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2009/07/08

江南游記 十 西湖(五)

       十 西湖(五)

 桟橋を上ると門がある。門の中には水の澄んだ池に、支那の八つ橋がかかつてゐる。兪樓の廊が曲曲廊なら、これは曲曲橋だと評しても好(よ)い。その橋の處處に、氣の利いた亭(ちん)が出來てゐる。それを向うへ渡り切ると、眩(まばゆ)い西湖の水の上に、三つの石塔のあるのが見えた。梵字を刻んだ丸石に、笠を着せた石塔だから、石燈籠と大した違ひはない。我我は其處の亭の中に、この石塔を眺めながら、支那の卷煙草を二本吸つた。それから、――露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである。八つ橋をもとへ渡つて來ると、若い四五人の支那人に遇つた。彼等は皆めかした上に、胡弓や笛を携へてゐる。何でも長安の公子とか號したのは、かう云ふ連中だつたのに違ひない。水色や緑の大掛兒(タアクワル)、指環にきらめいたいろいろの寶石、――私は彼等とすれ違ひながら、一一その容子を物色した。すると最後に通りすがつた男は、殆(ほとんど)小宮豐隆氏と、寸分も違はない顏してゐた。その後京漠鐵道の列車ボオイにも、宇野浩二にそつくりの男がゐたし、北京の芝居の出方にも、南部修太郎に似た男がゐた所を見ると、一體日本(につぽん)の文學者には、支那人に似たのが多いのかも知れない。しかしこの時はまだ始めだつたから、他人の空似とは云ふものの、きつと小宮氏の先祖の一人は――なぞと、失禮な事も想像した。

 ――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。

 我我は退省庵(たいしやうあん)を一見した後(のち)、さつきの棧橋へ歸つて來た。棧橋には支那人の爺さんが一人、魚藍(びく)を前に坐りながら、畫舫の船頭と話してゐる。その魚藍を覗いて見たら、蛇が一ぱいはひつてゐた。聞けば日本の放し龜同樣、この爺さんは錢を貰ふと、一匹づつ蛇を放すのだと云ふ。如何に功德になると云つても、わざわざ蛇を逃がす爲に、金を出す日本人は一人もゐまい。

 畫舫は又我我を乘せると、島の岸に沿ひながら、雷峰塔の方へ進んで行つた。岸には蘆の茂つた中に、河柳が何本も戰(そよ)いでゐる。その水面へ這つた枝に、何か蠢いてゐると思つたら、それは皆大きい泥龜だつた。いや、龜ばかりならば驚きはしない。ちよいと上の枝の股には、代赭色に脂切つた蛇が一匹、半身(はんしん)は柳に卷ついたなり、半身は空中にのたくつてゐる。私は背中が痒いやうな氣がした。勿論さう云ふ心もちは、愉快なものでも何でもない。

 その内に島の角を繞(めぐ)ると、水を隔てた新緑の岸には、突兀(とつこつ)と雷峰塔の姿が見えた。まづ目前に仰いだ感じは、花屋敷の近處(きんじよ)に佇んだ儘、十二階に對したのと選ぶ所はない。唯この塔は赤煉瓦の壁へ、一面に蔦(つたかつら)をからませたばかりか、雜木(ざふき)なぞも頂には靡(なび)かせてゐる。それが日の光に煙りながら、幻のやうに聳え立つた所は何と云つても雄大である。赤煉瓦もかうなれば不足はない。赤煉瓦と云へば案内記には、何故に雷峰塔は赤煉瓦であるか、その理由を説明した、尤らしい話が載せてある。但しこの案内記は、池田氏の著した本ではない。新新旅館に賣つてゐた、英文の西湖案内記である。私はそれを書いた後、ペンを捨てるつもりだつたが、かう頭がふらついては、到底もう一枚と書く勇氣はない。跡は又明日(あした)でも、――いや、さう云ふ斷りを書くのも面倒である。肺炎にでもなられた日には、助からない。

[やぶちゃん注:描写は前段最後に続いて彭玉麟の故居退省庵から始まる。

・「支那の八つ橋」「六 西湖(一)」で芥川は兪樓にあった曲折した廊下(階段)を中国風に洒落て「曲曲廊」と言ったのを受けて、池上に架かった雷(いかずち)型の丁度本邦の八橋の如き曲折した橋(中国では池庭に一般的)をこう言った。

・「露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである」ロシア語表記“Совет”(サヴィェート ラテン語表記“Soviet”)は本来はロシア革命時の社会主義者を中心とした労働者・農民・兵士の評議会を言う。このソヴィエトは形の上では1917年の第二次ロシア革命(二月革命)の際に結成されたものを指すが、事実上、既にニコライ2世を処刑(1918年)し、本篇公開のその年の1922年に一党独裁のソビエト社会主義共和国連邦が成立することになっていたから、ここは勿論、国家としてのソヴィエト又はソビエト政府の謂いである。ここにはさり気ない形で、中国の革命運動に連動してくる時代の流れを敏感に感じ取っている鋭いジャーナリスト芥川龍之介自身の姿が描かれていると言ってよい。それを彼は「蘇東披の話はしなかつた」という切り替えしで、悟られないようにしているのであるが、この切り替えし自体は、正に「七 西湖(二)」で芥川が表明した西湖への反感、引いては中国に対する失望の皮肉な表現に他ならない。芥川にとって『西湖は思つた程美しく』なく、その自然は一応は『繊細な感じに富』んで見え、蘇軾に代表される『支那の文人墨客には、或は其處が好いのかも知れない』が、『繊細な自然に慣れてゐる』日本人にとっては、再顧すればそれは『不滿になつてしま』わざるを得ない程度に退屈なものであり(それ故に西湖を眼前にしながら「露西亞のソヴイエツト政府の話」をするばかりなのである)、今もここで彼の嘱目に景に点々とする『俗惡恐るべき煉瓦建の爲に』、西湖は最早瀕死に至る致命的な疾いを患っている。『いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓つた結果、悉風景を破壞し』尽している、だから『私はこんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい』のである、というのである。芥川はよくこうした言わずもがなな皮肉を畳み掛けることがある。その意外な粘着的厭らしさは、私には数少ないエレガンス龍之介の瑕疵に当たるもの、と思うところではある。

・「公子」身分の高い家庭や貴族の子息。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。「上海游記」の「十一 章炳麟氏」の筑摩版脚注では、「掛」は「褂」が正しいとある。

・「京漢鐵道」芥川が後日、漢口を列車で出発し北京に向かった際に乗った鉄道路線(途中、鄭州から洛陽に行っているが鄭州から洛陽の部分は隴海線と言って京漢線ではない)。現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。

・「芝居の出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。

・「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」現在、最新の年譜記載にはこの執筆前後(大正101921)年12月~大正111922)年1月)に感冒で横臥した記載はない。次注参照。

・「友だちは壯だなぞと冷かしもする」本「江南游記」の連載開始の直前の大正101921)年12月は各社の新年号の作品群「藪の中」「俊寛」「將軍」(中国旅行のインスピレーションの賜物)「神神の微笑」「パステルの龍」(「三 杭州の一夜(上)」に登場するJudith Gautierジュディット・ゴーティエの詩の翻訳2篇を所収)「LOS CAPRICHOS」等を体調がすぐれない中で書き上げている。「藪の中」「將軍」「神神の微笑」等は、芥川作品の中でも飛びっきりの問題作と言ってよく、その最中か新年号発表後の、感冒に冒されながら、これだけの驚異的執筆を成し遂げた(12月中なら「つつある」)芥川への羨望と揶揄こもごもの同世代作家の友が「お盛だね」と言うシチュエーションは、如何にもありそうではないか。そのためには熱を出している方が凄絶ではあると言える。そもそも芥川は「江南游記」では、向後もしばしば無関係な執筆時のエピソードを話の中に挿入する。芥川ならではの手法であり、相応に面白く書けてはいるが、こんなことは「上海游記」では全くなかったことである。ここに図らずも「兎に角紀行を續けなければならぬ」と記してしまった諦観的感懐は、本紀行の執筆自体に乗り切れていない芥川の詩想を明示していると言える。これは私は最終回まで持続していると感じている。

・「放し龜」仏教の殺生戒に基づく放生会(ほうじょうえ)由来の作善(さぜん)行為である「放生」の一つ。川端や社寺仏閣で桶や籠に捕捉されている生類を金を払って買い、その場で逃がしてやって生かすことで、放った者の功徳とするもの。それを専門に商う者がいた。江戸時代には放し亀・放し鰻・放し鳥等、極めて一般的風俗としてあった。現在でもタイ等の東南アジアの仏教国では極普通の商売である。私も雀と蝶のそれをタイの寺院参道で見かけた。鳥類のそれは餌付けしてあり、放たれた後、再び業者の元に戻って来るという話をガイドから聴いた。

・「花屋敷」は現在の東京都台東区浅草二丁目にある遊園地の名。現表記は「浅草花やしき」。嘉永6(1853)年開園になる日本最古の遊園地。以下、ウィキの「浅草花やしき」より、芥川自死前後迄のパートを引用する。『1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000㎡だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、唯一の遊具はブランコであった。』『明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。』『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。』『大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した』。

・「十二階」明治から大正末まで浅草にあった12階建ての塔で、正式名称は凌雲閣(りょううんかく)という。通称「浅草十二階」と呼ばれた。以下、ウィキの「凌雲閣」より引用する。『凌雲閣は、東京における高層建築物の先駆けであり、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は、12階建ての建築物は珍しくモダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿は登場する。

』『建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治後期には客足が減り、経営難に陥った。明治の末に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のウィリアム・K・バルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。関東大震災時の崩落はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった惨劇と言える。』『凌雲閣はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木や北原白秋、金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、192391日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている』。なお、同ウィキには「明治末期、大池越しに見た凌雲閣(手彩色絵はがき)」の画像があるが、この位置からもう少し後方(手前)から見上げたものが、本文で芥川が描写している雰囲気と合致するものと思われる。

・「池田氏の著した本」前出の池田桃川著「江南の名勝史蹟」のこと。「六 西湖(一)」及び同書の注参照。]

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