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2009/06/14

上海游記 十八 李人傑氏

       十八 李人傑氏

 

 「村田君と共に李人傑氏を訪(と)ふ。李氏は年未(いまだ)二十八歳、信條よりすれば社會主義者、上海に於ける「若き支那」を代表すべき一人なり。途上電車の窓より、青青たる街路の樹(じゆ)、既に夏を迎へたるを見る。天陰、稀に日色(につしよく)あり。風吹けども塵(じん)を揚げず。」

 これは李氏を訪ねた後、書き留めて置いた手控(てひか)へである。今手帳をあけて見ると、筆の字が、消えかかつたのも少くない。文章は勿論蕪雜(ぶざつ)である。が、當時の心もちは、或はその蕪雜な所に、反つてはつきり出てゐるかも知れない。

 「僮(どう)あり、直に予等を引いて應接室に到る。長方形の卓(たく)一、洋風の椅子二三、卓上に盤あり。陶製の果物を盛る。この梨、この葡萄、この林檎、――この拙(つたな)き自然の摸倣以外に、一も目を慰むべき裝飾なし。然れども室に塵埃(じんあい)を見ず。簡素の氣に滿てるは愉快なり。」

 「數分の後、李人傑氏來る。氏は小づくりの青年なり。やや長き髮。細面。血色は餘り宜しからず。才氣ある眼。小さき手。態度は頗る眞摯なり。その眞摯は同時に又、鋭敏なる神經を想察せしむ。刹那の印象は惡しからず。恰も細(さい)且(かつ)強靭なる時計の彈機(せんまい)に觸れしが如し。卓を隔てて予と相封(あひたい)す。氏は鼠色の大掛兄(タアクワル)を着たり。」

 李氏は東京の大學にゐたから、日本語は流暢を極めてゐる。殊に面倒な理窟なども、はつきり相手に會得(ゑとく)させる事は、私の日本語より上かも知れない。それから手控へには書いてないが、我我の通つた應接室は、二階の梯子が部屋の隅へ、ぢかに根を下した構造だつた。その爲に梯子を下つて來ると、まづ御客には足が見える。李人傑氏の姿にしても、まつさきに見たのは支那靴だつた。私はまだ李氏以外に、如何なる天下の名士と雖も、足からさきへ相見(しようけん)した事はない。

 「李氏云ふ。現代の支那を如何にすべきか? この間題を解決するものは、共和にあらず復辟(ふくへき)にあらず。這般(しやはん)の政治革命が、支那の改造に無力なるは、過去既に之を證し、現在亦之を證す。然らば吾人の努力すべきは、社會革命の一途あるのみと。こは文化運動を宣傳する「若き支那」の思想家が、いづれも呼號する主張なり。李氏又云ふ。社會革命を齎(もたら)さんとせば、プロパガンダに依らざるべからず。この故に吾人(ごじん)は著述するなり。且(かつ)覺醒せる支那の士人は、新しき智識に冷淡ならず。否、智識に餓ゑつつあり。然れどもこの餓を充(みた)すべき書籍雜誌に乏しきを如何。予は君に斷言す。刻下の急務は著述にありと。或は李氏の言の如くならん。現代の支那には民意なし。民意なくんば革命生ぜず。況んやその成功をや。李氏又云ふ。種子は手にあり。唯萬里(ばんり)の荒蕪(くわうぶ)、或は力の及ばざらんを憤る。吾人の肉體、この努に堪ふるや否や、憂ひなきを得ざる所以なりと。言ひ畢つて眉を顰(ひそ)む。予は李氏に同情したり。李氏又云ふ。近時注目すべきものは、支那銀行團の勢力なり。その背後の勢力は問はず、北京政府が支那銀行團に、左右せられんとする傾向あるは、打消し難き事案なるべし。こは必しも悲しむべきにあらず。何となれば吾人の敵は――吾人の砲火を集中すべき的(まと)は、一銀行團に定まればなりと。予云ふ。予は支那の藝術に失望したり。予が眼に入れる小説繪畫、共に未だ談ずるに足らず。然れども支那の現状を見れば、この土に藝術の興隆を期する、期するの寧ろ誤れるに似たり。君に問ふ、プロパガンダの手段以外に、藝術を顧慮する餘裕ありやと。李氏云ふ。無きに近しと。」

 私の手控へはこれだけである。が、李氏の話しぶりは、如何にもきびきびしたものだつた。一しよ行つた村田君が、「あの男は頭が好かもんなあ。」と感歎したのも不思議ぢやない。のみならず李氏は留學中、一二私の小説を讀んだとか何とか云ふ事だつた。これも確に李氏に對する好意を増したのに相違ない。私のやうな君子人でも、小説家などと云ふものは、この位虚榮を求める心が、旺盛に出來上つてゐるものである。

 

[やぶちゃん注:李人傑は李漢俊(1890-1927)の別名。日本に留学、1918年東京帝国大学卒業後、上海で翻訳著述に携わりながら、革命を鼓吹。1920年8月に陳独秀らと上海で共産主義グループを組織、週間雑誌『労働界』を創刊した。1921年7月には中国共産党第1次全国代表大会に参加、創立メンバーの一人となった(後に党は離脱している)。その後、上海大学・武昌中山大学等の教授をし、国民党支配の時代には湖北省政府教育庁長となるが、国民党右派の反共活動には終始抵抗し続けた。辛亥革命失敗後に逮捕・殺害された。享年37歳。解放後、中央人民政府は彼を烈士の列に加えている。芥川は28歳とするが、この時人傑は、31歳である(中文「紅色旅游」以下のページを自己流に読み、参考にした)。

・『「若き支那」』ここで芥川は「少年中国学会」を意識して括弧書きしていると思われる。「少年中国学会」は1918630日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五四運動直後の191971日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。当然のことながら、有意に共産主義を志向する学生が占めていた。但し、李人傑は少年中国学会の会員ではない。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想――共産主義の機運――を包括的に、このように呼んでいると考えてよいが、そこには当然、日本での本篇の検閲を見越しての巧妙なぼかしの意味もある。その証拠に「共産主義」「共産党」の一語だに芥川は本篇に用いていない。また、芥川は「侏儒の言葉」の「支那」の項で、同じ「若き支那」という語句を印象的に用いている(二項あるので、一緒に示す)。

 

       支  那

 

 螢の幼蟲は蝸牛を食ふ時に全然蝸牛を殺してはしまはぬ。いつも新らしい肉を食ふ爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度は畢竟この蝸牛に對する螢の態度と選ぶ所はない。

 

       又

 

 今日の支那の最大の悲劇は無數の國家的羅曼主義者即ち「若き支那」の爲に鐵の如き訓練を與へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

 

なお以上の内、「少年中国学会」については中文事典サイト「百度百科」「少年中国学会」の記載を自己流に読み、参考にしたものである。

・「蕪雜」物事がが乱れて順序立っていないこと。

・「僮」下男。下僕。

・「大掛兄(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「支那靴」これは恐らく現在、老北京靴(“lăoběijīngxié”ラオペイジンシエ)と呼ばれている伝統的な布製の中国靴を指している。靴底には麻糸を縫いこんで補強してある。現物は商業サイト「中国専門店 チャイナ・ウォッチング」「中国靴(カンフーシューズ・ストラップシューズ)中国古典靴(老北京靴・布刺繍靴)」を参照されたい。ここの記載によれば、我々がすぐにイメージするカンフー・シューズは、実は1960年以降の新しいものであることが分かる。

・「復辟」「辟」は君主の意で、通常の用語としては一度退位した君主が再度、位に就くことを言う。復位や重祚と同義であるが、ここでは既に清朝は亡んでおり、李人傑は清の遺臣でも何でもない、それどころか共産主義者であるから、単純に、王政に戻すこと、という意味で用いている。

・「這般」「這」は宋代の俗言で「此」と同義で、これら・この辺・この度・今般の意。芥川は擬古文にあっては好んで用いる語である。

・「支那銀行團の勢力」筑摩版脚注と岩波版注解等を総合すると、中華民国では1906年頃から近代的民間銀行が創設され始めたが、特に1912年以降、諸外国からの借款等により財閥をバックにした銀行が主に首都北京を中心にして多数出現した。しかし、第一次世界大戦から戦後にかけて、これら銀行団は民間の産業支援よりも、専ら政府公債の引き受けや北京政府の軍閥官僚の私的預金に経営の重点を置いていたとする。] 

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