フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 江南游記 前置き | トップページ | HP鬼火開設4周年 »

2009/06/25

江南游記 一 車中

       一 車中

 杭州行きの汽車へ乘つてゐたら、車掌が切符を檢(しら)べに來た。この車掌はオリヴ色の洋服に、金筋(きんすぢ)入りの大黑帽をかぶつてゐる。日本の車掌に比べると、何だか敏活な感じがしない。が、勿論さう考へるのは、我我の僻見(へきけん)である。我我は車掌の風采にさへ、我我の定木(ぢやうぎ)を振り回しやすい。ジヨン・ブルは乙に澄まさなければ、紳士でないと思つてゐる。アンクル・サムは金がなければ、紳士でないと思つてゐる。ジャップは、――少くとも紀行文を草する以上、旅愁の涙を落したり、風景の美に見惚れたり、游子(いうし)のポオズをつくらなければ、紳士でないと思つてゐる。我我は如何なる場合でも、かう云ふ僻見に捉はれてはならん。――私はこの悠悠とした車掌が、切符を檢べてゐる間に、かう云ふ僻見論を發表した。尤も支那人の車掌を相手に、気焰を揚げた訣ではない。案内役に同行した、村田烏江君に吹きかけたのである。

 汽車の外は何時まで行つても、菜畑かげんげ野(の)ばかりである。その中に時時羊がゐたり、臼挽き小屋があつたりする。と思ふと大きい水牛も、のそのそ田の畔(くろ)を歩いてゐた。五六日前やはり村田君と、上海の郊外を歩いてゐたら、突然一頭の水牛に路を塞がれた事がある。私は動物園の柵内(さくない)は知らず、目(ま)のあたりこんな怪物に遭遇した事は始めてだから、つい感心した拍子に、ほんの半歩ばかり退却した。すると忽ち村田君に、「臆病だなあ。」と輕蔑された。今日は勿論驚嘆はしない。が、ちよいと珍しかつたから、「君、水牛がゐるぜ。」と云はうとしたが、まあ、泰然と默つてゐる事にした。村田君もきつとあの瞬間は、私も中中支那通になつたと、敬服してゐたに相違ない。

 汽車は一室八人の、小さい部屋に分かれてゐる。尤もこの客室には、我我二人の外誰もゐない。室(しつ)のまん中の卓子(テエブル)の上には、土瓶や茶碗が並べてある。其處へ時時青服の給仕が熱いタオルを持つて來てくれる。乘り心は餘り惡い方ぢやない。但し我我が乘つてゐても、この客車は正に一等である。一等と云へば何時か鎌倉から、ちよいと一等へ乘つた所が、勿體なくも或宮樣と、たつた二人ぎりになつたのには、恐懼の至りに堪へなかつたけ。しかもあの時持つてゐたのは、白切符だつたか赤切符だつたか、其邊も實は確(たしか)ぢやない。………

[やぶちゃん注:芥川が上海を発って西湖に向かったのは大正101921)年5月2日のことである。上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが4月23日であったから、その9日後の未だ病み上がりであった。その後、5月4日の夕刻には上海に戻っているので、2泊3日の小旅行であった。

・「杭州」浙江省の省都。中国八大古都(2004年現在、中国古都学会によって公認された歴史的に重要な首都であった8つの古都。北京・南京・洛陽・西安・開封・杭州・安陽・鄭州)の一つ。古くから江南運河の終着点として発達、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。五代十国の時代には呉越国の首都、南宋時代には事実上の首都であった臨安府が置かれた。市中心部の西に観光の目玉である西湖がある(ウィキの「杭州市」の記載を参照した)。

・「大黑帽」は大黒帽子のこと。七福神の大黒が被っている頭巾に似た、上が平らな丸形で縁のない帽子。明治中期には男性がよく被った。

・「僻見」偏見。「僻」=「辟」=「偏」で、偏(かたよ)るの意。

・「ジヨン・ブル」“John Bull”英国政府又は典型的な英国人を示す架空の人名。また、英国人を揶揄した渾名。イギリスの作家John R. Arbuthnotアーバスノット(1667-1735)の書いた寓話小説“Law Is a Bottomless Pit”(1712)等の一連のジョン・ブルの物語から出た語。これらは、スィフトらと共にイギリスのスペイン継承戦争(17011714)に反対していた彼が、スペイン継承戦争を近所の訴訟合戦に置き換えて揶揄したパンフレット群である。従って“John Bull”はこの話の中では本当にイギリス王国の名前なのである。英語塾の経営者の方のサイトにある「人名を使う慣用句(8)」によれば、ジョン・ブルは当初、『善意と常識に満ちながら不満を抱える、ファッション・センスがないフツーの田舎者。ちょっとビールを一杯やる家庭的な平和を好み、風格があるわけでも英雄的な反骨精神もない男』(コンマを読点に変更した。以下同じ)として描かれたが、『のちにイメージとして描かれるときは、第1次世界大戦の新兵募集のポスターで見られるように、ボタンを外したタキシードと,ユニオンジャックの模様のベストが見えるビール腹。ひざまである半ズボンを履き、low topper と呼ばれる山高帽を被る姿をして』おり、『このイメージは19世紀から20世紀初めの新聞漫画によく登場した』と記されている。

・「アンクル・サム」“Uncle Sam”アメリカ合衆国政府又は典型的なアメリカ人を示す架空の人名。またアメリカ人を揶揄した渾名。United Statesの頭文字をもじったものとされる。前注の「人名を使う慣用句(8)」の、末尾に“John Bull”との対比で掲げられているのを引くと、『米英戦争最中の1813年に John Bull に対抗して作られたキャラクタ』とある。

・「ジャップ」“Jap”日本国又は日本人を軽蔑的に表現する渾名。現在は「日本製の」という意味で必ずしも差別語としては意識されずに使われているらしいが、「支那」と同様、言われる身になれば、使うべき語ではあるまい。

・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「げんげ」マメ目マメ科ゲンゲAstragalus sinicus。緑肥(りょくひ)=草肥(くさごえ)及び牛等の飼料とするため、種を蒔まいて栽培した。根粒菌の働きにより、多量の窒素を根の根粒に固定するため、緑肥として翌春にゲンゲを田畑にそのまま鋤き込んで肥料とした(以上はウィキの「ゲンゲ」を参照した)。

・「水牛」哺乳綱ウシ(偶蹄)目ウシ(反芻)亜目ウシ科スイギュウBubalus arnee。中国はスイギュウの原産地であるアジア(世界のスイギュウの95%が生息)の主要な一国。現在の中国では凡そ2300万頭程度がいるとされる。中国南部では重要な役畜であり、また、その乳加工して用いる順徳料理(広東省仏山市順徳区の地方料理を言う。広東料理の一つ)があり、広く広東料理ではその肉を煮込み料理とする。怒らせるとその巨大な角が凶器となるが、私もベトナムで水牛そのものに乗ったが、極めて温和な性格である(以上は主に複数のウィキの記載を参考にした)。

・「白切符だつたか赤切符だつたか」鳩サブレーでお馴染みの豊島屋のHPのまさにズバリ「鎌倉のなかの大正 その2(白切符 赤切符)」という本注のためにあるようなページから引用させて頂く。『大正の初め、鎌倉には別荘が約四百あり、そのうちの六十が皇族、華族の別邸だった。御用邸のほかに、皇族が三、華族が五十六、――その内訳は公爵七、候爵七、伯爵七、子爵八、男爵二十七だった。これがそのまま反映していたと思えるものに、鎌倉駅の一、二等の乗客数がある。なにしろ鎌倉に自動車が一台しかなかった時代だから、どんな「おえらがた」でも出かけるとなれば、汽車だった。大正五年の統計によれば、鎌倉駅の一等車乗客、いわゆる「白切符」は一万二千八百人、二等の「青切符」が十三万二千九百人である。なお三等の「赤切符」客は五十七万五千四百人だった。いずれも湘南別荘地の各駅よりは格段に多い数字である。当時の駅は現在よりも南にあり、後ろは田と畑ばかりの標準的な田舎の小駅で、上りホームには、下りホームからブリッジを渡らなければならなかった』(ダッシュの長さを変更、一部の誤植を訂正した)。運賃は2等は3等の3倍、1等の運賃は更にその2等運賃の2倍程度あったと考えてよい。等級別に客車の帯の色が異なり、それが切符の色となっていた(但し、1等車両の帯の色は実際には黄色であった)。]

« 江南游記 前置き | トップページ | HP鬼火開設4周年 »