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2008/10/24

奇遇 イワン・ツルゲーネフ

 夢

 私は夢を見てゐた。暗く低い空のもとに、大きなごつごつした巖の散在した荒寞たる草原を私は歩いてゐた。
 巖の間には小さな徑が通つてゐた、……私はどこへ何のために行くのかもわからずに小徑を辿つて行くのであつた……
 ふと、小徑のむかうの方に、淡い雲のやうなものが現れた、……私ははたと眼をつけ始めた。小さな雲はやがて、すんなりした背の高い白い服を著て、細い薄色(うすいろ)の帶をしめた女の姿となつた、女はいそぎ足に、私からどんどん遠ざかつて行く。
 私は女の顔を見なかつた、髪の毛すらも見なかつた、それは波のやうなやはらかな布につつまれてゐた。けれど私の心は女のあとを追つてゐた、女は美しく、あてやかな、なつかしいひとと思はれた、……私は切に追ひつかうとし、女の顏を……女の眼を……一目なりとものぞいてやらうと考へた……。私は女の眼をよく見たかつた。よく見ななければならなかつた……。
 しかも、どんなに私があせつても、女はいよいよ足早に進んでゆくのである。どうしても  追ひつくことができぬ。
 するうちに、小徑にあたつて、平たい、大きな石があらはれて、……女の行く手を遮つてゐた。女は石の前に蹈みとどまつた……、私は喜びと心待ちにふるへながら騙け寄つて行つ た。心のなかには、かすかな恐怖の念を覚えながら。
 私は一言(ひとこと)も、ものを言はなかつた、……が、女はしづかに私の方をふりむいた。
 私は未だに眼を見なかつた。眼は瞑ぢられてゐた。
 顏は白く、……身にまとふ物のやうに眞白であつた。あらはなな手はじつと垂れてゐた。まるで、すつかり石のやうになつてゐた。軀(からだ)といひ、顏だちといひ、全く大理石のやうであつた。
 女はいささかも肢體をまげずに、徐ろにうしろにさがつて、平たい石のうへに身をよせた。もう私も墓のうへの彫像のやうに身をのばして、女と竝んで、巖かに兩手を胸におしあて、仰向けに横たはつてゐるのである。私もまた石のやうになつてゐる自分を感じた。
 暫く經つた、……女はふと起きあがつて私のもとを離れていつた。
 私は女にとびつかうとした。.けれど少しも動けず、組みあはせた兩手を擴げることも出來なかつた。ただいひ知れぬ悲しみにみたされて、後を見送るばかりであつた。
 すると女はひよいと振りむいた。私は活々として、表情に富んだ顏に、明るい射るやうな 眸を見た。女は私に眸を向けて、口もとに微かな微笑をうかべてゐた……ひつそりと……。「起きてきて、こちらへおいでなさい。」
 けれど私はなほ身動きができなかつた。
 すると女はまた笑つたかと思ふと、愉しげに頭をうち振りながら足早に遠ざかつて行つた。 頭の上には、ふつと小さな紅い薔薇(さうび)の花冠が耀いた。
 しかも私は自身の墓石のうへに身じろぎもせず、ものをも言へずに居るばかりであつた。
   -八七八年二月

■訳者中山省三郎氏による「註」
・夢[やぶちゃん注:題名に注記号。]:この詩の原稿には「小説に用ひる」と附記されてゐた。これによつてツルゲーネフが散文詩のいくつかを小説の素材として書きつけておいたことが推定される。この一篇は最初、「女」と題されてゐた。

□やぶちゃん注
◎蹈みとどまつた……:「蹈」は「踏」の書きかえ字。

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