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2009/09/05

私が今目論んでいるバァーチャル・ウェブ版尾形亀之助詩集『色ガラスの街』のこと

既に期待するメールを今朝戴いた。少しだけ、覗いて見るかい?――

* * *(作業ファイル見本)

≪改頁≫

    顏     が

私は机の上で顏に出逢ひます

顏は
いつも眠むさうな喰べすぎを思はせる
太つた顏です

―― で

(改頁)

それに就いて ゆつたり煙草をのむにはよい そして
ほのぼのと夕陽の多い日などは暮れる
    ×
夜る
燈を消して床に這入つて眼をつぶると
ちよつとの間その顏が少し大きくなつて私の顏のそばに來てゐます

≪改頁≫

以上は、「≪改頁≫」が「ページをめくる改頁」を、「(改頁)」が「見開きページでの改頁」を示す。原本を僕は一ページを原則ほぼ11行と推測し(ポイントが大きい表題を含む場合や印刷の左右のずれによって微妙に異なるため、適宜増減してはある)、その空行文を空けてある。字の配置は目視出来る状態での位置配置を僕が満足出来る範囲で再現してある。それは当然、厳密を要求する僕以上に緻密な人間にとっては杜撰である。が。しかし、現在、我々が目にし得る『色ガラスの街』のテクストとしては、バァーチャル・ウェブ版と称して遜色ないない程度のレベルまでは高めたものをという覚悟と自負はある。

ちなみにこのテクストは全集ではどうなっているかを見よう。

      顔が

私は机の上で顔に出逢ひます

顔は
いつも眠むさうな喰べすぎを思はせる
太つた顔です

――で

それに就いて ゆつたり煙草をのむにはよい そして
ほのぼのと夕陽の多い日などは暮れる

      ×

夜る
燈を消して床に這入つて眼をつぶると
ちよつとの間その顔が少し大きくなつて私の顔のそばに来てゐます

因みに、これが尾形亀之助を人口に膾炙させた思潮社版現代詩文庫「尾形亀之助詩集」(1975年初版)のニ段組では、更に、以下のように美事に崩れてゆくのである(但し、ダッシュの後の有意な空白だけは初出に忠実である)。

顔が

私は机の上で顔に出逢ひます
顔は
いつも眠むさうな喰べすぎを思はせる
太つた顔です

―― で

それに就いて ゆつたり煙草をのむにはよい そして
ほのぼのと夕陽の多い日などは暮れる

×
 ママ
夜る
燈を消して床に這入つて眼をつぶると
ちよつとの間その顔が少し大きくなつて私の顔のそばに
 来てゐます

では。戻って、僕の作業ファイルの改行指示を外してみよう。

〔※注:――因みに失望されては困る。これはバァーチャル・ウェブ版尾形亀之助詩集『色ガラスの街』の「作業ファイル」である。これを元にバァーチャル・ウェブにするのである。「(改頁)」や「≪改頁≫」等と言う無粋な字や「[やぶちゃん注:]」等と言うお下劣なものは附ける気は更々ない。僕が目指すのは美しい尾形亀之助の詩集の僕なりのバァーチャルな復元であって、校訂なんかじゃあない。〕

    顏     が

私は机の上で顏に出逢ひます

顏は
いつも眠むさうな喰べすぎを思はせる
太つた顏です

―― で

それに就いて ゆつたり煙草をのむにはよい そして
ほのぼのと夕陽の多い日などは暮れる
    ×
夜る
燈を消して床に這入つて眼をつぶると
ちよつとの間その顏が少し大きくなつて私の顏のそばに來てゐます

 

 

 

これを――全く変わらないじゃないか――という御仁は、失礼ながら心からしみじみと活字で詩を読む楽しみを知らぬ人である――

私たちは詩を「テクスト」として読んでいるのではない。「詩」として読むのである。尾形は、そうした詩を読者へ、真心を込めてこの『色ガラスの街』を創ったのだ。最下劣な「ママ」表記なんぞを挟んだニ段組テクスト等、尾形亀之助の詩では、毛頭、ない。全集の前の読んでしまった「二人の詩」の視覚的五月蠅さや(思潮社版では57ページ内に「二人の詩」本文がある)、途中で截ち切れて改ページし(思潮社版では「太つた顏です」が57ページの最終行で、次行の空行は58ページに示されているものの改ページで視覚上の「空行としての影響力」を極度に減衰されてしまっている)、そこには同じページ内に「或る話」の表題が飛び込んでしまう――見開きで読む詩集『色ガラスの街』の「顏が」の方が遙かに「顔が」という詩となるのである。

〔※注:実は昨日から始めたこの作業で最も判断を悩むのが「(改頁)」部分の空行である。最初に述べたように1ページ総行数が微妙にブレる上に、活版の印刷位置が左右に極端にずれているページが存在するために、判断が難しい。連として繋がっているのか、1行空きか、2行空きかである(尾形の場合、1行空きと2行空きが混在する詩は珍しくない。そうして当然、1行と2行には尾形の込めた呼吸の違いが、厳然としてある。勿論、従来の「校訂された」テクストを見れば分かるのだが(しかし昨日来の驚天動地新発見によって僕の中のそれらへの信頼感は落ちかけているのである)、今回は見た目と読んだ感触、そうした生の自分の感覚を大事にしたいと考えている。〕

尾形はもともと絵描きなのだ――いや、画家は詩人でなければならぬ――そこを忘れて『色ガラスの街』は読めない――そこに気づけば、初版の『色ガラスの街』で読むことが、正しく尾形の『色ガラスの街』を読んだことになる――という意味が分かるはずである――

最後に底本の話をしておこう。

勿論、僕がかの二十数万円で取引される幻の稀覯詩集『色ガラスの街』の原本を持っている、訳がない。僕が持っているのは昭和45(1970)年に名著刊行会によって復刻された「稀覯詩集復刻双書」の一冊、20年前に古本屋で叩き売りされていた傷ナシ新本である。――これは20数年も昔、当時の恋人が、僕にプレゼントしてくれたものだった……

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