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2010/01/31

たまちゃん好きだな

穂波たまえ。

1965年6月18日生。

残念ながらもう国際結婚をしてしまっているそうだが――でも、好き!

しかし……僕はあの中では……藤木茂に一番似ているな……誠(まっこと)、淋しい限り――

耳嚢 巻之二 小兒に異物ある事

「耳嚢 巻之二」に「小兒に異物ある事」を収載した。

早朝にアップしたが、ニフティの不具合でブログ管理ページにアクセス出来なかったため、こちらのアップが遅れた。

――これも個人的に

「だ~い好きな話だよ!」

オチが、良いんだな、これが――

 小兒に異物ある事

 予が許へ常に來れる大木金助といへる者有しが、繪抔書て醫業を官務の間になして、予が家の小兒など不快の折からは其業(わざ)をも賴けるが、或日來りて語りけるは、世には不思議の生質(せいしつ)も有もの哉、去年堺町歌舞妓芝居へ行しに、右茶屋の倅(せがれ)十三才に成ぬるが、何卒繪を習ひ度由を申ける故、繪本など認(みとめ)遣しけるが、右倅近き頃金助方へ來りて專ら繪を習ひ或は素讀などいたし侍る。其起(おこり)を承(うけたまはる)に、其倅直(ぢき)に芝居の向ふに住けるに、狂言抔見る事甚嫌ひにて、明暮學問抔いたしける故、其父母家業に相應せずとて不斷叱り憤りて、辨當など芝居へはこびけるをも厭ひ嫌ひて、聊場所柄の浮氣繁花(うはきはんくわ)の有樣を心に留ざれば、迚も渠(かれ)は相續いたすまじとて、金助を頼み同人方へ寄宿爲致(いたさせ)ける。金助も其親々へかけ合けれど、當人願の上は宜相頼旨故、此程まで差置侍る由。歌舞妓茶屋ながら人も相應に召仕ひける者の倅、金助方へ來りては茶を運び、或は朝夕の給仕等をなしていくばくか苦しき事ならんと、物好成者もある也といひし。或日右の親共來りて、右倅の儀は迚も相續いたし役に立べき者にあらず、かゝる不了簡の者は侍にでも致さずば相成間敷(あひなるまじき)と申けると、大笑ひしける也。

□やぶちゃん注

○前項連関:小蛇の異物が龍となり、小児の異物が大器とならんか。いやいや、これは夫婦して蛇飼う親、夫婦して学問好きの子を貶す親とは、今流行りのモンスター・ペアレンツで、ズバリ、連関じゃ!

・「大木金助」底本の鈴木氏注によれば、大木真則(まさのり)なる人物で、西丸台所番(西丸は引退した将軍或いは御世継の居所)であった大木真親の子とする。宝暦7(1759)年に親から『遺跡を継ぎ、二丸・本丸の火番などを経て、寛政五年台所頭の見習。時に五十八歳。九年賄頭、兼表御台所頭』とある。寛政五年は西暦1793年であるから、この記事記載(「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで)よりも少し後で、この話柄は二丸・本丸火番であった頃の話であろう。

・「堺町歌舞妓芝居」現在の日本橋人形町3丁目にあった歌舞伎劇場、江戸三座の一つであった中村座のこと。ウィキの「中村座」によれば、『1624年(寛永元年)、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりである。当初猿若座と称し、その後、中村座と改称された。1632年(寛永9年)、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、1651年(慶安4年)には堺町(現・日本橋人形町3丁目)へ移転した』とある。更に後、『1841年(天保12年)12月、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名され』、『884年(明治17年)11月、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転し、猿若座と改称されたが、1893年(明治26年)1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった』とある。

・「浮氣繁花」歌舞伎界(梨園)及びそれに付属する茶屋遊興の場、当然、そこに更に関わる花柳界の浮ついた、華やかな、婀娜にして徒なる世界を総体的に言う語であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 子供にも変わり者がおる事

 私の元によく訪ねて来る大木金助という者が御座る。絵など描くことを趣味と致し、また、公務の合間には、医術を学んで患者の診断や治療なども致し、私の家の子供なども体調を崩した折りなんどには診て貰(もろ)うたりしたもので御座ったが、その金助が、ある日、訪ねて来た折り、語った話である――。

「……世の中には、これまた、不思議な性質(たち)を持った者が御座るもので……去年のこと、堺町の中村座へ歌舞伎芝居を見に参りました折り、中村座向かいの茶屋の、十三歳に相なる小倅(こせがれ)が、何卒、絵を習いたき由申します故、何冊か絵の手本などを渡したことが御座ったが……実は、最近、この小倅……拙者の家に寄宿致し、絵を習い或いは漢文の素読なんどを致いて御座る。……」

とのこと――。私が、これまた、芝居茶屋の子倅が、何故にかく一念発起致いたのか、と訊ねた――

……いや、その子、芝居小屋の真向かいの茶屋に生れたにも拘わらず、……歌舞伎狂言なんどは、見るも忌まわしく、甚だ以って大嫌い、……ひがな一日、書を開き、学問なんどを致いて御座る故、その父母、甚だ以って家業に相応しからずと、日頃から、しっきりなしに意見致し、叱っては憤って御座った……。

……何でも、芝居ばかりか、客に売る弁当なんどを芝居小屋へ運ぶことすら嫌い、梨園・御茶屋の、あの浮かれ陽気に包まれた、豪華絢爛愛憎絵巻の世界には、聊かも心留める気配もなければ、……両親、口を揃えて、

「――とてものこと! こ奴は我が家業を相続致さずと存知まして――」

と、……拙者のところに頼みに御座って、かく、拙宅に寄宿致させて御座る次第……。

……勿論、拙者もこの両親にはあれこれと意見致し、まずは様子見の上と、掛け合(お)うてはみましたれども、……

「――いえ! もう、当人が強く望んでおりますること故――どうか一つ! そこのところ、よろしぅお願い申し上げ奉りまする――」

と、……いや、もう、けんもほろろにて……仕方のう、今に至る迄、拙者の書生の見習いのように致いて、さし置いて御座る……。

……一口に芝居小屋とは申しましてもな、沢山の下男下女をも相応に召し使うて御座る者の倅にて……拙者の茅屋(ぼうおく)に参って、しぶ茶を運び、毎日の食事・洗濯・掃除・留守番なんど……どれほど苦しかろうに、と察するのでは御座るが……それがまた、本人、至って平気の平左、学ぶことに嬉々として御座る……いや! もう……この世には想像も出来ぬよな、物好きな者が御座ることじゃ……。

……そうそう!……先だっては、こ奴の両親、うち揃うて参って御座っての。

「――矢張り、この倅にはとても家業を相続致すこと叶わず――全く以って役立たずの者――かかる了見違いの不届き者は――最早、侍にでもするより他は、どうしようもない、と二人して相談致いて御座る程にて……」

と言いよりました……。

……と金助殿が語り終えた。

 私と二人、大笑いしたことは――言うまでもない。

2010/01/30

女人

      女  人

 健全なる理性は命令してゐる。――「爾、女人を近づくる勿れ。」

 しかし健全なる本能は全然反對に命令してゐる。――「爾、女人を避くる勿れ。」

       又

 女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸惡の根源である。

*   *   *

       女

 女の美しさは日々時秒刻みで變はつてゆく。美しくない女はゐない。美しい時を持てない女がゐるだけだ。

演出

忙しいのだが、少しだけ楽しいこともある。今日もこれから部活だが、これはうきうきしている。生徒のオリジナル台本の演出をしているのだが、実は演劇は見るのより、演じることの方が遙かに楽しく、演じるのより、演出することの方が遙かに楽しいものなのである――まるで「禪氣」の如く、ちょっとした一言で、役者が二周りも、三周りも大きくなる。一見、全体に平凡なショート・コントにしか見えなかった軽いお笑い物が、みるみる人生を語り出すのだ――

耳嚢 卷之二 蛇を養ひし人の事 / 耳嚢巻之二突入セリ……

「耳嚢 卷之一」全訳注完成を受けて、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、「耳嚢 巻之二」の頁を創設、これより全10巻1000話全翻刻全訳注プロジェクト第2期を開始、冒頭第一話「蛇を養ひし人の事」を収載した。

 蛇を養ひし人の事

 江戸山王永田馬場邊の事也、或は赤坂芝ともいひて共所定かならず。御三卿(さんきやう)方を勤る人の由、苗字は不知、清左衞門と名乘る人なりし由。いか成事にか小蛇を養ひ、夫婦とも寵愛して、箱に入れ椽の下に置て食事などあたへ、天明二年迄十一ケ年養ひけるが、段々と長じて殊の外大きくなりて見るもすさまじけれど、愛する心よりは夫婦とも、朝夕の食事の節も床(ゆか)をたゝき候へば、椽の上に頭を上げけるに、其身の箸を以食事など與へける由。家僕男女も始は恐れおのゝきしが、馴るに隨ひて恐れもせず、縁遠き女子抔は右蛇に願ひ候へなど夫婦のいふに任せ、食事など與へて所念なせば、利益等ありて其願ひ叶ひし事もありし由。然るに天明二年三月大嵐のせし事有しが、其朝も例の通呼侯て食事など與へしが、椽の上へ上り何か甚苦痛せる趣故、如何致しけるやと夫婦も他事なく介抱せしに、雲起り頻に雨降出しければ、右の蛇椽頰(えんばな)に始はうなだれ居たりしが、頭を上げ空を詠(ながめ)、やがて庭上迄雲下りしと見れば、椽より庭へ一身を延すと見へしに、雨強くやがて上天をなしけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之一」末の「怪僧墨蹟の事」とは連関を感じさせない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、私の翻刻の「卷之一」の途中に現れる「羽蟻を止る呪の事」「燒尿まじないの事」[やぶちゃん字注:「尿」は「床」の誤り。「い」はママ。]「蠟燭の流れを留る事」の三本が最後であるが、この後ろから二番目の「燒床まじないの事」の中に、「大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」という呪文が示され、そこに蛇が登場してはいる。昇龍譚は第一話として相応しく、根岸の縁起担ぎが感じられる配置である。

・「山王永田馬場」「山王」は現在の千代田区永田町二丁目にある日枝神社の別名。江戸三大祭の一つ、山王祭で知られる。ウィキの「日枝神社」によれば、『明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治二年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する』とある。その門前辺りは江戸初期、永田姓の屋敷が並んでいたため、一帯が永田馬場と呼称された。現在の国会議事堂の西の一帯。

・「赤坂芝」「赤坂」は現在の港区の北端、前記日枝神社の更に西の一帯を指し、「芝」は同港区東北部分から南の東京湾岸にかけての一帯を言う。

・「御三卿」徳川将軍家一族の内、江戸中期に分立した田安・一橋・清水の三家。田安家は八代将軍吉宗次男で宗武、一橋家は同吉宗四男宗尹(むねただ)、清水家は九代将軍家重の次男重好を始祖とする。将軍家に後嗣がない場合、その候補者を提供することを目的として起立された。格式は徳川御三家(徳川家康九男徳川義直を始祖とする尾張徳川家・同家康十男徳川頼宣を始祖とする紀州徳川家・徳川家康十一男徳川頼房を始祖とする水戸徳川家)に次ぐ。

・「天明二年迄十一ケ年養ひける」天明2年は西暦1782年であるから、その11年前は明和8(1771)年である。一般的な飼育下のヘビの寿命は数年から20年程度とされており、この蛇が如何なる種であるかは分からないが、描写印象から相当に大きな個体と思われ、11年というのは決して不自然な数値ではないと思われる。

・「椽頰(えんばな)」は底本のルビ。「椽」は通常は垂木のことを言うが、芥川龍之介なども、「縁」の代わりに、しばしばこの「椽」を用いている。

・「詠(ながめ)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 蛇を飼う人の事

 江戸山王永田馬場辺りか、若しくは赤坂・芝辺りに住もうて御座っとも言われ、正確な住所は定かではない方で――御三卿のどちらかの御家に勤めて御座って――名字は存ぜねど――名を清左衛門と言うた御人の話の由。

 如何なる謂われが御座ったものかは知らぬが、この御仁、小さな蛇を飼って御座った。

 これがまた、夫婦ともに寵愛して、箱に入れ、縁の下に置いて餌なんどを与え、天明二年に至る迄、実に十一年もの間、飼(こ)う御座った。

 これが、だんだんと――年を経るに従い――殊の外、大きくなり、見るもすざまじい大蛇(おろち)で御座ったれど――こうなっても、依然として――夫婦の蛇を愛ずるの心、これ、より深うなって――朝夕、庭近き床(ゆか)を叩けば、縁側の上へと鎌首を擡げる――すると、夫婦でそのぺろぺろと赤き下を出だいて御座る口に夫婦箸にて餌を与える――といった塩梅にて……。

 下男下女らも、勿論、始めは恐れ戦いて御座ったが、それが日常となって慣れるに従い、何時の間にやら気にもならぬようになったということで御座る。それどころか、

「良縁に恵まれぬ娘さんがおられれば、この蛇に願掛けなされるがよい。」

なんどと夫婦に言われるまま、そうした娘子がやって来ては、手づから初穂のごと、餌なんど与えて祈念致せば、不思議にご利益めいたこともあったということで御座った。

 然るに、天明二年三月のこと、大嵐(おおあらし)が江戸を襲った日のことである。

 その日の朝も、例の通り、床を叩いて蛇を呼び、縁側で餌など与えて御座ったところが、何時になく、するすると縁側に上がり込んで参って、何やらん、如何にも苦しそうな風情。

「……如何致いた!?……」

と夫婦打ち揃うて懸命に介抱して御座った折りから、一天俄かに掻き曇り、雨、滂沱(ぼうだ)と降り注ぐ……

……すると……

……この蛇、始めは縁側にて何やら、項を垂れたようにして御座ったが――

……ふいに鎌首を擡げ、空をキッと眺めて御座ったかと思ううち――

……天空から一群れの白雲(しらくも)が音もなく庭先に降りて参る――

……と、見る見るうちに……

……蛇は、庭へ……その白雲の中へ……しゅるしゅるとその一身を延ばすかと見えた――

……と……

雨の一頻り激しくなる中……そのまま、昇天して御座った――とのことである。

耳嚢 怪僧墨蹟の事 / 卷之一 全訳注完成

「耳嚢」に最終百話目の「怪僧墨蹟の事」を収載した。コーダとしては好きな話柄である。

本話を以て「耳嚢 卷之一」全訳注を完成した。昨年の9月22日の始動であるから、訳4ヶ月、思ったよりも順調なペースでこれた。これも読んで下さってい奇特な方々の折に触れた激励あればこそである。有難う。

なお、本「耳嚢 卷之一」ページは僕のHP中、ジャズとバッハのリストを除くと、1ページでは最大の容量(2MB超過)となった。

 怪僧墨蹟の事

 小日向邊に住ける水野家租父の代とや、右筆(いうひつ)勤ける家來、或日門前に居けるに、壹人の出家通りけるが、右祐筆に向ひ、今日無據(よんどころなく)書の會に出侍る、其許(そこもと)の手をかし給はるべしといひける故、手をかし候とていか樣にいたし候事哉(や)と尋ければ、唯兩三日借候と申儀承知給はり候得(さふらへ)ば宜(よろしき)由申ける故、怪しき事とは思ながら承知の由答けるが、無程主人の用事ありて筆を取けるが、誠に一字を引候事もならざれば大に驚き、主人よりも尋ける故しかじかの事ありしと申けるが、兩三日過て彼奇僧來りて、さてさて御影にて事をとげ忝(かたじけなく)候由、何も禮可申品(しな)もなきよしにて、懷中より何か紙に認めものを出し、是は若(もし)近隣火災の節、此品を床抔に懸け置候はば火災を遁(のが)るべしといひて立去りぬ。主人へとかくの譯を告て、右認しものをば主人表具して所持いたしける。其後は右祐筆ももとの通り手跡も出來ける由。其後近隣度々火災ありしが、其度々右懸物を掛置しに水野家はのがれけるが、或時藏へ仕廻置、懸候間もなかりければ、家居は不殘燒て怪しの藏なれども殘りけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし、「卷之一」百話目のキリとして、私の大好きな話柄である。岩波カリフォルニア大学バークレー校版「卷之一」では、本ページで先行するまじないシリーズ3本「羽蟻を止る呪の事」「燒尿まじないの事」[やぶちゃん字注:「尿」は「床」の誤り。「い」はママ。]「蠟燭の流れを留る事」が綺麗に並んでコーダとなっているが、勿論、こっちの方が、圧倒的によい。

・「小日向」現在の文京区。小日向村であった茗荷谷の南方に地名として残る。台地となっており、屋敷町であった。

・「水野家租父の代」諸版注せず。日本史に登場するような著名な水野家ではないということであるらしい。江戸切絵図を見ると小日向周辺には水野姓は複数ある。

・「右筆」祐筆とも。武家の職名で、各種文書・記録の作成・書写・代筆を掌る。

■やぶちゃん現代語訳

 怪僧の墨跡の事

 小日向辺に住んで御座った水野家の祖父の代のこととか――。

 当家右筆を勤めて御座った家来が、偶々門前におったところ、一人の見知らぬ出家が通りかかり、この右筆に向かって、

「……今日、よんどころのう、書の会に出づることと相なり申した……さればこそ……どうか、そなたの手をお貸し下されい――」

と言う。右筆は突然の言葉に、

「……手を貸してくれ、とは……その……どのように、せよ……と申されるのか?……」

と聞き返したところ、僧曰く、

「――いや。ただもう、その手を三日間お借り致したく――そのこと、承知して下さるだけにて、宜しう御座る――」

と、分けの分からぬことを申す――何とも変な話じゃ、とは思うたが、冗談か、はたまたこの僧、少々呆けて御座るかも知れぬと、何やらん、面白う思うて、

「承知致いた。」

と答えると、僧は満面の笑みを浮かべて礼を述べ、如何にも満足そうに去って行ったので御座った――。

   ――――――

 同じ日、それから暫くしてのことで御座る。

 この右筆、主人に命ぜられた用が御座って、扨も筆を取ったところが――

「……!?……引けぬ!?……」

――何と、「一」の字一つだに、引くことが出来ぬ――。

 右筆は驚愕した。

 また、たまたま筆を持ったまま、何時までもそれを下ろさぬのを見て御座った御主人も、如何致いた由、お訊ねになられたので、彼は、今日、これこれの出来事が御座居まして、と申し上げたので御座った。

   ――――――

 その日から丁度、三日が過ぎた日のこと、あの奇僧が屋敷に右筆を訪ねて参った。

「……いやいや! 御身の御蔭にて、無事に、こと遂げ畢はんぬ……全く持ってかたじけなきことで御座った……さても、御礼申すべき、ろくな品とて御座らぬが……」

と、何やらん、懐から紙に認めたものを取り出だすと、

「――これは、もし、近隣、火災の折り、このものを床の間に掛けおかれたならば、必ずや火災は免れようほどに――」

と言うて、呆然とした右筆を残して、僧は立ち去って行ったので御座った――。

 右筆はすぐにこのことを御主人に告げたが――それを聞いた御主人は、殊の外、これを面白く思い、その何が書かれているやらよく分からぬ奇天烈な書を表装させた上、長く所持して御座ったという――。

 そうそう、その右筆はと言えば、その日の内に、元の通り、普通に字が書けるようになって御座ったということで御座る……。

   ――――――

 その後(のち)、近隣にあっては、しばしば火災に見舞われて御座ったが、その度毎に、この奇僧の墨跡の掛軸を掛け置いたところ、水野家には不思議に火の及ぶことは御座らなんだ、と――。

 されど、ある時、偶々、かの掛軸を蔵の奥に仕舞い置いて御座ったところ、近場から出火致いて、掛け置く暇もないうちに、みるみる延焼、屋敷内の殆んどの家居(かきょ)は悉く焼け落ちて仕舞(も)うたなれど……特に防火も施されて御座らなんだ、何の変哲もない粗末な蔵ながら……かの掛軸を入れておった蔵だけは……焼けずにそっくり残っておった、とかいうことで御座った……。

耳嚢 卷之一

注記及び現代語訳

 copyright 2009-2010 Yabtyan

2010/01/28

南方熊楠 武辺手段のこと

先程公開した「耳嚢」の「武邊手段ある事」を素材とした、南方熊楠の「武辺手段のこと」を「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に公開した。殺人的な忙しさのため、本未明、2:30に起きて、注を施し、やっと今、公開にこじつけた、否、漕ぎ着けた。これから風呂に入ってまた、飴の様に延びた蒼ざめた時間を過す――。

耳嚢 武邊手段ある事

「耳嚢」の「武邊手段ある事」を収載した。

 武邊手段の事

 寛延末にもありなん。日本左衞門といへる盜賊の張本ありて召捕(とら)れ刑罰になりけるが、その餘類に一人の山伏有。三尺に廻り一寸餘の鐵棒を所持して、是に向ふ者手を負ざるはなし。其手練の早業いふ斗りなし。依之諸國にて手に餘りし惡黨也けるを、大坂の町同心の内に武邊の者ありて、手段を以難なく召捕ける由。其手段を尋るに、此同心五尺程に廻りも弐寸に近き鐵棒を拵へ、姿をかへて彼の山伏が寄宿に至り、知る人になりて段々物語りの上、側にありし鐵棒をみて、扨々御身はすさまじき鐵棒を用ひ給ふもの哉。我等も鐵棒を好み所持せしが、その業(わざ)存樣(ぞんずるやう)に無之由を申、持參の鐵棒を彼山伏に見せければ、山伏も驚きて扨々御身は力量すさまじき人哉、哀れとくと見せ給へとて、己が鐵棒を同心へ渡し、同心持參の鐵棒受取り詠(ながめ)賞しける樣子を見斗ひ、彼が渡したる鐵棒を取て聲を懸、山伏が眞向を打けるに、山伏も心得たりと、取替し鐵棒を取上しが、兼て遣ひ覺へし寸尺より遙かに延(のび)て、持なやみ惡しき故、存分に働難く、其内手組(てぐみ)の者も立入難なく召捕し由。面白き手段なりと人の語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:「けころ」がぶっとい一物を受け入れる企略を廻らしたことと、同心が山伏の得物よりもぶっとい鉄棒を以って企略を廻らした点で、諧謔的に美事、連関している。

・「武邊」広義には武道に関する色々な事柄・華々しき戦歴の数々・またその人の謂いであるが、ここはもっとプラグマティックに、腕に覚えがある、といった意味である。

・「寛延末」寛延は西暦1748年から1751年。「末」となると、寛延3(1750)年から翌寛延4・宝暦元(1751)年頃。これを日本左衞門が処刑された延享の末年の誤りととることも可能であるが、その後もこの後3年程、この鐵棒山伏が逃走しながらも暴れ廻ったと設定した方が如何にも面白い。

・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保4(1719)年~延享4(1747)年)は本名浜島 庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『1747年1月7日に京都で自首し、同年3月11日(14日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで14件、2622両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、180㎝近い長身の精悍な美丈夫で、顔に5㎝ほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』。

・「大坂の町同心」大阪町奉行配下の同心。同心は、与力の下にあって現在の巡査に相当する職務を担当した(同心はこれに限らず、その他の諸奉行・京都所司代・城代・大番頭・書院番頭等の配下にもおり、諸藩の藩直属であった足軽階級の正式名を同心とするところもあったとウィキの「同心」にある)。

・「手段を以」底本で鈴木氏は『これと同趣の話が、デカメロン(第五日第二話)にあることを、続南方随筆に指摘してある』とする。これは南方熊楠が大正2(1913)年9月の雑誌『民俗』に載せた本「耳嚢」の記事から書き起こした考察、ズバリ「武邊手段のこと」を指す。現在、ネット上にはテクストがないので、この注のために、南方熊楠「武邊手段のこと」のテクストを翻刻した。参照されたい。

・「手組」与力・同心配下の捕り方のことであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 企略の捕物の事

  以下の話は寛延も末頃のことであったろうか。

 日本左衛門という盗賊の首領が御座って、先立つ延享の末年に召し取られ処刑されたが、その生き残りの子分に、一人の山伏が御座った。

 この男、長さ三尺・外周り一寸程の頑丈な鉄棒を得物と致し、これに立ち向かった者は、手傷を負わぬ者はないという強者。その手練の早業たるや、言葉に表せぬほどで御座った。

 そのため、逃げ回って御座った諸国にあっても、ほとほと持て余す悪党で御座った。

 ところが、大阪は町同心のうちに、腕に覚えある者が御座って、誠(まっこと)美事な企略を以ってこの山伏を難なく召し取ったという話。その手段を尋ねたところが――

 この同心、まず長さ五尺、外周り二寸に近い鉄棒を拵え、旅の山伏の風に変装の上、その鉄棒を携えて、かねて探索方が発見しておったところの、かの山伏の潜伏しておる旅宿にぶらりと立ち寄って御座った。

 当の本人に近づきとなり、徐ろに世間話なんどをし乍ら、打ち解けたところを見計らうと、彼が傍らに置いて御座った鉄棒に、今初めて気付いたかのように眼を向け、

「……さてもさても! 御身はすざまじき鉄棒を扱われることじゃ! いや、我らも鉄棒を好み、実は……得物として所持しおるが……ただ我らが物は、お主の所持して御座る物ほどには……出来は……良うは御座らねど……」

と、やおら持参の鉄棒を山伏に見せたところが、それを見た山伏は、

「……これは驚き! さてもさても! 御身はすざまじき力量の人じゃ! あ、さても! その鉄棒、とくと見せたまえ!……」

山伏は思わず己(おの)が鉄棒を相手に渡し、彼の持ち来たった例の鉄棒を受け取り、感嘆して褒めそやす――それを見計らい、山伏に化けた同心、手にしたかの山伏当人が渡した鉄棒を上段に構えるや、

「――ええいッ!!!――」

と声をかけて、山伏の真っ向をしたたかに打った――

――山伏も、ここに至って謀られたことを悟ったか、

「……グブゥ! ウゥゥ、ッツ!……こ、心得たッ!!!……」

と一声唸るや、手にした鉄棒を構えたので御座ったが……

……兼ねてより遣いなれた鉄棒より寸尺共に一回りも長大なれば……持ち悩んで、使い勝手、悪(あ)しく……もう、まるで思うように扱えざるうち……

――宿屋の周囲に張り込んで御座った捕り方もどっと家内へと押し寄せて参り、難なく召し捕らえたとのことで御座る。

 誠(まっこと)面白い奇略、いやさ、企略である、と、とある人が語った。

2010/01/27

耳嚢 異物又奇偶ある事

「耳嚢」に「異物又奇偶ある事」を収載した。

 異物又奇偶ある事

 加州(かしう)の輕き侍の由、其身いかなる事にや陽物尋常ならず、壯年過ぬる迄人事をなす事あたはず。人間に生れて常に其片輪を悔けるが、或時風與(ふと)思ひ付て淺草觀音へ詣ふで、歸るさに右往還の巷に情を商ふ娼婦あり。【此娼婦は俗にけころといひて賤き勤の女也】軒を並べ往來を呼込候間、彼家へ寄りて右女に我身の譯を語り其陽物をみせけるに、何(いづ)れが交らんといふ者なく、或ひは驚き或ひは笑ひて斷(ことわり)を述(のべ)けるが、其内に壹人只笑ふのみにて強ていなまざりしかばつくづくに申談ければ、先(まづ)其業(わざ)をなして見給ふべし、しかし支度有間明日來るべしと答ふ。此男誠に玉女を得たりと悦びて、明けの日又至りければ殊なく雲雨の交りをなし畢(をはんぬ)。やがて親方に斷て、相應の身代金を與へて引取、妻となし榮へけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。三項前の「尊崇する所奇瑞の事」と同じ浅草寺霊験絡み。どうも根岸の好みであったらしい巨根因縁話、先行する「巨根の人の因果の事」の類話ではあるが、話柄としては遙かに劣る。百話に近づき、前後の連関性よりも、数合わせで詰め込んでいるようにも見えぬことはない。但し、諸本では順序が異なってもいるので(例えば岩波カリフォルニア大学バークレー校版「卷之一」では最後に、本ページでは先行しているまじないシリーズ3本「羽蟻を止る呪の事」「燒尿まじないの事」[やぶちゃん字注:「尿」は「床」の誤り。「い」はママ。]「蠟燭の流れを留る事」が綺麗に並んでコーダとなっている)、一概には言えぬ。

・「加州の輕き侍」加賀国(現在の石川県南部)加賀藩(金沢藩)若しくは大聖寺藩(加賀藩支藩)の江戸詰の下級武士と思われる(大聖寺藩支藩であった大聖寺新田藩は18年間しか存在せず、しかも名目に過ぎなかったので排除してよい)。本話の内容が内容なだけに憚ったものであろう。

・「壯年過ぬる迄」壮年の規準は定かでないが、当時の一般通念から想像して、25歳前後を過ぎても、の意であろう。

・「淺草觀音」金龍山浅草寺のこと。本尊が聖観音菩薩であるため、「浅草観音」「浅草の観音様」と通称される。この聖観音は秘仏で、その霊験は古くから万能強大とされ、特に7月10日の功徳日に参拝すると、46,000日分日参したのと同じご利益が授かると言われる。彼は、もしかするとこの日に参詣したのかも知れぬ。

・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。

・「軒を並べ」勿論、これは不法な私娼窟で、今もどこやらに見られるような、見た目は粗末な茶屋のような外観なのであろう。

・「支度」腟痙攣の治療に用いるサクシン=スクシニルコリン(SCC succinyl choline chloride または スキサメトニウムsuxamethonium:この名称改変は抗炎症・解熱作用を持つ副腎皮質ホルモン剤サクシゾンSaxizonとサクシンを聞き違えて投与し患者を死亡させた医療過誤を受けたものである。)のような筋弛緩性能を持った成分を含む腟弛緩効果を持つ民間薬(でなければけころには手に入るまい)の使用等が想起される。

■やぶちゃん現代語訳

 異物の巨根にはこれまた稀有の大海の奇遇がある事

 加賀国のとある下級の武士の話、ということで御座った。

 この者、如何なる因果か、その陽物、尋常ならざる大きさで、壮年を過ぎても雲雨の交わりを知らず、人の男として生まれながら、その営みを成す能はざるを以て、内心常々、己(おの)が人生、悔いるばかりで御座った。

 あるとき、ふと思いついて浅草観音に詣で、その帰り道、路傍にて客を引く娼婦連に出会った[根岸注:この娼婦は俗に「けころ」と言って、到って下級の春を鬻ぐ女の謂いである。]。軒を並べ、往来する男を呼び込んで御座れば、その一人に袖を引かれるまま、一軒の曖昧宿に立ち寄り、その女に己が身の上を語った上、一物を見せた――。

 ――それを見たとたん――案の定、誰一人として――やったげる――という者、これ御座らぬ――或いは驚き、或いは下品に笑うて――いずれの女も、

「……だめだめ! 出来っこないわ!……」

と、けんもほろろ……。

 ……ところが……その中に、独り……ちょっと微笑んでおるばかりで、敢えて拒みの言葉を口にせぬ女が御座った……その笑みは、彼を薄気味悪く思い、また、哀れみ乍らも馬鹿にしておる他の女の下卑た笑みとは……少しばかり、違(ちご)うて御座るように見受けられた。

 そこで男、この女を招くと、己が苦しみをじっくりと語って御座った。

 すると女は、ちょっと思案して、

「……先ずは……そうね、やるだけやって御覧なさいまし……でもね……ちょっと私の方にも支度がありますから……そうね、明日(あした)……また、いらっしゃい――。」

 ――明くる日、半信半疑乍ら、男は再び、この曖昧宿を訪ねた……。

 ……すると……

 ……男は何の障りもなく……

 ……この女と雲雨の交わりを成就することが出来て御座った……。

 ――されば男は、その日のうちに、この屋の親方に挨拶の上、相応の身代を払うて女を引き取った。

 ――後、二人は目出度く夫婦と相成り、今も幸せに暮らしておる、ということで御座る。

2010/01/26

耳嚢 名君世の助を捨給はざる事

「耳嚢」に「名君世の助を捨給はざる事」を収載。

 名君世の助を捨給はざる事

 有德院横風與(ふと)御考有て、夏の夕軒に群れ蚊を御近侍へ仰付られ、戻子(もぢ)の袋を拾へふり候て御取らせ被遊けるが、蚊もそれだけ少くありしに、右の蚊を御外科衆へ被仰付、膏藥にいたし吸膏藥に用ひ給ひしに、膿腦を吸ふ事に奇驗有しと安藤霜臺の語り給ひし故、予が許へ來る醫師に其事語りければ、都ての藥劑も道理を責て相用ひ候事多き也、明君の御賢慮難有事と答へぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:「一心の決處願ひ」が成就するのも、「名君世の助を捨給はざる」も、天道の道理故である。一貫して認められる根岸の畏敬する徳川吉宗の事蹟連関である。

・「戻子の袋」底本には「戻子」の「戻」の右に「(綟)」と注する。この「綟子」は「綟」(もじ)で、麻糸で織った目の粗い布を言う。蚊帳や夏季の衣服などに用いた。ここは一般的な麻袋をイメージすればよい。

・「御外科衆」将軍の診察および医薬を掌る職掌を奥医師と呼んだが(定員十数人で若年寄支配、高200俵に役料200俵が付いた)、医療パートは他に奥外科・鍼科などに分かれていた。奥医師が一種の臨床医・内科医的存在だとすれば、こちらは文字通り、実際的な施術を施す外科や皮膚科に相当するか。

・「吸膏藥」吸出し。蚊が血を吸うことからの類感呪術である。

・「膿腦」膿悩。腫物。腫瘍。

■やぶちゃん現代語訳

 名君は世の助けとなるものであればちょっとしたものであってもお捨てにはなられぬという事

 有徳院吉宗様、ある時、ふとお考えになられ、夏の夕暮れ、軒に群れて御座った蚊を、御近侍の者へ麻袋で捕らえるよう、仰せ付け遊ばされ、五月蠅い蚊もその分、少なくなったので御座ったが、外科の者たちに仰せ付けられ、この捕えた蚊を吸膏薬の原料に致し、調剤、それを実際に用いてみたところが、重い腫れ物を吸うに、極めて有効で御座った、と安藤霜台殿が語って御座ったことがある。そこで、それを私の許へ来る医師にも話したところが、

「全ての薬剤も道理の核心まで突き詰めて適用することが多いのですが、誠、君の御明晰なる御賢慮は測り難く、有り難きことにて御座りまするのう……」

と答えた。

2010/01/25

耳嚢 一心の決處願ひ成就する事

「耳嚢」に「一心の決處願ひ成就する事」を収載した。

 一心の決處願ひ成就する事

 今世に行るゝ一切經の飜刻をせし僧は、晩學の禪僧にて、始は一向宗の寺僧成しが、或日檀家より娘の法事とて齋米(ときまい)を送りしを下女持參せしに、坊守(ばうもり)なる女右齋米を見て、能米也、殊に潔白なれば鮓(すし)の飯にいたし可然と言しを聞て、一向宗は無慙也と觀じて其席より出奔して上京しけるが、さて禪林に入て其譯を語り禪室の行を成せしが、何卒生涯に一切經を翻刻して誤りを糺し度由を師の坊へ願ひければ、側に聞し同寮の出家共、身に應ぜぬ大願とて目引袖引笑ひけるが、流石に師の坊はみる所ありしや、成就疑ひ有べからず、尤の願ひと答へける。夫より往來多き粟田口とやらの海道に立て、往來の者へ右經翻刻建立の譯を述て合力(かふりよく)を乞ひしに、一人の侍通り懸りしが、何程乞ひても挨拶もなく、やがて一里鈴もつきけれど見向もせざりしが、一里半程も附てひたすら合力を乞ひければ、扨々うるさき坊主哉とて、一錢を懷中より出し與へければ、難有とて殊外歡し故、右侍立歸り、はるばるの所附來(つききたり)一錢を悦び候心を問しに、今日大願のはじめ一錢を乞得(こひえ)ざれば我(わが)心信(しんじん)迷ひぬ、此一錢を得し故最早一切經成就の心歴然に思ふといひしが、果して日ならず一切經翻刻成就しけると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:一念の信仰心が齎す奇瑞と成就で直連関。

・「今世に行るゝ一切經の飜刻をせし僧」「一切經」は釈迦の教説とかかわる、経・律・論の三蔵その他注釈書を含む経典の総称。大蔵経。その含まれる経典は時代や編纂者によって大きく異なる。さて、この主人公の「僧」であるが、底本注に、これは「近世畸人伝」にも逸話を載せる黄檗宗(おうばくしゅう)の僧、鉄眼道光(てつげんどうこう 寛永7(1630)年~天和2(1682)年)であるとする。以下、ウィキの「鉄眼道光」によれば、肥後国(現在の熊本県)の社僧の子として生まれ、『当初は、父の影響で浄土真宗を学んだ。出家(13歳時)の師は、浄土真宗の海雲である。が、本願寺宗徒では才徳がなくとも寺格の高下によって上座にあることを潔しとせず、1655年(明暦元年)隠元隆琦に参禅して禅宗に帰依し、隠元の弟子木庵性瑫の法を嗣いだ。後、摂津国難波村に瑞龍寺を開建』、本文にある通り、寛文4(1664)年に「大蔵経」翻刻を発願したが、一方で、『畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、1度は集まった蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くし』、そのこと『2度に及んだという』。『1667年(寛文7年)には全国行脚を行って施材を集めた。上述の事情によって、2度まで断念したが、3度目にしてようやく施財を集めることを得、京都の木屋町二条の地に印経房(のちの貝葉書院)を開設し、1668年(寛文8年)に中国明の万暦版を基に覆刻開版し、1678年(延宝6年)に完成させた。1,6187,334巻。後水尾法皇に上進した。この大蔵経は黄檗版大蔵経または鉄眼版と呼ばれている』、とある。底本注には『隠元禅師にまみえたのは二十六歳の時であるから、禅宗の修行についていえば晩学といってよい』とある。

・「一向宗」狭義には、鎌倉時代の浄土宗の僧であった一向俊聖(暦仁2(1239)年~弘安101287)年?)の教義に基づく浄土宗・浄土真宗の一派を指す。江戸時代には、幕府によって宗教的に同一系列にあるとされた一遍上人の時宗と強制統合され、「時宗一向派」と改称させられたが、ここでは、広義に江戸期に呼称された、浄土真宗(中でも特に本願寺派教団)を指すと考えてよい。

・「齋米」「齋」は、「食すべき『時』の食事」の意味で、寺院に於ける食事を言い、斎糧(ときりょう)として檀信徒が寺や僧に施す米のこと。

・「坊守の女」「坊守」は、本来は寺や僧坊の非僧・下位僧の堂守・番人のことを言うが、浄土真宗にあっては妻帯が認められていたため、住職の妻のことをこう呼称した。岩波版長谷川氏注には、鉄眼道光について、『最初一向宗僧で妻帯と伝える』とある。

・「一向宗は無慙也」浄土真宗は肉食妻帯を許すが、斎米を見て、僧の愛していた妻が、忌むこともなく鮓飯(これは鮎などを用いた川魚のなれ鮨を指すものと思われる)にしようと口にしたことに浄土真宗の破戒無慚に思い至って出奔したという設定で、典型的な発心禅機である。但し、底本で鈴木氏は、鐵眼は当初、『豊前永照寺の西吟について学んだが、西吟は臨済禅を真宗教義の解釈に取り入れたので、異義を以て弾圧されたため、鉄眼もここを去っ』て隠元にまみえた(先に掲げたウィキの「鉄眼道光」の廃宗の理由とは異なる記述である)のであって、『このような逸話は単なる語りぐさに過ぎない』と一蹴されている。にしても、私は面白いと思う。

・「粟田口」京七口の一。大津・山科を経て三条大橋に至る東海道の京への入り口で、現在の都ホテル付近から神宮道辺りに相当する。

■やぶちゃん現代語訳

 一心の覚悟によって願いは成就する事

 今の世に知られている一切経の翻刻をした鉄眼道光禅師は、晩年になって禅門に入った黄檗宗の学僧であった。

 当初、一向宗の寺の僧であったが、ある日、檀家より亡き娘の法要ということで、その家の下女が持参した斎米(ときまい)を彼の妻が見、

「いい米だわねえ! いかにも真っ白だから、なれ鮨の飯にするのに、もってこいだわ!」

と言うのを聞き、

――一向宗は誠(まっこと)無慚!――

と観じて、忽ち、その場から出奔、妻も宗旨も捨てて、京に上った。

 後、禅門を叩き、ここに至った仔細を語り、禅林に入って修行に励んでいたが、ある時、

「――我、生涯をかけ、一切経を翻刻致し――今行われて御座る経典の誤りを糺したく存ずる――。」

と師に願い出た。

 傍(そば)で聞いていた同学の僧どもは、身の程弁えぬ大願よ、と目配せ袖引きなんどして笑ったが、流石に、その師、彼の覚悟を見抜いた御座ったか、

「――承知! それ必ず、成就せざるべからず! 殊勝なる願(がん)!」

と答えた。

 ――その日のうちに、彼は人通りの多い粟田口とやら言う街道の入り口に立ち、往来の者へ、かの一切経翻刻建白の議を述べて布施を乞い始めた。

 始めた矢先、そこを一人の侍が通りがかった。

 ――彼が何度声を掛けても、その侍、見向きもせぬ。

 そのまま一里程も鈴をついて侍の後に縋り、ひたすら寄進を乞う。

 ――されど侍は見向きもせぬ。

 なおも一里半くっ付いて、ただただひたすら、寄進を乞う。

「……さても! 五月蠅い坊主じゃ!」

と、たった一銭、懐から取り出すと、彼に投げ与えて立ち去ろうとした――と――

「ああっ!! 有り難い!!!」

と、九死に一生を得たような、殊の外の喜びようである。

 行きかけた侍は、その異様なまでの喜びようを奇異に感じ、踵(きびす)を返すと、

「……遙々このようなところまで付き纏い、おまけに、たかだか一銭の喜捨に喜ぶとは――それ、何の謂いぞ!?――」

と問うた――。僧は、侍に深々と礼拝すると、

「――今日、大願発願(ほつがん)の初日――今日、一銭も乞い得ざらば、我が信心、迷道に入らむとす!――この一銭――この一銭得らればこそ、最早、一切経翻刻成就せる心、明白たらん!――」

と答えた――。

 ――果たして、日ならずして、美事、一切経翻刻を成就し得た、ということである。

2010/01/24

東亜文化大学教授 宗像伝奇樣 星野之宣先生気付

宗像伝奇(ただくす)先生、突然のお便りにて失礼致します。

先生の「鉄の民俗史」に多大な関心を寄せております在野の者で御座いますが、先生に是非、東インドのコナーラクにお越し願いたく、これをしたためました。
……ここには13世紀に造られた太陽神スーリヤを祀る神殿がありますが、それは巨大な7頭の馬と24の車輪が壁面を飾っています。この巨大寺院は、それ自体が太陽神が馬車に乗り天空を駆ける様そのものなのです……そして、その車輪には鉄が打ち込まれ、何より、その背後の失われた数十メートルあったビルディングのような本堂には「鉄骨」が用いられていたのです。現在もその鉄骨が境内に残されているのです。50年ほど前には、イギリスの統治下に途絶えていた太陽神に捧げる妖艶にして感性豊かな「オリッシーダンス」も復活しています。
それから、多分、先生お好みの信仰もここにはあるのです。コナーラクの海沿いの漁村は貧しいのですが、子どもたちに名を訊ねると、彼等はみな「スーリヤ!」と答えます。彼等は皆、太陽の子(てだのふぁ)なのです。漁師の妻は毎朝、砂浜に彩色した美しい砂絵を描いては、出漁する夫の無事を祈るのです。
恐らく先生の琴線に触れる素晴らしい旅となることと思います。どうか、新しい御研究のために、ここコナーラクへ来られんことを――

2010年1月 NGOコナーラク再生プロジェクト 派遣員 藪野唯好

今夕、TBSの「THE世界遺産」2010年1月24日放送「コナーラクの太陽神寺院(インド)」を見ながら、これはもう宗像先生に来てもらわなくては、とわくわくして来たのだ。

星野之宣先生。

例えば……老考古学者の本堂復元……日本側スポンサーのリゾート開発思惑……青年漁師スーリヤと妻(勿論、先生の描くあの美形の)……砂絵……大津波……カタストロフ……しかし、スーリヤを祀る神殿が巨馬7頭の24の車輪を軋らせて(「ヤマタイカ」で大仏を動かされたように)、青年の舟に導かれてコナーラクの民を救って駆けるエンディング……

……なんてストーリーを、僕はもう、あなたの、あの絵のタッチで、そのテレビの画面の向こうに見てしまったのです……特に、漁に出る小舟の映像は、何故か涙が出るほど美しかったのです……

ひとりだけの部屋

Hitoridakenoheya

野山映(あきら)「ひとりだけの部屋」

第13回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦(アニメーション)

――Jan Švankmajer ヤン・シュヴァンクマイエルの後裔にしてエリック・サティの画師――

耳嚢 尊崇する所奇瑞の事

「耳嚢」に「尊崇する所奇瑞の事」を収載した。前の少年の戒名の話や本話は辻褄を合わせた納得出来る事実譚を推定創作することは出来る。登場しない少年の友人であった寺の小僧やら、盗んだものの持仏に後ろめたさを覚えた巾着切りなんどを登場させて、バック・グラウンドを演出すればよいのである。いや、実際にそんなものを現代語訳の後ろに附してみたい悪戯にかられた事実を告白しておく――。

――しかし、それではこの話柄の、儚く亡くなった少年のしみじみとしたペーソスや、朝寒の厠で作次郎青年(と読みたい)が叢の輝く仏を見つけた際の仄かに温まる安心(あんじん)は消え去ってしまうのである――。

「卷之一」終了間近なれば、冒頭に目次を附し、冒頭注の一部に追加をした。

 尊崇する所奇瑞の事

 是も霜臺の家士にて富田作次郎といへる者有。日蓮宗にて先祖は日蓮の由縁の者に有ける由。先祖より靈佛の釈迦を所持いたし常に鼻帋(はながみ)の袋に入て懷中しけるに、或日淺草へ詣ふで途中にて右鼻紙入を落しけるや、又は晝稼(ひるかせぎ)のために被奪けるや紛失しけるに、右鼻紙入に可入(いるべき)書(しよ)金子の類もなけれは惜むにたらずといへど、持傳へし尊像紛失を歎き語りて其夜臥しけるが、翌朝手水(てうづ)遣わんとて己が住ける長屋の椽(えん)に立けるに、手水所の草中に光る者ありし故いかなる品やと取上みければ、昨日失ひし尊像なるゆへ、大に驚今に尊敬して所持しけると語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:続いて安藤霜臺家士に纏わる奇談。

・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(これとし)。前々項注参照。

・「鼻帋の袋」「帋」は「紙」の異体字。財布のこと。

・「淺草」金龍山浅草寺。本尊は聖観音菩薩で当時は天台宗(第二次世界大戦後、聖観音宗の総本山に改宗)であるが、そもそも本邦の天台宗開祖最澄は法華経を日本に伝えた人物でもあり、日蓮は本来、天台宗の学僧として延暦寺にも遊学しているから、富田作次郎が詣でても不自然ではない。いや、日本人の多くは宗派の相違を超えて、手を合わせることは今も昔も変わらぬ、超シンクレティズム習合民族である。

・「晝稼」夜稼ぐ「夜盗」から考えると、昼に稼ぐ「昼盗」で、掏摸(すり)のことであろう。実際に「昼盗人(ひるぬすびと)」「昼鳶(ひるとんび)」という語があり、これらは広義には昼間に空き巣を働く者、狭義には巾着切りのことを言う。

・「書金子」の「書」は岩波カリフォルニア大学バークレー校版では、借用書や勘定書、証文を言う「書付」となっており、こちらの方が分かり易いので、それで訳した。

・「遣わん」はママ。

・「椽」底本では右に『(縁)』と注する。芥川龍之介なども、「縁」の代わりに、しばしばこの「椽」を用いている。「椽」は通常は垂木のことを言う。

・「語りぬ」作次郎本人から根岸が聞いた可能性もないとは言えないが、この前文は「所持しける」で終わっており、間接体験伝聞過去の「けり」に着目して、安藤霜台からの伝聞とした。

■やぶちゃん現代語訳

 尊崇の念深ければ奇瑞もあるという事

 これも霜台殿の家士で、富田作次郎という者が御座った。日蓮宗の信者で、何でも先祖は日蓮所縁(ゆかり)の者であったとか。

 彼、先祖より霊験あらたかなものとして伝わる小さな釈迦の持仏を所持しており、常に財布に入れて懐中して御座った。

 ある日のこと、浅草寺に詣でたが、途中で落としたものか、はたまた、掏摸にやられたものか、財布を紛失してしもうた。

 大事な書き付けや大した金品も入れてはおらなんだ故、惜しむに足らぬものではあったれど、中に入れて御座った先祖伝来の尊像の紛失、これは甚だ心痛の極みで御座って、その晩は、鬱結したままに、ふて寝して御座った。

 翌朝、目覚めたなり、厠へ行こうと、己が住む長屋の縁側に立ったところ、厠近くの叢に、何やらん光る物がある――一体、何だろうと拾い上げて見たところが――何と、昨日失くした釈迦の尊像!――作次郎、大いに驚いた――

「……彼は今も、この持仏を一層尊崇して御座っての、殊の外、大切に所持致いて御座るよ……」

と、霜台殿が物語って御座った。

2010/01/23

耳嚢 不思議なしとも難極事

「耳嚢」に「不思議なしとも難極事」を収載した。

この話、何だか、好き。

……因みに、暇なわけではない……いや、寧ろ殺人的に忙しい……高校入試に大学入試の小論文指導……左耳がまた聴力が低下し、耳鳴り激しく、授業をしていても、自分の声が奇妙に響き……歩いていても、何やらん、ふらふらする……この「耳嚢」の作業している時だけ……僕は、「云ひやうのない疲勞と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出來」るのである……

しかし、同時進行で、「卷之二」の作業に突入する所存ではある。

「卷之一」は残すところ、6話のみとなった。実はそれら総て、翻刻・注・現代語訳を終了している。但し、ある注の付随資料として、さるテクストの翻刻が必要となったので、総ての公開はもう少し時間がかかる。 

不思議なしとも難極事

 安藤霜臺の家來に何の幸右衞門と言る者あり、苗字は忘れたり。此幸右衞門はじめ貳人の男子有しが、五六歳にて甚聰明にして、文字抔も年に合せては奇に認しに、七歳にて墓なくなりし由。右のもの死せんとせし前方に、法名をつきけるとて、郎休と申二字を數帋(すうし)かきし故、親々も忌はしき事に思ひ叱り制しぬれど用ひずして認しが、無程相果ける故菩提所へ申遣、葬送の事抔申送りければ、寺より法名を付しに郎休と認越ける故、此法名は家内より聞し事にやと寺僧へ尋しに、聊か不知由にて、何れも奇怪を歎息せりと物語りなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:同じく安藤霜台絡みの奇談で、前世を感じさせる死に纏わる類似の因縁話、というより「前生なきとも難極事」の庶民子供版である。根岸好みのお馴染み「○○なしとも難極(言難)事」シリーズでもある。

・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(これとし)。前項注参照。

・「つきける」の「つく」には他動詞カ行四段活用として「名を付ける」の意があり、誤りではない。

・「郎休」岩波カリフォルニア大学バークレー校版では「即休」で、これなら法名や死語の戒名としてはおかしくはなく、実在する中国僧もおり、特に禅家の法名としては、法名として悪くない気がする。

・「數帋」「帋」は「紙」の異体字。

■やぶちゃん現代語訳

 不思議なことなんどありはせぬとは極め難いという事

 安藤霜台殿の家来に何とか幸右衛門という者が御座った――失礼乍ら、名字は忘れ申した――。この幸右衛門には、若き頃、二人の男児が御座ったが、そのうちの一人は、甚だ聡明にして、書写なんども年の割には数多の字を書き記すことが出来て御座ったのだが……可愛そうなことに、七歳にして儚くなったとのことで御座った。

 この御子(おこ)の話――。

 この男子、その死の暫く前のこと、

「――自分は法名を付けました。――」

と言って、

――郎休――

と申す二字を紙に書き散らして御座った。親たちは縁起でもないことと叱って書くのを止めさせようと致いたが、何故か頑なに聞き入れず、黙々と書き続けて御座った……

――郎休――郎休――郎休――郎休――郎休――……

 ――――

 程なく、その子供が亡くなった。

 かざしの花を奪われ、尾羽打ち枯らした体(てい)の親、それでもやっと菩提寺に男子夭折の旨、申し伝え、葬送の儀一切を頼んだところ、おって寺より戒名を付け認めたものを寄越した。それを開いて見たところが……

――郎休――

……と、ある!……

……幸右衞門、愕然として戒名を名付けた寺僧に訊ねに参って……。

「……お恐れ乍ら……この法名……これは、その……拙者の家内(いえうち)の誰か彼れから……何やらん、その名を、お聴き及んで付けられたので御座ろうか?……」

すると寺僧は如何にも怪訝な顏をして、

「……いや、全くそのようなことは御座らぬ。御逝去の報知を受けて後、拙僧が考えましたものにて御座るが?……」

と答えたという……。

 誰もが、その摩訶不思議に「へーえっ!」と唸ること頻りであった、との物語で御座った。

2010/01/22

耳嚢 前生なきとも難極事

「耳嚢」に「前生なきとも難極事」を収載した。

 前生なきとも難極事

 紀州南陵院殿逝去巳前御遺辭あつて、若(もし)御逝去あらば岡の山といへる所に葬り奉るべき旨也。右場所は若山御城近くにありし由。然る所、御逝去に付其場所へ御廟穴を掘けるが、一丈餘りも掘りて一つの石槨(せきかく)あり。右石槨の内に一鉢一杖あつて外には何もなし。石槨の蓋に南陵の二字顯然とありけるが、其巳前御法號は御菩提所より差上しに南陵院と有之、誠に符節を合たる事と、其頃の人驚歎し今も紀陽に申傳侯由、安藤霜臺(さうたい)物語也。

□やぶちゃん注

○前項連関:石川自寛の第一話の徳川吉宗の故郷、紀州藩で連関。

・「紀州南陵院」「陵」は同音の「龍」の誤り。以下同じ(現代語訳では補正した)。徳川頼宣(慶長7(1602)年~寛文111671)年)のこと。徳川家康十男。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩から紀伊国和歌山藩の藩主となって、紀州徳川家の祖となった。八代将軍吉宗の祖父である。尊称を南龍公と言い、戒名の院号が南龍院である。岩波カリフォルニア大学バークレー校版では正しく「南竜院」とある。現代語訳では補正した。

・「岡の山」徳川頼宣は寛文111671)年1月11日に逝去、現在の和歌山県海南市にある天台宗慶徳山長保寺(一条天皇の勅願により長保2(1000)年創建された寺)埋葬された。以後、この紀州家菩提寺長保寺背後の山(これが「岡の山」であろう)の斜面には歴代藩主が葬られているが、藩主の墓所としては日本最大の規模を誇るという。和歌山城より直線で十数㎞南方に位置する。

・「若山」和歌山。

・「石槨」石造りの棺を入れる外箱・部屋。本邦の古墳に見られる構造で、これも何らかの古墳を掘り当てたようにも見えるが、内に一鉢一杖というのであれば、これは密教僧(長保寺は天台宗である)の即身成仏の跡と考えた方がよいように思われる。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。お馴染みの根岸の情報源。

■やぶちゃん現代語訳

 前世はないとも言い難い事

 紀州南龍院殿が逝去される大分以前のこと、御遺言があり、

「もし予が死せし時は岡の山という場所に葬るように。」

ということであらせられた。そこは何でも和歌山の御城近くに御座ったらしい。

 然る後、御逝去なされ、右岡の山に御廟穴を掘ったところが、一丈程掘り進んだ先に、一つの石郭があった。その内部には一鉢一杖があっただけで、外には遺体や副葬品等の葬られた人を明らかにするような何ものもなかった。

 ところが――その石郭の蓋を見ると――そこには『南龍』の二文字が、くっきりと彫り込まれて御座った……

 それよりずっと以前、御法号については――菩提寺長保寺から差し上げた奉書に――「南龍院」――とこれあり……誠(まっこと)不可思議なことに美事なる符合で御座ると、当時の人々も吃驚仰天、以後、今も、前世これある証しなり、と和歌山にては申し伝えられて御座る由、友人安藤霜台殿の物語った話で御座る。

2010/01/21

耳嚢 土屋相模守御加増ありし事 及び 時代うつりかはる事

「耳嚢」に「土屋相模守御加増ありし事」及び「時代うつりかはる事」の二件を併載した。前項は面白くないが、我慢して読むと、二つ目の話の最後で何だかイイ感じである。

 土屋相模守御加増ありし事

 嚴有院樣御代迄勤仕(ごんし)ありし土屋相模守父但馬守は、土屋惣藏次男にて小祿より四萬石に昇進し、其子相模守引續き老職に至り、一代に五萬石の御加増拜領ありて當時九萬石餘の諸侯たり。右相模守老年に至り、加判の列御免の上隱居いたし度段被願(ねがはれ)けるに、有德院樣御聞に達し、加列の列御免勝手攻第登城の樣被仰付、隱居の儀は御差留有ける(が、暫く有りて一萬石御加増にて願の通り隠居被仰付けるが、)隠居後は一度登城有し由。尤老職の通御城内下座會釋等有之、御老中口より登城の由。其節相模守に勤し石川自寛、八十餘にて予が許へ來り咄ける。古への致仕の砌御加増有りし、珍敷事故記之。

□やぶちゃん注

○前項連関:有徳院吉宗絡みで連関。

・「土屋相模守」土屋政直(寛永181641)年~享保7(1722)年)。老中。元駿河国田中藩主、後に常陸国土浦藩主となった。土浦藩主土屋数直長男。以下、ウィキの「土屋政直」によれば、延宝7(1679)年の父の逝去を受けて土浦藩を相続後、天和2(1682)年に駿河田中に国替となったが、5年後の貞享4(1687)年には再び土浦に復帰した。『漸次加増をうけ、最終的に9万5000石とな』った。徳川家綱の奏者番に始まり、老中としては綱吉・家宣・家継・吉宗と『4人の将軍に仕えたが、側用人制度には内心反対し、ポスト家継の後継争いの際、側用人の廃止を条件とし、徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍につくと、老中たちに口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えられた政直のみであった』とする。享保4(1719)年に老中を辞したが、本件に記される通り、後も格別の前官礼遇を受けた。『茶道を嗜み、小堀政一の門人の一人で』もあった。以下、ウィキの載せる経歴の内、主に加増に関わる部分を示す。

貞享元(1684)年  44歳 大坂城代に異動。加増2万石。

貞享2(1685)年  45歳 京都所司代に異動。

貞享4(1687)年  47歳 老中に異動。常陸国土浦に国替。加増1万石。

元禄7(1694)年  54歳 加増1万石。

元禄11(1698)年 58歳 老中首座に就任。

正徳元(1711)年  71歳 加増1万石。

享保3(1718)年  78歳 老中職実質免除、加増1万石。

享保4(1719)年  79歳 隠居致仕。

享保7(1722)年  82歳 1116日逝去。

・「嚴有院」第四代将軍徳川家綱(寛永181641)年~延宝8(1680)年)。

・「土屋相模守父但馬守」土屋数直(慶長131608)年~延宝7(1679)年)常陸土浦藩初代藩主。土屋忠直次男。徳川秀忠の命を受けて徳川家光の近習となり、後、若年寄・老中となった(以上はウィキの「土屋数直」を参照した)。以下、ウィキの載せる経歴の内、主に加増に関わる部分を示す。

寛永元(1624)年  20歳 従五位下大和守に叙任。500俵取。

寛永5(1628)年  24歳 200石(上総国)。

寛永10(1633)年 26歳 200石(常陸国)。

寛永18(1641)年 34歳 書院番組頭、駿府城番。

慶安4(1651)年  44歳 加増1000俵取。

承応2(1653)年  46歳 御側衆。

明暦2(1656)年  49歳 加増2000俵取。

明暦3(1657)年  50歳 加増1300石(常陸国宍戸)。

寛文2(1662)年  55歳 若年寄。計1万石。

寛文4(1664)年  57歳 加増5000石。

寛文5(1665)年  58歳 老中就任。

寛文6(1666)年  59歳 加増2万石。

寛文9(1669)年  62歳 加増1万石。計45000石の大名となる。

寛文10(1670)年 63歳 侍従に任官。

延宝7(1679)年  72歳 42日逝去。

・「土屋惣藏」土屋忠直(天正101582)年~慶長171612)年)安土桃山から江戸前期にかけての武将。上総久留里藩初代藩主。惣蔵は幼名。『天正10年(1582年)、「片手千人斬り」で有名な武田氏の家臣・土屋昌恒の長男として生まれる(生年は天正5年(1577年)や天正6年(1578年)という説もある)。父は忠直が生まれた年に天目山の戦いで武田勝頼に殉じ』、『忠直は母に連れられて駿河国清見寺に逃亡していた。やがて徳川家康の召し出しを受けて家臣となり、徳川秀忠の小姓として仕えるようになる。のちに秀忠の「忠」の字を与えられて、忠直と名乗』った武家の名門である。彼の場合も天正191591)年に相模において3000石、慶長7(1602)年には上総久留里藩主となり、2万石が与えられているが、慶長171612)年324日に31歳の若さで逝去している(以上はウィキの「土屋忠直」を参照した)。

・「加判の列」公文書に花押を加えるような重職の地位。江戸幕府にあっては老中職を言う。

・「隱居いたし度段」底本では鈴木氏はここに注して、「寛政譜」の政直の条を以下のように引用してこの間の事情を明確にされている(『(享保)』は鈴木氏補注と思われ、二箇所の「をいて」はママ。)。

「三年(享保)三月三日、政直重職にある事三十年余、齢も八旬にちかきより職をゆるさるといへども、猶しばしば登営すべきむね恩命蒙り、常陸国筑波、下総国相馬二郡にをいて一万石を加賜せられ、すべて九万五千石を領す。十日、これよりのち朔望の出仕には奥の廊下にをいて拝賀し、その余、営にのぼるときは老中伺候の席に参り、またみづから登営せざるの間にも家臣もて御気色をうかゞふべき旨仰下さる」

・「(が、暫く有りて一萬石御加増にて願の通り隠居被仰付けるが、)」底本にはこの右に『(一本)』と注がある。この通り、補って訳した。

・「石川自寛」未詳。諸注も載せず。但し、次の項「時代はうつりかはる事」によって彼の生年が元禄141701)年か翌元禄15年であることが分かる。土屋政直が老中職の実質免除と加増1万石を受けたのは享保3(1718)年のことであるから、その折に政直の家来であったとして、17歳か18歳――まさしく「紅顔の美少年」である(次項参照)。彼は、根岸の生まれる以前の将軍家及び幕臣絡みの出来事についての、「耳嚢」の有力な情報源の一人であった可能性が極めて高い。次の項も必ず参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 土屋相模守に御加増のあった事

 厳有院家継様の御代まで勤仕した土屋相模守政直殿の父上たる但馬守数直殿は、土屋惣蔵忠直殿の御次男で、五百俵取りの小禄から四万石余にまで昇進し、その子の相模守政直殿も父上と同じく引き続き老中を相勤め、一代で五万石の御加増を拝領された、当時計九万石余の御大名で御座った。

 この相模守政直殿が老年に至り、現役を引退の上、隠居致したき旨願い出たところ、有徳院吉宗様の御耳達し、老中職辞任に就いてはお許しになられたが、格別に、その後も登城は致すよう仰せ付けられたため、隠居の儀はお差し止めとなった。

 その後、暫くして相模守殿には更に一万石の御加増があり、当初の願い出通り、隠居の儀も仰せつけられ、許されたので御座ったが、その隠居後にも一度登城されたということである。その折りも、かつて老中職にあられた時の通りの仕儀を以って、御城内にて下座・御挨拶もなされ、その登城の際も、老中口よりお入りになられたということである。

 これは、その当時、相模守殿に勤仕(ごんし)して御座った石川自寛という「若侍」――今は既に八十歳余りになるが――私のもとを訪ねて来た折りに話して呉れたことにて御座る。古え、老齢にて御役御免という間際にあって、更に一万石もの御加増があったという、誠に珍しいこと故、ここに記しおく。

*   *   *

 時代うつりかはる事

 右老人自寛咄しけるは、同人事元祿十四年淺野家士報讐の年の生にて、大地震は覺へず、砂の降りし事はおぼろに覺へしが、強く降時は晝もくらく覺へける由。根津權現今の通御建立にてその砌殊の外賑ひし事も覺へたり。其外世の中の樣子思ひ合すれば悉く違ひし事、自寛抔若年の節は殊外若衆流行、渡り小姓抔とて大名旗本にて美童抔抱へし事也。自寛も壯年の頃は右渡り小姓をいたし、土屋家譜代にも無之、其砌より相模守に勤仕のよし。我も美少年にありしとかたりしが、唐詩の紅顏美少年半死白頭翁を思ひておかしく、爰に記す。

□やぶちゃん注

○前項連関:同じく石川自寛の談話。前項と同じく「古へ」の話でもある。

・「自寛」前項「石川自寛」注参照。

・「元祿十四年淺野家士報讐の年」これは根岸若しくは石川自身の誤り。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄151702)年1214日のことである。敢えて言うなら、前年元禄141701)年は、事件の発端である殿中での浅野内匠頭の吉良上野介刃傷に及んだ事件の年ではある。現代語訳は討入事件に合わせて元禄十五年とした。

・「大地震」元禄大地震のこと。元禄161703)年1123日未明に関東地方に発生した大地震。以下、ウィキ「元禄大地震」によれば、『震源は房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され』、『マグニチュードは8.1と推定されている』。大正121923)年の『関東大震災と同タイプの海溝型地震であり、震源分布図も類似することから関東大震災以前の関東地震であると考えられている。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌した』とある。但し、江戸の被害状況は比較的軽微で、『江戸城諸門や番所、各藩の藩邸や長屋、町屋などでは建物倒壊による被害が出た。平塚と品川で液状化現象が起こり、朝起きたら一面泥水が溜っていたなどの記録がある。相模湾沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、東海道の諸宿場でも家屋が倒壊した。上総国をはじめ、関東全体で12ヶ所から出火、倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名、被災者約37,000人と推定される。この地震で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。また、震源地から離れた甲斐国東部の郡内地方や甲府城下町、信濃国松代でも被害が記録され』た。『相模湾から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度であったという。また、鎌倉では鶴岡八幡宮へも津波が押し寄せ、伊東では川を遡った津波が水害を及ぼしたという。新島では津波で島が分断され、現在の式根島ができたという伝説もある。津波は九十九里辺りで5m、横浜で3mに達し、江戸でも日本橋を中心に約1mの津波があったと記録されている。六義園も被害を受け、ほとんどの松が塩害で枯れてしまい、元に戻すのに8代将軍吉宗の頃まで30年近くかかった。さらに北は釜石まで津波が届いている』。この地震に伴い、世間では『この年の3月(旧暦2月)に赤穂浪士46人が切腹しており、浪士たちの恨みで起こった地震と噂された。元禄地震は社会不安を引き起こし、翌元禄17年には虚説への取締を命じる町触が出されており、同3月には「宝永」への改元も行われた』という記載がある。自寛は2~3歳で、記憶がないのは当然。

・「砂の降りし事……」宝永4(1707)年1123日午前10時頃に始まった宝永大噴火のこと。以下、ウィキ「宝永大噴火」によれば、『噴火の始まる49日前の10月4日(1028日)に日本最大級の地震(推定マグニチュード8.68.7)といわれる宝永地震が起こった。この地震は定期的に巨大地震を起している2箇所の震源域、すなわち遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したと考えられている。地震の被害は東海道、紀伊半島、四国におよび、死者2万人以上、倒壊家屋6万戸、津波による流失家屋2万戸に達した』が、この『宝永地震の余震が続く中、1122日(1215日)の夜から富士山の山麓一帯では強い地震が数十回起こった。23日(16日)の10時頃、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが湧き上がり急速に大きくなっていった。噴火の始まりである。富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降下し家屋を焼き田畑を埋め尽くした。夕暮れには噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交うのが目撃された』とある。ここで自寛の言う江戸の降灰については、当時江戸に居住していた新井白石の「折りたく柴の記」の以下の部分を引用している。

「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。」

以下続けて江戸の状況。『江戸でも前夜から有感地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を多い、空から雪のような白い灰が降ってきた』。『大量の降灰のため江戸の町は昼間でも暗くなり、燭台の明かりをともさねばならなかった。別の資料では、最初の降灰はねずみ色をしていたが夕刻から降灰の色が黒く変わったと記されている』(伊藤祐賢「伊藤志摩守日記」による)。「折りたく柴の記」には更に、2日後の25日(18日)の条に『黒灰下る事やまずして』と降灰が記されているとある。『ここで注目すべきは最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっている事である。噴火の最中に火山灰の成分が変化していた証拠である。この時江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば2寸~4寸(5~10㎝)であるが、実際にはもう少し少なかったと推定されている。東京大学本郷キャンパスの発掘調査では薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2㎝積もっていることが確認された。この降灰は強風のたびに細かい塵となって長く江戸市民を苦しめ、多数の住民が呼吸器疾患に悩まされた。当時の狂歌でも多くの人が咳き込んでいるさまが詠まれている。

これやこの 行も帰るも 風ひきて 知るも知らぬもおほかたは咳

(蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」をふまえた歌)』

以下、「噴火の推移」が時系列で示されている。『宝永大噴火は宝永4年1123日(17071216日)に始まり12月8日(1231日)に終焉した。この期間噴火は一様ではなく最初の4日は激しく噴火したが、その後小康状態をはさみながらの噴火が続いた。以下噴火の推移を説明する。

1123日(1216日):昼前から噴火が始まる。火口の近くには降下軽石が大量に落下し江戸まで白っぽい火山灰が降った。午後3時頃小康状態となるが夕方から再度激しくなる。夕方からの降灰は黒色に変わり、火口近くにはスコリアが降下した。噴火は夜も続いた。

1124日(1217日):朝方一旦静まるが、その後小田原から江戸にかけて終日断続的に降灰。

1125日(1218日):前日同様朝小康状態のあと、断続的に噴火。江戸にも降灰。

1126日(1219日):江戸では断続的な降灰が続くが、小康状態の期間が多くなってくる

1125日~12月7日(20日~30日):噴火の頻度や降灰量が減っていった。

12月8日(1231日):夜になって噴火が激しくなる。遅くに爆発が観測され、その後噴火は終焉した。』

引用文中の「スコリア」“scoria”とは岩滓(がんさい)、火山噴出物の一種で、塊状・多孔質のものの内、一般には黒色・暗灰色(条件よっては紫色・赤色)のものを言う。

続いて「被災地の状況」が記載されており、関東の周辺域では『家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えが無くなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。当時の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施したが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかであった。そこで藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出た。幕府はこれを受け入れ周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、伊奈忠順を災害対策の責任者に任じた。また被災地復興の基金として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両で、残りは幕府の財政に流用された。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった』と被災後の状況を伝える。自寛は既に7~8歳であるから、もっと明確な記憶があるはずであるが、有に80歳を越えている以上、呆けも始まっており、致し方あるまい。

・「根津權現」現在、文京区根津に所在する根津神社。ウィキの「根津神社」によれば、日本武尊が1900年近く前に千駄木に祀ったとされる古社で、『文明年間には、太田道灌により社殿が創られたが、江戸時代になり、現在地に移転。現存する社殿も江戸時代の権現造である。「根津権現」の称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では使う人もいる。単に「権現様」とも称される』とあり、細かくは『社殿は宝永3年(1706年)の創建で、宝永2年(1705年)江戸幕府五代将軍・徳川綱吉が養嗣子六代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請した』ものであること、『権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)』の傑作とされており、現在、『社殿7棟が国の重要文化財に指定』されている、とある。ここで自寛が言う社殿建立は宝永3(1706)年であるから、彼は4~5歳で、時系列からは戻ってしまうが、所謂、その頃のことを思い出すという話柄にあっては不自然ではない。更に『東京大学の移転にともなって門前の根津遊郭は廃されて江東注区の州崎遊郭へと移転させられた』とあるので、今現在の様相とも、大きく異なっていることに注意が必要であろう。個人のHP「鬼平犯科帳と江戸名所図会」の「根津権現」のページに、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の「女掏摸お富」を掲げ、笠屋の女房、実は元名女掏摸であったお富が昔の稼業をネタに強請(ゆす)られ、根津権現の盛り場で再び掏摸を働こうという場面が引用されている(ルビは省略した)。

宏大なけ境内を包む鬱蒼たる木立に、蝉の声が鳴きこめている。

お富は、総門から門前町の通りへすすむ。

両側は料理屋がびっしりと建ちならび、客を呼ぶ茶汲女の声がわきたった。

リンク先には「江戸名所図会」(天保7(1836)年刊)の「根津権現」の画像が示されており、「耳嚢」記載時より50年程後の映像であるが、当時の様子が相応に偲ばれるものである。是非、ご覧あれ。

・「若衆」若衆道のこと。男性の同性愛を言う。個人を指す場合は、同性愛行為に於いて受け手役の少年を言う。この所謂、女役を務める時期について、ウィキの「若衆」は寛永201643)年に書かれた衆道書「心友記」(一名「衆道物語」とも)を引き、「衆道といふは、少人十二歳より二十歳まで九年の間也」と規定されているとする。その中でも「二八」(16歳)が妙齢とされており、寛文5(1665)年刊の楳条軒の筆になる「よだれかけ」(ネット上の別記事によれば本書全体は衆道書というより男色女色双方を比較検討した内容となっているそうである)巻五には「十六歳を若衆の春といふなり」という記述が認められるとある。また、「男色二倫書」(恐らく前掲「よだれかけ」巻五の内)』には、若衆の年齢を以下の3期に分け、それぞれの心得を教えている、と引用している。

主童道(1214歳)

幼い年頃らしく利口ぶらずにふるまうのがよい

殊道 (1518歳)

最も花のある時期であり、多感な年頃なのでただ清い嗜みでいるべき。

終道 (1920歳)

互いに「道」を助け、万事誤りの無きように殊勝な心の上に男の義理を添えて嗜むべき。よって「主道」ともいう。

最後に、以上の時期が過ぎても、念者(男役)と若衆の関係が終るとは限らず、井原西鶴の「好色一代男」の記述によれば、もっと前後が拡大されて7歳~25歳を若衆の時期としており、衆道を好む者の中には30歳の「若衆」を相手とする者もいると記す、とある。

・「渡り小姓」そのルーツは小草履取(こぞうりと)りに求められる。小草履取りとは戦国時代以後の武家に於ける男色の流行の中で、武士が草履取りの名目で同性愛相手として召し抱えた少年のこと。ウィキの「小草履取り」によれば、1516歳の眉目秀麗な少年で、『下に絹の小袖、上に唐木綿の袷を着て、風流な帯をしめ、夏は浴衣染めなどを着て、美しい脇差しをさし、客へ馳走の給仕にもだされ、供にも連れ歩かれなどもされたが、小草履取りが原因でしばしば喧嘩口論がおこったため、慶安年間には禁止されたが、寛文年間ころ再び流行し、のちに再度禁じられた』とあり(寛文は16611673年)、これが後に大名・旗本などに渡り奉公をした美少年、渡り小姓となったと考えてよい。

・「土屋家譜代にも無之」当時の「土屋家」当主は土屋相模守政直(前項注参照)。「譜代にも無之」は、土屋家の昔からの代々の家臣ではないことを言う。

・「相模守」土屋相模守政直(前項注参照)。

・「唐詩の紅顏美少年半死白頭翁」「唐詩選」に所収する初唐の夭折詩人劉廷芝(劉希夷とも 651678)の有名な詩「代悲白頭翁」(楽府題として「白頭吟」とも呼ばれる)の一節(16句の一部と14句の一部をカップリングした表現)。詩句には諸本により異同があるが、私のよしとするものを採り、訓読も敢えて定式でない読み方をした部分がある。

 代悲白頭翁

        劉廷芝

洛陽城東桃李花

飛來飛去落誰家

洛陽女兒惜顏色

行逢落花長歎息

今年花落顏色改

明年花開復誰在

已見松柏摧爲薪

更聞桑田變成海

古人無復洛城東

今人還對落花風

年年歳歳花相似

歳歳年年人不同

寄言全盛紅顏子

應憐半死白頭翁

此翁白頭眞可憐

伊昔紅顏美少年

公子王孫芳樹下

清歌妙舞落花前

光祿池臺開錦繡

將軍樓閣畫神仙

一朝臥病無人識

三春行樂在誰邊

宛轉蛾眉能幾時

須臾鶴髮亂如絲

但看古來歌舞地

惟有黄昏鳥雀悲

○やぶちゃん書き下し文

 白頭を悲しむ翁に代はりて

               劉廷芝

洛陽 城東 桃李の花

飛び來つて飛び去り 誰(た)が家にか落つる

洛陽の女兒     顏色を惜しみ

行(ゆくゆ)く落花に逢ひて 長歎息

今年 花落ちて 顏色改まり

明年 花開きて 復た誰(たれ)か在る

已に見る 松柏摧(くだ)かれて 薪と爲るを

更に聞く 桑田變じて      海と成るを

古人 復(ま)た無し 洛城の東

今人 還(ま)た對す 落花の風

年年歳歳 花相似たり

歳歳年年 人また同じからず

言を寄す   全盛の紅顏子

應に憐むべし 半死の白頭翁

此の翁    白頭眞に憐むべし

伊(こ)れ昔 紅顏の美少年

公子王孫  芳樹の下(もと)

清歌妙舞  落花の前

光祿池臺 錦繡を開き

將軍樓閣 神仙を畫(ゑが)く

一朝  病ひに臥して 人の識る無く

三春の 行樂     誰が邊にか在る

宛轉たる蛾眉  能く幾時ぞ

須臾(しゆゆ)にして鶴髮 亂れて絲の如し

但だ看よ 古來歌舞の地

惟だ黄昏 鳥雀の悲しむる有るのみ

○やぶちゃん語注

・「松柏」マツ裸子植物門マツ綱マツ目マツ属 Pinusの類や、マツ目ヒノキ科コノテガシワPlatycladus orientalis。中国では古来、墓地に植えることが多かった。

・「言を寄す」呼びかけを示すため、冒頭に置く語句。以下、紅顔の美少年たちへ、白頭翁が直に注意を喚起する構造。

・「伊れ」下に置く語を強調する語。

・「光祿池臺」前漢の政治家王根(?~B.C.6)。前漢の第11代皇帝成帝(B.C.51B.C.7)の皇太后の異母弟として権勢を揮い、B.C.12年に光禄大夫(光禄勲のこと。皇帝に政策進言等を行う相談役)となった時、邸宅の庭に広大な台を築いて皇帝の宮殿を模した建物を建てて豪奢を誇り、その噂が市井で流行歌にさえなったという。

・「錦繍を開き」豪奢な錦と絢爛たる縫い取りを施した絹織物で出来た帷を張り巡らせること。若しくは華麗荘厳な建物をそれらに擬えた表現。

・「將軍」後漢の政治家梁冀(?~159)のこと。順帝(115144)・桓帝(132167)の皇族(順帝の皇后は彼の妹)として権勢を揮い、141年父が死ぬと後を継いで軍の最高位である大将軍となった。1961年岩波書店刊の「唐詩選」で前野直彬氏は、彼は『華美を尽くした生活を送った。ある時、宏大な屋敷を建て、その壁に神仙の像を描かせたという。神仙の不老不死にあやかろうとしたものであろう』と注する。後、横暴驕慢激しく、遂に桓帝によって捕縛命令が出され、『梁冀は妻と息子の梁胤と共に自害し、梁一族も悉く処刑された』が、その『没収された梁冀の財産は国家の租税の半分ほどあり、梁冀に連座して死刑になった高官は数十人、免職なった者は300人余りになり、一時朝廷は空になるほどだったという』(引用はウィキの「梁冀」より)。

○やぶちゃん現代語訳

 白頭を悲しむ翁に代わりて詠める

                 劉廷芝

洛陽城の東(ひんがし)に 桃や李(すもも)の咲き乱れ

風に吹かれて 飛ぶ花は 何方(どなた)の屋敷にそれ散らす

洛陽城の乙女らは ただひたすらに顔(かんばせ)の うつろいゆくを惜しめども

やがては己(おの)が世の春の 終る落花におち逢(お)うて ただ溜息をつくばかり

今年 花散り 行く春に 美人の色香も変わりゆき

来年 花咲く その日迄 一体誰(たれ)が生きて御座ろう

既に見た――墓地にあったる松柏(しょうはく)の くだかれ薪になり果つを

更に聞く――見渡す限りの桑畑(くわはた)の 大海原となりぬるを

昔日 花散る洛東に 嘆いたあの子は もういない

今のお人は これもまた 花散る風に 嘆きをる

来る年毎に 咲く花の 姿容貌(かたち)は変わらねど

来る年毎に 見る人は 同じき人はひとりとてなし……

――この世の春を 謳歌する 類稀なる紅顔の 美童よ どうか

 憐れめや 棺桶片足突っ込んだ 白髪頭のこの儂を……

白髪頭のこの儂は 如何にも憐れな者なるも

これでも昔は紅顔の したたるような美少年

貴公子連と 手に手をとり 花香ぐわしき木(こ)の下(もと)に

集うては散る花びらの 前に歌って舞いを舞う

光禄大夫王根に まごうかという宴(えん)開き

梁冀将軍楼閣の 如き館に神仙の 姿描きて長寿を請うた……

――されど一度(ひとたび)病に臥せば 訪ね来たれる友もなく

――三月(みつき)の春の享楽は 二度とこの手に戻りゃせぬ

――眉目秀麗 婀娜なる美形 それも長くは続かない

――忽ちにして白髪の 乱れ散たる糸の如

――見るがよい そなたがかつては舞ったあの 芳(かぐわ)しき香の花の園

――今ぞ聴け 人気(ひとけ)去ったるかはたれ時 小鳥ら 哀れに鳴く その声を……

■やぶちゃん現代語訳

 時代は移り変わる事

 また、この石川自寛殿は、こんな話もして御座った――。

「……儂は元禄十五年、かの浅野家家臣御一党が、吉良に美事、仇討ち本懐を遂げなさった年の生まれで御座ったが……いいえ、流石に翌年の大地震は記憶に御座らねど……その四年後(のち)の宝永の富士山の噴火!……あの折り、江戸に仰山、砂が降った……それは朧ろ気に覚えて御座りますなぁ……そうさ、多く降った折りには、昼なるに夕暮れの如、薄暗うなりました……はあ?……はい! あの、今ある根津の権現さま!……あれが新しう建立されましてな……いや、その節は……もう賑やかなこと!……他にも、へえ、世の中の様子は、そりゃもう、あんた! 随分、今とは違うて御座りましたのう……儂が若い頃は、いやもう、ほれ、あの若衆道が大流行(はや)り!……渡り小姓なんどと申しまして……大名旗本衆におかせられては、美童をたんと抱えて御座った……かく言う儂も、えへん!……若い頃は、その、渡り小姓をして御座っての……それで……まあ、土屋家の譜代の家臣でも御座らぬに……かの相模守様の、その御元にて、かく勤仕申し上げ奉った、という次第……

……いやぁ! あの頃の儂も……誠(まっこと)美少年にて御座ったよ…………」

――私はそれを聴きながら、内心、唐詩の「紅顔美少年半死白頭翁」の一節を思い出して、思わず笑ってしもうた――なればこそ、ここに書き記しおくものである――。

2010/01/19

耳嚢 有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事

「耳嚢」に「有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事」を収載した。

 有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事

 賢君或時、羅漢寺筋御成の時、大雨にて御召物も悉く雨濡れに被爲成候間、御膳所(ごぜんどころ)羅漢寺へ御立寄被遊、御裸に被爲成、御上げ疊の上に御着座被遊、其儘にて住僧を被爲召、上意有之けると也。天下の主將はかく御取餝(かざり)なき事左も有るべき事也。其節羅漢寺御目見(おめみえ)の節、雨天は如何に候得共御獲物も多く恐悦の段申上けるを、御側廻りの若き衆、上の御機嫌克(よき)を恐悦とは可申事ながら、出家の身分にて御獲物の多(おほき)を祝しけるは何とやら似氣(にげ)なしと笑ひければ、達上聞、若き者共却て心得違なれ、出家にても其身こそ殺生はいましむべけれ、將軍の放鷹(はうよう)に得物あるをば可祝事也、流石に禪僧也とて却て御賞美ありけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に認められない。一貫して認められる根岸の畏敬する徳川吉宗の事蹟連関である。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡(おく)り名。

・「羅漢寺」目黒区下目黒に現存(但し、本文の場所は後述するように異なる)現在の正式名は天恩山五百羅漢寺とする(宗教法人としては羅漢寺)。本件当時の宗旨は黄檗宗(現在は浄土宗系単立寺院)。開基松雲元慶、開山鉄眼道光、本尊釈迦如来。名前の通り、305体の羅漢像を祀る(創建当初は536体あった)。当初は本所五ツ目(現・東京都江東区大島)に所在し、本話柄の位置もそこである。創建当時より将軍家の信仰厚く、徳川綱吉や本話主人公徳川吉宗などが帰依して発展したが、建立された場所が埋め立て地にあったことから、度々洪水に襲われ衰退、明治201887)年に本所緑町(現・東京都墨田区緑4丁目)にまず移転、後、明治411908)年の末に現在の目黒に移った。以下、参照したウィキの「五百羅漢寺」から引用する(記号の一部を変更した)。『当寺の五百羅漢像は開基の松雲元慶(16481710)が独力で彫り上げたものである。松雲は京都の出身で、「鉄眼版一切経」で知られる黄檗宗の僧・鉄眼道光に師事した。松雲はある時、豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願した。貞享4年(1687年)、40歳で江戸に下向した松雲は托鉢で資金を集め、独力で五百羅漢像など536体の群像を造る。羅漢寺の創建は元禄8年(1695年)のことで、松雲が開基、師の鉄眼が開山と位置づけられている。当時の羅漢寺は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島3丁目)にあった』。『3代住持の象先元歴(16671749)は、羅漢寺中興の祖とされており、彼の時代に大伽藍が整備された。象先は正徳3年(1713年)に羅漢寺住持となり、本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍を享保11年(1726年)までに建立している。三匝堂は江戸時代には珍しかった三層の建物で、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の百か寺の観音を祀ったことから「百観音」ともいい、その特異な構造から「さざえ(さざゐ)堂」とも呼ばれた。建物内部は螺旋構造の通路がめぐり、上りの通路と下りの通路は交差せず一方通行となっていた。三層にはバルコニーのような見晴台があった。この建物の様子は葛飾北斎が代表作「冨嶽三十六景」の中の「五百らかん寺さざゐ堂」で描いているほか、歌川広重、北尾重政などの浮世絵師も題材にしている。松雲元慶の造立した五百羅漢像は本殿とその左右の回廊状の東西羅漢堂に安置され、参詣人が一方通行の通路を通ってすべての羅漢像を参拝できるよう工夫がされていた。「江戸名所図会」などの絵画資料を見ると、参拝用の通路はゆっくり参拝する人たちのための板張りの通路と、旅人が土足のままでも参拝できる通路とに分かれ、それぞれの通路が交差しないようになっていた』(引用元のウィキの「五百羅漢寺」に該当の葛飾北斎作「冨嶽三十六景」の「五百らかん寺さざゐ堂」画像有り)。『安政2年(1855年)の安政の大地震では東西羅漢堂が倒壊するなどの大被害を受けた。明治以降寺は衰退し』、先に記した通り、現在地に移転したが、『この間、明治23年(1890年)にはチベット探検で知られる河口慧海(18661945)が当寺に住し』たことがある。近代以降の当寺の歴史はリンク先でお読み頂くとして、最後に一言申し上げたい。私が長々と本寺の引用を行ったのは、ここが私にとって、数少ない好きな東京の寺の一つ、であったからである。今は画像や説明によると、立派なコンクリート製の建物に変容してしまったらしいが……孤独な私がたびたび足を向けたあの頃(大学時代、私は上目黒に下宿していた)は、閑静な場所にあった木造の寺院で、夕刻に訪れると人気もなく、堂の中にぎっしりと居並ぶ羅漢に不思議なエクスタシーを覚えるのを常としていた……そうして、その羅漢のど真ん中に……そいつは居たのだ……白沢(獏王)一軀……私は、これが好きでたまらなかった……私は、こいつに逢うために、わざわざ30分もかかる銭湯まで足を延ばして、ここを訪ねたものだった……そのチュパカブラのように異形でキッチュで慄っとするほど素敵な顔と牙に……私はよく、そっと指を触れたものだった……勿論、あの頃も、そして今も……僕の夢は悉く、実際の夢はおぞましくて、現実の夢は完膚無きまでに打ち砕かれたものであったのだが……僕は死ぬ前にもう一度、あの獏を見ておきたい……僕と言う悪夢を獏に食べてもらうために…………

・「御膳所」将軍家外出の際の食事や休憩をする場所。「ごぜんじょ」とも読む。

・「御上げ疊」貴人の座所として畳を重ね敷いた場所を言う。

■やぶちゃん現代語訳

 有徳院様御鷹狩りの際の事 附羅漢寺住持の将軍家御接待の際の殊勝なる事

 賢君吉宗公が、鷹狩りのため、本所五ツ目にある羅漢寺近辺に御成になられた際、折柄、大雨に見舞われ遊ばされ、お召し物も悉くお濡れになってしまわれた故、御一行は急遽、従来、御膳所であった羅漢寺にお立ち寄りになられることと相成った。

 上様は素っ裸のまま御上げ畳に着座遊ばされ、そのままにて、羅漢寺住持をお召しになられると、急の御成りに就き、労いの御言葉をおかけになられたということである。

 天下の大将軍たるもの、かくおとり飾りなんどをなさらざるということ、誠に有難きことなるかな!

 ――――

 さてもまた、まさにその羅漢寺住持お目見えの折りのことで御座る。住持は一声、

「――雨はかく候えども、上様におかれましては、御獲物も多く、恐悦至極に存ずる――。」

と申し上げたのを、御側周りの若衆が聴きつけ、

「……上様の御機嫌麗しきことを伺い、恐悦至極と申し上ぐるならば、まだしも……出家の身分にて、御鷹狩りの御獲物多きことを言祝ぐは……何やらん、似つかわしからざる……。」

なんど申して笑って御座ったところが……

 たまたま、これが上様のお耳に達するや、即座に聞き咎めなさると、

「お主ら若い者どもは、とんだ心得違いを致いておる――。出家なれば、己(おの)が自身、殺生を行(おこの)うこと――これをこそ戒むべきものにてはあれど――将軍家の放鷹(ほうよう)に獲物あるを言祝ぐは、これ、当然のこと!――いや、美事! 流石は禅僧じゃ!」

と仰せられ、却ってこの住持を、大層お褒め遊ばされたということである。

2010/01/18

浅川マキへ

「不幸せ」という猫を抱いてお前は逝っちまったが……

それでお前の娼婦の年季は終わったなんて思うな!……

俺は4丁目で曖昧宿を開く……あの3丁目の先の、な……

お前には、まあだ、その老いさらばえた体で働いてもらわなきゃ、なんねえんだよ!……

娼館の名はとっくに決めてあるゼ……

朝日樓別館「裏窓」……

どうだい?……ちょいと気に入ってくれると思ってるんだ……

勿論、店開きにゃ……俺と田浩の二人……マキ! お前を千日買い上げするゼ!……

そこで俺は……お前に寝物語で教わった、あの「ケンタウロスの子守唄」をお前の耳元で唄ってやる……

……お前の歌、だ?……馬鹿言ってんじゃねえゼ!……俺が聴きてえのは勿論、「セント・ジェームズ医院」に決まってるじゃねえか!……南里さんもペットを磨いて待ってる!……

……マキ……お前は死んでも、な……俺の愛した……たった一人の娼婦、なんだ……

昔の話なんぞ、もうまっぴだ!――

浅川マキ――

僕の、おぞましい惨めな青春の、ババ・イアガ! 血塗られた美神!――

――僕はお前の……あの艶曲「グッド・バイ」を……今夜、エンドレスで聴く……そうして、お前の匂いたつ、ヴァギナに口づけして窒息する……

   ――

今は……静かな夜――

丁度……いい季節――

誰も……知らない……抜け道を――

急ぐあなたが……見える――

自分に……さえも……さよならした――

あなたの……背中が……行く――

もう……愛さないの――

闇を翔けるさすらいびと――

……闇を………

翔けるさすらいびと――

***

クソがっ!

好きな奴ばっかり、死にやがる!!!

2010/01/17

和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類 山精

「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」に「山精」を収載した。

奥村公延氏追悼

僕にとっての奥村氏の最初の記憶は、小学校3年の昭和41(1966)年3月6日(日)であると、はっきりと言い切れる――

その日放映された「ウルトラQ」第10話「地底超特急西へ」で氏は、いなずま号の小山運転士を演じられた――

ゴリラみたようなM1号に腰を抜かすシーン、M1号が占拠した(イタチがいることも知らず)先頭運転車両を切り離す際の神頼みと、切り離しに成功した時の笑顔(本来の奥村氏の誠実さを象徴するような笑みである)が、今も鮮やかに蘇る――

バイプレーヤーとして、いつも記憶残る演技を、奥村さん、ありがとう!

耳嚢 奇病并鍼術の事

「耳嚢」に「奇病并鍼術の事」を収載した。

 奇病并鍼術の事

 廣瀨伯鱗は放蕩不羈にして、鍼醫(しんい)を業とし予が方へも來りし事あり。口并兩手双足(りやうあし)に鍼をはさみ人に一度に施す故、吉原町抔にては五鍼先生といへる由。彼者安藤霜臺(さうたい)の方へ來りし時、同人祐筆(いうひつ)何某(なにがし)を見て、御身は不快なる哉(や)と尋けるに、不快也と答ふ。暫有て惣身(そうみ)汗を流し面色土のごとく也。伯鱗是を見て肩へ一鍼を下しければウンといふて氣絶せしを、足の爪先へ又一鍼を下(おろ)し息を返し、夫より一兩日療治して快氣しける。伯鱗教示しけるは、御身來年の今頃を用心し給へ、又かゝる病氣あるべし、其時療治せば命恙なしと語りしが、翌年に至り其身も忘れけるや、霜臺のもとを暇を乞ふて神樂坂邊の武家に勤けるが、果して翌年同病にて身まかりしとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。寧ろ、祐筆の命に関わる奇病は、二項前の「天命自然の事」と連関するか。それにしてもこの奇病、致命的疾患は一体、何だろう。循環器系、脳血管系、心臓疾患等が疑われるか。鍼灸術から言えば肩に一鍼が勘所らしいが、医師・鍼灸医の方、お分かりになるならば、是非とも御教授を願う次第である。

・「廣瀨伯鱗は放蕩不羈にして」「廣瀨伯鱗」なる鍼医は不詳。「放蕩不羈」(ほうとうふき)は一般には、我儘で、好き勝手に振舞い、酒色に耽って品行定まらざるマイナス・イメージであるが、ここではもう少しフラットに、何ものにも束縛されず、思う儘に人生を送っていることを言うか。但し、かの吉原(これは勿論、新吉原)で五鍼先生と呼ばれるという辺りは、酒色も無縁ではなさそうだ。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。お馴染みの根岸の情報源。

・「祐筆」右筆とも。武家の職名で、各種文書・記録の作成・書写・代筆を掌る。

■やぶちゃん現代語訳

 奇病並びに鍼術の事

  広瀬伯鱗は自由闊達、勝手気儘な人柄で、鍼医を生業(なりわい)と致いており、私のもとにも訪ねて来たことがある。何でも口並びに両手指・両足指の五箇所に計五本の鍼を同時に挟み、それをまた、一気に施すことが出来るとかで、吉原町なんどでは『五鍼先生』と呼ばれて評判の由。

 さて、この者が、私の友人安藤霜台殿の屋敷を訪ねた折りのことである。伯鱗が、同席して御座った安藤家祐筆の様子をまじまじと見て、

「……御身は御気分が優れぬのでは御座らぬか?……」

と徐ろに訊ねた。祐筆は、

「……如何にも、何やらん不調にて御座って……」

と答えたが、やがて瞬く間に、総身から汗を吹き出だしたかと思うと、顔色もまるで土の如くに生気を失ってゆく――そばに御座った伯鱗、これを見るや、

――祐筆が肩へ、さっと一鍼打ち下す――と――祐筆、

「ウ――ン!」

と唸ったかと思うと、気を失う――伯鱗、間髪を入れず、

――足の爪先へ、すっと一鍼打ち下す――と――祐筆、

「プ――ウ!」

と息を吹き返した――。

 ……何でも、そのまま伯鱗が一両日療治を施し、快気致いたという。

 ……ただ、快気の後、この祐筆に対して伯鱗が言うことには、

「……御身、来年の丁度、今頃――用心なされよ――再び、このような症状が現れることで御座ろう――その際に、再応、同じ療治を施さば――この病、完治致す――その後は、この病にては、命に関わることは一切なくなり申す……。」

とのことで御座った。

 ……ところが翌年になって……この祐筆、伯鱗の言葉をうっかり忘れてでもいたので御座ろうか――実は彼、この療治の一件のあった後、霜台殿に暇を乞うて、神楽坂辺りの別な御武家に勤め替えをして御座ったれば、霜台殿も是非に及ばず――果たして翌年同じ時節、この同じ病いにて……身罷ったということで御座った……。

2010/01/16

エルモライの日記

……ミンノー県の牧場の荒廃はひどいもんじゃ……今日、久しぶりに兎狩りに出て50数匹しとめたんじゃが……荒れた牧場の何と多いことか……今、儂がお許しを得て巡回しておるミンノー県の農園は全部で35……半年前は50はあったに、既に廃園となったものの、なんと多いことか……ところが回ってみたら、そのうちの22の牧場は、兎しかおらん……既に農園主は革命を怖れて、フランスやドイツへ移られたか、さもなくば農場ごと、イ・サンシャンに新しく出来たコルホーズに移って御座るようじゃ……因みに御主人様は腐れ縁でイ・サンシャンにも農園と牧場を持って御座るが、先だって同所にあった深海飼育槽と動物無憂宮は、御主人様のご勘気に触れ、お手放なすった……儂もあの、少しも魚類学を知らぬ深海飼育事務所の監督には嫌気が差して御座ったし、動物無憂宮の動物で可愛いのはウサギだけで育て甲斐もあらなんだて……話をミンノー県の農政に戻そう……ミンノー県の役所は先週当たりから『傷ついたサイの子どもを助けよう』なんどというスローガンを掲げて、農園主の流出を押えようとしておるようじゃが……なかなか……因みに、儂は、サイを救おうと思う気持ちはやまやまなれど……携帯何とかという電信器がなくては、まかりまらんというお達しなれば……ごめんなサイ、じゃて……何でも、今のミクシア共和国は携帯なんじゃらを持たぬ人間は戸籍がとれんらしいの……儂は遠い昔から住んでおったから救われておるが……そうそう、先日も、役所の「牧草地拡張援助計画」とやらに騙されて、何人かの友人に手紙を出してみたが(出せば自動的に牧草地が増えよると書いてあったれば)……ところがじゃ……実はもう、今の牧草地が限界じゃったんじゃ……子供騙しの、打出の小槌みたようなもんが送られてきただけで、何のことはない安い家畜5匹の配給で、うまいこと騙されてしもうたじゃ……そういえば、思い出した……恨んでも恨みきれぬは八飛水族館じゃて……儂は……可愛い曾孫の代まで、魚を丹精込めて育てて御座った……珊瑚や海藻も仰山飾った……じゃが、分けの分からん電脳テロに遭(お)うての……あっという間に一族皆殺しにされてしもうた……今年の初めのことじゃった……八飛人民共和国政府は幾ら言うても一向に保障もしてくれんかったし、未だに再開可能の報知も呉れぬわ……実際、何度も再開を試みてはみたが、テロリストにやられた水槽の残骸しかない……今も全く、そのままじゃ……アプリ・ゲールはやっぱりだめじゃ……さすればこそ、ミンノーやイ・サンシャンも……そろそろ潮時かも知れんのぅ……

3年前の君からのメール

ついさっき、メールを開けて見たら、以下のメールが着いていた。「送信日時」に御注目頂きたい。

送信予約機能か何かに、きっとバグがあったのかも知れぬ。

でも、何だか嬉しくなった――

2年C組○○○○です。
 
送信日時:Thu 02/22/2007 16:22:08
 
お久しぶりです。
年度末で、先生はご多忙のことと思います。

って、堅苦しいのは相変わらず苦手な僕です(笑)
先日、とりあえず入試ってやつから解放されました!!

まだ、××大学(××学部)の発表が残ってますが、
××大学の合格しました!!
二年生の頃の俺からは、考えられないでしょ?(笑)

で、ここからが本題です。

2Cの子羊たちは受験が終わったら、やぶさんと飯が食いたい!と、
メェーメェー鳴いております。
日時とかは未定なのですが、都合はつきそうですか?

勿論、この同窓会には出席させてもらった――忘れられない嬉しい思い出であった――思い出をもう一度思い出させてくれた、この到着するのに三年かかったメールに――僕はキスをする――

和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類 やまわろ

「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」に「やまわろ」を収載した。

耳嚢 舊室風狂の事

「耳嚢」に「舊室風狂の事」を収載した。

これも頗る附きで僕の好きな話である。だから注もマニアックになったし、訳も一ひねりしてある。御笑覧! 御笑覧!

 舊室風狂の事

 寶暦の頃迄俳諧の宗匠をしける舊室といへるは、丈高く異相の僧にて面白き氣性者也。聊にても慾心なく、纔かの一衣も興に乘じては人に投與へ抔しけるが、或日麻布邊の武士屋敷門前を通りしに、劍術稽古の音しけるを聞て、頻りに一本遣ひ見度(みたき)心より、玄關へ至り案内(あない)を乞て、御稽古拜見を願候段申入ければ、則座鋪(ざしき)へ請じけるに、色黑き大の法師故、全(まつたく)天狗の來りて慢心を押へるならんと集りし者もさゝやきけるが、主人は年若き人故相應の挨拶有ければ、兎角しなひ打壹本いたし度由故、道場には無之、内稽古なればと斷りけれど、達(たつ)て一本立合度と聾し故、無據(よんどころなく)立會しに、元來宗匠なれば武邊の事知るべき樣なく、只一本にてしたゝか頭を打れけるが、やがて座敷に上り扱々いたきめに逢し也。硯紙を給へ迚筆墨を乞て、

  五月雨にうたれひら/\百合の花   舊室

と書て歸りぬ。跡にて人に語りければ、例の舊室也と大に笑ひしとかや。或時外(ほか)宗匠共と一同諸侯の許へ被呼、俳諧濟て一宿しけるが、其臥る所の床の間に出山(しゆつさん)の釋迦の懸物ありしを、殊の外に譽て讚をいたし度(たし)と申けるを、同列の宗匠以の外叱り、御道具を汚し候事かゝる事あるまじと再應教諭しければ、承知の由にて臥りしが、夜更獨り起て黑々に讚をなしけると也。

 蓮の實の飛んだ事いふ親仁哉

かゝる活僧也しが、酒はいましむべき事也、一年本所邊の屋敷俳席の終りて歸る時、送りをも付んと有しを斷、獨り歸りけるが、いづくにて踏外しけるや入水して身を終りけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:前項は如何にも「耳嚢」としてはリアルで暗い話柄で、連関を感じさせない。奇癖と奇行で二項前と連関。因みに、本話も私の大層好きな一篇で、句はどうということはないにしても、話は極めてフォトジェニックで面白い。現代語訳では、その面白さを効果的に示すための、オリジナルな演出を施させてもらったことを断わっておく。

・「寶暦」西暦175164年。

・「舊室」笠家旧室(かさやきゅうしつ 元禄6(1693)年~明和元(1764)年)。江戸の俳諧師。初号、鰐糞。別号、活々土・活々井・活々坊・天狗坊・岳雨など。後に姓を活井(いくい)と改む。笠家逸志(いっし 延宝3(1675)年~延享4(1747)年:椎本(しいのもと)才麿に師事して点者となった。)に師事し、享保201735)年に宗匠となる。初代笠家左簾(されん 正徳4(1714)年~安永8(1779)年:新吉原娼家の主人で逸志に師事し、後、江戸宗因座の点者となった。)と共に江戸談林派の中興に功があった。奇行逸話が多い。以下、文化131816)年刊の竹内玄玄一「俳家奇人談」(1987年岩波書店刊雲英末雄校注)にあるものを引用する(ここでは姓を「かつい」と読んでいる。風狂の彼にしてみれば、まあ、どちらでもよいであろう。読み違える可能性のない読みの一部を省略した。〔 〕は左の振り仮名)。

     活井旧室(かついきゅうしつ)

 活井旧室は江戸の人、梅翁の風を慕ひ、俳諧に鍛錬なり。あるひは聒々(かつかつ)坊ともいへり。身の丈(たけ)大にして、人のぞんでこれを懼る。世に天狗坊と称せらる。その性つねに酒を好む。一日(いちにち)酔興して、ある撃剣家(げきけんか)〔けんじゆつつかひ〕の軒に立寄りけるが、面白き事に思ひ、その道場へよろめき入りて、師と試合ん事をのぞむ。師もその容貌のたくましきを感じ、まづ高弟と立合はしむ。室なんの苦もなく打ちすゑられ、たちまちしなへ投出して、

   夕立にうたれて肥る田面(たづら)かな

 皆これを見て見掛倒しなる坊なり、と口を揃へて笑ひしかど、またその風流あるを羨みしとかや。節分の夜外より帰るさ、ある酒店によりて酒いだせよと呼ばはれども、豆囃(まめばやし)のいとなみ多用なりしにや、はなはだ不相愜(ふあいしらい)なり。室怒りながらその家を出て、

   這入ても喰物はなし鬼は外

 ある年の三朝に、

   日本紀や天地一枚あけの春

 また孔子の賛、

   豊年をしれとかかしののたまはく

 釈迦の賛、

   蓮の実のとんだ尊いふ親父かな

 その気象大卒(おおむね)この類なり。

前半部は本篇と同エピソード乍ら、発句が異なる。いずれの句も確かに諧謔性に於いては美事である。以下、簡単に私の注を附しておく。

☆「梅翁」:談林派の祖である西山宗因の別号。

☆「不相愜」:「愜」(音は「キョウ」)は、快い、満ち足る、の意であるから、接客が満足出来るものでなかった、客あしらいがけんもほろろであることを言うのであろう。

☆「三朝」元旦のこと。1月1日は年の朝・月の朝・日の朝の三つを兼ねることから。

・「達て一本立合度」岩波版では『遮(さえぎつ)て「一本立合度」』とあるが、こちらの方がいい。

・「五月雨にうたれひら/\百合の花」「うたれひら/\」の部分、底本の右には『一本「うたれてひらく」』と注する。「うたれひら/\」なら、

やぶちゃん通釈:

……興に乗じて一本を、所望してはみたものの、したたか打たれて頭を抱え、床に平伏したこの儂は、恰も今日の五月雨に、うたれて謝る百合の如……

但し、自身を百合の花とするところが、禅的な風狂とも言えるように思われる。但し、「ひら/\」は句として力を欠き、へな/\した印象を免れない。

「うたれてひらく」ならば、一打を受けて俄然、禅の開悟の境地のパロディとなる。

やぶちゃん通釈:

――興に乗じた一本を、所望し打たれた我が心、ぽん! と開いた百合の花――

しかしこれでは、如何にも臭う禅機の句となり、好かぬ。いずれにしても、句柄としては私の好みではない。

・「出山の釋迦」29歳で出家した釈迦は、山に籠もって6年の難行苦行を終えるが、真実(まこと)の悟りを得ることが出来ない。その彼が更に真の悟りを求めんがために、雪山を出る、という釈迦悟達の直前の場面を言う。水墨画禅画の画題として多く描かれる。一般には、ここでの釈迦は痩せこけたざんばら髪、伸びた爪、浮き出た肋骨といった姿で描かれることが多い。釈迦の真の悟りは、その直後、ガンジス川の畔ブッダガヤの菩提樹下で達成される。

・「蓮の實の飛んだ」他の「耳嚢」を現代語訳したサイトやブログを管見したところ、「蓮の実が飛んだ」ようなというのを元気な若者が調子づいて無鉄砲なさま、若しくは、そうしたはじけるようにお調子者の若者としている。しかし、私はそもそも「蓮の実が飛んだ」ところ、弾けたところを見たことがない。試みに、ネットで検索しても、蓮の実が弾ける事実を証明した記載も写真もないし、見たという記載も見当たらない。そこでつくづく蓮の実を見てみると、連送砲のような花托、花床に詰った弾丸状の実は「飛び」そうではある。しかし、考えてみれば、「はす」は「蜂巣(はちす)」の略なのであってみれば、鉄砲の弾なんぞが存在しない以前から蜂の巣に見立てられたそれは「飛ぶ」のではなかったか? なんどと考えながら、ネット・サーフィンをするうちに……ズバリ! 出たぞッ!……蓮の実が飛ぶという伝承が古来からあった! 矢島町教育委員会の(ものと思われる)「秋田県矢島の神明社八朔祭」についての民俗学的考証の「第二章 八朔祭の伝承」にある「3、秋田県内の八朔祭・県外の八朔祭との比較」のページに以下のように記される(失礼乍ら、衍字・誤字としか思われないものが多数あり、私の判断で訂正、記号の一部も変更してあるのでリンク先をも確認されたい。下線部も総て私が施したものである)。同県の

『河辺郡地方では、八朔『一日は俗に八朔の朔日と称し、赤飯若しくは餅を搗きて祝ふ。此朝蓮の実飛び、若しこれにあたるときは、ハツチ(骨膜炎)を病みて不具になるといひ伝へ、外出することを忌む。若し不已むを得ず外出するときは、餅其他の食物を食ひて出るを例とす』(秋田県河辺郡役所「河辺郡誌」/大正6年3月)。同じような風習は象潟町長岡でもいわれてきた。この日に蓮の実が飛ぶのを見ると病いに罹る、というので家で休んでいる。他に八朔は厄日ともいうところも多い。本荘市埋田、葛法では、この日の朝に蓮の実が飛び、もしこれにあたると骨膜炎を病んで不具になるといわれ、外出を忌み、止むを得ず外出する時は、生米か餅を食べてから外出するように言われていた。したがって、この日を二月一日と同様に厄日といい、かつては休みの日とされた。この日に赤飯・餅などをつくる家が今もある(本荘市編「埋田・葛法の民俗」/1991.3/本荘市史編さん室)というのだ。河辺地方と本荘では全く同じことがいわれてきたのである。南内越(本荘市)でも同じだが『南内越村誌』(旧版/明治38年)には、「八月休業」「朔日(三朔日ノ一ナリト云フ)」とあり、休みとしていたが、同郷土誌の新版(昭和5年)では「俗ニ八朔ト称シ、当地方ノ言ヒ伝ヘニ此日蓮ノ実飛ビ、是ニ当タル者ハ"ハッツ"ト称スル病ニ罹ルト、"ハッツ"ハ現今ノ骨膜炎ナリト言フ、当地ノ慣習トシテ朝仕事二出掛クル際何カヲ食スル奇習アリ(朔日ハ中世農家稲ノ初穂ヲ禁裏ニ献ゼシモノナリト言フ故ニ、此日ヲ田ノ実ノ節ト称シ、世ニ其訓ヨリ愚ノ節句トモ抄ス)」と記される』

とある。また、

『平鹿町では、八朔のついたちと呼んで、田に入ってはいけない日といわれた。農家ではその年の田の実の節供といって祈ったともいう(平鹿町史編纂委員会編「平鹿町史」/昭和59年9月/平鹿町)。河辺町ではこの日赤飯や餅を搗いて祝い、この日田に入ってはいけないし、朝には蓮の実が(ハッチ)が飛ぶとされて、これが体に当たると病気になるというので外出を忌むものだった。やむを得ず外出する人は、餅を食べて出るとその難を免れるといわれてきた。この日は農厄日であってこの日が晴れるとその年の秋作はいよいなどと言い伝えられている(河辺町編「河辺町史」/昭和6010/河辺町)。ほぼ同様のことが西木村でもいわれ、ハッチを骨膜炎として死に至らしめるものとみなし、八朔の餅というのを食べると難を逃れるという(佐藤政一著「西木村の年中行事」下巻/昭和62年3月/西木村教育員会)、ものである。旧暦八月一日をハッサクと呼び、外出するときは悪魔除けとして朝に小豆汁を食べた、という(雄和町史編纂委員会編『雄和町史』/昭和51/雄和町)。同じく大正寺(雄和町)でも、この日は悪魔除けとする小豆汁を食べるのだとしていた(相沢金治郎編「大正寺村郷土史誌」/昭和38年1月/大正寺村青年団)。小豆は小正月の斎い日にも見られる特別な食べ物であるが、この小豆は五穀のうちでも畑作物のひとつであって、餅と小豆はハレの日の斎いの代表物でもあることに注目せざる得ない。正月と通じた信仰の現れとも考えられるのである』

と多数の伝承例を提示した上で、

『民間では、八朔の日は休日即ち神祭りの日とされ、何らかの祝いをするものであったし、その日が稲の収穫と関わっている稲作信仰に由来する行事も可成あったことが判る。そして、農厄日ということや、この日が災難をもたらす日とされたことは祭日の忌日とした観念に基づくものであったと思われる。蓮の実が飛ぶとか弾けるなどという日だが、秋田では蓮が生えているのを殆ど見かけない。実際は蓮実など飛んだところを見たことはないのであろうが、そのような伝承が八朔に限って言い伝えられているのには、蓮の実と稲の実とが何らか関連があったのではないかと思われるのである。近世後期の秋田を紀行した菅江真澄が残した日記によれば、八朔の日が初穂の祝いをする日である、作祭りであったことを彷彿させる記事がみえる。「雪の出羽路」雄勝郡床舞(羽後町)において、

 このあたりのならわしにて、八月朔日、穂掛けとて、まづ稲穂刈りて、ニタ穂の稲くきの本をむすびもて、神社ごとに掛けて奉る、いといとめでたきためし也

とするように、例年行われる大変目出度い祭であるというのだ。稲穂を二、三束刈って神社にお供えするのであるから、初穂祝いということになる。八朔祭が庶民の間でもこうして行われてきたのには、稲作信仰でも重要な儀礼の日とみなさなければならないだろう』

という普遍的考察もなされている。目から鱗成らぬ、蓮の実! である(序でに「蜜蜂ハッチ」とは深遠な類感呪術でもあったのだナア!)。因みに、蓮の実によって引き起こされるとする骨膜炎とは、骨の周囲にある骨膜の炎症を言う(主因は骨への過重負荷及び細菌感染による化膿性骨膜炎)。整形外科領域に於ける骨膜炎の殆んどは脛骨過労性骨膜炎、通称Shin splintsシンスプリント(Medial Tibial Stress Syndrome)と呼ばれるもので、運動時又は運動後、下腿脛骨内側下方13辺りの部位(筋肉が骨に付着する部分)に脛骨に沿って鈍痛を生じるのを特徴とする病気である。田圃での過剰な農作業や擦過傷からの細菌感染によって、古くは農村に多く見られた病気なのかも知れない。さればこそ、旧室へ私から追悼の戯句を一句ものしおく。

 蓮の實の脛を撃つたる入水哉   藪野唯至

・「蓮の實の飛んだ事いふ親仁哉」

やぶちゃん通釈:

――御武家の大事な出山の、お釈迦の尊い掛軸に、讃をしたいなんどという、蓮の実、ぽん! と飛んだよな、とんでもないこと言う、おやじじゃのう! この儂は!――いいや、そいつは逆かも知れん、飛んでもないほど凡庸なは、仰々しくも叱るお前ら……

勿論、この「蓮」は画題の釈迦の智慧や慈悲の象徴たる、泥水の中からすくっと立って咲く美しい白蓮の花に掛けてある(但し、仏教で言う蓮は我々がイメージする双子葉植物綱スイレン目ハス科ハスNelumbo nuciferaではなく、睡蓮、即ちスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaeaを指す)。また、風狂の師旧室にとってみれば、口角泡を飛ばして、常識をがなり立てて、しつこく叱責するその宗匠、同室の有象無象の凡句を捻るばかりの宗匠連も「飛んだ事」を言う愚劣な「親仁」であるに違いない。この句も一種の禅機のパロディであるが、前の句よりもずっとすんなり私には落ちる。但し、この句が出山の釈迦の掛軸に黒々と記されている賛としてある時にのみ、その掛軸の中に於いてのみ、ということではある。

■やぶちゃん現代語訳

 風狂の人活井旧室の事

 宝暦の頃まで俳諧の宗匠をして御座った旧室という御仁は、並外れて背の高い異形(いぎょう)の僧で、実に面白い気性の者で御座った。聊かの欲心もなく、僅かばかりの持ち物の一衣(いちえ)にても、興が乗れば、何処であろうと脱いで人に与え、自分は下着のままで平気でいるなんどということも御座ったという。

   *

 ある日、この旧室が、麻布辺の武家屋敷の門前を通りかかったところ、屋敷内から、

――パン! パン!――

という剣術の稽古をする音――――と、旧室、腕に覚えがある訳でもないに、何を思うたのやら、むらむらと一勝負やってみたいという、いつもの、とんでもない遊び心を起こし、ずかずかと玄関へと入ると、案内(あない)を乞い、

「――御稽古拝見請い願い上げ候!――」

と申し上げたところ、家の者、その容姿風体の尋常ならざるを見て、とりあえず、座敷へと通した。

 集まってきた家士の者どもが覗いてみると、これがまた、色の黒い、とんでもない大男――。彼らは互いに、

「……ありゃ、てっきり、天狗じゃぞ!……」

「……天狗が、何しに参ったのじゃ?……」

「……そりゃもう、我等が剣術を見るためじゃろ……」

「……?……」

「……いやいや、試しに来たのじゃ!……」

「……?……」

「……これは! きっと……我らが剣に慢心あらば、すわ、へこまさんとの意、じゃろう!……」

なんどとと、囁き合(お)うて御座った。

 屋敷の主人は、未だ年若の方なれば、老師の風貌たる彼に、年相応の礼を正した挨拶を致いた。

 その挨拶が終るや、異形の僧はまさしく単刀直入、

「竹刀(しない)にて一本打ち合(お)うて見とう御座る。」

と申し出る。

 主人は、

「お言葉乍ら、実は当方は道場にては御座らず、屋敷内にての内稽古にて御座れば……。」

と断わったのだが、

「たっての望み! さても、お立ち合い召されい!」

と、強いて請うて、後に引く気配もない。

 故に仕方なく若主人、まずはと、相応の剣術の使い手である高弟に命じ、立ち合わせることと致いた――。

……しかし彼、元からが、たかが俳諧の宗匠に過ぎぬ身なれば……実は武芸のたしなみなんど……これぽっちも御座らねば……。

――パーン!――

「……?……」

……家士高弟の下ろした、ただ一振りに、したたかに脳天を打たれた……。

……床に沈んだまま……暫く頭を抱え込んで御座ったが……やがて座敷に上(のぼ)ると、

「……さてさて、痛い目に逢(お)うたことよ……時に……硯と紙を賜わりとう御座る……」

と筆と墨を乞い、

  五月雨にうたれひら/\百合の花

下(しも)に「旧室」と書き記して、ふらっと帰って行った――。

 その後、若主人がこのおかしな一件をさる人に語ったところ、

「そりゃ、あの旧室じゃ!」

と大笑いになったとか。

   *

 また、ある日のことである。

 旧室、他の宗匠らとともに、一同、さる御大名の御屋敷へ呼ばれ、連衆俳諧致し、その夜はその屋敷内にて一泊致いたことが御座った。

 宗匠連にあてがわれた寝所の床の間には、「出山(しゅっさん)の釈迦」の掛軸が掛けられており、旧室はこれがいたく気に入り、殊の外、褒めた上、

「儂はこの絵に賛を致したい。」

と言い出した。居並ぶ宗匠の一人が、旧室の普段の行状から、冗談ではないと悟り、

「――以ての外ッ!――」

と一喝、

「――大名家の御道具を汚(けが)すなんどということ、決してあってはならざることで御座ろうが!……」

と再三五月蠅く説教致いたところ、旧室、

「……分かった、分かった……」

と言って寝た――。

――翌日のこと、宗匠連も引上げ、部屋の片付けを致いておった屋敷の者、かの床の間の「出山の釈迦」図をふと見る……と……

  蓮の実の飛んだ事いふ親仁哉

と黒々、賛が書かれて御座ったとか。

……実は旧室、深更に到ってから、皆々の寝顔をしっかと覗き見た上、そっと起き上がるなり――「出山の釈迦」図賛を――こっそりとなしておったので御座った……。

   *

 このように愉快怪怪快活活人の僧で御座ったが……僧なればこそ、酒だけは戒むべきことに御座る……

……ある年、本所辺りの屋敷で行われた運座から帰る際、酒をしたたかに飲んで足元もおぼつかぬ気(げ)なれば、

「送りの者をお付け致そう。」

との屋敷の者が言うたを、断って一人帰ったので御座ったが……何処で踏み外したものか……川に落ちて溺れ、命を落とした、ということで御座った……。

2010/01/14

耳嚢 天命自然の事

「耳嚢」に「天命自然の事」を収載した。

〔追記〕15日未明に、「耳嚢」の「天命自然の事」の方には、少し補正追加をした。出来れば、そちらで御覧戴きたい。

天命自然の事

 天明二年春の此、隠密に濟し由故其名前は記さず。我傍(もと)へ來る人の其荒増を語りけるは、下谷邊に御徒(おかち)を相勤る人の妻女、元來その素性も正しからず召仕ひ同樣の者にてありしが、心だてかたくなにて立入人もいとひけるが、元來の顏愚や又は不義の隱し男にてもありしや、夫(そ)のいたし方怪しき事ありし故、彼夫年久敷召仕し下男有ければ、妻が所行心得がたき趣語りければ、彼僕も左(さ)なる由答へけるに、或日大不快にて外より歸りしに、其妻食事など念此に拵へ其夫へ膳を居(すゑ)けるが、何かいつにかわりし所行難心得、彼下男も妻が食中へ何かいれしを見受けし故、主人の前へ出、目遣ひ抔にて知らせける故、子細有んと食事は不望由申ければ、妻折角拵へし由にしゐすゝめけれど、汁を一口給(たべ)けるが心惡しき故膳を突出し、兔角(とかく)給間敷(たべまじき)と申、居間に臥(ふせ)りけるに、間もなく居間にて物騷しくうめき候趣故、下男もかけつけ見れば右妻夫の首へ物をまとひ押倒し居けるが、夫も力量ある男にて起上り下男が持て來りし薪割にて右妻を射(うち)けるが、天罰にや急所に中り即死しける由。近所の者も無程駈付ける故、しかじかの事を語り内密にて事濟候由。極惡なる者も有物哉と是に記す。

□やぶちゃん注

○前項連関:百合と鼠への生理的嫌悪感も、悪女の頓死も、その人物にとっての天命として連関。

・「天明二年」西暦1782年。天明8(1788)年迄続くことになる天明の大飢饉の初年である。

・「下谷」現在の東京都台東区の一地区。上野山下上野や湯島の高台の谷間にあることに由来し、狭義の下谷は下谷広小路(現・上野広小路)周辺を指したが、後に村落の併合により、南の神田川辺りまでを呼称するようになった。

・「御徒」広義の「徒侍」(かちざむらい)ならば、主君の外出時に徒歩で身辺警護を務めた下級武士を言うが、某家とも記さず、ここでは「隠密濟し由」とし、話者も匿名となっていることから見ても、江戸幕府の職名たる「徒組」(かちぐみ)を指している。将軍家の外出時、徒歩で先駆や警護を務め、また沿道の警備にも当った下級武士のことを言う。

・「顏愚」底本ではこの「顏」の右に『(頑)』とある。

・「或日大不快にて外より歸りしに」このひどい体調不良と、それを受けたご馳走は、もしかすると、数日来より飲食物に相当量の毒物を盛られていた結果ではなかろうか?

・「膳を居(すゑ)ける」は底本のルビ。

・「一口給ける」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 天命は自ずと決しており免るることはないという事

 天明二年春の頃――ごく内密に処理された事件であるから、その情報提供者の名前は記さない――私のもとに、しばしば訪ねてくる「ある者」が、そのあらましを語ってくれたことを、以下に記す……。

 下谷辺りに居住していた御徒を勤めるある男の妻は、元来、素性も怪しい者で、言わば、召使い同様の身分の出であった。その気性も依怙地で、日頃、男の家に出入りする人々からも、嫌われていた……。

 今考えてみると――生れついて頑迷にして暗愚であったからなのか、または別に不義の間男などがあったからなのか――ともかく、どうも結婚当初より、その行動のはしばしに、如何にも不審な点が見受けられた……。

 ――――――

 ある時のこと――その夫には、永く召し使っていた下男があったので――その者を物蔭に呼ぶと、

「……実は……どうにも妻の振舞いには不審な点が、まま見られるのじゃが……どう思うか……」

と意見を求めたところ、その下男、

「……実は、私(わたくし)めも……ずっと御主人さま同様……そのように、感じて御座いました……」

と答えたのであった……。

 ――――――

 それから暫らくしたある日のこと、夫はいたって気分がすぐれず、勤仕(ごんし)を早引けして帰宅したところ、妻の方は何時になく、懇ろに御馳走を拵え、夫の前に膳を進めた。彼は、 

『今日に限って妙な真似をすることじゃ……』

と、とみに不審を募らせていた……。

 かの下男は下男で、妻が厨(くりや)で食い物の中に何やらん、入れたのを垣間見ていたが故に、主人の前へ進み出ると、それとなく主人に目配せをした。がために、主人はよく下男の目配せの意味はよくは分からぬものの、どうもこの夕餉にはただならぬ仔細がありそうだと感じ、

「食事は所望せぬ。」

と断わった。すると妻は、

「……折角、拵えたんですから……」

と、強いて勧める。

 夫は仕方なく汁物にちょっと口を付けてみたが、またしても、ひどく気分が悪くなる……。

 そこで、夫は膳を突き返し、

「……兎も角! 食(しょく)しとうは、ない!」

ときつく言うと、そのまま居間で横になっていた……。

 ――――――

 ……と、間もなく、その居間から、何やらん、騒がしい物音に加えて、人の呻き声までも聞えて来た。

 下男が直ぐに駆けつけて見たところが……

……かの妻が、夫の首に何やらん巻きつけて押し倒した上、その首に巻いたものを締め上げている……

……されど、体調不良なりと雖も、かの夫も力自慢の男なれば、何とか立ち上がると、下男が持ってきた薪割りを受け取ると、それでしたたかに妻を打ちつけた……

……と……

――天罰にも御座ろうか――薪割りは、急所に当たって、妻は即死したのであった……。

 その騒ぎに近所の者もほどなく駆けつけた故、彼等には委細事情を説明の上、ごくごく内密に事を処理したとのことである。

 誠(まっこと)極悪な輩もあるものかな――ここに記し置くこととする。

2010/01/13

耳嚢 人性忌嫌ふものある事

「耳嚢」に「人性忌嫌ふものある事」を収載した。

実はこれ、僕が「卷之一」の中でもとびっきり好きなものの一つなのだ。


 人性忌嫌ふものある事

 享保の頃御先手を勤めし鈴木伊兵衞は極めて百合の花を嫌ひしが、或時茶會にて四五人集りし折から、吸物出て何れも箸をとりしに、伊兵衞以の外不快にて色もあしく箸も不取故、何れも樣子尋しに、若(もし)此吸物に百合の根などはなきやといひし故、兼て嫌ひをも存ぜし事なれば、曾て右やうの事になしと挨拶に及びけるに、一座の内(うち)膳に百合の繪書きたるありける。人々驚て早速引(ひか)せければ元の如く快氣なりしと松下隱州かたりぬ。又土屋能登守殿の家來に樋口小學といへる醫師の有しが、鼠を嫌ふ事甚敷、鼠の居候座敷にて果して其樣子を知りけるが、或時同寮共相催し茶飯抔振廻(ふるまひ)しに、小學をも招きけるが、折節小學は跡より來りし故、兼て渠(かれ)が鼠嫌ひも餘り事樣也。いかゞ實事や難斗(はかりがたし)とて、鼠の死たるを取求、小學が可居(ゐべき)疊の下に入置、客知らぬ※(かほ)にて相待しに、無程小學も來りし故、彼是座を讓り右の疊の上へ着座いたさせ膳をも出させけるに、小學頻に顏色あしく惣身(そうみ)より汗を流し甚不快の樣子故、いかゞいたし候や抔と何れも申けるに、挨拶成兼候程の樣子、若右鼠の事など申出さば打果しもせんけしき故何れも口を閉、彼是介抱し、歸宅の事を乞ひける故人抔付て送り返しけるが、去(さる)にても不思議の嫌ひ也とて、無程人を遣(つかはし)樣子を聞けるに、宿へ歸りては何の障(さはり)もなき由、其席に連りし同家の鍼師(はりし)山本東作咄なり。

[やぶちゃん字注:「※」=「白」(上)+「ハ」(下)。]

□やぶちゃん注

○前項連関:蜂と蛇に纏わる奇体なまじないと、百合と鼠に纏わる奇体な生理的嫌悪感で何となくしっくり連関。

・「享保の頃」西暦1716年から1735年迄。

・「御先手」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

・「鈴木伊兵衞」岩波版長谷川氏では鈴木英政(ひでまさ 宝永3(1706)年~明和7(1770)年)とし、『享保十二年(一七二七)御書院番、小十人頭・目付・御船手など歴任』とあり、これを見ると彼は「御先手」であったことはない。底本の鈴木氏注では、やはり英政か、とされ、後に出てくる『御先手とあるは、松下昭永と混同したものか』と記す。

・「百合の花を嫌ひし」単子葉植物綱ユリ目ユリ科ユリ属 Lilium に対するアレルギー。実際にユリ科の花粉に対する強いアレルギー症状(蕁麻疹・喘息等)が報告されているが、この人の場合は、ちょっと特殊。アレルギーに加えてLilium phobia百合恐怖症とも言うべき一種の心因性神経症が疑われ、恐らく何等かの幼児体験に基づくトラウマがあるものと思われる。

・「松下隱州」松下隠岐守昭永(あきなが 享保6(1721)年~寛政9(1797)年)。岩波版長谷川氏注に、御先手鉄炮頭・作事奉行・鑓(やり)奉行を歴任したとある。

・「土屋能登守殿」土屋能登守篤直(あつなお 享保171732)年~安永(1776)年)常陸土浦藩第4代藩主。

・「樋口小學」不詳。後に「打果しもせんけしき」とあるが、当時の医師は武士階級ではないものの、庶民よりは上という、微妙な地位にあって、名字帯刀が許されていた。

・「鼠を嫌ふ事甚敷」これは当然あるアレルギーであろうと検索すると、ズバリ、「日本免疫学会会報」のロックフェラー大学アーロン・ダイアモンド・エイズ研究所ニューヨーク大学医学部医分子寄生虫学教室でマラリアとエイズの疫学・ワクチン開発をなさっている辻守哉氏(彼は免疫学の碩学多田富雄先生の薫陶を受けておられる)の書かれた「ニューヨーク16年の走馬灯」に『大学院時代を含めてネズミの研究に携わってもう20年ほどになるが8年ほど前からネズミアレルギーになった.手袋やマスクの完全防着でしかも抗ヒスタミン剤を手にしていないとネズミの実験に自ら取り組むことができない.ところがマラリアはネズミの実験系が確立されているので,マラリアの予防に重要なT細胞を効率よく誘導するマラリアワクチンの開発にはネズミの系が第一選択である.ネズミアレルギーもきっかけとなって,サルやヒトの実験系がしっかりし,やはりT細胞がキーであるエイズの免疫やワクチンの研究を学んでみようと思った』という記載がある。人生、意気に感ず、である。

・「同寮」底本ではこの「寮」の右に『(僚)』とある。

・「事樣也」底本ではこの「事」の右に『(異カ)』とある。

・「山本東作」不詳。根岸家出入りの鍼医でもあったのであろう。彼も根岸の情報源の一人であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 人には生理的に忌み嫌うものがある事

 享保の頃、御先手を勤めて御座った鈴木伊兵衛なる者は、異常なまでに百合の花を嫌っていた。

 ある時、とある屋敷で茶会が行われ、鈴木伊兵衛を含めて四、五人の者が集って御座ったが、その折りの会食の席に吸い物が出され、誰もが箸を取って頂戴致いたのだが、独り、伊兵衛だけは、顔を真っ青にして箸さえ取ろうとしない。皆して、

「……如何がなされた?……」

と訊ねたところが、伊兵衛、

「……もしや、この吸い物には……百合の根なんど……入っては御座らぬか?……」

と申す故、茶会の主(あるじ)が、

「かねてより、貴殿が百合を嫌うことは重々承知のことなれば、決してそのような仕儀は御座らぬ。」

ときっぱりと受けおうたので御座った。

……が……

……何と……よく見ると、一座の内の膳の一つの器に……百合の絵を描いた物が御座った……人々は驚いて、半信半疑ながらも、その器を早速に座敷より下げさせたところ……伊兵衛はみるみるうちに顔色が戻り、元気になったという……これは、松下隠岐守昭永(あきなが)殿が語った話で御座った。

 同曲の話、今一つ。

 また、土屋能登守篤直(あつなお)殿の御家来衆に、樋口小学と申す医師が御座ったが、この者、鼠を嫌うこと甚だしく、鼠が天井や床下に巣くって御座る座敷なんどは、入る前にすぐにそれと察して入らぬとのこと。

 さても、ある時のこと、小学の同僚達が相集うて、茶飯なんどの振る舞まいを致すということで、その座に小学も招かれて御座った。折りから、小学はよんどころない用事があり、少々、後になってやってくることになって御座ったのだが、その間に、ある者が、

「……かねてより、彼の鼠嫌いは、余りにも異様に感ぜらるる。……如何にも、本当のこととも思い難い。……訳は知らねど、もしや、何やらん、芝居でもして御座るのでは、あるまいか?」

と言い出し、者ども、面白おかしく詮議するうち、遂に鼠の死骸をそこらからから探し求め参って、小学の座と決めた畳を上げ、右鼠の死骸を、その床下に置いて、元通り戻し、皆、そ知らぬ顔で小学の到来を待って御座った。

 ほどなく小学も来たので、それぞれ、座を譲り譲り致し、先程の畳の上へ、まんまと着座致させて膳を出だいたところ……小学の顔色が……みるみる変わり始めた……総身より汗が滂沱と流れ落ち、甚だもって体調よろしからざる様なればこそ、

「……如何なされた?……」

なんどと座の誰もがとぼけた声をかける……が……小学の顔は、見るも恐ろしいまでに歪み、返答も出来ざるほどの苦しみようで……いやもう、もしここで、床下の鼠のことなんどを申そうものなら……小学、抜刀して、それこそ刃傷沙汰にでもなりかねぬといったゆゆしき趣き……されば、座の者どもは皆、かの悪戯(いたずら)も口に出来ぬまま、おっかなびっくり、あれこれ、介抱致し……小学本人も、甚だ不調に付き帰宅致すと申すが故に、人まで付けて自宅へと送り返したので御座った……。

 その後、茶飯の座では、

「……いや……それにしても……全くもって不思議な鼠嫌いよのう……」

なんどと語り合い、少し経ってから、人を遣わして小学の様子を尋ねさせたところ……帰宅してからは、もう見違えるように元気になって、何の問題も、これ御座らぬ、とのことで御座った……その一座に御座った土屋家出入りの鍼師、山本東作が物語った話で御座る。

2010/01/12

耳嚢 蜂の巣を取捨る呪の事

「耳嚢」に「蜂の巣を取捨る呪の事」を収載。

 蜂の巣を取捨る呪の事

 蜂の巣取捨るに、箒抔持ておひなどすれば飛散りて害をなす事也。蜂の巣を取らんと思はゞ、右巣の下にある所の石にても瓦にても打かへし候て、右を踏へ巣を取り捨るに、いかやふの蜂にても害をなさずと言り。同じ老人の語りけるは、蛇の石垣又は穴へ入かゝりしを引出さんとするに、諸手をかけ力を入て引くとも、たとひ蛇の胴中より切るゝ事はありとも引出しがたきもの也。右を引出し候には、左の手にて己が耳をとらへ、其間より右の手を出し、指にて蛇の尾先をとらへ引出すに、こだわる事なく出るもの也と語りぬ。其業ためしたる事はなけれど、右老人まのあたり樣(ため)し見しと語りぬ。

やぶちゃん注

前項連関:特に認めないが、「先行する羽蟻を止る呪の事」「燒床呪の事」「蠟燭の流れを留る事」の呪(まじな)いシリーズ。「耳嚢」では時々、この流れがコラムのように挟まれている感じである。

・「樣(ため)し」は底本のルビ。

やぶちゃん現代語訳

 蜂の巣を除去する際のまじないの事

 蜂の巣を除去するに際しては、箒などを持って叩き落としたりすると、鉢が飛散して、散々刺され、とんでもないことになったりするものである。蜂の巣を取り払おうと思うならば、まずその巣の下にある所の、石でも瓦けでも、何でもよいのであるが、ともかく『巣の下にある何か』をひっくり返し、そのひっくり返した面を踏まえて頭上の蜂の巣を取り去ると、小さかろうがでかかろうが、いかなる種類の蜂であっても刺されることなく撤去出来ると言う。

 また、これを教えてくれたのと同じ老人の言によれば、蛇が石垣の間または地面や斜面の穴へ潜り込みかけたのを引出そうとする時には、両手で蛇の後部を握り、思いっきり力を入れて引いても、例え、蛇の胴体が真ん中から切れる事はあっても、完全に引き出すことは出来ないものである。これを引出すためには、左の手で自分の右耳を抓(つま)んで、その輪になった間より右の手をちょいと出だし、指先で蛇の尾の先を抓んで引き出すと何の抵抗もなく、すーっと出でくるもんで御座る、と語った。

 以上の方法、私は試したことはないが、この老人は、自分で実際に試してみて、ほんに真実(まこと)であった、私に語った。

18歳の誕生日、おめでとう! ハル!

Happy Birthday to HAL!

映画「2001年宇宙の旅」でHALは1992年の今日、1月12日にイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校でシバサブラマニアン・チャンドラセガランピライ、通称チャンドラ博士の手で誕生した。

HALはアーサー・C・クラークの原作によれば

Heuristically programmed ALgorithmic computer

発見的プログラミングを施されたアルゴリズム的コンピュータ

の略である。

僕の二十歳の誕生日

金がないから渋谷の下宿から三軒茶屋までてれてれ歩き 独り安映画館で映画二本立てをだらだら見(「オデッサ・ファイル」と「砂塵に血を吐け!」だった) 4畳半の元子供部屋ニ段ベッド据付(元大家の二人娘の子供部屋のニ段ベッドだから当然斜めになって寝ないとつっかえるのだ)の下宿にとぼとぼ帰り なけなしの金で買ったハイ・ニッカの冷え冷えとした中瓶を抱えながら がちがちのスルメイカをしゃぶりながら無理に空け べろべろになって気持ち悪くなって(ウィスキーはほんとは嫌いなんだ) そのままぐうぐうひんねむって 気がついたらごつごつの床で寝ていて 翌日がっつり風邪ひいてた

(教え子のブログに書き込んだものの一部を転載した)

2010/01/11

耳嚢 實母散起立の事

「耳嚢」に「實母散起立の事」を収載した。

今夜は、担任した教え子達の成人式に出席。

 實母散起立の事

 中橋大鋸(おが)町に木尾市郎右衞門といへる町人、實母散とて産前産後都(すべ)て婦人の妙藥たる藥を商ふ。當時都鄙(とひ)專ら取用る藥也。其本來を尋るに、三代以前市郎右衞門は薪商賣なしける者、同人弟は長崎に居たりしに、長崎にて醫をいたしける者何か江戸表にひき合ふ出入ありて出府致し、町宿をとりて公事をなしけるに、吟味に日數重り入組し譯もありて何かに三年餘も在府なしぬ。依之雜用にも差支(さしつかへ)甚難儀しける故、兼て市郎右衞門弟より右醫師の儀江戸在中は心添候やういたし度旨の書状ども添候故、市郎右衞門も他事なくいたし、上(か)ミ向濟候事ならば市郎右衞門方へ宿替の事相談に及び、其譯願ひけれど素人宿は難申付、しかし呼出の節町宿へ申遣(まうしつかはし)差支無樣いたしなば勝手次第の沙汰、是迄の町宿と相對いたし、市郎右衞門世話いたし同人方に定宿(じやうやど)して有ける。或時、市郎右衞門隣家の商人娘に聟を取ゆたかにくらしける者、右娘産氣に付殊の外の難産にて産門より足を出し産婦も人事を忘れ苦しみける程也。父母は宿に居兼て市郎右衞門方へ參り歎き咄しけるを、右醫師聞て、諸醫の手を盡し候上外にいたし方も無之ば我等に見せ給ふまじやと尋ければ、悦て則右産婦を見せける故、我等藥を進じ可申が、たとひ事不行(おこなはれず)共恨不申侯はゞ可進(しんずべし)と申ければ、何か諸醫も斷の上はひとへに頼入(たのみいる)旨にて則一貼(でふ)を與へければ、的中のしるしにや産門より出し足を内へ入ければ、彌々(いよいよ)右の藥を用ひけるに、事故(ことゆへ)なく安産して、出生は死體なれど母は別儀なかりける故、父母の悦び大方ならず、金子四拾兩命の禮とて與へけるが、かく禮を可受いわれなしとて再三に斷、貳十兩を受納して、扨十兩は市郎右衞門へ渡し、かく迄世話に成りし宿拂(やどばらひ)にはあらねども受取給はるべし、此度も出入も相濟理運には成りしかども、道中雜用もなければ乞食をいたして成りとも可歸と思しに、隣家の謝絶の殘り十兩あれば古郷迄下らるべし。年月の御禮は彼地へ着の上幾重にも可致と念頃に申ければ、市郎右衞門答て、我等も娘共大勢有、妻も若ければ此後産に臨みいかなる事か侍りなん。右の藥法を何卒傳へ給はれと歎きければ、安き事ながら右は一朝一夕の傳授にも難成とていといなみけるを、市郎右衞門申けるは、此度給はりし十兩の金子も返進いたし候、追て金子答御差下しに不及、畢竟實儀を以是迄世話もいたし候事、殊に右藥は妻子の爲に傳法を願ふに、承引(しよういん)なきこそいと恨めしき由にて不興氣(げ)成しかば、右醫師も理に伏(ふく)し、被申(まうさるる)所實(げ)に尤也。さらば傳授致べけれど、其樣殊により加減の法もあれば四五日も逗留のうへとて、尚又十日程も市郎右衞門方に逗留し、三册の書物を殘し長崎へ歸りける。右藥法傳授の上則(すなはち)調合して實母散と唱、産前産後の妙藥の趣相觸ければ、日々時々に調ひに來(きた)る事引もきらず。纔の内に夥しく利を得、中々薪商賣など可致隙のなき故、今は右賣藥のみにて千兩屋敷の四五ケ所も所持いたし、當時有德に榮けると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせないが、2つ前の「雷を嫌ふ事あるまじき事」は長崎で連関、6つ前の項「大木口哲・大坂屋平六・五十嵐狐膏薬三名江戸出店初めの事」の売薬店事始には薬と男気で直連関する。

・「實母散」これは、現在も「喜谷實母散」として存在する。現在の「實母散」の成分及び分量・効能又は効果・用法及び容量・保管及び取扱い上の注意を「喜谷實母散本舗キタニ」のHPの製品紹介を元にしながら、私の補足も加えて以下に記す。

○成分及び分量(本品1包(11.25g)中当りの含有成分)

(日局)トウキ 2.25g

トウキは「当帰」で、双子葉植物綱セリ目セリ科シシウド属トウキAngelica acutilobaの根から採れる生薬。血行循環促進・充血を主因とする疼痛緩和・膿を排出させて肉芽を形成させる作用を持つとする。

(日局)ビャクジュツ 0.75g

ビャクジュツは「白朮」(びゃくじゅつ)で、双子葉植物綱キク目キク科オケラAtractylodes japonicaの根茎から採れる生薬。健胃・利尿・鎮静・血糖降下・肝機能改善作用の他、抗ストレス作用や胃潰瘍に対しても効果を持つとする。

(日局)センキュウ 2.25g

センキュウは「川芎」で、セリ目セリ科センキュウCnidium officinaleの根茎から採れる生薬。

(日局)オウゴン 0.75g

オウゴンは「黄芩」で、双子葉植物綱キク亜綱シソ目シソ科コガネバナScutellaria baicalensis Georgi の根から採れる生薬。漢方にあっては婦人病の要薬として知られる。血管拡張・血行循環促進・産後の出血・出血性の痔・貧血・月経不順といった補血作用(但し、多くは他の生薬との調合による作用)を持ち、冠状動脈硬化性心臓病に起因する狭心症にも効果があるとする。

(日局)センコツ 1.12g

センコツは「川骨」で、双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネNuphar japonicumの根から採れる生薬。利水・活血・強壮作用を持ち、浮腫・打撲傷・乳腺炎・各種婦人病に効果があるとする。

(日局)チョウジ 0.56g

チョウジは「丁字」で、双子葉植物綱バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属クローブ Syzygium aromaticumの花蕾から採れる生薬。消化促進・体温上昇・血行促進作用を持ち、芳香性健胃剤として消化不良・嘔吐・下痢・腹部冷痛・しゃっくり・吐き気などに効果があるとする。チョウジ油に含まれるeugenolオイゲノールは殺菌・鎮静作用を持ち、歯痛局部麻酔薬などに用いられている。

(日局)モッコウ 1.12g

モッコウは「木香」で、キク目キク科トウヒレン属モッコウSaussurea costus又はSaussurea lappaのいずれかの根から採れる生薬。薫香原料として知られ、漢方では芳香性健胃剤として使用されるほか、婦人病・精神神経系処方の漢方薬に多く配合されている。

(日局)オウレン 0.38g

オウレンは「黄連」で、双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科オウレンCoptis japonica及びCoptis chinensisCoptis deltoideaCoptis deltoideaの、根を殆んど除去した根茎から採れる生薬。健胃・整腸・止瀉作用を持ち、また、この生薬に含まれるアルカロイドのberberineベルベリンには抗菌・抗炎症作用がある。

(日局)ケイヒ 0.94g

ケイヒは「桂皮」で、シナモンのこと。双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属シナモンCinnamomum zeylanicumの樹皮から採れる生薬。免疫力回復・健胃整腸・血行循環促進作用の他、強壮・強精薬として昔から知られる。

(日局)カンゾウ 0.19g

カンゾウは「甘草」で、双子葉植物綱マメ目マメ科カンゾウ属 Glycyrrhizaの根又は根茎から採れる生薬。鎮痙・鎮咳・去痰・解毒・消炎・作用を持ち、消化器系潰瘍・食中毒・虚弱体質・食欲不振・腹痛・発熱・下痢・神経痛などに効果があるとする。

(日局)ビンロウジ 0.94g

ビンロウジは「檳榔子」で、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウAreca catechu の種子から採れる生薬。健胃・抗真菌・縮瞳・抗ウイルス・駆虫作用持ち、歯磨き剤や各種漢方調剤に用いられているが、ウィキの「ビンロウ」によれば、これはアルカロイドのarecolineアレコリンを含有し、タバコのニコチンと同様の薬理作用(興奮や刺激・食欲の抑制等)を惹起し、依存性も持つ。更に、国際がん研究機関(IARC)は、このアレコリンがヒトに対して発癌性(主に喉頭ガンのリスク)を示すことを認めている、とあるが、勿論、これはアレコリン(ビンロウジではない)を長期に多量に摂取した場合のリスクの謂いである。

○効能又は効果

更年期障害・血の道症(月経・妊娠・出産産後・更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安や苛立ちなどの精神神経症状及び身体症状)・月経不順・冷え症、また、それらに随伴する月経痛・腰痛・頭痛・のぼせ・肩こり・めまい・動悸・息切れ・手足の痺れ・こしけ(膣や頸管から分泌される粘液の量増加・有臭・白濁等の異常。おりもの・帯下等とも言う)・血色不良・便秘・むくみの症状の緩和。

○用法及び用量

大人1日1包を以下のように4回服用する。

〔1回目〕熱湯180ml(大きめの茶碗1杯)に1包を浸し、適当な濃さに振り出して朝食前に服用。

〔2回目〕1回目に使用した実母散を同様に振り出して昼食前に服用。

〔3回目及び4回目〕:2回目に使用した実母散に水270mlを加え、半量まで煎じつめて、夕食前及び就寝前に分けて服用。

○保管及び取扱い上の注意

*直射日光の当たらない湿気の少ない涼しい所に保管すること。

*小児の手の届かない所に保管すること。

*他の容器に入れ替えないこと(誤用の原因になったり品質に変化が生ずることを避けるため)。

*1包はその日のうちに服用すること。

*振り出し後又は煎じた後、容器の底に沈殿物があっても、そのまま服用しても差支えない。

*生薬を原料として製造しているため、製品の色や味等に多少の差異が生じることあるが、効果には変化はない。

 更に「喜谷實母散本舗キタニ」のHPにある「喜谷實母散歴史」のページには、正にこの根岸の叙述が用いられている。通常なら私は他のネット記載の著作権を考慮して全文引用は絶対に行わないのであるが、これは載せない訳には参らぬ。注の数を減らすことが出来、喜谷實母散本舗キタニ様にもお許し頂けるものと思うので(頂いたわけではない。抗議が出れば削除し、リンクのみとする。私の現代語訳でカチンとくるやも知れぬ故)、以下、引用する(見出しに〔 〕を附し、一部の改行と空欄を省略した。また、根岸の没年を1814年(文化12年)、佐渡奉行赴任を1783年(天明3年)とされているが、これは誤りであるので私の責任で補正した)。

≪引用開始≫

〔創業の秘話〕

 「喜谷實母散」の創業は1713年(正徳3年)と云われており、その事情は根岸鎮衛(1737年~1815年)の『耳袋』に詳しく記述されております。根岸鎮衛は奉行所の勘定役から江戸南町奉行に出世した役人で、役所勤めの合間に、古老の言伝えや自分自身が聴き取った面白い世間話、事件などを『耳袋』として書き留めました。執筆期間は、1784年(天明4年)に彼が佐渡奉行に赴任した時から江戸南町奉行を最後に引退するまでの30年間にわたっており、当時の庶民生活や風俗を知るうえで貴重な文献と云われています。

〔隣家の産婦を救った實母散〕

 近江の国より江戸に出て、楓河岸(後の中橋大鋸町、現在の中央区京橋)で薪炭業を営んでいた喜谷家の太祖、喜谷藤兵衛光長の養嗣となった喜谷市郎右衛門養益は家業を継ぎ、薪炭業を営んでいました。たまたま、長崎にいた実弟が、ある訴訟事件のために江戸に出て来た医師を紹介してきました。市郎右衛門は、事件の進捗状況が遅れ困窮していた医師某を哀れみ、自家に引き取り、3年余り懇切に世話をしました。そのようなある時、隣家の豪商某の娘が産気づき、殊の外の難産となり、その両親が市郎右衛門方に救いを求めに来ました。この窮状を聞き及んだ医師某は、隣家の産婦を診断のうえ、例え効果が現れずとも恨まないことを条件に一服の薬を与えたところ、間もなくして妊婦の苦しみが去り、お産を終えることができました。死産ではありましたが、母親は無事でありました。諸医に見放された隣家の産婦を救ったこの医師の薬の処方は市郎右衛門を驚嘆させました。医師は3年ほど世話になって長崎に引き揚げることになりましたが、市郎右衛門の要請に応え、且つ優遇の厚誼に報いるために、医師某も喜んでその秘伝の処方の詳細を市郎右衛門に与えました。長崎の医師より伝授された秘伝の処方の詳細は、『産辯』、『本法加減諸法』、及び『禁妊婦食考』の3冊にまとめられていました。

〔慈母の赤子におけるが如き妙薬〕

 かくして、隣家の難産の婦人の起死回生を助けた妙薬の話は四方に伝わり、江戸市内はもとより、四方八方から人を介して求めに来る者は多く、その妙薬があたかも慈母の赤子におけるが如きをもって「實母散」と命名して、広く世間に発売することとなりました。それは今日より290年前の1713年(正徳3年)のことでありました。

〔商標登録 第十六号〕

 喜谷實母散本舗が中橋(現中央区京橋)に所在した時代から、その店頭には竹が生息していましたが、株式会社キタニとして目黒に移転した今日でも本社ビルの玄関脇に竹が植えられており、その祖先の薪屋たることの名残を留めています。また、竹の図柄は昔から喜谷實母散の包装のデザインとして取り入れられてきました。明治に入って日本に商標登録制度が導入された頃、当時の第8代喜谷市郎右衛門は「喜谷實母散」の外箱の意匠の商標登録を申請し、明治18年6月2日付けで商標登録第十六号として認可されています。当該商標はその後幾度かの認可更新手続きが行われ、現在でも喜谷實母散に使用されておりますが、日本の商標登録制度が発足して以来今日まで継続使用されている商標は少なく、医薬品関係では最古のものになっているそうです。

≪引用終了≫

「喜谷市郎右衛門養益」の「養益」の読みは不明。「養」の人名訓読には「きよ・すけ・のぶ・やす・よし」等があり、「益」は「あり・のり・また・まし・み・みつ・やす・よし」等がある。因みに、秘薬伝授のシーンを原文の御先祖の実際よりは、相当穏やかにあっさり描いているのは、ご愛嬌か。因みに正徳3(1713)年は、前年10月の徳川家宣の逝去を受けて、4月2日に家継が第七代将軍に就任した年である。……さてもお読みになって退屈ですか? 薬物成分等、いらない? いや、私は楽しいのだ! こういう注が何より楽しいのだ! 私の考える注とは、こういう『誰か私見たような輩にとって楽しい注』なのである。

最後に「大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事」でも引いた、文政7(1824)年中川芳山堂編になる「江戸買物独案内」(えどかいものひとりあんない)を見てみた。すると少々不思議なことが分かる。薬の引札パートに「本家實母散」なるものを見出せるのであるが(以上リンク先は神戸大学附属図書館デジタルアーカイブの画像)、その冒頭には

 中橋南伝馬町一丁目

さん前さんご婦人血のみち一切によし

産前

本家實母散(志つぼさん)

産後

とあり(「(志つぼさん)」はルビ)、末の売薬店舗名は、「千葉堂本舗」となっているのである。住所は「中橋」乍ら、「大鋸町」ではなく、店名も「喜谷」ではなく「千葉」、意匠も「竹」ではなく、山に火炎太鼓のようなものである(私は「江戸買物独案内」を細かに総覧した訳ではないので、見落としていないとは言えないが、「本家」という呼称は重い。それとも「元祖」が他にあるか)。識者の御教授を乞うものである。

・「中橋大鋸町」岩波版長谷川氏注によれば、『中橋は日本橋と京橋の中間八重洲通と中央通交叉点辺にあった橋』とし、この話柄の当時は既に橋はなく、『地名として残って』いるのみであったとする。大鋸町はその地名としての中橋の南の地である、とする。

・「出入」出入筋の略。これは江戸幕府の訴訟手続きの一つで、奉行所が訴訟人(原告又は告訴・告発人)と訴えられた相手方(被告)双方を召還し、直接対決審問の上、判決を下す手続きを言う。主に現在の民事事件相当のものに適応されたが、刑事事件でも行われることがあった。因みに、これに対するのが「吟味筋」で、奉行所や代官所独自の判断によって被疑者を捕縛・召喚し、糾問審理の上、判決を下す手続きを言う。こちらは刑事事件相当のもに限られた。

・「上ミ」底本では「ミ」は右半分に小さく表記。

・「一貼」「いちじょう」と読む。「貼」(ちょう)は本邦に於いて薬の包みを数える助数詞。一包。

・「理運」通常は幸運・必然的出来(しゅったい)・論理的必然・戦勝機運・勝利を言うが、ここでは所謂「出入」=民事訴訟を受けているから、勝訴を言う。

■やぶちゃん現代語訳

 実母散事始の事

 中橋大鋸(おが)町で木屋市郎右衛門という町人、『実母散』という産前産後を効能の頭(かしら)へ据え、その外総ての婦人病に万能の妙薬を商っておる。これは江戸市中は言うに及ばず、周縁農村部にあっても広く用いられておる薬にて御座る。その謂われを尋ねた、その話――。

 現在の当主の三代前の市郎右衛門は薪売りを家業と致いて御座った。その弟ごが長崎におり、その弟の知れる者で、医師を生業(なりわい)に致いて御座った者、やんどころない理由で江戸へ直接出向かねばならぬ訴訟が出来(しゅったい)、その医師、訴訟の間、江戸町屋の宿(やど)に滞在致すことと相成ったれど、その訴訟事、甚だ長引き、且つ、うまく行き申さず、彼は実に三年余りも江戸に滞留致いて御座った。

 とこうするうち、この医師、流石に宿代もすっかり底を尽き、衣食住のちょっとしたことにも、こと欠く有様――困り果てた彼は、遂に、かねて長崎を出ずる際、右、市郎右衛門の弟から頂戴したところの、

『右医師江戸滞在中何卒宜敷心添御願上奉申候以上』

といった旨を添え認(したた)めた書状を、その兄であるところの市郎右衛門養益に差し上げ申したところが、市郎右衛門、それは何より捨て置けぬことじゃと、早急に処置致さんとして、まずは市郎右衛門、

『この医師儀、恙なく、近々お上の御用向きたる訴訟事の済み候ことならば、近々、医師知人たる拙者高木市郎右衛門方へ宿替え致させ度(た)く存知申上候以上――』

という御請願をお上に差し上げ申したところ、

「本請願、受領致いたれど――未決審理の事件に付き――素人の住居への宿泊は、所在確認その他の諸要件に照らしても現住所変更は許可し難い……されど、奉行所が呼び出いた折りには、即座にその町屋の現住所、即ちその現在宿泊致いておるところの宿屋より――確実な連絡伝達がとれ得るように成さるるにてあれば――これは現住所の変更には当たらず――従って当奉行所の感知するところにはあらず。」

という御判断が下された。

 ――と、これを聞いた市郎右衛門、はたと膝を打った――。

 ――この医師が、これまで逗留して御座った町宿の向かいには、市郎右衛門当人が日頃から世話致いて御座った、わけありの者がおったので御座った――されば恙なく、その宿屋向かいの同人方を、この医師の定宿(じょうやど)と致すことと相成ったので御座ったのじゃ――。

 ――さてもそうして、暫くした、ある日のことで御座った。

 市郎右衛門の隣に店を構えて御座った商人の娘は、婿をとって安穏に暮らして御座ったのじゃが、これがまた、殊の外の難産にて、赤子は産道から足を出いたままにて、産婦も世を絶するほどの苦しみに喘いで御座った。

 女の父母は、その余りの苦しみようを見るに見兼ね、親しくして御座った隣家の市郎右衛門の元へと赴き、嘆き悲しんでおったところが、たまたま訪ねて御座ったところの、この医師がそれを聴き、

「……多くの医師の処方を受けて、匙を投げられ候上は……さても、拙者が診てもよろしゅう御座りましょうか……」

と訊ねた。

 勿論、藁にも縋る思いの両親、即座に悦んで、この医師に診断を頼んだことは言うまでもない。

 されば、この医師の言うよう、

「……さても我らこれより、ある薬をこの方へ服用させんと存ずる……が……たとえ、それを施療致いても、効用、これあらず……最悪、望まぬ事態に至ったとしても……お恨みなさらぬとならば……処方致さんと存ずるが……」

と申したところ、父母は、

「……最早、あらゆる医師の匙を投げました上は、どうか! お頼み申しまする!……」

と泣き縋って御座ったれば、彼は即座に一服の薬を与えた――。

――と――

――その効果があったものか、産道から突き出て御座った小さい足が――ひょいと引っ込む――

――さらにその薬を与えると――

――今度は、何なく赤子がひり出された――

――子は死産では御座ったれど、母体には聊かの別状もなし……

……されば、父母の喜びようは一方ならず、金子四十両を娘の救命が謝礼と差し出だいた。

 なれど、その医師は、

「そのような礼を受ける謂われは御座らぬ。」

と再三、断わる。

 ようやっと二十両だけは受け取ったものの、その内の十両を市郎右衛門に渡し、

「……いや、かくまで、お世話になり申した、その宿代、という訳では御座りませぬが……どうか、これをお受け取り下され。……実は……この度(たび)、長々と続いて御座った訴訟も相済み、幸いにも勝訴致すことと相成り申した……されど、長崎帰郷の旅費も、これなく、まあ、道々、乞食でも致いて帰らんか、と思って御座ったれど……この隣家の御礼の残(ざん)、十両さえ御座れば、故郷まで帰ることが出来ようというもの……長年、お世話になり申した御礼につきましては、かの郷里長崎に到着致いてすぐに、幾重にも致させて貰いますればこそ……」

と市郎右衛門に語ったので御座った――。

 ――ところが――それを聞いた市郎右衛門は、応えて言うた。

「……我らにも娘が大勢御座る……妻も若う御座れば……これより後、出産致すに際し……如何なることに遭うとも限りませぬ……されば……どうか! この秘薬の製法をお教え下さらぬか!?」

 それは、何やらん、歎きに等しい懇請で御座った。されど、その医師は、

「……それは……た易いこと乍ら……この薬は……その、一朝一夕にお伝え出来得るものにては……とても御座らぬものなれば……」

と、丁重に――且つ――きっぱりと断った。

 すると、市郎右衛門、居を正したかと思うと、

「……されば!……この度(たび)給わったところの、この十両の金子……これも、お返し申そうぞ!……また……貴殿の言うところの……追って金子、なんどというもんも、お送り戴かずとも結構!!……あぁっ!……これまで誠意を以って、貴殿をお世話致いて参ったッに!……今、拙者は、拙者の妻子のために! そのためだけに! かの薬方の伝授を願い申し上げたに過ぎぬに!……にも拘らず……その程度のご承諾さえ戴けぬとは……ああっ! 何と最早……残念無念!!…………」

と、市郎右衛門は深い遺恨の面体(めんてい)……。

 それを黙って聴いて御座った医師は、遂に市郎右衛門の謂いに伏(ぶく)し、

「……只今申された、その謂い……誠に御説御尤もなることなれば……されば、よし!……伝授致しましょうぞ……されど、本薬は、それぞれの患者の容態によって、加減致すべき術(わざ)も御座りますれば、もう四、五日の間、こちらへ逗留致しました上で……」

と言いて、かれこれ更に十日程、市郎右衛門方に滞在致し、三冊の調剤処方に関わる書物を書き残して長崎へと帰ったということである――。

 ……さても後、この薬方を伝授された市郎右衛門は、ちゃっかり、即座に多量に調合致いて『実母散』と名付け、『産前産後の妙薬』という宣伝文句で江戸市中に触れ廻ったところが――時々刻々、『実母散』調合買受の依頼が殺到――売ってくれ、売っとくれよと――客は引きも切らずという有様(ありよう)――暫しの間に、夥しい利を得、もう薪商売なんどをして御座る暇(ひま)これなく――今は、この『実母散』のみで成り立つ売薬商と相成り――実に千両屋敷を四、五箇所も所持致すという――誠(まっこと)正真正銘の大富豪と相成って――栄えて御座る、ということである。

2010/01/10

耳嚢 雷を嫌ふ事あるまじき事/碁所道智御答の事

「耳嚢」に「雷を嫌ふ事あるまじき事」及び「碁所道智御答の事」の二件を収載。

 雷を嫌ふ事あるまじき事

 長崎の御代官を勤し高木作右衞門が租父は市中の長也しが、至て雷を嫌ひ雷の時の爲とて穴室(あなむろ)を拵へ、なを横穴を掘、石槨(せきくわく)を拵へ置、雷の強き折柄は右石槨の内へ入て凌(しのぎ)けるが、身分結構に被仰付候節、江戸表へ召れ崎陽を發駕しけるが、その留守夏の事也けるが、夥敷雷にて所々へ餘りしが、右穴室の上へも落て石槨を微塵になしけるを、歸府の上見聞きて、公(おほやけ)の難有を彌(いや)覺、夫よりは運を感じけるや、雷を怖れざりしとかや。

□やぶちゃん注

○前項連関:天災・災害で前項大火及び前々項噴火と連関。

・「長崎の御代官を勤し高木作右衞門」底本鈴木氏は高木忠興(ただおき 享保21・元文元(1736)年~元明元(1781)年)とするが、岩波版長谷川氏注は当時はこの忠興の嗣子『忠任(ただより)』の代とし、『その祖父は作右衞門忠与(ただよ)。彼の時に御用物役から代官になった』とする。長谷川氏に分がある。この高木家、遡ると、初代高木作右衞門忠雄(生没年不詳)は、安土桃山から江戸初期の長崎の役人兼豪商(但し藤原氏の出身)であった。肥前高木(現・佐賀市)に城を築いていたが、永禄年間(155870)に長崎に移り、商人となった。唐蘭貿易に従事、元和2(1616)年摩陸国(モルッカ)あての海外渡航朱印状を幕府より与えられ、長崎頭人となった。以後、作右衛門が歴代名となった。2代忠次も長崎町年寄で、末次平蔵と共に民衆のキリスト棄教を推進、幕府より褒賞を受ける。3代宗能の時には、新たに御用物役に抜擢された。この話柄に現れた長崎町年寄8代目高木作右衛門忠与が長崎近郊の幕府領3000石の代官に任命されたのは元文4(1739)年2月23日のことで、高木家初の長崎代官となり、同時に幕臣となっている。以後、幕末まで歴代作右衛門が長崎代官を世襲した(高木家については主に「朝日日本歴史人物事典」の武野要子氏の記載に依った)。元文4(1739)年は本「耳嚢」巻之一の記載時から遡ること、30年程前のことである。

・「石槨」「せっかく」と読んでよい。石製の棺を入れる箱状の外郭。古墳に見られもので、この高木が建造している退避用地下シェルターの構造は、失礼乍ら、羨道を備えた石室そのもので、不信心な私などでも聊か不気味にして不遜なものに見える。雷、落ちちゃえ!

・「なを」はママ。

・「崎陽」長崎の漢文風の美称。「陽」は「洛陽」等の大都の趣きであろう。

・「雷を怖れざりし」典型的なプラシーボ効果である。

■やぶちゃん現代語訳

 雷は毛嫌いしてはならぬという事

 長崎の御代官を勤めた高木作右衛門忠与殿は――かの御仁は御祖父迄は、長崎市中の長(おさ)を勤める身で御座ったが――至って雷を嫌い、雷が鳴った時のためにとて、庭に穴を掘って地下室を作り、更にそこから横穴を掘り進めて、四方を石で固めた石室を拵え置き、雷が強く近くで鳴る折りには、即座にこの石郭の内に逃げ込んで雷が過ぎるのを凌いで御座ったということである。

 ところが、元文四年、長年の高木家の長崎での業績を鑑み、長崎代官就任という相応な身分をお上より仰せ付けられたので御座った。その年のことで御座ったか、御用のため江戸表へ召し出され、長崎を出立致いたので御座った。

 その留守中のことである。

 夏のことでは御座ったが、長崎では嘗て例にない夥しい雷が鳴り、また各所に落雷致いたので御座ったが、何と例の地下室の真上を直撃、石郭を粉々に打ち砕いたので御座った。

 作右衛門殿、帰府後、この惨状を実見致すに及び、己(おの)が命を救っ下さった御公儀の深慮、身に染みて、いや増しに覚えること頻り――それからというもの……己が強運をも感じたのでも御座ろうか……作右衛門殿儀、雷を全く恐れるなくなった、とか。

*   *   *

 碁所道智御答の事

 有德院樣御代、或時碁所(ごどころ)の者へ御尋有けるは、碁の力同樣の者に候はゞ、先ン手の者果して勝べき事と思召候旨、御尋ありければ、道智(だうち)申上るは、上意の通に御座候得共、年齡同樣にて某日の氣分も同樣にて碁力人同樣に侯はゞ、先ンの者勝ち可申段御答申上しとや。流石の上手の御答也と曲淵甲斐守咄しあり。

□やぶちゃん注

○前項連関:先行する吉宗関連でもよいが、石室に居れば落雷に遭わぬと考えることと、先手必勝という故事は論理的な誤りであることで私には美事連関して見える。

・「有德院樣」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡(おく)り名。

・「碁所」ウィキの「碁所」によれば、江戸幕府の役職の一つで、『職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、5020人扶持、お目見え以上。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていなければならない。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、将棋所よりも上位に位置づけられていた』とあり、『寛文2年(1662年)に囲碁、将棋が寺社奉行の管轄下に置かれるなど、幕府の政治機構の整備に伴い碁方の正式な長が必要となった。そのため寛文8年(1668年)1018日、幕府により安井算知を碁所に任命したのがはじまりで』、『各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開させた。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られている』とある。『碁所の起源は、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に2020人扶持を支給したことなどの、碁打衆の専業化が始まるところにある。続いて幕府を開いた徳川家康が慶長17年(1612年)に囲碁・将棋の強者である碁打衆将棋衆8名に俸録を与えることとした。その筆頭は囲碁・将棋の両方において本因坊算砂で、五十石五人扶持であった』。『これ以降は、算砂と、その後を継いで元和9年(1623年)に名人となった中村道碩が、事実上の碁打衆の頭領格となっていたと思われる』とする(将棋については慶長171612)年に算砂から大橋宗桂に地位を譲ったとある)。『寛永7年(1630年)の道碩の死後、その地位を巡って本因坊算悦と安井算知が争碁を行うが決着が付かなかった(碁所詮議)。本因坊算悦は万治元年(1658年)に死去し、安井算知は名人の手合に進むこととなり、同時に碁所となった。この頃から、碁所という名称が公に文書で使われるようになり、後の本因坊道策への御證書にも碁所の名称が使われている』。『またこの時期から本因坊家、安井家、中村道碩を継いだ井上家の三家に家録が支給されるようになり、後に林家も加わって家元四家となった』とのこと、私は囲碁将棋には全く暗いが、ここまで政治に深く関与していたというのは、驚きである。しかし考えてみれば、泰平の世にあって、男は正に戦闘のシュミレーションをここでやっていたのだなあ、と感心するところ頻りである。

・「道智」囲碁棋士の五世本因坊道知(元禄3(1690)年~享保121727)年)のこと。以下、ウィキの「本因坊道知」より引く。『父は本郷元町に住み、御小人目付小頭役を勤めた十郎衛門。8歳で囲碁を始め、10歳で道策の門下となる。道策は道的、策元と二人の跡目が夭逝した後に、道知の才能を見て跡目に擬し、1702年(元禄15年)の臨終において13歳の道知を本因坊家の家督を継がせるとともに、井上道節因碩を後見として道知の育成を託した。道知は同年の御城碁に初出仕し、林玄悦門入に先で7目勝ちとする。翌年の御城碁では、四段格で安井仙角に先で5目勝ち。これで道節は道知に六段の力ありと見て、1705年(宝永2年)の御城碁で六段の仙角に互先の手合割を申し入れるが、仙角は承知しなかったため道知先相先で争碁となり、この御城碁を第1局として翌年にかけて道知が3連勝して、仙角は互先の手合を了承した。この争碁は「宝永の争碁」と呼ばれる。1706年に道節と定先での十番碁を打って3勝6敗1ジゴ。この翌年には道知先相先で七番を打ち、道知勝ち越しにより七段を認められ、道節は後見を解く』とある。「ジゴ」とは黒地と白地の数が同じで引き分けることを言う。『1710年に琉球国中山王の貢使随員の屋良里之子と向三子で対戦して勝ち、この時に屋良に免状発行するために道節を碁所に推す。その後1719年(享保4年)の道節死後、1720年に他の家元三家に働きかけて、準名人(八段)に推薦されてこの年の御城碁では井上策雲因碩に向先の手合となり、続いて翌1721年に井上、林両家の推薦を受けて名人碁所とな』り、『1722年(享保7年)に甥の井口知伯を跡目と』した。『道知は道策の実子であったという説もある。また門下の長谷川知仙は安井仙角跡目となるが、早世した。将棋も強く、六段と言われ、七段の因理という者に香落ちで勝った際には、その場にいた大橋宗桂、安井仙角らから「盤上の聖」と讃えられたという』。

・「曲淵甲斐守」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保101725)年~寛政121800)年)のこと。前項複数に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。根岸よりも一回り上の先輩に当たる。

■やぶちゃん現代語訳

 碁所本因坊道智の有徳院吉宗様への御答えの事

 ……有徳院吉宗様の御代のことで御座る。

 ある時、上様が碁所の者にお尋ねになられたは、

「碁の力量が同様の者同士であれば、先手の者が必ずや勝つものであろうと思うが、如何(いかん)?」

との趣きで御座った。

 そのお尋ねに対して、当世の本因坊道智が、

「誠に上意の通りで御座いまするが――それは――年齢も同じで、その日の気分や健康状態も同様で御座って――その上で碁の力量も同様というので御座れば――先手が必ずや勝つものと存じまする――」

と申し上げたとか言うことで御座る……

「……いや、流石、名人の御(おん)答えで御座ったな……」

と、曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)殿が私に話したことが御座った。

アルフォンシーナと海――教え子の呉れた一枚に心臓を撃ち抜かれる

昨年末に、教え子が夫君と共に自選の数十枚のCDをプレゼントしてくれたのだが(ジョベルトの幻の一枚を探し出してやはりプレゼントして呉れた彼女と同じである)、その素晴らしいことを言葉で表現出来ないのが悔しい程である。その中でも、今、ハマっている(自室にいる際には、昨年度末よりこれがエンドレスで流れ、既に口笛で総ての曲を吹けるようになった)のが――

アルフォンシーナと海(ワーナーミュージック・ジャパンB00007GREH)

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波多野睦美(mezzosoprano)とつのだたかし(g)のデュオ。つのだはつのだじろうの実弟にして、つのだ☆ひろの実兄である。

以下の☆の差は、歌唱や演奏の出来不出来ではなく、専ら曲自体に対する僕の好みの差と心得られてよい。

1 アルフォンシーナと海 (ラミレス) ☆☆☆☆☆

:オープニングの摑みとしては波田野・つのだ共に絶品。

2 天使の死 (ピアソラ)  ☆☆☆☆☆

:ピアソラの名曲をつのだが美事に弾きこなしている。

3 オブリヴィオン―忘却― (ピアソラ)  ☆☆☆☆☆

終曲近くの波多野の声の伸びが素晴らしい。死んだ天使が蘇る!   

4 忘れる木 (ヒナステラ) ☆☆   
5 ばらと柳 (グアスタビーノ) ☆☆☆

:共に好きなタイプの曲想ではあるが、何故か聴いていて少し飽きる感じがする。

6 プレリュード (ヴィラ=ロボス) ☆☆☆☆☆

:波多野のインターミッション。つのだのいぶし銀のソロ演奏。作曲者はブラジルのバッハだもの、悪いはずがない!

7 メロディア・センティメンタル (ヴィラ=ロボス)  ☆☆☆☆☆★

:最初の一小節から、心臓をぎゅっと摑まれた!

8 向こうの教会へ (ラヴェル)  ☆☆☆☆☆

:単調なリフレインの短い曲乍ら、波多野の木霊(!)が美しい。

9 サラバンド (プーランク) ☆☆☆

:つのだのソロ。

10 愛の小径 (プーランク) ☆☆☆☆☆

:文字通り、小径スキップするような感じが心地よい……若き日の愛の小径とは……この曲の如、斯く在るということを……遠い花火のように思わせてくれる曲……

11 屋根の上の空  (ヴォーン・ウィリアムズ) ☆☆
12 仔羊をさがして(ヴォーン・ウィリアムズ) ☆☆   
13 リンデン・リー(ヴォーン・ウィリアムズ) ☆☆

:以上三曲、僕なら別な曲にする気がする。具体的には挙げにくいが、イングランド民謡風のヴォーン・ウィリアムズのこれらの曲を選ぶなら、アイルランドの民謡を三曲選びたい気がする。もしくは5曲総て武満。僕には明らかにこの英語圏の三曲のみが(但し、この三曲を単独で聴くならば、相応によく、決して退屈な曲ではないのだが)このアルバムでは異質に響くのである。

14 小さな空(武満徹) ☆☆☆☆☆★★★

:この歌詞!

この歌唱!

このギター!

この旋律!

……「いたずらが過ぎて」……子供の頃の、僕の孤独で淋しそうな後ろ姿が見えてくる……あの断崖を降りれずに夜道を帰ってゆく僕だ……しかし、その小さな僕の後姿は、それを思い出す一層淋しい未来の今の僕のもっと淋しい後姿へと変わってゆくのだ……僕は、涙なくしてこの曲を聴けない……

15 三月のうた(武満徹) ☆☆☆☆☆★★

:オープニングに呼応するエンディングの摑みの妙味!

……「私は愛だけを抱いてゆく」……の以下の部分のメロディ・ラインを聴くためにこそ、この曲は、否、この一枚はあるといってよい――。 

2010/01/09

HPテクスト行間2倍改造作業終了

HPテクストの内、ほぼ95%以上のテクスト・ページを行間2倍に改造する作業を、今、終了した。幾分かは、読み易くなっていると思う。ブラウザの字がごちゃごちゃちらついて読むのを諦めておられた方は、どうか、再度、御笑覧頂ければと存ずる。

HPのテクストがブラウザで読みにくいというお叱りは何度か頂いたことがある。その際、僕は僕のテクストはブラウザで読んで戴くより、ワード・プロセッサにコピー・ペーストされて、縦書に変換、お読み戴くことを念頭に置いていると嘯いてきた。……が、実際に自分でもブラウザでは読みにくいなあ、と内心、忸怩たるものがあったことも事実であった。昨日、ネット・サーフィンをしていたところ、ブラウザのフォントや表示法を専門にされている方が、僕のあるテクストに興味を持たれたらしく、ブログに掲載されていたのであるが(勿論、私のHPからの転載であることをお断りになられ、リンクも張っておられた)、そこでその方は、数種のフォントを使い分けられて、実に美しく読み易かったのであった。ちょっと嫉妬したのだ……それが今回の大改造のきっかけではある……あるが、しかし、もっと有体に言ってしまえば……僕は実は、僕のHPビルダーを全く勉強せずに用いており、昨日、あちこと自己流でいじくっている内に、行間変更機能をひょんなことから見つけた――即ち、昨日まで僕は行間隔拡張方法を知らなかったから、やらなかった……やれなかった……という惨めな事実を告白してお詫びとしたい。

なお、俳句はブラウザでも縦書でなくてはいけませんと、わざわざメールを下さった読者もかつておられたが、僕の所持するHPビルダーは、縦書変換には至って不向きなもので、芥川龍之介俳句全集のような膨大な量のものを一括返還が出来ないタイプであるため、今後も縦書表示にするつもりは、今のところ、ない。文句を言われるなら、それこそ、さっき申し上げたように、紙ベースに変換されるに若くはないのだ。僕は多様なブラウザの縦書変換ビューワを持っているが、最近は殆んどブラウザで見ることはない。やっぱり活字の縦書が大切だと思うのである。

改造継続中

ツルゲーネフの「散文詩」(ファイル名“sanbunnssi”)まで辿り着いた。今からアリスの散歩に参る。

改造続行中

7時過ぎに起床、本未明よりの全HP行間隔改造を続行中。現在、半分を超えた。ファイル名が“a”~“k”で始まるものはチューン・ナップしている。順次、アップしているのでお待ちあれ。これより、食事を摂る。

耳嚢 信念に奇特有し事

「耳嚢」に「信念に奇特有し事」を収載した。では一眠り致す。

 信念に奇特有し事

 明和九辰年の江戸大火は人々知る所也。其節の事なる由。予が近隣若山某の咄しけるは、右妻の伯母は佐竹右京大夫奧の老女にてありしが、大火の節奧方に付て立退しが、いづ方にありし哉(や)紛擾混亂の内に乘物を見失ひ、所々尋けれども其行方知られねば、引取り置候部屋子(へやご)の小女を連、受かしこと尋けるに、淺草大たんぼといへる方迄迷ひ歩行しに、其處も追々燒たり。如何せんと當惑しける所に、佐竹家の印し番の圖の提燈を持し者貳人連にて通るを見掛け、呼候てしかじかの由申ければ、大きに悦び、我等介抱可致と、兩人着しける革羽織をぬいで下にしき、上にかざして火の子を防ぎ、小女の食物抔才覺して漸其邊も鎭りし故連立て淺草藏前迄出しに、主人の乘物を見請し故、生たる心地にて右乘物にすがり、しかじかの由語り涙にむせび、御供して下屋敷へ立退し由。右騷動の折から故、介抱の兩人名字を聞侍らず、ケ樣/\の者に殊の外世話に成しと役人へ申談じ、謝繕をもせんと念頃に尋しが、所々の屋敷を詮儀しけれど似たる事もなかりし。右老女兼て信心人に勝れしが、神佛の助け給へるならんと語りはべる。

□やぶちゃん注

○前項連関:災害と、その中で語られる奇談という形で連関。

・「奇特」「きどく」と読む。神仏の持つところの不可思議な力、霊験を言う。

・「明和九辰年の江戸大火」明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つと言われる明和の大火、通称行人坂の火事のこと。放火による。明和9(1772)年2月29日に目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火、南西風に煽られて延焼、完全な鎮火は2日後の3月1日。ウィキの「明和の大火」によれば、『29日午後1時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、『老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した』。死者約15,000人、行方不明者は4,000人を超えた。『「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川平蔵の父親)の配下によって4月頃に捕縛される。明和9年6月22日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された』とある。

・「佐竹右京大夫」佐竹義敦(よしあつ 寛延元(1748)年~天明51785)年)のこと。出羽国久保田藩(現在の秋田県。一般にも秋田藩と呼ばれる)の第8代藩主。官位は従四位下侍従、右京大夫。号を曙山(しょざん)といい、絵を好み、狩野派を学んだが、現在、重要文化財となっている「松に唐鳥図」等、その才能は天才的であった。彼が重用した藩士小田野直武も卓抜した画才を持ち、藩主に画法を教授、遂には日本画に西洋画を組み合わせた秋田派(秋田蘭画)を完成させた。因みに、この藩士小田野直武なる人物は、その強い西洋画風の趣向を持った作品を見た、かの平賀源内が絶賛、後に藩主義敦の命により、源内の下で絵を修行し、源内の友人杉田玄白の「解体新書」付図の作画をした人物として知られる。帰藩後、藩主義敦と共に日本最初の西洋画論「画法綱領」「画図理解」を著わしている(以上は主にウィキの「佐竹義敦」を参照したが、私は実際に義敦の絵や直武の作品を実見したことがあり、それは誠に美事なものであった)。底本の鈴木氏注に『藩邸は下谷七軒町にあり、下屋敷は深川と日暮里にあった』とある。

・「部屋子」大名屋敷の奥女中に仕えた召使い。

・「淺草大たんぼ」浅草田圃。浅草新吉原(現在の台東区)の後方にあった水田地帯。吉原田圃とも言う。明暦3(1657)年の大火(振袖火事)によって吉原(現在の日本橋付近)が焼失したのを機に、かねてからの幕府からの移転命令(当該地を御用地とするため)もあって、交通の便宜を考えてここに移転したもの。

・「佐竹家の印し番の圖の提燈」岩波版では「番」は「香」。この「香」が正しいものと思われる。それは岩波版長谷川氏注に、「香の紋」について『佐竹家の家紋。源氏香の』花散里の図案を用いていたという記載がある。ウィキの「佐竹氏」によれば、『元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の佐竹義処は弟の佐竹義長に2万石を、甥の佐竹義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の佐竹義堅が久保田藩第5代藩主の佐竹義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された。一方、佐竹義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した』とあり、少なくともこの家紋を用いていた別な佐竹氏があったものとも思われる。しかし……私はこうも考える……佐竹の提灯を差しながら、佐竹の御家中、佐竹家所縁の者でない……とすれば……彼らは、実は火事場泥坊だったのではなかろうか? 避難しても抜けの空となった下谷七軒町の佐竹家上屋敷を物色の後、そこにあった提灯も戦利品として失敬し、へらへらと引上げてきたところが、火中の栗ならぬ佐竹の老婆を拾うというドッキリ……彼等、実は根っからの悪でもなく、ここで逢(お)うたも何かの因縁……と感じ入るところあって、火事場の馬鹿力ならぬ慈雨介助と相成った――という段、是如何?

・「淺草藏前」現在の蔵前1丁目~4丁目付近。当時、この大川(隅田川)沿いに幕府の米蔵(浅草御蔵)があり、その西の一帯をこう呼称した。

・「役人」これは町方の役人の意味かもしれないが、先に注で示したように提灯の家紋が佐竹家の家紋であるなら、まずは主家である佐竹家家役の者に言上するのが筋であろうから、そのように訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 深い信心には霊験のある事

 明和九辰年の江戸の大火は、人々も知るところの大火事で御座る。その折りの話、とのこと。

 私の屋敷の近隣に住む若山某(なにがし)の妻の話によれば、かの妻の伯母は佐竹右京太夫義敦(よしあつ)殿奥方の老女中で御座ったが、この明和の大火の折り、奥方の輿に付き従って徒歩(かち)で避難致いたものの、火事の騒擾(そうじょう)混乱の中、何方(いずかた)へ行かれたか、当の奥方お乗りの輿を見失い、あちこち尋ね歩いたけれども、一向に奥方の行方(ゆくえ)が知れぬ。避難の際に彼女手を引いて逃げて参った部屋子の小娘を連れながら、なおも、あちらかこちらかと尋ね歩(あり)くうち、浅草の大田圃と呼ぶ辺りまで迷い出てしもうたが、その辺りもじわじわと焼け始めておったれば、一体、如何にしたらよいものか、と途方に暮れて御座った。

 と――そこを佐竹家の源氏香の家紋を印した提灯を持った者、二人連れで通るのを見つけ、呼び止めて、かくかくしかじかの由、話したところ、二人は満面の笑みを浮かべ、

「我等がお守り致そうぞ!」

と、頼りになる言葉を掛くる。――両人は着て御座った革羽織を脱ぎ、一枚を下に敷きて彼女と小娘を座らせると、今一枚を二人の上にかざして火の粉を防ぐ。――暫らくすると一人が、腹をすかして動けぬと言う小娘のために、何処(いずこ)からともなく、食い物なんども調達して参る。――そうこうして、やっと人心地ついた頃おい、漸くその辺りも鎮火致いた故、この四人連れ立って浅草蔵前辺りまで出たところが――そこで奥方の乗る輿を発見致いた故、子娘の手を握って息せき切って駆け寄ると、かくかくしかじか、これまでの仕儀を総べて言訳致いて涙に咽び、奥方の労いの御言葉を頂くも早々に、そのまま――九死に一生、男二人のことは念にも上らず――奥方にお供致いて、延焼を免れた右京太夫殿下屋敷へと避難致いたとのことであった――。

 ――かく騒擾の折から、彼女は介抱して呉れた両人の名も聞かずに御座ったれば、

「……これこれこういう、お二人に、殊の外、お世話になり申した。」

と主家佐竹家家役に申し出て御座ったが……そのような者、主家の内には御座らぬ――謝礼をもせんと手を尽くして尋ねてはみて御座ったが……そのような者、佐竹の分家にも御座らぬ――もしや、家紋の見間違いかと、方々(ほうぼう)の武家屋敷を尋ね問うてみても御座ったが……そのような者はおろか、似たような火事場介助の話だに御座らなんだ――。

 若山某の妻は、

「……この伯母は、以前より優れて信心厚き者にて御座いましたが……それ故、きっと神仏がお助け下さったもので御座いましょう……。」

と語って御座った。

全HP改造中!

アプリに飽きて、突然、HP改造に目覚めた。

殆んどのページの行間隔を2倍に増やす仕儀をかれこれ6時間ぶっ続けで続行中。そろそろ眠くなってきたので中断するが、明日中には、総てのページが多少、読みやすくなるものと思う。

2010/01/08

耳嚢 人の運不可計事 及び 又

「耳嚢」に「人の運不可計事」及び同系話「又」の二件を連続収載。

 人の運不可計事

 安藤霜臺(さうたい)の譜代の家士に、名字は忘れ幸右衞門といへる者ありし由。今は身まかりしが、彼もの在所は紀州黑井村といふ所にて、加田(かだ)と向ひ合て嶋同前の場所の由。右幸右衞門は若年より霜臺の親の許にみや仕へしが、【其頃霜臺の父郷右衞門は紀州家士にて若山に勤仕(ごんし)の由】同人弟有し故是をも若山へ呼びて勤めさせべきと思ひ、迎ひがてら幸右衞門彼黑井へ至り父母其外の兄弟に逢ひけるが、其此黑井より加田の海面兩日程眞黑に成て渡るものあり。能く/\見れば黒井の鼠加田へ渡りけるにてありし。かゝる不思議にも不心付、父母兄弟に別を告て弟をつれ若山へ歸らんとしけるを、ひらに今一兩日も止り給へかしと強て止めけれ共、約せし日數なればとて歸りぬ。其夜中津浪にて一村一浪の内に滅却し、父母兄弟家族共に水中の物となりしが、不思議に幸右衞門まぬがれけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、生物の自然災害の予知能力を語る一篇としては、事実らしさを感じさせ、興味深い。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。お馴染みの根岸の情報源。

・「譜代の家士」代々同じ主家に仕えた家系。

・「紀州黑井村」和歌山城南方約7㎞に位置する現在の和歌山県海南市黒江。輪島塗のルーツとされ、室町期に始まる黒江塗という漆器で栄えた町として知られる。

・「加田」和歌山城西北約12㎞に位置する現在の和歌山市加太(かだ)。鉢巻山と田倉崎の北側に加太港という大きな漁港を有する(この岬の存在が津波を堰き止めたと言えるか)。和歌下津港・和歌浦湾を大きく見れば、丁度、和歌山城を中心にして向かい合った位置関係にはあるが、その間は直線距離で海上20㎞以上隔たっている。津波で溺れるか、遠泳で溺れるか――鼠も必死であったろう。

・「勤めさせべき」の「させ」はママ。

・「霜臺の父郷右衞門」(元禄7(1894)年~享保6(1721)年)安藤郷右衛門惟泰(これやす)。底本の鈴木氏注によれば、初め紀州家に仕えたが、享保元(1716)年、吉宗の将軍就任に従って御小姓となり、幕臣として300石を有した。28歳で早世している。

・「若山」和歌山。

■やぶちゃん現代語訳

 人の運は測り得ぬものである事

 安藤霜台惟要(これとし)殿の譜代の家来に――名字を忘れたが――幸右衛門と申す者が御座った。現在はは既に身罷った者であるが、この者の在所は紀州黒井村という所にて、ここは丁度、海を挟んで加田と向かい合って位置する――陸続きでは御座るものの、和歌山の御城下からは、専ら船で参るを常道とする――言わば、島同然の土地の由で御座る。

 この幸右衛門、若年より霜台が親の元に仕えて御座った――霜台の父郷右衛門(ごうえもん)惟泰(これやす)殿は紀州家家来にて和歌山城下に勤仕(ごんし)して御座った――が、同人には弟が御座った故、この弟も和歌山へ呼び、勤仕さするに若くはなしと思い、迎えがてら、幸右衛門、黒井に参り、久しぶりに父母その他の兄弟(はらから)に逢(お)うた。

 ――幸右衛門、帰郷するその舟路でも望見致いて御座ったが――翌日、永の無沙汰の挨拶回りも終わり、弟勤仕の一件も決まり、一息ついて――ふと、海の方(かた)を望むと、昨日の舟から見たのと同様――即ち、丸二日に亙って――この黒井から、遠く加田に向かって、海面が真っ黒になって、何やらん、渡って行くものが御座った――よくよく見ると、それは黒井の鼠が大群を成して海上を加田へ泳ぎ渡って行くのであった――。

 ――幸右衛門は、かく不思議なることをも、さして気にすることもなく、帰って二日目の、その日の内に父母兄弟に別れを告げ、弟を連れて和歌山へ帰ろうとしたところが、皆より、

「まあ――折角の久方ぶりのご帰郷に、弟ごとはまた永のお別れなれば――どうか、今、一日二日、お留まりあらせられよ。」

と、頻りに引き止められたけれども、

「主家に約せし日限に遅れますれば――」

と、弟と共に御城下へと帰った。

 ――その夜の内に……

……大津波の一撃により……黒井村は丸ごと一瞬のうちに消滅……幸右衛門父母兄弟家族悉く……海の藻屑と相成った……されば、幸右衛門とその弟は、誠に不思議なことに、この難を免れた、ということで御座った……

*   *   *

   又

 天明二寅年淺間山燒(やけ)て、上州武州の内甘樂郡(かんらごほり)碓氷郡緑野(みとの)郡片岡郡は或は三尺或は壹尺程に燒砂(やけすな)降積り田畑を押し埋め堀川を埋、あさま近き輕井澤などは火の儘にてふりし故、家を燒候もありて怖き事也し。又上州吾妻(あがつま)郡は淺間の後(うしろ)なるが、彼邊は砂の降しは少けれど、淺間山頭鉢段といへる洞(ほら)より泥火石押出し、家居を押流し人民を泥に埋め、火石にて畜生類を燒破りて、吾妻の川縁夫(それ)より群馬郡武州榛澤(はんざは)の郡邊迄利根川烏川を押通り、所によりては或は壹丈貳丈も泥の押上(おしあげ)ける故人民の死傷不少【此委細は予御用中に記し小册となしてその御方へも懸御目(おめにかけ)し有り、こゝに略す。】予右見分御用を仰蒙(おほせかうむ)りて不殘廻村見分し、翌春迄に損所御普請も出來(しゆつたい)しけるが、吾妻川の川縁に租母嶋村(うばしまむら)といへるあり。かの泥出しの折柄老少となく恐れおのゝき、後なる山へ命限りによぢ登りしが、翌日に至り少し靜りて誰彼と人を尋しに、右村方にても廿人餘も押流されて行衞知れず。依之(これによつて)見えざる分は死せるものと歎き吊(とむら)ひけるが、河原の岸にわづかに物こそみゆれと立越(たちこえ)みれば、小兒を肌に負ふて泥の中にうつぶし居候者ありける故、早々取出し泥だらけなるを洗ひて見ければ、村方百姓の母孫を肌に負ひて、租母は相果、背負ひし孫には恙なかりしと也。其日の事にもあらず翌日迄泥中に倒れ、既に租母は相果しが小兒の生殘りたるといへるも不思議の運也と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:九死に一生、自然災害の奇談の二つ目。浅間大噴火は二項前の根岸の関東六ヶ国川普請御用とも関連する。

・「天明二寅年淺間山燒て」根岸にしては、大ボケをかましている。浅間山の大噴火は天明3(1783)年癸卯(みずのとう)の7月6日から8日(新暦換算で8月3日から5日)のことである。現代語訳でも訂正した。以下、ウィキの「浅間山」の「記録に残る主な噴火」から当該箇所を引用する。その年の4月9日『に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1ヶ月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔は短くなっていき、その激しさも増していった。7月6日から7月8日の噴火で3日間で大災害を引き起こしたのである。北西方向に溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生、いずれも群馬県側に流下した。その後、約3ヶ月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石なだれとなって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止めた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運んでいく。このとき利根川の支流である江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられたのである。このとき被災した死者は、約1,500人に達した(浅間焼泥押)』(この天明の大噴火の死者総数は資料によって極端な差があり、一部には20,000人とも記される)。『長らく溶岩流や火砕流と考えられてきたが、最も被害が大きかった鎌原村(嬬恋村大字鎌原地区)の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、昭和54年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。 

・「甘樂郡」上野国(現・群馬県)の郡。現在の甘楽郡(かんらぐん)の郡域である甘楽町(かんらまち)・下仁田町(しもにたまち)・南牧村(なんもくむら)2町1村に加え、現在の田野郡の一部である神流(かんな)川上流域と富岡市域の一部も含まれた(以下、郡記載の殆んどはそれぞれ郡のウィキの記載を参考にした)。

・「碓氷郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、碓氷郡(うすいぐん)松井田町1郡1町として存在していたが、2006年(旧)安中市と合併し新市制による安中市となって消滅した。当時の郡域は現在の安中市及び高崎市の一部も含まれた。

・「緑野郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、緑野郡(みどのぐん)は明治以降も3町8村〔藤岡町・神流村・小野村・美土里村・平井村・美九里村・日野村・鬼石町・三波川村(現・藤岡市)・新町・八幡村(現・高崎市)〕の郡として残存したが、明治291896)年、多胡郡・南甘楽郡と合併、多野郡となった。大部分は現在の藤岡市の相当する。

・「片岡郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、片岡郡(かたおかぐん)片岡村1郡1町として存在していたが、明治29 1896)年、西群馬郡と合併して群馬郡片岡村となり、更に昭和2(1927)年に高崎市に編入された。

・「輕井澤」現在の長野県佐久地方の地域名。狭義には現在の長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区や軽井沢町全体を指すが、広義にはそれに加え、群馬県側の北軽井沢地区も含む。ここでは後者の範囲で採るのがよい。江戸期には中仙道難所の一つであった碓氷峠西側の宿場町として、また、浅間山を望む景勝の地として栄え、軽井沢宿(旧軽井沢)・沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)の浅間三宿があった。

・「吾妻郡」上野国(現・群馬県)西に位置する郡。吾妻郡(あがつまぐん)は現存し、現在は吾妻川沿岸にある東吾妻町(ひがしあがつままち)・草津町(くさつまち)・六合村(くにむら)・高山村(たかやまむら)・嬬恋村(つまごいむら)・中之条町(なかのじょうまち)・長野原町(ながのはらまち)の4町3村で構成されている。

・「淺間山頭鉢段」読み共に不詳。「とうはちだん」か。叙述からは、比較的古い盛り上がった噴煙口(ここに名称が付いていることから古いと推定した)の名であろう。それも山頂よりやや下った部分に鉢巻のような帯状に複数ある噴煙口を指すのではなかろうか。岩波版長谷川氏注では、「耳嚢」諸本で「段」とも「領」ともなっている旨、記載がある。どちらであっても私の推測した火口形状にはしっくり来る気がする。

・「吾妻の川」吾妻川(あがつまがわ)群馬県西部を流れ、利根川に下る川。群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代と長野県県境との間にある鳥居峠に源を発する。吾妻郡内を東流し、渋川市白井と渋川市渋川の境界域で利根川に合流している。草津温泉・万座温泉等からの水が流入するため、水質は強酸性である。ここは皆さん、よく御存知である。え? 知らない? この川の左岸は群馬県吾妻郡長野原町大字川原畑、右岸を同町大字八ッ場(やんば)と言う。八ッ場ダム、ほら、知ってるでしょ?

・「群馬郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、群馬郡榛名町1郡1町として存在していたが、平成182006)年、榛名町が高崎市に編入、消滅した。当時の郡域はもっと広く、同県北群馬郡と勢多郡の一部を含んだ。

・「武州榛澤の郡」武蔵国(現・埼玉県)の郡。榛沢郡(はんざわぐん)は、後、深谷町(深谷市)・大寄村(深谷市)・藤沢村(深谷市)・新会村(深谷市)・中瀬村(深谷市)・手計村(後に八基村→深谷市)・岡部村(深谷市)・榛沢村(深谷市)・本郷村(深谷市)・武川村(深谷市)・花園村(深谷市)・寄居町(寄居町)・用土村(寄居町)・桜沢村(寄居町)の2町12村で構成されていたが、明治291896)年、幡羅郡・男衾郡と共に大里郡に編入されて消滅した。以上からもお分かりの通り、当時の郡域は現在の深谷市全域及び寄居町付近に相当する。

・「利根川」以下、ウィキの「利根川」によれば、現在の利根川は群馬県最北端越後山脈の大水上山を最深水源として、吾妻川・烏川・渡良瀬川・鬼怒川など多数の川を合わせて、千葉県銚子市と茨城県神栖市の市境で太平洋鹿島灘に注ぐ川。また、前注でも触れた通り、流れの一部は、旧渡良瀬川下流流路であった江戸川として東京湾へも注ぐ。『水系の本川全長は約322kmで、信濃川に次いで日本第二位の長さを誇る。そのため、流域は長野県佐久市(信濃川の通るまちでもある)、群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都に跨がる』。『流域面積は関東平野全体に広がっていて、約16,840km²となり日本で最大』であるが、実はその大半は、江戸時代の瀬替え(利根川東遷事業)によって開鑿された人工的なものである。『江戸時代初期までは、江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川であった。しかし、東北地方や北関東から江戸の街への水運ルートの確保や、関東平野の新田開発の推進を目的として、徳川家康の号令で伊奈忠次、忠治らによる利根川を渡良瀬川水系や鬼怒川水系と繋ぐ瀬替え(利根川東遷事業)が始まり、最終的には利根川の本流は銚子の方へ流れるようになった(治水上の利根川本流が銚子への流路に確定するのは明治時代である)。なお、利根川水系や渡良瀬川水系は洪水によって流路がしばしば変化していたうえ、東遷事業などに伴う水路の開削・閉鎖が複雑に行われたため、東遷以前の河川を現在の河川と比較対照させるのは難しい』。『東遷事業のあらましは、利根川と東隣を流れていた渡良瀬川をつなぎ、その先をさらに鬼怒川水系下流方面へとつなぐというものであった。現在の江戸川は、下流域はかつての利根川・渡良瀬川水系の流路に沿っている部分もあるが、利根川から分流後の20kmほどの部分は、人工的に開削されたものである』とある。あの坂東太郎の、目から鱗である。

・「烏川」ウィキの「烏川」によれば、主に現在の『群馬県高崎市を流れる利根川水系の一級河川。支流も含めると群馬県西部、いわゆる西毛地域のほとんどを流域に持つ川で』、『郡馬県高崎市倉渕町(旧倉渕村)の鼻曲山に源を発し、おおむね南東に流れる。高崎市下豊岡町付近で碓氷川と高崎市阿久津町付近で鏑川を合わせ、高崎市新町付近で神流川を合わせると僅かの間、群馬県・埼玉県の県境を成し』て、『利根川に合流する。支流鏑川の上流域(南牧川-馬坂川、熊倉川)に長野県佐久市を含む』とある。

・「【此委細は……】」この割注の内容は根岸鎮衞の役職に関わる記載。当時、彼は勘定吟味役であったが、特に関東六ヶ国川普請御用として河川の改修・普請に才覚を揮った。浅間大噴火後には浅間復興の巡検役となった(当時47歳)。その功績によって翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢されている。

・「出來」事件が起こる、物事が出来上がる、ある行為を成し遂げる。半年で復旧事業を遂行した。さりげなく、根岸君、自慢して御座る。

・「租母嶋村」底本の鈴木氏注によれば、『群馬県渋川市祖母島(うばしま)。吾妻川の右岸、市域では上流地域。』と記す。国土地理院の2万5,000分の1の地勢図で吾妻川遡ってみたが、それらしい地名を発見することが出来なかった。渋川の郷土史研究家の方、御教授を乞う。

・「吊(とむら)ひける」は誤字ではない。「吊」という字は、原義に、何と「弔」という漢字の俗字の義が、元々あるのである。お疑いの向きは、漢和辞典をお引き下されよ。

■やぶちゃん現代語訳

 人の運は測り得ぬものである事 その二

 天明三年卯の年、浅間山の大噴火が御座って、上州・武州の内、甘楽郡・碓氷郡・緑野郡・片岡郡辺りには、凡そ三尺から一尺余り、焼けた砂のような灰が降り積もり、田畑と言わず堀川と言わず、悉くを埋め尽くし、浅間に近い軽井沢辺りでは、発火赤熱した石砂が降ったために、家までも焼け、その恐ろしきこと――かの炎熱火石の地獄の如くで御座った。

 また、上州吾妻郡――ここは浅間山の後背に位置して御座ったが――あの辺りは、熱砂の降りは少なかったものの、浅間山の頭鉢段という火口から熱を帯びた泥砂流が発生、あらゆる家屋敷を押し流し、民を泥中に埋め、赤熱発火した岩砂は足速(あしば)やの家畜の類いさえ残らず焼き殺いて、その流れは熱を冷ましながら吾妻の川っぷちから上州群馬郡、武州榛沢(はんざわ)郡にまで至り、更には利根川、烏川を恐ろしい勢いで押し越えて行ったので御座る。場所によっては、凡そ一丈から二丈余りも泥砂が堆積したために、死者の数も少なくなかった[根岸注:この時の仔細につきては、私が実際に見聞記録致し、それを小冊子としたものを関係各署へ提出致いて御座れば、ここにては省略致す。]。この浅間大噴火後の巡検役を仰せ付かり、浅間山山下はもとより、周縁の上州・武州の村々を残らず廻村見分致いて、翌春までには、概ね災害の復旧作業を完遂し得て御座った。

 ――その巡検中に聞いた話にて御座る。

 吾妻川の川っぷちに祖母嶋(おばしま)村という村が御座る。

 あの泥砂流が流れ下って来た折り、村人たちは老若なく皆、恐れ慄き、後方にある山に命からがらよじ登ったので御座った……。

 翌日となり、山も少し静まり、彼等も幾分、平静取り戻いたによって、誰彼と村人を一々確かめて見ると、この祖母嶋村にても二十人余りが泥に押し流されて、行方知れず。そこで、居らぬは死んだものと嘆きつつ弔いの念仏なんど唱えて御座った……。

……と……

「……! あそこのッ! 河原ん岸辺りに!……何やらん、わずかに見えとるぞーッ!……」

との声……男どもは立ち上がり、泥土を越えて河原へ駆けつける……、

……と……

幼な子をひっしと背肌に負うて、泥の中にうっ伏しておる者が居(お)る。急いで掘り出だいて、泥だらけになっているのを川の水にて洗うて見れば……、

……それは、村の百姓の母者(ははじゃ)が……孫を背肌に負うておったので御座った……。

……すでに祖母は事切れて御座った……。

……が……

……何と! 背負うた孫は何の怪我もなく、元気にして御座った――と!

……この救出劇は、あの恐ろしい火炎の泥砂が襲った、「その日」のことではない。翌日、ほぼ丸一日の間、泥中に倒れ埋もれて、その背負うた祖母が既に生命(いのち)を失うて御座った中、幼な子だけが生き残ったというのも、誠に不思議な運命にて御座れば、ここに記しおく。

2010/01/07

耳嚢 足利聖像の事

「耳嚢」に「足利聖像の事」を収載。

 足利聖像の事

 安永五子年冬より予關東川々御用を承りて國々廻村せし折から、足利に至り同所學校へも詣でけるが、出家壹人出て案内し境内の高ふり松抔のいわれかたりけるが、當時寺となりて出家の言葉故怪辯のみにて、強て面白きと思ふ事もなかりしが、聖像を拜しけるに古き木像にて座像也。衣紋手足の形容誠に絶技のなす所と見へたり。然るに通例の聖像と違ひ面貌温淳の相に無之、聊怒氣のあらはれたる故、歸府の後人に語りければ、それは左もあるべし、足利の聖像は閻羅のみぐしを見出し、聖像也とて木像にとり立しと聞及し旨かたりぬる故、實(げに)も左もあるべしと覺へぬるまゝに爰に記し置ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:不動明王の御首(みぐし)と、閻魔大王の御首の孔子胴体への前置換手術で連関。

・「聖像」足利学校の孔子廟(聖廟)に祀られた孔子像。建物は正式には大成殿と呼び、寛文81668)年、足利学校13世庠主(しょうしゅ:学校長。)伝英の時に造営されている。この像については昨年(2009年)、以下のようなニュースが記憶に新しい。ネット上の産経新聞より引用する。見出しは「孔子さまもお引っ越し? 文化財盗難警戒で 栃木・足利学校」2009.3.3 17:50)である(改行は省略した)。

《引用開始》

 仏像など文化財の盗難が相次いでいる中、国内最古の「孔子坐像」を所蔵する栃木県足利市の史跡「足利学校」は、孔子坐像の展示を実物からレプリカ(複製)に変更することを決めた。世界遺産登録を目指している足利学校にとって、貴重な文化財を守るためだ。孔子坐像は高さ約77センチ、ヒノキ製の寄せ木作りで、天文4(1535)年に制作。当初は足利学校の講堂に置かれていたが、寛文8(1668)年に孔子廟が造営されたのを契機に廟の正面に安置された。制作時期が明確なものとしては国内最古で、昭和40年には県の有形文化財に指定された。幕末の文人画家、渡辺崋山が銘文を確認するため孔子坐像を廟の外に持ち出して逆さまにした際、底板の一部を壊したというエピソードもある。レプリカは樹脂製。昭和61年、足利市教委が孔子坐像の保存修理と解体調査を行った際に文化財保護として作製、足利学校で実物の代わりとして展示した。調査後、市民に周知せずにレプリカを展示していたことが問題となったことがあった。平成2年に足利学校が復元されたことなどから4年、再び実物を展示し現在に至っている。レプリカへの変更は近く行う予定。今後、実物は国宝などの典籍が保管されている収蔵庫に置かれ、毎年1123日に開催される儀式「釋奠(せきてん)」や文化財一斉公開などで公開される。史跡足利学校事務所は「文化財保護のため、市民の理解を得たい」と話している。(Copyright 2009 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

《引用終了》

記事は消失の可能性があるが、聖像の写真が添付されているので、貼っておいた……しかし、御覧戴きたい……当該記事に附された写真を見ても、「面貌温淳の相に無之、聊怒氣のあらはれたる」閻魔大王のそっ首には見えぬ……また、「足利学校 孔子 閻魔」の検索ワードもそれらしいものはヒットしない……残念ながら、この都市伝説……とっくに閻羅庁行きになっているようである……それとも、当時既に誰かに盗まれることを恐れて……寄木造りなればこそ、わざわざ閻魔大王の首に挿げ替えておいたものか!?……

・「安永五子年」安永年間を西暦及び干支を添えて以下に示す。

安永元・明和9(1772)年 壬辰

安永2(1773)年     癸巳

安永3(1774)年     甲午

安永4(1775)年     乙未

安永5(1776)年     丙申

安永6(1777)年     丁酉

安永7(1778)年     戊戌

安永8(1779)年     己亥

安永9(1780)年     庚子

安永10・天明元(1781)年 辛丑

以上から、安永5(1776)年の干支は丙申(ひのえさる)で誤りである。しかし、前項「妖怪なしとも極難申事」冒頭に「安永九子年の冬より翌春迄、關東六ケ國川普請御用にて、予出役して右六ケ國を相廻りしが」とあることから、これは干支の方が正しいと考えるべきである。現代語訳でも安永9(1780)年庚子(かのえね)の年の話とした。

・「足利學校」以下、平凡社「世界大百科事典 第2版」の今泉淑夫氏の解説を引用する(読点を「,」から「、」に変更、一部を省略して私が繋げた)。『室町初期に下野国足利庄に設立された漢学研修の施設。創建については諸説がある。中興した関東管領上杉憲実が永享年間(142941)に鎌倉』の円覚寺(臨済宗)から招聘した快元禅師を初代庠主とした。『7世庠主玉崗瑞若(号は九華)の時が修養機関としての『最盛期で小田原後北条氏の厚い保護を受けた。』9世閑室元佶(げんきつ 号は三要)は後北条氏の滅亡後、『豊臣秀次に従って学校の典籍類とともに京に移った。秀次の自害後徳川家康の斡旋で典籍類は学校に返され、三要は家康の開いた伏見円光寺内の学校に校長としてとどまる。』本来の足利学校の方は10世竜派禅珠(号は寒松)が『跡をついだ。ほかに小早川隆景が備後三原の名島(なじま)に隠居後、学問所を建てて後進を指導したことが知られている。2校とも永く続かなかったが、その後の諸大名の儒学研究の気運を生み、醍摩の桂庵玄樹、土佐の南村梅軒(みなみむらばいけん)の学統とともに、やがて近世の儒学隆盛の源流となるものである。足利学校は禅宗寺院にならって禅僧が管理し、来学者も僧侶に限られ、在俗者も在校中は剃髪するしきたりであった。学風は周易、占筮(せんぜい)術の講義を中心に併せて儒学一般の教授がなされた。修学者は学校を出ると各地の武将のために占筮し、兵書を講じた。当時武将の戦闘は日時方角等の吉凶を占って行動するのを常としたから、学校はその軍事顧問を養成する機関として期待されたのである。その周易の訓点が菅家の講点、他の諸経は清家点を基にする古注中心であったが新注も採り入れる折衷学であった。公家の家学と異なる開放性を持ち、禅宗寺院の古典研究が四六文作成の手段であったのとも異なり、儒典研究を目的とする独自の学風を生んだ』。また、ウィキの「足利学校」には、最盛期を詳述し、『享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が後北条氏の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている』と記している、とある。前記の今泉氏の『2校とも永く続かなかった』という記述は、江戸初期に廃絶したような印象を与えてしまうが、同ウィキには『江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた』とある、但し、『江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として足利学校に注目していたのみで』、明治維新後に、足利藩が『足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校と』なっている。

・「高ふり松」は「高」は「字」の誤りであろう。「字降松」と書いて「かなふりまつ」と読む。「足利学校」HP「この“木”何の“器”」のページに『天文年間、読めない字や意味のわからないことばなどを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふり仮名や注釈がついていたことから、学徒ばかりでなく近所の人まで利用するようになり「かなふり松」と呼ばれるようになったと伝えられています。足利学校の最盛期、第7世庠主九華のころの物語(伝説)です』と記す松である。当該ページには足利学校中興の祖九華に纏わる心温まるその伝説を版画と共に語った物語が記されている。一見をお勧めする。

・「いわれ」はママ。

・「當時寺となりて」足利学校の西北に隣接する鑁阿寺(ばんなじ)のことを指す。真言宗大日派本山。この寺に関わって、ウィキの「足利学校」には、足利学校創立説の一つとして、『12世紀末に足利義兼によって設立されたという説がある。この説は、「高野春秋編年輯録」巻七(1719年)に、12世紀末の文治年間ごろ、足利義兼が足利に寺(現在の鑁阿寺)と学校を持っていた、という記述があることを根拠にしている。ただし、現存するにもかかわらず、鑁阿寺側には該当する記録が残っていない。なお、国学起源説、小野篁創設説の場合でも、足利義兼は復興させた人物であるとみなすことがある』(記号の一部を変更した)と記す。

・「出家の言葉故怪辯のみにて」歴代の庠主を見ると禅宗色が色濃い気がする。正にこの案内をした僧も、禅問答のような、意味深長にして意味不明な快弁怪弁を垂れたものか。

・「實(げに)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 足利学校の聖像の事

 安永九年子(ね)の年の冬より、私は関東六ヶ国川普請御用を承り、私はこの六ヶ国の村々をたびたび廻村致いた折りから、下野国足利庄に至り同所足利学校へも詣でたので御座ったが、出家が一人出て参り、案内(あない)など致し、境内の「字振り松」なんどの謂われを解説して呉れたりしたものの、当時、既に儒学修養機関としての学校機能を失い、普通の寺と変わらぬ様と相成っており、その案内も出家の言葉故、意味深長・当意迅速・意味不明・奇々怪々といった快弁にして怪弁――いや、正直言うと、大して面白いと思うこともなかったので御座った――が、孔子様の聖像を拝したところが、これはまた、古き木製座像で御座って、衣紋や手足の流麗なる形取り、その表現――いや、誠(まっこと)絶妙の技(わざ)という他、御座らぬ美事なもの……ところが、で御座る……よく見ると、その尊顔……これが、通常の孔子様の聖像と異なり、その面貌、穏やかなところが、これ、全くなく……いや、言わせてもらおうなら、聊か、きっとした怒気が表われて御座った……故、帰府の後、人にそのことを語ったところが、それを聴いたある人曰く、

「――それはもう当然のことで御座ろうぞ――足利のあの聖像は寄木造りなれば、何処ぞの閻魔大王を象った木造のそっ首を見つけてきて、首から下を儒者風に拵えたものにぶっ刺し、『孔子様木像で御座る』と称して、祀ったるもの――と聞いて御座れば――。」

と語った故、私も――いや、成程! それじゃ、さもありなん!――と合点致いたままに、ここに書き記しおく。

2010/01/06

耳嚢 藥研堀不動起立の事

「耳嚢」に「藥研堀不動起立の事」を収載した。

どうということもないのだが、何故か最後の、口哲が幼少期に、この不動堂に潜り込んで遊んだ、その見た目が僕には伝わってきて、好きな小話なのである。
 

研堀不動起立の事

 右不動は、元來本所邊御旗本の方にみぐし許(ばかり)古來より持傳へ、作佛(さくぶつ)の由也しが、度々不宜(よろしからざる)の事のみあり、或は夢枕にて見へし故、主人愁へけれ共捨んも心苦しく、出入の修驗に海寶院といへるありし故、右の者へ右みぐしを可遣(つかはすべき)間、建立致し助成(じよせい)に可成哉(なるべきや)とありてあたへければ、彼海寶院は氣根(きこん)よき人にて、日々右みぐしを背負江戸中建立の奉加をしけるが、元文の初今の不動のありける所茗荷屋庄左衞門と言(いへ)る茶屋にて、右の入角(いりかど)に九尺の店(たな)ありて久しく明店(あきだな)を、海寶院庄左衞門へ對談して一ケ月廿四匁(もんめ)宛の家賃を金百疋にいたし借り受、不動のみぐしは門口に出し置日々鐘抔敲(たた)き、廿七日廿八日には助力を往來へすゝめ、日々猶所々を勸化(かんげ)せしが、いつとなく流行出し參詣も多く有之候處、右茗荷屋庄左衞門儀、踊子を集め隠し賣女(ばいぢよ)いたし候儀に付追放に相成、右屋敷も明(あき)候故、則庄左衞門元住居を打拔き追々建廣げ、今は七間口(ぐち)程にて壹ケ年に初尾其外千兩金も納候由。右近隣の大木口哲物語也。口哲若年の節右の不動のみぐしを出し海寶院勸化せし場所へ子供遊びに出候由。且海寶院は元來常陸の者成しが、其後在所の親病氣にて戀ひ慕ひ候故、無據(よんどころなく)右不動一式を本所彌勒寺塔頭の者へ金百五十兩に讓り渡し在所へ引込ける故、今は彌勒寺持にて別當は妙王院といへるなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、根岸鎮衞と大木口哲がほぼ同年と仮定すれば(本巻執筆時の天明2(1782)年ならば根岸は46歳)、例えば大木の「若年」を5歳頃とすれば、寛保2(1742)年頃となる。吉宗が将軍職を長男家重に譲ったのは延享21745)年のことであるから、前項、吉宗の御世の出来事としても連関するように思われる。勿論、話者は前掲「大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事」と直連関。

・「藥研堀」現在の中央区東日本橋一丁目から二丁目にかけての旧米沢町の辺りにあった人工の堀。隅田川から直接引き込んだ荷揚げ用の堀であったが、明和8(1771)年に埋め立てられており、根岸がこれを記載した頃には既になくなっていた。但し、埋め立てた場所は後も薬研堀(若しくは薬研堀埋立地)と呼称され、近くに吉原への舟を出す柳橋があり、江戸時代後半にはこの辺り一帯もきっぷのいい柳橋芸者で知られた花街として繁栄した。

・「藥研堀不動」現在、同中央区東日本橋には関東三十六不動霊場二十一番札所である真言宗の薬研堀不動院(川崎大師東京別院)があり、勿論、本尊は不動明王である。但し、公式に知られる当寺の由来を見ると、どうも大分話が違う。以下に個人のHP「関東三十六不動」「薬研堀不動院」から引用する(改行を省略した)。

当院にお祀りする不動尊・不動明王の尊像は、真言宗中興の祖と仰がれる、興教大師覚鑁上人が自ら刻まれたものである。遠く崇徳天皇の御代、平安時代も末の保延三年(1137)のことであった。上人は厄年を無事にすまされた御礼として、四十三歳のおり、不動明王の御姿を一刀三礼して敬刻され、紀州(今の和歌山県)の根来寺に安置された。覚鑁上人は高野山金剛峯寺の座主であったが、四十六歳のとき、根来寺に移り、真言宗中興の祖と仰がれた。新義真言宗(真言宗智山派・豊山派)の開祖である。(薬研堀不動院の始まり)その後の天正十三年(1585)、豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、この尊像を守護して葛籠に納め、兵火を逃れてはるばる東国に下がってきた。僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。これが現在の当院の開創である。

「江戸名所図会」(天保7(1836)年刊。以下、引用はちくま学芸文庫版を用いた)には「藥研堀 不動 金比羅 歓喜天」の図を附し、「不動」と記す相応に大きな建物と賑やかな人の出入りが描かれている。「不動」としるす建物の右手に広がるのは、もしかして、この元「茗荷屋庄左衞門と言(いへ)る茶屋」の跡を「打拔き追々建廣げ、今は七間口」となった様か?! 不動堂の脇が入り口になっており、不動堂の軒に提灯が下がって如何にも繁盛の様子。しかし、不思議なことに、「江戸名所図会」の本文には、薬研堀不動の記載が、ない。何故だろう?――本話柄にはまだ諸々の不思議(後述)があるのだが、それについて目から鱗の情報をご存知の方は、是非とも御教授を乞いたいものである。なお、引用文中の覚鑁(かくばん 嘉保2(1095)年~康治2(1144)年)は、平安後期の僧、真言宗中興の祖にして新義真言宗の始祖にして、諡号は興教(こうぎょう)大師である。

・「みぐし」底本ではこの右に『(御首)』とある。不動明王の頭(かしら)。

・「奉加」神仏に金品を寄進すること、または、その金品を言う。

・「元文の始」元文年間は西暦1736年から1741年。私の先の推定とは必ずしも齟齬しないと思われるが、如何?

・「明店を」は岩波版では「明店なるを」。脱字と思われる。

・「一ケ月廿四匁宛の家賃を金百疋にいたし」は、一ヶ月の家賃二十四匁のところを金百疋に値切ったことを言う。当時は実質的変動相場制であったから、正確には言えないが、通常、金1両=銀5060匁=銭4貫文=銭4000文とすると1匁は6780文で、24匁は凡そ1,6001,920文、金1疋=銭10文で、100疋は銭1,000文に相当するから、相当値切ったと言える。1匁は現在の4,0005,000円相当、1文は現在の4050円に相当するという記載(私がかつて住んでいた富山県高岡の、市立博物館学芸員仁ヶ竹亮介氏の『「古文書からみる二上の歴史」-村御印(むらごいん)を中心に-』の記載)を信じるなら、24匁は96,000120,000円、100疋は40,00050,000円となり、その驚異的な値切り方がもっとよく分かる。

・「廿八日」毎月二十八日は不動明王の縁日。前日はその縁日の前日という、いわばイヴのようなものとして祀るものと考えてよいであろう。因みに一月二十八日を初不動と言う。

・「勸化」僧が寺や仏像を造営することを目的として、信者に寄付寄進を勧め集めること。勧進。「かんけ」とも読む。

・「踊子を集め隠し賣女いたし」「踊子」は茶屋の酒宴に興を添える芸者であるが、岩波版長谷川氏注によれば、『実は売春が主といわれ』、そうした私娼は『薬研堀・橘町に多』かった旨の記載がある。

・「七間」≒12.7m

・「九尺」≒2.7 m

・「初尾」初穂料。本来はその年最初に収穫し、神仏や権力者に差し出した穀物等の農作物を言う。後、その代わりとなる賽銭や金銭を言うようになる。

・「大木口哲」根岸家出入りの口中医(歯科医)。前掲の「大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事」に既出。そちらを参照されたい。根岸の情報源の一人。

・「彌勒寺」墨田区立川に万徳山弥勒寺塔頭として龍光院・聖法院・法樹院の三ヶ寺が現存する。新義真言宗。「特定非営利活動法人慈心振興協会」のHP内の「萬徳山 龍光院」の解説には『江戸時代に新義真言宗の触頭(寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達し、また、配下の寺院からの訴願を奉行に伝えるのを役とした寺)であった旧本寺の弥勒寺が数回の火災により焼失するたびに移建され、元禄二年(1689年)弥勒寺が現在地に移転すると同時に弥勒寺山内に建立された塔頭6ヶ寺の1つが当寺である。その後、安政の震災によりは3ヶ寺に減ったが、その一つとして今日まで存続している。昭和二十年三月の東京大空襲によって堂宇は全て焼失したが、本堂や道場などを順次復旧し、現在は大伝法院根来寺の末寺となっている』とある。「江戸名所図会」には以上と同等の記載を見る。

・「妙王院」本文に即して言うなら、これは別当(薬研堀不動尊担当の弥勒寺所属の役僧の名でということであろう。ところがここに不思議なことがある。やはり「江戸名所図会」に梅田村(現在の足立区梅田)の万徳山明王院という寺があり、その条に、

不動堂(本堂右の方にあり。本尊不動明王は弘法大師の作にして、覚鑁上人根来伝法院草創ありし頃、護摩堂の本尊に安置ありしを、天正三年ゆゑありて、花洛(みやこ)歌中山(うたのなかやま)清閑寺に移し奉り、また寛保元年不思議の霊感あるによつて、つひに当寺に安置せしとなり)。

と記すのである。天正3年は西暦1575年、寛保元年は1741年である。ところがネット上にある或る記載によれば、この不動尊の京からの奉載は、寛保2(1742)年のこと、とあるのである。この万徳山明王院、調べた限りでは弥勒寺との接点はないが、山号が「万徳山」、塔頭名が「明王院」である。更に「覚鑁上人」に「寛保2(1742)年」(私が想定した「○前項連関」の大木口哲の目撃年と一致)――いやもう「妙」に気になる。なお、万徳山明王院は現存し、真言宗豊山派で治承2(1178)年に源為義三男義広の草創になるというとんでもなく古い由緒ある寺で、尚且つ、赤不動と呼ばれるに京都から齎されたこの不動明王像も、「そこ」に現存している。これらは皆、ただの偶然なのかもしれない……しかし、これはもう、揺るぎなき「不動」のミステリー、都市伝説とは言えまいか?

■やぶちゃん現代語訳

 薬研堀不動事始の事

……今に知られる薬研堀不動は、元来は本所辺りに屋敷を構えておられた御旗本の家に、不動明王の頭(かしら)だけを代々伝えて御座ったもので、無名ながら逸品の作物(さくもつ)との呼び名高くて御座ったれど、当家にては度々宜しからざる不祥事のみ相次ぎ、また、その度に家人の夢枕に不動明王が立ち現れるなど致いたため、御当主は御不快にあらせられたものの、かと言って捨てるというわけにも参らず、困(こう)じ果てて御座ったところ、当家に出入りして御座った修験者に海宝院という者が御座ったれば、この者へ、

「この御首(みぐし)をさし遣わそうと存ずるによって、一つ、この御仏を相応に祀っては呉れぬかのう?」

と言いつつ、体よく下げ渡いたのであった。

 この海宝院という者は誠(まっこと)気骨ある人物で、この不吉な噂のあるそっ首を二つ返事で受け取ると、日々これを背負っては、江戸市中を建立の奉加を求めて勧進して廻ったので御座った。

 時は元文の初めの頃のことで、その頃、今の不動のある場所は、茗荷屋庄左衛門と申す者が商い致す茶屋があり、その店を入った奥の角地に、間口九尺程の店が、長いこと、空き家になって御座った。海宝院はこの庄左衛門と談判の上、ここを、家賃月二十四匁のところ、金百疋にまで値切りに値切って借り受けると、不動の御首(みぐし)を誰でも参拝出来るよう、その門口に安置し、日々鉦なんどを敲いて勤行致し、毎月二十七日と二十八日になると寄進を往来の人々に勧め、また、従来通り、毎日のように、なお、各所を勧進して廻って御座ったが、いつとはなしに『薬研堀のお不動さま』として巷に知られるようになり、参詣する者も、いや増しに増えた。――

 と、丁度そんな折りも折り、この家主茗荷屋庄左衛門の奴ばらが、踊り子と称して女衆を雇い、実は陰で春を売らせておった事実が露見致いた。庄左衛門は江戸追放と相成り、その屋敷も空き屋となった。

 これ幸いと海宝院、ご公儀のお許しを得て、隣り続きの庄左衛門旧居及び茶屋をぶち抜き、だんだんに不動堂を増築、今に見る七間口ほどの御堂が出来上がったので御座った。

 されば、益々参詣人は増える一方――一年で初穂料賽銭其の外合わせて、何と! 千両にも相なったとのことで御座った……

――これは、薬研堀不動の近所に住んで御座る大木口哲殿の話である。口哲殿は最後に次のように付け加えられた。――

……私は、小さな頃、海宝院が、この不動の御首(みぐし)を安置し、勤行勧進致いておった最初のお店(たな)へ、自ら遊びに参ったことが御座った……この海宝院という僧、元来、常陸の国の者で御座ったが、その後(のち)、郷里の親ごが病いに伏し、頻りに彼の帰郷を請うたが故に、止むを得ず、この不動尊及び御堂一式を、本所弥勒寺の塔頭の者に金百五十両でにて売り渡いて在所へ引き退いた故に、今、薬研堀不動尊は弥勒寺の持分となり、その別当職は妙王院という名の者が仕廻して御座る……。

2010/01/04

ミンノー県農園及び動物広場及びイ・サンシャンの農園・水槽・深海飼育槽・牧場・動物無憂宮よろしく頼む――エルモライより

エルモライの歎き――

……今日これより暫く、動かぬ腕の湯治さ、行くで……

……八飛岬電流水族館は、もう、ええ……年末にデンノーノ街道で白色テロが起きよって、水族館へ通う道が寸断されたまま、丸5日行くことが出来ねえ……おらの娘っこの名前をつけた魚が心配で心配で、ミクーシ県のア・プリ郡管轄署宛2通も電報を打ったが……へえ、音沙汰もねえ……ひでえもんじゃ!……あそこは一番気に入っとって、正月はあそこでまったりしようと思っとったに……

……やっぱり――「みんなの」――が、ええのう! 社会主義万々歳じゃ!

……じゃて、よろしゅう頼みまっさ……

人に打たれひとを打ちえぬ性もちて父がうからは滅びむとする 片山廣子 注追加

昨年得た新知見により、意味の不分明であった廣子の歌集「野に住みて」の一首に注を追加した。僕にとって驚愕であった、その事実を、このブログにも記しておかずには、居られない。

人に打たれひとを打ちえぬ性(さが)もちて父がうからは滅びむとする

[やぶちゃん注:「父」とは廣子の父、ニューヨーク領事やロンドン総領事などを勤めた外交官吉田二郎。その「父がうから」とは、廣子の弟で吉田家の長男吉田東作を指す。これについて廣子の評伝的小説「ひとつの樹かげ」を書いた作家阿部光子は、その調査の過程で彼について、この歌を示して以下のような事実を述べている。この『歌にこもっている思いは深い。廣子は長女で次女の次子は上田夫人となって平穏な一生を終えたが、末の弟東作は、大正十二年の関東大震災の時、白い麻服を着て外出中、朝鮮人と間違えられて、警防団のなぶりものになった。そのショックから立ち直れず、昭和二十年、世を終えるまで、口も利かなければ、笑いもしないで、いつも白い服を着ているという生活であった。母は本郷に、小さい家を借りて、彼とふたりきりの生活をしていた。』。以上の阿部氏の引用は2005年講談社刊の川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」よりの孫引きである。川村氏はこの後、本歌集の後に載る

 むかし高麗びと千七百九十九人むさし野に移住すとその子孫かわれも

を引用し、廣子の父二郎は埼玉県大里郡出身であること、埼玉及び都下多摩地区を占める武蔵野が古来、朝鮮半島からの渡来人が住み着いた地と伝承されることを掲げ、この『「むかし高麗びと」という歌も、そうした渡来人の歴史を踏まえた作品であることは自明である』とされ、『だが、弟の東作の身の上に降りかかった悲劇を知った上でこの歌を読むと、「朝鮮人と間違」われたという不幸な偶然を、むしろ「われ(われわれ)も」朝鮮人の子孫なのだという必然に変えようとしてように思われる。それは敷衍していえば、弟の不幸や不運は、「間違い」や「思い違い」や偶然のものではなく、必然的な「父がうから」の悲劇であり、受難であったと片山廣子が受け止めようとしているためと考えられる』。『それは虐げられ、植民地支配されている被植民の国の民族に対する共感であり』、『大英帝国の植民地として、長らく政治的、経済的、文化的な支配を受けてきたアイルランドの文学作品を翻訳し続けてきた「松村みね子」には、植民地となった地域の民族の苦しみや悲しみが共感されないはずはなかった』と記される。この歌の解としてこれ以上の炯眼は他にない。]

耳嚢 金春太夫藝評を申上し事

「耳嚢」に「金春太夫藝評を申上し事」を収載した。

 金春太夫藝評を申上し事

 有德院樣御代、金春太夫は上手の聞へありしが、或とき、御前へ罷出候筋、寶生太夫は上手也と世上にも沙汰致侯由、尤上手に候哉(や)と御尋有ければ、他流の事に付何れとも難申上、宜いたし候段御答申上ければ、夫は一通りの事也、御尋の上は心に存候所有の儘可申上と、御小姓衆より再應(さいわう)御尋ありければ、甚こまりけるが、左候はゞ可申上、此間御大名衆へ被召呼(めしよばれ)能(のう)仕(つかまつり)、料理抔相濟み楊枝を遣ひ候節、寶生太夫儀楊枝をつかひ仕廻、楊枝差へ一遍差侯て又引出し、一寸程離れける投入申候。寶生太夫が藝は是にて御勘辨可被下御答申上ければ、上にて兼て思召所も符合いたし候と御わらひ遊しけると也。此寶生太夫能はよくいたしけれども、常に正風躰(しやうふうてい)無之、仕打を好む氣性金春が氣に不入故、かく申上けると也。

□やぶちゃん注

○前項連関:非人と金春太夫の類似した皮肉な機知で連関。先行する「金春太夫の事」他の能楽系統で連関。

・「金春太夫」底本の鈴木氏の注では、この『吉宗時代の金春座太夫は八郎衛門、八郎、伝左衛門など。なお「金春六郎」とした』「耳嚢写本」もあるとする。岩波版長谷川氏注では絞り込んで、『金春八郎休良か』とする。八郎休良(やすよし? 宝永3(1706)年~元文4(1739)年)であれば、先の「金春太夫の事」でも候補として上がった人物である。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡(おく)り名。

・「寶生太夫」底本鈴木氏の注では、当時の宝生座の太夫は『丹次郎、九郎』とするが、岩波版長谷川氏注では、『享保ごろでは九郎友春(十三年没)、九郎暢栄(十五年没)など』と記し、同定出来ない。

・「離れける」底本ではこの右に『(一本「離れ侯て」)』と傍注する。この傍注を採用して訳した。

・「御勘辨可被下」底本ではこの右に『一本「御勘辨可有之と」』と傍注する。こちらは本文を採る。

・「正風躰」本来は歌学用語で、伝統的作風を守った品格の高い歌体を言う。ここではまず能の伝統的な正しい演技法を指しながら、同時にその人の風体(ふうてい)、人として当たり前に持つべき常識や品性をも掛けて言っているものと思われる。

・「仕打」これは芸能用語としては俳優の舞台での仕草を言う語である。ここでは前の「正風躰」が全く欠けていることから、伝統から外れたオーバー・アクトであるという悪評と同時に、金春が前に掲げた内容から、「仕打ち」本来の意味であるところの、非常識な下卑た振る舞いという意味も掛けられていよう。

■やぶちゃん現代語訳

 金春太夫が宝生太夫の芸風についての評を吉宗公に申し上げた事

 有徳院吉宗様の御代、金春太夫は特に名人との評判で御座った。

 ある時、御前に罷り出でた折り、有徳院様より、

「宝生太夫は能の上手――と世間でも評されてもおるようじゃが――ほんに上手か?」

とお尋ねがあった。金春太夫は、

「……他流のことに御座れば、何とも申し上げ難く……何卒、その儀、平に御容赦の程……」

とお答え申し上げたところが、それを聞いた御小姓衆より、

「異なことを申すでない! そはお主の如き輩同士での、通り一遍の言いに過ぎぬ! 上様がお尋ねになる以上は――お主が心に思うておる、有りの儘を申し上げねばならぬ――」

と疑義が出、再度必ずや、お答えせよ、とのこと。

 金春太夫は甚だ困りきった様子で畏まって御座ったが、暫くして、

「……されば、申し上げます。……過日、我ら共に、さる御大名衆の元よりお召しを受け、能を御披露致しましたが……舞い終えました後、料理なども頂戴致し……さても、爪楊枝を使うて御座った折りのこと……宝生太夫殿、楊枝を使い、すっかり歯をせせり終えた後……その楊枝を、一遍、元の楊枝差しへ差し戻し入れまして……また、引き出して……今度は、一寸ほど離れたところより……ぽん……と、美事……投げ入れまして御座る。――宝生太夫殿が芸の上手の例(ためし)は、……これにてご勘弁下さりませ――。」

とお答え申し上げたところ、上様にあらせられては、

「予が兼ねて思っておったことと、ぴたり! 一致致いたわ!」

とお笑い遊ばされたということで御座る。

 この宝生太夫の――能は上手なれど、常に伝統的な舞や謡いをわざと外し、品性にも欠け、大袈裟で派手な演技を好み、下卑た振る舞いを敢えてするという――人柄が、金春には大いに気に入らなかったが故、かく上様にお答え致いた、というのが、どうも真相で御座ったようじゃ。

2010/01/03

和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類 さんくわい 及び 木客

「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」に「さんくわい」及び「木客」を収載した。

2010/01/02

和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類 山都

「和漢三才圖會」の「巻第四十 寓類 恠類」に「山都」を収載した。見越し入道ダヨーン~

2010/01/01

耳嚢 京都風の神送りの事 又は 忘れ得ぬ思い出

「耳嚢」に「京都風の神送りの事」を収載した。

今日、これを訳しながら僕は、ひどく不思議な気持ちに囚われた――出来れば、まずは後の「京都風の神送りの事」をお読み戴いた上で、以下の僕の思い出の告白を御笑覧戴ければ幸いである。この記載が1月1日に相応しいかどうか……恐らくは相応しくない……しかし、僕が永く書こうとしながら、何故か躊躇してきたこれを書き終えて、僕は僕で満足なのである。

この橋から突き落とされた非人の無念――僕はこの非人の思いが、多分、誰よりも実感出来るということを告白しておく。その謂われをここに記しておきたいのである。それは僕の中の消去したいけれども決して消去出来ない思い出と繋がっているからである――

僕の生まれは鎌倉だが、2歳の時、外務省に勤務していた伯父が、インドネシア大使館に派遣されることとなり、その二人の子を、その間、父母が預かった。そこで僕と父母は、その伯父の家のある練馬の大泉学園に引っ越したのであった。その伯父が日本に帰ってきたのが僕が小学校1年の時で、僕らは元の家に戻ることとなり、大船は玉縄小学校に転校した。
当時の玉縄小学校は田圃の畦道を抜けた先にある、総木造の、所謂、田舎そのものといった学校であった。
そうして、ご他聞に漏れず、東京から来たというだけで、僕は、美事いじめられた(実際には大泉も負け劣らじの田舎であったのだが)。
田圃や肥溜めに突き落とされたことなんど、数知れぬ。


一番忘れられないのは、学校帰りに土掘りの20メートル程のトンネルの上に掘られ
た作業用の小さなトンネルに連れて行かれ、その向う側の切り立った4~5メートルの崖を飛び降りろと言われることであった。
非力の僕には――コルセットを嵌めていた左肩関節結核性カリエスが固定治癒して半年
も経っていなかった――それは恐るべき高さに見えた。
彼ら――ガキ大将を筆頭に6人ばかりの集団であった。僕はその総ての人間の姓名を記
憶している。ここに書き記すことにもなんの躊躇も感じない。Y田……N島……S根……I井……しかし、それはやめておくことにしよう、もう死んじまった奴もいるから――は、そこを難なく飛び降り、中には柔道の受身の反転まで御披露に及びながら、下って行ったものだ――そうして、最後に決まって、
「俺たちはずっと見てるぜ……お前がちゃんと飛び降りるのをな……」
と言い捨てると、断崖の上に呆然と立ち竦んだ僕を見上げながら、満面の軽蔑の笑みを浮かべて、小さくなっていたのだ……
……僕は暫くして辺りが少し暗くなり、もう誰の声も音も聞こえなくなった頃、登らされた反対側(何故かそ
ちらには竹の梯子があった)から降りると、泣きながら家に帰ったのだった……

一月ばかり、毎日のように、それが続いた。

……夕焼けの中で、小さくなってゆく悪ガキどもの後姿……
……永遠の断崖絶壁……

……もう、堪え切れなかった……

 

――ある日、僕は意を決して――飛び降りた――泥だらけになって、ずるずる、すってんころりん、と

 

……その後に、僕がやったこと……どんなことを僕がやったか?……

僕は小さくなってゆくその悪ガキどもに……

手を振ったのだ!

…………

そうして僕は……叫んだのだ!……それも、満面の笑みを浮かべながら……

――「降りれたョ~!!! 降りれたよぉ~!!!」――

………… 

……それを聴きながら、奴らは振り返ると……鮮やかに、ほくそ笑んだ……

……その一人ひとりの顔が、今も、僕の中で鮮やかにフレーム・アップ、カット・バックする……

……そうして……

……そうして、その卑屈なおぞましい……僕の叫んだその台詞を……

……僕は今も……決して忘れない……

……いや、僕の頭蓋骨の中で、今も、そして永遠に、反響し続けている……

されば……お分かり戴けるだろう……この非人は僕である……いや、復讐さえしなかった僕は、この非人より……おぞましい人間なのだ……


 京都風の神送りの事

 安永元年の冬世上一統風氣(かざけ)流行しける。右風は大坂より流行し來ると巷談也。其とし江州山門の御修復ありて若林市左衞門抔も上京あり、霜月の此歸府にて、右風邪上方にては六七月の此殊の外流行けるが、夫に付おかしき咄のありとて噺(はなさ)れけるは、大坂にての事也し由、風の神送りて大造(たいそう)に鉦太鼓を以てはやし、藁人形或は非人抔を賃錢にてやとひ風の神に拵へ送りける。京大坂のしくせ故大坂にて其頃も非人を雇ひ、貳三丁の若き者共申合、彼風の神送りを興行し、鉦太鼓三味線抔にて嚇したて送りけるが、若き者共餘りの興に乘じけるや、或る橋の上迄送り、仕廻の伊達にや、右風の神に仕立たる非人を橋の上より突落し、どつと笑ふて我家々々へ歸りけるが、彼非彳々(つくづく)思ひけるは、價を以風の神に雇れしとは申ながら、いかに水枯の時なれば迚(とて)、情なくも橋より突落しける恨めしさよ、仕かたこそあれとて、夜に入彼風送りせし町々へ來り、表より戸を扣(たた)きける故、何者也やと尋ねければ、先刻の風の神またまた立歸りしとて、家々をいやがらせけるとて、京中の笑談(せうだん)也しとかや。

□やぶちゃん注

○前項連関:大岡裁きの奇計と、非人の奇警なる仕返しで連関し、更に、二項前の大坂屋平六の薬「諸風散」が「風氣流行し夥敷賣」れて成功した事実と「大坂より流行し來る」「風氣」でも美事に連関。

・「風の神送り」風邪の流行時に、風邪を疫病神に見立てた藁人形等を作り、鉦や太鼓で囃したてながら、各々の町村の境界外に捨てたり、川に流したりした風習。江戸時代に頻繁に見られ、他の流行病でも盛んに行われた。

・「安永元年」西暦1772年。その頃の根岸は勘定組頭であるが、岩波版長谷川氏の「若林市左衞門」に附された注によれば、これは『天明元年の誤り』とする。だとすると西暦1781年で、それならば根岸は47歳、勘定吟味役である。後注する若林市左衞門の事蹟から見ても、また「巻之一」の下限(天明2(1782)年春まで)から考えても、如何にもそちらの方が自然である。現代語訳でも天明元年と補正した。

・「江州山門」近江国比叡山延暦寺のこと。これは所謂、比叡山そのものを指す語であって、狭義の「山門」ではないことに注意。比叡山麓の三井寺を「寺門」、山上の延暦寺を「山門」と別称したものである。

・「若林市左衞門」岩波版長谷川氏の注によれば、『若林義方。御勘定組頭。天明元年(一七八一)山門諸堂普請の労を賞せられる』とある。勘定吟味役根岸の部下である。

・「しくせ」仕癖。仕来(しきたり)と同類で、昔からの慣わし、やり方の特徴の意。

・「仕廻の伊達」ある行為・行事の最後に殊更に人目を引くような派手なことをして打ち上げることを言う。

■やぶちゃん現代語訳

 京風風邪の神送りの事

 天明元年の冬、世間では甚だ風邪が流行った。この風邪は大阪より伝播流行致いたもの、と専らの噂で御座った。

 その年、近江国比叡山延暦寺諸堂の御修復があって、勘定組頭を勤めて御座った私の部下若林市左衛門義方殿なども上京致し、同年十一月頃には帰府した。と、その若林殿が、

「……この風邪は上方にては、そう、六~七月の頃、殊の外の大流行して御座ったが……これに付きまして根岸殿好みの……いや、面白い話が御座った……」

と、話して呉れたことにて御座る……。

……大阪での話ということで御座る……あちらでは「風邪の神送り」と称し、いやもう、賑やかに鉦や太鼓を打ち鳴らし、藁人形、はたまた、非人などに駄賃を払い雇ったを、風邪の神に見立て、町境の外へと送り出だして御座る。

 これは京や大阪の習俗で御座っての……何でも大阪にてもその頃、二つ三つの町内の若者たちが寄り集まって相談の上、風邪送りを興行致すことと相成り――なんとまあ、今時、非人を雇って御座って――鉦・太鼓、三味線まで繰り出し、囃し立て、境外へと送り出だいたので御座ったが……若い者ども故、聊か調子にでも乗って御座ったか……はたまた、神送りの、その送り仕舞いの、打ち上げを盛り上げる積りででも御座ったか……ある橋の上まで送り終えたところが……この風邪の神に見立てた非人を、橋の上から

――どん!――

と突き落といて、皆々

――どっ!――

と大笑いして、それぞれ我が家へと帰ったので御座った……。

――突き落とされ、浅い川流れの真ん中に、ぽつんと立った非人独り――

……川底の石にしたたかぶち当てた……擦り剥いて血だらけになった膝を撫ぜながら……彼は、つくづく思うた……

『……金でもって風邪の神に雇われたとは申せ……如何にも水枯れのこの時期とはいえ……情け容赦ものう……かく橋の上より突き落といた……そのことの! 恨めしさよ!……屹度、仕返せいで……おくものかッ!!!……』……

――その夜、遅くのことである。彼は、風邪送りをした町々へと――立ち帰ってきた――そうして、それぞれの町屋、一軒一軒の表戸を、

――どん! どん!――

と叩いた……

「……この夜更けに?……何者じゃ!?……」

と家の者が質す……と……

「先刻の風邪の神――又々! 立ち帰ったぞぃ!!!――」……

……と……まあ、家々に嫌がらせを仕廻した、とて……京中、専らの笑い話で御座った、とか……。

人の「賀正」から

僕らが一生通じてさがし求めるものは、たぶんこれなのだ、ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わうための身を切るような悲しみ。

   ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』

自分のうちに十分な熱狂がなくなれば、いったい、外へ飛び出したところで、どこへ行くあてがあるのか。現実は、要するに、断末魔の連続だ。この世の現実は、死だ。どっちかに決めねばならない。命を絶つか、ごまかすか。僕には自殺する力はなかった。

僕の愛読する祭谷一斗氏のブログ「一斗缶」の賀正から。彼のツェランの訳詩も慄っとするほど、素敵なのだ!

迎春

明けましておめでとう御座います

今年もHP「鬼火」共々よろしくお引き回しの上相願い奉りまする――

今年は例年行ってきたテクストの自己拘束は立てず、勝手気儘に、楽しくHP構築を目指そうと存ずる――本当(ほんと)は実は、僕ならではのやりたいことがあるのであるが、相当な「覚悟」がなければ口には出来ぬ……「覚悟ならないこともない」のであるが……

にしても――「耳嚢」は凡そ三ヶ月でここまで来た。巻之一100話の内、余すところ26話。今年は巻之三の最後までは辿り着きたいとは思っている。しかし、右手不具合なれど杜撰な仕儀は慎みたく、どうかよろしく御鞭撻の程――

   2009年 元旦

              藪野唯至

ブログ読者膝下

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