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2009/07/31

北京日記抄 三 十刹海

       三 十刹海

 

 中野好漢君の私を案内してくれたるものは北海の如き、萬壽山(まんじゆざん)の如き、或は又天壇(てんだん)の如き、誰も見物するもののみにあらず。文天祥祠(ぶんてんしやうし)も、楊椒山(さうせうざん)の故宅も、白雲觀も、永樂大鐘(えいらくだいしよう)(この大鐘は半ば土中に埋まり、事實上の共同便所に用ゐられつゝあり。)悉(ことごとく)中野君の案内を待つて一見するを得しものなり。されど最も面白かりしは今日中野君と行つて見たる十刹海(じつさつかい)の遊園なるべし。

 尤も遊園とは言ふものの、庭の出來てゐる次第にはあらず。只大きい蓮池のまはりに葭簾張(よしずば)りの掛茶屋(かけぢやや)のあるだけなり。茶屋の外(ほか)には針鼠だの大蝙蝠だのの看板を出した見世物小屋も一軒ありしやうに記憶す。僕等はかう言ふ掛茶屋にはいり、中野君は玫瑰露(まいくわいろ)の杯(さかづき)を嘗め、僕は支那茶を啜りつつ、二時間ばかり坐つてゐたり。何がそんなに面白かりしと言へば、別に何事もあつた訣にはあらず、只人を見るのが面白かりしだけなり。

 蓮花は未だ開かざれど、岸をめぐれる槐柳(くわいりう)のかげや前後の掛茶屋ゐる人を見れば、水煙管(みづぎせる)を啣へたる老爺あり、雙孖髻(さうじけつ)に結へる少女あり、兵卒と話してゐる道士あり、杏賣りを値切つてゐる婆さんあり、人丹(仁丹にあらず)賣りあり、巡査あり、背廣を着た年少の紳士あり、滿洲旗人(まんしうきじん)の細君あり、――と數へ上げれば際限なけれど、兎に角支那の浮世繪の中にゐる心ちありと思ふべし。殊に旗人の細君は黑い布か紙にて造りたる髷とも冠ともつかぬものを頂き、頰にまるまると紅をさしたるさま、古風なること言ふべからず。その互にお時儀をするや、膝をかがめて腰をかがめず、右手をまつ直に地へ下げるは奇體にも優雅の趣ありと言ふべし。成程これでは觀菊の御宴(ぎよえん)に日本の官女を見たるロテイも不思議の魅力を感ぜしならん。僕は實際旗人の細君にちよつと滿洲流のお時儀をし、「今日は」と言ひたき誘惑を受けたり。但しこの誘惑に從はざりしは少くとも中野君の幸福なりしならん。僕等のはひりし掛茶屋を見るも、まん中に一本の丸太を渡し、男女は斷じて同席することを許さず。女の子をつれたる親父などは女の子だけを向う側に置き、自分はこちら側に坐りながら、丸太越しに菓子などを食はせてゐたり。この分にては僕も敬服の餘り、旗人の細君にお時儀をしたとすれば、忽ち風俗壞亂罪に問はれ、警察か何かへ送られしならん。まことに支那人の形式主義も徹底したものと稱すべし。

 僕、この事を中野君に話せば、中野君、一息に玫瑰露を飮み干し、扨(さて)徐に語つて曰、「そりや驚くべきものですよ。環城鐵道と言ふのがあるでせう。ええ、城壁のまはりを通つてゐる汽車です。あの鐵道を拵へる時などには線路の一部が城内を通る、それでは環城にならんと言つて、わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからですね。兎に角大した形式主義ですよ。」

 

[やぶちゃん注:十刹海は「什刹海」「河沿」とも言い、北海公園の北、地安門外の西側に広がる湖。蓮の名所として知られる。周囲には古刹が点在する。

・「北海」清代に作られた北海公園にある湖。現在は北海・西海に先の十刹海(前海)と積水潭(後海)を加えて北海公園と呼称している。総面積約400,000㎡(水面面積340,000㎡)。北京の有数の景勝地で、有名人の故宅等の旧跡が多い。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「萬壽山」北京の西北西郊外にある山。標高約60m。麓の昆明池の湖畔に沿って、1750年に乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年に英仏連合軍によって焼き払われた。後に西太后が改修、頤和園(いわえん)と名付けた。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。敷地面積約2,730,000m²。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在である。ここにあった祈年殿は、1889年に落雷により一度消失したが、1906年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「文天祥祠」現在の北京市東城区府学胡同にある文天祥を祀った社。以下に示すように元代の刑場であった。文天祥(12361283)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。『各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。獄中にあって『宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受け』たが、そこで彼は有名な「正気の歌(せいきのうた)」(リンクはウィキソースの現代語訳附きの「正気の歌」)を詠んで、宋への断固たる忠節を示した。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。』『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、本邦でも『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。』。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「楊椒山の故宅」現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居。松筠庵(しょういんあん)とも言う。本名は楊継盛(15161555)で、椒山は号。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「白雲觀」現在の北京西城区白雲路にある道教の総本山。739年の創建で原名は天長観と言ったが、1203年に大極宮と改名。1220年代に元の太祖チンギス・ハンが道士丘処机(11481227)に全土の道教の総括を命じ、彼は大極宮住持に任命され、長春子と号した。1227年、死去した丘を記念して長春宮と改名されている。以後、戦火によって損壊するが、15世紀初頭、明によって重修され、現在の規模となって名も白雲観と改められた。総面積は10,000m²を越える(以上は真下亨氏の「白雲観」のページを参照した)。なお、後掲「五 名勝」参照。同前。

・「永樂大鐘」「中国百科」の「永楽大鐘は45キロ先まで響き渡る」によれば、『北京にある大鐘寺には、永楽大鐘と名づけられた大きな鐘がある。この鐘は、重さ46.5トン、高さ6.75メートル、直径3.3メートルある。永楽大鐘には、すでに500年あまりの歴史がある。永楽大鐘は、地面に穴を掘って造型し、表面は陶製の鋳型を使って鋳造されたものである。鋳造の時数十の溶鉱炉が同時に稼働し、溶けた銅を溝にそって陶製の鋳型に注いで作るというもので、とても巧妙な作り方である。』『永楽大鐘の音は耳に快いものである。専門家の実験で、鐘の音が振動する頻度は音楽での標準頻度と同じか近いことが判明した。軽くたたくと、滑らかに響き、力を入れてたたくと、大きく優雅に響く、もっとも遠くまで響く場合は45キロも離れたところに伝わり、2分間以上も続く。』『毎年新年になると、永楽大鐘が鳴らされる。この鐘は、もう500年以上の歴史があり、今なおすばらしい音を響かせる。中国の科学専門家が、鐘の合金について研究した結果、永楽大鐘には銅、錫、鉛、鉄、マグネシウムのほか、金と銀の含有量も高くて、それぞれ金が18.6キロで、銀が38キロあった。専門家の分析では、銅器に金が入れると、さびどめになり、銀を入れると流し込み液の流動性が高くなるとのことである。これが、永楽大鐘が500年以上も良好なまま、美しい音色を響かせる原因である。』『外国の専門家は、「永楽大鐘の鋳造のすばらしさは、世界鋳造史上の奇跡である。科学が発達している現在でも、永楽大鐘のような鐘はなかなか作ることはできない」と話してい』る記す。現在、ここまで評価される重宝の名鐘が『半ば土中に埋まり、事實上の共同便所に用ゐられつゝあ』ったというのである――これは芥川の嘘なのか? と思うのは私だけか?

・「玫瑰露」恐らくバラから抽出した精油を含んだ酒のことと思われる。

・「支那茶」厳密な意味では違うようだが、ここで彼が言うのは烏龍茶のことであろう。

・「槐柳」槐(えんじゅ)と柳。槐はバラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「水煙管」喫煙具の一。煙を一度水中を通らせて吸う。ニコチンが水に吸収され味が穏やかになる。17世紀初頭にペルシアで発明され、アジア各地に広まり、特に中国で発達した。 

・「雙孖髻」「孖」は双子のこと。二つに分けて頭の上部左右に丸い団子のようにして結った髪型か。

・「人丹(仁丹にあらず)」筑摩書房全集類聚版脚注はこの人丹を仁丹のこととし、岩波版新全集の細川正義氏は注そのものを附していない。しかし、芥川はわざわざ「仁丹にあらず」と注しているのであって、これは、物は本邦の「仁丹」だが表記が「仁丹」ではなく「人丹」である、という意味では、よもや、あるまい。そもそも中国では既に本邦の「仁丹」は著名であった(それは江南游記 二 車中(承前)で『しかしその橋が隠れたと思ふと、今度は一面の桑畑の彼方に、廣告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの廣告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、雙嬰孩香姻(さうえいがいかうえん)、――さう云ふ齒磨や煙草の廣告は、沿線到る所の停車場に、殆(ほとんど)見えなかつたと云ふ事はない。支那は抑(そもそも)如何なる國から、かう云ふ廣告術を學んで來たか? その答を與へるものは、此處にも諸方に並び立つた、ライオン齒磨だの仁丹だのの、俗惡を極めた廣告である。』という叙述からも明白である)。そこで調べてみると、中国に「仁丹」でない「人丹」があったのである。個人のブログ「星期六的愉快研究」の「統制陶器 その5.仁丹・TOTO・INAXに以下のように記されている(改行は「/」で示した)。『戦前から仁丹(森下仁丹)は広告、看板、販売促進のノベルティなどを使い広域的な宣伝活動を展開しており、中国も例外ではなかった。大々的な広告活動の効果があってか中国でもかなりの売れ行きがあり、仁丹は非常に知名度の高い商標であった。/中国における仁丹の歴史を語る上で、ふれるべきエピソードがある。/仁丹が市場を席巻するなか、民族ブランドの衰退を危惧した上海で薬局を経営する黄楚九が「仁丹」に対抗して「人丹」なる商標の薬を発売した。仁丹も人丹も中国の発音では共にレンダンである。人丹も広告活動に力を入れ知名度が上がってくると、仁丹はついに人丹を商標権の侵害で訴えを起こした。ところが法廷は仁丹の主張を認めず仁丹敗訴の結果に終わる。このことに加え反日団体の働きかけもあって、仁丹の広告掲載を中止した新聞もあったようだ。1920年代のことである。第一次世界大戦後、1919年山東省のドイツの権益を日本が引き継いだことに端を発したいわゆる五四運動に象徴される反日・愛国運動の社会情勢の影響を少なからず受けたに違いない。』――芥川のこの旅行は正に1921年、「仁丹」――基!――「人丹」飲めば、ほうれ! 斯くの如く、ぴたりすっきり、じゃが!――そもそも考えてみれば神仙の練「丹」術は中国の御家芸である。登録商標は早い者勝ちとは言え、さすれば「丹」の象徴する薬物的印象を持つ商標は中国に分があるように私は思う。因みに星期六氏の言うように「人」と「仁」は共に“rén”で、完全な音通である。

・「滿洲旗人」清代、その支配層は8つの「旗」と呼ばれる社会・軍事組織によって編成されており、全国の要衝に八旗駐防という駐在地を置いて支配した。すべての満州人は8つの旗に配属され、後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設された。この場合は、恐らく「北京八旗」で、旧清朝皇帝の近衛兵であろう(以上は主にウィキの「八旗」を参考にした)。

・「黑い布か紙にて造りたる髷とも冠ともつかぬもの」満州の婦人の独特の髪飾りの一種で、黒い布製、写真や絵を見ると頭頂上部に横長に突き出ており、更にその左右に髷のように下がって張り出した形をしている。恐らくはこれが満州旗人の婦人たるステイタス・シンボルであった。

・「觀菊の御宴」以前毎年11月(日は不定)に新宿御苑で天皇皇后臨席のもとに催された観菊会。昭和121937)年の廃止されたが、昭和281953)年に秋の園遊会が行われるようになり、本来の観菊会の方は内閣総理大臣主催「菊を見る会」となって復活している。

・「ロテイ」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であったLouis Marie-Julien Viaudルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(18501923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治181885)年と明治331900)年、二度の来日をしているが、その一度目の1110日、赤坂御所で催された観菊会に出席し、皇后陛下等に拝謁していることが、明治181885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「観菊御宴」に記載されている。

・「環城鐵道」須藤康夫氏の素晴らしいHP「百年の鉄道旅行」の現在の写真入り・当時の地図背景(だと思うでしょ? ところがクリックするとjpg画像でしっかり見れるのが何とも嬉しい!)の「北京環城鉄路」を見ざるべからず! 全文引用せざるべからず!『京張鉄路は、もともと基点を豊台駅としていたが、1916年北京城の城壁の外側を回り込むように、環城鉄路が建設された。これにより、列車は北京正陽門に直接乗り入れが可能となった。京張鉄路の直通列車は初め豊台駅を始発駅としていたが、このルートを使用して1 934年から北京正陽門駅を始発駅とするようになった。環城鉄路は1954年に廃止され、1959年には新しい北京駅が完成し、1965年には城壁のほとんどが崩され道路となっている。ただ現在も東南角楼付近は城壁が残っており、「火車券洞」と呼ばれる環城鉄路の城壁アーチが残っている。また、近くには、京奉鉄路信号所とポイントの一部が保存されている。』(以下は写真のキャプション)『西直門付近でも、環城鉄路の一部が残っており、レールが道路に吸い込まれて消えて行く光景が見られる。』ここで言っているのはどこかな~って考えながら、地図を見ていたら何だか仕合せな気分になって来た(恐らく東南と東北の角の部分なんだろうな~)。

・「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからですね。」は口語的にはやはり「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたんですからですね。」「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたぐらいですからですね。」でないと私は朗読をしても落ち着かない。]

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