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2009/05/25

上海游記 四 第一瞥(下)

       四 第一瞥(下)

 カツフエ・パリジアンを引き上げたら、もう廣い往來にも、人通りが稀になつてゐた。その癖時計を出して見ると、十一時がいくらも廻つてゐない。存外上海の町は早寢である。

 但しあの恐るべき車屋だけは、未に何人もうろついてゐる。さうして我我の姿を見ると、必何とか言葉をかける。私は晝間村田君に、不要(プヤオ)と云ふ支那語を教はつてゐた。不要(プヤオ)は勿論いらんの意である。だから私は車屋さへ見れば、忽惡魔拂ひの呪文のやうに、不要(プヤオ)不要(プヤオ)を連發した。これが私の口から出た、記念すべき最初の支那語である。如何に私が欣欣然と、この言葉を車屋へ抛(はふ)りつけたか、その間の消息がわからない讀者は、きつと一度も外國語を習つた經驗がないに違ひない。

 我我は靴音を響かせながら、靜かな往來を歩いて行つた。その往來の右左には、三階四階の煉瓦建(れんがだて)が、星だらけの空を塞ぐ事がある。さうかと思ふと街燈の光が、筆太に大きな「當(たう)」の字を書いた質屋の白壁を見せる事もある。或時は又歩道の丁度眞上に、女醫生何とかの招牌(せうはい)がぶら下つてゐる所も通れば、漆喰の剥げた塀か何かに、南洋煙草の廣告びらが貼りつけてある所も通つた。が、いくら歩いて行つても、容易に私の旅館へ來ない。その内に私はアニセツトの崇りか、喉が渇いてたまらなくなつた。

 「おい、何か飮む所はないかな。僕は莫迦に喉が渇くんだが。」

 「すぐ其處にカツフエが一軒ある。もう少しの辛抱だ。」

 五分の後我我兩人は、冷たい曹達(ソオダ)を飮みながら、小さな卓子に坐つてゐた。

 このカツフエはパリジアンなぞより、餘程下等な所らしい。桃色に塗つた壁の側には、髮を分けた支那の少年が、大きなピアノを叩いてゐる。それからカツフエのまん中には、英吉利の水兵が三四人、頰紅の濃い女たちを相手に、だらしのない舞蹈を續けてゐる。最後に入口の硝子戸の側には、薔薇の花を賣る支那の婆さんが、私に不要(プヤオ)を食(く)はされた後、ぼんやり舞蹈を眺めてゐる。私は何だか畫入(ゑいり)新聞の插畫(さしゑ)でも見るやうな心もちになつた。畫(ゑ)の題は勿論「上海」である。

 其處へ外から五六人、同じやうな水兵仲間が、一時(じ)にどやどやはいつて來た。この時一番莫迦を見たのは、戸口に立つてゐた婆さんである。婆さんは醉ぱらひの水兵連が、亂暴に戸を押し開ける途端、腕にかけた籠を落してしまつた。しかも當の水兵連は、そんな事にかまふ所ぢやない。もう踊つてゐた連中と一しよの氣違ひのやうにとち狂つてゐる。婆さんはぶつぶつ云ひながら、床に落ちた薔薇を拾ひ出した。が、それさへ拾つてゐる内には、水兵たちの靴に踏みにじられる。

 「行かうか?」

 ジヨオンズは辟易したやうに、ぬつと大きな體を起した。

 「行かう。」

 私もすぐに立ち上つた。が、我我の足もとには、點點と薔薇が散亂してゐる。私は戸口へ足を向けながら、ドオミエの繪を思ひ出した。

 「おい、人生はね。」

 ジヨオンズは婆さんの籠の中へ、銀貨を一つ抛りこんでから、私の方へ振返つた。

 「人生は、――何だい?」

 「人生は薔薇を撒き散らした路であるさ。」

 我我はカツフエの外へ出た。其處には不相變黄包車(ワンパオツオ)が何臺か客を待つてゐる。それが我我の姿を見ると、我勝ちに四方から駈けつけて來た。車屋はもとより不要(プヤオ)である。が、この時私は彼等の外にも、もう一人別な厄介者がついて來たのを發見した。我我の側には、何時の間にか、あの花賣りの婆さんが、くどくどと何かしやべりながら、乞食のやうに手を出してゐる。婆さんは銀貨を貰つた上にも、また我我の財布の口を開けさせる心算(つもり)でゐるらしい。私はこんな欲張りに賣られる、美しい薔薇が氣の毒になつた。この圖圖しい婆さんと、晝間乘つた馬車の馭者と、――これは何も上海の第一瞥に限つた事ぢやない。殘念ながら同時に又、確に支那の第一瞥であつた。

[やぶちゃん注:

・「不要(プヤオ)」“búyào”。

・「欣欣然と」(形容動詞・タリ活用・連用形)如何にも嬉しそうなさま。

・「當」は“dàng”(通常、我々が使用する「当」の意味の場合は本来は“dāng”)で、日本で言う「質」「質種(ぐさ)」「質の代(かた)」「質に入れる」「質ぐさにする」「抵当」の意。

・「招牌」“zhāopái”看板。

・「南洋煙草」当時、中国国産煙草会社の一つ、南洋煙草公司を指すものと思われる。但し、この会社は香港に本拠を置いており、二重国籍の会社であった。当時、中国全体の煙草のシェアのほとんどは英米トラスト煙草会社によって占められていた。

・「畫入新聞の插畫」上海では19世紀末発行されていた絵入り新聞『点石斎画報』が面白く有名だが、ここで芥川が言うのは、現在の日本の新聞のルーツである、明治初期の、絵入りで実話や奇談を載せた大衆向け新聞を指している。だから、この想像の絵のタッチは月岡芳年や河鍋暁斎辺りをイメージすべきであろう。

・「ドオミエ」19世紀フランスの風刺画家Honoré-Victorin Daumierオノレ・ドーミエ(18081879)。ウィキの「オノレ・ドーミエ」によれば当時の『フランスはジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数創刊されたが、識字率のさほど高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きかった。この頃、挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊したシャルル・フィリポンという人物がいた。彼は版画家としてのドーミエの才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用した。当時のフランスは7月革命(1830年)で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にあったが、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で一世を風靡した』とある。

・「黄包車」“huáng bāo chē”。黄色い覆いをかけたことから言う。因みに、戦前に来日したアインシュタインが憤慨した、この『非人道的な』(私はそうは思わないが)人力車なるものは明治初期の日本がルーツで、中国には1919年頃に入って爆発的に流行した。1949年以降、中国共産党の指示により廃止されている。]

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