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2009/05/17

上海游記 一 海上

元日に約束した芥川龍之介の中国紀行群の電子テクスト化に踏み切ることとする。まずは「上海游記」から。現在のところ、ネット上には本篇のテクストは存在しない。オリジナルの注を附す。

なお、本紀行群には多くの差別的言辞や視点が見受けられる。明白に芥川は当時の中国を見下している。「六 城内」では『支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから』といった言い方さえしている。最も眼に触るのは「支那」という呼称であるが、当時は正に見下した呼称として一般なものであり、時には芥川はそこにある種の敬愛する文化的な香気をも込めている部分もあるように思われはする。としても不快な響きである。職業差別も顕著に現れる。芥川及び当時の一般的日本人の限界に対して、批判的視点を失わずにお読み頂きたい。少なくとも「支那」を「支那」と言って何が悪いと公言して憚らない、男根で障子を破って文学だと思っているお下劣な現代の首都の為政者の非文学的低能さに比すれば、ここにいる芥川は、少なくとも『本物の作家』であると、僕は思う。

纏まって読めるように、ブログ・カテゴリに『芥川龍之介「上海游記』も設けた。

 

 

上海游記   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正101921)年8月17日~9月21日の期間の中で、21回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊及び『東京日日新聞』に連載され、後に『支那游記』(本作を巻頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」で構成)に所収された。第十五回~第十七回の「南國の美人」は、これのみ単独で『沙羅の花』にも再録している。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私の注を附した。]

 

上海游記

 

      一 海 上

 愈(いよいよ)東京を立つと云ふ日に、長野草風氏が話しに來た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算ださうである。その時長野氏は深切にも船醉ひの妙藥を教へてくれた。が、門司から船に乘れば、二晝夜經つか經たない内に、すぐもう上海(シヤンハイ)へ着いてしまふ。高が二晝夜ばかりの航海に、船醉ひの藥なぞを携帶するやうぢや、長野氏の臆病も知るべしである。――かう思つた私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯(げんてい)に登る時にも、雨風に浪立つた港内を見ながら、再びわが長野草風畫伯の海に怯(けふ)なる事を氣の毒に思つた。

 處が故人を輕蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に當つた馬杉(ますぎ)君と、上甲板の籐椅子に腰をかけてゐると、舷側にぶつかる浪の水沫(しぶき)が、時時頭の上へも降りかかつて來る。海は勿論まつ白になつて、底が轟轟煮え返つてゐる。その向うに何處かの島の影が、ぼんやり浮んで來たと思つたら、それは九州の本土だつた。が、舶に慣れてゐる馬杉君は、卷煙草の煙を吐き出しながら、一向弱つたらしい氣色も見せない。私は外套の襟を立てて、ポケツトヘ兩手を突つこんで、時時仁丹を口に含んで、――要するに長野草風氏が船醉ひの藥を用意したのは、賢明な處置だと感服してゐた。

 その内に隣の馬杉君は、バアか何處かへ行つてしまつた。私はやはり悠悠と、籐椅子に腰を下してゐる。はた眼には悠悠と構へてゐても、頭の中の不安はそんなものぢやない。少しでも體を動かしたが最後、すぐに目まひがしさうになる。その上どうやら胃袋の中も、穩かならない氣がし出した。私の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往來してゐる。(これは後に發見した事だが、彼も亦實は憐れむべき船醉ひ患者の一人だつたのである。)その目まぐるしい往來も、私には妙に不愉快だつた。それから又向うの浪の中には、細い煙を擧げたトロオル船が、殆(ほとんど)船體も沒しないばかりに、際どい行進を續けてゐる。一體何の必要があつて、あんなに大浪をかぶつて行くのだか、その船も當時の私には、業腹で仕方がなかつたものである。

 だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるやうな、愉快な事許り考へようとした。子供、草花、渦福(うずふく)の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、後は何だつたか覺えてゐない。いや、まだある。何でもワグネルは若い時に、英吉利へ渡る航海中、ひどい暴風雨に過つたさうである。さうしてその時の經驗が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役(たいやく)を勤めたさうである。そんな事もいろいろ考へて見たが、頭は益(ますます)ふらついて來る。胸のむかつくのも癒りさうぢやない。とうとうしまひにはワグネルなぞは、犬にでも食はれろと云ふ氣になつた。

 十分ばかり經つた後、寢床(バアス)に横になつた私の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。しかし私は強情に、胃の中の物が出さうになるのを抑へつけるのに苦心してゐた。この際これだけの勇氣が出たのは、事によると船醉ひに羅つたのは、私一人ぢやないかと云ふ懸念があつたおかげである。虚榮心なぞと云ふものも、かう云ふ時には思ひの外、武士道の代用を勤めるらしい。

 處(ところ)が翌朝になつて見ると、少くとも一等船客だけは、いづれも船に醉つた結果、唯一人の亞米利加人の外は、食堂へも出ずにしまつたさうである。が、その非凡なる亞米利加人だけは、食後も獨り船のサロンに、タイプライタアを叩いてゐたさうである。私はその話を聞かされると、急に心もちが陽氣になつた。同時にその又亞米利加人が、怪物のやうな氣がし出した。實際あんなしけに遇つても、泰然自若としてゐるなぞは、人間以上の離れ業である。或はあの亞米利加人も、體格檢査をやつて見たら、齒が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えてゐるとか、意外な事實が見つかるかも知れない。――私は不相變(あひかはらず)馬杉君と、甲板の籐椅子に腰をかけながら、そんな空想を逞しくした。海は昨日荒れた事も、もうけろりと忘れたやうに、蒼蒼(あをあを)と和んだ右舷の向うへ、濟州島の影を横へてゐる。

[やぶちゃん注:横須賀海軍機関学校英語教授嘱託に嫌気がさしていた芥川龍之介は、現職のまま、結婚による経済的安定を図るために小説家として大阪毎日新聞社社友となっていた(大正7(1918)年2月)が、その後、正式な社員として採用を依頼、大正8(1919)年2月内定、3月3日に同時採用を依頼していた菊池寛と共に正社員として採用された(同月31日に機関学校を退職)。その後、既に文壇の寵児となっていた芥川は、各種団体からの依頼が相次ぎ、国内を講演旅行することが多くなった。また芥川自身、大正7年頃の段階で、友人に手紙で中国上海での生活費等を問い合わせるなど、自律的にも中国行への希望があったため、大阪毎日はそうした芥川に、大正101921)年2月21日、大阪本社に招聘、正式な海外視察員として、3月下旬から3~4箇月の中国特派の提案をする。勿論、芥川は二つ返事でこれを承諾した(そこには大正8(1919)年9月に出会い、肉体関係にも及びながら、既に生理的に嫌悪の対象とさえなっていた不倫相手秀しげ子からの逃避という理由も隠れていたものと思われる)。国際化の新時代の中国像を芥川の巧妙な冴えたペンでアップ・トゥ・デイトに描き出させようというのが大阪毎日の目論見であったが、芥川は旅行中、病気等もあって新聞への逐次連載を全く果たせず、帰国後のこれらの文学者としての芥川らしい鋭い視線を持った紀行文も、列強を凌駕せんとするアジアの領袖たる日本人の冷徹な視線を期待した新聞社の意に沿うものとはならなかった。芥川自身にとっても、この旅に纏わる肉体的・精神的疲弊が自死の遠因の一つであったとも言えるかも知れない。本紀行群は後世の芥川研究の中でもその評価は全体に低いが(私も大学二年の時に手に入れた旧全集を通読して、当時の日記にこれらの中国紀行を指して「芥川は唯一拭い難い汚点を残してしまっている」と記している)、近年、これらの紀行の再評価の機運は著しく、必ずしも好意的な内容とはいえない現代中国にあっても、本作が読み直されている事実は注目に値する。私もそうした新しい視点から本作を、再度、読み直してみたいと思う。

・「東京を立つと云ふ日」大正101921)年3月19日、東京発午後5時半の列車で門司に向かった。この時は21日出航の「熊野丸」への乗船を予定していたのだが、実際には車中で出発前に罹患していた風邪が悪化し発熱、急遽、翌日、大阪で下車、大阪毎日の学芸部長であった薄田泣菫の世話で27日まで一週間、旅館で療養した。この旅行には、病気が終始付き纏うこととなる。

・「長野草風」明治181885)~昭和241949)年。日本画家。川合玉堂に師事、安田靫彦・今村紫紅らと紅児会に加わった。日本美術院同人。この後、大正121923)年と大正141925)年の二度に亙って中国に遊学している。

・「三月二十一日の午後、筑後丸」これは「東京を立つと云ふ日」の注と合わせればお分かりのように、既に彼の仮構が働いている。これは当初の予定の期日であり、実際に筑後丸に乗船したのは3月28日であった。なお、27日に大阪を出発した芥川は、門司で再び感冒をぶり返している。後年、彼は「侏儒の言葉――病牀雜記――」の「三」で、以下のようにこの時の情けなさを記す。

 三、旅に病めることは珍らしからず。(今度も輕井澤の寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは丁度支那へ渡らんとせる前、下の關の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が風邪なれど、東京、大阪、下の關と三度目のぶり返しなれば、存外熱も容易には下らず、おまけに手足にはピリン疹を生じたれば、女中などは少くとも梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の一人、僕を憐んで曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」

   東雲(しののめ)の煤ふる中や下の關

ここで芥川は冗談で仲居の言った「梅毒」のエピソードを挙げている。しかし、これもこの中国行の後に「恐れ」として芥川の精神に暗い影を落とすこととなる病名なのである(「十二 西洋」注参照)。「筑後丸」は日本郵船会社所属(但し、国産ではなくイギリスからの輸入船)。三輪祐児氏のHP「■近代化遺産ルネッサンス■戦時下に喪われた日本の商船」「筑後丸」のページには、写真とデータに加えて、何と本「上海游記」の記載があり、この大正10(1921)年からこの筑後丸が昭和17(1942)年11月3日に潜水艦の雷撃によって撃沈するまでの約20年が走馬灯のように印象的に綴られている。必読の一篇である。「舷梯」はタラップ、ボーデイング・ブリッジのこと。


・「馬杉君」不詳。その後にも登場しないことから、同行した大阪毎日関係者ではないと思われる。正に本文にある通り、「同じ船室に當つた」に過ぎない日本人旅行者かビジネスマンであろう。

・「仁丹」森下仁丹の口中清涼剤である仁丹は、明治381905)年に懐中薬として発売されている。甘草・桂皮(シナモン)・薄荷脳(メントール)等16種の生薬を配合して丸めたもので、当時はベンガラでコーティングされていた。適応症として「乗り物酔い」が挙げられている。

・「渦福の鉢」は陶器の銘の一つで、渦を巻いた印の中に草書体の「福」の字を配したもの。古伊万里の柿右衛門様式にしばしば現れるため、名品の証しとされる。この連想は旅行直前の出来事と関係がある。実は、出発直前の3月16日のこと、芥川家に突如「渦福の鉢」が贈られてきたのであった。これは彼が『新潮』の同3月号に掲載した「點心」の「托氏宗教小説」(「トルストイ宗教小説」の中国語訳)の冒頭で、

 今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。價を尋ねれば十五錢だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八圓五十錢と云ふのに辟易した。が、十五錢の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。[やぶちゃん補注:以下略。上記の僕の電子テクストを参照されたい。]

と書いたのを読んだ、先輩作家田村松魚(たむらしょうぎょ)が「渦福」の茶碗を贈ってよこしたであった。芥川は松魚とは逢ったことがなく、恐縮して同日礼状を認めている。田村松魚(明治101877)年~和231948)年)は幸田露伴の高弟として活躍した作家である。作家田村俊子は彼の元妻である(大正7(1918)年に愛人を追って逃避行)。

・「日本アルプス」は、前年大正9(1920)年7月の『改造』に発表した「槍ケ岳紀行」の連想であろう。研究者や登山家の間には、芥川がこの頃、槍ヶ岳に登山していると思い込んでいる方もいるようであるが(そういう論文やエッセイを読んだことがある)、これは明治421909)年、東京府立第三中学(現・両国高校)5年の17歳の時、同級生ら5人で登攀した際の記録をインスパイアした確信犯的偽作である。

・「初代ぽんた」は、新橋玉の家の名妓初代ぽん太のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のここでの連想は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

辺りを受けるものではなかろうかと思われる。

・「フリイゲンデ・ホルレンデル」“Der fliegende Holländer”は、Wilhelm Richard Wagnerリヒャルト・ワーグナー(18131883)作の歌劇「さまよえるオランダ人」のこと。天罰により呪われ、現世と煉獄の間を行き来し、永遠に死ぬことが出来ずに七つの海を彷徨うオランダ人の幽霊船の北欧神話をモチーフとしたChristian Johann Heinrich Heineハインリッヒ・ハイネ(17971856)の“Aus den Memoiren des Herren von Schnabelewopski”「フォン・シュナーベレヴォプスキイ氏の回想記」という詩にワーグナーがヒントを得て作曲したオペラ。

・「寢床(バアス)」“berth”で、海事用語としては本来は操船余地・停泊位置又は高級船員階級や高級船員室を指すが、ここでは船内の高級船室の1人用の寝台を言う。海軍機関学校の教師であった彼には親しい語であった。

・「齒が三十九枚ある」標準的現代人の歯は上下合わせて28本(第三大臼歯=親知らずを含めると32本)。余分な奇数が悪魔の尻尾である。]

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