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2010/01/08

耳嚢 人の運不可計事 及び 又

「耳嚢」に「人の運不可計事」及び同系話「又」の二件を連続収載。

 人の運不可計事

 安藤霜臺(さうたい)の譜代の家士に、名字は忘れ幸右衞門といへる者ありし由。今は身まかりしが、彼もの在所は紀州黑井村といふ所にて、加田(かだ)と向ひ合て嶋同前の場所の由。右幸右衞門は若年より霜臺の親の許にみや仕へしが、【其頃霜臺の父郷右衞門は紀州家士にて若山に勤仕(ごんし)の由】同人弟有し故是をも若山へ呼びて勤めさせべきと思ひ、迎ひがてら幸右衞門彼黑井へ至り父母其外の兄弟に逢ひけるが、其此黑井より加田の海面兩日程眞黑に成て渡るものあり。能く/\見れば黒井の鼠加田へ渡りけるにてありし。かゝる不思議にも不心付、父母兄弟に別を告て弟をつれ若山へ歸らんとしけるを、ひらに今一兩日も止り給へかしと強て止めけれ共、約せし日數なればとて歸りぬ。其夜中津浪にて一村一浪の内に滅却し、父母兄弟家族共に水中の物となりしが、不思議に幸右衞門まぬがれけるとや。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、生物の自然災害の予知能力を語る一篇としては、事実らしさを感じさせ、興味深い。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。お馴染みの根岸の情報源。

・「譜代の家士」代々同じ主家に仕えた家系。

・「紀州黑井村」和歌山城南方約7㎞に位置する現在の和歌山県海南市黒江。輪島塗のルーツとされ、室町期に始まる黒江塗という漆器で栄えた町として知られる。

・「加田」和歌山城西北約12㎞に位置する現在の和歌山市加太(かだ)。鉢巻山と田倉崎の北側に加太港という大きな漁港を有する(この岬の存在が津波を堰き止めたと言えるか)。和歌下津港・和歌浦湾を大きく見れば、丁度、和歌山城を中心にして向かい合った位置関係にはあるが、その間は直線距離で海上20㎞以上隔たっている。津波で溺れるか、遠泳で溺れるか――鼠も必死であったろう。

・「勤めさせべき」の「させ」はママ。

・「霜臺の父郷右衞門」(元禄7(1894)年~享保6(1721)年)安藤郷右衛門惟泰(これやす)。底本の鈴木氏注によれば、初め紀州家に仕えたが、享保元(1716)年、吉宗の将軍就任に従って御小姓となり、幕臣として300石を有した。28歳で早世している。

・「若山」和歌山。

■やぶちゃん現代語訳

 人の運は測り得ぬものである事

 安藤霜台惟要(これとし)殿の譜代の家来に――名字を忘れたが――幸右衛門と申す者が御座った。現在はは既に身罷った者であるが、この者の在所は紀州黒井村という所にて、ここは丁度、海を挟んで加田と向かい合って位置する――陸続きでは御座るものの、和歌山の御城下からは、専ら船で参るを常道とする――言わば、島同然の土地の由で御座る。

 この幸右衛門、若年より霜台が親の元に仕えて御座った――霜台の父郷右衛門(ごうえもん)惟泰(これやす)殿は紀州家家来にて和歌山城下に勤仕(ごんし)して御座った――が、同人には弟が御座った故、この弟も和歌山へ呼び、勤仕さするに若くはなしと思い、迎えがてら、幸右衛門、黒井に参り、久しぶりに父母その他の兄弟(はらから)に逢(お)うた。

 ――幸右衛門、帰郷するその舟路でも望見致いて御座ったが――翌日、永の無沙汰の挨拶回りも終わり、弟勤仕の一件も決まり、一息ついて――ふと、海の方(かた)を望むと、昨日の舟から見たのと同様――即ち、丸二日に亙って――この黒井から、遠く加田に向かって、海面が真っ黒になって、何やらん、渡って行くものが御座った――よくよく見ると、それは黒井の鼠が大群を成して海上を加田へ泳ぎ渡って行くのであった――。

 ――幸右衛門は、かく不思議なることをも、さして気にすることもなく、帰って二日目の、その日の内に父母兄弟に別れを告げ、弟を連れて和歌山へ帰ろうとしたところが、皆より、

「まあ――折角の久方ぶりのご帰郷に、弟ごとはまた永のお別れなれば――どうか、今、一日二日、お留まりあらせられよ。」

と、頻りに引き止められたけれども、

「主家に約せし日限に遅れますれば――」

と、弟と共に御城下へと帰った。

 ――その夜の内に……

……大津波の一撃により……黒井村は丸ごと一瞬のうちに消滅……幸右衛門父母兄弟家族悉く……海の藻屑と相成った……されば、幸右衛門とその弟は、誠に不思議なことに、この難を免れた、ということで御座った……

*   *   *

   又

 天明二寅年淺間山燒(やけ)て、上州武州の内甘樂郡(かんらごほり)碓氷郡緑野(みとの)郡片岡郡は或は三尺或は壹尺程に燒砂(やけすな)降積り田畑を押し埋め堀川を埋、あさま近き輕井澤などは火の儘にてふりし故、家を燒候もありて怖き事也し。又上州吾妻(あがつま)郡は淺間の後(うしろ)なるが、彼邊は砂の降しは少けれど、淺間山頭鉢段といへる洞(ほら)より泥火石押出し、家居を押流し人民を泥に埋め、火石にて畜生類を燒破りて、吾妻の川縁夫(それ)より群馬郡武州榛澤(はんざは)の郡邊迄利根川烏川を押通り、所によりては或は壹丈貳丈も泥の押上(おしあげ)ける故人民の死傷不少【此委細は予御用中に記し小册となしてその御方へも懸御目(おめにかけ)し有り、こゝに略す。】予右見分御用を仰蒙(おほせかうむ)りて不殘廻村見分し、翌春迄に損所御普請も出來(しゆつたい)しけるが、吾妻川の川縁に租母嶋村(うばしまむら)といへるあり。かの泥出しの折柄老少となく恐れおのゝき、後なる山へ命限りによぢ登りしが、翌日に至り少し靜りて誰彼と人を尋しに、右村方にても廿人餘も押流されて行衞知れず。依之(これによつて)見えざる分は死せるものと歎き吊(とむら)ひけるが、河原の岸にわづかに物こそみゆれと立越(たちこえ)みれば、小兒を肌に負ふて泥の中にうつぶし居候者ありける故、早々取出し泥だらけなるを洗ひて見ければ、村方百姓の母孫を肌に負ひて、租母は相果、背負ひし孫には恙なかりしと也。其日の事にもあらず翌日迄泥中に倒れ、既に租母は相果しが小兒の生殘りたるといへるも不思議の運也と爰に記しぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:九死に一生、自然災害の奇談の二つ目。浅間大噴火は二項前の根岸の関東六ヶ国川普請御用とも関連する。

・「天明二寅年淺間山燒て」根岸にしては、大ボケをかましている。浅間山の大噴火は天明3(1783)年癸卯(みずのとう)の7月6日から8日(新暦換算で8月3日から5日)のことである。現代語訳でも訂正した。以下、ウィキの「浅間山」の「記録に残る主な噴火」から当該箇所を引用する。その年の4月9日『に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1ヶ月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔は短くなっていき、その激しさも増していった。7月6日から7月8日の噴火で3日間で大災害を引き起こしたのである。北西方向に溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生、いずれも群馬県側に流下した。その後、約3ヶ月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石なだれとなって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止めた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運んでいく。このとき利根川の支流である江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられたのである。このとき被災した死者は、約1,500人に達した(浅間焼泥押)』(この天明の大噴火の死者総数は資料によって極端な差があり、一部には20,000人とも記される)。『長らく溶岩流や火砕流と考えられてきたが、最も被害が大きかった鎌原村(嬬恋村大字鎌原地区)の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、昭和54年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。 

・「甘樂郡」上野国(現・群馬県)の郡。現在の甘楽郡(かんらぐん)の郡域である甘楽町(かんらまち)・下仁田町(しもにたまち)・南牧村(なんもくむら)2町1村に加え、現在の田野郡の一部である神流(かんな)川上流域と富岡市域の一部も含まれた(以下、郡記載の殆んどはそれぞれ郡のウィキの記載を参考にした)。

・「碓氷郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、碓氷郡(うすいぐん)松井田町1郡1町として存在していたが、2006年(旧)安中市と合併し新市制による安中市となって消滅した。当時の郡域は現在の安中市及び高崎市の一部も含まれた。

・「緑野郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、緑野郡(みどのぐん)は明治以降も3町8村〔藤岡町・神流村・小野村・美土里村・平井村・美九里村・日野村・鬼石町・三波川村(現・藤岡市)・新町・八幡村(現・高崎市)〕の郡として残存したが、明治291896)年、多胡郡・南甘楽郡と合併、多野郡となった。大部分は現在の藤岡市の相当する。

・「片岡郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、片岡郡(かたおかぐん)片岡村1郡1町として存在していたが、明治29 1896)年、西群馬郡と合併して群馬郡片岡村となり、更に昭和2(1927)年に高崎市に編入された。

・「輕井澤」現在の長野県佐久地方の地域名。狭義には現在の長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区や軽井沢町全体を指すが、広義にはそれに加え、群馬県側の北軽井沢地区も含む。ここでは後者の範囲で採るのがよい。江戸期には中仙道難所の一つであった碓氷峠西側の宿場町として、また、浅間山を望む景勝の地として栄え、軽井沢宿(旧軽井沢)・沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)の浅間三宿があった。

・「吾妻郡」上野国(現・群馬県)西に位置する郡。吾妻郡(あがつまぐん)は現存し、現在は吾妻川沿岸にある東吾妻町(ひがしあがつままち)・草津町(くさつまち)・六合村(くにむら)・高山村(たかやまむら)・嬬恋村(つまごいむら)・中之条町(なかのじょうまち)・長野原町(ながのはらまち)の4町3村で構成されている。

・「淺間山頭鉢段」読み共に不詳。「とうはちだん」か。叙述からは、比較的古い盛り上がった噴煙口(ここに名称が付いていることから古いと推定した)の名であろう。それも山頂よりやや下った部分に鉢巻のような帯状に複数ある噴煙口を指すのではなかろうか。岩波版長谷川氏注では、「耳嚢」諸本で「段」とも「領」ともなっている旨、記載がある。どちらであっても私の推測した火口形状にはしっくり来る気がする。

・「吾妻の川」吾妻川(あがつまがわ)群馬県西部を流れ、利根川に下る川。群馬県吾妻郡嬬恋村大字田代と長野県県境との間にある鳥居峠に源を発する。吾妻郡内を東流し、渋川市白井と渋川市渋川の境界域で利根川に合流している。草津温泉・万座温泉等からの水が流入するため、水質は強酸性である。ここは皆さん、よく御存知である。え? 知らない? この川の左岸は群馬県吾妻郡長野原町大字川原畑、右岸を同町大字八ッ場(やんば)と言う。八ッ場ダム、ほら、知ってるでしょ?

・「群馬郡」上野国(現・群馬県)の郡。後、群馬郡榛名町1郡1町として存在していたが、平成182006)年、榛名町が高崎市に編入、消滅した。当時の郡域はもっと広く、同県北群馬郡と勢多郡の一部を含んだ。

・「武州榛澤の郡」武蔵国(現・埼玉県)の郡。榛沢郡(はんざわぐん)は、後、深谷町(深谷市)・大寄村(深谷市)・藤沢村(深谷市)・新会村(深谷市)・中瀬村(深谷市)・手計村(後に八基村→深谷市)・岡部村(深谷市)・榛沢村(深谷市)・本郷村(深谷市)・武川村(深谷市)・花園村(深谷市)・寄居町(寄居町)・用土村(寄居町)・桜沢村(寄居町)の2町12村で構成されていたが、明治291896)年、幡羅郡・男衾郡と共に大里郡に編入されて消滅した。以上からもお分かりの通り、当時の郡域は現在の深谷市全域及び寄居町付近に相当する。

・「利根川」以下、ウィキの「利根川」によれば、現在の利根川は群馬県最北端越後山脈の大水上山を最深水源として、吾妻川・烏川・渡良瀬川・鬼怒川など多数の川を合わせて、千葉県銚子市と茨城県神栖市の市境で太平洋鹿島灘に注ぐ川。また、前注でも触れた通り、流れの一部は、旧渡良瀬川下流流路であった江戸川として東京湾へも注ぐ。『水系の本川全長は約322kmで、信濃川に次いで日本第二位の長さを誇る。そのため、流域は長野県佐久市(信濃川の通るまちでもある)、群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、千葉県、東京都に跨がる』。『流域面積は関東平野全体に広がっていて、約16,840km²となり日本で最大』であるが、実はその大半は、江戸時代の瀬替え(利根川東遷事業)によって開鑿された人工的なものである。『江戸時代初期までは、江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川であった。しかし、東北地方や北関東から江戸の街への水運ルートの確保や、関東平野の新田開発の推進を目的として、徳川家康の号令で伊奈忠次、忠治らによる利根川を渡良瀬川水系や鬼怒川水系と繋ぐ瀬替え(利根川東遷事業)が始まり、最終的には利根川の本流は銚子の方へ流れるようになった(治水上の利根川本流が銚子への流路に確定するのは明治時代である)。なお、利根川水系や渡良瀬川水系は洪水によって流路がしばしば変化していたうえ、東遷事業などに伴う水路の開削・閉鎖が複雑に行われたため、東遷以前の河川を現在の河川と比較対照させるのは難しい』。『東遷事業のあらましは、利根川と東隣を流れていた渡良瀬川をつなぎ、その先をさらに鬼怒川水系下流方面へとつなぐというものであった。現在の江戸川は、下流域はかつての利根川・渡良瀬川水系の流路に沿っている部分もあるが、利根川から分流後の20kmほどの部分は、人工的に開削されたものである』とある。あの坂東太郎の、目から鱗である。

・「烏川」ウィキの「烏川」によれば、主に現在の『群馬県高崎市を流れる利根川水系の一級河川。支流も含めると群馬県西部、いわゆる西毛地域のほとんどを流域に持つ川で』、『郡馬県高崎市倉渕町(旧倉渕村)の鼻曲山に源を発し、おおむね南東に流れる。高崎市下豊岡町付近で碓氷川と高崎市阿久津町付近で鏑川を合わせ、高崎市新町付近で神流川を合わせると僅かの間、群馬県・埼玉県の県境を成し』て、『利根川に合流する。支流鏑川の上流域(南牧川-馬坂川、熊倉川)に長野県佐久市を含む』とある。

・「【此委細は……】」この割注の内容は根岸鎮衞の役職に関わる記載。当時、彼は勘定吟味役であったが、特に関東六ヶ国川普請御用として河川の改修・普請に才覚を揮った。浅間大噴火後には浅間復興の巡検役となった(当時47歳)。その功績によって翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢されている。

・「出來」事件が起こる、物事が出来上がる、ある行為を成し遂げる。半年で復旧事業を遂行した。さりげなく、根岸君、自慢して御座る。

・「租母嶋村」底本の鈴木氏注によれば、『群馬県渋川市祖母島(うばしま)。吾妻川の右岸、市域では上流地域。』と記す。国土地理院の2万5,000分の1の地勢図で吾妻川遡ってみたが、それらしい地名を発見することが出来なかった。渋川の郷土史研究家の方、御教授を乞う。

・「吊(とむら)ひける」は誤字ではない。「吊」という字は、原義に、何と「弔」という漢字の俗字の義が、元々あるのである。お疑いの向きは、漢和辞典をお引き下されよ。

■やぶちゃん現代語訳

 人の運は測り得ぬものである事 その二

 天明三年卯の年、浅間山の大噴火が御座って、上州・武州の内、甘楽郡・碓氷郡・緑野郡・片岡郡辺りには、凡そ三尺から一尺余り、焼けた砂のような灰が降り積もり、田畑と言わず堀川と言わず、悉くを埋め尽くし、浅間に近い軽井沢辺りでは、発火赤熱した石砂が降ったために、家までも焼け、その恐ろしきこと――かの炎熱火石の地獄の如くで御座った。

 また、上州吾妻郡――ここは浅間山の後背に位置して御座ったが――あの辺りは、熱砂の降りは少なかったものの、浅間山の頭鉢段という火口から熱を帯びた泥砂流が発生、あらゆる家屋敷を押し流し、民を泥中に埋め、赤熱発火した岩砂は足速(あしば)やの家畜の類いさえ残らず焼き殺いて、その流れは熱を冷ましながら吾妻の川っぷちから上州群馬郡、武州榛沢(はんざわ)郡にまで至り、更には利根川、烏川を恐ろしい勢いで押し越えて行ったので御座る。場所によっては、凡そ一丈から二丈余りも泥砂が堆積したために、死者の数も少なくなかった[根岸注:この時の仔細につきては、私が実際に見聞記録致し、それを小冊子としたものを関係各署へ提出致いて御座れば、ここにては省略致す。]。この浅間大噴火後の巡検役を仰せ付かり、浅間山山下はもとより、周縁の上州・武州の村々を残らず廻村見分致いて、翌春までには、概ね災害の復旧作業を完遂し得て御座った。

 ――その巡検中に聞いた話にて御座る。

 吾妻川の川っぷちに祖母嶋(おばしま)村という村が御座る。

 あの泥砂流が流れ下って来た折り、村人たちは老若なく皆、恐れ慄き、後方にある山に命からがらよじ登ったので御座った……。

 翌日となり、山も少し静まり、彼等も幾分、平静取り戻いたによって、誰彼と村人を一々確かめて見ると、この祖母嶋村にても二十人余りが泥に押し流されて、行方知れず。そこで、居らぬは死んだものと嘆きつつ弔いの念仏なんど唱えて御座った……。

……と……

「……! あそこのッ! 河原ん岸辺りに!……何やらん、わずかに見えとるぞーッ!……」

との声……男どもは立ち上がり、泥土を越えて河原へ駆けつける……、

……と……

幼な子をひっしと背肌に負うて、泥の中にうっ伏しておる者が居(お)る。急いで掘り出だいて、泥だらけになっているのを川の水にて洗うて見れば……、

……それは、村の百姓の母者(ははじゃ)が……孫を背肌に負うておったので御座った……。

……すでに祖母は事切れて御座った……。

……が……

……何と! 背負うた孫は何の怪我もなく、元気にして御座った――と!

……この救出劇は、あの恐ろしい火炎の泥砂が襲った、「その日」のことではない。翌日、ほぼ丸一日の間、泥中に倒れ埋もれて、その背負うた祖母が既に生命(いのち)を失うて御座った中、幼な子だけが生き残ったというのも、誠に不思議な運命にて御座れば、ここに記しおく。

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