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2007/02/01

芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察

芥川龍之介の「寒さ」に関わっての「佐野さん」とは別の、もう一つの発見があった。
かつて僕は『夏の一冊「芥川龍之介の愛した女性」』で、以下のように書いた。

(「或阿呆の一生」の)「二十八 殺人」の周辺的な検証は、検証として大いに理解し得る部分があるが、大町教会という同定は、如何なものか。芥川龍之介が新婚時代に住んだ家が僕の父の実家のすぐ北隣であり、三十年近く郷土史研究で鎌倉を歩き続けてきた僕にとって、「爪先き上りの道を登つて行つ」てゆく先というシチュエーションの場所に、大町(現・由比ガ浜)教会は、はっきり言おう、ない。

これを訂正したいのだ。その前に、「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」を再掲しておこう。

   二十八 殺  人

 田舍道は日の光りの中に牛の糞の臭氣を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の兩側に熟した麥は香ばしい匀を放つてゐた。
「殺せ、殺せ。………」
 彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。
 すると黄ばんだ麥の向うに羅馬(ローマ)カトリツク教の伽藍が一宇、いつの間にか圓屋根を現し出した。………

私は、現在の鎌倉をどこかで考えていた。現在のロケーションに於いては「爪先き上りの道を登つて行つ」てゆく先というシチュエーションの場所に、大町(現・由比ガ浜)教会は、はっきり、ない、と言える。しかし、かつて芥川が鎌倉に居住していた頃にはあった可能性が、ここに浮上してきたのである。
「寒さ」は、芥川龍之介が海軍機関学校嘱託として勤務していた頃の出来事として設定されている。その時、彼は新婚の文と共に、鎌倉市大町字辻の小山別邸の借家に居住していた(現在の鎌倉市材木座1-8辺りである)。
さて、「寒さ」の後半冒頭には、「保吉は汽車を捉へる爲、ある避暑地の町はづれを一生懸命に急いでゐた。」とある。これが海軍機関学校への通勤の途路であろうことは、その後の時刻や汽車の叙述から間違いない。そして、この引用の直後は、次のように続く。

『路の右は麥畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤だつた。人つ子一人いない麥畑はかすかな物音に充ち滿ちてゐた。それは誰か麥の間を歩いてゐる音としか思われなかつた、しかし事實は打ち返された土の下にある霜柱のおのずから崩れる音らしかつた。』

この位置関係を記憶して頂きたい。そして、その少し後に次の一文が現れるのである。

『石炭殼などを敷いた路は爪先上りに踏切りへ出る、――其處へ何氣なしに來た時だつた。』

現在でも、鎌倉駅に材木座から向かう場合、横須賀線の線路を北方向へ横断し、大町四ツ角のある通りや、線路沿いの道(これは現在一部しかない)を西に歩いて、ガード下まで行き、若宮大路を渡って行く。「寒さ」の「路の右は麥畑、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤だつた。」というのは、この現在の大町四ツ角方面から西に歩いて行く地域の描写と考えてよい。すると、この直後に現れる『石炭殼などを敷いた路』で『爪先上りに踏切りへ出』た場所とは、下馬四つ角に向かう現在も踏切がある地点から、ガードの北側上の部分までがその範囲となる。但し、駅についた保吉がプラットホームを下り逗子方向の端まで行き、そこから2~3町先に踏切が見えるという描写が後に出てくる以上、現在のガードよりも上り方向に(ほとんど駅の近くに)本作品に登場する踏切が当時あったとは考えにくい(昭和初期の鎌倉の地図を見る限り、そのように判断される)。従ってこれは下馬四つ角に向かう踏切と同定してよいように思われる。ちなみに、現在の鎌倉駅のプラットホームの北の端から、この踏切までは丁度300m、まさに2町半から3町弱の距離にある。

但し、現在のこの踏み切りは、大町四ツ角方向から来ると、比較的平坦で傾斜は大きくない(逆に渡ってからの西側が若宮大路に向けて下がる坂となっている)。しかし、この通りが、麦畑が右手に広がる、人気のない田舎道であったとすれば、この東側が当時もっとずっと低く、線路の堤の上へ出るのに「爪先上」の坂道になっていたと考えることは、決して不自然ではない。

そうして、ここが私の訂正箇所となる肝心の部分である。まさにその『石炭殼などを敷いた路』で『爪先上り』の坂道を登った先の『踏切』に出た時、そこから真西にある大町(現・由比ガ浜)教会が見えたことは疑いようがない事実である。なお、踏切がこの場所よりも鎌倉駅寄り(「二三町」という叙述から、逗子方向にはあり得ない)だったとしても、この位置関係に大きな変化はなく、どこにあったとしても大町教会は見下ろせる関係にあったと断言できる。

即ち、この「爪先上がり」の道という一致、更に言えば、「避暑地の町はづれ」(「寒さ」)と「田舎道」(「或阿呆の一生」)、「路の右は麥畑」(「寒さ」)と「道の兩側に熟した麥」(「或阿呆の一生」)の類似は、この「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」が鎌倉の下馬四ツ角の東にある踏切手前での情景であり、羅馬(ローマ)カトリツク教の伽藍が大町(現・由比ガ浜)教会であることを示唆するものと思われるのである。

しかし、最後にだからこそ、申し上げよう。この直前のブログで語った幻の作品である「佐野さん」が、実はこの「寒さ」であり、そうして「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のシーンとダブル・イメージであることが自然に感受される時、この「如何にも卑屈らしい五分刈の男」とは佐野慶造以外には、僕には考えられないのだ。葛巻義敏氏が提唱し、高宮壇氏が是認する「或阿呆の一生」時系列編年記述説は、僕は何処か是認できない部分があるのである。
しかし、高宮氏が会心の笑みを洩らそうなことも言う。この「爪先上がりの坂」のすぐ近くに「小町園」はあった。あなたが章題とした「月光の佳人」の野々宮豊の、あの「小町園」だ。

それでも僕は言う。

「月光の女」は、佐野花子個人では、勿論、ない。いや、これは佐野花子自身もその著作で述べているのだから、彼女を批難するには当たらない。

では誰が、「月光の女」だったか?

……それは千代でもあり、彌生でもあり、花子でもあり、文でもあり、しげ子であり、麻素子でもあり、みね子でもあり、豊でもあった……

……芥川龍之介よ、それは君の、「遂に逢はざる人の面影」であったのだ、ね?……

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