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« 江南游記 二十五 古揚州(下) | トップページ | 1978年8月6日の僕の日記 »

2009/07/22

江南游記 二十六 金山寺

       二十六 金山寺

 「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」

 「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」

 我我は人力車に搖られながら、こんな事を話し合つた。狹い路の南側には、煮賣屋(にうり)だの安宿(やすやど)だの、いづれも薄汚い家が並んでゐる。その戸口に貼りつけた、例の緋唐紙(ひとうし)の聯を讀むと、大抵今話した通り、新時代の對句(つゐく)が書いてある。我我が今通つてゐるのは、呉中の門戸(もんこ)たる鎭江(チンキヤン)ぢやない。正に「西暦千八百六十一年天津(てんしん)條約により開港せられたる」民國十年の錢江である。

 「今眞紅な着物を着た子供がゐたでせう?」

 「ええ、肥つたお上さんが抱いてゐた。――」

 「あれです。あれは天然痘ですよ。」

 私は急にこの四五年、種痘をしない事を思ひ出した。

 その内に我我の人力車は、鎭江(チンキヤン)停車場の前に着いた。が、時間表を調べて見ると、南京行の汽車に乘るのには、まだ一時間程餘裕がある。既に餘裕があるとなれば、あの山の上に塔の見える、金山寺(きんざんじ)を見ないと云ふ法はない。我我は評議一決するが早いか、早速又人力車の客となつた。但し早速とは云ふものの、例の通り賃錢(ちんせん)を値切る爲に、十分ばかりかかつたのは事實である。

 最初に車の通つたのは、掘立小屋ばかり軒を並べた、頗(すこぶる)原始的な貧民窟である。小屋の屋根は藁葺きだが、土を塗つた壁は殆(ほとんど)見えない。多くはあんぺらか蓆張りである。その内外には男も女も、陰慘たる顏をしたのがうろついてゐる。私は小屋の屋根の後に、長の高い蘆を眺めながら、もう一度疱瘡になりさうな氣がした。

 「どうです、あの犬は?」

 「毛も何もない犬は珍しい。が、氣味も惡いですね。」

 「ああ云ふのは皆梅毒ですよ。苦力(クウリイ)や何かに移されるのださうです。」

 その次に車の通つたのは、川があつて、材木屋があつて、――要するに木場のやうな所である。此處には家家の軒に貼つた、小さい緋唐紙(ひたうし)の切れ端に、「姜大公在此」(きょうだいこうここにあり)云云の文字が並んでゐる。これは「爲朝御宿」(ためともおんやど)のやうな、お呪(まじな)ひの類(るゐ)に違ひない。その川を向うへ渡つたら、不景氣な町を通り拔けた所に、赤壁の寺の門が立つてゐた。門の前には乞食が一人、松の木の根かたに坐つた儘、どう云ふ訣か深呼吸をしてゐる。事によるとあれは哀(あい)を乞ふ爲に、苦しさうな容子をして見せたのかも知れない。

 金山寺は勿論この寺である。我我は車を捨てた後、一通り寺内を歩き廻つた。が、何分にも汽車の時間があるから、ゆつくり見物する氣もちになれない。寺は山に倚つてゐるので、(昔はこれが島だつたと云ふが、)一堂(だう)毎(ごと)にだんだん高くなつてゐる。その間(あひだ)の石段を上下しながら、ざつと見て歩いた感じを云ふと、勢ひ未來派の畫(ゑ)のやうな、妙に錯雜したものになつてしまふ。しかし當時の印象は、それに違ひなかつたのだから、手帳に書いてあるのを寫して見ると、大體こんな調子である。

 「白壁。赤い柱。白壁。乾いた敷石。廣い敷石。忽(たちまち)又赤い柱。白壁。梁(はり)の額。梁の彫刻。梁の金と赤と黑と。大きい鼎(かなへ)。僧の頭(あたま)。頭に殘つた六つの灸跡。揚子江の波。代赭色に泡立つた波。無際限に起伏する波。塔の屋根。甍の草。塔の甍に劃(かぎ)られた空。壁に嵌めた石刻(せきこく)。金山寺の圖。査士票(さしへう)の詩。流れて來る燕。白壁と石欄(せきらん)と。蘇東坡の木像。甍の黑と柱の赤と壁の白と。島津氏はカメラを覗いてゐる。廣い敷石。簾(すだれ)。突然鐘の音。敷石に落ちた葱の色。………」

 どうもこれだけ書いたのぢや、讀者には一向通じさうもない。が、通じる事にして置かないと、書き直すだけでも手數である。手數も勿論ふだんなら辭さない。が、私は今名古屋にゐる。おまけに道づれの菊池寛は、熱を出して呻(うな)つてゐる。どうか其處を御酌量の上、通じるとして置いて頂きたい。この一囘を書き終つた後(のち)、私は又菊池の病室へ出張しなければならないのである。

[やぶちゃん注:5月12日、南京に向かう途中の鎮江にて。

・「對聯」は書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。

・「例の緋唐紙の聯」「唐紙」は竹とコウゾ(楮)を用いて漉く中国の伝統的な紙のこと。柔らかく脆い。赤いそれに文句を記した対聯は、今も中華街などでよく見かけるお馴染みのものである。

・「呉中の門戸たる鎭江(チンキヤン)」鎮江は古くは京口と呼ばれ、三国時代の呉の孫権は一時、ここ京口(鎮江)に都を置いた。

・「天津條約」天津に於いて清と諸外国間に、複数期に亙って締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争により清とロシア・アメリカ・イギリス・フランスの間で結ばれたものを1回目とし、2回目は1885年に、ベトナム領有を巡る清仏戦争の講和条約として再度、清とフランスが、同時に同年4月には清と日本との間で締結された。この条約はいずれも広範囲の外国の特権を規定しており、これ以降に中国が蒙る不平等条約の元凶となった。1858年の条約の主な内容は、軍事費賠償・外交官北京駐在・外国人の中国旅行開放と貿易の自由化・キリスト教布教の自由と宣教師の保護・漢口、鎮江、南京等10港の開港を定めていた(以上はウィキの「天津条約」を参照した)。

・「民國十年」西暦1921年。大正10年。この芥川の中国行の年。

・「眞紅な着物を着た」赤色は疱瘡除けの呪(まじな)い。患者には赤い着物、赤い頭巾、枕頭には疱瘡神を祀った。その他、赤い蠟燭・紅団子・赤飯・赤鯛・赤い猿の面・緋色の袈裟を纏った達磨・朱で描いた鍾馗、本邦では赤紙の幣(ぬさ)や紅潮した源為朝・桃太郎の絵等、徹底した赤色アイテムを護符代わりとして用いた。

・「天然痘」オルトポックスウイルス属天然痘ウイルス(Poxvirus variolae)により引き起こされる強感染性疾患。死亡率は最大30%。天然痘の症例は世界的なワクチン接種により1977年以来発生していない。1980年の世界保健機関(WHO)の定期ワクチン接種の中止推奨により根絶宣言を出した(但しテロリストが既存の貯蔵天然痘ウイルスを入手することによる再発の危険性はある)。免疫は経時的に低下するため、現在ではほぼ全人類に天然痘に感受性があると言ってよい。感染は直接接触及び飛沫感染による。汚染された衣服・寝具も感染源となり得る。発疹が出現後、最初の7~10日間に感染力は最大となる。皮膚病変部に瘡蓋が形成される頃には低下する。ウイルスは口腔咽頭又は気道粘膜に侵入、該当部位のリンパ節で増殖する。潜伏期間は7~17日の範囲で、その後、発熱・頭痛・背部痛及び激しい倦怠感を伴う前駆症状が2~3日続く。前駆症状に続いて斑点状丘疹が口腔咽頭粘膜・顔面・腕を中心に発現、速やかに体幹および脚部に拡大、その1~2日後、皮膚病変が小水疱になり、次いで膿疱となる。膿疱は体幹よりも顔面および四肢に密集する。膿疱は丸く、よく膨れ、外見上、上皮組織に深く埋没して見える。死亡率はこの2週目前後にショックと多臓器不全を引き起こす激しい炎症反応により最も高まる。その状態が8~9日間続いた後、膿疱は瘡蓋を形成して終息するが、重度の瘢痕が残る。以上を「大痘瘡」と称し、それに類似しているがはるかに軽度な症状の「小痘瘡」は発疹の範囲も狭く、死亡率は1%未満である(以上は「メルクマニュアル 第18版 日本語版」「天然痘」を私が要約したものである。下線部やぶちゃん)。

・「私は急にこの四五年、種痘をしない事を思ひ出した」ほくそ笑んだ方は、上記下線部を参照のこと。

・「金山寺」鎮江市街西北約3㎞の郊外にある寺。東晋の319年に創建され、正しくは江天禅寺というが、唐代にこの辺りで金を採掘したことから金山寺と呼ばれるようになったという。芥川のメモに現れる塔は鎮江のシンボルとされる七層八角高さ30mの慈寿塔で、金山の尾根上にある。現在のものは清の1900年に重修されたものである。

・「あんぺら」中国南部原産の単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科Cyperaceaeの仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

・『「ああ云ふのは皆梅毒ですよ。苦力(クウリイ)や何かに移されるのださうです。」』――ここに注を施さない先人達に私は大いに不満を持っている。アカデミズムの世界にいる人々は、ここを注なしで誰もが分かるとでも思っているのか? そもそも、あなた方は性感染症の深い知識おありになり、一般大衆も同等だなどと思っているのか? 注とは文学の領域を遙かに超えていることを、あなた方は理解しているか? いや、あなたは危ない経験も、不倫も、何もしたことがない。それで、しかし、芥川龍之介の核心的内実を理解しているなどと、思っているとしたら、こんな最下劣な噴飯物はあるまいよ!――まず、語注からとりかかる。「梅毒」は言わずと知れた“Syphilis”、スピロヘータ門スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属Treponemaの梅毒トレポネーマTreponema pallidumによって発症する性感染症である。各期病態については幾らも容易に読める資料があるから省略する。次に「苦力(クウリイ)」は“ kǔで肉体労働者の意であるが、ここは鎮江であるので、私にとってしっくりくる「港湾の荷積労務者」である。次にここで描写される無毛の犬であるが、これは犬皮膚真菌症や膿皮症等の重症の皮膚疾患による脱毛症状である。私が言いたいのは、ここからだ。「苦力や何かに移される」とは、どういうことか若い読者は、本当に分かるだろうか? 「識者」どもはカマトトの女子高校生に、これが説明なしで本当に分かるとでも思っているのだろうか? この台詞(文脈からは高洲氏かと思われるが、内容からは島津氏の言いそうなことである)は、苦力たちが性欲のはけ口に犬を獣姦し、そのために苦力の罹患している梅毒が犬に感染しているということを言っているのである。私が言いたいのは、そのような誤った差別的(言っておくが、私は苦力たちが「誰一人として」そのような行為を「絶対にしない」などということを力説しようとしているのではない。そんな変態もいたであろう。しかし、それは中国に限ったことではない。どこだってあるさ! 先進諸国の今にあっても)にして、非科学的であることを、何故、アカデミズムは語らないのかという憤懣である。一言で済む。犬に人間の梅毒は感染しないということだ。ここは、向後、必ず注されるべきである。そして、最後に。ここには図らずも芥川龍之介の梅毒感染恐怖に基づく強迫神経症が垣間見えるということである。以上。

・「木場」東京都江東区深川地域内の地名。江戸時代初期から隅田川の河口に設けられた貯木場。江戸の度々の大火を目した建設資材の集積場として発展した。現在は埋め立てられて公園となっている。

・『「姜大公在此」』「姜大公」は太公望呂尚(りょしょう)のこと。B.C.11世紀頃、周の軍師として活躍し後に斉の始祖となった。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙又は牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。明代のベストセラーであった神怪小説「封神演義」では姜子牙と称し、革命を指揮する周の軍師として、また崑崙山の道士として主役級の扱いを受ける。この辺りの天下無敵の神格化により、疱瘡除けの呪符にその名が記されるようになったものであろう(以上の太公望の事蹟はウィキの「呂尚」を参照した)。

・『「爲朝御宿」』「爲朝」は鎮西八郎源為朝(保延51139)年~嘉応21170)年?)。平安末期の武将。源為義の八男、源義朝の弟。保元の乱(保元元(1156)年7月)で父為義に従い崇徳上皇方に組みするも敗れ、伊豆大島に配流となった。粗暴にして強腕、弓の使い手として知られた。生き延びて沖繩へと流れて行き、琉球王朝の祖となったという伝承の他、御霊伝説に事欠かないヒーローである。古河市公式サイト内の古河歴史博物館学芸員立石尚之氏の「続・歴史の散歩」にある「病の調伏と弓の使い手 源為朝と源頼政」に『昭和14年(1939)夏、古河地方で疱瘡(天然痘)が流行し、人々は疱瘡にかからぬまじないとして「鎮西八郎為朝公御宿(源為朝の宿)」としるした札をかかげていたという』記載が見られる。この芥川の映像の中の中国の民を笑うなかれ、昭和ですぞ。

・『どう云ふ訣か深呼吸をしてゐる。事によるとあれは哀を乞ふ爲に、苦しさうな容子をして見せたのかも知れない』芥川さん、あんたが何度も自殺のポーズをしたように、そうした乞食もいたろうよ、しかし、あんたが本気で自殺したかったように、本気で激しい呼吸器障害を伴う慢性疾患は無数にあるんだよ、芥川さん。彼が演技をしていたのか、いなかったか、それを真摯にあの時に立ち戻って、あんたは、その乞食に優しく訊ねて見給え! それがあんたの、まず、すべきことだ!

・「昔はこれが島だつたと云ふ」以前、金山は標高約60m・周囲500mの島であったが、長江の蛇行により清代に陸繋島になったという。

・「未來派の畫」未来派は、Futurismo(イタリア語)・Futurism(英語)フューチャリズムの訳語。20世紀初頭のイタリアで、既成美術概念の破壊と近代の機械技術革新によって現前した現代社会の持つ純粋な「運動性」や「速度」を称える前衛芸術運動。その短絡的感性故に第二次世界大戦への軍靴の音、ファシズムの賛美に連動していってしまった。ここでの芥川の叙述は、一見、堂内の動的な自己視線の文字化には見えるが、私にはこれといった未来派的な運動と速度への分析的統合という程のものには思えない。それよりもエイゼンシュタインのモンタージュ理論による脚本に近いものを感じる。これは言葉の絵コンテというに相応しい。

・「頭に殘つた六つの灸跡」六星球というらしいが、それ以上の意味を捜し得ない(ネットではドラゴンボールの記載ばかり)。少林寺の僧等でお馴染みであるから、仏教というよりも、道教絡みの神仙関連の星座との意味合いがあるか。識者の御教授を乞う。

・「査士票」明末清初の画家(16141698)。諸生に合格するも明が滅んだため節を守って仕官しなかった。新安四大家(弘仁・汪之瑞(おうしずい)・孫逸)の一人。山水画を得意とし、書画の鑑識家としても有名で、晩年は揚州に住んだ。

・「私は今名古屋にゐる。おまけに道づれの菊池寛は、熱を出して呻つてゐる。……」これによって本篇が大正111922)年1月29日以降の執筆脱稿であることが分かる。芥川は同年1月27日に名古屋へ出発、28日の午後6時半に新婦人教会主催、新愛知新聞社文芸部後援による名古屋椙山(すぎやま)女学校での文芸講演会に、小島政二郎・菊池寛と出席、芥川は文学の「形式と内容」の演題で講演をした(その際、最後に講演した菊池が芥川のことに言及したため芥川が再登壇して反論を述べて拍手喝采を浴びるというハプニングがあったことを後年、芥川の死後に菊池は記している。但し、彼はそのことを『なかなか愉快な會だつた』と言っている)。ところがその夜、別宿していた菊池は芥川から貰った睡眠薬ジャールを処方量を知らずに飲み過ぎ、二日二晩昏睡を続けるという事件を起こしたのであった。――しかし乍ら、私はこれは1月29日ではなく(その日は確かに名古屋に居た)、その翌日、鎌倉に居た1月30日の執筆であるように思われる。――勿論、妻、文には名古屋にいることになっているのだが、その日は居た場所は、鎌倉の料亭小町園――女将の名は野々口豊子――いやいや、これ以上は大脱線……桑原、桑原……]

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