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2009/07/14

江南游記 十六 天平と靈巖と(上)

       十六 天平と靈巖と(上)

 天平山白雲寺(てんぺいざんはくうんじ)へ行つて見たら、山に倚(よ)つた亭の壁に、排日の落書きが澤山あつた。「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」と云ふのがある。「犬與日奴不得題壁」と云ふのがある。(尤も島津氏は平然と、層雲派の俳句を題してゐた。)更に猛烈なやつになると、「莽蕩河山起暮愁。何來不共戴天仇。恨無十萬横磨劍。殺盡倭奴方罷休。」と云ふ名詩がある。何でもこの詩の前書きには、天平山へ詣でる途中、日本人と喧嘩をしたら、多勢に無勢のため負けてしまつた。痛憤に堪へないなどと書いてあつた。聞けば排日の指嗾費(しそうひ)は、三十寓圓内外とか云ふ事だが、この位利き目があるとすれば、日本の商品を驅逐する上にも、寧ろ安い廣告費である。私は欄外の若楓(わかかへで)の枝が、雨氣(うき)に垂れたのを眺めながら、若い寺男の持つて來る、抹香臭い茶を飮んだり、固い棗(なつめ)の實を嚙つたりした。

 「天平山は思つたより好い。もう少し綺麗にしてあると猶好(よ)いが、――おや、あの山の下の堂の障子は、あれは硝子(がらす)が嵌まつてゐるのですか?」

 「いや、貝ですよ。木連(きつ)れ格子(がうし)の目へ一枚づつ、何とか云ふ貝の薄いやつを、硝子代りに貼りつけたのです。――天平山は何時か谷崎さんも、書いてゐたぢやありませんか?」

 「ええ、蘇州紀行の中に。尤も天平山の紅葉よりは、途中の運河の方が面白かつたやうです。」

 我我は靈巖山(れいがんざん)へも登る必要上、今日も驢馬に跨つて來たが、それでも初夏の運河に沿うた、姑蘇城外の田舍路は、美しかつたのに相違ない。白い鵞(が)の浮いた運河には、やはり太鼓なりに反り上つた、古い石橋がかかつてゐる。その水にはつきり影を落した、涼しい路ばたの槐(ゑんじゆ)や柳、或は青麥の畠(はた)の間に、紅い花をつけた玫瑰(メイクイ)の棚、――さう云ふ風景の處處に、白壁の農家が何軒も見える。殊に風流に思つたのは、そんな農家を通り過ぎる毎に、窓の中を覗きこむと、上(かみ)さんだか娘だか、刺繡(ししう)の針を動かしてゐる、若い女も少くない。生憎(あいにく)空は曇つてゐたが、もし晴れてゐたとすれば、彼等の窓の向うには、靈巖、天平の青山が、描いたやうに見えた事であらう。

 「谷崎さんも乞食に惱まされたやうですね。」

 「あれには誰でも惱まされる。しかし蘇州の乞食はまだ好(い)いですよ。杭州の靈隠寺(れいいんじ)と來た日には――」

 私は思はず笑ひ出した。靈隠寺の乞食の非凡さは、日本人には到底想像も出來ない。大袈裟にぽんぽん胸を叩いたり、地(ぢ)びたへ頭を續け打ちにしたり、足首のない足をさし上げて見せたり、――まづ、乞食の技巧としては、最も進歩した所を見せる。が、我我日本人の眼には、聊(いささか)藥が利きすぎるから、憐憫の情を催すよりも、餘り仰仰しいのに吹き出してしまふ。あれを思へば蘇州の乞食は、唯泣き聲を出すだけだから、手の内をやるにもやり心地が好い。しかし獅子山(ししざん)の裾か何かの、寂しい村を過つた時、うつかり一錢投げてやつたばかりに、村の子供だの女だのが、いづれも手をさし出しながら、驢馬のまはりを取り卷いたのには、少からず難澁した。如何に柳が垂れてゐたり、女が刺繡(ぬひ)をしてゐたりしても、敬服ばかりすべきものぢやない。その村の白壁の一重内(へうち)には、丁度巣を食つた燕のやうに、恐るべき娑婆苦(しやばく)が潛んでゐる。

 「ぢや山の上に登つて見ませうか?」

 島津氏は私を促しながら、亭後(ていご)の山路(やまみち)を登り始めた。油ぎつた若葉の中に、土の赤い山路が、細細と岩を縫つてゐるのは、何だか嬉しいものである。その路を斜(ななめ)に登りつめると、今度は屏風を立てたやうに、巨岩の突き立つた所へ出た。此處が行き止りかと思つたら、岩と岩との迫つた間に、體を横にしなければ、殆(ほとんど)通過も出來ない位、小さい路が走つてゐる。いや、走つてゐるのぢやない。まつ直に天上へ向つてゐるのである。私は岩の下に佇んだ儘、樹の枝や蔦蘿(つたかつら)に絡(かが)られた、遠い青空を振り仰いだ。

 「卓筆峰とか望湖臺とか云ふのはこの山の上にあるのでせうか?」

 「さあ、多分さうでせう。」

 「成程、これは登天平路らしい。」

[やぶちゃん注:5月10日の蘇州周遊。標題は蘇州の西にある天平山と靈巌(れいがんざん)の意。天平山は蘇州市西方約14㎞に位置する山で、標高382m(221mとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。霊巌山は天平山の南方蘇州市街西南西へ約15㎞に位置する山で、標高182m、李白・白居易・范仲淹・高啓といった高名な詩人達が題詠を残している名勝である。

・「天平山白雲寺」天平山自体は有名な寒山寺からは真西に約6㎞のところに位置する。現在、寺は存在しないのか、ネット検索に殆んど掛かってこない。神田由美子氏の岩波版新全集注解では『宋の范仲淹のために建立』とある。

・「山に倚つた亭」現在の白雲茶室か。

・『「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」』は、訓読するなら「諸君儞(なんぢ)快活の時に在りて、三七二十一條を忘了(ばうりやう)すべからず」で、「三七二十一」は九九の掛け算で読む。「君たち! そこの、あなた、だ! この大事な時にあって、あの屈辱的な二十一ヶ条を忘れてはならない!」の意。本邦で言う通称「対華21ヶ条要求」のことを言っている(中国では「二十一条」。本条約には正式名称がない)。大正4(1815)年に日本が権益と侵略のために中華民国袁世凱政権に受諾させた条約。第一次世界大戦に敗北したドイツの山東省での権益の日本継承・関東州租借期限延長・満鉄権益期限延長・漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)日中合弁化等を内容としたあからさまな不平等条約であった。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した59日を国恥記念日と呼び、学生・労働者のストライキから、1819年の五四運動の火種となった(以上は主にウィキの「対華21ヶ条要求」を参照した)。

・『「犬與日奴不得題壁」』訓読すると「犬と日奴とは壁に題することを得ず」で、「犬と日奴(日本人野郎)は壁に落書きするな」の意。これは有名な上海外灘(“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The Bund”バンド)あった“Public Garden”パブリック・ガーデンの入口の看板「華人與狗不得入内」を逆手に取ったパロディである(芥川龍之介「上海游記」の「十二 西洋」等の本文及び私の注を参照されたい)。

・「層雲派の俳句を題してゐた」先に記した通り、島津四十起は俳句を嗜み、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。ここで言う「層雲派」とは、新傾向の河東碧梧桐門下の荻原井泉水が、非定型・無季語という更に突っ込んだ自由律俳句を創始し出した結社。その雑誌名を『層雲』という。尾崎放哉や種田山頭火が著名。因みに私も若い時分、この雑誌に依って自由律俳句をものした。私の卒論は尾崎放哉論であった。よろしければ「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版)」をもご覧あれ。

・『「莽蕩河山起暮愁。何來不共戴天仇。恨無十萬横磨劍。殺盡倭奴方罷休。」』筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるのか? 私はよく分からない。暴虎馮河なれど、諸注の態度が気に入らないから、意地でひねり出す。句読点を排除して書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る

何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)

恨むらくは 十萬の横磨劍(わうまけん)の無きを

倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに

○やぶちゃんの現代語訳

遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――

一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――

恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣が無いこと――

ああ! 日奴を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――

 後晋の軍人にして宰相であった景延広(892947)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。

・「排日の指嗾費」排日運動を陰でけしかけるために、中華民国政府が秘かにばら撒いている非合法の秘密費という意味であろう。同僚の世界史の教師に訊いて見たが、このような事実を確認することは出来なかった。しかし、あったとしても少しもおかしくはあるまい。中日の軍閥割拠、何をしていたか、誰も分からない。報操作は大事な戦略である。後のことになるが、上海事変の末期の昭和7(1932)年4月29日に虹口公園(現・魯迅公園)で起こった上海天長節爆弾事件では、抗日テロ行為に中華民国政府が資金調達をしていたことが知られる。以下にウィキの「上海天長節爆弾事件」から該当部分を引用する。当時の昭和天皇誕生日であった天長節4月29日、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民によって『大観兵式と天長節祝賀会を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった』が、『このテロ実行の恰好の機会に、朝鮮半島からの日本による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府(亡命政権)の首班金九は尹奉吉をテロの実行犯として差し向ける事にした。またこのテロ計画には中華民国行政院代理院長(日本の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日本語が上手で日本人に見える実行犯を使うことにしていた。そのため日本の軍事力に蹂躙されていた中国と朝鮮が抗日で一致して中朝協力の下で実行したといえる。』2名死亡・5名重傷、『犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を、検挙され軍法会議を経て12月19日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となった。なお尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。事件の首謀者であった金九は事件の犯行声明をロイター通信に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。』。

・「棗」双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメZiziphus jujuba、シノニムZiziphus zizyphusの実。中国北部原産の落葉高木で、果実を乾燥させて干しなつめとし、漢方薬や菓子材料として利用される。

・「木連れ格子」屋根の妻(切妻や入母屋(いりもや)の屋根の側面の三角形の壁面部分)の飾りの一つ。格子の内側に板を張ったもの。狐格子。妻格子。

・「何とか云ふ貝」二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ(窓貝)Placuna placenta若しくはその近縁種。円形、殻長は約8㎝。右殻は平らで薄く、白色半透明。熱帯の浅海に生息する。貝ボタンの材料とする一方、中国やフィリピンでは昔から窓にガラスのように使用された。現在もアクセサリーや手工芸品(風鈴・モビール・トレー等)に用いられる。

・「天平山は何時か谷崎さんも、書いてゐた」/「蘇州紀行」谷崎潤一郎は大正7(1918)年10月上旬から12月上旬までの2ヶ月間、朝鮮・満州・江南を単独旅行、その紀行文「画舫記」(後に「蘇州紀行」と改題)は翌大正8(1919)年2月の『中央公論』に掲載された(小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年による)。

・「途中の運河」やはり小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年1124日の条に、正に『画舫を傭い、天平山へ出掛ける。運河の眺めが目当てだと言う。』とある。

・「靈巖山」天平山南西約4㎞のところに位置する。なお、この山嶺の南南東山上にある古刹霊巌山寺は空海が長安への道中、立ち寄った所縁の地である。

・「白い鵞」ガチョウ。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。

・「谷崎さんも乞食に惱まされたやうですね」やはり小谷野敦氏の製作された崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年1124日の条に、正に「白雲亭で昼食、白雲寺で乞食に悩まされる」とある。私は北京のホテルに泊まった翌朝薄明の頃、窓から見下ろしていると、棧三三五五、ホテルの前に人々が集まって来るのを見た。総勢、二十人を下らなかった。一人の元締めらしき人物が、何人かを指名していろいろな方向を指差す。また、ある幼児を抱きかかえていた女性に近寄って何か言ったかと思うと、その女性は別の女性にその幼児を手渡して、四方に散会した。子供を託された女性と数人がそこに残った。これらが何を意味するかを推理することは容易い。数十分後、早朝出発の団体がホテルのロビーから出てくると、他人の子を抱いた女性は急に悲痛な顔をして、バスに乗り込もうとする客に右手を差し出していた。白人の老婦人はその手に何がしかの「手の内」を渡した。これが私の見た一部始終であり、脚色はない。また、「あちゃ!乞食の8割は「やらせ」、当局が市民に注意を呼び掛け―湖北省武漢市」というこんな記事も見出した。中国発でもあり、そのまま引用する(改行を排除した。報道記事で消失するため、リンクは張らない)。

[引用開始]

2009717日(金)2321分配信 Record China

2009717日、「街で見かける乞食の8割はやらせ」―湖北省武漢市でホームレスの支援活動を行う救助管理センターが、市民に「騙されないよう」注意を促した。楚天都市報が伝えた。同センターは街で物乞いをしているホームレスを支援施設に入所させる活動を行っているが、責任者の庄厳(ジュアン・イエン)氏は「8割以上はやらせ。金儲けのために弱者になり済ますプロの乞食だ」と話す。庄氏によれば、その手口は様々。“小道具”として借りてきた小さな子供を抱え「病気の子供を助けて下さい」。空の骨壷を傍らに「父の埋葬代が払えない」。足が不自由なふりをするパターンもあれば、汚い身なりをした78歳の女の子が街で生花を売る姿も良く見かける。「乞食」の稼ぎは悪くないらしい。中には「仕事の時間」が終わると互いに携帯電話で連絡を取り合い、1日の疲れを癒しに食事に繰り出す輩もいるという。ベテランともなれば、故郷に立派な「乞食御殿」まで建ててしまうというから驚きだ。同センターはこうした「プロの乞食」に騙されないよう市民に呼び掛けた。(翻訳・編集/NN

[引用終了]

・「杭州の靈隠寺」前掲「十二 靈隠寺」参照。

・「地びた」「地べた」の音便変化したもの。

・「手の内をやる」施しをする。

・「獅子山」杭州の西南方向に西湖西岸から約4㎞のところに位置する山。茶の名産地。

・「恐るべき娑婆苦」芥川にとって「娑婆苦」は仏教用語を超えたのっぴきならないキーワードである。「或阿呆の一生」から引用しておきたい。

       二十四 出  産

 彼は襖側(ふすまぎは)に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤兒を洗ふのを見下してゐた。赤兒は石鹸の目にしみる度にいぢらしい顰(しか)め顏を繰り返した。のみならず高い聲に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤兒の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の爲にこいつも生まれて來たのだらう? この娑婆苦(しやばく)の充ち滿ちた世界へ。――何の爲に又こいつも己(おのれ)のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」

 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

・「卓筆峰」天平山西側の中腹にある峰。

・「望湖臺」天平山頂上の別称。山頂は平らになっており、西南に広がる広大な太湖を見下ろす。

・「登天平路」天平山に登る路の意であるが、これは天へ登らんとするような急峻の小道という皮肉なニュアンスを込めた、芥川の機知の表現である。このシニックな感覚はこれから現れる芥川の感情のカタストロフへの伏線として機能している。なお、知人が簡体字「白云寺」で検索し、調べてくれたところによると、やはり現在は寺院ではない模様で、当該地と思しい場所には「游客」(旅行客)用の「餐庁」(レストラン)があるらしい。そして、その西の塀沿いに門があり、その門の上に掲げられた門額には「登天平路」と記されていて、天平山への登山道になっていると伝えてくれた。きっと芥川もその門額を見上げていたのであろう。]

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