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2009/12/16

耳嚢 松平康福公狂歌の事

 松平康福公狂歌の事

 天明元年の頃、老中一﨟たりし松平右京太夫輝高卒去の後は、康福(やすよし)公一﨟たり。松平左近將監(しやうげん)堀田相模守松平右近將監松平右京太夫迄、何れも一﨟にて御入用方を勤られしに、京兆卒去の後、御入用方の事水野出羽守被仰付侯故、康福公の家士抔は本意なくも思ひなんと巷説ありしが、事を好む者の作説や、又は防州公は元來博學にて見量有人故實に自詠なるや、人の語りけるは、康福公、御名代として朝疾く上野へ御越(こし)の途中、東叡山へ町家より豆腐を入れ候者、おかもちへ豆腐を入、片荷に持ものなかりけん、石を天秤棒にかけ一荷にして通りしを康福公輿中(よちう)より見給ひて、あれは何也と尋給ひしに、駕脇の者しか/\の由答へければ、歸館後近臣に其譯咄し給ひ、おもしろき事故狂歌せしと被申ける由。

  世を荷ふ心は慶(やす)しあめが下豆腐に石も時の釣り合

□やぶちゃん注

○前項連関:天明元(1781)年の出来事で連関。

・「松平康福」(享保4(1719)年~寛政元(1789)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。記載通り、天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となっている。以下、参照したウィキの「松平康福」によれば、『これまで勝手掛(財政担当)は老中首座が兼務する不文律があったが、田沼意次の強い意向で勝手掛は同列の水野忠友にまわされる。その埋め合わせとして天明5年(1785年)、1万石加増』されたと、本記事絡みのことが記載されている。尤も『娘を意次の子田沼意知に姻がせている』という事実もある。また、『天明6年(1786年)の田沼意次失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明8年(1788年)4月3日に免職され』たとも記す。

・「一﨟」首座。筆頭。

・「松平右京太夫輝高」(享保101725)年~天明元(1781)年)は上野国高崎藩藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任、宝暦8(1758)年に老中。官位は周防守、佐渡守、因幡守、右京亮、最終官位は従四位下の侍従で右京大夫。安永8(1779)年、老中首座松平武元死去に伴い老中首座及び慣例であった勝手掛も兼ねた。参照にしたウィキの「松平輝高」によれば、『天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる』と、やはり本件の内容が最後に記される。

・「松平左近將監」松平乗邑(のりさと 貞享3(1686)年~延享3(1746)年)は肥前唐津藩第3代藩藩主・志摩鳥羽藩藩主・伊勢亀山藩藩主・山城淀藩藩主・下総佐倉藩初代藩主。老中。享保8(1723)年に老中となり、以後、『足掛け20年余りにわたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、幕府成立依頼の諸法令の集成である御触書集成、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行った』。ここで問題となっている財政をあずかる勝手掛老中水野忠之が享保151730)年に辞した後、『老中首座となり、後期の享保の改革をリードし、元文2年(1737年)には勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れ』た。『将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が9代将軍となったため、家重から疎んじられるようになり、延享2年(1745年)、家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され、加増1万石を没収され隠居を命じられる。次男の乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた』(以上はウィキの「松平乗邑」を参照した)。「酒井忠恭」は「ただずみ」と読む。ここで老中首座酒井忠恭がここで挙がっていないのは、3年程と就任期間が短かったことや、寛延の百姓一揆に関わって罷免されているせいかも知れない。

・「堀田相模守」堀田正亮(ほったまさすけ 正徳2(1712)年~宝暦11年(1761)年)は出羽国山形藩3代藩藩主・下総国佐倉藩初代藩主。寺社奉行・大坂城代を経て老中。先に記した酒井忠恭の罷免を受けて寛延2(1749)年に老中首座となった。在職中に死去した(以上はウィキの「堀田正亮」を参照した)。

・「松平右近將監」松平武元(たけちか 正徳3(1714)年~安永8(1779)年)は上野国館林藩第3代藩主・陸奥国棚倉藩藩主・上野国館林藩初代藩主(再封による)。奏者番・寺社奉行・老中。宝暦111761)に先の老中首座堀田正亮の在職死去を受けて老中首座となった。参照したウィキの「松平武元」によれば、『明和元年(1764年)老中首座。徳川吉宗、徳川家重、徳川家治の三代に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた』とある。因みに、次の老中首座が松平輝高となるのである。

・「松平右京太夫」松平輝高。右京太夫は彼の最終官位。

・「御入用方」勝手掛老中=老中首座のこと。延宝8(1680)年に置かれた(とあるが人物を特定し得なかった)もので、幕府の経理財政全般を担当、記事に言う「老中一﨟」老中筆頭である。

・「京兆」京兆尹(けいちょういん)のこと。左京大夫・右京大夫の唐名。ここでは勿論、松平右京太夫松平輝高のこと。

・「水野出羽守」水野忠友(享保161731)年~享和2(1802)年)三河国大浜藩藩主・駿河国沼津藩初代藩主。幕閣にあっては田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄・側用人から、まさにこの天明元(1781)年9月18日に老中格に異動し、同年10月1日に勝手掛となっている。更に天明5(1785)年には正式な老中に就任している。しかし『天明6年(1786年)、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の子息を廃嫡とし、かわりに分家旗本の水野忠成(大和守)を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、松平定信の指令で免職の憂き目にあ』った。それでも『10年後の寛政9年(1797年)に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)919日に死去した』(以上は、ウィキの「水野忠友」を参照した)。

・「防州公」松平康福のこと。彼は11歳の元文元(1736)年に従五位下周防守となっている。

・「東叡山」天台宗関東総本山東叡山寛永寺。徳川家光開基、開山は徳川家康のブレーン南光坊天海。徳川将軍家の祈祷所にして菩提寺で、歴代将軍15人の内、6人が眠っている。

・「おかもち」「お」はママ(正しくは「をかもち」)。岡持。平たい浅い桶に、持ち手と蓋の付いている入れ物。料理を入れて持ち運ぶのに用いる。

・「世を荷ふ心は慶しあめが下豆腐に石も時の釣り合」「豆腐に石」は、老中筆頭である自分から当然与えられるべき国の財政を掌握する勝手掛が奪われ、側用人に毛が生えたに過ぎない老中格の水野出羽守忠友が勝手掛を仰せ付けられるという、職掌上の著しい不均衡を揶揄している。

やぶちゃん通釈:

 世を背負ってその政務を執り行うのだという今の私の心持ちに――いやもう不安も不満も全く以って御座らぬ――誠(まっこと)平穏にして平らか――天下に――片や豆腐――片や石とても――それで時の釣り合いが平らかにとれておる――というので御座ったれば――のう――

■やぶちゃん現代語訳

松平康福公の狂歌の事

 天明元年の頃、老中の一﨟で御座った松平右京大夫輝高殿卒去の後は、松平康福(やすよし)公が一﨟となられた。松平左近将監乗邑(のりさと)殿、堀田相模守正亮(まさすけ)殿、松平右近将監武元(たけちか)殿、そして松平右京太夫輝高殿に至るまで、何れの御方々も、一貫して、老中一﨟と財政財務を一手に掌る御入用方を兼務なされてこられた。ところが、京兆輝高殿卒去の後、御入用方につきては、側用人上がりの老中格に過ぎぬ水野出羽守忠友殿が仰せつかった。――康福公の御家来衆などは、さぞかし本意(ほい)なきこととお腹立いのことであろう、なんどと巷では専らの噂で御座った。――

 ――さても、これから語ることは――好事家の作り話であるか、はたまた――周防守康福公というお方は、元来が博学にして見識ある御方でも御座ったれば、誠、御自詠なされたものでもあったか――ともかくも――ある人の語ったこと――。

 ――かような仕儀となった後のある日、老中一﨟たる康福公が、将軍家御名代として朝早く上野東叡山寛永寺へ故将軍家御廟御参拝のため、お越しになる途中のことで御座った。

 たまたま同じ東叡山へ向けて、町屋からお寺へ豆腐をお納めに参る者が通り掛かった。

 その出前持ちは、岡持に豆腐を入れ――その片方に担う荷がこれといってなかったせいで御座ろう――大きなごろた石を天秤棒の片方に縄で釣るして天秤両荷にし、お輿の傍を目立たぬように通って行った。

 それを康福公が御輿の中からご覧になられ、

「……あれは、一体、何を……どうして、おるのじゃ?……」

とお尋ねになられた。御輿の脇に控えておった御家来が、豆腐の出前持ちが石を以って天秤棒の釣り合いと致いておる次第にて御座いまする、とお答え致いたところが、その日、お邸へご帰還の後、近臣らにこの話をなされ上、

「如何にも面白きこと故、狂歌に致いた。」

と仰せられた、とのこと――

  世を荷ふ心は慶(やす)しあめが下豆腐に石も時の釣り合

「耳嚢」に「松平康福公狂歌の事」を収載した。

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