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2010/01/06

耳嚢 藥研堀不動起立の事

「耳嚢」に「藥研堀不動起立の事」を収載した。

どうということもないのだが、何故か最後の、口哲が幼少期に、この不動堂に潜り込んで遊んだ、その見た目が僕には伝わってきて、好きな小話なのである。
 

研堀不動起立の事

 右不動は、元來本所邊御旗本の方にみぐし許(ばかり)古來より持傳へ、作佛(さくぶつ)の由也しが、度々不宜(よろしからざる)の事のみあり、或は夢枕にて見へし故、主人愁へけれ共捨んも心苦しく、出入の修驗に海寶院といへるありし故、右の者へ右みぐしを可遣(つかはすべき)間、建立致し助成(じよせい)に可成哉(なるべきや)とありてあたへければ、彼海寶院は氣根(きこん)よき人にて、日々右みぐしを背負江戸中建立の奉加をしけるが、元文の初今の不動のありける所茗荷屋庄左衞門と言(いへ)る茶屋にて、右の入角(いりかど)に九尺の店(たな)ありて久しく明店(あきだな)を、海寶院庄左衞門へ對談して一ケ月廿四匁(もんめ)宛の家賃を金百疋にいたし借り受、不動のみぐしは門口に出し置日々鐘抔敲(たた)き、廿七日廿八日には助力を往來へすゝめ、日々猶所々を勸化(かんげ)せしが、いつとなく流行出し參詣も多く有之候處、右茗荷屋庄左衞門儀、踊子を集め隠し賣女(ばいぢよ)いたし候儀に付追放に相成、右屋敷も明(あき)候故、則庄左衞門元住居を打拔き追々建廣げ、今は七間口(ぐち)程にて壹ケ年に初尾其外千兩金も納候由。右近隣の大木口哲物語也。口哲若年の節右の不動のみぐしを出し海寶院勸化せし場所へ子供遊びに出候由。且海寶院は元來常陸の者成しが、其後在所の親病氣にて戀ひ慕ひ候故、無據(よんどころなく)右不動一式を本所彌勒寺塔頭の者へ金百五十兩に讓り渡し在所へ引込ける故、今は彌勒寺持にて別當は妙王院といへるなり。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、根岸鎮衞と大木口哲がほぼ同年と仮定すれば(本巻執筆時の天明2(1782)年ならば根岸は46歳)、例えば大木の「若年」を5歳頃とすれば、寛保2(1742)年頃となる。吉宗が将軍職を長男家重に譲ったのは延享21745)年のことであるから、前項、吉宗の御世の出来事としても連関するように思われる。勿論、話者は前掲「大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事」と直連関。

・「藥研堀」現在の中央区東日本橋一丁目から二丁目にかけての旧米沢町の辺りにあった人工の堀。隅田川から直接引き込んだ荷揚げ用の堀であったが、明和8(1771)年に埋め立てられており、根岸がこれを記載した頃には既になくなっていた。但し、埋め立てた場所は後も薬研堀(若しくは薬研堀埋立地)と呼称され、近くに吉原への舟を出す柳橋があり、江戸時代後半にはこの辺り一帯もきっぷのいい柳橋芸者で知られた花街として繁栄した。

・「藥研堀不動」現在、同中央区東日本橋には関東三十六不動霊場二十一番札所である真言宗の薬研堀不動院(川崎大師東京別院)があり、勿論、本尊は不動明王である。但し、公式に知られる当寺の由来を見ると、どうも大分話が違う。以下に個人のHP「関東三十六不動」「薬研堀不動院」から引用する(改行を省略した)。

当院にお祀りする不動尊・不動明王の尊像は、真言宗中興の祖と仰がれる、興教大師覚鑁上人が自ら刻まれたものである。遠く崇徳天皇の御代、平安時代も末の保延三年(1137)のことであった。上人は厄年を無事にすまされた御礼として、四十三歳のおり、不動明王の御姿を一刀三礼して敬刻され、紀州(今の和歌山県)の根来寺に安置された。覚鑁上人は高野山金剛峯寺の座主であったが、四十六歳のとき、根来寺に移り、真言宗中興の祖と仰がれた。新義真言宗(真言宗智山派・豊山派)の開祖である。(薬研堀不動院の始まり)その後の天正十三年(1585)、豊臣秀吉の勢が根来寺を攻めて兵火に遭ったが、根来山の大印僧都は、この尊像を守護して葛籠に納め、兵火を逃れてはるばる東国に下がってきた。僧都は、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地を定め、そこに堂宇を建立して、この尊像を安置した。これが現在の当院の開創である。

「江戸名所図会」(天保7(1836)年刊。以下、引用はちくま学芸文庫版を用いた)には「藥研堀 不動 金比羅 歓喜天」の図を附し、「不動」と記す相応に大きな建物と賑やかな人の出入りが描かれている。「不動」としるす建物の右手に広がるのは、もしかして、この元「茗荷屋庄左衞門と言(いへ)る茶屋」の跡を「打拔き追々建廣げ、今は七間口」となった様か?! 不動堂の脇が入り口になっており、不動堂の軒に提灯が下がって如何にも繁盛の様子。しかし、不思議なことに、「江戸名所図会」の本文には、薬研堀不動の記載が、ない。何故だろう?――本話柄にはまだ諸々の不思議(後述)があるのだが、それについて目から鱗の情報をご存知の方は、是非とも御教授を乞いたいものである。なお、引用文中の覚鑁(かくばん 嘉保2(1095)年~康治2(1144)年)は、平安後期の僧、真言宗中興の祖にして新義真言宗の始祖にして、諡号は興教(こうぎょう)大師である。

・「みぐし」底本ではこの右に『(御首)』とある。不動明王の頭(かしら)。

・「奉加」神仏に金品を寄進すること、または、その金品を言う。

・「元文の始」元文年間は西暦1736年から1741年。私の先の推定とは必ずしも齟齬しないと思われるが、如何?

・「明店を」は岩波版では「明店なるを」。脱字と思われる。

・「一ケ月廿四匁宛の家賃を金百疋にいたし」は、一ヶ月の家賃二十四匁のところを金百疋に値切ったことを言う。当時は実質的変動相場制であったから、正確には言えないが、通常、金1両=銀5060匁=銭4貫文=銭4000文とすると1匁は6780文で、24匁は凡そ1,6001,920文、金1疋=銭10文で、100疋は銭1,000文に相当するから、相当値切ったと言える。1匁は現在の4,0005,000円相当、1文は現在の4050円に相当するという記載(私がかつて住んでいた富山県高岡の、市立博物館学芸員仁ヶ竹亮介氏の『「古文書からみる二上の歴史」-村御印(むらごいん)を中心に-』の記載)を信じるなら、24匁は96,000120,000円、100疋は40,00050,000円となり、その驚異的な値切り方がもっとよく分かる。

・「廿八日」毎月二十八日は不動明王の縁日。前日はその縁日の前日という、いわばイヴのようなものとして祀るものと考えてよいであろう。因みに一月二十八日を初不動と言う。

・「勸化」僧が寺や仏像を造営することを目的として、信者に寄付寄進を勧め集めること。勧進。「かんけ」とも読む。

・「踊子を集め隠し賣女いたし」「踊子」は茶屋の酒宴に興を添える芸者であるが、岩波版長谷川氏注によれば、『実は売春が主といわれ』、そうした私娼は『薬研堀・橘町に多』かった旨の記載がある。

・「七間」≒12.7m

・「九尺」≒2.7 m

・「初尾」初穂料。本来はその年最初に収穫し、神仏や権力者に差し出した穀物等の農作物を言う。後、その代わりとなる賽銭や金銭を言うようになる。

・「大木口哲」根岸家出入りの口中医(歯科医)。前掲の「大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事」に既出。そちらを参照されたい。根岸の情報源の一人。

・「彌勒寺」墨田区立川に万徳山弥勒寺塔頭として龍光院・聖法院・法樹院の三ヶ寺が現存する。新義真言宗。「特定非営利活動法人慈心振興協会」のHP内の「萬徳山 龍光院」の解説には『江戸時代に新義真言宗の触頭(寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達し、また、配下の寺院からの訴願を奉行に伝えるのを役とした寺)であった旧本寺の弥勒寺が数回の火災により焼失するたびに移建され、元禄二年(1689年)弥勒寺が現在地に移転すると同時に弥勒寺山内に建立された塔頭6ヶ寺の1つが当寺である。その後、安政の震災によりは3ヶ寺に減ったが、その一つとして今日まで存続している。昭和二十年三月の東京大空襲によって堂宇は全て焼失したが、本堂や道場などを順次復旧し、現在は大伝法院根来寺の末寺となっている』とある。「江戸名所図会」には以上と同等の記載を見る。

・「妙王院」本文に即して言うなら、これは別当(薬研堀不動尊担当の弥勒寺所属の役僧の名でということであろう。ところがここに不思議なことがある。やはり「江戸名所図会」に梅田村(現在の足立区梅田)の万徳山明王院という寺があり、その条に、

不動堂(本堂右の方にあり。本尊不動明王は弘法大師の作にして、覚鑁上人根来伝法院草創ありし頃、護摩堂の本尊に安置ありしを、天正三年ゆゑありて、花洛(みやこ)歌中山(うたのなかやま)清閑寺に移し奉り、また寛保元年不思議の霊感あるによつて、つひに当寺に安置せしとなり)。

と記すのである。天正3年は西暦1575年、寛保元年は1741年である。ところがネット上にある或る記載によれば、この不動尊の京からの奉載は、寛保2(1742)年のこと、とあるのである。この万徳山明王院、調べた限りでは弥勒寺との接点はないが、山号が「万徳山」、塔頭名が「明王院」である。更に「覚鑁上人」に「寛保2(1742)年」(私が想定した「○前項連関」の大木口哲の目撃年と一致)――いやもう「妙」に気になる。なお、万徳山明王院は現存し、真言宗豊山派で治承2(1178)年に源為義三男義広の草創になるというとんでもなく古い由緒ある寺で、尚且つ、赤不動と呼ばれるに京都から齎されたこの不動明王像も、「そこ」に現存している。これらは皆、ただの偶然なのかもしれない……しかし、これはもう、揺るぎなき「不動」のミステリー、都市伝説とは言えまいか?

■やぶちゃん現代語訳

 薬研堀不動事始の事

……今に知られる薬研堀不動は、元来は本所辺りに屋敷を構えておられた御旗本の家に、不動明王の頭(かしら)だけを代々伝えて御座ったもので、無名ながら逸品の作物(さくもつ)との呼び名高くて御座ったれど、当家にては度々宜しからざる不祥事のみ相次ぎ、また、その度に家人の夢枕に不動明王が立ち現れるなど致いたため、御当主は御不快にあらせられたものの、かと言って捨てるというわけにも参らず、困(こう)じ果てて御座ったところ、当家に出入りして御座った修験者に海宝院という者が御座ったれば、この者へ、

「この御首(みぐし)をさし遣わそうと存ずるによって、一つ、この御仏を相応に祀っては呉れぬかのう?」

と言いつつ、体よく下げ渡いたのであった。

 この海宝院という者は誠(まっこと)気骨ある人物で、この不吉な噂のあるそっ首を二つ返事で受け取ると、日々これを背負っては、江戸市中を建立の奉加を求めて勧進して廻ったので御座った。

 時は元文の初めの頃のことで、その頃、今の不動のある場所は、茗荷屋庄左衛門と申す者が商い致す茶屋があり、その店を入った奥の角地に、間口九尺程の店が、長いこと、空き家になって御座った。海宝院はこの庄左衛門と談判の上、ここを、家賃月二十四匁のところ、金百疋にまで値切りに値切って借り受けると、不動の御首(みぐし)を誰でも参拝出来るよう、その門口に安置し、日々鉦なんどを敲いて勤行致し、毎月二十七日と二十八日になると寄進を往来の人々に勧め、また、従来通り、毎日のように、なお、各所を勧進して廻って御座ったが、いつとはなしに『薬研堀のお不動さま』として巷に知られるようになり、参詣する者も、いや増しに増えた。――

 と、丁度そんな折りも折り、この家主茗荷屋庄左衛門の奴ばらが、踊り子と称して女衆を雇い、実は陰で春を売らせておった事実が露見致いた。庄左衛門は江戸追放と相成り、その屋敷も空き屋となった。

 これ幸いと海宝院、ご公儀のお許しを得て、隣り続きの庄左衛門旧居及び茶屋をぶち抜き、だんだんに不動堂を増築、今に見る七間口ほどの御堂が出来上がったので御座った。

 されば、益々参詣人は増える一方――一年で初穂料賽銭其の外合わせて、何と! 千両にも相なったとのことで御座った……

――これは、薬研堀不動の近所に住んで御座る大木口哲殿の話である。口哲殿は最後に次のように付け加えられた。――

……私は、小さな頃、海宝院が、この不動の御首(みぐし)を安置し、勤行勧進致いておった最初のお店(たな)へ、自ら遊びに参ったことが御座った……この海宝院という僧、元来、常陸の国の者で御座ったが、その後(のち)、郷里の親ごが病いに伏し、頻りに彼の帰郷を請うたが故に、止むを得ず、この不動尊及び御堂一式を、本所弥勒寺の塔頭の者に金百五十両でにて売り渡いて在所へ引き退いた故に、今、薬研堀不動尊は弥勒寺の持分となり、その別当職は妙王院という名の者が仕廻して御座る……。

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