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« 太宰治御年十六歳御真影 | トップページ | 上海游記 二十一 最後の一瞥 / 芥川龍之介「上海游記」全篇掲載終了 »

2009/06/16

上海游記 二十 徐家匯

      二十 徐家※

[やぶちゃん字注:「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]

 

 明の萬暦(まんれき)年間。墻外(せうぐわい)。處處に柳の立木あり。墻の彼方に天主堂の屋根見ゆ。その頂の黄金の十字架、落日の光に輝けり。雲水の僧一人、村の童と共に出で來(きた)る。

 雲水。徐公(ぢよこう)の御屋敷はあすこかい?

 童。あすこだよ。あすこだけれど――叔父さんはあすこへ行つたつて、御齋(おとき)の御馳走にはなれないぜ、殿樣は坊さんが大嫌ひだから。

 雲水。よし。よし。そんな事はわかつてゐる。

 童。わかつてゐるのなら、行かなければ好(よ)いのに。

 雲水。(苦笑) お前は中中口が惡いな。私は掛錫(くわいしやく)を願ひに行くのぢやない。天主教の坊さんと問答をしにやつて來たのだ。

 童。さうかい。ぢや勝手におし。御家來たちに打たれても知らないから。

 童走り去る。

 雲水。(獨白)あすこに堂の屋根が見えるやうだが、門は何處にあるのかしら。

 紅毛の宣教師一人、驢馬に跨りつつ通りかかる。後に僕(しもべ)一人從ひたり。

 雲水。もし、もし。

 宣教師驢馬を止む。

 雲水。(勇猛に)什麼(いづれ)の處より來(きた)る?

 宣教師。(不審さうに)信者の家に行つたのです。

 雲水。黄巣過ぎて後、還つて劍を收得するや否や? 

 宣教師呆然たり。

 雲水。還つて劍を收得するや否や? 道(い)へ。道へ。道はなければ、――

 雲水如意を揮ひ、將に宣教師を打たんとす。僕雲水を突き倒す。

 僕。氣違ひです。かまはずに御出なさいまし。

 宣教師。可哀さうに。どうも眼の色が妙だと思つた。

 宣教師等去る。雲水起き上る。

 雲水。忌忌しい外道だな。如意まで折つてしまひ居つた。鉢は何處へ行つたかしら。

 墻内よりかすかに讚頌(さんせう)の聲起る。

 

         *   *   *   *   *

 

 清の雍正(えうせい)年間。草原。盛虞に柳の立木あり。その間に荒廢せる禮拜堂見ゆ。村の娘三人、いづれも籃(かご)を腕にかけつつ、蓬なぞを摘みつつあり。

 甲。雲雀の聲がうるさい位だわね。

 乙。ええ。あら、いやな蜥蜴だ事。

 甲。姉さんの御嫁入りはまだ?

 乙。多分來月になりさうだわ。

 丙。あら、何でせう、これは? (土にまみれたる十字架を拾ふ。丙は三人中、最も年少なり。)人の形が彫つてあるわ。

 乙。どれ? ちょいと見せて頂戴。これは十字架と云ふものだわ。

 丙。十字架つて何の事?

 乙。天主教の人の持つものだわ。これは金ぢやないかしら?

 甲。およしなさいよ。そんな物を持つてゐたり何かすると、又張さんのやうに首を斬られるわ。

 丙。ぢや元の通り埋て置きませうか?

 甲。ねえ、その方が好くはなくつて?

 乙。さうねえ。その方が間違ひがなささうだわね。

 娘等去る。數時間の後、暮色次第に草原に迫る。丙、盲目(まうもく)の老人と共に出で來る。

 丙。この邊だつたわ。お祖父さん。

 老人。ぢや早く搜しておくれ。邪魔がはいるといけないから。

 丙。ほら、此處にあつたわ、これでせう?

 新月の光。老人は十字架を手にせる儘、徐(おもむろ)に默禱の頭(かしら)を垂る。

 

         *   *   *   *   *

 

 中華民國十年。麥畑の中に花崗石の十字架あり。柳の立木の上に、天主堂の尖塔、吃然(きつぜん)と雲端(うんたん)を摩(ま)せるを見る。日本人五人、麥畑を縫ひつつ出で來(きた)る。その一人は同文書院の學生なり。

 甲。あの天主堂は何時頃出來たものでせう?

 乙。道光の末(すゑ)ださうですよ。(案内記を開きつつ)奥行二百五十呎(フイイト)、幅百二十七呎(フイイト)、あの塔の高さは百六十九呎(フイイト)ださうです。

 學生。あれが墓です。あの十字架が、――

 甲。成程、石柱や石獸が殘つてゐるのを見ると、以前はもつと立派だつたのでせうね。

 丁。さうでせう。何しろ大臣の墓ですから。

 學生。この煉瓦の臺座に、石が嵌めこんであるでせう。これが徐氏の墓誌銘です。

 丁。明故少保加贈大保禮部尚書兼文淵閣大學士徐文定公墓前十字記とありますね。

 甲。墓は別にあつたのでせうか?

 乙。さあ、さうかと思ひますが、――

 甲。十字架にも銘がありますね。十字聖架萬世瞻依か。

 丙。(遠方より聲をかける。)ちょいと動かずにゐてくれ給へ。寫眞を一枚とらせて貰ふから。

 四人十字架の前に立つ。不自然なる數秒の沈默。

 

[やぶちゃん注:標題の「徐家※」[「※」は「匯」の「氵」を(くがまえ)の左に(さんずい)として出す字体。]は、「徐家匯」でよいと思われる。現・上海市の西部にある徐匯区のこと。その主な部分は旧徐光啓(後掲「徐公」注参照)邸宅跡である。19世紀にはフランスのイエズス会の天主堂が置かれ、中国でのカトリック教会布教本部となった。日本が設置した私立学校同文書院もここにあった。現在は市区と郊外とを結ぶ交通の中心で、上海を代表する商業エリアでもある。 

・「明の萬暦年間」明の第14代皇帝神宗(一世一元制であったので日本ではその在位の間の元号を用いて万暦帝と呼ぶのが一般的)の治世、1573年から1620年の47年間。

・「墻外」垣根や塀の外。

・「徐公」徐光啓(じょこうけい 15621633)のこと。明代末の暦数学者。1599年、イタリア人イエズス会司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci 中国名 利瑪竇 りまとう Lì Mǎdòu 15521610)の名声を聞き、南京に行って教えを受け、1603年に受洗した。その後、進士に登第して翰林院庶吉士となったが、リッチとの交流の中で、天文学・地理・物理・数学等についてのリッチの知見をもとに西洋の自然科学書等を翻訳、多くの書籍として公刊した。特に最初の刊行になるユークリッド幾何学の翻訳「幾何原本」が知られる。その博識は当時の崇禎帝からも尊敬され、枢機・太子太保を歴任した。「農政全書」「崇禎暦書」等、著書多数。以上の徐光啓の事蹟はウィキの「徐光啓」の記載を参照したが、その最後には彼は『カトリックの教えは儒教を補うものと考えており、そのため迫害を蒙らずに、高位に昇ることができた』と説明されている。

・「御齋」本来は仏家の午前中にする食事(朝粥と早い昼食)。通常、仏者は午前中のみで、午後は食事をしないのを原則とするが、それでは参ってしまうので「おとき」→「御時」→「時」に対して、夕食等は「非時」(ひじ)と言う。ここはしかし、街の童の言葉であるから、ただお寺で出す食事のことを言っている。

・「掛錫」読みは「かしゃく」が正しい。行脚の雲水が旅先の僧堂に入ることを許され、錫杖を壁の鉤に掛けること。そこから、雲水が僧堂に入門することをも言うようになった。ここでは本来の意。

・「什麼の處より來る?」「什麼」は通常は「いかん」と読み(音は「じゅま」であるが、まず「じゅま」とは読まない)、「如何に?」・「何?」・「どんな?」といった疑問の意を示す宋代の俗語で、禅の公案に特徴的な常套句。同じく頻繁に見るものは「什麼生」(そもさん)で、やはり「どうだ?!」「いかに?!」の意である。これは「碧巌録」の第六十六則(次注参照)の最初の公案である。

・「黄巣過ぎて後、還つて劍を收得するや否や?」これは「碧巖録」の第六十六則等に示される巌頭・雪峰両和尚に纏わる公案である。著語(じゃくご:下語(あぎょ)とも言い、禅宗にあって語録の語句に評言を付すこと及びその評言。)を除いた本則のみの原文を岩波文庫版より引用する。但し、私のポリシーから漢字を正字に直した。淵藪野狐禅師による書き下し文と現代語訳・語注も附した。

 

擧。巖頭問僧、什麼處來。僧云、西京來。頭云、黄巣過後、還收得劍麼。僧云、收得。巖頭、引頸近前云、※。云、師頭落。巖頭、呵呵大笑。、僧、後到雪峰。峰問、什麼處來。僧云、巖頭來。峰云、何有言句。僧、擧前話。雪峰、打三十棒趕出。[やぶちゃん字注:「※」=(くにがまえ)の中に「力」。]

 

○淵藪野狐禅師書き下し文

 擧(こ)す、巖頭、僧に問ふ。

「什麼(いづれ)の處より來(きた)る。」

僧云く、

「西京より來る。」

と。

 頭云ふ。

「黄巣過ぎて後、還つて劒を收得せしや。」

僧云く、

「收得す。」

と。

 巖頭、頸を引(の)べて近前して云ふ。

「※(くわ)。」

僧云く、

「師の頭、落ちぬ。」

と。

 巖頭、呵呵大笑す。

 僧、後に雪峰に到る。峰問ふ。

「什麼の處より來る。」

僧云く、

「巖頭より來る。」

と。峯云ふ。

「何の言句(ごんく)か有る。」

僧、前話を擧す。

 雪峯、打つこと三十棒して趕(お)ひ出だす。

 

○淵藪野狐禅師訳

 さても公案を挙げよう!――

 

 ある時、巖頭和尚は、彼の元にその日、外から参禅して来た、ある僧に最初に訊ねた。

「お主は一体、何処(どこ)から来た?」

僧は応えて言った。

「長安から参りました。」

 巖頭は、顔を顰めながらも、次の問いを発した。

「黄巣の乱が過ぎて後、お主は天から落ちた剣を拾ったか?」

僧は力んで答えた。

「拾いました!」

 巖頭は、すうっと頸を伸ばして僧の近くに寄ると、

「クヮッ!」

と発した。僧はしかし、食い下がって答えた。

「師よ! 今、師の頭(かしら)が、落ちました!」

 巖頭は、呵呵と大笑した。

 

 後に僧は、この問答に納得出来ず、今度は雪峰和尚の元へと参禅した。すると雪峰は、やはり僧に次のように訊ねた。

「お主は一体、何処(どこ)から来た?」

僧は応えて言った。

「巖頭和尚の元から参りました。」

それを聞いた雪峰は、やはり顔を顰めながらも、我慢して重ねて訊ねた。

「そこではどのような問答が発せられたか?」

僧は、前(さき)の話を一言一句漏らさず話した。――

――すると即座に雪峯は、この僧をしたたかに六十回、拄杖(しゅじょう)で打(ぶ)った上、最後によれよれになった僧の尻をぱーんと叩くと、庵室から追い出してしまった。

 

以下に簡単な補注を附す。この設定は「黄巣過後」という巖頭の公案から見て、885887年頃に設定されている。因みに、この巖頭と雪峰に纏わる別な素晴らしい公案、私のテクスト「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版の「十三 徳山托鉢」を、是非お読み頂きたい。

○「巖頭」は巖頭全豁(がんとうぜんかつ 828887)。唐末の禅僧。名僧徳山宣鑑の法を継ぐ。以下、その凄絶な最期について記す。徳山の元を辞した後、洞庭湖畔の臥竜山(別名を巖頭と言う)を拠点に宗風をふるったが、黄巣の乱後の荒廃の中、887年に中原(ちゅうげん)に盗賊が起こり、庶民はおろか、会衆もみな恐れて逃げ出してしまった。ところが巖頭禅師だけは、ただ一人『平然と端坐していた。四月八日、盗賊たちがやってきて大いに責めたてたが、彼は何も贈り物を出さなかったので、ついに刀で』首を切られて殺されてしまった。しかし、その際にも巖頭禅師は『神色自若として、一声大きく叫んで終わった。その声は数十里先まで聞こえた』と伝えられる。(この注は、主に、福井県小浜市の臨済宗南禅寺派瑞雲院のHP中の、「景徳伝灯録巻十六 鄂(がく)州巖頭全豁禅師」を参考にして書かれたとする「岩頭全豁禅師の話」を参照にさせて頂いている)。――きっと、その時の声は、この「クヮッ!」であったに違いない――

○「黄巣」は唐末期の反乱指導者(?~884)。唐に対して反乱を起こし、878年に広州、880年に洛陽・長安を陥落させ、第21代皇帝僖宗(きそう)は蜀へ蒙塵、長安に入城した黄巣は国号を斉として皇帝を名乗ったが、配下の兵は粗暴、黄巣も暴政を敷き、見切りをつけた部下の朱温に裏切られ、最後は自害して果てた。この朱温は後、907年に唐王朝を滅ぼすこととなる。「碧巖録」底本の注によれば、この黄巣の乱(875884:実は最初の反乱は王仙芝によるものであった)に関わって名剣莫邪(ばくや)が天から落ちて来、それに「天賜黄巣」の銘があったという伝説があったらしく、巖頭の二つ目の公案はそれに由来するものである。

○「※」[「※」=(くにがまえ)の中に「力」。]は、音「クヮ(カ)」又は「ワ」で、気力を漲らせて出す掛け声を意味するが、ここでは巖頭の仕草によって明白な通り、首が切り落とされて落ちる音の真似である。劇画風に言えば「スパッ! コロン!」といった感じである。

○「雪峰」は雪峰義存(せっぽうぎぞん 822908)。唐末から五代の禅僧。実際には巖頭全豁と一緒に徳山宣鑑の法を嗣いでいる。巖頭とは兄弟弟子で、仲が良かった。雪峰の方が年上であったが、明悟した早さやこの雪峰自身を鰲山(ごうざん)で大悟させた点から見ても、巖頭の方が上である。実際の雪峰義存はその後、出身地であった福建に戻り、雪峰山に住して、四十有年余の間、教導と説法に励んだ。その結果、多くの政治的有力者の帰依を受けることとなり、結果的に各地に広がる五代最大の仏教教団を形成することとなった。雪峰寺には常時1,500人からの修行僧が住み、首座であった玄沙師備(げんしゃしび:先のリンク先「無門關」の後序に登場している。)を始めとして、「無門關」の第十五則・第二十一則に登場する雲門文偃(ぶんえん)・長慶慧稜(えりょう)・鼓山神晏(くざんしんあん)・保福従展(ほふくじゅうてん)等の禅語や公案で知られる第一級の優れた禅師を輩出している(この注は、主に、ウィキの「雪峰義存」を参照にさせて頂いている)。

○「三十棒」は恐らく「三十頓」の「棒」を食らった、という謂いである。一頓は警策・拄杖で二十回叩かれることを言う。

○「趕」は音「カン」で、追う、追いかける、の意。

――淵藪野狐禅師云く、さても何故、巖頭は笑ったか? 何故、僧は雪峰から三十棒を喰らわねばならなかったのか?「道(い)へ! 道へ!」

 

・「讚頌」歌に作り、言葉を尽して褒め称えること、の意であるが、ここはカトリック教会の聖歌(典礼歌)である。

・「清の雍正年間」清の第5代皇帝世宗(一世一元制であったので日本ではその在位の間の元号を用いて雍正帝と呼ぶのが一般的)の治世、1723年から1735年の12年間。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、『キリスト教は一七二〇年頃から中国で禁じられ西洋宣教師はマカオに追放された』とある。

・「中華民國十年」西暦1921年。芥川の渡中・執筆時と同じ、大正10年である。

・「雲端を摩せる」雲の端を擦(こす)る。空高く聳える。

・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。

・「道光の末」清の第8代皇帝宣宗(一世一元制であったので日本ではその在位の間の元号を用いて道光帝と呼ぶのが一般的)の治世は1820年から1850年までである。イギリスは1840年に清に対してアヘン戦争を起こし、清は敗北、不平等な南京条約を締結(1842)せざるを得なかった。開港と租界の形成により、1840 年代末には、それまで禁教であったキリスト教会もキリスト教徒であった徐光啓を記念して立てられ得たのであろう。現在も徐家匯天主堂としてある(ネット検索をかけ、「What's New in 上海 ~街角エクスプローラー」に現在の写真入りで推測通りの事蹟(1842年の南京条約で布教承認)が記されて、『1847年に信者が徐家匯に土地を取得、今の教会の前身となる教会が建設され』たという記載を発見した)。1911年に再建されているので、芥川が見たものは、かなり新しいものである。

・「呎(フイイト)」“1feet”=30.48㎝。この天主堂のデータをメートルに換算すると奥行約76m・幅約38m・高さ約51mとなる。

・「明故少保加贈大保禮部尚書兼文淵閣大學士徐文定公墓前十字記」は

「明(みん)の故(こ)少保 加贈 大保(たいほ) 禮部尚書 兼 文淵閣 大學士 徐文定(じょぶんてい)公墓前十字の記」

と読むか。これは徐光啓の墓、「文定」は彼の諡(おくりな)である。恐らく「少保」は皇太子の教授職で「大保」は皇帝の教授職(但しどちらも名誉職)を示す官名、彼の死後にその業績を称えて「大保」が加増されたということであろう。東京大学名誉教授に相当。「禮部尚書」は六部の一である礼部の長官。正二品。総ての公的な礼式・儀式・祭祀・宴饗・貢挙(科挙試関連業務一切)総てを司る。文部科学大臣に相当。「文淵閣」は紫禁城内にあった書庫のことであるから、国立国会図書館館長に相当。日本に擬えれば言わば

「皇太子御進講の職にあって死後に天皇御進講の職を加増された東京大学名誉教授兼文部科学大臣兼国立国会図書館館長であらせられた大学者」

といった凄い肩書を持った「徐文定公の墓前の十字架の記」という、墓誌銘の標題である。

・「十字聖架萬世瞻依」は

「十字の聖架、萬世(ばんせい)瞻依(せんい)す」

と読んで

「この聖なる十字架を永遠に仰ぎ尊ぶものなり」

の意味であろう。私は、この「依」は「仰」の誤植か芥川の見誤りではあるまいかと感じている。「瞻仰」(せんぎよう)なら「仰ぎ見る・仰ぎ慕う」という熟語として一般的であるし、「仰」の字と「依」の字はよく似ているからである。この十字架は未だにあるのだろうか? 実見されたことのある方の御教授を乞うものである。」

【以下2010年2月7日新注】数日前、私の本テクスト注をお読みになられた上海在住の未知の方(以降F様と呼称させて頂く)から、以下のようなメールを頂戴した(御本人の許諾を得て、以下に一部を引用させて頂く。一部改行を省略させて戴いた)。

≪引用開始≫

偶然貴方の文章に接する機会があり、その中で下記の文章への疑問を述べられておられましたので散歩がてら調べて参りました。

十字聖架萬世瞻依

の『依』が『仰』ではないかの疑問ですが正しくは以下の通りです。

十字聖架百世瞻依

です。違っていたのは『依』ではなく、『萬』が『百』でした。『瞻依』は『敬い慕う』の意味で使われたと思われます。この公園は、周囲を散歩する人や、お年寄りの朝夕の太極拳や中国将棋などに利用されております。マテオ・リッチの銅像などもありますがそれらに興味を惹かれる人は少ないようです。以前は徐光啓記念館は入場が有料でしたが今年から万博に併せてか無料になりました。休日の閑消には最適です。

≪引用終了≫

まず私は先の注では、迂闊にも辞書を引かずに思い付きで書いていた。確かに、「瞻依」(せんい)という「仰ぎ見て、尊び頼る」の意の、即ち「瞻仰」とほぼ同義の熟語があった。而して瓢箪からコマで、芥川龍之介が「百」を「萬」と誤っていた事実が判明した。私が誤った誤字推測をしたことから、F様が逆に別な誤字を発見されるに到り、結果としてこの注をより正確なものに止揚することが出来た。加えて、F様は更に、徐光啓記念館に出向かれ、現在の様子を撮影して下さり、写真を送って下さった。そこには芥川龍之介が眺めた、この「天主堂の尖塔」「十字架」もある。御好意でその5葉総てを本ページの方に掲載させて戴いた。是非、御覧あれ。]

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