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2017/08/18

ブログ990000アクセス突破記念 花嫁と瓢簞 火野葦平

 

[やぶちゃん注:本文では特異的に拗音が散見されるが、それならここも拗音となるべきであると思われる箇所がなっておらず、全体にそうした歴史的仮名遣的箇所の方が多い。それらは総てママとした。

 以下、簡単な注を附しておくが、ネタバレになる本話全体への私のある感懐は最後に回した

 本文で二箇所に出る「先登」はママ。先頭。

 

 「カルカヤ」本邦では単子葉植物綱イネ目イネ科キビ亜科メガルカヤ属メガルカヤ Themeda triandra var. japonica(或いはThemeda triandra)を指す。高さ約一メートルで、長毛を有する。九月から十月にかけて稈頂に包葉がある仮円錐花序をつける。日当りのよい丘陵地や草地に生え、本州から九州に分布する。和名は「雌刈萱」で、オガルカヤ(雄刈萱:キビ亜科オガルカヤ属 Cymbopogon tortilis var. goeringii)に対し、それよりも小形であることに由来する。Katouの「三河植物観察」を参照されたい。

 「德の洲」は正確には「徳淵の津」である。この附近(グーグル・マップ・データ)で、マー君のブログ「生涯現役毎日勉強」の「徳淵の津と河童」に詳しく、画像も載るが、後者のリンク先は読後に見られんことをお勧めしておく

 本文で球磨川の支流として「白川」・「靑葉川」・「枕川」と順に出し、最後の枕川で本流の球磨川に接続したという記載が出るが、「白川」は阿蘇山の根子岳(ねこだけ)に発し、阿蘇カルデラの南部の南郷谷を西流し、南阿蘇村立野で、カルデラの北側の阿蘇谷を流れる支流の黒川と合流、急流の多い上中流域を抜けて、熊本市市街部を南北に分けて貫流した後に有明海に注ぐ川である(ここ(グーグル・マップ・データ))。「靑葉川」と「枕川」は不明で(国土地理院の地図も調べた)、現在の河川状況からは、この白川から球磨川に支流河川を通って行けるようには思われない。現在の白川の最も南の部分から直線でとっても球磨川は真南に約三十キロメートルも離れている。可能性としては宇土を抜けて河川を行くルートか。あったとすればその付近に「靑葉川」及び「枕川」はあることになる。因みに、白川の南には「緑川」が流れており、これは「靑葉」という名とは親和性があるように思われはする。ただ、「枕川」が肝心要の作品の舞台及びその近くの川であるから、実在するならば、何とかして知りたい。識者の御教授を乞う。

 また、「松尾川」は熊本県熊本市西区を流れる現存河川で、西区松尾町上松尾附近を源流とし南流し、熊本市立松尾東小学校近くを通って、先の「白川」の北側を流れる坪井川に合流する川である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 虎助の台詞の「ええごとしてもろうて、よか」は「好きにしてもらって、いいぞ」の意であろう。

 「カマツカ」コイ目コイ科カマツカ亜科カマツカ Pseudogobio esocinusウィキの「カマツカ」によれば、体長十五~二十センチメートルほどの『細長い体と、長く下に尖った吻が特徴。吻の下には』一『対のヒゲがある』。『主に河川の中流・下流域や湖沼の砂底に生息し、水生昆虫などの底性の小動物や有機物を底砂ごと口から吸い込み、同時に砂だけを鰓蓋から吐き出しながら捕食する。繁殖期は春から初夏にかけてである』。『おとなしく臆病な性質で、驚いたり外敵が現れたりすると、底砂の中に潜り、目だけを出して身を隠す習性があることから「スナホリ」・「スナムグリ」・「スナモグリ」など、また生態が海水魚のキスに似ていることから「カワギス」など、また鰓蓋から勢いよく砂を吐き出す仕草から「スナフキ」という別名もある』。美味な淡水魚として知られ、塩焼きや天ぷら、甘露煮などにする、とある。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが990000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年8月18日 藪野直史】]

 

         一

 

 稻の穗の稔りのうへを秋風がすぎると、黃金色の波が美しい縞をつくりながら、はてしもなくかろがつて行く。風が強いときには鳴子(なるこ)が鳴り、ある田ではキラキラと銀紙が光つて、雀どもが一散に飛び立つ。案山子(かかし)のおどけた姿や顏にさわやかな太陽があたり、その光線は村のいたるところに、象牙細工のやうな柿の實を光らせてゐた。部落の藁屋根や瓦葺のうへには銀杏の葉が降りそそぎ、野や畦道(あぜみち)は、オミナエシ、キキョウ、ハギ、カルカヤ、キクなどの花盛りであつた。天には、悠々とトンビが舞つてゐる。平和で美しい村の風景である。

 しかし、今、この美しい村をさらに一段と美しく彩つて、通りすぎて行くのは花嫁の一行であつた。白い眞綿の帽子に角かくし、あでやかな衣裳をつけた花嫁は、馬の背に橫坐りになり、紅白だんだらの手綱を持つた馬子に引かれて行く。その前後には型どほりの行列が、村民たちの見物のなかを拔けて、靜々と、婚家先へ進んで行つた。眞晝間なのに、先登の男は定紋入りの提燈をぶらさげ、もう醉つぱらつてゐるのか、すこし千鳥足で、調子はづれの鼻唄をうたつてゐた。

 村人たらは、沿道は勿論、遠近(をちこち)の自分の豪から、田圃のなかから、丘のうへから、このあでやかな花嫁道中を眺めてゐた。

「おい、お前たらもそろそろぢやッど」

 百姓虎助は、自分の左右にゐる三人の娘たちを見まはして、意味ありげにいつた。

「まだ早かたい」

「なんの早かろか。大體がもう三人とも遲れちよるちゆうても、よかくらゐぢや。あげな晴れがましか花嫁衣裳ば、早よ着てみたうはなかッとかい?」

「そら着てみたかばつてん」

「今年のうちに、みんなよか婿ば取らんば。ウメは一番上ぢやけん、養子をせんにや仕樣なかばつてん、キクとアヤメはよかとこへ行けや。それで、お父ッあんもおッ母ァも安堵ばするけん」

 虎助は特別に慾張りでも因業でもなかつたが、やはり、三人姉妹の婿が金に困らぬ男で、氣立てがよく、よく働き、男ぶりも惡くないことを祈らずには居られなかつた。どういふものか男の子が出來ず、養子をしなければならぬことが殘念だけれども、揃ひも揃つて三人娘が器量よしなので、きつと自分を滿足させる婿が來るだらうと樂觀してゐた。虎助が娘たちを意味ありげな眸でながめたのは、さういふ思ひをこめてゐたからで、彼は自分の三人娘が自慢でたまらぬのだつた。

「虎助どんは幸福者ばい。三人ともこん村にならぶ者がなか別嬪ぢやで、寶物を持つとると同じたい。三國一の花婿が來らすぢやろ」村人も口を揃へて、それをいふ。そのたびに相好をくづして、

「トンビがタカば生んだグたい。へへへへ」

 と、やに下がるのが常だつた。

 河童たちも、この花嫁行列を見てゐた。この部落のはづれを流れてゐる枕川は、球磨川(くまがは)の支流で、さうたくさんはゐないが、二三十匹ほどの河童が棲んでゐた。彼等はいたづら好きで、ときどき村民に角力(すもう)を挑んだりするけれども、子供たちの尻子玉(しりこだま)を拔いたり、野菜畑を荒したりして、ひどい被害をあたへることはなかつた。たまに、犬や馬や牛を川へ引きこんでみたりする。しかし、それとて、それらの動物たちを殺したり、これを餌(えさ)にしたりすることが目的ではなく、自分たちの力をためしてみたい心からで、もう一つはこれらの動物たちが水中で必死にもがくさまが面白くてたまらぬからだつた。スポーツか見世物のつもりなのだ。もともと、四千坊頭目に率ゐられてゐたのは、九千坊一族が球磨川から筑後川へ大移住したとき、破門されて本流から支流へ追放された連中の末孫だから、まづ優秀の部類とはいへない。それでも村では恐れられてゐて、村民はなるべく河童に觸(さは)らないやう、河童と事をかまへないやうに極力注意してゐた。

 花嫁行列の絢爛(けんらん)さに、河童たちは感にたへてゐた。河童の仲間でも嫁入りのときには、花嫁は飾るけれども、たかが蓮の葉の帽子にありあはせの花をのせ、背の甲羅を水中の藻で飾るくらゐが關の山で、人間の花嫁の美しさとはくらべものにならない。河童たらは眼を瞠(みは)り、嘴を鳴らし、しきりに、巨大なためいきを吐きつづけてゐた。

 そのなかで、もつとも恍惚とした眼つきになり、惱ましげに、やるせなげにしてゐるのは三郎河童であつた。彼は羨望のあまり、河童に生まれて來たことを嘆くほどの感動にとらはれてゐた。出生の宿命はくつがへすべくもない。日ごろは自分の身分を下賤とは思はず、かへつて人間の愚劣さを輕蔑さへしてゐたこともあつたのに、この花嫁姿の美しさはほとんど三郎の人生觀をくつがへしてしまふほどのショックであつた。

 

          二

 

 花嫁の一行が村はづれに出て、枕川の岸邊にさしかかつたとき、椿事がおこつた。

 長い道中なので、堤防にある大きな榎や銀杏のかげに八つて、一行は休憩してゐたのだが、そのとき、花嫁が乘つてゐた馬が、河童のため、川へ引きづりこまれたのである。花嫁は降りて床几に腰かけてゐたので被害はなかつた。河童の方も花嫁を傷けようとは考へて居らず、いくらか燒き餅年分、花嫁の乘馬にいたづらしたのである。五六匹の河童が馬の尻尾や肢をつかみ、まつたく無造作に、川の中へつれて行つてしまつた。三尺足らずの小さい身體なのに、頭の皿に水が滿ちて居れば、トラックでも機關車でも引きこむくらゐ強力なのである。花嫁はこれを見て仰天し、氣をうしなつてたふれた。

「ガラッパの畜生奴」

「馬を返せ」

 混亂におちいつた伴(とも)の連中は、口々に叫んだ。しかし、ただ騷いでゐるばかりで、馬を助けに行かうとする者はない。行けば自分たちも引きこまれることは眼に見えてゐる。馬がゐなくなつても、花嫁を送りとどけることは出來るといふ計算もあつた。

 馬はあばれて抵抗した。狂つたやうにいなないた。水面がはげしく波立ち、魚やウナギやスッポンがはねあがつた。しかし、案ずるはどのことはなかつた。河童はいたづらしただけだから、まもなく、馬は川面に浮きあがつた。ぶるんぶるんと鬣(たてがみ)や身體の水を切りながら、鼻を鳴らして岸にかけあがつて來た。

 すると、枕川の水面がふいに渦をまいたやうに騷ぎはじめ、急速に水量が增して、堤防の緣すれすれまでにあがつて來た。これは川底で河童たらが大笑ひをしてゐるためにおこつた現象である。古老はこの傳説の掟を知つてゐた。河童をあまりひどくよろこばせたり、怒らせたり、悲しませたりしては危險なのであつた。そのたびに川の水量が增して洪水になる場合があるのである。二匹や二匹ではそんなことはないが、十匹を越えると增水の可能性が生まれるのだつた。

「まつたく困つたガラッパどもぢや」

 花嫁をとりまいて、村人たちは苦々しい顏をした。河童たちが笑ひやんだとみえて、水面は下がり、渦も消えた。

 このいたづら河童たちのなかには、三郎はゐなかつた。彼は、花嫁姿に對して、さういふチャチな鬱憤晴らしでは消えないほどの強烈な衝擊を受けてゐたので、仲間の方法をたわいないものに考へ、さういふ單純さのなかには進步はないし、理想追求の熱情も感じられないと思つた。三郎の眼には、不思議な淚が宿つてゐた。

 この騷動の噂はすぐに村中に傳はつた。そして、あらためて河童を恐れさせた。

「お父ッあん、ガラッパの征伐は出來んとぢやろか?」

 末の妹のアヤメが訊(き)く。

「コラコラ、そぎやんなことを大きな聾でいひばしするな。ガラッパが立ち聞いたら、どぎやん仕返しすァか知れんど」

 虎助はおびえた顏つきで、あたりを見まはした。アヤメは笑つて、

「こぎやんとこにガラッパが居るもんか。枕川とは三町も離れとる。聞えはせん。な、お父ッあん、ガラッパの語ば、して聞かせて」

「そぎやんいやァ、まさか、ここでの話し聲が枕川まで屆きはすまい。さうぢやなァ。今夜は閑(ひま)ぢやけん、お前たちにガラッパの話でもしてやろかい」

 熊本から鹿兒島地方にかけて、河童はガラッパと呼ばれてゐる。虎助は、三人の娘にとりまかれ、芋燒酎を引つかけながら、ガラッパの話をはじめた。

「大體、日本のガラッパはこの熊本縣が本家たい。お前たちも球磨川下りをしたことがあるけん、知つとるはずぢや。八代(やつしろ)の德の洲にやァ、河童上陸記念碑が立つとる。ガラッパはどこか遠いアジアの方から來たもんらしか。おれやァ學問のなか土百姓ぢやけん、詳しいこた知らんばつてん、なんでもアラビア地方から、九千坊ちゆう大頭目が何千何萬といふガラッパを引きつれて、東方に移動して來たちゆうんぢや。ジンギスカンてら、アレキサンダー大王てらいふ豪傑のまねしたかどうか知らんばつてん、インドのデカン高原の北、ヒマラヤ山脈の南にあるタクラマカン沙漠を通つて、蒙古、支部、朝鮮、それから海をわたつて、この熊本縣の德の洲から日本に上陸したらしか」

「大遠征ばいねえ」

「うん、途方もない大遠征ぢや。途中でだいぶん落伍したガラッパもあつたぢやらうが、ともかく、德の洲から日本に入つたガラッパが、今ぢやァ日本中に散らばつたとたい。枕川に居るとはその名殘りぢやよ」

「ガラッパにも、男と女とがあッと?」

「あたりまへのことよ。雄と雌とが居らんにやァ、子孫はふえんたい」

「ガラッパでも、惚れたり張れたりするぢやろか」

「するぢやろな」

「ああ、をかしか。ガラッパの戀か――ウフフフ、ガラッパの花嫁さんば、いつペん見たいもんぢやな」

「コヲコラ、ガラッパには近づかんにかぎる。ガラッパはやつばり化けもんぢやけんなァ」

 

          三

 

 虎助は自分は學問のない百姓だといつたが、河童についての傳説はよく知つてゐた。醉つて來るといよいよ雄辯になり、聲も大きくなつた。そして、熱心に聞き入る娘たちに、次のやうな語をした。

 ――昔、川に橋が少なく、渡船が交通機關であつたころ、或る日、渡船場で、一人の若者が船頭に一通の手紙と、一挺(いつちやう)の小さな樽とをことづけた。

「實はこれを持つて球磨川に行くはずでしたが、急に母が危篤といふものですから、ここから引きかへきなくてはならなくなりました。ついては、この手紙と樽とを球磨川の魚津といふところで、川に投げこんで下さいませんか。お禮は充分いたします」

 船頭ははじめ面倒くさいことに思つたが、若者が莫大な謝禮金をさしだすにおよんで、二つ返事で引きうけた。若者が去ると、船は川面に出、白川、靑葉川、枕川と、支流を經て、球磨の本流に入つて來た。

 ところが、乘客のうちで、その手紙と樽とはどうもをかしいといひだした者があつた。大體、品物を誰かに渡すのなら話はわかつてゐるが、川の中へ投げこめとは腑に落らない。若者は依賴したとき、この樽には大切なものが入つてゐるし、手紙も重要な祕密文書だから、どちらもけつして途中で見てくれるなと、くどいほど念を押した。見るなといはれれば見たくなるのが人情だし、まして、怪しいとすれば、眞相をたしかめたくなる。船頭ははじめ躊躇したけれども、乘客の輿論に押しきられて、遂に、樽の方から先に開けてみた。梅干に似た丸つこい物がいつぱい詰まつてゐる。なにかわからないが、蓋をとつた途端、嘔吐(おうと)をもよほす異臭がとびだして、乘客は一樣に鼻をつまんだ。

 次に手紙を讀んだ。奇妙なくづしかただつたが、やはり漢字まじりの日本文なので、どうにか判讀することが出來た。

「拜呈仕候。九千坊將軍閣下には愈御盛大大慶至極に存じ上候。きて、例年の尻子玉年貢百個、早々に差し出すべき筈の處、最近は人間共がすこぶる用心深くなり、なかなかに數を揃へ申す事が困難にて、延引の段お許し下され度候。然るに、更にお詫び申し上げたきは、百個の定の處、遂に〆切までに九十九個しか集らず、一個不足致し居る事にて候。その不足分は何卒この船の船頭の尻子玉を拔きて、數をお揃へ下され度、御配慮の程よろしく御願申上候。恐惶(きようくわう)謹言、三拜九拜。肥後の國、松尾川頭目、二百坊より」

 舷頭はまつ靑になつた。腰が拔けてしまひ、船底にへたばつた。乘客たちもおどろいたが、船頭にくらべるとものの數ではなかつた。船頭は癲癇(てんかん)にかかつたやうに泡をふいてゐる。

 球磨川の河童大頭目九千坊が、これによつて、所々の中小頭目から年貢を取りたててゐることがわかつた。所によつてちがふのであらうが、松尾川の二百坊は年間尻子玉百個を約めねばならぬらしい。それが一個足りないので、船頭ので埋めあはせてくれといふのだつた。

「手紙は燒いてしまび、樽だけをここで投りこめ」

 と、客が忠告した。船頭はそのとほりにした。小さい樽すぐに川底へ引きこまれた。船頭は無事だつた。

 しかし、この事件がきつかけになつて球磨川にはお家騷動がおこつた。年貢の取り立てなどは大頭目九千坊のあづかり知らぬことだつたからである。九千坊の威光を笠に、九千坊の名で税金を課し、苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を事としてゐたのは、家老職の四千坊であつた。四千坊が松尾川から來た尻子玉が九十九しかないことを詰(なじ)り、ただちに一個追加の嚴命を發したため、ひどい搾取(さくしゆ)に隱忍してゐた二百坊も、遂に堪忍袋の緒を切つて謀叛(むほん)をおこしたのである。なにも知らぬ九千坊は、はじめ、二百坊の謀叛を怒つて、追討軍をさしむけようとしたが、眞相を知るにおよんで、四千坊の方を懲罰に附した。一族を引きつれて、筑後川へ大移動することになつたとき、四千坊とその腹心を枕川に流刑したのである。

「それでなァ、いま、枕川に居るガラッパたちは、四千坊の子孫ちゆうわけなんぢやよ」

 語り終ると、虎助はおいしさうに、芋燒酎をまたぐいぐいと傾けた。[やぶちゃん注:「芋燒酎」は底本では「芋酎燒」。誤植と断じて特異的に訂した。]

 家の外にたたずんでゐた三郎河童は、急に自分の身體がふくらんで來るやうな氣がした。あんまり虎助の聲が高いし、ガラッパといふ言葉がいく度も聞えるので、枕川から出て來て立ち聞いてゐたのだが、虎助の語は三郎に大いなる期待をあたへた。三郎は立ちあがると、誇らしげに、呟いた。

「おれは、名門四千坊の末裔(まつえい)だ。下賤でもなければ、低級でもない。このあたりの土百姓どもにくらべれば、貴族といつてよい。今日から、胸を張つて生きるんだ」

 枕川の仲間たちは、自分たちの歷史や傳統をまるで知らない。四千坊が死んで後は、なんの記錄も殘つてゐないので、單に、配流の河童として無意味に生きてゐただけだつた。人間から教へられたことは皮肉だが、それはもうどうでもよかつた。三郎は新しい光明に向かつて進むやうに、せせこましい枕川を望んで步きだした。胸を張り、肩を怒らし、頭の皿をまつすぐにして、まるで、凱旋將軍でもあるかのやうに。

 

          四

 

 旱魃(かんばつ)といふほどではないが、雨が少く、水の切れる田が出來はじめた。稻はよく稔つてゐるけれども、いま田が涸れ、龜裂を生じたりすると、収穫に大影響する。虎助の五段ほどの田は山手に近く、それでなくてさへ水引きが惡いのに、日照りつづきで、どの田もからからに乾いた。勢のよかつた稻穗もげんなりとしほれ、色が變りはじめるのも出た。虎助はおどろき、狼狽し、躍起(やくき)になつて、每日、水揚げ車を踏んだ。しかし、枕川からも遠く、堤からの潅漑用水も制限されてゐて、田を蘇生させるには不充分だつた。

「畜生、これだけやつても駄目か。神も佛も居らんとか」

 絶望的になり、天を恨んだ。見あげる秋空には積亂雲がもりあがり、雨の氣配などどこにもなかつた。村では一週間も前から、鎭守社で雨乞ひ祈願がおこなはれてゐるけれども、一向に靈驗のあらはれる兆候はない。

 どこの田にも百姓たちが出て、必死に水あげに熱中してゐた。しかし、努力は報はれず、百姓たちは情なささうな顏を見あはせあひ、無言で、日に灼けこげた顏を打ちふつた。表情をまつたく變へないのはおどけた顏の案山子だけである。稻穗をわたる秋風も無情だつた。

 くたくたに疲れた虎助は、田の畦に腰をおろし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)を腰から拔いて、一服吸つた。好きな煙草の味もしなかつた。死にかかつてゐる田を眺めると泣きたくなる。絶えまなく、ためいきが出て、思はず、ひとりごとのやうに呟いた。

「おれの田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやるばつてんなァ」

 その言葉が終るか終らぬかのうちに、不思議がおこつた。どこからかはげしく水の流れる音が聞えて來て、次第に近づくと、虎助の田に水がどんどん流れこみはじめた。白つぽく乾いて龜裂してゐた土はみるみる水の下になり、田は五枚とも、たつぷりと水を湛へた。しほれてゐた稻穗も息をふきかへし、いつせいに、蛙まで鳴きはじめた。

「やァ、水が入つたどう。田が生きもどつたどう」

 虎助はをどりあがつてよろこんだ。五枚の田の周圍を狂氣のやうに飛びまはり、萬歳を絶叫した。淚がぼろぼろほとばしり出た。

 百姓たらも集つて來て、虎助の田だけに急に水が入つたことを不思議がつた。他の田はどれもこれも干割れてゐて、虎助の田は沙漠の中のオアシスのやうに見えた。

「をかしなこともあるもんぢやなァ」

「この水、一體どこから來たんぢやろか」

 疑問は當然その點に落らる。虎助も加はつて水路を探してみると、虎助の田から一本太く、それは曲りくねりながらも枕川につづいてゐた。

「うい、枕川の水がひとりでに、虎助の田だけに上つて行つとるど。なんちゆう奇妙なことぢやろか」

 村民たちはいよいよ不思議がつた。

「ガラッパのしわざかも知れんど」

 と、一人の百姓がいつた。

 それを聞いて、虎助は靑くなつた。それは、いつか、彼が娘たらに話して聞かせた、九十九個の尻子玉を百個にするため、この船頭の尻子玉を披けといはれた、その船頭以上のおどろきであつたかも知れない。虎助は、さつき、田の畦で、田に水を入れてくれる者があつたら、娘を嫁にやる、と呟いたことを思ひだしたのである。虎助は恐しさでふるへだした。

 どこからか、なまぐさい一陣の風が吹いて來たと思ふと、虎助のすぐ前に、一匹の小柄な河童が姿をあらはした。

「虎助さん、あなたの田に水を入れてあげましたよ。さァ、約束どほり、娘さんを私の嫁に下さい」

 河童は慇懃(いんぎん)で、禮儀正しかつた。微笑さへ浮かべてゐた。三郎であつた。彼は虎助から自分が由緒ある四千坊の血筋を引く者であることを知らされてから、人間の女を嫁にする資格が充分あると自負してゐた。しかし、思ひあがることはいけないと考へ、仰天して口もきけないでゐる虎助に、

「三人の娘さんのうち、どなたでもよろしいです。一人を私に下さい」

 と、謙虛に、つけ加へた。

 

          五

 

 虎助の家では、沈痛な合議がはじまつた。母トヨ、娘ウメ、キク、アヤメ、自慢の幸福な家庭であつたのに、にはかに、暗澹とした空氣につつまれた。河童との約束は絶對に破ることは出來ない。河童の傳説に詳しい虎助は、河童がいたづら者の年面、すこぶる義理がたく、信義にあつい動物であることをよく知つてゐた。まして、村民たらの大勢見てゐる前で、河童と約束したのである。村人は虎助に同情するよりも、彼の田だけが潤つたことを嫉んでゐて、三人娘の一人くらゐは當然お禮として河童に進呈するのが人間の道だなどといふ始末だつた。虎助は絶對絶命である。やつと、河童に三日間の返事の猶豫(いうよ)をもらつた。無論、それは娘をやるやらぬの返事ではなく、三人のうち誰にするかを定めるためであつた。

 人ばかりよくて愚鈍な母トヨは、

「なんちゆう馬鹿な約束を、ガラッパなんかとしたもんぢやろか。阿呆たらしか。娘どもには三人とも、よか婿どんを見つけてやろて考へとつたとに、ガラッパの嫁にやるなんて、氣でも狂うたとか」

 と、泣きながら、やたらに恕つたり愚痴をいつたりするばかりで、なんの解決策も見いだすことは出來なかつた。虎助はほとほと當惑して、まづ姉の方から、口説いてみた。

「ウメ、お前、行つてくれるか?」

「お父ッあん、あたしは長女ばい。こン家を繼がにやならん責任がある。お父ッあんだつて、いつでもそぎやんいひよつたぢやなかか。あたしは養子ばもらはんならんけん、よそに嫁御に出ることはでけんたい」

「キク、お前は?」

「いやァなこと。ガラッパの嫁御なんて、考へただけでも身ぶるひがする。あぎやん化けもんの嫁になるくらゐなら、石の地藏さんと添うたがまし」

「さうか、お前たちにしちやア無理もあるまい。アヤメも同じ考へぢやろ。さう三人が三人ともいやがるなら、ガラッパに噓ば、ついたことになる。ガラッパはどぎやん仕返しをするか知れん。ガラッパの仕返しは恐しか。困つたなァ。そんなら、いつそ籤(くじ)にするか」

 それがよいと贊成する者はなかつた。籤の結果を考へると恐しいのである。すると、これまで默つてなにかを考へてゐた末娘のアヤメが、顏をあげて、

「お父ッあん、あたしがガラッパのところに、お嫁に行きませう」

 と、きつぱりした口調でいつた。

「ほんとかあァ」

 と、虎助はとびあがつた。母と二人の姉もびつくりして、末娘を見た。

 アヤメは落ちついてゐて、

「三人のうち誰かが行かんことにやア、お父ツあんが噓つきになる。姉さんがたは、どぎやんしてもいやといはすけん、あたしが行かにや仕樣ンなか。行きます。お父ッあん、枕川に行つて、三郎といふガラッパにそのことを傳へて下さい」

「お前、本氣ぢやろな?」

「本氣ですとも」

 虎助が改めて本氣かとたしかめたのは、アヤメが村の龍吉といふ靑年と戀仲になつてゐることを知つてゐたからである。そして、それを虎助も許してゐた。なぜなら、龍吉はちよつとした物持の息子で、氣立てもよく、働きもあり、男ぶりも十人前、つまり、虎助が娘たちの婿にと考へてゐた條件にぴつたり合つてゐたからだ。それなのに、河童のところに嫁入りすると斷乎として宣言したので、虎助は面くらつたのである。アヤメが行けば自分は大助かりだが、娘の眞意がわからず、娘の犧牲的精神が大きすぎて、虎助の理解をはみだしてゐたのだつた。これを知つたら、龍吉だつて默つてゐるはずはない。ガラッパと三角關係が生じて、どんな面倒がおこるかわからない。龍吉と河童と決鬪でもするやうなことになつたら大變だ。虎助は頭がこんぐらかつて、眩暈(めまひ)さへおぼえた。

「アヤメ、お前、ガラッパの嫁御になッとかァ」

 といつて、母はおいおい泣きだした。

しかし、ともかく、家族合議は終つたのである。そして、不思議なことに、一家の愁嘆のなかで、當ののアヤメだけがけろりとしてゐた。彼女は悲しむどころか、不敵な微笑さへたたへて、家族の者の眼を瞠(みは)らせた。その夜も、アヤメ一人が熟睡した。

 

          六

 

「おうい、ガラッパの三郎どうん」

 虎助は、枕川の岸に立つて大聲でどなりながら、一本の胡瓜を川に投げこんだ。

 そこには千年を經たかと思はれる大榎があつて、太い幹に張りめぐらされた七五三繩(しめなは)の御幣(ごへい)が秋風にゆらめいてゐた。小さな祠(ほこら)が樹の洞(ほらあな)に安置されてある。ここが河童との連絡場所になつてゐた。胡瓜はその合圖である。

 いつたん沈んだ胡瓜は浮きあがると、くるくると獨樂(こま)のやうに𢌞轉しはじめた。その渦のなかから、ぽつかりと三郎河童の姿があらはれ、胡瓜をつかみとると、岸へ上がつて來た。濡れた靑苔色の身健が雫をたらし、背の甲羅や、頭の皿がきらきらとガラスのやうに秋の太陽を反射してゐた。三尺にも滿たぬ體格でひどく子供つぽく、これが結婚適齡期の靑年かと疑はれるほどである。水かきのある足がびちやびちやと音を立てる。

「これは、虎助さん、ようお出で下さいました。お待ちして居りました」

「約束の返事ば、しに來たんぢや」

「で、どなたを私に下さいますか」

「末娘のアヤメをやる」

「それはありがたうございます。誰でなければならんといふ贅澤は申しません。それで、アヤメさんは、龍吉さんの方はよろしいのでせうな?」

 虎助はあきれた。河童がそんなことまで知つてゐようとは意外だつた。

「勿論、あんたにアヤメをやる以上は、龍吉の方とはいざこざがないやう、話はつけてある」

「それなら結構です。三角關係はいやですからね」

「それでは、祝言(しうげん)についての打らあはせば、しておかう。これが大切ぢや」

「河童方式でやりませうか。人間方式でやりませうか」

「アヤメば、川の底のあんたの家につれて行つてからは、河童方式でやつてもよかばつてん、川に入るまでは人間方式でやりたか」

「承知しました。妥當の案と思ひます。それでは、水面を境界にしまして、地上は人間方式、水中は河童方式と定めます。それでは、アヤメさんを花嫁として水中へ送つて下さるまでの人間方式を教へて下さい」

「こぎやん風にしたか。人間方式では、花嫁には嫁入道具がつきものぢやけん、まづ、その嫁入道具を先にあんたの方に屆ける」

「ありがたうございます」

「その嫁入道具があんたの川底の家に納まつてから、花嫁ば送りだす。あんたは、ちやんと、嫁入道具を受けとつて、家に納めたちゆう報告をしてくれにやいかん」

「仰せのとほりにします」

「嫁入道具は濡れんやうに、入れ物に入れて川に投げこむけん、川底へ引きこんでおくれ」

「わかりました」

「嫁入道具ば、ちやんと家に納めきらんやうな婿には、嫁はやられんことになつとるけん、それも承知しといてや」

「なにからなにまでの指示、感激のいたりです。それでは、アヤメさんを受けとつてからの河童方式について、ちよつと御説明申しあげておきませう。われわれ河童の習慣としまして、……」

「いや、よかよか。嫁にやつてから先のことは、なんもかんもガラッパどんだちに委せる。ええごとしてもろうて、よか。それぢやあ、明後日が大安吉日ぢやけん、その日の朝ンうらに、嫁入道具ば屆けることにする」

「お待ちして居ります」

 河童がよろこんで淚さへためてゐるのを殘して、虎助は、一散に、わが家へ歸つた。外交交渉はうまく行つたやうである。河童は人間とはくらべものにならぬはど信義にあつい動物だから、後日のための七面倒な約定書、調印などはしなくてよかつた。虎助は、しかし、なほ、結婚式當日の成果に若干の不安があつたので、まだ、心から笑つたりすることは出來なかつた。

 

          七

 

 川底では、祝ひの準備に忙殺されてゐた。三郎の思ひもかけぬ幸運を、大部分の河童たらは手放しで祝福した。これまでの河童の歷史に嘗てなかつた破天荒(はてんくわう)の痛快事といつてよい。いつぞやは美しい花嫁姿をやつかんで、花嫁の乘馬を川へ引きずりこみ、わづかに溜飮を下げたのであつたが、今度はその人間の花嫁が河童の三郎のところへ來るといふのだ。これをよろこばずして、なにをよろこぶことがあらうか。河童たらは三郎を羨むよりも、自分たち全體の光榮を感じて、みんなが心から三郎の祝典のために、努力を惜しまなかつた。河童方式による結婚式の準備は着々と整へられた。川底の淵にある三郎の家は、蓮の花、水中藻、ヒヤシンス等の花で飾られ、鮎、鮭、鮒、スッポン、鰻、泥鰌、岩魚、カマツカなどの珍味が大量に揃へられた。苔から精製した特級酒も飮みきれぬほど用意された。[やぶちゃん注:底本の行末で改頁最終行でもある「スッポン」の後には読点がないが、特異的に誤植と断じて補った。]

「祝言の日は、底拔け騷ぎをやらかすぞ」

「三郎はおれたちのホープだ」

「人間を征服した英雄だ。死んだら、胴像を建ててやらう」

「おいおい、めでたい日に死ぬことなんて、いふなよ」

「とにかく、河童界はじまつて以來の慶事だ。枕川河童族萬歳」

 もう河童たちはその日の來ぬうちから有頂天で、前景氣は盛んだつた。

 しかし、今度の結婚に多少の不安を感じる者がなくもなかつた。それは主として老人組で、まつたく異つた人間と河童との國際結婚がはたして破綻(はたん)なく續くものかどうか、自信は持てないもののやうだつた。河童は河童同志がよいのではないか。しかし、三郎自身が得意と歡喜の絶頂にあり、仲間たちもよろこんでゐるのだから、強ひて異は立てず、やはり式典の準備を手傳つた。

 ここに、一人だけ、この祝言を悲しんでゐる者があつた。トエといふ名の女河童だつた。彼女ははげしく三郎に思慕してゐたので、仲間といつしよに祝福する氣にはなれなかつた。といつても、三郎と契つてゐたわけではなく、片思ひだつたのだから、三郎を裏切者と呼ぶわけにも行かない。ひとり小さい胸がつぶれるほどに嘆いてみるだけだ。トニは悲しかつた。しかし、淚をおさへて、祝言の手傳ひはした。そして、三郎に花嫁が來たら、どこか遠くへ行かうとせつない流離の思ひにとざされてゐた。三郎がそはそはと落らつかず、ときどき、にやにやと思ひだし笑ひをしてゐるのがはがゆく、そのアヤメとかいふ人間の花嫁が二目と見られぬ醜女(しこめ)で、根性がわるく、夫婦になつても喧嘩ばかり、すぐに別れてしまふやうになればいい、などと、いつか考へてゐて、嫉妬は女のアクセケリーとはいひながら、そんなはしたない考へを抱く自分を恥ぢた。すなほに愛する三郎の幸福を祈らなければならぬと思つた。

 いよいよ、結婚式の當日がおとづれた。すがすがしい秋晴れの朝だつた。

 三郎は頭の皿を洗つて新しい水を滿たし、髮をきれいになでつけて、苔のポマードをつけた。背の甲羅も一枚づつ叮嚀に磨き、嘴もぴかぴかと光らせた。彼は、あの、眞白な綿帽子、魅惑的な角かくし、裾模樣の衣裳をつけた美しい花嫁姿が、もう眼にちらついて、心臟ははげしく高鳴りつづけだつた。虎助の三人娘のうちアヤメがもつとも器量よしであることも滿足の一つである。彼女が來たら、いたはつて幸福な家庭を作らうと思ふ。三郎はその夢の設計が樂しかつた。

 トポンと、水面で音がした。底から見ると、ガラスの天井のやうに明るい水面が波紋でくづれ、その中心に、黑い新月のやうなものが見えた。胡瓜であつた。

「合圖があつたぞ。まず嫁入道具を受けとりに行け」

 祝言實行委員長の河童が叫んだ。

「よし來た」

 河童たちは、いつせいに、水面に顏をあらはした。三郎もつづいて出た。岸に、十人ほどの人間が立つてゐる。その先登に虎助がゐた。

「ガラッパの三郎どん、さァ、嫁入道具ば渡すけん、受けとつてくれ」

 虎助のその言葉で、枕川のうへに、大きな荷物が投げこまれた。それは互大な七つの瓢簞を一つの網のなかに包んだもので、嫁入道具は濡れないやうに、それらの瓢簞の中に入れてあるらしかつた。水しぶきを立てて落ちた瓢簞はぷかぷかと波に浮いてただよつた。

「そら、引つぱりこめ」

掛け聲勇しく、河童たちは瓢簞の荷物に手をかけて、水中へ引き入れようとした。頭の皿に水さへあれば、馬でも、牛でも、トラックでも、機關車でも、戰車でも、水中へ引きこむほど強力である河童にとつては、そんな輕い七つの瓢簞など問題ではなかつた。いや問題ではないと、誰もが思つたのだ。ところが、大當てはづれだつた。容易に水中に沈まないのである。力まかせに引けば、水中へいくらか入りはするが、力をゆるめると、すぐに水面に浮きあがつてしまふ。七つの瓢簞を一つにした浮力は大きかつた。河童たらにはその原理がわからない。そこで群がりついて、なんとかして沈めようと懸命になつた。

「みんな、賴む。この嫁入道具を家まで運んでしまはなければ、花嫁は來ないんだ。もつと力を出してしつかり引つぱつてくれ」

 三部は躍起(やくき)になつて、全身の力をこめた。仲間も負けてはゐない。ありたけの力をふりしぼつた。けれども、なんとしても瓢簞は表面から十尺とは沈まなかつた。どうかしたはずみに沈んでも、また、もとへかへつてしまふ。おまけに河童の方は次第に疲れて來たが、浮力の方はすこしも衰へないので、もはや勝敗は決定したといつてよかつた。

 

          八

 

 三郎は全身が解體して行くやうな疲勞を感じながらも、なほ、瓢簞をつつんだ網から手を放さなかつた。これこそ自分の命であるといふ執念が、すでに力は拔けてしまつた腕を網にしばりつけ、機械的に、引き下げる動作をさせた。それでも、なは、彼はまだ人間から欺かれたといふことには氣づかなかつた。

「ようい。早よ嫁入道具ば持つて行かんかァ。花嫁御がつれて來られんぢやなかか。なにを愚圖々々やつとるんぢや」

 虎助は、岸から、嘲笑的に、しきりにどなつた。半信半疑であつたのに、娘アヤメの作戰どほりになつて、愉快でたまらなかつた。すべてはアヤメの智惠である。アヤメは自分が嫁に行かうといひだしたときに、この戰術が胸にあつたのだ。虎助はすべて娘に智惠を授けられて、枕川の三郎河童に緣談の打ちあはせに行つたのであつた。えらい娘だと舌を卷かずには居られなかつた。河童たちが瓢簞を引きこまうとして狼狽してゐるさまが、滑稽で仕方がなかつた。これでアヤメを河童にやらずにすんだわけである。

 虎助の背後に、龍吉がゐた。三郎はそれを見た。アヤメの戀人がアヤメの祝言の手傳ひに來てゐるのを見れば、なにかの祕密、なにかの陰謀があることに氣づかねばならないのに、正直一途の三郎にはそんな陰慘な第六感は働かなかつた。三郎はただ自分たちの非力を悟り、それを嘆いただけであつた。

「なにやつとるか。そん嫁入道具を引つこみきらんやうな者には、娘はやられんど」

 いよいよ圖に乘つて、虎助は叫んだ。

「みんな」と、遂に、三郎は、協力してくれてゐる仲間に向かつて、力弱い聲でいつた。「ありがたう。もういい。とても駄目だ。この嫁入道具は、絶對に、川底まで引いて歸ることは出來んことがわかつた。もう、あきらめる」

「さうか」

 仲間は三部を哀れに思つたが、局面を打開する方途を誰も知らなかつた。河童たちは科學に太刀打ちする力は持たない。枕川の水を遠い田へ流れこませるやうな神通力は持つてゐても、科學には齒が立たなかつた。もはや、かうなると退却のほかはない。

 瓢簞から手を放したとき、三郎は絶望とともに深い孤獨に沈んだ。眞白い綿帽子と角かくし、美しい人間の花嫁姿は、ただ幻想となつて殘つたにすぎない。七つの瓢簞は河童たちを嘲笑するやうに、さざなみのうへに、踊るやうに浮いてゐた。その黑い影は雲のやうに川底までも暗くした。土堤の人間たちは大笑かしながら、勝利の萬歳を唱へた。河童たちがすて去つた七つの瓢簞を引きよせ、また、これをかついで歸つてしまつた。

 その後に、ただ一人、龍吉だけがたたずんで、複雜な表情で枕川の水面を凝視してゐた。顏の表情がいろいろに變る。それは心内でなにかの格鬪がおこなはれてゐる證左だつた。龍吉は立ちあがつた。唇を嚙んで呟いた。

「アヤメは智惠がありすぎる。すばらしい作戰で、まんまと河童を騙くらかしてしもうた。恐しい女ぢや。あんな女と夫婦になつたら、いつ、どんな目に合はされるかもわからんど」

 獨白しながら、龍吉はなにかを決心したやうに、ゆつくりした足どりで、虎助たちとは反對の方角に步み去つた。

 川底での祝言の準備はむだにはならなかつた。人間との國際結婚を危ぶんでゐた長老は、かへつてこの破談をよろこび、トニと三郎とを夫婦にする仲人を率直に買つて出た。傷心の三郎はすぐには氣分轉換が出來なかつたが、長老の、やつぱり河童は河童同志といふ意見と、トニが長い間自分を思つてゐたといふことに動かされた。仲間たちも全部が贊成したので、急に、三郎とトニとの結婚式に肩代りをすることになつた。もはや人間方式をまつたく交へぬ純粹河童方式になつたのである。祝言と披露の宴は底拔け騷ぎになつた。

 三郎もすこしづつ座の雰圍氣に卷きこまれ、笑顏を見せるやうになつた。仲間が奇妙奇手烈な歌や踊りをやると、腹をかかへて笑つた。人間の瓢簞に敗北した鬱憤が大爆發をした。三郎も隱し藝をやりだした。川底はげらげらと雷鳴のやうな笑ひ聲で滿たされた。すると、傳説の掟の示すとほり、枕川の水面はざわめき渦卷き、急速に水量がふえはじめた。たちまち、水は土堤を越えた。

「やァ、田に水が入つたどう」

 百姓たちはよろこんだ。からからに乾いてゐ水田は水に潤された。しかし、よろこんでゐるうちに、水量はぐんぐんと增す一方で、遂に大洪水となつた。稻田の全部の穗は水面から見えなくなり、またたく間に濁流の底に沒してしまつた。

 

[やぶちゃん注:私はこのエンディングに快哉を叫ぶ。この話の基本は世界的には三人の姉妹の末の妹だけが二人の姉と異なった運命或いは試練を与えられるという「シンデレラ」型を示し、またその型の日本の典型例である「猿の聟入(むこい)り」型の異類婚姻譚を踏襲しながら、それを結末を原話類とは異なった形で美事に変形してインスパイアしてあるからである。因みに、御存じない方のために小学館の「日本大百科全書」から「猿婿入(さるむこい)り」の項を引いておくと、『爺(じじ)が、田に水を引いてくれた者に娘を嫁にやるという。猿がそれを聞き、田に水を引き、娘をもらいにくる。上の』二『人は断り、末娘が承知する。里帰りのとき、川の上に見える花を取ってくれと娘が頼む。猿は、花を取ろうとして川に落ち、おぼれて死に、娘は無事に帰る。全国的に数多く分布する昔話の一つである』(私はこの「花摘み」の前に、末妹が非常に重い「臼」と「杵」と「米」を「嫁入り道具」として指定し、それを担いだ猿が桜の花を手折ろうとして橋から川に落ちて溺れ死ぬという話として本話を知っている。所持する岩波文庫の関敬吾編の「日本の昔ばなし(Ⅰ)」によれば、爺さんが嫁にやると約束して猿が手伝うのは「牛蒡掘り」(フロイト的には面白い)であり、しかもそれはまさにこのロケーションと近い「熊本県阿蘇郡」の採話なのである)『不特定の人に、一定の条件を果たしたら娘を嫁にやろうと約束するという発端の形式は、婿を異類とする婚姻譚の特色で、「犬婿入り」「蛇(へび)婿入り」などにもみられる日本の信仰で』(中略。ここを省略するのは、その解説者のここでの解説に私は微妙に違和感を感じるからである)、『蛇は水の霊の姿であるが、猿を水の霊として描いた伝説も少なくない。『古事記』に猿田毘古(さるたひこ)が海水におぼれたとあるのもその一例である。「猿婿入り」の猿も、水の霊の姿であろう。「蛇婿入り」には、ひさごを持って嫁に行き、ひさごを沈めることができたら嫁になろうといって蛇を試す例もある。「猿婿入り」の臼は、「蛇婿入り」のひさごに相当する。ひさごを沈めることができるかどうかで、水の神の霊力を試す話は、すでに『日本書紀』仁徳(にんとく)紀に』二『例もみえている。「猿婿入り」は、田に水を引く水の霊を、人間がひさごの力で征服し、水田経営を無事に進めるという宗教的な物語が昔話化したものであろう』とある(下線は私が引いた)。この「猿」=「蛇」=「水神」という説は、零落した「水神」としての「河童」にこそ相応しいと言えよう。

 ともかくも、私はこの「猿の聟入り」を幼少の頃に読んだ時、実は激しい生理的嫌悪感を抱いたのである。何も悪いことをしていない猿があまりに可哀想だったからである。私は私に子があったら、絶対にこの話は読ませない。智恵を以って誠意を以って対処した相手を殺害するこんな忌まわしい話は読ませたくない。大人になってから、岩波文庫で読んでも、不快感は幼少期にも増して増幅した。

 私は「猿の聟入り」の末の妹が激しく嫌いである!

 言いようもなく、恐ろしい女ではないか?!

 龍吉の最後の態度と「アヤメは智惠がありすぎる。すばらしい作戰で、まんまと河童を騙くらかしてしもうた。恐しい女ぢや。あんな女と夫婦になつたら、いつ、どんな目に合はされるかもわからんど」という台詞、そしてその土地を去って行く後ろ姿にこそ、私は激しく共感する。

北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)

 

    其七(しち)

 

Ooyutotuomataonsen

 

[やぶちゃん注:崑崙の自筆画。しかし、どうもこの配置は理解し難い遠望する駒ヶ岳の位置から、グーグル・マップ・データのこの地域(ほぼ中央に大湯と栃尾又を配した)を南北逆様にした位置から南東向きで描いたとしか思えないのであるが、そうすると、大湯の位置と栃尾又の位置がどうも解せない(一つ考えた私の解釈があるが、それは後注を参照されたい)。「白蓋山」も現行の地図にはなく、駒ヶ岳の描き方の違いからは大湯の背後(東北)にあるピークと読めるから、これは現在の「津久しの岐山」かその奥の「鼓が倉山」であろうとは思われる。因みに「白蓋山」は恐らく「しろぶたやま」ではなく「びゃくがいさん」であろうと思われる。「白蓋」とは神道に於いて神殿の天井に寺院の天蓋のように配してその下に神降ろしをするための結界のような装置を言う。]

 

 新發田(しばた)より東北、加治(かぢ)、中条(ちうぢやう)の間、路(みち)の傍(かたはら)、田の中に、庚申塚あり。塚の上に、大尺五寸ばかりなる圓(まろ)き石を鎭(ちん)して是を祭る。此石、その先(さき)、農夫、屋後(おくご)の竹林(ちくりん)を掃除して、竹の根を穿(うが)つに、かの石一ツを得(う)。その色、青黑(せいこく)、甚だ滑らかなり。農夫、是を以つて藁を打(うつ)盤(ばん)となす。其夜、家婦(かふ)、庭に出(いづ)るに、光(ひかり)ありて燦然たり。婦人、魑魅(ちみ)なりとして驚き叫ぶ。家主(あるじ)、若者、三、五人を伴ひ來りて、光る物を打(うつ)に、石なり。皆、以(もつて)、怪なりとして其石を竹林に捨(すつ)。猶、その石、夜々(やゝ)光ありて、村中の老若(らうにやく)、恐れて、夜(よる)行(ゆく)者、なし。依(よつ)て是を庚申塚に祭り、上に泥を塗りて光を隱す。今、猶、苔蒸して荒埃(くはうあい)たり。其地に到り、村老に乞ふて、かの石を求(もとめ)んとすれども、其祟りあらんことを恐れて許さず。又、相似たる一奇あり。前に擧ぐる佐奈志(さなし)川と云へるは駒ヶ嶽の梺(ふもと)、大湯村(おほゆむら)と、栃尾俣村(とちをまたむら)の間(あいだ)にして、山間の淸流、數(す)十里を巡り、その源(みなもと)、尋ぬべからざるがごとし。栃尾俣の温泉は西岸にありて、村を離(はな)るゝこと、十町ばかり。深き林の中に湯小屋(ゆごやを)掛け、いかにも物凄きさまなれば、入浴(たうし)の人も今は稀れにして、只、大湯より合(あは)せ湯に通(かよ)ふばかりなるがごとし。大湯は村中(むらうち)にありて、百數(す)十人を浴(よく)すべし。是(これ)、熱(ねつ)の湯なり。又、川岸に瀧の湯あり。是は冷(ひへ)なり。熱は疝氣(せんき)・頭痛・打身・癪氣(しやくき)を治(ぢ)し、冷(ひへ)は疥癬濕瘡(ひぜんしつさう)を治す。即(すなはち)、農家に入浴(たうぢ)の人を宿(やど)し、さらに不自由なること、なし。繁花(はんくわ)と云ふにはあらざれども、閑淸(かんせい)にして、景色(けいしよく)、俗ならず。此川中(かはなか)に、一とせ、夏の渇水せし頃、水中(すいちう)、一点の光ありて、仄(ほの)かに見ゆ。初めは螢なんどの水上(すいしよう)に止(とゞま)るかと見へしが、數日(すじつ)にして、所を移さず。如ㇾ此(かくのごとき)こと、十余日。一日、夕立の雨に、洪水、俄(にはか)に至り、終(つゐ)に、その光を失(しつ)す。其後(そのゝち)、五、六丁、川下に、水中(すいちう)、又、一点の光ありて、朧々(ろうろう)と眞夜(しんや)の星のごとし。樵夫の輩(ともがら)、只、是を怪しむのみにして、又、尋ね求(もとむ)るの心、なし。惜むべし、其秋、又、洪水、俄に至り、遂に、其所在を失すと言(いへ)り。これらの事、皆、山中(さんちう)正愚(せいぐ)の輩(ともがら)、此話をなすが故に敢へて疑ふべきにもあらず。只、がごとき好事の客(かく)、いまだ如ㇾ此(かくのごとき)奇を見得(みえ)ざるに、誠(まこと)に無貪夜識金銀氣(むさぼることなく きんぎきを しる)と、是、わが輩(ともがら)の不幸と云ふべきのみ。

 

[やぶちゃん注:「新發田(しばた)より東北、加治(かぢ)、中条(ちうぢやう)の間」この附近ではないか?(グーグル・マップ・データ) ここは現在の「新発田」市内で、「新発田」市街地外の「東北」に当たり、中央に羽越本線「加治」駅があり、南位置にある郵便局などの施設名が「加治」を含む呼称であり、その南から北西に流れる川が加治川、その右岸の「加治」駅から真西の位置に「向中条」という地名を見出せるからである。

「庚申塚」私は若き日から好んで探索してきたもので旧知のものあるが(太字は私のオリジナルな補注である)、若い人のためにウィキの「庚申塔」を引いておく。『庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を』三年十八回『続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる』。『庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜』、『寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通し眠らないで』、『天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である』(伝播当初から仏教・神道及び豊饒と性神を祀る相対道祖神や塞(さえ)の神のような土着神や行路神との習合が急速に進み、江戸時代は他の有象無象の講中と同様、経済扶助意識の共有や親睦目的のための徹夜宴会が中心となり、庚申信仰のここに書かれてあるような本質はとうに失われていたと考えた方がよい)。『庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛』(しょうめんこんごう:実際、彩色図などでは顔が青く塗られる。ここで「仏教では」と言っているが、実際にはこの庚申信仰の影響下で造形・形象された本邦の仏教思想の中で、「三尸の虫を押さえつける尊神」として拵えた夜叉神の一人に過ぎない。その形相や持ち物は明王像(特に軍荼利(ぐんだり)明王)に非常によく似ている)『とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに、塞神として建立されることもあり、村の境目に建立されることもあった』(本来の十干十二支は純粋な順列記号であって、「申」から「猿」は単なる連想による勝手な派生ハイブリッド習合(何でもかんでも現世利益となり、しかも自在に対応出来る人間にとって都合のよい神仏集合体)でしかない)。因みに、湘南地区で一見しておいてよいものは、江ノ島奥津宮手前の階段脇にある江戸中期に建立された三十六匹もの猿が浮き彫りにされた多彩な群猿奉賽像庚申塔である。未見の方は、是非、お勧めである。

「尺五寸」三十二センチメートル弱。

「鎭(ちん)して是を祭る」神霊を鎮めるように置き配してこれを祀っている。

「その先(さき)」その昔。

「魑魅(ちみ)」魑魅魍魎。訓ずると「すだま・こだま」で、元来はアニマチズム(animatism)的な崇拝・畏敬対象であった、山林・溪谷・木石・生物の精霊とされる「物の怪」の類いであるが、ここは「化け物」でよかろう。

「荒埃(くはうあい)」荒れ果てて埃まみれであること。

「前に擧ぐる」其四(木葉石)

「佐奈志(さなし)川」新潟県魚沼地方を流れる信濃川支流の魚野川のそのまた支流である佐梨川。駒ヶ岳を水源とし、全長約十八キロメートル。挿絵の注のグーグル・マップ・データ或いは以下のそれを参照。

「駒ヶ嶽」越後駒ヶ岳。新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る。標高二千三メートル。

「大湯村(おほゆむら)」新潟県魚沼市大湯温泉。(グーグル・マップ・データ)。

「栃尾俣村」佐梨川の大湯温泉の、上流直近にある魚沼市大湯温泉栃尾又。栃尾又温泉がある。なお、正式な住所は大湯もここも魚沼市上折立のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「栃尾俣の温泉は西岸にありて、村を離(はな)るゝこと、十町ばかり」「十町」は約九百八十二メートルで、現在の大湯温泉地区の南端と現在の栃尾又温泉との実測距離と完全に合致するところが、「栃尾俣の温泉は西岸」ではなく、佐梨川の東岸である。一つ考えたのは、挿絵の「栃尾俣の温泉」の位置の不審である。この挿絵の通りなら、確かに「栃尾俣の温泉」は佐梨川の西側にあると読めるからである。そこで一つの解釈であるが、「栃尾俣」の名称は川が分岐していることを指すとすれば、実は現在の栃尾又温泉のあるのは佐梨川から南東に分岐した「栃尾又沢」の奥だという点である。実はかつてはこの「栃尾俣の温泉」はこの佐梨川と栃尾又沢の分岐点付近にあったのではないか? それが佐梨川を渡渉した西岸の、現在の「大湯温泉カタクリ群生地」(グーグル・マップ・データ))の南の先、先の川の分岐点の少し南位置にあったとすると、実測値がやはり概ね「十町」と一致するのである。その痕跡でも少しここに残っていたらなぁ。大方の御叱正を俟つものではある。

「合(あは)せ湯」違った泉質の湯に合わせて浸かって湯治することであろう。現在の大湯温泉の泉質はナトリウム - 塩化物泉(同地区内で泉質の違うものがある)であるのに対し、栃尾又温泉は天然ラジウム温泉(含有量日本第二位)で異なる。

「川岸に瀧の湯あり」不詳。現在の大湯温泉には佐梨川に近い「荒瀬の湯」「川原の湯」とも)はあるが、孰れも熱いから違う(特に「荒瀬の湯」は源泉温度が五十三・八度と超弩級に高い)。

「疝氣(せんき)」「癪氣(しやくき)」は合わせて「疝積(せんしゃく)」とも呼び、近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷(けつれい)シテ臍ヲ繞(めぐ)リテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍(つ)キ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、津村淙庵の「譚海」(寛政七(一七九五)年自序)の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫(さかむし)」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである)。

「疥癬濕瘡(ひぜんしつさう)」所謂、疥癬(かいせん)のこと。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニ属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ Sarcoptes scabiei var. hominis が寄生することによって起こる皮膚感染症。本種はヒトにのみ限定的に寄生し、ヒトの皮膚角層内にトンネル状の巣穴を掘って棲息する。主症状は激烈な痒みで、初期には指間部・手首及び肘の屈曲面・腋窩の襞・ベルトに沿ったウエストライン・殿部下方等に紅色の丘疹が現れる。この丘疹は体の如何なる部位にも拡大可能であるが、通常、成人では顔面に出現することはない。ヒゼンダニの形成するトンネルは微細な波状を成し、やや鱗状の屑を伴う細い線として認められ、その長さは数ミリメートルから一センチメートル程度で、一方の端にはしばしば小さな黒い点(ヒゼンダニ本体)を認め得る(病態については万有製薬の「メルクマニュアル」の「疥癬」の記載を参照した)。

「繁花(はんくわ)」繁華。繁盛。

「閑淸(かんせい)」閑静。清閑。

「五、六丁」五百四十六~六百五十四メートル。

「朧々(ろうろう)と」ぼんやりとしておぼろげなさま。

「眞夜(しんや)」野島出版版では『春(しゆん)夜』と判読するが、私は原典をかく判読「無貪夜識金銀氣(むさぼることなく きんぎんきを しる)」杜甫の七律「題張氏隱居」 (張氏の隱居に題す)」の五句目、「不貪夜識金銀氣」(貪(むさぼ)らずして 夜(よ) 金銀の氣を識(し)り)の引用。「不貪して」は全く心から無欲であるから(こそ逆に)。「金銀の氣を識り」土中に埋蔵されている金銀から立ち昇るその高雅なる気を自然に感じることが出来る。]

2017/08/17

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 行夜(へひりむし)


Heppirimusi

へひりむし  負盤 氣蠜

       ※盤蟲

行夜

       俗云※蟲

ヒン ヱヽ

[やぶちゃん注:「※」=「尸」の下の中に「氣」。]

 

本綱行夜蟲有短翅飛不遠好夜中行人觸之卽氣出此

與蜚蠊形狀相類但有廉薑氣味者爲蜚蠊觸之氣出者

爲氣蠜今小兒呼※盤蟲

△按行夜卽※蟲與蜚蠊不相類其頭黃背黒而有黃文

 尻扁大觸之則※有音有煙甚臭

 

 

へひりむし  負盤 氣蠜〔(きばん)〕

       ※盤蟲

行夜

       俗に「※蟲(へひりむし)」と云ふ。

ヒン ヱヽ

[やぶちゃん注:「※」=「尸」の下の中に「氣」。音は不詳なので読みは示せない。]

 

「本綱」、行夜蟲は、短翅有り、飛〔(とぶ)〕こと、遠からず。夜中を好みて、行く。人、之れに觸〔(ふる)〕るときには、卽ち、氣、出づ。此と蜚蠊(あぶらむし)と、形狀、相〔(あひ)〕類す。但し、廉薑〔(れんきやう)〕の氣味有る者を蜚蠊と爲〔(な)す〕。之れに觸れて、氣、出〔(いづ)〕る者、氣蠜と爲〔(な)す〕。小兒、今、「※盤蟲(へひり〔むし〕)」と呼ぶ。

△按ずるに、行夜は、卽ち、※蟲〔(へひりむし)〕。蜚蠊(あぶらむし)と相〔(あひ)〕類せず。其の頭、黃、背、黒くして黃文有り、尻、扁〔(ひらた)〕く大〔なり〕。之れに觸〔(ふる)〕れば、則ち、※(へひ)る音(をと)有り、煙〔(けぶり)〕有り、甚だ臭し。

 

[やぶちゃん注:一応、鞘翅(甲虫)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ホソクビゴミムシ科 Pheropsophus 属ミイデラゴミムシ Pheropsophus jessoensis 或いは、その近縁種としておく。ウィキの「ミイデラゴミムシ」によれば、所謂、屁放り虫(へっぴりむし)と呼ばれるものの代表格である。こうした悪臭物質を尾部から噴射するものは、他のゴミムシ類と呼ばれるオサムシ類(ゴミムシ(塵虫・芥虫)はオサムシ上科オサムシ科 Carabidae、或いはこれに近縁な科の類の中から、特に目立って独自呼称で呼ばれる種等を除いた雑多な種群の総称で、この総名称は彼らの摂餌対象となる小昆虫の多いごみ溜めで、これらの甲虫がよく見かけられるためと考えられている)の多くの種に見られるものの、このミイデラゴミムシのようなホソクビゴミムシ科 Brachinidae の種群は、多くが『音を発し、激しく吹き出すことで特に目を引く』(下線やぶちゃん。以下も同じ)とあり、また、附図の背部の斑紋及び良安の解説からみても、かく同定してよいかと思われる。以下、ウィキより引くと(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『成虫の体は黄色で褐色の斑紋があり、鞘翅に縦の筋が九条あるほとんどのゴミムシ類が黒を基調とする単色系の体色である中で、数少ない派手な色を持ち、また、比較的大柄(一・六センチメートルほど)であるため、かなり目立つ存在である。捕まえようとすると』、『腹部後端より派手な音を立てて刺激臭のあるガスを噴出する。日本列島内の分布は北海道から奄美大島まで。大陸では中国と朝鮮半島に分布する』。『湿潤な平地を好む。成虫は夜行性で、昼間は湿った石の下などで休息する。夜間に徘徊して他の小昆虫など様々な動物質を摂食する。死肉も食べ、水田周辺で腐肉トラップを仕掛けると採集されるが、腐敗の激しいものは好まず、誘引されない』。『これに対して、幼虫の食性は極めて偏っている。一齢幼虫は体長二・三~二・八ミリメートルと小型で』、『歩行能力に富み、ケラ』(直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpidae のケラ類。本邦のそれはGryllotalpa属ケラ Gryllotalpa orientalis。附言しておくと、本ミイデラゴミムシは以下に見る通り、ケラの卵塊を食べて成長するという限定的な寄生性のライフ・サイクルを持つ。従って、現在、ケラの減少とともに本種も減少している)『の巣穴の中に形成された土製の卵室の壁を破って進入し、そこで卵塊を摂食しながら成長する。卵塊をばらして一齢幼虫に与えても摂取せず、土中にある壊れていない卵室への侵入が成長には必須となる。絶食にも強く、何も食べずに二十三日程度は生存する。多くのオサムシ上科の昆虫と同様三齢が終齢幼虫であるが、二齢幼虫と三齢幼虫はこの寄生的な生活に適応し、足が短く退化したウジ状の姿であり、三齢幼虫で体長十五・五ミリメートルほどになる。産卵期は六月中旬から七月下旬にかけてで、他のゴミムシ類に比べるとかなり小さな卵をしばしば卵塊の形で産む』。『こうした他の昆虫の卵塊や蛹を捕食寄生的に摂取して幼虫が成長するのはホソクビゴミムシ科全体の特徴と見られ、北米ではミズスマシ』(オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae)『のような水生甲虫、ヨーロッパではマルガタゴミムシ類』(オサムシ上科オサムシ科マルガタゴミムシ亜科 Zabrinae)『のような他のゴミムシ類の蛹に捕食寄生して育つものが知られるが、日本産のホソクビゴミムシ科』の『昆虫で宿主が判明しているのはミイデラゴミムシのみである』。尤も、『普通種のオオホソクビゴミムシ』(オサムシ科 Brachinus属ホソクビゴミムシ亜科オオホソクビゴミムシ Brachinus scotomedes:本邦産種。ミイデラゴミムシ同様、強烈なガスを噴射する。本邦には同属の六種が棲息する)『ですら、実験室内の産卵にも成功していない』とあるから、実はそのライフ・サイクル自体が未だ解明されていないということらしい)。

以下、「ガスの噴出」の項。『他のホソクビゴミムシ科のゴミムシ類と同様、外敵からの攻撃を受けると、過酸化水素とヒドロキノン』(過酸化水素と同様に強力な漂白作用を持つフェノール)『の反応によって生成した、主として水蒸気とベンゾキノンから成る摂氏百度以上にも達する気体を爆発的に噴射する。この高温の気体は尾端の方向を変えることで様々な方向に噴射でき、攻撃を受けた方向に自在に吹きかけることができる。このガスは高温で外敵の、例えばカエルの口の内部に火傷を負わせるのみならず、キノン類はタンパク質と化学反応を起こし、これと結合する性質があるため、外敵の粘膜や皮膚の組織を化学的にも侵す。人間が指でつまんでこの高温のガスを皮膚に浴びせられると、火傷まではいかないが、皮膚の角質のタンパク質とベンゾキノンが反応して褐色の染みができ、悪臭が染み付く』。このように、『敵に対して悪臭のあるガスなどを吹きつけることと、ガスの噴出のときに鳴る「ぷっ」という音とから、ヘッピリムシ(屁放り虫)と呼ばれる』。以下、「反進化論」の項。『主に創造論者らによる反進化論の証拠として、この仲間の昆虫のもつガス噴出能力が取り上げられることがある。その論は、「このような高温のガスを噴出できる能力は、非常に特殊な噴出機構がなければ不可能であるし、そのような噴出機構は、このようなガスの製造能力がなければ無意味である。つまり、少なくとも二通りの進化が同時に起こらなければならず、このようなことは突然変異のような偶然に頼る既成の進化論では説明が不可能だ」というものである』。『それに対しての反論は以下の通りとなる』。『特殊な噴出機構がなくても単に「少し熱い」ガスでも十分に役に立つし、実際に北米大陸には非常に原始的な噴射装置と混合装置を』「ヘッピリムシ」の一種である『Metrius contractus (ホソクビゴミムシ科』Brachinidae。但し、『多くの北米の研究者らはオサムシ科に含める)が知られている。このような種の存在からも』、『漸進的な噴射装置と混合装置の進化は可能であることが推定でき、ホソクビゴミムシ類の噴射装置を反進化論の証拠とするのは適当ではない』。また、ヒゲブトオサムシ科 Paussidae『(アリのコロニーに寄生する種を多く含む群であり、これも北米の研究者らの多くはオサムシ科に含める』。本邦にも四種の棲息が確認されている『)にも同様に噴射装置を持つものがあるため、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類が同じ系統に属すると考える研究者もいる。その場合噴射装置はこのグループの進化の途上でただ一度だけ獲得されたものであり、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類共通の祖先から受け継がれたものであることになる。それに対し、ホソクビゴミムシ類とヒゲブトオサムシ類は多少なりとも縁遠く、その噴射能力はそれぞれの系統で別個に進化・獲得されたものだと考える研究者もいる。もし後者の論が正しければ、噴射能力の獲得は生物進化においてそれほどまれではない現象ということになる』とある。

 なお、「ミイデラゴミムシ」は「三井寺芥虫」であるが、この名の由来については、個人サイト「MatsumaRoom」の「ミイデラゴミムシは何故"ミイデラ"ゴミムシというの?」で説得力のある話が克明に記されている。詳しくはそちらを是非、参照されたいが、滋賀県立琵琶湖博物館の八尋克郎氏の仮説で、一つは滋賀県大津市の三井寺円満院にあった「放屁合戦」の鳥羽絵が由来とするもの、今一つは三井寺に伝わる伝承「弁慶の引き摺り鐘」のその響きを、この虫の「おなら」の音に重ね合わせたのではないか、とするものである。後者の「弁慶の引き摺り鐘」伝説は「三井寺」公式サイト内のこちらで解説されてある。それによれば、この鐘は現存し、『当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされ』、承平年間(九三一年~九三八年)にかの『田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられ』るものであるが、『後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると』、その鐘の音が「いのー、いのー」『関西弁で帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったとい』ういわくつきの鐘だとされ、『鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残ってい』るとある(リンク先には鐘の画像がある)。なかなか面白い考察である。

 最後に。その「悪臭」とはどんな臭さなのか? 肌に附着した場合、どうなるのか?

 私は体験したことがないので調べて見たところ、実験(!)した方の記載と画像・動画(!)まで揃ったものをサイト「デイリーポータルZ」で発見した! 平坂高温・有毒のオナラを浴びてきたがそれ!! 虫嫌いはもとより、皮膚変色の画像もあるのでくれぐれもクリックは自己責任で!!!! それによれば、臭気の方はというと、平坂氏はそのあまりの熱さなどの『インパクトの強い現象が多すぎて忘れていた』が、『あー、まあそれなりに臭いな』とされ、『変色した指先を鼻にあて』がって『思い切り嗅ぐと、確かに独特の臭気を感じる。ちょっと正露丸のそれに近いか』と記されておられる。クレオソートの臭いに近いらしい。好んで嗅ぎたくは、確かに、ないな。

 

後の「盤蟲(へひり〔むし〕)」とともに「屁(へ)ひり虫」で、「屁(へ)っぴり虫」のこと。

 

「飛〔(とぶ)〕こと、遠からず」遠くまで飛ぶことは出来ない。

「夜中を好みて、行く」先に注の引用にある通り、ミイデラゴミムシの成虫は夜行性である(下線部参照)。

「蜚蠊(あぶらむし)」昆虫綱網翅上目ゴキブリ目 Blattodea に属するもののうち、シロアリ科 Termitidae を除く、多様なゴキブリ類を指す。「蜚蠊の私の注を参照されたい。

「形狀、相〔(あひ)〕類す」いや。昆虫嫌いの私が見ても、これ、全然、似てないよ。ゴミにたかる点では似ているけどね。良安先生の「蜚蠊(あぶらむし)と相〔(あひ)〕類せず」と言うのには大いに同感。

「廉薑〔(れんきやう)〕」東洋文庫版訳の割注には『薑に似た香気の強い草』とある。「廉薑」は生姜(しょうが:単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale)のことであるが、どうもピンとこない。調べてみると、江戸後期の岩崎灌園(いわさきかんえん 天明六年(一七八六)年~天保一三(一八四二)年:小野蘭山の弟子)の著わした「本草圖譜」(文政一一(一八二八)年完成)の(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に「廉薑」があり、そこには和名で「ガンゼキラン」とある。この和名が正確なら、

単子葉植物綱ラン目ラン科ガンゼキラン属ガンゼキラン Phaius flavus

である。「岩石蘭」で球茎がごつごつして堅く、長く残ることに由来する和名らしい。大きな黄色花をつけるというが、蘭の類は花は美しいものの、多くは芳香は放たない。岩崎の記載によれば、根は唐辛子のように辛いが食用になり、よい香りで山葵(わさび)に似ている、とあるから、それか? しかし、ゴキブリはそんな匂いは、せんぜ?

盤蟲(へひり〔むし〕)」屁(へ)ひり虫。

「之れに觸〔(ふる)〕れば、則ち、(へひ)る音(をと)有り、煙〔(けぶり)〕有り、甚だ臭し」良安は本当に自分で実験してみたのかな? 強烈な熱さを言ってないのは大いに不審である。実は単なる人聞きなのか、それともミイデラゴミムシでないからなのか?]

北越奇談 巻之三 玉石 其六(蛇崩れ海中の怪光石)

 

    其六

 

 出雲崎の南(みなみ)、勝海(かつみ)と云へる所、先年、海岸の絶壁、崩れ、蛟竜(こうりやう)出(いで)て、海に入(いる)。名付(なづけ)て「蛇崩(じやくづ)れ」と云ふ。其後(そののち)、村老(そんろう)五左衞門と云へる者、一夜(いちや)出(いで)て海上(かいしよう)を望み見るに、山のなだれ落(おち)たる所、水底(すいてい)に光(ひかり)ありて、波上(はしよう)に月影(げつえい)を見るがごとし。村老、怪(あやしみ)て、夜々(やゝ)、是を試(こゝろむ)るに、猶、燦然(さんぜん)たり。即(すなはち)、勇壯の若者に命じて舟を漕寄(こぎよせ)、光につきて水底を潛(くゞ)り、尋ね求むるに、一塊(いつくはい)の白石(はくせき)あり。是を得て、家に歸れば、即、水上(すいしよう)の光、不ㇾ見(みへず)。此石、夜々(よゝ)、猶、照ㇾ席(せきをてらす)。見る人、市(いち)を成す。縣令(けんれい)、これを聞(きゝ)て、下官(げくわん)に命じて借りて見んことを欲す。村老、辭すること能(あた)はず。終(つゐ)に是を獻じて、東武に至る。後(のち)三年にして反(かへす)。其玉(ぎよく)石、已に、光、失(しつ)して、なし。今、猶、其家(いへ)、是を藏(かく)すと雖も、不ㇾ堪弄玩(らうぐはんにたへず)、實(じつ)に惜(おし)むべし。

[やぶちゃん注:「勝海」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見。(グーグル・マップ・データ)。

「蛟竜(こうりやう)」登蛇(とうだ)に既出既注。かく記す以上、暗にこの石を龍に付属する霊石としての「龍の玉」だと言いたいわけである。

「蛇崩(じやくづ)れ」奇」の「其二 燃水(もゆるみづ)」に「上蛇崩(かみじやくづれ)」として既出既注であるが、再掲する。現在の勝見地区に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。位置はマッピン・データのこちらで確認されたい。今回、グーグル・ストリートビューで見たが、遠望と推定される。それらしい山体(尾根)ではある。

「光につきて」海底の発光するその光の筋(方向)に従って、発行源に向けて。

「水上(すいしよう)の光、不ㇾ見(みへず)」海上に見えていた発光は見えなくなっていた。言わずもがなであるが、この石がその怪光現象の原因であったことの明示。

「照ㇾ席(せきをてらす)」「席」は会所で石を置いてある接待用(後で門前市を成すことから)の居間、大広間の意ととっておく。

「縣令(けんれい)」律令制に於いて国司の下にあって郡を統治した地方官である「郡司(ぐんじ)」の異称。ここは江戸時代の諸藩にあった天領(幕府直轄地)の行政に当たった代官のこと。江戸時代の出雲崎は佐渡からの金銀を荷揚げする港町であったことから天領であった。まさにこの蛇崩れ附近の東北のごく直近の出雲崎町尼瀬に代官所がある(グーグル・マップ・データ)。

「東武」江戸。

「藏(かく)す」所蔵する。

「不ㇾ堪弄玩(らうぐはんにたへず)」最早、不思議な光りを失ってしまっているため、観賞するに堪えるものではなくなってしまっている。]

今日の「青空文庫」の公開作である高見順の随筆「かなしみ」を読み易くしてみる

今日の「青空文庫」の公開作は高見順の随筆「かなしみ」であった。

私は高見淳が好きだが、これは初めて読んだ。しかし実に、佳品であった。最後の部分が自ずと、ジジーンと、きた。原文は改行なしの一段で読点が禁欲的でちょっと今時の若者には読み難いようだから、恣意的に改行と読点代わりに字空けを施して以下に示す。若い読者向けに私の注を入れた。読みは歴史的仮名遣で示した。

   *

 赤羽の方へ話をしに行つた日は 白つぽい春の埃が中空に舞ひ漂つてゐる日であつたが、その帰りに省線電車の長い席の いちばん端に 私が腰掛けて 向うの窓のそとの チカチカ光る空気に ぼんやり眼をやつてゐるといふと、上中里か田端だつたかで、幼な子を背負つた ひとりの若い女が入つてきて 手には更に 滅法ふくらんだ風呂敷をさげてをつた。

そこで 席を譲つた私であつたが、このごろ 幼な子となると この私としたことが、きまつて おのが細頸を捩ぢ曲げたり 或は長い頸をば 一層のばしたりしてまで その幼な子の顔をのぞいて さうして そのあどけなさをば、マア言つてみりや 蜂が騒々しく花の蜜を盗むみたいに なんとなく 心に吸ひ取り集めないでは ゐられないのであつたから、そのときも その幼な子に 遽しく[やぶちゃん注:「あはただしく」。]眼を向けたことは言ふまでも無いのだ。

どうやら 眼が見え出してから やつと一二月位にしかならないと察せられるその子は、眼と眼とのあひだの まだ隆起のはつきりしない鼻の上ンところに、インキのやうな 鮮やかな色合ひの青筋を見せてゐて、そのせゐもあるんだらうが、総じて脾弱な感じで 顔色も こつちの主観からだけでなく 病弱の蒼さと見られ、さういふ子には なほのこと 親ならぬ私ながら いとしさが唆られる[やぶちゃん注:「そそられる」。]のである。

ところが その親の若い女なんだが、これはまた どうして 骨太の おつとやそつとでは[やぶちゃん注:現在の「ちょっとやそっと」に同じい。] 死にさうもない体格の 牛みたいなやうな女で、そして さういふ女に有り勝ちの 眼暈[やぶちゃん注:ママ。「めまひ」(眩暈)と訓じていよう。]を催させるやうな色彩と柄の それにペカペカと安つぽく光るところの着物を着てゐる。

その背中で 小さな頼りない幼な子は キョトンとした青つぽい眼を あらぬ方に放つてゐたが、するうちに 何を見つけたか、弱さうな子でも やはりくびれは出来てゐる その頸を 精一杯うしろに曲げて、それは全く もやしの茎が ポキント 儚く[やぶちゃん注:「はかなく」。]折れるやうに 今にも折れはしないかと ハラハラする位に 無理に のけぞらせて、一心に何かを瞠め出したものだ。

何か横の 上の方にあるものに 幼な子は大変な興味を惹かれて了つたらしいのだ。

瞬きもせず瞠めてゐるのだつた、[やぶちゃん注:読点はママ。]

すぐその無理な恰好が苦しくなるのだらう、首を前に戻すのだが、その戻すのが戻すといつた式のものでなく ガクッと 首を前に倒す、いいえ、ぶつつけ ぶつ倒すのだ。

さうして 鼻をペチャンコに潰したまま 母親の襟に顔を埋め、しばらくは さうして フーフーと 息をついてゐる。

この幼な子にとつて 仰向いて瞠める[やぶちゃん注:「みつめる」。]のは それこそ 大変な労苦であることを それは ありありと語つてゐた。

と また 首を持ちあげ 頸を折るみたいにして 仰向く[やぶちゃん注:「あふむく」(あおむく)。]のであつた。

さうして再びガクッとやる。

はて 何が一体そんなにまで 幼な子の心を強く捕へたのか

と 私は心穏かでなく 幼な子の視線を辿るといふと、席の横に ひとりの背の低い青年が立つてゐて その男の顔を瞠めてゐることが分つた。

さりながら その顔は 至つてありきたりの雑作[やぶちゃん注:「ざふさく」(ぞうさく)。顔立ち。]であつて 別に不思議な顔といふのではなかつた。

けれど 如何にも不思議さうに 幼な子は見入つてゐる といふことを 青年は夙に[やぶちゃん注:「つとに」。とっくに。先(せん)から。]気づいてゐたらしく、青年らしい羞恥と困惑を押へ隠して さりげない風を敢へて装つてゐる表情であつたが、ここでまた 私の吟味的な視線を 面皰[やぶちゃん注:「にきび」。]の吹き出た頬に感じると、もはや我慢がならぬ といつた如くに 苦虫を噛み潰したやうな顔をした。

と その瞬間、私は ああさうだ と ひそかに合点をした。青年は セルロイド製の黒いふちの眼鏡を掛けてゐた。

たしかに その眼鏡に 幼な子は惹かれたのであるらしい。

軈て[やぶちゃん注:「やがて」。] 幼な子は小さな手まで上へ頼りなげに差しのべはじめたが、その手の動きも 私の推測の誤りでないらしいことを告げてゐると私はした。[やぶちゃん注:「した」はママ。「察した」の謂いか。]

幼な子の 春の芽のやうな 可愛い手は 然し[やぶちゃん注:「しかし」。] 充分にあがらず、空間を模索的に動かしてゐるうち 青年の洋服の袖をとらへた。

すると、この、幼児を身辺に持つたことのないらしい青年は すつかり照れて、冗談ぢやないよ といつた風に すげなく、だが さう あらはに 引つこめるのも大人気ない といつた様子で 静かに 手をひくと 同時に 幼な子は 例の ガクッと やる やり方で顔を伏せた。

丁度 そのとき 電車は駅に入り、青年は降りて了つた。

そして 又 電車が動き出すと その動揺に促された如くに 幼な子は やをら 首を挙げて 不思議な眼鏡を観察すべく 上を見たはいいが、さあ大変、大事な眼鏡は消え失せてゐる。

今まで ちやんと あつたものが あッといふ間に なくなるとは 信じ難い、さういつた眼を 幼な子は ムキになつて向けてゐたが、やがて なんとも いひやうのない哀しい顔付をしたとおもふと、それはすぐ無慙な歪んだ顔に成り、ヒーヒーと泣き出した。

その泣き声が、抗議的な爆発的な叫喚的なものならいいんだが、いかにも弱々しい低い 絶え入るやうな哀しいものであつたのも 私の心を ひとしほ 苦しめた。

若い母親は、ああ よしよし と言つて 背中をゆすぶり、その体躯にふさはしい 勇ましい振り方をするもので、幼な子はガクンガクンと首をがくつかせて そして 泣きつづける。

泣きつづけるので 母親は、ああよしよし、もうすぐだよ、上野に着いたらやるからネ と言って[#「言って」はママ][やぶちゃん注:この注は「青空文庫」の入力者によるもの。] 自分の人差指を 幼な子の口に突き込んだのであつたが、どうやら それは おしやぶり代りに当てがふ積りらしく、幼な子の泣き出した事情も 遣る瀬ないそのかなしみも 知らない母親は 一図に 幼な子が空腹から泣いたもの と解したのであらう。

幼な子は そんな汚いおしやぶりは拒否したけれど、荒いゆすぶりに脳震蕩気味に成つたのか 連続的に泣くのは控へて 時々泣く泣き方に移つて行つた。

その頃は私も さう ジロジロ見るのは悪いやうな気がして 心ならずも ソッポを向いてゐたのだが、やはり どうも 気になつて さりげなく横目でのぞくと、幼な子の顎の下にあるべき涎掛けが ずれてゐて 涎が母親の晴着の襟を汚してゐる。

これはいけないと 直してあげようとしかけたとき 女は隣りにゐる 草色のズボンをはいて 上はシャツだけの 若い男に話し掛け、その言葉は そのまだまるで若い男が[やぶちゃん注:「まだ」はママ。「そのまるで」(およそ父親とは見えない)「まだ」(未婚のような)「若い男」の謂いか。] どうも 幼な子の父親であるらしいことを 私に知らしめ、さうなるといふと 私のしようとすることなどは 当然 その若い父親のすべきことであり、それを 男を さておいて 私がすることは 何か恥をかかせることに成る恐れがある といふことを 私に知らしめた。

そこで 私はやめたのだが、然し、その若い父親は 泣きじやくる幼な子に てんで眼を呉れようとはしないだけでなく、うるさい幼な子の存在に腹を立ててさへゐるかのやうな顔を ツンと 横に向けてゐる。

さうして 襟は汚されるままで、言ひかへると 幼な子は そのかなしみを遂に察して貰へず、一向に顧られない[やぶちゃん注:「かへりみられない」。]ままで いつか 上野へ着いて、さて 私は これが最後だ と 別れの挨拶を 幼な子にかけようとするみたいな想ひで 改めて 眼をやるといふと、幼な子は 母親の濡れた襟に ぴたりと頬をくつつけて、何か 自分から諦めた そんな安らかさで 眼をつぶつて、そして 自分の下唇を 口のなかに食ひ込ませ 乳の出ないそんなものを チクチクと しきりに吸つてゐるのであつた。

幼な子のかなしみが、いや、かなしみとは 常に かういふものなのであらう、――かなしみが ジーンと 私の胸に来た。幼な子が車内から去つた ずつとあとも 私の心には 深いかなしみが残されてゐた。それは 幼な子へのあはれみ といふのでなく、いつか 私自身のかなしみ といふのに 成つてゐた。

   *

2017/08/16

北越奇談 巻之三 玉石 其五(靑石)

 

    其五

 

Kobunjisugi

 

[やぶちゃん注:橘崑崙茂世の自筆画。]

 

 蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)、里見氏(さとみうぢ)の庭前(にてぜん)に、老(ふるき)杉十圍(かかへ)なるもの、あり。枝々(しゝ)、四隣(しりん)に茂り掩(おほ)ふて、庭中(ていちう)、常に陰(かげる)。主人、甚だ、是を憎む。一日、僕に命じて伐(きら)しむるに、中(うち)、少し朽ちて空(うつぼ)也。以(もつて)、板(いた)に挽分(ひきわく)るに、土際(つちぎは)八尺ほど上(あが)りて、鋸(のこぎり)の齒の缺損(かけそん)じ、切斷すること不ㇾ能(あたはざる)所、あり。終(つゐ)に斧(おの)を以つて打割(うちわ)り見たるに、大さ、鞠(まり)の如くなる靑石(あをいし)ありて、甚だ重し。僕の云(いふ)、

「是を火打石にせば、よからん。」

と。木挽(こびき)、即(すなはち)、大斧(たいふ)を以(もつて)是を碎(くだ)く。忽(たちまち)、金石(きんせき)の響きを成して兩斷となる。中(うち)、自然に丸(まる)く、空所ありて、清水、傾き出づ。人々、後悔すれども不ㇾ及(およばず)。

 可レ憐(あはれむべし)、卞和(べんわ)氏なきことを。是等のもの、良工に命じて琢磨せば、必(かならず)、明珠なるべきか。可惜(おしむべし)々々。

 今、はた、是に似たるものあり。言傳(いひつた)ふ、

「源平の昔、五十嵐小文治と云へる者、勇力(ゆうりき)の聞(きこ)へありて、即(すなはち)、三条五十嵐川の水上(みなかみ)、矢木峰(やぎがみね)、流(ながれ)に臨んで絶壁勝地あり。此流(ながれ)に續きて、五十嵐の神社、古木大杉(こぼくたいさん)、多し。一日、小文治、此所(このところ)に至り、『己(おのれ)が力量を試(こゝろみ)ん』と大石(たいせき)をもつて此杉に打付(うちつけ)たるが、石、即、杉の中腹に止(とゞま)りて、落ちず。今、猶、是を見るに、其杉、根本より一丈ばかり上にして、石の大、三尺(じやく)もあらんか、靑色(あをいろ)に長し。中々、人力(じんりき)の及ぶべきとは見へず。」トソ

 是、又、一奇と稱すべし。

[やぶちゃん注:トソ。」の部分は原典の「ず」の左下に小さく明らかに見える何かの文字のようなものをかく判じたものであって、野島出版版にはない。「とぞ」と読むと、きりがいいのである。或いは「ト云」(といふ)かも知れぬ。大方の御叱正を俟つ。

「蒲原郡(かんばらごほり)茨曽根村(いばらそねむら)」現在の新潟県新潟市南区茨曽根附近と考えてよい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「十圍(かかへ)」身体尺の比呂(ひろ:両腕幅)であるとすれば、約十五メートルであるが、ちょっと太過ぎる。

「八尺」二メートル四十二センチ。

「卞和(べんわ)氏」春秋時代の楚(そ)の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが、信じて貰えず、逆に嘘をついたとして左足を切断される刑を受けた。次の武王のときにもやはり献じたが、ただの石だとされて、今度は右足を斬られてしまった。その後、文王が位に就いた折り、これを磨かせてみると、はたして確かに優れた宝玉であったことから、この玉を「和氏(かし)の璧(へき)」と称した。後に趙の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が欲しがり、十五の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。こうした故事から名品の宝玉を広く「卞和(べんか)氏の璧(へき/たま)」と呼ぶようになった。

「五十嵐小文治」野島出版脚注に『鎌倉時代源頼朝の臣。名は扶昌』(「もとまさ」と読むか)『封十一万石、山形県南村山郡西郷村高松』(現在は上山(かみのやま)市内)の館跡はその『遺跡で、自然石の古墳は発龍沢山の麓にある』とあるのだが、この注、地名が現在のものと照応せず、場所がよく判らぬ。或いは最後のそれは現在の山形県上山市川口にある龍沢山(りゅうたくざん)川口寺(かわぐちじ)のことか?(ここ(グーグル・マップ・データ)) さらに同注は「吾妻鏡」に『小豊治となって居る。建保元』(一二一三)年五月二日に『和田義盛』が『挙兵』して、『北條義時を攻[やぶちゃん注:底本「改」。誤植と断じて訂した。]めた時、その軍』(北条軍)と激『戦して討ち死にしたという』とあるのであるが、まず、この注の中の「小豊治」は「小豊次」の誤りである。「吾妻鏡」の建暦三年(後の同年十二月六日に建保に改元)五月小二日の朝夷名(あさいな)三郎義秀の奮戦を語る条の頭に(前後を略す。太字下線は私が附した。人名の読みは所持する貴志正造氏の「全譯 吾妻鏡」第三巻(昭和五二(一九七七)年新人物往来社刊)に拠った)、

   *

就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死。所謂、五十嵐小豐次。葛貫三郎盛重。新野左近將監景直。禮羽蓮乘以下數輩被害。

   *

就中(なかんづく)に義秀、猛威を振ひ、壯力を彰(あら)はすこと、既に以つて神のごとし。彼に敵するの軍士等(ら)、死を免(まぬか)るること、無し。所謂、五十嵐小豊次(いがらしこぶんじ)、葛貫(くずぬき)三郎盛重、新野左近將監景直、禮羽蓮乘、以下の數輩、害せらる。

   *

彼の名はここと、五月六日の戦後の味方の討たれた名簿の中に出るだけである。

ところが、である!

現地新潟では、この人物伝説上のかなりの有名人らしいのである!

 まず、個人ブログ「地域神話の風景とフィールド」の五十嵐小文治の伝説:新潟編①をご覧戴きたい。それによれば、『五十嵐小文治は現在の三条市にある旧下田村を中心に活躍したと伝えられる豪族で、文献においては、鎌倉時代から戦国時代にかけて五十嵐川流域に勢力を持った、一族と考えられてい』るとあり、『その五十嵐小文治の誕生にまつわる伝承が、この地域では、まだ語られてい』るとして、以下の伝説が記されてある。

   《引用開始》

「五十嵐川の上流のある村に美しい娘がいた。両親は一人娘のことで目に入れても足りない程大事に育てていた。だんだん娘も年頃になって来たので、よい聟でも探そうと思っていると、いつからともなく娘に忍び寄った若い立派な男があった。男は夜になると必ず娘の処へ来て、暁方に出て行った。それを知った母親は大変心配して、ある日娘に向かって「毎晩お前を訪ねて来る男は何処の何という者だ」と聞いた。しかし娘もその男が何処の誰だかを少しも知っていなかった。それで母親は娘に向かって、今夜尋ねて来たら男の着物の小褄にそっと糸を付けた針を差してやってみよと教えた。娘はその夜、教えられた通りにした。明朝になって娘が糸をたどって行くと、その糸はいんないの淵で尽きていた。娘が不思議に思いながら淵の端に立っていると水の中から、その男の姿が現れて「お前の腹には俺の子供が宿っているから、形見と思って大事に育ててくれ」といって消えた。大蛇は針の毒に当たって命を落としたのである。娘が生み落とした子供は腋の下に三枚のうろこが着いていた。大きくなって五十嵐小文治と名乗って、四十五人力といふ無双の豪傑となり、当時越後の国を荒し廻った黒島兵衛という怪賊を平らげて、勇名を馳せた。小文治が力試しに投げた石が今でも五十嵐神社の杉の大木に挟まっている(上写真)[やぶちゃん注:リンク先にまさにその画像あり!]」(文野白駒『加無波良夜譚』玄久社、1932162163頁より)。

   《引用終了》

『この大蛇と地域の女性との間に生まれた子供が、地域を開発し支配した豪族である、との伝承は、典型的な神話の語り口で』あるとされる。ブログ主は実際に当地を訪問探査されて、まず「いんないの淵」を探され、『五十嵐川の上流に「院内」という集落があって、その淵であることが』判明(やはりリンク先に写真有り)、その他にも調べるうち、「八木山下の淵」という伝承があることが判り、これも「八木鼻」(以下で私が発見した)という場所であることが判ったとあるのである。

 次に、しばしばお世話になっているサイト「龍学」内にも五十嵐小文治を発見した。そこではみずうみ書房『日本伝説大系3』からの引用で、『昔、笠堀の村の村長甚右衛門の娘のもとに、若い男が訪ねて来て褄重ねをする。男は夜毎通うが、名を名乗らず、所も告げぬ。ある夜、娘は男が帰る時に男の裾に針を刺し、夜明けにその糸をたよりに尋ねて行く』。『八木山下の川の淵に着くと中から苦しそうな声がする。覗いて見ると大蛇がいる。大蛇がいうには、毎晩通っていたのはこの俺だが、昨夜思わずも針を刺され、今は死ぬほかはない。お前の家は末長く守る、といい残して大浪を立てて姿を消す』。『その後、村長の家には腋の下に三枚の鱗が生えた男の子が生まれて当主になる。南北朝時代の勤王家五十嵐小文治が、その子孫だという。(『日本伝説集』)』となっている(こちらの小文治は時代が少し下っている。リンク先の考証はより深くこの「龍」伝承をディグしているので、是非、読まれたい)。

 また、「新潟小学校校長会」公式サイト内にある、三条飯田小学校署名ってい「五十嵐」姓発祥の地 五十嵐神社には、この「五十嵐」という姓はまさに、この新潟県三条市飯田(旧下田村)の「五十嵐神社」がルーツであるとあり(『これほどルーツがはっきりしている姓は珍しいそう』だともある)、この神社は第十一代垂仁天皇の第八皇子五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)を祭神とし、五十日帯日子命は四世紀中頃に越の国の開拓を任されて治水・農耕の技術を広め、『飯田宮沢の地で生涯を閉じ、舞鶴の丘に葬られたと』され、『この人物が、五十嵐一族の始祖』であると記す(神社本殿右手には五十日帯日子命の陵墓が建つとある)。以下、

   《引用開始》

 「五十嵐」とは、「伊賀多良志(いからし)」「伊賀良志(いがらし)」とも記され、農民の理想と希う「五風十雨(ごふうじゅうう)の天候の好順」を表す意と伝えられ、地域一帯を潤して流れる清流の五十嵐川の名称もこれに由来しています。 その後、「五十嵐・伊賀良志」神社が建立され、約700年後の大化の改新によってお墨付きを与えられ、五十嵐一族が宮司となります。さらに、約400年後、鎌倉幕府の御家人となって、五十嵐氏が地頭としてこの地を治めることになります。

五十嵐小文治伝説

 神社の鳥居から拝殿までの間にある大杉木(おおすぎぼく)の幹に石がめり込んでいます。これは、豪勇・五十嵐小文治吉辰が投げたものと言い伝えられています。五十嵐小文治吉辰は、鎌倉幕府将軍源頼朝の御家人でした。五十嵐館から大石を投げたら400メートルも飛んで、杉木に当たり、めり込んだという言い伝えです。真偽はともかくとして、この石の効果で五十嵐神社は、安産祈願の神社にもなっています。 大杉木の反対側には、五十嵐小文治吉辰の墓があります。歴代当主が小文治を名乗ったらしいので、いつの時代に建立したのかは不明です。山形県上山市にも領主開祖として、五十嵐小文治の碑があります。1201 年に越後から移ったという記録が残されていますが、たくさんの小文治がいるため人物を特定することはできません。

   《引用終了》

とある。

 さて極め付けは、『五十嵐姓の由来・歴史について考えるサイト』と名打つ「Igarashi's origin」の五十嵐神社を巡るである。我々はそこでガラス越しながら、食い込を見ることが出来、五十嵐文治も拝めるのである。

「五十嵐川」以下の「五十嵐の神社」のグーグル・マップ・データの南西に流れる。

「矢木峰(やぎがみね)」五十嵐神社からかなりの東南(七キロメートル強)であるが、五十嵐川上流に「八木鼻」という景勝地があり、その東の「院内」地区には「八木神社」を見出せた((グーグル・マップ・データ))。これだッツ!! グーグル・ストリートビュの「鼻」よ!!!

「五十嵐の神社」現在の新潟県三条市飯田に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「一丈」三メートル三センチ。

「三尺」約九十一センチ。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蜚蠊(あぶらむし)


Aburamusi

あぶらむし 石薑  虛

      茶婆蟲 滑蟲

蜚蠊

      香娘子 負盤

      【和名豆乃無之

フイレン  俗云油蟲】

 

本綱蜚蠊人家壁間竈下極多甚者聚至千百身似蠶蛾

腹背俱赤兩翅能飛喜燈火光其氣甚臭其屎尤甚又好

以清旦食稻花日出則散【蜚蠊行夜蟲此三蟲螽,並呼爲負盤同名而異類】

△按蜚蠊多生古竈間大五六分有翅不能飛但跛行也

 最進赤褐而其氣也色也如油故俗名油蟲夜竄晝出

 甚者數百爲群挾卵於尾行喜飯其所在遺黒屎以

 汚物與蠅同可憎者或有純白者共好着油紙故用古

 傘俟集於裏取棄也易死易活雖躙殺未損頭輙活

[やぶちゃん注:ここに上から下まで縱罫。]

五噐嚙【五木加布里】 是乃油蟲之老者而不甚多但造麹室

 中多有之大一二寸氣色共似油蟲而能飛毎在庖厨

 竄于飯噐中夜則出掠燈火竊食飯粥嚙損飯噐故名

避油蟲法 用青蒿莖葉挿于竃間則絶

 

 

あぶらむし 石薑〔(せつきやう)〕

      虛〔(きよひ)〕

      茶婆蟲〔(さばちゆう)〕

      滑蟲〔(かつちゆう)〕

蜚蠊

      香娘子〔(かうじやうし)〕

      負盤〔(ふばん)〕

フイレン  【和名、「豆乃無之〔(づのむし)〕」。俗に「油蟲」と云ふ。】

 

「本綱」、蜚蠊は人家壁の間、竈(かまど)の下に、極めて多し。甚だしきは、聚〔(あつまり)〕て千百に至る。身は蠶蛾〔(かひこが)〕に似、腹・背、俱に赤し。兩〔(ふた)〕つの翅〔(はね)〕ありて能く飛ぶ。燈火の光を喜び、其の氣(かざ)、甚だ臭〔(くさ)〕し。其の屎(くそ)、尤〔(もつとも)〕甚だし。又、好んで以〔つて〕清旦〔(せいたん)〕にして稻の花を食ふ。日、出るときは、則ち、散ず【「蜚蠊〔(ひれん)〕」・「行夜〔(かうや)〕」・「蟲螽〔(ちゆうしゆう)〕」、此の三蟲、並呼〔(へいこ)〕して「負盤」と爲〔(せ)るも〕、同名にして而〔(しか)も〕異類なり】。

△按ずるに、蜚蠊、多く古き竈の間に生ず。大いさ、五、六分〔(ぶ)〕、翅有りて、能く〔は〕飛ばず。但し、跛(は)ひ行くことや、最も進(はや)し。赤褐にして、其の氣(かざ)や、色や、油のごとし。故に俗に「油蟲」と名づく。夜は竄(かく)れて、晝(〔ひ〕る)、出〔づ〕。甚だしきは、數百、群を爲し、卵を尾に挾(はさ)み行(あり)き、喜して飯を〔(す)〕ふ。其の所在、黒〔き〕屎〔(くそ)〕を遺(の)こす〔を〕以〔つて〕物を汚(けが)す。蠅と同じく憎むべき者なり。或いは純白なる者、有り。共に好〔(よ)〕く油紙〔(あぶらがみ)〕に着〔(つ)〕く。故に古〔き〕傘〔(からかさ)〕を用ひて、裏〔(うち)〕に集まるを俟〔(ま)〕ちて、取り棄つなり。死に易〔(やす)〕く、活(いきかへ)り易し。躙(にじ)り殺すと雖も、未だ頭を損せ〔ずんば〕、輙〔(すなは)〕ち、活〔(いきかへ)れり〕。

[やぶちゃん注:ここに上から下まで縱罫。]

五噐嚙(ごきかぶり)【五木加布里。】 是れ、乃〔(すなは)〕ち油蟲の老する者にして甚だ〔は〕多からず。但し、造麹室(かうじむろ)の中に多く、之れ、有り。大いさ、一、二寸、氣〔(かざ)〕・色〔(いろ)〕共に油蟲に似て、能く飛ぶ。毎〔(つね)〕に庖厨〔(はうちゆう)〕に在りて、飯噐の中に竄(かく)る。夜は則ち出でて、燈火を掠(かす)め、飯〔(めし)〕・粥〔(かゆ)〕を竊(ぬす)み食ひ、飯噐〔(はんき)〕を嚙〔(かじ)り〕損〔(そん)〕す。故に名づく。

油蟲を避くる法 青蒿(せいかう)の莖〔の〕葉を用ひて、竃の間に挿(さ)すときは、則ち、絶ふ。

 

[やぶちゃん注:昆虫綱網翅上目ゴキブリ目 Blattodea に属するもののうち、シロアリ科 Termitidae を除く、多様なゴキブリ類を指す。但し、ウィキの「ゴキブリ」によれば、『カマキリ目と合わせて網翅目(Dictyoptera)を置き、Blattodeaをその下のゴキブリ亜目とする事があるが、その場合、ゴキブリは『シロアリ以外』の『ゴキブリ亜目』となる、とある。大きさこそ異なるが(化石種にはかなり大きものがまま見られる)、彼らは古生代石炭紀に出現し、今日まで実に三億年もの時間を、殆んど、その生理的器官的な構造や形状を変えずにドライヴしてきた、「生きている化石」と称してよい生物である。現生種は熱帯を中心として全世界に約四千種棲息するとされ、その内、本邦では南日本を中心に約五十種ほど(朝比奈(一九九一年)によれば五十二種七亜種)が知られる。世界中に棲息しているゴキブリの個体総数は一兆四千八百五十三億匹ともいわれており(二〇一六年現在の地球上のヒトの個体総数は七十三億人)、日本には二百三十六億匹が棲息するものと推定されている。本邦で一般によく見かける種は(解説は主にウィキの「ゴキブリ」に拠ったが、侵入年代は信頼出来る他の複数のネット記載(学術論文も含む)を検討して述べた)、

ゴキブリ亜目ゴキブリ科ゴキブリ亜科ゴキブリ属ヤマトゴキブリ Periplaneta japonica

日本在来種。本州東部で多く見られ、本来は棲息しなかった北海道にも、近年、南西部に人為的侵入が認められている。体長は二~三センチメートルほどで、はクロゴキブリ(後述)と似るが、は翅が短く、飛翔出来ない。主に森林帯に棲息するが、は人家内にも飛んで来る。寿命は成虫になって百五十日ほど。)

オオゴキブリ亜目チャバネゴキブリ科チャバネゴキブリ亜科チャバネゴキブリ属チャバネゴキブリ Blattella germanica

外来種。体長約一・五センチメートルの小型種。艶のある黄褐色を呈し、胸部に二本の太く黒い帯を有する。全世界の建造物内に広汎に分布するが、比較的、寒さに弱く、人家よりもビルなどの恒常的に温度の安定した場所を好む。飛翔することは出来ない。寿命はヤマトゴキブリと同じく成虫になってからは百五十日ほど。本邦への侵入時期は外来種のゴキブリ類では一番早く、ほぼ江戸中期頃と考えられている。歴史的には「江戸中期」とは概ね慶安四(一六五一)年(第三代将軍徳川家光が没して家綱の治世となった)から延享二(一七四五)年(同年九月二十五日に第八代将軍吉宗が将軍職を長男家重に譲った)を指す。本書「和漢三才圖會」の成立は正徳二(一七一二)年頃であるから、良安の身近にいたかどうかというとなかなか難しいものがある。ただ、良安の評言部の冒頭の記載のゴキブリの記載の体長及びうまく飛べないとするところは本種をやや臭わせるものとは言えるが、或いはそれは、飛翔出来ないヤマトゴキブリのを指しているとも読み取れる。)

ゴキブリ属クロゴキブリ Periplaneta fuliginosa

外来種。体長三センチメートルほどで、体は艶のある黒褐色を呈し、関東地方以南の西日本では前のチャバネゴキブリとともに、よく見かけられる種であるが、北日本では少ない。成虫になってからの寿命は約二百日ほど。本邦へは十八世紀前半に南西諸島に上陸したと考えられており、以後、島伝いに分布を北上させたと考えられている。本書「和漢三才圖會」の成立時期から考えて、良安の身近にはいなかったと考えてよい。)

ゴキブリ属ワモンゴキブリ Periplaneta americana

外来種。クロゴキブリに似るがさらに大型で、体長は四センチメートルを越える。全身に色が明るく、胸部に黄色い輪の模様を持つ。極めて活発でよく飛び、攻撃的である。沖縄でよく見られるが、九州以北でも温泉街などの暖かい所に侵入している例が認められている。成虫になってからの寿命は百日から五百日ほどで長生きする部類に属する。以上から、良安の身近にはいない。)

である。以上から考えると、少なくとも良安の叙述はヤマトゴキブリの及びその幼体・脱皮体(後述)及び大型個体と考えておいたほうが無難と思われる。

 良安の記載は、既に江戸時代にして忌み嫌われていた様子がありありと感じられるが、「本草綱目」の「蜚蠊」(蟲部・蟲之三・化生類)では、「氣味」で「鹹、寒、有毒」とし、「辛辣而臭」などと記すものの、「主治」には、

   *

瘀血症堅寒熱、破積聚、喉咽閉、寒無子【「本經」】。通利血脈【「別錄」】。

食之下氣【蘇恭】。

   *

と薬効を記し、「發明」の部にも、

   *

時珍曰、徐之才「藥對」云、「立夏之日、蜚蠊先生、爲人參、茯苓使、主腹中七節、保神守中。則西南夷食之亦有謂也。」。又、「呉普本草」載神農云、「主婦人症堅寒熱、尤爲有。」。

   *

と食用や効能について記してある。現在でも中国では漢方生薬として乾燥させたゴキブリ(主にゴキブリ科ゴキブリ亜科 Eupolyphaga 属シナゴキブリ Eupolyphaga sinensis、又はオオゴキブリ(ブラベルスゴキブリ)科マダラゴキブリ亜科サツマゴキブリ属サツマゴキブリ Opistoplatia orientalis の成虫全個体の乾燥品)を「䗪虫(しゃちゅう)」と呼んで用いている。

 シナゴキブリは中国全土に分布し、クチクラ層が厚く、一見、甲虫のように見え、現地ではスッポン(鼈)に似ているとして「地鼈虫」「土鼈虫」と呼ばれている。

 サツマゴキブリは本邦にも棲息し、ウィキの「ゴキブリ」によれば、四国地方・九州南部(宮崎県・鹿児島県及び熊本県の一部)・南西諸島と伊豆諸島南部(ここは人為分布)に分布するが、近年、本州南部からも発見例があり、分布拡大や定着の可能性がある。人家に侵入することはなく、朽ち木の中や落ち葉・空き地に置かれた古いベニヤ板や石の下を居住空間とする。体長は三センチメートル前後で、体は黒褐色だが、胸部が黄白色を呈し、腹部は赤褐色で縁取られている。翅が鱗状に退化しているため、『見た目は「三葉虫の出来損ない」といった感じであり、裏返した際に見える頭部によりゴキブリであることが分かる』とある。「漢方生薬辞典」のこちらによれば、中国ではごく普通に見られるゴキブリの一種で、まさに薬用として各地で飼育もされているという。先のシナゴキブリと同じように「金辺土鼈」とも呼ばれているという。

 以下、その「漢方生薬辞典」から引くと、『成分にはd-ガラクトサミンなどが含まれ、肝障害抑制作用などが報告されている。漢方では水蛭・虻虫と同様の強い駆瘀血薬のひとつで、活血・化瘀・消癥の効能があり、婦人の無月経や産後の腹痛、腹部腫瘤、打撲傷に用いる』。『産後の腹痛や瘀血による月経閉止には大黄・桃仁と配合する(下瘀血湯)。腹部の腫瘤や無月経、皮膚の甲錯には水蛭・虻虫などと配合する(大黄しゃ虫丸)。骨折や捻挫には骨砕補・続断などと配合する(接骨号方)。ただし、流産の恐れがあるので妊婦には使用しない』とある。他の漢方サイトを見ても、概ね、ここに書かれた効能と同じ内容が書かれてある。但し、本邦ではこれは処方として認められていない。後注「同名にして而〔(しか)も〕異類なり」も参照のこと。

「豆乃無之〔(づのむし)〕」「日本国語大辞典」によれば、「角虫」と漢字を当て、第一義にゴキブリの古名と記し、例として、「本草和名」から、

『蜚蠊〈略〉和名阿久多牟之 一名都乃牟之』

を引く。この「阿久多牟之」は「芥虫」で食べ残しなどを含んだ塵芥中にいる虫の謂いであろう。次に、「和名抄」(二十巻本)から、

『蜚蠊 本草云蜚蠊〈菲廉二音〉一名蠦蜰〈音肥 豆之無之〉』

とある。この「角虫」はゴキブリの長い触角を指しているように思われる

「蠶蛾〔(かひこが)〕」カイコガ科カイコガ亜科カイコガ属カイコガ Bombyx mori

「其の氣(かざ)、甚だ臭〔(くさ)〕し」ゴキブリ類は一般に臭いと言われるが、近年までその彼らが体表から分泌する臭い臭いの成分がなんであるかは知られていなかった。ところが、それは何と! 殺菌作用のあるフェノールやクレゾールであったのである! 衛生害虫として忌み嫌われて彼らは自分自身の身体を消毒して身を守ってきたのあった。だからこそ三億年を生き永らえて来たのだとも言えるのである。なお、序でに彼らの飢餓への生命力の強さも指摘しておくと、研究者の実験では、チャバネゴキブリのケースで、水さえあれば四十五日生きていたという記録があり、何も摂餌をしないでも二週間以上生きられるとされる。ワモンゴキブリのケースでは水のみで九十日間、水も摂餌物も与えなくても約四十日生きたという。これは体内に有する白い液状代謝物である「脂肪体」に窒素や栄養分を蓄えており、水や摂餌物が無くなっても、暫くの間は、その脂肪体を使って生き延びることが出来るのである。

「其の屎(くそ)、尤〔(もつとも)〕甚だし」実際にチャバネゴキブリの糞はかなり臭う。

「好んで以〔つて〕清旦〔(せいたん)〕にして稻の花を食ふ」「旦」は原典は「且」であるが、訓読不能なので、「本草綱目」原典に従って「旦」とした。東洋文庫版現代語訳では、『好んですがすがしい朝に稲の花を食べ』と訳す。しかし、どうもこの「稻の花を食ふ」というのはよく判らぬ。「本草綱目」では「集解」の終りの方に、

   *

羅願云、「此物好以淸旦食稻花、日出則散也。

   *

と出るのだが? 中国のゴキブリは稲の花を摂餌するんだろうか? 識者の御教授を乞う。

「行夜〔(かうや)〕」次項が「行夜」で、和訓を「へひりむし」とする。ここでは甲虫目オサムシ上科ホソクビゴミムシ科 Pheropsophus 属ミイデラゴミムシ Pheropsophus jessoensis に比定しておく。

「蟲螽〔(ちゆうしゆう)〕」東洋文庫訳では割注で『いなご』とする。この七項目後が「𧑉螽」と書いて「いなご」と和訓している。ここでは直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ類としておく。

「此の三蟲、並呼〔(へいこ)〕して「負盤」と爲〔(せ)るも〕」この三種の昆虫を孰れも「負盤」と呼称しているけれども。本書の次項の「行夜」には異名として「負盤」を挙げている。後の「𧑉螽」では異名として「負盤」が挙がっている。次注参照。

「同名にして而〔(しか)も〕異類なり」「本草綱目」では『時珍曰、蜚蠊、行夜、螽三種、西南夷皆食之、混呼爲負盤』となっているから、𧑉螽も負盤と呼び、三種をこの一名で混称していたらしい。ゴキブリを食うというのを良安が出さなかったのは、心情的には理解出来る。ウィキの「ゴキブリ」の「食用・薬用」によれば(注記号を省略した)、『ほぼ全世界(日本、中華人民共和国、ベトナム、タイ王国、ナイジェリア、カメルーン、コンゴ、メキシコ、ブラジル、イギリス)の一部地域もしくは先住民族によって、広く食用として利用されてきた歴史がある。ただし、甲虫類やバッタ類、ハチ類などと比べれば、ゴキブリを食べる地域やその消費量は少ないといえる。清潔な環境下で育成すれば臭みも少なく、種類によっては可食部も大きい。卵鞘も揚げて食べたり酒に漬けたりできる。調理法は食人口の多さから極めて多岐に亘るが、東アジアでは油揚げが一般的である。ゴキブリの唐揚げを食べた人の話によれば、食味はシバエビに似ており、食べられない味ではないとのことだが、少なくとも日本では一般にゲテモノ料理の扱いとされる。またこれらの食べ方は食用種や野生種の話であり、一般家庭の台所などから見つかる個体は有害物質の生物濃縮が進んでいる危険性が高く、食用するのは不適切である。ゴキブリを口にした人間や犬猫は、ゴキブリを中間宿主とする条虫に寄生される場合も有る』。『民間療法では地域ごとに様々な効能が謳われているが、迷信が殆どである。「金匱要略(きんきようりゃく)」によればサツマゴキブリやシナゴキブリの雌は血行促進作用を持つものとして漢方薬の一つに扱われている。また、これらの薬効は日本の薬局方では認められていないが、シナゴキブリの乾燥品は漢方薬として入手が容易である』とある。ただ、この混称を考えると、この時珍の言う、「西南の夷、皆、之れを食ふ」とするのを「螽」(いなご)ととるならば、これはちっともおかしなことではない

「五、六分〔(ぶ)〕」一・五~一・八センチメートル。

「跛(は)ひ行くことや、最も進(はや)し」「這って動くことに関しては、これ、なんともはや! 非常に速い!」で、この「や」は詠嘆の間投助詞である。

「其の氣(かざ)や、色や、油のごとし」この「や」は単に事物を列挙する際に使う副助詞ともとれるが、前の間投助詞の用法が明らかに影響を与えており、「生き物のくせに、その臭いや、色やは、なんとまあ! 油にそっくりなのである!」というニュアンスが伝わってくる。

「竄(かく)れて」隠れて。

「卵を尾に挾(はさ)み行(あり)き」これは恐らく、孵化直前までが堅固な巾着のようなカプセル状の卵鞘(らんしょう)を尾端につけているチャバネゴキブリと思われる。クロゴキブリやヤマトゴキブリなどでは卵鞘ごと直ちに産み落とされるからである。

「喜して飯を〔(す)〕ふ」嬉々として飯を吸い食らう。

「或いは純白なる者、有り」当初、私はてっきりアルビノ(白化)個体のことであろうと思っていたのだが、実はゴキブリは成虫になるまでに七回ほど脱皮をし、しかも、脱皮直後のゴキブリの色は白く、約二十四時間後に変色して黒くなるとあった! 脱皮直後の個体は外敵に弱く、通常は物陰に隠れているためにそうした普通に存在する「白いゴキブリ」を見ることは滅多にないとあったゴキブリ駆除を主とした害虫駆除会社「クックローチ」の優れたゴキブリ解説サイトのこちらに拠った。リンク先には何と! ゴキブリの脱皮動画や白いゴキブリの画像もあるので、クリックはくれぐれも自己責任で!!! しかし、白いそれは確かにあんまり気持ち悪くないかも!?!)。

「油紙〔(あぶらがみ)〕」当時、防水用にひいたのは食用油でもあった荏油(えごまあぶら:シソ目シソ科シソ属エゴマ Perilla frutescens の種子から絞ったもの)や同じく食用の菜種油(アブラナ目アブラナ科アブラナ属ラパ変種アブラナ Brassica rapa var. nippo-oleifera であったから、その塗布した油の臭いを嗅ぎつけてゴキブリが嘗めにきた(或いは和紙ごと齧りにきた)には違いあるまい。

「裏〔(うち)〕」内側。

「俟〔(ま)〕ちて」待って。

「造麹室(かうじむろ)」三字へのルビ。酒・醤油・味醂などの醸造に用いるための麹(こうじ:「糀」とも書く。「醸立(かむたち)」の略である「かむち」の音変化したもの)を作る室(むろ:物を保存・育成するために外気を防ぐように作った部屋)。米・麦・大豆などを蒸して中で寝かせてコウジカビ(ここでは菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱ユーロチウム目マユハキタケ科コウジカビ属 Aspergillus に属する一群の内、ヒト病原性を持たない種群)の菌糸を繁殖生育させたものが「麹」である。

「一、二寸」三~六センチメートル。

「氣・色共に油蟲に似て、能く飛ぶ」有意に大きく、飛ぶ以上は、ヤマトゴキブリのと考えてよかろう。

「庖厨〔(はうちゆう)〕」台所。

「燈火を掠(かす)め」ゴキブリは基本的には負の走光性を持つから、ここの「掠め」は寧ろ、「灯火の光りの射さない暗い箇所を偸むように狙ってこつそりと侵入し」ととった方がしっくりくるように思われる。

「青蒿(せいかう)」キク目キク科キク亜科キク連ヨモギ属カワラニンジンArtemisia apiacea。別名ノニンジン。属名で判る通り、蓬(よもぎ:ヨモギ属変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の仲間である。現在、本邦にも分布する(西日本の河原の砂地や畑地に多い)が、これは恐らくは中国から薬用として渡来した生体が野生化したものと考えられている。根出葉は叢生し、細裂してニンジンの葉に似ている。茎の高さは一メートル内外に達し、全草に特異な臭いがある(「ブリタニカ国際大百科事典」他に拠る)とあるから、それをゴキブリが忌避する可能性は高い。実際にゴキブリを駆除するのに蓬(よもぎ)がよいとするネット記載が複数確認出来る。]

2017/08/15

柴田宵曲 續妖異博物館 「白猿傳」

 

 白猿傳

 

 御伽草子は「五朝小説」の中の話をよく染め返したものといふ「文會雜記」の説は、どれほど實例が擧るか知らぬけれど、最も有名な話で成程と思はれるのは、大江山の酒呑童子(しゆてんどうじ)であらう。酒呑童子は丹波の大江山に住んで、近國他國よりみめよき女房を奪つて行く。それが源賴光の鬼退治になる動機は、池田の中納言の最愛の娘が、或日の暮れ方に行方不明になつたことに在つた。唐の「白猿傳」も、歐陽紇の妻が一夕陰風晦黑の裡に何者かに奪ひ去られるのにはじまる。その地に神あつて美女を盜むといふ警告は、前以て受けてゐたのだから、大江山の評判と似たやうなものである。賴光は四天王一人武者を倂せ一行六人に過ぎなかつたが、紇は壯士三十人を率ゐてゐる。賴光等が谷川に衣を洗ふ花園中納言の姫に逢つて、酒呑童子の樣子を尋ねたやうに、紇も怪物に囚はれた女達から討つべき手だてを聞いた。酒を飮ませて醉つたところを討つのは同じであるが、賴光等が山伏と稱して童子の面前に出たに反し、紇は一切を婦人のはからひに任せ、醉うて手足を縛せられたのを斃すのである。最も似てゐるのは、童子が晝は人の姿で夜になれば鬼形に變ずるといふことで、「白猿傳」の怪物も白衣を著けた美髯の丈夫と見えたのに、縛されたのは大白猿であつた。酒呑童子が多くの徒黨を擁し、白猿が飽くまで單騎獨行するやうな相違は無論あるけれど、子細に點檢するまでもなく、酒呑童子が「白猿傳」に負ふところの多いのは明瞭であると思はれる。

[やぶちゃん注:「御伽草子」ウィキの「御伽草子」から引く。『鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式』を持った物語で、広義には『室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる』。『平安時代に始まる物語文学は、鎌倉時代の公家の衰微にともない衰えていったが、鎌倉時代末になると、その系譜に属しながら、題材・表現ともにそれまでの貴族の文学とは、全く異なる物語が登場する。それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝える。テーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる』。御伽草子に含まれるものは、四百編を超えるものが存在するとされているが、その中でも人口に膾炙するそれは凡そ百編強とも言われる(現在は研究が進んで漸増している)。但し、『同名でも内容の違うものや、その逆のパターンなどがあり、正確なところはわからない。室町時代を中心に栄え、江戸時代初期には』「御伽物語」や「新おとぎ」といった『「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された』が、「御伽草子」という名で呼ばれるようになったのは、十八世紀前期、凡そ享保年間(一七一六年~一七三六年)に『大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として以下の』二十三『編を刊行してからのことである』。但し、これも十七『世紀半ばに彩色方法が異なるだけで全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本である』。元来、「御伽草紙」という『語は渋川版の商標のようなもので、当初はこの』二十三『種類のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの』二十三『種に類する物語も指すようになった。現在では、「御伽草紙(子)」と言ったら』、この二十三『種の物語草紙を指し、物語草紙全体は「お伽草紙(子)」と表記するのが通例で』、その二十三の話とは、「文正草子」・「鉢かづき」・「小町草子」・「御曹司島わたり」・「唐糸草子」・「木幡(こはた)狐」・「七草草子」・「猿源氏草子」・「物ぐさ太郎」・「さざれ石」・「蛤の草子」・「小敦盛」・「二十四孝」・「梵天國(ぼんてんこく)」・「のせ猿草子」・「猫の草子」・「濱出(はまいで)草子」・「和泉式部」・「一寸法師」・「さいき」・「浦島太郎」・「酒呑童子」・「橫笛草子」を指す。

「五朝小説」明代に編纂された「魏晋小説」・「唐人百家小説」・「宋人百家小説」・「皇明百家小説」から成る志怪小説叢書。編者は桃源居士や馮夢龍(ふうむりゅう 一五七四年~一六四六年)とし、諸本があり、それらの内容は必ずしも一致しない。

「文會雜記」「常山紀談」で知られる江戸中期の岡山藩士で儒学者の湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた主に徂徠学派の言行を纏めたもの。その「卷之三上」に(以下は吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示した)、

   *

一 オトギ婢子(ハウコ)ハ至テ好書ナリ、ト君修ノ評ナリ。五朝小説ノ中ノ咄ヲヨク染メカヘシタルモノ也。ト君修ノ友人小説ヨク讀ム人ノ云ヘルトナリ。

   *

とある。この「オトギ婢子(ハウコ)」は別本では「オトギ册子」と表記され、以前は柴田宵曲が言うように先の「御伽草子」のことと解釈されるのが一般的であったようだが、これは思うに、浅井了意の「伽婢子」(その内容は確信犯で中国の志怪小説をインスパイアしていることは言を俟たない)と採るのが正しいように思われるから、この宵曲のそれはややピント外れであると私は考えている。しかもここでその説を述べているのは、常山自身ではなく、「君修」、則ち、常山が親しかった太宰春台門下の年下の篠山藩士で漢学者であった才人松崎観海(享保一〇(一七二五)年~安永四(一七七六)年:「君修」は彼の字(あざな))である点でも、宵曲の謂いは正確ではない

「酒呑童子」「御伽草子」中のそれは別名を「大江山絵詞(えことば)」とも呼び、名の表記も酒顛童子・酒天童子・朱点童子などとも書く。源頼光・碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時(金時)・藤原保昌が大江山の酒呑童子を退治する話。中世に流行した英雄伝説・怪物退治譚の代表作で、絵巻物としても流布し、江戸時代には浄瑠璃・青本・黒本で同名の影響作が多数ある。各地に伝わる伝承や同伝説をもとにした作品群の詳細はウィキの「酒呑童子」を参照されたい。

「池田の中納言」一条院に仕えた池田中納言国隆。

「白猿傳」作者不詳の唐代初期或いは中期に書かれた伝奇小説。正式書名は「補江總白猿傳(ほこうそうはくえんでん)」でこれは「江總」の書いた「白猿傳」を「補」筆したという意であるが、実在した人物としては実在する本作の主人公歐陽紇(おうようこつ:南朝最後の王朝陳の将軍)友人で大物文人官僚であった江総(五一九年~五九四年)がいるものの、彼が「白猿傳」という原作を書いた事実はない。「白猿傳」は、紇が南方遠征中に妻を猿の妖怪白猿神に攫われ、山中深く分け入って白猿を探し出して殺し、妻を取り返す。しかし、彼女は既に猿の子を妊娠しており、その生まれた子は後に成人して知られた文人書家となったという物語である(その前に紇は陳の武帝に誅殺されたと記す。但し、実在した紇を処刑したのは陳の高宗宣帝陳頊(ちんぎょく 在位五六八年~五八二年)である。なお、ここまでの事実事蹟は二〇〇五年明治書院刊中国古典小説選第四巻を参照した)。因みに、この生まれた子も、実在する、かの唐代の名書家欧陽詢(五五七年~六四一年)を明らかに指していると読める。本話は「大平廣」の「卷四百四十四 畜獸十一」に「歐陽紇」として載る(リンク先は中文ウィキの原文)。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」の一篇として訳されてある(リンク先は「青空文庫版」)。

「花園中納言」不詳。]

 

「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる。その後いはゆる奇談小説の時代になつて、「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」なども、「白猿傳」の翻案であることは疑ひを容れぬ。場所は飛彈と信濃の境で狒々谷といふことになつてゐるが、三須守廉の妻が行方不明になるにはじまり、妖物が雷火に擊たれて死するに了る。その間には人を惑はす妖術があつたり、孔雀明王の法を修する道人が出たりして、複雜怪奇の度を加へてゐるものの、大體に於て「白猿傳」の筋書を離れず、酒呑童子を連想せしむるところは殆どない。この話の流れは更に後になつて、「蜑(あま)の下草」などの中にも面影をとゞめてゐる。場所は美濃の靑野ガ原、主人公は織田信長の郎黨で、怪しい老翁の規模も大分小さくなつた。この話だけ讀めばうつかり看過するかも知れぬが、「白猿傳」「繁野話」と竝べて見る時、その系統に屬するものであることは爭はれぬ。

[やぶちゃん注:『「白猿傳」の話は早く林羅山が「怪談全書」の中に紹介してゐる』同書の「卷之一」の「歐陽紇」。所持するが、長く、しかも概ね、原典の訳であるので省略する。

『「繁野話(しげしげやわ)」の中にある「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」』「繁野話」は江戸中期の医師で漢学者・読本作家でもあった都賀庭鐘(つがていしょう 享保三(一七一八)年~?:大坂の出身。他にも、当時、流行した中国の白話文学を翻案して「英草紙(はなぶさぞうし)」と本書と「莠句册(ひつじぐさ)」の三部作を書いて大いに売れ、読み本の祖とされた。学者としても優れ、安永九(一七八〇)年には「康煕字典」を校訂して出版している)の作で、明和三(一七六六)年刊で五巻六冊。中国の小説や日本の古典を翻案した奇談集。

「白菊の方猿掛の岸に怪骨を射る話」「しらぎくのかた、さるかけのきしに、くわいこつをいること」と読む。「繁野話」の「第三卷(だいさんのまき)」の「五」(第三巻総てが本話)。同書は所持するが、非常に長尺な話なので、国立国会図書館デジタルコレクションの松山米太郎校訂「雅文小説集」(大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊)に載る同作をリンクさせておくに留める。「白菊の下」もあって、画像「126」コマから「143」コマまでが当該全話である。なお、本作は研究者によって明代の白話小説「陳從善梅嶺失渾家」及び「平妖傳」さらには「水滸伝」なども参照されていることが指摘されてある。「猿掛」は山の名で現在の岡山県倉敷市から矢掛町に跨る標高二百四十三メートルの猿掛山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「狒々谷」「繁野話」原典では「ひゝたに」とルビする。本文では『後世其處さだかならず』と誤魔化してある。如何にもな名ではある。

「三須守廉」「繁野話」原典では「みすのもりかど」とルビする。彼は原典によれば、『備中の國窪屋(くぼのや)大領』(郡司)の弟で、『信濃掾(しなのゝぜう)とな』って妻女ととともに赴任する途中での出来事とする。

「孔雀明王の法」密教で孔雀明王(毒蛇を食う孔雀を神格化したもので、人間の三悪を呑食して衆生の業障罪悪や諸病の痛みを除くことを本願とする。金色の孔雀に乗る四臂(しひ)で、明王中では例外として忿怒相でなく慈悲相の菩薩の形相(けいそう)として示される)を本尊として息災・祈雨を修する秘法。

「蜑(あま)の下草」不詳。識者の御教授を乞う。

「美濃の靑野ガ原」現在の岐阜県大垣市とその西の不破郡垂井町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

「繁野話」が雷火を持ち出したについて、思ひ浮ぶのが「閲微草堂筆記」の中の一話である。これは發端からして妖怪に奪はれることなどはなく、人に買はれて知らぬ土地に伴はれる。その女を買つた道士は、山に入るに當つて目を閉ぢよと云ふ。風の中を飛ぶやうに覺えて、やがて目を開いたら已に高峯の上に在つた。そこには立派な建物があり、婦女ばかり二十何人も居る。調度その他、王侯の如くである。彼女等はこゝを仙府と稱し、道士を祖師と崇めてゐたが、毎月一度祖師は金管を用ゐて、婦女の身體から血を吸ひ取る。このところ頗る靑野ガ原の老翁の乳を吸ふ話と相通ずる點がある。土地はよはど高いと見えて、雲も眼下を行き、雨も遙か下に降るのであつたが、一日俄かに黑雲が起り、恐ろしい風が吹き出した。目もくらむやうな稻光りにつれて、雷鳴がとどろき渡ると、道士は顏色を變へ、そこにゐる女達を全部呼び集めて、肉屛の如く自分を取り圍ませた。雷は愈々近く、閃々たる火光が幾度か室内に入ると思ふうちに、大きな龍の爪が空中に現れて、重圍の中に小さくなつてゐる道士を攫み去つた。同時に言語に絶する大きな雷鳴があつて、天地晦冥になる。女が氣が付いた時は、全然知らぬ里の路傍に倒れてゐた。

[やぶちゃん注:これは「閲微草堂筆記」の「第二十二卷 灤陽續錄四」にある以下。

   *

門人王廷紹言、忻州有以貧鬻婦者、去幾二載。忽自歸、云初被買時、引至一人家。旋有一道士至、攜之入山。意甚疑懼、然業已賣與、無如何。道士令閉目、卽聞兩耳風颼颼。俄令開目、已在一高峰上。室廬華潔、有婦女二十餘人、共來問訊、云此是仙府、無苦也。因問、「到此何事。」。曰、「更番侍祖師寢耳。此間金銀如山積、珠翠錦繡、嘉肴珍果、皆役使鬼神、隨呼立至。服食日用、皆比擬王侯。惟每月一囘小痛楚、亦不害耳。」。因指曰、「此處倉庫、此處庖廚、此我輩居處、此祖師居處。」。指最高處兩室曰、「此祖師拜月拜斗處、此祖師煉銀處。」。亦有給使之人、然無一男子也。自是每白晝則呼入薦枕席、至夜則祖師升壇禮拜、始各歸寢。惟月信落紅後、則淨盡褫外衣、以紅絨爲巨綆、縛大木上、手足不能絲毫動、並以綿丸窒口、喑不能聲。祖師持金管如箸、尋視脈穴、刺入兩臂兩股肉、吮吸其血、頗爲酷毒。吮吸後、以藥末糝創孔、卽不覺痛、頃刻結痂。次日、痂落如初矣。其地極高、俯視雲雨皆在下。忽一日、狂飈陡起、黑雲如墨壓山頂、雷電激射、勢極可怖。祖師惶遽、呼二十餘女、並裸露環抱其身、如肉屛風。火光入室者數次、皆一掣卽返。俄一龍爪大如箕、於人叢中攫祖師去。霹靂一聲、山谷震動、天地晦冥。覺昏瞀如睡夢、稍醒、則已臥道旁。詢問居人、知去家僅數百里。乃以臂釧易敝衣遮體、乞食得歸也。忻州人尚有及見此婦者、面色枯槁、不久患瘵而卒。蓋精血爲道士採盡矣。據其所言、蓋卽燒金御女之士。其術靈幻如是、尚不免於天誅、況不得其傳、徒受妄人之蠱惑、而冀得神仙、不亦傎哉。

   *

なかなか猟奇的で面白い話なので、小山裕之氏のサイト内のにある現代語訳を引用させて戴く。注記号と一部の句点を除去した。読み易さを考え、改行と記号を追加した。

   《引用開始》

 門人の王廷紹が言った。

――忻州に貧しいために妻を売った者がおり、去って二年に近かった。突然、ひとりで帰ってき、

「買われた当初、一人が家に引いていった。」

と言った。

 突然、一人の道士が来、引きつれて山に入った。心はたいへん疑い恐れていたが、売ってしまったので、どうしようもなかった。道士は目を閉ざさせ、すぐに両耳に風が颼颼[やぶちゃん注:「そうそう/しゅうしゅう」と読み、雨や風の音が幽かにあるさま。]とするのが聞こえた。にわかに目を開かせると、すでに高い峰の上にいた。居室は華麗清潔で、婦女二十余人がおり、ともに尋ねてき[やぶちゃん注:「訊ねて来」であろう。]、

「こちらは仙府だから、苦しむことはない。」

と言った。そこで尋ねた。

「こちらに来たのはどうしてだ。」

「交代で祖師さまの寝所に侍しているのでございます。こちらは金銀が山のように積まれ、珠翠錦繍、嘉肴珍果は、すべて鬼神を使役し、呼びますとたちまち来ます。服食日用は、みな王侯に肩を並べんばかりです。毎月一回の小さな痛みも、障りはございません。」

そこで指して言った。

「こちらは倉庫、こちらは厨房、こちらはわたしたちの居ります所、こちらは祖師さまのおわす所でございます。」

もっとも高い処にある二つの部屋を指して言った。

「こちらは祖師が月を拝し、北斗を拝する処で、こちらは祖師が煉銀[やぶちゃん注:錬金術の一種。]される処です。」

やはり給仕する人がいたが、一人の男子もいなかった。

 それから白昼になるたび呼び入れて枕席に進み、夜になり、祖師が祭壇に登って礼拝すると、はじめてそれぞれ帰って寝た。

 月信落紅(つきのもの)の後だけは、内外の衣をすべて剥ぎ、紅い絨いとを巨きな縄にし、大きい木に縛り、手足はすこしも動かせず、綿の丸で口を塞ぎ、黙って声を出せなかった。祖師は金管を箸のように持ち、脈穴を探し、両腕や両股の肉に刺し込み、その血を吸い、すこぶる残酷であった。吸った後、薬の粉末を創の孔に撒けば、すぐに痛みを覚えなくなり、まもなく痂[やぶちゃん注:「かさぶた」。]ができ、翌日になれば、痂は落ち、元通りになるのであった。

 その地はきわめて高く、俯いて見ると雲雨はすべて下にあった。

 とある日、狂飈[やぶちゃん注:「きょうひょう」と読み、吹き荒れる大風・暴風のこと。]はにわかに起きず[やぶちゃん注:「は」と「ず」は衍字か?]、黒い雲が墨のように山頂を圧し、雷電が閃き、勢はたいへん恐ろしかった。

 祖師は慌て恐れ、二十余の女を呼び、みな裸になってその身を抱きかかえたが、肉屏風のようであった。火光が部屋に入ること数回、いずれも一回伸びてすぐに帰った。

 にわかに一匹の龍、爪の大きさは箕のようなものが、人ごみの中から祖師を攫って去った。霹靂の音がし、山谷は震動し、天地は暗くなった。

 ぼんやりと眠って夢みているかのようであるのを覚え、やや醒めれば、すでに道端に臥していた。

 住民に尋ねると、家から数百里にすぎないことが分かった。

 そこで臂(釧うでわ)を敝衣(ぼろぎ)に換えて体を蔽い、乞食して帰ることができた。

 忻州の人にはなおこの妻を見られた者がいたが、面色は枯槁で、まもなく癆咳を患って亡くなった。

 そもそも精血を道士にとり尽くされていたのであった。

 かれの言うことに拠れば、そもそも焼金[やぶちゃん注:引用元の注に『方術の士が丹砂を鍛えて黄金にすること』とある。]して女と交わる士であった。

 かれの術がこのように霊妙でも、なお天誅を免れなかった。ましてその伝授を得ていないのに、いたずらにでたらめなものの蠱惑を受け、神仙となることを願うのは、まちがったことではないか。

   《引用終了》]

 

「關微草堂筆記」はこの雷火を以て天誅と解してゐる。この話が「白猿傳」に似たところは、その居所が深山高峯に在ること、婦女ばかりで一人の男子も居らぬことであるが、白猿の類でない代りに、白日の下に雙劍を舞はすやうな、武術の心得はなかつたやうである。泉鏡花は嘗て「買はれた女」といふ題で、この話を女自身體驗を語るやうに書いてゐた。

[やぶちゃん注:最後の鏡花のそれは大正三(一九一四)年四月に発表された「みつ柏(がしは)」の二篇目。「青空文庫」ので読める。]

北越奇談 巻之三 玉石 其四(木葉石)

 

    其四(し)

 

 木葉石(ぼくやうせき)は栃尾(とちを)山谷(さんこく)の間、堀の内、十日町の山間、難波山(なんばやま)等(とう)に夛(おほ)く出ると雖も、皆、石性(せきせい)、和(やは)らかにして、灰白色、盆地(ぼんち)に入(いれ)、草木(さうもく)を植(うゆ)るに、よく水を上げて活(い)く。打碎(うちくだく)に、一片(いつへん)一片、諸木の葉、相重(あいかさな)り、皴紋(しゆんもん)、甚だ面白く、たまたま小魚(しようぎよ)・蜘蛛・蛙(かはづ)などの、葉の間にありて石と成れるものあり。只、魚沼郡(うほぬまごほり)上田郷(うへだごう)藪神(やぶかみ)の庄(せう)、大湯村(おほゆむら)【温泉の出る所。小出島より三里。】、同(おなじく)栃尾俣村(とちをまたむら)さなし川の奧、羽根(はね)川といへる溪流の岸岩(きしいは)の間より、掘出(ほりいだ)すもの、黑色(こくしよく)にして堅實(けんじつ)なり。以(もつて)碩(すゞり)となすに堪(たへ)たり。尤(もつとも)、得易(えやす)からず、少(まれ)にあり。得ㇾ之(これをうる)者は、以、珍玩とす。

 

[やぶちゃん注:地層面上に美しくリアルに印象保存(炭素粒で誇張されたもの)された木の葉(主に広葉樹)の化石。一ミリメートルから一センチメートル単位で葉理が発達している凝灰質頁岩(泥岩がさらに固結した粘板岩(スレート)との中間の岩石)。葉が炭化して残存する場合もあるが、殆どは木の葉の形の印象だけが残る。条件のよい場合は細かな葉脈なども観察され、種類の判別も可能である。栃木県塩原町に分布する洪積世(更新世)中期の湖沼堆積物中に含まれるブナ・カエデ・クリなどの広葉樹の葉が薄く割れやすい淡色の岩片に保存されていることから「木の葉石(このはいし)」と呼ばれたものが最も知られ、これは地質時代の木の葉が砂・粘土・火山灰などとともに静かな水底で堆積したものの化石化したもので、塩原化石植物群は約百三十種の、おもに広葉樹から成る。その組成から、当時の温帯北部に生育したものと考えられている(以上は平凡社「世界大百科事典」を主として他の辞書記載を合成した)。

「栃尾(とちを)」現在の栃尾(新潟県長岡市栃尾町)の東方部であろう。附近(グーグル・マップ・データ)。

「堀の内」新潟県魚沼市堀之内か。(グーグル・マップ・データ)。

「十日町」新潟県十日町市。(グーグル・マップ・データ)。

「難波山(なんばやま)」既出既注であるが再掲する。上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「盆地(ぼんち)」盆栽で鉢(盆栽鉢・盆器)に敷き入れる基底土。

「よく水を上げて活(い)く」凝灰質頁岩は吸水性がある。

「皴紋(しゆんもん)」「皴」は「皺」(しわ)に同じい。転写された葉脈紋様のこと。

「魚沼郡(うほぬまごほり)上田郷(うへだごう)藪神(やぶかみ)の庄」現在、新潟県魚沼市今泉に東日本旅客鉄道只見線の無人駅に「藪神駅」がある。附近(グーグル・マップ・データ)であろう。

「大湯村(おほゆむら)」新潟県魚沼市大湯温泉。(グーグル・マップ・データ)。先の藪神駅の南東約十一キロに当たる。

「小出島」新潟県魚沼市小出島。(グーグル・マップ・データ)。ここで魚野川に合流する東から流れている佐梨川の上流に大湯温泉がある。

「栃尾俣村(とちをまたむら)さなし川の奧、羽根(はね)川」佐梨川の大湯温泉の、上流直近にある魚沼市大湯温泉栃尾又のことであろう(栃尾又温泉がある。なお、正式な住所は大湯もここも魚沼市上折立らしい。)。(グーグル・マップ・データ)。恐らくは「藪神の庄」から以下は、ここを指し示すためのものである可能性が強い。その奥にあるとする「羽根(はね)川」は確認出来ない。或いはこの栃尾又温泉のある栃尾又沢として佐梨川から分岐する支流の川名なのかも知れぬ。なお、後の「其七」でも大湯村温泉と栃尾又温泉は再述され、崑崙自筆の絵図が掲げられてある。

「以(もつて)碩(すゞり)となすに堪(たへ)たり。尤(もつとも)、得易からず、少(まれ)にあり。得ㇾ之(これをうる)者は、以、珍玩とす」現在、ここから硯石が産出されるという記載はネット上には見当たらない。]

2017/08/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「牛になつた人」

 

 牛になつた人

 

 蕪村に「食うて寢て牛にならばや桃の花」といふ句がある。牛と桃とは周の武王の「馬を華山の陽に縱(はな)ち、牛を桃林の野に放つ」以來の因緣があるが、さういふむづかしい事を持ち出さないでも、のんびりした趣の上で調和を見出すことが出來る。飯を食つて直ぐ寢ると牛になるといふのはよく云ふことで、これものんびりした話には相違ない。

[やぶちゃん注:「食うて寢て牛にならばや桃の花」与謝蕪村(享保元(一七一六)年~天明三(一七八四)年)の明和年間(一七六四年から一七七二年)の句。「蕪村句集」所収。

『牛と桃とは周の武王の「馬を華山の陽に縱(はな)ち、牛を桃林の野に放つ」以來の因緣がある』「史記」の「周本紀」に、

   *

縱馬於華山之陽、放牛於桃林之。偃干戈、振兵釋旅、示天下不復用也。

(馬を崋山の陽(みなみ)に歸(かへ)し、牛を桃林の虛(きよ)に放ち、天下に復た用ゐざることを示す。)

   *

とある。「虛」はひっそりとした野原。これは、周の武王が暴虐の殷を滅ぼし、戦さに用いた兵馬を崋山の南へと帰してやり、武器などを運搬させた牛を城塞であった「桃林」(河南省内)の跡地に放牧して、最早、天下にそれらを二度と用いぬことを示したことから、特にその牛の方を擬人化し、「桃林處士」と異名するようになった。「處士」とは優れた能力を持ちながら在野の士であることを指す語である。]

 

「今昔物語」などを讀むと、牛になつた人間の話が出て來るが、これは前世の因果によつて畜生に墮在(だざい)するのだから、決してのんびりしてはゐない。その牛が父親だつたり母親だつたりするに至つては、のんびりどころの話ではないのである。

[やぶちゃん注:これは「今昔物語集」の「卷二十」の「延興寺僧惠勝依惡業受牛身語第二十」(延興寺(えんこうじ)の僧惠勝(ゑしよう)惡業に依りて牛に身を受くる語(こと)第二十)であろう。

   *

 今は昔、延興寺と云ふ寺、有り。其の寺に、惠勝と云ふ僧、住みけり。年來(としごろ)、此の寺に住む間(あひだ)に、寺の温室分(うんしつぶん)[やぶちゃん注:浴室用。]の薪(たきぎ)一束(そく)を取りて、人に與へたりけるに、其の後(のち)、償ふ事無くて、惠勝、死にけり。

 而る間、其の寺の邊(ほとり)に、本(もと)より牸(めうし)、有けり。一つの犢(こうし)を生みてけり。

 其の犢、長大して後、其の犢に車を懸けて、薪を積みて、寺の内に入る。

 其の時に、知らぬ僧、寺の門に出で來て、此の犢を見て云く、

「惠勝法師は生きたりし時、涅槃經を明け暮れ讀み奉りしかども、車引く事こそ、哀れなれ。」

と。犢、此れを聞きて、淚(なむだ)を流して、忽ちに倒れて死す。

 犢の主(あるじ)、此れを見て、大いに瞋(いか)りて、其の知らぬ僧を詈(の)りて、

「汝が此の牛をば咀(のろ)ひ殺しつる也(なり)。」

と云ひて、卽ち、僧を捕へて、公(おほや)けに將(い)て行きて、此の由を申す。

 公け、此れを聞(きこ)し食(め)して、其の故を問はしめ給はむとして、先(まづ)、僧を召して見給ふに、僧の形・有樣、端正にして、只人(ただびと)と思へず。然(しか)れば、驚き怪しび給ひて、忽ちに咎(とが)行はむ事を恐れて、淨(きよ)き所に僧を居(す)へて、止事無(やむごとな)き繪師共(ども)を召して、

「此の僧の形・有樣、世に似ず、端正(たんじよう)也。然(さ)れば、此の形を謬(あやま)たず、書きて奉るべし。」

と。

 繪師、宣旨を奉(うけたまは)りて、各々、筆を振るひて、書寫(しよしや)して持(も)て參りたる。

 公け、此れを見給ふに、本(もと)の僧には非ずして、皆、觀音の像也。

 其の時に、僧、搔き消(け)つ樣(やう)に失せぬ。

 然(しか)れば、公け、驚き恐れ給ふ事、限り無し。

 此れ、現(あらは)に知りぬ、觀音の惠勝が牛と成れる事を、人に知らしめむが爲(ため)、僧の形と成りて、示(しめ)し給ふ也けり。牛の主(ぬし)、此れを知らずして、僧に咎を行はむと爲(す)る事を悔ひ悲しみけり。

 人、此れを以て知るべし。一塵の物也と云ふとも、借用せし物をば、慥(たしか)に返すべき也。返さずして死ぬれば、必ず、畜生と成りて、此れを償ふ也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 田舍とばかりあつて、どこの話ともわからぬが、富裕な百姓がいゝ牛を飼つて居つた。飼料も潤澤に與へられるから、象のやうに肥え太つて、力も甚だ強い。人の牛と鬪はせて見るのに必ず勝つので、飼ひ主も面白くなつて、かういふ立札をした。何人たりとも牛を牽き來つて突き合されよ、此方の牛負けたらば料足百貫目を進ずべし、餘所の牛負けたらば料足は取らず、たゞその牛を取るべきなり、といふのである。この札を見て牛を牽き來り、百貫文取らうとした人は澤山あつたが、皆負けて牛を取られてしまふ。取つた牛は賣つて金に換へるので、飼ひ主は愈々分限になつた。

 

 その百姓の家から五六里離れたところに、斑牛を一頭飼つてゐる男があつた。左の肩から右の脇まで黃色、その外は皆黑い。瘦牛で弱いため、田を鋤(す)かせることもなく、重荷も負はせず、いたはつて使ふことが多年に及んだ。然るに或晩この牛が飼ひ主の夢に現れて、私は年久しくお養ひを受け、御憐愍にあづかりながら、かひがひしくお役に立つこともなく、徒らに飼料を費して居りますのは、まことに本意ない次第でございます、こゝから五六里南の方に、有福の百姓が牛を持つて居りまして、人の牛と突き合せて、自分の牛が負けたら百貫文出す、餘所の牛が負けたら錢でなしにその牛を取るといふことです、どうか私を連れて行つて突き合せて下さい、私が突き勝つて百貫文お取らせ申し、年頃の御恩報じを致します、と云ふかと思へば目が覺めた。

 

 倂し先方は音に聞えた大牛である。この瘦牛が勝つことは思ひもよらぬ。牛を取られに牽いて行つても仕方がない、と問題にせずにゐたところ、再び夢に現れて、何故牽いておいでなされませぬか、私は必ず勝ちます、お疑ひめされますな、と云ふ。それほどに云ふなら、或は百貫文取れるかも知れぬといふので、人を誘ひ合せて牽いて行つた。先方の在所に著くと、先づ傍の桃林に牛を繫ぎ、彼の家に行つて案内を乞うた。立札の表に任せ五六里先より參りました、と申し入れたところ、先方は大いによろこんで、その牛が見たいと云ふ。瘦牛を牽き出したのを見て大いにあざ笑ひ、例の大牛を牽いて來た。聞き及んだよりも大きな牛で、一同目を驚かすところへ、瘦牛は進んで大道の眞中に行く。大牛も近く寄つて立ち向つたが、何となく大牛の方が恐れる體である。頭を脇へ振つてそのまゝ逃げ去るのみならず、自分の家の門を入つて後庭に逃び込んだ。瘦牛はあとを追駈けて後庭に迫ひ詰めたから、大牛は逃げ場を失ひ、膝を折つてうなだれてしまつた。瘦牛が飛びかゝらうとするのを牛の主が引き止めて、私の牛が勝ちましたと云ふ。亭主も今は致し方なく百貫文を出して渡した。

[やぶちゃん注:「逃び込んだ」恐らくは「とびこんだ」と訓じている。]

 

 自分の牛のあまり腑甲斐ない有樣に、大いに腹を立ててゐると、今度は大牛が亭主の夢に現れた。お腹立ちは御尤もでございますが、これには深い子細のあることなのです、私の前生は山の上の禪寺の僧でございました、住持は瘦せた人でしたが、福分がありまして、皆がその錢を借ります、私も澤山借りて暮しながら、その借錢を九牛の一毛も返さずに死んでしまひました、この世では私が牛に生れてこの家に養はれますと、住持も山の下の檀越(だんをち)の家の牛に生れて居られます、あの左の肩から右の脇まで、毛色の黃なのは袈裟の色なのです、僧の時にも瘦せてゐましたから、牛になつても瘦せてゐますが、住持の德には田を鋤くこともなし、重荷を負はずにいたはられてゐるわけです、今日來たのをどこの牛とも知らず立ち向ひましたら、住持なのに弱りました、借錢のある身では逃げる外はありません、百貫文の御損をおかけ申したのは、まことに不本意でございますが、これが世間の評判になれば、愈々方々から牛を牽いて參りませう、それを思ふ存分に突き勝つて、牛が澤山お手に入るやうに致しましたら、百貫文の御損は間もなく取り返せます、御安心下さいまし――。この牛の話を聞いて亭主が滿足したと思つたら目が覺めた。

 

「奇異雜談集」にあるこの話も甚だ理詰めで、あまりのんびりしてゐない。大牛も瘦牛も共に夢枕に立つあたり、趣向としても窮した點がある。前世の借錢のために勝を讓らなければならぬなどは、牛になつても義理はきびしいものらしいが、どこかに滑稽の分子を含んでゐるのは、牛そのものの持ち味であらうか。

[やぶちゃん注:これは「奇異雜談集」の「卷第三」の「二 牛(うし)觖合(つきあひ)て勝負をいたし前生(ぜんしよう)を悟る事」である。早稲田大学古典総合データベースのの4から9までの画像で読める。挿絵もある。]

 

 ルーマニアに「奇牛の角」といふ話がある。これは右の角を握れば直ちに食物が得られるといふ不思議な牛であるが、この牛が黃金橋と白銀橋とで二度大牛を相手にして勝ちながら、最後に來た瘦牛と朱銅(あかがね)橋で鬪ふことになつた時は、はじめから元氣がなく、左の角を形見に殘して相手の牛と共に下の谷へ轉げ落ちてしまつた。前世に借銀をしたわけでもないらしいのに、瘦牛に勝ち得なかつたところを見ると、何かさういふ話の型があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:この民話は不詳。ネット検索でも掛かってこない。識者の御教授を乞う。

「黃金橋と白銀橋」あとが「あかがね」と訓じているのであるから、「こがねばし」と「しろがねばし」と読んでおく。]

 

 その後「太平廣記」を讀んだら、前世に借錢を償はなかつた爲に、牛に生れ替る語が二つあつた。いづれも何等かの證迹を毛色にとゞめてゐるが、路伯達とか崔某とかいふ人の生れ替つた犢(こうし)は、額上にその姓名が白く讀まれたさうである。黃金の犢に黑で笏の形が現れたなどといふ話もある。借金のために鬪牛の場で勝を讓るといふほど、義理に絡んだのはないやうだが、袈裟の形が黃色に現れるなどといふ話にも、自ら由つて來るところがありさうな氣がする。

[やぶちゃん注:「自ら由つて來る」「おのづからよつてきたる」。暗に宵曲は前の「奇異雜談集」の一部はこれらがヒントではなかろうかと言っているようである。

 これらは、一つは「太平廣記」の「畜獸一」の「路伯達」で、「法苑珠林」を出典とする以下。

   *

永徽中、汾州義縣人路伯達、負同縣人錢一千文。後共錢主佛前爲誓曰。我若未還公、吾死後、與公家作牛畜。話訖、逾年而卒。錢主家牸牛生一犢子、額上生白毛、成路伯達三字。其子姪耻之、將錢五千文求贖、主不肯與。乃施與濕成。縣啓福寺僧眞如、助造十五級浮圖。人有見者、發心止惡、競投錢物、以布施焉。

   *

もう一つは同じ「畜獸一」の「路伯達」の次の次に載る、「宣室志」を出典とする「河内崔守」であろう。

   *

有崔君者、貞元中爲河内守、崔君貪而刻、河内人苦之、常於佛寺中假佛像金、凡數鎰。而竟不酧直。僧以太守、竟不敢言。未幾、崔君卒於郡。是日、寺有牛産一犢。其犢頂上有白毛、若縷出文字曰崔某者。寺僧相與觀之、且嘆曰。、崔君常假此寺中佛像金、而竟不還。今日事、果何如哉。崔君家聞之、卽以他牛易其犢。既至、命剪去文字、已而便生。及至其家、雖豢以芻粟、卒不食。崔氏且以爲異、竟歸其寺焉。]

 

北越奇談 巻之三 玉石 其三(貝石)

 

    其三

 

 高田より、東三里、山に入(いる)事、二十余丁、横澄(よこすみ)川と云へる溪流在(あり)。此内、貝石(ばいせき)を出(いだ)すこと、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。螄螺(にしほら)・螺蚶(あかゞひ)・蜆(しゞみ)・蛤(はまぐり)・蜊(あさり)の數品(すひん)、皆、自然に形文(けいぶん)麗(うるは)しく、弄玩(ろうぐはん)、愛すべし。是を碎くに、内(うち)、實(じつ)し、玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり。又、其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり。皆、内(うち)、實(じつ)して、更に空所なし。たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る。是等の貝石、甚だ奇なり。密(ひそか)に按ずるに一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す。然(しか)れば、生(いける)貝、土中に落入(おちいり)て、數(す)十年を歴(ふ)るに及んで石と成るもの、其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし。又、螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし。他(た)の小貝(こがひ)を含むものは、是、又、不審なり。凡(およそ)北海所々(しよしよ)、山中に此類ありと雖も、其夛く出す所、横澄川に若(し)かず。古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)の岸(きし)、此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく、此一へんの間(あいだ)、貝石、數萬(すまん)を敷(しけ)り。香川啓益(かゞはけいゑき)は、『造化の然(しか)る所、此類(るい)多し』と云へ、が國、寺泊駅、丸山氏、「越後名寄(えちごなよせ)」に、『是は、只、山中自然の物なるべし。海中の貝殼、風雨に晒(さら)す時は、皆、化(け)して不ㇾ見(みえず)。然(しか)れば、石となる理(り)なし』と云へれど、其説、不明(あきらかなならざる)也。今、新に、海底の枯貝(こばい)、壳(こく)を以(もて)日に晒し、雨に濕(うるほ)さば、消(せう)するも理(ことはり)なり。山中(さんちう)にある所は、上古、土中(どちう)に落入(おちいり)たる貝壳(かいがら)なれば、風雨に晒すとは、格別なり。又、貝原(かひばら)先生、「大和本艸」に『混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)』と云へり。是、又、篤信(とくしん)の博識には方便に近き説と云ふべし。世界の變化、一へんして、子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる、なんどは、其始(はじめ)を明らかにするの假説にして、何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん。只、天地の變化は、此所(このところ)、山と成れば、彼所、落入て海と成り、何處(いづく)と云ふに定(さだめ)はなけれど、例へば、川の渕と成り、瀨と成るがごとし。只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)。後人(こうじん)、その源(みなもと)を明らかにせんがために、天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)・天神(てんじん)・地神(ちしん)など、假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ。されば、三皇氏(さんくわうし)と雖も、又、久しきとするに足らず。一たび、人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至るとも、何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん。天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし。されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし。「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」に、『石蝦(せきか)・石蠶(せきさん)・石鼈(べつ)』を擧(あ)ぐ。此類(たぐひ)か。只し、が國の貝石は、皆、上古、海磯(かいぎ)の変ずる所と思ふのみ。大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)は、我が知らざる所也。

 

[やぶちゃん注:「貝石(ばいせき)」は「かいいし」とも読み、ここでの用法は海岸ではなく、陸地から出土する、古代の貝殻の化石となったものを指している。

「二十余丁」二十町は二キロ百八十二メートル。「余」を三町程ととると、二キロ半、前の「三里」を加えると、当時の高田市街からは十四キロメートル強となる。

「横澄(よこすみ)川」不詳。但し、現在の高田市街からほぼ東へ直線で二十キロほどの山間の地区に新潟県上越市安塚区須川という地域があり、新潟県土木部砂防課の公文書を読むと、この地区の中には澄川という地域が存在する。ここは須川川を挟んだ山間渓流添いの一帯であるから、まずはここ(リンク先は国土地理院地図。他の操作をせずに左端の拡大ボタンをひたすら押されたい)を比定の第一候補としたい。但し、「三里」が短か過ぎる気はする。これ以外に気になるのは、新潟県上越市三和区大という地区にある石山という名のピークである。この山は高田市街から真東に直線で十キロで、麓に渓流がある。この立地条件と距離と山名から最初に気にはなったので、ここ(グーグル・マップ・データ)を比定の第二候補としておく。但し、「横澄川」という名称との連関性は全く見出し得なかった。但し、ここに出る貝化石は、その形状や種(推定)や日本列島の形成過程から見て、中生代(約二億五千二百十七万年前から約六千六百万年前)以降、新生代(約六千五百万年前から始まり、現代もそこに含まれる)のものであろう。

「螄螺(にしほら)」「螄」も「螺」と同じく腹足類「にな」を意味するから、これは特定種ではなく、螺高の高い巻貝類(軟体動物門腹足綱 Gastropoda)を広汎に指していると考えてよかろう。以下、古代のそれらであることに注意されたい。現生種にそっくりであっても全くの別種の可能性もあるからである。以下、くだくだしいが、それを考えて注してある。

「螺蚶(あかゞひ)」狭義には斧足(二枚貝)綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科アカガイ属アカガイ Anadara broughtonii を指すが、有意な肋を持って良く似るフネガイ科リュウキュウサルボウ亜科サルボウガイ属サルボウガイ Scapharca kagoshimensis 及び同形状を示すフネガイ科 Arcidae の広汎な種を含むと考えてよい。

「蜆(しゞみ)」斧足綱異歯亜綱シジミ上科シジミ科 Cyrenidae のシジミ類或いはシジミ上科 Cyrenoidea に属する種群や形状の似た別種。

「蛤(はまぐり)」異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「蜊(あさり)」マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum及び近縁種或いは形状の似た広汎なマルスダレガイ科 Veneridae 等の別種。

「形文(けいぶん)」貝殻の外側の肋や紋様。

「内(うち)、實(じつ)し」殻の内部が完全に土砂や石礫で満ちていることを指す。

「玉石のごとく透き通り、潤沢なるもあり」私は幼少の頃、現在の家の近くの切通しで、こうした貝化石を多数採取するのが趣味の孤独な化石少年であった(現在でも造成地の土中に多く現認出来る)が、殻の内部全体がこのように変質したものはついぞ見たことはなかったこうしたものに変性するのは非常に古い中生代の化石類である。

「其大なるもの、是を打ち碎き見るに、内に小貝石(こばいせき)を含むこと、或は一、或は二、三。蛤石(がうせき)の螺(ら)石を含むあり。大螺(たいら)石・小蛤(しようごう)を含(ふくむ)もあり」これは単に貝化石群が造山運動の圧力によって圧縮され、多量の貝化石層を成しているのを一個の貝の内部に多数の貝が含まれていると誤認したものではなかろうか?

「たまたま、此貝石、自然に水を含むものを見る」これも山上の雨水や地下水が浸出した地層から出土した貝化石を太古から水を含んでいたものと誤認したに過ぎまい。

「一ツとして口を開(ひらき)たるなし。皆よく合(がつ)す」これも誤認で、そんなことはない。貝化石地層では粉砕した片々のそれをよく見かける。ただ、完品以外の片々は重なっていると圧による粉砕が早く、特に崖に露出していると、即座に風化されてしまうから、崑崙はそれらの粉砕された殼片を殻と見做さなかっただけであろう。

「數(す)十年」崑崙先生、それはないでしょ? 後の人為的な貝塚を形成した縄文人の時代でさえ約一万五千年も前ですぜ!

「其肉も共に化(くは)して、石とならば、中(うち)、盡(ことごと)く實(じつ)するいはれ、なし。又、土を含んで、内(うち)、實(じつ)すると云はゞ、口、よく合(がつ)する理(り)なし」言わずもがな乍ら、死貝が海底に沈み、内臓は速やかに腐敗し、それが海底の砂泥中に埋没すれば、隙間から砂泥が侵入し、それが海水の圧力をかけられるから、二枚貝が殻を合わせた形で、内部に土を含んで化石化することは何ら不思議ではありません。崑崙先生。

「螺(ほら)の螺を含み、蛤(はまぐり)の蛤を含(ふくむ)ものは其(その)貝子(ばいし)共(とも)云(いふ)べし」「貝子」とは貝の稚貝ということであろうが、通常の貝類はそのような生殖法を持たない。但し、淡水産の腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae のタニシ類は卵胎生で母体(雌雄異体)が稚貝を産む。しかし、これがタニシのそれであるとは私には思われない。やはり、貝化石層の圧縮されたそれを誤認したものであろう。いや、この後の「他(た)の小貝(こがひ)を含むもの」があるというのは、まさしくそうした誤認であることを図らずも証明しているものと言える(他の貝を捕食する肉食性の貝類はいるが、貝を貝そのままに摂餌してしかもその死貝を体内に保存するものなどは存在しない)。

「古志郡(こしごほり)三宅村赤壁(せきへき)」不詳。旧古志郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。識者の御教授を乞う。

「此砂土(しやど)一へん一へんにして海磯(かいぎ)のごとく」非常にくっきりとした地層が有意に凹凸を以って積み重なって岩礁性海岸の海食崖の露頭地層のようになっているというのであろう。

「香川啓益(かゞはけいゑき)」これは江戸中期の医師で字(あざな)を「啓益」と称した香月牛山(かつきぎゅうざん 元文五(一七四〇)年~明暦二(一六五六)年)の誤りではなかろうか? 「朝日日本歴史人物事典」によれば、彼は豊前国出身で、後に筑前に移って貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学んだ。中津藩(豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した)の医官として仕えたが、その後、辞して京都に出、二条で開業医となった。著書に「老人必要養草」「薬籠本草」「婦人寿草」「巻懐食鏡」などがある。ここの「造化の然(しか)る所、此類(るい)多し」(「貝のまるのままの化石というのは天然自然の造化の及ぼすところであって、こうした現象は多く見られる」という意味か)の出典は不明。識者の御教授を乞う。

『丸山氏』野島出版脚注に『「越後名寄」の著者。三島郡寺泊の人。元純』、また、『良陳と称す。其の祖某、長左ヱ門と称し、医を以て長岡牧野氏に仕へ、秩』(ちつ:俸禄。)『八十石を食んだ。其の子杢左ヱ門格勤能く其の職を奉じたが藩侯を諌めて其の怒に触れ、浪人となりて与板に移り、児童に教えて余生を送った。寺泊は諸国行旅の輻輳する所であるのみならず、国人の來往も頻繁であった土地なので』旧『記も多かった』ことから、『元純は書史を討究し或は歴訪捜索すること二十余年にして「越後名寄」三十巻』(三十一巻が正しい)『を著わした。宝暦八年』(一七五八年)、『七十二才で歿した』とある。なお、この人物の末裔が作家の丸山健二であるらしい(個人サイトのこちらに拠る)。「越後名寄」は越後の史料・口碑を蒐集した一種の百科全書。早稲田大学古典データベースのこちらで画像で全巻が読めるが、流石に厖大で捜す気になれない。悪しからず。見つかったら、どうかお教え下さい。お名前とともにリンクを張りたく存じます。

「山中自然の物なるべし」これは、「山中に自然に存在した陸生貝類であろう」と言っているようだ。有肺類の蝸牛の例はありますがね、ちょっとムリでっしょう、丸山先生!?!

「壳(こく)」原典は「売」の字であるが、かく、した。野島出版版は『殻』。意味は確かにそれである。

「貝原(かひばら)先生」江戸前・中期の儒者で本草家の貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)。名は篤信。筑前福岡藩主黒田光之に仕え、後に京に遊学して寛文四(一六六四)年に帰藩した。陽明学から朱子学に転じたが、晩年には朱子学への疑問を纏めた「大疑錄」も著している。教育や医学の分野でも有意な業績を残している著書は以下の「大和本草」の他、「養生訓」「和俗童子訓」など、生涯、実に六十部二百七十余巻に及ぶ。

「大和本艸」益軒が編纂した本草書で宝永七(一七〇九)年刊。本編十六巻・付録二巻・図譜三巻で計二十一巻からなる大著。明治になって西洋の生物学・農学の教本が輸入されるまで、日本史上最高峰の生物学書・農学書であった。李時珍の「本草綱目」の分類法を基にしつつ、独自の分類を考案・編纂したもので、収載された品目は千三百六十二種に及ぶ。参照したウィキの「大和本草」によれば、『薬用植物(動物、鉱物も含)以外にも、農産物や無用の雑草も収載されている。また「大和本草」は古典に記載された物の実体を確定する名物学的側面も持っている。本来の本草学とは薬用植物を扱う学問であるが、この大和本草に於いて日本の本草学は博物学に拡大された。これらは益軒が本草学にとどまらず農学、儒学、和漢の古典など多数の学問に通じていたからこそ出来たことでもある』。『漢名の無い品目も多数収載されている。益軒以前の日本の本草学は「本草綱目」を分析する文献学であった。他の学者は漢名のない日本独自の物は無視して取り上げない、あるいは無理に当てはめるというようなことをしたが』、『益軒はそれをしなかった。また、図版を多く用いることで理解を助ける、仮名が多く使われていることも当時の学問書としては異例のことである。これは益軒が学問を真に世の人の役に立つものにしたいという思いの現れである』。『益軒は自ら観察・検証することを基本とした。この後日本の本草学は文献学から脱皮し、自らの足で歩き植物を発見・採取する本草学者が現れるようになった』とある。この「混沌未分前世界のもの。可ㇾ見(みつべし)」(天地開闢以前のあらゆる物質がカオス(混沌)状態未分化の太古の世界に存在したものの遺物である。よく観察するがよい)は同書のどこに出るのかは不詳。同書の「金玉土石」の部を縦覧したが、見当たらない。「介」部にはないと思う。発見し次第、追記する。因みに私は『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化訳注も手掛けている

「篤信(とくしん)」先の注で述べた通り、貝原益軒の字(あざな)。

「博識には方便に近き説」博覧強記の益軒先生にしては、ちょっといなしただけの不十分極まりない説だというのである。崑崙、実に他の学者に対しては相当に辛口である。

「一へん」「一變」であろう。

「子(ね)に、天、成り、丑(うし)に、地、成り、寅(とら)に人の生ずる」十二支を宇宙の生成と消滅を、始め(子)と途中(丑・寅)及び終り(亥)に割り振ったもの。

「何ぞ前世界と云ふの理(り)あらん」宇宙の起源のカオスの世界など論理的にあろうはずがないと崑崙はいうのであるが、これは現在のビッグ・バン理論からすれば、益軒に軍配が挙がる。そもそも崑崙は自分の宇宙生成論をここで提示していないから、ダメである。しかしどうも、崑崙は鬼神を信じたが、私は実は「古事記」にあるかの神々による天地開闢神話は、これを、あまり信じていなかったようにも思われるのである何故か? だってそうでしょ? 「古事記」の冒頭の「くらげなすただよへる」時というそれは、文字通り、「混沌」(カオス)の「海」であり、この山の中の「貝」の化石が、まさにその原型(プロトタイプ)の大「海」に棲息していた貝であっても、これ、よいことになるだろうに、と私は考えるからである

「只、上古、人智、明かなることなきが故に、歴代を不ㇾ記(きせず)」上古、人間の智は十全なものでなかったがために、その歴史的事実を記すことが出来なかった。

「天皇氏(てんくはうし)・地皇氏(ちくはうし)中国の天地開闢神話の中に登場する伝説上の帝王の名の一つ(複数あるものの中の一説)で、通常は「三皇」と称し、「天皇」・「地皇」・「泰皇」(「人皇」とも)を挙げる。ウィキの「天皇」によれば、天皇は『天地創造の神である元始天王が太元聖母と気を通じることによって生まれたとされ』、「三才圖會」の想像図では、外観上、『ほぼ人間と同じ(髭を生やした顔)であるが、体は鱗で覆われており(首と手首にはない)』、「地皇」が『部分的に鳥の肉体を有し』、「人皇」に至っては、ほぼ、『蛇として描かれていることからも』、「天皇」は『三皇の中で最も人に近い姿として描かれている』とある。一方、ウィキの「地皇」によれば、地皇は『天皇から生まれ、地皇は人皇を生んだとされ』、同じく「三才圖會」では『顔は人だが』、『頭頂部にとさかを有し(左右には髪が生えている)、肩から胸にかけて羽毛を生やし、両腕は鳥類の脚となっており、人と鳥を掛け合わせた「鳥人」のような姿で描かれている』とある。西晉の皇甫謐の著になる、三皇から漢魏にいたる帝王の事蹟を記録した「帝王世紀」(散逸したため、諸書の引用から復元されたもの)に『「春秋緯」云、天皇・地皇・人皇、兄弟九人、分九州、長天下也』と出る。

「天神(てんじん)」ここは前に「天皇」「地皇」を並べる以上は中国古代思想に於ける天の神を指すととる。万物を創造し主宰するところの最高神としての天帝。道教では地上の人々の行為を監視し、その善悪の裁きを下す神とされ、或いは老子を神格化した「老君」とも同一視される。

「地神(ちしん)」前と同じようにとり、ここは中国古代思想の大地の神或いは有象無象の土地神としておく。

「假(かり)に設(もふ)けたることなれば、只、上古は、人形(じんけい)にして鳥獸の意(い)に異(こと)なることなきものと覺(おぼ)ゆ」これはまことに唯物的な主張である。私が崑崙は日本神話を信じていなかったとするのは、まさにこの断定に近い言辞によるのである。彼にとっては中国の神仏も日本の神仏も、辻褄合わせのために仮にでっち上げた児戯に等しい噴飯物でしかないとさえ思っているのではあるまいか? しかし、そうした立ち位置に居ながら「鬼神」の実在は疑いないとする、この男、いやはや、タダモノでは、やっぱり、ないわいな!

「人智、闢(ひらけ)しより此後(こののち)數千年に至る」この数字は正しいね。

「何ぞ上古人(じようこのひと)に同じからん」反語。

「されば、是より後(のち)もまた、天地、長久無量なるべし」この順接の接続詞「されば」は判り難い。寧ろ、逆接で繋げるべきであろう。「天地の変は、只、何時(いつ)となく事替(ことかは)り、日(ひゞ)に新にして二十年を歴(ふ)れば、山川(さんせん)・道路に至るまで、盡(ことごと)く變はるものなり。ましてや、古代、名高き勝地旧跡、今、只、尋(たづぬ)る所なきがごとし」というわけで、宇宙は千変万化にして無常迅速、桑田変じて滄海となるというわけだ「けれども」、大いなる自然としての「天地」は「長久無量」なのだと言ってよい、として初めて私はしっくりくるからである。

「桂海虞衡志(けいかいぐかうし)」南宋の范成大の著になる嶺南の山川・物産を記した地誌で、「巖洞」・「金石」・「香」・「酒」・「器」・「禽」・「獸」・「蟲魚」・「花」・「果」・「草木」(ここまで部の頭には「志」が附される)及び「雜志」と「蠻」に分類して記す。中文ウィキソースのこちらで全文が読める。

「石蝦(せきか)」同書の「志蟲魚」に『石蟹、生海南、形真似蟹。云是海所化、理不可詰。又有石蝦、亦其類』とある。これは甲の堅い蝦(えび)ともとれなくもないが、「石蟹」はどうも、蟹に酷似した石・蟹の化石のようにも読める。実は先の益軒の「大和本草」の「金玉土石」の部には明らかに蟹の化石と読めそうなものが項立てされてある。

「石蠶(せきさん)」同書には「石蠶」では載らない。「志果」に『地蠶、生土中、如小蠶、又似甘露子』となら、ある。因みに、やはり「大和本草」のまさに「石蟹」の次に「石蠶」が載り、そこには、

   *

石蠶 海濱ニアリヨク蠶ニ似タリ一ヅヽハナレテアリコレハ蠶ノ化シタルニハ非ス天然ニ生成セルナリ又石蠶ト云蟲アリ別ニ水蟲門ニノセタリ異類同名也

   *

とある。益軒の最後に言っているそれは、幸いにして既に「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」として電子化訳注済である。そちらについて、私は「石蠶」昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫(及びその砂礫を繫げた棲管)に同定している。ただ、ここで益軒の言っている海産の「石蠶」はよく判らぬ。当初、ナマコのアルビノ(白化個体)かとも考えたが、益軒は別に「海鼠」の項を設けており、そもそもぐにゃぐにゃのそれを石と取り違えることあり得ない。この益軒の言い方は「天然ニ生成セルナリ」とあって、「金玉土石」の部に入れる以上、益軒は石だと思ったほどに堅いことを意味している。とすると、可能性は二つと思う。軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科Serpulorbis属オオヘビガイSerpulorbis imbricatu か、或いは、死んだ珊瑚の骨格片である。しかし、彼が福岡藩士とは言え、福岡の海岸線にいつも珊瑚の骨格片がごろころ転がっていたとも思えない。取り敢えずはオオヘビガイとしておく

「石鼈(べつ)」同書には「石鼈」は載らない。不審。或いは先に示した「石蟹」の誤読ではあるまいか? 「鼈」は狭義にはスッポンを指すが、ここは亀の化石ととってよい。

「大螺(たいら)の小蛤(しようがう)を含(ふくむ)の類(たぐひ)」これは判るぞ。腹足類でも開口部の大きな大型の巻貝類なら、死貝のそこに、小型の二枚貝類の死貝群が多量に入り込んだ状態で化石化したに過ぎまい。どうってことないよ、崑崙先生。]

2017/08/13

北越奇談 巻之三 玉石 其二(水昌石)

 

    其二

 

 蒲原郡(かんばらごほり)河内谷(かはちだに)の奧、陽國寺(やうこくじ)より東南一里、山谷(さんこく)の間(あいだ)、流(ながれ)にしたがつて尋ね求(もとむ)るに、水昌石(すいせうせき)、甚(はなはだ)、夛(おほ)し。紫瑛石(しえいせき)・白(はく)瑛石、また、夛(おほ)し。此谷より、樵夫、日々、薪(たきゞ)を負(おふ)て五泉(ごせん)の市に賣(うる)。寛政の頃ならん、一日、樵夫、滑らかなる石の、大斗(と)のごとくなるを擔(にな)ひ來りて、市(いち)に賣(うら)んことを請ふ。一商家(いつしようか)某(それがし)なる者、其石の靑白色(せいはくしよく)に透き通り、しかも、水を包めるがごとくなるを以(もつて)、遂に樵夫に米五斗(と)を與へて求ㇾ之(これをもとむ)。曽(かつ)て、其奇石(きせき)なることを知ると雖も、又、如何(いかん)ともすること、なし。試に鐵槌を以つて、石頭(せきとう)を打(うつ)て是に穴を穿(うがた)んとするに、誤(あやまつ)て両断となす。忽(たちまち)、石中(せきちう)より淸水(せいすい)、傾出(かたむけいで)たり。これを見るに、中(うち)、自然に空所ありて、皆、水昌(すいせう)なり。其奇觀、絶品、云ふべからず。即(すなはち)、商人(しやうじん)、これを擔ふて東武賣る。見る人、惜しまずと云ふことなし。一日、雅客(がかく)來りて、是を十五金に求む。即(すなはち)、客(かく)の曰(いはく)、

「此石、兩斷とならずんば、正(まさ)に直(あたひ)千金なるべし。」

と云へり。

 

[やぶちゃん注:話の中心となる石は高級装飾宝石としてしばしば見る、所謂、「晶洞(しょうどう)」を持った石で、内部の結晶体だけでなく、その外側も半透明の美しいものである。晶洞とは堆積岩や火成岩玄武岩の内部に形成された空洞を指し、鉱山などでは俗称で「がま」などとも称される。ギリシア語で「大地に似た」を意味する「ジオード」が海外での一般的な呼び名で、内部には熱水や地下水のミネラル分によって自形結晶が形成される(以上はウィキの「晶洞」に拠った)が、外見は汚いごつごつした岩の塊りであることも多い。この場合は、その中の空洞に古代水を封入したレア物であったわけである。この水に魚が生きて住んでいる(無論、そんなことはまずあり得ないのであるが)ものは「魚石」などと称し、愛石家の幻の奇石とされる。この話はそこまでぶっ飛んではいないから、事実であったと考えて何ら、問題はない。

「蒲原郡(かんばらごほり)河内谷(かはちだに)の奧、陽國寺(やうこくじ)」これも先の「無縫塔」で注した現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。ここ(グーグル・マップ・データ)。崑崙はどうも固有名詞の表記に注意力を欠くきらいが有意にある。

「水昌石(すいせうせき)」ここは水晶というより、結晶体を形成する広汎な鉱石・玉石類の総称と考えてよい。

「紫瑛石(しえいせき)」「瑛」は「玉の光・水晶などの透明な美石」の意であるから、これは「紫水晶(アメジスト:amethyst)か。現在の本邦では宮城県白石市の雨塚山や鳥取県で産出されるという。因みに、私の三女アリスの血統書上の本当の名は「Amethyst」である(先代の次女のアリスは正真正銘「Alice」であった。)。

「白(はく)瑛石」二酸化ケイ素SiOが結晶した石英(quartz:クォーツ)。六角柱状の美しい結晶を成すことが多いが、その中でも特に無色透明なものを水晶(rock crystal:ロック・クリスタル)と呼び、古くから「玻璃(はり)」と称されて珍重されてきた。

「五泉(ごせん)の市」「市」は後でルビが振られるように「いち」。五泉の市街は永谷寺の西北三キロ強。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「東武」江戸の異称。

「雅客(がかく)」風流人。

「十五金」野島出版脚注では、『金十五両、一両を今の二万円とすれば三十万円に相当する』とするが、江戸末期であるから、もう少し安く(一万円未満)見積もってもいいかもしれぬ。

「千金」江戸末期の一両を最低額で現在の三千円とする換算でも三百万円、前の野島出版脚注の換算値を採用すると、二千万円相当にもなる。]

北越奇談 巻之三 玉石 (「博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物」リニューアル終了)

 

北越奇談 巻之三

 
        北越 崑崙橘茂世述
 
        東都 柳亭種彦挍合
 
 
    玉石(ぎよくせき)
 

[やぶちゃん注:これは実は昨年の丁度今頃(2016年8月8日)、前頭葉挫滅一周年記念として、

「博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物」

としてオリジナル現代語訳附きで電子化注している。今回、たまたまほぼ一年にしてここに辿り着いたので、本文を今回の原典に則って、再校合を行い、さらに注も総てに目を通して、ブラッシュ・アップした。画像もあり、容量が重いので、ここでダブってのせることはせず、以上の通り、リンクとして処理するものである。しかし、画像はどれも素晴らしい。是非、再度、ご覧あれかし。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十五 「蓑虫の火」 其十六{土用淸水」 其十七「白螺」 + 「新撰七奇」) / 巻之二~了

 

其十五 「蓑虫の火(ひ)」【虫の部にあらず。】何れの所にも限らず、細雨蕭條(しやうじやう)たる夜(よ)、蓑笠に、獨り、路過(みちすぐ)る者あれば、忽然として、蓑の毛(け)に蛍火(けいくは)のごとく光るもの付(つき)、是を拂ひば、忽(たちまち)、蓑毛一面に火移つつて、笠の雫(しづく)手足の濡れたる所まで、盡(ことごと)く光(ひかり)燐然たり。落(おつ)る雨(う)、皆、火をなすことなり。心を靜め、身を動ぜず、過(すぐ)る時は、又、自然に消ゆる。蓑にも限らず、傘(からかさ)・衣類等(とう)、相同じ。又、船中・湖水の中(うち)にもあり。狐狸の怪ならんと云ふ説あれども、左(さ)にあらず。是、鬼火(きくは)なり。「老學庵筆記」『田野(でんや)、麥苗(ばくみよう)・稻穗、雨夜(うや)、忽(たちまち)、火の起(おこ)るを見る。是、古戰場の燐火也』と記(しる)せり。相同じ。

[やぶちゃん注:この崑崙得意の鬼神鬼火原因説を採る発光現象の真相は不詳。当該の発光生物もこの条件ではピンとこない(しかも崑崙は蛍などの昆虫類などの発光説を否定している)。静電気でここまではっきりとは光らんだろうし、球電とか、大槻教授のプラズマ説なら、六十年も生きた私が今までに一回ぐらい見てもおかしくないだろうに、一向、見たこと、ない。識者の御教授を乞う。

「虫の部にあらず」所謂、この名称は、真正の生物としての「虫類(ちゅうるい)」(江戸以前の「虫類」は昆虫だけでなくて爬虫類や広汎な無脊椎動物及び創造生物まで含むので注意されたい)とは全く違う対象及び原因を指しているので注意されたい、という意味の割注である。

「是を拂ひば」ママ。こうした一見すると誤文法にしか見えないものは、今までにもしばしば見かけたが、これだけ多いと、或いは、当時の北越の方言なのかもしれぬ、という気もしてきた。

「老學庵筆記」南宋の政治家で詩人として知られる陸游(一一二五年~一二一〇年)の随筆集。全十巻。野島出版脚注によれば、凡そ『五百八十の項目で雑事を記す』とある。

是、古戰場の燐火也」先の「石鏃」の中の崑崙の鬼神説、「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」と相響き合う。]

 

其十六 「土用淸水(どようしみづ)」は古志郡(こしごほり)長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村【一谷内村と云ふ。】田間(でんかん)小高き所より淸水出る。年々(としどし)、六月土用入前(いるまへ)より、水少しづゝ出(いで)、土用中(ちう)には、淸水、溢(あふ)るゝがごとし。十八日を歴(へ)て、次第に、水、減じて、なし。一説、小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池中納言賴盛、攝津一谷落城の後(のち)、此國へ來り、蒲原郡(かんばらごほり)三条の城に入る。此頃、中沢村に至り、水を求るに、時、六月の炎暑當たり、無ㇾ得ㇾ水(みづをうることなし)。即(すなはち)、以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)、と。此説、伏波(ふくは)將軍、源賴義の傳に似て信じがたけれど、何(いづ)れ、此泉(いづみ)の奇賞すべし。

[やぶちゃん注:この清水の流出と停水は特定時期の自然現象という部分では説明し難い。或いは、この山上の明神で同時期に行われた(行われる)特殊な祭事や作業、周辺の農作業等の水路調節或いはその変更時期とリンクしているのかも知れない。以下のグーグル・マップ・データを見ると、当該地の東南直近にはかなり大きな池沼群を現認出来るから、これと何らかの関係がありそうにも思われる

「土用」五行に由来する暦の雑節で、広義には一年の内の不連続な四回のの期間、具体的には「四立(しりゅう)」(立夏・立秋・立冬・立春)の直前の約十八日間に相当する時期を指す。現行では専ら、「夏の土用」即ち、立秋の直前のみが取り沙汰されて鰻食を勧めるばかりに成り下がった。ここで述べているのも旧暦「六月土用」であるから、その時期である。

「長岡、蒼紫明神(あをしみやうじん)の山下(さんか)、中沢(なかざは)村蒼柴神社(あおしじんじゃ)」「蒼紫明神(あをしみやうじん)」は現在の新潟県長岡市にある悠久山山内にある蒼紫神社(新潟県長岡市悠久町)。ウィキの「蒼紫神社」によれば、当初は祭神である越後長岡藩三代目藩主牧野忠辰(ただとき)の『尊号の蒼柴大明神と呼称されたが、神仏分離令により現在の名称となる。創建当初は長岡城内にあったが、後に悠久山に移り、北越戦争で長岡城が落城すると一時期、栃尾に遷座するが終戦後に現在地に安置』。享保七(一七二二)年に既に隠居していた牧野忠辰が死去したが、『これを通達された京都の神祇道管領の吉田家より、故人忠辰に蒼柴霊神の神号が贈られる。このために養嗣子で当時の藩主牧野忠寿が長岡城東隅に社殿を造営して忠辰の霊璽を奉安したのが始まり』とする。明和三(一七六六)年に牧野忠精(ただきよ)が第九第藩主藩主となると、『社殿の城内からの移転が計画され』、最終的に天明元(一七八一)年八月八日に『遷宮式が行われて現在地に移転』したとある。本書刊行は文化九(一八一二)年であるから、この社殿は現在地と考えてよいここ(グーグル・マップ・データ)。

「小松内大臣平(たいらの)重盛の舍弟池ノ中納言賴盛」トンデモ誤り「小松内大臣平(たいらの)重盛」(保延四(一一三八)年~治承三(一一七九)年)は平清盛の長男であり、「池ノ中納言賴盛」は清盛の異母弟平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)のことである。頼盛は清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も、唯一、生き残った人物として知られるが、頼盛は後白河院の命を受ける形で実は秘かに源頼朝と通じていたと考えられ、源平の最終合戦前後も一貫して頼朝から厚遇されている。彼は源平合戦開始後も京に残留し、木曾義仲の京都制圧(寿永二(一一八三)年七月末)から数ヶ月後、鎌倉に亡命(鎌倉到着は閏十月頃か)しており、その後、翌年には京に戻って朝廷に出仕している。元暦二(一一八五)年三月、平氏一門は壇ノ浦の戦いで滅亡するが、それから程なく頼朝に出家の素懐を申し送って了承を得、五月二十九日に東大寺で出家し、法名を重蓮と改め、翌年、享年五十四で病没(推定)している。晩年の彼は京では全くの「過去の人」であった。無論、彼が越後に行ったという事実は全くない。行く必要もない但し、越後には「越後池氏」という平頼盛の後裔を名乗る一族がおり、また、新潟県には平頼盛の伝説を伝える地が多く存在することも事実ではある。ウィキの「池氏によれば、『出自については、実は平氏ではなく高志池君(垂仁天皇の末裔を称する皇別氏族)の子孫であったとする説もある』とあり、親不知に伝わる伝承では、『壇ノ浦の戦い後に助命された頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていたとされ、現在でも』「池」姓は『新潟県中越地方に多い苗字である』とある(下線やぶちゃん)。ここにも出る『三条、蒲原郡周辺には越後池氏の伝承が多く伝えられているが、確実な史料での初見は池宮内大夫頼章、頼定兄弟相論への幕府による裁許の』弘安一一(一二八八)年の関東下知状で、この当時、『池氏は下総大夫盛氏を惣領地頭とする福雄荘(新潟県燕市)の一分地頭であり、弥彦神社の神官も務めていた』。元応二(一三二〇)年のクレジットを持つ『池新大夫為定が関東御公事の勤めをはたすことができないとの理由で所領を譲り渡している史料』『から、池一族は吉河荘(長岡市)にも所領を領有していたことがわかる。越後池氏に関しては、出自を含め不明なことが多いとされるが、近年、福雄庄や吉河庄が関東御領の可能性があると考えられること、「池大納言所領相伝系図」』『では、池大納言家保業流の維度、宗度は河内大夫と通称しており、越後池氏の一族も「大夫」を通称としていることなどから、関東祗候の家であった保業流の一族が越後に入部した説も唱えられている』元弘三(一三三三)年。鎌倉幕府滅亡の際、『討幕軍に参加した越後勢として池七郎成清』『の名が認められる』。『鎌倉後期には関東御領の多くが北条氏領とされているが、前述の池兄弟相論の地は最終的には北条氏の護持僧の所領とされており、北条氏に圧迫され』て『所領を奪われていったことが、池氏が討幕軍に参加した理由ではないかと推論されている』。『南北朝時代には南朝方として三条周辺や山古志に勢力を持ち、北朝方の中条氏らと争った記録がみられる。のちに北朝方となり足利尊氏に従った』とあるので、この話、この「池」一族が頼盛の末裔を僭称するために捏造した話として読み換えるなら、腑に落ちる

「攝津一ノ谷落城」「鵯越の逆落とし」で知られる「一ノ谷の戦い」は寿永三/治承八年二月七日(一一八四年三月二十日)、摂津国一ノ谷(現在の神戸市須磨区内)で行われ、搦手の大将源義経が丹波城(三草山)を、次いで、一ノ谷を落した。平氏は屋島へと敗走して鎌倉方の完全勝利に終わった。

「蒲原郡(かんばらごほり)三条の城」既出既注。既に本書の頃は廃城(寛永一九(一六四二)年の幕命による)となっており、往時の城は現在の新潟県三条市上須頃(かみすごろ)の附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。

「中沢村」現在の新潟県三条市中沢であろう。三条城跡から南東に九キロメートルほどの山中。

「以ㇾ杖(つえをもつて)、地を刺して得ㇾ之(これをう)」これは弘法大師お得意の奇瑞。

「伏波(ふくは)將軍」新末期から後漢初期の武将馬援(紀元前一四年~四九年)のこと。後漢王朝の初代皇帝光武帝の強い信頼を受け、多くの反乱を征討した。四〇年に交州(現在のベトナム北部附近)で徴姉妹が反乱を起こしたが、翌年に伏波将軍に任ぜられてこれを鎮圧している。「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。

「源賴義」源家のチャンピオン源義家の、彼とともに前九年の役で安倍貞任を討ち、安倍氏を滅亡ささせたことで知られる義家の父源頼義(永延二(九八八)年~承保二(一〇七五)年)。同じく「杖刺し水湧く」に類する彼の故事は知らぬ。識者の御教授を乞う。]

 

其十七 「白螺(しろたにし)」。前に記(き)する古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)にあり。他邦の人、至(いたつ)て是を見んことを求むれども、村老(そんらう)、敢て、許さず、「今は、なし」と答ふ。是、地神(ちじん)の惜しむ所にして、山、大に荒(ある)る故なり。六月、雪を下(くだ)し、風雨・洪水あり。故に、恐れて、樵夫(しようふ)も、猶、至らず。今は他邦の人に池を見することだに、許さずと云へり。弱冠の頃、四月廿四日、此所(このところ)に至(いたり)て、路を失(しつ)し、黄昏(たそがれ)に吉ヶ平(よしがひら)に出(いで)、宿を求む。翌日より、風雨激しく、六日まで留宿(りうしゆく)せしが、其中(そのうち)、村老に請(こふ)て、山中七池水(ちすい)、盡(ことごと)く見物せり。

白螺(しろたにし)は田螺(たにし)の白きものなり。

[やぶちゃん注:「白螺(しろたにし)」既出既注であるが再掲しておく。腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae の殻色は白っぽい感じから淡褐色であって、大型個体になると、殻の表面が剥げてそこが有意に白っぽく見える個体も多い。但し、私は、ここで村民が殊更に隠すというのは、実はタニシの生体個体ではなく、鮮やかに白くなった山上の地層や池塘の底から出土する化石化したタニシではないかという疑惑を持っている。孰れにせよ、奇ではない。

「古志郡(こしごほり)諏門山(すもんさん)芦ケ平村(あしがひらむら)馬追ケ池(むまおひがいけ)」よく判らんが、この「諏門山」というのは現在の新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る守門岳(すもんだけ:標高千五百三十七・二メートル)のことではないか? ここ(グーグル・マップ・データ)。山岳家の個人サイトを縦覧して見ると、三条市になるこの守門岳から北に連なる尾根を行った直線で五キロほどの位置にある番屋山の北側の登りの沢の名を「馬追沢」と呼んでいることが判った。しかも、さらに地図を精査してみたところが、この番屋山から北東一帯は新潟県三条市「吉ケ平(よしがひら)」ここ(グーグル・マップ・データ))なんである! これこそ「芦ケ平(あしがひら)」「吉ヶ平(よしがひら)」と考えてよかろう!! そうして! 遂に! この吉ヶ平の北地区にある「雨生ヶ池」は「まごいがいけ」と読むことを突き止めた!! 「まごいがいけ」は「むまおひがいけ」だろッツ!! こういう発見は地図好きには、何とも! こたえられない快感なんである!!!

「地神(ちじん)」(「ちがみ・ぢがみ」とも)「ブリタニカ国際大百科事典」から引く(コンマを読点に変更し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『日本の農村で特定の集団と関係する縁起をもち、特定の土地に祀られる機能神の総称。祖先信仰を基盤に、歴史的地域的に多様な信仰と結びついて発展を』遂げた『全国的規模の信仰であるが、呼称は地方によって異なる。信仰内容から次の三種に類別することができる。(一)一村または一集落単位の地縁集団が、土地の守護、農耕の神として祀る。包括神的性格を』持ち、『村の辻や神社の境内などに祀り、春秋の彼岸を祭日とする。地神講と称する講を組織する地方もあり、順番に宿をして祭りを行うこともある。(二)特定の家の田畑などに祀り、その田や畑を開拓した人を地神とするもの。田畑の守護神であると同時に、その家の開拓先祖として信仰されることが多く、祭場を屋敷内に』置いて、『屋敷神としての機能をもつことがある。(三)家人が死んで三十三年を経過すると、地神と呼ぶ祖先神になるというもの。多くは屋敷の一隅に常設の祠(ほこら)や』藁で作った『仮屋に祀る』。

「山中七池水」現在の三条市吉ケ平にも「雨生ヶ池」の他に「大池」を現認出来、さらに国土地理院の地図を精査すると、この二つの池の間を流れる守門川の両岸には二つの小さな池塘も認められた。最後に! 「まこと&かよこの山記録」という個人サイト内で吉ヶ平歴史散策ツアーというページを発見! 多分、私は実際に行くことはないこの「雨生ヶ池」の写真を見ることが出来た!!! 感無量!!! 因みに、その解説に『番屋山の下の文字に馬追沢とある』。『この池は馬が追われて池に落ちたとの説もあり』、『池の源流は馬追沢という名になっているとの事』(下線やぶちゃん)とある。

 なお、以下の最後の総括附言は、原典では全体が二字半下げになっている。この附記は崑崙の智に対する非常な厳密さと謙虚さを如実に示している。崑崙先生! わて、好きやねん!!!]

 

今の七奇を撰(ゑら)ばんとするに、古(いにしへ)の七奇の内(うち)、捨(すつ)べからざるもの、あり。新に加(くはへ)んと欲する物、あり。然(しか)れば、假令(たと)へ、今、他邦に同(おなじ)奇(き)を出(いだ)すと雖も、奇なるものは、即(すなはち)、奇なり。又、後(のち)の人、時の重きに從つて、後の七奇を撰述(せんじゆつ)し給ふべし。

 

 

 

    新撰七奇

 

「石鏃(せきぞく)」

「鎌鼬(かまいたち)」

  此二奇、古の「海鴨」・「白兎」に易る。

  新撰、「海鳴」は常に聞くべからず、

  「白兎」は近國、余類、甚だ多き故、

  除ㇾ之。

「火井(くはせゐ)」

「燃土(もゆるつち)」

「燃水(みづ)」

「胴鳴(ほらなり)」

「無縫塔(むはうとう)」

  此五奇は古より賞称するところをあらためず。

 

    右

 

北越奇談巻之二終

 

[やぶちゃん注:底本は解説部分全体が二字下げであるので、以上のような改行を施して原典の雰囲気を出した。無論、鍵括弧は原典にはなくて単に字空けで繋がっている。野島出版版では字空けなしで中黒が名数の間に打たれてある。最後なので贅沢にそれぞれ改行して並べ、ポイントも大きくし太字とした。

「易る」「かへる」。

「新撰」今回の私の提示する「新撰七奇」では、の意で、以下、「海鳴」は最近ではもう殆んど全く聴くことがなくなってしまった故、また「白兎」は越後の近国でも同様の毛の季節変化を示す兎が非常に多く見られることから越後固有の「奇」とは認められぬから、「除ㇾ之」(これをのぞく)と述べているのである。

「燃水(みづ)」「もゆるみづ」。

「古」「いにしへ」。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート13 其十四 「風穴」)

 

其十四 「風穴(かざあな)」【「風洞」。】。三島郡雲上山(うんじようざん)國上寺(こくじようじ)弥陀堂の後(うしろ)、絶壁の下(した)に、經(わたり)、尺ばかりなる岩穴(いわあな)ありて、風を出(いだ)すこと、扇風(せんふう)の力(ちから)に比(ひ)すべし。俗説に、角田濱の洞口(とうこう)に相通じて此奇をなす、と云へり。其間(あいだ)、凡(およそ)、伊夜日子山(いやひこやま)を隔(へだて)て三里餘りなり。此説は、とるに足らざれども、又、外(ほか)に風の通ふべきと思ふ所だに、なし。即(すなはち)、地中深く大空所(だいくうしよ)ありて、自然に氣を發するものか。又、地中泉脉(せんみやく)の通ずる所か。只し、大山(たいさん)を穿(うがち)て溪間(けいかん)に通じたるか。又、頸城(くびき)難波(なんば)山にも風洞(ふうとう)ありと。未ㇾ見(いまだみず)。「水經(すいけい)」河水南逕北屈縣西十里風山、山上有ㇾ穴如ㇾ輪風氣蕭瑟たり、と。即(すなはち)、雲上山の風穴(ふうけつ)、これ劣らず。

[やぶちゃん注:後に注する角田浜の直近にある「角田山妙光寺」の公式サイト内の、小川英爾聖なる山と妙光寺の中の『妙光寺の裏手に〝岩屋″と呼ぶ大きな洞窟があ』り、『この岩屋の奥は国上山にある真言宗国上寺の本堂裏手に今も開いている風穴に通じ、岩屋の焚き火の煙が出てきたとか、追い込んだ犬が出てきたという伝説が双方に残っている。この国上寺は越後一の古刹としてかつて修験道の中心道場であり、弥彦神社とも深い繋がりがあった』(下線やぶちゃん)とあることから、この弥陀堂(本堂)の裏手には今もこの風穴があることが判った。なお、ウィキの「風穴によれば、『風穴は洞窟の内外で生じる気温差や気圧差により風の流れが生じ、洞口(洞窟の開口部、出入り口)を通じて体感的に速い大気循環がある洞窟の一形態で』、『比較的新しい時代の火山岩(溶岩台地、等)や石灰岩(カルスト地形』『等)が広がる地域や、海食崖が連なる海岸付近では特徴的に見られる』。『地中の空洞が、高低差のある複数の開口部で地表と結ばれている場合に風穴現象が起きやすい。冬場、空洞内で比重が軽い温かく空気が上方の温風穴から吹き出し、その分、冷たい外気が下方の冷風穴から吸い込まれる。日光が射さない空洞内の空気と岩盤は温度が上がりにくいため、夏になっても冷気が漏れ出る仕組みである』とあり、現象としては奇とするに足らぬ。

「三島郡雲上山(うんじようざん)國上寺(こくじようじ)」現在の新潟県燕市国上(くがみ)にある、和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる、越後最古の古刹とする真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。山号は誤り(同寺北のピークである山は寺名と同じ国上山)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。さらに調べてみると、面白いことが判った。何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。さても! このどこに繋がっているか判らぬ妖しい国上の「風穴」こそは、まさにその「鬼穴」そのものではなかろうか?!

「角田濱」既出既注。新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。国上寺からほぼ真北へ十二キロメートル離れている。

「伊夜日子山(いやひこやま)」既出既注の弥彦山。国上寺寄りにある。

「只し」ここは条件や例外を附すそれではなく、副詞「ただ」を強めただけの「もしかしたら」という仮定用法。

「難波(なんば)山」既出既注。上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「水經(すいけい)」中国の河川について簡略に記した地理書。撰者は前漢の桑欽とも晋の郭璞とも伝えるが、未詳。三国時代頃の成立かと思われる。一般には、北魏時代に官僚で文人であった酈(れき)道元がそれに注を施した「水經注」(推定で五一五年成立)で知られる以下の崑崙の引用も、その「水經注」の「河水四」にある一節である。

河水南逕北屈縣西十里風山、山上有ㇾ穴如ㇾ輪風氣蕭瑟たり」「河水の南(みなみ)、北屈縣(ほつくつけん)の西十里を逕(へ)て風山(ふうざん)有り、山上(さんしよう)、穴有り、輪(りん)のごとし、風氣(ふうき)、蕭瑟(しようしつ)たり」。中文サイトで見ると、原文は「屈縣故城西、西四十里有風山上、有穴如輪、風氣蕭瑟、習常不止。當其衝飄也、略無生草、蓋常不定、故風之門故也」と続きがある。「輪」は馬車の車輪の大きさほどの謂いか。「蕭瑟」(発音は確かに「しょうしつ」であるが、歴史的仮名遣では「せうしつ」が正しい)は秋風が寂しく吹く形容。]

2017/08/12

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート12 其十三 「八房梅」)

 

Yatuhusanoume

 

[やぶちゃん注:落款「茂」「世」で橘崑崙自筆の絵であることが判る。左にあるキャプションは、

 

親鸞上人の

 旧跡八ツ房の

  梅の図

 

である。]

 

其十三 「八房梅(やつぶさのむめ)」。蒲原郡(かんばらごほり)小島村にあり。即(すなはち)、親鸞上人の旧跡【一坐論梅なり。】。今、猶、所々にあり。例へば、いづれの説にもせよ、誠に五百年來の古木にして、老根、如ㇾ虎(とらのごとく)屈し、枝々(しし)、如ㇾ龍(りやうのごとく)蟠(わだかま)りて、一根、八木(はちぼく)に分(わか)れ、天を指し、地を掃(はらつ)て、雅致(がち)、云ふべからず。其花、淡紅(たんこう)八重の大輪(たいりん)、枝々(しし)、坐(ざ)を爭(あらそ)ふて開き、其(その)淸香(せいかう)、芬然(ふんぜん)として數里(すり)に匂(にほ)ふ。遍(あまね)く諸國の老梅(らうばい)を見ると雖も、其奇勢(きせい)、是に對するもの、なし。其實(み)、塩(しほ)の氣(き)を帶(おぶ)るなど云へるは、敢て論に及ばず。

[やぶちゃん注:親鸞絡みの「越後七不思議」の一つ。現在の阿賀野市小島にある浄土真宗梅護寺((グーグル・マップ・データ))に現存する梅。天然記念物。親鸞が梅干の種を庭に植えて歌を詠んだところが、翌年、芽が出て、枝葉が茂り、薄紅の八重の花が咲き、一つの花に実が八つずつ実るようになったと伝える。これは梅の一品種で、花は白く、八重咲き。雌蕊(めしべ)が数本(十本という記載もある)あって、事実、一つの花に四個から七個(最初期には十個)の実を結ぶ(但し、ネットで調べてみると、成長途中で落果し、重量の関係からも最終的には概ね一つか二つになることが多いようである)。本文にもあるように、別名を「座論梅(ざろんうめ/ざろんばい」とも呼び、花の見頃は四月中旬、結実の見頃は五月から六月上旬とある。

「今、猶、所々にあり」これは同品種の梅が崑崙の時代に既に、この梅護寺以外に各所に植わっており、それぞれに伝承が付随していたらしいことが、これによって判る。

「五百年來の古木」親鸞が赦免されるのは配流から五年後の建暦元(一二一一)年十一月十七日で、その三年後の建保二(一二一四)年に東国布教のために家族や性信などの門弟とともに越後を出発、信濃の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かっている。本「北越奇談」の刊行は文化九(一八一二)年であるから、最短でも「五百年」どころか「五百九十八年」で、ここは「六百年來」とするのが正しい

「芬然(ふんぜん)」はっきりとよい香りの立つさま。香しい匂いがしきりに漂うさま。

「其實(み)、塩(しほ)の氣(き)を帶(おぶ)るなど云へる」元が芽生えるの筈がない塩漬けの梅干しのその「種」であったからというのであろう。崑崙の言う通り、こげなことは「敢て論に及ばず」じゃて!]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート11 其十二 「七ツ法師」)

 

其十二 「七ツ法師」。八ツ滝(だき)、頸城郡高田の南、難波山にあり。未(や)ツの時、日、西に旋(めぐる)頃、はじめて、滝、白く見え渡り、申(七ツ[やぶちゃん注:ルビ])の時に至れば、即(すなはち)、滝の中央、黑く、法師の形、現はれ出(いづ)ツ。其邊(ほとり)、さらに此(この)影(かげ)を成す。岩だになし、と云へれど、西國、影向(えうがう)の瀧に不動尊の形、現はるゝと云ふがごとく、遠近(ゑんきん)の岑(みね)・高樹の陰など、相(あひ)映じて其形を成すなるべし。今町八幡(いままちはちまん)にて、是を見る。奇とするには足らざれども、景色(けいしよく)、甚だ、よし。又、糸魚川(いとゐがは)の邊(ほとり)に「牛形(うしなり)」とて、奇とす。雪解(ゆきどけ)の頃、黑く山畔(やまのくろ)に見ゆる。即(すなはち)、大石(たいせき)ありて、殘雪の中に先(まづ)ツ顯(あらは)るゝならん。

[やぶちゃん注:「八ツ滝(だき)、頸城郡高田の南、難波山にあり」上越市の高田地区の南西方の山岳地帯に三つのピークがあり、北西から南東に順に「青田難波山」(あおたなんばさん)・「南葉山(なんばさん)」・「籠町南葉山(かごまちなんばさん)」と呼ばれる(ここ(グーグル・マップ・データ))。この滝がそれらのどこにあるかは不詳だが、蓑上誠一氏のサイト「峠と旅」の「南葉山峠(仮称)」というのはこの近くのロケーションと思われ、そこに「よもしろうの滝」というのが写真入りで出る。ここは一つ、候補としてよかろう。他にここだというところを知っておられる方は、是非、御教授願いたい。

「未(や)ツの時」未(ひつじ)の刻で午後二時前後。

「申(七ツ)の時」申(さる)の刻で午後四時前後。

「岩だになし」そのような翳をそこに落し得るようなちょっとした岩さえも全くない。

「西國、影向(えうがう)の瀧に不動尊の形、現はるゝ」不詳。一つの候補として現在の京都府京丹後市大宮町谷内にある三つ(現在は一つが崩壊して二つ)からなる竜洞滝の内の落差六メートルの「影向滝」(別名「昇竜の滝」)を上げておく。現在、滝脇に不動尊像を祀る。ホージローサイト「全国滝」を参照した。

「今町八幡(いままちはちまん)」現在の新潟県見附市今町か。(グーグル・マップ・データ)。但し、同地区には現在、八幡社はない。識者の御教授を乞う。

『糸魚川(いとゐがは)の邊(ほとり)に「牛形(うしなり)」とて、奇とす』糸魚川((グーグル・マップ・データ))の南東に妙高山(みょうこうさん:所属は新潟県妙高市で標高二千四百五十四メートル)があるが、これは以下で「雪解(ゆきどけ)の頃、黑く山畔(やまのくろ)に見ゆる。即(すなはち)、大石(たいせき)ありて、殘雪の中に先(まづ)ツ顯(あらは)るゝならん」と崑崙が述べているように(但し、必ずしも大石があるわけではない)、雪が部分的に溶けて、地肌が牛の形(或いは馬)に見えるシミュラクラ現象で、雪国ではこの雪形を以って種蒔きや春耕開始の目安とするという呪的な意味があった。「上越タウンジャーナル」の妙高山の雪形「跳ね馬」の横に「牛形」現れるをご覧あれかし! 「牛形」の写真有り!! 下方の過去記事でも同様の過去の現象が見られるよ!!!]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート10 其十一 「即身仏」)

 

其十一 「即身仏」。三島郡野積濱(のづみのはま)最上(さいしよう)寺、弘智(こうち)法印の肉骨(にくこつ)也。又、津川駅(つがはのえき)玉泉寺、淳海(じゆんかい)上人、の入寂(にふじやく)の相(さう)、今に不ㇾ朽(くちず)、現然たり。赤水子(せきすいし)、是を説(せつ)す。其(その)戲言(げげん)、一笑に堪(たえ)たり。佛(ぶつ)を學(まなば)ん人、此(この)言下(ごんか)を味ふべし。是等の事を以つて七奇に加(くはへ)たるは、民間の俗、七奇を不ㇾ知(しらず)、卒時(そつじに)、他邦の客(かく)に問訊(もんじん)せられて、是非なく、思ひ出るに任せ、即答に備(そな)ひたるものと覺ゆ。

[やぶちゃん注:「三島郡野積濱(のづみのはま)最上(さいしよう)寺」現在の新潟県長岡市寺泊野積(ここ(グーグル・マップ・データ))にある真言宗智積院西生寺(さいしょうじ)の誤り。

「弘智(こうち)法印」野島出版脚注に、現在の千葉県匝瑳(そうさ)市大浦に当たる『匝瑳村鈴木五郎左ヱ門の二男』として生まれたが(円生寺公式サイトの記載によれば鎌倉時代(西暦一二九〇年代)、『出家して各寺院の住職』となった『後、行雲流水の修行に出て、最後は』先の野積の『西生寺の奧の院不動ヶ滝で、佛教の不二の法門を求め、貞治二年十月二日(一三六三年)に入定』した、とある。詳細事蹟は円生寺公式に詳しい。

 

「津川駅(つがはのえき)玉泉寺」場所を探すのに往生した。グーグル・マップ・データに載らないからである。「BSNホームテレビの「新潟名刹紀行の「番組ブログでやっと発見(地図有り)。それによれば「東蒲原郡阿賀町津川三二四五」が現住所である。

「淳海(じゆんかい)上人、の入寂(にふじやく)の相(さう)、今に不ㇾ朽(くちず)、現然たり」即身仏の個人サイト「とりねこ」のによれば、寛永一三(一六三六)年の入定(七十八歳)であるが、残念なことにこの即身仏は明治一三(一八八〇)年に発生した津川大火の際に消失してしまっており、『現在は遺骨だけが安置されている』という。皮肉なことに淳海上人の即身仏は『火除けにご利益があるとされて信仰されていた』という。淳海上人の細かな事蹟は不詳であるが、その即身仏の『特徴として、土中入定をしていない点と堂に安置されたという点があげられる。これらの特徴は平安時代の初期即身仏や高野山系即身仏と共通するものである。淳海上人の安置される寺の親戚筋の寺院のすぐ近くに』崑崙が先に掲げた『弘智法院の西生寺があること、高野山と湯殿山両方で修行したことなどから、淳海上人が近畿から東北へと即身仏信仰を伝播させた役割を果たしたものとみられる』ともある。

「赤水子」水戸藩の学者長久保赤水。複数回、既出既注。

「其(その)戲言(げげん)、一笑に堪(たえ)たり。佛(ぶつ)を學(まなば)ん人、此(この)言下(ごんか)を味ふべし」赤水の原文が何なのかも不明で、当たることが出来ないから、はっきりしたことは言えないが、この「戲言(げげん)」「一笑に堪(たえ)たり」「佛(ぶつ)を學(まなば)ん人」は読んだら、さぞかし、ためになるだろうよ、といった所謂、強烈な侮蔑に満ちた言い方から見て、恐らくは水戸学の赤水にして、この淳海上人の入定と即身仏を例外的に、好意的に褒め讃えているのであろうと私は読む。崑崙、一筋繩ではいかぬ人間である。

「是等の事」指示内容の範囲が不明。一応、前の親鸞絡みの「逆竹」と、この「即身仏」以下、次の「七ツ法師(ほうし)」や、やはり親鸞絡みの「八房の梅」といったキテレツ系仏教の条々と限定しておく。胡散臭い仏教系のそれらなど「奇」とするに足らぬ、凡愚の俗人は、すぐ坊主の話をありがたいと思い込むから手におえない、という崑崙の依怙地な節(せつ)が伝わってくる附言である。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート9 其十 「逆竹」)

 

其十 「逆竹(さかさたけ)」。新潟の上鳥屋(かみとや)村にあり。是、鸞(らん)上人の旧説にして、今なを竹篁(ちくこう)幽遠(ゆうゑん)たり。昔は逆生(ぎやくせい)の竹もありしと云へり。今は絶てなし、と。七奇にはあらず。

[やぶちゃん注:先に注した総てが親鸞聖人絡みの動植物奇瑞七不思議の一つ。ウィキの「越後七不思議によれば、『新潟市中央区鳥屋野』附近((グーグル・マップ・データ))に植生する『国指定の天然記念物』とされている(大正一一(一九二二)年指定。指定名称は「鳥屋野逆(とやのさかさ)ダケの藪」)『枝が下向きに生える』ハチク(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科マダケ属クロチク変種ハチク Phyllostachys nigra var. henonis)の変異(奇形)種。『親鸞が竹杖を逆さに土に挿したものに根が生えたと伝える』。『竹の枝垂れは他にほとんど例がなく、極めて珍しい奇形であることから』天然記念物指定となったものである。『竹が枝垂れる原因については、長期間にわたって狭い範囲に密生して生育することによる影響や、豪雪による積雪量の多い期間が長いことによる中空の竹枝の耐久性などの因果関係が議論されてきたが、未だに確定的なものはない』『近隣に所在するゆかりの寺である』浄土真宗西方寺(先のリンクの先の地図の原「西方寺跡」の西南西約三百メートルにある)『には、標本』(引用元に画像)『が保存されている』とある。実地に行き、天園記念物の生体のそれを確認されたい方はジオテクサービス株式会社公式サイト内の「鳥屋野の逆さ竹が現地の詳細地図や生態の附図など、異様に詳しい。これ、読んでいると、私も気儘な身なら行ってみたく思うほどマニアック!

「竹篁」「篁」は「たかむら」で「竹叢」、竹藪のことであるから、竹が群がって生えている竹林のこと。

「幽遠」奥深い雰囲気を持っていること。ここは親鸞の奇瑞ということを多少は好意的に意識して語ったものであろう。前にも指摘した通り、崑崙は本章の中で親鸞絡みの七不思議の中の「三度栗」と「逆さ竹」と「八房(やつふさ)の梅」を採用しており、特に最後の「八房の梅」は自筆の絵も添えている。弘法大師や日蓮に対する超辛口の口舌に比すと、親鸞に対してはそうした棘は感じさせない。崑崙は或いは私のように、浄土真宗は信仰しないものの、親鸞個人に対しては親しみを感じていたのかも知れぬ。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート8 其九 「塩井」)

 

其九 「塩井(えんせゐ)」。三島郡与板(よいた)より西南、山の中、塩(しほ)の入坂(いりさか)、澤中(たくちう)出ず。又、栃尾(とちを)の東、山の間(あひだ)、塩中村(しほなかむら)溪流の中(うち)に井(ゐ)あり。其村には是を汲(くん)で食用に當(あつ)。其井水(せゐすい)を味ひみしに、甚だ、鹹(しほはや)し。俗、是を弘法大師の舊跡と云へり。水戸赤水子(みとせきすいし)、前の火井(くはせゐ)を賞して曰(いはく)、「此奇、獨り浮屠子(ふどし)の眼(まなこ)に觸れざるこそ、幸ひなれ」と、かゝる俗説を破る。好語(こうご)と稱すべし。又、享保十三戊申二月に、魚沼郡新保村(うほぬまごひりしんぼむら)庄屋半左衞門、庭隅(にはのすみ)の石の下より白塩(しろきしほ)を吹出(ふきいだ)して、日々に數升なりしが、一ヶ月ばかりにして自然に減じ、止みぬ。是等(これら)も地塩(ちゑん)の凝結せるものか。「代醉編(たいすいへん)」に木塩(ぼくしほ)等(とう)の説を擧ぐ。他邦にも塩井(ゑんせゐ)の奇は夛しと云へり。然(しか)れども、其中(うち)、石塩(せきゑん)は最(もつとも)奇なり。

[やぶちゃん注:以下に見る通り、ここは内陸部である(海岸線から七キロメートルは離れており、間には三つの丘陵や山地があってその内陸の三番目の東側の山麓に当たるから、海水が浸入した井戸とはちょっと思われない。寧ろ、先の「湧壷」の注で私が示した地下の帯水層中に液体のままの昔の海水が貯留している(化石海水)ものが湧き出しているか、その滞留部分を掠めた形の地下水脈があって、それにその化石海水が少しずつ混入していると考えた方が自然な気はする。無論、既に化石海水の水分が無くなって塩化したものを掠めて水脈があるとしてもよい(但し、後注で示すように、日本には大規模な「岩塩層」は存在しないので注意されたい)

「三島郡与板(よいた)より西南、山の中、塩(しほ)の入坂(いりさか)」現在の新潟県長岡市与板町与板。新潟県公式サイト内の「塩之入峠良寛歌碑」を見ると、この中央のトンネル附近(グーグル・マップ・データ)が「塩之入峠」となるが、不審。現在の与板市街から見て、ここは西北に当たるからである。崑崙の謂いが正しいとするなら、ここよりもずっと遙か彼方の南にまで下がらなければならないと私は思うのだが?

「栃尾(とちを)の東、山の間(あひだ)、塩中村(しほなかむら)」地図を拡大して探し続けた結果、やっと発見した。新潟県長岡市塩中。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の栃尾(新潟県長岡市栃尾町)市街地からは八キロ以上東北の山中で、塩谷川(しおたにがわ)添いである。この附近の地名には「塩新町」「下塩」「上塩」などと塩のつく地名が多く、しかもそれらは孰れも「塩中」の下流であるから、或いはこの「塩中」の「中」は「上・中・下」の「中」なのではなく、まさに崑崙の言うように、そこの「溪流の」「中」に塩水の「井」がある、という意味の「中」ではあるまいか?

「鹹(しほはや)し」塩からい。しょっぱい。

「水戸赤水」水戸藩の地理学者で漢学者の長久保赤水。既出既注。ここの内容も含めて「古の七奇」の中の「其七 火井(くはせゐ)」を見よ。

「此奇、獨り浮屠子(ふどし)の眼(まなこ)に觸れざるこそ、幸ひなれ」「浮屠子」は僧侶や仏教徒を指す。水戸光圀を濫觴とする水戸学は儒学思想を中心として国学・史学・神道を結合させたもので、外来伝来のくせに国家を支配した仏教に対し、極めて批判的であったから、水戸藩侍講であった長久保赤水もその強い影響下にあった。先の箇所では「赤水の博識には淺々しき説と云ふべし」と徹底的に論難していたのが、ここは一転して「かゝる」坊主絡みの「俗説を破」った(この「破」るとは、他の例のように「火井」が弘法大師や親鸞や日蓮といった糞坊主の阿呆奇瑞に馬鹿馬鹿しく牽強付会されることを免れたのは不幸中の幸いだったとそうした信じるに値しない抹香臭い俗世間の作り話を喝「破」(かっぱ)したことは、まさに「好語(こうご)と稱すべし」(言い得て妙の的を射た名言である)と諸手を挙げて称(たた)えているのである。このことから見ても、崑崙は国学系のシンパサイザーであったことが判明すると言えるのではあるまいか?

「享保十三」一七二八年。

「戊申」「つちのえさる/ボシン」。

「魚沼郡新保村(うほぬまごひりしんぼむら)」複数箇所の候補地があるので確定出来ぬ。識者の御教授を乞う。

「代醉編(たいすいへん)」先に出た「琅耶代醉(ろうやたいすい)」(野島出版脚注に『四十巻。明の張張鼎思が撰したもので経史の考証を随録したものだという』とある、私も調べては見たがよく判らん書物である)であろう。

「木塩(ぼくしほ)」出典元が不詳なれば、これも不詳。

「石塩(せきゑん)」岩塩のことか。本邦では岩塩が採掘されている話を全く聴かないが、これは日本がモンスーンの影響を受けてきた森林帯の島嶼だからである。岩塩は塩湖が地殻変動で岩石化したものを指し、塩湖は雨季と乾季の雨量が極端に異なる地域でのみ形成される。即ち、本邦には地質年代史上、砂漠のような乾燥地帯の大規模な形成が過去に一度も存在しなかったため、大きな岩塩床も存在しないのである(以上はQ&Aサイトの回答を参考にした)。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート7 其八「湧壷」)

 

其八 「沸壷(わきつぼ)」【「熱壷(ねつつぼ)」なり。】蒲原郡柄目木村(かんばらごほりからめきむら)【即、油の湧く所。】十丁計(ばかり)隔(へだて)て、山の尾上(おのへ)、丘の引𢌞(ひきまは)りたる所、經(わたり)四、五尺の井あり。其中(なか)、水、自然に高く沸上(わきあが)ること、二、三尺、外(ほか)に漏るゝ所もなく、更に增減なし。是は越中立山、南部怖山(おそれざん)等(とう)のごとし。即(すなはち)、地中、硫黄(ゐわう)の氣(かざ)或ひは臭水油(くさみづのあぶら)の氣(き)、泉脉(せんみやく)を押して此動搖をなすなるべし。先ツ「寰宇記(くはんうき)」に云咄泉(とつせん)の類(たぐひ)なり。

[やぶちゃん注:これは「熱壷」とある以外は、温泉を感じさせない。所謂、通常の水温の井戸でありながら、気体がぼこぼこと湧き上がっており、水位の増減が無く、その井戸から流れ出る川筋なども全くないというのであれば、これはやはり前章に出た「古の七奇」の「其七 火井」でそこで崑崙が「是は、必、臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし」として「凡(およそ)、國中(こくちう)、是に類する所、甚だ多し。柄目木村(からめきむら)、即、入方村(によほふじむら)に同じ。寺泊大和田山(おほわだやま)の間(あいだ)、少しの水溜(みづたま)りありて、冷水なれども、常に湯の沸くがごとく泡立(あはだち)てあり。是に火をかざせば、忽、然(もゆ)る」(下線太字やぶちゃん)と同じ場所・同じ現象である(場所の旧「蒲原郡柄目木村(からめきむら)」は複数回既出で既注の、現在の新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。ここ(グーグル・マップ・データ))から、まずはそこと同じ

〈井戸の中での石油由来の天然ガスの自然湧出〉

と判断出来る

 しかし、崑崙が後で似ている、として出す、

「越中立山」と「南部怖山」(恐山に同じ)は孰れも硫黄噴気孔を持つ真正の温泉であって、これとは違うと当初は私も思った

のであるが、確認のために再度、現在の柄目木の地図を確認してみると、

同地区の東南で僅かに接する同じ秋葉区草水町に「秋葉温泉 花水」という温泉施設がある

ことが判ったのである。しかも同施設の公式サイトの「基本ガイド」を読むと、秋葉温泉は弱アルカリ性・ナトリウム・塩化物温泉と明記し、さらに地下千から千二百メートルら湧出する、およそ四百五十万年前の化石海水(英語:fossil salt water太古の海水が地層の隙間などに封じ閉じ込められたもので、帯水層中に液体のままの昔の海水が貯留しているものを指す語。海水が石になっているわけではない。生物等の遺骸が実際に石化した「化石」とは全く無関係な比喩的表現であるので注意されたい)を『主成分とした各種天然ミネラルを含有する成分豊富なお湯で』、『この湯の源泉は薄緑褐色で肌に吸い付くような豊かな浴感と、肌をつるつるにする豊富な炭酸水素イオン成分が特徴で』あるとあるのである。但し、恐らくは当該水の熱水古代海水の採取の深さから見て、近代以降に開発された温泉と思われ、これをもってここに示された「湧壷」「熱壷」を安易に、

天然ガスの地下水脈からの湧出ではなく、やはり〈温泉〉じゃないか、と言い換えるわけには私はいかないと考える

のである。大方の御叱正を俟つものである。

「十丁」一キロ九十メートル。

「山の尾上(おのへ)、丘の引𢌞(ひきまは)りたる所」前でかく言ったものの、この距離と位置は柄目木か見て、よく秋葉区草水町の「秋葉温泉 花水」のある場所に一致するようにも読めるのである。悩ましい。

「經(わたり)四、五尺」直径一・二二~一・五一センチメートル。

「水、自然に高く沸上(わきあが)ること、二、三尺」六十一~九十一センチメートルほどの高さまでぼこぼこと吹き上がるというのだから、相応の圧がかかっていることが判る。

「先ツ」「まづ」であろう。

「寰宇記(くはんうき)」正式書名は「太平寰宇記」。北宋の楽史(がくし)によって十世紀後半に編纂された中国の地理書。全二百巻。各地ごとに著名な人物や文芸を記すその構成は後代の中国の地理書の規範となった。太平興国四(九七九)年に宋の太宗は北漢を滅ぼして天下統一を成し遂げたが、これはその天下統一を湛えるために太宗に進上された書であった。参照したウィキの「太平寰宇記」によれば、『大量の書籍を引用するが、その多くは唐・五代以前のものであるため、宋のみならず唐代の地理を知るためにも重要な書物である』とある。

「咄泉(とつせん)」中文サイトの「太平寰宇記」原典では捜し得ず、本邦の漢籍サイトの四庫全書の中にこれかと思われる文字列を発見したが、一部の電子化文字に疑義を持った。さらに調べるうちに、幸い、本邦の寺島良安の「和漢三才圖會」の「卷之五十七」の「水類」にある「妒女泉(うはなりゆ)」(「うはなり」は「妬(うわなり)」=嫉妬の意。有間温泉の伝承が有名で、とある人妻が夫に愛人がいるのを知って、愛人を殺して自身も深い温泉に入水して果てたが、その後、美しい女性がこの温泉の近くに立つと、湯が激しく煮えたぎるようになったという伝承から「妬湯(うわなりゆ)」と呼ばれるようになったとされる)の項に以下のように出るのを見出したので、それを電子化しておく。所持する原典(全画像・正規購入品)から視認して、まず白文で示し、後に訓点に従って書き下した文を示す。良安の訓点はすこぶる読み易いものであるが、さらに一部に句読点・記号及び一部の送り仮名や読み等(無論、歴史的仮名遣)をオリジナルに追加した(因みに私は別に「和漢三才圖會」(水族の部は個人サイト内でずっと昔に完遂、現在は「蟲類」の部をブログにて作業中)の電子化注も手掛けている)。

   *

寰宇記云安豐郡咄泉在淨戒寺北至泉旁大叫則大湧小叫則小湧若咄之其湧出彌甚世人奇之號曰咄泉

   *

「寰宇記(くわんうき)」に云く、『安豐郡の咄泉(とつせん)は、淨戒寺の北に在り。泉の旁(かたはら)に至りて、大きに叫(わめ)くときは、則(すなは)ち、大きに湧き、小さく叫ぶときは、則ち、小(すこ)し湧く。若(も)し、之れを咄(しか)れば[やぶちゃん注:「叱れば」。]、其の湧き出づること、彌々(いよいよ)甚だし。世人、之れを奇(あや)しみて、號して「咄泉」と曰(い)ふ。』と。

   *]

2017/08/11

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート6 其五「冬雷」・其六{三度栗」・其七「沖の題目」)

 

其五 冬雷(ふゆかみなり)は北海(ほつかい)氣候の逆にして、南方(なんぼう)の國に異なること、是に限らず。南國の梅(むめ)は正月に開き、北國(ほつこく)は三月にかゝる。東南の水仙は、冬、專ら是を愛し、が國は來(らい)二月に漸(やうや)く咲けり。是、皆、陰陽遲速、同じからざるが故なり。

[やぶちゃん注:「南方(なんぼう)」濁音はママ。

「來(らい)二月」その南国の冬が過ぎた、翌年、明けた二月。]

 

其六 「三度栗(さんどぐり)」は、蒲原郡安田村にあり。親鸞上人の植(うゆ)る所と、これ、舊跡なり。七奇の部にあらず。此種類、常州にもありと云へり。かゝる異木變艸(いぼくへんそう)、稀にあるもの也。近年、殊に夛(おほし)。唯(たゞ)、鸞上人(らんしようにん)の植(うへ)ゐたる舊跡とのみ思ふべし。

[やぶちゃん注:「三度栗」天津甘栗で知られる中国原産のブナ目ブナ科クリ属シナグリ Castanea mollissimaの一品種Castanea mollissima cv.cultivar:ラテン語:クルティヴァール:品種)か。シナグリの花は五月からずっと咲き続け、新しく伸びた枝先には必ず花を咲かせ、枝が伸びている間はずっと花が見られ、雌花が出れば結実し続ける。通常の栗の木が実を落としてしまった後もずっと栗の実をつけていることなどから、年に三度も実をつけるとされて「三度栗」と呼ばれる。ウィキの「三度栗」によれば、年に三回も『実をつけるといわれており、三度栗に関する伝説が各地に残って』おり、現在の『新潟県阿賀野市保田』(やすだ)にある浄土真宗焼栗山孝順寺((グーグル・マップ・データ:日本有数の大地主であった斎藤家の邸宅を本堂とした寺)に『伝わる三度栗伝説は、越後七不思議』(後述)の一つとされ、『ほかの三度栗伝説は多くが空海にまつわるものであるが、浄土真宗の寺に伝わるこの三度栗伝説は親鸞にまつわるものである』(他の弘法大師絡みのそれは前のリンク先(ウィキ)を参照のこと)。『当地で布教活動を行っていた親鸞の念仏の礼にと、老女が焼き栗を親鸞に差し出した』。『親鸞は帰途』、「我が勸むる彌陀の本願、末世に繁昌致さば、この栗、根芽(こんが)を生(しやう)じて一年に三度、咲き、實(みの)るべし。葉は一葉にして二葉に分かれて繁茂せよ」と『唱えてこの栗をこの地に蒔いた』。すると、『焼き栗から芽が出て、年に』三度、『実をつけ、その葉の先は二つに分かれて茂るようになったという』。『同様の伝説が福井県鯖江市にも残っている』とある。さて、先に出た「越後七不思議」というのは、当地に流罪となって、赦免後も暫く当地で布教し、後に関東(本文に出る「常州」(常陸)も含まれる)へも足を延ばした、親鸞に限定された、特に動植物の珍種を親鸞の起こした奇瑞として伝える特異な聖人伝承の七不思議である。ウィキの「越後七不思議によれば、「逆さ竹(だけ)」・「焼鮒(やきふな)」・「八房(やつふさ)の梅」・「珠数掛桜(じゅずかけざくら)」・「三度栗」・「繋(つな)ぎ榧(がや)」・「片葉(かたは)の蘆(あし)」(同ウィキはその名数から外して最後に「八珍柿」を挙げている)を数えという。それぞれの具体はリンク先をお読み戴きたいが、非常に興味深いのは、橘崑崙はこの「三度栗」以外には「其十」で「逆竹」を、「其十三」で「八房の梅」を挙げるだけで、外の四つを問題とせず、名さえ記していない点である。この後で「八房の梅」に自筆の画を挿絵としても添えているが、それはあからさまな親鸞顕彰と思われるものではなく、その記載内容は寧ろ、専ら植物学的興味、純粋にその老梅の樹木としての花の香その他の即物的な観察による讃嘆に終始しているのである(この老樹は一つの花に八つの実が成るとされる八重咲きの梅の木で親鸞が植えた梅干の種から育ったと伝えるが、その伝承を崑崙は記載しておらず、ただ「親鸞上人の旧跡」とのみ記す)崑崙の宗旨はよく判らないが、或いは彼は新潟に多い浄土真宗の宗門ではなかったのではなかろうか? もし、門徒であったなら、せめても親鸞の七不思議として独立項を設けて、名数ぐらいは列記したはずである。因みに次の「其七 沖の題目」は日蓮の旧跡とするが、読まれれば判る通り、けんもほろろの短さであるから、日蓮宗の門徒の可能性は全くないと言ってよい。翻って、崑崙は本書の第六巻の越後所縁の「人物」の「其三」で曹洞宗の名僧良寛(「了寛」と記す)についてかなりの文章を割いて綴っており、それ以外でも禅僧の名を挙げて語る部分が散見される。また、崑崙は「石鏃」で鬼神の信望者であることを公言しているわけだが(恐らく崑崙は国学的な神道支持派であったとは思われる。あの系統は鬼神に対する親和性がすこぶる高いからである)、多くの仏教宗派は鬼神論には冷淡であって本質的には(方便としては用いても)認めないものが殆んどである。しかし、禅宗は仏教の中では一種の強烈な個人主義支持の宗派であって、鬼神を語っても何ら、問題がないのである。

「鸞上人(らんしようにん)」原典のママ。]

 

其七 「沖の題目」は、角田濱海上(かいしよう)にして、日蓮上人の旧跡なり。波風、靜かなる日、波上(はしよう)に題目の文字(もんじ)、浮(うか)ミ出ると云へり。沖行(ゆく)船の見つる事、今に猶あり、と云へれど、信(まこと)となしても尋ぬべき便(たより)なし。羽州鶴が岡に梵字川(ぼんじがは)あり。其源(みなもと)、湯殿山より出て、流水の紋(もん)に、梵字、見ゆると云ふがごとし。是等のことは、愚民を導く便(たより)のみ。奇とするに足らず。

[やぶちゃん注:どうです? けんもほろろでしょ? 新潟は日蓮も佐渡に流罪となったから信徒はそれなりにいるが。

「角田濱」既出既注。新潟県新潟市西蒲(にしかん)区角田浜(かくだはま)。佐渡を正面に据えたここ(グーグル・マップ・データ)。

「羽州鶴が岡に梵字川(ぼんじがは)」山形県鶴岡市を流れる川名として現存。(グーグル・マップ・データ)。地図で判るが、源を辿ると確かに南東の湯殿山(月山の南西山腹にある標高千五百メートル。月山・羽黒山とともに出羽三山の一つとして修験道の霊場として知られる)である。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート5 其四「四蓋波」)

 

其四 「四蓋波(しかいなみ)」【「四海波」。】。頸城郡(くびきごほり)名立(なだち)の下(しも)、鍋ヶ浦(なべがうら)と云へる所、打寄(うちよす)る波、立(たち)かへりて、四方より四かいに打(うつ)、と云へり。是、磯石(いそいし)、左右に峙(そばだ)ち起(おこ)れる故に、此紋(もん)をなせるなるべし。たとへ五、六かいの波をなすとも、敢て奇とするに足らず。俗徒、「髙砂(たかさご)」の謠ひを聞(きゝ)、「四海波(しかいなみ)」と云へるは、只、目出度ものとのみ心得て、四海(しかい)と四蓋(しかい)の意を知らず。かゝる蒙説を云へ出せること、他邦の人に對して、竊(ひそか)に面赤(めんせき)す。

[やぶちゃん注:これは最後に崑崙が赤面しているようにトンデモ名数である。「四海波」とは、時代劇でよく耳にする祝儀の場で謡われる、かの世阿弥作の脇能「高砂(たかさご)」の中の、シテの老翁(実は相生の松の精)が松の目出度さを語り詠う冒頭、

〽四海 波 靜かにて 國も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ御代(みよ)なれや あひに相生(あひおひ)の 松こそ目出たかりけれ げにや仰ぎても こともおろかや かかる世に 住める民(たみ)とて豐かなる 君の恵惠みぞ有難き 君の惠みぞ有難き

の部分の通称であるが、そもそもが「四海」は「天下」の意で、「波 靜かにて 國も治まる時つ風……」とまさに天下泰平のパノラミックな表現なのであって、これはもともとは「四海波」という三字熟語でさえないのである。「四蓋波」の方は、本文に従えば、打ち寄せた波が、逆に返して、海上の四方(こだわるが、物理的には浦にうち寄せたんだから少なくとも反射波の一度目の行く先は物理的には三方である)に向かって四度、波に波を蓋(ふた)をするように畳み掛けて反射波の波紋を起こすという意味であろう。なお、祝儀で謠われるのは、同謡曲の最後の方の、ワキ・ワキツレ(阿蘇の神主と従者)によって謠われる舞囃子の冒頭の、

〽高砂や この浦舟(うらぶね)に帆をあげて この浦舟に帆をあげて 月もろともにいでしほの 浪の淡路の島影(しまかげ)や 遠くなりをの沖過ぎて 早や住江(すみのえ)に着きにけり 早や住江に着きにけり

の箇所である。

「頸城郡(くびきごほり)名立(なだち)の下(しも)、鍋ヶ浦(なべがうら)」現在の新潟県上越市鍋ケ浦。(グーグル・マップ・データ)。地図内西直近に上越市名立区もある。

「四かい」崑崙先生もこの「四海(しかい)」と「四蓋」(しがい)に困ったものか、原典がこのように平仮名「かい」になっている。「四海」に向かって「四回」、「蓋(かい)」するように「打」つという苦しい赤面しそうな駄洒落あんであろうか(真面目な崑崙先生には洒落はちょっと似合わぬが)。

「是、磯石(いそいし)、左右に峙(そばだ)ち起(おこ)れる」この浦、波で反転するほどの中位の有意な大きさの転石が満ち満ちた礫(れき)性海岸であり(ということはかなりの「浜鳴り」がするはずである)、波がそれらに当たると、反作用の法則で海方向にそれらの石が多量に左右に転がって、それが複雑な磯からの反射波を起こすという崑崙の自然科学的分析である。

そこ鍋ヶ浦近辺をネットで調べて見た。

検索を続けると、B・Y氏の個人サイト「B型人間のアウトドア」の桑取川河口というのが目に止まった。ここは鍋ヶ浦の東で現在の漁港らしきものがなければ、ここは「鍋ヶ浦」の東の端と言ってよいと思われるのであるが、そこに添えられた写真の中に!

おう! ゴロタ石の海岸じゃあねえか!

何だか、私は、無性に、嬉しくなってしまったしまったのである。

「五、六かい」この「かい」は、もう、「囘」でいいでしょう? 崑崙センセ?]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート4 其三「鎌鼬」)

 

其三 「鎌鼬(かまいたち)」。一「構太刀(かまひたち)」。時所(じしよ)に定(さだま)りなし。夛(おほ)くは社地を過(よぎ)る者、不慮に面部(めんぶ)手足(しゆそく)なんど、皮肉(ひにく)、割破(さけやぶ)れて白く爆(は)ぜ反(かへ)ることなり。疵(きづ)口の大小に變りあれど、さして血も不ㇾ出(いでず)、痛もなく、何のわざとも更に名付(なづけ)がたきものなり。或説に鬼神(きしん)の刄(やいば)に行き當たり、其觸(ふる)る所、此(この)奇をなす、故に「構太刀」と云ふと。此説、當れりと云ふべきか。凡(およそ)、鬼神(きしん)は北方陰分(ほつほうゐんぶん)の地に集まるものにして、卽(すなはち)、坤(うしとら)を鬼門となす。依ㇾ之(これによつて)か、北越は鬼神の奇(き)、甚だ夛し。然(しか)れども、天地の化(くは)長じ、人氣(じんき)滿てるに随(したがつ)て、自然と幽冥に歸するものと覺ゆ。此奇、北越三五十前年(ぜんねん)までは甚だ夛かりしが、今は稀に有事なり。伊夜日子(いやひこ)より國上(くかみ)山に驅け踰(こ)す所、黑坂(くろさか)と云ふあり。此所に誤つて躓倒(つまづきたを)るゝ者、必(かならず)、此奇を受く。如ㇾ此こと、所々(しよしよ)にあり。又、一説に、寒氣、皮膚の間に凝封(ぎようふう)せられて、暖(だん)を得る時は、皮肉、裂け、其(その)氣(き)、發(おこる)と云へり。是、医家(いか)の説なるべし。左あらば、甲信の二國、奥白河(おくしらかは)の邊は極(きはめ)て地高(ぢだか)なる所にして、寒氣、北越に倍す。しからば、此奇、却(かへつ)て甚しかるべし。又、其治方(ぢほう)に、古き暦紙(れきし)を燒(やき)て貼れば、卽(すなはち)、効(しるし)あり。是(これ)、邪(じや)を去(さる)の故か。只(たゞ)し、構ひたる刃(やいば)觸(ふる)るとにはあらず。是も鬼神の氣に觸るゝなるべし。今は他邦(たほう)も此(この)奇、稀(まれ)にあると云へり。

[やぶちゃん注:「鎌鼬」については、私の目撃例(但し、不可抗力の人為の疑惑の深い例)も含め、さんざん注で書いてきたのでここでは繰り返さない。

囊 之七 旋風怪の事

最近のものでは孰れも「北越奇談」のこの条も引いている、

柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬

「想山著聞奇集 卷の貮」「鎌鼬の事」

の本文及び私の詳細な注を参照されたい。

「構太刀(かまひたち)」後に出る「構ひたる刃(やいば)」、鬼神が見えない太刀の抜き身を「構」えたなどという意味ではあるまい。この「構」は以下の叙述から、鬼神がその瞬間に自分のテリトリーとしている場所(神域・禁足地。後の多く発生する場所としての「社地」と一致する)に入ったり(「構う」には「禁制にする」の意がある)、気に入らない人間に対して懲らしめやからかい目的で意図的に「構う」(「構う」には別に「相手にしてふざける・からかう」の意がある)という呪的な意味を元にしているように思われるが、それは多分、後付けで「鎌鼬」の音が訛っただけであろう。

「時所(じしよ)に定(さだま)りなし」(一般には)時と場所を選ばず、突如、前触れなしに発生する。

「面部(めんぶ)」四十八年前に中学一年の私が面前で目撃したケースも、顔面、それも眼であった。

「爆(は)ぜ反(かへ)る」勢いよく裂け破れると同時に、その裂けた口が有意に外側に反り返る。

「さして血も不ㇾ出(いでず)」私の目撃例では多量に血が滴った。

「何のわざ」何ものが成す仕儀。崑崙は、ここでは意外にも、全く以って、自然現象としての分析解釈力を欠いている。巻之一の竜巻類での鋭い観察眼が、ここでは一向に発揮されないのは大いに不満である。前の「石鏃」で鬼神説をぶち上げてしまった関係上、この「鬼神(きしん)の刄(やいば)に行き當た」ったという怪しげな説に付和雷同してしまっている感が頗る強い。

「北方陰分(ほつほうゐんぶん)」陰陽道で北方の陰気の集結する時空間を指すか。

「坤(うしとら)」丑寅。東北。

「然(しか)れども、天地の化(くは)長じ、人氣(じんき)滿てるに随(したがつ)て、自然と幽冥に歸するものと覺ゆ」しかし、天地開闢以来、その永い時間経過し、人類が誕生して漸層的にその人口が増えて、地に満ちるほどになるに従って、自ずから、そうした鬼神の力は、本来の彼らのいるべき場所であると思われるより陰気に満ちた死後の世界の領分へと場所を変えてしまったものと思われる、というのである。これは以下の「此奇、北越三五十前年(ぜんねん)までは甚だ夛かりしが、今は稀に有事なり」の判ったような判らないような理由づけとなっているようである。

「伊夜日子(いやひこ)」既出既注の弥彦山。越後平野西部、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「國上(くかみ)山」「國上(くかみ)山」新潟県燕市に位置する標高三一二・八メートルの国上山(くがみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦山の南。俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。

「黑坂(くろさか)」上記のグーグル・マップ・データで雰囲気は判るし、このルートの途中にはやはり既出既注の黒滝城跡もあるから、この坂の「黑」というのは、これまた、しっくりくる。

「如ㇾ此こと」「かくのごときこと」。

「奥白河(おくしらかは)」現在の福島県の白河市のずっと西方の新潟県境付近を指すか。現在の南会津郡や大沼郡辺りか。

「地高(ぢだか)」高地。

「治方(ぢほう)」治療法。処方。

「古き暦紙(れきし)を燒(やき)て貼れば、卽(すなはち)、効(しるし)あり。是(これ)、邪(じや)を去(さる)の故か」諸病の民間療法で、この処方はしばしば見られる。暦は農耕や神聖な行事を細かく限定し、それは単なる予兆だけではなく、過去現在未来の時空間を絶えることなくそれ自体が支配していると見做されることから、強力な呪力を持つものと考えられたことは想像に難くない。]

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート3 其二「箭ノ根石」(Ⅲ)~この石鏃の条は了)

 

[やぶちゃん注:実際には原典ではここに最初に掲げた三葉に亙る石器図が入る。以下は驚天動地の崑崙の石鏃鬼神創造説の主張と、中華第一主義への強い疑義である。]

 

右數品(すひん)、あらまし、如ㇾ此。諸方の風子(ふうし)、よく是を知る。只し、此一奇は羽州をもって祖とすべけれど、今世(こんせい)、北越、此奇、夛(おほき)がゆへに、他邦より是を求むる者、必、が國を以つて名とす。[やぶちゃん注:ここにある以下の改行は原典のママ。以下、崑崙と批判者の対話形式であるので、読み易さを図り、直接話法を改行して示した。]

或る人の曰(いはく)、

「汝、頻りに鬼神を信じて婦女子のごとし。豈(あに)鬼神手足(しゆそく)有(あつ)て、この工(たくみ)をなすことあらんや。」

が曰、

「鬼神、又、なきにあらず。「易」に、『遊魂(ゆうこん)変をなす』、是なり。鬼神、又、手足有(あつ)て、鏃(やじり)をつくり出(いだ)には、あらず。上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす。其氣、石を穿て、忽(たちまち)、此形を成す。前にも云へる如、氣を以つて制するほど強きは、なし。六月、雪を下(くだ)し、三年、雨、降らざるの類(たぐひ)、匹夫(ひつふ)の恨(うらみ)だに如ㇾ此(かくのごとし)。まして戰死の遺恨をや。只、其(それ)、汝、此國の奇を爭(あらそ)はゞ、一人を屈するにあらず。汝も又、自(みづから)生國(しようごく)を辱(はづかし)むるなり。於ㇾ是(こゝにおゐて)因(ちな)ミに云ふ。或人、兩三輩、語(かたつ)て曰、

『我、聞く。羽州男鹿島の(おかじま)中(うち)、蘇武(そぶ)の碑ありと。然(しか)れば、蘇武、此國に莭死(せつし)せること、明かなり。是、一快事(いちくはいじ)にあらずや。』

と。笑(わらつ)て曰、

『公等(こうら)、聖人の道を尊(たつと)んで中華を賞(しよう)ずるは左(さ)もありなん。何ぞ、本邦をして強(しゐ)て夷狄(ゐてき)の國と成し、是を快事なりとせば、即、公等も又、左襟不毛(さきんふもう)の辱しめを得るにあらずや。是、好奇の淫(ゐん)たるべし。』

又、云(いふ)、

『國字と雖も、章を文(あや)どるは、が等(とう)の及難(およびがた)きものと見へたり。西海(さいかい)の蟠龍子(ばんりうし)、「俗説辨」を著はす。其中(うち)、本邦の奇事を論ずる所に至(いたつ)ては、必(かならず)、云ふ、「此國何々を以つて奇となす。是、何ぞ奇とするに足らん【中華の書を引く。】。如ㇾ此(かくのごとく)、かの國、已にあり」と記せること、數ヶ條(すかじやう)なり。密かに笑ふ。是、彼(かの)國を賞して本邦を辱しむるの文躰(ぶんてい)なり。是を論ぜば、中華の書何々(なになに)を擧げ、記(しる)すれども不珍(ふちん)とす。「本邦、巳に此奇あり。即、是なり」と、本邦、かの國に不減(ふげん)の賞を記したきことなり。又、蟠龍子、自(みづから)言(いふ)、「此(この)『俗説辨』を謗(そし)れる人ありと聞けり。請ふらくは、其人に面して高論を聞(きか)ん。是、我(わが)願ふ所なり」と記せり。近頃、「俗説辨」、二、三編(べん)を見て、思ひらく、其中、時賴・秀吉両公囘國(くはいごく)の論あり。これ、甚だ誤れり。蟠龍子、此二公の意を不察と云ふべし。只し、理は不盡(ふじん)の妙にして、言々(げんげん)、何ぞ窮(きはま)る所あらんや。が石鏃の論も、又、後(のち)の好事家、妙論あらんことを俟(ま)つのみ』。」。

[やぶちゃん注:以上で「箭ノ根石(石鏃)」の条は終わっている。彼が鬼神を大真面目に信ずるところは留保するとして、こうして読むと、崑崙は非常にしっかりした構成を念頭に置きながら論を展開させていることが、非常によく判る。

「風子(ふうし)」好事家を含む風流人士。

「此一奇は羽州をもって祖とす」先の「續日本紀」以下の最古記載が出羽だからである。

「「易」に、『遊魂(ゆうこん)変をなす』」「魂」は原典では「云」が上にあって下に「鬼」とする異体であるが、野島出版版に拠った。「易經」の「繫辭上」の中に、

   *

仰以觀於天文、俯以察於地理。是故知幽明之故。原始反終。故知死生之説。精氣爲物、遊魂爲變。是故知鬼神之情狀。

(仰ぎて以つて天文(てんもん)を觀(み)、俯して以つて地理を察す。是の故(ゆゑ)に、幽明の故(こ)[やぶちゃん注:事。]を知る。始めを原(たづ)ねて終りに反(かへ)る。故(ゆゑ)に死生の説を知る。精氣、物と爲(な)り、遊魂、變を爲(な)す。是の故(ゆゑ)に鬼神の情狀を知る。)

   *

とある。

「上古、戰場の死氣、凝結して不ㇾ散(さんぜず)。一念、只、鏃を磨(みがき)て敵(てき)に對(たい)せんとす」私はここを読みながら、思わず偏愛する晩唐の詩人李賀の「長平箭頭歌」(長平(ちやうへい)箭頭(せんとう)の歌)を思い出していた。この詩については、私サイト内の非常に古いページに、原文及び私の訓読とオリジナル訳があるので参照されたい。

「前にも云へる如、氣を以つて制するほど強きは、なし」「古の七奇」の「其五 胴鳴(ほらなり)」などを参照。

「六月、雪を下(くだ)し、三年、雨、降らざるの類(たぐひ)、匹夫(ひつふ)の恨(うらみ)だに如ㇾ此(かくのごとし)」「六月」は旧暦の晩夏。これは何かそうした具体的な怨恨による異常な自然現象の原拠があるのであろうが、今直ぐには思いつかぬ。判明したら、追記する。

「只、其(それ)、汝、此國の奇を爭(あらそ)はゞ、一人を屈するにあらず。汝も又、自(みづから)生國(しようごく)を辱(はづかし)むるなり」なかなか深遠な論理である。ある国固有の「奇」=不思議を論難して否定し去って、それを主張している例えば私橘崑崙を平伏させたと思ったら、それは大間違いである。固有の説明のつかない超自然の力によるものと推定し得る「奇」が存在しないと軽率に全否定した場合、それは鏡返しで君の国の固有の「奇」も同時に全否定され、君の国の、少なくとも「奇」による歴史や民族や、それによって長い年月をかけて形成されてきた独自にして固有の属性をも否定し、辱めることとなるのだというのである。これは非常な「真」という気がする。凄いぞ! 崑崙先生!!!

「羽州男鹿島の(おかじま)中(うち)、蘇武(そぶ)の碑あり」秋田県男鹿半島の男鹿市船川港本山門前字祓川に現存する赤神神社(縁起上では貞観二(八六〇)年に慈覚大師円仁が当地に来て赤神山日積寺永禅院(永禅坊とも)を創建したのに始まるとされるが、伝承では、景行天皇二(七二)年(或いは景行天皇十年とも十一年ともされる)に赤神と称した漢の孝武帝が天から降りてきたという伝説がある)があるが、ブログ「露木順一と未来を語る」のこちらにも、菅江真澄の紀行文の中には、『徐福のほか、中国古代の帝国、漢を代表する皇帝、武帝を祀った廟があ』り、『更には武帝に使えた高名な家臣蘇武までが祀られていたと』あるとある。思い出すのは青森県戸来村のキリストの墓だ。キリストが来たのなら、かの悲劇の武将蘇武の墓があっても私は驚かぬ。

「莭死(せつし)」「莭」は「節」に同じい。単に「死」の「節」(折り・時)を迎えたとも採れるし、蘇武が自身の正しいとする「節」を守って漢に戻ることなく、匈奴から何とまあ、本邦にまで流れて来て、ここで「死」を迎えたという意味にも採れようか。

「夷狄」中国では古来、東夷西戎南蛮北狄と四方を未開の蛮族と見做し、中央で華やかに栄える「中華」として自国の優位性を誇った。そこから「夷狄」と略述して、中国で自国以外の外国人を軽蔑したり敵意をもったりして呼ぶ際に広く用いる語となった。

「左襟不毛(さきんふもう)」野島出版脚注に『えりの左前の人。耕さない土地に住む人。野』蛮『人をいう』とある。

「國字と雖も」(中国以外の)自国の文字を有する(ということは同時に独自の文化を持つ自立した国・国民であることを指す)国・民とであっても。

「章を文(あや)どる」野島出版脚注に『文を作る』とある。

『西海(さいかい)の蟠龍子(ばんりうし)、「俗説辨」を著はす』肥後熊本藩士で神道家の井沢蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年:江戸で山崎闇斎に垂加神道を学び、後に国学・儒学を研究、博学でおおくの著作をものすとともに、剣術・柔術にも優れた)が書いた考証随筆「廣益俗説辨」を指す。ただ、以下を読むと、あたかも崑崙は執筆時に存命していて、今にも対面して議論を吹っ掛けたいといった勢いであるが、崑崙の生年は宝暦一一(一七六一)年頃と推定されており、本書に至っては文化九(一八一二)年刊であるから、彼よりも前代の人であるので注意されたい。則ち、以下の「是を論ぜば、中華の書何々(なになに)を擧げ、記(しる)すれども不珍(ふちん)とす」は、井沢氏が生きておれば、私のこの奇談集の話も悉く、「珍しくもなんともないね、中国の書に総て既にして記されおるわい」とほくそ笑むことであろう、という仮定である。

『「本邦、巳に此奇あり。即、是なり」と、本邦、かの國に不減(ふげん)の賞を記したきことなり』ここは崑崙の井沢に対する反論部分。寧ろ、逆に「我が国には、古え、既に独自のかくかくしかじかの固有の奇ある。則ち、それがこれである!」と言い返したいと言い、「かの國に不減の賞記したきことなり」は「却って、中国の記録に勝るとも劣らぬ誉れを誇れる事実のあることをこの書で是非とも記したいのである」という強烈な自信に満ちた言明なのである。う~ん、気持ちは痛いほど判るが、やっぱり、崑崙先生、なかなかの反骨家であるわい。

「思ひらく」「思へらく」が正しい。漢文訓読に由来する、動詞「思ふ」に完了の助動詞「り」の付いた「思へり」の「ク」語法(活用語の語尾に「く」が付いて,全体が名詞化される語法)で「思っていることには」の意。

「時賴・秀吉両公囘國(くはいごく)の論あり」これは「廣益俗説辨」の「卷十三 士庶」にある「最明寺時賴、廻國の説」である。所持する東洋文庫版を加工データとして、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認底本として正字化して示す。読みは一部に留めた。【 】は原典の二行割注。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

俗説云、最明寺平時賴、民のくるしみを見、うつたえをきかんために、みづから諸國をめぐるといふ。

[やぶちゃん注:以下、東洋文庫及び底本は全体が最後まで一字下げ。]

今按ずるに、羅山子道春曰く、時賴の修行するは、人の鬱訴を聞かんが爲なり。民のうれひくるしみを直(ぢき)に見てをさめんとする其こゝろざしは殊勝なれ共、聖賢の道より見れば、あながち國君(こくくん)として、ひそかにしのびありき、毛を吹いて疵(きず)をもとめ、人の隱僻(いんぺき)をたづねさぐらんは、あまりさしていらざる事にや。いにしへは民のくるしみを問ふ使(つかひ)を諸國につかはして、廉直(れんちよく)に事をきく時は、君(きみ)は居ながらも明(あきらか)なるべし、と後漢書などにもあれば、かならずしも修行することを用ゆべからず。予按ずるに、むかしもろこしにて、河伯(かはく)化(け)して白龍(はくりやう)となり水におよぎしを、羿(げい)といふ者矢をはなちて、龍(りやう)が左の目を射たり。河伯いかつて此事を天帝にうつたふ。天帝のたまひけるは、汝ふかく神異を守らば、羿何によりて汝を射んや。汝いま蟲類となる故、人の爲に射らるゝこと理(ことはり)なり。恨むべからずとありしこと、事文類聚に見えたり。これを以て思へば、時賴、天下の執權にして、威勢まことに強大なれども、獨身(どくしん)にて國を廻(めぐ)るときは、乞食(こつじき)法師に異なるべからず。古語にも、呑舟(どんしう)の魚も水をうしなひて螻蟻(ろうぎ)[やぶちゃん注:螻蛄(けら)と蟻(あり)。虫けら。]のために制せらるゝは、其居(きよ)を離るゝ故なりとあれば、不ㇾ虞(はからざる)の愁(うれひ)、あやうからずや。頃日(このごろ)、䟽魯理傳(そろりでん)[やぶちゃん注:近世本格怪談集の濫觴の一つとされる名作「曾呂利物語」のこと。寛文三(一六六三)年板行。]を見るに、䟽魯理は其郷里姓氏を詳(つまびらか)にしらず【泉州地志云、鼠樓粟新左衞門は和泉國堺の産なり。堺鑑云、鞘師也と有り】。豐臣太閤(とよとみのたいかふ)につかへて寵幸(ちやうかう)せらる。ある日、太閤、諸臣をあつめてのたまふは、われすでに日本をたなごゝろににぎれり。しかれども、若(も)し一民(みん)も其所(そのところ)を得ざることあらば、わが恥なり。われ、平時賴にならつて、郡縣(ぐんけん)をめぐり見るべし。諸臣みなことばをそろへて、時賴の國をめぐられしは、美事(よきこと)に似て人主(じんしゆ)の所爲(しよゐ)にあらず。殿下若(も)しかれにならはせ給ひ、萬一の不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:「不慮」。思いがけない出来事。]まさまさば、如何(いかゞ)とまうす。太閤またのたまひけるは、我(わが)神武(しんぶ)なる[やぶちゃん注:自分の神のようにこの上なく優れた武徳によって保たれた。]天下に敵なし。たとひひとり身にしてゆくとも、たれか我をはからんや。汝等かさねていふべからず、と御(おん)いかりの色みえ給へば、おのおの深くうれふるれども、再びいさめたてまつるものなし。それより三日過ぎて後(のち)、太閤䟽魯理を召て、世上に珍らしき事はなきか、と問はせ給ふ。䟽魯理めづらかなる事こそ侯へ。此ごろ京の賈人(あきんど)鞍馬山にのぼるとて、山の麓にいたるとき、晴れたる天(てん)忽にちにくれて黃昏(ゆふぐれ)の如し。天狗忽然として飛び來り、賈人を見ていはく、われ今(いま)食(しよく)に飢ゑたり。汝を取りてくらはんとのゝしる。其いきはひ、甚だおそろし。賈人いはく、われ運つきて今日(こんにち)公(こう)にあひ奉れり。にぐるとものがれがたし。ともかくもなし給ふべし。但しそれがしつねづね公の神通(じんづう)をきゝ候(さぶら)ひぬ。ねがはくは一目見せ給ふべし。左あらば死るともうらみ候はじ。天狗がいはく、なんぢがのぞみに任かせて神通を見すべし。先(まづ)大身(たいしん)を見せしめんといふとひとしく、其長(たけ)、鞍馬山より高くなる。賈人おどろきて、此上は小身(せうしん)を見候はゞやといへば、たちまち蜘蛛(くも)ほどになれり。賈人掌(たなごころ)をひらきて、此上にすわり給へといへば、天狗やがて飛びあがる。賈人急に口をあけてのみければ、天狗つひに腹中にて死し候とかたる。そのことば未(いま)だをはらざるに、太閤笑ひたまひて、世上に何ぞ此事あらんや。汝まうけ作りて、わが微行(ぎかう)の擧(きよ)を諷(ふう)するものなりとて、其後(そののち)廻國の沙汰なかりけりと記せり。これをもつて見れば、時賴の時に䟽魯理がたぐひの者だにもなきにや、いとあさまし。

   *

崑崙はこれを、「甚だ誤れり」と断じ、「蟠龍子、此二公の意を不察」(さつせず)「と云ふべし」と批難しているのであるが、ます、井沢も崑崙もともに時頼(こちらは既遂)及び秀吉(こちらは未遂)の回国伝説を信じていた。しかし、崑崙は彼らの市井に交って民意を知ろうとした為政者の誠意を全く理解していないとして批判しているのである。秀吉の話も怪しいが(そこでは寧ろ秀吉が主役ではなく、トリックスター曽呂利こそがそれであるところが如何にも作り話である)、北条時頼が隠居後に鎌倉御府内から出た形跡は「吾妻鏡」を子細に調べて見ても全く出てこないから、後世のデッチアゲ(謡曲「鉢木」で爆発的に流行)であることはもう確実であるから、私はこの回国類話全体が胡散臭い馬鹿話としてしか思われないから、崑崙の気持ちは心情的には共感出来るものの、その真面目腐った真っ向批判自体は「笑止」としか感じられぬ。因みに、回国伝説の神様水戸黄門光圀が江戸に出た以外に、実際に生涯に於いて旅行したのは鎌倉と六浦(現在の横浜市金沢区)へのただ一度きりであったこともここに言い添えておこう。序でだから追伸すると、光圀は実は大の神道好きで仏教嫌いあって、この時も諸所で野面の仏像等を損壊したりしているトンデモナイ文化破壊者であった。

「只し、理は不盡(ふじん)の妙にして、言々(げんげん)、何ぞ窮(きはま)る所あらんや」最後には崑崙先生、智の謙虚へと戻る。「但し、宇宙を支配する理(ことわり)は解明し尽くすことが出来ない霊妙なものであるからして、総てを言葉によって極め尽くすことは出来ない。それは私のここでの石鏃が鬼神の残存遺恨を元にした生成説もまた、その誤認の対象から免れるものではない、として、識者の意見を「俟つのみ」と擱筆するのである。うん! やっぱ、崑崙先生、好きッツ!!!]

2017/08/10

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート2 其二「箭ノ根石」(Ⅱ))

 

總て北越山下の田家には、二月十五日・十八日、山神祭(さんしんまつり)とて、山に不ㇾ入(いらず)。もし、誤(あやまつ)て山に入る時は、必、種々(しゆじゆ)の怪を見て、病(やむ)といふ。今は所々(しよしよ)拾ひ盡くすと雖も、尚、尋ね求(もとむ)るごとに不ㇾ得(えず)といふこと、なし。「續日本(しよくにほん)紀」【同「日本後記」】『承和六年、出羽國より申。八月廿九日、田河郡(たがはごほり)の西濱(にしはま)、符(ふ)を達する所、五十餘里の間(あいだ)、元より、石なし。十三日より、雷雨、甚だしく、十余日を歴(へ)、晴天を見る。後(のち)、落(おち)たる石、少からず。鏃(やじり)に似、鉾(ほこ)似たる石、或(あるひは)白、或赤(あかし)。』とあり。又、「三代實錄」に、『仁和(にんわ)元年六月廿一日、出羽國秋田城(あきたのしろ)及(および)飽海郡(あくみごほり)神宮の西濱に石鏃を降(ふら)す』、『同二年、出羽國飽海郡諸神社の辺(ほとり)に石鏃を降す』とあり。しかれば、上古、巳に其神奇を記す。今世(こんせい)、好事の者、是は人作(じんさく)にして石と石とを打合(うちあは)せ、割飛(さけとび)たる物、此形を成す、と云ふ。近頃、會津の医(ゐ)某(それがし)なる者、來て、自(みづか)ら作れりとてに示す。其形、似よりたるにもあらず、笑ふべきの至り也。紫土色(むらさきつちのいろ)、俗に「火打石」と云へるものゝごとし。、即(すなはち)、其眞(しん)なる紫・白・黑色、各(おのおの)如珠玉(しゆぎよくのごとく)なるもの、五、六品を出し見せしむるに、其医、初めて信服せり。又、江州(ごうしう)石亭(せきてい)なる者、其(その)人作(じんさく)たることを論ずと。又、或人、上古、是を作りて竹木(ちくぼく)の先に插(さしはさ)み、鳥獸を獵(かり)すと。是、又、論ずるに足らざるの説なり。石鏃上品なるもの、よく竹木を削(けづり)、自(みづか)ら竹木に插(さしはさ)み、弓に矧(は)げて用ひたる物にはあらずと覺ゆ。其故は、形、

Sekizoku1_2

如ㇾ此(かくのごとき)もの夛(おほ)くあり。

Sekizoku2_2

此品(しな)、最も多しと雖も、竹木に挾みて肉に深く入るべき理(り)なし。眞の鏃(やじり)は、

Yajirihonmono_2

かくのごとし。是を以つて知るべし。又、古人、銅・鐡、いまだあらず。石と石とを打合せて、獵(かり)するために此物をなさば、何ぞ、

 Sekizoku3
Sekizoku4
 

如ㇾ此、不用の戲(たはむれ)に力(ちから)を労せんや。又、上品なるは、珠玉がごとくなる物ありて、鐡槌(てつつい)にも碎き難きあり。又、上古人作(じようこじんさく)と云はば、北國にのみ限るいはれ、なし。又、或人、是は自然にしてなるものと云へり。是れ、莊子の見(けん)か。何にもせよ、おのれが智に及びがたきものは、皆、自然とさへ云(いへ)ば濟むやうなものなれど、物理を明(あきらか)にせんと思ふ。才氣もなく、先愚(せんぐ)に近き達論(たつろん)と云ふべし。是も、自然に成るものならば、鏃(やじり)の形のみに限るべからず。或は鉾鎗(ほうそう)・鈇鉞(ふえつ)・刀劔・戈戟(くはんくは)・鋤鐮(じよれん)・鋸刃(きよじん)等(とう)、其余(よ)、種々(しゆじゆ)の形もあるべし。是を按ずるに、鬼神(きしん)の説、明かなり。只し、「本草」に「石弩(せきど)」と云(いふ)は如ㇾ此(かくのごとき)ものか。霹靂石・霹靂楔・霹靂堪[やぶちゃん注:以上の後の二箇所の「霹靂」は原典・野島出版版ともに総て「ゝ」で示されてあるが、これは非常に読み難いので、かく、した。]・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし。其石(せき)、質(しつ)、皆、粗品なれば、石石(せきせき)琢磨して形を成せりと覺ゆ。其品、あらまし、末に圖せり。霹靂石は自然也。其形も定(さだま)りなく、大小數品(すひん)、黑色(こくしよく)、玉(たま)のごとし。石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ。しかれば、此邦(くに)、石鏃の類にはあらざるべし。雲母石・石燕(せきえん)の類か。又、荊州・梁州・肅愼國(しくしんこく)、靑石(あをいし)を以て矢に作る、とあり。是が數年(すねん)、此奇を試るに、其夛く出(いづ)る所、從來の石質、粗品なる所は、石鏃も又、粗品なり。石質、明徹なる所は、石質も又、珠玉のごとし。其石色(せきしよく)も又、同じ。其中(うち)、粗惡の品ばかり、偶々(たまたま)見たる人は、人作とも思ふべし。又、ある人、燕石と云へるは是なり、と云へり。其説を聞(きか)んことを請ふ。曰(いはく)、一儒、長崎に至り、石鏃を以つて來舶清人(らいはくのしんじん)に示す。清客(しんかく)、見て、燕石なり、とて大笑(たいしよう)せり、と云へり。甚だ訝(いぶか)しき説也。此人、猥(みだり)に此論を成せりと覺ゆ。笑ふべきの甚だしきなり。かの呉人(ごひと)、燕石を包(つゝみ)て玉(たま)と成せるは、豈(あに)如ㇾ此(かくのごとき)ものならんや。【一説に、燕石は、即、燕の國よりいづる玉に似たる石なり。此邦、陸奥津輕石と称する物のごとくなるべし。】玉(たま)に誤(あやま)るのもの知(しり)ぬべし。本州、霹靂石、有(ある)は、此邦の落星石(らくせいせき)、俗に「星銷(ほしくづ)」と云へるもの、是なり。今北越・信州・佐州其余所(よしよ)所々(しよしよ)にあり。空中(くうちう)太陽の氣、鬱結して、忽、火光(くはくはう)を發し、飛去(とびさ)もの、地上に落(おつ)る時は、即、化(け)して石となると。是なり。其火光【大なるは、俗に「光りもの」と云ふ。小なるは「流星」又は「夜這星」と云ふ。】、「左傳」、『星、落(おつ)ること如ㇾ雨(あめのごとし)』。即、此火光なり。豈(あに)真(まこと)の星ならんや。霹靂石、形、不ㇾ一(いつならず)、黑(こく)・靑色(せいしよく)・眞黑色(しんこくしよく)・漆黑(しつこく)・白点(はくてん)等(とう)なり。甚だ、光彩潤沢明徹、如ㇾ玉(たまのごとし)。俗に「落星」・「石星(せきほし)」・「銷石(くずいし)」と云ふ。

[やぶちゃん注:「二月十五日・十八日、山神祭(さんしんまつり)とて、山に不ㇾ入(いらず)」「山神」は山の神。詳しくはウィキの「山の神」などを参照されたいが、「民俗学辞典」(昭和五〇(一九七五)年四十七版東京堂刊)によれば、『田の神を山の神とする』(同一視する)『所では二月と十月の二回に祭る』とあるから、月はいいとしても、『山の神の祭日は區々だが、月の七日・九日・十二が多い』とあるのからは、当時の北越の慣習はややずれがあると言える(因みに『杣や炭燒は十二月十二日、マタギは六月十二日を祭日としている』とある)。この日は総て『山稼を休んで山の神をまつ』り、『山の神が狩をする日、木種を播く日、木を數える日などと言われて、山入りを忌む。もし禁を破つて山に入ると山の神に木と間違えられて數え込まれてしまう』と言われている。

「今は所々(しよしよ)拾ひ盡くすと雖も、尚、尋ね求(もつむ)るごとに不ㇾ得(えず)といふこと、なし」今までいろいろなところで山の神についての話を採集してきて総て採り尽くしたとさえ思うようなのだが、しかし、なお、また新たに採集に出かけると、必ず、今まで聴いたことない、新たな山の神に纏わる話柄を得られぬということはないほど、奥深い信仰である、というのである。

「續日本(しよくにほん)紀」(しょくにほんぎ)は菅野真道(まみち)らが延暦一六(七九七)年)に完成させた勅撰史書。六国史の「日本書紀」に続く第二。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年まで九十五年を記す。編年体・漢文・全四十巻。

『同「日本後記」ニ』返り点がないけれども『「日本後記」に同じ』と読むのであるが、この謂い方は誤り「日本後記」は「續日本紀」の続篇として書かれた勅撰史書。六国史の第三。承和七(八四〇)年に完成し、延暦一一(七九二)年から天長一〇(八三三)年に至る四十二年間を記す。編者は藤原緒嗣(おつぐ)ら。編年体・漢文・全四十巻(現存は十巻のみ)。しかも、以下の内容は実は「續日本紀」日本後記」(そもそもが記載期間からこの両者ではあり得ない)でもなく、その後の勅撰史書「續日本後記」の記載事項である(次注参照)。

『承和六年、出羽國より申ス。八月廿九日、田河郡(たがはごほり)の西濱(にしはま)、符(ふ)を達する所、五十餘里の間(あいだ)、元より、石なし。十三日より、雷雨、甚だしく、十余日を歴(へ)、晴天を見る。後(のち)、落(おち)たる石、少からず。鏃(やじり)に似、鉾(ほこ)ニ似たる石、或(あるひは)白、或赤(あかし)。』前注で述べた通り、これは「續日本後記」(仁明天皇の代である天長一〇(八三三)年から嘉祥三(八五〇)年までの十八年間を記す。藤原良房らによって貞観一一(八六九)年に完成。編年体・漢文・全二十巻)の「卷八」の「承和六年十月乙丑【十七】」の以下。「J-TEXT」の本文データを一部加工して示した。

   *

乙丑。出羽國言。去八月廿九日管田川郡司解稱。此郡西濱達符之程五十餘里。本自無石。而從今月三日。霖雨無止。雷電鬪聲。經十餘日。乃見晴天。時向海畔。自然隕石。其數不少。或似鏃。或似鋒。或白或黑。或靑或赤。凡厥狀體。鋭皆向西。莖則向東。詢于故老。所未曾見。國司商量。此濱沙地。而徑寸之石自古無有。仍上言者。其所進上兵象之石數十枚。收之外記局。

   *

ここは「續日本後記」の原文で注する。

・「承和六年」は八三九年。

・「八月廿九日」はユリウス暦で八三九年十月十日、グレゴリオ暦換算では十月十四日。

・「田川郡」現在の山形県東田川郡・鶴岡市及び酒田市の一部(概ね、最上川以南)などに相当する地域。

・「西濱」前の注と矛盾するが、現在の山形県飽海(あくみ)郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)字西浜附近ではないか。ここ(グーグル・マップ・データ)。古い時代の田川郡域はこの辺りも含まれていたか、或いはただの誤認か。

・「符」野島出版脚注に『竹又は木の上にしるしとすべき文字をかき、之を割りて彼我各半分を所持し、他日ある時、合わせて証拠とするもの』とある。

・「本自無石」この浜にはもともと転石は皆無の純粋な砂浜海岸であったというのである。

・「今月三日」同年の八月三日はユリウス暦九月一四日、グレゴリ暦換算で九月十八日「北越奇談」本文は「十三日」とするが、これだと、ユリウス暦九月二十四日、グレゴリオ暦換算で九月二十八日

「三代實錄」「日本三代實錄」。六国史の第五の「日本文徳天皇実録」次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

「仁和(にんわ)元年六月廿一日、出羽國秋田城(あきたのしろ)及(および)飽海郡(あくみごほり)神宮の西濱に石鏃を降(ふら)す」仁和元年は八八五年。以下。同前の「六国史」データに同じ仕儀を施した。これは「卷四十八」の「仁和元年十一月廿一日辛丑」の条に挿入される形で記された記事である。

   *

去六月廿一日、出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西浜、雨石鏃。陰陽寮言。當有凶狄陰謀兵亂之事。神祇官言。彼國飽海郡大物忌神・月山神、田川郡由豆佐乃賣神、倶成此恠。祟在不敬。

   *

「六月廿一日」ユリウス暦八月五日、グレゴリオ暦換算で八月九日

「同二年、出羽國飽海郡諸神社の辺(ほとり)に石鏃を降す」同書の「卷四十九」の以下の「仁和二年四月十七日丙寅」の記載。

   *

十七日丙寅。令出羽國愼警固。去二月彼國飽海郡諸神社邊、雨石鏃。陰陽寮占云。宜警兵賊。由是、預戒不虞。

   *

「仁和二年四月十七日」はユリウス暦八八六年五月二十四日、グレゴリ暦換算で五月二十八日

「火打石」玉髄質の石英から出来た堅硬な岩石。断面は貝殻状を呈し、鋭い稜を有する。原始時代より石器材料とされてきた。地質学的にはチャートの一種で、生物起原或いは無機起原の堆積性珪質岩。

「石亭(せきてい)」奇石収集家で本草学者の木内石亭(きうち/きのうち せきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)。幼名は幾六。諱は重暁(しげあき)。近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)の捨井家に生まれるが、母の生家である木内家の養子となった。安永四(一七五一)年に大坂に赴き、津島如蘭(桂庵)から本草学を学んだ。津島塾では稀代の本草学者でコレクターの木村蒹葭堂(けんかどう)と同門であった。宝暦六(一七五六)年には江戸に移って田村元雄(藍水)に入門、平賀源内らと交流した。十一歳の頃から珍石奇石に興味を抱き、諸国を精力的に旅して、二千種を超える石を収集した。収集した奇石の中には鉱物・石製品・石器・化石も含まれており、分類や石鏃の人工説をも唱えていることから考古学の先駆者とも評される。また、弄石社を結成して諸国に散らばっている愛好家達の指導的役割をも果たした。著作に私の偏愛する「雲根志」(十六巻。(安永二(一七七三)年に前編を、安永八(一七七九)年に後編を、享和元(一八〇一)年に三編を刊行)「奇石産誌」などがあり、シーボルトが著書「日本」を記すに当っては石器や曲玉についての石亭の研究成果を利用している(以上は主にウィキの「木内石亭」に拠った)。崑崙とは同時代人。

「是、又、論ずるに足らざるの説なり」驚くべきことに、崑崙は石鏃を実用目的の鏃(やじり)として全く認めていないことがここではっきりと判る。直後に「石鏃上品なるもの」は「弓に矧(は)げて用ひたる物にはあらず」(「矧ぐ」は「弓に矢を番(つが)える」こと。)と断じているのである。そうして、その理由として「石鏃」の中に、捕獲対象生物の体に到底深く刺さるとは思えない形状のものが沢山あるからだ、と具体的な図を示して証左としているのである。なお、私は、その崑崙の理屈は殆んど説得力を持たないと考えている。鏃は尖っていればいいというものではない。狩猟対象生物を殺す以外にも鈍体の鏃で対象生物を弱めておいて捕獲し、それを生きた状態で捕獲して暫く生かしておいたり、家畜化する場合もあるし(縄文人は犬を既に家畜化しており、死んだ犬を人間のように埋葬したりもしている)、後の犬追物(いぬおうもの)のように、単なる遊戯として殺すことなく、射弓を楽しんだ(練習した)こともあったろう。さらに言えば、高い梢の木の実を収穫するのには開いた鈍体の鏃の方が有効でさえある。ともかくも「尖っていなければ鏃ではあり得ない」という崑崙の持論は実用的科学的にも認められない主張である。

「或人、是は自然にしてなるものと云へり。是れ、莊子の見(けん)か。何にもせよ、おのれが智に及びがたきものは、皆、自然とさへ云(いへ)ば濟むやうなものなれど、物理を明(あきらか)にせんと思ふ。才氣もなく、先愚(せんぐ)に近き達論(たつろん)と云ふべし。是も、自然に成るものならば、鏃(やじり)の形のみに限るべからず。或は鉾鎗(ほうそう)・鈇鉞(ふえつ)・刀劔・戈戟(くはんくは)・鋤鐮(じよれん)・鋸刃(きよじん)等(とう)、其余(よ)、種々(しゆじゆ)の形もあるべし」面白いのは、崑崙はここで「石鏃を全く自然に形成されたものだ」とする考えも、「荘子の無為自然じゃああるまいし、あり得ない!」と拒否しているのである。しかし、どうも、「では、崑崙先生、石鏃は誰が何のために作ったのですか?」というストレートな疑問に彼ははっきりとは答えていないのである。実は最後まで読むと、どうも実は意外なことに、

崑崙は鬼神が石鏃を創ったと大真面目に信じている

らしいのである! それが次の「予是を按ずるに、鬼神(きしん)の説、明かなり」ではっきりと示されるのである!

「石弩(せきど)」一般には「弩」は「おおゆみ」のことで、専用の矢を板発条(いたばね)の力で弦により発射する大型の強力な弓。西洋で用いられた弓の一種であるクロスボウ(crossbow)とほぼ同一のものを指すが、ここは李時珍の「本草綱目」の「砭石」(へんせき:中国の鍼術で用いる石製の針の原材料の石か。焼いて血管を刺して瀉血などに用いた)に出る矢に使用するという青い自然石(後で「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ」とあるから人工物ではない)。後注で当該部を引用した。

「霹靂石・霹靂楔・霹靂堪・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし」この文脈には疑問がある。この頭に「霹靂石」を出し、それを「人作」としながら、その舌の干(ひ)ぬ間に直下で「霹靂石は自然也」と言っているからである。ここは一応、好意的に前のそれは衍字として無視し、後者はそれらの人造石器の原料としての「霹靂石」は「自然」石であると読んでおく。しかし、そんなこと、普通はわざわざ言わない。それを考えると、どうもやっぱり、崑崙は確信犯で鬼神の存在を肯定していることが判るのである。

「石弩」一般には「弩」は「おおゆみ」のことで、専用の矢を板発条(いたばね)の力で弦により発射する大型の強力な弓。西洋で用いられた弓の一種であるクロスボウ(crossbow)とほぼ同一のものを指すが、ここは李時珍の「本草綱目」の「砭石」に出る矢に使用するという青い自然石(後で「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ」とあるから人工物ではない)。後注で当該部を引用した。

「霹靂石・霹靂楔・霹靂堪・雷斧、皆、此邦にあり。是は人作なるべし」どうもここがよく判らぬ。これらを人工物であると素直に認めている崑崙は、どうして石鏃類だけを除外して何とも言えない意味深長な形で留保しているのだろう? 前の土底村での怪奇体験から超自然現象としてそれを特別視しているとするには、どうも、これ、崑崙らしくなく、ありそうもない。或いは、土底での体験の背後に自分を騙す人為が働いていたのではないかという深い猜疑を持ってしまった彼が、「騙されるのだけはは癪に障って許されない」と、怪しい石鏃の起原だけを妙な形で棚上げにし、留保してしまったのかも知れない。ただ、この文脈には疑問がある。この頭に「霹靂石」を出し、それを「人作」としながら、その舌の干(ひ)ぬ間に直下で「霹靂石は自然也」と言っているからである。ここは一応、好意的に前のそれは衍字として無視し、後者はそれらの人造石器の原料としての「霹靂石」は「自然」石であると読んでおく。しかし、そんなこと、普通はわざわざ言わない。それを考えると、どうもやっぱり、崑崙にはある心理的な抑圧、「騙されるのだけは厭!」というやや病的な意識が作用しているようにも思われてくるのである。

「石弩は群石(ぐんせき)の内より、自然に片々として割飛(われと)ぶ。しかれば、此邦(くに)、石鏃の類にはあらざるべし」先に出た中国の本草学上の「石弩」を石鏃と比較し、それとは違うと否定しているのであるが、何だかひどく歯切れが悪い言い方である。

「雲母石」雲母。アルカリ金属・アルカリ土類金属・鉄・アルミニウムなどを含むケイ酸塩鉱物。多くは単斜晶系で六角板状の結晶。薄く剝がれ、光沢を持つ。白雲母・黒雲母・鱗雲母(りぬんも)など、二十数種がある。各種岩石の造岩鉱物として広く存在する。

「石燕(せきえん)」は二枚の前後の殻を持つ海産の底生無脊椎動物(左右二枚の殻を持つ斧足類を含む貝類とは全く異なる生物)である冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する腕足類の化石。石灰質の殻が「翼を広げた燕(つばめ)に似た形状」であることからの呼称。表面には放射状の襞があって、内部に螺旋状の腕骨がある。古生代のシルル紀から二畳紀にかけて世界各地に棲息した(当該時代の示準化石)。中国ではその粉末を漢方薬として古くから用いた。“Spirifer”(ラテン語:スピリフェル)とも呼ぶ。いつか電子化注して見たいと思っているが、南方熊楠にはこれを考証した優れた伝承論考「燕石考」がある。

「荊州」楚の古名。現在の湖北省一帯。

「梁州」現在の四川省と陝西省漢中地方に相当する地域。

「肅愼國(しくしんこく)」満州(中国東北地方及びロシア沿海地方)に住んでいたとされるツングース系狩猟民族が住んでいた地域の名称。この呼称は周代から春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が彼ら(粛慎人)の自称を音訳したものである。位置は参照したウィキの「粛慎」で確認されたい。

「靑石(あをいし)を以て矢に作る、とあり」この箇所の引用元は「本草綱目」の「石部第十卷 金石之四」「砭石」の「附錄」と思われる。

   *

石砮。時珍曰、「石砮出肅愼。國人以枯木爲矢、靑石爲鏃、施毒、中人卽死。石生山中。禹貢荊州、梁州皆貢砮、卽此石也。又南方藤州、以靑石爲刀劍、如銅鐵、婦人用作環玦。琉璃國人墾田、以石爲刀、長尺餘。皆此類也。

   *

「甚だ訝(いぶか)しき説也。此人、猥(みだり)に此論を成せりと覺ゆ。笑ふべきの甚だしきなり。」崑崙は実証主義者ではあるが、ここまで他人の引用は殆んどが徹底的に批判し否定するため、自論の餌食として引いていることが判る。案外、付き合いにくい人物だったかも知れぬ。

「かの呉人(ごひと)、燕石を包(つゝみ)て玉(たま)と成せる」出典未詳。識者の御教授を乞う。

「陸奥津輕石」津軽錦石のことか。碧玉・玉髄・瑪瑙に代表されるケイ酸質(SiO2)が主体の岩石・鉱物で多彩な色彩を持ち、錦織りのように非常に美しい。津軽の海浜に打ち上げられ、古くから高級加工材とされてきた。国名・地名を名産品に添える例として述べた。

「落星石(らくせいせき)」「星銷(ほしくづ)」以下の叙述から隕石と読める。

「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられる五経の一つである史書「春秋」の代表的な三つの注釈書の一つ(他は「春秋公羊(くよう)傳」「春秋穀梁傳」)。紀元前七百年頃から凡そ二百五十年もの間の歴史が記されている。伝統的には孔子と同時代の魯の太史左丘明とされるが怪しい。

「星、落(おつ)ること如ㇾ雨(あめのごとし)」例えば「春秋左氏傳」の「僖公」にデータ(秦鼎「春秋左氏傳校本」と「漢籍國字解全書」を参考としたものとある)を使用させて戴いた。「春秋左氏傳」は所持するが、このサイトのこのデータがこの注には最も相応しい)、

   *

十有六年、春、王正月、戊申、朔、隕石于宋、五。隕、落也。聞其隕視之、石。數之五。各隨其聞見先後而記之。莊七年、星隕如雨、見星之隕、而隊於四遠、若山若水、不見在地之驗。此則見在地之驗、而不見始隕之星。史各據事而書。

   *

とある。リンク先の訓読の一部を加工させて示すと、

   *

十有六年、春、王の正月、戊申(つちのえさる)、朔、石、宋に隕(お)つること、五つ。「隕」は、「落つる」なり。其の隕つるを聞きて之れを視れば、石なり。之れを數ふれば、五つなり。各々、其の聞見(ぶんけん)の先後(せんご)に隨ひて之れを記すなり。莊七年、星隕ちて雨(あめふ)るは、星の隕ちて、四遠に隊(お)つるを見るに、若しくは山、若しくは水、地に在るの驗(しるし)を見ず。此れは、則ち、地に在るの驗を見て、始めて隕つるの星を見ず。史、各々、事に據(よ)りて書(しよ)すなり。

   *]

1954ゴジラ追悼――

俳優中島春雄氏が亡くなった。   初代1954ゴジラは殆んど(一部とギニョールを除く)彼が演じた(クレジットでは手塚勝巳が併記されるが、彼はリハーサルであまりの重さに音を上げてしまい、完成作では国会議事堂シーンぐらいでしか操演していない。中島と手塚は素では新聞社の記者(中島)とデスク(手塚)も演じている)。   だから私は唯一正統の初代ゴジラの命日を、向後、8月7日とし、追悼することとする。

北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))

 

    俗説十有七奇(じうゆしちき)

 

[やぶちゃん注:前章に続き、各個的に注するが、「其二」の「箭ノ根石(やのねいし)」は長く、図譜も夥しいので、適所で切って注してある。

 先に後に出る挿絵をフライングして示す

 以下は、キャプションを右から下、次いで左方向の順でオリジナルに判読した(野島出版版は画像のみで活字化されておらず、キャプションに対する注記も一切ない)。幾つかの問題点があるので、それぞれに私の注を附しておいた。句読点・鍵括弧・記号を追加した。]

 

〈一枚目右図〉

「霹靂堪(へきれきじん)」【四品。】

 俗に「石劔」。

 「雷の太皷のと云。

[やぶちゃん注:「堪」の音は「たん」が正しい。これは「堪(た)える・堪(こら)える・打ち勝つ・勝(すぐ)れる」の意で、以下の石棒を霹靂(雷)に打ち勝つ、天変に立ち向かうための呪具・聖具と考えた呼称と推定する。

「石劔」は「せきけん」。「石剣」(「せっけん」とも読む)は縄文後期から晩期にかけての遺跡などから出土する石器で、その形状が武具である剣に似ているための名称(但し、以下で述べる通り、実際に実戦用の「剣」として用いられたものとは思われない)。ウィキの「石剣」によれば、本邦では縄文中期頃以降の遺跡から出土する石棒(男性器をかたどったものだが、縄文後期になるとこうした形状の物は減る)を加工する『技術から石剣・石刀の類が造られるようにな』なったと考えられており、『石棒と同様、指揮棒として特定の人が権力を示す為に使ったとも、祭祀用具とも考えられてい』て、『実用的武具ではなかったという考えでは』『考古学研究者の』『見解は一致している。八幡一郎は、「石棒が武器として用いられたかは分からないが、あんな重い物を振り回すわけにはいかない」とし、武具ではなく、呪具と関連したものと捉えている』とある。但し、ここに描かれた物のうちの最初の三品は、「石剣」というよりも、古形の「石棒」と言った方がよいように思われる。グーグル画像検索の「石棒」「石剣」をリンクさせておく。

「太皷」は「たいこ」で太鼓と同じい。

」この判読は推定だが、太鼓の「撥」(ばち)であろう。

 

長一尺六寸余。

[やぶちゃん注:約四十八・四八センチメートル余り。]

 

八寸。

[やぶちゃん注:二十四・二四センチメートル。]

 

一尺五分。

[やぶちゃん注:三十一・八一五センチメートル]

 

長一尺三寸余。

五寸五分。

[やぶちゃん注長さは約三六・四センチメートル余り。「囘リ」は「めぐり」で円周(最大)と解釈しておく。一六・七センチメートル。]

 

「霹靂楔(へきれきけつ)」【三品。】

 俗に「大勾玉

 鬼の手形」と

      いふ。

[やぶちゃん注:「楔」は「くさび」で、その石器の一面が有意に薄くなっていることを意味しているものと思われる。「大勾玉」は「おほまがたま」。]

 

長八寸五分。両面。

[やぶちゃん注:二十五・七五五センチメートル。「両面」というのは、この図で立体感を出すことが出来なかったことを憂えた崑崙が、この石器が有意な厚さを持った恐らくは円盤状の石器で、反対側も同じ形状であることを示すために入れたのではないかと推理した。]

  此所、しのぎの下、自然薄く楔のごとし。

[やぶちゃん注:下部の「○」は記号ではなく、穴と見た

「しのぎ」は「鎬」で刀剣や鏃などの刃の背に沿って小高くなっている部分を指すから、この石器は左側の三日月型に見える部分が厚く鎬状になっており、右の楕円に見える部分が有意に薄くなって(穴さえ空けられて)楔のように見えるというのであろう。これは本文に叙述がないのであるが、以下の注で述べた通り、私はこれを主に漁具として用いられたと推定されている石器「石錘(せきすい)」の一種ではないかと考えている。石錘は平たい石を楕円形に加工し、その長軸両端に紐を掛けるための凹部を切り出してあるものが普通であるが、弥生から古墳時代の九州型のそれでは一個から三個の穿孔を施したものがあり、これは日本海ルートで伝播したと考えられ、若狭の遺跡からも出土している。]

 

〈一枚目左図〉

徑四寸余。

厚八分。

[やぶちゃん注:この石器は非常に不思議な形をしているが、この凹みは繩を懸けたものと思われ、とすれば、異形の「石錘」とも考えら得るか?

「徑」は「わたり」で直径。

「四寸余」十二・一二センチメートル余り。

「厚」「あつさ」。

「八分」二・四二センチメートル。]

 

○此二図(にづ)、上につゞく。

[やぶちゃん注:「上(か)みに續く」で、先の右の図の「霹靂楔」に続く、の意と思われる。特に下方のそれは正しく「楔」としか言いようがない形状だからである。これは或いは実際に石器を製作するために岩石に打ち込んだ石製の「楔」そのものとも考え得る形状と言える。]

 

青黑色。

 長九寸四分 厚四分余。

[やぶちゃん注:長さ二十八・四八センチメートル、厚さ一センチ三ミリメートル余り。]

 

「雷斧石(らいふせき)」【三品。】

 俗に「狐まさかり」。

 此、おほく出、

  みな、ねす灰色。

[やぶちゃん注:これらは典型的な石斧である。「狐」は形状(側面ではなく描かれた図のこちら側)が狐の顏の形に似るからか? 或いは単に野中に落ちている小さな石の斧からの「妖狐の使う小(ちっ)ちゃな鉞(まさかり)」という意味か?

「ねす灰色」「鼠灰色(ねずはいいいろ)」か?]

 

「天狗ノ飯櫂(てんぐのめしがひ)」【一品。】

 赤黑色。

[やぶちゃん注:「飯櫂」は「飯匙」(めしがひ/めしがい)で杓文字(しゃもじ)のこと。因みに全く関係ないが、「天狗の飯匙」は現在、菌界子嚢菌門チャワンタケ亜門テングノメシガイ綱テングノメシガイ目テングノメシガイ科 Geoglossaceae の茸の一群の和名でもある(黒っぽいスプーン型の茸である)。]

 

此數類、が見たる所なり。

 事余、又、異形も

        あるべし。

[やぶちゃん注:「事余」は「じよ」で「他にも」の謂いであろう。]

 

〈三枚目の図〉

「石鏃(せきぞく)」【十三品。】

 

如ㇾ此也形、甚だ夛し。

 しのぎ、するどに

  立て、能、竹木を

     けづる。

[やぶちゃん注:一行目は「かくのごときなるかたち、はなはだおほし」或いは「かくのごときなり。かたち、はなはだおほし」と読んでおくが、「也」は判読に自信がない。二行目以下は「鎬(しのぎ)、鋭(するど)に立(たち)て能(よ)く竹木(ちくぼく)を削る。」であろう。]

 

長三寸二分。如白玉。

[やぶちゃん注:長さ九・七センチメートル。「白玉のごとし」。最上段の最も大きく、優れた形をした有茎石鏃の解説であろう。]

 

○大小異形。俗に「箭の根」「矢石」と云。

 

紫・赤・靑・黑・白・黄・斑、色、皆、如ㇾ玉(むらさき あか あを くろ しろ き またら いろ みな たまのごとし) 黄土色は、夛く兼所なり。

[やぶちゃん注:「兼所」は「かぬるところ」或いは「かねるところ」で、どの色にも多く付随している色である、という意味と読む。]

 

Sekki1

 

Sekki2

 

其一 「神樂嶽(かぐらだけ)のかぐら」と云へるは、山下人(やましたびと)・樵夫(きこり)など、時有(ときあつ)て、山上、忽(たちまち)、御神樂(みかぐら)を奏する音、聞ゆと云へり。然(しかれ)ども、其所(そのところ)、分明(ぶんみやう)ならず。中越後(なかえちご)にて是を尋(たづ)ぬれば、羽州の境(さかひ)、村上山中(むらかみやまなか)と云へ、下越後(しもえちご)にて是を尋(たづぬ)れば、會津境(ざかひ)、津川の邊(ほとり)とも云へり。數ヶ年(すかねん)、其地を求むれども、未ㇾ得(いまだえず)、あるまじきことにもあらねど、重(かさね)て穿鑿を歷(へ)て、其實(じつ)を記すべし。或人、是を聞(きゝ)たりなど云(いへ)れど、牧笛樵歌(ぼくてきしようか)なんど誤まりけん、訝(いぶか)し。

[やぶちゃん注:山風や谷風によって山の反対側或いは近くの別な麓の村の音が反響して山頂から聴こえるような現象。

「然ども其所、分明ならず」以下に見る通り、一箇所を限定して指し示すことが出来ないことを謂う。

「村上山中(むらかみやまなか)」現在の新潟県北端の村上市。ここ(グーグル・マップ・データ)。出羽国、現在の山形県との境に当たるのが、朝日山地。朝日岳の主峰大朝日岳(標高千八百七十メートル)は山形県に属する。ここは私も登頂したことがある。

「會津境(ざかひ)、津川」新潟県東蒲原郡阿賀町津川附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「牧笛樵歌(ぼくてきしようか)」本来は「牧笛」は、牧童が家畜に合図するときに吹く笛であるが、ここは百姓の草刈の際に野良作業の囃子として吹き鳴らす笛や太鼓、「樵歌」は文字通り、樵(きこり)が伐採する際の木こり唄。]

 

其二 「箭ノ根石(やのねいし)」【「石鏃(せきぞく)」なり。】。諸方の好事家、已に此奇を知。其形、種々(しゆじゆ)ありて、上品なるものは紫(し)・白(はく)・靑(せい)・黑(こく)、皆、如ㇾ玉(たまのごとし)、甚だ鋭(するど)にして、込(こみ)も長し。大なるもの、八寸ばかりなるあり。二寸、三寸、四寸なるものも又、稀なり。多くは一寸ばかりなり。總て、北越所々(しよしよ)、山中並ニ古き社地・古城跡・畑(はた)などにもあり。雷斧石(らいふせき)を、まゝ交(まじ)へ出(いだ)す。又、俗に「天狗のメシガイ」と云ふ物を出す。石鏃に似て、形、異也。頸城郡には大光寺村山畑(やまはた)、神田山(かんだやま)、三島郡には圓淨湖(ゑんじようじがた)の北、京ケ入村(きやうがいりむら)・渡邊村・長者ヶ岡・竹森(たけもり)の村、古き社地あり。雪中(せつちう)に土(つち)のうちより飛放(とびはなつ)て、竹木(ちくぼく)に鑿立(えりたつ)こと、ありし。蒲原郡には伊夜日子山下(いやひこのさんか)、麓村(ふもとむら)の畑(はた)、黑滝(くろだき)の古城跡等(とう)なり。又、米山の西北(にしきた)、土底村(どそこむら)海邊(かいへん)、砂山の間(あいだ)に小池あり。此所、甚(はなはだ)夛(おほ)し。日々、小児等(ら)、其辺(ほとり)、盡(ことごと)く拾ひ盡(つ)くして、歸(かへる)と雖も、翌朝(よくてう)、又、元のごとし。一とせ、此池に遊び、其奇を試んと思ひ、一夕(いつせき)、小児等(ら)を伴ひ、かの池より、五、六丁にして池の畔(ほとり)に至り、石鏃、五ツ、六ツ、拾ひ得て歸りぬ。扨、翌朝未明に、又、独行(どつかう)してその所に至り見るに、果して、三ツ、四ツあり。其中(そのうち)、不思義なるは、半(なかば)、鏃(やじり)の形をなして、いまだ全くならざるものあり。又、水底(すいてい)所々(しよしよ)に石銷(くづ)、一ト群れづゝにして、有(あり)。皆、一片(いつへん)一片に、割(さけ)ケ飛(とび)たるがごとし。まことに此奇を見て、身毛寒慄(しんもうかんりつ)をなせり。又、何(いづ)れ社地などに、地中より飛放(とびはなつ)て、人に當(あた)れるものもあれど、敢(あへ)て損傷(そんじよう)に及ばず。又、信州境、關山(せきやま)の中(うち)にて、農家の婦(ふ)、戸外(こぐはい)に出て、浴湯(ゆあび)したりけるに、山中(さんちう)より何處(いづ)くともなく、矢響(やひゞき)して、盥(たらゐ)の中(うち)に飛入(とびいり)たり。女、驚き、立上(たちあがり)て是を見れば、大なる箭(や)の根石(ねいし)、徑(わた)り七寸計(ばかり)なるものなり。誠に、其奇、はかるべからず。

 

[やぶちゃん注:以下、本文は改行せずに続いているが、長いので、ここで一旦、切ることとする。

 この話の中で、崑崙自身の不思議な体験として、石鏃を執り尽くしたはずなのに、翌朝に行くと、拾い忘れるはずのない有意に目立つ石鏃が複数転がっている、またその中には、あたかも昨日から今日にかけて、新たに加工している途中のようなものさえも交っている、という怪異が出るが、これは海を隔てた佐渡島の怪談実録を集めた私の偏愛する「佐渡怪談藻鹽草」の中の一篇「淺村何某矢の根石造るを見る事」(既に全話をオリジナルに電子化注済み)を強く思い出させた。海峡を隔ててはいるものの、隣国であり、この類話性はすこぶる興味深い

「箭ノ根石(やのねいし)【石鏃(せきぞく)なり】」後で崑崙の描いた多量の図譜が出るが、本邦では縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。矢の先端の反対側に突起を伴わない「無茎石鏃」の外、傘の柄のようにそこに突起(茎)を持つものもあって、それは「有茎石鏃」と呼称する。縄文記には、原石を打ち欠いて剥片を作り、それに細部の調整を加えて製作したもので、それらの殆んどは「打製石器」に属する。弥生以降から側縁部に磨きをかけた「磨製石器」としての石鏃が増加してくる。矢柄(やがら)への取り付けは管状の植物の凹み部分などを利用し、紐などで縛って装着させたと考えられているが、有茎石鏃の場合はその突起箇所を柄に成形した凹み部分と咬み合わせることで強度を加増させたものと考えられる。既に前章の注で述べているが、東北や北海道地方では石鏃の補強や補修及び接着部からアスファルトが検出される場合も多く、現在の新潟・秋田などにあった油田地帯から湧出した天然アスファルトが、交易の結果、北日本一帯に流通していたことが判明している(以上は主にウィキの「石鏃」に拠った)。但し、実際に崑崙が図で提示するそれらは、既に掲げた通り、多様な形状をした「石鏃」もさることながら、それだけに留まらず、乳棒状の擂り粉木か突き棒のような「石棒」・「石剣」・「石矛(いしぼこ)」の類や、典型的形状を成す石斧類(「霹靂堪(へきれきじん)」・「雷斧石(らいふせき)」)、三角稜を呈した手裏剣のような特異な武具か器具のような、しかし、漁具の錘のようにも見える「霹靂楔」などにまで及んでいる

「込(こみ)」先の注で出した「有茎石鏃」鏃(やじり)を矢本体である篦(の:矢柄(やがら))の中にさし込まれる突起部分。「のしろ」とも呼ぶ。

「八寸」約二十四センチメートル。

「二寸、三寸、四寸」約六センチから十二センチメートル。

「一寸」三センチメートル。

「天狗のメシガイ」図及び前の注を参照。

「頸城郡」「大光寺村」旧中頸城郡内。現在位置不詳。識者の御教授を乞う。

「神田山(かんだやま)」上越市頸城区塔ケ崎に神田山神社があるから、前の大光寺村とともにこの附(グーグル・マップ・データ)か?

「圓淨湖(ゑんじようじがた)」既出既注。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した「円上寺潟」のこと

「京ケ入村(きやうがいりむら)」長岡市寺泊京ケ入。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下、「渡邊村」「長者ヶ岡」「竹森の村」もこの周辺ととっておき、面倒なので限定比定はしない。悪しからず。

「雪中(せつちう)に土(つち)のうちより飛放(とびはなつ)て、竹木(ちくぼく)に鑿立(えりたつ)こと、ありし」石鏃類が、冬場、雪の中で地面から飛び出して、竹や樹木に深く刺さった状態で発見されることがあるというのである。奇怪な現象である。「伊夜日子山」多数既出既注の新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある弥彦山のこと。標高六百三十四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「麓村(ふもとむら)」弥彦山の南東山麓の新潟県西蒲原郡弥彦村麓。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑滝(くろだき)の古城跡」弥彦村麓の中のここ(グーグル・マップ・データ)。築城時期・築城主体ともに不明。一説に鎌倉末期に刈羽郡小国保から西蒲原に進出した小国氏が築いたともされる。慶長三(一五九八)年に廃城となったと推定される。詳しくは秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「黒滝城」を参照されたい。

「米山の西北(にしきた)、土底村(どそこむら)海邊(かいへん)」新潟県上越市大潟区土底浜。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「小池」現在の土底地区には「天ヶ池」があり、その周辺にも池沼は散在する。

「かの池より、五、六丁にして池の畔(ほとり)に至り」「五、六丁」は五百四十六~六百五十五メートルほどであるが、ここ意味がよく判らぬ。

「身毛寒慄(しんもうかんりつ)をなせり」恐ろしさのあまり、身の毛がよだつほどに寒気とともに慄(ぞっ)としたというのである。

「何(いづ)れ社地などに、地中より飛放(とびはなつ)て、人に當(あた)れるものもあれど、敢(あへ)て損傷(そんじよう)に及ばず」どこそこの社(やしろ)の境内地内では、突然、地中から石鏃が飛び出して、参詣人や通行者に当たるという奇怪な現象が起こる場合もあるが、特にそれによって傷を受けるほどではない、というのである。これって多分、子どもの悪戯ではないの? 僕ならきっとやるもん、崑崙先生。

「信州境、關山(せきやま)」新潟県妙高市関山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「七寸」二十一・二一センチメートル。崑崙先生、これもさ、その農家の女性に懸想している、どこそこの男が覗きをしているうちにムラムラきて、しょうかたなしに男根に似た石鏃を投げたと解釈する方が、ずっと自然だと思うんですけど?

2017/08/09

北越奇談 巻之二 古の七奇

 

    古(いにしへ)の七奇(しちき)

 

[やぶちゃん注:最初の名数は前と同じく処理した(原典は一字空けで連続)。注は各項目ごとに附した。]

 

燃土(もゆるつち)

燃水(みづ)

白兎(しろうさぎ)

海鳴(うみなり)

胴(ほら)鳴

火井(くはせい)

無縫塔(むほうとう)

 

其一 燃土、焚土(えんど)なり。米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池、同柿崎(かきざき)の裏田(うらた)の沼より出(いづ)る。又、三島郡竹森(たけもり)と云(いへ)る所、用水の溜池及(および)田の沼より出づ。其外、所々に多し。是、謂ゆる、桑田江海(さうでんこうかい)の変、上古、艸根木葉(さうこんぼくよう/くさのねこのは[やぶちゃん注:後ろの「/」以下は左ルビ。以下、同じ。]深く落(おち)重なりて、數(す)千年を積み、泥土(でいど/どろつち)のごとくなりたる物也。是を田家(でんか)の人、切(きり)上げて、日に干(ほし)、焚(たく)時は、即(すなはち)、よく燃(もゆ)る。今尚、信州にも出(いで)、西國にもありと云へり。然れども、「日本書紀」に、『人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)五月、越國進水土可ㇾ代薪油者』とあり。上古、已にが國より此一奇を出すこと、明(あきらか)なり。今年、文化庚午(かうご)まで千百四十三年に及べり。

[やぶちゃん注:「燃土」これは永らく「石炭」或いは「泥炭」とされてきたが(私は本文の叙述から今日まで何の疑問もなしに「石油」が染み込んだ腐葉土のようなもの思い込んでいた)、近年の研究では天然アスファルトnatural asphalt:土瀝青(どれきせい)。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のもので、ここは地表面まで滲出した原油が、長い年月をかけて軽質分を失い、それが風雨に晒され、酸化されて出来た天然のそれ)であるとされる。既に縄文後期後半から晩期にかけて、日本海側の現在の秋田県・山形県・新潟県などで天然アスファルトは産出され発見されており、縄文人はこれを熱して、後の項に出る石鏃(せきぞく:石製の鏃(やじり))や骨銛(こつせん:動物の骨(ほね)で出来た銛(もり))などの漁具の接着や破損した土器・土偶の補修などに利用していた

「焚土(えんど)野島出版脚注には、『「えんど」と振仮名がつけてあるが、正しくは「ふんど」又は「はんど」である』とある。

「米山(よねやま)の陽(みなみ)、西北の濱、潟町(かたまち)のほとり、鵜(う)の池・朝日の池」現在の新潟県上越市大潟区潟町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柿崎(かきざき)」前の潟町の東北の日本海沿岸にある現在の上越市柿崎区柿崎。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「三島郡竹森(たけもり)」先の柿崎より遙か東北の長岡市寺泊竹森。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「桑田江海(さうでんこうかい)の変」盛唐の詩人劉廷芝の名作「代悲白頭翁」(白頭(はくとう)を悲しむ翁(おきな)に代はる)の「已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海」(已に見る 松柏の摧かれて薪(たきぎ)と爲るを 更に聞く 桑田の變じて海と成るを)で知られる「滄海變じて桑田となる」(但し、実際には同じ盛唐の詩人儲光羲(ちょこうぎ)の詩「獻八舅東歸」(八舅(はつきう)の東歸するに獻ず)の最終句「滄海成桑田」(滄海も桑田と成る)を出典とすると言った方が正しいようである)の誤り。原義は「青海原が桑畑に変わるように、世の中の移り変わりが激しいこと」を言うが、ここはそうした想像を絶した物質変性を言っている。

「切(きり)上げて」地中から伐り出して地表に掘り上げて。

「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」六六八年。

「五月、越國進水土可ㇾ代薪油者」原文に従って訓読すると「五月、越國(ゑつこく)、水土(すいど)を進(すゝ)めて可ㇾ代二薪油(しんゆ)に代(か)ゆべき者(もの)」であるが、この叙述を載せる「日本書紀」の伝本の当該箇所を私は見出すことが出来ない。識者の御教授を乞う。

「文化庚午(かうご)」文化七年。一八一〇年。崑崙の冒頭の凡例のクレジットの前年。「千百四十三年」か数えの計算であるからおかしくない。]

 

其二 燃水(もゆるみづ)、草生津(くさふづ)の油(あぶら)、即(すなはち)、臭水(くさみづ)の油なり。頸城郡(くびきごほり)、凡(およそ)六ケ所。然れども、その大なるものは、蒲原郡草生津村、同新津(にいつ)村、同柄目木(からめき)村、同黑川館村(くろかはたてむら)等(とう)なり。出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)と云ふ所、海中に出(いづ)ツ[やぶちゃん注:ママ。「出づ」の衍字か。]。如ㇾ此(かくのごとく)、所々(しよしよ)、水中(すいちう)より、油、混じはりて、沸出(わきいづ)るを、草(くさ)にしみ付(つけ)、採ること也。然(しか)れども、如何なる油なることを知らず。水の臭きが故に「くさ水の油(あぶら)」と稱す。張華が「博物志」『石泉脂石漆(せきせんしせきしつ)』、李時珍が「本艸(ほんさう)」に『石腦油(せきのうゆ)』又『石油(せきゆ)』『山(さん)油』、「酉陽雜記(ゆうようざつき)」『石脂水』と云へる、皆、此類(たぐひ)か。今、此邦(くに)の醫(ゐ)、是を「石腦油」に當(あて)、用(もちゆ)るに、甚だ効ありと云へり。是を按ずるに、これも又、焚土(えんど)のごとく、數(す)千年前(ぜん)、松柏(しようはく)の古木大材(こぼくたいざい)、土中に落入(おちいり)たる、松脂(まつやに)の腐水(ふすい)と覺ゆ。其故は、甚(はなはだ)、油煙(ゆえん)多く、松の匂ひあり【或人云、「松脂は茯苓となり、琥珀となる、何ぞ油となるの理あらん、是は只、土中の油なるべし」と。然らず。松脂、其樹より自然に滴り落(おち)、土中に凝塊するもの、化して茯苓・琥珀ともなるべし。これは土中に含みたる松脂にして、水土の底に腐爛せるものなればなり。只、「土中自然の油(あぶら)」と云はんも暗愚の説と云ふべし。】。殊に、上古、北越は、如何なる山谷水土の変ありにしや、所々(しよしよ)、水底(すいてい)・沼田の下(した)、多く埋木(まいぼく)の大なるものを出(いだ)すこと、はかりがたし。近頃、圓淨湖水(えんじようこすい)の底、樋(ひ)、掘り拔きの所、數(す)丈の土中より、立木(たちき)のまゝなる埋木(まいぼく)數(す)十を出すと云へり。何(いづ)れ、其奇、可ㇾ察(さつすべし)。此二奇(にき)、即(すなはち)、『可ㇾ代薪油(しんにかゆべき)』ものなり。

[やぶちゃん注:言わずもがな、石油。

「蒲原郡草生津村」旧新潟県古志郡草生津町(くそうづまち)内。現在の新潟県長岡市草生津。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「新津(にいつ)村」現在の新潟市秋葉(あきは)区新津本町周辺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「柄目木(からめき)村」新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。新津の南東直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「黑川館村(くろかはたてむら)」現在の新潟県胎内市のこの附近か(グーグル・マップ・データ)。

「出雲崎の上蛇崩(かみじやくづれ)」現在の新潟県三島郡出雲崎町勝見に「蛇崩丘(じやくずれおか)」という場所を見出せる。位置はマッピン・データのこちらで確認されたい。古く或いは近くに大きな崩落のあった場所には「蛇崩」の名が各地でつく。地中を巨大な蛇が移動したと考えられたり、激しい帯状の崩落の跡が蛇のように見えたからであろう。

『張華が「博物志」』晋の政治家文人張華(二三二年~三〇〇年)が撰した博物書。散逸しているが、恐らくは次の「本草綱目」の記載(張華「博物志」載、『延壽縣南山石泉注爲溝、其水有、挹取著器中、始黃後黑如凝膏、燃之極明、謂之石漆。』(下線太字やぶちゃん)からの半可通な孫引きであろうと私は思う。

『李時珍が「本艸」』明の本草学者李時珍(一五一八年~一五九三年)の著した「本草綱目」。以下は、「金石之三」に「石腦油」として項立てされてある。中文ウィキのこちらで原文が読める。その「釋名」では「石油」「石漆」「猛火油」「雄黃油」「硫黃油」を挙げるが、ここで崑崙が示す「山油」という異名は出ない。不審である。

「酉陽雜記」唐の段成式(八〇三年~八六三年)の撰になる主に怪異記事を集録した博物学的大著「酉陽雜俎(ゆうようざつそ(ゆうようざっそ)」の誤り。「卷十 物異」の以下。

   *

石漆。高奴縣石脂水、水膩浮水上如漆。採以膏車及燃燈、極明。

   *

自然流で訓読すると、

   *

石漆(せきしつ)。高奴(かうど)縣の石脂水(せきしすい)、水の膩(あぶら)の水上に浮きて漆(うるし)のごとし。採りて以つて車に膏(あぶらさ)し、及び燈(ひ)に燃(も)さば、極(いみ)じく明(めい)たり。

   *

これは確かに「石油」のことと考えよい。東洋文庫版の今村与志雄の訳注でもそう推定注されてあり(この部分の注は詳細を極める)、『現在、この地方に玉門油田(中華人共和国成立後、最初に開かれた油田)がある』ともある。「高奴縣」現在の陝西省延安市北東部を流れる延河北岸地域に相当する秦代の古い県名。後漢末には廃されている。この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「甚だ効あり」先のリンク先の「本草綱目」の「主治」を見ると、「小兒驚風」(小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当)・「瘡癬蟲癩」(疥癬や虫刺されによる皮膚の壊死をいうか)・「針箭入肉」(尖ったものが筋肉まで刺さって折れたもの状態を指すか)に処方するとある。

「松脂(まつやに)」主成分はテレビン油(C10H16)とロジン(アビエチン酸などの樹脂酸を主成分とする樹脂の総称)。因みに、石油の主成分の殆んどは炭化水素で、それに種々の炭化水素混合物が混じり、その他にも硫黄化合物・窒素化合物・金属類も含まれている。崑崙が拘るように松脂が石油になったわけではないが、構成元素は確かに同じ炭素と水素ではあるし、この反論した知ったか男の謂い方は確かにひどく気に食わない。やれ! やれ! 崑崙先生!

「茯苓」「ぶくりやう(ぶくりょう)」は漢方薬に用いる生薬の一つ。茸の一種である末の根に寄生する松塊(まつほど:菌界担子菌門菌蕈(きんじん)綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa)の菌核を乾燥させたもの。健胃・利尿・強心等の作用を持つ。

「琥珀」植物の樹脂が化石となったもの。黄褐色か黄色を呈し、樹脂光沢を持ち、透明か半透明。石炭層に伴って産出する。

「圓淨湖水(うえんじようこすい)」野島出版脚注によれば、正しくは「圓上寺湖」であるとし、『信濃川の悪水を円上寺より隧道によって寺泊町を横断して日本海に注ぐもの』とあるが、この湖(後掲するように「潟」)は現存しない。現在の新潟県長岡市寺泊下曽根附近ここ(グーグル・マップ・データ))に存在した「円上寺潟」のことである。新潟県公式サイト内のこちらのページに、この附近は『下曽根地域付近に円上寺潟と称する』五百『ヘクタール余りの湖沼の低湿地が広がる水害常襲地帯』で、『また、地域を縦貫していた島崎川は、現在の燕市(旧分水町牧ヶ花)地先で西川と合流し、地域の用水源としても重要な機能を果たしてい』たものの、『梅雨や秋雨の頃になると』、『西川からの悪水が逆流し』、『一帯は湛水し、一大湖沼の様相を呈してい』た(これが、崑崙が「湖水」と表現した所以であろう)。『円上寺潟の干拓は』承応元(一六五二)年から『始まり、日本海への排水も計画され』『たが、丘陵地を通過すること、膨大な費用がかかることなどからその当時は、排水先を島崎川筋から西川に求めざるを得』ず、『その後、島崎川筋への排水路の整備を進め』ものの、『排水口にある村々の反対などに遭い、思うように工事が進』まなかった。そこで、寛政一〇(一七九八)年、『渡部村地内(旧分水町)から丘陵地を掘り抜き、野積村須走浜にて日本海に直接排水する計画』(排水路延長四千九十メートルの内、隧道部分は実に千百八十一メートルあった『が再び立案され』、寛政一二(一八〇〇)年より工事が始まり』、文化一二(一八一五)年『に竣工し』た。しかし、それでも『潟の完全な排水はできず』、その悲願は『明治以降の大河津分水路の完成まで』『待たなければなか』ったとある、その隧道のことをここで「湖水の底」に「樋(ひ)」を「堀り拔」いた、と言っているのだと私は読む(下線太字はやぶちゃん)。本書の刊行は文化九(一八一二)年であるから、この隧道掘削の時期と矛盾がないからである。

「數(す)丈」一丈は三・〇三メートル。]

 

其三 白兎(しろうさぎ)は諸州共に是ありと雖も、他邦の白兎は、即(すなはち)、其質(しつ)にして、生(むま)るゝより、白く、冬・夏ともに相同じ灰色なるは、その常なりと。越國(ゑつこく)に産する所は、春の末より秋の終りまでは盡(ことごと)く灰毛(はいげ)にして、白は絶(たへ)て、なし。冬は、即、淸白(せいはく)に雪の凝(こ)れるがごとし。春・秋も尚、斑(まだら)なるものだに見ず。去(さんぬ)安永年中、古志郡(こしごほり)の内(うち)より、黑頭(くろかしら)の白兎を出(いだ)せしことあり。近世に至ては、奧羽、又、信州・加賀・越中・佐州などにも、白兎、が國のごとしと云へり。然(しか)れども、「年代實記」に、『寶龜五甲寅從越國獻白兎』とあり。此國、他邦に先立(さきだ)ちて、奇と稱すること、如ㇾ此(かくのごとし)。凡(およそ)三奇、今、猶、諸州に同類出ると雖も、證書(しようしよ)、明(あきらか)なるを以(もつて)、他邦の産は盡(ことごと)く越國(ゑつこく)の余流と云ふべし。

[やぶちゃん注:これは冬季に雪深い越後なれば、そこに棲息する野兎(哺乳綱ウサギ目ウサギ科ノウサギ属ニホンノウサギ Lepus brachyurus)の体得した保護色に過ぎないと思われる。

「安永」一七七二年~一七八一年。

「古志郡」旧越後国の同郡は現在の長岡市の一部・小千谷市の一部・見附市の一部に当たる。位置や歴史(非常に古くは越中国に属した)はウィキの「古志郡」で確認されたい。

「佐州」佐渡国。

「年代實記」不詳。野島出版脚注にも『この名の本は明らかでない』とある。幾つかの文字列の組み合わせで試してみたが、ネット上でも掛かってこない。

「寶龜五甲寅從越國獻白兎」「寶龜五甲寅(きのえとら)、越國より白兎(はくと)を獻ず」。]

 

其四 海鳴(うみなり)は晴天と雖も、雨ならんとする時、已海潮の響(ひゞき)、五、六里に聞へ渡りて、南にあり。風雨の日も晴んとする時は、北に聞ゆ。是を以つて、國人(くにうど)、陰晴(いんせい)を占ふ。今、九州灘是と類(るい)する所ありと云へり。然(しか)れども、が國、此(この)奇、先達(さきだつ)て有(ある)により、今、好事の者、九州灘の中に聞出せりと覺ゆ。是を按ずるに、數十里の海潮、大山(たいさん)の插(さしはさ)むところ、必ず、汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし。然(しか)れども、陰晴(ゐんせい)に、其氣、自然と南北すること、北越の海に限る、と云へり。故に以(もつて)、奇となすか。唯、享徳年間の舊記に此奇を擧げたるを見る。

[やぶちゃん注:これは激しい上昇気流や逆転層などの海域の大気上の変化によって、通常は聴こえない遠くの岩礁や暗礁或いは岩礁性海岸にぶつかる波濤の音が、ごく近くで聴こえる現象のように思われる。遠雷の可能性を挙げる方もおられようが、崑崙は「海鳴」「海潮」「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」等、完全に海の波の砕ける音として述べており、「雷の音」と思われるような記載は一切していないことから、それは排除されると思う。また、天候が悪化するのは上昇気流につきものである。私は高山の山頂で下界の市街の音がびっくりするほどすぐそこのように聴こえるのを何度か経験したが、概ね、その後に雨雪となった。

「九州灘」玄界灘のことか。後の「汐の差引(さし)き、直流(ちよくりう)すること、あたはず。相戰(あひたゝかひ)て此響(ひゞき)をなせるなるべし」辺りからは周防灘とも思われなくもない。

「享徳」一四五二年から一四五四年。足利義政の治世。

「舊記」不詳。]

 

其五 胴鳴(ほらなり)は秋晴(しうせい)の日、風雨ならんとする時、必、是を聽く。例へば、雲中(うんちう)より雷(らい)の轟き落(おつ)るごとく、雪の高山(かうざん)より雪崩れ落(おつ)るがごとき聲ありて、何處(いづ)くとも定めがたし。頸城郡には黑姫嶽(くろひめだけ)と云へ[やぶちゃん注:ママ。]、蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)とも云ふ。又、岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山とも云へり。其響(ひゞき)、更に遠近(えんきん)なし。俗の諺に、昔、奧州阿部の族徒、黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)と云へる者あり。八幡太郎義家のために討(うた)れ、其頭(かしら)と胴(どう)と兩斷して埋(うづ)む、と【今、蒲原郡鎧潟の辺、黑鳥村八幡の神社あり。其下、時々震動して、此音をなす。】然(しか)るに、其胴、其頭と合(がつ)せんことを欲して此鳴動をなせりと云へ傳ふ。一笑すべし。今は、此奇、稀に聞(きく)ことなり。只し、黑鳥の村、二、三里の間(あいだ)は、今、猶、此動鳴(どうめい)ありて、其方角、紛ふべくも在ず、黑鳥八幡の社地なり、と云へり。又、黑鳥村の人は、前々(ぜんぜん)より、更に此鳴動を聞こと、なし。他(た)に出るときは、即(すなはち)、聞(きく)。是、又、一奇なり。近頃、丙寅(へいゐん)の秋、米山(よねやま)より西北の海邊(かいへん)にて聞(きゝ)しは、山の鳴るにあらず、海潮の響、地に接して、此動鳴をなすなるべし。是を以(もつて)按ずるに、頸城郡の海は能登の北涯(ほくがい)を外(はづ)れ、佐州の南浦(みなみうら)を離(はな)れて、大洋數(す)千里の海潮、玆(こゝ)に、的(てき)する所なれば、此響(ひゞき)をなす、と覺ゆ。是、即、數(す)千里の外(ほか)、風雨氣(き)ざし起こる時は、其氣、海上を走りて、地に徹接(てつせつ)する所、即、其氣、地を押し、山谷(さんこく)に徹して、鳴動す。凡(およそ)、氣を以つて氣を製[やぶちゃん注:ママ。「制」。]するとは、此理(り)にして、方(まさ)に風(かぜ)ならんとする時は、窓戸(そうこ)先(まづ)ツ鳴り、雨ならんとする時は、煤(すゝ)、自然に落(おつ)。頭(かしら)痒く、氣鬱(きうつ)し、魚(うを)、躍(おど)り、猫兒(びようじ)獨り、狂ふ。是、自然にして、其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)るものなり。されば、晴天、波(なみ)風、靜かなる折にも、浦々(うらうら)、胴鳴(どうめい)する時は、必、風雨あり。胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん。此義を以つて擦(さつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]すれば、越後にのみ限るいはれ、なし。他邦、いまだ穿鑿の至らざる所か。只し、地勢によるか、黑鳥の一奇か。

[やぶちゃん注:これは崑崙も疑義を挟んでいるように(崑崙は最終的に「海鳴」と同じ現象と断じ、それが陸の山地地形によって増幅されたものと考えているようである)、「海鳴」との差異が明確でない。当初、私はまず、遠雷の可能性を考えた。次に「胴鳴」という呼称から、ある程度、有意に地下或いは海底の下方などで発生するものと考え、その場合は、天然ガス(「其七」の火井(かせい)を参照)或いはメタンガス等、又は、近年、多量の埋蔵が確認されているメタンハイドレートの圧力の高まりによる爆発音或いは土中空所等でのそれらの自然発火を想定した。最後に、断層帯などのある場所で発生する地鳴り(或いは地震のプレ現象)と考えた(しかし、崑崙は、その鳴動のある地域で、遙か以前或いはその後に大きな地震が発生し、ひどい災害を受けたなどということは一切記していない。ただ、地震災害のスパンは長いから、崑崙がたまたま経験しなかったことの方は特におかしくはなく、かのかつての大規模な新潟地震は私自身の記憶にも鮮明ではある)。しかし不審なのは、何よりも近代以降、こうした体験事実(特にが原因とするなら)が聴こえてこないことである。本当にそうした自然の地中の化学物質によって爆裂震動などの現象が起こっていたのであれば、それは近代の諸記録にも記され、公機関はその異常音に危険性を察知し、速やかに調査するはずであろうが、そうした新潟県での事実を私は寡聞にして知らないことである。但し、の地震災害調査予防のための調査は行われており、新潟薬科大学非常勤講師(地学担当)の河内一男氏の「地震鳴動(地鳴り)予知された地震」には、何と! §2 橘崑崙著『北越奇談』に見る鳴動」という章でこれを『小規模地震に関連した地震鳴動』の江戸期の科学的古記録として位置付けておられる。必読!

「頸城郡には黑姫嶽(くろひめだけ)」新潟県糸魚川市にある黒姫山(くろひめやま)。標高千二百二十一メートル。

「蒲原古志の邊(ほとり)には蘇門山(そもんざん)淡ケ嶽(あはがたけ)」先の河内の記載から、守門岳(すもんだけ:新潟県魚沼市・三条市・長岡市に跨る標高千五百三十七・二メートルの山)と粟ケ岳(あわがたけ:新潟県加茂市と三条市の境で新潟県のほぼ中央にある標高千二百九十三メートルの山)と判明。

「岩船郡(いはふねごほり)には村上(むらかみ)外道山」原典では「外道山」のルビが黒く抜け落ちている。やはり、先の河内氏の記載から新潟県村上市山辺里(さべり)にある下渡山(げどやま)と判明。標高二百三十七・八メートル。なお、以上の山の位置も河内氏のページの地図に総て示されてある。

「奧州阿部」安倍貞任(さだとう 寛仁三(一〇一九)年~康平五(一〇六二)年)及びその弟宗任(むねとう 長元五(一〇三二)年~嘉承三(一一〇八)年:鳥海柵の主として「鳥海三郎」とも称された)の一族。兄貞任は前九年の役で源頼義・義家父子と戦って敗死し、弟宗任は降服、義家によって都へ連行され、四国の伊予国に配流、治暦三(一〇六七)年には筑前国宗像郡筑前大島に再配流させられた。

「黑鳥兵衞(くろとりひやうゑ)」ウィキの「黒鳥兵衛」によれば、『越後国の伝説上の人物』とする。『伝説によれば、平安時代の後期、安倍貞任の残党であった黒鳥兵衛は越後国へ入ると』、『悪逆非道の限りを尽くし、朝廷の討伐軍をも打ち破った』。『困り果てた朝廷は、佐渡国へ配流となっていた源義綱』(?~長承三(一一三四)年?:頼義の子で義家の同母弟。後三年の役には下向せず、以後義家に代わって朝廷に重用された。天仁二(一一〇九)年に実子義明が源義忠暗殺の嫌疑で殺害されたのに怒り、出京したが、追捕され、佐渡に配流となった。歴史的には帰京後に自殺したとされている)『を赦免し(あるいは源義家とも言う)黒鳥兵衛の討伐に当たらせた』。『黒鳥兵衛は妖術を使って抵抗するが、次第に追い詰められ、現在の新潟市南区味方の陣に立てこもった。当時、このあたり一帯は泥沼で、容易に歩ける場所ではなく、攻めるに難しい陣であった』。『攻めあぐねていた源義綱は、ある日、一つがいの鶴が木の枝をくわえて来ると、それを足に掴んで沼の上を歩くのを見た。「これこそ神の御加護」と、かんじき(竹などで作った輪状又はすのこ状の歩行補助具で、足に着け、雪上や湿地などで足が潜らないようにする。)を作り、兵に履かせて一気に攻め込んだ。不意を突かれた黒鳥兵衛は、ついに討ち取られ、首をはねられた』。「かんじき」発明の始祖とされ、『かんじきの緒を立てた場所が現在の新潟市西区黒鳥緒立』とされ(ここ(グーグル・マップ・データ)。以下の地名もこの周辺に集まっている。地図を拡大されたい)、『黒鳥兵衛の斬られた首の落ちた所が現在の新潟市西区黒鳥である』と伝え、『これが、黒埼という地名の起源となった』という。『黒鳥兵衛の首は塩漬けにされ、埋めた場所に首塚が造られ』、『この地に鎮護のために建てた祠が緒立の八幡神社である』とされる(ここ(グーグル・マップ・データ)先の地図内であるが、先の地図ではこの神社は示されないので再度、リンクさせた。「新潟市文化スポーツ部文化政策課」公式サイト内の「緒立八幡宮」のページも是非、参照されたい)。『塩漬けの首により、塩分を含んだ水が地中から湧き出している』とされ、これが現在の緒立温泉(鉱泉)であるという。ここに本記載の内容が出、時折、『空に轟音が轟くことがあるという。人々は、首を切られた黒鳥兵衛の胴が首を求めて咆哮すると言い、「胴鳴り」と呼んで恐れた』とある。『このように、黒鳥兵衛の伝説は越後国一帯を舞台とする壮大な軍記物で、伝説ゆかりの地は、新潟市黒埼地区を初め、新潟県北部に広く分布する。緒立からは緒立遺跡や的場遺跡といった古い住居跡が見つかっているが、黒鳥兵衛伝説は史実に基づくものではなく、後世の創作と見られている』とある。こういうピカレスク・ロマン、とっても好き!

「蒲原郡鎧潟」現在の新潟市西蒲区鎧潟にあったかつてあった面積約 九平方キロメートルの潟。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に長岡藩によって干拓が始められ、明治末期までに半分が耕地となった。但し、ここは先の黒鳥地区からは南南西に十一キロも離れていから、「黑鳥村八幡の神社あり」というのはちょっと解せない。現在、新潟市県新潟市西蒲区巻甲(鎧潟の南西近く)に八幡宮(といっても、ただの小さな石の祠。個人サイト「新潟県神社探訪」のこのページを参照)はあるにはあるが、新しい(刻印は昭和五(一九三〇)年七月という)。これは潟の完全干拓後に移されたものと考えてよいように思われるが、にしても黒島と鎧潟の距離は如何ともしがたい。識者の御教授を乞う。

「丙寅(へいゐん)」文化三年丙寅(ひのえとら)はグレゴリオ暦一八〇六年。

「米山(よねやま)」既出既注。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「佐州の南浦(みなみうら)」前に「能登」半島を指してあるから、佐渡島の小佐渡の本土側を広域に指していよう。

「的(てき)する」目指す。対馬海流の中の本土側の流れは能登を舐めて富山湾沖を回って佐渡海峡を北上する。

「徹接(てつせつ)する」野島出版脚注に『つきさゝる』とある。

「此理(り)にして」「此」は強調の「これ」であろう。

「風(かぜ)ならん」後の「雨ならん」とともに、プレの状態(風が吹かんとしている直前、雨が降ろうとしている直前)を指している。

「先(まづ)ツ」以前にもあったが、これは以降にもまま見られるから、これは例えばこの場合、「まづ」の積りで「先ツ」と本文を刻印したにも拘わらず、ルビだけを集中して後から彫った結果、ダブった、結果的に衍字となってしまったものであろうと私は推測する。以後に出ても注記はしない。

「頭(かしら)痒く」原典・野島出版版ともに「痒く」は「かゆく」と平仮名。推定して漢字化した。

「猫兒(びようじ)」子猫。ここまでは、大気圧や気温・湿度の変化を、人の器官や心理及び動物が事前に察知(予兆)すること(それを崑崙は「其氣、先(まづ)ツ押至(おしいた)る」と言っているのである)を示している。

「胴鳴(どうめい)と云へるは、胴(どう)に響(ひゞき)て鳴るゆへに名付(なづけ)しならん」崑崙先生に諸手を挙げて賛同する。黒島の胴体が鳴るというのは洒落にもならない、あまりに牽強付会の駄解釈である。]

 

其六 無縫塔(むはうとう)は蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)門外、溪流數十尋(すじうじん)の渕(ふち)囘(めぐ)りて、百歩ばかりの間(あいだ)、岸、平かに、亂石(らんせき)、磊落(らいらく)たり。此寺、住僧入寂三年の前、必、此渕より墓所の印(しるし)となせる石一ツ、岸の上に上ぐることなり。其石、常躰(つねてい)の石に異なるにもあらねど、自然にして來徃(らいわう)の人、誰(たれ)云ふとなく、「是こそ無縫塔なり」と。衆目の指す所、皆、一(いつ)なり。其奇怪、如何なることとも量りがたし。一たび、衆人の名付(なづく)るより、其石、幾度(いくたび)、渕に抛入(なげいる)れども、一夜(いちや)にして、また、もとの所に上げ置く、となり。先年、住職の和尚、其石を渕に投入(なげいれ)て曰、「我、大願あり。いまだ死すべからず」とて、其場より、寺を出(いで)て、再び歸らざりしに、命(いのち)恙(つゝが)なく、長壽なりし、と云へり。其奇、甚(はなはだ)し。此所に到りて、寺の墳墓を見るに、已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり。信州四部(しぶ)の温泉寺(をんせんじ)、此奇と相同じと云へ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふ。予いまだ其地に至らず。知る人に詳しく聞得(きゝえ)しに、水底(すいてい)より無縫塔の形を  作りなして上ぐると云へり。甚(はなは)、訝(いぶか)し。追(おつ)て考ふべし。只し、此一奇は怪と云ふべきのみ。

[やぶちゃん注:部分には、以下の画像が入る(今まで通り、野島出版のもの。早稲田大学古典データベースのものは許可を得ないと使用出来ない)。原典のものはもっと太目である。但し、無縫塔(卵塔)の形状としてはこの野島出版のものの方がよく模していると言える。但し、頭頂部はこんなに有意には尖らないので注意されたい 

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なお、
この話、崑崙も最後に言い添えている通り、この古えの七奇の中で、自然現象としては唯一全く説明出来ず、人為によるものでないとすれば、確かに純然たるただ一話の怪奇譚と言える。しかし、どうもこれ、私には、檀家或いは土地の者の中に、代々、そういう闇の予兆を司る者がいたのではないかなどとも思うのである。その証拠に、例として崑崙の挙げた、石が上ると同時にここを去った和尚は長寿を全うしている。石が上るのが、死の三年も前というのもはたから見ると間が抜けているように見えるが、しかし、死病でもないのに寿命を三年に限られておいて平然と住持を続けるというのも僧とは言え、はなはだ苦痛であろう(少なくとも私なら苦痛である)。気にくわない住持を追い出すため、或いは、心理的に追い詰めて精神的に弱らせて死に至らせるか、実際に殺害に及んだケースもあるやも知れぬ。後に俗説の「奇」の中に「即身仏」が出るが、即身仏の木乃伊(ミイラ)の一部は秘かに霊薬とされ、実際に売買されたようである。また、東北に限らず、本邦では国外からの旅人などの行路死病人や、放浪してきた異邦人を確信犯で殺害し、それを、洒落ではないが、即席に、即身仏化、ミイラ化して、それを即身仏の妙薬として売っていた事実が実は確かにあったと思われる。そんなことを派生的に想像してみると、ますますリアルにホラーではないか。まんず、この寺の実在が不明なのをいいことに勝手に感想を記させてもらった。悪しからず。

「無縫塔」若い読者のためにウィキの「無縫塔」を引いておく。『主に僧侶の墓塔として使われる石塔(仏塔)』で、『塔身が卵形という特徴があり、別に「卵塔」とも呼ばれる。また』、広義に古くより普通の『墓場のことを「卵塔場」と』も称する。『形式としては二種類あり、一つは基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせるものである。もう一つは、基礎の上に六角または八角の竿と呼ばれる台座の上に中台、請花、卵形塔身がのる。卵形塔身は前者のほうが長く、後者は低い。基礎の下には脚、返花座(かえりばなざ)が据えられることが多い。また、竿、中台、請花には格座間などの総力が施されている場合がある。卵形塔身は、時代によって形が微妙に変化する。なお、この卵形塔身に縫い目がない(一つの石だけで構成されている)ことから無縫塔の名がある』(各部の配置はリンク先を参照されたい)。『中世期の石塔は、それまでのもろい凝灰岩から硬質の花崗岩や安山岩の利用といった材質の変化、また関東に入った大蔵系石工の活躍、技術の進歩、大陸から入った禅宗を含む鎌倉新仏教の台頭などによって、複雑な形を持った新たな形式が数多く登場した。平安期からの五輪塔をはじめ、鎌倉期には宝篋印塔、板碑、狛犬などが新たに造られるようになった。 無縫塔も、鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で、現存例は中国にもある。当初は宋風形式ということで高僧、特に開山僧の墓塔として使われた。近世期以後は宗派を超えて利用されるようになり、また僧侶以外の人の墓塔としても使われた。 現在でも寺院の墓地に卵塔が並んでいたら、ほぼ歴代住持の墓である』。但し、この話の怪石は自然石で、村人がその川から自然に岸に上って来る妖石を「無縫塔」と呼んでいるものなので注意されたい。

「蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)」現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。(グーグル・マップ・データ)。ぽんぽこ氏のブログ「新潟県北部の史跡巡り」のおぼと石五泉市で、この寺を本話の舞台としておられ、その淵から揚がる石を「おぼと石」と呼ぶとある。本歩柑子は大高興氏なる方の「北越奇談」の現代語訳から引用をされており、その冒頭は『中蒲原郡河内谷、陽(永)谷寺門外の渓流数』十『尋(ひろ)』(七十メートルほど)『のふちを回って、百歩ばかりの間は平になっていて、岩石がうず高く積っております』。『この寺の住僧が死ぬ』三『年前までは、必ず毎年ふちから墓印のついた石が一つずつ岸に上がります』(以下略)とあるから間違いない(なお、私は「北越奇談」の現代語訳があるということは情報としては知っている。しかし、所持していないし、買うつもりも、ない。本電子化をすべて終えた後になら買ってもいいとは思っている。私は本書に限らず、原文を載せないただの現代語訳というものに対して、生理的な激しい嫌悪感を持っているからである)。そこに画像で示された現地の説明板「オボト石」によれば、雷城(いかずちじょう:新潟県五泉市雷山(いかづちやま)に築かれた中世の山城。築城時期・築城主ともに不明。戦国時代には越後と会津蘆名氏との領界の城として重視され、天正一七(一五八九)年に蘆名氏が伊達氏に滅ぼされると同時に廃城となっている)落城の際、城主の一人娘菊姫が東光院淵に身を投じたが、永谷寺の大潮和尚の功徳によって成仏し、淵の龍神と化したという(「成仏」して「龍神」というのは私にはやや解せぬ)。それに感謝し(感謝して死を告げるというのも私には解せぬ)、歴代の住職が亡くなる七日前になると、淵から墓石となる丸い石を届けるようになったという。村人達はこの石を「オボト石」と呼び、毎年、般若会には見知らぬ女性が法会の席に座っており、これは菊姫の化身がお参りに来ると伝えられているとある(「越後村松 桜藩塾」という署名が最後にある)。「おぼといし」は「むほうとう」と発音が似ている。

 

「數(す)十尋(じん)」水深としての一尋(ひろ)ならば六尺で約一・八メートルであるが、これでは深過ぎる。淵の周囲の距離としておこう。百八メートル前後か。永谷寺の西方山下には早出川というが川が流れてはいる。

「磊落」原義使用で、石が多く積み重なっているさま。

「已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり」ということは、人が彫った無縫塔以外に、そうでない自然石に見えるものが、十四、五も卵塔場(この場合は住職その他のその「陽谷寺」関連の僧侶の墓所という狭義の意で用いた。一般に寺僧の墓は墓所の中でも一定区画に纏められてある)に存在したと崑崙は言っているのである。しかし、この寺の創建が古いものであったとすれば、古えの僧の無縫塔が風化して自然石のように見えたとも解釈可能ではある。粗悪な砂岩などを用いれば、風雨にさらされれば短期で崩落してしまうからである。

「信州四部(しぶ)の温泉寺(おんせんじ)」現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)にある渋温泉の横湯山温泉寺。嘉元三(一三〇五)年、京の臨済宗東福寺の虎関師練国師が草庵を建てて温泉の効能を教え、弘治二(一五五六)年に佐久曹洞宗貞祥寺から節香徳忠禅師を招いて開山、武田信玄が永禄七(一五六四)年に伽藍を寄進し、寺の紋を武田菱とした。川中島の戦いの折りには武田方の湯治場となっていた(ウィキの「山ノ内町に拠る)。]

 

Kasei

 

[やぶちゃん注:北斎のもの。右中央上に「入方村 火井の図」のキャプション。]

 

其七 火井(くはせゐ)、三條の南一里ばかり山の麓、入方村(によほうじむら)【即、入方寺村なり。又、妙法寺、又、如法寺とも云ふ。】某(それがし)と云ふ百姓の家、炉(ろ)の角(すみ)に石臼を置き、其穴に竹を差し、火をかざせば、即、声ありて、火移り、盛(さかん)に燃(もゆ)ること、尺ばかりならん。縱橫に竹を組み上ぐれば、其竹の孔(あな)ごとに、皆、火、燃ゆる。竹を少し引(ひき)上ぐれば、央(なかば)は火絶(たへ)て、無く、上にばかり、火、盛んなり。皆、土中より登れる氣の燃ゆるなるべし。一説に硫黄(ゐわう)の氣と云へれど不ㇾ然(しからず)。硫黃は、即、火遠く土中に入(いり)て、地中も又、燃(もゆる)なり。是は、必、臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし。凡(およそ)、國中(こくちう)、是に類する所、甚だ多し。柄目木村(からめきむら)、即、入方村(によほふじむら)に同じ。寺泊大和田山(おほわだやま)の間(あいだ)、少しの水溜(みづたま)りありて、冷水なれども、常に湯の沸くがごとく泡立(あはだち)てあり。是に火をかざせば、忽、然(もゆ)る。その他(ほか)、栃尾(とちを)の郷(ごう)比禮(ひれ)と云ふ所、山澤(さんたく)の水に火をかざせば、水上に、火、燃(もゆ)る。魚沼郡一ノ宮村山間(やまあい)の澗流(かんりう)に火を移せば、三尺ばかり上にて、火、燃ゆる。古志郡見附川(みつけがは)、舟渡(ふなわたし)ある所、川原(かはら)の砂に管(くだ)を刺し、火をかざせば、幾所(いくところ)も燃(もえ)て不ㇾ絶(たへず)、甚(はなはだ)夜行(やこう)に便(たより)あり。其余(そのよ)、所々(しよしよ)に多し。頸城郡(くびきごほり)上野尾(うへのを)の原(はら)、谷間より風の出る洞(ほら)ありて、火を移す時は、忽、空中に、火、燃(もゆ)ること、如車輪(しやりんのごとし)。又、同郡(ぐん)[やぶちゃん注:ここまで他は総て「郡」は「こほり」「ごほり」であるので特異点の読みである。]吉村(よしむら)、大滝氏(おほたきうじ)、近來(きんらい)、井(ゐ)を掘(ほり)しに、烟草(たばこ)の吹殼(ふきがら)より火移り、井中(ゐのうち)く燃上(もえあが)りて、數日(すじつ)消えず。甚(はなはだ)奇なり。水戸赤水(みとせきすい)先生、此一奇を以つて甚(はなはだ)賞す。即、「琅耶代醉(ろうやたいすい)」に火井(くはせゐ)の説を擧(あ)ぐ。又、「大明一統志(だいみんいつとうし)」にも、『蜀地(しよくち)雲南(うんなん)に有火井不過二三所(くはせゐあり にさんしよにすぎず)』[やぶちゃん注:後半返り点なしはママ。]とあり。赤水(せきすい)の「奧羽記行」に、即身佛・逆竹(さかさだけ)・八房梅(やつふさのむめ)等(とう)を七奇に擧げて、『越人、是等の白癡(たはけ)を奇と思へるも可ㇾ笑(おかし)』と謗(そし)れり。甚だ誤れるならずや。赤水、偶(たまたま)、此國至り、農夫・商客等(ら)の蒙説を聞(きゝ)、北越には人なきがごと、思へたるなるべし[やぶちゃん注:ママ。]。何ぞ再び、知者を求めて尋ね聞(きか)ざるや。赤水の博識には淺々(あさあさ)しき説と云ふべし。又、此火井(くはせい)を賞して、『是、陰火にあらず、陽火にあらず』と云へり。是、又、誤れり。硫黃の火を以(もつて)是に移せば、即、燃(もゆ)る。是、陽火にあらずして何ぞや。陰火は陽火に遇ふ時は、忽、消(きゆ)るものなり。

 右は古の七奇なり。

[やぶちゃん注:これは天然ガスである。石油が地熱で温められて気化し、概ね、地層が地上に向かって山型に曲がった部分に溜まったもので、成分の殆んどはメタン(CH)で、有害な一酸化炭素は含まれていない。空気より軽いため、家屋内では高い所(天井)に貯留する。「臭水油(くさみづあぶら)の氣なるべし」という崑崙の認識は科学的も正しい。

「入方村(によほうじむら)【即(すなはち)、入方寺村なり、又、妙法寺、又、如法寺とも云ふ。】」現在の新潟県三条市如法寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「竹を少し引(ひき)上ぐれば、央(なかば)は火絶(たへ)て、無く、上にばかり、火、盛んなり」これは、竹を有意に引き上げた際には、引き上げた際に臼と竹筒の隙間から酸素が多く供給されて完全燃焼するから、燃える炎の中心部分(芯)が青く透けて燃えていないように見える、ということのように私は読んだ。

「硫黃は、即、火遠く土中に入(いり)て、地中も又、燃(もゆる)なり」崑崙が温泉地などで黄色くなった高熱の噴煙孔を観察した際の認識に基づくものか?

「柄目木村(からめきむら)」既出既注。新潟市秋葉区柄目木(がらめき)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「寺泊大和田山(おほわだやま)」地域名としては現在、新潟県長岡市寺泊大和田がある(ここ(グーグル・マップ・データの航空写真))。この地域か、その周辺のピークを指すか。この地区と北の寺泊の本地区との間には、上記のリンク先を地図に切り替えて見ると、確かに現在でも数箇所の池沼らしきものを確認出来る。

「栃尾(とちを)の郷(ごう)比禮(ひれ)」現在の新潟県長岡市比礼。ここ(グーグル・マップ・データ)。東直近に栃尾地区が広がる。

「魚沼郡一ノ宮村」現在の新潟県小千谷市内(ここ(グーグル・マップ・データ))ではあるが、それ以上の限定が出来ない(合併前の旧村名などから推理したが、結局、だめであった)。識者の御教授を乞う。

「澗流(かんりう)」野島出版脚注に『谷川の流れ』とある。

「古志郡見附川(みつけがは)」地名からは現在の新潟県見附市(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、同市内を流れる渡しの必要な大きな河川は現在は刈谷田川(やりやたがわ)という名である。それ以上の「舟渡(ふなわたし)ある所」の「川原(かはら)」までは比定不能。識者の御教授を乞う。

「頸城郡(くびきごほり)上野尾(うへのを)」不詳。全くお手上げ。識者の御教授を乞う。

「同郡(ぐん)吉村(よしむら)」不詳。全くお手上げ。識者の御教授を乞う。

「大滝氏(おほたきうじ)」不詳。

「水戸赤水(みとせきすい)先生」崑崙と同時代人である水戸藩の地理学者で漢学者でもあった長久保赤水(享保二(一七一七)年~享和元(一八〇一)年)のことか。本名は玄珠。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。農民出身ながら、水戸藩第六代藩主徳川治保(はるもり)の侍講となり(就任は安永六(一七七七)年)、安永三(一七七四)年に日本地図「日本輿地路程全図(にほんよちろていぜんず)」を作成、五年後の安永八年にはそれを修正した「改正日本輿地路程全図」初版を大坂で出版している。これは、日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、作成者名から通称「赤水図」と呼ばれている。その後もマテオ・リッチの地図を参考に日本の島嶼などを加筆した世界地図「地球万国山海輿地全図説」(天明五(一七八五)年頃)を刊行したり、遠く第二代水戸藩主徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」の「地理志」の執筆など行った博識の才人である。彼は宝暦一〇(一七六〇)年、四十四歳の時、東北地方(奥州南部と越後)を二十日間に亙って旅し、それから三十二後の晩年、寛政四(一七九二)年に旅行記「東奥紀行」を著している(以上はウィキの「長久保赤水」に拠った)から、ここの批判的記載はそれに基づくものか。

「琅耶代醉(ろうやたいすい)」野島出版脚注に『四十巻。明の張張鼎思が撰したもので経史の考証を随録したものだという』とある。いろいろ検索して見たが、それ以外のことは判らなかった。

「大明一統志(だいみんいつとうし)」明朝の全域と朝貢国について記述した地理書。九十巻。李賢らの奉勅撰で一四六一年に完成。

『赤水の「奧羽記行」』先に注した寛政四(一七九二)年刊の「東奥紀行」のことであろうか。

「即身佛・逆竹(さかさだけ)・八房梅(やつふさのむめ)」総て次の章に出るので注さない。

「人なきがごと」愚鈍な輩ばかりで、真の「知者」たる「人」たるべき「人」は一「人」としていないように。

「求めて」底本「もとめて」と判読出来る。野島出版版は『めとめて』。「め」ではないし、「目留めて」では意味が通じぬ。単なる誤植かと思われる。

「赤水の博識には淺々(あさあさ)しき説と云ふべし」かの博識の「赤水」「に」「しては」、「淺々(あさあさ)しき」(考えが浅く軽率極まりない)謂いと言わざるを得ぬ。崑崙の言うべき時には毅然として謂うという態度が素晴らしい。

「陰火」「陽火」例えば、李時珍の「本草綱目」の「火部」の冒頭の「陽火 陰火」に出る陰陽五行説の「火(か)」の考え方である。火(か)は五行の一つであり、「気」はあるが、「質」は持たず、造化の両間にあって万物を生殺する。五行のうち、「火」を除く「木」・「土」・「金」・「水」は皆一種であるが、ただ「火」だけは「陽火」と「陰火」の二種が存在する。「陽火」は草に遭えばこれを焼き、木があると燔(た)き、湿(しつ)によって弱まり、水によって消滅するのに対し、「陰火」は草木を焚(た)かず、金石を融解して流す。湿によっていよいよ燃え、水に遭うとますます熾(さか)んになり、水を差すと、光焔は自然に消滅する、などと判ったような判らないようなことを言っている。また、そこで時珍は「地」の「陰火」の中に「石油之火」を挙げているから、長久保赤水もそれを安受け売りしただけのことと思われる。原文はウィキで読める。]

2017/08/08

北越奇談 巻之二 七奇辨

 

北越奇談 巻之二

 

        北越 崑崙橘茂世述

        東都 柳亭種彦挍合

 

    七奇辨(しちきのべん)

 

[やぶちゃん注:以下、総論部。数え上げる名数部分は原典では一字下げで各項目が、原則、一字空けで五行に分かれており、野島出版版は中黒(「・」)を以って総て繋げているが、私は、贅沢に前後を一行空けた上、総て改行して一字下げで並べ、続く本文も改行した(原典は二字空けで名数に繋がる)。なお、今までは漢文表記箇所は総て注で読みを示してきたが、長い一部の例外を除き、本文に読みとして繰り込むこととした。]

 

 後越(こうえつ)に古(いにしへ)より「七不思義」と云へることあり。今尚、諸方の遊客好事(ゆふかくこうず)の人、此國に尋來(たづねきたり)て其奇を探(さぐら)んとす。然りと雖も、其説、紛々として更に實事を知らず。近世諸家の記行に載(のす)る所、各(おのおの)其名目に別異(べつゐ)ありて、論説する所も又、同じからず。是、必(かならず)、風游(ふうゆふ)の客(かく)、民間或は驛亭に就て、問訊(もんじん)するによりて、如ㇾ此(かくのごとく)、誤り來りたりと覺ゆ。可ㇾ惜(おしむべし)、民間愚蒙(ぐもう)の輩(ともがら)、却(かへつ)て生國(しやうごく)の盲(もう)を曳くと云ふべし。凡(およそ)、諸家(しよけ)の雜記・記行に擧ぐる所と、國人(くにふど)・家々に論説する所を合せ見るに、今尚、二十有四奇(ゆうしき)あり。

 

 神樂嶽(かぐらだけ)の神樂

 海鳴(うみなり)

 胴鳴(ほらなり)

 燃土(もえつち)

 七ツ法師(はうし)

 八ツ瀧(だき)

 白兎(しろうさぎ)

 鎌鼬(かまいたち)

 火井(くはせゐ)

 塩井(えんせゐ)

 燃水(もえみづ)

 蓑虫の火(ひ)

 冬雷(ふゆかみなり)

 逆竹(さかさだけ)

 風穴(かざあな)

 沸壷(わきつぼ)

 白螺(しろたにし)

 土用清水(どようしみづ)

 四蓋波(しかいなみ)[やぶちゃん注:清音はママ。]

 箭根石(やのねいし)

 三度栗(さんどくり)

 無縫塔(むはうとう)

 沖の題目

 八房梅(やつぶさのむめ)

 即身仏

 

 是なり。密(ひそか)に按ずるに、「日本書紀」の二説を本(もと)として、享徳の頃、が國(くに)好事の者、偶(たまたま)、此七奇を撰(せん)せしなるべし。尤(もつとも)、其時世は義政將軍の頃にして、風流好奇、今時(こんじ)の泰平にも等(ひとし)ければ、さもありなんか。何れ、永く此國の勝奇(せうき)となり、諸家の記録にも載せ、公聽(こうちやう)にも入たれば、今更、止(やむ)べきにあらず。サハ此説、今古(こんこ)の別(べつ)ありて、古(いにしへ)は、いまだ、諸國の奇事・名勝、穿鑿の至らざる所と、好事の者も、又、少(すくな)きがために、目前(もくぜん)の説のみにして、他邦の論に詳しからず。今は太平永く續き、士は君恩に誇り、民は耕作に富(とん)で常に、間(かん)、多きに乘(じよう)じ、四方(しほう)に遊歷し、勝を尋ね、奇を探り、家に有(あつ)ては山林を平げ、石を穿ち、水脈を通じ、田野を開き、深山幽谷・海島河源(かいとうかげん)に到るまで、人力(じんりき)の行屆(ゆきとゞか)ざるは、なし。故に、天の化(くは)も、又、盛にして、五月十日の風雨良く、時を不ㇾ違(たがへず)草木(さうもく)長じ、百穀實り、熱國(ねつこく)は却(かへつ)て凉しく、寒國は更に暖(あたゝか)なり。於ㇾ此(こゝにおゐて)諸州の産物・奇勝、其類(るい)するもの、甚だ多し。是を以つて是を見れば、古(いにしへ)の七奇は、今尚、他邦に同じきものあるを聞(きく)。が國(くに)、民間の童蒙、他(た)の問訊に對して、是非、かの七奇を飾らんと欲する故、是を減(げん)じ、彼(かれ)を增(ぞう)して、終(つゐ)に如ㇾ此(かくのごとし)。笑ふべきの甚しきなり。爰(こゝ)に於て「古(いにしへ)の七奇」を辨じ、「今の七奇」を撰(せん)せんとす。希(ねがは)くは、四方(よも)の好事家、爲ㇾ之(これがために)、説論(せつろん)せよ。

 

[やぶちゃん注:「七奇」以下、本「卷之二」全部を用いて〈古えの七奇〉〈俗説の十七奇〉及び橘崑崙自撰の「新撰七奇」(これは前の二つの奇名数から選び出したもので解説はごく短い)を詳述し、提示する。されば、ここでは個々の以下に並ぶ「奇」については一切、注をしない。どうしてもごく簡単にそれらの概要を知りたいというフライング好きの方は、〈俗説の十七奇〉を除くなら、Yutaka氏の「越後七不思議」がコンパクトに纏まってはいる。そこには「親鸞の越後七不思議」も載っている。但し、以下の崑崙の解説は詳説を極めるのでご期待頂いてよい。

「後越(こうえつ)」「越後」に同じい。

「記行」「紀行」に同じい。

「驛亭」宿場。或いは宿場の旅籠(はたご)。

「問訊(もんじん)」「訊問」(必要な取調べなどのために自分が確かに納得出来るまで詳しく口頭で問い質(ただ)すこと)に同じい。

「生國(しやうごく)の盲(もう)を曳く」誤った〈越後七不思議〉の情報を正確無比な決定的情報と誤認して旅から生国へと帰り、そこでそれを吹聴して伝播させてしまい、その結果として、その誤った〈越後七不思議〉を盲目的に信じ込んでしまった新たな、或いは後代の、その国の情報に対する批判的精神を持たない無知蒙昧の徒が増える。仮にそうした人々が後に実際に越後に旅人として来訪しても、そこで誰かが、「それが誤りであってこれが唯一正当な〈越後七不思議〉である」という教授を行わない限り、またしても、誤った、七つでない、痙攣的に増殖し変質してしまったそれこそ「奇」なる〈越後七不思議〉が全国に蔓延し続けるという悪循環が生ずる、という筆者の大真面目な危惧を主張しているのである。私はこれを大上段に過ぎるとか、事大主義的だ、などとは全く思わない。私は橘崑崙的人種であることをここに表明しておく。

「二十有四奇(ゆうしき)」「有」は数字とともに用いて「さらに・その上また」の意を表わす。「二十四」に同じ。

『「日本書紀」の二説』とは「燃土(もえつち)」と「燃水(もえみづ)」の「二説」に当たる「日本書紀」の「卷第二十七 天智天皇紀」の中に載る、「越國獻燃土與燃水」(越(こし)の國、燃ゆる土と燃ゆる水とを獻ず)を指しているものと私は考える。但し、次章で崑崙の引くものは版本が異なるらしく、以上の文字列ではない。

「享徳」一四五二年から一四五四年までの三年間。東山文化の形成者にして政治より数奇(すき)の道を好んだ風流人の室町幕府第八代将軍足利義政の治世であるが、享徳の乱(享徳三年十二月二十七日(一四五五年一月十五日)に勃発、終息は文明十四年十一月二十七日(一四八三年一月六日)で実に二十七年余りもかかった)が起って(第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発して幕府方と、山内・扇谷両上杉方と、鎌倉公方(古河公方)方の三者が覇権・利権を争い、この闘諍(とうじょう)は関東全域に拡大、これが関東地方に於ける戦国時代の導火線となった)が起っており、崑崙の言うような、「風流好奇、今時(こんじ)の泰平にも等」しいなどという呑気な評価を下せる時代では必ずしもなかった。それとは別に、何故、崑崙はこのたった三年を〈越後の古えの七奇〉の選定時期として限定出来たのだろう? 何か、そうした記録が残っていなければこうは言えない。最古の〈越後の古えの七奇〉ネタ元は何だろう? 識者の御教授を乞うものである。

「勝奇」その国特有・固有の名勝と珍奇談。

「今古(こんこ)の別(べつ)ありて」〈越後の古えの七奇〉にさえも、実は古いものと、それに比べると相対的に新しいものとでは、有意に異なった「七奇」として存在しているというのである。

「目前(もくぜん)の説のみにして、他邦の論に詳しからず」これは越後の人々が自分が越後で実際に眼前で目撃体験して不思議に思ったものを「不思議」としただけのことで、彼らは越後以外の国の地誌やそこで発生する現象等に詳しくなかった。その結果として、他国でも普通に見られ、それらは実は越後が敢えて挙げるほどに特有なものではなく、時には全国的にも普通に見られる不思議でも何でもない自然な現象であることを知らなかった、そのために選ばれてしまった〈奇ならざる奇〉がそれらの中には混入していたと崑崙は指摘するのである。

「士は君恩に誇り」武士階級は主上や主君の御恩を一切修羅の戦場に出ずることもなしに心安らかに奉じて、穏やかに生活することが出来ており。

「間(かん)」「閑」の方が判りがよい。閑(ひま)・暇(いとま)。

「河源」野島出版版は『河原』となっている。

「天の化(くは)」野島出版脚注に『天地自然のうつり変わり』とある。

「五月十日」旧暦の二十四節気の第九の五月節である「芒種」(旧暦四月後半から五月前半)を念頭に置くか。穀類の種を蒔く、本格的な農作業の始まりの時期であり、自然界の活動も本格的に活性化する。それを「於ㇾ此(こゝにおゐて)諸州の産物・奇勝、其類するもの、甚だ多し」、即ち、諸国の特産品の基点であり、それぞれの国の名所も最も見るに生き生きとしてくるのであり、それらはどこの国でもシンクロニックである、と述べているのである。

「是非、かの七奇を飾らんと欲する故」何としても「越後七奇」を鮮やかに自慢したいがため、つい装飾的誇張的になってしまい、足したり、除いたりしては、手におえない「笑ふべきの甚しき」七つ以上のトンデモ〈奇〉トンデモ〈不思議〉となってしまった、という謂いであろう。

「爲ㇾ之(これがために)、説論(せつろん)せよ」表面上は、私が規定した〈古えの七奇〉と〈俗説の十七奇〉、そして私が定めた「新撰七奇」をまずは検討し、議論して欲しい、というのであるが、寧ろ、これをオーソドックスな名数として流布して戴ければ幸甚であるという自負を含んでいよう。]

2017/08/07

北越奇談 巻之一 龍力 / 巻之一~了

 

    龍力(りうりき)

 

 文化三丙寅(ひのえとら)六月廿七日未ノ上刻、晴天、俄に一輪(いちりん)の雲起(おこり)て、大風(たいふう)驟雨、白日(はくじつ)、忽、闇夜(あんや)のごとくなりしが、此の日、北國(ほつこく)の舩(ふね)、米穀八百石を積みて、島見(しまみ)の沖を過ぎけるが、怪雲、常ならず、風、裏帆を吹(ふき)絞り、舟(ふね)の進退、自由ならず。船頭、揖取に手繩(てなは)を引かせ、風を間切(まぎつ)て、沖の方へ漕出(こぎいだ)さんとするほどに、忽、四條の黑雲(こくうん)、舟の前後に曳(ひき)下(くだ)りて、波、次第に沸立(わきたち)たれば、舩の老父(おやぢ)、大きに驚き、

「是は正(まさ)しく、龍卷の此所(ところ)に下(くだ)るなるべし。只には逃れがたかるべし。」

とて、俄に早舟(てんま)一艘引おろし、九人の者ども、急ぎ、乘移(のりうつ)り、手ン手に櫓を推早(おしはや)め、十丁ばかりも過(すぎ)たる頃、四條(よぢやう)の黑雲、打捨たる舟の前後に渦巻くほどこそあれ。

 白浪(しらなみ)高く湧(わき)上(あが)り、怪風、難なく、舩を巻(まき)て水際(みづぎは)四、五丈ばかりも曳上(ひきあ)げ、立(たて)さまに落しければ、舟は微塵に割碎(さけくだ)けて、水底(すいてい)に入る、と見へしが、百雷の落(おつ)るごとく響(ひゞき)渡り、龍(りやう)は南を指して登り去りぬ。

 九人の舟者(しうしや)、漸(やうや)く浦に漕ぎ近付(ちかづき)ければ、其浦々の人々、多く漁舟(ぎよしう)にうち乘り、迎ひ來たりて、助け歸りぬ。

 此日、遠く是を望(のぞみ)たるは、

「五條の黑雲、海上に引下(ひきくだ)りたり、と見へしが、半時(はんじ)ばかりの間(あいだ)に、大雨(たいう)、木(こ)の葉を飛(とば)せて吹(ふき)來りぬ。されども、龍(りやう)は海邊(かいへん)に添ふて過(すぎ)たりと覺(おぼえ)て、此時、寺泊(てらどまり)の山東(さんとう)、人家を卷上げ、行人(こうじん)を引立(ひきたて)、數十丁(すじつてう)、持去(もちさ)りし。」

と云へり。

 同日、新潟の湊口(みなとぐち)にても、大舩(たいせん)を吹倒(ふきたを)せし、と云へり。

 總て、北越、夏の夕(ゆふべ)、驟雨する時は、小魚(しようぎよ)・水蛭(すいしつ)なんど、雨と共に下(くだ)る。龍の、江河池水(こうがちすい)抔(など)、巻來(まききた)ること、明かなり。然(しか)れども、海潮(かいてう)を卷來る時、雨の塩の氣味(きみ)無きも、奇なり。

 只、龍(りやう)の神變(しんへん)、一滴の水をもつて大雨(たいう)となせり。其奇、可ㇾ知。

 

北越奇談巻之一終

 

[やぶちゃん注:「文化三丙寅(ひのえとら)六月廿七日」グレゴリオ暦一八〇六年八月十一日。因みにこれは本書刊行の六年前である。

「未ノ上刻」午後一時過ぎ。

「一輪(いちりん)の雲」という表現に竜巻のニュアンスが既に感じられる。

「八百石」野島出版脚注に『六十キロ』グラム『入約四千袋』とある。

「島見(しまみ)」現在の新潟県新潟市北区島見町附近。(グーグル・マップ・データ)。新潟港の手前、阿賀野川の右岸の北。「島見」の島は佐渡であろう。

「揖取に手繩(てなは)を引かせ」「手繩」は帆を手動で微妙に調節しながら引くことか。

「風を間切(まぎつ)て」風の納まった瞬間を狙っての謂いか。そのためには、「手繩」をずっと持ち続けていて素早く引いたり、押したりせねばならぬから、まえの解釈がしっくりくるのである。

「早舟(てんま)」伝馬船(てんません)。廻船などに搭載されて付属する船(親船・本船)と陸上との間の荷役・連絡や漕走機能のない親船の出入港時の曳航などに用いた。参照したウィキの「伝馬船によれば、『親船の積荷がないときは船体中央胴の間にある伝馬込に、積荷があるときは船首の合羽上に搭載されるか曳航され、特に船上に搭載場所がなかった軍船の場合は曳航が行われた。親船が廻船の場合、百石積以上の船に搭載され、親船の』三十分の一『の規模が標準とされた。廻船では、檣(ほばしら、帆柱)・楫(かじ、舵)とともに』「三つ道具」或いは帆桁を加えて「四つ道具」と『称され、必ず装備する付属品』であった。『千石積の廻船の場合、三十石積の伝馬船を装備しており、全長は』四十尺(約十二メートル)、六丁又は八丁の櫓を『推進具とし、打櫂・練櫂・帆を装備するものもあった。伝馬船は船幅よりも長いことが多かったため、船首尾は両舷から突出していた』とある。

「十丁」約一キロメートル。

「四、五丈」約十二~十五メートル。

「立(たて)さま」舳か艫を上に縦様に成して。

「百雷の落(おつ)るごとく響(ひゞき)渡り」電光を描出していないから、竜巻を起している積乱雲の中の見えないところで激しい雷が発生しているのであろう。

「其浦々」先の島見の附近の漁師ら。

の人々、多く漁舟(ぎよしう)にうち乘り、迎ひ來たりて、助け歸りぬ。

「此日、遠く是を望(のぞみ)たるは」「たる人は」ととって、後を直接話法とした。

「寺泊(てらどまり)」新潟湊のずっと南方。(グーグル・マップ・データ)。

「山東(さんとう)」上記リンク先航空写真切り替と、寺泊は海浜まで丘陵域が迫っていることが判るから、その東側の山麓部を指して言っているのであろう。

「數十丁(すじつてう)」六掛けすると六キロメートル半にもなってしまうので、ここは「十數町」で採り、一・七キロメートルぐらいにしておこう。

持去(もちさ)りし、と云へり。

「水蛭(すいしつ)」環形動物門ヒル綱 Hirudinea の蛭(ひる)類。陸産のものでもよいが、ここはかつては田圃や池沼に多く見られた吸血性のヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル属チスイビル Hirudo nipponica ととってよかろう。

「龍(りやう)の神變(しんへん)、一滴の水をもつて大雨(たいう)となせり」崑崙は龍の実在性を疑っているようであるが、取り敢えずは、怪奇談の体裁を壊さぬように、龍はたった一滴の水さえあれば、恐るべき天変地異を齎すことが出来る存在であると結んで一巻を終えている。お美事!!!

「可ㇾ知」「しるべし」。]

北越奇談 巻之一 龍種石

 

    龍種石(りうしゆせき)

 

 關(せき)の奧、黑嶽(くろがたけ)に滝谷明神(たきだにみやうじん)あり。

 社前に、形、如ㇾ卵、丈(たけ)七尺餘りなる、靑黑(せいこく)にして潤沢、殊に常ならざる石あり。祭事には、必(かならず)、近村の少年、多く集りて力を競ひ爭(あらそ)ふといへども、數(す)十人にして、さらに動(うごか)し轉ずること、あたはず。

 然(しか)るに、過(すぎ)し年、十月の頃ならん、一日、雷雨・暴風ありて、大木を引拔き、石壁(せきへき)を崩し、一條の雲龍(うんりやう)、渦卷き下りて、かの社前の石を卷(まき)、乾(いぬゐ)の方(かた)に飛(とび)さりしが、半里ばかり持行(もちゆき)て、大澤(だいたく)の中(うち)に落(おと)し去りぬ。

 又、翌年秋九月、如ㇾ例、風雨夥(おびたゞ)しく起り、かの大石(たいせき)を引上げ、五、六丁、巻(まき)去りしが、其山下(さんか)に修善寺と云へる禪院の後ろに落したり。其響(ひゞき)、山を動(うごか)し、大雨水(たいうすい)、寺内に溢(あふ)れ、半時(はんじ)ばかりが程は、平地(へいち)、一尺の水あり。

 扨、寺僧を始め、村中の者ども、多く集まり來りて、是を見るに、其前(そのさき)、澤中(たくちう)に落(おとし)たる石なり。然(しから)ば、

「此石、龍神(りうじん)の惜しむ所。」

と覺(おぼえ)つれば、

「此地に捨置(すておか)んことも却つて危(あやうき)を待(まつ)に似たり。」

「左(さ)は云へ、此石、人力(じんりよく)の容易(たやす)く移すべきにもあらず。」

「如何(いかゞ)せん。」

と、囁き合へるに、和尚の曰く、

「是は定(さだめ)て龍種(りうしゆ)なるべし。只、打碎(うちくだき)て捨(すつ)るにしかじ。」

と、石工(せきこう)を呼びて、是を切(しら)しむ。

 工人、即ち、石脈を截(た)ち、油を差し、「矢」と云へる物を入(いれ)て、終日(しうじつ)、是を打(うて)ども、破(やぶ)れず。

 翌日、數(す)十人を催して打(うた)しむるに、忽、金石(きんせき)の碎くる響(ひゞき)ありて兩斷し、其央(そのなかば)、少(すこし)き空所(くうしよ)ありしが、小蛇(しようじや)四ツ、蠢(うごめ)き出づ。

「されば。」

とて、是をも打殺さんとするを、和尚、又、急に制して、溪流に捨てたり。

 又、五華山(ごくはさん)の中嶺(ちうれい)、出湯(いでゆ)の奧に、斷岸(だんがん)數(す)十丈の飛泉(たき)あり。其上に「龍(りやう)の劍堀(けんぼり)」と云へるもの、三、四ケ所にあり。しかも、數丈一堅(すじよういつへき)の大石(たいせき)にして、人力(じんりよく)の及ぶ所にあらず。古(いにしへ)より、時ありて、龍(りやう)、此所(このところ)に下(くだ)り、猶、深く、其石を穿(うがつ)つ内(うち)窪(くぼ)かなる形、自然にして、茶臼(ちやうす)のごとし。如何なる故ありてか、龍(りやう)の此(この)工(たくみ)をなせることを知らず。

 是等も、即(すなはち)、龍種石(りうしゆせき)の類ひならんか。

 總て、此近村、旱(ひでり)する時は、百姓大勢、其嶺(みね)に集まり登り、小石をもつて其劍堀(けんぼり)に抛(なげ)打ち、深く埋(うづ)みて下(くだ)る時は、忽、大雨(たいう)し、抛(なげうち)たる小石、盡(ことごと)く拂(はら)ひ去りぬ。「瑯環記(らうくわんき)」、『水仙子有一圓石如ㇾ卵。一日風雨タリ。石忽破小虫出。即呑硯中水曳雲上去。』トアリ。此類(たぐひ)なるべし。

 

[やぶちゃん注:「龍種石(りうしゆせき)」龍の卵のような石の意。

「關(せき)の奧、黑嶽(くろがたけ)に滝谷明神(たきだにみやうじん)あり」不詳。一つの候補地は現在の南魚沼市瀧谷にある瀧谷神社である(ここ(グーグル・マップ・データ))。南東奥に「無黒山」や「黒岩峰」というピークがあるからであるが、「關」が判らぬ。新潟で「關」となると、北の新潟県岩船郡関川村があるが、「奥山」ならあるが、「黑嶽」や「滝谷明神」が見当たらぬ。近くにある禅寺「修善寺」が頼みの綱と思ったが、新潟県内に現在、同名の寺院すら見当たらぬのだ。お手上げ。識者の御教授を乞う。

「如ㇾ卵」「たまごのごとく」。

「丈(たけ)七尺餘り」高さ約二メートル十二センチほど。

「潤沢」潤(うるお)いに満ちた色艶(つや)があること。

「乾(いぬゐ)」西北。

「如ㇾ例」「れいのごとく」。ここは前段を受けて、前の年の十月の時途同じような、の意。

「五、六丁」五百四十六~六百五十五メートルほど。

と云へる禪院の後ろに落したり。其響(ひゞき)、山を動(うごか)し、大雨水(たいうすい)、寺内に溢(あふ)れ、半時(はんじ)ばかりが程は、平地(へいち)、一尺の水あり。

「是は定(さだめ)て龍種(りうしゆ)なるべし。只、打碎(うちくだき)て捨(すつ)るにしかじ」と和尚が言ったのは、それが真正の龍の卵たる龍種石であるとすれば、そこから昇龍が化生(けしょう)する可能性が大であり、その場合は、とんでもない天変地異が発生し、物損は勿論、人的被害も生じ得る以上は、龍が生まれないように粉砕して捨てるべきであると考えたのであろう。逆に後でその石から出現した「小蛇」四頭を殺さなかったのは、それらがただの小蛇でなく、真正の龍となるべき属性を内包している龍の子のプロトタイプである場合、それを殺すことで逆にまた想像を絶する天変地異が発生する可能性を恐れたのであろう。

『油を差し、「矢」と云へる物を入(いれ)て』「矢(や)」(鍵括弧は私が附した)は叩いて割るために噛ませる楔(くさび)のこと。油を差すのは、その「矢」を摩擦を減らしてより深くぴったりと食い込ませるため。

「五華山(ごくはさん)の中嶺(ちうれい)、出湯(いでゆ)の奧」「數(す)十丈の飛泉(たき)あり」「龍(りやう)の劍堀(けんぼり)」これらから推定したのは新潟県新発田市荒川にある剣龍峡である。新発田市の月岡温泉のすぐ奥にあること、峡谷名だけでなく、実際の展望ポイントに「龍の剣堀」という場所が現在もあること、同峡谷には複数の滝が現在もあるが、その中の「つむじ倉滝」は、落差が実に八十五メートルもあること、「五華山」が判らぬが、この剣龍峡は多数の高峰に囲まれており、南方には「五頭連峰」という山塊が存在することなどから、最有力同定候補として挙げておく。

「其石を穿(うがつ)つ内(うち)窪(くぼ)かなる形、自然にして」「穿(うがつ)つ」は原典のママ。野島出版版もかく活字化している。問題はここをどう読むかである(野島版は注も何もない)。私はまず、

「其石を穿(うがつ)つ【しつる】内(うち)【に】窪(くぼ)かなる形【の】自然にし(=生じ)て」

と読んでみた。次に、単にルビの「つ」が衍字なのであって、

「其石を穿(うが)つ内(うち)、窪(くぼ)かなる形、自然にして」

と読んだ。後者の方が無理がないし、外をわざわざいじくる必要がないから、後者を私は最終的に採る。

「茶臼(ちやうす)」碾茶(てんちゃ:覆いをした茶園の若芽を摘んで蒸した後、通常の茶のように揉まずに、そのまま乾燥して製した茶)を挽(ひ)いて抹茶にするための挽き臼。。穀物用の臼よりも小振りで、丈が比較的高い。

「瑯環記(らうくわんき)」元の伊士珍が書いた神仙小説集。全三巻。「琅嬛記」とも書く。

『水仙子有一圓石如ㇾ卵。一日風雨タリ石忽破小虫出。卽呑硯中水曳雲上去』底本のだらだらルビに従って試みに訓読してみると、

水仙子(すいせんし)、一(いち)圓石(えんせき)有りて、卵(らん)のごとし。一日(いちじつ)、風雨たり。石、忽ち、破れて、小虫(しようちう)、出づ。即ち、硯中(けんちう)の水を呑み、雲を曳いて、上(のぼ)り去る。

である。中文サイトによれば、これは同書の「卷下」に出る「修眞錄」なる書を出典とする以下で、崑崙の引く原文とはかなり異なる。

   *

水仙子爲南溟夫人侍者、手恆弄一圓石如鳥卵、色類玉。後以贈靑霞君、靑霞君以爲經鎭。一日誦陰符經、忽大風雨、其石裂破、有一蟲走出、狀若綠螈、就硯池飲少水、乘風雨飛去、蓋龍也。石隨合、略無縫痕。

   *

因みにこの原文では、石から走り出た生物の形状は緑色をした「螈」のような感じの生き物であったとしているが、この「螈」は両生類のイモリのことである。なお、野島出版脚注には、『士珍の自注に其の事は元の観手抄に出づというが觀手抄は何の書たるかは不明。記する所おかしい話が多いから恐らくは明人、桑懌』(そうえき:実は本書は明代のこの人物が士珍作と仮託した偽書であるらしい)『の馬鹿げた話であろうとなされている(漢和大字典より)』とある。]

北越奇談 巻之一 蝮蛇

 

    蝮蛇(うはばみ)

 

 葛塚(くずづか)は福湖(ふくしまがた)の西涯(さいがい)にして、今、數十邑(すじうゆう)の惣名(そうみよう)たり。福湖(ふくしまがた)より溜水(りうすい)を阿水(あが)の中(うち)へ吐流(とりう)せる濁川(にごりかは)と云へる挾渠(きようきよ)ありて、其廣さ、二十餘間には過ぎるべけれど、深き事、幾(いくばく)なることを知らず。町の端(はし)、大曲(おほまがり)と云へる渕、殊に深し。此所(このところ)、冬の半(なかば)より春に至(いたつ)て、白魚(しらうほ)を獲ること、夜每(よごと)に夥(おびたゞ)し。されども、漁者(ぎよしや)、三網(みあみ)より過(すぎ)て、又、曳くこと、あたはず。四度(よたび)に至る者は、即(すなはち)、水底(すいてい)より其網を引(ひき)とりて、盡(ことごと)く破り棄つ。も此地に久しく寓して、月夜(げつや)、橋頭(きようとう)に是を見たり。

 又、十とせばかり以前ならん。殊に晴やかなる日、川水、俄に逆捲き起り、左右の堤、溢(あふ)れ、漁舟(ぎよしう)を覆(くつがへ)し、網を破り、流(ながれ)に隨(したがひ)て一里餘り下(くだり)しが、忽、水底に沈みて、止(やみ)ぬ。其通り筋、兩堤の村々、農夫・漁人、棹を捨て、鍬を投げて逃去りしが、さらに一人として、其形(かたち)、如何なるものといふことを見ず。

 又、福湖(ふくしまがた)東南の岸(きし)、新田(しんでん)と云へる所に、何某とて、豐かに富(とめ)る農家あり。其下男(しもおとこ)、馬の秣(まくさ)苅(かる)次手(ついで)、芦・萩深く茂れる淵に臨(のぞみ)て、釣を垂れ、半時ばかり休らひけるが、忽、水底より二丈ばかりなる蝮蛇(うはばみ)、黑き頭(かしら)をさし出(いだ)し、紅(くれなゐ)の口を開きければ、かの男、あまりに打驚き、竿を捨て、蓑を忘れ、夢路を辿(たど)る心地にて逃歸りけるが、夫(それ)より數(す)十日、病臥(やみふし)ぬ。

 此頃、予も其家に至り、詳(くは)しく尋ね聞(きゝ)しかど、

「あまりに恐ろしくて、鱗(うろこ)・鬚(ひげ)は見定(みさだめ)もせず、爪・角(つの)はなかりし。」

と云へり。

 

[やぶちゃん注:前話とは水怪の妖蛇譚で直連関。

「蝮蛇(うはばみ)」蟒蛇(うわばみ)。大蛇。「蝮」(通常は「まむし」と訓ずる)に「うはばみ」の訓を当てるケースは稀であるが、ないわけではない。例えば、知られた泉鏡花の「高野聖」の「第十七」で、『軈(やが)て又例の木の丸太を渡るのぢやが、前刻(さつき)もいつた通り草のなかに橫倒(よこだふ)れになつて居る木地(きぢ)が恁(か)う丁度鱗(うろこ)のやうで譬(たとへ)にも能くいふが松の木は蝮(うはゞみ)に似て居るで』と出る。

「葛塚(くずづか)は福湖(ふくしまがた)の西涯(さいがい)」現在も一部が残る福島潟(既出既注)の西方、新潟県新潟市北区葛塚周辺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「惣名(そうみよう)」(複数の村落を纏めた)総称。

「溜水(りうすい)」溜まった水。

「阿水(あが)」阿賀野川。

「吐流(とりう)」排水。

「濁川(にごりかは)」現在の福島潟を源流として阿賀野川河口及び日本海へと注ぐ新潟市北区を流れる新井郷川(にいごうがわ)の旧称或いは前身と考えられる。グーグル・マップ・データで、新井郷川阿賀野川を見ると、まさに「濁川」という地名を確認出来るからである。

「挾渠(きようきよ)」狭い人工的に掘削した掘割。

「二十餘間」四十一・一八メートル。現在の新井郷川の川幅は四十二メートルほどでよく一致する

「大曲(おほまがり)と云へる渕」不詳。現在の新井郷川が旧濁川と河川変更されているとするなら、最早、存在しない可能性もある。現地の識者の御教授を乞う。

「白魚(しらうほ)」文字通りならば、シラウオ(条鰭綱新鰭亜綱原棘鰭上目キュウリウオ目シラウオ科 Salangidae に分類される魚の総称。狭義にはその中の一種 Salangichthys microdon の和名)であるが、シロウオ(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科シロウオ Leucopsarion petersii)である可能性も半ばする分布域・生息場所・漁法からはこの孰れであってもおかしくはないからである。但し、両者は全く縁遠い別種である。孰れも死ぬと白く濁った体色になって見分けがつきにくくなるが、生体の場合はシロウオ Leucopsarion petersii の方には体にわずかに黒い色素細胞があり、幾分、薄い黄味がかかることで区別は出来る。詳しくは私の今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅1 行くはるや鳥啼きうをの目は泪 芭蕉の私の注及びそのリンク先を参照されたい。

「予も此地に久しく寓して」これは重要な発言である。橘崑崙茂世はかつてこの葛塚附近に、有意な機関、仮に住居を持っていたという事実が判るからである(冒頭の柳亭種彦の序文から、本書刊行直前には三条にいた)。

「橋頭(きようとう)」橋の畔(ほと)り。橋のたもと。

「其形(かたち)」その変事を起した(と思われる)川中の生物或いは魔物の姿形。

「福湖(ふくしまがた)東南の岸(きし)、新田(しんでん)と云へる所」旧福島潟の東南の岸辺りであったと思われる地域((グーグル・マップ・データ))には現在でも「新田」のつく地名が多く残ることが地図上からも判る。

「半時」現在の一時間に相当。

「二丈」六メートル六センチ。]

北越奇談 巻之一 河伯

 

    河伯(かはく)

 

 水中(すいちう)にて河伯(かつぱ)に曳かれ死する者、年毎(としごと)にありて、其説、分明ならず。鼈(べつ)とも云(い)へ、蛇(じや)とも云へり。

 其中(そのうち)、過(すぎ)し頃、が幼年の知人、信川の邊り、眞越村(まごしむら)孝源寺(こうげんじ)、一向宗門にて何某(なにがし)と云へる僧、十八才なりし者、夏の頃、農家の童(わらべ)、數多(あまた)伴ひ、信川に浴しけるが、忽(たちまち)、水底(すいてい)に引入(ひきいり)て、見へず。

 童ども、大に驚き、慌(あは)て騷ぎて立歸り、此由(よし)、告(つぐ)るほどに、村中(むらうち)の老若(ろうにやく)、川岸に集まり、網を曳(ひき)、鍵(かぎ)を下(さ)げて、搜し求むれども、其邊りには觸(さ)はる物もなく、川下半里ばかりにして、鐘が渕(ふち)と云へる所に至り、勇壯の若者、五、六人、腰に繩を付(つけ)、手(て)ン手(で)に鎌を握りて、水底(すいてい)を潛(くゞ)りけるが、難なく、かの亡僧(ぼうそう)を抱(いだ)き上げて、是を見れば、更に皮膚の間(あいだ)、疵付(きづつく)る所はなけれど、肛門、開き、腹、太く腫滿(はれみち)て、是を推(おせ)ば、鳴蠢(なりうごめ)きたり。

「すはや、敵(かたき)は此腹中(ふくちう)にあり。」

と我も我もと、立(たち)まとひ、

「打(うた)ばや。」

「切らばや。」

なんど声々に喚(わめく)ほどに、其内、叔父なる老人の云へるは、

「正(まさ)しく、毒蛇の腹中にあるなるべし。打(うた)ば、口よりも飛去(とびさ)りぬべきぞ。肛門と口とに小刀(こがたな)を刺し、腹上(ふくしよう)より突殺(つきころ)さん。」

と。

 人人、一決しける所、母なる者、いたく悲しみ、

「僧侶の身、非常の死といへども、身躰(しんたい)、又、刃(やいば)に及(およば)んこと、業生(ごうしやう)、猶、深きに似たり。只に、葬り給へ。」

と、請求(こひもとむ)るにぞ。

「さらば、火葬にして敵(かたき)もともに燒殺(やきころ)せ。」

と、大なる瓶(かめ)に入(いれ)、板石(いたいし)を蓋にして、其上も猶、大石(たいせき)にて圍み、焚炭(たきずみ)數十俵(すじうひよう)を以(もて)、燒立(やきたて)たるに、忽、炎火、盛(さかん)に立昇(たちのぼ)り、火勢、近付(ちがづく)べくもあらねば、今は蛇身も燒失(やけうせ)ぬべく覺ゆる所に、忽、火中一声の響(ひゞき)ありて、焰炎(ほのう)の中(うち)より、尺ばかりなるもの、空中に撥ね上がると見へしが、雲氣(うんき)、四野(しや)に滿ち、暴風大雨(ぼうふうたいう)、立(たち)やすらふべくもあらず、山をなせる火氣、忽、消失せて、是を見れば、瓶(かめ)碎け、大石(たいせき)數片(すへん)に破(やぶ)れ割(さけ)たり。

「誠に龍蛇(りやうだ)の神(しん)なる、人智の及ぶ所にあらず。」

と、見る人、震(ふる)ひ畏(おそ)れける。

 

[やぶちゃん注:竜巻実録連投から、同じ水変乍ら、異様な水怪実談へと転ずる。怪奇談集として非常に上手い構成である。橘崑崙、これ、タダモノではない。

「河伯(かはく)」「河伯(かつぱ)」ルビの違いはママ。以下の叙述も河童のようでありながら、実は腹中へと侵入した怪龍蛇とする展開は、数ある河伯(これは狭義には中国神話に登場する黄河の神を指し、「白亀」形(後注に出る実在する大型のスッポンのアルビノ個体あたりがモデルか)とも「白龍」形或いは「龍」そのものとも、また「龍が曳く車に乗っている人」形とも人頭魚体ともされる)・河童・怪蛇譚の中でもかなり変わった特異点のケースと言える。

「鼈(べつ)」この字は本邦では爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis に当てるが、ここは巨大な怪亀ととっておいてよい。

「信川の邊り、眞越村(まごしむら)孝源寺(こうげんじ)」不詳。村名・浄土真宗の寺名としても現認出来ない。信濃川では広域過ぎて、特定も不能で、「川下半里ばかりに」あるとする「鐘が渕」という淵名も確認出来なかった(これが一番の特定素材とは思われるのだが)。識者の御教授を切に乞うものである。

「驚き慌(あは)て騷ぎて立歸り」野島出版版では『驚き騒ぎて立帰り』であるが、原典に拠った(原典は「あはて」と平仮名。

「鍵(かぎ)」鉤(かぎ)・鳶口(とびぐち)のことであろう。長い樫の棒の先に鳶の嘴に似た形の鉄製の鉤をつけた、木材や大型の魚類などを引き寄せるに用いるあれである。

「皮膚の間(あいだ)、疵付(きづつく)る所はなけれど、肛門、開き、腹、太く腫滿(はれみち)て、是を推(おせ)ば、鳴蠢(なりうごめ)きたり」通常のある程度の時間が経過した水死体の特徴を完備しており、実は異様な死体とは言えない。但し、淡水域での水死体の場合は、体内に生物が侵入することはそう多くはない(海域での漂流死体では穴子・蝦蛄・蛸などが容易に侵入して内部から食い荒らすとは普通に見られる現象である)。

「立(たち)まとひ」「まとひ」は「纏ひ」で遺体の周囲に野次馬のように「立ち集まり」の謂いともとれる。或いは変死体のさまに周囲に集まった連中が「立ち惑(まど)ひ」かも知れぬ。

「打(うた)ばや」「腹を殴打しよう!」。

「切らばや」「いや! 腹を切り裂くべきだ!」。

「叔父なる」「小父」で「他人である年輩の男性」の意があり、私はそれでとる「老人」とダブるが、縁者である「叔父」ととってしまうと、後で実母が出るのと妙にリアル過ぎて五月蠅い気がするからである。そもそもこの仕儀、母ならずとも、反対したくなる残酷なものではないか。それを実の叔父がまことしやかに提案するというのもヘンである。こういう、訳知り顔で物言いするケッタイな爺いというのは、しばしばこうした話柄につきものであり、この猟奇的場面処理が、実はこの話が事実ではない創作された話柄であることを強く感じさせるとも言えるのである。

「業生(ごうしやう)」「業障」(ごふしやう/ごつしやう)の誤記であろう。三障の一つで成仏することを妨げるところの身・口・意によって発生する悪しき行為、或いは、広く過去(前世も含む)において行なった悪しき行為によって生じたところの障(さわ)り・業(ごう)を指す。]

北越奇談 巻之一 巻水一奇

 

    巻水(けんすい)一奇

 

 中(なか)ノ口川(くちがは)と云へるも、信川の分流にして、西川(にしがは)よりは、其幅、少し大なり。此流に付(つき)て、吉井村の畔(ほと)り、千野潟と云へる僅かなる溜湛(りうたん)あり。蓴菜・菱など多く生ず。其村に貧しき寡女(やもめ)在(あり)て、春・夏・秋は是を取(とり)て業(なりはひ)とす。

 此日も小舟に悼さして水面(すいめん)に漂ひけるが、晴天、俄に一群(ひとむれ)の雲、かの村中(むらなか)より潟の上に掩(おほ)ひ下(くだ)りて、水を巻く事、晒せる布を引上ぐるがごとし。雲中(うんちう)に声ありて、舟の櫓を押(おす)に異(こと)ならず。家ごとに出(いで)てこれを見れば、雲裏(うんり)一條の白氣(はつき)、帋鳶(いか)の尾を曳(ひく)がごとく、村の畔(ほと)りより潟中(かたのうち)まで十餘丁に餘る所、長く引はへたり。

「すはや、菱を採る寡女(やもめ)、定(さだめ)て此龍(りやう)に捲かれ死せん。不憫さよ。」

と口口(くちぐち)に囁き呼ばはりけるほどに、忽(たちまち)、黑雲(こくうん)、東の方に引去りしが、此邊りは、風もなく、雨もなく、晴空(せいてん)、元のごとし。然るに五、六里なる山手、大雨(たいう)すと見へて、數(す)十里に連(つらな)りたる高山(かうざん)、一ツとして見ゆる所なく、ほどなく、かの寡女(やもめ)、舟さし寄せて歸り來りければ、人々、集まり、

「如何に。恐ろしからずや。」

「怪我せしことはなきか。」

など尋(たづぬ)るに、かの寡女、一事(いちじ)として知ることなし。

「水面(すいめん)、さらに波風さへ、あらず。」

と云へり。誠に龍(りやう)の神化(しんくわ)、その奇、はかりがたし。

 

[やぶちゃん注:再び竜巻実録物(但し、伝聞)。

「中(なか)ノ口川(くちがは)」西川の更に内陸で西川と同じく三条市尾崎で信濃川から一度分流して北へ流れ、新潟市西区善久で再び信濃川に合流する川。ウィキの「中ノ口川によれば、上杉家家老『直江兼続が河道を整備したという伝説が残って』おり、『それによると、中ノ口川は直江兼続が信濃川の自然流路を改修し』て『治水工事を行い、かつて直江川(なおえがわ)とも呼ばれていたと伝えられている』とあるから、案外、この寡婦を救ったのは、あの「愛」字の立物で知られる直江兼続だったのかも知れぬ。因みにかの「愛」は下部に左右に尖った雲形(くもがた)の上に張り付けてある。それは無論、彼が寡婦をも愛する博愛主義者だったなどというわけではなく、当時のデザインで神仏の略称であることを普通に示すものであって、あの「愛」は一面三目六臂で赤色忿怒相を示す恐ろしい形相を持つ「愛染明王」の「愛」であることは御承知のこととは思う。私は「愛」ではなく、ウィキに載る伝説を読み、あの彼の立物の「愛」を支える「雲」形と、この雲湧き上がる話柄との連関を、思ったのである

「吉井村の畔(ほと)り、千野潟と云へる僅かなる溜湛あり」溜湛(りゅうたん)は既注。水が流れずに溜まる箇所で、河川の蛇行によって取り残された三日月湖のような池沼であろう。「吉井」「千野」では現在の地名で残らず、位置は確定出来なかった。孰れにせよ、この中央に配した川のどこかである(グーグル・マップ・データ)。限出来る方は是非とも御教授あられたい。

「蓴菜」既出既注。スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi

「菱」フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica。私は小学二年生の頃、母の郷里の大隅半島中央部の岩川の山間の池で菱を採った。無論、貯蔵したそれを食べたこともある(三十代の頃、タイのスコータイの道端で殻ごと黒く焼いたそれを見つけて激しく懐かしがったところ、通訳の誠実な娘チップチャン(「蝶々」の意)がポケット・マネーで私にプレゼントしてくれたのを思い出す)。菱の実は秋に熟してしまうと、本体から離れて水底に沈んで冬を越す。菱の実を食べたり、採ったりしたことのある人は、私と同年代では恐らく非常に少ないものと思う。

「雲中(うんちう)に声ありて、舟の櫓を押(おす)に異(こと)ならず」意味が今一つとりにくい。「声」は「こゑ」のルビであるが、音(おと)の意味でよいと思われ、その竜巻の中でする音が「ギイッツギイッツ」という櫓を漕ぐ音と似ていたというのであろう。或いは櫓臍の軋る「ギュルギュル」という音と言った方がよいかもしれない。

「雲裏(うんり)」雲の中。

「帋鳶(いか)」正月に揚げる凧、「いかのぼり」のこと。

「十餘丁」千七百メートル前後。

「長く引はへたり」「はへたり」は「生えたり」で、竜巻が地水に接して生えているように見えたのであろう。

「すはや」感動詞。「あっ!」「やっ!」など、突然の出来事に驚いて発する語。感動詞「すは」を強めた語で「や」は強調の間投助詞。

「此邊りは、風もなく、雨もなく、晴空(せいてん)、元のごとし」吉井村村内の景。この時の竜巻の発生が局所的で、影響も極めて限定的であったことが判る。

「五、六里なる山手」「數(す)十里に連(つらな)りたる高山(かうざん)」「山手」とあるから内陸の高地(実はここは西の海側にも山塊はある)。のグーグル・マップ・データを航空写真に切り替えると、東方に有意な山塊が見え、偶然であろうが、その北端のピークは「高立山」(たかだてやま)、南方端にあるピークは「高山」(呼称は「たかやま」であろう)である。]

2017/08/06

北越奇談 巻之一 似類

 

    似類(じるい)

 

Kuutyuuwosamayoumono

 

[やぶちゃん注:橘崑崙茂世の筆になる挿絵(左に「茂」「世」の落款有り)。私はこの挿絵がすこぶる好きでたまらない。右上には『西川乃土人棒をもて怪物をうたんとなす』とキャプションが入る。なお、標題の「似類」とは、前の二話の「登蛇(とうだ)」と「似」たような「類」いの未確認生物・幻獣の謂いである。]

 

 信川(しんせん)の分流西川(にしがは)といへるは、海に近く、伊夜日子山(いやひこやま)の一里東を巡り、新潟の南(みなみ)、平島(ひらじま)にて會す。此川續きに曾根と云へる所、又、鈴木村(すゞきむら)と云へる、此両村を插(ささしはさみ)てあり。

 夏の夕暮れ、若者ども、多く集まり、流(ながれ)に浴し、砂汀(さてい)に戲(あはむ)れ遊ぶ折節、何(なに)共知らず、二尺餘りなるもの、空中、一丈ばかり上にありて、頻りに轉じ翻るること、兵術(ひようじゆつ)に棒を使ふがごとく、一轉(いつてん)ごとに響(ひゞき)ありて、夫(それ)と見定むべき樣(やう)もあらず。

 初めは小児(しように)等(ら)、釣竿・小竹(をだけ)なんど、持ち來りて、是を打(うた)んとすれども、更に打(うち)當つること、なし。

 若き者共、興に入(いり)、手(て)ン手(で)に、棒・舟棹(ふなざほ)なんど、携ひ來つて、左右前後より、是を打てども、其翻ること、速(すみやか)にして、一ツも打得(うちう)ること、あたはず。後(のち)は次(しだい)に、大勢、東西の岸に集まり來り、力を盡し、聲を勵(はげま)して打(うつ)ほどに、何時(いつ)となく、怪物は消(きえ)失せて、両村の老若(らうにやく)、何ごとゝは知らず、騷動すること、夥(おびたゞ)し。

 日も巳に暮(くれ)果つるほどに、風雨、俄(にはか)に水陽(みなかみ)より起り、その激しきこと、皮肉を破るがごとく、漸々(やうやう)にして、皆々、家に逃歸(にげかへ)れり。

 此一事(いちじ)、殊に奇なり。按ずるに、是等も又、登蛇(とうだ)の類ひならんか。

 

[やぶちゃん注:空中を浮遊する目に見えない透明なクラゲのような(しかし何かが確かにいることが棒を振り回すような回転する「ぶぅん」というような音(オノマトペイア表現は本文叙述からの私の推定)によってはっきりと全員に知れるのである)怪物という属性が実にオリジナルですこぶるいいではないか! しかもそれは、筆者の夢想の産物なんどではなく、村人たちが追い掛け回しては知らないうちにいずこかへと消え去っている現実の何ものかなのである! ある者は集団ヒステリーで片付けるかも知れぬし、何らかの微小昆虫の集合体と同定する輩もおり、また、阿呆臭い、空中を高速(時速二百八十キロメートル以上で飛翔移動するとされている棒状の未確認動物スカイ・フィッシュ(Sky FishFlying RodsRod)を今さらに言い出したり、「ウルトラマンティガ」に出てきた空中棲息生物クリッター! と叫ぶ奴もいるかも知れぬ。しかし、正体が判らぬ故に、この出現が日常化しているにも拘わらず(普通、これは怪談の怪談性の低下を引き起こす大きなマイナス要素である)、この話、実に第一級の怪奇談の一つと言えるのである。実際には私も実在生物(特に昆虫)の群体として考察し、それに集団感染性ヒステリーを添えて解明してみたい欲求はあるのであるが、それは如何にも私の好きなこの話の注としては至って面白くないと思うのである。

「信川の分流西川といへるは、海に近く伊夜日子山(いやひこやま)の一里東を巡り、新潟の南(みなみ)、平島(ひらじま)にて會す。此川續きに曾根と云へる所、又、鈴木村(すゞきむら)と云へる、此両村を插(ささしはさみ)てあり」以上の叙述から地図を探って行くと、発見した! ここだゾ!!

現在の西川信濃川から一度、新潟県燕市五千石付近で分流し、弥彦山(=「伊夜日子山(いやひこやま)」)

約四・九キロメートル(以上は山頂からの直線距離であり、「一里」とは齟齬しない)

を北上して下り、遙か北の

新潟の南西方直近にある、現在の、

新潟市西区平島

で、河口近くの

分流元である信濃川に再び注いで(「會」して)いる

から、

西川は分岐も合流も信濃川という信濃川の秘蔵っ子中の正統なる分流

なのである! そうしてその、

西川の東(右岸)

にある、

現在の新潟県新潟市西蒲区曽根

の、

西川を隔てた直の対岸(左岸)

には、実に

新潟市西蒲区鱸(すずき

という「そね」と「すゞき」の地名が現存するのである! ここ!(グーグル・マップ・データ)

現代の地図データを調べて、ここまで江戸時代の記述の細部までがほぼ完全に一致するということは、そうそうあるもんじゃないんだ! 嬉しいッツ!!!

「砂汀(さてい)」川岸の川砂の溜まった洲(す)。

「二尺」六十一センチメートル弱。

「一丈」三メートル三センチ。

「水陽(みなかみ)」西川の上流。前に述べた通り、元は信濃川であるが、分岐点からは直線でも約二十一キロメートル離れており、途中も激しく蛇行している。この場合は、上流がこの辺りで、西に大きく蛇行していることから、川の上流というより、その西方向にある角田山(かくだやま:新潟県新潟市西蒲区にある。標高四百八十一・七メートル)の北の裾野を、日本海方向から強烈な海風が吹き寄せてくる、と解釈した方がよいかも知れない。夏という季節から考えても、これは強い偏西風を指している可能性もある。]

 

北越奇談 巻之一 登蛇 + 其二

 

    登蛇(とうだ)

 

Touda

 

[やぶちゃん注:遠近感と空間の厚みを美事に捉えた葛飾北斎の挿絵である。右の雲気の中に『聖教寺乃園中に小虵風雨を起して登天なす』とある。「虵」は「蛇」に同じい。見開きのそのままを画像化したが、左の歪みはママである。早稲田大学古典データベースの画像を見るとこんな歪みはないから、野島出版が挿絵を取り込む際に処理を誤ったものと思われる。]

 

 

 頸城郡(くびきごほり)松の山村聖敬寺(せうけいじ)と云へるは、森々たる古木、晝暗く、庫裏(くり)は大沢(だいたく)に臨みて、淸水(せいすい)譚々と、夜(よ)、明らかなり。

 一トとせ、秋のすゑ、老僧客(らうそうかく)と相對し、間談止(やみ)て、暫く黙坐がする折節、沢の邊(ほとり)より、小蛇(しやうじや)の長(たけ)五、六寸ばかりなるが這出(はへいで)て、石上(せきしよう)に登り、其尾、纔かに、四、五分(ぶ)ばかり、石に付けて直立し、一声(いつせい)、細く、吟ず。

 客、怪しみて問(とふ)。僧の曰(いはく)、

「是は、正しく登天の蛇(だ)なるべし。油斷すべからず。」

とて人を呼び、

「干物(ほしもの)なんど、取納(とりおさめ)よ。窓、鎖(さ)せ。柴に笘(とま)覆(おほ)ひ。」

など云へる中(うち)、一点の奇雲、簷頭(せんとう)に現はれ、小蛇、忽ち、見へず。

 かゝるほどこそあれ、暴風、すさまじく吹起り、樹を倒し、山を動(うごか)して、蛟龍(こうりやう)、雲中(うんちう)に現じ、西に飛び、東に馳(はせ)、北に飜り、南に驅けりて、縱横すること、數(す)十度、大雨、いよいよ強く、石を穿ち、山を割(さき)て、洪水、沢に溢(あふ)れ、暗きこと闇夜(あんや)に異ならず。朝の五ツより暮の七ツに至るまで戸を閉(とぢ)て開くあたはず。只、今、天、傾(かたふ)き、地、陷(おちいる)かと、恐ろしなどいふばかりなし。

 然るに、忽(たちまち)、空中、一声の響(ひゞき)ありて、山林、動搖しけるが、風雨、程なく晴渡りて、何(いづ)くともなく、其(その)去りし所を知らず。

 然るに、三とせほど過(すぎ)て、初春の頃、木を刈(かる)者、深山に入(いり)、

「大蛇(だいじやの)枯骨(ここつ)、數丈(すじやう)なるを見たる」。

と云へり。

 是を按ずるに、登天の龍(りやう)、人の看(かん)に觸るゝときは、天帝、これを罰す、と云へり。もし、是等のことにもやあらんか。只し、此説も又、信ずべきにもあらず。

 

[やぶちゃん注:これも筆者の実見(というか、後半は実聴という方が正しい)になる実録小蛇と天変の怪異は確かに見聴きしたのにも拘わらず(後半で実見していない点で彼はこれを真正の龍蛇の怪異と見做すことを留保しているとも言える。何より次の「其二」で崑崙は最後に「予はいまだ、登蛇を見ず」と断言しているのである)、昇龍が人にしっかりと見られてしまった場合には天帝はその龍(蛇)を罰する、という説を「又、信ずべきにもあらず」と退けているところ辺り、崑崙の現実主義的考証家としての手堅い一面をはっきりと提示していると言える。

「頸城郡(くびきごほり)松の山村聖敬寺(せうけいじ)」旧新潟県東頸城郡松之山町(現在は十日町市松之山。ここ(グーグル・マップ・データ))のことかと思われるが、この周辺域に「聖教寺」という寺院は現存しない模様である。識者の御教授を乞う。

「間談(かんだん)」閑談で、とりとめのない(僧から見れば)下らない世間話ととっておく。

「五、六寸」十六~十八センチメートル。

「四、五分」一・三~一・五センチメートル。

「笘(とま)覆(おほ)ひ」「ひ」はママ。命令形「へ」が正しい。「笘」は既注であるが、再掲すると、菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作った大型のシート。対象物を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「簷頭(せんとう)」簷(ひさし)の突き出した縁側の先。

のに現はれ、小蛇、忽ち、見へず。

「かゝるほどこそあれ、」野島出版版はこの前の改行はない。また「あれ」の後は句点であるが、私は事態がありえないように急激に転変する感じを出すには、ここは改行し、しかも「こそ」已然形の逆接用法ととった方がより効果的と考えた。

「蛟龍(こうりやう)」ウィキの「蛟龍によれば、『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』。『日本では、「漢籍や、漢学に由来する蛟〔コウ〕・蛟竜〔コウリュウ〕については、「みずち」の訓が当てられる。しかし、中国の別種の竜である虬竜〔キュウリュウ〕(旧字:虯竜)や螭竜〔チリュウ〕もまた「みずち」と訓じられるので、混同も生じる。このほか、そもそも日本でミズチと呼ばれていた、別個の存在もある』(ここで言う本邦での「みずち」(古訓は「みつち」)は水と関係があると見做される竜類或いは伝説上の蛇類又は水神の名である。「み」は「水」に通じ、「ち」は「大蛇(おろち)」の「ち」と同源であるともされ、また、「ち」は「霊」の意だとする説もある。「広辞苑」では「水の霊」とし、古くからの「川の神」と同一視する説もあるという)。『ことばの用法としては、「蛟竜」は、蛟と竜という別々の二種類を並称したものともされる。また、俗に「時運に合わずに実力を発揮できないでいる英雄」を「蛟竜」と呼ぶ。言い換えれば、伏竜、臥竜、蟠竜などの表現と同じく、雌伏して待ち、時機を狙う人の比喩とされる』。荀子勧学篇は、『単に鱗のある竜のことであると』し、述異記には『「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜となる」とある。水棲の虺』は、一説に蝮(まむし)の一種ともされる。「本草綱目」の「鱗部・龍類」によれば(以下、最後まで注記番号を省略した)、『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられたとされている。長さ一丈余』(約三メートル)『だが、大きな個体だと太さ数囲(かかえ)にもなる。蛇体に四肢を有し、足は平べったく盾状である。胸は赤く、背には青い斑点があり、頚には白い嬰』(えい:白い輪模様或いは襞(ひだ)或いは瘤の謂いか?) 『がつき、体側は錦のように輝き、尾の先に瘤、あるいは肉環があるという』。但し、蛟は有角であるとする「本草綱目」に反して、「説文解字」の『段玉裁注本では蛟は「無角」であると補足』して一定しない。「説文解字」の小徐本系統の第十四篇によれば、「蛟竜屬なり、魚三千六百滿つ、すなわち、蛟、これの長たり、魚を率いて飛び去る」(南方熊楠の「十二支考 蛇に關する民俗と傳説」から私が改めて引用した)『とある。原文は「池魚滿三千六百』『」で、この箇所は、<池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟竜がボス面をしてやってきて、子分の魚たちを連れ去ってしまう、だが「笱」』(コウ/ク:魚取り用の簗(やな)のこと)『を水中に仕掛けておけば、蛟竜はあきらめてゆく>という意』が記されてあるそうである。「山海経」にも『近似した記述があり、「淡水中にあって昇天の時を待っているとされ、池の魚が二千六百匹を数えると蛟が来て主となる」とある。これを防ぐには、蛟の嫌うスッポンを放しておくとよいとされるが、そのスッポンを蛟と別称することもあるのだという』。更に時珍は「本草綱目」で『蛟の属種に「蜃」がいるが、これは蛇状で大きく、竜のような角があり、鬣(たてがみ)は紅く、腰から下はすべて逆鱗となっており、「燕子」を食すとあるのだが、これは燕子〔つばくろ〕(ツバメ)詠むべきなのか、燕子花〔カキツバタ〕とすべきなのか。これが吐いた気は、楼のごとくして雨を生み「蜃楼」(すなわち蜃気楼)なのだという』。『また、卵も大きく、一二石を入れるべき甕のごと』きものである、とする。

「朝の五ツより暮の七ツ」午前八時前後から午後四時前後。

「數丈(すじやう)」約十八メートル前後。

「人の看(かん)に」人の眼に。]

 

 

 

    其二

 

 三条の古城跡、今なを殘れるものは、内堀半ば埋れたれども、泥深く、水淸く湛へて、囘(めぐ)りは盡く、人家、連(つらな)れり。

 過ぎし年、秋もやゝ枯れ芦(あし)の、そこ爰(こゝ)に苅殘(かりのこ)したる間(あいだ)より、尺ばかりなる靑蛇(せいじや)一ツ現はれ出(いで)、かの芦に登りつゝ、其尾ばかり、少し、枯葉の先に打纏ひ、頭高く仰(あふい)で、口を開き、大さ、豆ほどなる氣を吐(はき)けるが、忽(たちまち)、鞠(まり)のごとき怪雲となりて、かの小蛇を隱し、煙(けむり)のごとく、中空に立登る程こそあれ。

 大雲(たいうん)、俄(にはか)に渦捲き起り、暴風、樹上を押し、大雨、篠を突き、暮(くる)るも更に分たざりしが、かの登蛇は、遙かに北を指して飛去りぬと覺へけれど、夜に入りては、いよいよ、雷電、鳴(なり)はためき、三日のうちは猶、風雨、止(やま)ざりけり。

 凡(およそ)是に類すること甚(はなはだ)多し。皆、目(ま)の當り、人の見る所にして、さして疑ふべきにもあらねども、はいまだ、登蛇を見ず。

 

[やぶちゃん注:今までとは異なり、最後の一文から、この内容は伝聞過去の「けり」で怪異の話柄が終わっているように、総てが聞き書きであり、だからこそ最後のびしっと決めた断言が、龍蛇の存在への崑崙の中の強い疑義感を示していると言えるのである。

「三条の古城跡」現在の新潟県三条市にあった三条城の城跡。ウィキの「三条より引く。『最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代に三条左衛門が築き、前九年の役の後、安倍貞任の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたという』。『南北朝時代には南朝方の池氏の拠点となった』。『室町時代になると』、『守護代長尾邦景方の山吉久盛の拠点となり』、応永三〇(一四二三)年には『守護上杉房朝方の中条房資・黒川基実・加地氏・新発田氏に攻められるが、黒川基実・加地氏・新発田氏が寝返り』、『落城しなかった』。『戦国時代も代々山吉氏の居城となっていたが、山吉豊守が』天正五(一五七七)年『に死去すると、嗣子がなかったため』、『弟の山吉景長が山吉氏を嗣いだ』ものの、『領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱が入った』。『上杉謙信の急死により勃発した御館の乱で、神余親綱は栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて上杉景虎に与し、上杉景勝に対抗した。景虎死後も景勝に対抗していたが、山吉景長が城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い』、天正八(一五八〇)年『に落城、親綱は自刃した』。その後、『景勝は三条城を応急普請し甘粕長重を城主に据え』、天正九(一五八一)年『に勃発した新発田重家の乱において中継拠点として度々利用された』。『上杉景勝の会津移封後は堀秀治の家老堀直政が城主となり、直政嫡男の堀直清が城代となった』。慶長五(一六〇〇)年の上杉遺民一揆の際には攻撃を受けたが、堅守、慶長一五(一六一〇)年に堀家が改易となると、三条城は一旦、廃城となった。江戸時代になると、元和二(一六一六)年に『市橋長勝が三条城主に任じられ、信濃川の対岸東側にあらたに築城したが、市橋氏は在城』五年にして『改易となり、稲垣重綱が入ったが』、寛永一九(一六四二)年、幕命によって廃城となっている、とある。新潟県三条市上須頃ろ)附近(グーグル・マップ・データ)にあったと推定されているようである。ここは現在、東が信濃川、西が信濃川分流の中ノ口川で、そこに挟まれた巨大な中洲のような地形を成している。如何にも、蘆が沢山生えていて、蛇もいっぱいいそうな場所ではある。]

北越奇談 巻之一 巻水

 

    巻水(けんすい)

 

 同年八月十三日、朝五ツ時、新潟を出舩(しゆつせん)して池端(ちたん)の幽荘に歸らんとす。伴ふ者一人、乘り遲れて後舟(あとぶね)一丁ばかり引下(ひきさが)りて來りぬ。が乘合は、湯殿山詣、尾州の道者、十八人なり。殊に晴天一片の雲なく、風、朗(ほが)らかに、景色、云ふばかりなし。湊口(みなとぐち)は難なく打渡り、沼垂(ぬつたり)の裏潟(うらかた)より、新渠(しんかは)一里ばかり、舟子(ふなこ)に綱手(つなで)引かせて急ぎけるが、忽(たちまち)、海上(かいしやう)、一(ひと)群れの雲(くも)起り、瞬(またゝき)の中(うち)に、半天の掩ひ、數(す)條の雲、曳下(ひきくだ)り、已に波上(はしやう)、五、六間にもなりぬと覺ゆる頃、頻りに雲尾(うんび)轉じ、忽(たちまち)、白波高く湧上(わきあが)り、雲尾に接(まじは)ると見へしが、一條の白氣(はくき)、黒雲(こくうん)の中に立昇ること、數(す)十丈なり。巻上げたる水は、半(なかば)より斷(たち)て落(おち)ぬ。海上、猶、浪(なみ)湧きて、窪(くぼ)かなる穴をなせるがごとし。白氣、雲中(うんちう)に入ると等しく、驟雨(しうう)、瀧を峙(そばだ)つるがごとく、咫尺(しせき)の間(あいだ)も分(わか)たばこそ、船中、忽、水溢(あふ)れ、笠を漏(も)り、蓑を通し、乾ける所は更になし。漸(やうやう)晴上がりて、

「後(あと)なる舟は如何に。伴ふ者は無事なるか。」

と顧省(かへりかへりみる)ほどに、間もなく、出來(いできた)り、互へに其危(あやう)きを語れば、纔かに後(おくれ)たる舟は、

「一点の雨なく、風の強きこと、舟を中空(なかそら)に飛(とば)すごとくなりし。」

となん。

 如何に不思議なる龍(りやう)の神変、計(はか)り難きことどもなり。

 も、此日、初めて龍の水を巻く所を目前に見つるが、是を以考(もてかんがふ)るに、世に龍の水を卷くと云へるは無(なき)にしもあらねど、多くは水中の龍、雲を呼び、水を曳(ひい)て上天(しようてん)すると覺(おぼへ)たり。此日、遠方より見たる人の物語るには、

「十三條が雲、曳下(ひきくだ)りたる。」

と云へり。されども、近く是を見れば、雲、數(す)條の中(うち)、只、一條の大雲(だいうん)、波上(はしよう)に近付(ちかづき)、切(しき)りに轉ずる時、水中より浪湧き、海底、轟き渡りて、一條の白氣、空を突(つき)て登る。然(しか)れば、十三條曳下(ひきくだ)るとて、十三龍(りやう)の水を巻くにはあらず。水中の龍、みづから、雲を呼ぶに依りて、引連(ひきつれ)、數(す)條の雲を相迎(あいむかふ)ると覺(おぼへ)たり。故に、初め、靑空(せいくう)一点の雲を呼びて後、如ㇾ此の化(くは)をなす。只、雲中の龍、水を得ざる前は靜かにしてあるべきいはれなし。又、龍(りやう)の説、紛々、追(おつ)て、智者の論を聞(きか)ん。

 

[やぶちゃん注:前話の僅か十二日後に、やはり筆者橘崑崙が実体験した水上での水を吸い上げる竜巻の実見記。恐るべき実録記載の三連投!!!

「同年八月十三日」前の竜巻二本の発生は、実は場所もごく近い。先のそれは「寛政三辛亥(かのとゐ)年(どし)八月朔日」でグレゴリオ暦一七九一年八月二十九日午後四時前後であったが、今回のそれはグレゴリオ暦一七九一年九月十日の「朝五ツ時」で、定時法なら午前八時前後であるが、不定時法ではこの時期では今少し前の午前七時四十五分頃から八時頃に相当する。

「池端(ちたん)」前話に出るも不詳。しかし、今回の方向は、

「新潟」→「湊口(みなとぐち)」(正確な位置不詳。信濃川河口付近か)→「沼垂の裏」手→「新渠(しんかは)」(=通船川)

で、先の実録談の進行方向とは逆のように思われ、そうすると、「池端」=三条のどこかとする私の仮説は崩れることとなってしまう(但し、これはあくまで現在の地図上での新潟地誌に冥い(しかし、落された新潟大学入試の地理の問題には必ず新潟地誌の問題が出るため、高校時代に人よりは新潟の地誌をかなり細かく学んだことを、いまさらに私は思い出しした)私の愚考ではある)再度、越後地方史研究者の御教授を乞うものである。

「幽荘」世間から離れてひっそりと静かな隠宅。

「一丁」百九メートル。

「湯殿山詣」山形県鶴岡市と同県西村山郡西川町に跨る、月山・羽黒山とともに出羽三山の一つとして知られる修験道の霊場湯殿山。月山南西山腹にある。標高千五百メートル。

「尾州」尾張国。

「道者」「同者・同社」とも書き、神社・仏閣・霊場などを連れ立って参詣する巡礼。老婆心乍ら、ここは、同船していた乗客は自分以外は「湯殿山詣」での帰りの「尾」張国の巡礼の人々「十八」名(+他船頭二人で計二十一名であろう。後に「綱手」と出るのは、川幅が狭く、流れが比較的緩やかな運河河川などを流れに逆らって遡上する際に土手に「舟子(ふなこ)」の一人が上り、小舟に繋索した綱を持って曳き、運行させる方法と読んだ。そのためには舟には〈今一人の繩及び微妙な操船を担当する船頭〉がいなければ、危険だからである)であったという謂いである。舟の定員数もある程度は決まっていたのであろうが、冷静確実な記憶に私は舌を捲く。

「半天の掩ひ」「の」は野島出版版も「の」で、原典を見ても、「の」の崩し字とするのが確かに最も無難であると私も判断してかくしたが、ここは「半天を掩ひ」とあるのが最も自然で、格助詞「の」では逆立ちしても読めないと思う。或いは崑崙の現行を彫った彫り師の誤刻かも知れぬ。

「五、六間」九メートル十センチから十メートル九一センチ。

「雲尾(うんび)轉じ」積乱雲の底から漏斗状に雲が回りながら垂れ下がって来るのを「尾」が「轉じ」たと言っているのである。そうして「忽(たちまち)、白波高く湧上(わきあが)り、雲尾に接(まじは)ると見へしが、一條の白氣(はくき)、黒雲(こくうん)の中に立昇る」とは竜巻が海上で海水を吸い上げ、遂にはそれが大きな水柱となり、「海上」表面には吸引されている地点に「窪(くぼ)かなる穴をなせるがごとし」であった、という水上での竜巻の一連の発生及び形成過程を実に冷静に子細に観察している。崑崙、恐るべし!

「數(す)十丈」一丈は三・〇三メートルであるから、約百八十二メートル前後(私は「数」という不定数詞は六掛けを基本としている)。

「半(なかば)より斷(たち)て落(おち)ぬ」

「白氣」ここは五行説のそれではなく、竜巻の中央部で圧縮された水とその中空での転回がかく見えたものであろう。

「驟雨(しうう)」急に降り出す雨。対流性の積雲や積乱雲から降る雨で、降水強度が急激に変化し、降り始めや降り止みが突然で、空間的な降雨分布を見ても変化が大きく、散発的であることを特徴とするもの。中でも特に短時間で止む一過性のそれを「俄か雨」と呼称する(ウィキの「驟雨」に拠った)。

「瀧を峙(そばだ)つるがごとく」瀧を自分の傍に持ってきて、屹立させたような感じで。

「咫尺(しせき)の間(あいだ)も分(わか)たばこそ」ほんの僅かの距離や時間も冷静に目測・計測出来ないほどに、一瞬のうちに。結びの省略及び近世以降に生ずる「ばこそ」の形での否定の意の用法。

「笠を漏(も)り」野島出版版や原典は「笠をもり」と平仮名。意味が採り難いと判断して、かく漢字化した。

「互へに」原典のママ。

「龍(りやう)」以下、原典では総て「りやう」のルビを振る。読者のために幾つか複数箇所に特異的に読みを複数回振っておいた。

「十三龍(りやう)」十三頭の龍(りゅう)。