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« 母を亡くされたあなた方へ | トップページ | 耳嚢 小野次郎右衛門遠流の事 附御免にて被召歸事 »

2009/09/23

耳嚢 小野次郎右衛門出世の事 附伊藤一刀齋の事

「耳嚢」に「小野次郎右衛門出世の事 附伊藤一刀齋の事」を収載した。

 小野次郎右衛門出身の事 伊藤一刀が事

 伊藤一刀齋劍術弘めんと諸國修行せし折柄、淀の夜船にて大坂へ下りける。右船頭は力量勝れたる者にて、一刀齋木刀をたづさへたるを見て、御身は劍術にても修行し給ふや、劍術は人に勝道理なるべければ、我等が力にて普く劍術の達人にても叶ふべしとは思はず。手合致さるべくやといふ。一刀齋樣子を見るに、飽まで強剛に見へければ、如何とは思ひしが、迚(とて)も劍術修行に出、縱令(たとひ)命を果すとも辭退せんも本意(ほい)なしと、互に死を約束し陸にあがりけるが、船頭は械(かい)を片手に持て拜み打に一刀齋を打けるを、身をひらきはづしければ、力の餘りけるにや大地へ械を打込、引拔んとせし處を、木刀を以械を打落し諸手を押ければ、船頭閉口して弟子と成、隨身(ずいじん)し諸國を歩行(あるき)けるが、元來力量勝れし故、國々に於て立合の節も一刀齋は手を下さず、多分は右の者立合、いづれも閉口して門弟と成者も多しとかや。然れ共元來下賤の者にて、其上心ざま直(すぐ)ならざりし故、一刀常に閉口しけるを遺恨に思ひ侯と見へ、立合には叶はねど、夜陰旅泊りにて一刀齋が眠(ねむる)を見得ては付ねらひし事數度(すど)なれ共、一刀齋身の用心透間(すきま)なければ、空敷(むなしく)供して江戸表へ出けるとなり。然るに、將軍家より一刀齋を被召けれ共、同人儀は諸國修行の望(のぞみ)有之由(これあるよし)を以、御斷申上、門弟の内を御尋有ければ、小野次郎右衞門を吹擧(すいきよ)ありて、可被召出(めしいださるべき)に極(きはま)りける時、彼船頭大に恨み、我は最初より一刀齋に隨ひ倶に流儀を弘(ひろむ)る功有、此度、將軍家の御召に末弟の次郎右衞門を吹擧の事心外なり、辿も生て益なし、次郎右衞門と眞劍の試合を以生死を定度(たき)旨申ければ、一刀齋答て曰、其方儀最初より隨身の者なれ共、是迄度々我を付ねらふ事覺へあるべし、今生置(いかしおき)しは甚の恩德也、しかし次郎右衞門と生死を爭んは望に任すべし迚、次郎右衞門を呼て委細の譯(わけ)申談(まうしだんじ)、勝負可致旨申渡、頓(やが)て次郎右衞門へ傳授の太刀を免(ゆる)しければ、則(すなはち)立合の上、次郎右衞門が一刀の下に船頭露と消にけり。扨次郎右衞門は被召出て、尚又牢内に罪有劍術者を撰(えらま)れ、立合被仰付、是又次郎右衞門が妙術を顯しければ、千石にて被召出廿るとなり。

□やぶちゃん注
・「附」は「つけたり」と読み、合わせてとか追加しての意。以下、多出するが注は省略する。

・「小野次郎右衛門」小野忠明(永禄121569)年又は永禄81565)年~寛永51628))のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後にここに登場する兄弟子善鬼を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄21593)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長51600)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。但し、底本の鈴木氏補注では、この記事の小野次郎右衛門・伊東一刀斎・将軍の人物には齟齬があることを指摘されており、この伊東一刀斎を召し出そうとした将軍が『家光を指すのであれば、家光に仕えたのは忠明の子忠常(寛文五年没)で』あるとし、更に、本文にあるように『小野家が千石を領した事実は、子孫にいたるまで』見られないとする。おまけに『忠常は家光の御前でしばしば剣技をお目にかけたが、その剣術は父から学』んだものであって、小野忠常自身は『一刀斎の門人ではない。』と記された上、『この種の武勇譚では』、話者も読者も話柄の武勇談自体の力学が肝心なのであって、『史実と矛盾する点はあっても看過され不問に付されることが多い。』といった主旨の注釈をしておられる。

・「伊藤一刀齋」(生没年不詳 「伊東」とも)一刀流剣術の祖でもある。底本の鈴木棠三氏の補注によれば、彼は寛永9(1632)年の家光の御前試合に召されたが、既に伊藤一刀斎は90歳を越えていたとする。

・「械」底本では横の「(櫂)」と注する。「械」は確かに音では「カイ」であるが(櫂の「かい」は訓)、全くの誤字。「械」は「かせ」で、刑具の手かせ足かせのことである。

・「今生置しは」岩波文庫版では「今迄生置(いけおき)しは」とある。

■やぶちゃん現代語訳

 小野次郎右衛門出世の事 伊藤一刀斎の事

 伊藤一刀斎が己が剣術の流儀を広めんがために諸国行脚をしていた折、淀の夜船に乗って大阪へ下ったことがあった。この夜船の船頭、相当な腕力の持ち主で、一刀斎が木刀を携えているのを見ると、

「貴殿は剣術でも修行しておられるんか? 剣術とは必ず人に勝つことを道理とするものであろうがほどに、――されど、儂の腕力(うでじから)には、如何なる剣術の達人だろうと、かなわねえと思うねえ。――さても、どうじゃ、一つ、お手合わせなさって見るかね?」

と言う。

 それを聞いた一刀斎が男の様子を伺い見るに、いや、言うに劣らぬ強者(つわもの)に見えはし、その傲岸な物言いにも思うところがあったので、市井の者でもあり、如何したものかとも思ったが、

「そも、剣術修行に出でた身にありながら、たとえ命を落とすとも、誰(たれ)彼とて、挑まれた勝負を辞退するは本意にあらず。」

と言上げして、二人して死をも約定(やくじょう)致し、陸(おか)に上がったのであった。

 船頭は櫂を片手に持つと、そのままさっと振り上げ、拝み打ちに一刀斎へと打ち込む――が、一刀斎は風のようにひらりと身をかわすと難なくその一太刀を外す――と、船頭は力余ってずぶりと深く櫂を地に打ち込む――と、それを引き抜かんとするころを、一刀斎はぱーんと木刀で櫂を打ち落とすと同時に、返すその木刀にて船頭の両腕をぐいと押さえた――そこで船頭は降参――爾来、この船頭は一刀斎の弟子となって同行二人、諸国を行脚することとった。

 さてもこの男、生来、優れた臂力と才能の持ち主であった故に、諸国に於いての立ち合いの際にも、一刀斎は手を下すことなく、概ね、この男が師匠に代わって試合を受け、その勝負、いずれも相手は降参して、そのまま一刀斎門弟となった者も多かったということで御座る。

 されど、この男、生来、身分卑しく、加えて、その性根も腐りきった人物であった。

 不遜にも、かの大阪で一刀斎に降参したことを内心、ずっと遺恨に思うておったものと見え、流石に一対一の立ち合いではかなわない故、夜陰野宿や旅籠(はたご)に泊った折りなどには、一刀斎が眠るのを覗き見て待ち、隙を突いて狙わんとせしこと、度々であったが、一刀斎の用心には聊かの隙もなかったため、空しく供して江戸表へ出るに至った、ということである。

 ところが、この折、将軍家より一刀斎召し抱えの儀、お声がかかったのであったが、一刀斎儀は、諸国修行を続くる望みこれある由を以ってお断り申し上げた。すると、なれば門弟の内には如何とのお訊ねがあったところ、一刀斎は迷わず小野次郎右衛門を推挙し、そのまま小野次郎右衛門の召し抱えが決した。その時、かの船頭は大いに恨んで、

「儂はいの一番に一刀斎に従って、一緒に一刀流の流儀を広めた功績があるんだ。今回、将軍家召し抱えに、あろうことか末(すえ)の弟子の、あの次郎右衛門なんぞを推挙した事、心外の極みじゃ! とても今日只今、生きておる甲斐もないわ! 次郎右衛門との真剣勝負を以って生死を決せんと望まん!」

と一刀斎に詰め寄ったところ、一刀斎は答えて曰く、

「お主は確かに最初より随行の者なれど、これまで度々我が命をつけ狙ろうてきたこと、覚えがあろうほどに。今生(こんじょう)までお主を生かいておいたは、無上の慈悲じゃて。なれど、次郎右衛門と生死を決せんとするは、その望みに任せよう。」

と、次郎右衛門を呼び、事を談じた上、この兄弟子と勝負致すべき旨申し渡し、その場にて一刀斎秘伝の奥義一太刀の技を伝授した。

 さればこそ、二人の立合い――それは一瞬にして終わった。次郎右衛門の一閃の下(もと)に船頭の命は、露と消えたのであった。

 さて、次郎右衛門は召抱えられると、将軍はすぐにまた、当時、牢内に囚われていたあまたの剣術者の中からこれぞという兵(つわもの)をお選びになられ、その者たちとの立合いを仰せつけられたのであったが、これもまた、次郎右衛門は妙技を示して、悉く楽々と勝利を得た故に、何と一千石で召抱えが決まった、ということである。

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