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2009/06/15

上海游記 十九 日本人

       十九 日本人

 上海紡績(シヤンハイぼうせき)の小島氏の所へ、晩飯に呼ばれて行つた時、氏の社宅の前の庭に、小さな櫻が植わつてゐた。すると同行の四十起氏が、「御覽なさい。櫻が咲いてゐます。」と云つた。その又言ひ方には不思議な程、嬉しさうな調子がこもつてゐた。玄關に出てゐた小島氏も、もし大袈裟に形容すれば、亞米利加歸りのコロムブスが、土産でも見せるやうな顏色だつた。その癖櫻は痩せ枯れた枝に、乏しい花しかつけてゐなかつた。私はこの時兩先生が、何故こんなに大喜びをするのか、内心妙に思つてゐた。しかし上海に一月程ゐると、これは兩氏ばかりぢやない、誰でもさうだと云ふ事を知つた。日本人はどう云ふ人種か、それは私の知る所ぢやない。が、兎に角海外に出ると、その八重たると一重たるとを問はず、櫻の花さへ見る事が出來れば、忽幸福になる人種である。

         *

 同文書院を見に行つた時、寄宿舍の二階を歩いてゐると、廊下のつき當りの窓の外に、青い穗麥の海が見えた。その麥畑の處處に、平凡な菜の花の群つたのが見えた。最後にそれ等のずつと向うに、低い屋根が續いた上に、大きな鯉幟(こひのぼり)のあるのが見えた。鯉は風に吹かれながら、鮮かに空へ飜つてゐた。この一本の鯉幟は、忽風景を變化させた。私は支那にゐるのぢやない。日本にゐるのだと云ふ氣になつた。しかしその窓の側へ行つたら、すぐ目の下の麥畑に、支那の百姓が働いてゐた。それが何だか私には、怪しからんやうな氣を起させた。私も遠い上海の空に、日本の鯉幟を眺めたのは、やはり多少愉快だつたのである。櫻の事なぞは笑へないかも知れない。

         *

 上海の日本婦人倶樂部(クラブ)に、招待を受けた事がある。場所は確か佛蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子(まるテエブル)。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。卓子(テエブル)を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。

 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」

 「いえ、あれは惡作です。」

 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

        *

 南陽丸の船長竹内氏の話に、漢口(ハンカオ)のバンドを歩いてゐたら、篠懸の並木の下のベンチに、英吉利だか亞米利加だかの船乘が、日本の女と坐つてゐた。その女は一と目見ても、職業がすぐにわかるものだつた。竹内氏はそれを見た時に、不快な氣もちがしたさうである。私はその話を聞いた後、北(きた)四川路(せんろ)を歩いてゐると、向うへ來かかつた自動車の中に、三人か四人の日本の藝者が、一人の西洋人を擁しながら、頻にはしやいでゐるのを見た。が、別段竹内氏のやうに、不快な氣もちにはならなかつた。が、不快な氣もちになるのも、まんざら理解に苦しむ訣ぢやない。いや、寧ろさう云ふ心理に、興味を持たずにはゐられないのである。この場合は不快な氣持だけだが、もしこれを大にすれば、愛國的義憤に違ひないぢやないか?

         *

 何でもⅩと云ふ日本人があつた。Ⅹは上海に二十年住んでゐた。結婚したのも上海である。子が出來たのも上海である。金がたまつたのも上海である。その爲かⅩは上海に熱烈な愛着を持つてゐた。たまに日本から客が來ると、何時も上海の自慢をした。建築、道路、料理、娯樂、――いづれも日本は上海に若かない。上海は西洋も同然である。日本なぞに齷齪してゐるより、一日も早く上海に來給へ。――さう客を促しさへした。そのⅩが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあつた。――「骨は如何なる事情ありとも、必日本に埋むべし。……」

 私は或日ホテルの窓に、火のついたハヴアナを啣へながら、こんな話を想像した。Ⅹの矛盾は笑ふべきものぢやない。我我はかう云ふ點になると、大抵Ⅹの仲間なのである。

[やぶちゃん注:

・「上海紡績」正しくは上海紡織会社。株式会社トーメン社史制作委員会著「翔け世界に トーメン70年のあゆみ」(1991年凸版印刷㈱年史センター刊)より参照抜粋したとするネット上の記載によれば(該当ページは引用を拒否しているのでこう書くに留める。孫引きである以上、ネット・マナーを侵害しているとは思わない)、三井物産が明治351902)年に中国人経営の興泰紗廠を買収、上海紡績有限公司(三井家が株式の半分を所有)とし、三井物産上海支店が総代理店となったものを前身とする。大正9(1920)年に日本の法律による「上海紡織株式会社」として改めて設立登記されている(岩波新全集の神田由美子氏の注解では1908年に上海紡績と三泰紡績が1908年に合併成立したもの、とあり、『日本資本による中国木綿紡績業への直接投資としては最初の会社』とする)。大正131924)年に權野健三が会長に就任するや、技術者増強・原料綿花の厳選・製品販売の中国全土への拡大等の営業努力により業績を伸ばし、終戦時まで順調に発展して、中国紡績業の向上と隆盛に貢献した、とする。

・「小島氏」本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「小島姓」で該当人物と思しい人は見えない。

・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。

・「松本夫人」本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。

・「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。――しかし乍ら、試みに調べてみたら、余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか――“Cineraria”という語は“cinerarium”――「納骨所」の複数形である――“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった――

・『「鴉」』本文からお分かりの通り、これは芥川龍之介の作品ではなく、芥川の親友である作家宇野浩二(18911962)の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正101921)年4月1日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後ろに芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためである(両注による)。

・「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治401907)年に「南陽丸」“NANYO MARU”として進水、船客は特1等が16室・1等20室・2等46室・3等252室、明治401907)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸“NAN YANG MARU”と改名している。昭和121937)年に『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「漢口(ハンカオ)」“Hànkǒu ”は中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市。1858年、天津条約により開港後、イギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。

・「バンド」“bund”は英語で海岸通り・堤防・築堤・埠頭の意(語源はヒンディ語)。上海の場合は、バンド自体が地名の固有名詞として現地で普通に使われるが、ここでは特に特定地区を指すのではなく、普通名詞としての「海岸通り」であろう。

・「北四川路」現在の四川北路。蘇州河から四川中路を経て北東に延びる日本租界の目抜き通りであった。第二次世界大戦ではここに海軍特別陸戦隊本部が置かれた。中国に於ける実質的な日本軍最高指揮機関であった。]

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