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2010/01/16

耳嚢 舊室風狂の事

「耳嚢」に「舊室風狂の事」を収載した。

これも頗る附きで僕の好きな話である。だから注もマニアックになったし、訳も一ひねりしてある。御笑覧! 御笑覧!

 舊室風狂の事

 寶暦の頃迄俳諧の宗匠をしける舊室といへるは、丈高く異相の僧にて面白き氣性者也。聊にても慾心なく、纔かの一衣も興に乘じては人に投與へ抔しけるが、或日麻布邊の武士屋敷門前を通りしに、劍術稽古の音しけるを聞て、頻りに一本遣ひ見度(みたき)心より、玄關へ至り案内(あない)を乞て、御稽古拜見を願候段申入ければ、則座鋪(ざしき)へ請じけるに、色黑き大の法師故、全(まつたく)天狗の來りて慢心を押へるならんと集りし者もさゝやきけるが、主人は年若き人故相應の挨拶有ければ、兎角しなひ打壹本いたし度由故、道場には無之、内稽古なればと斷りけれど、達(たつ)て一本立合度と聾し故、無據(よんどころなく)立會しに、元來宗匠なれば武邊の事知るべき樣なく、只一本にてしたゝか頭を打れけるが、やがて座敷に上り扱々いたきめに逢し也。硯紙を給へ迚筆墨を乞て、

  五月雨にうたれひら/\百合の花   舊室

と書て歸りぬ。跡にて人に語りければ、例の舊室也と大に笑ひしとかや。或時外(ほか)宗匠共と一同諸侯の許へ被呼、俳諧濟て一宿しけるが、其臥る所の床の間に出山(しゆつさん)の釋迦の懸物ありしを、殊の外に譽て讚をいたし度(たし)と申けるを、同列の宗匠以の外叱り、御道具を汚し候事かゝる事あるまじと再應教諭しければ、承知の由にて臥りしが、夜更獨り起て黑々に讚をなしけると也。

 蓮の實の飛んだ事いふ親仁哉

かゝる活僧也しが、酒はいましむべき事也、一年本所邊の屋敷俳席の終りて歸る時、送りをも付んと有しを斷、獨り歸りけるが、いづくにて踏外しけるや入水して身を終りけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:前項は如何にも「耳嚢」としてはリアルで暗い話柄で、連関を感じさせない。奇癖と奇行で二項前と連関。因みに、本話も私の大層好きな一篇で、句はどうということはないにしても、話は極めてフォトジェニックで面白い。現代語訳では、その面白さを効果的に示すための、オリジナルな演出を施させてもらったことを断わっておく。

・「寶暦」西暦175164年。

・「舊室」笠家旧室(かさやきゅうしつ 元禄6(1693)年~明和元(1764)年)。江戸の俳諧師。初号、鰐糞。別号、活々土・活々井・活々坊・天狗坊・岳雨など。後に姓を活井(いくい)と改む。笠家逸志(いっし 延宝3(1675)年~延享4(1747)年:椎本(しいのもと)才麿に師事して点者となった。)に師事し、享保201735)年に宗匠となる。初代笠家左簾(されん 正徳4(1714)年~安永8(1779)年:新吉原娼家の主人で逸志に師事し、後、江戸宗因座の点者となった。)と共に江戸談林派の中興に功があった。奇行逸話が多い。以下、文化131816)年刊の竹内玄玄一「俳家奇人談」(1987年岩波書店刊雲英末雄校注)にあるものを引用する(ここでは姓を「かつい」と読んでいる。風狂の彼にしてみれば、まあ、どちらでもよいであろう。読み違える可能性のない読みの一部を省略した。〔 〕は左の振り仮名)。

     活井旧室(かついきゅうしつ)

 活井旧室は江戸の人、梅翁の風を慕ひ、俳諧に鍛錬なり。あるひは聒々(かつかつ)坊ともいへり。身の丈(たけ)大にして、人のぞんでこれを懼る。世に天狗坊と称せらる。その性つねに酒を好む。一日(いちにち)酔興して、ある撃剣家(げきけんか)〔けんじゆつつかひ〕の軒に立寄りけるが、面白き事に思ひ、その道場へよろめき入りて、師と試合ん事をのぞむ。師もその容貌のたくましきを感じ、まづ高弟と立合はしむ。室なんの苦もなく打ちすゑられ、たちまちしなへ投出して、

   夕立にうたれて肥る田面(たづら)かな

 皆これを見て見掛倒しなる坊なり、と口を揃へて笑ひしかど、またその風流あるを羨みしとかや。節分の夜外より帰るさ、ある酒店によりて酒いだせよと呼ばはれども、豆囃(まめばやし)のいとなみ多用なりしにや、はなはだ不相愜(ふあいしらい)なり。室怒りながらその家を出て、

   這入ても喰物はなし鬼は外

 ある年の三朝に、

   日本紀や天地一枚あけの春

 また孔子の賛、

   豊年をしれとかかしののたまはく

 釈迦の賛、

   蓮の実のとんだ尊いふ親父かな

 その気象大卒(おおむね)この類なり。

前半部は本篇と同エピソード乍ら、発句が異なる。いずれの句も確かに諧謔性に於いては美事である。以下、簡単に私の注を附しておく。

☆「梅翁」:談林派の祖である西山宗因の別号。

☆「不相愜」:「愜」(音は「キョウ」)は、快い、満ち足る、の意であるから、接客が満足出来るものでなかった、客あしらいがけんもほろろであることを言うのであろう。

☆「三朝」元旦のこと。1月1日は年の朝・月の朝・日の朝の三つを兼ねることから。

・「達て一本立合度」岩波版では『遮(さえぎつ)て「一本立合度」』とあるが、こちらの方がいい。

・「五月雨にうたれひら/\百合の花」「うたれひら/\」の部分、底本の右には『一本「うたれてひらく」』と注する。「うたれひら/\」なら、

やぶちゃん通釈:

……興に乗じて一本を、所望してはみたものの、したたか打たれて頭を抱え、床に平伏したこの儂は、恰も今日の五月雨に、うたれて謝る百合の如……

但し、自身を百合の花とするところが、禅的な風狂とも言えるように思われる。但し、「ひら/\」は句として力を欠き、へな/\した印象を免れない。

「うたれてひらく」ならば、一打を受けて俄然、禅の開悟の境地のパロディとなる。

やぶちゃん通釈:

――興に乗じた一本を、所望し打たれた我が心、ぽん! と開いた百合の花――

しかしこれでは、如何にも臭う禅機の句となり、好かぬ。いずれにしても、句柄としては私の好みではない。

・「出山の釋迦」29歳で出家した釈迦は、山に籠もって6年の難行苦行を終えるが、真実(まこと)の悟りを得ることが出来ない。その彼が更に真の悟りを求めんがために、雪山を出る、という釈迦悟達の直前の場面を言う。水墨画禅画の画題として多く描かれる。一般には、ここでの釈迦は痩せこけたざんばら髪、伸びた爪、浮き出た肋骨といった姿で描かれることが多い。釈迦の真の悟りは、その直後、ガンジス川の畔ブッダガヤの菩提樹下で達成される。

・「蓮の實の飛んだ」他の「耳嚢」を現代語訳したサイトやブログを管見したところ、「蓮の実が飛んだ」ようなというのを元気な若者が調子づいて無鉄砲なさま、若しくは、そうしたはじけるようにお調子者の若者としている。しかし、私はそもそも「蓮の実が飛んだ」ところ、弾けたところを見たことがない。試みに、ネットで検索しても、蓮の実が弾ける事実を証明した記載も写真もないし、見たという記載も見当たらない。そこでつくづく蓮の実を見てみると、連送砲のような花托、花床に詰った弾丸状の実は「飛び」そうではある。しかし、考えてみれば、「はす」は「蜂巣(はちす)」の略なのであってみれば、鉄砲の弾なんぞが存在しない以前から蜂の巣に見立てられたそれは「飛ぶ」のではなかったか? なんどと考えながら、ネット・サーフィンをするうちに……ズバリ! 出たぞッ!……蓮の実が飛ぶという伝承が古来からあった! 矢島町教育委員会の(ものと思われる)「秋田県矢島の神明社八朔祭」についての民俗学的考証の「第二章 八朔祭の伝承」にある「3、秋田県内の八朔祭・県外の八朔祭との比較」のページに以下のように記される(失礼乍ら、衍字・誤字としか思われないものが多数あり、私の判断で訂正、記号の一部も変更してあるのでリンク先をも確認されたい。下線部も総て私が施したものである)。同県の

『河辺郡地方では、八朔『一日は俗に八朔の朔日と称し、赤飯若しくは餅を搗きて祝ふ。此朝蓮の実飛び、若しこれにあたるときは、ハツチ(骨膜炎)を病みて不具になるといひ伝へ、外出することを忌む。若し不已むを得ず外出するときは、餅其他の食物を食ひて出るを例とす』(秋田県河辺郡役所「河辺郡誌」/大正6年3月)。同じような風習は象潟町長岡でもいわれてきた。この日に蓮の実が飛ぶのを見ると病いに罹る、というので家で休んでいる。他に八朔は厄日ともいうところも多い。本荘市埋田、葛法では、この日の朝に蓮の実が飛び、もしこれにあたると骨膜炎を病んで不具になるといわれ、外出を忌み、止むを得ず外出する時は、生米か餅を食べてから外出するように言われていた。したがって、この日を二月一日と同様に厄日といい、かつては休みの日とされた。この日に赤飯・餅などをつくる家が今もある(本荘市編「埋田・葛法の民俗」/1991.3/本荘市史編さん室)というのだ。河辺地方と本荘では全く同じことがいわれてきたのである。南内越(本荘市)でも同じだが『南内越村誌』(旧版/明治38年)には、「八月休業」「朔日(三朔日ノ一ナリト云フ)」とあり、休みとしていたが、同郷土誌の新版(昭和5年)では「俗ニ八朔ト称シ、当地方ノ言ヒ伝ヘニ此日蓮ノ実飛ビ、是ニ当タル者ハ"ハッツ"ト称スル病ニ罹ルト、"ハッツ"ハ現今ノ骨膜炎ナリト言フ、当地ノ慣習トシテ朝仕事二出掛クル際何カヲ食スル奇習アリ(朔日ハ中世農家稲ノ初穂ヲ禁裏ニ献ゼシモノナリト言フ故ニ、此日ヲ田ノ実ノ節ト称シ、世ニ其訓ヨリ愚ノ節句トモ抄ス)」と記される』

とある。また、

『平鹿町では、八朔のついたちと呼んで、田に入ってはいけない日といわれた。農家ではその年の田の実の節供といって祈ったともいう(平鹿町史編纂委員会編「平鹿町史」/昭和59年9月/平鹿町)。河辺町ではこの日赤飯や餅を搗いて祝い、この日田に入ってはいけないし、朝には蓮の実が(ハッチ)が飛ぶとされて、これが体に当たると病気になるというので外出を忌むものだった。やむを得ず外出する人は、餅を食べて出るとその難を免れるといわれてきた。この日は農厄日であってこの日が晴れるとその年の秋作はいよいなどと言い伝えられている(河辺町編「河辺町史」/昭和6010/河辺町)。ほぼ同様のことが西木村でもいわれ、ハッチを骨膜炎として死に至らしめるものとみなし、八朔の餅というのを食べると難を逃れるという(佐藤政一著「西木村の年中行事」下巻/昭和62年3月/西木村教育員会)、ものである。旧暦八月一日をハッサクと呼び、外出するときは悪魔除けとして朝に小豆汁を食べた、という(雄和町史編纂委員会編『雄和町史』/昭和51/雄和町)。同じく大正寺(雄和町)でも、この日は悪魔除けとする小豆汁を食べるのだとしていた(相沢金治郎編「大正寺村郷土史誌」/昭和38年1月/大正寺村青年団)。小豆は小正月の斎い日にも見られる特別な食べ物であるが、この小豆は五穀のうちでも畑作物のひとつであって、餅と小豆はハレの日の斎いの代表物でもあることに注目せざる得ない。正月と通じた信仰の現れとも考えられるのである』

と多数の伝承例を提示した上で、

『民間では、八朔の日は休日即ち神祭りの日とされ、何らかの祝いをするものであったし、その日が稲の収穫と関わっている稲作信仰に由来する行事も可成あったことが判る。そして、農厄日ということや、この日が災難をもたらす日とされたことは祭日の忌日とした観念に基づくものであったと思われる。蓮の実が飛ぶとか弾けるなどという日だが、秋田では蓮が生えているのを殆ど見かけない。実際は蓮実など飛んだところを見たことはないのであろうが、そのような伝承が八朔に限って言い伝えられているのには、蓮の実と稲の実とが何らか関連があったのではないかと思われるのである。近世後期の秋田を紀行した菅江真澄が残した日記によれば、八朔の日が初穂の祝いをする日である、作祭りであったことを彷彿させる記事がみえる。「雪の出羽路」雄勝郡床舞(羽後町)において、

 このあたりのならわしにて、八月朔日、穂掛けとて、まづ稲穂刈りて、ニタ穂の稲くきの本をむすびもて、神社ごとに掛けて奉る、いといとめでたきためし也

とするように、例年行われる大変目出度い祭であるというのだ。稲穂を二、三束刈って神社にお供えするのであるから、初穂祝いということになる。八朔祭が庶民の間でもこうして行われてきたのには、稲作信仰でも重要な儀礼の日とみなさなければならないだろう』

という普遍的考察もなされている。目から鱗成らぬ、蓮の実! である(序でに「蜜蜂ハッチ」とは深遠な類感呪術でもあったのだナア!)。因みに、蓮の実によって引き起こされるとする骨膜炎とは、骨の周囲にある骨膜の炎症を言う(主因は骨への過重負荷及び細菌感染による化膿性骨膜炎)。整形外科領域に於ける骨膜炎の殆んどは脛骨過労性骨膜炎、通称Shin splintsシンスプリント(Medial Tibial Stress Syndrome)と呼ばれるもので、運動時又は運動後、下腿脛骨内側下方13辺りの部位(筋肉が骨に付着する部分)に脛骨に沿って鈍痛を生じるのを特徴とする病気である。田圃での過剰な農作業や擦過傷からの細菌感染によって、古くは農村に多く見られた病気なのかも知れない。さればこそ、旧室へ私から追悼の戯句を一句ものしおく。

 蓮の實の脛を撃つたる入水哉   藪野唯至

・「蓮の實の飛んだ事いふ親仁哉」

やぶちゃん通釈:

――御武家の大事な出山の、お釈迦の尊い掛軸に、讃をしたいなんどという、蓮の実、ぽん! と飛んだよな、とんでもないこと言う、おやじじゃのう! この儂は!――いいや、そいつは逆かも知れん、飛んでもないほど凡庸なは、仰々しくも叱るお前ら……

勿論、この「蓮」は画題の釈迦の智慧や慈悲の象徴たる、泥水の中からすくっと立って咲く美しい白蓮の花に掛けてある(但し、仏教で言う蓮は我々がイメージする双子葉植物綱スイレン目ハス科ハスNelumbo nuciferaではなく、睡蓮、即ちスイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaeaを指す)。また、風狂の師旧室にとってみれば、口角泡を飛ばして、常識をがなり立てて、しつこく叱責するその宗匠、同室の有象無象の凡句を捻るばかりの宗匠連も「飛んだ事」を言う愚劣な「親仁」であるに違いない。この句も一種の禅機のパロディであるが、前の句よりもずっとすんなり私には落ちる。但し、この句が出山の釈迦の掛軸に黒々と記されている賛としてある時にのみ、その掛軸の中に於いてのみ、ということではある。

■やぶちゃん現代語訳

 風狂の人活井旧室の事

 宝暦の頃まで俳諧の宗匠をして御座った旧室という御仁は、並外れて背の高い異形(いぎょう)の僧で、実に面白い気性の者で御座った。聊かの欲心もなく、僅かばかりの持ち物の一衣(いちえ)にても、興が乗れば、何処であろうと脱いで人に与え、自分は下着のままで平気でいるなんどということも御座ったという。

   *

 ある日、この旧室が、麻布辺の武家屋敷の門前を通りかかったところ、屋敷内から、

――パン! パン!――

という剣術の稽古をする音――――と、旧室、腕に覚えがある訳でもないに、何を思うたのやら、むらむらと一勝負やってみたいという、いつもの、とんでもない遊び心を起こし、ずかずかと玄関へと入ると、案内(あない)を乞い、

「――御稽古拝見請い願い上げ候!――」

と申し上げたところ、家の者、その容姿風体の尋常ならざるを見て、とりあえず、座敷へと通した。

 集まってきた家士の者どもが覗いてみると、これがまた、色の黒い、とんでもない大男――。彼らは互いに、

「……ありゃ、てっきり、天狗じゃぞ!……」

「……天狗が、何しに参ったのじゃ?……」

「……そりゃもう、我等が剣術を見るためじゃろ……」

「……?……」

「……いやいや、試しに来たのじゃ!……」

「……?……」

「……これは! きっと……我らが剣に慢心あらば、すわ、へこまさんとの意、じゃろう!……」

なんどとと、囁き合(お)うて御座った。

 屋敷の主人は、未だ年若の方なれば、老師の風貌たる彼に、年相応の礼を正した挨拶を致いた。

 その挨拶が終るや、異形の僧はまさしく単刀直入、

「竹刀(しない)にて一本打ち合(お)うて見とう御座る。」

と申し出る。

 主人は、

「お言葉乍ら、実は当方は道場にては御座らず、屋敷内にての内稽古にて御座れば……。」

と断わったのだが、

「たっての望み! さても、お立ち合い召されい!」

と、強いて請うて、後に引く気配もない。

 故に仕方なく若主人、まずはと、相応の剣術の使い手である高弟に命じ、立ち合わせることと致いた――。

……しかし彼、元からが、たかが俳諧の宗匠に過ぎぬ身なれば……実は武芸のたしなみなんど……これぽっちも御座らねば……。

――パーン!――

「……?……」

……家士高弟の下ろした、ただ一振りに、したたかに脳天を打たれた……。

……床に沈んだまま……暫く頭を抱え込んで御座ったが……やがて座敷に上(のぼ)ると、

「……さてさて、痛い目に逢(お)うたことよ……時に……硯と紙を賜わりとう御座る……」

と筆と墨を乞い、

  五月雨にうたれひら/\百合の花

下(しも)に「旧室」と書き記して、ふらっと帰って行った――。

 その後、若主人がこのおかしな一件をさる人に語ったところ、

「そりゃ、あの旧室じゃ!」

と大笑いになったとか。

   *

 また、ある日のことである。

 旧室、他の宗匠らとともに、一同、さる御大名の御屋敷へ呼ばれ、連衆俳諧致し、その夜はその屋敷内にて一泊致いたことが御座った。

 宗匠連にあてがわれた寝所の床の間には、「出山(しゅっさん)の釈迦」の掛軸が掛けられており、旧室はこれがいたく気に入り、殊の外、褒めた上、

「儂はこの絵に賛を致したい。」

と言い出した。居並ぶ宗匠の一人が、旧室の普段の行状から、冗談ではないと悟り、

「――以ての外ッ!――」

と一喝、

「――大名家の御道具を汚(けが)すなんどということ、決してあってはならざることで御座ろうが!……」

と再三五月蠅く説教致いたところ、旧室、

「……分かった、分かった……」

と言って寝た――。

――翌日のこと、宗匠連も引上げ、部屋の片付けを致いておった屋敷の者、かの床の間の「出山の釈迦」図をふと見る……と……

  蓮の実の飛んだ事いふ親仁哉

と黒々、賛が書かれて御座ったとか。

……実は旧室、深更に到ってから、皆々の寝顔をしっかと覗き見た上、そっと起き上がるなり――「出山の釈迦」図賛を――こっそりとなしておったので御座った……。

   *

 このように愉快怪怪快活活人の僧で御座ったが……僧なればこそ、酒だけは戒むべきことに御座る……

……ある年、本所辺りの屋敷で行われた運座から帰る際、酒をしたたかに飲んで足元もおぼつかぬ気(げ)なれば、

「送りの者をお付け致そう。」

との屋敷の者が言うたを、断って一人帰ったので御座ったが……何処で踏み外したものか……川に落ちて溺れ、命を落とした、ということで御座った……。

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