散歩 原民喜
散歩 原民喜
忘れ河の河のほとりを微笑みながら歩いてゐる男がある。もうみんな生きてゐた時の記憶は忘れてしまつたらしい。それなのにその男は相変わらずいゝ機嫌で歩いてゐる。まるでいたづらな小娘のやうに微笑みながら、何かめつけようとしてゐる彼の眼や、たえず喋らうとしてゐる彼の唇がある。凉しい太陽が靄の中を流れ、彼もたつた今目が覚めたばかりなのだ。もう一度睡くなつたら睡るばかりだ。
[やぶちゃん注:「がけろふ断章」中の「散文詩」の中の一篇。初出は昭和三一(一九五六)年青木文庫版「原民喜詩集」。底本は一九七八年青土社刊「原民喜全集 Ⅲ」。]
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腕のお蔭で得た、長い休暇は終わる。飴のように伸びた、蒼ざめた孤独な時間がまた始まる、という訳だ。