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2009/07/23

江南游記 二十七 南京(上)

       二十七 南京(上)

 南京(ナンキン)へ着いた日の午後、私は何とか云ふ支那人と、とり敢へず城内一見の爲に、例の通り人力車の客となつた。夕日の光の流れた町は、西洋建も交つた家並(やなみ)の後(うしろ)に、麥や蚕豆(そらまめ)の畠を見せたり、鵝鳥(がてう)のゐる池を見せたりする。その上比較的廣い往來には、行人の數も疎(まばら)にしかない。案内者の支那人に尋ねて見ると、南京城内の五分の三は、畠や荒地になつてゐると云ふ。私は路側(みちばた)の柳だの、崩れかかつた土塀だの、燕の群だのを眺めながら、懷古の情を催すと同時に、かう云ふ空き地を買つて置いたら、成金になれさうな心もちもし出した。

 「誰か今の内に買つて置けば好(よ)いのに。浦口(プウカオ)(南京の對岸にある町)が盛になりさへすれば、きつと地價も暴騰するぜ。」

 「駄目です。支那人は皆明日の事を考へない。地面なぞを買ふものはありやしません。」

 「ぢや君だけ考へるさ。」

 「私もやはり考へない。――第一考へる事は出來ないのです。家を燒かれるか殺されるか、明日(あした)の事はわからんでせう。其處が日本とは違ふ所です。まあ今の支那人は、子供の生ひ先を樂(たのし)みにするより、酒か女かに嵌つてゐますね。」

 その内に何時か往來には、呉服屋だの本屋だの、賑かな店が見え始めた。私は靈巖山へ登つた歸りに、何度も路に迷つた擧句、とうとう日さへ暮れたものだから、驢馬ごと田の中へ飛びこんだり、襯衣(シヤツ)まで雨に透されたり、一方ならない難儀をした。その記念にはキツドの靴に、二三箇所大きい穴が明いてゐる。私は靴屋の見えたのを幸ひ、靴を買ふ必要を痛感したから、早速その店の飾り窓の前へ、車を止めるやうに命令した。靴屋は軒へはひつて見ると、思つたより廣い店構へだつた。其處に職人がたつた二人、こつこつ靴を拵へてゐる。まはりには大きい椅子の戸棚に、西洋風の靴は勿論、支那の靴もいろいろ飾つてある。黑い靴、桃色の靴、水色の靴、――支那の靴はいづれも繻子(しゆす)張りだから、大小さまざまの男女の靴が、夕明りの中に並んでゐるのは、妙に美しい氣がしない事もない。おまけに帳場に立つた主人は、色の白い、口もとの優しい、それだけに一層氣味の惡い、片目眇(かためすがめ)の男である。私はちよいとロマンテイツクな氣になりながら、出來合ひの靴を物色し出した。この店には戸棚の何處かに、人間の皮を縫ひ合はせた、華奢な女の靴があるかも知れない、――そんな氣も多少はしたのである。が、私が買つた靴はロマンテイツクでも何でもない。正價六圓の編上げである。色は、――その後(のち)この靴をはいた儘、村田烏江君とめぐり過つたら、「妙な色ですね。鞄をはいて歩いてゐるやうぢやないですか。」と、殘酷な批評を加へられた。實際又黄色いやうな、黑いやうな、甚(はなはだ)怪しげな赤靴である。

 新しい靴をはいた後(のち)、又車に乘つて行つたら、貢院の續いてゐる往來へ出た。貢院は坪數約三萬、戸數二萬六百とか云ふ、途方もない規模を備へた、昔の文官試験場である。通りすがりに見た感じは、棟割長屋と大差はない。が、日の入りの空に聳えた、壁だけ灰白い明遠樓(めいえんろう)の下に、無數の甍が連つてゐるのは、大袈裟な氣もちがするばかりか、如何にも荒涼たる景色である。私はその屋根を眺めてゐると、急に天下の試驗制度が悉(ことごとく)下らない氣がし出した。同時に又天下の落第書生に、滿腔の同情も捧げたくなつた。諸君が試驗に落第したのは、諸君の無能によるのぢやない。單に不幸なる偶然である。古來支那の小説家は、この偶然を必然とする爲に、諸處の貢院を舞臺とする、因果の怪談を作り出した。が、あれは信ずるに足りない。いや、寧ろさう云ふ話は、彼等も試驗の及落には、如何に偶然が幅を利かすか、明かに知つてゐた證據である。諸君は試驗に落第しても、諸君の能力を疑つてはならない。もしそれを疑つたが最後、諸君は諸君自身を亡ぼすと共に、諸君の先進たる試驗官をも、精神的殺人の犯罪に陷らせる事になるからである。現に私なぞは落第點を取つても、私自身の才力に就いては、寸毫(すんがう)の疑(うたがひ)も挾まなかつた。その爲に當時の試驗官諸公も、私に接する時だけは、良心の呵責を感じないらしい。……

 「貢院はもつとあつたのです。」

 案内者の聲は卒然と、私の妄想を驚かせた。彼は私を顧みながら、點點と空に蝙蝠を飛ばせた、物悲しい瓦屋根を指さしてゐる。

 「一時は議員の選擧場にも使はれたのですが、去年以來どしどし毀され出しました。」

 我我の車はさう云ふ内に、名高い秦淮(しんわい)のほとりへ出てゐた。

[やぶちゃん注:5月12日、揚州から鎮江へ戻った芥川は、ここで案内をしてくれた島津四十起と別れ、単身、列車で南京“nánjīng”に赴いた。

・「浦口(プウカオ)」“pŭkŏu”は現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、1968に竣工した南京長江大橋で市街と連絡する。この橋は鉄道道路併用橋で、この開通によってそれまで長江によって分断されていた上海・北京間の鉄道が繋がった。新技術開発区や経済開発区に指定されているが、活気は今一つである。

・「靈巖山へ登つた歸りに、……」前掲「十八 天平と靈巖と(下)」参照。

・「キツドの靴」“kid”でキッド革、子山羊の革。

・「繻子」絹を、縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず、一般には縦糸だけが表に現れる織り方(繻子織りと言う)にしたものを言う。

・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。「上海游記」には勿論のこと、本篇前半の西湖の案内者として既に登場している。

・「貢院」科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある。極めて狭い。ここで2泊3日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格であった。

・「明遠樓」上記の江南貢院は清末に科挙の廃止に伴い、順次、取り壊されてしまったが、試験官の詰め所であった明遠楼は、現在も保存されている。

・「秦淮」江蘇省南西部から南京市街の西を流れ、長江に通ずる運河の名。南京の名勝地で、両岸には料理屋や遊郭が殷賑を極めていた。]

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