影を 尾形亀之助
風ひとつない庭を静かに犬が通つて行つた。
誰か、名を呼ばれても返事をしないでゐるのではあるまいか………深く曇つた空はとうとう雨になつて彼は窓近くぼんやり椅子に腰かけてゐる。
今はもうないのだが、幻想の中に訪れて来る或る女性がゐた。そして、薔薇色の明るい夕暮などには窓の下に来てゐるやうにさへ思つた。窓から首を出せばそこらに立つてゐはしないかと。遠くかすんだ大きい木の下を歩いてゐるやうにも思へたし又、丁度いま、彼女は彼にあてた手紙を胸をはづませながらポストに入れて美しい花などで飾つた部屋に帰つて、赤い唇で彼の家の見える窓に接吻したな、と思つたりしたのだが。
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夜が更けて、幾度か耳をすましても彼には彼女のやはらかな寝息が聞えなくなつてしまつた。
それからといふものは、繰りかへし繰りかへし来る毎日を彼はほとんど手から煙草をはなさなくなつた。そして、夜も昼も眠つたふりをしてゐるやうにながかつた。三時間ばかりのうちに二度も飯を喰べたりした。昨日の今頃――一昨日の今頃――その前の今頃も、その前の日のも一月も二月も前の、明日あさつての、その次の日の――と何時も彼はらつきよ臭い息を吹きかけられてでもゐるやうに顔をそむけた。全く同じやうに、彼にはほんのわづかの違ひも見ひ出せなかつた。そしておちついて本を読むことも、散歩に出かけることも彼はしなくなつた。
此頃、夜になると蛙が啼いた。
雨の降りそうな晩など彼は仰向けに寝ころんでゐて、電燈のあたりから彼の目ぶたへたれてくる睡蓮の花に手をさしのべたりした。
彼にはどうにも出来なかつた。痛みこそないがたしかに春が頭をなぐつたのだ、とそう思つた。そして肩のはるやうな重い心持になつて部屋を出て、便所へなど行つて勢のない小便をした。
しん・かんと蛙は啼いてゐた。彼は煙草をいくほんものんでゐた。彼の心の中までが暗く雨が降つてゐるやうであつた。
蛙が、――彼は部屋の中にも蛙がゐるやうな気がした。ひつそりと自分と列らんで………何処かの宮殿の階段に、右と左に蛙と自分が大理石の上にちやんとブロンズか何かになつて乗つてゐて、蛙も大変とりすましてゐるし自分も顔がやせて見えるほど真面目な。――と、彼は椅子にかけたままかたくなつた。出来るだけ顔をまつすぐ向けて、丁寧に両手をひざの上に揃へて、息をとめた。
――そのあと、彼はつくづくそのまま漠を鏡に写して見た。
彼は、どうにも顔の中に自分といふものが居ないといふやうなことに気がついた。顔は、実際は、煙草をのんだり鏡に写つたりしてゐるのだがほとんど全部が不審な形であつた。
これは俺ではなく、いつも自分につきまとつてゐる少しぐらいは魔法を心得てゐる怪しいものなのだ、ほんの一部分だけが自分で、それもはつきりとはしてゐずにたいていは影のやうで、ことさらに手や顔には恐怖や幻想を感じてゐるほどだ、と。
彼は詳細に鼻の穴の奇妙などを考へた。そして鼻からは口、歯、耳と見てゐるうちに気もちがわるくなつてしまつた。舌、はぐきはまるで犬と同じものであつた。いそいで寝てしまはふかと思つたが、床に入つてから眠るまでの苦労を思ふとそれも出来なかつた。
窓もあつた。遠く大きい木も立つてゐたが、もう何処にも彼女の影を思ふことは出来なかつた。
例とへ魔法の杖の先から出た憧れであつた、としても、今は淋びしい夕暮であつた。彼はやがて彼女に逢へるものとばかり思つてゐたのだ。今日はだめでも明日は――といふやうにして、突然自分が立つてゐるやうな寂びしさで待ちつづけてゐたのだ。彼女から来る手紙は、とうに彼女がポストに入れてしまつた。ポストの底まで落ちてゐなくても、手紙をポストに投げ入れて、はつとした。もも色の顔をたもとにつつんで家の中に馳けこむのを、わざと見ないふりをしさへしてゐたのだ。そして、通りかかる郵便配達をさへ見ないふりをしてゐたのだ。が、今度の郵便では彼女の手紙がとどくと思つてゐたのだ。「郵便やさん、どうせ又忘れて来たんだね」つて、郵便配達が路をまがつて来るのを二階から見てゐて、そう云ひかけて居たんだ。そしてしまひには郵便配達が彼女の手紙をとつてしまつたのではないかしらと怪しむやうになつて、あの顔が――と、配達がおこつてゐるやうな顔をしてゐるが何かわけがあつて、彼女から来る手紙をぬき取るためにあんな顔をしてゐるのかも知れない。これはひよつとすると決闘ぐらひはしなければなるまいものを、と、そして或時には、ちやんと郵便配達の黒い鞄の中に入つてゐたのに――、今日こそは呼びとめて鞄の中を探して見たい、きつとあるのにと焦燥した。――「どうだ。これ、これは、この桃色の梅の花の模様のは。何処へもつて行かうと云ふのだ。見給へ、一年も前の日附を、そら、スタンプだつてこんなにはつきりと一年の前なのだ。俺はとうから君があやしいと思つてゐたのだ、とうから君のその鞄の中にあるのを知つてゐたんだ。ちやんと知つてゐたんだ。彼女がこれをポストに入れたときのことを――息のねがとまりそうになつたほどしんけんな恥かしさを。倒れそうにさへなつたんだぜ。何んと云つて君は申しわけをするんだ。君の命はもらつた。――さあ、一緒に彼女のところへ行くんだ。」
と、力いつぱい配達の鼻を引つぱつて彼女のところへ昇非行きたいと思つた。
彼は又、こんな夢ばかり毎夜のやうに見たのだ。――彼の神経のどこかがポストになつて立つてゐると、彼女が彼にあてた綺麗な封筒を入れて行つたので彼は集配人がポストを開けにくるのを大変待ちこがれてゐた。が、いくら待つてゐても集配人がポストを開けに来ないので、彼はすつかりあせつてしまつて丁度、胸のやうにせはしく息をしてゐた………。
彼はまだ椅子に腰かけたままだ。青い毛糸のシャツを着てゐる人を遠くで見るやうな頼りなさだ。彼は何時までもそうしてゐなければならないだらう。
しかし、おお、彼は不意の思ひつきをうれしそうにしばらく爪を鋏んだ。
*
(月曜第一巻第二号 大正15年2月発行)
[やぶちゃん注:私には最後の「爪を鋏んだ」が不審であった。これは「爪を鋏(はさ)んだ」としか読めず、爪切りを持ち出して爪を鋏んで切り始めた、というのでは如何にもたるんで言葉足らずとしか思われない。これは「爪を嚙んだ」の誤りではなかろうかなどと考えていたのだが、「不意の思ひつきをうれしそうに」という心情で「爪を嚙む」のでは、これはなおのこと、おかしい。はたと気づいた。何のことはない、やはりこれは悠々と爪を切っているである。我々は不満足な苛立ちの中で敢えて普通は爪は切るまい。どこかで爪を切れるのは、そこに会心の安堵の余裕があったからだったとすれば、納得が行く。これは多分、爪を摘む、「爪を鋏(つ)んだ」と読んでいるのであろう。さても、この永遠に配達されない恋文の相手は既に吉行あぐりであろうか?]

