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2009/11/11

耳嚢 大岡越前守金言の事

「耳嚢」に「大岡越前守金言の事」を収載した。

 大岡越前守金言の事

 越前守忠相は享保の頃出身して御旗本より大名となり、政庁の其一人也。大岡出雲守は、惇信院樣の御小姓を相勤思召に叶ひ、段々昇進して御側に至り、後は二萬石に迄御加増有りて、御側御用人を勤、岩槻の城主也。未(いまだ)御側の頃、同姓のよしみある故、越前守も折節雲州の館へも來り給ひしが、雲州或時越州に對し、御身は當時世上にて天下の大才と稱し御用も一方ならず、我も小身より御取立に預り御政事にも携り候儀、願はくば心得にも可成事は不惜教誡し給へと念頃に尋ければ、越州答て、某(それがし)不才にして何か存寄候事も無之、御身は年若にて當時、將軍家の思召に叶ひ、智惠といひ無殘所(のこるところなき)御事、何か教諭の筋あらん、しかし老分(らうぶん)の某なれば、聊御身の心得にならん事不申もいかゞなれ、一事申談じ畢(おはんぬ)。都(すべ)て人に對し候ても世に對し候ても、萬端を合せ候ての御取計可然候、しかし實を以(もちて)合せ給ふ事肝要の心得也と宣(のたま)ひしを、雲州も深く信伏ありしを、雲州側向(そばむき)を勤し大貫東馬といへるもの、後次右衞門とて柳營(りうえい)に勤仕し豫が支配也しが、まのあたり次にて承りしとかたりぬ。

□やぶちゃん注

・「大岡越前守」大岡忠相(おおおかただすけ 延宝5(1677)年~宝暦元(1752)年)西大平藩初代藩主。八代将軍徳川吉宗の享保の改革期に、町奉行として江戸の市中行政に辣腕を揮い、評定所一座(幕政の重要事項・大名旗本の訴訟・複数の奉行管轄に関わる事件の裁判を行なった当時の最高裁判機関)にも加わった。最後は寺社奉行兼奏者番(そうじゃばん:城中での武家礼式を管理する職)に至る。「大岡政談」等で知られる名奉行であるが、ウィキの「大岡忠相の事蹟によれば、『市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化』した。厚生事業や農事関連として、『享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言して』もいる。また、現在、書籍の最終ページには奥付が必ず記載されているが、『これは出版された書籍の素性を明らかにさせる目的で1721(享保6)に大岡越前が強制的に奥付を付けさせることを義務化させたことにより一般化した』ものであるという。面白い。因みに、本「耳嚢」の作者根岸鎮衛は、この大岡忠相と並ぶ名町奉行として有名であった。

・「金言」処世の手本とすべきすぐれた言葉。金句。「ごんく」とも読む。

・「享保の頃出身して御旗本より大名となり」ウィキの「大岡忠相」の事蹟によれば、『将軍綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)27歳で書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長』、『徳川家宣時代、正徳2年(1712年)正月に37歳で遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任』し、『同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下能登守』、その後の『将軍家継時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮』した。『同年8月には吉宗が将軍に就任』、『翌享保2年(1717年)江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改め』た。『元文元年(1736年)8月、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。寺社奉行時代には2000石を加増され5920石となり、足高分を加え1万石の大名格となる。寺社奉行は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例であるが、旗本である忠相の場合は奏者番を兼帯しなかったため、兼帯している同役達から虐げられたという。そこで将軍吉宗は寺社奉行の詰め所を与えるなどの』格段の配慮もしたという。しかし目出度く『寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任し、同年には三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名となる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである。寛延4年(1751年)6月、大御所吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。この頃には忠相自身も体調が優れず、『忠相日記』の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となり、同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、12月(現在の暦では翌年2月)に死去、享年75』歳であった。

・「大岡出雲守」大岡忠光(宝永6(1709)年~宝暦101760)年)九代将軍徳川家重の若年寄や側用人として活躍した。上総勝浦藩主及び武蔵岩槻藩初代藩主。三百石の旗本大岡忠利の長男。大岡忠相とは縁戚であり(後注「同姓のよしみ」参照)、ここに記すように忠相の晩年には親交もあった(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。

・「惇信院樣」 九代将軍徳川家重(正徳元(1712) 年~宝暦111761)年)の諡号(おくりな)。将軍就任は延享2(1745)年。

・「御小姓」「扈従」を語源とし、中世以降、武将の身辺に仕えて、諸々の雑用をこなす役職。江戸幕府にあっては若年寄支配下で、将軍の身辺雑用を務めた。

・「思召に叶ひ」大岡忠光は、享保7(1722)年八代将軍吉宗に謁見、享保9(1724)年15歳の時、御世継であった当時12歳の吉宗の長男家重の小姓となった。幼い頃から家重に近侍してきた彼は、極端に発音不明瞭(脳性麻痺が疑われる)であった家重の言葉を唯一人理解出来る人物として、異例の出世を果たした(以上は主にウィキの「大岡忠光」を参照した)。

・「御側」後の「御側御用人」と同じ(ここの部分、ややくどい感じがする。衍字かもしれない)。側用人のこと。将軍の側近くに仕え、将軍の命令を老中に伝達、また老中からの上申などを将軍に取り次ぎ、更には将軍に意見を具申することも可能な重職。定員一名。待遇は老中に準じたが、権勢は老中を遙かに凌ぐ。

・「後は二萬石に迄御加増有りて、御側御用人を勤、岩槻の城主也」大岡忠光は家重の将軍就任(延享2(1745)年)の6年後の宝暦元(1751)年、上総国勝浦藩一万石の大名に取り立てられ、宝暦4(1758)年には五千石加増で若年寄、宝暦6(1760)年にも五千石加増、合わせて二万石を得て武蔵国岩槻藩主及び側用人に任ぜられた(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。

・「岩槻」武蔵国岩槻。現在の埼玉県さいたま市岩槻区。

・「未御側の頃」とあるので、本話柄は1745年以降1750年以前ということになる(前注参照)。大岡忠相は6873歳、大岡忠光は3641歳である。

・「同姓のよしみ」二人の家系は、江戸初期の旗本で相模国高座郡下大曲村の地頭であった大岡忠世(おおおかただよ)をルーツとする遠縁である。

・「教誡」 善を教え、悪を誡めること。教え諭すこと。

・「大貫東馬」岩波版長谷川氏注によれば、大貫光政(享保151730)年~天明2(1781)年)『次右衞門。安永二年(1773)御先手与力。勘定吟味方改役。百俵。天明元年(1781)関東川々普請御用で賞され』たとある。仕えた大岡忠光より21歳年下である。根岸より8歳年上になるが、底本の鈴木氏の注によれば、大貫は安永8(1779)年勘定吟味方改役に就任しているが、根岸は既に安永5(1776)年に『勘定吟味役になっていたから、大貫は下役である』と記す。

・「柳營」将軍の軍営。幕府。又は将軍、将軍家。「漢書」周勃伝に載る、匈奴征伐のために細柳という地に幕営した漢の将軍周亜夫(しゅうあふ)が、軍規を徹底させて厳重な戦闘態勢をとって文帝から称賛された故事による。

■やぶちゃん現代語訳

 大岡越前守忠相の金言の事

 大岡越前守忠相は、享保の頃、順調に出世昇進して御旗本から大名になった、文字通り、政務を司る官庁の一翼を担った人である。

 また、大岡出雲守忠光は、惇信院家重様の御小姓を相勤め、その折り、家重様のお心に叶い、次第次第に昇進して御側にまで上り詰めた。最晩年には二万石まで御加増を受け、御側御用人を勤めた、武蔵国岩槻藩の城主である。

 この話は、出雲守忠光が、まだ御側の御用人に就いていた頃のことである。

 同姓同族の好(よし)みもあって、越前守忠相も、時折り、出雲守忠光の屋敷に来駕なされることがあった。そんなある日のこと、出雲守が越前守に対し、

「御身は当時の世上で『天下の大才』と称せられ、上様の御重用も一方ならずで御座った。拙者も御小姓から御取立て戴き、今は幾分、御政事(まつりごと)にも関わらせて頂いて御座るが、どうか、拙者の心得と致すべきことなど御座いますれば、惜しまれることなく、御教授下さいませ。」

と懇請した。すると越前守は、

「某(それがし)は不才にして、人に教うべきことなんど、これといって何も御座らぬ身にて……またかえりて御身はと言えば、若年ながら将軍家のお心に叶い、その智慧と言い、至らぬところなき程の身……何ぞ教え諭すべきことなんど、御座いましょうや……されど、年だけは経た老いの我が身なれば、多少なりと御身の心得になろうかということ、申し上げぬというも如何とは存ずればこそ、一言、申し上げようと存ずる。

……総て人に対せんとされる折りにも、広く世間と対せんとされる折りにも、万事繰り合わせて、平常心(びょうじうしん)にてのお取り計らいを然るべくなされるがよかろうかと存ずる……なれど、それ以上に、誠心を以って、何事にも当ることこそが最も肝要の心得と存ずる。」

と仰せになられた。出雲守も、この短くも奥深い一言に、深く感服されたということである。

 この話は、かつて出雲守の御側向きを勤めた大貫東馬という者――彼は後には次右衛門と名乗り、幕府に勤仕(ごんし)した私の部下である――が、その時、直に、次の間に控えて御座った折りに承ったこと――と私に語ったものである。

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