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2009/06/03

上海游記 十一 章炳麟氏

       十一 章炳麟氏

 章炳麟氏の書齋には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剥製が一匹、腹這ひに壁に引つ付いてゐる。が、この書物に埋まつた書齋は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるやうに寒い。尤も當日の天候は、發句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だつた。其處へ瓦を張つた部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲團のない、角張つた紫檀の肘掛椅子である。おまけに私の着てゐたのは、薄いセルの間着(あひぎ)だつた。私は今でもあの書齋に、坐つてゐた事を考へると、幸にも風を引かなかつたのは、全然奇跡としか思はれない。

 しかし章太炎先生は、鼠色の大掛兒(タアクワル)に、厚い毛皮の裏のついた、黑い馬掛兒(マアクワル)を一着してゐる。だから無論寒くはない。その上氏の坐つてゐるのは、毛皮を掛けた籐椅子である。私は氏の雄辯に、煙草を吸ふ事も忘れながら、しかも氏が暖さうに、悠然と足を伸ばしてゐるのには、大いに健羨(けんせん)に堪へなかつた。

 風説によれば章炳麟氏は、自ら王者の師を以て任じてゐると云ふことである。さうして一時(じ)その弟子に、黎元洪(れいげんかう)を選んだと云ふ事である。さう云へば机の横手の壁には、あの鰐の剥製の下に、「東南撲學、章太炎先生、元洪」と書いた、横卷(よこまき)の軸が懸つてゐる。しかし遠慮のない所を云ふと、氏の顏は決して立派ぢやない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顋髯は氣の毒な程薄い。突兀(とつこつ)と聳えた額なども、瘤ではないかと思ふ位である。が、その絲のやうに細い眼だけは、――上品な縁無しの眼鏡の後(うしろ)に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確に出來合ひの代物ぢやない。この眼の爲に袁世凱は、先生を囹圄(れいご)に苦しませたのである。同時に又この眼の爲に、一旦は先生を監禁しても、とうとう殺害(せつがい)は出來なかつたのである。

 氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治や社會の問題だつた。勿論不要(プヤオ)とか「等(タン)一等(タン)」とか、車屋相手の熟語以外は、一言(ごん)も支那語を知らない私に議論なぞのわかる理由はない。それが氏の論旨を知つたり、時時は氏に生意氣な質問なぞも發したりしたのは、悉週報「上海」の主筆西本省三氏のおかげである。西本氏は私の隣りの椅子に、ちやんと胸を反らせた儘、どんな面倒な議論になつても、親切に通辭を勤めてくれた。(殊に當時は週報「上海」の締切り日が迫つてゐたのだから、私は愈氏の御苦勞に感謝せざるを得ないのである。)

 「現代の支那は遺憾ながら、政治的には墮落してゐる。不正が公行(こうかう)してゐる事も、或は清朝の末年よりも、一層夥しいと云へるかも知れない。學問藝術の方面になれば、猶更沈滯は甚しいやうである。しかし支那の國民は、元來極端に趨(はし)る事をしない。この特性が存する限り、支那の赤化は不可能である。成程一部の學生は、勞農主義を歡迎した。が、學生は即ち國民ではない。彼等さへ一度は赤化しても必ず何時かはその主張を抛つ時が來るであらう。何故と云へば國民性は、――中庸を愛する國民性は、一感激よりも強いからである。」

 章柄麟氏はしつきりなしに、爪の長い手を振りながら、滔滔と獨得な説を述べた。私は――唯寒かつた。

 「では支那を復興するには、どう云ふ手段に出るが好いか? この間題の解決は、具體的にはどうするにもせよ、机上の學説からは生まれる筈がない。古人も時務(じむ)を知るものは俊傑(しゆんけつ)なりと道破した。一つの主張から演繹せずに、無數の事實から歸納する、それが時務を知るのである。時務を知つた後に、計畫を定める、――時に循(しかが)つて、宜しきを制すとは、結局この意味に外ならない。……」

 私は耳を傾けながら、時時壁上(へきじやう)の鰐を眺めた。さうして支那問題とは歿交渉に、こんな事をふと考へたりした。――あの鰐はきつと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知してゐるのに相藩ない。して見れば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合せだつた。どうか私を憐んでくれ。まだこの通り生きてゐる私を。……

[やぶちゃん注:章炳麟(Zhāng Bĭnglín ヂャン ビンリン 18691936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅は生涯に渡って一貫して章炳麟に対し、師としての深い敬愛の情を示している(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。

・「セルの間着」「セル」はオランダ語“serge”の略で、布地のセルジのこと(「セル地」という発音の偶然から「セル」と短縮された)。梳毛糸(そもうし:ウールをくしけずって長い繊維にし、それを綺麗に平行にそろえた糸)を使った、和服用の薄手の毛織物。サージ。「間着」は「合い服」のこと。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。前注参照。

・「健羨」非常に羨ましく思うこと。

・「黎元洪」(Lí Yuánhúng リン ユエンホン 18641928)は清末から中華民国初期の軍人・政治家。第2代(19161917)及び第4代(19221923)中華民国大総統を勤めた。清の軍人であったが、辛亥革命時の際には高度な政治的判断の中で反乱軍の大将に推挙され、自身も革命に積極的になり、また、その後の袁世凱死後の北洋軍閥混乱期にあっては対立した安徽派・直隷派双方から、今度は傀儡として大総統に推されることとなったが、最後は政界から追われた。章炳麟とは中華民国初期の統一党が発展した1912年5月の共和党結党辺りで大きな接点がある。

・「東南撲學」この場合の「撲」は、尽す、悉く、総てといった意味合いであろう。従って、中国の東南(上海)にあって、学問を学び尽した、尽さんとする人、の意であろう。

・「章太炎」章炳麟の号。

・「袁世凱」(Yuán Shìkǎi ユアン シーカイ 18591916)中華民国大総統。ここでの章炳麟の逮捕・軟禁は注の冒頭章炳麟の事蹟を参照。

・「囹圄」「れいぎょ」とも。「囹」「圄」共に牢屋・牢獄の意。

・『「等(タン)一等(タン)」』底本は総ルビであるが大正期の総ルビでは数字にルビを振らないのが一般的で、ここでも「一」にルビがないのであるが、ここは読みとしては中国語“děng yī děng”なので「タンイタン」と読むべきである。中国語で、「ちょっとちょっと」「ちょっと待って」の意。

・『週報「上海」』神戸大学大学院人文学研究科海港都市圏旧センター資料情報に『雑誌『上海』は、1913年から1945年まで、上海で発行された日本語雑誌である。1928年から1933年の時期は『上海週報』と誌名が変更された』とあり、更にこの頃の「上海」の論調について『中国進出をめぐる列強間の競争が激しかった時代を背景に、日本以外の列強諸国が、経済面や文化面、政治面で中国へのさらなる進出を図る事への警戒心が垣間見える』とし、対中国社会については『軍閥間の争いに失望し、辛亥革命以前の王朝統治に理想を求める復古的な論調を打ち出していた』と記し、その後に本雑誌の『こうした論調の背景には、雑誌の主催者であった西本省三が、日本のアジア主義団体「東亜同文会」と密接な関係を持っていた事がある』という目が醒めるような解説が載る。ここに現れた「東亜同文会」とは日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(後に教育機関ともなる)のこと。日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。なお、岩波版新全集注解では本雑誌について、『中国政治文化評論誌という副題された総合誌』で、西本白川(次注の西川の号)主筆の『春申社から「週報上海」として創刊、後に「上海通報」「上海」となり、上海雑誌社刊となる。山田純三郎編』とある。

・「西本省三」(明治111878)年~昭和31928)年)号は白川。中国研究家。日露戦争に通訳として従軍、後に母校であった東亜同文書院(前注参照)の教員となった。辛亥革命に反発、春申社を創立して週刊「上海」(前注参照)を刊行、孫文とその新体制を批判した。著作に「支那思想と現代」(1921)・「康煕大帝」(1925)など(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus等を参照した)。

・「公行」公に行われること。

・「勞農主義」社会主義革命の達成のために、労働者階級が農民層と協同して権力に対して組織的に闘争すること。1920年にペトログラード及びモスクワで開かれた第2回コミンテルン大会に於いて、ロシアに革命以前からあった「労農同盟」を、植民地化された国々のプロレタリアートと農民の間で形成されるべき統一戦線として発展的に提示したもので、汎世界的な革命闘争として決議されたもの。

・「時務」その時代に応じた務めのこと。この今の時代のなすべき務め。「蜀書五 三国志三十五 諸葛亮傳第五」に「襄陽記」から引いて、

劉備訪世事於司馬德操.德操曰:「儒生俗士,豈識時務?識時務者在乎俊傑.此閒自有伏龍・鳳雛.」備問為誰,曰:「諸葛孔明・龐士元也.」

とある(以上の引用は原著作者【むじん書院】の「蜀書五 三国志三十五 諸葛亮傳第五」のページから改変せずコピー・ペーストした)。以下、私の書き下しと訳を示す。

○やぶちゃんの書き下し文

 劉備、司馬德操に世事につきて訪ふ。德操曰く、「儒生・俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。此の閒、自ら伏龍と鳳雛(ほうすう)有り。」と。備、問ひて、「誰とか為す。」と。曰く、「諸葛孔明・龐士元なり。」と。

○やぶちゃんの現代語訳

 ある時、劉備は時世の要所について徳操にたずねた。徳操は答えて言った。

「私のような学生の俗物に、どうして時務――この今の時代のなすべき務めが分かりましょうや? いえ、とても分かったものではありませぬ。時務を知るということは、人よりも遙かに抜きん出た人物の才能の中にこそ在るのです。この辺りでは、自然、『伏龍』と『鳳雛』とが居りまする。」

そこで、劉備は問い質した。

「それは一体誰のことじゃ?」

徳操が答える。

「諸葛孔明と龐士元です。」

「德操」は司馬徽(しばき 生没年不詳)。字は徳操、中国後漢末期の人物鑑定家として、特に上記のエピソードで知られる人物。「龐士元」は龐統(ほうとう 178213 生没年は異説あり)士元は字。有名な軍略家諸葛亮(181234 孔明は字)共に賢臣として劉備を助け、蜀漢を揺ぎないものとした。諸葛孔明の「臥龍」「伏龍」に対して、龐士元は「鳳雛(ほうすう)」(鳳(おおとり)のひな)と呼ばれた。]

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