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2009/07/05

江南游記 七 西湖(二)

       七 西湖(二)

 

 その次に蘇小小の墓を見た。蘇小小は錢塘(せんたう)の名妓である。何しろ藝者と云ふ代りに、その後は蘇小と稱へる位だから、墓も古來評判が高い。處が今詣でて見ると、この唐代の美人の墓は、瓦葺きの屋根をかけた漆喰か何か塗つたらしい、詩的でも何でもない土饅頭だつた。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋普請の爲に荒され放題荒されてゐたから、愈(いよいよ)索漠を極めてゐる。少時(せうじ)愛讀した孫子瀟(そんしせう)の詩に、「段家橋外易斜曛。芳草凄迷緑似裙。弔罷岳王來弔汝。勝他多少達官墳。」と云ふのがある。が、現在は何處を見ても、裙(くん)に似た草色(さうしやく)どころの騒ぎぢやない。掘り返された土の上に、痛痛しい日の光が流れてゐる。おまけに西冷橋畔の路(みち)には、支那の中學生が二三人、排日の歌か何かをうたつてゐる。私は匆匆(さうさう)村田君と、秋瑾(しうきん)女史の墓を一見した後(のち)、水際の畫舫へ引き返した。

 畫舫は岳飛の廟へ向ふ爲に、もう一度西湖へ漕ぎ出された。

 「岳飛の廟は好(い)いですよ。古色に富んでゐるですからね。」

村田君は私を慰めるやうに、曾遊(そういう)の記憶を話してくれた。が、私は何時の間にか、西湖に反感を持ち出してゐた。西湖は思つた程美しくはない。少くとも現在の西湖なるものは、去るに忍びざる底(てい)のものぢやない。水の淺い事は前にも云つた。が、その上に西湖の自然は、嘉慶道光の諸詩人のやうに、繊細な感じに富み過ぎてゐる。大まかな自然に飽き飽きした、支那の文人墨客(ぼくかく)には、或は其處が好(よ)いのかも知れない。しかし我日本人は、繊細な自然に慣れてゐるだけ、一應は美しいと考へても、再應は不滿になつてしまふ。が、もしこれだけに止まるとすれば、西湖は兎に角春寒(しゆんかん)を怯(おそ)れる、支那美人の觀だけはある筈である。處がその支那美人は、湖岸至る所に建てられた、赤と鼠と二色(いろ)の、俗惡恐るべき煉瓦建(だて)の爲に、垂死の病根を與へられた。いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆(ほとんど)大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓(はびこ)つた結果、悉(ことごとく)風景を破壞しゐる。私はさつき秋瑾女史の墓前に、やはりこの煉瓦の門を見た時、西湖の爲に不平だつたばかりか、女史の靈の爲にも不平だつた。「秋風秋雨愁殺人」の詩と共に、革命に殉じた鑑湖秋女俠(かんこしうぢよけふ)の墓門(ぼもん)にしては、如何にも氣の毒に思はれたのである。しかもかう西湖の俗化は、益(ますます)盛(さかん)になる傾向もないではない。どうも今後十年もたてば、湖岸に並び建つた西洋館の中に、一軒づつヤンキイどもが醉拂つてゐて、その又西洋館の前に、一人づつヤンキイが立小便してゐる、――と云ふやうな事にもなりさうである。何時か蘇峰先生の「支那漫遊記」を讀んでゐたら、氏は杭州の領事にでもなつて、悠悠と餘生を送る事が出來れば、大幸だとか何とか云ふ事だつた。しかし私は領事どころか、浙江の督軍に任命されても、こんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい。………………

 私が西湖を攻擊してゐる内に、畫舫は跨虹橋(ここうけう)をくぐりながら、やはり西湖十景の内の、曲院の風荷(ふうか)あたりへさしかかつた。この邊は煉瓦建も見えなければ、白壁を圍んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き殘つてゐる。左に見える趙堤の木蔭に、靑靑と苔蒸した玉帶橋が、ぼんやりと水に映つてゐるのも、南田(なんでん)の畫境に近いかも知れない。私は此處へ船が來た時、村田君の誤解を招かないやうに、私の西湖論へ增補を施した。

 「但し西湖はつまらんと云つても、全部つまらん次第ぢやないがね。」

 畫舫は曲院の風荷を過ぎると、岳王廟の前へ止まつた。我我は早速船を跡に、「西湖佳話」以来御馴染の、岳將軍の靈を拜みに出かけた。すると廟は八分(ぶ)ばかり、新しい壁を光らせた儘、泥や砂利の山の中に、改修中の醜さを曝してゐる。勿論村田君を喜ばせた、古めかしい景色なぞは何處にもない。唯燒け跡のやうな境内には、土方や左官ばかりがうろついてゐる。村田君はカメラを出しかけたなり、落膽したやうに足を止めた。

 「これはいかん。かうなつてはもう形なしだ。――ぢや墓へ行つて見よう。」

 墓は蘇小小の墓のやうに、漆喰を塗つた土饅頭である。尤もこれは名将だけに、蘇家(そか)の麗人のより餘程大きい。墓の前には筆太に、宋岳鄂王之墓(そうがくがくわうのはか)と書いた、苔痕斑斑(はんぱん)たる碑が立つてゐる。後(うしろ)の竹木の荒れたのも、岳飛の子孫でない我我には、詩趣こそ感ずるが、悲しい氣はしない。私は墓のまはりを歩きながら、聊か懷古めいた心もちになつた。岳王墳上草萋萋――誰(だれ)かにそんな句もあつたやうな氣がする。が、これは孫引きではないから、誰の詩だつたか判然しない。

 

[やぶちゃん注:

・「蘇小小の墓」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。後に美妓を皆この名で呼ぶが、実在した蘇小小の事蹟については確かなものは、

 

我乘油壁車 我は乘る 油壁車

郎乘靑驄馬 郎は乘る 靑驄(せいさう)の馬

何處結同心 何處(いづく)にか同心を結ばん

西陵松柏下 西陵の松柏の下(もと)

 

○やぶちゃんの書き下し文

我は乘る 油壁車

郎は乘る 靑驄(せいさう)の馬

何處(いづく)にか同心を結ばん

西陵の松柏の下(もと)

 

○やぶちゃんの現代語訳

私の乗るのは 色鮮やかな引き車

貴方の乗るのは 駿馬の白馬(あおうま)

貴方と私 どこで永遠(とわ)の契りを結べばよいの?

それは――あの西陵の 松柏植わった 墓の中――

 

という悲恋の古えの楽府の作者であるというだけである。現在の彼女の墓と伝えられるものは西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。

 実は私はここで、芥川龍之介への恨みを語りたい。正にここで、彼が愛読した李賀の「蘇小小墓」の名吟を引用していれば、芥川と李賀の比較研究は、今頃、もっと深化していたであろうということである。しかし、『西湖に反感を持ち出してゐた』芥川にとって、最早この時そこは、幽冥の境としての幻視を全く許さない愚劣な噴飯物の現実となっていたのであった。ジャーナリストとしての彼の視点は正しかったにしても、私が愛してやまない稀代の幻想詩人、中国のランボーを、芥川龍之介にダイレクトに連結し得た一瞬は、ここにこそあった筈であると私は思うのである。誠に惜しいと言わざるを得ない。芥川龍之介と李賀――その確信犯的な結び付きは、芥川自身の言葉では遂に記されることがなく、言わば都市伝説(アーバン・レジェンド)のように芥川研究に見え隠れするばかりなのである。せめて私はここに李賀の、その「蘇小小墓」(原田憲雄氏は「蘇小小歌」とすべきと説かれている)を引用して注としたいのである(原文は1998年平凡社刊の原田憲雄訳注東洋文庫「李賀歌詩編1」を用いたが、書き下し文と現代語訳は私のオリジナルである。現代語訳には私の相応な思い入れもある)。

 

   蘇小小墓

幽蘭露

如啼眼

無物結同心

煙花不堪剪

草如茵

松如蓋

風爲裳

水爲珮

油壁車

久相待

冷翠燭

勞光彩

西陵下

風吹雨

 

○やぶちゃんの書き下し文

   蘇小小(そせうせう)の墓

幽蘭(いうらん)の露(つゆ)

啼(な)ける眼(め)のごとし

物として同心を結ぶ無く

煙花 剪(き)るに堪へず

草 茵(しとね)のごとく

松 蓋(かさ)のごとし

風 裳(も)と爲(な)し

水 珮(たま)と爲す

油壁車(いうへきしや)

久しく相(あひ)待つ

冷たり 翠燭(すゐしよく)

勞たり 光彩

西陵の下(もと)

風 雨を吹く

 

○やぶちゃんの現代語訳

   蘇小小の墓

荒蕪の蘭に置く露は

そなたの泣いた目もとである――

永遠(とわ)の契りを結び得る ところとても最早 ない――

されど霞めるその花を 無惨に剪(き)るが如くには 断てぬ哀しき縁(えにし)なる――

生い茂る草は ふうわり 敷布

古びた松柏は 雨風凌ぐ 羅蓋(らがい)となり

もの凄まじくして吹き抜く風は 絹より軽き裳の裾のさま

流れ流れる水の音(ね)は 数多(あまた)の佩び玉 触るる音(おと)

彼女の乗った 色鮮やかな引き車――

それは ずっと 待ち続けている――

冷たい 鬼火――

消えゆく 炎――

闇に堕ちゆく西陵の墓――

ただもう 風――ただもう 雨――

 

以下に、簡単に(李賀の詩は難解で多層的であるから、注を附すとなると無闇に長くなってしまうので)語注を附す(主に原田氏の注を参照した)。

○「幽蘭」「幽」は人気のない場所、「蘭」はキク目キク科ヒヨドリバナ属フジバカマEupatorium fortunei。「孔子家語」にこの花は人気のないところに咲きながら芳香を放つとすることから、ここでは名妓の節操の面目を言う。

○「物として同心を結ぶ無く」は、先に提示した楽府の「何處結同心 西陵松柏下」を受け、最早契りを結ぶべき場所は冥界にさえなくなったことを言う。

○「煙花 剪るに堪へず」の「煙花」は靄に包まれた果敢なく消えてゆく花で、ここは待てども来ぬつれない男との縁(えにし)をシンボライズし、しかしそれでもそれを切る(縁を断つ)に忍びない蘇小小の魂魄の切ない思いを謂う。

○「茵」を原田氏は後に出る蘇小小の魂魄が乗る幻の油壁車のクッションを言うとするが、私はダイレクトに男を待つ空しき褥(しとね)と読みたくなるのだが。

○「蓋」は車に付属した傘という。私は幻の閨の褥に差しかけられた羅蓋ととった。

○「水 珮と爲す」の「珮」は女性が腰に帯びた飾り玉で、「水」=河の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。

○「油壁車」は車の壁に漆で彩色を施した高貴な女子の専用車という。防水効果もあろうから、この雨露にぬれそぼった景には相応しいか。

○「風吹雨」一本に「風雨晦」(「風雨晦(くら)し」)とする。これだと、風雨のためにすっかり暗くなってゆく、でフェイド・アウトするが、原田氏はこれを「詩経」の一節を踏まえるとし、そこでは女が男に会える期待を余韻とする。しかし李賀の本詩では『舞台はすでに闇黒である。闇黒は自体が暗いので、それを「晦し」という必要はない』とし、ここでの蘇小小の魂魄の沈黙は『永遠の女性の、永遠のたたかいなのだ。この句は必ず「風吹雨」でなければならない』とされる。そのパッショネイトな見解に私は強く惹かれる。但し、優れた漢詩サイトである「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「蘇小小墓 李賀」で、碇豊長氏はここを「風雨晦」で採り、注して『風雨晦:(蘇小小の魂の燐光も衰え、附け加えて)風雨で暗くなっている。』『ここを「風吹雨」ともするがその場合、韻脚がなくなる。どちらがより原初の形かを論じない場合、詩としては「風雨晦」の方が詩としては適切である』とされている。これもこれで説得力がある。

 

・「錢塘」は杭州の古名。秦代に会稽郡銭唐県が置かれたのが名の濫觴という。

・「西冷橋」は孤山の南側山麓にある。「西冷」というのはこの付近一帯の地名というが、更に「冷」ではなく「泠」が正しいという記載もネット上で見かけた。

・「孫子瀟」は元代の山水画の巨匠。本名孫君澤(生没年未詳)、子瀟は号。

・『「段家橋外易斜曛。芳草凄迷緑似裙。弔罷岳王來弔汝。勝他多少達官墳。」』は、

 

○やぶちゃん書き下し文

段家橋外 斜曛(しやくん)し易し

芳草 凄迷 緑 裙(くん)に似たり

岳王を弔(ちやう)し 罷(や)みて來たり 汝を弔す

勝(まさ)る 他の多少の達官の墳

 

○やぶちゃん現代語訳

段家橋畔 日暮れが早い

かんばしき花――鬱蒼たる緑 それは 貴女の裳裾の色

岳鄂王を 墓参の後 蘇小小 貴女を弔った

参ってよかった 貴女の墓に――他のお偉い役人の 有り難くもない墓参るより――

 

因みに「段家橋」は、断橋のこと。孤山路の道はここまでであることから、道を断つ橋という名となったというが、唐代には段家橋と呼称したという(「段」と「断」はどちらも“duàn”で、ここは音通でもあろう)。「岳王」は岳飛。

 

・「秋瑾女史の墓」秋瑾(Qiū ĭn チィォウ チン秋瑾18751907)は清末の女性革命家。18歳で官僚に嫁したが、義和団運動に影響されて家庭を捨てて、日本に留学、革命を鼓吹するとともに、女性の自立を訴える文章を発表、明治381905)年の帰国後は教員をしながら、浙江省の革命秘密結社光復会の会員として本格的な革命運動に身を投じた。1907年、徐錫麟(じょしゃくりん 18731907)らとともに武装蜂起を計画したが失敗、同年7月、浙江省紹興軒亭口の刑死場で斬首処刑された。享年32歳。遺骨は各地を転々とし、処刑4年後の辛亥革命の後には、芥川が参った場所に移されて孫文の献辞も掲げられたが、その後、文化大革命で墳墓は荒らされ、遺骨も散逸した。文革後に遺骨の再追跡調査がなされ、再び西冷橋畔に建立されたという。従って現在のものは頗る新しいものである(秋瑾の事蹟は主に小学館「日本大百科全書」の伊藤昭雄氏の記載を参照した)。

・「岳飛の廟」は西湖北西岸に位置し、1221年に建立された。

・「嘉慶道光」1796年から1850年。「嘉慶」年間は清第7代皇帝仁宗、嘉慶帝(17601820)の在位期間(17961820)。「道光」年間は第8代皇帝宣宗、道光帝(17821850)の在位期間。政治的には清王朝に陰りが見え始める時期であるが、文学的には張問陶(17641814)・陳鴻寿(17681822)・陳文述(17711843)・龔自珍(きょうじちん 1792年~1841)といった清新な詩派が興隆した時期でもあった。

・「秋風秋雨愁殺人」「秋風秋雨 人を愁殺す」は秋瑾が紹興での処刑に臨んで詠んだ辞世のと伝えられている詩。

・「鑑湖秋女俠」秋瑾の号。「鑑湖」は紹興(秋瑾の原籍地)の南西にある湖の名。

・『蘇峰先生の「支那漫遊記」』徳富蘇峰(文久31863)年~昭和321957)年)の1906年の華南旅行に次ぐ、1917年9月~12月の二度目の中国行の紀行文で、朝鮮・華北・湖北・安徽の各地方に及ぶ旅行記。大正7(1918)年民友社刊。クレジットは本名の徳富猪一郎。

・「督軍」辛亥革命後、省長とともに各省に置かれた軍政長官。後には省長を兼任して行政権を握って軍閥の元を作った。

・「跨虹橋」蘇堤にある6つの橋の内、最も北に位置する橋の名。

・「西湖十景」前掲「六 西湖(一)」の同語注参照。

・「曲院の風荷」蘇堤の跨虹橋の西北に宋代官営醸造所である麹院(きくいん)があったが、そこはまた蓮花の名所でもあった。湖畔に曲折した蓮見台でもあったのかも知れないが、それ以上に「麹」の中国音が“”、「曲」の音が“”或いは“”であるから、やや特異な施設「麹院」を分かりやすい発音の似る「曲院」に変えたというのが真相ではあるまいか? ネット上には元は「麹院風荷」であったが、清の第4代聖祖(康熙帝 6541722)の勅命により「曲院風荷」と改名したとある。

・「趙堤」筑摩全集類聚版には裏湖(蘇堤によって仕切られた西側の狭い部分。現在はこの南の大半部分を西里湖と呼ぶようである)の西岸にあるとし、『蘇堤と垂直になっている』と記す。中文ネット上の地図では拡大すると字が潰れて判読出来ないが、さる中文サイトの西湖の詩をや芥川の叙述から判断して、蘇堤の北の端に近いところにある、西から伸びた半島状の先にある堤であるらしい(その北を岳廟があるので岳湖と呼ぶ)。

・「玉帶橋」岳湖と裏湖(西里湖)の間に架かる橋の名。私はこれが蘇堤と先の趙堤を結ぶ橋であると思ったのだが、筑摩全集類聚版脚注では『蘇堤の東浦橋より裏橋の堤につうじる金沙堤にある橋』とあり、訳が分からなくなった。それ程広い地域でないので、余程短い地域に複数の地名が配されているのか? 西湖にお詳しい方の御教授を乞う。

・「南田」惲寿平(うんじゅへい 16331690)は清代前期の画家。南田は号。詩・書・画共に優れて「三絶」と称せられた。山水画の名手。芥川龍之介は彼の画風を好み、大正9(1920)年の小説「秋山図」にも彼を登場させている。

・『「西湖佳話」』は正式書名「西湖佳話古今遺蹟」で、清代初期に成立した短編小説集。編者古呉墨浪子(古ごは杭州の謂い)は人物未詳。西湖の名勝旧跡に纏わる16篇の物語を史伝・説話・伝承から翻案したもの。

・「宋岳鄂王之墓」岳飛は死後、冤罪が雪がれ、鄂王(がくおう)に封じられたため、岳鄂王と呼ばれた。「鄂」は現在の湖北省の長江南岸、鄂州市の西にある武昌市(現在の鄂州市ではない)の古名。

・「岳王墳上草萋萋」は「岳王墳上 草 萋萋(せいせい)」と読む。「萋萋」は草木が生い茂ること。芥川は失念しているが、これは南宋末から元初の政治家にして文人であった趙孟頫(ちょうもうふ 12541322)の詩「岳鄂王墓」の一節である。岩波版新全集の神田由美子氏の注解には、芥川が先に掲げた古呉墨浪子著の「西湖佳話」の一篇である『「岳塡忠蹟」は、この詩で結ばれている。正しくは「岳王墳上草離離」。』とある。「離離」は「萋萋」と同義。]

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