで山漆(やまうるし)の肉附きの皮で巻き固めた。下方に向けて木の爪がついたものや鉄製のものもある。現在も登山用などに使われ、「輪(わ)かん」の名で呼ばれる。所謂、アイゼン様(よう)の、本邦の雪国に於ける伝統的な雪中の歩行具である。]

 

 雪兎耳から氷る朝かな   波鷗

 狛犬(こまいぬ)と並べて置けり雪うさぎ

              虛白

 撫(なづ)る間に瘦(やせ)がつかうぞ雪兎

              沂風(きふう)

 

 雪で固めた際にも耳を看過せぬのは、形が兎だからである。雪達磨、雪仏、雪兎、皆同類であるが、原物に正比例して兎が一番小さい。子規居士の句に「置炬燵(おきごたつ)雪の兎は解(とけ)にけり」「居つゞけに禿(はげる)は雪の兎かな」とあるが如き可憐な趣は、雪達磨や雪仏の与(あずか)り知らざる所であろう。その観念を以て臨むと、狛犬と並べて置く雪兎は大き過ぎるようである。折風の句は多少室内の模様を見せているけれども、句として甚だ趣味に乏しい。

[やぶちゃん注:「置炬燵(おきごたつ)雪の兎は解(とけ)にけり」明治三二(一八九九)年の句。

「居つゞけに禿(はげる)は雪の兎かな」「芳原詞の内」(「芳原」遊廓の「吉原」のこと。)という前書を持つ明治三〇(一八九七)年の句。]

 

 五十步の兎追ゆる時雨かな   千那

 萱野(かやの)から兎追ひ出す霰(あられ)かな

                柳居(りうきよ)

 

 この二句は殆ど相似た趣である。ただ時代において千那が先じている上に、五十歩の距離に兎を認めて思わず追駈けて見たという事には、如何にも実感らしい力が籠っている。柳居の句の方が複雑であり、言葉も働いているように見えるが、一句の持つ力において、真に千那に遜(ゆず)らざるを得ない。

[やぶちゃん注:「千那」は近江蕉門で浄土真宗堅田本福寺第十一世住職三上千那(慶安四(一六五一)年~享保八(一七二三)年)。

「柳居」佐久間柳居(貞享三(一六八六)年~延享五(一七四八)年)。幕臣の俳人。初め、貴志沾洲(せんしゅう)の門に入ったが、江戸座の俳風にあきたらず、中川宗瑞(そうずい)らと「五色墨」を出し、後、中川乙由(おつゆう)の門下となり、蕉風の復古を志し、芭蕉五十回忌(寛保三(一七四三)年)に俳諧集「同光忌」を撰している。千那より三十五歳歳下。]

 

 木の葉卷く颷(へう)より出る兎かな 五明

 雨落葉走る兎の辷(すべ)りけり   藤山

 

 一は倏忽(しゅっこつ)に過ぎ、一は平浅に失する。木の葉を吹巻くつむじ風の中から兎が飛出すということも、雨の落葉に兎が足を辷らすということも、実際にないではないかも知れぬが、これを読んで何となく拵えもののような感じがするのは、題材の問題でなしに、句を作る伎倆(ぎりょう)の問題であろう。こういう句に比べると、前の千那の句などは、大地をしっかりと蹈(ふま)えて些(いささか)の揺ぎも見せぬところがある。

[やぶちゃん注:「颷」は現代仮名遣で「ひょう」で旋風(つむじかぜ)のこと。「飆」の異体字。

「倏忽」「儵忽」とも書く。時間が極めて短いさま。忽ち。]

 

 霜の聲何と兎の耳のそこ      砂遊

 茶の花に兎の耳のさはるかな    曉臺

 曇る日は氷柱(つらら)を舐(なむ)ル兎かな

                  溪石

 

 砂遊の句は兎の耳について聴覚の問題に触れている。その点はいささか珍とするに足るが、耳の長い兎が霜の降る声を何と聞くかというまでで、別に面白いこともない。暁台の「茶の花」も必ず実景なるべくして、少しく明瞭を欠いている。氷柱を舐るのは飼兎の写生であろうか。慥に実感と認むべきものがある。

 

 水仙や兎の耳も旭影(あさひかげ) 莊丹

 

 水仙に兎うかゞふ霜夜かな     景帘(けいれん)

 

 偶然水仙に関する朝と夜との句を発見した。水仙と兎とはその白い色の上にも、優しい感じの上にも、一種の調和がある。強いていえば、水仙の葉と兎の耳を立てた形とにも相通ずるものがあるかも知れぬ。

 

 松陰に兎は白き枯野かな      八十

 草枯や兎の山へかよふ道      天淮

   兎坂といふにかゝる、さのみ

   羊腸たるとにもあらねど奇區

   兎徑といひけんも此あたりの

   おもむきなるべし

 冬の山兎の床をふたつまで     星布尼(せいふに)

 

 蕭条たる枯野に立つ松はやや黒ずんだ翠(みどり)の色を見せている。その陰に白い兎がいるとなると、少し目立たしいようであるが、これは周囲の風物が自(おのずか)ら然らしむるので、殊更に構えた趣向ではない。少くとも蕎麦の花の中に駈込む兎よりは、趣において自然である。「草枯」の句も平凡ながら無難の域に入るであろう。兎坂というのは何処かわからない。地名から兎を持出したようなところもあるが、特に「ふたつまで」と断っているのを見れば、事実に基いたものと思われる。「兎の床」は兎の穴の意か、兎が寝ているのを見てこういったのか、いずれにしてもあまり結構な言葉ではなさそうである。

[やぶちゃん注:「奇區」奇景の地域。

「兎坂」宵曲は「何処かわからない」と言っているので、試みに調べてみた。作者の榎本星布尼(文化一一(一八一五)年~享保一七(一七三二)年:武蔵国八王子(現東京都)の名家榎本忠左衛門徳尚の娘。継母の影響で俳諧に親しみ、初め、白井鳥酔門、後、加舎白雄の門に入った。白雄の後援で松原庵二世を嗣号し、寛政期(一七八九年~一八〇一年)に大いに活躍した。息子喚之編「星布尼句集」ほか多くの編著がある。寛政一二(一八〇〇)年八月に芭蕉の句碑を八王子に建立し、翌年その記念集「蝶の日かげ」を上梓したが、刊行に先立って喚之を失い、以後、沈滞した。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)が八王子の生まれであることを考えると、八王子から二十五キロメートルほど東南東の、現在の溝の口付近の「兎坂」(現存)を一つの候補として考えてもよいのではないかと言い添えておく(「溝の口カイロプラクティック院」公式サイト内の「のくちぃ散歩」の「久本山への坂道~兎坂・馬坂~」を参照されたい。地図もある。その「兎坂」の写真を見ると、細く狭く薄暗く、しかも二十六%勾配を持ち、「兎徑」に相応しい感じはする)。]

 

 猪(しし)兎つるしかけたり榾明(ほだあか)り

                   曉臺

 十月は兎と猿の日なたかな      雞路

 

 正秀の「初雪」の句は雉子と道連であったが、ここでは猪と伍を共にしている。猪や兎をつるした壁に、榾の明りが赤々とさすなどは、山家らしい空気が出ていて面白い。「十月」の句はまた蕪村の「猿どの」の句を連想せしめる。兎はかつて鰐にいじめられたり、狸と戦ったりした歴史を持っているが、猿とは存外平和な間柄だったと見える。山の斜面か何かに日向ぼっこをしながら、猿と兎とが仲よく話している光景は、蕪村の句と趣を異にする一幅の俳画であろう。

 

 狂ひけり彼の兎と小夜千鳥(さよちどり)

                   東藤

寒月や兎は見えず啼(なく)は鴨(かも)

                  文錦

 

 熊も狼も海岸まで出張した以上、詩句の上だけでも水に縁のある兎が波に遊ぶのは怪しむに足らぬ。この二句は例の「綠樹影沈魚上木。浦波月落兎奔浪」を冬の世界に持込んだのである。この趣向に多少の無理を感じたものか、文錦は「冬の月に波走ル事不聞」という前書をつけて、兎の代りに鴨の声を点じたのであるが、東藤は千鳥をワキ役に使って、兎と共に波に狂うことにした。浪に遊ぶ兎は必ず月光の裏にある。「狂ひけり」の句には月の字がなくても、その舞台は明皎々(こうこう)たる月夜でなければならぬ。

 

 餠つきや月の兎に覗かるゝ      柳居

 

 秋の句が冬に持越した形である。下界の餅搗(もちつき)を覗く月の兎は、自分でも杵(きね)を持っていること請合(うけあい)であるが、下界を覗くのは人間がどんな風に餅を搗くか、それを見ようというのであろう。月の兎が餅を搗くときまった時代を考証するには、一の資料となるべき句である。

 

 つくづくと畫圖(ぐわと)の兎や冬の月  仙化

 つくぐと壁のうさぎや冬籠(ふゆごもり) 其角

 

 この二句は『句兄弟』にある。『句兄弟』というのは、鯛の句にも一度出たが、前句に対して形が似ながら趣の異った句を作る其角の趣向なので、全部で三十九番ある。「ことはらずして決斷せり。冬ごもりはいひ過(すぎ)たれど、畫圖の兎を壁と云(いふ)字にへだてたれば、閑居のたよりも宜しくて對句す。又兎の鼻や冬ごもりと云(いひ)たらば、うづくまりたる人のさまにも成(なる)べけれども、かけり過たる作意ゆへ、本意をうしなふ。興をとらんとて曲流に落る句の出(いで)くるものなれば、作者よくよく沈吟すべし」という其角の文章を読むと、冬籠の壁に兎の画をかけたらしく見えるが、その次に「うづくまりたる人のさま」云々とあるので、いささか首を傾けざるを得なくなった。兎の画をかけるのを「壁のうさぎ」といったのなら、其角の句としてはむしろ平凡である。こういう文章なしにこの句を一誦すれば、自分の影法師か何かが壁にうつっていて、それが兎の形に見えるという解釈になるのが自然ではあるまいか。仙化の句は冬の月の面に画図の如き兎の形を認めたという意であろう。冬の月は四季を通じて最も冴渡(さえわた)っているから、月中の兎もまた明に目に入るわけである。是(ここ)において両句の世界は全くかけ離れていることになる。

[やぶちゃん注:この其角の句の達意の解釈には全く脱帽である。

「句兄弟」を参照されたい。]

 

 綿衣(めんい)著(き)て兎の眞似か冬籠 風白

 

 この句は其角の「壁のうさぎ」と頗る似通っている。ただこの方は影法師ではない。綿入を著てうずくまっている姿が兎に似ているというのである。これらの句がいずれも元禄期の作者の手に成っているのは、単なる偶然であるかどうか。

 安藤冠里(あんどうかんり)公の庭に飼われた兎があった。白蓮の莟のような形をして、て掌(てのひら)に乗る位の大きさになったのを、扈従(こしょう)をして御側(おそば)に持って来させると、兎は人を恐れて彼方此方(あちこち)に跳ね廻り、文台(ぶんだい)へ飛上ったり、硯の中へ足を踏込んだりして、「雪の白玉を墨にこかしたらんやうに」汚してしまった。冠里公も不興の様子で、近習の者がはらはらした時、その座にいた其角が、硯に溢(あふ)れた墨に染むことは、彼者の性が天然筆に生れついているのでございます、と放言した。兎毫(とごう)の筆から思いついた当意即妙であったが、この放言のために冠里公の御機嫌も直り、一座笑を催した。其角は「白兎公」という文章にこの顚末を記した上、「臘月の未つかたに、兎の子いつゝ生れたるに」とあって左の句を録している。

 

 年をとる兎にいはへいらぬ豆   其角

 

 年趨の豆は妙るものにきまっているが、兎のためには妙らぬ豆がよかろうといったのである。兎の子を詠んだ句は頗る珍しい。その兎に対して年越の豆を持出すなどは、其角のような作者でなければ思いもよらぬ趣向であろう。

[やぶちゃん注:「安藤冠里」備中松山藩第二代藩主。美濃加納藩初代藩主安藤信友(寛文一一(一六七一)年~享保一七(一七三二)年)の俳号。徳川吉宗の代に老中を務め、文化人としても名高く、俳諧や茶道(御家流創始者)でも知られる。

「兎毫の筆」中国では古代から秋の兎の毛を毛筆素材の最上としたことが文献から知られている。

「白兎公」宝井其角の遺稿を没年に貴志沾州らが編集した俳諧俳文集「類柑子」(るいこうじ)(全三巻・宝永四(一七〇七)年刊)に載る。原典を所持しないので示せない。]

 「白兎公」の文末には更に「三方に綿をのせて、雪に富士などいふ当座の興をもよほされしに」とあって、

 

 つみわたに兎の耳をひきたてよ   其角

 

という句が記されている。三方に載せた白い綿を雪の富士に見立てたに対し、この端から長い耳を二本引立てたら、そのまま兎の形になろうと興じたものらしい。已に『万葉集』の歌にも「白縫乃筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼曖所見」とある通り、一見して暖(あたたか)に感ぜられる綿を雪の富士に擬するのは、見立としても上乗のものではない。柔毛兎の適切なるに如(し)かぬ。しかもただ兎に擬するにとどまらず、「兎の耳をひきたてよ」といってのけたところに、放胆なる其角の面目は躍然として現れている。

[やぶちゃん注:「白縫乃筑紫乃綿者身著而未者伎禰杼曖所見」底本のルビは排除した。「万葉集」の「卷第三」の「雜歌」に載る僧満誓(まんせい/まんぜい 生没年不詳:笠朝臣(麻呂(かさあさそみまろ)の出家後の法号。官位は従四位上・右大弁で、古代吉蘇路(木曽路)の開削者であった。元明上皇の病気平癒のために出家(養老五(七二一)年。但し、別に政治的な意図があった可能性も指摘されている)、願い空しく同年に上皇は崩御し、二年五の養老七年に観世音寺の造寺司に任ぜられて筑紫に赴任した(この赴任については、自が希望したとする説や、当時、奈良仏僧が朝廷から風俗壊乱を成すとして批判されていた折りから、出家祈禱による上皇の快復が適わなかったことも加わって、彼への処罰の一環として左遷されたとする説もある。詳しくは参照したウィキの「満誓を見られたい)の一首。改めて前書を附して訓読して示す。

 

   沙彌(さみ)の滿誓、綿(わた)を詠める歌一首

 しらぬひ筑紫(つくし)の綿は身につけていまだは著(き)ねど暖かに見ゆ

 

「しらぬひ筑紫(つくし)」は筑紫の広域古名ととっておく。]

 

   探題兎

 二の谷をうきぎの登る霰(あられ)かな 几董

 餌(ゑ)に飽(あき)て巨燵(こたつ)に眠る兎かな

                    同

 

 この二句は冬季に兎の題を得て詠んだものである。「二の谷」は須磨であろうが、実景から得たものでないだけに、一句としての力がない。彼の句は其角の「白兎公」と同じく、室内の兎を捉えている。白い兎が火燵の上に眠っているところは、猫と違って頗る斬新の趣がある。

2017/12/13

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅹ) 昭和一〇(一九三五)年(全) / 夢野久作 日記内詩歌集成~完遂

 

昭和一〇(一九三五)年

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年から昭和九(一九三四)年の日記は底本にはない。]

 

 一月八日 火曜 

 

仰ぎて門を出づれば天の川

霜白く旭黃色し廣野原

 

[やぶちゃん注:この一月に十年余の推敲を経た畢生の奇作「ドクラ・マグラ」が出版され、この一月二十六日に「ドクラ・マグラ」出版記念会が大阪ビル・レインボーグリルで開かれており、日記にもその様子が如何にも喜びに満ちた様子で記されてある。]

 

 

 

 一月三十一日 木曜 

 

向ひかくれグツチヨ星やござらんか

星こそ御座れ

何人御座る

三人御座る

そりやチツクリヨカロが何々喰はすか
小豆飯に鯛の魚(イオ)

秋摺八升鯖八さし

イカイ入るたる大喰ひ

つるんだる引つぱんろ

 

[やぶちゃん注:新今様風の意味不明の歌。「秋摺」とは秋摺米であるが、これはよく判らぬ。収穫直後に精米した米のことか。籾で貯蔵したものを玄米としたものを「今摺米」と称するらしく、秋摺米は炊くと硬めに出来るらしいことぐらいしか判らなかった。「向ひかくれ」「グツチヨ星」「イカイ入るたる」「つるんだる引つぱんろ」はお手上げ。福岡方言か? 識者の御教授を乞うものである。]

 

 

 

 三月十一日 月曜 

 

春寒く夜靜かなり汽車の音

 

 

 

 五月十一日 土曜 

 

小雨降りて蛙高鳴き薄日照りて

 松蟬の聲波打つ谷々

 

[やぶちゃん注:「松蟬」半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ(春蟬)Terpnosia vacua の異名。松林に棲息し、林から出ることは少ない。「松蟬」は俳句で晩春や初夏の季語として好んで用いられる。

 なお、この七日前の五月四日には郷里の福岡市中洲にある中華園で、有志による「ドグラ・マグラ」出版記念会が開かれ、日記には『集まる人々四十人皆久作をコキ下す』と記している。]

 

 

 

 七月十八日 木曜 

 

畑打つ女の飛白日に匂ひ遠山脉に雨雲迫る

新しき橋架け終へてかへり行く山男等にカナカナなく

何處迄も草つゝきなる堤果に松一本あり雷雲迫る

桐の花校庭に搖ぎ耀くを寫生してみる七月の末

ひつそりの草深き野を急き行く遠山脉をに雨雲迫れば

 

[やぶちゃん注:「カナカナ」の後半は底本では踊り字「〱」。「草つゝきなる」「急き行く」はママ。「遠山脉」は「とほやまなみ」と訓じたい。なお、この前日、父杉山茂丸が脳溢血で倒れ、重体となり、急遽、福岡香椎より上京、以上の短歌はその車中での詠吟で、歌を並べた後、『など和歌いくつも出來てねむられず。此の心理狀態われながら不思議なり。歌をやむれば又限りなく心配なり。愚かなる事のみ思ふ故又歌を作り心を靜めてゆく』と記している。東京にはこの日の夜に着き、意識不明の父と対面した。翌日の日記に『七月十九日午前十時十五分意識不明のまゝ父上絶命し給ふ』とある。]

 

 

 

 十月二十九日 火曜 

 

疲れて尻を撫づれば皺タルミ指に觸る吾老いたり。

 

[やぶちゃん注:句点はママ。日記本文より一字下げで、これはただの感懐ではなく、短歌である。これを以って昭和十年の日記内の詩歌は終わっており、これ以降の日記は底本にはなく、遺族も所持していないようである。

 夢野久作は、この翌年昭和一一(一九三六)年三月十一日、『渋谷区南平台町の自宅で、父の負債処理を任せていたアサヒビール重役の林博を出迎え、報告書を受け取った後、「今日は良い日で」と言いかけて笑った時、脳溢血を起こして昏倒し、そのまま死亡した』。未だ満四十七歳であった。(引用はウィキの「夢野久作に拠る)。

 以上を以って、二〇一五年七月二十八日に開始したオリジナルな孤独なタイピングによった「夢野久作 日記内詩歌集成」を、二年半で無事、終了することが出来た。数少ない方々ではあったが、奇特な読者からの本プロジェクトへのエールには、心から深く感謝するものである。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅸ) 昭和五(一九三〇)年九月~十二月 / 昭和五年~了

 

 九月三日 水曜 

 

◇われとわが頭の隅にたたずみて

  おろかなる心をはるかに見下す

 

 

 九月二十六日 金曜 

 

◇考えるたびに自働車屁をたれる

 

[やぶちゃん注:「考える」はママ。]

 

 

 

 十月二十二日 水曜 

 

ストーブの火を見て居れば

昔のことを思ひ出す

私の昔の祕めごとを

知つてゐるのか火の色も

黃色く赤くほのぼのと

うれしなつかしやるせなや

ストーブの火は消え果てゝ

はかなく白い灰ばかり

くづれ殘れどくら暗に

 

[やぶちゃん注:珍しい流行歌風詩篇であるが、どうも翌日の日記は頭の三行は続きらしい。]

 

 

 

 十月二十三日 木曜 

 

なほもありあり燃え殘る

胸のおのほをなんとせう

ひとりみつむるわが心

 

◇うつくしき衣かゝれりなつかしき

  衣かゝれり小春の椽

◇遠里に打つとしもなく打つきぬた

  きくとしもなく身にしみてきく

 

[やぶちゃん注:「ありあり」の後半は底本では踊り字「〱」。前日の注で述べた通り、頭の三行は、前日の詩篇から続いていると読むべきである。煩を厭わず、繋げて示しておくと、

 

ストーブの火を見て居れば

昔のことを思ひ出す

私の昔の祕めごとを

知つてゐるのか火の色も

黃色く赤くほのぼのと

うれしなつかしやるせなや

ストーブの火は消え果てゝ

はかなく白い灰ばかり

くづれ殘れどくら暗に

なほもありあり燃え殘る

胸のおのほをなんとせう

ひとりみつむるわが心

 

と、実にしっくりくるのである。また、後の十一月十九日と二十日の条にも酷似した詩篇が現れる。]

 

 

 

 十月二十四日 金曜 

 

◇とうとうと役場の太鼓鳴り出でぬ

  又鳴り出でぬ秋のまひる日

◇まひるなから夢の心地になりてきく

  とうとうと鳴る役場の太鼓

 

[やぶちゃん注:二箇所の「とうとう」の後半は底本では踊り字「〱」。「まひるなから」は「まひるながら」の意であろう。]

 

 

 

 十月二十五日 土曜 

 

赤き旗靑き旗ふる踏切の

 ゆき來の心春めきにけり

 

踏切番のま白き旗もいつしかに

 よごれ老いつゝうなだれにけり

 

 

 

 十月二十六日 日曜 

 

カレンダーを赤い心臟に貼りつけた

 納税デーのすごいポスター

マントルピースに紙のラッパが遠方の

 人とおんなじ歌をしたふも

 

 

 

 十月二十七日 月曜 

 

遠き山々近き山々ヒツソリと

 物云ひかはす秋のまひる日

 

 

 

 十一月十二日 水曜 

 

◇海を吹き山を吹き野を吹き越えて

  わが家の庭の消えてゆく風

◇ひそやかに母艦は港にかへり來ぬ

  しみじみ白き秋のまひる日

 

 

 

 十一月十八日 火曜 

 

◇都合よき返事のみして世を送る

  四十男のなめらかな頭

 

[やぶちゃん注:夢野久作は明治二二(一八八九)年一月四日生まれであるから、この昭和五(一九三〇)年十一月当時、満四十一歳ではある。但し、本歌が自身を揶揄したものであるかどうかは不明である。]

 

 

 

 十一月十九日 水曜 

 

ストーブのほのほみつめて

思ひ入る その思ひごと

もえさかる ほのほの色の

わが祕めし 思ひ知るかも

黃に靑に ほのぼのとして

やるせなや 又なつかしや

 

[やぶちゃん注:前の十月十二日及び十三日頭に記された詩篇の再稿。]

 

 

 

 十一月二十日 木曜 

 

ストーブのほのほに思ふ

ありし日の 夢のひとゝき

黃に靑に もゆるたのしさ

火はいつか 灰となれども

消えのこる 胸のほのほよ

かきいだく われとわが胸

 

 

 

 

 十一月二十一日 金曜 

 

博多小女郎の波まくら

寄する思ひに濡れぬる

袖の港はどこかいな

あゆむ細腰柳腰

にくい博多の帶しめて

キユーと泣くのはどこかいな

三すぢの川の末かけて

ちぎる絞りの意氣姿

ツンとするのはだれかいな

 

[やぶちゃん注:流行の小唄のようでもあり、「正調博多節」の「博多小女郎浪枕入り」(藤田正人作詩)及び東海林太郎の「博多小女郎波枕」も聴いてみたが、違う。享保三(一七一八)年大坂竹本座初演の近松門左衛門作「博多小女郎波枕」という世話物があるが、私は知らないので、この台詞があるかどうかも判らぬので、取り敢えず、夢野久作がそれらを受けて自作したものとして、ここに採用しておくこととする。何方か、これが別人のてになるものであることを御存じの方は、お教え願いたう。さすれば、この条はカットする。]

 

 

 

 十一月二十二日 土曜 

 

◇うつゝなきうつゝなりけり夢の世の

  夢より出でゝ夢に入る身は

◇心なき風にも心ありげなり

  この山蔭の薄吹く風

◇今のわが心を探る心かも

  色々の歌かきつけてみる

 

 

 

 

 十二月五日 月曜 

 

◇忽ちに海を埋むる器械の力

  ヂツトみつむる秋の夕暮れ

 

 

 

 十二月十六日 火曜 

 

◇秋になるとなぜに木の葉が赤くなると

  子供に問はれて答へ得ぬ心

◇巨大なる紳士が一人乘り込みぬ

  秋の雨ふる名嶋驛より

◇ズブ濡れの巨大な紳士が步みゆく

  濡れた顏もせぬ巨大なその心

 

[やぶちゃん注:「名嶋驛」現在の福岡県福岡市東区名島(なじま)にある西日本鉄道貝塚線の名島駅の前身であろうが、大正一三(一九二四)年(年)五月に博多湾鉄道汽船の駅として開業された後、二〇〇四年に駅は移設新築されているので、附近(グーグル・マップ・データ)としておく。]

 

 

 

 十二月十七日 水曜 

 

◇その昔海原なりし筑紫野を

  今さながらに秋風吹きわたる

◇風の音身にしめてきくその昔

  海原なりし筑紫野の秋

 

[やぶちゃん注:「身にしめて」はママ。]

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅷ) 昭和五(一九三〇)年五月~八月

 

 五月六日 火曜 

 

山畑の菜種の花に寄る蜂の

  一つ一つに消ゆる夕ぐれ

愚かなる心よりけり思ふ事と

  かゝわりもなく闇をみつむる

 

[やぶちゃん注:「一つ一つ」の後半は底本では踊り字「〱」。「かゝわり」はママ。]

 

 

 

 

 五月九日 金曜 

 

靑空をヂツと見つめて渡天しつゝ

  線路の草に寢ころぶ男

 

 

 

 五月十五日 木曜 

 

おろかなる心なりけり春空の

  花火の煙見つめて立ちしは

眞夏の日靑葉の蔭の憂欝を

  通り過ぎてもうなだれて行く

 

 

 

 五月十六日 金曜 

 

何故にサウンドトーキーは

  人間を突き刺す音だけきゝえないのか

ことし亦つばなの風にゆらぐ見ゆ

  かの草山も老いにけらしな

 

[やぶちゃん注:「サウンドトーキー」sound talkie。映像と音声が同期した、今、我々が普通に見ている映画のこと。ウィキの「トーキー」によれば、『talkie という語は talking picture から出たもので、moving picture movie と呼んだのにならったもので』、『無声映画の対義語としては「発声映画」と呼ばれた』りしたが、『音声が同期した映画が一般的な現在では、あえて「トーキー」と呼ぶことはない』。『発声映画の商業化への第』一『歩はアメリカ合衆国で』一九二〇『年代後半に始まった。トーキーという名称はこのころに生まれた。当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた(しゃべらないので「トーキー」ではない)。長編映画としての世界初のトーキーは』一九二七年十月に現地で公開されたアメリカ映画「ジャズ・シンガー」』(The Jazz Singer:アラン・クロスランド(Alan Crosland)監督ワーナー・ブラザース(Warner Bros. Entertainment, Inc.)製作・配給)『であり、ヴァイタフォン方式』(Vitaphone:ワーナー・ブラザースが開発したフィルム映像と録音された音を同期させるためのシステム。映写中に映画と同調された音声を収録した七十八回転レコードを使用し、同時再生するものだった。しかしこの当時のレコードは壊れやすかったことに加え、正確に同期を継続させることが困難であった)であったが、『その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)』(sound on filmsoundtrack:映画のフィルム上に音声が収録されている。フィルムの長手方向に画像コマとは独立に設けた音声用トラックを持つ形式)『がトーキーの主流となった。翌』一九二八年に、この『サウンドトラック方式を採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の』「蒸気船ウィリー」(Steamboat WillieThe Walt Disney Productions)が公開されている。一九三〇『年代に入ると』、『トーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った』。『ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった。日本映画では』昭和六(一九三一)年公開の「マダムと女房」『(松竹キネマ製作、五所平之助監督、田中絹代主演)が初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった』とある。本日記は昭和五(一九三〇)年の条。

「つばな」既注であるが、再掲する。単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の初夏に出る穂のこと。細長い円柱形を成し、葉よりも高く伸び上がって、ほぼ真っ直ぐに立つ。分枝はなく、真っ白の綿毛に包まれており、よく目立つ。種子はこの綿毛に風を受けて遠くまで飛ぶ(ウィキの「チガヤ」に拠った)。個人的に私の大好きな花である。]

 

 

 

 五月十六日 金曜 

 

殺人の動機は別にありませぬ

  彼女が灯を消しましたので

 

 

 

 五月二十日 火曜 

 

あの上に飛び降りたらばと思ひつゝ

  四階の下の人ごみをのぞく

針金で次から次へ繫がれて

  地平線の方へ電柱が行く

硝子瓶蠅を一匹封じこめて

  死んだら勉強初めやうと思ふ

 

 

 

 五月二十一日 水曜 

 

何ものか飢えた心が暮れるまで

  線路の草に寢ころんでゐる

 

[やぶちゃん注:五月九日の「靑空をヂツと見つめて渡天しつゝ/線路の草に寢ころぶ男」の改稿であろう。「渡天しつゝ」は生硬な表現である。]

 

 

 

 五月二十七日 火曜 

 

彼女には何か出來たに違ひ無い

  彼女は動物を飼はなくなつた

壇上の彼女に狙ひをつけてみる

  ポケツトの中のブローニングで

 

[やぶちゃん注:「ブローニング」アメリカの銃器設計家ジョン・モーゼス・ブラニング(John Moses Browning 一八五五年~一九二六年)が設計したスライド式自動式拳銃の日本での慣例通称。本日記は昭和五(一九三〇)年であるから、ベルギーの銃器メーカーであるファブリック・ナショナル社(FNハースタル(フランス語:FN Herstal):正式社名は「ファブリケ・ナショナル・デルスタル・ド・ゲール」(Fabrique Nationale d'Armes de Guerre)で大量生産されたFN ブローニングM1900FN Browning M1900)か(一九一一年生産終了)、その改良型のFN ブローニングM1910FN Browning Model 1910)であろう。後者は、ウィキの「FN ブローニングM1910によれば、『メインとなった.32ACP弾(7.65×17mm)モデルのほかに.380ACP弾(9×17mm)モデルが存在し、前者の装弾数は』八『発(弾倉』七『発+薬室』一『発)、後者の装弾数は』同じ仕儀で七発であった。『本銃は小型軽量で携帯性に優れており、信頼性や性能も良好でかつ安価であることに加え、特徴的な美しい外観ゆえに評価が高く、世界に輸出された結果、』二十『世紀前中期を代表するベストセラー拳銃の』一『つとなり、』実に一九八三年まで七十年』あまりも生産が続けられた』とある。『日本(大日本帝国)においても、通称ブローニング拳銃として.32ACP弾モデルが多数輸入されて』おり、『民間販売のほか、主に帝国陸軍の将校・准士官の護身用拳銃として、本銃は最も人気が高かった』とある。]

 

 

 

 五月二十八日 水曜 

 

暮れて行く空をみつめて微笑しつゝ

  線路の草に寢ころぶ男

死ね死ねと鏡に書いて拭き消して

  姉の室に來てお先にといふ

 

[やぶちゃん注:「死ね死ね」の後半は底本では踊り字「〱」。前者は五月二十一日の改稿の再案。]

 

 

 

 五月二十九日 木曜 

 

麻雀の靑い小鳥が飛んで來て

  ガチヤガチヤと啼く阿片のめざめ。(夏のあさあけ)

 

[やぶちゃん注:句点はママ。「ガチヤガチヤ」の後半は底本では踊り字「〱」。「(夏のあさあけ)」は末句の別案ともとれるが、それだと一種の猟奇性は失われるから、後書ととっておく。

「麻雀の靑い小鳥」索子(ソーズ)の一索(イーソー)だけに描かれた青緑色の鳥の絵(牌)のことであろう。「索子の1索に描かれている鳥の絵の由来は・・・?!」というページから引くと、元は雀だったらしい。『主流となった鳥の図柄は最初は単純に雀のデザインでした。鳥の図柄も元は銭束という事から、雀が銭籠背負った図柄も登場しました。次第に華やかにするように銭籠を松や梅などの植物で飾り立て、そして籠には銭が一杯という事を表現する為に、側に銭がバラバラとこぼれ落ちている図柄も生まれました。その姿はまるで孔雀、飾られた銭籠やこぼれ落ちる銭が孔雀の羽に見るようになりました』。『その為』、一『索は孔雀なのではないか言われるようになったのです』とある。ここはそれをメーテルリンクの「靑い鳥」に、賭け麻雀の僥倖を掛けたものであろう。ただ、私は麻雀を知らないので、よく判らぬというのが本音である。「阿片のめざめ」は徹夜麻雀のぼんやりした感覚を比喩したものか。但し、阿片チンキ(エキス)は鎮痛・咳止め・睡眠薬として戦前は医師処方で手に入った。芥川龍之介も晩年、齋藤茂吉から処方して貰って使用している。]

 

 

 

 五月三十日 金曜 

 

刑務所が空つぽになつて行くといふ

  刑務所の外が刑務所なのだ。

 

[やぶちゃん注:句点はママ。]

 

 

 

 五月三〇日 土曜 

 

ヂレツトの古刃にバタを塗り付けて

  犬に喰はせて興ずる女

毒藥の空の瓶中へ入れた蠅が

  いつまでも死なず打ち降つてみる

 

[やぶちゃん注:後者の句は五月二十日の「硝子瓶蠅を一匹封じこめて/死んだら勉強初めやうと思ふ」の類型句。

「ヂレツト」アメリカの剃刀製品のブランド。アメリカの実業家で発明家の、安全剃刀を発明したキング・キャンプ・ジレット(King Camp Gillette 一八五五年~一九三二年)が一九〇一年にアメリカン・セーフティ・レザー・カンパニー(American Safety Razor Company)として創設し(翌年にジレット・セーフティ・レザー・カンパニーに改名)、一九〇三年に世界初のT字型替刃式の安全カミソリを製造販売開始、一九〇四年、「Gillette」を商標登録している(2005年以降、現在は、アメリカのオハイオ州に本拠を置く世界最大の一般消費財メーカーであるプロクター・アンド・ギャンブル(The Procter & Gamble CompanyP&G)が販売している)。]

 

 

 

 六月二日 月曜 

 

梟の瞳のうちの金の輪よ

  高利借する女の指輪よ

アレを見や蓬萊山で

  鶴公と龜子さんが逢引してゐる

阿片なしに生きてゐられぬ

  お藥代を惠んで下さい

 

 

 

 六月三日 火曜 

 

化けて見ろ石の地藏をステツキで

  毆つたあとでフト怖くなる

遊びに來る村の子供をべたいと

  浮かれてまはる大水車

 

 

 

 六月十日 火曜 

 

方々の森の中から何者かのぞいてゐるらし

  野原をよぎる

惡黨になり度氣もち

  眞暗な橫路次の中で小便す。

 

[やぶちゃん注:前者の分ち位置はママ。後者の句点はママ。]

 

 

 

 七月三日 木曜 

 

闇試合うしろに立つは強い奴

上つてもいゝがとチヨツと背負つゐる

人魂の噂が闇の路次を出る

山舁いてドンタクに出て博多也

 

[やぶちゃん注:久々の川柳。]

 

 

 

 七月四日 金曜 

 

博多からもう一人來る賑やかさ

叱つてゐる巡査もドンタクかと思ひ

靑電氣七三に來てけつまづき

胎兒よ胎兒よ何故躍る母親の心がわかつて恐ろしいのか

 

[やぶちゃん注:「靑電氣七三に來てけつまづき」は博多どんたくの夜景に、七三に髪を分けた洒落物を蹴躓かせた光景か。

「胎兒よ胎兒よ何故躍る母親の心がわかつて恐ろしいのか」既に見てきたように、夢野久作は作家デビューした大正一五(一九二六)年に、精神病者を素材とした小説「狂人の解放治療」を書き始め、これを後に「ドグラ・マグラ」と改題し、十年近くに亙って、徹底的に推敲増補を行っている。本日記は昭和五年であるが、夢野は昭和一〇(一九三五)年一月に松柏館書店より書下し作品として刊行、その翌年に死去しているが、この一首は、その「ドグラ・マグラ」の冒頭に「卷頭歌」と称して、載せられてある、

   *

胎兒よ

胎兒よ

何故躍る

母親の心がわかつて

おそろしいのか

   *

の初出と言ってよい。]

 

 

 

 七月七日 月曜 

 

校庭の飛越臺がお母さんの

  お腹のやうで飛び越しにくい

美しい女を見るとふりかへる

  その瞬間に殺し度くなる

殺す氣が無いのにどうして殺したかと

  問ひつめられて答へぬ心

 

 

 

 八月六日 水曜 

 

山つゝじあかあか咲きぬうすら日に

  鳥の遠音のさす丘の上

まんまんと汐みち足らひ鐡橋の

  はるかに赤く春の陽しづむ

 

[やぶちゃん注:「あかあか」及び「まんまん」の後半は底本では踊り字「〱」。この二首は昭和元(一九二六)年(正しくは大正十五年)六月二十二日の日記に載る、

 

山つゝじ赤々咲きぬ薄ら日に鳥の遠音のさす丘の上

まんまんと汐滿ち足らひ鐵橋のはるかに赤く春の陽しづむ

 

と表記上の差はあるものの、全く同じものである。]

 

 

 

 八月七日 水曜 

 

夢に見たが眞綿で首の締め初め

思案事忘れてヘソのゴマを掘り

夢を見るやうな眼つきでゴマを掘り

 

[やぶちゃん注:本三句はまず、「南五斗会集」(西原氏の推定では「なんごとかいしゅう」と読む)という標題で載る夢野久作の作になる川柳群の、大正一五(一九二六)年六月十四日のクレジットを持つ(〔〕は私が附した)、

 

    臍、夢

思案ごと忘れて臍の胡麻(ごま)を掘り〔

正夢の話をきけば寢小便

夢ばかり見てゐると書く噓ばかり

夢に見たが眞綿で首のしめ初め〔

夢を見るやうな目つきで臍を掘り〔

夢の場面やる本人の馬鹿らしさ

 

の〔〕の三句と表記違いの相同句であり、また、昭和元(一九二六)年(正しくは大正十五年)五月十一日の日記に載る、

 

夢に見たが眞綿で首のしめ初め

思案ごと忘れて瞳のゴミを取り

夢を見るやうな眼つきで暗を掘り

 

という奇体な川柳と異様に似ている。或いは、この「瞳」や「暗」は、失礼乍ら、底本編者の「臍」の誤判読なのではあるまいか?

 

 

 

 八月八日 金曜 

 

睾丸が咽喉まであがる大あくび

標本になつたが瘤の成功者

終電車あくびとあくび笑み

夢ばかり見てゐるとかく噓ばかり

 

[やぶちゃん注:この最初の句は、昭和元(一九二六)年(正しくは大正十五年)六月十四日の日記に載る(順序は異なる)、

 

きんたまがのどまであがる大あくび

 

相同で、及び、

 

標本になつたが瘤の名譽也

 

酷似し、また、破格で読み方を迷う三句目は、同じくそこに出る、

 

終電車あくびとあくび二人切り

 

と似ている(改作しようとして「笑み」で筆を折ったものか)。そして、最後の句も、これまた、同じ年の五月十一日にある、

 

夢ばかり見てゐると書く噓ばかり

 

と、これまた、相同である。]

 

 

 

 八月九日 土曜 

 

大あくび前の美人をフト睨み

大あくび待合室をねめまはし

あくびして睨んでもまだ座つてゐ

湯のゆるさあくびの尻が歌になり

美味さうにあくびを喰つて睨みつけ

 

[やぶちゃん注:これらの句も、またしても昭和元(一九二六)年(正しくは大正十五年)六月十四日の日記に載る(順序は異なる)、

 

大あくび待合室をねめまはし[やぶちゃん注:二句目と相同句。]

大あくび前の美人をふとにらみ[やぶちゃん注:一句目と表記違いの相同句。]

あくびして睨んでもまだ座つてゐ[やぶちゃん注:三句目と相同句。]

湯のぬるさあくびの尻が歌になり[やぶちゃん注:四句目と相同句。]

おいしさうにあくびをたべてニツコリし[やぶちゃん注:最終句と類型句。]

 

と相同相似の川柳である。再掲して推敲しているようにはあまり見えないことから、以上の再掲性の高い記載は、或いは、夢野久作自身が以前の日記帳を、この頃、どこかに仕舞い忘れてしまって見当たらないことから、万一のための備忘として記したものででもあったのであろうか?

 

 

 

 八月十一日 土曜 

 

濃く薄く靑田のみどり風わたり

  又わかり秋立にけり

柴田宵曲 俳諧博物誌(26) 兎 一 (その2) / 兎 一~了

 

だんごにて兎をつくれけふの月   文治

 

 これは月の兎でもなければ、動物の兎でもない。中秋の名月の興に乗じて、真白な月見の団子で兎の形を作ったらどうだといったので、直(じか)に実行したわけではあるまい。一の変り種である。

 

   鳴海絞(なるみしぼり)

 夕月や浪に兎のしぼりぞめ    深舟

 名月や兎の糞のあからさま    超波

 

 浪に兎は「竹生嶋」の伝統に属するが、深舟の句は前書にある通り、染物の模様である。さほど目に立つものでない兎の糞があからさまに見えるといったのは、名月の光を裏から描いたようなところがあって、あまり面白い句ではない。兎の糞の句はもう一つ秋の中にあるから、ついでに挙げて置こう。句としてはこの方が自然である。

[やぶちゃん注:「鳴海絞り」以下の引用にある経緯から、今は「有松・鳴海絞り(ありまつ・なるみしぼり)」と呼ぶべきである。ウィキの「有松・鳴海絞り」(ありまつ・なるみしぼり)によれば、現在は、『愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地域』(この附近(グーグル・マップ・データ))『を中心に生産される絞り染めの名称。江戸時代以降』、『日本国内における絞り製品の大半を生産しており、国の伝統工芸品にも指定されている。「有松絞り」、「鳴海絞り」と個別に呼ばれる場合もある』。『木綿布を藍で染めたものが代表的で、模様については他の生産地に類を見ない多数の技法を有する』。『現在の有松地域は江戸時代のはじめには人家の無い荒地であったため』、『この地域を通る東海道の治安に支障をきたしており、尾張藩は人の住む集落を作るため』、『知多半島からの移住する住民を募り』、慶長一三(一六〇八)年、『東海道沿いに新しい集落として有松が開かれた、移住した住民は街道警護の役割もあり』、『武芸に覚えのあるものが多かった。しかし、有松地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではなく、また』、『鳴海宿までの距離が近かったことから』、『間の宿としての発展も望めなかった。そこで有松に移り住んでいた住人の一人である竹田庄九朗が』、慶長十五(一六一〇)年から慶長十九年に『かけて行われた名古屋城の築城(天下普請)のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見て、当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになったと言われている。また』、万治元(一六五五)年に『豊後(現在の大分県)より移住した医師三浦玄忠(』但し、『医師であったこと、玄忠という名前については疑問も呈されている』『)の妻によって豊後絞りの技法が伝えられ、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げた。このときに伝えられた技法は三浦絞りあるいは豊後絞りの名前で呼ばれ現在にも伝わっている。なお、鳴海絞りではこの三浦玄忠夫人を鳴海絞りの開祖と伝えている』。『有松での絞り染めが盛んになるにつれ、鳴海などの周辺地域でも絞り染めが生産されるようになっていったが、この状況に対し』、『有松側は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え』天明元(一七八一)年、『尾張藩は有松絞りの保護のため』、『有松の業者に絞りの営業独占権を与えた』。但し、『絞りの生産が全て有松の町で行われていたわけではなく、鳴海を含む周辺地域への工程の下請けが広く行われていた。独占権を得た有松には現在につながる豪壮な町並みが形作られた。その後も絞り染めに対する統制は強化され、有松は尾張藩の庇護の下絞り染めの独占を続けたが、幕末になると』、『凶作に苦しむ領民の生活扶助のため』、『独占権が解除された』(以下、明治から現代に至る経緯が記されるが、省略する)。続いて、「有松絞りと鳴海絞り」の項。『有松と鳴海は現在共に名古屋市の緑区に属しているが、名古屋市に編入されるまでは』、『有松は知多郡、鳴海は愛知郡に属しており、元々は全く別の地域である。有松絞りと鳴海絞りは現在でこそ「有松・鳴海絞り」として一括して伝統工芸品に指定されているが、江戸時代より互いに本家争いや販売、訴訟合戦を繰り返し、戦後に友禅の人間国宝山田栄一を鳴海絞りの人間国宝にもしようと運動が行われた際には、有松側から横槍が入ったと言われる』。『なお、江戸時代にも絞り染めの生産の中心は一貫して有松地域であったが、正式な宿場ではない有松は旅人の停留する所ではなく』、『東海道五十三次の一つであった鳴海宿においても販売を行ったことから、有松絞りも江戸では専ら「鳴海絞り」と呼ばれていた』。しかし、一九八四年に『有松・鳴海絞会館が完成し、初代館長の思いを反映し』、『有松に存在する建物ではあるが』、『名称に有松・鳴海を併記することで、本家争い・訴訟合戦に決着が着き、共に協力して行く体制となった』とある(下線やぶちゃん)。グーグル画像検索「有松鳴海絞り」をリンクさせておく。現代の作品であるが、Keita 氏の「keitaうさぎの着物日記」の有松鳴海絞りの浴衣コレクション🎐の中に、三枚の濃紺に芝うさぎの柄の有松鳴海絞りの写真がある。これは素敵だ。]

 

 つぶつぶと兎の糞や萩すゝき     桃先

 

 萩薄のもとにつぶつぶと見える兎の糞は、どうしても野兎のそれでなければならぬ。

 

 寄合(よりあひ)に兎百かく月見かな 冥々

 萩に見る今をや月の花兎       公曳

   放生會(はうじやうゑ)にまうでて

 生るをも放つ兎か空の月       昌察

 

 兎と月との因縁は容易に尽きそうもないが、秋の兎の句は悉く月に帰するわけでもない。もう少し他の方面を顧る必要がある。

 

 七夕に出(いで)て兎も野をかけれ  洒堂

 萱(かや)の穗にうさぎの耳も野分(のわき)かな

                   露川

 日暮るやうさぎの耳の動く時     搓雀(さじやく)

 小兎を追なくしけり晝の露      射毛

 山風や兎鼻つく九月盡        曉臺

   何某くすしの許(もと)にて

 のぼせ目の兎を放せ蓼(たで)の園  百万

   山家

 猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな     蕪村

 

 七夕と兎はちょっと類のない配合である。月の兎が有触(ありふ)れているだけに、この着想は特に目を惹くように思われる。何の繫(つなが)るところもなく「兎も野をかけれ」といい放ったのが、元禄の句らしい面白味になっている。芭蕉の「猪も共に吹かるゝ野分かな」を以て野分の豪壮な趣を現したものとすれば、露川の「萱の穗」は野分の繊細な趣を現したものであろう。萱の穂を吹き兎の耳を吹く野分は、小品的画景たるを失わぬ。「日暮るや」の句も繊細な見つけどころであるが、「萱の穗」の如き背景を欠いているために、場所のはっきりせぬ憾(うらみ)がある。あるいは籠の兎であろうか。その次の句は明(あきらか)に飼兎で、籠を抜出した兎を追駈(おいかけ)けて、姿を見失った経験はわれわれにもある。そう遠く逃げるのではないが、容易にその姿を発見出来ない。草の露が昼まで乾かぬとすれば、曇日の出来事と考えてよかろうと思う。「のぼせ目」は白兎の赤い目から思いついたものらしい。「蓼の園」と限ったのは即景か、何か意味があるのか、はっきりわからない。

 蕪村の「猿どの」の句は、兎を擬人的に扱ったものとして異彩を放っているのみならず、古今の兎の句中にあって最もすぐれたものの一であろう。小川芋銭氏の『草汁漫画』に、頰被(ほおかぶり)をして折詰と貧乏徳利とを提げた兎が、三日月の下を歩いているところを画き、「猿どの」の句を題したものがあったが、実際この兎には人間以上の親しみが感ぜられる。泉鏡花氏も震災後の事を書いた「十六夜(いざよい)」という文中にこの句を引いて、

[やぶちゃん注:以下の引用は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。太字は底本も鏡花の原文も傍点「ヽ」。岩波版全集で校合し、一部を補正し、一部に読みを追加した。]

 

(猿どのゝ夜寒(よさむ)訪ひゆく兎かな)で、水上(みなかみ)さんも、私も、場所はちがふが、兩方とも交代夜番(かうたいよばん)のせこに出てゐる。町(まち)の角(かど)一つへだてつゝ、「いや、御同役いかゞでござるな。」と互に訪(と)ひつ訪はれつする。

 

と述べた。兎を人の如く扱ったという域を超えて、兎も人も何の変りがないように出来上っているのである。蕪村が「山家」という前書をつけたのも、あるいはそのためかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「小川芋銭」河童」既出既注

「草汁漫画」明治四一(一九〇八)年日高有倫堂刊。国立国会図書館デジタルコレクションの同書の画像ので視認出来る。

「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」この蕪村の句は俳諧博物誌(23) 狼 の本文に既出で、そこで私が既に詳注したので、参照されたい。

『泉鏡花氏も震災後の事を書いた「十六夜(いざよい)」』読みは歴史的仮名遣では「いざよひ」が正しい。大正一二(一九二三)年十月発表の随筆。「青空文庫」のこちらで読める。当該引用は「四」の終りの方。ここに出る「せこ」とは「迫・世古」で、町の横町・裏通りの意で、所謂、自警団の夜廻りにそこいらを巡るといった意味であろう。]

 芭蕉の『幻住庵記(げんじゅあんき)』に「あるは宮守の翁(おきな)、里の男(をのこ)ども入り來りて、『猪(ゐのしし)の稻くひ荒(あら)し、兎(うさぎ)の豆畑(まめばた)に通(かよ)ふ』など、我が聞き知らぬ農談」とある。兎と豆との交渉は翁も初耳だったと見えるが、遂に十七字中に入らなかった。後の俳人の中には折々これを句にしたものがある。

[やぶちゃん注:「幻住庵記(げんじゅあんき)」通常は「げんぢゆうあんのき」と「の」を入れて読む。「幻住庵」は滋賀県大津市国分の近津尾(ちかつお)神社境内にあった松尾芭蕉所縁の小庵。ここ(グーグル・マップ・データ)。芭蕉は「奥の細道」の旅を終えた翌元禄三(一六九〇)年三月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していたが、ここで門人菅沼曲水の奨めにより、同年四月六日から七月二十三日までの凡そ約四ヶ月ほど、ここで暮らし、この名品「幻住庵の記」をものした。芭蕉四十七歳。引用部は後半に出る。新潮日本古典集成の「芭蕉文集」等を参考に大幅に引用表記を変えた。但し、宵曲の引用に誤りがあるわけではない。]

 

 豆あらす兎の沙汰や秋の雨    士朗

 稻妻や豆に兎のつき初(そむ)る 嵐外

   十三夜

 名月や兎煮た家(や)の豆の出來 大魯(たいろ)

 

 豆を荒す兎は現実世界の消息である。豆が主になって兎は従になるのはやむをえない。大魯が特に「十三夜」の前書を置いたのは、八月十五夜の芋名月に対し、九月十三夜を栗名月または豆名月と称するためであろう。この場合、狡兎(こうと)は已に煮られた後であり、それがために豆の出来がいいのだとなると、いよいよ現実味が強くなりそうである。

[やぶちゃん注:「狡兎」は素早い兎。ここは「煮られた」と続くので、故事成句「狡兎良狗」「狡兎死して良犬煮らる」重要な地位につき、大きな功績を上げた人も、状況が変わって必要なくなれば捨てられるということ。

「良狗」は猟犬。

すばしっこい兎を取り尽くすと、賢い猟犬は必要なくなり、どれだけ役に立っていたとしても、煮て食べられてしまうという意で、「史記」の「淮陰侯傳」(韓信)に出る。但し、春秋時代の越の政治家范蠡(はんれい)が主君勾践を見限った際に、友人の同僚に送った手紙の中の文句が原拠である。]

 

 落栗(おちぐり)に兎の飛ぬけしきかな 望水

 落栗や兎のあそぶところなし      成美

 どん栗の落て耳うつ兎かな       爲有(ためあり)

 團栗やうさぎも共に霜崩(しもくづれ) 正秀

 

 栗の毬(いが)は鼠を防ぐためにも用いられる。栗が沢山落ちて毬その辺に散らばったら、兎の活動は妨げられるであろう。団栗が木から落ちる拍子に兎の耳を打つというのは、少しきわどいようだけれども、全然空想の作ではないかも知れぬ。

 

 山間や兎かけこむそばの花       夏桂

 かるがると飛(とぶ)や兎も露の中   蘆水

 みゝはやき兎飛けり萩の上       芬芳(ふんぱう)

   離婁之明(りらうのめい)

 はつあらし兎の毛並ほそりけり     筍深

  木賊(とくさ)に兎の畫の讚

 露の兎木賊に舌のあれやせん      馬光

  兎の讚

 何を聞(きき)何を見て居(ゐる)秋の暮

                    乙由

 

 夏桂以下の三句にはいずれも兎の動きが描かれている。兎が蕎麦畠に駈込むのは、単なる即景のようでもあり、蕎麦の花の白と兎の白との間に、いわゆる保護色的な意味を認めたようでもある。「離婁之明」は『孟子』にあった。離婁は古(いにしえ)の明目者(めいもくしゃ)の名、この場合は目のよく見える意味である。兎の毛は殊に細いものだから、よく見える対象として持出したのであろう。

[やぶちゃん注:「離婁之明」は「孟子」の「離婁章句上」に出る。

   *

孟子曰、離婁之明、公輸子之巧、不以規矩、不能成方員。師曠之聰、不以六律、不能正五音。堯舜之道、不以仁政、不能平治天下。

(孟子曰く、「離婁が明、公輸子が巧も、規矩を以てせざれば、方員(ほうゑん)を成すこと、能(あた)はず。師曠(しかう)が聰も、六律を以つてせざれば、五音(ごいん)を正すこと、能はず。堯舜の道も、仁政を以つてせざれば、天下を平治すること、能はず。)

   *

「離婁」(現代的仮名遣「りろう」)は中国古代の伝説上の人、離朱の異称。視力が優れ、百歩離れた所からでも、毛の先がよく見えたと言われる。「公輸子」は墨子と同時代の、魯の巧みな工人(技術者)の名。「規矩」は物差しとコンパス。「師曠」は春秋時代の晋の音楽家。「六律」は中国の音階の奇数番目の六音律で、「五音」はその基本音階で現代のド・レ・ミ・ソ・ラに当たる。]

2017/12/12

柴田宵曲 俳諧博物誌(25) 兎  一 (その1)

 

  

 

       

 

 因幡(いなば)の兎に遡(さかのぼ)り、かちかち山の兎を引合に出し、南方熊楠翁の『十二支考』あたりを参酌したりしてかかれば、話は兎の耳の如く長くなる可能性があるわけだが、範囲を俳諧に限ったのでは大した材料はありそうもない。しかし熊や狼と違って、兎はわれわれとはかなり親しい間柄である。あるいは子供の唱歌にいわゆる「前足短く後足長く」位のところに落著くかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「南方熊楠翁の『十二支考』」「十二支考 兎に関する民俗と伝説」(大正四(一九一五)年一月発行の『太陽』初出)。「青空文庫」のこちらで読める。]

 はじめ兎の句というものを漫然と考えた時、何だか秋の句が多そうな感じがしたが、実際に当って見た結果はやはりそうであつた。兎という動物に季の約束はないにしろ、古来御馴染の月の兎という景物があり、月が秋の季に幅を利かせている以上、俳人がこれを看過するはずがないからである。実際の兎と混雑する虞があるので、先ず月宮殿裏の先生からはじめる。

 

 越後路や空にも月の白兎    伊伯

 いとはじな月の兎の下り坂   忠也

 まん丸な月はまむきの兎かな  信全

 出すは耳ひくべき月の兎かな  重和

 天筆といふもや月の兎の毛   貞德

 

 これらはいずれも貞門の句である。不思議なことにこの兎たちは、月の兎と称するだけで臼も杵も持っていない。

 

 名月や丸に兎の帆をあげる   麥阿

 三日月に火も焚かねぬ兎かな  巢兆

 三日の月兎の耳のとがりかな  塘里

 後脚のかくるゝ月の兎かな   嘯山

 初月や兎の臼の作りかけ    白柱

   香木記

 臼の香や月の兎は聞知らん   也有

 

[やぶちゃん注:二番目の巣兆の句であるが、底本では「焚(た)かねぬ」とルビがしてある。これでは音数律どころか意味も判らぬ。調べて見たところが、これは「焚(たき)かねぬ」であることが判った。「てにをは」が命の発句にあって、このミスは致命的である。底本と全く違うルビを振ることに躊躇し、ブラウザの不具合も考えて、この句はルビを排除し、ここで注した。]

 

 終の二句に至って臼が出て来る。月の中の兎が臼に搗くものは、昔は薬であったらしく、李白なども「白兎擣藥成。問言與誰餐」といっている。それが兎の餅搗(もちつき)と相場がきまったのは、そう古い事ではないという話である。唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)の「兎兎何うすつくぞ十五夜のつきしらけたる影を見よとや」という狂歌も、「つきしらけ」で米を利かせているように見える。あるいは望月という言葉の縁から、餅搗になってしまったのかも知れない。俳諧の兎は臼を持出すだけで、何を搗くともいってないが、也有の句にはかえつて古い薬の匂がする。『鶉衣(うづらごろも)』の本文に、「君みずや、久かたの月の中にも、藥を搗くときけば」云々とあるので、由って来る所は自(おのずか)ら明である。

[やぶちゃん注:「白兎擣藥成。問言與誰餐」李白の私の好きな「古朗月行(こらうげつかう)」の一節。

 

  古朗月行

小時不識月

呼作白玉盤

又疑瑤台鏡

飛在靑云端

仙人垂兩足

桂樹何團團

白兔搗藥成

問言與誰餐

蟾蜍蝕圓影

大明夜已殘

羿昔落九烏

天人淸且安

陰精此淪惑

去去不足觀

憂來其如何

淒愴摧心肝

 小時(しようじ)月を識(し)らず

 呼んで「白玉の盤」と作(な)す

 又た疑ふ 瑤臺(やうだい)の鏡

 飛んで碧雲の端(はし)に在るかと

 仙人 兩足を垂る

 桂樹 何ぞ團團たる

 白兔 藥を搗いて成る

 問ふて言ふ 誰(たれ)に與へて餐(さん)せしむるかと

 蟾蜍(せんじょ)は 圓影を蝕(しよく)し

 大明(たいめい) 夜 已に殘(か)く

 羿(げい)は昔 九烏(きうう)を落とし

 天人 淸く 且つ 安し

 陰精(いんせい) 此(ここ)に淪惑(りんわく)

 去去(きよきよ) 觀るに足らず

 憂ひ 來りて 其れ如何(いかん)

 悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く

 

当該部は一九五八年岩波書店刊の中国詩人選集8「李白 下」の武部利男氏の訳によれば、『白うさぎは仙薬をついて作りあげるが、「いったいだれに食べさすの。」などとたずねたものだ。』で注に『中国古代神話によると、月世界では白いうさぎがいつも仙薬をついている』とされたとある。全訳は漢文委員会紀頌之氏の凄絶なブログ「李白集校注」のこちらこちらを参照されたい。

「唐衣橘洲」(寛保三(一七四四)年~享和二(一八〇二)年)は田安徳川家家臣で狂歌師。本名、小島恭従。大田南畝と朱楽菅江(あけらかんこう)らとともに天明狂歌ブームを築き上げ、狂歌三大家と囃された人物の一人。

「『鶉衣(うづらごろも)』の本文に、「君みずや、久かたの月の中にも、藥を搗くときけば」云々とある」尾張藩士で俳人の横井也有(元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)の「鶉衣」は好私の好きな俳書であるが、正字の原文で電子化したいので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらにある明治四二(一九〇二九)年共同出版刊の画像を視認して示す。「香木記」は「かうぼくのき(こうぼくのき)」と読み、安永元(一七七二)年、也有七十一の時の作。一部に読みを歴史的仮名遣で添え、句読点も不審な箇所が多いので、オリジナルに付け替えた。一部、二〇一一年岩波文庫刊の堀切実校注「鶉衣」で補訂した箇所があるが、そこに注を附した。

   *

   香木記

むかし、龍の繪を好(す)ける人には、眞の龍、顯れて、姿見せけるとぞ。好むに信あれば物に感應ある事、なきにあらず。我(わが)府下に、花井某、深く香の道を好みて、常に樂(たのし)む事、久し。しかるに[やぶちゃん注:底本は「かるに」]、其家に古く傳(つた)へたる臼あり。いたく年經るまゝに、底なども破れにたれば、今は所せき不用の物なりとて、くだきて釜木(かまぎ)に打交(うちまぜ)けるに、ある日、いみじき妙なる香の、家にみちわたりけるを、怪(あや)しみて求(もとむ)るに、かの竃(かまど)に燒ける臼の木なりけり。心いれて見るに、實(げに)、木(き)のさまも、世の常ならず。おどろきて、香の師のがり、たづさへ行(ゆき)て、是を問ふに、うたがはず、赤栴檀(しやくせんだん)にさだまりぬ。名はそのまゝに花井臼(はなゐうす)と呼ぶとぞ。柯亭竹(かていちく)の笛、焦尾(せうび)の琴を得たるためしにもかよひ、邇日(ちかごろ)、こゝら、あつかひ草(ぐさ)にして、めで[やぶちゃん注:底本は「めて」。]羨む事にぞ有りける。されば、臼といふものは、賤(しづ)の手にならして、そのしな、下(さが)れるに似たれど、君みずや、久かたの月の中にも、藥を搗(つ)くときけば、もしや、其(その)臼も、此木の類にやあらむ。

  臼の香や月の兎はきゝ知らむ

   *

語注は附さぬ。岩波文庫でみられたい。]

 巣兆、塘里、白柱の三人はいずれも月のはじめに当って、兎の栖(すみか)の狭隘(きょうあい)なることをいい、嘯山は後(のち)の月であるために「後脚のかくるゝ」という趣向を持出した。十三夜の月は僅に満たぬ状態にあるから、兎の後脚が隠れて見えぬという。これらの句には一点の理が潜んでいる。

 下界の兎について見ても

 

   月の下に兎の畫に

 もし月をぬけた兎か笹の陰     也有

 

などは依然として月中の影が附纏(つきまと)っているし、

 

 秋の尾も兎程あり後の月      也有

   餞別

 行月をとゞめ兼(かね)たる兎かな 此竹(しちく)

 

の如き句になると、兎は何かの譬喩(ひゆ)に使われているだけで、愛すべきこの動物は句中に姿を現しておらぬ。それでは兎と月との因縁は悉く月宮殿の流を汲んでいるかというと、必ずしもそうではない。実際の兎もまた月光に照されているのである。

 

 名月や尾上(をのへ)の兎みゆるほど 千崎(せんき)

 名月や兎の籠の置處(おきどころ)  白主

 犬を鹿猫を兎やけふの月       存義(ぞんぎ)

 戰にうさぎ嬉しや月今宵       鷲長

 兎ならちと出て遊べ月の中      八町

 野兎の丸う成たり後の月       太無

 兎の子百目になりぬ後の月      大江丸

 子をつるゝ兎も後の月見かな     吟江

 

 「兎の籠の置處」の句は飼兎だから別問題であるが、他の句には兎が月に浮れるというほどではないにしても、嬉々として月夜に遊んでいるような様子が窺われる。「犬を鹿」というのは犬や猫を山野の獣に見立てたわけで、実際の兎が徘徊しているのではないけれども、作者は月夜に遊ぶ兎というものを頭に置いて、しかる後猫を名代(みょうだい)に使ったのであろう。「兎なら」という句にもその心持がある。松浦静山侯なども『甲子夜話』の中で「児謠に兎兎何視てはねる、十五夜のお月さまを觀てはねると云ふ、是兎の月を好を云ふにや」といい、野兎を沢山捕らせて寵に入れ、月下の築山に一夜置いたところ、翌朝は一疋もいなかったという経験談を記しているし、林笠翁の『寓意草』にも兎が月夜に籠を抜出して越後川の面を走り去ったという話が書いてある。「うさぎは月に向へば身の自由に成て、いかにちひさきこのめよりもいでて水の面をはしるとなん」とあるのは眉唾物であるが、少くとも古人がこういう考を持っていたことだけは注意しなければならぬ。

[やぶちゃん注:松浦静山の「甲子夜話」電子化注ていが、なかなか進まぬ。これもどこに書いてあるかが判らぬと原典が引けぬ。何方か、御存じの方、巻数をお教え下されよ。

「寓意草」幕臣で後に浪人になって諸国を巡ったとされる岡村良通(元禄一二(一六九九)年~明和四(一七六七)年)の随筆。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して、「上」の中に見つけた。短いので視認して電子化する。

   *

越後川のほとりにすまひける人の、兎をこに入て

かひける、秋の頃月のあかき夜のきにかけおきたれば、みなこよりぬけて、河の面をはしりさりぬ、こにひまもなし、めよりいでける、をさぎは搗きに向へば身の自由に成て、いかにちいさきこのめよりもいでて、水の面をはしるとなん、

   *]

 大江丸の句は無論飼兎で、後の月の時分にその子が百匁位に育っていたという偶然の事実に興味を持ったのであろう。この種の句は軽いところに生命がある。月との因縁もなるべく手軽に見る必要があるので、強いて結付けようとすれば、どうしても理に堕しやすい。

[やぶちゃん注:「百匁」(ひゃくもんめ)は三百七十五グラム。一般的な本邦の野うさぎであるウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus の標準体重は一・五~から二・五グラムである。]

 

 名月やうさぎのわたる諏訪の海   蕪村

 

この句は全く理想世界のものである。「緑樹かげ沈んで魚樹にのぼるけしきあり、月海上に浮んでは兎も波を走るか」という謡曲「竹生嶋」の文句は、「綠樹影沈魚上木。淸波月落兎奔浪」という僧自休(じきゅう)の詩を用いたのであるが、蕪村は一面この趣向を籍(か)りると同時に、舞台を琵琶湖から信州の諏訪湖に移動させた。諏訪湖には狐が渡って後、はじめて氷上を渡り得るという伝説があり、談林時代の俳人も「諏訪の海や麒麟渡らん氷の樣 調幸子(ちょうこうし)」などという句を作っている。蕪村の場合は名月の湖なるが故に、兎の渡る趣向が活(い)きるのである。

[やぶちゃん注:蕪村の句は明和八(一七七一)年の句稿。

『謡曲「竹生嶋」』梗概はサイト「thecom.」のを。詞章は(PDF)がよい。

「綠樹影沈魚上木。淸波月落兎奔浪」ルビがあるが除去したので、ここでまず、底本に準拠して訓読しておくと、「綠樹(りよくじゆ)に影(かげ)沈(しず)んで魚(うを)木に上(のぼ)り。淸波(せいは)に月(つき)落(お)ち兎(うさぎ)波(なみ)に奔(はし)る」である。以下、伝えられる全詩をオリジナルに訓読しておく。

   *

 

 自休藏主詣竹生嶋作詩

綠樹影沈魚上木

淸波月落兎奔波

靈灯靈地無今古

不斷神風濟度舟

   自休藏主(ざうす)、竹生嶋に詣でて作る詩

  綠樹 影 沈み 魚(うを) 木に上(のぼ)る

  淸波 月 落ち 兎 浪を奔る

  靈灯靈地 今古無く

  不斷の神風(しんぷう) 舟を濟渡(さいど)す

   *

宵曲はこの漢詩が先にあったとするのであるが、しかし、近世の謡曲解釈書である犬井貞恕の「謡曲拾葉抄」によれば、自休は謡曲「竹生島」の、かの詞章に惹かれて、この詩を作ったというのが、どうも事実らしいYan 氏のブログ「古代文化研究所」の主」を参照されたいが(漢詩原文全体はこちらを参考にした)、この自休蔵主という人物は私はよ~く、知っている、のである。だって、鎌倉の建長寺の広徳庵の自休蔵主でしょ? ほれ! 江ノ島の稚児が淵若衆道心中の坊主だもの! 『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より江の島の部 12 兒が淵やその注をどうぞ!]

老媼茶話巻之七 釜煎

老媼茶話卷之七

     釜煎

 

 「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」には、釜煎(かまいり)は大臣家(だいじんけ)にあらずしては、なりがたし。臺德院樣御代、石川五右衞門といふぬす人、三條河原にて釜ゐりに被仰付(おほせつけ)らるゝ。御當代、これ、始(はじめ)也。

 蒲生藤三郎秀行卿、其身(そのみ)、正四位下宰相にて、領内の罪人、毎度、釜煎申付(まうしつけ)られ候。そのむくひにて、子孫斷絶せしといへり。

 宰相の御代、會津、中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村に平七といふ百姓、有(あり)。此もの、鳥殺生(とりせつしやう)を能(よく)する。

 ある時、「しらふ」の雲雀(ひばり)、本郷河原といふ所にて取(とり)、宿へ歸り、女房に見せ申(まうし)けるは、

「此(この)雲雀は、當時、珎敷(めづらしき)『しらふ』也。天下をしなべて、小鳥流行なれば、殿樣へ差上(さしあげ)、過分の御褒美いたゞくべし。嬉敷(うれしき)事なり。」

とて、大きに悦(よろこぶ)。女房、きゝもあへず、

「今の殿樣をば、『しぶ柹(がき)宰相樣』とて、人、皆、うとみはて、大欲無道のとの樣なり。たとへ、『しらふ』の雲雀は扨置(さておき)て、きんのひばりを上(あげ)給ふとも御褒美は存(ぞんじ)もよらず。けつく、『百姓の務(つとむ)べき農作は不動(はたらかず)して、殺生致(いたす)事、不屆也、身こらしに』とて、いかなるうきめにか逢(あひ)玉ふべき。とくして、仙臺へ持行(もちゆき)、仙臺の殿樣へ賣り玉ふべし。必(かならず)、當所の殿さまさしあげ玉ふな。」

と申ける。

 平七、女房の申(まうす)に任せ、忍(しのび)て閑道(かんだう)を經(へ)、仙臺へ行(ゆく)。

 仙臺中納言政宗卿へ賣上(うりあげ)、金子十五兩、くだされける。

 平七、大きによろこび、會津歸り、女房に向ひ、

「汝がおしへにしたがひ、如此(かくのごと)し。」

と、金子を差出(さしいだ)し、見せて、悦びける。

 女の饒舌(ジヨウゼツ)、末のわざはひを、知らざりけり。

 此(この)雲(ひ)ばり、政宗卿より將軍樣へ差上(さしあげ)玉ふ。將軍樣、甚御寵愛被遊(あそばされ)、

「此雲雀、『しらふ』にして、類(たぐひ)なき名鳥なり。鳴音(なくね)、大音(だいおん)にて、いさぎよく御所中にひゞく。定(さだめ)てつたへ聞召及(きこしめしおよ)ばれし、かの奧州名取郡宮城野ゝ、はぎの名所の野邊より、もとめつらん。」

との上意也。

 政宗卿、謹(つつしみ)て申被上(まうしあげられ)けるは、

「此鳥は我領内より求(もとめ)つるにては候はず。若君樣、小鳥御好被成(このみなさる)事故、若(もし)、珎敷(めづらしき)鳥も候はゞ、御慰(おなぐさみ)にさし上度存(さしあげたくぞんじ)候て、近國へ申遣(まうしつかは)し、會津領より、求め候て差上候。」

と被申上(まうされあげ)ける。

「會津に加樣(かやう)の名鳥出(いづ)るならば、宰相方(かた)よりこそ可差上(さしあぐべき)に、そまつなる仕形(しかた)なり。」

とて御機嫌あらく、秀行卿、めいわくなさるゝ。

 依之(これによりて)、秀行卿、御在國なりければ、江戸家老より會津國家老右の趣(おもむき)、こまやかに申遣(まうしつかは)す。

 兼々、會津にても小鳥殺生の役人有(あり)て、すべて小鳥をも其筋へ差上候掟(おきて)也。

 國家老、嚴敷(きびしき)詮義のうへにて、平七、罪、悉く顯れ、女房が惡言も知(しら)れければ、夫婦共に、大川河原にて釜煎に成

 其刑罪場所、「平七畑」とて近き頃まで有けるが、元祿十五年午(うま)の十月二日の洪水にて、其所、押流し、今は河原と成

 平七が幽靈、雨ふり闇夜は、夫婦ながら、くだんの刑罪場へ立出(たちいで)て、泣(なき)さけびしを、村人、度々、見たるなり。

 蟹川村寶光院の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

 石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)。辭世、

  石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ

 或記に、加藤左馬介、大坂より伏見へ被參(まゐられ)ける道、日暮がた、伏見なはてにて、ぬすびとの大將石川五右衞門、手下の盜人大勢、鐵砲三拾挺、其間へ鑓を組合(くみあひ)伏置(ふせおき)、使(つかひ)を以て左馬介殿へ酒手(さかて)を乞(こひ)ける。

 嘉明、聞(きき)て、

「につくき盜人め。それ、壱人もあまさず、なでぎりにせよ。」

と自身、大長刀(おほなぎなた)をおつ取(とり)、かけ出(いで)られける。

 此勢ひに恐れ、五右衞門を始(はじめ)、ちりぢりに逃失(にげうせ)たり。前々、此如(かくのごと)くして、諸大名より、大分(だいぶん)、金を取(とり)けり。

 

[やぶちゃん注:「釜煎」一般に「釜茹(かまゆ)で」で知られるが、大きな釜で熱せられた湯や油を用いて罪人を茹でる死刑方法で、石川五右衛門の場合は油が用いられたとする説があり、その場合は「釜煎り」が相応しくはある。ウィキの「釜茹でによれば、『日本においては、戦国時代から江戸時代まで、釜茹での刑が存在して』おり、それ以前に『刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり』十三~十四『世紀には、地獄の刑罰』として広く『認知されていたことがわか』り、従って、『京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる』とあり、『金沢藩では』元和四(一六一八)年、『姦通の末に夫を殺害した田上弥右衛門の妻たねが「釜煎」に処された』とある。

「諸家深祕錄(しよけしんぴろく)」作者不詳の江戸初期に成立した戦国大名諸家に関する記述を集めた書。「国文学研究資料館」のデータベースに同書の全画像があるが、以前に述べた通り、私のパソコンでは画像表示が異様にかかるので、探索は諦めた。悪しからず。

「大臣家(だいじんけ)」江戸時代、大臣の資格があると認められていた家柄。中院(なかのいん)・正親町三条(おおぎまちさんじよう)・三条西の三家。

「臺德院」この箇所、底本では、改行して一マス目から書かれている。これは所謂、敬意を示すための書式であるが、私は無視して前に続けた。台徳院は第二代将軍徳川秀忠(在位:慶長一〇(一六〇五)年五月一日(征夷大将軍宣下)~元和九(一六二三)年七月二十七日隠居)を辞任の法号。但し、現行では石川五右衛門は安土桃山時代の人物とされており、この謂いはおかしい。思うに、本話柄の中心である「雲雀」事件の時制と勘違いしているのではなかろうか?

「石川五右衞門」(?~文禄三年八月二十四日(一五九四年十月八日))は安土桃山時代の盗賊の首長。ウィキの「石川五右衛門」より引く。『従来』、『その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている』。『江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た』。『都市部を中心に荒らしまわり、時の為政者である豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で一子と共に処刑された。墓は京都の大雲院にある。これは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前に至った際、そこで住職に引導を渡された縁による』。『史料に残された石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものである。まず、安土桃山時代から江戸時代初期の』二十『年ほど』、『日本に貿易商として滞在していたベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した』「日本王国記」に『よると、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、』その十五『人の頭目が捕らえられ』、『京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述がある。ここにイエズス会の宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、この盗賊処刑の記述に』、『「この事件は』一五九四『年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族』九『人ないしは』十『人であった。彼らは兵士のようななりをしていて』十『人か』二十『人の者が磔になった」』『と記している』。また、公家の山科言経(ときつね)の日記「言経卿記」には、文禄三年八月二十四日『の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」との記載があり、誰が処刑されたか記されてはいないものの』、『宣教師の注釈と一致を見る。また、時代はやや下るものの』、寛永一九(一六四二)年に編纂された「豊臣秀吉譜」『(林羅山編)は「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類』二十『人とともに釜煎りにされた」と記録している。以上の史料にはそれぞれ問題点も挙げられているが、石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている』とある。

「三條河原」この附近(グーグル・マップ・データ)。

「蒲生藤三郎秀行」陸奥会津藩主。既出既注

「正四位下宰相」蒲生秀行は従四位下・飛騨守・侍従であった。侍従は参議(唐名「宰相」)の下であるから、正しい謂いではない。

「宰相の御代」文禄四(一五九五)年から慶長三(一五九八)年に宇都宮に移封されるまでの短い時期と、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」での軍功によって会津に復帰した時から、死去した慶長一七(一六一二)年五月十四日までになるが、後に仙台藩主として伊達正宗が登場するから後者の時期

「中荒井組蟹川(なかあらいぐみかにがは)村」現在の会津若松市北会津町蟹川。ここ(グーグル・マップ・データ)。中荒井は現在、その地区の南西に接してある(ここ(グーグル・マップ・データ))から、「中荒井組」とは村落共同体的なものを指すか。

「しらふ」「白斑」。たヒバリ(スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis)の背中には、それぞれの羽を縁取る多くの白斑が入るが、それは必ずしも珍しいものではない。

「本郷河原」JR東日本只見線に会津本郷駅(福島県会津若松市北会津町上米塚)があり、平七の住まう蟹川とも近く、阿賀川河岸であるから、この附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「しぶ柹(がき)宰相」「澁柹宰相」。蒲生秀行このような渾名があったことは調べ得なかった。

「うとみはて」「疎み果て」。

「けつく」「結句」。挙句の果ては。

「不動(はたらかず)して」「動」はママ。「働かずして」。

「身こらし」「身懲らし」め。

「いかなるうきめ」「如何なる憂き目」。

「とくして」「疾くして」。

「仙臺の殿樣」後に出る仙台藩の初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)。彼が仙台に開府するのは慶長六(一六〇一)年。

「閑道(かんだう)」普通は「間道」。

「將軍樣」前に述べたように、蒲生秀行が会津藩主である時期は秀忠の治世である。

「奧州名取郡宮城野」は「源氏物語」にも既に詠まれた平安の昔からの歌枕で、「奥の細道」で芭蕉も訪ねている(リンク先は私が二〇一四年に行った「奥の細道」全行程のシンクロニティ・プロジェクトの一篇)。陸奥国分寺が所在した原野で「宮木野」とも書き、「宮城野原」とも称した。陸奥国分寺は現在の真言宗護国山医王院国分寺の前身であるが、本寺は室町時代に衰微、後に伊達政宗によって再興されたものの、明治の廃仏毀釈で一坊を残して廃絶、それが現存の宮城県仙台市若林区木下にある国分寺名義となって残る。ここ(グーグル・マップ・データ)で、地形的には若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいであろう。

「はぎの名所」ここで言う「萩」は通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。

「若君樣」かく言うのは父家康が存命であるからで、家康は元和二年四月十七日(一六一六年六月日)に没しており、蒲生秀行が死去したのが、慶長一七(一六一二)年であるから、秀忠がこの事件は、事実とするならば、その間(一六一二年から一六一六年)の間の出来事とみなすすることが出来る。秀忠は天正七(一五七九)年生まれであるから、この時、満三十三から三十七歳となる。

「仕形(しかた)」「仕方」。仕儀。

「めいわく」「迷惑」。

「大川河原」「大川」は福島県会津盆地を流れる阿賀野川本流上流の会津地方での呼称。

「平七畑」位置不詳。

「元祿十五年」一七〇二年。

「蟹川村寶光院」福島県会津若松市北会津町蟹川に現存する。真言宗。ページで位置が確認出来る。

の過去帳には、釜煎とはなく、『雲雀上(のぼさ)ざる咎(とが)にておもき刑におこなはる』とあると、なむ。

「石川五右衞門、もと河内國石川のもの、七歳より盜(ぬすみ)をいたし、四十弐歳にて、三條河原にて釜煎に成(なる)」ウィキの「石川五右衛門」によれば、伝説上では、彼の『出生地は伊賀国・遠江国(現浜松市)・河内国・丹後国などの諸説があり、伊賀流忍者の抜け忍で百地三太夫の弟子とされる事もある。遠州浜松生まれで、真田八郎と称したが、河内国石川郡山内古底という医家により石川五右衛門と改めたという説もある』。『丹後国の伊久知城を本拠とした豪族石川氏の出であるとする説がある。石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたが、天正十年、一色義定の代の頃、石川左衛門尉秀門は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手によって謀殺され、伊久知城も落城した。落城の際、秀門二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門となったとする。この故に豊臣家(秀吉)を敵視していたと伝わる。伊久知城近辺には五良右衛門の姉の子孫が代々伝わっているとされる』。また、『一説に「三好氏の臣 石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し』、十六『歳で主家の宝蔵を破り、番人』三『人を斬り』、『黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた」とも』言われるとある。なお、彼が『処刑された理由は、豊臣秀吉の暗殺を考えたからという説もある』という。因みに、三坂の自信を持った四十二が享年だとすれば、彼の出生は天文一三(一五五三)年ということになる。

「石川や濱の眞砂は盡る共よも盜人の種は盡きまじ」整序すると、

 

 石川や濱の眞砂(まさご)は盡(つ)きるともよも盜人の種は盡きまじ

 

であるが、一般に流布されているそれは、

 

 石川や濱の眞砂は盡くるとも世に盜人の種は盡くまじ

 

である。ウィキの「石川五右衛門」によれば、これは「古今和歌集」の「仮名序」にある、譬え歌として挙げられてある、

 

 わが戀はよむとも盡きじ荒磯海(ありそうみ)の濱の眞砂はよみ盡くすとも

 

の本歌取ではないかとする。

「加藤左馬介」伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人で、さんざん出てきた加藤明成の父。

「伏見なはて」「伏見繩手」。りか(グーグル・マップ・データ)。この場合の「繩手」は「田の間の道・畦道」或いは「真っ直ぐな道」を指す。

「なでぎり」「撫で斬り」。]

老媼茶話巻之六 邪見の報 / 老媼茶話巻之六~了

 

     邪見の報

 

 奧州にて、何方(いづかた)といふ處は知らず、甚六といふ百姓有り。ほういつ邪見、類(たぐひ)なきものなり。父母、はやく死(しに)て、姉壱人、有(あり)。姉も若くして夫を失ひ、孀住(ヤモメずみ)にて、壱人の娘「ふじ」とて、十二成(なる)を持(もち)けり。此姉も、風をなやみて、死す。

 姉の娘、懸(かか)るべきよすがもなかりしかば、甚六、ひきとりけるに、つらくあたりける事、いふ斗(ばかり)なし。

 或時、ものゝうせけるに、

「ぬすみ取(とり)たるらん。」

とて、冬の事なるに、つよくしばりて、うらの栗の木にくゝり付(つけ)、食も喰(くは)せず。

 娘は、なきさけび、もだへこがるれども、誰(たれ)取(とり)さゆるものも、なかりしかば、曉方(あかつきがた)、終(つゐ)に、こゞへ、死す。

 死骸(むくろ)をも野原へ捨(ス)てけるまゝ、おのづから鳶・烏の餌食となしぬ。

 女郎(メロウ)がぬすみしといゝしものも、程經(ほどへ)て、おもわずの所より出(いで)にけり。

 其明(あく)る春、元朝に、持佛堂、頻りになり出し、誰業(たがわざ)とも知れず、位牌其外、佛具、甚六夫婦がひざ元へ、なげやりける。

 其夜より、めろうが面影、有有(ありあり)と甚六が目に見へて、いぶせかりしかば、山伏を賴み、祈禱をするに、しゆみだんに餝(かざ)り置(おき)たる、とつこ・花皿(はなざら)・れい・しやくじやう、不殘(のこらず)、表へなげ出(いだ)しけるまゝ、山伏、肝をけし、逃歸(にげかへ)る。

 甚六、

「神に願懸(ぐわんかけ)をして、此あやしみをのがれん。」

と思ひ、柳津(やないづ)へ參り、歸りに岩坂といふ處にて夕飯を認(したた)めけるに、茶屋の亭主、弐人前の膳を出(いだ)しける儘、

「我、壱人にて、つれは、なし。一膳の外(ほか)いらぬ。」

といふ。

 亭主申(まうす)は、

「慥(たしか)に、十二、三ばかりの女郎(メロウ)の、ふるきゆかたに三蔦(つた)の紋、付(つけ)しが、髮もゆわず、面(おもて)も洗はず、きたなげなるが、

『我等は甚六が姪にて候。膳を認(したた)め呉候得(くれさふらえ)。』

と申(まうし)て、座敷へ入(いり)候まゝ、二膳、儲(まうけ)しに、其めろうは、いづくへ行(ゆき)候哉。」

といふ。

 甚六、心に思ふ、

『扨(さて)は。「ふじ」めが亡靈、付(つき)ありくよ。』

と思ひながら、

「あるじは何を見玉ひし。我より外に、とものふ者もなきもの。」

といふて、其夜はとゞまり、曉(あかつき)早く、宿へ歸りけるに、坂下(ばんげ)と云(いふ)里にて咽(のど)かわきけるまゝ、折節、出茶屋(でぢやや)に冷麥(ひやむぎ)の有(あり)けるを、茶店に腰懸(こしかけ)ながら、喰けるが、弐、三度、さらを取落(とりおと)し、打(うち)こぼしけるうへ、皿を割(わり)ける。

「是は。おもわず、そそふ、いたしける。面目(めんぼく)なし。」

といへば、茶やの男、

「されは不思義なる事候。其方(そなた)の側(そば)に、十二、三斗(ばかり)の小(こ)めろう、付添居(つきそひゐ)て、冷麥を喰(くは)んといたさるれば、手を出(いだ)し、皿を引取(ひきとり)、打(うち)こぼし候。今も、左の方(かた)に、まぼろしごとく、居(ゐ)申(まうし)たり。」

といふ。

 甚六、彌(いよいよ)心をくれ、宿へ、かへりける。

 日暮て行灯(あんどん)をともしけるに、此行灯、持(もつ)人もなく、中(ちゆう)を飛(とび)あるきける間(あひだ)、家内の者共、驚見(おどろきみ)れば、行灯を持(もち)ける小(ちひさ)き手節(てぶし)斗(ばかり)有(あり)て、人は、みへず。

 とび懸り、おさゑんとすれば、手にさわるもの、なし。

 甚六夫婦ふしける寢屋鍋・かま・藥鑵(ヤクハン)の樣なるものを、つぶてに打入(うちいれ)、

「是は。」

と、驚起(おどろきおき)さわぐに、何も、なし。

 せんかたなくなりけるに、あるもの申けるは、

「是は何樣(なにざま)、狐狸の類ひ成(なる)べし。化ものゝ通ふべきと思ふ所へ干砂(ヒスナ)をふり置(おき)、足跡を見玉へ。」

といふ。

 甚六、

「實(げ)にも。」

とて、亡靈の來(きた)るべきとおもふ、高窓の下へ、砂をふりける。

 某日の暮方、件(くだん)の窓より、幽靈、顏を出(いだ)し高高(たかだか)と笑(わらひ)、

「我を狸狐とおもふかや。己(おのれ)が惡逆、已に報ひ、天より下(くだ)れる災(わざはひ)なり。いかゞして遁(のが)るべき。覺悟せよ。」

と言(いひ)て消失(きえうせ)たり。

 其後、甚六、さまざま、「ふじ」が跡、よく吊(とむら)ひければ、亡靈もきたらず、つゝがなかりし、とかや。

 

 

老媼茶話卷之六終

 

[やぶちゃん注:このエンディングは、この慈悲もなき甚六にして、怪談として承服することは私には全く出来ない。本篇は、冷麦のシークエンス及び行灯のところに小さな瘦せた手首だけが見えるシーンが、まっこと、絶品である。

「ほういつ」「放逸」。

「こゞへ」底本は「こゝへ」。歴史的仮名遣の誤りで「凍え」。底本も右に添漢字で『凍』とする。

「女郎(メロウ)」歴史的仮名遣は「めらう」が正しい(現代仮名遣は「めろう」)。後に出る「小女郎」とともに小娘・少女の意。

「しゆみだん」「須彌壇」。仏堂内等に置いて仏像を安置する台。帝釈天の住むとされる須弥山(しゅみせん)を象ったものとされ、四角・八角・円形などの形のものがある。

「とつこ」「獨鈷」。密教・修験道で用いる仏具金剛杵(しょ)の一つ。金属・象牙などを主材料とし、中央に握り部分があり、両端が尖っている杵形(きねがた)の仏具。元は古代インドに置いて敵に投げつける武具。独鈷杵(とっこしょ)。

「花皿(はなざら)」「花籠・華筥」と書いて「けこ」とも呼ぶ。法事の際に散華(さんげ:仏を供養するために周囲に花を蒔き散らすこと。現行では蓮の花弁に象った紙を用いる)に用いる花を入れる仏具。元は竹籠であったが、後には金属で皿形に作り、下に飾り紐や房を垂らし、装飾性が高くなった。

「れい」「鈴」。独鈷等と同じ法具の一つである五鈷鈴(ごこれい)であろう。独鈷の仲間で両端が五つに分かれているものを五鈷(杵)と呼ぶ(以下、私の目の前にずっと昔、タイで買ったそれが置いてある)が、その一方が鈴になっているもの。

「しやくじやう」「錫杖」。

「柳津(やないづ)」現在の福島県河沼郡柳津町(やないづまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「參り」とあるのは、同地区にある霊岩山円蔵寺であろう(縁起などによれば、大同二(八〇七)年に空海作とされる虚空蔵菩薩像を安置するために徳一なる人物が虚空蔵堂を建立したのを始めとする)ここの只見川畔にある臨済宗(現在)の霊岩山円蔵寺(本尊は釈迦如来)の虚空蔵堂は「柳津の虚空蔵さま」として親しまれ、その本堂の前は舞台になっていることは既に注した。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「岩坂」柳津町柳津岩坂町甲があり、ここはまさに円蔵寺の北直近である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「ふるきゆかた」「古き浴衣」。

「三蔦(つた)の紋」これ(グーグル・画像検索「三ツ蔦」)。

「とものふ」「伴ふ」。

「宿」自宅。

「坂下(ばんげ)」現在の福島県河沼郡会津坂下町(ばんげまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)以上の三つの地名から、冒頭、「奧州にて、何方(いづかた)といふ處は知らず、甚六といふ百姓有り」と始めているものの、甚六の居所は現在の会津若松市内或いは猪苗代周辺と推理してよいと思われる。

「そそふ」「麁相・粗相」。

「中(ちゆう)」「宙」。

「おさゑん」「押さへん」。

「甚六夫婦ふしける寢屋江鍋・かま・藥鑵(ヤクハン)の樣なるものを、つぶてに打入(うちいれ)」「是は」「と、驚起(おどろきおき)さわぐに、何も、なし」「天狗の石礫」というよりも、これは最早、「ふじ」という未成年の少女(ここでは亡くなっているけれども)が関係するというあたりも、典型的なポルターガイスト(ドイツ語:Poltergeist)現象で、実に興味深い。]

2017/12/11

老媼茶話巻之六 狼

 

     

 

 武州江戸のもの、奧州の名所松嶋を見に、はるばると下りけるに、松嶋行詰(ゆきづま)て、山道に迷ひ、山中へ入りけるに、人目(ひとめ)稀(まれ)なる谷影に、時雨(しぐれ)も月も嘸(さぞ)もるらんと、あさましき賤(しづ)が家(や)あり。

「道をとはん。」

とおもひ、案内を乞ひ立入(たちいり)けるに、内には年寄りたる翁(おうな)と姥(うば)と有(あり)。

 娘と覺敷(おぼしく)て、廿(はたち)餘りの美女、しずのおだ、をへて、姥が側に有り。

 容氣、至(いたつ)て美麗なりしかば、旅人、愛念を生じ、暫(しばらく)休(やす)らいみるに、誠に天性の美人なりしかば、姥に向ひ、

「そこつに候得ども、懸(かか)るいぶせき山中に侘敷(わびしく)住(すみ)玉はんより、御娘を我(わが)妻にあたへ玉へ。然らば、老人夫婦をも武藏へ引取(ひきとり)殘曆(ざんれき)をたのしませ候はん。」

といゝければ、夫婦、申樣(まうすやう)、

「我等は齡(よは)ひ、すでにかたむき、あすをも知らぬ老の身にて候まゝ、この山中にすみ果て候とも、壱人の娘、世にあらせたく候。御望(おのぞみ)ならば、參(まゐら)せ候はん。」

といふ。

 旅人、大きに悦び、老人夫婦に金子(きんす)多くあたへ、松嶋の見物は差置(さしおき)て、急ぎ江、戸へ歸り登りけるが、三年を經て、妻、申樣、

「かりそめに父母にたち離れ、既に三年に及(および)候。其内(そのうち)、便りもなさゞれば、さこそ恨(うらみ)て過(すぐ)し玉ひなん。此度(このたび)、思ひ立(たち)、奧州下り、父母に對面申度(まうしたし)。」

と侘(わび)ければ、男、元より富有(フクユウ)の者なるうへ、松嶋も又、みまほしく、妻の望(のぞみ)にまかせ、供人少々にて、奧州へ下りける。

 程なく、件(くだん)の處に至り、ありこし宿を尋ねけるに、庵の跡は有(あり)ながら、柱、倒れ、壁、落(おち)て、絶(たえ)て、人もなく見へにけり。

 片原(かたはら)を能(よく)みるに、大きなる狼の骸(むくろ)の雨風にくちたるが、弐疋、打重(うちかさな)り、死居(しにゐ)たり。

 死(しし)て久敷(ひさしき)とみへて、肉は殘らず、かれけれど、皮・ほねは尚、全く續き有(あり)。

 女、此死骸を見て、

「我(わが)父母、すでに人の爲に殺され玉へり。口惜しさよ。」

といふて、身ぶるいすると見へしが、忽ち、大きなる狼となり、ほへ怒(いか)て夫に懸向(かけむか)ふ。

 夫、大きに驚き、刀を拔(ぬき)、ふせぎけるが、終(つゐ)に狼に喰殺(くひころ)さる。

 供の男ども、是を見て、跡をも見ずして、逃歸(にげかへ)りけるとかや。

 

[やぶちゃん注:これはかなり知られた狼の異類婚姻譚で、複数、存在する。私の読んだものは二つあり、孰れも東北が舞台であったが、私の記憶では、最後がこのように凄惨でないものもあったやに思う。今直ぐにそれらを提示出来ないが、書棚の中にはあるはずのものであるから、見出し次第、書誌等を示す。

「行詰(ゆきづま)て」進んだ道が完全な行き止まりで。

「もる」「漏る」。

「しずのおだ」ママ。「倭文(しづ)の苧環(をだ)」。苧環(おだまき)で「しづ」(上代は「しつ」と清音)は梶(かじ)の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布を作るために、紡いだ糸を巻いて中空の玉にしたもの。

「をへて」不詳。「を」は格助詞で、「へて」は動詞らしいが、ピンとくるものが浮かばぬ。或いは「をへ」で「終(を)ふ」(ハ行下二段動詞)で、「巻き終えて」の意か。

「そこつ」「麁忽・粗忽」不躾な急な軽はずみな無礼なること。思慮もなき失礼なこと。

「いぶせき」山家(やまが)のこととてひどく不便で窮屈な。

「殘曆(ざんれき)」余命。

「片原(かたはら)」「傍ら」。

「かれけれど」「枯れけれど」。]

老媼茶話巻之六 山中の鬼女

 

     山中の鬼女

 

 信濃より都へのぼりける旅人、木曾路にて道にふみまよい、爰(ここ)かしこと、さまよひ、或山中に壱家(や)を見付(みつけ)、悦(よろこび)て立寄(たちよ)り、宿をかりけるに、五十斗(ばかり)の女、立出(たちいで)て、宿を貸(かし)ける。

 外に人もなく、かの女斗(ばかり)、いろりの側(そば)に、何やらん、なべに取り入れ、火を焚居(たきゐ)たり。なべより、

「ぐつぐつ。」

と煮上りける香(ニホイノ)、頻(シキ)りに、うまくにほひけるを、旅人、申樣(まうすやう)、

「我、山深く道にまよい、野くれ山くれ、道すがら、人家なかりしかば、甚だ、餓(ウヘ)に望みたり。侘(わび)しきものにても、くるしからず。何ぞ、食事をあたへ玉へ。」

 女、聞(きき)て、笑(わらひ)て答(こたへ)ず。

 旅人、重(かさね)て、

「鍋に、かしき玉ふ物は、何にて侍るぞ。それを少し、ほどこし給へかし。」

といふ。

 女、聞て、

「是は、魔ゑんの食物(くひもの)也。我(わが)夫、遠くへ行(ゆき)て押付(おつつけ)、歸り來(きた)るべし。其(その)てんしんを儲置(マウケおく)なり。人の喰(くふ)べき物にて、なし。」

と云(いふ)。

 女のつらつきをみるに、先(さき)みし面影とはこと替り、眼(まなこ)、大きく光り、口、耳もとへ切(きり)のぼり、さも、すざましき鬼女となれり。

 旅人、是を見るに、鍋にて煮るものは、皆、人の首・手足なり。

 旅人、覺へず、表へ飛出(とびいで)、息を限りに逃(にげ)はしる。

 鬼女も續(つづき)て飛出、

「おのれ、何方(いづかた)へやるべき。」

とて、山の覆ひかゝるごとく、透(すき)もなく、追懸(おひかく)る。

 旅人、今はせんかたなく、或(ある)辻堂走り込(こみ)、内陣入(いり)、御佛のうしろへ、

「助け玉へ。」

とて、隱れ臥(フ)す。

 女、續(つづき)て追(おひ)たり。

 爰(ここ)かしこ、尋(たづね)めぐりけるが、旅人を見出(みいだ)さず。

 さも、おそろしき聲を上(あげ)、

「取逃(とりにが)しける口おしさよ。」

と訇(ののし)りながら、風のふくよふに、出(いで)さりけり。

 旅人、からき命をたすかり、ほふほふ、都へ登りける。

 

[やぶちゃん注:「一(ひと)つ家(や)の鬼婆」(浅茅ヶ原(あさぢがはら)の鬼婆)の山深い木曾版で、あれは人気なく淋しい原とは言えど、現在の東京都台東区花川戸がロケーションであるのに対し、これは絶体絶命の深山(みやま)の逃げ場のない場所だけに文字通り、鬼気迫ってくる。しかも、鬼婆の謂う通りであるなら、彼女は独り者ではなくして、「人の首・手足」を煮込んだ「魔ゑん」(「魔緣」)「の食物(くひもの)」を大好物とする「夫」がいると言い、それが直に帰って来るというのだから、たまったもんではない。しかし、あまりに定番にハマり過ぎていて、話柄としてのオリジナルな怪異性は減衰してしまっている。

「ふみまよい」ママ。「踏み迷ひ」。

「野くれ山くれ」小石の多い野道や山道。また、野山で日が暮れてしまうこととも言う。両義ともに含んでいるととってよかろう。

「餓(ウヘ)」ママ。「ウヱ」が正しい。

「侘(わび)しきもの」粗末なもの。

「かしき」「炊ぎ」。「かしき」だと古形。「かしぎ」と読んでもよい。通常は飯を炊(た)くことだが、広く「火にかけて食い物を作る」「煮る」の意もある。

「てんしん」「點心」。ここは簡単な軽い食事の意。

「儲置(まうけおく)なり」調理なして供するために煮込んでいるのじゃて。

「つらつき」「面付き」。

「御佛のうしろへ」「助け玉へ」で、何故か、鬼婆は彼を見出せず、目出度く逃げおおせるというのは、仏力といことになろうが、これまたダメ押しでつまらぬ。]

 

柴田宵曲 俳諧博物誌(24) 狼  三 / 狼~了

 

       

 

 狼を冬の季に定めたのは、冬時積雪の山野を埋むるに当り、村里に出没して人畜を害するところから来ているらしい。これは狼に限らず、雪のために餌を失った禽獣は皆人里近く姿を現すようであるが、狼との交渉は人間として迷惑な部類に属し、銃を執ってこれを斃(たお)したところで、皮とか肉とかいう収獲は期待し得ぬように思われる。それだけにまたそういうありがたくない交渉のある時でもなければ、季題に採用する因縁を見出しにくいのかも知れない。但(ただし)最初に述べた通り、狼だけで独立した句は殆ど見当らず、他の季題と結合して冬季に列するものが多いので、これまでに挙げた以外にもまだ次のような句が算(かぞ)えられる。

 

 狼の吠(ほえ)からしたか冬のやま 冰花(ひやうくわ)

 山枯(かれ)て狼の目や星月夜   除風

 狼のあと蹈消すや濱千鳥      史邦

 狼のかりま高なり冬の月      奚魚(けいぎよ)

 

 蕭条たる冬の山に対して「狼の吠からしたか」というのは作者の主観である。現在そこに狼が姿を現しているわけでもなければ、景陽岡の虎の如く狼が出るときまっているわけでもない。狼の凄(すさま)じい吠声のために枯山になつてしまったのか、という作者の感じさえ受取れれば差支(さしつかえ)ないが、その次の「山枯て」の句になると、どうしても実際の狼をそこに認めなければならぬ。しかも枯山に徘徊する狼の目は爛々と光っている。狼の目即星の光として、星月夜の星の如く無数の狼の目が光りつつあると解せぬまでも、星光の下に狼が日を輝かしていることは事実である。用い慣れた秋の星月夜でなしに、枯山を照す鋭い冬夜の星光でなければならぬ。

 海浜の狼はやや奇であり、特に千鳥のような優しいものを配したのは更に奇である。千鳥の迹(あと)を逆に出て、「狼のあと蹈消す」役をつとめさせたのは、奇を弄し過ぎた嫌がないでもない。子供の時誰かから聞いた話に、狼は塩が欲しくなると、海辺まで水を飲みにやって来るということがあった。真偽は固より保証せぬが、山の狼が海辺に出るには何か原因があるのであろう。山の狼さえよく知らぬわれわれが、海浜の狼を問題にするのは無理なのかも知れぬ。

 狼に関する夜の連想は、それに月を点ぜしめやすい。「故寺月なし狼客を送りける」の句が「月なし」と断ったのも、裏面からこれを証明しているような気がする。殊に寒月と狼との配合に至っては、いささか即(つ)き過ぎることを歎ぜざるを得ぬほど、切離し難い関係にある。

[やぶちゃん注:私が馬鹿なのか、「狼のかりま高なり冬の月」の句意が判らぬ。「狩り」が「眞高」である、最高潮である、という謂いか? 「雁眞高なり」では初句が潰れる。何方か、御教授戴ければ幸いである。]

 

 こがらしや狼原をいづる月   五明(ごめい)

 

という句の「狼原」は恐らく地名であろうが、その名の由(よ)って来る所は、実際の狼にあるに相違ない。宮城県本吉郡の狼河原(オイヌガハラ)は、煙草の産地として江戸まで知られていたが、狼が数多くいたために出来た地名だと『孤猿随筆』に見えている。現在そこに狼の影を認めぬにせよ、狼を以て呼ばるる原の月の凄じさは想像に堪えたるものがある。

[やぶちゃん注:「宮城県本吉郡の狼河原(オイヌガハラ)」「(オイヌガハラ)」はルビではなく、本文。現在の登米(とめ)市東和町(とうわちょう)米川(よねかわ)地区内。ここ(グーグル・マップ・データ)。平凡社「世界大百科事典」の「東和町」の中に、二股川に沿って走る西郡街道(にしごおりかいどう。現在の国道三百四十六号線)の狼河原(おいのかわら)(米川)では永禄年間(一五五八年~一五七〇年)から製鉄が行われたと伝えられ、荒鉄を米谷(米川に接する南の地区。ここ(グーグル・マップ・データ))に運んで精錬し、武具を作っていた。また、狼河原一帯は近世初期にキリシタンが多数居住した所で、キリスト教の布教に尽力した後藤寿庵の墓とされる碑が残り、三経塚はキリシタン百二十名余が処刑された地といわれる、とある(太字下線はやぶちゃん)。以上の柳田國男のそれは「狼史雜話」の「十六」にある。そこでは確かに柳田は『おいぬがわら』(ちくま文庫版全集の表記)とルビしている。東北方言を考えると、「おいぬ」「おいの」は腑に落ちる違いではある。]

 けれども俳諧の狼は冬季の専属ではない。時として意外の辺に顔を出すことがある。

 

 狼のすべつたあとや春の雨  氷固(ひやうこ)

 狼にねごときかすなおぼろ月 梢風尼(せうふうに)

 

 狼の辷(すべ)った跡は何によって鑑定するかわからない。もし作者が狼の辷るのを目撃していたとすれば、慥に滑稽句に分類さるべきである。肝腎の、辷った場所がわからぬので、これ以上の解釈はつかぬけれども、背景は煙るが如き春雨であり、冬とは全く舞台の変った感を与える。狼に聞かすまじき寝言というのは何であろうか。狼が古屋の軒に立聴(たちぎき)していると、老同士の話として「虎狼よりはモリ殿こそこはけれ」というのを聞いて、世の中に自分より強いものがいるのかと驚いて逃去ったとある古屋の漏(もれ)の昔噺(むかしばな)は、偶然の話が狼を追払ったことになっている。何か狼に聞かれてならぬ事があって、うっかり寝言をいうと立聴される虞があると警(いまし)めたらしいが、この裏にはどうしても古屋の漏の話が潜んでいるように思われてならぬ。ただそれが寝言であり、朧々とした春の月夜であるために、狼らしくもない、むしろのんびりした趣になるのである。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「古屋の漏り」の民話で、「モリ殿」とは「古い家屋の雨漏り」のことで、この「殿」は避けたい対象を敬して遠ざける呪術的言い方であろう。これは恐らく、柳田國男の「桃太郎の誕生」(昭和八(一九三三)年三省堂刊)の中に「古屋の漏り」を参考にして書いたものと思われる。幸い、個人ブログ「民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界」の『「古屋の漏り」柳田国男』に当該箇所が電子化されている(前が省略されているものだが、宵曲が参考にしたと思われる箇所は出ている)ので参照されたい。]

 

 狼にもるぞおそろしほとゝぎす   許六

 

 この句には明(あきらか)に古屋の漏が使ってあるが、句意はあまりはっきりしない。雨の漏る古屋にあってほととぎすを聞くと解すれば、一応わかるようなものの、それでは狼は漏のために引出されたに過ぎなくなる。狼とほととぎすとを共に実在のものと解すれば、全体が三題噺のようにばらばらになってしまう。始末の悪い句というべきであろう。

 

 狼の口に入けり雨のてふ   丿松(べつしよう)

 狼のによろりと出るや藤の花 荒雀

 狼の足跡さびし曼珠沙花(まんじゆしやげ)

               露竹

 狼に夜はふまれてはなすみれ 成美

 狼の息かゝる野にすみれかな 五明

 

 かっと開いた口に蝶がひらひら飛ぶ。折からの雨を避けて狼の口に入るように見えるというのであるが、狼の口という恐しいものと、可憐な蝶とを対照的に用いたので、いずれ空想の産物であろう。奇抜といえば奇抜である。荒雀の句の藤は、人家に近い藤棚などのでなしに、山藤らしく思われる。巌(いわ)に攀(よ)じ梢にかかる山藤のほとりに狼がひょっと顔を出す。「によろり」という言葉も、この場合山藤の妖気と一脈相通ずるところがありそうである。曼珠沙華の真紅の花の側に狼の足跡を認めるということも、冬とは全くかけ離れた点に一種の狼趣味を発揮したのが面白い。董(すみれ)に至っては狼と甚だ縁の遠いもので、狼に踏まれるにしても、狼の息がかかるにしても、董のために同情に堪えぬ。

 

 狼の子をはやしけり麻の中   許六

 

 狼の子と人間、人間の子と狼の間にはいろいろな話が伝えられている。狼の乳に育てられた赤子があったり、狼の産見舞という話があったりして、人狼交渉史の最も微妙な一面であるが、この句を解する上にそう面倒なものを担ぎ出すにも及ぶまい。問題はこの狼の子をはやす者が人間か、狼自身かということである。狼の子などは容易に人の目に触れそうにも思われぬが、岩穴に狼が子を産んだのを見て、「好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれないか」と口から出まかせにいったところ、翌朝戸口に可愛らしい狼の子がいたので、困って狼の巣まで返しに行ったなどという話もあるから、人間がはやすという解釈も成立たぬことはないらしい。もし産み落されたばかりの子でなしに、戎程度育った子だとすれば、山に近い麻畠の中まで出て来たのを、人が見つけてはやし立てるというのかも知れぬ。とにかくこの句は夏であるのが珍しい上に、他の捉えぬ「子」を描いており、実感に富んでいることを異とすべきであろう。狼もここに至って完全に平和なる野趣の裡(うち)に住している。

[やぶちゃん注:「狼の乳に育てられた赤子」ローマの建国神話に登場する双子の兄弟ロームルス(Romulus)とレムス(Remus) が著名。ウィキの「ロームルスとレムス」によれば、『この双子は、軍神マルスとレア・シルウィア(アルバ・ロンガ=ラティウム王ヌミトルの娘)の間に生まれたとされている。王の末弟のアムリウスは王位を奪っていたが、兄の孫である双子の復讐を恐れて、双子をテヴェレ川に捨てた。しかし、双子は狼によって育てられた。やがて、羊飼い夫婦に引き取られ立派に成人する。その後、祖父の軍隊に山賊と間違えられてとらえられ』、『尋問されるうちに孫と判明する。間もなく』、『兄弟は反逆者の叔父を殺し、祖父を復位させた。兄弟は、自分たちが捨てられた地に都市を建設しようと決めた。兄弟のうちのどちらが建設者になるかを鳥占いで決めることになり、兄のロームスに軍配が上がり、羊の守護の女神パレスを讃えるババリアの日』(四月二十一日)『新しい町(Roma quadrata)の城壁を築くために線を引き始めた。それに弟のレムスが怒り兄をあざけったので、兄弟の間で戦いが起こり、弟が兄に殺されてしまった。弟を立派に埋葬した兄ロームスは、町に多くの人を住まわせた。彼は』四十『年間統治し、雲の中へ消えていった』とされる。『このローマ建設伝説は、紀元前』三『世紀にはすでに存在していたと伝えられて』おり、紀元前二九六年に『牝オオカミの乳を飲む双子の兄弟の像が献上され、同』二六九『年製造のローマ貨幣の表裏にオオカミと双子像の同じ場面が刻印されている』とある。また、宵曲は昭和四一(一九六六)年没で、一九二〇年にインド西ベンガル州で発見され、孤児院を運営していたキリスト教伝道師ジョセフ・シング(Joseph Amrito Lal Singh)によって保護・養育された、幼少時、狼に育てられたとされる二人の少女アマラ(Amala 一九一九年?~一九二一年九月二十一日:死因は腎臓の炎症とされる)とカマラ(Kamala 一九一二年?~一九二九年十一月十四日:死因は尿毒症とされる)の話も知っていたと考えられ、彼女たちのことも或いは念頭にあったかも知れぬ。本邦では彼女たちは昭和三〇(一九五五)年に翻訳出版されたアーノルド・ゲゼル著生月雅子訳「狼にそだてられた子」(新教育協会刊)によって大々的に知られたからであり、私自身(昭和三十二年生まれ)、小学校の低学年の時に既に「狼少女アマラとカマラ」として知っていたからである。但し、現在ではこれはシングによる作り話であり、彼女たちは実は所謂、「野性児」だったのではなく、先天的疾患としての自閉症或いはある種の精神障害を抱えた孤児であったと考えられている。それこそ彼女たちは年齢からして、狼から授乳を受けていなくてはならないのであるが、オオカミの♀は積極的に乳を与えることはなく、ヒトの乳児も乳首を口元に持って行かないと乳を吸わないことから、授乳自体が成立しないし、ヒトとオオカミの乳は成分がヒトと異なるため、実は消化自体が出来ないのである(ここは一部でウィキの「アマラとカマラを参照した)。

「狼の産見舞」「産見舞」は「さんみまい」と読む。これは柳田國男の「桃太郎の誕生」に収録されている「狼と鍛冶屋の姥(うば)」(昭和六(一九三一)年十月『郷土研究』初出)の「六 朝比奈氏の先祖」の中に出てくるのを引き写しただけである。この言葉だけでは何のことか判らぬので(引用しない方が却っていいぐらいだ)、当該パート前後を引くと(ここは原典を引くため、国立国会図書館デジタルコレクションの「桃太郎の誕生」の原典画像を視認した。傍点「ヽ」は太字に代えた)、

   *

以前「山の人生」と題する小著[やぶちゃん注:大正一五(一九一六)年郷土研究社刊。]に於て、既に片端は述べたこともあるが、人と狼との昔の交際は、必ずしもこわもてとか、機嫌取りとかいふ程度の、輕薄なものでは無かつたのである。其の中でも興味のある古い仕來りは、狼の産見舞(さんみまひ)と名けて[やぶちゃん注:ママ。「名付けて」。]、一年に一度食物を器に入れて、山に持つて行つて狼の居りさうな處に置いて來ることであつた。是が狼に逢つて手渡しするのでも無ければ、又實際に安産のあることを確かめての上での無かつたのは、少しく其言ひ傳へを注意して見ればわかる。東京の近くで有名なものは、武州秩父の三峯さんであるが、是は三峰山誌にも、又十方菴遊歷雜記三篇中卷にも詳しく出て居て、近頃まで行はれて居た式であった。或夜狼の異樣に吠える聲を聞くと、それで御産の有つたことを知つて、翌日は見舞ひに行くのだといひ、又山中に特に淸靜に草木を除いた一地の有るを見付けて、そこに注連[やぶちゃん注:「しめなは」。]を張つて、酒と食物を供して來るともいひ、是を御産立(おこだて)の神事と謂つて居た。た。新篇武藏風土記稿卷八十、三峰村大木の行屋堂(ぎやうやだう)の條には是を御犬祭と名付けて每月十九日に行ふともある。十九日は知つて居る人も有らうが、子安講とも又十九夜講とも謂つて、村々の女人が子安神を祀る日であつた。是が後には一年に一度になっただけである。

   *

『岩穴に狼が子を産んだのを見て、「好い児を沢山産んだなあ、おれに一疋くれないか」と口から出まかせにいったところ、翌朝戸口に可愛らしい狼の子がいたので、困って狼の巣まで返しに行ったなどという話』これもやはり前と同じく、柳田國男の「桃太郎の誕生」の「狼と鍛冶屋の姥」の「七 狼と赤兒」の中に出てくるのをやはり引き写しただけである。ここまでくると、宵曲は同じ書物から引用していることを意識的に隠して、恰も自分がいろいろ調べて知っているかのように振舞っている節さえ窺われる(正直、出典を探すこっちとしては、いや~な感じである)。前と同様に当該パート前後を引く。

   *

 或は又斯ういふ話もある。美麻村千見(せんみ)區に花戸(くわど)といふ澤があつて、村の下條家の持地であつた。岩穴に狼が子を産んだので、産養(うぶやしな)ひに赤飯を持たせて遣つた。其下男が狼の子を見て、好い兒を澤山産んだなア、おれに一疋くれねエかと口から出まかせを言つて戾つて來ると、翌朝は戸口に可愛らしい一疋の狼の子が居た。さうはいふものの飼ふわけにも行かぬので、又其子を狼の巢の中へ返しに行つたといふ。此種の世間話の發生した事情を考へて見ると、單なる目の迷ひや思ひ違へ以上に、尚之を受入れた聽衆の心理にも、今まで省りみられなかつた奥深い何物かが窺われる。

   *]

 

 狼のこの比(ころ)はやる晩稻(おくて)かな 支考

 

 晩稲田を刈る頃になって、彼方此方(あちこち)で狼の噂を耳にする。現代ならば狂犬の沙汰の如きものであろうと思う。多少の流言蜚語も交って各方面に狼出没の話が伝えられる。実際は何疋いるのかわからぬけれども、噂を綜合するとかなりの数に上り、被害も頻々(ひんぴん)とあるらしいというような事実を、作者は「狼のこの比はやる」と簡単にいってのけたのである。

[やぶちゃん注:「晩稻(おくて)」「おしね」とも。「おそいね」の音変化とも言われる。稲の中で遅く成熟する品種。]

 山に近い農村などであろう。晩稲を刈ることによって冬の眼前に迫ったことを感ずる。そろそろ狼が山から出て来て、人里に食物を求めようとする季節になる。狼は出没の噂だけを現し、「晩稻」の一語で季節と農村の背景とを描き得たのは、巧な手法といわなければなるまい。あるいは働き過ぎているということになるかも知れぬ。

 

   相摸川(さがみがは)洪落水接天

 狼の浮木(うきぎ)に乘(のる)や秋の水 其角

 

 古今にわたる狼の句の中で、最も奇抜なものとしては、この句を推すに躊躇せぬ。ここに至ると、もう月も雪もない。夜道の不安も山家もない。狼に関して今まで挙げ来った、あらゆる配合物は悉く影を消して、浮木の上に乗った狼が水の上を流れて来る。秋の水といったところで、湛然(たんぜん)として日を浮べたり、底に何か沈んでいるのが見えたりするような、生やさしいものではない。正に『荘子』のいわゆる「秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぐ」底(てい)の大水である。濁流滔々(とうとう)として天を浸す中を、浮木に乗った狼が何処までも流れ去る。人を脅し馬を恐れしむる狼の存在も、頗る小さなものとならざるを得ぬ。其角は那辺より、この奇想を獲来(えきた)ったか。あるいは相模川出水の際の出来事を、沿岸の人からでも聞いて、自家薬籠中のものとしたのではないかと思うが、尋常に甘んぜざる彼の面目は、遺憾なくこの一句に示されている。もしこの句に対してなお其角の才の恐るべきを感ぜぬというならば、その人の眼は魚鱗を以て掩われているのである。

[やぶちゃん注:「洪落水接天」は総て音で「こうらくすいせつてん」と読んでいるのであろう。和訓しては句景の厳しいダイナミズムが失われる。

「湛然」静かに水を湛(たた)えているさま、静かで動かぬ様子。

「荘子」「秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぐ」「莊子」(そうじ)「後篇」の「秋水」の冒頭。「秋水時至、百川灌河。涇流之大、兩涘渚崖之間、不辯牛馬。」(秋水、時に至り、百川(はくせん)、河(か)に灌(そそ)ぐ。涇流(けいりゆう)の大、兩涘(りやうし)渚崖(しよがい)の間(あひだ)、牛馬を辯ぜず。)で、「秋の大水が一時(いっとき)に出水(でみず)し、多くの川の水が黄河に一気に流れ込む。水の流れは広大にして満ち溢れて氾濫原は水浸しとなり、両岸や中洲の汀(みぎわ)と思しい辺りを見渡しても、そこに半ば浸っているらしい牛と馬との区別さえ、濛々として、つきかねるほどだ。」の意。原文では以下、黄河の主(ぬし)河伯(かはく)が喜び勇んで泳ぎ出すのである。

「底(てい)」「体(てい)」が正しい。]

 

 狼の聲はなれたる砧(きぬた)かな   五明

 

 この句は二様に解せられる。中七字を「聲は馴れたる」と読むか、「聲離れたる」と読むかによって解釈は分れるので、次第に遠ざかる狼の声を「離れたる」と形容するのは適切でないから、多分前者であろう。狼の声をしばしば耳にしながら、深く意に介せず、砧を打っている山家の生活が側面から描かれている。

 眼前の鑑賞物として適せぬことは、熊も狼も大して変りはない。しかし熊を句中のものとするに当っては、どうしても或(ある)形なり、動作なりを捉える必要がある。狼の声は鑑賞に値するものでないにせよ、登場せずに存在を示す利器であり、俳人もまた如才なくこれを活用している。実際俳句の狼の大半は、その姿を見せておらぬようである。

一匹の馬   原民喜

 

[やぶちゃん注:随筆「一匹の馬」は初出未詳で、原民喜没後十四年後の昭和四〇(一九六五)年八月に芳賀書店から刊行された「原民喜全集」(全二巻)に収録されたものである。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を参考底本に用いたが、昨日、本カテゴリ「原民喜」で電子化注を完成したジョナサン・スイフト原作・原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)の表記に則り、恣意的に漢字を概ね正字化した句点が一切存在しないのは底本のママ。「憂ウツ」「敏ショウ」「發ラツ」「クラ」「ショウ然」「オウト」「ノド」も総てママである。底本の仮名遣は現代仮名遣で、正字とはやや不整合かも知れぬが、原稿・原本を確認出来ないので、そのままとした。私は実は芳賀書店版全集の編集者が歴史的仮名遣を現代仮名遣に変えた可能性を深く疑っている。何故なら、書き出しで民喜は「五年前」と言っており、とすれば、これは昭和二五(一九五〇)年に書かれたものであり、民喜は終生、ほぼ一貫して基本、歴史的仮名遣・正漢字を使用して原稿を書いていた事実があるからである(上記の「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)を参照。「ガリヴァー旅行記」もこれと同じ時期に書かれたものと思われる)。

 なお、本シークエンスについては、先ほど公開した原民喜の随筆「ガリヴア旅行記 K・Cに 」の最後でも言及されている。

 第二段落に出る「東練兵場」は現在の広島県広島市東区光町などを含む、広島駅の北側に広がっていた「廣島市東練兵場」のことである。「とりさん」氏のブログ「広島市東練兵場跡地」が非常に詳しい。当時の航空写真や、現在の地図上に当時の当該区画も示されてある。必見。

 「東照宮」は現在の広島市東区二葉の里にある、広島東照宮。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「広島東照宮によれば、『の原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の一つ』で、そこに『ここは爆心地から約』二・一キロメートル『(広島市公式)に位置した。爆風により』、『建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが』、『通信兵の手により』、『更なる延焼から免れ』、『全焼は回避された』。また、『社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて』、『大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの国前寺へと運ばれた』被爆翌日の八月七日には『境内南下に広島駅前郵便局および広島鉄道郵便局の仮郵便局が設けられた』とあり、その後に『幟町(現在の広島市中区)の実家で被爆した作家・原民喜は』七『日夜、親族とともに境内の避難所で野宿して覚書』(「原爆被災時のノート」)『を記し、後日それを元に小説『夏の花』を執筆した』と記されてある。「原爆被災時のノート」は「青空文庫」のこちらで読める。そこにもこの馬のことが記されてあるので、以下に引く(青土社版全集の「Ⅲ」のそれと校合し、恣意的に漢字を正字化した)。

   *

 翌朝[やぶちゃん注:七月八日に相当する。]目ザメテ肩凝ル 廣島驛ノ方ヘ行ツテ見ルニ 廣島ノ街ハ滿目灰白色ナリ 福屋ナドノビルワヅカニ殘ル 馬一匹練兵場ニサマヨフアリ 驛ニハ少年水兵作業ヲナス 橫川ヨリ 汽車アル由キイテ歸ル 臥屋ニ歸レバ陽アタリテ暑シ 昨夜ノ黑焦顏ノ婦人既ニ死ニ 巡査シラベルニ 呉ノ人ナルコトワカル

   *

「燒津」恐らくは「饒津」(にぎつ)の誤り(原民喜自身の誤字か、芳賀書店編者の判読の誤りであろう。後者の可能性が高い)であろう。現在の東区二葉の里二丁目にある饒津神社(にぎつじんじゃ)方向を指しているものと思われる。同神社はここ(グーグル・マップ・データ)で、広島駅の北西に当たり、広島東照宮からは直線で五百メートル強である。

「東警察署」当時の「廣島東警察署」は広島市京橋町(現在の広島市南区京橋町)にあったが、被爆の前月七月に空襲激化の虞れがあることから、広島市下柳町(現在の広島市中区銀山町)の藝備銀行下柳町支店(現在の広島銀行銀山町支店)を借りて移転していた。現在の広島駅の南西の、(グーグル・マップ・データ)。以上はウィキの「広島東警察署」の「沿革」を参照した。

 因みに、本篇は既に新字新仮名で単品(二〇〇二年七月二十日作成)、及び、原民喜訳「ガリバー旅行記」(二〇〇三年五月三日公開・二〇一四年三月二十七日修正)の最後に、一九七七年一二月晶文社刊の「原民喜のガリバー旅行記」に併載されているものから、電子化されているのであるが、後者は、底本である晶文社のそれが杜撰なのか、或いは入力者のミスによるものなのか、本篇のそれは誤りや有意な文章の脱落(第六段落目。私のものと比較されたい。「罹災證明がもらえ」という同じ文字列を次の第七段落目の頭と誤認して繋げてしまった結果であろう)があり、電子テクストとしては価値がない(本日二〇一七年十二月十一日現在で再確認したが、依然として訂正されていない)ことを言い添えておく。嘗て同文庫には一般閲覧者が誤りを指摘する投稿ページがあり、それによって修正もなされていた(私も何度か指摘した)が、そのシステムが今はないので、ここで述べておくこととする。但し、底本の晶文社の誤りの場合(私は所持しないので確認出来ない)は、同文庫のシステムでは底本第一主義をとっているため、誤ったままで載せ続けることになるのであろう。しかし、それは、それこそ、原民喜に対して非常に失礼な仕儀となると存ずるものである。なお、前者の単品物は問題ない。しかし、その場合でも、ネットだけで見ている読者はその違いに戸惑うことは明白であるから、後者の誤ったものは全篇をカットするぐらいの英断をしなければ、電子テクストの草分けの名が廃ると言ってよい。]

 

 

   一匹の馬

 

 五年前のことである

 私は八月六日と七日の二日、土の上に橫たわり空をながめながら寢た、六日は河の堤のクボ地で、七日は東照宮の石垣の橫で――、はじめの晩は、とにかく疲れないようにとおもって絶對安靜の氣持でいた、夜あけになると冷え冷えした空が明るくなってくるのに、かすかなのぞみがあるような氣もした、しかし二日目の晩は、土の上にじかに橫たわっているとさすがにもう足腰が痛くてやりきれなかった、いつまでこのような狀態がつづくのかわからないだけに憂ウツであった、だが周圍の悲慘な人々にくらべると、私はまだ幸福な方かもしれなかった、私はほとんど傷も受けなかったし、ピンと立って步くことができたのだ

 八日の朝があけると私は東練兵場を橫切って廣島驛をめざして步いて行った、朝日がキラキラ輝いていた、見渡すかぎり、何とも異樣なながめであった

 驛の地點にたどりつくと、燒けた建物の脇で、水兵の一隊がシャベルを振り囘して、破片のとりかたづけをしていた、非常に敏ショウで發ラツたる動作なのだ、ザザザザと破片をすくう音が私の耳にのこった、そこから少し離れた路上にテーブルが一つぽつんと置いてある、それが廣島驛の事務所らしかった、私はその受付に行って汽車がいま開通しているものかどうか尋ねてみた

 それから私は東照宮の方へ引かえしたのだが、ふと練兵場の柳の木のあたりに、一匹の馬がぼんやりたたずんでいる姿が目にうつった、これはクラもなにもしていない裸馬だった、見たところ、馬は別に負傷もしていないようだが、實にショウ然として首を低く下にさげている、何ごとかを驚き嘆いているような不思議な姿なのだ

 私は東照宮の境内に引かえすと石垣の橫の日陰に橫臥していた、晝ごろ罹災證明がもらえることになつたので、私はまた燒津の方へ向う道路を步いて行った、道ばたの燒殘った樹木の幹を背に、東警察署の巡査が一人、小さな机を構えていた

 罹災證明がもらえて戾ってくると今度は間もなく三原市から救援のトラックがやって來た

 私は大きなニギリ飯を二つてのひらに受けとって、石垣の日陰にもどった、ひもじかったので何氣なく私は食べはじめた、しかしふとお前はいまここで平氣で飯を食べておられるのか、という意識がなぜか切なく私の頭にひらめいた、と、それがいけなかった、たちまち私は「オウト」を感じてノドの奧がぎくりと搖らいできた

 

 

ガリヴア旅行記 K・Cに   原民喜

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月号(原民喜が没した(三月十三日)翌月に当たる)『近代文学』初出。

 底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集Ⅱ」を参考底本に用いたが、昨日、カテゴリ原民喜」で電子化注を完成したジョナサン・スイフト原作・原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)の表記に則り、恣意的に漢字を概ね正字化した。本篇は既に新字正仮名版が「青空文庫」で公開されているが(二〇〇二年七月二十日作成)、私のこの電子テクストはこの仕儀により、より原民喜の原稿に近いものとなっていると考えている。

 なお、副題の献辞者「K・C」はイニシャルから考えて、親友の詩人長光太(ちょう こうた 明治四〇(一九〇七)年~平成一一(一九九九)年)ではないかと推定される。末尾に「(二五・八)」とあるが、これは昭和二五(一九五〇)年八月のクレジットである。少なくとも、この年の年末には自死を決していたと考えられる。

 第一段落の「吻と」は文脈から考えて「ほつと」(ほっと)と当て訓しているものと思われる。

 同段の「老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの繪」の「ウオター・ロレイ」とはイングランドの女王エリザベス世の寵臣にして探検家・詩人であったウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh 一五五二年又は一五五四年~一六一八年:新世界アメリカに於いて最初のイングランド植民地を築いたことで知られる。信頼されていたエリザベス世が一六〇三年四月に死去すると、同年十一月に内乱罪で裁判を受け、ロンドン塔に一六一六年まで凡そ十二年監禁されている。それが解かれた同年、南米にエル・ドラド(黄金郷)を求める探検隊を指揮して向かったが、その途中、部下らがスペインの入植地で略奪を行い、一行がイングランドに帰還後、憤慨したスペイン大使がジェームズ世に彼の死刑を求め、一六一八年十月十八日に斬首刑に処せられている。以上はウィキの「ウォルター・ローリーに拠った)の少年時代を描いた、イギリスのラファエル前派の画家サー・ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais 一八二九年~一八九六年)の一八七一年の作品The boyhood of Raleighを指している。Wikimedia Commons(英文)にある再使用許可画像をここに掲げておく。

 

Millais_boyhood_of_raleigh

 

 挿入される「ボードレール」の『「航海」といふ詩』というのは、シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)の「悪の華」(Les Fleurs du mal:初版・一八五七年/第二版・一八六一年/第三版(没後)一八六九年)の中の「死」(La mort)パートの最後の一篇Le voyage(「旅」とも訳される)で、この一篇にはA Maxime Du Camp.という献辞が附されている(マクシム・デュ・カン(Maxime Du Camp 一八二二 年~一八九四年)はボードレールの友人で写真家。写真集「エジプト、ヌビア、パレスティナ、シリア」(Egypte Nubie Palestineet Syrie 一八五二年~一八五四年)で知られる)。全八章から成る長詩で、この引用は、その第一連。フランス語原詩全文で読め、詩人小林稔ブログヒーメロス通信邦訳が読める。原民喜の訳はかなり原詩に忠実である。

 「ニユーホランド」“New Holland”。オーストラリア大陸の歴史的名称。

 「この物語を書いた作者が發狂して、死んで行つた」最愛の女性や良き協力者であった友人らが亡くなる中、スウィフトに最初に病気の徴候が顕れたのは一七三八年であった。一七四二年になると発作が起こるようになり、会話能力を失うとともに精神障害が発現、一七四五年十月十九日、満七十七歳で亡くなった。なお、実は彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実であった。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「人間らしさ」で次のように述べている。

   *

 

       「人間らしさ」

 

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

   *

私の芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)も参照されたい。

「ゴーゴリの場合」ウクライナ生まれのロシアの作家ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь 一八〇九年~一八五二年)は、一八四八年、宿願であったパレスチナへの巡礼旅行を終えてロシアへ帰って後は、一旦、焼き捨てた「死せる魂」第二部の執筆を続け、一八五一年末には完成に近づいていたらしいが、かねてより、霊的指導者として文通していた神父マトベイ・コンスタンチーノフスキーの影響も手伝って、「神の啓示なしに」作家としてとどまることに罪悪感を抱くようになり、一八五二年二月、完成直前であった「死せる魂」第二部の原稿を焼却してしまうと、その後、間もなく、半ば錯乱した状態のまま、断食に入り、三月四日の朝、絶命した(以上は小学館「日本大百科全書」の木村彰一氏の解説に拠った)。

 なお、最終段落に語られる、被爆直後の馬のシークエンスは、随筆「一匹の馬」(初出未詳)に語られているので、本篇の公開後に電子化する(公開終了。こちら)。]

 

 

   ガリヴア旅行記
    
K・Cに

 

 この頃よく雨が降りますが、今日は雨のあがつた空にむくむくと雲がただよつてゐます。今日は八月六日、ヒロシマの慘劇から五年目です。僕は部屋にひとり寢轉んで、何ももう考へたくないほど、ぼんやりしてゐます。子供のとき、僕は姉からこんな怪談をきかされたのを、おもひだします。ある男が暗い夜道で、怕い怕いお化けと出逢ふ。無我夢中で逃げて行く。それから灯のついた一軒屋に飛込むと、そこには普通の人間がゐる。吻と安心して、彼はさきほど出逢つたお化けのことを相手に話しだす。すると、相手は「これはこんな風なお化けだらう」と云ふ。見ると、相手はさっきのお化けとそつくりなのだ。男はキヤツと叫んで氣絶する。――この話は子供心に私をぞつとさすものがありました。一度遇つたお化けに二度も遇はすなど、怪談といふものも、なかなか手のこんだ構成法をとつてゐるやうです。

 先日から僕はスウイフトのガリヴア旅行記をかなり詳しく讀み返してみました。小人國の話なら子供の頃から聞かされてゐます。夏の日もうつとりして、よく僕は小人の世界を想像したものです。子供心には想像するものは、實在するものと殆ど同じやうに空間へ溶けあつてゐたやうです。さういへば、少年の僕は、船乘になりたかつたのです。膝をかかへて、老水夫の話にきき入つてゐる少年ウオター・ロレイの繪を御存知ですか。あの少年の顏は、少年の僕にとても氣に入つてゐたのです。

  地圖を愛し版畫を好む少年には

  宇宙はその廣大なる食慾に等し。

  ああ! ランプの光のもと世界はいかに大なることよ!

  されど追憶の眼に映せばいかばかり小なる世界ぞ!

 ボードレールは「航海」といふ詩でかう嘆じてゐますが、僕自身は今でもまだ人生の航海を卒業してゐない人間のやうです。

 しかし、近頃の新聞記事を讀むと、何だか、この地球はリリパツトのやうに、ちつぽけな存在に思へて來るのです。卵を割つて食べるのに、小さい方の端を割るべきか、大きい方の端を割るべきかと、二つの意見の相違から絶えず戰爭をくりかへさねばならないほど、小ぽけな世界に……

 だが、小人國から大人國、ラピユタ、馬の國と、つぎつぎに讀んで行くうちに、僕はもつとさまざまのことを考へさせられました。この四つの世界は起承轉結の配列によつて、みごとに效果をあげてゐるやうですが、僕を少しぞつとさせるのは、あの怪談に似た手のこんだ構成法でした。

 小人國からの歸りに、ガリヴアは船長にむかつて躰驗談をすると、てつきり頭がどうかしてゐると思はれます。そこでポケツトから小さな牛や羊をとり出して見せるのです。そして、その豆粒ほどの家畜をイギリスに持つて歸って飼つたなどといふところは、まだ輕い氣分で讀めます。しかし、大人國からの歸りには、ガリヴアは箱のなかにゐて、鷲にさらはれて海に墜されて、船で救はれるのですが、ここでも船員たちとガリヴアとの感覺がまるで喰ひちがつてゐます。最初私を發見したとき何か大きな鳥でも飛んでゐなかつたかと、ガリヴアが訊ねると、船員の一人は、鷲が三羽北を指して飛んでゐるのを見た、が大きさは別に普通の鷲と變ったところはなかつたと答へます。もつとも非常に高く飛んでゐたので小さく見えたのだらうとガリヴアは考へるのですが、これは少し念が入りすぎてゐるやうです。そして、こんな手法は馬の國からの歸航では更らに陰欝の度を加へてくりかへされてゐます。ここでは人間社會から逃げようと試みるガリヴアの悲痛な姿がまざまざと目に見えるほど眞に迫つて訴へて來ますが、奇妙なのは船長とガリヴアとの問答です。はじめ彼の話を疑つてゐた船長が、さういへばニユーホランドの南の島に上陸して、ヤーフそつくりの五六匹の生物を一匹の馬が追ひたててゆくのを見たといふ人の話をおもひだした、といふ一節があります。實に短かい一節ながら、ここを讀まされると、何かぞつと厭やなものがひびいて來ます。何のために、こんな念の入つたフイクシヨンをつくらねばならなかつたのかと、僕には、何だか痛たましい氣持さへしてくるのです。

 身振りで他國の言葉を覺えてゆくとか、物の大小の對比とか、さういふ發想法はガリヴア全篇のなかで繰返されてゐます。この複雜な旅行記も、結局は五つか六つの回轉する發想法に分類できさうです。だが、それにしても、一番、人をハツとさすのは、ヤーフが光る石(黃金)を熱狂的に好むといふところでせう。僕は戰時中、この馬の國の話を讀んでいて、この一節につきあたり、ひどく陰慘な氣持にされたものです。陰欝といえば、この物語を書いた作者が發狂して、死んで行つたということも、ゴーゴリの場合よりも、もつと凄慘な感じがします。

 また僕は五年前のことをおもひ出しました。原爆あとの不思議な眺めのなかに――それは東練兵場でしたが――一匹の馬がゐたのです。その馬は負傷もしてゐないのに、ひどく愁然と哲人のごとく首をうなだれてゐました。(二五・八)

 

2017/12/10

安心したまえ

安心したまえ――僕は君を詩人だなどとさらさら思っていないし、君にキスしたいとも思っていない――

……いや……君が僕と死ぬると言うのなら……全力を以って君の口を――吸おう――

感懐

我々人類なる生き物は、あらゆる無名者のヒト及びあらゆる生き物の生殖の結果として存在している。そうした事実を不遜にテツテ的に忘れ果てている人類に、生きる価値も資格も、最早、全く以って存していない。その絶対の真理を、我々は、哀しいかな、これまた、全く忘れている。これは霊長類などと称する我々の致命的な誤謬以外のなにものでも、ない――

(鈴木その子孃に)   原民喜(詩稿)

[やぶちゃん注:底本は広島市立中央図書館の「原民喜の世界」の「画像ギャラリー」の原稿を視認した。書誌情報によればB4ザラ紙一枚に墨書きである。原稿そのままのものを最初に示し、詩篇の内容から私が恣意的に一部を繫げ、一部に読点と恣意的な読みを添えたものを後に掲げた。因みに、私は「鈴木その子」なる人物が如何なる方かは、不詳である。識者の御教授を乞う。]

 

明日、太陽は再びのぼり

花花は地に咲きあふれ、

明日、小鳥たちは晴れや

かに囀るだらう。地よ、地

よ、つねに美しく感動に

満ちあふれよ。明日、僕

は感動をもつてそこを

過るであらう。

       原民喜

鈴木その子孃に

 

   *

 

明日、太陽は再びのぼり、花花は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだらう。

地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。

明日、僕は感動をもつて、そこを過(よぎ)るであらう。

       原民喜

鈴木その子孃に

 

柴田宵曲 俳諧博物誌(23) 狼  二

 

        

 

 狼と人との交渉が何時頃から険悪になったか、『孤猿随筆』には「狼史雜話」の一篇があるが、はつきりした年代はわからぬらしい。人獣間の歴史も固(もと)より平和な方がいいので、人とる沙汰が聞えるよりは

 狼も喰はでめでたしやまの春   南山

 

の方が実際めでたいに相違ないのである。

[やぶちゃん注:「孤猿随筆」既注であるが、再掲しておく。柳田國男の「孤猿隨筆」は昭和一四(一九三九)年創元社刊。

「狼史雑話」は「孤猿隨筆」に載るが、初出は昭和七(一九三二)年九月及び翌昭和八年十一月に発行された、雑誌と思われる『日本犬』である。全十七章。但し、柳田の記述は実際には殆んど江戸期のものばかりで、戦国以前、中世はもとより中古の文献を渉猟した形跡がない、私に言わせれば、異様に偏頗なものである。]

 

 『孤猿随筆』はまた、維新前後の地方の刑場が甚だ乱雑で、夜その附近を通ると必ず狼の唸り声を聞いたものだという老人の話を挙げ、「これは以前も戦闘の跡とか、飢饉その他の大災害のあった土地とかには、幾度かくり返されたろうと思う光景で、今はもう信じ難いほどの昔の事になっている」といい、「それよりも更に一般的なのは埋葬法の変遷で、かつては普通人の墓地などは、殆ど狼の劫掠(ごうりゃく)を防ぎ切れぬような簡単な装置のものばかり多かったのが、追々と深葬の風が普及し、石の工作はまたこれを保護するようになった」ということが附加えられている。俳諧の狼は概して太平で、戦場や刑場などは取入れられておらぬが、

 

 狼の葬の火を掘る時雨(しぐれ)かな 相夕(さうせき)

 

の一句は、右の説を立証するものとして、一読寒気を覚えしめる。少くともわれわれの目に触れた範囲では、この句の如く凄然(せいぜん)たるものを知らぬ。「ひよつと喰べし」という鉢敲の上には、若干の滑稽を感ずるほど、狼と疎遠なわれわれも、この一句の持つ真実味には打たれざるを得ない。句中に点じた「火」の一字が時雨の天地をいよいよ暗からしむると共に、凄涼の度を加えているような気がする。

[やぶちゃん注:ここで宵曲が言い、引用しているのは、「孤猿随筆」の中の、前に出た「「狼史雜話」ではなく、その前の、以前に注した、「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」(昭和八(一九三三)年十一月)の「九」の一節なので注意が必要である(別作品からの出典であるのにそれを謂わないのは宵曲の非常によくない点であると私は思う)。

 因みに、この相夕という俳人、全く知らないが、確かに、鬼趣のこの一句、慄っとするほど素敵である。

「劫掠(ごうりゃく)」「劫略」とも書く。歴史的仮名遣は「ごふりやく」であるが、古くは「こふ(こう)」と清音ともされる。意味は「脅して奪い取ること」の意。]

 

 狼の身もたのまれぬ夜寒(よさむ)かな 乙州(おとくに)

 

 これは山野の狼の事をいったのか、作者自身の主観を狼に託したのかわからぬが、夜寒の中に身を置いて考える時、人の恐れる狼の身も甚だたのみ難い存在になって来る。不思議な所に想を寄せたものである。

 山犬と狼とが別種であるかどうかということに関しては、いろいろ説もあるらしいが、柳田国男氏は「近世の事実に拠って、二つの異なる習性をもつ狼と山犬とが、併存するものと推断することは出来ぬと思う」といっている。俳諧の狼は割合に多いが、山犬の句は極めて少い。

[やぶちゃん注:以上も前の段落と同じく、「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」の「六」の一節。なお、以上の柳田國男のそれらの引用は原本を確認出来ないので、歴史的仮名遣や正字化を行わなかったが、ちくま文庫版全集と校合はした。違った細部はあるにはあったが、同全集は現代の読者の読み易さを考えて編集が加えられているので、必ずしも、宵曲が誤っているとは断定出来ぬので、底本のままとした

「山犬」以前に注したが、これは野生の犬(反対語は「里犬」)・野犬のことである。或いは「ニホンオオカミ」の別名としても用いられた。江戸期の動物画や随筆類では、野生の犬に似ているが、独立した動物種のようにまことしやかに書いたものがあるが、そんな種は存在しない。]

 

 萩原や一夜はやどせ山の犬     芭蕉

 

という句は、「狼も一夜はやどせ萩がもと」あるいは「蘆の花」となつている。先ず同じものと見てよかろう。この句は萩を持出したせいか、臥猪(がちょ)の床と似た趣になって、山犬乃至(ないし)狼の感じはそれに蔽われた形であるが、

 

 山犬を馬が嗅(かぎ)出す霜夜かな 其角

 

の句は頗(すこぶ)る恐しい。人は馬背に跨りつつあるか、荷を負わせて共に歩みつつあるか、とにかく霜夜の道を行くに当って、人がまだ何とも感ぜぬ先に、馬は山犬の匂を嗅ぎつけたらしく、突如として身顫(みぶるい)するという趣であろう。黒闇々(こくあんあん)たる霜夜の天地の中において、声や形によることなく、襲い来るもののけはいを感ずるところに、動物の鋭敏な感覚も窺われ、夜行の寒さも骨に沁み入るように思われる。

[やぶちゃん注:芭蕉の、

 

 萩原(はぎはら)や一夜(ひとよ)はやどせ山の犬

 

は貞享四(一六八七)年の作で、この句形は「續虛栗」(ぞくみなしぐり)・「泊船集」のそれ。かの「鹿島紀行」(鹿島詣)にも、

 

 萩原や一よはやどせ山のいぬ  桃靑

 

の表記・署名で載る。異国編の「泊船集」(はくせんしゅう)には、「萩原や一夜はやどせ山の犬」の別案として、

 

 狼も一夜はやどせ萩がもと

 

を載せ、支考編の「笈日記」には、

 

 狼も一夜はやどせ芦の花

 

を載せる。この「芦(蘆)の花」は許六の「泊船集書入」にも載る。どう考えても、「山の犬」がいい。

 一方、其角の句の方は、

 

 山犬を馬が嗅出(かぎだ)す霜夜哉

 

で「皮籠摺」や「五元集」に載る句で、後者には「山行」の前書がある。この鬼趣もいいが、先の相夕の句にはまるで及ばぬ。]

 

狼の犬誘ひよる霜夜かな   嘯山

 

 狼と犬との境界線がやや明瞭でないため――少くともその祖先を同じゅうするために、犬と狼との交渉については、童話の世界にもいくつか話が伝えられている。家を守るに堪えなくなった老犬が、予(あらかじ)め狼と打合せて置いて、主人の幼児の奪われたのを取返して来る、その殊勲によって今まで老耄(ろうもう)せりとして無用視されていた者が、俄に優遇されるようになるなどという話は、いささか人間的才覚に終始し過ぎた嫌があるが、畢竟犬と狼との間に他の獣と異る因縁が存在するため、こういう想像も成立つのであろう。『青い鳥』の森の場でチルチルに向って来る狼も、犬を兄弟と呼んで誘惑的な言辞を弄している。囁山の狼は何のために犬を誘いに来るのかわからない。ただ「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」のような普通の友好でなく、何か目的があるらしく考えられるのは、やはり彼らの特別関係を意識しているためかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「フジパン」公式サイト内の「民話の部屋」の岩手県で採取された民話「犬と狼」(再話者・六渡邦昭氏)がある。これは後半で、狼が報酬として家の鶏を要求し、それを断ったところ、狼は鬼とともに老犬を食おうとする。しかし一緒に飼われている猫が助太刀をして、めでたしめでたし!――お読みあれ。朗読音声もある。

「青い鳥」ベルギーの詩人で作家のモーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck  一八六二年~一九四九年:正式名はメーテルリンク伯爵モーリス・ポリドール・マリ・ベルナール(Maurice Polydore Marie Bernard, comte de Maeterlinck)。但し、本人の母語であるフランス語を音写すると「メーテルランク」、ベルギーのフラマン語(オランダ語のベルギー方言)や、彼の今一つの母語でもあるオランダ語では「マーテルリンク」に近い音である。なお、この“maeterlinck”はフラマン語で「計量士」「測量士」を意味する語である。以上はウィキの「モーリス・メーテルリンク」に拠った)作のフランス語でL'Oiseau bleu。五幕十場から成る童話劇で一九〇八年発表。宵曲の言っているのは第三幕第五場のワン・シーンである。

「猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな」これは与謝蕪村の「蕪村句集」の秋に載る句。

 

   山家

 猿どのゝ夜寒(よさむ)訪(とひ)ゆく兎かな

 

で、初案は「百歌仙」に載る、

 

 猿どのゝ夜さむ訪(おとな)ふ兎かな

 

である。これは、

 

   山居の僧に

 雪を汲(くみ)て猿が茶を煮けり太山寺  其角

 

の句を踏まえたもので、深山の友の家を蕪村が訪れんとする事実を、仙境に擬えて童話化した一句である。ここは新潮日本古典集成の清水孝之校注「與謝蕪村集」の注を参考にさせて戴いた。]

 

 若草や狼かよふ道ながら       芭蕉

 狼の道をつけたる落(おち)ばかな  程已

 狼に道や絶(たえ)けん鹿の聲    蓼太

 

 この三句にあっては狼は全く陰の役者になっている。狼の常に往来するような道も、春が来れば美しい若草が萌える。冬になって落葉が積れば、その上にまた狼の通う道がつく。そういう現象はもともと何の関係もないにかかわらず、二つ並べて見ると季節の推移が今更の如く感ぜられる。蓼太の句は狼が出没するために、鹿が通わなくなるという意である。空を行く鳥に鳥の道があり、水を行く魚に魚の道があるように、獣にもそれぞれ適う道が走っているとすれば、道を外にして存在する者は現世にないのかもわからない。但(ただし)芭蕉の場合は狼が通うことを知っているだけで差支ないが、程已の句は何によって狼たることを判断するか、馬のようにこれを嗅分(かぎわ)ける能力などは、普通の人間にあるべくも思われぬ。強いていえば狼が動物として遺(のこ)す証拠物件による外はなさそうである。

[やぶちゃん注:宵曲が芭蕉作として出す「若草や狼かよふ道ながら」は大蟻編の芭蕉書簡集「翁反故(をきなほご)」に載る句であるが、この書は偽書であることが判っており、この句も芭蕉の句でない可能性が頗る高い。一九七〇年岩波文庫刊の中村俊定校注「芭蕉俳句集」でも「存疑の部」に入っており、山本健吉「芭蕉全発句」(二〇一二年講談社学術文庫刊)にも採られていない。如何にもな、駄句である。]

 

 狼の糞に露見る山路かな   玉珂(ぎよくか)

 

 獣の糞までも詩材として見遁(みのが)さをかったことは、慥に他の文芸に見られぬ俳諧の特色であった。これには已に子規居士の詳しい説があつて、新に贅言(ぜいげん)を加える必要を認めぬが、「俳句では他の詩でいへぬやうな些細な事までいへるのであるから、その觀察が隅から隅まで行き屆くやうになるのは自然の傾向」である事、「俳人の觀察の區域が廣くて總ての物を網羅するやうの傾向は、終に糞小便の研究に迄及んで、しかもそれをどれだけに美化したか」という事は、俳諧と他の詩歌とを比較するに当り、閑却すべからざるものと思われる。史邦(ふみくに)の如きは「霞野(かすみの)や明(あけ)立春の虎の糞」という句まで作っているが、当時としては所詮(しょせん)想像的産物たるを免れぬ。狼の糞は珍しい点では虎に及ばぬとしても、自然な点においてはかえって勝っている。

[やぶちゃん注:以上の正岡子規のそれは恐らく(後者の引用は確実に)明治三三(一九〇〇)年の評論「糞の句」である。後者は新字体旧仮名の引用を中原幸子氏の論文『正岡子規の取り合わせ観 ――「俳諧大要」から「糞の句」へ――」で現認出来たので、本文を訂し、漢字を恣意的に正字化した。前者はそれに合わせるため、私が恣意的に歴史的仮名遣に直し、漢字を正字化した。出典を含め、もしも誤りがあれば、御指摘頂きたい。]

 

 狼の糞を見てより草寒し       一茶

 狼の糞見て寒し白根越(しらねごえ) 子規

 

 この二句は大体同じところを捉えている。地上に認めた糞が狼のそれであると知った時、慄然として寒さを感ずるというのは、気持の上において、玉珂の句より更に一歩蹈入ったものがあるかと思う。

[やぶちゃん注:一茶の句は「七番日記」に所載する文政元(一八一八)年の作。子規の句は「寒山落木 五」に載る明治二九(一八九六)年の作。]

しかし狼の糞に著眼することは、必ずしも玉珂や一茶にはじまるのではない。元禄の俳人も夙(つと)に連句の中にこれを用いている。

 

 木佛(きぼとけ)の御首(みくし)計(ばかり)はふるされし

                    休計

  勘解由(かげゆ)がひらふ狼の糞  西吟(せいぎん)

 山ふかみなを山ふかみ啼(なく)梟(ふくろ)

                    休計

 

 木仏の首ばかりになっているのは、鏡花氏の「水雞(くいな)の里」に出て来る兀仏(こつぶつ)のようで薄気味が悪い。そういう背景の下に拾った狼の糞も、恐らく日を経て乾からびているのであろうが、蕭条たる山中の気を感ぜしむるに十分である。「山ふかみ」は西行の「山ふかみけぢかき鳥の聲はせで物おそろしき梟の聲」を蹈えているらしい。三句相俟って荒廃した山中の御堂か何かを描き出している。これは綜合的効果というべきもので、如何に狼の糞を巧に使ったにしても、一句の上に望むのは最初から無理である。

[やぶちゃん注:『鏡花氏の「水雞(くいな)の里」』「水鷄(くひな)の里」「鷄」が正しい表記)は明治三四(一九〇一)年三月発行の『新小説』発表の百鬼夜行の付喪神や異類妖怪のオン・パレード小説(サイト「鏡花花鏡」の九〇番からPDFで縦書版全篇がダウン・ロード出来る)。三年後に戯曲「深沙大王」(しんじゃだいおう)に仕立て直された。

「兀仏(こつぶつ)」鏡花の「水鷄の里」の冒頭に連呼されて出るが、そこでは『兀佛(はげぼとけ)』(禿げ仏)とルビされている。以下、ややネタバレとなるが、場所は越前白鬼女川(しらきじょがわ)岸の水鶏の里の、荒れ果てた深沙大王を祀った祠(ほこら)で実はもうその「兀佛」の声の主自体が人間ではない、鼬の妖怪が首の抜けた賓頭盧の像を罵って言った台詞なのである。

「山ふかみけぢかき鳥の聲はせで物おそろしき梟の聲」「山家集」の「下 雜」(八一九八番歌)及び「夫木和歌抄」の「廿七 雜九」に載る一首。

 

 山ふかみけ近(ぢか)き鳥のをとはせで物恐ろしきふくろふの聲(こゑ)

 

で、「け近き」は「親しみのある鳥」の意。宵曲はルビも振らずにこの一首をポンと出しているのであるが、二箇所の「聲」を変えて読ませることは、この和歌を既に知っている人間にだけに出来る芸当。或いは、宵曲自身孰れも「こゑ」と読んでいたものか? だとすると、知ったかぶりをして逆に墓穴を掘ったとしか言えない。「をと」「こゑ」と読むことを知っていてわざとルビを振らなかったとしたら、実に厭ったらしい行いである。

 

 狼の祭や猛きこゝろにも    嘯山

 烏來て豺(さい)の祭を覗きけり

                同

 狼のまつりか狂ふ牧の駒    太祇

 狼の跡を喰はんと祭るめり   之房(しばう)

 狼のまつりに染めるすゝきかな 晋佶(しんきつ)

 

 秋の季題に「豺祭獣」というのがある。春の「獺祭魚(だっさいぎょ)」と対をなすべきものであるが、歳時記には月令を引いて、「此は戌月(いぬづき)の候と記す。獸を祭るとは、之を天に祭るなり。禽(きん)を戮(りく)するとは、之を殺して以て食ふなり」とあるだけで、よくわからない。

[やぶちゃん注:引用した歳時記が具体的に何かも判らぬし、調べる気もないが、表現が文語であるから、漢字を恣意的に正字化した。

「豺祭獣」音なら「さいさいじゅう」だが、気持ち悪い。これは訓じて、「豺(やまいぬ)、獣(けもの)を祭る」であり、歳時記では晩秋の季語とする。他に「狼の祭り」「豺(やまいぬ)の祭り」などとも柱立てするらしい。七十二候(しちじゅうにこう)の中の「霜降初候」(日本の「霜始降」(霜、始めて降る):十月二十三日~二十七日頃)の、中国での呼称「豺乃祭獸」(豺(さい)、乃(すなは)ち、獸を祭る):山犬が捕らえた獣を並べて食らう)に由来)の時期を指すという。「豺」は山犬或いは狼で、彼らが狩った禽獣を捕獲後に祭るようにして並べるという伝承に因んだ季語で、宵曲も言っているように初春の「獺、魚を祭る」、また、初秋の「鷹、鳥を祭る」に対応するものである。

「月令」「がつりょう」(現代仮名遣)と読む。古漢籍に於いて月毎(ごと)の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したものを指す一般名詞である。有名なものは「禮記」のもので、調べてみると、まさに「月令」に、

   *

鴻雁來賓、爵入大水爲蛤。鞠有黃華、豺乃祭獸戮禽。

   *

とあった。歳時記という奴は、実は判っていない奴が判ったような顔をして、判らんことを当然の如く書き連ねた、似非(えせ)博物書であると、私は昔から思っている。]

 

 狼に寒鮒(かんぶな)を獻ず獺(うそ)の衆 子規

 

という句は芋銭氏の画にでもありそうな趣で、獣と獣に或(ある)交渉を認めた所が面白いけれども、前の「豺祭獣」と直接関係はあるまい。獺祭魚は李義山(りぎざん)の故事があり、延(ひ)いては子規居士の獺祭書屋となったりして、文字の上から見ても雅馴(がじゅん)である。狼の祭は想像しただけでも殺風景で、何ら詩興を鼓するものがないと思われるのに、こんなに句があるのは意外であった。尤も句はいずれもあまり妙でない。豺狼猶(なほ)之(これ)を祭る、いわんや人間をやというようなことにでもして置こう。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三一(一八九八)年冬の作。

「獺祭魚は李義山の故事があり」「李義山」は晩唐の政治家で妖艶と唯美の名詩人であった李商隠(八一二年或いは八一三年~八五八年)のこと。ウィキの「獺祭魚李商隠によれば、彼は『作中に豊富な典故を引いたが、その詩作の際』、『多くの参考書を周囲に並べるように置いた』ことから「獺祭魚」と呼ばれた(前者では自らそう号したとあるが、後者に従った)という。

「子規居士の獺祭書屋」正岡子規は自らを「獺祭書屋主人」(だっさいしょおくしゅじん)とも号した。]

 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)「あとがき」~自筆原稿完全復元完遂!

 

    あとがき

 

[やぶちゃん注:原民喜は「あとがき」も疎かにしていない。非常な推敲痕が残っている。本文同様、なるべく原稿を再現想起出来るように今までと異なり、本文注にも注を挟んだ。なお、青土社全集では、これは本文(第「Ⅱ」巻)とは別に、第三巻の「拾遺集」パートに掲載されている。

 

 ガリバー

 ガリヴアは十六年と七ケ月ものの間、〔世界のあちこちを珍しい〔不思議な〕國國を〕旅行して來ました。私たちも彼のあとについて、

 最初は〔もう一度〔、〕その〕珍しい國〔國〕をまはつてみませう。

[やぶちゃん注:原稿のママ。推理するに、「旅行して來ました。」で一度、改行して、次の段落を書きかけたものの、不足を感じ、「旅行して來ました。」の後の余ったマス全部を使って「私たちも彼のあとについて、」(最後の読点が最終二十マス目)を書き添え、改行した「最初は」を抹消して、追加分をその下に加えたものと思われる。]

 まづ一番はじめに〔、〕リリバツト[やぶちゃん注:「バ」はママ。]の國へ來〔てみ〕ると、どうでせう〔、〕小人のうつかり步けば〔、〕〔足の下に〕踏みつぶしてしまひさうな小人が〔、〕うじようじよしてゐるではありませんか。小人なんか何でもないとガリヴア あな〔侮〕どると大間違ひです。ガリヴアはあべこべに小人の王樣の家來にされてしまひます。それから、ハンカチの上で役人の 騎兵を走らせたり、ガリヴアの股の下を■[やぶちゃん注:(へん)は「方」である。]脚の下を 玩具のやうな〕軍隊→を〕〔股の下→股の下に〕に行進〔させ〕たりします。〔奇〕[やぶちゃん注:上の抹消部に頭にそのように(「奇」)見える字が斜めに書かれてあるように見える。抹消もされていない。]こんな話なら〔、〕〔もう〕誰でも一度は絵本で見たり、人から聞かされて知つてゐるはずです。私も子供のときリリパツトの國の話をきいて、緣側で蟻ありの行列を眺めてゐたら、自分がガリヴアになつたやうな氣がしたものです。しかし、小人の國にも戰爭があつたり、〔政〕爭がつて〔あつたりして〕、ガリヴアはとうとう〔とうとう〕〔そこ〔この囗〕を〕逃げ出してしまひます。

[やぶちゃん注:冒頭の「最」の抹消はママであるが、現行版では冒頭に『最初は』が復活している。]

 それから、その次にブロブデインナグ國へ來てみると、ガリヴアは〔まづ〕膽をつぶします。今度はガリヴアの方が小人になつてゐるのです。いくら〔、〕ガリヴアが勇まし〔強〕さうな振りをしても、自分の國の自慢をしてみても、この大人たこの國の人から見れば〔まるで〕蟲けらのやうなものです。〔だから〕ガリヴアは箱に入れられて、可愛がられてゐます〔。〕すると、その箱を鷲がつかんで海へ持つて行きます。〔、→ます。〕ブロブデイング國 この話は終わります。 ガリヴアはまた■[やぶちゃん注:これは「囗」(國)かも知れない。]〔そして→かうしてガリバーは、大人國ともお別れになります。

[やぶちゃん注:「可愛がられてゐます。」は、現行版では『カナリヤのように可愛がられています。』となっている。最後の「ガリバー」はママ。]

 今度はガリヴアは飛島へやつて來ます。どうも〔そこには〕奇妙な人間ばかり棲んでゐるので、ガリヴアは厭になあつ 厭になつ〔あきあきし〕てしまひます。それから、バルニヴービ國では〔の〕學士院を見物したり、幽靈の國へ行つたり、死なない人間と會つてみたりします。それからガリヴアは〔はるばる〕日本へまで立寄〔やつて〕ります。東京はまだ江戸といはれ〔てゐ〕た頃のことで、長崎では踏絵があつたりします。

 最後にガリヴアは馬の國へやつて來ます。そこには人間そつくりのヤーフといふ厭らしい家畜がゐます。〔るので、〕〔まづ〕ガリヴアはそれを見てぞつとします。それからフウイヌムたちにあひ、そこの言葉を覺え、そこの國に慣れてくるにしたがつて、馬の 平和と秩序と理性のこの穩やかな理性の國がすつかり好きになつ〔気に入つ〕てしまひます。そして人間よりも馬の方がずつと立派だと信じるやう〔思ふやう〕になります。だからこの國をでる彼が追放された時の嘆きは〔それは〕大変なものです。した。→す。それから→それから〕自分の國にかへつても、人間がヤーフ 彼は人間が嫌で嫌でたまらなくなてゐます。〔久振りで人間と出あふと、〔ガリヴアは■■びつくりして〕〔たまらなくなつて→やりきれなくなつて〕逃げだしてしまふ〔さうとします。〕〔しかし〕人間より、馬の方が立派だなど、何と→少し〕情ない話ではありませんか。〔はありませんか。〕〔これは〕〔ほんとに、これは〕情ない奇妙な話にちがひありません。けれども、この話は奇妙でありながら、何か〔ま〕人の心に殘るものがあります。讀んだら忘れられない話のやう〔のやう〕です。

[やぶちゃん注:以下、一行空けの指示。現行版も行空けがなされてある。しかし、以上の原稿と現行版とを比べて見た時、我々はあることに気づく。以下に現行版を示す。

   *

 最後にガリバーは馬の国へやって来ます。そこには人間そっくりのヤーフといういやらしい家畜がいるので、まずガリバーはそれを見てぞっとします。それからフウイヌムたちに会い、そこの言葉をおぼえ、そこの国に馴れてくるにしたがって、ガリバーはこの穏やかな理性の国がすっかり気に入ってしまいます。そして人間より馬の方がずっと立派だと思うようになります。だから、この国を彼が追放されたときの嘆きは大へんなものです。それから久し振りで人間と出会うと、ガリバーはたまらなくなって逃げ出そうとします。しかし、人間より馬の方が立派だなど、少し情ない話ではありませんか。ほんとにこれは情ない、奇妙な話にちがいありません。けれども、この話は奇妙でありながら、何か人の心に残るものがあります。読んだら忘れられない話のようです。

   *

訳本文の末尾もそうであったように、以上の通り、痛烈な文明批判としての、ガリヴァーの強烈な厭人変容が、極度に薄められてしまっているのである。

 私は、本原稿を電子化している最中、原稿の罫外余白に何度も原民喜自身が何かの計算をしている不思議な数字列を何度も見てきた。そして、第三部の馬の国「フウイヌム」では、苦心して訳した箇所を、抹消線や巨大な「×」や斜線で多量に削除する彼を、そうせざるを得なかった彼を、遂には現行の余白に『どうでもいい』と出版社の編者に投げつけるような指示をする彼を、見てきた。そうして、ここでの抹消箇所をそれらに照らし合わせた時、見えてくることは、

★原民喜は出版社である「主婦の友社」の編集担当者から執筆の最中に何度も総原稿字数の制限を告げられていたに違いないこと。

★恐らくは第二部の「飛島」辺りで、残りの許容字数が極端に少なくなったに違いないこと。

★そのために、民喜は最後の「フウイヌム」では、自身の意志に反して、多量の省略と削除を余儀なくされ、人類に対して嫌気がさしたガリヴァーの如く、出版社に厭気のさした彼は、半ば「勝手にしろ!」と吐き捨てるように、「どうでもいい」! と原稿に向かって叫んだのではなかったか?

ということ、いや、推定される厳しい真相、と私は感ずるのである。

 忘れてはいけない。本電子化の冒頭注で述べた通りこの時、この原稿を書いている最中、彼は既にして自死を決していたのだ! 孤独な最期の時間にあった彼にとって、これが如何に痛い鞭であったかを考えてみるがよい! 「最後が原作と違う」などと軽々に批判すヤーフどもは、永遠にここを立ち去るがよい!!!

 

 では、こんな不思議な話を書ゐた人は、〔一たい〕どんな人なのでせうか。

 今からおよそ二百年ばかり前、ヂヨナサン・ウィフトといふ人がこれを書いたのです。彼は一六六七年、アイルランドのダブリンに生れました。頭の鋭い、野望家でした。はじめは、〔ロンドンに出て〕しきりに政治問題に筆を向けてゐました。〔、〕政党にも加はつてゐました。生れつき諷刺の〔彼は若い頃から〕才能に惠まれてゐたので、當時の■ 「桶物語」とか「書物の戰爭」とか「桶物語」とかいふ本を書いて、當時の社會を皮肉つてゐますが、〔した。〕「ガリヴア旅行記」は彼が五十九の年に〔アイルランドで〕書き上げ〔られ〕たものです。しかし、後にはアイルランドに引つ込んで、そこで、教會の副監督をしながら、暮してゐたのです。〔ました。→たのです。〕  そこで

[やぶちゃん注:「ヂヨナサン」の「ヨ」には有意なが記されてある。或いはこれは拗音化してくれという意味なのかも知れない。

「政党にも加はつて」ウィキの「ジョナサン・スウィフト」等によれば、彼はホイッグ党(Whig Party:イギリスの旧政党。後の「自由党」及び「自由民主党」の前身)政権下、『野党のトーリー党』(Tory Party:イギリスの旧政党。現在の「保守党」の前身)『の指導力が』、『より彼の主張に共鳴することに気付き』、一七一〇年に総合雑誌『エグザミナー』(Examiner:「審査官」の意)の『編集者として彼らの主張を支えるために採用された』(同誌で彼は半年間、論説を担当している)。一七一一『年、スウィフトは政治パンフレット「同盟国の行為」を発行し、フランスとの長引くスペイン継承戦争を終わらせることのできないホイッグ政権を攻撃し』ている。その後、『スウィフトはトーリー党の取り巻きの』一『人となり、しばしば外務大臣』『のヘンリー・シンジョン(ボリングブルック子爵)と大蔵卿で首相』『のロバート・ハーレー(オックスフォード=モーティマー伯)との間で調停者としての役割を演じた』とある。

「書物の戰爭」The Battle of the Books。一六九七年に書かれたが、刊行は一七〇四年。近代と古代の学問の愚劣な優劣論争を痛烈に暴露したもので、これは親交のあった彼の後援者でもあったウィリアム・テンプル卿(スウィフトは晩年の彼の面倒を見ており、実はスウィフトはテンプルの私生児だったという説もある)の著作への批判に応えた諷刺小説。ウィキの「ジョナサン・スウィフト」も参照されたい。以下の「桶物語」も参照。

「桶物語」A Tale of a Tub(一六九四年から一六九七年の間に執筆され、一七〇四年に「書物の戦争」とともにカップリングされて刊行)はパロディ小説。ウィキの「桶物語」によれば、『幾重にも付された序文や相次ぐ脱線(主となる挿話と挿話の間に脱線のための章が別途置かれる)など、特異な作品構造を持つ。パロディの手法が用いられている』。『作品の内容および構成からも関係が深く、両者は合わせて一つの作品として読まれるべきであると考えられる』。『題名は、ホッブズの『リヴァイアサン』にある、鯨をよけるための水夫の慣習についての挿話から取られている。その内容は新旧論争での古代派と近代派の対立、および宗教改革期以来のカトリックとプロテスタントの対立を風刺するが、この物語は単線的に進むわけではなく、絶えず脱線によって中断される』とある。]

 「ガリヴア旅行記」は一七二六年に書き上げられました。■彼アイルランドに引退してから十四年目ので、スウィフトが五十九の年でした。彼は

 一七二六年、

 その頃、彼は、

 さて、この「ガリヴア旅行記」は一七二六年に書上げられました。〔それは〕〔丁度〕彼が五十九の年で、アイルランドに引退してから 十四年目のことでした。そして、〔痛ましいことに〕彼はその後、次第に氣が狂つて行きました。一七四五年、七十七才で、死にました。この世を去りました。

そこには人間そつくりの 厭らしい ヤーフといふ厭らしい家畜が 馬に■[やぶちゃん注:(へん)は「亻」であるから、「似」「使」などが考えられる。]ゐます。ガリヴアもヤーフの一種だらうと馬たちにおもはれます。つ たち の國には戰爭もなく

[やぶちゃん注:これは「あとがき」の原稿「2」(左上の番号は順列がよく判らないが「49」)の後に続くものとして書いた原稿の反古をこの「あとがき」現行の五枚目に用いたものと思われる。原稿「2」は最終行が「最後にガリバーは馬の国へやって来ます。」でぴったり終わっていることからも間違いない。

「次第に氣が狂つて行きました」最愛の女性や良き協力者であった友人らが亡くなる中、スウィフトに最初に病気の徴候が顕れたのは一七三八年であった。一七四二年になると発作が起こるようになり、会話能力を失うとともに精神障害が発現、一七四五年十月十九日、満七十七歳で亡くなった。なお、実は彼の罹患していた疾患は実は梅毒性の神経障害であった。その罹患はダブリン大学トリニティ・カレッジ(Trinity College, University of Dublin)在学時代に買った売春婦からうつされたものであったが、スゥイフトは自分が梅毒に罹患していることを知っており、それが進行して発狂するのではないかということを非常に恐れていたことは事実であった。芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「人間らしさ」で次のように述べている。

   *

 

       「人間らしさ」

 

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に禮拜する勇氣は持つてゐない。いや、屢「人間らしさ」に輕蔑を感ずることは事實である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事實である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬやうになつたとすれば、人生は到底住するに堪へない精神病院に變りさうである。Swift の畢に發狂したのも當然の結果と云ふ外はない。

 スウイフトは發狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似てゐる。頭から先に參るのだ」と呟いたことがあるさうである。この逸話は思ひ出す度にいつも戰慄を傳へずには置かない。わたしはスウイフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかつたことをひそかに幸福に思つてゐる。

   *

私の芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈)も参照されたい。]

 

 しかし、この「ガリヴア旅行記」→は〕、ひろく〔これまで〕ひろく世の中に〔界中の人に〔大人に大人にもよろこんで〕讀まれてゐる〔きた〕本珍しいやうです数へる程です。〔の一つです。〕これからもまだ多くの〔人〕人に讀まれて行く〔こと〕でせう。もともと、これは 子供より〔も〕大人にも、〔むしろ〕大人が讀んで喜ぶ本のやうです。

[やぶちゃん注:最後の箇所は子供向けの「あとがき」としてはカットするのは腑に落ちる。推敲が錯雑しているが、これは下書きで、後に整序したものが載る。]

 私は この 原文       みなさんも

 私はこのある部分多少省略

 ■この書物〔譯〕では、かなり省略した部分もありますが、みなさんも大人になつたら、もう一度、 全譯を讀んで 一度は全譯を讀んでみて下さい。 全譯を讀まれることをおすすめして■

 全譯を讀

 

 この「ガリヴア旅行記」は〔これほど〕ひろく世界中の人人に讀まれて來た本です。大人にも、子供にもこれくらゐ よく讀まれた知られて〕てゐ〔き〕た本は稀です。これからもまだ多くの人人に讀まれて行くことでせう。

[やぶちゃん注:現行版は、

   *

 この『ガリバー旅行記』は、これまで広く世界中の人々に親しまれてきた本です。大人にも、子供にも、これくらい、よく読まれてきた本は稀です。これからもまだ多くの人々に読まれてゆくことでしよう。

   *

である。「しよう」はママ。

 以上を以って、去年2016年5月10日に開始した、ブログ・カテゴリ原民喜」内の本『ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)』の総てを完遂した。]

 

2017/12/09

老媼茶話巻之六 一目坊

 

     一目坊

 

 最上の侍、辻源四郎といふもの、なやめる事ありて塔の澤の湯へまかりけるに、いづくより來(きた)る共(とも)知れず、六拾斗(ばかり)の僧、是も、ひとつに、湯入(いり)けるが、諸國にて、さまざま珎敷(めづらしき)物語をする間、源四郎、申(まうし)けるは、

「我等は最上のものにて候が、病氣にて是(これ)へ湯治致し、則(すなはち)、此湯の向ひの家に宿をかり、罷在(まかりあり)。折節、隙(ひま)の節、おとづれ、語り玉へ。」

といふ。

 僧、聞(きき)て、「忝(かたじけなく)候。夜さり、可參(まゐるべし)。」

とて、其日のくれがたに尋來(たづねきた)り、いつものごとく、物語をなし、酒茶過(すぎ)て、夜もふけ、坊主、歸る折、僧の曰、

「我等は明曉(みやうげう)、最早、歸り申(まうす)にて候。われら住申(すみまうす)寺も、程近く候。前の谷川の水上へ登りはてゝ、杉のむら立(だち)の候。其杉原を二里斗(ばか)來(きた)り給へば「一目寺」と申(まうす)古寺の候。所がら、物ふり、殊(ことに)、靜(しづか)に淋敷(さびしく)、一詠(いちえい)の御工夫(ごくふう)の便(たより)ともなり申(まうす)べし。近々、おとづれ玉へ。」

とて、わかれける。

 四、五日ありて、源四郎、若黨を呼(よび)、

「日外(イツゾヤ)、我(わが)かたへ來りし僧の住(すむ)山寺、今日のつれづれに、たづねみばや。」

といふ。若黨、申(まうす)は、

「今日は、そらもうらゝかに候。思召立(おぼしめしたち)おわしませ。」

とて、主從、四、五人にて前の谷川の水上を尋登(たづねのぼ)れば、僧のおしゑし杉のむら立(だち)あり。

 それを、はるばると分行(わけゆけ)ば、實(げ)にも山陰に、崩れ、かたむきたるふる寺あり。さながら、人の住(すむ)とも見へず。

 源四郎、先達(さきだつ)て、若黨を遣(つかは)し、案内をいゝ入(いれ)けるに、十二、三の小(こ)かつしき、立出(たちいで)て、

「それより。」

といふ。

「辻源四郎、御見廻申(おみまはしまうす)。」

といふ。かつしきの曰、

「あるじの僧は、きり嶋が嶽參り候得ば、四、五日は歸り申まじ。」

と云(いふ)。

 若黨、かつしきを見るに、ひたひに、大きなる眼、壱ツ有(あり)。

 若黨、たまげ、歸り、源四郎に、このよしを語る。

 源四郎、不思義におもひ、急ぎ、寺へ行(ゆき)、客殿を見るに、一目の小僧共、四、五人、あつまり、人の首を取(とり)あつめ、

「壱。」

と、かぞへ、竹かご入るゝ。

 勝手へまはり見るに、面(おもて)赤き禿(かむろ)の一眼(ひとつめ)なるが、弐、三人、いろりをめぐり、人の首を、十四、五、火にくべ、あぶり居たるが、源四郎主從をみて、

「又、首數がふへたるよ。」

と、いふ。

 源四郎、大きに驚き、主從飛(とぶ)がごとく、急ぎ宿へ歸り、主(あるじ)を呼出(よびいだ)し、前々のことども、かたる。

 あるじ、聞(きき)て大(おほき)に驚き、

「それは大魔所にて候得ば、誰(たれ)も行(ゆく)人なく候。たまたま、道にふみ迷ひ、行至(ゆきいた)る人の、命たすかるは、なく候に、不思義の御命助り、御仕合(おしあはせ)にて候。先(まづ)、爰元(ここもと)を、はやく御立(おたち)候べし。」

と申しける間、源四郎、彌(いよいよ)肝をつぶし、早々、取急(とりいそ)ぎ、最上へ歸りける。

 

[やぶちゃん注:「最上」出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した新庄藩であろう。

「なやめる事」直ぐに命には関わらないものの、何らかの難治性疾患と思われる。

「塔の澤の湯」不詳。最上という起点地名と、現存しないと思われる温泉名では、ロケーション自体が判らぬ。ただ、本条を現代語訳しておられる山ン本眞樹氏のサイト「座敷浪人の壺蔵」の「一目寺」では、ここを『磐梯山の麓の塔の沢温泉』と訳しておられる。本「老媼茶話」のロケーションとしてはしっくりくるのだが、国土地理院の地図を拡大して見てもこの「塔の沢」も「塔の沢温泉」も見出せない。取り敢えず山ン本(恐らくは「稲生物怪録」のそれであろうから「さんもと」と読むものと思われる)氏のそれを採用させて戴こうと存ずる。同定証左を知っておられる方があれば、是非、御教授を乞う。

「夜さり」夜。「夜去り」で「去り」は時間が経過して「~が来る・~になる」の意の普通の動詞「さる」(去る・避る)の名詞化。私は中学高校時代を富山県高岡市伏木で過ごしたが、あちらの方言で「夜」のことを今も「よさり」と言う。

とて、其日のくれがたに尋來(たづねきた)り、いつものごとく、物語をなし、酒茶過(すぎ)て、夜もふけ、坊主、歸る折、僧の曰、

「杉のむら立(だち)」杉の木が有意に固まって茂り生えている場所。

「一目寺」上手い手法だ。表題「一目坊」は確かに「ひとつめばう(ひとつめぼう)」と読む者は多かろうが、本文にこれが出て来ると、誰も初めっから「ひとつめじ」とは読むまい。そう読めば、主人公の源四郎も異様に思うであろうが、そんな雰囲気は全く出て来ないからである。されば我々もつい無意識に「いちもくじ」で読んでいるに違いない(題名のおどろおどろしさを、もう、忘れて、である)。それがさても、「そうか! 一つ目だ!」と膝を打った時にはこれ、既にして三坂の怪異の語りのマジックに搦め獲られてしまっているという寸法なのである。

一詠(いちえい)の御工夫(ごくふう)の便(たより)」詩歌俳諧などを一吟おひねりになる、その感懐の一つの手立てや素材。

「日外(イツゾヤ)」面白い当て訓である。

「思召立(おぼしめしたち)おわしませ」「『思い立ったが吉日』とも申しますれば、お遊びにお出で遊ばされませ。」。

「小(こ)かつしき」「かつしき」は「喝食」で現代仮名遣で「かっしき」。「かつ」は「唱える」の意。「しき」は「食」の唐音。狭義には、禅宗寺院に於いて食事を摂る際(規律では午前中に一度だけ)、食事の種別や進め方を僧たちに告げながら給仕をすること。また、その役に当たる未得度の者を指すが、後に禅宗に限らず、学問・仏道の修行のために寺に預けられて先の作業を務めた有髪(うはつ)の稚児(ちご)のこと。多くは僧の男色の相手とされた。ここはそれに「小」がついているから、幼童・年少の少年である。

「それより。」私はこれは後の若党の応答から見て、「どちらから?」或いは「どちらさまで?」という問いかけではないかと採る。

「辻源四郎、御見廻申(おみまはしまうす)。」底本は、この「辻源四郎」を地の文として前に出している。しかし、このシーンでは源四郎は離れた位置にいるのであるから、それは頗るおかしいことになる。されば、これは若党の台詞と採るべきである。則ち、「我らが主人、辻源四郎、和尚にお目見え申し上げんがため、参上仕った。」と言う伝言告知であると採る。

「きり嶋が嶽」これが磐梯山のピークにあればいいのだが、知らぬ。

「くべ」「燒(く)べる」。]

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版)掉尾【幻の活字化されなかった草稿原稿の結末完全電子化!】~完遂!

 私はできることなら、何處か無人島を見つけたいものだと思ひました。その島〔こ〕で働きさへすれば生きてゆける小さな島があつたら、ひとりで靜かに暮したいのでしたす〕。私はヨーロツパのヤーフたちの社会へ返るのは、〔もう〕考へただけでも厭でした。

 その日の夕方、私は〔向に〕小さな島〔が〕一つ發見し〔見えて來〕て、〔私は〕間もなくそこへ着きました。だが着いてみると、それは大きな岩だつたのです。〔しかし〕岩の上によぢのぼつてみると、東の方に陸地がずつと伸びてゐるのが、はつきり見えました。その晩は舟の中で〔寢〕て、翌朝早く起きると、また航海をつづけました。七時間ばかりすると、ニユーポランドの東南端に着きました。

[やぶちゃん注:「ニユーポランド」原典は“New Holland”。オーストラリア大陸の歴史的名称。]

 あたりには人の子一人見えなかつたのですが、〔私は〕武器を持つてゐないので、奧へ進むのも考へもの〔心配〕でした。〔私は〕海岸で貝を拾ひましたが火をたくと〔いて〕土人に見つかるといけないので、生のまま食べました。三日間は牡蛎と貝ばかり食べてゐましたが、近くに綺麗な小川があつたので、〔水の水の方は〕助かりました。

 四日目の朝、いつ〔私は〕少し遠くへ出かけてみました。ふと、五百ヤード前方〔の〕丘の上に、二三十人の土人の姿が見えました。男も女も子供も、眞裸で、火を圍んでゐるのです。一人がふと私の姿を見つけて、すぐ他の者に知らせたかとおもふと、五人の男がこちらへ近づいて來ます。

 私はもう一目散に海岸へ逃げて帰ると、舟に飛乘つて漕出しました。土人たちは貴志まで追いかけて來て、矢を放ちました。

 〔それから〕私は舟を北の方へ進めてみました。暫くすると、向に帆〔の〕影が一つ見えて來ました。しかも、〔船は〕どんどんこちらへ近づいて來るのです。私はこのまま〔待〕つてゐようかしらと思ひましたが、ヤーフのことを考へると、たまらなくなつて、〔りました。〕〔そこで〔、〕〕舟を漕いで一目散に逃げだしました。そしてさつき 逃げ〔私が〕朝出たもと〔あ〕の島へまたもどつて來ました。私は小川の傍の岩かげに隱れ〔てゐ〕ました。

 後から追つて來た舟は、ボートをおろして〔、〕この島へ水汲みにやつて來ました。〔そして〕水夫たちが上陸するとき、私の独木舟に氣づきました。もちぬしが何處にゐるにちがひないと、彼等はそこら中をさがし廻りました。武裝した四人の男が、とうとう、岩かげに小さくなつ〔すくんでゐ〕る私を見つけました〔だしたのです〕。革の服、毛皮の靴下、など見て、私の奇妙な服裝に、彼等は驚いたやうです。しかし裸でないので土人ではないこと〔思つたのでせう。〕はすぐわかつたらしい

 「立て、お前は何者だ」

 と、水夫の一人が、ポルトガル語でたづねました。ポルトガル語なら〔、〕私もよく知つてゐるので、すぐ立ち上つて答へてやりました。

 「私はフウイヌムの國から追出された哀れなヤーフです。だからどうか、このままそつとしておいて下さい。」

 ポルトガル語ができるので彼等は驚いたやうですが、〔きましたが〕、私の顏色を見てヨーロツパ人にちがひないとわかつたやうでした。しかし、私のいふこと ヤーフとかフウイヌムとかいふ言葉はなんのことかわからなかつたらしいのです。私がまるで馬のやうにいなないて物を言ふので、彼等は噴き出してしまひました。

 私は〔もう〕怖くてブルブル震へてゐました。逃がせて下さいと言ひながら、独木舟の方へ行かうとすると、彼等は私を捕へて、何處の國の者で、何處から來たかなど、いろんな質問をしかけます。

[やぶちゃん注:「逃がせて下さい」はママ。フウイヌム語風に発音したと思えば、全然、おかしくない。以上の、二段落分の現行版を示す(二段落分が一段落になっている)。ここでは生きているのに、カットされている箇所があるからである。

   *

 ポルトガル語ができるので彼等は驚きましたが、私がまるで馬のようにいなゝいてものを言うのに噴き出してしまいました。私はもう怖くてブルブ震えていました。逃がしてください、と言いながら、独木舟の方へ行こうとすると、彼等は私を捕えて、どこの国の者で、どこから来たかなど、いろんな質問をしかけます。

   *]

 〔とうとう〕彼等がものを言ひ出した時、私は犬や牛が物を言ひ出したやうに、〔全く〕変な氣持にさせられました。私か〔が〕何度も逃げ出さうとするので、とうとう彼等は私を縛り上げて、ボートへ引ずりこみ、それから本船へつれて行きました。

 〔それから〕私は船長室へ引ぱつて行かれました。船長の名前はペドロと云いました。ひ〕、大変、親切な男でした。

 「どうか、あなたの身上話をきかせて下さい。食事はどんなものを召上りますか。これからは私と同じ待遇にしてあげたいのですが」

 と、こんな親切なことを云つてくれます。私は ヤーフからこんな親切にされるとは夢にも思ひがけないことでした。しかし、私は相変らず默りこんでゐました。

 私は彼等の臭ひが〔厭で〕たまらなく、今にも倒れさうでした。しかし彼等は私に一寢みせよと云つて、綺麗な部屋へ案内してくれました。私は服のまま、ベツドに寢ころんでゐましたが、三十分ばかりして、水夫たちの食事をしてゐる隙に、そつと脱け出しました。こんなヤーフどもと暮すぐらゐなら、いつそ海へ飛込まうと覺悟してゐるところを、船員の一人に見つけられました。〔そして〕今度は船長室にとぢこめられてしまひました。

[やぶちゃん注:「一寢みせよ」「ひとやすみせよ」と訓じているらしい。現行版は『一寝入せよ』で「ひとねいりせよ」に変えられている。]

 食事をすませると、ペドロがやつて來ました。そして、

 「何故あんな無謀なことをしようとしたのだ、自分はできるだけのことをしてあげたいつもりでゐるのに」、と〔船長〕はしみじみと云つてくれます。私はとうとう彼を

 私はごく簡單に、これまでの身上話をしてやりました。すると船長は夢の話でもきいてゐるやうな顏つきです。〔した。〕私も腹が立つてしまひました。私はもう噓をつくやうな、あんなヤーフの國のことは、すつかり忘れてしまつてゐたので、相手を疑ふといふこことも考へられなかつたのです。

 しかし、船長〔彼〕はなかなか賢い男で、そのうち〔やがて〕私の話をだんだん分つてくれました。私も、〔もう〕二度と逃げ出さないことを〔すやうなことはしないと〕彼に約束しました。

 航海は順調に進みました。私は船長とは時時、あつて一緒にいろいろ話こともあにました。が しかし一日の大方〔たいがい〕自分の部屋に引込んで、船員たちには会はないやうにしました。船長は、その〔奇妙な〕服を脱いではどうか、といつて、わざわざ彼の 服を〔晴着を〕貸して〔出して〕くれるのでしたが、一度でもヤーフの身躰についたものを著るのはたまらない氣持がしたからです。私は断りつづけました。

[やぶちゃん注:以上の太字で示した箇所は、全体に非常に薄い曲線の抹消線のようなものが四本ほど見える。抹消と入れ替えが行われており、民喜が最後の最後に苦心して推敲した跡が見られる。無論、現行版には太字部分は存在しない敢えて抹消線を引かずに示した。]

 一七一五年十一月五日、船はリスボンに着きました。船長は、その姿では見つともないといつて、無理に外套を着せかけま〔て〕くれました。それから私は船長の家へ連れて行かれ、一番奥の部屋に案内してもらひました。

[やぶちゃん注:「一七一五年十一月五日」本邦では正徳五年十月十日。]

 十一月二十四日に英國イギリス船で私はリスボンを發ちました。十二月五日にダウンスに着きました。

 てつきり私を死んだものとばかり思つゐた妻子たちは、大喜びで私を迎へてくれました。

 家へ戾る〔入る〕と、妻は私を兩腕に抱いて接吻〔キス〕しました。だが、〔だが、〕なにしろこの数年間といふものは、こんな動物〔人間〕に觸られたことがなかつたので、一時間ばかり私は氣絶してしまひました。

[やぶちゃん注:現行版は以上で全篇が終わっている。しかし実は原稿にはまだ先がまだ二段落分あるのである。敢えて太字で示す。

……かつて「この終わりの部分が致命的に駄目な不完全な訳だ」と「したり顔」で評した書評を読んだことがある……お前には原民喜を語れない! 一言もだ!……彼の初期原稿にはちゃんと訳されてあるんだよ!……原民喜が自死を決しながら、それでも未来の子らのために訳した希望の光の幻の中の本作を……お前なんぞに批評する資格なんぞ――金輪際――ない、よ…………

 私は〔家に戾つてから〕はじめの一年間は〔私は〕妻子と一緒にゐるだけでも堪らなかつたのです。臭が我慢できなかつたし、一つ部屋では一緒に食事などする気にはなれませんでした。

 〔近頃、〕私は二頭の仔馬を買つて、立派な厩を造つて飼つてやつてゐます。りました。つてゐます。〕馬たちは、私の言ふことを大ていわかつてくれるので、毎日、四時間ぐらゐは一緒に話をすることにしてゐます。

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム ヤーフ君お大事にね (2) /(事実上の「ヤーフ君お大事にね」の了)

 

十一章

 

[やぶちゃん注:現行版では以上の柱は存在せず、前の段落で普通に改行して続いている。]

 

 私が岸を離れたのは、一七一四年二月十五日、朝の九時でした。風向がいいのではじめは櫂ばかりで漕いでゐましたが 、思ひきつて帆を上げました。 舟は主人や友人達は〔、〕私の姿が見えなくなるまで〔、〕海岸に立つて〔、〕見送つてくれてゐました。時時、召使の月毛が、

 「ヤーフ君 お大事にね」

 と、怒鳴つてくれるのが聞えました。

[やぶちゃん注:月毛君の台詞の空きマスはママ「お大事にね」の「ね」の左下には読点のようなものがマスの中にあるが、通常の原稿書きで原民喜こんなところに読点は打たない(一年五ヶ月も自筆原稿とつき合えばそれぐらいのことは身につく)から、これはたまたまペンを置いたか、汚れである。そもそもかれは直接話法の終りに句点を討つことも稀なのである。無論、現行版は『「ヤーフ君、お大事にね。」』である。印象的なエンディングのシークエンスなので、短いし、次に行空けがあるわけでもないけれども、独立させて公開することとする。

「一七一四年二月十五日」日本では丁度、正徳四年正月一日、元旦である。]


 
 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム ヤーフ君お大事にね (1)

 

    ヤーフ君お大事にね

 

[やぶちゃん注:現行版の柱は『四、ヤーフ君、お大事に』であり、現行版は本章を以って]

 

 私はこの國に〔、〕いつまでも住んでゐたい〔、〕と思ふやうになりました。ところが、どうしても、この國を〔立〕去らねばならぬこと になつたのです。〔がもちあがりました。〕

 この國では、四年毎に、全國から代表者が集つて〔、〕會議を開くのです。この會議は野原で、五六日つづけられます。私の主人も〔、〕〔こんど、そ〕の會議に〔、代表者として、〕出て行つたのです。

 ところ〔で〕、今度の會議で問題になつたのは、ヤーフをこの地上に生かせておいて〔、〕いいか惡いか〔、〕といふこと〔問題〕でした。

 一人の議員は次のやうに演舌しました。

[やぶちゃん注:「演舌」はママ。後の方で自分で訂正している。]

 〔「〕およそ、世の中にヤーフほど、不潔で、いやらしいものはない。彼等はこつそり、牛の乳を吸ふやら、猫を殺して食べるやら、畑をあらすやら、ろくなことはしない。

 このヤーフといふものは、もとからこの國にゐたものではない。傳説によると、ある時、突然、山の上に二匹のヤーフが現れたといふ。〔これは〕太陽の熱で腐つた泥の中から生れたものか、どうかよくわからないが、一度生れて來ると、子供がずんずん殖えて、たちまち全國にひろがつてしまつた。

 そこでフウイヌムたちは〔、〕大山狩をして、ヤーフたちをとりかこみ、年とつたものを殺してしまひ、若いのだけ、フウイヌム一人について二匹づつ、小屋を作つて飼ふことにした。そこで、あばれものの動物も、少しは馴らされ、とにかく物をひかせたり、運ばせたりするくらゐの役にはたつやうになつた。

 しかし、住民たちは、ヤーフを使つてゐるうちに、ついうつかり驢馬を増やすことを忘れてしまつた。驢馬はヤーフにくらべて、すばしこくはないが、そのかはり形もいいし、をとなしくて、くさくもない。われわれは、あのいやらしいヤーフはみなは〕殺して、そのかはりに驢馬を使つた方がいいとおもふ。」

 これには贊成したものも〔大分〕ありましたが、私の主人は反対のかんがへ〔意見〕をのべました。

 「二匹のヤーフが山に現れたといふ傳説はこんな風に考へられる。あれは、たしかに海を越えて、むかふからやつて來たもので、のらしい。ので、〕〔二匹は〕上陸すると、そのまま山〔の中〕へ逃げ込んだものらしい。それから時のたつとともに、だんだん野蠻になつて、〔とうとう〕あんな風な動物になつてしまつたのだとおもはれる。その證據には〔、〕私は驚くべきヤーフを一匹持つてゐる。」

[やぶちゃん注:抹消字の「向」は自身がない。「何」のようにも見える。「向うの山」或いは「何故か」が想定はされる。なお、現行版は最後の「驚くべき」は『不思議な』となっている。]

 こういつて、主人は、私を見つけた時の〔こ〕とから、洋服を着てゐること、この國の言葉をおぼえてしまつたこと、この國へくるまでのことを自分ではなしてきかせたことなど、いろいろと説明しました。

 「こんな風な、〔おとなしい〕ヤーフもゐるのだから、ヤーフをみな殺しにするのは〔、〕かはいさうだ。それより、ヤーフ〔の〕子供をふやさないやうにして、驢馬の子をうんとふやすやうにしたらいいとおもふ。」

 と私の主人はこう演〔説〕したのでした。

 私はこの會議のことを主人から聞かされて、何だか心配になりました。ヤーフをどうすることに決まつたのか主人主人それはまだ私それはまだハツキリしてゐませんがはまだ話してくれませんでした。主人は何も語りませんでした。それはまだ〔はつきり〕きかせてもらへなかつたのです。〕

 ある朝、主人から迎への使が來ました。行つてみると、主人は、どうも話しにくさうに困つてゐる、〔云何から話し出したらいいのか、困つてゐる樣子でした。が、やつと口をひらいて云ひました。〕

 それによると、今度の会議で、ヤーフのことが問題にされた際に、主人に苦情が出たのです。〕私はこの國から出て行つてほしいといふことに決まつたのです。

 主人が私を〔ヤーフを〕家に置いて、フウイヌム並みに扱つてゐるとは実にけしからん〔、〕と主人は代表者たちから苦情を云はれました。普通のヤーフのやうに働かすか、それとも、泳いで國へ帰らすか、どちらかにせよ〔、〕と云はれるのです。だが、〔私を〕普通のヤーフの仲間に入れたら、ヤーフたちをそそのかして、夜になると家畜を襲つたり、どんな危險なことをやりだすかわからない、といふので、やはり泳いで國へ帰らせた方がいいと決まりました。主人は私に同情して、かう云つてくれました

 「私はむろん一生でも喜んでお前を〔ここに〕置いてやりたかつたのだが、どうも仕方がない。〔泳いで帰るといつても〕まさかお前〔の囗〕まで泳げもすまい。だから、いつかお前の話した、海を渡る容れものを一つ作つてみてはどうか。〔それなら〕私の召使や近所の召使にも手傳はせてやる。」

 私は主人にかう言ひ渡されると、悲しくなつて、氣を失彼の足許にふらふらと倒れました。主人は私が死んでしまつたのかと思つたほどでした。しかし、とにかく氣をとりなほして、船をつくることにきめました。

 主人は船ができるまで、二ケ月待つてくれる〔もらふ〕ことになりました。そして、〔私は〕召使の月毛を助手に貸してもらひました。

 私は月毛をつれて、あの〔海賊どもが〕私を無理矢理に上陸さされ〔せ〕た海岸の方へ行つてみました。丘にのぼつて、ずつと四方を見渡すと、東北の方向に島影のやうなものが見えてゐます。〔望〕遠鏡を出して覗いてみると、たしかに島で〔す〕。距離は五リーグぐらゐです。〔しかし〕月毛の召使には、あれはただ靑い煙だら

うといふのです。彼は自分の國より他の國かあるとは〔夢にも〕考へてゐないので、海の向にあるものがわからなかつたのです。

[やぶちゃん注:「五リーグ」既出既注であるが、再掲する。ヤード・ポンド法の単位であるが、時代によって一定しないものの、凡そ、一リーグ(league)は三・八~七・四キロメートルの範囲内にある。本書公刊よりもずっと後、イギリスで十九世紀頃に定められた現在の「一リーグ」は「三マイル」で「約四・八二八キロメートル」である。但し、海上では「一リーグ」を「三海里(nautical mile:ノーティカル・マイル:現在の国際海里では一八五二メートルに規定)」として使うこともあるので、前者ならば二十四キロメートルほど、後者の海里換算なら九キロメートル強となるが、後者だったら望遠鏡を用いて確認するまでもないし、あまりに近過ぎる気がするから、これを以って本書では総て「一リーグ」=「三マイル」=「約四・八二八キロメートル」換算でよいと断定したいと思う。]

 とにかく、この島が見つかつた以上はもう大丈夫だ〔後は運を天にまかせて、あの島まで流れてかう〕と私は思ひ〔きめ〕しました。

[やぶちゃん注:「流れてかう」はママ。現行版は『流れて行こう』。]

 それから家に帰ると、月毛と相談して、〔こんどは〕森へ出かけて行きました。私は小刀で、彼はフウイヌムの斧を使つて、檞(かひ)の枝を幾本も切り落しました。ステツキぐらゐの太さのものや、もう少し太いのもありましたが、それを私はいろいろに細工しました。

[やぶちゃん注:「檞(かひ)」の「かひ」は特異点のルビである。これはどう見ても、ここまで見て来た原民喜の字の癖からは「ひ」であって、他の字、例えば「し」(「かしは」の「は」の脱落。しかし後述するが「カシワ」と「カシ」同属ではあるものの、別な種(群)を指すものであり、「カシワ」のことを「カシ」とは絶対に言わないでも、「い」(「檞」の音「カイ」。事実、この漢字は中国にもある漢字ではあり、音は「カイ・ケ」ではある。但し、この字は国字で「カシワ」と訓ずるのは「槲」の字に似ていることからの誤用であり、しかも歴史的仮名遣に直してもこれは同じ「カイ」であって「カヒ」ではないのである)でもない。現行版は『槲(かしわ)』である。決定稿に従い、「かしは」で読んでおく(歴史的仮名遣に従う)。則ち、ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata である。同種はすでに述べた通り、「槲」は誤用で、「柏」或いは「槲」と書くのが正しい。一方、「カシ」は「樫・橿・櫧」などと漢字表記するが、これはブナ目ブナ科コナラ属 Quercus の中でも常緑高木の一群の総称である。狭義にはコナラ属中の常緑性の種をカシと呼ぶが、同じブナ科コナラ属で名前も似ているものの、「カシ」は常緑性、「カシワ」は落葉性なので両者は全く違う木なのである。但し、原文を見ると単に“oak”とあり、これはブナ科コナラ属の総称であるから、正直、仮想国の樹木である以上、これを「カシ」(英語:Live oak)か「カシワ」(英語:Daimyo Oak)かと、強いて拘る必要はない気もする。しかも「カシ」も「カシワ」も孰れも船舶材に適しているからである。]

 一番骨の折れるところは月毛が手傳つてくれて、六週間もすると、インド人の使うやうな独木舟が一隻出來上りました。

[やぶちゃん注:「独木舟」当て読みで「まるきぶね」と読む。「丸木舟」のこと。現行版では『独木舟(カヌー)』とルビする。今の子供たちには最早「カヌー」の方が躓(つまず)かぬ。]

 船はヤーフの皮で張つて、手製の麻糸で縫ひ合はせました。帆もやはりヤーフの皮で作りました。これは年をとつたのでは皮が硬いので、仔ヤーフの皮を使いました。櫂も四本こしらへました。皮兎と鳥の蒸肉、それに牛乳、水を入れた壷を二つ、それだけを船に積込んでおきました。

 〔私はこの〕船を家の近くの大きな池〔に〕ためし〔に浮べ〕てみて、悪いところを直し、隙間にはヤーフのあぶらをつめました。いよいよ、これで大丈夫だつたので、〔になりました。そこで、〕今度は〔船を〕車に積んで〔み〕、ヤーフたちに引かせて、靜かに海岸まで運びました〔んだのです〕。

 準備ができあがつて、出發の日がやつて來ました。私は主人夫妻と家族に別れを告げました。眼は淚で一杯になり、心は悲しみでかきむしられるばかりでした。だが、主人は、私が船に乘るところが見たい、と云つて、近所の人人を誘つて一緒にやつて來ました。潮合を私は潮合を一時間ばかり待つてゐました。風工合もよくなつたので、私は〔いよいよ〕向の島へ渡らうと思ひ〔、〕ました。〔そこで〕私は改めてまた主人に別れを告げました。私がひれふして、彼の蹄に接吻しようとすると、彼は靜かにそれを私の口もとまで上げてくれました。ほかのフウイヌムたちにも、ていねいに挨拶して、舟に乘りこむと、〔私は〕いよいよ岸を離れたのです。ました。

[やぶちゃん注:最後はママ。現行版では『離れたのです。』である。この後に原稿では「十一章」を挿入する校正記号が入る。現行版はそのまま、改行して続いている。]

 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (3) / たのしい家~了

 

 私は、主人の家から六ヤードばかり離れたところに、自分の室を一つ作らせてもらいました。

[やぶちゃん注:「六ヤード」五メートル半弱。]

 壁は自分で粘土を塗り、床には〔自〕分で工夫して〔つくつた〕莚を敷きました。この邊には麻が多いので、それを打つて、蒲團のおほひを作り、中には〔そのなかに〕鳥の羽毛をつめました。骨の折れる仕事は仔馬に手傳つてもらひ、小刀で椅子を二つこしらへました。

 服が擦り切れると、これは兎の皮で代りをつくりました。この皮からは、立派な靴下もできました。私はよく木のうろから蜜をとつて來て、水に混ぜて飮んだり、パンにつけて食べました。

[やぶちゃん注:以下の一行空けは現行版にはない。]

 

 私は〔、〕主人のところへ訪ねて來る〔、〕フウイヌムのお客たちとも〔、〕知りあひになりました。主人の部屋に〔、〕私の方から〔、〕〔彼等の話をききに〕出かけて行くこともあり〔、〕時には〔、〕主人やお客が〔、〕私の部屋に訪ねてくることもあります。それから、また時には〔、〕主人のお供をして、お客の家に訪ねて行くこともありました。

 私は訪ねられる〔質問に答へ〕るほかは、こちらから口を出して喋つたりするやうなことはしません〔なかつ〕たのです。ただ、そばで彼等の話を聞いてゐれば、それだけで〔私は〕氣持よかつたのです。彼等の話はちよつとも無駄なところがなく、簡單で、はつきりしていました。〔ちやんと禮儀は守られてゐて、〕堅苦しいところ〔が〕ないのです。喋ることは、話す方も樂しければ、聞く方も氣持よくなるやうなことばかり〔なの〕です。邪魔も入らねば、退屈もなく、のぼせたり、爭つたりするやうなこともないのです。

 彼等はたいてい、友情とか、慈善〔とか〕、秩序だとか〔とか〕、秩序〔とか〕經濟だとかいふ〔などの〕ことを話しあひました→す。〕それから〔、〕詩の話もよく出ます。私は〔かりに〕ヨーロツパで一番えい人たちの集りに出るより、ここで、フウイヌムの話をきいてゐる方が、ずつと誇らしく思へました。

 私はこの國の住民たちの力と美と速さを感心しました。そして、このやうな穩やかな〔立派な〕人格に、深い尊敬すつかり尊敬するさゆになりました。〔〔私は〕だんだん尊敬するやうになりました。〔なつたのです。〕〕

 〔そして〕私は、自分の家族や友人、同胞、人■〔などを〕考へてみると、〔とてもひどく〕ヤーフ恥かしくなりました。ヤーフと私たちが違うのは、ただ〔人間の方は〕言葉が話せるといふことだけで、理性はかへつて惡いことに〔〕使はれてゐます。よく〔、〕泉や湖に映る自分の姿を見たときなど、思はず〔私は〕顏をそむけたくなりました。

[やぶちゃん注:この恐らくは「ヤーフと私たちが違うのは、……」以下、最後までは上罫外に大きな丸括弧が被せられてあってその上にはっきりと「略」と書かれてある。しかし、幸いなことに現行版でここはしっかりと以下のように生きている。

   *

 そして私は、自分の家族や友人、同胞などを考えてみると、とてもひどく恥かしくなりました。ヤーフと私たちが違うのは、たゞ人間の方は言葉が話せるということだけで、理性はかえって悪いことに使われています。よく、泉や湖にうつる自分の姿を見たときなど、私は思わず顔をそむけたくなりました。

   *

但し、現行版はこれで「三、楽しい家庭」は終了している。ところが、原稿には実は、以下の通り、半原稿分二段落がある。この原稿分は全体に大きな「×」が振られて、抹消指示と見えるのであるが、実は上罫欄外には「どうでもいい」と書かれてあるのである。私はこの際、この「どうでもいい」を削除とせずに、残そうと思う。されば、全体に「×」が附されてあるが、特異的に以下は抹消線を引かずに示すこととする。

 私はフウイヌムと話をして、その姿を見るのが一番たのしかつたのです。とうとう私は彼等の步き方や身振りを眞似るやうになり、今ではすつかりそれが癖になりました。だからよく人達から、

 「何だその步き方は、ますで馬ぢやないか」と云はれるますが、却つて私にはそれがうれしいのです。よく人と話をしてゐるとき、私は急にフウイヌムのやうに、いななくこともあります。

 

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (2)

 

八章  たのしい家

 

[やぶちゃん注:現行版にはこのような柱はなく、行空けもなく、普通に改行で前と続いている。]

 

 〔こんな風に〕私は主人から、ヤーフの癖〔性質〕をいろいろ聞かされた〔。〕ので、それでは一つ是非どこか近所のヤーフの群を訪問させて下さい、と〔私は〕賴みました。主人は快く承知して〔、〕くれ、召使の月毛の小馬を私の附添ひに命じました。この附添にまもられて〔が〕ゐなかつたら、とても私はヤーフ〔の〕近〔く〕に行くことはできなかつたのです。私が最初この囗に來た時、この忌まはしい動物〔に〕いぢめられたことは、前にも言つたとおりですが〔のですが〕、その後も、私は〔うつかり短劍を忘れて外に出たときなど〕三四度も危く爪 にかけられるところでした。

 それにどうやら彼等の方でも、私が同種族のものであることに、うすうす感づいてゐたらしいのです。私は附添と一緒にゐるときなど、よく袖をまくりあげて、腕や胸を見せてやりました。すると彼等は〔、〕いつも私のすぐ傍まで來て、丁度あの猿の人眞似と同じやうに、しきりに私の恰好を眞似ますが、いつも憎憎しげな顏つきで〔、〕それをやるのでした。

 彼等は子供の時から、とても敏捷です。〔あるとき私は〕一度三歳の子を一匹捕へ〔て〕て、手なづけようとしましたが、相手は、恐ろしい勢で、喚んだり、ひつかいたり、かみみつくので、とうとう放してしまひ〔やりま〕した。

[やぶちゃん注:「喚んだり」は「さけんだり」と読んでいるようである。現行版は『喚いたり』となっている。]

 私の見たところでは、ヤーフぐらゐ〔ほど〕、教へにくい動物はゐません。できることといへば、精々荷物をひいたり、かついだりすることだけ〔ぐらゐ〕です。

 フウイヌムたちは、家から少し離れたところに小屋をつくつて、いろんな用にヤーフを飼つてゐますが、その他のヤーフは〔、〕すべて野原に放し飼ひにされてゐます〔るのです〕。彼等はそこで、木の根を掘つたり、草を食つたり、肉をあさつたり、時には、いたち〔を〕捕へて食べます。〔そして〕丘などの側に爪で深い穴をほつて、そのなかに寢ます。

 彼等は子供の時から、水泳ぎや、長い間水の中〔水〕潛つてゐることも〔り〕〔が〕きます。かうしてよく魚を捕へては、牝が家に持つて帰つて、子供に食べさせるのです。〔ます。〕

 〔ところで、〕なにしろ、私はこの國に三年も住んでゐたのですから、この國の住民たちの風俗や習慣のことを、〔ここに少し述べておきます。〕ここにこれからお話し たらよく知つてゐます〔るのです。〕

[やぶちゃん注:最後の抹消し忘れはママ。]

 このフウイヌム族といふのは、生れつき、非常に徳の高い性質を持つてゐます。彼等の格言は〔、〕「理性を磨け 理性によつて行へ」といふのでした。

 友情と厚意はフウイヌムの美徳です。どんな遠い國から來た〔知らない〕人でも、まるで友達のやうにもてなされます。どこへ行つても、自分の家と同じやうに安心できます。みんなは〔、〕非常に上品で〔、〕つつしみ深いのですが、わざとらしく取澄まし〔らしく儀禮〕〔らし〕いところ〔が〕〔少しも〕がありません。自分の子供も他所の子供だからといつて滅茶苦茶可愛がるも、同じやうに可愛がります。〔彼等〕子供の教育〔のしかた〕は感心なかなか立派です。なのです。十八歳になるまでは、ある定まつた日でなければ、燕麥など一粒も口にすることを許されません。牛乳などももほとんど飲まされません。夏は午前に二時間と、午后に二時間づつ、草を食べさせてもらへますが、このきまりは親た〔ち〕もそのとほりに守るのです。

[やぶちゃん注:現行版は細部がかなり違う。

   *

 友情と厚意は、フウイヌムの美徳です。どんな遠い国から来た知らない人でも、まるで友達のようにもてなされます。どこへ行っても、自分の家と同じように安心できます。みんなは、非常に上品で、つゝしみ深いのですが、ちょっとも、わざとらしいところがありません。自分の子供も他所の子供も、同じように可愛がります。子供の教育の仕方は、なかなか立派なのです。十八歳になるまでは、ある定まった日でなければ、からす麦など一粒も口にすることを許されません。夏は午前に二時間と、午後に二時間ずつ、草を食べさせてもらいますが、この規則を親たちもきちんと守ります。

   *

太字はもとは傍点「ヽ」。]

 フウイヌムは、その子弟〔を強くするために、〕險しい山や石ころ道を走らさます。汗だくになると、今度は河の中にザンブリ頭から跳びこませるのです。それから、一年に四回、若い男女が集まつて、駈けくらや、跳込み、そのほか、いろんなの競技をします。勝つた者には、それを讃める歌が與えられます。

[やぶちゃん注:「走らさます」はママ。現行版は『走らせます』。

「讃める」は「ほめる」と訓じているようである。現行版は『ほめる』と平仮名である。]

 また四年目毎に、全國からの代表者が集つて會議があります。これ〔集まつ→これ〕は野原で開かれ、凡そ五六日つづきます。この會ギでは各地方のいろいろなこと〔な問題〕が決められます。

[やぶちゃん注:以上の段落は、全体に斜めに大きな取消線が二本引かれている。現行版には全く存在しない内容である。

「ギ」という乱暴なカタカナ表記様のものは一見、珍しいが、実は民喜は「義」を(つくり)に持つ「議」「儀」などの場合には、「義」を「ギ」とすることがままあり、ここでは(へん)の「言」をも省略してしまった結果、こうなったものと私は考えている。或いは、書きながら、「ここもカットだな」と考えていたために、書き方がぞんざいになった可能性もあるかも知れぬ。]

 フウイヌムは文字といふものをまるで持つてゐません。(知識は親から子へ口でつたへるのです。)しかし彼等は詩をつくることがとてもうまいのです。その詩はその詩は〕友情や善意をうたつたものと、運動の優勝者を讃め〔た〕ものと立派な→ものと、〕なか立派な詩があるので〔りま〕す。

[やぶちゃん注:現行版は最後は『なかなか美しい詩があります』となっている。]

 家〔庭〕はごく簡單〔質素〕に出來てゐますが、不便はありません。この國には四十年ごとに根元がゆるんで、〔風でも吹けばすぐ〕倒れる樹木があります〔ます〕。〔そして〕これ〕まつすぐに伸でゐるのですから、この〔倒れた〕樹木を使つて家を作るのです。

[やぶちゃん注:以上の段落は丸ごと現行版には存在しない。

 フウイヌムたちは〔、〕病氣にかかるといふことがないので、醫者はゐません。〔しかし〕怪我をしたとき使ふ〔つける〕薬は立派なのが〔ちやんと〔備へて〕あり〕ます。彼等は、病気〔にかかつて〕死ぬなどなどこと〔やうなこと〕はないのです。〔く、〕死ぬとは〕〔ただ〕年をとつて自然に衰へ〔て〕死ぬのです。死ぬと〔そして〕死人は〔人〕目につかない場所に〔そつと〕葬ることになつてゐます。臨終だといつて、誰も悲しんだりするものはありません、死んでゆく本人でさへ、ちよつとも悲しさうな顏はしてゐないのです。

 彼等はたいてい〔、〕七十か七十五まで生きます。たまには八十まで生きる〔もの〕もゐます。死ぬ二三週間前になると、だんだん身躰が弱つてきますが、別につ〔つ〕らくはないのです。ると〔さうなると〕友達がつぎつぎに訪ねて來ます。つまり、気樂に一寸外出するやうなことができなくなつ〔いから〕です。

 いよいよ死ぬ十日前頃には、今度はごく近所の人たちにだけには→だけには〕挨拶に〔答礼〕に出かけてゆきます。彼は答礼先へ着くと、まづ暇乞お別れの挨拶をのべるのですが、それはまるで、何處か遠いところへ旅行するときの別れのやうな恰好なのです。

[やぶちゃん注:ここに一行空けの指示が入っている。現行版は一行空けはない。]

老媼茶話巻之六 彦作亡靈

 

     彦作亡靈

 

 出羽の國村山郡白岩は八千石酒井長門守、知行所也。

 白岩の名主喜太夫といふ者、百姓へ無理非道を度度(たびたび)申懸(まうしかける)ける間、彦作といふ百姓、直(ぢき)に目安(めやす)を添田八左衞門方へ差上(さしあげ)ける。喜太夫、是を聞(きき)、八左衞門方へ金銀を澤山にまひないける間、喜太夫、まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)、彦作は非公事(ヒクジ)に成、

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびやくしやう)の見せしめ。」

とて、彦作は萬松院河原の松原にて成敗(せいばひ)に逢(あひ)ける。

 このとき、彦作、けんぶつに向ひ申けるは、

「郡(こほり)奉行添田八左衞門、幷(ならび)に、喜太夫め。己(おのれ)、わが欲にふけり、上をかすめ、非を以(もつて)理(ことはり)となし、ほしいまゝに百姓に過役錢(くわやくせん)をかけ、取(とり)つぶす。我、是を見るに忍びす、惣百姓に代り、今、非命の死を請(うく)。各(おのおの)見玉へ、八左衞門・喜太夫兩人子孫迄、とりたやし、三年とは延(のぶ)まじき也。」

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

 半年程過(すぎ)て、八左衞門家に、彦作亡靈、晝も、折々、あらはれ出(いで)ける。

 祈願・祈念をなしけれ共、少(すこし)も印(しるし)なく、此故にか、八左衞門、亂心し、平兵衞坊といふ十七歳に成惣領、妹十三才になるを切殺(きりころ)し、其身も自害し果(はて)たり。亂心の所行とて、後(あと)、絶(たえ)たり。

 其頃、やき澤の百姓與四郎・孫三郎といふ者、萬松院河原へ畑打(はたうち)に行(ゆき)けるに、何方(いづかた)よりともなく、彦作、與四郎が側(そば)へ來(きた)る。

 與四郎、見て、驚き、

「彦作。そちはいかゞして、爰へ來(きた)るや。去年(こぞ)、此所にて御成敗に逢(あひ)、其怨念の、いまだ此地に留りて中有(ちゆうう)にさまよふものならん。」

 彦作、聞(きき)て、

「いかにも其通りなり。我、罪なくして刑に逢(あひ)ける。恨み、こつずひにとふり、その魂、此土に殘り、則(すなはち)、八左衞門をば子孫迄、取(とり)たやし、今、喜太夫が惡逆、司錄神(しろくじん)にうつたへ、是もゆるしを得て、宿報をとぐる折(をり)を待(まつ)といへども、喜太夫、いまだ運命のつゞく宿善(シユクゼン)有(あり)て、我、志を達せず。來春、彼等三人、はりつけに行るゝ陰惡(いんあく)、有(あり)。是、我(わが)宿意をとぐる折(をり)也。」

といふ。

 與四郎、聞(きき)て、

「魂といふ事は有(ある)事か、無(なき)事か。地獄極樂は、いかゞ。」

と云(いふ)。

 彦作、聞て、

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故、善惡の決談(けつだん)なし。御成敗に行はるゝ首の場にのぞみ、魂(たましひ)、骸(からだ)を放れ出(いで)、飛(とび)て、我身、松の梢にありて下を見下(みおろ)すに、我(わが)骸(からだ)を切(きり)、罪(つみ)する人、有(あり)て、首をごく門に懸(かけ)て有(あり)。是を見るといへども、我(わが)魂に、少しも、いたみなし。只、煙雲霞(けぶりくもかすみ)のごとく、きへては、また、結び、こりては、また、散ず。爰に魂ありといへども、すべて、きかつのうれいなく、寒暑のくるしみもなく、妻子をかへり見べきこゝろも、なし。只、わが恨める心、天より高く、地よりもあつし。最早、歸り去(さる)ぞ。」

といふ、とおもへば、一たいの陰火となりて、煙、ぜんぜんに消(きえ)て、さりける。

 與四郎も孫三郎も不思義の事に思ひながら、人にも語らずしてありけるが、其(その)明(あく)る春、喜太夫父子三人、同村の與次右衞門といふものに非道を申懸(まうしかけ)、是、又、公事に成(なる)。

 此時に至り、前々の惡事、委く顯(あらは)れ、喜太夫は最上の長町河原といふ所にて、すべて、三拾人、はりつけに懸る、その壱人なり。子ども弐人、成敗になり、家迄、公義へ召上(めしあげ)られける間、妻子、乞食となり、ちまたに袖をひろげ、道に倒れ、餓死(うゑじにし)けるとなり。

 

[やぶちゃん注:「出羽の國村山郡白岩」出羽国村山郡寒河江荘白岩は現在の山形県寒河江(さがえ)市白岩(しらいわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。後の石高から見ても、ここを中心とした広域と考えてよかろう。戦国時代より白岩城があり、江戸初期、短期に白岩藩(領)が置かれた。ウィキの「白岩城」によれば、『白岩(寒河江市白岩)の地は、寒河江川上流に大江広元宗廟吉川の地を経て庄内と接し、寒河江川扇状地の上流と下流を分かつ要地であった。斯波兼頼との争いで父・大江元政を失った時茂は、南北朝の争乱に備えて寒河江荘を子や兄弟に分割して城や楯を築かせ、白岩の地には嫡男・溝延茂信の子・政広を配した』。『白岩氏は』四代の『白岩満教を溝延氏から迎えると、両者は関係を強めながら』、『次第に自立性を高め』、『領主権を拡大するが、戦国時代末期』、『寒河江氏滅亡と前後して最上氏に下り』、『松根光広を養子として迎えた』が、『慶長出羽合戦では庄内から六十里越街道を経て侵入した下秀久に攻め落とされた』。元和八(一六二二)年に『最上氏が改易になると、白岩には旗本・酒井忠重(庄内藩主・酒井忠勝の弟)が入った。しかし忠重は苛政を布き』、寛永一〇(一六三三)年『には白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴える事態となった(白岩一揆)。これが原因となり』、寛永一五(一六三八)年『に酒井忠重は改易され』、『その後、白岩領は幕府領となり、代官の支配下に置かれた』とある。さすれば、本話柄はこの「白岩一揆」のプレ段階と考えて良かろうから、作品内時制は元和八(一六二二)年より後、寛永一〇(一六三三)年よりも前となり、凡そその閉区間の約十年の間に絞られることとなる。なお、本書の成立は寛保二(一七四二)年であるから、百年以上も前の古い話となる。

「八千石酒井長門守」酒井忠重(慶長三(一五九八)年~寛文六(一六六六)年)。出羽国村山郡白岩領八千石領主で旗本寄合。酒井家次三男で祖父酒井忠次(徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされる家康第一功臣。但し、死後養子)の養子。ウィキの「酒井忠重」によれば、元和元(一六一五)年に『家康、秀忠に拝謁し、小姓に召出され』、二年後には『従五位下長門守に叙任』、先に述べた通り、元和八年、出羽国村山郡白岩の領主(当初は四千石)となった(後に八千石に加増)。しかし、寛永十年、領内に於いて一千人余りに及ぶ餓死者を出すなどの苛政を強いたことから、『白岩領の農民が一揆を起こして江戸奉行所に訴え』出(白岩一揆)、四年後の寛永十五年、『江戸奉行所の判決により』、『白岩領主を改易となり庄内藩主・酒井忠勝に預けられ』た。さらに寛永一九(一六四二)年には、『忠勝の娘と長男九八郎(忠広)を結婚させて、庄内藩主家の後嗣にしようとする、お家乗っ取り計画が発覚』、十年後の承応元(一六五二)年には、『忠勝の遺言分配金に自分の名前が無かった』ことに腹を立て、『幕府に提訴』、忠勝の長男で新藩主となった酒井忠当(ただまさ)から金二『万両を贈られて義絶され』てしまう。それでも懲りないこの男は、寛文五(一六六五)年、『息女の結婚の件で相手と論争したこと等が、幕府の知ることとなり』、またしても『改易され』、その翌年の九月、『夜中、何者かに襲われて死亡』してしまったという。享年六十九。この救いようのない愚か者にこそ、彦作の亡霊の怨念は向かっていたものかも知れないな

「目安(めやす)」訴状。

「添田八左衞門」不詳。

「まひないける」「賂(まひない)」し「ける」。

「まけ公事(くじ)たれども、理分(りぶん)に成(なり)」内容は明らかに喜太夫の負け(敗訴)が明らかな案件であったが、賄賂を受けた添田は悪しき「忖度」を喜太夫に有利に加え、喜太夫側の弁解には十分に正当な道理があるという裁定が下され。

「彦作は非公事(ヒクジ)に成」彦作の公訴は正当な訴えとして認められなかったばかりか。

「上を輕(かろ)しめたる段、不屆なり。惣百姓(そうびゃくしやう)の見せしめ。」「お上(御主君)を軽んじて、かくも分不相応な言いがかりを公訴するは、不届き千万! 領内の総ての百姓らの見せしめじゃ!!」。

「萬松院河原」不詳。但し、一般にこの戦国明けのこの時期の刑場は藩庁(城)からそう遠くない位置にあったと考えてよく、白岩城は寒河江川の左岸近くにあったので、附近(グーグル・マップ・データ。この中央付近が白岩城跡と推定される)の寒河江川の河原ではないかとも考えたが、最後の出る刑場「最上の長町河原」は名前から明らかにずっと東の最上川の河原であろうから、これも寒河江川のもっと下流(東)かも知れない。

「けんぶつ」「見物」。

「郡奉行」(こおりぶぎょう)は室町中期以降に現れた武家の役職で、領国を数区域に分け、農政を担当した。江戸時代には諸藩では一郡に一人の郡奉行を配置し、郷目付・代官・手代などの部下を配して年貢の収納・訴訟・農民統制などに当らせた。郡奉行自身が現地で実務業務を行うこともあったが、通常は城下の郡役所で事務を司り、現地では代官などの属吏が実際の業務を行なった。

「かすめ」「掠め」。この場合は「騙(だま)す・欺(あざむ)く」の意。

「過役錢(くわやくせん)」ここは過剰な年貢。

「非命」天命ではなく、思いがけない災難で死ぬこと。横死。

「とりたやし」憑(と)りついて絶やし。

「三年とは延(のぶ)まじき也」「きゃつらに祟って亡ぼすには、おう! 三年とはかかるまいぞ!」。

と言((いひ)て、首を切(きら)るゝなり。

「やき澤」不詳。

「中有(ちゆうう)」既出既注であるが、再掲しておく。仏語で四有(しう)の一つ(後述)。死有(しう)から次の生有(せいう)までの間。人が死んでから次の生を受けるまでの期間。七日間を一期とし、第七の四十九日までを指す。「中陰」とも言う。「四有」の「有」は梵語の漢訳で「生存」「存在」の意で、「衆生の存在の在り方」を期間別に四種に分類したもので、死んでから次の生を受けるまでの期間を「中有」、それぞれの世界に生を受ける瞬間を意味するのが「生有」、その新たな生を受けてから死ぬまでの一生の期間を「本有」、その生あるものが死ぬ瞬間を意味するのが「死有」である。

「こつずひにとふり」「骨髓に通(とほ)り」。

「此土」仏教的な謂いならこの世で「穢土」で「ど」であるが、彼は百姓なので私は「つち」と訓じたい。

「司錄神(しろくじん)」地獄の裁判に於ける「司命(しみょう)」と「司録(しろく)」という書記官。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。

「はりつけ」「磔」。

「我(わが)宿意をとぐるまで、魂、中有に迷ひ有(ある)故」こうした恨みを持った魂は例外的に四十九日に拘束されないのである。

「善惡の決談(けつだん)なし」冥府に於ける十王による現世での善悪の裁定自体を全く受けていない。

「ごく門」「獄門」。

「きかつのうれいなく」「飢渇の憂ひ無く」。

「あつし」「厚し」。

「一たい」「一體」。一つの分離出来ない塊り。

「ぜんぜんに」「漸漸に」次第次第に。だんだんに。

「其(その)明(あく)る春」二人の農夫が彦作の亡霊を見たのは、彦作の処刑から半年後、でその翌年の春というのであるから、最大長でも一年半余り二年未満で、彦作の呪った三年未満という言葉もここで成就している。

「委く」「くはしく」ではおかしい。底本ではこの「委」の右に編者による『*』が附されてある(衍字・誤字等と判断したことを示す。但し、示すだけで内容は書かれていない)から、私はこれは草書の判読で誤り易い「悉」ではないかと思う。「ことごとく」はここの決めの言葉として相応しいと感ずる。

「最上の長町河原」不詳。寒河江川は東流して最上川に入る。]

老媼茶話巻之六 狐

 

    

 

 會津柳原(やなぎはら)といふ處に、又吉といふ百姓、有(あり)。

 或秋、七月初(はじめ)、深川といふ里へ、なす調(ととの)へに參りける折、天神のまへ、「ぼうし沼」の端に、いかにも、やせつかれたるきつね、北より南へ行(ゆき)けるを、又吉、見て、石を取(とり)、狐に打付(うちつく)る。左の足にあたり、漸(やうやう)、足を引(ひき)づり引づり、逃失(にげうせ)たり。

 又吉、家に歸り、熱病をなやみ、さまざまのたわごとを、いふ。

「我は晝の狐也。又吉に、我、少しも仇(あだ)なさず。何故に礫(つぶて)を抛(なげ)て我を痛めける。我々、遊行(ゆぎやう)せるにあらず、不叶(かなはぬ)用有(あり)て、日光中善寺の稻荷より、北方慶德(ケイトク)の卷尾(ケンビ)の稻荷明神へ使者に行者(ゆくもの)者也。然るに、道遠くして甚(はなはだ)つかれ、くるしむ。また吉に左のあしを痛められ、步行(ほかう)、成(なり)難し。此仇に、則(すなはち)、此者の命を、とるべし。」

といふ。

 妻子、驚き悲しみ、御子(みこ)・山伏をたのみ、樣々、侘言(わびごと)をする。狐が曰(いはく)、

「人間の命數(めいすう)は天元(てんげん)の數、有(あり)。命を取るべしといふは、我がたはむれにて、汝等を驚かす爲也。我にかぎらず、狐の人に取付(とりつき)なやまさんとする時は、先(まづ)、我(わが)骸(からだ)を、深き山谷影(やまたにかげ)が巖穴のうちへかくし置(おき)、其後(そののち)、魂(たましひ)斗(ばかり)、骸をはなれ、人に取付(とりつく)もの也。此故に、もし其骸を鷲・熊鷹、或は、人に見付(みつけ)られ、其からだをやぶり損ぜらるゝ時は、二度、魂の立歸(たちかへる)べき所なく、これに依(よつ)て、是非なく、一生、人體を離(はなれ)ず、魂、人の骨肉の内に住む。我(わが)骸(からだ)、かりに、天神の宮、緣の下にかくし置(おき)、たましゐ、又吉に取付(とりつき)たり。骸を人に見付られざる先に、明曉(みやうげう)、もどるべし。然(しかれ)ども、先(サキ)にいふ通り、又吉に足をいためられ、步行、不自由なり。七日の内、又吉がたましゐをかり、夫(それ)を供につれて、歸るべし。明曉、餞別の壽をなし、赤の飯かしぎ、赤鰯(あかいわし)・御酒をそなへ、我を送るべし。又吉がからだを靜成(しづかなる)所に置(おき)、人にみせ、おどろかしむべからず。必(かならず)、七日目には元の又吉と成(なる)。替(かは)る事、なかるべし。」

と、いふ。

 そのあかつき、家内の者ども、身を淸め、火を改(あらため)、赤飯をふかし、赤鰯・御神酒(おみき)をそなへ、狐の旅立(タビだち)を祝ひける。

 扨、又吉がからだをば、屛風を立𢌞(たてまは)し、靜成(しづかなる)所に置(おき)けるに、七日目の曉、又吉、起上(おきあが)り、常のごとく、酒食をなし、替(かは)る事なし。

 妻子、悦び、此間の事を尋聞(たづねきく)に、少も覺(おぼえ)ず。日光の道筋、中善寺地景、今市(いまいち)の樣子、事こまかに語るに、ちがひなし。今市の茶屋にて、小刀にて右の手のゆび切(きり)たると覺しが、ゆびに疵あり。足にまめなど多く出來、足にわらんじすれの跡、あり。又吉は、終(つゐ)に其前、日光へ行(ゆき)しこと、なし。關山(せきやま)村の百姓彦三郎といふもの、又吉に逢ひ、柳原へ狀を賴みける。其狀も、又吉が袖の内より、出(いで)たり。不思義のこと共(ども)なり。

 加藤明成の侍、川井勘十郎といふ者、御山近邊鳥殺生(としせつしやう)に出る。散々不勝負にて、歸りける道、中野の十文字はらの藪影に、古狐、前後も不知(しらず)ねて居たりける。

 勘十郎、見付(みつけ)、鐵炮へ紙玉を込め、筒拂ひに、きつねの耳元にて鐵炮を打放(うちはな)す。

 狐思ひかけざる事にて、大(おほい)に肝をつぶし、一間斗(ばかり)、飛上(とびあが)り、倒れふためき、さけびないて、跡、ふり返り、ふり返り、見て、淨土の館三五倫(リン)のかたへ、はしり逃(にげ)たり。

 勘十郎家に歸り、狐のおどろきたる事、妻子にもの語りし、酒茶に夜を更(ふか)し、いねたり。

 其夜、八時分、門(かど)、けわしくたゝき、高提灯・箱提灯おびたゞしく、灯立(ともしたて)、

「月番(つきばん)・添番(そへばん)の物頭目付(ものがしらめつけ)誰々。」

と名乘(なのり)、

「上意によつて罷越(まかりこし)候。早々玄關ひらき候得。」

と言入(いひい)るゝ。

 勘十郎家内、騷動して、先(まづ)、急ぎ、勘十郎、袴を着し、出向ひ、玄關をひらき、座敷へ招じ入(いれ)、何(いづ)れも座敷へはいり、中にも其時の目付役伊東權平、添番の目付片山彌平次、兩人、進み出(いで)、申(まうす)樣、

「其方儀、今(こん)晝(ひる)、御鷹野の場所と云(いふ)御城近くと申(まうす)傍(かた)、遠慮有(ある)べき處、みだりに鐵砲を打放(うちはなち)、上を輕(かろ)しめ、法外の至り。此段、殿樣、以の外、御腹立(おはらだち)にて、早速、腹切らせ候樣にと被仰付(おほせつけられ)、我々を始(はじめ)、物頭誰々、罷向(まかりむかひ)候。早々切腹致すべし。」

と申渡(まうしわた)す間(あひだ)、勘十郎、大きに驚き、此節、是非を申上(まうしがぐ)るに不及(およばず)、

「行水(ぎやうずい)仕候内(つかまつりさふらううち)、御暇被下(おひまくだされ)候。」

樣に申(まうし)けれ共(ども)、ゆるされず。

 片山彌平次、

「かいしやく、某(それがし)に被仰付(おほせつけられ)たり。」

とて、羽織、拔(ぬき)すて、袴のもゝ立(だち)を取(とり)、勘十郎が後へ𢌞り、既に十分あやうき折節、勘十郎、家に、しゝ・狼まで能(よく)取(とる)名犬、弐疋有(あり)けるが、無二無三に表より座敷へ缺込(かけこみ)、先(まづ)、彌平次が首骨、くらひ懸り、首と胴中をくわへ、喰殺(くひころ)し、庭へふり捨(すて)、猶、殘りのもの共(ども)へ、吠懸(ほえかか)る。今まで、物頭・目付役とて、りつぱに見へし士共(ども)、大きにあわて騷ぎ、則(すなはち)、狐と成(なり)て、十方(とほう)を失ひ、出方(でかた)に迷ひ、十字八點に逃𢌞(にげまは)りけるを、勘十郎も、家内男女も、てん手(で)に、棒、引提(ひつさげ)、打殺(うちころ)す。

 弐疋の犬、勇み進んで、喰殺(くひころ)し、かみ殺す間、あまたの狐、不殘(のこらず)打殺し、それより表出(いで)、門をひらき、二疋の犬を、足輕共に、けしかけける。

 足輕にばけし狐共、大きにさわぎ、うろたへ、右往左往に逃げ散(ちり)、壱疋もなくなり、狐、十二、三、打殺し、是にてこそ晝おどろかされしきつねの所爲(しよゐ)成(なり)けると知られし。

 

[やぶちゃん注:「會津柳原(やなぎはら)」現在の福島県会津若松市柳原町か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「なす調(ととの)へに」茄子の苗木を買いに、という意で採っておく。

『天神のまへ、「ぼうし沼」』先の柳原町のグーグル・マップ・データを拡大すると、中央に菅原神社(「天神」)が現存し、その東北ごく直近に「帽子丸の墓」があるのが判るこの辺りに「帽子沼」があった(底本でも右に編者による添漢字で『帽子』とある)。石田明夫氏のサイト「会津の城」の「義経伝説と会津」に『③皆鶴姫の碑 会津若松市河東町指定有形文化財』とあって、そこに、『源義経が、京都の鞍馬寺に預けられているとき、兵法書を吉岡鬼一法眼が持っていることを知り、見ることを願い出るが』、『許されず、娘の皆鶴姫に近づき、兵法書を写し取ることに成功する。平氏の追っ手が近づいていることを知り、義経は平泉に逃れた。皆鶴は、義経の後を追い、会津に来たが、追っ手により発見され、義経との間にできた帽子丸がとらえられ、沼で溺死。皆鶴は、藤倉の難波沼まで来たが、身を悲観し、沼に身を投じて亡くなった。墓が造られ、難波寺が建てられたが、寺は廃寺となった。この碑は』寛政五(一七九三)年に『会津藩で建てられた。下居合には、皆鶴姫が義経の名を呼んだ「よばる橋」というのがある』とあり、そうした伝承を伝えた沼であったことが判る。

「遊行(ゆぎやう)せるにあらず」漫然と遊び歩いていたのではないのだ!

「不叶(かなはぬ)」おろそかに出来ない。しないでは済まされぬ。

「日光中善寺の稻荷」「中善寺」はママ。中禅寺湖湖畔の栃木県日光市中宮祠にある二荒山(ふたら)神社内の二荒山神社中宮祠境内にある中宮祠稲荷神社のことか。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「北方慶德(ケイトク)の卷尾(ケンビ)の稻荷明神」恐らくは、福島県喜多方市慶徳町豊岡不動前に現存する慶徳稲荷神社であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは少なくとも現在、この神社では田植え神事が行われているが、これはこの行事の分布上の日本の北限だそうである。狐だから、呼称の「卷尾」は納得。

「御子(みこ)」巫女。

「天元」万物成育の源である天の元気によって予め定められたものの謂い。

「骸(からだ)」死骸ではなく、魂(たましいが抜けた「骸(むくろ)」の謂い。

「山谷影(やまたにかげ)」「山谷蔭」。

「もどるべし」戻ろうと考えている。

「赤鰯」糠或いは塩漬け又は干して、脂分が酸化して赤茶けた色になった鰯のこと。

「今市」栃木県の旧今市市(いまいちし)。現在は日光市の一部。日光市役所本庁舎は旧今市市役所の建物を使用している。参照したウィキの「今市市」によれば、『江戸時代には、日光街道や会津西街道、日光例幣使街道今市宿の宿場町として繁栄した。現在も、日光へ至る鉄道は今市を経由する』とある。

「わらんじすれ」「草鞋摺れ」。

「關山村」不詳。孰れにせよ、日光近辺でなくてはなるまい。

「加藤明成」腐るほど、既出既注(初出の条にリンクしておいた)。

「川井勘十郎」不詳。

「御山」現在の会津若松市門田町大字御山附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。。

「散々不勝負にて」全く狩り(鳥撃ち)は不猟にして。

「中野の十文字はら」前の現在の門田町大字御山の西に門田町大字中野という地名を確認できる。ここ(グーグル・マップ・データ)。鶴ヶ城の南二キロメートルほどで現地域に至るから、ここで鉄砲を撃てば、城に聴こえはするように思われる。

「藪影」「藪蔭」。

「鐵炮へ紙玉を込め、筒拂ひに」かく言っている以上、ここで紙玉を詰めたのは、あくまで火縄銃の銃身、筒の中を掃除するためなのであろう。何もそれを狐に中てたわけではない。

「一間」一メートル八十二センチ弱。

「淨土の館三五倫(リン)」底本、右に編者の添字で『允殿』とあるから、既出既注の允殿館(じょうどのだて)。現在の福島県会津若松市に所在した城館で、中世に会津領主であった蘆名氏の有力家臣松本氏の居館の一つであった。宝徳三(一四五一)年に蘆名氏家臣松本右馬允通輔が築いたとされる。現在は公園化され、会津五薬師の一つである館薬師堂が建ち、敷地内には秀行の廟所がある。福島県会津若松市館馬町内。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の門田町大字中野の北直近で、より鶴ヶ城に近い。「倫」は「輪」の誤りで、恐らくはそこに古い三基の五輪塔が立っていたのではあるまいか。

「八時分」午前二時頃。

「けわしくたゝき」「險しく叩き」。激しく敲いて開門を促すこと。

「高提灯」高張提灯(たかはりちょうちん)。大形の棗(なつめ)形をした提灯で、先に上下二本の腕木を持った長竿(ながざお)の先に取り付け、その口輪・底輪を腕木にとめて高く掲げた。承応・明暦(一六五二年~一六五八年)頃になって現れたもので、初期は武家が用いたが、後には広く商家や遊廓などでも使い、一般にはここに出るような「高提灯」或いは単に「高張」と呼ぶ。提灯には定紋や屋号などを書き、専ら、目印として利用され、社寺・役所の門前、商家の店頭や祭礼・葬送の行列などの先頭に高く掲げ、目印として利用された。現在でも社寺の祭礼や葬礼の際に使われることが多い。

「箱提灯」浅い香箱のような丸形の木製の箱と紙の蛇腹本体及び丸い底蓋から成る円筒型の大形提灯。畳むと、全部が上下の木枠(箱)の中に収まるようになっている。蛇腹に家紋や屋号などを入れ、各種礼式の際、行列に加わったり、婚礼の門に掛けられたりした。

「月番」月番交代制の当該月の勤務。

「添番」先の月番役の補助役。

「物頭目付」弓組・鉄砲組などを統率する長を「物頭」(ものがしら)と称し、「目付」は諸藩では藩内諸士の監督のため設置された監察役を指すが、「物頭」自体が同時にそうした藩士の集団をも指し、後で二人の人物は孰れも「目付」と同等格で称しているから、ここは「物頭」と「目付」ではなく、藩内の藩士を統括する実務担当の事実上の監察役である「物頭目付」という一語で採る。

「伊東權平」不詳。

「片山彌平次」不詳。

「御鷹野」城主が鷹狩をするための禁足地。

「傍(かた)」底本は「旁」。その右に打たれた編者の添漢字に代えた。私の推定訓。先に勘十郎が狐を脅した場所が、その傍ら、ごく近くであったということ。

「行水(ぎやうずい)」死に面しての潔斎のため。

「かいしやく」「介錯」。

「袴のもゝ立(だち)を取(とり)」「袴(はかま)の股立ちを取り」既出既注であるが、再掲しておく。「腿立ち」は袴の左右両脇の開きの縫い止めの部分をいう。そこを摘んで腰紐や帯にはさみ,袴の裾をたくし上げることを「股立を取る」と称し、機敏な活動をする仕度の一つとされた。

「しゝ」「猪」。

「缺込(かけこみ)」「驅(か)け込み」。

「首と胴中をくわへ、喰殺(くひころ)し、庭へふり捨(すて)」和犬であるから、そんなに巨体の犬とも思われないので、嚙みかかった瞬間、化けた狐の本来のサイズぐらいまで弥平次の姿が縮んだシチュエーションを想起すべきか。狐の姿に戻ってしまうより、その方が面白い

「十方(とほう)を失ひ」途方にくれ。

「出方(でかた)に迷ひ」逃げ出る方向に惑い。

「十字八點」東西南北に、その中間の十字方向を加えた八方の謂いで、「四方八方」と同義と思われる。]

2017/12/08

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム たのしい家 (1)

 

     たのしい家

 

[やぶちゃん注:現行版では柱は『三、楽しい家庭』である。]

 

 ある朝、早く迎への使が、私のところへやつて來ました。行つてみると、主人が、

 「まあ、そこに坐れ」

 といひます。

 「〔これまで〕お前からきいた〔話は、〕お前その後まじめに考へてみたが、どうも、お前たちは、どういふ風の吹廻しか、たまたま爪の垢ほどの理性を持つてゐる一種の動物らしい。ところが、お前たちは折角、自然があたへてくれた立派な力は、捨てて見むきもしようとしないで、もとからもつてゐる欠点ばかりを増やそうとしてゐる。わざわざ骨を折つては、欠点を殖やす工夫や發明をしてゐるみたいなものだ。

 また、お前だけを〔例にとつて〕考へてみると〔ても、〕お前は、お前はヤーフ共の力も〔なければ〕敏捷さ〔が〕ない。後足で妙な步き片をしてゐるし、どうしたことか爪は何の役にも立たないやうになつてゐるし、顎の髯も消えてしまつてゐる。それのお前はこの國のヤーフ〔ど〕ものやうに、早く走ることもできなければ、木に登ることもできないではないか。」

[やぶちゃん注:以上の段落(馬の主人の台詞中の最後の形式段落は現行版では完全にカットされており、次の一行もカットされて、改行で台詞が続いている。

 それから主人はまた、こんなことを言ひました。

 「お前は、お前の國のヤーフ〔ども〕の生活暮し行ひ〔生活をいろい〕ろ話してくれたが、お前たちと、この國のヤーフとは身躰ばか〔の恰〕好だけでなく、〔ばかりででなく、〕心もよく似てゐると思へる。ヤーフどもがお互に憎みあふのは、みんな よく知られてゐることだが、〔ほかの動物には見られないほど猛烈なもので、それは〕〔誰でも知つてゐることなのだが、〕、この國のヤーフ〔ど〕もの爭も、お前が言つたお前たちの〔その〕爭いも、つまりは同じやうに似たもの原因のものらしい。〔〔どちらも〕どうもよく似てゐるのだ。〕

 もし、ここにヤーフが五匹ゐるとして、そこへ五十人分ぐらゐの肉を投げてやるとする。すると、彼等はおとなしく食べるどころか、一人で全部をとらうとして、たちまち、ひどい摑み合ひがはじまる。だから、彼等が外で物を食べる時には、召使を一人そばに立たせておくことにするし、家にゐる時はお互ひ遠くへ離してつないでおく。

 また、牛が死んだりした場合、それをフウイヌムが家のヤーフのために買つてもどると、間もなく近所のヤーフどもがおしかけて來〔群をなして〕盜みに來る。そして、お前が言つたと同じやうな戰爭がはじまる。爪でひつかきあつて大怪我をする。ただ幸なことに、お前たちの發明したやうな人殺し器械はないので、滅多に死ぬやうなことはない。また、ある時は、何の理由もないのに、近所同士のヤーフ共が〔、〕同じやうな戰爭をはじめる。つまり近所同志で、折もあらば不意を襲つてやらうと、隙をねらつてゐるのだ。」

 それから、主人は更らに、次のやうな〔珍しい〕話をしてくれました。

 この國の、ある地方の野原には、さまざまの色に光る石があつて、これがヤーフどもの大好物なのです。もし、この石が〔、〕地面から半分ほど〔、〕のぞいてゐたりすると、ヤーフどもは何日でも、朝から晩まで爪で掘返してゐます。そして家に持つて帰ると、〔それを〕小屋の中に〔そつと〕隱しておきますが、まだそれでも、もしか仲間に嗅ぎ出されはしないかと、ギヨロギヨロと眼を見はつてゐます。

 主人は、どうしてまたこんな石〔を〕ヤーフども→が〕役立つのか〔大切にがるのか〕、さつぱりわからなかつたのですが、私が〔話した〕人類の金錢のこと欲ばりなこと人類→人類の欲ばりなことと全くよく似てゐる〕を話したので、それで、あれと同じことなの■だらうと思ひました〔つたさうです〕。

[やぶちゃん注:これだけ苦吟しているのに、現行版では、『主人は、どうしてまたこんな石をヤーフどもが大切がるのか、さっぱりわからなかったのですが、』だけで、後は全部カットされて、ここでは改行されている次の頭の部分に『一度試しに』で続いている。]

 一度など 召使のヤーフが主人は〔一度試しに〕ヤーフが〕埋めてゐる場所から、そつとこの石を取つて〔りのけ〕ておきました。すると、このさもしい動物は、宝がなくなつてゐるのに気づいて、大声で泣きわめき、仲間をすつかりそこへ呼び集めました。そしてさも哀れげに悲しんでゐるかとおもふと、忽ち誰彼の区別もなく嚙みついたり、引掻きま〔い〕たり大騷ぎをしました〔す〕。それからだんだん元気がなくなつて、物も食べなければ、眠りもしません。そこで、主人はその石をまたもとのところへ返してやりました。する石が〕それを見るとヤーフはすぐ機嫌もよくなり、元気になつたといふことです。

 この光る石が澤山出る土地にかぎつて、ヤーフどもは、たえず、そこを■■■→の土地〕を爭ひあつて〔お互に〕、戰爭します。〔また〕二匹のヤーフが野原でこの石を見つけると、兩方で〔互に〕睨みあつて爭ひます。そこへもう一匹のヤーフが現れて、橫どりすることもあるさうです。

 それから、ヤーフといふ奴は時々、気が変になるらしく、ただ隅つこに引込んでしまひ、ねころがつて、吠えたり、唸つたり、誰かそばへ寄ると、忽ち蹴とばしてしまひます。まだ年も若いし、肉付もいいのです。〔し、〕別に食べものがほしいわけでもないのです。いつたいどこが悪いのか、さつぱりわかりません。ところが、こんな場合、ヤーフを〔つかまへて〕無理にどんどん働かせると、この病気はケロリとなほるさうです。

柴田宵曲 俳諧博物誌(22) 狼 一

 

     

 

       

 

 前門の虎、後門の狼とはいうが、熊に継ぐに狼を以てすでは語を成さぬ。殊に熊の尾の長からざることは、これを継ぐに当って頗(すこぶる)る妙でない。狼に伍するのはあるいは不平かも知れぬが、日本のような猛獣の乏しい国に生れたのを宿命として、不承してもらうより仕方があるまいと思う。

[やぶちゃん注:宵曲は本邦の狼のみを扱っているから、動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 食肉(ネコ)目Carnivora イヌ科 Canidae イヌ属 Canis タイリクオオカミCanis lupus 亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax(絶滅種。学術的に信頼出来る確実な最後の生息情報は明治三八(一九〇五)年一月の奈良県吉野郡小川村鷲家口(現在の東吉野村鷲家口)で捕獲された若い(後に標本となって現存)である。ここはウィキの「ニホンオオカミ」に拠った)を挙げておけば一応はよいのであるが、実際には本邦では野犬・山犬も混同して「狼」と呼んできた経緯があるから、広義の人間が飼育していない野生の通常の犬(イヌ属 Canis)類も含まれるとして読むべきである。]

 狼に関しては古来多くの伝説的話柄が存在する。武者修行と号して講談の天地を行く者は、淫祠邪神の類を退治するか、山中で群狼を相手に闘うか、大体相場がきまっている。もし日本に狼というものが活躍しなかったならば、彼らの武勇伝は半(なかば)以上精彩を失ってしまうに相違ない。けれども実際問題として、どこにそういう群狼の世界があったかというと、伝説の霧に包まれて所在は不明になるのである。柳田国男氏に従えば、「狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、そう古くからの事ではなく、以前は畏敬もすればまた信頼もしていて、人と狼との珍しい交渉があった」のだという。単なる話だけの世界にしても、犬梯(いぬばしご)を作って樹上の旅人に迫る場合、古猫の知慧を借りなければならぬ日本の狼は、橇(そり)の馬の尻から食いつくような兇猛な動物ではなさそうに見える。それが何時から支那の犲狼(さいろう)と同じ取扱を受けるに至ったかは、われわれの手に合う問題でもなし、『俳諧博物誌』の領域を離れても来る。ここらで本文に入らなければならぬ。

[やぶちゃん注:『柳田国男氏に従えば、「狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、そう古くからの事ではなく、以前は畏敬もすればまた信頼もしていて、人と狼との珍しい交渉があった」のだという』この引用の原典は「桃太郎の誕生」(昭和八(一九三三)年三省堂刊)の中の「狼と鍛冶屋の姥」(初出は昭和六年十月発行の『郷土研究』)の「四 猫と狐と狼」であるが、例によって宵曲の引用は杜撰である。三省堂の改版(昭和十七年刊)の「桃太郎の誕生」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認(ここ)して前後を少し含めて示す。下線が宵曲が引いた箇所に相当する。太字は引用の誤りの部分。

   *

彼等[やぶちゃん注:狼を指す。]もし記憶あらば今昔の感に堪へぬであらうと思ふ程に、僅かな年代に人間の信用が衰微したのである。狼を支那風に兇猛無比の害敵と視たのは、さう古くからの事で無かつた。以前は畏敬もすれば又信賴もして居て、人と狼との珍しい交際があつたことは、本篇と關係があるから是非とも後に述べなければならぬ。

   *

ちくま文庫版全集も確認した。

「犬梯(いぬばしご)」老婆心乍ら、言っておくと、野犬や狼が木や岩崖などに梯子を掛けたように複数重なり合って樹上の獲物を襲うことを謂う。

「犲狼(さいろう)」「豺狼」とも書く。「豺・犲」は「やまいぬ(山犬)・野犬」と狼で、中国では貪欲で獰猛な野生の犬型獣類の代表とする(転じて「欲深くて残忍な人間」の譬えともする)。なお、中国でも日本(近世まで)でも「豺・犲」や「やまいぬ(山犬)」は犬とも狼とも異なる獣と認識されていた。特に中国では現代では「豺」はれっきとした種、食肉目イヌ科ドール属ドール(アカオオカミ)Cuon alpinus (一属一種)を指すので注意が必要である。]

 

 俳諧における熊の獲物が少かったに反し、狼の句は相当に多い。われわれの手許に集っただけでも、狸よりむしろ多い位である。季寄(きよせ)を見ると狼も熊と同じく冬の部に座席を持っているが、狼として独立したものは殆ど見えず、大概何かの季題によって登場している。但(ただし)その中で群狼――複数たることを示しているのは左の一句に過ぎぬ。

 

 狼の聲そろふなり雪のくれ   丈艸

 

 降りしきる雪の夕暮に、食物を求めて人里近くへでも出て来たのであろうか、友を呼ぶ狼の声がする。何疋かで吠える声の揃って聞えるのが、静な雪の夕暮だけに物凄くもまたうら寂しい。狼の声の何たるかを知らぬわれわれでも、この句を読むと、丈艸の実感を通して寒気を感ずるほど、身に迫る内容を持っている。距離はかなりあるらしいが、「そろふ」の一語が特に凄涼の感を強くしているように思われる。

 

 終夜(よもすがら)狼なくや村の雪  雪水

 

 これも世界は丈艸の句と殆ど同じである。雪の村に出て来た狼が、そこらを徘徊して吠える声が一晩中聞える。村人はいずれも戸を固く鎖して、一歩も出まいとしているのであろう。但(ただし)複数か否かは句の上に現れておらぬばかりでなく、一句の持つ力も丈艸の句に遠く及ばぬのは、必ずしも「そろふ」の語の有無によるだけではあるまい。

 

 おほかみの聲遠ざかり月夜かな   山鹿

 狼の吼(ほえ)うせてけり月がしら 曉臺

 

 この両句は月に対して吠え去る狼を描いている。月下の狼は容易にその黒影を認むべきであるが、作者はそれを目撃したか、声だけ聞いたかわからず、単数か複数かも明(あきらか)でない。同じ狼の声でも、あるいは次第に遠ざかり、あるいは聞えなくなったところに多少の安堵が窺われる。狼に重きを置けば冬、月を主にすれば秋になるが、われわれはこの場合、皎々(こうこう)たる寒月が天地を一色に包んでいるものと見たい。冴渡る月の光が、動より静への推移的効果を多からしめている点に注意しなければならぬ。

 子規居士の「十年前の夏」という文章の中に「今宵は頸筋稍(やや)寒く覺ゆるに蒲團引きかづきて涼しき夢を結びしが、つぐの朝下女の來て、ゆふべは狼の吠えしを聽きたまはざりしか、と語りぬ」というところがある。明治十九年の夏、日光から湯元に遊んだ時の回想であるが、居士は遂に狼の声を耳にしなかったらしい。

 

 冬の宿狼聞て温泉(ゆ)のぬるき  子規

 狼に引かぶりたる蒲團かな     同

 

の二句は、いずれも冬に振替えられているが、その底には湯元の狼の声が流れている。居士が後年になつて狼というものを念頭に浮べる場合、湯元で話だけ聞いた狼の声は、必ず記憶の裡(うち)に蘇ったことであろう。この下女の一語があるため、湯元の夏は実際以上に涼しいものになっている。

[やぶちゃん注:「十年前の夏」確かに全集には載るが、所持しないので、いつか図書館で確認してみたい。これはちゃんと読んでみたい気がする。同題の子規の文章を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認したが、抄録なのか、以上の記載は見当たらない。しかし気になったのは、その冒頭に『はや十二年の昔とはなりぬ』とある点で、標題通りのかっきり十年前ではない。さすれば、この回想随筆は明治三〇(一八九七)年か翌三十一年の作と思われることだけは言い添えておく。

「冬の宿」「狼に」は孰れも明治三十一年の作。宵曲の「湯元で話だけ聞いた狼の声は、必ず」子規の「記憶の裡(うち)に蘇った」というのが事実として響いてくる年の附合である。]

 明治時代の子規居士は、果して狼に因縁があったかどうか疑問であるが、その句にはなお次のようなものもある。

 

 大雪や狼人に近く鳴く      子規

 雪にくれて狼の声聲くなる    同

 狼の吾を見て居る雪の岨(そは) 同

 狼のちらと見えけり雪の山    同

 

 前の二句は声のみであり、後の二句は姿を見せているが、皆空想の産物であろう。しばらく声の二句について見ても、丈艸以下の句にあるだけの実感が籠っていない。その点は湯本の回想から得た二句に如かぬのである。

[やぶちゃん注:四句総てが明治三十年の作。]

 送り狼に関しては『孤猿随筆』に数説があった。第一は狼が外部からの危害を防衛し、人に夜路の安全を保障するために送ってくれるのだという説、第二は転べば食おうと思って附いて来るのだという説、第三は第二に関連して、狼が人を転ばせるために送りながらいろいろ仕掛をするという説で、柳田氏はこれを以て「古い信仰の中に含まれていた人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてある」のだと解釈している。日本における人と狼の間には、慥に他の野獣と異ったものがあるので、人対獣の交渉というよりもむしろ人対人の交渉に近い。古くは藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に対する袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の話、近くは維新前の挿話として漱石氏が『それから』の中に点じた――雪の夜に後から呼びかけられたのを振向きもせず、旅宿の戸口まで来て、格子をぴしゃりとしめてから、長井直記は拙者だ、何御用か、と聞いた話などは、よほど送り狼に似通っている。この場合あとから来るのが人でも狼でも、危険の程度に変りはあるまい。

[やぶちゃん注:『「孤猿随筆」に数説があった』柳田國男の「孤猿隨筆」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)の中の「狼のゆくえ――吉野人への書信」――」(昭和八(一九三三)年十一月)の「八」の後半部に記されてある。

「古い信仰の中に含まれていた人と狼との契約が、今はまだこの程度に保存せられてある」引用に誤りはない。

「藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に対する袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の話」藤原保昌(天徳二(九五八)年~長元九(一〇三六)年)は平安中期の貴族で、右京大夫藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。武勇に秀で、藤原道長の四天王(他は源頼信・平維衡・平致頼)の一人と称された人物。和泉式部の夫。ウィキの「藤原保昌」によれば、十月(かんなづき)『朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという』。これと同様の説話は「宇治拾遺物語」にもある。また、後世』、『袴垂は保昌の弟藤原保輔』(?~永延二(九八八)年:後述する)『と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、』「今昔物語集」の『説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい為、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている』とある。なお、彼には『和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるも』、『なんとか』、『一枝を得て』、『愛を射止めたという逸話があ』る。この弟とされる藤原保輔はウィキの「藤原保輔」によれば、『官人として右兵衛尉・右馬助・右京亮を歴任したが、盗賊として有名で、『尊卑分脈』でも「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と記されている。すなわち「右馬助、正五位、右京亮、右兵衛、強盗張本、本朝第一武略、蒙追討宣旨事十五度、後禁獄自害」』。寛和元(九八五)年、『源雅信の土御門殿で開かれた大饗において、藤原季孝に対する傷害事件を起こす。さらに、以前兄藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射たり』、永延二(九八八)年閏五月『には藤原景斉・茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの罪を重ねた。これらの罪状により、保輔に対する捜索は続けられ、朝廷より保輔を追捕した者には恩賞を与えると発表され、さらには父・致忠が検非違使に連行・監禁された。この状況に危機感を持った保輔は同年』六月十四日『に北花園寺で剃髪・出家したが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられた。なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したという』。『なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという』。後世、「今昔物語集」などに『見える盗賊の袴垂(はかまだれ)と同一視され、袴垂保輔という伝説的人物となった』。しかし「今昔物語集」「宇治拾遺物語」では「袴垂」という字(あざな)のみで登場しており、「続古事談」で初めて「袴垂保輔」と記され、「元方の民部卿の孫、致忠朝臣ノ子也」としている。因みに、「今昔物語集」の話は「卷第二十五」の「藤原保昌朝臣値盜人袴垂語第七」(「藤原保昌朝臣、盜人袴垂に値(あ)ふ語(こと)第七」)で、「宇治拾遺物語」のそれは「袴垂合保昌事」(袴垂、保昌に合ふ事)で(リンク先は「やたがらすナビ」の原文)あるが、これと別に同じ「宇治拾遺物語」には、「保輔盜人タル事」(同前)があり、これだと、両者は盗賊ではあるが、別人の扱いと確かに読める。

「漱石氏が『それから』の中に点じた――雪の夜に後から呼びかけられたのを振向きもせず、旅宿の戸口まで来て、格子をぴしゃりとしめてから、長井直記は拙者だ、何御用か、と聞いた話」これは夏目漱石の「それから」(明治四二(一九〇九)年六月二十七日より十月十四日まで『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』に連載され、翌年一月に春陽堂から刊行)の、「四」に主人公代助の幕末に殺された伯父の話として出る。岩波旧全集で示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 伯父が京都で殺された時は、頭巾(づきん)を着た人間にどやどやと、旅宿(やどや)に踏み込まれて、伯父は二階の廂(ひさし)から飛び下りる途端、庭石に爪付(つまづ)いて倒れる所を上から、容赦(ようしや)なく遣られた為に、顔が膾(なます)の樣になつたさうである。殺される十日程ほど前(まへ)、夜中(やちゆう)、合羽(かつぱ)を着きて、傘(かさ)に雪を除(よ)けながら、足駄がけで、四条から三条へ歸つた事がある。其時旅宿(やど)の二丁程手前で、突然後(うしろ)から長井直記(ながゐなほき)どのと呼び懸けられた。伯父は振り向きもせず、矢張(やは)り傘(かさ)を差した儘、旅宿(やど)の戸口迄來きて、格子を開けて中(なか)へ這入つた。さうして格子をぴしやりと締めて、中(うち)から、長井直記は拙者だ。何御用か。と聞いたさうである。

   *]

 

 故寺月なし狼客を送りける 北鯤(ほつこん)

 

 この狼は柳田氏の挙げた第一説に当るものであろう。寺と狼との関係はわからぬが、格別の異心も懐かず、闇夜の道を守護して送るらしい趣が、一句の上からも感ぜられる。

 

 狼のおくらず成(なり)し雪吹かな   招月

 

になると、狼の態度はいささか明瞭でない。送らなくなった原因は吹雪であるが、途中まで来たのは果して守護のためかどうか。「雪見にころぶところまで」という転ぶには絶好の条件があるだけに、万一の場合を期待したのかもわからない。

[やぶちゃん注:「雪見にころぶところまで」老婆心乍ら、芭蕉の句。初期形は「笈の小文」に載る(「笈の小文」の旅シンクロニティ――いざ行かん雪見にころぶ處まで 芭蕉及びその前後(ブログ・カテゴリ「松尾芭蕉」で)を参照)、

 

 いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで

 

で、貞亨四(一六八七)年十二月三日、名古屋の門人夕道(風月堂孫助)亭での雪見の席での句であるが、真蹟詠草に、

 

  書林風月ときゝし其(その)名も

  やさしく覺えて、しばし立寄(た

  ちより)てやすらふほどに、雪の

  降出(ふりいで)ければ

 いざ出(いで)む雪見にころぶ所まで

  丁卯(ていばう)臘月(らうげつ)

  初、夕道(せきだう)何がしに贈る

 

とあるのが再案であろう。その後の「花摘」での、

 

 いざさらば雪見にころぶ所まで

 

が決定稿となった。私は改悪甚だしいもので、初期形が素直でよいと考えている。]

 

 狼を送りかへすか鉢たゝき   沾圃(せんぽ)

 

 この場合は全く主客顚倒している。送り狼変じて送られ狼になるのは、鉢敲(はちたたき)が方々歩き廻るため、道順が逆になつたのかも知れぬが、

 

 狼のひよつと喰べし鉢たゝき  野童

 

とある以上、鉢敲の身の上も決して安心なわけではない。夜歩く鉢敲に対して直に狼を連想するのを見れば、人里近く徘徊していたことも思いやられる。

[やぶちゃん注:「鉢たゝき」「鉢扣き・鉢叩き」とも書く。元来は、中世に広まった念仏信仰の一つの派及び遊行(ゆぎょう)形態で、空也を祖と仰いで、鉦(かね)や瓢簞を叩きながら、念仏や和讃を唱え、念仏踊りを行なっては、布施を求めた遊行僧。但し、ここはそれと同時にそこから派生した家々の門に立って喜捨を乞うた門付芸の一種で、鹿の角をつけた鹿杖(かせづえ)を突き、瓢簞を撥(ばち)で叩きながら、念仏や無常和讚(わさん)染みたものを唱えて踊っては物品を乞うた者を指す。とくに孰れも陰暦十一月十三日の空也忌より除夜の晩までの四十八日間に亙って洛中で勧進し、洛外の葬所などを巡ったから、このロケーションもその時期(或いは場所も)をイメージしてよかろう。]

 虎は酔漢を食わぬという話が漢土にある。山中で酔払って寢ているところへ虎が現れたが、本人は高鼾で何も知らぬ。目を覚させるつもりで頻に顔を嗅ぎ廻すと、虎の髯が鼻に入ったと見えて、大きな嚏(くしゃみ)をした。虎は不意討に驚いて跳躍する拍子に、足を踏み外して谷底へ落ちてしまったという話。酔払って余所から帰って来ると、門前に獣が蹲っている。大きな犬位に心得て杖の一撃を加えたところ、慌しく逃出した。遥か向うへ行った時、虎特有の縞がはっきり月明りに見えたという話。上戸党(じょうごとう)に聞かせたら酒徳の一に勘定するかも知れぬ。もし虎が酔漢を憚るとしたら、三碗不過岡(さんわんおかをすぎず)という酒をしたたかに呷(あお)った武松などは、虎の方で三舎を避けそうなものであるが、そう御跳向(おあつらえむき)に往っていないから、この説も懸値(かけね)があるらしい。あるいは酒気を厭(いと)うのでなしに、怕(おそ)れざる人間を食わぬので、酔漢が虎害を免れるのは怕れざるためだという。いずれにせよ大抵の上戸には、実験して見るだけの勇気が出そうもない危険な芸当である。

[やぶちゃん注:最初に挙げてある話は「茅亭客話」(ぼうていかくわ:黄休復撰。五代から宋の初め頃にかけての四川の出来事を記したもの。全十巻)に載る話。老媼茶話 茅亭客話(虎の災難)を参照されたい。注で原典も引いてある。二番目の話も何かで確かに読んだ記憶があるのであるが、直ぐに思い出せない。分かったら、追記する。

「三碗不過岡(さんわんおかをすぎず)という酒をしたたかに呷(あお)った武松」「三碗不過岡」とは「たった三杯で酔って岡が越せなくなる強い酒」のこと。これは「水滸伝」の武松(既出既注)のまさに虎退治に纏わる話に出てくる。バッカスサイト「中国語講座」原文(簡体字)・日本語)現代日本語

「三舎を避けそうなもの」「三舎を避ける」とは相手を恐れて尻込みすること、また、相手に一目置くことの譬え。「春秋左氏傳」の僖公二十三年にある、三舎(古代中国で九十里(約六十キロメートル)を指す距離単位。これは軍隊の三日の行軍距離の謂い)の距離の外に避けるという意味に基づく故事成句。]

 

 いざ醉(ゑひ)て狼追はん後(のち)の月 玉葉

 

というのは酒客の空景気に過ぎぬか、実際この位大きな気持になるものか、盃中の趣を解せぬわれわれには想像がつかない。虎に比べれば大分型が小さくなるようなものの、酒気を仮りてはじめてこの言あるのを見ると、大した豪傑ではないのであろう。

 

 狼の人とる沙汰や遲ざくら   倚彦(いげん)

 

 これは噂だけである。遅桜の咲いている場所はわからぬが、山中の旅客ででもあったら、この噂は相当に心を脅すものでなければならぬ。従って左の句のように、人を送るに当って殊更狼を持出したりするのは、親しい仲の戯(たわむれ)にせよ、やや悪謔(あくぎゃく)に類するように思う。

 

   木導子が山家に分入るときゝて

 狼に喰はれてかへれ山櫻      許六

 

 狼と桜との取合も多少の不調和を免れぬ。西鶴が『一代男』に「野郎翫(そ)びは、ちり懸(かか)る花のもとに、狼が寢て居るごとし」と書いたのも、這間(しゃかん)の消息を伝えているものの如くである。

[やぶちゃん注:井原西鶴の浮世草子の濫觴とされる草草紙の処女作「好色一代男」(八巻八冊。天和二(一六八二)年大坂池田屋板行)。私はこの手の好色本が生理的に駄目なので読んでいないし、所持もしていない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見ることは出来るが、探す気にもならない。悪しからず。]

2017/12/07

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) フウイヌム 不思議なヤーフ (2) / 不思議なヤーフ~了

 

五章

 

 〔私と主人とは〕それから後も何度も會つて、いろんな話をしました。私はヨーロツパのことについて、商業のこと、工業のこと、學術のことなど、知つてゐることを全部話してやりました。

[やぶちゃん注:実は、現行版では、この段落に改行せずに、

   *

しかし、この國には権力、政府、戦争、法律、刑罰などゝいう言葉がまるでないのです。ですから、こんなことを説明するには、私は大へん弱りました。

   *

という、前段の末尾部分が続いている。ところが、原稿ではここに校正記号があるものの、それは不思議な記号で、次の段落を以下へ持って行け、という指示にしか見えないものなのである。則ち、前の、

「一たいこの國には權力、政府、戰爭、法律刑罰、などといふ言葉が〔は〕〔まるで〕ないのです。ですから、こんなことを説明するには私は大変弱りました。しかし、主人は素晴らしく頭がよいので、私の話を〔も〕だんだん分つてくれました。

を、次の「あるとき、私はこんなことを主人に話しました。」に繋げろ、というのである。しかし、そこには「五章」として分断する段の冒頭が入ることになり、そんなことをすると、文脈が大いに変調してしまって、少なくとも構成上の流れが、理解出来なってしまうのである。思うに、この「フウイヌム」に入ってから、異様に現行版での訳文のカットが多いのを見ても、恐らくは、編集者から、もう、出版上の残りの字数が厳しく制限されて、民喜は、苦渋の激しい短縮を迫られていたのではないかと、私は推理する。そうしたディレンマがこうした仕儀として表われているのであるまいか? と私は深く疑うのである。

 あるとき、私はイギリス主人にこん→こんなことを主人に〕〔云〕ひました。

 「今、イギリス 〔と〕フランス〔は〕長い 長い戰爭をしてゐるのです〔これは〕〔とても長い戰爭で〕〔、〕この戰爭が終るまでには、百万人のヤーフが殺されるでせう」

[やぶちゃん注:作品内時制は「一七一〇年」であるから、これはスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で行われた「スペイン継承戦争」(一七〇一年~一七一四年)である。詳しくはウィキの「スペイン継承戦争」を参照されたい。]

 すると主人は、「一たい國と國とが戰爭をするのは、どういふ譯な〔原因による〕のかと、たづねました。

 そこで、私は次のやうに説明して答へました。

 「それは戰爭をする〔の〕原因なら澤山あります〔が〕だが主なものだけを云つてみませう。まづ王さまの野心です。王樣は、自分の〔もつてゐる〕領地や、人民だけで滿足しません。いつも他人のものを欲しがるのです。第二ばん〔番〕目の原因は〔、〕政府〔の人たち〕が腐敗くさつてゐることです。彼等は自分 で政治に失敗して〔おい〕て、それを誤魔化すために、わざと戰爭をおこすのです。〔します。〕

 さうかと思へば、ほんの一寸した意見の喰ひちがひから戰爭になります。たとへば、肉がパンである〔の〕か、パンが肉であるのかとい〔つ〕た問題、口笛を吹くのが、いいことかわるいことか、手紙は大切にするのがよいか、それとも火にくべてしまつた方がよいとか、上衣の色には何色が一番よいか、黑か、白か〔、〕赤か、或はまた、上衣の仕立は、長いのがよいか短いのがよいか、汚ないのがいいか、淸潔なのがいいか、そのほか、まあ、こんな馬鹿馬鹿しい爭ひから、何百万といふ人間が殺されるのです。〔しかもそれに〕この意見のちがいから起る戰爭ほど、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しほど〔気ちがひじみて〕、むごたらしいものはありません。

 時には、二人の王さまが、よその國の領土をほしがつて、戰爭をはじめる場合もあります。〔また〕時には、ある王が、よその國の王から攻められはすまいかと取越苦勞をして、かへつてこちらから戰爭をはじめることもあります。相手が強すぎて戰爭になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。

 また、人民が餓ゑたり病氣して、國が衰へて乱れてゐる場合には、その國を攻めて行つて〔戰爭しても〕いいよと■ とされて〔ことになつて〕ゐます。

 また〔、〕ある王さまが、ほかの王さま〔を〕〔たよつて〕助けてもらつた〔やつた〕とします、助けてやつた〔その〕〔その〕王さまは今度は〔ついでに〕 かへつて〔その〔相手の→相手の囗〕に攻めて行つて、 相手助けてやつた手さ〔きを今度は殺したり、追つぱらつても、それはなかなか立派なことだと〔、〕されてゐます。〕

 そ〔こ〕で軍人といふ商賣はいち一番→いちばん〕立派な商賣だと考へられて〔されて〕ゐます。つまり彼等〔これ〕は自分に何の害も加へ〔罪もない〕相手〔連中〕を、出來るだけ澤山、平氣で殺すためにやとはれてゐるヤーフなのです。」

[やぶちゃん注:ここのガリヴァーの大事な戦争(国家)批判の台詞は現行版では、

   *

「戦争の原因ならたくさんありますが、主なものだけを言ってみましょう。まず、王様の野心です。王様は、自分の持っている領地や、人民だけで満足しません。いつも他人のものを欲しがるのです。第二番目の原因は政府の人たちが腐っていることです。彼等は自分で政治に失敗しておいて、それをごまかすために、わざと戦争を起すのです。

 そうかとおもえば、ほんのちょっとした意見の食い違いから戦争になります。たとえば肉がパンであるのか、パンが肉であるのかといった問題、口笛を吹くのが、いゝことか悪いことか、手紙は大切にするのがよいか、それとも火にくべてしまった方がよいかとか、上衣の色には何色が一番よいか、黒か白か赤か、或はまた、上衣の仕立ては、長いのがよいか短いのがよいか、汚いのがいゝか、清潔なのがいゝか、そのほか、まあ、こんな馬鹿馬鹿しい争いから、何百万という人間が殺されるのです。しかも、この意見の違いから起る戦争ほど気狂じみてむごたらしいものはありません。

 ときには、二人の王様が、よその国の領土を欲しがって、戦争をはじめる場合もあります。またときには、ある王様が、よその国の王から攻められはすまいかと、取越苦労をして、かえってこちらから戦争をはじめることもあります。相手が強すぎて戦争になることもあれば、相手が弱すぎてなることもあります。また、人民が餓えたり病気して国が衰えて乱れている場合には、その国を攻めて行って戦争してもいゝことになっています。

 そこで、軍人という商売が一番立派な商売だとされています。つまり、これは何の罪もない連中を、できるだけたくさん、平気で殺すために、やとわれているヤーフなのです。」

   *

となっている。]

 すると主人〔は〕、私の話を開いて、かう申し〔云ひ〕ました。

「成程、お前が戰爭について、〔お前の〕言ふことをきいてみると、お前が〔いふ、その〕理性ききめ〔はたらき〕といふものもよくわかる。だが、〔それにしても〕お前たちの〔その〕恥かしい行ひは、實際には〔まあ〕危險が少なくて、とにかくくて、まあいのではないか、→い方だらう。〕幸で 幸だ。お前たちの口は、顏に平たくくつついてるから、いくら〔兩方が〕嚙みあつて〔みて〕も、大した傷にはならないし、足の爪も短かくて軟いから、まあこの國のヤーフ一匹で、お前の國のヤーフ十匹ぐらゐは追拂ふことができるだらう。だから、戰場で仆れたといふ死者の数だつて、お前が云ふは大袈裟なことを云つて〔る〕だけだらう。」

 主人がこんな、ものを知らぬことを〔無智なことを云ふので、私は思はず首を振つて笑ひました。私は軍事について■■〔少しは〕知つてゐ〔ました〕ので、大砲とか小銃とか、彈丸、火藥、劍、軍艦、それから、攻擊、砲擊、追擊、破壞、など、さういふ事柄をいろいろ説明してやりました。そして、

 「私は〔わが囗〕の軍隊が〔、〕百人からの敵を圍んで、これを一ぺんに〔、〕木葉みじんに吹き飛ばしてしまふところも〔、〕見たことがあります。また、数百人の人が〔、〕船と一しよに吹き上げられるのも見ました。雲の間から屍体がバラバラ降つて來るのを見て、多くの人は万才と叫んでゐました」

 こんな風に私はもつともつと喋らうとしてゐると、主人がいきなり

 「默れ」

 と云ひました。怒鳴→云ひました。〕

 「成程、ヤーフの性質を知つてゐる者〔〔の〕こと〕なら、今お前が言つたやうな、行〔こと→行〕をしさうなことはわかる〔ことはわかる〕〔そんな忌はしいことも〔やり〕さうだ。〕〔それは〕ヤーフの智惠と力が、その悪心と一緒になれば、〔それは〕できるだらうことだらう。」

 彼は私の話を聞いて、非常に心が乱されました。〔、〕、そして、私の種族を前より〔もつと〕もつと嫌ふのでした。もしこんな ことを 忌はしいこおを毎日耳に聞かされゐれば、慣れてしまつて、嫌らしさを感じなくなるだらうと、彼は考へました。

 それにしても、〔自分が〕理性はあるといつてゐる〔その〕動物が、あ〔そ〕んな恐ろしい極悪の事 行ひをするのなら、これは野獸よりもつと 恐ろしいことではないか、してみると、人間は、理性のかはりに、何か生れつき、悪を増す〔し〕つのらしてゆくやうな性質を持つてゐるのではあるまいか、と主人はひとりで、思いろいろ思ひふけりました。

[やぶちゃん注:以上の段落は、全体に斜線が引かれてあり、現行版でもカットされてしまっている。

 この次の箇所には行間に、一行増しの校正記号があってそこに「六章」とし、「たのしい家」という柱が入れてあって、「一行アキ」とまで書きながら、「一行アキ」以外は抹消されてある。現行版も続いており、実際の現行版の「三、楽しい家庭」はもうすぐなので、続けて電子化しておく。]

 主人は戰爭の話はもう聞きあきてしまひました。それで今度は金錢の話をしてやりましたが、〔これも〕〔主人は〕私の言ふ意味がなかなかのみこめないやうでした。

 「ヤーフといふものは、この貴、お金といふものを澤山溜めてゐさへすれば、綺麗な着物、立派な家、おいしい肉や飮みもの、その他、なんでも欲しいものが買へるのです。そして、〔ヤーフの國では〕なにもかも、お金の力なので次第なのですから、ヤーフどもは、いくら使つても使ひ足つたとか、いくら貯めてももうこれでいいと思ふことはありません。

 〔お金〕のためには、ヤーフどもは〔絶えず〕お互に相手を傷つけあふことをくりかへします。金持は貧乏人を働かせて、らくな暮をしてゐますが、その数は貧乏人の千分の一ぐらゐしかゐません。〔だから〕多くのヤーフは毎日毎日、安い賃銀で働いて、みじめな暮しをつづけてゐます。」

 と、こんなふうに私は話してやりました。それから、ヤーフの國の政治とか法律のことも主人にいろいろ説明してきかせました。

柴田宵曲 俳諧博物誌(21) 熊 二(その2) / 熊~了



 熊について連想に上るのは熊蹯(ゆうはん)と熊胆(くまのい)であるが、俳諧の世界にはあまり見当らない肉食の普及した今日でさえ、熊蹯の味を知る者は、そう身辺に居合せないのだから、昔の日本人の間にどれほど賞味されたか、少しく疑問としなければならぬ。佐藤成裕が『中陵漫録』の中で頻(しきり)に説いているところによると、熊蹯を食うには煮方がある。小刀で粗皮を去って煮ればよく煮える。その肉は葱のように白い、醤油に酒を加え、葱薑(そうきょう)の類を磨って入れると美味である。粗皮をよく削り去らなければ、幾度煮てもよく煮えぬので、古人が「胹熊蹯不熟」といっているのは、いまだこの法を知らぬのだ、というのである。彼が同じ書物の中で、二度までこの法を説いているのを見れば、世人が熊蹯の美味を称しながら、如何に実際に疎かったか、想像に難くない。成裕は奥羽に遊んでこれを食べたといい、この料理法は山人の常に試みて知る所ともいっている。われわれはこの熊蹯通に対して、とかくの言を挿(さしはさ)む資格がない。

[やぶちゃん注:「熊蹯」「熊の手」(熊掌)のこと。「一」の私の注の「和漢三才圖會」の「熊」の引用を参照されたい。

「熊胆(くまのい)」熊の胆嚢を乾燥させた動物性生薬。熊胆(ゆうたん)とも称する。ウィキの「熊胆」により引く。『古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ』、『健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもな』り、『「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)が』知られる。古くから熊を神獣とした『アイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)があ』り、『東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』、『湿潤せず』、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた』。『また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとってもヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。倭人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると』、『松前藩の役人が毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』とある。『近年、日本では狩猟者が減少していることや、乾燥技術の伝承が絶たれていることなどから、熊胆の流通量が減り、取引価格が上昇している。このため、中国などから輸入されている』『(中国は生産量の一割を消費し、韓国・日本に対する供給国とされる』)とある。

「佐藤成裕が『中陵漫録』の中で頻(しきり)に説いている」佐藤成裕(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は水戸藩の本草学者。中陵は号。「中陵漫録」は文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここで宵曲が二箇所と言っているのは、「卷之四」の「胹熊蹯」(「熊蹯を胹(ゆび)きても熟さず」。「熊の手は煮ても、少しも、煮上がらない」の意。)と、「卷之十二」の「熊蹯易ㇾ熟」(「熊蹯は熟し易し。」。「熊の手は煮上がりやすい」の意。]である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、先の仕儀で加工して示す。少し、オリジナルに歴史的仮名遣で読みと注を添えた。

   *

 熊蹯

古人、熊蹯を貴(たふとみ)て食すと雖も、其(その)煮法を知らず。先(まづ)、熊蹯を得て、小刀にて粗皮を削去(けずりさり)て煮る時は、忽(たちまち)に熟す。其肉は白し。葱白(そうはく)[やぶちゃん注:ネギ。]のごとし。醬油に酒を加へ、葱薑(そうきやう)[やぶちゃん注:ネギや生姜(ショウガ)。]の類を磨入(すりいれ)て食すれば美也。此掌の粗皮を、よく削去らざれば、食しがたし。幾度、煮て、熟しがたし。古人、「胹(ユビヽテ)熊蹯不ㇾ熟」と云(いふ)は、此法を、いまだ、しらざる也。

   *

 熊蹯易ㇾ熟

古人、熊蹯を美(うま)しとて、好(このん)で食す。しかれども、「煮て熟しがたし」と云(いふ)。余、甞(かつ)て、奧羽に遊(あそび)て、是を食す。其(それ)、煮る時、蹯の上の厚き皮を削り去(さり)て煮る時は、忽に熟す。其皮ともに煮る時は、中は熟して上の厚皮、熟せざるなり。此法、山人(さんじん)[やぶちゃん注:山深く分け入って林業や猟をする者。]、常に試(こころみ)て、しる處也。古人、未だこゝに至らず。「香祖筆記」曰(いはく)。『用草繩匝韋煮ㇾ之。則易ㇾ熟』と云(いふ)。

   *

「胹」は原典は「ユヒヽテ」であるが、濁音化した。「湯引き」の意であろうが、本来の本字は「煮る・よく煮る」という意味ではある。佐藤はしっかりと掌の表皮を削ぎ落して軽く煮れば(或いは湯引けば)よいと言っており、そんなに煮込む必要はないと言いたいらしい。「忽に熟す」と繰り返し言うのは、そういう意味であろう。「香祖筆記」は、号の王漁洋(山人)で知られる、清初の詩人王士禎(一六三四年~一七一一年:山東省出身)の随筆。その「卷三」に、『熊掌最難熟、故楚靈王請食熊蹯而死。明秦府王孫不羈云、「用草繩匝掌煮、之則易熟。』と出る。この「用草繩匝韋煮、之則易熟。」とは「草繩匝韋を用ひて之れを煮れば、則ち、熟し易し。」で、恐らくは荒繩を以って充分に摺り回して(表皮を削り取って)煮れば、簡単に煮上がるの謂いと採る。単に煮豚のように荒繩で巻き固めて煮ただけでは、佐藤の言の証左にはならぬからである。]

 熊胆の方は何人も耳に熟している。幼時腹を痛む度に必ず飲まされたのがクマノイであった。名前は熊だけれども、実際は何の胆かわからず、あるいは何の胆でもない百草根の類だったかも知れぬ。今でもおぼえているのは口一杯に広がる苦みと、熊の毛を髣髴する黒い色とである。あの薬の袋にはたしか熊の画がついていた。もしあんな苦い薬でなしに、もっと子供に親しいものであったら、熊に対するなつかしみを加える役に立っていたであろう。永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)の説によると、豕(いのこ)の胆は熊胆に劣らぬ功があるといい、熊胆の真偽は容易に弁別出来ぬということであるが、正木直彦(まさきなおひこ)氏の『回顧七十年』の中には、木曾街道で正真の熊胆と称するものを売付けられ、同時にその一味らしい追剝(おいはぎ)に持物を奪われた話が出て来る。熊胆の鑑別は素人には困難であるにせよ、

 

 熊の胆と瓢簞(へうたん)釣(つり)て榾火(ほたび)かな 魯哉

 

は紛れもない熊胆で、それが瓢簞と共に榾火に煤(すす)けているところ、雪に鎖された北国情趣の頗(すこぶ)る顕著なものがある。

[やぶちゃん注:信頼出来る漢方サイトの記載によれば、熊の胆(い)の詐称品としては猪(本文の「豕」。但し、本文でも述べている通り、偽物の中ではまだいい方(効果がある)らしい)の胆嚢であったり、粗悪品の殆どは牛や豚の胆汁に植物の竜胆(リュウタン:リンドウ目リンドウ目リンドウ科リンドウ属トウリンドウ変種リンドウ Gentiana scabra var. buergeri の根茎を乾燥させた生薬)・黄連(オウレン:キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica の根茎を乾燥させた生薬)。黄檗(オウバク:ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮を乾燥させた生薬)などのエキスを混和「永富独嘯庵」(享保一七(一七三二)年~明和三(一七六六)年)は江戸中期の医師。ウィキの「永富独嘯庵」によれば、『古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは』、『西洋医学などで補うことを主張した』という。『長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)に生まれ』、十三『歳で医師、永富友庵の養子とな』り、十四『歳で江戸に出』、『医学の修業を始め』た『が、医学にあきたらず』、『山県周南のもとで儒学を学んだ』。十七『歳で帰郷して儒学を講じて』過ごした『が、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き』、『東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、東洋は任官を勧めなかった』という。二十一『歳の時、東洋に命じられ』、『越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ』。二十九『歳の時、病をため、家を離れ』、『諸国を漫遊した。長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ』。この旅行中の見聞を「漫遊雑記」として著したが、それ『を華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる』。三十歳になって、『大阪で開業し、多くの門人を育て』たが、五年後、三十五の若さで『病没した』。著書には他に「吐方考」「囊語」などがある。彼の言葉に、「病を診すること、年ごとに多きに、技、爲すこと、年ごとに拙し。益々知る、理を究ることは易く、事に應ずることは難きことを。」があるとある。夭折が惜しまれる人物である。

「正木直彦」(文久二(一八六二)年~昭和一五(一九四〇)年)は美術行政家。ウィキの「正木直彦」によれば、『東京帝国大学法科大学法律科卒』、『文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を』明治三四(一九〇一)年から昭和七(一九三二)年までの実に三十一年の長き『にわたって務めた』人物である。

「回顧七十年」昭和一二(一九三七)年学校美術協会出版部刊。所持しないので、原典を示せない。]

 

 初雪に熊の出(いで)たる海邊かな   不玉

 

 この句には「出羽國さかた、おなじつるが岡の便に」という前書がついている。不玉といふのは『奥の細道』に「小舟に乘て酒田のみなとに下る、淵庵不玉と云醫師の許を宿とす」とあるその人で、この前書は作者のつけたものでなしに、出羽方面の便にこういう句があったという編者の断り書らしく思われる。東北の人の作だけあって、何らか実感に似たものが窺われるが、いわゆる眼前写生の句ではない。初雪の降り積った海辺に熊が出て来たという事実を、そのまま句にしたものであろう。海辺まで熊が出るのは、やはり食糧問題に苦しんだ結果かと想像する。

[やぶちゃん注:「淵庵不玉」(?~元禄一〇(一六九八)年)は酒田(現在の山形県酒田市)の医師伊東玄順。俳号が「不玉」で、「淵庵」は医号。。芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、酒田で会って彼の邸宅に滞在し(象潟行きの三日間を除く前後九泊)、曾良を加えての三吟歌仙を残している。この時、芭蕉に昵懇して蕉門に入り、酒田俳諧を盛り上げた人物とされるが、現在、酒田市中町一丁目に不玉宅跡が残る以外、事蹟はあまり知られていないようである。詳細は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 52 酒田 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ』を見られたい。

「つるが岡」同じ山形県の日本海沿岸(庄内地方)南部に位置する現在の鶴岡(つるおか)市のことか。]

 猛獣が俳諧的材料として適当なものでないことは已に述べた。熊もその斑に列する以上、活動の舞台が猿や狐より狭いのは覚悟しなければならぬ。熊そのものが俳諧に適せぬというよりも、人間と熊との間が俳諧的交渉を生ずるには距離があり過ぎる、ということになるのかも知れない。

[やぶちゃん注:「斑に列する」意味不明。正直言うと、これは「班に列する」の宵曲の誤りではなかろうか? 「班」ならば「仲間」の意で、腑に落ちるからである。]

 明治になつて子規居士は熊の句の上に多少の新材料を用いた。

 

 金時も熊も來てのむ淸水かな   子規

 

という句は居士としても初期の作であるが、足柄山の金太郎を捉え来った点に特色がある。

この童話的な熊は、江戸時代の句には遂に用いられなかったようである。こういう和気藹々(わきあいあい)たる熊は、金時のワキ以外に存在しそうにも思われぬ。

[やぶちゃん注:「寒山落木卷一」の明治二五(一八九二)年の「夏 天文 地理」の「松山」に載る。子規二十五歳。]

 

 しぐるゝや熊の手のひら煮(にゆ)る音 子規

 檻(をり)古(ふ)りぬ熊の眼のすさましく

                    同

 

[やぶちゃん注:前者は「寒山落木卷二」の明治二十六年冬に載り、後者は「寒山落木卷三」の明治二十七年の秋に載る。「すさましく」が季語で晩秋であるが、どうも季語として働いていると読むと、私は寧ろ、句の勢いが甚だしく減衰するように思う。因みに、私は無季語俳句を絶対的に支持する人種である。]

 熊蹯の句は珍しいけれども、恐らく実況ではあるまい。「檻古りぬ」は動物園裏の熊を描いた点で、前代の句と区別することが出来る。

 

 五六人熊担ひ來る雪の森        子規

 

 これは北海道風景を想像したものであろう。明治二十九年の『寒山落木』にこれと並んで「丈(たけ)低き夷(ゑびす)の家や雪の原」という句が記されているのを併せ考うべきものである。南海に生れ、東京に住した居士は、海を越えて遼東(りょうとう)まで蹈出したが、北海道には足迹(そくせき)を印するに及ばなかった。「足たゝば蝦夷(えぞ)の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」と詠じたりもしているから、時に白皚々(はくがいがい)たる北海の曠野(あらの)に想を馳せ、アイヌの熊狩の様などを脳裏に画いていたのかも知れない。「五六人」の句は想像を化して眼前の実景の如く叙したのである。

[やぶちゃん注:「明治二十九年」一八九六年。本段落をよりよく理解するために、この前後の正岡子規の事蹟を、ここで簡単に述べておく。正岡子規(慶応三(一八六七)年~明治三五(一九〇二)年九月十九日:本名・常規(つねのり))は明治二三(一八九〇)年に東京帝国大学哲学科に進学したものの、翌年、国文科に転科し、この頃から句作を開始している。大学中退後、明治二五(一八九二)年に新聞『日本』の記者となり、翌明治二十六年には「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」の連載を開始するとともに、本格的な俳句革新運動に着手した。明治二七(一八九四)年の夏に日清戦争が勃発すると、翌明治二十八年四月、近衛師団附従軍記者として遼東半島に渡ったが、上陸した二日後に下関条約が調印されたため、同年五月、第二軍兵站部軍医部長であった森林太郎(鷗外)らに挨拶をし、帰国の途についた。しかし、その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院、同年七月、須磨保養院で療養した後、松山に帰郷している。明治三〇(一八九七)年、俳句雑誌『ほとゝぎす』(後の『ホトトギス』)を創刊している。以上はウィキの「正岡子規」に拠った。

「足たゝば蝦夷(えぞ)の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを」明治三一(一八九八)年の「足たたば」の歌群の中の一首。

「白皚々(はくがいがい)」雪や霜などが一面に白く明るく積もっているさま。]

 

 熊賣つて乾鮭(ほしざけ)買ふて歸りけり 子規

 草枯(くさがれ)や狼(おほかみ)の糞熊の糞

                     同

 冬枯や熊祭る子の蝦夷錦(えぞにしき)  同

 

 これらの句もまた北海道生活の想像的産物であろうか。熊を売るという特別な事柄の裏としては、乾鮭を買うのは平凡過ぎるようでもあるが、そこは想像的作品のやむをえざる所であろう。価高きものは他に売り、価低きものを買って暮す小さな生活者の様子も窺われる。居士は先ず熊蹯よりはじめてそれを売るところ、草原に見る熊の糞、熊祭をする子の蝦夷錦まで句中のものにしたが、想像は竟(つい)に実感でない。熊の句の世界は広くなっても、句から受ける感銘はむしろ稀薄な憾(うらみ)がある。

[やぶちゃん注:「熊賣つて」の句は明治三〇(一八九七)年の俳句稿。

「草枯や」明治三十一年の句。

「冬枯や」同じく明治三十一年の句。次の「江戸櫻」も同年。]

 

  無事庵より熊の肉を送り來る

 江戸櫻越後の熊を肴かな         子規

 

 熊の肉はこに至り俳諧の俎上に上ることになった。居士はこの珍味に関して他に何も記しておらぬから、果して熊蹯であったかどうかわからぬが、御馳走主義の居士をよろこばせたことは想像に難くない。無事庵は今成氏、越後六日町の人で、居士と同じ病を抱いていた。われわれは変化に富んだ北海道の諸句よりも、一見平凡なるこの越後の熊の肉を尊重する。居士の句の本色は、彼になくして此に存するからである。

[やぶちゃん注:「今成」「無事按」子規と交流のあった新潟県南魚沼郡六日町の今成文平。]

 熊祭の句は明治以前には見当らぬようであるが、連句の中にはこれを捉えたものがある。

 

  義經(きくるみ)王は大祭なり   太祇

 果果はしてやる熊を乳に育テ     嘯山

  鬢付油(びんつけあぶら)なくてあらなん

                   同

 

 太祇の作中に蝦夷文学が顔を出すのは意外であった。嘯山は前にも熊の句があり、ここでまた熊祭を持出している。何か熊に因縁のある人だったか、書物か人の話かで得た知識を応用したまでか、俳諧に現れた熊として注目に値することはいうまでもあるまい。

 前に北枝の「あら熊」の句について示教を得た野鳥氏の書簡によると、越後、岩代(いわしろ)の国境に近い山村の者は、ブナの実が沢山地上に落ちているのを見て「今年は熊が捕れるぞ」というそうである。野鳥氏なども幼時火燵の上で、炒ったブナの実の薄皮を南京豆のようにはじきながら、年寄たちからこういう話を聞かされたという。ブナの実は余り食べると頭痛がするほど、油の多いものだと書いてあった。これを読んだらいまだ見ぬ雪国の冬が直(じか)に眉宇(びう)に迫るような感じがした。芭蕉は東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなしと喝破したが、雪国の冬を知らぬ者は熊を談ずるに足らぬのかもわからない。

[やぶちゃん注:「義經(きくるみ)王は大祭なり」この付句、意味がよく判らぬので調べて見たところが、義経の生存説に関わるもので、彼が衣川で死なず、蝦夷へと渡って、アイヌ民族によって「キクルミ神」として祀られたという伝承があるらしいことが判った。東北大学附属図書館会議室で行われた展観目録第66号「源義経」に関する図書展目録を参照されたい。にしても、私は正直、この連句の意味はまるで判らぬことを告解しておく。何方か、私に解るように、御説明戴ければ幸いである。

「越後、岩代(いわしろ)」不詳。識者の御教授を乞う。

「ブナの実は余り食べると頭痛がするほど、油の多いものだ」タンニンが疑わられるが、ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata にはタンニンが殆んどなく、特にヒトに対する頭痛を惹起するような毒性があるという記載は、ない。

「眉宇(びう)」「宇」は軒 (のき)、眉(まゆ)を「目の軒」に見立てて言った語。眼前。

「芭蕉は東海道の一筋も知らぬ人風雅におぼつかなし」服部土芳の「三册子」(さんぞうし:元禄一五(一七〇二)年頃成立、安永五(一七七六)年刊)の「白册子」の一節。「旅、東海道の一筋もしらぬ人、俳諧に覺束なしとも云へりと有」で、これは森川許六(きょりく)の「韻塞(いんふたぎ)」(元禄十五年)に拠るか。]

柴田宵曲 俳諧博物誌(20) 熊 二(その1)

 

       

 

 『和漢三才図会』は熊の習性についてこういう事を書いている。

  性輕捷にして好んで緣上高木に攀る。人を見れば則ち顚倒し自ら地に投ず。

身体つきはどっしりしていても、なかなかすばやいところがあるらしい。好んで高い木の上に攀じ登り、人を見れば地へころがり落ちるというのはどういう料簡かわからぬが、この習性らしいものを捉えた句が一つある。

[やぶちゃん注:「和漢三才圖會」の原文(頭の「本草綱目」の引用部)は前の「一」の注で示したのでそちらを参照されたいが、私はそこで原典に忠実に漢字(略字や異体字の場合もそれを採用している)を起してある(これは私が作業中の「和漢三才圖會」の電子化注(現在は「禽類」(鳥類))で私が厳格に守っている仕儀である)。宵曲が引くのはその、

  性輕捷好攀縁上高木見人則顛倒自投于地

の部分である。御覧の通り、原典は「縁」ではなく「縁」であり、「顚」でなく「顛」である。しかし、ここは特異的に引いた宵曲のそれを忠実に正字化しておいた。何故なら、底本自体が「顛」については「顚」の字を用いているからで、その場合、総てを正字表記とする方が、読者の不審を起さないと判断したからである。また、そこで私は、

  好んで攀ぢ縁(よ)り、高木に上ぼる。人を見るときは、則ち、顛倒し、自ら、地に投(とう)ず。

と訓読した。前の箇所は確かに「縁上」部分に全く送り仮名がないことから、宵曲の読みも一つあろうかとは思う。しかし、宵曲は良安の振った訓点を無視している点で、致命的な反則を犯している。良安は「上高木」としているからである。そもそもが私が敢えて「攀ぢ縁(よ)り」と読んだかと言えば、「縁上」という熟語が不審だったからである。この返り点がなければ、宵曲のように読むかも知れぬが、それにしても「縁上」というのは不審な語である。「高い所のその中でも端の方」の意ならば、確かに転げ落ち易そうな場所ではある。しかし、だったら、「高木上縁」とするべきであろう。そこで私は「縁」は動詞で前の「攀」と熟語になっているのではないかと考えた。「縁」には「寄る」という動詞の意があるから、ある物の近くにすり寄って攀じ登るという意で採ったのである。]

 

 人音(ひとおと)や熊ののたりに散(ちる)さくら 轍車

 

 「のたり」という言葉が顚倒に当るかどうか、多少の疑問があるとして、そうでも解釈しなければ、さしあたりこの句の始末がつかない。木の上に攀じ登っていた熊が、人の来るけはいを知って、どたりと地上にころがり落ちる。その地響であたりの桜の花が散る、というような意味であろう。熊公花に浮れて桜の梢に登り、四方の景色を眺めるとまで限定する必要はない。熊の登るのは他の木で、桜はそのほとりにあるとしてもよかろうと思う。いずれ深山の趣に相違ないが、役者が熊だけに「駒が勇めば花が散る」というほど陽気な芸当にはならぬ。作者がこういう光景を目撃して詠んだか、人から話を聞いて想像を逞(たくま)しゅうしたか、恐らくは後者であろう。熊と桜はちょっと珍しい取合である。落花を配することによって、無気味な「熊ののたり」も多少優美化されたような気がする。

 

 夕立に取(とり)にがしけり熊つかひ 孟遠

 

 岡本綺堂氏の『半七捕物帳』に「熊の死骸」という話がある。麻布の古川の近くに住む熊の膏薬屋が、店の看板代りに飼っていた熊を、大火事の騒ぎで逃すと、人に追われて混雑の中に姿を現し、行く手の邪魔になる人を殴(たた)き倒す。その中に二人の武士のために斬り倒されるという出来事なので、『事々録』弘化二年の条に見えているから、当時の江戸にそんな事があったものであろう。孟遠の句はそれほどの大事件ではない。「熊つかひ」とあるけれども、後の曲馬団のような大がかりなものでなく、屋外で芸をさせる程度の熊ではあるまいか。「丹波の国で生捕った荒熊でござい」というような言葉は、そんなものを見たおぼえのないわれわれでも小耳に挟(はさ)んでいる。突然夕立の降って来た騒ぎに、熊つかいも慌てたと見えて、大事の熊を逃してしまった。夕立の巻はこれでおわるから、作者はその後に来るべき騒動については何も示していない。巷間蜚語(こうかんひご)粉々として、遂にフィリップの「獅子狩」のような結果になるかどうか、それは小説家に一任して差支(さしつかえ)のない問題である。

[やぶちゃん注:「熊の死骸」大正九(一九二〇)年八月号の『文藝俱樂部』初出で、設定時制は弘化二年正月二十四日(グレゴリオ暦一八四五年三月二日)で、舞台は芝三田・高輪である。「青空文庫」のこちらで読める。

「事々録」風聞雑説を集録したもので、作者未詳とされるが、大御番を勤めた堀田重兵衛(堀田甚兵衛)なる人物ではないかとも言われる。所持しないので原典を示せない。

『フィリップの「獅子狩」』フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 一八七四年~一九〇九年)の没後に刊行された二十四編から成る短編集「朝のコント」(Les Contes du Matin 一九一六年:邦訳は誤解を生む。確かに“Matin”はフランス語の一般名詞で「朝」であるが、実はこれは固有名詞で、それらが連載された大衆新聞の紙名であるから、正確には「『ル・マタン』紙のコント」とする正しい)の中の一篇。抄訳本しか所持せず、当該作は所収しておらず、未読。原題もフランス語サイトを検索したが、何故か、リストが見当たらないので示せない。分かり次第、提示する。

「夕立の巻」何の俳諧撰集か不詳。識者の御教授を乞う。]

 熊を馴らして飼うことは、昔もしばしばあったらしい。伴嵩蹊(ばんこうけい)などは熊は人に馴れやすいものだといい、京都で菓物売(くだものうり)の女が熊の子を繫(つな)いで飼っていることを『閑田耕筆』に書いている。香川景樹も生麦(なまむぎ)の茶店に飼っている熊を見て、一首の歌を詠じているが、その歌はさっぱり面白くない。『甲子夜話』には白熊を養う話もあるが、これらはいずれも子飼のようである。

[やぶちゃん注:以上の伴嵩蹊(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年:商人で歌人・文筆家。本名資芳(すけよし)。近江八幡出身の京都の商家に生まれたが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念したが、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。代表作は知られた「近世畸人傳」(正編は寛政二(一七九〇)年出版))の随筆「閑田耕筆」の記載は、「卷之三 物之部」の四条目に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、恣意的に漢字を正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。

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○山獸の中には、熊は人に馴安きものなり。華山のさき、牛尾道と三條への別路に、菓(クダモノ)賣(ウル)女のかり初に出居るが、熊の子をつなぎたるを、おのれ立より見て、其菓物(クダモノ)を買て、熊に與へたれば、女うまいと申せといふ聲に隨ひて、うなりたる。いかにもうまいうまいと聞ゆ。幾度も同じ。伊吹山よりいま