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« 上海游記 十六 南國の美人(中) | トップページ | 上海游記 十八 李人傑氏 »

2009/06/14

上海游記 十七 南國の美人(下)

       十七 南國の美人(下)

 

 「どうです、林黛玉は?」

 彼女が席を去つた後、余氏は私にかう尋ねた。

 「女傑ですね。第一若いのに驚きました。」

 「あの人は何でも若い時分に眞珠の粉末を呑んでゐたさうです。眞珠は不老の藥ですからね。あの人は鴉片を呑まないと、もつと若くも見える人ですよ。」

 その時はもう林黛玉の跡に、新に來た藝者が坐つてゐた。これは色の白い、小造りな、御孃樣じみた美人である。寶盡(たからづく)しの模樣を織つた、薄紫の緞子の衣裳に、水晶の耳項を下げてゐるのも、一層この妓の品の好さを助けてゐるのに違ひない。早速名前を尋ねて見たら、花寶玉(ホアポオイユ)と云ふ返事であつた。花寶玉(ホアポオイユ)――この美人がこの名を發音するのは宛然たる鳩の啼き聲である。私は卷煙草をとつてやりながら、「布穀催春種」と云ふ杜少陵の詩を忍び出した。

 「芥川さん。」

 余洵氏は老酒(ラオチユ)を勸めながら、言ひ憎さうに私の名を呼んだ。

 「どうです、支那の女は? 好きですか?」

 「何處の女も好きですが、――支那の女も綺麗ですね。」

 「何處が好(よ)いと思ひますか?」

 「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」

 實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。

 耳の説を辯じた後、私は他の三君と一しよに、砂糖のはいつた粥を食つた。其から妓館を見物しに、賑かな三馬路の往來へ出た。

 妓館は大抵横へ切れた、石疊みの露路の兩側にある。余氏は我我を案内しながら、軒燈の名前を讀んで行つたが、やがて或家の前へ來ると、さつさと中へはいつて行つた。はいつた所には不景氣な土間に、身なりの惡さうな支那人どもが、飯を食つたり何かしてゐる。これが藝者のゐる家とは、前以て聞いてゐない限り、誰でも譃としか思はれまい。しかしすぐに階段を上ると、小ぢんまりした支那のサロンに、明るい電燈が輝いてゐる。紫檀(したん)の椅子を並べたり、大きな鏡を立てたりした所は、さすがに一流の妓館らしい。青い紙を貼つた壁にも、硝子(がらす)を入れた南畫の額が、何枚もずらりと懸つてゐる。

 「支那の藝者の檀那になるのも、容易な事ぢやありませんね。何しろこんな家具類さへ、みんな買つてやるのですから。」

 余氏は我我と茶を飮みながら、いろいろ嫖界(へうかい)の説明をした。

 「まあ今夜來た藝者なぞだと、どうしても檀那になるまでに、五百圓位は入るでせう。」

その間にさつきの花賓玉が、ちよいと次の間から顏を出した。支那の藝者は座敷へ出ても、五分ばかりすると歸つてしまふ。小有天にゐた花寶玉(くわはうぎよく)が、もう此處にゐるのも不思議はない。のみならず支那では檀那なるものが、――後は井上紅梅氏著「支那風俗卷之上(まきのじやう)、花柳語彙」を參照するが好(よ)い。

 我我は二三人の藝者と一しよに、西瓜の種を撮(つま)んだり、御先(おさき)煙草をふかしたりしながら、少時の間無駄話をした。尤も無駄話をしたと云つても、私は啞(をし)に變りはない。波多君が私を指さしながら、惡戲(いたづら)さうな子供の藝者に、「あれは東洋人(トンヤンレン)ぢやないぜ。廣東人(カントンレン)だぜ。」とか何とか云ふ。藝者が村田君に、本當かと云ふ。村田君も「さうだ。さうだ。」と云ふ。そんな話を聞きながら、私は濁り漫然とくだらない事を考へてゐた。――日本にトコトンヤレナと云ふ唄がある。あのトンヤレナは事によると、東洋人の變化かも知れない。………

 二十分の後、やや退屈を覺えた私は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そつと次の間を覗いて見た。すると其處の電燈の下には、あの優しい花寶玉(くわはうぎよく)が、でつぷり肥つた阿姨(アイ)と一しよに、晩餐の食卓を圍んでゐた。食卓には皿が一枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花寶玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使つてゐるらしい。私は思はず微笑した。小有天に來てゐた花寶玉は、成程南國の美人かも知れない。しかしこの花寶玉は、――菜根を嚙んでゐる花寶玉は、蕩兄の玩弄に任すべき美人以上の何物かである。私はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。

 

[やぶちゃん注:

・「あの人は鴉片を呑まないと」梅逢春は、この翌年にアヘン中毒の中、急逝している。「十五 南國の美人(上)」の「「梅逢春」/「林黛玉」の注参照。

・「寶盡しの模樣」中国古来の八宝思想に由来する伝統的紋様。一般には法輪・法螺貝・宝傘・宝蓋・蓮華・鑵(かま=釜)・魚・盤長(中国の紐の結び方の一つ)の八つ。吉祥のシンボルで、「八室」とも言う。また、他に「暗八仙文」というのもあり、そこでは八仙人の持物である宝物によって八仙を表わし、吉祥招来を願う。瓢箪(李鉄拐の持物。以下該当の仙人名)・宝剣(呂洞賓)・扇子(漢鐘離)・魚鼓(張果老)・笛(韓湘子)・陰陽板(曹国舅)・花籠(藍朱和)・蓮華(何仙姑)が宝尽しとなる。他に吉祥来福としては蝙蝠・桃・如意(「福寿如意」を示す)や本邦でもお馴染みの打ち出の小槌・亀・竹なども人気のアイテムである。

・「花寶玉(ホアポオイユ)」“hoābăoyù”。

・『「布穀催春種」と云ふ杜少陵の詩』杜甫の七言古詩「洗兵馬」の後半に「布穀處處催春種」(布穀 處處 春種くことを催す)と現れる一句。『啄木鳥があちらこちらで春の種を播きなさいと告げている』の意。「布穀」はカッコウCuculus canorusを指す。また、本邦ではこう書いて「ふふどり」と訓読する。

・「老酒(ラオチユ)」“lăojiŭ”。

・「西廂記」14世紀初頭元代の王実甫の作になるとされる戯曲で、中国戯曲史上最高傑作とも呼ばれる。唐中唐の詩人元稹(げんしん 779831)が書いた小説「会真記」(別名「鶯鶯伝」)を脚色したもので、故宰相の娘崔鶯鶯(さいおうおう)と科挙登第を志す学生張君瑞が様々な障害を乗り越えた末に結ばれるハッピー・エンドの物語。

・『「他釵軃玉斜横。警偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是傾懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」』以下に私の書き下し文と現代語訳を附す。

 

○やぶちゃんの書き下し文

……他(かれ)の釵(さ)は軃(かく)れて、玉、斜めに横はる。髻(もとどり)偏(かたよ)りて、雲、亂れ挽(ひ)く。日高して猶ほ自から明眸ならざるがごとくして、暢好(ちやうかう)是れ懶懶(らんらん)。半晌(はんしやう)身を擡(もた)げて、幾囘(いくたび)か耳を掻き、一聲長歎す。……

 

○やぶちゃんの現代語訳

……彼女の釵(かんざし)は疲れたかのように垂れ下がって、繋がれた飾りの玉は、たおたおと斜めに横たわっている。豊かな髪も全体が傾きゆがみ、あたかも雲が乱れてさーっと流れているかのよう。日が高くなっても、いっこうに目を開ける様子も泣くなく、ああ、いかにもいかにも、ものうい姿。暫くしてやっと身を起すと、幾度か耳を掻くと、一声、長い溜息をつく。……

 

・「笠翁」は李漁(16111680)、明末清初の劇作家にして小説家。笠翁は字(読みは「りゅうおう」とも)。多様な戯曲の他、小説「無声銭」「連城壁」「覚世名言」や戯曲論を含む随筆類を残した。それらの作品は江戸時代の戯作者にも大きな影響を与えている。ポルノ小説「肉蒲団」の作者にも比定されている。

・「偶集」は李漁の随筆「閑情偶寄」のこと。

・「十種曲」李漁の代表的戯曲集「笠翁十種曲」のこと。「憫香伴伝奇」・「風筝誤伝奇」・「蜃中楼」・「意中縁伝奇」・「「鳳求凰」・「奈何天伝奇」・「比目魚」・「玉掻頭」・「巧団円」・「慎鸞交伝奇」の十篇からなる。

・「嫖界」「嫖」は軽い、みだら、の意で、花柳界のことを言う。

・「五百圓位」大正時代の五百円は畑一反弱、発明されたばかりの新車のオートバイが一台買えた値段である。

・『井上紅梅氏著「支那風俗卷」』井上紅梅(明治141881)年~昭和241949)年)本名、進。個人頁「Brilliant Room 麻雀の殿堂」「井上紅梅」によれば、『父は中国との武器関係の貿易商であったという。幼少にして父と死に別れ、後に銀座尾張町の井上商店の井上安兵衛の養子となる。大正2年、井上商店と袂を分かち、上海に渡る。』『大正7年から大正10年にわたり、雑誌「支那風俗」を刊行(大正10年、3巻本として出版される)。文中、麻雀の遊び方を詳しく紹介。麻雀の遊び方を本格的に日本語で紹介した初の本として有名。』『大正11年(AD1822)、南京に移り、中国女性、碧梅(へきばい=青い梅、の意)と結婚』した。彼の『号である紅梅は碧梅との対応』であるとする。『以後も酒・阿片・麻雀(萬里閣書房・昭5)など、支那風俗に関する著作を著している』とある。上記リンク先には、正にこの「支那風俗」の単行本の現物写真がある。ご覧あれ。

・「御先煙草」一般家庭や料亭・茶屋等の客間・客室に置かれた接待用の煙草。

・「東洋人(トンヤンレン)」“dōngyángrén”清代から中華民国初期の中国語で日本は「東洋」で、これは日本人の意である。

・「廣東人(カントンレン)」“guăngdōngrén”。ここには上海人が認識する広東人とはどのようなものかを注する必要があろう。中国では一般に広東人・上海人・北京人・東北人に分けて考えるようである。李娜氏のブログ「中国人の価値観(広東人)(以下4回連続)によると、広東人は商売上手と言われ(これは日本的な感覚から言うと通常は必ずしも褒め言葉とは限らない)、首都北京から遠いことが独立心を育み(逆に言えばコンプレックスを持っているということか)、政治に比較的無関心で、血縁関係を最も重視し、迷信深い。中国一の食文化を誇ることから、人生は食べるためにある、と言った具合である。対する「上海人」は、やはり古くからの国際都市として、進取の気風を特徴とするようである。ファッショナブルな都会人としてのプライドを持つが、政治より生活や経済、面子より実利を取るのが賢いと心得る。但し、上海人以外の人々からは上海人は小心者で、石橋を叩いて渡る中国一の小市民と呼ばれているともある。一般に中国とのビジネスで日本人が最も苦労するのは、取引相手が本当に約束を守ってくれるかどうかという点であるが、上海ではそうした心配はないとあり、その理由を彼等は国際人としてのルール重視の気風があるためであるとする(上海人の項も李娜氏のブログ「中国人の価値観(上海人)」から)。ここでは、村田や子供の芸者は明らかに都会人上海人(村田は日本人ではあるが、同時に上海人であるという認識を持っていると思われる)として「廣東人(カントンレン)」を田舎者として馬鹿にしている。

・「日本にトコトンヤレナと云ふ唄がある」戊辰戦争の時に歌われた進軍歌「都風流トンヤレ節」通称「宮さん宮さん」。我が国の近代軍歌第一号でもある。作詞は長州藩士にして後の内務大臣品川彌二郎(天保141843)年~明治331900)年)、作曲は幕末の長州藩士大村益次郎(文政7(1824)年~明治2(1869))である。ウィキの「大村益次郎」によれば、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が『東征大総督に就任して京都を発った慶応4年2月頃から一斉に歌われるようになったものといわれ、歌詞を刷った刷り物も頒布されて、東征軍将兵のみならず一般民衆にも広められた』とする。以下に、全詞を示す(以下の頁よりコピー・ペーストした。該当頁はトップ・ページへのリンクが切れているため、HP名を示せない)。

 

   都風流トンヤレ節(宮さん宮さん)

 

宮さん宮さん 御馬(おんま)の前に

ひらひらするのは 何ぢやいな

トコトンヤレトンヤレナ

あれは朝敵 征伐せよとの

錦の御旗ぢや 知らないか

トコトンヤレトンヤレナ

 

一天萬乘の 帝王(みかど)に手向かひ

帝王に手向かひ する奴を

トコトンヤレトンヤレナ

狙ひ外さず どんどん打ち出す

どんどん打ち出す 薩長土

トコトンヤレトンヤレナ

 

伏見鳥羽淀 はし本くずはの

はし本くずはの 戰ひは

トコトンヤレトンヤレナ

薩土長士の おほたる手際ぢや

おほたる手際ぢや ないかいな

トコトンヤレトンヤレナ

 

音に聞こえし 關(関)東侍

どつちへ逃げたと 問ふたれば

トコトンヤレトンヤレナ

城も氣概も 捨てて東(あづま)へ

捨てて東へ 逃げたげな

トコトンヤレトンヤレナ

 

國をとるのも 人を殺すも

たれも本氣ぢや ないけれど

トコトンヤレトンヤレナ

わしらがところの お國へ手向かひ

お國へ手向かひ する故に

トコトンヤレトンヤレナ

 

雨の降るよな 鐵(鉄)砲玉の

鐵砲玉の 來る中に

トコトンヤレトンヤレナ

命惜しまず 先がけするのも

みんなお主(しゆ)の 爲故ぢや

トコトンヤレトンヤレナ

 

・「阿姨(アイ)」“āyí”にはまず、成人の女性、日本語で普通に中年の女性言う時に用いる「おばさん」と同じ意味があり、現代中国語ではお手伝いさんや家政婦の意味でも用いられる。ここは花寶玉と比して明らかに中年の、即ち、妓ではないおばさんの女中さん、という感じで芥川は用いていると思われる。

・「菜根を嚙んでゐる」私は、ここで芥川は「菜根譚」を意識しているように思う。「菜根譚」は明末に成立した処世修養を説く随筆である。作者は儒教仏道を兼修した洪自誠(こうじせい 15731619 洪応明とも)。但し、本邦ではよく知られているが、当の中国ではそれほど人気のある書物ではない。ウィキの「菜根譚」によれば、『菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、「汪信民、嘗って人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做()すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、節を撃ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる。(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる。)』と由来を説き、また『「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須らく早く頭を回らすべし。敗後には、或いは反りて功を成す。故に払心の処は、便(たやす)くは手を放つこと莫れ。(前集10)」(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない。)』(二箇所の引用は一部のルビを省略した)と、言う部分を引用するが、この内容は如何にもここの「花寶玉」のシーンに注にするに相応しいと思うものである。]

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