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2009/07/18

江南游記 二十 蘇州の水

       二十 蘇州の水

 

 主人。寒山寺だの虎邱(こきう)だのの外にも、蘇州には名高い庭がある。留園だとか、西園だとか。――

 客。それも皆つまらないのぢやないか?

 主人。まあ、格別敬服もしないね。唯(ただ)留園の廣いのには、――園その物が廣いのぢやない、屋敷全體の廣いのには、聊(いささか)妙な心もちになつた。つまり白壁の八幡知(やはたし)らずだね。どちらへ行つても同じやうに、廊下や座敷が續いてゐる。庭も大抵同じやうに、竹だの芭蕉だの太湖石だの、似たやうな物があるばかりだから、愈(いよいよ)迷子になりかねない。あんな屋敷へ誘拐された日には、ちよいと逃げる訣にも行かないだらう。

 客。誰か誘拐されたのかい?

 主人。何、された訣ぢやないが、どうもさう云ふ氣がするのだね。今に支那の谷崎潤一郎は、きつと「留園の祕密」とか何とか、そんな名の小説を作るに違ひない。いや、未來は兎も角も、金瓶梅や紅樓夢を讀むには、現在一見の價値があるやうだ。

 客。寒山寺、虎邱、寶帶橋(ほうたいけう)、――いづれもつまらないとなつて見ると、蘇州は大抵つまらなささうぢやないか。

 主人。そんな所はつまらないがね。蘇州はつまらない所ぢやない。蘇州にはヴエニスのやうに、何よりもまづ水がある。蘇州の水、――さうさう、蘇州の水と云へば、僕は當時手帳の端に、こんな事も書いて置いたつけ。「自然と人生」式の名文だがね。

 ――橋名を知らず、石欄に依りつつ河水を見る。日光。微風。水色鴨頭(あふとう)の緑に似たり。南岸皆粉壁(ふんぺき)、水上の影描けるが如し。橋下を過ぐるの舟、まづ赤塗りの船首見え、次に竹を編みし船艙(せんさう)見ゆ。櫓聲の咿啞(いあ)耳にあれど、船尾既に橋下を出づ。桂花一枝流れ來るあり。春愁水色と共に深からんとす。

 ――暮歸。蹇驢(けんろ)に騎す。路(みち)常に水畔(すいはん)。夜泊の船、皆蓬(ほう)を蔽へるを見る。月明、水靄(すいあい)、兩岸粉壁の影、朦朧として水にあり。時に窓底の人語、燈光の赤きに伴ふを聞く。或は又石橋あり。偶(たまたま)橋上を過ぐるの人、胡弓を弄する事三兩聲。仰ぎ見ればその人既にあらず。唯橋欄の高きを見るのみ。景情宛として「聯芳樓の記」を想はしむ。知らず、閶闔門外(しやうかふもんがい)宮河の邊、珠簾重重(ちようちよう)月に垂るる事、薜家(せつか)の粧樓(しやうろう)の如きものありや否や。

 ――春雨霏霏(ひひ)、兩岸の粉壁、苔色鮮なるもの少からず。水上鵞(が)浮ぶ事三四。橋畔の柳條、殆(ほとんど)水に及ばんとす。画(ぐわ)とすれば或は套(たう)。實景を見るは惡しからず。舟あり。徐(おもむろ)に橋下より來る。載する物を見れば棺なり。艙中(さうちゆう)の一老媼(あう)、線香に火をともしつつ、棺前に手向けんとするを見る。

 客。へええ、大いに又感心したものぢやないか?

 主人。水路だけは實際美しい。日本にすれば松江(まつえ)だね。しかしあの白壁の影が、狹い川に落ちてゐる所は、松江でもちよいと見られさうもない。その癖未に情ない事には、とうとう畫舫にも乘らずにしまつた。しかし水には感服しただけ、兎に角未練は殘つてゐない。殘念なのは美人を見なかつた事だ。

 客。一人も見ない?

 主人。一人も見ない。何でも村田君の説によると、目をつぶつて摑んでも、蘇州の女ならば別嬪ださうだ。現に支那の藝者の言葉は、皆蘇州語ださうだから、その位の事はあるかも知れない。處が又島津氏の説では、一體蘇州の藝者なるものは、蘇州語に一通り通じた上、上海へ出ようと云ふ候補生か、又は上海へ出ても流行らないので、歸つて來たと云ふ落伍卒(そつ)だから、碌な女はゐないさうだ。成程これも一理窟だね。

 客。それで見ずにしまつたのかい?

 主人。何、別に理由なぞはない。唯藝者の顏を見るよりは、一時間も餘計に眠りたかつたのさ。何しろあの時分は驢馬へ乘つたおかげに、すつかり尻をすり剥いてゐたから。

 客。意氣地のない男だな。

 主人。我ながら意氣地があつたとは思へないよ。

 

[やぶちゃん注:

・「留園」明の嘉靖年間(15221566)の1525年に太朴寺(記載によっては太僕寺)の少卿(寺院の管理を司る長官か)であった徐時泰が私邸の庭「東園」として造園、18世紀末(清の乾隆末)に劉恕の所有となり、改築されて「寒碧荘」、嘉慶年間(17961820)に改修され、園主の姓に因んで俗称が「劉園」となり、さらに1874(同治12)年に盛康に買い取られた際、劉の音通で「留園」となった。蘇州四大名園の一つとして「呉下名園之冠」と呼ばれるだけでなく、中国四大名園の一つに数えられている。敷地面積23,310㎡、約2haに及び、東・中・西・北部の4パートに分かれる。東部の居住建築群、中央部は池泉を置き、西に山林、北に田園の風景の趣を造る。それらを巡る回廊にある「漏窓」と称する、多様なデザインの透かし窓からの眺めが、また計算された風景画となっている。私はもう一度行って見たい中国のランドマークの一番にこの「留園」を挙げたいくらい、ここが気に入っている。

・「西園」厳密には戒憧律寺と西花園放生池を総称する俗称。元代に建造・造園、本来の寺名は帰元寺。虎丘路を挟んで留園と隣り合う。

・「白壁の八幡知らず」「八幡知らず」とは「八幡の藪知らず」のこと。入ったら二度と出て来ることが出来なくなる場所・迷路・迷宮(ラビリンス)、道に迷うことや出口が分からないこと、「藪の中」を言う。現在の千葉県市川市の国道14号線沿いの市川役所の斜め前にある森(現在は殆んどが孟宗竹の竹林)の名称。何故、このような名称なのかについては、古来、日本武尊の陣屋であったという伝説による禁足説の他、平良将(生没年未詳:将門の父)の墓所説・平将門(?~天慶3(949)年)の墓所説等が挙げられている。個人のHP「市川歴史散歩」の「八幡不知藪」には入会地説が挙げられており、『この場所が行徳の入会地(いりあいち)であり、八幡の住民はみだりに入ることが許されず、そのため「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになった』という解説がなされている。『入会地とは、自給肥料や燃料を確保し農業生産能力を維持する目的で共同利用する場所と定めた土地であり、八幡のこの場所が行徳住民の入会地であったことから八幡の住民からすると入ると恐ろしい目にあう場所、としてきた、というのは説得力のある説ではあります。』とあり、『直接史料を確認してはおりませんが、史実として入会地であったことも確かなようです。』と結ばれている。大変、納得出来る内容であると私は思う。因みに、中国旅行による日本脱出の一つの要因であった不倫相手秀しげ子の影(「上海游記 一 海上の私の注を参照)をその「真砂」に色濃く反映させた芥川龍之介の名作「藪の中」は、正にこの「江南游記」の連載が始まる大正111922)年1月1日に『新潮』に掲載されている。「広辞苑」の「藪の中」を引くと『(芥川竜之介の同名の小説から) 関係者の言うことが食い違っていて、真相が分らないこと。』とある(私はこの語源説には納得出来ないのであるが、それ以前の使用例を見出せないことも事実ではある)。

・「太湖石」蘇州近郊の主に太湖周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。

・「紅樓夢」に登場する公子の大邸宅に付随する大庭園「大観園」なるものが登場するが、実はこの「留園」にはその「大観園」が再現された部分があると言う。但し、『人民中国』の「庭園に見る江南文化の爛熟美」によると、「紅楼夢」の作者清代乾隆期の作家曹雪芹(そうせっきん 1724?1763?)が「大観園」のモデルとしたと推定されるのは、同じ蘇州にある最大の庭園「拙政園」(敷地面積5.2ha)であるという。『少年時代に家族に連れられ、よくここを訪れた。それで小説の舞台である「大観園」の描写は、ここでの印象がかなり生かされているという』とある。

・「寒山寺」/「虎邱」/「寶帶橋」は、前篇「十九 寒山寺と虎邱と」の本文及び注を参照。

・「自然と人生」徳冨蘆花(明治元(1868)~昭和2(1927)年)が明治331900)年に民友社から刊行した小説・随筆集。クレジットは本名の徳冨健次郎。国木田独歩の「武蔵野」と並ぶ、私の青春時代の愛読書の双璧であった。

・「粉壁」白壁と同義。

・「咿啞」ギイギイ。舟の櫂や櫓のきしる音。

・「桂花」双子葉植物綱マノハグサ目モクセイ科モクセイ属ギンモクセイOsmanthus fragrans。常緑小高木。小さな総状の花は強い芳香を持ち、乳白・黄・橙・紅等、色も多彩。中国南部原産。なお、本邦に産するキンモクセイOsmanthus fragrans var. aurantiacusはギンモクセイOsmanthus fragransの変種で、且つ、その雄株のみである(従って本邦産は結実しない)。

・「蹇驢」びっこの驢馬。「蹇」は片足が曲がっている意。蛇足であるが、私は片足飛びのことを「ケンケン」と呼ぶのは、これが語源であると思っていたのだが、辞書類には見ない。こんなことを言うと、またぞろ世の言葉狩りのフリークは、「ケンケン」を差別用語として抹殺しかねないな。

・「蓬」菰莚(こもむしろ)のこと。マコモ(イネ目イネ科マコモZizania latifolia)の葉を粗く編んだむしろ。

・「三兩聲」二三声で、ちょっと弾くの意。

・「宛として」宛然として、あたかも、まるで。

・『「聯芳樓の記」』明代の文人瞿佑(くゆう 13411427)の伝奇集「剪灯新話」の一篇。楼上の呉郡(蘇州)の金満家薛(せつ)氏の娘、姉の蘭英・妹の蕙英(けいえい)と、楼下の舟に泊まる青年鄭(てい)の詩の遣り取りによる恋愛の成就の物語(「剪灯新話」の主調である志怪性は全くない)。才子佳人譚小説の先駆的作品。

・「閶闔門外」蘇州城の西北の門。「聯芳樓記」冒頭、薛氏は「居於閶闔門外」し、米屋を営む、とある。

・「宮河」閶闔門外を流れている河川名は「官河」である。これは芥川の誤認か、若しくは誤植の可能性さえも考え得る。

・「珠簾重重」「聯芳樓記」には該当の詩句はないが、蘭英・蕙英姉妹の詩才に感じた詩人楊鉄崖が姉妹の七言古詩に附した讃詩の中に「連珠合璧照華筵」、「連珠(れんじゆ)合璧(がうへき)華筵(くわえん)を照らす」(二人の詩才は、あたかも珠玉を連ねて璧玉を合わせたものが美しい敷物に照り映えるようだ)とはある。

・「霏霏」絶え間なく降るさま。

・「鵞」ガチョウ。

・「柳條」柳の枝。

・「套」古臭い。ありきたり。陳腐。

・「松江」島根県松江市。芥川龍之介は大正4(1915)年8月3日から22日迄、畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷心を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(1929)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(諸注はここの注に「松江印象記」という題名を用いているが、以上より、これは芥川龍之介自身による表題はないと考えるべきであり、『松江での印象を記したものが残されている』とすべきである)。

・「落伍卒」落伍者の意であるが、この場合の「卒」は下級兵士や下役を言う語であり、都落ちした失格者・敗残者の意味を更に強めた語である。]

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