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2009/06/23

江南游記 前置き

江南游記   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:「江南游記」(こうなんいうき/こうなんゆうき)は大正111922)年1月1日~2月13日の期間の中で、28回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊に連載され、後に『支那游記』( 「上海游記」を筆頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に所収された。「江南游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビ(但し、引用漢詩などの一部はルビなし)であるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回毎に、その後ろに私のオリジナルな注を附した。

 私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「卒然」「谷崎潤一郎」「ボンボン」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「江南游記」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。

 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。

 

 

 

       前置き

 

 私はつい昨日の朝、本郷臺から藍染橋(あゐそめばし)へ、ぶらぶら坂を下つて行つた。すると二人の青年紳士が、反對にその坂を登つて來た。私も男の淺間しさに、すれ違ふ相手が女性でないと、滅多に行人には注意しない。が、この時はどう云ふ訣か、まだ五六間距離のある内から、相手の風采に氣をつけてゐた。殊にその一人が薄青い背廣に、雨外套をひつかけたのには、血色の好い瓜實顏や、細い銀の柄の杖と共に、瀟洒たる趣を感じてゐた。二人は何か話しながら、ゆつくり足を運んで來る。――それが愈(いよいよ)すれ違つた時、私の耳は意外にも、卒然噯喲(アイヨオ)と云ふ間投詞を捉へた。噯喲! 私は心の躍るのを感じた。それは何も彼等二人が、支那人だつたのに驚いたのではない。この偶然耳にした噯喲と云ふ言葉の爲に、いろいろな記憶がよみがへつたのである。

 私は北京の紫禁城を思つた。洞庭湖に浮んだ君山(くんざん)を思つた。南國の美人の耳を思つた。雲崗(うんかう)や龍門の石佛を思つた。京漢(けいかん)鐵道の南京蟲を思つた。廬山の避暑地、金山寺(きんざんじ)の塔、蘇小小の墓、秦淮(しんわい)の料理屋、胡適(こてき)氏、黄鶴樓、前門牌(チエンメンはい)の煙草、梅蘭芳(メイランフアン)の嫦蛾(じやうが)を思つた。同時に又腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事をも思つた。

 私は彼等を振り返つた。彼等は勿論悠悠と不相變何か話しながら、霜晴(しもば)れの坂を登つて行つた。しかし私の耳の中には、未に噯喲の聲が殘つてゐる。彼等は何處(どこ)の下宿から、何處へ出かける途中であらう? 事によると彼等の一人は、「留東外史」の張全(ちやうぜん)のやうに、戸山(とやま)ケ原の雜木林へ、女學生をつれ出す所かも知れない。さう云へばもう一人の留學生も、同じ小説の王甫察(わうほさつ)のやうに、馴染の藝者位はありさうである。私はこんな彼等にとつては失禮な想像を逞しくしながら、藍染橋の停留場へ出ると、田端の家へ歸る爲に、動坂(どうざか)行きの電車に乘つた。

 處が家へ歸つて見ると、大阪の社から電報が來てゐた。文句は「ゲンコウヲタノミマス」である。私は度度薄田氏に、迷惑をかけるのに恐縮した。しかし正直に白状すれば、重重恐れ入りながらも、腹の工合が惡かつたり、寢不足が何日も續いたり、感興がなかつたりする所から、ペンを執らない事もないではない。それがこの電報を見た時は、明日にも早速「上海游記(シヤンハイいうき)」の續篇を書き出さうと云ふ氣になつた。噯喲! さう云ふ聲が私の耳に、忘れない響を残したのは、薄田氏の爲にも私の爲にも、意外な仕合せになつた訣である。私の知つてゐる支那語の數は、やつと二十六しかない。その中の一つが偶然にも、私の耳に止まつたばかりか、兎に角何かを目ざめさせた事は、大袈裟に言へば天惠である。尤も私の惡文の爲に惱まされる讀者の身になれば、天惠より寧ろ天災かも知れない。しかし天災と考へれば讀者も諦め易さうである。かたがた噯喲の聲を耳にしたのは、御互に感謝して然るべきであらう。これが本文にとりかかる前に、かう云ふ前置きを加へる所以である。

 

[やぶちゃん注:新全集版年譜(宮坂覺)によれば、大正101921)年9月7日、『体調不良のため、薄田泣菫に「上海游記」終了後、次の「江南游記」までに一週間の猶予を申し入れ』たまま、その後、同月中は本文でも言訳しているように、『胃腸の調子が優れない上、痔疾も併発して苦し』み、『体重も減り、寝たり起きたりの生活が続いた』。10月にはやや回復はしたものの、『神経衰弱のせいで、熟睡』出来ず、不眠症状がしつこく付き纏い、新年号の各社原稿依頼の多忙の中、1124日には再度、そうした『新年号の原稿が片付くまで「江南游記」の執筆を延期することを薄田泣菫に申し入れ』ている。

・「藍染橋」東京都文京区千駄木2丁目にあった橋。現在の文京区と台東区の区境に当たる道路は美事に蛇行しているが、これが今は暗渠となっている藍染川で、そこに架橋していた一本が合染橋(藍染・琵琶・枇杷とも表記)である。西の東京大学を中心とした山の手の文教地区本郷台からということであれば、通常ならば団子坂を下ってここに至る。

・「噯喲(アイヨオ)!」“aiyo!”=“aiya!”。「ひえっ!」「やあっ!」といった間投詞。突発的な事態に対して驚いたり、嘆いたり、素晴らしい対象に対して感動した際に発する。

・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初(1373)に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府は居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月11日以降、恐らく6月25日から7月9日の間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、

 

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。

 

とあるのみである。この一行は芥川にとって紫禁城がある衝撃的感覚を呼び起こしたことには相違ない。私自身もまた、紫禁城を見た経験から、この芥川の投げつけるような一行が、実は大いに共感出来るのである。しかし、私は中国の思い出にあのスクブス・インクブスの空気に満ち満ちた膨大な虚を最初に想起はしない。即ち実は芥川もそうであったと私は確信する。如何にもな中国的シンボルとして「江南游記」という中国紀行文の枕に附した芥川龍之介の粉飾的虚構であると私は思うのである。

・「洞庭湖に浮んだ君山」本来は洞庭湖の中に浮かぶ島であるが、現在は渇水期の方が長い様子で、陸繋島(湖底に舗装道路が敷設されている)と記されているものが多い(島自体の広さは約1㎢)。島名の由来は、伝説の君主舜の愛妃であった蛾皇と女英(ともに尭の娘とも)がここに旅した折り、舜帝の崩御を知り入水したから(現在も二妃の墓と伝えるものがある)、秦の始皇帝が南方巡幸の際の行宮であったからなどとする。その島の美しさは『銀盆の中の青い巻貝』と称された。他にも始皇帝の「封山印」(南巡中ここで暴風波浪に見舞われた彼がそれを占い、ここに封じられた蛾皇と女英の魂の仕業と知り、それを鎮魂するために岩壁に「永封」「封山」と陰刻したとされるもの)、唐代伝奇で柳毅が龍宮へ下って行ったという「柳毅井」、有名な仙人呂洞賓(りょどうひん)のゆかりの「郎吟亭」等の旧跡が多くある。君山銀針茶という銘茶の産地としてもよく知られる。芥川龍之介は5月29日に訪れている。しかし乍ら、芥川は洞庭湖については、唯一「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、

 

       五 洞庭湖

 

 洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い黑松。

 

とあるだけでそっけなく、5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ひ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している。芥川は君山には例外的に心惹かれ印象として残ったのか?――いや、芥川は実際には洞庭湖に失望したのである。これは「紫禁城」同様、「江南游記」の枕としての粉飾的虚構であろうと私は思う。

 

・「南國の美人の耳」これは先行発表した「上海游記」「十七 南國の美人(下)」の冒頭の以下の部分に拠る。招待された上海の茶屋で、案内してくれた余洵氏(この人については同「十五 南國の美人(上)」の「余洵」以下の諸注を参照)の中国女性の何処がよいと思うか、という問いに芥川は「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」と答えた後、以下のように綴っている。

 

 實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。

 

幾つかの語句については、リンク先の私の該当部分の注を参照されたい。

 

・「雲崗や龍門の石佛」「雲崗」は山西省大同市西方20㎞の武周山南側にある東西約1㎞、約40窟を有する石窟寺院。本来は霊巌寺と呼んだが、現在は雲崗石窟又は石仏寺と呼称する。南北朝時の460年頃、北魏の僧曇曜(どんよう)が第5代皇帝文成帝(440465)に上奏し開いた通称「曇曜五窟」(第1620窟)に始まり、その後も造窟造仏が行われた。493年に北魏は平城から洛陽へ遷都、これ以降、北魏は凋落、534年に東魏・西魏に分かれてしまうが、中国仏教彫刻史ではこの460年から494年頃まで期間を本窟を代表させて雲崗期と呼ぶ。日本人建築学者伊東忠太が発見した。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、

 

       十七 石彿寺

 

 藝術的エネルギイの洪水の中から石の蓮華が何本も歡喜の聲を放つてゐる。その聲を聞いてゐるだけでも、――どうもこれは命がけだ。ちよつと一息つかせてくれ給へ。

 

と述べている。また「龍門」は河南省洛陽市南方13㎞の伊河の両岸に形成された石窟寺院。中国仏教彫刻史の雲崗期の後を受けた龍門期(494520)と呼ばれる時期を代表するが、その後も造営維持管理は継続し、龍門石窟自体は唐代の第3代皇帝高宗(628683)の頃に最盛期を迎える。それを代表するものが高宗の発願になる龍門最大の石窟である675年造営になる奉先寺洞である。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、

 

       十一 龍門

 

 黑光りに光つた壁の上に未に佛を恭敬(くぎやう)してゐる唐朝の男女の端麗さ!

 

と述べている。彼は洛陽滞在中の6月10日に龍門石窟を、北京滞在中の6月25日から7月9日の間に雲崗石窟をそれぞれ見学している(雲崗石窟は6月24日に訪問する予定であったが、列車のストライキにより行けなかったことが分かっている。なお、以上の両石窟の記載は主に「雲崗石窟」及び「龍門石窟」を中心に複数の頁を参照にした)。

・「京漢鐵道」現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)次のように記している。

 

       八 京漢鐵道

 

 どうもこの寢臺車の戸に鍵をかけただけでは不安心だな。トランクも次手に凭せかけて置かう。さあ、これで土匪(どひ)に遇つても、――待てよ。土匪に過つた時にはテイツプをやらなくつても好いものかしら?

 

「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。

 

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が。「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜1,474m。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られたが、また後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。1959年には毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放された。因みに私はその彭徳懐最後の映像が、何故かひどく印象に残っているのである。芥川の「長江游記」では二章に渡って失望に満ちた皮肉な実見記を綴っている。

・「金山寺」江蘇省鎮江北西の金山にある寺。本篇の「二十六 金山寺」本文及び注に譲る。

・「蘇小小」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。現在の彼女の墓は西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。本篇の「七 西湖(二)」本文及び注に譲る。

・「秦淮」東晋及び南朝たる四王朝(宋・斉・梁・陳)の都となった健康(南京)の運河の名。両岸は遊郭であった。本篇の「二十八 南京(中)」本文及び注に譲る。

・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。

・「黄鶴樓」湖北省武昌の西南の隅、長江を見下ろす高台ににある楼閣で、江南三大名楼の一として、李白や崔顥(さいこう)の詩で頓に知られる。芥川は「雜信一束」の中で(引用は岩波版旧全集から)、やはり感興を殺いだ如く、

 

      三 黄鶴樓

 

 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、

 僕――鸚鵡洲は?

 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。

 

と述べている。

 

・「前門牌(チエンメンはい)の煙草」“qiánmén”「牌」は「~印」の意。中国製シガレットの銘柄。

・「梅蘭芳(メイランフアン)」(méi lánfāng メイ ランファン 18941961)は、本名梅瀾(méi lán メイ ラン)、清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋、尚小雲、そして「白牡丹」こと荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年である。芥川の「侏儒の言葉」には、 

 

      「虹霓關」を見て 

 

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか? 

 

とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。

○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。山田俊治氏の注では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。

○「虹霓關」は「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は管見したことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみたもの)。山田俊治氏の注によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、今一つ『わかる』の意味が分らない。どなたか分かる方は御教授を乞う。

○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武(生没年未詳)は兵法書「孫子」の著者で、紀元前5世紀頃、春秋時代に活躍した兵家。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。

○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯(おうだいさく)の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915年から1925年の長期に亙る刊行)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

○「兵機」は戦略・戦術の意。

○「董家山」山田俊治氏の注によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリーである。

○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、山田俊治氏の注では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の記す平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

○「雙鎖山」山田俊治氏の注によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。

○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHP「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。山田俊治氏の注によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。

○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。山田俊治氏の注によると、『明代の物語で、楊素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。

・「嫦蛾」は、「竹取物語」の原典とも言われる晋代の干宝の撰になる「捜神記」をもとにした京劇「嫦娥奔月」のヒロイン、月の天女。191521歳の時に初演して以来、梅蘭芳の当り役であった。

・「腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事」本注冒頭注参照。

・『「留東外史」』民国平江不肖生著上海民権出版部1916年刊行の中国人によって書かれた中国人留学生の赤裸々な私生活を活写した通俗小説。東京都立図書館HPの特別コレクションのページ中の「留東外史」に筆者の本名・正体他、詳細な記載がある。岩波新全集の神田由美子氏の注解では『大胆な性欲描写のため、周作人によって淫書だと評されている』とある。

・「戸山ケ原」は、岩波新全集の神田由美子氏の注解によると、1874年から『第二次世界大戦中まで陸軍用地だった東京と新宿区の原野(現、大久保三丁目辺)。陸軍戸山学校(現、新宿区戸山町)の西北にあたり、射撃場、陸軍科学研究所、陸軍技術本部もあった。演習のための広大な原っぱだったので、民間人の格好の行楽の地であったとともに、多くの犯罪もおこった』とある。

・「大阪の社」芥川龍之介が社員であった大阪毎日新聞社。芥川が中国へ行った肩書きも同社の中国特派員による。「上海游記」の私の諸注を参照。

・「薄田」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだきゅうきん 明治101877)年~昭和201945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正121923)年末には新聞社を休職している。「度度薄田氏に、迷惑をかける」というのは、この芥川の中国特派に際し、しょっぱなからの病気による遅延による躓きに始まり、上海での入院、現地からするはずであった特派員報告の完全不履行等、社交辞令でなく、芥川には、尊敬する詩人でもあった薄田に対し、内心忸怩たるものがあったと言ってよい。具体的には本注の冒頭注及び「上海游記」の私の諸注を参照されたい。

・「かたがた」は、人称代名詞や名詞ではない。「以上のいろいろなことを考え合わせると」、「いずれにしても」の意の副詞である。

・「御互に」の部分は授業であれば高校生に質問してみたいところである。老婆心乍ら言っておくと、芥川龍之介と「天災と諦め」ねばならない「讀者」では意味が通じない。芥川龍之介と「薄田氏」にとって、の意である。]

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