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2009/01/31

A Corner Shop 尾形亀之助

 庭の松の木にからんだ芋の葉が黄色になつた。庭と書斎と私とでは侘しくなつてくる。昼からの長時間の読書が、遠く路を歩いて居つたやうに日暮がくる。
 秋深くなつて、私は電燈をつけたままでなければ眠れない晩が多くなつた。毎夜のやうに私は書斎を飾る美しい電燈を見る。そして、私の泣いた記覚を呼んでくる。新らしく私を泣かせるものはなにもなく、私はこの日を経た記覚に親しんでゐる。
   ×
 私はこの頃はがきの後などに秋淋しといふやうなことを書く。「秋淋し」とゴム印を作つて、書くかはりに押すやうにしたらと友人が言つたとき一緒になつて笑つた。が、そんなことをすれば一層秋淋しがはつきりしてくるにちがひない。

[やぶちゃん注:本篇は底本では、「A Corner Shop」という題の元、イントロダクションのように在り、以下の「或る恋愛」以下、「書きかけの書きにくい手紙」までの10篇の構成で、以上の10篇の小題は底本ではポイント落ちになっている。「記覚」はママ。]

    或る恋愛

 彼は、彼の恋愛事件の世評を犬に例へてゐるとも解釈することの出来る「犬を逐ふ」といふ小説を書いた。それを読んで私は不愉快な気持になつた。美しいものを何も持つてゐない人のやうな気持さへした。
 其後、私は彼女が二度目の家出をしたといふ新聞記事に接した。そして、私は彼が老禄してゐるのではないかといふ疑問をもつやうになつた。

    詩集・たんぽぽ

 坂本遼君の第一詩集・たんぽぽ・・を批評するのは、私のやうにわがままなことを言ふ者にもかなり困難なことだ。坂本君の詩には特種の言葉が使用されてゐて、非常によい効果を得てゐる。効果を得てゐるといふことから、その特種(特種といつても、それは坂本君の居る地方の言葉である)の言葉を使つてゐるのを、正しいことではないと言つてゐる人があることを聞いた。しかし、それは日本語で書いた詩を西洋人が正しくないと(何故か)言ふことに似たことだと私は思ふ。
 又、この詩集を見て、詩集の中に進境がしめされてないと言ふ人もあるが、一つの詩集の中で読者に進境をしめさなければならない必要はない。又、坂本君の詩に今進境がないとしても、それは何時まで待つてゐてもいいことである。兎に角、詩集・たんぽぽは私の持つてゐる詩集の最もよい詩集の一つである。
 坂本君の詩はかなりに小説的なものであると言ふことが出来る。しかしそれは一つの詩が小説のやうに仕組まれてゐるといふのではない。が、たんぼぽを通読して一つの小説であつたやうな感じを受けた。で、詩の一つ一つがそれの一部分であるやうであるとも言へ得る。 ・定価一円・兵庫県加東上東条村横谷・著者宛

[やぶちゃん注:文中の中黒点「・」や空欄等はすべてママ。末尾の「言へ得る」もママ。「坂本遼」は兵庫県生まれの詩人。『銅鑼』同人。「たんぽぽ」は同氏の昭和2(1927)年刊の詩集で、兵庫の方言を用いた農民詩として高く評価されている。第二次世界大戦後は竹中郁らと関西を中心に児童自由詩運動を推進、詩集と同年の出版に小説集『百姓の話』もある。]

   詩人と小説との妙な関係に就て

 詩人であるからといつて、小説を書かなければならないわけはない。しかし、書いてわるいわけはない。百人の詩人の中に、現在小説を書いてゐる人、書かうと思つてゐる人、書きたいと思つて書けない人が百人ほどあるとしたら、小説の神様は詩の神様を憐れに思ふだらうと思ふ。それにしても、小説の神様に仕へるにはよい小説を書かなければならないことだけは忘れてはならないし、小説が書けないからといつて詩人でないやうな気持にならないやうにしなけれはなるまい。以上、詩人と小説との妙な関係に就いて――

    装幀

 大谷忠一郎君の詩集・北方の曲・・の装幀を涙香時代の探偵小説のそれのやうだと、著者に詩集をもらつたお礼と一緒にはがきに書きこんで出したのが、その出版記念会のときに話題になつたことを角田君から聞かされた。私はそんなことを言ふことを遠慮しなければならないものだと思つた。
 そして、装幀で中にある詩がどうなるといふことはあるまいけれども、他から何んと言はれても、著者はこれが好きなのだからしかたがないではないかと―心から言へ得る装幀をして欲しいと思つた。

[やぶちゃん注:文中の中黒点「・」はすべてママ。「しかたがないではないかと―」のダッシュ一字分及び末尾の「言へ得る」もママ。「大谷忠一郎」は福島県出身の詩人。萩原朔太郎門下。]

    註

 A Corner Shopをここでは「角店」と思はないで欲しい。(と、和訳しないで欲しいといふのではないのです)角にある一軒の店――といふやうなものに思つてもらひたい。

[やぶちゃん注:この「註」とは本篇全体の表題「A Corner Shop」に対する註である。]

    A-B-C-5

 子供が、1234のとABCのCを間違つて、時々節をつけてABC5を言つてゐる。妻に聞いてみたが、家では誰れも「ABC」も「123」も教ひないといふことであつた。妻は二十五、私は二十八、ABC5は五つ。この本が出来上る頃私達は今の家のすぐ近所へ引越すことになつてゐる。
    ×
 毎日のやうに曇天がつゞく。今度越して行く家は今建てかけてゐる。明日は横浜に観艦式がある。
 どれだけ体によいものなのか、毎朝卵を一つ食べてゐる。卵は殻をわらずに食べたい。

(以上、A CORNER SHOP第二輯 昭和2(1927)年12月1日発行)

    不思議な喫煙者

 煙草をもつてゐる手つきや、煙草から煙りの出てゐるのを見てゐて、自分の子供のくせにませた恰好をして煙草をのんでゐると思つてしまつた。夜遅く床の上に足をなげ出してゐて、体ばかりが大人で、かくれて煙草をのんでゐた頃の顔が首についてゐるやうな気がしてしまつた。
 煙草を手にもつてゐる間は、幾度やり直してもその不思議が消えなかつた。

[やぶちゃん注:「自分の子供のくせに」の「自分の」の「の」は主格の助詞であろう。]

    美少女

 昨夜、突然私は飛行機に乗つてゐて、Yといふ美少女と接吻をした。SとKがそれを見てゐた。SとKは男で私の友達だ。Yといふ美少女は「また皆んなが何んとか云ふわ」といふと、はたして飛行機を降りてからSとKが接吻したと云ひふらすのであつた。私は彼等を避けて高い塀をのり越ゑやうとするところで次の場面へ変つてしまつた。……(夢)。
私の夢に現れてくる主要な人物は何時も女の人だ。お宮のやうなところに、饅頭が沢山列らべてあるのを取つて食ふやうな夢もあるが、歯が痛かつたり楽しくないことを思ひ出したりして、つまらなくなつてゐる昼よりも、夢の方に重きを置いてしまひたいと私はつくづく思ふことがある。
この頃は森で啼く蝉も一匹か二匹しかゐなくなつた。そして、昼からこはろぎが啼いてゐる。雨ばかり降つてゐる。子供がカマキリをつかんで来たので、私は子供が泣いてもむりに捨てさせた。カマキリの腹には針金虫がゐるのだし、カマキリの交尾の話はどうにも気味がわるい。妻は「おとなしく遊んでゐるのを泣かさなくともいいのに」といふ顔をした。

[やぶちゃん注:形式段落2段落目と3段落目は表記通り、一字下げがない。文中、カマキリの腹腔内にハリガネムシが有意に寄生しているというのは極めて正しい生物学的見地である。]

    眼鏡をかけてゐる人―例へば福富菁児君―

 青ガラスがぎらりとしたときの感じがある。勿論何時でもさうであるといふのでほない。この人の一つの特長としてである。断るまでもないかも知れないが、これは福富君の場合である。
だが、私はここから「眼鏡をかけてゐる人」といふ題と(たとへば――)といふことを取り去つて、この一文の題を「福富菁児君」とすることは出来ない。さうするのにはこの一文を書き直さなければならない。それなのに、書き直すにも書き直すすべがない。

[やぶちゃん注:形式段落2段落目は表記通り、一字下げがない。「福富菁児」は大杉栄らとも関係があったアバンギャルド詩人。]

    書きかけの書きにくい手紙

 腹をかかへて、涙まで流して笑つたのだけれども、ただもう可笑しくつてたまらなかつたといふだけのことであつて、悪意があつたといふのではない。しかし、それをそんな風に笑はずにすませることが、出来なかつたかといふと、そんな風に笑はなくもよかつたと思ふ。笑つたのがわるいといふことなら、無理に笑はないことも出来たらうと云ふ他はない。だが、ぜんぜん笑ひ顔一つせずに君のそのくせの話をしてゐるのを君が見てゐたなら、その話が実に不愛想に語られたのを見たらう、さうでもしなければあの時は………

(以上、A CORNER SHOP第一輯 昭和2(1927)年11月1日発行)

**

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。なお、底本で、本篇が何故、「第一輯」と「第二輯」で逆転配置されているのかは不明。]

***

この一連の中の「不思議な喫煙者」及び「美少女」が、秋元潔氏曰く、出版されなかった『短編集』に所収される予定であったと推定されているものである。但し、何故、この二篇なのかは説明されていない。

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