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2006/06/25

「狂人日記」投句

ミクシイのコミュ「狂人日記」の「狂人しりとり2」に書き込んだ、擬似句を、手入れして、ここに記しておく。相互に、批判しないこのコミュは、「健全」だ。いや、「狂人」とは実は、最も健全なのだ。

手鏡に守宮張りつく化粧哉

木漏れ日や井守の赤き腹を割く

分骨や美しき伯母の肋含む

“The Great Gatsby ”F. Scott Fitzgerald 

 ぼくが今より若くて今より傷つきやすかった時代に父から受けた一種の忠告を、ぼくは何度も心の中で繰りかえしながら生きてきた。

「他人のことをとやかく言いたくなったときはいつでもね、この世の誰もがおまえほどに恵まれた生き方をしてるわけじゃないと思い出すことだ」

(“The Great Gatsby ”F. Scott Fitzgerald プロジェクト杉田玄白 枯葉氏訳より)

2006/06/24

テレビ初出演

昨日、一枚の画像CDを入手した。琉球放送テレビの人気の朝番組「ウチナー紀聞」から、前の職場に送られてきたエコツーリズム紹介の番組だった。「あの」日の、僕が復活したあの日の、やんばるでの映像だ。カヌー体験の直後に、短いが、インタビューされた映像がフルで入っていた。下に、学校名とフルネーム(先生付き)まで、ご丁寧にクレジットされている。それにしても、テレビカメラを向けられたのは初めてで、レンズから完全に視線をはずしている。結構、俺ってシャイだわ。

何だ、おい!? 

検索してたら、今気づいたぞ! ここに(やんばる体験の担当業者のサイト)その映像が公開されているじゃないの!!! ハズカシーさ!!!

「ふくらしや自然体験塾」

右コンテンツの「ふくらしやからのお知らせ」の「2006年2月5日 琉球放送(RBC)のウチナー紀聞でふくらしや自然体験塾の特集がありました。映像は↓をクリック!」でダウンロード出来る。僕はPART5の頭、女子生徒二人のインタビューの後に出てくる。

忘れられない特別な日だっただけに、何ものにも換え難い、素晴らしいプレゼントだ。

2006/06/21

PAT MARTINO HEARTSTRINGS

休みの半分を結局、仕事に使っちまった……クソだな……放っておいたブルーノートのサンプルCDをかけながら仕事をした……おや? こいつは、ちょいと、クルものあるぜ……“PAT MARTINO/HEARTSTRINGS”……“Remember-Tribute to Wes Montgomery”……おい、こりゃあ、ウェス、だろ!(トリビュートだから当然なんだけど、凄いぜ!)……おまけに、いいねえ、この(ダル)二乗な雰囲気は!……さても、これは、明日、買い、だ!……

71人目のマイミク

71人目にして、初めて教え子でもなければ、在任校の卒業生でもない、私の見知らぬ方に、加わって頂いた。コミュ絡みだけれど、何だか、無闇に嬉しい。さて、マイミクの諸君、分かるかな? ヒントは奈良岡朋子だ……

2006/06/20

代休

今日と明日は文化祭の代休。ミクシイのコミュに結構な量の書き込みをしたので、仕事をサボってるか、私的に学校のネットを用いていると思われるのは心外なので、申し上げておく(ちなみに、ミクシイは勿論のこと、書き込みや掲示板には、県のサーバーによって、アクセス拒否されるシステムなので、そもそも書き込めない)。

文化祭では、演劇部の生徒の方から演出を頼まれ、本番の照明の調整やら、音響やら、実に17年振りに、本格的な指導をした。ちょっぴり、嬉しかったな。

昨夜は、「ALWAYS 三丁目の夕日」を2回も見て、涙腺が空になった。

2006/06/16

月光の女

「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に、昭和四十八(1973)年短歌新聞社刊佐野花子・山田芳子「芥川龍之介の思い出」の佐野花子による「芥川龍之介の思い出」より、驚きの純然たる新発見句6句を含む、15句を追加した。この本は30年前に入手し、読んだのだが(私の祖母が、著者の一人である佐野花子の娘、山田芳子氏と短歌でのつながりがあったようで、大学生の時に祖母に譲ってもらった)、今回再読して、その内容に大きな衝撃を受けた。何故、長くこの本の存在を忘れていたのだろう。
 芥川龍之介の「或阿呆の一生」に現れる「月光の女」のイメージの一人は、というよりもその核心に立っている女は、間違いなくこの佐野花子である。この佐野花子の「芥川龍之介の思い出」は、夫の友人であり、残念な事件によって心ならずも縁が絶えた有名作家の思い出、ではない。夫を前にしながら、芥川龍之介という男に惹かれ、同じように夫ある美女に惹かれてゆく芥川龍之介という、秘やかな恋人への驚くべきオードである。彼女の、それなりの自信に満ちた叙述は、多くの反論を浴びているが、私は、彼女の叙述に、致命的な誇張や変形はないと思う。何より、冒頭を飾る佐野夫妻の写真を見ても、分かる。彼女は、恐らく、芥川に関わった女性たちの中でも、超弩級の美形である(御覧になりたければ、著作権上の問題があるので、私的に添付ファイルでお示ししよう)。そうして逆に、その社会的地位から見るならば、最も地味な位置に立っている。その話題性のなさが、今まで彼女が多く語られなかった所以であろう。宇野浩二の「月光の女」への指摘は、確かに、悉くこの佐野花子へのベクトルを示しているように思われる。
 私は、長く「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」の芥川が「殺せ。殺せ。………」と呟くところの、「如何にも卑屈らしい五分刈の男」がシルエットになっていて顔が見えないことが、気になっていた。僕には、今日それが、誰あろう、この佐野花子の夫、佐野慶造であるという確信に近いものを感じているのである。
 もう一つ。この「芥川龍之介の思い出」の中に現れる、芥川龍之介の「佐野さん」という作品の所在である。
 これは、海軍機関学校時代の友人であったはずの物理教官の佐野慶造への、実名での中傷文であった。年代が書かれていないが、雑誌「新潮」に掲載されたとある。海軍機関学校側の抗議により、芥川は学校と佐野に謝罪するという事件に発展している。私は迂闊にも、この事件について全く、知見を持っていなかった。佐野夫妻も当時、芥川のこの異常なる行為に、困惑したことを綴っている。それでも、佐野は芥川との交際を続けようとしたが(花子は勿論である)、芥川はそこで完全に関係を断っている。この事件は、芥川の恐ろしいまでの嫉妬心の表われと見る花子の推測は、私には正しいと思われる。
 ところが、この「佐野さん」なる文章は、如何なる全集にも所収していない(新全集は未確認)。佐野花子は「あの文を覚えている人、所持している人もないのではございますまいか。あれば解っていただけると思います。」と記しているのである。どなたか、この文章をお持ちの方はいないだろうか? 国立国会図書館に行けば、「新潮」のバックナンバーで調べられるであろうが、生憎、そのような暇がない。是非、お持ちの方は、お教え願いたいのである。

(追記:この幻の作品については2007/2/1のブログ『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で、僕なりに到達したある考察を追記した。参照されたい。)

2006/06/15

末法燈明記訳完了

遂に、自力で完訳した。訳すうちに、これは「偽書」なのか? という真剣な内省の言葉を覚えた。僕は、この一言一句に鮮やかな早暁の如き論理的正当性を、確かに、感じるのである。お読みあれ。「末法燈明記」全文の原典現代語訳は、僕の知る限り、私のサイトにしかないはずだ。勿論、仏教の専門的知識は、ほとんどないに等しいし、「時空間」やら「現存在」やら、かなり自由に用語を用いているから、誤訳だらけであろう。しかし、それも私の確信犯である。大きな誤魔化しをすることなく、私なりの「末法燈明記」のイメージを構築することができたのである。だから、どうだって? その通り! だから、といってどうってことはない。どうにもならない。 而して、その「どうってことはない、どうにもならない行為」をしているまさに無戒名字以下の、その下の下の、救いがたい凡夫の存在である僕は、しかし、「末法燈明記」のその思想によるならば、この白文のWeb公開という作業の中にあっては、確かに「法灯」となることになるのであろう(注意してもらいたいが、私は今も昔もこれからも仏教の信者ではない。いや、いかなる宗教の信者でもない)。それが、この「末法燈明記」というものの逆説的叙述なのだ。

2006/06/11

一番トンガッテた僕

Noto 一番、トンガッテた頃の僕。高校1年の夏、大学生と偽って、土方のアルバイトをし、その稼いだ金で、友と能登半島をテントを担いで、一周した折りのものだ。場所は、松本清張の「ゼロの焦点」の舞台、関野鼻のヤセの断崖の真上。気障なブルーのシャツ、でもこれは、数少ない、僕の気に入っていた服だったのさ……1972年8月……。

ジョベルトの動画

ミクシイネタをもう一つ。コミュニティに入って、素晴らしい思いをしている。ジョアン・ジルベルトのコミュで、ネット上で配信されているジョベルトの動画の存在を知った。そのコミュに入らなければ、恐らく、この動画の存在を僕はずっと知らずに過ごしていたであろう。そこでは、晩年のカルロス・ジョビンとのデュオだ、それも「想いあふれて」ではないか! 二人の確執と友情を考える時、この二人の映像は、なんと、心を打つことか……間違いなく、お薦めの映像である。

HAKUYO HIGH ⅩⅤ

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これを見て自分がそうだと理解できる人で、ミクシイに加入していない方がいたら、私がミクシイに招待しよう。懐かしい連中と、心おきなく話ができるであろう。なお、このコミュは、管理人の承認が必要だ。ちなみに、私は参加条件に外れるものの、担任だったので特別に承認された。

末法燈明記 やぶちゃん訳(4/5完了)

「末法燈明記 やぶちゃん訳」の4/5を公開。中途半端な未確定なものでも、公開して自己拘束をかけておかないと、形ばかりの前向きの活力のベクトルが、あっという間に雲散霧消して裏返ってしまいそうな気がする。しかし、訳しているうちに、相当にテンションが高揚して、危ない教祖になったような錯覚さえしてくるのは、これ如何!?

2006/06/03

Oscar Wilde The Happy Prince

……'It is not to Egypt that I am going,' said the Swallow. 'I am going to the House of Death. Death is the brother of Sleep, is he not?'

And he kissed the Happy Prince on the lips, and fell down dead at his feet.

At that moment a curious crack sounded inside the statue, as if something had broken. The fact is that the leaden heart had snapped right in two. It certainly was a dreadfully hard frost.

……「……私はエジプトにゆくのでは、ないのです」とツバメはいいました。

「私は……『死の家』に……行くんです。『死』は……『眠り』の兄弟……ですよ……ね?」

そうして、ツバメは「しあわせの王子」のくちびるにキスをすると、彼の足もとに力なく落ちていったのでした。……

その瞬間、「幸せの王子」の中で、何かが砕けたような、不思議な音がしました。それは、鉛でできた王子の心臓が、まっ二つに割れた音だったのです。そう、確かに、それはそれは、たいそう寒い夜でした。……

大好きなシーンを、ちょっとだけ訳してみた。

2006/06/02

The Picture of Dorian Gray

ブログにフォト・アルバムを創り、既にアップした僕自身の肖像写真を収めた。「ドリアン・グレイの肖像」からウィトゲンシュタインの鏡像理論……鏡に写った写像を、僕たちの姿が説明するのだという考えは、僕には今、不思議にしっくりくるのだ。

There are many things that we would away, if we were not afraid that others might pick them up.

僕たちには捨て去れるものが腐るほどあるのさ、誰か他人がそれを拾い上げるかもしれないことさえ、怖れないとすれば、ね。

(Oscar Wilde “The Picture of Dorian Gray”)

蠍の火

あんなブログを書いた、その夜、家に大きなムカデが出た。「言挙げ」(ことあげ)というやつだな……教え子が昨日のムカデの話から思い出した一節。

……むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなんか殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひさい。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしてゐるのを見たって。……(宮澤賢治「銀河鉄道の夜」より)

2006/06/01

生物クイズ解答

教え子から早速に「生物クイズ」の回答が、複数、寄せられた。幾つかを拾うと、ある女性は(1)に、

   *

ムカデは意外と目立ちたがり屋、で不意に部屋の隅に出てくる
都会でも暮らせるくらい適応能力が強い
ゲジゲジははずかしがり屋、でたまたま動かした家具の後ろの壁にくっついてる
田舎でしか暮らせないくらい適応能力が弱い

   *

都会と田舎の差別化は、近代的ですこぶる面白い。町の鼠と田舎の鼠の昔話を髣髴とさせた。また、ある理系の男性は、(2)に、

   *

存在しない。
通常ありそうなモノに「存在するか?」という問題がでたら、出題の意図を考慮して、まず「存在しない」と答えてみます。

   *

これは周知の通り、正しい解法の一つではある。勿論、即ち、正答だ。彼は同様の解法で(3)も存在しない(これも正答)としながら、答えが陳腐に流れるのを以下のように救っている。

   *

ミノムシという虫は存在しない、ということにしたので、ミノムシの“ムシ”は昆虫ではなく、「弱“虫”」の虫のようなものだと考えてみます。ではミノはなんなのか、というと、隠れミノの“ミノ”だと予想出来きるので、全身を木のクズで覆い、姿を隠すその行為や姿の名称がミノムシということになります。つまり一生ミノムシのままでいるミノムシは何ものか、というと「そいつは弱虫」ということです。

   *

座布団一枚! メール本文の無断借用は陳謝。でもこれらは、僕のブログを面白くしてくれた。では、やぶちゃんがお答えしよう。

 

(1)
節足動物門の唇脚綱(ムカデ綱・多足類等ともいい、その体制から当然「昆虫」ではない)に属するゲジゲジ(厳密な和名はゲジ。ゲジ目として綱の下位でムカデ目と独立している)とムカデの人間生活の関わる決定的相違点は、「衛生害虫」としての認識の是非であろう。
 一般に、ゲジゲジは、家屋内にあって、衛生害虫であるクモやゴキブリを捕食するところから、多くの図鑑類では「人に害はない益虫」と誇らしげに記されている。しかし、屋内でのムカデの捕食行動もそう変らない(但し、種によってムカデの方が採餌対象にかなりの特化が認められる。要するにエサの好き嫌いがはっきりしているということ)であるから、本来ならムカデも益虫とすべきところであるが、特に俗称ハガチなどという、大型のアオズムカデやトビズムカデなどによる咬症が、相当に痛く、腫れも強いこと、形状から布団内や衣服の間等にも侵入しやすいことから、立派な「衛生害虫」の仲間入りをしているのである。
 大型のゲジゲジも、咬まれれば相応に痛いわけで(毒腺は当然ある)、考えればムカデにほぼ一方的な汚名であるとも言えよう。僕は、容易に切れる脚が蠢くのをみると、文字通り、虫唾が走るが、あなたは如何?
 なお、ゲジゲジは陰陽道と、ムカデは金属精錬の技能集団と民俗学的な関わりあることは頓に知られているが、それはまたの機会に譲ることとしよう。
 ちなみに、彼らは温水に弱い。好きな句に、橋本多佳子の

百足蟲(むかで)の頭(づ)くだきし鋏まだ手にす

があるが、一撃で頭部を砕くのは、至難の業だ。さいばしでつまんで、ぬるま湯(そんなに高温でなくてもよい)の盥に放り込めば、速やかに昇天してくれる。但し、特に大型のムカデの場合、そのお湯には触れない方が無難だ。僕は、かつてしっかりかぶれた。
 それにしても、不思議なのは、僕自身。僕は、勿論、蚰蜒(げじ)も蜈蚣=百足(むかで)も、教材に出てくる安部公房の「日常性の壁」ではないが、感電的なショックを受ける口なのであるが、似たような形状の海の環形動物には、いたって生理的嫌悪感がない。ゴカイは勿論、イソメもイワムシも平気だ。ゴカイの一種であるパロロは、南の島で食用とされ、牡蠣のように美味と聴く。一度、食べてみたいぐらいだ。
 実は僕は、これで大の昆虫「嫌い」であることを暴露しておく。しかし、生物学の「知」は「別腹」なのだ。シャーレの中のムカデはかわいいもんだ。

 

(2)
シャクトリムシという種は存在しない。これはすべて鱗翅目シャクガ科の蛾の幼虫である。但し、シャクガは非常に種類が多い(「世界大百科」によれば、国内だけで800の既知種、世界では数万種とある)。
 ショクトリムシは別名ドビンワリともいう。種類によるが、大型の幼虫はちょっとした木の小枝の長さと太さを持つ。農夫が水を入れた土瓶をかけようとして、尺取虫に引っ掛けてしまい、パリン、というわけだ。所謂、擬態である。僕も、実際に見たことがあるが、本当に木の枝と全く見分けがつかない美事なものだ。

 

(3)
ミノムシという種は存在しない。あれも鱗翅目ミノガ科の蛾の幼虫、または、雌である。「または雌」=「一生ミノムシのままでいるミノムシ」(厳密には羽が退化した成虫)ということになるのである。これはウーパルーパのような幼体成熟(ネオテニー)と言ってよいのかどうか、成体の雌を親しく観察したことがないので留保しておく。
 ちなみに、回答の一つにあった「蛾になるより身の危険が避けられると思う個体がそうする(しかし、それでは種の保存に反する?)」という疑問は杞憂である。ミノムシ状の雌はちゃんと雄を誘引するフェロモンを出し、交尾をする(種によってミノの外に出てくるものと中にいるものがあるらしいが、卵は大方ミノの中に産卵するようだ)。
 「枕草子」の「ちちよ、ちちよ」と蓑虫がなくというのは、民俗学や古文献からの文学的研究の手法(そういう文献は読んだことがある)ではなく、古典生物学とでも名づけて、実際的に「ちちよ、ちちよ」と鳴いたのは、ほかの如何なる生物だったのかを、地道に追求してみたい。

 

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