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2006/08/31

ミクシィ5000

5000人目は絵本作家にしてアコーディオン弾きにしてフラダンスの名手にして僕の最初期の美しき教え子であった。何より彼女の夢を紡ぐ絵を見て頂きたい。「僕と因縁のサイト」に彼女のHPをリンクした。

2006/08/29

熊野三山 南紀雑録

第一日
白浜空港から白良浜(しららはま)へ。「喜楽」にて昼食。
ぬめりあるツメバイと真正本物空前絶後のこれぞ「」、素朴な漁師の冷汁を肴に、黒牛を飲む(六種類ほど飲んだ紀州の地酒は甘口が多く、旅行を通じてやや不自由ではあった)文字通り、目を見張る大きさのめはり寿司、ここでしか味わえぬ、握りずしをわさびの葉でくるんだ葵寿司、どれも初日の「食手」が完全に絡め捕られてしまった。
南方熊楠記念館にて、和漢三才図会の写本、柳田國男宛葉書三枚綴りの没論文等々……博物の巨人の肉筆に接し、完全に舞い上がる。彼の残した粘菌標本と実際の顕微鏡下の粘菌を観察しながら……誠に熊楠とは「粘菌の如き人物」なり!
京都大学附属瀬戸臨海実験所。久し振りの水族館に酔う。ここを見ながら、昨今の有象無象の水族館の生き残りのためのショー・ビジネス化の誤りを痛感する。外光を取り入れた展示水槽や、太古の地球の大気組成に近い二酸化炭素を増加させた大気と現大気との比較実験、捕食圧の異なる多種イソギンチャクの混合飼育実験……暗くて湿っぽくて(これはある種の展示生物の生存にとって実は重要な要素である)標本コーナーのちょっぴりホルマリンの匂い……水族館少年の夢は、この「臭い」なくしては、ない! 能天気な明るさや純粋培養対応の清潔さは、決して「健全な夢」を、育まない!
この日の宿は、白良浜の2/3をプライベートビーチとするかのような立地の、関西圏の旅館ホテルランキング4位の人気リゾートホテル。パンフでも料理の薀蓄を傾けているのだが、先付けからデザートまで完膚なきまでに失望させられた。支配人宛の「ご意見」にあそこまでこきおろして書いたのは初めてのことだ。甘い(!)ソースでごまかした、あんなに固い熊野牛なぞ、いらない。フカひれスープの器の内側の側面に、乾燥したフカひれが一本固着していて、如何にしてもとれなかったのは、如何なる調理、如何なる洗浄を行いしものか。味の良し悪し以前、こだわるべきはやはり、奢ることなき基本の基本たる「心」である。ホテルのために、名前だけは伏せておく。
湯は硫黄臭のある塩水系。よし。

第二日
白浜より新宮へ向かう。
駅のすぐ左手、通りの入り口にある和食・寿司「十二社」にて、さんま寿司、マグロやタコ・ブリなどの十種類を巻いた巨大な十二社巻、勝浦で今朝獲れた生マグロのとろを食う。先週、名古屋で噂の大間のマグロのとろを食べる機会に恵まれたが、大して旨いと思わなかった。されど、ここの、この、とろ! 遥かに確かに旨かった。
生臭いままに熊野速玉大社へ。
僕は元来、神社への神聖感を持たないのであるが、熊野信仰そのものが本地垂迹思想に基づく神仏習合であり、今回の熊野三山を巡る旅にあって、不思議に違和感を感ずることはなかった。三社、何処にあっても僕は礼拝しなかったが。但し、八咫烏(やたがらす)の牛王(ごおう)宝印にはデザインに惹かれた。結局、三山すべてをゲットした。
ピーカンの空の下、大社から御燈祭(おとうまつり)で知られる神倉神社へ向かう。
538段の階段を登りつめて、ゴトビキ岩に至る。正式な神話学や歴史学はどうでもよい、道を聞いた古老が言った『あすこは熊野の神様が最初に降りなさった地や』を実感する。

ちなみに、あの最初の亀もでんぐり返るような急登を登りきった妻を褒めてやりたい。
この日は、紀伊勝浦に戻り、島まるごと一つがホテルとなっている「ホテル中の島」に泊。船着場が即ホテルの入り口、当然、塩害や湿気のリスクは高く、損傷や汚損は隠せない。敢えて言ってしまうと、洗練されていない一昔前のホテルのセピアの雰囲気か。
しかし、岩場に直結した露天風呂潮聞の湯は、160度の展望、1メートル先が海、フナムシが風呂の縁を走るロケーション、ともかく海をただ見ていれば幸せな僕には、好ましかった。泉色に時によって変化あり。硫黄臭塩水系、よし。
而して、実はホテルの外見からそれほど期待していなかった料理、これが、徹頭徹尾、驚天動地に美味であった。僕の経験の中でも、5本指に入れてよいものと思う。酒は1999年グラン・セレクションに輝く「羅生門」を頂く。この酒には個人的に思い入れがあるだけに、ここで飲めて嬉しかった。但し、紀州では、普通に町の土産物屋の店頭に置かれているのを見かけた。とまれ、昨日の失望は、今日のためにあったかと、天の采配を感じることしきり。「ホテル中の島」、一度はお行きになってよいホテルである。

第三日
紀伊勝浦から那智へ。
今回の旅は紀伊本線を何度も乗り継いだ。単線、ほとんどの駅は無人、二両連結で、無人駅での清算は、車内のバスみたいな料金箱で行う。従って、それが置かれた先頭車両の、先頭扉しか開かないところが多いことは、覚えておかれた方がいいだろう。
補陀落山寺
――復元された奇態なる補陀落船――骨亡き渡海上人たちの墓標群……それを見ながら渡海を拒否し、沖合いの島で殺された金光坊のことや、はからずも渡海の失敗によって沖縄にもたらされた熊野信仰のことなどを思った…… 「浪のしたにも、都のさぶらふぞ」(「平家物語」巻第十一 先帝身投)と安徳を懐いて壇ノ浦に散った平時子――美男の武将にして敗走の末に入水した平維盛の供養塔――一人の老婆が、裏山の畑で何か収穫したのであろうか、荷車代わりの古びた乳母車を押して、錯雑した思いにとらわれて思わず補陀落船に合掌してしまった僕の横を、ゆっくりと過ぎていった――

  媼一人乳母車牽く補陀落山寺

バスで大門坂へ向かい、満を持して(初級1.2キロコースではあるが足の悪い妻にとっては「満を持して」である)熊野古道を歩く。
しばし平安びとの思惟に思いを馳せ、苔蒸した石畳、杉の古木――しかし僕の空想はみだりに飛ぶのであるが――その木蔭からは、あの眼光鋭い熊楠があの奇体なハドリアヌス茸をむんずと摑んでニヤリと微笑んでいるではないか……
正午に那智大社の下に到着。
瀧見の茶屋でそばをたぐりつつ、瀧を見るうちに、今回の旅で初めての雨となる。
本日の宿は、那智大社に隣接する青岸渡寺の宿坊、尊勝院
一休みして熊野那智大社にて二枚目の八咫烏牛王宝印。
……ところが、どう数えても烏が一羽足りないんだけど……怪奇! (後にガイドブックの数字の間違いであることが判明)
平重盛お手植えの樟の木の洞(うろ)の胎内巡り祈願を強いて妻にやらせた。大門坂を越えた時、妻は『あと2、3年するともう歩けなくなるからね』とぽつりと言ったが故に……
那智の瀧の瀧壺の方へと下る。落下する瀧水は、途中で微粒子となってその周囲の大気に満ち満ちている……伊東静雄の詩の一節が思い出された……「空中の何處で/噴き上げられる泉の水は/區別された一滴になるのか」(『わがひとに與ふる哀歌』「私は強ひられる――」より)……素朴な信仰を失った現代人はそのような神経症的な妄想にこだわらねばならぬのか……ご承知かと思うが、この飛瀧(ひろう)神社、大己貴命(おおなむじのみこと)を祭神とはするももの、御神体は瀧そのものなのである――実は、この時だけ、私は自然、瀧に掌を合わせ得た……信仰とは、かくしてそのようなものなのであろう……
宿坊の庭から見渡す煙霧の山々は漆黒の闇へと移り、夜半、同じ高さに雷鳴を聴く――

第四日
バスで那智駅へ下る。
電車待ちの半時、早朝の那智浜に一人行く。2キロを越える半球状の砂浜の真ん中に、僕一人。雷鳴は遠ざかり、沖合いの空から後光のような日の光りが射しかけてきた。これを真にプライベートビーチと呼ぶ。ここに美少年の一人もいれば、「ヴェニスに死す」のエンディングを演じられたのに、残念。
新宮に戻り、そこからバスを使って熊野三山の最後、本宮大社を目指す。
みうらじゅんではないが、この国道168号は瀧好きにはたまらないルートだ。バスに乗ってから「七人の侍」のクライマックス並みの、横からホースで撒いているとしか思えない豪雨となった。随所の山中から落下と噴水――ある瀧を、妻はマーライオンと命名した。まさに、落ちるのではないのだ、そのように吹き出しているのだ。雨に滅多に見られぬ奇景であった。
熊野本宮大社はどしゃぶりとなった。
どしゃぶりだったから文句を言うわけではないが、他は、五百円均一なのに、ここの八咫烏牛王宝印だけ、五百円だと小さい版となり、他の二社と同じ大きさのものは倍の千円である。父母のために、二組ずつ買っていることもあって、妻の倹約の主張に負けたが、僕としてはやはりおなじ大きさで欲しかった。ずるいぞ! 大きさぐらい、揃えてよ、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)熊野坐大神(くまぬにますおおかみ)熊野加武呂乃命(くまぬかむろのみこと)!――舌嚙みそうだわ!
門前の茶屋「珍重庵」で もうで餅くず湯を頂き、今夜の宿、湯の峯温泉へ向かう。
実は僕は、旅行はすべて妻まかせである。行きたいところは? 聴かれると単語で答えるだけである。今回も、南方熊楠と道成寺の二語しか言っていない。何だか計画を事前に話してくれてはいるのだが、僕の耳には右から左である。これをお読みの諸氏はあきれるであろうけれど、僕にしてみれば、かねてより興味のあった補陀落山寺でさえ妻がたまたま企画したのであり、「たなからぼたもち」(?)というわけだ。
従って、バスが湯の峯温泉について「伊せや」という老舗旅館のまん前につぼ湯があって、初めてあっと驚いた。
ここはあの説教節の小栗判官蘇生の湯ではないか! 
……さすれば、昨日の補陀落寺の老婆の乳母車は渡海船の表象ではなく、箱車であったか! されば、あの媼は照手姫!……

源泉温度は恐怖の90度、硫黄の湯の花は繊細にして、飲用可。極めてよし。

第五日(最終日昨日)
田辺へとバスで下る。
駅前の「銀ちろ」でまぐろ握りとかつおのタタキを食す。
ここのポン酢は特製で絶品。柑橘系を微妙なバランスで配合してあり、ともかくタタキの旨味を、120%引き出している。瓶で販売もしていた。またしても、まぐろの旨さは言を待たない。「まぐろは、南紀に限る」。
熊楠邸も熊楠顕彰館闘鶏神社も行きたくはあったが、初日の肉筆に若くはなし、徒歩の旅、自在に欲張るは、二兎を得ず。
徐にJRで道成寺に向かうこととする。
清姫の炎の如き暑さの道成寺――

その本堂で何やら、能の音がするではないか。おや?! 衣装に鬼面の姫が! 舞っている!
これは僕の幻想ではないのだ。
ポスターの撮影のために、本物の能楽師が清姫の衣装のままに、「道成寺」の橋懸での演技よろしく、本堂の柱に巻き付いて、舞っていたのである。

たまたま僕の位置がよかった(?)のであるが、二度の撮影で、打杖を僕に向けると、鬼面の清姫の怨霊はまさに僕に向かって迫ってきたのであった――これは慄とする素敵な体験だった。こんな本場での「体験」は、恐らくいっかな道成寺フリークでも、体験したことはないであろう――
絵解き説法を見聞、国宝・重文の仏像群を堪能、妻に山門の階で乱拍子を踏ませて写真を撮った……
……白浜へと戻る途中、田辺止まりの電車が、特急の遅れで、途中駅に長々と停車してしまう。
時刻表では田辺での3分の待ち合わせで、新宮行きに接続している。これに乗れないと、1時間以上のロスが出ると尖がった妻は、運転手にねじ込んだ。
若い運転手はおろおろして田辺に電話連絡し、「接続させます」と丁稚のように言いに来た。
田辺では、発射を15分遅らせて、目出度く新宮行きが待っていた。
恐るべし! 清姫パワー!
初日の白良浜へ舞い戻ってきた。
最後の夜は銀座通りの「幸鮨」で仕上げだ。
フエフキダイ科のメイチダイ、南紀の高級魚、目一の活りは旨味甘味の絶妙なバランスに富んだ発見であった。地ウニの板は、昔、母の郷里の鹿児島の志布志湾で死ぬほど捕って食った生の味が蘇って、2枚も平らげた。渡り蟹の蒸、太刀魚の握りも必食だ。この店に至って、初めて八海山が飲めた。やはり、刺身の酒は辛口に限る。品のいい優しい女将が外まで見送ってくれたのが、嬉しい。
7:30の飛行機で帰る。
アリスが飛びついて、例によって嬉しさの余り、おしっこをちびった。大団円である。

[やぶちゃん注:さりながら、リンクはほぼ他人なり。【2012年5月29日「――道成寺鐘中――Doujyou-ji Chronicl」の公開に合わせて、リンクを刷新した。哀しいかな、老舗「伊せや」は昨年末に廃業していた。】]

2006/08/23

芥川龍之介 わが散文詩

私の本当の夏季休暇が明日から始まる。田辺の南方熊楠、熊野古道を経て那智の瀧、足をのばせれば道成寺へも赴こうと思う。

芥川龍之介の「わが散文詩」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。数少ない、実母フクの、龍之介への笑みの思い出……。

2006/08/17

芥川龍之介 小説作法十則 原稿復元版

芥川龍之介の「小説作法十則」を、原稿復元版で正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開。何か一種の強迫観念のようなものか。何処かへ行く時には、HPを少しだけ更新しておきたくなる。

アリス・アレルギー

アラレモないアリスにアレルギーがアルラしい。

抗生物質の投与と食生活改善……この飼い主にしてこの子在り、だな。

今日から暫く、不在になる。では、また。

2006/08/16

「こゝろ」論文反響

ある教え子からのメール。

お久しぶりです。○○○子です。
先生のブログ、高校生によるこころの論文を一部読ませていただきました(一番新規登録のもの)。
「こころ」は私の高校生活の中で最も印象深い国語の授業であり、10年が経とうとしている今も、たまに「こころ」のフレーズがふと浮かんだりするぐらいです。
今回読ませていただいた、「静」に注目した論文は、非常に奥の深いところをついており、特に、「こころ」と「血」をかけた部分が、改めて読み直してみたいと思わせるような感覚を残しました。静の淡白ともとれる言動、その周りの社会環境……ここまでの分析を高校生が行ったという事実は圧巻です。

個人的に、高校生だろうが、大学生だろうが、光る文章を書ける人に年齢は関係ないと思っていますが、今回の論文はあまりに驚いてしまい、勢いでメールを書いてしまいました。

また他の論文も読ませていただきたいと思います。
陳腐な文面の自分が恥ずかしいですが(理系だから、とつまらない言い訳をしますが)。

こういうものを真心がこもった褒め言葉というのである。手紙文と言うのは、自身の素直な感動と賛辞を、自発的に表明したいと思う、こういうときにこそ輝く。

そうして、僕の選んだ高校生の論文が僕の思い込みではなく、正しく評価されるに値するものであったことも証明してくれた。

最後に申し上げておく。

このメールの主は、「理系だから」と謙遜している。けれども、実は、生化学を究め、今年、聞いて驚く超弩級に有名な国際的科学雑誌に英文論文が掲載された、まさに才媛なのである。

2006/08/15

高校生による「こゝろ」講義後小論文 2

『高校生による「こゝろ」講義後小論文』についさっき許諾が得られた1999年当時の生徒の小論文を掲載した。

女子生徒による鮮やかな「静」論である。「静」をここまで語った論は、そう滅多にあるものではない。これが7年も前の論であることも、お忘れなきように。

P.S.:そろそろ夏休みの「こゝろ」の感想文に行き詰まって検索でここへやってきた「あわよくば」高校生諸君へ。これらの引き写しはやめたがいい。ここにある二人の深い思索は、君のような人生に安易な輩の脳では、到底、ニューロンの繋がらない内容なのだ。提出してもバレバレだよ。

2006/08/13

冬と手紙と 芥川龍之介

芥川龍之介の「冬と手紙と」を正字正仮名で「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。「二 冬」に現れた毛虫のエピソードは、「城崎にて」を容易に想起させるが、そんなことは僕の興味の対象ではない。

ここで相手になっている娘のM子というは、実はM子の母として設定されている、松村みね子であろう。この作品は、「一 手紙」同様、巧妙に人物が虚構化されている。

僕には、このもととなったであろう、松村みね子とのシーンが鮮やかに浮かんでくる。そこでの、芥川龍之介の視線は、後に「一人」になってしまったみね子の、あの黒猫を見、と井戸を覗く視線と美事にだぶってくるのである……。

浅川マキ

浅川マキの好きな知人の女性から、彼女の話をしようとメールが来た。セピア色になった記憶のアルバムをつまぐりながら、書いた。読んだ彼女から、僕のマキ体験が面白い、ブログにしないのは勿体無い、という返事を今朝、読んだ。ここのところ、飴のように伸びた、蒼ざめた時間の中で、HPもブログも更新していない。せめて、お言葉に甘えて、載せることとした。

浅川マキは、僕の中学時代からの(といってもこの二十年は年賀状のみ)親友が、アップ・トゥ・デイトに溺れていた。同じように、私も感染した。その頃、僕は父の仕事の関係で、富山県の海沿いの伏木という町におり、従って、僕らは、「ライヴ」アルバムをレコードで聴いては、ナマで聴けない不遇を、学校帰りの彼の部屋の煙草とジンで、かこっていた。
それでも、この親友は、羨ましかった。彼は、やはり同じ頃、一緒に痺れていたハードロックのチャンピオン、GHR(グランド・ファンク・レイルロード)の東京公演も、実は僕の方が命だったピンク・フロイドのアフロディテ公演も、聴きに行っていた。彼の文通相手の彼女が東京におり、彼が僕のために、フロイドの東京のホール公演を隠し録りしたテープをくれたのには、涙がちょちょ切れたものだ。
閑話休題。
マキでは、やはり「ライヴ」アルバムが、一番の印象だ。あのジャケットといい、パンフといい、サバト反越年儀礼のダークなドキュメント――特に、初期の彼女のレコードは、音楽ではなく、マキという女優であり歌手である、「私、ブスだもん」と言い放って、鮮やかに衣服を脱ぎ捨てるような己がコケティシュの在り所を天性に知ってしまった素敵な女のドキュメントなのだと、心底、思う。
「ブルー・スピリット・ブルース」では「青鬼のブルース」がたまらなく好きだ。その題名を浮かべるやいなや、あのブルージーな曲とマキの声が、膏肓を突く。あのアルバムは是非復刻してもらいたいところが、ベスト版「ダークネス」の発売だけでも、魔術的驚異、無理なんだろうな。僕の見果てぬ夢だ。
マキが、街頭インタビューの中で「何になりたい?」と聴かれ、すかさず「娼婦になりたい」と答える。
ドギモだった。
僕は、勿論(!? あの頃の僕の友人達は概ね既に経験済みであった)、童貞だった。
だから、いや、だけど、彼女を「買いたい」と心底、思ったものだった。
あの企画自体は、演劇部だった僕にとって、煮臭い演出がかかった、陳腐なパフォーマンスであり、全体としては好きになれなかった企画だったけれども。
ちなみに、ネット上で浅川マキを検索すると、必ず「○○駅に老婆の浮浪者がいて、振り仰いだその顏を見たら浅川マキだった」とか「買った老娼婦、翌朝の朝日の中で笑ったそのぞっとする顔は、浅川マキだった」というアーバン・レジェンドを見かけることがある。その、ルーツは、定めし、この辺りだろう。さすれば、この都市伝説は、大人と子供の境界年齢が話者主体というセオリーからは外れる。僕らよりも上の年齢の、中年男が創り出した稀有の噂話ということになるわけだ。いや、それだけ、僕らは始末におけないプエル・エテルヌスということか。でも、公式ページで、未だに意味深に「しばらく旅に出ます」の一言でフラっと消えるところなんぞは、彼女自身、伝説の確信犯というところか。
「ライヴ」と「裏窓」は仕事についた20代に、それでも最後のアナログを買っておくことが出来た。
「裏窓」もいい。
寺山の詩、『神様が角笛吹く~』、そうそう、「セント・ジェームズ医院」の南里! これは絶品! 僕は本家サッチモの演奏より、断然、好きだ。
また脱線するが、南里の生前、彼の半生のドラマを見た記憶がある(主演は根上淳だったと思う)。戦中、出兵した南方のジャングルで、草笛の手製のカズーで、ペットを吹く真似をするシーンが忘れられない……
そして、筒井康隆作詞の「ケンタウロスの子守唄」、とどめは、線路を枕にあの世行きのブルース、「トラブル・イン・マインド」!
脱線からさらに引込み線に入っちまうが、ちなみに僕は、このメロディが途轍もなく好きなのだ。
お薦めの演奏は Archie Shepp と Horace Parlan(p) のデュオ、まさしくアルバム“TROUBLE IN MIND”。しかし、これは、決してあのドナウゲッチンゲンのシェップではないから、ご注意あれ。ジャズのスピリッツに戻った――冬枯れた、いぶし銀の、シェップだ(但し、これは国産CDは出ていないのではないかと思われる)。序でに言うと、僕は、ジャズを、演奏家丸ごと、「人」として愛するタイプなのだと自覚している。コルトレーンとやっていた頃のパワーを失い、かすれた、御世辞にも旨いとは言えない老シェップの晩年のアルバムに、僕は言いようもない、違った「味わい」を楽しむ。
本線に戻ろう、もう終着駅が近い。

……しかし、「裏窓」を最後に、暫く僕はマキを見失う。
実に20年ぶりに、昨年の今頃、「ダークネス」を買い入れ、久々に聴き入った。――マキは今も、マキだった。淋しい僕の、傍に優しく寄り添ってくれる、慄っとするほど不気味で美しいマキだった――
最後は、「こんな風に過ぎて行くのなら」の詩を引用して、この思い出を閉じよう――

こんな風に過ぎて行くのなら

いつか又、何処かでなにかに出逢うだろう

子供達が駆けてく道を

何気なく振り返えれば

長い長いわたしの影法師

そうよ今夜もやるせない夜の幕が開く

僕は娼婦を買ったことは、ない。
もし、娼婦を買うなら、それは浅川マキしか考えられない。
ベッドで「かもめ」を歌ってもらう。そうして、子供のように、眠るのだ……。

2006/08/06

芥川龍之介 松江印象記 初出形

芥川龍之介の「松江印象記」の初出形「日記より(一)(二)(三)」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇」に公開した。底本とした井川恭の「翡翠記」は、言わば『あり得たかも知れぬ幸福なる先生とKの物語』である。そうして、この中で、井川はあの(!)レニエの詩を訳している。僕は多くを語るまい。ただそれを引用して、この稀有の二人の友情を羨望するに留めよう。

 おもひ出   アンリドレニエ 井川恭訳

微睡(まどろ)む池のおもてに

水葦がおのゝいてゐる

眼に見えぬ鳥の

ひそやかな羽膊(はばた)きのやうに

ひくい顫動(みぶるひ)のひゞきのやうに

息の窒(つま)るやうな風が吹いてゆく

涯も無い野のうねりの上に

月は青じろい光をそゝぎ

風はみどりの叢(くさむら)のかをりを

艸(くさ)のはなのかをりを

絶え間もなく吹きおくる

けれども夜の底には

泉の水が歎きうたひ

慄(ふる)へる胸のなかには

古い戀ごゝろがめざめてゐる

そのよるの悲しく愛しい思ひ出は

過去の深みからうかび出て

遠い方からくちびるのうへに

戀のさゝやきが響いてくる

(井川恭「翡翠記」所収のものを、恣意的に新字体を旧字体に代えて示した。)

2006/08/04

「末法燈明記」は偽書にあらず

自分なりの訳をし終えて、暫く経った。その間、僕にはこの「末法燈明記」がすこぶる理路整然とした思想に基づいているという感が、いや増してくるのを覚えたのだった。そんな中、昨日、松原祐善の「末法燈明記の研究」と家永三郎の「末法燈明記を中心にとする諸問題」の真筆支持派の二作品を読み、僕は「末法燈明記」は偽書ではないという確信に至った。

そもそも、親鸞や日蓮が引用するのは末法思想の各論部分であって、実は肝心の、本書の最後部にある、末法という認識の中で、宝亀延暦期の僧統(=僧綱[そうごう])による仏教統制の新政策へのはっきりとしたNO!のプロパガンダの部分は、誰一人として引用していない。それは当然であろう。朝廷がそうした統制力を失してしまった平安末から鎌倉前期に於いてそのような本書の核心部分は、末法思想をスプリングとする専修念仏や御題目には、全く不要であるからだ。全く不要な古びた主張を装って、その各論部分にこそ実は主たる目的を配する、というような「偽書」というのは、如何にしても妙である。
僕らは、偽書というと博覧的な知識と緻密な時代考証によって書かれるものだと思い込んでいる。実際に僕らが偽書に対する時、そこは、その偽書たる所以であるところの、そのほころびの如何に隠蔽されているかを、更に巧みに暴き出す快感に満ちていると言えよう。即ち、僕らは、その「時代考証の精度」が高ければ高いほど、逆説的に、実はそれが巧みに偽装されたものではあるまいか、という疑念にも陥るのである。それは皮肉に考えれば、自分自身が現に持っている内在的な悪意の反映ともとれよう。

具体例を挙げるのも馬鹿馬鹿しいほどに、「○○文献」等と称する近代の偽書は、どれをとってみても、その登場の初めからどこか胡散臭く、必ず、最後には発見者の筆跡と同じだったり、当時存在しない語句が用いられていたり、ちょっとした連中ならば簡単に見破るような児戯に類した暗号文を曝して、最後には嘲笑と共に退場してきた(一度退場しても、ほとぼりが冷めると、すぐまた若い無垢な連中たちをターゲットに蘇生するのも彼等の常套手段だが)。

しかし、それは同時に、あらゆる古文献に、高度な偽書創造のテクニックと近代的個人主義の亡霊がすべてである、本物らしくみえる書は須らく偽書と疑えというステロタイプな猜疑を植え付ける結果となったのではなかったか。

そうした眼から「末法燈明記」見るならば、そのクロースアップの引用が鎌倉新仏教に大きな貢献を果たしたという点がまず疑念として芽吹き、さらには、引用されることのない主論のまさに「完璧なまでに巧妙な時代考証学的」書法が大いに疑われることになるであろう。

しかし、それは逆である。

これは当時の水準から言って、「在り得ない完璧な時代考証である」と、僕は思うのだ。

後世人に引用もされない部分に、厳密な校訂を加えて満足する偽書家というものを、僕はちょっと想像し得ない。少なくとも、今よりはもっと素朴で、もっと単純で、そうして、今のようには偽ることの「美学」には長けていなかったと思われる平安人の中に。

即ち、「在り得ない」ということは、それが「時代考証」などではない、「ありのままの事実を書いたに過ぎない」のだということになる。

細かに列挙しないが、それ以外の幾つかの偽書説の証左についても、上記二書の反論は淀みないものであった。最後のページを閉じた僕には、「末法燈明記」偽書説の、崩せない砦は、たったの一つも残らなかった。

さればこそ、ダイレクトに、これは確かに伝教大師最澄の真筆であると僕は、無謀にも思うものである。

延暦二十年、彼はまだ34歳、渡唐はその2年後である。僕らの知る最澄の日本における天台宗確立という歴史的事実や、その思想を伝える著述は、勿論、その後のことである。

行政の不当なる介入(ああっ! 何と今の僕にとって宿命的に暗示的であることか!)へ「当時壮年血気の最澄の蹶起をみたのは当然であつた」という家永三郎の言葉は、何か僕の心にすっとおちたのである。

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