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2007/11/23

生田春月絶筆 海圖 及び 生田春月略年譜

Kaizu_2

  

 

   海圖   生田春月

甲板にかゝつてゐる海圖――それはこの内海の海圖だ――ぢつとそれを見てゐると、一つの新しい未知の世界が見えてくる。
 普通の地圖では、海は空白だが、これでは陸地の方が空白だ。たゞわづずかに高山の頂きが記されてゐる位なものであるが、これに反して、海の方は水深やその他の記号などで彩られてゐる。
 これが今の自分の心持をそつくり現してゐるやうな氣がする。今迄の世界が空白となつて、自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。

注:本テキストは昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」の口絵写真原稿から起した。当該口絵のキャプションは「投身直前、瀬戸内海航海中の菫丸船内にて認められた詩人・春月の絶筆<海図>原稿」。

1 標題の「海圖」及び作者名は原稿になく、一行20字の原稿用紙三行目から書き始めている。

2 「それはこの内海の海圖だ」の「この」は右に挿入書き入れ。

3 「位なものであるが、」の「あるが」は左に挿入書き入れ。 

4 「これに反して、」は右に挿入書き入れ。

5 「彩られるのだ。」の「彩られ」は「生きてくるのだ」と初稿を抹消して左に書き入れ。

生田春月
明治25(1892)年3月12日、鳥取県米子町生。生田家は酒造業ながら最早破産した家庭で、少年期は激しい貧困と労働の辛酸を舐めた。大正3(1914)年、ツルゲーネフ「はつ恋」の単行本翻訳を刊行、大正6(1917)年に第一詩集「霊魂の秋」が好評と伴に迎えられ、翌年、第二詩集「感傷の春」を刊行、新進詩人としての地位を確立。他に詩集では「春月小曲集」、「慰めの国」、「澄める青空」、「麻の葉」(小曲民謡)、「夢心地」、「自然の恵み」、「象徴の烏賊」(遺稿)等があり、7巻と終篇からなる二段組で86ページ(上記底本詩集で)という驚くべき長詩(但し、これは昭和3年から、書き溜められ、死の前日5月18日頃に完成させたものと考えられる)                                                           翻訳家としての業績もドストエフスキイの「罪と罰」(共訳)、「ツルゲーネフの「散文詩」、「ゲエテ詩集」、プラトンの「饗宴」等、多岐に渡る。特に大正8(1919)年新潮社刊の「ハイネ詩集」や「ハイネ全集」での翻訳(大正9年の越山堂版と大正14年以降のの春秋社版の二種の翻訳に関わる)は、日本での社会派・革命詩人としてのハイネ紹介の大きな功績として高く評価されている。数多くの詩作品を訳出した。他にも長編小説「相寄る魂」やエッセイ・評論集等多数。
 文学的には、その境遇から社会主義的情熱に始まり、キリスト教的・人道主義的傾向を持つに至る。その後、社会的不平等への激しい義憤、社会主義的解決への疑問等によって次第にニヒリスティックな傾向を深刻化していってしまう。「否定も肯定もない、善も悪もない、楽天も厭世もない一如不二の世界」で「絶望は終局ではなくして、かへつて出発点」とし、「詩を生かすものは、裏の生活である。即ち、生活の深い底である」と言い、「詩はその本質からして、アナキスティックであるべきものだ」とするに至る。時は将に軍靴の音の高まりを告げていた。昭和3(1928)年7月24日、同年であった芥川龍之介の自死の報に接した春月は、「やられた!」とこぼし、激しい衝撃を受けた。

 げに、

 絶望よりの

 その一飛びに

 われは生きん。

 死によつて、

 死の中に

 死の生を。

(長篇「時代人の詩」の「第一巻 死と恋の曲――わが半生の挽歌」巻頭のの詩の末尾。末尾に「昭和三年三月二十二―三十一日(蘆屋―東京)」の記載有り。)

 死もまた

 生きんとする意志だ。

 絶望を生きよ、

 死を生きよ。

(長篇「時代人の詩」の『第五巻 赤裸人の歌――「自由人の歌」続篇』の三番目の詩の末尾。クレジットはない。)

――昭和5(1930)年5月19日午後11時過ぎ、春月は「海圖」の詩を認(したた)めると、月明の瀬戸内海航路別府行菫丸の船上より播磨灘に身を投じた。享年38歳。


以上は、昭和42(1967)年彌生書房刊廣野晴彦編「底本 生田春月詩集」の年譜及び解説等を参考にして、僕が自在に構成したものである。

Kaizu

――昭和11(1936)年、門弟・詩友等によって組織された「春月会」の発起により、遺体が陸揚げされた(小豆島沖合いで一トロール船により遺体は6月11日に発見された)小豆島の坂手にある観音寺の海を見下ろす丘に、絶筆の「海図」の詩碑(直筆絶筆原稿そのもの)が石川三四郎や萩原朔太郎の参列のもと、建立された。左は、1975年8月23日、大学一年の夏に卒論準備を兼ねて尾崎放哉の墓参に小豆島に逗留した際、立ち寄って僕が撮ったものである(写真の版を大きいままにしたのは、はっきりは見えないがダウンロードして原稿の細部の雰囲気を少しでも味わえればと考えたからである)。

――同じ折、春月の遺体が運ばれた田ノ浦の海を写す。Tanoura

 

最後に。まさにその場所の本物の海図を見てみよう。

Bisanseto_2

 

 

――小豆島、そして彼が「途中下車」した、瀬戸内海航路である……

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