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2009/07/26

長江游記 二 溯江

       二 溯江

 私は溯江の汽船へ三艘乘つた。上海(シヤンハイ)から蕪湖(ウウフウ)までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キウキヤン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である。

 鳳陽丸に乘つた時は、偉い丁抹人(デンマアクじん)と一しよになつた。客の名は盧糸(ろし)、横文字に書けばRooseである。何でも支那を縱横する事、二十何年と云ふのだから、嘗世のマルコ・ポオロと思へば間違ひない。この豪傑が暇さへあると、私だの同船の田中君だのを捉(つかま)へては、三十何呎(フイイト)の蟒蛇(うわばみ)を退治した話や、廣東(カントン)の盜俠(たうけふ)ランクワイセン(漢字ではどんな字に當るのだか、ルウズ氏自身も知らなかつた。)の話や、河南直隷(ちよくれい)の飢饉の話や、虎狩豹狩の話なぞを滔滔と辯じ來り辯じ去つてくれた。その中でも面白かつたのは、食卓(テエブル)を共にした亞米利加人の夫婦と、東西兩洋の愛を論じた時である。この亞米利加人の夫婦、――殊に細君に至つては、東洋に對する西洋の侮蔑に踵(かかと)の高い靴をはかせた如き、甚(はなはだ)横柄な女人(によにん)だつた。彼女の見る所に從へば、支那人は勿論日本人も、ラヴと云ふ事を知つてゐない。彼等の蒙昧は憐むべしである。これを聞いたルウズ氏は、カリイの皿に向ひながら、忽(たちまち)異議を唱へ出した。いや、愛の何たるかは東洋人と雖も心得てゐる。たとへば或(ある)四川の少女は、――と得意の見聞を吹聽すると、細君はバナナの皮を剥きかけた儘、いや、それは愛ではない、單なる憐憫に過ぎぬと云ふ。するとルウズ氏は頑強に、では或日本東京の少女は、――と又實例をつきつけ始める。とうとうしまひには相手の細君も、怒火心頭に發したのであらう、突然食卓を離れると、御亭主と一しょに出て行つてしまつた。私はその時のルウズ氏の顏を未にはつきり覺えてゐる。先生は我我黄色い仲間へ、人の惡い微笑を送るが早いか人さし指に額を叩きながら、「ナロウ・マインデット」とか何とか云つた。生憎この夫婦の亞米利加人は、南京で舶を下りてしまつたが、ずつと溯江を續けたとすれば、もつといろいろ面白い波瀾を卷き起してゐたのに相違ない。

 蕪湖から乘つた南陽丸では、竹内栖鳳氏の一行と一しよだつた。栖鳳氏も九江に下船の上、廬山に登る事になつてゐたから、私は令息、――どうも可笑しい。令息には正に違ひないが、餘り懇意に話をしたせゐか、令息と呼ぶのは空空しい氣がする。が、兎に角その令息の逸(いつ)氏なぞと愉快に溯江を續ける事が出來た。何しろ長江は大きいと云つても、結局海ではないのだから、ロオリングも來なければピッチングも來ない。船は唯機械のベルトのやうにひた流れに流れる水を裂きながら、悠悠と西へ進むのである。この點だけでも長江の旅は船に弱い私には愉快だつた。

 水は前にも云つた通り、金鏽(かなさび)に近い代赭である。が、遠い川の涯は青空の反射も加はるから、大體刃金(はがね)色に見えぬ事はない。其處を名高い大筏(おほいかだ)が二艘も三艘も下つて來る。現に私の實見した中にも、豚を飼つてゐる筏があつたから、成程飛び切りの大筏になると、一村落を載せたものもあるかも知れない。又筏とは云ふものの、屋根もあるし壁もあるし、實は水に浮んだ家屋である。南陽丸の船長竹下氏の話では、これらの筏に乘つてゐるのは雲南貴州等の土人だと云ふ。彼等はさう云ふ山の中から、萬里の濁流の押し流す儘に、悠悠と江(かう)を下つて來る。さうして浙江安徽等(とう)の町町へ無事に流れついた時、筏に組んで來た木材を金に換へる。その道中短きものは五六箇月、長きものは殆(ほとんど)一箇年、家を出る時は妻だつた女も、家へ歸る時は母になるさうである。しかし長江を去來するのは、勿論この筏のやうに、原始時代の遺物に限つた訣ぢやない。ー度は亞米利加の砲艦が一艘、小蒸氣(こじようき)に標的を牽かせながら、實彈射撃なぞをしてゐた事もある。

 江の廣い事も前に書いた。が、これも三角洲(デルタ)があるから、一方の岸には遠い時でも、必(かならず)一方には草色(さうしよく)が見える。いや、草色ばかりぢやない。水田の稻の戰ぎも見える。楊柳の水に生え入つたのも見える。水牛がぼんやり立つたのも見える。青い山は勿論幾つも見える。私は支那へ出かける前、小杉未醒氏と話してゐたら、氏は旅先の注意の中にかう云ふ事をつけ加へた。

 「長江は水が低くつてね、兩岸がずつと高いから、船の高い所へ上(あが)るんですね。船長のゐる、何と云ふかな、あの高い所があるでせう。あすこへ上らねえと、眺望が利きませんよ。あすこは普通の客はのせねえから、何とか船長を護摩かすんですね。………」

 私は先輩の云ふ事だから、鳳陽丸でも南陽丸でも、江上の眺望を恣(ほしいまゝ)にする爲に、始終船長を護摩かさうとしてゐた。處が南陽丸の竹下船長はまだ護摩かしにかからない内からサロンの屋根にある船長室へ、深切にも私を招待してくれた。しかし此處へ上つて見ても、格別風景には變りもない。實際又甲板にゐても、ちやんと陸地は見渡せたのである。私は妙に思つたから、護摩かさうとした意志を白状した上、船長にその訣を尋ねて見た。すると船長は笑ひ出した。

 「それは小杉さんの來られた時はまだ水が少かつたのでせう。漢口あたりの水面の高低は、夏冬に四十五六呎(フイイト)も違ひますよ。」

[やぶちゃん注:芥川龍之介の長江溯江は、上海から蕪湖は5月16日夜出航で19日夜着(前章参照)、蕪湖から九江は5月22日で、翌23日に後掲の廬山へ行き、翌日24日には廬山を発って九江へ向かい、そこから漢口に向かった。漢口着は5月26日頃である(これ以降、北京迄の旅程は、書簡から探るのみで一部は現在でも定かでない)。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「九江(キウキヤン)」“Jiŭjiāng”(チィォウチォイアン)は江西省北部、長江の南岸に位置する港湾都市。南に廬山を臨む。地名は多くの河川がこの地で合流し、長江の水勢を増すことから。

・「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治401907)年に「南陽丸」“NANYO MARU”として進水、船客は特1等が16室・1等20室・2等46室・3等252室、明治401907)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸“NAN YANG MARU”と改名している。昭和121937)年に『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「大安丸」同名の船は長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「太平洋戦争の残存船舶」のページに、Canadian Vickers Ld.造船になる5,412tの東洋海運所有船舶として掲載されている(通し番号71)。が、この「大安丸」“Taian Maru”は中国で就航していた事実も確認出来ず、更にその進水年が大101921)年で、芥川が渡中したその年でもあるため、この船とは同定し難い気がする。またウィキのアメリカ海軍潜水艦ガーナード (USS Gurnard, SS-254) の記載の中に昭和171942)年『9月6日、ガーナードは3回目の哨戒で東シナ海に向かった。10月7日深夜、ガーナードはルソン島ボヘヤドール岬西北西120キロの地点で5隻からなる772船団を発見。翌10月8日1時39分に攻撃し、大日丸(板谷商船、5,813トン)と大安丸(太洋海運、5,655トン)の2隻を撃沈した。』という記載が現れる。「大安丸」という名は複数あってもおかしくない名である。

・「偉い」この「えらい」は程度が常識を外れている、とんでもなく変わった、という意味である。

・「盧糸、横文字に書けばRoose」不詳。芥川は明らかに、このとんでもないデンマーク人に親しみを覚えているのが分かる。私はこれがあの芥川の親友トーマス・ジョーンズに相似た面影を感じさせたからではないかと推測している(ジョーンズについては「上海游記 三 第一瞥(中)」の注を参照されたい)。「上海游記 十四 罪」の中に『或丁抹人が話したのでは、四川や廣東には六年ゐても、屍姦の噂は聞かなかつたのが、上海では近近三週間の内に、二つも實例が見當つたさうです。』という話のネタ元はこのRooseであろう。

・「同船の田中君」不詳。芥川龍之介の中紀行の中に「田中」姓の人物は他には見当たらない。毎日新聞社の社員が同船した可能性はないではないが、北京までは基本的に芥川龍之介の一人旅である。恐らく、「上海游記 一 海上」の「馬杉君」同様、「同じ船室に當つた」に過ぎない日本人旅行者かビジネスマンであろう。

・「三十何呎の蟒蛇」1feet30.48㎝であるから、10mを悠に越える大蛇、ということになる。初出は「二十何呎の蟒蛇」で、これだと6m強で、如何にもいそうな大きさである。アジアの最大種としてはヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属アミメニシキヘビPython reticulatusで、ウィキの「アミメニシキヘビ」には最大全長9m90㎝とある。しかし中国版のアミメニシキヘビ当該項「網紋蟒」には、ズバリ最大長14m86㎝という記載があるから、Roose氏の言、必ずしも法螺ならずか。

・「廣東(カントン)」“guǎngdōng”。中国大陸の南、南シナ海に面した広州を州都とする現在の広東省を中心とした地方。海南島や旧租借地であった香港・マカオを含む。

・「盜俠」義賊。

・「ランクワイセン」不詳。漢字の一字でも分かれば糸口となりそうだが。識者の御助言を乞う。

・「河南直隷の飢饉」「河南」地方は黄河中流域の現在の河南省。現在、中国最大の人口(約1億)を抱える。中国7大古都の内、殷周の安陽・漢以降の洛陽・宋の開封の3大古都を有する。黄河を挟んで北に位置する「直隷」地方は現在の河北省とほぼ同域。明代以降、大韓民国前期まで黄河下流の北部地域を指した行政区画。「直隷」は「皇帝のお膝元」の意。1928年(民国17年)に北京から南京に遷都した際、河北省と改名した(以上は「河南省」「直隷」それぞれのウィキを参照した)。黄河の氾濫等により、しばしば飢饉に見舞われた。公開が女性誌であるからか、芥川は書いていないが、恐らく人肉食の話に及んだものと思われる。

・「虎」/「豹」この「虎」はネコ目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウ属トラPanthera tigrisの亜種で、中華人民共和国南部及び西部に生息するアモイトラPanthera tigris amoyensisを指していると考えてよい。全長は♂230265㎝・♀220240㎝。体重♂130175㎏、♀100115㎏。腹面には狭い白色の体毛があり、縞は太く短く、縞の本数は少ない。既に絶滅が疑われている。「豹」は北方種ならばネコ亜目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウPanthera pardusの亜種で、中国東北部に分布するキタシナヒョウPanthera pardus japonensis又はアムールトラPanthera pardus orientalis(前者は自然界では絶滅危惧種。後者は絶滅が疑われている)、南方種ならばインドとの国境付近に生息するインドヒョウPanthera pardus fuscaの何れかと考えられる(主にウィキの複数の記載を参照した)。

・「四川」中国大陸の西南部に位置する、成都を州都とする現在の四川省とほぼ同域を指す地方名。旧来の「巴蜀」と考えた方がよい。峻険な山岳地帯。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解には『西安を含む黄河上流域の省』とあるが、これは陝西省と取り違えている、とんでもない誤りである。

・『「ナロウ・マインデット」』“narrow minded”「何て心の狭い!」若しくは「酷い偏見だね!」の意。

・「竹内栖鳳」(元治元(1864)年~昭和171942)年)は日本画家。最初は棲鳳と号した。近代日本画の先駆者にして京都画壇の大家。大正2(1913)年、帝室技芸員。この時、57歳。

・「その令息の逸氏」竹内逸三(たけうちいつぞう 明治241891)年~昭和551980)年)美術評論家。逸はペン・ネーム。竹内栖鳳の長男。美術評論家・随筆家。国画創作協会の機関誌「制作」の編集に携わる一方、「文藝春秋」等に評論を発表、小説も手掛けた。芥川とは一つ年上の同世代で話も合ったのであろう、彼とは特に懇意になったことが伺われる。

・「南陽丸の船長竹下氏」芥川は、この船長とは懇意にしたらしく、「上海游記 十九 日本人」にも竹下氏の話が引用されている。

・「雲南貴州」「雲南」は現在の中華人民共和国最西南端に位置する雲南省と同域(州都は昆明)。ベトナム・ラオス・ミャンマーと国境を接し、亜熱帯樹林及び北部高原域では亜寒帯樹林もある生物多様性には富んだ地域である。「貴州」は雲南省北東部に接する地域で、現在の貴陽を州都とする貴州省。ここは貴州高原と呼ばれ、その80%がカルスト地形からなる。両省は中国の省の中では人口の少数民族の占める割合が比較的高く、民族数も多い。共に経済的には現在も貧しい地方である。

・「浙江安徽」「浙江」は上海の南、長江河口域に位置する、杭州を州都とする浙江省、「安徽」は浙江省の北西部に接する長江中下流域に位置する、合肥(がっぴ/ごうひ)を州都とする安徽省に相当。現在、浙江省は経済発展著しい省である。

・「ロオリング」“rolling”船の横揺れ。

・「ピッチング」“pitching”船の縦揺れ。

・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん、明治141881)年~昭和391964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。同じ田端に住んでいた。

・「四十五六呎」1feet30.48㎝であるから、13mから14m。ほんまかいな?! と疑って検索してみると、2003年7月17日の武漢で、長江の水位が27.3メートルに迫り、展望台に水が迫り、漢口龍王廟付近で 水遊びをしている子供の画像があるかと思うと、2008年1月8日の長江の漢口水文観測所での水位が13.98mと記録的な最低位を示したという記事もあった。27.313.9813.32m(!)、船長、嘘つかない!]

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