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« 病夢又は少年性矮星症 | トップページ | 詩集「血の花が開くとき」 尾形亀之助 »

2009/08/16

詩集「第百階級」に依る草野心平君其他 尾形亀之助

 草野はきつと詩を書くことが下手なのだらう。だが草野はそんなことに一向無関心であつていゝ立場をもつてゐる。全くのところ草野は所謂詩人でなくともいゝ筈だ。また、例へ詩が下手であつても草野の現在のそれらの作品は十分以上にわれわれの仲間に通用してゐる。また思想的変進は当然のことであつて、順調以外の何物でもないのだから、特に賞讃する必要はない。

    ×

 草野が高橋新吉と話をしてゐても草野は高橋新吉ではない。又、高橋新吉が尾形亀之助の場合であつても、彼はやはり尾形亀之助ではなくて草野心平だ。だが、草野の靴下の中の足がよごれてゐるとしても風呂に入れば綺麗になることに就ては、彼は高橋新吉と同じであり尾形亀之助とも何の異りもない。

 草野の笑ひ顔は何とも言へないほどいい。

    ×

 草野は玄関に腰かけて靴をぬぐ。混沌君の梨畑の梨の枝を杖(ステツキ)にして来るときもある。困つたことだが、草野が痔がわるいのが如何にも彼らしくつて好ましい気がする。

    ×

 草野心平は一人しかゐない。自分が一人しかゐないことを彼はあきらめてゐる。

 このことは草野ばかりではない。自分が二人も一二人もゐるやうな気がしたら、諸君は十分注意しなければいけない。各自の作品に就ても同じことだ。自分の作品に似た作品があつたら、自分がそのまねをしてゐるのかその作品が自分をまねてゐるのかを考察しなければならない。

    ×

 草野はよく唄を唄ふ。が、それをやめれば、彼はもつと沢山の詩を書く。

 或る日、草野は自動車に少しばかり足をひかれた。又或る日、彼は何かの儀式のとき親父にむりにフロックコートを着せられた。

 草野ほど帽子を変へる人を私は知らない。

    ×

 詩集の中で、あまりりきんだ詩はその他の詩に劣る。

    ×

 「蛙冬眠」に現れてゐるやうに、彼は詩を文字や字句の型からのものであるとはたしかに思つてはゐない。だが、「蛙冬眠」は黒丸でいゝにはいゝが、草野はもつとよい詩を書かなけれはいけないではないか。苦心した作品が、必ずよいわけではないが、あれだけで手をひいてしまつたことは断じていけない。

    ×

 草野の詩は私の詩ではない。たゞ、それがわかるに過ぎない。それは決して彼と私との場合ばかりではない。

 又、草野は沢山の「詩」を書いてゐる。が、それらの「詩」はみな一つ一つ異つてゐる。で、草野自身の詩ですら「詩」がみな異つている。詩人が似かよつたやうな詩を書くときは、それらの詩人は少しも貴重でない。或る場合は彼等を詩人でないとさへ言つていゝと思ふ。

    ×

 時に、草野の顔を蛙の顔に似てゐるとか、手が蛙の手にそつくりだとか、又は足がさうだとか言ふ人がある。が、断じてそんなことはない。

 草野は自身の顔や手や足が蛙に似てゐるからといふわけで「蛙」の詩を書き出したのではない。

 以下のことは、草野自身詩集の終りに書いてゐるから、わざわざ書くのだ。が草野は蛙を愛してなどはゐない。若し愛してゐるといふ言葉を使用したければ、蛙を食ふ蛇と同じほどしか愛してはゐない。間違つてはいけない。蛇は宇宙大のニヒルと言つたところで、彼には一向さしつかへがないのだ。

    ×

 「逆歯」などといふ言葉は、形容にすぎないと思つて、読み返してみる必要もある。

    ×

 この詩集に就て一口に音楽的効果云々などと言つてはいけない。音楽そのものの中にも詩はある。詩を表現する場合に、如何なる形式をとらうと、それは誰れでもの勝手だ。「我」といふのを「われ」と書かうと、どつちでもいゝやうにいゝ筈だ。

    ×

   秋の夜の会話

  さむいね

  ああ さむいね

  虫がないてるね

  ああ 虫がないてるね

  もうすぐ土の中だね

  土の中はいやだね

  痩せたね

  君もずいぶん痩せたね

  どこがこんなに切ないんだらうね

  腹だらうかね

  腹とつたら死ぬだらうね

  死にたくはないね

  さむいね

  ああ 虫がないてるね

    ×

 「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」の終りの二行ばかりはあんまり意味がなさ過ぎる。みんな生理的なお話ぢやないか――と言つてゐる辺がこの詩の佳境であらう。

 「えぼ」もいゝ。たゞ、無意味な批評をすれば、土の中から出て来たばかりにしては元気がありすぎる。

    ×

 「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」で――

  そうか?

  おれもそだ

  だまつてると

  どてつ腹むしりたくなる

  このお天気はどうだい!

  お天気はお天気にして出掛(んぐ)べや

  あいらもうれしいんでやけに鳴いてるな

  んぐべ

  あんぐベ

  どつたどつた音たててんぐベ

 ――と話しあつてゐる二匹の蛙のうちの一匹がこの時笑ひ出したので――

  バカ! なに笑つてるだ

と一匹に言はれた。するとさうどなられた蛙は――

  ゲツヘ おまへも笑つてるくせに

と言つてゐる。

 読者よ、蛙の顔を思ひ出して呉れ。この二匹の蛙は笑ふのに声を出してゐない。話しあつてゐる二人の人間が笑ふのはいたつて珍らしくない。例へ、作者がこれを書きかけてゐてんぐべがお可笑しくなつてなに笑つるだ、といふことになつたとしても、それはどうでもいゝ。これはこれでいゝ。私はこの詩をこの詩集の中で一番よい詩だと言つてもいゝ。

    ×

 「俺も眠らう」の一部にもあてはまることに就て前述した。これもこれでいゝ。だが、これに何かの背景があれば尚もいゝ筈だ。あまり上手な引例ではないが、たんぼの泥を一握り庭へ持つて来て置いても、庭がその為に幾分かたんぼらしくなつたとは言へない。だからだ。

    ×

 「嵐と蟇」はこの詩集の中で特によい詩ではない。生意気に聞えなけれは、この詩に就てはもつと勉強(?)してもらひたいと言ひたい。

    ×

 「子供に追ひかけられる蛙」はたゞ子供に追ひかけられる蛙 とだけでいゝ。かうした点で私の言ふことが幾分正しいとすれば、草野はその幾分についてもう少し注意しなければならないのだ。

    ×

 草野の詩を読んでゐて笑はされてしまふことがある。笑はされてしまつては批評は出来ない。

 「鰻と蛙」も私には笑はされるのゝ一つだ。が、笑はされずに読める時だつてある。この詩も実にいゝ。

    ×

 「いいのか」は好ましくない。

 「号外」はこの詩集の中でのつまらないありふれた詩だ。旧い言葉で感じが出てゐないの感があるではないか。

 「青大将に突撃する頭の中の喚声」。れは試みとしてのみよいと言ふことが出来る。だが試みてよくなかつたと言はなければなるまい。

    ×

 「だから石をなげれるのだ

 だから石をうけれるのだ」

 顕微鏡的一点を微笑するのだ――は、蛙があまり人間に対して皮肉すぎる。

 「行進曲」はこの詩から詩を書いて欲しいと思つた。で、幾度も読みかへしてみた。これはこれでいゝのだとは思へる。

    ×

 「第八月満月の夜の満潮時の歓喜の歌」に十四人以上人ぶつが同時に唱ふべき詩――と註がしてある。

 珍らしい詩を彼は持つてゐる。

 「蛇祭り行進」は「……歓喜の歌」によく似てゐる。よいともわるいとも、其他のことも書かぬでもよからう。

    ×

 「月の出と蛙」――はいゝ。

 「生殖」もいゝ。いゝと言つても、わるくないだけのことだ。

「古池や蛙とびこむ水の音」は最後の一行がわるい。この一行を加へなければならないことは、作者が――無限大虚無の中心の一点である――と言葉が好きであるからであらう。

    ×

 「吉原の火事映る田や鳴く蛙」には感興をひかれない。

 「●」はよく草野自身を出してゐる。

  すかんぽをくつてゐると

  蛙がわらつた

  おれがだまつてゐるので

  ひつくりかへつて

  白い腹をみせた

    ×

 「佝僂と蛙と風景」には一言あつていゝと思ふ。だが、この詩はいゝ詩だと言つて終つてもよいのかも知れない。言ふことは何によらずかなりめんどうなことだ。

 草野は次第にかうした詩型に入つてゆくのだらう。私はそれをさうでないよりいゝと思つてゐる。細々した注文ではあるが、終りまで面白く読ませてゐるが、終りになつてくどくなつてゐる。

    ×

 「水素のやうな話」もいゝ。

 「ギケロ」もいゝ。が「ギケロ」の方が少しくどい。どつちにも難はない。

    ×

 「亡霊」と「電柱の中で死んだ蛙」は同じ位に好きだ。この二つの詩は、詩集の中でない時の方がよりよく生命をもつ。

    ×

 「ぴりぴの告白」

 ぴりぴはであらう。が、この詩の場合びりぴが蛙であることが似やはしくない。似やはしくないやうな気がする。この詩に「亡霊」といふやうな種類の題が欲しい。

    ×

 「Spring Snata 第一印象」も略さう。

 「Spring Snata 第一印象」を略したのだから「蛙と蛇と男」も略さう。たゞ、形容句を列べてそこに詩をもりあげることは、かなり困難な仕事であるが、草野は前者に於てよく成功してゐる。

    ×

 「ゲル」はつまらない。

 「病気」はいゝ。

 「中性」もいゝ。

 「五木足の蛙」もいゝ。

    ×

 「ぐりまの死」このひからびた甘さがいゝではないか。

  ぐりまは子供に釣られてたたきつけられて死んだ

  取りのこされたるりだは

  菫の花をとつて

  ぐりまの口にさした

  半日もそばにゐたので苦しくなつて水に這入つた

  顔を泥にうずめてゐると

  くわんらくの声々が腹にしびれる

  泪が噴水のやうに喉にこたへる

  萱をくわえたまんま菫もぐりまも

  カンカン夏の陽にひからびていつた

    ×

 書き疲れた。

 「散歩」「●」は略さう。

 「一匹を慕ふ二匹の会話」を読んでゐるとお可笑しくなる。つまらないと言へばつまらなく、いゝと言へばいゝのは草野の責任だ。

    蛙になる

  なまぬるい水も気持がいいし

  どろどろの青藻もまずくはない

  顔もすべつこくなつてきたし

  こりこりいふ唄声が腋の下を汗ばませる

  水の底で眼をあけると

  ぶくぶくよりあつてゐるのもあるし

  浮きあがつて四つ脚をぶらりとのばした

  どこもかも大ぴらなまつ白い腹もある

  電気飴のやうな陽の光りが入つてくる

  黒い影のあるいてゐるのは

  鳶でもとんでゐるのらしい

    ×

 「晴天」もいゝ詩だ。最後の一節は不用だ。それが草野のもつてゐる欠点にならないやうに希望する。

    ×

 草野は詩集の後記に次のやうなことを書いてゐる。

 この批評だけをしか見ない人のために引例する――

    ×

[やぶちゃん注:以下、「 云々――。(略す)」の二字下げを除き、総てが一字下げで記されているが、ブラウザの関係上、総てを左揃えで統一した。以下、『第百階級』原典では各章の間は「×」ではなく、十六字下げの「◎」である。『第百階級』の掉尾の部分を「ゲリゲ」の遺言以外をすべて漏れなく引用している。但し、一部に誤表記がある。]

銀座街道に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる大学的徳性は笑はれる。

蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。

    ×

蛾を食ふ蛙はそのことにのみよつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。

    ×

殺りやく者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。

    ×

人情的なあらゆるものをべつ視する宇宙大無口。

    ×

かえるの性慾は相手の腹に穴をあける

かえるの意地つ張りは石を笑ふ

かえるの夢は厖大無辺

眼玉は忍従と意志の縮図だ

    ×

そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき、人間の言葉にほん訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。

 云々――。(略す)

    ×

そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス 蛙とにんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて 蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。

    ×

ばくは蛙なんぞ愛してゐない!

(詩と詩論第三冊 昭和4年3月発行)

[やぶちゃん注:これは盟友草野心平(明治361903)年~昭和631988)年)が昭和3(1928)年11月に銅鑼社より刊行された草野にとっては活版印刷によるものとしては処女詩集となった『第百階級』の詩評を中心とした草野心平論。表題だけが示される草野の詩が当然の如く多出し、その詩を読んで初めて意味の分かる部分もあるが、草野の詩は著作権保護がなされているため、引用は原典との差異を示すものだけに控えた。

・「混沌君」は、同郷の農民詩人であった三野混沌(明治271894)年~昭和451970)年)のこと。本名、吉野義也。福島県石城郡平窪村曲田生(草野も現・いわき市出身)。山村暮鳥・草野心平らとの交友があった。

・『「逆歯」などといふ言葉』は、『第百階級』中の「逆歯(ギヤクシ)に死ぬる同胞一匹」の題名に用いられた単語である。逆歯とは九鈎刀(きゅうこうとう)という刀の一種。通常の刀の背の部分が、氷を挽く鋸のように九つに抉られて小さな逆の刃を成しているものを言う。

・「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」の引用はほぼ正しいが、最終行を何故か外している。原典を引くと(引用はほるぷ社昭和581983)年復刻になる『第百階級』を用いた。以下同じ)、

   殺虐の恐怖のない平凡な

   ひと時の千組の中の一組

  そうか?

  おれもそだ

  だまつてると

  どてつ腹むしりたくなる

  このお天氣はどうだい!

  お天氣はお天氣にして出掛(んく)べや

  あいらもうれしいんでやけに鳴いてるな

  んぐべ

  あ んぐベ

  どつたどつた音たててんぐベ

  バカ!なに笑つてるだ

  ゲツヘ おまへも笑つてるくせに

  んぐべツ!

である。但し、この原典の「お天気はお天気にして出掛(んく)べや」の「んく」のルビは濁点の脱落の可能性もある。

・「たゞ子供に追ひかけられる蛙 とだけでいゝ」の一字空欄はママ。

・『「だから石をなげれるのだ/だから石をうけれるのだ」』の表記は段落冒頭であるから仕方がないのであるが、ややおかしい。これは詩の二行に渡る題で、原典では、

  だから石をなげれるのだ

  だから石をうけれるのだ

と並列されている。

・「十四人以上人ぶつ」の「ぶつ」はママ。

・「この一行を加へなければならないことは、作者が――無限大虚無の中心の一点である――と言葉が好きであるからであらう」の部分、「と言葉が」の「と」の脇に底本ではママ表記がある。「といふ言葉が好きであるからであらう」となるべき部分。

・『「●」』は以下の詩の題。直径1㎝3㎜の巨大な黒丸である。

・『「佝僂と蛙と風景」』の「佝僂」は本文中でもルビがないが、恐らく「くる」ではなく「せむし」と読ませているものと推定する。

・「ぐりまの死」の引用は杜撰である。正しくは以下の通り。

   ぐりまの死

  ぐりまは子供に釣られて叩きつけられて死んだ

  取りのこされたるりだは

  菫の花をとつて

  ぐりまの口にさした

  半日もそばにゐたので苦しくなつて水に這入つた

  顔を泥にうづめてゐると

  くわんらくの聲々が腹にしびれる

  泪が噴上のやうに喉にこたへる

  菫をくはへたまんま

  菫もぐりまも

  カンカン夏の陽にひからびていつた

草野は「噴上」を「ふきあげ」と読ませるつもりか。

   蛙になる

  なまぬるい水も氣持がいいし

  どろどろの青藻もまずくはない

  顔もすべつこくなつてきたし

  こりこりいふ唄聲が腋の下を汗ばませる

  水の底で眼をあけると

  ぶくぶくよりあつてゐるのもあるし

  浮きあがつて四つ脚をぶらりとのばした

  どこもかも大ぴらなまつ白い腹もある

  電気飴のやうな陽の光りが入つてくる

  黒い影のあるいてゐるのは

  鳶でもとんでゐるのらしい

原典では「腋の下」は「液の下」とあるが、誤植と判断して直した。「電気飴」とは綿菓子のこと。

・『「散歩」「●」は略さう』この「●」という題の詩は、先に掲げた同名の「●」という詩とは別物である。

・「銀座街道に売物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中学小学の修身教科書の全部を消滅させる大学的徳性は笑はれる。

蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉体的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。」は正しくは以下の通り。「街頭」を「街道」と誤って引用している。

銀座街頭に賣物になつてゐるトタン箱にうづくまるガマの眼玉は僕から中學小學の修身教科書の全部を消滅させる大學的德性は笑はれる。

蛙達の眼に映る人間の顔、その二つの肉體的力量の比較に立脚して魂のあ然は果してどつちにあるか。

・「蛾を食ふ蛙はそのことにのみよつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。」は正しくは以下の通り。「にのみよつて」は通常通り「のみによつて」である。また、「食はれる。」の後に一字空けが見られる。

蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。 人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪まだ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかえるを憎む。

・『殺りやく者「万物の霊長」は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。』は正しくは以下の通り。「万物の霊長」は二十鍵括弧。「殺りやく者」は原典でもママ。

殺りやく者『萬物の靈長』は君達をたたきころしむしろ道ばたの遊びごととしそしてそれは自然だ。君達は君達の互助を讃えよ。高らかにうたへ。

・「人情的なあらゆるものをべつ視する宇宙大無口。」引用に異同なし。「べつ視」は原典でもママ。

・「かえるの性慾は相手の腹に穴をあける/かえるの意地つ張りは石を笑ふ//かえるの夢は厖大無辺/眼玉は忍従と意志の縮図だ」は正しくは以下の通り。「慾」は通常の「欲」で、全体は二連ではなく、一連である。

かえるの性欲は相手の腹に穴をあける

かえるの意地つ張りは石を笑ふ

かえるの夢は厖大無邊

眼玉は忍從と意志の縮圖だ

・「そしてゲリゲといふかえるは蛇に食はれて死んで行くとき、人間の言葉にほん訳したら恐らく次のやうな言葉を仲間に送つた。/云々――。(略す)」最初の一文は引用に異同なし。「ほん訳」は原典でも「ほん譯」でママ。なお、「云々――。(略す)」は尾形亀之助の略表記で、ここには最初の一文より全体一字下げでその「ゲリゲ」の「です・ます」体の遺書が記されている。著作権を考慮して記すと、『お友達や仲間の諸君』に始まり、彼が殺されることを悲しんで逃げるように声をかけてくれたその人々に感謝の意を表し、彼を『殺す』のは蛇でも何でもなく、彼自身の意地であると表明し、自分の死は悲しくないとする。そうして本当に『悲しいことはなぜ殺しあひがあるかということ』であるが、しかし「それも仕方がないでせう」と諦観する。彼ら蛙も色々なものを食べる、『自然の暴威』は当然の摂理である。いや、だからこそ本当に悲しいことは『なぜおんなじ兄弟たちなかまたちが殺しあふの』かという大いなる疑問だという。『人間も人間同士で殺しあふ』――『ぼくたちは幸福で』ある。それは何故と言うに『誰彼の差別なく助け合ひ歌ひあ』うからである。これこそ至福である。僕は死んでゆく。『悲しくはありません、さようなら、萬歳して下さ』い。と終わる内容である。

・「そしてにんげん諸君 蛙とにんげんとマンモス 蛙とにんげんの声がマンモスの声より小さいだらうといつて 蛙のコーラスがにんげんのそれよりけちくさくしみつたれだと言ひ得るとでも言ふのか。」引用に異同なし(「声」は勿論、「聲」)。

・「ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!」引用に異同なし。]

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