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2009/05/24

上海游記 三 第一瞥(中)

やぶちゃんの前口上

この連載を楽しみにしているという女性の読者から、次はまだですか、と催促メールを頂戴した。誰か一人でもこうした読者がいると、電子テクスト作り冥利に尽きるというものである。この一週間、僕も決してサボっていた訳ではない(中間試験作りのために思うように進捗しなかったという事実や、昨日はずっと望んでいた文楽「日高川入相花王」を見てノック・アウトされたという理由はあるのだが)。何より、ここに登場するトーマス・ジョーンズが大いに気になりだしてしまったのである。今回、彼女のご期待に応えうるだけの注になっていると思う。そうして、今日はその彼女のためにも、新しい芥川龍之介の作品をこれから公開しようと目論んでいる。ご期待あれかし!

 

 

     三 第一瞥(中)

 その晩私はジヨオンズ君と一しよに、シエツフアアドといふ料理屋へ飯を食ひに行つた。此處は壁でも食卓でも、一と通り愉快に出來上つてゐる。給仕は悉(ことごとく)支那人だが、隣近所の客の中には黄色い顏は見えない。料理も郵船會社の船に比べると、三割方は確に上等である。私は多少ジヨオンズ君を相手に、イエスとかノオとか英語をしやべるのが、愉快なやうな心もちになつた。

 ジョオンズ君は悠悠と、南京米(なんきんまい)のカリイを平げながら、いろいろ別後の話をした。その中の一にこんな話がある。何でも或晩ジヨオンズ君が、――やつぱり君(くん)附(づ)けにしてゐたのぢや、何だか友だちらしい心もちがしない。彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である。私はその五年間、(一度喧嘩をした事はあるが)始終彼と親しくしてゐた。一しよに歌舞伎座の立ち見をした事もある。鎌倉の海を泳いだ事もある。殆夜中(よぢゆう)上野の茶屋に、盃盤狼藉をしてゐた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其處の池へ飛込んだりした。その彼を君などと奉つてゐちや、誰よりも彼にすまないかも知れない。次手(ついで)にもう一つ斷つて置くが、私が彼と親しいのは、彼の日本語が達者だからである。私の英語がうまいからぢやない。――何でも或晩そのジヨオンズが、何處かのカツフエへ酒を飮みに行つたら、日本の給仕女がたつた一人、ぼんやり椅子に腰をかけてゐた。彼は日頃口癖のやうに支那は彼の道樂(ホツビイ)だが日本は彼の情熱(パツシヨン)だと呼號(こがう)してゐる男である。殊に當時は上海へ引越し立てだつたさうだから、餘計日本の思ひ出が懷しかつたのに違びない。彼は日本語を使ひながら、すぐにその給仕へ話しかけた。「何時上海へ來ましたか?」「昨日來たばかりでございます。」「ぢや日本へ歸りたくはありませんか?」給仕は彼にかう云はれると、急に涙ぐんだ聲を出した。「歸りたいわ。」ジヨオンズは英語をしやべる合ひ間に、この「歸りたいわ」を繰返した。さうしてにやにや笑ひ出した。「僕もさう云はれた時には、Awfully sentimentになつたつけ。」

 我我は食事をすませた後(のち)、賑かな四馬路(まろ)を散歩した。それからカツフエ・パリジアンヘ、ちよいと舞蹈を覗きに行つた。

 舞蹈場は可也廣い。が、管絃樂(オオケストラ)の音と一しよに、電燈の光が青くなつたり赤くなつたりする工合は如何にも淺草によく似てゐる。唯その管絃樂(オオケストラ)の巧拙になると、到底淺草は問題にならない。其處だけはいくら上海でも、さすがに西洋人の舞蹈場である。

 我我は隅の卓子(テエブル)に、アニセツトの盃を舐めながら、眞赤な着物を着たフイリツビンの少女や、背廣を一着(いつちやく)した亞米利加の青年が、愉快さうに踊るのを見物した。ホイツトマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとつた男女の美しさは、又格別だとか云ふのがある。私はどちらも同じやうに、肥つた英吉利の老人夫婦が、私の前へ踊つて來た時、成程とこの詩を思ひ浮べた。が、ジヨオンズにさう云つたら、折角の私の詠嘆も、ふふんと一笑に付せられてしまつた。彼は老夫婦の舞踏を見ると、その肥れると瘦せたるとを問はず、吹き出したい誘惑を感ずるのださうである。

[やぶちゃん注:

・「やつぱり君附けにしてゐたのぢや、何だか友だちらしい心もちがしない。……」以下に語られているThomas Jonesと芥川の交流について、少し辿ってみたい。Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大学)で英語を教えた。

 まず、彼等の最初の出逢いであるが、これはジョーンズをモデルとした「彼 第二」の「一」の初対面のシーンで「それは二人とも數へ年にすれば、二十五になつた冬のことだつた。」とあるので、大正5(1916)年の冬と考えられる(当時の芥川は大学を7月に卒業、12月1日に海軍機関学校教授嘱託となって、同時に塚本文と婚約している)。

 大正8(1919)年3月15日に、既にロイター記者となっていた彼と築地の待合に芸者を揚げて十時頃まで夕宴を開いている。これが現在の種々の芥川龍之介年譜上の彼の初出である。因みに、この日の細かなデータが分るのは芥川の「點鬼簿」の「三」にそのシーンが描かれているからである(芥川は、この夕宴の直後に実父新原敏三の危篤の報を受け、病院に向かう。死に目に逢え、翌16日に敏三は息を引き取っている)。

 その後、芥川龍之介は海軍機関学校を退職、純粋な作家生活に入った。その直後大正8(1919)年の芥川の日記である「我鬼窟日録」には、ジョーンズ関連の記載が以下のように現れる(以下は私が纏めたもので記載そのものではない)。

5月29

ロイター通信社にジョーンズを訪ねるも不在。

6月11

ジョーンズと東洋軒にて夕食(推定)をとる。

9月21

久保田万太郎・南部修太郎・佐佐木茂索・ジョーンズらが我鬼窟に来訪。その後に皆でそばを食いに出た。その店「更科」で燗酒を注文したところ、徳利から蚊が浮いて出た。『ジヨオンズ洒落て曰、この酒を蚊帳で漉して來て下さい』と言った。

9月24

久米正雄を訪問し、その夜のジョーンズのロイター社上海特派員転任送別の会の打ち合わせをする。夜、久米・成瀬正一と三人で鶯谷の茶屋「伊香保」にジョーンズ送別の宴を開いた。

因みに、その送別会の折の写真はよく知られるものである。

 「彼 第二」「我鬼窟日録」以外にも、芥川龍之介の作品では、松岡譲の洋行を見送る「出帆」、「江南游記」「北京日記抄」にもジョーンズは本名で登場している。

 彼の日本語力は驚異的で、山田氏によれば、『來日一年間で日本の小學校教科書十二册を讀破し、後には古事記まで讀もようになっていた。障子一つ隔てて聞くと日本の友人と話しているのが、まるで日本人同士の會話のようで、隨分しゃれを連發して、日本人を面食らわせたらしい』とある。

 ジョーンズは歌や絵の素養もあった(歌については後注「オペラ役者にでもなつてゐれば」を参照)。風景のスケッチをよくし、北斎や芳年の浮世絵を蒐集した。長岡擴氏が独自に編集していたクラウン・リーダーの編纂を手伝った折も、表紙や挿絵を彼が担当した(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。後年、彼の妹メーベル(次注参照)の娘あやめが、沖繩の壷屋焼きを修行していた頃に出会った陶芸家濱田庄司が、彼女の伯父ジョーンズのことを「絵の上手な新聞記者がいた」と語ったという逸話がそれを物語る(山田清一郎「古きよき時代のこと」)。

 しかしジョーンズは33歳の若さで天然痘に罹患し、上海で客死、同所の静安寺路にある外人墓地に埋葬された(山田「古きよき時代のこと」)。ジョーンズ一家は種痘をしない主義であったそうである(長岡「トーマス・ジョーンズさんのこと」)。

・「殆夜中上野の茶屋に、盃盤狼藉をしてゐた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其處の池へ飛込んだりした」については、岩波版旧全集の第七巻月報に所収する長岡光一氏の「トーマス・ジョーンズさんのこと」によれば(光一氏の父君長岡擴氏は大蔵商業(現・東京経済大学)の英語教師でジョーンズを自宅に下宿させていた)、『ジョーンズさんは音楽にもすぐれた才能のある人で、とても聲がよく、スコットランドやアイルランドの古い民謠とか、ギルバート・サリバンの「ミカド」や「軍艦ピナフォア」などオペラの有名なメロディを唄ってきかせてくれた。私たち兄妹が西洋音樂好きになったのは、全く彼のお蔭であるといってよい。その頃在留外人素人劇團が、帝劇で歌劇「キスメット」の公演をした時も、ジョーンズさんは、そのよい聲で人々を祈禱に誘う歌を唄う役で出演されたことを覚えている』に続けて、『芥川さんやその仲間との交遊も急速に進んでいた樣子で、私が後年芥川の上海紀行か何かで讀んだジョーンズさんが、久米正雄の一張羅の仙臺平の袴をはいて上野料亭の泉水に飛び込んだのもこの頃のことではないかと思われる』とある。長岡氏はこの前の部分でこの時期を、ジョーンズが下宿していた自宅が転居した大正6(1917)年~大正7(1918)年頃と推定しておられるようである。ここで気になるのは、その根拠を、大正8(1919)年にはジョーンズは長岡家を出て、『麻布三の橋近くのペンキ塗りの洋館に移り、慶應で教えていたヒュウエルさんと一緒に住んでいたが、間もなくロイテル通信社に入社し、上海支局に行かれた』からと記しておられる点である。この記載だと、ジョーンズは、来日後、上海に行くまで、日本を離れていないかのように読めるのである。しかし、芥川龍之介の「彼 第二」では、「彼」は一度、イギリスへ戻っている(「二三年ぶりに日本に住むこととなつた」)し、ここでも芥川は『彼は前後五年間、日本に住んでゐた英吉利人である』(下線部やぶちゃん)としている。だが、長岡氏は大正4(1915)年の来日は、『新橋驛まで出迎え』『六本木の家について、二階で皆と話をしている時、雷鳴と夕立が上って遠くに青空がみえたと記憶しているから多分夏のころであったと思う』としており、そうすると上海へ渡航したと思われる大正8(1919)年9月中下旬までは、4年強にしかならない。識者の御教授を乞うものである。

・「シエツフアアド」は“shepherd”で、名詞としては羊飼い、保護者・牧師・教師、牧羊犬、ここではとりあえず“sheep dog”の意味であろう。しかし店名で“S”が大文字になっていれば、それは“the (Good) Shepherd”で、イエス・キリストをも匂わせる名前である。芥川の意識はそこまで働いているのではあるまいか。

・「南京米」は、インドシナ・タイ・ベトナム・中国等から輸入するインディカ米を、嘗てはこう呼称した。

・「Awfully sentiment」は、「とっても感傷的」の意。

・「アニセツト」は、“anisette”アニゼット酒で、リキュールの一種。スピリッツにアニス・コリアンダー・シナモン等のハーブやスパイスを配合し、オレンジピールなどを加えて蒸留後、スピリッツとシロップ・水などを加えたもの。カクテルの素材ともなる。無色透明・甘口で香りが強い。酒精度25%前後。1755年にボルドーでマリー・ブリザール社によって売り出された。

・「四馬路」の「馬路」は北京語で「マールー」、上海語で「モル」、現代中国語で「道路」という意であるが、現在の上海人民公園は旧上海租界の競馬場であったため、この周辺の道は日々馬の調教のための散歩に使用された。そのためこの界隈の比較的大きな道を「馬路」と呼ばれるようになったとも言われる。「四」はこの競馬場の北に位側にある南京東路・九江路・漢口路・福州路の4本の通りが、当時は最北から順に「大馬路(タモル)」「二馬路(ニモル)」「三馬路(セモル)」「四馬路(スモル)」と上海語で呼ばれたことによるとする。現在、福州路は書店・文房具店・ギャラリーが立ち並ぶが、租界の頃は遊郭域であったらしい。因みに、「二馬路」の発音が「リャンモル」でなく「ニモル」なのは、上海語の古語では日本語と同じく「二」が「ニ」の発音であったからで、今でもたまに使われるそうである(以上は、個人サイト「私の上海遊歩人」の「四馬路(スマル)って、なあに?」を参照にさせて頂いた)。

・「ホイツトマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとつた男女の美しさは、又格別だとか云ふのがある」は、恐らくWalt Whitman18191892)の“LEAVES OF GRASS”の以下の詩を言う。

  BEAUTIFUL WOMEN.

Women sit, or move to and fro — some old,

      some young.

The young are beautiful; but the old are more

      beautiful than the young.

○やぶちゃん訳

 美しき女性

女は今に在りながら、同時に時間(とき)を越えて行き交いつつ、生きる――

時に年老いた彼方へと、時に若き日のあの時間(とき)へと。

若いことは美しい――しかし、年老いていることは

若くあることよりも、もっと、美しい。

なお、別の英文サイトでは、

 77. Beautiful Women

WOMEN sit, or move to and fro—some old, some young;

The young are beautiful—but the old are more beautiful than the young.

とあるが、詩としての視覚上の印象は、前者が好ましいように思われる。]

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