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2009/07/16

江南游記 十八 天平と靈巖と(下)

       十八 天平と靈巖と(下)

 やつと靈巖山へ辿り着いて見たら、苦勞して來たのが莫迦莫迦しい程、侘しい禿げ山に過ぎなかつた。第一西施の彈琴臺とか、名高い館娃宮趾(くわんあきうし)とか云ふのは、裸の岩が散在した、草も碌にない山頂である。これでは如何に詩人がつても、到底わが李太白のやうに、「官女如花滿春殿」なぞと、懷古の情には沈めさうもない。それに天氣でも好かつたなら、遙に太湖の水光(すゐくわう)か何か、見晴らす事が出來たのだが、生憎今日はどちらを見ても、唯(ただ)模糊たる雲煙が立ち迷つてゐるばかりである。私は靈巖寺の朽廊に、蕭蕭(しやうしやう)たる雨の音を聞きながら、七級(きふ)の廢塔を仰ぎ見た時、古人の名句を思ふよりも、しみじみ腹の減つた事を感じた。

 我我は寺の一室に、ビスケツトばかりの晝飯をすませた。が、一應腹は張つても、精力は更に快復しない。私は埃臭い茶を飮みながら、妙に悲しい心もちがして來た。

 「島津さん。この寺の坊主に掛け合つてくれませんか? 白砂糖が少し欲しいのですが、――」

 「白砂糖? 白砂糖をどうするのです?」

 「舐めるのです。白砂糖がなければ赤砂糖でもよろしい。」

 しかし小皿へ山盛り一杯、どす黒い砂糖を舐めた後(のち)も、やはり元氣にはなれなかつた。雨は中中晴れさうもない。蘇州へは日本里數にしても、四五里の道を隔ててゐる。――そんな事を考へると、愈(いよいよ)心もちは沈んでしまふ。私は何だか肋膜炎が、再發しさうな氣さへして來た。

 この情ない心もちは、靈巖山を下る間にも、だんだん募つて來る一方だつた。風雨は暗い中空から、絶えず我我を襲つて來る。我我は傘を持つてゐたが、さつき驢馬を捨てる時に、二本とも其處に殘して來た。路は勿論、辷(すべ)りさうである。時間も彼是三時過ぎになつた。――其處へ最後の打撃だつたのは、山の麓の村へ來ても、我我の驢馬の姿が見えない。驢馬曳きの子供は大聲に、何度も友だちの名を呼んだが、それこそ答へるのは谺(こだま)だけである。私は吹きかける雨の中に、ずぶ濡れの島津氏へ聲をかけた。

 「驢馬がゐないとすると、どうしたものでせう?」

 「ゐますよ。ゐなければ歩くだけです。」

 島津氏はやはり元氣だつた。それは私を慰める爲に、強て裝つたものだつたかも知れない。が、私はその言葉を聞くと、急に癇癪(かんしやく)が起り出した。元來癇癪と云ふものは、決して強者の起すものぢやない。この場合も私が腹を立てたのは、全然弱者だつた崇りである。四百餘州を縱横した島津氏と、自脈ばかりとつてゐる病後の私と、――困苦缺乏に耐へる上から見れば、私なぞは島津氏の足もとへもよれない。それだけに、平然たる島津氏の言葉は、私の怒火(どくわ)を吹き煽(あふ)つたのである。私は前後四箇月の旅行中、この時だけ比類ない佛頂面になつた。

 その内に驢馬曳きは驢馬を尋ねに、何處か村の外へ行つてしまふ。我我は或農家の戸口に、やつと雨を避けながら、驢馬曳きの歸るのを待ち暮してゐる。古い白壁、石だらけの村道、雨に光つた道ばたの桑の葉、――その外は殆(ほとんど)人影さへ見えない。時計を出して見れば、四時になつてゐる。雨、四五里の路、肋膜炎、――私はなほこの上にも、日が暮れる事を憐れながら、風を引かない用心に、絶えず足踏みをする必要があつた。

 すると其處へこの家の主人か、ぢぢむさい支那人が顏を出した。見れば家の内部には轎子(けうし)が一基しまつてある。

 きつと此男の副業は、駕籠舁(か)きか何かに違ひない。

 「此處から轎子は雇へないのですか?」

 私は業腹なのを我慢しながら、かう島津氏に尋ねて見た。

 「聞いて見ませう。」

 しかし島津氏の上海語(シヤンハイご)は、相手の支那人に通ずるにしても、殘念ながら相手の蘇州語は、十分島津氏に通じないらしい。島津氏は押問答を重ねた後(のち)、とうとう交渉を斷念した。斷念したのはやむを得ない。が、一瞬の後振り向いて見ると、島津氏は私に頓着(とんぢやく)なく、悠悠と手帳を廣げながら、今日得た俳句を書きつけてゐる。私はこの容子を眺めた時、羅馬(ロオマ)の大火を前にした儘、微笑してゐるネロを見たやうに、喧嘩を吹きかけなければすまない氣になつた。

 「お互に迷惑しますね、案内者がその土地を知らないと。」

 喧嘩面の私の言葉は、忽ち島津氏にも腹を立てさせた。これは怒るのが當り前である。私は今考へると、あの時島津氏に擲(なぐ)られなかつたのは、不幸中の幸と思はざるを得ない。

 「その土地を知らない? 知らない事は前にも申し上げた筈です。」

 島津氏は私を睨みつけた。

 私も足踏みを續けながら、負けずに島津氏を睨み返した。これは次手に注意するが、かう云ふ時には威張るにしても、ちやんと直立して威張るべきである。威張る傍(かたはら)機械的に、行儀の好い足踏みを繰返してゐるのは、少からず威嚴を傷けるらしい。

 雨は依然として降りしきつてゐる。驢馬の鈴音は何時(いつ)になつても、容易に聞えさうなけはひがしない。我我は寂しい桑畑を前に、二人とも血相を變へながら、ぢつと長い間立ち續けてゐた。

[やぶちゃん注:

・「館娃宮趾」「十七 天平と靈巖と(中)」の「靈巖寺」注参照。

・『「官女如花滿春殿」』は李白の有名な七絶「越中覧古」の転句。

   越中覧古

越王勾踐破呉歸

義士還家盡錦衣

宮女如花滿春殿

只今惟有鷓鴣飛

○やぶちゃんの書き下し文

越王勾踐 呉を破りて歸り

義士 家に還りて 盡く錦衣す

宮女 花のごとく 春殿に滿つるも

只今惟だ 鷓鴣(しやこ)の飛ぶ有るのみ

○やぶちゃんの現代語訳

越王の句践は 会稽の恥を雪いで呉の国を破り凱旋する――

忠義を尽くした戦さ人らも 栄誉の錦の服に身を包む――

後宮の女たちも 花のごと 春の宮殿に満ち溢れ……

……今はただ ただ 鷓鴣が淋しく鳴きながら 飛んでゆくばかり――

「鷓鴣」はキジ目キジ科シャコ属コモンシャコFrancolinus pintadeanus

・「太湖」江蘇省南部と浙江省北部の境界上、長江デルタに位置する湖。蘇州は東岸に当る。ウィキの「太湖」には、『改革開放後は、蘇州や無錫には多くの工業団地が作られて外資系企業の大工場が進出し、激しい勢いで都市化・工業化が進んでいる。一方で、太湖に入る川や太湖から出る川は汚染が進み、透明度の低下や悪臭が著しい。20075月には藻類の大発生により湖水が青く変わり悪臭が激しくなる公害事件が起こり、無錫市内では水道水が使えなくなる事態になった。人々がミネラルウォーターを買い求めたため通常の六倍以上の値になり、市当局が水の値上げを禁止する騒ぎが起こっている。』という哀しい記事が附帯する(同じ江蘇省無錫は太湖の北岸)。

・「七級の廢塔」神田由美子氏の岩波版新全集注解には、『霊巌寺の多宝塔。梁代に建立、五代の呉越時代に再建ののち倒壊。芥川の見たのは南宋の紹興一七(一一四七)年の再建で八角九層の磚塔。』という詳細な記述が載る。級は階段の意があるので、7階建の意(9層とあるから芥川の誤認ということになる)、磚塔(せんとう)とは煉瓦造りの塔のことを言う。

・「肋膜炎が、再發しさう」芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」参照。

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

・「上海語」/「蘇州語」共に北京語に次いで話者の多い中国語方言である呉語(呉越語)のグループ。呉語は上海語・蘇州語・温州語等がある。上海語との近似性は大きいそうだが、上海語自体が一種の南方の都会語として急速に変化してきたため、恐らく島津氏には、ネイティヴな庶民の蘇州語はお手上げであったか。

・「羅馬の大火を前にした儘、微笑してゐるネロ」「ネロ」は勿論、暴君ローマ帝国第5代皇帝Nero Claudius Caesar Augustus Germanicusネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(3768)。以下、ウィキの「ローマ大火」よりほぼ主要本文すべてを引用する(改行は「/」で示した)。『ローマ大火はローマ帝国の皇帝・ネロの時代、64年7月19日にローマで起こった大火。/チルコ・マッシモから起こった火災は市内のほとんどを焼き尽くし多くの被災者と死傷者を出した。ネロはこの火災に際して、的確な処置を行い、陣頭で救助指揮をとったといわれ、被害が広がらないよう真剣に対処したものの、火災後のローマ再建で後に記すような宮殿建造を行ったこともあり、市民の間ではネロの命によって放火されたとの説が流れた。こうした風評に対してネロは当時の新興宗教であったキリスト教の信徒を放火犯として処刑した。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教の弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えたが、タキトゥスらローマの歴史家はローマ伝統の多神教を否定するキリスト教に対して嫌悪感を抱いており、ネロの弾圧そのものは非難しながらもその原因をキリスト教とその信徒に求めている。/こうしてキリスト教徒へ迫害を行い、犯人としたにもかかわらず、ネロがローマ復興の際に広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建造を行なったため新宮殿の用地確保のために放火したという噂は消えることはなかった。/一方この迫害によって市民の一部ではキリスト教徒に対する同情心が生まれたとも言われる』。]

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