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2007/09/07

一葉の墓 泉鏡花

 一葉(いちえふ)の墓

      泉鏡花       明治三十三年十月

 門前に燒團子賣る茶店も淋(さびし)う、川の水も靜(しづか)に、夏は葉柳の茂れる中に、俥(くるま)、時としては馬車の差置かれたるも、此處ばかりは物寂びたり。樒(しきみ)線香(せんかう)など商ふ家なる、若き女房の姿美しきも、思なしかあはれなり。或時は藤の花盛なりき。或時は墓に淡雪かゝれり。然(さ)る折は汲み來(きた)る閼伽桶(あかをけ)の手向の水も見る/\凍るかとぞ身に沁むなる。亡き樋口一葉が墓は築地本願寺にあり。彼處(かしこ)のあたりに、次手あるより/\に、予行きて詣づることあり。
 寺號多く、寺々に附屬の卵塔場少なからざれば、はじめて行きし時は、寺内なる直參堂(ぢきさんだう)といふにて聞きぬ。同一(おなじ)心にて、又異なる墓たづぬるも多しと覺しく、其の直參堂には、肩衣(かたぎぬ)かけたる翁、頭(つむり)も刷立のうら少(わか)き僧、白木の机に相對して帳面を控へ居り、訪ふ人には教へくるゝ。
 花屋もまた持場ありと見ゆ。直參堂附屬の墓に詣づるものの支度するは、裏門を出でゝ右手の方、墓地に赴く細道の角なる店なり。藤の棚庭にあり。
 聲懸くれば女房立出でて、いかなるをと問ふ。桶にはさゝやかなると、稍(やや)葉の密(こまや)かなると區別して並べ置く、なかんづく其の大(おほい)なるをとて求むるも、あはれ、亡き人の爲には何かせむ。
 線香をともに買ひ、此處にて口火を點じたり。兩の手に提げて出づれば、素跣足(すはだし)の小童(せうどう)、遠くより認めてちよこ/\と駈け來り、前(さき)に立ちて案内しつゝ、やがて淺き井戸の水を汲み來る。さて、小さき手して、かひがひしく碑(しるし)を淸め、花立を洗ひ、臺石に注ぎ果(はて)つ。冬といはず春といはず、其も此も樒の葉殘らず乾(から)びて、横に倒れ、斜になり、仰向けにしをれて見る影もあらず、月夜に葛の葉の裏見る心地す。
 目立たざる碑(いしぶみ)に、先祖代々と正面に記して、横に、智相院釋妙葉信女(ちさうゐんしやくめうえふしんによ)と刻みたるが、亡き人の其の名なりとぞ。
唯(と)視たるのみ、別にいふべき言葉もなし。さりながら青苔の下(した)に靈(れい)なきにしもあらずと覺ゆ。餘りはかなげなれば、ふり返る彼方の墓に、美しき小提灯(こぢやうちん)の灯(ひとも)したるが供へありて、其の薄暗(うすぐら)かりしかなたに、蠟燭のまたゝく見えて、見好(みよ)げなれば、いざ然るものあらばとて、此の邊(あたり)に賣る家ありやと、傍(かたへ)なる小童(せうどう)に尋ねしに、無し、あれなるは特に下町邊(へん)の者の何處(いづこ)よりか持て來りて、手向けて、今しがた歸りし、と謂ひぬ。去年(こぞ)の秋のはじめなりき。記すもよしなき事かな、漫歩(そゞろある)きのすさみなるを。

[やぶちゃん注:底本は1942年刊岩波版「鏡花全集」巻廿八を用いた。但し底本の総ルビを読みの振れると僕の判断したもののみのパラルビとし、濁音の踊り字「/\」は正字とした。]

鏡花忌である。
本文章は全集でも「雑記」の中に投げ込まれ、目立たぬ小品であるが、僕にとっては、鏡花の作品の内、一読忘れ難い佳品である。
一葉は明治29年11月に25歳で亡くなっている。
4年後、鏡花27歳、この年の2月に畢生の名作「高野聖」が世に出、前年には後の終生の伴侶伊藤すずと出逢ってもいる。
されど、いや、故に僕は、この「一葉の墓」は、鏡花自身の稀有の「弔詞」なのだと思う。
……ちょいと「次手あるより/\に、詣」でただけ――しかしそれは実にたび/\の春夏秋冬の景……「別にいふべき言葉なし」――されど、その詞の乾ぬ間に「青苔の下に靈なきにしもあらず」と語る彼……花屋の女房――墓地の小童……彼等はまさに皆、一葉の佳品の、その愛すべき登場人物その人その人……遠くともった小さな提灯、「其薄暗かりしかなたに、蠟燭のまたゝく」そは何――一葉の魂?……いや、それは鏡花の魂である……
僕はこの作品に鏡花の一葉への限りない恋情を感じずには居られない。
いや、この作品は「レクイエム」である。
「一葉へのレクイエム」ではない。
それは――最早なし得ぬ「鏡花自身の一葉への恋情のレクイエム」である。
闇にぽつと浮かぶ墓地の遠くの小提灯の蠟燭の火……恋とはそのような儚いもの……少なくとも僕は、そう、思うのである――

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