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2010/01/07

耳嚢 足利聖像の事

「耳嚢」に「足利聖像の事」を収載。

 足利聖像の事

 安永五子年冬より予關東川々御用を承りて國々廻村せし折から、足利に至り同所學校へも詣でけるが、出家壹人出て案内し境内の高ふり松抔のいわれかたりけるが、當時寺となりて出家の言葉故怪辯のみにて、強て面白きと思ふ事もなかりしが、聖像を拜しけるに古き木像にて座像也。衣紋手足の形容誠に絶技のなす所と見へたり。然るに通例の聖像と違ひ面貌温淳の相に無之、聊怒氣のあらはれたる故、歸府の後人に語りければ、それは左もあるべし、足利の聖像は閻羅のみぐしを見出し、聖像也とて木像にとり立しと聞及し旨かたりぬる故、實(げに)も左もあるべしと覺へぬるまゝに爰に記し置ぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:不動明王の御首(みぐし)と、閻魔大王の御首の孔子胴体への前置換手術で連関。

・「聖像」足利学校の孔子廟(聖廟)に祀られた孔子像。建物は正式には大成殿と呼び、寛文81668)年、足利学校13世庠主(しょうしゅ:学校長。)伝英の時に造営されている。この像については昨年(2009年)、以下のようなニュースが記憶に新しい。ネット上の産経新聞より引用する。見出しは「孔子さまもお引っ越し? 文化財盗難警戒で 栃木・足利学校」2009.3.3 17:50)である(改行は省略した)。

《引用開始》

 仏像など文化財の盗難が相次いでいる中、国内最古の「孔子坐像」を所蔵する栃木県足利市の史跡「足利学校」は、孔子坐像の展示を実物からレプリカ(複製)に変更することを決めた。世界遺産登録を目指している足利学校にとって、貴重な文化財を守るためだ。孔子坐像は高さ約77センチ、ヒノキ製の寄せ木作りで、天文4(1535)年に制作。当初は足利学校の講堂に置かれていたが、寛文8(1668)年に孔子廟が造営されたのを契機に廟の正面に安置された。制作時期が明確なものとしては国内最古で、昭和40年には県の有形文化財に指定された。幕末の文人画家、渡辺崋山が銘文を確認するため孔子坐像を廟の外に持ち出して逆さまにした際、底板の一部を壊したというエピソードもある。レプリカは樹脂製。昭和61年、足利市教委が孔子坐像の保存修理と解体調査を行った際に文化財保護として作製、足利学校で実物の代わりとして展示した。調査後、市民に周知せずにレプリカを展示していたことが問題となったことがあった。平成2年に足利学校が復元されたことなどから4年、再び実物を展示し現在に至っている。レプリカへの変更は近く行う予定。今後、実物は国宝などの典籍が保管されている収蔵庫に置かれ、毎年1123日に開催される儀式「釋奠(せきてん)」や文化財一斉公開などで公開される。史跡足利学校事務所は「文化財保護のため、市民の理解を得たい」と話している。(Copyright 2009 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

《引用終了》

記事は消失の可能性があるが、聖像の写真が添付されているので、貼っておいた……しかし、御覧戴きたい……当該記事に附された写真を見ても、「面貌温淳の相に無之、聊怒氣のあらはれたる」閻魔大王のそっ首には見えぬ……また、「足利学校 孔子 閻魔」の検索ワードもそれらしいものはヒットしない……残念ながら、この都市伝説……とっくに閻羅庁行きになっているようである……それとも、当時既に誰かに盗まれることを恐れて……寄木造りなればこそ、わざわざ閻魔大王の首に挿げ替えておいたものか!?……

・「安永五子年」安永年間を西暦及び干支を添えて以下に示す。

安永元・明和9(1772)年 壬辰

安永2(1773)年     癸巳

安永3(1774)年     甲午

安永4(1775)年     乙未

安永5(1776)年     丙申

安永6(1777)年     丁酉

安永7(1778)年     戊戌

安永8(1779)年     己亥

安永9(1780)年     庚子

安永10・天明元(1781)年 辛丑

以上から、安永5(1776)年の干支は丙申(ひのえさる)で誤りである。しかし、前項「妖怪なしとも極難申事」冒頭に「安永九子年の冬より翌春迄、關東六ケ國川普請御用にて、予出役して右六ケ國を相廻りしが」とあることから、これは干支の方が正しいと考えるべきである。現代語訳でも安永9(1780)年庚子(かのえね)の年の話とした。

・「足利學校」以下、平凡社「世界大百科事典 第2版」の今泉淑夫氏の解説を引用する(読点を「,」から「、」に変更、一部を省略して私が繋げた)。『室町初期に下野国足利庄に設立された漢学研修の施設。創建については諸説がある。中興した関東管領上杉憲実が永享年間(142941)に鎌倉』の円覚寺(臨済宗)から招聘した快元禅師を初代庠主とした。『7世庠主玉崗瑞若(号は九華)の時が修養機関としての『最盛期で小田原後北条氏の厚い保護を受けた。』9世閑室元佶(げんきつ 号は三要)は後北条氏の滅亡後、『豊臣秀次に従って学校の典籍類とともに京に移った。秀次の自害後徳川家康の斡旋で典籍類は学校に返され、三要は家康の開いた伏見円光寺内の学校に校長としてとどまる。』本来の足利学校の方は10世竜派禅珠(号は寒松)が『跡をついだ。ほかに小早川隆景が備後三原の名島(なじま)に隠居後、学問所を建てて後進を指導したことが知られている。2校とも永く続かなかったが、その後の諸大名の儒学研究の気運を生み、醍摩の桂庵玄樹、土佐の南村梅軒(みなみむらばいけん)の学統とともに、やがて近世の儒学隆盛の源流となるものである。足利学校は禅宗寺院にならって禅僧が管理し、来学者も僧侶に限られ、在俗者も在校中は剃髪するしきたりであった。学風は周易、占筮(せんぜい)術の講義を中心に併せて儒学一般の教授がなされた。修学者は学校を出ると各地の武将のために占筮し、兵書を講じた。当時武将の戦闘は日時方角等の吉凶を占って行動するのを常としたから、学校はその軍事顧問を養成する機関として期待されたのである。その周易の訓点が菅家の講点、他の諸経は清家点を基にする古注中心であったが新注も採り入れる折衷学であった。公家の家学と異なる開放性を持ち、禅宗寺院の古典研究が四六文作成の手段であったのとも異なり、儒典研究を目的とする独自の学風を生んだ』。また、ウィキの「足利学校」には、最盛期を詳述し、『享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が後北条氏の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている』と記している、とある。前記の今泉氏の『2校とも永く続かなかった』という記述は、江戸初期に廃絶したような印象を与えてしまうが、同ウィキには『江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた』とある、但し、『江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する図書館として足利学校に注目していたのみで』、明治維新後に、足利藩が『足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校と』なっている。

・「高ふり松」は「高」は「字」の誤りであろう。「字降松」と書いて「かなふりまつ」と読む。「足利学校」HP「この“木”何の“器”」のページに『天文年間、読めない字や意味のわからないことばなどを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふり仮名や注釈がついていたことから、学徒ばかりでなく近所の人まで利用するようになり「かなふり松」と呼ばれるようになったと伝えられています。足利学校の最盛期、第7世庠主九華のころの物語(伝説)です』と記す松である。当該ページには足利学校中興の祖九華に纏わる心温まるその伝説を版画と共に語った物語が記されている。一見をお勧めする。

・「いわれ」はママ。

・「當時寺となりて」足利学校の西北に隣接する鑁阿寺(ばんなじ)のことを指す。真言宗大日派本山。この寺に関わって、ウィキの「足利学校」には、足利学校創立説の一つとして、『12世紀末に足利義兼によって設立されたという説がある。この説は、「高野春秋編年輯録」巻七(1719年)に、12世紀末の文治年間ごろ、足利義兼が足利に寺(現在の鑁阿寺)と学校を持っていた、という記述があることを根拠にしている。ただし、現存するにもかかわらず、鑁阿寺側には該当する記録が残っていない。なお、国学起源説、小野篁創設説の場合でも、足利義兼は復興させた人物であるとみなすことがある』(記号の一部を変更した)と記す。

・「出家の言葉故怪辯のみにて」歴代の庠主を見ると禅宗色が色濃い気がする。正にこの案内をした僧も、禅問答のような、意味深長にして意味不明な快弁怪弁を垂れたものか。

・「實(げに)」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 足利学校の聖像の事

 安永九年子(ね)の年の冬より、私は関東六ヶ国川普請御用を承り、私はこの六ヶ国の村々をたびたび廻村致いた折りから、下野国足利庄に至り同所足利学校へも詣でたので御座ったが、出家が一人出て参り、案内(あない)など致し、境内の「字振り松」なんどの謂われを解説して呉れたりしたものの、当時、既に儒学修養機関としての学校機能を失い、普通の寺と変わらぬ様と相成っており、その案内も出家の言葉故、意味深長・当意迅速・意味不明・奇々怪々といった快弁にして怪弁――いや、正直言うと、大して面白いと思うこともなかったので御座った――が、孔子様の聖像を拝したところが、これはまた、古き木製座像で御座って、衣紋や手足の流麗なる形取り、その表現――いや、誠(まっこと)絶妙の技(わざ)という他、御座らぬ美事なもの……ところが、で御座る……よく見ると、その尊顔……これが、通常の孔子様の聖像と異なり、その面貌、穏やかなところが、これ、全くなく……いや、言わせてもらおうなら、聊か、きっとした怒気が表われて御座った……故、帰府の後、人にそのことを語ったところが、それを聴いたある人曰く、

「――それはもう当然のことで御座ろうぞ――足利のあの聖像は寄木造りなれば、何処ぞの閻魔大王を象った木造のそっ首を見つけてきて、首から下を儒者風に拵えたものにぶっ刺し、『孔子様木像で御座る』と称して、祀ったるもの――と聞いて御座れば――。」

と語った故、私も――いや、成程! それじゃ、さもありなん!――と合点致いたままに、ここに書き記しおく。

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