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2009/07/19

江南游記 二十一 客棧と酒棧

       二十一 客棧と酒棧

 

 島津氏が何處かへ出て行つた後(のち)、私は椅子に腰を下しながら、ゆつくり一本の敷島を吸つた。寢臺(ねだい)が二つ、椅子が二つ、茶道具を載せた卓子(テエブル)が一つ、それから鏡のある洗面臺が一つ、その外は窓掛も敷物もない。唯白いむき出しの壁に、ペンキ塗りの戸が鎖(とざ)してある。が、思つたより不潔ぢやない。蚤とり粉を盛に撒いたせゐか、幸(さいはひ)南京蟲にも食はれなかつた。この分なら支那宿へ泊るのも、茶代の多寡を心配しながら日本人の旅館に陣取るよりは、遙に氣が利いて居る位である。

 私はそんな事を考へながら、硝子(ガラス)窓の外へ眼をやつた。この部屋のあるのは三階だから、窓の外の眺も可也廣い。しかし眼にはひるものは、夕明りの中に黑み渡つた、侘しい瓦屋根ばかりである。何時かジヨオンズがさう云つたつけ、最も日本らしい寂しさは、三越の屋上から見下した、限りない瓦屋根に漂つてゐる。何故日本の畫家諸君は。――

 私は物音に驚かされた。見ればペンキ塗りの戸口には、不相變青い服を着た、背の低い婆さんが佇んでゐる。婆さんはにやにや笑ひながら、何か私に話しかけるが、啞(おし)の旅行家たる私には、勿論一言(ひとこと)も判然しない。私は當惑し切つた儘、やむを得ず顏ばかり眺めてゐた。

 すると、開け放した戸の外に、ちらりと花やかな色彩が見えた。水水しい劉海(リウハイ)(前髮)、水晶の耳環、最後に繻子(しゆす)らしい薄紫の衣裳(イイシヤン)――少女は手巾(ハンケチ)を弄びながら、部屋の中には一瞥も送らず、靜に廊下を通り拔けた。と思ふと又婆さんは、早口に何か饒舌(しやべ)り立てては、得意さうに笑つて見せる、かうなればもう婆さんの來意も、島津氏の通譯を待つ必要はない。私は脊の低い婆さんの肩へ、ちよいと兩手をかけるが早いか、くるりと彼女に廻れ右をさせた。

 「不要(プヤオ)!」

 其處へ島津氏が歸つて來た。

 その晩私は島津氏と一しよに、城外の酒棧(チユザン)へ出かけて行つた。島津氏は「老酒(ラオチユ)に醉つた父の横顏」と云ふ、自畫像めいた俳句の作者だから、勿論相當の酒豪である。が、私は殆(ほとんど)飮めない。それが彼是一時間あまり、酒棧の一隅に坐つてゐたのは、一つには島津氏の德望の力、二つには酒棧に纏綿(てんめん)する、小説めいた氣もちの力である。居酒屋は都合二軒見たが、便宜上一軒だけ紹介すると、其處は白壁を左右にした、天井の高い店裏(みせうら)である。部屋の突き當りはどう云ふ訣(わけ)か、荒い格子戸になつてゐたから、夜目(よめ)にも往來の人通りが見える。机や腰掛けは剥(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした。

 我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた。

 其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。

 「何です、これは?」

 「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」

 島津氏は銅貨を二枚出した。

 「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」

私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。

 

[やぶちゃん注:「客棧」は旅館。中国の伝統的な普通の旅籠屋を指す。「酒棧」は居酒屋。芥川龍之介がもし「酒棧」を本文同様中国音で「チユザン」と読んでいるのであれば、「客棧」は“kèzhàn”で「コザン」となる。但し、本文には「客棧」が現れないから、この標題は素直に日本語の音で通して「きやくさんとしゆさん」と読ませていると考えてよい。

・「敷島」国産の吸口付き煙草の銘柄。明治371904)年に発売され、昭和181943)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「ジヨオンズ」Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この中国行での上海での出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。

・「劉海(リウハイ)」Liú Hăi”は元来は神仙の名前である。額の前に垂れ下がった髪を短く切り揃えた童子の姿で描かれた、人気の仙童(実は南京大学で一年間日本語教師をした妻の私への土産物がこの劉海の絵であった)で、そこから前髪をこう言うようになった。別に、男の子の額の左右の両角の産毛と女の子の額の中央の産毛を合わせて「留孩髪」と呼んだが、その「留孩」の中国音“liúhái”が、劉海“Liú Hăi”と似ており、野暮ったい「留孩」を伝承が知れていた「劉海」に換えたという話や、則天武后の婉児の額の梅の刺青にまつわるエピソードなどは、面白さ満載の以下をお読みあれ。個人のブログ「中縁ネット」「916中国の三面記事を読む(314)前髪をなぜ“劉海”というのか?」という中国の新聞記事の素晴らしい日本語訳である。

・「繻子」絹を、縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず、一般には縦糸だけが表に現れる織り方(繻子織りと言う)にしたものを言う。

・「衣裳(イイシヤン)」“yīshāng”。

・「不要(プヤオ)」“búyào”。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。

・「老酒(ラオチユ)」“lăojiŭ”。中国産の醸造酒(黄酒)の総称。長期熟成したものほど貴ばれることからこの名で呼ばれることが多い(一般に3年以上でないと商品とはならないとされる)。特に紹興酒に用いることもあるが、逆に地域ブランドとしての紹興酒以外の老酒を紹興酒を呼んでしまう誤りのもとともなっている。現在、2000年4月20日に中国政府の発令により、紹興以外の土地で造られた老酒を「紹興酒」と呼称することは禁じられている。

・『「老酒(ラオチユ)に醉つた父の横顏」と云ふ、自畫像めいた俳句』完全な自由律俳句である。言葉少なに自分の横で「老」酒(ラオチュウ)を酌み交わす父、その酔った父の「老」いた横顔を眺めるうち、それが如何に自分に似ているかに気づいた視線である。芥川の読みは鋭い。因みに島津四十起は明治4(1871)年生まれであるから、この時既に50歳であった(芥川は当時29歳)。

・「纏綿する」からみついている、まとわりついた、の意。

・「店裏」店の内部。

・「ため塗り」これは「溜塗り」で、漆器の漆の塗り方の一種。まず下地に朱色を塗って、その上から半透明の透漆(すきうるし)を塗って仕上げる。下の朱が微妙に見え、赤茶色のような色合いが生まれる。更に経時変化によって透明度が増してくる漆の特性を最大限に発揮させる塗りである(京都の漆塗り・漆器販売「漆器の井助」の漆塗り豆知識」を参照した)。

・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。

・「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」、花彫酒という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と煌びやかな彩色を施して婚家へ持参したことから。中文記事等を斜め読みすると、京荘酒というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は恭しく奉る、厳かにして高品質の、と言った意味合いではなかろうか。

・「拳」拳遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。

・「豚の胃袋や心臟」中国人の方の日本語ブログ「忠于云端」に福建省沙県での記事があり、そこで「炖罐」“dùnguàn”(トェンコアン)なる食べ物を紹介されている。失礼ながら、やや日本語がおかしいのであるが、本文の島津の言と総合すると、豚の心臓・肝臓・胃及び鶏肉や兎の肉を炭・塩で漬け込んだものである。如何にもこれっぽい。因みに「炖」は「廣漢和」にも所収しない字であるが、ネット検索により、とろ火で長時間煮込むことを意味することが分かった。「罐」は(水を入れる)素焼きの甕の意。――私はこう書きながら、既に唾液が口中に浸潤してくるのを感じるのであった――

・「遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した」芥川龍之介は大正3(1914)年3月、巣鴨の精神病院を見学後、東京帝国大学医科大学で人体解剖を見学している(東京大学は明治191886)年3月に東京大学医学部から帝国大学医科大学となり、明治301897)年6月に帝国大学の呼称が東京帝国大学と変更、大正8(1919)年4月に学部制が敷かれて医科大学は医学部となった)。後の「羅生門」の死体描写に生かされ、また、「或阿呆の一生」の中にも描かれている。無縁とも思えぬので精神病院の記載と合わせて私の電子テクストから引用する。

 

   二 母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂鬱に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讚美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

 

   九 死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剥ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

 

・「母夜叉孫二娘」は「水滸伝」中の梁山泊の女傑の一人。水滸伝百八星の七十二地煞星の103番目で、102番目の夫張青に従っている。孟州十字坡(は:坂の意。)で、居酒屋を営んでいたが、金品を持った旅人に毒を盛って荷物を奪い、その死体を刻んで牛肉と偽って肉饅頭を作り客に出すというとんでもない牛頭人肉酒桟(チュザン)であった。そこから渾名を「母夜叉」(女の夜叉=鬼神)の意。以上は主に「山頭水賊漢」「母夜叉 孫二娘」のページを参照した。武松との関わりから梁山泊へと身を寄せる過程など、不精な私には有難い「水滸伝」ダイジェスト・ページである)。]

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