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2009/07/01

江南游記 五 杭州の一夜(下)

       五 杭州の一夜(下)

 新新旅館へ辿り着いたのは、その後(ご)十分とたたない内だつた。此處は新新と號するだけに、兎に角西洋風のホテルである。が、支那人の給仕と一しよに、狹い裏梯子を登りながら、我我の部屋へ行つて見ると、東洋人(トンヤンレン)と見縊つたのか、餘り居心の好い二階ぢやない。第一狹い部屋の中に、寢臺を二臺並べた所は、正に支那の宿屋である。おまけに肝腎の部屋の位置も、丁度ホテルの後の隅だから、坐つた儘西湖を眺めるなぞと云ふ、賛澤な眞似は到底出來ない。しかし車と空腹とロマンテイシズムとにくたびれた私はこの部屋の椅子へ腰を下すと、やつと人間らしい心もちになつた。
 村田君は早速我我の給仕に、食事の支度を註文した。が、食堂はもう締つたから、西洋料理は出來ないと云ふ。では支那料理と云ふ事になつたが、給仕が持つて來た皿を見ると、どうも食ひ殘りか何からししい。何でも偕樂園主人の説にょると、全家寶と稱する支那料理は、食ひ殘りの集成だと云ふ事である。私は無氣味になつたから、この幾皿かの支那料理の中、全家寶はないかと尋ねて見た。すると忽ち村田君に、全家寶はこんな物ぢやないですよと、水牛以來の輕蔑をされた。
 給仕はこの間(あいだ)も珍しさうに、我我の顏を覗きながら、絶えず小うるさい御饒舌(おしやべり)をしてゐる。しかも村田君に飜譯して貰ふと、穴の明いた銀貨を持つてゐたら、一枚くれろと云ふのだつた。ではその銀貨を何にするかと聞けば、チヨツキの釦(ボタン)にすると云ふのだから、非凡な思ひつきには違ひない。成程さう云はれて見ると、この給仕のチヨツキの釦は悉(ことごとく)穴の明いた銀貨である。村田君はビイルを引掛けながら、日本へそのチヨツキを持つて行けば、きつと五十錢には賣れるぜなぞと、つまらない保證を與へてゐた。
 我我は食事をすませた後、下のサロンヘ降りて行つた。が、其處には寫眞の額や、安物の家具が並んでゐる外は、一人も客の姿が見えない。唯玄関へ出て見ると、石段の上の卓子(テエブル)のまはりには、ヤンキイの男女が五六人、ぐいぐい酒を煽りながら、大聲に唄をうたつてゐる。殊に禿頭(はげあたま)の先生なぞは、女の腰を抱いた儘、唄の音頭をとる拍子に、何度も椅子ごと倒れさうになつた。
 玄関の外には門の左に、玫瑰(メイクイ)の棚が出來てゐる。我我はその下に佇みながら、細かい葉の間に簇(むらが)つた、赤い花を仰いで見た。花は遠い電燈の光に、かすかな匂ひを放つてゐる。それが何だかつやつやと、濡れてゐると思つたら、何時の間にか暗い空は、糠雨に變つてゐるのだつた。玫瑰・微雨・孤客(こかく)の心――此處までは詩になるかも知れない。が、鼻の先の玄關には醉つ拂いのヤンキイが騒いでゐる。私はとてもこの分では「天鵞絨(びろうど)の夢」の作者のやうに、ロマンテイツクにはなれないと思つた。
 其處へ靜に門の外から、雨に濡れた轎子(けうし)が二つ、四人の駕籠舁(かごか)きに舁かれて來たそれが玄關へ横附けになると、まつさきに轎(かご)をくぐり出たのは、品の好(よ)い支那服の老人である。その次に玄關へ下りたのは、――私は正直に白状すると、せめては十人並みの器量だと云ひたい。が、實際はどちらかとへば、寧ろ醜い少女である。しかし青磁色の緞子(どんす)の衣裳に、耳環の水晶のきらめいてゐるのは、確に風流な心もちがした。少女は老人の指圖通り、出迎へた宿の番頭と一しよに、ホテルの中へはいつてしまふ。老人は後に殘つた儘、丁度來合せた我我の給仕に、轎夫の貸銀を拂はせてゐる。この光景を眺めてゐる内に、もう一度私は變節した。これならば谷崎潤一郎氏のやうに、ロマンテイツクになり了(おほ)せる事もどうやら出來さうな氣がしたのである。
 しかし結局運命は、私のロマンティシズムに殘酷だつた。この時突然玄關から、ひよろひよろ石段を下りて来たのは、あの禿頭の亜米利加人である。彼は同類に聲をかけられると、妙な手つきをして見せながら、ブラツデイ何とか返答をした。上海の異人はヴエリイの代りに、屢(しばしば)恐る可きブラツデイを使ふ。これだけでも既に愉快ぢやない。その上彼は危なさうに、我我の側へ立ち止まるが早いか、後を向けたなり、玄關へ傍若無人にも立小便をした。
 ロマンテイシズムよ、さようならである。私は陶然たる村田君と、人気のないサロンヘ引き返した。水戸の浪士にも十倍した、攘夷的精神に燃え立ちながら。

[やぶちゃん注:
・「東洋人(トンヤンレン)」“dōngyángrén”清代から中華民国初期の中国語で日本は「東洋」で(現在でも用いられる)、これは日本人の意である。
・「偕樂園主人」笹沼源之助(明治19(1886)年or1887年~昭和35(1960)年)当時、東京日本橋龜島町にあった日本最初の高級中華料理店偕楽園の店主笹沼源吾の長男。芥川にとっては東京府立第三中学校(現・都立両国高校)の先輩で、芥川のよきライバルであった谷崎潤一郎の竹馬の友にして生涯の盟友でもあったことから、多くの文人がこの店を利用した。
・「全家寶」諸注はこれを中華料理の料理名とし、多種の食材を用いたものとか(岩波版新全集注解)、雑多な素材のごった煮のことで『「支那風俗」には「全家福」とある』(筑摩版全集類聚脚注)とか記すのであるが、日本語のインターネット上にはそのような中華料理名が、いっかな検索をかけても出現しないのが不審である。筑摩版に言う本は、芥川が「上海游記」の「十七 南國の美人(下)」でその書名を挙げている井上紅梅の「支那風俗」であろう。井上紅梅や「支那風俗」については当該リンク先を参照されたい。
・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。
・『「天鵞絨の夢」の作者』谷崎潤一郎。「天鵞絨の夢」は大正8(1919)年11月~12月に『大阪朝日新聞』に連載された谷崎潤一郎の作品。西湖湖畔に白壁を廻らした別荘がある。池の底には阿片窟、水中には美少女の舞――ここで淫楽の道具となっていた美しき奴隷達が語り織りなす、その主人の絢爛奇態な生活の謎解きの、妖艶なる物語である。
・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。
・「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。
・「ブラツデイ」“bloody”は本来は“blood”由来の形容詞で、「血の(ような)」「血の出る」「血塗られた」「血まみれの」「血腥さい」「殺伐とした」「残虐な」「惨(むご)たらしい」の意であったが、口語の俗語として副詞化、「ひどい」「どえらい」即ち“very”の代りに現在でもしばしば用いられる。血の穢れを強く意識する日本人にしてみると、如何にも汚れた表現ではある。]

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