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2009/12/04

耳嚢 弓術故實の事

「耳嚢」に「弓術故實の事」を収載した。

 弓術故實の事

 

 近き頃紀伊國公、神代のサカツラの箙(えびら)を弓町の職人へ被仰付しに、弓町にても右サカツラの箙の事知る者なく、江戸表名にあふ弓の師範へも承り合けるが、知る人なし。或人右サカツラは、有德院樣の御代御好(おこのみ)にて被仰付候箙の事なるべし、右箙は猿の毛を逆さに植し事也といへる故、何れ其事ならんと右の趣に相調へ紀州公へ相納ければ、公御覧遊して大きに笑わせ給ひ、右、有德院樣御物好(ものずき)にて被仰付、神代の箙の名を御かり被成、さかつらと銘遊されしと聞及ぬ。かゝる品にはなしとて御返しに相成ければ、又々所々詮議して弓術師範いたしける吉田彌五右衞門方へ承合けるに、彌五右衞門大に笑ひ、さかつらといへるはかつらにて措へたる箙也。則神代は今の如く形影を餝(かざ)りたるにはなく、かつらの若きをたわめて箙に拵へし也。早桂と書てさかつらと讀事と教へける故、その通にいたし納ければ、紀州公これは誰に習ひけるやと右弓師に御尋故、ありの儘に申上たれば、吉田の名字なのり侯程ありて古實者也と御意のありしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項との連関は認められないが、6つ前の「儉約を守る歌の事」が「當紀州公」を、続く5つ前の「紀州治貞公賢德の事」も同一人、紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞を主人公とする流れと連関する。

・「紀伊國公」紀伊和歌山藩第9代藩主徳川治貞(享保131728)年~寛政元(1789)年)のこと。前掲「儉約を守る歌の事」注参照。

・「サカツラの箙」「箙」は矢を入れて背負うための道具。大槻文彦編『大言海』には以下のような記載がある(駒澤大学総合教育研究部日本文化部門「情報言語学研究室」HP内の「ことばの溜め池」2002年10月29日の条より孫引き。但し、一部の漢字を正字に直し、記号の一部を全角化、また、返り点と思われる縦罫を排除した)。

さか-つら()【逆頰】〔つらとは、頰(ほほ)の古言なり〕(一)頬鬚(ほほひげ)の、逆立ちたるものなるべし。もみあげの條、參見すべし。霊異記(平安末期)下、第九縁「有人、鬚生逆頬、下着緋、上着鉀(ヨロヒ)」奥羽永慶軍記、廿九、大森合戰事「逆頬の赤きに、一尺許りの白髭をうゑて」(二)次條を見よ。〔0779-1

さかつら-えびら(名)【逆頰箙】〔前條を見よ〕箙の一種。熊、又は、猪の毛皮にて包みたるもの、其毛並(けなみ)を、逆(さか)に、上へ向はしむ、熊、猪は、猛く強き獸なる故曰に、軍陣に用ゐる、式正の物として、大將の用とす。(貞丈雑記、十一)略して、さかつら。 庭訓徃來(元弘)六月「逆頬箙、胡籬、石打征矢」義經記、五、忠信吉野山合戰事「丈(たけ)、六尺許なる法師、云云、さかつらえびら、矢ノ配(くばり)、尋常なるに、云云」易林節用集(慶長)上、器財「逆頰箙(サカツラエビラ)」後照院殿装束抄(群書類從)「執柄家、自小隨身用逆顏(サカツラ)、云云、殿上人の間は、葛、公卿以後、逆顔也」記七十一番職人盡歌合(文安)五十四番、箙細工「閨の内に、枕傾け、眺むれば、さかつらにこそ、月も見えけれ」〔0779-1

また、小学館のデジタル「大辞泉」では、

箙の一種。方立(ほうだて)の表面をイノシシの毛皮で包んだもの。1枚の皮で包むために毛並みが背面は下に、他の三面は逆に上に向くところからいう。主将以下は軍陣に用い、公卿の随身も用いた。 

とする。これら記載によれば、最初の仕様の方が正しい「サカツラの箙」に極めて近いと言えよう。岩波版の長谷川氏の注でも『後文の早桂はかえって誤解』とある。なお、北海道大学附属図書館北方資料高精細画像電子展示の中に嘉永元(1848)年の写本として 「早桂箙古事(サカツラ  エビラ コジ)」という書があり、その書誌情報には「馬術の秘伝書中より箙に関する記事を抜写」したものの旨、記載があるのだが、この画像を見ると、何とその冒頭に示されている「弓術故實之事」は、この「耳嚢」の記事とほぼ同文である。この22/35ページでは猪皮・熊皮等で包んだ逆頬箙の絵も見ることが出来る。本来ならば、この冊子全体を翻刻すればよいのだが、そのパワーは今の私にはない。リンク先で各自お読み頂きたい(実は大槻の引用する伊勢流武家故実家の伊勢貞丈「貞丈雑記」も所持しているが、引用箇所の確認さえしていない。安易な引用で済まないが、その程度には今の私は疲弊しているということを告白しておく)。

・「弓町」岩波版長谷川氏の注によれば、現在の中央区銀座二丁目辺りの旧称で、弓師が多く店を開いていた。

・「笑わせ」ママ。

・「吉田彌五右衞門」不詳。「吉田の名字なのり」の注参照。

・「桂」双子葉植物綱マンサク目カツラ科の落葉高木カツラCercidiphyllum japonicum

・「吉田の名字なのり」弓道の一派である日置(へき)吉田流の名を名乗って、の意。日置流とは、古流の逸見流を学んだ日置弾正政次(へきだんじょうまさつぐ 正次とも)が確立したとされる和弓の流派の一つ。以下、主にウィキの「日置流」を参照にすると、『日置弾正正次は室町時代(15世紀後半)の人といわれているが諸説あり、神仏の化身と称されたり、日置吉田流初代・吉田上野介重賢と同一人物であるとされたりするが、架空の人物との説が有力である』とされ、日置弾正の高弟の一人とされる、実在した吉田重賢(しげかた 寛正4(1463)年~天文121543)年)が実際の流祖と考えてよいように思われる。重賢は近江国蒲生郡河森(現・滋賀県蒲生郡竜王町川守)の出身で、古く宇多源氏(近江源氏)をルーツとしている。日置吉田流では、以後、継承者は吉田姓を名乗ることが多かったために吉田流ともいうが、現在では一部を除いて日置流と呼ぶ場合が多い、とのことである。継承者系図を見ると本話当時は既に、日置流自体が多くの分派分流を生じており、ここに現れた「吉田彌五右衞門」なる人物を特定することは出来なかった。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 弓術に纏わる故実の事

 

 最近のことである。紀伊和歌山藩藩主徳川治貞公が、神代の御代に用いられたという「サカツラの箙」を弓町の職人に誂えるよう仰せられたところが、かの弓町にても、この「サカツラの箙」なる物について知っておる者がなく、その弓師、江戸表の名にし負う弓の御師範の方々へも照会致いてみたけれども、これについて知る者は一向におらなんだ。そんな中、ある人が、

「このサカツラなる箙は、有徳院吉宗公の御治世、上様直々のお好みということで仰せつけられましたる箙の事にて御座ろうかと思わるる――何でも、この箙は、猿の毛を、普通の箙のように下方に向かって植えるのでは御座なく、箙の口、上に向かって逆さに植えたものにて――それが一見、猿の頰のように外へ膨らんだごと見ゆる――もので御座った、と聞き及んだことが御座る。」

と申したことから、かの弓師、

「如何にも! そのことならん!」

と、その通りの仕様にて相誂え、紀州公へお納め申し上げたところが、公は御覧遊ばされて大いにお笑いになられ、

「わっはっは!……『さかつらの箙』と申すは、かくなる尚武の物をお好みになられた有徳院様が仰せつけられた品で、神代のありがたい箙につけられておったという名をお借りになられて、『さかつら』とは御銘をお付け遊ばされたと聞き及んではおる……が……このような下卑た奇体なる品では、ない。」

と言って、弓師にお返しになられた。

 困り果てた弓師は、またしてもいろいろと調査照会に飛び回ったので御座ったが、先に訪ね漏らしておった、やはり弓術師範を致しおる吉田彌五右衞門という方の元へ、藁にも縋る思いで伺い、有り体に訊ね申したところが、彌五右衞門殿は大いに笑い、

「わっはっは!……『さかつらの箙』と申すは、桂の木で拵えた箙のこと。則ち神代の御代にあっては、当世の如く見栄えを慮って下らぬ飾りを成すようなことは致さず、桂の若木を撓(たわ)めて拵えたもので御座った――『早桂』と書いて『さかつら』と読むので御座る。」

と教えて呉れたによって、その通りに誂えて納めたところが、紀州公は、

「……これは!……一体、誰に、この技法を習ったのじゃ?」

と件の弓師にお訊ねになられた。職人がありのまま申し上げたところが、

「ふむ! 成程な……吉田という苗字を名乗っておるだけあって……弓の有職故実に通じておるわけじゃ!」

と、殊の外、お褒めの言葉を賜った、ということである。

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