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2009/08/21

鬱を忘れるためにこんなことを始めた――芥川龍之介中国旅行関連書簡群 4

九〇三 五月二十三日
    日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
    五月二十三日 (繪葉書)

廬山をすつかり見物するには一週間ばかりかかるさうです 旅程を急ぐ爲山上に一夜とまつて明朝九江へ下りすぐに漢口へ上るつもりです 今の廬山は殆西洋人どもの避暑地にすぎません
二伸 蕪湖にて御手紙拜見、難有く御禮申上げます 廬山行同行は竹内栖鳳氏、

九〇四 五月三十日
    長沙から 與謝野寛 同晶子宛 (繪葉書)

  しらべかなしき蛇皮線に
  小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり
  耳環は金(きん)にゆらげども
  君に似ざるを如何にせむ
コレハ新體今樣デアリマス長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ 以上
    五月三十日          湖南長沙   我鬼

九〇五 五月三十日
    長沙から松岡讓宛(繪葉書)
揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした漢口ヘ引返し次第直に洛陽、龍門へ向ふ筈
二伸先生の所に孝胥の書が一幅あつたと思ふが如何上海で僕も孝胥に會つた 頓首
    長沙 卅日   芥川生

九〇六 五月三十日
    長沙から 吉井勇宛(繪葉書)〔轉載〕
[やぶちゃん注:「〔轉載〕」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、昭和4(1929)年2月27日発行の『週刊朝日』からの転載であることを示している。但し、昭和4年7月『相聞』にもこの書簡の影印が掲載されている、と後記にはある。それ以降に、所在が分からなくなったものらしい。]

   河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり
    五月三十日          湖南長沙   我鬼

九〇七 五月三十日
    長沙から 石田幹之助宛 (繪葉書)

長沙に來り葉德輝の藏書を見たり葉先生今蘇州にありあの藏書三十五萬卷皆賣拂ふ意志ある由君の所では買はないか好ささうな本があるぜ詳しくは觀古堂藏書目四卷見るべし僕明朝漢口に歸り、二三日後洛陽へ行く筈 以上

九〇八 五月三十一日
    日本東京市外田端五七一 瀧井折柴樣
    五月卅一日 長沙 我鬼 (繪葉書)
君はもう室生氏のあとへ引きこした由僕は本月中旬にならぬと北京へも行けぬ上海臥病の崇りには辟易した長沙は湘江に臨んだ町だが、その所謂清湘なるものも一面の濁り水だ暑さも八十度を越へてゐるバンドの柳の外には町中殆樹木を見ぬ 此處の名物は新思想とチブスだ 以上

九〇九 六月二日
    漢口から 薄田淳介宛
啓最初約束すらく「原稿は途中から送ります」と今にして知るこの約束到底實行しがたしその故は僕陸にあるや名所を見古蹟を見芝居を見學校を見るの餘暇は歡迎會に出席し講演會に出席し且又動物園の山椒魚を見んと欲する如く僕を見んと欲する諸君子を僕の宿に迎へざるを得ず、僕水にあるや船長につかまり事務長につかまり、時にその所藏の贋書僞畫を恭しく拜見せざる可らずその間に想を練り筆を驅らんとせば唯眠を節すべきのみこれ僕を神經衰弱にする所以にして到底長續きすべからず(二日程やつて辟易せり)私に思ふ澤村先生紹介の藥聊利きすぎたるものの如し是に於て僕やむを得ず歸朝後に稿を起さんと欲す、しかも目に見る所、耳に聞く所、忘却し去るを恐るゝが故に、街頭にあると茶樓にあるとを問はず直に手帖を出してノオトを取るこれ僕の近状なり。僕の約を守らざる、責められざれば幸甚なり。且僕上海に病臥する事二旬、時當に孟夏に入らんとす。即ち宜昌峽を見るを抛ち、西安行きを抛ち、僅に洛陽龍門を見て匆々北京に赴かんと欲す。蓋宜昌峽を見るは必しも僕の任にあらず。西安は戰塵未收まらずして實は龍門さへ行かれぬやうな風説を塗に聞くが故なり。天愈暑からんとして嚢底漸冷かならんとす。遊子今夜愁心多し。草々不宜
          芥川龍之介拜
   薄田先生 侍史

九一〇 六月六日
    日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (繪葉書)

子供に御祝の畫を下すつた由家書を得て知る、難有く御禮申上げますこれは朱子の白鹿書院、うしろの山は廬山です僕聊支那に飽き、この頃敷島の大和心を起す事度々
    六月六日          漢口   龍之介
金農と云ふ清朝の畫かき君のやうな書を書く號を多心先生、詩も作る歸つたら複製を御めにかけます

九一一 六月 漢口から
       芥川道章宛

拜啓 御手紙漢口にて拜見その後多用の爲御返事今日まで延引しました體はますます壯健故御安心下さい小包の數不審です、今日までに送つたのは
  上海より箱六つ 包三つ(コノ内一ツハ後ニテ出シタリ古洋服包)
  南京より靴と古瓦(コレハ幾ツニ包ンダカ知リマセン賓來館ノ亭主ニマカセタカラ)
この手紙に書留めの受取りを同封しますから全體の數が合はなかつた節は受取を郵便局へ持ち行き御交渉下さい但し箱幾つ包み幾つと云ふ事は僕の記憶ちがひもあるか知れぬ故全體の數にて御教へ下さい(但シ受取は上海より出した最初の八つだけのです。つまり古洋服包みの外八つあればよいのです)それから箱の上に書いた册數は出たらめです。又中につめた古新聞は當方にてつめたのです。それ故もし小包の數さへ合へば包みを解き、中の本を揃へて下さい。御面倒ながら願ひます。
多分小包みは紛失してもゐず、中の本も紛失してゐぬ事と思ひます 又漢口にて五六十圓本を買ひましたから、明日送ります 包みの數はまだわかりません。僕むやみに本を買ふ爲その他の費用は大儉約をしてゐます漢口では住友の支店長水野氏の家に厄介になつた爲、全然宿賃なしに暮せました。支那各地至る所の日本人皆僕を優遇します。小説家になつてゐるのも難有い事だと思ひました。
明日漢口發、洛陽龍門を見物(三四日間)それから北京へ入ります。漢口を出れば旅行は半分以上すんだ事になります。
小澤、小穴の親切なのは感心です。ハガキの禮状を出しました
内地にゐるとわからないでせうが、僕晝間は諸所見てあるき、夜は歡迎會に出たり、ノオトを作つたりする爲非常に多忙です。新聞の紀行も歸朝後でないととても書けぬ位です。ですからこの位長い手紙を書くのは大骨です。諸方へはがきを書く爲、睡眠時間をへらしてゐる位です。
もう當地は七月の暑さです。
九江にて池邊(本所の醫者)のオトさんに遇ひました二十年も日本で遇はぬ人に九江で遇ふとは不思議です。今は松竹活動寫眞の技師をしてゐます。
皆樣御體御大切に願ひます。夜眼をさますとうちへ歸りたくなる。さやうなら
          龍之介 拜
   芥川皆々樣
二伸 北京の山本へも手紙を出しました。伯母さんは注射を續けてゐますか。あんまり芝へばかり行つてゐると芝の子が可愛くなつてうちの子が可愛くなくなる。なるべくうちにゐなさい。

九一二 六月六日
    日本東京市下谷區下谷町一ノ五 小島政二郎樣(繪葉書)

今夜漢口を發して洛陽に向ふ、龍門の古佛既に目前にあるが如し 然れど漢口に止まる一週日、去るに臨んで多少の離愁あり
   白南風や大河の海豚啼き渡る
    六月六日          漢口   我鬼

九一三 六月十日
    日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
    六月十日 河南鄭州 我鬼生 (葉書)

やつと洛陽龍門の見物をすませました龍門は天下の壯觀です 洛陽は碑林があるばかり、城外には唯雲の如き麥畑が續いてゐます 支那もそろそろ陝西の戰爭がものになりさうです 小生も側杖を食はない内に北京へ逃げて行く事にします 以上
  (コノ旅行ハ支那宿、支那馬車ノ苦シイ旅行デス)

――以下、続く――

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