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2009/08/20

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群

右手不具合にして鬱鬱として職場に行く気力も失せたり――今朝よりこんなものを始めて憂いを忘れんとするなり――取り敢えず上陸まで――

芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全50通)

[やぶちゃん注:以下は、芥川龍之介が大正十(1921)年に大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣された際の、旅行前、中国派遣がはっきりと文面に現れる書簡から外地からの最後の発信迄、芥川龍之介の全50通を電子テクスト化したものである。底本は岩波版旧全集第十一巻の132頁から164頁を使用した。従って、書簡番号は岩波版旧全集のものである。字の配置は底本に従わずに総て同ポイントとし、見出しは、書簡番号(一字空け)見出し日付で改行、四字下げで宛先(一字空け)宛名等で改行、四字下げ封書記載発信日(一字空け)差出人住所(一字空け)署名等とした。本文の最後の署名等、下部にインデントされているものは、ブラウザの関係上、原則、上部から二十字又は上部の語句から十字下げで記し、且つ署名・宛名の字間は詰めた。追伸も全体が二字下げとなっているが、左に揃えた。「候」の草書体は正字に直した。]

八五七 二月二五日
    牛込區矢來町三新潮社内 中村武羅夫樣
    二月廿五日

拝啓
今度社命により急に支那見物に出かける事となりましたその爲五月号の小説及び四月号の随筆はさし上げられまいと存じます 誠に手前勝手で恐縮ですが右樣の次第故不惡御海恕を願誓す 右常用のみこの手紙を書きました 頓首
    二月二十五日          芥川龍之介

   中村武羅夫樣

八五八 三月二日
    田端から 薄田淳介宛

拜啓 先達はいろ/\御世話になり且御馳走を受け難有く御禮申上げます 次の件御尋ねします
(一)旅費とは汽車、汽船、宿料 日當とはその外旅行中日割に貰ふお金と解釋してかまひせんかそれとも日當中に宿料もはひるのですか
(二)上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周りする四月通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい
(三)旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足りなさうなのですが月給を三月程前借する事は出來ませんか
又次の件御願ひします
(一)旅行並びに日當はまづ二月と御見積りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから
(二)出發の日どりは十六日以後なら何時でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな氣もしますから
右併せて五件折返し御返事下されば幸甚に存じます
     旅立たんとして
   春に入る柳行李の青みかな
                    我鬼 拜
   薄田樣 梧右

八五九 三月四日
    田端から 宮本勢助宛 (寫)
[やぶちゃん注:「(寫)」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、写しをもとにしていることを示す。]

拜啓 先達は參堂失禮仕候。さて御手紙この度は確に落手致候間左樣御承知下され度候。再度御面倒をかけ候段申譯無之重重御禮申上候。小生本月中旬支那へ參る事と相成居候爲目下拜趨の機を得ずこれ亦不惑御容捨下され度願上候。右とりあヘず當用まで如斯に候
    三月四日          芥川龍之介
   宮本勢助樣

八六〇 三月四日
    本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
    消印五日 三月四日 市外田端四三五 芥川龍之介

今卷紙なしこの惡紙にて御免蒙る
國粹いろいろ御手數をかけ感佩します僕の小説は駄目、急がされた爲おしまびなぞは殊になつてゐなささうです
今日中根氏が見本を見せに來ました表紙の藍の色が薄くなつた爲見返しの色彩が一層派手になつたやうです表紙の色の薄くなつた事は僕も知らなかつた故少し驚きましたそれから扉と見返しとの續きが唐突すぎる故紙を入れたい旨並に紙の質は何にしたら好いかと云ふ旨御宅へ伺ひに上るやうに云つて置きましたよろしく御取計らひを願ひますそれから見返しは和紙へ刷つた方が手數はかかつても紙代は安かつた由入らぬ遠慮をした事をひどく後悔してゐますまだ本文の刷にも多少不備な點がありしみじみ本一册造る事の困難なのを知りましたしかし新潮社としてはまあ精一杯の仕事故勘所する外はありません 唯一つあきらめられぬのは見返しに和紙を使はなかつた事ですこれは折角の君の畫を傷けたやうな氣がして君にすまないで弱つてゐます
愈月半に立つ事になりましたその前に入谷の大哥と小宴を開きたいと思ひます 以上
    三月四日          芥川龍之介
   小穴隆一樣

八六一 消印三月五日
    京橋區尾張町時事新報社内 佐佐木茂索君
    田端四三五 芥川龍之介 (葉書)

拜啓迭別會の事昨夜又考へるとどうしても小人數の方が好いやうな氣がして來た 大人數は僕の神經にこたへるのだ その旨菊池へも手紙を出した なる可く内輪だけの會にしてくれ給へ 今日小田原へ參る以上

八六二 三月七日
    京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣
    消印八日 三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲曾はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彦に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小説なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小説は藝術の中でも一番俗なものだね
同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを教つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか
奧さんによろしく 頓首
    三月七日午後          龍之介
   恭 樣

八六三 三月十一日
    田端から 薄田淳介宛

拜啓 今度はいろ/\御世話になり難有く御禮申上げます紹介状も澤山に今日頂きました大阪へは目下寄らぬつもりですが御用がおありなら一日位は日をくり上げてもかまひません折返し御返事を願ひますそれから紀行は毎日書く訣にも行きますまいが上海を中心とした南の印象記と北京を中心にした北の印象記と二つに分けて御送りする心算ですどうせ祿なものは出來ぬものと御思ひ下さい一昨日精養軒の送別會席上にて里見弴講演して曰「支那人は昔偉かつたその偉い支那人が今急に偉くなくなるといふことはどうしても考へられぬ支那へ行つたら昔の支那の偉大ばかり見ずに今の支那の偉大もさがして來給へ」と私もその心算でゐるのですそれからお金は一昨々日松内さんに貰ひましたもし足りない事があつたら北京から頂きますそれまでは澤山ですやはり送別會の席上で菊池寛講演して曰「芥川は由來幸福な男だしかし今度の支那旅行ばかりは少しも自分は羨しくない報酬がなければ行くのは嫌である」その報酬は二千圓ださうです事によると支那旅行と「眞珠夫人」と間違へてゐるのかも知れません以上とりあへず御返事まで 頓首
    三月十一日          芥川龍之介
   薄田淳介樣
二伸 澤村さんの本はまだ屆きません屆き次第御禮は申上げますがどうかあなたからもよろしく御鳳聲を願ひます それから何時か御約束した時事新報の通俗小説原稿料は一囘十圓だと云ふ事です朝日も恐らくその位でせう但し朝日は谷崎潤一郎に通俗小説を書かせる爲一囘二十圓とかの申込みをしたさうです 以上

八六四 三月十一日
    田端から 菅虎雄宛

拜啓 洋畫家有田四郎君を御紹介申します 同君は忠雄さんなぞも御存じの鎌倉の住人です同君の友人小山東助氏の全集を出版するにつき表紙の文字を先生に御願ひしたいとか云ふ事でした
右よろしく御取計らひ下さらば幸甚です 頓首
    三月十一日          芥川龍之介
   菅先生 梧右

[やぶちゃん注:本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]

八六五 三月十一日
    田端から 小杉未醒宛

拜啓 支那旅行につきいろいろ御配慮に預りありがたく存じそろ漢口に參り侯節は必水野先生を御訪ね仕る可くそろなほ肇を以て次手を以て拙著一册右に戲じそろ文章のまづい所は皆誤植と思召被下度又嫌味なる所は皆作者年少の故と御見なし下さる可く侯 頓首
    三月十一日            夜來花庵主
   未醒畫宗 侍史

八六六 三月十三日
    本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
    三月十三日 市外田端四三五 芥川龍之介

拜啓
いろいろ御手數をかけ難有く存じます十六日までに出來れば好いがと思つてゐます十五日頃入谷の兄貴や何かと人形町の天ぷらを食ひに行きませんか古原草先生も行けば好都合です兎に角僕は午後三時頃最仲庵へ行きます(これから小澤遠藤兩先生へも手紙を出します)田村松魚と云ふ人が未見なるにも不關新潮の隨筆を見て柿右ェ門の鉢を一つ僕にやらうと云つて來ましたその時までに貰つたらおめにかけます空谷老人入谷大哥の「夜來の花」を見て曰不折なぞとは比べものになりませんな」と 頓首
    三月十三日            夜來花庵主
   一遊亭主人 侍史

[やぶちゃん注:八六〇書簡参照。]

八六七 三月十三日
    田端から中根駒十郎宛

拜啓お孃さんの御病氣如何ですかさて夜來の花の裝幀につき小澤小穴先生へなる可く早く御禮上げてくれませんか津田青楓には二十五圓とか云ふ事ですがなる可く御奮發下さい印税は菊池なぞ一割二分の由小生春陽堂では一割二分ですが「夜來の花」は一割でよろしいその代り兩先生の方へ御禮を少し餘計出して頂きたいと思ひます右とりあへず御願ひまで 頓首
    三月十三日          芥川龍之介
   中根駒十郎樣

八六八 三月十六日
    田端から田村松魚宛

拜啓 うづ福の茶碗わざわざ御持參下され恐入りそろ仰せの如く形も色も模樣も見事と申す外無之そろ御祕藏の品を頂戴仕候事心苦しくも難有くそろ早速拜趨申上ぐ可きのところ新聞社より支那旅行を申しつかり居り出發の日どりも二三日中に迫り居る次第につき何かと忙しく候へば失禮ながら書面にて御免蒙り候その段不惡御海恕下されたくひとへに願上そろいづれ歸來の節は拜眉の上御禮申上ぐ可くまづはとりあヘず鳴謝まで如斯に御座そろ
   渦福のうつはの前に阿彌陀ぐみ夜來花庵主は涙をおとす
   手にとればうれしきものか唐草はこと國ぶれる渦福の鉢
   渦福の鉢ながむればただに生きしいにしへ人の命し思ほゆ
   この鉢のうづの青花たやすげに描きて死にけむすゑものつくり
惡歌一咲をたまはらば幸甚にそろ
    三月十六日           芥川龍之介
   田村先生 侍史

八六九 三月十六日
    田端から 澤村幸夫宛

拜啓 角山樓類腋昨日落手致しました旅行中御言葉に甘へて拜借致します難有うございました又小生の支那旅行につきいろいろ御配慮下さつた事を厚く御禮申上ます十九日朝東京發廿一日門司出帆の豫定故次便は禹域の地から差上げる事になるだらうと存じます右とりあへず御禮の爲草毫を走せました
     留別
  海原や江戸の空なる花曇り
   三月十六日          芥川龍之介
  澤村先生 侍史

八七〇 三月十七日
    本郷區湯島三組町三十九 瀧井折柴樣
    十七日 芥川龍之介 (葉書)

   秋海棠が簇つてゐる竹椽の傾き
昨日は失禮その節は結構なものを難有う 頓首

[やぶちゃん注:本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]

八七一 三月十七日
    本郷區湯島三組町三十九 瀧井孝作樣(速達印)
    十七日 芥川龍之介


十八日午後御光來下さるやう申候も風邪の爲當日御面會いたしかね候十九日午後五時半門司へ下る筈に候へば十九日午後にても御ひまの節は御來駕下され度候 頓首

八七二 消印三月十七日
    京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君(速達印)
    芥川龍之介 (葉書)

啓 十八日午後御光來の由申候へども小生風邪につき十九日午後に御くりのべ下され度候  十九日午後五時半發門司へ下る可く候 頓首

八七三 三月十七日
    本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (速達印)(葉書)

出發は十九日午後五時半になりましたとりあへず御知らせします碧、古兩先生にも通知しました 頓首
    十七日          芥川龍之介

八七四 三月十九日
    田端から中根駒十郎宛

啓 立つ前に參上する筈の所何かと多用の爲その機を得ず今日に至り候就いては別紙の諸先生へ拙著一部づつ書きとめにて御贈り下され度願上候代金は勝手ながら歸京の日までお待ち下され度候書き留めの受取りは御面倒ながら上海日本領事館氣附にて小生宛御送り下され度願上侯とりあへず當用のみ如斯に御座候 頓首
    三月十九日          芥川龍之介
   中根駒十郎樣

菊地寛 久米正雄 久保田万太郎 小宮豐隆 齋藤茂吉 島木赤彦 藤森淳三 岡榮一郎 佐佐木茂索 中村武羅夫 岡本綺堂 薄田泣菫 瀧井折柴 與謝野晶子 豐島與志雄 宇野浩二 江口渙 南部修太郎 加藤武雄 室生犀星 谷崎潤一郎

[やぶちゃん注:『夜来の花』謹呈者の名簿は、底本では全体が二字下げ。]

八七五 三月二十六日
    大阪から芥川道章宛

啓 その後皆々樣おかはりなき事と存候 私東京發以來汽車中にて熱高まり一方ならず苦しみ候その爲大阪に下車致し停車場へ參られし薄田氏と相談の上新聞社の側の北川旅館へ投宿仕りすぐに近所の醫者に見て貰ひ候その醫者至極舊弊家にて獸醫が牛の肛門へ插入するやうな大きな驗温器なぞを出し候へば一向信用する氣にならずやはり唯の風邪の由にて頓服二日分くれ侯へどその藥はのまず私自身オキシフルを求めて含漱劑を造りそれから下島先生より頂戴の風藥服用しなほその上に例のメンボウにて喉ヘオキシフルを塗りなぞ致し候へば三十九度に及びし熱も兎に角三日ばかりの内に平温まで降り候然れば船も熊野丸は間に合はず廿五日門司發の近江丸に乘らんかと存居候さて大阪まで來りて見れば鋏、萬創膏、驗温器、ノオトブックなぞいろいろ忘れ物にも氣がつきそれらを買ひ集め侯へば自然入れ物が足りなくなりやむを得ずバスケット一つ買ふ事に致し候なほ私病氣は最早全快につき(今朝卅六度四分)御心配下さるまじく候 次便は上船前門司より御手許へさし上ぐべく候 草々
    三月廿三日          龍之介
   芥川道章樣
二伸 中川康子、菅藤高德 武藤智雄 野口米次郎(動坂ノ住人)四氏の宿所並に「新文學」の新年號の卷末にある文士畫家の宿所録を支那上海四川路六十九號村田孜郎氏氣附芥川龍之介にて送られたし 宿所録は「新文學」から其處だけひつ剥して送られたし
三伸 留守中は何時なん時紀行が新聞に出るか知れぬ故始終新開に注意し切拔かれ置かれたし
四伸 唯今薄田氏來り愈廿八日の船ときまり候廿六日か七日大阪を立ち候 宿所録はやはり上海へ送られたしこちらへ送つたのでは間に合はず候
五伸 大阪滯在中大阪毎日に一日書き候(日曜附録)それをも切拔かれたく候
まだ煙草の味も出ず鼻は兩方ともつまり居り不愉快甚しく候
同封の新聞は上海の新聞に侯小生の寫眞あれば送り候
伯母さんの風如何に候や無理をすると私のやうにぶり返し候間御用心大切に侯
比呂志事はおじいさん、おばあさん もう一人のおばあさんが面倒を見て下さる故少しも心配致さず侯
兎に角旅中病氣になると云ふ事はいやなものに候
早速下島先生の藥の御厄介になつた事よく先生に御禮申し下され度願上候
    二十五日

八七六 三月二十六日
    大阪から澤村幸夫宛

拜啓 支那の本中楊貴妃の生殖器等の事を書いた本と云ふのは何と云ふ本ですか御教示下されば幸甚ですなほそんな本で面白いのがあつたら御教へ下さいませんか僕の知つてゐる誨淫の書は金瓶梅。肉蒲團。杏花天。牡丹奇縁。痴婆子。貪官報。歡喜奇觀。殺子報。野叟曝言。如意君傳。春風得意奇縁。隔簾花影等です以上
    三月二十六日          芥川龍之介
   澤村幸夫樣

八七七 三月二十九日
    筑後丸から芥川宛(繪葉書)

啓 咋日玄海灘にてシケに遇ふ船搖れて卓上の皿ナイフ皆床に落つ小生亦舟醉の爲もう少しにてへドを吐かんとす今日は天氣晴朗波靜にして濟州島の島影を右舷に望む明日午頃上海入港の筈 頓首
叔母さん風如何にや小生はもう全快し用心の爲禁煙致居候 以上

八七八 三月二十九日(推定)
    小澤忠兵衛 小穴隆一宛 (封筒缺)

  小澤忠兵ェ衛樣
  小 穴 隆 一 樣
啓 出發の際は御見送下され難有存じます その後汽車の中にて發熱甚しくなり とうとう大阪に下車 一週間程北濱のホテルにねてゐました それから廿七日に大阪を立ち 廿八日門司から筑後丸へ乘りました。所が玄海にてシケを食ひ船の食卓の上の皿、ナイフなぞ皆ころげ落ちる始末故小生もすつかり船に醉ひ少からず閉口しました 舟醉と云ふものは嫌なものですな 頭がふらふらして胸がむかむかしてとてもやり切れません 尤も醉つたのは僕のみならず船客は勿論船員の中にも醉つた先生があります 船客中醉はなかつたのは亞米利加人一人、この男は日本人の妾同伴ですがシケ最中携帶のタイプライタアなぞ打つて悠々たるものでした
今日は天氣晴朗、午前中は濟州島が右舷に見えました 淡路より少し大きい位ですが住んでゐるのが朝鮮人で 朝鮮風の掘立小屋しかないせゐか甚人煙稀薄の觀があります
上海へは明日午後三時か四時頃入港の豫定、今日は船醉はしませんが昨日のなごりでまだ頭がふらふらするやうです
この手紙御讀みずみの上は小穴氏におまはし下さい 以上
          筑後丸サルーンにて          芥川龍之介

[やぶちゃん注:この八七八書簡は底本でも横書である。]

八七九 三月二十九日
    日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
    二十九日 筑後丸船中 芥川龍之介(繪葉書)

啓二十八日門司發筑後丸へ乘りました門司を出て玄海へかかると忽ち風波に遇ひ小生も危くヘドを吐く所でした尤も舟醉をしたのは僕ばかりでなく船客は勿論船員さへ醉つてゐました 今日は天氣晴朗かうなると航海も愉快です

八八〇 四月二十日
    日本東京下谷笹下谷町一ノ五 小島政二郎樣(上海、南京路の繪葉書)

南京路は上海の銀座通り、僕の行くカツフェ、本屋等皆此處にあり新しい支那の女學生は額の髮へ火鏝を入れ赤い毛布のシヨオルをする それがこの通りを潤歩する所は此處にのみ見らるべき奇觀ならん
    二十日         我鬼

八八一 四月二十三日
    上海から岡榮一郎宛(繪葉書)

これは上海城内の湖心亭なりこの中に支那人たち皆鳥籠携へ來りて雲雀、目白の聲なぞに耳を傾つつ悠然として茶を飮んでゐる但し亭外は尿臭甚し
          上海西華德路萬歳館   我鬼

――以下、続く――

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