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2009/01/25

託児所をつくれ 小熊秀雄

秋元潔氏は「評伝 尾形亀之助」に言う(同320p)。『昭和三年十二月、亀之助は吉本優(本名、好本綢)さんと一緒に暮らすようになった。大江氏[やぶちゃん注:大江満雄。詩人。尾形の友人。]は「私と尾形さんとの共同生活は忘年詩人会の夜を境に一変した」と書いている。』として昭和50(1975)年6月発行の雑誌『尾形亀之助』所収の大江満雄「尾形亀之助の思い出」から以下のように引用する。

「その夜、あつまった詩人の中で数人、上馬の尾形の家へ泊った。その中に芳本優さんがいた。尾形と芳本さんは、初めて会ったのだろう。二人は擬似恋愛的になった。そういうより、二人は、とうぜん出会うべき人に出会った、という宿命的な〝落ち着き〟を示していた、というべきかもしれない」
以下、芳本優を連れてきたのが草野心平であったことや、芳本優の簡単な事蹟の後、『小熊秀雄の「託児所をつくれ」はこの時の詩たちの生態を書いたものという。』として、部分的な(といっても改行を省略した3ページ強に亙る)引用をなさっている。勿論、秋元氏は引用の後にこれは『詩であり、事実ではない。書かれたものとしては事実ではあるが、日常的事実ではない。だけど、この詩が亀之助と優さんとの出会い、二人の周辺にいた詩人たちをモデルにしていることは明白だ。それにしても、風聞を種に潤色した、このような作品を、戦火が中国大陸まで拡大していた昭和十四年という時期に小熊秀雄が発表していることは問題だ。』と語られる。

――そうだ、それは確かに凄いことなのだ。この月のノモンハン事件に始まって、その年の内に第二次世界大戦が始まる――今の痙攣的な平和の中にあって、「戦争責任」の名の下に戦争中の詩人のスケープ・ゴートを求め続けようとする未だにイデオローグに凝り固まった評論家の愚言に較べれば(僕はそれがそれぞれ誰を指しでいるかを敢えて言うことをここでは略す。そのような議論を私は無化したいからである。そもそも「平和の現代」という妄想の射程から「当時の体制」という面影への転向者は誰だったかを指弾する時、その人は永遠にミューズから見捨てられ、芸術家であることを捨てるのだと言っておきたいということだ)、秋元氏の言葉は遥かな覚悟をもって深いではないか。

そこで僕は「託児所をつくれ」を引用せずにはいられない。これは雑誌『槐』(昭和14(1939)年5月)に掲載されたものである。
僕は該当詩を所持しないので、「青空文庫」に所収する「小熊秀雄全集-7」の「詩集(6)長篇詩集」に所収する「託児所をつくれ」を引用する。
青空文庫のファイル取り扱い基準に従い、以下のテクストに示されたクレジットを表示しておく(底本:「新版・小熊秀雄全集第1巻」創樹社 1990(平成2)年11月15日第1刷 入力:八巻美恵 校正:浜野智 ファイル作成:浜野智 1999年6月18日公開 1999年8月28日修正)。

言っておくが、とんでもなく長いので、御覚悟を。

 託児所をつくれ

   一

この長詩を書くための材料に
本棚を熱心にかきまはしたが
探す本は発見らない
黒表紙で五十頁余りの
吉田りん子といふ詩人の
『酒場の窓』といふ詩集だ、
捨て難いものがあつて
時々本棚の整理で本を売り飛ばす時も
傍に除けてをくのだから
何処かにまぎれ込んでゐるに相違ない
私は彼女を『奇蹟の女王』と名づけてゐる。

   二

彼女が突然詩人のグループに現はれると
詩人達が彼女の周囲に集つた。
布切れの真中をつまみあげると
布の周囲が寄つてくるやうに――、
詩人は女好きだとは頭から決められない
詩人は女に対しては相当選り好みがやかましいのだ、
一個所欠点があると
その一個所を蛇蝎のやうに憎む詩人やら、
他人が欠点と見るところも
勝手に美化し合理化し拝み奉る詩人もある。

   三

――何てすばらしい縮れ毛だ
 彼女の髪をみてゐると
 荒れ果てた庭を見るやうだ、
 何となく寂寥と哀愁が湧いてくる。
さういふ理由で縮れ毛の女も愛される、
――僕は、彼女を直感的に好きになつたよ、
 皮膚の色が普通の状態ぢやないね、
 あくまで白く、透明だ、
 陶器の白さではない、
 玻璃器の白さだね
 つまり肺の悪い女の美しさが
 僕の心を一番捉へるよ、
こゝでは肺の悪い女性も歓迎される、

   四

――私の異常な美を発見する女といふのは
 妊娠三四ケ月目の女だ
 彼女の細胞が新しく変つてゆく感じだ、
 皮膚の色の美しさ、
 喘いでゐる呼吸が
 女を感情的に見せる。
詩人は電車の中で
異常な美しさの女をみつけた
女の顔に注いだ視線を
胸元から腹部に落す
彼女の帯は蕗のトウを抱へてゐるやうに
ふつくらとふくれてゐた
妊娠も詩人にとつては美しい。

   五

ところで女詩人吉田りん子は
どの種類の美しさの所有者であつたか
特別これといつて変哲もない
小柄な体、脚を活発にはこぶ女
小さな頭、黒い顔、二十二歳にしては
落着いたもの言ひ、
小説家の林芙美子を近代的にして
彼女から卑俗さをぬきとつた、
脱脂乳のやうな淡白な甘みをもつた女、
適宜に男に向つて性慾的な
容子をすることも知つてゐる。

   六

すぱりと男のやうな決定的なもの言ひ
それで何の悪意も感じられない、
男に対してはいつも批判的態度を失はぬ
彼女はこれが唯一の武器だ
女に負けることを
楽しみにしてゐる男にとつては
彼女は女将軍で
男達はしきりに彼女の従卒になりたがる、
なんて気の利いた断髪の刈りやうだらう
断崖のやうでなく
柔らかな草の丘の斜面のやうに、
彼女はなだらかに刈りこんでゐる。

   七

実は私も彼女が嫌ひではない
もつと正確に言へば、
嫌ひな部類に属する女性ではない
しかし私は少しばかり時間が遅れたやうだ、
切符売場にはずらりと
男達の列がならぶとき
列の後で私は待つてゐる根気がない、
彼女を中心にして
座席争ひで男達は戦はねばなるまい、
憂鬱な話だ
私は男達の女争ひの
観戦武官に如くものはなからう。

   八

薄つぺらな詩集を出版した位で
特別に美しくもない彼女が
何故こんなに詩人達に騒がれるのだらう、
彼女が奇蹟を行ふ女のやうに
特別な雰囲気を身につけて
突然に現はれたからだ、
そこには時代的な理由も大いにある、
彼女は現はれ、彼女を中心にして
展開された恋の闘ひの
勝負けのタイプが
恋愛合戦に加つた詩人の運命を
急速に変化させてしまつた、
彼女は詩人達の運命を
決めるため忽然と現はれた不思議な女であつた、

   九

恋の観戦武官である私は
当時手に負へない象徴派の詩人であつた、
彼女の出現頃から急激に思想的転廻をして
コンミニスト詩人の陣営に入つたのだ、
思想の三角洲の真中に吉田りん子が立つてゐる
――あなたは、あちら
――君は、そちら。
彼女が男の詩人達にそれぞれ階級的所属を指図し、
片つ端から整理したやうなものだ、
詩人の大西三津三彼もまたコンミニスト入りの
契機を彼女に与へられた。

   十

悪意の無い男を
誰かに求められたら
私は躊躇なく大西三津三を挙げる、
現実は狡猾で詐欺的なところだ
そこねられない人間が
狡猾な世界に一人でもゐるといふ事が既に奇蹟だ
彼は二十五歳だ、
少年のやうな可愛い眼をしてゐる、
女に対しては謙遜で
女の命令は絶対的にまもる
彼に言はせると
女は真実で真理そのものだ――、といふ
『女を欺すのもよからう、
 僕は女に欺されよう、女に最後まで欺されよう』
その結果はどうなるだらう、
男はほんとうに心から
女に欺されたものなどは一人だつてゐない
多くは欺されさうになると
切りあげてしまふ――と彼はいふ。

   十一

大西の欺され方は徹底してゐる、
女は最初彼を欺むく
女が欺す手段がつきたときは
彼女は純情になるさ――、
根気のよい男だ、
トコトンまで女の感情に
追従してゆく強さをもつてゐる。
彼が予見したやうに
女が純情を捧げだしたとき
彼は逆に優位者の立場に立つ、
彼は勇者のやうに
今度は一歩も退却しない、
彼は幾人かの女に欺され
最後には女に感謝された。

   十二

彼は水が引くやうに
あつさりと女から手をひく
女には勝利の想出が永遠にのこるのだ、
りん子の詩集出版記念会が
新宿の小さな喫茶店で開かれた、
大西は詩集を彼女から贈られ、
彼女の噂もきいてゐたので
多分に興味も手伝つて会に出掛かけてゆく、
三十人程の詩人が集つた、
彼女は少女のやうに
自分の席から眺めまはす
個々の男との交際は多からう、
しかし斯う沢山の男が自分を中心に集つたといふ
始めての経験が彼女にとつては珍らしく
顔を栗色に輝やかす。

   十三

彼女は来会者をながめ
知人や好意のもてる人には
強く意味ふかい視線を送る。
会は楽しくない、白けきつてゐた、
彼女を褒めることは彼女に惚れ
批評することは悪くいふことになつた、
詩人達は早く会が
終ることを望んでゐた、
温和で陰鬱で飛躍的な動作をとる詩人達の性格が
焦々とその飛躍の時を待つ
誰か素晴しいテーブルスピーチで
その場を弾力的なものにしなければ
無言劇に終りさうだ。

   十四

六人の詩人が卓上演説をやつた、
大西三津三も何やら自分にも他人にも判らないことを
口の中で言つてのけた、
『エロテック』『エロテック』
といふ言葉が
彼がしやべつた沢山の言葉の中で
特にはつきりと人々にきこえた
人々は始めて声を揃へて哄笑し
幾分会はなめらかになつた
だがその頃は会を閉ぢなければならない。

   十五

人々は会が閉ぢても未練がましく
会場を去らないのが
文学者の会のしきたりだ、
先輩にあいさつしたり後輩を手なづけたり
帰りに何処かで一杯飲まうといふ
暗黙の間の相談など
会場を去り際の時間に行はれる
りん子の会は珍らしく
人々は潮が引くやうに会場を出てしまふ
りん子を中心に十人の詩人達が
ぞろぞろ喫茶店に繰り込んだ、
其処を出て次には酒場に入つた頃は
十人は六人に整理され減つてゐた。

   十六

りん子や男達は酔つ払つて
バーの女給達のサービスを
必要としないほど
隅にをけない余興がとびだした、
酒場を出た、全く夜になつてゐた、
――りん子さん、今夜は貴女は何処へかへるつもり
――わたしだつて帰る家位あつてよ、
――いや、いや、これは失礼しました。
帰るところを尋ねるなんて
対手をたいへん軽蔑したことになる、
美しい彼女が泊るところがないなんて
想像するさへ愚劣なことだ
男の住んでゐる世界であれば
彼女の泊るところはある筈だのに

   十七

――いや、実は、りん子さん
 誤解しないで下さい――。
 どうです諸君、今夜は『酒場の窓』の
 著者を中心にして夜を徹して語りたいと思ふが
 諸君、賛成してくれ給へ――
何といふ素晴らしい提案だ、
女を中心に徹夜で語る
話題が尽きたら男達は
殴り合ひをしたら退屈は救はれる、
どうやら、さういふ危険な座談会になりさうだ、
怖気づいて二人の詩人は去つた。
そこで六人は四人に整理された、
残つた者は何れも勇敢にして選ばれた者だ。

   十八

――誰かこのうちで独身者が居ないかね
 そこの室を借りよう、
  みんな四人共独身者だよ、
  親がゝりや、間借人は駄目だよ、
 夜通ししやべるんだから
 周囲に気兼ねをするやうぢやね
  誰か、一軒家を借りてるものがゐないのか
  尾山清之助、君のところがいゝ
  さうだ賛成だ
 尾山は最近独身者になつたのだから、
衆議一決した、
尾山は一ケ年程前に妻を喪ひ
六つのサクラ子といふ
遺児と暮らしてゐた
四人の勇者達は
たがひにりん子をいたはりながら
東中野の尾山の家へ繰り込んだ。

   十九

尾山の家は男住ひの寒々とした感じであつた、
尾山は隣家にあづけてをいた
わが児のサクラ子を連れて来た
サクラ子は不意の沢山のお客に
眼をみはつてをどろいた、
間もなくはしやぎ出した
りん子も妙に落着いた気持になつて
勇敢に安坐を組んでよくしやべつた、
『動物詩集』を出した草刈真太は
りん子の傍を離れまい/\と
おそろしく努力を払つてゐた。
尾山は妻を喪つた後の寂寥さに
ときならぬ女客を迎へて
部屋の空気の和やかさを
楽しんでゐる風であつた、
アナアキスト詩人の古谷典吉は
彼女を半分だけ愛し
残りの半分は彼女の態度を眼に余つた
苦々しいものゝやうに沈黙してゐた
大西三津三は、たゞもう無邪気に
女の若さと語ることの嬉しさで一杯であつた。
次第に夜は更けてきた
反対に人々の眼は益々冴えて
沈黙勝になつていつた。

   二十
 
夜は悪戯者で意地悪だ、
夜の計画は、夜は遂行できないが
昼の計画したことは夜できる
四人の中幾人かの詩人は
明るい間に計画してをいたこと
彼女を独占的に愛したいといふこと、
夜が来た、計画を遂行しなければ――、
選ばれた勇者は四である
それを一に帰さなければならない
りん子に対する四人の男の
心の探り合ひは一通りすんでゐた
だが、まだ/゛\勝負は決められない
飛躍といふこともあるからだ

   二十一

一番りん子を愛してゐない男の
勝に帰するといふこともあるから
愛してゐないものが勝つなんて
さういふことは真理にそむく
真理を守るには戦はねばなるまい
戦ひ尽して負けてゆくことは本望だ
勇者の消極性は一番滑稽だ
弱者の精一杯の積極性が
時には勇者に勝つことがある
女を愛するには遠慮がいらない
戦へ、戦へ、今宵一夜の戦場であるぞ――。
と何処かで戦の神が叫んでゐるやうだ。
尾山の家は六畳、四畳半、廊下つきの家、
瓦斯も電燈も四ケ月前に切られてゐる、
ローソクを立てゝ詩に関して一同は熱弁をふるひ
果てはアナアキスト詩人古谷典吉と
大西三津三との激論になつた、

   二十二

――ぢや何だな、大西君
 君はしきりにアナアキズムを攻撃するが、
 君は一体思想的には何主義を奉じてゐる詩人なんだ。
――僕は何主義も奉じてはゐない
 たゞ僕はアナアキズムの自由は
 真の自由ではないと思ふ
 僕は真の自由といふものは
 精神の規律化、精神の典型化を生活上に
 当てはめたものだと思ふ
 そのやうな思想を信じたい
――そんな馬鹿なことがあるものか
 規律、典型、秩序、道徳、そんなものは必要でない、
 一切のものゝ破壊だ
 それが自由さ。
――僕はあくまでその種の自由を
 自由とは認めない
 アナアキズムは観念の世界の自由だ
 手綱なしで乗る馬さ
 君等は人間の本能を
 制御する力もないんだから
 秩序ある自由の下に
 真の闘ひを展開させることなどはできない
――いや、よく解つたよ、
 大西三津三君はどうやら
 怪しげな思想体系をもち始めたよ、
 然し思想体系をもつものは
 集団行動をしなければ意味がないんだ、
 我々アナアキスト詩人は
 いゝ友情の下に組織的行動をとつてゐるんだ、
 ところで君は何主義でもないといふ
 なんの集団行動もやつてをらん
 つまり君のは個人的法螺だな。

   二十三

――僕は、真の自由主義者だよ
 君が是非共僕に主義を
 声明しろと言ふんなら言ふさ、
 僕は、アナアキズム反対主義さ
――何をッ、大西、もういつぺん言つてみろ
 君はアナアキスト詩人壺川茂吉が
 我々の陣営を裏切つて
 コンミニストの方へ走つた
 そして我々に足を折られたことを覚えてゐるだらう。
大西はアグラの膝を立てた
――それで君も僕の足を
 折らうといふのかね
 君達に他人の足を折る自由と
 権利があつたら、さうし給へ
 壺川の場合だつて彼は豪いさ、
 信ずる方向へ進むためには、
 足を折られても妥協のない行動をとつたのだ。
何時果てるとも判らぬ議論の間に
りん子の甘つたれた声が仲裁に入つた
――みなさん、遅いのよ、寝まない
彼女の声で二人の論敵たちは
夢から醒めたやうに
たがひに顔を見合せてにやりと笑つた
――みなさん、遅いのよ、寝まない
二人はもう一度口の中で
彼女の言葉を繰り返してみた。

   二十四

蝋燭が尽きさうになつた、
パチパチと爪を切るやうな音をたてた、
理由ははつきりとしてゐるのだが
一同はそれを口に言ひ表はすことができない
――誰が彼女にもつとも接近したところに寝るか
由来恋は地理的である、
地の利を占めることが最も必要だ
尾山は年輩者らしく
早くも其の場の人々の関心事を見てとつた、
一切を彼女の自由意志にまかすことだ
彼女がどこにどのやうな塹壕をつくつて
男達を防ぐか
それとも彼女が全く城門を開放してしまふか

   二十五

戦術家としての彼女の意志を知る必要がある
――りん子さん、あなたは何処へお寝みになる
彼女の答は活溌だ
――私に、六畳の部屋をくださいな
 わたし一人の部屋よ
 みなさんは四畳半に寝たらいゝわ
おゝ、なんといふ公平な処置だらう、
彼女は聡明である、
りん子は押入から夜具を引き出さうとした
押入れには掛布団が一枚入つてゐるばかり
――寒かつたら何でも
 引ずりだして掛けて下さい
 毛布が一枚あるよ
 我々はみんなゴロ寝だ、
一人の女王のために
四人の兵士は野営の状態だ
それもよからう、心から王者に仕へるといふ
馬鹿者の心理は幸福だから、

   二十六

りん子は六畳の真中に夜具を敷き
火鉢の火に手をかざしながら
何やら雑誌を読みだした、
男達とサクラ子は四畳半に鮨詰めになつて
穏やかならぬ興奮状態で低い声で話合ふ
――君は吉田りん子といふ女を
 どう思ふかね
 悪党でもないやうだね、
草刈真太は低い吃り声で
古谷典吉に向つて語りだす、
――おれは、あの女が好きなんだ、
――ところで大西君も
 あの女に満更でもないだらう、白状しろ

   二十七

草刈の質問で大西三津三は悲しさうな顔をした
――まあ、待つてくれよ、
 おれといふ男はね
 女を好きになるまでには
 とても時間がかかるんだ
 それは悲しいことだよ
 りん子だつて好きとも嫌ひとも
 まだ判断がつかないんだ
 漠然たる不安の間に
 時に怖ろしく勇気が出ることもあるが
 あゝいふ、颯爽とした女と
 つきあつた経験がないんだよ
――さうかね、尾山清之助先生の感想は
尾山は答へない
愛児のサクラ子を寝せつけながら
ただくす/\と笑つてゐる
サクラ子は次第に眠気を催ほして
可愛い黒い瞼毛のまぶたを
とぢたり、あけたりして間もなく寝入つてしまつた

   二十八

――ところで俺だ、
 俺はあの女好きだよ
 彼女はいつも濡[#底本の「漏」を訂正]れてゐるカハウソといつた情味と
 精悍さを兼ね備へてゐる
『動物詩集』の作者、草刈真太は
絶讃する言葉に苦しんでゐるやうな
真に迫つた表情をする
草刈の形容は当つてゐる
彼女の小さな体は
いつも充実した感情で
水を出入りするカハウソによく似てゐる、
そして小さな体が怖ろしく強いはげしい
抱擁力を隠してゐるかのやうだ、
アナアキスト古谷はしだいに
憂鬱な表情に変つていつた、
彼はいかにも行動者らしい沈黙の中に
何か確信的な太い呼吸を
そつとときどき洩らしてゐる。

   二十九

男達の部屋の蝋燭は消され
いくらか遅れてりん子の部屋の蝋燭も消えた
長い時間男達の眼は
闇の中で開らかれたまゝであつた
男達の瞼を『おやすみなさい――』と
柔かい指で睡魔が撫で廻してあるいたが
男達の眼は反抗的であつた。
しかし男達の瞼も夜に征服され
鎧戸が下りたやうに閉ざされた、
小犬のやうにクンクン鳴いたり
馬のやうに低く嘶いたり
猫のやうにゴロゴロ言つたり、
さまざまな動物的な音をたてながら
詩人たちは寝入つてゐる。

   三十

大西三津三は不意に体の何処かにショックをうけ
痙攣的に飛び起きた
時刻はわからないが真夜中にちがひない
こはれた笛のやうな寝息をきいた
ぐずぐずと呟くやうな
鼻の鳴る音がきこえた、
――誰だらう、蓄膿症奴が、
彼はひとりごとを言ひながら
廊下伝ひに便所に行つた
彼女の部屋では火鉢の上で鉄瓶が
チンチンと可憐な音をたてゝゐた
すると彼女の元気のよい声で
――誰、まだ起きていらつしたのは、
 寒いでせう、お入んなさい
大西三津三は『は』と軍隊式簡単明瞭に答へて
襖をあけて女の部屋に入つていつた
大西の主義はいつも
『女に対して従順であるから――』

   三十一

何といふ四畳半の馬鹿者共の高い寝息だらう
飛躍と奇蹟がいつぺんに訪れて
武装解除した敵地に入城する快感のために
大西の両の膝頭がかすかに
カスタネットのやうに鳴るのだ、
彼女がカハウソであらうが
鵞鳥であらうがかまはない
寂寥な独身者である自分の傍に
生きものが寝てくれるといふことは
なんといふ最大なる幸福だらう、
あゝ、すばらしい
明日からおれの運命は方向転換するだらう
懶惰と憂鬱との無味乾燥は去り
俺の美しい一生はひらけるだらう
大西は彼女の寝床に従順であつた

   三十二

ところでどうやら寝床の中の
状勢は怪しいのだ
彼が彼女の傍に入つてゆくと
彼女の肉体が衝撃をうけた尺取虫のやうに
硬直してしまつた
大西はラヂオ技師のやうに
しきりに彼女の肉体にノックしたが
あゝ、世界の何処からも応答がない
我が北極探険船は
氷の寂寥に閉されて進むことも退くことも
出来ない破目に陥つた
彼の兼々主張する女に対する『漠然たる不安』
そんなものはとつくにけし飛んでしまつた
これ以上明瞭な不安はない
――およしなさいよ。お帰へりなさい
彼女は美しい声で
邪剣な退去命令を大西に下した。

   三十三

――はッ、失礼致しました
兵卒が上官に面責されたやうに
大西三津三はガバと彼女の寝床から離れ
オイチ、ニ、オイチ、ニ、の軍隊式の足取りで
四畳半に引きあげた
不思議な時間といふものもあるものだ
最大の幸福と最大の不幸との
継ぎ目といふものは
こんなに見分けがつかないものか
たしかに彼女が
『お寒いでせう、お入んなさい――』
といつたのに、そして従順であつたのに、
勇士が馬に乗つて
見事に障碍物をとんだと思つたのに
馬は見事にとんだが
乗手は鞍から離れて
いやといふほど痛い障碍物の上に
乗つかつてしまふとは
真夜中の乗馬遊びでよいやうなものの
白昼の観客注視の只中であつたら
帽子で顔を隠して
競馬場を逃げ出さなければならなかつたのだ
曾つて愚かにきこえた四畳半のわが友の寝息よ
いまは平安な男達の
賢明な寝息にきこえるばかり。

   三十四

春の朝の明るい部屋の中へ
濶達な女王さまは起きてゐる
男達はのろのろと
陰気な動物のやうに四畳半から出てくる
みると彼女の傍には夜着などをきこんで
意外や草刈真太が
特別製の威厳と幸福とを顔中にみなぎらして
彼女に寄添ふやうに坐つてゐる
常態でない
一夜にして草刈真太は亭主然としてゐる
太陽の光りの屈折が位置を変へたのだ
なぜといつて草刈奴の顔へばかり、
なごやかな平和な淡虹色の
光りが集注してゐたから
草刈は輝やいた顔で彼女と喋々喃々する。

   三十五

りん子は一同を見渡して
女には珍らしく威厳のある声で
――わたし達の共同生活は、といふ
――よろしく組織的でなければ、ならないわね、とつゞける
――古谷さん、貴方は掃除係り、
――尾山さんは炊事当番、
――大西さん、貴方は育児係りをして下さいな、
アナアキスト古谷典吉は情けない顔をして
――おれは、つまり便所掃除もするわけだな
――勿論、それから庭もね、玄関の前のドブ板のこはれたのも修理して下さい、
――よろしい
――大西さんは育児係りだから
 サクラ子ちやんを連れて
 一日中遊びあるいて頂戴、
大西は彼女の命令を快諾した
――しかしりん子さん。子供のお守りには
 オヤツがいるから経費がかゝりますよ。
りん子は財布の中から出した
五十銭玉を一つポンと投げだした
――今日一日中の育児料を差し上げますわ
――ありがたい。大西三津三はニヤリと笑つた
炊事係尾山は市場に買出しにでかける。

   三十六

ところで掃除係りの古谷から苦情がでた
――りん子さん。仕事の割り当ての済まない男が一人残つてをりますよ
 草刈真太君は何役ですか?
りん子はコケッティッシュにうそぶいて
――草刈さんは、わたしの亭主。
古谷典吉はをどろいた
――りん子さん、それは酷い
 我々を雑役に追ひやつて
 草刈の奴だけ丹前を着て収まるなんて、
 草刈があなたの亭主、なるほど、
彼はゴクリと唾をのみこんだ
――亭主なんて穏やかでない
 しかも我々の共同生活には
 亭主などゝいふ封建的な動物はゐなかつた筈だ、
 りん子さん、我々は不平です
 もつと穏やかな言ひ方をして下さい
りん子はそこで斯う言ひ方を訂正した、
――私たちの共同生活会社では
 わたしが女社長だから
 草刈さんを、わたしの秘書といふことにしてをきませうね、
――ところで貴女の草刈秘書は
 あなたに対してどんな仕事をするのですか
――いえ、それは当会杜の機密に
 属してをりますから公開できませんの。

   三十七

詩人達の朝飯が始まつた、
炊事係りの尾山清之助は
ハンペンの味噌汁をつくつた
喰ふとき草刈秘書から抗議がでた
――いつたい、ハンペンなどが人間の喰ひ物かい、
 いつたいハンペンが人類の食ひ物として
 歴史に現はれ始めたのはいつのことかは知らない、
 しかしかゝる変てこなものを
 平気で喰ふ人間の神経のにぶさが問題だよ、
尾山炊事係りは憤然として
――それは[#底本の「それに」を訂正]大いに違ふ、ハンペンを攻撃する
 君の神経の方がどうかしてゐる
 食物とは、決して歯や舌に負担を
 かけるやうな固いものを選むべきではない
 つまりハンペンは舌より柔らかい食物だ、
 文明人ほど柔らかいものを喰ふ
 みたまへ、西洋人の喰べ物を
 ジャム、マヨネーヅソース、ミルク、
 バタ、チーズ、シュークリーム、
――なんだい、その最後のシュークリームといふのは
――いや、僕が大好きだからさ、
 さういふ具合に文明人ほど
 食物に流動体を選むやうになる
 ハンペンとは現段階に於ける
 固形食物としては最も柔らかい方の存在だよ、
尾山炊事係りと草刈秘書とは論争する
――草刈君、それでは僕は炊事係りをやめる
 明日から君が炊事係りになり給へ
 僕はりん子さんの秘書になるから
尾山がかういふと『それには及ばぬ』と
草刈秘書は議論を打切つてしまつた。
夜が来た、
大西三津三がサクラ子のお守りで
綿のやうに疲れて帰つてくる、
夜になつたのだ、秘密を手なづけ
運命をおもちやにし、
薄弱な意志を深刻さうに持ち廻るには
都合のよい夜がやつてきた
りん子社長は六畳の間で芳香を放ち
四畳半の男たちは匂ひのする方向に
鼻づらをならべて寝た。

   三十八

第二夜は明けて朝となり、運命は逆転してゐた、
きのふの秘書草刈真太はしよんぼりとして
新らたに古谷典吉が丹前を着込んで
りん子の傍に亭主然と坐つてゐる
草刈秘書は失脚して掃除係りにまはされた
草刈は便所のキンカクシに
タハシをかけて洗ひながら呟いた、
――女は深い淵のやうで
 その心、はかり知れないなどゝは嘘の骨頂
 女の心なんて皿よりも浅い
 男は女を操縦しようとして
 あまりにも長い竿をもちすぎて失敗する
 浅い川には、小さな船、短かい竿がいちばんいゝ、
 きのふの秘書は、今日の雑役夫、
 愛は一日にして、古谷奴に横取りされたが
 あすはまた取り返してやる
 よろしい、愛が刹那によつて最高だとすれば、
 まずもつて俺の愛は完全であつた、
 これからは女といふものを
 あまり深刻には考へまい
 千切れ雲を追ふやうな寂寥の心で
 たゞ熱心に追つかけたらいゝ

   三十九

古谷秘書はりん子の傍でやにさがり
尾山清之助は台所でぶつくさ言ひながら
大根オロシで大根を擦つてゐる
大西三津三は縁側で
サクラ子を相手にオハジキをやつてゐる
食事がすむと育児係大西は
サクラ子を連れてぷいと家を飛び出す
郊外の土手伝ひに
二人は足にまかせて歩るきだす
とつぜん立ちどまつて蟻の戦争を見物する
――サクラ子ちやん、どつちの蟻が勝つと思ふ
――あたい、わからないわ
――そりや、おぢさんだつてわからないさ
 しかし結局。強い方が勝つにきまつてる、
 それが真理だ、
――ぢや、おぢちやん
 どつちの蟻も弱かつたらどうなるの、
――うむ、さういふことも確かにあるな
そこで大西は考へこんだが
適当な答へを引きだすことができなかつた。

   四十

そのとき路を横切らうとする一匹のガマをみつけた、
――おぢちやん、大きな蛙ね、
――蟇といふんだよ、
 僕はこ奴のためにかう歌つてやらう
 『ガマよ、お前は動物ではない
  うごきまはる古い靴だ
  死の怖れを知らない、強い奴』とね
 全くだ古靴は死なうとか生きようとか
 面倒臭いことは考へないからな
――おぢちやん、何をしやべつてゐるのよ
 おぢちやんとガマとどつちが強い
――勿論、人間の方が強い
――ぢや、戦争をしてごらんよ
――よし戦つてやる、サクラ子ちやん見てゐてごらん、
――あたい、おぢちやんの味方になるわね
――いや一人でたくさんだ
大西三津三はたちまち洋服の上着を脱いで
蟇の前方にまはつて
強い視線をもつて
凝然と蟇を睨めつけた。

   四十一

まず第一に奇襲を試みる必要がある
大西は蟇の頭の上へ、しやあしやあと小便を始めた
蟇は落下するものを、脂つこい皮膚ではじきとばし
ときどき手をもつて
うるささうに顔を拭つた
そのとき大西は小さな太鼓を
打つてゐるやうな快感を肉体に感じた
蟇は半眼をひらきじつと
大西の股間にぶら下つてゐる異様なものを
睨めつけてゐた
大西がふと気がつくとサクラ子もまた
不思議さうに大西の股間のものを珍しさうに
首をかしげて眺めてゐたのに気がついて
育児係りの任務を思ひだし
あわてゝ水責めの奇襲を打切つて
こんどはどこからか大石を運んできた
投げをろさうとして蟇の頭上にもつていつた
蟇は全く死を怖れざる古靴であつた
悠々として歩るきまはる
『生命の中には死はなし
 死とは生命の外より来るものなり』
と哲人めいた達観ヅラで
ちよいちよい横眼で石をみあげながら進む
大西は石をもちあげたが
心の疲れでそれを蟇の上に落す力を失つた
――サクラ子ちやん、おぢさんは蟇に負けたよ。

   四十二

蟇が死を怖れない永遠の強者なら
詩人はよろしくそのやうに強くならねばならない
こ奴の厚い無神経な皮膚はどうだ
鉄仮面をかぶつたやうに
陥没した奥のところに光つた眼がある
西洋の歴史物語にでてくる
暴れる囚人に着せる皮の外套、狭搾衣、
蟇も詩人も生れながらにして
運命の狭搾衣を着せられたやうなものだ
そのとき蟇はかう言つてゐるやうだ
――肉体のあるかぎり、行為はあるさ、と
ところで詩人は運命に対しても行為に対しても
あゝ、蟇よりも、蛙よりも、オタマジャクシよりも劣弱だ
大西三津三は別れる蟇に敬意を表し
サクラ子の手をひいて歩るきだした。

   四十三

周囲は暮れかゝつてきた
思ひがけないさびしい郊外の原つぱに来てゐた、
遠くには瓦斯タンクが黒くそそりたち
家々も離れ点在してゐた
蟇と戦つて思はぬ時間を費したのだ、
街の灯がはるかに空に映つてゐる
――サクラ子ちやん、遅くなつてしまつたよ
 いそいで帰らう
大西がサクラ子を引きたてた
サクラ子はお河童の髪を横にふつて
――あたい、お家に帰らないの、と言ひだした、
大西はおどろいてあわてゝ手をひつぱると
サクラ子は草の上にぺたりと坐つてしまつた
――どうしてお家に帰らないのサクラ子ちやん
――あたいお家が嫌になつたのよ
 ママちやん死んじまつたし
 パパはもうあたいを可愛がつてくれないし
 よそのおばちやんが
 あたいの毛布をとつてしまつたの
 だからおぢちやんとこゝに寝るの
 ――仕方がない、彼女が野宿をしようとするなら、止むを得まい。

   四十四

大西は枯草を集めてきて敷いた
その上にサクラ子を寝せ
大西の片腕を枕にさせて
一枚のレインコートを二人でかけた
それでどうやら夜冷えは避けられさうだが
心と眼とは益々冴えるばかり
――ねえ、おぢちやん何かお話をして頂戴
――おぢさんはお話をさつぱり知らないんだよ
――どんなでもいゝから話してよ
――何か無いかな、短かくてもいゝかい
――どんなんでもいゝの
――それぢや話さう、昔々あるところに
 お爺さんとお婆さんとがをりました
 お爺さんが歳をとつて死にました
 それからお婆さんが歳をとつて死にました
――まあ、おもしろいわね――。

   四十五

仰向いて寝ながらみる夜空の美くしさを
サクラ子は早くも発見した
大西は子供の美に対する感受性の早さに
大人の詩人は到底敵はないと心に思つた
地上に寝ながら満天の星をみてゐると
物理的な錯覚にとらへられる
地球もまた空間に浮んでゐるものとすれば
自分は地球の外側に浮彫りにされて動きがとれず
寝て眺めてゐるのに、空は星をちりばめた
一枚の直立した壁で
それに真向ひに立つてゐるやうな気がする
――おぢちやん、あのお星さまは奇麗だわね
指さすサクラ子の指の先には
たがひに手をひきあつて労はりあつてゐるやうに
七つの星がふらふらとゆれてゐた
――あれを北斗七星といふんだよ
 ほら、あそこに光つた親星があるだらう
 そのそばに小さな星が光つてゐるだらう
 小さな方を支那では『輔星』といふんだよ
 ひとつ星占ひをやつてやらうかな
 親星の方を支那では
 支那の天子さまと呼んでゐて
 傍の輔星は『宰相』つまり内閣総理大臣
 といふわけだ
 ところでどつちが光つてゐるか
 昔の支那人はそれをためして占つた
 かう言つたんだよ
「輔星明かにして斗明かならざれば
  則ち臣強く君弱し」
「斗明かにして輔明かならざれば
  則ち君強く臣弱し」
「輔星若し明かに大にして
  斗と会ふ時に、則ち国兵暴かに起る」
 星を仰ぎながら天下の社会状勢を
 占つた支那人はロマンチックな人種だな

   四十六

――ひとつサクラ子ちやんの純真無垢の眼をもつて
 どつちのお星さんが光つてゐるか当てゝごらん
 しかしよさう、
 かういふ幼児に真実を言はせるといふ
 大人の押しつけは憎まれるべきだ
 我々大人が真実を言はなければならん
――おぢちやん、何をひとりでしやべつてゐるのよ、
 サクラ子眠くなつたの、おぢちやん何か歌つてよ、
 ママちやんはいつもおやすみのとき
 サクラ子に歌をうたつてくれたの
 かうやつてね、布団をたたいてくれたの
――サクラ子ちやん、
 それではおぢ[#底本の「じ」を訂正]ちやんが、朝鮮のお友達から
 教はつたアリランの歌といふのを歌つてあげよう
 そこで大西三津三は
 星を仰ぎながら小声で歌ひだした
 「アリラン
  アリラン
  アラリヨ
  アリラン峠を越えてゆく
  かくも蒼空に、星はあれど
  われらが胸は
  斯くもむなし」
 歌ひ終ると大西は寝ながらチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと
 空にむかつて唾をとばし
 「斯くも蒼空に星はあれど
  我等が胸は斯くもむなし」かと
口の中で繰り返した、
サクラ子の肩を手で軽くたたきながら
もう眠つたらうと顔をのぞきこむと
サクラ子は冴えた眼をしてゐて
つづけて歌へとせがむ

   四十七

――ぢや、もう一つだけアリランの歌のつゞきを
 歌つてあげるから今度は温和しく眠るんだよ
大西は眺めるともなく空を視線で撫でまはしてゐると
視線は空の一角で一つの星が地上にむかつて
青白い光りの線と化して
流れ墜ちるのとぶつかつた
眼に強い刺戟をうけた
すると倦怠と脅えと疲労とが
彼を眠りの中に一気に引きこんだ
大西は睡魔と闘ひ、非常に努力しながら
とぎれとぎれにアリランの歌をうたひだした、
 「アリラン
  アリラン
  アラリヨ
  アリラン峠をこえてゆく
  富と貧しさは
  まはりかはるものなれば
  汝等、なげくなかれ
  いつかは君等にも来るものを」
歌ひ終つたとき全く眠りが彼をとらへてしまひ
どこか遠くの方でサクラ子の声をきいた、
サクラ子はじつと大西の歌をきいてゐたが
「おぢちやん、こんどはあたいが歌ふ番だわ
 おぢちやん、おぢちやん、
 ―坊やはよい子だ、ねんねしな
  坊やの、お守はどこへ行つた
 おぢちやん、おぢちやん、おや、ねんねしてしまつたの
 ―あの山こえて、里行つた、
  里のみやげに、何もらうた」
サクラ子は小さな手で大西の胸を
歌ひながら夢うつつで軽くたたきながら
サクラ子が育児係大西を寝せつけた
やがて大西は雷のやうな、いびきをかき始め
つづいてサクラ子も小鼻をピクピク動かしてゐたが、
まもなく二人とも深く寝入つてしまつた、
すると周囲の草が、吹き過ぎる風の
衝撃をうけて生きもののやうに動き始めた、
人々がこんこんと寝入るときに
自然が怒る時を得たかのやうに、

   四十八

翌る朝、原つぱの上に陽が
高くあがつてしまつても
二人は死んだやうに寝入つてゐた、
まもなくサクラ子が眼をさまし
寝入つてゐる大西の枕元に
行儀よく、きちんと坐つたまゝで
大西が起きるのを何時までも待つてゐた、
大西があわてゝとびをきて
面目なささうにあたりを見まはし、
それから二人は沈黙がちに歩るきだした、
とつぜん理由のわからぬ怒りがこみあげてきた、
「おれたちは野宿をしたのだ、
 誰がそんなことをさしたのだ
 母親をなくしてしまつた可哀さうなサクラ子、
 ぐうたら詩人尾山を父親にもつた可哀さうなサクラ子
 最初の人生を野原に寝て味はつた可愛[#[愛」に「ママ」の注記]さうなサクラ子
 この子をこれから誰が育てるのか、
 託児所をつくれ」
大西はカッと眼をみひらいて空を睨んだ
そのとき朝の太陽は
「そいつは俺の知つたことぢゃない、
 お門違ひだ、託児所のことは政府に頼め」
と太陽はゲラゲラ笑つたやうに思はれた、
「おぢちやん、何をそんな怖い顔をしてゐるのよ、
 サクラ子、お家に帰りたくなつたの」
「お家へ帰らう、そして厳重に抗議してやる
 第一にサクラ子ちやんの毛布を
 あの助平女流詩人から取りかへしてやる、
 それから育児係りの辞表を叩きつけてやる、
 尾山に父親の正統なる義務を果せと要求してやる」

   四十九

尾山の共同生活の家にたどりついた頃は
大西はすつかり元気を失つてゐた、
「あんた達はゆふべ何処へ泊つたのよ」
りん子が六畳間からかう声をかけた
「野宿をしたんだ」
「まあ」といふりん子の声につゞいて
尾山の声で「大西君それだけはしないでくれ給へ」
大西は答へた「教育上よくないかね」
部屋に上つてみると、また運命が変つてゐた、
昨日の古谷は失脚して尾山清之助が
りん子の傍に丹前を着て坐つてゐた、
「すると今度は俺が丹前を着る番だな」
大西は心にさう思ふと穏やかならぬものが
胸から背骨の間を馳けまはるものがあるやうに
思はずぶるると身ぶるひした、

   五十

その翌る朝がやつてきたが
大西は丹前を着る機会を失つてゐた、
しかも形勢は異状に展開し
依然として尾山清之助であつた、
その翌る朝もまたその次の日の朝も尾山は連勝し
古谷典吉、草刈真太は共同生活を去つてしまつた、
しかし大西三津三は育児係りの辞表を叩きつけ
りん子から毛布をとりかへす勇気もなく
サクラ子にせがまれると毎日散歩にでかけた、
きのふは新宿、けふは銀座、
銀座尾張町の時計店の前までやつてくると
サクラ子はとつぜん大西に向つて
「あたい踊りたくなつたわ」と
可憐な顔で訴へだした、
「踊つたらいゝさ」
「あたい踊るわ、おぢちやん何か歌つてね」
「よし来た、何がいゝだらうな
青い眼をしたお人形が、でゆくか」
銀座の昼の雑踏の真中で
大西は大きな声で「青い眼」を歌ひだした、
通行人はおどろいてその男の顔を眺めると
その男の足元に小さな女の児が
首を傾げたり、袂を口にくはひたり
手を上にかざしたりして踊つてゐるのを発見した。

   五十一

たちまち物見高い都会では
通行人が退屈を救ふいゝ見世物が
こつぜんと鋪道の上に出現したといはぬばかりに
大西とサクラ子を取り巻いて人垣をつくる
その円陣の真中に大西は最大の熱情と
深刻さを顔に出現しながら歌ひ
サクラ子は無心な喜びで
手足ものびのびと可愛らしく踊りつゞける
大西はそのとき突然何を思つたのか
かぶつてゐた帽子をぬいで手にもつて
「諸君」と群集にむかつて叫びかけた
「諸君」僕は母親をなくしたこの子供の育児係りであります、
この子の父親は助平女流詩人に惚れてゐて
この子を構はんのであります
しかもその女はこの子の毛布をうばひました
われわれは野宿をいたしました
諸君。母親の働いてゐる家庭のために
母親をなくした家庭のために
 託児所をつくれ!
 託児所をつくれ!」
かう怒鳴つて群集の輪を大スピードで
大西は帽子をまはし始めると
チャリン、チャリン、と金属の音が帽子の中にとびこんだ
大西は敏捷な動作で帽子を二三回まはし
集まつた金を数へもせず鷲掴みで
ズボンのポケットの中へ落しこみ
「サクラ子ちやん大成功だ、もう踊らなくてもいゝよ」
とさつさと群集の輪を突切つてその場を去つた、

   五十二

それからガードの入口にもたれてゆつくりと
金を数へてみると、銀貨銅貨とりまぜ一円七十五銭
カフェーのマッチが一個に、キャラメル三粒、
意気揚々と省線電車に乗りこんだが
乗客が多くて電車は押すな押すな
見ると一個所大きく席があいてゐる
そこには酔つぱらひが吐いたヘドが
一間四方の放射状に散つてゐて
誰もその前に坐るものがゐない
エビフライの断片とウドンのまじつた嘔吐で
おそらくビールと泡盛と日本酒を
ちゃんぽんにのんだ悪酔がさせたわざであらう、
大西はサクラ子をつれて
そのヘドの前に十人分の坐席を
二人で占領してしやあしやあと
のびのびと悠々と済ました顔で乗つて帰る

   五十三

大西とサクラ子が家にたどりつくと
まだ明るいといふのに
不思議にも家中の雨戸がしまつてゐる
尾山とりん子が外出して留守かと思ふと
雨戸のすき間からチラホラと灯がもれ
人のゐる気配がする
怪しいぞと大西が足音を忍ばせ
雨戸のすき間から中を覗くと不思議な光景だ、
昼だといふのに雨戸をしめきつて
部屋の真中の瀬戸の大火鉢を
尾山とりん子が挾んで坐つてゐる
尾山が火箸を一本
りん子が火箸を一本
それぞれ一本づゝの火箸を手にして
無言劇のやうにだまりこくつてうなだれて
火鉢の中の灰をそれでひつかきまはしてゐる
かたはらのチャブ台の上には蝋燭の灯、
たがひに語ることも尽きてたゞ運命の倦怠、
尾山が灰の上に火箸でAと書けば
りん子が灰の上にBと書く
尾山が灰の上にZと書けば
りん子が灰の上に○を書いてしくしくと啜り泣く
大西は雨戸のすきまからじつとそれを覗く、

   五十四

大西はすべてのカタストロフ「終局」がやつてきたと思つた
あの女を叩きだしてしまふか、
サクラ子の毛布をうばひかへすか、
あの女と尾山と結婚させてしまふか、
育児係りの辞表を叩きつけてしまふか、
最後の勇気がいるときがやつてきたと考へた、
「君たちも変だよ、昼日中、雨戸をしめて
 睨めつくらをしてゐるなんて」
かういつてガラガラピシャンと雨戸をあけてしまひ、
ズボンのポケットから金をだして
ざらざらと畳の上に出す、
「サクラ子ちやんが、とつぜん踊るといひだしたんだ、
 所は銀座の真中で、
 そこで僕が歌ひサクラ子ちやんは踊つたよ、
 帽子をまはしたところが
 群集は僕の「託児所をつくれ」の
 名演説に感動してこんなに金を投りこんだよ」
すると尾山の顔にさつと暗い影が走つた、
「大西君、それだけはやめてくれ給へ!」
「教育上、よくないかね」
「さうはいはない、たゞ困るのだ」

   五十五

大西は興奮を始めた
「尾山君は、父親として自分の子供サクラ子ちやんと
 君の友人としての、この大西三津三を軽蔑してはいけない
 我々の行為が乞食の行為ででもあつたといふのか、
 サクラ子ちやんは踊りたいといふ純真の発露さ、
 僕は託児所の必要を痛感し
 帽子をまはして広く浄財を集めたゞけだ、
 働く母親をもつた労働者農民の家庭のためにも、
 君のやうなグータラ詩人の母親をなくした
 家庭のためにも
 託児所の建設は是非必要なんだ、
 僕は君の子供の育児係りとしてそれを痛感した
 僕は明日も銀座にでかけるよ、
 それが悪かつたら育児係りを辞職する」
「君の気持はわかつてゐる、
 僕もサクラ子の父親として恥じるものがある
 だが銀座にでかけることだけは勘弁してくれ」
「それでは僕は辞職する
 尾山君、サクラ子ちやんは
 至急母親が必要なんだよ
 君達の恋愛は結婚にすゝむべきだな、
 そしてりん子君は母親としての任務を果すべきだ」
そのとき女流詩人吉田りん子は不意に立ち上つた、
そして玄関の方に歩きながら
「大西さん、わたしは恋愛の自由は認めるけれどもね、
 女が母性の義務を負はなければならない
 そんな感情はもちあはさないの!」
すると大西三津三は瀬戸の火鉢を
平手ではげしく叩きながら
彼女の背後から「出て行け」と吐[#「吐」に「ママ」の注記]鳴りつけた、
「すべての女はみんな母親になれるんだ、この中性女の、子宮後屈奴」
吉田りん子は「さよなら」と
静かな声でいつて出て行つた
それから十分も経つて辞職した大西三津三も
玄関口で見送るサクラ子に
投げキッスをして何処となく去つて行つた、

   五十六

読者諸君、この詩はこゝで打切ることができるが、
詩が終つてもまだ十行程現実が残つてゐるから
しやべらしてくれ給へ
其後尾山と吉田りん子とは結婚して
都を落ちて田舎に帰つた
不運な詩をやめて尾山は家業をついだ、
医者の診断では彼女の内臓は完全無欠で
尾山との間に三人の子供を分娩して
サクラ子を加へて四人の立派な母親となつた
「すべての女はみんな母親になれるんだ」
と叫んだ大西三津三は
依然として独り者で詩をつくりながら
都会を転々としてアナキストにも
コンミニストにもファシストにもリベラリストにも
なりきれないでゐる
ときどき夜の都会の盛り場に姿を現はし
十銭スタンドの安ウヰスキーで酔つ払ひ
突[#底本の「空」を訂正]然、女給をとらへて
「すべての女はみんな母親になれるんだ」
と怒号すると女給たちは何ともいへない嫌な顔をする
ふらふらとバーの扉をあけて戸外にでゝ
夜のネオンサインの上に
ちらばり光る星をみると
「託児所をつくれ!」と絶叫し
かたはらの電信柱にもたれかゝつてゲーといふ。

虚構と捉えている以上、モデルを同定することを秋元氏は拒否しておられるが、あえて言わずもがなのことをしてしまおう。文字通り、言わずもがなである。

「吉田りん子」は芳本優をモデルとする。芳本優には「酒場の扉」という詩集がある。
「大西三津三」は大江満雄である。この前月中旬より、尾形亀之助と共同生活をしている(「評伝 尾形亀之助」318p)。
「尾山清之助」は尾形亀之助である。
「サクラ子」は尾形亀之助の長女、泉である。
「草刈真太」は草野心平である。「動物詩集」は1928年刊行の「第百階級」に連なる前年1938年出版の「蛙」であろう。
「古谷典吉」は高橋新吉か。
話中の「壺川茂吉」は壺井繁治か。

しかし、この詩を掲げなければ、尾形亀之助を愛する人だからといって、なかなかこの詩には容易に辿り着かない気がするし、今時、小熊秀雄のこのだらだらの叙事詩を、尾形を知っていて小熊を知らない人が虚心に読むとはとても思えないのである――。

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