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2006/07/08

忘れ得ぬ人々 12 少女T

きっと人には満を持して、書くべきことがあるのだけれど、恐らくそれは、何人かにとっては、あなたが書かねばならないのは私のことに決まっていると、指弾するに違いない人々が僕には、勿論、いる。そう思う人々が僕の「忘れ得ぬ人々」の一人であることは、確かに、言を待たないのだけれど、國木田獨歩の「忘れえぬ人々」のラストシーンのように、それは、それぞれの記憶の中の人物の、相対的な印象の温度差、そうして、何より、語るべき「時」の到来を待たねばならないのだ。――僕は、今日、永く気になっている一人の少女のことを、語りたい。

Tさんは、小学校の2年から一緒だった。彼女のことを思い出す時、彼女はいつも淡い黄緑のカーディガンを着ている。それほどに、彼女は同じ服を着ていた。同じ貧しい長屋に住む同級生のKでさえ、その子に面と向かって、「おまえは、くせえからな!」の言い放って、平然としていた。

彼女の親は、当時で言うバタ屋=ゴミ屋、廃品回収業であった。

しかし、そのKの家に遊びに行ったことが一度だけあった僕には、失礼ながらそのKの家――それは貧しいと思っていた自分の家の比ではなく、5~6人の家族が、6畳と4畳半にひしめいていた(しかし、そこに卑屈さは感じなかったけれど)――、それは決して同じ長屋にいるTさんを、「臭い」と言うことに、少年ながらもっともだと感じられるような雰囲気ではなかったから、妙に不思議であった。

その頃の机は、二人一組で坐る長机だった。クラスで席替えをすると、誰もがTさんの横に坐るのを嫌がった。男女を問わず、クラスの多くの者が、Kよろしく、「臭いもん」と、言ったのだった。――しかし、本当に、彼女は、「臭かった」だろうか? 僕は、今でもそれは否、と言える。なぜなら、僕は、ほとんどずっと彼女と、一緒に坐っていたのだから。

私は、何度目かの席替えの日、家に帰ると母に、「臭い」Tさんっていうのがいて誰も一緒に座んない、という話をしたのだった。すると母は、暫く黙った後、「たーちゃん(僕の幼名である)が一緒に坐って上げなさい。」ときっぱりと言ったのだった。僕は、びっくりしながらも、何となく、その意味が腑に落ちた気がした。僕は、それ以前、1年の途中に東京から転校してきたという理由だけで、毎日、いじめられていたことを母は知っていたから。考えれば、僕は何故、そんな話を母にしたのだろう。それは考えてみれば、いじめられてきた自身を、どこかでTさんに重ねあわせていたからであったのだろうか?

いや、そんなに格好のいいものでは、なかった。

3年生の担任の先生は、名を桜子先生と言った。まさにその名に相応しい、若くこの上ない美しい方だった(この人について、僕はまた別に書くべきことがあるけれど、それはまたの折にしよう。まさに語りたいほどに美しい方だった)。僕は、その日の帰りに、桜子先生に呼ばれて、「Tさんと坐ってくれない? あなたしか、もういないの」と頼まれていたのだったから(私は出席番号で男子の最後であった)……。

――授業参観があった。国語の詩の授業であった。それは、小学生の作った詩で、台所のガスの青い炎が不思議に美しいことを詠ったものであった(僕はその四十数年前の教科書のガス台の火の挿絵までありありと想起できる)。

先生が、その詩を朗読し終え、授業に入ろうとした時、僕の隣にいたTさんが、突然、手を挙げた。普段、居るのだか居ないのだか知れない程にもの静かな彼女が、

 「先生――ガスの炎って、何ですか?」

彼女の父母が来ていたのかどうか(私は、来ていなかっただろうと思う)。しかし、間違いなく、それは、授業参観という、晴れの場での、真摯な彼女の、精一杯の、前向きな質問だったのに違いないのだ。

小学校3年の僕でさえ、『これは、まずいぞ』と直感した。僕は、彼女を呆けたように口を開けて見上げていたのを覚えている。その時、参観に来ていた母も、やはりそう感じていた。

そうして、桜子先生は、その甘い香りを思わせる薄桃色の唇から、こう発した。

 「あなた、ガスの炎、知らないの?」

僕は、あの瞬間の、教室をつつんだチェレンコフの業火を忘れない。それは、桜子先生と同じように教壇に立つ、今の僕自身をも照射する絶対零度の光でもある。……

――翌年、4年生になっても、僕は彼女の隣に坐っていた。

社会科は、他の教科があまり芳しくない彼女の唯一の得意科目だった(ちなみに僕も、体育は言うに及ばず、算数がまるで出来なかった。好きだったのは国語の作文と社会の地理、唯一、ぶっちぎりだったのは家庭科、しかし、クラスでは陰で「おとこおんな」と馬鹿にされていた)。彼女は、テストが返されると、いつもうつむいたまま、「だめ、だめ」と言いながら、自分の頭をこつこつ、拳固で叩いていたのを思い出す。

ある時、社会のテストで僕は、満点をとった。得意の地理分野だった。

担任の瀬畑先生(この人も、思い出深い。東北から出てきた素朴な青年だった。授業中に故郷の歌を大声で歌っては、隣のクラスのおばさま先生からお叱りを受けていた)は、満点の生徒を褒めるために、骨太の、訛りのある声で、おもむろに名を挙げた。僕の他に、もう一人いた。Tさんだった。

昼休みになって、Kやほかの同級生が、僕を教室の後ろに呼んだ。「すげーじゃん!」という賛辞は世辞でしかない。彼らが言いたかったのは、「隣のTのヤツ、やぶのテストをカンニングしたんじゃねえの?」であった。

自分の席で、彼女は、粗末な日の丸弁当(彼女のお弁当はいつも本当に文字通りの梅干と御飯だけの日の丸だった)を隠すように食べていた。

みんなは聞こえよがしに、それを繰り返した。僕は、そんなことはないと分かっていながら(彼女との同席の付き合いは長い。彼女の社会科好きは誰よりも、僕が、知っていたのだから)、しかし、「そんな気に」させられて、何だか不機嫌になってきた。
午後の授業が、始まった。僕は、同級生の言葉に押されたかのように、不機嫌な表情を一層不機嫌にして、彼女を殊更に視界の外においた。

ふと気がつくと、彼女は、ハンカチを手に、すすり泣いていた。決して、先生や同級生に分からないように。……

放課後、僕はKたちに囲まれて、満点の答案を持って英雄のように、田んぼの畦道を凱旋して帰って行ったのだけれど、僕は、自分の家の近くで一人っきりになった時に、あの、すすり泣いている彼女のことを思い出して、何だかひどく憂鬱になっていた。……

――その年の終わり頃だったか、Tさんは、父親の仕事の都合で、転校していった。型通りの挨拶が終わって彼女が教室出てゆくと、僕だけ、先生に呼ばれた。ついてゆくと、昇降口のところに、父親に連れられたTさんが待っていた。Tさんは、中庭の、妙に明るいハレーションを起しそうな陽光の中、不思議に清々しい笑顔で、僕に、「ありがとう!」と一言、言った。二人は、体育館と理科室の路地を小さくなっていった。……

――パサついて傷んだ髪と、不揃いな歯と、はたけが出来た上に、あかぎれの頬で、時々、ほんとうに、ほんとうに時々、僕にだけ見せた、無邪気なTさんの、清々しい、笑顔だった――。

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