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2010/01/09

耳嚢 信念に奇特有し事

「耳嚢」に「信念に奇特有し事」を収載した。では一眠り致す。

 信念に奇特有し事

 明和九辰年の江戸大火は人々知る所也。其節の事なる由。予が近隣若山某の咄しけるは、右妻の伯母は佐竹右京大夫奧の老女にてありしが、大火の節奧方に付て立退しが、いづ方にありし哉(や)紛擾混亂の内に乘物を見失ひ、所々尋けれども其行方知られねば、引取り置候部屋子(へやご)の小女を連、受かしこと尋けるに、淺草大たんぼといへる方迄迷ひ歩行しに、其處も追々燒たり。如何せんと當惑しける所に、佐竹家の印し番の圖の提燈を持し者貳人連にて通るを見掛け、呼候てしかじかの由申ければ、大きに悦び、我等介抱可致と、兩人着しける革羽織をぬいで下にしき、上にかざして火の子を防ぎ、小女の食物抔才覺して漸其邊も鎭りし故連立て淺草藏前迄出しに、主人の乘物を見請し故、生たる心地にて右乘物にすがり、しかじかの由語り涙にむせび、御供して下屋敷へ立退し由。右騷動の折から故、介抱の兩人名字を聞侍らず、ケ樣/\の者に殊の外世話に成しと役人へ申談じ、謝繕をもせんと念頃に尋しが、所々の屋敷を詮儀しけれど似たる事もなかりし。右老女兼て信心人に勝れしが、神佛の助け給へるならんと語りはべる。

□やぶちゃん注

○前項連関:災害と、その中で語られる奇談という形で連関。

・「奇特」「きどく」と読む。神仏の持つところの不可思議な力、霊験を言う。

・「明和九辰年の江戸大火」明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つと言われる明和の大火、通称行人坂の火事のこと。放火による。明和9(1772)年2月29日に目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火、南西風に煽られて延焼、完全な鎮火は2日後の3月1日。ウィキの「明和の大火」によれば、『29日午後1時頃に目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した』。『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、『老中になったばかりの松平定信の屋敷も類焼した』。死者約15,000人、行方不明者は4,000人を超えた。『「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川平蔵の父親)の配下によって4月頃に捕縛される。明和9年6月22日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された』とある。

・「佐竹右京大夫」佐竹義敦(よしあつ 寛延元(1748)年~天明51785)年)のこと。出羽国久保田藩(現在の秋田県。一般にも秋田藩と呼ばれる)の第8代藩主。官位は従四位下侍従、右京大夫。号を曙山(しょざん)といい、絵を好み、狩野派を学んだが、現在、重要文化財となっている「松に唐鳥図」等、その才能は天才的であった。彼が重用した藩士小田野直武も卓抜した画才を持ち、藩主に画法を教授、遂には日本画に西洋画を組み合わせた秋田派(秋田蘭画)を完成させた。因みに、この藩士小田野直武なる人物は、その強い西洋画風の趣向を持った作品を見た、かの平賀源内が絶賛、後に藩主義敦の命により、源内の下で絵を修行し、源内の友人杉田玄白の「解体新書」付図の作画をした人物として知られる。帰藩後、藩主義敦と共に日本最初の西洋画論「画法綱領」「画図理解」を著わしている(以上は主にウィキの「佐竹義敦」を参照したが、私は実際に義敦の絵や直武の作品を実見したことがあり、それは誠に美事なものであった)。底本の鈴木氏注に『藩邸は下谷七軒町にあり、下屋敷は深川と日暮里にあった』とある。

・「部屋子」大名屋敷の奥女中に仕えた召使い。

・「淺草大たんぼ」浅草田圃。浅草新吉原(現在の台東区)の後方にあった水田地帯。吉原田圃とも言う。明暦3(1657)年の大火(振袖火事)によって吉原(現在の日本橋付近)が焼失したのを機に、かねてからの幕府からの移転命令(当該地を御用地とするため)もあって、交通の便宜を考えてここに移転したもの。

・「佐竹家の印し番の圖の提燈」岩波版では「番」は「香」。この「香」が正しいものと思われる。それは岩波版長谷川氏注に、「香の紋」について『佐竹家の家紋。源氏香の』花散里の図案を用いていたという記載がある。ウィキの「佐竹氏」によれば、『元禄14年(1701年)に佐竹氏第21代当主で久保田藩第3代藩主の佐竹義処は弟の佐竹義長に2万石を、甥の佐竹義都に1万石を分与し、久保田新田藩として立藩させた(新田分知のため久保田藩の石高に変化はなし)。そのうち、佐竹義都を初代藩主とする久保田新田藩は、享保17年(1732年)に義都の子の佐竹義堅が久保田藩第5代藩主の佐竹義峯の嗣子となったために廃藩となり、封地は久保田藩に還付された。一方、佐竹義長を初代藩主とする久保田新田藩は、歴代藩主が壱岐守に叙せられたので佐竹壱岐守家とも呼ばれ、明治2年(1869年)に岩崎藩と改称した』とあり、少なくともこの家紋を用いていた別な佐竹氏があったものとも思われる。しかし……私はこうも考える……佐竹の提灯を差しながら、佐竹の御家中、佐竹家所縁の者でない……とすれば……彼らは、実は火事場泥坊だったのではなかろうか? 避難しても抜けの空となった下谷七軒町の佐竹家上屋敷を物色の後、そこにあった提灯も戦利品として失敬し、へらへらと引上げてきたところが、火中の栗ならぬ佐竹の老婆を拾うというドッキリ……彼等、実は根っからの悪でもなく、ここで逢(お)うたも何かの因縁……と感じ入るところあって、火事場の馬鹿力ならぬ慈雨介助と相成った――という段、是如何?

・「淺草藏前」現在の蔵前1丁目~4丁目付近。当時、この大川(隅田川)沿いに幕府の米蔵(浅草御蔵)があり、その西の一帯をこう呼称した。

・「役人」これは町方の役人の意味かもしれないが、先に注で示したように提灯の家紋が佐竹家の家紋であるなら、まずは主家である佐竹家家役の者に言上するのが筋であろうから、そのように訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 深い信心には霊験のある事

 明和九辰年の江戸の大火は、人々も知るところの大火事で御座る。その折りの話、とのこと。

 私の屋敷の近隣に住む若山某(なにがし)の妻の話によれば、かの妻の伯母は佐竹右京太夫義敦(よしあつ)殿奥方の老女中で御座ったが、この明和の大火の折り、奥方の輿に付き従って徒歩(かち)で避難致いたものの、火事の騒擾(そうじょう)混乱の中、何方(いずかた)へ行かれたか、当の奥方お乗りの輿を見失い、あちこち尋ね歩いたけれども、一向に奥方の行方(ゆくえ)が知れぬ。避難の際に彼女手を引いて逃げて参った部屋子の小娘を連れながら、なおも、あちらかこちらかと尋ね歩(あり)くうち、浅草の大田圃と呼ぶ辺りまで迷い出てしもうたが、その辺りもじわじわと焼け始めておったれば、一体、如何にしたらよいものか、と途方に暮れて御座った。

 と――そこを佐竹家の源氏香の家紋を印した提灯を持った者、二人連れで通るのを見つけ、呼び止めて、かくかくしかじかの由、話したところ、二人は満面の笑みを浮かべ、

「我等がお守り致そうぞ!」

と、頼りになる言葉を掛くる。――両人は着て御座った革羽織を脱ぎ、一枚を下に敷きて彼女と小娘を座らせると、今一枚を二人の上にかざして火の粉を防ぐ。――暫らくすると一人が、腹をすかして動けぬと言う小娘のために、何処(いずこ)からともなく、食い物なんども調達して参る。――そうこうして、やっと人心地ついた頃おい、漸くその辺りも鎮火致いた故、この四人連れ立って浅草蔵前辺りまで出たところが――そこで奥方の乗る輿を発見致いた故、子娘の手を握って息せき切って駆け寄ると、かくかくしかじか、これまでの仕儀を総べて言訳致いて涙に咽び、奥方の労いの御言葉を頂くも早々に、そのまま――九死に一生、男二人のことは念にも上らず――奥方にお供致いて、延焼を免れた右京太夫殿下屋敷へと避難致いたとのことであった――。

 ――かく騒擾の折から、彼女は介抱して呉れた両人の名も聞かずに御座ったれば、

「……これこれこういう、お二人に、殊の外、お世話になり申した。」

と主家佐竹家家役に申し出て御座ったが……そのような者、主家の内には御座らぬ――謝礼をもせんと手を尽くして尋ねてはみて御座ったが……そのような者、佐竹の分家にも御座らぬ――もしや、家紋の見間違いかと、方々(ほうぼう)の武家屋敷を尋ね問うてみても御座ったが……そのような者はおろか、似たような火事場介助の話だに御座らなんだ――。

 若山某の妻は、

「……この伯母は、以前より優れて信心厚き者にて御座いましたが……それ故、きっと神仏がお助け下さったもので御座いましょう……。」

と語って御座った。

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