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2009/09/22

根岸鎭衛「耳嚢」10巻1000条全テクスト化全やぶちゃん訳注プロジェクト始動 禪氣狂歌の事

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、正字正仮名に基づく根岸鎭衛の「耳嚢」の「巻之一」の頁を創設、これより10巻1000話のプロジェクトを開始する。勿論、オリジナルのやぶちゃん注及びやぶちゃんの現代語訳附きである。まずは「禪氣狂歌の事」を公開した。

 禪氣狂歌の事

 

 芝邊に柳屋何某(なにがし)といへる打物商せる者有しが、禪學を好み家業の間には專ら修業し侍るよし。或日遍參の僧柳屋が見世に來て、並べ有し打物をあれ是見て、一ツの毛拔を手に取りて、此毛ぬきはくふべきやと尋ければ、柳や憤りけるや又は禪僧故兼て嗜む禪氣にや、答て、其毛拔本來空と有ければ、流石禪僧言下に、

  空ならばたゞ紅ゐのはな毛拔柳が見せは見取也けり

と一首の狂歌を詠じ、右毛抜を持立去りけるとなん。

 

□やぶちゃん注

・禪氣狂歌:禅僧が修行者等に対して放つ、独特の鋭い一言や悟達を促すための動作を「禅機」と称し、禅の無我の自在な境地から出る働きを言うが、ここはそれに引っ掛けて、禅機染みた、禅の好事家らしい味な狂歌一首の意。

・芝:現在の東京都港区。当時は豊島郡柴村。

・打物商:金属を打ち鍛えたり延ばしたりして作った刃物や金物を商売した店。

・くふ:しっかりと間に挟む。

・本來空:禅家の核心概念で、先の禅機や公案の常套句の一つである。万物の実質・実在等といったものはもともとマテリアルな実態把握の可能ものではない、一切空である、の意。勿論、「空」は毛を「くう」(食う・喰う)に掛けてある。

・空ならばたゞ紅ゐのはな毛拔柳が見せは見取也けり:「花は紅柳は緑」といった語句は、あるがままに存在し、そのために在るといった意味でやはり禅家の公案等で好まれる語である。ここはその「紅の花」に、「ただ(で)くれ」る「はな(毛抜き)」の意を、更に「緑」=「みとり」を、「柳」屋の店先で「見取り」=「自由に品物を見て好きなものを選び取る」の意に掛けてある。

やぶちゃんの解釈:総ては空だと、言うのであらば、タダで呉れりょう、鼻毛抜き。柳は緑、店は見取り――ああら、あらあら、めでたやな!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 禅臭芬々たる狂歌の事

 

 芝の辺りに柳屋何某といった金物商いを生業(なりわい)とする者があったが、その柳屋何某という主人、これが商人にも似合わず禅を齧ることを甚だ好み、家業の合間には専ら禅の書を読み耽り、実際に座禅なども致しておったようで御座る。

 さて、ある日のこと、一人の行脚の禅僧が、この柳屋の店先にやって参り、店頭に並べてあった打ち金物をさんざんぱら見た上、仕舞いには、一本の毛抜きを手に取ると、

「この毛抜きは、ちゃんとくうんかね?」

と訊ねた。柳屋は商売物にさんざん手油を付けられた上に、商品にケチを付けられたと思って怒ったのか、はたまた、相手を傲岸な禅僧と見て取り、兼ねてより嗜んでおる禅の機をそこに見出したのか、すかさず答えて、

「その毛抜き、本来、空!」

とやらかしたところ、流石、禅僧、たちどころに、

空ならばただくれないのはな毛抜き柳がみせは見取りなりけり

という一首の狂歌を吟じると、その毛抜きを手にしたまま悠然と立ち去ってしまった、ということで御座る。

後3ヶ月。元日の約束を守らねばならぬ。……しかし、花火は上げたものの花が、ないな……1000里の道も一歩からとは言うものの……しかし、余りに路は遠い……

……いや、まだ始めなければならないものがある。「和漢三才圖會」のどこかの始動、だ……さて、何処にしよう?……

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