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2009/01/18

尾形亀之助詩集『障子のある家』所収の詩の初出形9篇

思潮社版尾形亀之助全集末尾の『雨になる朝』異稿対照表を参考にして初出復元した詩9篇を公開する(行間がうまく空かないので、掲載詩の標題を太字斜体にする)。

    三月の日

 昼頃寝床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく気やすい気持ちになつて、私は顔を洗らはずにしまつた。
 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。
 ひき出しの中には白銅が一枚残つてゐる。
 切り張りの沢山ある障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。

(学校詩集 昭和4(1929)年12月発行)
(新興詩人選集 昭和5(1930)年1月発行)

[やぶちゃん注:上記2誌に所載するらしいが、この2誌が全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、以下のように改稿されている。

    三月の日

 昼頃寝床を出ると、空のいつものところに太陽が出てゐた。何んといふわけもなく気やすい気持ちになつて、私は顔を洗らはずにしまつた。
 陽あたりのわるい庭の隅の椿が二三日前から咲いてゐる。
 机のひき出しには白銅が一枚残つてゐる。
 障子に陽ざしが斜になる頃は、この家では便所が一番に明るい。

本来なら、部分校異で示して終わりにするところであろうが、尾形亀之助の場合のように、校異を示せるものが少ない(詩集所載の詩は書き下ろしか未発表のものが多い)ケースは煩瑣を厭わず、こうする方がより正しいと私は考える。但し、筑摩書房版萩原朔太郎全集のように、本文の脚注ポイント落ちでそれをやられるのはどうかと思う。あれは詩を詠むに堪えない。]

    題はない

 鳴いてゐるのは雞だし、吹いてゐるのは風なのだ。部屋のまん前までまはつた陽が雨戸のふし穴からさし込んでゐる。
 私は、飯などもなるつたけは十二時に昼飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく満足してゐるところであつた。

 今朝も、長い物指のやうなもので寝てゐて縁側を開けたいと思つた。もしそんなことで雨戸が開くのなら、さつきからがまんしてゐる便所へも行かずにすむような気がしてゐたが、床の中で力んだところで、もともと雨戸が開くはずもなく結極はこらひきれなくなつた。から瓶につまつてゐるやうな空気が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに桜が咲いてゐる。雨戸を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。
 筍を煮てゐると、青いエナメル塗りの「押売お断り」といふかけ札を売りに来た男が、顔の感じの失せた顔をして玄関に入つてゐた。そして、出て行つた私にだまつて札をつき出した。煮てゐる筍の匂ひが玄関にもしてきてゐた。――私は筍のことしか考へてゐないのに、今度は綿屋が何んとか言つて台所を開けた。半ずぼんに中折なんかをかぶつてゐるのは綿の化けものなのだからだらう。いいかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戸を開けたまま行つてしまつた。

(学校5号 昭和4(1929)年5月発行)
(学校詩集 昭和4(1929)年12月発行)
(全日本詩集 昭和4(1929)年12月発行)

[やぶちゃん注:傍点「ヽ」は下線に代えた。本篇は「学校5号」では題は、表記の通り「題はない」という題である。再録の「学校詩集」及び「全日本詩集」では「五月」となる。以上の二つのアンソロジーに所載するらしいが、どちらも初出と全く同じ稿であるということらしい。形式段落の三段落目にある「……便所へも行かずにすむような」の「ような」、同段落の「結極」はママである。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、以下のように改稿されている。

    五月

 鳴いてゐるのは雞だし、吹いてゐるのは風なのだ。部屋のまん前までまはつた陽が雨戸のふし穴からさし込んでゐる。
 私は、飯などもなるつたけは十二時に昼飯といふことであれば申分がないのだと思つたり、もういつ起き出ても外が暗いやうなことはないと思つたりしてゐた。昨夜は犬が馬ほどの大きさになつて荷車を引かされてゐる夢を見た。そして、自分の思ひ通りになつたのをひどく満足してゐるところであつた。

 から瓶につまつてゐるやうな空気が光りをふくんで、隣家の屋根のかげに桜が咲いてゐる。雨戸を開けてしまふと、外も家の中もたいした異ひがなくなつた。
 筍を煮てゐると、青いエナメルの「押売お断り」といふかけ札を売りに来た男が妙な顔をして玄関に入つてゐた。そして、出て行つた私に黙つて札をつき出した。煮てゐる筍の匂ひが玄関までしてきてゐた。断つて台所へ帰ると、今度は綿屋が何んとか言つて台所を開けた。半ずぼんに中折なんかをかぶつてゐるのだつた。後ろ向きのまゝいゝかげんの返事をしてゐたら、綿の化けものは戸を開けたまゝ行つてしまつた。

「異稿対照表」では、削除部分『今朝も、長い物指のやうなもので寝てゐて縁側を開けたいと思つた。もしそんなことで雨戸が開くのなら、さつきからがまんしてゐる便所へも行かずにすむような気がしてゐたが、床の中で力んだところで、もともと雨戸が開くはずもなく結極はこらひきれなくなつた。』について、『三連目のこの部分全文削除』と記載がある。通常このように有意な空行が認められる場合、「連」は形式段落ではなく、その空行単位で呼称すると私は理解しているが、そのように秋元氏は用いずに、形式段落を「一連」と数えているようである(即ちこの「障子のある家」版は4連構成ということになる)。また、「対照表」初稿の冒頭には一字空けがないが、前後の表現から補った。後半の改稿は表現上の補正という感じであるが、「――」よりも「断つて台所へ帰ると、」としたのは、スラーのような音楽的な流れとして効果的である。]

    秋冷

 寝床は敷いたまま雨戸も一日中一枚しか開けずにゐる紙屑やパンのかけらの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗らはずにゐるのだつた。
 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ明るい空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

(門6号 昭和4(1929)年11月発行)
(学校詩集 昭和4(1929)年12月発行)
(日本現代詩選 昭和5(1930)年4月発行)

[やぶちゃん注:初出は、以上の二つのアンソロジーに所載するらしいが、どちらも初出と全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、以下のように改稿されている。

    秋冷

 寝床は敷いたまゝ雨戸も一日中一枚しか開けずにゐるやうな日がまた何時からとなくつゞいて、紙屑やパンかけの散らばつた暗い部屋に、めつたなことに私は顔も洗らはずにゐるのだつた。
 なんといふわけもなく痛くなつてくる頭や、鋏で髯を一本づゝつむことや、火鉢の中を二時間もかゝつて一つ一つごみを拾い取つてゐるときのみじめな気持に、夏の終りを降りつゞいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になつてゐた。私は、よく晴れて清水のたまりのやうに澄んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなつた。

亀之助にしては珍しく、第一段落を増補している。第二段落の「明るい」は朗読してみると分かるが、停滞を起こさせて確かにいらない。]

    障子のある家(仮題)――自叙転落する一九二九年のヘボ詩人・其七

 納豆と豆腐の味噌汁の朝食を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に半日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん、畳のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ台にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。わけもなく火鉢に炭をついでゐるのであつた。

(文芸月刊一巻一号 昭和5(1930)年2月発行)
(日本現代詩選 昭和5(1930)年4月発行)

[やぶちゃん注:「二度位ひづつ」はママ。初出は、上記アンソロジーに所載するらしいが、全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「ひよつとこ面」と改題され、以下のように改稿されている。

    ひよつとこ面

 納豆と豆腐の味噌汁の朝食を食べ、いくど張りかへてもやぶけてゐる障子に囲まれた部屋の中に一日机に寄りかゝつたまゝ、自分が間もなく三十一にもなることが何のことなのかわからなくなつてしまひながら「俺の楽隊は何処へ行つた」とは、俺は何を思ひ出したのだらう。此頃は何一つとまとまつたことも考へず、空腹でもないのに飯を食べ、今朝などは親父をなぐつた夢を見て床を出た。雨が降つてゐた。そして、酔つてもぎ取つて来て鴨居につるしてゐた門くゞりのリンに頭をぶつけた。勿論リンは鳴るのであつた。このリンには、そこへつるした日からうつかりしては二度位ひづつ頭をぶつつけてゐるのだ。火鉢、湯沸し、坐ぶとん、畳のやけこげ。少しかけてはゐるが急須と茶わんが茶ぶ台にのつてゐる。しぶきが吹きこんで一日中縁側は湿つけ、時折り雨の中に電車の走つてゐるのが聞えた。夕暮近くには、自分が日本人であるのがいやになつたやうな気持になつて坐つてゐた。そして、火鉢に炭をついでは吹いてゐるのであつた。

本篇の原題が、詩集の総題であるということは、本詩が詩集「障子のある家」で持つところの重要な役割を感じ取る必要がある。その副題に自叙としての「転落する一九二九年のヘボ詩人」とあるのは哀しい。ある識者は、このリンに痛快無比な諧謔味を読むべきであるとする。しかし私は微妙にそれを留保したい。私は、この詩を何度読んでも、愉快になるどころか、当時の尾形を考えると、如何にも哀しいのである。この軽快な表の顔は「ひょっとこ」のお面に過ぎないのだと、私は思う。]

    詩人の骨(仮題)転落する一九二九年のヘボ詩人の一部

 自分が三十一になるといふことを俺にはどうもはつきり言ひあらはせない。困つたことには、三十一といふことはこれといつて俺にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から「君は三十一だ」と言ってもらうほかはないのだ。
 今年と去年との間が丁度一ヶ年あつたといふことも、俺にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。隣家で、カレンダーを一枚残らずむしり取つて新らしく柱にかけたのに一九三〇年一月×日とあつたにすぎない。つまり「俺は来年六ツになるのだ」と言つても、誰も(殊に隣家のおばさんは)ほんとうにしないのと同じことなのだ。
 だが、俺が曾て地球上にゐたといふことが、どんなことで名誉あることにならぬとは限るまい。幾万年かの後に、その頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍らしがられるかもしれないのだ。そして彼等はひよつとすると言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。

(詩と散文1号 昭和5(1930)年1月発行)

[やぶちゃん注:第一段落『「君は三十一だ」と言ってもらう』の「もらう」、第二段落「ほんとう」はママ。また、「対照表」初稿の冒頭には一字空けがないが、前後の表現から補った。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「詩人の骨」と改題され、以下のように改稿されている。

    詩人の骨

 幾度考へこんでみても、自分が三十一になるといふことは困つたことにはこれといつて私にとつては意味がなさそうなことだ。他の人から私が三十一だと思つてゐてもらうほかはないのだ。親父の手紙に「お前はもう三十一になるのだ」とあつたが、私が三十一になるといふことは自分以外の人達が私をしかるときなどに使ふことなのだらう。又、今年と去年との間が丁度一ケ年あつたなどいふことも、私にはどうでもよいことがらなのだから少しも不思議とは思はない。几帳面な隣家のおばさんが毎日一枚づつ丁寧にカレンダーをへいで、間違へずに残らずむしり取つた日を祝つてその日を大晦日と称び、新らしく柱にかけかへられたカレンダーは落丁に十分の注意をもつて綴られたゝめ、又何年の一月一日とめでたくも始まつてゐるのだと覚えこんでゐたつていゝのだ。私は来年六つになるんだと言つても誰もほんとうにはしまいが、殊に隣家のおばさんはてんで考へてみやうともせずに暗算で私の三十一といふ年を数へ出してしまうだらう。
 だが、私が曾て地球上にゐたといふことは、幾万年かの後にその頃の学者などにうつかり発掘されないものでもないし、大変珍らしがられて、骨の重さを測られたり料金を払らはなければ見られないことになつたりするかも知れないのだ。そして、彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだらう「これは大昔にゐた詩人の骨だ」と。

第一段落「てんで考へてみやうとも」及び「数へ出してしまう」はママ。]

    ――(躓く石でもあれば、俺はそこでころびたい)――

 庭には二三本の立樹がありそれに雀が来てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで来たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が昇天したとかいふ「すばらしい散歩」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。
 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。
 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出会つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、実際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも気づかずにゐたのだ。これはいけないといふ気がしたが、何がいけないのか危険なのか、兎に角その人ごみが一つの群集であつてみたところが、その中に知つている顔などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、人一個の顔は数万の顔となり更に幾万かの倍加に「友人」になることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、「友人」なとおといふ友情に依る人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことになつてしまはぬものか。

(門7号 昭和5(1930)年2月発行)
(詩文学一巻六号 昭和5(1930)年3月発行)
(現代新詩集 昭和6(1931)年6月発行)

[やぶちゃん注:初出以下、二つの刊行物に所載するらしいが、どちらも初出と全く同じ稿であるということらしい。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「年越酒」と改題されて、以下のように改稿されている。

    年越酒
 
 庭には二三本の立樹がありそれに雀が来てとまつてゐても、住んでゐる家に屋根のあることも、そんなことは誰れにしてみてもありふれたことだ。冬は寒いなどといふことは如何にもそれだけはきまりきつてゐる。俺が詩人だといふことも、他には何の役にもたゝぬ人間の屑だといふ意味を充分にふくんでゐるのだが、しかも不幸なまはり合せにはくだらぬ詩ばかりを書いてゐるので、だんだんには詩を書かうとは思へなくなつた。「ツェッペリン」が飛んで来たといふことでのわけのわからぬいさましさも、「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散歩」――などの、そんなことさへも困つたことには俺の中には見あたらぬ。
 今日は今年の十二月の末だ。俺は三十一といふ年になるのだ。人間というものが惰性に存在してゐることを案外つまらぬことに考へてゐるのだ。そして、林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。
 三十一日の夜の街では「去年の大晦日にも出会つた」と俺に挨拶した男があつた。俺は去年も人ごみの中からその男に見つけ出されたのだ。俺は驚いて「あゝ」とその男に答へたが、実際俺はその人ごみの中に自分の知つてゐる者が交つてゐるなどといふことに少しも気づかずにゐたのだ。これはいけないといふ気がしたが、何がいけないのか危険なのか、兎に角その人ごみが一つの同じ目的をもつた群集であつてみたところが、その中に知つている顔などを考へることは全く不必要なことではないか。人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、一個の顔は無数の顔となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ。

底本にしている思潮社版の「障子のある家」本文には、この篇以外でも途中に有意に不審な字間(3/4字分程)が複数個所存在するが、一応、底本の組版の齟齬ととって無視した。
 さて、本詩の『「戦争」とかいふ映画的な奇蹟も、片足が途中で昇天したとかいふ「すばらしい散歩」』という僕にとって永く不明であった箇所について、美事な解釈(「未詳」「当てずっぽう」と謙遜されているが)が2007年河出書房新社刊の正津勉「小説 尾形亀之助」でなされている。以下に引用する。
『前者は、北川冬詩集『戦争』(昭和四年三月刊)では。ここで「映画的な奇蹟」とある、これはときに北川が標榜した前衛詩運動なる代物(しろもの)「シネ・ポエム」への嘲笑ではないか(じつはこのころ全章でみたように北川と亀之助のあいだで『雨になる朝』をめぐり意見の対立をみている)』。ここで改行して、『後者は、あやふやななのだがこれは安西冬衛のことをさすのでは。これは「片足が途中で昇天した」うんぬんから、なんとなれば安西が隻脚であること。やはりこの三月、詩集『軍艦茉莉』が刊行されている。前章でもみたが亀之助はこれを絶賛している。「『軍艦茉莉』安西冬衛はすばらしい詩集を出した」と。だとすると「すばらしい散歩」とは散歩もままならない安西への声援となろうか。ほかに懇切な書評「詩集 軍艦茉莉」(『詩神』昭和五年八月)もある。』
やや、最後の「安西への声援」という謂いには微妙に留保をしたい気がするが、正津氏の解釈はこの詩の最も難解な部分を確かに明快に解いてくれている。著作権の侵害にならぬよう、宣伝しておこう。前章云々の話は、是非、本書を購入してお読みあれ。なお、同書によれば、チェッペリン飛行船Zeppelinが日本に飛来したのは、昭和四年八月で『新聞各誌には「けふ全市を挙げてツエペリン・デーと化す/三百万の瞳が大空を仰いで/待ちこがれる雄姿!」などと熱く見出しが躍った。』とする。
 しかし、僕がこの詩を愛するのは、第二段の末尾の「いつそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになつてゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになつてはみぬか。」という詩と詩人を巡る存在論の鋭さ故である。そうして第三段末尾の「人間一人々々の顔形の相異は何時からのことなのか、そんなことからの比較に生ずることのすべてはない方がいゝのだ。一つの型から出来た無数のビスケツトの如く、一個の顔は無数の顔となり「友人」なることの見わけもつかぬことにはならぬものか。そして、友情による人と人の差別も、恋愛などといふしみつたれた感情もあり得ぬことゝなつてしまふのがよいのだ。 」の思い切った「ノン!」の拒絶の小気味よさ故である――しかしそれはまさに「全くの住所不定へ。さらにその次へ。」(「詩集「障子のある家」の「自序」より)という強烈な覚悟の中にある凄絶な小気味よさであることを忘れてはならないのだが――。
 最後に、本篇の原題が「障子のある家」のエピグラム的巻頭の一行「あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)」であることは、本詩がこの「詩集」に持つ重要な位置を再検討すべきことを示唆している。]

    俺は自分の顔が見られなくなつた

 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を、今年は銭がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も俺に話かけてゐたのではないかつたか。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと気がついたのだ、そして、自分にそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計ぐらひはわざわざネヂを巻くまでもなく俺がとまれといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も新聞には俺のことを何も書いてはゐない。そして、何が「これならば」なのか、俺は尾形という印を両方の掌に押してゐたのだつた。

(旗魚6号 昭和5(1930)年5月発行)

[やぶちゃん注:二箇所の「ほんとう」「言へきれなくなつて」「位ひは」はママ。「舌めて」は「舐(な)めて」と読ませるつもりであろう。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「印」と改題されて、以下のように改稿されている。

    印

 屋根につもつた五寸の雪が、陽あたりがわるく、三日もかゝつて音をたてゝ桶をつたつてとけた。庭の椿の枝にくゝりつけて置いた造花の椿が、雪で糊がへげて落ちてゐた。雪が降ると街中を飲み歩きたがる習癖を、今年は銭がちつともないといふ理由で、障子の穴などをつくろつて、火鉢の炭団をつゝいて坐つてゐたのだ。私がたつた一人で一日部屋の中にゐたのだから、誰も私に話かけてゐたのではない。それなのになんといふ迂濶なことだ。私は、何かといふとすぐ新聞などに馬車になんか乗つたりした幅の広い写真などの出る人を、ほんとうはこの私である筈なのがどうしたことかで取り違へられてしまつてゐるのでは、なかなか容易ならぬことだと気がついて、自分でそんなことがあり得ないとは言へきれなくなつて、どうすればよいのかと色々思案をしたり、そんなことが事実であれば自分といふものが何処にもゐないことになつてしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
 水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計位ひはわざわざネヂを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんとうはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。私はつまらなくなつてゐた。気がつくと、私は尾形といふ印を両方の掌に押してゐた。ちり紙を舐めてこすると、そこは赤くなつた。

この篇、尾形亀之助を人口に膾炙させた1975年刊の思潮社現代詩文庫版「尾形亀之助詩集」を見ると、「ネジ」となっていたり、「ちり紙を舌めて」で「舌」の右にママ表記があったりと、有意な相当な相違点が認められる。現代詩文庫版は旧尾形亀之助全集を元にしていると思われるが、とりあえず私は現新全集を信じておく。]

    貧乏第一課

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽虫が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が青いのかも不思議なことになつた。縁側に出て何をするのだつたか、縁側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も縁側に干した蒲団の上にそのまゝ寝そべつてゐたのだ。
 私が寝そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて来た。何か土産物をもらつて礼を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。
 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。私は月末の仕払いを今月も出来ぬのだ。

(詩神一巻五号 昭和4(1929)年5月発行)

[やぶちゃん注:「お可笑しくなつた」はママ。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」に所収される際、「第一課 貧乏」と改題されて、以下のように改稿されている。

    第一課 貧乏

 太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽虫が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が青いのかも不思議なことになつた。縁側に出て何をするのだつたか、縁側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も縁側に干した蒲団の上にそのまゝ寝そべつてゐたのだ。
 私が寝そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づねて来た。何か土産物をもらつて礼を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。
 雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で雞も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお可笑しくなつた。

改題以外は最終一文の削除のみである。]

    父と母と、二人の子供へおくる手紙

 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことらしい。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるよりほかないのならそれもしかたがないが、人間の子とはいつたい何なのでだらう。何をしに生れて来るのか。親達のまねをしにならばわざわざ出かけて来る必要もないではないだらうではないか。しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか。それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのか。全く、顔が似てゐるからの、「親子」でもあるまいではないか。又、人間が、その文化を進めるために次々に生れて来るのなら、今こそそのうけつぎをしている俺達は人間の何なのだ。遺伝とは何のことなのだ。物を食つてそれがうまいなどといふことも、やがては死んでしまふことにきまつてゐるといふ人間のために何になることだ。俺達に興奮があるなどとは、人間といふものが何かにたぶらかされてゐるのではなくてなんだ。俺達は先づ「帽子」だなどといふ、眼に見えて何にもならない感情を馬鹿げたこととして捨ててしまはふではないか。

(桐の花9号 昭和5(1930)年4月発行)

[やぶちゃん注:末尾「捨ててしまはふ」はママ。本篇は、後の昭和5(1930)年8月に完成した第三詩集私家版「障子のある家」には末尾に「後記」があり、そこには「泉ちゃんと猟坊へ」という文章に続いて「父と母へ」という標題の文章が続く。その前半は以下のように本篇とかなり一致するが、後半は大きく異なる。なお、断っておくが、以上は「父と母と、二人の子供へおくる手紙」標題の詩の全篇である点に注意したい。

    父と母へ

 さよなら。なんとなくお気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就てたいして自信がないのです。
 人間に人間の子供が生れてくるといふ習慣は、あまり古いのでいますぐといつてはどうにもならないことなのでせう。又、人間の子は人間だといふ理屈にあてはめられてゐて、人間になるより外ないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいつたい何なのでせう。何をしに生れて来るのか、唯親達のまねをしにわざわざ出かけてくるのならそんな必要もないではないでせうか。しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るといふことは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいふ意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれる為にとでもいふことなのでせうか。だが、たぶんこんなことを考へた私がわるいのでせう。又、「親子」といふものが、あまり特種関係に置かれてゐることもわるいのでせう。――私はやがて自分の満足する位置にゐて仕事が出来るやうにと考へ決して出来ないことではないと信じてゐました。そのことを私は偉くなると言葉であなたに言つて来たのですが、私はそれらのことを三四年前から考へないやうになり最近は完全に捨てゝしまひました。私の言葉をそのまゝでないまでもいくらかはさうなるのかも知れないと思はせたことは詫びて許していたゞかなければなりません。

「父と母と、二人の子供へおくる手紙」は詩としての技巧を残しているが、障子のある家」版は最早、遺書として書き直されて、その本質は他者の批評の埒外にあると言ってよい。そしてその一語一語の透明さと平静な魂――消極的自死へ向けての意志――に私は驚愕する。]

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